GOSICKW
―ゴシック・愚者を代弁せよ―
桜庭一樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)黒き塔《とう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|美しき怪物《モンストル・シャルマン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は底本のページと行数)
(例)に[#「に」は「に+゛」、濁点付き平仮名に、156-17]
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表紙・口絵・本文イラスト 武田日向
表紙・口絵デザイン 桜井幸子
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目 次
プロローグ 『黒き塔《とう》の幻想《げんそう》』
第一章 錬金術師《れんきんじゅつし》の回顧録《メモワール》
リヴァイアサン―Leviathan1―
第二章 ぜんまい仕掛《じか》けの闇《やみ》の歴史
アフリカの歌
第三章 |美しき怪物《モンストル・シャルマン》
リヴァイアサン―Leviathan2―
第四章 意地悪フリルと|屁こきいもり《ニュート》
リヴァイアサン―Leviathan3―
第五章 さらば、怪物《かいぶつ》よ
リヴァイアサン―Leviathan4―
エピローグ 予感
あとがき
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登場人物
久城一弥……………………………日本からの留学生、本編の主人公
ヴィクトリカ・ド・ブロワ………知恵の泉を持つ少女
グレヴィール・ド・ブロワ………警部、ヴィクトリカの兄
アブリル・ブラッドリー…………英国からの転校生
コルデリア・ギャロ………………謎の人物、ヴィクトリカの実母
セシル………………………………教師
ブライアン・ロスコー……………謎の人物、奇術師
ウォン・カーイ……………………ロスコーの知人、奇術師
リヴァイアサン……………………ソヴュールに君臨した錬金術師
[#改丁]
あたし、花園を一つぬすんじゃったのよ。それは、あたしのものじゃあないの。だれのものでもないの。だれもそれをほしがらないし、だれもかまってはやらないし、だれもそこへは入って行かない花園なの。たぶんそのなかのものはもうみんな死んでいるんでしょう――。
[#地から2字上げ]――『秘密《ひみつ》の花園』バーネット
[#地から2字上げ]瀧口《たきぐち》直太郎訳 新潮文庫刊
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プロローグ 『黒き塔《とう》の幻想《げんそう》』
そこは黒と白しかない世界。
それはまるで昼と夜のような、黒と白――。
黒き塔は宵闇《よいやみ》にたゆたうように、そこにあった。
朧月夜《おぼろづきよ》がほのかな青白い光で塔を照らしていた。
村外れの小高い丘《おか》――。
黒き塔はとがった屋根《やね》を夜空に突《つ》き刺《さ》していた。巨大《きょだい》な丸時計が塔から顔を出し、漆黒《しっこく》の鎌《かま》のような二本の針《はり》で時を告げていた。
何者もいない。
静かで、不吉《ふきつ》な夜――。
やがてその闇を蹴散《けち》らすように、黒い馬車が丘を上ってきた。とつぜん夜空に雷鳴《らいめい》がとどろき、二頭立ての馬が驚《おどろ》いたように嘶《いなな》いた。
馬車が止まると、中から黒衣の女が飛び出してきた。女が振《ふ》り向いてなにか言おうとするのを聞こうともせず、御者《ぎょしゃ》は馬を操《あやつ》り、まるで逃《に》げるように丘を下っていく。
女は途方《とほう》に暮《く》れたように立ち尽《つ》くしていたが、再《ふたた》びの雷鳴の後、夜空から矢のように冷たい雨が降《ふ》り落ちてくると、あわてて走り出した。
黒き塔へ。
塔は、二つの四角い窓《まど》がまるで人間の目であるかのように、女の姿《すがた》を冷たく見下ろしていた。窓の内側で白い灯《あか》りが瞬《またた》くと、それは怪物《かいぶつ》の瞬きのようだった。
女は黒き塔に吸《す》い込《こ》まれていく……。
そして塔の内部は――まるで悪夢《あくむ》の製造装置《せいぞうそうち》。
灰色《はいいろ》に沈《しず》む、暗い部屋。塔と同じ丸い形をしている。
頭上は吹《ふ》き抜《ぬ》けで、遥《はる》か上は漆黒の闇に沈み、見上げると、まるで底なしの沼《ぬま》を覗《のぞ》いているよう。どちらが上でどちらが下か少しずつわからなくなる――。
闇を斬《き》る剣《けん》のように、なにかがゆっくりと右から、左へ動いている。空気が揺《ゆ》れる。それは近づいてくると巨大な振り子で、また左から右へ、不吉な風を起こしながら戻《もど》っていく。
ギリギリ、ギリギリギリギリ……。
部屋の隅《すみ》にある巨大な四つのぜんまいが、奇妙《きみょう》な低い音を立てて絡《から》みあっている。歯車が噛《か》み合い、また外れ、また……。
ゆっくりと部屋に入ってきた黒衣の女が、恐《おそ》ろしげに部屋を見回した。
女は――黒いベールを取ると、まだうら若《わか》き乙女《おとめ》だった。何色かうかがい知ることのできぬ髪《かみ》と、瞳《ひとみ》。分厚《ぶあつ》い外套《がいとう》を脱《ぬ》ぐと、真っ白なドレスを身にまとっていた。
怯《おび》えたように部屋を見回し、ぜんまいと振り子に眉《まゆ》をひそめた後、黒檀《こくたん》のテーブルをみつけて、駆《か》け寄《よ》る。
テーブルにはさまざまな書物や実験道具が散らばっていた。乙女があわててそれらを手に取り、なにかを探《さが》し始めると同時に――、部屋の真ん中に一陣《いちじん》の白い煙《けむり》が上がった。
乙女は気づかない。
煙はやがて人の形となり、そしてそこには……。
乙女が気配に気づきようやく振り向いたとき、そこには、不気味な仮面《かめん》を身にまとい、ローブを羽織《はお》った怪人が立っていた。
乙女が声を上げる。そしてなにか言葉を発するように唇《くちびる》を動かす。
お許《ゆる》しください、黒き時計塔のあなたさま!
あなたさまのお力がどうしても必要なのです。
病気の父が、黄泉《よみ》の国に旅立ってしまいそうで……。
あなたさま、と呼《よ》ばれた仮面の男が、一歩、近づいてきた。
乙女の細い躰《からだ》が恐怖《きょうふ》に震《ふる》える。
男はゆっくりと、手袋《てぶくろ》をした片手《かたて》を上げて、己《おのれ》の仮面をつかんだ。
そして語りだした。
乙女よ。穢《けが》れなき乙女よ。
我《わ》が呪《のろ》いをとくと見るがよい。
これが不死の男の、哀《あわ》れな顔である!
男の仮面がゆっくりとはがれ、その手から落ちた。暗い床《ゆか》にゴトリと落ちて、それを巨大な振り子の影《かげ》が隠《かく》していく。
乙女の美しい顔が恐怖と驚きに歪《ゆが》む。
男はなおも叫《さけ》ぶ。
これこそが、不老不死の、本当の姿である!
乙女は瞳を見開き、真っ白な手のひらを顔に当てて喘《あえ》いでいる。それから手をのどに当て、苦しみ始める。
よろよろとよろめき、床に倒《たお》れ伏《ふ》す。むきだしの白い肩《かた》が震えている。振《ふ》り子の黒い影が、立ち尽《つ》くして乙女を見下ろしている男の姿を暗く覆《おお》い隠している。
振り子の影がゆっくりと動き、男の姿は右下から左上に、ゆっくりと白い光の下に照らし出されていく。
乙女は恐怖のあまり、叫んだ。
嗚呼《ああ》、なんと恐ろしい、そのお顔の秘密《ひみつ》――!
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第一章 錬金術師《れんきんじゅつし》の回顧録《メモワール》
1
真っ暗な部屋の中に、背《せ》もたれ付きの椅子《いす》が規則正《きそくただ》しくたくさん並《なら》んでいた。村人たちはそれぞれ椅子に腰掛《こしか》け、固唾《かたず》を呑んで、スクリーンにフィルムが映《うつ》しだすモノクロームの映像《えいぞう》をみつめていた。
いましも、黒き塔《とう》に現《あらわ》れた怪人《かいじん》が仮面《かめん》を取り、その恐《おそ》ろしい顔がスクリーンに映しだされるという瞬間《しゅんかん》……。
音楽も劇的《げきてき》に高鳴り……。
その、村にできたばかりの小さな映画館――長らく使われていなかった小さな劇場を村の若者《わかもの》が改築《かいちく》して、ようやくできあがった建物――には、今日もまた村人たちが続々と、怪奇《かいき》映画『黒き塔の幻想《げんそう》』を目当てに押《お》し寄《よ》せていた。丈夫《じょうぶ》な木綿《もめん》の衣服姿《いふくすがた》の村娘《むらむすめ》に混《ま》じって、あか抜《ぬ》けた服装をした少女と、連れらしい東洋人の少年が座《すわ》っていた。どうやら、村外れにある貴族《きぞく》の子弟用《していよう》の学園、聖《せい》マルグリット学園の生徒たちであるらしい。
その、村人からちょっと浮《う》いている二人組の片方《かたほう》――金髪《きんぱつ》のショートヘアにすらりとした手足の少女は、さっきからずっと、スクリーンに釘付《くぎづ》けになっていた。反対に、無理やり連れてこられたと思われる連れの少年は、もうずっと一時間近く、武士《ぶし》の如《ごと》きびしっと背筋《せすじ》をのばした姿勢《しせい》で座席《ざせき》に座ったまま、きつく目を閉《と》じて……静かに眠《ねむ》っていた。
スクリーンに乙女《おとめ》の台詞《せりふ》が映しだされると、村人たちは一斉《いっせい》にどよめいた。
『嗚呼《ああ》、なんと恐ろしい、そのお顔の秘密――!』
金髪の少女――アブリル・ブラッドリーがごくんと唾《つば》を飲む。
そして……。
大きな効果音《こうかおん》とともに、スクリーンいっぱいに、ついに怪人の顔が映しだされた。
「きゃあ!」
アブリルは大声を上げて、抱《かか》えていた茶色い箱を思わず放《ほう》り投げた。食べかけのチョコチップクッキーが盛大《せいだい》に天井《てんじょう》に向かってぶちまけられた。アブリルは空いた両手で、となりで爆睡中《ばくすいちゅう》の久城《くじょう》一弥《かずや》の首を絞《し》めた。
「骸骨《がいこつ》ぅぅぅ!?」
「……………………うわあぁぁぁぁぁ!」
一弥は飛び上がった。後ろの席から一斉に「座れ!」「見えないってば!」「クッキーが降《ふ》ってきた!?」などと村人たちの声がした。一弥はあわてて頭をきっちり九十度下げて謝《あやま》り、クッキーを拾い集め、また席に座った。
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横目でアブリルを睨《にら》む。
アブリルは口を開けて、瞳《ひとみ》をきらきらさせて、スクリーンをみつめていた。その無邪気《むじゃき》で楽しそうな横顔を、一弥はしばらくじっとみつめていたが、やがてしょうがないなぁというように苦笑《くしょう》すると、また座り直し、静かに目を閉じた。
時は一九二四年――。
ヨーロッパの小国、ソヴュール王国。
スイスとの国境《こっきょう》は、緑豊《みどりゆた》かな山脈と湖と、深い森。フランスとの国境は、どこまでも広がる広大な葡萄畑《ぶどうばたけ》。イタリアとの国境は、地中海に面した美しい避暑地《ひしょち》。謎《なぞ》めいた回廊《かいろう》のように細長い形状《けいじょう》をしたこの小さな王国は、列強に囲まれながらも先の世界大戦《グレート・ウォー》を生き延《の》び、その長い荘厳《そうごん》な歴史と国力、列強への発言力もあり、西欧《せいおう》の小さな巨人《きょじん》と呼《よ》ばれていた。
王国の、地中海に面したリヨン湾《わん》を豪奢《ごうしゃ》な玄関《げんかん》とするのなら、アルプス山脈は、もっとも奥深《おくぶか》い場所に隠《かく》された秘密《ひみつ》の屋根裏《やねうら》部屋と言えた。その山脈の麓《ふもと》にあるこの小さな村は、ワインと果物《くだもの》の産地として知られる美しくのどかな土地だった。その村の外れに、ひっそりと、中世から息づく不思議な学園があった。
聖マルグリット学園――。
表向きは貴族の子弟のための教育機関として知られていたが、謎も多く、強大な力を持つ小さな不思議な王国の秘密の何割《なんわり》かは、この学園に隠されていると考える向きもあった。秘密|主義《しゅぎ》の学園は、しかし先の大戦終結後、同盟国《どうめいこく》であった幾つかの国から、優秀《ゆうしゅう》な生徒を留学生《りゅうがくせい》として受け入れ始めた。
久城一弥は、その同盟国の一つ、とある極東の島国から、優秀な成績《せいせき》と品行方正さを買われてやってきた留学生だった。新しい生活に心躍《こころおど》らせ、その一方で生まれ育った国に家族と、ある欠落を置いたまま海を渡《わた》り、この国にやってきた……。
一弥の留学生活には、貴族の子弟たちの偏見《へんけん》や、学園に蔓延《はびこ》る謎の怪談《かいだん》ブーム、言葉や文化の壁《かべ》と、そして……。
あまりにも奇妙《きみょう》な、そして見たこともないほど美しい、不思議な少女ヴィクトリカ・ド・ブロワとの出会いと、幾つかの冒険《ぼうけん》……。
さまざまなものに彩《いろど》られていた。
「久城くんったら、あんなに大きな悲鳴上げて。怖《こわ》がりなんだからぁ!」
映画館のスイングドアを開けながら、アブリルがやけに浮き浮きとそんなことを言い出したので、一弥は真面目《まじめ》に抗議《こうぎ》した。
「君、ちがうよ。ぼくは怪人の顔がおっかない骸骨だったから悲鳴を上げたんじゃないよ」
「またまたぁ」
「ほ、ほんとだよ。その証拠《しょうこ》にぼくはずっとずっと眠《ねむ》ってたんだからね」
「こわくて目をつぶってたんでしょ。アブリルちゃんにはわかってるもん。それに、眠ってたならあのタイミングで悲鳴なんて上げられないでしょ?」
「そうじゃなくて、あれは君がぼくの首をぐいぐいと……」
「久城くん」
アブリルがまじめな顔をして向き直った。
「ぐいぐいと絞《し》めて…………なに?」
「いいわけしちゃダメ」
「ええ!?」
「久城くんが怖がりで情《なさ》けなくて弱虫でテストが赤点でも、わたしは久城くんを嫌《きら》わないよ?」
「…………」
一弥は抗議を続けようとして、あきらめた。
(そりゃ、ちょっと情けないときは確《たし》かにあるけど、断《だん》じて怖がりじゃないし、それにテストはいつもクラスでいちばんなのに……)
アブリルのほうは、納得《なっとく》できずにふくれている一弥に気づく様子もない。楽しそうにスキップ混《ま》じりに、映画館《えいがかん》を出て歩きだした。
村のいちばんの繁華街《はんかがい》である街道《かいどう》には、初夏の日射《ひざ》しが降《ふ》り注いでいた。ついさっき夏の通り雨が降って道路を濡《ぬ》らしていったのだが、いまはもう晴れて、店の木|看板《かんばん》や並木道《なみきみち》の木々が、水滴《すいてき》を弾《はじ》いて輝《かがや》いていた。街道の左右を彩る三角屋根の家々や、窓《まど》から垂《た》れ落ちる鮮《あざ》やかな緑色の蔦《つた》、そして咲《さ》き誇《ほこ》るゼラニウムの花などが眩《まぶ》しかった。
日曜日の昼下がり――。
丸二か月という長い長い夏休みをあと数日後に控《ひか》えたこの週末の日は、テストもほとんどの授業《じゅぎょう》も終了《しゅうりょう》しているためか、ゆっくりと過《す》ぎていくところだった。村まで遊びにきた一弥とアブリルも、今日は制服《せいふく》ではなく、それぞれの普段着《ふだんぎ》を着てのんびりと歩いていた。
一弥は木綿《もめん》のシャツに革《かわ》のベストを羽織《はお》っていた。アブリルはシンプルな白モスリンのブラウスに、かわいらしい水玉|模様《もよう》のフレアスカート姿《すがた》で、長くてのびやかな手足を振《ふ》り回すようにして元気に歩いていた。
「あれ……?」
アブリルが急に思案顔になって、足を止めた。一弥もつられて立ち止まる。
「どしたの、アブリル?」
「ううん。あのね、わたし、さっきの物語をどこかで聞いたことがあるような気がするの。黒き塔《とう》に潜《ひそ》む仮面《かめん》にローブ姿の怪人《かいじん》と、そこで変死する乙女《おとめ》……」
一弥は興味《きょうみ》なさそうにただうなずいている。
「そりゃアブリル、君なら聞いたことあるだろ。だって君は、古今東西の怪談を読みまくってるんだからね」
「うん。そうだけど……」
アブリルはしばらく考え込《こ》んでいたが、また歩きだした。
郵便局《ゆうびんきょく》の前で立ち止まると、
「ちょっと待ってて」
走って郵便局に入っていった。
一弥は手持ちぶさたに待っていた。
そこを、背の高い男二人組がぶらぶらと歩いてきた。一人は帽子《ぼうし》を目深《めぶか》にかぶっていたが、燃《も》えるような赤毛が帽子の下から覗《のぞ》いていた。もう一人は一弥と同じ東洋人の男で、端整《たんせい》な顔立ちに、妙《みょう》に冷たい目つきをしていた。
村娘《むらむすめ》たちがすれ違《ちが》いざまに、見覚えのない青年二人を振り返り、誰《だれ》かしらと言うように顔を見合わせた。二人の男は視線《しせん》に気づいて立ち止まると、娘たちに愛想《あいそ》良《よ》くウインクしてみせた。村娘たちは恥《は》ずかしそうに頬《ほお》を染《そ》めて、歩き去っていった。
一弥がその二人組の男を見るともなく見送っていると……。
「お待たせ!」
アブリルが郵便局から飛び出してきた。片手《かたて》に受け取った郵便物を抱《かか》えている。
「通信|販売《はんばい》で買い物したの。ソヴレムの大きなお店なら、お金を先に送ると郵便で届《とど》けてくれるのよ」
「そうなんだ。知らなかった」
一弥は感心した。
二人でまた歩きだすと、アブリルが、
「だけど、どうしても聞き覚えがある気がするの」
「聞き覚えって? ……なんだ、さっきの怪談の話かぁ」
「もう、真面目《まじめ》に聞いてってば」
めずらしく無口になったアブリルと一緒《いっしょ》に、学園までの村道をゆっくり歩いていく。
少しずつ家々が減《へ》って、村道の左右にはなだらかな葡萄畑《ぶどうばたけ》が広がり始めた。夏の日射《ひざ》しに濡れた葡萄の蔓《つる》が眩《まぶ》しく輝《かがや》いていた。荷馬車がゆっくりと二人を追い越《こ》していく。
学園の正門が見え始めた。複雑《ふくざつ》な唐草《からくさ》模様のところどころに金色の飾《かざ》りを配した正門の鉄柵《てっさく》に辿《たど》り着いたとき、アブリルがとつぜん、
「あああ!!」
「な、なんだよ、アブリル」
「思い出した! 久城くん、こっち!」
アブリルが一弥の手をつかんでぐいぐい引《ひ》っ張《ぱ》った。一弥はつられて走り出した。正門を抜《ぬ》けて、学園の敷地《しきち》に入る。
フランス式庭園を模《も》した敷地には、いつもの週末よりも生徒たちの姿《すがた》が目立った。休暇《きゅうか》が目前に迫《せま》っているせいか、生徒たちは庭園のベンチや東屋《あずまや》、芝生《しばふ》の上などで思い思いにくつろいだり、小径《こみち》をそぞろ歩きながら楽しそうな笑い声を上げていた。クリスタルの噴水《ふんすい》がさっきの通り雨を受けて瑞々《みずみず》しく輝き、日射しを照り返して眩しいほどだった。
一弥はアブリルに引っ張られて庭園を走り抜けながら、
「だから、なんだよ?」
「黒き塔《とう》! 黒き塔の怪談! どこで聞いたか思い出した!」
アブリルが立ち止まった。その青い瞳《ひとみ》はきらきら輝いて、じつに楽しそうだった。一弥はしばらく逡巡《しゅんじゅん》したが、仕方なく聞き返すことにした。
「……聞いたって、どこで?」
「ここよ!」
アブリルはうれしそうに答えた。
「この聖《せい》マルグリット学園でよ。そうよ、あの時計塔のデザイン、どこかで見たと思ったんだわ。久城くん、見て。あれよ!」
アブリルはびしっと空を指差した。
一弥は指差されたほうを見上げた。
そこには……。
古めかしい、大きな時計塔がそびえ立っていた。
塔は暗い灰色《はいいろ》に染まっていた。てっぺんの屋根がぎざぎざと尖《とが》り、複雑な形をしていた。巨大《きょだい》な丸時計と漆黒《しっこく》の針《はり》が遥《はる》か上で時を告げていた。
その屋根に一弥は目をこらした。あの怪奇映画《かいきえいが》に出てきた黒き塔とよく似《に》た、尖った屋根……。それは確《たし》かに、偶然にしてはずいぶんよく似ていた。
二人は顔を見合わせた。
「……アブリル、どういうこと? どうして映画に出てきた建物と同じものが、この学園の中にもあるんだろう?」
「さぁ……。なにかの呪《のろ》いかなぁ?」
「呪い〜!? アブリル、君ね、なんでもそういうことに結びつけて面白《おもしろ》がるのは、ぼくはあまり感心しな、い…………ちょっと君、どこに行くんだい?」
アブリルは生真面目《きまじめ》になにやら主張《しゅちょう》している一弥を置いて、どんどん時計塔に近づいていった。あわてて一弥が後を追うと、アブリルは、不気味な模様のように塔を取り巻《ま》く枯《か》れたブナの枝《えだ》をひょいひょいと避《よ》けて、塔の入り口らしきドアの前に立った。
一弥は足を止めた。
風が吹《ふ》いて、塔の石壁《いしかべ》をブナの枯れ枝がこする音が、暗いささやきのように辺りに広がった。腐《くさ》りかけたような古い木のドアには、蜘蛛《くも》の巣が幾層《いくそう》も張りついている。見上げると、小さな窓《まど》が二つ、怪物の目のようにじっとこちらを見下ろしていた……。
「アブリル……?」
ドアノブを引っ張っていたアブリルが、どうやら鍵《かぎ》が閉《し》まっていたらしく、がっかりしたように肩《かた》を落とした。一弥はほっとして、
「どうやら入れないみたいだね」
「うん……」
「あの、ぼく図書館に用があるから、もう行かなきゃ……」
図書館、と聞いた途端《とたん》に、うなだれていたアブリルがぱっと顔を上げた。あわてて一弥の手を引っ張り、
「待って、行かないで。あの、ほら、こうすればいいし!」
「……こうって?」
「えっ、えっと……そ、そう。こうよ!」
やけくそになったアブリルが、長くてしなやかな足を振《ふ》り上げた。水玉のフレアスカートが風にふわりとふくらんで、健康的なつややかな彼女の足が一瞬《いっしゅん》、宙《ちゅう》を舞《ま》った。
――げしっ!
アブリルが蹴飛《けと》ばすと、ドアは驚《おどろ》いたように沈黙《ちんもく》し、それからゆっくりと、キィィィ……と音を立てて内側に開いた。
アブリルは痛《いた》そうに顔をしかめて、なにやらうめき声を上げながら、その場でぴょんぴょんと跳《は》ねた。それから無理やり笑顔を作って、
「久城くん、開いたよ!」
「ちがうよ、君が壊《こわ》したんだ!」
「い、いいから入ろ!」
アブリルに腕《うで》を引っ張られて、一弥はいろいろと抗議《こうぎ》しながらも、時計塔の中に一歩、入り込んでしまった。
時計塔《とけいとう》の中は薄暗《うすぐら》く、まるでこの世が消滅《しょうめつ》したような静寂《せいじゃく》に満ちていた。
長い廊下《ろうか》が続き、その後、細長い階段《かいだん》があった。二人が歩くたびに埃《ほこり》が舞い、アブリルが盛大《せいだい》に咳《せ》き込んだ。それから一弥の腕を掴《つか》んで、
「なんだかクラクラする。へんな感じ……」
「うん、ぼくも……」
時計塔の中を歩くうちに、一弥も頭を誰かに揺《ゆ》すられているようなおかしな不快《ふかい》感を感じ始めていた。先に階段を上がり始めたアブリルが、蹴躓《けつまず》いて、「きゃあ!」と叫《さけ》びながら一弥の上に落っこちてきた。二人で盛大に階段から転がり落ち、埃に咳き込みながら起きあがる。
「アブリル、もう帰ろうよ。ぼく、図書館に……」
「いや!」
「……いや?」
アブリルは振り返って、
「ええと、ほら、あの映画《えいが》の……最後のシーンの部屋、それがこの塔の中にあるはずだと思うの」
一弥は思いだした。ほとんど眠《ねむ》っていたが、確《たし》かアブリルに首を絞《し》められて目を開けたときのシーンだ……。巨大《きょだい》なぜんまいと金属《きんぞく》の振り子がぎりぎりと音を立てる不気味な部屋。黒き塔に潜《ひそ》む仮面《かめん》の怪人《かいじん》が、おかしな実験用の工房《こうぼう》にしていた部屋だ。
「そんなの、あるわけ……」
アブリルは一弥の抗議にお構《かま》いなくずんずん進んでいった。二人とも、なぜか頭が痛くなって人差し指でこめかみを押《お》さえている。
やがてアブリルがドアをみつけて、いやがる一弥に構わず、また足を振り上げて蹴破《けやぶ》った。痛そうにぴょんぴょん跳ねながら、
「……あった!」
アブリルの顔がばっと輝《かがや》く。一弥も腕を引《ひ》っ張《ぱ》られて、その部屋を覗《のぞ》き込んだ。
そこには……。
あの怪奇《かいき》映画『黒き塔の幻想《げんそう》』に登場したのと瓜《うり》二つの、灰色《はいいろ》に沈《しず》んだ不気味な部屋が、時に忘《わす》れ去られた生き物のようにゆっくりとうごめいていた。
薄暗いだだっ広い空間。
暗い天井《てんじょう》は遥《はる》か上まで吹き抜《ぬ》けで、埃っぽい空気を斬るように、巨大な時計の振り子がゆっくりと、右に……そして左に……揺れ続けている。
その向こうに四つの巨大なぜんまいがうごめいている。一つ一つが歯車をきしませ絡《から》み合い、
ギリギリギリギリギリギリ……。
なんともいえない奇妙《きみょう》な低い音を響《ひび》かせている。
まるで、悪夢《あくむ》の製造装置《せいぞうそうち》の内部に入り込んでしまったかのような――
息苦しさと、正体のわからない恐怖《きょうふ》を感じさせる――
一弥は思わずぐっとこぶしを握《にぎ》った。それから少し落ちついて、薄暗いその部屋の中をゆっくりと見回した。
――大きな黒檀《こくたん》のテーブルに大小さまざまな実験道具が散らばっていた。まるでついさっきまで誰《だれ》かが使っていたかのように乱雑《らんざつ》に置かれたそれらは、すべてが埃を被《かぶ》り、部屋全体を包む暗い灰色に沈んでいる。
一弥は一方の壁《かべ》を見上げた。その壁にはめ込《こ》まれた大きなステンドグラスだけが、この灰色に沈む工房に鮮《あざ》やかな色彩《しきさい》を放っていた。それは花畑を描《えが》いためずらしいステンドグラスで、暗い紫色《むらさきいろ》と黄色の花々が咲《さ》き乱《みだ》れる中、一つだけ赤い花が咲いていた。
暗く、不吉《ふきつ》な、巨大なぜんまいと振《ふ》り子の部屋――。
一弥は息を呑《の》んで、それらを見回した。
その部屋は確かに、ついさっき観《み》た映画と気味が悪いほど酷似《こくじ》していた。怪奇映画に登場した、怪人の潜む時計塔と、学園の時計塔――。
(これって、どういうことだろう……?)
かたわらを見ると、アブリルが不安そうに考え込んでいた。
「もしかしたら……」
「……ん?」
「ほら、わたしが、あの怪奇映画の物語、どこかで聞いたことがあるって言ったでしょ? 思い出したの。この学園にまつわる怪談の一つに、すごく似《に》てたのよ」
「どんな話?」
「あのね、まずこれは史実なんだけど、二十年か三十年くらい前、ソヴュール王国にはすごく有名な魔術師《まじゅつし》っていうか、錬金術師《れんきんじゅつし》っていうか……とにかくすごいへんな人がいたの。仮面とローブ、それに分厚《ぶあつ》い手袋《てぶくろ》という異様《いよう》な姿《すがた》でね。そのへんな人は王妃《おうひ》にものすごく気に入られて寵愛《ちょうあい》を受けてね、そのうち国政《こくせい》に関《かか》わるようになったんだって」
「へぇ……」
一弥が興味《きょうみ》を持ったようにうなずくと、アブリルはうれしそうにぱっと顔を輝かせた。
「それでね、錬金術師はこの学園の時計塔に工房《こうぼう》を造って、そこに籠《こ》もって、恐《おそ》ろしい力をふるい続けたって。次第《しだい》に、誰も彼には逆《さか》らえなくなって、だけどそのぶん政敵《せいてき》も増《ふ》えてね」
「へぇ、そんなことがあったんだ。知らなかった。じゃ、ここがその工房|跡《あと》ってこと?」
「多分ね。でね、怪談はここから。あるとき彼の力を恐れた国王が、この学園に王立|騎士団《きしだん》を派遣《はけん》して、ついに彼を暗殺しようとしたの。ところが毒矢を放っても放っても、錬金術師はまったく死ななくてね。どこかにすたこら逃《に》げちゃったの。騎士団が必死に捜《さが》したけどみつからなくて……。彼は不老不死だったのだ、だから仮面とローブ姿で老いない体を隠《かく》していたのだと噂《うわさ》されて……」
「へぇ……」
「そしてそれ以来、時計塔《とけいとう》には怪人《かいじん》が潜《ひそ》んでいて、夜な夜な、徘徊《はいかい》を繰《く》り、返、すぅ…………きゃあああああ!」
「大きな声を出さないでよ。それより、それなら説明は簡単《かんたん》じゃないか」
冷静な顔でうなずいている一弥に、アブリルは不満そうに頬《ほお》をふくらませた。
「どういうこと?」
「つまりさ、それがもし史実なら、さっきぼくたちが観た映画《えいが》と、この時計塔が酷似していることの説明はつくだろう?」
「えー」
「つ、つくってば。つまり、この時計塔には昔、へんな人がいた。そのせいでいまでも怪人が潜んでいるという怪談が生まれた。あの映画はその怪談を知っている人によって撮《と》られたんだ。だから建物や工房のデザインも、物語の内容《ないよう》もよく似てるんだよ。さ、戻《もど》ろう」
「うーん……」
アブリルは悔《くや》しそうに唇《くちびる》をとがらせた。
「それじゃ、つまんないよ……」
「真実とは得てしてそういうものなんじゃないかな」
「ちぇっ! 久城くんのばーか!」
「げっ! ど、どうしてだよ」
「……知らない!」
アブリルはふんとそっぽを向いた。
「あ、そ。まあいいや。じゃ、ぼく、図書館に用があるから……」
ため息をつきながらも工房を出ようとしていた一弥は、背後《はいご》からごそごそとへんな音がし始めたので、振り返った。アブリルがなぜか、さきほどから小脇《こわき》に抱《かか》えていた包みをここで開けているところだった。確《たし》か、郵便局《ゆうびんきょく》で受け取った包みだ。ソヴレムのお店から通信|販売《はんばい》で買ったという……。
「君、なにしてるの?」
「この時計塔にいる怪人のことを、聞いてみようと思って」
「聞くって、いったい誰《だれ》に?」
「こ、れ、に!」
アブリルは得意満面に、包みから出てきた妙《みょう》なものを差しだした。
それは四角い木の板で、表面にはアルファベットが印刷されていた。ハート型をした黒い石もセットになっていた。一弥はしばらく悩んだ。
「……それ、いったいなんなんだい?」
「ウィジャー盤《ばん》っていうの。プランシェットに使うんだよ。ね、やってみよ?」
「プランシェットって?」
「精霊《せいれい》とお話をするための道具なの。いい? ここにこの石を置いて、人差し指で触《さわ》るの。そして質問《しつもん》をすると……」
「なんだよ、それ。ね、ぼくはもう行くよ」
アブリルはあわてて一弥を引き留《と》めた。
「待って。これって二人じゃないとできないのよ。もうちょっと待ってってば!」
「いや、でも……」
一弥は抗議《こうぎ》しようとして、数秒なにごとか逡巡《しゅんじゅん》し、あきらめてアブリルのとなりに座《すわ》った。言われたとおりに石の上に人差し指を置く。
アブリルはほっとしたように胸《むね》を撫《な》で下ろすと、目を閉《と》じて……、
「精霊さまに質問です」
「ぶっ! ……いてっ!」
思わず吹《ふ》き出したら、アブリルに頬《ほお》をつねられた。
「精霊さま、ここにはかつて錬金術師《れんきんじゅつし》がいましたか……?」
アブリルがそっと目を開ける。
黒い石はゆっくりと動いて、ウ、イ……肯定《こうてい》の言葉を指し示《しめ》した。一弥が顔をしかめて、
「まったく。アブリル、君が動かしてるんだろ?」
「静かに!」
「……すみません」
アブリルはまた目を閉じた。
「精霊さま、ここにはいまもまだ、錬金術師の霊魂《れいこん》がいるのですか……?」
「いるわけないだろ。もう帰ろうよ。ぼくほんとに、そろそろ図書館に行かなきゃ……」
「しっ!」
「すみません……。もうっ、ぼく、なんでいつも君とかヴィクトリカとかセシル先生とか、女の人に謝《あやま》ってばっかりなんだろう? ソヴュールにきてからのここ数か月で、もう一生分謝ったよ。決めた。この後の人生でぼくはぜったいに謝らないよ。だってもう一生分謝ったんだからね……」
「静かにしてってば」
「ごめん……」
一弥はアブリルがみつめているもの――ウィジャー盤《ばん》に視線《しせん》を落とした。
アブリルの指がぶるぶると震《ふる》えていた。驚《おどろ》いて顔を見ると、青ざめて額《ひたい》に冷汗《ひやあせ》を浮《う》かべている。
「どしたの?」
「久城くん……。わたしじゃない。ほんとに、動、い、て……」
アブリルが震える手をゆっくりと石から離《はな》した。
石はいま、ウイ、の〈U〉のところにあった。
一弥も戸惑《とまど》いながら、指を離した。
石は誰も触っていないのにするすると動いた。そして……。
ウイの〈I〉のところで、ぴたり、と止まった。
「ウイ。肯定だわ。錬金術師の霊魂は、まだこの時計塔にいる……」
アブリルが短く悲鳴を上げた。二人とも手を離したことに気づいて、
「どうしよう! プランシェットを途中《とちゅう》でやめたらいけないのよ。ほら、ここに……説明書にも書いてあるの。途中でやめたら、あの世から邪悪《じゃあく》なものがやってきてしまうの。どうしよう……!」
続けて、短く悲鳴を上げる。
誰も触《さわ》っていないウィジャー盤が、するり、するり、と誰かが引きずるように床《ゆか》を移動《いどう》して、二メートルほど動いて、ゆっくりと止まった。
二人は顔を見合わせた。
どこからかかすかな物音がした。目に見えない誰かが二人の前を横切っていったかのような、床のきしる音。そして……。
工房《こうぼう》のドアが音もなく開いた。アブリルは悲鳴を上げて一弥にぎゅっと抱《だ》きついた。
誰かの足音が遠ざかり……。
それと同時に、近づいてくる足音もあった。密《ひそ》やかな、軽い足音。階段を上がり、工房の前までやってきて、そして、開け放されたドアから、一歩、入ってくる……。
アブリルが「きゃああ!」とまた悲鳴を上げた。
すると入ってきた人もまた、
「きゃっ!」
小さな悲鳴を上げ、飛び上がった。
入ってきたのは、象牙色《ぞうげいろ》のシンプルなワンピースを着た小柄《こがら》な女性《じょせい》だった。肩までのふわふわブルネットに、大きな丸眼鏡《まるめがね》。文字通り飛び上がって、あわてて眼鏡を外して、それからこわごわと、もう一度眼鏡をかけた。
垂《た》れ目がちの大きなブラウンの瞳《ひとみ》を見開いて、
「なんだ。久城くんとアブリルさん……」
セシル先生だった。
一弥とアブリルも、緊張《きんちょう》の糸が解《と》けて、ぽかんと口を開けてしばらく先生をみつめていた。セシル先生はいつになく厳《いか》めしい顔つきになって、
「二人とも、こんなところでいったいなにしてるの? ここは生徒は立入|禁止《きんし》よ。誰かがドアを蹴破《けやぶ》ったような足跡《あしあと》がついてたから、入ってきてみたの。さあ、先生に正直に言いなさい。ドアを蹴破った乱暴者《らんぼうもの》は、久城くん? それともアブリルさん?」
アブリルは気まずそうにうつむき、一弥は困《こま》ったようにもじもじしている。セシル先生はおもしろくなってきて、つい、
「犯人《はんにん》は一か月の外出禁止ですよ」
アブリルが切なそうな表情《ひょうじょう》になった。目尻《めじり》に涙《なみだ》を浮かべる。それに気づいた一弥が、あっと思案顔になった。
「じゃ、二人とも目を閉《と》じなさい」
二人はおとなしく目を閉じた。
「自分がやったと思う人は、手を上げなさい」
しばらく二人とも動かなかった。
やがて一弥が渋々《しぶしぶ》、情《なさ》けなさそうな表情で、しかし姿勢正《しせいただ》しくびしりと挙手した。
続けてアブリルも、そっと手を……上げたのではなく、この人ですよと言うようにとなりの一弥を指差した。
セシル先生は思わず吹《ふ》き出した。
「二人とも手を元の場所に戻《もど》して、目を開けなさい。あはははは! アブリルさんは、これからはドアを足じゃなく手で開けるように気をつけてね。あと、久城くんは……」
セシル先生は二人を工房から追い立てながら、
「久城くんは、そうねぇ……」
しばらく考えていた。
「……もしかして女難《じょなん》の相があるのかも。先生、ちょっと心配になってきた」
セシル先生から追い立てられて時計塔《とけいとう》から飛び出した一弥とアブリルは、外に出た途端《とたん》にふうっと息をついた。
塔の中にいたときの、頭がくらくらして痛《いた》くなってくるような圧迫《あっぱく》感は、外に一歩出ると消えていた。二人は何度も深呼吸《しんこきゅう》した。
「二人とも、もう二度とここに近づいちゃだめよ。わかったわね? 夏休みまであと三日だからといって、気を抜《ぬ》かずに真面目《まじめ》にしてなきゃだめですよ? ここの鍵《かぎ》は、先生が今日中につけかえておくけど……。いいわね、ぜったいにここに近づかないで」
セシル先生が何度も繰《く》り返した。いつになく真剣《しんけん》な顔つきに気づいた一弥が、
「どうしてですか?」
セシル先生は答えずに、何度も首を振《ふ》った。
「とにかく、ダメなの。ダメなものはダメなのよ」
何度もただそう繰り返した。
塔の周りの空は、分厚《ぶあつ》い灰色《はいいろ》の布《ぬの》を広げたように暗く曇《くも》っていた。夏の虫が庭園のところどころで鳴いていた。
そしてセシル先生が足早に去っていくと、庭園の隅《すみ》、塔から少し離《はな》れた緑眩《みどりまぶ》しい芝生《しばふ》には、一弥とアブリルだけが残された。アブリルは思案顔で、
「ねえ、セシル先生の言い方、なんだかへんじゃなかった? もしかしてこの時計塔にはなにかあるのかしら? 久城くんは、どう思う……?」
そこまで話して、返事がないことに気づいた。あわててきょろきょろすると、一弥はもう後ろ姿《すがた》になって、どんどん遠ざかって行くところだった。
アブリルは一弥が急いで向かっている方向に目をこらすと、ぷくっと頬《ほお》を膨《ふく》らませた。
「あ、逃《に》がしちゃった! もう……。今日こそ、図書館に行くのを邪魔《じゃま》しようと思ってたのに……」
ため息をついて、自分もゆっくりと歩きだす。
風が吹いた。ショートヘアのせいでむきだしになったアブリルの白いうなじに、樹木《じゅもく》の葉からぽつんと水滴《すいてき》が落ちてきて、首筋《くびすじ》へころころと転がって消えた。
「ちぇっ!」
つまらなそうにつぶやく。
「デートのつもりで誘《さそ》ったのになぁ。だって、映画《えいが》に誘うってそういうことでしょ? いちばんかわいく見える服着て、お洒落《しゃれ》して、張《は》り切ってきたのに……あの子ったら、となりでぐぅぐぅ眠《ねむ》ってるんだもん!」
ふくれっ面《つら》になり、
「赤点なんて取ったことないのは、知ってるよーだ」
大きくため息をついて、肩《かた》を落とした。
空を見上げる。夏の空はどこまでも高く、澄《す》んでいた。白い小鳥が数羽、気持ちよさそうに空をよぎっていく。噴水《ふんすい》も、花壇《かだん》の花も、なにもかもが通り雨の水滴に濡《ぬ》れてきらきらと輝《かがや》いていた。
アブリルは小径《こみち》のベンチに座《すわ》ると、痛そうに何度も足をさすった。それから小声で、
「久城くんの、ばぁか!」
急にごうっと大きな風が吹いて、アブリルは短い髪《かみ》を吹き上げられ、思わず目をつぶった。それからゆっくりと瞳《ひとみ》を見開いた。
つぶらな青い瞳に、戸惑《とまど》いと、怖《おそ》れが浮《う》かぶ。
アブリルはゆっくりと時計塔を振り返った。小さな四角い窓《まど》が二つ、まるで怪物《かいぶつ》の目のようにアブリルを見下ろしていた。誰かにじっと見られているような、密《ひそ》やかな視線《しせん》の気配がした。アブリルは不安そうに眉《まゆ》をひそめ、もう一度じっと時計塔を見上げた。
「そういえば、さっきプランシェットを途中《とちゅう》でやめてしまったんだったわ。確《たし》か説明書では、そんなことをしたら邪悪な霊《れい》がやってきて、戻らなくなってしまうんだったけど……」
アブリルは青い瞳を見開いて、つぶやいた。
「そんなこと、起こらないよね……?」
風が吹いた。
灰色に沈《しず》む時計塔に影《かげ》が差して、その姿をいっそう暗く、黒く染《そ》め変えていった。
2
そして、その頃《ころ》。
聖《せい》マルグリット大図書館――。
広々とした学園の敷地《しきち》。その奥《おく》の奥に隠《かく》された高い塔《とう》は、ここ三百年|余《あまり》そうであったように、今日もまた静寂《せいじゃく》に包まれていた。
欧州《おうしゅう》でも指折りの知識《ちしき》の殿堂《でんどう》でありながら、秘密主義《ひみつしゅぎ》の学園ゆえにその存在《そんざい》を知る人は多くはない。風雨に晒《さら》され色を変えた石の塔には、よく見ると小さな革張《かわば》りのドアがあるのだが、そこを開けて中に入っていくものの姿《すがた》はあまりみかけることがない。
内部は、目眩《めまい》がするほど高いところにある天井《てんじょう》まですべてが吹《ふ》き抜《ぬ》けになったホールで、壁《かべ》は四方ともすべて巨大書棚《きょだいしょだな》となっていた。革張りの分厚《ぶあつ》い書物が何万|冊《さつ》も、ぐるりとこの空間を取り囲んでいる。知性《ちせい》と、静寂。この場所にあるのはただただそればかりだった。
天井を見上げると、細い木の階段《かいだん》が迷路状《めいろじょう》に入り組んで上へ上へのびている。そしてそのもっとも上にかすかに見えるのは、荘厳《そうごん》な宗教画《しゅうきょうが》が描《えが》かれた美しい天井と、そして……。
金色の細長い、なにか……。
まるで図書館に隠れ棲《す》む不思議な生き物が、うっかりしっぽを垂《た》らしているかのような、なにか……。
時折かすかに揺《ゆ》れて、下にいるものを誘うようにうごめいてはまた、止まる。
この図書館には、生徒に噂《うわさ》されるさまざまな寓話《ぐうわ》があった。曰《いわ》く、これは十七世紀初頭に当時のソヴュール国王が建設《けんせつ》した建物で、あの誰《だれ》も上がっていけないほど入り組んだ迷路階段のいちばん上には、恐妻家《きょうさいか》であった彼が秘密の愛人と逢瀬《おうせ》を楽しむためにつくった小さくて豪奢《ごうしゃ》なベッドルームがあるのだとか。曰く、そのいちばん上の部屋には、金色の小さな妖精《ようせい》が棲んでいるのだとか……。
その妖精の噂の根元になったと思われる、金色のしっぽの持ち主は、夏の休暇《きゅうか》を前にはしゃぐ下界の様子など何処吹《どこふ》く風だった。眩《まぶ》しい夏の日射《ひざ》しに照りつけられることも、とつぜんの通り雨に驚《おどろ》くこともなく、今日もまたいつもと同じように、迷路階段を上がった先にある秘密の植物園で、厳《いか》めしい顔をして読書に励《はげ》んでいた。
南国の木々が生《お》い茂《しげ》り、毒々しい赤い花が咲《さ》き誇《ほこ》るその植物園と、階段の踊《おど》り場の中間に、半身を投げ出すように、小さな美しい少女が転がっていた。
ヴィクトリカ・ド・ブロワ――。
ソヴュール王国で力を持つ貴族《きぞく》、ブロワ侯爵《こうしゃく》と、謎《なぞ》めいた血筋の踊り子、コルデリアとのあいだに生まれ、なぜかこの学園に幽閉《ゆうへい》されている少女だ。彼女は今日もまた、花模様《はなもよう》を散らせたピンクのドレスに、雲の上しか歩けないような繊細《せんさい》なレースアップシューズ。フリルとレースに縁取《ふちど》られた豪奢な姿で、かなりけだるげに、パイプをくゆらしていた。
小さな顔は驚くほど整って、一見、人ではなくまるで職人《しょくにん》が丹精込《たんせいこ》めて造《つく》った陶人形《とうにんぎょう》のようにも見える。小さな鼻とさくらんぼのようなつややかな唇《くちびる》。頬《ほお》は薔薇色《ばらいろ》――。しかし、その薄《うす》いエメラルドグリーンに輝《かがや》く瞳《ひとみ》だけが、薄くけぶり、大人とも子供《こども》ともつかない不思議に冷酷《れいこく》めいた、彼女|独特《どくとく》の雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出している。
鮮《あざ》やかな金色の髪は足元まで届《とど》くほど長く、それが不思議な生き物のしっぽのように階段の手すりから下へこぼれ落ちて、物憂《ものう》げに揺れている。
小さな手には、陶製《とうせい》のパイプ。時折、唇に近づけてはぷかり、ぷかり、と吸《す》う。パイプから白く細い煙《けむり》が天窓《てんまど》に向かってまっすぐ上っていく。
彼女の周りには分厚い書物がいくつも開かれて散らばっていた。そのどれもが、難解《なんかい》な学問書や魔術書《まじゅつしょ》、辞書などで、どれをとっても、一冊読むのにずいぶん時間がかかりそうな代物《しろもの》だった。しかしヴィクトリカはそれを何冊も同時に読み進めているようだった。何冊ものページをめくり、目を走らせ、まためくり続けている。
しばしその作業に没頭《ぼっとう》していたヴィクトリカは、しかし、とつぜん顔を上げるとうめいた。
「……退屈《たいくつ》だ」
子供が駄々《だだ》をこねるように、両足をばたつかせた。書物が蹴飛《けと》ばされてあちこちにすっ飛んでいった。
ヴィクトリカはパイプを、かたわらにある靴《くつ》の形のパイプ置きに置くと、とつぜんごろんと横になった。そして体をきゅっと縮《ちぢ》めて小さなフリルのボールみたいになると、右に、左に、ごろんごろんと転がり始めた。そのたびに散らばった書物が遠くに飛ばされていく。
「退屈だったら、退屈だ! どうしろと言うのだ? 死ぬ! 退屈が喉《のど》までせりあがってきたら息が止まって死ぬ。医学的にもあり得《う》るのだ。あぁ……」
ヴィクトリカはフリルのボール状態《じょうたい》でしばらく植物園の床《ゆか》を右に、左に、前に、後ろに転がり続けていたが、急にむくりと起きあがった。
迷路階段の手すりに小さな手をのばし、遥《はる》か下の、図書館の入り口辺りをぼんやりとみつめた。
この広大な知識の殿堂にいるのはヴィクトリカ一人で、命あるものは誰もやってくる様子がない。いつもなら、革張《かわば》りのスイングドアが勢《いきお》いよく開いて、「ヴィクトリカー!」と叫《さけ》びながらおかしな東洋人の少年が迷路階段を駆《か》け上がってくるはずの時間なのだが、今日は……。
「今日は、遅《おそ》いな……」
ヴィクトリカは小声でつぶやいた。
それから、はぁ……とため息をつき、しばらくぶらんぶらんと手すりにぶら下がっていた。金の髪が遥か下のホールに向かって垂れ下がり、左右に揺れる。
「もう、飛び降《お》りちゃおうかな。そしたらもちろん死ぬが、一瞬《いっしゅん》、いい感じにきわめて刺激《しげき》的だ。…………ぎゃあああ!」
物騒《ぶっそう》なことを口走っていたヴィクトリカは、とつぜん手すりから手を離《はな》すと、小さな両手で後頭部を押《お》さえた。エメラルドグリーンのまるで老女のような静かな瞳に、じわじわと涙《なみだ》の粒《つぶ》が溜《た》まった。
「い、痛《いた》い………………ぞ?」
後頭部を押さえて涙を浮《う》かべながら、ヴィクトリカはゆっくりと振《ふ》り返った。床の上に一|冊《さつ》の書物が落ちていた。どうやらヴィクトリカが暴《あば》れていた振動《しんどう》で、そこにある棚《たな》から一冊の書物が落っこちてきたらしい。
ヴィクトリカの後頭部に突《つ》き刺《さ》さって落下したその書物は、金色の表紙をしだ妙《みょう》に派手《はで》派手しいものだった。ヴィクトリカはしばらく憎々《にくにく》しげに書物を睨《にら》んでいたが、やがてそろそろと動いて書物に近づいた。なぜか妙に警戒《けいかい》して、野生動物が罠《わな》の近くをうろつくように、小さな鼻を近づけて匂《にお》いを嗅《か》いだり、また離れたりをしばらく繰《く》り返す。
十分ほどして、ようやくヴィクトリカは警戒を解《と》き、そっとその書物を手に取った。膝《ひざ》の上に置いて、そして、ゆっくりと書物を、開、い、た……。
――ポン!
その大きな金色の本は、開いた途端《とたん》にヴィクトリカの目の前に不思議な情景《じょうけい》を映《うつ》しだした。
巨大《きょだい》な四つのぜんまい。
同じく巨大な振り子。
そして、ローブを身にまとい仮面《かめん》をつけた大柄《おおがら》な男と、その傍《かたわ》らに倒《たお》れ伏《ふ》す少年。
少年のお腹《なか》はぱっくりと裂《さ》けて、そこから金色の飛沫《しぶき》が飛びだし、まるで腹の肉を引き裂いて金色の花が満開に咲《さ》いたように見える。
仮面の男は心の底から笑っている。なぜだか仮面|越《ご》しにそれが感じられた。
男は勝ち誇《ほこ》っている。
だが、長年の深い悲しみと怒《いか》りも抱《かか》えている。
男がゆっくりとこちらを振り返る。そして箱庭のようなその世界を見下ろす、フリルに包まれた巨大な少女をみつける。
男は少女――ヴィクトリカの巨大な緑の瞳を見上げ、にやり、と笑う。
そして地面を指差す。なにかを言おうとしている……。
――ヴィクトリカは我《われ》に返った。
膝の上に開いた書物をじっとみつめた。
それは大きな書物で、開くと、ぜんまいや振り子、そして仮面の男と倒れ伏す少年の絵がこちらに飛び出してくる造《つく》りになっていた。子供《こども》用の絵本によくある飛び出す絵本≠セ。しかしこの書物は子供だましではなく、かなり凝《こ》って造られていた。一瞬、こちらに情景ごと飛び出してきたかのように感じられたほどだ。
ヴィクトリカは、仮面の男が指差したような気がした地面……つまり書物のページを見た。そこには絵本の文字の部分のように、なにか文章が書かれていた。すべて手書きで書かれ、しかしそのフランス語は……なぜか、まるで子供が書いたかのような稚拙《ちせつ》な文字だった。
ヴィクトリカは顔をしかめた。
「……これはいったいなんだ?」
顔を近づけ、読み進めてみる。
そこにはこう書かれていた。
〈いつの日かこの本を手に取る者へ
一八九九年 リヴァイアサン 記す〉
ヴィクトリカは顔をしかめた。
仮面の男をじっと見下ろす。
「リヴァイアサン……? 例のおかしな錬金術師《れんきんじゅつし》か。この学園に昔、いたという……。なんだこれは。つまりこれは、君の回顧録《メモワール》なのかね?」
フンと鼻を鳴らし、小さな仮面の男を睨むと、
「わたしがまんまとこの回顧録を読むと思っているのかね? あいにくだな」
ヴィクトリカはぱたんと書物を閉《と》じて、元の場所に戻《もど》した。
それからしばらく、パイプをくゆらしてじっとしていた。
数刻《すうこく》……。
「……だああああ! やっぱり退屈だ!」
再《ふたた》びくるんと丸まってフリルボールになり、右に左にふかふかと転がり回ったあげく、ヴィクトリカはふくれっ面《つら》で起きあがった。
手をのばして金色の書物を掴《つか》むと、膝の上に広げる。
「仕方ない。なぜだかとても気にくわないが、読んでみるか……。これを読むか、退屈で死ぬかとなれば、どちらかといえば読むしかあるまい」
かつてこれを書いた者が聞いたら怒り出すようなことを言い放つと、その金色の書物に顔を突っ込んで、読み始めた。
「ふむ、やはり回顧録だな。こんな凝ったものを造るとは、暇《ひま》なやつだ」
〈我《われ》、リヴァイアサンは錬金術師である。
神秘《しんぴ》の力によって無から有を創《つく》り出すことに成功したのである。
いつの日かこれを手に取りし未来の汝《なんじ》よ、驚《おどろ》いているであろう?
我の力は我の命を永遠《えいえん》に生かし続け、秘密《ひみつ》を暴《あば》こうとするものを罰《ばっ》し続けるのである。
汝、まいったかね?〉
ヴィクトリカは顔をしかめた。
「この男はどうも苦手だな。……どことなく、妙《みょう》なやつだ」
ヴィクトリカはため息をつき、書物を閉じようとした。
そのときつぎの一文が目に入り、手を止めさせた。
〈未来の汝よ。
汝は男か?
女か?
大人か?
子供か?
構《かま》わぬ。
我の謎《なぞ》は何百年|経《た》とうと見破《みやぶ》れまいからだ。汝、悔《くや》しいかね?〉
ヴィクトリカはきりきりと眉《まゆ》をひきつらせた。怒《おこ》っている。金色の髪《かみ》がぶわりと膨《ふく》れあがり、薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》も憤怒《ふんぬ》に赤く染《そ》まった。
「な、なにを言っているのだ。わたしに見破れないことなどない。なんなのだ、この失敬《しっけい》な男は!」
怒りにまかせて乱暴《らんぼう》にページをめくる。
しかし、つぎのページは別の日付で、震《ふる》える文字が乱暴に書かれていた。
〈未来の汝よ。
我は愚者《ぐしゃ》なり。
そして汝、愚者の代弁者《だいべんしゃ》となりて、我が愚《おろ》かなりし秘密を暴け!〉
「……なにを言ってるのだ、この男は? 見破れまいと威張《いば》ったり、暴けと頼《たの》んだり。難儀《なんぎ》な男だな」
ヴィクトリカはぱたんと書物を閉じた。
「うーん……もう、いいや」
あまりにも気まぐれな様子で、書物を床《ゆか》に投げ落とした。それから思い出したように、もとは帽子《ぼうし》だったお菓子入《かしい》れに手をのばした。マカロンの包み紙をはがしてうれしそうに頬張りながら、しかし少し思案顔で、なにごとか逡巡《しゅんじゅん》している。
もぐもぐ、もぐもぐ……。
ごくん、と食べ終わると、また手をのばして、二|個目《こめ》のマカロンを頬張る。
もぐもぐ、もぐもぐ……。
そうしながらも、ヴィクトリカの視線《しせん》は一点に集中していた。床に投げ落とした金色の書物だ。
マカロンの包み紙が床に散らばり、天窓《てんまど》からの風にカサカサッ……と音を立てた。ヴィクトリカはまたくるんと丸まって左右に揺《ゆ》れながらなにごとか逡巡していたが、やがてため息混《いきま》じりに起きあがると、
「退屈《たいくつ》には勝てん。なにしろ最大の敵《てき》なのだからな……」
つぶやいて、金色の書物をまた手に取った。
ページをめくるたびに、きらびやかな王宮の広間、王冠《おうかん》を輝《かがや》かせる若《わか》い王妃《おうひ》、厳《いか》めしい法廷《ほうてい》に集まる人々、跪《ひざまず》く長い金髪の若者[#「長い金髪の若者」に傍点]……さまざまな情景《じょうけい》が、ポン! ポン! と飛び出してきた。ヴィクトリカは次第《しだい》に没頭《ぼっとう》してきて、手にしたパイプに口を付けるのも忘《わす》れ、ただただ書物に顔を突《つ》っ込《こ》んでいた。
しばらくして、遥《はる》か下のホールから聞き慣《な》れた音が響《ひび》いてきた。ばたん、とドアが開き、続いて誰《だれ》かが走り込んでくる足音。そしていつもの声……。
「ヴィクトリカー!」
呼《よ》ばれたヴィクトリカは、かすかにぴくりと反応《はんのう》した。だがそれきり返事もせずに、ひたすら読書に没頭し続けている。
ホールの遥か下に小柄《こがら》な少年の姿《すがた》が現《あらわ》れ、息せき切って迷路階段《めいろかいだん》を駆《か》け上がってくる足音が響き始めた。
ヴィクトリカは顔も上げずに、ただ一言、ぼそりとつぶやいた。
「ふむ。ようやくきたか、あのならず者め……」
パイプを口に近づけて、ぷかり、ぷかりと吸いながら、ヴィクトリカは休まずに読書を続けた。少年――久城一弥が階段を駆け上る、カッカッカッ……という規則正《きそくただ》しい足音が静かな植物園に響き渡《わた》る。
だが、迷路階段は長い。
一弥の姿が現れるまで、まだあと数分かかる……。
「ヴィクトリカー!」
息せき切って一弥が植物園まで上がってきたのは、それから十分ほどが経《た》ってからだった。暑さのせいもあって、はぁはぁと肩《かた》で息をしている。汗《あせ》を拭《ふ》き、慣れた様子でヴィクトリカのとなりに座《すわ》る。そして鼻息も荒《あら》く、
「ね、君、退屈してるかい?」
聞かれたヴィクトリカは、膝《ひざ》に置いた書物から面倒《めんどう》くさそうに顔を上げた。
鮮《あざ》やかな金色の髪に彩《いろど》られた、小さな小さな顔。その顔に輝く、見たこともないほど不思議な輝きを湛《たた》えた緑の瞳《ひとみ》。
一弥は知らずドキリとした。ヴィクトリカがしばらく黙《だま》っているので、固唾《かたず》を呑《の》んで返事を待っていると……。
「……そうでもない」
一弥はがくっと肩を落とした。
その様子に気づいたヴィクトリカが、物憂《ものう》げにパイプをくゆらしながら、
「いったいなんだね?」
「……なんでもないよ。ちょっとばかしおもしろい話を仕入れたもんだから、君が退屈してるのなら少しは喜んでくれるかと思って、やってきたんだ」
「へぇー……」
いかにも気のない返事に、一弥は少しめげた。しかし気を取り直して、
「あ、でも一応《いちおう》話してみるよ。君が知ってるかどうかわからないけど、この学園にはその昔、怪《あや》しい錬金術師《れんきんじゅつし》がいてね……」
「ふむ、奇異《きい》だな」
ヴィクトリカが不思議そうに言った。一弥が「ん?」と聞き返す。
「奇異って、なにが?」
「たったいま、その錬金術師の挑戦《ちょうせん》を受けたところなのだ」
「えぇ、挑戦!?」
一弥はきょとんとして聞き返した。
天窓から風が吹《ふ》いて、植物園の花や葉をさらさらと揺らしていった。外は夏の日射《ひざ》しで暑かったのに、ここはまるで地上の暑さとは無縁《むえん》の、心地《ここち》よい涼《すず》しさを保《たも》っている。
ヴィクトリカは物憂げにパイプをくゆらし、膝の上に広げた書物を読んでいる。一弥はしばらくおとなしく待っていたが、どうやらヴィクトリカが返事をしてくれる様子がないのに気づくと、遠慮《えんりょ》がちに、
「挑戦って、なんのことなんだい?」
ヴィクトリカは知らんぷりしていた。パイプから上る白い細い煙《けむり》が、彼女が身じろぎするたびに儚《はかな》げに少し揺れた。一弥が手持ちぶさたに、ヴィクトリカのマカロンを一つ手に取って口に放《ほう》り込んだり、なぜか床中《ゆかじゅう》に散らばっている書物を拾い集めて整理したりしていると、ヴィクトリカがとつぜん言った。
「久城、君、誘《さそ》われて映画《えいが》に行ってきたのかね?」
「うん! ……あれ、どうしてわかるんだよ?」
ヴィクトリカは興味《きょうみ》なさそうに、
「ポケットから映画の半券《はんけん》が覗《のぞ》いている。タイトルが少し読めるが、どうも君の好みではないようだからね。おそらく、誰かに誘われて出かけたのだろうと推測《すいそく》したのだよ」
「ふぅん……。すごいや、当たりだよ。村に映画館ができたから行ってみたんだ。そしたらその映画が、この学園に昔いたあやしい錬金術師の話をもとにつくられたものだったんだよ」
「ふむ……」
ヴィクトリカはそれきりその話題に興味をなくして、知らんぷりして読書を続けていた。一弥はマカロンの包み紙を拾ったり、散らばる書物を一か所にまとめたりといった、いまや恒例《こうれい》となった整理|整頓《せいとん》に励《はげ》みながら、映画館の様子や村で見たことなどを一生|懸命《けんめい》しゃべっていた。ヴィクトリカは聞いているのかいないのか返事もせずにパイプを吹かしていたが、しばらくするととつぜん顔を上げ、妙《みょう》なことを話しかけてきた。
「君、マイセン磁器《じき》を知っているかね?」
一弥はきょとんとした。
「知ってるよ。ドイツの食器だろ? 白くてつるつるしてて、なかなかきれいだよね。……なんだよ、急に?」
「君に錬金術の話をしようと思ったのだ」
「…………その話、長い?」
「もちろんだ」
ヴィクトリカはうなずいた。
「とてつもなく長い。醒《さ》めない夢《ゆめ》のように長い。竜の寿命《じゅみょう》のように長い。さて、聞け。こっちにこい」
一弥は困《こま》ったような顔をしたが、仕方なく、ヴィクトリカの傍《かたわ》らに戻《もど》ってきて、ちょこんと座《すわ》った。ヴィクトリカは横顔に冷酷《れいこく》めいた表情《ひょうじょう》を浮《う》かべ、
「久城、君が錬金術《れんきんじゅつ》についてどれほど知っているかは知らないが、わたしが推測したところ、おそらくほとんど無知なのだろう」
「悪かったね。ああ、ぜんぜん知らないよ」
「説明してやろう。錬金術師とは、物質《ぶっしつ》の情報を書き替《か》えて別の物質に変化させる術を研究する人々なのだ。その技《わざ》はさまざまだが、歴史的に、人々が彼らに求めた力は大きくわけると三つに集約される。金≠ニ不老不死=Aそして人造人間《ホムンクルス》≠セ。それらは賢者《けんじゃ》の石≠ニ言われる特別な物質の助けを借りて造《つく》られるとされたため、力ある錬金術師は賢者の石≠持っているものと考えられた。その石は一説によると柘榴《ざくろ》の実のような濃厚《のうこう》な赤色をしていたとされる。……久城、眠《ねむ》ったら絶交《ぜっこう》だ」
「眠ってないよ! 目をつぶっていただけだよ」
「フン」
ヴィクトリカは一弥のいいわけを鼻であしらった。
「そしてね、君、一般《いっぱん》に錬金術とは古代から綿々《めんめん》と受け継《つ》がれた悪魔《あくま》的な知識《ちしき》だと誤解《ごかい》されているが、その歴史は意外と浅いのだ。ものすごく浅いのだ。知っていたかね?」
「いや、ぜんぜん」
「ふむ。ここで一人の青年にご登場願おう。舞台《ぶたい》は十七世紀初頭のイタリア。青年の名前はヨハン・V・アンドレーエ。牧師《ぼくし》の息子《むすこ》で、ボンクラだ。昼間はぶらぶらし、夜は宗教《しゅうきょう》関係のサークルに顔を出していた。ヨハンはそのサークルで、ある夜、クリストフと名乗る異能《いのう》の青年と出会った。彼は古代ヘブライ語を含《ふく》む九か国語を理解し、さまざまな余計《よけい》な知識に精通《せいつう》する、謎《なぞ》めいた、無職《むしょく》のボンクラだった」
「余計な知識なら君だって負けてないと思うけどね。……痛《いた》い! 蹴飛《けと》ばすなよ」
「とにかくヨハンとクリストフのボンクラ二人組が意気投合し、それが結果的に、その後の長き錬金術ブームをつくることになったのだ。彼らは二人で部屋に籠《こ》もり、それぞれの両親や兄たちに就職《しゅうしょく》しろだの妻帯《さいたい》しろだの、のべつまくなしに説教されながら、一人の架空《かくう》の人物についての壮大な想像《そうぞう》物語を作り上げた。まあ、ちょっとばかし妙な方法で暇《ひま》を潰《つぶ》していたのだな……。さて、その物語の主人公は、十四世紀に生まれた悪魔的な男クリスティアン・ローゼンクロイツ。二人のボンクラは、その想像上の男にさまざまな力を与《あた》え、薔薇十字団《ばらじゅうじだん》という錬金術師集団の王であるとした。二人は薔薇十字団の謎めいたパビリオンや厳《きび》しい規約《きやく》、そして彼らの歴史などを考え、それを幻想《げんそう》文学として一|冊《さつ》の書物にまとめた。『クリスティアン・ローゼンクロイツの科学の結婚《けっこん》』という本だ。それでは飽《あ》きたらずに、さらに『ファーマ』『コンフェッシオ』という本も書いた。要するに、そうとう暇だったのだな。しかし彼ら二人がわずか六年のあいだに書いたたった三冊の本は、中世ヨーロッパでベストセラーとなり、後追いの書物や薔薇十字団を名乗る人々がつぎつぎに現《あらわ》れた。二人のボンクラ青年の想像物語はあっというまに社会によって再編集《さいへんしゅう》され、その後の歴史の中で次第《しだい》に現実化していったのだ。おそらく、当事者の二人にも止めようのない速度で、な」
「へぇ……」
「二人の相性《あいしょう》は抜群《ばつぐん》だったのだろうよ。異能のボンクラ、クリストフは、古代から中世までのあらゆる神秘《しんぴ》的知識を内包した泉《いずみ》だった。しかし彼自身にはその膨大《ぼうだい》な知識をどうすることもできなかった。そこで活躍《かつやく》したのがもう一人のボンクラ、ヨハンだ。ヨハンはクリストフの膨大な知識から徹底《てってい》的にブラウジングし、おもしろい部分だけを寄《よ》せ集めて編集加工を行った。この二人の才能《さいのう》によって薔薇十字団という魔性の錬金術師集団が存在《そんざい》した≠アとになり、さまざまな書物も出版《しゅっぱん》されて、中世|以降《いこう》の熱狂《ねっきょう》的なブームを造《つく》ったのだ」
ヴィクトリカは膝《ひざ》に置いた書物を降《お》ろして、マカロンを一つ頬張《ほおば》った。
「もぐもぐ……。それでだな、マイセン磁器についてだが」
「とつぜん話題が変わったけど」
「フン。変わってなどいない」
ヴィクトリカはマカロンの包み紙をぽいっと放《ほう》り投げた。一弥が拾って、ポケットにしまう。
「ところで十八世紀のドイツに舞台を移《うつ》すと、フリードリッヒ・ベットガーというボンクラ青年がいた」
「またボンクラ?」
「そうだ。錬金術の歴史は裏返《うらがえ》せばそういうやつら≠フ歴史なのだ。フリードリッヒは薬屋の見習い青年だったが、周りには自分はすごい錬金術師でもちろん賢者《けんじゃ》の石も持っていると吹聴《ふいちょう》して回っていた。するとある夜、ポーランド国王軍が押《お》し入ってきてフリードリッヒは誘拐《ゆうかい》されてしまった。国王にはどうしてもほしいものがあったのだ」
「金?」
「いや。久城、君の生まれた国に美しい白磁《はくじ》の皿があるだろう。確《たし》か伊万里焼《いまりやき》と呼《よ》ばれているものだ」
一弥はうなずいた。
「知ってるよ。やっぱり白くてつるつるしててきれいなものだよね。それがなんだい?」
「ポーランド国王は東洋から献上《けんじょう》された白磁の皿をいたく気に入っていた。当時、伊万里焼はヨーロッパにおいて金と同じ値段《ねだん》で取り引きされる宝物《ほうもつ》だった。そして国王は、これとまったく同じものを錬金術によって造ることを望んだのだ。王宮の工房《こうぼう》に幽閉《ゆうへい》されたフリードリッヒはもちろん困《こま》った。ものすごく家に帰りたかった。だが無理だった。国王は彼の嘘《うそ》を頭から信じ、日夜、まだかまだかとせっついた。賢者の石でさっさと造れとね。いまさら嘘だなどと告白すれば間違《まちが》いなく殺される。フリードリッヒは、浴びるようにヤケ酒を飲みながら十年かかって、土をこね、焼き、また酒を飲み……ついに伊万里焼によく似た、白くてつるつるして美しい磁器を作り上げた。国王は喜び、大量生産するための工場を造った。それがマイセン磁器の誕生《たんじょう》だ」
「へぇ、そうだったんだ」
一弥は感心した。
「で、そのフリードリッヒはどうなったの?」
「深酒とストレスがたたり、ぽっくり死んでしまった。マイセン磁器博物館に、青ざめた顔で酒杯《しゅはい》をあおる彼の肖像画《しょうぞうが》が飾《かざ》られている。……つまりだね、久城。わたしが言いたいのは、だ」
ヴィクトリカはなぜかむきになっているようだった。頬を真っ赤に染《そ》めていつになく熱弁《ねつべん》を振《ふ》るっている。一弥は不思議そうにその小さな顔をみつめた。
「錬金術師《れんきんじゅつし》はやたら謎めいたことを言い周囲を煙《けむ》に巻《ま》くが、その実、錬金術の歴史は詐欺《さぎ》的な歴史だということだよ。わたしがいま語ったものはその歴史のほんの一コマに過《す》ぎない。嘘をついて後に引けなくなった男や、暇つぶしの幻想文学のつもりで執筆《しっぴつ》した男。彼らの嘘を信じたい≠ニ願う人々や歴史の波によって、数百年の時をかけ、それらは人々の共同幻想として現実化《げんじつか》していってしまった。つまり……」
ヴィクトリカはフンと鼻を鳴らした。
「その昔、聖《せい》マルグリット学園にいたという錬金術師リヴァイアサンもまたそういうやつら≠フ一人に過ぎない。もちろん彼は無から有など造っていない。人を騙《だま》すことに長《た》けていただけだ。いわば彼らは永遠《えいえん》の悪戯《いたずら》っ子なのだよ。ママに怒《おこ》られても登った木から降《お》りてこない困った子供《こども》だ」
「だけどその錬金術師は、ずいぶん有名になって、最後はソヴュールの国政《こくせい》にも口出しをしたって聞いたけど……」
「フン。実にくだらない。もしもわたしがリヴァイアサンと同じ時を生きていれば、必ずや彼のペテンを暴《あば》き、勝負に勝ったことだろう。わたしのこの知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠ノよって、彼の仮面《かめん》の奥《おく》から散らばる混沌《カオス》の欠片《かけら》を拾い集め再構成《さいこうせい》し、またたくまに息の根を止めてやったことだろう。そう、わたしは……!」
ヴィクトリカは真っ赤な顔をして、ムキになって繰《く》り返した。
「わたしは彼の秘密《ひみつ》を暴いて、愚者《ぐしゃ》の代弁者となろう!」
そのやけに力の入った宣言《せんげん》に、一弥はきょとんとして、ヴィクトリカの怒《いか》りに染まる小さな顔をみつめた。
「ふぅん……?」
天窓《てんまど》から風が吹《ふ》いて、ヴィクトリカの長い髪《かみ》を揺《ゆ》らした。靴《くつ》の形をしたパイプ置きに置かれた陶器《とうき》のパイプから、細い白い煙がたゆたって天井《てんじょう》に上っていく。
どこかで小鳥が鳴いている。
「……なんだか楽しそうだね、ヴィクトリカ」
「楽しい? わたしが?」
「そうだよ。だって、つまりこういうことだろ? 今日の君はめずらしく退屈《たいくつ》してない。そのおかしな錬金術師のおかげで、さ」
「む……」
ヴィクトリカは不満そうにほっぺたをふくらませて、黙《だま》った。そんなヴィクトリカを一弥はにこにこして見守っている。
陶製《とうせい》のパイプから、白い細い煙は天窓に向かって上り続けていた。
またどこかで小鳥が鳴いた。
天窓からこぼれ落ちてくる眩《まぶ》しい日射《ひざ》しが、この植物園にも、外はもう夏であることを知らせていた。
3
さて、その翌朝《よくあさ》――。
夏の長い休暇《きゅうか》を二日後に控《ひか》えた月曜日の、暑い朝――。
一弥はいつもの通り、目覚まし時計もないのに七時ぴったりにむくりと起きあがると、寝《ね》ぼけ眼《まなこ》のままで男子寮《だんしりょう》の部屋のベッドから出た。洗面所《せんめんじょ》で顔を洗《あら》い、歯を磨《みが》き、きっちりと制服《せいふく》を着てネクタイも締《し》め、前の晩《ばん》に教科書やノートを入れた鞄《かばん》を手に部屋を出た。
食堂に降りると、まだ寮生たちは誰《だれ》もいなかった。貴族《きぞく》の子弟《してい》たちは朝が弱いのか、みんなぎりぎりまで眠《ねむ》っているのが常《つね》なのだ。一弥は赤毛の色っぽい寮母さんに挨拶《あいさつ》をして、朝食を出してもらい、しっかりと食べた。
「そういや、久城くん」
寮母さんがくわえ煙草《たばこ》で紅茶《こうちゃ》のお代わりを注いでくれながら、
「昨日、村の映画館《えいがかん》に行ったでしょ?」
「はい。あれ、寮母さんも?」
「ううんー」
寮母さんは首を振《ふ》った。
「あたしじゃなくて、友達がね。映画館で東洋人の男を見たって言ってたからさ。この辺りで東洋人って言ったら、久城くんぐらいでしょ?」
「そっか……。そうですよね」
「赤毛の、ちょっといい男と一緒《いっしょ》だったって。ねえ、どういう知り合い? 村の女の子たちがきゃあきゃあ言って、そいつの正体を知りたがってるのよね」
「赤毛の男?」
一弥はきょとんとした。
(昨日はずっとアブリルと一緒だったんだけど……?)
しばらく考えて、寮母さんが言う東洋人の男≠ヘ自分ではなく、学園への帰り道にみかけた二人組のことなのだ、と気づいた。確《たし》か、妙《みょう》に鋭《するど》い目つきをした東洋人の男と、深く被《かぶ》った帽子《ぼうし》から燃《も》えるような赤毛を覗《のぞ》かせた男の二人組だったはずだ……。
「それ、ぼくじゃありません。ぼく、ずっとクラスメイトの子と一緒だったから」
「なんだ、そうなの。二人にウインクされてどきどきしちゃった、って聞いたから、てっきり……」
「寮母さん、そのウインクの話の時点で気づいて下さいよ! ぼくがそんなことできるわけないじゃないですか!」
「あら、そう? それじゃ、試《ため》しにやってみれば?」
寮母さんは一弥に向かってパチッとウインクしてみせた。一弥は知らず赤くなった。
――朝食を食べ終わり、寮を出る。一弥は姿勢《しせい》を正して、校舎《こうしゃ》に向かって一直線に進んでいった。
と、いつもの小径《こみち》を歩きながら、なんとなく気になって、いままでは目に留《と》めたこともない古びた時計塔《とけいとう》に目を走らせた。
(あれ……?)
灰色《はいいろ》に沈《しず》む石の塔は、そこだけまだ夜にいるように、眩《まぶ》しい朝日を寄《よ》せつけずに暗く陰《かげ》っていた。その入り口の、昨日アブリルが蹴破《けやぶ》ったドアが、ぶらん……と壁《かべ》にぶらさがるように開いていた。
(確か昨日、セシル先生が、すぐにドアを直すって言ってたんだけど……)
なんとなく責任《せきにん》を感じて、一弥は小径を曲がり、小走りで時計塔に近づいていった。ドアをよく見ると、昨日はなかった新しい鍵《かぎ》がつけられていた。しかしその鍵には、誰かが無理やりこじ開けたような傷跡《きずあと》がついている……?
一弥はそっと首をのばして、塔の中を覗き込《こ》んだ。
昨日とまったく同じ光景が、そこにあった。暗く埃《ほこり》っぽい廊下《ろうか》と、その奥《おく》の闇《やみ》に続く階段《かいだん》。おそるおそる二、三歩入り、小声で「誰か、いますか……?」と問うてみたが、答える声はなかった。一弥は塔を出ようとした。
(後でセシル先生に、ドアがまた開いていたって報告《ほうこく》しておこう……)
塔に背《せ》を向けた、そのとき……。
キィィィィィィ……。
かすかな音がした。塔の奥でドアが開いた音だ。一弥は振り返り、もう一度「誰かいるんですか?」と、今度は少し大きめの声で問うた。
返事はない。
少し迷《まよ》ってから、塔に足を踏《ふ》み入れた。
廊下を歩きだすと、昨日アブリルと一緒に入ったときと同じように、妙な目眩《めまい》がした。空間が歪《ゆが》んでいるような、頭を圧迫《あっぱく》されているような、説明しがたい息苦しさ……。一弥は階段を上がった。アブリルがつまずいたのと同じ場所で、なぜか一弥も足がもつれ、転びそうになった。戸惑《とまど》いながらも階段を上がり、昨日アブリルが蹴破った二つめのドア――あの謎《なぞ》めいた、巨大《きょだい》なぜんまいと振り子が動く工房《こうぼう》のドアをみつけた。
ドアは開いていた。
ギリギリギリギリギリ……。
ぜんまいが動く音がする。
一弥はゆっくりと進んでいった。ドアから顔を出して、工房を覗き込む。
――男が倒《たお》れていた。
思わず一弥は駆《か》け寄って、その男を助け起こした。同じ肌《はだ》の色――あの東洋人の男だった。つい昨日、村でみかけたよそ者の男の片割《かたわ》れだ。男は一弥に気づいてゆっくりと目を開けた。一弥と同じ漆黒《しっこく》の色をした切れ長の瞳《ひとみ》が、見開かれた。
ぶるぶる震《ふる》える右腕《みぎうで》を、一弥に向かってのばす。見開かれた瞳は、白目が充血《じゅうけつ》して細い毛細血管がいまにもぶちぶち切れそうに見えた。瞳孔《どうこう》が開き、口から低いうめき声が漏《も》れた。
一弥は、男がのばしてきた右手の人差し指におかしな痣《あざ》があることに気づいた。指先にコインほどの紫色《むらさきいろ》の染《し》みができて、充血している。男は震えながら一弥にしがみついて、耳元で一言、ささやいた。
それは地獄《じごく》の底から響《ひび》いてきたような、不吉なしゃがれ声だった。
「錬金術師《れんきんじゅつし》、だ――!」
一弥は「えっ?」と聞き返した。男はもう一度、
「リヴァイア、サン、だ…………」
驚《おどろ》くほど大きな声で叫《さけ》ぶと、がくりと首を落とした。
一弥は何度か揺《ゆ》さぶって男を呼《よ》んだが、もう事切れたらしく反応《はんのう》がなかった。そこに男を置いて、あわてて飛び出す。廊下に出たとき、そこにある小窓《こまど》のはめ殺しのガラスの向こうを誰かが横切ったような、黒い影《かげ》が一瞬《いっしゅん》、目に飛び込んできた。
一弥はあわてて廊下を走り階段を降《お》りようとして……。
「……えっ?」
振《ふ》り返った。
ゆっくりと小窓のほうに戻《もど》る。
「人影? ……でも、そんなはずない。だってここは」
一弥は戸惑ったように、いまから自分が降りようとしていた階段のほうを見た。
「だってここは二階なんだ。窓の外を誰かが通るはずはない」
びゅうっ、と外で風が吹《ふ》いた。
びし、びしっ、と家鳴りがした。
一弥の耳に、ふいに昨日のアブリルの怯《おび》えた表情《ひょうじょう》と震《ふる》える声が蘇《よみがえ》った。
〈プランシェットを途中《とちゅう》でやめたらいけないのよ。
あの世から邪悪《じゃあく》なものがやってきてしまうの……〉
ギリギリギリギリギリギリ……。
背後《はいご》から、ぜんまいがきしみながら回る音が聞こえてきた。
事件《じけん》の報を受けた警察《けいさつ》がやってきたのは、三十分ほど経《た》ってからだった。現場《げんば》となった時計塔《とけいとう》には、死体の発見者である一弥と、一弥から報告を受けたセシル先生、それから年輩《ねんぱい》の教師が何人か集まっていた。
まだ朝露《あさつゆ》に濡《ぬ》れる小径《こみち》を、見覚えのない、とても見目のいい若《わか》い男が近づいてきた。金色のロングヘアを背中に垂《た》らし、彫《ほ》りの深い実に貴族《きぞく》的な美貌《びぼう》をしていた。緑の瞳は憂《うれ》いを秘《ひ》め、その服装《ふくそう》も純白《じゅんぱく》のシャツブラウスに乗馬ズボンと、なかなか洒落《しゃれ》ている。
そのハンサムな男は迷いもなく、発見者の一弥に近づいてきた。
「おはよう、久城くん」
「……おはようございま、え? 誰ですか?」
男は気味の悪いものを見るような目つきで一弥を見た。それから長いサラサラの金髪《きんぱつ》を両手でかき集めると、前方に引《ひ》っ張《ぱ》って大砲《たいほう》のように尖《とが》らせてみせ、
「わたしだよ。気づきたまえ」
「……ぎょへぇぇぇぇ!? 警部ですか!?」
セシル先生までが大きく口を開けて、髪《かみ》をドリルにしていないブロワ警部を呆然《ぼうぜん》と見上げていた。一弥はしばらく口も聞けずに警部をみつめた。
[#挿絵(img/04_069.jpg)入る]
ぱっと手を離《はな》すと、金髪がサラリと背中《せなか》に向かって戻っていき、苦虫を噛《か》みつぶしたような表情を浮《う》かべる、しかし文句《もんく》なしに美しい顔の周囲を再《ふたた》び金色に彩《いろど》った。一弥は不思議そうに、「髪型、変えたんですか? すごくまともに見えます」
「変えてなどいない」
ブロワ警部はつまらなそうに言った。
「朝早かったから、セットが間に合わなかったのだ」
「ああ、セットが……」
警部は落ちつかない様子で体を右に、左に揺らし始めた。サラサラの金髪も左右に揺れた。少しいい匂《にお》いがした。一弥は気味悪そうに、
「サラサラしてる」
「ほうっておいてくれたまえ。で、現場はどこだね?」
「二階の奥《おく》のぜんまいの部屋です。……なんか花の匂いがする」
「シャンプーの匂いだ! ここぞとばかりにからかうな。行くぞ」
勝手に一弥を助手|扱《あつか》いして、時計塔に入っていく。廊下《ろうか》を歩き、階段《かいだん》を上り、工房《こうぼう》の巨大《きょだい》なぜんまいと振り子に一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに死体をみつけて膝《ひざ》をつき、観察し始めた。
「東洋人だな。君と関係あるのか?」
「ありませんよ! 東洋人といっても、おそらくこの人は国籍《こくせき》がちがいますよ。顔つきもぼくの国とは少しちがうし……」
「ふむ?」
ブロワ警部は死体をじろじろと見て、
「確《たし》か昨日、村によそ者の男二人組がきたのだったな。そのうち一人は東洋人だったとのことだ。おそらくそいつだろう」
「そんなこと、どうして知ってるんですか?」
「村人の噂《うわさ》ネットワークだよ、君。とくに若い娘《むすめ》たちの口コミは、わたしたちの貴重な情報源《じょうほうげん》なのだ。君が昨日、村に出かけたことも知っているよ。初々《ういうい》しい学生二人組が映画館《えいがかん》で大騒《おおさわ》ぎしていたと聞いている」
「お、大騒ぎなんて……」
警部は顔を上げて、
「金髪のショートヘアの、なかなかきれいな女の子と一緒《いっしょ》だったらしいが。もしかして、あの子かね?」
一弥の背後《はいご》を指差した。振《ふ》り向くとそこに制服姿《せいふくすがた》のアブリルが、眠《ねむ》たそうに青い瞳《ひとみ》をこすりながら立っていた。
「アブリル!」
「く、久城くん! 時計塔《とけいとう》で事件《じけん》があったって聞いて、わたし……」
アブリルは一弥に駆《か》け寄《よ》ってきた。それから、立ち上がったブロワ警部《けいぶ》のほうを見上げた。しばらくじいっとブロワ警部を見上げて、それからかすかに顔をしかめた。
「……なに?」
「この人、だあれ?」
「ブロワ警部だよ。警察からきたんだ」
アブリルはじっとブロワ警部を観察し続けていたが、やがて一弥にこそっと耳打ちした。
「な、なに?」
「この人とってもハンサムだけど……なんだかへんな感じがするよ!」
「おい、聞こえてるぞ!」
ブロワ警部が不機嫌《ふきげん》そうに言った。
時計塔を出ると、ちょうどブロワ警部の部下二人が、やはり眠そうに、しかも二人とも寝《ね》ぐせをつけたままの姿でやってきたところだった。いつものように手をつないでいる。
部下たちは一人の男を連れていた。帽子《ぼうし》を目深《まぶか》に被《かぶ》り、燃《も》えるような赤毛を隠《かく》している。死んだ男の連れだ。部下たちが報告した。
「村の宿屋にいたところを、みつけましたー」
「ぐぅぐぅ寝てましたー」
赤毛の男の顔は、帽子に隠されてよく見えなかった。すらりと背が高く、身のこなしは妙《みょう》に敏捷《びんしょう》だった。砂利《じゃり》が敷《し》きつめられた小径《こみち》を歩いてくる姿も、彼だけがまるで雲の上を踊《おど》るような軽《かろ》やかさで、どこか異様《いよう》な存在《そんざい》感を放っていた。
古代の彫刻《ちょうこく》を思わせる彫りの深い美貌《びぼう》。猫《ねこ》のようなつり上がった瞳は、暗い緑色。男の薄《うす》い唇《くちびる》はなにかを嘲笑《あざわら》うように歪《ゆが》み、どことなく不吉《ふきつ》な様子だった。
男はブロワ警部に村にやってきた目的を聞かれると、
「ウォン――連れのほうはなにか別の目的があったようだが、俺《おれ》は知らないな」
「今朝はどこにいたのかね?」
「……ずっと宿にいた。宿の主人が証人《しょうにん》になってくれるよ。先に言っておくが、俺がウォンを殺すのは物理的に不可能《ふかのう》だ。宿と時計塔に同時存在していたというならともかくね」
「ふむ……?」
ブロワ警部が問うた。
「君が村にきた目的はなんだね?」
男の薄い唇が、ぐっと歪んだ。
猫のような瞳が細められる。その瞬間《しゅんかん》、男の全身からぶわっ……と目に見えないエネルギーが放出したようだった。男は低い声で、短く、
「――怪物《モンストル》を探《さが》しにきた」
そうつぶやくと、くっくっくっ……と笑いだした。
一弥とブロワ警部が顔を見合わせていると、つんつん、と後ろから誰《だれ》かが一弥をつついた。
振り向くとアブリルが不安そうな顔をしていた。
「どしたの?」
「あのね、こんな事件が起こっちゃったでしょ? もしかして、昨日、わたしが久城くんと一緒にやった、あれ……」
「あれって、なんだっけ?」
アブリルは青白い顔をして、
「プランシェットよ!」
「ああ、あれか……」
「あれのせいで不吉なことが起こったんだったら、どうしようって……」
「そ、そんなはずないだろ。アブリル、ああいったものは迷信《めいしん》だよ。気にしないで。それより、この事件にはきっと別の理由があるんだ。呪《のろ》いとか邪悪《じゃあく》なものとかじゃなくて、きっと……生きてる人間の犯人《はんにん》と、それから犯行方法。……あ、そうだ!」
一弥は急になにごとか思いつくと、
「ごめん、アブリル。また後でね」
急ぎ足で時計塔を離《はな》れ、どこかに歩き去っていった。
朝の日射《ひざ》しが庭園を照らしていた。クリスタルの噴水《ふんすい》がきらきらと眩《まぶ》しく輝《かがや》き、木々の葉も鮮《あざ》やかな緑色に染《そ》まって揺《ゆ》れていた。
アブリルは噴水の前に立って、しばらくのあいだ、プランシェットのことで思い悩《なや》んでしょんぼりしていたが、やがて「あっ!」と気づいた。
それからふくれっ面《つら》になった。
「しまった! 久城くんったら、きっとまた、図書館に行ったんだわ!」
4
――聖《せい》マルグリット大図書館。
埃《ほこり》と、黴《かび》と、知性《ちせい》の匂《にお》いだけが充満《じゅうまん》する、まるで時が止まったかのような広大な図書館塔。壁《かべ》を占領《せんりょう》する巨大書棚《きょだいしょだな》と、その真ん中をカクカクと迷路状《めいろじょう》に走る細い木|階段《かいだん》。
謎《なぞ》めいた静寂《せいじゃく》に満ちたこの場所の最上階で、今日もまたヴィクトリカ・ド・ブロワは、大量の書物と陶製《とうせい》のパイプだけを友に、ぼんやりと思索《しさく》に耽《ふけ》っていた。
あまりにも小さくて華奢《きゃしゃ》なその体を覆《おお》うものは、豪奢《ごうしゃ》なドレスの幾層《いくそう》ものレースとフリル。今日の彼女は真珠のボタンがついた、白とピンクのオーガンジーのワンピースを着て、ところどころを真珠できらきらさせたフリルの塊といった姿《すがた》で……いかにも不機嫌《ふきげん》そうにほっぺたをふくらませていた。
「うむ、気にいらんな……」
足元には、昨日読んでいた金色の書物が転がっている。
「気にいらん。この回顧録《メモワール》はまったくもって気にいらんぞ。まったく……!」
そうつぶやくと、ヴィクトリカは不機嫌そうな表情《ひょうじょう》のままでくるんと丸まった。そして白とピンクのフリルボールになって、植物園から階段の踊《おど》り場に向けて、どこか凶暴《きょうぼう》にくるくる、くるくる暴《あば》れだした、ちょうどそのとき……。
――バタン!
遥《はる》か下のホールで、誰かが革張《かわば》りのスイングドアを勢《いきお》いよく開けて駆《か》けこんできた音がした。
「ヴィクトリカー!」
いつもの友達だ。
ヴィクトリカは一瞬だけ起きあがると、階段の巻葉装飾《まきばそうしょく》の手すりにつかまり、起きあがった。
「ヴィクトリカ、いるかーい?」
こちらを見上げて目を細めている東洋人の少年に気づくと、さらに不機嫌そうに緑の瞳《ひとみ》を細め、
「……久城、いますぐ上がってこい!」
「へ? なんだい君、めずらしいね! いつもは、ぼくがきたってこなくたって知らんぷりしてるくせに!」
一弥がちょっと弾《はず》んだ声で叫《さけ》び返してきた。ヴィクトリカはますます不機嫌そうにほっぺたをふくらませると、つぶやいた。
「ごちゃごちゃ言わずに、早く上がってこい……」
そのまま顔をしかめてじっとしていたが、一弥が階段を駆け上がってくる足音が響《ひび》きだすと、ヴィクトリカは落ちつかなげに吐息《といき》をついたり、体を揺らしたりし始めた。時折、手すり越《ご》しに階下を見下ろしては、まだかなー、まだかなー、と首を長くして友達の登場をじりじり待ち続ける。
カッ、カッ、カッ、カッ……。
規則正《きそくただ》しい一弥の足音が図書館塔《としょかんとう》に響き渡《わた》る。
しかし、迷路階段は長い。一弥はまだ上がってこない。
まだ、まだ、こない……。
そして、十分後。
「ヴィクトリカー! ……うわっと、君、いったいなにしてるんだい!?」
いますぐ上がってこい、と命令されたためにいつもより急いで迷路階段を駆け上がってきた一弥は、階段の踊り場に足を踏《ふ》み入れた途端《とたん》、白っぽいふわふわして丸いものが勢いよく転がってきたのにあわてて、迷路階段を転がり落ちそうになった。
[#挿絵(img/04_077.jpg)入る]
丸まって転がっていたヴィクトリカが、不機嫌そうな顔でむくっと起きあがった。横目で一弥を睨《にら》むと、老女のようなしゃがれ声で、一言、
「……遅《おそ》いぞ」
「ご、ごめん。急いだんだけど、人間だから限界《げんかい》があってね。できればエレベーターを使いたいんだけど……」
「フン。久城のくせにエレベーターだと?」
そのあんまりな物言いに、一弥はさすがに頭にきて、ふくれっ面《つら》になった。黙《だま》って傍《かたわ》らに座《すわ》り、しばらく静かにしていたが、
「……くせに、ってなんだよ。ぼくに失礼じゃないか。そうだよ、ぼくは君に、他人に対する敬意《けいい》というものを教えなきゃいけない。敬意ってわかるかい、ヴィクトリカ?」
「久城、君は価値観《かちかん》の奴隷《どれい》なのだ」
「…………」
元気よく説教を続けようとしていた一弥は、出鼻をくじかれて、黙った。
「……そうかな?」
「うむ、そうだ」
一弥は不満そうな顔になった。そのまま黙っていると、ヴィクトリカは顔を上げて一弥のふくれっ面を見た。不思議そうに、
「おや、なにか不満かね?」
「……もちろん、いろいろと不満だよ。君に出会ってからずっとね。ずっと、ずーっとさ」
ヴィクトリカは気にする様子もなく、知らんぷりしている。
一弥はため息をついた。
(ヴィクトリカには口ではどうしたって敵《かな》わないや。それに、頭脳《ずのう》でもね。しかし、男子|本懐《ほんかい》。いつの日か必ず、ぐうの音も出ないほどへこませてやるぞ。はぁ……)
もう一度、深くため息をつく。
(ヴィクトリカの弱味がわかったらなぁ……)
ちらりと彼女を見ると、小さな両手で一生|懸命《けんめい》、マカロンの包み紙を開けているところだった。ぱくっと食べるのだろうと思って見ていると、ヴィクトリカは取りだしたマカロンを口に入れようとせず、表にしたり裏《うら》にしたり、ちょろっとなめてみたりを繰《く》り返していた。
(ヴィクトリカのやつ、いったいなにやってるんだ……?)
不思議そうにみつめている一弥の前で、ヴィクトリカはマカロンをいじくり回しながらなにやら思案顔を続けていた。そのうち、好物のマカロンを食べるのも忘《わす》れて、手を止めると、どこか上の空でなにごとか逡巡《しゅんじゅん》し始めた。
どうやらヴィクトリカは、なにごとかに心を囚《とら》われているらしい。一弥はそっと片手《かたて》をのばして、上の空で考え込《こ》むヴィクトリカの、ぷくぷくした薔薇色《ばらいろ》のほっぺたを、ちょん、とつついた。
ヴィクトリカははっと我《われ》に返った。それから、横目で一弥をじろりと睨んだ。
「勝手にわたしに触《さわ》るな」
「あ、ご、ごめん……」
「で、なんだね?」
「そうだ。事件《じけん》なんだよ。下でおかしな変死事件が起こったんだ。それがどうやら、昨日君が話していた、例の錬金術師《れんきんじゅつし》が関《かか》わっているらしき事件でね。きっと君は興味《きょうみ》を示《しめ》すだろうと思って、それで、どうせブロワ警部《けいぶ》がくるだろうけど、先にやってきたんだ。興味あるかい?」
ヴィクトリカの肩《かた》がぴくりと震《ふる》えた。
ちょろっと舐《な》めたっきりのマカロンを放《ほう》り出すと、片手をのばして、一弥のほっぺたに人差し指をぐさぐさ何度もさした。
「君、話したまえ」
「うん……」
一弥はほっぺたをぐりぐり押《お》されながら、話しだした。
「あのね、もともとは昨日見た怪奇映画《かいきえいが》からなんだ。むぎゅ! ……その映画の舞台《ぶたい》になった時計塔《とけいとう》とそっくりの建物が学園内にあって、そこは、例の錬金術師が工房《こうぼう》にしていたらしいんだよ。むぎゅ! 映画は錬金術師の噂《うわさ》を元にして造《つく》られたらしいんだ。昨日、映画館を出たところでよそ者の男二人をみかけてね。一人は白人、もう一人は東洋人なんだけど、そのうちの東洋人のほうが、今朝、時計塔で死体になって発見されたんだ。人差し指に妙《みょう》な紫色《むらさきいろ》の痣《あざ》が残っていて、そして彼はなぜか――『錬金術師だ』『リヴァイアサンだ』とつぶやいて事切れたんだ! むぎゅ! ……あのね、ヴィクトリカ。ほっぺたを圧迫《あっぱく》されながらじゃ、しゃべりにくいよ。ヴィクトリカ……? どしたの、君?」
ヴィクトリカは厳《きび》しい顔をして、一弥のほっぺたから指を離《はな》した。なにごとか考え込んでいる。
ヴィクトリカの足元に、昨日ずいぶん熱心に読んでいたあの派手《はで》派手しい金色の書物が転がっていた。それをじっと睨みつけて、黙り込んでいる。
「そういえば……警部、遅いな」
一弥はふと気づいて、つぶやいた。
「これまでなら、事件が起こったら、まず現場《げんば》でえらそうなことを言って、その後すぐにこの図書館に駆《か》け込んできて君に頼《たよ》るのに。今日はへんだね。君に会いにこようとしないなんて……。ヴィクトリカ?」
ヴィクトリカがとつぜん立ち上がった。小さな体で仁王立《におうだ》ちしているので、一弥はなんだかおかしくなって、
「ぷふっ! 君、いったいどうしたんだよ?」
「……愚《おろ》かな男め」
「愚かって、ブロワ警部のこと?」
ヴィクトリカは首を振《ふ》った。
「ちがう」
「じゃ、ぼく?」
ヴィクトリカがまた首を振ったので、一弥は困《こま》ったように、
「あとは思い当たらないな……」
「リヴァイアサンだ」
「えっ、リヴァイアサン?」
一弥は驚《おどろ》いて立ち上がった。
「じゃ、君、もしかして今朝の変死事件は、あの錬金術師がやったことだとでも言うのかい? だけど彼は二十年も前に王立|騎士団《きしだん》によって殺されたって聞いているよ? それとも……。ヴィクトリカ、君、どこ行くの?」
「下界だ」
ヴィクトリカはドレスの裾《すそ》を揺《ゆ》らしながら歩きだした。エレベーターホールに向かって歩いていくのに気づき、一弥は心底びっくりして、
「下界って、君、まさか……図書館を出るつもりかい? 下に行ってなにかするの?」
「そうだ」
老女のようなしゃがれ声で答え、すたすたと歩いていく。一弥はあきれてぽかんと口を開けていた。
「へぇ……、君が下界へ……?」
一弥はぽかんとして聞き返した。
それから、これまでヴィクトリカと交《か》わしたたくさんのやりとりを思い出した。そしてともに体験したいくつかの冒険《ぼうけん》のことを……。
これまでに二度、一弥はヴィクトリカと一緒《いっしょ》に学園を出て、外の世界を旅したことがあった。しかしそれ以外のとき……ヴィクトリカに出会うのはいつも決まって、この図書館塔のいちばん上にある不思議な植物園か、迷路花壇《めいろかだん》の奥《おく》の奥にある小さな特別寮《とくべつりょう》のどちらかだった。
一弥は学園の、たとえば教室や、庭園の小径にいるヴィクトリカを想像《そうぞう》してみようとした。ヴィクトリカが制服姿《せいふくすがた》で授業《じゅぎょう》を受けたり、食堂でみんなと一緒にお昼ご飯を食べる姿……。
それをうまく思い描《えが》くことはできなかった。一弥は下界に降《お》りるというヴィクトリカに、戸惑《とまど》いながら聞いた。
「……でも、いったいなんのために?」
ヴィクトリカが振り向いた。
薄《うす》いエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》に、なにか表情《ひょうじょう》が浮《う》かんでいた。一弥は息を呑《の》んでそれをみつめた。その表情は怒《いか》りのようで、絶望《ぜつぼう》のようで、しかし悦《よろこ》びのようで……一弥にはうかがい知れなかった。
ふいに一弥は、この不思議な、奇怪《きかい》な、小さな友達のことを自分はまだなにも知らないのだという気がした。寂《さび》しさと焦《あせ》りを感じた。
「ほうっておいてくれたまえ」
「……もしかして、怒《おこ》ったのかい?」
ヴィクトリカは答えなかった。天窓《てんまど》から風が吹《ふ》いて、ドレスの裾を揺らしていった。棕櫚《しゅろ》の葉が揺れてカサカサと音を立てた。
「ヴィクトリカ……?」
「久城、わたしはやつの挑戦《ちょうせん》を受ける」
「やつって?」
「君の足元にある、その錬金術師《れんきんじゅつし》の回顧録《メモワール》だ。リヴァイアサンの謎《なぞ》を解《と》き、やつに殺人をやめさせる。謎はおそらく難解《なんかい》だ。しかしわたしには知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠ェある。やつが学園にばらまいた混沌《カオス》の欠片《かけら》たちをわたしはたちどころに拾い集め再構成《さいこうせい》し、やつの哀《あわ》れな姿を白日の下に晒《さら》してやるのだ」
「事件《じけん》を解決するってこと……?」
ヴィクトリカは不敵《ふてき》にうなずいた。
「そうだ。わたしは言った。錬金術師の歴史はそういうやつら≠フ歴史だと。謎めいたあの男の秘密《ひみつ》を暴《あば》き、きらめくまがいものの伝説を、灰色《はいいろ》のつまらぬ歴史の一幕《ひとまく》に変えてやる」
一弥は足元から金色の書物を拾い上げた。なんだかよくわからないが、ともかく、この書物と、これを書いた人物がヴィクトリカを怒らせているのだということだけはわかった。
一弥はエレベーターの鉄檻《てつおり》にゆっくりと消えていくヴィクトリカを追った。
「ね、君、この回顧録――、ぼくも読んでいいかい?」
「かまわないよ、久城。だが……」
追いかけてきた一弥の目前で、ガチャガチャと大きな音を立てて、エレベーターの鉄柵《てっさく》が閉《し》まった。ヴィクトリカはつまらなそうに、迷路|階段《かいだん》を指差した。
「だが、久城。君は階段を降りたまえ」
「ヴィクトリカ、君ね。たまに一緒に下に降りるときぐらい、乗せてくれたっていいだろ?」
「よくない」
「な、なんでだよ!?」
ヴィクトリカは一弥を見上げた。悲しそうな、憂《うれ》いを帯びた緑の瞳で切々と訴《うった》えかけてくる。
「なぜならわたしは――、久城、君がわたしのためにぜぇぜぇはぁはぁと息を乱《みだ》して苦しみ、腿《もも》をだるぅくしながら、えっちらおっちらと迷路階段を上り降りする姿《すがた》が――大好きなのだ!」
「そ、そんなのぼくはちっとも好きじゃないよ! ヴィクトリカの大ばか者!」
「つべこべ言わずにわたしに合わせたまえ。では、勤勉《きんべん》な友よ。下で会おう」
がたん、がたん――。
ヴィクトリカ一人を乗せた鉄檻が、無骨《ぶこつ》な音を立てて一弥の目前からホールへ沈《しず》んでいった。
一弥は悔《くや》しさと怒りと寂しさでカッカしながらも、急いで階段を降り始めた。
(まったく、ヴィクトリカのやつ……。どうしてあんなに意地悪なんだろう? それになんだか子供《こども》っぽいし、きまぐれだし…………)
降りながらも気になって、小脇《こわき》に抱《かか》えていた金色の書物――錬金術師の回顧録を開いてみた。
――ポン!
「うわっ!?」
いきなり、巨大《きょだい》なぜんまいと振《ふ》り子と、仮面《かめん》にローブの男、そして倒《たお》れ伏《ふ》す少年が飛び出してきたので、一弥は驚《おどろ》いて階段を転がり落ちそうになった。
飛び出す絵本だ。いや――、
「これって、飛び出す回顧録? じつに変わってるなぁ!」
一弥は思わずつぶやいた。それからそのページをよく見た。
一瞬《いっしゅん》――
箱庭のようなその絵本の中の世界が本当に動き出したような気がした。ぜんまいがギリギリギリギリギリ……と鈍《にぶ》い音を立て、倒れている少年が断末魔《だんまつま》の声を上げ、そして仮面にローブ姿の男、リヴァイアサンがげらげらと下品な笑い声を響《ひび》かせて誰《だれ》かを嘲笑《あざわら》っている……。
視線《しせん》に気づいて顔を上げ、その箱庭世界を覗《のぞ》き込んでいる人の良さそうな東洋人少年の、巨大な漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》をみつめて、にやり、と笑う……。
そして地面を指差して、読みたまえと命じる……。
一弥ははっと我《われ》に返り、その絵本の中の人物から指差されたように感じた地面……文字の書かれた部分に目を走らせた。
そして、そこに〈まいったかね?〉〈汝《なんじ》、悔しいかね?〉などとのべつまくなし挑発的な言葉が書かれているのに気づくと「あちゃー……!」と顔をしかめた。
「まずいな。こんな言い方をされて、あのヴィクトリカが許《ゆる》すはずないよ。そうか、ヴィクトリカのやつ、昨日はこれを読んだせいでやたら大騒《おおさわ》ぎしてたんだな。ヴィクトリカったら、びっくりするぐらい頭がいいけど、負けず嫌《ぎら》いで子供みたいなところもあるからなぁ。しかし、この錬金術師も……そうだな……」
迷路階段を降《お》りながら、ため息をつく。
「この人も、ちょっと子供っぽいところがあるんじゃないかな。だいたい、飛び出す回顧録なんて聞いたことないよ。ヴィクトリカがこの挑発に乗ったってことは、これってもう、まるで子供の喧嘩《けんか》じゃないか。まったく、おかしなことになっちゃったな……」
一弥は生真面目《きまじめ》そうな顔に少しだけ戸惑《とまど》いを浮《う》かべた。それからまたため息をつき、ページをめくった。
「うわっ!」
またなにか飛び出してきた。仕方ない、これはなんといっても飛び出す回顧録なのだ。
そのページは、舞台《ぶたい》を王宮らしき豪華《ごうか》な広間に変えていた。鮮《あざ》やかな青い薔薇《ばら》を差しだす仮面の男と、うれしそうに胸《むね》の前で手を合わせる美しい貴婦人《きふじん》。貴婦人はたおやかな美しさで、その頭に王冠《おうかん》を輝《かがや》かせていた。
どうやら当時のソヴュール王妃《おうひ》であるらしい。うっとりと瞳を閉《と》じている。
一弥は文字に目を走らせた。
出だしは、こんな文章だった。
〈一八九九年、冬。科学の発展《はってん》と魔術《まじゅつ》の退化《たいか》に彩《いろど》られた、呪《のろ》われし十九世紀がまもなく終わる、世紀末の最後の一年を迎《むか》えようとするこの冬。
我《われ》、リヴァイアサンは記す――〉
[#改ページ]
リヴァイアサン ―Leviathan1―
一八九九年、冬。
科学の発展と魔術の退化に彩られた、呪われし十九世紀がまもなく終わる、世紀末の最後の一年を迎えようとするこの冬。
我《われ》、リヴァイアサンは記す――。
汝《なんじ》、願わくば心の鍵《かぎ》を解《と》き放ち我の声に耳を傾《かたむ》けよ。我こそは今世紀最後にして最強の魔術師《まじゅつし》。無から有を造《つく》りし恐《おそ》るべき錬金術師《れんきんじゅつし》である。
さて、では記すとしよう……。
我、リヴァイアサンはその昔、名もなきただの旅人であった。汝には想像《そうぞう》もつかぬほど長き倦怠《けんたい》の時を旅から旅へ過《す》ごしてきた。ヨーロッパのあらゆる地を回り、それには飽《あ》きたらずインド、モロッコ、そして暗黒大陸にも足を延《の》ばした。悠久《ゆうきゅう》の時は我から精神《せいしん》の力を奪《うば》おうとしていた。我はただ彷徨《さまよ》っていた。
旅のもっとも初めに我が得たものは、一つの石≠ナあった。錬金術師を名乗る老人と出会い、彼から取り上げたものだ。乙女《おとめ》の鮮血《せんけつ》の如《ごと》く赤いその石を、老人は賢者《けんじゃ》の石≠ナあると語っていた。我は若《わか》さの過《あやま》ちからそれを手に入れることを欲《ほっ》し、老人を手にかけ、そしてこの、悠久の時を漂《ただよ》う命を手に入れてしまったのである。
さて、この回顧録《メモワール》はその長き時について記すものではない。したがって我は、いまから二年前――一八九七年、冬の出来事から記そうと思う。
その冬、我はふとしたきまぐれから旅人の生活を捨《す》て、ソヴュール王国|郊外《こうがい》に在《あ》る聖《せい》マルグリット学園を訪《おとず》れた。そして学園の時計塔《とけいとう》の番人として雇《やと》われることとなったのである。長き放浪《ほうろう》に疲《つか》れた体を休ませるため、そして工房《こうぼう》を持ち、手に入れた賢者の石≠研究してみたいと考えたためである。
我は日夜、薄暗《うすぐら》い塔の中で、巨大《きょだい》なぜんまいと振《ふ》り子を磨《みが》き続けた。そして、そのぜんまいの部屋を工房とし、遥《はる》か昔、石とともにあの老人から取り上げた古文書を解読《かいどく》し始めた。
我が金を造る方法をみつけたのは、それからしばらくの後のことである。我がとある手順を踏《ふ》み、まさしく誰にでも手に入る安価《あんか》なとある品物を使ったところ、驚《おどろ》くべきことにそれはまたたくまに金となったのである。
我は驚き、それを村で売ってみることとした。
なんとその金は紛《まぎ》れもなく本物であり、我は大金を手にしたのであった。
我の名はたちまち村で評判《ひょうばん》となった。我もまた、生来の迂闊《うかつ》な性格《せいかく》が頭をもたげ、問われるままに己《おのれ》の持つ賢者の石、錬金術について村人に語った。
そう遠くないある日、ソヴレムから我に遣《つか》いの者がきた。彼らは正装《せいそう》してラッパを吹《ふ》き、実に大仰《おおぎょう》な様子であった。そして彼らは我に、ソヴュール王妃からの手紙を読んできかせたのである。
我は驚き、かつ喜んだ。ソヴュール王妃は、国王のもとに嫁《とつ》いだばかりの貴族《きぞく》の姫《ひめ》であり、その儚《はかな》げな美貌《びぼう》は肖像画《しょうぞうが》として国中に出回っていた。この時期、国中がこの王妃の噂《うわさ》で持ちきりだったといっても過言《かごん》ではない。
王妃の手紙は驚くべき内容《ないよう》であった。我に――流れ者の錬金術師に、ぜひとも王宮にきてほしいと頼《たの》んでいたのである。
我は遣いの者たちに、了承《りょうしょう》する旨《むね》を伝えた。仰《おお》せの通りの時間に参上いたす、と。
遣いの者たちが馬を駆《か》り、帰っていったのと行き違《ちが》いに、今度は大仰な軍隊がやってきた。王妃の遣いはかわいらしいお小姓《こしょう》たちであったが、こちらは国王のための王立|騎士団《きしだん》とやらであった。無骨《ぶこつ》な大男が何十人も列をなしているのを見た我は、命がないものと覚悟《かくご》をした。
だがしかし、騎士団もまた我に用があるようであった。団を率《ひき》いていたのは、いかにも貴族的な服装に身を包んだ壮年《そうねん》の男であった。男はマスグレーブ男爵《だんしゃく》と名乗り、我はソヴュール王国の法務《ほうむ》大臣であると語った。
王妃のつぎは法務大臣である。さらに彼は、己のことを国王の遣いであると名乗った。そして彼はさきほどのお小姓たちとはちがい、ずいぶんと居丈高《いたけだか》な態度《たいど》で我を詰問《きつもん》し始めたのである。
「貴様は詐欺師《さぎし》か?」
我は落ちついて答えた。
「汝と同様に」
我の不敵《ふてき》な答えに、マスグレーブ男爵は上品な口髭《くちひげ》を怒《いか》りに震《ふる》わせた。男爵が腰《こし》の長剣《ちょうけん》に手をのばしなにごとか叫んだそのときのことである。
どこからか声が響《ひび》いた。
それはじつに無邪気《むじゃき》で、のびのびした笑い声であった。男爵は動きを止めた。
停《と》まったままの大仰な箱型馬車。
笑い声はその中から響《ひび》いているようであった。
と、馬車の扉《とびら》が開いて、声の主が軽快《けいかい》な足取りで飛び出してきた。なんとそれは、まだ十三、四|歳《さい》の少年であった。マスグレーブ男爵の嫡男《ちゃくなん》、イアンであると自ら名乗った。彼は短い髪《かみ》に、女と見間違えるほどの童顔の少年であった。そして少年は、仮面《かめん》にローブ姿《すがた》の怪《あや》しい男――つまり我《われ》のことであるが――を恐《おそ》れる様子もなく近づいてくると、無邪気に質問責《しつもんぜ》めにしてきたのである。
どうやら男爵の嫡男は錬金術《れんきんじゅつ》に興味《きょうみ》がおありらしい。男爵は息子《むすこ》を叱《しか》りつけると、ますます不機嫌《ふきげん》に肩《かた》を怒らせた。
我は戸惑《とまど》いを隠《かく》せなかった。王妃《おうひ》の使者、そして法務大臣とその息子が、こんな田舎《いなか》の村までなんの用があるのか?
マスグレーブ男爵はお付きの屈強《くっきょう》な騎士たちを連れて、我の工房《こうぼう》――あのぜんまいの部屋に踏《ふ》み込《こ》んだ。男爵の指示《しじ》で、騎士たちは工房中を調べ回り、あちこちひっくり返し、荒《あ》らし回った。怒りと疑念《ぎねん》に震える我の手を、誰かが引《ひ》っ張《ぱ》った。振《ふ》り向くとそこにはあの少年イアンが立っていた。
彼は我に耳打ちをした。
「父は、そして国王は、あなたが詐欺師《さぎし》ではないかと疑《うたが》ってるのです。王妃さまは世間知らずだから、だまされてしまうのではないかと」
「我が、詐欺師?」
それを聞き、我は笑いが止まらなくなった。イアンは笑いだす我につられたようににこにこし始めた。
「イアンとやら、汝《なんじ》もそう思ってるのかね?」
問うと、イアンは無邪気な様子で首を振った。
「ううん。ぼくは、あなたが本物だといいなと思ってます」
イアンは小首をかしげて、我を見上げた。仮面に隠された顔をじっとみつめ、
「王妃さまはもう何十人もの、錬金術師や魔術師《まじゅつし》を名乗る人たちに会ってるんです。王妃さまはすがるものがほしいのだろうと、父上はぼやいています。王宮にお輿入《こしい》れして、不安なのだろうと。だから大きな不思議な力がほしいのだと。そしてその人に守ってほしいのです。でもいままで、王妃さまは詐欺師にしか逢《あ》えなかったのです。だからこそ国王も、父上も、心配して先回りしようとしているのですよ」
「ふむ……。しかし彼らは、我の工房でなにをしているのかね?」
「あなたに錬金術をさせたいんです。その前に調べているというわけです。……お怒りですか?」
そう問われた我は、笑った。
そしてぜんまいと振り子が動く、薄暗《うすぐら》い工房を見回した。ここにはなにもないのである。我の魔力以外にはなにも。なにを恐れることがあろう?
肖像画で拝見《はいけん》したことのある、ソヴュール王妃のどこか不安げな美貌《びぼう》が思い出された。
――そのとき我の、心の奥《おく》に、これまでの長い放浪《ほうろう》の時には感じることのなかった野望が頭をもたげた。
我は欲《ほっ》したのである。
これまでの時には無縁《むえん》であったものたちを。
甘《あま》い美貌を。権力《けんりょく》を。そして、財《ざい》を。
工房を調べ終わった男爵《だんしゃく》は、騎士《きし》たちに命じ、この我をほんの少しの食糧《しょくりょう》とともに工房に幽閉《ゆうへい》すると宣言《せんげん》した。
「金ができるまで、外に出ることは許《ゆる》さぬ」
マスグレーブ男爵が大仰《おおぎょう》に言い放った。
「何年|経《た》とうとも、ここにいるのだ。それが民衆《みんしゅう》を謀《たばか》った貴様《きさま》への報《むく》いだ」
「……三日だ」
「なんだと?」
我は答えた。
「三日後にドアを開けろ。貴殿《きでん》に金を差し上げる。その代わり……我が金を造《つく》りだしたら、王妃に接見《せっけん》を許するのだ。これは契約《けいやく》だ」
驚《おどろ》く男爵に、我は言い放った。
「金が造れなければ、そのときは遠慮《えんりょ》なく、我を縛《しば》り首にするがよい」
そして、三日後の朝。
ゆっくりとドアが開いた。
男爵の青ざめた顔と、傍《かたわ》らで心配そうに覗《のぞ》き込むイアン。そして騎士団《きしだん》の面々……。
我《われ》はふらつき、荒《あら》く息をし、いまにも倒《たお》れそうな動きで男爵に近づいた。そして一塊《ひとかたまり》の――金塊《きんかい》を差しだした。
そう、手袋《てぶくろ》をはめた我の手。その上にきらきらと輝《かがや》く金の塊があったのである。
男爵は息を呑《の》み、工房中を見渡《みわた》した。
「いったいどうやったのだ? ここにはほかに出口はない。工房中を調べ、周りも囲んだのだ。この詐欺師《さぎし》め、いったいどうやったのだ!?」
「王妃に会わせるのだ」
我は呻《うめ》くと、その場に崩《くず》れ落ちた。
「我が王妃《おうひ》を救って差し上げる」
口の端《はし》から笑いが漏《も》れた。
我はここまで、悠久《ゆうきゅう》の時を目的もなくただ彷徨《さまよ》ってきたのである。長い長い、悪夢《あくむ》のような時を。
ようやくこの時がやってきたのだ。
我は必ず地獄《じごく》から這《は》い上がる。
遥《はる》か昔、土の下から蘇《よみがえ》ったあの地獄から……。
ソヴュール王宮は我を出迎《でむか》えた。
王妃は感激《かんげき》のあまり倒れそうになり、我はその反応《はんのう》に満足した。王妃は若《わか》く、美しく、そして孤独《こどく》で、魔術《まじゅつ》的な力に対してことのほか関心が高いように見受けられた。
一方ソヴュール国王は、王妃のとなりで、我に不審《ふしん》の目を向けていた。国王はもう若者とは言えない年齢《ねんれい》のはずだったが、若々しく、それになかなかの美丈夫《びじょうふ》であった。その国王の目にも、不審だけでなく、かすかに期待の輝きがあることに我は気づいていた。
国王が考えていることは、手に取るようにわかった。ソヴュールはいま財政難《ざいせいなん》に喘《あえ》いでいる。世紀末が近づくにつれ、ヨーロッパ中に戦争の足音が遠く聞こえ始めていた。この小さな王国を生き長らえさせるために必要な財力は、とてつもなく大きく、しかもあればあるほどいい。国王は、もし我が本物なら、王妃という代償《だいしょう》をはらってでも手に入れたいと望んでいるのである。金。金がほしいのだ。喉《のど》から手が出るほどに……。
そして王妃はおそらく、その若くかわいらしい容貌《ようぼう》がいつの日か衰《おとろ》えることを恐《おそ》れている。錬金術《れんきんじゅつ》の技術《ぎじゅつ》の一つである不老不死を手に入れるためなら、どんな犠牲《ぎせい》をも払《はら》うのだろう。
我はへりくだり、二人に挨拶《あいさつ》の口上を述《の》べた。それから滔々《とうとう》と、ソヴュール王国を思っていることや、国のために仕えたいことなどを述べた。
そして、王宮の豪華《ごうか》な飾《かざ》りの中から生きた花をあふれさせた花瓶《かびん》をみつけ、一輪の薔薇《ばら》を手に取った。
白い薔薇を。
「国王、並《なら》びに王妃さま。我はあなたがたへの忠誠《ちゅうせい》の印として、このなんの色にも染《そ》まっていない白い薔薇を、お二人を祝福する色――青い薔薇に変えてみせましょう」
「……まあ!」
王妃が叫《さけ》んだ。
青い薔薇はソヴュール王室の紋章《もんしょう》に使われているものである。
末席にいたマスグレーブ男爵《だんしゃく》があきれたように、
「そんなことができるわけがない! 青い薔薇はけして存在《そんざい》しないのだ。さまざまな色の花がこの世にあふれているが、青い薔薇だけはどうしても造れない。無理だ!」
「錬金術《れんきんじゅつ》に不可能《ふかのう》はありませぬ」
「馬鹿《ばか》な!」
我は国王を振《ふ》り返った。国王は品のいい顔をしかめ、猜疑心《さいぎしん》に囚《とら》われた瞳《ひとみ》で我を見下ろしていた。
「それでは国王、どうかお約束を。もしも我が青い薔薇を誕生《たんじょう》させられなかったなら、我を処刑《しょけい》してくださるよう。我は怖《こわ》くはありませぬ。だがもし、青い薔薇が生まれたときには……」
ここで我は一つの提案《ていあん》をした。
ソヴュール王国も、ほかのヨーロッパの強国と同じく、今世紀になってから植民地|政策《せいさく》に精《せい》を出していたのである。彼らの財力の何|割《わり》かは、海の向こうにある未知の暗黒大陸の宝《たから》によるものだ。胡椒《こしょう》などの香辛料《こうしんりょう》や、珈琲豆《コーヒーまめ》や、ダイヤモンド、そして遺跡《いせき》の出土品……。南国の島々やインド、そしてアフリカ大陸の無限《むげん》の富《とみ》――。
その植民地政策に意見を述べる機会を、と我は所望《しょもう》した。国王は不思議そうに眉《まゆ》をひそめたが、やがてうなずいた。
「よかろう」
男爵も王妃も、固唾《かたず》を呑《の》んで事態《じたい》を見守っていた。
我は白い薔薇をそっと握《にぎ》り、力を込めた。
ぶるぶると震《ふる》え、汗《あせ》を流し、そして肩《かた》を、足を激《はげ》しく揺《ゆ》らしながら、我は奮闘《ふんとう》した。王宮にざわめきが広がっていく。ゆっくりと目を開けると、手の中の白い薔薇は我の力によって少しずつ鮮《あざ》やかな青色に変わっていくところであった。
王妃がもう一度、「まぁ!」と叫んだ。
悦《よろこ》びのあまり瞳を閉《と》じて、両手を胸《むね》の前で合わせている。
それからゆっくりと玉座《ぎょくざ》を降《お》りてきて、我の前に跪《ひざまず》いた。我はうやうやしく青い薔薇を差しだした。王妃は感極《かんきわ》まり、薔薇を受け取ると叫んだ。
「ああ、わたくしの錬金術師よ!」
「王妃《おうひ》さま、我《われ》の力はすべて、お美しいあなたのものなのです。これから先、ずっと」
仮面《かめん》の下で、我は笑っていた。
我は満足していたのである。
そして、顔を上げると――
国王が我を睨《にら》みつけていた。それは暗い瞳であった。
我は村の時計塔《とけいとう》に戻《もど》った。工房《こうぼう》で金を造《つく》り続けた。そして王宮では王妃のご機嫌《きげん》を取り、植民地政策に対して意見を述べた。王妃は我を崇《あが》め、甘《あま》え、どこに行くにもこの謎《なぞ》めいた仮面の男を連れて行きたがった。
我は国王に金を与《あた》え続けた。
王妃にも老いない魔法をかけて差し上げると約束した。そんな心配をしなくても王妃は十分に若く、かわいらしかったのであるが。
ある日、国王が王宮の豪奢《ごうしゃ》な廊下《ろうか》で、我を呼《よ》び止めた。
「果たしておまえは何者だ?」
「……なんと?」
「一つの王国に国王は一人で十分だ。おまえはなにになろうとしているのだ? 目的はなんだ?」
その言葉に、我は笑った。
この我の本当の目的が、国王なぞにわかるものか。
国王は我を恐《おそ》れ、いつの頃《ころ》からかリヴァイアサンと呼び始めた。聖書《せいしょ》に出てくる、アダムとイブに禁断《きんだん》の林檎《りんご》を与えた蛇《へび》の化身《けしん》。そして世界を崩壊《ほうかい》させる悪の力と、不死の肉体を持つ巨大《きょだい》な怪物《かいぶつ》リヴァイアサン――。
国王が我を見る目は冷酷《れいこく》だった。
「錬金術師リヴァイアサンよ。不吉《ふきつ》な男よ。おまえはわたしの王国に富をもたらし、大切な王妃の心を奪《うば》っていった。リヴァイアサンよ、おまえは何者なのだ? その仮面の下に隠《かく》されたものはいったいなんなのだ?」
ふいに我の心は、怖《おそ》れらしき感情《かんじょう》に襲《おそ》われた。いつの日か国王は我のこの仮面を剥《は》ぐことであろう。解《と》かれぬ謎は人を蝕《むしば》む。国王は夜毎、眠《ねむ》れぬ時を過《す》ごしているにちがいない。そして我が王妃にねだられてもけして外さぬ、この仮面のことばかり思い悩《なや》んでいるにちがいないのである。
仮面を剥がれては、我の終わり――。
我の悠久《ゆうきゅう》の時を生きたこの長すぎる命は、そのときに燃《も》え尽《つ》き、ずっと昔にそうなるはずだった土塊《つちくれ》に、あっという間に戻ってしまうのだから――!
この回顧録《メモワール》を記しているいま。
一八九九年、冬――。
我はもはや、罪《つみ》の重さに耐《た》えきれなくなっている。あの時はただただ必死であった。ああするしかなかったのである。だがしかし、結果的に、我という人間は長い時間をかけて狂《くる》ったのだとしか言えまい。
王妃という無邪気《むじゃき》なファム・ファタールに出会ってしまったときからであろうか。それともずっとずっと昔、あの場所で土塊となり果てるはずだった我が、蘇《よみがえ》り再《ふたた》び生き始めたとき、すでに狂っていたのであろうか。
我の罪は、国王を、大臣を騙《だま》したことでもなく、
無邪気な王妃を手玉に取ったことでもなく、
ただ我の罪は――
そののち、なんの咎《とが》もないマスグレーブ男爵の息子《むすこ》、イアンを残虐《ざんぎゃく》に殺害したことにあるのである。
あの日、出会ったばかりの我に無邪気に微笑《ほほえ》んでくれた少年、イアン。彼はそれからわずか二年後、ぜんまいの部屋で、我の足元に崩《くず》れ落ち断末魔《だんまつま》の悲鳴を上げることとなったのである。その細い喉《のど》を流れ落ち、白くすべすべした腹《はら》を内側から破《やぶ》り、鮮血《せんけつ》とちぎれた内臓《ないぞう》とともにこぼれ出てきた、あの金色の熱い液体《えきたい》――。
我が造《つく》りし、最後の、金――。
イアン・ド・マスグレーブは恐《おそ》ろしい死に方をした。
我が殺した。
誰《だれ》も知らない。
未来の汝《なんじ》よ。
汝は男か?
女か?
大人か?
子供《こども》か?
構《かま》わぬ。我を救え。罪の重さに我は耐えられぬ! この先もし我が死ぬ時がきたとすれば、我のこの魂《たましい》は、イアンが金にまみれて無残に死んだ時計塔《とけいとう》を永久《えいきゅう》に彷徨《さまよ》うことであろう。
我は、イアンを殺した。
そして我は、殺し続ける。この時計塔で。
我の魂は永久に、殺人者としてここを彷徨い続けるのである!
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第二章 ぜんまい仕掛《じか》けの闇《やみ》の歴史
1
聖《せい》マルグリット学園の広大な敷地《しきち》の真ん中にそびえる校舎《こうしゃ》は、上空から見るとコの字型をした巨大《きょだい》な建物だった。石造りのホールと、廊下《ろうか》の高い天井《てんじょう》。階段《かいだん》は、入学したばかりの生徒にはちょっとした迷路《めいろ》に思えるほど入り組んでいる。
その校舎の二階、いつもの広い教室には、すでに生徒たち――上品だが少し排他《はいた》的に過《す》ぎる貴族《きぞく》の子弟《してい》たちが集まり、それぞれの席に着いていた。時刻《じこく》は朝八時三十分を回っていた。とっくにやってくるはずの担任教師《たんにんきょうし》を待ちながら、互《たが》いに顔を見合わせている。
すべての教科のテストが終了《しゅうりょう》し、授業《じゅぎょう》もほとんど残っていないため、生徒たちはいつになくリラックスして思い思いにお喋《しゃべ》りしたり髪《かみ》の手入れをしたりしてくつろいでいた。
そんな教室の窓際《まどぎわ》で、留学生《りゅうがくせい》のアブリルが一人、さっきのふくれっ面《つら》のままで窓枠《まどわく》に頬杖《ほおづえ》をついていた。開け放された窓から吹《ふ》いてくる夏の風が、彼女の短めの金髪《きんぱつ》をサラサラと揺《ゆ》らしていく。
「久城《くじょう》くん、遅《おそ》いな……。もう午前中の授業が始まっちゃうのに」
はぁ、とため息をつく。
窓の外には、夏の日射《ひざ》しに照らされる眩《まぶ》しい庭園が広がっていた。樹木《じゅもく》の葉は生《お》い茂《しげ》り、鮮《あざ》やかな緑色に輝《かがや》いていた。ところどころに造られた小さな四角い東屋《あずまや》の屋根に、小鳥が止まってチチチ……と鳴いていた。
二階の窓から、広々とした庭園を見下ろしながら、アブリルは浮《う》かない調子で、
「久城くん、遅刻《ちこく》も早退《そうたい》もなしの優等生《ゆうとうせい》のくせに、こと、図書館のことになるとこれなんだもん。まったく、図書館にいるのがどれだけかわいい女の子だっていうの? わたしだって……わたしだって、悪くないのに……多分、まぁまぁ、うーん……どうだろう」
アブリルは飼《か》い主に怒《おこ》られてしょげた犬のように、窓枠に顎《あご》をのっけて悲しそうに目を伏《ふ》せた。
チチチ……と東屋の屋根でまた小鳥が鳴いた。
「もしかして、鏡に映《うつ》ってるわたしって、自分の心の目で美化した姿《すがた》なのかな? 久城くんの目には、じつは、すっごく地味な典型的なイギリス女に映ってたりして。……そんなのいや!」
一人でぶつぶつと悩《なや》んでいたアブリルは、近くにいた女生徒をつんつんつついて振《ふ》り返らせた。教科書をめくっていたツインテールの女生徒が、つり目がちの瞳《ひとみ》をひそめて、面倒《めんどう》くさそうに顔を上げる。
「なんですの?」
「あの、正直に言って……わたしって、どう?」
「どうって……正直に言うのは悔《くや》しいですが、このクラスでいちばん美人だと思いますわ」
「ほんと!?」
女生徒は二、三度うなずくと、教科書に視線《しせん》を戻《もど》した。アブリルは浮き浮きと、髪を引《ひ》っ張《ぱ》ったり両手で整えたりし始めた。そうしながらも「久城くん、まだかな……」とつぶやきながら、また窓の外を見下ろした。
その視線の先を、なにか白っぽいものがとことこと横切った。
遠く、眩しすぎる夏の小径《こみち》を、どこからか歩いてこちらにやってくる、いままで見たこともない異様《いよう》なそれ。アブリルは「えっ……?」と思わず声を上げて、立ち上がった。
それは――
人形だった。
鮮《あざ》やかな長い金髪を、まるでほどけたビロードのターバンのように足元まで垂《た》らすビスクドールだ。白いフリルとピンクのレースが、歩くたびにふかふかと揺れ、真珠のボタンが朝日を眩しく照り返していた。それはちょうど窓の外――校舎の前にある小径をふかふかと横切っていくところで、遠目には顔はよく見えなかったが、小さくて、フリルがふわふわして、髪は金色で、とにかくアブリルの女の子の心をぐっとつかんで離《はな》さないような、素晴《すば》らしい人形ぶりだった。
「素敵《すてき》なビスクドール! アンティークかしら? 今世紀に入ってからの大量生産物じゃ、ああはいかないもの。あんなにきらきら輝いてみえたり、真っ白ですべすべしてたり、それに頬は薔薇色《ばらいろ》で、まるで人間みたいに歩いたり………………あれっ?」
アブリルは腰《こし》を抜《ぬ》かさんばかりに驚《おどろ》いて、叫《さけ》んだ。
「歩いてる!」
「……うるさいですわよ」
さっきの女生徒が顔を上げ、怒った。
「ご、ごめん……。でも、いまね、ビスクドールがまるで人間みたいに歩いてたの。さすが歴史のある学園はちがうわ。こんな朝から怪談《かいだん》そのものの出来事が起こるなんて」
「なにばかなこと言ってらっしゃるの? イギリス女ってばかね」
「なんだとぅ!」
そのお高い貴族の少女と喧嘩《けんか》になりかけたアブリルは、また「えぇ!?」と叫んで窓に向き直った。
「なんですの?」
「その歩くビスクドールの持ち主がわかったの。セシル先生よ! だって、いま……」
窓の外で、フリルとレースをふかふか揺らして移動《いどう》していくビスクドールに、小径《こみち》を校舎に向かって急いできたセシル先生が気づいて、駆《か》け寄《よ》った。アブリルが見ているとも知らず、セシル先生はその歩く人形となにごとか言い合いを始めていた。先生が怒り、人形はそれを鼻であしらってどこかに歩いていこうとする。先生も負けない。なにごとかお説教していたが、やがて業《ごう》を煮《に》やすと両手を広げて人形を……。
「あ、持ち上げた」
「そりゃ、人形ですもの」
女生徒が鼻で笑った。アブリルが見ていると、先生は人形の背後《はいご》から両手を脇《わき》に差《さ》し込《こ》んで持ち上げて、そのままずるずると校舎《こうしゃ》のほうに引きずっていった。人形のほうは顔を真っ赤にして、両手両足をぱたぱたさせて抵抗《ていこう》している。ドレスの裾《すそ》のレースが夢《ゆめ》のように広がって、濃いローズピンクのペティコートがふわりと風に舞《ま》った。ほんの一瞬《いっしゅん》、まるで薔薇の花が満開になったようだった。
[#挿絵(img/04_111.jpg)入る]
そこに、小径の奥《おく》から姿勢《しせい》を正して、東洋人の少年――久城|一弥《かずや》が歩いてきた。小脇に、さっきは持っていなかった大きな金色の書物を抱《かか》えている。騒《さわ》ぎに気づいて顔を上げた一弥は、人形を見てなぜか飛び上がった。セシル先生と人形に走り寄って、なにごとか言い合っている。
「久城くんまで? ……なんだろ。状況《じょうきょう》がぜんっぜんわからない」
「窓をお閉《し》めになって、予習でもなされば?」
「でも、人形が動いて……」
「アブリル・ブラッドリーさん。あなたが留学《りゅうがく》してきたここは、なんたって怪談学園なんですのよ? 夜になれば銅像《どうぞう》は酒盛《さかも》りするし、空っぽの甲冑《かっちゅう》は駆け回るし、一度もやってこないクラスメイトは灰色狼《はいいろおおかみ》だし。いまさら、人形が動いたぐらいでなんですの? 席に戻ってくださいません? さっきからすっごく邪魔《じゃま》!」
アブリルは肩《かた》をすくめた。そして窓の外をよく見るためによじ上っていた、その女生徒の机《つくえ》から、床《ゆか》にぴょんと飛び降《お》りた。
そして渋々《しぶしぶ》、アブリルが自分の席に戻って教科書を開いた、そのころ……。
「うるさい。セシルのばか! わたしは時計塔《とけいとう》に行くのだ。リヴァイアサンの謎《なぞ》は時計塔でのみ白日の下に晒《さら》すことができる。わたしの知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠ヘそれを知っているのだ。邪魔するな! ……教室なんて、ぜったいいやだ!」
両手両足を激《はげ》しくばたつかせながら、ヴィクトリカがもごもごと叫んでいた。セシル先生はそのヴィクトリカを抱えたままで廊下《ろうか》をすたすたと歩いている。
「教室なんていやだ。ぜったいに入らないぞ!」
「……どうしてだい?」
そのとなりを困《こま》ったような顔で歩いていた一弥が、不思議そうにヴィクトリカに問うた。ヴィクトリカは顔を憤怒《ふんぬ》でりんごみたいに真っ赤に染《そ》めて、悔《くや》しそうに、
「子供《こども》がたくさんいるからだ!」
「……君だって子供じゃないか。それに、ぼくだって」
「量によってはいやなのだ!」
「りょ、量って……。ヴィクトリカ、君ね、ちょっと顔を出すぐらいいいじゃないか。これまでずっと図書館にいたんだから、めずらしく下界に降りてきたときぐらい、教室に顔を出したってばちは当たらないよ」
「いやだったら、いやだ!」
セシル先生は涼《すず》しげに言った。
「どうせ今日は、授業は全部、休講《きゅうこう》なのよ。校内で事件《じけん》が起こってしまったから……。だから、ちょっと顔を出すだけ」
「いやだぁ!」
ヴィクトリカは暴《あば》れた。小さな足をばたつかせるうち、セシル先生の鳩尾《みぞおち》にヴィクトリカの踵《かかと》がぼこんと当たった。セシル先生は一瞬だけ、「う!?」と低い声を上げ、それから怒《おこ》ったような顔をした。そして教室の前に立つと……。
笑顔《えがお》のままで、ずいぶん適当《てきとう》な感じでヴィクトリカを教室にポイッと放《ほう》り入れた。
ざわめいていた教室が、とつぜんの闖入者《ちんにゅうしゃ》にしーんと静まり返った。
教科書を開いていたアブリルは、廊下から聞こえるなにごとか言い争っているような声の後、ポイッと放り込まれたそれを見て、一人、アッと声を上げた。
「さっきのビスクドール!」
ぽかんとして見ていると、放り込まれた白いフリルとピンクのレースの人形は、しばらくじっとしていたが、やがて周囲を警戒《けいかい》するようにゆっくりと、むくんと起きあがった。そして密《ひそ》やかな上目遣《うわめづか》いで周囲を見回した。
生徒たちも固唾《かたず》を呑《の》んで、そのフリルのかたまりみたいなものをみつめていた。
やがて、続いて入ってきた少年――生徒たちが死神《しにがみ》≠ニ呼《よ》んで恐《おそ》れている東洋からの留学生、久城一弥が、人形に無造作《むぞうさ》に手をのばした。アブリルが大好きな、人の良さそうな笑顔を浮《う》かべて人形の小さな手を握《にぎ》ると、起きあがらせた。
「君、自分の席を知らないだろ。こっちだよ――、ヴィクトリカ」
教室がざわめいた。
生徒たちが互いに顔を見合わせる。
(ヴィ、ヴィクトリカ!?)
アブリルは息を呑んだ。
そして改めて、精巧《せいこう》なビスクドールと見間違《みまちが》えた、その小さな、美しい、この世のものとは思えない少女を凝視《ぎょうし》した。
それは――
クラスでいちばんかわいいとか、二番目にかわいいとか、そういう次元のものではなかった。肌《はだ》は白磁《はくじ》のように白くすべすべで、頬《ほお》は夢《ゆめ》のような薔薇色《ばらいろ》。素晴《すば》らしいドレスに包まれた体はとても小さく、頭も、手も、すべてが精巧にできた神さまのための人形のようだった。ドレスの豪奢《ごうしゃ》さとは裏腹《うらはら》に、足元に届《とど》くほど長い金色の鮮《あざ》やかな髪《かみ》は、編《あ》まれてもまとめられてもいなく、洗《あら》ったままのようにただ背中《せなか》にたらされていた。そこだけ奇妙《きみょう》な野性味《やせいみ》が感じられ、その少女の不思議な、小さく美しく物静かなのにどこか凶暴《きょうぼう》な、独特《どくとく》の空気を象徴《しょうちょう》していた。
少女――学園中で、とある貴族《きぞく》の妾腹《しょうふく》の娘《むすめ》であるとか、灰色狼《はいいろおおかみ》の生まれ変わりであるとか、噂《うわさ》には事欠かないがなぜかいままで誰も見たことのなかった伝説の不登校児、ヴィクトリカ・ド・ブロワは、本人を目の前にしてさらに、この世のものではないように感じさせた。アブリルは、冒《おか》しがたい空気で周囲を圧倒《あっとう》する小さな美少女と、その手をごく普通《ふつう》に握ってなにごとか話しかけながら席に案内する久城一弥をきょろきょろと見比《みくら》べ、しばらも表情《ひょうじょう》をなくしていたが、やがて泣きそうな顔になって唇《くちびる》を震《ふる》わせた。
と、視線を感じたように一弥がきょとっと振《ふ》り返った。アブリルと目が合うとにこっと笑って、
「やぁ、アブリル」
「う、うん……」
「さっきはごめん。後でね」
「う、ん……」
アブリルは一弥の笑顔にちょっとだけほっとした。それから改めて、窓際《まどぎわ》の空席にちょこんと座《すわ》ってうつむき、じっと靴《くつ》の先をみつめている美少女――ヴィクトリカ・ド・ブロワの横顔をみつめた。
ヴィクトリカは所在《しょざい》なげに、不安そうに、辺りを上目遣いに見回したりまたうつむいたりを繰《く》り返していた。さっき薔薇色だった頬は、恐怖《きょうふ》か、怒《いか》りか、なにかの感情を映《うつ》して沈《しず》んでいた。白磁の肌が透《す》き通るようにたちまち青ざめていく。アブリルはちょっと心配になった。一弥の席を振り返ると、一弥はそれに気づく様子もなく、姿勢《しせい》正しく席について、教壇《きょうだん》に立ったセシル先生をみつめている。
「みなさん、じつは今朝、ちょっと不審《ふしん》な事件《じけん》が起こってしまったので、今日一日、授業《じゅぎょう》は休講にします。その前にテストを返しますから、名前を呼ばれた人は前に出てくださいね。その後は、みなさんは寮《りょう》の部屋に戻《もど》って各自、勉強を続けてください。あと、もうすぐ夏休みだからって、さぼっちゃだめですよ……」
セシル先生は生徒の名前を一人ずつ呼んで、テストを返し始めた。
一方ヴィクトリカのほうは、いまにも気絶《きぜつ》して椅子《いす》から転げ落ちそうな様子だった。アブリルはそれに気づいて、困《こま》ってきょろきょろした。この初対面の少女を心配する気持ちと、怒りに似《に》た気持ち、両方が相まってアブリルはだんだん混乱《こんらん》してきた。
(うう、憎《にく》たらしい……。ちょっとだけ、ちょっとだけちょっかいかけてみよう。そしたら倒《たお》れそうになってるこの子にも活が入るかもしれないし、わたしもすっきりするかも。うん、ちょっとだけ……)
アブリルは自分の席から、そっと手をのばした。うつむいて靴の先を睨《にら》んだまま微動《びどう》だにしない、真っ青な顔をしているヴィクトリカの長い金髪《きんぱつ》が床《ゆか》に向かって垂《た》れ落ちている。その金色のさきっちょを一|房《ふさ》、そうっと握《にぎ》りしめると、小声で、
「やーい、灰色狼。狼人間。妖怪《ようかい》! 妖怪!」
そう囃《はや》し立てながら、きゅっと、痛《いた》くないようにちょっとだけ、引《ひ》っ張《ぱ》った。
ヴィクトリカがすばやく振り返った。
笑顔《えがお》だったアブリルの顔が、恐怖にひきつった。振り向いたヴィクトリカは机《つくえ》を抱《かか》えていた。初めて間近で見るその瞳《ひとみ》は、子供《こども》とも大人ともつかない不思議な輝《かがや》きを湛《たたえ》えた、そして恐《おそ》ろしいほど無表情な、薄《うす》い緑色をしていた。ヴィクトリカは小さな両手で一生|懸命《けんめい》持ち上げた机を、なんの躊躇《ちゅうちょ》もなく、アブリルに向かってぶん投げた。
まるで老女のようにしわがれた、聞いたこともないような暗く低い声が、遅《おく》れて、真後ろに吹《ふ》っ飛《と》ばされていくアブリルの耳に届いた……。
「無礼者! わたしに勝手に触《さわ》るな!」
「ご、ごめん……。悪気は……なく…………」
小声で言い訳《わけ》をしながら……
「灰色狼、おそるべ、し…………」
アブリルは昏倒《こんとう》した。
2
保健室《ほけんしつ》で目を醒《さ》ましたアブリルは、目の前に座っているあのフリルとレースの美少女と、その近づきがたいほど美しい小さな頭を、なんの躊躇もなくぐいぐいと上から押《お》している一弥の姿に気づいて、起きあがった。
「あ、起きた」
一弥が気づくと、恐ろしい美少女の頭をさらにぐいぐい押して、
「ほら、ヴィクトリカ」
「…………わたしは謝《あやま》らない」
さっきと同じ、老女のようにしわがれた声がした。このまるで地の底から響《ひび》くような暗く低い声が、まぎれもなくヴィクトリカ・ド・ブロワの声なのだとわかって、アブリルは改めて驚いた。
「謝らないったら、謝らない。この女はわたしのことを妖怪|呼《よ》ばわりした。しかし、わたしは断《だん》じて妖怪じゃない」
「ヴィクトリカ、君ねぇ。そんなことはこの子だってわかってるよ。ただ君をからかっただけだろ?」
アブリルはあわててベッドから飛び起きた。立ち上がると、ヴィクトリカの体が驚くほど小さいことが改めて実感できた。アブリルは小さなヴィクトリカを見下ろして、おろおろと、
「あの、さっきはごめん。そんなに怒《おこ》るとは思わなくて……。意地悪言って、ほんとにごめんね」
ヴィクトリカが上目遣《うわめづか》いにこちらを見た。
怯《おび》えているような不思議な表情《ひょうじょう》だった。さくらんぼみたいにつやつやした唇《くちびる》を、真珠色《しんじゅいろ》の小さな前歯で噛《か》みしめている。ヴィクトリカが警戒心《けいかいしん》も露《あら》わにアブリルをみつめていると、一弥が諭《さと》すように言った。
「ヴィクトリカ、わかったかい? じゃ、改めて紹介《しょうかい》するけど、彼女がアブリル・ブラッドリー。イギリスからの留学生《りゅうがくせい》だよ。それからアブリル、この子がヴィクトリカ・ド・ブロワ。ええと……ちょっと待って。ヴィクトリカ、君、いまアブリルに謝ったっけ?」
「謝るものか」
ヴィクトリカはぷいっとそっぽを向いて答えたが、一弥に「こらっ!」と怒られると、物音に驚いた仔猫《こねこ》のように飛び上がった。
それからいっそう不機嫌《ふきげん》そうなしかめっ面《つら》になると、小さな顔をふるふると左右に振《ふ》った。金色のベールのような、足元までこぼれ落ちる見事な金髪が、首にあわせて夢《ゆめ》のように揺《ゆ》れる。
ヴィクトリカは首を振りながら言った。
「……い、や、だ!」
一弥がきょとんとして聞き返す。
「いやなの? どうして?」
ヴィクトリカは小さな鼻をフンと鳴らした。
「なぜなら、この女は人間じゃない。|屁こきいもり《ニュート》なのだ。わたしはいもりなんかとは話さない」
「こらっ、ヴィクトリカ!」
「ふご!?」
強情《ごうじょう》にうつむいていたヴィクトリカは、一弥に両手で顎《あご》をつかまれて、無理やり上を向かされ、
「ごふっ! 離《はな》せ! 久城のくせにわたしの顎をつかむな!」
と、怒り狂《くる》ってじたばた暴《あば》れ始めた。アブリルがあわてて、あいだに割《わ》って入った。
「いいから、久城くん! この子、それ、すごくいやがってるよ!」
一弥は美少女の顎をつかんだまま、落ちついた物腰《ものごし》で、静かに自己主張《じこしゅちょう》した。
「ぼくはただ、この屁こきヴィクトリカに物の道理を教えてるんだよ。ほら、ヴィクトリカ。ちゃんと筋《すじ》を通してアブリルに謝《あやま》るんだ。そうしないとぼくはこの手を離さないよ。そしたら君、マカロンも食べれないし、パイプも吸《す》えないし、ぼくが邪魔《じゃま》で本も読めないけど、いいのかい?」
「ごぶっ! 離せ! この中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才《しゅうさい》で、凡人《ぼんじん》の、ならず者め! ごぶぶ!?」
「久城くん、やめてあげて!」
「いやいや、ぼくはやめませんよ」
三人で組んずほぐれつ争っていると、保健室《ほけんしつ》のドアが開いた。
「……あら、まぁ?」
セシル先生が、瞳《ひとみ》をまん丸にして立っていた。
[#挿絵(img/04_121.jpg)入る]
顎から手を離した一弥、ふくれているヴィクトリカ、おろおろしてるアブリル、それにセシル先生の四人は、保健室を出て時計塔《とけいとう》に向かって歩きだした。
一弥は歩きながら、アブリルにヴィクトリカのことをどう説明しようかと考えていた。この春、留学してきたばかりのアブリルと〈紫《むらさき》の本〉を巡《めぐ》る事件《じけん》を解決《かいけつ》し、アブリルを救ったのはじつは図書館塔の妖精《ようせい》ことヴィクトリカ・ド・ブロワの頭脳《ずのう》――知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠セったのだが、アブリルはそのことを知らないのだった。初めから説明したほうがいいかなぁ、などと考えていると、一方アブリルのほうはべつのことで頭がいっぱいの様子で、昨日からずっと悩《なや》んでいたことを話しだした。
「あのね、昨日、わたしと久城くんが時計塔でプランシェットをしたでしょ? あれは精霊《せいれい》を呼んであの世のことをいろいろ教えてもらう儀式《ぎしき》なんだけど、ぜったいに途中でやめちゃいけないの。それなのにわたしたち、途中で手を離しちゃった……。事件が起こったのはあの後よ。時計塔に悪い霊が残ってしまったんじゃないかと思って、こわくって……」
「屁こきいもりが言い出しそうなことだ。……ふがっ?」
ヴィクトリカの悪態《あくたい》を、一弥が必殺の顎つかみで黙《だま》らせた。
「ごぶっ! 離せ! 久城のくせにおまえは最近、なんなのだ!」
「屁こきヴィクトリカに礼儀を教えようとする、品行方正な友達だよ。……いてっ! 噛《か》みつくなよ!」
一弥は知恵の泉≠フ話をすっかり忘《わす》れて、ヴィクトリカの顎をつかむことに全力投球し始めた。ばたばたと争いだした一弥たちをほうっておいて、セシル先生がアブリルに優《やさ》しく言った。
「そんなのただの迷信《めいしん》よ、アブリルさん」
「で、でも……」
「あのね、ほんとは生徒にむやみに昔のことを話してはいけない決まりなんだけど……。なんといってもこの学園には不思議な事件が多いから……」
セシル先生が何ごとか言い始めたので、争っていた一弥たちも休戦して、耳を澄《す》ました。
「昨日、先生が、久城くんとアブリルさんを時計塔から追いだしたのには理由があるの。あのね……あの時計塔で、今朝みたいな不審《ふしん》な事件が起きて人が死ぬのは、初めてじゃないの」
「過去《かこ》にも一度あったことなんですか?」
一弥の問いに、セシル先生は首を振《ふ》った。
「一度じゃないの」
「じゃ……」
「五度よ」
一弥たちは足を止めた。顔を見合わせて、それからもう一度、セシル先生に視線《しせん》を戻《もど》す。
「今世紀に入ってからのことよ。……錬金術師《れんきんじゅつし》リヴァイアサンがいたのは一八九七年からの二年間だから、つまり、彼がいなくなってからのことね。とにかく今世紀に入ってからの約二十年間で、五人もがあのぜんまいの部屋で不審な死を遂《と》げているの。四年に一人の確率《かくりつ》ということね。彼らはなぜか時計塔のほかの場所ではなくて、必ずぜんまいのある工房《こうぼう》で、しかも今朝のように、右手の人差し指に紫色の痣《あざ》をつけて倒《たお》れていて、やがて死んでしまうの。検視《けんし》の結果はいつも、指から回った毒による死よ。共通点はほかにもあるわ。彼らはぜったいにここの生徒じゃないの。たとえば赴任《ふにん》したての教師や、見学者、不法|侵入《しんにゅう》した旅行者……。つまり、よそ者よ」
四人は校舎《こうしゃ》を出て、時計塔に続く小径《こみち》をゆっくり歩きだした。さっきよりさらに夏の日射《ひざ》しが強くなり、四人をじりじりと照らしていた。花壇《かだん》の花々や木々の葉も鮮《あざ》やかに輝《かがや》いている。
「だから検視結果を聞くまでもなくわかるの。死因《しいん》は指先から回った毒よ。あの人は毒殺されたのよ」
「でも、誰が……?」
アブリルがつぶやいた。セシル先生は、
「わからないわ。だけど五度の事件のうち何件かは、内側から鍵《かぎ》をかけた工房で死んでいたの。だから時計塔には、その昔ソヴュール王国に君臨《くんりん》したあの錬金術師の亡霊《ぼうれい》がいると噂《うわさ》されているのよ。もちろん噂だけど、大事な生徒を近づけたくないもの。それで鍵をかけていたんだけど、定期的に、誰かが好奇心《こうきしん》でもって開けちゃうのよね。鍵をこじ開けたり、ドアを蹴飛《けと》ばしたり……」
アブリルは赤くなってうつむいた。一弥はあわてて話題を変えるように、
「だ、だけど、先生。確《たし》かその錬金術師は、時計塔で王立|騎士団《きしだん》の急襲《きゅうしゅう》を受けて、毒矢を射《い》られたけれど、すたこら逃げちゃって、死体はみつからなかったんですよね」
「そうよ。学園中を捜索《そうさく》されたけどどこにもいなくて、村や近隣《きんりん》の森まで捜《さが》されたけどみつからなくて。森のもっと奥深《おくぶか》くで息絶《いきた》えたか、それとも……」
セシル先生はくすっと笑った。
「彼は本当に不老不死で、仮面《かめん》とローブを脱《ぬ》ぎ捨《す》てて遠い国に逃げたのだ、とも言われているわ。伝説ね」
小径の向こうを、あの殺された東洋人の連れの男がゆっくりと通り過ぎた。ブロワ警部《けいぶ》に疑《うたが》われたものの、ずっと宿にいた、同時|存在《そんざい》できるのならともかく自分に殺人は不可能《ふかのう》だった、と語ったあの赤毛の男だ。男は帽子《ぼうし》を目深《まぶか》に被《かぶ》って伏《ふ》し目がちに歩いていたが、一弥たちの姿《すがた》をちらりと見ると帽子に手をのばしてさらに目深に被り直した。
その反対側から、六十がらみのずいぶん大柄《おおがら》な男が、がっしりした肩《かた》に大工道具を背負《せお》って歩いてきた。赤毛の男とすれ違《ちが》う。
「あの大きな男の人って、誰《だれ》ですか?」
一弥が聞くと、セシル先生は小径の向こうを見てうなずいた。
「ああ、大工さんよ。もう二十年近く前から学園で働いているわ。老朽化《ろうきゅうか》した場所の補修《ほしゅう》工事を頼《たの》んでるの」
「へえ、ずいぶん昔からいる人なんですね……」
「花壇の世話をしてる庭師さんもそうよ。庭師さんのほうが長いかしら……。そうね、庭師さんは二十年以上前から働いてるって聞いたことがあるわ」
大工の老人が、視線を感じたようにこちらをじろりと見た。皺《しわ》だらけの大きな顔に、二つの瞳《ひとみ》が暗く輝いていた。
一弥は、消えた仮面の怪人《かいじん》に話題を戻した。
「でも、先生。その錬金術師《れんきんじゅつし》が消えた、もしくは死んだのは、じつはわずか二十年ちょっと前の話ですよね。彼が毒矢によって殺されず、仮面とローブを脱ぎ捨てて姿を消しただけだとしたら……もしかしたら、錬金術師はまだ生きているのかもしれませんよね。遠い国に逃げたのではなく、学園のどこかに隠《かく》れている可能性《かのうせい》もあるんじゃないですか。いや、隠れる必要はないんだ。だって、誰《だれ》も彼の素顔《すがお》を知らないんだから。……そのほうが、少なくとも亡霊説よりは現実《げんじつ》的だと思うけど」
「……いや、ちがう」
顎《あご》をいたわるように撫《な》でながら静かに歩いていたヴィクトリカが、とつぜん口を出した。
「リヴァイアサンはとっくに死んでいる。そのことを……自分の死をかたくなに隠しているだけだ」
「でも、それならいったい誰が、どうやって工房の密室《みっしつ》で人を殺したんだい? 二十年以上のあいだずっと、侵入者をみつけては殺している存在は? それに生徒は殺さずに、あやしいよそ者だけを選んで℃Eしてるんだ。やっぱり、生きて意志《いし》を持った人間だと思うよ」
一弥が反対のことを言うと、ヴィクトリカは黙《だま》った。ちらりとその顔を見ると、ヴィクトリカは子供《こども》みたいにふくれっ面《つら》をしていた。
アブリルが一弥の意見にうなずいて、
「なるほどね。久城くん、頭いい!」
そう言うと、ヴィクトリカはますます不機嫌《ふきげん》そうに唇《くちびる》をすぼめた。それから足元の小石を蹴《け》って、吐《は》き捨てるように言った。
「そんなことを言うなら、久城、君は勝手にぴちぴちと活《い》きのいい錬金術師を捜《さが》したまえ。わたしはカラカラに干《ひ》からびた彼の死体を捜すことにする。君なんか、知らん」
「ええー?」
一弥が不満そうにうめいたとき、一行はちょうど、目指していた時計塔《とけいとう》の前に辿《たど》り着いた。
時計塔の周りだけは、夏の日射《ひざ》しも暑さも感じられず、まるで死装束《しにしょうぞく》のような不吉《ふきつ》な蜘蛛《くも》の巣と、黒ずんだ骸骨《がいこつ》のようなブナの枯《か》れ枝《えだ》に彩《いろど》られていた。風が吹《ふ》くと、蜘蛛の巣と枯れ技がカサカサ……といやな音を立てて揺れる。
塔の前にいたブロワ警部が、一弥たち――それからうつむいて立っている腹違《はらちが》いの妹ヴィクトリカをみつけると、顔をしかめ、
「……これはこれはお珍《めずら》しい」
不機嫌そうにつぶやいた。
今朝会ったときのブロワ警部《けいぶ》は気味の悪いサラサラヘアを風に揺らしていたが、いまはもういつも通りの、金髪《きんぱつ》を前方に向かってぐりゅんと尖《とが》らせた、流線型のドリル頭に戻《もど》っていた。一弥たちが近づいていくと、なぜかブロワ警部のその頭には、ぶんぶんと蜂《はち》や蝿《はえ》や大きな揚羽蝶《あげはちょう》や……とにかくあらん限《かぎ》りの虫がたかっていた。部下二人が普段《ふだん》はつないでいる手をほどいて、一生懸命、両手を振《ふ》り回して虫を追い払《はら》おうとしていた。
アブリルが一弥をつつき、耳元でささやいた。
「ほらね! やっぱりすごくへんな人よ!」
「……知ってるよ。いまに始まったことじゃないもの」
ブロワ警部はゆっくりとした歩みで一行に近づいてくると、両手を腰《こし》に当て、右足を前につきだしたナイスポーズで、
「いったいなにごとだね? セシル先生に、久城くんに、その……ヴィ、ヴィクトリカ。それから、ええと君は……」
「アブリル・ブラッドリー。イギリスからの留学生《りゅうがくせい》です」
警部に指差されたアブリルは、まず礼儀正《れいぎただ》しく自己紹介《じこしょうかい》した。それから警部のドリル頭を指差して、一言、言った。
「へんな頭」
「……わかっている! 仕方ないだろう? いろいろ、その、大人の事情《じじょう》があるのだ」
「虫がたかってるのはどうして?」
「こ、これは、その、急いでいたので砂糖水《さとうみず》で固めたのだ。そしたら……こうなった。いまちょっと困《こま》っている」
一弥とアブリルは顔を見合わせた。
ブロワ警部は不機嫌そうに顔をしかめると、ゆっくりと一同から離《はな》れて小径《こみち》を歩きだした。なぜか時計塔からどんどん遠ざかっていく。
時計塔の前に強い風が吹いて、ブナの枯れ枝を揺らしていった。寮《りょう》に戻る生徒たちが小径を歩きながら、こちらをちらちらと盗《ぬす》み見ていた。一弥は、やけにのんびりとパイプを取りだして火をつけてみせるブロワ警部を少し不審《ふしん》に思った。近づいていって、問いかける。
「あの、警部」
「……なんだね?」
警部は面倒《めんどう》くさそうに振り向いた。
「ずいぶん、なんていうか、その、のんびりしてませんか? ぼく、警部が事件《じけん》の真相を調べるために図書館にくるものとばかり思って、しばらく待ってたんですけど、ぜんぜんくる気配がなかったし。それにいまだってのんびりパイプをくわえてるだけで、時計塔で捜査《そうさ》をしているようには見えません」
「うむ……。いや、さっきまでしていたんだがね」
「捜査をしていたのなら、その頭をドリルみたいにセットする時間はなかったはずです」
「う、うむ……」
警部は困ったように何度かポーズを変えたり、ドリルに手をのばしてそっと整えたりした。
それからため息混《いきま》じりに、仕方なく言った。
「これが村で起こった事件なら、いくらでも捜査するがね。残念ながらここは聖《せい》マルグリット学園の敷地内《しきちない》だ。久城くん、わたしはだね……要するに、この学園の過去《かこ》について掘《ほ》り返すのがいやなのだよ」
「……どういうことですか?」
警部はセシル先生やアブリルたちが聞いていないのを確認《かくにん》すると、小声で、
「いいかね? 聖マルグリット学園が君のような海外からの留学生《りゅうがくせい》を受け入れ始めたのは、ここ数年のことだ。それまでは学園は秘密裏《ひみつり》にされ、数百年ものあいだ、部外者を立入|禁止《きんし》にしてきた。なぜだかわかるかね?」
「いえ……」
「ここには闇《やみ》のヨーロッパ史がいくつも眠《ねむ》っている。それらをけして目覚めさせてはいけない。ソヴュール王国の中枢《ちゅうすう》はそう考えているのだ。中世|以降《いこう》の数百年間、このアルプス山脈の奥深《おくふか》くに造《つく》られた聖マルグリット学園は、教育機関の隠《かく》れ蓑《みの》を着た王室の秘密の武器庫《ぶきこ》≠セったと言われている。あるときは革命《かくめい》を逃《のが》れたフランスの貴族《きぞく》を匿《かくま》った。あるときはカトリックに迫害《はくがい》されたプロテスタントたちを匿った。新開発された未来の武器もここに隠された。歴史上、生きていてはいけないはずの人物も天寿《てんじゅ》を全《まっと》うするまでここに棲《す》んでいた。いいかね? それらの歴史を白日の下に晒《さら》すことはできない。現在《げんざい》の国交にも影響《えいきょう》を及《およ》ぼす。恐《おそ》ろしい幾《いく》つもの秘密を、生を、死を、学園は大きな口を開けて呑《の》み込《こ》み、沈黙《ちんもく》してきたのだよ」
一弥は驚《おどろ》いて、めずらしく深刻《しんこく》な顔をしているブロワ警部の横顔をみつめた。二人の姿《すがた》を、焼け付くような夏の日射《ひざ》しが容赦《ようしゃ》なくじりじりと照らした。ブロワ警部のドリル頭がとろとろと輝《かがや》いていた。……どうやら暑さのせいで、砂糖水が溶《と》けてきてしまったようだった。次第《しだい》にぐにゃぐにゃと下に垂《た》れてくるドリルを両手で一生|懸命《けんめい》持ち上げながら、ブロワ警部は続けた。
「もちろんそれら闇の歴史たちは、いまではもう遠い彼岸《ひがん》のものとなっている。あの世界大戦《グレート・ウォー》の後、秘密|主義《しゅぎ》はなりを潜《ひそ》め、君のような留学生も堂々と受け入れている。だがね、君。それら遠い悪夢《あくむ》が時折、暗い微睡《まどろ》みから目覚めては今回のような悪戯《いたずら》を起こすのだ。それが学園に蔓延《はびこ》る怪談《かいだん》となり、現在を生きる少年少女たちを再《ふたた》びの怪異《かいい》へ誘《いざな》う……」
「へぇ……」
「そういうわけで、わたしはあまりこの件を捜査したくないのだよ。迷宮入《めいきゅうい》りのままで構《かま》わない。今日中になにかわからなければ撤収《てっしゅう》するつもりだ」
「で、でも……」
一弥は食い下がった。
二人の視線《しせん》の先を、さっきの大柄《おおがら》な大工がまた横切った。相変わらず、重そうな大工道具を肩《かた》に下げてゆっくりと歩いていく。
一弥は熱心な様子で続けた。
「警部、時計塔《とけいとう》のあのぜんまいの部屋で変死事件が起きたのは、今日が初めてじゃないんですよね? もし時計塔に誰《だれ》かが――たとえば死んだはずの錬金術師《れんきんじゅつし》や、彼の意志《いし》を継《つ》ぐ者が――潜んでいて、人を殺し続けているのだとしたら、放っておいてはいけないんじゃないですか? もしかしたらまた犠牲者《ぎせいしゃ》が出るかもしれないし……」
「…………」
警部は答えなかった。
ただ風が吹《ふ》いて、ブナの枯《か》れ枝《えだ》と、溶けてきたドリル頭の先を揺《ゆ》らしていくばかりだった。
一弥が不満そうな顔をしながらもアブリルたちのところに戻《もど》ると、ちょうどアブリルが熱心に亡霊説《ぼうれいせつ》を唱えているところだった。
「だって、ほかに人がいない部屋で、内側から鍵《かぎ》をかけてて、それなのに毒殺されたんでしょ? そしたらやっぱり亡霊が殺したんだとしか……」
「やめてやめて。こわい話はやめて」
セシル先生は眼鏡《めがね》を外して、こわいこわいと繰《く》り返していた。アブリルは熱心に何ごとか語っていたが、一弥が戻ってくるとさらに張《は》り切って、
「ねえ、ねえ。みんなで村まで行って情報収集《じょうほうしゅうしゅう》しない? 時計塔の噂《うわさ》とか、あの殺された人のこととか、いろいろ調べてみようよ」
一弥は、アブリルのやけに熱心な様子にちょっと戸惑《とまど》った。しかし、こんなときのアブリルに逆《さか》らう術《すべ》がないような気がしたので、仕方なくうなずいた。
「まぁ、いいけどね……」
アブリルはうれしそうにうんうんとうなずいた。
それからヴィクトリカのほうを振《ふ》り返り、明るい声で言った。
「ね、ヴィクトリカさんも行こうよ」
一弥とセシル先生は思わず顔を見合わせた。
声をかけられたヴィクトリカは、小さく、かすかな声で、あっ、と叫《さけ》んだ。
諸々《もろもろ》の事情によって、ブロワ侯爵《こうしゃく》と謎《なぞ》の踊《おど》り子とのあいだに生を受けたヴィクトリカ・ド・ブロワは、聖《せい》マルグリット学園に幽閉《ゆうへい》されており、勝手に外に出てはいけないのだが、もちろんアブリルはそんなことは知らないのだ――。
楽しそうなアブリルの笑顔《えがお》を、ヴィクトリカはしばらく見上げていた。悲しそうな、小さな姿だった。
だがその、冷酷《れいこく》めいてはいるが見事な美貌《びぼう》であるところのヴィクトリカの顔に、やがて、かすかに苛立《いらだ》ちのような、怒《いか》りのような感情がよぎった。
ぷい、とそっぽを向いて、ヴィクトリカが言った。
「わたしは行かない」
「そ、そうなの?」
アブリルはがっかりしたように小声で答えた。不穏《ふおん》な空気を感じて、一弥は二人のあいだに割《わ》って入った。ヴィクトリカを庇《かば》おうと口を開きかけたとき、ヴィクトリカがさらにムキになったように続けた。
「く、久城といっしょにどこにでも行きたまえ。ふん、どうせ凡人《ぼんじん》が二人集まっても、1たす1は2にならないのだよ。せいぜい無駄《むだ》にうろつきたまえ、|屁こきいもり《ニュート》」
アブリルはその毒舌《どくぜつ》にびっくりして、ぽかんとしてその小さな少女をみつめた。ヴィクトリカを庇おうとしていた一弥はあきれたように口を閉じたが、もう一度口を開くと、
「こらっ、ヴィクトリカ!」
彼女の小さな顎《あご》をつかんで怒《おこ》った。
ヴィクトリカはなぜか今回は黙《だま》ってつかまれるままになっていた。その小さな顔を覗《のぞ》き込むと、強情《ごうじょう》そうに唇《くちびる》を噛《か》んで一弥を睨《にら》み返していた。
一弥は降参《こうさん》して、顎から手を離《はな》した。
「ヴィクトリカ、君、今日はいったいどうしたんだよ? アブリルは最初こそ君のことを妖怪《ようかい》って言ったかもしれないけど、ちゃんと謝《あやま》って、それきり二度と言ってないよ。なのに君はずーっと彼女を屁こきいもり呼《よ》ばわりして……! 君、ほんとにどうしちゃったんだよ?」
ヴィクトリカは一弥の剣幕《けんまく》に驚《おどろ》いて、エメラルドグリーンの瞳《ひとみ》をいっぱいに見開いた。目尻《めじり》に真珠《しんじゅ》のような涙《なみだ》が一粒《ひとつぶ》、たまってきた。一弥はその涙には気づかずに、
「君は一度も謝ってないじゃないか。そんな道理は通らないよ。さあ、アブリルに謝りたまえ」
「…………い」
「なぁに?」
「い、や、だ!」
ヴィクトリカは叫んだ。アブリルがあわてて二人のあいだに入って、なだめた。
「あのね、久城くん。わたしそんなに怒ってないから。だからそんなに……」
「……アブリルは黙《だま》ってて。ヴィクトリカ、ぼくは君のことを、もっと優《やさ》しい子だと思ってたんだよ。君はいつも意地悪だし、無愛想でとりつく島もないけど、ぼくが困《こま》ってるときには、なんだかんだ言ったって必ず助けてくれるんだもの……。だけど……今日の君はおかしいよ。君って人は、ぼくのいちばん大事な友達なのに……」
アブリルは、一弥のいちばん大事な友達≠ニいう言葉にぴたっと止まった。
いつも明るくて元気なその顔が、ぱっと曇《くも》った。アブリルはふくれっ面《つら》になり、足元に転がっていたこぶし大の石を蹴《け》っ飛《と》ばした。それからその石を拾うと右手に、左手に持ちかえながらぶつぶつと文句《もんく》を言い出した。
「いちばん大事な友達……。いちばん大事な友達……。なるほど、それってわたしじゃないんだ。なるほどね……」
それから握《にぎ》っていた石を頭の上に乗せて、左右に揺《ゆ》らし始めた。ふくれっ面のままでつぶやく。
「……屁っこき一弥!」
その声に振り向いた一弥は、アブリルのふくれっ面と、いつのまにか頭の上に乗せている石をきょときょとと見比《みくら》べた。
(そういえばアブリルって、ときどき頭にものを乗せてるなぁ……?)
アブリルはつまらなそうな顔をして、体を揺らしている。
サッ……と夏の乾《かわ》いた風が吹《ふ》いた。
一弥は気を取り直して、ヴィクトリカに向き直った。ヴィクトリカはというと、さっきよりさらに強情《ごうじょう》な顔をして黙り込んでいた。一弥は困り切って、小さな声になり、
「ヴィクトリカ、ぼくの言いたいこと、わかってくれたかな……?」
「…………」
「ねえ、ヴィクトリカ……。なにか言ってくれよ? まったく……」
ヴィクトリカはますますうつむいて黙り込んでしまった。一弥は困ったように首をかしげて彼女をみつめていたが、だんだん怒《おこ》りだしてきて、
「わ、わかったよ。もういいよ。ヴィクトリカのいばりんぼ! ぼくはもう君なんて知らないからね!」
ヴィクトリカが息を呑《の》んだ。
かすかに顔を上げる。
その瞳には絶望《ぜつぼう》したような悲しい光があった。でも誰《だれ》もそれに気づかなかった。一弥は生来の頑固《がんこ》な性格《せいかく》が首をもたげて、悲しそうにしているヴィクトリカに背中《せなか》を向けて歩きだしてしまっていた。アブリルは、怒っている久城一弥というものを初めて見たので文字通りびっくり仰天《ぎょうてん》して、あわてて頭から石を降《お》ろしていた。セシル先生は眼鏡《めがね》を外していたし……。
アブリルはびっくりしたまま、一弥と、うつむいてしまったヴィクトリカを見比べた。ずんずんと一弥が歩いていくので、石を放《ほう》り出し、あわてて追いかける。
「あのさ、じゃ、競争しない? ほら、わたしと久城くんが村に行って情報収集《じょうほうしゅうしゅう》するの。で、ヴィクトリカさんは、ええと……そうだ、セシル先生と組んで時計塔《とけいとう》を調べるの。お昼にこの辺りに集合して、一緒《いっしょ》にお昼ご飯を食べながら勝負しあうの。どっちのチームが先に錬金術師《れんきんじゅつし》の謎《なぞ》を解《と》くか。ね?」
振《ふ》り返った一弥が、なぜかきっぱりと言った。
「ヴィクトリカには敵《かな》わないよ」
まだヴィクトリカの美しさだけに触《ふ》れて、頭脳《ずのう》のことを知らないアブリルは、きょとんとして小さなヴィクトリカのほうを見た。
「ええっ? そ、そんなことないよ。勝負はまだわかんないよ。ね? よし、じゃ、解散。お昼にまた会おうね」
アブリルが元気よく言って、歩み去る一弥を追って走り出した。正門に向かいながら、なんだか気になってアブリルが振り向くと、ヴィクトリカは小径《こみち》の真ん中にぽつんと立って、じっと一弥の背中をみつめていた。
さくらんぼみたいな唇《くちびる》が、ふるっと震《ふる》えた。なにか言いかける。
「く……」
しかし、声にはならない。
その姿《すがた》があまりにも小さくて、寂《さび》しそうで、アブリルはとてもそのまま走り去る気にはなれなかった。一弥のほうを振り向いたけれど、彼はどんどん歩いていってしまう。アブリルは困《こま》って、迷《まよ》い……それから意を決して、とてもこわくて毒舌《どくぜつ》で、しかしとてもかわいらしいフリルとレースの美少女に向かって、走って戻《もど》ってきた。
「あ、あのね。やっぱり、わたしたちと一緒に村に行かない?」
「…………」
ヴィクトリカは答えなかった。かすかに顔を上げてなにか言いたそうに唇を開いたが、結局、なにも言わずに口を閉《と》じた。
それから悲しそうにゆっくりと首を振った。
「そう……。じゃ、後でね」
アブリルがまた走っていく。
ヴィクトリカはじっとそれを見送っていた。
一弥の背中が、続いてアブリルの背中が、正門を抜《ぬ》けて学園の敷地《しきち》から出ていった。ヴィクトリカはいつまでもいつまでも、そこに立ち尽《つ》くしてただ見送っていた。
寂しそうな、小さな姿だった。
そして、ヴィクトリカは――
とつぜん小径の砂利《じゃり》を蹴《け》って、二人の後を追って走り出そうとした。フリルを揺《ゆ》らして、ほんの二、三歩前進したとき、誰かに首根っこをつかまれた。
まるで仔猫《こねこ》のように軽々と持ち上げられて、ひょい、ともとの場所に戻される。ヴィクトリカが泣きそうな顔で睨《にら》み上げると、そこには、夏の日射《ひざ》しで砂糖水《さとうみず》が溶《と》けて、ドリルがどろどろと垂れ下がったブロワ警部《けいぶ》が立っていた。
いつになく険《けわ》しい顔をして、ヴィクトリカを睨みつけている。
「おまえは、だめだ」
「……知っている」
「外に出てはいけない。おまえもまた闇《やみ》のヨーロッパ史の一|欠片《かけら》だからな。ここから一歩も出すわけにはいかない。あの子たちのような気楽な生徒とはちがうのだ」
「そんなことはわかっている。うるさいぞ、トンガリ頭」
「……こ、これはおまえが尖《とが》らせたんだろう!」
ヴィクトリカは答えなかった。
急にくるっときびすを返して、時計塔に向かって走り出した。小径をしばらく走ったところで、ヴィクトリカの小さくて細い足はもつれて、その場にべたんと転んでしまった。
「う……」
小さな体がうつぶせに倒れた。ぱたぱた、と幾層《いくそう》ものフリルが舞《ま》った。
ヴィクトリカは痛《いた》みをこらえるかのようにしばらくじっとしていたが、むくっと起きあがり、顔や髪《かみ》や手のひらについた土をゆっくり落とし始めた。
「…………ひっく」
かすかにしゃくりあげた。
それから小声でつぶやいた。
「久城のやつめ……。お、怒り過《す》ぎだ…………!」
うつむいたその小さな頭から、ひっく、ひっく、と声が漏《も》れた。
「ひ、ひどい、やつだ……!」
ひっく、ひっく、と嗚咽《おえつ》が漏れる。
やがてヴィクトリカはゆっくりと立ち上がった。一弥がいないので、めくれてしまったドレスの裾《すそ》を自分で元に戻して、土も自分ではらった。
それから今度はゆっくりと歩きだした。
背後《はいご》から追いかけてくる足音がした、大股《おおまた》で急いて走ってくる、力強い足音。
それはヴィクトリカの後ろで止まった。
ブロワ警部だった。深刻《しんこく》な顔をしている。
「そういえば、だが。おまえはいったいこの件《けん》にどう関《かか》わっているのだ?」
「気になるかね?」
「……当たり前だ」
ブロワ警部は険しい顔でうなずいた。
「あの二人……いや、あのイギリス人|留学生《りゅうがくせい》がこの事件をおもしろがっているのは、よくわかるがね。わたしが理解《りかい》できないのは、おまえだ。なぜおまえがわざわざ図書館塔《としょかんとう》からこんな下界に降《お》りてきて、うろついているのだ? この事件の裏になにがある? いったいなにを企《たくら》んでいるんだ?」
「フン……」
ヴィクトリカは鼻を鳴らした。
「わたしは、錬金術師《れんきんじゅつし》リヴァイアサンに挑戦《ちょうせん》されたのだよ」
ヴィクトリカは金色の書物を差しだした。ブロワ警部《けいぶ》はその飛び出す回顧録《メモワール》をぱらぱらとめくっていたが、あきれたように鼻を鳴らして、
「死者の回顧録か。ふむ……。しかし、我《わ》が異母妹《いぼまい》よ。わかっているだろうが、この男のことは闇《やみ》に葬《ほうむ》らなくてはいけない。この男がどんな力を持ち、どんな計画を持っていたとしても、それらは実現《じつげん》されずに消えてしまった闇の歴史だ。ソヴュール王国のためにも、国王のためにも、王妃《おうひ》のためにも。そしてもちろん……我々《われわれ》、ブロワ侯爵家《こうしゃくけ》のためにも、だ」
「わかっている」
ヴィクトリカが短く答えてまた歩きだそうとすると、ブロワ警部はその前に立ちはだかり、さらに言い募《つの》った。
「おい、本当にわかっているというのか? それならこの件には……」
「グレヴィール」
ヴィクトリカは老女のようなしわがれた声でささやいた。
その瞳《ひとみ》はついさっきまでの、仲良しの少年に怒《おこ》られておろおろしていた小さなさびしがり屋の少女とは、まったく別人のようだった。暗く、深く、数十年の時をすでに生き終えた老人のような、不思議な底なしの瞳――。
「じつはだね、グレヴィール。本当のところ、わたしはとても退屈《たいくつ》なのだよ。わかるかね、グレヴィール? 愚《おろ》かなる我が異母兄よ。父はわたしを恐《おそ》れ、ここに放《ほう》り込《こ》んだ。わたしはここを出ることができない。それゆえにわたしは、この場所で死より重い退屈の深淵《しんえん》を漂《ただよ》っているのだ。……もう限界《げんかい》だよ、グレヴィール」
ヴィクトリカは兄に背《せ》を向けると、ふかふかとフリルを揺《ゆ》らして歩きだした。
「学園の外には出られまいが、この学園内で十分だ。混沌《カオス》の欠片《かけら》がわたしを待っている。グレヴィール、わたしはリヴァイアサンの謎《なぞ》を解《と》く。退屈しのぎに、な」
「……犠牲《ぎせい》は出すな」
「心配しなくても、なにも出ないことだろうよ。ただ――深淵にわずかな光が射《さ》すだけだ」
ヴィクトリカは遠ざかっていく。
その後ろ姿《すがた》を、ブロワ警部は立ち尽《つ》くし、恐ろしい形相で睨《にら》みつけていた。
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アフリカの歌
アフリカ人たちがいうには、
「歩いて――歩いて――歩け、
雌鳥《めんどり》が鳴くその時まで!
破《やぶ》れた屋根から星が降《ふ》るその時まで!
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!
夢《ゆめ》の中でも、
歩いて――歩いて――歩け、
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!」
アフリカ人たちは遠くから、
歩いて――歩いて――やってきた。
「歩いて――歩いて――歩け、
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!」
アフリカ人たちは海の向こうから、
船を漕《こ》いで――漕いで――辿《たど》り着いた。
「漕いで――漕いで――漕げ、
かわいい姉妹《しまい》に、父や母!
血肉は安く、パンは高いが漕ぎ続けろ!
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!
金と黒い肌《はだ》、
漕いで――漕いで――漕げ、
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!」
アフリカ人たちは灼熱《しゃくねつ》の大地を、
跳《と》んで――叫《さけ》んで――消えた。
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第三章 |美しき怪物《モンストル・シャルマン》
1
村の街道《かいどう》は人通りが多く、賑《にぎ》わっていた。細長いパンがにょっきり顔を出す買い物かごを揺《ゆ》らして通り過《す》ぎる女性《じょせい》や、野菜を積んだ荷車を引いて走る若《わか》い男。ゆっくりと街道を横切っていく毛足の長い馬に引かれた荷馬車には、甘酸《あまず》っぱい夏の匂《にお》いのする藁《わら》がたっぷり積まれていた。
木骨組《もっこつぐみ》の家々からは、絡《から》まる蔦《つた》やゼラニウムの赤い花が垂《た》れ落ちて、夏の陽射《ひざ》しに眩《まぶ》しく輝《かがや》いている。
そんな街道を一弥《かずや》とアブリルは二人で、早足で歩いていた。
「まったく、久城《くじょう》くんったら……」
アブリルがなにごとかつぶやいたので、一弥は顔を上げた。
「なにか言った?」
「なにも。……ううん、言った。まったく、久城くんったら≠チて言ったの。それで続きはね、意外と子供《こども》っぽいんだから≠チて言おうとしてたの。わかった?」
「ぼくが子供っぽいって……?」
一弥は足を止めた。
アブリルのいつも元気なかわいらしい顔には、少しだけ浮《う》かない表情《ひょうじょう》が浮かんでいた。一弥はちょっと不満そうに、
「急になんだい? それに、ぼくは断《だん》じて子供っぽくなんかないよ。そりゃあ、ちょっと頑固《がんこ》なところはあるかもしれないけどね。ぼくが気にしてるのは物の道理だよ。つまり……」
「あの子、泣きそうだったのに」
「つまりぼくは……えっ? ヴィクトリカが泣きそうだった?」
「うん。顔が真っ赤になってて、小さい唇《くちびる》がふるふる震《ふる》えてた」
「そ、そう……」
一弥はなにか主張《しゅちょう》しかけていた言葉を呑《の》み込《こ》んで、思案顔になった。二人でまたせわしない村の街道を歩きだしながら、
「……ぼく、言い過ぎだったと思う? いばりんぼなんて言って、ヴィクトリカをひどく傷《きず》つけたのかな」
「知らない」
アブリルはそっぽを向いた。それから小声でつぶやいた。
「久城くん、わたしが振《ふ》り回したり困《こま》らせたりしても、あんなに怒《おこ》ってくれないのに。いつも少し遠慮《えんりょ》がちで、すごく優《やさ》しくて。なのにヴィクトリカさんにはずいぶんはっきり物を言うんだもん。きっと、わたしとよりずっとずっと仲がいいんだなって」
ヴィクトリカのことで思い悩《なや》んでいた一弥は、きょとんとしてアブリルのふくれっ面《つら》を見た。それから戸惑《とまど》ったように、
「だってそれは、アブリル、君は素直《すなお》でのびのびした女の子で、意地悪したり、ぼくのことを困らせたりしないじゃないか」
「…………」
アブリルはまだ不満そうだ。
二人はゆっくり歩くうちに、村外れの墓地《ぼち》に出た。そこは少しだけ村よりも低い盆地《ぼんち》になっていて、枯《か》れた木々の枝《えだ》が絡みあい、湿《しめ》った風に煽《あお》られて時折、揺れていた。気温が少し低くて、空気も湿り、薄暗《うすぐら》く寒々しい場所だった。
柔《やわ》らかな黒い土のところどころに、細長い白い十字架《じゅうじか》が斜《なな》めに突《つ》き刺《さ》さっていた。一弥とアブリルは知らず手を取り合って、ゆっくりと、墓地の柵《さく》を越《こ》えて中に一歩|踏《ふ》み出した。
「ど、どれだろう……?」
「墓碑銘《ぼひめい》を見ていけばいいよ、アブリル」
「そっか、そうだね」
一弥とアブリルは村の共同墓地でよそ者の墓《はか》を探《さが》そうとしていた。ここ二十年のあいだに死んだ、村人ではない誰《だれ》かの墓。それはきっと時計塔《とけいとう》で死んだよそ者の墓で、そこからなにか事件《じけん》のヒントがみつかるにちがいない、というのが一弥の考えだったのだ。
この勝負に一弥はけして乗り気ではなかったが、いざ村にやってくると生来の生真面目《きまじめ》さでもって、合理的なはずのその提案《ていあん》をしたのだった。アブリルも喜んでその提案に乗ってきたのだが……。
二人は時計塔の犠牲者《ぎせいしゃ》の墓を探して、墓地を彷徨《さまよ》った。やけに黒ずんだ土はやわらかく、湿っていて、二人の靴《くつ》の先を暗い色に染《そ》め変えていった。やがてアブリルが古い、大きな墓の前で立ち止まって、墓碑銘を読み始めた。
「ええと……古くて読めないな。なんか名前がたくさん書いてある。いっぱい……二十人ぐらいの名前がまとめて記されてるけど、これってつまり、合同で埋葬《まいそう》されたってことかな」
「五百年も前にな」
一弥ではない声がしたので、アブリルは「きゃあ!」と悲鳴を上げてぴょんと飛び上がった。振り向くと、アブリルと一弥の後ろをいつのまにか、六十がらみの半|白髪《しらが》の男がついてきていた。背中《せなか》が曲がり、皮膚《ひふ》はなめし革《がわ》のように黒ずんで汚《よご》れていた。手にした大きな箒《ほうき》を地面に刺して、それにもたれかかるようにして二人をみつめている。
「あ、あの……」
「その大きな墓は、プロテスタントたちの墓だ。五首年も前にこの村でまとめて死んでな。わしらで埋葬したってことだ。……ところであんたたち、ここでなにしてる?」
一弥とアブリルは顔を見合わせた。それから、時計塔で亡《な》くなった人の墓を探しているのだというと、その墓守の男は乾《かわ》いた笑い声を立てた。
「そんなものはないよ。確《たし》かに時計塔で何度か死者が出たはずだが、みんなよそ者だ。それそれの故郷《こきょう》で埋葬されたはずだよ。ここに墓を造《つく》ってもらって埋葬されたのは、少なくともわしが知っている限《かぎ》りでは、村人ばかりだ」
一弥とアブリルががっかりしたように顔を見合わせると、墓守はますます高笑いして、
「おおかた、あんたがた、あの山の上にある学園の生徒たちだろう? まったく、夏になるとあんたたちが度胸《どきょう》だめしだのなんだのといって墓地をうろついたり、怪談《かいだん》をせがんだり。毎年だぞ? さて……あんたたちもわしに怖《こわ》い話を聞かせてほしくてきたのかな?」
「いえ、ちがうんです。さ、行くよアブリル。別の場所で調べたほうがよさそうだしね」
一弥はそう言うと、墓守にていねいに礼を言って歩きだした。
柵を越えて墓地から出ようとして、アブリルがついてきていないのに気づいた。いやな予感がして振り向くと、アブリルは案の定……プロテスタントたちの墓の上に座《すわ》りこんで、熱心に、墓守の老人の話を聞いていた。
風に乗って、墓守の怪談が一弥にも聞こえてきた。
「あれは五十年ほど前。わしがまだ子供《こども》だった頃《ころ》のことだ。わしの父親も墓守でな。ある夜、父親の仕事を手伝って、夜遅《よるおそ》くまでこの墓地にいたとき、わしは……」
「な、なに、なに?」
アブリルが身を乗り出している。一弥はため息をつき、墓地の中に取って返した。
「驚《おどろ》くな。見えない幽霊《ゆうれい》≠見たのだ!」
「きゃあ! ……えっ、見えないのを見たってどういうこと?」
「この辺りの土を見ろ。柔らかくて湿ってる。ほら、お嬢《じょう》ちゃん……」
墓守が足元を指差し、アブリルがこわそうに地面をみつめてごくんと唾《つば》を呑んだとき、一弥が戻《もど》ってきた。文句《もんく》を言いかけて、あまりにも真剣《しんけん》な表情《ひょうじょう》をしているアブリルに気づいて、口を閉《と》じた。ため息をついて、となりに腰掛《こしか》ける。
「いいかね? 子供だったわしは、確かに見たんだ。あの光景は忘《わす》れることはできない。夜、誰もいないこの墓地を、姿《すがた》の見えない幽霊が駆《か》け抜《ぬ》けていったのだ。あれは子供だった。わしと同じぐらいの歳《とし》の子供だ」
「どうしてわかるの?」
「足の大きさだ。誰もいないのに足跡《あしあと》だけが、あのずっと奥《おく》……」
墓守は墓地の奥を指差した。鬱蒼《うっそう》と暗い色の木々が茂《しげ》り、風にゆっくりと揺《ゆ》れていた。
「奥から近づいてきて、わしの前をあっというまに通り過《す》ぎていったのだ。かすかに土の匂《にお》いがした。誰もいなかった。だが、見えない子供が走りすぎていったのをわしは知っていた。子供が走り抜けた足跡だけが、ずっと、向こうまで……わぁ!」
アブリルが一弥に抱《だ》きついた。
「きゃ――――――!!」
「……うわぁぁぁぁ!? お、大声出すなよ。怪談より君の声のほうがこわいってば」
一弥はプロテスタントの墓《はか》から飛び降《お》りると、アブリルをうながした。
墓守の老人が「もう一つ、とっておきの怪談があるんだがなぁ」と誘惑《ゆうわく》すると、アブリルはものすごく聞きたそうに足踏《あしぶ》みし始めた。一弥が、
「もう、お昼になっちゃうよ。アブリル、君、最初の目的をすっかり忘れてるんじゃないのかい? いろいろ調べて勝負するって自分で言ってたじゃないか。言っておくけど、ヴィクトリカはおそろしく頭がいいんだ。のんびりしてたら勝てないよ」
そう言うと、アブリルはしぶしぶプロテスタントの墓から飛び降りた。一弥は早足で、アブリルは後ろ髪《がみ》を引かれるようにゆっくりと、墓地を出て歩きだそうとした。
墓地の土はとても柔《やわ》らかくて湿《しめ》っていて、二人の靴《くつ》の先が黒っぽく汚《よご》れていく。それは不吉《ふきつ》な暗い色だった。
空を切るように、真っ黒な鴉《からす》が一羽飛んできた。二人の頭上を横切ると急降下《きゅうこうか》し、白い細い十字架《じゅうじか》に止まって、カァァァァァァ……とやけにもの悲しい鳴き声を上げた。
十字架が鴉の動きに合わせてゆっくり揺れた。
雲が流れて目が陰《かげ》り、墓地全体がふっと薄暗《うすぐら》くなった。
2
さて、その頃。聖《せい》マルグリット学園に残された囚《とら》われの姫《ひめ》≠ヘ……。
学園の敷地《しきち》に広がるフランス式庭園。校舎《こうしゃ》や学生寮《がくせいりょう》にほど近い場所には芝生《しばふ》が敷《し》かれ、砂利《じゃり》を敷きつめた小径《こみち》や鉄製《てつせい》のベンチ、色とりどりの花々が咲《さ》き乱《みだ》れる花壇《かだん》などが見栄《みば》えよく配置されている。そして校舎から離《はな》れるごとに自然の山々や野原に近いデザインに変わっていく。
ちろちろと流れる小川。湿った空気の籠《こ》もる、ちょっとした森のような一角。陽当《ひあ》たりのいい小高い丘《おか》の上には、いかにも居心地《いごこち》の良さそうな小さな東屋《あずまや》が用意されていた。
小川の縁《へり》にちょこんと座っているヴィクトリカ・ド・ブロワの膝《ひざ》の上を、小さな森から飛び出してきたらしい栗鼠《りす》が二、三|匹《びき》、ちょろちょろと上っては、降《お》りるのを繰《く》り返していた。なにやら考え事に耽《ふけ》って身動き一つしないヴィクトリカを、人形か、もしくは銅像《どうぞう》かなにかと間違《まちが》えているのだろうか……。ヴィクトリカの膝の上で二匹の栗鼠が立ち上がり、互いにちょっかいをかけ始めた。
それでもヴィクトリカは動かない。
豪奢《ごうしゃ》なドレスの裾《すそ》がまぁるく広がって、まるでフリルの傘《かさ》を開いたようだ。
「うーむ……」
ヴィクトリカが呻《うめ》いた。
「むむむむむ……」
栗鼠たちはくるっと振《ふ》り向いてなにやら声を上げたヴィクトリカを見上げたが、またなにごともなかったようにちょろちょろと動き始めた。
ヴィクトリカは動かない……。
どれほどの時間が経《た》ったか……。細い小径を、セシル先生がゆっくりと歩いてきた。小高い丘を上り、また降りて、小川のせせらぎに耳を澄《す》ませながら、小さなヴィクトリカが座《すわ》りこむところまでやってくる。
「ヴィクトリカ、さん……?」
「うむむ……」
「ん?」
背後《はいご》からセシル先生が覗《のぞ》き込《こ》む。
ヴィクトリカは、小さな膝の上にあの金色の書物を開いていた。飛び出す回顧録《メモワール》から、仮面《かめん》にローブ姿《すがた》の小さな男がじっとヴィクトリカを見上げている。ヴィクトリカはその仮面の男と睨《にら》みあうように、「うむむ……」などと唸《うな》りながら首をかしげていた。
そのヴィクトリカの頭や、肩《かた》や、背中や、小さな足の上に、かなりたくさんの栗鼠がよじ上っては遊んでいた。ちょろちょろと駆《か》け回ったり立ち止まったり。ヴィクトリカはそれに気づいているのか、いないのか。回顧録にだけ神経《しんけい》を集中してなにやらつぶやいている。
「フン。まったく、おかしな男だな」
「……誰が?」
背後からセシル先生が問い返した。ヴィクトリカが面倒《めんどう》くさそうに振り向く。あちこちに止まっていた栗鼠が、セシル先生の姿に驚《おどろ》いたように飛び上がり、一斉《いっせい》にヴィクトリカから駆け下りると、小さな森に向かってちょろちょろと逃《に》げていった。
「あらら、先生は栗鼠さんに嫌《きら》われちゃったわね」
「なんだ、セシルか」
セシル先生は片手《かたて》に持っていたものをヴィクトリカに渡《わた》した。それはフリルがたくさんついたヴィクトリカ用の日傘だった。ヴィクトリカが興味《きょうみ》なさそうに鼻を鳴らすばかりで受け取らないので、セシル先生はパラソルを開くと、無理やりヴィクトリカの頭の上にかざした。
それから、上からヴィクトリカを覗き込み、膝の上に乗せられた金色の書物をみつけて声を上げた。
「あら、へんな本! これ、なぁに?」
「錬金術師《れんきんじゅつし》の回顧録《メモワール》だ」
「あら、まぁ」
気の抜けたような返事に、ヴィクトリカはあきれたかのごとくフンと鼻を鳴らした。
じつのところセシル先生は、この灰色狼《はいいろおおかみ》、ヴィクトリカの世話を請《う》け負ってからずっと、ヴィクトリカがものすごく挙動|不審《ふしん》でも頭脳明晰《ずのうめいせき》すぎても、とにかく妙《みょう》な出来事に「興味を持たない」「疑問《ぎもん》を感じない」ことによって、ヴィクトリカと一緒《いっしょ》にいる時間を無事に切り抜けているのだった。
今日もまた、ヴィクトリカの不機嫌そうな様子をまったく気にせず、セシル先生は続けた。
「それにしても、ずいぶんと謎《なぞ》めいた人だったのね。リヴァイアサンを巡《めぐ》る怪談《かいだん》はわたしもここの生徒だったころによく聞いたものよ。おかしな仮面とローブ、か……。いったい仮面の下にはなにが隠《かく》されていたのかしら? それも、本人が消えてしまったいまとなっては永遠《えいえん》の謎ね」
「……そんなものは簡単《かんたん》だよ、セシル」
老女のようなしわがれ声でヴィクトリカがうそぶいた。不敵《ふてき》そうな微笑《びしょう》を浮《う》かべるその悪魔《あくま》的な横顔を、セシル先生はびっくりしたように目をぱちくりしてみつめたが、やがてくすくす笑うと、ヴィクトリカの小さな形のいい鼻をひょいとつまんだ。
「ふがっ? だに[#「に」は「に+゛」、濁点付き平仮名に、156-17]をずる[#「る」は「る+゛」、濁点付き平仮名る、156-17]の[#「の」は「の+゛」、濁点付き平仮名の、156-17]だっ!?」
「生意気なお嬢《じょう》さん〜、いばりんぼのお嬢さん〜」
「へんな歌を歌うな! それからわたしに許可《きょか》なく触《さわ》るな。まったく、今日はどうしてみんな、わたしに気軽に触るのだ!」
ヴィクトリカは怒《おこ》りだして、すっくと立ち上がると、フリルを揺《ゆ》らして歩きだした。セシル先生は不思議そうに、
「誰が触ったの? ……あっ、菫《すみれ》を踏《ふ》まないで!」
ヴィクトリカはあわてて飛び上がった。それから、
「朝、久城に頬《ほお》をつっつかれた。それから教室であの|屁こきいもり《ニュート》に髪《かみ》をぐいぐい引《ひ》っ張《ぱ》られた。そしていま、セシルが鼻をつまんだのだ!」
「あら、まぁ」
「……セシルはいつもそれだ。あら、まぁ≠ニふーん≠ホかり。セシル、さては君、いつもわたしの話を聞いてないのだろう?」
すたすたと歩きだすヴィクトリカを追って、セシル先生は小走りについてきた。ヴィクトリカの背後で、どうしてばれたのかしら? というように首をひねっている。
ヴィクトリカがそのままどこかに歩み去ろうとするので、セシル先生はあわてて背後《はいご》から声をかけた。
「ねえ、ヴィクトリカさん。で、わたしたちはどこから調べるわけ?」
「……調べる?」
ヴィクトリカが不思議そうに聞いた。
「だって、勝負するんでしょう?」
「勝負って、さっきの屁こきいもりとの約束か? 本気でやるつもりだったのかね?」
「もちろんですよ。先生はそのつもりで……」
ヴィクトリカは気乗りしなさそうに「うむ……」とうめいていたが、セシル先生は気にもせずに、張り切った様子で遠くの時計塔《とけいとう》を指差した。
「先生、考えたんだけどね。わたしたちは学園の中にいるわけだから……」
「わたしは外に出られないからな」
「う、うん、そう……。だからね、ヴィクトリカさん。時計塔の中を徹底《てってい》的に調べてみればいいんじゃないかしら? さて、それじゃいまから、二人で……」
「時計塔を?」
ヴィクトリカは芝生《しばふ》を出て小径《こみち》を歩きだしながら、不機嫌《ふきげん》そうにフンと鼻を鳴らした。
小径の左右には花壇《かだん》の花が咲《さ》き乱《みだ》れて、眩《まぶ》しかった。色とりどりの花が規則正《きそくただ》しく並《なら》んで夏の乾《かわ》いた風に揺れていた。ヴィクトリカはふわふわとドレスの裾《すそ》を揺らしながら小径を歩いていく。
「確《たし》かにわたしはリヴァイアサンの謎を解《と》こうとしている。そしてそれはこの学園を一歩も出ずとも可能《かのう》だと知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠ェ告げている。そういうわけだから、時計塔を調べることにはもちろん異存《いぞん》はない。だが、しかし……」
「なぁに?」
「あの時計塔を……セシルみたいなこわがりと、一緒に調べられるものか」
「なっ、せ、先生は、ここ、こわがりじゃないですよ!」
セシル先生がとつぜん動揺《どうよう》し始めた。つっかえながら、ヴィクトリカに抗議《こうぎ》を繰《く》り返す。
「こわがりじゃ、ないってば。せ、先生はただ、繊細《せんさい》で感受性《かんじゅせい》が豊《ゆた》かで、それで……こわいことに敏感《びんかん》で……」
「それがこわがりの定義《ていぎ》だよ、セシル。いまのは愚《おろ》かな墓穴《ぼけつ》だ」
ヴィクトリカはつぶやくと、ドレスのポケットから陶製《とうせい》のパイプを取りだした。さくらんぼのようにつやつやした唇《くちびる》にくわえて火をつけようとしたとき、横からひょいっと、セシル先生にパイプを奪《うば》われた。
ヴィクトリカはびっくりして叫《さけ》んだ。
「な、なにをする!?」
「園内は禁煙《きんえん》ですよ、ヴィクトリカさん。これは没収《ぼっしゅう》!」
「禁断症状《きんだんしょうじょう》が出る!」
「出ません。あなたはただ大人ぶってこれを吹《ふ》かしてるだけよ。先生がこうやって、くわえて、火をつけて……吸《す》っちゃおうか、な…………げぼっ!? げほげほっ!」
「……返せ」
ヴィクトリカは、調子に乗ってパイプを吹かしたものの涙《なみだ》を流して咳《せ》き込み始めたセシル先生からパイプを奪い返した。ぷかり、ぷかり、と吸いながら、小径を時計塔に近づいていく。
その後ろから、セシル先生がまだ咳き込み、涙を拭《ふ》きながらついてきた。
時計塔にはもうブロワ警部《けいぶ》の姿《すがた》も、部下の刑事《けいじ》たちの姿もなかった。
あの大柄《おおがら》な大工の老人がまた、大工道具を背負《せお》ってゆっくりと小径を通り過《す》ぎていった。
一応《いちおう》、時計塔のドアの前は荒縄《あらなわ》を張《は》られて出入り禁止になってはいたが、ヴィクトリカもセシル先生もちょっとかがんだだけで縄をくぐって中に入ることができた。
二人はゆっくりと歩を進めた。
薄暗《うすぐら》く、空気が湿気《しっけ》を帯びている廊下《ろうか》を歩きだす。ゆっくり、ゆっくり……。二人とも、なんだかおかしな気配を感じてかすかに緊張《きんちょう》した。妙《みょう》な目眩《めまい》が二人を襲《おそ》った。空間が捻《ねじ》れ歪《ゆが》んでいるような、見えない手で頭をぎゅうっと圧迫《あっぱく》されているような、どこか不快《ふかい》な感覚。
階段《かいだん》をみつけて、ゆっくりと上がる。ヴィクトリカが一歩、一歩|慎重《しんちょう》に上がっていく後ろで、セシル先生が早足で階段を上がろうとして……途中《とちゅう》でコケッと転んだ。「きゃああ!」と悲鳴を上げて一度、下まで落っこちてしまった。ヴィクトリカが気にする様子もなく上がっていくので、セシル先生はあわてて後を追った。
ぜんまいの部屋の手前に、小さなはめ殺しの窓《まど》があった。ヴィクトリカが窓の前で立ち止まっている。セシル先生はつられて窓を見て……。
窓の外を誰《だれ》かが横切ったような影《かげ》に気づいて、悲鳴を上げた。
「ぎゃー!!」
「……うるさいぞ、セシル」
「だだ、だって、ヴィクトリカさん。こ、ここは二階よ? どうして二階の窓の外を人が横切るの? ものすごく背が高いの? 三メートルぐらい? って、そんな人、この学園にいないわよ? てことは足が宙《ちゅう》に浮《う》いてるの?」
ヴィクトリカはセシル先生を放《ほう》っておいて、ぜんまいの部屋のドアに手をのばした。セシル先生は震《ふる》える手で、いつもかけている丸眼鏡《まるめがね》を外しながら、
「足が宙に浮いてる人のことを、俗《ぞく》に、幽霊《ゆうれい》っていうんじゃないかしら?」
「ふーん」
「相手してよ! 先生、こわいのよ!」
セシル先生は、ヴィクトリカがドアを開けてぜんまいの部屋に入っていってしまうので、廊下できょろきょろと周りを見回していたが……、
「ヴィクトリカさん、一人にしないで!」
「……こわがりの弱虫め」
「よ、弱虫じゃありません! 先生ですから! 生徒よりしっかりしているのは当然のことです。そうじゃないと生徒を指導《しどう》できませんから!」
セシル先生は、白とピンクのフリルのかたまりが揺《ゆ》れるのを目印に、ヴィクトリカの後を追いかけた。
ギリギリギリギリギリギリ……。
ぜんまいがゆっくりと動く不気味な音が、その部屋全体に低く響《ひび》いていた。
少しずつ大きさのちがう、しかしどれもあまりにも巨大《きょだい》に感じられる丸いぜんまいが、ギザギザの歯車を互《たが》いに噛《か》み合わせながらゆっくりと回り続けていた。頭上は高い高い天井《てんじょう》で、闇《やみ》に黒く沈《しず》んでいた。その闇の向こうから悪夢《あくむ》が押《お》し寄《よ》せるように、ゆっくりと、丸い振《ふ》り子が右に、左に、風を切って揺れていた。頬《ほお》に当たる冷たく不吉《ふきつ》な風は、振り子が宙を舞《ま》う規則正《きそくただ》しい動きから生まれるものだった。
ヴィクトリカとセシル先生は、部屋の中を見回した。かつてソヴュール王国を一度は手中に収《おさ》めた、謎《なぞ》めいた仮面《かめん》の錬金術師《れんきんじゅつし》の工房《こうぼう》――。黒檀《こくたん》の大テーブルにはまだ実験道具が散らばり、灰色《はいいろ》の埃《ほこり》を厚《あつ》く被《かぶ》っていた。テーブルの向こうの壁《かべ》に、鮮《あざ》やかなステンドグラスがはめ込《こ》まれていた。花畑を描《えが》いた珍《めずら》しい絵柄で、紫色《むらさきいろ》と黄色の花がたくさん咲《さ》き乱《みだ》れていた。一つだけ濃い赤色をした花がぽつんと咲いていた。
セシル先生は、外した眼鏡を傍《かたわ》らの古い椅子《いす》の上に置いていた。辺りをきょろきょろ見回して、もっと詳《くわ》しく見ようと、眼鏡に手をのばした。そのとき……。
する、するするする……。
――カチャン!
眼鏡が、誰も触《ふ》れていないのに勝手に椅子から落ちて、床《ゆか》に転がった。セシル先生は心臓《しんぞう》を冷たい手で掴《つか》まれたように震え上がった。ゆっくりとしゃがんで、眼鏡を拾って、それから震える声でヴィクトリカを呼《よ》ぼうとしたとき……。
誰かが……姿の見えない誰かが横切っていったような気がした。見えない幽霊≠ェセシル先生の眼鏡を落とし、その目前を通り過ぎて、そして……。
床のきしる音が響いた。あたかも誰かが床を踏《ふ》みしめて歩いているような……。
そして、
さっき閉《し》めたはずのドアが、音もなく開いた。
姿の見えないそれが、工房を出ていったのだ……。
「……………………いーやーだ――――――!!」
セシル先生が叫《さけ》んだ。ヴィクトリカがびっくりして飛び上がった。老女のようなしわがれた声で「いったいどうしたのだね、セシル?」と聞いているのが聞こえたが、セシル先生は教師の役目もなにも忘《わす》れて、その場でじたばたと足踏みをすると、ものすごい勢《いきお》いで工房を飛び出して廊下《ろうか》を走って階段《かいだん》を転がり落ちて……。
階段の途中《とちゅう》で、誰か……帽子《ぼうし》から赤い髪《かみ》を覗《のぞ》かせたハンサムな男とすれちがったような気がしたが……よくわからないまま……。
息が持つ限《かぎ》りの悲鳴を細く長く続けながら、時計塔《とけいとう》を飛び出して荒縄《あらなわ》の下をくぐって、遠く、芝生《しばふ》の上まで駆《か》け抜《ぬ》けていった……。
3
その頃《ころ》、一弥とアブリルは……。
背筋《せすじ》をのばしてしっかりした足取りで墓地《ぼち》を後にする一弥の後ろを、アブリルが渋々《しぶしぶ》、ゆっくりとついてきていた。アブリルは何度も「あのさ、もうちょっと……」などと提案《ていあん》しかけるのだが、一弥は断固《だんこ》とした様子で首を横に振る。
アブリルがため息混じりに、あきらめて鉄柵《てっさく》で囲まれた薄暗《うすぐら》い墓地を出たとき……。
ちょうど、村の街道《かいどう》から若《わか》い女の人が墓地に向かって歩いてくるところだった。花束を無造作《むぞうさ》に手にしているところを見ると、お墓参《はかまい》りなのだろう。
その若い女の人は、ちょっと色っぽいかすれ気味の声で歌を歌っていた。
「アフリカ人たちがいうには、
『歩いて――歩いて――歩け、
雌鳥《めんどり》が鳴くその時まで!
破《やぶ》れた屋根から星が降《ふ》るその時まで!
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!
夢《ゆめ》の中でも、
歩いて――歩いて――歩け、
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!』……」
女の人は節を付けて、ちょっと楽しそうに「リ、トゥラ、ルーラル、ルー〜」と何度かハミングを繰《く》り返した。乗ってきたのか、軽くステップまで踏み始めた。一弥のとなりを歩いていたアブリルまで、つられたように体を左右に揺らしだした。
その女の人は――赤みがかった縮《ちぢ》れたロングヘアに、上背《うわぜい》のあるボリュームたっぷりの体つきをしていた。髪の色に合わせた赤いワンピースがよく似合《にあ》っていた。そして、彫《ほ》りの深い派手《はで》な顔立ちは……。
「あれっ?」
一弥はどこかで見覚えがある顔だという気がして、その女性《じょせい》をじっとみつめた。すると女性も視線《しせん》を感じて、ステップしていた足を止め、
「あらっ、久城くん!? なにしてるの?」
女の人は、一弥が毎朝、寮《りょう》の食堂で顔を合わせるあの赤毛の色っぽい寮母さんだった。片手《かたて》に花束、もう片方の手に火のついた煙草《たばこ》を持っていて、その煙草をくわえながらもごもごと、
「あらら、女の子と一緒《いっしょ》ってことは、デート? ……でも、墓地で?」
「ち、ちがいます。ぼくたちは、その……時計塔の事件《じけん》のことを調べていて、ここに……。寮母さんは?」
「両親のお墓《はか》があるの。とくに決めてないけど、気が向いたらくるのよ。あ、墓守さん、こんにちは。いつもありがと」
寮母さんは墓地のかなり手前のところにある新しい墓に、無造作に花束を置いた。なにごとかぶつぶつとつぶやき始めたのは、亡《な》き両親に話しかけているのだろうか……。一弥たちは歩きだそうとして、ふと足を止めた。
「ねえ、アブリル。いま寮母さんが歌ってた歌って、聞いたことある?」
アブリルは首をかしげた。
「うん、一度か二度……。村に買い物にきたときに、レジのおねえさんが歌ってた。久城くんは?」
「ぼくも道を歩いてて、荷馬車の上にいる男の人が歌ってるのを聞いたよ。はやり歌かな? でも、村以外では聞かないよね。おかしな歌だなぁ!」
「そうね……」
一弥とアブリルは顔を見合わせた。
「ねえ、アブリル、確《たし》かこの歌の二番か三番か……どこかに一か所、金≠チて言葉が出てこなかったっけ?」
「あれ、そうだったっけ……?」
アブリルは首をかしげた。
それから歌詞《かし》を思い出すようにゆっくりと、小声で歌ってみた。
「かわいい姉妹《しまい》に、父や母!
血肉は安く、パンは高いが漕《こ》ぎ続けろ!
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!
金と黒い肌《はだ》、
漕いで――漕いで――漕げ、
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!……」
歌い終わって顔を見合わせていると、墓《はか》の前でぶつぶつしゃべっていた寮母さんが、くわえ煙草で話しかけてきた。
「この歌なら、あたしが子供《こども》の頃《ころ》からずっとあるわよ。秋になると、葡萄摘《ぶどうつ》みのお手伝いしながらみんなで歌うの。あんたたち、知らない?」
「いいえ……」
「ママから聞いた話では、昔、へんなアフリカ人がいっぱいいたけど、みんな流行病《はやりやまい》かなにかで一気にぽっくり死んだんだって。それが歌になったって。ねえ、墓守さん、知ってる?」
しゃがんで雑草《ざっそう》を引っこ抜《ぬ》いていた墓守の老人が顔を上げた。「はて……?」と首をひねっていたが、やがて思い出したらしく、
「あぁ、そうだ。もうずいぶんと昔のことで忘《わす》れてたよ。確かあれは……一八七三年の暮《く》れのことだ」
一弥が不思議そうに聞いた。
「忘れてたのに、すごく正確《せいかく》に思い出せるんですね……?」
「ああ、それはだな、年が明ける頃に忘れられないような大きな事件があったからだよ。それで思い出したんだ。年の初めに、老いたソヴュール国王が崩御《ほうぎょ》されて、若《わか》い皇太子《こうたいし》が跡《あと》を継《つ》いで国王になられた。国中が崩御を悲しみ、その後、新国王のための祭典に明け暮れた。なにしろ前国王の崩御がとつぜんのことだったので、大騒《おおさわ》ぎでな。それで年を正確に覚えてたんだ。前国王が死去されたのが一八七四年の初め。そしてその前年の暮れに、七、八人のアフリカ人が急に死んで、そこに埋《う》められたんだ」
墓守は墓地の一角を指差した。一弥たちが目をこらしてみると、枯《か》れ枝《えだ》が絡《から》みあう暗い日陰《ひかげ》に、大きく盛《も》り上がった土|饅頭《まんじゅう》があった。十字架《じゅうじか》もなにもない、ただの小高い丘《おか》に見えるそれが、アフリカ人たちの墓……。
「どうして村にいたのか、どうして死んだのかもわからないがね。わしが忘れてるだけかな……。とにかく若いアフリカ人たちは残らず死んでいて、仕方ないんで、急いで穴《あな》を掘《ほ》って埋めたんだ。墓なんてものは造《つく》らなかったがね」
「なるほど……」
一弥たちはうなずいた。
「そのアフリカ人を歌った歌なんだ……? この歌は、でも、どういう意味なんでしょう?」
「さてねえ。わしにはわからんよ。あんたたち、もう行くのかね?」
「あ、はい……。ありがとうございました」
一弥はていねいに頭を下げると、アブリルとともに墓地を出ようとした。そのとき背後《はいご》で墓守の老人が、
「このプロテスタントたちの墓にも、有名な怪談《かいだん》があるんだが、まあ、あんたたちは興味《きょうみ》ないだろうね」
「はい。もう行か、な、きゃ……。こら、アブリル!? 戻《もど》っちゃだめだよ。ヴィクトリカとの勝負はどうするの? もう、時間がなくなっちゃうよ!」
一弥の制止《せいし》も聞かずに、アブリルは魔《ま》に魅入《みい》られたようにふらふらと、墓守のほうに戻っていってしまった……。
4
「……セ、セシル?」
一方、聖《せい》マルグリット学園の時計塔《とけいとう》に残されたヴィクトリカは……。
とつぜんおそろしい悲鳴を上げて、階段《かいだん》を転がり落ちながら走り逃《に》げていった担任教師《たんにんきょうし》の姿《すがた》に、ぽかんとして立ち尽《つ》くしていた。
「なにごとだね、君?」
答える声はない。
ついで階段の辺りから、驚《おどろ》いたような男の声も聞こえてきた。「どうしましたか……?」と、駆《か》け抜けたセシル先生に問うた声だったが、セシル先生は悲鳴を上げながら階段を転がり落ち、そのまま悲鳴が遠のいていった。
ヴィクトリカはぜんまいの部屋に一人残されて、目をぱちくりしながら、床《ゆか》に落ちているセシル先生の眼鏡《めがね》を拾い上げた。
「……眼鏡を忘れているようだが」
困《こま》ったようにパイプを吹《ふ》かして考え込《こ》んでいると、いつのまにか開いていたドアから、遠慮《えんりょ》がちに誰《だれ》かが顔を出した。
ヴィクトリカは振《ふ》り向いた。
それは――背《せ》の高い美しい男だった。帽子《ぼうし》を目深《めぶか》に被《かぶ》って、燃《も》えるように赤い髪《かみ》を垂《た》らしている。年齢《ねんれい》も国籍《こくせき》も不詳《ふしょう》な様子で、どこかエキゾチックで、野性《やせい》的な雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出していた。
その猫《ねこ》のようにつり上がった緑の瞳《ひとみ》にひたと見据《みす》えられた瞬間《しゅんかん》、ヴィクトリカは背筋《せすじ》がぞわわっ……と浮《う》き立ったかのように体をふるわせた。ヴィクトリカはじりじりと後ずさりながら、そのしわがれ声で聞いた。
「……君は、いったい誰だ?」
「捜《さが》し物をしている旅人だ」
男は低い声で言うと、にやっ、と笑った。薄《うす》い唇《くちびる》が耳元まで裂《さ》けたように感じるほど、動物的で獰猛《どうもう》な笑いだった。ヴィクトリカはなおも後ずさりながら、
「捜し物?」
「この学園に」
「こんなところに失《う》せ物などあるものか」
「ある」
男は薄く笑った。
「|美しき怪物《モンストル・シャルマン》≠ェ」
その低い声はぜんまいの部屋に響《ひび》き渡《わた》った。
[#挿絵(img/04_173.jpg)入る]
ヴィクトリカは額《ひたい》に冷たい汗《あせ》をかき、小さな手の指先も死人のように冷え切っていた。だがしかし表情《ひょうじょう》は動かさず、ただ問い返す。
「その赤毛……。そうか、君はさっきグレヴィールとともにいた男だな」
「ああ」
男は軽くうなずいた。
「今朝、ここで死んだ東洋人は俺《おれ》の連れだ。ウォン・カーイ。聞いたことがないか?」
「いや……」
男は急に、恐《おそ》ろしい空気をかき消すように友好的に、ヴィクトリカに向かってなにか差しだしてきた。丸めたポスターだった。ヴィクトリカはそっと手をのばして、それを受け取り、広げてみた。
それは長い口髭《くちひげ》にシルクハットといった洋装《ようそう》をした、東洋人のポスターだった。宙《ちゅう》に浮く骸骨《がいこつ》や自分の首を膝《ひざ》に置く紳士《しんし》など、不気味な絵がそれを彩《いろど》っていた。煽《あお》り文句《もんく》が、
〈世紀のイリュージョン!〉
〈ウォン・カーイの大奇術《だいきじゅつ》!〉
などと躍《おど》っていた。
「ウォンは俺の友人でね。ソヴレムで売り出し中の奇術師だったんだ。最近、封切《ふうき》られた『黒き塔の幻想《げんそう》』という怪奇|映画《えいが》をウォンはいたく気に入ってね。奇術の舞台《ぶたい》に使えないかっていうんで、映画の舞台だったこの学園の時計塔に忍《しの》び込んだ。そしたら……なにがあったのか、死んじまった」
男はにやにや笑いながら、
「惜《お》しいやつを亡《な》くしたものだ。……おっと、俺を疑《うたが》ったって無駄《むだ》だぜ? 警部《けいぶ》にも主張《しゅちょう》したがね、俺はやつが殺された時間には村の宿にいたんだ。宿の主人が証人《しょうにん》だ。宿と時計塔に同時|存在《そんざい》できるのならともかく……、俺には不可能《ふかのう》な殺人ってことだ」
「ふむ……」
ヴィクトリカは答えなかった。そっとポスターを返そうとした。すると赤毛の男は首を振った。
「君にやろう」
「……君もまた奇術師《きじゅつし》なのかね?」
ヴィクトリカが急に言った。男はたったいままでの余裕《よゆう》のある態度《たいど》がとつぜん崩《くず》れ、驚《おどろ》いたようにヴィクトリカを見た。
「……どうしてわかる? まさか、俺を知ってるのか?」
「いや、知らないがね」
「じゃあ、なぜ?」
ヴィクトリカはその姿《すがた》には似合《にあ》わない、まるで数十年の時をすでに生きた酷薄《こくはく》な老人のような微笑《びしょう》を浮《う》かべた。そして言った。
「わたしが怪物《モンストル》だからさ」
「…………!」
男はごくんと唾《つば》を呑《の》んだ。
「赤毛の奇術師よ。同時存在が可能なら、君の犯行《はんこう》とも言えるわけだ。奇術師の出し物の一つに同時存在≠ェあるのだからね。しかしそのことにはいまは触《ふ》れまい。わたしにわかるのは、君の捜《さが》し物がこのわたしだということだよ。……なにを驚いているのだね? まさか、このわたしが気づかないとでも思っていたのかね? ふむ、確《たし》かにわたしはこの学園に幽閉《ゆうへい》され、外に出ることはできない。だが外出などせずとも、ただここに籠《こ》もって、宙を舞う暗い混沌《カオス》を捕《つか》まえては退屈《たいくつ》しのぎに再構成《さいこうせい》してみるだけで、君が何者なのかも推測《すいそく》することができる」
「……まさか」
男は恐《おそ》れたようにつぶやいた。ヴィクトリカは鼻で笑い、その老女のようなしわがれ声で、「君の名も、君がここ十年をともにする謎《なぞ》めいた相棒《あいぼう》の名も、そして君の目的も……」
「か、怪物《かいぶつ》め!」
男――赤毛の奇術師は吐《は》き捨《す》てるように言った。
するとヴィクトリカが、ゆっくりと動いた。小さな足を動かして、男に近づいていく。
まるで人形のような、冷酷めいた無表情。その動きもまたカタン、カタンと小さく、どこか人ではないもののように見える。
一歩、また一歩。
ギリギリギリギリギリギリ……。
巨大《きょだい》なぜんまいが音を立てて、回る。
天井《てんじょう》の遥《はる》か上を、巨大な振《ふ》り子がゆっくりと揺《ゆ》れている。風が生まれて、ヴィクトリカの足元までのびる金色の髪《かみ》を吹《ふ》き上げていく。ヴィクトリカは男に近づいていく。男は顔を歪《ゆが》め、少し後退するが、体が恐怖《きょうふ》に麻痺《まひ》したように動かない。
ドレスの裾《すそ》のレースが、男の革靴《かわぐつ》のつま先に、もうすぐ、かかる……。
と、そのとき……。
工房《こうぼう》のドアがばたんと音を立てて開いた。
ヴィクトリカも赤毛の男も、びくんとして振り向いた。
ドアの外に立っていたのは、ずいぶん大柄《おおがら》な老人だった。身長は二メートル近くある。顔を見ると年老いているのがわかるのだが、その体つきは若者《わかもの》のそれのようにがっしりとして、筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》だった。――あの大工だ。
その老いた大工はびっくりしたように二人を見ていたが、
「いったい、なにしてなさる?」
「……あんたは?」
赤毛の男が聞いた。老人は険《けわ》しい顔をして、
「わしは大工だ。この学園はなにしろ、どの建物も古いからな。いつもどこかしら、年月と風雨に痛《いた》めつけられて弱っとる。だからわしは一年中、学園のどこかで修復《しゅうふく》工事を続けてるってわけだ。いまはこの時計塔《とけいとう》を修復するか、取り壊《こわ》すかを学園のお偉《えら》いさんと検討中《けんとうちゅう》だよ。あんたたち、勝手に入っちゃだめだぞ。ここは古いし、傷んどる。とつぜん崩れたら大事だ」
「……そうか」
赤毛の男はつぶやくと、眉《まゆ》をひそめた。それから大股《おおまた》でぜんまいの部屋を出ていった。
ヴィクトリカも出ていこうとしたが、ふと足を止めた。大柄な老人は不審《ふしん》そうにヴィクトリカを見たが、やがて急に、別人のようににこにこし始めた。
「ありゃ。うちの孫にそっくりだな。今年で七|歳《さい》になる女の子なんだが……」
「……わたしは十四歳だ」
ヴィクトリカがムッとして言うと、老人は「へぇー、それで十四歳? あんた、ずいぶん小さいなぁ」とずけずけ答えた。ヴィクトリカは顔を真っ赤にした。そのままフンとそっぽを向いて部屋を出ようとしたが、思い直し、老人の元にちょこちょこと戻《もど》ってきた。
「一つ、調べてほしいことがあるのだが」
「あははは、大人みたいな口聞いて。ちっちゃなお嬢《じょう》ちゃんが……。そ、そ、そんなに睨《にら》むな。なんだい、ことによっちゃ聞いてやるぞ」
「時計塔の測量を頼《たの》みたいのだ」
「……測量?」
大工の老人は不思議そうに聞き返した。
「このぜんまいの部屋をかい?」
「ちがう。時計塔そのものの測量だ。頼めるかね?」
「ああ。どちらにしろ修復工事をするなら設計《せっけい》図があったほうが便利だからね。それは構《かま》わんが……」
「一つ、条件《じょうけん》がある」
ヴィクトリカは低い声で言った。
「時計塔そのものはいくらでも測《はか》っていいのだが、このぜんまいの部屋のものに触ってはいけない[#「このぜんまいの部屋のものに触ってはいけない」に傍点]。調べてほしいのは、この部屋の外だ」
「ほう。しかし、いったいどうしてだね?」
「錬金術師《れんきんじゅつし》を怒《おこ》らせるからだ」
「へぇ? でもそんなやつ、もういないだろう?」
「確《たし》かにそうだが、しかし、ある意味では、まだいるのだ」
「へぇぇ……。ま、なんだかわかんねぇが、触《さわ》らなきゃいいんだろう。わかったよ、お嬢ちゃん」
老人は、このしゃがれ声で大人のように話す小さな少女を不思議そうに見下ろしながら、うなずいた。
ヴィクトリカはセシル先生が忘《わす》れていった眼鏡《めがね》を片手《かたて》に時計塔を出た。芝生《しばふ》のほうには戻らず、ぐるりと時計塔の外を一周した。
時計塔の裏《うら》、枯《か》れたブナの枝《えだ》が入り組んだ骨《ほね》のように生《お》い茂《しげ》る辺りを、地面をじっと見ながら歩く。
窓《まど》の下に大きな足跡《あしあと》があった。普通《ふつう》の人間よりずっと大きな靴《くつ》の跡。きっとずいぶんと大柄な……たとえばさっきの大工の老人のような男の足跡らしきもの。
ヴィクトリカはその足跡をしばらく睨みつけていた。
「うむ……なるほど」
なにごとかに気づいたように、うなずく。
それから顔を上げた。ブナの枯れ枝が幾重《いくえ》にも絡《から》みあって、不吉《ふきつ》な黒ずんだ模様《もよう》を造《つく》っていた。枯れ枝の向こうに、眩《まぶ》しい夏の青空が輝《かがや》いている。
遠く花壇《かだん》の奥《おく》に、庭師の老人が立っているのが見えた。二十年以上前から働いているという、こちらも筋骨隆々とした大男だ。ヴィクトリカは庭師から目をそらした。
白い小さな鳥が一羽、ゆっくりと通り過《す》ぎていく。
ヴィクトリカはかすかにため息をもらした。
5
一方、村外れの盆地《ぼんち》にある村の共同|墓地《ぼち》では、低く、暗く語り続ける老人の声が響《ひび》いていた。
黒い鴉《からす》が数羽、飛びすぎていったり、土に斜《なな》めに挿《さ》された細い十字架《じゅうじか》の上に止まって、不吉な鳴き声を上げたりしていた。サッ……と日が陰《かげ》って、夏とは思えないひんやりした風が通りすぎた。
「哀《あわ》れ生き埋《う》めにされたプロテスタント信者たちは、この墓地の、この、土の奥深くで一人また一人と息絶《いきた》えていったのじゃ。泥《どろ》にまみれた若《わか》い女[#「女」に傍点]の幽霊《ゆうれい》を見たという者が、その後の世紀、十六世紀には絶えなかったということじゃ……。ああ、恐《おそ》ろしい、恐ろしい」
「恐ろしい!?」
アブリルが、そのプロテスタントの墓《はか》によじ上って長い両足をぶらぶら揺《ゆ》らしながら、叫《さけ》んだ。いつのまにやら寮母《りょうぼ》さんまでがその墓に座《すわ》りこんで、楽しそうに老人の怪談《かいだん》に耳を澄《す》ませている。
一弥はというと、仕方なくアブリルにつきあっていたが、次第《しだい》にじりじりしてきていた。小声でぼやく。
「わかったよ。アブリル、君は要するに、こわがりじゃないんだ。だから怪談が好きなんだよ。その証拠《しょうこ》に、ぼくの知っている人の中でいちばんのこわがりのセシル先生は、こわい話が始まると眼鏡を外して、叫び声を上げながら走って逃《に》げていくんだ。なのにアブリル、君は……」
アブリルはきょとんとして一弥をみつめている。その細い腰《こし》がのっかっているプロテスタントの四角い墓石を指差して、一弥は続けた。
「君はその墓石に堂々と座って、この話を聞いてるんだもの。……なに、きょとんとしてるんだよ? いまこの老人が話してくれた、生き埋めにされて死んだプロテスタント信者たちは、君のお尻《しり》の下に眠《ねむ》ってるんだよ? ほら……こわくないだろ?」
アブリルは相変わらずきょとんとしている。一弥は、
「セシル先生なら失神してるよ」
そう言うと、墓守の老人に向き直った。生真面目《きまじめ》な顔をして、居住《いず》まいを正す。
「ところで、ご老人。そのプロテスタント信者の虐殺《ぎゃくさつ》ですが、それっていつ頃《ごろ》のことなんですか?」
「十五世紀のことだよ。もう五百年も昔のことさ」
老人は薄《うす》く笑った。
また黒い鴉が飛びすぎていく。雲が太陽にかかって、墓地はさらに薄暗くなった。
「そのころは、キリスト教徒がカトリック系《けい》とプロテスタントに分かれて争っていたからね。こんな田舎《いなか》にまで、追われて逃げてきたプロテスタントがたくさんいてね。わしらの先祖《せんぞ》の中には匿《かくま》ってやった者たちもいたようだが、とある屋敷《やしき》に隠《かく》れていた一家が、追っ手にみつかってしまった。そして見せしめとしてここで生き埋めにされたんだよ。……恐ろしいことだ」
老人はもう一度「恐ろしいことだ……」とつぶやいた。それから、
「だからこの辺りのちょっと大きい屋敷には、当時に造られた隠し部屋がまだ残っているもんだよ。ときどき子供《こども》が迷《まよ》い込んじまって騒《さわ》ぎになる。たいがいは物置代わりに使っているようだがね。あとはまあ、若いやつらの逢《あ》い引き用さ」
アブリルがちょっと赤くなった。寮母さんは心得ているというようにうんうんとうなずいている。
「まあ、あのころのヨーロッパ中で起こったことだよ。ひどい出来事だが、ずいぶんと昔の話だ。あの泥だらけの若い女……プロテスタントの幽霊の目撃談《もくげきだん》も、その後の百年ぐらいは頻繁《ひんぱん》にあったらしいが、いまではもう誰も彼女を目にはしないよ」
アブリルが残念そうな顔をしたことに気づいて、老人は笑った。
「仕方ない。ずっとずっと昔の話……わしの親父《おやじ》の、親父の、また親父の……。気の遠くなるぐらい昔の話さ。もう五百年も経《た》ってる。幽霊だってそんなに長くは居続けられないことだろうよ」
風が吹《ふ》いた。
雲が流れて太陽が顔を出した。じめじめと湿《しめ》った共同|墓地《ぼち》の上にも、眩《まぶ》しい日射《ひざ》しがゆっくり降《ふ》り落ちてくる。
老人は短く、言った。
「きっと幽霊も飽《あ》きちまうんだよ。呪《のろ》い続けるなんて、無理だ」
[#改ページ]
リヴァイアサン ―Leviathan2―
あのときのことをまだ思い出すのである……。
我《われ》がまだ、ずっとずっと若《わか》かったあのときのことをである。
我は、真っ暗な場所にいた。
そこはただただ暗く、密閉《みっぺい》されて、息苦しい場所であった。
土の中である。
同胞《どうほう》たちの体がモノのように乱雑《らんざつ》に折り重ねられ、上から土を被《かぶ》されていた。我もその中の一人であった。息が苦しい。なにも見えぬ。我は土の奥深《おくふか》くで気絶《きぜつ》からさめ、大声で神の名を呼《よ》んだ。それから咳《せ》き込み、必死の思いで同胞たちの名を一人、一人呼んだ。ほんの数人、かすかに答えるうめき声がした。
だがそれから、土をかき分けて掘《ほ》り起こすのに我は長い長い時間を要した。ようやく土の中から顔を出すと、外は闇夜《やみよ》であった。かすかな月明かりが我の泥《どろ》まみれの顔を照らしていた。
その瞬間《しゅんかん》、我は急に感じたのである。
神などおらぬ、と。
そのときまで強く信じ、崇《あが》めていた神を、我はもうこの世のどこにも感じることができなかったのだ。つまり我が蘇《よみがえ》ったその世界は、地獄《じごく》という名がぴったりであるにちがいなかった。そのときの我は、まだとてもとても若かった。神を失うには若すぎた。だが、我が土をかき分けているあいだにかすかに息のあった同胞たちも死んでいき、ただ一人蘇った我には、もうなにも信じるものはなかったのである。
我らは祈《いの》りながら埋《う》められた。だが神が我らに救いの手を差しのべることはなかったのである。
見渡《みわた》すと、そこは小さな小さな墓地であった。我らのいた、あの村の墓地であった。白い細い十字架《じゅうじか》がいくつも、斜《なな》めに地面に突《つ》き刺《さ》さっていた。我らは埋葬《まいそう》されたのである。生きながらここに埋められたのである。……なぜなのだ? みんな死んだ。……なぜなのだ?
一つだけ確《たし》かなのは、もしもみつかることがあればまた殺され、この墓地に逆戻《ぎゃくもど》りするということだけだ。
そこで我は、同胞たちの遺骸《いがい》とともに神をそこに置き去りにして、走ったのである。
走り抜《ぬ》けたのである。
墓地《ぼち》を。
奇妙《きみょう》に体が軽かった。
我はまだ生きているのか? もうすでに死んでいるのか?
もうなにもわからなかった。確かなものはすべてあの墓《はか》の中に置いてきてしまったのだ。我はただ胸《むね》に誓《ちか》った。固く誓った。我はこの先、不死の存在《そんざい》となり必ず復讐《ふくしゅう》する、と。この国に。我を殺したあの者たちに。神をも恐《おそ》れぬ所業で復讐を成し遂《と》げる。
そう誓った。
ああ、あれがどんなに昔の話であることか。
あれからどれだけ長い時間が過《す》ぎ去ったことか。
記憶《きおく》もあいまいである。それほどに遥《はる》か昔のことなのだから。
あれ以来、我の魂《たましい》はずっと彷徨《さまよ》っている。
もしこの先、我が死ぬことがあったとしても……、
魂は彷徨い続けることであろう。
――時計塔《とけいとう》を。
永遠《えいえん》に。
[#改ページ]
第四章 意地悪フリルと|屁こきいもり《ニュート》
お昼に近い時間になると、聖《せい》マルグリット学園の広大な敷地《しきち》に広がるフランス式庭園には眩《まぶ》しい日射《ひざ》しが差して、青々とした芝生《しばふ》や、手入れの行き届《とど》いた花壇《かだん》、白い石を敷《し》き詰《つ》めた小径《こみち》などを明るく照らし始めていた。
クリスタルの噴水《ふんすい》から冷たい水が溢《あふ》れ出て、夏の空をきらりと通り過ぎていく。
村から殿って学園の小径を歩きだした一弥《かずや》とアブリルは、なんとなくその噴水の前で足を止めた。アブリルが冷たい水に手をかざして、
「気持ちいい!」
「ほんと? じゃあ、ぼくも……」
一弥は片手《かたて》に持っていた村のパン屋さんの包み――お昼に食べるサンドイッチ入り――を噴水の縁に置いて、水に触《ふ》れてみた。日射しに照りつけられた体にひんやりした水の感覚が染《し》み込《こ》んでいく。磯かに気持ちいいな、と納得したとき、となりでアブリルがいきなり、両手ですくった水を、
「久城《くじょう》くん! あはははは!」
なぜかこっちにぶっかけてきた。一弥は驚《おどろ》いて叫《さけ》び声を上げ、パンの袋《ふくろ》をつかんで逃《に》げる。アブリルはうれしそうに「あはははは!」と笑いながら追いかけてくる。
一足先に、夏休みの時間に片足入り込んだような、のびのびとした楽しい瞬間《しゅんかん》だった。
アブリルに追いかけられて小径を走っていた一弥は、遠く……小高い丘《おか》の中腹《ちゅうふく》に広がる芝生に、白っぽいフリルのまん丸いのをみつけた。知らずにスピードが上がる。
いきなり一弥の背中《せなか》が遠ざかっていくので、アブリルは戸惑《とまど》って、
「あはは、は…………あれ、久城くん? どしたの?」
一弥はものすごいスピードで、白とピンクのふかふか目指して走り続けた。小径を抜け、ベンチを避《よ》け、芝生の手前で急停車し、そのフリルのかたまりに声をかける。
「ただいま、ヴィクトリカ」
ヴィクトリカは、オーガンジーのワンピースに、エナメルの靴、それにいつのまにか、かわいらしいパラソルを差していた。見事な金髪《きんぱつ》を芝生の上に垂《た》らしている。そして薄《うす》いエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》は……かなり不機嫌《ふきげん》そうに細められ、一弥から目をそらしている。
「ヴィクトリカ?」
「…………」
「おーい、君」
「…………」
「聞こえてるんだろ? ほら、村のおみやげ!」
「……おみやげだと?」
ヴィクトリカが顔をくしゃっとしかめた。パラソルを乱暴《らんぼう》にくるくる回して、不機嫌そのものの声で、
「また、面妖《めんよう》な帽子《ぼうし》とか髑髏《どくろ》だろう?」
「し、失礼な。サンドイッチだよ。網焼《あみや》きチキンとアスパラ、コールドハムと紫玉葱《むらさきたまねぎ》。あと、ヴィクトリカの好きな甘いのもあるよ。苔桃《こけもも》ジャム、木苺《きいちご》ジャム、あとそれから……」
と、ヴィクトリカは急にうれしそうにふりむいて、小さな手をのばしてきた。袋ごと渡《わた》すと、ポイポイとサンドイッチを取りだしては、気に入らないものを芝生の上に投げ捨《す》てる。そのたびに一弥があわてて拾っては、袋に戻していく。
やがてヴィクトリカが、一つのサンドイッチを手に取ってくんくん匂《にお》いを嗅《か》ぎ、それからとつぜんものすごくうれしそうな顔をした。一弥はほっとして、
「よかった。好きなのがあったんだね。どれどれ……なんだ、君、木苺のジャムが好きなんだ? アブリルもそうらしいよ。アブリルに取られないうちにはやく口に入れちゃいなよ」
そう言われたヴィクトリカは、びっくりしたように瞳を見開いた。それからあわててサンドイッチに小さな唇《くちびる》をつけて、ぱくっと食べた。
もぐもぐ、もぐもぐ……。
一生|懸命《けんめい》、咀嚼《そしゃく》し続けている。
その姿を一弥はにこにこしながら見守っていた。
風が吹《ふ》いて、ヴィクトリカのパラソルをくるくると揺《ゆ》らした。金色の髪《かみ》がまるで生き物のようにうごめいて舞《ま》い上がり、またゆっくり元の位置に戻ってきた。
もぐもぐ、もぐもぐ……。
ヴィクトリカは木苺ジャムのサンドイッチを食べ続けている……。
「ぜぇ、はぁ、ぜぇ……久城くん、すごい体力……。もしかしてわたしの知らないうちに、毎日どこかでロードワークしてるのかしら? たとえば坂道ダッシュとか、階段《かいだん》を死ぬほど駆《か》け上るとか……ぜぇ、はぁ」
アブリルがようやく一弥に追いついて、ぜぇはぁ言いながらも芝生に入っていったとき……。
一弥はと言うと、アブリルのことをすっかり忘《わす》れて、なにやら白っぽいフリルのかたまりを覗《のぞ》き込み、熱心に語り続けていた。
「……誰と、なに話してるんだろ? って、あの白っぽいフリフリは……ヴィクトリカ!?」
アブリルはそーっと二人に近づいた。
ヴィクトリカはパラソルを片手《かたて》に、ぶっきらぼうに「うむ」とか「ほぅ」とか返事をしている。なにか食べているようで、ときどき返事の声がくぐもっている。一弥はと言うと、なにやら熱心にヴィクトリカに……。
「それでね、共同|墓地《ぼち》にはプロテスタントの墓《はか》があって、そこには見えない幽霊《ゆうれい》≠フ怪談《かいだん》があるんだよ。それと村の屋敷《やしき》にはプロテスタント用の隠《かく》し部屋がたくさんあるんだってさ。あ、あと、ヴィクトリカ。君、この歌知ってる?」
あろうことか、一弥は元気よく歌いだした。
「アフリカ人たちがいうには、
『歩いて――歩いて――歩け、
雌鳥《めんどり》が鳴くその時まで!
破《やぶ》れた屋根から星が降《ふ》るその時まで!
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!
夢《ゆめ》の中でも、
歩いて――歩いて――歩け、
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!』」
興《きょう》が乗ったようで、そのまま「リ、トゥラ、ルーラル、ルー!」と何度も繰り返してはにこにこしている。えらく楽しそうだ。
アブリルはムッとした。
(く、久城くんったら。勝負するって言ってたのに、敵《てき》のヴィクトリカさんに、わたしたちが調べたことを全部しゃべっちゃった! それに、歌った! 久城くんの、えっち!)
おもしろくなさそうに唇をとがらせながら、二人のとなりにどすんと腰掛《こしか》けた。一弥はこちらを振《ふ》り返って、
「あ、アブリル。……どしたの、へんな顔して」
アブリルが返事をしようとしたとき、フリルのかたまりのほうがこちらをちらりと見て、老女のようにしわがれた低い声で言った。
「|屁こきいもり《ニュート》のご帰還《きかん》か」
「なっ! ……あっ、わたしの木苺ジャムサンドイッチ!? な、なんでこのフリルが食べてるの!?」
「このフリルじゃないよ、ヴィクトリカだよ。それからヴィクトリカ、いもりじゃなくてアブリルだよ。……なんなんだよ、君たち。さっき会ったばかりなのに喧嘩《けんか》ばっかり。二人しておかしな呼《よ》び方をしあってさ。……アブリル、はい、これ」
アブリルは二番目に好きな苔桃ジャムのサンドイッチを受け取って、仕方なくそれをもそもそ食べ始めた。
それから小声で一弥に文句《もんく》を言った。
「久城くんったら、勝負だったのに、どうしてしゃべっちゃうのよ?」
「へ? いや、でも、お互《たが》いに情報《じょうほう》を交換《こうかん》したほうがうまくいくと思ってさ。まずかったかい?」
「ううん、いいけど……。それにしても、さっきあんなに怒《おこ》ってたのにもう忘《わす》れちゃったの? 信じられない」
「怒ってたって、誰《だれ》が?」
一弥はきょとんとして聞き返してきた。
その顔にアブリルは心の底からびっくりして、あわあわと、
「だ、だってついさっき、大喧嘩してたじゃない。わたしはおろおろして、それで……あの」
助けを求めるようにヴィクトリカの顔を見ると、ヴィクトリカは目をそらしたままでかすかに小さな肩《かた》をきゅっとすくめてみせた。いつものことだよ、と言わんばかりだ。
一弥は不思議そうに、あわてたり抗議《こうぎ》したりしているアブリルをみつめていた。それから、ヴィクトリカのかたわらに転がっている大きな丸眼鏡《まるめがね》をみつけて、手に取った。
「ねえ、これ、もしかしてセシル先生の眼鏡かい?」
ヴィクトリカが興味なさそうに答えた。
「うむ、そうだ……。時計塔《とけいとう》の中でとつぜん恐《おそ》ろしい叫び声を上げて、なぜか眼鏡を置いて、走って逃《に》げたのだ。それきりどこに行ったのかわからなくてね。まったく、わけのわからないやつだ」
「あぁ……」
一弥はなんとなく納得《なっとく》してうなずいた。一弥自身も、セシル先生と一緒《いっしょ》に廃倉庫《はいそうこ》に入ったとき、不審《ふしん》な声に驚《おどろ》いた先生が、眼鏡を外して全速力で逃げたのを見たことがあったのだ。
「それじゃ、先生は眼鏡がなくて困《こま》ってるんじゃないかな?」
「……知ったことか」
「ヴィクトリカ、君ね。まったく……。じゃ、ぼくが先生を捜《さが》してくるよ。ここで待ってて」
一弥が眼鏡を片手に立ち上がった。
それに気づいたヴィクトリカが、一瞬《いっしゅん》、戸惑《とまど》ったように「あ!」と叫んだ。一弥は気づかずにそのまますたすたと芝生《しばふ》を後にしていく。残されたヴィクトリカは困ったように小声で、
「ま、待て……。こら、久城。行く、な…………!」
ふてくされた顔をしてサンドイッチをかじっていたアブリルは、ヴィクトリカのそんな態度《たいど》に、不審そうにちらちらと様子をうかがい始めた。
ヴィクトリカは弱り切ったようにしばらく、遠ざかる一弥の背中《せなか》をみつめていた。
それから、くるりとアブリルに背を向けた。パラソルで体を守るように、というかパラソルの中に潜《もぐ》り込むようにして、しんっ……と静かになった。まるで大きな肉食動物を前にした仔兎《こうさぎ》が、必死で気配を殺しているかのようだ。
アブリルは戸惑って、パラソルをみつめていた。
それから立ち上がり、ヴィクトリカの正面にずかずか回ってみた。
「……ひっ!?」
ヴィクトリカは顔を上げてアブリルをみつけると、おかしな声を上げた。それからまたくるくるとお尻《しり》を動かして、アブリルから隠《かく》れた。アブリルがまた回る。ヴィクトリカが変な声を上げて逃げる。
くるくる、くるくる……。
しばらくそれを繰《く》り返しているうちに、アブリルは腹《はら》が立ってきた。
「ど、どうして避《さ》けるのよ? 感じ悪い子ね」
「…………」
「こっち見なさいよ。ほら、アブリルちゃんはここ。あんたのクラスメイトよ?」
「…………」
返事はない。
アブリルはしばらくむかっ腹を立てていたが、パラソルが小刻《こきざ》みに震《ふる》えているのに気づいて、ちょっと心配になった。
「ねえ、どしたの?」
上から覗《のぞ》き込《こ》むと、ヴィクトリカの薔薇色《ばらいろ》のはずの頬《ほお》は、朝、教室に入ってきたときと同じぐらい青白くなっていた。唇《くちびる》も震えて、薄《うす》い緑の瞳《ひとみ》は怯《おび》えたように睫毛《まつげ》を揺《ゆ》らしている。
「あ、ごめん……。でも、なんなの?」
「あっちへ行け! |屁こきいもり《ニュート》!」
「なんですって!? ……もう、仲良くしようとしてるのに、ひどいじゃない! こっち見なさいよ」
「いやだ! あっちへ行け!」
「行かないわよ。あんたがあっちに行きなさいよ!」
「むっ……!」
ヴィクトリカが折れるはずがないと思ったのだが、一瞬のためらいの後、ヴィクトリカはむくむくとした動きで立ち上がった。片手にパラソル、もう片方の手に金色の書物を持って、芝生をゆっくり歩きだす。
「逃がすもんか!」
アブリルがドレスの裾《すそ》を思い切り踏《ふ》んづけた。
ヴィクトリカはびたんと転んだ。
金色の書物が芝生《しばふ》の上にころころと転がった。ドレスの裾がめくれて、濃いローズピンクのドロワーズと、お尻の薔薇|模様《もよう》の刺繍《ししゅう》がふわふわと風に揺れた。
ヴィクトリカはうつぶせに倒《たお》れたままぴくんとも動かない。小さな手から離《はな》れたパラソルが、風に乗ってふわふわと飛ばされていく。
アブリルはあわてて芝生を走り、ぴょんと高く飛んで、そのまま風に乗って上がっていきそうだったパラソルを見事にキャッチした。若《わか》い雌鹿《めじか》のようなのびやかな足取りで戻《もど》ってくると、転んだままの小さな少女に、おずおずとパラソルを返そうとした。
ヴィクトリカはゆっくり起きあがって、小さな両手のひらをいっぱいに広げ、おでこを押《お》さえていた。痛《いた》そうに「うぅ……」とうめいている。
アブリルはあわてて「見せて!」と顔を覗き込んだ。ヴィクトリカが抵抗《ていこう》するのでむきになって、両手をつかまえると無理やりその小さな顔からひっぺがした。
「……なんだ。怪我《けが》なんてしてないじゃない? おおげさなんだから」
「う……」
「でも、ごめん。ねぇ……ごめんったら。はい、パラソル」
ヴィクトリカは無言でパラソルを奪《うば》い取った。アブリルはまた不機嫌《ふきげん》になって、
「だけど、あんたの態度《たいど》もあんまりじゃない? どうしてそんなにわたしを嫌《きら》うの? ねぇ……」
返事がないので、小さな手をつかむ。
あわてて離す。
――ヴィクトリカの小さな真っ白な手は、びっくりするぐらい冷たくなっていた。顔もどんどん青白くなるし、アブリルをおどおどとみつめる緑の瞳も不安そうに揺れている。
アブリルは不思議そうに聞いた。
「あんた、もしかして、怒《おこ》ってるんじゃなくて……緊張《きんちょう》してるの?」
「…………」
「わかった。そうなんでしょ? でも、どうして? わたしみたいな同い年の女の子に会ったこと、ないの?」
「………………い」
「えっ? なにか言った?」
「ない!」
ヴィクトリカが叫《さけ》んだ。
それから、今度は顔を真っ赤にしてアブリルを睨《にら》みつけた。
「ない? どうして?」
「…………」
「ま、いっか。あんたは灰色狼《はいいろおおかみ》だもんね? いろいろ事情《じじょう》ってやつがあるんでしょ。とにかく、あんたは人見知りしてるだけね? なーんだ」
アブリルはくすくす笑った。それから芝生の上に、細いけれどつやつやして健康的な、長い足を放《ほう》り出すように座《すわ》った。ヴィクトリカはそんなアブリルを、不思議なものを見るようにじっと観察している。
「それならちょっとずつ慣《な》れて、仲良くなればいいよね。とにかくよろしく。わたしはアブリル・ブラッドリー。イギリスから留学《りゅうがく》してきたの。大好きなおじいちゃんが冒険家《ぼうけんか》だったから、わたしも女冒険家|志望《しぼう》なの」
「……知っている」
緊張したような小さな声がした。
「知ってるの?」
「久城がよく話してくれるのだ。品物であふれ返る村ののみの市や、静かな日曜の教会や、新しくできたばかりの小さな映画館《えいがかん》や……外の世界のいろいろな話を。久城の話によく君の名前が出てくる。君はいつものびのびと、行きたいところに行って楽しく過《す》ごしているようだ」
ずいぶん寂《さび》しげに陰《かげ》った声だったので、アブリルは心配になり、ヴィクトリカの小さな顔を覗《のぞ》き込んだ。ヴィクトリカはついっとそっぽを向いた。
ビスクドールのように見える、小さくて精巧《せいこう》に整った、完成された美貌《びぼう》。それを彩《いろど》る豪奢《ごうしゃ》なドレス。完璧《かんぺき》な美少女が奏《かな》でる不思議な寂しげなしわがれ声は、恐《おそ》ろしい不協和音に聞こえ、アブリルを不安にさせた。
それをかき消そうとするように、アブリルは努《つと》めて元気いっぱいに話しかけた。
「ね、ねぇ……。錬金術師《れんきんじゅつし》の話をしない?」
「構《かま》わないが」
ヴィクトリカは短く答えた。
「あのね、わたしの推理《すいり》を聞いてくれる? 錬金術師の亡霊《ぼうれい》はまだ時計塔《とけいとう》を彷徨《さまよ》っていて、それが数々の殺人|事件《じけん》を起こしているの。彼は時計塔を訪《おとず》れるよそ者を許《ゆる》さないのよ。だから……」
「君はばかだなぁ」
「な、なんだとぅ!」
ヴィクトリカはアブリルの推理を鼻でせせら笑った。かなり憎《にく》たらしい感じがした。アブリルが歯ぎしりしていると、
「さすが久城の友達だな。ばかさ加減《かげん》がいい塩梅《あんばい》だ。君、願わくばもっとしっかりしたまえ。亡霊なんているわけないだろう。目を醒《さ》ましたまえよ」
「だ、だって……。じゃ、亡霊が犯人《はんにん》じゃないの? それだったら……もしかして、今朝、久城くんが言ってたように、錬金術師はまだ生きているの? 死体は発見されていなくて、そのまま二十年ちょっと経《た》ってるから……ずっと時計塔のどこかに隠《かく》れている……。わたしたちの給食を盗《ぬす》み食いしながら……」
「錬金術師はとっくに死んでいるよ、君」
ヴィクトリカが面倒《めんどう》くさそうに言った。
それきり知らんぷりして、パン屋の袋《ふくろ》の中をかき回している。ハムのサンドイッチをみつけてかぶりつこうとするところを、アブリルに阻止《そし》された。サンドイッチを無理やり取り上げて、立ち上がる。
ヴィクトリカはびっくりしてアブリルを見上げていたが、あわてて立ち上がって、手をのばした。でもヴィクトリカがいくら背《せ》のびして手をのばしても、二十センチ以上も背丈《せたけ》がちがうので、サンドイッチに手が届《とど》くはずもない。
アブリルは勝ち誇《ほこ》ったように、
「どういうこと? 説明して」
「く、久城はそんなことしないぞ」
「だって久城くんは紳士《しんし》だもん。でもわたしはレディじゃないんだよーだ。さあ、言え!」
「こ、この|屁こきいもり《ニュート》め……!」
「だって、聞いてよ。錬金術師リヴァイアサンは本物の魔術師《まじゅつし》よ。ぜったいそうよ。仮面《かめん》とローブをつけていたのは、何百年も生き続けていることを隠すためよ。不老不死でいつまで経っても姿《すがた》が変わらないなんて、おそろしいもの」
ヴィクトリカは不機嫌《ふきげん》そうに瞳《ひとみ》を細めた。
「……そんなわけないだろう。君はほんとにばかだなぁ」
「な、なんだとぅ! じゃ、どうしてリヴァイアサンは仮面とローブ姿だったの? ほかに理由があるなら言ってみなさいよ。ほら、ほら」
ちょっとずつサンドイッチが下がってくる。それを睨《にら》み上げながら、ヴィクトリカは仕方なく言った。
「自分の正体を隠すためだ、というところまでは当たっているよ、君」
「でしょ? だから不老不死の体を……」
「そこはちがう。たとえばだね、君……君が仮面とローブをつけて手袋もはめる。すると君が君であることは確認《かくにん》できなくなる」
「……そりゃ、そうだけど」
アブリルはサンドイッチを下げた。ヴィクトリカはそれを奪《うば》い取ると芝生《しばふ》に座りこみ、ぱくっと食べた。もぐもぐ……と咀嚼《そしゃく》し、ごくんと呑《の》み込《こ》むと、
「いいかね、屁こきいもり? たとえば、君は女だ。だがその事実を隠したいとする。仮面とローブがあれば、それは可能《かのう》だ」
「……もしかして、リヴァイアサンは女だったの?」
「うむ……。まあ、当たらずとも遠からずだ。不老不死説よりはずっと近いと言えるだろう」
「お、女ぁ?」
アブリルは納得《なっとく》できないようにぶつぶつと、
「確《たし》かに、聖書《せいしょ》に出てくる不死の怪物《かいぶつ》リヴァイアサンは雌《めす》だったような気がするけど……。でも……」
ヴィクトリカは知らんぷりして、うれしそうにサンドイッチをぱくついている。真珠《しんじゅ》のような歯でかみ切られたパンが、小さな口にどんどん吸《す》い込まれて消えていく。
アブリルはしばらくぽかんと口を開けて考え事をしていたが、やがて我《われ》に返った。ちょっとムキになって続ける。
「だ、だけどさ、あの話はどうなの? 王妃《おうひ》の前で白い薔薇《ばら》を握《にぎ》りしめて、青い薔薇に変えてみせたって話。たくさんの人がその場にいて彼の魔術《まじゅつ》を見ていたわ。リヴァイアサンの正体はともかく、あの話は本物よ。でしょ?」
「トリックだ」
ヴィクトリカはこともなく言った。
しばしアブリルは沈黙《ちんもく》していた。
それからとつぜん、怒《おこ》りだした。
「そんなはず、なーい!」
ヴィクトリカはその大声にびっくりして飛び上がった。瞳をぱちくりして、立ち上がって仁王立《におうだ》ちしているアブリルを見上げる。
「ど、どうしたのだね、君?」
「そんなはずないってば! 魔術だってば。すごいんだってば。もう、ヴィクトリカさんのフリル野郎《やろう》! もう知らない!」
「フ、フリル野郎だと……? なんだそれは?」
「わかんない! とにかく悪口! まいったか!?」
ヴィクトリカは気味悪そうに、地団駄《じだんだ》を踏《ふ》んで騒《さわ》いでいるアブリルをみつめていたが、やがて強情《ごうじょう》そうに顔をしかめて、
「では、証明《しょうめい》してやろう」
「……えっ、証明?」
「白い薔薇を探《さが》してきたまえ。君の目の前で同じことをやってみせよう。それから思う存分《ぞんぶん》、己《おのれ》の浅はかさを反省し恥《は》じ入り死にたくなりたまえ。……ほら、はやく行け!」
アブリルは悔《くや》しそうに地団駄を踏んでいたが、やがて仕方なく、芝生《しばふ》を出て花壇《かだん》に向かって歩きだした。
日射《ひざ》しはますますきつくなり、芝生の照り返しが眩《まぶ》しかった。
敷地《しきち》の中に数ある花壇の中から、アブリルが白い薔薇をみつけて庭師《にわし》さんに内緒《ないしょ》で一輪|手折《たお》り、芝生に戻《もど》ってきた。
ヴィクトリカもどこかに行っていたらしかったが、アブリルと同じ頃《ころ》にとことこと戻ってきた。ヴィクトリカは無造作《むぞうさ》に白い薔薇を受け取ると、ぎゅっと握りしめた。
「呪文《じゅもん》とか唱えるの?」
アブリルが聞くと、ヴィクトリカはいらいらしたように、
「いもりは黙《だま》っていたまえ」
「なっ!?」
ヴィクトリカは片手《かたて》で無造作に薔薇を握りしめたまま、もう片方の手であろうことかサンドイッチの残りを食べ始めた。
もぐもぐ、もぐもぐ……。
ごくん。
もぐもぐ、もぐもぐ……。
ごくん。
もぐもぐ……。
アブリルだけが固唾《かたず》を呑んで薔薇を見守っている。
やがて……。
白い薔薇は少しずつ青ざめていった。アブリルは短く悲鳴を上げた。花弁《かべん》の根元からどんどん色が変わり、数分後には白い薔薇は鮮《あざ》やかな青い薔薇に変わっていた。
アブリルは唇《くちびる》を両手でおおって、声のない悲鳴を上げた。
ヴィクトリカは知らんぷりしてサンドイッチを食べ続けている。
「あのさ……ヴィクトリカさん、これってどうやったの?」
顔を上げたヴィクトリカはつまらなそうに、
「灰色狼《はいいろおおかみ》だからだ。いろんなことができるのだ」
「はぁ?」
「空を飛んだり、透明《とうめい》になったり、薔薇《ばら》の色を白から青に変えたりできる」
「……」
「妖怪《ようかい》だからな」
「……ほんとのこと、教えてくれないの?」
ヴィクトリカは首をこてんとかしげて、しばらく考えていた。
それからふるふると首を振《ふ》った。
「いやだ」
「なんで!?」
「なんででもだ」
「い、意地悪してるんでしょう? わたしが知りたがるのをわかってて教えてくれないなんて。だいたい、灰色狼の能力《のうりょく》にそんなオプションがあるなんて聞いたことないもん。あれはすごく頭が良くて策士《さくし》で、国を栄光にも危機《きき》にも左右するって伝承《でんしょう》でしょ? 灰色狼は空も飛ばないし透明にもならないし薔薇の色を変えたりもしないもん。わたし、そういうことにはすごく詳《くわ》しいんだから。ねぇ……こ、この意地悪フリル!」
アブリルはしばらく拳《こぶし》を握《にぎ》ってぷるぷると震《ふる》えていたが、やがていきなり、澄《す》まし顔でサンドイッチを頬張《ほおば》るヴィクトリカに襲《おそ》いかかった。ヴィクトリカは泡《あわ》を食《く》ってサンドイッチを取り落とした。
「な、なにをする! 野蛮人《やばんじん》め!」
「そうよ、わたしの先祖《せんぞ》はバイキングよ! おじいちゃんがそう言ってたもん!」
「痛《いた》い! 痛いよぅ!」
きつく握っていた手のひらを、ヴィクトリカは急にパッとゆるめた。細い腕《うで》にアブリルががぶりと噛《か》みついたからだ。ヴィクトリカは悲しげな咆哮《ほうこう》を上げてのたうち回り、何|段《だん》もの白いフリルとピンクのレースが、ぱたぱたと風に舞《ま》った。
アブリルはお構《かま》いなしに、ヴィクトリカの手首をつかまえて、手のひらを覗《のぞ》き込んだ。
――青いインクを染《し》み込ませた綿《わた》が転がり出てきた。アブリルはそれを拾ってじっとみつめていたが、降参《こうさん》して、
「なに、これ?」
「…………」
「また噛みつくぞぅ!」
「!?」
ヴィクトリカが渋々《しぶしぶ》答えた。
「……茎《くき》の斬《き》り口からインクを吸《す》わせるのだ。そうすれば白い薔薇はインクと同じ色に染《そ》まる。かんたんなトリックだよ、君」
「えぇっ……」
アブリルは意気|消沈《しょうちん》して、芝生《しばふ》の上に座《すわ》りこんだ。ヴィクトリカは噛みつかれた腕を悲しそうにさすりながら、じりじりとアブリルから遠ざかっていく。
大きくため息をついて、アブリルがつぶやいた。
「そんな簡単《かんたん》なことなの……? だって、ソヴュールの歴史の一ページになっているような、壮大《そうだい》なシーンなのに」
ヴィクトリカは腕をさすりながら答えた。
「人は信じたいと思う嘘《うそ》を簡単に信じてしまうものだ。あの当時、ソヴュール国王は国力の要《かなめ》となる財《ざい》を必要としていた。若《わか》く孤独《こどく》な王妃《おうひ》は自分を守る特別な力を持った男を探《さが》していた。謎《なぞ》めいた、しかし強大な力を持つ錬金術師《れんきんじゅつし》という嘘を、信じたがった人々がいたのだ。王室が満ち足りていれば騙《だま》されることもなかった。それだけのことなのだよ、君」
風に雲が流されて、太陽が少し隠《かく》れた。日射《ひざ》しはゆるやかに変わり、芝生をくすんだ濃《こ》い緑色に染め変えていった。
ヴィクトリカは低いしわがれ声で続けた。
「すべてはトリックだった。青い薔薇と同じように、実験室にとつぜん現《あらわ》れた金にも、国王軍に追われて毒矢を射られたリヴァイアサンの姿《すがた》が消えたことにも、すべてトリックがあるのだ。必ずだ。わたしはそれを探しているのだよ、君」
芝生の向こうの小径《こみち》を、帽子《ぼうし》を目深《まぶか》に被《かぶ》った赤毛の男が通り過《す》ぎていった。どこか不吉《ふきつ》な空気を感じてアブリルは知らず肩《かた》を震わせた。
ヴィクトリカは、その赤毛の男からもらったポスターを取りだしてみせた。
〈ウォン・カーイの大奇術《だいきじゅつ》!〉
〈世紀のイリュージョン!〉
空中|浮遊《ふゆう》する美女や首なし男などの姿が躍《おど》っている。ここ数年、ソヴレムでも大人気の大がかりな奇術ショーのポスターだ。
「リヴァイアサンはおそらく、早すぎた奇術師だった。もし現代《げんだい》にいれば、さぞかし人気のイリュージョニストになったのではないかと思うがね。なにせ国王と王妃を騙し、国政《こくせい》にまで入り込んだのだ。そんな奇術師など、ほかに誰《だれ》がいるかね? そういった意味において、彼はすばらしいボンクラだ。嘘で歴史を動かした。おそらく彼は……」
ヴィクトリカは奇妙《きみょう》な声色《こわいろ》で、小さくつぶやいた。
「彼は、退屈《たいくつ》だけはしない人生を送ったのだろう。なにせそういうやつら≠フ一人だからな。しかし、心に平安はなかっただろうがね」
また風が吹《ふ》いて、雲が流れ太陽が現れた。芝生の上にもさっと眩《まぶ》しい日射しが戻《もど》ってきて、うなだれて座りこむアブリルの金髪《きんぱつ》のショートヘアを照らした。
アブリルはため息をついた。
それからぺたんこの革靴《かわぐつ》と白い靴下を脱《ぬ》いで、ゆっくり立ち上がった。裸足《はだし》で芝生を歩きながら、つぶやく。
「そっかぁ……」
振《ふ》り向くと、ヴィクトリカも立ち上がったところだった。アブリルはちろちろと音を立てて流れている小川に近づいて、ぽちゃん、と片足《かたあし》ずつ水に足を沈《しず》めてみた。
透明《とうめい》な、穏《おだ》やかなせせらぎがアブリルの白い足を包み込んだ。砂利《じゃり》と、水草。小さな魚が涼《すず》しげに泳ぎすぎる。
「ヴィクトリカさんは、すごいのね……」
アブリルは水の冷たさを楽しみながらも、
「わたし……いままで考えなかったけど、もしかしてさ……その、ちょっとばかかなぁ? どう思う?」
返事はない。
アブリルは両手で無造作《むぞうさ》に、制服《せいふく》のプリーツスカートを持ち上げて、小川の中をじゃぼじゃぼ歩きながら話していた。長くて健康的なアブリルの足が、夏の日射しを浴びて白く輝《かがや》いていた。
「わたしって、こうじゃない? 久城くんはもしかしたら、いつもヴィクトリカさんと話していたら、わたしのことがおばかな子に見えるんじゃないかしら? あのね、要するになにが言いたいかって言うと……」
もぞもぞと身動きしてから、
「こ、こんなこと言うの、かっこわるいけど、でも……」
アブリルは思い切って言った。
「えーい、言うけど、久城くんを取ら、取らないでほしいの。だからその……わぁ! わぁわぁわぁ! いまのなし! やめやめ、わぁわぁわぁ! なしで、なしで。わたしなにも言ってな………………あれ、ヴィクトリカさん?」
アブリルはスカートから手を離《はな》し、あわててきょろきょろした。
いつのまにかそこにいるのはアブリル一人だった。小川から出て辺りを見回すと、ヴィクトリカの小さなふかふかした姿は……すでに逃《に》げるように小走りで、芝生を出て、小径の奥《おく》に遠ざかっていた。
「ヴィ、ヴィクトリカさん……。あー……聞いてなかった、ね? よ、よかった……」
アブリルはがくっとうなだれた。
濡《ぬ》れた両足を芝生の上に投げ出すように座《すわ》ると、一人で頭を抱《かか》えて「うわー……」とうめいた。
しばらく落ち込《こ》んでいたが、やがて気を取り直したらしく、
「悩《なや》んだら、お腹《なか》すいた!」
そこに置きっぱなしにされていたパン屋の袋《ふくろ》を手に取った。そしてチキンのサンドイッチを取り出すともりもりと食べ始めた。
そんなアブリルの様子を、小川の向こうにある小さな花壇《かだん》……の花に埋《う》もれて隠れながら、セシル先生がじっと見守っていた。
膝《ひざ》を抱えて座りこみ、片耳を芝生のほうに向けて、耳に手のひらを当て、明らかに盗《ぬす》み聞きしている人のポーズで隠れていたセシル先生は、隠れたままで驚愕《きょうがく》の表情《ひょうじょう》を浮《う》かべていた。
「な、なに、いまの? たまたまここにいて、たまたま聞いちゃった!? けど!? ………………えぇ〜!?」
[#改ページ]
リヴァイアサン ―Leviathan3―
我《われ》の、栄誉《えいよ》といってもよいものは、あの王宮で青い薔薇《ばら》を造《つく》ってみせた夜――一八九七年から二年間だけ続くこととなった。
その二年間、王妃《おうひ》はどこに行くにも我を連れていきたがり、仮面《かめん》の錬金術師《れんきんじゅつし》を後ろ盾《だて》として、彼女を受け入れようとしない貴族《きぞく》たちを脅《おど》し続けたのであった。王妃の機嫌《きげん》を取らねば恐《おそ》ろしい結果になる……貴族たちは次第《しだい》にそう思うようになり、王妃はまるで女帝《じょてい》のように社交界に君臨《くんりん》し始めることとなった。
一方、我は政治《せいじ》の世界に君臨しようとした。植民地|政策《せいさく》の会議には必ず出席し、発言した。国王は中立の立場を取ってたようだが、多くのお偉方《えらがた》は我を煙《けむ》たがっているようであった。
そしてある夜――
我が王妃の部屋に入ると、そこにマスグレーブ男爵《だんしゃく》がいたのであった。あの法務《ほうむ》大臣。我を詐欺師《さぎし》と呼《よ》んだ男である。彼は王妃になにごとか耳打ちしており、王妃はなぜか顔色を青くし、不安そうにうつむいていた。
そのときマスグレーブ男爵は、我を王妃のもとから遠ざけるよう、耳打ちしていたのであった。これ以上のことがあればきっと国王は錬金術師とともに王妃をも遠ざけるであろう、と……。
その夜から、我は王妃のもとに呼ばれなくなったのである。理由を問うても教えられることはなかった。
そしてそれから何日後か――。
我は、とある場所に呼ばれた。
法廷《ほうてい》だ。
それは法務大臣マスグレーブ男爵自らが起こした裁判《さいばん》であった。法廷には彼と、そして国王がいた。
それはまさに前代|未聞《みもん》の裁判であった。『錬金術は存在《そんざい》しうるか否《いな》か』。古今東西の資料《しりょう》や史実を用いて、オカルト省の学者が錬金術の存在を主張《しゅちょう》し、それを科学アカデミーの学者が「証拠《しょうこ》がない」と斬《き》り捨《す》てていく。
我はあきれ、怒《いか》りに震《ふる》えながら傍聴《ぼうちょう》していた。
それは古来の知識《ちしき》と最新の科学の決闘《けっとう》であった。そして近代においては主流となる流れであるところの、一方的なオカルトの負け戦《いくさ》≠ナもあったのである。
聞いてはいられぬ。我は黙《だま》りこみ、こぶしを震わせていた。
やがて男爵が立ち上がった。そして我をまっすぐに指差し、こう言ったのである。
「リヴァイアサンよ、貴様の負けだ」
我は鼻でせせら笑った。
「……なぜだね?」
男爵はおおげさに手を叩《たた》きながら我を見上げ、言い放った。
「だが、リヴァイアサンよ。貴様にチャンスをやろうではないか。たったいま、ここで金を造るのだ。わたしたちが見ている前でだ。秘密主義《ひみつしゅぎ》を捨てて製造過程《せいぞうかてい》を明らかにするのだ。これは国王からの命令であるぞ」
そう言うと男爵は振《ふ》り返り、国王とそっと目配せしたのである。我にはその意味するところがよくわかった。
「なるほど……! 我の力を恐れつつも、金は欲《ほっ》しているというわけかね? 我の立場を悪化させ、追いつめ、己《おのれ》の手で錬金術が行えるようにしたいというわけか」
「わ、わたしは錬金術など信じていない。当たり前ではないか。そんな力は存在しないことを証明したいだけだ」
「だが、国王はどうかな?」
我がせせら笑うと、国王の顔がぐっと歪《ゆが》んだ。マスグレーブ男爵は抗議《こうぎ》するように、国王に向かって両手を掲《かか》げた。
「国王、あんなものはすべてまやかしです。いまこの怪物《かいぶつ》を排除《はいじょ》しなくては、ソヴュールは恐ろしいことになりますぞ……!」
「無駄《むだ》だ、男爵《だんしゃく》。国王は金がほしいのだから」
「なっ……!」
マスグレーブ男爵が我《われ》に飛びかかろうとした。我は笑いながら身をひるがえし、よけた。
そのとき国王が静かな声で言ったのである。
「リヴァイアサンよ」
我は振り向いた。
国王は、あのとき――二年前、王宮の廊下《ろうか》ですれ違《ちが》ったときと同じ、疑《うたが》いと怖《おそ》れを交えた不思議な顔つきをして我をみつめていた。
「リヴァイアサンよ。その仮面《かめん》とローブを取ってみたまえ」
「なっ……」
「わたしはずっと、その奥《おく》にあるおまえの素顔《すがお》が知りたかったのだ。ずっと気になっていた。夜も眠《ねむ》れぬ。おまえは悪魔《あくま》か? それとも人間なのか? 本当におまえは生きている人間なのか? おまえのおかげで国家|財政《ざいせい》は安定している。だが我々は、じつのところ、恐ろしい相手と金の契約《けいやく》を結んでしまったのではないか?」
我は息を呑《の》んだ。
一歩、また一歩と下がる。
国王は我から目を離《はな》さない。
「わたしは夜も眠れぬ……」
「や、やめろ!」
「わずかに微睡《まどろ》めば、仮面の夢《ゆめ》を見る……」
「くるな!」
「夢の中でおまえの仮面を外すのだ。ある夜、おまえの顔は、蛆《うじ》の這《は》いずり回る腐乱《ふらん》した死者のものであった。またある夜、そこには輝《かがや》くばかりに美しい青年の顔があった。しかしある夜には、恨《うら》みに歪む恐《おそ》ろしい女の顔があった。だがしかし、リヴァイアサンよ。わたしが夢に見たどの顔も、おまえではないような気がするのだ……」
「おいっ……」
「わたしは夜も眠れぬ。仮面の者よ。謎《なぞ》めいた錬金術師《れんきんじゅつし》よ……!」
我は初めて恐怖《きょうふ》を感じた。
マスグレーブ男爵が不思議そうに、とつぜん形勢逆転《けいせいぎゃくてん》した我と国王を見比《みくら》べていた。国王はなおも熱心に言い募《つの》る。一歩も引かない様子で、
「リヴァイアサンよ。頼《たの》む、その仮面を……!」
「……断《ことわ》る!」
我は身をひるがえし、逃《に》げた。
裁判《さいばん》の結果が伝えられたのは、その夜のことであった。
『錬金術は存在《そんざい》しない』と法廷《ほうてい》が決めたのだ。
我は何者でもなくなった。美しく無邪気《むじゃき》なはずの王妃《おうひ》に接見《せっけん》を求めたが、許可《きょか》されることは二度となかった。
錬金術は存在しないのである。それなら我はもう錬金術師ではなく、ただの、仮面をつけた謎の男だ。
わずか一日ですべてをなくし、我は身一つで村に戻《もど》ることとなった。列車に揺《ゆ》られて、ごとごとと……。胸《むね》に次第《しだい》に満ちてきたのは、怒《いか》りと恨みであった。
もう少しであったのに……!
まさか邪魔《じゃま》されるとは!
マスグレーブ男爵……。
あの男のせいなのだ。我を詐欺師《さぎし》呼《よ》ばわりしたあの男が、我の息の根を止めたのだ。
そういうわけで、村に着く頃《ころ》、我の胸にはただ復讐心《ふくしゅうしん》だけが燃《も》えていたのである。
そして我が時計塔《とけいとう》に戻り、一人で再《ふたた》び実験に明け暮《く》れようとしていたその夜のことである。我を訪《たず》ねてやってきた者がいた。呼ばれて外に出ると、やけに豪華《ごうか》な箱型馬車が停《と》まっていた。
「王妃……?」
我はかすかな希望を持った。あのなつかしい顔が脳裏《のうり》をよぎった。
しかし、馬車から元気よく飛び降《お》りてきたのは別の人物であった。まだ十五、六|歳《さい》の少年だ。二年前、同じ場所で出会った者である。
イアン・ド・マスグレーブ――。
憎《にく》きマスグレーブ男爵の嫡男《ちゃくなん》である。短かった髪《かみ》はのびて、女人《にょにん》のようになよなよとしていた体も少し大人に近づいていた。イアンは相変わらず無邪気で楽しげな様子で、我に「どうしてましたか?」と聞いた。
我は短く答えた。
「隠遁《いんとん》、だ」
「もったいない! いったいどうしてそんなことになったんです?」
イアンは父親がやったことを知らないのであろうか? それとも貴族《きぞく》の気楽さで、気にしていないだけなのであろうか?
「お父さまがうるさくて、ずっとここにこれなかったんです。だけど今日はなんだか忙《いそが》しそうで、ぼくの監視《かんし》がゆるかったので。従者《じゅうしゃ》を脅《おど》して、無理やりきちゃったんですよ。……迷惑《めいわく》じゃありませんか?」
「いや……」
なるほど、と我はうなずいた。
イアンはあの日から二年|経《た》ったいまも、相変わらず錬金術《れんきんじゅつ》に興味津々《きょうみしんしん》であった。警戒心《けいかいしん》の欠片《かけら》もなく、じつに無邪気に、
「ねぇ、ぼくにもぜひ錬金術を教えてください。いろいろ知りたいんですよ」
「……いいだろう」
我は従者とともに、イアンを時計塔のぜんまいの部屋に案内した。
巨大《きょだい》な四つのぜんまいと振《ふ》り子が、その夜もまた音を立ててゆっくり動き続けていた。黒檀《こくたん》のテーブルには実験道具が散らばったままであった。
我は従者に命じ、工房《こうぼう》のどこにも金がないことを念入りに確認《かくにん》させた。二年前のあの日、マスグレーブ男爵が自ら調べたときと同じように……。
金は工房のどこにもなかった。それを確認させると、我は従者を廊下《ろうか》に出した。そしてイアンと二人、工房に籠《こ》もったのである。
なにも知らないイアンはうれしそうであった。わくわくした様子で、無邪気な声でひっきりなしに話していた……。
そして三時間ほどが経った頃《ころ》。ぜんまいの部屋から、誰《だれ》もがそれまでの生涯《しょうがい》で聞いたこともないほど恐《おそ》ろしい、少年の断末魔《だんまつま》の叫《さけ》び声が響《ひび》き渡《わた》った。
従者は驚《おどろ》き、ドアを蹴破《けやぶ》って中に転がり込んできた。
「ま、まさか……!」
ぜんまいの部屋では、巨大な四つのぜんまいが、
ギリギリギリギリギリギリ……
と、不気味な音を立てて回っていた。巨大な振り子がゆっくりと、高い天井《てんじょう》のどこかを揺《ゆ》れていた。振り子が起こした風が我《われ》のローブをはためかせていた。
工房の真ん中に、仮面《かめん》にローブ姿《すがた》の錬金術師、つまり我が一人立っていた。
その足元にイアン・ド・マスグレーブが倒《たお》れていた。
かわいらしいその顔は、見る影《かげ》もないほど恐怖《きょうふ》と苦痛《くつう》に歪《ゆが》んでいた。ぽかんと開かれた口の周りに金色の粒《つぶ》が幾《いく》つか固まり、きらきら輝《かがや》いている。
仰向《あおむ》けに倒れたイアンの白い腹《はら》を食い破り――
大きな金色の花が――
咲《さ》き誇《ほこ》っていた。
金の飛沫《しぶき》が飛び、イアンの腹を内側から破って内臓《ないぞう》や肉や皮膚《ひふ》と混《ま》ざり合って、大きく開けた腹の穴《あな》から、丸く、まるで花が咲いたように覗《のぞ》いていた。
そしてそれはまだ温かく、沸騰《ふっとう》した血と混ざり合い、どろどろと腹に開いた穴からこぼれ落ち続けていたのである。
従者《じゅうしゃ》が叫び声を上げ、それから我に飛びかかってきた。
「き、貴様、ぼっちゃまになにをした!?」
我は落ちついて、愚鈍《ぐどん》なほど正直に答えた。
「溶《と》かした金を飲ませたのだ。金は喉《のど》から胃に流れ込み、その高熱によって、腹を食い破って外に出てきた。そのショックでこの少年は死んだのだ」
「き、貴様……ッ!」
従者は怒《いか》りに震《ふる》え、我の仮面を指差して叫んだ。
「まさかただで済《す》むと思っていないだろうな。これは殺人なのだ。しかも、貴様のような正体のわからない平民が、貴族のご子息を殺したのだぞ!」
「もちろんわかっているとも」
「貴様……ッ!」
「だがしかし、法廷《ほうてい》で立証《りっしょう》できるかね、とマスグレーブ男爵《だんしゃく》に伝えたまえ」
従者は一瞬《いっしゅん》、呆《ほう》けた顔をした。
ギリギリギリギリギリギリ……。
巨大なぜんまいが音を立てて回り続ける。
我はせせら笑った。振《ふ》り子がゆっくり揺れ、乾《かわ》いた風をつくって我のローブをふわりとはためかせた。
「汝《なんじ》、我の言っている意味がわかるかね? よいか? マスグレーブ男爵は自らの権限《けんげん》で、ソヴュールの法廷において今夜、証明したばかりなのだ。『錬金術は存在《そんざい》しない』と。そしてついさっき、汝はこの工房《こうぼう》のどこにも金がなかったことを確認《かくにん》した。しかしドアを開けるとイアンは金を飲んで死んでいた。いいかね? この金は、錬金術によって造《つく》られたのでなければ、いったいどこから現《あらわ》れたのだね?」
従者がその場に膝《ひざ》をつき、両手で顔を覆《おお》った。
我は肩《かた》を震わせ、高笑いした。その甲高《かんだか》い声が高い天井の上まで響き渡っていく。振り子が揺れる天井。その底知れぬ闇《やみ》。我の笑い声はどこまでも上がっていく。
「誰も我を裁《さば》けまい。誰も、誰もだ!」
その日から、我の時計塔《とけいとう》は外をぐるりと王立|騎士団《きしだん》に囲まれ、監視《かんし》されるようになったのだった。我は時計塔から一歩も出られず、ただ実験を繰り返すばかりであった。
我はイアンを殺した夜以来、少年の亡霊《ぼうれい》に悩《なや》まされていた。腹に金の花が咲く少年が、あの角にも、この廊下《ろうか》にも、階段《かいだん》の上にも立って、我を追いかけ回していた。実験に明け暮《く》れる我の傍《かたわ》らにはいつもイアンがいて、悲しそうに我を見上げているのである。
イアンに非《ひ》はなかった。
我は、自分を慕《した》って会いにきてくれた無邪気《むじゃき》な少年を殺したのだ。
あの夜は怒りと屈辱《くつじょく》のほかなにも感じられなかったが、自責《じせき》の念は夜毎《よごと》我を蝕《むしば》んだ。
時計塔は不気味な闇に覆われ始めた。なぜか周囲のブナの木が枯《か》れ始め、そして、まるで死装束《しにしょうぞく》のような暗い蜘蛛《くも》の巣が覆いだしたのである。
学園の生徒たちは、この時計塔を取り巻《ま》く不吉《ふきつ》な空気を感じていたのだろうか? 我にはわからぬ。ここの生徒は誰も、一言も口を聞かずまるで機械|仕掛《じか》けのように動くだけの奇妙《きみょう》な子供《こども》たちばかりであった。子供たちが何者で、ここでなにを教えられているのか、我にはわからなかったのである。
そして、ある日のことである。
我がいつものようにぜんまいの部屋にうずくまり実験に明け暮れていると、どこからか人の近づく足音が聞こえてきた。訪ね人などここにはこぬ。おそらく少年の亡霊が歩き回っているのであろう。そう思いながら我は、顔を上げることもせず、黒檀《こくたん》の大テーブルに向かっていた。
かっ、かっ、かっ……。
ブーツの踵《かかと》が立てる小気味いい音が近づいてきた。
もとは上質《じょうしつ》だがずいぶん履《は》き古したブーツが見えた。
その亡霊は我《われ》の傍らにじっと立って、待っていた。根負けして我はゆっくりと顔を上げた。
――一人の青年が立っていた。
薄闇《うすやみ》に沈《しず》む工房に、まるで亡霊のように立つその人物。壁掛《かべか》けランタンの橙色《だいだいいろ》の光が逆光《ぎゃっこう》となり、顔を見ることができなかった。青年が体を揺《ゆ》らすと、ランタンの光がずれてその顔が見えた。
「……イアン」
見慣《みな》れた亡霊に、我は疲《つか》れた顔で椅子《いす》から立ち上がった。すると相手は驚《おどろ》いたように一歩、下がった。それから小首をかしげて、我を不思議そうに見上げたのである。
――イアンではなかった。
我はどうかしていたのである。その青年はイアンより少し年上であった。塔に籠《こ》もり、亡霊ばかり見ていたために、我はおかしくなっていたのであろう。しかし、この青年がイアンにどこか似《に》ていたのも確かであった。おそらく、その物腰《ものごし》にきわめて無造作《むぞうさ》な雰囲気《ふんいき》と、貴族《きぞく》的な気品を同時に感じるからであろう。イアンも、品はいいが貴族にしては飾《かざ》らない人間であったのだ。
我は改めて、その青年をよく観察した。
柔《やわ》らかそうな髪《かみ》は無造作に結ばれ、若馬《わかうま》のしっぽの如《ごと》く、ほっそりした背中《せなか》にこぼれ落ちていた。顔は青ざめ、瞳《ひとみ》にはどこか悲しげな光をたたえていた。年の頃《ころ》は十八、九|歳《さい》であろうか。いかにも貴族的な美貌《びぼう》をしている割《わり》に、洗《あら》い晒《ざら》しのシャツに細身のズボンというずいぶんと飾り気のない服装であった。
「よろしく」
青年は薄い唇《くちびる》を開くと、ゆっくりと言った。そして、
「ぼくはアルベールといいます」
と、短く名乗った。
出会った瞬間《しゅんかん》に我が感じたことは、このアルベールがどこかおかしいということであった。物静かで飾り気のない美貌の下に、不気味ななにかが潜《ひそ》んでいるのが、その瞳を見たときにわかったのである。なにかこの世ならざるものにとりつかれたその瞳――。
アルベールはオカルト省の役人であった。
「ぼくは、君を守るためにきたのです」
「……は? 守るとは、なにからだね?」
「もちろん、国王から」
アルベールはひっそりと笑った。
「……国王から?」
「ええ」
彼は工房《こうぼう》に入ってきてからずっと深刻《しんこく》そうな顔をしてはいたが、そのとき我はふいに、なぜか、この男はふざけているのではないか、と感じたのである。
彼にとってはすべてがお遊び、神のサイコロ遊びのようなもの――。
なぜそう思ったのかわからぬ。アルベールは悲しそうな声で、
「このままだと君は国王によって消されてしまいます。君の力を恐《おそ》れているし、マスグレーブ男爵《だんしゃく》を始めとする現実派《げんじつは》のおじさんたちは、君を亡《な》き者にしようと必死ですから。それに我がオカルト省も、国王を敵《てき》に回してまで、我らに非協力的《ひきょうりょくてき》である君を助ける気はありません」
「あぁ……」
「だけど、ぼくは手を貸《か》してあげてもいいと思っています。条件次第《じょうけんしだい》ですが」
「条件だと? ……なんだ。つまり、汝《なんじ》も金がほしいのかね?」
アルベールはくすくす笑いした。
「いりませんよ。そんな悪趣味《あくしゅみ》なもの」
物憂《ものう》げに髪をかきあげて、
「ぼくはただ……。リヴァイアサン、ぼくはただ、嵐《あらし》の準備《じゅんび》がしたいだけなんです」
「嵐、だと?」
「ええ。君はもう気づいていますか、リヴァイアサン? それとも植民地を巡《めぐ》る利権《りけん》争いに必死で、まだ気づいていないのですか?」
「……降参《こうさん》だ。いったいなんのことだね?」
「かつてない嵐がやってくるのです。一度目の嵐が」
とつぜんアルベールは低い声になった。さっきまでの悲しげな笑顔《えがお》はなく、その表情《ひょうじょう》には恐ろしい暗い情熱が宿っていた。瞳は見開かれ、どこか虚空《こくう》を見ているようであった。まるで予言者のように、悲しげに表情を曇《くも》らせて両手を広げ、そして彼は話し出したのである。
「国王はまだ気づいていません。先が見えないお人だから」
「嵐とはなんだね?」
「|世界的な大戦《グレート・ウォー》ですよ、リヴァイアサン」
我は笑った。
「戦争かね? そんなものは、紀元前からこのヨーロッパ大陸ではいつでもどこかとどこかがやっているではないか? 戦争か疫病《えきびょう》か、そのどちらかの嵐が必ず吹《ふ》き荒《あ》れているのが、歴史というものだ。……で、今度はどことどこだね?」
「どこでもない。そしてどこでもある」
アルベールの声は恐ろしかった。低く、不気味に、闇《やみ》に沈む工房に響《ひび》き渡《わた》ったのである。
「いいですか、リヴァイアサン。今度くる嵐はそんな局地的なものではないのです。特定の国がある領土《りょうど》やある恨《うら》みを巡って対立するのではない。いいですか。ここ数年のうちにくる嵐は、かつてない規模《きぼ》のものになるのです。ぼくにはわかってる。そのとき世界のあらゆる国が、同盟《どうめい》を結び合い、いがみ合って離《はな》れ、また結び……悪夢《あくむ》のように互《たが》いに入り混《ま》じり狂乱《きょうらん》を繰《く》り広げる数年間がやってきます。それが、大戦です。わかりますか? それはソドムだ。狂《くる》った饗宴《きょうえん》だ。誰にも止めることはできないし、後世になっても、なにが本当のきっかけでどうしてそんなことが始まったのか、誰にも解《と》き明かすことはできないでしょう。炎《ほのお》と風が世界を覆《おお》い尽《つ》くすでしょう。あらゆる街が、海が、戦いの舞台《ぶたい》となり、たくさんの兵士が血を流し、そしてある国は消滅《しょうめつ》する」
「…………」
「それはいつやってくるのか、どのように破壊《はかい》が始まるのか、ぼくにはわからない。そこまでは見えない。苦しいですよ、リヴァイアサン。そしてその嵐の後、なにもかもが変わり始めることでしょう。世界は新しいルール、新しい生活様式を取り入れ始め、いま世界の真ん中であるはずのこのヨーロッパは古いガラクタになる。そしていつしかここはこの世の果てになってしまうでしょう。そうなれば、ぼくたちが信じているもの、ヨーロッパが長き歴史にわたって大切にしてきた知識《ちしき》――オカルトもまた古《いにしえ》の迷信《めいしん》として消えてしまう。世界はどこかに滑《すべ》り落ちていく。ぼくたちのまだ知らないどこかに。恐ろしいことです。だからぼくたちは戦いの用意をしなくちゃいけないのです、リヴァイアサン」
アルベールは悲しげにつぶやいた。
「なんといっても、ソヴュールは小さな王国です。ぼくたちはこの国を守らなければならない。どんな手を使ってでも。……だけど国王はわかっていない。もちろん、ぼくのパパも」
我《われ》はアルベールの熱に魘《うな》されたような声に、そのとき、知らず怯《おび》えを感じて震《ふる》えたのである。
この静かな青年は狂っていると、また勘《かん》が告げた。だけど彼が語る未来観に奇妙《きみょう》なリアリティを覚えたのもまた事実である。あるいは狂っているからこそ不吉《ふきつ》な未来を予期することができるのであろうか……。
我の脳裏《のうり》にも、まだ起こっていないはずの、アルベールが語っただけのはずの、狂乱のソドム、かつてない大きな嵐――世界大戦《グレート・ウォー》の様子が浮《う》かび上がった。血を流す兵士、見たことのない鉄の塊《かたまり》のような乗り物、空を行きすぎる爆撃機《ばくげきき》の立てる鈍《にぶ》いプロペラ音……。
アルベールはまるで予言者のように、暗黒の未来を語り終わると悲しげに瞳《ひとみ》を伏《ふ》せていた。それから我の膝《ひざ》にほっそりした手のひらをおいて、まるで女人《にょにん》のような細いささやき声で、
「君の力を借りたいんだ。その代わり、全力で君の命を守る。ぼくの権力は、パパが生きているいまはまだ限《かぎ》られているけれど……」
「我の力を借りるだと? くるかもしれないしこないかもしれない、未来の世界大戦のためにか?」
「ええ。絶対《ぜったい》に必要なものがあるんです」
我はうんざりした声で聞いた。
「つまり、汝《なんじ》も金がほしいのだろう?」
「まさか!」
吐《は》き捨《す》てるような返事であった。
「そんなものはこのぼくには必要ない。ぼくが君に与《あた》えてほしいのは、そんなものじゃない! それはもっともっと根元的な力だ!」
アルベールは狂った瞳を見開いて、我をみつめた。
「リヴァイアサン、あんたはそれを造《つく》れる唯一《ゆいいつ》の人だ。おそらく嵐《あらし》のソヴュールの切り札になる。その謎《なぞ》めいた仮面《かめん》の下にあるものがヨーロッパ大陸を戦いから、荒廃《こうはい》から救うことになるでしょう。お願いです、力を貸《か》してください」
「……我に、いったいなにを造らせようと言うのだね?」
そう問うと、アルベールはにやり、と笑った。
薄《うす》い唇《くちびる》がひきつれる。
「それは……」
そしてアルベールはついに、我に造ってほしいものの名を口にしたのである。
呪《のろ》われたその名を。
自然の摂理《せつり》にもっとも逆《さか》らう、オカルティックなその名を……。
「――戦士《ホムンクルス》!」
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第五章 さらば、怪物《かいぶつ》よ
1
「……………………えぇ〜!?」
聖《せい》マルグリット学園の敷地《しきち》は、青々とした芝生《しばふ》や華《はな》やかな花壇《かだん》が、夏の日射《ひざ》しを浴びて眩《まぶ》しく輝《かがや》いていた。クリスタルの噴水《ふんすい》から涼《すず》しげにこぼれ落ちる水にも、白い小石を敷《し》きつめた小径《こみち》にも、日射しが照り返している。
――その一角。小川のせせらぎも心地《ここち》いい、色とりどりの花壇の真ん中で、セシル先生がぶつぶつと独《ひと》り言を続けていた。
「ま、まさかそんなことになってたなんて……。久城《くじょう》くんを取らないでって、そんな、あらまぁ、まぁ……? でも、ま、久城くんは素敵《すてき》な男の子だものね。とってもいい子だし、優《やさ》しいし、それにそこはかとなくおもしろいもの。でも、でも……。むむーん……」
夏の日射しはお昼を過《す》ぎて少しずつかたむいてきていた。小径の向こうを、どうやってだかゴールデンドリルをセットし直して尖《とが》らせたブロワ警部《けいぶ》が、手をつないだ部下たちを連れてうろうろと通り過ぎていくところだった。ヴィクトリカの姿《すがた》はもうどこかに消え、ついで、意気|消沈《しょうちん》していたアブリルもとぼとぼと校舎《こうしゃ》に向かって遠ざかろうとしていた。
セシル先生はさっき時計塔《とけいとう》に眼鏡《めがね》を忘《わす》れてきたまま、眼鏡なしで立っていた。レンズ越《ご》しではないその垂《た》れ目がちのブラウンの瞳《ひとみ》は、いつもより大きく、うるうると潤《うる》んでみえた。強い風が吹《ふ》くと、セシル先生はおっとっと、とよろめいて花壇の中に落っこちそうになった。あやういところで踏《ふ》みとどまって「ふー……」と安堵《あんど》のため息を一つ。
それから、ポンと手を叩《たた》いた。いいことを思いついたというように顔を輝かせ、
「ちょっと、整理してみましょう」
セシル先生はきっぱりと言った。
それからその場にしゃがむと、小枝《こえだ》を一本拾って握《にぎ》りしめた。地面にかきかきと図を描《えが》いていく。三角形の角のところにV≠ニK≠ニA≠書くと、じつにいきいきと、
「ええと、まずアブリルさんはじつは久城くんが好き、と……。いったいいつからかしら? 転校してきたときは、確《たし》か、死神《しにがみ》って呼《よ》ばれてる謎《なぞ》の東洋人ってことで、怪談《かいだん》好きが高じて久城くんを追いかけ回していた気がするわ。いつのまにそれが恋心《こいごころ》になったのかしら? 先生、まったく気づかなかった。ええと、それはおいといて……。で、久城くんはどうなのかしら? ……わかんないわ。真面目《まじめ》そうだけど、あ、そうだ。金髪《きんぱつ》が好きだってもらしてた気がする!? あれ、そうじゃなくて好きな色は金色です、だったかしら? まあ、いいわ。とにかく、ということは……いや、アブリルさんもヴィクトリカさんも金髪だったわ。だめじゃん」
セシル先生は頭をもしゃもしゃとかいた。それから適当《てきとう》な様子で矢印を付け足して、
「ま、いっか。久城くんはヴィクトリカさんを好きってことにしましょう。なんとなくそんな気がする。それにそのほうがおもしろいし。で、かんじんのヴィクトリカさんは……えっと…………どうしよう?」
「先生、なにしてるんですか?」
背後《はいご》で聞き慣《な》れた少年の声がした。
セシル先生はものすごい叫《さけ》び声を上げて、ぴゅんっと立ち上がると靴《くつ》の踵《かかと》で地面に描いた図式をごりごりと消した。
「あ、えっと、誰《だれ》? 久城くん? あの、えっと……」
振《ふ》り向くと、眼鏡を握りしめた一弥《かずや》がきょとんとして先生をみつめていた。セシル先生は冷汗《ひやあせ》を拭《ふ》いて、
「先生はなにもしてませんよ?」
「はぁ。そりゃ、眼鏡がないとなにもできないでしょう? はい、これ」
一弥はいつもの通りの生真面目《きまじめ》な様子で、セシル先生の眼鏡を差しだしてきた。先生はあわててそれを受け取ると、かけた。まだ冷汗をかいている。
「ただ先生は、担任《たんにん》としていろいろと把握《はあく》しておきたいと思って、けして下世話な好奇心《こうきしん》じゃなく、その……」
「はぁ? あの、先生。ヴィクトリカがどこに行ったかわかります? 先生を捜《さが》してるうちに見失っちゃったんですけど」
「ヴィクトリカさん? さ、さぁ……」
一弥はちょっと困《こま》ったように顔をしかめた。それから「じゃあ」と歩み去ろうとするので、セシル先生はちょっと迷《まよ》った後、一弥の後を追いかけた。
「久城くん!」
「……はい?」
一弥が振り向く。
「ええと、あの……宿題ちゃんとやった? ……やってるわよね。久城くんだもん」
「はい、昨日のうちに終わらせました」
「そうよね。調子は?」
「ちょ、調子? それは異状《いじょう》なしです。ヴィクトリカを見失ったので、いま少し動揺《どうよう》してるぐらいで」
「そっか……。そうだ、悩《なや》み事は?」
一弥が足を止めた。
一瞬《いっしゅん》、黙《だま》っていたが、とつぜん堰《せき》を切ったように、
「悩み事は山のようにあるのに、さらに雨霰《あめあられ》と降《ふ》ってきます。なにはともあれ、まずヴィクトリカ。ヴィクトリカが退屈《たいくつ》だの事件《じけん》を起こせだの騒《さわ》ぐのと、ぼくにエレベーターを使わせてくれないこと、ばかだの凡人《ぼんじん》だの中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才《しゅうさい》だのとのべつまくなしけなしまくること」
「……ア、アブリルさんは?」
「アブリル? 彼女はとてもいい子です。ぼくはアブリルのことでは悩んでません。それからヴィクトリカがぼくのおみやげにけちをつけること。ほっぺたをちょっとつっついただけで吠《ほ》えること。あと……」
「あの、ほかには?」
「ほかに? ……ああ、姉から一日おきに手紙が届《とど》いて、父と兄の悪口が書いてあります。まさに雨霰です。一方兄からは、毎日のように東洋の格闘術《かくとうじゅつ》の本が届きます。一|冊《さつ》だけでよかったのに。それも雨霰です。仕方なくぼくは毎晩《まいばん》、勉強と整理|整頓《せいとん》が終わった後で格闘術の勉強までしています。それに母からは最近、なぜか大量の押《お》し花が雨霰と……」
「わかった。わかったわ、久城くん」
この人のいい東洋人少年がためているストレスに、セシル先生は目を白黒させた。話し終わった一弥が一礼して立ち去ろうとするので、先生はあわてて、本当に聞きたかった質問《しつもん》をぽんと投げかけてみた。
「で、どんな女の子が好きなの?」
「…………!」
一弥がゆっくり振り返った。
――顔が真っ赤っ赤だった。セシル先生はその真っ赤な顔にびっくりして「わぁ!」とのけぞった。一弥は女の子のように、広げた両手のひらでほっぺたを押さえて、恥《は》ずかしそうにおろおろした後、なぜかきびすを返して全速力で……。
走って逃《に》げてしまった。
セシル先生はずり落ちた丸眼鏡《まるめがね》をゆっくりと直しながら、
「……へぇ?」
と、ちょっと間抜《まぬ》けな声を上げた。
2
「まったく、セシル先生はどうしたんだろう? いきなりへんな質問して……。男子たるもの、そのようなうわついた話に花を咲《さ》かせるなんてもってのほかだよ……」
一弥はずいぶんと動揺し、ぶつぶつとなにやら言いながら急ぎ足で逃げていた。途中でつんのめり、転びそうになる。
「それに、ぼ、ぼくがど、どんな女の子を好きでも、その…………」
一弥が歩いているのは、コの字型をした大きな校舎《こうしゃ》に通じる道幅《みちはば》の広い小径《こみち》だった。夏の日射《ひざ》しを校舎が遮断《しゃだん》して、小径に影《かげ》が差していた。そこを急ぎ足で通り過《す》ぎていく。
校舎は静まり返っていた。外の小径から見える廊下《ろうか》にも、教室にも、生徒や教師《きょうし》の姿《すがた》は見えない。まるですでに夏の長期|休暇《きゅうか》が始まっているような錯覚《さっかく》を覚える光景だった。
休暇が始まれば、学園はこんなふうに人気がなくなり、まるで廃墟《はいきょ》のように静まり返るのだ。夏休みになにも予定がない一弥は、船旅で帰国するには短すぎ、のんびりと休むだけには長すぎる二か月という時間のことを思って、少し寂《さび》しい気持ちになった。
「はぁ…………あれ?」
校舎の裏口《うらぐち》。花壇《かだん》に面した三|段《だん》ほどの階段に、さっきからずっと捜《さが》していた小さな友達――ヴィクトリカ・ド・ブロワがちょこんと座《すわ》っていた。相変わらず膝《ひざ》に金色の書物を載《の》せてなにやら考え込んでいる。なぜか、色とりどりの小さな蝶《ちょう》がヴィクトリカの周りをふわふわと飛び交《か》っていた。
一弥はヴィクトリカの名前を呼《よ》びながら、小走りに階段に近づいていった。あまりにも蝶がたくさんたかっているので、ちょっとあきれて、
「ヴィクトリカ、君、もしかして髪《かみ》の毛かドレスに、植物園で散らかしていたお菓子《かし》がくっついてるんじゃないのかい?」
「……む?」
ヴィクトリカが顔を上げた。
生真面目な様子で自分の長い髪や、幾重《いくえ》ものフリルを点検《てんけん》し始めている一弥に気づくと、面倒《めんどう》くさそうに、
「君はいろいろと細かい男だなぁ!」
「ヴィクトリカ、やっぱり、お尻《しり》にマカロンの粉がくっついてるよ。でも大丈夫《だいじょうぶ》、いまはらってあげるから」
「うるさいぞ。あっちに行きたまえ。思索《しさく》の邪魔《じゃま》だ」
ヴィクトリカにほっぺたをばちんと叩《たた》かれて、一弥はびっくりしたように瞬《まばた》きした。それから、マカロンの粉をはらおうと振《ふ》り上げていた手を渋々《しぶしぶ》下ろした。
知らんぷりして考え事を続けるヴィクトリカの傍《かたわ》らにちょこんと座る。ヴィクトリカはかすかに眉《まゆ》をひそめたが、なにも言わなかった。
「……ねぇ、いったいどういうことだと思う?」
返事はなかった。
風が吹《ふ》いた。
「…………なにがだね?」
「あ、いや、この不気味な事件《じけん》だよ。ぼくには正直、さっぱりわからないよ。君は、錬金術師《れんきんじゅつし》はもういないって言う。だけどそれなら、あの時計塔《とけいとう》で繰《く》り返し起こる殺人事件は、いったい誰のしわざなんだろう? それに、塔に籠《こ》もるいやな気配……あの不吉《ふきつ》ななにかはいったいなんなんだろう?」
「さてね」
「錬金術師は死んだんじゃない。消えたんだ。でも、彼はいったいどこに行ったんだい? もし死んだのなら、死体はどこにあるんだい? そしてもし生きているのなら、どこにいるんだろうか……。もしかすると、彼はごく近くに潜《ひそ》んでいるんじゃないのかな。たとえばこの学園内のどこかに。だって、そうじゃなくちゃ、連続して起こる殺人事件の説明がつかないもの」
「…………」
「そう、誰も錬金術師の仮面《かめん》の奥《おく》を知らないんだ。それなら、彼がひそかに学園に戻《もど》ってきたとしても、誰も気づかない。……そうだろ、ヴィクトリカ?」
「ふむ……」
ヴィクトリカは気のない返事をするばかりだった。
また風が吹いた。花壇《かだん》の花々が心許《こころもと》なく揺《ゆ》れている。
「……錬金術師の居場所《いばしょ》なら、わたしには最初からわかっているよ、君」
ヴィクトリカがふいにつぶやいた。
その言葉に一弥は飛び上がった。びっくりして、問う。
「ど、どういうこと? どうしてわかったの? どこ?」
「……まだ再構成《さいこうせい》が終わっていないのだ、君。最後の一欠片《ひとかけら》がまだわたしの元に落ちてこないものでね。だが、おそらく、もうすぐだ……」
ヴィクトリカはそうつぶやくと、それきり黙《だま》ってしまった。膝の上に載せた金色の書物をただみつめている。
一弥はその横顔をじっとみつめた。
陶器《とうき》のようにきめ細かな、白い肌《はだ》。思わず人形と見間違《みまちが》えるほどの、小さくて整った顔。冷酷《れいこく》めいた緑の瞳《ひとみ》。
風が吹いた。
一弥は邪魔しないようにそっと立ち上がると、花壇を離《はな》れた。
ヴィクトリカはなにも言わずただそこに座り続けている。
歩きだした一弥は、大柄《おおがら》な老人とすれ違った。二十年も前から働いているという大工の老人だ。彼は一弥と行き違いに、花壇のほう――ヴィクトリカがいるところに向かっていく。
一弥はなにか気になって振り返ろうとしたが、そのとき、視界《しかい》の隅《すみ》を横切った赤い髪に気づいて、あわててそちらに視線を戻した。
校舎前《こうしゃまえ》の花壇からは遠く……時計塔の前の小径《こみち》を、人目を避《さ》けるように早足で歩いていく背《せ》の高い男の姿《すがた》が見えた。
びゅっ……と強い風が吹《ふ》いて、男が目深《まぶか》に被《かぶ》った帽子《ぼうし》が飛ばされた。男は風に巻《ま》き上げられていく帽子をしばらく見上げていたが、飛ばされていく方向に追おうとはせず、それきり帽子のことは忘《わす》れたように、髪《かみ》をなびかせてまた歩きだした。
奇妙《きみょう》なほどの執着《しゅうちゃく》のなさだった。風に飛ばされた帽子を拾おうとしない。
強い風がまた吹いて、男の赤い髪を燃《も》え広がらせた。
それは――まさに炎《ほのお》の如《ごと》く赤い、そして激《はげ》しさを秘《ひ》めた髪だった。ちろちろと揺れる暗い炎。風に煽《あお》られて勢《いきお》いを増《ま》すようにさらに燃え広がる。
一弥の視線を感じたように男が髪を揺らして振《ふ》り向いた。遠くからでも、猫《ねこ》のようなつり上がった緑色の瞳がギラリと輝《かがや》くのが見えた。
遠目にも鮮《あざ》やかな、彫《ほ》りの深い美貌《びぼう》。古代の彫刻《ちょうこく》を思わせる鮮やかな美。
「あの男には、見覚えがある――!」
一弥はつぶやいた。
今朝、時計塔の前で警部《けいぶ》の部下二人に連れられてきたときには気づかなかった。だがいま、帽子の下の赤い髪と緑の瞳を目にした瞬間《しゅんかん》、一弥ははっきりと思いだした。
「ぼくは、ソヴレムであいつを見た――! そうだ、ソヴレムにあった、まるでピラミッドみたいな異国風《いこくふう》の劇場《げきじょう》だ。その前であいつが馬車から飛び降《お》りるところを見たんだ。あいつは……」
男もまた、じっと一弥をみつめている。二人の緑と漆黒《しっこく》の瞳がひたと睨《にら》みあった。
「ブライアン・ロスコーだ――! チェスドールを持って劇場に入っていった、赤い髪の奇術師《きじゅつし》!」
数週間前、一弥は買い物をするために一人でソヴュールの首都ソヴレムを訪《おとず》れた。そのときにとある劇場の前で、この男、ブライアン・ロスコーを見たのだった。劇場に掲《かか》げられた彼の出し物は〈ファンタスマゴリア〉と銘打《めいう》たれていて、〈人体|切断《せつだん》〉に〈チェスドール〉、そして〈瞬間|移動《いどう》〉などの芸が宣伝《せんでん》されていた。そして華《はな》やかなポスターには、
〈今世紀最大の魔術師《まじゅつし》 ブライアン・ロスコー〉
そう書かれていたはずだ……。
しかしその名に、一弥は聞き覚えがあった。ヴィクトリカの母、コルデリア・ギャロが生まれ育った、山奥の灰色狼《はいいろおおかみ》たちの村。そこにやってきた狼の子孫、村に近代的な設備《せつび》を施《ほどこ》した謎《なぞ》の青年の名もまた、ブライアン・ロスコーと言った。彼は村にコルデリアが残していったなにか≠床下《ゆかした》から持ち去り、代わりに一|枚《まい》の写真を残していった。大人になったコルデリアと、小さな娘《むすめ》ヴィクトリカの写真を。
(あのとき……ソヴレムで彼を見たときは、きっと同姓《どうせい》同名の人物だろうと思ったんだ。ヴィクトリカや彼女のおかあさんには関係ないだろうって……。だけど、こんな偶然《ぐうぜん》があるわけない。たまたま同姓同名の人物が、たまたまヴィクトリカが幽閉《ゆうへい》された聖《せい》マルグリット学園にやってくるなんて。あるわけない……!)
一弥はごくっと唾《つば》を呑《の》んだ。赤毛の男は一弥から目をそらすと、ゆっくりと時計塔の中に消えていく。
一弥はこぶしを握《にぎ》りしめた。
(やっぱり彼はあのブライアンなんだ。だけど、なぜここに現《あらわ》れたんだ……?)
時計塔は静まり返っていた。
男――ブライアン・ロスコーは緑の瞳《ひとみ》を光らせ、ゆっくりと階段《かいだん》を上がっていた。
ギリギリギリギリギリギリ……。
ぜんまいが絡《から》み合い、きしむ音が遠く聞こえてくる。それに耳を澄《す》ませながらまた一歩、階段を上がろうとしたとき、ブライアンの耳にかすかな、別の物音が届《とど》いた。
足を止め、ゆっくり振り返る。
それは軽い足音だった。若《わか》さと線の細さを感じさせる、小さな足音。だがその主はブライアンの様子をひっそりうかがうように、息をひそめ、足音を立てぬようにこっそりと時計塔に入ってこようとしていた。
(何者だ……?)
ブライアンは、コキンッと音を立てるほど大きく、首を横にかしげた。燃え立つ赤い髪が、怒《いか》りと疑念《ぎねん》にぶわっと広がった。
(この俺《おれ》をどうする気だ? ふむ……おもしろい。なぶってやろう)
ブライアンはゆっくり、階段を上がった。暗い廊下《ろうか》を歩き、ぜんまいの部屋に入る。
ギリギリギリギリギリギリ……。
音が響《ひび》く。
錬金術師《れんきんじゅつし》の工房《こうぼう》は、灰色に沈《しず》んでいた。遥《はる》か上の天井《てんじょう》まで高く吹き抜《ぬ》け、埃《ほこり》っぽい乾《かわ》いた空気に満ちていた。その空気を斬《き》る巨大《きょだい》な刃物《はもの》のように、振り子が右に、左に……ゆっくり揺《ゆ》れていた。
巨大な四つのぜんまいが、きしみ、怪物《かいぶつ》の悲鳴のような鈍《にぶ》い音を上げている。一つ一つがほかのぜんまいと絡み合い、歯車をきしませながら、のたうつように動き続けている。
まるで悪夢《あくむ》の製造装置《せいぞうそうち》の中にいるような、非現実《ひげんじつ》感――。
ブライアンは眉《まゆ》をひそめ、工房を見渡《みわた》した。
それから、また耳を澄ました。
……かすかな足音は、ブライアンの気配を捜《さが》しながらゆっくり近づいてきていた。階段を上り、廊下を歩き、そして工房の前で逡巡《しゅんじゅん》している。
(怯《おび》えているのか……? 震《ふる》えているのか……? ふむ、おもしろい。そのまま逃《に》げ帰るなら、逃がしてやるが。しかし、何者だ?)
ブライアンは、待った。
しかしその足音の主は、逃げなかった。そっとドアを開けて工房に一歩、入ってきた。
ブライアンはドアの陰《かげ》から飛びだし、足音の主にがっしりした腕《うで》を伸《の》ばした。意外に細い、相手の首を背後《はいご》から乱暴《らんぼう》につかみ、振《ふ》り返らせる。
「…………ん?」
相手はあっと叫《さけ》んで振り返り、ブライアンの顔を睨《にら》みあげていた。しかしブライアンのほうも驚《おどろ》いて、その足音の主――線の細い、小柄《こがら》な、そしてどうやら東洋人らしき漆黒《しっこく》の髪《かみ》をした少年を見下ろした。
少年の、髪と同じ漆黒の瞳は、ブライアンを恐《おそ》れるように、しかし意志《いし》の強さもうかがわせる強い視線《しせん》で睨みかえしている。
ブライアンは不思議そうに首をかしげた。少年――久城一弥の姿《すがた》を頭のてっぺんからつま先までじろじろと見ると、
「なんだ、子供《こども》か。しかも東洋人の」
手を離《はな》そうとした。
しかしその前に、一弥が体をくるりとひねってブライアンの大きな手から逃《のが》れた。その動きにブライアンははっと息を呑み、それから、なにか考え込《こ》むように眉をひそめて一弥を観察し始めた。
一弥は黒い瞳を細め、じっとブライアンをみつめている。
「……思い出したぞ。ソヴレムだ。劇場《げきじょう》の前だ……。俺たちはそこで出会ったことがあるな? そう、俺がチェスドールを運び込んだときのことだ」
一弥が口を開いた。低い、警戒心《けいかいしん》の強い声で、
「ブライアン・ロスコー。あなたはなにをしにこの学園までやってきたんだ? 目的はヴィクトリカだろう? 彼女をどうするつもりなんだ?」
その言い方がまるで大人の男のようだったので、ブライアンはおもしろくなり、にやっと笑った。それから不審《ふしん》なものを見るように一弥をじろじろとみつめた。
「ふむ……? おまえはヴィクトリカのなんなんだ?」
「ぼくは久城。ヴィクトリカの、と……友達だ!」
一弥が内心の怖《おそ》れを隠《かく》すように胸《むね》を張《は》って言うと、ブライアンは一瞬《いっしゅん》、呆《ほう》けたような表情《ひょうじょう》を浮《う》かべた。それから腹《はら》を抱《かか》えて笑いだした。
「な、なにがおかしい?」
「これが笑わずにいられるか! いいか、少年。よく聞け。灰色狼《はいいろおおかみ》に友達なんてできない。あの〈名もなき村〉ならいざ知らず、都市に暮《く》らす灰色狼は人に慣《な》れることはない。人もまた灰色狼を恐れるばかり。近づいてくるのは、その力を利用しようとする者どもばかりだ」
ブライアンの声が、少しずつ悲しげなトーンに変わっていった。
脳裏《のうり》にさまざまな情景が浮かんでは消えていた。都市に生きる灰色狼……。その歴史のさまざまな苦悩《くのう》の欠片《かけら》が、ブライアンの脳裏を横切っていく……。
それから一瞬、都市でついに出会った、同じ血を持つ、あの女性《じょせい》の小さな姿も……。
ブライアンは緑の瞳《ひとみ》を猫《ねこ》のように細めると、かすかに吐息《といき》をついた。
一弥が警戒しながら、震える声で言った。
「そんなことはない。ぼくとヴィクトリカは友達だ。確《たし》かに最初は取っつきにくかったし、いまでもまったくもってわけがわからないけど、それでも、ぼくたちは確かに友達なんだ」
「灰色狼のか? ははははは!」
ブライアンがヒステリックに笑いだす。
「……おかしいか? ぼくはぜんぜんおかしくないぞ」
一弥の真剣《しんけん》な顔に、ブライアンは笑うのをやめた。それからひたと睨みつけた。
ギリギリギリギリギリ……。
巨大《きょだい》な四つのぜんまいが互《たが》いに絡《から》みあい、回り続ける鈍《にぶ》い音が部屋の中に満ちていた。かすかな風が吹《ふ》いて、ブライアンの赤毛と、一弥の漆黒の髪を揺《ゆ》らしていく。巨大な振り子がゆっくり、ゆっくりと上空を横切っていく。
壁《かべ》にはめ込まれたステンドグラスの花畑は、色とりどりの花を暗く咲《さ》かせていた。たくさんの黄色の花、紫《むらさき》の花、一つだけの赤い花……。
大きな黒檀《こくたん》のテーブルには、埃《ほこり》を被《かぶ》った実験道具が散らばっていた。時の止まった不気味な工房《こうぼう》……。
ブライアンは急にずるりと舌《した》なめずりした。赤い舌は人間のものより少し長くも見えた。唇《くちびる》の端《はし》から犬歯が少し覗《のぞ》く。
生臭《なまぐさ》いような不気味な臭《にお》いが、とつぜん工房に充満《じゅうまん》した。ブライアンには、一弥がいまにも逃げ出すかに思えたが、少年は意外なことに、背中を見せて走り出したりはしなかった。
(おもしろい……!)
ブライアンが跳《と》んだ。
一弥が真横に跳びすさる。たったいままで一弥がいた場所に、ブライアンが着地する。そしてぐるんと首を真横に動かして、一弥を見た。まるで動物が獲物《えもの》をみつけたような舌なめずりをすると、つぶやく。
「ふむ。俺は様子を見にきただけだ。友人がこの学園に別の用があったので、一緒《いっしょ》にな」
「……様子? ヴィクトリカのか?」
「ああ。例の灰色狼が近いうちにどこかに移送《いそう》される、そういう噂《うわさ》を聞いてね。見ておくならいまのうちだと思ったのだが、しかしあれは……予想より早く成長していた」
「成長って、ヴィクトリカが?」
「体ではない……」
ブライアンはつぶやいた。そして暗い声で、
「頭脳だ――!」
数刻前《すうこくまえ》、ほんの一瞬《いっしゅん》の出会いでブライアンは悟《さと》っていた。
彼が都市でようやく出会った、同じ血が流れる同胞《どうほう》、コルデリア・ギャロ。彼女は小さく、美しく、だがどこか様子がおかしかった。生まれた村を追いだされ恐怖《きょうふ》に震《ふる》えて山を降《お》りたとき、彼女のなにかが変わってしまったのだろう。踊《おど》り子として働く小さな美しい同胞を、ブライアンは大事に見守ってきた。
だが、ある夜――。
華《はな》やかな音楽とダンス、嬌声《きょうせい》に揺れる客席に、不吉《ふきつ》な客がやってきた。客はコルデリアをみつけ、そして彼女は姿《すがた》を消した。数年後、再会《さいかい》したコルデリアは、とある貴族《きぞく》――あの夜の客だ――の城《しろ》で娘《むすめ》を産み落とした後、娘を取り上げられたのだと語った。
ブライアンはなにより、その産み落とされた娘を恐れた。灰色狼《はいいろおおかみ》と人間とのあいだに生まれたその娘。塔《とう》に幽閉《ゆうへい》されていた小さな娘は聖《せい》マルグリット学園に移送された。そして一部の噂では、学園から再《ふたた》びどこかに姿を消すかもしれぬという……。ブライアンは学園に出向き、様子を見ることにした。娘の成長をこの手で見届《みとど》けなければ、と。
そして今日、ブライアンはみつけた。小さな娘。おそるべき奇怪《きかい》な、膨大《ぼうだい》な、そう、まるで古代から現在《げんざい》までのあらゆる知識《ちしき》やインチキや美しいもの、醜《みにく》いもの、すべてを納《おさ》めて混乱《こんらん》させたかのような、巨大な迷路《めいろ》の如《ごと》き頭脳。
選ばれた灰色狼。素晴《すば》らしいその力。
だがしかし、その存在《そんざい》は、国家によって囚《とら》われの身となっていたのだった。哀《あわ》れな小さな娘。
初めからあの貴族の目的はこれだったのだ。そうわかったとき、ブライアンは怒《いか》りと恥辱《ちじょく》に震えた。
「問題だって……? だけど、ヴィクトリカはなにも悪いことをしていないぞ。どうしてそんなことを言うんだ?」
気づくと、東洋人の少年は怒りで肩《かた》を震わせて問いかけてきていた。ブライアンはその顔に、思わず笑いだした。
やっぱり、人間の子供《こども》はなにもわかっていない、と独《ひと》りごちる。笑うあまり口角から泡《あわ》を吹きだし、いまにも転げ回りそうなほど笑い続けていたが、やがてようやく落ちつくと、
「悪いことはしていない? そんなことは知っている。問題は、あの生き物は囚われの身だということだよ」
低い声でそうつぶやいた。
「俺たち――〈古き者たち〉の力を利用するもの達は、敵《てき》だ。俺たちは平和と、変化しない歴史を望む。変わらぬ明日のような日々を。永遠《えいえん》の中世を。それは近代においては叶《かな》わぬ願いかもしれないが、俺たちは最後まで抵抗《ていこう》し、戦うだろう。この旧大陸《きゅうたいりく》には俺たちのような灰色狼以外にも、さまざまな〈古き者たち〉が潜《ひそ》んでいる。彼らは息を殺して、敵陣《てきじん》に囚われた仔狼《こおおかみ》のことを考えているのだよ。変化は俺たちの自由を奪《うば》う。あの子供はなるほど、コルデリアの娘で、我《われ》らの同胞の血が流れている。だが残りの半分の血は、ちがう。この国の中枢《ちゅうすう》を担《にな》う貴族の血だ。そのことを忘《わす》れるわけにはいかない」
「…………!」
「今日、俺は確認《かくにん》した。あれは|美しき怪物《モンストル・シャルマン》≠セ。あの小さな頭……あれこそが……」
声は不吉に震えた。
「あれが〈古き者たち〉の大陸、ヨーロッパの最後にして最大の力だ」
ブライアンは一歩、一歩、一弥に迫《せま》ってきた。
ギリギリギリギリギリ……。
ぜんまいが音を立てて回る。
一弥が工房《こうぼう》の中を見渡《みわた》している。
ブライアンは逃《に》がすものかと舌《した》なめずりした。そして猫《ねこ》が鼠《ねずみ》で遊ぶように、一弥に飛びかかり、危《あや》ういところで取り逃がしてはまた追いつめることを繰《くり》り返した。しかし、腕《うで》を取って押《お》さえつけようとすると、少年にするりと逃げられる。飛びかかった場所にはもういない。少し焦《あせ》りながら目で追うと、一弥は床《ゆか》を蹴《け》って逃げ、テーブルの上に飛んでなにかをつかむと、つぎに巨大《きょだい》なぜんまいに向かって飛んでいた。ブライアンはそのすばやい動きに驚《おどろ》き、眉《まゆ》をきゅっと細めた。
[#挿絵(img/04_255.jpg)入る]
一弥はぜんまいの上に着地すると、動き続けるそれの上を走り、つぎのぜんまいに飛び移《うつ》る。
ブライアンも床を蹴って飛び、ぜんまいの上に飛び乗って一弥を追う。
一弥が二つめのぜんまいの上を走る。
三つめに飛び移る。
そして四つめのぜんまいの上に飛び移った。もう、つぎはない。ブライアンは今度こそこのちょろちょろとうるさい鼠を追いつめたと確信した。にやにや笑いながら自分も四つめのぜんまいに飛び移ろうとしたとき、少年がなぜか足を止め、くるりとこちらに振《ふ》り返った。
ブライアンは目を見開いた。
ぜんまいの動きによって、一弥の体は勢《いきお》いを増《ま》してブライアンのほうに押し戻《もど》されてくる。少年はその手にいつのまにか、黒檀のテーブルに置かれていた鉄の器具を握《にぎ》りしめていた。ぜんまいのスピードに乗って飛びかかってきた少年に、顔面を思い切り鉄の器具で殴《なぐ》られたブライアンは、たまらず足を止めて、両手で顔を覆《おお》った。
二つのぜんまいのあいだに吸《す》い込まれる寸前《すんぜん》のところで体を捻《ひね》り、獣《けもの》のように咆哮《ほうこう》しながら、遥《はる》か下の床に転がり落ちていく。
やっとのことで片目《かため》を開けると、あの小柄《こがら》な東洋人の少年がすばやく飛び降《お》りてくるところだった。その漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》は澄《す》んでいて、目前の自分を倒《たお》すことしか考えていないようだった。邪気《じゃき》のない、揺《ゆ》るがない黒い瞳。ブライアンは咆哮し、とっさに体を右に倒して避《よ》けた。一弥の体が、たったいままでブライアンの倒れていた床に着地する。彼が握りしめる鉄の器具が、ガチンと鈍《にぶ》い音を立てて、ブライアンの頭があった辺りの床にめりこんだ。
一弥が振り向いた。
その瞳の、あまりにも静かな、しかし譲《ゆず》らない決意を秘《ひ》めた輝《かがや》きに、ブライアンは怖《おそ》れを感じた。それを打ち消すように叫《さけ》び声を上げて、片目を押さえたまま一弥に飛びかかる。ぱっと飛びすさってよけた少年を追い、腕を蹴り上げた。細い腕を折らんばかりの衝撃《しょうげき》を与《あた》えた手応《てごた》えがあった。少年は小さく声を上げたが、握った鉄の器具を離《はな》さない。ブライアンは二度、三度と蹴り続けた。ついに少年の手から鉄の器具が落ちた。ブライアンがそれを拾おうとすると、一弥の足が伸《の》びて鉄の器具を遠くに蹴り飛ばした。
そして床を蹴って飛び上がり、ブライアンの上に馬乗りになってきた。少年がこぶしを振り上げてブライアンの顔面を殴る。だが、素手《すで》の力は自分のほうが数倍勝っていることに、そのパンチでブライアンは気づいた。下から思い切り少年を殴り返す。左目の上を殴られた一弥は、どうやら気が遠くなったようで、ふわりと体重が軽くなる。
ブライアンは起きあがり、一弥の上にのしかかった。拳《こぶし》を振り上げて殴打しようとしたとき、少年がなにか叫んだのが聞こえた。
耳を澄ます。
一弥がもう一度、叫んだ。
「――ヴィクトリカを危険《きけん》な目にあわせるな!」
そう言っているようだった。
ブライアンはなんだか急におかしくなり、笑いだした。少年のあまりの一生|懸命《けんめい》さが滑稽《こっけい》にも思え、しかし奇妙《きみょう》に胸《むね》を打つものにも思えた。
少年はまだなにか叫んでいる。
「そりゃ、ぼくには詳《くわ》しい事情《じじょう》はわからない。ヴィクトリカの出生についても、なぜここに幽閉《ゆうへい》されているのかも。なにも知らない。だけど一つだけ言えるのは、ヴィクトリカはすごく頭がいいし、だけどへんだし、よくわからないけど……彼女は人間の、女の子だ。小さな小さな女の子なんだ。怪物呼《かいぶつよ》ばわりされたり、兵器だと言われたり、抹殺《まっさつ》されそうになるなんて、ぼくには納得《なっとく》できることじゃない」
ブライアンはしばらく考えていたが、やがてため息をつくと、一弥の上から降りた。そしてコキッ、コキッと首を鳴らすとあきれたような声で、
「……とんだ騎士《ナイト》がいたものだな」
「ぼ、ぼくはヴィクトリカを守りたいんだ。あの子の周りではあまりにもいろんなことが起こるから、だから、ぼくは……」
「なるほど。しかし……」
ブライアンは笑った。
少年の顔は興奮《こうふん》と怒《いか》りで真っ赤になっていた。笑っているブライアンをきっと睨《にら》んでいる。
「その程度《ていど》の力で、守れるかな?」
「……どういうことだ?」
ブライアンは目を閉《と》じた。
そして、世界があまりに大きすぎ、少年一人の力があまりにささやかすぎることを思った。
ゆっくりと緑の瞳を開けると、一弥がこちらを睨みつけていた。揺るぎないその眼差《まなざ》しは、ブライアンに、らしくもない感傷《かんしょう》を覚えさせた。
「つまり、この先、あの仔狼《こおおかみ》の行く手に待つものは、大きな大きな嵐《あらし》だということさ」
ブライアンはつぶやいた。
「一度目の嵐のとき、あれが生まれた。二度目の嵐の切り札とするために、計画的に産み落とされた。それはたった一人の、優《やさ》しい少年によって守り通せるような嵐ではない。君はきっと泣く。己《おのれ》の無力さに絶望《ぜつぼう》し打ちひしがれ、悲しみは君を変えることだろう。そのとき君は果たしてどうなることだろうな? それでも優しい男でいられるかな? それとも、君もまた小さな怪物になってしまうのだろうかね……?」
「な、なんのことだ?」
「いまはまだわからなくていい。もうしばらく静観したくなってきたよ。仔狼と少年の優しい日々をね」
かすかに吐息《といき》をつく。
「おそらくそれは、本当にささやかな、短い日々となるだろう……!」
ブライアンはそれだけ言うと、きびすを返した。
早足で出ていこうとするブライアンを、一弥があわてて止めた。
「ま、待てよ!」
ブライアンは振《ふ》り向いた。そして懐《ふところ》からなにかを取りだして一弥に渡《わた》すと、にやりとした。それは彼の公演用《こうえんよう》のポスターだったが、少年はそれに見向きもせずにブライアンを睨みつけていた。
「移送《いそう》に気をつけろ。ブロワ侯爵《こうしゃく》はきまぐれなお方だ」
「なっ……?」
ブライアンは笑うと、工房《こうぼう》のドアを開けた。右手を顔の前に持ってきて、
――パチン!
指を鳴らした。
そして、言った。
「さて、消えるぞ」
一弥は工房の真ん中に立って、ブライアンの背中《せなか》をみつめていた。
あちこちが痛《いた》くて、息もまだ乱《みだ》れていて、心には興奮と怒りと疑念《ぎねん》が渦巻《うずま》いていた。
ブライアン・ロスコーはなにかつぶやくと、指を鳴らした。そして、すっ……と姿《すがた》がかき消えた。
それはまるで、あの怪奇映画《かいきえいが》『黒き塔《とう》の幻想《げんそう》』そのままの光景だった。一陣《いちじん》の煙《けむり》が見えたような気がしたが定《さだ》かではなく、かすかに甘《あま》い、妙《みょう》な匂《にお》いがした。そして一瞬《いっしゅん》の目眩《めまい》に似《に》た感覚の後、目をこらすとそこにはもう――誰《だれ》もいなかった。
一弥はあわてて、ブライアン・ロスコーがたったいままで立っていた場所に走り寄った。
誰もいない。
工房を見回し、それからドアを開けて廊下《ろうか》に出た。
右に、左に、見回す。
廊下には誰もいない。
あわてて走り、階段《かいだん》を見下ろす。誰かが通ればきしみ、揺《ゆ》れるはずの階段も完全に無人だった。一弥は時計塔の中を走り回り、それから外に出て辺りを見回した。
ブライアン・ロスコーは消えていた。
(ど、どういうことだ……?)
一弥は立ち尽《つ》くした。
ぎらぎらした夏の日射《ひざ》しが、一弥に照りつけていた。灰色《はいいろ》に沈《しず》む時計塔の中とは別世界のように、外は暑く、日射しも強く、まさに夏の一日といった様相だった。
一弥はふと気づいて、ついさっき、ブライアン・ロスコーに手渡されたポスターを開いてみた。
それには……、
〈世紀の魔術師《まじゅつし》 ブライアン・ロスコーと謎《なぞ》めいたチェスドール、登場!〉
彼の出し物〈ファンタスマゴリア〉の宣伝文句《せんでんもんく》が書かれていた。〈瞬間移動〉〈人体|切断《せつだん》〉〈踊《おど》る骸骨《がいこつ》〉などと銘打《めいう》たれていて、場所と時間は……。
海の向こうのイギリスの、とある町にある劇場《げきじょう》だった。時間は午後一時からと、四時からと、七時からの三回公演。日付は昨日から明日にかけての三日間だ。
「これって……おかしいな。つまり彼は、いまイギリスにいるはずじゃないか。だけどさっきまで確《たし》かにここにいたし、昨日だって村にいた。それに……」
一弥は急にとあることを思いだし、あっと叫《さけ》んだ。
しばらく前に、ソヴレムの劇場前で初めてブライアン・ロスコーを見たときに、一緒《いっしょ》にいた浮浪児《ふろうじ》の少年が語った言葉を。
〈あいつ、おかしいんだ。トリックじゃなくて、本当にあっちとこっちに同時|存在《そんざい》してるとしか思えないときが何回かあったんだ――〉
〈道路のあっちとこっちにほぼ同時に姿を現《あらわ》したり――〉
〈俺《おれ》、あいつは普通《ふつう》の奇術師のふりをしてるけど、本当は、本物の魔術師だと思う――〉
〈チェスドールは気になるけど、あいつのことは気味が悪いよ――〉
一弥は目を見開いて、呆然《ぼうぜん》とポスターをみつめていた。
「……同時存在?」
頭を抱《かか》えて、悩《なや》み始める。
「そんなこと信じられないけど……。だけど、確かについさっき、ブライアン・ロスコーはとつぜん姿を消したし……。でも、もしそれが彼に可能《かのう》なら、時計塔で起こった殺人|事件《じけん》だって彼に不可能とは言えなくなってしまうよ。宿と時計塔に同時存在できたのなら……」
そこまで考えると、しかし一弥は、まさか、とつぶやきながら首を振《ふ》った。
そして、大きく吐息《といき》をついた。
強い不安と、ヴィクトリカに対する心配と……それからこれまで幾度《いくど》も感じた、焦《あせ》りに似《に》た感情《かんじょう》を覚えた。
大事な友達、ヴィクトリカ・ド・ブロワはいったい何者なのだろうか?
彼女はどうなってしまうのだろうか? これから彼女の身になにか起きるというのだろうか?
自分には力が足りなくて、ヴィクトリカをちゃんと守れないのかもしれない……。しかしそんなことはとても許容《きょよう》できない。いったいどうしたらいいのか……?
怒《いか》りを感じて、一弥は立ち尽くしていた。
強い風が吹《ふ》いて、一弥の漆黒《しっこく》の髪《かみ》を揺らしていく。
ブナの枯《か》れ枝《えだ》が風に煽《あお》られて、不吉《ふきつ》な暗い音を立てた。
一弥が呆然とその場に立ち尽くしていると、背後《はいご》からたたたっ……と走ってくる軽い足音がした。
「久城くーん!」
アブリルの声だ。
相変わらず元気いっぱいの様子で、
「先生に聞いたんだけど、ヴィクトリカさんを探《さが》してるんだって? ついさっき、校舎《こうしゃ》の裏辺《うらあた》りででっかい大工さんとお話ししてるとこ、見たよ? あれ、久城くん?」
立ち尽《つ》くしていた一弥は、アブリルの明るい声に現実《げんじつ》に引き戻《もど》されるように、我《われ》に返った。
「あ、ごめん……。聞いてるよ。なんだっけ?」
「だから、ヴィクトリカさんなら向こう、で…………にぎゃー!?」
振り返った一弥の顔を見て、アブリルが叫《さけ》び声を上げた。一弥もその声にびっくりして「わぁ!?」と飛び上がった。
「な、なんだよ? 急に大声出して」
「その顔、どしたの!?」
「えっ……?」
アブリルがこわごわと自分の顔を指差しているので、一弥はなんだろうと思い、近くの噴水《ふんすい》に走っていって水面に自分の姿《すがた》を映《うつ》してみた。
「……わっ?」
左眼《ひだりめ》の上が見事に腫《は》れ上がっていた。さっきぜんまいから飛び降《お》りた後、ブライアンのパンチをくらった場所だ。おろおろしていたアブリルが、
「ひ、ひ、冷やさなきゃ!」
「そうだね。冷たいタオルで押《お》さえておけば、ぎゃあ!!」
――ばしゃん!
つぎの瞬間《しゅんかん》、アブリルが一弥の後頭部を両手で掴《つか》んで、無理やり、噴水の中に頭をつっこませた。一弥はあわてて両手をばしゃばしゃさせているが、アブリルは大あわてで、
「冷やさなきゃ! 水で冷やさなきゃ! 久城くんを冷やさなきゃ!」
「ぼこぼこ……っ! ア、アブリ……ぼこっ!」
一弥は噴水のひんやりした水の中で、じたばたと暴《あば》れながらも、ついさっきブライアンから聞いた|美しき怪物《モンストル・シャルマン》≠フことで思い悩んでいた……。
3
空中から見るとコの字型をした聖《せい》マルグリット学園の校舎裏、普段《ふだん》はよく一弥とアブリルが座《すわ》っておしゃべりしている、校舎と中庭をつなぐ小さなドアの外にある、三段だけの石階段――。
そこに、豪奢《ごうしゃ》なドレスの裾《すそ》をふんわりふくらませて、小さな少女が座りこんでいた。錬金術師《れんきんじゅつし》の会心の回顧録《メモワール》である金色の書物をなんと無造作《むぞうさ》にお尻《しり》の下に敷《し》いて、小さなこぶしを握《にぎ》り、「うむ……」「そうか」などとつぶやいている。
相変わらず色とりどりの蝶《ちょう》が周りを飛び交《か》い、さらにあの小さな森からやってきたのか、栗鼠《りす》も数|匹《ひき》、ちょろちょろとヴィクトリカの小さな肩《かた》や頭によじ上っていた。一|粒《つぶ》の木の実を巡《めぐ》って、頭の上で二匹の小さな栗鼠が相撲《すもう》を取り始めた。ヴィクトリカはそれを気にする様子もなく、思索《しさく》に耽《ふけ》り続けている。
そこに、花壇《かだん》のあいだの小径《こみち》を抜《ぬ》けて、大男がぬっと姿を現《あらわ》した。ヴィクトリカがたった一人でいるのをみつけると、大股《おおまた》で近づいてくる。
「おぅ、ここにいたかい。お嬢《じょう》ちゃん」
大工は無造作にやってきて、ヴィクトリカのとなりにどすんと腰掛《こしか》けた。石でできた階段が大きく揺れ、ヴィクトリカはびっくりしたように緑の瞳《ひとみ》を見開いて、となりを見た。大工は気にせず、ヴィクトリカに笑いかけている。
二人が並《なら》ぶとびっくりするぐらいからだの大きさがちがい、まるで巨人《きょじん》と妖精《ようせい》のようだった。大工はポケットからくしゃくしゃに丸めた紙を出して、手のひらにぺっぺっと唾《つば》をはくと、それで紙をまっすぐにのばした。
細かな図面が描《えが》かれていた。
時計塔《とけいとう》の測量《そくりょう》結果だ。
「……ふむ、ごくろう」
ヴィクトリカが小さな女王であるかのように大仰《おおぎょう》にうなずき、図面を受け取る。すると大工は一瞬びっくりしたような顔でヴィクトリカを見下ろしたが、腹《はら》を抱《かか》えて大爆笑《だいばくしょう》し始めた。
「あははは、こりゃ傑作《けっさく》だ。うむ、ごくろう、だって。おもしろいおチビさんだな。えぇ?」
さっき唾をつけていた大きな手のひらで、ヴィクトリカの頭を掴《つか》まえてぐりぐりとかわいがる。ヴィクトリカは初めて人間に触《さわ》られたのら猫《ねこ》のようにふぎゃっと飛び上がると、石段のいちばん上まで転がり逃《に》げた。
「さ、ささ、触るな!」
「おいおい、降りてこないと説明できないぞ、お嬢ちゃん」
「…………!」
ヴィクトリカは仕方なく、おそるおそる石階段を降りてきた。
「……ぜんまいの部屋のものには触らなかったのだね?」
不機嫌《ふきげん》そうな低い声で、だが少しだけ心配しているような調子で聞く。大工は「あぁ」とうなずいた。
「だけど、どうしてそんなことを気にするんだね?」
「あの工房《こうぼう》には、いまも怪物《かいぶつ》が隠《かく》れているからだ」
「ふーん……?」
大工は首をかしげたが、まぁいいかというようにうなずいた。それから、辺りに響《ひび》き渡《わた》る大声で時計塔の説明を始めた。
その声が聞こえたのか、花壇のだいぶ向こうからセシル先生が顔を出して、ヴィクトリカをみつけてこちらに近づいてきた。
「……いいかね、お嬢ちゃん。測量してみた結果はごらんの通りだ。こうあるべきだってわしが思うラインは、青で描いておいた。黒で描いてあるのが、実際《じっさい》の時計塔だ。なんだかおかしい気はしていたが、それにしたって驚《おどろ》いたよ。うむ……」
二人のもとにやってきたセシル先生が、図面を覗《のぞ》き込《こ》んで、
「あら、それって時計塔? ん……? この真ん中の小さな四角い箱、なぁに?」
「プロテスタント用の隠し部屋だ。おそらくな」
ヴィクトリカが低い声で答えた。
首をかしげた先生がなおも質問《しつもん》しようとしたとき、花壇のあいだを抜けて一弥とアブリルも近づいてきた。セシル先生は二人に気づいて声をかけようとして……。
一弥の異様《いよう》な様子に気づいて、絶句《ぜっく》した。
――なぜか一弥は頭からずぶぬれになっていて、しかも左眼《ひだりめ》が誰かに殴《なぐ》られたように黒く腫《は》れていた。ヴィクトリカはちらりとその様子を見て「ぷ!」と吹《ふ》き出した。先生が驚きつつも心配そうに、
「どうしたの、それ?」
と聞くと、一弥は迷《まよ》うようにヴィクトリカの小さな姿《すがた》を見て、なにか言おうとして、やめた。それからアブリルを指差しておもしろくなさそうに、
「アブリルにやられました」
セシル先生が瞳をまん丸にして二人を見比《みくら》べた。
「……へぇ?」
「く、久城くん、その言い方じゃ、まるでわたしに悪気があったみたいでしょ? そうじゃなくて、わたしは冷やそうとして……」
「でも、ぼくはおぼれ死ぬかと思ったんだよ!」
なにやら言い争いをしていた一弥とアブリル、そしてセシル先生は、ヴィクトリカが立ち上がってフリルをふかふか揺らしながらどこかに歩きだしたので、あわてて、そろって後を追った。
「どこ行くのさ、君?」
ヴィクトリカはきょとんとして振《ふ》り返った。
「どこって、時計塔《とけいとう》だ」
「なにしに?」
「謎《なぞ》を解《と》きにだ」
一弥は飛び上がった。アブリルとセシル先生は、なにごとだろうと顔を見合わせている。
「じゃ、君……」
水滴《すいてき》をぽたぽた落としながら問いかける一弥を、ヴィクトリカはじろりと一瞥《いちべつ》した。一弥はその顔に、いつも彼女を覆《おお》い尽《つ》くしている長い倦怠《けんたい》と退屈《たいくつ》と絶望から一瞬《いっしゅん》だけ解き放たれた、気持ちのいい自由な魂《たましい》を見たように思った。ヴィクトリカの顔にそれを見たことが、過去《かこ》にも何度かあった。それはいつも……。
混沌《カオス》の欠片《かけら》を拾い集め玩《もてあそ》び、再構成《さいこうせい》し終わったとき、彼女の顔に現《あらわ》れるなにかだった。ヴィクトリカはいま退屈していない。謎を玩んで、そして、解いたのだ……。一弥はそのことに気づき、ごくっと唾《つば》を呑《の》んだ。
「君、わかったんだね? 二十年以上も前、時計塔に錬金術《れんきんじゅつ》の工房《こうぼう》を造《つく》って金を製造《せいぞう》して、国王と王妃《おうひ》に取り入ったリヴァイアサンの謎と、王立|騎士団《きしだん》に毒矢を射《い》られて姿を消した彼の行方《ゆくえ》。そして、その頃《ころ》から工房で起こり始めた、謎の殺人|事件《じけん》。内側から鍵《かぎ》のかかった工房で殺された人々と、彼らが学園の生徒や職員《しょくいん》ではなく、なぜか旅行者や不法|侵入者《しんにゅうしゃ》ばかりだったこと。そして……」
アブリルがうなずいて、続けた。
「時計塔にリヴァイアサンの亡霊《ぼうれい》がいるんじゃないかってこと、でしょ。誰《だれ》もいないのに勝手にドアが開いたり、物が動いたりするし、あと、二階の窓《まど》の外を人影《ひとかげ》が横切ったんでしょ?」
「アブリル、それはね……」
二人がなにか言い合い始めるのを、セシル先生が止めた。
「まあまあ、二人とも。……あとは、あれね。リヴァイアサンの仮面《かめん》の謎とか……。でも、ともかくは殺人事件よね……」
三人は口をつぐむと、顔を見合わせた。
それからヴィクトリカのほうを振り向いた。ヴィクトリカは退屈そうに、さくらんぼのような唇《くちびる》を開いてふわわ……とあくびをした。それから、老女のようなしわがれ声で、一同に告げた。
「では、久城といもりはわたしについてこい。それからセシルは、トンガリ頭の間抜《まぬ》けな刑事《けいじ》を捜《さが》してきたまえ。行くぞ」
「行くって、時計塔に?」
「そうだ。あることを確認《かくにん》するために。……久城」
「なに?」
「君、言語化してほしいかね?」
「うん」
「わかったよ。では、してやろう。ついてきたまえ」
ヴィクトリカはちょこちょこと、時計塔に向かって歩きだした。
「時計塔に関する不気味な怪談《かいだん》が多いのには、二つの理由がある、とわたしは考えている。一つは、実際に怪《あや》しげな錬金術師《れんきんじゅつし》がある時期、この建物に存在《そんざい》していたせいだ。そしてもう一つは……」
時計塔のドアを開け、一同――ヴィクトリカと一弥、アブリル、セシル先生と、捜して連れてこられたブロワ警部《けいぶ》と部下たちの、合わせて七人――はゆっくりと暗い廊下《ろうか》を進んでいた。互《たが》いの姿《すがた》もぼんやりとしか見えず、床《ゆか》を舞《ま》う埃《ほこり》が目に沁《し》みる。
ヴィクトリカのしわがれ声だけが近く、遠く、不思議な響《ひび》き方をしている。
「もう一つは、いま君たちが感じているこのある感覚≠フせいと推測《すいそく》される」
「ある感覚?」
一弥が聞き返した。
「君たち、頭がくらくらして、押《お》さえつけられるような不快《ふかい》感を感じないかね?」
言われた一同は、顔を見合わせた。
確《たし》かに、最初にこの時計塔に入ったときから、廊下を歩きだしてまもなく、めまいを感じたり体の平衡《へいこう》感覚があやしくなったりした……。
「わたしはこの時計塔の正確な測量を頼《たの》んだ。その結果がこの図面だ。わたしの推測は当たっていたよ。見たまえ」
立ち止まったヴィクトリカが、窓からのかすかな光を頼《たよ》りに図面を広げてみせた。一同はそれを覗《のぞ》き込んだ。
そこには奇妙《きみょう》な建物の図形が描《えが》かれていた。真ん中にぜんまいの部屋を置いた細長い円筒型《えんとうがた》の塔。青いラインで描かれているのはごく普通《ふつう》の塔だった。しかし黒いラインで描かれているのは……。
まるで悪夢《あくむ》のように歪《ゆが》んだ、奇怪な時計塔だった。
巨大《きょだい》な手が握《にぎ》りしめて押しつぶしたように捻《ねじ》れ、いまにも崩《くず》れ落ちそうに歪み、傾《かたむ》いている。
「こ、これはいったい、どういうこと……?」
一弥がつぶやいた。
「青いラインが、本来あるべき姿。そして黒いラインは実際《じっさい》の時計塔だ。わかるかね、君たち? このおかしな気分の原因《げんいん》はこれなのだよ。すなわち時計塔は歪んで造られている。廊下を歩き始めた途端《とたん》にくらくらするのも、図面を見れば謎《なぞ》が解《と》ける。見たまえ、この廊下は、床が地面に平行ではなく、少し傾いている。前にかけても傾き、右から左にかけても同様だ。そしてまっすぐにのびると見せかけて、少しずつ蛇行《だこう》している。先に行くに従《したが》って廊下の幅《はば》も狭《せま》くなっているから、実際以上に長く見える仕組みになっている。つまり、視界《しかい》によって認識《にんしき》したものと、体が感じる感覚とがバラバラなのだ。これでは気分が悪くなるのも当然ではないかね?」
一弥たちは顔を見合わせた。
ヴィクトリカは図面を握りしめ、そのまますたすたと歩きだした。角を曲がり、階段《かいだん》を上り始める。
「そして、この階段だ。わたしとセシルがここにきたとき、この辺りでセシルがとつぜん転んだ」
セシル先生が恥《は》ずかしそうに頭をかいている。
一弥は、アブリルもまた、同じところで転んで悲鳴を上げながら転がり落ちたことを思い出した。
「いいかね、階段もまた作為《さくい》的に歪められているのだ。常識《じょうしき》で考えれば階段の一段ずつの高さは一定のはずだ。だがここは、段によって高さが微妙《びみょう》に変えられている。そのせいで上がるときに足が引っかかり、思わぬところで転んでしまうのだ。そして二階の窓《まど》の外を人影《ひとかげ》がよぎったこともまた、歪みによって説明できる。いいかね? わたしたちの感覚よりも、この二階は低いのだ。階段を上がったつもりでも、その前に通った廊下がゆるやかに下っているため、ここは本来の二階よりも低い位置にある。窓の外を横切ったのはあの大柄《おおがら》な大工だ。幽霊《ゆうれい》でもなければ、巨人でもない」
ヴィクトリカは階段を上がり、そしてぜんまいの部屋の前で止まった。
いつのまにかドアが開いている。
ヴィクトリカは部屋に入りながら、
「誰もいないのにドアが開くのも、同じ理由だ。わかるかね? 人がやってきて一階の廊下を歩きだすと、このドアが開くのだ。おそらく歪みによってきしむのが原因だろう。そして、床や椅子《いす》の上に置いたものが独《ひと》りでに動いたり落ちたりするのも、床が斜《なな》めにかしいでいるからだとすれば簡単《かんたん》だ」
ヴィクトリカはセシル先生に眼鏡《めがね》を外させると、椅子の上に置かせた。
全員が注目する中、眼鏡はゆっくり、するすると動いて、椅子の上から床に落ちた。
ぜんまいの部屋には不気味な沈黙《ちんもく》が落ちた。部屋の中は相変わらず薄暗《うすぐら》く、ただ巨大なぜんまいが回る音だけが響いている。
ギリギリギリギリギリギリ……。
上空をゆっくり横切る巨大な振《ふ》り子が、気味の悪い風を生む。
やがてアブリルが不思議そうにつぶやいた。
「でも、どうして……? どうしてそんな作り方をしたの?」
「簡単だよ。もう一度、図面を見たまえ」
ヴィクトリカが図面を広げた。ある一か所を指差す。
小さな四角い箱があった。
青いラインにはない部屋。歪んだ黒い時計塔《とけいとう》のほうには、このぜんまいの部屋のとなりに小さな四角いスペースがあった。
「塔を歪んで建設《けんせつ》した理由は、ここに隠《かく》し部屋を作《つく》るためだったと推測されるよ。少しずつ高さを、角度をごまかして、本来はないはずのスペースを確保《かくほ》したのだ」
「なんのために?」
「おそらく、プロテスタント信者たちを匿《かくま》うためだ」
ヴィクトリカは言った。
それからゆっくりと振り向き、そのないはずの部屋が図面にはっきり描《えが》かれている場所をひたと見据《みす》えた。
それは――、
大きな黒檀《こくたん》のテーブルの向こう、色彩《しきさい》のない灰色《はいいろ》に沈《しず》むこの工房《こうぼう》で一つだけ色鮮《いろあざ》やかな、ステンドグラスのある場所だった。鮮やかな花々が咲《さ》き乱《みだ》れるその模様《もよう》。たくさんの黄色い花、紫《むらさき》の花があふれ返り、一輪だけ赤い花が咲いている。
「もともと、中世に建設された寺院や家屋には、隠し部屋や、はめ殺しの窓に見せかけた秘密《ひみつ》通路など、さまざまな仕掛《しか》けがあることが多いのだ。この学園は中世からずっと、ソヴュール王室の秘密の武器庫《ぶきこ》≠ニ呼《よ》ばれ、さまざまなものを隠し、保管し、開発してきたと言われている。未来の武器や、生きていてはいけない人物、そして秘密の資産《しさん》……。学園にはここだけでなく、まだ幾《いく》つか秘密の部屋が残されているのではないかとわたしは疑《うたが》っているがね」
ヴィクトリカの言葉に、さっきからずっと黙って、気配を殺すかのように息までひそめていたグレヴィール・ド・ブロワ警部《けいぶ》がかすかに舌打《したう》ちをした。額《ひたい》に冷たい汗《あせ》を浮《う》かべ、小さな妹を憎々《にくにく》しげに睨《にら》みつけている。
ヴィクトリカはそんなブロワ警部と一瞬《いっしゅん》、ひたと睨みあった。警部が先に目をそらした。ヴィクトリカは続けた。
「おそらく、この時計塔も中世においてはそのように秘密|裏《り》に利用されてきたのだろう。しかし近代になってからは、一部の人間を除《のぞ》いては、そのことを忘《わす》れ去っていたのではないのかね? さてここで、我々は金≠フことを考えねばならない。時は約五十年を遡《さかのぼ》り、一八七三年の暮《く》れだ。その年に死んだアフリカ人たちと、彼らの歌。そして歌に出てくる金≠フことをね」
ヴィクトリカはそう言うと、とつぜんとなりにいた一弥の臑《すね》を蹴《け》っ飛《と》ばした。一弥が飛び上がった。
「痛《いた》い!」
「久城、君、歌いたまえ」
「やだよ。……えっ、なにを?」
ヴィクトリカはじれったそうに肩《かた》を揺《ゆ》らして、
「決まっているだろう。あのアフリカの歌だ」
「やだよ。どうしていつもぼくなんだよ。痛い! わかったよ……」
一弥は渋々《しぶしぶ》、恥ずかしいけれど我慢《がまん》して、まずきちっと姿勢《しせい》を正した。胸《むね》を張《は》って、両手を腰《こし》に当てて、それから小さな声で歌いだした。
「アフリカ人たちがいうには、
『歩いて――歩いて――歩け、
雌鳥《めんどり》が鳴くその時まで!
破《やぶ》れた屋根から星が降《ふ》るその時まで!
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!
夢《ゆめ》の中でも、
歩いて――歩いて――歩け、
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!」
アフリカ人たちは遠くから、
歩いて――歩いて――やってきた。
『歩いて――歩いて――歩け、
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!』
アフリカ人たちは海の向こうから、
船を漕《こ》いで――漕いで――辿《たど》り着いた。
『漕いで――漕いで――漕げ、
かわいい姉妹《しまい》に、父や母!
血肉は安く、パンは高いが漕ぎ続けろ!
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!
金と黒い肌《はだ》、
漕いで――漕いで――漕げ、
リ、トゥラ、ルーラル、ルー!』
アフリカ人たちは灼熱《しゃくねつ》の大地を、
跳《と》んで――叫《さけ》んで――消えた」
歌い終わると一弥は恥《は》ずかしそうに口を閉《と》じた。みんなびっくりしたように黙《だま》って一弥を見ていたが、ヴィクトリカが代表して、
「久城、前から思っていたが……君、妙《みょう》に歌がうまいなぁ」
「どうしてそれが妙なんだよ? とにかく、こんなことはこれっきりだよ! 男子たるもの、人前で歌ったり踊《おど》ったりすることはだね……」
「黙れ。もういい。口を閉じて、なにか言いたげな悲しい顔でもしていたまえ」
一弥は口を閉じ、言われたとおりの表情《ひょうじょう》になった。ヴィクトリカは構《かま》わず、
「ここに幾《いく》つかの混沌《カオス》の欠片《かけら》が浮遊《ふゆう》していた。約五十年前から村で歌われていたアフリカ人の歌と、歌詞《かし》に出てくる金≠セ。彼らはいったいどこから、なんのために歩いて∞漕いで≠アの村にきたのかね? 金と黒い肌≠ニはなんだ? そして彼らは最終的に叫んで≠サして消えた≠フだ。……しかしこれはいったいなんのことかね?」
一弥たちは顔を見合わせた。
「さあ……」
「そしてある年の暮《く》れに、彼らは死んで村の共同|墓地《ぼち》に埋《う》められたことがわかっている。ここで一つの歴史的事実を思い出す必要がある。一八七三年がなんの年か」
ヴィクトリカはにやりと笑った。
「その年にこそリヴァイアサンの恐《おそ》るべき陰謀《いんぼう》の謎《なぞ》が隠《かく》されている。彼がけして錬金術《れんきんじゅつ》で金を造《つく》りだしていたのではないということが。君たち、歴史を繙《ひもと》いてみたまえ。一八七三年は――」
ヴィクトリカは一度言葉を切った。冷酷《れいこく》めいた緑の瞳《ひとみ》をきらめかせ、どこか虚空《こくう》をみつめるようにして、つぎの言葉を発する。
「新大陸に続いて、アフリカ大陸でゴールドラッシュが始まった年だ[#「ゴールドラッシュが始まった年だ」に傍点]」
一同は息を呑《の》み、顔を見合わせた。
ぜんまいの部量には重苦しい沈黙《ちんもく》が立ちこめた。ヴィクトリカのしわがれ声が止《や》むと誰《だれ》も話し出す者はおらず、ただ、巨大《きょだい》な四つのぜんまいだけが相変わらず、
ギリギリギリギリギリギリ……。
鈍《にぶ》い音を立てて回るばかりだった。
すぅっ……と目に見えないなにかが自分の前を横切った気がして、アブリルは知らず総毛立《そうけだ》った。目の前の床《ゆか》がゆっくりと歪《ゆが》んで、かすかにきしみ、なにものかが笑いながら通り過《す》ぎる。いま、自分の目前から過ぎ去り、一弥の前を横切っていった。そして一同の前に立つ小さなフリルとレースの少女ヴィクトリカの前に辿《たど》り着くと、そのなにものかはヴィクトリカをみつめ、感心したように目を細め、それからゆっくりと手をのばしてその薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》に、触《ふ》れ、る……。
そこまで想像《そうぞう》して、アブリルははっと我《われ》に返った。ぜんまいの部屋には彼らのほか誰もいない。ヴィクトリカと、一弥、そしてアブリル、セシル先生、ブロワ警部《けいぶ》と部下たちの、八人……。
ちがう、七人だ。
アブリルはいま、見回した視界《しかい》にいた人間の数が一人多かった気がして、ごくんと唾《つば》を呑んだ。
不気味な空気が部屋を取り巻《ま》いている。それに取り込《こ》まれてしまいそうだ……。いや、もう取り込まれているのかもしれない……。
再《ふたた》びヴィクトリカが話しだしたので、アブリルはそちらに集中した。
ギリギリギリギリギリギリ……。
ぜんまいが鳴り続ける。
「ここでわたしは一つの仮説《かせつ》を主張《しゅちょう》しようと思うのだ。君たち、よく聞きたまえ。一八七三年にどこからか歩いて∞漕《こ》いで≠竄チてきたアフリカ人たちは、暗黒大陸アフリカから金を運んできたのだ、と。もちろんゴールドラッシュによって掘《ほ》り出されたものをだ。アフリカ大陸で当時みつかった金やダイヤモンド鉱山《こうざん》はすべて、ヨーロッパ諸国《しょこく》の所有となり、アフリカ人たちの懐《ふところ》はちっとも豊《ゆた》かにならなかった。それどころか馬車馬のように働かされて彼らはつぎつぎに倒《たお》れていったのだ。金はソヴュール王国の秘密《ひみつ》の武器庫《ぶきこ》≠ナあり金庫≠ナあるここ、聖《せい》マルグリット学園に運ばれた。そして隠し場所の一つである時計塔《とけいとう》に持ち込まれ、隠し部屋に隠された。そしてアフリカ人たちはおそらく口封《くちふう》じのために殺されたのだ。それがその年の暮れのことだ。それから約二十年のあいだ、金はここで誰にも知られず眠《ねむ》り続けてきた。そしてある年、一八九七年にある者がやってきた。仮面にローブの男リヴァイアサンだ。わかるかね?」
ヴィクトリカは一同を見渡《みわた》した。
「彼はなぜか時計塔の秘密を知っていた。おそらくただ一人、彼だけが、とある理由でね。そして彼は隠し部屋のあるこのぜんまいの部屋を工房《こうぼう》として、錬金術師《れんきんじゅつし》を名乗ったのだ。この工房に籠《こ》もった彼はつぎつぎに、なにもなかったはずの場所から魔法《まほう》のように金を造りだしてみせ、またたくまに時代の寵児《ちょうじ》となった。……魔法ではない、金はたくさんあったのだ。無尽蔵《むじんぞう》の金が、この部屋に。彼はそれを取りだして溶《と》かし、形を変えて提出《ていしゅつ》しただけだ」
「でも、どうして彼以外はみんな知らなかったのかい?」
一弥が聞いた。
「簡単《かんたん》なことだ。国王は秘密裏《ひみつり》にそれを行った。誰にも知られず資産《しさん》を運び込み、入念な口封じも行った。だがしかし……一八七三年の暮れに金が運び込まれたものの、年明けに国王は急死したのではなかったかね? 国を挙げての盛大《せいだい》な葬儀《そうぎ》と、若《わか》い新国王の誕生《たんじょう》。おそらく資産の秘密はそのどさくさに消えてしまったのだろう。だからこそ、新国王を襲《おそ》った嵐《あらし》――世界大戦のときにもこの資産は使われなかったのだ。誰も知らなかったのだからな。ただ一人、リヴァイアサンを除《のぞ》いては。……アブリル・ブラッドリー、それに触るな!」
ヴィクトリカがとつぜんアブリルの名前を、ちゃんと呼《よ》んだ。一同が振《ふ》り向くと、アブリルはふらふらとステンドグラスの花畑に近づいて、きれい……と感心するように見上げていた。びっくりしたようにヴィクトリカのほうを振り返って、
「ど、どうして?」
「いまからそれについての言語化をしよう」
ヴィクトリカはしわがれ声で言うと、パイプをくわえて火をつけた。セシル先生があわてて取り上げようとするが、ヴィクトリカは一弥の周りをくるくる回って、煙《けむ》に巻《ま》く。セシル先生はあきらめて、大きくため息をついた。
「久城、君、覚えているかね? わたしが錬金術について語ったことを」
「ええと、やけにたくさん語っていたけど、一応《いちおう》覚えてるつもりだよ」
「では、言ってみたまえ。錬金術に求められるものとはなんだね?」
一弥は真剣《しんけん》な顔で、
「無から有を創《つく》り出すこと。とくに金∞不老不死=Aそして人造人間《ホムンクルス》≠」
「なにを使ってだね?」
「ええと、賢者《けんじゃ》の石≠ニ呼ばれるものだろ? 力の秘密の詰《つ》まった石」
「そうだ。そしてそれは何色をしているのだったかね?」
「柘榴《ざくろ》のような濃《こ》い赤色だよ」
「うむ」
ヴィクトリカは満足そうにうなずいた。
それから一同を見渡し、
「この工房に入っていちばんに目に付くものは、もちろんあの巨大《きょだい》なぜんまいと、振り子だ。それに目を奪《うば》われる。だがしかし、ある種の者だけは、ちがう」
一弥が聞き返す。
「ある種の者?」
「そうだ。そこでセシル、君に確認《かくにん》しよう。過去《かこ》二十数年のあいだにこの工房《こうぼう》で、手の人差し指を変色させて倒れて死んだ者たちは、すべてよそ者だったのだね? 赴任《ふにん》したての教師や旅行者などだったね?」
セシル先生がうなずいた。
「そうですよ。学園の生徒はときどき入り込んで悪戯《いたずら》するけど、みんななぜか無事だったわ」
「それは理に適《かな》った結果なのだ、セシル。……さて君たち、この工房を見たまえ。巨大なぜんまいに振り子、謎《なぞ》めいた実験道具の散らばる大テーブル。それらに目を奪われるのは目的なく悪戯に入り込んだものだけだ。だがしかし、もし君たちが錬金術《れんきんじゅつ》の秘密を知るためという明確な目的を持って侵入《しんにゅう》したとすれば、まずなにに注目するかね? この灰色《はいいろ》に沈《しず》んだ工房の中、一見、錬金術には関係なさそうだが、このステンドグラスの花畑は……」
ヴィクトリカはステンドグラスの前にちょこちょこと歩いた。
黄色い花と紫《むらさき》の花が無数に咲《さ》き誇《ほこ》る花畑。
その中に、ただ一つ――
一つだけ、なぜか、赤い――
燃《も》えるような、
まるで柘榴のような赤い色の花[#「柘榴のような赤い色の花」に傍点]が――。
ヴィクトリカはそれを指差すと、言った。
「工房の中でこれだけが赤い。灰色に沈む暗い部屋の中、小さな赤い石が燃えている。君たちが錬金術を探《さが》して侵入したのなら、なにはともあれ、これに手をのばすのではないかね?」
ブロワ警部《けいぶ》が、あっと叫《さけ》んだ。
部下二人がステンドグラスに走り寄《よ》る。背《せ》のびをして手をのばすのをヴィクトリカが止めた。
「触《さわ》るな」
「……どうしてだ?」
「毒だ。おそらく侵入者たちはそれに人差し指で触れて、死んだのだ。二十数年前からずっと、そこには毒が塗《ぬ》り込められている。リヴァイアサンが死ぬ前に仕掛《しか》けた毒だ」
部下たちは怯《おび》えたように後ずさった。ヴィクトリカは小さな体でその前に立ちふさがると、大テーブルの上に置かれた実験道具をいじりだした。細長い棒《ぼう》をみつけるとぐっと握《にぎ》りしめる。
「もちろんリヴァイアサンは不老不死などではない。侵入してきた王立|騎士団《きしだん》によって毒矢を射《い》られたあの夜、彼の命はこの工房の中で絶《た》えたのだ。だが彼はとある理由から、死体をみつけられるわけにはいかなかった。死後の世界にまで持って行かねばならぬ秘密《ひみつ》をその仮面《かめん》の下に隠《かく》していたのだ。彼はおそらくこの時計塔《とけいとう》の中を逃《に》げ回り、工房から隠し部屋に入ったのだろう。そしてその中でひっそりと息絶えた。彼の死体をみつけると言うことは、つまり、金をみつけ、錬金術の秘密を暴《あば》くということなのだ。では行くぞ、リヴァイアサンよ」
ヴィクトリカはつま先立ちして、細い棒でぐいっとステンドグラスの赤い石を押《お》した。石は最初はそれに抵抗《ていこう》するかのようにぎしぎしと揺《ゆ》れるだけだったが、とつぜん大きな音を立てて、前に向かって――。
血のように赤い、無数の針《はり》が飛び出してきた。まさに柘榴の花のような姿《すがた》だった。針の先から赤紫色をした液体《えきたい》がしみだしている。一同が見ている前で、無数の針はゆっくりと元に戻《もど》っていった。
ヴィクトリカがもう一度、棒の先で強く押した。
すると今度は、ステンドグラスがきしんだ。
きしっ、
きしきしっ、
ぎいぃぃぃぃぃぃぃっ――
不気味な音を立ててゆっくりと、跳《は》ね橋のように上に上がっていく。
その向こうから射《さ》す眩《まぶ》しい金色の光が、暗い工房を次第《しだい》に鮮《あざ》やかに染《そ》め変えていった。一同は目を覆《おお》ってその光から守ろうとした。やがて一人、また一人とうめき声を上げ、目の前にあるものを、信じられないというように立ちすくみ、みつめた。
そこには……
無尽蔵《むじんぞう》に積まれた金の塊《かたまり》が、床《ゆか》から遥《はる》か上の天井《てんじょう》にかけてみっしりと積まれていた。向こう側は金色だった。
そしてその手前に……
まるで地獄《じごく》の入り口に立つ巨大《きょだい》な番人のように、不吉《ふきつ》な姿をさらして……
大きな人間が、立っていた。
仮面にローブをつけたずいぶんと大きな男だった。両足を踏《ふ》ん張《ば》って立ち、両腕《りょううで》を上に向かって広げている。その躰《からだ》にはおびただしい数の矢が突《つ》き刺《さ》さり、年月を経《へ》ていまにも崩《くず》れそうに乾《かわ》いていた。
誰もなにも言わなかった。ただヴィクトリカだけがうれしそうに弾《はず》んだ声で、
「みつけたぞ。リヴァイアサン。どうだ、わたしの勝ちだな」
そう言うと、なんだか楽しそうに、ずっと用意していたらしきあの台詞《せりふ》を口にした。
「――汝《なんじ》、悔《くや》しいかね?」
死体は答えなかった。
ただ少しだけ、揺れた。
乾いた音がした。
ヴィクトリカは自分より遥かに大きなその男の足元まで行くと、じっと見上げた。仮面の下の、ぽっかり空いた眼窩《がんか》とみつめあい、密《ひそ》かに笑う。
「リヴァイアサンよ、おそるべき魔術師《まじゅつし》よ。君の仮面の下の素顔《すがお》を、わたしは知っているぞ。ははは、驚《おどろ》いているであろう? リヴァイアサンよ、それさえ白日の下に晒《さら》しすべてを暴いてやるぞ。……さて、君たち」
ヴィクトリカはくるりと振《ふ》り返った。
その姿はまるで、背後《はいご》に巨大な仮面の男を従《したが》えているようにも見えた。
[#挿絵(img/04_289.jpg)入る]
「約五十年前、一八七三年の暮《く》れ。ある夜のことだ。一つの奇術《きじゅつ》が行われた。奇術師たちのあいだでは〈ブラックアート〉と呼《よ》ばれるものだ。黒い背景に黒いものを重ね、ライトを当てると人間の目には見えなくなる。それを利用して骸骨《がいこつ》を踊《おど》らせたり、生首を浮遊《ふゆう》させたりする出し物のことをこう呼ぶのだよ。仕掛けは簡単《かんたん》、骸骨の模様《もよう》を描《えが》いた黒い服を着た男を踊らせたり、黒い服を着て首だけを晒した女を歩かせるだけだ。さて、久城。君たちは村の共同|墓地《ぼち》でとある怪談《かいだん》を仕入れてきたのだったね? 月明かりの夜、誰もいない墓地を駆《か》け抜《ぬ》けていった見えない幽霊《ゆうれい》≠フ怪談だ。足跡《あしあと》は墓地の奥――アフリカ人たちを埋《う》めた土|饅頭《まんじゅう》の辺りから始まり、墓地を駆け抜けてどこかへ消えた……」
ヴィクトリカは冷酷《れいこく》めいた緑の瞳《ひとみ》を見開き、続けた。
「その夜、闇《やみ》の奥から黒い肌《はだ》をした少年が一人、駆け抜けていったのだ。アフリカ人たちは殺されたが、少年が一人、息を吹き返して墓《はか》から蘇《よみがえ》ったのだよ。これが見えない幽霊≠フトリック、〈ブラックアート〉だ。もともとこの奇術の始まりは、とある奇術師がたまたま黒人の助手を使っていたところ、彼の姿が黒い背景に溶《と》けこんで見えなくなってしまったことなのだよ。そしてその夜、それと同じことが共同墓地で起こったのだ……」
ヴィクトリカは続ける。
「その夜、墓から蘇りどこへともなく消えた少年は、約二十年後のある日、フラリと村に帰ってきた。ただ一人の生き残りは、この工房《こうぼう》に隠《かく》された金の秘密《ひみつ》を知る唯一《ゆいいつ》の者でもあった」
ヴィクトリカの低い声に、仮面《かめん》の男の死体がまるで怯《おび》えたように揺《ゆ》らいだ。ヴィクトリカは振り向くと、死体にそっと手をのばした。
「愚者《ぐしゃ》よ。おまえの仮面の下の皮膚《ひふ》を、わたしは知っているぞ。愚者よ、愚者よ。どうだ。汝、まいったかね?」
つま先立ちになろうとして、届《とど》かないので顔を真っ赤にしてぴょんぴょんと跳《は》ねる。一弥があわてて駆け寄《よ》ると、ヴィクトリカの小さな体を後ろから抱《かか》えて、よいしょと持ち上げた。子供《こども》のように持ち上げられたヴィクトリカはさらに顔を赤くして抵抗《ていこう》するように両足をばったばった振り回して暴《あば》れたが、一弥が下ろしてくれそうにないので仕方なく、そのまま、ちょうど顔の前にあるリヴァイアサンの死体の仮面に触《ふ》れた。
「わたしは、知っている」
そうつぶやくと、サッと仮面を外した。
一同は思わず、アッ……と叫《さけ》んで後ずさった。
死体の顔は死蝋化《しろうか》していた。眼窩はぽっかりと穴《あな》が開き、そこからはなんの表情《ひょうじょう》も読みとることはできなかった。唇《くちびる》は叫んだまま絶命《ぜつめい》したかのように大きく開かれて歯茎《はぐき》がむきだしになっていた。絶望したかのようなそのポーズと、恐《おそ》ろしい表情。まるで悪夢《あくむ》のような死体。そして蝋化して残されたその皮膚は……。
なめし革《がわ》のようにつややかな、漆黒《しっこく》色の肌だった。
ブロワ警部《けいぶ》が大きく息を吸い込んだ。
「まさか……リヴァイアサンはアフリカ人だったのか!?」
「そうだとも、グレヴィール」
ヴィクトリカがつぶやいた。
二つの大きな穴――眼窩を睨《にら》みつけて、不敵《ふてき》に、
「ようやく逢《あ》えたな、リヴァイアサンよ。君はずっとここにいたのだね? 己《おのれ》の代弁者《だいべんしゃ》たる、あの回顧録《メモワール》をみつけた者がやってくるのを待っていたのだね? わたしにはわかっていたよ、君。命を懸《か》けてソヴュール王国の国政《こくせい》に入り込み、植民地|政策《せいさく》に関《かか》わろうとした男は、アフリカ人だった。そのことを隠し続けてきた。おかしな錬金術師《れんきんじゅつし》のふりをして。なんという男だ。……リヴァイアサンよ、いや、いまとなっては異国《いこく》のものなる君の本当の名を知る術《すべ》はないが、だが一つだけわかることがある。君はけして暴君《ぼうくん》になろうとしていたのではない。ただ君はそうやって、祖国《そこく》を救おうとしたのだ。命を懸けて敵陣《てきじん》に入り込み、ヨーロッパの白人どもが我《わ》が物としていく灼熱《しゃくねつ》の愛《いと》しい祖国の地に、再《ふたた》びの自由を取りもどさんとしていたのだな。……志半《こころざしなか》ばにこのような最期《さいご》を遂《と》げたことを残念に思うよ。遥《はる》か昔の話だがね。いまやすべては夢幻《ゆめまぼろし》だ。ふむ……」
ヴィクトリカはくすくすと笑った。一弥は抱えていた彼女の小さな体をそっと床《ゆか》に戻《もど》した。
「おまえはなかなかにおもしろい男だった。……死んでいるがな」
死体の口元がかすかに動いたように思った。別れを告げるかのように、リヴァイアサンの乾《かわ》いた死体がうごめいた。ヴィクトリカは瞳《ひとみ》を見開いてそれを見上げていた。そして、
「さて、これにてわたしは……ブロワ侯爵家《こうしゃくけ》の不肖《ふしょう》の子、ヴィクトリカ・ド・ブロワは、愚者の代弁者の役割《やくわり》を終える。お別れだ、リヴァイアサン」
とつぜん強い風が吹《ふ》いた。振《ふ》り子が大きく揺れて、びゅんっと、一同の耳元で大きな音がするほどの風を送りだした。死体が揺れた。それから巨木《きょぼく》が倒《たお》れるように仰向《あおむ》けに……積み上げられた金に叩《たた》きつけられるように、倒れた。
大きな音、そして粉塵《ふんじん》になって舞《ま》い上がる死体……。一弥はあわててヴィクトリカを庇《かば》って抱え込み、その場にしゃがんだ。それからきっと振り向くと、死体は粉々になって崩《くず》れ落ち、たったいままでここにそびえていた漆黒の肌《はだ》をしたあの体は、幻のように消え失《う》せていた。
「夢幻だ」
ヴィクトリカがつぶやいた。
金塊《きんかい》の上に、ふわり、ふわりと、仮面とローブだけがゆっくり落下してきた。
カラ、ン――
仮面が、音を立てて、落ちる。
錬金術師は消えた。
一弥の腕《うで》の中で、ヴィクトリカが低い声で叫んだ。
「さらば、黒き怪物《かいぶつ》よ――!」
[#改ページ]
リヴァイアサン ―Leviathan4―
さて、諸君《しょくん》――
そしてここからは、回顧録《メモワール》に書かれることのなかった我《われ》の終わり、すなわち肉体の死である。
我は全身から血を流し、歩いている。
王立|騎士団《きしだん》が時計塔《とけいとう》に攻《せ》め込み、我に毒矢を射《い》り、追ってきているのである。
学園の生徒たちには箝口令《かんこうれい》が敷《し》かれ、彼らは寮《りょう》のそれぞれの部屋でなにごとも起こっていないかのように勉学に励《はげ》んでいるらしい。これまでもずっとこの学園はそうだったのだ。秘密裏《ひみつり》になにかが行われるとき、あの不気味な生徒たちはきまって沈黙《ちんもく》するのである。我の叫《さけ》び声、王立騎士団の足音と怒声《どせい》、それらが響《ひび》き渡《わた》る中、学園はそれを、立ちこめる霧《きり》が見せる不気味な幻でもあるかのように、ただ沈黙によってやり過《す》ごそうとしていたのである。
我は、歩いている。
もともと丈夫《じょうぶ》な体である。ともにソヴュールまでやってきた大人たちより長く、あの、生き埋《う》めにされた墓地《ぼち》の土|饅頭《まんじゅう》の中でも生きていたのだ。だが、矢から回る毒は次第《しだい》に我を朦朧《もうろう》とさせていた。
我は、歩いている。
……なぜだ?
わからなかった。ここ数週間のあいだ、時計塔を取り巻《ま》く王立騎士団は身動き一つ取らずに静観していたのに。あの青年――オカルト省の役人であるアルベールがなんらかの手を打っているのであろうと思っていた。我は彼から依頼《いらい》されたものを創《つく》り出すために実験に明け暮《く》れているふりをしていた。そう、ふりである。なぜなら、我にはその実、なにも造《つく》れないのだから。なにも、なにもである。
だが今夜、王立騎士団はとつぜん動いた。
おそらくオカルト省は科学アカデミーとの争いに敗れたのだろう。もしくは国王の一存《いちぞん》であるかもしれぬ……。
我は、歩いている。
一歩、また一歩と。
もう命が助からないとわかっていた。毒は回り続けているのだ。足が重くなり、瞼《まぶた》も垂《た》れ下がり、まるで巨大な鉛《なまり》のかたまりを運んでいるかのようだ。
我は工房《こうぼう》にゆっくり入る。
後ろ手に鍵《かぎ》を閉《し》める。
そして震《ふる》える体を、歩、一歩と進める。
あの秘密の隠《かく》し部屋のステンドグラスの扉《とびら》を開け、中に入る。遥《はる》か昔、何十年も前、我とともに海を渡ってやってきた死の金塊《きんかい》が、我を出迎《でむか》えた。震える手で我は扉を閉めるが、もう動けぬ。四肢《しし》は痺《しび》れ、感覚が遠のいていく。
我は安堵《あんど》の吐息《といき》をつく。
死してもなお見られてはいけないもの――この仮面《かめん》の下に隠された皮膚《ひふ》を、この隠し部屋に金とともに永遠《えいえん》に封印《ふういん》することに成功したのである。この扉は内側からは開けることができない。我はここで朽《く》ちるのだ。
ふいに……それをとても皮肉に感じる。
あの夜、一八七三年のあの夜、人夫の一人としてソヴュールにやってきた我は、仲間とともに騙《だま》されて墓《はか》に生き埋《う》めにされ、殺された。そこから蘇《よみがえ》った。復讐《ふくしゅう》を誓《ちか》い、いつの日か国政《こくせい》に関《かか》わり政策《せいさく》を変えんとした。だが、ここで、志半《こころざしなか》ばで……。
我はかつて墓から蘇ったというのに、今度は自ら墓に入ろうとしているのである。
遠くから声がする。
我を呼《よ》ぶ声だ。必死に声をからして叫ぶ声。
アルベールだ。あの若《わか》い美しい男が、時計塔の中を狂《くる》ったように駆《か》け回り、我を捜《さが》しているようである。
声がするのだ。
「リヴァイアサンよ! どこだ――!」
悲痛《ひつう》なその声。
「ぼくには力が、力が必要なんだ。リヴァイアサン――! 新世紀とともにやってくる世界的な嵐《あらし》を切り抜《ぬ》けるための、この国のための……いや、ヨーロッパのための力。オカルティックな力。それを造れるのは君だけだ。行くな。消えないでくれ、リヴァイアサン。ぼくの魔術師《まじゅつし》よ――!」
我は薄《うす》く笑う。
アルベールのあの、無造作《むぞうさ》に結ばれて馬のしっぽのように細い背中《せなか》に垂れていた、美しい金色の髪《かみ》が時計塔の中を彷徨《さまよ》い、舞《ま》い上がるのを感じる。深い緑色の瞳《ひとみ》。まるで少女のそれのような薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》。
まだ叫んでいるようだ。
声が聞こえるのだ。
アルベール[#「アルベール」に傍点]・ド[#「ド」に傍点]・ブロワ侯爵[#「ブロワ侯爵」に傍点]は声をからし、叫び続けている。
「戦士《ホムンクルス》を! 人造人間《ホムンクルス》を、我《わ》が手に! お願いだ。戦火を駆け抜ける最強の戦士《ホムンクルス》たちを、この国に! リヴァイアサンよ!」
我《われ》はくっくっと笑う。
そしてアルベール・ド・ブロワ侯爵《こうしゃく》に心の中で別れを告げる。
さようならだ。愚《おろ》かなる貴族《きぞく》よ。権力《けんりょく》と野心に歪《ゆが》む、オカルト省の美しき狂人《きょうじん》よ。
もう逢《あ》えまい。
永遠に――。
人は神にねじを巻《ま》かれたぜんまいに過《す》ぎぬ。
やがて動きを止めれば、朽ちるだけである。嵐もまた、くるようにきて、去るように去るであろう。それを止めるすべは我々にはないのである。そう、無から有など造《つく》れぬ。錬金術《れんきんじゅつ》とは、歴史の波をくぐり抜け続けた、何人もの詐欺師《さぎし》の手による時空を超《こ》えた壮大《そうだい》な嘘《うそ》なのだ。我もまた錬金術の名を騙《かた》った詐欺師の一人に過ぎぬ。
無から有など造れぬ。
人造人間《ホムンクルス》も、また然《しか》り。
力を持つ子供《こども》がほしければ、女に生ませるがよい。
そう、特別な女にだ――!
我は隠し部屋の金塊の前に立ち、体の隅々《すみずみ》まで回る毒を感じている。
もはや四肢の感覚はないにひとしく、ぴくりとも動くことが叶《かな》わぬ。
ふいに胸《むね》を震わす不思議な感覚に、我は驚《おどろ》く。己《おのれ》がまさかそのようなことを思うとは。
……胸を震わせたものは孤独《こどく》らしき感情《かんじょう》であった。
寂《さび》しさ、恐怖《きょうふ》、そして混乱《こんらん》……。
我はここで死ぬのである。もう数分のうちに事切れるであろう。そしてそれきり、何百年|経《た》とうとここにいることを誰《だれ》にも知られることなく、一人きりで朽ち、やがて塵《ちり》となるのである。
我が何処《どこ》からきた何者であったのか、誰にも知られぬまま。
――それはなんという孤独、なんという罰《ばつ》であろうか。
我は死の瞬間《しゅんかん》であるいま、一つのことを思いだしている。時計塔《とけいとう》を抜け出して、学園の聖《せい》マルグリット大図書館に無造作に置いてきたある書物のことをだ。それは金色の表紙をした大きな書物で、我自身の回顧録《メモワール》の体裁《ていさい》を取っている。そして未来の者に挑戦《ちょうせん》している。悪ふざけでもあった。だがどこか本気でもあったのだ。
ああ、いつの日かあれをみつける者よ。暗い運命の手によって我と結ばれた魂《たましい》の双子《ふたご》よ。我と同じく愚かなる、未来の汝《なんじ》よ。
汝は男か?
女か?
大人か?
子供か?
構《かま》わぬ。あぁ、いつの日かあの書物をみつける者よ。未来の汝よ。願わくば汝、我の――愚者《ぐしゃ》の代弁者《だいべんしゃ》となりて我《わ》が秘密《ひみつ》を暴《あば》け!
どうか我をみつけだしてくれたまえ。
この黄金の牢獄《ろうごく》から。
汝、愚者の代弁者と、なりて――
我を救え。
[#改ページ]
エピローグ 予感
聖《せい》マルグリット学園の広大な敷地《しきち》にも夕闇《ゆうやみ》が迫《せま》り、ずいぶんと長かった一日がついに終わろうとしていた――。
クリスタルの噴水《ふんすい》から噴《ふ》きだす水飛沫《みずしぶき》が橙色《だいだいいろ》の夕日を浴びてきらきらと輝《かがや》いていた。花壇《かだん》には少し影《かげ》が落ちて、色鮮《いろあざ》やかな花も闇に沈《しず》もうとしている。風も涼《すず》しくなり、夏の夜が近づいていることを予感させる。
聖マルグリット学園の敷地の一角にそびえる時計塔《とけいとう》は、やってきた警官《けいかん》たちによって周囲を鉄柵《てっさく》で囲まれ、厳重《げんじゅう》な警備《けいび》が行われていた。遠く小径《こみち》の向こうにある芝生《しばふ》に佇《たたず》んで、小さなヴィクトリカが一人、それをじっとみつめていた。
底知れぬ深い湖のような、緑の瞳《ひとみ》。いまは怒りか、憂《うれ》いか、推《お》し量り切れぬ複雑《ふくざつ》な光をたたえてただ時計塔を見守っている。
大きな足音とともに、誰かがヴィクトリカに近づいてきた。青々とした芝生に、長く、すらりとした男の影法師《かげぼうし》が揺《ゆ》れた。その頭に一角獣《いっかくじゅう》のような角が立っているのを影で確認《かくにん》すると、ヴィクトリカはつまらなそうに、
「グレヴィールか」
「おにいさま、と呼《よ》べ。おにいさまと」
ヴィクトリカは反抗《はんこう》するようにフンッと鼻を鳴らした。
小さな、そして恐《おそ》るべき妹のとなりに立ったグレヴィール・ド・ブロワ警部はしばらく黙《だま》ってパイプをくゆらしていたが、やがて小さな声で、
「国王からご連絡《れんらく》があった」
「……ふむ?」
「金塊《きんかい》を運び出し、ソヴレムに運ぶようにとの仰《おお》せだ。御意《ぎょい》。ここにあれだけの金塊があることがわかった以上、置いておくわけにはいかないからな。ソヴレムの銀行で保管《ほかん》し、国の財産《ざいさん》とするらしい」
「そうか」
「時計塔は取り壊《こわ》しになる。老朽化《ろうきゅうか》も進んでいるし……いや、国王はさまざまな証拠《しょうこ》を時計塔ごと消し去ってしまいたいのだろう。それも御意、だ」
ヴィクトリカはなにも答えなかった。小さな手に握《にぎ》りしめた閉《と》じたパラソルを、ただくるっと回してみせた。
夕闇が迫ってくる。
風が少し冷たさを増《ま》す。
ブロワ警部は立ち去ろうとして、しかししばらくのあいだ逡巡《しゅんじゅん》していた。迷《まよ》い、ため息をつき、それから意を決したように妹に問いを発した。
「おまえ、どこまで知っている?」
「……なにも」
ヴィクトリカの答えは短かった。
「なにも?」
「ああ」
「……父が手を回したので、いろいろと表に出ることはないようだ。だから……うむ、しかし……」
「グレヴィール、心配しなくとも、わたしは誰からもなにも聞いてはいない」
「そ、そうか」
ブロワ警部は心底ほっとしたようにつぶやいた。
きびすを返して歩きだそうとした背中《せなか》に、しかしヴィクトリカは容赦《ようしゃ》なく言葉を浴びせた。
「だがな、グレヴィール。忘《わす》れてもらっては困《こま》る」
警部がゆっくりと振《ふ》り返った。
「グレヴィール、わたしには知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠ェあるのだ。たとえこの学園に幽閉《ゆうへい》されどこにいくこともできなくとも、わたしには君たちが落としていく混沌《カオス》の欠片《かけら》たちがある。何年もかけてわたしは欠片を拾い集め、そして再構成《さいこうせい》を繰《く》り返した。いまやわたしはなんでも把握《はあく》している。なんでも、だ」
ブロワ警部の目つきがさぐるようなものに変わる。
ヴィクトリカは気にせず、語り続ける。
「たとえばわたしたちの父、アルベール・ド・ブロワ侯爵《こうしゃく》が若《わか》かりし頃《ころ》、錬金術師《れんきんじゅつし》リヴァイアサンと深い関《かか》わりがあったことも知っている。父はきたるべき新しい嵐《あらし》――世界大戦《グレート・ウォー》を予見していた数少ない貴族《きぞく》の一人だった。そして大戦が、どことどこが同盟《どうめい》を結びどこが勝つのかに関係なく、世界にとって一つの大きな転換期《てんかんき》になるであろうことも。その予見は当たった。いまやヨーロッパは旧大陸《きゅうたいりく》と呼ばれ、そして新大陸には新しい力がある」
「あぁ……」
「新しい力は、科学|革命《かくめい》によって得られるものだ。つぎの嵐ではさらに科学的な、まったく新しい兵器が造《つく》られ、試《ため》されることだろう。父はヨーロッパの終焉《しゅうえん》を恐れているのだ。それは騎士道《きしどう》精神《せいしん》の終わりであり、個人《こじん》の戦争の終わりでもある。つぎの嵐は機械の戦争となり、また、かつてないほどの規模《きぼ》の大量|殺戮《さつりく》が行われるだろう。新大陸の時代は科学の時代だ」
「…………」
「わたしは父の考えを過去《かこ》に立ち戻《もど》って推測《すいそく》することができる。彼は、新大陸の新しい力、科学に対抗できるものとして、ヨーロッパの古い力、すなわちオカルトを切り札にしようと考えていたのだ。無から有を生む錬金術師や、不死の怪人《かいじん》、そして人ならぬ力を持つ古代の灰色狼《はいいろおおかみ》。〈古き者たち〉――! 彼らがもし現実《げんじつ》に存在《そんざい》するならば、それこそが古い力だ。新大陸には存在しない。父は、ヨーロッパ独自《どくじ》のビジョンを探《さが》していた」
「……そうだ」
ブロワ警部《けいぶ》は苦々しげにヴィクトリカを睨《にら》むと、
「父はリヴァイアサンに頼《たよ》り、この学園を人造人間工場にするつもりだったのだ。大量の戦士を造り、供給《きょうきゅう》する……。生徒のふりをした無敵《むてき》の戦士たちを」
「だが失敗した」
「そうだ。……そしてその後、おまえを得た。灰色狼の血をもつ子を」
「わかっている。父はリヴァイアサンを失った後、あらゆる文献《ぶんけん》を漁《あさ》り古い力を探したのだろう。そして灰色狼の伝承《でんしょう》をみつけた。都市に逃《のが》れた一|匹《ぴき》の灰色狼を探《さが》し当てた。コルデリア・ギャロを……。彼女にわたしを生ませ、そして……」
ヴィクトリカは一歩、下がった。
緑の瞳《ひとみ》できっとブロワ警部を睨む。
「わたしは知っている。全部、全部知っているぞ。父がわたしをここに閉《と》じこめているのは、こわいからだけではない。この学園はソヴュールの秘密《ひみつ》の武器庫《ぶきこ》≠セ。むかしからそうだった。父はわたしを武器≠ニみなし、しかるべきとき……二度目の嵐が起こるときまで、ここで眠《ねむ》らせておくつもりなのだ」
ブロワ警部もヴィクトリカを睨んだ。だがその瞳には恐《おそ》れるような光があった。
夕闇《ゆうやみ》が迫《せま》ってくる。
「グレヴィール、おろかな我《わ》が兄よ……。遠からず二度目の嵐はやってくるぞ。そのときこそ父はわたしの力を使うつもりなのだ、そしてそれを阻止《そし》しようとする者もまたやってくるだろう。それが何処にいる何者なのかはまだわからない。だが……ともあれ、嵐は迫っている」
ヴィクトリカの顔にはなんの表情《ひょうじょう》もなかった。冷酷《れいこく》めいた緑の瞳で兄をみつめている。ブロワ警部はドリルを揺《ゆ》らし、二、三歩よろめくと……。
「確《たし》かにこの学園は武器庫≠ナ、おまえという武器≠閉じこめておくにはふさわしい場所だ。だが……このような事件《じけん》が起これば、父も気を変えるかもしれないぞ」
それを聞くと、ヴィクトリカはかすかに顔色を変えた。
「我が、異母妹《いぼまい》よ……」
ブロワ警部は乾《かわ》いた声でささやくと、転がるように小径《こみち》に出て、遠ざかっていった。不吉《ふきつ》なものから離《はな》れようとするように。やがて駆《か》け出し、そして小径の向こうに消えていった……。
ヴィクトリカはそれからしばらくのあいだ、芝生《しばふ》の上にちょこんと立ったままじっとしていた。やがて自身もなにかをおそれるように、ちょこちょことした動きでどこかに走り出した。
夕刻《ゆうこく》の風が吹《ふ》いて、ビロードのように輝《かがや》く長い金髪《きんぱつ》を背後《はいご》にたなびかせていく。
樹木《じゅもく》の生《お》い茂《しげ》る葉が、風に揺られてカサカサカサカサッ……と密《ひそ》やかな音を立てる。
夕日は橙色《だいだいいろ》に輝いて、敷地《しきち》の芝生も、花壇《かだん》も、白い砂利道《じゃりみち》も鮮《あざ》やかな色に染《そ》め変えていく……。
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一弥《かずや》は敷地の一角を、辺りをやたらきょろきょろしながら歩いていた。
寮《りょう》の窓《まど》から、夏休みのバカンス用にもう荷造《にづく》りを始めている生徒の姿《すがた》が見えた。水着に麦藁帽子《むぎわらぼうし》、素敵《すてき》なドレスなどをつぎつぎに積み上げては、楽しそうに歌など歌っている。
小径の向こうのベンチでは、生徒たちが集まって、夏休みの計画を話している。
学園は生徒たちの浮《う》き浮きとした空気に暖《あたた》められ、敷地ごと少し傾《かたむ》いて、一足先に夏休みに向かってこぼれ落ちていこうとしていた。日射《ひざ》しはきつく、アルプス山脈の山奥《やまおく》とは思えないほど明るく乾いた空気が、バカンス気分を盛《も》り上げている。
そんな庭園で……一弥は、砂利の敷きつめられた小径を、
「ヴィクトリカー? おーい、ヴィクトリカ?」
ベンチの下や樹木の生い茂る枝《えだ》の上など、まるで迷子《まいご》の仔猫《こねこ》かなにかを捜しているような様子で覗《のぞ》き込《こ》んだり見上げたりしながら、歩いていた。
「ヴィクトリカー……? おうっと!」
小径の角を曲がったとき、一弥の腕《うで》の中に、反対側からフリルのかたまりが飛び込んできた。一弥はびっくりしながらも、その小さな白いのを、きゅっと抱《だ》き留《と》めた。
やっぱり、ヴィクトリカだ。
「なんだよ、君。ぼく、ずっと捜してたんだよ……」
一弥はほっとして、弾《はず》んだ声を上げた。それから安心したせいで軽口を叩《たた》き始めた。
「下界に降《お》りた君のことは、ぼくはどうやら、すぐに見失っちゃうみたいだね」
「……そうなのか?」
「うん。だって、こうやってばたばた君を捜すのは、今朝からもう何度目だっけ?」
「久城《くじょう》、君は、わたしを捜せないかね……?」
ヴィクトリカの老女のようなしわがれ声が、不安そうに震《ふる》えて、消え入りそうに小さなことに一弥は気づいた。
「……ヴィクトリカ?」
一弥はそのちょっとした異変に心配になり、その場にしゃがんだ。するとヴィクトリカは、すごくめずらしいことに、ほんの一瞬《いっしゅん》だが一弥の制服《せいふく》の袖《そで》をぎゅうっとつかんだ。小さな肩《かた》も小刻《こきざ》みに震えている。
「ううん、そんなことないよ。ちょっと手間取るけど、ぼくは、ほらこうやって、必ず君をみつけてるだろ?」
「…………」
一弥が下から彼女の顔を覗き込むと、しかしヴィクトリカはいつも通りの、一弥には見慣《みな》れた、けぶるような冷酷《れいこく》めいた無表情《むひょうじょう》を浮かべていた。
「ヴィクトリカ、君、どうかしたのかい?」
「……どうもするものか」
ヴィクトリカは首を振《ふ》った。
一弥が心配そうに覗き込んでいるのに気づくと、小さな両手を広げて、かなり邪険《じゃけん》に、一弥の顔面をぐいぐい押《お》した。
「いて、いてて……。なんだよ。顔を見ただけだろ」
「近い」
「……いつもこれぐらいだよ。なんだよ、近くで見るぐらいいいだろ。ヴィクトリカのけち」
ヴィクトリカはフンと鼻を鳴らした。それから小さな声で、
「わたしはどうもしない。ただちょっと、兄妹|喧嘩《げんか》をしただけなのだ」
「頭にドリルをつけた兄さんと? そりゃ危険《きけん》だね。ねえ、あのドリルの先ってときどき目に刺《さ》さりそうにならない? ぼく、何度かひやっとしたことがあるよ。できれば前じゃなくて、上に向けてとがらせてくれないかな」
「世界|規模《きぼ》の喧嘩なのだ」
「……ふぅん?」
一弥は黙《だま》った。
風が吹《ふ》きすぎていく。
木々の葉がカサカサカサカサカサッ……と音を立てる。
一弥は表情を曇《くも》らせた。あの――時計塔《とけいとう》で乱闘《らんとう》になったブライアン・ロスコーの不吉《ふきつ》な言葉を思い出したのだ。
暗い、挑戦《ちょうせん》するようなあの声を……。
〈あの生き物は囚《とら》われの身だ――〉
〈あれは|美しき怪物《モンストル・シャルマン》≠セ――〉
〈ヨーロッパ最後にして最大の力だ――〉
〈この先、あの仔狼《こおおかみ》の行く手に待つものは、大きな大きな嵐《あらし》だ――〉
不吉なあの声と、まるで猫のようにつり上がったブライアンの緑の瞳《ひとみ》、炎《ほのお》のように燃《も》え上がるあの赤い髪《かみ》……。
一弥は知らずぶるっと身震いした。ヴィクトリカがちょこちょこと歩きだしたので、あわてて立ち上がって後を追いながら、
「ヴィクトリカ……」
彼女に追いつくと、なにか言おうとした。でもなにも思いつかないので、しばらくとなりを歩きながら考えていたが、ぼそっと聞いた。
「君、その、大丈夫《だいじょうぶ》かい……?」
「フン。わたしはいつも通りだ」
ヴィクトリカはぶっきらぼうに答えた。
「そう?」
「うむ」
「ほんとに?」
「……うむ」
その横顔を覗《のぞ》き込むと、いつもと同じ、長き倦怠《けんたい》と、耐《た》え難《がた》い退屈《たいくつ》と、そしてとらえどころのないなにかが混在《こんざい》する――不思議な表情を浮《う》かべていた。一弥はなおも問いかけようと口を開いたが、少し迷《まよ》って、やめた。代わりにべつの言葉を問うてみる。
「……で、ヴィクトリカ。君、どこに行こうとしてるのさ?」
ヴィクトリカは足を止めた。
一弥の顔を見上げて、当たり前だというように、
「どこって、図書館だが」
一弥はちょっと驚《おどろ》いた。
「じゃ、君、また図書館に戻《もど》っちゃうの?」
「もちろんだ。わたしは勝った。それだけだ。だからいつもの場所に戻るのだ」
「ふぅん……」
一弥は首をかしげた。
「そしたらぼくは確《たし》かに、君を見失わなくていいけどね。だけどヴィクトリカ、君はまた退屈になっちゃうんじゃないかい?」
「うむ」
「そしたらどうするのさ?」
「……かまわない」
ヴィクトリカはこともなくうなずくと、また歩きだした。一弥はあわてて後を追う。
「倦怠、退屈、逡巡《しゅんじゅん》。それだけがわたしの友だ」
「あと、ぼくね」
「…………」
ヴィクトリカはちょっとだけ顔を上げて、とても不思議そうにかたわらの少年の横顔を見上げた。それからわずかに、さくらんぼのようなつやつやした唇《くちびる》を動かした。
笑ったのかもしれない。
図書館塔《としょかんとう》が近づいてきた。いつものように人気がなく、巨大《きょだい》な石の塔は静寂《せいじゃく》にのみ支配《しはい》されているようだ。少し上り坂になる小径《こみち》を、一弥は手をのばしてヴィクトリカと手をつなぎ、一緒《いっしょ》に上りだした。
ヴィクトリカはぎゅっと手を握《にぎ》り返してきた。
――風が吹《ふ》いた。
木々の枝《えだ》が揺《ゆ》れ、カサリと音を立てた。噴水《ふんすい》の水が気持ちのいい音を立ててクリスタルの上にこぼれ落ちた。小径の砂利《じゃり》が夕日を照り返している。
なにかが、起こりそうな――、
そんな夏休みまで、あと二日――。
二人は手をつないだまま、いつもの図書館塔に向かってゆっくりと歩き続けていた。
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あとがき
みなさん、こんにちは。桜庭《さくらば》一樹《かずき》です。『GOSICKW―ゴシック・愚者《ぐしゃ》を代弁《だいべん》せよ―』をお送りします。よろしくです。
さて今回は、謎《なぞ》のベールに包《つつ》まれている聖《せい》マルグリット学園の秘密《ひみつ》と、かつてソヴュール王室に君臨《くんりん》した奇怪《きかい》な錬金術師《れんきんじゅつし》〈リヴァイアサン〉を巡《めぐ》る冒険《ぼうけん》に、ヴィクトリカと一弥《かずや》が挑《いど》みます。解《と》かれた秘密は、探偵役《たんていやく》であるヴィクトリカ自身の出生《しゅっせい》とも関《かか》わり、事態《じたい》は思わぬ方向へ流れ始める……。
と、それは本編を読んでいただくとして……。
三巻が出版されて、ちょうどこの四巻を執筆《しっぴつ》しているころ、初めての体験というものが二つ、ありました。
一つは、ラジオ〈どらごんデンタルクリニック〉に出演して三巻の宣伝《せんでん》をしよう! というので、酔《よ》っぱらってご機嫌《きげん》で帰ってきたときに担当《たんとう》さんからメールで打診《だしん》がきていて、かなり強気で(だって、酔っぱらいだから……)「ラジオですか? もちろん出させていただきます、敬礼〜」とか、ちょっとどうだろうというノリで返事を出してしまいました。当日はお酒《さけ》も入っていないし、緊張《きんちょう》で真《ま》っ青《さお》になって文化放送に入り、あぅあぅとしゃべってきました。
声優さん二人(←かわいい!)にフォローしていただいてなんとか無事《ぶじ》に終わりました。よかった……。
二つめは、幕張《まくはり》メッセで行われた〈東京エンタテインメントマーケット〉というイベントで、『GOSICK』のサイン会をやらせていただきました。
これもまた、ラジオ以上にド緊張《きんちょう》しました。前日からご飯食べれず、眠れず……。当日も、声優さんや着ぐるみ俳優さんでごったがえす控《ひか》え室《しつ》で、うろうろと、
わたし 「K藤さん、五十人限定って、五十人もきてくれてるのでしょうか……? い、いなかったらどうすれば……」
K藤さん「うん……(←メール中)」
わたし 「K藤さん、相手して!!」
とかぐるぐる騒《さわ》いでいましたが、会場に入ってみたら大丈夫で、ちゃんと五十人いてくれました。遠《とお》いところをきてくださった方、ほんとにありがとう……!
読者の方も、作家に会う機会《きかい》というのはなかなかないものだと思うのですが、作家のほうも、読者の方の顔を見て、声を聞く機会《きかい》というのはなかなかないので、とてもうれしい体験《たいけん》でした。
そういえば……後でスタッフの方に聞いてみたら「ほかの先生のときより、ちょっと女の子が多めですね」とのことでした。そうなんだ……! あと「フルメタのお客さんより、一回り小柄《こがら》な感じがするような」そ、そうなんだ……!?
実際、小柄な人が多めだったような気もします。いや、気のせいかも。背《せ》が高い場合はやせてたりとか……? いや、どうだろう。
ともかく、きてくださった方も、こうしていつも読んでくださる方も、みなさん、ありがとうございます。引き続きがんばりますので、どうかよろしくお願いします。
さて今回は、一月発売ということで年末進行≠ナ……というのは、年末年始に印刷所《いんさつじょ》がお休みしてしまうので、いつもより早めにお仕事を進める、というものなのですが、そのおかげで、このあとがきを書いているいま、武田日向さんのカラーイラストが全部|手元《てもと》に届いていたりします。いつもはカバーとラフが上がった辺《あた》りであとがきを書くので、おおっこれは!? というイラストがあってもコメントが間《ま》に合《あ》わなかったりするのですが、今回はばっちりです。
さて、口絵をじっくり……。
あれ、これ誰《だれ》……? あぁ、あの人っ……(汗《あせ》)。
ネタバレするから彼へのコメントは控《ひか》えよう……。
そうだ、セシル先生のイラストを見て「あっ!」と思ったことがあるので、それについて書こうと思います。
一巻のあとがきにも書いたのですが、セシル先生のモデルにしたのは、狛犬泥棒《こまいぬどろぼう》というあだ名(をつけたら本気で怒《おこ》った……)の友人なのです。この人がモデルだということも、彼女の容姿《ようし》についても、武田さんにはなにもお話ししていないのですが、できあがったイラストはなぜかコマドロに酷似《こくじ》していて、じつは内心、ものすごく驚《おどろ》いています。とくに服装《ふくそう》がまんまで、うん、あの子はいつもこんな服を着てるんだ……。
そういえば、彼女の服装に関することで、最近こんなことがありました。
【大事な人】
こないだ、コマドロと金ブラともう一人の友達と、四人で温泉《おんせん》に行きました。いっしょに温泉ってもう何度目かなのでとくにはずかしいということもなく、四人まっぱだかで露天風呂《ろてんぶろ》に浸《つ》かって「ああ、極楽」「生き返るね」「日本人は温泉だよね」などと定番の台詞《せりふ》を口にしていました。
しばらくのんびり雑談《ざつだん》していて、それからふと、コマドロの服の話になりました。
残りの三人は、休みの日だからラフな服装で出かけてきていたのですが、コマドロは平日の夜、お仕事帰りに待ち合わせるときと同じような、きっちりした格好《かっこう》でやってきていました。
「いつ会ってもちゃんとしてるね。そういえば、もう何年も友達なのに、ジーンズはいてるとこ、見たことないや」とわたしが指摘《してき》すると、コマドロはなぜかムッとしました。
しばらく押《お》し黙《だま》っていましたが、やがて、やけに真剣な顔をして、
コマドロ「ぜったい、いや」
わたし 「……え? やだってなにが?」
コマドロ「ジーンズ姿は、大事な人にしか見せられない」
え、でもいま、まっぱだかだよ……?
湯船の中、白い湯気《ゆげ》に包まれたわたしたちは(全員まっぱだかで)顔を見合わせました。それから「そりゃいったいどういうことだ」「くわしく話せ」とコマドロに詰《つ》め寄《よ》りました(まっぱだかで)。おそろしい顔をした裸女《らじょ》三人に三方から詰め寄られたコマドロは、うっとうめいて、ちょっと泣きそうになっていました。
で、どういうことだったかと言うと、そんなにむずかしいお話ではぜんぜんなくて、コマドロを落ちつかせてよくよく聞いてみたところ、
わたしはお尻《しり》の形に自信《じしん》がないから、いつもロングスカートをはいている。ジーンズをはいている姿はよほど大事な、〈選ばれし者〉にしか見せることはできない。ぜったいに譲《ゆず》れない。だからそんな、見たいとか言うな!
――というような内容でした。
しつこいようですが、まっぱだかで言ってました。
わたしたちは納得《なっとく》したようなしないような、微妙《びみょう》な顔つきのまま、もとの「極楽だね」「温泉はいいね」というルーティーンの台詞に戻りました。
しかしですね、わたしたちは仲がよくて、お互いに大好きなのだけれど、それでもその大事な人≠ニいうのはもちろんわたしたちのうちの誰でもなくて、この先、やつが会うはずの未知の人なのだなぁ、と思うとちょっと寂《さび》しかったです。苦《にが》くて温《あたた》かい温泉でした。ちぇっ、て感じ。
【もう一人】
ええと、最近、ほかになんかあったかなぁ、といまパソコンの前で考えていて、ふと思い出しました。この温泉ジーンズ事件のときも一緒だった友人で、なおかつ、いままでネタにしたことがない(おかしな言動《げんどう》がほとんどない)子がいました。
この人は、職業・旅人な女性です。そういやいま現在も、電話して詳《くわ》しく聞こうかと思ったんだけど、よく考えてみたらこないだからずっと、マダガスカルに長期旅行《ちょうきりょこう》に行っていて(なんとかっていうめずらしいサルを見るためだけに、わざわざそんな国まで……なんか、よくわからん)うちにいません。だから、本人から聞いたときの記憶《きおく》を元《もと》に、わたしが適当《てきとう》に思い出して書《か》いちゃいます。
修学旅行《しゅうがくりょこう》とかの学校行事に派遣《はけん》されてくるカメラマンがいますよね? それで後《あと》から、希望者を募《つの》って写真を販売したりする……あのカメラマンが、彼女の本業《ほんぎょう》です。男の人がほとんどの職場《しょくば》なのですが、彼女は女性で、くるくるのロングヘアに大きな瞳《ひとみ》をしていて、なかなかに目立つ、きれいな人です。なにをやらかしたのかは知らないのですが、カメラマン仲間のおじさんたちには「あの、魔女!」と呼《よ》ばれています。いったいなにやったの? すごく悪いこと?
その彼女がこの秋、京都への修学旅行の撮影《さつえい》に行きました。わたしはおみやげに、ちりめん山椒《さんしょう》とかいろいろ頼んでいました。それで、帰京した彼女と会う約束していた当日の朝、彼女から電話がかかってきて、
あの魔女「今日、行けない」
わたし 「な、なんで? わたしが〈選ばれし者〉じゃないから!?」
あの魔女「……げっ。その件、まだ気にしてんの? そうじゃなくて、歯医者に行くから」
わたし 「はいしゃ〜(わたしよりはいしゃ〜?)」
あの魔女「あのね、歯医者に行くまで、誰にも会えないから」
この人はとてもかっこつけで、なかなか人に弱味《よわみ》を見せないのです。わたしは長年の勘《かん》で、クールを装《よそお》って話している彼女の声がちょっと困《こま》っていることに気づきました。それで、なにがあったのかがんばって聞きました。彼女は根負《こんま》けして、仕方なく説明《せつめい》してくれました。
彼女はその修学旅行で、大事《だいじ》なものをなくしたのです。
前日までの仕事で、京都の古寺《ふるでら》などを巡《めぐ》る高校生たちについて、彼女はカメラを背負《せお》って撮影を続けていました。この仕事は、取りこぼしなく全員の顔を撮《と》らなくてはいけないのでじつはとてもたいへんで、彼女は生徒をみつけるたびに声をかけてはパチリ、を繰《く》り返《かえ》していました。
その高校は男子校で、カメラ片手に飛び回る美しい彼女は、生徒たちにとてもモテていました(←いや、本人がそう言うから……)。で、魔女はちょっと調子に乗っていました。恋人いるんですかとか何歳ですかとか聞かれてクールに大人っぽく振《ふ》る舞《ま》っていて、どんどん調子が上がってきました(←ばかだなぁ……)。
それで修学旅行二日目、とあるお寺で、男の子たちに「おねえさん、ぼくたちを撮って、撮って〜!」と言われて「しょうがないわね。さっきも撮ったのに。じゃ、行くわよぅ」と笑って、カメラを構《かま》えました。
あの魔女「はい、キム、チ〜(ぽろり)!」
口から差《さ》し歯《ば》が落ちました。
チ、のところでだそうです。
男子高校生たちは気づかずにうれしそうにポーズを取って、それからわいわいと去っていきました。
彼女はあわててその場にしゃがんで、大事な前歯を捜《さが》しました。
みつかりませんでした。
ビコーズ、そこは白い砂利《じゃり》道だったのです。どれが歯で、どれが小石なんだか、焦《あせ》れば焦るほど、さっぱりわからず……!?
無情にも生徒たちはどんどん歩き去っていき、彼女には歯を捜しだして口に戻す時間も、正直に理由を話して先生たちに待ってもらう勇気も、ありませんでした。そういうわけで残りの二日間を彼女は前歯なしで、ものすごく無口に過ごしました。オリエンタルな感じのアルカイック・スマイルと、物憂《ものう》げなうなずきだけでなんとか乗り切りました(なんとなく想像できる……)。
という話をいやそうに、もそもそ話す彼女に、わたしはもちろん「その顔、見たい!」と迫《せま》りました。「ぜったいやだ!」「千円あげるから!」「このばか!」といった小競《こぜ》り合《あ》いの後、彼女は「ドタキャンして悪いけど、前歯のないわたしは本当のわたしではないから」と言い切って電話を切っちゃいました。
そしてつぎの週に会った彼女は、元通りのちょっとクールで、謎《なぞ》めいた感じの雰囲気で、なにごともなかったかのように美しく微笑《ほほえ》んでいました。新しい前歯も入っていました。
わたし 「本当のわたしに戻れて、よかったね」
あの魔女「ふふ、一時はどうなることかと思ったわ」
へんな人だな、と思いました。あの魔女を巡《めぐ》る話はこれで終わりです。めったにおかしな行動をとらない人なので……、もしも、またなにかやってくれたら書こうかと思います。
それにしても、まったくみんな、〈選ばれし者〉だの〈本当のわたし〉だの〈思春期〉だの……なんのこっちゃ!
それではそろそろ、とまとめようかと思ったけど、キム、チ〜、で一つ思い出しました。最近あったちょっとした話をついでに書いておこうと思います。でも、ぜんぜんたいした話じゃありません……。
【キムチ娘】
わたしはここ何年か、なんとなく、新宿二丁目で暮《く》らしています。二丁目っていうのはいわゆる、例の有名な日本一の○○スポットな、あの街です。
昼間はごく普通《ふつう》の街なのですが、夜になると、コンビニ前で女の子二人組がキスしてたり、セーラー服に三《み》つ編《あ》みの女学生スタイルのおじいさんとすれ違ったり、美青年《びせいねん》に泣いてすがる美少年(なにがあったんだろう……?)が吠《ほ》えていたりと、毎夜、阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地獄絵図《じごくえず》です。うーん、へんな街だ。でもだいぶ慣《な》れた。
しかし最近はそれだけじゃなくて、なぜかアジア系の住人がどんどん増《ふ》えています。韓国《かんこく》系とタイ系にわかれるみたい。で、わたしのマンションの隣室《りんしつ》にも、最近、センター分けのロングヘアをしたけっこうかわいい、韓国人の若い女の子が引っ越《こ》してきました。ベランダ越しに、風に乗ってときどきキムチの匂《にお》いが流れてきます。キムチ大好きっ娘なのか、もしくは韓国料理屋さんで働いてるのか、どっちかなぁ、などとわたしは考えていました。
……疑《うたが》うわけではないのです。
昨日の夜、飲みにでかけようとしたら、マンションのエレベーター内になぜか、足の踏《ふ》み場《ば》もないほどキムチが散乱《さんらん》していました。キムチを持った誰《だれ》かが思いきりコケた、みたいな感じでした。の、乗れない。あぁ、急いでるときに限って!
いや……、疑ってません。
でも…………おまえが犯人だ!(と決めちゃいたい気もする)
お、そんなことを書いているうちに、そろそろページが尽《つ》きてきました。
さてさて、今回も執筆に当たって、関係各位の方にはたいへんお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。
担当《たんとう》のぶれいんでっどーのK藤さん、超すご腕《うで》なのでいつも忙《いそが》しそうですが……これからもわたしの頭をゆさゆさ揺《ゆ》すって、ぺしぺし叩《たた》いて、『GOSICK』シリーズのブラウジング&編集加工、よろしくです。
それと、イラストの武田日向さん! 今回もまたすばらしいイラスト、ありがとうございます。ドレスが、ほっぺが、あんよが! かわいすぎる……もう、すごすぎるよー……!!
そしてこのシリーズを読んでくださっている読者のみなさんにも、ありがとうございます。四巻もまた楽しんでいただけたなら幸いです。
さて、つぎはおそらくですが、長編の五巻か、もしくは最初の短編集が出る予定です。長編の場合は、夏休みが終わってからの、二人の第五の冒険が描かれます。短編集になる場合は、ドラマガに掲載《けいさい》された、ヴィクトリカと一弥が出会う短編第一話から、バトロイで連載中《れんさいちゅう》の、アブリルと紫《むらさき》の本《ほん》を巡る謎《なぞ》を追う物語をまとめたものになる予定です。長編だけではわからない二人の出会いや、アブリルの事情《じじょう》などもこれを読むとわかるので、できたら、楽しみに待っていただけたらと思います。また、雑誌|掲載《けいさい》にはない、二人の出会い以前のヴィクトリカのお話も、書き下ろしで入る予定です。よろしくお願いします。
あとですね、相変わらず時間はかかってしまっていますが……ファンレターには必ず担当《たんとう》さんと一緒に目を通して、お返事を書くようにしています。読んだ感想や、学校のこととか友達のこととか、あとイラストとか……いつもですね、楽しく読ませてもらっています。ぜひぜひ、お気軽に送ってみてください。
宛先は、
一〇四―八一四四
東京都千代田区富士見一―十二―十四
富士見書房 富士見ミステリー文庫編集部
桜庭一樹 です。
『GOSICK』シリーズは書き下ろし長編のほか、『ファンタジアバトルロイヤル』でも短編を連載中です。一月発売号では、武田日向さんの美麗《びれい》! なイラストが表紙《ひょうし》を飾《かざ》っているほか、短編もいつもの倍の百枚!(いつもは原稿用紙で五十枚なのです)で、二本|載《の》っています。第一話から続いていた、ヴィクトリカと一弥の出会いからアブリルの謎が解けるまでの物語が短編の一本目で完結して、二本目からは、時系列《じけいれつ》ではこの長編四巻以降のお話に当たる二人きりの夏休み≠ェ始まるところです。
こちらもまた、よかったら、見てみていただければうれしいです。
ではでは、ここまで読んでいただいて、今回も本当にありがとうございました。それでは、またお会いしましょう〜! 桜庭でした。
[#地付き]桜 庭 一 樹
[#地付き]〈桜庭一樹オフィシャルサイト〔SCHEHERAZADE〕http://sakuraba.if.tv/〉
底本:「GOSICKW―ゴシック・愚者を代弁せよ―」富士見ミステリー文庫、富士見書房
2005(平成17)年 1月15日 初版発行
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2006年05月06日作成
2006年05月07日校正
2007年08月28日校正
2007年09月27日校正
2009年05月18日校正
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(一般小説)[桜庭一樹]GOSICK IV 愚者を代弁せよ.zip vorpal2JnsGI4lCq 27,783,261 18e9215e13683599caa34f1077cf96ce0ea88da0
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このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
外字の注記ですが、このテキストでは読みやすさを重視して、青空文庫の規則とは若干違う方法で記載しています。
底本は1ページ17行、1行は約42文字です。
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使用したWindows機種依存文字
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「W」……ローマ数字4
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本95頁13行 王妃に接見《せっけん》を許するのだ
許する?
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おまけ
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1625行
「ふがっ? だに[#「に」は「に+゛」、濁点付き平仮名に、156-17]をずる[#「る」は「る+゛」、濁点付き平仮名る、156-17]の[#「の」は「の+゛」、濁点付き平仮名の、156-17]だっ!?」
ArisuViewerで見るときは、スタイル設定の「濁点を前の文字に合成する」にチェックして
「ふがっ? だに゛をずる゛の゛だっ!?」
と書き換えるとよいです。