GOSICKsV
―ゴシックエス・秋の花の思い出―
桜庭一樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)純潔《じゅんけつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)フランス式|庭園《ていえん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)第千一夜[#「第千一夜」は太字]
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[#挿絵(img/s03_000b.jpg)入る]
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口絵・本文イラスト 武田日向
口絵デザイン 桜井幸子
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目 次
プロローグ
第一話「純潔《じゅんけつ》」
――白い薔薇《ばら》のおはなし ―AD1789 フランス―
第二話「永遠《えいえん》」
――紫《むらさき》のチューリップのおはなし ―AD1635 オランダ―
第三話「幻惑《げんわく》」
――黒いマンドラゴラのおはなし ―AD23 中国―
第四話「思い出」
――黄のエーデルワイスのおはなし ―AD1627 アメリカ―
第五話 花びらと梟《ふくろう》
エピローグ
あとがき
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シャハラザードは夜の明けそめたのに気づき、お許しを得ていた物語をやめた。そして
第千一夜[#「第千一夜」は太字]――すなわち本書の終章――になると、また話しはじめた……
[#地から2字上げ]――『アラビアン・ナイト18[#「18」は縦中横]』
[#地から3字上げ]池田修訳 平凡社
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登場人物
久城一弥…………………………東洋の島国からの留学生、本編の主人公
ヴィクトリカ・ド・ブロワ……知恵の泉を持つ少女
グレヴィール・ド・ブロワ……警部、ヴィクトリカの兄
アブリル・ブラッドリー………英国からの転校生
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プロローグ
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庭園には、群青《ぐんじょう》色をした夜が重たく垂《た》れこめていた。夏の終わりの涼《すず》しい風が、湿《しめ》った夜の匂《にお》いに満ちて、庭園の隅《すみ》にぽつんと立つ、迷路花壇《めいろかだん》に囲まれたちいさなドールハウスに吹きつけていた。
「我々は……」
「我々は、けして、離れまいよ……」
しわがれた、まるで老女のそれのような、しかし心細そうな響《ひび》きだけはまだちいさな子供のようでもある不思議な囁《ささや》き声が、花壇《かだん》の花々を揺《ゆ》らす風と混ざり合うようにかすかに、ドールハウスの寝室から聞こえてきた。
「久城《くじょう》……!」
ドールハウスは、真鍮《しんちゅう》の猫の頭を象《かたど》ったドアノブも、緑色をしたドアも、フランス窓《まど》も、すべてが少しずつちいさかった。部屋の中にも、エメラルド色をした長椅子《ながいす》やアールデコの猫足テーブル、花の形のランプなど、おもちゃのようにちいさくてかわいらしい家具《かぐ》が並んでいた。床にも、テーブルにも、古い書物が所狭《ところせま》しと積《つ》まれて、溢《あふ》れていた。食べかけのピンクのマカロンが、転んで転がっている。真っ赤なセロハンに包まれたチョコレートボンボンだけが、闇《やみ》の中で、不吉な鬼火のように輝《かがや》いている。
奥の寝室から、しわがれた、寂《さび》しそうな声が、
「離れないと息の根を、止めて、やるぞー」
「機嫌《きげん》は、もちろん、悪いとも」
「……できる」
「灰色狼には、不可能は、ひとっつも、ないのだよぅ……」
寝言と、子猫が寝返りをうったかのようなかすかな衣擦《きぬず》れの音が聞こえてきた。
寝室には天蓋付《てんがいつ》きのちいさくて豪奢《ごうしゃ》なベッドが鎮座《ちんざ》していた。絹《きぬ》のシーツの上に、輝く天上の扇子《せんす》の如く、見事な金色の髪を広げ、一人の少女が眠っていた。ちいさな顔はつくりもののように整って、輝くばかりの美しさだった。ときどき、すぴー、すぴー、と寝息が聞こえなければ、そして握りしめたちいさな手がときおり、にぎにぎと動かなければ、精巧《せいこう》なビスクドールが置いてあるように見えただろう。さくらんぼ色の唇《くちびる》をすこぅし開いて、少女――ヴィクトリカは、一人でささやき続けていた。
「グレヴィールのことは……。いいから、放っておきたまえよ、君……」
白いモスリンの寝巻きは幾重《いくえ》にもフリルが重ねられて、ひとつひとつのフリルに、それぞれ種類が違う花模様の刺繍《ししゅう》が躍《おど》っていた。こっちは薔薇《ばら》、こっちはすみれ、そしてこっちはチューリップ……。しかし、寝返りをうつたびにフリルが少しずつめくれて、やがて、ヴィクトリカのちいさなおへそと、陶器《とうき》のように真っ白ですべすべとしたお腹《なか》が現れた。
「……ぐじゃっ!」
ヴィクトリカが、くしゃみをした。
「おや。寒《さむ》いぞ、君」
「窓を、閉《し》めたまえよー……」
「こら、久城」
寝室は静けさに満ちていた。うなされているのか、ヴィクトリカは苦悩《くのう》するようにぴくぴくと、ちいさな形のいい鼻をうごめかせた。むにゃむにゃ、むにゃ、となにかつぶやいたかと思うと、おへそを出したまま、また深い眠りに落ちていった。
庭園は静けさに包《つつ》まれていた。群青色の夜空が、よりいっそう暗く垂《た》れこめた。朝は、まだまだ先なのだ……。
「ぐじゃっ!」
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第一話「純潔《じゅんけつ》」
――白い薔薇《ばら》のおはなし ―AD1789 フランス―
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1
夏が終わり、季節がすこしだけ秋に近づいた、朝。
聖《せい》マルグリット学園――。
つい数日前よりも柔《やわ》らかくなった、晩夏《ばんか》の日射《ひざ》しが、フランス式|庭園《ていえん》を模《も》した学園の敷地《しきち》を眩《まぶ》しく照《て》らしていた。木々の葉には朝露《あさつゆ》がまだ残り、つめたくはじいて、透明《とうめい》に輝《かがや》いていた。ちちち、と小鳥の鳴《な》き声が遠く聞こえる。ちいさな栗鼠《りす》が数匹《すうひき》、不揃《ふそろ》いの列《れつ》になってちょこちょこと芝生《しばふ》を横切り、暗い影の落ちる森へ消えていく。
その静かな朝の学園を、ひとりだけきびきびとしたしぐさで歩いてくる少年がいた。制服《せいふく》のネクタイをきっちりと締《し》め、一分の隙《すき》もない様子《ようす》で身なりを整《ととの》えた東洋人の少年だ。漆黒《しっこく》の髪《かみ》が歩くたびにさらさらと揺《ゆ》れて、髪と同じ黒い、すこし潤《うる》んだ瞳《ひとみ》を隠《かく》したり、また現《あらわ》したりしていた。
少年――久城一弥《くじょうかずや》は整備《せいび》された砂利道《じゃりみち》を歩いてくると、その一角《いっかく》でぴたりと歩みを止めた。くるりときびすを返し、道から外《はず》れたところに鬱蒼《うっそう》とそびえる四角い緑色のかたまりを見上げた。
迷路花壇《めいろかだん》。
あまりにも複雑《ふくざつ》につくられた、生きた花々による、四角い、巨大《きょだい》な迷路。専属庭師《せんぞくにわし》による力作だが、そのせいか一度中に入ると迷《まよ》ってしまい、なかなか外に出てこられないという不思議《ふしぎ》な場所だ。一弥はため息をつくと、つぶやいた。
「ヴィクトリカのやつ、お熱を出すなんて、めずらしいな。チビッコで、フリルとレースの中身のからだはちょぴっとしかないけど、あれでなかなか、丈夫《じょうぶ》で、意地悪《いじわる》で、生意気《なまいき》で、悪魔的《あくまてき》なんだよなぁ。……ちょっと、心配だな」
最後の一言だけやけにちいさな声で言うと、一弥はうつむいた。それから顔を上げて、また、さきほどまでと同じカッカッカッ……と音がするようなきびきびした動作で、迷わず、その迷路花壇に入っていった。
赤、ピンク、オレンジ、クリーム色……。色とりどり、デザインもさまざまな花が咲《さ》き乱《みだ》れて、朝露にしっとりと濡《ぬ》れて花びらを輝かせていた。その花盛《はなざか》りのロードを一弥は、わき目もふらずに歩いていく。角を右に、左に、右に、また右に、と曲がり、生真面目《きまじめ》そうに唇《くちびる》を引き結んだままで歩き続ける。
「きれいだな。この花……」
小声で、ちいさな金色の花を見下ろして一言つぶやいて、その自分の言葉に、恥《は》ずかしそうに頬《ほお》を染《そ》めた。それからまた、硬《かた》い表情になって歩き続けた。
いつまでも続くと思えた花の迷路はやがてようやく終わり、一弥はちいさな、お菓子《かし》の家のような、二階|建《だ》ての屋敷《やしき》にたどり着いた。緑色をしたおもちゃのような玄関《げんかん》ドアをノックしようとして、やめ、表《おもて》に面した一階の窓《まど》に近づいた。
遠慮《えんりょ》がちに、声をかける。
「ヴィクトリカ?」
「……」
「ヴィクトリカ、おはよう?」
「……う」
しわがれた、老婆《ろうば》のような、でもどこか不安そうな声がほんの一声、屋敷の中から返ってきた。一弥は顔をしかめた。窓に手をやって、そうっと開けながら、
「ヴィクトリカ、君ねぇ」
生真面目そうな声で、文句《もんく》を言い始める。
「さいきん、返事をさぼりすぎだよ。どうしてぼくが話しかけても、一言どころか、一声しか返してくれないんだよ。ぼくはこの春からずっと、君っていうわがまま姫《ひめ》のためにあっちをうろうろ、こっちをうろうろ。それに、毎日、のどが枯《か》れるまでしゃべりまくってるのに」
「う?」
「まったく、帝国《ていこく》軍人の三男にあるまじきおかしな努力だよ。……君、聞いてる? お熱は?」
「う!」
窓を開けると、まず部屋の中がよく見えた。ちいさな猫足《ねこあし》テーブルに、おそろいの椅子《いす》。翡翠《ひすい》色の飾《かざ》りがたくさんついた、すばらしい鏡台《きょうだい》や重厚《じゅうこう》なチェスト。テーブルには手をつけられていない朝食が置かれていた。朝摘《あさつ》みフルーツのサラダに、一口サイズの葡萄《ぶどう》パン。紅茶《こうちゃ》が入った銀のポット。
ちいさな、おそろしい、部屋の主《ぬし》、ヴィクトリカの姿《すがた》が見えないので、一弥は身を乗り出してきょろきょろした。と、窓の下から、金色のちいさな頭がとつぜん浮上してきて、一弥のしろい顎《あご》の下でぴたりと止まった。
一弥は下を見下ろした。
金色のちっちゃな頭の、つむじが見えた。くすくす笑いながらそのつむじを人差し指でつっつくと、不機嫌《ふきげん》そうに、ぐるる、と唸《うな》る声がした。白い三段フリルの寝巻《ねま》きでふかふかにふくらんだちいさなからだが、エメラルド色をした豪奢《ごうしゃ》な長椅子の上でのっそりとうごめいている。金色の花に、白い葉っぱの、一輪の花を見下ろしているみたいだった。重ねあわされたフリルからいい匂《にお》いがした。花の香油《こうゆ》がしみこませてあるようだ。
と、不機嫌そうなちいさな声が聞こえてきた。
「病人の頭をつつくな。君、地獄《じごく》に落ちるぞ」
「ちょっとつついたぐらいで落ちないよ。それより熱はどうなのさ、ヴィクトリカ?」
「……う」
金色の頭がうごいて、こちらを見上げた。金色の絹糸《きぬいと》の束《たば》みたいな長い見事な髪が、揺れた。床《ゆか》に届《とど》いて、生き物の尻尾《しっぽ》のようにうごめく、髪。ちいさな青白い顔は、ちょっと熱ではれぼったかった。
すべてを吸《す》いこんでしまいそうな、深いエメラルド・グリーンの瞳《ひとみ》。老女《ろうじょ》のような、幼女《ようじょ》のような、掴《つか》みきれないその色。不思議な、ふたつの瞳がじっと一弥を見上げていた。
さくらんぼ色をしたつやつやの唇が、ゆっくり開く。
「熱は、ある!」
「あ、そう……」
一弥はがっかりして、うなずいた。
「調子が悪いのかぁ。めずらしいね。やっぱり、修道院《しゅうどういん》から列車《れっしゃ》で帰ってくるとき、いろいろありすぎたせいかなぁ」
数日前、一弥はヴィクトリカを連れてこの聖マルグリット学園に帰ってきたばかりなのだった。夏休みの終わりの朝。ヴィクトリカは、いつのまにか海沿《うみぞ》いの修道院、〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉に収監《しゅうかん》されていた。そこでぐったりしてしまっているという話を彼女の兄、ブロワ警部《けいぶ》から聞いた一弥は、フリルとレースとお菓子と書物《しょもつ》を持って、彼女を助けに修道院に向かったのだ。
そして、ヴィクトリカを助け出して、大陸を横断する豪華《ごうか》列車〈オールド・マスカレード号〉に乗り、学園に戻《もど》ってきた。さまざまな事件がふたりを襲《おそ》い、なんとか無事に帰れたものの、疲《つか》れのせいかここ数日ヴィクトリカは元気がなく、日課の図書館|通《かよ》いもしていないようなのだ。
そして今朝、セシル先生から熱があると聞いて、一弥があわてて訪《たず》ねてきたというわけだ。
「これから授業なんだけど、顔だけ見ていこうかと思って」
「フン。君は相変《あいか》わらず、無駄《むだ》にまめなやつだな」
「うん。ぼくは相変わらず、無駄にまめなや、つ……ちょ、ちょっと待ってよ、ヴィクトリカ。心配してやってきた相手に対して、それはないだろ。君ねぇ」
「君は善良《ぜんりょう》で、単純《たんじゅん》だ。どうせその、ふくらんでいるポケットの中にも、しょうもないお菓子が入っているのだろう?」
「うん! あれ、どうしてわかったの?」
「混沌《カオス》さ。再構成《さいこうせい》だ。くだらんことだ」
そういうとヴィクトリカは、座っていたエメラルド色の長椅子の上で、退屈《たいくつ》そうにふわぁ〜とあくびをした。
ぺたん、と寝転《ねころ》ぶと、金の髪がふわふわと彼女を取《と》り巻《ま》いた。鈍《にぶ》い金の光。まるでちいさなからだが内側から輝いているようで、一弥は、見慣《みな》れたはずのこの友人の美しさに、改《あらた》めて、敬虔《けいけん》な気持ちになった。
(しゃべると、とっても、意地悪なんだけどなぁ……?)
ヴィクトリカは眠そうにあくびをしながら、一弥を見た。いまのあくびで、宝石のような緑の瞳に、すこし涙がたまっている。さっき見た、朝露に濡れて光る、ちいさな金の花びらのようだった。
ヴィクトリカが不満そうにつぶやく。
「いいから、はやく出したまえ、君」
「ん? なにを」
「ポケットの中のものをだよ」
「あぁ、そっか」
一弥はうなずいた。
制服のポケットに手を入れながら、
「ほんとうは、君が退屈しているんじゃないかと思って、おもしろいお話とか、それに植物園にもしばらく行ってないみたいだから、あの温室で咲いている花を持ってこようと思ったんだけど。でも、とりあえずお菓子かなって思ってさ」
「たわけ」
「いや、喜んでくれてぼくもうれしいよ。えっ……いま、たわけって言った? それぼくのこと?」
「ほかに誰《だれ》がいるかね?」
ヴィクトリカは、一弥がポケットから出した花の形のクッキーをもりもり食べながら、そっぽをむいた。細い背中《せなか》をこちらに向けて知らん振《ぷ》りしている。フリルでふっくらふくらんだ寝巻きが、すこしかたむいて、青白くてちいさな肩《かた》が片方だけのぞいていた。
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一弥は不満そうに、
「ぼくはだんぜん、たわけじゃないよ」
「それなら、おもしろい話も持ってきたまえ」
「むっ。……わ、わかったよ」
「それと、花もだ」
クッキーを食べながら、ちらりとこちらを振り向いて、ヴィクトリカが言った。一弥はうなずいた。
風が吹いて、花壇の花々と一弥の前髪を揺らしていった。
遠くで鐘《かね》が鳴り始めた。午前中の授業が始まる時間だ。一弥は、フリルの寝巻き姿でエメラルドの長椅子にしどけなく横たわるヴィクトリカを、首をかしげてしばらくみつめた。ヴィクトリカも、金の髪を床に垂《た》らしたまま、一弥をみつめている。
鐘が鳴っている。
一弥はくるりときびすを返すと、迷路花壇に向かって歩きだした。ヴィクトリカの顔がわずかに、さびしそうに曇《くも》った。十歩ほど歩いて、一弥が振り向いた。ヴィクトリカの顔がほんのすこし、明るくなった……気がした。
風が吹いた。
一弥は真面目な顔で、静かな口調《くちょう》で、言った。
「ヴィクトリカの、いばりんぼ」
「むっ? なっ! こら、待て久城! いまのはなんだ! 待てっ」
「じゃ、放課後《ほうかご》ね?」
怒《いか》りのあまり金の髪を逆立《さかだ》てて怒《おこ》るヴィクトリカをそのままに、一弥はあわてて走って、花壇に飛びこんで、脱兎《だっと》の如《ごと》く逃《に》げた。
2
晩夏《ばんか》の日射しは昼になるとさらに優《やさ》しくなって、おだやかに学園の敷地を照らしていた。バカンスで日焼けした生徒たちがばたばたと急いで通り過ぎる。夕刻《ゆうこく》が近づくとその喧騒《けんそう》もやんで、庭園は静かに、ただ風で木々の葉を揺らしていた。
「う〜ん……」
その庭園の敷地の隅《すみ》。重厚《じゅうこう》な石造《いしづく》りの聖マルグリット大図書館で、久城一弥はうんうん唸《うな》りながら、なにかを捜《さが》していた。
放課後。暖《あたた》かな日射しもこの石の塔《とう》には入ってこない。冷え冷えと湿《しめ》った空気の中、一弥は、細い蛇《へび》が無数にうごめくような、遥《はる》か上の天井《てんじょう》まで続く木|階段《かいだん》の途中《とちゅう》に座っていた。
その視線は、巨大書棚《きょだいしょだな》の一角にすえられている。漆黒《しっこく》の髪をぐりぐりとかいて、
「たしかヴィクトリカ、こっちと、こっちの棚はぜんぶ読んじゃったって、こともなく言ってたんだよな。それならこっち側《がわ》の書棚はまだ読んでいない本ばかりなのかもしれないなぁ。なにか、ヴィクトリカがおもしろがるはなしをみつけて、それから花も持っていかないと……」
分厚《ぶあつ》い書物《しょもつ》を何|冊《さつ》も階段に並べて、考えこんでいる。
「これなんか、どうかな。フランス革命《かくめい》のころの伯爵家《はくしゃくけ》の、名もなき乳母《うば》の手記《しゅき》。きっとおもしろい話が……。ん、薔薇《ばら》が出てくるぞ?」
フランス語で書かれた手記を、気難《きむずか》しそうに顔をしかめて読んでいた一弥は、しばらくすると顔を上げた。うん、とうなずく。
「これにしよう。おはなしはこれで、プレゼントの花は、白い薔薇だ。おはなしと同じ花を持っていけば、ヴィクトリカもちょっとは楽しんでくれるかもしれないし。うん」
ぱたん、と書物を閉じる。
そしてその書物を小脇《こわき》に抱《かか》えると、こんどは、温室の花を摘むために木階段を規則《きそく》正しく、上り始めた……。
「ヴィクトリカ? いる?」
「……フン」
遠慮《えんりょ》がちに窓《まど》をノックすると、中から、もはや声ですらない、鼻を鳴らす音が聞こえた。
「いばりんぼさん。書物とお花を持ってきたよ」
顔を出すと、朝と同じようにエメラルド色の長椅子に寝転《ねころ》んだヴィクトリカは、朝よりも熱っぽく、うるんだ瞳と林檎《りんご》みたいな色のほっぺたで、うらみがましく一弥を見上げた。
「遅い。もう、君なんか、知らん」
「またまた」
一弥は気にもせずに、窓辺《まどべ》に頬杖《ほおづえ》をつくと、ヴィクトリカを見下ろした。それからコホンと咳《せき》をした。赤くなりながら、持ってきた可憐《かれん》な白い薔薇|二輪《にりん》を、そっと、ヴィクトリカに差し出した。
ヴィクトリカが、きょとんとした顔で見上げてくる。
「なんだ? 君、不気味《ぶきみ》なことをして」
「ぶ、不気味じゃないだろ。おはなしの中に出てくるんだ。白い薔薇が。だから」
ヴィクトリカのほっぺたについたお菓子のくずをふいてやりながら、一弥が答えた。小脇に抱えていた書物を出すと、ヴィクトリカに見せる。
「君、この本はもう読んだかい? 『フランス革命における、名もなき乳母の手記。ジェリコット伯爵家の二輪の薔薇=xっていうの」
ヴィクトリカはふるふると首を振った。金色の髪もいっしょに、こころもとなく揺れる。
陶器《とうき》のようにきめ細《こま》やかなちいさな顔を、一弥はじっと覗《のぞ》きこんだ。何の表情も表れていないひややかなその顔に、しかし、針《はり》の穴《あな》を光が通るが如き、ほんのわずかな変化がよぎったのを、一弥は感知したらしかった。
(ヴィクトリカのやつ、ちょっと興味《きょうみ》を持ったみたいだぞ……)
と、一弥はほっとした。そして張り切って本を読み始めた。
「『西暦《せいれき》一八一一年、パリにてわたしはこの手記を書いている。あの革命の季節、わたしがジェリコット伯爵家で見聞きしたものと、伝聞《でんぶん》をまじえて、あの二人の美しい薔薇を襲《おそ》った悲劇《ひげき》を書き記《しる》し、後世《こうせい》に伝《つた》えたいと思っているからだ。革命の朝、断頭台《だんとうだい》の露《つゆ》と消えた、美しい少女ビビアン・ド・ジェリコットと、その伯父《おじ》、アントワーヌの物語を』……どう?」
「……む。もっと読みたまえ」
ヴィクトリカがうむとうなずいた。一弥は背すじをのばすと、滔々《とうとう》と読み始めた。
ふわり、と夕刻の風が吹いた。
花壇の花々が、過ぎし日に思いを馳《は》せるように、ゆっくりと、右から左に一斉《いっせい》に揺らめいた。
3
『西暦一八一一年、パリにてわたしはこの手記を書いている。あの革命の季節、わたしがジェリコット伯爵家で見聞きしたものと、伝聞をまじえて、あの二人の美しい薔薇を襲った悲劇を書き記し、後世に伝えたいと思っているからだ。革命の朝、断頭台の露と消えた、美しい少女ビビアン・ド・ジェリコットと、その伯父、アントワーヌの物語を。
あの夏。
一七八九年の夏。花の都《みやこ》と呼ばれたフランス、パリの町は血《ち》に染《そ》まった。
しかし、あの日までのパリは、ただただ華《はな》やかであった。麗《うるわ》しい宮殿《きゅうでん》、コルセットできつくウエストを締《し》めて鯨《くじら》の骨《ほね》で豪奢《ごうしゃ》なドレスの裾《すそ》をふくらませた、つくりもののように美しい貴婦人《きふじん》たち。夜ごとの、貴族たちの、お遊びの宮廷恋愛《ラムール・クルトウワ》。朝がくれば消えてしまう儚《はかな》い夢のために彼らは、鮮《あで》やかな蝶《ちょう》のように明るい夜を飛びまわっていた。
一方で、民衆《みんしゅう》は飢《う》えていた。あのころこの国は、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、そして第三身分のわたしたち労働者、という旧制度《アンシャン=レジーム》に支配されていたのだった。下町に住むわたしの家族は、学校にも行けず、十になるかならないかで働きに出た。まるで別の国であるかのような、貴族の館《やかた》と、下町。
ジェリコット伯爵家には、夜《よ》ごとの舞踏会《ぶとうかい》の貴族たちとはまたちがう、秘密《ひみつ》の、そしてささやかな宮廷恋愛が繰《く》り広《ひろ》げられていた。それもまた下町からやってきたわたしには驚きであった。
貴族たちの噂《うわさ》にのぼる、類《たぐい》まれな美しい令嬢《れいじょう》、ビビアン・ド・ジェリコット。夫である伯爵の横暴《おうぼう》に耐《た》えかねて、若くして出奔《しゅっぽん》したとされる母君の美貌《びぼう》を受け継《つ》いだビビアンは、御年《おんとし》十五|歳《さい》。金色の髪に、大人びたおおきな黒い瞳を持ち、怠惰《たいだ》な、細長い猫《ねこ》のように日がな一日ソファに横たわってけだるく過ごしていた。舞踏会にも行かず、それどころか、伯爵家のすばらしい幾何学模様《きかがくもよう》をした庭園を、散歩することさえなかった。
彼女は長くは歩けなかったのだ。お仕《つか》えしているわたしたちだけがその理由を知っていたが、固《かた》く緘口令《かんこうれい》が敷《し》かれていた。日がな一日、怠惰なビビアンを、わたしたちはまるで宝石を磨《みが》くように、髪をとき、肌に香油をすりこみ、より美しくなるようにケアをして過ごした。
父君、ジェリコット伯爵はビビアンを政争に使おうと必死だった。自慢《じまん》の、立派《りっぱ》な書物机に向かい、夜ごと政策を練っていた。美しい令嬢を嫁《とつ》がせる相手は、隣国《りんごく》の王室か、それともルイの愛妾にしようか。そのために伯爵は、大人に近づきつつあるビビアンに鋼鉄製《こうてつせい》の、禍々《まがまが》しい貞操帯《ていそうたい》をつけさせたのだ。どこかに隠《かく》され、誰にも開けることのできぬ、その鍵《かぎ》。鋼鉄の呪縛《じゅばく》は重く、幼《おさな》いころは天真爛漫《てんしんらんまん》だったビビアンはそのあまりの重たさに、走ることも飛《と》び跳《は》ねることもできず、いつも青白い顔をして、ソファに横たわっていた。歩くときはゆっくりと、右に、左に、からだを揺らしながら進んだ。おいたわしさに、わたしたちはときおりため息をついた。こんなに美しく生まれたことが、こんな皮肉《ひにく》な運命を生むとは、と。
しかしビビアンには、心のよりどころがあった。同じ伯爵家に住まう伯父、アントワーヌ様だ。年若いこの伯父は、まだ二十歳をすこし過ぎたばかりであったと思う。ビビアンとよく似た、美しい面立ちをしたこの若者は、姪《めい》とともにパリの社交界ではジェリコット伯爵家の二輪の薔薇≠ニ呼ばれて貴族たちに愛されていた。
しかし、誰よりもビビアンを愛し、案《あん》じながらもこの若者は、後見人《こうけんにん》であるジェリコット伯爵に逆《さか》らえずにいた。伯爵の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れれば、屋敷《やしき》を追い出されるばかりか、なにかおかしな罪をなすりつけられてフランスから追放されてしまうかもしれない。アントワーヌはときおり、伯爵の立派な書物机にもたれてなにごとか思い悩《なや》んでいた。
二輪の薔薇がひそかに愛しあっていることは、屋敷にいる誰もがわかっていたが、それはけして口にしてはいけなかった。秘密の、ちいさな宮廷恋愛は、日ごと屋敷を暗い闇《やみ》に包《つつ》んでいくようだった……。』
4
ヴィクトリカが、ふわぁ〜、とあくびをした。
ん、と気づいて一弥が、
「あっ。君、退屈《たいくつ》してる?」
「うぅ〜む」
「もうちょっと待って。革命が始まるから。最後に白い薔薇が出てくるからさ。ヴィクトリカ……君、聞いてる?」
ヴィクトリカはまた、あくびをした。ちいさな口がまんまるく開いて、また閉じる。三段フリルのふかふかのお寝巻きを揺らして、むずがるようにつぶやく。
「久城、もしかすると、君が恥《は》ずかしそうに歌ったり踊《おど》ったりしているほうが、退屈しのぎになるかもしれないぞ?」
「や、やだよ! ぼくはそういう浮《うわ》ついたのは性《しょう》にあわないんだよ。それにこの家は、図書館とちがって、セシル先生がよくくるじゃないか。君に命令されて、泣きそうになって踊ってるところを先生に見られたら、ぼく、恥ずかしくてもう生きていけないよ」
「セシルが?」
ヴィクトリカはつぶやいた。ばかにしたようにフンと鼻を鳴らし、
「ふむ、なるほど。……まぁいいだろう。君もお年頃《としごろ》だ」
「君もだろ!」
「うるさいなぁ。はやく続けたまえよ」
「う、うん。じゃ、読むよ。……まったく、もう」
風が吹いて、また、夕刻の花壇を揺らした。色とりどりの花がかたむいて、花びらが舞い上がった。
遠くで小鳥が鳴いた。
5
『屋敷には、ロキシーという若いメイドがいた。長い黒髪をたらし青い瞳をした野性的《やせいてき》な女で、どうもアントワーヌに横恋慕《よこれんぼ》している様子だった。幾度《いくど》か、アントワーヌのもとで泣いたり、懇願《こんがん》しているところを見たことがあった。だがアントワーヌは、鋼鉄に守られた囚《とら》われの姪ひとすじで、ロキシーに心動かされる様子はなかったようだ。ロキシーは次第に自暴自棄《じぼうじき》になり、ビビアンの髪をすくときも、あっ、とこちらが叫びそうになるほど乱暴《らんぼう》な手つきで櫛《くし》を使い、ビビアンはときおり、櫛に髪をひっぱられて細い悲鳴《ひめい》を上げることもあった。
貴族たちの華《はな》やかな夜と、ジェリコット伯爵家の密《ひそ》やかな緊張《きんちょう》。そんな中、ふくらみ続けた玉が破裂《はれつ》するように、旧制度最後の日がやってきた。フランス革命が始まったのだ。
改革を願う第三身分の議員たちの声が聞き遂《と》げられず、民衆の不満がついにピークに達《たつ》した。夜のうちにのろしが上がり、民衆は武器と弾薬《だんやく》を奪《うば》うためにバスティーユ監獄《かんごく》を襲撃《しゅうげき》した。パリ市長が無残に虐殺《ぎゃくさつ》され、民衆は人間の血と臓物《ぞうもつ》の海で勝ちどきを上げた。
そして武器を持った声なき人々は、つぎつぎに貴族の屋敷に押し入り、金品の強奪《ごうだつ》、虐殺、逮捕《たいほ》を始めたのだった。もちろん、実力者であったジェリコット伯爵家も狙《ねら》われた。ビビアンとアントワーヌの目の前で、民衆の無知を嘲笑《あざわら》った伯爵はまたたくまに幾筋《いくすじ》もの銃剣《じゅうけん》で突《つ》かれ、赤い花を咲かすように、豪華なじゅうたんに倒れて絶命したのだ。館の豪奢な調度品《ちょうどひん》は壊《こわ》され、盗《ぬす》まれ、そしてジェリコット伯爵家の二輪の薔薇≠ヘ無残にも、粗末《そまつ》な監獄に収監《しゅうかん》されてしまったのだ。
わたしが最後に見たのは、父君の死《し》に様《ざま》を目《ま》の当《あ》たりにして、細い悲鳴を上げて倒れたビビアンの姿と、それを抱きとめたアントワーヌの、恐怖にゆがむ顔。そして、あんなにも華奢《きゃしゃ》な、折れそうに細いビビアンなのに、鋼鉄を身にまとうために、ずっしりとそのからだは重く、アントワーヌの腕の中からいまにも床に落下しそうにかしいでいたことだ。ビビアンは革命委員会の屈強《くっきょう》な男たちの手で、ずっしりと重いからだを引きずられるようにして、館を後にした。それが最後だった。
館の玄関で、ロキシーが獣《けもの》のように泣き声を上げていた。
メイドのロキシーは革命側の人間だった。女で、学も資産もなく、つまり名もなき民衆のひとりでしかないロキシーだったが、なかなかに頭のよい娘だった。立法議会とはなにか、共和制の必要性、新しい世界のための革命について、ときおり、わたしのような無学なものにも熱く語ってみせた。だがロキシーはその一方で、美しい貴族の青年に実《みの》らぬ恋《こい》をしていたのだ。
目の前で連行されるアントワーヌの姿にロキシーは泣き叫んでいたが、その翌日《よくじつ》、すこしだけ明るい顔をして、わたしに話しかけてきた。
「ねぇ、あんたはどこに行くか、決めたの?」
わたしたち、貴族の館で暮《く》らしていたものはあの夜のうちに職《しょく》を失い、革命後は路頭《ろとう》に迷うことになっていた。わたしが肩をすくめ、
「下町の家に帰るわ。そんで、洗濯《せんたく》女をしながら、つぎの仕事を探す。ロキシーは?」
「わたしは革命政府のために働くのよ。ねぇ、ばらばらになっても、また会えるわよね」
ロキシーがわたしに好意を持っていたとは、意外だった。彼女の身分ちがいの恋に、ひとりだけ苦《にが》い言葉を吐《は》かなかったからかもしれない。それは優《やさ》しさや理解からではなく、わたしがただ、なにごとにも傍観者《ぼうかんしゃ》であったというだけなのだが。
「会えるわよ。パリなんて、せまい町だわ」
「そうね」
ロキシーは黒髪をかきあげて、微笑《ほほえ》んだ。
「わたしね、監獄に行くの。収監された貴族たちの番人をするのよ」
「えっ」
わたしはおどろいて彼女の顔を凝視《ぎょうし》した。ロキシーは笑っていた。
「わたしたち労働者をこき使っていたあいつらの、しょげた顔をみたいじゃないの」
「ねぇ、お願いよ、ロキシー。あの人に……ビビアンにひどいことはしないで。かわいそうな子じゃないの。金持ちの貴族だけど、ずっと、あんなおかしな鋼鉄に縛《しば》られて。恋もできないどころか、思い通りに走ることさえできない人よ」
「いやねぇ、ビビアンなんてわたしにはどうでもいいわ。アントワーヌよ。わたしは男性用監獄を志望したのよ。アントワーヌのいるほうを」
ロキシーはそう言って、くすくすと笑った。
革命政府は裁判《さいばん》を行い、罪状《ざいじょう》をきめては、広場で、かつて民衆から搾取《さくしゅ》した貴族たちを処刑《しょけい》し始めた。それは、革命が起こっても暮らしはいっこうに楽にならないことへの、人々の不満を解消させるためのパフォーマンスでもあったらしい。毎朝のように貴族たちが引きずり出され、断頭台の露と消えた。
わたしは下町で弟妹の世話をしながら、戦々恐々《せんせんきょうきょう》と暮《く》らしていた。いつ、あの薔薇たちが処刑されてしまうのかと。そして秋もせまったある日。アントワーヌ・ド・ジェリコットと、その姪ビビアンに判決が下ったことを知った。
とうとう二人は処刑されてしまうのだ。わたしは動揺《どうよう》し、家族を置いて、パリの町をあてどなくさまよった。
レンガ造りの建物に囲《かこ》まれたちいさな広場。こわれかけの噴水《ふんすい》。走り回る子供たち。井戸にはつたがからまって、すこし枯れかけている。どこからか、風に乗ってくるのは、血の匂い。パリは血に染まっていた。
夕闇の向こうから、黒髪を垂《た》らした女が走ってきた。ロキシーだった。血走った瞳で、わたしをみつけると金切り声を上げた。
「ロキシー……?」
「いいところにいたわ! あんた、ジェリコット伯爵の書物机を知らない?」
「な、なんの話をしてるの?」
「館に行ってみたけれど、どこにもないの。革命の夜に壊《こわ》されたものと、盗まれたものがあるでしょう。あの書物机は高価なものだったから、きっと誰かが持ち出して、売り払ったんだわ。捜さなくては。あぁ」
「ロキシー、落ち着いて。もしも書物机が売り払われたのなら、それはきっと、もうフランス国内にはないわ。この革命で、高価な調度品は盗まれて市場に出回りすぎているし、それなのにこの国の誰も、そんなものを買うお金は持っていない。高価なものはみんな、国外に持ち出されて蚤《のみ》の市《いち》でひっそり売られているんじゃないかしら。オーストリアか、スペインか、それともイギリス……? とにかく、あれはもうフランスにはないわ。ぜったいよ」
「でも、鍵が入っているのよ! アントワーヌ様がそう言ったの!」
「……鍵?」
わたしは聞き返した。ロキシーは泣《な》き崩《くず》れた。
彼女の話では、ロキシーが監獄に仕事を得たのは、じつは、アントワーヌを救い出したいためだった。いつぞやの言葉は、ただ強がっていただけなのだ。革命の理想に燃えていた彼女は、旧制度が崩れた後も不思議と変わらぬ貧しい暮らしと、男たちの権力闘争《けんりょくとうそう》に疲れていた。しかしアントワーヌは、自分が逃げればロキシーが捕《つか》まるだろうと考えて、けして監獄から逃げようとしなかった。そう、アントワーヌは無力だが、優しいところのある青年だった。
裁判で処刑されることが決まったこの夕方、ロキシーがアントワーヌにそのことを告《つ》げると、彼はこう言い出した。
できるのならビビアンだけでも助けてほしい。あのばかげた鋼鉄の貞操帯《ていそうたい》の鍵は、伯爵の書物机に隠《かく》されているはずだ、と。
アントワーヌは長らくそれを知っていたが、伯爵の権力を恐れ、ビビアンを自由にしてやることができなかったのだという。「あの鋼鉄の錘《おもり》は、生きるすべを持たない無力な、若い女を縛《しば》る、家の、親の、社会の檻《おり》なのだ。わたしはせめてビビアンを自由にしてやりたい。それが贖罪《しょくざい》になる」というアントワーヌに、ロキシーはうなずいて、そして書物机を捜しに出たのだという。
「檻、なんて言われてもね。わたしは七つから働きどおしで、自由だの、男だの女だの、そんなこと考えたこともなかったけどね」
ロキシーはつぶやいた。
「貴族って生き物は、おかしなことを、考えるもんね」
「えぇ……」
そのときわたしの胸をよぎったのは、伯爵|自慢《じまん》の書物机にもたれてなにごとか思い悩んでいた、ありし日のアントワーヌの姿だった。もしかしてあのときも、机の中に鍵があることを知っていたのだろうか。いま彼は、こんなことならビビアンを連れて、もっと早く、逃げるべきだったと悔《く》いているのだろうか。
ロキシーは寂《さび》しそうにつぶやいた。
「だけど、鍵はみつからないし。こっそりビビアンのところにも行ったけれど、伯父さんといっしょに死ぬと言って、逃げないのよ。かわいそうね、ビビアンも。あんな重たいからだのまんまで、まだ十五歳で、それなのに監獄にいるんだもの。父の愛も知らないまま。もちろん、母も知らず。あぁ、もっと優しく髪をすいてやればよかったわ。あんなに、憎《にく》まなければよかった」
「いまごろ、そんなことを」
「ふふ。でも、アントワーヌ様といっしょに死ねるのかと思うと、やっぱり、うらやましい気もして、憎いわ。どっちかしら」
ロキシーは肩を落として去っていった。わたしはその力ない後ろ姿をいつまでも見送った。愛し愛される二輪の薔薇《ばら》に横恋慕《よこれんぼ》した、黒髪の、第三身分の女。彼女は、まるで別世界のように一晩《ひとばん》で変容《へんよう》した、この新しいパリ、朝から晩まで血の匂いのする、労働者のためのパリで、これからどうやって生きていくのだろうか。
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翌朝、薔薇たちの処刑は予定通り、行われた。
広場に集まる民衆は熱狂《ねっきょう》して、粗末《そまつ》な屋根《やね》なしの馬車で運ばれてきたアントワーヌに、罵声《ばせい》を浴《あ》びせ、革命を、我《われ》らに力を、と口々に叫《さけ》んだ。アントワーヌはあんなに美しかったのに、やせ細って別人のように面変《おもが》わりしていた。続いてビビアンも運ばれてきた。心労《しんろう》のせいか髪は真っ白になり、ふらふらと足もともおぼつかない様子だった。二人の目が合ったように見えたがそれは一瞬《いっしゅん》で、アントワーヌはすぐに追い立てられ、ふらつきながら、断頭台に近づいていった。そして、ギロチンが朝日に輝《かがや》きながら地面に向かって落下していき、あっというまにアントワーヌの首と胴体《どうたい》は切り離された。
つぎはビビアンの番だった。よろめきながら、断頭台に進んでいく。またギロチンが落ちると、美しかった令嬢の首も胴体からまたたくまに切り離されてしまった。
首切り役人がその、もとは金色だった、ぱさつく白い髪を無骨《ぶこつ》な手で握《にぎ》りしめて血の滴《したた》る首を持ち上げると、大衆は熱狂した。
ビビアンは瞳を閉じていた。静かな顔だった。遠目でもそれがわかったので、わたしはすこしだけ救われる思いだった。涙《なみだ》でもう、前もなにもよくは見えなくなっていたが。ビビアンとその伯父のために心の中で祈《いの》った。天国ではいっしょにいられますように、と。
太った、中年の女がおかしな声を上げ、ののしりながら、ビビアンの胴体を蹴飛《けと》ばした。やせ細った少女のからだを、容赦《ようしゃ》なく。青白い腕をつかんで広場の隅《すみ》まで引きずってみせ、笑い声を響《ひび》かせる。あまりのことにわたしは目を覆《おお》った。涙で前が見えなくなった。
昼に近づくと、どこへともなく人は散《ち》り、広場には不気味《ぶきみ》な断頭台がおかれたまま、血に染まる石畳《いしだたみ》もそのままに、がらんと静まり返った。
わたしが立ち去ろうとしたとき、歩み去る大衆《たいしゅう》と逆行するように、一人の老婆《ろうば》が広場にやってきた。ゆっくりと。白い髪をたらしてボロを着た老婆は、足を引きずって断頭台に近づいた。震《ふる》える手になにかを握っていた。わたしは目をこらした。
白い薔薇、一輪。
老婆は断頭台の前にそれをたむけると、また足を引きずり、どこへともなく歩き去っていった。あのかつて美しかった薔薇たちの最期《さいご》を、いたんでくれる人がいるということに、わたしは救われる思いがした。老婆を追いかけて、あなたは何者かと聞きたかったが、気づいたときにはもう姿は町角のどこかに消えていた。
あの老婆が誰《だれ》だったのかは、いまでもわからない。ロキシーにもあれきり会わないままだ。
いま、この手記を書いているのはというと、一八一一年。フランス革命から二十年ほどの月日が経《た》っている。あれからもこの国ではさまざまなことがあった。恐怖政治が始まり、わたしたちは余計なことを言わないよう口をつぐんで暮らした。民衆が待ち望んだ英雄《えいゆう》、ナポレオンの登場と、その後のたくさんの、不幸な戦争について、いまさらここで語る必要はあるまい。
ただわたしの胸から離れぬのは、革命の夜、鉄の重みをもって恋人の腕に倒れた令嬢の姿と、ぎらぎら輝いていたあの朝のギロチン。女|闘士《とうし》ロキシーの涙と、白薔薇一輪をおいてどこかに歩み去った、名も知らぬ老婆。そう、名もなきわたしたち女の、永遠に解《と》かれることのない歴史の謎《なぞ》、その物語である。
わたしは年老いた。長らく歴史の傍観者《ぼうかんしゃ》であったこのわたしの手記を、ここで終わろうと思う。いつの日か、争《あらそ》いのない、新しい世界、ほんとうの革命がこの世に起こりますように、と、ただ神に祈りながら。』
6
夕刻のおだやかな日射しが、ヴィクトリカと一弥がいるお菓子《かし》の家をオレンジ色に照《て》らしていた。夏の終わりは、日暮れがすこしだけ早くなる。花壇の花が風に揺られて、色とりどりの花びらをばらばらにして散らし、窓辺に立つ一弥の足元にも数枚《すうまい》、飛んできた。
夏の花が散り、つぎの、秋の花が蕾《つぼみ》になる季節なのだろう。一弥は書物を閉じて、どうだったかしらと気にするように、窓枠《まどわく》にへだてられて室内にいる、ちいさな自分のお姫《ひめ》さまのほうを覗《のぞ》いてみた。
「あ、あれっ……?」
一弥はつぶやいた。
エメラルド色をした猫足《ねこあし》の長|椅子《いす》に横たわった、ちいさなヴィクトリカは、瞳を閉じていた。薔薇色のほっぺたがぷくぷくとふくらんで、ちいさな形のいい鼻から、すぴー、すぴー、と寝息のような音がかすかに聞こえていた。
がっかりしたように、一弥が、
「寝ちゃった?」
「起きてる」
「……ほんとう?」
「ほんとうだとも」
不機嫌《ふきげん》そうに、うるさそうに、ヴィクトリカはつぶやいた。それからゆっくりと瞳を開けた。長い睫毛《まつげ》が揺れて、ばさり、と音を立てるようにうごめいた。深い緑色をした瞳が、じっと一弥を見る。
「わたしはただ、人の選択《せんたく》とは、非能率《ひのうりつ》的で、非論理《ひろんり》的で、それゆえに、そう、おかしなものだな、と考えていたのだ」
「なぁに、それ? いまの手記を聞いていてそんなことを考えたのかい。君って、変わった人だなぁ」
「むっ? だって、久城。君、思わないか。どうしてロキシーは死んだのか[#「どうしてロキシーは死んだのか」に傍点]、と」
ヴィクトリカが憂鬱《ゆううつ》そうにつぶやいて、また瞳を閉じた。一弥はしばらく考えこんでいた。
風が吹いた。また赤や白やピンク色の花びらが舞い散ってくる。びゅうっと音がして、一弥はすこしだけ身を縮《ちぢ》めた。
「ロキシーって、メイドのロキシーのこと? この人、死んじゃったのかい? いつ? 君、どうして知ってるんだよ」
ヴィクトリカが目を閉じたまま、面倒《めんどう》くさそうに言った。
「死んだのは、朝だ」
「ふぅん、朝。……いつの?」
瞳を開けて、あきれたように唇をすこぅし尖《とが》らせて、ヴィクトリカが言う。
「いつって、処刑の朝だ。久城、君、同じ手記を読んでいてどうして気づかないのだ? もしかして、君こそ寝てたのか」
「起きてたよ! 寝ながら朗読《ろうどく》できるわけないだろ。むしろ、寝てるように見えたのは君だよ。すぴー、すぴー、って寝息まで立てちゃって」
「寝てたのは、一瞬だ。それより久城。まったく、君の頭脳《ずのう》のすかすか南瓜《かぼちゃ》っぷりには恐れ入るよ。どうしたらそんなに目を開けたまま気絶《きぜつ》していられるのだ。よく君、極東《きょくとう》の島国からこのヨーロッパまで、死なずに海を渡ってこれたものだ。まったく君は」
とつぜんなんのスイッチが入ったのか、ヴィクトリカはいそいそと起き上がって、長椅子の上にちょこんと座《すわ》って、なにやらお説教《せっきょう》らしきものを始めた。さきほどまでの憂鬱そうな様子とは別人のように生き生きと、一弥の悪口を言い始める。薔薇色のほっぺたをふくらませて、ちいさな拳《こぶし》をぶんぶん振り回して、なんとも楽しそうだ。
一弥はしばらく、あきれたような顔をして彼女をみつめていたが、やがてくすっと笑った。ヴィクトリカがむっとして、口を閉じる。
「なんだ? なにを笑ったのだ、すかすか南瓜?」
「いやぁ、なんでもないよ」
「なんだ。失敬《しっけい》な」
おこっているヴィクトリカのほっぺたを、人差し指の先っちょでつん、とつついてみる。ヴィクトリカはうるさそうにその指をひっぱたいた。べしっ、といい音がした。
「いてっ」
「フン!」
「……それよりヴィクトリカ、いったい、ロキシーはいつ、どうして死んだんだい? いまの手記を読んでいても、ぼくにはぜんぜんわからなかったよ。なにしろ手記を書いている乳母《うば》は、処刑前夜に話したっきり、ロキシーには会っていないと書いているんだから。書物机を捜してパリの町をさまよっていたところが最後じゃないか。この後、どうして死んだんだい?」
「処刑されて、死んだのだ」
ヴィクトリカは低い声で言った。
また、すこしだけ憂鬱そうになる。
「処刑? 革命側の人なのに? いつだい?」
「ロキシーはビビアン[#「ロキシーはビビアン」に傍点]・ド[#「ド」に傍点]・ジェリコットとして死んだのだ[#「ジェリコットとして死んだのだ」に傍点]」
ヴィクトリカは、一弥にもらった二輪の白薔薇をいじくりながら、答えた。
「どういうこと?」
「あの朝、アントワーヌの後に処刑された白髪《はくはつ》の女は、ビビアンではない。ロキシーだ。彼女はおそらく、前夜パリの町を駆《か》け回《まわ》り書物机を捜したが、みつけることはできなかったのだろう。ついにみつからなかった、鋼鉄の鍵《かぎ》。ビビアンはその重さから自由になることはできなかった。夜半に女性用の監獄《かんごく》を再《ふたた》び訪《たず》ねたロキシーと、ビビアンとのあいだにいかなる会話があったのか、いまとなってはわからない。手記を書いた乳母の言うとおり、名もなきわたしたち女の、永遠に解《と》かれることのない、歴史の謎《なぞ》≠セ。だがそこで、ロキシーとビビアンは入《い》れ替《か》わったのだ。心労のために、美しかった金髪が獄内で真っ白に変わり果てていた、ビビアン・ド・ジェリコット。ロキシーはそれにあわせて髪を染めたのか、それとももしかすると、ロキシーの黒髪もまた、焦《あせ》りと悲しみのために一夜にして色をなくしてしまったのかもしれない。ロキシーはビビアンを逃がし、自《みずか》らがビビアンになりかわって、監獄であの朝を迎《むか》えた。そしてアントワーヌとともに引きずり出され、彼とともに、断頭台の露《つゆ》と消えたのだ。変わり果てたビビアン・ド・ジェリコットとして」
「そんな……」
「もちろんアントワーヌにはわかったことだろう。やってきたのが姪《めい》ではなく、メイドのほうだと。入れ替わって自分とともに死ぬつもりなのだと。ビビアンが逃げたことが革命政府に知れれば、追っ手が差し向けられただろう。重たい鋼鉄を引きずる女一人、そう遠くまでは逃げられまい。だが偽者《にせもの》が無事に処刑されれば、逃亡《とうぼう》はばれず、追っ手もやってこまい。その最期《さいご》の時にアントワーヌの胸をよぎったのは、安堵《あんど》か。それとも悲しみか。愛する女は逃げおおせたが、代わりに、一方的に自分を愛した女が、ともに処刑されることを選んだのだから」
ヴィクトリカは口を閉じた。
すこしだけ首をかしげて、こどものような、無邪気《むじゃき》な様子で手の中の薔薇を弄《もてあそ》ぶ。
「思い出してみたまえ、久城。女は、処刑されるとき瞳を閉じていた。断頭台で首を切られるものはたいがい、瞳を見開いて絶命しているものだ。もしかすると女は瞳の色で正体がばれることを恐れたのではないか。面変《おもが》わりしていても、監獄での生活のせいだと思わせることはできるが、瞳の色だけはごまかせない。ビビアンの瞳は黒で、ロキシーは青だ。だからロキシーは最後の瞬間にかたく目をつぶったのさ。ビビアンを守るために」
「あぁ……」
「首と切り離された胴体を、中年女が広場の隅まで引きずった、と書いてあっただろう。鋼鉄を身につけたビビアンの胴体を、女一人の力で引きずれるものか。あれは、ロキシーだ。革命の女|闘士《とうし》はなぜだか、愛に殉《じゅん》じたのさ。だから考えていたのだ。人の選択の、不思議さを。もっとほかの生き方もあったろうに、と」
一弥が不思議そうに聞いた。
「でも、それなら、あの老婆《ろうば》は誰なんだい? 白い薔薇を一輪おいて立ち去った人は」
「ビビアンだ」
ヴィクトリカはこともなげに言った。
「手記の書き手は、その老婆の顔を見ていない。真っ白な髪と、足を引きずるような歩き方でそう思っただけだ。髪の白さは、監獄で得た色。そして歩みの心もとなさは、監獄から生きのびてなお、彼女を縛《しば》る、鋼鉄の貞操帯《ていそうたい》のせいだ」
「あっ」
一弥は叫《さけ》んだ。
「それじゃ、その白い髪の女はビビアンだったのかい。白髪の向こうには、まだ年若い、薔薇と呼ばれた美貌《びぼう》が隠《かく》されていたっていうこと?」
「おそらく、そうだ。そして白薔薇一輪、おいて去ったことにも秘密は隠されている。ビビアンが、死んだアントワーヌに送ったメッセージではないかと。自分はずっと、あなたのものである、という意味のね。ビビアンはずっと、鉄の重さを引きずったまま生きていくわけだから」
ヴィクトリカは無表情なまま、大人ともこどもともつかぬその声で、言った。
「……白薔薇の花言葉は、純潔《じゅんけつ》なのだよぅ。久城」
風が吹いてまた、迷路花壇の花びらを惜《お》しげもなく散らした。日が暮れてきて、薔薇色の夕闇がお菓子の家を取り囲み始めた。すこし肌寒《はだざむ》い。一弥は窓枠《まどわく》にもたれて、またたくまに謎《なぞ》を解《と》いた、ちいさな友達をみつめていた。
「さて、手記はそこで終わっているが、久城。いったいビビアンはそれから、どうしたのだろうな。重たいからだを引きずり、パリの町角に消えた、かつての伯爵令嬢。いったいどこに行ったのだろう。どんなふうに生きたのだろう。名もなき女となって、歴史の闇《やみ》に歩き去った、白い薔薇。人というのは、おかしなものだなぁ、久城」
「うん……」
一弥は窓枠にもたれて、友達の頭を見下ろしていた。
ふいに胸をよぎったのは、一年ほど前。遠い異国に留学《りゅうがく》することを決めて、船に乗って長旅をし、この西欧《せいおう》のちいさな巨人、ソヴュール王国にむかった自分の姿だった。家族みんなが驚いた、この選択《せんたく》。そしてこの国で出逢《であ》った不思議な、自身もまたちいさな巨人と評《ひょう》されるような、おそるべき金色の少女ヴィクトリカ。彼女がなぜか、一弥が訪《たず》ねてくれるのを待って、こうして友達でいてくれることもまた、ヴィクトリカという個人の、おかしな選択といえるのかもしれなかった。
国においてきた姉、瑠璃《るり》の鈍感《どんかん》ではねっかえりなところも。実験に明け暮れる次兄《じけい》と、秘密の恋人のことも。元気で明るいアブリルが、なぜだか並外《なみはず》れた怪談《かいだん》好きであるところも。一弥が知る、名もなき人々はみんな、どこか不思議な面を隠し持っている。ちいさな個人の、不思議と不思議の調和が、やがて人がつくるおおきな歴史の波を生んでいくのかもしれない、などと一弥は生真面目《きまじめ》そうに直立不動して、考えた。
ヴィクトリカの手の中で、二輪の可憐《かれん》な薔薇の花びらが、風もないのにふわり、と揺れた。
彼女のちいさな金色の頭の、つむじのところを、一弥はちょんとつついてみた。ヴィクトリカがうるさそうに、ぐるる、と唸《うな》った。
「気軽に、触《さわ》るな。君はさいきん、久城のくせになれなれしいのだ。君、そこに座《すわ》って、踊《おど》るなり、歌いながら、反省《はんせい》したまえ」
「やだよ、踊るのは。ちょっと、つっつくぐらいいいだろ」
「フン。この、すかすか南瓜頭の、お年頃め」
ヴィクトリカはそっぽを向いた。
それから、のっそりと長椅子を降りて、金色の髪をずるずる引きずりながらどこかに歩いていった。部屋を出てどこかに行ってしまったので、一弥はちょっと寂《さび》しくなった。どこに行ったのかなと思っていると、三段フリルの、ふかふかの寝巻きを揺らしながら、戻《もど》ってきた。顔は無表情のままだ。
「どしたの?」
「フン」
「君ねぇ、お返事ぐらい……」
できるだろ、と言いかけて、一弥は口を閉じた。
ヴィクトリカはギヤマン彫《ぼ》りの繊細《せんさい》なグラスに、水をはんぶんほど注《そそ》いだものを両手《りょうて》で握《にぎ》りしめて、こぼさないようにそうっとそうっと歩いてきた。長椅子のかたわらにある、書物を山のようにのっけたミニテーブルに、そうっと置く。
[#挿絵(img/s03_049.jpg)入る]
それから、一弥が持ってきた薔薇をグラスに挿《さ》した。これでいいのかな、と不安そうにいつまでも、花とグラスをみつめている。そのさまがなんだかおかしくて、一弥は笑いながら、金色の頭をちょいちょいと撫《な》でた。ヴィクトリカが怒って、唸り声を上げた。
「ふが! 触るな!」
「あはは、怒った。……いたい!」
ヴィクトリカの唸り声と、なにかがぶつかる鈍《にぶ》い音、一弥の悲鳴《ひめい》がお菓子の家から響《ひび》いて、夏の終わりの、薄暗い空に吸《す》いこまれていく。
薔薇色の夕闇《ゆうやみ》はゆらゆらと揺れて、いろとりどりの迷路花壇《めいろかだん》をやわらかく包みこんでいた。
[#地付き]〈fin[#「fin」は縦中横]〉
[#改丁]
第二話「永遠《えいえん》」
――紫《むらさき》のチューリップのおはなし ―AD1635 オランダ―
[#改ページ]
1
夏の終わりの、柔らかな日射《ひざ》しが降《ふ》りそそぐ、朝。
聖マルグリット学園――。
緑の色をすこし褪《あ》せさせた、晩夏《ばんか》の庭園《ていえん》が、広大な学園の敷地《しきち》いっぱいにひろがっていた。樹木《じゅもく》の葉も、花壇《かだん》の花々も夏のあいだは鮮《あざ》やかだった色をすこし変えて、涼《すず》しい風にふわふわと揺《ゆ》れていた。
白い噴水《ふんすい》から冷たい水がとろとろと流れ落ちている。散ったばかりの花びらが、水面《みなも》で小舟《こぶね》のように揺れる。まだ朝の早い時間らしく、いつもはかしましい、制服姿の貴族《きぞく》の子弟《してい》たちもひとりもおらず、庭園はまるで誰《だれ》もあがってこれない天国のような情景《じょうけい》で、音もなく、ただ風に木の葉を揺らしていた。
と、その人気《ひとけ》のない、見事《みごと》な庭園の――。
「よい、しょっ、と。取れたよぅ」
庭園の、砂利道《じゃりみち》の近く。青々と葉が茂《しげ》る樹木の上から、少年の弾《はず》んだ声がした。続いてがさごそと枝《えだ》が揺れる音。
葉っぱのあいだから、東洋人の少年が顔を出した。いかにも生真面目《きまじめ》そうな表情に、すこしうるんだ漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》。太い枝の、股《また》のところでバランスを取りながら、中腰《ちゅうごし》になって下を見下ろしている。
「このリボンだろ? 紫《むらさき》の、ふわふわした……。おーい、ヴィクトリカ」
少年――久城一弥《くじょうかずや》は笑顔で、芝生《しばふ》を見下ろした。片手に濃《こ》い紫色をした更紗《さらさ》のリボンをつかんでいる。風が吹いて、手の中のリボンがふわりと舞《ま》い上がり、一弥の視界を一瞬《いっしゅん》、鮮やかな色でふさいだ。
「ヴィクトリカ、もう泣かないで。ほらっ、……って、あれ? おい、君?」
一弥が見下ろすと、さっきまで芝生にぽつんと立って木の上を見上げていた金色の髪《かみ》の少女――ヴィクトリカが、ちょこちょこと動き出したところだった。身長百四十センチメートルぐらいのちいさな、ほそいからだに、ピンクと紫のグラデーションがついた、涼しげな更紗のドレス。腰のところでふっくらふくらんで、くるぶしまでのスカートには五段ものフリルと、輝《かがや》くピンクパールが舞っていた。
同じピンクパールを三連にして、ほっそりした首に巻きつけている。帽子《ぼうし》はちいさなリボンがたっぷりついた、おもちゃみたいな麦《むぎ》わらのミニハットだ。そのミニハットが、ちょこちょこと歩くヴィクトリカにあわせて右に、左に、揺れている。
「どこ行くの、ヴィクトリカ? あっ、なんだ。こっちにきてくれたの」
すこし遠くで、風に飛ばされて木に引っかかってしまったリボンを見上げていたヴィクトリカが、木のほうに近づいてきたので、一弥はにっこりした。待っていると、ヴィクトリカは黙《だま》って、一弥が木の幹《みき》に立てかけた梯子《はしご》を両手で握《にぎ》りしめた。
「ど、どしたの、君。まさか君までのぼってくるのかい? 君、危《あぶ》ないよ。ちいさいし、運動神経《うんどうしんけい》だって悪いんだから。君、よく転《ころ》ぶじゃないか。ヴィクトリカ。そこでおとなしく待ってなさい」
「……ふん!」
ちいさく鼻を鳴《な》らす音が、かすかに聞こえた。
それからヴィクトリカは、あろうことか、これから一弥が降りようとしていた梯子を持ち上げようとした。梯子はその力では動かすことができず、ヴィクトリカは麦わらのミニハットを揺らしてしばらく、がんばっていた。
「な、なにして、るの……?」
低い、老女《ろうじょ》のようにしわがれた声が下から聞こえてきた。
「これが……うんしょっ……なくなって……むうっ……久城、君が慌《あわ》てふためいているのを見たら……愉快《ゆかい》だろうと、思って、なっ。……きゃっ!」
ヴィクトリカらしからぬ、かわいらしい短い悲鳴が上がった。顔を真っ赤にしてがんばるヴィクトリカの手で一瞬だけ持ち上がった梯子は、重さにたえかねて、両手で握りしめるちいさな女の子ごと、芝生に向かってばったん、と倒《たお》れた。
ヴィクトリカは芝生にころんと転がって、うつぶせに倒れた。
ドレスの五段フリルがめくれて、ふかふかしたドロワーズのお尻《しり》の、花|模様《もよう》の刺繍《ししゅう》が風にぱたぱたと揺れていた。ヴィクトリカは身動き一つせず、息を殺している。
木の上から、リボンをつかんだまま、一弥がおそるおそる、声をかける。
「君、だいじょうぶ?」
「……」
返事はない。
一弥はしばらく、待った。
耐《た》えかねて、
「おぅい、君」
「うぅぅ……」
ピンクと紫の、ふかふかのフリルの玉が、ゆっくりと起き上がった。
ちいさな、ぷくぷくした両手で、ヴィクトリカが顔をおさえていた。細い肩を痛《いた》そうにふるわせ、なにごとかにじっと耐えている。
一弥は心配そうに見下ろしていたが、やがてうれしくなって、言った。
「わかった。君、はずかしいんだろ。君ってだいたい、プライドが高いもんなぁ。自分でやったいたずらで、自分で転ぶなんて、あはは。ヴィクトリカのはずかしがり屋〜。でも君、そういや……その、倒した梯子、もとに戻せるのかい? そうじゃないとぼく、ちょっと、こまっちゃうんだけど」
「……できても、やらん」
ゆっくりと振り返って、ヴィクトリカが言った。梯子のかたいところにぶつけたのか、ちいさくて形のいい鼻のさきっちょが、ちょっとだけ赤くなっていた。深い緑色をした、宝石のように輝く瞳に涙を滲《にじ》ませて、
「わたしの誇《ほこ》りにかけてもだ」
「かけなくていいよ! いくら誇りたかくても、転んだ時点《じてん》で、そんなのもう台無《だいな》しだろ! もうっ、自分でなんとかできないなら、セシル先生を呼んできてよ。ぼく、このまま木の上にいたら、午前中の授業に遅れちゃうよ。成績《せいせき》がトップで、授業をさぼらないっていうのが、ぼくの誇りなのに」
「……くだらん誇りだ」
「君のほうがくだらないってばっ! ちょっ、どこ行くんだよ。ヴィクトリカ。君ね、朝から、リボンが飛んだなんて理由でぼくを呼びつけて。朝ごはんの途中でやってきたぼくに対してだよ。その態度《たいど》はなんですか。だいたい、君には礼節《れいせつ》ってものが……。聞いてる? ちょっと……」
ヴィクトリカはしらんぷりして、芝生をちょこちょこと遠ざかっていく。ピンクがかった、ガラスのようなハイヒールが、一歩、二歩と離《はな》れていく。一弥はほんとうに怒《おこ》り出した。
「待てっ、この、いじわるヴィクトリカ!」
帝国軍人の三男なら、できる、と自分に言い聞かせて、ひらり、と身を躍《おど》らせた。
瞳と同じ、濡《ぬ》れたような漆黒の髪が、風に舞う。
制服の上着の裾《すそ》も、揺れる。
敏捷《びんしょう》な動きで芝生に着地した一弥は、すっと立ち上がった。振り返ってそれを見たヴィクトリカが、緑の瞳をおどろいたように、見開く。
一弥は口角《こうかく》を上げて不適《ふてき》に笑うと、芝生を蹴《け》って、走り出した。ヴィクトリカはあわててちょこちょこと走り出す。黒いドーベルマンに追われたピンクの小兎《こうさぎ》のように、芝生の途中《とちゅう》であっというまに追いつかれて、ヴィクトリカはおびえたように、しゃがんでちいさく丸まった。
一弥はちょっと、勝ち誇った。
「ごめんなさいは? ヴィクトリカ」
「……ふん」
「ふん、って。まったく君は、いつもながら、こまった人だなぁ。あれっ……」
ぷんぷんと怒っていた一弥は、芝生に膝《ひざ》をついて、丸まっているヴィクトリカのかわいいミニハットに更紗のリボンを巻いてやりながら、首をかしげた。
見事な、長い金髪。金色の小さな川のように、芝生に広がっている。髪のあいだからほの見える首筋《くびすじ》が、いつもよりもすこし熱っぽい。
ヴィクトリカと一弥はほんの数日前、大陸を横断《おうだん》する〈オールド・マスカレード号〉に乗り、そこで起こった事件を解決して、学園に帰ってきたばかりなのだ。ヴィクトリカは疲《つか》れのためかめずらしく熱を出して、昨日は一日、部屋の長椅子《ながいす》で休んでいた。今日は、朝から庭園の散歩に出かけたのだから、元気になったのだろうと思っていたのだが……。
「ヴィクトリカ。怒ってないから、顔を上げて」
「む」
ゆっくりと、ヴィクトリカが顔を上げた。覗《のぞ》きこんでいる一弥の瞳を、かなり間近でみつめかえした。なにも映《うつ》っていない、緑色の空虚《くうきょ》な瞳。表情のわずかな変化を捜《さが》していつまでもみつめたくなる、そのビスクドールじみたちいさく、端整《たんせい》な顔。
……ちょっと、熱っぽいような気がする。
一弥は無造作《むぞうさ》に手をのばして、おでこに手のひらを当ててみた。ヴィクトリカが、ひゃっと首を縮《ちぢ》める。一弥は反対の手のひらを自分のおでこに当ててみて、
「あれ? 君、やっぱりまだ熱があるよ。あったかいもの」
「うむ。なんだか、だるいのだ」
「じゃ、どうして朝からお散歩したり、いたずらしたりするのさ。まったく、病《やまい》を押してまで力いっぱいぼくをいじめなくったっていいだろ。君ね、このまま夕方まで、寝てなさい。いいね」
「なにを命令しているのだ。すかすか南瓜《かぼちゃ》の分際《ぶんざい》で」
「き、君ね。ぼくは心配して言ってるんですよ? さ、さっさと迷路《めいろ》花壇を抜けて、おうちに帰って、休む。休む。ね?」
一弥は、むずがっているヴィクトリカの手を引いて、色とりどりの花が咲き乱れる見事な迷路花壇に向かって歩きだした。緑の迷路の、角を、右に左に、曲がる。
ヴィクトリカがしょんぼりしている気がして、「熱が下がったら、図書館に行けばよいよ。ね?」と諭《さと》してみる。ヴィクトリカはかすかに、うなずいたのか、ちがうのか、ちいさな青白い顎《あご》をすこしだけ引いた。表情は変わらない。
「また、花にまつわるおはなしを捜してくるよ。君が退屈《たいくつ》しないように」
「久城、わたしは紫の花がいい」
「……紫の花? うん、わかった」
一弥はにっこりした。
「今日の君の、ドレスの色だね」
「うむ」
「それじゃ、夕方。ちゃんと寝ているんだよ」
「うるさい。この小姑《こじゅうと》」
「……ちょっと待て、ヴィクトリカ!」
怒り出した一弥に、ヴィクトリカはあわてて走って、お菓子《かし》の家のような、そのちいさなおうちの玄関《げんかん》ドアに、巣穴《すあな》に逃げこむ小兎《こうさぎ》のように飛びこんだ。
2
さて、その日の夕方――。
すこし日が翳《かげ》り、聖マルグリット学園の広大な庭園にも、薔薇色《ばらいろ》の夕暮《ゆうぐ》れが訪《おとず》れていた。芝生にも、鉄のベンチにも、居心地《いごこち》のいい東屋《あずまや》にも生徒があふれて、思い思いの放課後を過ごしていた。
白い砂利道《じゃりみち》を、庭園の奥にある聖マルグリット大図書館のほうから、早足で歩いてくる少年がいた。一弥だ。分厚《ぶあつ》い書物《しょもつ》を一冊、小脇《こわき》に抱《かか》えて、紫の花束《はなたば》をもう片方の手に握って、生真面目そうな顔でまっすぐに歩いている。生徒たちの談笑《だんしょう》のあいだを、右に、左に歩いて抜《ぬ》けて、そしてようやく迷路花壇にたどり着いた。
生徒の輪の中で、金色のショートヘアに青い瞳の、のびやかで健康《けんこう》的な少女が一人、一弥に気づいて背伸《せの》びした。アブリル・ブラッドリーだ。友達に声をかけられて振り向き、返事をして、でも見えない糸に引っ張られるように、また一弥がいたほうを見る。と、そのときには一弥は迷路花壇の中に吸《す》いこまれていた。
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アブリルは空のような青い瞳をぱちぱちさせて、びっくりしたように、
「消えた!」
「ん? どうかしたの?」
友人に聞き返されて、アブリルはなんどか首を振《ふ》った。
ふくれっ面《つら》になり、両腕をばたばたと揺らしてみせる。
「花、もってた……。久城くんたら……」
ちいさくつぶやく。
風が吹いて、木々の葉を一斉《いっせい》に揺らした。
アブリルは不思議そうに一弥が消えた方角を見て、いつまでも考えこんでいた。
「ヴィクトリカ、いる?」
「……う?」
短い返事の後、お菓子の家の窓がすうっと、音もなく、開いた。
窓際《まどぎわ》にあるエメラルド色をした猫足《ねこあし》の長|椅子《いす》に、ヴィクトリカがちょこんと座《すわ》っていた。檻《おり》に入れられた兎のようにおとなしく、じっとしている。長椅子の上にはちいさなヴィクトリカと、ドレスのフリルと、それからマカロンやチョコレート、真っ白なメレンゲなどのお菓子がのっかっていた。
ヴィクトリカは窓|枠《わく》に青白いちいさな顎《あご》をのせると、すねたように黙《だま》って、一弥を見た。
「な、なんだよ」
「退屈《たいくつ》した。死にそうだ。五秒後に死ぬかもしれん」
「そんな理由で死なないよ。それより君、ほら、その……」
一弥は真面目な顔で、手にしていた紫の花束を差し出した。
「は、花」
「うむ」
ヴィクトリカがうなずいた。
「花だな」
「うん……」
それは紫がかった、温室咲《おんしつざ》きのチューリップの花束だった。一弥が窓から覗《のぞ》きこんでいる、ヴィクトリカのおうち……ちいさな猫足テーブルと椅子、チェスト、素敵《すてき》なじゅうたんのある、しかし床は書物《しょもつ》であらかた埋《う》め尽《つ》くされている部屋に、その花束ははっとさせる、原色《げんしょく》の華《はな》やかさを持ちこんだ。ヴィクトリカは興味《きょうみ》なさそうに花束を受け取ると、胸の前で、黙って、ぎゅうっと抱いた。
「なんだ、こんなの」
と言いながら、ちいさな鼻をうずめて、匂《にお》いをかぐ。
「うむ……!」
花束を抱きしめて、背中を向ける。一弥は真面目な顔で、小脇に抱えていた書物を開いた。ちょっとつっかえながら、読み始める。
「あのね、紫のチューリップは、ええと、セフィロイっていう種類で、チューリップの王者《おうじゃ》なんだって」
「……む」
かすかに返事があったので、ほっとして、読み進む。
「セフィロイは、そのむかし、オランダでチューリップのブームがあったときに高値《たかね》で取引《とりひき》されたんだ。もっとも、いまでは、あの図書館の温室にたくさん咲いているけれどね」
「うむ」
「ええと、オランダの人々がこのきれいな紫の花に熱狂《ねっきょう》したのは、十七世紀。いまから三百年ほども前の話なんだ」
「うむ」
ヴィクトリカを見ると、まだ、くんくんと気持ちよさそうに花の匂いをかいでいた。一弥はそれをちらっと見て、話を続けた。
「花の球根《きゅうこん》をめぐる取引の多くは、そのころなんと、町角にある居酒屋《いざかや》に集まって、お酒を飲みながら行われていたんだって。それでね、そんな居酒屋の一つ〈金の葡萄亭《ぶどうてい》〉の店主が残した日記が、書物になっていたからさ。それを読んでみるよ。ちょっと不思議な、恋人たちのおはなしがあったんだ」
「む」
一弥はそっと、ヴィクトリカを覗きこんでみた。ちいさな耳がすこぅし動いたので、聞いているな、とわかる。
「じゃ、読むよ」
背筋を伸《の》ばすと、一弥は書物を読み上げ始めた。
「『俺《おれ》が経営《けいえい》する〈金の葡萄亭〉は、もともとは俺の親父《おやじ》の親父、いまじゃアムステルダム郊外《こうがい》の墓地《ぼち》に眠ってる、じいさんの代から始めた居酒屋だ。じいさんが店を開けたのはいまから五十年前、一五九〇年辺りのことらしい……』」
風が吹いて、ヴィクトリカの手の中の、紫色をした花弁《かべん》がいくつも、ふわふわと揺れた。
3
『俺が経営する〈金の葡萄亭〉は、もともとは俺の親父の親父、いまじゃアムステルダム郊外の墓地に眠ってる、じいさんの代から始めた居酒屋だ。じいさんが店を開けたのはいまから五十年前、一五九〇年辺りのことらしい。いまとなっちゃ当時《とうじ》のことはよくわからないが、まぁ、このオランダ一の港町《みなとまち》、アムステルダムの歴史の一端《いったん》をみつめてきた古い店、ってことには間違いない。
昔のことはわからないが、俺は自分が経営者になってからの十年ほどで、いろんなおもしろい事件を見聞きしてきた。そのことをいま、そう、店が閉まって、かしましい酔客《すいきゃく》たちも千鳥足《ちどりあし》で家路《いえじ》に着き、掃除を終えたひとりきりのこの〈金の葡萄亭〉で、書き残してみようと思うのさ。俺は居酒屋の親父にしちゃ、学《がく》があるんだ。文字も読めるし、なんとか、書ける。書き終わったらどうするかってぇと、きっと、俺の息子に手渡《てわた》すだろう。いまはまだ鼻水をたらしたガキだが、あいつも大人になったらきっとこの店を継《つ》ぐんだ。そして親父や、その親父や、そのまた親父と同じように、この町の人々の悲喜《ひき》こもごもの目撃者《もくげきしゃ》になるのさ。そうに決まってる。だから、俺は、俺が見聞きしたことを残しておく。俺だって親父たちの見たものを知りたかったからさ。
この十年のオランダで、もっともおもしろかった出来事《できごと》といえば、まちがいなくあれだろう。チューリップ貿易《ぼうえき》だ。これからその話をしよう。狂乱《きょうらん》するあの花のブームの影《かげ》で、踊《おど》った、一組の恋人たちの話だ。
いまとなってはなんだったのか。俺たち市井《しせい》の人間にはよくわからないが、店の常連《じょうれん》の学者先生が、ほろ酔《よ》いで、俺に教えてくれたことがある。もともとは、いまから百年前にあったオランダ独立戦争《どくりつせんそう》ってやつが発端《ほったん》らしい。戦争の余波《よは》で、田舎《いなか》の漁師《りょうし》の町だったはずのアムステルダムは急に、各国の貿易でにぎわう華《はな》やかな港町になった。オランダ自体《じたい》も、スペインが独占《どくせん》していた東方《とうほう》との貿易に食いこんで儲《もう》けるようになった。つつましやかな民《たみ》だった俺たちは、百年かけて少しずつ、贅沢《ぜいたく》に、そして、勢《いきお》いを増していったんだ。
俺たちの国、オランダは東方の植民地《しょくみんち》から、香辛料《こうしんりょう》や砂糖《さとう》を船で運んできては、ヨーロッパで売りさばくことで時代の寵児《ちょうじ》になった。着るものも食べるものも派手《はで》になって、景気《けいき》のいい時代が続いた。衣服、食べ物、ときたらつぎは? 住居だ。まずオランダでは、すばらしい建築《けんちく》の、贅沢な屋敷《やしき》をつくって住むことが流行《はや》った。みんな、ちょっとどうかっていうぐらい舞い上がって、競《きそ》うように屋敷を建てては自慢《じまん》したんだ。で、屋敷ができたら……?
おつぎは、庭だ。そう、庭園作りに燃えたのさ。素人《しろうと》の家とは思えないすばらしい庭を競い合った。
そして、そして、つぎは?
花さ。……もうわかったかい? 俺たちオランダ人は、その庭園に植えて、自慢の種にする、めずらしい美しい花を求めたんだ。
そして、めずらしい花といえば、チューリップだった。
東方の地、エキゾチックな国の後宮《こうきゅう》の庭に咲いていたという、見たこともない形をした幻想的《げんそうてき》な花。その魅力《みりょく》はまず、屋敷や庭園作りに熱中する金持ちを捉《とら》え、そのあと、俺たちのような市井の人々、そんな買う金もないほどの庶民《しょみん》にまで、熱狂《ねっきょう》が広がっていった。一六二〇年代から、三〇年代までのわずか十年ほどのことだがね。短いと思うかもしれないが、突発的《とっぱつてき》な熱狂ってのは、そういうものだ。とにかく東方の不思議な花、チューリップの球根は、その十年間、俺たちオランダ人にとっての、見果《みは》てぬ夢になったわけだ。
そしてその熱狂は、金持ちが出入りする豪華《ごうか》な取引所から、次第《しだい》に庶民の生活の場にくだってきて、ついには俺の経営する、〈金の葡萄亭〉にまでやってきた。時は一六三五年。チューリップブームがふくらんで、みんな踊って、ぱちんとはじける直前だった。
そして、ようやく、美女の登場《とうじょう》だ。
ブルエット・マーシュ。チューリップのせいでえらい目に遭《あ》った、アムステルダム一の美女さ。
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〈|風との取引《ウィントハンドル》〉という言葉を知っているかな。
この港町に出入りする船乗《ふなの》りたちにとっちゃ、逆風《ぎゃくふう》のときに舵《かじ》を取ることのたいへんさをそう呼ぶらしい。だけど当時のオランダでは、市井での、チューリップの球根の取引をそう呼んでいた。まさにあれは、実態《じったい》のない、幻《まぼろし》の風との約束に過《す》ぎないような、そんな取引だった。
最初のころこそ、実際《じっさい》のチューリップの球根を前にして、金額《きんがく》を決めて売り買いしていたが、ブームはすごくて、じきに追いつかなくなった。それに、花好きなやつはともかく、金儲《かねもう》けしたいだけのやつにとっては、花そのものなんて、じつはどうでもよかったんだ。だからやつらは、まだ手元《てもと》にきていない、これから手に入れるはずの空想《くうそう》上の球根を、売り買いし始めた。しかも、こいつがあいつに売った値段《ねだん》より、あいつがそいつに転売《てんばい》した値段のほうが高いって具合で、値段がどんどんつりあがるんだ。みんな、見たこともない空想上の球根を、自分の資産《しさん》として、銀行から金を借《か》りたりし始めた。球根が届いたら金持ちになるから、金を返すよ、って具合だ。そして一攫千金《いっかくせんきん》を夢見る庶民は、取引の場所に近所の居酒屋を選んだ。この店に行けば、誰とでも、取引できるってわけさ。
俺の〈金の葡萄亭〉もその一つだ。夜ごと、見たこともない自分のチューリップを売る人、買う人でかしましかった。〈|小さいO《インヘトオーチ》〉といって、石版《せきばん》に描かれたOの字の中に、自分が売りたい値段を書いて見せて回るっていうやり方が流行っていてね。男たちはみんな、ちいさな石版片手に、毎晩|大騒《おおさわ》ぎさ。
ちょうどそのころに、アムステルダムにマーシュ父娘《おやこ》が引っ越してきた。なんでも、東方との貿易で莫大《ばくだい》な利益《りえき》を上げた金持ちの父娘だったらしいけれど、そんなやつは当時のオランダじゃめずらしくなかった。それなのにマーシュ父娘が有名になったのは、その娘《むすめ》、まだ十八歳ぐらいのブルエットが、ちょっと、見たこともないぐらいの別嬪《べっぴん》だったせいさ。
母親の話は聞いたことがないから、ありゃ、もしかするとちょっと東方の女の血が混《ま》ざっていたのかもしれない。浅黒《あさぐろ》い肌は濡《ぬ》れたように輝《かがや》いていて、黒い瞳《ひとみ》に、くすんだ、金の髪。彫《ほ》りの深いちょっとエキゾチックな顔をしていたよ。アムステルダム中の男が、マーシュ氏の屋敷近くをうろついて、ブルエットを追いかけ回したもんだ。あれも、一種の、狂乱だったね。
その中に一人、ハリー・ハリスっていうさえない青年がいた。年は十六か十七だけど、文無《もんな》しで、親もいなくて、実を言うとこの〈金の葡萄亭〉で半年ほど前から働《はたら》いていた。その前にどこにいたのかは知らない。ちょっとブルエットに似ていたな。いや、美形《びけい》ってわけじゃないが、やっぱりエキゾチックで、肌が浅黒くて、目つきが似ていた。もしかしたらハリーも、あっちの血が混ざっていて、それを隠《かく》していたのかもしれないね。聞いてみたことはないが。
ハリーはすっかりブルエットにまいっちまって、もともとあんまり働き者じゃなくて俺に怒鳴《どな》られてばかりだったのが、ますます、ぽーっとなって、役立たずになっちまった。なんでも、公園を歩いていて、雨が降《ふ》り出したところを、ブルエットを傘《かさ》に入れてやったんだと。マーシュ氏の屋敷まで送っていく道すがら、すこし話しただけで、ハリーは彼女を気に入って、寝てもさめてもブルエット、ブルエットになっちまった。だけどぜんぜん望《のぞ》みはなかったんだ。どうしてかっていうと……。』
4
夕刻《ゆうこく》の、ひんやりした風が吹いて、迷路花壇の花を揺らした。
窓辺《まどべ》に立って書物を読み上げている一弥の漆黒《しっこく》の髪も、風になびいた。
お菓子の家の中で、エメラルド色の長椅子に横たわったヴィクトリカは、金色の川のような見事な髪を床にたらして、瞳を閉じていた。
一弥が言葉を切って、そっと、覗《のぞ》きこんでみる。
耳をすませる。
「すぴー……。すぴー……」
一弥は、がっかりした顔をした。
「寝てるのかぁ……」
「起きている」
低い、老女のような声がした。
長い睫毛《まつげ》が動き、ヴィクトリカがゆっくりと目を開ける。うるんだ、深い緑色の瞳が一弥をとらえた。
「どうして望みがないのだね? ハリーの恋は」
「あっ、聞いてたんだ」
一弥ははりきった。ごほん、と咳《せき》をして、書物に目を落とす。
「どうしてかっていうとね、ええと、あぁ、そうだ。お金がないんだよ」
「だめなやつだなぁ」
「君だってないだろ?」
「うむ。ない」
ヴィクトリカは無表情《むひょうじょう》で、こくんとうなずいた。
それからまた瞳を閉じた。片手を上げて、続けろ、というようにひらひら振ってみせる。一弥は書物を手に、背筋《せすじ》を伸ばした。
「『ぜんぜん望みはなかったんだ。どうしてかっていうと……』」
空の遠くで、薔薇《ばら》色の夕闇《ゆうやみ》がゆっくりと辺《あた》りを包んで、お菓子の家と、迷路花壇と、窓の中と外にわかれて寄《よ》り添《そ》っている二人をやわらかく照らしていた。
5
『どうしてかっていうと、ハリーは一文無《いちもんな》しで、一方のマーシュ氏は評判《ひょうばん》の金持ちだった。借家《しゃくや》だが、立派《りっぱ》な屋敷と庭園を持っていたし、それに、娘は自分より金持ちの男にしかやらないと公言《こうげん》していた。贅沢《ぜいたく》に慣《な》れた娘が、貧《まず》しい男と恋に落ちても、きっと幸せな生涯《しょうがい》は送れまい、と父親なりに考えていたらしい。
ハリーは毎日、マーシュ氏の屋敷を見上げてはため息をついていた。働きもせずにね。こりゃ望み薄《うす》だなと俺も思ってたんだが、ある日。ハリーはブルエットともっとちゃんと知り合うことができた。こんどは、ハリーが困ってるところを女のほうが助けたんだ。靴《くつ》のかかとがどぶ板にはさまってね。四苦八苦《しくはっく》してるところにブルエットが通りかかって、
「あんた、靴をお脱《ぬ》ぎなさいよ。あたしがその、どぶ板の穴から抜いてあげるわ」
靴を脱いで、片足立ちで待ってるハリーに、靴を引き抜いて渡してくれたらしい。それからブルエットはよく、ハリーの顔を見に気楽《きらく》に〈金の葡萄亭〉にもくるようになったんだが、うん、気のあう二人ってのはどこか面差《おもざ》しが似てるもんだね。話も弾《はず》むし、二人とも楽しそうだ。だけど問題は、マーシュ氏だ。ある日、ハリーのほうがマーシュ氏の屋敷を訪《たず》ねたら、マーシュ氏に文字通り、叩《たた》き出されちまった。怒《いか》れる親父の怒鳴り声が、アムステルダム中に響《ひび》いたもんだ。
「蛆虫《うじむし》め! 娘に近づいたら、東方行きの船の船倉《せんそう》に積んで、荷物といっしょに追放《ついほう》してやる!」
なにしろ、この店まで聞こえるほどの大声だったからね。町中の人が知るところとなった。かわいそうなのはブルエットさ……と言いたいところだが、意外とさっぱりしていた。泣いているハリーの背中をどやして、
「だって、とうさんが怒ってたら、あんたと結婚《けっこん》はできないわよ。父一人、子一人で育ったんだもの」
「蛆虫はひどいだろ」
「あはは、ひどいわね。でも、とうさんにとっては、貧乏人《びんぼうにん》は蛆虫なのよ。そこは、話しあったってきっと変わらないわ」
「君はどうなんだい、ブルエット。お金か? 愛か? 君はどちらを信じる女性なんだい」
「あはは、両方よ」
そういや、ブルエットのほうが一つ、二つ年上だったしね。あっけらかんと言うんで、ハリーはげっそりとやつれちまった。そんな痴話《ちわ》げんかを、二人がまた、うちの店のカウンターで大声でするもんだから、チューリップの〈風との取引〉で忙しい大人たちもまた、ついつい聞き耳を立てちまう。
そんなある日、空想上《くうそうじょう》のチューリップの球根を取引する大人たちの声が、悩めるハリーの耳に入っちまったんだ。そう、幻の、チューリップの王者《おうじゃ》。セフィロイと呼ばれる、ほとんど誰も見たことがない紫《むらさき》のチューリップの噂《うわさ》がだ。
なんでも、美しい紫の花弁を持つ大きなその花は、東方のとある小国の後宮《こうきゅう》にある、ちいさな庭にしか咲いていないらしい。ヨーロッパに持ち帰ったつわものは一人もいなくて、だから、それが一輪《いちりん》あれば、十年は暮らせるほどの高値《たかね》になるだろうって話だ。さすがの連中《れんちゅう》も、手に入らないその球根でまで空《から》取引する勇気はなかったんだ。誰《だれ》もが、恐《おそ》れるように、小声でささやきあうだけさ。そしてハリーは、あのとんだ大馬鹿者のハリーだけは、美人のブルエットを手に入れるために、その紫の花を手に入れようと思いこんじまったんだ。
あの、ハリーが消える前夜《ぜんや》のことはよく覚えているよ。
ブルエットと、この店のカウンターで、例によって大《おお》げんかをやらかしてね。町中に響くような声でブルエットが、
「この、オランダ一の、大馬鹿者!」
「ちょっと美人だからって調子に乗るなよ、色黒《いろぐろ》のくせに!」
「あんたもだっ!」
なにでもめてるのか、しばらくわからなかったんだが、大人全員が取引や、給仕《きゅうじ》の手を止めて聞き耳を立てたところによると、こういうことだった。ハリーは大金持ちになってブルエットと結婚するために、東方に旅立つ、と言っていたんだ。
「俺は、必ず金持ちになって帰ってくるよ。そしたら君と、永遠《えいえん》にいっしょにいられるだろう。永遠に」
ブルエットは、あんたみたいな抜けた男には無理だ、とさんざんな言い様だったが、俺たち、周囲の人間にはブルエットの気持ちがわかったよ。要《よう》するに、遠くに行って、危険なことをしてほしくなかったんだな。ブルエットは恋人の身を案《あん》じてたんだが、そのことをうまく伝えられなかったんだ。素直《すなお》じゃないんだな。ふたりはひどいけんか別れをして、そしてその翌朝、ハリーはなんと、マーシュ氏の貿易船に密航《みっこう》して、本当の本当に、東方に向かってしまった。
俺たちはあきれたが、ハリーはそんなに賢《かしこ》いやつじゃないし、こりゃあ、金持ちになるどころか、無事《ぶじ》にヨーロッパに帰ってくるかも絶望的《ぜつぼうてき》だな、と思ったもんだ。みんなハリーのことは忘れて、そしてまた、加熱《かねつ》する取引のほうにもどった。
半年後。仰天《ぎょうてん》するようなニュースが飛びこんできた。
香辛料の買い付けのために東方に向かったマーシュ氏が、市場でばったり、ハリーに再会したのだという。なんでもあの、明るくてのんびりしたハリー・ハリスとは別人のように面《おも》やつれして、真《ま》っ青《さお》な顔をして、体も常にぶるぶる震《ふる》えているといった有様《ありさま》だった。もちろんマーシュ氏たちは心配したが、ハリーは、いったいこの地でなにがあったのか、けして話さなかったという。だけどハリーは、別人のように面やつれしたのと引《ひ》き換《か》えに、とんでもない切《き》り札《ふだ》を手に入れていたんだ。
セフィロイ。紫のチューリップさ。
その球根をたくさん手に入れたというハリーに、マーシュ氏と、ともに東方に向かったオランダ商人たちは、さいしょは首をひねった。だがハリーが、これからオランダに向けて船を出すところだと、自分の粗末《そまつ》な船に案内するので、すこし不気味《ぶきみ》に思いつつも、しかたなくついていった。真っ黒い、闇《やみ》のように不吉《ふきつ》な、ちいさな船だった。その薄暗い船室に案内されて、マーシュ氏がこわごわと入っていった。そして大声を上げた。ほかの商人たちも、その声につられて、船室を覗《のぞ》きこんだ。
粗末な船の、薄暗《うすぐら》い部屋いっぱいに、不気味な紫のチューリップが咲き乱れていた。埃《ほこり》が舞《ま》い、薄汚れたせまい船室で、ドアから射しこむ光の中、チューリップの色で空気までが[#「空気までが」に傍点]濃い紫色に染まっているようだった。剣の束《たば》のような形の、花の影が、船室に床の右に左に[#「右に左に」に傍点]、影を落としていた。
マーシュ氏は呆然《ぼうぜん》としていたが、やがてふらつきながら船室を出た。そんで、言ったのさ。
「買うぞ。ハリー、わたしは紫の花を買う」
「娘さんは?」
「もちろん、おまえがオランダに帰ってきたら、結婚させるさ。おまえはわしよりずっと金持ちになる。これだけのセフィロイを積荷《つみに》にして、戻るのだから!」
商人たちも争《あらそ》って球根を買うことにした。噂はたちまちヨーロッパ中に流れ、この町のあちこちで、〈風との取引〉が始まった。紫の花の球根を、みんなで買い、売り、値段はそれこそ、聞いたことがないぐらいはねあがった。
ハリーとセフィロイの球根を乗せた粗末な船は、東方の港を出た。
俺たちは、ハリーの帰還《きかん》を待った。一月《ひとつき》が経《た》ち、二月《ふたつき》が経ち。ハリーはアムステルダムに着かなかった。一度、おおきな嵐《あらし》がやってきた。嵐の向こうから戻ってきた船は、ハリーのものではなく、マーシュ氏と商人の仲間たちを乗せた豪華《ごうか》な船のほうだった。あとから出た船が先に着いたのだ。マーシュ氏たちはしだいに落ち着かなくなった。あの紫の花はどうなったのだ? 莫大な金額《きんがく》で買い、大金持ちになった青年を待っているのに。
さらに十日後。
一枚の木の板が、流れ着いた。
ハリーが乗った粗末な船の名前が、はしっこに、残っていた。
あの気のいいハリーは、東方の地でなにがあったのか、すごい幸運をつかまえて、でも、最後は嵐で船ごと、沈《しず》んじまったんだ。ハリーは死んだし、紫の花も海に沈んだが、みんなだって大損《おおぞん》さ。ブルエットは、噂じゃショックで寝込んじまって、そのまま起き上がれない半病人になっちまった。で、マーシュ氏は大損したまま、娘の療養《りょうよう》のためにって、スイスに向かう列車に乗った。空気のいい山の中で、娘を休ませるってさ。
そのころから、チューリップのブームにも翳《かげ》りが出始めた。みんな、実態《じったい》のないものに踊《おど》りすぎたんだ。値段だけつりあがって、球根はあとからくるわけだから、どこかで、はねあがった値段ごとはじけちまう。一六三六年の終わりに、その時期《じき》がついにきたってわけさ。空手形《からてがた》はみんな宙《ちゅう》ではじけて、そして、終わった。いまじゃ、誰もチューリップの話なんてしなくなっちまった。もったいないね。かわいくってさ、なかなかすてきな花だったのに。
今夜もこの〈金の葡萄《ぶどう》亭〉では、客がさまざまな話をしていたが、もう誰も、かわいそうなハリー・ハリスと、エキゾチックな美人ブルエットの話なんて覚《おぼ》えちゃいない。いまの話題は、東方から入ってくる新しい香辛料《こうしんりょう》、ナツメグのことさ。なかなかいい香りでね、肉料理に使うといいって、女房《にょうぼう》たちがほしがるんだ。でも、高くてね。
もう誰も、あのすてきな紫のセフィロイの話はしない。だから俺だけでも、あの花と、おかしな、かなしい恋人たちの話を書き残しておこうと思ったのさ。
おっと。そろそろもう夜が明ける。帰って、夜食《やしょく》を食べて、寝るとするか。またなにかおもしろい出来事があれば書き残すことにする。アムステルダムは、おかしな町だからな。
そうだ、もう一つ。なぜなのかはいまだにわからないが、スイスに発《た》ったはずのマーシュ父娘は……』
6
おはなししているうちに、聖マルグリット学園の広大な敷地も、とっぷりと日が暮れて、鮮《あざ》やかに青白い月光がお菓子の家の屋根を染め上げ始めた。
エメラルド色の長椅子に横たわったヴィクトリカは、ゆっくりとからだを起こすと、ふわぁ〜とちいさなあくびをした。さくらんぼみたいにつやつやした唇《くちびる》が半開きになる。それからとても退屈そうに、ゆっくりと、言った。
「スイスに発ったはずのマーシュ父娘は、しかし、スイスにたどり着かなかったのだろう?」
「う、うん」
一弥はうなずいた。ぱたん、と書物を閉じて、窓枠《まどわく》に頬杖《ほおづえ》をつく。ヴィクトリカのほっぺたをつついて、
「どうして知ってるの? この本、読んだことあるのかい?」
「ない」
ヴィクトリカは不機嫌《ふきげん》そうに背を向けた。金色の髪をざわざわとうごめかせて、ちいさな声で文句《もんく》を言った。
「気軽《きがる》につつくな」
「ん? あぁ、ごめんよ。つい、ぷくぷくしてたもんだから」
「!」
ヴィクトリカは、気にしていたらしく、瞳《ひとみ》を見開いて一弥のほうを振り返った。それから低い声でゆっくりと言った。
「マーシュ父娘は、スイスに向かう途中で下車して、そうして、ハリー・ハリスと落ち合ったのだろうよ」
「ハリー?」
一弥は聞き返した。
「ハリーって、だって彼は、死んだんじゃないのかい。東方から紫の花を乗せて、船で戻る途中、嵐にあって……」
「船など出ていない」
ヴィクトリカはしわがれた声でちいさく、言った。
「おそらく出港《しゅっこう》した振りをして、夜の闇にまぎれて戻ってきたのだろう。そしてハリーは逃げた。あとはマーシュ父娘の仕事さ」
「仕事?」
「なんだ、君。どこまで気づいてないのだ。ええい、仕方《しかた》ない。最初から説明《せつめい》してやる。謝《あやま》りながらそこに立っていろ」
「ごめんなさい……。なんか、君の剣幕《けんまく》にびっくりして謝っちゃったよ。なんなんだい。マーシュ父娘とハリーは、他人じゃないのかい」
「最初からグルだ。三人組の詐欺師《さぎし》さ。町の人々も気づきそうなものだがなぁ」
長椅子の上で、ヴィクトリカが不思議そうに首をかしげて、からだをちょっと揺すった。金色の髪が床に流れて、かすかにさわわっ……と涼《すず》しげな音を立てた。
青白い月光が、すこしずつ増してくる。ヴィクトリカは唇を開いて、ゆっくりと話し出した。
「マーシュ父娘、いや、マーシュ一家はだね、君」
「ん? 一家って」
「マーシュ氏、姉のブルエット、弟のハリーだ。まぁ、おそらく偽名《ぎめい》だろうがね。便宜上《べんぎじょう》、こう呼ぶしかあるまいよ」
「マーシュ氏とハリーって、父子なの? えっ。ブルエットとハリーは血がつながってるの? でも、恋人どうしなんじゃ……」
「恋人どうしであるものか。〈金の葡萄亭〉の店主の日記を思い出してみたまえ。二人とも東方の血が混じった、エキゾチックな顔立ちをしていたし、面差《おもざ》しも似ていた。ただの姉弟さ。二人の会話だって、そうだ。思い出してみたまえよ。仲良く語《かた》らっていたというが、その内容はおよそ、甘い睦言《むつごと》とは言えないではないかね。あれは、ただの姉弟げんかだ。もちろん居酒屋にいるカモたちに聞かせるための芝居《しばい》として、けんかしてみせていたのだろうが、多分に本音《ほんね》が見え隠《かく》れ、といったところだろう」
「でも……どうして……?」
「これはチューリップブームを利用した詐欺なのだよ。いいかね。マーシュ一家は、まず、美女である姉を使ってアムステルダムで有名になった。他人として、同時期にこの港町にやってきて働き出した弟と恋に落ちた振りをして、大|騒《さわ》ぎしてみせた。父は資産《しさん》のない男に娘はやらんと町中に聞こえる大声で言い、弟は東方に旅立った。そして、半年後。ハリーは東方で、ほんとうに、幻《まぼろし》のチューリップをみつけたと……マーシュ氏が目撃した[#「マーシュ氏が目撃した」に傍点]」
「あっ」
一弥は叫《さけ》んだ。
金色の、ヴィクトリカの髪が月光の中でうごめいた。笑ったのだ。
「東方の地は広い。いかにオランダ人どうしであろうと、マーシュ氏一行とハリーがばったり会う確率《かくりつ》は低いと思うがね。おそらく二人は示し合わせて、演技《えんぎ》をしたのだ。そしてハリーが粗末な船に案内し、マーシュ氏だけが船倉に入った。誰よりもハリーと敵対《てきたい》しているはずのマーシュ氏が、叫んだ。『セフィロイだ!』」
「うん……」
「商人たちは信じた。そしてマーシュ氏とともに争って紫の花を買ったのだ。そこにはない、それこそ幻のチューリップを」
「でも、ヴィクトリカ。日記には、たしかにマーシュ氏が紫のチューリップの中に立っていて、商人たちは外からそれを見たって書いてあるよ。それって……」
「かんたんなトリックだ」
ヴィクトリカはふんっと鼻を鳴《な》らした。
「ハリーはおそらく、ほんのすこしのチューリップを買ったのだ。それをたくさんあるように見せるため、花をおいた船倉に鏡《かがみ》をたくさん持ちこんだのさ。鏡にうつったものがこっちの鏡にもうつり、すこしの花は、船倉いっぱいの花畑になる。書いてあっただろう。剣の束《たば》みたいなチューリップの影が、右に左に[#「右に左に」に傍点]のびていた、と。船倉の入り口から入る光。それによってできる影は、本来、一方向にだけのびるものだ。それが右にも左にも見えたのは、影もまた、鏡にうつっていた虚像《きょぞう》だからだ。チューリップ自体《じたい》はおそらく白い花で、それを、紫に塗《ぬ》った鏡に映して、暗《くら》がりの中で紫の花のように見せていたのだ。だから、空気までが[#「空気までが」に傍点]紫に染まっているように、見えたのだ。……しかしね、君」
「うん」
「船倉の外から覗きこんだ商人たちはだまされても、中まで入ったマーシュ氏がそれに気づかぬわけはない。よって、彼はハリーとグルである、と結論《けつろん》づけられるのさ。わかったかね」
一弥はうなずいた。
「それじゃ、ハリーたちは存在しない紫のセフィロイを商人たちに買わせて、値段をつりあげて、そのお金を持って三人で逃げたってこと?」
「そうだ」
ヴィクトリカは物憂《ものう》げにうなずいた。
「ヨーロッパにおける、エキゾチックな東方の花、チューリップのブームはとても短かった。おそらく、そのことをいちばんよく知っていたのは、東方に詳しいマーシュ氏と、その血を受け継《つ》いだ、自身もまたエキゾチックな花のような存在であったブルエット、その弟のハリーだったのではないかね。彼らはふくらんだ玉がはじける寸前《すんぜん》で、幻を売り切り、莫大《ばくだい》な儲《もう》けとともにどこかに逃げたのだ」
「うん……」
「〈金の葡萄亭〉で使われていた、石版による庶民の取引の俗称《ぞくしょう》〈小さいO〉だがね、それはオランダ語では、君、いっぱい食わせる≠ニいう裏の意味もあるのだよ。皮肉《ひにく》なことだがね」
ヴィクトリカはつぶやいた。一弥が首をかしげて、それから、閉じた書物をみつめた。生真面目《きまじめ》そうな顔で考えこんでいる。それに気づいたヴィクトリカが、なんだね、というように一弥を見上げた。
「いや……。それならさ、ハリーが海で溺《おぼ》れたんじゃなかったら、マーシュ父娘がスイスに療養《りょうよう》に行ったんじゃなかったら、莫大な金額を手に入れて、この三人はいったいこのあと、どこに行って、どんなふうに暮らしたのだろう、と思ってさ」
「さてね。それは誰にもわからないさ。彼らが歴史の表舞台《おもてぶたい》に出てくることは二度となかっただろうからね。市井《しせい》の人々というものは、ほんの一瞬|姿《すがた》を現して、また、歴史の裏《うら》にくるりと消えるのさ」
ヴィクトリカはこちらに身を乗り出してきて、窓枠《まどわく》にちょこんと、ちいさな青白い顎《あご》をのせた。頬杖《ほおづえ》ついている一弥と、間近《まぢか》でみつめあう。その表情は今夜もまた、限りなく無表情《むひょうじょう》に近くて、でもどこかもの悲しげな様子にも見えた。一弥はいっしんに、この不思議な友達の、ひんやりとした、陶器《とうき》の人形のごとき美貌《びぼう》に目をこらした。この、掴《つか》みづらい、謎《なぞ》めいた少女の顔に、わずかでも表情の変化があれば、自分はそれに気づきたいという気がしたのだ。
「莫大な儲けを手に、西か。東か。どこへ消えたのか。お金が三人を幸福にしたのかもしれない。案外《あんがい》なにも変化しなかったのかもしれない。もしかすると、逆に不幸にすることもあったかもしれない。どちらにしろ、昔から、人々は富《とみ》を求めるものだ。愛か、お金か、と聞かれて、両方よ、と笑った在《あ》りし日の美女、ブルエットのように。それこそが紫のチューリップの持つ花言葉……」
ヴィクトリカの顔がほんのすこし、楽しげに弾《はず》んだ気がした。でも、気のせいかもしれない。
「永遠《えいえん》≠ノふさわしい、狂乱《きょうらん》であろうよ。富を求める人々の夢は、果てしない。人の世が続く限り繰《く》り返されることだろうね、君」
「うん……」
一弥は目を閉じた。
青白い月光が、視界《しかい》から消えた。
ふいに一弥の脳裏《のうり》に、手をつなぎ、笑いながらどこかに駆《か》けていく、エキゾチックな顔立ちの若い男女の姿が浮かんだ。浅黒い肌に黒い瞳、金の髪をした仲のいい姉弟。父親らしき年配《ねんぱい》の男も一緒だ。「うまくやったじゃない、わたしたち?」「うん!」「あはは。あぁ、あいつらの儲けそこなった顔、見物《みもの》だったわ」「姉さん、これからどうする?」「ほしいものがたくさんあるわ」「俺もさ」「おとうさんは?」「わしか。そうさなぁ、まずは……」
まずは?
なんだったのだろう。
いや――、
幻だ。
一弥はゆっくり目を開けた。
どうしたのか、と不思議そうな様子で、ヴィクトリカが一弥をみつめていた。びっくりするぐらい近くに、そのちいさな顔があったので、一弥はあっと息を呑《の》んだ。それから、ちいさな美しい友達ににこっと微笑《ほほえ》みかけてみた。ヴィクトリカもわずかに頬《ほお》をゆがめ……たぶん、そう、微笑みかえした。でも、気のせいかもしれない。
月光が、きらきらと青白く、迷路花壇に降《ふ》り落ちては色とりどりの花びらを照《て》らしていた。
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第三話「幻惑《げんわく》」
――黒いマンドラゴラのおはなし ―AD23 中国―
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1
白くて柔《やわ》らかな日射《ひざ》しが降《ふ》り注《そそ》ぐ、午後。
聖《せい》マルグリット学園――。
ていねいに刈《か》り込《こ》まれた芝生《しばふ》のところどころに、ちいさな白い花が咲《さ》いて、ときおり吹《ふ》く優《やさ》しい風に揺《ゆ》れている。授業《じゅぎょう》が終わったことを知らせる鐘《かね》が、遠くで鳴《な》り響《ひび》いている。コの字型《じがた》をした巨大《きょだい》な校舎《こうしゃ》から、貴族《きぞく》の子弟《してい》たちがぞろぞろと出てきて、芝生の花を踏《ふ》まないように気をつけながら、寮《りょう》に向かって歩いていく。
ざわめきと、足音《あしおと》。それがしだいに減《へ》っていき、庭園《ていえん》はまた静《しず》けさに包《つつ》まれる。
眠《ねむ》たくなるような、天気のいい午後……。
「呪《のろ》いよ!」
ふいに、芝生のちょっと奥《おく》のほう、いろいろな動物《どうぶつ》の形に刈り込まれた、外界《がいかい》と学園を遮断《しゃだん》する高《たか》い垣根《かきね》に近い辺《あた》りで、女の子のかわいらしい声がした。英国訛《えいこくなま》りの残《のこ》るフランス語《ご》で、小鳥《ことり》がさえずるように話している。
そのかわいい声とは裏腹《うらはら》に、話している内容《ないよう》はなぜかおどろおどろしかった。
「マンドラゴラは呪いの根菜《こんさい》なのよ。呪いの儀式《ぎしき》に使ったり、見ただけで悪い呪いにかかったり、とにかく、怪談《かいだん》といえばマンドラゴラなんだってば」
「呪い!」
つられたように、緊迫感《きんぱくかん》のある声で答える女性がいた。こちらは訛りのないフランス語で、ちょっとおっとり、ふわふわしている。
「そうなのよ!」
「そうなの?」
「セシル先生、マンドラゴラから離《はな》れて!」
「きゃっ!」
芝生の奥の暗がりから、制服姿《せいふくすがた》の女の子と、白ブラウスにホワイトグレーのロングスカート姿の女性が、抱《だ》き合《あ》ってころころと転《ころ》がり出てきた。女の子のほうは、金髪《きんぱつ》のショートヘアに、澄《す》んだ青空《あおぞら》のような、おおきな瞳《ひとみ》。制服からのびやかな、長い手足がのびて、いかにも健康的《けんこうてき》な様子《ようす》だった。大人《おとな》の女性のほうは、肩《かた》までのふわふわのブルネットに、おおきな丸眼鏡《まるめがね》。子犬のような丸っこい瞳をして、年齢《ねんれい》よりもずいぶんとこどもっぽい、かわいい雰囲気《ふんいき》をしていた。
女の子――英国からの留学生《りゅうがくせい》にして、冒険家《ぼうけんか》サー・ブラッドリーの孫娘《まごむすめ》、アブリル・ブラッドリーは、勢《いきお》いよく立ち上がると、藪《やぶ》の中をじいっと睨《にら》みつけた。遅《おく》れてよろよろと立ち上がった大人の女性――みんなの担任教師《たんにんきょうし》であるセシル・ラフィットは、そんなアブリルの後ろに隠《かく》れて、
「こわい。先生、そういうこわいのって、いやなのよぅ」
「……なにがこわいんですか、先生?」
二人の背後《はいご》から、落《お》ち着《つ》いた少年の声がした。アブリルとセシル先生はぎゅっと手《て》を握《にぎ》り合《あ》ったまま、振《ふ》り向《む》いた。
漆黒《しっこく》の髪《かみ》に、同じ色の瞳。生真面目《きまじめ》そうに直立不動《ちょくりつふどう》した東洋人《とうようじん》の少年が立って、不審《ふしん》そうに、二人の様子をうかがっていた。少年――久城一弥《くじょうかずや》がこわごわと二人に近づいてくると、アブリルとセシル先生は一弥に駆《か》け寄《よ》って、口々に説明《せつめい》し始《はじ》めた。
「久城くん、マンドラゴラって知ってる? 呪いの植物《しょくぶつ》で、昔話《むかしばなし》によく出てくるの!」
「先生、こわくって。アブリルさんが、そこに生《は》えてるへんなの、ぜったいそれだっていうんだもの!」
「呪いだってば。ぜったいそう!」
「わたしのすみれのすぐ近くに! こわい!」
二人がわぁわぁと騒ぎながら、通《とお》りがかりの一弥を引《ひ》っ張《ぱ》って、藪の奥のほうに案内《あんない》した。
「いや、ぼく、ちょっと、用が……。あぁ、声をかけなければよかった」と逃げ腰の一弥にはかまわず、二人は一弥の背中《せなか》をどんっと押して、藪の奥に押し込んだ。
「わっ! おっとっと……。あれ、ここに、なにかあるけど」
「そう! それそれ!」
「こないだまでなかったのよ! なんかへんな植物!」
「いや、なんかへんな植物って、これ……大根《だいこん》に似《に》てるなぁ」
一弥はしゃがみこんで、地面《じめん》からにょっきり生えているそれを、じいっとみつめた。
細長《ほそなが》い、根の部分が土からすこし覗《のぞ》いている。それから、葉っぱの部分が青々と茂《しげ》っている。一弥の生《う》まれ育《そだ》った極東《きょくとう》の島国《しまぐに》にある野菜《やさい》、大根によく似ていた。
「大根……それか、カブかなぁ。にんじんかも。どっちにしても、呪いとか、そういった迷信《めいしん》はナンセンスだとぼくは思《おも》いますよ。なぜなら、たいがいの出来事《できごと》は論理的に説明がつくはずですし、その辺《あた》りを考慮《こうりょ》せずに呪いだとか迷信《めいしん》の話に結《むす》びつけるのは……アブリル、聞いてる? 主《おも》に、君に話してたんだけど。ねぇ?」
アブリルは芝生にぺたんと女の子|座《ずわ》りして、熱心《ねっしん》に雑誌《ざっし》をめくっていた。呪いや迷信について書いてあるらしい、アブリルお気に入りの雑誌だ。あろうことかセシル先生も、しゃがんで両手《りょうて》で膝《ひざ》をかかえ、楽しそうに、いっしょに雑誌を覗きこんでいる。
「どこ? マンドラゴラの記事《きじ》。アブリルさん」
「待って、待って。たしかこのへん。百ページぐらいに載《の》ってたはず。えっとねぇ」
一弥はため息《いき》をつきながら、立ち上がった。熱心にマンドラゴラの記事を探している二人に背を向けて、もともとの目的地《もくてきち》だった場所に向かって歩き出す。
背後からは、楽しそうな悲鳴《ひめい》や、きゃっきゃとはしゃぐ声が聴《き》こえてくる。
「女の子って、相変わらず、よくわかんないなぁ……」
生真面目そうな顔で、かりかりと頭《あたま》をかく。
それから姿勢《しせい》を正《ただ》して、カッカッカッ……と音《おと》を立てながら、砂利道《じゃりみち》を歩いて、一弥は目的地、聖マルグリット大図書館《だいとしょかん》に向かった。
図書館は今日も、静寂《せいじゃく》に満《み》ちていた。
革張《かわば》りの観音開《かんのんびら》きの扉を開き、一歩入ると、知性と、埃《ほこり》と、静寂の匂《にお》いで満ちていた。四方《しほう》の壁《かべ》はすべて巨大《きょだい》な書棚《しょだな》で埋め尽くされ、遥《はる》か彼方《かなた》に見える吹《ふ》き抜《ぬ》けの天井《てんじょう》には、荘厳《そうごん》な宗教画《しゅうきょうが》が描かれている。そして細い蛇《へび》の群《む》れのような、謎《なぞ》めいた迷路階段《めいろかいだん》。
今日の一弥は、階段を上がっていこうとはしなかった。一弥がいつも苦労《くろう》をしていちばん上の、秘密《ひみつ》の植物園に向かうのは、あの少女に出会うためだし、だけどここ数日間、彼女は植物園にはいないと知っていたからだ。
少女――欧州《おうしゅう》一の〈知恵《ちえ》の泉《いずみ》〉にして、フリルとレースに彩《いろど》られた不思議《ふしぎ》な花のような、あのヴィクトリカ・ド・ブロワは、ここ数日間、体調《たいちょう》を崩《くず》して自分のちいさな家にこもりきりになっていた。バルト海沿岸《かいえんがん》の不気味《ぶきみ》な修道院《しゅうどういん》〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉と、その帰《かえ》りに乗った大陸横断鉄道〈オールド・マスカレード号《ごう》〉での冒険のせいで、ちょっとばかり、知恵熱《ちえねつ》を出したのかもしれなかった。だからここ何日かというもの、一弥は熱を出して、退屈《たいくつ》してごねているヴィクトリカのために、図書館で本を選んでは、不思議なおはなしを語り聞かせていたのだった。
お花にまつわる、ちょっとばかり、謎めいた歴史《れきし》のおはなしをだ。
「うーん。今日は、なんの話にしようかなぁ……」
一弥はため息をつきながら、図書館の巨大な書棚を見上げた。
ここにはいったい何万《なんまん》冊の書物があるのだろう。気が遠くなるほどの書物の壁。圧倒《あっとう》されて、息苦《いきぐる》しくなるほどだ。
一弥は迷路階段をちょっと上がって、それから足を止めた。
「そういえば……さっき、アブリルとセシル先生が騒いでたマンドラゴラってなんだろう? たしかに昔話にはよく出てるみたいだけど……」
迷路階段を軽《かろ》やかに駆《か》け上《あ》がって、何冊かの書物を手にとっては、階段に座ってめくりはじめた。ふんふん、ふんふんとうなずいていたが、やがて一弥はそのうちの一冊を小脇《こわき》に抱《かか》えると、立ち上がった。
「よし、この本にしよう」
階段を駆け下りながら、つぶやく。
「あんまり待たせると、すねちゃうからな。急がなくちゃ」
背筋《せすじ》を伸《の》ばし、図書館を出て、また砂利道を歩き出す。
日射しがさっきよりかたむいて、夕方のおだやかな光に変わっていた。噴水《ふんすい》がちょろちょろと音を立て、砂利道はどこまでも白く続いている。
図書館から遠ざかり、学園の広大《こうだい》な庭園の、またもとの辺《あた》りにさしかかったとき、さっきと同じ場所から、こそこそと小声《こごえ》で話す声が聞こえてきた。
「……抜いてみる?」
「そうねぇ。ちょっとひっぱってみましょうか」
「本物《ほんもの》のマンドラゴラだったら、引《ひ》き抜《ぬ》かれるときに、不気味《ぶきみ》な悲鳴《ひめい》を上げるはずよ」
「悲鳴!? 野菜が!? こわい!」
藪《やぶ》の奥から、アブリルの制服のプリーツスカートと、セシル先生のホワイトグレーのロングスカートの裾《すそ》がのぞいていた。話すたびに右に、左に、いっしょに揺れている。
一弥はためいきをついた。
通り過ぎようとしたとき、「せーの!」とかわいらしい、二人の掛《か》け声《ごえ》が聞こえた。
ずるっとなにかを引き抜く音。
つづいて、この世《よ》のものとは思われない……。
「きゃああぁぁぁ――――――――――!」
マンドラゴラ……ではなく、たぶん、アブリルの悲鳴が響《ひび》き渡《わた》った。
一弥が足を止めて、あきれて見ていると、藪の中から二人が転がり出てきて、「いまの悲鳴は?」「わ、わたしだけど! でも、ほかの声も聞こえなかった?」「耳が、耳がきぃーんって……」わぁわぁ騒ぎながら顔を見合わせた。二人とも、顔や洋服に土がついている。それから、二人でみつめあって、ごくんとつばを飲んだ。
遠くで小鳥が鳴いた。
いい天気だ。暮《く》れかけの日射しも暖《あたた》かい。
アブリルとセシル先生が同時《どうじ》に、叫《さけ》んだ。
「きゃああああ!」
「呪い! 呪いかも!」
「あの……先生、さっきから、いったい……」
一弥の遠慮《えんりょ》がちな声に、アブリルとセシル先生が振り向いた。そして、二人で握りしめていた、どうやらおおきなにんじんらしき泥《どろ》だらけの野菜を、きゃあきゃあ悲鳴を上げながらぽーんと投《な》げた。
一弥は仕方なく、にんじんを受《う》け取《と》った。
「あげる!」
「久城くん、マンドラゴラ、あげる!」
「いや、いらないんですけど……。それに、これ、にんじんだと……」
一弥は口を開いていろいろ言おうとして、それから、待ち人がいることを思い出して顔を引《ひ》き締《し》めた。泥だらけのにんじんを片手《かたて》に、もう片方《かたほう》の手には書物を持って、また歩き出す。
きゃあきゃあと黄色《きいろ》い声で騒ぐ二人から遠ざかって、一弥は砂利道を歩き、やがて迷路花壇《めいろかだん》の入り口にたどりついた。なれた足取《あしど》りでふっと、花壇の中に消える。
風が吹いて、花壇の花々をすこし激《はげ》しく、揺らした。
栗鼠《りす》がちょろちょろと走《はし》り、砂利道を横切《よこぎ》る。
静かな、夕方の庭園。
芝生の上で騒いでいたアブリルは、なんの気なしに振り向いた。そして目《め》をむいた。
「き、消えた……!」
泥だらけの手のままで、ほっぺたに手を当《あ》てて、考えこむ。
「そういえば、昨日《きのう》も、あのへんで久城くんの姿が消えた……。ちょっと目を離して、また振り向いたら、もういなくなってた。どういうことかしら?」
短い金髪を揺らして、ううーん、とつぶやく。
アブリルは首をかしげて、いつまでも、考えていた。
2
「マンドラゴラだと?」
「……うん、そう」
迷路花壇を奥に、すすんで、すすんで、ようやくたどり着いたお菓子《かし》の家。
その窓辺《まどべ》に頬杖《ほおづえ》をついて、一弥は、窓《まど》の内側《うちがわ》に向かって小声で話しかけていた。なにもかもがすこしずつ小さくつくられた、まるで精巧《せいこう》なドールハウスのような二階建《にかいだ》ての家。外《そと》にちっちゃくてかわいい螺旋階段《らせんかいだん》がついていて、一階のドアは緑《みどり》、二階のドアはピンク色だ。ドアノブは猫の形をしていて、アーモンドみたいな形のつぶらな瞳で訪《おとず》れる人を見上げている。
そのお菓子の家の窓際《まどぎわ》に、一弥がぴしりと背《せ》を正して立っていた。内側から、まるで老婆《ろうば》のようにしわがれた、低い声が一弥に返事《へんじ》をしていた。
「マンドラゴラ一つで、そこまで騒げるとはな。どうりで外界が騒々《そうぞう》しいと思っていたが。ふん!」
「ここまで聞こえてたの? うーん、たしかに、すごい悲鳴だったからねぇ」
「さすがは屁《へ》こきいもりだな。相変《あいか》わらず、おかしなやつだ」
部屋《へや》の中《なか》には、まるで誰《だれ》もいないかのように人影《ひとかげ》がなかった。窓《まど》から覗《のぞ》きこんでいる一弥の視線《しせん》の先に、エメラルド色をした長椅子《ながいす》があった。そこにまるで、こういうふうに持《も》ち主《ぬし》に飾《かざ》られたのだというように、精巧な、見事《みごと》なビスクドールが一体、しどけなく横になっていた。
ほどけた絹《きぬ》のターバンのような、金色《きんいろ》の長い髪が、床にむかってさらさらとたれ落ちていた。薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》に、深い緑色をした、見事な瞳。その少女はまさに、命《いのち》のある人形《にんぎょう》そのものといった様子で、ひんやりとした無表情《むひょうじょう》のまま、瞳だけをときおり、かすかに動《うご》かしていた。漆黒のフランスレースでつくられた、異国風《いこくふう》のドレスを身にまとい珊瑚《さんご》を散《ち》らした薄《うす》い黒《くろ》レースのベールをかぶっている。足《あし》はなぜか裸足《はだし》で、退屈をまぎらわせるかのように、ときおり、そのちいさくてぷくぷくして、それでいて青白い足をぱたぱたと上に、下に、揺らしている。
猫足テーブルにも、床にも、チョコレートボンボンやマカロン、赤や黄色や透明《とうめい》の、動物《どうぶつ》の形をした棒《ぼう》つきキャンディーなどがころころと転《ころ》がっている。
窓辺に立った一弥が、少女――ヴィクトリカ・ド・ブロワに向かって、さっきナイスキャッチした泥だらけのにんじんを振ってみせた。
「いるかい、君?」
「なんだそれは」
「いや、だからこれが、問題《もんだい》のマンドラゴラなんだよ」
黒尽《くろず》くめの、金髪の少女が、あきれたようにちいさな形のいい鼻《はな》を鳴《な》らした。
「君、そいつは、にんじんだ」
「……だよね。ぼくにもそう見える」
「誰が見ても、にんじんだ。ふわぁ〜」
少女は退屈そうにあくびをした。さくらんぼみたいにつやつやした唇《くちびる》が、ゆっくりと開く。
のっそりとした動きで、長椅子の上で寝返《ねがえ》りを打《う》つ。金色の髪がさらさらと揺れて、床の上にさっきとはべつの幻想的《げんそうてき》な模様《もよう》をつくった。
「マンドラゴラは、ペルシャ語《ご》で〈愛《あい》の野草《やそう》〉というのだ。そんなにこわがらなくとも、そいつはつまり媚薬《びやく》の一種《いっしゅ》なのだよ。一説《いっせつ》によると、二股《ふたまた》にわかれて、髪の毛《け》のような繊毛《せんもう》を生《は》やした、人間《にんげん》のような姿《すがた》をしていると言われているのだがね」
「でも、伝説《でんせつ》の野菜であって、実在《じつざい》のものではないんだろ?」
「うむ」
ヴィクトリカはこちらをちらりと見た。
「……あってたまるか、君」
やっぱりまだ熱があるらしい。ちょっとうるんだ緑の瞳で、一弥をぎろりと見る。
「無実《むじつ》の死刑囚《しけいしゅう》の涙《なみだ》が落ちたとき、土と混《ま》じって、そこから生まれるという言い伝えがあるな。強い力を持つ魔《ま》の野菜だが、引《ひ》き抜《ぬ》くときに悲鳴を上げる。その声を聞いたものは死んでしまうため、罪《つみ》びとに抜かせたり、動物に抜かせたりしていた、と後世《こうせい》には語《かた》り継《つ》がれているがね」
「さっき、アブリルとセシル先生が、二人で引き抜いてたよ」
「これはにんじんだから平気《へいき》だ」
ヴィクトリカはそう答えると、にやっと笑《わら》った。黒尽くめのドレス姿でのっそりと起き上がり、一弥の手から泥だらけのにんじんを奪《うば》い取《と》った。
両手《りょうて》で握りしめて、瞳に近づけ、よぅくみつめる。興味《きょうみ》を持った様子に一弥は微笑《ほほえ》んだが、にんじんから落ちた泥に気づくと、あわてて、
「君、ドレスが汚《よご》れてるよ」
「……」
「そんなすごいドレスを、汚しちゃだめだよ。聞いてる?」
「……うるさいやつだ」
ヴィクトリカはにんじんの表面《ひょうめん》をぷくぷくの指《ゆび》で拭《ふ》いた。それから、くんくん匂いをかいだ。なにしてるのかな、と首をかしげてみつめていると、ヴィクトリカはとつぜん、ちいさな口でかぷっとにんじんにかぶりついた。
「君、生《なま》だよ!」
「……」
ヴィクトリカは黙《だま》っていた。
「君?」
「……」
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それから、ぴくぴくっと眉《まゆ》をしかめた。いきなりにんじんを放り出したので、一弥はあわてて腕《うで》を伸ばして、空中《くうちゅう》でキャッチした。
「……非常《ひじょう》に、まずいぞ。驚《おどろ》くほどまずい」
「生でかじるんだもの。でも、ヴィクトリカ、君って野菜も食《た》べるのかい? いつ見てもお菓子をかじってるからさ。ちゃんといろんなごはんを食べたほうがいいよ。パンと、お肉《にく》と、野菜ね。君……聞いてる?」
ヴィクトリカは面倒《めんどう》くさそうに一弥に背を向けた。
「君?」
「小姑《こじゅうと》」
「君ねぇ」
「南瓜《かぼちゃ》」
「……」
「死神《しにがみ》」
「……あのねぇ」
「にんじんなんか、食《く》わん!」
「こらっ。食べたいものばかり食べてちゃだめだよ。にんじんも食べなよ?」
「……甘《あま》かったら、食べるがね」
ヴィクトリカは急《きゅう》にむくっと起き上がった。ひたと一弥をみつめる。
その姿が、こんなに小さいのにまるで女王《じょおう》のように気品《きひん》にあふれていたので、一弥は思わず襟元《えりもと》を正した。まるで百年の時を生きた老人のように深く、悲しげな、緑の瞳。だいぶ親しくなってきたいまでも、ときどき、この友達《ともだち》にはこんなふうにびくっとさせられる。いまがそうだ。一弥がみつめていると、ヴィクトリカはひとりぼっちの女王のように尊大《そんだい》な態度《たいど》で、とてもえらそうに、玄関《げんかん》のほうを指差《ゆびさ》した。
「君、玄関から、入ってきたまえ」
「えっ。……おうちのなかに? いいのかい?」
「もちろんこの部屋はいかん。わたしは、君、君のようなつまらん凡人《ぼんじん》と自宅《じたく》で同席《どうせき》するようなヴィクトリカ・ド・ブロワではないのだ」
「熱を出してるくせに」
「むっ! ……いいから、ごちゃごちゃ言わずに入ってこい。ほら、向こうにミニキッチンがある。そしてグラッセをつくれ。こら、なにをぼさっとしてるのだ。さっさとしたまえよ」
ヴィクトリカは低い声で、
「にんじんのグラッセが食べたくなったのだ」
「マンドラゴラかもよ?」
「そんなわけあるか。たわけ。小姑。すかすか南瓜。いいからはやくキッチンで、にんじんを切って、お砂糖《さとう》でことこと煮るのだ。下僕《げぼく》のようにあくせくと働くのだ。さぁ、久城。さぁ、さぁ、さぁ」
「ちぇっ、わかったよ……。君ってまったく、とつぜん、へんなこと思いつくんだから。……いばりんぼ」
「ふん!」
一弥はしぶしぶ、にんじんと書物を持って、なかに入った。
3
そのころ、迷路花壇の入り口では。
アブリル・ブラッドリーが一人、暮れかけた夕方の日差《ひざ》しを浴《あ》びて、首をかしげていた。目の前《まえ》には、色とりどりの花が咲《さ》き誇《ほこ》る、だがどう見ても迷路状《めいろじょう》の、見事《みごと》な花壇が広がっている。
耳を澄ます。
……なんにも聞《き》こえない。
「たしかに、ここなの。いつもここで久城くんは消えるのよ。でも、どこに行っちゃうんだろう? うーん……」
アブリルは首をかしげた。
それから、あんまり深く考えずに、うんとうなずいた。
「とりあえず、入ってみよう!」
そして、数分後。
「あ、あれ……?」
アブリルは勢いよく、迷路花壇から飛び出してきた。
鳩《はと》が豆鉄砲《まめでっぽう》を食らったような顔をしている。
怪訝《けげん》そうに、首をかしげる。
「出てきちゃった……。ちょっと迷っちゃったし……」
アブリルは首をかしげながらも、
「もう一回、トライしてみよっと」
また、花壇に飛びこんだ。
数分後……。
「あれー?」
また出てきた。
「もうっ、なんで? 久城くん、どこに行っちゃったんだろ」
首をかしげる。
ちょっと怒《おこ》ったように、
「なんとなく、この件の背後には、あの灰色狼《はいいろおおかみ》がいるような気がする。あの、おっそろしくきれいな子。悪魔的《あくまてき》な女の子。なんでだろう。そんな気がする……」
そうつぶやいて、制服《せいふく》を腕まくりする。
「もう一回!」
さらに、数分後……。
「う、うぅぅー……」
アブリルは半泣きでよろめき出てきた。見えない力に押し出されるように。心なし、ショートヘアの金髪も、ぱりっとしていた制服も、ボロボロになっているように見える。アブリルはベンチに片手をついて、もう片方《かたほう》の手を腰に当てて、息切れしながら、
「どうなってるのー?」
叫んだ。
夕暮《ゆうぐ》れの空《そら》を見上げて、無念《むねん》そうに、
「もう、迷路なんてきらい。わけがわかんないんだもん。えっと……。でも、これだけ迷うってことは、やっぱり呪《のろ》いじゃないかな……。灰色狼が、誰にもじゃまされないように、狼っぽい呪いをかけてるにちがいないわ。呪いの花壇! なーんて……」
ちょっとさびしそうにうつむいている。
「あーあ……」
それからアブリルは、迷路花壇のほうをなんども振《ふ》り返《かえ》りながら、白い砂利道をゆっくりと離れていった。のびのびとしたしなやかな足で、小石を蹴《け》っ飛《と》ばす。薔薇色《ばらいろ》の夕空《ゆうぞら》が、アブリルの後《うし》ろ姿《すがた》を柔らかく照《て》らしだしていた……。
4
「ヴィクトリカ、ねぇ……。マンドラゴラといえばさ」
お菓子の家で、一弥がキッチンに立ち、にんじんを切っていた。
極東の島国では、男子が台所《だいどころ》に立つなどもってのほかで、十歳を過《す》ぎたころからは、台所にいる母親《ははおや》に用があっても、立ち入ることさえできなかったのだが、この国ではそんな規約《きやく》はないらしい。すこし抵抗《ていこう》を感じながらも、ヴィクトリカが待っている気配《けはい》もするし、元来《がんらい》生真面目なたちなので、一弥はきちんとにんじんを切って、面取《めんと》りもし、鍋《なべ》に入《い》れた。
お砂糖でことことと、とろ火《び》で煮始《にはじ》める。
そうしながらも、退屈そうに長|椅子《いす》でのびている、熱《ねつ》のあるヴィクトリカのほうを振り向いて、
「マンドラゴラといえば、さっき図書館で、この植物が出てくる、昔々《むかしむかし》のおはなしを読《よ》んだんだよ。中国《ちゅうごく》の戦乱時代《せんらんじだい》にあった、ちょっと不思議なおはなし。どうかな、ヴィクトリカ」
「……う」
ヴィクトリカがかすかに唸《うな》った。
こちらを振り向いた顔は、無表情だが、ちいさな鼻だけがぴくぴくと動いている。台所からいい匂《にお》いがするせいだろう。
「……話したまえよ。そのにんじんが煮上がるまでの、退屈しのぎにはなるだろう」
「うん」
一弥はうなずいた。
焦《こ》げないようにお鍋をみつめながら、話し出す。
「昨日《きのう》のお話に出てきた、東方の地。そこからシルクロードを通って、さらに東へ東へ行った、中国大陸《ちゅうごくたいりく》のおはなしだよ。シルクロードを歩きながら、時代もさらにさかのぼって、もっと、ずぅっと昔の話。このおはなしから、マンドラゴラの花言葉《はなことば》が生まれたとも言われているらしいんだよ」
「うむ……」
「それじゃ、読むよ。『その昔。はるか昔。アジアの巨大《きょだい》な大陸は戦乱に明《あ》け暮《く》れ、燃《も》えていた。広大《こうだい》な中国の国土《こくど》は、常《つね》にいくつかの国家が乱立《らんりつ》し、戦《たたか》っていたのだ……。』」
ヴィクトリカは聞いているのか、いないのか、長椅子に寝《ね》そべってぽうっと天井を見上げている。ちょっぴり熱《ねつ》っぽい、真っ赤なほっぺた。ぱたぱた振《ふ》られる、ちいさな足。漆黒のフランスレースのドレスが、ときどき、ゆらりと揺れる。
窓の外で風が吹いて、暗い色をした花びらが幾枚《いくまい》も、夕刻《ゆうこく》の空に舞い上がった。
5
『その昔。はるか昔。アジアの巨大な大陸は戦乱に明け暮れ、燃えていた。広大な中国の国土は、常にいくつかの国家が乱立し、戦っていたのだ。それと同時《どうじ》に、シルクロードを通じてペルシャやトルコからさまざまなめずらしい金品《きんぴん》が届《とど》き、絢爛《けんらん》たる文化《ぶんか》を花開《はなひら》かせてもいた。
この昔語《むかしがた》りは、その中国大陸の北、モンゴルの、北方騎馬民族《ほっぽうきばみんぞく》の、とあるちいさな一族の物語《ものがたり》から始《はじ》まる。
騎馬民族は馬《うま》に乗《の》り、羊《ひつじ》を飼《か》い、乾《かわ》いた広大な大陸を、季節《きせつ》によって西に、東に、テントを張《は》りながら暮《く》らしていた。そのちいさな一族の長《おさ》には、何人《なんにん》もの妻《つま》がいた。そのうちの一人、異人《いじん》の血《ち》が混《ま》じって金色の髪をした第五夫人《だいごふじん》には、自分《じぶん》と同《おな》じ金色がかった髪をした、美しい連《つ》れ子がいた。連れ子の性別《せいべつ》は女《おんな》で、年齢《ねんれい》は十四歳《じゅうよんさい》だった。この子は瞳も灰色《はいいろ》がかってちょっとその民族にはいない、めずらしい容姿《ようし》をしていた。なかなか美しいが、じゃじゃ馬で、長である父のいうことも聞かなかった。そして、婚姻《こんいん》の年齢が早いこの民族にしてはめずらしく、その娘《むすめ》は誰も愛さなかった。金の髪のせいか、灰色の瞳のせいか、はたまた別《べつ》の理由《りゆう》があったのか。娘はどうしても、自分《じぶん》のいるべき場所が、ここではない気《き》がし続けていたのだ。物心《ものごころ》ついたときからずっと。
娘の名《な》は、灰連《バイレン》。
灰連は毎日《まいにち》、馬を駆《か》っては北の大地《だいち》を駆け回った。十四歳にしてはがっちりとして、金の髪をなびかせて走るさまはまことに堂《どう》にいっていた。長は、男子《だんし》であればよかったのにともらしたことがあるという。たしかにその灰色の瞳は意志《いし》が強そうで、男であればよい若長《わかおさ》になったかもしれなかった。
第二《だいに》、第|三《さん》夫人の息子《むすこ》たち、つまり灰連の義兄《ぎけい》たちが、自分の妻にと灰連を望《のぞ》んだ。厳《きび》しい自然《しぜん》の中《なか》で暮らす彼らには、なによりも丈夫《じょうぶ》で、こどもをたくさん産《う》める女が好《この》まれたのだ。だが、娘のほうはのらりくらりとそれをかわしていた。心はいつも、シルクロードのその先、まだ見ぬ世界か、もしくは戦乱に明け暮れ絢爛たる文化を誇る中国か、ともあれ、ここではないどこかを夢見てならなかった。灰色の乾いた大地で暮らしていても。
しかしそんなある日、灰連におそろしい運命が降りかかってきた。第五夫人であった母が、病に倒れたのだ。
連れ子である灰連は、一族の掟《おきて》によって、母がなくなるとその代わりに、長の新しい第五夫人にならなければならなかった。しかし長は、自分の三倍も長く生きていて、灰連にとってはとても、夫《おっと》だなどと思える男ではない。母の床《とこ》につき従《したが》い、灰連は毎日|震《ふる》えていた。
十日の後、母はなくなり、灰連は第五夫人になることになった。
灰連は大地の神に祈《いの》った。ここではないどこかへ連れて行ってくださいと。このまま、はるか年上の長の夫人となって、自由《じゆう》もなく、子を産んで育《そだ》てるだけで朽《く》ち果《は》てるのはいやだと。祈っていると、ある夜のこと。大地の向こうから、男が一人やってきた。
馬に乗り、見慣《みな》れぬ服装《ふくそう》をした、壮年《そうねん》の男。黒い口ひげを生やし悪鬼《あっき》のようにおそろしい形相《ぎょうそう》をしていたが、灰連をみつけると相好《そうごう》を崩《くず》した。「母親にそっくりだな」男は、遠い中国の、とある国家の武将《ぶしょう》だった。灰連の母が死んだと聞いて、その娘をさらいにきたのだ、と男は話した。
「でも、なぜ? 母の知り合いなのですか」
「わたしはそなたの父だ。あの女は、生まれたこどもを連れてこんな北にまで逃げたけれどな。わたしが生まれたこどもを利用《りよう》するのではないかと恐《おそ》れて」
灰連はおどろいた。
しかし、父と名乗《なの》るその男の、立派《りっぱ》な男ぶりに心うたれてもいた。まだ見ぬ中国の大地にも心惹《こころひ》かれた。婚礼《こんれい》の準備《じゅんび》をしている、一族のテントを振り返った。若《わか》い灰連には、この土地《とち》に未練《みれん》はないように思えた。心の中で、なくなった母に別《わか》れをつげ、灰連はその男とともに、馬で旅立《たびだ》った。
そして数日《すうじつ》の旅の後、絢爛たる、中国の都会《とかい》にたどりついた……。』
6
窓の外でだいぶ日《ひ》が暮れて、薔薇色の夕闇《ゆうやみ》が射《さ》しこみ始《はじ》めた。かすかな風に、レースのカーテンがふわふわと揺れている。
一生懸命《いっしょうけんめい》、話《はな》している一弥に、ヴィクトリカが物憂《ものう》げに、声をかけた。
「焦がすなよ、君」
「う、うん」
一弥はあわてて、お鍋を覗《のぞ》きこんだ。グラッセはいかにもおいしそうなオレンジ色に輝《かがや》いている。うなずいて、
「焦がしてないよ」
「そうか。うむ、ならいい」
ヴィクトリカの声は、こころなしうきうきしている。甘いにんじんの香《かお》りが部屋に充満《じゅうまん》して、ヴィクトリカは、ちいさな形のいい鼻をぴくぴくさせている。
「それにしても、君の話には、ぜんぜん、マンドラゴラが出てこないな」
「も、もうちょっとだよ。もうちょっとしたら、この、中国の武将が死んでしまってね。そしたらマンドラゴラが生えるよ」
「まだ生えてもいないのか。気の長い話だなぁ、君」
ヴィクトリカが、めずらしく、のんびりした口調《くちょう》で言《い》った。
「とにかく、灰連と武将は、中国にたどりついたんだよ。それで、灰連は一人の男に出会うんだ。それから武将が死んじゃうんだよ」
「む……」
「続きを読むよ」
夕闇が濃《こ》くなって、お菓子の家を鮮《あざ》やかに照らし出した。家を囲《かこ》む、色とりどりの花々もすこしずつ花弁《はなびら》を閉《と》じて、近づいてくる、晩夏《ばんか》の夜の準備《じゅんび》をし始めた。
7
『中国の地は、北方の乾いた大地での暮らしを一瞬《いっしゅん》で忘《わす》れるほどの、絢爛たる都会だった。絹、玉《ぎょく》、色鮮やかな建物《たてもの》たち。女たちが高く結《ゆ》った黒髪《くろかみ》の、艶《つや》やかさ。そして男たちのおしゃれなこと。
灰連はその武将から、自分の跡取《あとと》り息子だという青年《せいねん》をこっそり教《おし》えられた。その名《な》は勇喜《ユウキ》といい、灰連はその、自分の兄かもしれない青年に心|奪《うば》われた。黒髪に、切《き》れ長《なが》の瞳。いかにも上品《じょうひん》な、美《うつく》しい青年だった。政府《せいふ》の士官《しかん》をしているが、父は彼を、自分よりも出世させて天下を取らせたいのだと語った。灰連は王宮《おうきゅう》の小間使《こまつか》いに入ることにした。女たちしか入れない城に自由《じゆう》に出入りし、国王《こくおう》と妻たちの閨《ねや》の会話《かいわ》を盗《ぬす》み聞《き》いた。父とともに、勇喜を出世させるための情報集《じょうほうあつ》めに協力《きょうりょく》することにしたのだ。ふと、母が心配《しんぱい》していたのはこのことか、と思ったが、利用されているとは思わなかった。一言《ひとこと》も言葉《ことば》を交《か》わしたことのない、勇喜の姿に心奪われていたのだ。
それから二年《にねん》の月日《つきひ》が経《た》った。
勇喜は順調《じゅんちょう》に出世し、父もまた武将として名を馳《は》せていた。だが、ある日のこと。長年《ながねん》の政敵《せいてき》であった男につまらない罠《わな》にはめられ、父は誤解《ごかい》を晴《は》らせぬまま斬首《ざんしゅ》されることになってしまった。
灰連は、捕《と》らえられた父のもとに走《はし》った。獄舎《ごくしゃ》から父は訴《うった》えた。「かならず勇喜を、この国の長にするのだ。わたしがいなくなったあとは、おまえが」灰連は誓《ちか》った。翌朝《よくあさ》、父は斬首された。その血《ち》と涙《なみだ》の滴《したた》る、王宮の中庭《なかにわ》に、夜、灰連が忍《しの》んでいくと、そこには勇喜もいた。二人はようやくそこで向《む》かい合《あ》った。
「あなたは?」
聞かれた灰連は、答えなかった。なんといっていいのかわからなかったのだ。
「わたしは、わたしは、あなたの影」
「影? わたしの?」
「ええ。あなたのおとうさまとともに、あなたのために働《はたら》いていたものです」
めずらしい金の髪、激しさを秘《ひ》めた暗い灰色《はいいろ》の瞳を、勇喜はしげしげとみつめた。
そのとき灰連は、地面から生《は》えてきた不思議な植物をみつけた。黒い、見たこともないその植物。灰連は、マンドラゴラの伝説《でんせつ》を思《おも》い出《だ》した。シルクロードを伝《つた》ってやってきた、不思議な植物の噂《うわさ》を。
無実《むじつ》の死刑囚の涙が地面に落ちたとき、生えるという、呪《のろ》われた植物。
勇喜は、父がいないいま、後《うし》ろ盾《だて》もなく、自分はこれ以上の出世はむりだろう、と語った。しかし灰連は首を振った。
「奥の手があります。ここに、マンドラゴラが」
勇喜の髪を一束《ひとたば》もらい、灰連は引き抜いたマンドラゴラ、父の涙から生えたそれといっしょに、言《い》い伝《つた》えのとおりに調理《ちょうり》した。呪われた媚薬《びやく》。
マンドラゴラの媚薬をつくった者は、呪いを受けるという言い伝えもあったが、灰連は気にしなかった。呪われるのは自分で、勇喜ではないのだ。
真《ま》っ黒《くろ》なその植物をすりつぶして煮《に》ると、紅色《べにいろ》の汁《しる》となり、鍋《なべ》から勢いよく飛《と》び散《ち》った。一粒《ひとつぶ》だけそれが灰連の口に入ってしまった。灰連はおどろき、口をゆすいだ。そしてそれを、王宮に戻《もど》り、王のただ一人の跡取りである姫に飲ませた。
姫は、王宮の催《もよお》しで出会った勇喜を気に入り、勇喜も優秀《ゆうしゅう》な士官であったために、婚礼は滞《とどこお》りなく進められた。
その後も勇喜は順調に国土を増《ふ》やし、勇敢《ゆうかん》に戦い、よき国王となった。
勇喜は姫と仲《なか》むつまじく暮らし、たくさんの子をつくったが、戦いになると、金の髪をした、謎の女武将《おんなぶしょう》をかならず連《つ》れていった。女の出自《しゅつじ》は謎で、北方騎馬民族の娘だと言われてはいたが、その髪、瞳の色は遠《とお》いシルクロードの向こう、はるか西の地からやってきた異人のようだった。女が金の髪をなびかせて、黒い馬にまたがり砂《すな》の地《ち》を翔《か》けると、戦いをつかさどる、異国の女神《めがみ》ではないかと敵軍《てきぐん》に恐《おそ》れられた。女は生涯《しょうがい》、独身《どくしん》で、ただ戦いのおりにのみ、悪鬼《あっき》のごとき活躍をした。
「わたしは呪いを受けているから。いつ発動《はつどう》するかわからぬ、マンドラゴラの、呪いの装置《そうち》。だから、誰《だれ》とも添《そ》い遂《と》げない。子孫《しそん》も残《のこ》さない。ただ影として、国王とともにあるのみ」
ある夜、戦《いくさ》の前に話しかけたとある武将に、女がそう言った、と伝えられた。
そして二十年が経った。国土は倍《ばい》ほどに広がり、国は栄華《えいが》を誇った。戦争はなくなった。すると、影のように国王に付《つ》き添っていた女武将が、病《やまい》に倒れた。
高い熱《ねつ》を出し、あのときマンドラゴラの鍋から飛び散って口に入ったのとよく似た、紅色の粒のような幻想的な模様が、その青白いからだに浮かんだ。呪いが発動したのだ、とうわごとのように女武将は言い続けたが、看病《かんびょう》する女官《にょかん》たちにはその意味《いみ》するところはわからないままだった。
女武将は幻《まぼろし》を見るようになり、恍惚《こうこつ》とした病人となって夜ごとマンドラゴラの悪夢《あくむ》をさまよった。
[#挿絵(img/s03_123.jpg)入る]
ある日《ひ》のこと。病の床《とこ》にやってきた国王が、短い接見《せっけん》をした。女武将は起き上がろうと努力《どりょく》をしながら、ついに起き上がれず、国王がやさしく、その倒れふす女の、いまでは白いものが混じる、長い金の髪を幾度《いくど》も撫《な》でた。
「長きの力添《ちからぞ》え、ご苦労《くろう》であったな。灰連。いまのわたしがあるのは、そなたのおかげだ」
「もったいないお言葉。国王、わたくしこそ、あなたに出会ったときはなんの希望《きぼう》もなく、生きる目的も、場所もなくつまらない日々《ひび》でした。あなたに出会って、この方を国王とする、という目的ができた。あなたは希望でした。わたしは己《おのれ》の望みの通りに生きたのです」
「灰連、そなたは……」
国王は迷うように言葉を切り、それから、問うた。
「そなたは本当に、わたしの妹なのだろうか」
「……いまとなっては、わかりませぬ」
灰連は笑った。
「父と名乗ってやってきた、あの男の言うことを信じただけ。母はもうおらず、確《たし》かめるすべはなかったけれど、でも……わたしは、信じたいと思ったものを、信じたのです」
「そうか。では、わたしも信じることにしよう。我《わ》が妹よ」
「我が兄。……では、さようなら」
「さようなら、愛《いと》しき人《ひと》」
こうして二人は永遠《えいえん》の別れを告《つ》げた。それから二十日間《はつかかん》、灰連は恍惚とした夢をさまよったが、こんどはもう黒いマンドラゴラの悪夢を見ることはなかった。
見る夢は、とうの昔に捨てたはずの北方の、乾いた大地、そこをどこまでもひとりで走る、少女のころの自分だった。たてがみのような金の髪をなびかせ、どこまでも走っていく。
二十日の闘病《とうびょう》と恍惚の後に、灰連はついに息《いき》を引き取った。御年《おんとし》、四十歳と少し。勇敢《ゆうかん》な武将としてていねいに埋葬《まいそう》され、北の大地が見える郊外《こうがい》の地に永眠《えいみん》した。
マンドラゴラの呪いは勇喜を助けるあいだ灰連を見逃《みのが》し、二十年の後にとつぜん発動して女を連れ去《さ》った。しかしそれからも、歴史《れきし》上では繰《く》り返《かえ》し、マンドラゴラを使ったさまざまな悲喜劇《ひきげき》が繰り返された。
マンドラゴラの花言葉、幻惑《げんわく》≠ヘ、この金の髪を持つ戦いの女神、灰連の最期《さいご》からつけられたものだといわれている……。』
8
……にんじんが煮上がった。
窓の外に薔薇《ばら》色の夕暮れがやってきて、長|椅子《いす》に寝そべるヴィクトリカの、漆黒《しっこく》のフランスレースに包まれた一輪《いちりん》の花のような姿を、柔らかく照らし出した。鍋を火からおろして、真《ま》っ白《しろ》な磁器《じき》のお皿《さら》にてらてらと輝くにんじんをうつしかえながら、一弥がつぶやいた。
「おしまい。……マンドラゴラにまつわる、はるか昔の、遠い土地でのおはなしだよ」
「……うむ」
ヴィクトリカはけだるそうに返事をすると、ゆっくりと長椅子から起き上がった。裸足《はだし》のままでちょこちょこと、一弥のいるキッチンに近づいてくる。
一弥はいかにも生真面目《きまじめ》な様子で、お皿の上ににんじんをていねいに並《なら》べている。
「君、戦場はおそらく不潔《ふけつ》で、鼠《ねずみ》の類《たぐい》も多かっただろうからな。チフスにかかっても不思議はあるまいよ」
「チフス? 誰が?」
一弥がびっくりしたように聞き返した。くんくんと鼻をうごめかせるヴィクトリカは、作《つく》り手《て》のまじめで細かい性格《せいかく》のおかげか見事《みごと》に仕上《しあ》がったにんじんのグラッセに心奪われた様子で、返事をする気配《けはい》もない。一弥がもう一回、
「チフスってなにさ?」
「む?」
ヴィクトリカは不思議そうな顔をした。
「なにって、君。いまのは、戦いの女神がチフスで死ぬ話ではないか」
「……えっ、そうなの?」
一弥はあわてて、にんじんのお皿を、くれ、というように両手を出しているヴィクトリカに渡《わた》した。持《も》ち手《て》のところが白鳥《はくちょう》の形になっている銀製《ぎんせい》のフォークも、そっとおいてやる。それからさっきの書物を手にとって、ぱらぱらとめくってみた。
[#挿絵(img/s03_129.jpg)入る]
「……ヴィクトリカ、そんなの、どこにも書いてないよ」
「もぐもぐ、もぐもぐ」
「ねぇ、ヴィクトリカ……」
「もぐ」
「グラッセ、おいしい?」
「……む」
猫足の椅子に腰かけたヴィクトリカが、足をぶらぶらさせながら、懸命《けんめい》に甘いグラッセを口に運《はこ》んでいた。一弥が辛抱強《しんぼうづよ》く待っていると、やがてヴィクトリカは仕方《しかた》なさそうに、ちらりと横目《よこめ》で一弥を見て、
「ええい、仕方ない。気づいていないのなら、教《おし》えてやろう」
「う、うん」
「灰連は戦場で、チフスという病気にかかったのだ。これは不潔な衛生環境《えいせいかんきょう》にある場所でよく発症《はっしょう》する病気で、さいきんであれば、そうさな、英国が金とダイヤモンドの鉱脈《こうみゃく》をめぐって南アフリカ大陸に攻《せ》めこんだ、前世紀末《ぜんせいきまつ》のボーア戦争のときだ。あのときの英軍《えいぐん》の死者《ししゃ》は、戦死者《せんししゃ》が八千人なのに、チフスによる死者が一万人を越《こ》えていた。移民《いみん》の多い新大陸の都市でも、ある時期《じき》は多かったようだ。灰連のからだに散った紅色の模様というのは、君、チフス患者《かんじゃ》の特徴《とくちょう》なのだよ」
「へぇ……そうだったんだ」
一弥はうなずいた。ヴィクトリカはフォークを置いて、低いしわがれ声で続けた。
「そうなのだ。チフスの症状《しょうじょう》は高い発熱《はつねつ》、鮮やかな紅色の徴《しるし》、そして恍惚状態といわれる、幻覚や夢に彩られた精神《せいしん》などだ。灰連が見た幻や悪夢は、おそらくそれだろうと思われるがね」
「うん……」
「チフス菌《きん》の潜伏期間《せんぷくきかん》は長い。もしかしてもしかすると、灰連は北方の地にいたころから保菌者《ほきんしゃ》であったのかもしれない。兄を思い、気を張っているあいだは潜伏していて、もう兄は大丈夫《だいじょうぶ》と思ったときに、気が緩《ゆる》んで、出てきたのかもしれないな。どちらにしろ、いつかは発動する、病の装置だ。……マンドラゴラの呪いではなく、な」
「それなら、姫が灰連の兄を好きになったのも……」
「ただ、恋《こい》だろう。勇喜はなかなかの男ぶりだったとある。マンドラゴラなど迷信さ」
ヴィクトリカはそう言うと、また、にんじんのグラッセをもりもりと食べ始めた。ちいさな口に、一口《ひとくち》サイズに切って甘く煮たにんじんが、どんどん消えていく。一弥はしばらくその様子を眺《なが》めていたが、やがて優《やさ》しい声で、
「甘かったら、食べるんだね」
「うむ。食べる」
「お砂糖で煮たのが好《す》きなのかぁ。マロンのグラッセは?」
「好きだとも」
ヴィクトリカが、当然《とうぜん》だというようにうなずいて、言った。一弥はうんうんとうなずいた。
夕暮れの外の景色《けしき》と、このお菓子のようなちいさな家を、四角《しかく》く切り取られたような窓が隔《へだ》てている。外には迷路花壇が、色とりどりの花を風に揺らしている。
「幻惑《げんわく》≠ゥ……」
ヴィクトリカがふいにつぶやいた。
「ん?」
「マンドラゴラの花言葉だ。少女、灰連を走らせたものは、まだ見ぬ世界への憧《あこが》れ。遠いところからやってきた、本当《ほんとう》の父を名乗る男の魅力《みりょく》。そして、美しい兄への思慕《しぼ》。戦いに明け暮れる、戦場での興奮《こうふん》。人は、さまざまなものに幻惑されて、花の香りに吸《す》い寄《よ》せられる蝶《ちょう》のように、世界のあちこちを幻の如く飛《と》びまわるものなのだなぁ」
「そうだね……」
一弥はうなずいた。
「君みたいなぼんやりしたまぬけな男には、わからないだろうが」
「わ、わかるよ。ぼくだって、花とか、きれいなものとか、謎めいたものとか、そう……」
一弥は首をかしげて、考え込んだ。
「そうだね……。理屈《りくつ》では説明できない、心躍《こころおど》るもののことは、わかるよ。そういうものが、人に、なにか重大《じゅうだい》な選択《せんたく》をさせることがあるのも」
「ふむ」
ヴィクトリカはうなずいた。
そうっと手をのばして、一弥は白いお皿に残《のこ》っているグラッセをひとつ、つまんでみた。口に入れると、にんじんなのにおどろくほど甘いという、一弥には理解《りかい》できない未知《みち》の味が、口いっぱいに、甘い悪夢のようにひろがった。
「甘い!?」
「……そこがおいしいのだ」
「げほっ、ごほほっ」
一弥はなんとかして、甘いにんじんを飲み込んだ。それからくすくすと笑い出した。不思議そうに自分を見上げているヴィクトリカに、微笑んで、
「ヴィクトリカ、つまり君は、書物と、お砂糖に幻惑されているってわけだね。こんなに甘いものを……食べるんだもの……」
「ふん!」
ヴィクトリカは返事の代わりに、鼻を鳴らした。
それからにんじんのグラッセをひとつ、口にふくんだ。無表情な、ひんやりとした顔にほんの一瞬《いっしゅん》、幸せそうな微笑のようなものがよぎり、また、この世の向こうに吸い込まれるように消えていった。
一弥がそれを見て、にっこりした。
風が吹く。
花壇《かだん》の花々が揺れて、また、黒っぽい暗い花びらが数枚《すうまい》、風にあおられて夕暮れの空に勢《いきお》いよく、舞《ま》い上がった。
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第四話「思い出」
――黄のエーデルワイスのおはなし ―AD1627 アメリカ―
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1
秋の風が柔《やわ》らかく吹《ふ》きすぎる、天気のよい週末《しゅうまつ》の午後《ごご》。
聖《せい》マルグリット学園《がくえん》――。
涼《すず》しい風に揺《ゆ》られて、すこしだけ色の褪《あ》せた芝生《しばふ》がゆっくりと揺れる。白い噴水《ふんすい》からはひんやりとした水がときおり、そばを通《とお》り過ぎる生徒《せいと》につめたい飛沫《しぶき》をかける。東屋《あずまや》に落ちる日もすこし短《みじか》くなって、コの字型をした巨大な校舎《こうしゃ》の影《かげ》も長く、薄《うす》く庭園《ていえん》を覆《おお》っている。
そんな、秋の始まりの庭園……。
敷地《しきち》の一角《いっかく》にある男子寮《だんしりょう》から、カッ、カッ、カッ、カッ……と規則《きそく》正しい、いかにも生真面目《きまじめ》な生徒とわかる足音が聞こえてきた。東洋《とうよう》からの留学生《りゅうがくせい》らしき小柄《こがら》な少年が、背筋《せすじ》をぴしっとのばした姿勢《しせい》で廊下《ろうか》を曲がり、姿《すがた》を現《あらわ》した。
少年――久城一弥《くじょうかずや》は、一週間前、ヴィクトリカを連れてこの聖マルグリット学園に帰ってきたばかりだった。海沿《うみぞ》いの修道院《しゅうどういん》〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉に収監《しゅうかん》されたヴィクトリカを迎《むか》えに行き、帰りの列車《れっしゃ》〈オールド・マスカレード号〉でようやく戻《もど》ってきた。さまざまな事件《じけん》が二人の身に降《ふ》りかかり、ようやく帰還《きかん》したものの、今週はずっとヴィクトリカは元気がなくて、日課《にっか》の図書館通《としょかんがよ》いもお休みしていた。一弥は毎日のように迷路花壇《めいろかだん》の奥《おく》にあるヴィクトリカの特別《とくべつ》寮に通い、様子《ようす》を見ていたのだった……。
一弥の足音が男子寮の廊下から聞こえてくると、一階にある大きな台所で腕《うで》まくりをしていた寮母《りょうぼ》のゾフィが、耳をぴくっとうごめかした。クリームとレモンと小麦粉《こむぎこ》が山と積《つ》まれた台所で、そばかすの浮かぶ顔にニィッと笑《え》みを浮かべ、赤毛のポニーテールをぶるるん、と揺らした。髪《かみ》に合わせた赤いワンピースから、見事《みごと》な脚線美《きゃくせんび》の足もあらわに、廊下に飛び出す。
ちょうど、規則正しい足音とともに階段《かいだん》を降《お》りてきた一弥が、台所の前を通りすぎようとしているところだった。相変《あいか》わらず、頑固《がんこ》で、でもちょっと気弱《きよわ》な表情《ひょうじょう》を浮かべて、すこしだけうつむきがちの姿勢だった。天気のよい週末、廊下には貴族《きぞく》の子弟《してい》たちがあふれて思い思いに談笑《だんしょう》している。その真ん中を縫《ぬ》うように歩いてきた一弥の腕を、ゾフィは、
「つーかまえたっ!」
ぎゅむとつかんで、台所に引きずりこんだ。
一弥は生真面目な顔のまま、
「きゃっ!」
と、不意《ふい》をつかれて思わず女の子みたいな悲鳴《ひめい》を上げた。それから、自分の上げた声に顔を赤くして、
「な、なんだ。寮母さんでしたか。でも、ぼくはびっくりしていません」
「びっくりさせようと思って引っぱったんだから、びっくりしていいのよー」
「いや、男子たるもの、このようなちょっとしたことで悲鳴なんて……」
「はい、これ」
「……えっ? なんですか、これ」
有無《うむ》を言わさず、絞《しぼ》りたてのクリームが入ったボウルを渡《わた》されて、ゾフィに、かき混《ま》ぜて、というジェスチャーをされ、一弥はすこしだけ迷《まよ》った。「あの、ぼく、これから図書、館、に……。友達に……。寮母さん、あの……」言ってみるが、ゾフィはかまわず、
「手伝《てつだ》ってってば、手伝って! 時間がないの〜。土曜《どよう》の午後は、セシルとお茶会《ちゃかい》する約束《やくそく》をしてるんだけど、ケーキ作るの間に合わなくて」
「お茶会?」
一弥はうんうんとうなずいて、じいさんみたいな合いの手を入れた。
「セシル先生とお茶会ですか。それはじつに楽しそうですね。しかし」
「楽しいわよ。校長先生の物まねしたり、理事長《りじちょう》の物まねしたり、セシルがまた、上手《じょうず》なのよねぇ。ああいうことだけ、どうしてうまいのかしら? ……ほら、ほらほら、考えなくていいから、かき混ぜて」
「いや、あの」
ゾフィは両手に三つ、眩《まぶ》しく輝《かがや》く黄色いレモンを持って、ひょいひょいと宙《ちゅう》に投げては器用《きよう》に受け止めてみせた。こっちのを投げては受け止め、つぎのを投げながら、一弥に向かってニィッと笑って、
「レモンケーキよ! 甘酸《あまず》っぱい初恋《はつこい》の味」
「初恋の……」
ボウルを両手で持った一弥の顔が、ちょっと赤くなった。
「そうなの。できたら、半分あげるから。ね?」
「半分!」
一弥はとたんに、生真面目な顔をして、規則正しい動きで熱心《ねっしん》にクリームを混ぜ始めた。ゾフィはその横顔を見て、この子、ケーキが好きだったかしら、と不思議《ふしぎ》がるように首をかしげた。いつのまにやら一弥は、ふんふん、と鼻歌《はなうた》まで口ずさみながらクリームをかき混ぜている。生真面目さが功《こう》を奏《そう》して、クリームはきめの細《こま》かい見事な様子になって、甘いバニラの香《かお》りを漂《ただよ》わせ始めた。
ふんふん、ふんふん〜、と、一弥の鼻歌が台所に響《ひび》いた。ゾフィもそれにあわせて、陽気《ようき》なアイルランド民謡《みんよう》を歌い始めた。台所の中は完成《かんせい》に近づくケーキの甘い香りと、おかしなふたつの歌に包《つつ》まれた……。
さて、それから一時間後。
「じつにおいしそうなケーキだな。これなら、あの意地悪《いじわる》できまぐれで悪魔《あくま》みたいなヴィクトリカも、喜《よろこ》んで受け取ってくれるんじゃないかな。謎《なぞ》もいいけど、お腹《なか》がすいてたら、ヴィクトリカのやつ、むきゅ〜、と倒《たお》れちゃうからね。ケーキ、ケーキ……」
一弥は、お皿《さら》にこんもりと盛《も》られたレモンケーキを両手で持って、掲《かか》げるようにして庭園を歩いていた。
白い砂利道《じゃりみち》を、ときおり栗鼠《りす》がちいさく鳴きながら横断《おうだん》していく。
「ケーキ、ケーキ……」
図書館まですこし近道しようと、芝生に入って歩きだした。ぴしりと姿勢を正して、ケーキを掲げて歩いている一弥に、とつぜん、
「こらっ! 久城くん!」
かわいらしくて子供っぽい声の叱責《しっせき》が届いた。一弥はぴしりと足を止め、
「すみません! ……あっ、うっかりなんのことかわからないのに謝《あやま》ってしまった。調子《ちょうし》が狂《くる》うなぁ。でも、なんですか」
ちいさな子供用スコップを片手《かたて》に、芝生にしゃがんでいた女性が、ふくれっ面《つら》をしてこちらを見上げていた。セシル先生だ。肩《かた》までのふわふわブルネットに、丸眼鏡《まるめがね》。おおきくてすこし垂《た》れ目《め》がちの、子犬のような瞳《ひとみ》を潤《うる》ませて、一弥を睨《にら》んでいる。
「こらっ! 久城くん! ……すみれを踏《ふ》んじゃいけません!」
「すみれ? あぁ、すみません。気づかなくて……」
セシル先生が指さしている場所に、すみれの花がいくつか、ぽつんぽつんと咲《さ》いていた。片手にスコップ、片手に花の種《たね》らしきものを持って、セシル先生はその両方を振り回している。どうやら怒《おこ》っているようだ。
「男の子って、どうしてこういうちいさなお花とか、気づかずに踏んづけちゃうのかしら」
「ごめんなさい……。無骨《ぶこつ》なもので……」
「でも、力仕事はやっぱり男の子よね。先生、腕がだるぅくなってきちゃって」
「そうですね。力仕事はやっぱ、り……。えっ、力仕事?」
気づくと一弥は、スコップを渡されて、土を掘《ほ》り返すはめになっていた。セシル先生が厳格《げんかく》そうな顔をして「ここを掘って。あと、ここも。このへんに花壇を作るの。花壇にしたらみんな踏まないと思うから……」と言いながら、一弥が掘った穴に花の種を蒔《ま》いていった。
秋の風が、ぴゅうっと吹いた。
落ち葉が数枚、ゆっくりと芝生に落ちてきた。
「久城くん、種を蒔いたところはまた、埋めてね」
「はい、先生」
「……」
「……そのケーキは食べちゃだめです。ヴィクトリカのです」
「あっ、見てたの」
セシル先生はあわてて、ケーキの皿にのばしていた手を引っこめた。
ごくん、とつばを飲む音がした。
「……一口」
「だめ!」
「こらーっ!」
おおきなだみ声がしたので、一弥とセシル先生は同時に振り返った。
大柄《おおがら》な老庭師《ろうにわし》が、なめし革《がわ》のように皮膚《ひふ》の分厚《ぶあつ》い、日に焼けた顔を真っ赤にして、二人に走りよってきた。
「勝手《かって》に土を掘り返しよって! あちこちに花壇みたいなのをつくっておったのは、おまえらか! わしが丹精込《たんせいこ》めてつくった庭園を、適当《てきとう》に掘ったり埋めたり、おまえらはっ! あっ、コラ待てセシル!」
一弥が振り向くと、セシル先生がすたこらと逃げていくところだった。両手をばんざいするように上げて、一目散《いちもくさん》に走っている。一弥は「あっ、先生!」とあわてて後を追おうとしたが、ケーキという大荷物もあり、また、怒っている庭師に背を向けることもできずに、結局、その場に残《のこ》ってしまった。
「す、すみません! 元に戻しておきます……」
生真面目に九十度、腰《こし》を曲げて頭を下げる一弥に、庭師も毒気《どくけ》を抜かれたように、
「いや、まぁいい。主犯《しゅはん》はセシルだろう。それにしても、相変わらず逃げ足の早い子だ。学生のころから変わらんな……」
あきれたようにつぶやいた。
落ち葉がまた数枚、ゆっくりと漂《ただよ》うように一弥の周りに落ちてきた。
「ふぅ……。災難《さいなん》だった。なんだか今日は、なかなかヴィクトリカのところにつけないなぁ。……あっ!」
ケーキを掲げて、また図書館に向かって歩きだした一弥は、ベンチに寝転《ねころ》んでいる短い金髪《きんぱつ》の女の子をみつけて、ちいさく叫《さけ》んだ。制服《せいふく》から、輝くばかりの健康的《けんこうてき》な、長くてしなやかな足がのびて、秋の陽射《ひざ》しを白く照《て》り返《かえ》している。からりと晴れた青空のような、澄《す》んだ瞳を真ん丸く見開いて、両手でひろげた新聞を読んでいる。新聞の一面には「サー・ブラッドリー・ジュニアがついにロンドンに地下鉄《ちかてつ》を完成《かんせい》!」とでかでかとした文字が躍《おど》っていた。
一弥はなんだかいやな予感《よかん》がした。気配《けはい》を押《お》し殺《ころ》して、抜《ぬ》き足《あし》差《さ》し足《あし》で、ベンチの前を通りすぎようとした。ゆっくりと進んでいく一弥を、口にいっぱい木の実を詰《つ》めこんだちいさな栗鼠《りす》が一匹、立ちどまって、小首《こくび》をかしげて見上げていた。そのちいさなからだと、つぶらな瞳、無表情《むひょうじょう》だがむやみに愛くるしく感じる姿に、一弥は思わず、くすっと笑った。栗鼠も、ちいさくキュッと鳴き声を上げると、一弥のズボンから、背中に向かって一気に駆《か》け上《あ》がってきた。
「あはは、うふふ、くすぐったいよ。うわっ、背中に入った。あっ、出てきた。あは、は……しまった!」
はっと気づくと、ベンチからむっくりと起き上がった短い金髪に青い瞳の、健康的な女の子――アブリル・ブラッドリーが、瞳をまんまるにしてこちらをみつめていた。
一弥はおそるおそる、
「こんにちは、アブリル」
「久城くんが……」
「いい天気だね。それじゃあ」
「ケーキ、持ってる……」
「あの、その。ぼく、ちょっと急ぐから……」
「久城くんが、ケーキ持って、しかも、急いでる……?」
アブリルの瞳がきりきりっとつりあがった。一弥は一歩、後ずさった。
ゆっくりと、アブリルが新聞をたたんで、なぜか頭の上に載《の》せた。
(また、頭にものを載せてる……)
と、一弥は脅《おび》えながら考えた。これまでも、アブリルはときどき、金色の髑髏《どくろ》などのヘンなものを頭に載せることがあり、その後、怒って追いかけてきたり、なぜか走って逃げていったり、おかしな行動を取るのだ……。一弥にはまったくわからない、理不尽《りふじん》な理由《りゆう》のために……。
「わかったぞぅ。また、あの灰色狼《はいいろおおかみ》さんのところに持っていくんでしょ。そうはさせませんよ!」
「ど、どうして!? アブリル、君ってどうして、ヴィクトリカのことをそう気にするのさ。あいたた、君、いま、石を投げたね? 危《あぶ》ないよ!」
「待てー!」
一弥はわけもわからず、さっきのセシルのようにすたこらと逃げた。肩に栗鼠を乗せたまま、走って、聖マルグリット大図書館に逃げこんだ。革張《かわば》りのスウィングドアを開けて、中に飛びこむと、内側から鍵《かぎ》をかけた。しばらく、外からアブリルの「出てこーい!」「久城くんのばーか!」などという元気な声が聞こえてきたが、やがて静《しず》かになった。
一弥はほっと一息ついて、ケーキの皿を抱えたままで床《ゆか》に座《すわ》りこんだ。
ほっとして、天井《てんじょう》を見上げる。吹き抜けになった天井のはるか上で荘厳《そうごん》なフレスコ画が輝いていた。図書館の壁《かべ》をおおう巨大書棚《きょだいしょだな》が、すこしだけ背を曲げて、どうしたのだ、とこちらを覗《のぞ》きこんでいるような気がした。自分の存在《そんざい》をとてもちいさく感じて、一弥はふっと吐息《といき》をついた。
どうやら今日も、この図書館にヴィクトリカはいないようだ。入《い》り組《く》んだ迷路階段のはるか上にある、秘密《ひみつ》の植物園《しょくぶつえん》からは生きている何者の気配《けはい》も感じなかった。
(まだ、花壇の奥にある特別|寮《りょう》にいるのかな。風邪《かぜ》はもうほとんど治《なお》っていたみたいだけど……)
一弥は、書物《しょもつ》をおみやげにしてあのちいさなお菓子《かし》の家のほうに行ってみよう、と思いながら、立ち上がった。
「それにしても……」
おもわずつぶやく。
「ただ男子寮を出て、ヴィクトリカのところに行くだけで、どうしてこんなに困難《こんなん》な道行《みちゆ》きになったんだろう? 今日はまったく、おかしな日だな……」
首をかしげながら、ゆっくりと図書館の迷路階段を上がりだした。
「なにか一冊、ヴィクトリカに書物を持っていこう。きっと退屈《たいくつ》してるだろうし……」
階段をすこし上がったところで、肩に乗っていた栗鼠がぴょんと書棚に飛《と》び移《うつ》った。そのせいで書物が一冊、一弥の頭上に落っこちてきた。
「うわっと! いてて、角が当たったよ。ケーキも危なかった。ええと……」
書棚に戻そうとして、その前にぱらぱらとめくってみる。
「なになに。……『ベアトリーチェの黄色い花畑。エーデルワイスで財《ざい》を成《な》した、女|実業家《じつぎょうか》の一代記《いちだいき》』か。ちょっとばかりおもしろそうだな」
ふんふん、とうなずきながらしばらく読んでみる。肩に乗った栗鼠も、一緒《いっしょ》に読んでいるかのように書物のページを覗きこんでいた。
「このベアトリーチェっていう大昔の女の子も、一生懸命《いっしょうけんめい》、花壇をつくってる。それでやがて財を成したのかぁ。ふぅん……。女の子って、やっぱり花が好きなんだなぁ。セシル先生も花壇作りに燃えていたし……」
一弥はうなずいて、書物を閉じた。小脇《こわき》に抱えて、ケーキの皿をまた捧《ささ》げもって、階段を降りる。肩に乗せた栗鼠に、
「ケーキと、書物。あと花壇で花を摘《つ》んで、それで、ようやくヴィクトリカに逢《あ》えるよ。ふぅ、ようやくね」
独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやくと、栗鼠もうれしそうに、キュッと短い鳴き声を上げた。
そのころ、庭園では……。
「久城くんったら、うれしそうにケーキ持って、歩いてた……。灰色狼のところに持っていくんだわ。でも、それはそうと……」
アブリルがふくれっ面をして、ベンチに座っていた。かわいい顔もいまは機嫌《きげん》が悪そうで、そのうえ頭の上にはまだたたんだ新聞がのっている。
そばを通りかかった女の子たちが、アブリルー、と声をかけようとして、あわてて言葉を飲みこんだ。こそこそと「頭になにか、のせてる……」「あの場所になにかのっけてるときは、アブリルちゃんは機嫌が悪いんだよ。近づいちゃだめ」「くわばら、くわばら……」などと言い合いながら、そうっと離《はな》れていく。
アブリルはふくれっ面のままで、頭を右に、左に、振った。頭の上の新聞はまるでテープでくっつけてあるかのように落ちる気配もなく、安定《あんてい》している。アブリルがもう一つ、悲しそうなため息をついたとき、
「……あっ!」
砂利道の向こうから、一弥が戻ってくるのが見えた。相変わらずおいしそうなレモンケーキを捧げ持ち、肩に栗鼠を載せて、小脇に分厚い書物を抱えている。
「それはそうと、灰色狼が普段《ふだん》はどこにいるのか、わたし、知らないのよね。意地悪したくても、会えないんだもん。また髪の毛をぎゅうぎゅう引っぱったり、妖怪呼《ようかいよ》ばわりして怒らせたりしたいのに。よーし、今日こそ……」
アブリルはベンチの後ろにこそっと隠《かく》れて、しゃがんだ。
鼻歌混じりに、一弥が歩いてきた。
一弥は隠れているアブリルに気づかない。でも、肩に乗った栗鼠が、ベンチの後ろから覗いている、左右に神経質《しんけいしつ》そうに揺れる新聞紙をみつけて、不気味《ぶきみ》そうにじっとみつめた。瞳をぱちくりとして、木の実がたくさん詰まったほっぺたをうごめかせる。
頭隠して新聞隠さず、のアブリルは、歩きすぎていく一弥をベンチの陰《かげ》から女スパイのような鋭《するど》い目つきでみつめていた。
迷路花壇の前で立ちどまった一弥が、すこし小首をかしげた。
それからかすかに微笑《ほほえ》んだ。
黄色い花をいくつか手折《たお》ると、レモンケーキのお皿にそうっと載せる。うん、とうなずいて、そして吸《す》いこまれるように一瞬《いっしゅん》にして、迷路花壇に消えた。
「……久城くん?」
アブリルは立ち上がって、頭に新聞を乗せたまま走った。迷路花壇の前にたどり着くと、
「やっぱり! 昨日もおとといも、ここでいなくなったんだもんね。ということはやっぱり灰色狼、ヴィクトリカさんはこの花壇の奥にいるんだわ! でも……」
ため息をつく。
頭の上からぱたりと新聞が落っこちる。アブリルはそれを反射神経《はんしゃしんけい》のよさそうな動きで、はっしと受け止めた。
「でも……昨日も、ここで迷っちゃったしなぁ。ちょっと、気軽《きがる》には入れないや」
それから、なにか決意《けつい》したようにうんとうなずく。
「よぅし、夜になったら、迷路花壇|冒険《ぼうけん》ツアーをやるぞ! なんてったって、冒険家サー・ブラッドリーの血を引くわたしよ。用意万全《よういばんぜん》で臨《のぞ》めば、だいじょうぶ。迷路花壇の奥まで行って、ヴィクトリカさんの髪の毛を、引っぱるぞー!」
アブリルは元気にうなずいて、迷路花壇を見上げた。
すると急に強い風が吹いて、抵抗《ていこう》するようにびゅうっと、花びら混じりの風となってアブリルのからだに吹きつけた……。
2
「ヴィクトリカー。おーい!」
さて、そのころ。
一弥は、ようやくのことでたどり着いた、迷路花壇の奥にあるお菓子の家みたいなちいさな家の前で、遠慮《えんりょ》がちに友達の名前を呼んでいた。
「おーい。いないのかい? 図書館に気配がないから、まだこっちにいるのかな、と思って、きてみたけれど……。君、熱は下がったのかい? おーい……」
二階建ての家は、まるでドールハウスのようにちいさくて、緑のドアは凝《こ》ったデザインをしていた。一弥は一階のフランス窓《まど》をそうっと開けて、遠慮がちに居間《いま》を覗きこんでみた。エメラルド色をした寝椅子《ねいす》には誰もいなくて、チェストの上には、からっぽのいちご形のお皿がひとつ、載《の》っていた。ガラスの花瓶《かびん》に、一弥がおとといと、その前の日にあげた薔薇《ばら》とチューリップの花が生《い》けられていた。
しかし、部屋《へや》の主《ぬし》はいない。
「ヴィクトリカー」
「……」
「おーい」
「……」
「レモンケーキがあるよ?」
「……う」
どこか遠く、ちょっと上のほうから、返事ともうめき声ともつかない、かすかな声がした。一弥は窓から首を覗かせて、居間の奥をみつめた。ちいさな樫《かし》の木のドアはいまは開《あ》け放《はな》たれて、寝室《しんしつ》につながる細い廊下《ろうか》が見える。その廊下の端《はし》に、複雑《ふくざつ》に絡《から》まる蔦《つた》のようなデザインをした、ほっそりと危険《きけん》な螺旋階段《らせんかいだん》が見えた。
みつめていると、螺旋階段の上から、ころころ、ころり、となにかが落っこちてきた。一弥は目をぱちくりした。
桃色《ももいろ》をしたちいさなマカロンだった。きっとチェリー味だ。
「ヴィクトリカ、君、上にいるの?」
「うるさいやつだ」
不機嫌そうなしわがれ声がした。その割《わり》には、ちょっとうれしそうに弾《はず》む足音で、ヴィクトリカは螺旋階段をちょこちょこと降りてきた。
木の実を押しこんだ栗鼠のほっぺたみたいに、右の頬《ほお》がぷっくりふくらんでいる。さくらんぼ色をした唇《くちびる》の端から、棒付《ぼうつ》きキャンディーの白い柄《え》が覗いていた。片手に分厚い書物、片手に白い陶器《とうき》のパイプを持って、ちらり、と一弥を見る。フリルでふっくらふくらんだ白いドレスに、ピンクのバレエシューズ。レースでつくられた白いボンネットから、絹糸《きぬいと》の如《ごと》き見事な金髪が床に流れ落ちて輝いている。
一弥の肩に乗っている栗鼠が、キュッと短く鳴いた。窓枠《まどわく》を走り、一弥にはできない身軽《みがる》さで長椅子《ながいす》へ、床へと飛び移っていき、白いフリルでぷくぷくとふくらんだヴィクトリカの頭の上にちょこんと乗っかった。得意《とくい》そうに、キュッとまた短く鳴く。
ヴィクトリカは頭に乗った栗鼠のことはまったく気にせず、一弥をちらりと見た。キャンディーでぷっくりふくらんだほっぺたで、ごにょごにょと、
「どこだね」
「ヴィクトリカ、君、元気そうだね。よかった。熱が下がったんだね。……ん? どこってなにがだい?」
「レモンケーキは、どこだね」
「あぁ。それなら、ここだよ」
一弥はぱっと皿を上げて、給仕《きゅうじ》のように洒落《しゃれ》た動作《どうさ》で一礼《いちれい》して見せた。それから、国にいる父や兄に、いまのような軟派《なんぱ》な動きをした自分を見られたら、きっと裸《はだか》にされて縄《なわ》で巻かれて二階の窓からつるされてしまうだろう、と思い立ち、すぅっと顔色を青くした。
一人でふざけたり、青くなったりしている一弥を、ヴィクトリカが不気味そうに見やった。頭の上の栗鼠も、瞳を細めて一弥をみつめている。
「君も、複雑なお年頃だなぁ」
[#挿絵(img/s03_151.jpg)入る]
「こらっ。自分はちがう、みたいな言い方しないでよ。言っとくけど、ぼくと君は同級生なんだからね。ほら、ここに座《すわ》って。はい、ケーキ。ぼくも作るのを手伝ったんだよ。そしたら寮母さんが半分くれたんだ。あと、これ……」
一弥はすこしだけ赤くなってもじもじした。
「は、花……」
「うむ。ご苦労《くろう》」
一弥が恥ずかしそうに差し出した黄色い花束を、ヴィクトリカはむんずと受け取った。うれしいのか、なんとも思っていないのか、ひんやりとした無表情のままでしばらく花をみつめていた。それから、ガラスの瓶《びん》にそうっと、注意深く、挿《さ》した。薔薇とチューリップと混ざって、ちいさくてかわいらしい、色とりどりの花瓶になった。ヴィクトリカはしばらくじいっと花瓶をみつめ続けていた。
やがて、レモンケーキを、白馬の形をした銀《ぎん》のフォークでちいさく切っては口に運びだした。頭の上に乗った栗鼠も、頬袋《ほおぶくろ》をもふもふと動かしている。ヴィクトリカはケーキを食べながらも、じぃっと花瓶をみつめ続けている。
一弥は、フランス窓に頬杖《ほおづえ》をついて、そんなヴィクトリカを不思議そうに眺《なが》めている。
「ヴィクトリカ?」
「なんだね……」
「君、もしかして、いつにもまして退屈《たいくつ》してる?」
「うむ……」
「だって、いつまでもじぃっと花を見てるからさ。だけど、それだけ元気になったってことだね。よかったよ」
「ふむ……」
ヴィクトリカはけだるげにゆっくりと振り向いて一弥を見た。だがまた、花瓶に視線《しせん》を戻した。もふもふとケーキを食べながら、つめたくけぶる碧《みどり》の瞳で花をみつめ続けている。一弥はその様子をしばらくみつめていたが、
「それなら、ぼく、ちょっと本を朗読《ろうどく》してみようかな」
ヴィクトリカが、ケーキを頬張りながらちらりと一弥を見た。頭の上に乗った栗鼠も、不思議そうにキュッと鳴いて一弥のほうを振り返った。
「どんな本だね」
「あのね、黄色い花をめぐるおはなしなんだよ。タイトルは『ベアトリーチェの黄色い花畑。エーデルワイスで財を成した、女実業家の一代記』っていうんだ」
「〈ベアトリーチェの黄色い花畑〉? どこかで聞いたことがあるな、君」
ヴィクトリカが小首をかしげた。金色の見事な髪が、さらり、と揺れて床に別の文様《もんよう》をつくった。一弥はうん、とうなずいて、
「新大陸《しんたいりく》で有名なお花屋さんの名前だよね。あちこちに支店を作って、いまではすごくおおきな会社になっているよ。その一代目が、いまから三百年ほど前にイギリスで生まれた、ベアトリーチェ・バランっていうやり手の女実業家だったらしいんだ。もちろん、もうとっくにおばあさんになって亡《な》くなってるけど。これは、その人の養母《ようぼ》の目から見た、花をめぐる不思議なサクセスストーリーなんだって」
「ふぅむ」
ヴィクトリカはケーキをもふもふ頬張りながら、うなずいた。
「サクセスストーリーなどという、無粋《ぶすい》なものに興味《きょうみ》はないがね。まぁ、読んでみたまえよ、君。せめてちょっとした退屈しのぎにはなるだろう」
「うん」
一弥はうなずいた。生真面目《きまじめ》そうに姿勢を正して、両手で本を掲《かか》げるようにして持つ。ヴィクトリカはエメラルド色の長椅子に寝そべって、怠惰《たいだ》な小猫のようにうーん、と伸びをした。フリルの奥にあるちいさなからだが、びっくりするぐらいよく伸びて、またフリルの奥に隠れるようにちいさく丸まった。
宝石のようにひんやりとした碧色の瞳を瞬《またた》かせて、一弥を見上げる。熱はだいぶ下がったものと見えて、今日のヴィクトリカは、頬に薔薇色の輝きを取り戻していた。はやくしろ、というように、うふん、とせきばらいをする。頭の上に乗っかった栗鼠も、つられたようにキュッと鳴いた。
一弥は背筋を伸ばして、朗々《ろうろう》と読み上げ始めた。
「『人には、両親《りょうしん》というものが存在する。
わたしにも、あなたにも。必ず。
よく聞かれることだろう。あなたは両親のどちら似《に》? と。
厳格《げんかく》な父親似か。優《やさ》しい母親似か。
もしくは夢見がちな父親似か。現実的な母親似か。
どんな両親であるかによって、自分がどちらに似ていたいか、子供の気持ちだって様々だろう。これからわたしがするのは、つまりそういった種類のおはなしだ。わたしが育てた養女、ベアトリーチェ・バランが、両親のどちら似だったかについての物語だ。
ベアトリーチェは極端《きょくたん》に性質《せいしつ》の異《こと》なる両親のもとに生まれ、その片方の資質《ししつ》を強く受《う》け継《つ》ぎ、新大陸で財を成して幸せになった。つまりこれは、そういうおはなしなのだ』」
読み上げながら、一弥は知らず自分の両親のことを思い出して遠い目になった。厳格な父と、優しい母。父親によく似た、二人の、大きくて強い兄……。
ヴィクトリカもまた、なにか思案《しあん》するような表情を、そのつめたくけぶる瞳にかすかに浮かべた……ように見えた。
退屈そうに一度、ふわ〜あ、とあくびをしたが、ちいさな声で、
「うむ。君、続きを読みたまえよ……」
「うん」
一弥は姿勢を正して読み続けた。
迷路花壇《めいろかだん》に小鳥がやってきて、ぴーちちち、とちいさく歌声を響《ひび》かせ始めた。
3
人には、両親というものが存在する。
わたしにも、あなたにも。必ず。
よく聞かれることだろう。あなたは両親のどちら似? と。
厳格な父親似か。優しい母親似か。
もしくは夢見がちな父親似か。現実的な母親似か。
どんな両親であるかによって、自分がどちらに似ていたいか、子供の気持ちだって様々だろう。これからわたしがするのは、つまりそういった種類のおはなしだ。わたしが育てた養女、ベアトリーチェ・バランが、両親のどちら似だったかについての物語だ。
ベアトリーチェは極端に性質の異なる両親のもとに生まれ、その片方の資質を強く受け継ぎ、新大陸で財を成して幸せになった。つまりこれは、そういうおはなしなのだ。
まずわたし自身が名を名乗《なの》らなくてはならないだろう。わたしの名はレネ。一六二七年までイギリスのとある田舎町《いなかまち》に住んでいた。わたしは結婚《けっこん》をせず両親の世話をして暮らしていたが、三十歳になったとき両親を病気で相次《あいつ》いでなくした。そしてその年に、長らく出奔《しゅっぽん》していた妹が、十四歳になった汚《きたな》い娘を抱えて戻ってきて、あろうことか娘をわたしに預《あず》けるとまたどこへともなく消えてしまった。
つまり妹は、そういった女だったのだ。衝動的《しょうどうてき》で、ひとつのところに落ち着こうとしない女。妹はまだ十代のときに年上の男に恋をして家を出ていってしまい、しかし相手の家族から拒絶《きょぜつ》されて、行方不明《ゆくえふめい》になっていた。知らぬ間にその男の子供を産《う》んで、苦労をして育てていたらしい。わたしは妹が置いていった汚い娘を、しかたなく養女にして育てることにした。内心《ないしん》、とても心配をしていた。妹が恋した相手は、若いがやり手の商人だった。この娘の資質は、はたして両親のどちら似なのだろうか。衝動的で愚かな母親か。それともやり手の父親か。
これが、わたしの養女、後《のち》に著名《ちょめい》な女実業家となるベアトリーチェ・バランとの出会いである。結局、わたしの心配は杞憂《きゆう》に終わったわけだが、それに気づくのにはずいぶん長い時間を要《よう》した。
それには理由がある。
その理由も、おいおい、書こう。
いまではわたしは年老《としお》いてしまったので、昔のことを思い出すのには時間がかかる。字が震《ふる》えているのは、書きなれないためではない。震えているのはわたしが老いているからだ。ペンを持つ手にもそう力が入るものではない。なんといってもいまはもう一六九〇年。わたしは百歳を越えたのだ。いったいどうしてこんなに長生きをしたのだろう。
いや、それはいい。
年寄りの話は、いつも脱線《だっせん》していけない。
あなたがたが読みたいと欲《ほっ》しているのは、ベアトリーチェの成功《せいこう》の秘密だ。みんな彼女にあやかりたいのだ。いまでは新大陸の若者は誰もが成功したがっている。こころの中の、ひそかな誇《ほこ》りや、精神の高潔《こうけつ》さではなく、この新しい世界アメリカの経済界《けいざいかい》での成功を夢見ている。出版社《しゅっぱんしゃ》を営《いとな》む若者がこうして、老いたわたしのもとにやってきて女実業家ベアトリーチェの成功の秘密を原稿《げんこう》にしようとしたのも、そのためだろう。
しかし、若者の未来に役立つなら、わたしは喜んで語ろうと思う。
……ああ、また話が脱線した。いけない。だから年寄りは嫌われるのだ。
養女ベアトリーチェとの出会いから語らなければいけない。結局のところ彼女の成功の秘密は、両親のどちら似だったかの一語《いちご》に尽《つ》きるということを、語らなくてはならない。
若かりしころ、妹は美女だった。彼女が置いていった十四歳になる汚い娘も、会ったときは薄汚《うすよご》れてへんな匂《にお》いがしたが、湯《ゆ》を沸《わ》かして丁寧《ていねい》に全身を洗ってやると、くりくりと長い巻《ま》き毛《げ》の金髪が背中に垂れ落ちて、灰色の瞳はぱっちりとし、びっくりするぐらいきれいな、年齢よりも大人びた少女だった。これはいけない、とわたしはあわてた。妹に似ている。似ているどころか、そっくりだ。この子はきっと、だらしなくて衝動的な、母親《ははおや》似の子供なのだ。
わたしは厳《きび》しく戒《いまし》めて育てることにしたが、すぐに挫折《ざせつ》してしまった。
ベアトリーチェは口が利《き》けなかったのだ。最初は厳しいわたしに反抗《はんこう》して黙《だま》っているのかと思ったが、ぱっちりした灰色の瞳を悲しそうに潤《うる》ませてなんども首を振るので、これはおかしいと医者に連れて行った。この子は口が利けませんよ、と医者に言われてわたしは絶望《ぜつぼう》した。口の利けぬ子をどうやって育てればいいのか。慣《な》れない子育てにわたしは困《こま》り果《は》てた。だいいち、意思の疎通《そつう》が難《むずか》しかった。わたしが教え諭《さと》したことを理解したのかもわからないのだ。
ベアトリーチェは一日ぼんやりしていて、知性がどれだけあるのかもわからなかった。だが、母親|譲《ゆず》りの美しさはすぐに町中で噂《うわさ》となった。くりくりとした長い金髪をなびかせて町を歩くと、少年たちが、花にまとわりつく蝶《ちょう》のようについてきた。わたしは敬虔《けいけん》な清教徒《せいきょうと》であったので、異教徒《いきょうと》の不真面目な少年が養女にしつこくすることは不愉快《ふゆかい》だった。とくにベアトリーチェにまとわりついていたのは、花屋に勤《つと》めるすこし年上の少年だった。冴《さ》えない、そばかすの浮かぶ顔が次第《しだい》に思いつめたように暗《くら》くなり、日々、ベアトリーチェをしつこく追いかけた。
やがて……。
4
「あれ? ヴィクトリカ、おーい……」
小鳥が、ぴーちちち、と鳴いた。
フランス窓に寄《よ》りかかって朗読を続けていた一弥は、ふと家の中を見た。エメラルド色をした長椅子にしどけなく横たわったヴィクトリカは、瞳を閉じていた。絹糸のような見事な金色の髪におぼれるように半分埋もれている栗鼠も、眠たそうにきゅう〜、とのびていた。
ヴィクトリカの長い睫毛《まつげ》がかすかに震えた、と思ったら、ゆっくり瞳を開けた。
「眠いのかい?」
「むー」
「わかった。さては、さっきのレモンケーキでお腹がいっぱいなんだね、君」
「おばあさんの話が、脱線しすぎるのだ」
「仕方ないさ。百歳を越えた人が一生懸命書いてるんだもの」
「……うむ。しかし君、花屋の開店はまだなのかね」
「もうちょっと先だよ。このあとすぐ、ベアトリーチェは船に乗って、新大陸に行くからね」
「うむー。では、読みたまえ」
「うん。じゃ、続きを読むよ。ベアトリーチェはこのあとすぐ船に飛び乗るからね。『やがて、半年が経《た》ち……』」
一弥はまた姿勢を正して、読み始めた。
金色の波のような、ヴィクトリカの長い髪の奥に、栗鼠がもぐりこんで姿を消した。
ドールハウスの外で秋の涼しい風が吹いて、花壇の花をゆっくりと揺らしていった。
遠くでまた、小鳥が鳴いた。
5
やがて、半年が経ち、わたしは新大陸への移住《いじゅう》を決意した。海を渡り、新たな土地を開墾《かいこん》して村を作るという道に求道者的《きゅうどうしゃてき》な魅力《みりょく》を感じたこともあるが、なにより、妹から託《たく》されたベアトリーチェの行《ゆ》く末《すえ》が気にかかっていたのだ。ハンブルグにいれば、ベアトリーチェが私生児《しせいじ》であることは隠せない。きっと年頃になってもよい縁談《えんだん》もなく、苦労をすることになるのだろう。わたしは先に老いて死んでしまうだろうし、口も利けない娘の行く末を考えるだに、わたしは不安になったのだ。
清教徒の新大陸移住はこのころ、まだ始まったばかりだった。みんなで船に乗り、はるかな海を渡ってアメリカ大陸の土地を開墾し、新しい国家をつくるという大事業だ。わたしは娘とともに船に乗って海を渡る決意をした。新しく開墾する土地なら、労働力も必要だし、私生児だという過去も隠して生きていけるかもしれない。だが、そのことをベアトリーチェに告げると、不安そうな顔をして首を左右に振ったが、話の内容を理解しているのか、どう思っているのかはその顔を眺《なが》めていてもわからなかった。
わたしたちが移住することが知れ渡ると、大人たちはなにも言わなかったが、少年たちが名残《なご》り惜《お》しんで、ベアトリーチェに会いにきた。娘はなにも言わずに、首をかしげて座っていた。夜になると、花屋の少年が訪《たず》ねてきて、乱暴《らんぼう》にドアを叩《たた》いた。
「なぁに? こんな夜中に、なんの用?」
ドアをすこしだけ開けて応じると、少年は無愛想《ぶあいそう》な声で「おばさん、ベアトリーチェを置いていってくれ」と言った。
「それはできないわ。もう夜中よ、家に帰りなさい」
「置いていってくれ。俺とベアトリーチェは、結婚する約束をしたんだ」
少年はしつこく言い続けた。嘘《うそ》をついているのは、大人であるわたしにはすぐにわかった。口の利けない子と、約束を? わたしは少年を怒鳴《どな》りつけてドアを閉めた。
いよいよ出発の日となった、前の晩《ばん》。わたしは長くてくるくるとした、ベアトリーチェの金髪を切った。「長いままだと、船旅のときにじゃまだから」と言ったが、本当はそれだけでなく、男たちを誘《さそ》うのはこの髪にちがいない、妹によく似た、輝く巻き毛だ、と感じたのだ。ベアトリーチェはおとなしくされるがままになっていた。巻き毛が床に落ちると、すこしだけ涙《なみだ》を流したが、それだけだった。髪が短くなると、ベアトリーチェの怪《あや》しい魅力はかき消えて、まるで少年のような青白い痩《や》せっぽちに姿を変えた。妹の気配《けはい》がようやく消えたことにわたしは安堵《あんど》して、その夜はよく眠った。
ちいさな荷物を一つずつ持って、わたしとベアトリーチェは翌朝、生まれ育った町を出た。港のある町まで馬車に揺られて、ようやく船にたどり着いた。出航《しゅっこう》しようとすると、岸壁《がんぺき》にたくさんの少年が集まってきた。ベアトリーチェに別れを言おうとやってきたのだ。だが、どの少年もベアトリーチェをみつけることはできなかった。目印《めじるし》になる金色の巻き毛がなくなっていたからだ。
いよいよ船が出るというとき、岸壁を走ってきた少年がいた。そばかすだらけの小汚《こぎたな》い姿。あの花屋の少年だった。巻き毛はもうないというのに、なぜだか彼はベアトリーチェをみつけ、迷うことなくまっすぐにやってきた。
汽笛《きてき》が鳴った。
船がゆっくり港を離れ始めた。
「ベアトリーチェ、これを!」
少年がちいさな麻袋《あさぶくろ》を投《な》げた。
「エーデルワイスの種だよ。君の好きな花だ。店の前を通るたびにこればかり見ていたね。ぼくはいっそエーデルワイスになりたいと思ったものだよ。それで、ずっと君のそばにいたいと……」
汽笛に声はかき消された。
「これが、約束だ。ぼくと君は互《たが》いを忘れないと……」
少年の声は汽笛にかき消され、やがて聞こえなくなった。ベアトリーチェは麻袋を受け止めて、じっとみつめていた。
風が吹いて、ベアトリーチェの痩せたからだがかすかにかしいだ。
……わたしと養女の、ハンブルグでの物語はこれで終わりだ。ともかく養女はこのようにして、半《なか》ば偶然《ぐうぜん》に、富《とみ》の元《もと》となるエーデルワイスの種を得たのだ。
6
「……ヴィクトリカ?」
一弥が書物から顔を上げて、ドールハウスの中を覗きこんだ。ヴィクトリカは相変わらずしどけなく長椅子に寝そべり、ときおり、小猫のようにうーんと伸びをしている。フリルがふっくらふくらんで、複雑な紋様を自在《じざい》に変化させるようにうごめいていた。
ヴィクトリカの代《か》わりに返事をするように、栗鼠が、金の髪の奥から顔を出して、キュッと短く鳴いた。
その鳴き声につられたように、ヴィクトリカが面倒《めんどう》くさそうに、
「聞いているよ、君。わたしはまこうことなく起きている」
「そう。それじゃ、続きを話すよ」
「うむ」
一弥は姿勢を正して、書物に視線を戻した。
「『新大陸での暮らしは、過酷《かこく》ではあったが……』」
小鳥がちいさく鳴いて、花壇から飛び立った。
風が吹いて、一弥の漆黒《しっこく》の前髪《まえがみ》をゆっくりと揺らしていった。
7
新大陸の暮らしは、過酷ではあったが、質素《しっそ》で堅実《けんじつ》だった。一日の労働《ろうどう》が終わると、それなりの満足があった。信仰心《しんこうしん》をもって、わたしは日々を暮らした。
意外《いがい》なこともあった。養女のベアトリーチェは、昼間は学校に通い、夕方から家のことを手伝ってくれたのだが、学校で読み書きを覚えてきたベアトリーチェは、驚《おどろ》くほどに多弁《たべん》で、知性もあった。相変わらず口は利《き》けなかったが、文字を書いて、わたしとたくさんの会話をした。若く、利発《りはつ》な娘との暮らしは刺激《しげき》に満ちて、楽しかった。しばらくすると、船旅の途中《とちゅう》で妻《つま》をなくした壮年《そうねん》の男から、わたしのところに縁談《えんだん》が舞《ま》いこんだ。もちろんわたしを女として気に入ったのではなく、残された子供の母親役、主婦の役、つまり労働力として望まれているに過ぎないだろうと思った。生活は楽になるだろうが、わたしの連《つ》れ子《こ》、しかも実の娘ではないベアトリーチェを辛《つら》い生活に落としこんでしまうだろう。わたしは縁談を断《ことわ》った。それよりもベアトリーチェを育てる責任《せきにん》のほうが大事だった。
わたしは日々、娘に言って聞かせた。彼女の父親と、母親のこと。母親似の生涯《しょうがい》を送らないよう、真面目に日々を生きるように言い聞かせ続けた。ベアトリーチェはいつもおとなしく聞いていた。
気楽《きらく》ではあったが、しかし、女所帯《おんなじょたい》の暮らしは貧《まず》しかった。ある日のことベアトリーチェは、旅の商人と筆談《ひつだん》でなにか話していたが、戻ってくると、あのちいさな麻袋を取り出した。ちいさな庭を掘《ほ》り返し始めたので、「なにしてるの?」と聞くと、筆談で答えた。
「花を植《う》えてるの」
「花なんて、食べられないよ。心は豊《ゆた》かになるけれど」
「ちがうわ。売れると思うの、おばさん。新大陸には、ぜいたく品がまだ少ないわ。だけどすでにこの国に貧富《ひんぷ》の差は生まれていて、都市にはお金持ちがたくさんいる。彼らの奥さんや娘さんは、ぜいたく品に飢《う》えているわ。素敵《すてき》なドレスや、香油《こうゆ》、宝石、それに、殿方《とのがた》からプレゼントされるうつくしい花」
「……そう。あなたがそう思うなら、そうなのかもねぇ」
[#挿絵(img/s03_167.jpg)入る]
ベアトリーチェがあんまり一生懸命、花を植えるので、夜になってからわたしも手伝い始めた。くる日もくる日も、水をやり、肥料《ひりょう》をやり、枯《か》れた下葉を摘んだ。わたしは、切り詰めた生活の中で花にやる肥料なんて、と反対《はんたい》したが、ベアトリーチェは「先行投資《せんこうとうし》は大事よ、おばさん」と微笑《ほほえ》んだ。つぎの年になり、白い綿毛《わたげ》に覆《おお》われた黄色い花がたくさん咲くと、商人がやってきて、おどろくほどの高値《たかね》で買っていった。喜ぶわたしに、ベアトリーチェは厳《きび》しい顔をして言った。
「だけど、商人は都市に着いたらもっともっと高く売るのよ。もっと効率《こうりつ》のいい流通経路《りゅうつうけいろ》を確保《かくほ》しなくては」
翌年には、もっとたくさんの花が咲き、儲《もう》けでベアトリーチェはとなりの土地を買った。どんどん花畑は大きくなった。ベアトリーチェはうつくしく成長したが、男たちには見向《みむ》きもせず、花畑のことばかり考えていた。婚期が遅れることをわたしは心配したが、ある日のこと、ベアトリーチェは結婚をした。花屋を〈ベアトリーチェの黄色い花畑〉という会社組織《かいしゃそしき》にするためだ。相手は、ベアトリーチェの花の噂を聞いて訪ねてきた若い商人だったが、恋などといった甘い雰囲気《ふんいき》はベアトリーチェからまったく感じなかった。女性だけでは会社組織をつくれなかったので、夫となった商人が協力し、そしてまたたくまに会社は大きくなっていった。
このころになるとわたしは、理解しないわけにはいかなかった。
長いあいだわたしを苦しめたあの心配は、実のところ杞憂《きゆう》だったのだ、と。
いうまでもなくベアトリーチェは、情熱的《じょうねつてき》な母親ではなく、やり手の父親にそっくりな子供だったのだ。このころになると、海を渡るときに短く切ったきり、伸ばすことのなかった髪をまた伸ばし始め、若い夫も「じきにまた腰まで伸びてくるくるになるな」と笑ったものだが、わたしは、ベアトリーチェの長い髪が再び情熱的な金色に輝いても、もうそこに妹の影を見ることはないだろうと思った。ベアトリーチェは、愛のためではなく会社組織をつくるために夫を欲したのだし、花もまた、美しいからではなく高く売れるから植えたのだ。
それからの数十年はあっという間だった。新大陸のあちこちに支店《してん》ができた。この新しい未開《みかい》の大陸で、恋をした若者たちは、必ずといっていいほどベアトリーチェの花屋に赴《おもむ》き、レディに贈《おく》る花束を買った。たくさんの無名《むめい》の恋を、娘の作った花屋は、成就《じょうじゅ》させることになっただろう。ベアトリーチェ・バラン自身は恋などしない女実業家だったのだが。
成功の秘訣《ひけつ》は? と、後によく聞かれたものだ。
旧大陸から持ちこんだ、ほんのちょっとの花の種で、どうしてこんなにうまくいったの? と。
ベアトリーチェ自身なら、もっと上手に答えたことだろう。だが、そばで見ていたわたしの答えは、かんたんだ。
あなたは父親似か、それとも母親似か。
どちらに似た人生を、これから送ることになるのか。
――つまりこれは、そういったおはなしだ。
8
秋の日射しが迷路花壇に落ちて、色とりどりに咲き誇る花をきらきらと輝かせていた。風が吹くたびに、フリルのように花びらが揺れて、ゆっくりともとに戻る。
一弥は書物を読み終わって、そっと閉じた。ヴィクトリカはエメラルド色の寝椅子からのっそり起き上がって、しどけなく、金色の髪をかきあげた。栗鼠《りす》がまた頭の上によじ登っていった。
ふわ〜あ、と、ヴィクトリカは栗鼠と一緒にあくびをしながら、
「情熱的なやつだなぁ」
「うん……」
一弥は一度うなずいてから、聞き返した。
「……えっ、誰が?」
ヴィクトリカが面倒くさそうに、じろりと一弥を見た。一弥は不思議そうに、
「でも、情熱的な人なんてどこかに出てきたっけ? どの人のこと? この伯母《おば》さん?」
「ベアトリーチェだろう、君」
ヴィクトリカがパイプを口にくわえながら、面倒くさそうに言った。
「なにしろ、太平洋の向こうにおいてきたはずの初恋を、成就《じょうじゅ》させたのだからな。これが情熱的でなかったら、どうなのだね。ふわ〜あ……」
「えっ、初恋?」
一弥は不思議そうに聞き返した。ヴィクトリカがあきれたように、一弥を見た。
「ベアトリーチェは、エーデルワイスの種をくれた花屋の少年との恋を成就させたのだ」
「えっ?」
「ええい、鈍感《どんかん》なやつだ。すかすか南瓜《かぼちゃ》。自分で読み上げておいて、どうしてそこに気づかないのだね」
ヴィクトリカはけだるそうに髪をかきあげ、寝椅子の上にちょこんと座った。一弥に向かって、ちいさな人差し指を立ててみせて、
「ハンブルグの花屋で働いていた少年と、新大陸で出会った若い商人は、同一人物だ。ベアトリーチェは初恋の人と再会して、一緒に会社を興《おこ》したのだ。どうやら伯母さんは、ついでに君も、最後まで気づいていないようだがな」
「えっ……でも、いったいどうしてわかるんだい?」
ヴィクトリカが人差し指を振るたび、頭の上の栗鼠もキュッキュッと鳴いて左右にからだを揺らした。
「なぜなら、だね。口の利けない娘をして、伯母さんはいろいろと勘違《かんちが》いをしていたのだ。花屋の少年は、ベアトリーチェのことを一方的に好きだったのではない。二人はおそらく両思いだったのだろう。口の利けない娘と約束などできないと、伯母さんは少年をうそつきと思ったが、なにも言葉だけで約束をするわけではあるまい」
「そ、そっか……」
一弥はうなずいた。
「少年はおそらく、遠く離れた土地に旅立つ少女の後を追おうと決心したのだろう。だからエーデルワイスの種を託《たく》した。約束だ。互いを忘れない≠ニ叫びながら。少女はその真の意味を悟《さと》った。だから、海を越《こ》えてたどり着いた、驚くほど広大《こうだい》な新大陸の片隅《かたすみ》にある、ちいさな庭に、約束の徴《しるし》として花の種を植えたのだ」
「じゃあ、エーデルワイスを育てたのは、高く売るためじゃなかったの?」
「おそらく、だね。つまりエーデルワイスの花は、二人だけにわかる秘密の目印だったのだ。ベアトリーチェには、花畑をできるだけおおきくする必要があった。だからとなりの土地を買い、流通経路を確保し、黄色い花でできた狼煙《のろし》の如《ごと》き花畑を作った。ベアトリーチェの黄色い花畑は、つまり、夜の闇《やみ》に燃え盛《さか》る恋の狼煙だったのだ。そして少年のほうは、旅の商人となり、新大陸に渡って、広大な土地を旅してエーデルワイスの花を、つまりベアトリーチェを捜《さが》し続けた。そのころには二人とも大人になり、面代《おもが》わりもしていただろうがね。幸《さいわ》い、ベアトリーチェの花畑は有名になっていた。やがて男は噂《うわさ》をたどって彼女のもとにたどり着いた。エーデルワイスの花が二人を再会させ、そうして、二人は結婚したのだ」
「なるほどね……」
一弥はうなずいた。ヴィクトリカは小首をかしげて、
「そうでなければ、大人になってから出会った夫が、ベアトリーチェがかつて、腰まで伸びるくるくるの金髪をしていたことを、知っているはずがない。夫となった男は、旧大陸にいたときの彼女をよく知っていた。それがなによりの証拠《しょうこ》だ」
「そのことに、厳しい伯母さんは気づかないままだったんだね……」
「うむ。伯母は、ベアトリーチェ・バランが父親似か母親似かとずっと気にかけていたが、じつのところ彼女は母親似だったのだろう。なかなかの情熱家だったわけだ。だが、心配しながら育ててくれた伯母の心の平安のために、ずっと、そのことを隠して生きたのだろうよ」
ヴィクトリカはそう言うと、パイプをゆっくりと吹かした。
「新大陸のあまたの恋人たちは、母親|譲《ゆず》りの情熱的な女ベアトリーチェの、狼煙のようなエーデルワイスの花を、まるで火種《ひだね》を分けてもらって暗い夜を照らすように、一束、一束、買っては贈りあっていたのだな。炎は大陸中に燃え広がり、三百年も経《た》ったいまも、恋人たちの夜を照らし続けているわけだ」
キュッ、と栗鼠が鳴いた。
ヴィクトリカの頭から飛び降りて、窓枠を駆けて、一弥の肩にまたよじ登る。
ふわり、と風が吹いた。
「エーデルワイスの花言葉は『思い出』だ。遠い昔、新大陸行きの、乗れば二度と逢《あ》えないはずの船が出るときに、少年はこの花の種を託した。もちろん、いまでは少年もベアトリーチェも、厳しい伯母もこの世にはいないがね。人の命が消えても、思い出は残る。暗闇《くらやみ》に揺れる、ちいさな火のように」
「うん……」
一弥はしばらく、閉じた書物をじっとみつめていた。ヴィクトリカが不思議そうに、
「どうしたんだね、君」
「ううん。ただ……」
一弥は、相当な苦労をして海を渡っただろう、花屋の男のことを考えた。一人の少女を探しだすには、あまりに広大な新大陸。唖然《あぜん》とするほかないその大地を、一輪《いちりん》の花のイメージだけでさまよっただろう、彼の旅の日々を思うと、気が遠くなる思いがした。
(きっと、そうしてまで、どうしてももう一度会いたい人だったんだろうな……)
一弥はしばらく、書物をみつめて考えていたが、やがてかすかに微笑んだ。
[#挿絵(img/s03_175.jpg)入る]
「……あ、いけない。日が暮れてきちゃった。もう戻らなきゃ」
一弥がそう言って背筋を伸ばすと、ヴィクトリカはかすかに寂《さび》しそうに、瞳を瞬《またた》かせた。一弥がそれに気づいてちいさな顔を覗きこむと、ヴィクトリカはくるりと背を向けて知らん振りをした。
「そうだ。もう戻りたまえ。いつまでもそこにいたら、梟《ふくろう》につつかれるぞ」
「……梟? どうして?」
「さいきん、夜になるとよく鳴き声がするのだ。きっと庭園のどこかに住み着いているのだろう。頭をつっつかれて逃げ回っている君の姿を見たいような気もするが、まぁ、帰りたまえ」
「監獄《かんごく》で鼠《ねずみ》にかじられずにすんだと思ったら、こんどは梟かぁ」
一弥はちょっと吐息《といき》をついた。
それから背筋を伸ばして、書物を小脇《こわき》に抱《かか》えた。
「じゃあね、ヴィクトリカ。またくるよ」
「……うむ」
ちょっとだけ寂しそうに、ヴィクトリカが返事をした。一弥は肩に栗鼠を乗せ、生真面目な様子でまっすぐに歩いて、花壇の前で振り向いて、背を向けたままのヴィクトリカのちいさな背中を見てすこし微笑んで……迷路花壇の中に消えていった。
ヴィクトリカはじっとしていたが、床に積まれた書物を一冊、手に取ると、けだるげに寝椅子に寝そべって、読み始めた。緑色にけぶる瞳を瞬かせ、すごいスピードでページをめくり続ける。一弥のことなどもう忘れたかのように読書に没頭《ぼっとう》し始めた。
花壇の花が、風に揺られてまたゆっくりと揺れた。
かすかに日が翳《かげ》って、影がさっきよりもすこしだけ長く伸びている。
静かな迷路花壇の奥に建《た》つ、お菓子《かし》の家じみた家の中で、ちいさな花瓶《かびん》に生けられたかわいらしい花束も、色とりどりの炎のように、風に揺られてちいさく揺れた……。
[#地付き]〈fin[#「fin」は縦中横]〉
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第五話 花びらと梟《ふくろう》
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1
さて、ほんのすこし時を遡《さかのぼ》って――、
数日前の、秋の始まりの聖マルグリット学園――。
コの字型をした巨大な校舎《こうしゃ》を包む、フランス式|庭園《ていえん》を模《も》した広大な敷地《しきち》に、姿の見えない精霊《せいれい》のようにゆっくりと秋が舞《ま》い降《お》りてきていた。風は涼《すず》しく、ほんのすこし湿気《しっけ》をふくんで、黄緑色に乾《かわ》き始《はじ》めた木々の葉を揺《ゆ》らした。葉と葉がぶつかりあってちいさな楽器《がっき》のように乾《かわ》いた音を立てた。
そんな、すこし寂《さび》しい学園の風景に、一陣《いちじん》の元気な風のように……。
「女は、馬車の窓を開けてそうっと外を見たの。墓地《ぼち》の前を通りすぎるところで、暗闇《くらやみ》には朧月夜《おぼろづきよ》が痙攣《けいれん》するように射《さ》すばかり。そし、て……」
無理に恐ろしげな雰囲気《ふんいき》にしてはいるが、消せない、元気で生命力に満《み》ち溢《あふ》れたトーンが入り交《ま》じる、女の子の声が聞こえてきた。
「そし、て……馬車の横を追い越していった、その不気味な足音の正体を……」
庭園の芝生《しばふ》に輪《わ》になって、思い思いのポーズで座《すわ》っている女の子の真ん中に、短い金髪《きんぱつ》に夏の青空のような澄《す》んだ青い瞳《ひとみ》をした、ひときわ明るい雰囲気の女生徒がいた。声のトーンを無理に落として、みんなを怖《こわ》がらせるように話を続けている。周りにいるのはクラスメートたちで、興味しんしんの顔をして、すこし寄《よ》り目がちになって話を聞いている。
女生徒――アブリル・ブラッドリーは張り切って、声を張り上げた。
「女は見たの。足音の正体は、――二本足で走る牛だったのよ!」
「きゃーっ!」
女の子たちは一斉《いっせい》に悲鳴《ひめい》を上げて、それからふざけあってお互《たが》いをつっついたり、笑いあったりした。アブリルは満足そうにうんうんとうなずいて、膝《ひざ》に載《の》せた本――『怪談 三巻』をよしよしと手のひらで撫《な》でた。
「さぁて。おつぎはあなたの番よ。怖い話、怖い話」
声をかけられた、となりに座っていた女の子が、
「自信ないなぁ。アブリルよりおもしろい話なんてできないもん」
「そんなことないって。わたし、だっ、て……」
なにか言いかけたアブリルが、おやっ、というように顔を上げて遠くを見た。日がすこし落ちて、庭園には薔薇《ばら》色の夕暮《ゆうぐ》れが立ちこめていた。その夕暮れから現れるように、白い砂利道《じゃりみち》を、小柄《こがら》な東洋人《とうようじん》の少年が一人、まっすぐに背筋《せすじ》を伸ばして歩いてきたのが見えた。
「……久城《くじょう》くんだー」
アブリルは鶴《つる》のように首をのばして、歩いてきた、漆黒《しっこく》の髪と瞳をした少年――久城|一弥《かずや》を見守った。短い金髪が秋の風にふわふわと揺《ゆ》れた。
アブリルは、気づいてほしそうに、視線《しせん》に力をこめて一弥を見たが、一弥のほうは気づくことなく規則正《きそくただ》しく歩いて近づいてきた。片手に、シックでかわいらしい紫《むらさき》のチューリップを一輪、持っている。アブリルの瞳がきりきりっとつりあがった。
「どしたの、アブリル?」
女の子に声をかけられて、アブリルは思わず振り返った。「ううん、なんでも」と首を振って、でもやっぱり気になるので、砂利道のほうをまた見る。
「あれ?」
なぜか、ついいままでいたはずの一弥の姿が消えていた。そこにはただ薔薇色にけぶる夕暮れが立ちこめているだけで、あの小柄な少年の姿はまるで魔法《まほう》のように消えうせていた……。
「消えた!」
「ん? どうかしたの?」
聞き返されて、アブリルはなんどか首を振った。
ふくれっ面《つら》になり、両腕《りょううで》をばたばたと揺らしてみせる。
「花、もってた……。久城くんたら……」
風が吹《ふ》いて、木々の葉を一斉に揺らした。
女の子たちがまた、とっておきの話を披露《ひろう》し始める。アブリルはくすくす笑ったり、ひっくり返って大受けしたりしながらも、ときどき、ちょっとだけ悲しそうな顔をして、一弥が消えたほうを振り返っていた。
そこには、白い小石を敷《し》き詰《つ》めた砂利道と、ちいさなベンチ。そして大人の身長ほどもある、すごい高さの大きな花壇《かだん》があるだけで、少年の姿はまったく、魔法のように消えうせたきりだった……。
そして、そのつぎの日。
相変わらず天気がよくて、教室で授業《じゅぎょう》を受けていても思わず眠ってしまいそうな、秋の始まりの日だった。
頬杖《ほおづえ》ついて窓の外を見ていると、柔《やわ》らかな日射《ひざ》しが降り落ちてアブリルの短い金髪を淡い色に照《て》らしていた。眠《ねむ》たくて瞳《ひとみ》をぱちぱちさせていると、
「こらっ」
というかわいらしい声がした。頬杖ついたまま教壇《きょうだん》を振り向くと、セシル先生がちょうど、チョークを投げたところだった。ぽぅんと上に向かって放《ほう》られた白いチョークは、弧《こ》を描《えが》いて飛んで、アブリルの頭頂部《とうちょうぶ》にちょうどポコンと着地《ちゃくち》した。
頭にチョークを載《の》っけたまま、アブリルは目をぱちくりした。
「よそ見しちゃいけませんよ、アブリルさん。いまは授業中よ」
「はーい」
アブリルは反省して、教科書に目を落とした。
それから、ふと気づいて、斜《なな》め前の席に座《すわ》っている一弥のほうを見た。
一弥はついさっきまでのアブリルと同じように、頬杖をついて、物憂《ものう》げに窓の外を眺《なが》めていた。いつも生真面目《きまじめ》で人一倍熱心に授業を聞いている一弥には似合《にあ》わない、めずらしい態度だった。アブリルは気になって、
(久城くん、どうしたのかな……?)
と、首をかしげた。
(なにか心配事《しんぱいごと》があるのかしら。めずらしくぼぅっとしてる。そうだ。それに昨日は、庭園で急にドロンと姿を消したんだったわ。うーむ……あっ!)
なにか思いついたらしく、ポンと両手《りょうて》を叩《たた》く。
セシル先生がその音に振り向いて、天井《てんじょう》を見上げて考え事をしているアブリルに気づく。またチョークをかまえて、
「こらっ、アブリルさん!」
と言う。
アブリルはうんうんとうなずいて、
(久城くんが悩《なや》むって言ったら、故郷《こきょう》のおとうさんかおにいさんに怒られたときと、あとは、あれだわ……そう、あれ……)
つぎにちょっと怖い顔になって、思わず口に出して叫《さけ》んだ。
「灰色狼《はいいろおおかみ》よ。灰色狼のことで悩んでるんだわ。もうっ、憎《にく》たらしい! ……ん?」
頭にまたなにか乗っかったので、そうっと手をやった。またもやチョークが乗っていた。教壇《きょうだん》を見ると、セシル先生が、いままさになにか投げましたというポーズのままで丸|眼鏡《めがね》越しにアブリルを睨《にら》んでいた。
「アブリルさん、ぼんやりしたり、手を叩いたり、独《ひと》り言《ごと》をつぶやいたり。悩めるお年頃なのはわかるけど、いまは授業中ですよ」
「はーい……」
「学生の本分は勉強。言っとくけど、先生がみなさんぐらいの年のときは、毎日勉強ばかりして、学校でもいちばんの秀才《しゅうさい》だったのよ」
と早口で言ってから、セシル先生はちょっとばかり後ろめたそうな顔をした。生徒たちも、なにも指摘《してき》はしないが、ちょっと疑うような目をしてセシル先生をみつめていた。
セシル先生はその微妙《びみょう》な雰囲気をごまかすように、
「というわけで、アブリルさん。廊下《ろうか》に立ってなさい!」
「ええー」
「先生の言うことは絶対ですよ?」
「セシル先生、でも、久城くんもよそ見をしてました」
頬杖《ほおづえ》ついてぼんやりしていた一弥が、ぎくっとして振り返った。
「えっ? ぼく……ですか?」
アブリルは何度も何度もうなずく。短い金髪《きんぱつ》がそのたびに上下にふわふわ揺《ゆ》れた。
「先生、わたし、久城くんといっしょに廊下に立ちます。それで久城くんにもよーく言い聞かせます。今日はいったいどうしてぼうっとしているのか。昨日はかわいいチューリップの花なんか持っちゃって、誰にあげたのか。うきうきしちゃって、許せなーい! それに、それに……」
「な、なに?」
呆然《ぼうぜん》とする一弥の手を強引《ごういん》に引っぱって、ばびゅん、とアブリルは廊下に飛び出した。びっくりして目をぱちくりしているセシル先生の耳に、一弥の悲しそうな、
「君、ぼくは授業中に立たされたことなんて一度もないんだよ。ぼくはね、ぼくは、国の代表でやってきたのだから、それなりの責任が……いてて、どうしてつねるんだよ……」
抗議《こうぎ》してはつねられているらしき声が聞こえてきた……。
そして、その日の夕方。
……アブリルはまたも、一弥が、庭園《ていえん》で魔法のように姿を消すところを見た。
「呪《のろ》いよ!」
「きゃっ」
「マンドラゴラは呪いの根菜《こんさい》なのよ。呪いの儀式《ぎしき》に使ったり、見ただけで悪い呪いにかかったり、とにかく、怪談といえばマンドラゴラなんだってば」
「呪い!」
「そうなのよ!」
「そうなの?」
「セシル先生、マンドラゴラから離れて!」
――庭園の隅《すみ》で、セシル先生と一緒にみつけた呪いの根菜、マンドラゴラらしきものの葉っぱを引っぱっていたら、一弥が通りかかった。こんなときは、のんびり屋の一弥といえども男の子、頼《たよ》りになるに違いないと呼び寄せて、マンドラゴラのそばに引っぱっていった。
一弥は例によって、じいさんみたいな落ち着きで、
「これ……大根《だいこん》に似てるなぁ。大根……それか、カブかなぁ。にんじんかも」
と言い置いてどこかに行ってしまい、しばらくしてアブリルがセシル先生と一緒にマンドラゴラを引き抜いたころ、また規則正《きそくただ》しい足取りで戻《もど》ってきた。引き抜いたマンドラゴラを投げつけたり、きゃあきゃあ悲鳴《ひめい》を上げているうちに、いつのまにかまた一弥は姿を消した。
「き、消えた……!」
昨日と同じ、あの、大人の背丈《せたけ》ほどもある高さの、大きな花壇《かだん》の辺《あた》りで、一弥はふいに姿を消した。
アブリルは、日暮れが近づく庭園で一人、しばし考えていた。そして、結論を出した。
「灰色狼だ」
うんとうなずき、立ち上がる。
「なんだかわかんないけど、この件の背後《はいご》にはあの灰色狼がいるわ。女の勘《かん》よ。むぅ、あの花壇……」
ゆっくり近づいてみる。
花壇は生き物のようにうごめいて、くるなと言わんばかりに、風に乗った花びらをアブリルの顔に数枚、たたきつけた。アブリルは「きゃっ!」と悲鳴を上げた。湿《しめ》った花びらが、頬や額《ひたい》にぺたぺたとくっついてつめたい感触《かんしょく》を伝え、それから制服をつたって、地面にゆっくり零《こぼ》れ落ちていった。
アブリルは顔を上げて、きっと唇《くちびる》を引き結んだ。
妙に勇敢《ゆうかん》な顔つきだった。
「うーん……」
ほんのちょっとだけ悩む。それから、
「とりあえず、入ってみよう!」
アブリルは深く考えず、元気よく花壇のあいだにある通路に飛びこんだ。
そして――。
「ど、どうなってるのー?」
迷《まよ》いに迷い、ほぼ遭難《そうなん》といってもいいほど苦労をしたあげく、花壇が持つ不思議な力で押し出されるように、よろよろと外に出てきたのだった……。
2
その翌日。天気のいい週末の午後。
アブリルはまたもや、花壇の前で消える一弥を目撃《もくげき》した。
しかも今日は、レモンケーキと黄色い花束《はなたば》まで持って、じつにうきうきと、鼻歌|混《ま》じりで歩いてきたのだ。アブリルは腕まくりをして、
「よーし。あの迷路花壇の奥になにがあるのか……もう、だいたいわかってるけどね、でも……追究するぞ。あの花壇、かんたんには入れないみたいだけど、なぁに……」
自信たっぷりにうなずいた。
「なんたってわたしは、冒険家《ぼうけんか》サー・ブラッドリーの孫娘《まごむすめ》よ。冒険はお手の物。よし、でも、冒険に必要なのは準備|万端《ばんたん》で向かうことよね。一度、寮《りょう》に戻って、荷物をまとめてこなくっちゃ」
張り切って、アブリルは走りだした。女子《じょし》寮に向かって。
「冒険に必要なものは、一に食べ物、二に飲み物。それから地図と、懐中電灯。あと寒《さむ》くなるかもしれないから、上着を一枚っと……」
女子寮の一階にあるアブリルの部屋は、つぎからつぎへ、天井に向かって放《ぽう》られては弧を描いてベッドの上に落ちる荷物で、散《ち》らかっていた。廊下を歩いていた、金髪のツインテールをしたクラスメートが、驚《おどろ》いたように足を止めて、それからおそるおそるアブリルの部屋を覗《のぞ》きこんだ。
「なにしてるんですの、ミス・ブラッドリー?」
「冒険の準備よ」
こともなくアブリルが答えた。返ってきた返答が予期《よき》せぬものだったのか、女生徒はきょとんとしたようにしばらく、黙《だま》った。
「……また先生に怒られますわよ。そんなに部屋を散らかして。いつも部屋は整理整頓《せいりせいとん》しなさいって言われてますでしょ」
「……うん」
「なんでもセシル先生の部屋は、いつもきちんと掃除《そうじ》されて塵《ちり》一つ落ちていないそうですわよ。先生、ご自分で言ってらっしゃいましたわ。わたしたちもそれぐらい……それぐらい……ずいぶん大荷物ですわね。どこに行くんですの」
「庭園の中で、冒険するの。あ、でも、これは……」
アルプス山脈の奥にまで登《のぼ》りだしそうな、大きなリュックや懐中電灯といった荷物を持って、アブリルが元気よく部屋から出てきた。片手に持った、村の地図を、
「でも、これは……いらないや。庭園の中のことは描いてないもんね。エイ!」
ベッドの上に放り投げると、元気よく廊下を歩きだした。
女生徒が不思議そうに、
「冒険だなんて。淑女《しゅくじょ》たるもの、まったくそそられませんわ。ミス・ブラッドリー、あなたっておかしな人ですわね」
「失礼なこと言わないで。わたしはおかしいんじゃなくて、非凡《ひぼん》なの。おじいちゃん譲《ゆず》りの冒険家|気質《きしつ》なのよ」
「おじいちゃん譲りの……?」
のしのし歩き続けるアブリルを、きょとんと首をかしげて女生徒が見送った。それから「あっ」と叫《さけ》んで、小股《こまた》でちょこちょこと走ってきた。
「もしかして、ミス・ブラッドリー。あなたのおじいちゃんって、冒険家のサー・ブラッドリーでしたの?」
「なによ、いまごろ。知らなかったの?」
「あの、気球《ききゅう》に乗って消えちゃった……?」
アブリルの横顔《よこがお》がすこし曇《くも》った。
「……そうよ」
「まぁ、なんてこと」
「だけどね、わたしのおじいちゃんは立派《りっぱ》な紳士《しんし》で、勇敢《ゆうかん》な冒険家で、不可能に挑戦《ちょうせん》し続ける、人生のファイターだったのよ。確《たし》かに最後《さいご》は、気球ごと消えちゃった、けど……」
アブリルが振り返って、ちょっとむきになって言い募《つの》っていると、女生徒はほっぺたを薔薇色《ばらいろ》に染《そ》めてアブリルをみつめた。アブリルは不思議そうに、
「……なに?」
「なんてこと!」
「ん?」
「わたし、サー・ブラッドリーの大ファンなんですの。あら、ご存じなかったの。サー・ブラッドリーはソヴュールのご婦人にも大人気なんですのよ。まぁ……」
「あ、そうなの……」
アブリルは拍子抜《ひょうしぬ》けして、うなずいた。
「今度、おじいさまのお話を聞かせてくださいね。まぁ、なんてこと」
「う、うん……」
アブリルはうなずいた。
それから、非常食《ひじょうしょく》にと思ってポケットに入れていたチョコレートを取りだして、一口かじった。
女子寮《じょしりょう》を出て、一人で歩き出す。
もうとっくに日が暮れて、庭園《ていえん》を夜の闇《やみ》が覆《おお》い始《はじ》めていた。白い砂利道《じゃりみち》には柔《やわ》らかな月光《げっこう》が降《ふ》り落《お》ちていた。生徒たちもみんな寮の自分の部屋で、勉強したり、思い思いに過《す》ごしているのだろう。噴水《ふんすい》の水が、ひんやりとした水柱《みずばしら》となってゆっくりとうごめいていた。アブリルはすこし寂《さび》しくなって、足早《あしばや》に花壇《かだん》に急《いそ》いだ。
迷路《めいろ》花壇は、いつもと同じようにそこにそびえていた。のっそりと、巨大な姿でアブリルを見下ろす。どこかで梟《ふくろう》が、ホゥ〜と鳴《な》いた。雲《くも》が流《なが》れて、月が姿を消した。一瞬《いっしゅん》、闇が辺《あた》りを包《つつ》みこんだ。
耳元でなにかの気配《けはい》を感じた。
声にならない、少女の囁《ささや》き声のような。
暗い、恨《うら》みのこもったつぶやきのような。
でも、どこか甘《あま》い。吐息《といき》のような。
誰かの気配。
……たぶん、この迷路花壇の奥に隠《かく》れる、あの真に非凡な、輝《かがや》く、金色の少女の気配なのだ。アブリルは急に怖《こわ》くなった。でも歯を食いしばって、一歩、踏み出す。
冷たく、湿《しめ》った風が吹いた。
花びらが揺《ゆ》れて、色とりどりの残滓《ざんし》のようにアブリルに吹きつけ、歩みのじゃまをした。雲がまた流れて、闇に月明《つきあ》かりがまた届き始めた。青白い、今宵《こよい》の月。アブリルはぶるぶるっと震《ふる》えた。顔に吹きつける湿った、すこしなまぐさくも感じる秋の花の花びらたちを右手ではたき落として、それから、左手に持った外灯《がいとう》を高く掲《かか》げた。
迷路花壇は暗く、闇が口を開けたような漆黒《しっこく》の輝きを放《はな》っていた。
風が吹くたび、花たちが、上から、下から、前から、横から、アブリルをからかい、嘲笑《あざわら》うようにうごめく。湿って、なまぐさい、花の――少女の気配が立ちこめている。
「よし、行くぞ」
アブリルはうなずいた。
どこかでまた、梟が鳴いた。
アブリルは歩きだした。
暗闇が彼女の、元気いっぱいの、長くてしなやか四肢《しし》をまたたくまに飲みこんでいった。
そして――。
一時間後。
「ま、また迷《まよ》った!」
アブリルは外灯を片手に、呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいた。
昼間《ひるま》でさえ迷った、この巨大な迷路花壇は、暗闇に飲みこまれたこの時間ではさらに巨大な謎《なぞ》となって、迷いこんだ者を悩ませていた。さっきも通ったような気がする道。さっきも見たような気がする花びら。月明かりの方向だけが頼《たよ》りなのに、雲がいたずらに流れては月を隠《かく》し、またたくまに闇に包まれてしまう。そのあいだにさらに迷って、月が再《ふたた》び顔を出したときは、思わぬ方向に立っている。
「どういうことー?」
アブリルは夜空《よぞら》に向かって、叫《さけ》んだ。
澄《す》んだ青い瞳に、ちょっとだけ涙《なみだ》が浮かんできた。
「迷ったよー」
迷路花壇の入り組んだ形状は、まるで巨大な獣《けもの》の体内に迷いこんだような気持ちにさせた。複雑に絡《から》みあう細い通路は、花に囲まれた腸《ちょう》のようで、なまぐさい匂いもまた、花を食べた獣の体内を想像させた。どこか遠くで梟が鳴いている。と思ったら、すぐ近くでまた、ホゥ、と短く鳴いた。アブリルはぞっとした。
(ずいぶんおおきな梟の気配だわ。翼《つばさ》の音が重《おも》たいもの)
不安になって、荷物を下をす。
(だいじょうぶかな。梟は肉食だって、授業《じゅぎょう》で習《なら》った気がするけど……でも、まさかね)
とりあえず懐中電灯もおいて、元気を出すために、非常食を食べることにした。チョコレートを取りだしてもぐもぐ食べていると、雲が流れて、月がアブリルを柔《やわ》らかく照《て》らし出した。
赤や、白や、ピンクの花が咲《さ》き乱れて、アブリルの周《まわ》りを取《と》り囲《かこ》んでいた。アブリルは花に見とれるように、なにかに目を吸《す》い寄《よ》せられた。「あっ……!」とつぶやいて、花壇のひとところをじいっとみつめている。そこには、真《ま》っ赤《か》なデイジーの花が、可憐《かれん》な様子《ようす》で一輪《いちりん》、咲いていた。
それをみつめるアブリルの手から、チョコレートがぽろりと落ちた。
「あぁ……」
なぜか、しんみりとした顔になって、目尻《めじり》に涙を浮かべ始める。
「うーん……」
アブリルが花壇に咲くデイジーの花をみつめて立《た》ち尽《つ》くしている、その通路《つうろ》を、とことこ、とことこと足音とともに、誰かがやってきた。
とことこ、とことこ。
ちいさな足。
黒真珠《くろしんじゅ》の飾《かざ》りに覆《おお》われた黒《くろ》い靴《くつ》。
青いビロードのドレスに、繊細《せんさい》なフランス編《あ》みの黒レースを重ねた、夢のように豪奢《ごうしゃ》なドレス。
月明かりの中、その姿は夜の幻《まぼろし》のようにうっすらと浮かび上がっている。
ほどけた絹《きぬ》のターバンの如《ごと》き金色《きんいろ》の髪が、足首《あしくび》の辺《あた》りまで垂《た》れて、歩くたびに揺《ゆ》れている。古代の生き物の、秘密の尻尾《しっぽ》のように、右に、左に、ゆっくりと。暗くけぶる碧《みどり》の瞳《ひとみ》はいまは、青いミニハットから垂《た》れる、黒い薄絹《うすぎぬ》のレースによって半《なか》ば隠《かく》されている……。
とことこ、とことこ、と歩いてきたビスクドールの如き生き物は、花壇を睨《にら》んでいる制服姿の少女をみつけて、足を止めた。
不気味《ぶきみ》そうにしばらく見ていたが、興味《きょうみ》なさそうな冷たい声で、
「あやしいやつ。なにしてるのだ」
と、聞いた。
物思いにふけっていたアブリルは、こころここにあらずでちらりと見て、
「あ、ヴィクトリカさん。なんでもないの。ちょっと考え事」
「考え事? ここでかね?」
「うん……。チョコレート食べる?」
アブリルはうるさそうに、放心《ほうしん》したまま、ポケットからチョコレートを出して差し出した。
ヴィクトリカと呼《よ》ばれたうつくしい少女は、ちょっとむっとして、
「いらん」
「んー……」
「では、さらば」
「あっ?」
アブリルはとつぜん、我《われ》に返《かえ》った。
また、ちょこちょこと歩き去ろうとするヴィクトリカを呼び止めた。
「ちょっと待った!」
「……なんだね、君」
「なんだね、じゃなーい! やっぱり、やっぱり、ここはヴィクトリカさんの家だったのね。そうじゃないかと思ってたんだ。久城くんが毎日|通《かよ》ってるんだもん。やっぱり、やっぱり!」
「うるさいなぁ……」
ヴィクトリカはしれっとして言った。
「君、誰だったかな。わたしの知人かね」
「知人かね、だとぅ! 忘れるの早すぎでしょ、いくら興味がないからって。わたしよ、わたし、屁《へ》こきいも、り……じゃなかった、そう呼んでたのは忘れて、もう呼ばれたくないから、じゃなくて、アブリルよ。アブリル・ブラッドリー」
「あぁ」
ヴィクトリカは、ぽんと手を叩《たた》いた。ちいさな手と手があわさって、かすかな、乾《かわ》いた音《おと》がした。
「ブラッドリーということは、あの、サー・ブラッドリーと関係《かんけい》があるのかね」
「あるわよ。おじいちゃんなの。大好きよ」
アブリルはいきおいこんで答えた。
それから、ちょっとしみじみとして、
「ついさっき、ソヴュールのご婦人にも大人気だって言われたけど。三歩、歩けばわたしのことを忘れるヴィクトリカさんでも、おじいちゃんのことは覚えててくれるのね」
「うむ。……じゃあ」
ヴィクトリカはまた、興味なさそうにアブリルから目を離して、とことこと歩きだした。アブリルはあわてて呼び止めようとした。このままでは花壇の謎《なぞ》も解《と》けないし、消灯時間《しょうとうじかん》までに寮に帰れるかさえこころもとないのだ。なんといっても、いま自分は、まさに花を喰《く》らった獣《けもの》の体内の如《ごと》き、巨大な迷路《めいろ》で迷《まよ》っているところなのだ。
と、呼び止める前に、めずらしいことにヴィクトリカのほうから振り返った。
首をかしげて、金色の髪を揺《ゆ》らしながら、アブリルをみつめている。
「君、いま……」
「なぁに? そうよ、見ての通り、道に迷っているところだけど……」
「それはどうでもいい。それより、君、いま……なにを思い出して悲しんでいたのだね」
アブリルは虚《きょ》をつかれて、黙《だま》った。
それから、ゆっくりと視線を、さっきまでみつめていた花壇の一箇所《いっかしょ》に戻した。
「それは……」
青いビロードのドレスを揺らしながら、とことことヴィクトリカが戻ってきて、いっしょにそれを覗《のぞ》きこんだ。
太古から生き続けている精霊《せいれい》の如き、碧の瞳が、ちょっと寄《よ》り目《め》になった。
「君……これは……」
「そう、これは」
アブリルはうなずいた。ちょっと涙ぐんで、真剣《しんけん》な声で、可憐《かれん》なデイジーの花の……葉《は》っぱに穴を開けている……真っ黒な毛虫を指《ゆび》さした。
「毛虫よ」
「……毛虫を見て悲しんでいたのか。屁《へ》こきいもり、君、ちょっとおもしろいな」
「おもしろくない! そうじゃなくて、わたしはこの毛虫を見て、あることを思い出したのよ。そうだ、ヴィクトリカさんに聞いてもらおうかしら。わたしの亡《な》くなった伯母《おば》をめぐる話よ。伯母の名前はデイジーっていうの」
ヴィクトリカがちいさく鼻《はな》を鳴《な》らした。
「デイジーか。悪くない名前だ。善良《ぜんりょう》な響《ひび》きがある」
「ええ。デイジーは、冒険家サー・ブラッドリーの長男、サー・ブラッドリー・ジュニアの奥方《おくがた》だったの。ジュニアはつまり、わたしの伯父《おじ》よ。この話をするには、まず虫について説明しなくっちゃいけないわ。というのは、彼の人生が真《しん》に始まったのは、一九〇一年。二十歳のときに、とある虫を見てからなの」
アブリルは熱心に話し出した。
月明かりが迷路花壇に降《ふ》り落《お》ちて、毛虫を指さしながら熱心に語るアブリルと、興味があるのかないのか、つめたい瞳《ひとみ》をして虚空《こくう》を見上げるヴィクトリカの姿を柔《やわ》らかく照《て》らしていた……。
3
英国《えいこく》が誇《ほこ》る、偉大《いだい》なる冒険家《ぼうけんか》、人生のファイターたるサー・ブラッドリーの息子《むすこ》、サー・ブラッドリー・ジュニアの人生は、当然のことながらというべきか、偉大なる父《ちち》を越《こ》えるための戦いに費《つい》やされた。その意味ではジュニアこそが真の、人生のファイターといえるかもしれないが、しかしその戦いは無益《むえき》でむなしい一面も持っていた。
十七歳で名門の寄宿《きしゅく》学校を飛び出した理由《りゆう》は、
「親父《おやじ》は学校を卒業した! それなら俺《おれ》は、卒業せずに大物《おおもの》になってやるぞ!」
であったし(父親はこのとき暗黒大陸《あんこくたいりく》たるアフリカを冒険旅行中だったため、母親にフライパンで叩《たた》かれて台所や庭を逃《に》げ回《まわ》ったという)、そのあと、フライパンを離《はな》さない母親によって無理やり押し込まれた別の学校では、
「親父は英国|紳士《しんし》だ! それなら俺は……」
と、町の不良《ふりょう》とつるみ始めて、乗馬用の鞭《むち》を持った母親に町中追いかけ回された。この厳《きび》しい母親もいまでは上品で穏《おだ》やかな老|未亡人《みぼうじん》となり、地中海|沿《ぞ》いの別荘で優雅《ゆうが》に生活しているのだが、それはまた別の話である。
ともかくサー・ブラッドリー・ジュニアは、父親を越えようとするあまりおかしなことばかりやらかしてしまい、十代を終えるころには、ロンドンっ子では知らない者がいないぐらい有名な、サー・ブラッドリーのばか息子≠ノなっていた。問題を起こした彼と、追いかけ回す母親の姿が新聞の風刺漫画《ふうしまんが》に載《の》ってしまったり、こんどはジュニアがなにをやらかすか、酒場《さかば》や社交クラブで賭《か》けが始まったり。
だがしかし、ジュニアはただのばか息子ではなかった。想像を凌駕《りょうが》するばか息子だったのだ……。
4
「……君の身内自慢《みうちじまん》は、ちょっと角度がおかしいぞ。屁《へ》こきいもり」
風がさわさわと吹いた。
夜の迷路花壇で、大演説をするアブリルを面倒くさそうに見やって、ヴィクトリカがつぶやいた。花壇のふちにちょこんと座って、淑女《しゅくじょ》の如《ごと》く優雅《ゆうが》な仕草《しぐさ》で、黒い羽根飾《はねかざ》りのついた青い扇子《せんす》を揺《ゆ》らしている。扇子が揺れるたびに、金色の髪がかすかな風にたなびいた。碧《みどり》の瞳《ひとみ》は宝石《ほうせき》のようにつめたく輝き、いまは、退屈そうに半分細められている。
「へ、へんじゃないわよ。伯父さんはすごいんだから」
「そうか?」
「そうよ。これからがいいところよ。ほら」
アブリルは月明かりに浮かび上がる、毛虫《けむし》を指《ゆび》さした。デイジーの葉《は》に丸い穴《あな》を開けて、むしゃむしゃと食べながら、毛虫はくねくねとうごめいていた。
「毛虫が、どうかしたかね?」
「伯父さんは、十代のころは偉大《いだい》なおじいちゃんのことを気にしていろいろと迷《まよ》ったけれど、でも、ついに自分が進むべき道をみつけたのよ。虫がきっかけでね」
「ふぅむ……」
アブリルはまた、張り切って話し出した。ヴィクトリカも仕方《しかた》なさそうに、扇子を揺らめかせてアブリルの話を聞いている。
雲が流れて、月明かりがまた暗《くら》くなった。
アブリルの声が、高まった。
5
ロンドンっ子の想像《そうぞう》を超《こ》えるばか息子、サー・ブラッドリー・ジュニアは、一九〇一年、二十歳《はたち》の誕生日になると、母親の目を盗《ぬす》み、港《みなと》に走った。なにをするつもりだったかというと、なんと船に乗るためだった。冒険家になるために? それとも旅行をするつもり? どれもちがう。ジュニアはなんと船乗《ふなの》りになろうとしたのだ。この行動は、酒場にたむろするロンドンっ子や、シニカルな英国紳士たちの想像を超えた。誰も予想をしていなかった。
ジュニアにはデイジー・ベルという幼なじみの女の子がいて、二人は十五歳のときから婚約《こんやく》していた。ジュニアはよく、このかわいい幼《おさな》なじみに「デイジー、デイジー」と歌いながら、彼女と同じ名前の花、真っ赤なデイジーの花束《はなたば》を贈《おく》ったものだった。デイジーはハチミツ色の髪にまんまるい瞳をした、病弱《びょうじゃく》だが、ちいさくて優しい女の子だった。だからこの日、船乗りになると言い出したジュニアに腰《こし》を抜《ぬ》かし、ただ呆然《ぼうぜん》と見送った。南アメリカに向かう船に、下っ端《ぱ》船員として乗りこんだジュニアは、岸壁《がんぺき》でぽかんと口を開けているデイジーに、五年ぐらいしたら帰ってくるぞ、と叫《さけ》んだ。
ところが、出航した瞬間に、ジュニアはなぜか船の甲板《かんぱん》から飛《と》び降《お》りて、海を泳いで、イギリスの海岸に戻ってきた。デイジーは二度びっくりして、
「ど、どうしたの?」
「やっぱり船乗りになるのはやめた。俺は親父よりずっとすごいやつになりたいんだ。だから俺は、俺は、ロンドンの地下にトンネルを掘《ほ》る!」
それを聞くと、デイジーは貧血《ひんけつ》を起こして倒《たお》れた。
じつはこの南アメリカ行きの船に乗ったとき、ジュニアは、船にちいさな穴を開ける船食い虫をみつけたのだ。細長い体をうごめかせて穴を開ける虫の姿に、ジュニアは閃《ひらめ》いた。
この当時、イギリスでは鉄道の線路作りが盛《さか》んだったが、人や建物の多い都市では、地下にトンネルを掘って鉄道線路をつくれないかと囁《ささや》かれ始めていた。だが、トンネル掘りの技術はまだ確立されていなかった。ジュニアはもともと、学業《がくぎょう》の成績《せいせき》はよかった。努力《どりょく》を要《よう》する暗記問題は苦手だったが、閃きに富《と》んでいた。そういうわけで、船から飛び降りたジュニアは、片手で倒れたデイジーを抱《だ》きとめ、もう片方の手で、浮かんだアイデアを書き記《しる》した。そしてデイジーを背負《せお》ったまま、元気よく鉄道会社に飛びこんだ。
アイデアはすぐに採用された。船食い虫の動きを模《も》した、トンネル工事用の機械を開発すると発表すると、もともと著名《ちょめい》人だったジュニアの仕事でもあり、新聞は飛びついた。社交界《しゃこうかい》の話題も、破天荒《はてんこう》な若者が開発する新しい時代の乗り物、地下鉄のトンネル一色《いっしょく》になり、資金集めも順調《じゅんちょう》だった。そんな中、ジュニアはかわいいデイジーと結婚《けっこん》することにした。父は北極《ほっきょく》に向かって冒険旅行に出かけて留守《るす》だったが、「君たちの幸《しあわ》せを祈《いの》る」というメッセージ付きの伝書鳩《でんしょばと》の大群を、教会に飛ばして息子夫婦を祝福《しゅくふく》した。
結婚してからのジュニアは忙《いそが》しくて、トンネルを開通《かいつう》させるために西へ東へ、奔走《ほんそう》する毎日だった。デイジーは娘のフラニーを産《う》んで育《そだ》てたが、夫はほとんど留守のまま。妻《つま》の名前と同じ、デイジーの花束を贈《おく》ることも、「デイジー、デイジー」とふざけて歌うこともなくなった。ジュニアは忙しく飛びまわり、その胸には常《つね》に偉大《いだい》な父の影があった。ついにロンドンでトンネル工事が始まったが、思わぬ事態《じたい》が待っていた。
工事中に落盤事故《らくばんじこ》があり、途中で頓挫《とんざ》してしまったのだ。彼を持ち上げていた新聞も、ロンドンの社交界も、ジュニアにとつぜん背を向けた。偉大な父を越えるどころか、父の面汚《つらよご》しの息子になってしまったのだ。多額《たがく》の借金《しゃっきん》と、汚れた名誉《めいよ》が残り、苦労《くろう》しているときに、もともと病弱だったデイジーが病《やまい》に倒《たお》れた。しばしの闘病《とうびょう》の後、デイジーは「あなたの夢《ゆめ》が叶《かな》ったとき、わたしはそばにいるわ」と言いおいて、息を引き取った。
それからのジュニアは、自暴自棄《じぼうじき》になり、たいへんな有様《ありさま》だった。でも、英国中に背を向けられても、家族が残った。ジュニアの弟、つまりアブリルの父に当たる人が世話《せわ》をし、娘のフラニーは寄宿学校に入った。あまりにもジュニアが、日常のことができないままなので、しばらくすると死んだデイジーの姉に当たるレニーが、家政婦《かせいふ》代わりに家にやってきた。レニーは、妹のデイジーとは正反対の資質《ししつ》を持っていた。家事《かじ》をきちんとこなし、伯父に栄養《えいよう》のある食事を与えたが、大柄で険《けわ》しい顔をして、あまり笑わない女性だった。家の中は「デイジー、デイジー」と泣き暮らす伯父と、いらいらしているレニーだけで、火が消えたような有様だった。やがて偉大なるサー・ブラッドリーが気球ごと大西洋に消えてしまうと、ジュニアはますますふさぎこんだ。
しかし、それから十年が経《た》った今年、紆余曲折《うよきょくせつ》を経《へ》てようやくトンネルが完成した。ジュニアの名誉は無事に回復した。ロンドンでは記念|式典《しきてん》が開かれ、サー・ブラッドリー家の面々も招《まね》かれた……。
6
アブリルは話し終わった。
「……と、いうわけなのよ。それがつい先日のことなの」
月明かりが再《ふたた》び射《さ》して、熱心に語るアブリルの、血色《けっしょく》のいい健康的な顔を照《て》らしだしていた。傍《かたわ》らに座《すわ》って扇子《せんす》で顔をあおいでいるヴィクトリカは、ちょっとあきれたような顔をして、張《は》り切るアブリルを見上げていた。
「うむ……」
「夏休みが終わるころでね、わたしもおばあちゃんと一緒に、式典に参加したの。おばあちゃんっていうのが、その、フライパンでロンドンっ子に有名になった、ジュニアの母親よ」
アブリルは荷物の中から、新聞を取り出した。見出しに「サー・ブラッドリー・ジュニアのトンネルがついに完成!」と文字が躍《おど》っている。開くと、トンネルの中らしい場所《ばしょ》で紳士淑女が並んでいる写真が載《の》っていた。
「ほら、これが伯父さん。こっちがレニーおばさんでね。これが娘のフラニー。わたしの従姉姉《いとこ》ね。ほら、ここにわたしも写ってる!」
ジュニアは燕尾服《えんびふく》を着て、傍らに立つおばさんはなるほど、厳《いか》めしい顔をした大柄な女性だった。ふっくらふくらんでくるぶしまである、古めかしいドレスを着ている。アブリルとフラニーはシンプルなブラウスと膝丈《ひざたけ》のスカートで、おばあちゃんもシンプルな服を着ていた。
写真を指《ゆび》さしながら、アブリルはすこし、声を低くした。
「じつは、この式典のときにね……」
さらに低くして、脅《おど》かすようにおどろおどろしく、
「デイジー伯母さんの幽霊《ゆうれい》が出たの!」
「……出ない」
ヴィクトリカが否定《ひてい》した。アブリルはびっくりして、
「出たってば」
「いや、出ない」
ヴィクトリカは自信を持って、もう一度否定した。アブリルはふくれて、
「どうしてわかるの?」
「なぜなら、幽霊なんていないからだ」
「いるー!」
アブリルは地団駄《じだんだ》を踏んだ。
「これだけは譲《ゆず》れないわ。幽霊はいるのよ。ぜったいいるんだってば」
「うるさい子供だなぁ。それなら、せいぜい話してみたまえよ」
「自分だって子供のくせに! いいわよ、じゃあ、話すわ。よーくお聞きなさいよ。この式典の写真を撮《と》った直後のことよ……」
アブリルは腕まくりして、話し出した。
花壇《かだん》の花が、風もないのにゆっくりと、幾《いく》つかの花びらを散らせた。地面にくるくると落ちて、生き物のようにうごめいた。
7
華《はな》やかな式典のあいだ、ジュニアはにこにこしていたが、アブリルは(伯父さん、なんだか元気がないみたい……)と気になっていた。従姉姉《いとこ》のフラニーとはもう顔見知りなので、二人で、せっかくロンドンまできたから買い物に行こうね、などと話していると、そばでジュニアが、
「デイジー。おぉ、デイジー……」
と悲しそうにつぶやいたのが聞こえてきた。
(伯父さん……。やっぱり、死んだデイジー伯母《おば》さんのこと、気にしてるんだわ。このトンネルの成功《せいこう》を誰《だれ》よりも祈ってたのに、ずっと前に病気で死んじゃったんだもの……)
「デイジー。おお、デイジー!」
ジュニアの声色《こわいろ》が変わったので、アブリルは気になって、振《ふ》り返《かえ》った。悲しみだけでなく、驚きのニュアンスを感じたのだ。
振り向いたアブリルも、そしてフラニーも、みんながあっと叫《さけ》んだ。
トンネルの奥、暗闇《くらやみ》に光が点《とも》るように、真っ赤なデイジーの花がいつのまにか一面に零《こぼ》れ落ちていたのだ。あっちにも。こっちにも。わたしここにいるわ、こちらにもいるわ、と囁《ささや》くように。
(あなたの夢が叶《かな》ったとき、わたしはそばにいるわ――)
ジュニアは唖然《あぜん》として立ち尽《つ》くしていたが、しばらくするとふらふらと走り、一面にあふれたデイジーの花を一輪《いちりん》、一輪、拾い出した。胸《むね》にあふれるほどの花を抱えて、ジュニアはひざまずいた。
「デイジー、遅くなって悪かった。デイジー、俺は父のことばかりで、ほかを振り向かなかった。偉大な父の、愚《おろ》かな息子だった。でも、ずっと一緒にいてくれたのだね……!」
アブリルとフラニーは手を取り合って、震《ふる》えた。おばさんとおばあちゃんも抱き合って立ち尽くしていた。
トンネルの中には、この世ならぬものの気配《けはい》を伝えるように、風がビョォォォ……と低い震える音を立てていた。急に気温が低くなった気がした。誰も、なにも言わずにただ立ち尽くしていた……。
ここにいるわ……。
こっちにもいるわ……。
デイジー、デイジー……。
8
「……ずいぶんと、仲《なか》のいい姉妹《しまい》だったのだな」
ヴィクトリカがつぶやいた。
アブリルは話し終わって、ぼうっとしていたが、やがて気づいて聞き返した。
「誰のこと?」
「デイジーと、姉のレニーだ」
「うーん。仲、よかったのかしら。わたしは物心つく前にデイジー伯母《おば》さんが亡《な》くなってて、よく知らないんだけど。でも子供のころは姉妹でよく遊んだって言ってた気がするな。……どうして?」
「どうしてって、君……デイジーの幽霊《ゆうれい》の正体は、姉だろう」
「えっ?」
アブリルは聞き返した。きょとんとした顔をして、片手にかじりかけのチョコレートを握《にぎ》ったままで不思議そうに首をかしげている。
ヴィクトリカはあきれた顔をして、
「トンネルに花を撒《ま》いたのは、レニーおばさんだよ。おそらく、だがね。『あなたの夢が叶ったとき、わたしはそばにいるわ』という妹の言葉を叶えるために、長いあいだ、妹の亭主にくっついていたのだ。ところがなかなかジュニアの夢が叶わないので、毎日、いらいらしたことだろう」
「ど、どうしてわかるの?」
ヴィクトリカはちいさな顔をしかめた。面倒くさそうに、
「簡単な消去法だよ。第一に、幽霊はいない。それなら誰かが犯人だ。写真を見たところ、花をどこかにたくさん隠《かく》してトンネルに入ることができたのは、身内ではおばさんだけのようだ。男性はからだにぴったりフィットした燕尾服姿《えんびふくすがた》だし、君たち女性も、ほとんどはシンプルなスカート姿だ。おばさんだけが大仰《おおぎょう》な、ふくらんだドレスを着ている。ドレスの下に隠せば、たくさんの花も、内緒《ないしょ》で持ちこむことができるのだろう。そして人目を盗んでトンネルにばらまいたのだ。おや……ほら、見てみたまえ、君」
ヴィクトリカは、新聞に載《の》った写真の一点を指さした。
「厳《いか》めしいレニーおばさんの、おかしな尻尾《しっぽ》が覗《のぞ》いているぞ」
言われてアブリルも、写真をじいっと見た。
「……あ!」
おばさんのドレスの裾《すそ》から、ちょっとだけ、デイジーらしきまんまるい花が一輪《いちりん》、覗いていた。
「ほ、ほんとだー! おばさんたら、こんな大|真面目《まじめ》な顔《かお》して、こんなところに花を隠して持ちこんだのね? 気づかなかった! あぁ、もう、わたしもフラニーも、ほんとに幽霊だと思ってきゃあきゃあ大騒《おおさわ》ぎしたのに!」
アブリルはなぜか残念そうに叫んだ。
ゆっくりと、物憂《ものう》げにヴィクトリカがうなずいた。
「うむ。……優しい人なのかもしれないな。この人は」
「……そうね。子供のころから、いつもいらいらしてて、怖《こわ》いイメージがあったの。だからわたし、レニーおばさんにぜんぜんなつかなかったんだけど。写真で見るデイジー伯母さんのほうが優しそうだしね。だけど、こんどちょっと、おばさんとも話してみようかな……」
アブリルはそうつぶやいて、チョコレートをかじった。
「そういや、この事件の後、伯父《おじ》さんとレニーおばさんは、前より仲よくしてるって。どうしてかしらって、フラニーが不思議がってた」
「伯父さんも、おそらく花の主《ぬし》に気づいているのだろう。この二人は仲がいいから一緒《いっしょ》にいるのでなく、共通の、大切な人……いなくなったデイジーの面影《おもかげ》によって結びついているのだ。不思議な関係だがな」
アブリルは首をかしげた。ちょっと不安そうに、
「でも、そんなことって、あるかしら」
「さてね」
ヴィクトリカはふいにうんしょ、と立ち上がった。
秋のつめたい風が吹いた。アブリルはきゃっとつぶやいて目を閉じた。花壇《かだん》の花が激《はげ》しく揺《ゆ》れて、花びらが洪水《こうずい》のようにうごめき、ちいさな竜巻《たつまき》をつくった。
目の前に立つヴィクトリカの、見事な金色《きんいろ》の髪《かみ》が巻《ま》き上がり、碧《みどり》の瞳《ひとみ》がつめたく輝《かがや》いた。青いビロードのドレスが、月明かりに暗く照《て》らされている。
「……まぁ、子供には難《むずか》しいことだ」
ヴィクトリカが奇妙《きみょう》なことをつぶやいた。風にじゃまされて、アブリルは目を閉《と》じたり、そっと開けたりしながらも、
「なに言ってるのよー。ヴィクトリカさんだって子供でしょ」
「さてね」
答える声は、いや、さきほどから話している声は、そういえばいつものヴィクトリカのようにしわがれてはいなかった。澄《す》んだ、すこし低い、柔《やわ》らかな声。
「ヴィ……」
アブリルは目を閉じて、つぶやいた。
「ヴィクトリカ、さん……?」
返事はない。
目を開けると、青いビロードをマントのようにはためかせ、ヴィクトリカが歩み去ろうとしているところだった。次第《しだい》に風がやんだので、アブリルはあわてて、花びらをはたき落《お》としながらその後を追った。
「待って、ヴィクトリカさん!」
敏捷《びんしょう》な動きで追いつき、かもしかのように長くしなやかな、健康的な足で、ヴィクトリカのドレスの裾《すそ》を踏《ふ》もうとする。これ一発でヴィクトリカはすてんと転《ころ》んで、顔から地面につっこんで、いたい、いたいと騒ぐ……はず……とわかっているのに、このときはなぜか、失敗《しっぱい》した。
アブリルの気配を察《さつ》したのか、ヴィクトリカはひらりと敏捷な動きでかわし、二歩ほど先を、またすまして歩いていた。アブリルは「あれ?」と思って、また足を出した。
ひらり。
また、かわされた。
アブリルは不思議《ふしぎ》そうな顔になった。いつになく敏捷なヴィクトリカは、とことこと歩いて、花壇《かだん》の角を曲がって姿《すがた》を消した。
あわててアブリルが、
「待ってってば! あなた、今夜はなんだか、いつもと様子が……」
角を曲がって……。
おどろいて、立ち尽《つ》くした。
そこは迷路《めいろ》の行き止まりだった。正面にも、右にも、左にも、ぎっしりと花壇が続いている。それなのにヴィクトリカの姿は幻《まぼろし》のように消えていた。
アブリルは呆然《ぼうぜん》とした。
ホゥゥ〜、とすぐ近くで梟《ふくろう》が鳴《な》いた。
「ヴィ、ヴィクトリカさん……? よね、いまの……?」
アブリルはぞくっとして、身を震《ふる》わせた。
月明かりが、誰《だれ》もいない、行き止まりの花壇を照《て》らしている。
「なんだか、いまのヴィクトリカさんが、幽霊《ゆうれい》みたいだわ……。花の風といっしょに、消えてしまうんだもの……」
アブリルはつぶやいた。
そして怖《おそ》れるように、一歩、もう一歩、と後《あと》ずさった。
ホゥゥ〜、とまた梟が鳴いた。
月明かりを雲が隠《かく》し、夜空《よぞら》がぐっと暗くなった。
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エピローグ
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その夜――。
夏が終わり、あっというまにやってきて学園《がくえん》を支配《しはい》した湿《しめ》った秋の風が、闇《やみ》の中を黒《くろ》いヴェールを揺《ゆ》らめかせるように吹《ふ》いていた。図書館塔《としょかんとう》の古い石壁《いしかべ》に当たって、ちいさな暗い竜巻《たつまき》になった。庭園の森は黒く闇に沈《しず》んで、木々の葉も夜露《よぎり》に暗い輝《かがや》きを放《はな》っていた。
森から飛び立った、ガラスのような目玉《めだま》をしたおおきな梟《ふくろう》が、芝生《しばふ》を横切《よこぎ》り、青白い月にその丸く毛むくじゃらのからだを照《て》らし出されながら、ゆっくりと迷路花壇《めいろかだん》の上を通り過ぎた。暗い上空から見下ろす、梟のガラスの目玉には、入り組んだ、幾何学的《きかがくてき》な紋様《もんよう》である迷路花壇は、自然界にはない不思議な光景に映《うつ》った。人間のつくるものの複雑《ふくざつ》さにあきれるように、梟は、ホゥ〜、と短く、太く鳴《な》いた。
迷路花壇の真ん中にあるちいさな二階建ての特別寮《とくべつりょう》から、溶《と》かした金を流したような、黄金《おうごん》のちいさな川が姿《すがた》を現した。それはちいさな少女の青白い顔から、夜の風になびく見事《みごと》な長い金髪だった。梟は急降下し、少女の窓辺《まどべ》に近い、花壇の一角に舞《ま》い降《お》りた。
少女――ヴィクトリカは、白いレースのボンネットに、フリルでたっぷりふくらんだ白いドレス姿で、窓辺に腰《こし》かけていた。窓の外を見て、人間の目に夜の闇は越《こ》せないだろうに、不思議な碧《みどり》の瞳《ひとみ》を輝かせて、
「また、梟か。……ご苦労《くろう》なことだ」
ホゥ〜。
梟は、返事をするように短く鳴《な》いた。
窓辺に座《すわ》るヴィクトリカは、テーブルに飾《かざ》ったガラス瓶《びん》にあふれるかわいらしい花たちを、じっとみつめていた。いつまで眺《なが》めても飽《あ》きないというように、頬杖《ほおづえ》ついて、しかしそのちいさなうつくしい顔には、どんな表情も浮かばずひんやりとして見えた。
立ち上がって、ガラス瓶の水を替《か》えて、また、そーっとテーブルに置く。それから書物《しょもつ》を一冊《いっさつ》取《と》って、開いた。白い陶製《とうせい》のパイプを片手に、書物を読み始める。ときおり、ガラス瓶の花をまたみつめる。かすかに表情が変わったようにも見えるが、しかし、気のせいかもしれない。
さくらんぼのようなつやつやの唇《くちびる》を開いて、
「……いつもの夜だ」
独《ひと》り言《ごと》を言う。それからパイプをくゆらし、書物をめくった。
梟は短く鳴いて、夜の闇にまた飛び上がった。
ホゥ〜。
職員《しょくいん》寮では、肩までのふわふわブルネットに丸眼鏡《まるめがね》の、垂《た》れ目《め》がちの女性――セシル先生が、赤毛にそばかす顔の、やけに色っぽい女性――寮母《りょうぼ》のゾフィといっしょに、一階の談話《だんわ》室でレモンケーキを頬張《ほおば》りながら、笑いあっていた。
「セシルくん、君って子は、まったくモゥッ」
「あはは、セシル、あんたって校長先生の真似《まね》が抜群《ばつぐん》にうまいわね!」
「あー、ゾフィくん、朝食のパンは焼《や》けているかね。ほぅ、焼き立てだ、一つくれたまえ。もふもふ、うまい!」
「うははは、理事長の真似もそっくりよ。あんたって天才だわ!」
「乗ってきた、乗ってきた。ゾフィ、歌おう!」
「よしきた!」
二人は立ち上がって、膝《ひざ》に散《ち》らかっていたケーキのくずをお行儀《ぎょうぎ》悪く床《ゆか》にはたき落とした。グランドピアノの前に座ったセシルが、肩を揺《ゆ》すって、陽気《ようき》なチャールストンのナンバーを弾《ひ》き始めた。ゾフィがスカートの裾《すそ》をぱたぱためくりながら、踊りだす。
声を合わせて、歌う。
「ぼくたち、びんぼう。
でも、愛《あい》し合《あ》っているのさ。
お金がないから、豪華《ごうか》な結婚式は挙《あ》げられない。
でもきっと君は素敵《すてき》さ。自転車に乗る君、
微笑《ほほえ》む君、ごはんを食べる君、いつだって素敵。
ぼくたち、明日、結婚するのさ。いやっほー!」
「いやっほー!」
「こらーっ、セシルくん! ゾフィくん!」
遠くから、校長先生の怒《おこ》る声がした。セシルとゾフィは顔を見合わせて、同時によく似《に》た、あちゃー、という表情を浮かべた。おどろくべきはやさでピアノの蓋《ふた》を閉《し》め、レモンケーキのお盆を頭に載《の》せて、二匹の子犬のように窓《まど》から飛び出した。
「何時だと思っとるんだ。君って子は、まったくモウッ。生徒は部屋でちゃんと勉強しているのに、君たちときたら……あれ? セシル? ゾフィ?」
怒《いか》りに顔を真っ赤にして飛びこんできた校長先生は、きょろきょろした。
広い談話室の中には誰《だれ》もいなくて、しんと静《しず》まり返っていた。校長先生はしばらく呆然《ぼうぜん》と立っていたが、やがて、床に散《ち》らばっているレモンケーキのくずと、開《あ》けっ放《ぱな》しの窓で揺れている白いカーテンを交互《こうご》に見た。
「……やれやれ」
深々とため息をつく。
「大人になったら、すこしは落ち着きが出るかと思っていたら……変わらんなぁ、あの子たちは」
窓を閉めようと近づくと、ちょうど飛び立ったところらしい梟《ふくろう》の、残響《ざんきょう》のような低い鳴き声が聞こえてきた。ホゥ〜。窓の外では青白い月が、学園の広大な敷地《しきち》をうっすらと照らしだしていた。
男子寮のとある部屋では、黒髪《くろかみ》に、同じ漆黒《しっこく》の色をした瞳《ひとみ》の東洋人の少年――久城一弥《くじょうかずや》が、マホガニー製の重厚《じゅうこう》な机に向かい、一人でこつこつと勉強をしていた。
伸《の》びてきた前髪《まえがみ》が、開け放した窓から吹《ふ》く風に、ときおりゆっくりと揺れる。
「フランス語も英語も、マスターしたぞ。もう大丈夫。勉強にもついていける」
独り言を言いながら、教科書をめくる。
あくまでも生真面目《きまじめ》な顔をして、背筋《せすじ》もしっかり伸びている。
「だけど、ラテン語はまだよくわからないや……。覚えることがいっぱいあるなぁ……」
そうつぶやくと、不安になったのか、ちょっと悲しそうに目を伏《ふ》せる。
「いやいや、ぼくは国の代表なんだから、しっかり勉強して、立派《りっぱ》な男にならなくちゃ。今日もがんばろう。よし……」
また教科書に向かう。
風が吹く。
しばらくすると、右手は休みなく、ノートにペンを走らせながら、無意識《むいしき》のように、
「瑠璃《るり》に逢《あ》いたいなぁ」
と、つぶやく。
教科書をめくりながら、
「姉さん、ぼくがソヴュールにいるあいだに、お嫁《よめ》に行ってしまうんだろうか。下駄《げた》みたいな四角い顔の人のところに……。そんなの、寂《さび》しいな……。いや、でも……」
ぷるぷると首を振る。漆黒の髪がそのたびに右に左にたなびいた。
「お嫁に行っても、厳《きび》しい先生になっても、なにがどうなっても、姉さんは姉さんだ。……久しぶりに、手紙を書いてみようかな」
教科書をめくりながら、
「ラテン語の予習が終わったら、瑠璃に手紙を書こう。うん」
窓の外で、ばさり、とおおきな羽音《はおと》が響《ひび》いた。一弥はおどろいて顔を上げた。
立ち上がり、フランス窓から顔を覗《のぞ》かせて外の闇を見る。それから微笑《ほほえ》んで、
「なんだ、梟か……」
つぶやくと、窓をゆっくりと閉《し》めた。
迷路花壇の出口からは、ようやくのこと、大荷物《おおにもつ》を持ったアブリルが出てきたところだった。
風が吹くたびに散る花びらを浴びて、あちこちに赤やピンクや黄色の花びらがくっついていた。カラフルな姿になったアブリルは、額《ひたい》に浮かんだ汗を拭《ふ》いて、
「ふぅ、やっと出てこれた……」
はぁはぁと肩で息をした。
「非常食を持って入って、正解だったわ。いつまでも出てこれないかと思っちゃった。ふぅ……あれっ?」
ばさり、と重たい羽音がしたので、空を仰《あお》ぐ。
ちょうど、青白いおおきな月とアブリルのあいだを、翼を広げた梟が横切《よこぎ》ったところだった。おおきなシルエットに、アブリルは目を細めた。
「梟か……」
歩き出そうとして、ふと振り返る。
辺りを見回《みまわ》す。
庭園は夜の闇《やみ》に落ちて、どこも暗《くら》く沈《しず》みこんでいる。噴水《ふんすい》の水も不吉《ふきつ》な音を立て、芝生《しばふ》も夜露《よつゆ》にじんわりと濡《ぬ》れている。闇の向こうになにかがいる気がして、アブリルはごくんとつばを飲んだ。
「そういえば、さっきのヴィクトリカさん、なんだかへんだったわ。ヴィクトリカさんなのに敏捷《びんしょう》だったし、角を曲がったら消えちゃったし。花の幽霊《ゆうれい》のような、不思議な、闇夜のヴィクトリカさん……」
つぶやいて、夜空を仰ぎ見た。
すぐ近くで、意外なほど大きな声で、ホゥ〜と梟が鳴《な》いた。
「あんな大荷物で入っていくから、てっきり、侵入者《しんにゅうしゃ》かと思ったのだ」
――そのすぐ近くの、樹木《じゅもく》の枝《えだ》で。
ひときわ丈夫《じょうぶ》そうな樫《かし》の太《ふと》い枝に座《すわ》り、黒|真珠《しんじゅ》の飾《かざ》りに覆《おお》われた黒い靴《くつ》を履《は》いた、ちいさな両足をぶらぶらとさせながら、コルデリアがつぶやいた。
娘のヴィクトリカとそっくりの、ビスクドールのように整《ととの》った凄《すご》みのある美貌《びぼう》。碧《みどり》の瞳《ひとみ》はわずかに色が濃《こ》く感じられるが、夜の闇に溶《と》けこんでいるせいかもしれない。青いビロードのドレスに、繊細《せんさい》なフランス編《あ》みのレースを重ねた、夢のように豪奢《ごうしゃ》なドレスを湿《しめ》った秋の風にたなびかせている。金色の髪は黄金の濁流《だくりゅう》のように、樫の枝から地面に向かって垂《た》れ落ちて、意思《いし》を持つかの如《ごと》くうごめいている。
青いミニハットから垂れる、黒い薄絹《うすぎぬ》のレース越《こ》しに、聖マルグリット学園の広大な敷地《しきち》を静かに見下ろしていた。
「なんだったんだ。あの、おかしな女の子は」
となりに立っていた背の高い男が、つぶやいた。
こちらはすらりと長身《ちょうしん》で、たてがみのような真《ま》っ赤《か》な髪をいまは後ろで結んでいた。黒いコートは夜の風をはらんでマントのように広がり、つりあがり気味の碧の瞳は、コルデリアよりも酷薄《こくはく》そうに薄い色で瞬《またた》いていた。
黒いブーツのつま先で、枝を蹴《け》る。驚くほどたくさんの葉《は》が舞《ま》い落《お》ちて、ゆっくり、元気に歩《あゆ》み去《さ》ろうとするアブリルの頭上にはらはらと落ちてきた。アブリルは不安そうに眉《まゆ》をひそめ、また振り返った。
「……友達《ともだち》だろう。予測《よそく》していなかったが」
コルデリアが澄《す》んだ声で答えると、となりにいた赤毛の男――ブライアン・ロスコーは乾《かわ》いた声で笑った。
「灰色狼《はいいろおおかみ》に友達なんて、できるものか」
「ブライアン、灰色狼、などとひとくくりにするな。あれはわたしの娘《むすめ》だ」
落ち着いた声でコルデリアが答えると、ブライアンは顔をゆがめた。
「おまえと、この国の貴族とのあいだにできた娘だ。いわばできそこないの灰色狼だ。混《ま》ぜてはいけない血を混ぜたのだ」
「ちがう。――新しい可能性だ」
コルデリアは言い張った。ブライアンはなにか言いたげに口を開いたが、やがて気分を変えたように口を閉じた。
それから、コートのポケットからじつに無造作《むぞうさ》に、ちいさな赤い箱を取り出した。コルデリアに見せながら、
「十年ぶりにこれを取り返してみたわけだが……。オカルト省と科学アカデミーはまだ、争《あらそ》っているのか」
「そのようだ」
「それなら、俺《おれ》たちの身は安泰《あんたい》だな」
ブライアンはつぶやくと、枝《えだ》から、となりの樹木の枝に驚《おどろ》くほど身軽《みがる》に飛び移った。それを見て、コルデリアはほんのすこし表情を動かした。ブライアンの後を追い、自身も青いビロードの風のようにしなやかに、木から木へ飛び移る。
木から、木へ。
下の枝から、上の枝へ。
鳥のように身軽に。
コルデリアは澄んだ声で、訴《うった》える。
「近く、我《わ》が娘はまたなにかに巻《ま》きこまれることになるだろう。平穏《へいおん》な日々は短い」
「それで、心配で様子を見にやってきたのか。ふん。ご苦労なことだ」
肩をすくめて、ブライアンが答える。
「ブライアン、君、覚《おぼ》えているか。ココのことを」
「ココ? ……あぁ、ココ=ローズか」
ブライアンは振り返り、にやりと笑った。肉食獣《にくしょくじゅう》が口を開いたような、奇妙《きみょう》な不気味《ぶきみ》さがあった。月が雲の向こうに消え、夜の闇が二人を覆《おお》いつくした。暗闇の中、声だけが響《ひび》いた。
「覚えているさ。かわいい王妃《おうひ》だった。遠い国からソヴュールに輿入《こしい》れして、シャルル・ド・ジレ陛下《へいか》とともに国民に大人気だったな。確か〈ソヴレムの青い薔薇《ばら》〉と呼ばれていたはずだ。金の髪に青い瞳の、かわいいココ=ローズ。ちいさな薔薇の花みたいな子だった」
「しかし、彼女は王室での生活の不安から、オカルトにのめりこんだ。この学園の時計塔《とけいとう》に潜《ひそ》んでいた錬金術師《れんきんじゅつし》リヴァイアサンとも強い関《かか》わりがあった。かわいくて、いつも不安だった、ちいさなソヴレムの薔薇。彼女の死を覚えているか、ブライアン」
「忘れるはずはない。だって、あの謎《なぞ》はまだ解《と》かれていないんだからな。世界大戦のどさくさもあるし、ただでさえココの生活は、晩年はあやしいオカルトにまみれていた。確か、王宮《おうきゅう》で消えたのとほぼ同時に、遠《とお》く離《はな》れた田舎《いなか》のカントリーハウスで、無残《むざん》な死体になってみつかったんだ」
「そうだ」
「それがどうしたんだ? どちらにしろ、はるか昔の話じゃないか。確かに王室《おうしつ》のスキャンダルだったが、とっくに迷宮《めいきゅう》入りしている」
「あぁ」
「おまえのかわいい小狼が、なにに巻きこまれると心配してるんだ?」
「……」
「まさか」
「オカルト省は、〈王宮のココ=ローズ殺人事件〉の謎を解きたがっている。それによってある人物の弱みを握《にぎ》りたいためだ。オカルト省が使《つか》うとすれば、我が娘。欧州最大《おうしゅうさいだい》にして最後の頭脳《ずのう》と呼ばれる、わたしの娘を利用するにちがいない」
「……アルベールは、いったい誰を疑《うたが》ってるんだ。だってその、弱みを握りたい人物こそが、ココを殺して迷宮入りにしたと考えているということだろう?」
「相手は、大物《おおもの》だ」
「……ということは、まさか」
風が吹《ふ》いて、ゆっくり、ゆっくりと雲が流れ、また月が姿を現し始めた。
砂利道《じゃりみち》を女子|寮《りょう》に向かって歩いていたアブリルが、眩《まぶ》しい月光の中、ふと不安そうな顔で振《ふ》り返《かえ》った。辺りをきょろきょろして、震《ふる》える声で、
「誰か、いるの……?」
と、聞く。
答える声はなかった。
雲が流れて、青白い月が夜の庭園《ていえん》を暗く照《て》らし出した。ばさり、と重たい羽音《はおと》がして、木の上から梟《ふくろう》が飛び立つのが見えた。ホゥ〜、と鳴《な》き声が響《ひび》く。
ホゥ〜。ホゥ〜。
「なんだ。梟か」
アブリルはうなずいて、また歩きだした。
庭園は月明かりに照らし出されていた。黒いヴェールをはためかせるような、湿《しめ》った秋の風が、木々を揺《ゆ》らし、芝生《しばふ》の夜露《よつゆ》を震わせて吹きすぎていった――。
[#地付き]〈fin[#「fin」は縦中横]〉
[#改ページ]
あとがき
みなさん、こんにちは。桜庭一樹です。『GOSICKsV ―ゴシックエス・秋の花の思い出―』をお送りします。よろしくです。
さて今回のお話は、夏休みが終わり、静かな秋の始まりを迎えた聖《せい》マルグリット学園。長いバカンスから、日焼けして戻った貴族《きぞく》の子弟《してい》たちをよそに、ヴィクトリカと一弥はバルト海沿岸の謎《なぞ》めいた修道院《しゅうどういん》〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉と、その帰りの豪華列車《ごうかれっしゃ》〈オールド・マスカレード号〉で事件に巻《ま》きこまれて、力を合わせて解決し、再び、秋の学園に帰ってきます。そうしていつもの学園生活が始まりますが、冒険《ぼうけん》の疲《つか》れか、はたまたお腹《なか》を出して眠《ねむ》っていたせいか、ヴィクトリカは熱を出してしまいます。
そんな彼女を心配した一弥が、放課後《ほうかご》になると毎日、図書館で探したおもしろい書物と、その書物にちなんだ花を抱《かか》えて、迷路花壇《めいろかだん》の奥にある特別|寮《りょう》を訪《たず》ねます。ちょっぴり不機嫌《ふきげん》(?)で、寂《さび》しそうなヴィクトリカに、一生懸命《いっしょうけんめい》、書物を読んで聞かせる一弥。大昔に書かれたその書物に残された謎を、ヴィクトリカは毎回、魔法《まほう》のように解《と》いてしまうのでした……!
本書は、短編集《たんぺんしゅう》としては春の物語、夏の物語につぐ三|冊《さつ》目で、シリーズ全体としては、修道院〈ベルゼブブの頭蓋〉での冒険を描《えが》いた『GOSICKX ―ゴシック・ベルゼブブの頭蓋―』と、豪華列車での怪事件『GOSICKY ―ゴシック・仮面舞踏会《かめんぶとうかい》の夜―』の直後に当たるお話です。今回も、みなさんに楽しく読んでいただけたら、一同、どきどきとうれしいであります……!
と、内容紹介がしっかりできたから……よーし、近況《きんきょう》を書こう。
ええと、最近の、わたしの、近況は……。
あ、友達がひとり結婚《けっこん》して、こないだ、なんと子供を産《う》んだので、すごーくびっくりしました。男の子だった。遊びにいって、おっかなびっくり抱いてみたんだけど、うっかり落っことすんじゃないかとビクビクでした。
そういえばですね、そのとき友達が、
友達 「ひとつ、気になってることがあるんだけど、聞いてくれるかな……」
わたし「なに? 聞くよ、いちおう」
友達 「うちの子さ……。おならが、ひゃくぱー、くさいんだ」
わたし「……ヘー」
友達 「ちょっと! もっと、興味《きょうみ》持ってよ! およそ、人間のおならがですよ、
すかしっぺもふくめて、ひゃくぱー、くさいなんてことがありうると思うの?」
わたし「…………(←|熟考《じゅっこう》)」
友達 「……」
わたし「そりゃ、ないね」
友達 「ほらみろ」
その後、友達が「この子が大きくなったら、そのことを言おう。何度も言おう。いやがっても、言い続けよう」と握《にぎ》りこぶしをぶんぶんさせて決意しているのを見て、なんとなく、世の親というものが、ちょっぴりわかった気がしました。子供がいくら、大人と呼ばれる歳《とし》になっても、お仕事もしていて、もういっちょまえでも、あろうことか作家になって、スーツの他人から先生って(いちおう)呼んでもらってても、親だけは、親だけは、この世でわたしたちの親だけは、「ふふーん」と余裕《よゆう》で、永遠にガキンチョ扱いする理由が、わかった気がしたんです。……おならが、ひゃくぱー、くさかったり、うんちをもらしたのにきゃっきゃと笑ったり、蛇口《じゃぐち》をひねったが如《ごと》くダラダラよだれを流し続けたり、ミルクを飲んだ後、背中《せなか》を叩《たた》いていただいて、ゲップをさせていただいたり、していたからなんです! みんなも、これはそういう理由なので、いまさらイメージを覆《くつがえ》すのはむりなので、ママに「ふふーん」という顔をされても、パパに大人|扱《あつか》いしてもらえなくても、あんまり気にしないよーに。あと、大きくなってから、おならがひゃくぱーくさかった云々《うんぬん》、こんなあほなことしてた云々、花柄《はながら》のタオルをかぶって「今日から姫と呼んでくれ」と言い張って、親が断ったらワッと泣き出した(←わたし)云々、とからかわれても、大人なんだから、怒《おこ》らないよーにー……(涙)。
……なんてことを書いているうちに、もうそろそろ、まとめの時間でありますー。
今回も、執筆《しっぴつ》に当たって関係各位の方にたいへんお世話になりました。この場を借《か》りて御礼《おれい》申し上げます。担当のぶれいんでっどーK藤さん、今回もお忙《いそが》しい中、ありがとうございました。あと、イラストの武田日向さん! 今回の表紙、真っ赤な紅葉の湖、秋のソヴュールでの秘密《ひみつ》のデート……すごい素敵《すてき》!!![#「!!!」は縦中横] じつは今回の短編集は、武田さんが描く、いろんな異国《いこく》風の衣装《いしょう》のヴィクトリカが見たいよ! ……という、わたしの愛と煩悩《ぼんのう》の賜物《たまもの》だったりもします。フランスのロココ風のふわふわドレス、元気なオランダ娘、オリエンタルな異国風、アメリカ開拓《かいたく》時代、と、迷《まよ》った挙句《あげく》に決めた四種類だけど、どれも、かわいいー! まだまだ、こんなの、あんなの、あっ、これも、と煩悩がむくむく出てくるなぁ……。今回も本当にありがとうございます! 武田さんの絵は、見るとイメージが膨《ふく》らんで、つぎはこんなの描きたいなぁとかうっとりするので、作家にとっての知恵の泉だと思うのですー。
あ、あと、武田さんは「ドラゴンエイジピュア」誌で、「異国迷路のクロワーゼ」という漫画《まんが》が好評連載《こうひょうれんさい》中です! 舞台は十九世紀末のパリ。主人公はユネちゃんというかわいい東洋人の少女です。表情の一つ一つの愛らしさ、風景の広がりや小物の描写《びょうしゃ》の凄《すご》さが、これは武田さんにしか描けないのヨ! 凄いのヨー! ……と、わたしもうきうきと楽しみに、続きを待っております。よかったら、こちらも読んでいただけたらうれしいです。
それと、同じ富士見ミステリー文庫から二〇〇四年十一月に発売されたわたしの小説『砂糖菓子《さとうがし》の弾丸《だんがん》は撃《う》ちぬけない A Lollypop or A Bullet』が、今年二月に富士見書房から改めて単行本化されました。あと、この作品のコミカライズが「ドラゴンエイジ」誌で今年一月から始まっています。作画は杉基《すぎもと》イクラさんです。こちらも、よかったら、よろしくお願いします。
ではでは、ここまで読んでくださってありがとうございました。よろしければ、またお会いしましょう〜。桜庭でした!
[#地から2字上げ]桜 庭 一 樹
[#改ページ]
初 出
「プロローグ」――書き下ろし
「純潔」――ファンタジアバトルロイヤル二〇〇六年春号
「永遠」――ファンタジアバトルロイヤル二〇〇六年夏号
「幻惑」――ファンタジアバトルロイヤル二〇〇六年秋号
「思い出」――ファンタジアバトルロイヤル二〇〇六年冬号
「花びらと桑」――書き下ろし
「エピローグ」――書き下ろし
底本:「GOSICKsV―ゴシックエス・秋の花の思い出―」富士見ミステリー文庫、富士見書房
2007(平成19)年 4月15日 初版発行
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2007年10月26日作成
2007年11月04日校正
2009年05月18日校正
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(一般小説) [桜庭一樹] GOSICKs 第03巻 秋の花の思い出.zip 40,399,109 cab766f2d6fdc24bbcb1b7539a160102d82e0566
をOCRソフトでスキャンして校正した後、Share上で流れていた
(一般小説) [桜庭一樹] GOSICKs 第03巻 秋の花の思い出(未校正txt形式).txt 191,263 a8efc752f7465819b1faeab294275e27ac29c1a3
と比較校正して仕上げました。
それぞれのファイル放流者に感謝いたします。
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このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
底本は1ページ17行、1行は約42文字です。
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使用したWindows機種依存文字
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「V」……ローマ数字3
「X」……ローマ数字5
「Y」……ローマ数字6
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本27頁11行 鮮《あで》やかな蝶《ちょう》のように
「鮮やか」のルビは「あざやか」。「あでやか」なら「艶やか」。
底本59頁9行 口角《こうかく》を上げて不適《ふてき》に笑う
不敵、じゃないかな?
底本194頁16行 しなやか四肢《しし》を
しなやか「な」四肢を
底本196頁2行 荷物を下をす。
下ろす、か?
底本220頁4行 夜露《よぎり》に暗い輝《かがや》きを
夜露? 夜霧?