GOSICKX
―ゴシック・ベルゼブブの頭蓋―
桜庭一樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)静寂《せいじゃく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人口|要塞《ようさい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あれ[#「あれ」に傍点]はいったい
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口絵・本文イラスト 武田日向
本文図版 中島鯛
口絵デザイン 桜井幸子
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目 次
プロローグ 落下させるマリア
第一章 ヴィクトリカのいない学園
霊界ラジオ ―wiretap radio 1―
第二章 〈ファンタスマゴリアの夜〉
幻灯機 ―ghost machine 1―
第三章 静寂《せいじゃく》のブラック・ヴィクトリカ
幻灯機 ―ghost machine 2―
第四章 フェル姉妹《しまい》のシスターズ・キャビネット
霊界ラジオ ―wiretap radio 2―
黒死病の仮面
第五章 ドーナツは回りがふちでできた穴
幻灯機 ―ghost machine 3―
第六章 螺旋《らせん》の迷宮《めいきゅう》と形見箱《かたみばこ》
霊界ラジオ ―wiretap radio 3―
第七章 妖艶《ようえん》のブラック・ヴィクトリカ
幻灯機 ―ghost machine 4―
第八章 せまりくる水
幻灯機 ―ghost machine 5―
エピローグ 絆《きずな》
霊界ラジオ ―wiretap radio 4―
プロローグ2 小さな赤い――
あとがき
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お妃《きさき》は、ぬいものをしながら、目をあげて雪を見やりました。このとき、お妃の指先に針《はり》がささり、血のしずくが三滴《さんてき》、雪の上にしたたりました。赤い色が白い雪の中で美しく見えたので、お妃はふとこんなことを心に浮《うか》べました。
「この雪のように真っ白で、この血のように赤く、そしてこの窓わくの木のように真っ黒な子どもが、わたしから生れさえしたらいいのに」
それからまもなく、お妃はかわいらしい王女を生みました。
[#地から4字上げ]――『白雪姫』グリム
[#地付き]植田敏郎訳 新潮文庫刊
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登場人物
久城一弥……………………………東洋の島国からの留学生、本編の主人公
ヴィクトリカ・ド・ブロワ………知恵の泉を持つ少女
グレヴィール・ド・ブロワ………警部、ヴィクトリカの兄
アルベール・ド・ブロワ…………侯爵、ヴィクトリカの父
アブリル・ブラッドリー…………英国からの転校生
コルデリア・ギャロ………………謎の多い人物、ヴィクトリカの実母
セシル………………………………教師
ブライアン・ロスコー……………謎の人物、奇術師
サイモン・ハント…………………役人
イアーゴ……………………………修道士、奇跡認定士
ジュピター・ロジェ………………ソヴュール王国科学アカデミーの一員
ミシェール…………………………看護婦
カーミラ……………………………双子の老姉妹
モレラ………………………………双子の老姉妹
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プロローグ 落下させるマリア
[#地付き]――一九一四年十二月十日〈ベルゼブブの頭蓋〉
夜の海は凪《な》いでいた。まるで、この世界では恐《おそ》ろしい争《あらそ》いごとなど一切《いっさい》ないかのように。静かに、小さな泡《あわ》の混《ま》ざった波を、寄《よ》せては返していた。
暗い紫色《むらさきいろ》に染《そ》まる夜空と、黒い海との境界線上《きょうかいせんじょう》に、奇妙《きみょう》に人工的な島のようなものが浮《う》かんでいた。軍艦《ぐんかん》だ。波は寄せては返し。寄せては返した。海は途中《とちゅう》で、高い塀《へい》――巨大《きょだい》な水門《すいもん》によってとつぜん仕切《しき》られていた。満潮時《まんちょうじ》に閉まる仕組みのそれが、暗い海と、青白く光る夜の砂浜《すなはま》とのあいだに聳《そび》え立っていた。
砂浜は月光を浴《あ》びて、一粒《ひとつぶ》一粒が反射《はんしゃ》するように、青白く不吉に輝《かがや》いていた。波は寄せては返し。寄せては返していた。その砂浜の向こうに、これもまた軍艦のような、闇《やみ》のように黒い塊《かたまり》が一つ、鎮座《ちんざ》していた。
それが〈ベルゼブブの頭蓋〉と呼ばれる人口|要塞《ようさい》だと、この国のものなら誰《だれ》でも知っていた。不気味《ぶきみ》な、巨大な蠅《はえ》の頭部《とうぶ》のようにも見える形状《けいじょう》をした建物で、きらめく夜空のミルキーウェイを背景《はいけい》に、暗く、のっそりとただ砂浜に建っていた。
そして、夜空にはきらめく小さな星たちとはべつに、虫の羽音《はおと》のような、しかしそれにしては人工的な、奇怪《きかい》な音が響《ひび》き始めていた。
音はどんどん近づいてくる。
〈ベルゼブブの頭蓋〉へ。
やがてそれは夜空いっぱいに広がった。黒い、無骨《ぶこつ》なデザインをした戦闘機《せんとうき》の大群《たいぐん》だった。夜空の遠くからこちらに向かってどんどん近づいてくる。
閃光《せんこう》がきらめき、〈ベルゼブブの頭蓋〉に向かって放たれた。爆撃《ばくげき》が始まったのだ。
――一九一四年。
後《のち》に世界大戦《グレートウォー》と呼ばれることとなる、世界そのものが揺《ゆ》れ動き大きな変化を迎《むか》えるきっかけとなったあの戦争が、始まった年のこと。
激《はげ》しい爆撃音とともに、夜空には赤い閃光がいくつも走った。要塞に向かって放たれる光の大群。要塞から飛び出してきた小さな人影《ひとかげ》が、閃光を受けてその場に立ち止まり、きらめく砂浜にどうっと倒《たお》れた。白い看護服《かんごふく》を着た、まだ年若い女だった。要塞を飛び出して駆《か》け寄ろうとした、同じ看護服姿の女たちもまた、赤い閃光に撃《う》たれて、その場に重《かさ》なり合って倒れ、動かなくなる。
「なんということを!」
倒れた女のうちの一人が、青い瞳《ひとみ》を見開き、呪《のろ》いの言葉をつぶやく。夜空に向かって。
「いまここにいるのは、怪我人《けがにん》と看護婦だけ。ここは基地《きち》ではない。ドイツ軍め、呪われるがいい!」
震《ふる》える手で、胸に垂《た》らしたロザリオを握《にぎ》りしめ、何度も言葉を繰《く》り返す。ロザリオは彼女と仲間《なかま》たちの手で赤く染《そ》まっている。戦闘機の大群は遠ざかり、夜空を旋回《せんかい》して、またこちらに向かってくる。
血を流し、折り重なって倒れる若い看護婦たちが、大戦が始める前は教室で笑いあっていた、まだ女学生たちであるらしい、かわいらしい甘《あま》ったるい声で、仲間たちとともに繰り返した。
「呪われろ」
「呪われろ」
「ドイツ軍め、呪われろ」
「呪われろ」
それぞれにロザリオを出し、信心深《しんじんぶか》い娘《むすめ》たちは繰り返した。お互《たが》いに手を繋《つな》ぎ、自分たちの血に染まりながら、繰り返す。
「呪われろ」
「呪われろ」
「呪われろ」
「呪われろ」
「呪われろ」
「呪われろ」
「呪われろ」
「呪われろ」
「呪われろ」
「呪われろ……」
声が少しずつ、細くなっていく。減《へ》っていく。瞳を閉じて、動かなくなるものもいる。涙《なみだ》を流しながら、その娘の手を握るものもいる。涙混じりに瀕死《ひんし》の娘たちは繰り返す。
「の、ろ、わ、れろ……」
戦闘機の大群はまた近づいてくる。
そのとき。
紫色に染まる夜空に、とつぜんぼんやりと、なにかが浮かび始めた。
娘の一人が、あっと息を呑《の》む。血に染まるロザリオを握りしめて、震える手で夜空にかざす。
浮かび始めたものが、娘の祈《いの》りの声に後押《あとお》しされるように、どんどん輪郭《りんかく》をはっきりさせてきた。それは、海から出《い》でて、夜空を遥《はる》か、月に届《とど》けといわんばかりにそびえ立つ……。
巨大な聖母《せいぼ》マリア像《ぞう》だった。
娘の祈りの声に、感謝と喜びが入り混じり、震え始める。
マリア像は地上百メートルを超《こ》える巨大なもので、夜空にくっきりと浮かび上がった。白いローブを身にまとい、長い髪《かみ》は海に向かって垂れ落ちていた。大きな瞳は見開かれ、虹彩《こうさい》まではっきりと見て取れた。マリア像は悲しそうに顔をゆがめ、その瞳から涙を流しだした。
白い腕《うで》に抱《だ》く赤子《あかご》だけが、すやすやと眠《ねむ》っていた。
戦闘機が、操縦《そうじゅう》を狂《くる》わせべつの戦闘機と衝突《しょうとつ》した。涙を流すマリア像の目前《もくぜん》で、オレンジ色の炎《ほのお》を上げてクラッシュし、海面に向かって墜落《ついらく》していく。べつの戦闘機もまた錐《きり》もみ状《じょう》に、先端《せんたん》から先に砂浜に落下《らっか》する。いくつもの戦闘機が狂い、堕《お》ち、海面で水しぶきを上げる。砂浜にはいくつものオレンジ色の火柱《ひばしら》が、のろしのように上がっている。油が燃《も》える不吉な匂《にお》い。血まみれの娘たちがくすくすと笑い出す。
その笑い声もまた、途切《とぎ》れていく。
夜空には一機も、戦闘機はなかった。ほとんどが墜落し、残ったものも羽音を立てながら急速《きゅうそく》に遠ざかっていった。ぱちぱちと燃える、音。娘たちは静かだ。夜空には相変《あいか》わらず、涙を流す巨大なマリア像が浮かんでいる。悲しみに満ちた顔をして、人間たちを見下《みお》ろしている。
娘たちは、頬《ほお》に笑《え》みを浮かべ、それを見上げるように瞳を見開いたまま、全員、もう事切《ことき》れている。
やがて〈ベルゼブブの頭蓋〉からべつの娘たちが飛び出してきて、倒れた仲間たちを助け起こした。泣き声と、悲鳴。友達を抱き起こし、夜空に向かって吠《ほ》えるように、叫《さけ》ぶ。
その夜空には、もう、なにもない。
戦闘機の大群も。聖母の幻影《げんえい》も。
ただきらめく星空だけが、悠久《ゆうきゅう》の時を過ぎてもそこに在《あ》り続ける星たちだけが、変わらずそこにきらめいていた。
ぱちぱちと音を立てて、砂浜で、オレンジ色の炎がまた、揺れた。
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第一章 ヴィクトリカのいない学園
永遠にも思えるほどにゆっくりと過《す》ぎていった、長い夏休みの、最後の日。
まだ夏の名残《なご》りの眩《まぶ》しい日差《ひざ》しが、聖マルグリット学園の広大《こうだい》な敷地《しきち》をきらきらと照《て》らしていた。
空中から見るとコの字型をした巨大《きょだい》な校舎《こうしゃ》と、それを囲《かこ》む、フランス式庭園を模《も》した芝生《しばふ》や花壇《かだん》。凝《こ》った彫刻《ちょうこく》で飾《かざ》られた白い噴水《ふんすい》は、まるで熱に溶《と》けかけた氷の柱のように、日に照らされてとろとろと透明《とうめい》な水を流し続けている。
よく手入れされた芝生を駆《か》け回る、リスたち。庭園のあちこちに置かれた居心地《いごこち》のよさそうな東屋《あずまや》には、思い思いの服装《ふくそう》をした生徒たちが、仲良しどうしでかたまって談笑《だんしょう》している。明日から始まる後期《こうき》の授業《じゅぎょう》ではなく、この夏の避暑地《ひしょち》でのお話を、我先《われさき》にと話しているのだ。
そんな楽しそうな談笑の輪から少し離《はな》れた小道《こみち》を、きょろきょろしながら歩いてくる少年がいた。
小柄《こがら》で線の細いからだつきに、漆黒《しっこく》の髪《かみ》と、同じ色をした少し寂《さび》しげに翳《かげ》る瞳《ひとみ》。いかにも生真面目《きまじめ》そうに背筋《せすじ》を伸《の》ばし、右を、左を、見回しながら歩いている。なにかを探しているようだ。
「ヴィクトリカ、どこだい?」
花壇の奥《おく》のほうに顔を突《つ》っ込《こ》んだり、ベンチの下を覗《のぞ》き込《こ》んだり、木の上を見上げて眩《まぶ》しそうに瞳を細めたり……。まるで小さな猫《ねこ》を探しているかのように、黒髪の少年――久城一弥《くじょうかずや》はしばらくうろうろしていた。それから、
「ヴィクトリカ……?」
首をかしげて、困《こま》ったようにつぶやいた。
「まったく、どこに行っちゃったんだろう? つい昨日まで、そこの東屋か、男子|寮《りょう》の窓の外にある木陰《こかげ》か、とにかく、ぼくにわかる場所にちょこんと座《すわ》って、お菓子《かし》食べ食べ、書物《しょもつ》を読んでいたのになぁ。あぁ……」
一弥は辺《あた》りを見回した。貴族《きぞく》の子弟《してい》たちのかしましい話し声が響《ひび》く庭園を、瞳を細めて、しばし見つめる。昨日までの、静寂《せいじゃく》に満ちた夏の聖マルグリット学園とはまるでちがう場所のように、今朝の学園はなんだかざわざわと騒《さわ》がしかった。
やがて一弥は合点《がてん》がいったというようにうなずいて、
「ヴィクトリカのやつ、図書館にいるのかな。よし、いってみよう……」
小さくつぶやくと、小道をとことこと歩きだした。
――時は一九二四年、夏。
ヨーロッパの小国、ソヴュール王国。
フランスとの国境《こっきょう》はどこまでも広がる緑の葡萄畑《ぶどうはたけ》。イタリアとの国境は、地中海《ちちゅうかい》に面《めん》した華《はな》やかな避暑地。そしてスイスとの国境は湖と深い森に覆《おお》われた鬱蒼《うっそう》とした緑の迷路《めいろ》。謎《なぞ》めいた回廊《かいろう》の如《ごと》く細長《ほそなが》い形状《けいじょう》をしたこの小さな国は、数々の列強《れっきょう》に囲まれながらも先の世界大戦を切り抜《ぬ》け、西欧《せいおう》の小さな巨人と呼ばれていた。
王国の、地中海に面したリヨン湾《わん》を豪奢《ごうしゃ》な玄関《げんかん》とするなら、アルプス山脈《さんみゃく》は、もっとも奥深い場所に隠《かく》された秘密《ひみつ》めいた屋根裏部屋といえた。その山脈の麓《ふもと》にひっそりと建つ聖マルグリット学園は、王国そのものほどではないが、長く荘厳《そうごん》な歴史を誇《ほこ》る、貴族の子弟たちの教育機関《きょういくきかん》だった。
だがその学園は、先の対戦終結後、一部|同盟国《どうめいこく》からの留学生《りゅうがくせい》を受け入れることに決めた。国の威信《いしん》をかけてやってくる、優秀《ゆうしゅう》な学生たち――。そのうちの一人である久城一弥は、なれない外国での生活に苦労しながらも、学業《がくぎょう》に励《はげ》み、少数ながら友人もでき、ようやく留学生活も軌道《きどう》に乗り始めたところだった。
一弥が出会った友人の一人は、明るくて元気な、イギリスからの留学生アブリル・ブラッドリー。そしてもう一人は……。
謎めいた、金色の妖精《ようせい》のような、しかし恐《おそ》ろしく毒舌《どくぜつ》な少女。奇怪《きかい》な頭脳《ずのう》を抱《かか》える小さな、フリルと書物に囲《かこ》まれた、ヴィクトリカ・ド・ブロワ……。
一弥の留学生活はいつのまにか、不思議《ふしぎ》な少女、ヴィクトリカを中心に回り始めていた。
「ヴィクトリカー? 君、どこにいるんだい? みんながバカンスから帰ってきて騒がしいから、また図書館に戻《もど》っちゃったのかな?」
――聖マルグリット大図書館。
広々とした学園の敷地。その奥の奥に隠された灰色《はいいろ》の石の塔《とう》は、ここ三百年余そうであったように、今朝もまた、しんとした静寂にのみ包まれていた。
欧州《おうしゅう》でも指折りの知識の殿堂《でんどう》だが、学園の秘密主義《ひみつしゅぎ》のためにあまり存在を知られていない。風雨《ふうう》にさらされ色を変えた外壁《がいへき》に、小さな革張《かわば》りのドアがひとつだけあるが、そのドアを開けて中に入るものを見ることはあまりない。
一弥はそのドアを開けて、図書館の中に入った。
「ヴィクトリカ?」
図書館の内部は、四方の壁《かべ》すべてが書棚《しょだな》となって、吹《ふ》き抜けのホール遙《はる》か上の天井《てんじょう》まですべて書物で埋《う》め尽《つ》くされている。天井には荘厳な宗教画《しゅうきょうが》が描《えが》かれ、そこから下まで、迷路状に入り組んだ細い木怪談が、まるで無数《むすう》の細い蛇《へび》たちが絡《から》み合っているように、書棚と書棚を繋《つな》げている。
一弥は足を止め、遥か上に目を凝《こ》らした。いつもなら見えるはずの、不思議な古代《こだい》の生き物の尻尾《しっぽ》じみた、金色のきらめきを探す。かすかになにかが光ったような気もしたけれど、天井近くの窓越《まどご》しに振り落ちる眩しい朝陽《あさひ》にじゃまされて、よく見えない。
一弥はため息をついて、
「おーい、君、いるのかい?……なんて呼んで、返事をしてくれるようなヴィクトリカじゃないか。仕方《しかた》ないな。また、上ろう……」
ぶつぶついいながらも、姿勢《しせい》を正して、規則《きそく》正しい足取りでその、入り組んだ蛇のような木階段を上り始めた。
上る。
上る。
……まだまだ、上っている。
「まったく、ヴィクトリカのやつ。ときどき、ぼくに無断《むだん》でべつの場所に移動しちゃうんだから。この大きな学園の中で、君を探すのはたいへんなんだよ。なんたって君は小さいし、そりゃフリルでふくらんでるけど、それでもやっぱり、十分小さいし……」
一弥はだんだん腹が立ってきたようで、忙《いそが》しく階段を上がりながらも、拳《こぶし》を振《ふ》り上げていろいろ言い出した。
「だいたい君は口が悪いし、きまぐれだし、まったくもぅ、いつも、ぼくは君に怒《おこ》ってるんだよ。どうして君って、そんなに意地悪《いじわる》なんだろうなぁ。君はみんなにそんなに意地悪なのかな? それとも、もしかしてぼくにだけ特別、そうなのかな? ねぇ、ヴィクトリ、カ……。あれっ?」
文句を言いながらもようやく迷路階段を上がり終わった一弥は、足を止めて、きょろきょろと辺りを見回した。
図書館塔のいちばん上に広がる、緑|生《お》い茂《しげ》る植物園。毒々《どくどく》しい南国の花が生い茂り、小さな窓から夏の終わりの涼《すず》しい風が吹いて、木々の鮮《あざ》やかな葉を揺《ゆ》らしている。
階段の踊《おど》り場には難解《なんかい》な書物が大量に散らばり、ピンク色をした小さなマカロンがいくつも、ころころと転がっていた。一弥はきょとんとして、しばらく、あの小さな主のいない植物園を不思議そうに見回していたが、やがてその、書物とお菓子《かし》が散らばる場所にゆっくり近づくと、しゃがんで床《ゆか》に片膝《かたひざ》ついて、観察《かんさつ》し始めた。
書物とお菓子が散らばる床の、真ん中にぽかりと開いている空間《くうかん》があった。一弥はそこを指差すと、
「ここにヴィクトリカが座ってたんだな。だって、いつも読むのと同じ角度で書物が散らばってるし、マカロンの定位置はここだ。うん。ヴィクトリカはこっち向きに座って、いつもどおり悪態《あくたい》をつきながら、お菓子を散らかしながら、書物を読んでたんだ……」
それから、瞳を細めた。
「でも、いまはいない……。なにがあったんだろう? あっ!」
書物のあいだから、ころんと転がっている白い陶製《とうせい》のパイプをみつけて、ゆっくりと手に取った。
顔の間近に持ってきて、少し寄《よ》り目になるほどに見つめる。
「ヴィクトリカのパイプだ。これでいつもぼくの顔に煙《けむり》をぷぅぷぅ吹きかけるんだ。それで、ぼくが咳《せ》き込《こ》むのを見てうれしそうにしてる。まちがいない、ヴィクトリカのパイプだ。……どうしてここに?」
一弥は立ち上がった。
パイプを置いたままでいったいどこにいったのだろうと、植物園の奥やエレベーターホールや、階段の踊り場においてある小さな四角いチェスト――ヴィクトリカの隠れ場所――を探してみる。
急に不安になって、一弥はもう一回り、植物園の中を調べると、早足で木階段を降り始めた。ヴィクトリカのパイプを握《にぎ》りしめた両手を、胸の前で少し震《ふる》わせている。
階段を駆《か》け下りる。いつもの正しい姿勢が少し崩《くず》れている。
〈久城、君は……〉
夏休みに近い、あの日。錬金術師《れんきんじゅつし》〈リヴァイアサン〉の正体《しょうたい》を彼女が暴《あば》いたあの日に、手を繋いで庭園を歩きながら、ヴィクトリカが秘密《ひみつ》めいた声でささやいた、あの言葉が胸に蘇《よみがえ》ってくる。
〈君は、わたしを、捜《さが》せないかね……?〉
老女の如《ごと》くしわがれた、哀感《あいかん》のこもるヴィクトリカの声。
すでに百年の時を生きた人のように時に老成《ろうせい》した、あの不思議に澄《す》んだ、深い緑の瞳。
時には怒《いか》りにぶわりとふくれあがる、金色のベールの如《ごと》きあの、床まで垂《た》れる髪《かみ》。
一弥はあわてて階段を降り続けた。あのときの自分の声も、耳に蘇ってきた。
〈そんなことないよ……〉
〈ちょっと手間取《てまど》るけど、ぼくは、ほらこうやって――〉
〈必ず君をみつけてるだろ?〉
一弥は迷路《めいろ》階段を駆け下りた。聖マルグリット大図書館を出て、早足《はやあし》で小道を歩き出す。
庭園は夏の朝陽《あさひ》にきらきらとして、青々とした芝生《しばふ》も、花壇《かだん》も、眩《まぶ》しく輝《かがや》いている。
小道の向こうから、小麦色《こむぎいろ》に日焼けした金髪《きんぱつ》のショートヘアの少女が歩いてきた。大きなトランクを抱《かか》えて元気よく歩いてきたその少女――アブリル・ブラッドリーが、足を止めて、一弥のほうを見た。大きく口を開けて、声をかけようとして、急いでいるらしき様子に気づいたように、口を閉じる。
一弥は迷路花壇の入り口に立つと、色とりどりの花が咲《さ》き誇《ほこ》る入り組んだ花壇を、歩きだした。
(考えすぎかな……。なんといってもヴィクトリカは気まぐれだし、ふと思いついてどこかにちょこちょこ歩いていっただけなのかもしれないな。思索《しさく》に夢中《むちゅう》になって、うっかり、大事なパイプを置き忘れて……。きっとそうだ)
そう思いながら、歩く。
不安で眉間《みけん》にしわを寄せながら、一弥は花壇を抜けた。小さな、凝《こ》ったドールハウスのような家にたどり着く。
「ヴィクトリカー?」
呼びながら、いつもの小窓に駆け寄る。少しだけ開いている窓から中を覗《のぞ》き込むと、書物とお菓子《かし》とかわいらしい家具《かぐ》であふれていたはずのその家は、なぜかいつもよりがらんとして、薄暗《うすぐら》かった。まるで、もうずっと人が住んでいないかのように。
「ヴィクトリカ……? 君、ここにもいないのかい? まったく、君、今朝《けさ》は……」
一弥はもう一度、呼んだ。
「ヴィクトリ、カ……」
「いないのよ。久城くん」
ふいにべつの声がした。一弥が顔を上げると……。
薄暗い家の中で、奥《おく》のドアを開けて、出てきた小さな人影《ひとかげ》がいた。大きな丸眼鏡《まるめがね》と、くるくるしたブルネットの髪。眼鏡の奥にあるぱっちりした茶色の瞳《ひとみ》は、なぜか真っ赤っ赤にはれていた。
セシル先生だった。
小さな家の中はがらんとして、朝だというのに薄暗かった。一弥が窓越《まどご》しにみつめていると、セシル先生はゆっくりとその部屋を出ていった。玄関《げんかん》のほうに回る、先生のかすかな靴音《くつおと》が、主のいない家に大きく響《ひび》いた。途中《とちゅう》で一度転んだらしく、ごろんごろんっと大きな音がした。それから立ち上がって、また歩き出す音。
やがてセシル先生は、痛《いた》そうに肘《ひじ》をさすりながら玄関から出てきた。真鍮《しんちゅう》のドアノブにかわいらしい小さな鍵《かぎ》をさして、くるりと回す。うつむき加減《かげん》の横顔に、一弥は、
「あの、ヴィクトリカはどうしたんですか? 昨日まで、庭園の涼《すず》しそうな木陰《こかげ》でごろごろしてたのに」
「ひくっ」
セシル先生がしゃくりあげた。
涙《なみだ》をがまんするように、顔をしかめて、
「あのね、昨夜、おとうさまの部下の方が、お迎《むか》えにきてね」
セシル先生は短く答えた。
「ブロワ侯爵《こうしゃく》の……?」
「遠くの修道院《しゅうどういん》に、一時、移送《いそう》するって……」
セシル先生は言葉少なだった。お菓子の家のような、その小さな家を見上げて、はぁっ、とため息を一つつく。一弥は驚《おどろ》いて、
「いったいどうしてですか、先生。こんな急に……。ヴィクトリカは、なにか……」
「それが、とつぜんのことで、わたしにも事情《じじょう》がぜんぜんわからないの。でも、もともとヴィクトリカさんがここにきたのも、同じぐらいとつぜんだったし……。あのおとうさまがすることは、いつもそうらしいの。夜のうちに移送されたから、わたしもびっくりして、ぎゃんぎゃん騒《さわ》いだんだけど……」
「そんな!」
「でも、久城くんにって手紙を預《あず》かったわ」
「……手紙!?」
一弥は叫《さけ》んだ。セシル先生は丸眼鏡を外《はず》すと浮《う》かんだ涙を拭《ふ》いて、また眼鏡を元に戻《もど》した。それから、ブラウスの胸ポケットから大切そうに、小さく折りたたんだ便箋《びんせん》を取り出した。
一弥は震《ふる》える手でそれを受け取った。薔薇《ばら》の模様《もよう》がたくさん散《ち》った、淡《あわ》い紫色《むらさきいろ》をした、それはそれは美しい便箋だった。たった一枚。小さく折りたたまれたそれを渡《わた》しながら、セシル先生がつぶやいた。
「夜中の、とつぜんのお迎えだったけれど、ヴィクトリカさん『ちょっと待ちたまえ』とあの声で宣言《せんげん》して、厳《おごそ》かにあの……」
お菓子の家の窓から見える、翡翠《ひすい》の飾《かざ》りつきの、かわいらしい猫足《ねこあし》テーブルを指さす。また涙を拭いて、
「テーブルに向かうと、おもむろに久城くん宛《あ》てのこの手紙を書き出したのよ。大の大人が何人も、止められずに、手紙を書き終えるのを黙《だま》って待っていたわ。どうしても、という迫力《はくりょく》があったの。ヴィクトリカさん、瞳に涙をためて、わたしにこれを渡して……それから、この玄関から、連れられて出て行ったの。黒い大きな馬車《ばしゃ》に乗せられて。目隠《めかく》しまでされて……」
セシル先生は便箋を一弥の胸に押《お》しつけるようにして、それからばたばたと、涙を隠すように、迷路花壇《めいろかだん》の通路《つうろ》に消えていった。
後に残された一弥は、お菓子の家を振《ふ》り返った。薄暗い部屋に残されたかわいらしい猫足テーブルと、その上に散らかる真っ白な羽根《はね》ペンと、ルビー色に輝《かがや》く丸いインク壺《つぼ》。そしてセットになった猫足の小さな椅子《いす》は、床《ゆか》に無残《むざん》に転がったままだ……。
一弥は無表情《むひょうじょう》のまま、唇《くちびる》をきつく結《むす》んで、部屋の中をみつめた。瞳が険《けわ》しく、秘《ひ》めた怒《いか》りか悲しみに翳《かげ》る。引き結んだ唇が、やがて、ふるっと震えた。一弥は険しい顔のままで、迷路花壇に向かって歩きだした。
朝陽がきらきらと零《こぼ》れ落ちる。
歩きながら、ゆっくりと便箋を、開く……。
迷路花壇の外で、短い金髪をした元気な女の子が、バカンスで小麦色に日焼けした長い手足をもてあますようにして、地面に置いたトランクに腰《こし》かけていた。アブリル・ブラッドリー――地中海での長い夏休みからようやく帰還《きかん》した、一弥の留学生仲間だ。白いブラウスに、さわやかなストライプのプリーツスカート姿で、ブラウスの肩《かた》から水着の肩|紐《ひも》の日焼けが少しのぞいている。
晴れた空のような明るい青い瞳を見開いて、虎視眈々《こしたんたん》と、花壇の出口を見張《みは》っているところだ……。
「久城くんったら、確かに、この辺りで姿を消したんだけど……。せっかく久しぶりに会ったんだから、聞かせたい怪談《かいだん》がたくさんあるんだからね。あれ、ぜんぜん出てこないなぁ……」
ちょっとでもはやく会いたくてたまらないというように、長くてしなやかな足で地面をこつんこつんと蹴《け》る。
「く、じょ、う! く、じょ、う! く、じょ……。あっ、出てきた!」
アブリルはトランクからぱっと立ち上がった。
――迷路花壇の出口から、さっきよりさらに険しい顔をした一弥が出てきたところだった。背筋をぴりっと伸《の》ばし、右手になにか……薄紫色をした便箋らしきものを握《にぎ》りしめて、ずんずんと歩いてくる。
「くじょ、う、くん……」
「あぁ、もう、腹が立つなぁ!」
一弥らしからぬちょっとばかし感情的《かんじょうてき》な声に、アブリルはびくんとした。首をかしげて、
「ど、どうかしたの? というか、久城くん、ひさしぶり……」
「なにが『ならず者』だ!」
「へ?」
一弥はずんずんと小道を歩いていく。アブリルはあわてて引き返してトランクに手をかけ、ずるずると引っ張りながら後を追った。
「どうかしたの?」
「ぼくは断《だん》じて『そこつ者』でも、『けだもの』でも、『中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才《しゅうさい》』でも『くだらん凡人《ぼんじん》』でも『音痴《おんち》』でもないぞ。それに『死神』でもない! あぁ、反論《はんろん》したいのに相手がもうここにいないなんて! どうしてくれよう、ヴィクトリカ!」
アブリルのほっぺたが、ぷくっとふくらんだ。
「ヴィクトリカさん……の、話かぁ……。心配して損《そん》した!」
「……あっ、アブリル。おかえり。地中海は楽しかった? 荷物《にもつ》、もつよ」
一弥は礼儀《れいぎ》正しく、レディのトランクに手をかけて引っ張り出した。小道をとことこと歩きながら、ため息をつく。
「どうして最後の手紙が、周りの大人を威圧《いあつ》してまで、無理《むり》に書いて先生に託《たく》したものが、最初から最後まで……」
トランクが不機嫌《ふきげん》そうにがたごと揺《ゆ》れながら、一弥の後ろを進んでいく。アブリルは相変《あいか》わらずふくれっ面《つら》だ。
「最初から最後まで、ぼくの悪口なんだよ! あの、悪口魔《わるくちま》! 悪魔的《あくまてき》ヴィクトリカ! しかも、手紙の体裁《ていさい》さえとってないよ。だって、文章《ぶんしょう》になってないんだからね! 全編《ぜんぺん》、単語《たんご》だけじゃないか。ばか、ならず者、音痴、けだもの、凡人、って……。どうしてもぼくに伝えたかったことが、それ? しかも、こんなおっきな字で! まったく、もぅ……。いつまでたっても、君は本当に、意地悪な子なんだから……」
「ねぇ、なんの話? またあの子とけんかしたの?」
アブリルはあきれた顔をして聞く。
朝陽《あさひ》がきらきらと照らす噴水《ふんすい》の前を通り過ぎながら、一弥はゆっくりと首を振った。
風が吹《ふ》いて、一弥の黒髪《くろかみ》をさらさらと寂《さび》しげに揺らしていった。アブリルのプリーツスカートのすそも一度ふわりとふくらんで、またもとに戻《もど》った。
アブリルが首をかしげた。
「じゃ、いったいどうしたの?」
「いなく、なっちゃったんだ」
一弥の声は小さかった。
「えっ?」
「ヴィクトリカ、遠くに行っちゃったんだ」
アブリルの顔にさっと、驚きと悲しみの表情が宿《やど》った。それからまた、かすかに表情が変わった。遠くに見えるあの、巨大《きょだい》な灰色の塔《とう》――アブリルの心に重くのしかかっていた、小さな少女とそれを守る知《ち》の殿堂《でんどう》、図書館塔を振り返る。
アブリルはしばらく黙っていた。それから、一弥の顔を心配そうに覗《のぞ》き込んだ。
「久城くん、だいじょうぶ……?」
「うん……。いや……」
一弥は唇を引き結んだ。
それから、立ち止まるとトランクから手を離《はな》した。便箋いっぱいに大きな文字で悪口が書き連らねられた、ヴィクトリカからの手紙を両手でていねいに折《お》りたたんだ。なにも言わない。言葉にはしなかった。ただ、いつくしむような優《やさ》しい手つきで、薄紫色をした薔薇模様の便箋を、胸ポケットから取り出した手帳《てちょう》にそうっとはさんだ。
手帳には、夏の初めにヴィクトリカからもらった、最初の手紙もまたていねいに折りたたまれてはさまれていた。鳥籠《とりかご》に入れられた薔薇のすかし模様が入った、香水《こうすい》つきの小さな便箋……。ただ一言、短く『ばか』とだけ書かれた、彼《か》の人からの、最初の手紙……。
一弥は手紙を胸ポケットにしまいなおすと、また唇ときつく結んだ。アブリルはますます心配そうに一弥の、徐々《じょじょ》に表情をなくしていくような横顔を見つめていた。
夏休み最後の日。
きらきらと日射《ひざ》しのまぶしい、まだまだ暑さの残る、朝。
学園には、バカンスの名残《なごり》を秘《ひ》めた楽しそうな生徒たちの声が響いていた。芝生《しばふ》の上にも、東屋《あずまや》にも、寮《りょう》の廊下《ろうか》や部屋の中にも……。
風が吹いて、咲《さ》き誇《ほこ》る花壇の花々をふわふわと揺らしていった。
夏休みが終わった。
後期の授業が始まり、生徒たちはまた、朝は規則正《きそくただ》しく起きて寮で朝食をとり、授業を受け、忙《いそが》しい学園生活に戻っていった。
日射しは少しずつ柔《やわ》らかになり、秋に近づいていった。青々としていた庭園《ていえん》の樹木《じゅもく》も少し葉の色を翳《かげ》らせ、風はひんやりと乾《かわ》いてきた。学園での授業を受ける生徒たちの中で、一弥はひときわ生真面目《きまじめ》に、硬《かた》い表情をしていた。予習も復習も完璧《かんぺき》で、どこを指されてもぴしりと立ち上がり、流れるようによどみなく回答《かいとう》してみせた。
その一弥の様子を、少し離れた席からアブリルがみつめていた。
(久城くん、様子がおかしい……)
それから、自分の目の前にある、いつもの空席《くうせき》……けして授業に出ることのないヴィクトリカ・ド・ブロワの小さな机《つくえ》に目を落とす。
(勉強ばっかりして。なんだか、帝国軍人《ていこくぐんじん》みたい)
眉《まゆ》をひそめる。
(あんまり笑わないし。つまんない……)
なぜか一弥とあまり目を合わせない、担任《たんにん》のセシル先生のほうを見て、またため息。
(なにがあったんだろう? ぜんぜんわかんないけど、でも……)
やがて授業が終わると、アブリルはしょんぼりして、教室の窓から外の景色《けしき》をみつめた。庭園を、急ぎ足で男子寮に向かっていく一弥の姿が遠く見えた。それは本当に、軍人のひとりぼっちの行進《こうしん》のように、まっすぐで、周囲で咲き誇る花も素敵《すてき》な芝生も、なにも目にうつっていないかのような様子だった。
そして、その週も半《なか》ばを過ぎたころ。
風はますます涼《すず》しくなり、青々と茂《しげ》っていた樹木の葉も柔らかにくすんだ、秋の色に変わり始めた。庭園に咲き誇る色とりどりの花が、ひんやりと湿《しめ》った風が吹くたびに、はらはらと極彩色《ごくさいしょく》の花びらを芝生に散《ち》らしていた。
「えと、えと、久城くん」
芝生に置かれたベンチに腰《こし》かけて『月刊・硬派』に読みふける一弥に、ゆっくり近づいてきたアブリルがおそるおそる声をかけた。夕刻《ゆうこく》の庭園には生徒たちが思い思いに散らばって、楽しそうに談笑《だんしょう》していた。
ベンチの背から覗き込んで、アブリルが聞いた。
「久城くん、なに読んでるの?」
「ん? あぁ」
一弥が顔を上げた。笑顔《えがお》になって、
「『月刊・硬派』だよ。長兄《ちょうけい》が国から送ってくるんだ。男たるもの、どう生きるべきかが毎月、暑苦しくも押《お》し付けがましい文章で猛々《たけだけ》しく書かれているんだよ。ぼく、この雑誌《ざっし》、すごく苦手《にがて》なんだ」
「に、苦手なの? じゃ、どうしてそんなに読みふけってるの?」
アブリルは青い瞳《ひとみ》をぱちくりして、聞いた。ベンチのとなりに座《すわ》って、雑誌を覗き込む。また涼しい風が吹いて、アブリルの短い金髪《きんぱつ》を揺《ゆ》らしていった。白いうなじにピンクの花びらが飛んできて、ふわりと着地《ちゃくち》してから、ゆっくり首筋《くびすじ》を転《ころ》がってころころと芝生に落ちていった。
一弥はさびしそうにつぶやいた。
「……どうしてかなぁ」
「ん?」
気を取り直したように微笑《ほほえ》んで見せて、一弥は続けた。
「『男たるもの、個人的な感情で行動したり、命を粗末《そまつ》にしてはならぬ』とか、書いてあるんだ。あと『国のために命を捨てる。そのために自己《じこ》を鍛《きた》えて云々《うんぬん》』とか。長兄からときどきもらう手紙と、まぁ、似ているかなぁ。手紙だともっと強い論調《ろんちょう》で『世界|情勢《じょうせい》が刻々《こっこく》と変わっていく中、国のために働ける立派《りっぱ》な男になるため、よく勉強して帰ってこい』なんて書いてあるね。相変《あいか》わらずだなぁ、兄貴《あにき》は」
「へぇ?」
「あと、次兄から科学の雑誌も送られてくるんだけど、これはなかなかおもしろいよ。姉から届《とど》く編《あ》み物やリリアンの雑誌も、興味深《きょうみぶか》いしね。あれこれ、気がまぎれるよ」
「はぁ」
アブリルは間の抜《ぬ》けた返事を繰《く》り返している自分に気づいて、ちょっと赤くなった。ベンチに座ったままもじもじして、右を見たり、左を見たり、上を見上げたりした。制服のプリーツスカートの裾《すそ》を引っ張ったりいじくったりしながら、思い悩《なや》む。
(なにか、とっておきのおもしろい話をしてあげたいなぁ。久城くんが元気になるような、楽しい、話題、って、えっと……)
ちらりととなりを見ると、一弥がまた、苦手なはずの雑誌に目を落としたところだった。アブリルはあわてて、口を開いた。
「久城くん、霊界《れいかい》ラジオ≠チて知ってる?」
「知らない。なぁにそれ?」
一弥の返事に、アブリルの顔がぱあっと輝《かがや》いた。張《は》り切《き》って、
「えっとね、霊界ラジオって言うのは……。あのね、誰《だれ》もいないはずの部屋で、夜中に、とつぜんラジオのスイッチが入るの。そして、あの世からの死者の声を拾《ひろ》って、流しだすの。恐《おそ》ろしい雑音《ざつおん》とともに、呪《のろ》われたその声を……」
涼しい庭園に、アブリルの楽しそうな話し声が響《ひび》き始めた。
また風が吹《ふ》いて、花壇《かだん》に咲いていた金色の花が、一斉《いっせい》に花びらを散らして芝生の上や噴水《ふんすい》の透明《とうめい》な水面に舞《ま》い落ちていった。
それからさらに、数日。
週末も近い、夕刻。天気はよく、だいぶ花が寂《さび》しくなった庭園の花壇にも暖《あたた》かな日射しが降り落ちていた。
「……それでね、その部屋に入ってきた幽霊《ゆうれい》が、叫《さけ》んだの。『おまえを呪い殺してやるぞぅ!』」
「うん、うん」
庭園のベンチに座った一弥が、半目《はんめ》になってうなずいていた。となりに腰かけたアブリルは張り切って、あれこれと新しい怪談《かいだん》を話し続けていた。
一弥は、膝《ひざ》の上においた教科書に目を落とした。そしてそのまま、首をがっくりとうなだれ、気絶《きぜつ》するように眠《ねむ》りに落ちていた。
アブリルは気づかす、話し続けている。
(久城くん、だいぶ元気になってきたみたい。授業中も普通《ふつう》だし、もうすっかり、いつもの久城くんだよね……?)
一通り話し終わって、アブリルは一弥をつっついた。
「それでね、久城くん」
「ぼくは眠ってませんよ」
一弥が顔を上げて、言った。
「週末、村に出かけてみない? 後期の授業も始まったし、文房具《ぶんぼうぐ》とか、いろいろ買い物もあるし。一緒《いっしょ》にいったほうが楽しいかなぁって思って」
「うん……」
一弥はぼんやりしたまま、生返事《なまへんじ》した。
白い大きな雲がゆっくりと、夕刻の空を覆《おお》い始めた。日が翳り、芝生に暗い影《かげ》を落としていった。肌寒《はだざむ》くなったのか、一弥がくしゃんと小さなくしゃみをした。それから立ち上がると、きりりと背筋を伸《の》ばして小道を歩きだした。
その後ろ姿を、アブリルはベンチに腰かけたまま、しばらくみつめていた。
(ほんとに、元気になったのかな……)
夕日が橙色《だいだいいろ》に輝いて、雲の合間《あいま》から射し始めた。遠くで、歩いていく一弥が一度、なにもないのに突っかかってころころと転んだ。アブリルはベンチから立ち上がって、スカートの埃《ほこり》をはたいているところで、一弥がコケたのに気づかない。一弥がまた歩きだした。アブリルも小道を反対側に向かって歩きだした。
また風が吹いて、花壇から金色の花びらを散らして、歩いていくアブリルのほっそりとしたからだを取り囲むように揺《ゆ》れながら、地面に落ちていった。
そのアブリルとすれ違《ちが》いで、セシル先生が小道を歩いてきた。こちらもまたぼんやりと、心ここにあらずの様子で、相変《あいか》わらず瞳《ひとみ》を赤くはらしていた。いつも肩《かた》の辺りでカールしていたくるくるのブルネットの髪《かみ》も、寝《ね》ぐせがついておかしなふうに一房《ひとふさ》、斜《なな》め上に向かって立っていた。
「あら、アブリルさん」
「先生、それ、寝ぐせ?」
「えっ? ち、ちち、ちがうのよ。これは、こういうヘアスタイルなの。ソヴレムで流行《はや》ってるの。えっと……」
セシル先生はあわてて髪の毛をいじくり始めた。ベンチにつまずいて、こけっと転んだ。抱《かか》えていたプリントの山が、秋の涼《すず》しい風にふわりと舞《ま》い上がって庭園のあちこちに飛んでいく。アブリルが「きゃっ!」と叫《さけ》び声をあげた。長いしなやかな足で地面を蹴《け》って、飛び上がり、プリントを空中でキャッチする。
「あら、ありがとう。アブリルさん……」
「あと二枚、っと。先生、あの、どうかしたんですか?」
不思議そうなアブリルに、セシル先生は首を振《ふ》ってみせた。
それから、小道のずっと向こうに遠《とお》ざかっていく一弥の後ろ姿にちらりと目をやった。
「アブリルさん、いま、久城くんとお話ししてたでしょ? どんな様子だった? 元気がないとか、ぼんやりしてるとか……」
「今週の初めはそんな感じもしたけど、今日はもういつもどおりでしたよぅ」
アブリルは明るく答えた。セシル先生は首をかしげて、
「そう……?」
「ええ、普通におしゃべりしてたし……。ん? あれ……?」
といいながらもアブリルは、そういえば自分ばっかり話していたような気もする、と思い当たった。自信なさそうに、セシル先生と同じ方向に首をかしげてみる。
「ど、どうだったかな?」
ふたりは首をかしげたまま、きょとんとしてしばし、みつめあった。
セシル先生が抱え直したプリントの上に、風に吹《ふ》かれて花びらが何枚か落ちてきた。
リスが一|匹《ぴき》、二人の横をちょこちょこと通り過ぎていった……。
週末の朝。
アブリルは張《は》り切って起きると、身支度《みじたく》をした。短い髪をといて、いちばん気に入っている水玉|模様《もよう》のブラウスとフレアスカートをはいて、小さな丸い布鞄《ぬのかばん》を持った。ばたばたと女子|寮《りょう》を出て、聖マルグリット学園の広大な庭園《ていえん》に駆《か》け出していく。
花壇《かだん》の向こうに、金色のとがった妙《みょう》なものが一瞬《いっしゅん》、見えた。アブリルは足を止めて、それに目を凝《こ》らした。花壇の花々はアブリルの身の丈より少し低いくらいで、その向こうに見えたものは、背伸《せの》びをしても、もうよく見えなかった。アブリルは、まぁいいか、と気を取り直して、一弥を探すためにまたばたばたと走り出した。
(久城くん、なんだかいつもと様子がちがう気もするけど、でも……)
アブリルは庭園の中をキョロキョロして、遠くの東屋《あずまや》にぽつんと座《すわ》っている一弥をみつけた。そちらに向かっていきながら、
(一緒に村に出かけで、楽しく遊んだら、きっと元気もでると思うなぁ。いつまでもくよくよしてるのなんて久城くんらしくないし、それに……)
東屋に近づいて、声をかけようとしたとき……。
「い、痛《いた》い!」
頭の後ろになにか鋭利《えいり》なものが突《つ》き刺《さ》さった。アブリルは悲鳴を上げて、両手で頭を押《お》さえて振り返った。
金色に輝《かがや》く、ぐりゅんと流線型《りゅうせんけい》にかためたドリルが二つも、朝日を浴びてきらきらと輝いていた。
東屋に座った一弥は、白い陶製《とうせい》のパイプを手に握《にぎ》りしめていた。いじくったり、くわえて吸《す》う振りをしてみたり、手のひらの上においてじっと見つめたりを続けていたが、なにやら近くで押し問答《もんどう》する声に気づいて、顔を上げた。
「痛い! 気をつけてくださいってば、警部《けいぶ》さん。頭にそんな危《あぶ》ないものを二つもつけてるんですからね!」
「まだ慣《な》れないのだ。これが二股《ふたまた》に分かれてからまだ日が浅くてね」
「だからって、女の子と頭にそんなものを突き刺すなんて。あなたなんて、逮捕《たいほ》されちゃえばいいのに!」
「しかし、たかが髪の毛じゃないか」
「それは凶器《きょうき》ですってば。ほんとに痛かったんだから!」
きゃんきゃんと争《あらそ》いあう声に、一弥はそちらを見た。東屋の外で、アブリルとグレヴィール・ド・ブロワ警部らしき後ろ姿が、なにごとか言い争っていた。ブロワ警部は相変《あいか》わらず、銀色に輝くシルクのブラウスに同じ銀のカフス、ぴったりとした乗馬《じょうば》ズボンと、一部の隙《すき》もない洒落《しゃれ》た服装《ふくそう》をしていた。
一弥は立ち上がって「どうかしたんで、す、か……?」と聞きかけた。
ブロワ警部が振り返った。一弥は思わず、
「きゃっ!」
「へんな悲鳴を上げるな。久城くん、すぐにきてくれ」
「いやですよ! その頭の説明を聞くまでは」
「……いろいろあったのだ」
振り返ったブロワ警部の頭は、金色のドリルが二つ、いつものものが上下に二股に分かれたような様子で、にょっきりと張り出していた。二つのドリルのあいだは開かれた鰐《わに》の口にも似て、不気味《ぶきみ》な金色の闇《やみ》となって、覗《のぞ》き込む一弥をいまにも不吉に飲み込んでしまいそうだった。
「……いったいどうしたんですか?」
警部に手を握《にぎ》られてずるずる引っ張られながら、一弥は聞いた。
「どうもしない」
「じゃ、ぼくを笑わせにきたんですか?」
「……どうしてわたしがわざわざ君を笑わせに来るのだね? ちがう。だから、いろいろあったのだ。夏の終わりに、ちょっとばかりな」
「はぁ……」
「ジャクリーヌと、ね……」
「へっ? なに、どういうことですか?」
「うるさい、黙《だま》れ久城。余計なことは考えずに右、左、右、左と行進するように歩くのだ。質問したら逮捕するぞ。わかったか、君」
「……横暴《おうぼう》だなぁ」
一弥は文句《もんく》を言いながらも、ずるずると引きずられて芝生《しばふ》を歩いていった。アブリルのほうを振り返って「ま、またね、アブリル」と手を振ると、アブリルはあわてて、
「えーっ!? そんなぁ。久城くん、お出かけは?」
「後にしろ、後に」
ブロワ警部が不機嫌《ふきげん》そうに言って、しっしっとアブリルを追いやった。アブリルはむっとした後、ブロワ警部の後ろ姿に向かって、べーっと舌を出して見せた。
ブロワ警部は問答無用《もんどうむよう》で、一弥をどこかに引きずっていく。
その、朝日の浴《あ》びてきらびやかに輝く二つのドリルを見上げながら、一弥はつぶやいた。
「警部……。ヴィクトリカは、あなたの妹は、いったいどこに連れて行かれたんですか?」
「〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉だ」
ブロワ警部はすぐに答えた。
風が吹いた。一弥の黒髪《くろかみ》がさらさらと揺《ゆ》れた。だが警部の髪の毛はまったく揺れなかった。樹木《じゅもく》の葉がカサカサと少し乾《かわ》いた音を立てた。
一弥は、警部が解答《かいとう》したことに驚《おどろ》いて、そのドリルをまた見上げていた。
「……頭ばっかり見るな!」
「いや、どうしても目に入って。あの、〈ベルゼブブの頭蓋〉って、なんですか?」
「リトアニアにある修道院《しゅうどういん》だ」
警部はまた、すぐに解答した。
「我々《われわれ》、ソヴュール王国とは長く同盟《どうめい》関係にある。古き力がまだヨーロッパを覆《おお》っていたころから、ずっとだ。いいかね、そこは修道女たちが静《しず》かに暮《く》らす場所で、あの小さな灰色狼《はいいろおおかみ》をおとなしくさせておくのに、もっとも適《てき》した場所、のはずだった。そこは海沿《うみぞ》いにあってね。その修道院は、海が水に満ちる時間になると水門を閉め、水の侵入《しんにゅう》を防《ふせ》ぐ。人里からも遠く、無人の駅が近くに一つあるきりで、後は暗い海に閉ざされている。小さな狼一|匹《ぴき》では、逃《に》げることも叶《かな》うまい」
一弥は唇《くちびる》をかんだ。
「そんなところに、ヴィクトリカが……」
ブロワ警部の二つのドリルを、睨《にら》み上げる。
「いったいどうしてですか? こんなにとつぜん……」
一弥の強い視線《しせん》から目をそらし、警部は滔々《とうとう》と話し続けた。
「我々はとある目的から、とある人物をおびき寄せる必要があった。そのためにどうしても、あの小さな灰色狼が必要だったのだ」
「とある人物?」
「それについては、君に教えることはできない」
警部は低い声で言った。
「しかし、小さな灰色狼は我々の予想《よそう》を超《こ》え、急速《きゅうそく》に弱ってしまった」
「なっ」
「あれはどうしても、生きたままつぎの嵐《あらし》を迎《むか》えなければいけないのだ。しかしあれは、あの奇怪《きかい》にして広大な頭脳《ずのう》と引き換《か》えに、小さく、弱く、儚《はかな》いからだを授《さず》かった。もう一度言うが、久城くん、我々はあれが自由になっても困《こま》るが、しかし、死んでしまうことがもっとも困るのだよ」
一弥は声を荒《あら》らげた。
「そんな、勝手《かって》な……! しかし、ヴィクトリカは大丈夫《だいじょうぶ》なんですか? 警部……」
警部は答えなかった。
ずるずると一弥を引っ張っていく。一弥は、ブロワ警部が向かっているのが、あの、真ん中に小さなお菓子《かし》の家を隠《かく》した迷路花壇《めいろかだん》の方向だと気づいた。問うように警部のドリルを見つめていると、
「修道院からの連絡《れんらく》によると、だが。あれは食事をせず、書物《しょもつ》も読まず、もはや吠《ほ》えもしないらしい。もう一週間のあいだ、修道院の隅《すみ》でただ、灰色狼の置物《おきもの》のように座《すわ》り続けているそうだ。食事もせず、声も出さず、ただ少しずつ弱っていくだけなのだ、と……。このままだとあれの命の灯火《ともしび》は、小さなかぜ一つで掻き消えてしまうかもしれない……」
「…………!」
一弥はうつむいた。
迷路花壇を抜《ぬ》けて、ヴィクトリカのドールハウスにたどり着いた。ちょうどセシル先生が、あわてたように玄関《げんかん》の鍵《かぎ》をあけたところだった。足音に気づいたように振《ふ》り返り、一弥とブロワ警部を見つけると、ホッとしたように少し微笑《ほほえ》んだ。
「久城くん……」
「先生」
「はやく開けたまえ」
警部がいらいらしたように言った。セシル先生がドアをあけると、三人で家に入った。
朝だというのに薄暗《うすぐら》い、小さな家。警部がドリルをつけた頭を右に、左に、ブンブン振りながら、
「致《いた》し方ないが、あれの荷物だけでも修道院に送ってやろうかと思ってね。久城くん、君、荷造りを手伝いたまえ」
「…………」
「あぁ……。我《わ》が妹とはいえ、あれはもしかすると、限《かぎ》られた条件下でしか生きられぬ異形《いぎょう》のものなのかもしれない……。我々が考えていたよりずっと、弱い生き物なのかもしれない……。ほら、これを!」
ブロワ警部は巨大《きょだい》な空のトランクを見つけて、一弥のほうに放《ほう》り投げてきた。一弥はあわててそれを受け取った。
それから、うつむいてしばらく黙《だま》っていた。唇を噛《か》んで、抱《かか》えたトランクを見つめる。それからトランクを床《ゆか》に置くと、両足を踏《ふ》ん張《ば》って立った。
ブロワ警部を睨みつける。
「警部。ぼくは……」
強い声で続ける。
「ぼくは、ヴィクトリカを迎《むか》えに行きます」
「ほぅ」
ブロワ警部は少しほっとしたようだった。一弥はその顔を睨みあげて、
「ぼくはあの子を迎えに行く。でも、あなたやあなたの父親、ブロワ侯爵《こうしゃく》のためじゃない。ほかの誰《だれ》のためでもない。ぼくは、ヴィクトリカの、友達だから……。心配だから……。だから迎えに行きます。でも……」
ブロワ警部がぱっと振り返った。一弥はすばやいバックステップで、危険《きけん》なドリルが自分に突《つ》き刺《さ》さるのを防《ふせ》いだ。薄暗い部屋の中で、東洋《とうよう》の小さな国からやってきた留学生の久城一弥と、ブロワ侯爵かの嫡男《ちゃくなん》であるドリルの警部が、まっこうから睨みあった。
一弥は二股《ふたまた》ドリルから目をそらさなかった。
「ぼくは……」
「ふん。それなら、はやく支度《したく》をしたまえ」
「警部、ぼくは……」
二人は睨みあった。一弥の脳裏《のうり》に、いま目の前に立っているドリルの男ではなく、あの燃えるような赤い髪をした、不吉な男――猫《ねこ》のようにつりあがった緑の瞳《ひとみ》をした、謎《なぞ》めいた奇術師《きじゅつし》、ブライアン・ロスコーの残した言葉が蘇《よみがえ》る。
〈移送《いそう》に、気をつけろ――〉
〈その程度《ていど》の力で、守れるかな――?〉
にらみ合う一弥と警部を、部屋の隅でセシル先生がしばらく見つめていた。もにょもにょと足踏《あしぶ》みし、心配そうに二人の顔を見比《みくら》べていたが、やがてこどもをしかるような口調《くちょう》で、言った。
「二人とも、喧嘩《けんか》はあとです。いまは急いで迎えにいってあげてちょうだい、久城くん」
「あっ……。はい!」
一弥はわれに返って、うなずいた。ブロワ警部がフンと鼻を鳴らした。
セシル先生はトランクを指さして、
「荷物を入れましょう。ヴィクトリカさん、着替《きが》えもちゃんと持っていかなかったから」
「着替えも?」
一弥が聞き返した。
「たった一晩《ひとばん》出かけるのに、世界一周旅行をするような馬鹿みたいな大荷物を抱えていた、あのヴィクトリカが? そういや、この巨大なトランクがまだこの家にあるっていうことは……」
「荷造りのための時間を、ほら、久城くん宛《あ》ての手紙に使っちゃったのよ」
「あっ……」
「よっぽど伝えたいことがあったのね、ヴィクトリカさん……」
セシル先生は悲しそうにつぶやいた。一弥はとても複雑《ふくざつ》そうな顔になって、黙《だま》り込んだ。
「まったく、もう。あの意地悪《いじわる》ヴィクトリカ。意地っ張りの、ちびっ子の、悪口製造機《わるくちせいぞうき》。君が命のつぎに大事なものは、書物とフリルとお菓子《かし》じゃなかったのかい? どうしてそれを差し置いて、ぼくの悪口なんかに費《つい》やしたりしたんだよ。君、ほんとに、ばかじゃないのかい?」
一弥はそこにいないヴィクトリカに向かってがみがみと小言をいいながら、お菓子の家中《いえじゅう》を歩き回って、ヴィクトリカのための荷造りに精《せい》を出していた。いかにも難解《なんかい》そうな書物を数冊と、ピンクやオレンジ色のマカロンが詰まった、ガラスの瓶《びん》。チョコレートボンボンと、兎《うさぎ》や鳥のかたちをした棒付《ぼうつ》きキャンディーと、木苺《きいちご》ジャムをはさんだクッキー。きらきら輝《かがや》くマロングラッセの山と、黒スグリがたっぷり練《ね》りこまれた、まんまるのスコーン。
それを詰《つ》め終わると、翡翠《ひすい》色をしたつやつや輝くクローゼットの観音開《かんのんひら》きの扉《とびら》に手をかけ、開いた。中からポンッと、詰め込まれたフリルとレースのドレスが飛び出してきて、一弥の上にふわふわと、まるで白鳥《はくちょう》の大群《たいぐん》が襲《おそ》いかかるように降り落ちた。
「うわっ!?」
一弥はびっくりしてしりもちをついた。雪のように白いファーで飾《かざ》られたフリルのドレスや、つやめくベロアの、ルビー色のワンピース。ふっくら姫袖《ひめそで》でふくらんだピンクのドレスには、小さな薔薇《ばら》のコサージュが無数《むすう》に飾られていた。ゴブラン織《お》りのミニハットや、真珠《しんじゅ》のボタンが輝くちっちゃなバレエシューズや、スカートを膨《ふく》らませるパニエや、飾り刺繍《ししゅう》がたっぷりついたドロワーズや……。
ヴィクトリカがなつかしくなって、一弥は思わず、無表情になった。それからゆっくりと立ち上がると、ドレスを一枚一枚拾っては、トランクに詰め始めた。
思い出を拾うように。
ゆっくりと、クローゼットのフリルの山が、トランクに移動していく。
ブロワ警部がそれをいらいらしたようにみつめている。
……やがて、耐《た》えられないというように、
「ちがう! そのパニエはそっちのドレスを内側からふっくらふくらませるための専用のやつだ。あと、そのフリルのブラウスはこっちのドレスの下に着ると、袖の飾りが映《は》える。いいか、それにこのお花のハイヒールをあわせるのだ。それだと帽子《ぼうし》は……ええと、これだ!」
「うるさいですよ、警部」
「……しかし、久城くん。君はフリルなどにうとい、無骨《ぶこつ》な男だから、かゆいところに手が……」
「迎えに行くのはぼくだ。警部はそこで黙って、ドリルをどんどん増やしてればいいんです!」
顔を上げた一弥に怒《いか》りをこめて睨《にら》まれ、警部は口をとじた。それから壁《かべ》にもたれて、黙って、そわそわしながらも、余計《よけい》なことは言わずに、一弥の荷造りを見守った。
小声で「しかし、これを増やしたのはあの、ちいさい悪魔《あくま》なのだぞ……。誰が好《す》き好《この》んで、こんなまとめにくいヘアスタイルにするものか……」とぶつぶつつぶやいている。
やがて一弥は荷物をつめ終わり、トランクのふたをばたんと閉めた。
鍵《かぎ》をかける。
静かに立ち上がって、待っていたセシル先生とブロワ警部に向かって、いった。
「では、行ってきます」
「……久城くん」
警部はつぶやくと、懐《ふところ》からなにかを取り出した。それは細長《ほそなが》い黒い封筒《ふうとう》だった。受け取った一弥が中を開いてみると、薄《うす》っぺらい黒い紙が一枚、出てきた。それには英語で短く、〈ファンタスマゴリアへの招待状《しょうたいじょう》〉と書かれていた。
「これは……?」
「それがなくては入れない。あの修道院は普段《ふだん》はけして部外者を入れないのだ。だが今夜は、それがあれば入れる」
「いったい、〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉というのは、どういう……」
「行けばわかる。頼《たの》んだぞ、君」
ブロワ警部はそうつぶやくと、大砲《たいほう》のようなドリルを一弥に向けて、うなずいてみせた。
週末の聖マルグリット学園は、よく晴れて、秋晴れの過ごしやすい季節を謳歌《おうか》していた。生徒たちは思い思いの場所でくつろぎ、相変わらず、夏の長いバカンスの思い出話を楽しそうに続けていた。小鳥のさえずりのような、かしましいその声。
東屋《あずまや》から。ベンチから。気持ちのいい芝生《しばふ》の上から。
その聖マルグリット学園の隅《すみ》にある、謎めいた迷路花壇《めいろかだん》。中で迷ってしまうために生徒たちは入ろうとしない。それの奥《おく》から、ひっそりと、久城一弥が出てきた。
巨大なトランクを重そうに引きずりながら、一人、小道をゆっくりと歩いていく。
楽しそうなざわめきから、一歩、また一歩と離《はな》れていく。
東屋でクラスメイトたちと話していたアブリルが、それに気づいて、どこにいくのかしら、と不思議《ふしぎ》そうに小首をかしげて見送る。
一弥は小道を歩き、聖マルグリット学園の出口である、巨大な正門にたどり着く。唐草模様《からくさもよう》に似《に》た飾《かざ》りが輝《かがや》く、大きな門。それを抜《ぬ》けて……。
夏の終わりの聖マルグリット学園を、一弥は後にした。
また風が吹《ふ》いて、樹木の葉を揺《ゆ》らした。噴水《ふんすい》の水がとろとろと流れ続けている。正門の外には村に通じる、静かな砂利《じゃり》道がどこまでものびていた。
村の小さな駅は、静かだった。バカンス帰りの生徒たちを大量に乗せていた一週間前とちがい、かわいらしい三角屋根をした小さな駅舎《えきしゃ》にも、もくもくと煙《けむり》を吐《は》きながらホームに入ってくる蒸気機関車《じょうききかんしゃ》にも、あまり乗客の姿はなかった。
巨大《きょだい》なトランクを抱《かか》えた一弥は、やってきた列車に飛び乗ると、ほっと一息ついた。それから廊下《ろうか》を歩いて、空いているコンパートメントをみつけて入り、腰《こし》を下ろした。
となりには、巨大なトランクが一つ、誰かの人格《じんかく》を模倣《もほう》するようにでんと、偉《えら》そうに鎮座《ちんざ》していた。一弥はトランクにもたれてじっと窓の外を見た。
緑の眩《まぶ》しい葡萄畑《ぶどうはたけ》が、どんどん遠ざかっていく。ソヴュール王国の首都《しゅと》、ソヴレムに向かう列車は、窓の外の景色《けしき》をどんどん、都市部のものに染《そ》め替《か》えていく。一時間|経《た》ち、二時間が経ち……。やがて、少しずつ列車は混んできた。停車《ていしゃ》した駅から、小さな女の子を連れた若い母親が「いいかしら?」と聞きながらコンパートメントに入ってきた。振《ふ》り向いた一弥が東洋人の少年だということに気づき、警戒《けいかい》するように少し表情を固くする。
一弥は礼儀正《れいぎただ》しく、
「どうぞ、マダム」
「…………」
若い母親が向かい側の座席《ざせき》に座《すわ》る。連《つ》れられている小さな女の子が、ふわふわした子供服の裾《すそ》を揺らして座席によじ登り、まるで初めて列車に乗るのだというように窓枠《まどわく》にしがみついて、外の景色を見つめだした。
茶色い瞳が、大きく見開かれる。ちっちゃなぷくぷくした手をぎゅうっと握《にぎ》りしめている。
母親が窓をあけてやると、女の子の長い茶色い髪がふわりと舞《ま》い上がった。小さなお口をぽかんとあけて、流れていく景色に目を凝《こ》らしている。白いボンネットが窓からの風にあおられて、ふわりとその頭から飛び立ち、一弥の膝《ひざ》の上に落ちた。一弥はそれを拾《ひろ》うと、女の子の小さな頭にそっと載《の》せてやった。
そしてそうっと、女の子から視線を離した。
汽笛《きてき》が鳴った。
若い母親がハンカチを取り出して、一弥に渡《わた》してくれた。一弥は小声《こごえ》でお礼《れい》をいって、恥《は》ずかしそうに目を拭《ふ》いた。
すん、すん、と鼻をすする。
涙《なみだ》があふれている。
「あなた、ずっと遠くから、この国にきたのね」
「えっ。ええ……」
「妹さんのことでも、思い出したのかしら?」
「いえ。ええ、そのような……。あなたの、ちっちゃな娘《むすめ》さんを見ていたら……」
一弥はハンカチを返すと、若い母親は微笑《ほほえ》んだ。それから、眠《ねむ》そうに目をこすりだした女の子を両手で抱えて、膝の上に乗せた。女の子が一弥を見上げて、にっこりした。
列車が首都、ソヴレムに着いた。
ソヴレムの中央に鎮座《ちんざ》するシャルル・ド・ジレ駅は、総《そう》ガラス張《ば》りの天井《てんじょう》に、黒煉瓦《くろれんが》の巨大な柱。何十本と並ぶホームを繋《つな》ぐ鉄製《てつせい》の歩道橋《ほどうきょう》を、乗客や赤い制服のポーターたちがせわしなく行き過《す》ぎていた。
一弥は駅|構内《こうない》の大きなカフェで、ミルクを飲んで時間を潰《つぶ》した。それから、夕刻《ゆうこく》になってやっと、ホームにのっそりと入ってきた、リトアニア行きの列車であるオールド・マスカレード号に乗り込んだ。
西欧《せいおう》の大陸を横断《おうだん》する寝台型《しんだいがた》の急行列車。五両|編成《へんせい》で、一等列車には寝台が二つついた広々とした個室がついていた。車掌《しゃしょう》が予約《よやく》した乗客たちの名前と顔、パスポートを確認《かくにん》する。大きなトランクをポーターに運ばせながら、乗客たちがつぎつぎにホームに集まってきた。
車掌の前に続く列に並んでいる一弥の前には、同い年ぐらいの、いかにも物静《ものしず》かな様子の少女が立っていた。黒髪に、どこか青白《あおじろ》い肌《はだ》。瞳は暗い青色をしていて、なかなかにきれいな少女だった。
彼女が重そうに持つ荷物に手を貸《か》してやると、少女は低い声で「ありがとう」とつぶやいた。
一弥の後ろには、二十代半ばぐらいと思われる痩《や》せた男が立っていた。きちんとスーツを着て、茶色い髪もていねいに撫《な》で付けている。これといって特徴《とくちょう》のない、真面目《まじめ》そうな若い男だった。
乗客たちが順番《じゅんばん》に列車に乗り込むと、汽笛が鳴った。しばらくして、鉄製のドアが外から閉められた。
一弥は自分用の個室に入ると、ベッドの横に巨大なトランクを置いた。それからほうっとため息をついた。小さな椅子《いす》に座ったとき、外の廊下《ろうか》から、なにかがドアにぶつかる音がした。
つづいて、なにかののしるようなしゃがれ声。
「ど、どうかしましたか?」
ドアをあけて廊下を見ると、ちょうどそこに、白髪《はくはつ》に白い髭《ひげ》をたくわえた、七十がらみの老人が立っていた。上質《じょうしつ》ではないがよく手入れされた服や靴《くつ》。しわに半ば隠《かく》された、緑色の瞳。やせたからだで、大きな荷物を持っていた。どうやらその荷物をドアにぶつけてしまったらしい。
口の中でもごもごと文句《もんく》の言葉をつぶやいてる。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「フン。心配なら手伝いたまえ、東洋人め」
一弥はむっとした。
「そういう言い方はないでしょう、ご老人。部屋はどこですか……」
文句をいいながらも、老人の荷物を持って個室に運び込んでやる。老人はぶつぶつなにかつぶやいて、一弥にポケットから出した小銭《こぜに》を渡そうとした。一弥が断《ことわ》ると、またなにやらつぶやきながら、ポケットに小銭をしまう。
「どこまでいかれるんですか?」
一弥がなにげなく問うと、老人はふいに顔をしかめた。しわだらけの顔が哀《かな》しげにくもったので、一弥はどきっとして、老人の個室から出ようとしていた足を、思わず止めた。
老人はつぶやいた。
「――〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉じゃよ。東洋人」
老人と一緒《いっしょ》に、一弥は動き出したオールド・マスカレード号の廊下を歩き、ラウンジに向かった。一等車と二等車のあいだにあるそこは、豪奢《ごうしゃ》なアールデコのテーブルとイス、ソファ、オリエント風の花瓶《かびん》などで溢《あふ》れていた。
薄暗《うすぐら》いその車両を、ぼうっと洋灯の橙色《だいだいいろ》の輝きが照《て》らしていた。老人は隣の席に座ると、紅茶《こうちゃ》を注文した。一弥もそれにならう。老人は白い長い髪をソファにたらして、話し出した。
「〈ベルゼブブの頭蓋〉は、じつに閉鎖的《へいさてき》な修道院なのだよ、東洋人」
「ええ、知っています。ぼくもいまからそこに向かうところなんです」
「修道院には、若い娘たちがたくさんいてね。もちろん、全員が修道女たちだ。わしの娘もそこにいるのでね。明日は、久しぶりに娘に会いに行くのだよ。ずいぶん会っていないもので、どうも……寂《さび》しくてね」
老人は微笑《ほほえ》んだ。さざなみのように、しわがうごめいた。
給仕の手で紅茶が運ばれてきた。老人は小刻《こきざ》みに震《ふる》える手でカップを持ち上げた。熱い紅茶を口に運びながら、
「〈ベルゼブブの頭蓋〉は、岩の塊《かたまり》のような建物でね。内部は螺旋《らせん》になっていて、ぐるぐると長い廊下の左右に小さな部屋が無数《むすう》に作られている。しかし外から見ると、丸くごつごつとして、巨大な蠅《はえ》の頭のようにも見える。それでそのような名前で呼ばれているのだ」
「蠅の頭のように……」
「そうだ。わしのような古い人間しかもう知らないかもしれないが、あの修道院はその昔、あの国の王がつくらせた迷宮《めいきゅう》でもあったのだ。その昔、かの国で恐《おそ》ろしい疫病《えきびょう》が流行《はや》ったとき、王は民《たみ》を救おうとせず、己《おのれ》の命をただ守らんとした。そして、疫病が迷って入ってこれないようにと廊下を永遠の螺旋のデザインとし、自《みずか》らそのもっとも奥《おく》の部屋に隠れたのだ」
一弥も熱い紅茶を口に運んだ。老人は続ける。
「しかし、あの国の民に語《かた》り継《つ》がれている伝説によると、疫病という名の悪魔《あくま》は、ついにある日、やってきた。国中の命を奪《うば》い、人々のからだに無数の穴をあけ黒い血を流させたそれは、ある夜、足音をしのばせ〈ベルゼブブの頭蓋〉にせまった。そして螺旋の迷宮をゆっくりと進み、進み、ついに朝になって、隠れる王を見つけた。そして無数の鋲《びょう》を打ち付けたその大きなからだで、震え、助けを請《こ》う王の細いからだを抱《だ》きしめた。王のからだには鋲によって無数の穴があき、そこから黒い血がどっと溢《あふ》れ出た。王は呪《のろ》いの言葉を叫《さけ》びながら息絶《いきた》え、そしてその王の命をもって、疫病もまたかの国から旅立ったのだ。……もう何百年も前の話だよ、東洋人」
「そんなことが……」
「しかし、それは遥《はる》か昔の出来事。半ば伝説としてのみ語り継がれているのだ。わしの娘も、そんなことは気にせず〈ベルゼブブの頭蓋〉の〈ファンタスマゴリアの夜〉のために粛々《しゅくしゅく》として働いているよ」
「〈ファンタスマゴリアの夜〉?」
一弥は紅茶のカップをソーサーに戻《もど》しながら、聞いた。老人は驚《おどろ》いたように瞳《ひとみ》を細めて、
「なんだ、知らなかったのかね。それなら、いったいなんのためにあの修道院に向かっているのだね?」
「いや、ぼくも、その……。友達がいるから、迎《むか》えに行くところなんです。それはいったいなんですか、ご老人」
「〈ベルゼブブの頭蓋〉は、先の世界大戦の折、ソヴュール王国の科学アカデミーの者たちが工作員《こうさくいん》のために使わせていた場所らしい、という噂《うわさ》もあるのだが。そういった歴史にかかわる場所にもかかわらず、今ではただの修道院として使われているに過ぎない。しかしその修道院は、月に一度、秘密の夜会《やかい》を開いているのだ。満月の夜だけを選んで行われる、修道女たちの夜会〈ファンタスマゴリアの夜〉――。明日の夜がちょうど、それなのだが。この列車はその夜会に招《まね》かれた客が乗り込んでいるせいで、こんなに混みあっているのだよ」
「秘密の夜会……」
老人が懐《ふところ》から、一枚の紙を出して一弥に見せた。一弥は思わずあっと叫んだ。それは、聖マルグリット学園を出るときにブロワ警部から渡《わた》された、あの奇妙《きみょう》な黒い招待状と同じものだった。老人はそれをまた懐にしまいながら、
「まあ、ショーのようなものだよ。宙《ちゅう》を飛ぶゴーストや、|消える美女《バニシングレディ》。岩の修道院を照《て》らす、魔力《まりょく》を秘《ひ》めた|石灰光《ライムライト》。そのためにヨーロッパ中から集められる、選《え》りすぐりの古《ふる》き力。すなわち、古き魔術師《ウィザード》たち――。彼らが見せる古き力による魔術を見るために、この大陸中からひそかに人々がやってくる。君もその一人だろうとわしは思っていたのだが、どうやらちがったようだ」
「いえ、その招待状なら、ぼくも……」
「なんだ、やはりそうなのか」
「ええ」
「古き魔術師たちが言うには、あの修道院にはもともと特別な魔力とでもいうものがあって、月が満《み》ちるこの時期になるとそれが増すのだと。だから、この時期に夜会をやっているらしいのだが。わしはどうも、彼らのそういった考え方には懐疑的《かいぎてき》なのだ。修道院がやることにしては派手《はで》すぎる気がしてね。わしの娘《むすめ》は修道女だが、彼らの魔力に操《あやつ》られているような気もするのだ。心配で、様子を見に行くことにしたのだがねぇ……」
老人は髭《ひげ》をいじりながら、深く吐息《といき》をついた。
夕刻に乗車したオールド・マスカレード号は、古き力の眠《ねむ》るヨーロッパ大陸を、黒煙《こくえん》をあげてゆっくりと横断しながら、夜のしじまに溶《と》け込んでいった。いつのまにか窓の外には墨《すみ》を溶かしたような闇《やみ》が立ち込め、時折《ときおり》、停車《ていしゃ》する都市の駅で乗客が乗り込んでくるとき以外は、列車内も静かで、人の声もあまり聞こえなくなっていった。
がたごとと揺《ゆ》れながら、停車駅からまた走り出したオールド・マスカレード号の廊下を、修道士《しゅうどうし》の服装をした年配《ねんぱい》の男が歩いてきた。ずいぶんと荷物が少なく、その代わり、金の刺繍《ししゅう》が入ったいかにも重そうなローブを身につけていた。一弥は老《お》いた修道士とすれ違《ちが》いざま、ふと、廊下の向こうに見覚《みおぼ》えのある赤い髪《かみ》を見たように思った。
「あっ!」
思わず短く叫ぶと、修道士が顔を上げて、外国|訛《なま》りのある英語で、
「どうかしたのかね?」
「いえ。知り合いを見たように思ったので……」
修道士は、一弥が振《ふ》り返ったほうをちらりと見た。二等車の奥、豪奢《ごうしゃ》な列車の中では例外的《れいがいてき》に粗末《そまつ》な木のドアが一つ、つぎの車両とのあいだで揺れていた。まるでたったいま、誰かがドアを閉めたかのように。
「あぁ、あのドアの向こうは貨物室《かもつしつ》だよきみ。誰もいないと思うがね……」
「そうですか」
修道士はうなずくと、廊下を遠ざかっていった。一弥も歩き出そうとして、やはり気になって、貨物室の粗末なドアのほうを振り返った。
そっと歩いて、ドアに近づいてみる。
(さっき見たような気がした、あの、赤い髪……。燃えるようなあの色は、ぼくが聖マルグリット学園の、いまでは取り壊《こわ》された時計塔《とけいとう》で出会った……)
若い奇術師《きじゅつし》、ブライアン・ロスコーのことが思い出される。
あの日、時計塔で一弥に語《かた》ってみせた、不吉な未来のことも。
〈あれがヨーロッパの最後にして最大の力だ――〉
〈この先、あの小狼《こおおかみ》の行く手に待つものは、大きな大きな嵐《あらし》だ――〉
先ほどの老人か語った、魔術師たちが集まる〈ファンタスマゴリアの夜〉のことも頭をよぎる。
(まさか、ブライアン・ロスコーもこの列車に乗っているなんてこと……。は、ないか……)
貨物室のドアを開けた途端《とたん》、不気味《ぶきみ》な羽音《はおと》がばたばたばたっと響《ひび》き、一弥は思わず短い声を上げた。
薄暗《うすぐら》く埃《ほこり》っぽい、奥行《おくゆ》きの深いその空間《くうかん》に、白い鳥が無数に飛んでいた。よく見るとそれは大きな鉄の檻《おり》に入れられて、ふいに入ってきた一弥に驚いたようにばたばたと飛びまわっているのだった。薄暗い貨物室の中に、うごめく白い鳥たちの羽根《はね》が不気味に輝《かがや》いていた。
一弥は辺りを見回した。人の気配《けはい》はしなかった。ただ、飾《かざ》り文字の踊《おど》る巨大《きょだい》なキャビネットや、鏡が取り付けられたテーブルや、サーベルが刺《さ》さったままの四角い箱など、奇術道具らしいものがところせましと並べられていた。
「誰もいないな……」
一弥はつぶやいた。
それから、数歩、貨物室の奥に入ってみた。
きょろきょろしながら進んでいくと、一つ、見覚えのある道具を見つけた。チェス・ドールだ。小さな四角い箱で、上部に腕《うで》つきの人形がくっついている。人形は両腕を、箱の上にあるチェス盤《ばん》にのばしている。
人間とチェスをする、不思議《ふしぎ》な自動人形だ。箱の大きさは、とても中に人間が隠《かく》れられるようなものではないのに、ギリギリと動いて自在にチェス駒《こま》を操《あやつ》ると大人気のものだった。一弥はその、髭を尖《とが》らせたユーモラスな人形の顔をじっとみつめた。
夏休みになる前、風邪《かぜ》を引いたヴィクトリカを置き去りに、一人でソヴレムに出かけたときに、劇場《げきじょう》の前でこの人形を見た。たしかブライアン・ロスコーのショーが始まるところで、ブライアンがこの人形を劇場に運び込んでいたはずだ……。
(やっぱり、ブライアンが乗っているのかな……。あの赤い髪は確かに彼だと思ったんだけど……)
一弥はそう考えながら、ますます顔を近づけて人形をみつめた。木彫《きぼ》りの顔はトルコ人風で、頭にターバンを巻き、黒々とした髭を左右に尖らせている。
「へんな顔だなぁ」
一弥は思わず、くすくすと笑った。
と……。
「痛《いた》い!」
チェス・ドールが棍棒《こんぼう》のような腕を振り上げて、一弥の頭をポカリと叩《たた》いた。一弥は仰天《ぎょうてん》して、
「叩かれた!? えっ、どういうこと? どうやって動いたの? いまの言葉が、わかった、なんてこと……」
床《ゆか》にしゃがみこんで、人形の置かれた四角い箱に手を伸《の》ばした。左と右に一つずつある蓋《ふた》をみつけて、まず左の蓋を開けて中を覗《のぞ》き込んでみる。
「機械《きかい》が入ってる……?」
中には小さなぜんまいやねじなどが無数に入っていた。一弥は蓋を閉めて、続いて、右の蓋を開けてみた。
こっちも同じだった。ぎっしりと機械が入っていて、ぜんまいやねじのあいだにあいた隙間《すきま》から、床が透《す》けて見えた。
しばらく一弥はばたばたしてチェス・ドールを調べてみたが、本当に中に誰もいないのだと気づいて、あきらめた。ため息をつきながら、チェス・ドールの箱の上に座《すわ》る。
「あぁ、びっくりした。いったいどういう仕掛《しか》けになっているんだろう。まるでぼくの言葉がわかるみたいに、思いっきり叩いてきたなぁ……」
小さな人形の頭を、振り返る。かすかに、人形の黒い目玉がこちらに向かって動いたようだったが、一弥は今度は気づかずに、またため息をついた。
「なんだか、まるで……あの子みたいだな。ちょっと顔を近づけて眺《なが》めていただけで、気に入らないって、顔を両手でばしばし叩いたりするんだもんなぁ。はぁ……」
懐から取り出した白い陶製《とうせい》のパイプをみつめて、ため息をつく。
「ヴィクトリカ、君、こんなに学園から遠くにいるなんて。まったく、いつも心配ばかりさせて、こまった人だなぁ……。はぁ……」
貨物室の小さな窓から、暮《く》れていく空と、線路沿《せんろぞ》いにどこまでも続く地中海の暗い青がよく見えた。一弥はその景色を、しょんぼりとした顔をして見つめた。
胸に、勝手にヴィクトリカを移動させたり、死なれては困るとうそぶく、ブロワ警部への悔《くや》しさがせりあがってきた。そしてブロワ警部を動かしているのはその父、オカルト省《しょう》の重鎮《じゅうちん》であるブロワ侯爵《こうしゃく》なのだろう……。一弥は唇《くちびる》をかんで、暗い海にうつる青白い月の光を見つめた。寂《さび》しくて、悔しくて、辛《つら》い、そんな気持ちになった。ヴィクトリカの小さな姿を思い出し、吐息《といき》をついた。
(聖マルグリット学園が、あの子にとっていちばんいい場所だとは、もちろんぼくは、いまでは思わない……。だけど、いま置かれているようなところに、一人でほうっておけやしない。ぜったいにヴィクトリカをみつけて、それで、いっしょにまた、安全な学園に帰るんだ。ヴィクトリカをあの図書館塔の、書物とお菓子《かし》の山の真ん中に、返すんだ。それでぼくは、また、あの長い迷路《めいろ》階段を上がって、息を切らせて上がって、毎日、君に会いにいく……。だって、最近は、少しはうれしそうな顔をしてくれるようになったからさ。少しずつ心が近づいているような気が、するからさ……)
人形にもたれて、考え込む。
「はやく、君を助けなくちゃ……。この荷物を届《とど》けて、それで……。痛い!」
一弥にもたれかかられたチェス・ドールが、邪魔《じゃま》だというようにまた一弥を叩いた。
「な、なんだっ?」
人形の両腕が、ぽかぽかと連続で、ちょっと楽しそうに、一弥の頭を太鼓《たいこ》のように叩き続ける。一弥は飛び上がって、チェス・ドールを振り返った。黒い目玉はもう動かなかった。
「ほ、ほんとにヴィクトリカみたいだな。このへんな人形……。いたたたた!」
人形はゆっくりと動きを止めた。一弥は不気味そうに遠巻《とおま》きになってチェス・ドールをみつめた。動かなくなった人形を、観察《かんさつ》し続けてから……。
「な、なんだろう。まったく……」
一弥は逃《に》げるように貨物室を後にした……。
細い廊下《ろうか》を歩いていく。
窓の外で夜の地中海が静かに波打っていた。水に映《うつ》りこんだ月が波の動きに合わせてゆっくりとうごめいていた。
寝台車《しんだいしゃ》の個室で一晩《ひとばん》眠《ねむ》り、翌日のこと。
昼食のために食堂車に向かうと、ずいぶんと混《こ》み合っていた。奥《おく》にある六人がけのテーブルに一席だけ余《あま》っていたので、一弥は同席《どうせき》をお願いした。手前《てまえ》に座っていた、昨夜ラウンジで話をした白髪《はくはつ》の老人が、
「かまわんよ。座りなさい」
そう言うと、ほかの四人もうなずいた。一弥は礼をいって席に着いた。
料理が運ばれてくるあいだ、六人は自己紹介《じこしょうかい》をすることになった。夕刻《ゆうこく》まで時間もあり、退屈気味《たいくつぎみ》だったらしい。老人は昨夜《さくや》と同じように、〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉まで、修道女《しゅうどうじょ》をしている娘《むすめ》に会いに行くのだと語った。
一弥のとなりに座っていたのは、列車に乗り込むときに列の前にいた、黒髪《くろかみ》に青い瞳《ひとみ》の少女だった。
「わたしは〈ベルゼブブの頭蓋〉へ、魔力の強まる今夜を狙《ねら》って、誕生日《たんじょうび》をみつけてもらいにいくのです」
一弥は口に含《ふく》んだ水を吹《ふ》いた。
「……失礼。マドモワゼル、ええと、ぼくはいま、聞き違《ちが》いを……?」
「誕生日をみつけてもらいにいくの」
少女はもう一度、今度は、ゆっくり言った。
「どういうことですか、それ?」
「あの修道院には不思議な力があるのよ。わたしにはわかる。わたしは孤児《こじ》で、自分の誕生日を知らないのよ。だからそれを教えてもらうことで、自分の輪郭《りんかく》を知りたいの。だから行くのよ。友達のつてで、苦労して招待状を手に入れたの」
真剣《しんけん》な顔で語る少女に加勢《かせい》するように、そのとなりに座っていた三十|歳《さい》ぐらいのおとなしそうな婦人《ふじん》が話し出した。
「あの、わたし自身は半信半疑《はんしんはんぎ》ですが、〈ベルゼブブの頭蓋〉という場所に不思議な魔力が宿《やど》っているという噂《うわさ》は、確かにありますわ」
一弥と目が合うと、婦人は寂しそうに微笑《ほほえ》んで、
「半信半疑とはいえ、亡《な》くなった母と話ができるかもしれないと思って、〈ベルゼブブの頭蓋〉に向かうところですの。相談していたとある方に教えていただいて。最近、母のことがとても懐《なつ》かしくてね……」
「俺は信じちゃいないけどね」
婦人の向かい側に座っている若い男が、肩《かた》をすくめながらいった。昨夜、列車に乗り込むときの列で、一弥の後ろに並んでいたとくに特徴《とくちょう》のない男だ。あくびをしながら、
「知り合いに招待状を譲《ゆず》られたから乗ってるだけなんだ。俺《おれ》はサイモン・ハント。ただの小役人《こやくにん》だ。それにしても、ずっとこの列車に乗り続けで飽《あ》きてきたよ。ふん、誕生日を見つけてもらいになんて、ずいぶんおセンチなことだ」
「なっ!」
黒髪を揺《ゆ》らして、少女が若い男、サイモン・ハントを睨《にら》みつけた。するとおとなしそうな婦人が「まぁまぁ」と二人をいさめた。
「どこまでが史実《しじつ》かわかりませんけれど、主人から聞いた話ですと、あの世界大戦《グレートウォー》のときに〈ベルゼブブの頭蓋〉で不思議な事件が起こったという事実《じじつ》はあるようですわ。あの辺《あた》りは海から、空からドイツ軍の侵攻《しんこう》にあってもういくらももつまいと思われていたらしいんですけど、ええと、どうでしたっけ……」
婦人に助けを求めるようにみつめられて、白髪の老人は仕方《しかた》なさそうに口を開いた。
「あぁ、あのマリア像の事件じゃな」
「マリア像?」
「なぁにそれ?」
一弥と黒髪の少女がほぼ同時に聞き返した。老人は頷いて、
「世界史の年表《ねんぴょう》にも記《しる》されている、不思議な事件じゃよ。一九一四年十二月十日〈落下《らっか》させる聖マリアの怪《かい》〉のことだな。先の大戦当時、リトアニアの大部分はロシア領《りょう》だった。あの当時、〈ベルゼブブの頭蓋〉はロシアの諜報部《ちょうほうぶ》と、同盟国《どうめいこく》であるソヴュール王国の科学アカデミーが諜報活動の拠点《きょてん》として使っていた……という説もあるのだよ。確かなことはわからんがね」
「フン」
若い男、サイモンがくだらないというように鼻を鳴らした。少女が青い瞳できっと睨む。老人は気にせず話し続けた。
「一九一四年、つまりいまから十年前の十二月十日。雪の舞《ま》う冷え切った夜のこと。ドイツ軍の戦闘機《せんとうき》が無数《むすう》に飛びまわる海辺《うみべ》の夜空に、とつぜん……」
「とつぜん?」
少女が聞き返す。
「巨大《きょだい》なマリア像が浮《う》かんだのだ」
「マリア像……?」
「それは塔《とう》よりも高く、半透明《はんとうめい》に夜に透《す》けて、そしてとても悲しそうな顔で空に浮かび上がったのだといわれておる。まるで争いあう我々を哀《あわ》れむように。殺しあう命を嘆《なげ》くように。変わりゆく世界を惜《お》しむように、夜空に浮かび上がり、滂沱《ぼうだ》の涙《なみだ》を流した後、ほんの数分でゆっくりと消えた。だがその数分が戦いの勝敗《しょうはい》を分けた。ドイツ軍の戦闘機はつぎつぎと堕《お》ち、ある機は暗い海に消え、ある機は海辺の砂浜《すなはま》に錐《きり》もみ状態で落ちて燃料《ねんりょう》もろとも火柱となって夜に燃えた。巨大なマリア像は満月の夜に……そう、今夜のように、〈ベルゼブブの頭蓋〉がもっとも強い魔力を持つといわれる夜に現れた。そう聞いているがね」
「ふん」
サイモンがまた鼻で笑った。
少女がそれを睨みつける。
「不思議な力を馬鹿にすると、そういった力に殺されるわよ。あなた、〈ベルゼブブの頭蓋〉から生きて帰れないかもしれないわ」
「くだらない。俺はぴんぴんして帰るよ。仕事もあるからね」
「それなら、余計《よけい》なことを言わずに座っていればいいわ」
「なにを言おうが俺の勝手《かって》だ。……なぁ、修道士さん?」
サイモンは、さっきからずっと一言もしゃべろうとせずに五人の話を聞いていた、自分のとなり……サイモンと老人のあいだの席に座る、六人目の乗客に話しかけた。
金色の刺繍《ししゅう》が輝《かがや》く重そうなローブを身につけた、年配《ねんぱい》の男。昨夜、一弥が廊下《ろうか》ですれ違った修道士だ。
彼はゆっくりと微笑んだ。そして名を、修道士イアーゴと名乗った。
「イアーゴさまよ。あんた、どう思う? 聖職者《せいしょくしゃ》として、いまの話をさ。魔力なんてものを信じているこいつらは、とんだ不信心者《ふしんじんもの》じゃないのかい?」
修道士イアーゴは黙《だま》って、笑みを深くした。サイモンがむきになって、身を乗り出す。
「あんた、どう思う? 〈ベルゼブブの頭蓋〉には本当に、おかしな力があると思うのかい?」
「……さて」
低い声で修道士は答えた。
「大戦中のことはわかりませんが……。いまあの修道院にいる人々は、もともとはギリシャ正教《せいきょう》の一派《いっぱ》とのことだったはずですが。いつのころからか、夜会《やかい》と称《しょう》する奇妙《きみょう》なショーで人々を集めるようになりました。あの場所になにか不思議な力があるのか、それとも、彼らが……。実のところ、わたくしはそれを確かめるためにこの列車に乗っているのですよ。お若い人」
修道士が謎《なぞ》めいた微笑《びしょう》を浮かべる。サイモンが聞き返そうとすると、それを押《お》しとどめて、懐《ふところ》から金色に輝く重そうなロザリオを出し、掲《かか》げてみせる。
「わたくしはバチカンの奇跡認定士《きせきにんていし》。〈ベルゼブブの頭蓋〉の修道院長からの依頼《いらい》を請《う》け、バチカンの代表として、彼《か》の場所の奇跡認定を行なうために遣《つか》わされたのです」
きょとんとして彼を見つめる五人に、修道士は微笑んで見せた。
「もちろん、わたくしは奇跡の力が存在することを信じます。ただ、あの修道院にあるものがそれなのかどうかは、まだわかりませんが。みなさんに神のご加護《かご》があらんことを」
食堂室から各自《かくじ》の部屋に戻《もど》るため、一同は立ち上がって歩きだした。一弥の肩《かた》を誰かが叩《たた》いたので、振《ふ》り返ると、あの役人だという若い男、サイモンが立っていた。
「笑っちゃうよな。魔力だの、奇跡認定だの」
「……確かに、妙《みょう》な感じですけど」
一弥は首をかしげて答えた。
サイモンは肩をすくめて、
「おかしなやつらばっかりだよ。でも、夜会のためにわざわざやってくるんだから、そういうもんかもな」
「えぇ……」
「ん? どうした、坊主《ぼうず》」
一弥は、自分の時計が止まっているのに気づいて、ぜんまいを巻いたり、軽く叩いたりを繰《く》り返していた。サイモンはそれに気づくとにやりとした。
「俺に貸《か》してみろよ」
「故障《こしょう》かなぁ……。サイモンさん、時計が直せるんですか」
「奇跡の力でね。いや、冗談《じょうだん》だよ」
サイモンは一弥から腕時計《うでどけい》を受け取ると、大きな手のひらに包み込むようにして握《にぎ》りしめた。そして、
「これでまじないの言葉でもつぶやけば、もっともらしいけどね。俺の魔力で時計が動き出すぞ、ってなもんさ」
「ええと……」
「ほら」
サイモンは握っていた手を開いて見せた。一弥は覗《のぞ》き込んで、思わず「あっ!」と叫《さけ》んだ。
ついいままで止まっていた時計が、またカチッカチッと動き出していた。驚《おどろ》いてサイモンの顔を見上げると、彼は得意《とくい》そうに笑っていた。
「ざっと、こんなもんさ」
「いったいどうやったんですか?」
「魔力で……といいたいところだが、残念ながらちがう。時計がとつぜん止まるときには、古い油と埃《ほこり》が絡《から》まってつまっていることがあるんだよ。それは中を開けてみるまでもなく、手のひらで包んであたためてやれば油がとけて、たちまちまた動き出すってわけだ。驚くほどのことじゃない。こういう、魔力のふりをした奇術《きじゅつ》を見破《みやぶ》るのが俺の仕事なんでね」
「それがサイモンさんの仕事ですか?……確かさっき、役人、っておっしゃってましたけど」
一弥は、サイモンから受け取った腕時計を手首に巻きなおしながら問うた。
「うん……」
サイモンはとつぜん、饒舌《じょうぜつ》さをなくして黙《だま》り込んだ。それから質問には答えずに、また歩きだした。
一弥はその後ろ姿に礼を言って、自分も廊下を歩き、個室に戻った。
そして、夕刻が近づいたころ。
汽笛が鳴った。
海と砂浜を隔《へだ》てる、巨大な水門が見えた。それはいかにも儚《はかな》くぼんやりと浮かび上がり、紫色の海と白い陸地のあいだに建っていた。その向こうに大きな建物の影《かげ》が、うっそりと見えてきた。
オールド・マスカレード号はついに、〈ベルゼブブの頭蓋〉に、到着《とうちゃく》したのだ――。
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霊界ラジオ ―wiretap radio 1―
ガ、ガ、ガガガ、ガガガガガガガガガガ。
ガガ、ガ、ガガガガガ、ガ。
ピィィィィィィィィィィィィィ。
〈キ、タ〉
〈キタ、カ〉
ガーッ……。
ピィ……。
〈スパイが、一名〉
〈一名か〉
〈コロスか?〉
〈もちろんだ。コロスとも〉
〈了解《りょうかい》シタ〉
「――スパイは箱の中で死ぬだろう」
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第二章 〈ファンタスマゴリアの夜〉
〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉は、ソヴレムから乗ったオールド・マスカレード号の終点《しゅうてん》だった。暗い海の間近にただ一本の無骨《ぶこつ》なホームがあるだけで、海と駅のホームのあいだには、満潮《まんちょう》になったときに閉めるらしき巨大《きょだい》な水門と、高い石の壁《かべ》だけがのっそりと続いていた。
薄紫色《うすむらさきいろ》に染《そ》まる夕刻《ゆうこく》のバルト海に、白い泡《あわ》が無数に浮《う》かんで、波に合わせてゆっくりと寄せては返していた。寄せては、返し。寄せては、返し。ざざっ……という静かな音が、無骨なホームにつぎつぎ降り立った乗客たちの耳にも響《ひび》いてきた。車掌《しゃしょう》が、夜会《やかい》が終わる時間に始発《しはつ》の列車として戻《もど》ってくる旨《むね》、乗客たちに告げる声も遠く聞こえてきた。
暮《く》れかけた空に、気の早い満月が奇妙《きみょう》なほど大きく、白々《しらじら》と浮かんでいた。
一弥《かずや》は巨大なトランクを抱《かか》えてホームに降り立ち、遠く、砂浜のずっと向こうにそびえる〈ベルゼブブの頭蓋〉に目を凝《こ》らした。
黒ずんだ砂浜がずっと続いていた。その向こうに闇《やみ》そのもののように暗く、ごつごつとした巨大な岩のようなものがそびえていた。潮《しお》が引いて現れた、木々の生えぬ、命の育《はぐく》むことのない不吉な島のように。
となりを歩いていた老人が、
「月の光は人の心を狂《くる》わせるというが」
「ええ……」
「今夜はずいぶん、いやな満月《まんげつ》じゃないかね。東洋人《とうようじん》」
そうつぶやいた。それから一弥の視線《しせん》を追って、その岩のかたまりに目を留《と》めると、
「あぁ、あれが例の修道院《しゅうどういん》だ。〈ベルゼブブの頭蓋〉だよ」
「……あれが修道院? まるで岩でできた孤島《ことう》のようですが」
「近づけばわかる。人工的につくられたものだということがね。そして名前の由来《ゆらい》――蠅《はえ》の王ベルゼブブから名づけられた理由もまた、よぅくわかるだろうよ、東洋人」
一弥は老人の後を追って、トランクを引きずって歩きだした。
スーツ姿のサイモン・ハントも、修道士イアーゴも、それぞれの荷物をもって、修道院に向かって歩き出していた。砂浜を歩き、ぐるりと修道院の左側に回って、近づいていく。近づくにつれ岩のかたまりのようなそれは夕刻《ゆうこく》の空にずっしりとそびえ、辺りは重苦しい空気に包まれ始めた。
「あぁっ!」
一弥は思わず声を上げた。老人がうなずいて、
「見たかね、東洋人」
「ええ」
角度が変わるとそれは、岩のかたまりの右と左に、ちょうど巨大な昆虫《こんちゅう》の複眼《ふくがん》のような盛《も》り上がりがあり、なるほど、蠅の頭部のような不気味《ぶきみ》な様相《ようそう》だった。薄紫色に染まる夕刻の空いっぱいに、不吉な蠅の王が現れて一弥たちを見下ろして笑っているようだった。
「なんて、場所だ」
一弥は唇《くちびる》をかんだ。
トランクを握《にぎ》りしめる手に、力がこもる。
となりを歩く老人がしみじみとつぶやいた。
「ここで娘《むすめ》が日々|暮《く》らしているのかと思うと、複雑《ふくざつ》なものだね……」
一弥は答えなかった。うつむいてただ歩く。
ザザァァァッ……と、波の音が遠く聞こえる。
(こんなところで、ヴィクトリカがひとりぼっちに……)
早足になった一弥に、老人が「どうしたんだね?」と声をかける。一弥は「いえ……」とかぶりを振《ふ》って、歩を進めた。
修道院の入り口が見えてきた。列車からおりた乗客たちのほかに、ひとつ前の便《びん》でついていたらしい、たくさんの客が修道院の石の門の向こうにひしめいていた。門と、孤島《ことう》のような修道院のあいだに広々とした前庭《まえにわ》があり、そこに客用のたくさんの椅子《いす》が用意されていた。庭にはすでに、着飾《きかざ》った男女や、はしゃぎまわるこどもたちが溢《あふ》れていた。
門の前で、招待状《しょうたいじょう》を差し出す。受け取ったのは重たそうな黒尽《くろず》くめの服を着た修道女だった。老人が修道女の一人に、娘のことを聞いている声が、かすかに聞こえてきた。でもそれも、前庭から響《ひび》く観客《かんきゃく》たちの嬌声《きょうせい》にかき消されていく。
一弥は修道女の一人に、聞いた。
「ぼく、友人を迎《むか》えに着たんです。アルベール・ド・ブロワ侯爵《こうしゃく》の娘で、ヴィクトリカという女の子がここにいるはずなんですが」
「…………」
修道女は答えなかった。一弥は、
「あの……?」
「…………」
「聞こえていますよね? すみません、あの……」
「…………」
返事が聞こえないのでそっと顔を覗《のぞ》き込むと、そこには意外《いがい》と年若い、一弥とあまり年齢《ねんれい》がちがわないのではないかと思われるまだあどけない顔があった。黒尽くめの修道女はだが、表情を変えず、一弥の声など聞こえていないかのように無反応のままだ。
「マドモワゼル?」
「…………」
修道女は小さくかぶりを振ると、印をつけた招待状を一弥にぐいっと乱暴に返した。つぎの客が一弥の背中を押《お》した。一弥は仕方《しかた》なく、トランクを抱えて前庭に入った。
どこからか、ジャーンッとドラの音がなる。
誰《だれ》かが、きゃーっと嬌声を上げる。
こどもたちが走り回る。
からだのラインをむき出しにした、ぴったりした衣装《いしょう》を身につけたきれいな少女たちが、夜会の前口上《まえこうじょう》を述べながら歩き回っている。髪《かみ》に飾《かざ》った色とりどりの花が、夕刻の涼《すず》しい風に揺《ゆ》れている。
その向こうを、縦二列に並んだ背の高い修道女の群《むれ》が、規則正しく行動するようにして修道院の奥《おく》の、廊下《ろうか》の暗闇《くらやみ》に消えていく。
またドラの音が鳴る。
ピエロが陽気《ようき》に、オルガンを弾《ひ》き始める。どこからか不気味な魔王《まおう》の笑い声のようなものが響く。
そこはなんとも不思議な場所だった。
一弥は辺《あた》りをきょろきょろする。
(ヴィクトリカ……)
人波をかき分けるようにして、よろよろと歩き出す。
(ヴィクトリカ!)
歩く。
(ヴィクトリカに、逢《あ》いたい)
急にはっきりとそう思う。その思いが胸に満ちると、なぜか心が強く痛《いた》んだ。逢いたい、と思う気持ちはなぜか、かなしみに似ているようだった。一弥はそれに押しつぶされそうになった。ヴィクトリカの、元気でぷくぷくしていた、あの薔薇色《ばらいろ》のほっぺたを思い出す。そして、出かける前にブロワ警部《けいぶ》が語った、すっかり変わってしまったといういまのヴィクトリカのことを……。
〈ものを食べず……〉
〈水も飲まず……〉
〈吠《ほ》えもせずにうずくまるだけなのだ。あの小狼《こおおかみ》は明日にも、消えてしまうかもしれない……〉
一弥の漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》に、悲しみと怒《いか》りの涙《なみだ》が浮《う》かんだ。
(ヴィクトリカ。ぼくの、ヴィクトリカ)
歩く。早足で歩く。
人波に押されて、ふらりとよろめく。
そのとき、誰かがふいに一弥の肩《かた》をがっしりつかんだ。支えてくれたのかと思い、メルシー、と礼を言おうとすると、その人物がふいに一弥の耳元《みみもと》でささやいた。
「いちばん奥の部屋だ」
「えっ……?」
「その昔、国王が疫病《えきびょう》で死んだ、螺旋《らせん》の迷宮《めいきゅう》の、もっとも奥の部屋だ」
「あの……」
振り向くと、ちょうど大柄《おおがら》なマダムの帽子《ぼうし》に飾られたふかふかの羽飾りが一弥の視線《しせん》を邪魔《じゃま》した。たったいままで一弥の方をつかんでささやいていた人物は、もう見当たらない。羽飾りの向こうにかすかに、燃《も》えるような赤い髪が見えたように思った。
「ブライアン?」
一弥はトランクを抱えて、そちらに進もうとする。ピエロの集団が邪魔をして、進めない。そのうちに目が捕《と》らえたはずの赤毛の男の後ろ姿を見失ってしまった。一弥はあきらめて、きびすを返す。
「いまのは、ブライアンかな。やっぱりあの列車のどこかに乗っていたのか? それにしても、いちばん奥の部屋……?」
一弥は人波をよけるようにして、修道院――蠅の頭部の形を模《も》した、不気味な丸い建物に向かって歩きだした。
〈ベルゼブブの頭蓋〉はグルグルと螺旋の形をした廊下《ろうか》が延々《えんえん》と続く、不思議な建物だった。暗い廊下の左右に薄《うす》ぼんやりとしたランプがかけられ、獣脂《じゅうし》の焼ける荒々《あらあら》しい匂《にお》いが充満《じゅうまん》していた。
左右には小さな四角い部屋が無数にあり、そこからひっきりなしに、黒尽くめの不吉な修道女が出てきては、べつの部屋に消えていった。ちらりと見える顔はやはり、どの顔もまだ年若く、一弥と同年代か少し年上と思える少女たちのようだった。黒衣《こくい》の修道女は口も利《き》かず、大量生産された人形のように、無表情でただ通り過《す》ぎていく。
そして薄暗い廊下はゆっくりとした傾斜《けいしゃ》で、ぐるりぐるりと上に向かっていた。一弥はトランクを抱《かか》えて廊下を歩き続けた。
(ヴィクトリカ……)
廊下はどこまでも続いていた。ぐるぐると回り続ける、暗黒《あんこく》の迷宮。次第《しだい》に暗くなり、幅《はば》がせまくなり、傾斜が急になっていく。上に向かっているはずなのに、迷宮の地下深くへ降りていくような悲しみと恐怖《きょうふ》を、小さな一弥に感じさせる。空気が薄くなってくるような気がする。幅がせまくなったせいで左右の壁《かべ》にかかるランプはとても近く、顔が照《て》らされて焦《こ》がされそうに熱く感じる。ランプの炎《ほのお》が風もないのにゆらめき、一つ、とつぜん消える。
どこからか隙間風《すきまかぜ》の奇妙《きみょう》な音がする。
びゅ、う、ぅ、ぅ、ぅ、ぅ……。
(なんだか……)
一弥はひとりごちた。
(いつもの聖マルグリット大図書館を思い出すなぁ。こうやって、迷路《めいろ》をのぼってものぼっても、なかなかあの子のもとにはたどり着けないんだ。だけど、ぼくはのぼり続ける。いちばんうえのいつもの部屋に、ヴィクトリカ、君がいてくれることを、知っているから。きっとぼくを待っているんだって、言わないだけで、口にしないだけで、ぼくに逢いたがっているんだって……。ぼくと君の心は、少しずつ、近づいているんだって……)
トランクを引《ひ》っ張《ぱ》りながら、歩く。歩く。
(ヴィクトリカ)
だんだん暗くなる。
(ヴィクトリカ)
フリルと、レースと、散《ち》らかるお菓子《かし》のイメージが脳裏《のうり》をよぎる。それから知性《ちせい》が冷たく輝《かがや》く、あの緑の瞳と、床《ゆか》まで垂《た》れるきらきらした見事《みごと》な金髪《きんぱつ》。
ヴィクトリカをヴィクトリカたらしめる、あの暗い輝き。
一弥が魅《み》せられ続けた、あの不思議さ。
小さな灰色狼。知恵《ちえ》の泉。混沌《カオス》の欠片《かけら》を集め再構成《さいこうせい》し言語化《げんごか》する、おそるべき頭脳《ずのう》を隠《かく》す、小さな小さな、ヴィクトリカ・ド・ブロワ――。
それを守るふわふわのフリルと、波打つレース。
ヴィクトリカ――。
フリルの気配《けはい》が次第に強《つよ》まってくる。迷宮の奥《おく》に息づく、それの存在を強く感じる。それがわかるのは一弥だけ。手にした巨大《きょだい》なトランクの中で、ドレスが暴《あば》れだす。はやく探せと。あの、小さな、おそるべき我《わ》が主《あるじ》を探せと。ドレスが命じる。
気配はますます濃厚《のうこう》になる。
ヴィクトリカ――。
さがせ、さがせ。
フリルを、さがせ。
迷宮のもっとも奥の部屋。男の子としては小柄《こがら》な一弥でさえ、かがまなくてはくぐれないほど小さく、そして粗末《そまつ》な木のドアが半分ほど、開いていた。その奥に、小さくて黒い、まるっこいものがかすかに、うごめいた。
一弥はゆっくり足を止めた。
かすかに微笑《ほほえ》んだ。
そして、そっと、トランクを床に下《お》ろした。
[#改ページ]
幻灯機 ―ghost machine 1―
[#地付き]――一九一四年十二月五日〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉
列車ががたんと音を立てて、揺《ゆ》れた。
汽笛《きてき》が何度も鳴った。
ガッ、ゴゴゴ……と鈍《にぶ》い音と振動《しんどう》とともに、列車はようやく停車《ていしゃ》した。年配《ねんぱい》の車掌《しゃしょう》が「終点に到着《とうちゃく》です。……お客さま?」と、コンパートメントで眠《ねむ》っていた若い男を乱暴《らんぼう》に揺り起こした。
何度も何度も、肩《かた》をつかんでは、揺らす。男は首をがくがくと揺らしながらも、目を覚ます気配がない。車掌が不安を感じ始めたころ、男はようやく、薄《うす》く瞳《ひとみ》を開けて、なにか返事をした。
「えっ? なんですか、お客さま?」
「……ここはどこだ?」
「終点です。〈ベルゼブブの頭蓋〉」
「あぁ……」
「ここまで乗ってきたのはお客さんだけですよ。後のかたはみんな、途中《とちゅう》で降りました。まぁ、こんな野戦病院《やせんびょういん》にくる用のある方はそうそう、いないでしょうがね」
「野戦病院?」
「もともとは修道院《しゅうどういん》ですが、いまは戦時中ですので。軍が前線《ぜんせん》での怪我人《けがにん》をここまで運んで、おいていくのです。ここにいるのはもういくばくかもない、学校から追い立てられて戦場《せんじょう》に行ったものの、銃《じゅう》の使い方もわからないうちに敵軍とぶつかって、大怪我《おおけが》をした若者たち。それから、彼らと同年代の、半年前まではのんきな女学生だった、臨時《りんじ》の看護婦《かんごふ》ばかりですよ」
「……うむ」
「とはいえ、ときどき、不思議《ふしぎ》な乗客もこの〈ベルゼブブの頭蓋〉にやってきますけれどね。どう見ても政府のお偉方《えらがた》じゃないかというような紳士《しんし》やら、あなたみたいな、奇妙《きみょう》な大人」
「…………」
「眠そうですね。まさかあなた、乗り過ごしてここまできたんじゃないでしょうね。まぁ、それならこれから折り返しで戻《もど》るから、このまま乗っていていただいていいのですが」
「……いや」
若い男は、眠そうに瞬《またた》いていた瞳を、ふいにカッと見開いた。
緑色をした、猫《ねこ》のような、ぱっちりとして釣り目がちの瞳だった。それから立ち上がると、燃えるように赤い、長い髪《かみ》をのっそりとかきあげた。
はっと人目を引く、美貌《びぼう》の男だった。車掌は目を覚ました猛獣《もうじゅう》を前に恐《おそ》れるように、そっとコンパートメントからからだを引いて、廊下《ろうか》に出た。赤毛の男はほっそりとした柳腰《やなぎごし》の、まだ少年と青年のあいだであるかのようなからだつきをしていた。赤い髪は炎《ほのお》のようで、男が動くたびに火の舌のようにちろちろと揺れたり、舞《ま》い上がったりを繰り返した。
「荷物を運び出してくれ」
「あぁ……」
車掌はうなずいた。
「あの、貨物室《かもつしつ》のですか……」
「そうだ」
「あれ[#「あれ」に傍点]はいったい……?」
「知らないほうがいいよ。君」
男――ブライアン・ロスコーは短く言うと、にやり、と笑った。肉食獣《にくしょくじゅう》を連想《れんそう》させる、鮮《あざ》やかな赤色をした舌がちらりとその口元からのぞいた。車掌はそれきり、口をつぐんだ。
ブライアン・ロスコーは列車の廊下を歩き、そしてドアから外に降り立った。
それから、瞳を細めた。
時刻は夕刻《ゆうこく》だった。薄紫色《うすむらさきいろ》に染まる夕方の空の下に、暗い海が広がっていた。水門は閉まり、海と砂浜とを隔《へだ》てていた。
砂浜の向こうに、それはあった。
――〈ベルゼブブの頭蓋〉。
岩の塊《かたまり》のような、それ。中世において国王が疫病《えきびょう》――おそらくは黒死病から逃《のが》れるためにつくった、螺旋《らせん》の迷宮《めいきゅう》。その後は修道院として使われていたが、ヨーロッパと新大陸、アジア圏《けん》の国々まで巻き込んだ大規模な戦争が始まった半年前からは、怪我人を収容《しゅうよう》する施設《しせつ》として機能《きのう》している。
少なくとも、表向きは。
ブライアン・ロスコーは軽《かろ》やかなステップで砂浜を歩きだした。赤と黒の制服を着たポーターたちが、その後ろを、なにか大きな四角い荷物を運びながらついてきた。
砂浜を歩く。
歩く。
歩く。
ようやく〈ベルゼブブの頭蓋〉の入り口にたどり着いた。ちょうど、奥から走り出てきた白衣の看護婦が、ブライアンを見つけると首をかしげた。
「あなた、ジュピターおじさんのお客さま?」
「うん、そうだよ」
ブライアンが愛想《あいそ》よくうなずくと、看護婦は青い瞳を何度もまばたきさせて、ブライアンの顔を見上げた。それから、廊下の奥を指差して、
「この奥の、螺旋の二順目の左から四番目の……ええと、うまく説明できないから、連れて行ってあげます」
「それはありがとう」
ブライアンはまた、愛想よく言った。ポーターたちがその背後で顔を見合わせ、ため息をついた。重たい、四角い荷物をもってまた歩き出す。
看護婦《かんごふ》は飛ぶように元気よい足取りで、暗い廊下を歩きだした。ゆるやかな坂道になっている螺旋形の廊下を、あがっていく。ブライアンがその後ろを続く。ポーターたちは不気味そうに、その薄暗い廊下を進んでいく。
廊下の壁《かべ》に、粗末《そまつ》なランプがかかっている。獣脂《じゅうし》の焼ける匂《にお》いが漂《ただよ》ってくる。それから、苦しそうなうめき声。叫《さけ》び声。まだ若い、男たちの声。なかにはまだ年若い少年のものと思われる声も混ざっている。
少女たちの、祈《いの》る声。
廊下の左右にあるドアがばたん、ばたんと開いては、包帯《ほうたい》やらを抱《かか》えた白衣の看護婦たちが、せわしなく行き過《す》ぎていく。
「ずいぶんひどい場所だな」
ブライアンが言葉に反《かえ》して気楽《きらく》な口調《くちょう》で言うと、彼を導《みちび》いていた青い瞳の看護婦が、うなずいた。
「もうずっとこうなの」
「君、名前は?」
「えっと……ミシェール」
ブライアンが少し笑う。
「どうして、自分の名前を言うのに、ちょっと考えたんだい?」
「ここにいたら、自分が誰《だれ》だったかなんてわかんなくなっちゃうわ。みんなそうよ。ここの看護婦たちはみんな、リトアニアのあちこちの女学校から集められてきた、ただの女の子なの。年配の看護婦さんにいろいろ教えられているけれど、専門《せんもん》の知識《ちしき》なんてぜんぜんないわ。だけど、つぎつぎ、怪我をした男の人たちが運ばれてくるから……。くる日もくる日も。みんな、急ごしらえの看護婦なのよ」
「運ばれてくるほうも一緒《いっしょ》だろう。ずいぶん若い男たちが目立つ」
「きっとそうね。昨日は、ハイネの詩集《ししゅう》をそらんじてる男の子がいたわ。小説や詩を読むのが大好きなんだって話してた。夜明けにとうとう死んだけど、ほかの女の子が起きて、最期《さいご》まで一緒にいてあげたから」
「戦争には向かないね」
「……じゃ、誰なら向いているの?」
ミシェールの反論《はんろん》の声は、短くて、哀感《あいかん》を帯びていた。青い瞳をまた瞬《またた》かせる。ブライアンは肩《かた》をすくめた。
「ジュピターおじさん」
「あぁ」
看護婦は納得《なっとく》したようにうなずいた。
それから、廊下を早足《はやあし》になりながら、
「女の子の手を握《にぎ》ったまま、死んじゃったの」
「誰の話?」
「明け方に死んだ、詩が好きな男の子の話よ。死んでるのに手がぜんぜん離《はな》れなかった。みんなでハイネの詩を合掌《がっしょう》したわ。彼が天国に行けるように。その鳥の歌うのはただ愛のうたばかり。死の夢の中でも私は聴《き》くだろう=\―」
「うむ」
「あぁ、どうしたってセンチメンタルになってしまう。戦争だもの。彼はちゃんとたどり着いたのかしら?」
「天国に?」
「うん……」
「着いたと思えばいいさ。争いも悲しみもないかの場所で、永遠に、愛のうたを聴いているんだと。……それで、生きている君たちは、彼を忘れるんだ」
ブライアンがたてがみのような赤い髪《かみ》をなびかせながらそう答えたとき、ミシェールがぴたっと立ち止まった。螺旋の二順目に入ったところの、左側のドアの前だった。そのドアだけがほかとちがって朱色《しゅいろ》にぬられていた。ミシェールはドアを開けて、ブライアンを中に案内した。
がらんとした、なにもない部屋だった。はめ殺しの小さな窓が一つ。赤と黒の制服を着たポーターたちが、運んできた大きな四角い荷物を床《ゆか》に置くと、ブライアンからチップを受け取り、我先《われさき》にと逃《に》げるように去っていった。
「待っててね。ジュピターおじさんを呼んでくる」
ミシェールがそう言って、ドアに向かって歩きだした。
「頼《たの》むよ」
「あなたがくるのをずっと待ってたわ。わたしたちの救世主《きゅうせいしゅ》だって」
「それはどうかな」
「彼、ブライアン・ロスコーをずっと待ってたわ」
「光栄だけどね」
ミシェールがドアをしめ、廊下を遠ざかっていく足音が聞こえた。ブライアンはついいままでの気楽《きらく》そうな、のんびりした様子からとつぜん一転《いってん》した。鋭《するど》い目つきで部屋の中を見回すと、懐《ふところ》から小さな赤い箱を取り出した。
辺りを見回し、その箱に目を落とし、つぶやく。
「形見箱[#「形見箱」に傍点]……!」
ブライアンはきょろきょろとし、その、見事《みごと》になにもない部屋の中で途方《とほう》に暮《く》れた。それからおもむろにしゃがみこみ、床板を一枚、無理やり引き剥《は》がした。
廊下を誰かが近づいてくる足音がする。さきほど遠ざかっていったミシェールのものとはちがう、大人の男の、大きな足音。ブライアンの額《ひたい》に冷《ひ》や汗《あせ》が浮《う》かんだ。
「隠《かく》さなくては……ッ!」
足音が近づいてくる。
「これを、隠さなくてはッ!」
ブライアンは懐から出したその小さな箱を、床下に押《お》し込んだ。それから……。
ドアが開いた。
壮年《そうねん》の男が一人、入ってきた。仕立《した》てのよいスーツに、銀のカフス。元は金色だったらしい髪はいまはところどころ銀色に変わり、目尻《めじり》にしわがよるその顔には、年相応《としそうおう》の年輪《ねんりん》が刻《きざ》まれている。
ブライアンは床板を元に戻《もど》し、その上に立っていた。焦《あせ》りがまだその顔に残っていたが、入ってきた男はそんな様子に気づく様子もなく、愛想よい笑顔《えがお》を浮かべてブライアンに手を差し出してきた。
「君がブライアン・ロスコーかね」
「……ええ」
「よく〈ベルゼブブの頭蓋〉に来てくれた。ずっと君を待っていたのだよ。よろしく、ブライアン。わたしが……」
壮年の男は微笑《ほほえ》みとともに、言った。
「わたしが、ソヴュール王国科学アカデミーの主宰者《しゅさいしゃ》、ジュピター・ロジェだ」
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第三章 静寂《せいじゃく》のブラック・ヴィクトリカ
一弥《かずや》は廊下《ろうか》を歩いた。
フリルの気配《けはい》が、ますます濃厚《のうこう》になる。
ヴィクトリカ――。
さがせ、さがせ。
フリルを、さがせ。
迷宮《めいきゅう》のもっとも奥《おく》の部屋。男の子としては小柄《こがら》な一弥でさえ、かがまなくてはくぐれないほど小さく、そして粗末《そまつ》な木のドアが半分ほど、開いていた。その奥に、小さなまるっこいものがかすかに、うごめいた。
一弥はゆっくり足を止めた。
かすかに微笑《ほほえ》んだ。
そして、そっと、トランクを床《ゆか》に下《お》ろした。
迷宮のもっとも奥の、薄暗《うすぐら》い、橙色《だいだいいろ》に揺《ゆ》れるランプだけが頼《たよ》りの不気味《ぶきみ》な部屋。夕刻《ゆうこく》のすみれ色の陽《ひ》も届《とど》かない、窓《まど》もない、屋根裏部屋のようなその部屋の薄暗がりに、黒っぽい、小さなかたまりが沈《しず》んでいるのが見えた。
一弥はその、黒っぽい布のかたまりのような小さなそれを、じっと見つめていた。
それから一歩、二歩、近づいた。
「ヴィクトリカ。そこにいたのかい?」
やさしい声だった。
そっと手を伸《の》ばす。
それは修道女《しゅうどうじょ》たちが被《かぶ》っている黒い重たげな布だった。フリルとは似ても似つかぬ、それ。それを頭から引っかぶって、脅《おび》えたように、小さな動物かなにかがその奥で震《ふる》えているようだった。
「ヴィクトリカだろ?」
一弥はそっとその布に手をやって、引っ張ってみた。
中から、抗議《こうぎ》するような、しゃがれ声が一瞬《いっしゅん》、聞こえてきた。
一弥はほっとして、
「ねぇ、ぼくだよ」
「ごぶっ!」
「ぼくだってば。ヴィクトリカ、出てきなよ」
「ぐじゃ!」
「あれ、くしゃみした? 寒《さむ》いんじゃないかい? ほら、君の荷物……。ヴィクトリカ……」
一弥は、もそもそと動いた黒い布の奥から、ようやく、小さな金色の頭がぴょこりと顔を出したのを見てほっとした。そしてしゃがみこんで、ヴィクトリカの青白い顔を覗《のぞ》き込んだ。
零《こぼ》れ落《お》ちそうに潤《うる》んだ、大きな瞳《ひとみ》が、じっと一弥を見上げていた。
「…………」
「ヴィクトリカ?」
「…………」
「おーい、君」
部屋の中には粗末《そまつ》な机《つくえ》と椅子《いす》がおかれたきりで、書物《しょもつ》も、お菓子《かし》も、ふわふわしたかわいらしい衣服もなにも見当たらなかった。空気は冷え冷えと冷え切っていた。机の上には冷え切った、手をつけていない粗末な食事が置かれていた。
黒い布の奥から出てきたヴィクトリカの顔は、かつてあんなに薔薇色《ばらいろ》でぷくぷくとして、誰《だれ》もが指先でつっつきたくなるようだったほっぺたも、青白く、輝《かがや》きをなくしていた。怒《いか》りにぶわりとふくれたり、太古《たいこ》の生き物のしっぽのようだった金色の髪《かみ》も、ぺたりと小さな顔のまわりを取り囲《かこ》んでいた。
ただ、老女《ろうじょ》の如《ごと》き深く静かな、悲しげに翳《かげ》る緑の瞳だけが、以前と変わらぬ暗く激《はげ》しい輝きをたたえて、それしか見えないというように一心不乱《いっしんふらん》に一弥を見つめていた。
「ヴィクトリカ……」
「…………」
青白い、ちっちゃな唇《くちびる》が、ふるっと震えた。
「お……」
老女のようなしわがれ声が、響《ひび》いた。
「なに、ヴィクトリカ」
ようやく、小さな声で返事をする。
「お……おそ、い」
「ご、ごめんよヴィクトリカ。これでも精一杯《せいいっぱい》、急いでやってきたんだけど」
「いいわけ、するな」
声が震えていた。
「ごめんごめん。ヴィクトリカ……」
一弥は黒い布に包まれた小さなヴィクトリカを、そうっとつっついてみた。ちいさなからだがぴくん、と震えた。一弥はおそるおそる、ふわんとヴィクトリカを抱《だ》きしめてみた。
「君……。こんなにちっちゃくなっちゃって……」
「ぐじゃ」
ほんのちょっとしかない、折れそうに細くて小さなからだが、布の奥でふるふるっと震えた。
「こんなにちっちゃく……」
「ごぶっ」
「って、でも、もともとこれぐらいだったっけ? 君、いつもフリルでぷくぷくにふくらんでるから、もともとの大きさがどうも、よくわからないんだよなぁ。あ、それで思い出した。君、洋服もお菓子もなにも持っていかなかったってセシル先生に聞いてね。持ってきたよ。ほら、あの……」
「……もってこい」
「あ、はい」
一弥はあわててトランクのところにとって返し、ふたを開けた。中からポンッと、一弥が一生懸命《いっしょうけんめい》につめたフリルの山が飛び出してきた。白いファーつきのボンネットに、赤スグリ色のシックなドレス、三段フリルのドロワーズに刺繍《ししゅう》つきのバレエシューズ……。
ヴィクトリカは無表情で、それを見ていた。
「それを着る」
「え、このドレス? そういえば前も着ていたね。ふぅん、これがお気に入りなんだ」
「ここまで、もってこい」
「うん、わかった」
一弥の手からドレスをもぎ取ると、ヴィクトリカは黒い布の中からのっそり出てきた。ふっくらしたフリルつきのドロワーズとペティコート、レースのパニエといった下着だけなのに、真っ白な雪うさぎのように、ふかふかにふくらんだ姿だった。ヴィクトリカは気難しそうにしかめっ面《つら》をして、粛々《しゅくしゅく》とドレスを着始めた。一弥は紳士《しんし》らしく後ろを向いている。
ヴィクトリカはかわいらしいドレスの小さな胡桃《くるみ》ボタンをいくつも、一生懸命|留《と》めながら、
「その、赤いミニハットを、かぶる」
「えっ、これかい?」
「もってこい」
「はいはい」
一弥に手渡《てわた》された薔薇のコサージュつきのミニハットをかぶり、顎《あご》の下でサテンのリボンをきゅうっと結《むす》ぶ。
少しずつ、青白かった顔に生気《せいき》が戻《もど》ってくる。ほっぺたがぷくっとしてくる。
はだしのままで偉《えら》そうに仁王立《におうだ》ちして、
「そのブーツを取れ! ちがう、そっちの銀色のだ。この、大陸一の愚《おろ》か者め」
「た、大陸でいちばんってほどじゃないだろ。なにさ、ヴィクトリカのいばりんぼ!」
「…………」
ヴィクトリカは黙《だま》って、ほとんど透明にも見える白絹の靴下《くつした》を手に取った。ほっそりとしたいまにも折れそうな足に靴下をとおしていく。それから、銀色に輝く、先のとがったブーツも履《は》いた。
レースの手袋《てぶくろ》をして、上からきらきらしたハート型の青い指輪《ゆびわ》をはめ、同じデザインの大ぶりの首飾《くびかざ》りもつけた。
すっかり、貴婦人《きふじん》のような身支度《みじたく》が整った。
そして、おもむろに、一弥を呼んだ。
「久城《くじょう》」
「はいはい。終わったの? はやく行くよ。いっしょに帰らなきゃ。ここは不気味だし、さっさと学園に……」
「久城」
「なに? いま荷物を片付けてるから、後で……」
「久城」
「なんだよぅ」
「こっちこい、久城」
「うん? もう、わかったよ。君はまったくうるさい人だなぁ。ぼくがわざわざ、こんな遠く、ま、で……。いたい! いたい、いたいってば! なんだよもう! やめてってば、ヴィクトリカ!」
ヴィクトリカは、一弥が近づいてくるまで辛抱強《しんぼうづよ》く待っていた。まるで獲物《えもの》をみつめる、獰猛《どうもう》な虎《とら》のように。それから、とがった銀色のブーツのさきっちょで一弥のすねを思いっきり、蹴《け》っ飛ばした。ハート型の青い指輪がついた小さな手でも、ぽこぽこと一弥を叩《たた》いた。
一弥はたまらず悲鳴を上げて、薄暗い部屋の中を逃《に》げ回った。
「なんなんだよ、君は! 気でも狂ったのかい?」
「久城、この、けだもの。ならず者。久城、君……」
ヴィクトリカは真珠《しんじゅ》みたいな小さな歯を食いしばった。また、ぽかりと叩く。
「痛いってば。なんなんだよ、君はまったく!」
「君……くるのが……」
「なんだい、君……。もしかして、泣いてるのかい。ヴィクトリカ……?」
ヴィクトリカはうつむいた。小さな頭に載《の》せられたミニハットの、薔薇のコサージュが、ふるふるっと震える。
二人がいる部屋は相変《あいか》わらず冷《ひ》え冷《び》えと冷たい空気に覆《おお》われていた。なにもないガランとした中には、食べた形跡《けいせき》のない粗末《そまつ》な食事と、古い木の机。床《ゆか》には、たったいままでヴィクトリカがかぶっていた分厚《ぶあつ》い黒い布が、脱皮《だっぴ》のあとにのこされた黒いちいさな殻《から》のように、力なく落ちていた。
どこからか隙間風《すきまかぜ》が吹《ふ》いてきた。びゅ、う、ぅ、ぅ、ぅ……。ヴィクトリカの金色の見事《みごと》な髪が、床から舞《ま》い上がって、そうっと一弥の靴先《くつさき》にからみついた。
ヴィクトリカは、声をふりしぼった。
「くるのが、おそい……」
「……ごめんよ、ヴィクトリカ」
「待っていたのに」
「うん……。そうだね……」
ヴィクトリカは、哀《かな》しそうな顔をして近づいてきた一弥の顔を、両手のひらでぱしぱしとはたいた。一弥は「いたい、いたい」と言いながらももっと近づいて来て、ミニハットをかぶったヴィクトリカの頭を、くりくりと撫《な》でた。
「ごめんよ、ぼくのヴィクトリカ」
ヴィクトリカはうつむいた。
ぐうぅ〜。
お腹が鳴った。
ヴィクトリカはお腹を押《お》さえた。空腹という概念《がいねん》を急に思い出したかのように。トランクの方をちらりと見た。
「そうだ、ヴィクトリカ。書物《しょもつ》とお菓子《かし》もちゃんと持ってきたんだよ。君に必要なものは、ぼく、ちゃんとわかってるから……」
「むぅ」
ヴィクトリカはうなった。
小首《こくび》をかしげて自分を見下ろしている一弥をぎろりと睨《にら》みあげると、偉《えら》そうに、
「よくやった、久城」
「う、うん。……なんだか君、相変わらずちょっと偉そうだなぁ。迎《むか》えにきてくれてありがとう、ぐらい言ってくれてもいいように思う、けど、ね……って、そんなむやみに蹴っ飛ばすなよ、ヴィクトリカ!」
「ふん」
豪奢《ごうしゃ》なドレスを身につけたヴィクトリカが、部屋に転がっていた粗末な椅子に、貴婦人のように大威張《おおいば》りで座《すわ》った。一弥は小声で文句を良いながらも、床に膝《ひざ》をついて、トランクからチョコレートボンボンや、クッキーや、スコーンをつぎつぎ取り出してヴィクトリカに差し出した。小さな貴婦人は騎士《きし》からの献上品《けんじょうひん》を受け取るように、つぎつぎ手に取ると、もりもりと頬張《ほおば》りだした。
青白かった肌《はだ》が、また、ふっくらとした薔薇色《ばらいろ》に染まっていく。
こけていた頬が、お口に詰め込んだお菓子のせいでまたぷくぷくとふくらんでくる。
もりもり、もりもり。
もりもり、もりもり。
もりもり、もりもり。
もりもり、もりもり。
もりもり……。
お菓子を食べ続けながら、ヴィクトリカは、
「それにしても、久城。君はほんとうにのろまだなぁ。ここまでくるのにどうして一週間もかかるのだね? おおかた、どこかでスッ転んでくだらん溝《みぞ》に落ちてそのくだらん頭を打って、記憶喪失《きおくそうしつ》にでもなってしょうもない道草を食っていたのだろう。この、世界一のうつけ者め。まったく、命があるだけでもありがたいと思いたまえよ、君」
「こらっ、ヴィクトリカ!」
「ふん!」
「あのね、この一週間、ぼくはふつうに、聖マルグリット学園で授業を受けてたんだよ! 君ね、そのあいだ死ぬほど心配してたぼくの気も知らないで、なにさ、チビッコの、いばりんぼ! ぼくがこなかったらまだそのすみっこで、ちっちゃくなってめそめそ泣いてたくせに!」
「な、泣いてなどいない!」
「うそだー。さっきちょっと泣いてたよ。……いたい! だから、蹴飛ばすなよ。そのブーツ、とがっててすごくいたいんだよ」
「知っているとも」
「あれ、まさか君、ぼくを蹴っ飛ばすためにその靴を選んだんじゃ、ないよ、ね……」
「ふん、まったくくだらん」
ヴィクトリカはいかにも生意気《なまいき》な様子で小さな形のいい鼻を鳴らすと、また一つ、大きなチョコレートボンボンを口の中に詰《つ》め込んで、もふもふと咀嚼《そしゃく》してみせた……。
貴婦人《きふじん》の如《ごと》く大威張《おおいば》りでお菓子《かし》を咀嚼《そしゃく》するヴィクトリカが、ようやく満腹《まんぷく》になると、一弥はまたトランクに荷物を詰めなおして、小さなヴィクトリカのぷくぷくした手を握《にぎ》りしめ、歩きだした。
さっき、トランクを引っ張りながら一人で上ってきたゆるやかな坂道は、ぐるぐると螺旋《らせん》を描《えが》き下《くだ》り坂《ざか》となっていた。でも、今度はヴィクトリカの手を引っ張りながらなので、さっきよりもずいぶん時間がかかった。
なにしろヴィクトリカが、
「久城」
「はいはい、なんでしょう。ほら、もっと急いで、ヴィクトリカ」
「久城」
「なぁに?」
「久城」
「…………」
「……久城」
「君、それはなんなんだよ? さっきから」
一弥の名前を呼んでは、立ち止まったり、繋《つな》いだ手を上下左右に乱暴《らんぼう》に揺《ゆ》さぶったりするのだ。
一弥はあきれて、ヴィクトリカをふりかえった。
「あのねぇ、君。名前を呼んだなら、用件《ようけん》まで言いなよね、ヴィクトリカ」
「…………」
ヴィクトリカは黙《だま》って、薔薇色のほっぺたをぷくっとふくらませた。それから、思いっきり、一弥の膝《ひざ》をブーツのかかとで蹴《け》っ飛ばした。
「ぎゃっ! こらっ、ヴィクトリカ!」
「フン」
「どうして今日は、そんなに暴《あば》れんぼうなんだよ? まったく……。ほら、行くよ」
一弥はぷりぷりと文句《もんく》を言いながら、ヴィクトリカの手を引っ張って、また、螺旋の迷宮《めいきゅう》の薄暗《うすぐら》い廊下《ろうか》を歩きだした。
ジ、ジ、ジジジッ……、と鈍《にぶ》い音を立てて、岩に覆《おお》われた暗い壁《かべ》にかけられたランプが、風もないのに橙色《だいだいいろ》の炎《ほのお》を揺らした。獣脂《じゅうし》の焼ける荒々《あらあら》しい匂《にお》いが廊下に充満《じゅうまん》し、むせ返るほどだ。暗い迷宮には、時折《ときおり》、幽鬼《ゆうき》のようにふらりと、黒尽《くろず》くめの修道女《しゅうどうじょ》が現れては、べつのドアから消えていく。どの顔にも表情がなく顔にぽっかり開いた穴のような空虚《くうきょ》な瞳《ひとみ》が二つ、暗く揺れているばかりだ。
生きているとも死んでいるとも知れぬ、おかしな黒い少女たち……。
廊下の左右に無数に並ぶ黒いドアは、あるものは固く閉ざされ、またあるものは半分ほど開いて、誰かが通り抜《ぬ》けたことを示すようにかすかにぐらぐらと揺れている。
ランプの橙色の輝《かがや》きが、ふたりの後ろ姿を照らしている。
ヴィクトリカが急に、ころんっと転《ころ》んだ。痛《いた》がりなのを知っているので、一弥があわてて抱《だ》きとめる。しばらく歩くとまた、ころころっと転んだ。一弥がまた助け起こしながら、あきれて、
「どうしてそんなに転ぶんだよ、ヴィクトリカ?」
「む……」
ヴィクトリカがつまらなさそうに、小声で答えた。
「お腹《なか》がいっぱいで、ちょっとばかり、お腹が重たいのだ」
「お、お菓子食べすぎだろ、君! 自分で気をつけなよね」
「むぅ……」
ヴィクトリカはへそを曲げたらしく、ぷくっとほっぺたを膨《ふく》らまして黙り込んだ。それから、ちょこちょこと急いで、早足《はやあし》で歩きだした。一弥があわてて後を追う。
廊下は少しずつ幅《はば》が広くなり、傾斜《けいしゃ》もゆるやかになってきた。二人の足音が響《ひび》く。時折、黒衣の修道女とすれちがった。どこかのドアが開いて、修道女が出てきては、またべつのドアに消えていく。冷たい隙間風《すきまかぜ》が吹《ふ》いてくる。
「ねぇ、ヴィクトリカ……」
一弥が、ちょっと遠慮《えんりょ》がちに聞いた。
「う」
「……ちゃ、ちゃんと返事しなよ。どうして君、一語しか声に出そうとしないんだよ。ヴィクトリカの、面倒《めんどう》くさがりや!……まぁ、いいや。あのさ、君、いったいどうしてここに連れてこられたんだい? 急なことだったから、正直、ぼくには理由がぜんぜんわからないんだよ」
「うむ……」
ヴィクトリカはうつむいた。
銀色のブーツが立てるちいさな靴音が、廊下に響く。
「とある人を、この修道院に呼び寄せるためだ」
「それはブロワ警部《けいぶ》も言っていたような気がするけど。でも、とある人って?」
「…………」
ヴィクトリカは答えなかった。
ただちょっとだけ、さくらんぼ色の唇《くちびる》を噛《か》んで、寂《さび》しそうに瞳を翳《かげ》らせた。一弥はそれ以上聞くのをやめて、きゅっと手を握って、また歩き続けた。
しばらく歩いていると、一弥がふと、一つのドアの前で足を止めた。それは小さな部屋で、なぜかその部屋のドアだけが派手な朱色《しゅいろ》にぬられていた。ほかの部屋と区別をつけるように。
そしてその朱色のドアの中に、いつの間にか、一弥が列車の貨物室で見つけたあの不思議《ふしぎ》なチェス・ドールが一つ、ぽつんと置かれていた。
ひげをピンと張《は》らせ、頭にターバンを巻いた、ユーモラスな顔。その小さな頭部《とうぶ》が、視線を感じたようにゆっくりと、ギリ、ギリ、ギリ……と動いて、ドアのほうを振《ふ》り返った。
一弥は硬直《こうちょく》した。
黒い目玉が、一弥をみつけたというように、少し動く。
「うわっ!」
一弥は思わず声を上げた。それから、ヴィクトリカがぐいぐいと手を引っ張るのであわてて、その部屋の前を後にした。
(いま、また、あの人形が動いたような気がするけど……。気のせいかな? 気のせい、だよな……。だって、命のない人形が動くわけがないんだから……)
そしてまた、歩き出す。
だいぶ修道院の入り口に近づいたところで、ドアの一つがばたんと開いて、あやうくヴィクトリカにぶつかりそうになった。一弥はあわててヴィクトリカを抱《かか》え込《こ》んでかばった。代わりに一弥の後頭部にドアの角が当たった。
「きゅ!」
一弥は短く悲鳴をあげた。広げた両腕《りょううで》でかばわれたヴィクトリカが、うっとうしそうに一弥の頭を、拡げた両手でばしばし叩《たた》いた。
「いたた、こっちも痛いや。やめてよ、ヴィクトリカ」
「久城、君、邪魔《じゃま》だ。前が見えない」
「あのねぇ、ヴィクトリカ。君、ぼくがかばわなかったら、君のそのちっちゃなおでこに、このドアが直撃《ちょくげき》してたんだよ。君、ずいぶん痛がりの弱虫じゃないか。ちょっとだけデコピンしただけで、床《ゆか》を転げまわって痛がって、吠《ほ》えてたの、ぼくは忘れてないからね」
「むっ!? だ、誰が弱虫なのだ。それに、床を転げまわってなどいない」
「君、泣いてたよ」
「むむっ!? な、泣いてなどいないぞ、久城」
繋いでいた両手を離《はな》してもめていると、二人の頭上で、「いや、こっちが悪かったよ」という男の声がした。振り向くと、列車の中で一緒《いっしょ》だったあの若い男――サイモン・ハントがこちらを見下ろしていた。
「あ、どうも、サイモンさん……」
「思い切り開けたもんでね。じゃ……」
サイモン・ハントは片手をあげると、急ぎ足で出口に向かって歩いていった。一弥は首をかしげてその後ろ姿を見送った。それから、サイモンが出てきたドアの内側を覗《のぞ》き込んでみた。
そこはまるで巨大《きょだい》な時計の中のような、ぜんまいや大きなレバーが溢《あふ》れる部屋だった。ぎりぎりと機械《きかい》たちが妙《みょう》な音を立てていた。壁掛《かべか》けの大時計が、夕刻《ゆうこく》の時間を差していた。
「あの人、ここでなにをしてたんだろう……?」
一弥は首をかしげた。
ふたりでまた歩き出す。
ふと、ヴィクトリカが一つのドアの前で足を止めた。一弥もつられて足を止める。
「どうしたの、ヴィクトリカ?」
「…………」
黙って、半分ほど開いたドアからのぞく、部屋の奥《おく》をみつめている。
そこには、大きな奇妙《きみょう》な機械《きかい》が一つ、置かれていた。四角くて、レンズが何箇所《なんかしょ》かに張《は》り出していた。一弥は、国にいたころに家族で記念写真を撮《と》ったときに見た、写真機をふと思い出した。ヴィクトリカの顔を見下ろして、
「なんだろう、これ?」
「幻灯機《げんとうき》≠セ」
「なぁに、それ?」
「ふぅむ、なるほどな……」
ヴィクトリカは一弥の問いには答えず、また歩き出した。一弥もまた、片手で小さなヴィクトリカ、もう片方の手で巨大なトランクを引っ張りながら、廊下を進みだした。
ようやっと、〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉の建物から、一弥とヴィクトリカは外に出た。
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幻灯機 ―ghost machine 2―
[#地付き]――一九一四年十二月五日〈ベルゼブブの頭蓋〉
「よろしく、わたしがソヴュール王国科学アカデミーの主宰者《しゅさいしゃ》、ジュピター・ロジェだ」
朱色《しゅいろ》のドアをした、なにもない部屋で。
壮年《そうねん》の男、ジュピター・ロジェから差し出された手を、ブライアンは軽く握《にぎ》った。まだ冷《ひ》や汗《あせ》が額《ひたい》に浮《う》かんでいる。ジュピターはそれに気づく様子もなく、早口でブライアンに語りかけた。
「君、例の〈名も無き村〉から戻《もど》ってきたばかりなのかね?」
「ええ」
ブライアンは軽くうなずいた。ドアが開いてミシェールが入ってきたが、二人の雰囲気《ふんいき》に気づいて「あら……」とつぶやき、ドアをばたんと閉めた。
二人きりのそのなにもない部屋では、廊下《ろうか》から聞こえてくる、怪我人《けがにん》のうめき声や少女たちの足音が、よく響《ひび》いた。
「ブライアン、君はあの、灰色狼《はいいろおおかみ》の末裔《まつえい》たちが住む忘れられた山間《やまあい》の村に行き、電気を引いてやり、彼らの信頼《しんらい》を集めたようだ」
「まぁ、ほかにも用があったものでね」
「そうだ。そのことを聞きたいのだ。君、例のもの……あの箱はまだ村にあったのかね?」
「形見箱《かたみばこ》のことだろう。あぁ、あったとも。コルデリア・ギャロの住んでいたあの小さな家の、床下《ゆかした》に隠《かく》されていた」
「ふむ……」
ジュピターは目を細めた。それから機嫌《きげん》をとるように、
「さっそく返してくれるだろうね。あれが人手に渡《わた》ると、我々科学アカデミーはとても困《こま》るのだよ」
「残念だが、返せない」
「なっ!」
ジュピターのからだから怒《いか》りのオーラが発散《はっさん》される。ブライアンはくっと歯を食いしばり、答えた。
「あれは俺《おれ》と、俺のコルデリア、二人の生命線だ。コルデリアはオカルト省《しょう》の重鎮《じゅうちん》、アルベール・ド・ブロワ侯爵《こうしゃく》に追われている。その一方で、君たち、オカルト省と敵対《てきたい》する勢力《せいりょく》であるところの科学アカデミーの重大な秘密も知っている。君たちがそれをもとに、俺とコルデリアを亡《な》き者にしようとしても不思議《ふしぎ》はない」
「信用がないものだな」
「これはあくまでも利益《りえき》の問題だ。政治のね」
「ふむ」
「俺はコルデリアを安全な場所に隠し、あの箱もまた、安全な場所に隠したのだ」
ブライアンはそういいながらも、眉《まゆ》をひそめて、ついさっき箱を隠したばかりの床板に視線を落とした。ジュピター・ロジェはそれには気づかず、あせったように、
「しかし、〈名も無き村〉からここまでのあいだに、君はどこにも寄らなかったはずだがね」
「……やはり、誰かに俺を見張らせていたんだな。しかし残念ながら、うまく隠したんだよ、ジュピター。俺はあの箱を君たちに渡さない。だが、オカルト省の手にも渡さないと約束しよう。あれは俺とコルデリアの生命線だ。秘密によってのみ、おれ達は安全を確保《かくほ》するのだ」
「……ふむ。まぁ、いい」
ジュピターは顔をゆがめた。
はめ殺しの窓の向こうで、暗い海が、波を寄せては返していた。少しずつ日が暮れて、薄紫色《うすむらさきいろ》だった夕刻《ゆうこく》の空もまた暗い色に染め変えられていく。
ゆっくりと、ジュピターが話し出した。
「ブライアン。いまここで起こっていることは、一つの国と国の争いから、世界中のあらゆる国が巻き込まれていった、壮大《そうだい》な戦いだ。こんなことはこれまでの何十年もの歴史になかったことだ。きっと近代化によって急速《きゅうそく》に、われわれの住むこの地上がせまくなっているせいなのだろう。セルビアの独立問題、バルカン戦争、そして先日、サラエボで起きた不幸なオーストリア王位継承者暗殺事件《おういけいしょうしゃあんさつじけん》もまた、確かにひとつのきっかけにはなっているが、もちろんそれらは、散在《さんざい》するばらばらな起爆剤《きばくざい》に過ぎない。すでにもう、この世界的な戦争の最初のきっかけがなんであったのか、なぜ戦うのか、我々にも完全に把握《はあく》はできないだろう。そしておそらく後世《こうせい》、早い段階《だんかい》で、この戦争が終結した直後からその謎《なぞ》を解《と》く試《こころ》みが世界中のあらゆる、痛みを共有《きょうゆう》した国々、ただ傍観者《ぼうかんしゃ》であった誰か、あらゆる人々、勢力によって為《な》されるだろう。だがそれはすべてフィクションに過ぎない。歴史などというものは所詮《しょせん》、己《おのれ》の都合《つごう》に合わせ、過去を再編纂《さいへんさん》するゆがんだ創作活動の別称《べっしょう》なのだ。未来の我々には永遠にいま本当に起こっていること≠ヘわからぬままだろう。……わかるかね?」
「ええ」
「そして我々、ソヴュール王国の科学アカデミーにとって、この戦争は、連合国側と三国同盟側の戦いであるとともに、ソヴュール王国内における、科学アカデミーとオカルト省との戦いでもあるのだ。わかるかね? 我々科学アカデミーはわが国の発展《はってん》のため、科学という新しい力を積極的《せっきょくてき》に取り入れようとしている。対してオカルト省は、あくまでもヨーロッパ大陸の古き力、魔力《まりょく》や想像上の生物や、オカルティックな力を用いて、これからの近代化していく世界と渡り合おうとしているのだ。しかしそれは、我々には、無謀《むぼう》な白昼夢《はくちゅうむ》に過ぎないように思われる。国のためを思うなら、オカルトなどという前世紀の遺物は捨て去り、科学によって発展を遂《と》げるべきなのだ。これからこの世界は急速に機械化されせまくなっていくはずなのだ。戦争もまた、個人と個人のものではなく、それぞれの世界と世界の争いになり、騎士道精神《きしどうせいしん》などという個人の美しき哲学《てつがく》は消え去り、機械によって戦われていくことだろう。あぁ、それは必然なのだ」
ジュピターの顔はなぜか、話すほどに哀感《あいかん》を帯《お》びて、悲しげにゆがんでいく。それをブライアンは黙《だま》ってみつめていた。
「ブライアンよ、若き、灰色狼の末裔よ。君はあの、灰色狼と呼ばれる想像上の生物、その隠れ住む村である〈名も無き村〉の血を引きながら、町に出て、奇術師《きじゅつし》として生計《せいけい》を立てている。君は己のショーを魔術などではなく、トリックのある奇術であると明言《めいげん》している。それは我々の、科学への信奉《しんぽう》と似《に》ている気がするのだ。だからこそ君の力を頼《たよ》るのだ。奇術師によって、工作活動を為したいと考えたのはそのためだ」
「オカルト省は、俺の敵だ」
ブライアンは短く言った。
「あいつは、俺のコルデリアを痛めつけた。オカルト省は灰色狼をただモノとして、現象として扱《あつか》い、消せぬ傷をつけた。古き力の狂信者《きょうしんしゃ》、歪《ゆが》んだ権力者、アルベール・ド・ブロワ侯爵を俺が許すことはない」
「こどもが生まれたのだったな、確か……」
「まだ、ようやっと、四歳か、五歳か……。ちいさく、幼い狼だ。コルデリアは公爵家に残してきたわが子を気にしている。だが、俺にはそのこどもなどはどうでもいいのだ。あれには半分、あの貴族《きぞく》の血が混じっている。それに、ようやく手に入れた古き力、灰色狼の血をブロワ侯爵がけして手放すまいからな」
「うむ……」
「ブロワ侯爵は敵だ。オカルト省もまた、俺の敵だ」
ジュピターはその言葉にうなずいた。それから、かき口説《くど》くように情熱的《じょうねつてき》に、
「どうかその力を我々に貸してくれ。この〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉は表向き、野戦病院として機能させ、それを裏付けるためにこの国の女学生を動員して、看護婦として働かせている。だが、真実は我々、科学アカデミーがリトアニアとの協力体制の下、各種|諜報活動《ちょうほうかつどう》のために使用している要塞《ようさい》でもあるのだ。そのことが三国同盟側に漏《も》れている恐《おそ》れもある。オカルト省のスパイが入り込んでいる噂《うわさ》まであり、ここはけして安全とはいえないのだ」
「ふむ、なるほど……」
ブライアンはうなずいた。
「奇術によって戦うのであれば、俺はちょうどよい道具をここに運び込んだところだ。じつのところ、これを使うことができるのではないかと予感《よかん》がしていてね。これだよ」
部屋の隅《すみ》に置かれた、大きな四角いものを指さしてみせた。列車から運び込んだ、あの大きな荷物。ポーターが何人もで重そうに抱《かか》えていた、それ……。
それには上から布が被せられていた。ジュピターが不思議《ふしぎ》そうに、「いったいなんだね?」と聞く。ブライアンは靴音《くつおと》を響かせて近づき、さっと布を剥《は》ぎ取った。
中に隠《かく》れていたのは、写真機を巨大《きょだい》にしたような、四角い奇妙《きみょう》な機械だった。大きな丸いレンズがこちらに、大砲《たいほう》のように張り出していた。
驚《おどろ》くジュピターに向かって、ブライアンは言った。
「――幻灯機《げんとうき》≠セ」
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第四章 フェル姉妹《しまい》のシスターズ・キャビネット
一弥《かずや》とヴィクトリカは、〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉の外に出た。
修道院《しゅうどういん》の前庭《まえにわ》にはきらびやかな衣装《いしょう》を身につけた観客《かんきゃく》と、羽飾《はねかざ》りを揺《ゆ》らして踊《おど》る少女たち、そして原色《げんしょく》の化粧《けしょう》で笑うピエロが溢《あふ》れかえり、ドラの音や笛《ふえ》、オルガンがけたたましく奏《かな》でるどこか悪趣味《あくしゅみ》な賛美歌《さんびか》が響き渡《わた》っていた。
前庭の隅《すみ》にある古ぼけた聖堂《せいどう》が、内部から明々と照《て》らされていた。骸骨《がいこつ》の影《かげ》が揺《ゆ》れて、見る人を脅《おび》えさせていた。その背後に広がるうち捨てられたような墓地《ぼち》には、無数《むすう》の松明《たいまつ》が地面に突《つ》き刺《さ》されて、鬼火《おにび》のように激しく燃えていた。どこからか雷鳴《らいめい》が響くと、踊り子の少女たちが大げさに、
「きゃーっ!」
「きゃあああああ!」
「嵐《あらし》よ、嵐がくるわ!」
頭を抱えた絶望《ぜつぼう》のポーズで叫《さけ》んで見せた。観客たちはますます楽しそうに笑っている。
一弥はしばらく、その様子をぼうっとみつめていた。それからはっと我に返って、となりでぎゅうっと自分の手を握《にぎ》っている、小さなフリルの女の子を見下ろした。
ヴィクトリカはさくらんぼのようなつやつやした唇《くちびる》をぽかんと開けて、その様子を見ていた。
やがてゆっくりと一弥のほうを見上げた。なにものも映していないかのような、虚空《こくう》に浮《う》かぶ翡翠《ひすい》のような緑の瞳《ひとみ》で、呆然《ぼうぜん》と、
「久城《くじょう》……。なんだね、この、君よりひどい、うつけ者たちは」
「ええと、これは」
一弥は頭をかいた。
「列車の中で、ほかの乗客から聞いた話だと、この修道院では月に一度、魔力《まりょく》が強まるといわれる満月の夜に、こういった夜会《やかい》を開いているんだよ。〈ファンタスマゴリアの夜〉という、魔術やらを見せる、古き力の祭典《さいてん》なんだって……」
「くだらん」
「うん……。もう、帰るかい? といっても、この夜会が終わる時間にならないと、帰りの列車も出ないらしいんだけど」
「む……」
一弥たちの横を、あの、バチカンの奇跡認定士《きせきにんていし》だという老いた修道士《しゅうどうし》イアーゴがゆっくりと通り過ぎた。
ふわふわと、人魂《ひとだま》のような青白い光るものが、その後ろをついていく。一弥が不思議《ふしぎ》そうにみつめていると、ヴィクトリカが「ふわ〜ぁ」とあくび混じりに、
「燐《りん》をぬった風船《ふうせん》だろう、君」
「あ、そうなんだ。よくわかったね」
「む!」
ヴィクトリカの眉《まゆ》が、不機嫌《ふきげん》そうにぴくんと動いた。こどもみたいに頬《ほお》を膨《ふく》らませて、
「君、わたしを誰《だれ》だと思っているのだね。たったあれだけのことで感心するとは。だいたい、君、は……」
なにか文句《もんく》を言いかけて、ヴィクトリカは口を閉じた。よそ見をして、なにかに心|奪《うば》われたように人垣《ひとがき》の向こうのほうに目を凝《こ》らしている。何度も背伸《せの》びをしたり、小さなからだでぴょこっと跳《と》んだりするが、なにしろこのからだの小ささなので、なにも見えないらしい……。
「君、どうしたの? ヴィクトリカ……」
「む……」
「誰かいたのかい?」
「いた……」
ヴィクトリカは人の波と飛びかう人魂、燃える松明に苛立《いらだ》つように、銀色のブーツを履《は》いた小さな足で何度も地団駄《じたんだ》を踏《ふ》んだ。それから、一弥が引っ張っていた巨大なトランクを振《ふ》り返ると、ぷくぷくした両手のひらでそれをむんずと掴《つか》み、よいしょとばかりに、トランクの上によじ登った。ビックリしてみている一弥の顔の前で、トレーションレースを何重にも重ねた赤スグリ色のドレスのすそと、繊細《せんさい》なフランス刺繍《ししゅう》の花模様《はなもよう》が飾《かざ》られた、フリルでたっぷりふくらんだドロワーズが、ふわふわと揺れた。
白絹の靴下《くつした》に包まれた、折れそうに細いふくらはぎが一瞬《いっしゅん》、見えた。
「ヴィクトリカ、危ないよ?」
子栗鼠《こりす》が木によじ登るようにトランクに乗ったヴィクトリカは、無表情なそのエメラルド・グリーンの瞳で、じっと人波の向こうに目をこらした。それからさくらんぼのようなつやつやの唇をカッと開けて、誰かの名前を呼ぼうとして……。
ブーツがつるりとすべった。
「ヴィクトリカ!?」
トランクの上でもんどりうって転んだヴィクトリカは、一瞬、下から自分のほうを見上げてあわてている一弥の顔をチラッと見た。それから、迷《まよ》わず、一弥に向かってふわりと落下《らっか》してきた。
ほどけたターバンのような見事《みごと》な長い髪《かみ》が、夕刻の風をはらんで、魔的な黄金色《おうごんいろ》に舞《ま》い上がる。
赤い羽根《はね》を揺らす小鳥の如《ごと》くヴィクトリカは一弥の上におっこちて、ずしん、と地面に着地した。とっさに両腕《りょううで》を伸ばして受け止めようとした一弥は、勢いあまって、地面に仰向《あおむ》けに倒《たお》れた。
「うわぁ!?」
叫び声にはかまわず、ヴィクトリカは一弥のお腹の上にうまく着地《ちゃくち》したまま、小さな片手を顎《あご》に当てて、なにごとか考え込んでいる。
「…………」
「ヴィクトリカ?」
「…………」
「ねぇ、ヴィクトリカ?」
「…………」
「あのさ、ヴィクトリカ、ぼくに、ごめんなさいは?」
「……そのつまらん口を閉じて、ちょっと黙《だま》っていたまえ、わたしは考え中だ」
「あぁ、そう……。それって、でも、ぼくの上でじゃないとできないことかい?」
「うるさいなぁ、君」
「…………。あぁ、だよね。ぼくはうるさいよね。ごめんよ、ヴィクトリカ。……いや、そうじゃなくて!」
ぶつぶつと文句を言う一弥をほったらかしに、しばらくヴィクトリカはなにごとか考え込んでいた。それから短く、
「あの赤いたてがみは……。ブライアンがきているのか。ということは……。オカルト省《しょう》と科学アカデミーのことか……? こまったものだ。混沌《カオス》の欠片《かけら》がまったく足りない。ううむ……」
「えっ? なにか言った?」
「言ったとも。だが、君には教えない。なぜなら、説明するのが面倒《めんどう》くさいからだ」
「あのねぇ、ヴィクトリカ」
一弥がまた文句を言いかけたとき、ひときわ大きなドラの音が響《ひび》いた。
観客《かんきゃく》が嬌声《きょうせい》を上げた。
夜会《やかい》が始まるのだ。
前庭の中央に作られた丸い舞台《ぶたい》に、修道女たちに付き添《そ》われた壮年《そうねん》の男が進み出てきた。黒尽《くろず》くめのローブに身を包んだその男は、〈ベルゼブブの頭蓋〉の修道院長を名乗《なの》った。
「我《われ》らの夜会へ、ようこそ……!」
低い声が暮《く》れかけていく夜空に響き渡った。観客がごくりとつばを飲んだ。
ヴィクトリカがゆっくりと立ち上がった。地面に転がっていた一弥も、ようやく立ち上がると、まずヴィクトリカのドレスについた砂や埃《ほこり》をぱんぱんはたいて落としてやった。ヴィクトリカが迷惑《めいわく》そうに、フリルをふわふわさせてからだを揺《ゆ》すった。それから一弥は、自分の衣服《いふく》の汚《よご》れをはらった。
修道院長が低い声で、口上を述べ続けている。
「さて、今宵《こよい》の宴《うたげ》のために大陸中からやってきた、特別な客人である、みなさん。あなたがたは果たして、不思議な力というものの存在を知っておられるのだろうか。かつてこの大陸、古き力に彩《いろど》られしヨーロッパの地には、魔力が溢《あふ》れ、我々はそれを日常のこととして受け入れていた。しかし……」
一瞬言葉を切る。一同をゆっくりと見回して、
「いまはどうであろうか? 石炭《せきたん》によって列車が走り、空には飛行船が飛び、電波《でんぱ》によって遠くの人の声が届く。それらはたしかによき発展《はってん》だが、一方で我々は、大事な力を忘れてしまうのではないか? 大事な力とは?」
夜風が吹《ふ》いた。
とおくからまた雷鳴《らいめい》が響く。雨が近いようだ。院長が叫《さけ》ぶ。
「それはすなわち、魔力《まりょく》! そう、これだ!」
院長の周りに、青白い骸骨《がいこつ》が何体も現れて踊《おど》り始めた。観客がざわめく。院長は懐《ふところ》からサーベルを取り出し、一振《ひとふ》りした。
骸骨はすべて、操《あやつ》っていた見えない糸を断《た》ち切られて、その場にガシャガシャガシャッと激《はげ》しい音を立てて落下した。院長がうそぶく。
「こんなものはまやかしに過《す》ぎぬ! いま、奇術《きじゅつ》と称《しょう》してあなたがたを夢中《むちゅう》にさせている数々の出し物はすべて、魔術のにせものなのだ。我々はこの魔力の強き場、〈ベルゼブブの頭蓋〉にて、本物の古き力、ヨーロッパが持ちうる本当の力をお見せしようではないか。選ばれし今宵の客人たちよ。さぁ、きたれ、我らの〈ファンタスマゴリアの夜〉へ!」
会場のあちこちにおかれた陶器《とうき》の鉢《はち》に、踊り子の少女たちが衣装《いしょう》に風をはらみ、舞いながら、松明の火をつけていった。たちまち白い煙《けむり》が無数に上がり、その煙の中にたくさんの幻影《げんえい》が浮《う》かび始めた。
悲鳴を上げる女。
黒衣の死神。
ヨーロッパの人々がよく知る、一人の女の幻影も現れた。鮮《あざ》やかな青色をしたシンプルなドレスに身を包んだ、悲しげな顔の、か弱き貴婦人《きふじん》。目の醒《さ》めるような青い薔薇《ばら》を一輪《いちりん》握《にぎ》りしめて、おびえたような表情を浮かべて小首をかしげている。ソヴュールの王妃《おうひ》だった、若く美しい一人の女。魔術とオカルトを愛した、永遠の少女。先の世界大戦《グレートウォー》のとき、不幸にも命を落とした、可憐《かれん》な、ソヴレムの青い薔薇=\―。
王妃の顔が、揺らめく煙とともにゆがむ。なにか言いたげに過去の亡霊《ぼうれい》が唇《くちびる》を開く。風に煙が揺らめく。観客の女たちが伝説の美しき王妃の亡霊を見つめ、恐《おそ》ろしそうにつぎつぎ悲鳴を上げる。
一弥が小声で、
「映画みたいだね……。あの煙がスクリーンの代わりなのかな」
そうつぶやいてかたわらを見ると、ヴィクトリカは返事もせずに、一生懸命《いっしょうけんめい》、背伸《せの》びしていた。背が小さすぎてうまく見えないらしい。
舞台にインド風の衣装を身につけた少年が進み出てきた。地面に植物の種《たね》を植《う》える。それはたちまち夜空に向かって蔓《つる》を伸ばしていく。少年ははだしの足で、蔓をつたって夕刻の空に上がっていく。そして暮れ始めた暗い空の上のほうに消えていく。
見上げる観客の度肝《どぎも》を抜《ぬ》くように、少年の生首《なまくび》が地面におっこちてきて、バウンドする。若い女性客が「きゃーっ!」と悲鳴を上げて失神《しっしん》する。大きな笑い声。ドラの音。観客の中から少年が現れて、自分の生首を拾《ひろ》うと、一礼してさっそうと消える。
一弥がそっとヴィクトリカのほうをうかがうと、ヴィクトリカはまだ、見えない、というように一生懸命、背伸びをしていた。一弥はヴィクトリカの前に立つとその両脇《りょうわき》の下に腕《うで》をいれて持ち上げてやった。
ふわり、と軽かった。フリルのドレスの中は、まるで、仔猫《こねこ》一|匹《ぴき》しか入っていないかのようだ。
なにをする、というように、小さなヴィクトリカが両足をばたつかせる。一弥がトランクの上にぼんと座《すわ》らせてやると、ヴィクトリカは無表情な、冷たいその横顔を、かすかにゆがめた。
「む……」
「見える?」
「……うむ」
ヴィクトリカはそっぽを向いて、気難《きむずか》しそうに返事をした。一弥はにっこりして、また舞台に視線を戻《もど》した。
舞台ではおとなしそうな美しい女が進み出て、院長に請《こ》われるまま寝台に横たわった。目を閉じ、呪文《じゅもん》を与《あた》えられると、女のからだは寝台《しんだい》からゆっくりと持ち上がった。ドレスの裾《すそ》がふわりと垂れ下がる。女は夢の中にいるかのようにうっとりと眠《ねむ》り、目覚める気配はない。やがてゆっくりとまた寝台に戻ってくると、ふわりと着地した。
院長の手の中に生まれた、燃える巨大《きょだい》な人魂《ひとだま》が夕刻の空に向かってまっすぐに消えていく。
オルガンの音が響く。
またべつの美しい女が出てきて、礼をする。どこからか取り出したピストルに弾《たま》をこめ、観客に渡《わた》す。渡された若い男が恐《おそ》ろしがって首を振る。
女が何度も、撃《う》ってみろと挑発《ちょうはつ》する。男がいやがると、連れの男が、俺がやるというようにピストルを奪《うば》い取る。
ドラの音が鳴る。
雷鳴が響く。
ピストルを持った男が、女を狙《ねら》って、引き金を引く。観客たちが悲鳴を上げる。
発砲音《はっぽうおん》。
静寂《せいじゃく》。
女は微笑《ほほえ》んでいる。その開いた口の中にあるものに、観客が声を上げる、
真っ白な歯と歯のあいだに、弾丸《だんがん》が噛《か》まれている。扇情的《せんじょうてき》に開かれた真っ赤な唇から、それがぽとりと舞台に落ちる。女は一礼して、下がる。
観客は拍手《はくしゅ》する。
「つぎは〈フェル姉妹《しまい》のシスターズ・キャビネット〉の時間です……!」
院長が叫ぶ。観客はまた、拍手をする。人が何人も入れるような、横長の古びた大きなキャビネットが運び込まれてくる。
「なんだろうね?」
一弥がつぶやくと、ヴィクトリカがトランクの上で、眠たげな小鳥のように首をかしげた。
老いた修道女が二人、進み出てきた。観客はしんと静まり返った。二人は驚《おどろ》くほど似通《にかよ》っていた。雪のように真っ白な長い髪《かみ》を、一人は背中にさらさらと流し、もう一人は頭上高く、白いデコレーションケーキのように編《あ》みこんでいた。しわだらけの顔は青白くて、二人とも老女にしては大柄《おおがら》で姿勢《しせい》もよかった。よく見ると、髪をたらしたほうは青い瞳《ひとみ》で、編みこんだほうは真っ黒な瞳をしていた。
二人の老女は、震《ふる》えるしわだらけの手で黒いローブを脱《ぬ》いだ。髪と同じ、真っ白な、禁欲的《きんよくてき》に首元も足も隠《かく》した長いドレスを身につけていた。衣装《いしょう》のデザインは、髪をたらしたほうが丸襟《まるえり》に長袖《ながそで》、髪を編みこんだほうが四角い襟に丸袖と、微妙《びみょう》に変えられていた。
老女たちは丁寧《ていねい》に一礼《いちれい》をすると、海の底のような暗い青い瞳と、闇《やみ》のように真っ黒な瞳で、順番にぎろり、ぎろりと観客たちをねめつけた。そしてしゃがれた声で、白髪《はくはつ》を背中に垂《た》らしたほうが、
「姉のカーミラです」
編みこんだほうが、
「妹のモレラです」
続いて院長が二人を、不思議な力を持つ姉妹なのだと紹介《しょうかい》した。
「カーミラとモレラのフェル姉妹は、昔からこの界隈《かいわい》の村ではよく知られた、魔力を持つ家系の、さいごの生き残り。まさに最後の古き力の一端《いったん》であります。さて、これから特別にみなさまにお見せするのは、不思議な、〈フェル姉妹のシスターズ・キャビネット〉。みなさま、よぅく見ていただきたい……!」
院長がのどをからして、叫《さけ》んだ。
老姉妹が手を繋《つな》いで、踊《おど》るような足取りでキャビネットに近づいた。そして観音開《かんのんひら》きの扉《とびら》を開くと、中には、向かい合わせになった椅子《いす》が二つ、ぽつんとおかれていた。二人がそれに座ると、院長が荒縄《あらなわ》を取り出し、二人が差し出した四本の細くてしわだらけの両手をきつく結んだ。
それから、ばたんと扉を閉めた。
ほんの一瞬《いっしゅん》。
そしてすぐに、観音開きの扉を両手で開く。
観客が一斉《いっせい》に、あっと叫んだ。
ほんの一瞬のことで、中で身動きできぬほどの大きさの箱にいたというのに、二人はなぜか……左右が入れ替《か》わっていた。右にいたはずの、白髪をたらしたかミーらが、左に。左にいたはずの、白髪を結い上げたモレラが、右に。二人は観客のほうを、ギリ、ギリ、ギリ……と人形の首を動かすようにゆっくりと振《ふ》り返り、老女には似合わぬ真っ赤な口紅《くちべに》をぬった二つの口で、同時に、
ニヤリ、
と、笑ってみせた……。
観客がどよめく。
院長はまたなにごとか叫びながら、扉をバタンと閉めた。そしてまた、開く。閉めては開けるたびに二人の座る位置は入れ替わっていた。そしてそのうち、院長がキャビネットの中にラッパや笛などの楽器を放《ほう》り入れると、扉を閉めた後、中からその楽器の音が響《ひび》き始めた。しかし、開けると二人は、相変わらず四つの手首をぎゅぅっと縛《しば》られたまま、身動きできずにいる……。
観客の一人が、叫んだ。
「いんちきだ!」
一弥は振り返った。スーツを着た若い男――サイモン・ハントだった。観客たちを押《お》しのけるようにして舞台《ぶたい》に出て行くと、老女二人を指さして、
「キャビネットの中で、縄をほどいてるんだ。こんなもののどこが魔力《まりょく》だ。ただのまやかしだ。なにが古き力だ――!」
「そうお思いなら」
ふいにカーミラが、しわがれた声でつぶやいた。
サイモン・ハントがキャビネットのほうを振り返る。
老姉妹は青い瞳と真っ黒な瞳を見合わせて、順番《じゅんばん》に、早口《はやくち》で言った。
「そうお思いなら」
と、カーミラ。
「あなたも」
と、モレラ。
「この箱に入ればよい」
と、カーミラ。
「そうすれば」
と、モレラ。
「きっとわかる」
「この中で起こることが」
「科学では説明のつかぬ出来事《できごと》だということが」
「不思議な力に祝福《しゅくふく》された」
「そんな力」
「新大陸にはない」
「この古き大陸にしかない」
「失われていく、この力」
「我《われ》らの持つ、古代の力」
「それがあなたを捕《と》らえ」
「審判《しんぱん》を下《くだ》すでしょう」
「……さぁ」
と、モレラ。
「……お入りなさい」
と、カーミラ。
「若者よ」
と、モレラ。
「恐《おそ》れることはない」
と、カーミラ。
「あなたが」
と、今度は、二人で、その青と黒の瞳を見開いて。
「後ろ暗いところのない、ただの観客であるのなら!」
サイモン・ハントがフンと鼻を鳴らした。革靴《かわぐつ》を鳴らして、〈シスターズ・キャビネット〉に近づく。
スーツの襟《えり》を直し、丁寧《ていねい》に撫《な》で付けられた短い髪に手をやって整えながら、
「う、後ろ暗いところなど、あるものか。俺はちゃんと招待状を持ってやってきたんだからな。それに、こんな茶番《ちゃばん》は恐れないぞ」
「あの、その、では……」
院長があわてたように、老姉妹《ろうしまい》を一度、キャビネットから出した。二人をしばった荒縄をといて、それから、妹のモレラと若いサイモン・ハントをキャビネットに入れて座《すわ》らせる。二人の、若い男のごつごつとした手首と、痩《や》せた老女のしわだらけの手首を、ぎゅうっと結ぶ。
カーミラがまた、
――ニヤリ、
と、笑う。
そして院長が最初のパフォーマンスで使った派手《はで》な飾《かざ》りつきのサーベルを、縛られた二人の手首の上にそうっと載《の》せる。サイモンの横顔が少しだけこわばる。カーミラが、
「手首の縄がとけていない証拠《しょうこ》となりましょう。このサーベルが床《ゆか》に落ちていなければ」
「まぁ、そうだな」
「さよなら、若者よ」
カーミラはそうつぶやくと、院長と二人で、観音開きの扉をばたんと閉めた。
ほどなく、キャビネットの中から、この世の終わりのような、男の叫び声が聞こえた。院長はビックリしたように飛び上がった。カーミラも驚《おどろ》いたように肩《かた》を震《ふる》わせた。
どうしたのだろう、というように二人が顔を見合わせている。
キャビネットの中から響く悲鳴は、長く続いた。そしてだんだん細く、甲高《かんだか》くなっていった。観客はみんな、硬直《こうちょく》して、なにごとだろうと舞台を見つめている。
まだ、出し物の途中《とちゅう》なのだという空気が修道院の前庭《まえにわ》を覆《おお》い尽《つ》くしている。
その様子を見ていた一弥は、ハッとわれに返った。舞台に向かって走りよる。同時に修道士イアーゴもまた、なにか祈《いの》りの言葉をつぶやきながら、舞台に近づいてきた。扉を開けようとする一弥を、院長が止めた。修道士イアーゴも遅《おく》れて舞台に上がってきて、扉を開けるようにという。院長が戸惑《とまど》いながらも、キャビネットのほうを振り返ったとき。
キャビネットの下、扉の隙間《すきま》から、たらたらと、真っ赤な血が流れ出てきた。
観客は、まだこの夜会の演出なのだと歓声《かんせい》を上げるものと、低い悲鳴を漏《も》らすものが半々だった。続いて、キャビネットの中から、老女の細い悲鳴が聴《き》こえてきた。途端《とたん》に、外にいたカーミラが、白い長い髪《かみ》を振り乱《みだ》してキャビネットに飛びついた。さきほどまでの芝居《しばい》がかったしゃべり方は消えて、ごく普通《ふつう》の、老いた、しゃがれた声で、
「モレラ? モレラ! どうしたの、おねえちゃんはここよ! モレラ、モレラッ!」
返事はない。
ただ、細い悲鳴だけがずっと続いている。
カーミラが細いしわだらけの手を伸ばして、キャビネットの扉をあけようとした。重たくてなかなか開けられない。一弥が手を貸して、二人で、観音開きの扉をえいやっとあけた。
キャビネットの中は……。
血の海だった。
真っ赤な鮮血《せんけつ》が、バケツでぶちまけたようにキャビネットの中を染め変えていた。生臭《なまぐさ》い匂《にお》いがドッとあふれ出してくる。椅子《いす》の右側には、血まみれで、暗い青い瞳《ひとみ》を見開いて、細く叫《さけ》び続ける老女が座《すわ》っていた。真っ白なドレスは血の色に染まり、結い上げた白髪《はくはつ》も、しわに覆われた青白い肌《はだ》もまた、血まみれでどろどろと汚《よご》れていた。
左側の椅子には、サイモン・ハントがものいわぬ様子で座っていた。
恐怖《きょうふ》に見開かれた瞳。唇《くちびる》は叫び声のまま凍《こお》りつき、その顔は断末魔《だんまつま》に歪《ゆが》んでいる。
血まみれのスーツから、ぽたぽたと雫《しずく》が垂《た》れ落ちている。
サイモン・ハントの死体と、返り血に染まる老女モレラは、相変わらず、四本の手首をがっちりと荒縄で縛られたままだった。そしてその手首を上に載せられていたはずの派手な飾りつきのサーベルは……。
サイモン・ハントの胸に深々《ふかぶか》と突《つ》き刺《さ》さっていた。
観客の女たちが、つぎつぎに卒倒《そっとう》した。踊《おど》り子の少女たちが、今夜初めて、本当の、恐怖に凍る悲鳴を上げ始めた。
カーミラが震え声で妹の名を呼んだ。老いた妹は一度、大きく息を吸った。それから、まるでこどものような声で一言、姉の名を呼んだ。
「おねえ、ちゃん……!」
それから白目《しろめ》をむいて、ごとん、とキャビネットの外に向けて横倒《よこだお》しに、卒倒した。
モレラのやせ細ったからだに引っ張られるように、サイモン・ハントのがっしりとした死体もまた、縛られた手首から、がたがたっと音を立ててキャビネットから転がり出し、血の海となった舞台にごろりと転がり落ちてきた。
遠くでまた、ゴロゴロゴロ――ッと、雷鳴《らいめい》が轟《とどろ》いた。
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霊界ラジオ ―wiretap radio 2―
ガーッ。
ピピ、ピ、ピピ……。
ガガガガガガガガガガガッ。
〈死、んだ〉
〈スパイが、死、んだ〉
〈カーミラとモレラが、殺しタ〉
「計画通りかね?」
「ええ、もちろん」
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黒死病の仮面
[#地付き]――十四世紀初頭〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉
城は凪《な》いでいた。
紫色《むらさきいろ》に染まる海に囲《かこ》まれた、その石でできた巨大《きょだい》な迷宮《めいきゅう》は、その朝もまた静かにただ、白い砂浜《すなはま》の上に建っていた。
夜になると満潮《まんちょう》となり、この砂浜には水が満ちる。いまは朝の光を浴びて、海水の足跡《あしあと》のように残した貝殻《かいがら》や緑色の海草《かいそう》がきらきらと輝《かがや》いている。だが夜は、満ちた水が寄せては返す暗闇《くらやみ》の世界となる。
不吉な蠅《はえ》の頭蓋の如《ごと》き巨大な城は、引いていった水のきらめきをまだ表面に残し、朝陽《あさひ》に眩《まぶ》しく照らされていた。その内部は迷宮の形につくられていた。ぐるぐると少しずつ上へ上へ続いていく廊下《ろうか》には、満潮のあいだは水が満ち、もっとも上にあるいくつかの部屋以外は海の中に消えるかたちになっていた。朝であるいまは、引いたばかりの海水の気配《けはい》が、潮《しお》の匂《にお》いや、壁《かべ》やドアからぽたぽたと落ちる水滴《すいてき》となってまだ残っていた。
近くの村からやってきた召使《めしつかい》たちが、粛々《しゅくしゅく》とした様子で、城に入っていく。その顔も暗い。イタリアの地で発生した黒死病《こくしびょう》がヨーロッパを覆《おお》いつくし、この東側の小国をも汚染《おせん》してから、もう何年もが経《た》っていた。親を亡《な》くし、兄弟を、こどもを亡くした人々は、この城に隠《かく》れ住む一人の男の世話《せわ》をするために、今朝もまたやってくるしかなかったのだ。
この国の王。
一人のか弱き青年を。
そしてその成年は、迷宮のもっとも奥《おく》の部屋、窓もなくドアも小さな、大人にはなかなか通れないほど小さなものしかない暗い部屋で、今朝もまた、黒死病の化身であるとされる、黒衣の男に見つけられるのを恐《おそ》れていた。震《ふる》え、怒《いか》り、ただ、己《おのれ》の命のことだけを考えて過ごしていた。
そのあいだに、この国の多くの名も無き人々が、死んでいった。
彼らを守るべき国王の欺瞞《ぎまん》のために。保身《ほしん》のために。
国王はまだ二十|歳《さい》の若者だった。彼に分別《ふんべつ》を、責任を説《と》くべき年長者たちは先に病魔《びょうま》に倒れた。彼にできるのは脅《おび》えることだけ、逃《に》げることだけだった。そして、黒死病から逃《のが》れるために海の中に迷宮を建設させ、そこに隠れたのだ。国中が死に満ちていく、そのときに。
そして、その朝。
貝殻と海草、そして白い砂がきらめく中を、ゆっくりと、その城に向かって歩いてくるものがあった。ゆっくりと、ゆっくりと。黒いコートの裾《すそ》が、朝のさわやかな風に揺《ゆ》られて、ぶわっ……と舞《ま》い上がった。まぶかにかぶったフードによって、その男の顔は見えなかった。ただ、ずいぶんと大柄《おおがら》なことだけは見て取れた。山のように大きな、黒衣の男……。
男は歩き、城に近づいていった。
召使たちが働く手を止め、男を見た。
男は伏《ふ》し目がちにしたまま、ゆっくりと、彼らの前を通り過ぎた。
召使たちはなにも言わなかった。男に道を開けた。
誰《だれ》も、止めなかった。
目を伏せてただ、城に入っていく男の後ろ姿を見送っていた。
男の歩いた砂浜には点々と、赤黒い、濁《にご》った血が垂《た》れていた。男の命がもう長くはないことを示すほど多くの血が。男のコートがまた風になびいた。
コートの下で、男が握《にぎ》りしめている長剣《ちょうけん》が、朝の日射しをきらりと照り返した。
召使たちは黙《だま》って男に目礼《もくれい》した。それから震えながら、何度も、胸の前で十字を切った。
迷宮のもっとも奥の部屋。
日の射《さ》さぬそこで、朝がきたのも知らず、布にくるまって若き国王は震えていた。ほっそりとした柳腰《やなぎごし》の男だった。ふいにドアが開き、からだをかがめて、黒衣の大男が入ってきた。
「だれ?」
いまだ少女の如《ごと》きか細い声で、国王が聞いた。
黒衣の男は、低い、くるしげな声で言った。
「おまえの魂《たましい》を救いにきたものだ。恐《おそ》れるでない」
「その、声は!」
国王は震えながら立ち上がった。
立ち上がっても、国王と黒衣の男の身の丈《たけ》は、こどもと大人と言うほどにちがった。黒衣の男はゆっくりとフードを取ってみせた。
黒い斑点《はんてん》に覆われ、瞳《ひとみ》ばかりが大きく見開かれた、その不吉な顔。
もとは人間であったことが信じられぬほどの、醜《みにく》い変貌《へんぼう》。
そう、まるで、蠅《はえ》の頭のような、恐ろしい――。
「――侯《こう》!」
国王はふいに、その大男の名を呼んだ。男はうなずいた。
「若者よ、愚《おろ》かな国王よ。汝《なんじ》は、この国の主として幼《おさな》きころから栄華《えいが》の限りを尽《つ》くした。しかし、その栄華には王者としての義務《ぎむ》がつきまとうことを汝に誰も教えなかったものと見える。この黒死病が国土を覆い、民《たみ》が国王の力を必要としておるとき、それゆえ、汝は逃げたのだ」
「しかし、しかし……わたしは」
「我《わ》が妻は苦しみの中、死んだ。幼き娘《むすめ》も然《しか》り。そしてわたしもまた、もう……」
大男は、瞳を見開いた。顔のあちこちの黒点から、血が滲《にじ》み出してくる。大きく開かれた両の瞳からも、赤黒い血がたらたらと、悲しみと怒りに濁《にご》った色で床《ゆか》まで流れ落ちていく。
「くるな、――侯! それ以上、わたしに近づくな!」
「わたしは汝を救いにきたのだ。愚《おろ》かなりし、その未熟《みじゅく》な魂を。一人の年長者として。かけがえのない家族を失った一人の、汝の国民として」
「どうしてここまでこれたのだ。召使たちはどうした?」
「誰もわたしを止めなかった。みな、同じ気持ちだ。責任を放棄《ほうき》し一人ここに籠《こも》った汝は、もはや国王ではない。さぁ……」
大男は長剣をかまえると、国王に近づいた。国王は魅入《みい》られたように動かない。長剣は柔《やわ》らかいものを斬《き》るようにやすやすと、国王の痩《や》せたからだを貫《つらぬ》いて背中から顔を出した。
鮮血《せんけつ》が滴《したた》る。
大男の口からも、どばっと赤黒い血があふれだす。
カッと目を見開き、赤い涙《なみだ》を流しながらなにか言おうとして、とつぜんに、何者かに命を断《た》ち切られたかのように事切れる。国王は胸に長剣を刺《さ》されたまま、倒《たお》れてきた大男の下敷《したじ》きになり、冷たい床に崩《くず》れ落ちる。国王の青白い唇《くちびる》からも血が流れ出る。断末魔《だんまつま》の中、小声でつぶやく。
「死にたくない」
声が震える。
「生き延《の》びたくて、ここにきたのに。わたしの魂は救われぬ。救われぬぞ、――侯よ!」
からだが痙攣《けいれん》する。
「の、呪《のろ》われ、ろ」
血を吐《は》きながら、叫《さけ》ぶ。
「呪《のろ》われてしま、え。この、城。ここにくるものは不吉な死の仮面に脅《おび》えるが、よ、い。未来|永劫《えいごう》、呪われるのだ。たとえ何百年が経《た》とうとも、この場所には、繰《く》り、かえ、し……」
国王はなにかつぶやきかけ、唇を震わせた。
「死、を……!」
そしてゆっくりと瞳を閉じた。
それは、いまと同じこの場所。
しかし、遥《はる》か遥かむかしのできごと――。
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第五章 ドーナツは回りがふちでできた穴
修道院《しゅうどういん》の前庭《まえにわ》はしんと静まり返っていた。とつぜんキャビネットから転《ころ》がりだした死体に、観客《かんきゃく》たちは声も立てずにただ、立ち尽《つ》くしていた。
遠くで雷鳴《らいめい》が轟《とどろ》いた。雨雲《あまぐも》が近づいてきているらしい。暮《く》れていく夜空に、群青色《ぐんじょういろ》の雲がゆっくりと拡がりつつあった。
白髪《はくはつ》を地面に散《ち》らして、老女カーミラが、血に染まる妹を抱《だ》き起こしていた。院長はハッと我《われ》に返り、懐《ふところ》から取り出した小型ナイフで、モレラとサイモン・ハントの死体を縛《しば》っていた荒縄《あらなわ》を切った。
モレラは腰《こし》を抜《ぬ》かしたように地面をはって、少しでも死体から遠ざかろうとした。声にならない悲鳴を上げて、何度か、溺《おぼ》れる人のように息を吸《す》い、吐《は》き、それから黒い瞳をくるりと反転《はんてん》させたように白目《しろめ》を向き、その場に倒《たお》れた。
しわだらけのその顔に、ぽつん、と雨粒《あまつぶ》が一滴《いってき》、落ちる。
サァァァァァァァァ……と静かな音を立てて、雨が降り始める。
また雷鳴が響《ひび》く。
観客はその冷たい雨にわれに返らされたかのように、今さら、悲鳴をあげ始めた。修道院の中へ我先《われさき》にと駆《か》け出していく。サイモン・ハントの死体もまた雨に濡《ぬ》れ始めた。誰《だれ》かが、
「警察《けいさつ》を呼べ、警察を!」
「電話はあるのかね、ここには?」
男たちが死体に布をかけ、修道院の中へ運び込み始めた。
一弥はトランクの上に座《すわ》らせていたヴィクトリカに駆け寄ると、守るようにその前に立った。と、頭頂部《とうちょうぶ》を乱暴《らんぼう》につつかれた。
「な、なに、ヴィクトリカ? いまは非常事態《ひじょうじたい》だから、おとなしく、して、て……」
「久城《くじょう》。君、息をするな」
「うん、わかった。息はしない……って、いやいや、死んじゃうよ。息はするだろ。なんなんだよ君は、ヴィクトリカ」
頭上から聞こえてくる低いしゃがれ声に、一弥はあきれて、ヴィクトリカの顔を見上げた。と、その顔はいつになく真剣《しんけん》で、緑色の瞳が静かに一弥を見下ろしていた。
一弥が気になってじっと見つめ返すと、ヴィクトリカはついっと視線を外《はず》した。それから、白い煙《けむり》が上がっているほうを指さして、
「あの煙をなるべく吸《す》うな、という意味なのだよ。君」
「煙? あの、スクリーン代わりにずっと使われていた、白い煙かい? とくに匂《にお》いとかはないようだけれど……」
「周りを見たまえ、久城」
言われて一弥は、辺りを見回した。
死体を見て悲鳴を上げている女たちや、怒号《どごう》を上げる紳士《しんし》。みな、瞳をぎらぎらとさせて異様《いよう》な様子だった。失神《しっしん》する少女や、その場にへなへなと崩《くず》れ落ちる若い男もいた。
一弥はそっと、煙のあがっているほうを見た。サァァァァァァァ……とつめたい雨が降ってきて、その煙を少しずつ消していった。暗い夜空が覆《おお》い尽《つ》くしていく。
「どういうこと、ヴィクトリ、カ……。うわぁぁぁぁ、君!」
トランクの上から自分を見下ろしているヴィクトリカのほうを振《ふ》り返って、質問しようとした一弥は、つぎの瞬間《しゅんかん》に叫《さけ》び声を上げた。ヴィクトリカが冷たい緑色の瞳でギロリと一弥をねめつけると、えらそうな口調《くちょう》で、ゆっくり、
「君、本当に、気をつけ、たま、え……」
つぶやきながら、真横《まよこ》にぐらりと揺《ゆ》れて、地面に向かって落っこちてきたのだ。一弥はあわててヴィクトリカと地面のあいだに滑《すべ》り込んで、自分はつぶされながらも、なんとかヴィクトリカを受け止めた。
「ちょっと、君? ふざけてないで……。おい、ヴィクトリカ? ね、どうしたの?」
「むぅ……」
ヴィクトリカは一弥の腕《うで》の中でぐんにゃりとしていた。油断《ゆだん》しているときの仔猫《こねこ》のように、骨のないぐにゃぐにゃな様相《ようそう》だった。一弥があわててゆさゆさ揺すっていると、
「煙を、吸うな、君……」
「あの煙が、いったい……?」
一弥は振り向いた。
頭の中、白い煙はいまやほとんど消えそうだった。一弥はヴィクトリカを支えて、トランクもひきずって、修道院の中に避難《ひなん》することにした。
「久城、久城」
一弥に支えられて修道院の中に戻《もど》ったヴィクトリカが、銀色のブーツのさきっちょで一弥のふくらはぎを後ろから弱々しく蹴飛《けと》ばしながら、声をかけた。
「名前を呼ぶだけで振り向くから、蹴るのはやめてよ」
ヴィクトリカは一瞬、むっとしたように黙《だま》った。それから、返事の代わりにまた、こつんと一回、蹴飛ばした。
「君ねぇ」
「わたしから……離《はな》れるな。久城」
「…………」
「なぜなら、危《あぶ》ないから、だ……」
一弥は言いかけていた文句《もんく》の言葉を呑《の》み込んだ。
小さな、自分の胸かおなかの辺りまでしかない、フリルでふくらんだヴィクトリカを見下ろす。ちょっとかがんで、そのきらきらした緑の瞳《ひとみ》と、薔薇色《ばらいろ》のほっぺたと、さくらんぼみたいなお口がそろった小さな顔を覗《のぞ》き込《こ》んで、たずねる。
「どういうこと? さっきの殺人事件のこととか、煙のこととか、この妙《みょう》な場所のこととか……ヴィクトリカ、君、なにかがわかっているのかい?」
「ふん」
答える代わりに、ヴィクトリカは鼻を鳴らした。
「あのねぇ、君」
「……この修道院には、過去から続くとある対立構造《たいりつこうぞう》がある。あの殺人事件もまた然《しか》りだ」
「そういえば、あの男の人……」
一弥は思い出して、ヴィクトリカとトランクを引っ張ってまた歩き出しながら、説明した。
「くる途中《とちゅう》の列車の中で、彼と話をしたんだよ。……そしたら彼は、この修道院にあるといわれてる魔力《まりょく》とか夜会《やかい》のことを、いんちきだって言ってた。そういういんちきを暴《あば》くのが自分の仕事だって。たしか、役人だと言っていたよ」
「ふむ、なるほど、な……」
「ヴィクトリカ……?」
それきりヴィクトリカはなにも答えなかった。
二人は修道院の中にあるいくつもの小部屋の一つに入っていった。観客たちはそれぞれ、いくつかの部屋に分かれて、室内に逃《に》げ込んでいた。
一弥は部屋の隅《すみ》にトランクを横に倒しておいて、上着《うわぎ》をかけて、その上にぐにゃんとなっている小さなヴィクトリカをそっと置いた。ヴィクトリカは壁《かべ》にもたれてぐにゃぐにゃの様子で、えらそうに、
「危ないから離《はな》れるなよ、久、城……」
「こっちの台詞《せりふ》だよ、ヴィクトリカ。君、いったいどうしちゃったんだよ。なんだか不気味《ぶきみ》にぐにゃぐにゃしてるけど」
「あの煙にはおかしな成分《せいぶん》が入っていた。麻薬《まやく》に近いものだ」
ヴィクトリカがゆっくりと言った。
「麻薬?」
「そうだ。おそらく、夜会で見せる魔術を観客に本物だと思い込ませるために炊《た》いていたのだろう。見たまえ、ほかの大人たちを」
言われて一弥は、辺りを見回した。部屋の中にいる客たちはかんしゃくを起こし、互《たが》いに言い争い、ある者は泣き……。頭が痛いと座り込んでいるものもいた。どこかおかしな、不安定な様子だった。ヴィクトリカはぐにゃんぐにゃんしながらもあくまでもえらそうに、
「言語化《げんごか》してやるとだね、久城。愚《おろ》かなことに、みんな、あの煙を吸ってしまったのだよ」
「君もだろ、ヴィクトリカ」
「むっ……」
ヴィクトリカはこぶしを振り上げて振り回そうとして、トランクから転げ落ちそうになった。一弥に支えられて元に戻され、不機嫌《ふきげん》そうにほっぺたをふくらませる。きゅうっと一弥の腕《うで》をつねったので、一弥は飛び上がった。
「こらっ、ヴィクトリカ!」
「ふん」
「八つ当たりするなよ。まったく君ってこどもっぽいなぁ」
「…………」
部屋に入ってきた年配《ねんぱい》の男が、大きな声であれこれと説明し始めた。夜会が終わった頃《ころ》に迎《むか》えに来るはずの列車を待つしか方法がないこと、警察をよぼうにも、この修道院には電話などというものは設置《せっち》されていないことなどがわかった。
観客たちはどよめいて、顔を見合わせあった。
「こんなところに、夜中までいたくないわ」
と、若い女がつぶやいた。連れらしき若い男が、彼女をいさめる。
「そうは言っても、警察を呼んであれこれ騒《さわ》ぎになったら、何日も拘束《こうそく》されるかもしれないぞ」
「困るわ。こんなことに巻き込まれて……」
観客たちは興奮しながら、それぞれ、誰《だれ》がどうやってサイモン・ハントを殺したのか、なぜ彼は殺されたのか、などと話し始めた。
小さなヴィクトリカが座《すわ》っていると、巨大《きょだい》なトランクはさらに大きく見えた。一弥はその横にたって、漆黒《しっこく》の髪《かみ》をした騎士《きし》のように、ヴィクトリカの周りに目を光らせている。
「ここには、やっぱり、奇妙《きみょう》な魔力があるのかもしれない……」
客の一人である若い男がつぶやいた。ほかの観客はなんとなく、男のほうを振《ふ》り向いた。つぎの言葉を待つ。男は小さな声で、
「だって、さっきの〈シスターズ・キャビネット〉は、どう見ても不思議《ふしぎ》な現象だった。あんなに両手首をきつくしばられているのに、クルクルと入れ替《か》わるし、楽器も鳴らすし、それに……みんなが見ていた前で、あんなふうに、人が死ぬなんて」
「確かにそうだな」
べつの男がうなずいた。
「なにしろこの修道院は、あの〈落下《らっか》させる聖マリアの怪《かい》〉が起こった場所だ。夜空に浮《う》かぶ巨大なマリア像……。俺《おれ》は、実際《じっさい》にその現象を見たっていう戦闘機乗《せんとうきの》りの生き残りにあったことがあるよ。涙《なみだ》を流すあの巨大な瞳《ひとみ》の虹彩《こうさい》を見たことは、生涯《しょうがい》忘れられないってさ……。彼はあれきり、空を飛べなくなったんだ」
「ふん、くだらない」
とつぜん、しわがれた老女のような声が響《ひび》いたので、話していた大人たちが一斉《いっせい》に振り返った。声がしたほう、壁際《かべぎわ》のすみっこには、トランクにちょこんと座る小さな少女と、その傍《かたわ》らに立つ東洋人の少年しかいなかった。人々の視線はほんの一瞬《いっしゅん》、二人を見比《みくら》べた後、一弥に集中した。失礼なことを、と言いたげな顔つきで一弥を睨《にら》んでいる。
一弥はあわてて、ぼくじゃないぞというように首を振った。
となりでヴィクトリカが、またフンと鼻を鳴らした。
「そんなものには、トリックがあるに決まっている。どうしてそんな簡単《かんたん》なことが分からないのだね、君たち」
「なっ!」
大人たちは、その不思議な老女のような声が、トランクの上に鎮座《ちんざ》した赤スグリ色のドレスに銀のブーツ、赤いミニハットをかぶったこの陶人形《とうにんぎょう》のような少女から発せられたのだと気づいて、思わず声を上げた。ヴィクトリカはそんなことにはかまわず、
「ドーナツは回りがふち出てきた穴≠セということだよ、君たち。要《よう》するに、ものの捉《とら》え方の問題なのだ。くだらぬまやかしを簡単に信じてしまう君たちの心には、どんな闇《やみ》があるのだろうなぁ。おそらく、急速な近代化、科学の波によって、我々の生息《せいそく》するこの古き大陸が急速に闇を失っている。なにものかが潜《ひそ》むべき闇が人口灯に照《て》らされ、白日《はくじつ》の下《もと》にさらされていることに関係しているのではないか。とわたしは推測《すいそく》しているがね。だからこそ君たちは、スピリチュアルというまやかしに飛びついているわけだ。じつに愚《おろ》かなことだ」
「なっ! こ、この……」
「……ちょっと待て」
一人がヴィクトリカに乱暴《らんぼう》に歩み寄ろうとして、一弥が急いでヴィクトリカの前に立ちふさがったとき、べつの男がそれを止めた。
ヴィクトリカの小さな、不思議な姿を恐《おそ》ろしそうに眺《なが》めながら、
「思い出したよ。例の、有名な〈落下させる聖マリア像の怪〉が、トリックだという噂《うわさ》を聞いたことがある。あの戦争のとき、この修道院はソヴュールの科学アカデミーの要塞《ようさい》としてひそかに使われていて、そこに、一人の奇術師《きじゅつし》が呼ばれたんだ、と……」
「奇術師? どうして?」
「科学アカデミーは、トリックを使った諜報活動《ちょうほうかつどう》を計画して、当時から活躍《かつやく》していた奇術師たちに声をかけた。その中の一人が、名前は確か……ロスコー。いまでも有名な、あちこちの首都でショーをやっている人気者だ。彼には女の相棒《あいぼう》がいたはずだ。魔的《まてき》に美しく、そして驚《おどろ》くほど小さな、女の相棒だ。そう、ちょうど……」
男がヴィクトリカのほうを振り向いて、顔をしかめながら、言った。
「ちょうど、この子のように」
修道院の外では相変《あいか》わらず、暗い雨雲《あまぐも》が立ち込め、サァァァァァ……と静かな音を立てて雨が降り続いていた。薄暗《うすぐら》い廊下《ろうか》にはあまり人気《ひとけ》がなく、時折《ときおり》、開け放たれたドアの内側から、中断《ちゅうだん》された夜会について、事件について話す客たちの声が漏《も》れてくるのみだった。
一弥は一人で廊下に出て、歩き出した。一つの部屋の前で、老女カーミラがなにごとか叫《さけ》んでいるのが聞こえて、足を止めた。粗末《そまつ》な木のベッドにモレラが横たわり、うわごとをつぶやいていた。部屋の中には黒尽《くろず》くめの修道女が数人いて、心配そうにうなされるモレラを見下ろしていた。
となりの部屋には、サイモン・ハントの死体が安置《あんち》されていた。修道女たちが数人、ひざまずいて祈《いの》りを捧《ささ》げていた。黒衣《こくい》の女たちがふりかざすロザリオが、薄暗い部屋の中でときおり、きらきらと輝《かがや》いた。
廊下の途中《とちゅう》で、修道士イアーゴと、くるときの列車であった老人が立ち話をしているところに行き会った。老人が心配そうに、
「この混乱で、娘《むすめ》のことが心配なのに、みつけられなくてね。一人一人、顔を確認《かくにん》しなくてはいけないし。しかし、あんなことがあったのに、あまりうろうろするのもはばかられて……」
そうつぶやくと、大きなため息を漏《も》らした。
バチカンの修道士アミーゴは、厳《きび》しい顔つきをしていた。ため息をつきながら語った。
「わたしはおそらく、奇跡認定《きせきにんてい》を許可《きょか》することなくバチカンに戻《もど》るでしょう」
一弥は相槌《あいづち》をうった。
「そうなんですか……」
「ええ。さきほどの夜会《やかい》も、拝見《はいけん》していましたが、わたしにはどれもがトリックのある魔術、要するに、昨今《さっこん》、都会で流行《はや》っている奇術のショーのようにしか見えませんでした。まぁ、観客たちは喜んでいたようですが……」
イアーゴはため息をついた。
また歩き出そうとする一弥に、イアーゴが「そうだ」とつぶやいた。
「君、形見箱[#「形見箱」に傍点]というものを知りませんか?」
「形見箱《かたみばこ》? いいえ」
一弥は首を振った。修道士のとなりで、老人も首をかしげている。
「なんなんですか、それは?」
「いや、わたしにもわからないのです。ただ、殺された青年、サイモン・ハントが、少し漏らしていたもので。『俺はこの修道院には仕事でやってきた。俺は形見箱を探しにきたんだ』と」
「形見箱、ですか……?」
一弥は首をかしげた。
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幻灯機 ―ghost machine 3―
[#地付き]――一九一四年十二月九日〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉
くる日もくる日も怪我人《けがにん》が運ばれてきては、ある者はここで息を引き取り、ある者は命を取り留《と》めてまたどこかへ運ばれていった。
墓掘《はかほ》り職人《しょくにん》は毎朝、修道院《しゅうどういん》の裏手《うらて》にある墓地《ぼち》で、新しい墓穴《はかあな》を掘《ほ》り、年若い兵士たちを埋《う》めては、また新しい墓穴を掘った。白衣の看護婦《かんごふ》たちはまだあどけない声で、つたなく賛美歌《さんびか》を歌った。歌詞《かし》を間違《まちが》え、つっかえ、ときには暗い空気を吹《ふ》き飛ばすようにくすくす笑いあいながら。
その修道院の窓から、その日の夕刻《ゆうこく》。
ブライアン・ロスコーは窓辺《まどべ》にもたれて、どんどん増殖《ぞうしょく》していく、広がる墓地を見下《みお》ろしていた。猫《ねこ》を思わせる緑の瞳《ひとみ》は暗く翳《かげ》っていた。赤い髪《かみ》が風にあおられて、炎《ほのお》のように窓から外へ舞《ま》い上がった。
「くだらん。こんなことはすべて、くだらん」
ブライアンはつぶやいた。
「争いあうこと。殺しあうこと。しかしそれこそが……」
そこまでつぶやいて、ふと、墓地にうごめく影《かげ》に気づいて口を閉じた。じっと目を凝《こ》らす。
白髪《はくはつ》の老女が一人、祈《いの》りを捧《ささ》げていた。痩《や》せ細ったからだに、看護婦の白衣。夕刻の風に、もとは何色だったかわからない髪が、真っ白に輝いて不吉に舞い上がった。
修道院で働く看護婦の一人だ。若い娘たちが多いが、中には年配のものもいる。老女は視線に気づいたように顔を上げて、修道院を見上げた。窓辺にもたれているブライアンに気づくと、小さく会釈《えしゃく》をして立ち上がった。
ブライアンが小さく顎《あご》をひいて会釈したとき、背後《はいご》で誰かがドアをノックする音がした。ブライアンは振《ふ》り返った。
看護婦がひとり入ってきて、おそるおそる声をかけた。
「ジュピターおじさんが呼んでます」
「わかった、いま行く」
ブライアンは窓から離《はな》れて、歩きだした。
長い廊下《ろうか》を歩いていく。ぐるぐるとどこまでも。
一つの部屋の前で、ブライアンは立ち止まった。若い科学アカデミーの職員《しょくいん》たちが、何人かその部屋にいて立ち働いていた。ぜんまいや巨大《きょだい》な機械《きかい》がたくさん溢《あふ》れていて、ぎりぎりと不気味《ぶきみ》な音が響《ひび》いていた。壁掛《かべか》けの大時計が見えた。
「この部屋はなんだね?」
看護婦に聞くと、その少女は「えっと……」とつぶやいて、首をかしげた。
「確か、修道院の外にある水門《すいもん》を動かす部屋だと思います。夜になると満潮《まんちょう》になって、水門を開けたままだとほとんどの部屋が水に沈《しず》んでしまうの。最初はわざと、そういう造りにして建てられたらしいけれど。つまり、夜のあいだに侵入《しんにゅう》されないように、って」
「なるほどね」
「でもいまは、それではあまりに暮《く》らしにくいから、水門を建設したのよ。ここの部屋にある機械はぜったいに勝手《かって》に触《さわ》ってはいけないの。水門が動いてしまうから」
看護婦はそういうと、「誰も触らないですけれどね」と微笑《ほほえ》んだ。それからまた、廊下を歩き出した。
ジュピター・ロジェは、ブライアンが幻灯機《げんとうき》を運び込んだ朱色《しゅいろ》のドアの部屋で、じりじりと彼を待っていた。ブライアンがやってくるとばっと振り返り、
「ドイツ軍が侵攻《しんこう》してくる」
「……ふむ」
「空からだ。ここがただの野戦病院《やせんびょういん》でなく、ある種《しゅ》の要塞《ようさい》であるということがどこからか漏《も》れているに違《ちが》いない。敵のスパイが入り込んでいるという噂《うわさ》もある。ドイツ軍のスパイか、それとも、我《わ》が国のオカルト省《しょう》のものか……」
「なるほど、空からか。それならあれを使えばいい」
ブライアンは薄《うす》く笑った。
「あれ、とは?」
「幻灯機≠セよ。あなたがたが望んでいたのは、奇術《きじゅつ》によって工作活動をする人間だったはずだ。この機械《きかい》は、ある意味で万能《ばんのう》だ。これから始まるであろう、機械の戦争の時代にまこと、ふさわしいものだ」
ブライアンはそううそぶくと、部屋の片隅《かたすみ》に、布をかけておいてあるその機械に近づいた。さっと布を取り去る。すると、四角い、大砲《たいほう》のようなレンズを張り出させた機械、幻灯機が出てきた。ジュピターはそれを不気味そうに見つめている。
「これはいったい、どうやって使うものなのだね?」
「いうなれば、ゴースト・マシン。人工的に幽霊《ゆうれい》を作り出す機械だよ。おやおや、そんな顔をする必要はない。これは科学によって作られたシロモノなのだ。見ていたまえ」
ブライアンは部屋のドアに近づいてあけると、大声でミシェールの名前を呼んだ。遠くのドアがいくつも開いて、白衣の少女たちがつぎつぎにぴょこぴょこ顔を出した。
「ミシェールだって」
「ミシェールを呼んでる」
「赤髪のブライアンが、ミシェールを呼んでるわ」
伝言が軽《かろ》やかに伝わっていき、やがて螺旋《らせん》の廊下の向こうからぱたぱたと、当のミシェールが走ってきた。ぱっちりした黒い瞳を見開いてブライアンを見上げて、
「なぁに?」
「煙《けむり》を出したいんで、紙かなにかをたくさん持ってきてくれ」
「……そんな用で呼んだの? 忙《いそが》しいのに」
「あいにく、君の名前しか知らないんだよ」
ミシェールはなるほどとうなずいて、またどこかへ走っていった。それから紙の束《たば》をたくさん抱《かか》えて戻《もど》ってきた。
ブライアンはそれを受け取ると、ドアを閉めた。また軽い足音が、廊下を遠ざかっていった。
紙の束を部屋の隅にある暖炉《だんろ》に投げ込むと、白い煙と炎が上がった。ブライアンはすばやく幻灯機に駆《か》け寄《よ》ると、透明《とうめい》な板を機械の中に差し入れてスイッチを入れた。
ブライアンの背後で、ジュピターがあっと叫《さけ》んだ。ブライアンは薄い唇《くちびる》をゆがめ、にやり、と笑った。そしてゆっくりと振り返る。
暖炉から上がる白い煙に、ぼんやりと、聖母マリア像が浮《う》かび上がっていた。
ジュピターはからだを震《ふる》わせ、目を見開いてその情景《じょうけい》を見つめている。赤子を抱《だ》いた聖母マリア象は、長い髪を床《ゆか》まで垂《た》らし、悲しげな顔をしてこちらを見つめていた。等身《とうしん》はブライアンたちと同じぐらいで、まるでそこに本当にいるように、煙とともにのっそりと立っていた。
ジュピターは声にならない悲鳴に上げ、胸の前で何度も十字を切った。数歩、後ずさった。ブライアンがもう一枚のスライド板を機械に差し込んだ。
「うわぁぁぁぁぁ!」
ジュピターが叫んで、のけぞった。マリア像が静かに涙《なみだ》を流し始めた。壁際《かべぎわ》まで下がって、ジュピターはブライアンのほうを振り返った。
「なんだね、これはっ?」
「だから、幽霊さ。この機械がつくったんだ。さて、と」
暖炉で紙束が燃え尽《つ》き、白い煙が次第《しだい》に減《へ》っていく。それとともにマリア像も消えていき、頭部が、胸が、腰《こし》の辺りまでかき消されて足だけになり、やがて、消えた。
ブライアンはにやにや笑っている。
「おどろくようなことじゃない。これが幻灯機の使用法だ。このスライド版に描《えが》かれた絵を、このレンズ越《ご》しに、煙に向かって映写《えいしゃ》したのだ。ほら」
スライド版を差し出されたジュピターは、ようやくからだの震えをとめて、覗《のぞ》き込む。
その透明《とうめい》な板には、さきほど見たマリア像が描かれていた。寸分《すんぶん》ちがわぬ、その姿。続いて差し出されたもう一枚の板には、涙だけが描かれていた。
「これを、映写……」
「そうだ。これは奇術師たちのあいだで流行っている機械で、これによって舞台《ぶたい》に、踊《おど》る骸骨《がいこつ》や巨大な人間の頭部、さまよえる幽霊を出現《しゅつげん》させるのさ。これはいまはまだ珍《めずら》しい奇術だが、この後、おそらく技術も発展《はってん》し、人々はこれに飛びつき……。すぐに、めずらしくもなんともないものになるだろう」
「まさか……」
「絵が動くようになったり、声もつけられるようになって、人々の娯楽《ごらく》になっていく。君たちが世界の発展のために、国のためにと主張する科学という新しき力は、この先、争い事だけではなく、なにより人々の娯楽のために使われることとなるだろう。いま、貴族《きぞく》だけの特権《とっけん》である娯楽のための生活は、庶民《しょみん》のものとなり、そのとき科学は彼らに、貴族の如《ごと》き快楽《かいらく》と、同等《どうとう》の、死にも近い退屈《たいくつ》をもたらすことだろう。その、娯楽のための科学、庶民の生活のための科学の、最初の一歩こそがこの幻灯機だ。と俺は予感《よかん》しているのだがね。まぁ、未来にいってみなければわからないが」
ブライアンはくすくすと笑った。ジュピターはまだ合点《がてん》がいかないというように、首をひねっている。
「しかし、君。この機械――君のいう娯楽のための科学、ゴースト・マシンを、この戦争において、いったいどうするつもりなのだね?」
「ついさっきのあんたの驚《おどろ》き方を見れば、わかると思うがね。ジュピター・ロジェ」
ブライアンは笑った。そして人差し指で天井《てんじょう》を指差《ゆびさ》すと、猫のような、つりあがった緑の瞳を輝《かがや》かせた。
「ドイツ軍は、空からやってくる」
「あぁ、そういう情報だ。だが」
「夜空にゴーストを出現させる」
「なっ……」
「われわれは偉大《いだい》な母、マリアに弱い。母を泣かせることは、ドイツの若者たちにとっても平静《へいせい》ではいられぬことだろう。殺しあうために夜空を飛んできたとあっては、さらにね。なにしろ我々は、科学の時代になりつつあるとはいえ、信心深《しんじんぶか》い、古き大陸の古き男たちだ」
ブライアンはにやにやと笑い続けている。それを見つめるジュピター・ロジェの顔には恐怖《きょうふ》と嫌悪《けんお》が浮かび始めている。
「神を騙《かた》るとは、しかし」
「君もまた信心深い、古き大陸の人間と見える。神などいないのだよ、最初から。いればこのようなおおがかりな戦争など起こるはずがない。新時代、新しい大陸の新しい人々は神など信じず、君たちよりずっと、合理主義的に、享楽的《きょうらくてき》に、そして刹那的《せつなてき》で無意味に生きていくと思うがね」
「なぜ、そう……」
「灰色狼《はいいろおおかみ》は、その知恵《ちえ》によって、来るべき暗い未来を見抜《みぬ》けることがあるのだ。だからこそオカルト省もその力をほしがった。例の小さな、生まれたての仔狼はそのことを自覚《じかく》してはいないと思うがね。ごく一部の、都市に逃《のが》れた狼たちも然《しか》りだが。さて、ジュピター、どうする? 君はこの切り札を使うかね? 神を信じる心と引き換《か》えに、ドイツ軍から君たちを守ることになるだろう。〈滂沱《ぼうだ》の聖母マリア作戦〉だ。さて、どうする?」
ジュピターは脅《おび》えきったようにブライアンを見つめていた。この数分間でジュピターはいくつも歳《とし》をとったように見えた。唇《くちびる》が震えていた。
窓の外で日が暮れてきた。
やがて、ジュピターは蒼白《そうはく》の顔でゆっくりとうなずいた。
「やってくれ」
ジュピターが青白い顔で出ていき、ブライアンは幻灯機の部屋に一人、残された。暗い部屋は、橙色《だいだいいろ》をした暖炉の火がわずかに照らすばかりだった。その複雑《ふくざつ》きわまる機械をブライアンは注意深く点検《てんけん》し、目盛《めも》りを動かし、テストを繰《く》り返した。
夜半を過ぎたころ。
ブライアンが機械にもたれてうとうとと眠《ねむ》っていると、音もなく、朱色《しゅいろ》のドアが開いた。誰かがひっそりと部屋に入ってくる気配《けはい》がした。ブライアンはそっと薄目《うすめ》を開けた。
暖炉の火が消えかけていた。ぱちぱちとかすかな音を立てて揺らめいていた。その頼《たよ》りない橙色の光に、闖入者《ちんにゅうしゃ》の着る白衣が照らされていた。長い髪《かみ》がゆらめいているのも見えた。
ブライアンは薄目を開けたまま、それを見ていた。
闖入者の、大きな青い瞳《ひとみ》が、見開かれた。
細い両手で握《にぎ》りしめた短刀《たんとう》が、ぎらり、と輝いた。
ブライアンはすばやく立ち上がり、女の手をはらった。短《みじか》い悲鳴が聞こえた。女はよろめいたが、手から短刀を離《はな》そうとはしなかった。ブライアンに腕《うで》をつかまれて、刃物《はもの》を振《ふ》り回す。その切っ先が女の頬《ほお》に当たり、サッと一筋《ひとすじ》、傷のラインが浮かび上がった。たらり、と赤い血が流れた。
女――ミシェールが短く悲鳴を上げた。
ブライアンがつぶやく。
「おまえが、ジュピターが案《あん》じていたオカルト省のスパイなのか? この戦争によって、科学アカデミーに活躍《かつやく》させまいということか……? しかし、意外だな。君はずいぶんに意外な人物だ。だって君は、スパイという年齢《ねんれい》では……」
「は、離して!」
「ふん、離したところで、どこへも逃《に》げられまい」
ブライアンが一瞬《いっしゅん》、手を離すと、ミシェールは敏捷《びんしょう》な獣《けもの》のような動きで走り出した。ドアを開け、廊下《ろうか》に飛び出す。
ちっと舌打《したう》ちをして、ブライアンは後《あと》を追《お》った。
廊下に出て、後を追う。遠くでドアの閉まる音がする。ブライアンはこのドアかとあたりをつけて、一つのドアを思い切りあけた。
そこは病室《びょうしつ》だった。
たくさんの怪我人《けがにん》が、粗末《そまつ》なベッドにひしめいていた。血と、薬品《やくひん》の入《い》り混《ま》じった不吉《ふきつ》な匂《にお》い。ブライアンは顔をしかめた。白衣《しろい》の看護婦《かんごふ》たちが忙《いそが》しく立ち働いていた。
顔に包帯《ほうたい》を巻いた少年が、いちばん奥《おく》のベッドに寝《ね》かされていた。少年は傍《かたわ》らに座《すわ》る看護婦の手を握《にぎ》りしめていた。その看護婦が、ドアが開く乱暴《らんぼう》な音に驚《おどろ》いたように、一瞬|遅《おく》れて、顔を上げた。
ブライアンとみつめあう。
かすかに、にっこり微笑《ほほえ》む。
ブライアンは口をあけてなにか言おうとして、また口を閉じた。
その看護婦は……ミシェールだった。
長い髪をたらして、ばっちりした黒い瞳でこちらをみつめている。どうかしたの、と問いたげに首を少しかしげる。
「ミシェール……」
ブライアンはかすれ声で、聞く。
「君、いま、俺を……」
「どうしたの、ブライアン?」
「君、俺の部屋に……」
ベッドのあいだにあるせまい通路《つうろ》をふらふらと歩いて、ミシェールに近づいていく。怪我人のうめき声。忙しそうに歩き回る看護婦たち。近づいていくにつれ、おかしなことにブライアンは気づいた。
ミシェールは片手を怪我人に握りしめられている。その怪我人の少年は顔にぐるぐると包帯を巻いて、閉じた瞳と小さな耳しか見えない。ミシェールはもう片方の手で小さな本を持っている。ハイネの詩集《ししゅう》だ。そして、その青白い頬《ほお》には……。
「どういうことだ?」
ブライアンは思わず声に出した。病室のざわめきがしんとして、みんな、ブライアンのほうを振り返る。怪我人と、看護婦。あふれる少年と少女たちと、むせ返るような、血と薬品の匂い。
「いったいどうしたの、ブライアン?」
「君は、なぜ……」
ブライアンは震《ふる》える指《ゆび》で、ミシェールの頬を指さした。傷一つない、その頬を。
「なぜ怪我をしていないんだ? たったいま、その頬につけたはずの傷口《きずぐち》がもうふさがっている。しかしあれは、たったいまのことだ。なぜ傷口がすぐにふさがったんだ? 普通《ふつう》なら数週間《すうしゅうかん》は残《のこ》る傷だ。大きく切れて、血が流れていた。ミシェール……君はいったい何者だ? その年齢《ねんれい》で、オカルト省のスパイということは……」
「なんのこと、ブライアン?」
「それはいったいなんだ。恐《おそ》ろしい回復力《かいふくりょく》。人間とは思えぬ。それもまた古き力なのか? どういうことだ……。君はいったい何者なんだ? 答えろ、ミシェール!」
「いったい……?」
「君はついさっき、俺の部屋で……」
「えっと……」
ミシェールは困《こま》ったように首をかしげた。ほかの看護婦も集まってくる。口々に、
「あら、ミシェールはずっとこの病室にいたわ」
「もう一時間以上、ずっとよ」
「だって、この人が手を離《はな》さないんですもの」
「ミシェールはずっとここにいたわ」
ブライアンは眉《まゆ》をひそめ、その様子《ようす》を眺《なが》め渡《わた》していた。彼女の手を握る病人も、かすかな声で、
「ずっと一緒《いっしょ》だった。あなたは、なにか勘違《かんちが》いしてるんだよ」
ブライアンはミシェールの顔を見下ろした。彼女は弱々しく微笑んで、
「わたし、ずっとここにいたわ。ハイネの詩を読んでたの。この人が聴《き》きたいといったので」
そうつぶやくと、ハイネの詩の一節を、無邪気《むじゃき》な声で朗読《ろうどく》してみせた。
「青き両《ふた》つの君が眼《め》は わがまなかいに漂《ただよ》いて――
濃青《こあお》の夢の生みとなり わが心にぞ打寄《うちよ》する=v
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第六章 螺旋《らせん》の迷宮《めいきゅう》と形見箱《かたみばこ》
修道院《しゅうどういん》の外では相変《あいか》わらず、雨が降り続いていた。水門の向こうから、波が寄せては返す音も遠く聞こえてくる。それにかぶさるように、サァァァァァッ……と雨音《あまおと》もかすかに響《ひび》く。
一弥《かずや》とヴィクトリカは観客たちが座《すわ》り込《こ》んだり叫《さけ》んだりしている部屋の隅《すみ》で、二人でトランクの上に座っていた。一弥は熱心に、ここにくる途中《とちゅう》の列車内での話や、廊下《ろうか》で修道士《しゅうどうし》と会った話などをヴィクトリカに聞かせている。
「イアーゴさんは、この修道院の夜会《やかい》は魔術《まじゅつ》によるものではないと思うって言ってたよ。奇跡認定《きせきにんてい》は受けられないって。それから彼は、殺されたサイモンさんが、『形見箱を探しにきたんだ』っていっていたのを聞いたと話していたけど」
「うむ……」
ヴィクトリカは心ここにあらずでうなずいていた。さっきの煙《けむり》のせいか、相変わらず仔猫《こねこ》のようにぐにゃぐにゃした様子でトランクの上に座り込んでいる。銀色のブーツを履《は》いた折《お》れそうにほっそりした両足を胸《むね》に引き寄せて、ちっちゃく丸まっている。
一弥はそんなヴィクトリカの顔をとなりから覗《のぞ》き込んで、
「いったい、形見箱ってなんだろう?」
「さてね」
ヴィクトリカは首を振《ふ》った。金色の、ほどけたターバンのような髪《かみ》が、おくれて左右《さゆう》にサラサラと揺《ゆ》れた。上質な絹《きぬ》のような、なめらかな動きだった。
それを台無《だいな》しにするように、ぷくっとしたほっぺたをさらにふくらませて、
「なんでもかんでもわたしに聞くな」
「あ、ごめんごめん。わかんないんだね。ヴィクトリカでもわからないことがあるんだねぇ」
「……むっ?」
ヴィクトリカはむっとした。むきになり、しわがれ声を張《は》り上《あ》げる。
「わからないのではない。君、失礼なことを言うな。ただ、混沌《カオス》の欠片《かけら》がまだまったくそろっていないのだ。ただ、だね……」
「いいわけするなってぼくは兄貴《あにき》に、こどものころからよく叱《しか》られたもんだけどね。君もいかにも、ぼくの長兄《ちょうけい》に叱られそうな子だけど……。なに? ただ、なに?」
「……もう教えない。なぜなら、わたしはちょっとばかり気分を害《がい》したからだ」
「けちー」
「むっ!?」
ヴィクトリカはぷいっと横を向いた。そのままぐにゃんと座り込んでじっとしていた。だがしばらくすると、黙《だま》って自分の横顔を見ている一弥の視線に根負《こんま》けするように、
「ええい、しつこいやつだ」
「なんだよ。ただ、見てただけだろ」
「つまりだな、久城《くじょう》。この件には、我々にはわからない過去、因縁《いんねん》めいた過去の人々の関係性が関《かか》わっていると、知恵《ちえ》の泉《いずみ》がわたしにささやくのだ。気をつけろと。わたしには謎《なぞ》を解くより先に、やるべきことがある」
「なぁにそれ?」
一弥が聞き返すと、ヴィクトリカは心外《しんがい》だというように、老女《ろうじょ》の如《ごと》き静かな、表情を映《うつ》さない不思議《ふしぎ》な瞳《ひとみ》を、瞬《またた》かせた。
それから、小さなぷくぷくした人差《ひとさ》し指《ゆび》で一弥の顔を指さして見せた。
「君を無事に連《つ》れ帰《かえ》ることだろう。この因縁に巻《ま》き込《こ》まれることなく」
「…………」
「久城、君は……」
ヴィクトリカは足を止めた。
緑の瞳が、暗い廊下で、野生動物《やせいどうぶつ》のそれのようにきらきらと輝《かがや》いている。二つのまだ名づけられぬ、未知《みち》の宝石《ほうせき》のように、そのエメラルド色の大きな瞳は、暗闇《くらやみ》にひんやりと浮《う》かび上がっていた。
「わたしはこの修道院で、鳴《な》かなかった。わたしがここにとつぜん連れてこられたのは、ある者をここに誘《おび》き寄《よ》せるためなのだ。わたしはそのための生《い》き餌《え》だった」
「君、さっきもそう言っていたね。それに、君の兄さんも……。そのある人っていうのはいったい誰《だれ》なんだい?」
「君、それは決まっている」
ヴィクトリカはしわがれ声で言った。
「コルデリア・ギャロ。わたしの母だ」
部屋の中を冷たい風が吹《ふ》きぬけていった。一弥の漆黒《しっこく》の髪と、ヴィクトリカの金色の長い髪を揺らしていった。金の髪はどこか不吉《ふきつ》に舞《ま》い上《あ》がり、一弥の小柄《こがら》な、線の細いからだにゆるゆると巻《ま》きついた。そのからだを取り巻くように幾筋《いくすじ》もの金色のラインがうごめき、名残惜《なごりお》しそうにゆっくりと、トランクの上に戻《もど》っていく。
フリルのスカートも、遅《おく》れてふるふると震《ふる》えた。
ヴィクトリカは泣きべそをかきそうな顔をしていた。瞳のはしっこに涙《なみだ》がたまり、まるで、ママに叱られた小さな女のこのようだった。
「ということはおそらく、コルデリア・ギャロをめぐるなにがしかの謎が、この修道院には残されているのだ。それと、その形見箱《かたみばこ》というもののあいだになにかの関連性《かんれんせい》があるのかどうかは、混沌《カオス》の欠片が足りず、ピースがはまりきらず、わたしにはまだ、再構成《さいこうせい》することができない。ただ過去からの不吉なイメージがとめどなく頭をよぎるのみだ。あの煙《けむり》が見せる幻影《げんえい》なのかもしれんが……」
「うん……。ヴィクトリカ、君、大丈夫《だいじょうぶ》? そういえば、ぼくもなんだか頭が痛いよ。ちょっと吸い込んじゃったみたいだ」
「ここの観客《かんきゃく》はみな、同じだよ」
ヴィクトリカはそうつぶやいた。それから暗い声で続けた。
「おそらく、足りない欠片のうちの一つは……わたしの母だ」
「どういうこと?」
「うむ……」
ヴィクトリカの声が低くなっていく。
「母、コルデリア・ギャロを呼び寄せるために、わたしという仔狼《こおおかみ》はとつぜんここに移送《いそう》されたのだ。わたしが悲鳴を上げれば、たまらず母狼《ははおおかみ》がやってくるだろう、とブロワ侯爵《こうしゃく》はふんだのだ。しかし、わたしは鳴かなかった。何日も何日も、ただ黙《だま》ってあの部屋の隅《すみ》にうずくまっていた。母は、こなかった」
一弥は黙って聞いていた。
ヴィクトリカが家族の話をすることはとてもめずらしいことだった。その哀感《あいかん》に満《み》ちた小さな声を聞いているうちに、一弥はなぜか、国に残してきた自分の家族のことを思い出してしまった。厳《きび》しい軍人の父。個人のことではなく、国のために生きて命を捨《す》てる男になれと説《と》く、立派な長兄《ちょうけい》。そのことに引っ掛かりを覚えている、小さな自分……。
一方ヴィクトリカは、訥々《とつとつ》と話を続けていた。ほんとうにめずらしいことだった。もしかするとさきほど吸い込んでしまったあの不思議な白い煙が、意地《いじ》っ張《ぱ》りの、さびしがりやのこの小さな少女に魔法《まほう》をかけて、ほんの少しばかり、素直《すなお》にさせているのかもしれなかった。きっとこの夜のうちに解《と》けてしまう、偶然《ぐうぜん》の、小さな魔法……。
「久城。さきほど、わたしがトランクのうえによじ登ったのは、母の相棒《あいぼう》である、人間と灰色狼のハーフ、ブライアン・ロスコーの赤いたてがみが見えた気がしたからなのだ」
「そういえば、ぼくも見たよ。声まで聞いたような気がする。ブライアンはここにこっそりきているのかな……」
「さてね。しかし本当だとしても、なぜブライアンがここに来ているのかはわからない。彼は十年前、この修道院を科学アカデミーが使用していたころに、〈落下《らっか》させる聖マリアの怪《かい》〉を起《お》こした張本人であるのだが、だが、なぜいま、ここにいるのだろう……」
「おかあさんの代わりにきた、とかかな?」
「さてね」
ヴィクトリカは薄《うす》く笑《わら》った。
「しかし、それにしても、母はこなかったのだ。わたしが吠《ほ》えなかったからだ。唇《くちびる》をかみしめて孤独《こどく》に耐《た》えたからだ。かけがえのない女性である母を危険《きけん》にさらすことなど、わたしにはできなかった。呼《よ》ばなかったから、母は、こなかったのだ」
「ヴィクトリカ、君……」
「久城。本当のところ、じつはわたしは、もう母には会えない気がするのだ」
ヴィクトリカは平気そうな顔をして言った。いつもどおりの、ひんやりとした無表情《むひょうじょう》だった。
「あれはまだ五|歳《さい》のころ。ブロワ城の塔《とう》の上で孤独《こどく》と退屈《たいくつ》と倦怠《けんたい》のあまり毎夜、吠えていたわたしのところに、塔の窓《まど》までひらりとよじのぼってきて、コルデリアが窓越《まどご》しにわたしに呼びかけてくれた。呼べば必ずやってくる、と。そう、あの人は言った。そして娘《むすめ》のわたしを、愛していると、言ったのだ。あのときわたしは初めてその言葉を聞いた。そのときは意味《いみ》がわからず、翌日からわたしは書物《しょもつ》の山を迷《まよ》い、その言葉の意味を探した。ドイツ語でかかれた哲学書を読み、ラテン語でかかれた宗教書《しゅうきょうしょ》を読んだ。科学の森を彷徨《さまよ》い、詩を読んだ。わたしはあらゆる概念《がいねん》の海に溺《おぼ》れた。そして最後に、あの言葉はおそらく、かけがえのないものを大切に思い、失うまいとする、という意味なのだと推理《すいり》したのだ。母はわたしに、その言葉をかけた……。ただ一人、母だけが……」
ヴィクトリカのしわがれた、老女のような低い声は、静かな哀感《あいかん》を帯《お》びていた。
「鉄格子《てつごうし》越しにわたしの頬《ほお》に触《ふ》れた、あの、つめたい手。わたしに触れた人間はいなかった。愛をこめて、いつくしむように、このわたしのあたたかいからだに触れた人間は、誰《だれ》も、いなかったのだ!」
一弥は小首をかしげ、黙《だま》って聞いていた。
「だがわたしは、もう、母には会えまいという気がするのだよ、久城」
「どうして? だって、呼べば必ずくると約束したんだろう?」
「わたしはなくしてしまったのだ」
ヴィクトリカはほっぺたをふくらませ、涙《なみだ》をにじませて一弥に訴《うった》えた。
「あのとき、母はわたしに金貨《きんか》のペンダントを渡《わた》してくれた。母が〈名も無き村〉を追い出され、外の世界で生きていくとき、村から持って出た小さな金貨。それに紐《ひも》を通《とお》したものだ。母は、これがある限り、母と娘は離《はな》れない、と、そう言ったのだ……」
一弥は目を閉じた。脳裏《のうり》に、あの〈名も無き村〉から二人で逃《に》げるとき、谷底《たにぞこ》に向かってきらめきながら落ちていった、ヴィクトリカの金色のペンダントのことが蘇《よみがえ》った。豪奢《ごうしゃ》なブラウスの、フリルをめくって、めくって、めくって……遥《はる》か奥《おく》に隠《かく》れてきらめいていた、あの小さな金貨。
(そうだ。ヴィクトリカはあのとき、ぼくを助けたんだ。大事な金貨のペンダントに、目もくれず……)
両手に力を込めて、涙を浮《う》かべて、痛くない、と繰《く》り返したあの悲しそうな顔が思い出された。あのときの自分の、とても悲しい気持ちのことも。一弥はぐっと唇をかんだ。
一弥がそのときのことをあれこれ考えていると、ヴィクトリカは小さな声で、いった。
「わたしはだから、この修道院で、けして吠えずにうずくまることにしたのだ。そのまま何日も何日もが過ぎた。わたしは時間も、空間も、なにもかもが把握《はあく》できなくなった。ただ黒衣《こくい》の奥で、小さな怪物と化していた。そうしたら、外から、明るいほうから、呼《よ》びかける声《こえ》が聞こえてきた。ヴィクトリカ、と。わたしを呼ぶ声が聞こえた」
「…………」
「その声で、わたしは人間に戻った。やわらかなものに。愛の意味を知るものに。ゆっくり、ゆっくりと、戻ったのだ」
「君……」
「それが、君に声だったのだよ。久城。母はもうこなかったが、久城……君がわたしを迎《むか》えにきてくれたのだ。いつもどおりに。君が」
「……そのわりに、蹴飛《けと》ばしたり、けなしたり。君、ぼくに散々《さんざん》だったけどね」
「そんな細かいことは気にするな」
「うん」
一弥はすぐに答えた。ヴィクトリカが、おや、というように一弥の顔をちょっとだけ見た。一弥は微笑《ほほえ》んでいた。
「ぜんぜん気にしないさ」
小さな声になる。聞き取れないほどの小声《こごえ》で、一弥は続けた。
「……また、君に会えたんだ。かけがえのない君に」
「ぅ」
「そうだよ。そうなんだ……」
二人はまた黙《だま》った。
ヴィクトリカがことん、と一弥の肩《かた》に小さな頭を預《あず》けてきた。かすかに、花のような匂《にお》いがした。ヴィクトリカの匂いだ、と一弥は思った。
部屋の中は、泣き叫《さけ》ぶものも減《へ》って、静かになってきた。ヴィクトリカはくぅ、くぅ、と小さな声を立てて眠《ねむ》り始めた。一弥は少しだけ微笑んだ。
眠ってしまったヴィクトリカをトランクの上において、一弥は一度、廊下《ろうか》に出た。修道女たちが水やパンなどを持って、うろうろしている観客《かんきゃく》たちに渡《わた》していた。ヴィクトリカの分を確保《かくほ》して部屋に戻ろうとすると、来るときの列車の中で一緒《いっしょ》だったあの老人が、廊下をうろうろとさまよっているところに出くわした。
「どうかしたんですか?」
そう聞くと、老人は血走《ちばし》った目を見開いて、言った。
「娘《むすめ》がいないのだ」
「あれ、まだ見つからないんですか? ほかの修道女の人に聞いてみたら……」
「誰も、余計《よけい》な話はしないようにとでも言われているのか、答えてくれん。一人一人の顔を確認《かくにん》しているのだが、どうもみつからなくてな……」
老人は頭を抱《かか》えた。頭痛がするのか、顔をしかめて、眉間《みけん》の辺《あた》りを押《お》さえながら、
「そのうち、たくさん、同じような年の女の顔を見すぎて、娘の顔が思い出せなくなってきたのだ……!」
「そ、そんな……。見ればわかるでしょう。それに、向こうだって」
「わしに娘など、いたのかな」
「えっ……」
老人は狂気《きょうき》の宿《やど》る、濁《にご》った緑色《みどりいろ》の瞳《ひとみ》で一弥をみつめた。そして絶句《ぜっく》している一弥をおいて、どこへともなくまたふらふらと歩き去っていった。
廊下を冷《つめ》たい風《かぜ》が吹《ふ》きぬけていった。一弥はきょとんとして、老人の後ろ姿をただ見つめていた。
部屋に戻ると、黒尽《くろず》くめの修道女たちが、中でも水とパンを配《くば》っているところだった。老いた修道女、カーミラもまた、その中に混《ま》じっていた。隅《すみ》に座《すわ》っていたイアーゴに、水とパンを渡す。二人は二言《ふたこと》、三言《みこと》、短く会話をしたようだった。
開け放たれたドアから、冷たい風が入り込んでくる。イアーゴはそのドアの直線上《ちょくせんじょう》に座っていた。ゆっくりとカーミラが離《はな》れると、イアーゴは水を一口、飲んだ。
一弥はヴィクトリカがトランクの上に座っているところに戻って、先ほど廊下で見た、おかしな老人の話をしようとした。誰か、黒い服をきた大きな男とすれ違《ちが》ったような気がした。一弥が振《ふ》り向こうとしたとき、部屋のランプが揺《ゆ》れて、いくつかが消えた。急に薄暗《うすぐら》くなる。
そして……。
奇妙《きみょう》なうめき声が部屋に響《ひび》いた。
観客たちと一緒《いっしょ》に、一弥とヴィクトリカもそちらを振り向いた。修道士《しゅうどうし》イアーゴが、水の入ったコップを取り落とした。そしてのどをかきむしるような動作《どうさ》をした。
そして、そのイアーゴのからだに……。
たったいま一弥とすれちがった、黒衣の大男が覆《おお》いかぶさっていた。薄暗くてよく見えなかったが、黒衣《こくい》の下に、蠅《はえ》にそっくりな、人とは思えぬ異様な黒い顔が見えた。〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉の伝説である、黒死病《こくしびょう》の悪魔そのものの恐《おそ》ろしい姿……! カーミラが乾《かわ》いた悲鳴《ひめい》を上げた。イアーゴはのどをかきむしり、目玉《めだま》を飛《と》び出《だ》させんばかりにひん剥《む》いている。
そしてなにか叫《さけ》ぼうとした。
カーミラの甲高《かんだか》い悲鳴がそれをかき消してしまう。
イアーゴは床《ゆか》に向かってばったりと倒《たお》れた。その足元に立っていたはずの、蠅の頭を持つ異様な黒衣の大男が、ふいにどこかに姿を消した。女たちが悲鳴を上げた。廊下から、向かい側の部屋のドアがバタンと閉《し》まる小さな音がした。
一弥が我《われ》に返り、イアーゴに駆《か》け寄《よ》った。
「イアーゴさんっ?」
重たいからだをなんとかして、抱《だ》き起《お》こす。
イアーゴは白目をむき、口から泡《あわ》を出して事切《ことき》れていた。
「……死んでる」
一弥がつぶやくと、観客たちは遅《おく》れて、悲鳴を上げ始めた。
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霊界ラジオ ―wiretap radio 3―
〈形見箱《かたみばこ》〉
(形見箱?〉
〈どこダ?〉
「形見箱はどこなのだ。まったく、見つからないではないか! これでは科学アカデミーに先を越《こ》されてしまう。せっかくサイモン・ハントを殺したのに」
「あの箱の在《あ》り処《か》は、狼《おおかみ》たちが知っている。十年前、一九一四年の冬。あの赤髪《あかがみ》の狼がやってきて、ここに隠《かく》したのだ。修道院《しゅうどういん》のどこかにある。それを、戦争終結後も、ジュピター・ロジェはみつけだしていない。我々、オカルト省もまた。知っているのは、狼たちだけ」
「赤髪の雄狼《おすおおかみ》と、その番《つがい》の、小さな金色の雌狼《めすおおかみ》」
「雌狼にはこどもがいる。我々は子狼をここに連れてきた。雌狼を呼び寄せるのだ」
「仔狼《こおおかみ》が鳴けば、たまらずやってくる。雌狼――コルデリア・ギャロがやってくる」
「……こないではないか?」
「……こないではないか?」
「本当に、コルデリア・ギャロはまだ生きているのか? あれを最後に見たものは誰だ?」
「知っているのは、雄狼だけ。ブライアン・ロスコーだけだ」
「――こないではないか?」
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第七章 妖艶《ようえん》のブラック・ヴィクトリカ
部屋の中は、静寂《せいじゃく》に包まれていた。イアーゴの死体を見下ろして観客たちは黙《だま》り込《こ》んでいる。年配の女の観客が、辺《あた》りを見回して、
「いまの男は、黒衣《こくい》の男はどこに行ったの!?」
そう叫ぶと、遅れて悲鳴《ひめい》を上げ始めた。
壮年《そうねん》の男が一人、進み出て、医者《いしゃ》だと名乗《なの》った。イアーゴのからだを点検《てんけん》して、
「おそらく毒殺《どくさつ》だと思うが……。しかし、警察がくるまでは確かめるすべはない」
「毒殺というと……だっていま、イアーゴさんが飲んだこの、水……?」
一弥《かずや》が、イアーゴが取り落としたコップと、床に流れている水を見下ろしてつぶやいた。観客たちはざわめいて、めいめいが飲もうとしていた水に目を落としたり、あわてて口から離《はな》したりし始めた。
若い女性がおそろしそうにつぶやいた。
「だけど、わたし、さっき、修道女から受け取った水を飲んだわ。でも、なにも入っていなかった。この人が受け取った水にだけ、毒が入っていたのよ」
そして、イアーゴにコップを渡《わた》した人物のほうを振《ふ》り返った。老《お》いた修道女、カーミラのほうを。
カーミラは部屋の隅《すみ》に立ち、ぶるぶると震《ふる》えていた。何度も胸《むね》の前《まえ》で十字を切って、首を振っている。
「わたしは、なにも」
「でも、さっきの若い男の人が死んだときだって」
「あのとき一緒《いっしょ》にシスターズキャビネットに入ったのは、妹のモレラよ!」
カーミラは髪《かみ》を振り乱《みだ》して、叫《さけ》んだ。
そのとき、廊下《ろうか》を挟《はさ》んだ向かい側のドアが開く音がした。軽い足音が近づいてきた。白髪《はくはつ》を頭上高くに編み上げた、カーミラとそっくりの顔をした妹のモレラが部屋に入ってきた。「どうした、の……」と言いかけて、床《ゆか》に倒《たお》れて事切《ことき》れているイアーゴを見つけて短い叫び声を上げた。そして、カーミラとそっくりのしぐさで腕の前で十字《じゅうじ》を切った。
「おねえちゃん、これ、どうしたの……?」
「水を飲んだら、とつぜん苦しみだして……。それで、黒いコートをきた大きな、妙《みょう》な仮面のようなものをかぶった男がやってきて、覆《おお》いかぶさって……。この人は倒れて、死んでしまったの。おかしな男はどこかに消えてしまったし……」
「黒衣の大男、ですって?」
ほかの観客たちもうなずいた。一人がおそるおそる、
「蠅《はえ》の頭のような不気味な顔をしていたような気が、します……。あれは人間の顔じゃない。きっとなにか仮面を被《かぶ》っていたんだ。もとの顔を見られないように」
「変装《へんそう》、ということ? でも、どこに消えたのかしら。気づいたらいなくなっていたわ」
べつの観客がつぶやいた。
モレラがおそろしそうに、しわだらけの顔をゆがめた。
「それではまるで、この〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉の伝説になっている、黒死病《こくしびょう》みたいな話じゃないの……」
観客たちは顔を見合わせた。
モレラが「院長を呼んでくるわ」とつぶやいて部屋を出て行った。急ぎ足で遠ざかる足音がした。黒衣の修道女たちがどんどん集まってきて、部屋の中は、騒《さわ》がしくなってきた。
「二人も死ぬなんて……」
誰《だれ》かがつぶやいた。
「夜会は中止だし、嵐《あらし》がきて帰れないし……。なんてこと」
「しかし、そろそろ雨雲《あまぐも》は遠ざかっていくだろうよ。雨音も弱《よわ》くなってる」
「そうね……」
不安なささやき声が、あちらで、こちらで繰《く》り返される。
一弥は部屋を出て、外の様子を見ようと廊下を歩き出した。観客《かんきゃく》たちは数人が外に出ていたが、後はあの大きな部屋にいるようだった。黒衣《こくい》の修道女が相変わらず、あちらのドアが開いてこちらのドアから消えて、と、忙《いそが》しく行き過《す》ぎるばかりだった。
一弥はあの、奇妙《きみょう》なチェス・ドールが置いてあった、朱色《しゅいろ》のドアの部屋の前を通りかかった。キィィィィ……と静かにドアがあいて、黒《くろ》っぽいドレスを着た小さな女が一人、出てきた。
ほどけた絹《きぬ》のターバンのような、金色《きんいろ》の見事《みごと》な髪が床まで垂《た》れ落《お》ちていた。黒っぽいドレスはところどころに紫色《むらさきいろ》のレースがほの見えて、同じ紫色の絹の手袋《てぶくろ》と、黒のエナメルのハイヒール、そして黒と紫の暗い花が咲《さ》いたような小さなミニハットをかぶっていた。
「ヴィクトリカ?」
一弥は声をかけた。
女が振り返った。
まるで千年の時を生きた、太古《たいこ》の生物《せいぶつ》のような、静かで悲しげな瞳《ひとみ》が、ひたと一弥を見つめた。一弥はどきりとして、立ち止まった。気楽に頭をぽんぽん叩《たた》こうとのばしかけた手が、凍《こお》りついたように止まる。
「ヴィクトリカ、だよね?」
なぜか自信がなくなって、思わず聞いてしまう。
「そうだ。ヴィクトリカだ」
いつも聞くヴィクトリカ・ド・ブロワの声よりも少し高い、ころころと鈴《すず》がなるような美しい声に聞こえた。一弥はなぜか、激しい緊張《きんちょう》を感じた。立ち尽《つ》くしてその、黒と紫|尽《づ》くめの、シックな暗い花のようなヴィクトリカを見つめていると、相手の女はふいににやり、と妖艶《ようえん》に笑った。
肉食獣《にくしょくじゅう》がほんの少し牙《きば》を見せたような……笑《え》み。
一弥は声も出せず、足も一歩も動かなくなった。大きな動物に睨《にら》まれた兎《うさぎ》のように。立ち尽くしていると、女は赤《あか》く塗《ぬ》られた唇《くちびる》をどこか扇情的《せんじょうてき》に開いてみせ、すこしだけ小首《こくび》をかしげて一弥をみつめた。
金色の見事な髪が、さらさら、さらさら、さらり……、と床まで少しの時間差をかけて、うごめいた。
「久城《くじょう》一弥か」
「……うん。いや、知ってるだろ、ヴィクトリカ」
ようやく声が出るようになった一弥がかろうじていうと、女は小さな、形のよい鼻《はな》をふんと鳴《な》らした。黒いレースのドレスに隠《かく》された小さな、折《お》れそうに細いからだが、ほんの少し揺《ゆ》れた。
「まぬけ面《づら》だな。それで大丈夫《だいじょうぶ》なのか」
「だ、大丈夫だよ。ヴィクトリカ、君、相変《あいか》わらず失礼だなぁ。そうだ、この部屋でなにしてたの?」
一弥は朱色のドアの部屋を覗《のぞ》き込んだ。さっきと同じように、いつの間にか運《はこ》び込《こ》まれていたユーモラスなチェス・ドールが一つ、ぽつんと置かれていた。さっきのぞいたときは、ギリギリギリ……と首が動いて、瞳がこちらを見たような気がして一弥は飛び上がったものだが……。いま見ると、なぜか、この部屋や列車の貨物室で見たときのような奇妙な迫力《はくりょく》を、チェス・ドールから感じることはなかった。木の箱がついたただの人形のようにしか見えない。
一弥は首をかしげて人形を見つめていて……ふと、床《ゆか》に異変《いへん》が起きていることに気づいた。床板の一つが外《はず》されて、小さな四角《しかく》い穴ができていた。まるで、ついいままでそこになにかが入っていたように……。
一弥は、女のほうを振《ふ》り返った。その手元に視線《しせん》が吸《す》い寄《よ》せられた。女は紫のなめらかな手袋をはめた手に、四角い箱を持っていた。赤い、小さな箱。大事そうに両手で持っている。
「それ、なぁに? ヴィクトリカ」
「形見箱《かたみばこ》だ」
「えっ、それが? そこの床に空《あ》いてる穴と関係があるの? 君、ついさっき、形見箱がなんなのかわからないっていってたじゃないか。いや、わからないんじゃなくて混沌《カオス》の欠片《かけら》が足《た》りないだのなんだのって、うちの兄貴《あにき》にごつんと叩かれそうないいわけを並《なら》べてて、ほんとに君、感じ悪かったなぁ!……それがわかったの? 形見箱ってなんなんだい? ちょっと見せて」
女は一弥が伸ばしてくる手を乱暴《らんぼう》にばしんとはたいた。
「いたっ!」
「形見箱は、〈名も無き村〉のとある家の床下に隠されていたものだ。十年前、世界大戦勃発《せかいたいせんぼっぱつ》のころにブライアン・ロスコーが村に出向き、その床下から取り出して、この修道院に隠した。ブライアンはすぐに回収《かいしゅう》するつもりだったが、終戦後、この修道院が敵《てき》であるオカルト省《しょう》の住処《すみか》になったため、回収できなかった。そのため、ずっと、ここにあったのだ。たったいまわたしが回収したところだ。しかし変わりに、紛《まぎ》らわしい贋物《にせもの》でもおいていってやろうかと思っているがね」
「へぇ……」
女はヴィクトリカらしくなく、くっくっくっ……と笑って見せた。そして続けた。
「形見箱はこの小さな箱の中に、科学アカデミーのとある重要な秘密を隠している。科学アカデミーにも、オカルト省にも渡すわけにはいかない。我らの安全のために。これは我らの命綱《いのちづな》なのだ」
「どういうこと……?」
「さてね」
女はにやりと笑った。また、獰猛《どうもう》な獣《けもの》のような気配が濃厚《のうこう》に漂《ただよ》った。この感じは誰《だれ》かに似《に》ている、と一弥は思った。
(そうだ、ブライアン・ロスコーだ。少し前、聖マルグリット学園の時計塔《とけいとう》で向き合ったときに、こんな気持ちになった。この不思議な迫力……)
女は一歩、後ずさった。一弥から遠《とお》ざかる。
「君……」
「わたしはもう行かなくては」
「あの……」
「そうだ、坊主《ぼうず》」
女は絹《きぬ》の手袋《てぶくろ》の上からはめていた、きらきらと眩《まぶ》しい、暗い紫色《むらさきいろ》の指輪《ゆびわ》を抜《ぬ》き取《と》って、一弥に渡《わた》した。一弥が受け取ると、女はその妖艶《ようえん》な、恐《おそ》ろしいほどに美しい小さな顔をゆがめて、苦《くる》しそうにつぶやいた。
「坊主、これを」
「あの、ぼ、坊主って……」
「これをあの子に渡してくれ」
「あの子?」
「おまえとともに帰っていく、小さなあの子に」
一弥は受け取った指輪をじっとみつめた。それから、あっと息《いき》を呑《の》んだ。ゆっくりと顔を上げて、女の顔をみつめる。
女のエメラルド・グリーンの瞳は、相変わらず表情らしいものを映《うつ》さず、巨大《きょだい》な太古《たいこ》の生物のそれのように静かで、退屈《たいくつ》そうだった。だが瞳の端《はし》がかすかに潤《うる》んで輝《かがや》いたように見えた。一弥はそれに目を凝《こ》らした。
「あの子って……」
「そう。あの子に渡してくれ」
すこし高い、鈴《すず》がなるような甘い声で、ささやく。
「母は変わらず、小さな娘《むすめ》を愛していると。おまえが鳴《な》かなくとも、やってきたと。伝えてくれ」
「コ……」
「そしてできるならば、ここで起《お》こったことの謎《なぞ》を解《と》くように伝えてくれ。あの子には力があるはずだ。力を使えと。生きるために。力を見せろと」
「コル……」
「わたしはもういかなくては。同じ女が二人いるのを見られては、元《もと》の木阿弥《もくあみ》だ」
女はそうつぶやくと、身をひるがえした。黒いエナメルのハイヒールが、廊下《ろうか》を蹴《け》るたびにこつこつと音を響《ひび》かせた。一弥ははっと我に返り、小さな黒と紫の、ふわふわとした後ろ姿が消えた廊下を走って、女を追いかけようとした。
「待ってください。あいつに会ってやって! あいつ、ずっとママンにあいたがって、寂《さび》しがって、泣いて……!」
一弥は走る。
廊下を進む。螺旋《らせん》を回って、回って……。
黒と紫の後ろ姿は、ドレスの裾《すそ》を揺《ゆ》らして螺旋の向こうに向かって、消えた。一弥は立ち止まって、呆然《ぼうぜん》と見送った。
それから手の中に残る指輪を見つめた。
一弥はゆっくりと、あの、不思議《ふしぎ》な女が出てきた部屋に戻《もど》った。そこにはあのチェス・ドールがまだ置いてあった。でもやはり、来るときの列車の中で一弥をぽかぽか叩《たた》いたり、目玉が動いて睨《にら》みつけたりした、あの魔的《まてき》な力を見せつけた自動人形《じどうにんぎょう》のようにはもう見えなかった。ただの木製の箱と、人形で、触《さわ》ってみても両腕《りょううで》はだらりと垂《た》れ下《さ》がるばかりだった。
一弥はもう一度、箱《はこ》の蓋《ふた》を開けてみた。
左の蓋を開けてみたけれど、ねじとぜんまいしか入っていない……。一弥は首をかしげた。それからその部屋を出て、また歩き出した。
螺旋の廊下を回って、回って、またもとの大きな部屋に戻ってくると、観客たちでごった返すその部屋の隅《すみ》で、ヴィクトリカが相変《あいか》わらず、巨大《きょだい》なトランクの上にちょこんと座《すわ》っていた。小さすぎて床に足が届《とど》かず、小さな銀のブーツを履《は》いた足を所在無《しょざいな》くぶらぶらさせている。
一弥が神妙《しんみょう》な顔でゆっくり近づいてくると、ヴィクトリカは不機嫌《ふきげん》そうにその薔薇色《ばらいろ》のほっぺたをぷくんとふくらませた。そして、
「退屈だぁ!」
と言いながら一弥の頭をぽかぽかと叩いた。
「いたい! こら、ヴィクトリカ。退屈だなんて理由で人を叩いちゃだめだろ。まったくもう、君って人は……」
一弥はそうつぶやいて、ヴィクトリカのとなりに腰《こし》を下《お》ろした。巨大なトランクは、小柄《こがら》な一弥とさらに小さな小さなヴィクトリカの二人が座ったぐらいではびくともしなかった。一弥はヴィクトリカにつられて、お行儀悪《ぎょうぎわる》く足をばたばたさせながら、
「念のために聞くけど」
「なんだ、まぬけ?」
「まぬけって呼んだら絶交だぞ、ヴィクトリカ」
「むっ……!?」
「君、ついさっき、ドレスを着替《きが》えてべつの部屋から出てきたりしてないよね?」
興味《きょうみ》なさそうにそっぽを向いて短い返事だけしていたヴィクトリカが、ゆっくりと振《ふ》り向いた。緑色の大きな瞳《ひとみ》を見開いて、不気味《ぶきみ》そうに一弥の顔を見上げた。猫《ねこ》が、奇妙《きみょう》なおもちゃに近づくようにゆっくりと一弥の顔に自分の顔を近づけて、小さな形《かたち》のいい鼻をうごめかせる。
「そんなわけないだろう」
「……だよね」
「久城、君、まだあのまぬけな煙《けむり》を吸《す》った後遺症《こういしょう》が残っているのかね? 一生|直《なお》らなかったら愉快《ゆかい》だなぁ。だが君、わたしにつまらんことを言うな」
「あのねぇ……」
一弥は吐息《といき》をついた。
「しかし、君のほうは、だいぶ元《もと》に戻ってきたみたいだね」
それから、ヴィクトリカの顔をみつめた。
少し躊躇《ちゅうちょ》してから、ゆっくりと握《にぎ》っていた手を開いてみせた。
暗い紫色《むらさきいろ》をした、小さな指輪。
ヴィクトリカがあっと息を呑《の》んだ。
さくらんぼのようなつやつやした唇《くちびる》を震《ふる》わせて、黙《だま》ってその指輪を受け取ると、自分の指にはめた。
「あの、さっき、チェス・ドールが置いてあった部屋から、黒いドレスを着たちょっと大人《おとな》っぽいっていうか、どきっとする感じの君が出てきてね」
「…………」
ヴィクトリカが小さくうめいた。
「それで、ぼくのことを坊主呼《ぼうずよ》ばわりして、まぬけ面《づら》だけど大丈夫《だいじょうぶ》ですかって余計《よけい》な心配をして、さすが君だなって感じの失礼《しつれい》な態度《たいど》でもって、これを渡《わた》して去《さ》ったんだ」
「うぅ……」
「それで別《わか》れ際《ぎわ》に、これをあの子に渡してくれって。それで、ぼくは気づいたんだ。この人、ほんとにヴィクトリカ? って。誰? って。彼女、その部屋に十年前、ブライアン・ロスコーが隠《かく》したっていう形見箱《かたみばこ》を取り出して、君のふりをして廊下《ろうか》を歩いて、出ていったんだ」
ヴィクトリカが小さく息を呑んだ。
立ち上がって走り出そうとして、ふらついて、座り込む。一弥が後ろから近づくと、しゃがんだままでさびしそうに、つぶやく。
「それで、彼女は、出ていったのか」
「うん……。止めたんだけど、あの子はずっとあなたに会いたがってたんだ、って。だけど伝言をもらったから。あの……『母は変わらず、小さな娘《むすめ》を愛している』って」
「…………」
「『お前が鳴かなくとも、やってきた』って。それと『謎《なぞ》を解《と》け。生きるために。力を見せろ』って。そう言ってた」
ヴィクトリカはうつむいた。
ふるふるっ、と小さな肩《かた》が震えた。一弥はおそるおそる、金色の小さな頭を抱《だ》き寄《よ》せてみた。
一弥の胸《むね》に鼻《はな》の頭《あたま》を押《お》し付けて、ヴィクトリカは「う、う、うぅぅぅ……」と唸《うな》るように、吠《ほ》えるように、低い声でなにかつぶやいた。
それから小さなヴィクトリカは、一弥の胸で、声を上げずに、震えて泣いた。
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幻灯機 ―ghost machine 4―
[#地付き]――一九一四年十二月十日〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉
真冬の海は、いまにも凍《こお》りつきそうな暗い紫色をして、ゆっくりと、寄《よ》せては返《かえ》していた。その夜。後に〈落下《らっか》させる聖マリア象の怪《かい》〉として世界史の中で異彩《いさい》を放《はな》つ魔的な、不思議な夜が、いま始まろうとしていた。
凍《い》てついた冬の夜空には、白々《しらじら》と月が浮《う》かんでいた。不吉《ふきつ》な光り輝《かがや》く満月《まんげつ》が夜空《よぞら》に、そして暗《くら》い海にも映《うつ》りこんで、まるで二つの月が互《たが》いをみつめあっているようだった。紫色に沈《しず》む海が寄せては返すたびに、映り込んだ満月はまるで命《いのち》あるもののように、ゆっくりとうごめいた。
「……用意は、できた」
〈ベルゼブブの頭蓋〉の一室《いっしつ》で、たてがみの如《ごと》き鮮《あざ》やかな赤髪《あかがみ》をなびかせる、背の高い青年がぼそりとつぶやいた。猫《ねこ》のような深い緑の瞳《ひとみ》を輝かせ、うなずく。
「後は、待つだけだ。やってこい、ドイツ空軍の若者たち。死の海へ」
青年、ブライアン・ロスコーは薄暗《うすぐら》い部屋の中で、一人、にやりと笑った。肉食獣《にくしょくじゅう》を連想させる、奇妙《きみょう》に迫力《はくりょく》のある笑《え》みだった。牙《きば》にも似た二つの白い犬歯が、薄い唇《くちびる》からのぞく。
部屋の中は今夜もまた、暖炉《だんろ》でぱちぱちと音を立てる炎《ほのお》が揺《ゆ》れているだけで、後《あと》は粗末《そまつ》な机と椅子《いす》があるばかりだった。実際に、ブライアンが持ち込んだ機械《きかい》――幻灯機《げんとうき》が、大砲《たいほう》の如き巨大《きょだい》なレンズを窓の外に向けて置かれていた。ブライアンは何度も、その、自らゴースト・マシンと名づけたその奇妙な機械をいじり、調整《ちょうせい》を繰《く》り返していた。赤い髪が機械の上にたれ落ちる。炎に取り巻かれるように、機械の周囲でちろちろと赤い髪が揺れる。
ブライアンはその髪をかきあげると、ふと緑の瞳を細《ほそ》めた。
「やってきた、か……?」
耳を澄《す》ます。
窓の外の夜空に、視線《しせん》をやる。
ぶ、う、ぅ、ぅ、ぅ、ん……と、かすかに、虫の羽音《はおと》のような、しかし奇妙に人工的な音が響《ひび》いてくる。ブライアンはくすりと笑った。
「きた。ドイツ空軍が……」
そのときふいに、
――ガタン、
と大きな音がした。ブライアンは飛び上がり、振《ふ》り返った。
部屋の鮮やかな朱色《しゅいろ》をしたドアが、一度大きく揺れたのだ。ブライアンは眉《まゆ》をひそめ「誰《だれ》だ……?」とつぶやいた。ドアをみつめる。
ドアはもう動かない。
ブライアンはしばらく睨《にら》みつけていたが、ふと目をそらした。
窓の外で虫の羽音が大きくなってくる。満月が輝くその夜空いっぱいに、ぶ、う、ぅ、ぅ、ぅ、ん……と奇怪な音が複数《ふくすう》、響き渡《わた》る。黒く不気味なデザインをした,人工的な虫……いや、ドイツ軍の戦闘機《せんとうき》が、それこそ虫のように黒い点の大群《たいぐん》となって、真《ま》ん丸《まる》い、青白い月の真ん中にいくつもいくつも浮かんだ。月がそれを不気味《ぶきみ》に照らし出す。紫色の海が揺《ゆ》れる。
大きな音とともに閃光《せんこう》が走った。修道院の石の外壁《がいへき》にぶち当たり、鮮やかなオレンジ色の光を撒《ま》き散《ち》らす。石壁《いしかべ》がバラバラバラッと音を立てて崩《くず》れる。つぎの爆撃《ばくげき》が始まる。
……耳の後ろに冷《つめ》たい風《かぜ》が当たった。
ブライアンははっと我に返った。あわてて振り返る。
いつのまにか背後の朱色のドアが、音もなく開いていた。短刀《たんとう》を握《にぎ》りしめた二人のミシェール[#「二人のミシェール」に傍点]が、猫のように抜《ぬ》け目《め》なく、ブライアンに近寄《ちかよ》ってきていた。
ブライアンはそっと幻灯機に手を伸《の》ばした。スイッチを入れる。
がたっ、ごとっ、と、ゴースト・マシンが動き出す。
窓の外で、少女が上げる声が響く。まだ年若い修道女の声が。
「――なんということを!」
ブライアンはそっと後ずさる。二人のミシェール――白髪[#「白髪」に傍点]を垂らし、青[#「青」に傍点]い瞳と、黒[#「黒」に傍点]い瞳をそれぞれ暗く輝かせる、二人の老女[#「老女」に傍点]を睨《にら》みつける。
窓の外では、少女が叫《さけ》んでいる。
「いまここにいるのは、怪我人《けがにん》と看護婦《かんごふ》だけ。ここは基地《きち》ではない。ドイツ軍《ぐん》め、呪《のろ》われるがいい!」
ブライアンが頬《ほお》をゆがませて、笑う。小さな声で、窓の外から響いた少女の悲鳴に、補足《ほそく》する。
「それから科学アカデミーの重鎮《じゅうちん》、ジュピター・ロジェと、彼らに加担《かたん》する奇術師《きじゅつし》、ブライアン・ロスコー。それだけじゃない。それらを阻止《そし》しようとする、オカルト省の、二人の老《お》いたスパイもいるのだ。だから狙われたのだよ……。君たち、少年兵と少女看護婦は、彼らの隠《かく》れ蓑《みの》だったのだ……」
二人の老女は、短刀を構《かま》えたまま、一歩、近づいてきた。
ブライアンが一歩、下がる。
窓の外で爆撃の音、そして少女たちの悲鳴が聞こえてくる。「呪われろ」「呪われろ」「ドイツ軍め」「呪われろ」「呪われろ」「呪われろ」無邪気《むじゃき》な、若々しい声たち。それをさえぎるように、二人に増えたミシェールはしわがれた、老女《ろうじょ》特有《とくゆう》の声で言った。
「科学アカデミーに協力する人間を、許《ゆる》すわけにはいかぬ」
「なんと。君たち……ミシェールは二人いたのかね。いや、驚《おどろ》くには当たらない。奇術師のトリック〈同時存在〉の多くは、双子《ふたご》の奇術師を使って行われる。驚くには当たらない。俺も、まぁ、同じようなものだ……。〈同時存在〉がもっとも原始的なトリックなのはわかっている」
「許すわけにはいかぬ、ロスコー」
「しかし、君がスパイだったのは意外だ。だって、君たちはスパイという年では……。君たちは年をとりすぎている[#「年をとりすぎている」に傍点]。ちがうかね?」
「我らは」
二人のミシェール――看護婦の制服《せいふく》をきた老女たちが、また一歩、近づいてきた。数日前、修道院の外にある墓地で祈《いの》りを捧《ささ》げていたときと同じ、寂《さび》しげな表情だった。
ゴースト・マシンが唸《うな》った。ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ。
窓の外で、夜空に巨大なマリア像が浮かび上がった。満月の夜。紫色に沈《しず》む海に長い髪をたらす、地上から遥《はる》か彼方《かなた》までそびえる、巨大な聖母の姿。砂浜《すなはま》で、少女たちが声を上げた。
「マリア様だわ」
「聖母マリア!」
「マリ、ア……」
ゴースト・マシンが唸る。ごぉぉぉぉぉぉぉっ。
ブライアンがつぶやく。
「君たちは二人で一役をやっていたのだな。そうだ、この修道院についたとき、最初に俺《おれ》が行き会って、道案内をしてくれた老女は、看護婦の制服を着て、白髪《はくはつ》を垂《た》らして、そして青い瞳《ひとみ》をしていた」
「そう」
青の瞳のミシェールが、しわをうごめかせてうなずいた。
「わたしがカーミラ」
「なるほど。二人で一つの偽名《ぎめい》を使っていたのか。偽名なので、名前を聞いたときにとっさに出てこず、少し考えてから答えたのだな。そして、つぎに出会った……部屋に紙束《かみたば》を持ってきてくれと頼《たの》んだときに話したのは、同じ看護婦の制服を着て、白髪をたらした、黒い瞳のミシェールだった」
黒い瞳のミシェールも、うなずいた。
「わたしがモレラ」
青い瞳のミシェールのほうには、よく見ると、頬《ほお》に刃物《はもの》による切り傷があった。痛々《いたいた》しく暖炉《だんろ》の炎《ほのお》に浮《う》かび上がっている。ブライアンは片頬でにやりと笑った。
「ふむ。君たちは双子であることを隠してこの要塞《ようさい》に入り込み、スパイ活動をしていたのか。昨夜、俺を襲《おそ》ったのがおまえだな。あのとき青い瞳を確かに見た。そして、後を追った俺がみつけたのが、黒い瞳のおまえだ。もうずいぶん前から病室にいたと、何人もが証言《しょうげん》した」
「そうだ」
「そうだ」
二人は同時にうなずいた。
ゆっくりとブライアンに近づいてくる。
「ふむ。あのとき、君がそらんじた詩――青き両《ふた》つの君が眼《め》は、わがまなかいに漂《ただよ》いて――。濃青《こあお》の夢の生みとなり、わが心にぞ打寄《うちよ》する=Bあれを聞いたときに気づくべきだったな」
ブライアンは自嘲的《じちょうてき》につぶやいた。それから、幻灯機に触《ふ》れるとなにか操作《そうさ》をした。窓の外で、「涙《なみだ》が!」と声がした。夜空に浮かぶマリア像《ぞう》が、悪夢《あくむ》の如《ごと》き滂沱《ぼうだ》の涙を流し始める。暗い紫色の海に向かって、悲しみの滝《たき》が流れ落ちていく。二人のミシェール……オカルト省のスパイ、カーミラとモレラが短刀を握《にぎ》りしめ、ブライアンに近づいてきた。
「呪われた、灰色狼《はいいろおおかみ》のできそこないよ!」
「狼に似合《にあ》わぬ赤髪の青年、ブライアン・ロスコーよ!」
「我らは」
「オカルトを信じるものたちの末裔《まつえい》」
「ソヴュール王国オカルト省のもの」
「我らの擁護者《ようごしゃ》、アルベール・ド・ブロワ侯爵《こうしゃく》に忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》ったもの」
「できそこないよ」
「科学に寝返《ねがえ》った、人間とのハーフ」
「できそこないの、哀《あわ》れな灰色狼よ……」
窓の外で、錐《きり》もみ状に戦闘機《せんとうき》がいくつも、夜の海に落下していった。砂浜に落《お》ちて黒煙《こくえん》を上《あ》げるもの。満月に照らされる夜空で、互《たが》いにぶつかり合いねじれあうように堕ちていくもの。やがて夜空には一つも戦闘機は見えなくなった。砂浜からのろしのように上がるオレンジ色の火柱たちが、ぱちぱちと激《はげ》しい音《おと》を立てていた。
部屋の中では、カーミラとモレラが短刀《たんとう》を手に、ひらりと床《ゆか》を蹴《け》って飛翔《ひしょう》し、ブライアンに襲い掛《か》かっていた。ブライアンは身をかわすと、カーミラの頭に肘《ひじ》を当てて、よろめいたところで短刀をもぎ取った。そこに飛びかかってきたモレラの短刀が、腕《うで》をかする。血が滲《にじ》む。ブライアンの眉《まゆ》がピクリと動く。
奪《うば》った短刀を、モレラに向かって思い切り突《つ》き出す。モレラは老女とは思えぬ敏捷《しゅんびん》さでとびさすると、ブライアンの眉間《みけん》に向かって正確に、短刀をぶんっと投げた。
間一髪《かんいっぱつ》、ブライアンは頭を下げてやり過ごした。短刀は恐《おそ》ろしい力で、背後《はいご》の壁《かべ》に突き刺《さ》さるとぶるるるっと震《ふる》えた。
「なっ……」
ブライアンは顔を上げた。額から冷《ひ》や汗《あせ》が垂《た》れおちる。
「ど、どこへ、いった……?」
開け放たれたドアが揺《ゆ》れていた。ブライアンはあわてて廊下《ろうか》に飛び出した。しかし、暗い螺旋《らせん》の迷宮《めいきゅう》には、二人の細い老女の姿はもう、なかった。
「カーミラとモレラ……」
震える声で、ブライアンはつぶやいた。
「ブロワ侯爵《こうしゃく》の手のものか」
ゆっくりと部屋に戻《もど》ってくる。膝《ひざ》が笑っている。いまさら、冷や汗が吹《ふ》き出て止まらなくなる。いちばん最初に修道院に着いたとき、よろよろと出てきた人のよさそうな老女、青い瞳のミシェールの様子を思い出す。そして、紙束《かみたば》を抱《かか》えて廊下を歩いてきた、いかにも温厚《おんこう》そうな黒い瞳のミシェールのことを。震えが走る。
「覚えておこう」
そうつぶやくと、ブライアンは幻灯機《げんとうき》のスイッチを乱暴に切った。
窓の外で、夜空に浮かび上がり滂沱の涙を流していた巨大な聖マリアが、かき消えた。砂浜には血まみれの少女たちの死体と、燃える戦闘機の、橙色《だいだいいろ》の狼煙《のろし》。そして後はただ、きらめく星空だけが、悠久《ゆうきゅう》の時を過ぎてもそこに在《あ》り続ける星たちだけが、変わらずそこにきらめいていた……。
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第八章 せまりくる水
観客《かんきゃく》たちが集まる部屋に、しだいにざわめきが広がり始めた。互《たが》いにささやきあい、眉《まゆ》をひそめ……荷物《にもつ》を持って部屋から出て行こうとするものたちもいた。
一弥《かずや》がなんだろうとトランクから立ち上がり、手近《てぢか》な観客に聞くと、
「君、そろそろ帰りの列車《れっしゃ》が到着《とうちゃく》する時間なんだよ」
「あぁ、なるほど」
一弥はうなずいた。
「でも、事件が起こったんだから勝手に帰れないんじゃないですか? ここには通信機械《つうしんきかい》がないわけだから、その列車で警察を呼びに行って、それから戻ってきて、捜査《そうさ》が始まって……」
「それがいやだから、みんなあせってるのさ。これは週末のお遊びだ。週が明けてもここに足止めさせるようなら、それぞれの仕事や学業《がくぎょう》にも支障《ししょう》が出る」
「あぁ……」
その観客もまた、話し終わると、足早に廊下に出て行った。一弥は、相変わらずトランクの上でぐにゃぐにゃになって座《すわ》っているヴィクトリカを振《ふ》り返って、声をかけた。
「待っててね、ヴィクトリカ。外の様子をみてくるよ」
「う」
ヴィクトリカは面倒《めんどう》くさそうに、陶製《とうせい》の小さなパイプをつやつやした唇《くちびる》にくわえたまま、物憂《ものう》げにうなずいた。一弥はばたばたと廊下に出て行った。
あちこちの部屋から、待機《たいき》していた観客たちがぞろぞろ出てくる。それを、黒衣《こくい》の修道女《しゅうどうじょ》たちが押《お》しとどめようと四苦八苦《しくはっく》していた。
一弥はふと耳に、聞きなれない雑音《ざつおん》が届《とど》いたような気がした。人波《ひとなみ》に逆行《ぎゃっこう》するように、螺旋《らせん》の廊下をゆっくりと上っていく。上がるほどに人の姿は消えて、相変わらず、ドアから出てきてはべつのドアに消えていく、黒衣の修道女だけが時折《ときおり》、横切るのみになった。
一つのドアの前で、一弥は足を止めた。
奇妙《きみょう》な音が聞こえてきていた。部屋の中からだ。
ガーッ。
ピィィィィィィィィィッ。
そしてその音に混《ま》ざるように、がりがりと割《わ》れた、人工的な、声。
〈形見箱《かたみばこ》は?〉
答える声は、聞き覚えのある男のものだった。
「わからん。雌狼《めすおおかみ》がやってこないのだ。コルデリアはどこにいったのだ? わたしの考えでは、娘《むすめ》の気配を察《さっ》して必ずやって来るはずだったのだ」
〈まだ、そこにあるのだろうか?〉
「そうだろうと考えてはいるが。あぁ、我が妻[#「我が妻」に傍点]はなぜ、やってこないのだろう。まさか、どこかですでに命を落としているのではあるまいな」
〈コルデリア・ギャロ――君の妻の生存は、確かに確認《かくにん》できていない。ブロワ侯爵《こうしゃく》〉
一弥はあっと叫《さけ》んだ。
ドアのノブに手をかけ、思い切り開けた。
そこに立っていたのは……あの、オールド・マスカレード号に乗って一緒《いっしょ》にここにやってきたはずの老人だった。
部屋の中には大きな黒い通信機械が、でんと居座《いすわ》っていた。その前に座っているのは、あの老人……娘を探しにいくのだと語っていたあの、緑《みどり》の瞳《ひとみ》をした老人だった。
とはいえいまはもう老人の姿ではなかった。しわだらけのように見せていたメーキャップは拭《ふ》き落とされ、そこには壮年《そうねん》の、美貌《びぼう》とはいえるがどこか険《けわ》しい、陰《かげ》のある顔つきをした男がいるばかりだった。服装はさきほどまでと同じだが、曲がっていた背はぴんと伸《の》びていた。それは奇妙な変化だった。時の流れに逆行《ぎゃっこう》し老人が壮年の男に若返ったかのような……。
男の左右には本物の老女――カーミラとモレラのフェル姉妹《しまい》が、彼を守るようにして立っていた。青い瞳と黒い瞳が、ひたと一弥を睨《にら》みつけた。
「通信機械、あるじゃないか……。それなら、警察を呼ぶことだって……」
「もちろんできるとも」
男はにやにやと笑った。
「しかし、この機械があることを知られるわけにはいかないのだ。ただの修道院にこんな大仰《おおぎょう》なものがあるのは、おかしいからね。……久城《くじょう》一弥くん」
ゆっくりと男が立ち上がった。
しん、と冷《ひ》え切《き》った迫力《はくりょく》があった。一弥《かずや》は思わず一歩、下がろうとしてかろうじて踏《ふ》みとどまった。あの灰色狼《はいいろおおかみ》たち……ブライアン・ロスコーや、コルデリア・ギャロと対峙《たいじ》したときに感じた、巨大《きょだい》な肉食獣《にくしょくじゅう》の前にいるが如《ごと》き、原始的な恐怖《きょうふ》。あれとはまたちがう、奇妙に静かな恐怖だった。この世の終わりの時を見ているような。絶望感《ぜつぼうかん》と、冷えた諦念《ていねん》。一弥はごくりとつばを飲んだ。
(ブロワ侯爵……。コルデリアを我《わ》が妻《つま》と呼んでいたこの人こそ……)
膝《ひざ》ががくがくと震《ふる》える。つい数時間前まで、気楽に、列車の中で話していたのが嘘《うそ》のようだ。
(アルベール・ド・ブロワ侯爵……。伝説の、オカルト省の狂った重鎮《じゅうちん》。世界大戦《グレートウォー》で暗躍《あんやく》し、都市をさまよっていた灰色狼をみつけて、捕《と》らえた……)
知らず、顔が蒼白《そうはく》になる。
(そして、ヴィクトリカの父!)
ブロワ侯爵は白髪《はくはつ》の鬘《かつら》をすでに取り去っていた。もとは金色だったらしい、ところどころきらきらと銀色の変わり始めた長い髪《かみ》をたらして、しゃれた片眼鏡《かためがね》をかけていた。そのせいで、緑色の瞳は片方だけが大きく拡大《かくだい》されて見えた。ひたと一弥をみつめている。
その左右で、フェル姉妹がしわだらけの顔をゆがめて、くすくすと笑った。
「久城一弥くん、わたしと会うのは初めてだね」
「ええ……」
「ふむ。君があれのためにこんな遠くまでやってくるとは、正直、計算外だった。本当はあの列車で、あれの母親であるコルデリアがやってくると考えていたのだよ。それで変装《へんそう》して乗り込んでいたのだ。それなのに狼はこず、代わりに君がやってきた。奇妙な東洋人の少年が」
「ヴィクトリカを、勝手な都合《つごう》で移送して、痛めつけて……」
「我々には目的がある。ジュピター・ロジェ……科学アカデミーの男より先に、あの二|匹《ひき》の狼だけが隠《かく》し場所を知っている、形見箱を見つける必要があったのだ。あれこそが、まずは科学アカデミーを追い落とすキーワードとなるものだ。そしてあれは遠からず、近代化していくこの世界の命運《めいうん》を左右する、恐ろしいパンドラの箱となるはずのものだ。開けてはならぬ禁断《きんだん》の、形見箱。わたしはそれを見つけるために娘を使ってあれをおびきよせようとしたのだ」
ブロワ侯爵は冷たい口調で言った。一弥が唇《くちびる》を噛《か》む。
「そんな、政治的《せいじてき》な都合《つごう》で、ヴィクトリカを……」
「あれはわたしの娘だ。娘をどうしようとわたしの裁量《さいりょう》一つではないかね? わたしは父だ。血のつながりなどたいしたことではない。国の大事《だいじ》のためには」
一弥はカッと頭に血が上るのを感じた。
国の長兄から送られてきた手紙や、雑誌の記事などがふと頭をよぎった。国の大事のために生きることや、自分のことよりも国を優先することなどについてかかれていた……。
一弥は、ただヴィクトリカが心配でここまでやってきた自分のことを思った。国のためや大儀のためでなく、ただ一人の女の子のために、いてもたってもいられずここまで旅をした自分の行動のことを。男として、これから大人になっていく者として、その行動は果《は》たして、まちがっていたのだろうか。
なんのために、どんな大儀を背負《せお》って走ることが、大切なのだろうか。
それとも……。
「あれはわたしの道具なのだ。そのために産《う》み落《お》とされた、小さな狼だ」
ブロワ侯爵が、片眼鏡によって拡大された濁《にご》った緑色の瞳を見開き、つぶやいた。一弥は静かに答えた。
「それでもあなたには、ヴィクトリカを愛し、守る義務《ぎむ》がある。なぜなら、あなたがヴィクトリカの父だからだ。人には、人を愛する義務がある。そしてその人を、命をかけて守るという責任が」
ブロワ侯爵は一瞬《いっしゅん》、虚《きょ》をつかれたような顔をしたが、つぎの瞬間、にやりとした。
「これは驚《おどろ》いた。それが東洋の思想かね?」
「東洋もなにもない」
一弥は静かに言った。
「あなたという人間が、怪物《かいぶつ》なんだ。ヴィクトリカじゃない。彼女はぼくが、ぼくが……ちゃんとつれて帰る。安全な場所へ。責任を持って」
「ふむ。若いというのは、おもしろいものだな。しかし、少年よ……。あの学園もまた、わたしの力の及《およ》ぶ場所だということを忘れるではないぞ」
ブロワ侯爵は苦《にが》い笑《え》みを浮《う》かべた。
それから立ち上がると、そのせまい部屋を出て、歩き去ろうとした。フェル姉妹《しまい》も後に続く。
「警察がくる前に、わたしたちは去《さ》るとするよ。ここはオカルト省の管轄《かんかつ》で、修道女たちもすべてわたしの部下たちだ。しかし、この国の警察がきたときにわたしがいるとまずい。院長と修道女たちだけなら、ただの修道院だと思わせることができるだろう」
「あの二つの事件は……。サイモン・ハントと、修道士イアーゴの……」
一弥がつぶやくと、ブロワ侯爵の背後《はいご》に付《つ》き従《したが》っていたフェル姉妹が、同時に振《ふ》り返った。しわだらけの青白い顔をゆがめて、つぶやく。
「あの二人は」
「わたしたちが」
「殺した」
「二人で」
「力を合わせて」
「侯爵の邪魔《じゃま》になるものたちだったから」
「しかし」
「そのことは誰《だれ》にも知られぬままだろう」
同時に口を閉じると、くるりときびすを返して、二人は侯爵の後に続いて廊下《ろうか》に消えていった。
「なっ?」
一弥は絶句《ぜっく》した。それからあわてて廊下に飛《と》び出《だ》した。
「あっ……」
遠くでドアの閉まる音がした。
老化は無人だった。
しん、と冷たく静まり返っている。
と……。
べつのドアが開いて、また黒衣《こくい》の修道女が出てくる。べつのドアからも出てくる。またちがうドアに消えていく。ただ、その繰《く》り返し……。
一弥は頭を抱《かか》えた。それから、廊下を走り出した。おいてきたヴィクトリカの元に戻《もど》るために……。
螺旋《らせん》の迷宮《めいきゅう》をぐるぐると、走って、走って、一弥はまた、もとの部屋に戻った。観客たちの姿はだいぶ減《へ》っていた。部屋の隅《すみ》に相変わらず、大きなトランクが横になって、でんと鎮座《ちんざ》していた。
そのトランクの上に、日向《ひなた》ぼっこをする仔猫《こねこ》のような様子で、赤スグリ色のトーションレースのドレスに銀のブーツ、薔薇《ばら》のミニハットをかぶったヴィクトリカが、うつぶせに寝転《ねころ》んでいた。まだからだが弛緩《しかん》しているようで、ぐにゃん、とした様子で、こちらをじっとみつめていた。さくらんぼみたいなつやつやの唇《くちびる》に、陶製《とうせい》の小さなパイプをくわえている。ぷかり、ぷかり、と白い細い煙《けむり》が、天井《てんじょう》に向かって揺《ゆ》れながらのぼっていく。
緑の瞳が、すわっていた。ほっぺたは不機嫌《ふきげん》そうにふくらんでいた。
「ヴィクトリカ、まだ……だるいの?」
「う」
「……ちゃんと返事《へんじ》しなよ。あのね、いま、奥《おく》のほうの、部屋で……」
言いかけて一弥は口をつぐんだ。
それから、ぐにゃん、としているヴィクトリカの横にちょこんと腰《こし》かけた。大きくため息をついて、
「国のことと、個人のこと。どちらが大切なんだろうな」
「悪い頭《あたま》であれこれ悩《なや》むな。さらにばかになるぞ」
「そうだね。……コラッ!」
怒《おこ》られたヴィクトリカは、飼《か》い主《ぬし》に叱《しか》られた仔猫みたいに、ぴくんっ、と震《ふる》えた。それから機嫌を損《そん》じたようにほっぺたをふくらませた。
一弥が、どんどん人が減っていく部屋の中を見回して、つぶやいた。
「ぼくらも、外に出てみようか」
「う」
ヴィクトリカはパイプをぷかぷかふかしたまま、こくっとうなずいた。
片手でトランクを引っ張り、もう片方の手でヴィクトリカと手を繋《つな》いで、廊下を歩き出した。しばらく行くと、螺旋の廊下を下れば下るほど床《ゆか》が奇妙《きみょう》に湿《しめ》ってきた。びしゃっ、びしゃっ……と歩くたびに水音が響《ひび》くようになる。やがて床が浸水《しんすい》しているように水がたまりはじめた。ヴィクトリカがいやそうに顔をしかめる。
「あのさ、ヴィクトリカ……」
一弥は言葉少なになりながらも、ぐにゃぐにゃしながらゆっくりと隣《となり》を歩いているヴィクトリカにいった。
「さっき……君の」
「父に会ったか」
一弥は立ち止まった。じっとヴィクトリカを見下ろす。ヴィクトリカはつまらなそうに小さな形のいい鼻《はな》を鳴らして、
「知恵《ちえ》の泉だ」
「きているのを知ってたの?」
「母を呼び寄せるために、わざわざこのわたしをこんな遠くまで移送《いそう》させたのだ。となれば、あの男も直接、乗り込んでくることだろうよ……」
そうつぶやくとヴィクトリカはうつむいた。
「わたしは有効≠ネのだ。あの男――父にとっては」
ちいさな肩《かた》が震えていた。
一弥はその手をぎゅっと握《にぎ》ると、廊下をまた歩きだした。
ヴィクトリカの手は、冷《つめ》たかった。かすかに震えているような気がした。
「久城」
「ん……?」
「君、自分はどうして生れてきたのか、考えたことがあるか」
一弥は黙《だま》った。
ヴィクトリカもなにも言わない。
廊下はやがて、歩きづらいほどに浸水してきた。水をかきわけて戻ってきた男たちが、あわてたように一弥たちに向かって叫《さけ》んだ。
「たいへんだ。水門が開《ひら》きだしている!」
「なっ?」
一弥は驚《おどろ》いて聞き返した。
「水門って、あの大きな?」
「そうだ。ゆっくりゆっくり、左右に開いているところだ。この下はもう、浸水していて君らの身長《しんちょう》では歩けないぞ。俺《おれ》たちも危険《きけん》だから戻ってきたぐらいだ」
もう一人の男が、廊下を戻りながら、
「高台のほうを向いている窓を探《さが》して、出たほうがいい。海岸の、水が迫《せま》っていないほうから駅のホームに向かうんだ。こっちはもうだめだ」
一弥はくるりときびすを返した。ヴィクトリカが暗《くら》い、水に沈《しず》む廊下を見つめているので、一弥も振《ふ》り返った。ぷかぷかと客のものらしいトランクが浮《う》いていた。手鏡《てかがみ》や、鞄《かばん》、脱《ぬ》げてしまったのか紳士《しんし》用の靴《くつ》も浮いていた。一弥がヴィクトリカをせかして、歩きだす。
ドアの一つを開けて、修道院の海とは反対側に向かってついている窓を見つけて、下を見下ろした。こっちはまだ水が迫ってきていない。暗い夜空と、砂浜《すなはま》。その向こうに半分ほど開いている水門と、海岸沿いに迫ってくる水が見えた。一弥はまずトランクを窓の外に投げ落とすと、それに向かって自分が飛び降りた。トランクの上に立って、窓辺《まどべ》で小鳥のように小首をかしげているヴィクトリカに、両手を伸《の》ばす。
「はい、飛び降りて、ヴィクトリカ」
「む」
ヴィクトリカはなんの躊躇《ちゅうちょ》もなく、一弥の伸ばした両腕《りょううで》を信じきった様子で、軽々と飛び降りてきた。赤いフリルのかたまりがふわふわっと落下してきて、ふわふわのスカートの奥でさらにふくらんでいる雪のように白いドロワーズと、薄絹《うすぎぬ》の靴下に包《つつ》まれた折《お》れそうに細いふくらはぎを一瞬《いっしゅん》、きらめかせながら一弥の胸の中に飛び込んだ。ふわん、と仔猫《こねこ》一匹《いっぴき》ぐらいの軽さで、ぐんにゃりとしたヴィクトリカを無事《ぶじ》、抱《だ》きとめた。
一弥はヴィクトリカと手を繋《つな》ぎ、トランクを持って砂浜を走り出した。
暗い夜空から、パラパラとまだ雨が降り続いていた。時折《ときおり》、雲間《くもま》から現《あらわ》れる満月が、雨粒《あまつぶ》の一つ一つをきらきらと輝《かがや》かせていた。紫色《むらさきいろ》の海もまた、波《なみ》を寄せては返していた。海面にも雨が激しく降り落ちて白い泡《あわ》をうごめかせている。
砂浜に散らばった観客たちはみな、雨の中を傘《かさ》をさしたり、遠くにうっすらと浮かび上がる駅のホームに向かって走ったりしていた。遠くから、かすかに、汽笛《きてき》のような音が聞こえた。一弥は耳《みみ》を澄《す》ました。
やっぱり、汽笛だった。
オールド・マスカレード号が戻《もど》ってきたのだ。
やがてきらめく雨の中を、夜を切るようにその黒い車体が、揺《ゆ》れながら近づいてきた。汽笛が激しく鳴った。何度も、何度も。海がその音に負けじと、大きな波《なみ》をつくった。ざばんっと海が鳴る。何度も。何度も。
汽笛が近づく。
なにか、大きな振動《しんどう》のようなものが一弥たちを襲《おそ》った。
半分ほど開いていた水門が、揺らめいていた。巨大《きょだい》な壁《かべ》がうごめき、とつぜん、ゆっくりと下に向かって、完全に開いた。海水がのたうって、砂浜に向かって一気に流れ込んできた。
「水門が!」
誰かが叫んだ。
一弥はあっと息《いき》を呑《の》んだ。水がどんどんこちらに近づいてくる。
雨が降り続いている。
砂浜に立ちすくんで、修道女たちが叫んでいる。
「誰かが、機械に触《さわ》ったのだわ!」
「こんな満潮《まんちょう》のときに、まだ動くはずではないのに……」
一弥は、殺されたサイモン・ハントが、機械がたくさん動いている謎《なぞ》めいた部屋から出てきたことを思い出した。あのとき彼は、こっそりとなにかをやっていたようだった……。
(もしかすると、かれが……? 殺される前に、水門が動くようにセットしておいたんだろうか? 自分は生きて、逃《に》げる気で……。だって、帰りの列車がやってくる時間に合わせて開くなんて、偶然《ぐうぜん》とは思えない……)
一弥は我に返り、ヴィクトリカの手を強く握《にぎ》った。コルデリアにもらった紫の指輪《ゆびわ》が光る、小さな手。砂浜を走り出した。ヴィクトリカの足がもつれる。
「ヴィクトリカ!」
「久城……」
ヴィクトリカが、もつれた足を見下ろしていた。それから、後ろを振り向いた。
水が迫《せま》ってくる。
背後の、いま出てきたばかりの修道院に迫っていっている。
「わたしは走れない。まだぼんやりしてるのだ」
「知ってるよ! だからぼくが引《ひ》っ張《ぱ》ってる」
「おいていけ、久城」
一弥はむっとして、振り向いた。
ヴィクトリカはうつむいている。なんだか元気がない。
「あのねぇ、君。そんなわけないだろ。だいたいぼくは、君を迎《むか》えにきたんだよ? ヴィクトリカ、君をね。そうだろ」
「でも、わたしは……。久城……。わたしは……」
「ヴィクトリカ……」
「生れてきた意味《いみ》もわからぬのに、生きるために走れるものか」
急にヴィクトリカが、彼女らしからぬ、こどものようにあどけない声でいった。いつもの老女の如《ごと》くしわがれた声とは別人のような、心もとない、あまりに幼い声だった。
一弥は立ち尽《つ》くした。
それから急に、こぶしを握りしめると、ヴィクトリカの頭に振り下ろす真似《まね》をした。ヴィクトリカがきゃっ、というようにかたく目をつぶった。唇《くちびる》がぶるぶるっと震《ふる》えた。一弥はヴィクトリカの目線にあわせて、こどもにするようにかがんで、小さな顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「こらっ、ヴィクトリカ。君、へんなこというんじゃないよ、こんなときに」
一弥はヴィクトリカを叱《しか》った。
それから、迫ってくる水を見た。周囲の観客《かんきゃく》たちは、我先《われさき》にと高台《たかだい》にあるホームに向かって走るものと、修道院の上に行くことで助かろうとするものが半々《はんはん》だった。一弥はホームに向かって走りながら、ヴィクトリカの手をぎゅうっと握った。
強く。
「あのね、君」
「……なんだ?」
「ぼくは君を助けにきたんだし、君がぼくを助けてくれたこともある。ぼくたちは一心同体《いっしんどうたい》なんだ。自分だけ逃げたりなんかしない。一緒《いっしょ》に生きるか、一緒に死ぬかだ」
「久城……」
「ヴィクトリカ、ぼくは……」
水が迫ってくる。暗い、紫色《むらさきいろ》に沈《しず》む水が。白い泡《あわ》と、月光と。それから、降《ふ》り続《つづ》く雨の粒。
一弥は、トランクから手を離《はな》した。足をもつれさせる小さなヴィクトリカを、両腕《りょううで》で強引《ごういん》に抱《だ》き上《あ》げた。ヴィクトリカは驚《おどろ》いたようにあっと息を呑んだ。一弥の腕の中でこの不思議な少女は、重さなどない天上《てんじょう》の生き物のように、ふんわりと軽かった。一弥は走った。砂に足をとられ、迫ってくる水は一弥の走る速度よりもはやく、どんどん近づいてきた。
腕の中でヴィクトリカが、傷《きず》ついた小鳥のように小刻《こきざ》みに震えていた。
一弥は走りながら、つっかえながらも声に出して、言った。
「ぼくも、君とは少しちがうけれど、やっぱり、家族のことでいろいろと悩《なや》んでいたんだ。ぼくは父や兄ともいろいろ話したし、その意見《いけん》の違《ちが》いもあって、見聞《けんぶん》を広めたくて、留学《りゅうがく》してきたということもある。悩むことも、迷うことも多い。まだ十五|歳《さい》だ。世界は広くてわけがわからなくて、ぼくは未熟《みじゅく》で、だから、答えが出せないことも多い。でも、ぼくは君に出逢《であ》って……ひとつだけ、思ったことは……」
ホームが近づいてくる。ヴィクトリカが後ろを振《ふ》り向いて、あぁっと息を呑む。つられて振り向くと、手放したあの大きなトランクが波に呑まれて、紫色をした海の奥深《おくふか》くへ飲み込まれていくところだった。水は不快《ふかい》な轟音《ごうおん》をたててすべてを呑み込んでいく。巨大な化《ば》け物《もの》の舌《した》のようにうごめいていまにも二人を呑み込みそうに迫ってくる。
「見ちゃだめ、ヴィクトリカ」
「う、む……」
「とにかくヴィクトリカ」
一弥は走りながら、小さな声で言った。
「恥《は》ずかしいけれど、男子たるもの、声を大にして言うことではないけれど。でもぼくは思ったんだ。父や兄が主張するように、国のために走るかどうかが重要じゃない。これから先、どんな責任を持つ大人になっていくのかは、いまの自分にはわからない。でも、いまこのとき……大事なもののために……一人の女の子のためだけに走ることがあって、いいはずだって。ぼくには、義務《ぎむ》や責任《せきにん》があるように感じ始めてる。君っていう子を守る、責任が」
「君、頭が固《かた》いなぁ」
ヴィクトリカが混《ま》ぜっ返《かえ》した。
一弥はちょっとむっとして、黙《だま》った。
それから小さな声になって、つぶやいた。
「ヴィクトリカ。もしかしたら君にだって、そういうこと、あっていいじゃないか。一人の男のために生れてきたかもしれないってことが。大切な誰かに出逢うため、それだけに」
ヴィクトリカは答えなかった。
一弥は走り続けた。
やがて、腕の中でヴィクトリカが、すん、と鼻をすするのが聞こえた。
聞こえないほどのかすかな声で、老女の如《ごと》きしわがれ声が、一弥の耳元《みみもと》で震《ふる》えながら、つぶやかれた。
「君、守ってくれ。どうか、どうか守ってくれたまえよ……」
二人の背後《はいご》で、紫色《むらさきいろ》の巨大《きょだい》な波が、不吉にうごめきながらすぐそこまで迫《せま》っていた。
二人はホームに着いた。海水はどんどん迫ってくる。先に列車に乗り込んでいた女たちが振り返ると、二人を見つけてあっと叫《さけ》び、タラップから手を伸《の》ばしてきた。黒髪《くろかみ》の青い瞳《ひとみ》の少女と、おとなしそうな中年の女性だった。くるときの列車《れっしゃ》でも乗りあった女性たちだ……。二人は、少女がヴィクトリカを、中年の女性が一弥を、波に飲まれる寸前でそれぞれ引《ひ》っ張《ぱ》り上げて、よかったというように、ぎゅうっと抱《だ》きとめた。
汽笛が鳴《な》った。
オールド・マスカレード号が、広がってせまってくる海から逃《に》げるように、甲高《かんだか》い悲鳴《ひめい》のような汽笛とともにゆっくりと動き出した。
つぎつぎと列車に駆《か》け込《こ》んでくる観客《かんきゃく》たち。ヴィクトリカの緑の瞳が見開《みひら》かれているのに気づいて、一弥は列車の外に目を凝《こ》らした。
水は不気味《ぶきみ》な紫色の生物のようにうごめいて、修道院《しゅうどういん》に迫っていた。雨が降り続ける暗い空に、蠅《はえ》の頭蓋《ずがい》の如き修道院が、迫る水を睨《にら》みつけるように建ち続けていた。
「〈ベルゼブブの頭蓋〉――」
一弥はつぶやいた。
「死に呪《のろ》われた要塞《ようさい》。蝿の王――」
ヴィクトリカが、一弥の手をぎゅうっと握《にぎ》った。その顔を覗《のぞ》き込《こ》むと、いつもと同じけぶるような無表情で、なんの感じようも読み取れぬ、静かな、静寂《しじま》の横顔だった。
「だが、わたしたちは……」
ヴィクトリカがつぶやく。
「わたしたちは、生きている」
「うん……」
「君のおかげだ、久城」
小さな声だった。一弥は黙って、ヴィクトリカのぷくぷくした手を握り返した。
汽笛が鳴った。
オールド・マスカレード号は夜空に飛び立つかのように、海に侵食《しんしょく》されていくホームから、徐々《じょじょ》に遠ざかっていった……。
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幻灯機 ―ghost machine 5―
[#地付き]――一九一四年十二月十一日〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉
歴史に不吉《ふきつ》な名を刻む〈落下《らっか》させる聖マリアの怪《かい》〉事件が起こった翌日は、皮肉なほどによく晴れた、冬晴れの朝だった。
修道院《しゅうどういん》の入り口に、荷物をまとめて立っている若い男がいた。たてがみのごとき赤い髪に、緑の瞳。ほっそりとして背の高いその男――ブライアン・ロスコーは、瞳を細めて眩《まぶ》しそうに、海に映《うつ》る朝陽《あさひ》をみつめていた。
足元に、小さな荷物が一つだけおかれていた。幻灯機《げんとうき》は修道院の中に置《お》かれたままで、ブライアンは持ち帰ろうとはしなかった。彼に遅《おく》れて修道院から出てきたジュピター・ロジェは、ブライアンに気づくとうなずいてみせた。
「よくやってくれた。昨夜《さくや》の君の活躍《かつやく》は我《わ》が科学アカデミーの歴史に残ることだろう」
「うむ……」
ブライアンは短く返事をして、目をそらした。
「それにしても、あの老看護婦《ろうかんごふ》がまさか双子《ふたご》で、オカルト省のスパイだったとは。年老いてはいたが、よく働《はたら》くし、まったく問題のない人間だと思っていたのだが」
「そうだな」
ブライアンは薄《うす》く微笑《ほほえ》んだ。
「誰《だれ》も、老女がスパイだとは思うまい。歴史は常に若者がつくっていくと、我々若者は思っているものだ」
「うむ……」
「そして、時が過ぎ去ってから気づくのさ。……なにも変わっていない、と。一切《いっさい》はただ繰《く》り返されるだけなのだ、と」
「君はずいぶんとシニカルな若者だな」
「灰色狼《はいいろおおかみ》の特質《とくしつ》だよ。……荷物《にもつ》はもう調べたのだろう。俺《おれ》はもう、行くよ」
ブライアンのさりげない言葉に、一瞬《いっしゅん》、ジュピターはぴくりと肩《かた》を震《ふる》わせた。それから少しだけ笑って見せた。
「お見通しか」
「君たち科学アカデミーは、俺が〈名も無き村〉から持ち帰ったはずの、あの箱《はこ》……形見箱《かたみばこ》を探しているはずだ。もしも俺が、この修道院に持ち込んだのだとしたら、ここを出るときに持って出ようとする、君たちはそう推理《すいり》するはずだ。出て行くときの俺の荷物を、こっそり調べないはずがない」
「そこまでわかっているのなら、ついでに、身体検査《しんたいけんさ》をさせてもらうよ」
ジュピターの合図で、科学アカデミーの職員《しょくいん》たちである青年たちが進み出てきた。ブライアンの細いからだを、服の上から調べていく。やがてなにも隠《かく》していないことを確認《かくにん》すると、男たちはようやくブライアンから離《はな》れた。
「もう、いいかね」
そうつぶやいたとき、遠《とお》く、水門の向こうにある無骨《ぶこつ》な、ホームが一つあるきりの駅に向かって、蒸気機関車《じょうききかんしゃ》がゆっくりと近づいてきた。遠くで汽笛《きてき》が鳴《な》る。ブライアンは歩き出した。
朝の空に黒煙《こくえん》をはきながら、機関車がやってくる。砂浜をぶらぶらと歩き、巨大《きょだい》な蠅《はえ》の頭《あたま》に似た石の修道院から、ブライアンは遠ざかっていく。
ブライアンは誰にも聞こえないように小声で、つぶやく。
「ふん。予想通りだな……」
乾《かわ》いた砂浜には、昨夜、落下させたドイツ軍の戦闘機《せんとうき》の残骸《ざんがい》がところどころに散らばっている。燃《も》え尽《つ》きた真《ま》っ黒《くろ》な残骸は黒く塗《ぬ》られた巨大な動物の骨のように、不吉に、朝の爽《さわ》やかな海岸にごろごろと転《ころ》がっていた。ブライアンはそれらを冷たい、感情のこもらない目つきで一瞥《いちべつ》すると、またつぶやいた。
「形見箱の回収《かいしゅう》は当分、難《むずか》しいが……。あの朱色《しゅいろ》のドアの部屋に隠しておこう。戦争が終わればすぐに回収しにこれるはずだ。俺が近づくと警戒《けいかい》されるかもしれないが……。ふむ、うまくやろう」
遠ざかっていくブライアンの背中に、ジュピター・ロジェが声をかける。
「ブライアン、この戦争における君の役目は大きい。遠からず、君の奇術《きじゅつ》の腕《うで》に、また頼《たよ》る日がくるだろう。すぐにまた連絡《れんらく》させてもらうとするよ」
その声にブライアンは振《ふ》り返ると、黙《だま》ってうなずいてみせた。
薄く微笑む。
駅のホームで、機関車が黒煙をはきながら停《と》まっていた。〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉は、オールド・マスカレード号の長い旅路《たびじ》の終点だ。この後はまた、ここを始発駅として長いレールを、どこまでも走り出す。さまざまな人物の思惑《おもわく》を乗せて。戦時中も、変わらず。走っている。
ブライアンがタラップに飛《と》び乗《の》る。
車掌《しゃしょう》が、ゆっくりと、列車の鉄のドアを閉《し》める。
たった一人の乗客、ブライアン・ロスコーを乗せて、ゆっくりと、オールド・マスカレード号は朝を横切《よこぎ》るようにして走り出した……。
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エピローグ 絆《きずな》
オールド・マスカレード号の車内《しゃない》は混《こ》み合《あ》っていた。なんとか乗り込んだ観客《かんきゃく》たちが、走り始めた列車の窓《まど》から、まるで意志を持った存在であるかのように地上を嘗《な》め尽《つ》くしていく紫色《むらさきいろ》の海を呆然《ぼうぜん》とみつめていた。
一弥《かずや》とヴィクトリカは混乱する車内で、二等客室の一部屋をみつけて、そこに入った。小さな固いベッドが二つと、簡単なテーブルがあるだけの小さな部屋だった。ヴィクトリカがベッドの上にちょこんと座《すわ》る。
窓の外は、どこまでも続く紫色の海。相変《あいか》わらず雨はひどくて、透明《とうめい》な雨粒《あまつぶ》が窓ガラスに激《はげ》しく叩《たた》きつけられていた。揺《ゆ》れる列車《れっしゃ》。響《ひび》く、汽笛の音。廊下《ろうか》からはばたばたと走り回る人々の足音や、怒号《どごう》、誰《だれ》かを探す声などが響いている。
「結局、どういうことだったんだろう……」
一弥が誰にともなくつぶやくと、物憂《ものう》げに窓の外を見ていたヴィクトリカが、うっすらと唇《くちびる》を開いた。
「言語化《げんごか》してほしいかね、君?」
「うん。……えっ? どういうことだったのかわかっているのかい、ヴィクトリカ?」
「もちろんだ」
ヴィクトリカはつぶやいた。
どこかしょんぼりした暗い声だったので、一弥は心配そうにその小さな顔を覗《のぞ》き込《こ》んでみた。ヴィクトリカはうるさそうに、蠅《はえ》でも追っ払《ぱら》うようにしっしっと一弥をはたいた。
「いたた! なんだよ、ヴィクトリカ。元気がないから心配してるんだよ、君ってばほんとに……」
「この事件はすべて、最初から、過去の因縁《いんねん》がかかわっていたのだよ、久城《くじょう》」
「過去の因縁?」
一弥は文句を言うのをやめて、ヴィクトリカの顔を見つめた。
ヴィクトリカの表情は読めなかった。相変わらず、百年の時を生きた老人のような、静かな、退屈《たいくつ》と絶望《ぜつぼう》と諦念《ていねん》の入《い》り混《ま》じった不思議な表情を、それとはあまりに似合《にあ》わない、お人形のそれのような小さなかわいらしい顔に浮《う》かべていた。
「どういうこと?」
「あの修道院――〈ベルゼブブの頭蓋〉は十年前、世界大戦《グレートウォー》のころにはソヴュールの科学アカデミーの要塞《ようさい》として使われていた。科学アカデミーの重鎮《じゅうちん》、ジュピター・ロジェという男は、我《わ》が父、オカルト省を率いるアルベール・ド・ブロワの宿敵だ。貴族の出自であり、古き力を信じるわが父と比べ、ジュピター・ロジェは平民出身で、新しい力、科学を信奉《しんぽう》する男だ。科学アカデミーとオカルト省を巡《めぐ》る対立は、そのまま、古き力を信じる貴族と、新しき力でのし上がろうとする平民である、二人の男の対立構造であるともいえるのだ」
「ふぅん……」
「そしてそのジュピター・ロジェと、戦時中、強い結《むす》びつきがあったといわれるのが、灰色狼であるはずの奇術師《きじゅつし》、ブライアン・ロスコーだ。古き力の血を引く彼は、なぜか、新しき力を信奉する男に協力した。ブライアンはまた、ブロワ侯爵《こうしゃく》が探している我が母、コルデリアとともに行動しているとも言われていた。コルデリアはおそらくだが、その小さなからだを利用してブライアンの奇術を助けるとともに、追っ手からうまく隠《かく》れ続《つづ》けていたのだろう。あのチェス・ドールの中に隠れていたように」
「えっ? チェス・ドールって……」
「君、確か君は、くる途中《とちゅう》の列車の中でチェス・ドールに頭を叩《たた》かれた、と言っていたね。そして箱の中を開けてみたけれど、中にはなにもなかった、と。チェス・ドールの仕組みはおそらくこうなっているのだと推測《すいそく》されるよ」
ヴィクトリカは小さな指でくもった窓ガラスに図を描いてみせた。
「左側のドアを開けてみたとき、中に詰《つ》まっていた機械《きかい》。これはおそらく可動式《かどうしき》なのだ。このとき小さなからだのコルデリアは右側に隠れていた(B)。そして、右側のドアを開けるときには、機械そのものを右に動かし、左側に隠れたのだ(A)。チェス・ドールの人形部分を動かすときは人形の内部に上半身を入れる。こうやって、小さな箱の中に彼女は隠れ、荷物《にもつ》としてどこにでも入り込めた。敵の牙城《がじょう》である〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉にも。いうなれば、小さくてユーモラスなトロイの木馬だ。そして彼女は、出て行くときは、自分とそっくりの顔をした娘《むすめ》、すなわちわたしが同じ建物内《たてものない》にいることを利用し、わたしのふりをして堂々と出て行ったのだ。形見箱《かたみばこ》を回収して」
「あぁ、そういうことだったんだ……」
一弥は嘆息《たんそく》した。ヴィクトリカは続ける。
「さて、彼女の相棒であるもう一|匹《ぴき》の灰色狼《はいいろおおかみ》、ブライアン・ロスコーはだな。戦時中、この修道院で科学アカデミーに協力し、工作活動をしていた」
ヴィクトリカは薄《うす》く笑《わら》った。
「しかし、たいへんに皮肉なことにだね、君。終戦後、科学アカデミーが手放したこの修道院を、オカルト省《しょう》が使い始めたのだ。表向きは修道院として。しかし、あの満月の夜に行われる怪《あや》しげな夜会〈ファンタスマゴリアの夜〉は、君、オカルト省による、古き力をアピールするための催《もよお》しでもある。彼らは奇術のトリックを使い、あくまでもそれを魔術《まじゅつ》だと言い張り、あの出し物を続けていたのだ」
列車は揺《ゆ》れながら走り続けている。
「まず、あの夜会で繰《く》り広《ひろ》げられていた数々の魔術について言語化してやろう。空中に浮く美女は、彼女の背後に滑車《かっしゃ》つきの機械を隠して、表向きは宙を浮いているように見せていたのだ。そして歯で弾丸《だんがん》を受け止める術についてはさらに簡単だ。錫と水銀を混ぜて作った合金でできたにせものの弾丸を使ったのだよ。それは一見、本物と区別がつかないが、つついただけで粉々になるような代物《しろもの》なのだ。それを客に渡《わた》して銃《じゅう》につめさせ、発砲《はっぽう》させれば、にせものの弾丸は粉々に砕《くだ》け散《ち》る。そこで、口の中に隠しておいた本物の弾丸を噛《か》んで、口を開けて見せるだけだ。なんともこどもだましの奇術なのだよ」
「へぇ……」
「さて、今宵《こよい》、そのいんちきの夜会にやってきたのが、二人の男だった。一人は役人、サイモン・ハント。もう一人はバチカンの修道士、イアーゴ」
「二人とも殺されたね……」
「そうだ。まず、サイモン・ハントについて説明しよう、久城」
ヴィクトリカはつぶやいた。
「最初に殺された、あの殺された男……サイモン・ハントは、君の話では、魔力や古き力について懐疑的《かいぎてき》だった。君の時計が止まったのを直したとき、そういったトリックを、魔術として見せているものを見抜《みぬ》くのが仕事だと話していた。そして彼は役人だった。これらの混沌《カオス》の欠片《かけら》が、ようやくわたしに、小さな事実を再構成《さいこうせい》してくれた。おそらく、サイモン・ハントは、ソヴュールの科学アカデミーの職員だったのではないか、と」
一弥が聞き返した。
「サイモンさんが?」
ヴィクトリカはうなずいた。
「そうだ。おそらくはな。科学アカデミーはトリックのある技術を魔力とうそぶく、昨今《さっこん》のいんちき魔術師たちの敵だ。科学によって国を発展《はってん》させようとし、スピリチュアルな文化を撲滅《ぼくめつ》させようとしている。だが問題は、その、おそらく科学アカデミーの職員だった彼が、なぜ、身分を隠してこの場所……〈ベルゼブブの頭蓋〉にやってきたかだ。しかも、月に一度の魔術の祭典《さいてん》〈ファンタスマゴリアの夜〉を狙《ねら》って……。偶然《ぐうぜん》ではないのではないか? 彼はなんらかの使命を帯びてやってきたのではないか? しかし、そうだとしたら、なぜだ? 科学アカデミーはこの場所にどんな用があるのだね?」
「…………」
「その謎《なぞ》はまだわたしには解《と》けていない。おそらく、彼が言い残した言葉『形見箱を探している』、そして小さな赤い箱を持って出て行ったという我《わ》が母の言葉『形見箱は科学アカデミーの重大な謎を隠している』、この二つが、謎を解く混沌《カオス》の欠片たちとなるのだろう。そう、問題は〈形見箱〉なのだ。これはいったいなんなのだ?」
ヴィクトリカは苛立《いらだ》ったように、小さなこぶしを握《にぎ》りしめてぶんぶんと振《ふ》り回した。窓の外で少し雲《くも》が晴《は》れて、不吉な青白い満月《まんげつ》が海面《かいめん》に映《うつ》り、波とともにゆらゆらと揺《ゆ》れ始《はじ》めた。
「ともかくサイモン・ハントは、科学アカデミーからオカルト省の要塞《ようさい》に乗り込んできたスパイだった。形見箱を首尾《しゅび》よくみつけ、列車に乗り込む時間にあわせて水門が開くように細工《さいく》し、無事《ぶじ》に逃《に》げるつもりだったのだろう。しかし、彼はスパイであることをかぎつけられ、オカルト省の殺し屋である老いたるフェル姉妹《しまい》の手によって片付けられたのだろう。
「でも、どうやって? あの〈シスターズ・キャビネット〉の中にはほかの人は入れなかったし、それに、二人とも手をきつく結ばれていたんだ」
「む……」
ヴィクトリカは顔をしかめた。そのとき急《きゅう》に、二人のいる部屋のドアが開いて、誰かが入ってこようとした。一弥が顔を上げると、二人の女――行きの列車でも会話をして、さきほど列車に乗り込むときは助けてくれた、あの黒髪《くろかみ》に青い瞳《ひとみ》の少女と、中年の婦人が立っていた。二人はびっくりしたように、
「ごめんなさい、人がいたのね」
「空《あ》き室《しつ》を探《さが》していたの。どこかに座《すわ》りたくて」
一弥が礼儀正《れいぎただ》しく立ち上がって、自分が座っていたベッドを指さした。
「ほかになければ、ここにどうぞ」
「あら、でも……」
二人が顔を見合わせたとき、ヴィクトリカが小さな声でつぶやいた。
「ちょうどいい」
「ん? なにか言った、ヴィクトリカ」
「言ったとも」
ヴィクトリカは自分のミニハットにかかっている真っ赤なサテンのリボンをするするとほどいた。「ちょうどいい。スリップ・ノット結びを試《ため》してみよう」と言うと立ち上がり、二人の女性を向かい合わせて、座らせた。
中年の婦人がにこにこして、
「なにが始まるのかしら、小さなお嬢《じょう》ちゃん」
「むっ?」
ヴィクトリカがむっとした。一弥が小声で「小さいって言っちゃだめですよ。あと、おこりんぼとか泣き虫とか、意地悪とかも。ほんとのことを言われると、この人は怒《おこ》るんです」とささやく。
「黙《だま》れ、うつけ者」
「なにしてるのさ、ヴィクトリカ」
「君のような凡人《ぼんじん》にもわかるよう、あのあほみたいな〈シスターズ・キャビネット〉の種明《たねあ》かしをしてやるのだ」
ヴィクトリカは「むっ、むっ……」とつぶやきながら、二人の女性の両手首をサテンのリボンでぎゅうっと結んだ。手首は強く縛《しば》られているように見えた。ヴィクトリカは二人に「手を引っ張ってみろ」とつぶやいた。
二人の女性は顔を見合わせた。それから同時に、左右から引っ張った。
するり、とリボンがほどけて、ふわふわの床《ゆか》に落ちていった。一弥があわてて床につくまでに拾うと、ヴィクトリカのかたわらに立って、元通り、薔薇《ばら》のコサージュがついた真っ赤なミニハットに、サテンのリボンを通《とお》して、小さな顎《あご》の下辺《したあた》りでぎゅっと結んでやった。
ヴィクトリカはそれをうるさそうにしっしっと追い払《ぱら》いながら、
「これは、スリップ・ノット≠ニ呼ばれる結び方なのだ。一見、きつく縛られたように見えるが、すぐにほどける、奇術《きじゅつ》のトリックなのだよ、君」
[#挿絵(img/05_261.jpg)入る]
「そうだったんだ……。ということは、サイモン・ハントさんを殺したのは……」
「もちろん、一緒《いっしょ》にキャビネットに入った老女、モレラだろう。彼らにとってはおそらく、衆人環視《しゅうじんかんし》の中、魔術的《まじゅつてき》な方法によって殺すことが、なにより科学アカデミーへの挑戦《ちょうせん》となったのだろうよ。しかしまさか、殺される前にサイモン・ハントが、水門を動かす計器《けいき》に細工《さいく》をしていたことまでは頭《あたま》が回らなかった。彼らはだましあいをしていたのだ」
一弥は黙って考え込んだ。
手首を差し出していた二人の女性は、なにごとだろうと顔を見合わせあっている。
ヴィクトリカは続けて、
「バチカンの修道士、イアーゴが殺されたのも、オカルト省《しょう》の利益《りえき》のためだろうと推測《すいそく》される。彼は奇跡認定《きせきにんてい》のために呼ばれたという話だったが、ショーがいんちきであることを見抜《みぬ》いていた。バチカンに戻《もど》ったらその報告《ほうこく》をするつもりだと話していたのを覚えているかね? しかしオカルト省にとっては、バチカンから正式に魔力を認《みと》められることがなにより、大切なことだった。イアーゴが戻っていんちきだと報告すればたいへんなことになる。そこで彼らはイアーゴを、衆人環視の中で奇妙《きみょう》な死に方をするように演出したのだ。まるで魔術によって殺されたかのように。サイモン・ハントの場合と同様に」
「あれはいったいなんだったんだい? 黒衣《こくい》の、奇妙な男はどこに消えたんだ?」
「そんなものは最初からいなかったのだ、久城」
ヴィクトリカは薄《うす》く笑った。
「あの修道院にあった、四角い、大きな機械を覚えているかね、久城。わたしが幻灯機《げんとうき》だと語った、あの機械だ」
「うん」
「あれもまた、奇術の道具《どうぐ》なのだよ、君。舞台《ぶたい》に骸骨《がいこつ》や、幽霊《ゆうれい》や、さまざまなものを映《うつ》すもので、ゴーストマシンとも呼ばれるものなのだ。〈ファンタスマゴリアの夜〉で使われていたのもおそらくこれだろう。そしてわたしは、こう推測しているのだよ。十年前、世界大戦が始まった年。あの修道院の上空で起《お》こった歴史的事件《れきしてきじけん》〈落下《らっか》させる聖マリアの怪《かい》〉は、あのゴーストマシン、幻灯機を使った大ボラ、ブライアン・ロスコーという一人の奇術師、いや、稀代《きだい》のボンクラの手による歴史的|詐欺《さぎ》だったのではないか、とね」
「どういうこと? 夜空に浮《う》かび上がった巨大《きょだい》なマリア像が、滂沱《ぼうだ》の涙《なみだ》を流して、ドイツ空軍の戦闘機《せんとうき》を墜落《ついらく》させた、あの事件が……。まさか……」
「そうだ。あのぼんくらは奇術のトリックを戦争に応用することで、科学アカデミーに取り入ったのだよ。夜空に向けて幻灯機から幻《まぼろし》を映し出し、幻の聖母に涙を流させた。怪奇《かいき》でも亡霊《ぼうれい》でも奇跡《きせき》でもなんでもない。トリックだ」
「そんな……」
「そして、十年後。修道士イアーゴを殺したときにも、同じ機械が使われた。イアーゴの死はもちろん、老女カーミラ……今度は姉のほうだな。うむ、彼女に渡《わた》された水に毒が入っていたためだ。しかし、あのとき部屋に入ってきてイアーゴに抱《だ》きつき、殺したように見えたものは、幻灯機がつくった幻、黒いゴーストだったのだ」
ヴィクトリカはいかにもつまらなそうに、あくび混《ま》じりに、つぎつぎ言語化《げんごか》していった。一弥は驚《おどろ》いて、
「どうやって……?」
「あのとき、部屋のドアは開いていた。おそらく、廊下《ろうか》を挟《はさ》んで向かい側の部屋に幻灯機を置き、延長線上《えんちょうせんじょう》に立つイアーゴに向かって、ゴーストを映し出してみせたのだろう。イアーゴのからだに毒が回り、彼が苦しみだすと同時に。そして彼が倒《たお》れると映像《えいぞう》を切《き》り、部屋のドアを閉めた。……君、覚えているかね? あのとき廊下の向こうから、ドアが閉まる音がしたことを」
「あぁ……」
一弥はうなずいた。
それから少し不思議そうに、
「ヴィクトリカ、君、それっていま気づいたんじゃないだろう? 君のことだから、ずっとずっと前、事件が起こったときに同時にわかっていたはずだ。それをどうして。いままで黙《だま》っていたんだい?」
「そ、それは……」
ヴィクトリカはうつむいた。
「いま解いてみせたのは、母からのメッセージのためだ。力を見せろ、という……。だが、これまで黙っていたのは……」
薔薇色《ばらいろ》のほっぺたがほんの少し、赤くなった気がした。表情は相変わらず静かな、退屈《たいくつ》そうなそれだが、それでもかすかに、生気《せいき》に似《に》たものが、精巧《せいこう》な陶人形《とうにんぎょう》のような彼女の小さな顔をよぎったような気がした。
「言っただろう」
「なにを?」
「わたしは君を無事に学園《がくえん》につれて帰らねばならない。危険《きけん》にさらすわけにはいかない。あの場《ば》で真相《しんそう》を告げていれば、君も狙《ねら》われていたことだろう。なにしろあの修道院全体がオカルト省の力の及ぶ場所だったのだ。いうなれば……修道院〈ベルゼブブの頭蓋《ずがい》〉そのものが犯人だったのだよ」
一弥は黙った。
それから小さく「うん」とうなずいた。
「そっか。ありがとう、ヴィクトリカ」
「ふん」
返事のかわりに、ヴィクトリカは小さな形のいい鼻を鳴らして見せた。そして金色の髪《かみ》を揺《ゆ》らして、ぷいとそっぽを向いた。
真っ赤なミニハットをかぶったその小さな頭を、一弥はしばらくみつめていた。それからかすかに、にっこり笑った。
オールド・マスカレード号は雷雨《らいう》の中、夜を横切《よこぎ》り、走り続ける――。
「自己紹介《じこしょうかい》してもいいかしら?」
二人が話し終わったのを察したように、年配の大人しそうな女性のほうが声をかけてきた。一弥が振《ふ》り向くと、黒髪に青い瞳《ひとみ》の少女と二人、こちらをみつめていた。感心したように「そんな真相《しんそう》だったなんて、このちっちゃなお嬢《じょう》ちゃんはすごいわねぇ」とつぶやいている。
少女のほうは反対に「わたしは不思議な力の存在を信じているから、あれは奇跡《きせき》だったと思いたいわ」と不機嫌《ふきげん》そうにぶつぶつ言っている。
そこに、またドアが開いて、二人の男が転がり込んできた。
「おや、ここも人がいたとは」
「ややっ! 仕方ない、廊下に座《すわ》ってやり過ごすとしようぜ、若いの。俺はカードを持ってきている」
せわしなく言いながらまた出て行こうとする。中年の女性がそれを止めて、
「座る場所はありますから、よかったら」
「やや、それはかたじけない」
一人目の男が恐縮《きょうしゅく》しながら、コンパートメントに入ってきてベッドの隅《すみ》に腰《こし》かけた。小山のように大きなからだをした、三十がらみの男だった。続いてもう一人が入ってきた。こちらは二十歳《はたち》を少し過ぎたくらいの、若い、小柄《こがら》な男だった。小柄なほうはいかにも貴族の子弟《してい》といった洒落《しゃれ》た服装をした、見目《みめ》のいい若い男だった。大柄なほうは逆に労働者風《ろうどうしゃふう》の、ごつごつとした大きな手に、丈夫《じょうぶ》そうな革《かわ》のベスト、土で汚《よご》れたブーツといったいでたちだった。
「たいへんな夜ですね、みなさん」
若い、上品な男がそう言って、微笑《ほほえ》みながら一同を見渡《みわた》した。
一弥が礼儀正しく「そうですね」とうなずく。大柄な労働者風の男のほうが、ベストのポケットからカードを取り出してきりながら、
「せっかくだから、自己紹介といきませんかね。ややっ、ものすごくきれいなお嬢ちゃんがいるな。お嬢ちゃん、いくちゅ?」
「…………百十四|歳《さい》だ」
ヴィクトリカが、嵐《あらし》の前の静《しず》けさのような、低い、静かな声で言った。一弥は笑いをこらえた。大柄な男は目をぱちくりしている。
――コトン!
小さな音がした。誰かが床《ゆか》になにかを落としたのだ。一同はふと床に視線《しせん》を落とした。
そこに、赤い小さな箱[#「赤い小さな箱」に傍点]が落ちていた。
なぜか空気が凍《こお》りついた。
「あら、いけない。落としてしまったわ」
その箱を落とした女性[#「その箱を落とした女性」に傍点]は微笑むと、落ち着いたしぐさで赤い箱を拾《ひろ》い、懐《ふところ》に戻《もど》した。大柄な男がカードをきる音だけが、しばらく、コンパートメントの中に響《ひび》いていた。
汽笛が鳴《な》る。
窓の外では、激《はげ》しい雷雨《らいう》が暴れ続けている。
この世の終わりのような、奇妙《きみょう》な夜。
カードをきりながら、労働者風の男が言った。
「さて、全員で自己紹介といこう――」
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霊界ラジオ ―wiretap radio 4―
ギ、ギ、ギギギギギ。
ガァァァァァァァーッ。
ピーッ…………。
〈カ、カ、カ〉
〈カッ〉
〈形見箱《かたみばこ》。形見箱〉
〈形見箱は持ち出さレタ。いまこの列車の中にある〉
〈取り返せ〉
〈取り返せ〉
〈取り返せ〉
「了解《りょうかい》した」
「必ずや取り返す。あの女の手から」
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プロローグ2 小さな赤い――
「そこまではわかった……。しかし」
ソヴュール王国の首都。ソヴレムの中央にそびえるレンガ造《づく》りの建物《たてもの》。
黒い鉄《てつ》と透明《とうめい》なガラスでできた近代建築である巨大《きょだい》なシャルル・ド・ジレ駅の前には大きな交差点があり、黒塗《くろぬ》りの自転車や乗合馬車がすごいスピードで通《とお》り過《す》ぎていく。パラソルをさした上品な貴婦人《きふじん》が、紳士《しんし》とともにゆっくりと舗道《ほどう》を歩いている。デパートの華《はな》やかなショーウィンドウにはドレスや帽子《ぼうし》、ピカピカの婦人|靴《ぐつ》などが溢《あふ》れ、ヨーロッパの繁栄《はんえい》の限りを尽《つ》くしている。だが、路上には真っ黒な顔をした浮浪児《ふろうじ》がしゃがみこみ、通りがかりの紳士が小銭《こぜに》を恵《めぐ》んでくれるのを、なにも映らないかのような黒い瞳《ひとみ》でただ待っている。
都市の光と闇《やみ》。近代化の波と、前世紀から続く古き文化。二つの力がせめぎあう、ソヴレムの眩《まぶ》しい、朝――。
レンガ造りの建物、警視庁の四階《よんかい》にある大きな部屋で、一人の男が腕《うで》を組《く》み、話していた。
「そこまではわかった。だが、しかし……。しかしだな」
仕立てのよいスーツに、銀のカフス。革靴《かわぐつ》はぴかぴかに磨《みが》かれて、絹《きぬ》のシャツを少しはだけた首もとには、同じく銀のチョーカーが輝《かがや》いている。一部の隙《すき》もない伊達男《だておとこ》といった様子で、男は壁《かべ》にもたれかかり、ポーズと取っていた。
金色に輝く眩《まぶ》しい男の髪《かみ》は、前方に大砲《たいほう》のようにとがり、ぐりぐりとねじって固《かた》められていた。腕には、白と黒のレースとフリルでふっくらふくらんだ、いかにも高級《こうきゅう》そうなビスクドールを抱《かか》えていた。くるくると巻き髪になった人形の髪を、もう一方の手で無意識《むいしき》に撫《な》でながら、男――ソヴレム警視庁が一目も二目も置く男、名警部グレヴィール・ド・ブロワが話していた。目の前に立つ小柄《こがら》な少年に向かって、
「しかしだな、久城《くじょう》くん」
「だから、ブロワ警部」
少年――久城|一弥《かずや》は落《お》ち着《つ》いた声で返事をした。
「昨夜、ぼくたちは、サイモン・ハントが細工《さいく》をして、開《ひら》いてしまった水門《すいもん》から流れ込む水から逃《に》げて、あの大陸横断列車、オールド・マスカレード号に間一髪《かんいっぱつ》、乗《の》り込んだんです」
「そこまではよくわかったよ。だが、しかし……」
ブロワ警部はつぶやくと、久城一弥のかたわらで椅子《いす》に座《すわ》っている、もう一人の人物を苦々《にがにが》しげにちらりと見た。その人物――彼の恐《おそ》るべき妹《いもうと》、ヴィクトリカ・ド・ブロワは相変わらず、金色の見事な髪をほどけたターバンのように床《ゆか》までたらし、小さな貴婦人の如《ごと》く、椅子《いす》に座《すわ》っていた。壊《こわ》れかけた人形を立てかけたように、少し姿勢《しせい》を崩《くず》し、いかにもどうでもよさそうな顔をしてそっぽを向いて、パイプを吹《ふ》かしている。
ブロワ警部は、妹から目をそらした。かわりに、久城一弥に問《と》いただす。
「どうしてあの列車の中で、殺人事件《さつじんじけん》が起こったのだ。なぜ、そしてどうやって、あの女性が殺された[#「あの女性が殺された」に傍点]のだ? 犯人は誰だ?」
「…………」
「最初から話してみたまえ、久城くん」
ブロワ警部がずいっと顔を突《つ》き出して、一弥に迫《せま》った。
一弥はあわてて一歩下がり、ドリルから身を守《まも》った。それから、かたわらで知《し》らん振《ぷ》りしているヴィクトリカをちらちらと見ながら、
「説明はしますが……」
「早くしたまえ。わたしはこの、〈オールド・マスカレード号事件〉の捜査《そうさ》を、警視庁から全面的《ぜんめんてき》に任されているのだ」
「まずは、ぼくたちが列車に乗って、そして、お互《たが》いに自己紹介を始めたところからなんです」
一弥は話し出した。
周りにいる警官たちも熱心《ねっしん》にメモを取っている。
「殺されたあの女性は、不思議《ふしぎ》な、小さな赤い箱を持っていたんです……」
[#地付き]つづく
[#改ページ]
あとがき
みなさん、こんにちは。桜庭一樹《さくらばかずき》です。『GOSICKX―ゴシック・ベルゼブブの頭蓋《ずがい》―』をお送りします。よろしくです。
さて今回のお話は、長かった夏休みがようやく終わろうとしている、夏の終りの聖マルグリット学園。いつものように図書館塔を訪れた一弥《かずや》は、ヴィクトリカの姿がないことに気づく。書物とお菓子と白い陶製《とうせい》のパイプだけが散らかり、あの子はいない……。そしてヴィクトリカを探してたどり着いた、海沿いの不思議な修道院〈ベルゼブブの頭蓋〉で、一弥とヴィクトリカは、夜空に浮かぶ巨大な〈滂沱《ぼうだ》するマリア〉像をめぐる思わぬ歴史的事件に巻き込まれるのだった……!
と、それは本編を読んでいただくとして……。
今年の七月に、短編集『GOSICKs―ゴシックエス・春来たる死神―』が発売されました。短編集を出すのが初めてだったので緊張したり、すごくうれしかったりしたのですが、それにあわせて、幕張メッセで行われた〈東京キャラクターショー2005〉で、二回目のGOSICKサイン会をさせていただきました。
去年のときは緊張のあまり一睡《いっすい》もできずに、ふらふらで会場入りして、いちばん最初に並んでた大学生ぐらいの読者の人に「だいじょうぶですよ。こういうときには並んでるほうも緊張しているものですから」と元気付けられた(?)りしていたのですが、今年はだいぶ落ち着いて、前日の夜もちゃんと眠れました……。
それで当日、会場で配《くば》ろうと思って、新宿のデパートでマカロンを買い込んではりきって出かけたのですが、会場に着いたらやっぱり……人がきてくれてるのか心配になってきました。で、声優さんとケロロの着ぐるみとスタッフとでごった返す控《ひか》え室《しつ》で、担当K藤さんに、
わたし 「K藤さん、今年も五十人限定ですけど、五十人もきてくれてるでしょうか。いなかったらどうすれば……。って、なんか去年もこんなこと言ってたような……」
K藤さん「うん……(←マカロン食べてる)」
わたし 「K藤さん、それ食べちゃだめ!」
ま、またこんな感じでした……。去年と似てる……。それにしても、あぶなかった。マカロン多めに買っていってよかった!
でも、始まってみたらだいじょうぶで、今年もちゃんと五十人きてくれていました。よかった……。夏休みだったせいか、ふだんは遠くに住んでるという方も多かったです。わざわざ足を運んでくださったみなさん、ありがとうございました……。
そのあと、十月にあった〈秋葉原エンタまつり〉というイベントで、以前からファンだった『フルメタル・パニック!』の賀東招二《がとうしょうじ》先生とトークショーをさせていただきました。「真実と物語のボーイ・ミーツ・ガール」というテーマで、小説の中と、現実での恋愛についてあれこれお話してみよう、ということだったのですが……。
当日、夕方の四時半からトークショーが始まる予定だったので、三時に控え室に集合していろいろ相談しよう、ということになっていました。賀東先生(←酒豪《しゅごう》)が「きっと、ちょっとお酒が入ってたほうが楽しく話せるよ」とアドバイスしてくれたので、K藤さんと二人、缶ビールをたくさん用意して、待ちました。
待ちました。
待ちました……。
三時半になっても、四時近くになっても、賀東先生が、こない……。
ぜんぜんこない……。
ほんとうにこない……。
会場は秋葉原のデジタルハリウッドというピカピカの高層ビルで、総ガラス張りの壁から遥か下の人々を見下ろして胸《むね》を張《は》り、最初のころこそ、
わたし 「ははは、人がゴミのようだ」
K藤さん「ははは、本当だ」
とか余裕《よゆう》で遊んでたのですが、だんだん寂《さび》しく、とても不安になってきました。携帯にかけてみるものの出る様子もなく……。最初は「賀東さんったら遅刻《ちこく》!」「お尻ぺんぺんだ!」などと軽口《かるくち》を叩《たた》いていたのですが、しだいに口数が少なくなり、うつむきがちになり、どちらからともなく賀東先生用のビールを開《ひら》けてちびちび飲むうちに昼間なのに悪酔《わるよ》いし、そしてふと思い出されたのが……、それより三日ほど前の、とある出来事でした。
ちょうどこの『GOSICKX』の原稿が上がったところだったので、わたしは打ち合わせのために富士見書房に出向《でむ》きました。で、そのついでにトークショーの打ち合わせもしちゃおうよということになり、ぜんぜん仕事の用でなく、さらにわたしの百倍忙しいはずの賀東先生をただそのためだけに富士見書房に呼び出したのでした。GOSICKの打ち合わせは夕方の五時、トークショーの打ち合わせは六時からにセッティングして、まずGOSICKの話をし始めたものの、なんだかのんびりしていて一時間では終わらず……。六時ぴったりに「こんばんは」とやってきた賀東先生に、そういえばですが、二人で、
わたし 「あれっ、時間通りにきちゃった!」
K藤さん「あれっ、時間通りだ!」
賀東先生「……むっ? なんだ?」
なぜか文句を言って追い出して、外でタバコを吸《す》わせたり、担当さんとガンダムやオンラインゲームの話をさせて時間を潰《つぶ》させたりしたような気が……。
そしていま、本番当日。賀東先生が、こない……。ぜんぜんこない……。
わたしたちが(ちょっとは)悪かった(かもしれない)……。
美人のフルメタ担当さんが秋葉原駅と会場のあいだを走って往復《おうふく》し、わたしはビールでだいぶ酔《よ》い、やってきた富士見書房の偉い人たちに「お、お酒くさい? なんで!?」と驚かれ……。四時十五分。四時二十分。まだこない……。こっそり会場を覗《のぞ》いたら、お客さんはもうギッシリ。そこで、はたと、
わたし 「もしかしてこのままこなかったら、わたし、女の人一人で、一時間、しみじみ恋愛の話を? さ、さびしくないですか? 罰《ばつ》ゲームぽいよ!? がっ、賀東さーん!」
賀東先生「……ウス」
わたし 「わーっ、賀東さん!!」
なんと、ほんとうに開演《かいえん》わずか五分前に、はーはー言いながら賀東先生がつきました。
賀東先生「す、すまん。じつは二度寝《にどね》した」
わたし 「二度寝!? こどもかっ! ひどいじゃないですか!」
賀東先生「いや、自分でもびっくりした」
わたし 「そりゃそうだ」
賀東先生「……でもさぁ、桜庭さん。俺は、俺は、思ったんだけど」
いったいなにを言うんだろう、と、わたしも編集さんもスタッフも偉い人も、一同、固唾《かたず》を呑《の》んで賀東先生をみつめました。すると賀東先生はダンディに微笑《ほほえ》み、渋い声で一言、
賀東先生「これがほんとのボーイ・ミーツ・ガール≠セよな!」
どんがらがっしゃーん。な、なんてうまいこと言うんだ、さすがだ、と感心しながらも、全員ばたばたと床《ゆか》に崩《くず》れ落《お》ちました。わたしなんか酔《よ》っ払《ぱら》っちゃったのに……。
と、そんな感じで出だしはばったばたでしたが、トークショーとその後のサイン会はなごやかに進んで、無事《ぶじ》に終わりました。よかったぁぁ……。
きてくださった方は、当たり前なのですがフルメタのファンの方が多くて、それももう何年も、ずっとずっと読んで、毎回の新刊を楽しみにしている人たちで、その姿を見て、あぁ、たくさんの人に、とても長いあいだ愛されるシリーズってすごい!!!!!なぁ(わたしもファンの一人なのですが……)としみじみと思いました。
わたしはというと……去年、初めてのサイン会で読者の人たちのお顔を見るまでは、この世に自分の本を読んでくれている人たちがいるんだ、ということがよくわからなくて、戸惑《とまど》ったり、不安《ふあん》に思ったりしていたのですが、こういったいろいろなイベントや、編集部宛にいただくたくさんのお手紙や、本屋さんでみかけた、自分の本をレジに持っていく人の姿から、少しずつだけど、それがわかるようになってきました。
『GOSICK』はわたしにとっては初めての長いシリーズで、いろんな人に支《ささ》えてもらいながら、いまようやく五巻が出たところですが、右も左もわからず、担当さんと相談しながら始めたころと比べると、楽しく読んで、応援してくれている人たちから元気をもらって、続けていけるものなのだということがよくわかってきました。
これからもしっかりがんばりますので、よかったら、『GOSICK』を、どうかよろしくお願いします。
おぅ。のぅ。そろそろまとめの時間が……。
今回もまた、執筆《しっぴつ》、出版に当たって関係各位の方にたいへんお世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。担当のぶれいんでっどーのK藤さん、うぅ、いつもありがとうございます。なんだかすっかりえらい人になってきてしまったけれども、これからもGOSICKシリーズのブラウジング&編集加工、よろしくです……。イラストレーターの武田日向《たけだひなた》さん、今回もすごいイラスト、ありがとうございます! ドレスが、髪が、建物が……っ! かわいくて緻密《ちみつ》で、届くたびに、へらへらしていつまでも眺めてしまいます……。
そして、いつも読んでくださっている読者のみなさんにも、ありがとうございます。この五巻もまた、楽しんでいただけたら幸いです。
さて、今回の五巻は、じつは〈つづく〉になってるので……ヴィクトリカと一弥《かずや》を乗せた列車はこのままヨーロッパ大陸を走って、六巻の〈オールドマスカレード号殺人事件〉に突入していきます。形見箱《かたみばこ》とは、ソヴュール科学アカデミーを揺さぶる過去とは、そしてヴィクトリカたちの運命はいかに……!? つぎはその長編六巻か、もしくは二冊目の短編集が出る予定です。楽しみに待っていただけたらと思います……。
また、短編のほうは現在も『月刊ドラゴンマガジン増刊ファンタジアバトルロイヤル』で連載中です。長編四巻と五巻のあいだに当たる、聖マルグリット学園の静かな、長い夏休み。学園に取り残されたヴィクトリカと一弥の、二人だけの夏の物語です。よかったらこちらも、読んでいただけたらうれしいです。
そして『ファンタジアバトルロイヤル』では、短編連載と並行《へいこう》して、いま「GOSICK秘密計画」という企画ページも連載されています。これは、フリルとレースとパイプ、書物《しょもつ》とお菓子《かし》と退屈《たいくつ》で形成《けいせい》される不思議な金色の少女、ヴィクトリカをスーパードルフィーで再現《さいげん》してみようよ、という企画で、スーパーイラストレーターの武田日向さんに特製のヴィクトリカ・ドレスや帽子《ぼうし》、下着《したぎ》、靴《くつ》などの細《こま》かいデザインをおこしてもらったり、いろんな素材をみんなで丁寧《ていねい》に選《えら》んだりして、ちょっとずつ、完成に近づいていっています。ドール屋さんによると、ヴィクトリカのドールをつくりたい! というお客さんがけっこう多いらしくて、おぉっ、とうれしい反面《はんめん》、うっ、負けちゃイカン、本家《ほんけ》のこっちもがんばらねばっ、と張り切っています。
完成した姿が来年一月発売号に掲載予定ですので、よかったら、見てみていただけたらうれしいです……!
ではでは。ここまで読んでいただいてありがとうございました。よろしければ、またお会いしましょう〜。桜庭でした。
[#地付き]桜 庭 一 樹
底本:「GOSICKX―ゴシック・ベルゼブブの頭蓋―」富士見ミステリー文庫、富士見書房
2005(平成17)年12月15日 初版発行
入力:名無しさん
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2007年10月21日作成
2007年11月04日校正
2009年05月18日校正
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このテキストは、Share上で流れていた
(一般小説) [桜庭一樹] GOSICK X ベルゼブブの頭蓋(手打ち未校正txt形式).zip 284,580 6a22f30edafc68aefd1e9eaccf7c0629e58abda6
をベースにし、Share上で流れていた
(一般小説) [桜庭一樹・武田日向] GOSICK 第05巻 X ベルゼブブの頭蓋(立読みver).rar 10,451,990 2bd86a841213d165524d64f09e192272da364e5f
を底本として目視校正して仕上げました。
手打ちテキストを作成してくれた人に最大級の感謝を。
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このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
底本は1ページ17行、1行は約42文字です。
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使用したWindows機種依存文字
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「X」……ローマ数字5
「A」……丸2、面区点1-13-2、Unicode2461
「B」……丸3、面区点1-13-3、Unicode2462
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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注意点、気になった点など
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底本244頁14行 静寂《しじま》の横顔
「しじま」はひらがなで書く単語ですが、意味的なものから「静寂」「沈黙」といった漢字を当てる事も多いようです。
底本252頁17行 右側に隠れていた(B)
底本254頁1行 左側に隠れたのだ(A)
使用した底本ファイルには画像が無かったので確認できていないんですが、おそらく底本253頁にはチェスドールの図版があって、丸数字はその図版に対応しているのではないかと思われます。
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本6頁14行 カミーラ
カーミラ。明らかな間違いなので修正しときました。
底本7頁12行 人口|要塞《ようさい》
底本165頁4行 人口灯
人工、じゃないかな?
底本42頁8行 警部が解答《かいとう》した
ここでは質問に答えたという意味で、「回答」だと思う。
底本97頁10行 ハイネの詩を合掌《がっしょう》した
合唱、じゃないかな?
底本221頁10行 老女とは思えぬ敏捷《しゅんびん》さで
敏捷? 俊敏?