GOSICKV
―ゴシック・青い薔薇の下で―
桜庭一樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)魔法《まほう》の指輪
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)矢川|澄子《すみこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あるとある[#「とある」に傍点]国から伝わった
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表紙・口絵・本文イラスト 武田日向
表紙・口絵デザイン 桜井幸子
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目 次
プロローグ 鏡の国
第一章 魔法《まほう》の指輪
ベッドルーム―Bedroom 1―
第二章 〈青い薔薇《ばら》〉
ベッドルーム―Bedroom 2―
第三章 〈闇《やみ》に消える者たち〉
ベッドルーム―Bedroom 3―
第四章 アナスタシア
ベッドルーム―Bedroom 4―
第五章 〈ジャンタン〉の闇《やみ》
ベッドルーム―Bedroom 5―
第六章 アレキサンド・ライト
ベッドルーム―Bedroom 6―
エピローグ 迷路
あとがき
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登場人物
久城一弥……………………………日本からの留学生、本編の主人公
ヴィクトリカ・ド・ブロワ………知恵の泉を持つ少女
グレヴィール・ド・ブロワ………警部、ヴィクトリカの兄
アブリル・ブラッドリー…………英国からの転校生
コルデリア・ギャロ………………謎の人物、ヴィクトリカの実母
セシル………………………………教師
シニョレー…………………………警視総監
ガルニエ……………………………デパートのオーナー
ルイジ………………………………いつも〈ジャンタン〉の前にいる少年
アナスタシア………………………悪魔の贄となる少女
ブライアン・ロスコー……………謎の人物、奇術師
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つぎの瞬間、アリスは鏡をくぐりぬけて、むこう側の部屋にかるがるととびおりていた。
[#地から2字上げ]――『鏡の国のアリス』ルイス・キャロル
[#地から2字上げ]矢川|澄子《すみこ》訳 新潮文庫刊
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プロローグ 鏡の国
夜――
書き割《わ》りのような星空が四角く浮《う》かんでいた。
漆黒《しっこく》色をした鉄とガラスで造《つく》られたパレスや、巨大《きょだい》な駅舎《えきしゃ》や、黒ずんだ煉瓦《れんが》造りのビルディングが、精巧《せいこう》なミニチュアの街のように並《なら》んで、月明かりに青白く瞬《またた》いていた。
その街の一角で――
少女が一人、佇《たたず》んでいた。
砂色《すないろ》の長い髪《かみ》を背中《せなか》に垂《た》らして、宝石《ほうせき》のような濃《こ》い紫色《むらさきいろ》に輝《かがや》く瞳《ひとみ》をひそませている。彼女が立ち尽《つ》くすその目前からは、夜を切り裂《さ》くような激《はげ》しい光の洪水《こうずい》が溢《あふ》れ出していた。
薄《うす》いガラスに仕切られたその向こうから、眩《まぶ》しいライティングに照らされた細いマネキンが少女を見下ろしていた。
少女はすり切れた流行|遅《おく》れのワンピースに、穴《あな》の開いた革靴《かわぐつ》を履《は》いていた。どちらも元は素晴《すば》らしい細工のものだとわかる品だが、いまはもう、耐用《たいよう》年数をとうに超《こ》えていた。
マネキンはきらきらしいドレスを着て、帽子《ぼうし》をかぶり、ビーズ刺繍《ししゅう》のバッグを手にしていた。
少女は甘《あま》く吐息《といき》をついた。
(あぁ……素敵《すてき》!)
するとマネキンが口を開いた。
〈素敵……?〉
少女は驚《おどろ》いてマネキンの口もとを見た。マネキンは笑っていた。
〈いらっしゃいよ。あなたにも着せてあげるわ〉
「でも……」
〈試着室で着てみるだけよ。ただ試着室に入るだけ。お金はいらないわ〉
「……そうなの?」
マネキンは笑った。
〈そうよ〉
少女はゆっくりとそのビルに入っていった。きらびやかな品物が並ぶ中、夢見心地《ゆめみごこち》でドレスを渡《わた》され、ふらふらと進んでいく。試着室のドアがゆっくりと開けられ、少女はドレスを握《にぎ》りしめたまま夢遊《むゆう》するように歩き続ける。
試着室に入る。
背後《はいご》でゆっくりとドアが閉《し》まる。
少女は歩き続ける。
砂色の髪が揺《ゆ》れる。
――試着室の奥には鏡があり、少女のみすぼらしいワンピース姿《すがた》が映《うつ》っている。少女は歩き続ける。鏡は水のようにうごめき、歩いてきた少女を包み込んでしまった……。
やがて、紫色の制服《せいふく》を着た店員が試着室のドアを開ける。
中はからっぽで、ドレスだけが残されている。
店員はゆっくりドレスを拾い上げると、薄く笑う。
夜――
ビルの外では、書き割りのような星空が四角く浮かぶばかりだ。
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第一章 魔法《まほう》の指輪
1
初夏が近づいていた。
午後もだいぶ遅《おそ》い時間だというのに、日射《ひざ》しはいつになくきつく、村道には蹄《ひづめ》を響《ひび》かせて通り過《す》ぎる荷馬車が立てる乾《かわ》いた土埃《つちぼこり》がひっきりなしに舞《ま》い上がっていた。
荷馬車の残り香《が》は、夏の到来《とうらい》を予感させる甘酸《あまず》っぱい藁《わら》の匂《にお》いだった。聖《せい》マルグリット学園に戻《もど》る村道を一目散に歩いていた久城一弥《くじょうかずや》は、その匂いに気づくとふと足を止めて、眩《まぶ》しそうに目を細めて振《ふ》り返った。
大きな古びた荷馬車は左右に激《はげ》しく揺れながら、でこぼこ道をどんどん遠ざかっていく。揺れるたびに藁の束が少しずつ道に落ちていく。村道の左右にはなだらかな葡萄《ぶどう》畑が広がり、鮮《あざ》やかな緑の蔦《つた》が風が吹《ふ》くたびに一斉《いっせい》に揺らめいていた。
久城一弥はのんびりした足取りになって、また村道を歩き始めた。そんなに一心|不乱《ふらん》に歩かなくても、学園の正門が閉《と》ざされてしまう門限《もんげん》の時間まではまだまだ余裕《よゆう》があることを思い出したのだ。
――小柄《こがら》で、どちらかというと線の細い少年である。短めだった黒髪《くろかみ》は少し伸《の》びて、漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》に半《なか》ばかかっている。山脈の麓《ふもと》に広々と広がる敷地《しきち》を持つ名門、聖マルグリット学園の制服に身を包んで、律儀《りちぎ》にも制帽《せいぼう》をきっちりかぶった彼は、片手《かたて》に茶色い郵便物《ゆうびんぶつ》を抱《かか》えていた。
歩きながら封《ふう》を切ったらしく、もう片方の手には便せんが開かれて握《にぎ》られていた。
一弥は楽しそうに便せんに目を走らせながら、ゆっくり歩いていたが……。
やがて、少しずつ、情《なさ》けない顔に変わっていった。
『一弥さまへ
お元気ですか? おねえちゃんだよーん。あのね、聞いて。おとうさまがひどいの。それからお兄さまたちもひどいの。どうひどいかというとね……』
一弥は歩きながらどんどん便せんをめくっていった。
十|枚目《まいめ》ぐらいまで、どうひどいかというとね……の説明が続いていた。読んでいるうちに、村道のずいぶん先まで辿《たど》り着いて、学園の正門が遠く見えてきた。
――ガラガラガラガラッ!
大きな音を立てて荷馬車が通り過ぎていき、手紙に気を取られていた一弥は、真横を通り過ぎた荷馬車の立てた風に頬《ほお》を切られそうになり、びくんとした。
――手紙は、二|歳《さい》年上の姉からのものだった。十七歳になる姉は、一見、風に揺れる野の花のような儚《はかな》げな女性《じょせい》だったが、じつは芯《しん》の強い面もあった。おとなしいが、言いたいことははっきり言える性格《せいかく》で、そのせいか頑固《がんこ》な父や兄たちと喧嘩《けんか》になることもあった。一弥は密《ひそ》かに、自分よりも姉のほうがずっと、父たちに似《に》た強い性分《しょうぶん》に生まれたのではないかと思っていた。
その姉は、今年で女学校を卒業するので、お父さまが勧《すす》めるように四角い顔をした十も年上の帝国《ていこく》軍人≠ネんかのところにお嫁《よめ》には行かずに、いま通っている女学校の教師《きょうし》になることに決めたのだという。そのことで連日連夜、父や兄たちと丁々発止《ちょうちょうはっし》、言い合いを続けていたらしい。
『一弥さんは、わたくしの味方をしてくれなければ、いやよ』
十一枚目の便せんにそう書かれているのを読んで、一弥は心の底から、いまソヴュールにいてよかった……と思った。姉を庇《かば》って父や兄たちと言い合うには、末っ子の一弥は性格が穏《おだ》やかすぎたし、母はというと、昔から、笑顔《えがお》のままですばやく有利なほうにつくという人だったのだ。優《やさ》しくてたおやかな女性なのだが、意外と、ぜんぜん、頼《たよ》りにならない。
一弥は手紙を読みながら、聖マルグリット学園の正門に近づいていった。見上げるとクラリとするほど高い鉄柵《てっさく》は、唐草模様《からくさもよう》に似た複雑《ふくざつ》な形に絡《から》みあい、ところどころに金色の飾《かざ》りが輝《かがや》いている。一弥は手紙を読みながら、正門をくぐって聖マルグリット学園の敷地内に戻っていった。
手紙には唐突《とうとつ》に、一弥には見慣れない単語が羅列《られつ》されていた。
『白|木綿《もめん》のブラウスが三着ほしいなぁ。かわいい襟《えり》がついてるのがね。それから、タータンチェックのカラー。革靴《かわぐつ》は焦茶《こげちゃ》色で靴先に飾《かざ》りがついてるやつ。刺繍《ししゅう》つきの靴下と、ガラスのペン。もちろんインクもね。ええと、それと……』
どうやら姉は、女学校の教師になるに当たって必要なものを、一弥に、ソヴュールで買って送ってほしいと頼んでいるようだった。お買い物リストはまだまだ続いていた。
一弥は頭を抱《かか》えて立ち止まった。姉がリストに書き連ねているものが、どこでどう買うものなのか、それ以前にどういうものなのか、さっぱりわからなかったのだ。
大きくため息をついて空を見上げた、そのとき……。
「あっ! あの子よ。あの子が犯人《はんにん》。ほら、例の……!」
犯人という言葉に、一弥はハッとして振り返った。
もはや無意識《むいしき》にだが、少しでも変わった出来事や謎《なぞ》めいた犯罪《はんざい》をみつけたら、素早《すばや》く拾ってわかりやすくまとめて、迷路《めいろ》階段を駆《か》け上がって、
――退屈《たいくつ》だー。謎をご所望だー!
と駄々《だだ》をこね続ける、あの美しくて奇妙《きみょう》な友達のところに持っていってあげるつもりなのである。
ところが……。
あの子が犯人よ、と叫《さけ》んでいるのは、見慣《みな》れた女性――担任《たんにん》のセシル先生だった。大きな丸|眼鏡《めがね》をかけた、ぷくぷくした小犬を思わせる女性で、肩《かた》までのブルネットが風をはらんでふっくらふくらんでいた。
セシル先生はなぜか、まっすぐにこちらを指差していた。
「……犯人、ですか?」
一弥は後ろを振り返った。
すうっ……と風が通り過ぎた。
誰《だれ》もいない。
もう一度、セシル先生のほうを見る。やっぱり彼女はこちらを指差している。
一弥は不思議そうに、セシル先生と、こちらを指差すその指先をみつめた。
と……。
先生の足元に広がる生け垣《がき》が、ごそごそと枝《えだ》を揺《ゆ》らした。まるで大きな獣《けもの》が潜《ひそ》んでいるような揺れ方に、一弥は思わず一歩後ずさった。
――にょきっ!
生け垣から顔を出したのは、みっしりと髭《ひげ》を生やした筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》とした老人だった。片手《かたて》に大きな園芸|鋏《ばさみ》を握っている。
セシル先生が一弥を指差して、
「庭師さん! この子が犯人よ。菫《すみれ》を踏《ふ》んで、生け垣に穴を開けて……」
一弥は「あっ……」と叫んだ。つい数週間前、一弥は門限をとうに過ぎた時間に学園から外に出る必要に迫《せま》られて、生け垣に開けた穴から出たのだった。そのことがセシル先生にばれて、一弥はみっちり叱《しか》られた。
生け垣の穴を直すために呼《よ》ばれたにちがいないその庭師は、日に焼けてなめし革のように皮膚《ひふ》の分厚《ぶあつ》くなった顔をしかめると、一弥を睨《にら》んだ。
「なんだ。おめぇか! こんなところに穴を開けおって! どんだけ苦労してここまで木を育てたか、わかっとるのか! ちょっとこい。こんなことする生意気な腕《うで》は、こいつでちょんぎってやる!」
庭師は巨大《きょだい》な園芸鋏を振り回してうそぶいた。一弥が逃《に》げ出すものと見越《みこ》して脅《おど》しているようだったのだが、脅された一弥は顔を青くして、
「すみません……!」
思わず頭を下げて、あやまった。庭師は毒気を抜《ぬ》かれたのか、きょとんとした顔で一弥の後頭部をみつめていたが、やがてちょっと笑い、
「……いいよ。どうせセシルにさんざん怒《おこ》られた後だろう。もう、しなきゃいい」
そう言うと、また生け垣の奥《おく》にがさごそと戻っていった。
セシル先生はくすくす笑っている。
一弥は歩き去ろうとして、ふと気づいて、戻ってきた。セシル先生に、
「あの、先生。ちょっと質問《しつもん》があるんですけど……」
「あら、なあに?」
「その……」
一弥は片手に握っていた便せんを指差すと、セシル先生に聞いた。
「〈青い薔薇《ばら》〉って、いったい、なんですか……?」
時は一九二四年――。
ヨーロッパの小国、ソヴュール王国。
貴族《きぞく》の避暑地《ひしょち》として知られる地中海|沿《ぞ》いのリヨン湾《わん》を豪奢《ごうしゃ》な玄関《げんかん》のように構《かま》えるその国は、海から始まって、ヨーロッパ大陸の内陸、アルプス山脈の高台に向かって秘密《ひみつ》めいた回廊《かいろう》のように細長く伸《の》びる形状《けいじょう》をした、小さな国だった。山脈の奥《おく》にはスイスとの国境《こっきょう》が、海に近い華《はな》やかな地方にはイタリアとの国境が、そして王宮を構える内陸の都市にはフランスとの国境があった。列強に囲まれながらも、遥《はる》か昔から続く荘厳《そうごん》な歴史を持ち、世界大戦の戦火をも生き抜いたソヴュールは、西ヨーロッパにおいては小さな巨人≠ニ呼ばれていた。
秘密めいた回廊の先にあるアルプス山脈。その麓《ふもと》に、王国そのものほどではないが、やはり長く荘厳な歴史を持つ聖《せい》マルグリット学園がそびえていた。貴族の子弟のための教育機関として王国に名を轟《とどろ》かすこの学園は、静かな環境《かんきょう》の中に整然と建っていた。空中から見るとコの字型に見える荘厳な校舎《こうしゃ》は、広い庭園に彩《いろど》られ、周囲は高い生け垣で囲まれていた。生徒と職員《しょくいん》のみが出入りできる秘密主義の学園――。
だが、初の世界大戦となった先の戦争が終結した後、聖マルグリット学園は、一部|同盟国《どうめいこく》の優秀《ゆうしゅう》な学生を留学生《りゅうがくせい》として受け入れることを始めた。
十五歳の久城一弥は、成績《せいせき》優秀にして品行方正。帝国《ていこく》軍人の父と、やはり優秀な兄二人の存在《そんざい》もあって、推薦《すいせん》されて聖マルグリット学園にやってきた。しかし、新しい生活に期待に胸を躍《おど》らせてやってきた一弥を待っていたのは、貴族の子弟たちの偏見《へんけん》と、言葉や文化の壁《かべ》、そして学園になぜか蔓延《はびこ》る怪談《かいだん》ブームと……。
美しいが奇妙でどこか冷酷《れいこく》な少女、ヴィクトリカ・ド・ブロワとの出会い……。
留学して数か月、一弥はおかしな苦労を続けながらもようやく、ソヴュールでの生活に慣れてきたところなのだった。
「……〈青い薔薇〉?」
セシル先生が小首をかしげて聞き返してきた。一弥はうなずいて、先生とともに、敷地《しきち》内の庭園にある木のベンチに座《すわ》った。
学園の敷地には、コの字型をした巨大な校舎や、生徒のための豪奢な寮《りょう》、大図書館、礼拝堂《れいはいどう》……などが鎮座《ちんざ》しているのだが、それぞれの施設《しせつ》を結ぶ道の周囲には、ほれぼれするような手の込《こ》んだ庭園が続いていた。刈《か》り込まれた花壇《かだん》に噴水《ふんすい》。気持ちのいい芝生《しばふ》。
二人は芝生の一角に用意されたベンチに座ると、話し始めた。一弥は姉から届《とど》いた手紙を見せて、
「姉が、ソヴュールでいろいろ買って送ってほしいって言うんですけど……洋服とか、靴とか、文房具《ぶんぼうぐ》とか。その中に一つ……」
手紙の最後には『あと〈青い薔薇〉も一つね。じゃ、頼《たの》んだわよぅ』と書かれていた。一弥にはなんのことだかさっぱりわからず、これはもしかすると……。
「女の人に聞かないとわからないかなあと思って……」
「久城くん、知らないの?」
気づくと、セシル先生があきれたようにこちらをみつめていた。一弥はあわてて、
「し、知らないですよ。あれっ……そんなに有名なものだったんですか?」
「男の子って、こういうものにうといのねえ」
「すみません……?」
一弥はヴィクトリカやアブリルと話すときのくせで、また、うっかりあやまってしまった。しかしどうにも、自分が悪いとは思えない。
「〈青い薔薇〉っていうのはね、世界でも有数の大きさのブルーダイヤモンドよ」
「ダイヤモンド……?」
「そ。こーんなに大きいのよ。薔薇の花を思わせる形をしているから、ソヴュール王家の紋章《もんしょう》である青ざめた大輪の薔薇にちなんで〈青い薔薇〉と呼ばれているの。ソヴュール王家の宝《たから》よ。ほら、教科書に写真が載《の》っていたでしょう?」
一弥は美術《びじゅつ》の教科書に載っていたブルーダイヤモンドの写真を思いだして、うなずいた。しかししばらくすると怪訝《けげん》な顔になり、
「そんなもの、姉に送ったら、国際問題になりますよ」
「……あはは、久城くんたら。そうじゃなくて、おねえさんが言うのはね、〈青い薔薇〉にそっくりなガラス製《せい》の模造品《もぞうひん》のことよ。ペーパーウェイトなの。いま、女の人にとっても人気でね。ええと確《たし》か……〈ジャンタン〉でしか売ってないはずよ」
「〈ジャンタン〉?」
「ソヴレムにある大きなデパート」
一弥はむずかしい顔になった。
ソヴレムとは、ソヴュール王国の首都の名前である。この聖マルグリット学園のある村からは遠く離《はな》れた、フランスとの国境に近い平地にある街だ。ソヴュールに留学してきたとき、一度だけ通り過ぎたことがあるが、それ以降は用もなく、また遠いので、足を向けたことはなかった。
「……そうか。じゃ、ソヴレムまで買いに行かないといけないのか」
セシル先生は不思議そうに、
「遠いから行けないって返事をすればいいんじゃないかしら?」
「うーん。でも、多分すごく楽しみにしてると思うし……」
一弥が思案顔で言うと、セシル先生はしばらくその顔をみつめていたが、やがて手を伸ばして、一弥の頭をなで始めた。
[#挿絵(img/03_021.jpg)入る]
「なな、なんですか!?」
「いい弟ねー」
「や、やめて!」
一弥は逃《に》げながら、
「それにしても……一瞬《いっしゅん》、すごくびっくりしました。だって〈青い薔薇〉って言われたら、本物のブルーダイヤモンドのほうかと思っちゃうし……」
「ああ……。でもね、本物のブルーダイヤモンドはもうないの」
「ない……?」
「大戦のどさくさで王宮の宝物庫《ほうもつこ》から消えてしまったの。ほかにもたくさん、あの戦争のときに消えてしまった美術品があるわ。この国の大切な財産《ざいさん》だけれど、きっと、もう国から持ち出されて、新大陸辺りの好事家《こうずか》の屋敷《やしき》に飾られていると思うわ……」
セシル先生はそうつぶやくと、少し寂《さび》しそうな顔をした。
「ソヴュール王家の紋章とそっくりなブルーダイヤモンド〈青い薔薇〉は、この国を象徴《しょうちょう》するものとしてとても大切にされてきたの。代々、ソヴュール国王の玉座《ぎょくざ》にはめるものだから、あれがなくなったことによって王室は多大な損害《そんがい》を被《こうむ》ったと言われているのよ。それにあのダイヤモンドには、その昔の美しい王妃《おうひ》にまつわるお話も伝わっていてね。そのせいもあって、この国の女の子にとっては憧《あこが》れの宝石なのよ。色もきれいだし、形も花みたいでかわいくて……。だから、とっても残念。いま、いったいどこにあるのかしら……」
先生は立ち上がって、歩きだそうとして振り向いた。
「あ、久城くん!」
「はい!」
「〈ジャンタン〉まで〈青い薔薇〉を買いに行くんだったら……」
「はい、わかってます。週末用の外出|許可《きょか》の申請《しんせい》をして、ちゃんと昼間のうちに正門をくぐって……」
「わたしの分も買ってきて」
「……えっ?」
セシル先生は上機嫌《じょうきげん》で、
「ずっとほしかったの。でも、ソヴレムまで行くの、面倒《めんどう》だし……」
「あの、先生……ぼくは使いっ走りでは……」
「お願いね。あと、勉強もさぼっちゃだめなのよ」
セシル先生は一弥の訴《うった》えは聞こえなかったふりをして、笑顔で歩き去っていった。一弥がどこか呆然《ぼうぜん》と、
「なんかぼく、ソヴュールにきてから、こう、女の人に……なんだろう、これ? なめられてるのかな? 一度ガツンと、そう、ガツンと、男子|本懐《ほんかい》っていうか……」
「……久城くん、わたしにも買ってきて!」
「ぎゃあああああ!」
一弥は叫《さけ》んで、ベンチから飛び上がった。
震《ふる》えながら振り向くと、いつのまにかベンチの後ろに、見慣《みな》れた女の子の顔があった。
日の光を浴びて眩《まぶ》しい、金髪《きんぱつ》のショートヘア。いつも楽しそうにきらきらしている、ぱっちりした青い瞳《ひとみ》。手足はスラリと伸びて、健康そのものの元気な少女だ。
アブリル・ブラッドリー――英国からの留学生である。三か月ほど前に一弥と同じクラスにやってきて、〈紫《むらさき》の本〉を巡《めぐ》るとある事件《じけん》をきっかけにして仲良くなった少女だ。
彼女はなぜか、芝生の上に匍匐《ほふく》前進のポーズで寝《ね》ころんでいた。スカートが少しめくれて、細いけれどはじけんばかりに健康的な長い足が芝生に無造作《むぞうさ》に投げ出されていた。一弥はちょっと赤くなって、
「な、なにしてるの?」
「わたしにも買ってきて、久城くん」
「えっと……?」
「〈青い薔薇〉のペーパーウェイト」
「…………」
一弥はため息をついて、ベンチに座り直した。
そのベンチの後ろからアブリルがにょきっと顔を出した。満面の笑みだ。
「アブリル、君、いつからそこにいたの?」
「向こうの芝生でごろごろしてたの。夏が近いし、天気も良くて気持ちいいから」
「……ふぅん?」
「そしたら、久城くんとセシル先生がきたから。いい雰囲気《ふんいき》だから、邪魔《じゃま》しようと思って」
「どこがいい雰囲気だよ! 庭師《にわし》さんに園芸|鋏《ばさみ》で脅《おど》された後、セシル先生には買い物を頼《たの》まれてたじゃないか」
「あはは! 久城くんたら、気が弱いから」
アブリルの何気ない一言に、一弥は深く傷《きず》ついた。
意地を張《は》って平気なふりをして、そっぽを向いていると、トントンと肩《かた》を叩《たた》かれた。
ふくれ面《つら》のまま振り向くと、そこに用意されていたアブリルの人差し指が、頬《ほお》にぐっさり突《つ》き刺《さ》さった。アブリルは実にうれしそうに、
「あはははは! ひっかかった。ひっかかった」
「……君、芝生《しばふ》でいったいなにしてたの?」
「あ、そうだ」
アブリルは一弥の頬から指を離《はな》して、立ち上がった。制服《せいふく》のスカートをひるがえして、芝生の奥《おく》のほうに走っていったかと思うと、なにかを胸《むね》の前に大事そうに抱《だ》きしめて戻《もど》ってきた。相変わらず足が早い。
「これ、これ!」
一弥のとなりに腰掛《こしか》けて、「じゃーん!」と見せる。
それは本だった。挿絵《さしえ》がたくさんついていて、字も大きく、読みやすい。……どうも子供《こども》向けの本のようだが、アブリルは得意そうにそれを見せて、
「村の本屋さんに注文してたの。ようやく届《とど》いたから、昨晩からずっと読んでてね。それで寝不足《ねぶそく》。ほら、目、赤いでしょ?」
指の腹《はら》で、下瞼《したまぶた》を引っ張ってみせる。赤い、と本人は言うのだが、健康そのもののアブリルには、どこにも寝不足らしい弱った様子はなかった。
一弥は本を受け取った。タイトルはずばり『怪談《かいだん》』だった。一弥はアブリルに本を返そうとした。
アブリルは両手を背中の後ろに回して、受け取らない。
「おもしろいんだってば! 久城くんも読もうよ!」
「ぼく、こういうのあまり好きじゃないんだってば。それにこれ、子供用の本じゃないか」
「えー。けっこうむずかしいよー」
アブリルは一弥から本を受け取ると、ページを開いては説明し始めた。
「デパートの試着室に入った貴婦人《きふじん》。しかし店員がドアを開けたら、血まみれの生首だけが残されていた……! きゃああああ!」
「……もうその手には乗らないってば」
「あとね、きれいに着飾《きかざ》った幼女《ようじょ》が泣いているので、迷子《まいご》だと思って声をかけた人が、そのまま消えてしまうの。角を曲がったら消えていて、衣服だけが残されていた……。幼女の姿《すがた》をした幽霊《ゆうれい》に、黄泉《よみ》の国に連れ去られたのよ……!」
一弥はしゃべっているアブリルにはかまわず、姉からの郵便物《ゆうびんぶつ》に目を向けた。
(あれ……?)
さっきから、やけにずっしり重いなと思っていたのだが、郵便物には手紙のほかになにかが入っていた。水色の布《ぬの》のようなものが見えた。
「浮浪者《ふろうしゃ》そのものの服装《ふくそう》をした殺人鬼《さつじんき》がいてね。着込んだ古着の中に、子供の死体をたくさんつり下げているの。浮浪者はじつは、植民地であるとある[#「とある」に傍点]国から伝わった、邪悪なる悪魔《あくま》崇拝《すうはい》者なのよ。歩くたびに服の中で揺《ゆ》れるのは、子供たちの乾いた死体……! あれ、なあにそれ? 久城くん」
「あ、いや……荷物の中に……」
一弥は、郵便物の中から出てきた水色の布を、両手で広げてみた。
思わず驚嘆《きょうたん》のため息が出た。隣《となり》でアブリルもあっと息を呑《の》んでいる。
――それは絹《きぬ》の織物《おりもの》だった。一弥にはどこか見覚えのあるものだ。しっとりした水色の小さな着物で、白い細い線で水に浮《う》かぶ睡蓮《すいれん》の清々《すがすが》しい花が描《えが》かれていた。
姉が子供の頃《ころ》にとても大事にしていた、よそ行きの着物だった。
ハラリ、と短い手紙が一弥の膝《ひざ》に落ちてきた。拾う。
『お買い物のお駄賃《だちん》だよぅ。一弥さん、小さな女の子の友達ができたって、手紙に書いていたでしょう? その子にあげてくだちゃいね。おねえちゃんより』
小さな女の子の友達……?
一弥は目を細めた。
確《たし》かに以前、家族に当てた手紙に、友達ができたと書いたことがあった。小さな女の子の友達が……。
姉はそれを、本当に小さな……子供のことだと勘違《かんちが》いしたらしい。着物は確かにため息が出るほどに素晴《すば》らしく、となりでアブリルも息を呑んでいたが、しかし子供用のサイズだ。
(ヴィクトリカは同い年なんだけどなぁ……)
一弥はしかし、着物のサイズがヴィクトリカの小さすぎる体にはぴったりなのではないかと思い当たった。なにしろヴィクトリカは、頭脳《ずのう》こそ大人が束になっても敵《かな》わない奇怪《きかい》な巨大さを持つものだが、姿はまるで子供のように小さい。レースとフリルでふくらんでいる分を差し引けば、ほんとにちょっとしかないのだ……。
一弥はとたんに笑顔になり、さっそくヴィクトリカに見せてやろうといそいそと立ち上がった。
「……あれ、久城くん?」
とつぜん急ぎ足になった一弥に、アブリルが不思議そうに声をかける。追いかけようと立ち上がりかけたが、やっぱり眠《ねむ》いらしく、ベンチにころりと寝転がって、遠ざかっていく一弥の背中を見送った。
小声でつぶやく。
「どうせまた、あの場所に行くんだろうなぁ……アブリルちゃんには、わかってるんですからね?」
眠そうに目をこすって、青い瞳《ひとみ》をゆっくりと閉《と》じながら、
「だって久城くん、結局いつも、あの場所に行くんだもん……」
アブリルが抱えた子供用の絵本『怪談』が、初夏の風に吹《ふ》かれて、ぱたぱたページがめくれていった……。
2
――聖《せい》マルグリット大図書館。
広々とした学園の敷地《しきち》の奥《おく》。なだらかな勾配《こうばい》に身をゆだねたような敷地の高台にのっそりとそびえるその建物は、三百年以上の時を刻《きざ》んだ、欧州《おうしゅう》でも指折りの知識《ちしき》の殿堂《でんどう》である。角筒型《かくとうがた》をした石造《いしづく》りの塔《とう》は風雨に晒《さら》され色を変え、まるで静かな巨人のように高台から広い学園全体を見下ろしていた。
いったいどこから入ればいいのか、と不安になるようなシンプルな造りの塔だが、そばに近づくと、真鍮《しんちゅう》の乳鋲《ちびょう》を打った革張《かわば》りのスイングドアがあるのに気づく。そっとドアを押《お》して入ると、そこには……。
目眩《めまい》がするほど天井《てんじょう》までが遠い、吹き抜けのホールがある。すべての壁《かべ》は書棚《しょだな》となっており、いったい何万|冊《さつ》があるのか……革張りの分厚《ぶあつ》い書物がみっしりと並んでいる。
上を見上げると、荘厳《そうごん》な宗教画《しゅうきょうが》が描かれた天井らしきものが見えることは見えるが、それよりも先に目に飛び込んでくるのは、異様《いよう》な形状をした細い木製の階段《かいだん》である。
迷路《めいろ》階段――。
一説によるとそれは、十七世紀初頭にこの塔が当時のソヴュール国王の手によって建設《けんせつ》された折り、綿密《めんみつ》に計算されて造られた、天に向かって続く迷路なのだという。国王は大変な恐妻家《きょうさいか》で、若《わか》く美しい愛人との秘密の逢瀬《おうせ》をみつからぬよう、塔のいちばん上に小さな部屋を造った。そして自分たちのほかは誰《だれ》も上がってこれないよう、階段を迷路状に造ったのだという――。
もちろんいまでは、一部|修復工事《しゅうふくこうじ》の際に取りつけられた油圧式《ゆあつしき》エレベーターがホールの奥に鎮座《ちんざ》している。だがこのエレベーターは教職員《きょうしょくいん》と、ただ一人の特別な生徒≠ノのみ使用を許可《きょか》されていた。
その特別な生徒――
ヴィクトリカ・ド・ブロワは、今日もまた図書館のいちばん上から、ラプンツェルのように長い金髪を垂《た》らして読書に耽《ふけ》っていた。
いちばん上の部屋――かつて国王と愛人が情事《じょうじ》に耽ったベッドルームであったかもしれないそこは、いまではすっかり改造され、小さくて快適《かいてき》な植物園になっていた。南国の木々や毒々しい大きな花が、天窓《てんまど》から射《さ》し込む光をどぎつく照り返している。
植物園と、迷路階段の踊《おど》り場のあいだに半身を投げ出すように、豪奢《ごうしゃ》な少女の陶人形が置かれていた。
等身大に近い百四十センチぐらいの背丈《せたけ》を、サテン生地《きじ》でできたアクアブルーのドレスで包んでいる。青いサテンの上から繊細《せんさい》な黒レースを何枚もかさねた、シックな花束のような姿《すがた》。薔薇《ばら》の模様《もよう》を型押ししたブーツを履《は》いた小さな足に、長い見事な金髪が、まるでほどけたターバンのように流れ落ちていた。
うつむき加減《かげん》の横顔は、取り澄《す》ました無表情。鮮《あざ》やかなエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》は遠くをみつめるように儚《はかな》げに見開かれている。見たこともないほど美しい顔立ちだが、同時に、見たこともないほど冷酷《れいこく》めいた表情とも言えた。
その陶人形――いや、陶人形そのものに見える小さくて豪奢な少女は、片手《かたて》に持った陶製《とうせい》のパイプを口もとに近づけ、ぷかり、ぷかり、と吸《す》っていた。
白い細い煙《けむり》が、たゆたいながら天窓に向かって上がっていく。時折吹く風が、煙のラインを心許《こころもと》なげに揺らしていく。
少女――ヴィクトリカ・ド・ブロワ。
聖マルグリット学園の囚《とら》われの姫《ひめ》=B
わけあって学園からは一歩も出られず、それに対する抗議《こうぎ》なのかなんなのか、授業《じゅぎょう》には一切《いっさい》出ることなく、いつもこの植物園で読書に耽っている、きわめて美しく、きわめて不思議な生き物である。
今日もヴィクトリカの目前には、分厚い書物が何冊も、開かれたまま放射線状に置かれていた。ヴィクトリカはパイプをぷかぷか吸いながら、すごい勢《いきお》いで書物を読み続けている。
それはさながら一枚の清々しい絵画のような光景だった。ヴィクトリカが書物のページをめくろうと空いているほうの手を伸《の》ばすたび、しゃらり……とかすかに衣擦《きぬず》れの音がする。目のさめるようなサテンのドレスが立てるその音のほかは、一切の声も、音も、ない。静寂《せいじゃく》にのみ支配《しはい》されたその光景は、まるで百年も前から彼女がそこに居続《いつづ》け、書物を読み続けているかのような、驚くべき現実《げんじつ》感の薄《うす》さである。
だが、
しかし――。
やがて、そんな彼女の静止画のごとき美を崩《くず》す、闖入者《ちんにゅうしゃ》の気配がやってきた。
ヴィクトリカはなにかの気配に気づいたかのように、つっと顔を上げた。それは動物的な動きだった。地震《じしん》の前触《まえぶ》れを予知する魚。肉食|獣《じゅう》の臭《にお》いに気づいた小動物。冬を予知した小さな渡《わた》り鳥……。
かすかに眉《まゆ》をひそめる。
同時に、バーンと大きな音がはるか下――図書館のホール辺りから聞こえてきた。誰かが図書館の扉《とびら》を開けて入ってきたのだ。
下の方から、気配をうかがうような沈黙《ちんもく》が漂《ただよ》ってきた。それから遠慮《えんりょ》がちの小さな声が……。
「ヴィクトリカー? いるかなー?」
少年の声だ。
ヴィクトリカはかすかに眉をひそめた。小声で、
「……いるに決まっているだろう」
その声は、まるで老女のようにしわがれた不思議な声だった。瞳の輝《かがや》きも、数十年の時をすでに生きた老人のように深く、どこか現実から遠い。それは小さすぎる豪奢な人形のような容姿《ようし》とは、驚《おどろ》くほどにアンバランスだった。
ホールに入ってきた少年――久城一弥が迷路階段《めいろかいだん》を上がり始めたらしい、リズミカルな足音が響《ひび》き始めた。カッ、カッ、カッ、カッ……! いかにも生真面目《きまじめ》な秀才少年らしく、その足音はよどみなく一定のスピードである。
ヴィクトリカは聞くともなくその足音を聞きながら、パイプを吹かしていた。
カッ、カッ、カッ、カッ……!
……と、
「んにゃっく!?」
かすかに、悲鳴だろうかなんだろうか、短い妙《みょう》な叫《さけ》び声がした。続いて、ドカドカと激《はげ》しい音を立ててなにかが階段を落下していった。ヴィクトリカが驚いて手すりから身を乗り出し、下を見下ろした。
一弥の姿は見えなかった。途中《とちゅう》で足を滑《すべ》らせ、どこかにひっかかっているらしい。
「ヴィクトリカー、助けて……。って言っても、ぜったい助けてくれないよね。わかってる……よくわかってる。自分でなんとかするから、待ってて……!」
ヴィクトリカは肩《かた》をすくめ、何ごともなかったかのようにまた書物を読み始めた。
数分後――。
久城一弥はハーハー言いながら、植物園の前に辿《たど》り着いていた。
額《ひたい》に浮《う》かんだ汗《あせ》を拭《ふ》き、うれしそうに、だが疲《つか》れたように、小さな友達ヴィクトリカが書物を読んでいる目前まで歩いてくると、
「途中で転んじゃったよ」
と言いながら、慣《な》れた調子で彼女のとなりにちょこんと座《すわ》った。
「いつも上がってる階段だから、ついよそ見しちゃって。いやあ、油断《ゆだん》って禁物《きんもつ》だね。この階段、途中で落ちたらきっと死ぬもんなぁ」
しゃべり続けている一弥に、ヴィクトリカはあきれたようにフンと鼻を鳴らした。
一弥はしばらくにこにこして、自分を無視《むし》して書物に読み耽る友達の冷たい横顔をみつめていたが、しばらくすると我《われ》に返り、
「そうだ、そうだ……」
立ち上がって、ヴィクトリカが散らかしたお菓子《かし》の包み紙やなにやらを甲斐甲斐《かいがい》しく拾い始めた。ヴィクトリカはちょっとだけ顔を上げて、わずらわしそうに一弥の様子を見ると、また書物に視線を戻《もど》した。
それからもそっとつぶやいた。
「……ねえさんから手紙がきたのかね?」
一弥は包み紙をまとめて自分の制服《せいふく》のポケットにつっこみながら、
「そう。郵便局《ゆうびんきょく》に行ったら手紙がきててね。だけど、ずいぶん長い手紙でさぁ……ん? ちょっと待ってよ。どうして知ってるの?」
「知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠セよ。例によって例のごとくね」
ヴィクトリカはつまらなそうに言った。
書物をめくろうと手を伸ばしかけて……なぜかその手を引っ込めた。両手をぎゅっと握《にぎ》って拳をつくったままで、
「わたしの湧《わ》き出る知恵の泉≠ノは不可能《ふかのう》なことはないのだ。たとえここに座ったままでなにも見ていなかったとしても、なんでもわかる。君、わたしは五感を研《と》ぎ澄《す》まし、この世の混沌《カオス》から受け取った欠片《かけら》たちを使って、遊ぶのだ。そう、玩《もてあそ》ぶのだよ。欠片は知恵の泉≠ノよって再構成《さいこうせい》される。そこには厳然《げんぜん》とした事実だけが残る。わたしはそれによって日々一人で楽しんでいるのだが、まあ気が向けば、君のようなつまらない凡人《ぼんじん》にもわかるよう、さらに言語化という作業を行うこともある。たいがいは面倒《めんどう》なので黙《だま》っているがね……」
「……ちぇっ」
「簡単《かんたん》なことだよ、君。つまり郵便局に行ったのは、君が抱《かか》えている荷物を見ればわかる。父や兄からの手紙であれば情《なさ》けない顔をして沈《しず》んでいるのに、今日の君はうれしそうだ。ゆえに手紙は彼らからではない、とわかる」
「ま、そう聞くと、確《たし》かに簡単なことだけどね」
一弥はため息をついて膝《ひざ》を抱《かか》えた。
床《ゆか》に転がっているキャンディーを一つ拾い、水玉模様の包み紙をはがして口に放り込む。予想外に大きかったキャンディーを口の中でもごもごさせながら、この不思議すぎる小さな友達の横顔をちらちらみつめた。
ヴィクトリカ・ド・ブロワ――。
学園関係者なら誰《だれ》もが秀才と認《みと》める極東の島国からの留学生《りゅうがくせい》、久城一弥に対して、君のような凡人などという暴言《ぼうげん》を吐《は》く、謎《なぞ》めいた少女――。
もちろん一弥は、ほかの生徒にこのようなことを言われたらけして許《ゆる》さないはずだった。一弥は一国を代表する学生としてソヴュールにやってきたのだし、その成績《せいせき》にも品行にも文句《もんく》のつけようはなかった。
だが、それなのになぜか一弥は……この、一度も授業《じゅぎょう》に出たことのない、しかし難解《なんかい》な書物をつぎつぎ読み飛ばしていく、小さなヴィクトリカ・ド・ブロワに吐かれた暴言には、何一つ反論《はんろん》できないでいた。
ヴィクトリカと出会ったとき、自分が巻《ま》き込《こ》まれた事件《じけん》についての真相を彼女に言い当てられたせいもある。その後も二人はさまざまな事件を経験《けいけん》したが、そのどんなときにも、彼女は論理的で明解《めいかい》で、彼女の知恵の泉≠ヘ、たちどころに混沌を再構成して言語化してみせた。
そのくせ、小さな椅子《いす》一つ持ち上げるのにも歯を食いしばらなければならないほど、ヴィクトリカには驚《おどろ》くほど無力な面もあった。
一弥はヴィクトリカの奇怪《きかい》な頭脳《ずのう》に心から驚き、彼女の暴言に深く傷《きず》つき、しかし彼女のあまりの無力さにあわてて助けの手を差しのべ……。
一弥のプライドも、常識《じょうしき》も、隠《かく》しもつ優《やさ》しい気持ちも……さまざまなものが、彼女と出会ってからの数か月間、焼き切れんばかりにフル回転し続けていた。いまもまた一弥は、ヴィクトリカの木で鼻をくくるような態度《たいど》に、怒《おこ》って帰ろうか、このままそばにいようか決めかねて、大きなキャンディーを口の中でもごもごさせながら、小さな冷たい横顔をただみつめているのだった……。
「怪談《かいだん》というのは巨大な共同|幻想《げんそう》だと思うのだがね」
ヴィクトリカがとつぜん言った。
だいぶ小さくなってきたキャンディーを噛《か》もうか、もう少しなめていようか迷っていた一弥は、驚いて顔を上げた。
「な、なに?」
「この学園に浸透《しんとう》する、怪談という名のファクターについて考えていたのだよ、君」
「どうしてまた?」
「……退屈《たいくつ》だったのだ」
一弥は顔をしかめた。
ヴィクトリカはつっとパイプから口を離《はな》して、恨《うら》みがましい妙な目つきで一弥を睨《にら》んだ。エメラルドグリーンの瞳《ひとみ》が怪《あや》しく光る。
「君がちっとも下界の謎を拾ってこないので、すっかり、きっぱり、退屈してな。わたしが死ぬほど退屈だと死ぬほど訴《うった》え続けているというのに、久城、君は不思議な事件をちっとも拾ってこないし、かといって自ら起こす思いやりもない……」
「自ら起こしたら、ぼくが犯人《はんにん》じゃないか。あっという間に船に乗せられて強制送還《きょうせいそうかん》だよ。まったく、君って人は……」
「久城、姫《ひめ》からの命令だ」
ヴィクトリカは、怒《おこ》りだした一弥にはまったくかまわず、顔を上げると言い放った。
「君、明日までに、おかしな事件《じけん》に巻《ま》き込まれて死ぬほど困《こま》りたまえ」
「……なんでだよ。やだよ」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。わたしの気さえ向けばすぐに解決《かいけつ》してやる」
「君の気が向かなかったら、どうなっちゃうんだよ!」
一弥はヴィクトリカに背《せ》を向けた。
ヴィクトリカはつまらなそうに鼻を鳴らすと、書物をめくろうと手を伸《の》ばした。それからまた、アッと短く叫んであわてて手を引っ込めた。また両手をグーにして握りしめ、いまのを見ていなかっただろうな、と心配そうに一弥のほうを見る。
一弥がよそを向いていたので、安心する。
それから退屈そうに伸びをした。猫《ねこ》がくぅっと伸びをするときのようだった。小さな体が意外なほどよく伸びた。青いサテンのドレスと、幾重《いくえ》にも重なった黒レースが、しゃらり……と衣擦《きぬず》れの音を立てた。
「で……?」
「む?」
「怪談がなんだって?」
「ああ、その話か」
ヴィクトリカは伸びを終えると、また口もとにパイプを近づけた。ぷかり、ぷかりと吸いながら、
「君、いまが空前の怪談ブームの時代だということを知っているかね? 怪談をまとめた本が飛ぶように売れ、幽霊《ゆうれい》が出ると評判《ひょうばん》の屋敷《やしき》には観光客が押《お》しかけているという現状《げんじょう》を」
「さあ……。でも、怪談好きな子ならクラスに一人いるよ。ぼくは興味《きょうみ》ないけど」
「この流れが都市部を中心にしているということには、気づいていたかね?」
一弥は首を振《ふ》った。
「ぜんぜん」
しかし、ついさっきアブリルから聞かされた怪談も、すべてが都会のデパートや路上を舞台《ぶたい》にしたお話だったことを思い出した。一弥がなんとなく納得《なっとく》していると、
「これはだね、君。前世紀末からの流れだ。人々は急速な近代化によって闇《やみ》を失いつつある。理屈では説明できない現象や、不思議の数々。それらはすべて科学によって証明《しょうめい》されるようになり、謎は謎でなくなってきた。だがしかし――人は見えるもの、わかるもののみによって生きていくわけではない。そこで、怪談ブームだ。そこにあるのはただただ欲望《よくぼう》なのだよ、君」
「欲望……?」
「そうだよ、君。人々の欲望――見えないもの、わからないものにあってほしいと思う欲望だ。ある者はそれを宗教《しゅうきょう》に求める。まだ神を見たものはないのだから。ある者は恋愛《れんあい》に求める。愛を見たものもないのだから。そしてある者は、それを怪談に求め始めたのだ」
「宗教と恋愛はともかく、怪談だけへんだよ」
「へんなのは、君がときどき持ってくるおみやげだ」
「……そ、そうだよね。ごめんよ……」
一弥はしょんぼりした。
座《すわ》りこむヴィクトリカのかたわらに置かれたキャンディー入れをちらりと見る。もとは珍妙《ちんみょう》な帽子《ぼうし》だった一弥からのおみやげは、いまでは逆《さか》さにされてお菓子《かし》をこんもりと入れられて、キャンディー入れとして再出発していた。キャンディー入れの中にころんと入っている拳大《こぶしだい》の金色の髑髏《どくろ》にいたっては、なんに使われるものなのか、持ってきた一弥自身にも、いまもってまったくわからない。
一弥は二つめのキャンディーを口に入れながら、もごもごと、
「だけど、怪談なんてぼくは信じないなぁ。だって全部作り話じゃないか。この世に、理屈で説明できないことなんてないはずだろう? 神さまのことだって、愛のことだって、いっぱい、いっぱい、理屈はあるしね。とにかく、ぼくはなにがあっても怪奇現象なんてものはぜったいに信じないよ」
「……そう言う者に限《かぎ》って、理屈で説明できないことが起こったときにはもろいものだよ」
ヴィクトリカがフンと鼻を鳴らしながらうそぶいたので、一弥はムッとした。
「そ、そんなことないよ……」
なぜか一弥が怒ったように黙り込んだので、ヴィクトリカは顔を上げて、不思議そうに一弥の横顔をみつめた。
「君、どうしてそんなくだらない顔をして黙り込んでいるのだ」
「……くっ、くだらなくて悪かったね。こういう顔なんだよ」
「さては君、自分はぜったいに引っかからないと自信があるのだな。よし、では証明してやろう。君が愚《おろ》か者でならず者でけだものだということをね」
ヴィクトリカはなぜかいそいそとした調子で言った。彼女にしてはとてもめずらしいことだが、自分から一弥のほうに向き直って、正面からじっと一弥を見た。一弥はそんなヴィクトリカを、気持ち悪そうに横目でうかがった。
床に座りこんだヴィクトリカを改めて正面から見ると、その姿《すがた》はやはり驚くほど小さかった。精巧《せいこう》な人形をちょこんと置いたようにしか見えない。ときどきパイプを持つ手が動くのも、からくり人形のようなゆっくりした動きで……ただその深い緑色をした瞳の、なんとも言えない捉《とら》えがたい輝きだけが、これは意志《いし》のある存在《そんざい》なのだと証明しているようだった。
「……なんだよ?」
「これを見たまえ、久城」
「んん?」
一弥は身を乗り出した。
ヴィクトリカがずいっと差しだしたのは、さきほどからずっと握りしめていた彼女の拳だった。ちょっとびっくりするぐらい小さい。右手の拳にキラッと輝くものがあった。指輪だ。金色の細い蛇《へび》を象《かたど》った台座《だいざ》に、鈍《にぶ》いオリーブ色をした石がはめられていた。
「これは魔法《まほう》の指輪だ」
一弥はきょとんとしてヴィクトリカをみつめた。
ヴィクトリカは大|真面目《まじめ》な顔をしていた。冗談《じょうだん》を言っているのではなさそうだが、なにか悪巧《わるだく》みをしているのは確《たし》かだ。瞳が笑っていた。そして子供《こども》がなにか言い張《は》るときのような調子で、
「魔法の指輪なのだ」
もう一度繰り返した。
一弥は困ったように頭を掻《か》いた。
「君、ときどき、どうにも子供っぽいんだよなぁ!」
「黙れ。で、どう魔法の指輪かというとだね。久城、君の嘘《うそ》を見破《みやぶ》る力を持っているからだよ」
「……ヴィクトリカ、いい加減《かげん》にしてよ。そんなわけないじゃないか」
「君の嘘を見破るのだ。こわいかね?」
「こ、こわくないよ!」
「では、そのくだらない耳をかっぽじってよーく聞きたまえ。この指輪は、君が真実を語るときには赤く光る。だが、君が嘘をつけば緑色に光る。なぜなら魔法の指輪だからだ。わかったかね? わからなくてもうなずきたまえ」
「……うん」
「では、これから質問《しつもん》を始めるとしよう」
ヴィクトリカは大仰《おおぎょう》にうなずいた。
そうするとヴィクトリカは、いつもの才気あふれる様子とはちがって、妙に子供っぽく見えた。一弥は戸惑《とまど》いながらも、この場からうまく逃《に》げる方法をまったく思いつけなかったので、仕方ない、つきあうか……とヴィクトリカに向き直った。
(ようやくアブリルの『怪談』から逃げ出してきたところなのになぁ……)
知らずにため息が出た。と……。
「いいかね?」
「……いいけど」
「久城一弥はアホである」
「……ちょっと、君!」
「返事だ、返事」
一弥は不機嫌《ふきげん》になり、
「アホじゃないよ、普通《ふつう》だよ。いや、普通よりちょっと賢《かしこ》いぐらいだよ」
「嘘だ」
「君ねぇ!」
ヴィクトリカがずいぶんと勝ち誇《ほこ》った顔をしているので、一弥は不思議になった。そしてヴィクトリカの手元に目を落とすと……。
なんと……。
指輪の色は暗い緑色に変わっていた。
一弥は怪訝《けげん》な顔になった。
「君、いま……指輪をこっそり取り替《か》えたんだろ?」
「そんなことはしていない。君、わたしを疑《うたが》うならずっと指輪を見ていたまえ」
「う、うん……」
一弥は指輪に視線《しせん》を落とした。
ヴィクトリカがつぎの質問をした。
「久城は女好きである」
「…………」
「色魔《しきま》である」
「……言い過《す》ぎだよ」
「ところかまわず欲情《よくじょう》する、血に飢えた、じつにくだらんけだものである」
「ひどいよ、君……。いつにも増《ま》して……」
「久城」
「いいえ! ……君ねぇ! って、あれっ……?」
一弥は首をかしげた。指輪はまた、すうっと暗い緑色に変化した。
固唾《かたず》をのんで見守り始めた一弥に、ヴィクトリカは残酷《ざんこく》に笑いながら、
「だから言っただろう? 魔法の指輪だと」
「……わかったよ。ぼくは血に飢えたじつにくだらんけだものだよ。それでいいよ。ヴィクトリカのばか……」
「静かにしたまえ。最後の質問だ。久城、君はつまらない凡人《ぼんじん》である」
「……わかったよ。はい。つまらない凡人ですよ、どうせね」
ヴィクトリカは満面の笑みで、指輪をはめた手をこちらにかざした。
指輪は……悪夢《あくむ》のように色を変えた。
静脈血のような不吉《ふきつ》な暗い赤に。
[#挿絵(img/03_045.jpg)入る]
ぽかんと口を開けて、邪悪《じゃあく》な赤色をした指輪をみつめている一弥の前髪《まえがみ》を、天窓《てんまど》から流れ込んできた初夏の乾《かわ》いた風が揺《ゆ》らしていった。
植物園に咲《さ》き誇《ほこ》る南国の木々や、どぎつい色をした大きな花も、さわさわと音を立てて揺れた。
ヴィクトリカはいつのまにか一弥に背《せ》を向け、また書物の世界に没頭《ぼっとう》していた。一弥はしばらく待っていたが、彼女がなにも言おうとしないので、小さなヴィクトリカの背中に仕方なく声をかけた。
「……で?」
「…………」
「どういう仕組み……? ヴィクトリカ、あんなに大騒《おおさわ》ぎして見せてくれたってことは、なにかあるんだろ? 教えてよ」
「…………」
「……ちょっと、ヴィクトリカ。教えてよー」
ヴィクトリカは顔を上げた。振り向いて一弥をみつけると、驚いたように、
「……久城、君、まだそこにいたのか?」
「いたってば! なんでかっていうと、君が説明してくれるのを待ってたんだよ」
ヴィクトリカは戸惑ったようにぼんやりと一弥をみつめている。
「本を読んでいるので、静かにしてくれないか?」
「ヴィクトリカっ!」
一弥がとつぜん叫んだので、ヴィクトリカはびっくりして目を見開いた。それからムッとしたように頬《ほお》を膨《ふく》らませ、
「久城、君……すごくうるさいぞ」
「だって、気になるんだってば」
「しかしわたしは、君をからかうのにはもう飽《あ》きたのだ」
「きっ、君ねぇ! どうしてだよ!」
「おそらくそれは、君が凡人だからだろうと推測《すいそく》されるが」
「……ヴィクトリカ、ぼく、怒《おこ》るよ。君の暴言《ぼうげん》にはときどき本当に我慢《がまん》がならないんだ。君は本当はぼくのことがきらいなんじゃないかって、夜中に悩《なや》み始めちゃうこともあって……ぼくはさ……」
一弥に背を向けたヴィクトリカの顔が、わずかに表情《ひょうじょう》を変えたように思った。言い過ぎたことを気にしているのか、いないのか。表情のかすかな変化は、彼女の背後《はいご》に座《すわ》っている一弥には見えない。
ヴィクトリカはしかし、強情《ごうじょう》そうに口を引き結んだ。そして小さなかわいらしい鼻をフンと鳴らすと、なおも言った。
「……君、わたしは本を読んでいるのだよ。邪魔しないでほしいのだ」
「…………」
一弥はムッとして押し黙った。
また風が吹いた。
天窓からは初夏の眩《まぶ》しい日射《ひざ》しが降《ふ》り注いでいた。ほどけたビロードのターバンのようなヴィクトリカの金髪《きんぱつ》が、日射しを受けてきらきらと輝《かがや》いていた。
小さな頭の向こうから、白い細いパイプの煙《けむり》が、天井《てんじょう》に向かって上っていく。
やがてヴィクトリカは顔も上げずにもそっとだが、言った。
「久城。左側の書棚《しょだな》のだな、上から十七段目の棚の左からちょうど二十|冊目《さつめ》だ」
「……って、なにが?」
「本だ。いいから持ってこい」
一弥は不満そうに黙ったまま、立ち上がった。
カッ、カッ、カッ、カッ……とリズミカルな足音を立てて、細い木の階段を降《お》りていく。言われた場所にあった本をつかんでまた戻ってくると、ヴィクトリカは無愛想《ぶあいそう》に、
「七百ページめの上から七行めだ」
「……うん?」
一弥は彼女のかたわらに座ると、分厚《ぶあつ》い本をめくり始めた。
それはめずらしい宝石《ほうせき》について書かれた本だった。七百ページめの上から七行めに〈アレキサンド・ライト〉という宝石のことが書かれていた。
一弥は「あぁ……」とうなずいた。
〈アレキサンド・ライト〉は、人工の光が当たると暗緑色に、自然光が当たると暗赤色に魔法のように色を変える宝石だった。そしてその特色は古来から、占《うらな》い師《し》などによって魔法の力として使われていた。そして前世紀末にヨーロッパを席巻《せっけん》した悪魔|崇拝《すうはい》など、植民地から入ってきた土着の宗教《しゅうきょう》を言い広めた人々によって、邪悪な力を封《ふう》じ込《こ》めた石として悪用された時代もあった、と書かれていた……。
そういえば、さっきヴィクトリカが一弥を脅《おど》したとき、宝石が暗緑色に変わったときにはヴィクトリカは手を植物園に煌々《こうこう》とついたライトのほうに、暗赤色に変わったときは天窓から射し込む日射しのほうに、さりげなくかざしていたようだった……。
「……なるほどね」
一弥はうなずいた。
「君の指輪についている宝石も〈アレキサンド・ライト〉だったんだ」
「……魔法だと思っただろう?」
「お、思わないよ! 確《たし》かにちょっと、いや、かなりこわくなったけど。だけど……」
ヴィクトリカは顔を上げた。一弥のほうを振り向いた小さな顔には、悪魔的な笑みが浮《う》かんでいた。
「小さな頃《ころ》にな、この指輪でさんざんグレヴィールを脅したのだ」
「ブロワ警部を?」
「そうだ。塔《とう》に閉《と》じこめられたわたしのことを、なぜかグレヴィールが毎日見にきては黙って観察していて、なかなかに気味が悪かったものでね。実際《じっさい》は知恵《ちえ》の泉≠ノよって知り得た事実をだね、指輪にかこつけて当ててやると、グレヴィールのやつは目尻《めじり》に涙《なみだ》を浮かべてこわがったものだ」
「それはすごくかわいそうだね……」
いくぶんブロワ警部に同情的になった一弥に、ヴィクトリカはわずかに顔をしかめた。それからむきになったように身を乗り出して、
「それだけではない。闇《やみ》の中で青白く発光する地獄《じごく》からの使者に、塔の部屋を走り回らせたのだよ。グレヴィールは愚《おろ》かにも、わたしのことを本物の悪魔だと思ったようだった。そうやってわたしは、あれをうまく追い払《はら》ったのだよ」
「地獄からの使者?」
「光る鼠《ねずみ》だ」
「えぇー、なにそれ?」
「君はこまかいことにうるさい男だなぁ、久城!」
一弥はむっとして押し黙った。ヴィクトリカは気にする様子もなく、面倒《めんどう》くさそうに、
「ついでに同じ本の千二ページめを開きたまえ。下から五行めだ」
「う、うん……?」
一弥は言われたとおりのページを開いてみた。
そこには〈ブルー・ジョン〉というめずらしい蛍石《ほたるいし》について書かれていた。それはイギリスの鍾乳洞《しょうにゅうどう》で採取《さいしゅ》される結晶化《けっしょうか》した石灰石《せっかいせき》の一種だった。青白い燐光《りんこう》を発することから、古代から酒杯《しゅはい》や建築物《けんちくぶつ》などに使われた……。これもまた、前世紀から霊媒師《れいばいし》に利用されるようになり、降霊会《こうれいかい》に出現《しゅつげん》される霊体のまがい物に使われたと書かれていた。
一弥はあきれながら、
「君、じゃあ、この〈ブルー・ジョン〉を使ったのかい?」
ヴィクトリカは物憂《ものう》げにうなずいた。
「……うむ。粉にして鼠につけたのだ。グレヴィールのやつ、心底|怯《おび》えきってわたしを睨《にら》みつけていた」
「でも、じゃ、警部は種明かしを聞いたら怒ったんじゃないかい?」
「種明かし……?」
ヴィクトリカは実に不思議そうに聞き返した。
また風が吹いた。
遠くから、敷地《しきち》内にある教会の鐘《かね》の音がかすかに聞こえてきた。
少し日が陰《かげ》ってきて、植物園にも夕刻《ゆうこく》の湿《しめ》った空気が満ちてきた。ヴィクトリカはしばらくぽかんとして一弥の顔をじっと見上げていたが、やがてびっくりしたような口調で、
「種明かしなんて、してないぞ」
「な、なんで!?」
「だ、だって、その前にグレヴィールは逃げちゃったし、それに、その……」
ヴィクトリカは少しふくれながら、
「面倒くさかったのだ」
一弥は頭を抱《かか》えた。
――いつだって、ヴィクトリカは冷酷《れいこく》で悪魔的で、そのくせ子供《こども》っぽくて非力《ひりき》で、一弥は時折、あまりにも意地悪なヴィクトリカのことが本当に腹《はら》が立つのだった。それでも嫌《きら》いになりきれないのは、ヴィクトリカは一弥以外の人間には対応《たいおう》がちがうということが、ほんのりとわかってきたからだ。
ヴィクトリカは一弥に言うほどの暴言《ぼうげん》は、一弥以外の人間には吐《は》いていないようだ。それは礼儀《れいぎ》とか友好のためではなく、ただただ無関心のためにだ。
いつだったか、ヴィクトリカの実の兄であるグレヴィール・ド・ブロワ警部《けいぶ》に言われた一言が、一弥は忘《わす》れられないでいた。
〈久城くん、君自身は気づいていないが、君の受け取っている恩恵《おんけい》は、悪徳|高利貸《こうりが》しからただでお金をざくざくもらい続けるような、奇特《きとく》で不思議すぎるものなのだ――〉
いまだってヴィクトリカは、一弥に渋々《しぶしぶ》、魔法の指輪のことを教えてくれたけれど、一弥以外の人間にだったら、面倒くさいからと教えなかったにちがいない……。
といったことにふと思い当たると、一弥はヴィクトリカのことが嫌いになりきれないのである。
「――あ、そういえばさ」
そろそろ帰ろうと立ち上がりかけた一弥が、急に思いだしたように言った。ヴィクトリカは相変わらず拳《こぶし》をぎゅっと握《にぎ》ったままで、書物に読み耽っている。
聞いているのかいないのかわからない態度のヴィクトリカにかまわず、一弥は郵便物《ゆうびんぶつ》の袋《ふくろ》を開けて彼女の前に差しだした。
サラサラッ――!
清々《すがすが》しい音を立てて、水色をした絹《きぬ》の着物がこぼれ落ちた。ヴィクトリカはちらりとそれを見た。水色の着物とふわふわしたピンクの帯が、大きな花が開いたように床《ゆか》に広がった。
ヴィクトリカは知らんぷりしている。
「これ、うちの姉が送ってきたんだ。ぼくのおみやげはへんかもしれないけどさ、これは大丈夫《だいじょうぶ》だよ。よかったら寝間着《ねまき》にでもしないかなと思ってさ。いる?」
「…………」
「……そっか。いらないなら、仕方ないから持って帰る……」
「いる!」
「……いるの? そうなの? じゃ、気に入ったのかい? 君の態度《たいど》はいつも、実にわかりにくいなぁ!」
一弥は一度はしょんぼりしたが、「いる!」と言われた途端《とたん》に笑顔《えがお》になった。それから甲斐甲斐《かいがい》しく、
「あのね、帯の結び方はね、こうやって、こうやって……ちょっとヴィクトリカ、真面目《まじめ》に見てよ」
ヴィクトリカは面倒《めんどう》くさそうに一弥に背《せ》を向けると、無愛想《ぶあいそう》に言った。
「君、わたしの知恵の泉≠ノ不可能《ふかのう》はないのだ」
「……うん?」
「そんな帯の結び方ぐらい、君に教えてもらわなくともわかる。もう、知らん。だいたい君はいつもがみがみうるさいのだ」
「あのねぇ!」
一弥は不機嫌《ふきげん》そうに、腰《こし》に巻いて実演していた帯をほどいた。着物の上にそっと乗せる。
ヴィクトリカは相変わらず知らんぷりしている。
一弥はため息をついて、
「じゃあね。またね、ヴィクトリカ」
返事もないので、半ばうなだれながら、木の階段《かいだん》をゆっくり降《お》りていった。
カッ、カッ、カッ、カッ……。
規則《きそく》正しい一弥の足音がゆっくり遠ざかっていくのを、ヴィクトリカはパイプをくゆらして聞くともなしに聞いていた。
カッ、カッ、カッ、カッ……。
やがて遠ざかっていった足音が絶《た》え、しばらくして図書館の扉《とびら》が開く音がした。一弥が出ていったらしく、ゆっくりと扉が閉《し》まると、図書館の空気はぴたりと停止し、何百年もそうであったようにただただ静寂《せいじゃく》に包まれた。
天井まで続く書棚《しょだな》の壁《かべ》も、遥《はる》か上の荘厳《そうごん》な宗教画も、かくかくと続く迷路《めいろ》階段も……。
動かない空気に支配《しはい》され、塔《とう》の中で動くものはただ、いちばん上の植物園に一人|座《すわ》る豪奢《ごうしゃ》なドレスの少女が手にしたパイプだけだ。
口もとにゆっくり近づけては、ぷかり。
ぷかり、ぷかり……。
一人きりになると、ヴィクトリカはかすかに寂《さび》しそうに顔を曇《くも》らせた。それから、一弥がいるあいだずっと握りしめていた拳をゆっくりと開いた。
まるで精巧《せいこう》な人形のような、小さな手のひら。
爪《つめ》も子供《こども》のように小さく、指もびっくりするぐらい細い。その手のひらは、両方とも真っ赤に腫《は》れて痛々《いたいた》しくふくらんでいた。
しばらく前に、ヴィクトリカ・ド・ブロワはとある理由があって、一歩も出てはいけないはずの聖《せい》マルグリット学園から抜《ぬ》け出して、山奥《やまおく》の秘密《ひみつ》めいた村に向かったことがあった。ヴィクトリカの出奔《しゅっぽん》に気づいてお供《とも》のようにくっついてきた一弥によって、ヴィクトリカは実のところずいぶんと助けられたのだが、その過程《かてい》で一弥を失いそうになり、ヴィクトリカは小さな小さな両手で、必死になって一弥を助けたのだった。
重いものなど持てない、強い力など使ったことのないヴィクトリカの手のひらの皮膚《ひふ》はとても弱く、いまでも真っ赤に腫れて、触《さわ》ると痛いほどふくらんでいたのだった。
もちろん一弥は、普段《ふだん》は意地悪で悪魔的な憎《にく》まれ口ばかり叩《たた》くヴィクトリカが、ぐっと握りしめて隠《かく》していた、怪我《けが》をした手のひらのことなど、気づく由《よし》もないのだが……。
ヴィクトリカはしばらくのあいだ、とても不思議なものを見るように、腫れ上がった両手のひらをみつめていた。自分の手に起こったことがどうしても理解《りかい》できないというように首をかしげている。
やがて、釈然《しゃくぜん》としない顔のままだが、手のひらを膝《ひざ》の上に降《お》ろした。
それからゆっくりと、床に置かれた美しい着物に向き直った。
一弥がいるときは無理をして我慢《がまん》していたが、じつはその清々《すがすが》しい水色をした、見たこともない形の東洋の衣服に、ヴィクトリカはすっかり心を奪《うば》われていた。さきほどまで彼女の心を覆《おお》っていた根深い倦怠《けんたい》とそれによる退屈《たいくつ》と、悲しみのような怒りのような、行き場のない灰色《はいいろ》の感情がどこかに消えていった。初めて出会った不思議な衣服に、おそるおそる、小さな手を伸ばす。
サラサラッ……!
絹《きぬ》の手触りは、ヴィクトリカが着慣《きな》れた西欧《せいおう》風のドレスよりもずっとざらついていた。白い筆でサッと描《えが》いたような睡蓮《すいれん》の花は、彼女には見たことのない花だった。ヴィクトリカは続いて帯にもそっと手を伸ばした。ピンク色のふわふわした帯はごわついていて意外と固かった。ヴィクトリカはきれいな着物と帯をそうっと抱《だ》きしめると、かすかに息をもらした。
「ああ……」
それから、小さな小さな声でつぶやく。
「……なんてきれいなのだろう!」
誰にも見せたことのない、無邪気で幸福そうな笑《え》みを浮《う》かべて、ヴィクトリカはいつまでも、着物と帯に頬《ほお》ずりをし続けていた……。
[#挿絵(img/03_059.jpg)入る]
3
日が暮《く》れようとしていた。
聖マルグリット学園の広い敷地のそこここに、夕日の赤い光が強く射《さ》し込んでいた。噴水《ふんすい》にも、さわさわと流れる小川にかけられた橋にも、高い生け垣《がき》にも、夕闇《ゆうやみ》が濃《こ》く迫《せま》っていた。
真鍮《しんちゅう》の乳鋲《ちびょう》が打たれた図書館の扉《とびら》が音もなく開いて、小さなヴィクトリカがちょこちょこと出てきた。両手で胸《むね》の前に、大事そうに着物と帯を抱えて、慎重《しんちょう》にゆっくりと歩いていく。
どこまでもどこまでも、ヴィクトリカは歩いていく。
噴水の前を通る。
小さな橋を渡《わた》る。
白い砂利《じゃり》道を踏《ふ》みしめて、歩き続ける。
――学園の敷地の、図書館とは反対側の隅《すみ》にある迷路|花壇《かだん》。人の身長ぐらいの高さの大きな花壇が迷路状に造《つく》られている。中世の貴族《きぞく》に愛された不思議な庭園の形態《けいたい》である。
金色や薄紫色《うすむらさきいろ》や鮮《あざ》やかな赤い花が、四角く切り取られた花壇のそこここで思い思いに咲《さ》き乱《みだ》れている。
ヴィクトリカは慣れた様子で歩いていき、迷路花壇に入った。そうすると、敷地のどこからも小さなヴィクトリカの姿《すがた》は見えなくなり、まるで幼《おさな》い幽霊《ゆうれい》が夕闇に吸《す》い込まれて消えたようだった。
――ヴィクトリカは、左右から迫ってくる花壇の花々の中を一直線に進んだ。慣れた道らしく、初めてであれば迷ってしまうはずの迷路をこともなく通過《つうか》する。
すぽっ……と抜けると、そこには開かれた小さな土地があった。ささやかな前庭。人が住むには小さすぎるのではないかと不思議になるような、二階建てのこぢんまりした家。一階と二階は外の鉄製《てつせい》の螺旋階段《らせんかいだん》でつながっていた。
ヴィクトリカはすたすた歩いて、お菓子《かし》の家のような、カラフルな小さな家に入っていった。
家の中はまるでドールハウスだった。豪奢《ごうしゃ》だが、一つ一つが特注品のように小さく、どこかカラフルなおもちゃのようだった。ベッドルームには天蓋《てんがい》付きのかわいらしいベッドと、真鍮でつくられた鏡台。居間《いま》らしい小さな部屋には、窓際《まどぎわ》に子供用の小さな揺り椅子《いす》が置かれていた。チェストの上には、いちごを象《かたど》ったかわいらしいお皿や、ビーズ刺繍《ししゅう》の絵などが飾《かざ》られていた。
床の上から天井に向かって、分厚い本が山と積まれていた。
ヴィクトリカはあくび混《ま》じりに部屋に入ってきたが、大事そうに抱《かか》えていた着物と帯を猫足《ねこあし》のミニテーブルに置くと、本当にうれしそうににっこりして、小さな手で何度も何度も、着物を撫《な》でた。
老女を思わせる低い声で、
「きもの、きもの……。久城が、くれた〜」
もしかすると鼻歌かもしれない、不思議な節をつけた独《ひと》り言をつぶやいた。うれしいのか、その場でゆっくりとターンして、転びそうになり、ふらついたもののなんとか元の場所に戻ると、またうれしそうに着物を撫でた。
大きな衣装箪笥《いしょうだんす》の扉を開けて、着物をハンガーにかけようとして、思い直したように手を止める。
「寝間着に、と言っていたな……。あのならず者」
それからヴィクトリカは、自分が着ているアクアブルーのサテンと黒レースの豪奢なドレスを、うんしょ、うんしょと脱《ぬ》ぎ始めた。
胸元《むなもと》で何重にも結ばれた細いリボンを、上から順番にほどいていく。
まだほどいている。
ほどいている……。
ようやくリボンが終わると、その下から現《あらわ》れた小さなくるみボタンを、一つずつ外していく。
外していく。
まだ、外し続けている……。
それが終わると、袖《そで》のところのリボンをほどいて、ボタンも外して……。
ようやくすべてのリボンとボタンを外し終えると、ふぅ……と息をついた。それから、体が固いのか、そうとう苦労をしてようやくドレスをすぽっと脱《ぬ》いだ。パニエ――ドレスのスカートをふくらませるために腰《こし》につける、開いたレースの傘《かさ》にも似《に》た下着――を、両腕《りょううで》をばたばたさせてようやく外すと、床にぺたんと座って、薔薇《ばら》の型押《かたお》しブーツを片足《かたあし》ずつうんしょ、うんしょと脱いだ。細かい刺繍の入った絹の靴下《くつした》も片方ずつ脱いで、部屋履《へやば》きの柔《やわ》らかいバレエシューズに履き替《か》える。そして……。
「……ふぅ」
立ち上がったヴィクトリカは、ブーツのヒールの分がなくなったためか、等身がさらに縮《ちぢ》んでずいぶんと小さく見えた。たっぷりのレースで装飾《そうしょく》されたキャミソールや、三段フリルのペティコートや、刺繍付きのドロワーズで白くふかふかとふくらんでいるが、それでも、ドレスを着ていたときよりもずいぶんと縮んだ。
一生|懸命《けんめい》背伸《せの》びをして、青いサテンのドレスをなんとか衣装箪笥に戻すと、ヴィクトリカはようやく、テーブルの上に広げられた着物に向き直った。
その表情はいつものようにひんやりした無表情だった。だがかすかに喜びのようなものが浮かんでいた。
ヴィクトリカはおそるおそる手を伸ばして、着物に袖を通した。
まず右。
それから左。
ふわりと羽織《はお》った着物がゆっくりと、ヴィクトリカの小さな体を包んだ。
ヴィクトリカの口もとがはっきりとゆるんだ。
しかし……。
そっと手を伸ばして帯を握りしめると、ヴィクトリカは不思議そうな顔になった。
「ベルトか? ……金具がないが。リボンか? ……やけに長い」
しばらく、猫が猫じゃらしをいじるように帯をいじくり回していた。
やがて小声で、
「……混沌《カオス》だな」
そうつぶやいたものの、考えるのが面倒くさくなったらしく、ヴィクトリカは帯を、その折れそうに細い腰にくるくる回し始めた。ごわごわした帯を無理やりリボン結びして、うなずく。
考えることに飽《あ》きたのか、大あくびして揺り椅子にちょこんと腰掛けると、着物姿のままで揺り椅子を揺らしながら、手近にあった本を手に取り、ページをめくり始めた。パイプを片手に持ち、火をつけるとぷかり、ぷかりと吸い始める。やがて書物の世界に没頭《ぼっとう》し始めたらしく、揺り椅子をゆっくり揺らしながら、ヴィクトリカはひたすらページをめくるだけとなった……。
夜の帳《とばり》が降《お》りて、聖《せい》マルグリット学園の広い敷地《しきち》のどこにも密《ひそ》やかな月明かりがのびていた。
コの字型をした校舎《こうしゃ》は無人で、生徒たちがいる寮《りょう》の建物にも静寂だけが広がっていた。
見回りの寮長が立てる密かな足音と、手にした洋燈《ランプ》のかすかな灯《あか》りのほかは、なにも見えず、動かない。
そんな静かな暗い敷地内を、ゆっくりと歩く人影《ひとかげ》があった。
小柄《こがら》な体に肩《かた》までのブルネット。大きな丸|眼鏡《めがね》がいつも少しだけずり落ちそうな……セシル先生である。
手にした洋燈が橙色《だいだいいろ》に輝《かがや》いている。セシル先生は淡《あわ》いグレーの寝間着に、同じ色の丸|帽子《ぼうし》。その上から薄い外套《がいとう》を羽織って、砂利道をゆっくり歩いていた。
あの迷路花壇の前に辿《たど》り着くと、一つため息をついて、花壇の中へ入っていく。セシル先生の姿《すがた》も、女性《じょせい》の幽霊《ゆうれい》がすっと姿をかき消したように砂利道《じゃりみち》から消えた……。
「……大丈夫だとは思うけれど、こないだのこともあるし。夜の見回りをして、ヴィクトリカさんがちゃんといるか確認《かくにん》しなくちゃね……。また久城くんと手に手を取って出奔《しゅっぽん》したらたいへんだわ……」
つぶやきながら、やはり慣れた足取りで迷路花壇を抜ける。
ささやかな前庭を抜けて、ドールハウスじみた小さな家に入っていく。
灯りも消えて暗闇《くらやみ》に沈《しず》む寝室《しんしつ》に、セシル先生はゆっくり入った。天蓋《てんがい》付きのベッドに向かって遠慮《えんりょ》がちに洋燈の光を向ける。
大きなフリルの枕《まくら》。
その上に小さなヴィクトリカの寝顔《ねがお》が乗っていた。
金色の長い髪《かみ》が夢《ゆめ》のようにシーツの上に散らばっている。小さな両手を子供のように頭にくっつけて、ヴィクトリカが眠《ねむ》っていた。
セシル先生は安心したように、
「いつも通り、ね…………?」
ふと気づいて、洋燈でそっとベッドの上を照らした。
――ヴィクトリカは、セシル先生には見覚えのない寝間着を着ていた。水色の不思議な形をしたものだ。ピンクの大きなごわごわしたリボンのようなもので結んでいたが、それはすでにほとんどほどけかけていた。
「…………?」
セシル先生ははて、と首をかしげた。ヴィクトリカがいつもとちがう行動をとるのはとてもめずらしいことだったのだ。いつも同じ時間に図書館に行き、同じ時間に戻ってきて、同じ寝間着を着て……。
セシル先生はもう一度、洋燈でベッドの上を照らした。
「あらっ……?」
オリエンタルなその寝間着は、ヴィクトリカの寝相のせいかずいぶんはだけていた。刺繍《ししゅう》付きのかわいらしいドロワーズの上から、ヴィクトリカの小さなおへそも覗《のぞ》いていた。
まっしろなお腹《なか》が、洋燈の灯りにぼんやりと照らし出されている。
セシル先生は思わずくすりと笑って、
「いやね。ヴィクトリカさんたら、風邪《かぜ》ひいちゃうわ……!」
そうつぶやくと、洋燈を置いて、はだけた寝間着をそうっと元に戻してやった。
くすくす笑いながら、セシル先生は寝室を出ていった。
「うーん……!」
ヴィクトリカが寝返りを打った。
セシル先生が直してくれた寝間着がまたはだけてしまった。まっしろなお腹を出したまま、ヴィクトリカは、くぅ、くぅ、と小さな動物が立てるようなかわいらしい寝息を立てていた。
夜は更《ふ》けていった……。
――そしてその頃《ころ》、一弥は。
男子寮の自分の部屋で、机《つくえ》に向かっていた。
フランス窓にゴブラン織《お》りの分厚《ぶあつ》いカーテンがかかっていた。窓際にマホガニー製《せい》の勉強机が置かれ、教科書や辞書《じしょ》などがきちんと並べられていた。壁掛《かべか》けのガス灯が静かに青白く揺れている。
一弥は、夕方村の郵便局で受け取った姉からの手紙をもう一度開いては、何度も読み返していた。
「〈青い薔薇《ばら》〉のペーパーウェイトに、白|木綿《もめん》のブラウス。あと、なんだっけ……? タータンチェックのカラーってなんのことだろ? 靴に、靴下、ペンとインク……」
一弥は手紙を置くと大きくため息をついた。
それから気を取り直して、国を旅立つときに持ってきたソヴュールの地図と時刻表《じこくひょう》、デパートなどの案内が書かれた小|雑誌《ざっし》などを机の上に積み始めた。
そして小雑誌を開いて、
「うーん……。まず、駅はここ。で、〈ジャンタン〉っていうデパートはこっち、と……。歩いて行ける距離《きょり》だな。あとは、ええと、どこに行けばいいんだろ……?」
頭を抱《かか》えては、別の資料《しりょう》を出して考え込む。
夜がだいぶ更けても、一弥は真面目《まじめ》にメモを取りながら、お使い計画を練り続けていた……。
4
「――ぐじゃ!」
いつもそうであるように、やがて暗い静かな夜は明けて、聖《せい》マルグリット学園の静寂《せいじゃく》に満ちた敷地《しきち》にも眩《まぶ》しい朝がやってきた。
朝日が庭園を照らす中、いつもより早起きをした一弥は寮の食堂に降《お》りて、いつもの色っぽい赤毛の寮母さんに挨拶《あいさつ》をして朝|御飯《ごはん》を用意してもらい、手早く食べた。
立ち上がり、寮母さんにお礼を言って寮を出た。その手には、買い物計画をメモしたノートが入った鞄《かばん》を持っている。
一弥が正門に向かってまっすぐに歩きだしたとき、遠くからさくさくと軽い足音がした。週末の、しかもこんな朝早くに誰だろう……? と一弥が不思議そうに振り向くと、その人物もまた足を止めて、一弥のほうを驚《おどろ》いたようにみつめていた。
朝日が眩しいのか目を細めている。――セシル先生だ。
「……おはようございます」
「久城くん……」
セシル先生はめずらしくあわてた様子で、一弥の前まで小走りにやってくると、右にうろうろ、左にうろうろ、を繰り返した。
「ど、どうしたんですか?」
「風邪引いちゃったの」
「……そうなんですか? 見たところ元気そうですけど……」
「そ、そうじゃなくて」
セシル先生はふっくらと丸みのある二の腕を上下にぱたぱた振《ふ》り回した。ずいぶんとあわてている。
「わたしじゃなくて、ヴィクトリカさん。風邪引いちゃったの!」
「ヴィクトリカが……!?」
一弥はびっくりした。セシル先生も、納得《なっとく》できないような不思議そうな表情《ひょうじょう》を浮かべて一弥をみつめ返している。
いつも決まって植物園にいる、静かなヴィクトリカが風邪を引くなんて……。一弥にはなんだかピンとこなかった。セシル先生もこてんと首をかしげて、
「あのね、昨夜、いつもとちがうお寝間着を着ていたの。大きなリボンみたいな固いのがほどけててね、おへそが出てたから直してあげたんだけど……今朝になったら、もう大風邪でふらふらになっちゃってたの……」
「!?」
一弥は頭を抱えた。
いつもとちがうお寝間着∞大きなリボンみたいな固いの≠ノ、大いに心当たりがあったのだ。
セシル先生はふと一弥の様子を見て、外出用の上着と鞄に気づいた。
「あら……。そういえば、久城くんはソヴレムまでお買い物に行くんだったわね。外出|許可証《きょかしょう》も発行したし……。邪魔《じゃま》してごめんね。じゃ、先生は……」
「あの……」
一弥はあわてて、ぱたぱた走り去ろうとするセシル先生を呼《よ》び止めた。
「その寝間着、きっとぼくがヴィクトリカにあげたやつなんです。帯の結び方がむずかしいから、きっとヴィクトリカのやつ、うまくできなかったんだと思います。ぼくちょっと、結び方を書いてヴィクトリカに教えますから……」
「……まぁ!」
振り向いたセシル先生はこわい顔をした。一弥は思わずおそろしくなって後ずさった。
「久城くんったら。めずらしいものをあげて喜ばせるのはいいですけどね、ちゃんと着方を教えないとだめじゃないの」
「いや、あの、教えようとしたけど……」
「久城くん、いいわけはだめよ。先生にごめんなさいは?」
「…………」
一弥はしばらくセシル先生とみつめあっていたが、ほんの数秒で視線相撲《しせんずもう》に負け、うなだれて言った。
「……ごめんなさい」
「じゃ、ヴィクトリカさんに手紙を書いてね」
セシル先生は笑顔に戻って、だがきっぱりと言った。
一弥は走って寮《りょう》に戻ると、自分の部屋で便せんとペンを出し、マホガニー製《せい》の机《つくえ》に向かった。きっちりと図解付きで帯の結び方を説明し、よし、と便せんを四つに折ろうとして、ふと閃《ひらめ》いた。一弥は引き出しを開けてしばらく使っていなかった色つきインクのペンを探《さが》し出した。そして完成図にていねいに、着物には水色、帯にはピンク色まで塗《ぬ》って、ヴィクトリカが喜びそうなきれいな手紙にした。
なんといってもヴィクトリカは、一弥だけに『美しいものは、嫌《きら》いじゃない』ことを教えてくれた友達なのだ。手紙だってきれいにすれば喜んでくれるだろう。
便せんを折って、国から持ってきた和紙の封筒《ふうとう》に入れ、さらに寮を出てしばらく行ったとこうにある花壇《かだん》から小さな金色の花をみつけると、封筒にそっと入れた。
「……よし」
自信満々でうなずく。
それからセシル先生に教えられた、ヴィクトリカの特別寮があるという場所に向かった。聖マルグリット学園の敷地内で、図書館以外の場所にいるヴィクトリカを想像《そうぞう》するのはたやすくはなかった。ようやく教えられた場所をみつけだした一弥は、あきれ顔で、その迷路状に設計《せっけい》された巨大《きょだい》な花壇のかたまりを見上げた。
「……なに、これ?」
しばらくあきれていたが、仕方なく、おそるおそる一歩入る。
ちょっと進んで、これでは中で迷《まよ》うどころか入り口までわからなくなってしまう、と焦《あせ》って、一度外に出た。
呆然《ぼうぜん》と花壇を見上げていると、セシル先生が近づいてきた。困《こま》っている一弥に気づくと、手紙を渡してあげるからと言って、一弥から封筒を受け取った。慣れた足取りで花壇の迷路へ消えていく。
そのいかにも慣れた様子の後ろ姿に、一弥はなぜか寂しいような、悔《くや》しいような、不思議な気持ちになった。それがなんなのかわからなくて、一弥はふくれ面《つら》になり、セシル先生が出てくるのを待った。
「ぐじゃ! ぐじゃ! ぐじゃっじゃ!」
ヴィクトリカは小さな頭全体を激《はげ》しく揺らして、くしゃみを連発していた。
――朝になって、どうしてだか天井《てんじょう》が回るし顔も熱いし体がだるくて起きあがれない、と思ったら、ヴィクトリカは生まれて初めて風邪を引いていたのだった。
小さくて力もなくて、体もまったく丈夫《じょうぶ》とはいえないヴィクトリカだが、幼《おさな》い頃から、塔《とう》の上の部屋や、聖マルグリット学園の特別寮などで、どこにも出ることなく規則《きそく》的な、そして禁欲《きんよく》的な生活を続けていたため、熱を出したり倒れたりといったこととは、意外なことにいままで無縁《むえん》だったのだ。
「――ぐじゃ!」
くしゃみとともに、長い金髪《きんぱつ》がぶわっと舞《ま》い上がり、またぺしゃんと絹《きぬ》のシーツの上に戻《もど》ってくる。ヴィクトリカは情《なさ》けない妙《みょう》な顔をして、しばらく黙《だま》っていた。
それからよろよろと小さな細い手を伸《の》ばして、鼻紙を取った。
「…………ぶっ、ちーん!」
洟《はな》をかむ。
「ちーん! ちーん! ちーん!」
目尻《めじり》に涙《なみだ》が浮かんでいた。強くかみすぎたらしい。小さな両手で鼻を押さえて、痛《いた》そうに肩《かた》を震《ふる》わせ、じっとしていた。
と……。
静かな音とともに扉《とびら》が開いて、セシル先生が顔を出した。ゆっくり振り返ったヴィクトリカは、つまらなそうに、
「なんだ、セシルか……」
その声はいつにも増《ま》してしわがれて、苦しそうだった。真っ赤に染《そ》まった頬《ほお》は、いつもよりぷくぷくして、少し腫《は》れているようだ。
ゆっくり入ってきたセシル先生は、ベッドの横にあるサイドテーブルの上に水差しと薬の包み紙と、ミルクを入れた小さなコップを用意した。それから思い出したように、
「久城くんに会ったわよ」
「……むっ?」
「風邪《かぜ》引いたって言ったら、心配して大騒《おおさわ》ぎしてたわ。久城くんはほんとに、ヴィクトリカさんのことが好きねぇ」
くすくす笑っていたが、急に思い出して、
「はい、手紙」
「……手紙?」
「花壇の前でうろうろしてたから、預《あず》かってきたの。久城くん、急いでたみたいだから、すぐに返事を書いてあげてね」
「……どうして急いでいるのだ? ぐじゃ!」
ヴィクトリカはくしゃみで頭を揺らしながら、不思議そうにセシル先生を見上げた。先生は笑顔で、
「ソヴレムまでお買い物に行くんだって。家族の人からいろいろ頼《たの》まれたみたいよ。久城くん、ちょっとうきうきしてた」
「久城のくせに、うきうきしてた? ……ぐじゃ!」
ヴィクトリカはきわめて不機嫌《ふきげん》そうに聞き返した。
セシル先生が細々とした片《かた》づけをするために寝室《しんしつ》を出ていくと、だがしかしヴィクトリカは、少しだけうれしそうに手渡された和紙の封筒を眺《なが》めた。ザラザラした手触《てざわ》りは、昨夜、感激《かんげき》のあまり頬《ほお》ずりした着物の感触《かんしょく》と少し似《に》ていた。ヴィクトリカはめずらしそうに裏《うら》にして、また表にして、しばらく封筒を楽しんだ後、うれしそうに封を開けた。金色の花がこぼれおちてきたので、ますますうれしそうになる。
だが……。
熱で真っ赤になった顔をにこにこさせて便せんを開いたヴィクトリカは、まずはきれいに彩色《さいしょく》された着物と帯の絵に感激したものの、手紙の最初の一行に、エメラルドグリーンの瞳《ひとみ》を怒《いか》りできりきりつり上げた。
手紙の書き出しは、こんなものだった。
『ヴィクトリカ、君、だいじょうぶ? お腹《なか》を出してばかみたいに眠《ねむ》っていたらしいね。先生にきいたよ。ヴィクトリカ、君ってほんとにばかだなぁ! で、帯の結び方だけどね……』
ヴィクトリカは小さな手で便せんをくしゃくしゃに丸めた。
「――ぐじゃ!」
洟水が出てきたので、あろうことか、一弥の便せんで「ぶーん!」と洟をかんだ。それから小さくて白い手を振《ふ》り回して、壁に向かって投げた。
となりの部屋からセシル先生が、
「ヴィクトリカさん、久城くんにお返事書いてあげてね。とっても心配してくれてたのよ」
「……むっ」
ヴィクトリカの緑の瞳が、怒りのあまりきゅっと細められた……。
――心配でいらいらしながら待っていた一弥は、花壇から小走りに出てきたセシル先生をあわてて呼び止めた。
「調子、どうですか?」
「くしゃみばっかりしてるわ。顔も真っ赤だし……」
セシル先生は思いだしたように、ポケットから四角く折り畳まれた紙を差しだした。それは、鳥籠《とりかご》に入れられた薔薇《ばら》の薄《うす》い透《す》かし彫《ぼ》りが入ったきれいな便せんだった。花の香水《こうすい》が染《し》み込んでいるようで、かすかに甘《あま》ったるいいい匂《にお》いもした。
ヴィクトリカから手紙をもらうのは初めてだった。一弥はセシル先生が行ってしまうのをじっと待った。一人になると、いそいそと便せんを開く。
そこには震《ふる》える字で、とても大きく、たった一言――
『ばか』
――一弥はがっくりとうなだれた。
ちょっとうきうきと開いた自分がものすごくばかみたいに思えた。そのまましばらく一弥はうなだれ続けていたが、列車の時間が近づいているのに気づくと、くるりときびすを返した。
二、三歩、歩きかけて、急に振り返った。
生い茂《しげ》る花々に隠《かく》された奥《おく》にいるはずのヴィクトリカの特別寮《とくべつりょう》に向かって、吠《ほ》えた。
「なんだよ! ばかは君だろー、ヴィクトリカ!」
返事はない。一弥はますます悔《くや》しくなって、
「そんな意地悪な人には、おみやげ買ってこないからな! 聞こえてるー!」
一弥の大声が少し情《なさ》けなく響《ひび》き渡《わた》る。
花壇の奥《おく》のほうから、かすかに「ぐじゃ!」とへんな音が聞こえたような気がしたが、それきり無情に静まり返り……。
一弥は何度も振《ふ》り返り、ヴィクトリカを気にしながらも、ゆっくりと歩み去っていった。
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ベッドルーム―Bedroom 1―
柔《やわ》らかな朝日が、ベッドルームの閉《と》じられたフランス窓《まど》からこぼれ落ちていた。ボビンレースのカーテンが半分ほど開けられて、小さな部屋に明かりを落としていた。
「――ぐじゃ!」
ヴィクトリカは天蓋《てんがい》付きのベッドにうつぶせに眠《ねむ》っていた。フリル付きの大きな枕《まくら》に顔を押《お》しつけるようにして、時折、くしゃみのたびに小さな頭をはげしく揺《ゆ》らしている。
長い金髪《きんぱつ》が、元気をなくしてくったりと絹《きぬ》のシーツの上に垂《た》れ落ちていた。くしゃみするたびに少し揺れる。
ヴィクトリカはゆるゆると顔を上げた。
頬が真っ赤に染《そ》まって、いつもは冷酷《れいこく》なエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》も、水に濡《ぬ》れた宝石《ほうせき》のように潤《うる》んでいた。
「ぐじゃ! ぐじゃ! ぐじゃっじゃ!」
頭を揺らしてくしゃみを連発すると、力|尽《つ》きたように枕につっぷす。
その顔を、かすかに怒《いか》りに似《に》た揺らめきが通り過《す》ぎた。
熟《う》れたさくらんぼのように赤く染まった小さな唇《くちびる》を開いて、
「久城《くじょう》のやつ、出かけたのかー」
つぶやく。
ベッドルームはまたしんと静まり返る。
ヴィクトリカは潤んだ瞳にまた、怒りの炎《ほのお》を浮かべた。
「久城のくせに、うきうき出かけたか……」
ころん、と転がって仰向《あおむ》けになる。
天井《てんじょう》から垂れ下がる、モザイクガラスの洋燈《ランプ》をぼんやりと見上げる。
視界《しかい》が熱でぼやけてきたようで、瞳を心許《こころもと》なくしぱしぱとさせる。
「あいつ……」
熱に負けて、瞳を閉《と》じる。
「一人で、出かけたのか……」
ヴィクトリカはつぶやくと、すねたように羽毛《うもう》の掛《か》け布団《ぶとん》を引っ張《ぱ》って、ベッドの奥深《おくふか》くに潜《もぐ》り込《こ》んだ。小さな体が布団の中に消えてしまうと、その豪奢《ごうしゃ》だが小さなベッドルームはまるで誰《だれ》もいないように見えた。
「――ぐじゃ!」
羽毛布団が揺れた。
「ぐじゃ! ぐじゃっじゃ!」
くしゃみの連発の後、しんと静まり返って、そして……。
くすん、くすん、くすん……と、泣いているのか鼻がむずむずしているのかわかりにくいおかしな声が、ベッドの中から聞こえてきた。
窓の外で、花壇《かだん》の枝《えだ》に止まった小鳥が、小さく甲高《かんだか》い鳴き声を上げた。
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第二章〈青い薔薇《ばら》〉
1
――汽笛が鳴った。
鞄を片手《かたて》に、村に一つしかない小さな駅舎《えきしゃ》に走り込んだ一弥《かずや》は、やってきた蒸気《じょうき》機関車の轟音《ごうおん》に心許なく揺《ゆ》れるホームを急いだ。週末のせいか、山間《やまあい》から都会へ向かうその機関車は混《こ》み合っていた。いつもよりお洒落《しゃれ》した村人が我先《われさき》に乗り込もうとしている。一弥はその列に並んで、大きな鉄製《てつせい》の扉《とびら》から機関車に乗り込んだ。
狭《せま》い廊下《ろうか》を歩く。コンパートメントの小さなガラス窓を覗《のぞ》いても覗いても、三、四人の乗客が座《すわ》っていた。本をめくったり、ローストした鶏肉《とりにく》やパンを入れた弁当《べんとう》を開いたり、思い思いにくつろいでいる。どこも混んでいるので、一弥は遠慮《えんりょ》して入るのをやめた。それに、子供《こども》連れのおばさんなどと一緒《いっしょ》になると、めずらしい東洋人の少年だからと、名前やら歳やら学校のことやら、根ほり葉ほり聞かれてたいへんなことになるのだ。それは船でソヴュールにやってきて、初めて聖《せい》マルグリット学園に向かった列車の中ですでに経験済《けいけんず》みだった。
頬杖《ほおづえ》をついて窓の外を見ている若《わか》い男が一人だけ乗っているコンパートメントをみつけて、一弥はここにしようと決めた。金属《きんぞく》製の扉をそっと開け、
「いいですか?」
礼儀正《れいぎただ》しく聞くと、男は窓の外を見たまま鷹揚《おうよう》に、
「……かまわんよ」
一弥は扉を閉《し》めて、男の向かい側の席に座った。男は貴族《きぞく》らしく、いかにも高級そうな絹のシャツに、銀色のカフスボタン、ブーツはぴかぴか光っていて、女性でもここまではしないのではないかと疑《うたが》いたくなるほどお洒落な服装《ふくそう》をしていた。それに、窓の外を見るポーズが、足を組んで物憂《ものう》げに頬杖をつくという、いやにかっこつけたものだった。
「……ふぅ」
男はため息をついて、こちらに向き直った。
一弥は「うわ!」と叫《さけ》んで立ち上がりかけた。
――男の頭には、不自然なほど尖《とが》らせた金色のドリルのような髪《かみ》の毛が輝《かがや》いていた。グレヴィール・ド・ブロワ警部《けいぶ》だ。
警部のほうもようやく、乗り合わせたのが一弥だということに気づき、最初は驚《おどろ》いたように口を開けていたが、やがてじつにいやそうな顔をした。
「……なんだ、君か!」
「こっちの台詞《せりふ》ですよ! いやだな。ぼく、別のコンパートメントに……」
「どこも混んでいるぞ」
「……そうなんですよね」
立ち上がりかけた一弥は、仕方なく座り直した。
一弥も警部も、なぜか意気|消沈《しょうちん》してうつむいている。
しばらくの沈黙《ちんもく》の後、警部が代表して気持ちを述《の》べた。
「こんなところで顔をつきあわせるのも、実につまらんものだな」
「まったくです」
そのまましばらく二人は沈黙した。
互《たが》いに、窓の外を眺《なが》めたり、持ってきた買い物リストに目を通していたが、三十分ほど経つと手持ち無沙汰《ぶさた》になり、
「久城《くじょう》くん、一つ、世間話でもするか?」
「世間話? この顔ぶれでですか?」
「だって、仕方ないだろう」
一弥が渋々《しぶしぶ》うなずくと、警部はまじめな顔をしてこちらに向き直った。
とはいえ、なにを話せばいいのか。最初は世界|情勢《じょうせい》のことや先の世界大戦についてなどを話題にしたが、如何《いかん》せん、西欧《せいおう》の実力者であるソヴュールの貴族階級に籍《せき》を置く警部と、極東の島国からやってきた庶民《しょみん》ながら秀才の一弥では、考え方がなにからなにまでちがいすぎた。現役《げんえき》の学生である一弥に知識《ちしき》を駆使《くし》されて論破《ろんぱ》されそうになると、ブロワ警部はあわてて話題を変えた。
「そうだ、久城くん」
「なんですか」
一弥は鼻息|荒《あら》く聞き返した。久々《ひさびさ》に口喧嘩《くちげんか》で人に勝てそうなので、張《は》り切っていたのだ。
「世界大戦と言えば、だが。わたしがいまソヴレムに向かっている理由を、君、知っているかね?」
「……知ってるわけないじゃないですか。ヴィクトリカじゃあるまいし、聞いてないことは知りませんよ」
一弥は鼻息も荒く、
「なにしろばくは中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才で、凡人《ぼんじん》ですからね」
「……なにを威張《いば》っているんだ?」
ブロワ警部はあきれ顔をした。
「とにかく、わたしがソヴレムに向かうのはだね、ソヴュール警視庁《けいしちょう》に呼ばれたからなのだ。いまの警視|総監《そうかん》であるシニョレー氏というのが、若くして偉《えら》くはなったが、まったくもって冴《さ》えないやつでね。彼ら警視庁の頭を悩《なや》ませるとある事件《じけん》の解決《かいけつ》に、名警部であるわたしの力を頼《たよ》っているのだ」
「……一人で大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
とつぜん話題が変わったことにとまどいながら、一弥はちょっとだけいやみを言ってみた。ブロワ警部はそれを聞き流して、
「君、先の世界大戦の最中、我《わ》がソヴュールが失ったものはなんだと思うかね?」
「失ったもの、ですか? 戦争自体には勝ったから、兵士として消えた若い命や、爆撃《ばくげき》されて炎《ほのお》になった歴史的な建造物《けんぞうぶつ》、それと……」
「王室の宝《たから》だよ、君」
警部は苦々しそうに舌打《したう》ちをした。
「戦争のどさくさで、ソヴュール王室の宝物庫《ほうもつこ》が荒らされてね。じつにたくさんの歴史的な価値《かち》がある美術品《びじゅつひん》が消えたのだ。それらはおそらく、とっくに海を渡《わた》って新大陸辺りの成金どもが買いあさったのだろうと思われていたが、どうやらずっとこの国にあったようなのだ。というのはだね……」
一弥は、ごく最近こういった話を誰かからも聞いたような気がした。誰だったっけ、と考えていると、警部は続けて、
「ここ数年のあいだ、ソヴュールの闇《やみ》市場にそれらの美術品が出回っているらしいのだ。それだけではない。一九一七年に起こったロシア革命《かくめい》の直前に、ヨーロッパに運ばれたまま闇に消えたとされるロマノフ家の宝や、植民地から流れ込んでくる古代文明の宝などが、ヨーロッパの闇市場に出回っていてね。しかもその闇市場はどうやらソヴレムにあるらしいのだ。最近では西欧中の好事家《こうずか》が密《ひそ》かにソヴレムを訪《おとず》れているという情報もあってだね。だが、その尻尾《しっぽ》が捕《つか》まえられない。そういうわけで警視庁は、優秀《ゆうしゅう》なる頭脳《ずのう》を持つこのわたしを助っ人に呼んだのだよ。どうだね、君?」
「どうって……?」
「すごいだろう?」
一弥は「はぁ……」とうなずいた。警部はため息混じりに首を振り、それから両手をかざして、尖《とが》ったドリルのような髪《かみ》をていねいに整え始めた。
「ふむ……」
髪をいじりながら、手持ち無沙汰な様子で一弥をみつめている。
それからポケットから懐中時計《かいちゅうどけい》を出して、ふたを開いた。しみじみとした声で、
「あと一時間はあるぞ」
「ええ」
「つぎは久城くんの番だ。なにかおもしろいことを話したまえ」
「……いやですよ!」
一弥はそっぽを向いた。
窓《まど》の外の風景に意識《いしき》を移《うつ》す。
――いつのまにか機関車は山間の緑|生《お》い茂《しげ》る土地を離《はな》れ、刻々《こっこく》と都会に近づいていた。窓から見える風景も緑が減《へ》って、なだらかな平地になり、家々がせせこましく並《なら》ぶ中を、自動車や馬車が忙《せわ》しく行きすぎていた。
(一人で買い物なんて、寂《さび》しいなぁ……)
一弥は急に思った。
それから、前回と前々回、図らずも小さな友達ヴィクトリカ・ド・ブロワと旅をすることになったときのことを思い出し始めた。
不思議なことに、さっき手紙で『ばか』と言われて怒髪《どはつ》天を衝《つ》いていた、イライラする気持ちはどこかに消えてしまっていた。代わりに思い出すのは、ヴィクトリカと初めて外出したときの、彼女の不思議|極《きわ》まりない様子だった。
切符《きっぷ》の買い方も知らずに、どれぐらいお金が必要なのかもわからずに、やたら右往左往《うおうさおう》していたヴィクトリカ。汽車の中では窓の外をめずらしそうに眺《なが》め、都会の駅に着いたら「あれはなんだ?」「あれは?」と忙しくものを尋《たず》ね、一弥が吹《ふ》いた口笛で目前にやってきた馬車に驚いて、目をぱちくりしていた……。
あのとき一弥は、ヴィクトリカの事情をなにも知らなかった。だから「君、外に出たことないのかい?」と聞いてしまった。途端《とたん》にヴィクトリカは機嫌《きげん》を悪くして黙り込んだが、そのふくれた顔もまた、かわいかったのだ。
そして二度目に出かけたときは、ヴィクトリカは最初から不機嫌で、一弥を無視していて、ずいぶんと感じが悪かった。だけどいつも最後には、ヴィクトリカは一弥に言うのだった。
「久城、一緒《いっしょ》に帰ろう……!」
それだけで一弥には十分だった。意地悪で、悪魔《あくま》的な毒舌《どくぜつ》で、不機嫌なヴィクトリカへの怒《いか》りはいつも、彼女のたった一言で魔法のように消し飛んでしまうのだ……。
――ふと視線を感じて顔を上げると、ブロワ警部《けいぶ》がじっと一弥の物憂《ものう》げな顔をみつめていた。一弥は口を開いた。
「……どうしていま一緒にいるのが、警部なんですかね?」
「こっちの台詞《せりふ》だよ、君」
警部のほうもなにやら切ない考え事をしていたのか、腹違《はらちが》いの妹と同じ緑色をした瞳《ひとみ》が少し潤《うる》んでいた。恨《うら》みがましそうに一弥を睨《にら》んで、
「まったく、君……こうして顔をつきあわせていると、本当に腹《はら》が立ってくるな」
「同感です」
「つまらん顔だなぁ」
「警部こそ」
不機嫌な男二人を乗せて、蒸気《じょうき》機関車はがたごとと走り続けている。
――そしてそのまま一時間が過《す》ぎた。機関車はようやく目指すソヴレムの駅に着いた。
2
前世紀半ばに建設《けんせつ》した当時のソヴュール国王の名を取って、シャルル・ド・ジレ駅と名付けられたソヴレムの駅は、この小さな王国の国力がいかに強大かを示《しめ》す、豪奢《ごうしゃ》にして巨大《きょだい》な建築物だった。
吹き抜《ぬ》けの天井《てんじょう》は総《そう》ガラス張《ば》りで、初夏の眩《まぶ》しい太陽が、遥《はる》か下に何十本と並ぶホームにゆっくり降《ふ》り落ちてくる。堂々たる黒煉瓦《くろれんが》の柱。ホームとホームをつなぐ鉄製の歩道橋の上には、大きな丸時計が鎮座《ちんざ》している。
人が豆粒《まめつぶ》みたいに小さく見える。ひっきりなしにホームを行き来し、また新しい列車が轟音《ごうおん》とともに入ってくると、人が大勢《おおぜい》降《お》りてきては一斉《いっせい》にホームを歩きだす。赤い制服《せいふく》のポーターが客のトランクを運んで行き過ぎる。女性客の頭の上で、羽根付きのボンネットが揺れる。動物の頭を象《かたど》った高級そうなステッキをカチコチ鳴らして、貴族《きぞく》の紳士《しんし》が通り過ぎる。母親に手を引かれた子供《こども》がよちよち歩いていく。
分厚《ぶあつ》い丈夫なガラスと、黒い鉄製の巨大な建築物。豪奢でありながら実際《じっさい》的。近代になってから増《ふ》えた建築様式である。それは川|沿《そ》いに発達した都市ソヴレムのいまを象徴《しょうちょう》しているようだった。長い伝統《でんとう》を誇《ほこ》る王室のお膝元《ひざもと》でありながら、近年、急速に発展《はってん》した工業都市でもあるソヴレムは、鉄と石炭のにおいがする、欧州でも指折りの経済《けいざい》都市だった。
「……ジャクリーヌ!」
――とつぜん耳元でブロワ警部が叫《さけ》んだので、一弥は飛び上がった。振《ふ》り向くと、警部はホームを通り過ぎる妙齢《みょうれい》の女性《じょせい》に声をかけていた。女性は上質《じょうしつ》だが色合いのシックな、本来ならもっと年輩《ねんぱい》のマダムが袖《そで》を通すようなドレスを着ていて、少し艶《つや》の足りないブラウンのストレートヘアをシンプルな形で結い上げていた。
振り向いた女性は、警部のヘアスタイルに驚《おどろ》いて後ずさった。その顔を見ると、ブロワ警部はがっかりしたように、
「……失礼、人違《ひとちが》いを」
女性は、いいのよ、というように微笑《ほほえ》んで歩み去っていった。一弥が、
「ジャクリーヌって誰ですか?」
「…………」
警部は聞こえなかった振りをした。どんどん歩き出し、鉄の歩道橋を上がって大きな改札口に向かっていく。一弥も同じ方向に歩きながら、いまのはなんだったんだろう? と首をかしげた。
警部は心なし沈《しず》んでいて、尖《とが》らせたドリルも少ししおたれていた。
[#挿絵(img/03_093.jpg)入る]
――シャルル・ド・ジレ駅を出ると、眩《まぶ》しい陽光が二人の顔に降り注いだ。逆光《ぎゃっこう》でしばらくのあいだソヴレムの街が見えなかった。ようやく目が慣《な》れてくると、駅前の巨大な交差点と、スピードを緩《ゆる》めることなくカーブを飛ばしていく乗り合い馬車や、ぴかぴかの自動車が目に飛び込んできた。
広い歩道の左右には華《はな》やかなショーウインドウが並び、ステッキを鳴らす紳士《しんし》や、日傘《ひがさ》片手《かたて》のきらびやかな女性たちが店から出たり入ったりしている。駅前は道路と店と高いビルがひしめいていた。
一弥は思わずショーウインドウの一つに目が吸《す》い寄《よ》せられた。華《はな》やかな店の中では看板《かんばん》もシックで目立たないが、それはパイプ屋だった。ウインドウには陶製《とうせい》や鉄製、大きさもさまざまなパイプがたくさんと、それからパイプ置きが並んでいた。ガラスの靴《くつ》のような小さなきらきらした女性用の靴が片方だけ、飾《かざ》ってあった。それが翡翠《ひすい》でつくられた靴の形のパイプ置きなのだと気づくと、一弥は思わず店の扉《とびら》を開けて、店員に値段《ねだん》を聞いていた。普段《ふだん》、無駄遣《むだづか》いをせずに小遣いを貯《た》めている一弥にとっては手の出ない額《がく》ではなかったので、迷《まよ》わず購入《こうにゅう》することにした。
「女の子用なのでリボンをかけてください。あ、あの赤いリボン」
そう言うと、店員はパイプ置きに目を落として、
「……これを女の子に?」
不思議そうな顔をした。
一弥が機嫌よく店から出てくると、ちょうどとなりの店の扉も開いて、買い物していたらしいブロワ警部が出てきた。警部も上機嫌だった。二人は顔を見合わせると、同時に不機嫌な顔になった。
警部はじとーっとした目つきで、一弥が大事そうに抱《かか》えているパイプ置きの包みを見下ろした。ばかにするようにフンと鼻を鳴らす。一弥も警部の手元を見た。
かなり高価《こうか》そうなアンティークのビスクドールを一体、大切そうに抱えていた。カールした金髪に、大きな瞳。レースをふんだんにあしらったドレス。……一弥は顔をしかめた。いつだったか村の警察署《けいさつしょ》に出向いたとき、警部の部屋がこんな人形だらけで、あろうことか、うれしそうに膝《ひざ》に乗せたりしていたことを思いだした。
「……じつに警部らしい買い物ですね」
「つまらん顔でつまらんことを言うな」
ブロワ警部はぼそっと言った。
それから、道の反対側にそびえる煉瓦造りの大きな建物を指差した。門の前で制服警官が数人、門番をしている。
「わたしはこれから、警視庁《けいしちょう》で優秀《ゆうしゅう》なる頭脳《ずのう》を披露《ひろう》してくるとしよう。ではな、久城くん」
ブロワ警部はそう言うと足早に立ち去ろうとして、ふとなにかに気づいたように足を止めた。一弥のほうを振り返ると、
「……気をつけたまえよ、久城くん」
「えっ、なにをですか?」
「ふっ。見ての通りこのソヴレムは、ここ数年、近代化が進み、交通も整備《せいび》されて、高いビルも飛躍《ひやく》的に増《ふ》えて……あちこちから観光客も押《お》し寄《よ》せ、喧噪《けんそう》の限《かぎ》りを尽《つ》くす都会なのだがね、その分|犯罪《はんざい》も増えているのだよ」
一弥が思わず辺りを見回していると、ブロワ警部は眉《まゆ》をひそめ、
「君、都市というのはおそろしいものだよ。きらびやかで心|惹《ひ》かれるものだが、時折、訪《おとず》れた人を大きな口を開けて飲み込んでしまう。そして何ごともなかったように都市が口を閉《と》じれば、飲み込まれた人は二度と戻《もど》ってこれまい」
「……なんのことですか?」
「物騒《ぶっそう》になったということだよ。〈闇《やみ》に消える者たち〉の噂《うわさ》を知っているかね?」
「いえ……」
「ここ数年のことだが、ソヴレムではとつぜん人が消える事件《じけん》が相次いでいるのだ。たいがいは若い女性や子供《こども》だがね。デパートに買い物にでかけたきり姿《すがた》を消したり、迷子《まいご》らしき子供を連れて交番に向かったままいなくなったり、パターンはさまざまだが。そうやってとつぜん消えた女性たちの家族の訴《うった》えが、警視庁にはたくさん寄せられているらしい。まあ、中には家出人なども含《ふく》まれているのだろうがね……。それにしても尋常《じんじょう》でない数の人間が都市の闇に消えているのだ。君も努々《ゆめゆめ》、気をつけたまえよ」
「は、はぁ……」
一弥はふと、アブリルが持っていた本のことを思い出した。
〈デパートの試着室に入った貴婦人《きふじん》。しかし店員がドアを開けたら、血まみれの生首だけが残されていた……〉
〈きれいに着飾った幼女《ようじょ》が泣いているので、迷子だと思って声をかけた人が、そのまま消えてしまう。角を曲がったら消えていて、衣服だけが残されていた……〉
〈浮浪者《ふろうしゃ》そのものの服装《ふくそう》をした殺人鬼《さつじんき》がいて、着込んだ古着の中に、子供の死体をたくさんつり下げている……〉
――あの本に載《の》っていた怪談《かいだん》はきっと、ソヴレムで実際に起こっている失踪《しっそう》事件をもとに書かれたのだろう……。
ブロワ警部が懐《ふところ》から懐中時計《かいちゅうどけい》を取りだして時刻《じこく》を確認《かくにん》した。あわてたように、
「ではな、久城くん」
大きな建物――ソヴュール警視庁に向かって歩み去っていった。都会には慣れているらしく、ひっきりなしに行きすぎる馬車のあいだを器用にすり抜けて道路を渡り、建物の中に姿を消した。
一弥はその後ろ姿を見送ると、一人で歩道を歩きだした。
ソヴレムの街には、とにかくビルも、馬車や自動車も、そして人も多かった。まさにひしめいていた。誰《だれ》もが急いで行きすぎる。まだ午前中のためか、歩道を急ぎ足でどこかに向かう人々は、揃《そろ》ってシンプルで機能《きのう》的な服装をしていた。おそらくこの辺りの企業《きぎょう》に勤《つと》めているのだろう。時折、豪奢《ごうしゃ》なドレスや三つ揃いのスーツを着た貴族が、馬車から降《お》りては高級な仕立屋やギャラリーなどに消えていく。肌《はだ》の色もさまざまな旅行客らしき人々もまた、往来《おうらい》を行きすぎる。地図を片手にあちこち指差しながら歩いていく。
その一方で、ボロをまとった路上生活者たちがあらゆる曲がり角にひそんで、通る人に汚《よご》れたブリキ缶《かん》を差しだしては、小銭を入れてくれとわめいていた。老人もいたし女性もいた。時折、一弥より小さい子供の姿もあった。長い伝統《でんとう》と、急速な発展《はってん》。そのどちらも併《あわ》せ持つソヴレムには、さまざまな人々がひしめいていた。あたかも、それぞれの生きるスピードがばらばらのまま大きな街に共存《きょうぞん》しているようだった。
「……あれ?」
一弥は駅前を離《はな》れ、ソヴュールの宮殿《きゅうでん》近くまで歩いてきていた。
丸い屋根をした宮殿だけが、近代化されたこの街で中世のままの美しさを保《たも》ち、宮殿前の広場にはソヴュール国旗がはためいている。金と赤の制服《せいふく》を着たおもちゃの兵士のような衛兵《えいへい》が、規則《きそく》正しく闊歩《かっぽ》している。王室のお膝元《ひざもと》、そして観光地としてのソヴレムらしい一角……。
「このへんだと思ったんだけどな……?」
一弥は目指す高級デパート〈ジャンタン〉を探《さが》してきょろきょろしていた。宮殿前広場の向かい側にある、大きな建物のはずなのだが……。地図を出そうと鞄《かばん》を開けたら、うっかり財布《さいふ》を落としてしまった。一弥はなんとか財布が路上に落ちる前に拾ったが、小銭が全部、じゃらじゃらと路上に散らばってしまった。
「……957」
どこからか小さな声がした。
一弥はあわてて小銭を拾いながら、声がしたほうを見た。忙《せわ》しく行きすぎる人々は、誰かが落とした小銭のことなど気にもしない。いまの声は? と目をこらすと、人混《ひとご》みの向こうに……建物の装飾《そうしょく》で陰《かげ》になった暗がりに、二つの鋭い瞳《ひとみ》が輝《かがや》いていた。
「なんだ……?」
一弥は小銭を拾い、立ち上がった。暗がりから小さな人影がゆっくりと出てきた。不吉《ふきつ》な暗い瞳だった。
それはまだ十|歳《さい》ほどの子供《こども》だった。薄汚《うすよご》れたボロの服に、破《やぶ》れて親指の飛び出したズック靴《ぐつ》を履《は》いていた。瞳は青く、おそらく白人だろうと思われるが、あまりにも汚れていて髪《かみ》の色も肌の色もわからない。
「おまえ、こぼした。俺《おれ》、見てた」
低い声だった。妙《みょう》な子供だ……。一弥は顔をしかめて、
「見てたなら、手伝ってくれればよかったのに」
「俺なんかが親切で手伝ったら、おまえら、俺が小銭をちょろまかしたって言い出して、殴《なぐ》ったり、巡査《じゅんさ》につきだしたりするんだ。俺、人に優《やさ》しくしないって決めたんだ」
子供は暗い目つきで、一弥の手元をじろじろ見た。なにも持っていないのにやけにじろじろみつめている。
それから顔を上げると、
「どこに行くんだ? おまえ道がわからないんだろ?」
「……〈ジャンタン〉だよ。この辺りだと思うんだけど」
「ぜんぜんこの辺りじゃないぞ。田舎《いなか》者め。歩いたらここからだいぶかかる。道も説明しにくいしな。俺、連れていってやってもいいぞ」
「ほんと?」
「紙を一|枚《まい》くれ」
「……紙?」
子供は悔《くや》しそうに地団駄《じだんだ》を踏《ふ》んだ。一弥の財布を指差して、
「その中に入ってる、紙のほうだ。一枚くれたら、案内してやる」
「ああ……」
一弥は迷《まよ》ったが、まだだいぶあるなら馬車を使うより安くつくだろうと踏《ふ》んで、子供に紙幣《しへい》を一枚渡した。子供は驚くほど素早《すばや》い動作で紙幣を奪《うば》い取ると、ボロ服のどこかに魔法《まほう》のように隠《かく》した。それから後ずさった。殴られまいというように両腕《りょううで》を頭にかざして庇《かば》いながら、人差し指をちょんとのばして、歩道の向こう側の建物を指差した。
「あれだよ」
「へっ?」
「あれが〈ジャンタン〉だ。……じゃあな、間抜《まぬ》けなチャイニーズ」
「あっ……。やられた! こら、待て!」
一弥は腕を振り回して追いかけようとしたが、子供はすばやく後ずさると、建物の影に消えた。一弥が覗《のぞ》き込むと、そこには地下に通じる排水溝《はいすいこう》らしき小さな穴《あな》が開いていて、子供一人ならようやく通り抜けられるか、といったところだった。
[#挿絵(img/03_103.jpg)入る]
「……誰がチャイニーズだって!」
一弥は怒《おこ》りながらも、気を取り直して歩きだそうとした。向かい側の建物は、なるほど、さっきは気づかなかったが、八角形の筒型《つつがた》をした煉瓦造《れんがづく》りの巨大《きょだい》なビルディングで、古めかしく、いかにも伝統がある様子だった。ビルと同じ八角形の旗に紫色《むらさきいろ》のリボンがかかり、〈ジャンタン〉と書かれたものがたくさん飾《かざ》られていた。ビルからはひっきりなしに、光沢《こうたく》ある紫色の紙袋《かみぶくろ》を持った買い物客が出てくる。
一弥は道路を渡ろうとした。途端《とたん》に、なにかに足首をつかまれた。死者のもののような冷たく乾《かわ》いた大きな手が、ぎっちりと足首をつかんで離さない。一弥は驚いて足元を見下ろした。
ボロ服を何重にも着込んだ老女だった。髪は風に吹き上げられたかのようにあちこちに逆立《さかだ》ち、皮膚《ひふ》は乾いて真っ黒に汚れていた。足は裸足《はだし》だ。目も髪も黒い。老女は一弥の足首をつかんだまま、異国《いこく》訛《なま》りのフランス語で甲高《かんだか》く、
「娘《むすめ》が、喰《く》われた……ッ!」
一弥は驚いて老女をみつめた。老女も一弥を眼光鋭《がんこうするど》く睨《にら》み返した。
老女のボロ服は大きくふくらんでいて、その内部でなにか丸めた布《ぬの》のようなものが三つほど、老女の動きに合わせて大きく揺《ゆ》れていた。一つ一つの揺れがばらばらで、どこか不吉だった。一弥はふいに、アブリルからきいた怪談《かいだん》の一つをまた思い出した。
〈浮浪者《ふろうしゃ》そのものの服装をした殺人鬼がいて……〉
〈着込んだ古着の中に……〉
〈子供の死体をたくさんつり下げているの……!〉
(まさかね……。だけどそれにしても、見事なぐらい、あの怪談通りの姿だなぁ)
一弥がそう考えていると、老女はとつぜん、
「娘が、あれに、喰われたんだよォ!」
震《ふる》える真っ黒に汚れた指で、まっすぐに――
〈ジャンタン〉の建物を指差した。
指の向こうで、八角形の建物が初夏の日射《ひざ》しを浴びて輝いていた。
一弥は驚いてみつめ返した。
老女が口を開き、なおもなにか言いかけようとした、そのとき……。
〈ジャンタン〉の入り口にいた若《わか》いドアマンがこちらに走ってきた。口汚《くちぎたな》くののしりながら、老女を思いきり蹴飛《けと》ばした。老女は甲高いもの悲しげな悲鳴を上げて、動物のように両手と両足を使って石畳《いしだたみ》の道を逃《に》げていった。
一弥が呆然《ぼうぜん》としていると、ドアマンが一弥にはとても丁寧《ていねい》に話しかけてきた。
「申しわけありません、お客さま……。あの女はうちに入ろうとするお客さまにああやってからむので、迷惑《めいわく》しているのです……」
一弥はまだ驚きから醒《さ》めないまま、
「いつもなんですか?」
「毎日です。気づくと追い払《はら》うようにしているのですが」
じゃあやっぱり、あの怪談はソヴレムで実際《じっさい》に見られるものを元に書かれたものなのだろう、と一弥は思った。きっといまの老女がモデルなのだ。
「失礼しました。お客さま、改めて……」
若いドアマンは、八角形の煉瓦のビルへ一弥を誘《いざな》った。そして観音開きのガラスドアを開けて、うやうやしく言った。
「ようこそ、〈ジャンタン〉へ。ここで手に入らないものはありません。どうぞ、お入りください……!」
3
〈ジャンタン〉の中は天井《てんじょう》が高く、全体に白く統一《とういつ》されて広々としていた。広いフロアには品物がうずたかく積まれ、高価《こうか》なジュエリーやテディベア、婦人《ふじん》用の下着などは、デパートの中に個室《こしつ》に区切られた店舗《てんぽ》を持って、ガラス張《ば》りのドアで仕切られた店もあった。
店員は皆《みな》、容姿《ようし》端麗《たんれい》な若者たちだった。国籍《こくせき》がさまざまらしく、彫《ほ》りの深い美貌《びぼう》を持った北欧|系《けい》の青年や、エキゾチックなオリーブ色の肌《はだ》の少女などもいて、なかなかに華《はな》やかだった。
一弥は北欧系の青年店員に〈青い薔薇《ばら》〉の場所を聞いた。すると片言《かたこと》のフランス語でデパートのずいぶん奥《おく》のほうを教えられた。一弥は人気のある商品なのにそんな奥のほうに行かないとないのだろうかと不思議に思いながらも、言われたとおりエレベーターに乗っていちばん上の階に行き、廊下《ろうか》の奥に向かった。
上の階に行くほど、ガラス張りのドアで仕切られた高級店が増《ふ》えていった。白い廊下が続き、ところどころに高級店の看板《かんばん》が華々《はなばな》しく輝いていたが、客の姿はなかった。
「ここ、か……?」
一弥はとあるドアの前で立ち止まった。確《たし》かに、店員に教えられたのはこのドアだが……? 看板の出ていない部屋だった。扉《とびら》もガラス張りではなく、頑丈《がんじょう》な樫《かし》でできていた。半信|半疑《はんぎ》のままそっと扉を開けると、どうやら店のようだった。床《ゆか》は黒と白の格子縞《こうしじま》のタイル張り。茶色い壁《かべ》。花の形をしたシャンデリアが輝く、シックで上品な部屋だった。
部屋の中にはガラスケースがたくさん並《なら》んでいた。きらきら宝石《ほうせき》の輝く腕時計や、王冠《おうかん》を象《かたど》った飾《かざ》りや、宝飾《ほうしょく》の多い短剣《たんけん》などが飾られている。
人の姿が見えないので、一弥は戸惑《とまど》いながらも中に入っていった。
「……あった!」
一弥は思わず声を上げた。〈青い薔薇〉のペーパーウェイトらしきものが、無造作《むぞうさ》にガラスケースの上に置かれていた。ブルーダイヤモンドを模《も》したガラスで造《つく》られているというそれは、透明《とうめい》できらきらしていて、なるほど大輪の薔薇を思わせる素晴《すば》らしい形をしていた。大きさは一弥の手のひらにちょうど乗るほどだった。確《たし》かに、これで本物のダイヤだったらたいへんな資産《しさん》価値《かち》のあるものなのだろう。
そのほかにもたくさん、磁器《じき》の皿やブローチ、細かい細工の櫛《くし》などが並んでいた。一弥はそれらを手にとってしげしげと眺《なが》めた。
と……。
「……誰だッ!」
とつぜん大声が響《ひび》いた。一弥は驚《おどろ》いた拍子《ひょうし》に、手にしていた品物を全部落としてしまった。あわてて磁器の皿をつかむ。ペーパーウェイトとブローチと櫛は床に落ちたが、大きな音を立てた割《わり》にはどれも割《わ》れず、一弥はほっと胸《むね》を撫《な》で下ろした。
「す、すみません……! 申しわけない」
一弥が落としてしまったものを拾い上げながら顔を上げると、そこには三人の人間が立っていた。一人は仕立てのいいスーツを着た大柄な男だった。年齢は三十代の半ばか。日に焼けて、よく鍛《きた》えられた体をしていた。目つきが妙《みょう》に鋭い。
その後ろに〈ジャンタン〉店員の紫色の制服を着た男女が控《ひか》えていた。男は一弥をじっと睨みつけていたが、女のほうは首をかしげていた。
大柄な男が、責《せ》めるように一弥を睨んで、
「君、ここでなにをしている?」
「えっ? あの、〈青い薔薇〉を買いにきたんですが……」
男二人が顔を見合わせた。年輩の男が代表して、
「夜、出直してきたまえ」
「よ、夜……?」
一弥は怪訝《けげん》な顔になった。デパートは朝から営業《えいぎょう》しているのに……?
「どうしてですか?」
「君は〈青い薔薇〉を買いにきたのだろう?」
「ええ。〈青い薔薇〉を、三つ……」
男二人がゆっくりと顔を見合わせた。
と、ずっと黙《だま》っていた女の店員が、背後《はいご》から二人に何ごとかささやいた。男二人はうなずくと、
「〈青い薔薇〉のペーパーウェイトを三つ?」
「ええ……」
「それなら、二階の文具売場に行ってくれたまえ」
「なんだ……」
一弥はどこかおかしいと思いながらも、部屋を後にした……。
道に迷った。
そのことに気づいたのは、やけに薄暗《うすぐら》くがたがた揺《ゆ》れるエレベーターに乗って一階まで降《お》り、暗い廊下を歩きだしてしばらく経《た》ってからだった。
あわててきびすを返し、廊下を戻りながら、一弥は気づいた。あのおかしなガラスケースの部屋を出て下に戻ろうとしたとき、うっかり、上がってきたときに乗ったのとはちがうエレベーターに乗ってしまったのだ。いま思えばあれは業務《ぎょうむ》用だったのではないか……? やけに照明が薄暗かったし、床も赤黒い妙なしみがたくさん散って、生臭《なまぐさ》いような、おかしな臭いが染《し》みついていた……。
そのエレベーターで降りた一階の廊下もまた、薄暗く、やけに幅《はば》がせまくて圧迫《あっぱく》感があった。壁の妙に上のほうから、装飾のないシンプルなガス灯《とう》が蛇《へび》の鎌首《かまくび》のように垂《た》れ下がり、青白い薄ぼんやりとした光で一弥を照らしていた。ガス灯はかなり広い間隔《かんかく》で一つ、また一つ、と壁から垂《た》れ下がっており、青白い光と光のあいだには、壁と床の境目も分からないほど沈んだ、曇《くも》った闇があった。
ジジジ……!
ガス灯が心許《こころもと》なく揺れた。いまにも消えそうだ。一弥は不安になり、ますます急いで元の場所に戻ろうとした。と……。
「……ク!」
なにか声がした。一弥は思わず足元を見た。というのは、その声は床下から聞こえてきたように思えたのだ。一弥は足を止めた。
耳をすますが、声はもう聞こえない。
また歩きだす。と……。
「…………ア、ク」
「やっぱり! 声がする……女の子だ」
一弥はまた足を止めた。
そっと天井を見上げる。今度は上のほうから聞こえた気がしたのだ。しかし天井にはもちろん誰もいなく、ただ赤黒い色をした汚れた水かなにかの染みから浮《う》き出した模様《もよう》が、わずかに人の顔をしているように見えるだけだ。
と、そのときとつぜん、
「――悪魔《あくま》がいる!」
一弥の耳元で誰かが叫んだ。一弥は思わず短い悲鳴を上げて振り向いた。誰もいない。廊下の奥にはただ薄青い闇が、ガス灯に照らされてジジジ……ッ、とうごめいているだけだ。
(悪魔がいる……っ?)
ガス灯がふいに大きな音を立てた。ジジジジジジジッ……! 青い炎《ほのお》が一瞬《いっしゅん》、天井近くまで燃《も》え上がり、闇に落ちていた廊下の奥を照らし出した。そこに白い細長いものがいくつも互《たが》いに絡《から》みあっているのが見えた。一弥は思わず声を上げた。
「……人間ッ?」
見開かれた大きな瞳《ひとみ》がいくつも、空しくこちらをみつめていた。白い細いものはそれらの手と、足だった。人体には不可能《ふかのう》な形でねじれ、絡み合い、一つのいびつな塊《かたまり》となって、いくつものいくつもの見開いた瞳で恨《うら》みがましく一弥を睨《にら》んでいる。
「あっ……なんだ」
おそるおそる近づいた一弥は、ほっと胸《むね》を撫《な》で下ろした。
瑞々《みずみず》しい死体の山と見えたそれは、よく見るとすべてマネキンだった。ドレスを着てポーズを取ったままの姿勢《しせい》で倒《たお》れているものや、手や足がもげて近くに転がっているもの、胴体《どうたい》だけになってしまっているもの……。
マネキンの山の奥に、木箱がいくつか無造作《むぞうさ》に置かれていた。半分ふたの開いた木箱からも、マネキンのものらしい足が見えていた。
床に、さっきのエレベーターと同じ赤黒い妙な染みが広がっていた。ずいぶん昔にできた染みらしく、乾いて、染みの上に綿《わた》のような埃《ほこり》が積もっていた。
一弥はふと気になって、いちばん奥にあるふたの閉《し》まっている木箱に近づいた。そっと手を伸ばして、ふたを、開けた。
――中にはやはりマネキンが入っていた。
胎児のように丸まったポーズをしていた。砂色《すないろ》の長い髪《かみ》がその体を隠《かく》していた。一弥はふたを閉めようとして、ふと一つのことに気づいた。
(どうしてだろう? どうして……このマネキンだけ瞳を閉じている[#「このマネキンだけ瞳を閉じている」に傍点]んだ?)
冷たい手にふいに背中《せなか》を触《さわ》られたように、一弥がぞっとした、そのとき……。
マネキンが、
――カッ!
と、瞳を開けた。
[#挿絵(img/03_113.jpg)入る]
一弥は叫《さけ》び声を上げて飛び下がろうとした。そのとき箱の中の砂色の髪をした少女が、
「――悪魔がいる!」
一瞬、聞き取れないほど強いロシア訛《なま》りだった。瞳は宝石《ほうせき》のような濃厚《のうこう》な紫色《むらさきいろ》で、濃《こ》いミルクを一|滴《てき》落としたようにやけに白濁《はくだく》していた。少女は箱の中からバネでもついているかのように立ち上がると、逃《に》げようとする一弥の手首を両手でつかんだ。おそろしい力だった。とても少女のものとは思えないほどの……。
だがその手はガクガクと激《はげ》しく震《ふる》えていた。歯の根も合わず、真珠色《しんじゅいろ》をした小さな歯ががちがちと鳴っていた。「悪魔! 悪魔!」訛りの強いフランス語で何度も繰り返す。人間とは思えないぐらい首がぐるぐるとおかしな方向に曲がっていた。首が回転するたびに砂色の髪が悪夢《あくむ》のように闇に舞《ま》い上がり、一弥の顔をぴしりぴしりと打った。
「き、君……っ、ねえ、君、どうしたの……!?」
一弥は息を呑《の》みながらも、必死で少女に質問《しつもん》した。しかし少女は一弥の言うことを聞かず、Rの発音が強すぎて聞きとりにくいひどいロシア訛りで、
「悪魔がいる! 悪魔がいる!」
繰り返しては悲鳴を上げる。
それから一弥をぐいっとおそろしい力で引っ張ると、薄く色のない唇《くちびる》を開いた。カッと広げられた唇の向こうから、小さいが鋭利《えいり》に尖《とが》った犬歯が二つ覗《のぞ》いて、ガス灯《とう》の青白い光をきらりと反射《はんしゃ》した。
「警察《けいさつ》を、警察を呼《よ》んで。悪魔がいる! たくさんいる! 殺される!」
「ええっ……? なにか事件《じけん》なの? そしたら店員の人を呼んで……」
「だめ、だめ。警察、警察を呼んで!」
少女は自分の首を両手で抱《かか》えると、息苦しそうに大きく喘《あえ》いだ。手首を離《はな》された一弥は自然と少女から数歩、離れた。そのときガス灯が、また……
ジジジジジジジジジジッ……!
揺れて、とつぜん消えた。
「き、君ッ……?」
一弥は闇に呼びかけた。
返事はない。
一弥は知らず走りだした。なにがなんだかわからないが、とにかく……。
転がるように〈ジャンタン〉を出た一弥は、口笛を吹《ふ》いて辻馬車《つじばしゃ》を呼び止めた。一頭立ての小さな馬車には、年老いた御者《ぎょしゃ》が乗っていた。顔に、右から左にかけて大きな傷《きず》が走っていた。大慌《おおあわ》てで乗り込んできた一弥が、
「シャルル・ド・ジレ駅前にある、ソヴュール警視庁《けいしちょう》まで!」
そう告げると、御者は傷にひきつれた顔を歪《ゆが》ませてうなずいた。
ぴしり――!
鞭《むち》が打たれ、馬が石畳《いしだたみ》を蹴《け》って走りだす。
一弥は八角形の〈ジャンタン〉のビルを見上げた。額《ひたい》に浮《う》かんだ冷汗《ひやあせ》を拭《ふ》いたとき、ビルの外壁装飾《がいへきそうしょく》の陰《かげ》から、二つの青い目がこちらをじっと見ているのに気づいた。
小さな目。子供《こども》の目。そう、さっきの……。
一弥をだました不思議な浮浪児だ。
あの子供がなぜかとつぜん「957……」とつぶやいたことを、一弥はふいに思い出した。あれはいったいなんのことだったのだろう、と首をかしげたが、しかしいまはそれどころではなかった。
子供はじっと一弥を見上げていた。唇《くちびる》を歪ませて笑ったように見えた……。
[#改ページ]
ベッドルーム―Bedroom 2―
「――ぐじゃ!」
外はよく晴れて、聖《せい》マルグリット学園の敷地《しきち》内に広がる凝《こ》った庭園には、蒸《む》し暑く感じるほどの日射《ひざ》しが白く降《ふ》り落ちていた。だが、庭園の奥《おく》に隠《かく》された迷路花壇《めいろかだん》のさらに奥、長く入り組んだ迷路の先に隠された小さなお菓子《かし》の家≠フような建物は、しんと静まり返り、眩《まぶ》しいはずの真昼の日射しも窓《まど》からはほとんど入り込んでいなかった。
ベッドルームのフランス窓にはボビンレースのカーテンがかけられ、部屋の中は薄暗《うすぐら》い。
天蓋《てんがい》付きのベッドの上に、羽毛《うもう》の布団《ふとん》がぽっこりと盛《も》り上がっていた。かすかにうごめいているが、その下に隠れているのは仔猫《こねこ》だろうかと思わせるほど、そのふくらみは小さい。
「ぐじゃ! ぐじゃ! ぐじゃっじゃ!」
くしゃみらしい音が響《ひび》くたびに、布団の盛り上がりがかすかに揺れていた……。
――ヴィクトリカは羽毛布団の中で夢《ゆめ》に魘《うな》されていた。
夢の中でヴィクトリカは、床がまんまるの形をしている暗い部屋にいた。部屋の四方は書物に覆《おお》われていて、小さな揺り椅子《いす》と、テーブルと、ベッドが、書物の山のあいだから覗いていた。
部屋には出口というものがなかった。そこはかつてヴィクトリカが閉《と》じこめられていたブロワ侯爵家の塔《とう》の部屋だった。丸い床《ゆか》は宙《ちゅう》に浮いているようで、はるか下界からの梯子《はしご》階段《かいだん》が彼女と世界を細々と危《あぶ》なっかしく繋《つな》いでいた。日に三回、年若《としわか》いメイドがお茶と食事、それから豪奢《ごうしゃ》な着替《きが》えのドレスを運んでくる。日に一回、老|執事《しつじ》が新しい書物の山を抱《かか》えてやってくる。それだけで……。
夢の中で、いまよりさらに二回りほど小さい、小さすぎるヴィクトリカが、豪奢なドレスに身を包んでうつむいていた。空を四角く切り取るようなはるか頭上の天窓から射し込む光を頼《たよ》りに、膝《ひざ》の上に乗せた書物を読んでいるのだ。
(退屈《たいくつ》だ、退屈だ……。もっと書物を持ってこい。もっと、もっとだ)
灰色狼《はいいろおおかみ》の怒りを恐《おそ》れ、ブロワ家の人々は塔の上に書物の山を運び続ける。わずか十|歳《さい》ほどの、ほんの子供であるはずのヴィクトリカは、床を踏《ふ》み鳴らし、塔全体を揺らすほどのしわがれ声で、不吉《ふきつ》に叫び続ける。
(退屈だ。退屈なのだ……。なにかを寄《よ》こせ。わたしをこの退屈という名の常世《とこよ》から解放《かいほう》するなにかを。さあ、寄こせ……!)
ブロワ家の人々は、夜毎、塔から響く不吉なしわがれ声に息を潜《ひそ》ませ、震《ふる》え続ける……。
「――ぐじゃ!」
ひときわ大きなくしゃみの後、もにょ、もにょ、と羽毛布団がうごめいた。やがて布団の中から小さな金色の頭が覗いた。
いつもはほどけたビロードのターバンのように背中《せなか》に流れ落ちているつややかなその髪《かみ》も、今日はぐちゃぐちゃに頭を覆《おお》っていて、どっちが顔でどっちが頭の後ろなのかわかりにくいほどだ。またくしゃみをした途端《とたん》、髪が揺れて、そのあいだからちょっとだけヴィクトリカの顔が見えた。
いつもは薔薇《ばら》色をしているはずのほっぺたは真っ赤に染《そ》まり、ぷっくりとふくれあがっていた。
「う、う……」
ずるずるとベッドの上を移動《いどう》しながら、ヴィクトリカがつぶやいた。
「くる、しい……よぅ!」
はぁ、はぁ、と熱い息をしながらも、ベッドサイドに置かれたあるものに震える手を伸《の》ばそうとしている。ほっぺたと同じくいつもより赤くなった唇《くちびる》を開いて、息も絶《た》え絶《だ》えに、
「た、た……」
ついいままで見ていた夢、いや昔の記憶《きおく》に引っ張られるように、しわがれ声でつぶやく。
「た、た……退屈、だぁ………………!」
そこに積まれていた分厚《ぶあつ》い書物の山に手を伸ばす。ふらふらと小さな手が揺れているところを見ると、視界がちょっとかすんでいるようだ。ようやく手にした書物を、震える手で手元に引き寄せると、真っ赤な顔をうれしそうにほころばせてページをめくった。
それから泣きそうな顔になった。
「これは……昨日、読んだんだった…………!」
もう一|冊《さつ》手に取ろうと、書物の山に手を伸ばしたが……。
「……あぁぁぁぁ!?」
ぼやけた視界のためか、積まれた書物を全部|崩《くず》してしまった。どさどさどさっ……と音がして、絨毯《じゅうたん》が敷きつめられた床に全部が散らばってしまう。ヴィクトリカはあわてて起きあがろうとするが、力が入らない。ベッドの下を窺《うかが》い見て、震える手を伸ばすが……あとちょっとのところで届《とど》かない。
「うぅ……」
ヴィクトリカは悔《くや》しそうに顔を歪めた。それからふぅ、と寝返《ねがえ》りを打つ。
「……久城《くじょう》ー」
うめく。
「君、拾いたまえ…………。わたしの、本を………………」
悲しそうな顔になる。
「わたしは、退屈、なの、だ…………………………」
洟《はな》をすする。
「久城、め……」
またうめく。
寂《さび》しそうに小さな声で、
「ほんとに、出かけたのか……」
それからもそもそと動くと、布団《ふとん》の奥深《おくふか》くに潜《もぐ》り込《こ》んだ。小さくて豪奢なベッドルームは人の気配をなくし、ただただ静まり返った。
窓《まど》の外で小鳥がバササッ……とかすかな音を立てて羽ばたいた。
迷路花壇《めいろかだん》を抜《ぬ》けてセシル先生がやってきた。両手で授業《じゅぎょう》に使う教材や教科書、ノートを抱えて急いでいる。
お菓子の家に足早に入ると、心配そうに眉《まゆ》をひそませて小さなベッドルームを覗《のぞ》き込んだ。
「調子はど、う……。あら、ヴィクトリカさんったら」
ヴィクトリカは大きなベッドの真ん中に丸くなって、開いた書物に顔を突《つ》っ込むようにして無理やり読書に励《はげ》んでいた。はぁ、はぁと熱い息が書物の上に降《ふ》り積もっていく。セシル先生はあきれ顔で、
「安静にしてなくちゃ、だめですよ」
「……セシル、いいところにきた」
真っ赤な顔をしたヴィクトリカが、ふらふらと起きあがった。読みかけの書物を指差すと、吐息混《といきま》じりにだが滔々《とうとう》と語り出す。
「ちょうどいまだね、中世のとある僧侶《そうりょ》が書いた手記を読んでいたところなのだ。――ぐじゃ! まだ年若い僧侶でね、日記をつけるのが趣味《しゅみ》だったらしく、当時の生活を知るよき資料《しりょう》として残されているものだ」
「あら、そう」
「むっ……」
ヴィクトリカは、セシル先生のあまりにも興味のない様子に少し息を呑《の》んだが、気を取り直して話し続けた。
「それでだね、問題は、ソヴュールの山奥にあるとある寺院に、都からえらい司教さまがやってくる夜のことだ」
「ふーん」
「むっ……。彼の手記によると、そんな大切な夜に限《かぎ》ってなんと村で盗難事件《とうなんじけん》が起こってしまった。とある裕福《ゆうふく》な商人の家から銀食器が盗《ぬす》まれた。商人は窓から逃《に》げていく男を見た」
「いやねえ。銀食器って高価《こうか》だもの」
「……黙って聞きたまえ。まただね、べつの農家からは豚《ぶた》が盗まれたのだ。村人たちは困《こま》り果てた。いましも司教さまがいらっしゃるときに限ってこんな事件が起こるとは、とね。信心深い人々であるところを見せたいのに、とんでもないことだ……。村人たちは怒り、さっそく、それぞれの事件の犯人らしき者たちを捕《と》らえた」
「あら、よかった」
「むぅ……。銀食器を盗んだとされたのは、流れ者の男たちだ。別の町についたら売り払《はら》うつもりで盗んだにちがいない、とね。豚を盗んだのは貧《まず》しい農家の少年だとされた」
「…………」
「彼らは怒り狂《くる》う村人たちによって裁《さば》かれようとしていた。その恐《おそ》ろしい暗い夜のことを若い僧侶は克明《こくめい》に描《えが》いているのだよ」
「…………」
「そしていましも彼らが裁かれようとしているとき、司教さまが村にやってきた。そ、し、て…………こ、こら! なにをするのだ。セシル!」
セシル先生はヴィクトリカの小さな手から、握《にぎ》りしめていた分厚《ぶあつ》い書物を取り上げた。ヴィクトリカはびっくりしてセシル先生を見上げていた。
「……病人は寝てなさい。はい、本も没収《ぼっしゅう》」
ヴィクトリカの顔が、いまにも泣きそうに歪《ゆが》んだ。
「な、なにをする。まだ話の途中《とちゅう》なのだ。この愚《おろ》か者め!」
「愚か者じゃなくて先生です。ほら、すぐに寝て」
セシル先生は取り上げた書物を、なんと頭上高くに掲《かか》げた。ヴィクトリカはむきになって手を伸ばし、書物を取り返そうとするが、小さな彼女には届《とど》かない。悔《くや》しそうに真っ赤な唇《くちびる》を噛《か》んで、
「……セシルは嫌《きら》いだ!」
「わたしもおとなしく寝てない病人は嫌いですよ」
「久城なら……」
ヴィクトリカはふてくされたようにぷくぷくしたほっぺたをさらにふくらませた。なつかしそうな、寂しげな声で小さく、
「久城なら、わたしの言うことを聞いてくれるのに」
「あはは。そうですね。だけどわたしは久城くんじゃないから、ヴィクトリカさんの言うことは聞きませんよ。はい、お布団かぶって、目をつぶって。そのまま、動くな! じゃあね、またくるわね、ヴィクトリカさん」
セシル先生は急ぎ足でベッドルームを出ていった。
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第三章〈闇《やみ》に消える者たち〉
1
「……いったいなんの話だね、久城《くじょう》くん?」
ソヴュール警視庁《けいしちょう》――。
煉瓦造《れんがつく》りの大きな建物は、外壁《がいへき》には装飾《そうしょく》も多く、玄関口《げんかんぐち》には豪奢《ごうしゃ》な飾《かざ》りが多いが、内部はいたってシンプルで機能《きのう》的な造りとなっていた。広い廊下《ろうか》を、職員《しょくいん》が忙《いそが》しそうに行き来する足音が響《ひび》き続けている。
五階にある広々とした会議室に、グレヴィール・ド・ブロワ警部がふんぞり返っていた。かたわらにレースでふくらんだビスクドールを抱《かか》えたままで、金色のドリルを尖《とが》らせてなにやら演説《えんぜつ》中だったらしく、飛び込んできた一弥《かずや》にあからさまに迷惑《めいわく》そうな顔をしている。
周囲には警視庁の刑事《けいじ》たちらしき、無骨《ぶこつ》な顔つきをした男たちが鎮座《ちんざ》していた。一弥は警部に小声で事情を説明したが、
「……なんだね、それは?」
ブロワ警部はじつに迷惑そうにつぶやくと、抱えたビスクドールをひっくり返してドレスの中を覗《のぞ》き込《こ》み始めた。一弥はぎょっとして、その姿《すがた》を遠巻《とおま》きに眺《なが》めた。
「……ちゃんとドロワーズを穿《は》いてるなぁ」
「警部ッ! ちゃんと聞いてください!」
一弥は叫《さけ》んだ。
「あんなところに女の子がいて、おびえながら警察を呼《よ》んでくれって言うなんて、どう考えてもおかしいですよ。事件《じけん》です!」
「…………」
「警部……!」
ブロワ警部はなにを言われても動く様子がなく、ビスクドールの小さなドロワーズを引っ張《ぱ》り始めた。
と、そのとき……。
会議室のドアが開いて、一人の男が入ってきた。
ぼさぼさの頭に、いかにも服装《ふくそう》に構《かま》わないといった様子の流行後れのスーツ姿で、年齢《ねんれい》は二十代前半から四十代半ばのどこか……というぐらい見事に年齢|不詳《ふしょう》な男だった。四角いおかしな形の眼鏡《めがね》をかけていたが、一弥はその眼鏡の奥《おく》にある細い瞳《ひとみ》が、びっくりするぐらいきらきらと輝《かがや》いているのに気づいた。
男が入ってきた途端《とたん》、ブロワ警部はなぜかあわてて立ち上がると、逆《さか》さにして足をつかんでいたビスクドールを一弥にぐいぐい押《お》しつけた。一弥はびっくりしながらも、ビスクドールの脱《ぬ》げかけたドロワーズを生真面目《きまじめ》にちゃんと元に戻《もど》してやった。
「……シニョレー警視|総監《そうかん》!」
刑事の一人が男に呼びかけた。どうやらこの年齢不詳の男性が、ソヴュール警視庁の警視総監、シニョレー氏であったらしい。シニョレー氏はおかしなヘアスタイルをしたブロワ警部と、かたわらで真剣《しんけん》にビスクドールの下着をいじっている東洋人の少年とを見比《みくら》べた。
「グレヴィール、久《ひさ》しぶりだな。というか君、ぜんぜん会いにこないじゃないか。招待状《しょうたいじょう》は届《とど》いていないのかね?」
「いや、いろいろと忙しくて、な……」
一弥はおやっ、と思った。どうやら二人は古くからの知り合いらしい。しかし、シニョレー氏のほうは屈託《くったく》なく話しかけているが、ブロワ警部のほうはなぜかずっと伏《ふ》し目がちだ。
そういえばソヴレムに向かう列車の中でも、ブロワ警部はシニョレー氏のことを偉《えら》くなったが冴《さ》えないのなんのと言っていたが……。
「ところでグレヴィール、警察職に就《つ》いてからの君の評判《ひょうばん》は聞いているよ。今回の美術品《びじゅつひん》の事件でも活躍《かつやく》を期待している。ソヴレムはいまなかなかに治安が悪くてね……」
「ほぅ。やはり田舎《いなか》とはちがうのかね」
「……ああ。ヨーロッパはどこもそうだが、前世紀末から、植民地からのおかしな異文化《いぶんか》や邪教《じゃきょう》が庶民《しょみん》のあいだに流行《はや》ってね。大戦の頃《ころ》から下火にはなったが、ソヴレムでまた、悪魔崇拝《あくますうはい》を行う輩《やから》が闇《やみ》に潜《ひそ》んで悪さをし始めているという情報《じょうほう》があるので、我々《われわれ》はその件でも多忙《たぼう》を極《きわ》めているのだよ。……しかし、君の活躍の噂《うわさ》からすると、治安が悪いのは都市部には限《かぎ》らないのだろうね。我々はおそらくそういった時代を生きているのだろう。君の素早《すばや》く正確《せいかく》な事件|解決《かいけつ》のコツを、ぜひ伝授《でんじゅ》してもらいたいものだ……」
ブロワ警部はまんざらでもない顔をしてうなずいている。一弥は辺りを見回した。どうやら会議室にいるほかの刑事たちもブロワ警部を尊敬《そんけい》しているらしく、居住《いず》まいをただして二人の会話に耳を傾《かたむ》けている。
一弥はブロワ警部をつついて、小声でささやいた。
「警部、はやく……!」
「はやくって、なにがだね?」
警部もささやき返してきた。
「〈ジャンタン〉ですよ。ぼくはぜったいに……」
「わたしはいま忙しいのだ」
「……ヴィクトリカの知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠フ話、みなさんに聞いてもらおうかな」
警部《けいぶ》はいきなり立ち上がった。
一弥をずるずる引っ張《ぱ》って廊下《ろうか》の端《はし》まで行くと、小声で罵《ののし》り始めた。一弥も負けずに小声で言い返した。二人はしばらくもみ合っていたが、やがて警部が根負けして、
「……わかった。会議を中断《ちゅうだん》して〈ジャンタン〉に向かおう……」
シニョレー氏と刑事《けいじ》たちは、一弥に無理やり引っ張られて会議室を出ていくブロワ警部と、机《つくえ》に残されたビスクドールを不思議そうに見比べた……。
八角形の筒型《つつがた》をした煉瓦造《れんがづく》りの巨大《きょだい》な建物――デパート〈ジャンタン〉の前に馬車で乗りつけた一弥とブロワ警部、それから二人の巡査《じゅんさ》は、ガラスの扉《とびら》前でかしこまるドアマンを押《お》しのけるようにして、中に入った。
あちらにこちらに立っていた国籍《こくせき》もさまざまな紫色《むらさきいろ》の制服《せいふく》姿の店員が、首だけを一斉《いっせい》に動かしてこちらを見た。それはさながら、一本の樹木《じゅもく》のあちこちに止まった鳥の群《む》れが、音に驚《おどろ》いて一斉に一方向を見たような動きだった。……どの顔も能面《のうめん》のように無表情だ。
ブロワ警部が戸惑《とまど》ったように立ち尽くしてから、気を取り直し、一弥に聞いた。
「久城くん……?」
一弥はうなずいて、店員たちの顔を見回した。あの北欧系《ほくおうけい》の美貌《びぼう》を持った青年をみつけて、指を差し、
「まずこの人に〈青い薔薇《ばら》〉のペーパーウェイトの売場を聞いて……」
青年が首をかしげた。
彼はなにを言われているかわからないというように、不思議そうに一弥に言った。
「お客さまをお見かけするのは初めてですが」
片言《かたこと》のフランス語だった。一弥には確《たし》かに聞き覚えのある北欧|訛《なま》り。一弥もまた、なにを言われているのかわからず青年をみつめかえした。
「えっ……? いや、ついさっきのことじゃないですか。ぼくはあなたに〈青い薔薇〉はどこで売っていますか、と聞いて……」
「そんなはずはありません。あなたの顔には覚えがありません」
青年はそう繰り返すばかりだった。
一弥はわけがわからなくなって立ち尽くした。
「……なにかお困りですか?」
低い声が響《ひび》いた。振《ふ》り向くと、そこにはまた見覚えのある顔が立っていた。
仕立てのいいスーツに、日に焼けたがっしりとした体。三十代半ばの堂々たる様子の男だ。いちばん上の階にあったガラスケースの部屋で、一弥に「誰《だれ》だ!」と声をかけた男……。
「オーナーのガルニエと申します。お客さま方、なにか……?」
ガルニエ氏という名前には、一弥も聞き覚えがあった。世界大戦終結後に富《とみ》を成した若《わか》き成功者で、数年前に老舗《しにせ》デパート〈ジャンタン〉を買い取った人物だ――。
「あの、さっき上であなたとお会いしましたよね。あの後じつは……」
「……なんのことかね?」
ガルニエ氏もまた、不思議そうに首をかしげた。一弥は息を呑《の》んだ。
ガルニエ氏の背後《はいご》に少しずつ集まってきた、紫色の制服を着た若い店員たちも、彼に合わせるように一斉に首をかしげ、ゆっくりとこちらに迫《せま》ってくる。どの顔にも表情がなく、ただその割《わり》になぜか底知れぬ悪意が伝わってくるような、じつに不快《ふかい》な無表情だった。
一弥は焦《あせ》って、
「いちばん上の階にある、樫《かし》のドアがついた部屋です。ガラスケースがたくさん……!」
ガルニエ氏は首をかしげてみせた。本当に不思議そうな顔をして一弥をみつめ、それからブロワ警部を振り返ると、当惑《とうわく》の表情を浮《う》かべたままで、
「君、この東洋人の少年は、いったいなにを言っているのだね?」
「いえ、その……」
ブロワ警部は途端《とたん》にうろたえて、一弥を小突《こづ》いて、
「……なんとかしろ!」
フロアに不気味な静寂《せいじゃく》が降《お》りた。一弥とブロワ警部、二人の巡査は紫色の制服を着た店員たちに囲まれ、次第《しだい》に輪をせばめられていった。
ガルニエ氏が笑いながら一弥に言った。
「あの部屋には客は入れないはずだが?」
「ぼく、まちがえて入ってしまったんです。そこにいる店員さんに教えられた通りに行ったつもりだったけど……」
ガルニエ氏が振り向くと、北欧訛りの青年は知らないと言うように首を振った。
「そんな、確かに……」
「では、どんな部屋だったのだね?」
「ええと……」
「入ったのなら、言えるのだろう!」
とつぜんガルニエ氏が声を荒《あら》げた。一弥は一瞬《いっしゅん》ひるんだが、負けずに言い返した。
「じゃあ、言います。ええと……樫の木のドア。中にはガラスケースがたくさんあった。壁紙《かべがみ》は茶色で、床《ゆか》は黒と白のタイルが格子縞《こうしじま》になっていた。それからシャンデリアがあった。花をモチーフにした飾《かざ》りがついていた……!」
一弥はブロワ警部《けいぶ》に向き直った。
「警部、まずその部屋に行きましょう。そしたらぼくが見たものが本当だとわかるはずです。それから、あれを……!」
警部が渋々《しぶしぶ》うなずいて、お供《とも》の巡査《じゅんさ》二人をうながした。
ガルニエ氏の表情《ひょうじょう》がかすかに不安そうに揺《ゆ》らいだ。
エレベーターで、警部や巡査たちとともにいちばん上の階に行く。ガルニエ氏と三人の若い店員もいっしょに乗り込《こ》んできた。
上の階でエレベーターを降り、ガラス張《ば》りのドアが続く白い廊下《ろうか》を歩く。いちばん奥《おく》の、ここだけ樫のドアになっている部屋に入る。
「警部、ぼくはまずこの部屋に入ったんです。それか、ら………………?」
一弥は立ち尽《つ》くした。
そこには――
さきほどとはまったくちがう部屋があった。
シックな茶色だったはずの壁紙は、悪趣味《あくしゅみ》なほど派手《はで》な模様《もよう》付きの金色のものに変わっていた。床には毒々しい真っ赤な絨毯《じゅうたん》が敷《し》きつめられていて、シャンデリアもまた、花ではなく金|装飾《そうしょく》の艶《あで》やかなものだった。
ガラスケースだけは記憶《きおく》通りだったが、中に飾られているものは微妙《びみょう》にちがうようだった。ブロワ警部が不信感を露《あらわ》にした顔で振り返って、
「久城くん、茶色い壁と、格子縞の床と、花のシャンデリアがなんだって?」
「そ、そんなはずは!」
一弥は叫《さけ》んだ。
「だって、つい一時間ほど前ここにきたのに……! そしてあなたに会った。ぼくはお皿とかペーパーウェイトとか櫛《くし》とかいろいろ落としてしまって、あなたに謝《あやま》った……。そうでしょう?」
ガルニエ氏は険《けわ》しい顔をして首を振《ふ》った。
一弥は立ち尽くした。
それから警部を引っ張って、廊下を歩きだした。ガルニエ氏たちもにやにや笑いを浮かべたままついてくる。
「これはいったい、なんの騒《さわ》ぎだね……?」
一弥の記憶通りの場所にあの業務《ぎょうむ》用のエレベーターがあった。すえたような妙な臭《にお》いと赤黒い染《し》みが染み込んだ、不気味なエレベーター……。
一弥は一階で降りると、ついさっき通った青白いガス灯に照らされた不気味な廊下を歩きだした。マネキンが積まれた奥に辿《たど》り着くと、警部を振り返り、木箱のふたを開けた。
「この中に女の子がいたんです。砂色《すないろ》の髪《かみ》をした女の子が、ここには悪魔《あくま》がいる、って……!」
ブロワ警部が鼻を鳴らした。あきれたように一弥を見て、首を振る。
「久城くん……」
言われた一弥は、箱の中を見下ろした。そして、絶望《ぜつぼう》のうめき声を上げた。
そこに入っていたのは……。
――体を丸め、
――胎児《たいじ》のように丸まって、
――首だけをこちらに不自然な角度にねじ曲げて、
――恨《うら》みのこもったような暗い瞳《ひとみ》を見開いて、虚空《こくう》を見上げる、
――砂色の髪をした
マネキンだった。
「そ、そんな……!」
一弥は思わず床にへたりこんだ。その震動《しんどう》で箱が大きく揺《ゆ》れ、マネキンの首が、
――ゴトリ!
驚《おどろ》くほど大きな音を立てて一弥の膝《ひざ》に転がり落ちた。妙に重たく生々しい感触《かんしょく》に、一弥は悲鳴を上げた。ガルニエ氏が我慢《がまん》できないと言うように腹《はら》を抱《かか》えて笑いだした。
「わはははは! わははははは!」
彼に合わせるように、三人の若《わか》い店員もいっしょになって笑いだした。
「わはははは! わはははははは!」
「わはははははは!」
「あぁ、おかしい。わはははははははは!」
一弥はばかにされた悔《くや》しさと、迷《まよ》いと、さまざまな思いに絡《から》み取られそうになり、膝の上にマネキンの首を置いたままでぼんやりと彼らの顔を見上げていた。かたわらでブロワ警部《けいぶ》もまたあきれ顔をしていた。
「君、マネキンと生きた人間をまちがえるとは……」
「ち、ちが……」
一弥はうめいた。
ブロワ警部はマネキンの髪を乱暴《らんぼう》につかんで首を持ち上げ、じっとみつめた。
「大量生産品はやはり趣《おもむき》がないな……」
ぽい、と投げ出す。マネキンの首は床《ゆか》をゴロゴロと転がって壁《かべ》に当たると大きく揺れて、止まった。見開かれた瞳が虚空を見上げている。
誰もなにも言おうとしなかった。
やがて、ガルニエ氏が困《こま》ったように嘆息《たんそく》をつき、
「……もうこれぐらいにしてくれないかね?」
「はぁ、たいへんに失礼を……」
ブロワ警部は、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす一弥をむりやり引っ張って、部屋を出ようとした。
一弥は我《われ》に返り、
「警部! だけど本当なんです。さっきまであの部屋は茶色い壁に格子縞《こうしじま》の床をしていて、この箱の中には本物の生きた女の子がいたんだ! 警部!」
と、ガルニエ氏が振り向いた。温厚《おんこう》そうな笑顔《えがお》に一瞬《いっしゅん》で怒《いか》りが燃《も》え広がった。そしてとつぜん怒鳴《どな》った。
「君、いい加減《かげん》にしたまえ! これ以上|我《わ》が〈ジャンタン〉を侮辱《ぶじょく》すると、君を逮捕《たいほ》させるぞ! 君ッ……! いい加減に納得《なっとく》したまえ。君は一度もこのデパートには入っていないのだ! 誰も君のことなど覚えていないのだよ!」
「そんなはずはない! ぼくは、ぼくはぜったいに〈ジャンタン〉にきた!」
一弥はガルニエ氏を睨《にら》み返した。
警部と二人の巡査《じゅんさ》が、一弥を無理やり引っ張《ぱ》ってデパートを出た。
外に出たとき、ちょうど見覚えのある御者《ぎょしゃ》が客を乗せて通りかかった。顔に右から左にかけて、斜《なな》めに大きな傷《きず》が走っていた。御者は一弥と目があうと、サッと目をそらした。一弥は口笛を吹《ふ》いたが、御者は聞こえなかった振りをした。一弥は歩道から飛びだし、あわてて止めるブロワ警部を振りきって、馬車の前に立ちふさがった。
馬がいななく。
無理やり馬車を止めると、御者が不機嫌《ふきげん》そうに顔をしかめ、口の中でもごもごと文句《もんく》を言った。一弥は御者台に駆《か》け寄《よ》り、
「あなた! あなたはさっきぼくを乗せましたね? 警部、警部……! この人なら、〈ジャンタン〉の店員じゃないから、ぼくのことをちゃんと話してくれますよ!」
一弥は半信|半疑《はんぎ》の顔をした警部を振《ふ》り向き、それから御者に向き直った。
「あなた、さっきぼくを乗せましたよね」
御者は戸惑《とまど》いながらも、一弥の顔をじっとみつめてうなずいた。一弥はほっと安心した。
「〈ジャンタン〉から出てきたぼくを乗せて、警視庁《けいしちょう》まで行きましたよね」
御者は一弥の顔を気味悪そうに眺《なが》めた。
「あんたは、なにを言ってなさる?」
「えっ……?」
「わしがあんたを乗せたのは、ここじゃない」
「なっ!?」
一弥の顔が不安に歪《ゆが》む。御者は奇妙《きみょう》な笑みを浮《う》かべて、御者席から一弥を見下ろした。顔の傷がひきつれて、不気味な笑顔になった。そして言った。
「わしはシャルル・ド・ジレ駅からあんたを乗せて、王宮前広場で降《お》ろしたはずだが。あんた、いったいどうなさったね?」
2
立ち尽くす一弥の顔を一瞥《いちべつ》すると、御者は首をすくめ、馬に鞭《むち》を打って走り去っていった。
一弥は通りに立ち、呆然と馬車を見送った。
ぽん、と肩《かた》を叩《たた》かれた。
振り向くと、ブロワ警部があきれた顔をして一弥をみつめていた。
「本当です。警部、本当に……」
「久城くん、わたしは警視庁に戻《もど》るぞ」
「警部……」
「……いい加減にしたまえ」
警部はべつの馬車を呼《よ》び止めた。それから険《けわ》しい表情《ひょうじょう》を浮かべて、
「君の言うことにはなんの証拠《しょうこ》もないばかりか、誰の証言とも食い違《ちが》う。それに相手は経済界《けいざいかい》の重鎮《じゅうちん》ガルニエ氏だ。彼は貴族《きぞく》でこそないが、経済都市として発展《はってん》しつつあるソヴレムではいまや一、二を争う重大人物だよ、君。ただの憶測《おくそく》で侮辱していい相手ではないのだ」
「しかし……」
「それにだね、わたしは……」
ブロワ警部は唇《くちびる》を強く噛《か》んだ。
「わたしは、どうしても警視|総監《そうかん》……シニョレー氏の鼻を明かしたいのだ。こんなことにかかずらわっている暇《ひま》はない。わたしはどうしてもソヴレムで手柄《てがら》を立てたいのだよ、久城くん……。もうこれ以上、わたしの貴重な時間を無駄《むだ》にしないでくれたまえ……」
一弥は食い下がった。
「だけど、警部。ぼくは確《たし》かに、助けを求める本物の女の子を見たんです!」
「……久城くん、君は白昼夢《はくちゅうむ》を見たのだ。そうだろう?」
「そんな……」
一弥はうめいた。
なにがなんだかわからず、このまま悪夢だと忘《わす》れてしまいたい気もした。
でも、あのとき一弥の手をつかんで「悪魔《あくま》がいる!」と繰《く》り返したおかしな少女の、宝石《ほうせき》のような濃《こ》い紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》に浮かんでいた恐怖《きょうふ》が、脳裏《のうり》から消えなかった。
一弥はあんな顔をした人を見たことがなかった。あれは本物の恐怖だった。もしあの子が白昼夢の中の幽鬼《ゆうき》ではなく現実《げんじつ》の存在《そんざい》で、本当におそろしい目に遭《あ》わされているとしたら……このまま放っておいてよいのだろうか……?
生真面目《きまじめ》な性格《せいかく》が首をもたげ、一弥にこのまま忘れることを拒絶《きょぜつ》させた。だがどうしたらいいのかはわからない……。誰《だれ》一人、一弥の記憶を裏付《うらづ》ける人物はいないし、ガラスケースの部屋も、箱の中の少女も、一弥の記憶とはことごとく食い違うのだ……。
「……ま、買い物を続けたまえ」
警部は苦笑いを浮かべ、巡査たちとともに馬車で遠ざかっていった……。
大通りの古びた石畳《いしだたみ》を、馬車が何台も蹄《ひづめ》の音を立てながら通り過《す》ぎた。真昼の日射《ひざ》しはきつく、石畳に反射《はんしゃ》してビルのガラスをきらきらさせていた。立っていると少し汗《あせ》ばんでくるような初夏の真昼は、さっきまでの悪夢のような出来事から急速に現実味を奪《うば》っていくようだった。
立ち尽《つ》くす一弥の目前を、何台も何台も馬車が通り過ぎた。蹄の音と、ざわめきながら歩き過ぎるソヴレムの人々の声と、王宮前の広場から聞こえてくる衛兵《えいへい》のラッパの音――。
「娘《むすめ》が喰《く》われた! 喰われちまったんだよォ!」
とつぜん服の裾《すそ》を強く引っ張《ぱ》られた。物思いに耽《ふけ》っていた一弥は驚《おどろ》いて振り返った。
ボロ服をまとった老女が、皺《しわ》だらけの顔をくしゃくしゃにしてこちらを見上げていた。服の裾をつかんだ手をぶるぶる震《ふる》わせて叫《さけ》び声を上げている。
「闇《やみ》に喰われたんだ!」
一弥がおろおろしていると、背後《はいご》から真っ黒に汚《よご》れた小さな手が伸《の》びてきた。小さな手はおそろしい力で一弥をぐいぐいと引っ張り、泣き叫ぶ老女から引き離《はな》すと、排水溝《はいすいこう》のある薄暗《うすぐら》い場所に連れ込《こ》んだ。
耳元で低い声がした。
「……紙をくれ」
薄暗がりに、暗い小さな目が二つ輝《かがや》いていた。鬼火《おにび》のような青。煤《すす》や汚れで真っ黒になった皮膚《ひふ》に、同じく汚れで元の色がわからないくしゃくしゃの髪《かみ》。さっきの浮浪児《ふろうじ》だ。
「ばあさんから助けてやった。だから紙をくれ」
「……あげないよ。それどころか、さっきの紙を返してくれ」
一弥はきっぱり言った。浮浪児はフンフンと鼻を鳴らし、うさんくさそうに一弥を見た。
「チャイニーズにしちゃ、しっかりしてるな」
「……チャイニーズじゃないんだよ。見分けはつかないけどね」
「なんだ、そうか」
浮浪児はつまらなそうに言った。顔をくしゃくしゃにしてしばらく通りを眺《なが》めていたが、
「紙はくれないのか」
「あげないよ」
「ちぇっ……。じゃあいいさ。それはそうと、おまえ。さっきからどうして何度も〈ジャンタン〉にくるんだ?」
一弥はほんの一瞬《いっしゅん》だけ聞き逃《のが》した。
それから息を呑《の》んで浮浪児の顔を見た。その勢《いきお》いに驚いて、浮浪児は殴《なぐ》られまいというように、細い両手でもじゃもじゃの髪が生えた小さな頭をかばい、体を固くした。
「君、ぼくは何度も〈ジャンタン〉に入ったかい?」
浮浪児は両腕《りょううで》のあいだからそっと一弥の真剣《しんけん》な顔を窺《うかが》い見て、胡乱《うろん》な目つきで、
「……おまえ、なに言ってるんだ? 自分でわからないのか?」
「そうじゃない。わかってるよ」
「おまえはな……」
浮浪児は広場の時計|塔《とう》を指差してみせた。それから瞳を半開きにして、口だけを大きく開けた。なにものかに操《あやつ》られるような妙《みょう》な抑揚《よくよう》で、おそろしい早口で言い始めた。
「十一時二十二分に〈ジャンタン〉に入った! 四十六分に飛び出してきて、馬車に飛び乗った! 十二時九分に戻《もど》ってきた! へんな頭をした貴族《きぞく》と、巡査《じゅんさ》二人と一緒《いっしょ》だった! そして十二時三十分ちょうどに出てきた!」
「……ずいぶん覚えてるね」
不信感を露《あらわ》にして一弥がつぶやいた。浮浪児はふうっと息をつき、そっぽを向いた。
「……だけど、そうだよ。ぼくは確かに〈ジャンタン〉にきたんだ。まちがいない。だけどなぜか、店員はみんなぼくを見ていないって言うんだ。それに馬車の御者《ぎょしゃ》も、ぼくを乗せていないって言うんだ……」
浮浪児は頬《ほお》をきゅうっとひきつらせた。どうやら笑ったらしかった。
「おまえ、ばかだな。そんなの、金をもらえばいくらだって嘘《うそ》をつくさ。オレだって〈ジャンタン〉のやつに紙を何|枚《まい》ももらったら、おまえなんて見たことないって言うぞ。その御者はきっと、やつらから紙をたくさんもらったのさ」
一弥は黙《だま》り込んだ。それから、
「でも……最初にきたときにぼくが見た部屋とは、まったく内装《ないそう》が変わってたんだ。壁《かべ》もシャンデリアも、床《ゆか》も……。それで、白昼夢《はくちゅうむ》を見ていたんだろうって言われちゃったんだ」
「……紙をくれ」
一弥は文句《もんく》を言おうとしたが、仕方なく財布《さいふ》を出し、紙幣《しへい》を一枚|渡《わた》した。浮浪児は唇《くちびる》をうごめかせ、すばやく体のどこかに紙幣を隠《かく》した。それから目を半開きにして何ごとか考えていた。また妙な口調で、
「十一時五十分! 裏口《うらぐち》から男たちが入っていった! 荷物をたくさん持ってる!」
「……荷物?」
「ペンキの入ったブリキ缶《かん》と、刷毛《はけ》と……大きな丸めた金色の紙みたいなもの! 丸めた絨毯《じゅうたん》! ペンキがたくさんついたつなぎの作業服を着てる!」
「……塗装《とそう》業者だな」
「十二時四分に出てきた! 金色の紙も絨毯も持ってない! 急いで馬車で消えた!」
「金色の紙……壁紙かな。出てきたときには持っていなかったってことは〈ジャンタン〉の中で使ったんだ。おそらく、壁が茶色から金色に変わった、あの部屋に」
浮浪児は目を開けた。あくび混《ま》じりに、
「……十二時四分って言ったら、おまえが戻ってくる五分前だ」
「うん。きっと、ぼくが出ていってからあわてて壁紙を張《は》り替《か》えたり、絨毯を敷《し》いたりしたんだな。シャンデリアは売り物の中にたくさんあるだろうし……。だけど……」
一弥は肩《かた》をすくめた。
「君の言うことが本当なら、だな。だって、そんなに正確《せいかく》に覚えていられるものかい?」
一弥が半信|半疑《はんぎ》のままで浮浪児をみつめると、彼は小さな目を見開いて一弥を睨《にら》みつけた。プライドを傷《きず》つけられたらしく、頬を震《ふる》わせて、
「オレは嘘なんか言わない。オレはずっと路上から見てるんだ。これまでだっていろんなものを見た。だけどみんな信じない。オレがこんなだからだ。……おまえも信じないんだな」
「いや、ぼくは……」
「オレはずっとここにいて、いろんなことに気づいてる。〈ジャンタン〉に入った客だって全部覚えてるんだ。ほら、あの若《わか》い女は……」
浮浪児はたくさんの紫色《むらさきいろ》の紙袋《かみぶくろ》を抱《かか》えて出てきた女性《じょせい》を指差した。
「二時間も前に入って、いま出てきた。たくさん買い物したんだ。紙袋を五つも抱えてる。それに、いま出てきたじいさんは……」
続いて、急ぎ足で出てきた老人を指差してみせる。
「たった三分で出てきた。なにを買ったかもわかる。ステッキだ。袋に包まれてないけど、入っていったときにはもっていなかったからな。きっといま使うからって、袋に入れずに、値札《ねふだ》も取ってもらったんだ。オレは……オレは毎日ここで〈ジャンタン〉の客を見てる」
「ただぼくはね、君……」
「月に二、三人。出てこない客がいる」
「ぼくはただそんなに正確に……えっ? 出てこないってどういうこと?」
浮浪児《ふろうじ》は顔をしかめた。体全体をおそろしそうに縮《ちぢ》こまらせて、
「入ったきり、表からも裏からも出てこない。何日|経《た》っても出てこない。〈ジャンタン〉に入ったきり消える客がいるんだ。若い女ばかり」
「……それが本当なら、警察《けいさつ》に届《とど》けるべきだろう?」
浮浪児は黄色い歯をむき出して、怒《いか》りだした。
「オレ、巡査に言った。女の人が消えるって。そしたら殴《なぐ》られた。オレのことを嘘つきの子供《こども》だと思ったんだ。たくさん殴られて、警察から追いだされたんだ。巡査が言った。そんなに正確に覚えられるわけないって。おまえは嘘つきだって。……それからはオレ、なにも言わない。見てるだけだ。ただここで、見てるだけ」
一弥はまくしたてる浮浪児の顔をじっとみつめた。
一弥自身も自分が何時に〈ジャンタン〉に入って何時に出てきたかなど、正確には覚えていない。〈ジャンタン〉に出入りするすべての人について記憶《きおく》するなどと言うことが、できるはずはない……。
でも彼の言うことには奇妙《きみょう》な信憑性《しんぴょうせい》も感じられた。さっきあの老女も、デパートを指差して娘《むすめ》があれに喰《く》われた≠ニ言っていたのだ。あれはもしかすると、デパートに入ったけれど出てこなかったという意味かもしれない。
そして一弥が見た、なぜか箱|詰《づ》めにされて悲鳴を上げていた少女……。
(あ……!)
一弥はふいに思い出した。
最初にこの浮浪児に会ったとき、なぜか彼は低い声でつぶやいたのだ。「……957」と。そのときは意味がわからなかったが、いま考えてみると、あれは確《たし》か、一弥が財布の中の小銭《こぜに》を路上にこぼしてしまった瞬間《しゅんかん》のことだった……。
(まさかとは思うけど……)
一弥はそっと財布を出して、中の小銭を数え始めた。あの後は、浮浪児に渡したのも馬車の御者に渡したのも紙幣だけだ。硬貨《こうか》の合計|金額《きんがく》は……。
ぴったり957だった。
(……すごい!)
一弥は改めて浮浪児の顔を見た。恐《おそ》ろしく頭のいい浮浪児はしかし、黒く汚《よご》れた顔をひきつらせ、殴られまいとして両腕《りょううで》で頭を庇《かば》うようにしている。
「君……」
一弥は戸惑《とまど》いながらも、浮浪児に声をかけようとした。そのとき……。
「娘を返しておくれ!」
いつのまにか老女が再《ふたた》び一弥を捕《と》らえていた。黒く汚れた顔には動物のように光る漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》がぎらつき、一弥を睨みつけていた。服の襟《えり》を恐ろしい力でつかんで、異国《いこく》訛《なま》りでわめいている。
「娘を、探《さが》しておくれ!」
「えっと、あの……離《はな》してください!」
一弥が叫ぶと、老女はヒッと後ずさった。それから恐ろしそうに一弥を見上げた。見る見る涙《なみだ》をためて、
「娘を一緒に探《さが》しておくれ……!」
ふいに声が細くなり、うつむいた。一弥を見上げる老女の表情《ひょうじょう》から、風で雲が流れて太陽が現《あらわ》れるように、狂気《きょうき》が流れ去って瞳に落ち着きと理性が戻《もど》ってきた。
「四年前にここで消えたんだよ。わたしと娘は観光客だった。二人であのデパートに入ったんだ。だけど、だけど出てこなかったんだよ……!」
「出てこなかった……?」
「娘はドレスを買おうとしたんだ。わたしが買ってやるって言ったんだ。娘はドレスを持って一人で試着室に入ったんだよ。それきりいつまで待っても出てこなくて、ドアを開けたらいなかったんだ……誰も、誰もいなかったんだ」
老女は泣きじゃくり始めた。
一弥はふいに、クラスメートのアブリルから聞いた怪談《かいだん》を思い出した。確かあの中にとてもよく似《に》た話があったはずだ……。デパートの試着室から消えた貴婦人《きふじん》の話が……。老女の話は、ソヴレムで流れる噂話《うわさばなし》を集めたのであろうあの本の内容《ないよう》とよく似ていた。
そして、ブロワ警部《けいぶ》が話していた〈闇《やみ》に消える者たち〉の事件《じけん》とも……。
もしかすると〈ジャンタン〉では本当にときどき客が消えてしまい、発覚はしないものの、人々のあいだに怪《あや》しい噂として流れているのだろうか……?
老女のしわだらけの顔には、黒い汚れが涙で流れ落ちて恐ろしい模様《もよう》をつくっていた。瞼《まぶた》に幾筋《いくすじ》も走ったしわが瞳に垂《た》れ下がってきていた。ボロ服の中はなにが入っているのか大きくふくらんでいた。
一弥はまた、アブリルから聞いたべつの怪談のことも思い出した。浮浪者の姿《すがた》をした殺人鬼《さつじんき》が、服の中に子供の死体をたくさんつり下げている話を……。
老女が、一弥の物思いを断《た》ち切ろうとするように声を張《は》り上げた。
「デパートの店員もみんなおかしいんだ。娘なんて見てないって言うんだよ。ドレスを勧《すす》めた店員も、最初からわたしが一人で店にきたっていうんだ。ドアマンも、みんな……。娘なんて見なかったって。確かに娘にドレスを当てて、似合うって勧めて、試着室に誘《さそ》ったのに……! 誰《だれ》もわたしの言うことは聞いてくれなかったんだ。娘は消えて……それっきりだ……。もう四年にもなる。きっともう生きてはいまい……!」
一弥は自分が二度目に〈ジャンタン〉に入ったときのことを考えた。誰もが一弥を見ていないと言い張り、入ったはずの部屋の内装《ないそう》まですっかり変わっていた。それに一弥は、箱の中から出てきて助けを求める少女を見た。それは確かなのだ……。
そのまましばらく一弥は悩《なや》んでいたが、ふっと目を開けた。
ぎゅっと力を込《こ》めて自分が握《にぎ》っているものに気づいて、それを見下ろした。赤いリボンがかかった包み紙だった。ソヴレムについてすぐにパイプ屋で買った、靴の形をしたかわいらしいパイプ置き――。ヴィクトリカへのおみやげだ。
一弥はヴィクトリカのことを思い出した。
(ぼくは絶対《ぜったい》に白昼夢《はくちゅうむ》なんて見ていない。もしここにヴィクトリカがいたら、たちどころに謎《なぞ》を解《と》いて、あくびでもして、また退屈《たいくつ》になったなんて文句《もんく》を言い出すにちがいないんだ。そうだよ。ヴィクトリカ、君がいてくれたら……)
彼女のしわがれ声が脳裏《のうり》に蘇《よみがえ》ってくる。
〈欲望《よくぼう》なのだよ、君……!〉
一弥の瞳にわずかに希望が戻ってきた。
あの図書館のいちばん上にある静かな植物園で――怪談ブームについて語っていたあの友達の、小さな、奇怪《きかい》な、そして頭脳|明晰《めいせき》な顔が浮《う》かんできたのだ。そして老女のようなしわがれ声で語っていた言葉も……。
〈人々の欲望――見えないもの、わからないものにあってほしいと思う欲望だ。ある者はそれを宗教《しゅうきょう》に求める。まだ神を見たものはないのだから。ある者は恋愛《れんあい》に求める。愛を見たものもないのだから。そしてある者は、それを怪談に求め始めたのだ――〉
彼女は、自分は超常現象《ちょうじょうげんしょう》など信じないと言い切った一弥をあざ笑って、こうも言ったのだ。
〈そう言う者に限《かぎ》って、理屈で説明できないことが起こったときにはもろいものだよ――〉
一弥は大きくうなずいた。知らずほっとしたような笑顔《えがお》が浮かんでいた。
(ヴィクトリカ……。意地悪で気まぐれで偉《えら》そうで、まったく腹《はら》の立つことばかりのヴィクトリカ……。君ならぼくの話を信じてちゃんと聞いてくれるし、もちろん怒《おこ》ったりばかにしたりさんざん悪態《あくたい》をつきながらだけど、真相を当ててみせてくれるはずだ。いままで起こったことは、もちろん白昼夢なんかじゃない。全部が欠片《かけら》なんだ。ぼくにとっては頭の痛《いた》い謎だけれど、ヴィクトリカにとっては混沌《カオス》の欠片――。彼女はたちどころに再構成《さいこうせい》してみせるにちがいないし、退屈で死にそうになってる囚《とら》われの姫《ひめ》≠ノとっては、ちょっとした退屈しのぎに過《す》ぎないはずなんだ……! それにヴィクトリカはつい昨日、ぼくに向かってさんざん駄々《だだ》をこねていたもんなぁ……!)
ヴィクトリカは図書館のいちばん上にある植物園で、小さな手足を聞き分けのない子供《こども》みたいにばたばたさせて、こんなことを言っていたのだ。
〈君、明日までに、おかしな事件《じけん》に巻《ま》き込まれて死ぬほど困りたまえ〉
〈大丈夫《だいじょうぶ》だ――〉
〈わたしの気さえ向けばすぐに解決《かいけつ》してやる――〉
……気さえ向けば、というところが若干《じゃっかん》、いやかなり不安だが、一弥はそれについてはなるべく考えないようにした。そして〈ジャンタン〉の向かい側にあるカフェに向かった。
おかしな浮浪児《ふろうじ》も後ろをとことことついてきた。
舗道《ほどう》に向かって開け放された開放的な雰囲気《ふんいき》のカフェは、昼時で混み合っていた。一弥が店員に、電話を貸《か》してもらえないかと頼《たの》むと、快《こころよ》く店先にある電話を貸してくれた。
一弥は受話器を取った。交換手《こうかんしゅ》に聖《せい》マルグリット学園につないでほしいと告げ、まずセシル先生を呼《よ》びだしてもらった。
『久城くん、〈青い薔薇《ばら》〉あった?』
セシル先生ののんきな声が聞こえてきた。一弥は急いで、
「それどころじゃないんです、先生。ヴィクトリカにつないでください!」
『声が聞きたくなったの?』
「……気持ちの悪いこと言わないでください。そうじゃなくて、急用で……」
『はいはい、急用ね。久城くんが急用……っていう口実で、ヴィクトリカさんの声が聞きたくてわざわざソヴレムから電話してきたって言ってあげるわね……』
「そんなわけないでしょ! ちょっと、セシル先生? 余計《よけい》なことしないでくださいってば!」
一弥の叫《さけ》び声に構《かま》わず、セシル先生はくすくす笑いながら電話を切り替《か》えた。一弥は頭を抱《かか》えて、いまのが冗談《じょうだん》じゃなくて、本当にヴィクトリカにそう伝えられてしまったらどうしようと悶々《もんもん》と悩《なや》んだ。どう考えても、ヴィクトリカのほうも、一弥が遠くに出かけているからといって寂《さび》しがったり声を聞きたがったりするとは思えなかった。それどころか一弥の不在《ふざい》自体に気づかないかもしれない。もしも一週間も、一か月も、一弥が学園を留守《るす》にしたとしても、ヴィクトリカはまったく気にもせずにいつもの植物園で書物の山に埋《う》もれながらパイプを吹《ふ》かし、ある日やってきた一弥に、いつもと同じように、
〈なんだ、君か――〉
面倒《めんどう》くさそうに一瞥《いちべつ》するぐらいが、どうせ関の山なのだ。
(……ちぇっ)
そう考えると一弥は寂しくなってきた。それになぜか妙《みょう》に腹が立ってきた。ヴィクトリカの欠点ばかりが頭に浮かんでは消え、浮かんでは消える。
(意地っ張《ぱ》りの、威張《いば》りんぼのヴィクトリカ……! 小さな、痛がりの、囚われのヴィクトリカ……)
一弥はなぜかうなだれた。
――なかなかヴィクトリカは出ない。
カフェの店先に初夏の眩《まぶ》しい日射《ひざ》しが射し込んで、舗道の白い石畳《いしだたみ》に反射《はんしゃ》していた……。
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ベッドルーム―Bedroom 3―
そこは暗く、せまく、小さなヴィクトリカの息がこもって蒸《む》し暑く不快《ふかい》な場所だった。どんどん上がってしまう熱のせいもあって、ヴィクトリカはいまにも気を失いそうだった。
瞳《ひとみ》を閉《と》じて、暗闇《くらやみ》の中、はぁ、はぁ……と熱い息を吐《は》きだす。気が遠くなってくる。小さな手で羽毛布団《うもうぶとん》のはしっこを握《にぎ》りしめて、緑色の瞳をゆっくり開いて、うめく。瞳には、弱ってはいるものの強情《ごうじょう》そうな強い輝《かがや》きがまだ宿っていた。
ヴィクトリカは小さくうめいた。
「ぜったいに、出ないぞ……!」
その声が届《とど》いたのか、暗闇の外から困《こま》ったようなため息が聞こえてきた。
――セシル先生が迷路花壇《めいろかだん》を通り抜《ぬ》けて、ヴィクトリカのベッドルームにやってきた。
「あのね、ヴィクトリカさん、電話が…………あら、先生」
ベッドルームに入ると、セシル先生は足を止めた。
きょろ、きょろ、と見回す。
部屋の片隅《かたすみ》には、白衣|姿《すがた》の小柄《こがら》な老人が困ったような顔をして立っていた。ミニテーブルの上に四角い革鞄《かわかばん》が開かれていた。老人は片手に半透明《はんとうめい》の大きな注射器《ちゅうしゃき》を持ったままで、セシル先生の顔をじっとみつめた。
セシル先生はベッドのほうを見た。
ヴィクトリカの姿はなかった。羽毛布団がこんもりと盛《も》り上がって小刻《こきざ》みに震《ふる》えていた。セシル先生は布団の中にあるもののことを想像《そうぞう》して、思わずぷうっと笑いだしそうになった。
「あら、まぁ……」
「セシル。注射をすると言った途端《とたん》、これなんだよ」
村の医者である白衣姿の老人が、実に困った顔をしてセシル先生をみつめた。と、盛り上がった羽毛布団の中から、息も絶《た》え絶《だ》えのしわがれ声がした。
「痛《いた》いのは、いやだ! ――ぐじゃ!」
「痛いから効《き》くのよ、ヴィクトリカさん」
「嘘《うそ》だ」
「……嘘じゃありません」
「…………」
「ヴィクトリカさん!」
「…………」
声を張り上げてみたものの、むくむくした小犬を思わせる風貌《ふうぼう》の丸眼鏡《まるめがね》のセシル先生では、どうにも迫力《はくりょく》がない。布団は相変わらず動く気配もなかった。
医者は肩《かた》をすくめて、
「無理やり布団をはこうとしたら、この世のものとは思われないような悲鳴が響《ひび》いてね……。セシル、このちびっこいの、君の生徒だろう。なんとかしなさい」
「な、なんとかって……」
セシル先生は困ったように考え込んだ。
静寂《せいじゃく》がベッドルームに満ちていく。
時折、布団の中からくしゃみが響くほかは、なんの音もない。風が吹《ふ》いてフランス窓《まど》をかすかにきしませた。木の葉が初夏の日射しを反射《はんしゃ》して、きら、きら……と輝いた。
「……あ!」
セシル先生は手を叩《たた》いた。それからとなりの部屋のほうを指差して、
「どうしてここにきたか忘《わす》れてたわ。ヴィクトリカさん、お友達から電話なんだけど……」
「……嘘だ」
「ど、どうして?」
「友達なんていない」
かすかに寂《さび》しそうな声でヴィクトリカがつぶやいた。セシル先生は、
「じゃ、久城《くじょう》くんはなぁに?」
――羽毛布団が、かすかに動いた。
もこ、もこ、もこ……。
また止まった。セシル先生はそっと医者に目配せした。
「……久城?」
ヴィクトリカの声が少しだけうれしそうに張《は》り上がった。
「ソヴレムから電話をかけてきたの。なんだか急いでたみたい」
「む……」
セシル先生はあと一押《ひとお》し、というように拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
「急用だ、急用だって叫《さけ》んでたわ。……早くしないと切れちゃうかも」
「む……」
羽毛布団がむく、むく、むく、と動いた。
「久城め……。相変わらず鈍《どん》くさい男だ。どうせ、ごほっ……ソヴレムで間抜けな顔で間抜けなことをして間抜けな事件《じけん》にでも巻《ま》き込まれているのだろう。……ごほっ!」
ヴィクトリカは少しだけ浮《う》き浮きとしているように声を上げて、起きあがった。
セシル先生も医者も驚《おどろ》いてヴィクトリカの姿《すがた》をみつめた。ヴィクトリカは羽毛布団をすっぽりかぶったままで、布団のお化けのような様子でゆっくりと移動《いどう》し始めた。そうっとベッドを降《お》りて、部屋を横切り、となりの部屋へ進んでいく。
セシル先生と老医者は顔を見合わせた。セシル先生がうなずいてみせた。
そして、そうっと片足を出した。
ヴィクトリカはその足につまずいて、べたっと転んだ。
転んだ瞬間《しゅんかん》に「――ぐじゃっじゃ!」大きなくしゃみをした。
「いまよ!」
セシル先生が叫ぶ。
と、布団から飛び出したヴィクトリカの小さな顔が、苦痛《くつう》に歪《ゆが》んだ。緑色の瞳《ひとみ》が大きく見開かれ、信じられないというような顔をしてゆっくりと振《ふ》り返った。
転んだ拍子《ひょうし》に布団から飛び出した細い腕《うで》を、誰かにつかまれていた。その向こうに、勝ち誇《ほこ》ったような笑顔《えがお》を浮かべる医者の顔があった。腕には注射器が刺《さ》さっていた。ヴィクトリカの顔がくしゃくしゃに歪んだ。目尻《めじり》からぽろぽろっと真珠《しんじゅ》色の涙《なみだ》がこぼれた。
「うっ……?」
一度大きく息を吸《す》い込むと、ヴィクトリカは、この世のものとも思われない、おそろしくて悲しげな悲鳴を上げた。
「覚えてろ。セシルめ、あの医者め。なにがこれで熱が下がるだ。痛い。痛いよ……」
ヴィクトリカはぽろぽろと泣きながら、時折またくしゃみをしながら、ぽてぽてと歩いてとなりの部屋に向かった。医者は鞄《かばん》を片手《かたて》に意気|揚々《ようよう》と帰ってしまい、セシル先生もくすくす笑いしながら、授業《じゅぎょう》の時間だからと出ていった。ヴィクトリカは一人で、じんじんと痺《しび》れるような注射《ちゅうしゃ》の痛《いた》みが残る腕をさすり、さすり、歩いていた。
ようやくとなりの部屋について、電話の前に立った。ヴィクトリカは子供《こども》のように泣きじゃくりながら、手の甲《こう》で何度も涙を拭《ふ》いた。しゃくりあげながら受話器に手を伸《の》ばす。
震《ふる》える小さな手で受話器を耳に当てると……。
あわてて何ごとかわめく一弥《かずや》の声が聞こえてきた。
『ヴィクトリカ? 出た? ヴィクトリカー!! あのね、たいへんなんだ。落ちついて話すから聞いてくれよ。もしもし? 聞こえてる? ヴィクトリカー!』
「…………ばか!」
ヴィクトリカは八つ当たりした。一弥が絶句《ぜっく》し、その後、猛烈《もうれつ》に怒《おこ》ってなにごとか抗議《こうぎ》しているのが聞こえてきたが……。
風が吹きつけるような轟音《ごうおん》と、受話器がなにかにぶち当たったような音。続いて聞き覚えのない子供のような声で、
『十二時……』
なにごとかつぶやく声。そして一弥の叫び声が……。
『うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!』
――プツッ!
おかしな叫び声が響《ひび》いた後、電話はとつぜん切れた。
ヴィクトリカはきょとんとして受話器をみつめていたが、やがてほっぺたをむくむくっとふくらませた。……怒ったのだ。
「君はいったいなんの用だったのだ、久城! わたしがどんな犠牲《ぎせい》を払《はら》ってここまでやってきたと思っているのだ! 君のせいで注射までされて、痛くて、それでもここまできて君からの電話に出たのに! うっ……」
ヴィクトリカは寂しそうに肩《かた》を落とすと、ぽてぽてと歩いてまたベッドルームに戻《もど》った。床《ゆか》に落ちた羽毛布団を震える手で拾うと、ふわふわして軽いその布団を、まるでずいぶんと重量のあるものだというように一生|懸命《けんめい》抱《かか》え上げ、ベッドの上になんとかして戻した。そしてふう、と息をつくと……。
さっきよりもさらに赤い顔をして、ふぅ、ふぅ、と熱い息をして、ベッドの上にばたっと倒《たお》れ込んだ。
やがて、ヴィクトリカの苦しそうな息が、穏《おだ》やかで規則《きそく》的な寝息《ねいき》に変わっていった。
ベッドルームはまた静寂《せいじゃく》にのみ満たされていった……。
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第四章 アナスタシア
1
「ばかー!? ばかは君だろ、ヴィクトリカ! だってぼくはまだ、君にばかにされるような間抜《まぬ》けなことは、一言も言ってないんだからね。だいたい君はいつも失礼だよ。今日こそ君に言ってやるけど……べつに、距離《きょり》が離《はな》れてて電話だからいつになく強気になってるわけじゃないよ? とにかくヴィクトリカ、君、ぼくに対するその態度《たいど》を今後、改め、ない、と…………もしもし? ヴィクトリカ!? 聞いてる?」
一弥《かずや》が受話器に向かってさまざまな主張《しゅちょう》をしている、そのとき……。
――石畳《いしだたみ》を蹴《け》る馬の蹄《ひづめ》の音が響き渡《わた》った。
振《ふ》り向くと、驚《おどろ》くほどのスピードで角を曲がった辻馬車《つじばしゃ》が、こちらに近づいていた。歩道に乗り上げ、歩いていた婦人《ふじん》たちが悲鳴を上げて逃《に》げまどった。
馬車の中から、青白い細い腕《うで》が伸《の》びてきた。皮膚《ひふ》だけでなく、爪《つめ》まで暗い紫色《むらさきいろ》で血色が悪く、死人のような不気味な腕だった。一弥に向かって伸びてくる。
――生暖《なまあたた》かい風が吹《ふ》いた。
浮浪児《ふろうじ》がびっくりしたような顔のままで、不気味な腕に絡《から》み取られた一弥の顔と時計|塔《とう》を見比《みくら》べて、つぶやいた。
「……十二時五十一分!」
「うわあぁぁぁぁぁぁぁ!」
一弥は悲鳴を上げながら辻馬車に掴《つか》まり、そのままスピードを上げる馬車の中に連れ込《こ》まれた。おそろしい力でひきずられ、路上の、たったいままで一緒《いっしょ》にいた浮浪児の黒く汚《よご》れた顔がどんどん遠のいていく。
一弥は叫《さけ》び声を上げて抵抗《ていこう》したが、青い腕はおそろしい力で彼をつかみ、離そうとしなかった。辻馬車がスピードを上げた。とても飛び降《お》りて逃げることなどできない。一弥は青い腕をふりほどいて、座席《ざせき》の壁《かべ》にしたたかに頭を打ちながらも、腕の持ち主を睨《にら》みつけた。
しかし、青い腕の持ち主の顔に……。
一弥は思わず声を上げた。
「君………………ッ?」
青白い腕は釣《つ》り糸が巻《ま》き取られるように持ち主のもとにすごい勢《いきお》いで飛び戻《もど》っていった。持ち主は座席の隅《すみ》に縮《ちぢ》こまっていた。
青い腕はぶるぶると激《はげ》しく震《ふる》えていた。石畳を蹴ってすごいスピードで飛ばす馬車の揺れよりも激しく、少女が痩《や》せた体を震わせていた。
病人服を思わせる白いシンプルなボックス型ワンピースは、薄汚《うすよご》れていた。しゃがみ込んだ彼女の痩せてごつごつした膝小僧《ひざこぞう》が、馬車の壁で揺れる洋燈《ランプ》に青白く照らされていた。ワンピースの胸元《むなもと》から、哀《あわ》れなほどに痩せて細い骨《ほね》の浮《う》き出た胸板と、それとはアンバランスに感じられるほど豊《ゆた》かな胸《むね》のふくらみが覗《のぞ》いたり隠《かく》れたりを繰《く》り返した。
両耳を震える拳《こぶし》で隠し、ばさばさして乱《みだ》れた砂色《すないろ》の髪《かみ》で顔も半ば隠されている。髪のあいまから、色のない薄い唇《くちびる》が、ぽっかり空いた空洞《くうどう》のように大きく開かれていた。
ひゅうっと音がして、少女が息を吸《す》い込んだ。
そして……。
「――きゃああああああああああ!」
空気を震わすほどの悲鳴を上げ始めた。甲高《かんだか》く動物的な声。髪が揺れて、口を押《お》さえる青白い手のひらの上に、少女の見開かれた瞳《ひとみ》が見えた。
濃《こ》い紫色の瞳――。
乳《ちち》を一滴《いってき》落としたように白濁《はくだく》する、その瞳――。
すがるような、悲しげな、潤《うる》んだ瞳――。
「君…………さっき箱の中にいた……?」
少女は顔を上げた。一弥を見ると大きな紫色の瞳を見開いて、短く叫んだ。
「――悪魔《あくま》が、悪魔がいる!」
馬車はスピードを落とし、石畳にゆっくり蹄の音を響かせながらどこかへ向かっていた。
一弥は戸惑《とまど》い、ガタガタ震える少女を落ちつかせて、
「……君、どうしてさっき箱の中にいたの? いつもはどこにいるの? それに、ぼくが助けに行ったときは消えていたけど……」
「こ、こわい……!」
少女は頭を抱《かか》えてつぶやいた。激しく首を振って、息も荒《あら》く、
「こわい。こわい……!」
顔を上げて一弥のほうに手を伸ばしてきた。
頬《ほお》に触《ふ》れられる。その手のひらがあまりに冷たく湿《しめ》っていたので、一弥は短く叫び声を上げた。それは生きている人間のものにしては冷えすぎていた。馬車の中の空気もまたどんどん気温を下げている。ほんの一瞬《いっしゅん》触れただけで、体の芯《しん》まで冷え切ってしまうようだ……。
「君、名前は……?」
「名前、名前……あなたは?」
「ぼくは久城《くじょう》。久城一弥。君は……?」
「わたしは……」
と……。
少女が首をぐるぐると激しく回し始めた。関節がどうなっているのか心配になるほど激しく、首はいまにも遠心力に負けてどこかに飛んでいってしまいそうに見えた。ぱさついた砂色の髪が、冷えた空気の中に舞《ま》い上がった。一弥は驚《おどろ》いて少女から少し離《はな》れた。
しかし、やがて少女はようやく少し落ちついたらしく、かすかに笑顔《えがお》のようなものを浮かべた。
[#挿絵(img/03_167.jpg)入る]
「わたし、アナスタシア」
「……アナスタシア?」
アナスタシアは笑顔でうなずいた。その場にはそぐわない無邪気《むじゃき》なしぐさだった。一弥の頬に不自然なほど近く顔を寄《よ》せた。アナスタシアの肌《はだ》は氷のように冷たく、乾《かわ》いていた。とまどう一弥の頬に自分の頬をすりつけるようにして、片言《かたこと》のフランス語で、
「わたし、悪魔の、生け贄《にえ》に、なる、ところ……」
アナスタシアは笑顔のままで、ぐったりと座席に崩《くず》れ落ちた。一弥があわてて助け起こす。体のどこも冷え切っているようで、彼女のごつごつと痩せた体に触れた一弥の手のひらは、じんじん痺《しび》れて感じるほどに冷えた。一弥は、
(言葉がうまく通じてないのかな……? おかしなことを言ってるけど……。悪魔がどうのって……)
困《こま》り果てながら、アナスタシアをなんとか座《すわ》らせた。アナスタシアは瞳を閉《と》じて震えていたが、ゆっくりと瞳を開けると一弥の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「わたし、〈ジャンタン〉にいた」
「……そうだよ。君は〈ジャンタン〉の裏廊下《うらろうか》で、箱の中に入っていたんだよ」
「わたしたち、監禁《かんきん》されてた」
「……ええっ!?」
「ほかの子も一緒《いっしょ》だった。〈ジャンタン〉の秘密《ひみつ》の部屋。広い。鍵《かぎ》がかけられていて、逃《に》げられなかった。頭が二つある鷲《わし》がいた」
「鷲……? えっ?」
「部屋には窓《まど》があった。窓からソヴュールの王宮が見えた。王宮は素敵《すてき》。きらきらしてて、素敵。だけど怖《こわ》いところだから、わたし、逃げた。人がきたから、あの箱に隠れた」
一弥は頭を抱えた。あの〈ジャンタン〉の前にいるおかしな老女の言葉が蘇《よみがえ》る。
〈わたしと娘《むすめ》は観光客だった。二人であのデパートに入ったんだ。だけど、だけど出てこなかったんだよ……!〉
アブリルから聞いた怪談《かいだん》にも、デパートで消えてしまう人の話があった。それからあのおかしな浮浪児《ふろうじ》もまた、〈ジャンタン〉に入ったきり出てこない客の話をしていた……。
そしてソヴレムで頻発《ひんぱつ》する、〈闇《やみ》に消える者たち〉の事件《じけん》――。
一弥はアナスタシアの片言の言葉に戸惑いながらも、真剣《しんけん》な表情《ひょうじょう》になり、彼女の細い両肩《りょうかた》に手をおいて強く聞いた。
「アナスタシア、君、監禁されていたっていうのはほんとだね? じゃ、いまも誰《だれ》かが〈ジャンタン〉から出てこれなくなっているのかい? だとしたら、ぼくたちは警察《けいさつ》に届《とど》けなくちゃいけないよ。さっきは信じてもらえなかったけど、君がいればきっと警部も……」
「悪魔《あくま》がいるから、逃げられない」
アナスタシアは白濁《はくだく》した紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》を見開いて、ぱさついた砂色《すないろ》の髪《かみ》をかきあげて、
「悪魔がきて儀式《ぎしき》をする。そのために監禁《かんきん》してる」
「アナスタシア……わかるように話して。ね? フランス語で話すのがむずかしいのはわかるけど……」
「悪魔の儀式! 悪魔! 悪魔の儀式!」
アナスタシアは苛立《いらだ》ったように拳《こぶし》を固め、一弥の胸《むね》を叩《たた》いて繰《く》り返した。一弥は困って、「なんのことだよ!」
「わからない。おかしな儀式。わたしたちは生け贄《にえ》。生け贄を囲んで、悪魔たちがきて、へんな呪文《じゅもん》をたくさん唱える。こうやって手を上げて……」
アナスタシアは両手を上げて振《ふ》り回してみせた。瞳から涙《なみだ》が流れ落ちて汚《よご》れた青白い頬を濡《ぬ》らしていく。
「悪魔は悪魔としか話さない。わたしたちをじろじろ見る。わたしたちは一人ずつ、どこかに消える。消えた人には二度と逢《あ》えない。悪魔に殺されてしまうから。棺《ひつぎ》が戻《もど》ってくる。消えた人の死体を入れた、冷たい棺だけが……。だから……!」
一弥は戸惑《とまど》った。自分の手には負えない気がし始めた。
(とにかく警視庁《けいしちょう》に連れていって、アナスタシアを保護《ほご》してもらおう……!)
一弥は御者席に通じる小窓を開けた。御者に向かって、ソヴュール警視庁まで行ってほしいと告げた。
馬車は徐々《じょじょ》にスピードを落とし、警視庁のある街角で停《と》まると二人を降《お》ろした。一弥は代金を払《はら》うと、ふらつくアナスタシアを支《ささ》えて歩きだした。
「アナスタシア、もう大丈夫《だいじょうぶ》だよ。警察にきたからね。落ちついて、ちゃんと事情を話すんだよ」
「う、ん……」
アナスタシアはうなずいた。瞬《まばた》きすると、白濁《はくだく》した紫色の瞳からしみだすように涙がにじんだ。
2
そのころグレヴィール・ド・ブロワ警部は――
ソヴュール警視庁の会議室で刑事《けいじ》たちに取り囲まれていた。
大戦のどさくさでソヴュール王室から消えた美術品《びじゅつひん》のリストに、ここ数年、国内外で流通している、ロシアのロマノフ王朝が残した宝《たから》や、植民地から密輸《みつゆ》される盗品《とうひん》などのリスト、ブローカーのリスト、それに、金貨を積んで盗品を買いあさる好事家《こうずか》のリスト……。
ブロワ警部は尖《とが》った頭を抱《かか》えて、それらのリストと睨《にら》めっこしていた。膝《ひざ》の上には高価《こうか》なビスクドールが乗せられていて、警部が神経質《しんけいしつ》そうに膝を揺するたびにいまにも床《ゆか》に落ちそうに揺れていた。
刑事たちは固唾《かたず》をのんでブロワ警部の様子を見守っていた。名警部との誉《ほま》れを聞いて期待しているのだが……その実ブロワ警部は、となりの会議室で侃々諤々《かんかんがくがく》、べつの刑事たちが騒《さわ》いでいる事件についての会話が気になって仕方ないのだった。
となりの会議室では警視|総監《そうかん》シニョレー氏が、イギリスで蔓延《はびこ》るゾロアスター教の秘密《ひみつ》集会や、インドの邪悪《じゃあく》な女神《めがみ》カーリーを崇《あが》める人々が起こした殺人事件、フランスで増《ふ》えているアフリカの呪術《じゅじゅつ》愛好家などについて述《の》べていた。
植民地から戻ってきた人々が、異国《いこく》の文化を密《ひそ》かに本国で流し始め、浸透《しんとう》していく……。
ソヴュールでも悪魔|崇拝《すうはい》の儀式を行う人々の姿《すがた》が目撃《もくげき》され続けており、警視庁では捜査《そうさ》が続けられている……。
ブロワ警部がそのおそろしげな話を、パイプをくゆらしてフンフンと聞いていると、会議室とびらの扉がノックされた。全員、顔を上げる。
若《わか》い刑事が小声で何ごとかささやいた。ブロワ警部は顔をしかめ、立ち上がった。
「いったい何の騒ぎだね、久城くん。邪魔をするなと言ったばかりだと、いうの、に……」
一弥が待つ小部屋に入ったブロワ警部は、一弥のとなりにぐったりと座《すわ》るやつれた少女をみつけ、目をぱちくりとした。
「……誰だね?」
「彼女の話を聞いてください、警部」
「だから、誰?」
「アナスタシアです。ぼくが〈ジャンタン〉の箱の中でみつけた子です。あの後、自分で〈ジャンタン〉を抜《ぬ》け出してきたんです」
「……また〈ジャンタン〉か。わたしはいまそれどころではないのだよ」
「彼女が言うには……」
そのときドアが開いて、シニョレー氏が顔を出した。一弥は話を続けた。
「……自分以外にもたくさんの人が閉《と》じこめられているそうです。警部、確《たし》かソヴレムではたくさんの失踪者《しっそうしゃ》が出ているんですよね? 〈闇《やみ》に消える者たち〉の事件です。警部はそれを、都市の闇に飲み込まれたと言っていたけれど……もしかしたらその闇が開けている口には、名前があるのかもしれません。〈ジャンタン〉という、ね……」
「いい加減《かげん》にしたまえ!」
シニョレー氏が遠慮《えんりょ》がちに口をはさんだ。
「グレヴィール、この子の話を少し聞いてもいいかね」
一弥は警部《けいぶ》の顔を見た。警部は人形をいじりながら、仕方ない、というようにうなずいた。一弥はアナスタシアを促《うなが》した。
アナスタシアは宝石《ほうせき》のような紫色《むらさきいろ》の瞳《ひとみ》を見開き、片言《かたこと》の言葉で語りだした――。
アナスタシアはロシアからの移民《いみん》だった。裕福《ゆうふく》な貴族《きぞく》の娘《むすめ》だったが、一九一七年に起こったロシア革命《かくめい》によって国を追われ、ロシアで父が、続いて逃《のが》れてきた西ヨーロッパの地で母が死んだ。一人になったアナスタシアはソヴュールにやってきた。遠い親類がいるはずだったが、言葉も片言しか通じないためなかなか会えず、そして……。
「夜になって、呆然《ぼうぜん》と街に立ち尽《つ》くしてた。そしたらいつのまにか〈ジャンタン〉の前にいた。ショーウインドウにきれいなドレスを着たマネキンがあって、ああ、きれい、と思って見上げてたの。あんまりきれいだったから、悲しくて、泣きそうになった。そしたら若い店員さんが出てきて、こう言ったの。『いらっしゃいよ。あなたにも着せてあげるわ』って。だけどデパートはお金を使って物を買うところだから、だけどわたしにはお金がないから、尻込《しりご》みしたの。すると店員さんは笑って、こう言った。『試着室で着てみるだけよ。ただ試着室に入るだけ。お金はいらないわ』って。……おかしいって気づくべきだったのかも。だけどわたしはふらふらと入っていって、きれいなドレスを受け取って、試着室に入れられたの。ドアが閉《し》まったら、鏡が開いたの。鏡のほうもドアだっ の。わたしは鏡の中に連れ去られて、そのまま目隠《めかく》しされて、べつの部屋に連れていかれた。気づいたら、同じような人たちがたくさんいて、泣いてた。それで、それから、わたしたちは……」
アナスタシアの声が震《ふる》えた。
「それきり、帰れなくなった。ずっと鏡の国に……」
試着室と言う言葉に、一弥は息を呑《の》んだ。〈ジャンタン〉の前にいた老女の話にも、アブリルの怪談《かいだん》にも必ず試着室≠ェ出てきたのだ……。
一弥はつぶやいた。
「〈ジャンタン〉の試着室にはなにかがあるんです。そしてあのビルの中に、失踪した人々が隠されている場所がある。理由はわからないけど……」
アナスタシアは立ち上がった。急に大きく息を吸《す》い、ぶるぶると首を振《ふ》って叫《さけ》びだした。
「悪魔《あくま》がいる。悪魔がいる。たくさんの人が、悪魔に喰《く》われて、消えた。〈ジャンタン〉には悪魔がいる……! 悪魔の、儀式《ぎしき》が……」
涙《なみだ》があふれて、声も嗚咽《おえつ》に変わっていった。ブロワ警部は怪訝《けげん》な顔をして、アナスタシアの顔をみつめていた。シニョレー氏の顔は真剣《しんけん》なものだ。
「悪魔の儀式の後、ずっといっしょで、励《はげ》まし合っていた女の子が消えた。それきり戻《もど》ってこなかった。そして……その晩、棺《ひつぎ》に入れられて部屋に戻ってきた。どんな姿《すがた》になってしまったのか、包帯できつく巻《ま》かれて隠されていて、名前を呼んでも返事はなくて、そっと触《さわ》ったら、もう冷たくなってた。もう、死んじゃってた……。ついさっきまでいっしょに励まし合っていたのに……! 悪魔はあの子になにをしたの? どうして……? なんのためにわたしたちを……? だから、わたしは逃げた。あの部屋から逃げて、そして……」
一度大きく息を吸うと、ガクリと首を落として倒《たお》れた。
シニョレー氏があわてて廊下《ろうか》に出ると、若《わか》い刑事《けいじ》に、医者を呼ぶように伝えた。ブロワ警部は顔をしかめ、
「わたしは美術品《びじゅつひん》の事件に戻るぞ。久城くん、君はちょっとここで反省していたまえ」
「ど、どうしてですか!? どうして兄妹《きょうだい》そろってやたらとぼくに反省をうながすんですか。断固《だんこ》抗議《こうぎ》する。ぼくは反省しなきゃいけないことなんてやってませんからね。ちょっ……警部? どこに行くんですか?」
「だから、自分の事件の捜査《そうさ》だよ。この娘の様子は明らかにおかしいだろう。これはおかしな狂言《きょうげん》なのではないかね? 彼女の言葉が本当だという証拠《しょうこ》はどこにもない。……ともかく、君に付き合うのはこれで終わりだ。それに君、反省は成長の萌芽《ほうが》だよ」
「その台詞《せりふ》、あなたにだけは言われたくないですよ!」
怒《おこ》る一弥にはかまわず、ブロワ警部は部屋を出ていく。一弥は後を追い、刑事たちがたくさん控《ひか》えている会議室までついていくと、
「〈闇《やみ》に消える者たち〉はソヴレムのどこかでつぎつぎに姿を消した。その舞台《ぶたい》はきっと〈ジャンタン〉にちがいありません。〈ジャンタン〉に入ったまま出てこなかった若い女性や、子供《こども》たち……」
ブロワ警部が振り向いた。
「しかし君、彼女たちが実際《じっさい》に〈ジャンタン〉で姿を消したのだと証明できるかね?」
一弥は立ち尽くした。
刑事たちの視線《しせん》が集まっている。できはしまいとタカをくくるような視線に思えた。一弥は挑《いど》むように、
「……できます」
会議室はどよめいた。一弥は自分の言葉に自分で驚《おどろ》いたが、
「ぼくはいまから一人の子供を連れてきます。警部、そのあいだに、ソヴレムで行方《ゆくえ》不明になった人たちの写真を集めてください。それから……念のために関係ない人の写真も混《ま》ぜてください。すぐ戻ってきます!」
一弥は会議室を走り出ると、廊下を駆《か》け、警視庁《けいしちょう》のビルを飛び出した。
背後《はいご》からブロワ警部の「く、久城くん……!?」と戸惑《とまど》うような声が追いかけてきた……。
〈ジャンタン〉の前にある大通りは、夕刻《ゆうこく》になってからのほうが客は多いらしく、ひっきりなしに通り過《す》ぎる人々の足音が歩道に響《ひび》いていた。
一弥は辺りをきょろきょろ見回した。探《さが》し人の姿《すがた》がなかなか見当たらないので困《こま》っていたが、やがて思い出すと、排水溝《はいすいこう》のある暗がりに顔を入れて、
「おーい、君!」
「……なんだ。間抜《まぬ》けなチャイニーズか」
つまらなそうにつぶやく声が返ってきた。一弥はほっとして、
「君、君にちょっと協力してほしいんだけど……」
「……紙をくれるのか?」
一弥はブロワ警部の顔を思い出して、うなずいた。
「たくさんあげるよ」
「なんの協力だ?」
浮浪児《ふろうじ》が姿を現《あらわ》した。真っ黒に汚《よご》れた顔に、輝《かがや》く青い瞳《ひとみ》。煤《すす》に汚《よご》れてもとの色が判別《はんべつ》できない髪《かみ》をがしがしかきながら、一弥を見上げる。
「君がぼくに話してくれたことさ。〈ジャンタン〉に入ったきり出てこないお客さんが、月に二、三人はいるって言ってただろ? そのことをもう少し詳《くわ》しく話してほしいんだ」
「……どうしてだ?」
「〈ジャンタン〉でなにかおそろしいことが起こっていると思うんだ。ぼくが出会った女の子が、助けてくれって……悪魔《あくま》の儀式《ぎしき》をやってて、みんな殺されるって訴《うった》えてるんだよ……」
「悪魔ぁ?」
浮浪児はあきれたように鼻を鳴らした。一弥はうなずいて、
「彼女はそう言ってるんだよ。とにかく、いまから一緒《いっしょ》に警視庁に……」
「警視庁!?」
浮浪児は途端《とたん》にきびすを返して排水溝の奥《おく》に隠れようとした。一弥はあわてて彼の腕《うで》を引っ張った。一緒にずるずる引きずられそうになるので、首に腕を回して、
「頼《たの》むよ! 君、人の命がかかってるんだ。それにもしかしたら大きな犯罪《はんざい》も!」
「警察はいやだ!」
「大丈夫《だいじょうぶ》だってば!」
「いやだぁ!」
「君……」
「俺《おれ》だって、俺だって……」
浮浪児はわめいた。悲しそうな声だった。
「俺だって警察に話した。出てこない女の子がいるから気になって、巡査《じゅんさ》に話した。そしたら、でたらめ言うなって警棒《けいぼう》で殴《なぐ》られたんだ。すごく痛《いた》かったんだ。それに俺も、俺も……」
浮浪児はしゃくりあげた。力が弱まる。一弥が覗《のぞ》き込むと、その小さな男の子は青い瞳に涙《なみだ》を浮かべて一弥を睨《にら》んでいた。汚れた顔に涙が二筋《ふたすじ》こぼれ落ちて、下に沈《しず》んでいたきめの細かい真っ白な皮膚《ひふ》が覗いた。汚れた手の甲《こう》で涙をぬぐう。
「俺も……昔、逃げだしてきた女の子に、助けてって言われたことがある。だけどどうしようもなかった。追ってきた男が、女の子を捕《つか》まえちゃったんだ。俺、警察に行った。だけど玄関《げんかん》の扉《とびら》を開けてもらえなかった。俺の拳《こぶし》で叩《たた》いたとこ、黒く汚れたからって、タオルでぴかぴかに拭いてた。俺の話は聞いてもらえなかったんだ。それきりあの女の子は見てない。俺と同じぐらいの歳《とし》の、小さな女の子だった……」
浮浪児は泣きじゃくった。
「誰《だれ》も聞いてくれないんだ……」
「聞くよ。ぼくは聞くよ。それに、警視庁の人も今度は聞いてくれるよ。ぼくの知り合いの警部がいるんだ。君を連れていくって約束した。いま、写真をたくさん用意してもらってる。君に危害《きがい》がくわえられないように、ぼくがずっとそばにいるから……」
浮浪児は泣きじゃくって、急に子供みたいに一弥の首にかじりついた。一弥が汚れた頭を撫《な》でると、浮浪児はますます大きく泣いた。
道行く人たちが、東洋人の少年と泣きじゃくる小さな浮浪児をちらりと一瞥《いちべつ》しては急いで通り過ぎていく。
「君、名前は?」
「……おまえは?」
「ぼくは久城。久城一弥」
「俺……ルイジ」
浮浪児がそっと名前を名乗った。
それから二人は手をつないで歩道を歩きだした。日が少しずつかたむいてきて、暑さがやわらぎ始めた……。
ルイジが馬車を「乗ったことない」とこわがるので、一弥は彼の手を引きながら警視庁のビルまで歩くことにした。二人が早足で進む舗道《ほどう》には、急ぎ足の人々があっちからこっちからどんどん行きすぎていった。
シャルル・ド・ジレ駅に近い大通り沿《ぞ》いのとあるビルの前で、一弥は足を止めた。そこはピラミッドを連想させる奇妙《きみょう》な角錐《かくすい》型をした、異国風の黄色い建物だった。どうやら劇場《げきじょう》らしく、開け放された広い玄関と切符《きっぷ》売りの窓口《まどぐち》があり、華《はな》やかで猥雑《わいざつ》な出し物の大きなポスターが貼《は》られていた。
足を止めた一弥を、ルイジが不思議そうに見上げた。
「おまえ、こういうの好きなのか?」
「あ、いや……。そうじゃなくて……」
一弥はポスターを指差した。
それは〈ファンタスマゴリア〉と銘打《めいう》たれた出し物のポスターで、踊《おど》る骸骨《がいこつ》や、浮遊《ふゆう》する美女や、自分の首を手に持つ首なし男などがユーモラスに描《えが》かれていた。〈人体|切断《せつだん》!〉〈チェスドール!〉〈瞬間移動《しゅんかんいどう》!〉そして、中央に描かれている黒い燕尾服《えんびふく》に真っ赤な髪《かみ》の男の横には……。
〈今世紀最大の魔術師《まじゅつし》ブライアン・ロスコー ついに当劇場に登場!〉
――そう書かれていた。
(ブライアン・ロスコーだって……!?)
一弥は考え込んだ。
偶然《ぐうぜん》だろうか、それとも同じ人物なのだろうか……? 確《たし》かに聞き覚えのあるその名前……。
一弥の脳裏《のうり》に、学園に残してきた不思議な友達、ヴィクトリカの姿がまた浮かんだ。一弥は謎《なぞ》に包まれた彼女の出生についてや、塔《とう》に閉《と》じこめられて育てられたという過去《かこ》について考え始めた。
ブライアン・ロスコーと言えば……。
ヴィクトリカが大切にしていたコルデリア・ギャロの写真――。ヴィクトリカに顔立ちはそっくりだが、艶《あで》やかで大人びた化粧《けしょう》を施《ほどこ》した母、コルデリア。彼女は〈灰色狼《はいいろおおかみ》〉と呼《よ》ばれる東欧の民の末裔《まつえい》が住む山奥の隠れ里〈名もなき村〉の出身者だった。無実の罪《つみ》で村を追われ、都会に出た彼女はやがて踊り子となったが、彼女の周りではさまざまな不思議な事件《じけん》が頻発《ひんぱつ》したと言われていた。やがて、灰色狼の血を一族に取り入れたいと望むブロワ侯爵《こうしゃく》によって彼女はヴィクトリカ・ド・ブロワを産み落としたが、〈名もなき村〉での罪が露見《ろけん》し、侯爵家を追われた。残された娘ヴィクトリカは塔に閉じこめられて育った。そしていまは、聖《せい》マルグリット学園の生徒となったが、侯爵家と学園側の取り決めで学園に軟禁《なんきん》されているようなものなのだ。だからヴィクトリカは外の世界のことをあまりにも知らず、たとえ学園を抜け出せたとしても、一弥がいなければ右も左もまるでわからない……。
母コルデリアは、その後の世界大戦でなんらかの役割《やくわり》を担《にな》ったと言われているが、一弥はそれについては知らない。また、コルデリアが生まれ育った〈名もなき村〉には、世界大戦直前にブライアン・ロスコーと名乗る謎の青年が現れ、コルデリアの家の床下《ゆかした》から、彼女が隠していたなにかをみつけだして持ち去ったらしい、とわかっている。
しかし、ブライアン・ロスコーが何者なのか、持ち出されたものがなんなのかについてはなにもわかっていない……。
「……おい、このポスターがどうしたんだよ?」
ルイジの声に、一弥は我《われ》に返った。
(きっと、たまたま同じ名前だっていうだけだよな。きっとそうだ。それに……)
いまはそんな考え事をしているときではない、と気づいて、
「ごめんよ。行こう」
ルイジの手を引っ張って、また歩きだそうとする。
そのとき……。
劇場の前に大きな馬車が停まった。劇場から若《わか》い男たちが走り出てきて、優雅《ゆうが》な仕草で一斉《いっせい》に一礼する。
と、馬車からひらりと飛び降《お》りてきたのは、燃《も》えるような赤毛の男だった。
猫《ねこ》のような緑色の瞳《ひとみ》に、波打つ炎《ほのお》の色の髪。古代の彫刻《ちょうこく》を思わせる、彫《ほ》りの深い鮮《あざ》やかな美貌《びぼう》だった。だがしかし、一見して気性《きしょう》の荒《あら》さが見える激《はげ》しい容貌でもあった。
彼こそがポスターに描かれたブライアン・ロスコー本人であると、一弥は気づいた。舗道に着地したブライアンは片手《かたて》を伸《の》ばし、馬車を指差す。男たちは無言で馬車に乗り込むと、四人がかりで妙《みょう》なものをそうっと抱《かか》えて、降《お》りてきた。
それは四角い箱で、上部に腕《うで》つきの人形がついていた。人形は箱の上に置かれたチェス板《ばん》に細い両腕を伸ばしていた。ちょうどルイジぐらいの子供と同じ大きさで、トルコ風のターバンを巻《ま》いた髭男《ひげおとこ》の人形だった。
ルイジが興奮《こうふん》したようにつぶやいた。
「おい、チェスドールだ! 本物を見たのは初めてだ!」
「えっ?」
一弥が聞き返すと、
「すごいんだ。箱の中が空っぽなのは客に確認《かくにん》させるし、だいいち、大人が入れるほどの大きさじゃないんだ。なのに人形が勝手に動いて、客とチェスの対決をするんだ。しかもびっくりするぐらい強くて、誰も勝てないんだよ。チェスドールは悪魔みたいに頭がいいんだ。いますごく人気の出し物だよ。ほら、あの男……ブライアン・ロスコーの得意な芸の一つだ」
「へぇ……。彼にはほかにも芸があるのかい?」
「あとは、そうだな、瞬間移動だ……。だけどあいつ、おかしいんだ。トリックじゃなくて、本当にあっちとこっちに同時|存在《そんざい》してるとしか思えないときが何回かあったんだ。〈ジャンタン〉に入って、出てきていないのに、数分後にまた入っていったり。道路のあっちとこっちにほぼ同時に姿を現したり……。俺、あいつは普通《ふつう》の奇術師のふりをしてるけど、本当は、本物の魔術師だと思う。……行こうぜ、久城一弥。俺、チェスドールは気になるけど、あいつのことは気味が悪いよ」
「う、うん……」
一弥は馬車の前を通り過ぎた。そのときブライアンがとつぜん顎《あご》を少しだけ動かし、一弥をじっとみつめた。
猫のような瞳――。
燃えるような鮮やかな髪――。
油断《ゆだん》のないその表情に、一弥はなぜかぞっとして、目がそらせなくなった。
ブライアン・ロスコーはふいににやりとし、チェスドールを運んでいる男たちを振り返って、「レディをそっと運びたまえよ、君たち」
男たちはその言葉に思わず、ユーモラスな顔に造《つく》られている髭男の人形をみつめて、それから一斉に笑った。
「今朝とつぜん、レディは風邪《かぜ》を引いてしまったんだ」
男たちがまた笑う。
一弥はルイジとともに劇場から遠ざかっていった。そのとき、誰かがくしゃみをした。
「――ぐじゃ!」
男たちは――、
互《たが》いに顔を見合わせた。みんな、俺じゃない、というように首を振ってみせる。それから目線がゆっくりとチェスドールに集まっていく。
チェスドールは軽く、それにとても小さく、人間が入れるような大きさではもちろんない。
気味悪そうに押し黙《だま》った男たちに、ブライアン・ロスコーはにやにやと楽しそうに笑ってみせた。炎のような赤い髪が風に揺《ゆ》れ、不吉《ふきつ》に舞《ま》い上がる。
「だから言っただろう? レディはお風邪をお召しだと。できうる限《かぎ》り優《やさ》しく、そっと運びたまえ」
男たちは怯《おび》えたような表情《ひょうじょう》を浮《う》かべ、ゆっくりとチェスドールを運び始めた。劇場の中に消えていくと、ブライアンはにやにや笑いを引っ込め、暗い瞳でつっと振り返った。そして、遠ざかっていく一弥とルイジの後ろ姿をみつめた。
雑踏《ざっとう》はすぐに、彼らの姿を飲み込んでいった。
3
一弥はルイジの手を引いて警視庁《けいしちょう》に戻《もど》った。
もといた会議室に飛び込むと、刑事たちは驚《おどろ》いて一斉に立ち上がった。
そして鼻を押さえたり、腰《こし》を浮かせたりして、あまりにも汚《よご》れたルイジの姿を凝視《ぎょうし》した。一弥は堂々とルイジを引っ張って会議室の真ん中に立った。
ブロワ警部もびっくりして、
「久城くん、それはなんだね……?」
「証言《しょうげん》してもらいます」
一弥の声に、刑事たちは顔を見合わせた。一弥は続けて、
「この子はルイジって言います。もう何年も〈ジャンタン〉の前にいて、たくさんのことを見てきたんです。それに驚くほど記憶力《きおくりょく》がいい。彼が証言してくれます」
「……久城くん、君ね」
「ルイジ、この部屋に刑事《けいじ》は何人いる?」
「…………四二人」
ルイジがつまらなそうに言った。
警部がきょとんとして一弥をみつめ返している。一弥が目でうながすと、警部は仕方なく刑事たちの数を数え始めた。しかし、ばらばらな場所にいる彼らを数えるのは存外にむずかしく、また動いたり、ドアを開けて入ってきたりしようとするので、警部は腹《はら》を立て、
「並《なら》べ! 点呼《てんこ》を取るぞ、君たち」
刑事たちは顔を見合わせながらも並び始めた。「一」「二」「三……」点呼を取り始め、最後の数人になった辺りから、彼らはざわめき始めた。
最後の一人が小声でつぶやいた。
「……四二」
刑事たちはルイジの姿を遠巻《とおま》きにみつめ始めた。一弥はうなずいて、
「頭いいでしょ、この子?」
「……頭のいい子供《こども》は、苦手だ」
ブロワ警部が小声でつぶやいた。
――ルイジを椅子《いす》に座《すわ》らせて、つぎつぎに少女たちの写真を見せていくことになった。最初の数|枚《まい》を、ルイジは首を振って乱暴《らんぼう》に追いやった。
「知らない。こんな女の子たち、見たことない」
ブロワ警部が責《せ》めるように一弥を見る。
と、ルイジが一人の女性の写真を指差して、
「この人は知ってるぜ? 週に三回は〈ジャンタン〉にくる。たくさん買い物して出ていく。いまもピンピンしてるだろ? 昨日も見たぜ」
刑事の一人が頭を抱《かか》えた。小声で「そうなんだよ……!」とつぶやいている。
一弥がきょとんとしていると、ブロワ警部が耳打ちした。
「まぎれこませるダミーの写真が足りなくてね、奥《おく》さんや娘《むすめ》の写真を持ち歩いている刑事たちから無理やり没収《ぼっしゅう》したのだ。あの写真は、やつの奥さんらしいな。浪費家《ろうひか》の妻《つま》を持つとたいへんだな……」
「あ、なるほど……」
ルイジがつぎの写真に目を留《と》めると、急に大きく息を吸《す》い込《こ》んだ。
全員が彼に注目した。
ルイジは瞳《ひとみ》を半開きにして、夢見《ゆめみ》るように唇《くちびる》も少し開いた。それから大きく息を吸い……。
「去年だ! 去年の冬! 二月十二日! 午後三時五分!〈ジャンタン〉に入った! 終わりだ、それで終わり! それきり出てこなかった!」
刑事の一人が写真と資料《しりょう》を見比《みくら》べた。はっきりとわかるぐらい顔色が変わった。ブロワ警部に資料を手渡《てわた》す。警部の顔もさっと赤くなった。
「こっちだ! こっちの女の人!」
ルイジがまた叫《さけ》び出す。
「今年の春! 五月三日! 夜七時十二分! 終わりだ! 出てこなかった!」
つぎの資料が渡される。と……。
「一昨年の夏! 八月三十日! 午前十一時二分! 終わりだ!」
ルイジの半開きの瞳を、刑事たちはおそろしいものを見るように遠巻きにみつめていた。つぎつぎに資料が出され、目を通したものは絶句《ぜっく》する。
一弥も立ち上がり、そっと資料を覗《のぞ》き込んだ。
ルイジが選んだ写真の女性《じょせい》はすべて、〈闇《やみ》に消える者たち〉だった。ソヴレムのどこかでとつぜん姿を消し、いまもまだみつかっていない女性たち……。彼女たちが闇に消えた℃條と、ルイジの記憶にある日時がぴったりと一致した。
ブロワ警部はうめいた。
「それでは本当に、〈闇に消える者たち〉は〈ジャンタン〉の中に消えていたということか……?」
会議室は異様《いよう》な沈黙《ちんもく》に包まれていた。
「だが……いったいどういうことだ? なぜ人々は〈ジャンタン〉で消えるのか? 目的はなんだ? わからない……。どういうことだ?」
硬い声でつぶやいた。
いつもならここで、警部は聖《せい》マルグリット学園にやってきて図書館のいちばん上まで上がり、一弥に話しかけるふりをして小さな名|探偵《たんてい》、ヴィクトリカの知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠利用するところだ。しかしいまはそういうわけにはいかない。なぜならここは村から遠く離れた大都会で、ヴィクトリカには、会え、ない……。
しかし一弥にとってもこれは解《と》かねばならない謎だった。とはいえ一弥にはいくら頭をひねってもどうしたらいいかわからなかった。
「……そうだ!」
一弥がつぶやいた。ブロワ警部が振り向いて小声で、
「なんだね、久城くん?」
「ぼく、さっきヴィクトリカに電話したんです。ちゃんと話せなかったけど……。警部《けいぶ》、ヴィクトリカにいままでのことを説明して、知恵を借りましょう。そうしたらきっと、いまのぼくたちにはわかっていないことがはっきりするに違《ちが》いないし……」
「……いやだ」
ブロワ警部はなぜか即答《そくとう》した。一弥は戸惑《とまど》って、
「ど、どうしてですか?」
「……犠牲《ぎせい》が大きすぎるからだ」
一弥は首をかしげて聞き返した。
「犠牲……?」
ブロワ警部は答えなかった。
――そのまま刻々《こっこく》と時間は過ぎていった。
会議室の隅《すみ》で、一弥は大きくため息をついた。それからもう一度、
「警部、ヴィクトリカに連絡《れんらく》しましょう。彼女ならきっと……」
「いやだったら、いやなんだ!」
警部が叫《さけ》んだ。その子供《こども》のような言いように一弥は驚《おどろ》いて、
「どうしてそんなにいやがるんですか? それに、犠牲がどうのって言うけれど、いったいなんのことなんです? 警部……」
「…………」
警部は子供のように頬《ほお》を膨《ふく》らませて黙《だま》っていたが、やがて渋々《しぶしぶ》口を開いた。
「……どうしてもあれを頼《たよ》りたいというのなら、久城くん、君から頼《たの》みたまえ。わたしの名はくれぐれも出さないでほしいのだ」
「警部!」
一弥は怒《おこ》りだした。いつものパターンだと思うと猛烈《もうれつ》に腹《はら》が立った。ブロワ警部は妹の力を頼るくせに、事件《じけん》が解決《かいけつ》すると頼ってなどいないと言い張《は》り、自分の手柄《てがら》にしてしまうのだ。それに、いつもなぜかおかしいぐらいヴィクトリカをこわがる。
「筋《すじ》を通さないとだめです。警部からちゃんとヴィクトリカに頼んでください」
「そりゃ君はいくら頼んだって平気だろう。しかしわたしはまったく平気ではないのだ」
「……へ?」
「久城くん、君はわかっていないのだ。あれは……その、要するに、灰色狼《はいいろおおかみ》なのだ。おそろしい生き物なのだ。君はまだなにもわかっていないのだよ。気楽に助けを求めたりすれば、その代償《だいしょう》はおそろしく高くつくということを、わたしは身をもって学んだのだ。わたしだけではない。ブロワ家の人間は残らず、だ」
「ヴィクトリカがおそろしい生き物?」
一弥はちょっとだけ笑ってしまった。ヴィクトリカの、一弥の足に躓《つまず》いてびたーんと転んだところや、デコピンで半泣きになった顔や、めずらしそうに辺りをきょろきょろ見回していた様子などを思い出したのだ。
確《たし》かにヴィクトリカはすごく頭がいいし、性格《せいかく》はすこぶる複雑《ふくざつ》だけれど……。
「警部、おおげさですよ……」
「君はまだなにもわかっていないのだよ」
警部は繰り返した。一弥は笑って、
「それって、例の悪魔《あくま》的な要求≠チてやつでしょう? 助けを求めたときに代償を求められるからって……。そんなの、かわいいものじゃないですか」
「かわいくない!」
「け、警部……。だって、めずらしいお菓子《かし》を持ってこいとか、不思議な事件を探《さが》してこいとか、せいぜいそんなものでしょう? 確かにヴィクトリカは、ちょっとだけ意地悪をするときもあるけど……」
「お菓子? 事件? 久城くん……君はばかか?」
「ばか!?」
警部は大きくため息をついた。それから自分の頭を指差し、真剣《しんけん》な顔で、
「君、どうしてまたわたしが、こんなヘアスタイルをしていると思うかね?」
一弥は絶句した。
じっとブロワ警部の、ドリルの先のようにねじりながらとがらせ、整髪料《せいはつりょう》でぎちぎちに固めた金髪《きんぱつ》をみつめる。それから、ゆっくりとつぶやいた。
「ええと……好きでやってるんだと思ってました」
「そ、そんなわけないだろう! 君、正気かね?」
「ヴィクトリカは遺伝《いでん》だって言ってましたけど……」
「くっ! あのチビ、よりによってそんなことを!」
ブロワ警部は子供のように地団駄《じだんだ》を踏《ふ》んだ。その大人げない、負けず嫌《ぎら》いな感じのする仕草は、ある意味では奇妙にヴィクトリカと似通《にかよ》っていた。一弥はブロワ警部が地団駄を踏んで悔《くや》しがり、聞き取れない小声で悪態《あくたい》をつく様《さま》を、
(ああ、やっぱりこの二人は兄妹《きょうだい》なのかもしれないなぁ……!)
あきれながら見守った。
やがてブロワ警部は少し落ち着きを取り戻した。
「五年前のことだ。あれがまだブロワ家の塔《とう》にいたときのことだ。わたしはときどき様子を見に行った。不気味な灰色狼とはいえ、血を分けた妹だ。気になってな」
一弥は、昨日ヴィクトリカが魔法の指輪≠見せてくれたとき、兄グレヴィール・ド・ブロワについて語っていたことを思い出した。
〈塔に閉じこめられたわたしのことを、なぜかグレヴィールが毎日見にきては黙って観察していて、なかなかに気味が悪かった……〉
「黙ってじっと見てるから、当時の兄貴《あにき》はすこぶる気味が悪かったって、つい先日ヴィクトリカがボロクソに言ってましたよ」
「くっ! 気味が悪いのはあれのほうだ! なにせおそろしく頭がいいのだ! なんにでも無関心で、家族のことにも興味《きょうみ》を持たず、超然《ちょうぜん》としていた。おそろしかった。だが……」
ブロワ警部が大きくため息をついた。
「……わたしはある日、塔の上にいるあのおそろしい生き物の力を借りるはめになってしまった。……とあるご婦人《ふじん》のためにだ」
ブロワ警部の顔が少しだけ赤くなった。
「どうしても解決したい事件だった。そのご婦人は無実の罪《つみ》に問われそうになっていたのだ。わたしは意を決して、薄暗《うすぐら》く不気味な塔に上った。そしてあれの力を借りたのだ。灰色狼の頭脳《ずのう》はやはりおそろしいものだった。あれによって事件はたちどころに解決したが……」
ブロワ警部は頭のドリルを指差した。
「その代償に、わたしはこのヘアスタイルを続けることになった」
「……へんだって知ってたんですか?」
「こんなの、へんに決まっているだろう! でも、約束しちゃったのだ!」
ブロワ警部は叫んだ。
それから大きくため息をつくと、震《ふる》える手で懐《ふところ》からパイプを取りだした。火をつけて一服吸い、煙混《けむりま》じりの白いため息をつくと、
「……それだけではない。わたしは二年前にも一度あれの助けを借りたのだよ。そのときはもう、あれは聖マルグリット学園にいたのだがね。わたしは警部になったばかりで、どうしても手柄を立てたかったのだ。もちろん事件はあれの力でたちどころに解決したが、しかし……それ以来、わたしの二人の部下は手を繋《つな》ぎ続けているというわけだ」
「……仲がいいのかと思ってました」
「まあ、悪くはないだろうがね。もともと幼《おさな》なじみらしいしな。しかし、手を繋いで歩くほどではあるまい。だって、もう大人だよ、君?」
一弥は頭を抱《かか》えた。
ようやく、ブロワ警部が先日、一弥に向かって言い放った「君が受けている恩恵《おんけい》は、悪徳|高利貸《こうりが》しからざくざくお金をもらうような奇特《きとく》なものなのだ」という言葉の意味がわかりかけてきた気がした。同時に、ヴィクトリカの思いつくいやがらせが、本人が悪魔的な要求を突きつけてやるのだ≠ニ威張《いば》る割《わり》には、ずいぶん子供っぽいように感じられてあきれる気持ちになった。
しかし、それならばヴィクトリカはなぜ、いちばん最初に一弥と出会ったとき、殺人の嫌疑《けんぎ》をかけられて絶体絶命だった一弥を助けてくれたのだろうか?
確《たし》かに、めずらしい食べ物を持ってこいとは言われたが、それは一弥をそう困《こま》らせる申し出ではなかったし、なによりそれはまったく、悪魔的ではない要求だった。ヴィクトリカが小さな手で力いっぱい振《ふ》り回す悪意が、そこにはぽっかりと抜け落ちていたのだ。
もしかするとヴィクトリカは自分に対して、驚《おどろ》くほど優《やさ》しく接《せつ》してくれているのではないか……?
もちろん、あくまでヴィクトリカにしては、だが……。
しかし、学園を出る前にもらった手紙に、一言『ばか』としか書いてなかったことや、さっき電話をしたとき、助けてくれと頼んでいるのに、やはり「ばか!」としか言われなかったことを思い出すと、一弥は次第《しだい》にむかむか腹《はら》が立ってきた。
「退屈《たいくつ》だ、事件を起こして死ぬほど困りたまえ、ってさんざん駄々《だだ》をこねてたくせに、いざとなると、機嫌《きげん》が悪くて相手をしてくれないなんて……!」
「……なんの話だね、久城くん?」
「い、いえ、なんでも……」
一弥はため息をついた。
――会議室では刑事たちが小声でなにか囁《ささや》き合い、こちらをみつめている。苛立《いらだ》ちが満ちてきた。
一弥は立ち上がり、手近にいた刑事の一人に、
「あの……電話を貸《か》してもらえますか? ええと、その、ちょっと友達に、電話を……」
警部が小声でなにやら言うのを、一弥が、
「わかりました。彼女にはぼくから頼みます。でも、こういうことはこれっきりです」
「……君からだぞ。久城くん」
「しつこいなぁ、警部。男に二言はありませんってば。警部にはあるみたいですけどね」
一弥はつぶやくと、受話器を握《にぎ》りしめ、交換手《こうかんしゅ》に聖マルグリット学園の名を告げた。
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ベッドルーム―Bedroom 4―
ソヴレムの喧噪《けんそう》も遠く離《はな》れた山間《やまあい》の村には届《とど》かず、山脈の麓《ふもと》に広大な敷地《しきち》を誇《ほこ》る聖《せい》マルグリット学園には、静けさが満ち満ちていた。
コの字型をした大|校舎《こうしゃ》の一階にある事務室《じむしつ》は、豪奢《ごうしゃ》な造《つく》りの学園の中ではもっとも質素《しっそ》な、そして実務《じつむ》的な部屋と言えた。机《つくえ》や椅子《いす》、壁紙《かべがみ》などに装飾《そうしょく》が少なく、全体的に濃い茶色に沈《しず》んでいる。
真ん中の大きな机に、若《わか》い小柄《こがら》な女性《じょせい》が向かっていた。セシル先生だ。さっきから試験答案の採点《さいてん》をしているらしく、生徒が書いた答えを読んでは感心したり、あらまあなどとつぶやいたりを繰り返していた。
「それにしても……やってもやってもぜんぜん終わらないわ。どうしてかしら……? もしかしたら、夜中に小人さんがやってきてざざーっと増《ふ》やしてるのかも」
セシル先生が顔を上げてため息をついたとき、壁際《かべぎわ》で電話が鳴り始めた。あわてて壁に手を伸《の》ばし、受話器を取る。
交換手がソヴレムのソヴュール警視庁《けいしちょう》からだと告げた。セシル先生は一瞬《いっしゅん》だけびっくりしたが、電話の向こうから一弥《かずや》のいつも通りの声が聞こえると、
「なんだ。久城《くじょう》くんだったの……?」
とほっとしたようにつぶやいた。そして、
「もしもし、久城くん? またヴィクトリカさんの声が聞きたくなったの?」
『…………わかりました。それでいいです』
いかにも素直《すなお》じゃない態度《たいど》で、一弥が答える声が聞こえてきた。セシル先生は知らず笑顔《えがお》になった。
『そうです。半日もヴィクトリカと離れていたので、とても声が聞きたいんです。もう別にそういうことでいいので、急いでいるので、電話を代わってください』
「わかったわ。ちょっと待ってね」
なにを怒ってるのかしら? と首をかしげながらも、セシル先生はうなずいた。
学園の敷地《しきち》の隅《すみ》にある巨大《きょだい》な迷路花壇《めいろかだん》――。
色とりどりの小さな花が咲《さ》き誇《ほこ》る花壇にも薄闇《うすやみ》が迫《せま》り、白やピンクや黄色の花びらが少し不安そうに風に揺《ゆ》れていた。
その奥《おく》――
迷路の真ん中にある小さな家の、これまた小さなベッドルームで、ヴィクトリカは……天蓋《てんがい》付きベッドの真ん中に羽毛布団《うもうぶとん》のおだんごをつくり、中にこもってぴくりとも動かなかった。
ドアをそうっと開けて顔を出したセシル先生は、お団子|状《じょう》になった羽毛布団をじろじろ見ていたが、やがて小声で「これかしら?」とつぶやくと、首をひねりながらも、人差し指でつんつんっとつついた。
しばらくして、布団の奥から、
「……誰《だれ》だ?」
無意味に偉《えら》そうな口を聞く、小さなしわがれ声が返ってきた。
「また電話よ、ヴィクトリカさん」
「……なんだ、セシルか」
布団の奥でヴィクトリカは身じろぎした。
――さきほどの痛《いた》い注射《ちゅうしゃ》の後、ベッドに戻ったところで、ヴィクトリカの記憶《きおく》はぷっつり切れていた。注射が効《き》いて眠《ねむ》ってしまったのかもしれないし、ショックのあまり気絶してしまったのかもしれなかった。熱のせいかおかしな夢《ゆめ》を見ていたような気もするが、思い出せない。
ヴィクトリカはそっと目を開けたが、視界はまだ熱でぼんやりと滲《にじ》んでいた。頭も痛くて、考えがまとまらない。
ぼんやりしたまま、だがヴィクトリカは怒《いか》りを込めて、言った。
「セシルとは絶交だ」
「……あら、そう。だけど久城くんとは仲良しでしょう?」
「あれはわたしの、その……愚《おろ》かなる下僕《げぼく》だ」
「あら、ま。そんなこと言ったら久城くん、怒《おこ》るわよ。怒ったらたいへんよ?」
「そうなのだ……。あいつが怒ると、すごく……うるさいのだ…………」
ヴィクトリカはそうつぶやきながら、ゆっくりと起きあがった。
布団からもこっと顔を出すと、こちらを見ていたセシル先生の顔に驚《おどろ》きの表情が浮かんだ。ヴィクトリカは顔にかかる長い金髪《きんぱつ》を小さな両手でかきあげて、寝汗《ねあせ》でべたべたしているレースの寝間着《ねまき》に顔をしかめて、それからセシル先生に、
「……なんだ?」
「顔、真っ赤」
「…………」
「注射、効かなかったのかしら? 困ったわ……」
「電話、電話、電話……」
ゆっくりと起きあがって歩きだそうとしたヴィクトリカは、ふらついてすてーんと尻餅《しりもち》をついた。床に落っこちた小さな丸いお尻に、ぱしんと叩《たた》かれたような痛みが走った。ヴィクトリカは泣きそうになった。歯を食いしばって涙をこらえ、立ち上がる。
またふらついた。セシル先生があわててヴィクトリカをベッドに戻そうとした。
「ヴィクトリカさん、ベッドに寝てて。久城くんにはわたしから断《ことわ》っておくから」
「む……」
ヴィクトリカは顔をしかめた。
いかにも強情《ごうじょう》な様子で、
「電話には出る」
「ダメよ、ヴィクトリカさん……」
「出るったら、出るのだ!」
ヴィクトリカはふらつきながら、大きな枕《まくら》を抱《だ》きしめて、となりの部屋に入っていった……。
『ヴィクトリカー!? 出た? 君ね、電話に出るの、遅《おそ》いよ。どうせ分厚《ぶあつ》いラテン語の本かなんか読んでて、マカロンを二つも三つも頬張《ほおば》ってて、久城って誰だ? なんて言ってたんだろ? もしもし? もしもしー?』
苦労してようやく電話に出たヴィクトリカは、しかし、いきなり電話を切りたくなった。
(久城め……。いつしゃべっても、感じの悪いやつだ。しかも電話となるとまた格別《かくべつ》だな……)
そう言ってやりたいが、高熱のせいで気が遠くなっていて、うまく毒づけない。ヴィクトリカがなにか言おうと口を開く前に、一弥がまた話しだした。
『こっちは大変なんだよ。とにかく大変なんだ。デパートから人が消えてて、女の子が悪魔がどうのって騒《さわ》いだあげく倒《たお》れちゃって、デパートの部屋がまるで変わっちゃってさ。でね……』
「久城……」
『なに?』
「なんだかわからないが、切るぞ」
受話器を置こうとすると、一弥の絶叫《ぜっきょう》が聞こえてきた。ヴィクトリカは顔をしかめ、仕方なくもう一度、熱で真っ赤に染《そ》まった小さな耳に受話器を当てた。
『切らないで! ヴィクトリカ、頼《たよ》りにしてる!』
「……しなくていい」
『君が友達思いの優《やさ》しい子だって信じてるよ』
「……嘘をつくな」
ヴィクトリカは震《ふる》える両手で重い受話器を握《にぎ》っていたが、足もふらつき、腕もだるくなってきたので、そのまま床にぺたんと座《すわ》りこんだ。女の子座りをして、壁《かべ》にふらふらもたれて、息も絶《た》え絶《だ》えに、
「……説明したまえ」
『聞いてくれるの?』
「なにしろ、退屈《たいくつ》、だから、な……。おもしろい事件《じけん》なのだろうね?」
『うん。ぼくにとっては不思議で、それにすごく困《こま》ってるんだよ……。だけどヴィクトリカにとってどうなのかはわからない。いったいどんなことであれば、君みたいな子の退屈を覆《くつがえ》すことができるのかは、ぼくっていう人間にはまだわからないんだよ。……ごめんよ』
「謝《あやま》らなくていい。とにかく……最初から落ちついて説明……したまえ……。さっきの説明は、さっぱり、わからん……」
電話の向こうで、一弥が大きく息を吸《す》ったのがわかった。ヴィクトリカは壁にもたれて、はぁ、はぁ、と熱い息をしながら、受話器から聞こえてくる一弥の声に一生|懸命《けんめい》耳を澄《す》ませた。
そして一弥が説明し始めた――。
学園でクラスメートの少女から聞いた、ソヴュール王国の首都ソヴレムを舞台《ぶたい》にした怪談《かいだん》。デパートの試着室に入った令嬢《れいじょう》が生首だけになっていた話や、迷子《まいご》を心配してついていったまま消えてしまった人。そして路上生活者のふりをした殺人鬼《さつじんき》が、服の下にたくさんの子供《こども》の死体をつり下げて歩いている話……。
そして、ソヴレムに向かう列車の中でグレヴィール・ド・ブロワ警部と出会ったこと。ブロワ警部から、実際にソヴレムでは数年前から〈闇《やみ》に消える者たち〉という事件が多発していることを聞いた。怪談は事実を元につくられているのだろうか――。
ブロワ警部がソヴュール警視庁から、戦時中に消えた美術品《びじゅつひん》の密売《みつばい》ルートを探《さぐ》る仕事を依頼《いらい》されていたこと。そしてソヴレムに着いた一弥は、デパート〈ジャンタン〉の中で迷い、不思議な部屋に入り込んだこと。そして不思議な少女に助けを求められたが、警官を連れて戻ったときには、部屋は驚くほど変わっていて、少女もマネキンに変わり、しかも店員たちは誰も一弥を見ていないと言い張ったこと。
再会《さいかい》した少女は、自分は〈ジャンタン〉の試着室の鏡の中から連れ去られ、鏡の国に行き、ほかの人々もみな悪魔の儀式《ぎしき》で生け贄《にえ》にされるのだと怯《おび》えていたこと……。
「――ぐじゃ!」
熱心に聞いていたヴィクトリカは、緑の瞳《ひとみ》を細めながらくしゃみをした。
すると、電話の向こうで一弥がびっくりしたように、
『いまの、なに?』
「ぐじゃ! ぐじゃ! ぐじゃっじゃ!」
『ヴィクトリカ、もしかしてそれ、くしゃみなのかい? あはは。おかしなくしゃみだなぁ!』
――がちゃん!
ヴィクトリカは電話を叩き切った。
ふぅふぅと息をついて、どんどん上がってくる熱に朦朧《もうろう》としていると、またセシル先生が顔を出した。
「ヴィクトリカさん、また久城くんから電話よ」
「むっ……?」
「すごーく怒《おこ》ってたわよ。喧嘩《けんか》したの?」
「……久城のくせに、怒るとは」
ヴィクトリカははぁはぁと熱い息をしながら、震える手を伸ばして受話器を取った。そのまままた床にしゃがみ込む。寒気がして知らず震えてしまう。
「……なんだね?」
『いきなり切るなよ! ヴィクトリカのばか!』
「むっ!?」
一弥がすごく怒っている様子なのに、ヴィクトリカは少しだけひるんだ。
『いいかい、ヴィクトリカ。今度電話を切ったら絶交するからね』
「…………」
ヴィクトリカは泣きそうな顔になった。震える声で小さく、
「絶交は、いやだ……」
『そりゃあ、ぼくだって! ……あれ?』
ようやく一弥が異変《いへん》に気づいた。気味悪そうに小声でささやく。
『どうしたの? 君ったら、ヴィクトリカ・ド・ブロワのくせにやけに弱気じゃないか? もしかして相当、調子が悪いのかい? そういや朝、風邪《かぜ》を引いてたね。熱、少し上がった?』
「……上がったとも」
ヴィクトリカは怒りを抑《おさ》えた低い声でつぶやいた。一弥はしばらく、彼の生まれ育った国|独特《どくとく》のわけのわからない風邪|対策《たいさく》についてしゃべっていたが、やがて、
『それでね、後はええと、ソヴュールにある野菜だったらポロネギでいいや、それを鼻の穴《あな》に二本、突《つ》っ込《こ》むんだよ。あとおへそにね、木の実でつくった酸《す》っぱいピクルスを一個、張《は》るんだ。あと……聞いてる、ヴィクトリカ? あ、もしかしてぜんぜん興味《きょうみ》なかった? え……注射したの? それならもう大丈夫《だいじょうぶ》だね。だけど痛かっただろ? 君、ちょっとデコピンしただけで子供みたいに痛がるんだもんなぁ! ……もしもし? えーと、怒ってない?』
「君なんか、死ぬほど困ってたって、絶対に助けてやらん」
『……ヴィクトリカ、君ねぇ。だけど君、こういうときに役に立たなかったら、ただの意地悪っ子だよ?』
ヴィクトリカは一弥の暴言《ぼうげん》にびっくりしたように、緑色の瞳《ひとみ》を大きく見開いた。瞳がどんどん潤《うる》んでいく。小さな両手で受話器をギュッとつかみ、震える声で、
「ち、ちがう……。わたしは意地悪っ子じゃない、ぞ……」
『じゃ、助けてよ!』
「…………!?」
一弥はいつになく強気で、ちょっと意地悪だった。熱に朦朧としながらもヴィクトリカは、愚《おろ》かなる下僕《げぼく》のはずの一弥がこんな生意気な態度《たいど》なのは、もしかしたらこれが電話|越《ご》しの会話で、遠く離れた場所にいるせいではないかと思い当たった。
熱が下がったら、そして一弥が学園に戻ってきたら、いったいどうやって痛めつけてやろうかと悪魔的に瞳を光らせながらも、ヴィクトリカは言った。
「久城――ペーパーウェイトを探《さが》したまえ」
電話の向こうで一弥が「……へ?」と聞き返した。
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第五章 〈ジャンタン〉の闇《やみ》
1
「ペーパーウェイト……?」
一弥《かずや》は聞き返した。
――さっきから一弥とヴィクトリカのやりとりをいらいらしながら聞いていたグレヴィール・ド・ブロワ警部《けいぶ》が、あわてて受話器に耳を近づけようとした。一弥の頬《ほお》にドリル頭の先が突《つ》き刺《さ》さり、一弥は悲鳴を上げた。
「痛《いた》いッ!」
『……なんの騒《さわ》ぎだね?』
「君のお兄さんが狂《くる》ったように近づいてくるんだよ! あっちいってくださいよ、もう!」
『……グレヴィールがいるのか』
ヴィクトリカの声がかすかに沈《しず》んだ。一弥が警部のほうを振《ふ》り向いた。警部は途端《とたん》に電話から離れてナイスポーズで立つと、わたしはいないよ、と言うように首を振った。
「……いるけど、いないって言ってほしいみたいだよ」
ブロワ警部が眉《まゆ》をきりきりつり上げた。一弥はかまわず、
「ここはブロワ警部に関係なく、ぼくの頼《たの》みとして聞いてほしいんだ……。もし本当に何者かが人々をさらっているんだったら、放ってはおけないよ……。もっともブロワ警部のほうは、ただ手柄《てがら》を立てたいだけだと思うけどね……どうやら、ソヴレムで手柄を立てたくてムキになってるみたいなんだ」
『なるほど、ジャクリーヌか……!』
ヴィクトリカは謎《なぞ》の言葉をつぶやいた。一弥は「ジャクリーヌ?」と聞き返しながら、ブロワ警部のほうを振り返った。警部はその言葉が聞こえた途端、あわてて一弥に背《せ》を向けた。ジャクリーヌ≠ニ言えば、ブロワ警部がシャルル・ド・ジレ駅のホームに降《お》り立ったとき、ご婦人《ふじん》をみつけて人違《ひとちが》いをして叫《さけ》んだ名前だが……?
一弥の問いに、電話の向こうのヴィクトリカも答える様子はなかった。ヴィクトリカはどうやら、一弥が思っていたよりずっと風邪がひどいらしく、時折はぁはぁと苦しそうに息をしては、絞《しぼ》り出すように話している。
『ガラス製《せい》のペーパーウェイトがないかね?』
「ちょっと待って……」
一弥は会議室の中を見回した。書類の上に置かれた無骨《ぶこつ》なガラス製のペーパーウェイトをみつけると、
「あったよ」
『つかみたまえ』
「……つかんだよ?」
『振り上げたまえ』
「う、うん……。振り上げてみたよ?」
『床《ゆか》に落としたまえ』
一弥は沈黙《ちんもく》した。
『言われたとおりにやりたまえ……ぐじゃ!』
一弥は会議室の中を見回した。なにごとか、と固唾《かたず》をのんでみつめている刑事《けいじ》たちの顔を見てから、しかし仕方なく、ヴィクトリカの言うとおりに、握《にぎ》りしめたベーパーウェイトを床に落とした。
ガラスの塊《かたまり》はゆっくりと落下していった。
そして……
硬い床に叩《たた》きつけられた瞬間《しゅんかん》、甲高《かんだか》い音を立てて、粉々に、割《わ》れた。
一弥はしばらく割れたペーパーウェイトをみつめていた。それから、
「……割れたよ?」
『いい加減《かげん》気づきたまえ。中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才め。ごほっ……!』
ヴィクトリカがいらいらしたように毒づき始めた。一弥はあわてて、
「な、なんだよ?」
『君、君がどうして〈ジャンタン〉のやつらにばかされたかの答えが、たったいま出たのだよ。君が出ていった後、内装を変えて、口裏《くちうら》を合わせて、君なんか見ていないと言い張った理由が、これだ』
「…………」
『君はその部屋でたくさんのものを落とした。金属《きんぞく》の櫛《くし》、ブローチ、そしてガラス製《せい》のはずの〈青い薔薇《ばら》〉のペーパーウェイトだ。しかしペーパーウェイトは割れなかった。なぜだね?』
一弥の顔つきが変わった。
『……君が落とした〈青い薔薇〉は、ガラス製ではなかったからではないかね?』
「まさか……!」
『ガラスなら割れていたはずだ。しかしブルーダイヤモンドなら、割れない。君がその部屋で見たものは、ペーパーウェイトではなく……』
ヴィクトリカは消え入りそうな弱った声で、だがきっぱりと言った。
『大戦中にソヴュール王室の宝物庫《ほうもつこ》から盗《ぬす》まれた、本物の〈青い薔薇〉だったのだよ。おそらく、闇《やみ》に開く口〈ジャンタン〉こそが、グレヴィールが目の色を変えて探《さが》している、美術品《びじゅつひん》売買の舞台《ぶたい》でもあるのだ』
会議室のドアが開き、〈闇に消える者たち〉捜査担当《そうさたんとう》の刑事《けいじ》たちが入ってきた。最後に警視総監《けいしそうかん》であるシニョレー氏も入ってきて、黙《だま》ってブロワ警部をみつめた。
ブロワ警部は肩《かた》をいからせ、
「美術品売買と〈闇に消える者たち〉の事件は、ともに〈ジャンタン〉が舞台であると思われます」
警部は〈ジャンタン〉に踏《ふ》み込《こ》み、証拠《しょうこ》をみつけたい由《よし》を主張《しゅちょう》した。刑事たちからは賛成《さんせい》する声が少数上がったが、大半は疑問視《ぎもんし》する声と、オーナーであるガルニエ氏の社会的地位の高さを危惧《きぐ》する声だった。
ブロワ警部は強硬《きょうこう》に自説を繰《く》り返した。責任《せきにん》が取れるのか、との声に、
「失敗した場合は――わたしは職《しょく》を辞《じ》します」
硬い声でつぶやいた。
一弥はその横顔に浮《う》かぶ真剣《しんけん》そのものの表情に、おやっと思った。
――いままで、聖《せい》マルグリット学園のある村で起こった事件を捜査する姿《すがた》しか見たことがなかったが、ブロワ警部がここまで真剣な顔をしていたことはなかった。警部の横顔に、どうしてもソヴレムで手柄《てがら》を立てたいという焦燥《しょうそう》感が満ち満ちていることを、一弥は意外に思った。名門ブロワ侯爵家《こうしゃくけ》の嫡男《ちゃくなん》である警部は、趣味《しゅみ》が高じて警察の仕事をしているだけで、警視庁での出世に目の色を変えているわけではないはずなのだが……。
――最終的にシニョレー氏が許可《きょか》を出した。ソヴュール警視庁から〈ジャンタン〉への強制《きょうせい》捜査が決まった。
2
ソヴレムの乾《かわ》いた街に、夕刻《ゆうこく》が沈《しず》み込むようにゆっくりと迫《せま》ってきていた――。
警視庁|総勢《そうぜい》百名の警官たちが〈ジャンタン〉を取り囲み、その先頭をきるブロワ警部の顔には自信がみなぎっていた。
「……どういうことなのかね?」
応対《おうたい》に出た〈ジャンタン〉オーナーのガルニエ氏は、薄《うす》く微笑《ほほえ》みながらブロワ警部を見返した。それから傍《かたわ》らに立つ一弥に気づくと、おやっと片眉《かたまゆ》を上げて、
「今朝の……?」
「いえ、今朝のことではないのです」
警部は警視庁で発行され、警視総監シニョレー氏の判《はん》を押《お》されている書類を見せた。
「〈ジャンタン〉の捜査許可が出ています。入らせてもらいますよ」
「……いったいなんの捜査かね?」
「消えたお嬢《じょう》さんたちと、あなた方が持っているはずの〈青い薔薇《ばら》〉の捜査ですよ」
かすかに……ガルニエ氏の顔色が変わったように見えた。しかしつぎの瞬間《しゅんかん》、ガルニエ氏は肩《かた》を震《ふる》わせて笑い始めた。
「わははははははは!」
大きな笑い声に、ブロワ警部がびくりとした。ガルニエ氏の背後《はいご》で、店員たちもまた、彼に合わせるようにつぎつぎに笑いだした。
「わはははははは!」
「わはははははは!」
「わはははははは……!」
彼らの表情には意志《いし》がまったく感じられず、能面《のうめん》のように無表情《むひょうじょう》だった。
――一弥は目をそらした。
笑い声が警官たちを取り巻《ま》く中、警部を先頭に〈ジャンタン〉内部に突入《とつにゅう》した。
「あったか?」
「いえ……!」
「もっと探《さが》せ! 必ずあるはずだ!」
ブロワ警部と警官たちは怒鳴《どな》り声を掛《か》け合い、デパート内部を調べ続けていた。
一弥は警部に続いて、いちばん最初に自分が迷《まよ》い込んだ、ガラスケースがたくさんあった部屋に辿《たど》り着いた。
ガラスケースの中にはきらきらと華《はな》やかな商品が並《なら》んでいたが、どれも盗《ぬす》まれた美術品ではなく、また特に高価《こうか》なものではなかった。下の倉庫を調べている警官たちからも、なにもみつからないという報告《ほうこく》がきた。
美術品も消えた少女たちも、みつからない。
上の部屋にあるのは偽物《にせもの》のペーパーウェイトやアクセサリーで、下の倉庫にあるのはマネキンばかり……。
ブロワ警部がいらいらと歩き回り、
「そんなはずはない……!」
悲鳴のような叫《さけ》び声を上げた。ガラスケースを叩《たた》き、悔《くや》しそうに唇《くちびる》を噛《か》む。
それから、黙っている一弥に怒鳴るように激しく話しかけた。
「秘密《ひみつ》はデパート内部にあるはずだと思わないかね、久城くん。君がみつけた〈青い薔薇〉はデパートの一室――この部屋にあった。そして君が連れてきたロシア人少女アナスタシアも、自分たちはデパートの一室に閉じこめられていて、窓《まど》から王宮が見えたと話していた。それに、ルイジが小さな女の子に助けを求められたときも、その子はデパートの中から飛び出してきたのだったね? つまり……」
一度言葉を切る。そして悔しそうに、
「すべてはこの中にあるはずなのだ」
「……ええ」
一弥は床《ゆか》に膝《ひざ》をついて考え込んでいた。ブロワ警部が不思議そうに聞く。
「なにをしているのだね?」
「警部、ぼくが最初にこの部屋に入って本物の〈青い薔薇〉をみつけたとき、壁紙《かべがみ》は茶色で、床は黒と白の格子縞をしたタイルでした。そしてシャンデリアは花の形をしていた。シックな部屋だった。だけど警部と一緒《いっしょ》に戻《もど》ってきたとき、壁紙は金色に変《か》わり、シャンデリアの形も変わっていた。ガラスケースの中身もべつのものにすり替えられていた。そして床も赤い絨毯《じゅうたん》に変わっていた……。悪趣味なほど派手《はで》な部屋に変わっていたんだ……!」
「ああ……それがなにかね?」
一弥は黙って、床に敷《し》きつめられた赤い絨毯の端《はし》をつまむと、思い切り引っ張った。
警部が思わずため息をついた。
「……そうか」
絨毯の下から――
黒と白の格子縞のタイルが現《あらわ》れた。ひんやりと冷たく光っている。
「つまりこういうことです。ぼくたちはガルニエ氏にコケにされているんだ……!」
ゆっくりと立ち上がる。
一弥とブロワ警部はじっと顔を見合わせ、立ち尽《つ》くした。
――警官の叫び声が上がった。ブロワ警部とともに一弥も、〈ジャンタン〉三階にある高級婦人服売場に駆《か》け込んだ。
警官が取り囲み、調べているのは試着室の一つだった。
一弥の胸《むね》に、あのおかしな老女の声がよみがえる。
〈娘《むすめ》はドレスを買おうとしたんだ。わたしが買ってやるって言ったんだ。娘はドレスを持って一人で試着室に入ったんだよ。それきりいつまで待っても出てこなくて、ドアを開けたらいなかったんだ……誰《だれ》も、誰もいなかったんだ〉
警官の指差すほうを、警部とともに見る。
――試着室の扉《とびら》が開け放たれていた。三方を壁に囲まれ、奥の壁だけが鏡張りになっていた。その鏡がゆっくりと動いた。一弥は警部と顔を見合わせた。
〈それきりいつまで待っても出てこなくて……〉
鏡の向こうに、人が三、四人入ればいっぱいになる、粗末《そまつ》な小部屋があった。
〈ドアを開けたらいなかったんだ……〉
〈誰も、誰もいなかったんだ〉
それからまた、必死に訴えるアナスタシアの声も……。
〈試着室に入れられたの。ドアが閉《し》まったら、鏡が開いたの――〉
〈鏡の中に連れ去られて――〉
〈泣いてた――〉
〈ずっと鏡の国に――〉
一弥は知らず体が震《ふる》え出すのを感じた。
(鏡の国だ。この粗末な小部屋が、アナスタシアが訴《うった》えていた鏡の国なんだ……!)
だが、しかし……。
警官たちが小部屋の中を調べたが、なにもみつからなかった。ガルニエ氏が肩をすくめて、「そこは倉庫だ。普段《ふだん》はあまり使っていないがね」
「……しかし!」
一弥が叫ぶのを、ブロワ警部が遮《さえぎ》った。それから懐《ふところ》から懐中時計《かいちゅうどけい》を出し、ちらりと見た。焦《あせ》りの色がその横顔に浮《う》かんでいた。一弥も唇を噛んだ。
「久城くんの言いたいことはわかっている。確《たし》かに、試着室の奥に隠《かく》された部屋があった。デパートに入ったきり出てこなかった令嬢《れいじょう》たちは、ここから連れていかれたのかもしれない……。だが証拠《しょうこ》はない。なにもないのだ。これでは足りない……。ただの倉庫だと言われてしまえば我々《われわれ》には、どうすることもできない」
「しかし……!」
「どうして人々が消えるのか。彼らの動機もまた謎《なぞ》のままだ」
一弥は、アナスタシアの声を思い出した。
〈悪魔《あくま》がきて儀式《ぎしき》をする。そのために監禁《かんきん》してる〉
〈悪魔の儀式! 悪魔! 悪魔の儀式!〉
〈わたしたちは生け贄《にえ》。生け贄を囲んで、悪魔たちがきて、へんな呪文《じゅもん》をたくさん唱える。こうやって手を上げて……〉
一弥は首を振《ふ》った。ブロワ警部も悔しそうに唇を噛んでいる。
「アナスタシアは悪魔の儀式の生け贄だと……」
「まさか、そんなことが……。それに、久城くん。我々がみつけなければならないのは、王宮の宝物庫《ほうもつこ》から消えた美術品《びじゅつひん》だ。それからデパートから消えた令嬢たちだ。具体的な証拠だ。それはこのデパート内にあるはずなのだ。それをみつけなければ……」
警部はまた懐中時計をみつめた。一弥も覗き込む。時間は午後六時三十分を差していた。ガラス窓の向こうから、暮れかけた夕日が眩《まぶ》しく二人を照らし出した。
警官たちは途方《とほう》に暮《く》れた顔をして、ブロワ警部をみつめていた。ガルニエ氏と店員たちもまた遠巻《とおま》きにしていたが、彼らはにやにや笑いを張りつけたような顔をしていた。
「みつからなければ、このまま時間切れだ……」
ブロワ警部はまた悔しそうにつぶやいた。
一弥は大きくため息をついた。
――ガルニエ氏と店員たちが近づいてきた。ガルニエ氏が薄《うす》ら笑いを浮《う》かべて、
「君たち、そろそろあきらめてはどうだね? もう一時間にもなる。なにもみつけられないと思うがね? なにしろ〈ジャンタン〉には隠し部屋など最初からないのだよ」
「いや……」
ブロワ警部がなにか言いかけると、ガルニエ氏はとつぜん怒鳴《どな》りつけた。
「いい加減《かげん》にしろ! もう出ていきたまえ!」
一弥が進み出た。
「あの……電話を貸《か》してもらえますか?」
警部が小声でなにやら言うのを、一弥が、
「わかってます。彼女にはぼくから頼《たの》みます」
「ほんとだぞ、約束だぞ。久城くん」
こそこそ言い合う二人をガルニエ氏は不審そうに見ていたが、やがてうなずいた。
「電話ぐらい貸してやるが?」
「ありがとうございます」
一弥はうなずいた。
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ベッドルーム―Bedroom 5―
山間《やまあい》にひっそりと佇《たたず》む聖《せい》マルグリット学園の広大な敷地《しきち》にも、夕刻が少しずつ近づいてきて、橙色《だいだいいろ》をした眩しい日射《ひざ》しが薄く立ちこめていた。昼間のあいだは蒸《む》し暑く感じた空気も、ほどよく冷えて、気持ちのいい風が敷地《しきち》内の庭園を時折ゆっくりと吹《ふ》き抜《ぬ》けていった。
大|校舎《こうしゃ》の一階にある事務《じむ》室は静かだった。
壁際《かべぎわ》にセシル先生が立ち尽《つ》くしていた。大きな丸|眼鏡《めがね》の奥《おく》で、ぱっちりした瞳《ひとみ》が不安そうに沈《しず》んでいる。
セシル先生は壁にかかった電話機の前に立って、受話器を握《にぎ》りしめていた。
「ええ、ですから、それは……」
声は沈んでいて、その表情も苦い。
「確《たし》かにわたしたちの監督《かんとく》が甘《あま》かったのです。そこは重々に……」
窓の外から、楽しそうにおしゃべりしながら通り過ぎる生徒たちのざわめきが聞こえてきて、やがて通り過ぎていった。そろそろ門限《もんげん》が近い。学園のあちこちで思い思いに過ごしていた生徒たちも、それぞれの寮《りょう》に戻るところなのだろう……。
「……お願いです、ブロワ侯爵《こうしゃく》」
セシル先生は硬い声で言った。少し躊躇《ためら》ってから、後を続ける。
「あんなことはもう起こらないと約束します。門番を増員《ぞういん》しましたし、彼女本人にもよく言って聞かせました。それに、一緒《いっしょ》に出奔《しゅっぽん》した生徒はとても真面目《まじめ》な性格《せいかく》の子で……ヴィクトリカさんにぴったり付き添《そ》って、ちゃんと学園まで帰ってこさせましたし、もう二度とするなと言えば、本当に二度としない子です。信頼《しんらい》できる生徒です。はい……」
セシル先生はしばらく相手の声を聞いていたが、遮《さえぎ》って、
「もうしばらくわたしたちにお任《まか》せいただければ、と……。約束します。きちんと監督いたしますので……。そんな……修道院《しゅうどういん》なんて、あんまりです。絶対《ぜったい》、水に合いません。いまだって……いまだって、ヴィクトリカさんは人がたくさんいる教室には顔を出さないんです……。まだあまり人に慣《な》れていないんです。それなのに女性《じょせい》ばかりの禁欲《きんよく》的な集団《しゅうだん》生活なんて、無理だと……」
最後はため息|混《ま》じりだった。
セシル先生は何度か「お任せください……」と繰り返すと、電話を切った。受話器を置いて大きくため息をつき、しばらくうつむいていたが、とつぜんキッと顔を上げた。
怒《おこ》っている顔だ。瞳が見開かれ、大きな丸眼鏡が半分ほどずり落ちている。
「まったく……修道院なんて、いやなおじさん! 貴族《きぞく》のいやなおじさんが考えそうなことだわ。セシルは怒った!」
つぶやいて、右足を振り上げて手近な椅子《いす》の背を蹴飛《けと》ばそうとしたが、目測をあやまったのかちょっと届《とど》かず、スカッと空振りする。スカートがひるがえり、白いモスリンのペティコートと、同じくモスリンのドロワーズがふわあっと広がった。その瞬間《しゅんかん》にちょうど事務室に入ってきた老|教師《きょうし》が、眼鏡に手を当ててあきれたように、
「セシル、なにをやっているのだね?」
「へっ? あ、いや……なんでも……」
「さては君、一人で踊《おど》ってたんだろう?」
「い、いえ、いくらなんでも、そんなこと……」
セシル先生はおたおたと反論《はんろん》しようとしたが、椅子を蹴ろうとして空振りしていたとも言えずに困《こま》っていると、
「セシル、君もそろそろ落ちつきなさい。もう生徒ではないのだから。君はもう教師なんだからね」
「……わかってます!」
セシル先生はすねたように、老教師に背を向けた。
昼にきてもらった村の医者といい、庭園を任されている庭師といい、この口うるさい老教師といい……数年前まで聖マルグリット学園の生徒だったセシル先生の、しかもあまり優秀《ゆうしゅう》とは言えなかった生徒時代を知る人間は意外と多い。折りにつけて「しっかりしなさい」などと注意されることが多く、セシル先生はときどき、やりにくい職場《しょくば》だなあと思うのだった。
すねたようにふくれていると、目の前の電話が鳴り始めた。あわてて受話器を取ると、交換手《こうかんしゅ》がまたも、ソヴレムからの電話だと告げた。今度は〈ジャンタン〉というデパートからだった。セシル先生はちょっとあきれながらも、特にかわいがっている生徒である一弥の声が聞けたことに、ほっとした。知らずうれしそうな声になって、電話の向こうにいる男の子に向かって言った。
「もしもし、久城くん? 久城くんったら、そんなにもヴィクトリカさんの声が……」
『ち、ちがーう!』
電話の向こうから生真面目そうな少年の抗議《こうぎ》の声が聞こえてきた。
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第六章 アレキサンド・ライト
1
「それでね、ヴィクトリカ。あとちょっとっていうところで行き詰《づ》まってるんだよ。このままだとブロウ警部《けいぶ》はクビになっちゃうみたいだけど、それはこの際、どっちでもいいや。隠《かく》し部屋がどこにあるのかが、どうしても……」
『久城《くじょう》……』
電話の向こうで、ヴィクトリカが息も絶《た》え絶《だ》えに言った。
『君……よく、しゃべる男だなぁ』
「……そ、そう?」
『なんだか腹《はら》が立ってきた』
「ごごご、ごめん。静かにするよ」
『…………』
「…………」
『…………』
「………………」
『……………………』
「……ヴィクトリカ? 起きてる?」
『うるさい!』
「うわ! ご、ごめん……」
一弥はヴィクトリカに怒《おこ》られ、あわててあやまった。
うなだれて、じいっと待つ。
電話の向こうではヴィクトリカが、『む……』とか『うぅ……』とか、苦しそうな声を上げている。
やがてヴィクトリカがもそっと言った。
『久城……』
「はいはい、なんでしょう」
『ブルー・ジョンを用意したまえ』
「……えっ?」
一弥は聞き返した。
ブルー・ジョンとは、ヴィクトリカが子供《こども》の頃《ころ》にブロワ警部を脅《おど》すために使った蛍石《ほたるいし》の名前だが……。
ヴィクトリカはどうやら、一弥が思っていたよりずっと風邪《かぜ》がひどいらしく、時折はぁ、はぁ、と苦しそうに息をしては、絞《しぼ》り出すように話し始めた。
『さらわれた令嬢《れいじょう》や子供を隠《かく》す秘密《ひみつ》部屋が、もしあるとすればだね……はぁ、はぁ……それはソヴュール王宮前の広場がある方向の窓に面しているはず、なの、だ……』
「どうしてだい?」
『君に助けを求めた少女は、その……はぁ……窓から王宮が見えたと話していたのだろう?』「……そっか!」
『〈ジャンタン〉の王宮に面した窓すべてにブルー・ジョンの粉で印をつけるのだ。右から左に数字を書けばわかりやすいだろう。もうすぐ、午後七時、だ……』
「ん?」
『デパートの閉店《へいてん》時間だよ、君。閉店して明かりを落とせば、暗くなったデパートの窓すべてに、はあ、はあ……青い燐光《りんこう》による数字が浮《う》き出る。だが隠し部屋の窓だけは浮《う》き出ないのだ……。ただ一つ、数字の出ない部屋の左右の数字から、場所を突き止めることができる……』「そうか……!」
一弥は受話器から顔を離《はな》すと、ブロワ警部を呼んだ。小声でいまのアドバイスを告げると、警部はうなずき、警官たちに指示《しじ》を出すために歩きだした。
一弥は礼を言って電話を切ろうとしたが、ヴィクトリカはまだなにかをつぶやいていた。
『久城……。わたしは君から間接《かんせつ》的に、起こっている出来事を聞いたに過ぎない。だが……』
「なに、ヴィクトリカ?」
『うむ……』
「ねぇ……。アナスタシアがずっと話していた悪魔《あくま》の儀式《ぎしき》とか、悪魔の手先とか……。あと、頭が二つある鷲《わし》とか……。なんのことだったんだろう? どうやら最近では、植民地から入ってくる悪魔|崇拝《すうはい》やおかしな宗教儀式《しゅうきょうぎしき》が、ヨーロッパで密《ひそ》かに流行《はや》っているようだけど……」
『悪魔などいないよ、久城』
「うん、それはわかってるけど……」
『悪魔ではない。人間だよ……。君、彼女が見た双頭《そうとう》の鷲というのはだね……』
ヴィクトリカの声は熱に浮かされて弱々しくなっていった。一弥は心配になり、
「ヴィクトリカ、なんだか無理させちゃって、ごめんよ……。ちゃんとおみやげを持って帰るからさ……」
『君のおみやげは、わけがわからないへんなものだから、いらない』
「こらッ!」
『とにかく、悪魔ではないのだ。そうではないのだ。久城……』
ヴィクトリカの声は小さくなっていった。
『君、アレキサンド・ライトの指輪を覚えているかね?』
一弥はヴィクトリカが指にはめていた不思議な指輪のことを思い出した。光の当たり方によって赤に、緑に色を変えた不思議な指輪……。
「魔法の指輪だろ?」
『ああ……』
ヴィクトリカは、はぁ、はぁ、と息をしながら、
『君、この事件《じけん》はアレキサンド・ライトなのだよ……。見方によって、角度によって別の色に見えるが、じつはそれは同じ石なのだ……。わかるかね?』
「……ぜんぜんわかんない」
苛立《いらだ》ったような沈黙《ちんもく》が伝わってきた。ヴィクトリカはううん、とうなってから、老女のようにしわがれた不思議な声でつぶやいた。
『アレキサンド・ライトだ。久城、おそらくその隠し部屋では恐《おそ》るべきことが起きているはずなのだよ……君…………。アレキサンド・ライトなのだ…………!』
2
警官たちとともに一弥とブロワ警部もデパート中を走り回り、王宮前広場に面したすべてのガラス窓に、右から左へ数字を入れていった。
蛍光性《けいこうせい》の粉が髪《かみ》や衣服につき、粒子《りゅうし》がきらきら輝《かがや》いた。やがて一階から最上階の六階まですべてを終えると、ブロワ警部が懐中時計《かいちゅうどけい》を取りだして時間を確認《かくにん》した。七時になろうとしていた。……〈ジャンタン〉閉店時間だ。
一弥とブロワ警部はうなずきあった。
それから、自分たちがまるで相棒《あいぼう》のようにうなずきあったことに気づくと、同時に顔をしかめた。
「君、あまりこっちを見るな」
「……こっちの台詞《せりふ》ですよ」
二人は互《たが》いに文句《もんく》を言い合いながらデパートを出て、広場のほうへ向かった。
初夏の一日とはいえ、日はもう暮《く》れていた。王宮前広場は薄ぼんやりとしたガス灯《とう》をいくつも灯《とも》してはいたが、暗い沼のように闇《やみ》を濃《こ》くしていた。金と赤の華々《はなばな》しい制服《せいふく》を身につけた衛兵《えいへい》たちが、駆け込んできた一弥と警部、そして警官たちを不審《ふしん》そうに取り巻いた。
警部はかまわず、「見ろ!」と叫《さけ》んで〈ジャンタン〉を指差した。
午後七時ちょうど――。
ヨーロッパ中から集められた高級商品と、異国情緒《いこくじょうちょ》あふれる店員たちに彩られた、ソヴレム一のデパート〈ジャンタン〉の窓を煌々《こうこう》と照らしていた明かりが、一斉《いっせい》に消えた。
まず、一瞬《いっしゅん》真っ暗になった。
その後、闇にぼんやりと、ブルー・ジョンの粉で書いた数字が浮かび上がり始めた。
衛兵たちもそれに気づき、立ち尽くして不思議そうに〈ジャンタン〉を見上げていた。一弥は一階から順に窓の数字を確認《かくにん》していた。
二階……。
三階……。
そして、四階……。
五階の窓の十二番と十三番のあいだに、数字がなにも書かれていない大きな窓があった。おそらくカーテンで閉ざされているのだろう……。その向こうにほのかに明かりも見えた。明かりと窓のあいだを時折人が通り過ぎるらしく、ふいに暗くなったり、またもとの明るさを取り戻したりを続けていた。
一弥が指差すと、ブロワ警部もうなずいた。
暗い広場に、一弥たちの髪や衣服に付着したブルー・ジョンの粉がきらきら輝き始めた。ブロワ警部のドリル頭の先もきらりと青く光っていた。一弥と警部はまたうなずきあい、それに気づいて互いに顔をしかめ、そして……走りだした。
血相を変えて戻ってきた一弥たちに、一階のフロアに集まっていたガルニエ氏と店員たちが驚《おどろ》いたように振り返った。
ガルニエ氏が顔をしかめ、
「なんの騒《さわ》ぎだね?」
「五階にある、とある部屋に用があるのです」
「…………!?」
ガルニエ氏が息を呑《の》んだ。
背後《はいご》にいた店員たちが一斉《いっせい》に、つられたように息を呑んだ。ガルニエ氏が目配せすると、店員たちは床を蹴《け》り、一弥たちに一斉に飛びかかってきた。
逃《に》げるまもなく、腕《うで》をつかまれた。警官たちもまた、警棒《けいぼう》を振《ふ》り回して応戦するが、噛《か》みつかれたり、怪力《かいりき》で投げられたり、人数が同じほどの割《わり》にはおそろしく苦戦し始めた……。
ブロワ警部が両足を別々の少女店員につかまれて、叫び声を上げた。
ひときわ暴《あば》れているのは、金髪《きんぱつ》に褐色《かっしょく》の肌《はだ》をした混血児《こんけつじ》の店員だった。片手《かたて》に鋭利《えいり》なナイフを持ち、警官たちの急所を狙《ねら》って飛翔《ひしょう》する。男にしては細いその手に握られているのは、世界大戦で使われた軍隊用のナイフだった。警官たちは腕で自分の急所を庇《かば》い、そのたび腕を切られて血を飛び散らせた。
ガルニエ氏が混血児の青年に向かってなにか叫んだ。青年が振り返った。ガルニエ氏は一弥を指差していた。
「おい、その少年だ。そいつを止めろ。これは、これは……その東洋人の少年がすべての糸を引いているのだ。そいつを……!」
――くるり。
混血児の青年が振り返った。ナイフを口にくわえると、まるで動物のように両手両足を床につき、床を蹴って一弥に向かって飛翔してきた。一弥は足がすくんだが、つぎの瞬間《しゅんかん》にはその場からとびすさった。
床に着地した青年が、くるりとこちらに顔を向けた。一弥はその顔面に思い切って蹴りを入れた。長兄から送ってもらった格闘術《かくとうじゅつ》の本に書いてあったことを、頭の中で反復《はんぷく》する。相手は顔を押《お》さえてうめいたが、血の滴《したた》り落ちる顔に手を伸《の》ばすとくわえていたナイフを握《にぎ》り、こちらに迫《せま》ってきた。
一弥の鼻の先ぎりぎりを刃先《はさき》がすり抜けていく。
右から左からおそってくるナイフに気を取られ、後退《こうたい》する。と、少女店員たちからなんとか逃《のが》れたブロワ警部が、背後から青年に体当たりした。青年は振り返り、ブロワ警部に向かってナイフを振り上げた。
一弥は青年の背後から羽交《はが》い締《じ》めにして、右腕《みぎうで》で首を締めつけた。強く、もっと強く……。
青年の動きが、止まった。
ブロワ警部がナイフを取り上げる。と……。
ほかの店員たちがわっとつかみかかってきた。ブロワ警部は大声を上げたが、一弥に目で、行け、と合図をした。
一弥は警官と店員のあいだをうまくすり抜け、フロアを抜《ぬ》け出した。
階段《かいだん》を使って五階まで駆け上がり、照明の落ちて暗くなった廊下《ろうか》をそっと進んだ。
「一つめの窓はこれだ……。二つめは、これ。三つめは……」
数え上げながら進んでいく。
暗い部屋にぼんやりと、青白い燐光《りんこう》による数字が浮かんでいる。まるで文字が宙《ちゅう》に浮いているように見える。一弥はゆっくりと進んでいった。
「十一、十二……」
足を止める。
十二と十三の窓のあいだには、壁があった。商品を並べた棚《たな》や小さな通路や、マネキンや……さまざまなものでごちゃついた店内は、空間が把握《はあく》しづらかった。一弥はその壁の周りをうろうろと歩いた。
背後《はいご》から、階段を上がってくる警官たちの足音が近づいてきた。
(壁にしては、分厚《ぶあつ》い……)
壁には売り物の高価《こうか》なタペストリーやペルシャ絨毯《じゅうたん》が所狭《ところせま》しとかけられていた。
(もう一つ、部屋があるんだ。王宮前広場が見える大きな窓のある部屋が……きっと壁の中に……)
一弥は絨毯やタペストリーを一|枚《まい》ずつめくり始めた。
「……久城くん!?」
廊下を走ってくる足音が近づいてきた。ブロワ警部が自分を呼ぶ声も聞こえてきた。一弥は壁と絨毯のあいだにいた。ふいに不思議な気持ちになった。このまま進んだら壁の内部にあるおかしな空間に吸い込まれてしまい、やってきたブロワ警部にはみつけられることがなく、そのまま別の世界に吸い込まれていくような……。そしてその場には首だけが残され、胴体《どうたい》はけしてみつからない……。
デパートには殺人鬼《さつじんき》が潜《ひそ》んでいる……。
いや、悪魔が。
悪魔|崇拝《すうはい》に身を捧《ささ》げるおかしな人々が……。
そこは鏡の国なのだ……。
――一弥はドアをみつけた。
それは壁に掛けられた売り物のタペストリーの一枚によって隠《かく》されていた。小さなドアだった。鍵《かぎ》がかかっているものと思ったが、そっとドアノブをつかんで回すと、右にくるりと回った。
一弥はそっとドアを開けて、中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
――驚《おどろ》くほどたくさんの人がひしめいていた。
部屋は外からは想像《そうぞう》できないほど広く、そして薄暗《うすぐら》かった。壁に絵画がかけられ、小さな舞台《ぶたい》のようになった壇上《だんじょう》にガラスケースが置かれ、きらびやかな宝飾品《ほうしょくひん》が入れられていた。
壇上には、十人ほどの子供《こども》が立たされていた。どの顔も恐怖《きょうふ》に歪《ゆが》んでいる。
その周りに紫色《むらさきいろ》の制服《せいふく》を着た〈ジャンタン〉の店員が数人立っていた。ひしめくたくさんの人は、客だった。薄闇《うすやみ》に紛《まぎ》れて数十人の人間がそこに立ち、冷たい目で壇上をみつめていた。
一弥ははっと息を呑《の》んだ。
あの少女――アナスタシアの声が耳に蘇《よみがえ》った。
〈悪魔の儀式《ぎしき》! 悪魔! 悪魔の儀式!
おかしな儀式。わたしたちは生け贄《にえ》。生け贄を囲んで、悪魔たちがきて、へんな呪文《じゅもん》をたくさん唱える。こうやって手を上げて……〉
いままさにその部屋で、アナスタシアの語った悪魔の儀式≠ェ始まろうとしていた。
店員の一人が進み出て、小さな子供を一人、肩《かた》を乱暴《らんぼう》に押して立たせた。生け賛≠セ。そして悪魔たち=\―客に向かって笑顔で、
「三万から始めます……」
客の一人がすばやく手を上げた。アナスタシアが言っていた通りだ……。
「……三万五千。ほかは?」
別の客が手を上げた。店員がうなずく。
「三万七千。……四万。四万二千。……五万! 五万が出ました。ほかは? 五万一千。五万二千……!」
へんな呪文≠ヘ続いた。
(オークションだ……!)
一弥はうめいた。
(悪魔崇拝の儀式じゃない。これは盗《ぬす》まれた美術品と、消えた人たちのオークション……。ただアナスタシアにはフランス語がわからなくて……おかしな儀式に思えたんだ……)
ついさっき電話で話したヴィクトリカの、か細い声も蘇った。
〈久城、おそらくその隠し部屋では恐るべきことが起きているはずなのだよ……君…………〉
〈君、この事件は……〉
〈この事件はアレキサンド・ライトなのだよ……〉
〈アレキサンド・ライトなのだよ……。見方によって、角度によって別の色に見えるが……〉
〈別の色に見えるが、じつはそれは……じつはそれは同じ石なのだ……。わかるかね?〉
いまや老舗《しにせ》デパート〈ジャンタン〉は、別の色を見せようとしていた。ヴィクトリカの魔法の指輪が、赤から緑へ悪夢《あくむ》のように色を変えたあの瞬間《しゅんかん》を、一弥はまざまざと思い出した。
大きく口を開け人々を飲み込む、都市の闇――。
それさえも人々の欲望《よくぼう》の形として、怪談《かいだん》という物語に飲み込まれてしまった――。
闇――。
〈アレキサンド・ライトだ。久城……〉
[#挿絵(img/03_241.jpg)入る]
「……久城くん!」
警部に肩をつかまれた。
その声に驚いたように、その暗いオークション部屋はしんっと静まり返った。店員と客たちが、同時にゆっくりと振り返る。
能面《のうめん》のような無表情《むひょうじょう》の、顔、顔、顔――。
窓《まど》の外で月明かりがふっと明るくなった。かかっていた雲が風で流れたのだろう。その顔、顔、顔を青白く照らし出した。
それは人間の顔には思えない、冷たい、無表情なもの達だった。闇に沈《しず》む幽鬼《ゆうき》の群《む》れのような人々――。
だがその静寂《せいじゃく》は一瞬だった。つぎの瞬間には、店員が叫び声を上げ、客たちもあわてて逃げだそうと、あちらにこちらに走りだした。
「捕《つか》まえろ!」
警官たちが彼らを包囲した。
阿鼻叫喚《あびきょうかん》の中、店員も客もつぎつぎ捕らえられ、手錠《てじょう》をはめられて連行されていった。部屋の隅《すみ》にガラスケースが並《なら》び、その中に美術品の数々が並んでいた。巨大《きょだい》な石をはめ込んだネックレスや、王冠《おうかん》、黒白|真珠《しんじゅ》のペンダント……どれも美術の教科書で一度は見たことのあるものばかりだ。
そして……。
一弥は震《ふる》える手を伸《の》ばした。
ガラスケースの真ん中に、それ[#「それ」に傍点]はあった。
花びらの開いた大輪の薔薇《ばら》のような形の、めずらしいブルーダイヤモンド……。
ソヴュールの国宝〈青い薔薇〉……。
一弥はゆっくりと手を伸ばして〈青い薔薇〉を握《にぎ》りしめた。ダイヤは見た目よりずっと重かった。一弥は腕《うで》を振《ふ》り上げて、床《ゆか》に向かって投げ落とした。
〈青い薔薇〉が落下していき……。
音を立てて床に傷《きず》がついた。ダイヤは傷一つつかず、床の上でまた青く輝いた。警官《けいかん》が手を伸ばしてそれを拾うと、証拠《しょうこ》物品としてほかの美術品とともに押収《おうしゅう》していった。
ブロワ警部が満足そうにうなずいた。警官たちに、
「美術品|盗難《とうなん》の事件は解決《かいけつ》だ。合わせて〈闇に消える者たち〉の事件もこのわたしが解決してみせたのだ。君たち、シニョレー氏に連絡《れんらく》したまえ」
指示《しじ》を出し、それからドアのほうを振り向いた。
ゆっくりとドアを開けて、ガルニエ氏が入ってきた。観念したように穏《おだ》やかな笑《え》みを浮かべ、しかしどこか皮肉に唇《くちびる》を曲げてブロワ警部を見る。
「……一|巻《かん》の終わりだな」
「そのようですな」
「大戦終結から六年もの時をかけて築《きず》き上げた富《とみ》と地位だが……失うのはあっという間だ」
「話は警視庁《けいしちょう》で詳《くわ》しく聞くことにしましょう」
ブロワ警部は胸《むね》を張《は》り、ガルニエ氏の両手に手錠をかけた。がちゃり、と大きな音が響《ひび》いた。
「連れていきたまえ」
警官がうなずき、ガルニエ氏を連れて部屋を出ていった。
3
翌朝《よくあさ》――。
一弥はブロワ警部に呼ばれ、再《ふたた》びソヴュール警視庁にやってきていた。
シャルル・ド・ジレ駅の向かい側にある煉瓦造《れんがづく》りのビルには、たくさんの警官たちが右往左往《うおうさおう》していて、昨夜の事件に関連する仕事に追われているようだった。
昨夜、逮捕《たいほ》されたガルニエ氏とその一味は警視庁によって、取り調べが行われていた。
ガルニエ氏は意外なほどあっさりと罪《つみ》を認《みと》めた。彼は世界大戦中にソヴュール王室の宝物庫を襲《おそ》った一味の一人で、それを元手に大金を手にして、老舗《しにせ》デパート〈ジャンタン〉を買い取った。デパートが犯罪《はんざい》の舞台《ぶたい》となり、大戦終結後のわずか六年でガルニエ氏の事業は急成長した。
一方、保護《ほご》された子供たちは病院に収容されていた。回復《かいふく》を待ってそれぞれの事情を聞くことになるらしい。
一弥は警視庁の一室であのロシア人少女、アナスタシアに面会した。彼女はことのほか元気そうで、一弥に気づくと笑顔になり、
「ありがとう……」
とつぶやいた。そして、
「箱のふたが開いて、あなたの顔が見えたときに、優《やさ》しそうで、助けてくれるんじゃないかって思ったの。とっさに、ね。それで頼《たよ》ってしまったの……。ほんとにありがとう」
恐怖《きょうふ》に怯《おび》えていたときのおそろしげな様子は消えて、屈託《くったく》のない笑顔は同世代のごく普通《ふつう》の少女らしいものだった。一弥はほっとした。
アナスタシアはソヴレム郊外《こうがい》にいる親類と連絡《れんらく》がついたとのことで、その家に引き取られることになったらしかった。笑顔で「手紙を書くね」とアナスタシアが言った。一弥はうなずいてその部屋を後にした。
そしてあの〈ジャンタン〉の前にいた老女もまた保護されていた。事件との関連がわかったためとのことだった。消えた娘《むすめ》についての証言《しょうげん》を頼み、また彼女の娘の行方《ゆくえ》も、ほかの〈闇に消えた者たち〉とともに捜索《そうさく》するという。
老女は部屋の中でコートを脱《ぬ》いでおとなしく椅子《いす》に座《すわ》っていた。汚《よご》れたコートの中で不気味に揺《ゆ》れていたものが、いまは晒《さら》されていた。少女のものらしいリボンのついた帽子《ぼうし》や、丸めたドレス、鞄《かばん》などが、紐《ひも》でくくられて首から下げられていたのだった。警官が、おそらく消えた娘のものだろうと説明した。それが、あの怪談のもととなった、ボロ服の中で揺れているものの正体だった。
一弥と一緒《いっしょ》にいたブロワ警部が、走ってきた警官に、警視|総監《そうかん》シニョレー氏を始めとするお偉方《えらがた》が報告《ほうこく》を求めていると言われ、あわてて姿《すがた》を消した。一弥は手持ち無沙汰《ぶさた》に小さな待合室に座っていたが、ふと気づいて廊下《ろうか》に立つ警官に、
「電話を借りてもいいですか?」
「……いいけれど、どこにかけるんだね?」
「あの、その、友達に」
警官はうなずいて、電話があるほうの部屋に一弥を案内してくれた。
一弥はお礼を言って、受話器を取り、交換手《こうかんしゅ》に聖《せい》マルグリット学園にかけてくれるよう頼んだ。セシル先生に事情を話して、ヴィクトリカの特別寮《とくべつりょう》に電話を回してもらった。
――一晩《ひとばん》明けてだいぶ風邪《かぜ》から回復した様子のヴィクトリカは、しかし、おそろしく機嫌《きげん》が悪かった。それとも昨日の彼女が風邪のせいで弱気になっていただけで、これがもともとのヴィクトリカ・ド・ブロワなのかもしれないが……。
『君とはしばらく口なんか利《き》かない!』
「なんで? そんなことより、ヴィクトリカ」
『……そんなことだと!?』
ヴィクトリカが抗議《こうぎ》の声を上げた。しかし一弥のほうは、電話|越《ご》しの会話だからだろうか、昨日と同じように強気な態度《たいど》で話していた。これは新発見なのだが、電話だとヴィクトリカ・ド・ブロワはあまりこわくないのだ。
「君、昨日は熱でたいへんだっただろ。ちょっと回復してきたなら、改めて教えてほしいことが……」
『謎解《なぞと》き、かね?』
ヴィクトリカがうめいた。
「うん……」
一弥はうなずいた。
『……いやだ』
「いや!? どうして?」
一弥の抗議に、しかし、ヴィクトリカも強硬《きょうこう》な抗議でもって応酬《おうしゅう》した。
『わたしはだね、君、退屈《たいくつ》が嫌《きら》いなのだ。だから混沌《カオス》をみつけると欠片《かけら》を集めて再構成《さいこうせい》し、その様《さま》でほんのひととき退屈から解放されるのだ。魂《たましい》が安らぐのだよ。とはいえほんのわずかのあいだのことだがね』
「うん……?」
『ただ、だね。わたしがそうやって再構成したものを、さらに君のようなどうしようもない凡人《ぼんじん》に対して言語化してやるかどうかは、多分にわたしの気分|次第《しだい》なのだよ。……つまりいまはやる気がないのだ。切るぞ、久城』
「だめ!」
一弥が叫《さけ》ぶと、ヴィクトリカはびっくりしたように『だめ……!?』と聞き返した。
しばらくのやりとりの後、ヴィクトリカは根負けしたようにため息をつき、
『わかったよ、君……』
渋々《しぶしぶ》ながら、説明し始めた。
『久城、君、わたしは熱に浮かされながら退屈で死にそうになっていたのだ』
「……逆《ぎゃく》じゃないかな? 熱で死にそうだったんじゃないのかい?」
『黙《だま》れ。それでだね、中世のとある寺院で起きた事件《じけん》について、若《わか》い僧侶《そうりょ》が残した手記を退屈しのぎに読んでいたのだよ』
一弥は顔をしかめた。話がどこに飛んでいってしまったのかさっぱりわからなかったのだが、ヴィクトリカにこれ以上|怒《おこ》られるのもこわいので仕方なく黙っていた。
ヴィクトリカは話し続ける。
『ソヴレムの大寺院からえらい司教さまがやってくるという夜。信心深いところを見せようと村人が思っている矢先に、二つの事件が起こった。一つは、裕福《ゆうふく》な商家から銀食器が盗《ぬす》まれた事件。もう一つは、村外れの農家から豚《ぶた》が盗まれた事件だ。村人は怒《いか》り、司教さまが着く前に、急いで、それぞれの事件の犯人らしき者たちを捕《とら》えた。銀食器を盗んだとされたのは流れ者の男たちだった。豚を盗んだとされたのは貧《まず》しい農家の少年だった。彼らはそれぞれ、無罪《むざい》を訴《うった》えて泣き叫んだが、怒り狂《くる》った村人は聞こうとしなかった。いましも彼らが認《みと》めぬ罪で裁《さば》かれようとしているとき……司教さまが到着《とうちゃく》したのだ』
「うん……」
『司教さまは事件のあらましを聞いた。そして彼らを許すように言われた。そして寺院の僧侶たちに謎めいた言葉を言われた。あなた方も許します、と。手記はそこで終わっている。ところでこの銀食器と豚を盗んだ僧侶たちは……』
一弥は聞き返した。
「えっ? 僧侶たちが銀食器と豚を盗んだの? なんでさ?」
ヴィクトリカが苛立《いらだ》ったように言った。
『なにを聞いていたのだ。言っただろう』
「……言ってないよ」
『そうか? でも、察したまえよ』
「無理だってば!」
一弥がちょっと怒って言うと、ヴィクトリカは戸惑《とまど》ったようにしばし黙った。それからため息|混《ま》じりに、
『僧侶たちが犯人《はんにん》なのだ。村人たちは二つの事件を別々のものと捉《とら》えた。そしてそれぞれに似合《にあ》う犯人をみつけて、強引《ごういん》に裁《さば》こうとした。だが、考えてもみたまえ。同じ夜に二件の事件だ。普段《ふだん》は事件などほとんど起こらないような村でのことだよ、君。二つの事件は同じ犯人によって、同じ目的で起こされたと考えるべきではないかね? つまり、その夜、銀食器と豚を必要とする人々がいたのだ。彼らこそが犯人だ』
「銀食器と豚を、どうして必要とするんだよ?」
ヴィクトリカが面倒《めんどう》くさそうに答えた。
『司教さまをもてなすためだろう?』
「……あぁ!」
『彼らの寺院は貧しかった。だが、貧しいことを司教さまに知られたくなかった。おそらく寺院そのものが閉鎖《へいさ》されてしまうことを恐《おそ》れたのだろう。僧侶たちは村人に頭を下げ、銀食器を貸してくれと、肉をくれと言えばよかったのだ。だがそれができず、盗みの罪を犯し、そのせいで無実の人々が捕えられたのを震《ふる》えて見ているしかなかったのだ。……手記を書いた若い僧侶は加担《かたん》していなかったらしく、最後まで事態がわかっていなかったようだがね。彼は書き残している。村で起こった事件のせいか、寺院には僧侶たちの祈《いの》る声が響《ひび》いていた。そして血の滴《したた》るような生臭《なまぐさ》い恐ろしい臭《にお》いも立ちこめていた、と……。ちょっと考えればわかるのではないかね? それは罪の臭いではない。誰《だれ》かが豚を解体していたのだ。だろう?』
「そっか……」
『間抜けな若い僧侶はともかく、遅《おく》れてやってきた司教さまはすぐ事態に気づいた。囚《とら》われた人々を助け、僧侶たちも許した。若い僧侶は関連性に気づいていないようだが……司教さまは都に戻ると、寺院の運営費《うんえいひ》について見直したそうだ。……つまり、そういうことだよ、君』
ヴィクトリカが説明を終えて電話を切ろうとしているのに気づいて、一弥はあわてた。
「そういうことって?」
戸惑《とまど》ったような沈黙が受話器の向こうで続いた。仕方なくヴィクトリカは、続けて、
『今度の事件も、同じだ。べつのものが盗まれたが、犯人も、目的も、同じだったのだ。銀食器と豚を盗んだのは、寺院だった。美術品と、消えた人々を盗んだのは〈ジャンタン〉だった。混沌《カオス》を再構成《さいこうせい》するべき欠片《かけら》たちは君の話の随所《ずいしょ》にあったよ。たとえば、植民地から持ち込まれた盗品《とうひん》と、ロマノフ王朝の宝だ』
「うん……?」
『アナスタシアは語った。悪魔《あくま》の儀式《ぎしき》≠フ後、少女が一人消えたと。彼女はオークションによって売られてしまったのだ。その夜、棺《ひつぎ》に入れられて包帯を巻かれ、冷たくなって帰ってきた、とアナスタシアは思ったが、それはその少女の死体ではない。べつのものだ』
「べつのものって?」
『植民地から持ち込まれた盗品だ。好事家《こうずか》が争って買いたがるものだよ、君。それはおそらく、植民地エジプトからやってきたミイラだったのだ』
一弥は叫び声を上げた。
アナスタシアの声が蘇《よみがえ》る……。
〈棺《ひつぎ》に入れられて……部屋に戻ってきた〉
〈どんな姿《すがた》になってしまったのか……〉
〈包帯できつく巻《ま》かれて隠されていて、名前を呼んでも返事はなくて……〉
〈そっと触《さわ》ったら、もう冷たくなってた。もう、死んじゃってた……〉
「……そうか。アナスタシアは、部屋に運ばれてきた盗品のミイラを、その夜に悪魔の儀式によって消えた少女だと勘違《かんちが》いしたんだ……」
『そうだ。それからその部屋には、ロシア革命《かくめい》の直前にヨーロッパに持ち込まれ、闇《やみ》に消えたとされるロマノフ王朝の宝もあったのだよ』
「……そうなの?」
『アナスタシアは言ったのだったね。二つの頭を持つ鷲《わし》がいた、と』
「うん……」
『双頭の鷲≠ヘ、ロマノフ家の紋章《もんしょう》なのだよ』
一弥は息を呑《の》んだ。
「そ、そうか……」
『おそらく秘密《ひみつ》の部屋にあった美術品の中に、ロマノフ家の宝が混ざっていたはずだ。わかったかね、久城?』
一弥はうなずいた。
「う、うん……」
『ばか者でわたしが言語化してもちっともわからないあわれな凡人《ぼんじん》で間抜《まぬ》け面《づら》の久城は、わかったのかね?』
「……ヴィクトリカ、君ねぇ。いい加減《かげん》にしないとぼくは」
一弥が無謀《むぼう》にもヴィクトリカに反論《はんろん》しようと居住《いず》まいを正したとき、部屋の扉《とびら》が開いた。
ブロワ警部《けいぶ》が入ってきた。
一弥は「またね、ヴィクトリカ」と言って電話を切ろうとしたが、気づくと電話はとっくにヴィクトリカのほうから切れていた。一弥は空しいような、腹《はら》が立つような、微妙《びみょう》な顔つきをしてしばらく受話器を睨《にら》んでいたが、仕方なくため息をつき、
「ヴィクトリカ、君ねぇ……」
つぶやきながら、そっと受話器を置いた。
ブロワ警部の背後《はいご》から、警視総監《けいしそうかん》シニョレー氏も入ってきた。シニョレー氏は大声で、
「グレヴィール、君がソヴュールの国宝《こくほう》〈青い薔薇《ばら》〉をみつけだした手柄《てがら》については、国王もたいへんお喜びのようだ。しかし……」
肩《かた》をすくめてシニョレー氏は続けた。その声にかすかに戸惑うような響《ひび》きが混《ま》ざった。
「しかし……ブロワ侯爵《こうしゃく》の嫡男《ちゃくなん》である君が、国王のために〈青い薔薇〉をみつけるとは、少々皮肉な巡《めぐ》り合わせではないかね」
「……そうかね?」
「ああ。国王は忘《わす》れてはいまいぞ。かつてこの国を手中にしようとした錬金術師《れんきんじゅつし》〈リヴァイアサン〉の事件と、その後の世界大戦でのブロワ侯爵家の暗躍《あんやく》を……」
「……すべては過ぎたことだ」
ブロワ警部が吐《は》き捨《す》てるように乱暴《らんぼう》に言うと、シニョレー氏は無言で反論《はんろん》するように薄《うす》く微笑《ほほえ》んだ。それからまた肩をすくめて、
「あとでわたしの部屋にきてくれたまえ。わたしはいないが、君に会いたがっている人がいるのでね。おっと……少年、君も行くのだよ」
一弥のほうを見てそう言うと、慌《あわ》ただしく立ち去っていった。
ブロワ警部と一弥は、四階の警視総監シニョレー氏の応接室《おうせつしつ》に向かった。
一弥が落ちついているのとは対照的に、なぜかブロワ警部は何度も咳《せき》をして、スーツの裾《すそ》を引っ張《ぱ》り、髪《かみ》を整え、それから、はぁ……とため息をついた。その様を一弥は気持ち悪そうにちらちらとみつめていた。
やがて四階についてエレベーターの鉄檻《てつおり》ががたがた大きな音を立てて開いた。ブロワ警部はさっそうと歩きだしたが、なにもないところでいきなりつんのめって転んだ。あわてて手を伸《の》ばし、一弥の服の裾をつかんだので、一弥まで一緒《いっしょ》に転んで、二人で警視庁の廊下《ろうか》をごろごろと転がってしまった。
「イテッ!」
「す、すまない……」
ブロワ警部はあわてて立ち上がると、ヘアスタイルを整えた。
(な、なんなんだ、いったい……?)
一弥は不審《ふしん》そうに警部を遠巻きにしながらも、後をついていった。
応接室のドアを開けると、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。青い瞳《ひとみ》をした十|歳《さい》ぐらいのなかなか器量よしの少年が、おかしくてたまらないというように笑い転げていた。少年を笑わせているのは、向かい側に立っているご婦人《ふじん》だった。シックすぎる、飾《かざ》りの少ない茶色いドレスを着ているが、年齢《ねんれい》はまだ二十代の前半ぐらいと思われた。ブラウンのストレートヘアはあまり手入れをしないらしく、艶《つや》が足りなくてぱさついていた。
「おもしろい? おもしろい?」
「わはははは!」
少年がまた笑い転げる。一弥はなにげなくご婦人の顔を見て、
「…………ぶっ! わはははは!」
一弥もつい笑い転げてしまった。
――ご婦人は両手で自分の顔をぐにゃぐにゃにして、じつにおもしろい顔を作っては少年に見せていたのだった。両手を動かすたびに魔法のように別の顔に変わり、それがまた、さっきよりさらにおもしろい。一弥は思わず笑い転げながら、ブロワ警部のほうをちらりと見た。
(……あれっ?)
ブロワ警部は苦虫を噛《か》みつぶしたような顔をしていた。ご婦人のほうを横目で見て、大きくため息をつく。
ご婦人のほうはどうやらお調子者らしく、初対面の一弥にもウケたことに気をよくしてどんどんおもしろい顔を作っていたが、やがてブロワ警部の不機嫌《ふきげん》に気づくと、ぱっと顔から手を離《はな》した。
……意外と、というと失礼だが、かなりの美人だった。おもしろい顔を作ることより、ドレスの購入《こうにゅう》や髪の手入れに力を使ったら、じつに艶《あで》やかな貴婦人《きふじん》になるに違いないと思われる、とても貴族的な美貌《びぼう》だった。一弥は急に緊張《きんちょう》し始めた。
(誰《だれ》だろう、このご婦人……? ここは確か警視総監シニョレー氏の応接室のはずなのに、いるのは、おもしろい顔が得意なご婦人と、この少年だけだ……)
と、青い瞳の少年が、笑いすぎて浮《う》かんだ涙《なみだ》を手の甲《こう》で拭《ふ》きながら、一弥に声をかけた。
「よう!」
「……へ?」
一弥は少年の顔をじいっとみつめた。
青い瞳に真っ白な肌《はだ》。なかなか利発そうな少年だ。背は一弥の胸の辺りまでしかないから、ヴィクトリカよりちょっと小さいぐらい。……こんな知り合いは一弥にはいないはずだ。
一弥がきょとんとしていると、少年は苛立《いらだ》ったように、
「物忘《ものわす》れが激《はげ》しいな。間抜《まぬ》けなチャイニーズ」
「…………?」
一弥は首をかしげて、じいっと少年を見下ろした。
「………………あぁ!?」
「なんだよ。ようやく思い出したか」
「ルイジかい!?」
それはあの記憶力《きおくりょく》のよい浮浪児《ふろうじ》、ルイジだった。一弥がびっくりしていると、ルイジは得意そうに鼻の下をこすりながら、
「俺《おれ》、学校行かせてもらえるんだって。ここにいるシニョレー夫人が、ボランティアでな。頭のいい子を学校に通わせてくれるんだって。俺、寄宿《きしゅく》学校に行くんだ」
ルイジは海|沿《ぞ》いの街にある学校の名前を告げた。得意そうに何度も、学校に行くと繰り返している。
一弥は思わずルイジの頭を撫《な》でながら、ご婦人――警視総監シニョレー夫人のほうを振り返った。
シニョレー夫人は一転してすまし顔で、鷹揚《おうよう》にうなずいてみせた。
「わたくし昨夜、主人から事件《じけん》のことを聞きましてね。あのかわいそうなお嬢《じょう》さんたちのためにできることをして、それから事件|解決《かいけつ》に役立ったこの子の面倒《めんどう》を見ましょうって話しましたのよ」
「そうですか……」
一弥はシニョレー夫人のすました顔をみつめた。その態度《たいど》は確かに、いかにも警視総監夫人にふさわしい威厳《いげん》のあるものだったが、一弥にはなぜか彼女が、おしゃまな子供《こども》が胸《むね》を張《は》り、精《せい》いっぱい大人のふりをしているような様子に見えてならなかった。我慢《がまん》できずについ……ぷっと吹《ふ》き出してしまうと、夫人はあわてて、
「な、なによ? どうしてわたくし、笑われたの? ちょっと、教えてグレヴィール!?」
「す、すみません。たいへんな失礼を。たださっきの顔を思い出して……つい……」
「あ、あれは子供の頃《ころ》から得意技《とくいわざ》なのよ。ねえ、グレヴィール?」
一弥は笑いながら、シニョレー夫人とブロワ警部《けいぶ》を見比《みくら》べた。ブロワ警部は相変わらず苦虫を噛みつぶしたような顔をして、無愛想《ぶあいそう》に床《ゆか》を睨《にら》んでいる。
シニョレー夫人はハンカチを取り出すと、目尻《めじり》に浮かんだ涙を拭いて、
「それにしてもグレヴィール、あなたとはずいぶん久《ひさ》しぶりだけど……。相変わらずおかしなヘアスタイルなのねぇ」
「……君の顔のほうがずっとずっとへんだよ。ジャクリーヌ」
一弥の笑いが止まった。
(……ジャクリーヌぅ?)
そうっと二人の顔を見比べる。
ジャクリーヌとは、ブロワ警部が昨日シャルル・ド・ジレ駅のホームに降《お》り立ったとき、人違《ひとちが》いをして見知らぬ婦人《ふじん》を呼《よ》んだ名前だ。あのとき警部は確《たし》か、とても焦《あせ》ったような悲しそうな妙《みょう》な顔をしていて、人違いとわかると明らかに沈《しず》み込《こ》んでいた……。
「あの、ジャ、ジャクリーヌさんって言うんですか……?」
「そうよ。どうして?」
「い、いえ……。警部とはどういう……?」
「幼《おさな》なじみなの。グレヴィール、昔はこんな頭じゃなかったのよ。お洒落《しゃれ》でハンサムで、女の子はみんな彼に憧《あこが》れたものよ。なのに、あなたったらいったいどうしちゃったの?」
「……いろいろあってね」
ブロワ警部は短く答えた。どんどん顔が険《けわ》しくなる。
「あの、それでいまは……」
「主人が出世して警視総監になっちゃったから、わたくしも警視総監の妻《つま》として、子供の犯罪被害者《はんざいひがいしゃ》の保護《ほご》ですとか、いろいろボランティア活動をしてますの。それにしても、昨日、グレヴィールが仕事でソヴレムにきてるって知って驚いたわ。あなた、いつから警察の仕事になんて興味《きょうみ》を持ったの? とってもとっても似合《にあ》わないわ。ねぇ?」
「…………」
ブロワ警部は返事もせずに黙り込んでいた。それから小声で、
「わたしたちをここに呼んだのは、この子の今後について報告《ほうこく》するためか?」
「そうよ。きっと、少ぅし心配だろうと思ってね。それからグレヴィール、あなたにも会いたかったし」
「じゃあ、用は済《す》んだのだね……!」
ブロワ警部はぼそっと言うと、きびすを返してドアに向かった。一弥もあわてて後を追う。シニョレー夫人とルイジは笑顔でそれを見送っている。
「あ、そうだ! グレヴィール」
「……なんだ?」
「お手柄《てがら》だってね。おめでと。あなた、すごいわね? わたくし、あなたは古くからのお友達なんだってさんざん自慢《じまん》したのよ。だから、もう友達じゃないなんて言わないでね? 結婚《けっこん》してからは疎遠《そえん》になってしまったけれど……」
「…………」
警部はドアを開けて、廊下《ろうか》に出た。
そのまま歩き去ろうとして、思い返したように応接室《おうせつしつ》の中を覗《のぞ》き込む。
消え入りそうな小さな声で、
「……今日は、その、会えてよかったよ。ジャクリーヌ」
「ええ。またね?」
「ああ……」
ブロワ警部はドアを閉《し》めた。
一弥と並んで、警視庁《けいしちょう》の廊下をゆっくりと歩きだす。
警部は不思議な表情《ひょうじょう》を浮かべていた。悔《くや》しそうな、悲しそうな……まるでおもちゃを取り上げられた子供のような、切ないけれど子供っぽい表情だった。
一弥はそれをじっと観察していた。
黙ったままで一弥がいつまでもじろじろと警部の顔をみつめているので、警部はしばらく無視していたが、やがて我慢《がまん》できなくなったように叫んだ。
「君、つまらん顔でじろじろ見るのはやめたまえ!」
「ええっ?」
「あっちを向いて規則《きそく》正しく、右、左、右、左、と歩きたまえ! まったく!」
「す、すみません……?」
どうして謝《あやま》っているのかよくわからないながらも、一弥は警部の剣幕《けんまく》に押《お》されて、仕方なく頭を下げた……。
[#改ページ]
ベッドルーム―Bedroom 6―
ベッドルームのフランス窓《まど》からは、少し汗《あせ》ばむほどの初夏の日射《ひざ》しと、涼《すず》やかな風が室内に入り込《こ》んでいた。花|模様《もよう》のボビンレースのカーテンが揺《ゆ》れては、元に戻《もど》っている。
天蓋《てんがい》付きベッドの真ん中にちょこんと、寝間着姿《ねまきすがた》のヴィクトリカがいた。まだ少し熱っぽいようで潤《うる》んだ瞳《ひとみ》をして、ぼんやりと天井《てんじょう》を見上げていた。
「ヴィクトリカさん……?」
扉《とびら》が開いて、遠慮《えんりょ》がちにセシル先生が顔を出した。ヴィクトリカは顔をしかめて、
「……なんだ?」
「電話」
「またか! まったく、もう。おかしなやつだな」
セシル先生はくすくす笑いながら、
「もうすぐこっちに戻《もど》る列車に乗るって。だけどどうも気になることがあるらしくて、ヴィクトリカさんと話したいって……」
「一度に全部聞けばいいのに。どうにもおかしな行動だな……」
ヴィクトリカは不機嫌《ふきげん》そうに鼻を鳴らしたが、渋々《しぶしぶ》と起きあがった。
『もしもし、ヴィクトリカ? よかった。出てくれて。あのさ、どうも気になることがあってさ。君のお兄さんのことなんだけど』
「グレヴィールのことなんかわたしに聞かれても、困《こま》る」
『どうしてだよ?』
「……血がつながっていることをあまり認《みと》めたくないのだ」
ヴィクトリカは不機嫌そうに言いながら、受話器を持っていないほうの腕《うで》をうんしょ、と伸《の》ばして、巻《ま》き装飾《そうしょく》の小さな椅子《いす》を近くに引っ張《ぱ》ってきた。ちょこんと座《すわ》り、
「グレヴィールがどうかしたかね?」
『あのさ、ブロワ警部《けいぶ》は今回、なんだかへんだったんだけど』
「あの男はいつだってへんだ」
『あはは。だけどさ、あの……』
一弥《かずや》は少し迷《まよ》っているように、黙《だま》った。
それから小声で、
『警視総監《けいしそうかん》夫人のジャクリーヌさんに会ったんだけど。その……ジャクリーヌさんっていったい何者?』
ヴィクトリカは顔をしかめた。
面倒《めんどう》くさそうにうめいたが、仕方なく言った。
「それはだな……グレヴィールが子供《こども》の頃《ころ》から懸想《けそう》している、幼《おさな》なじみだ。もちろん向こうはグレヴィールのことをなんとも思っていないようだがね。……久城《くじょう》、君、そんなことを聞くためにわざわざ電話してきたのかね?」
電話の向こうから、一弥が『うひゃあ』とうめいている声が聞こえてきた。
『懸想!? ……そうなんだ?』
「ああ。ついでに言うとだね」
『なに?』
「グレヴィールのヘアスタイルは、彼女が原因《げんいん》なのだ」
一弥がまた『うひゃあ』と言った。しばらくそれを続けていたが、やがて、
『そういや警部も、自分のヘアスタイルのことをなにやら言っていたよ。でも、なにそれ!?』「うむ……」
『それに、ジャクリーヌさん、警部に向かって大真面目《おおまじめ》な顔で、あなたはどうしてそんなへんな頭なの、って言っていたよ』
「それはそうだ。彼女はまさかあれが自分のせいだとは露《つゆ》ほども知らないのだよ」
ヴィクトリカは薄《うす》く笑った。
その表情《ひょうじょう》に、冷酷《れいこく》な、ぞっとするほどひんやりとしたものがよぎった。それはしばらくのあいだヴィクトリカの小さな青白い顔の周りを漂《ただよ》っていたが、やがてどこかに消えていった。ヴィクトリカはいつも通りの無表情に戻り、ため息をつくと説明し始めた。
「あれは五年前のことだ。わたしはまだブロワ侯爵家の塔《とう》に軟禁《なんきん》されていた。書物とドレス、そして食事が運ばれるほかは誰《だれ》もわたしのところにはこなかった。……グレヴィールは別だ。なにが気になるのか、毎晩《まいばん》のように塔に上がってきては、噛《か》みつかれるとでも思っていたのか、離《はな》れたところから黙《だま》ってじっと観察していた。それがじつに気味が悪かったものでね。わたしは、グレヴィールが灰色狼《はいいろおおかみ》の伝承《でんしょう》を本気にして自分のことをおそれていることを利用して、さんざん彼を脅《おど》した。悪魔《あくま》的な力を持っていて、見ていないことでもわかるのだ、とね。もちろん実際《じっさい》は、知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠使って、彼から立ち上る混沌《カオス》を再構成《さいこうせい》してみせただけだったのだが、あの男にそれがわかるはずはない。わたしをおそれてグレヴィールは塔を避《さ》けるようになった」
一弥が小声で『う……』とつぶやいた。
「しかし、半年ほど経った頃。とつぜんグレヴィールが塔に上がってきた。幼なじみのジャクリーヌという娘《むすめ》の婚礼《こんれい》が決まったのだが、その直前に娘は恐《おそ》ろしい殺人の罪《つみ》に問われてしまったというのだ。婚約者のシニョレー青年は警察関係者だが、彼女の嫌疑《けんぎ》を晴らすことができないという。グレヴィールは昔からジャクリーヌに懸想していてね。なんとか助けたいと悩《なや》み、灰色狼の血を引く恐ろしい異母妹《いぼまい》のことを思い出したというわけだ」
『……それで君は、ジャクリーヌさんを助けてやったんだね? だってジャクリーヌさんは、さっき会ったときおそろしくピンピンしてたもの』
ヴィクトリカは肩《かた》をすくめた。
「もちろんだ」
『で、その過程《かてい》で、ブロワ警部《けいぶ》の頭が尖《とが》った、と。……なんで?』
「わたしが要求したのだ」
『うーん……?』
一弥が不思議そうにうなった。ヴィクトリカは思い出したように、顔を歪《ゆが》めてぷくくっと笑った。
「悪魔的な要求というやつだよ、君。それがあることがわかっているから、ブロワ一族は、よほど困らなければわたしの力を借りようとしないのだ」
『そっか。じゃ……あのセンスのないへんなスタイルは、本当に君がやらせたんだね?』
「洒落《しゃれ》者のあの男にとっては、じつに辛《つら》いことだろうと思ってね」
一弥はしばらくあきれたように黙っていたが、
『……ヴィクトリカ、君ってときどき、大人げないんだよなぁ!』
ヴィクトリカはムッとしたように押《お》し黙った。
それから静かな声で、
「グレヴィールは抵抗《ていこう》しなかった。真顔で頭を尖らすと、わたしにジャクリーヌの命を救うことを要求した。わたしは事件《じけん》のあらましを聞き、真犯人《しんはんにん》を教えた。グレヴィールは匿名《とくめい》で通報《つうほう》し、真犯人は捕《つか》まった。ジャクリーヌの嫌疑は晴れた」
『匿名!? あのブロワ警部が? ……ありえないよ!』
「そうかね?」
『うん! だって警部はいつも、君が解《と》いてみせた事件をいつのまにか自分の手柄《てがら》にしてしまうじゃないか。そのブロワ警部が、まさか……』
一弥は電話の向こうでなにごとか逡巡《しゅんじゅん》し、
『……ねえ、もしかしてさ。いまブロワ警部が警察の仕事をしたり、名警部って言われたがるのは、シニョレー氏に対してなにか……』
「さてね」
ヴィクトリカはこてんと首をかしげた。
「ともかく……それから五年経ったが、グレヴィールはまだあのヘアスタイルを続けているというわけだ。あの男も意地になっているのだよ」
一弥は黙った。
『それで仲が悪いの?』
「さてね。まぁ、それもあるだろう」
ヴィクトリカは薄く笑った。
「久城、君、これから列車に乗るのではなかったかね?」
『うん……。あっ、しまった。喋《しゃべ》っているうちに時間になっちゃったよ。ブロワ警部はしばらくソヴレムに足止めされるらしいけど、ぼくは学生だし、早く戻《もど》れることになったんだ。夕方には聖《せい》マルグリット学園に戻るよ。あ、君にソヴレムのおみやげを買ったよ』
得意そうな一弥の声に、ヴィクトリカはかすかにうめいた。
脳裏《のうり》に、なんだかわからない久城のおみやげ≠フ姿《すがた》が幾《いく》つか浮《う》かんでは消えていった。
「ううむ……」
『あ、もう行かなきゃ。じゃね、ヴィクトリカ』
「む……」
電話は切れた。
ヴィクトリカはため息をついて受話器を置いた。
そのまましばらく、ヴィクトリカは立ち上がらず、小さな体を椅子《いす》の上で縮《ちぢ》こまらせてなにごとか逡巡《しゅんじゅん》していた。
フリルやリボンでふくらんでいても、小さな小さな体だった。
少しだけ、その体が、震《ふる》えた。
――ヴィクトリカは、遥《はる》か昔、塔に閉じこめられていたときの兄グレヴィールとの会話を思い出していた。
あのときのことはあまり思い出すことはなかった。たくさんの書物を読み知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠満たすあいだに、記憶《きおく》の彼方《かなた》にいつのまにか埋《う》もれていた。でも今日はなぜかよく思い出せた。
家族も使用人も、誰もが恐《おそ》れていた小さな灰色狼《はいいろおおかみ》、ヴィクトリカ。なにもかもを当て、見ていなかったことまで知り尽《つ》くすこの子供《こども》を、ブロワ侯爵家《こうしゃくけ》の人間は恐れた。かほどにブロワ侯爵家には秘密《ひみつ》が多かったのだ。
家族の秘密も然《しか》り。政治《せいじ》的な秘密――オカルト、世界大戦、消えたコルデリア、そして〈リヴァイアサン〉を巡《めぐ》る醜聞《しゅうぶん》――も然り。
侯爵はついに小さな灰色狼を塔《とう》の上に閉《と》じこめた。後に寄宿《きしゅく》学校から帰省し、妹の存在《そんざい》を知ったグレヴィールもまた、すべてを当てる恐るべき小さな異母妹《いぼまい》をことのほか恐れ、憎《にく》んだ。
だがあのとき、
グレヴィールは――
恐れていたヴィクトリカをあざ笑ったのだ。後にも先にも、ヴィクトリカを愚《おろ》かだと言い切ったのは、あのときのグレヴィールだけだ。
〈おまえはなにも知らない塔の中のお姫《ひめ》さまだ〉
グレヴィールは静かな声で言った。そのとき彼の頭はすでに尖ったおかしな形になっていて、なにを言っても様にならなかったが……。
〈わたしを絶望《ぜつぼう》させたいなら、悪魔《あくま》的な要求はこう告げるべきだ。もうジャクリーヌを愛すな、と〉
グレヴィールは笑った。
〈おまえには思いもつかなかったんだろう〉
ヴィクトリカは答えなかった。当時のヴィクトリカはいまよりもずっと小さくて、ずっとずっと人間らしくなかった。低いしわがれ声で混沌《カオス》を言語化し辺りを恐慌《きょうこう》に陥《おとしい》れるだけで、人間らしい会話など誰ともしたことがなかった。
〈こんなヘアスタイルぐらいなんでもない。ジャクリーヌの命が助かったんだから、それでいい。おまえには人を絶望させる力がないんだ。なぜなら、灰色狼は誰も愛したことがないんだから〉
ヴィクトリカは椅子の上で小さく体を揺《ゆ》らして、当時のことを思い出していた。グレヴィールの言葉の意味は、あのころの小さな灰色狼にはわからなかったのだ。
(いまは、わかるだろうか……?)
なぜか、遠くの街にいて、いま列車に乗って戻ってこようとしている、おかしな東洋人の友達のことを思った。
ヴィクトリカのほんのわずかばかりの、塔からも学園からも出て外の世界で冒険《ぼうけん》をした思い出……その中には必ず久城一弥がいた。ヴィクトリカの明晰《めいせき》なる頭脳には及《およ》びもつかないが、必要な知恵と、なにより優《やさ》しさが十分にある少年だった。いつもヴィクトリカを助けてくれた。そしてヴィクトリカもまた、崖《がけ》から落ちてしまいそうになった彼を必死で助けたのだった。
ヴィクトリカはそっと手のひらを開いた。
数週間前の冒険のとき、ヴィクトリカの小さな手のひらについた傷《きず》はまだ癒《い》えていなかった。ヴィクトリカにはこの傷が不思議でならなかった。自分はあのときどうして手をのばしたのか? どうして失いたくなかったのか? そして失わずに済《す》んだ後、涙《なみだ》が出るほどうれしく、なのに、どうしてこの傷を久城一弥に見られたくなかったのか?
あのときとっさにのばして力を込《こ》めたこの手は、ひとりぼっちのヴィクトリカのために、なにをつかんだのだろうか?
〈灰色狼は誰も愛したことがない……!〉
兄の声が蘇《よみがえ》るのを、ヴィクトリカは必死で押《お》さえようとした。
(そんなことはない。そんなことはないのだ……)
ヴィクトリカは椅子の上で体を揺らした。小さな揺れとともに、椅子がキィ、キィ……ときしむ。
その音に混《ま》じって……
かすかに嗚咽《おえつ》のような声が洩《も》れてきた。老女のようにしわがれた低い声が。
「そんなことはない。そんなことはないのだ……」
声に出してつぶやきながら、ヴィクトリカは体を揺らし、くすん、くすん……と悲しげに鼻を鳴らし始めた……。
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エピローグ 迷路
1
さて、その日の夕刻《ゆうこく》――。
ソヴュール警視庁《けいしちょう》での取り調べや証言《しょうげん》などを終えた一弥《かずや》は、今回の相棒《あいぼう》グレヴィール・ド・ブロワ警部をソヴレムに残したまま、一人で列車に乗り、聖《せい》マルグリット学園に戻《もど》ってきた。
小さな駅舎《えきしゃ》に降《お》り立ち、一つため息をつくと、きゅっと背筋《せすじ》を伸ばして生真面目《きまじめ》そうな顔つきをし、カッカッカッ……と靴音《くつおと》を響《ひび》かせて歩きだした。
「ぶもぉ〜…………!」
毛足の長い馬が荷車を引きながら通り過《す》ぎていく。
村はいつも通り、のんびりとした空気に満ちていた。村娘《むらむすめ》たちが口々におしゃべりし、楽しげな笑い声を上げて歩いていく。木骨《もっこつ》組みの家々から、咲《さ》き誇《ほこ》る真っ赤なゼラニウムが垂《た》れ下がって、初夏の乾《かわ》いた風に揺《ゆ》れている。
一弥の顔も次第《しだい》に緊張《きんちょう》を解《と》き、知らず笑顔《えがお》が浮《う》かんできた。のんびりと歩いて聖マルグリット学園に辿《たど》り着くと、ほっとしたように正門をくぐった。砂利道《じゃりみち》を踏《ふ》みしめ、庭園の中をゆっくり歩きだした。
「……先生。セシル先生」
コの字型をした大校舎の隅《すみ》にある事務室《じむしつ》にそっと顔を出すと、机《つくえ》に向かっていたセシル先生があわてて顔を上げた。一弥が立っているのに気づくと飛び上がって近づいてきた。
「久城《くじょう》くん! たいへんだったんですって? あの後、警察の人から連絡《れんらく》があって……」
「ええ、もう大丈夫《だいじょうぶ》です。ご心配おかけしてすみません。で、あの……」
一弥はもじもじした。セシル先生は不思議そうに、
「……あれ、どしたの?」
「事件《じけん》でばたばたしてて、その……買えなかったんです。〈青い薔薇《ばら》〉のペーパーウェイト」
「そ、そんなの……いいわよ!」
セシル先生はびっくりしてずり落ちた丸眼鏡《まるめがね》を両手で直しながら、叫《さけ》んだ。
「そんなことぜんぜん気にしなくていいから。……あ、そうだ!」
セシル先生は一弥に向かって小首をかしげてみせ、にっこりした。
「ヴィクトリカさんの熱、だいぶ下がったわよ」
「あっ……そうですか! よかった」
「ちょっとだったら、お見舞《みま》いに顔を出してもいいわよ。退屈《たいくつ》だ、退屈だって騒《さわ》いでたから」
「げげっ!?」
一弥の顔が途端《とたん》に曇《くも》る。
「どうしようかな……。ヴィクトリカが退屈だって騒ぐときはろくな目に遭《あ》わないんだよなぁ。退屈がってないときに会いたいんだけど、そんなときはないし……」
セシル先生はいやがりだした一弥をなぜか睨《にら》んだ。それから一弥の肩《かた》をくいくい押して、事務室から廊下《ろうか》に誘導《ゆうどう》していった。
「な、なんですか、先生……?」
「いいから、お見舞いに顔を出してあげて。ね?」
「は、はぁ……」
一弥は戸惑《とまど》いながらも廊下に出た。小脇《こわき》に抱《かか》えているものにちらりと目を落とす。セシル先生もつられてそれを見た。
それは赤いリボンをかけた小さな包みだった。セシル先生はなんとなく察したようにうなずいた。一弥は先生に「じゃあ……」と頭を下げ、廊下を歩きだした。
セシル先生はまたずり落ちた丸眼鏡を、両手でうんしょ……と直した。そうしながらため息|混《ま》じりに、廊下を遠のいていく一弥の、姿勢《しせい》を正したいかにも生真面目な背中《せなか》を見送った。
「もう、久城くんったら……」
事務室にゆっくり戻り、生徒のファイルの中から一弥の書類を取り出す。海の遥《はる》か向こう、極東の島国から送られてきた久城一弥の資料《しりょう》に目を落とした。
資料には彼の成績《せいせき》や品行について書かれていた。それから正装《せいそう》して座《すわ》った家族写真が一|枚《まい》添《そ》えられていた。
いかにも厳格《げんかく》そうな父親と、大きな兄二人。一弥は線の細い女性《じょせい》二人にはさまれていた。おそらく母親と姉だろう。あまり歳《とし》のちがわないらしい姉は、一弥にほっぺたをすりつけんばかりにくっついていて、一弥のほうは恥《は》ずかしそうにうつむいている。姉は漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》と濡《ぬ》れた黒猫《くろねこ》のような艶《つや》やかな髪《かみ》が印象的な、オリエンタルな美人だった。
セシル先生は写真をみつめながら、
「久城くんは成績はよいし、がんばり屋さんだし、真面目ないい子なんだけど……。なんというかこう、鈍感《どんかん》なところがあるのよねぇ……」
あきれたようにまたため息をついた。それから顔を上げて、窓《まど》の外で風に揺れる木々に目をこらした。
「退屈っていうのはもしかしたら、寂《さび》しいって意味じゃないかと、セシルは思うんだけどなぁ……」
――校舎《こうしゃ》を出て庭園の砂利道《じゃりみち》を再び歩き始めた一弥は、どこからか、
「久城くん!」
誰《だれ》かに名前を呼《よ》ばれたのに気づいて、足を止めた。
緑が眩《まぶ》しい広々とした芝生《しばふ》のほうで、アブリルが元気よく手を振《ふ》っていた。豪快《ごうかい》に胡座《あぐら》をかいて座《すわ》っていて、制服《せいふく》のプリーツスカートが開いた傘《かさ》みたいにふんわり広がっていた。
アブリルははじけんばかりの笑顔《えがお》で、
「おかえりー! ソヴレム、どうだった?」
「たいへんだった……」
一弥は頭をかきながら芝生に近づいていった。浮《う》かない顔に気づいたアブリルは急に心配そうな顔になり、芝生の上に散らかしていた雑誌《ざっし》やらノートやらをそのままに、立ち上がって一弥のほうに駆《か》けてきた。
「たいへんって? 久城くん、なにかあったの?」
「いや、その……。あ、そうだ。アブリル」
一弥はアブリルにも言わなくてはいけないことを思い出して、
「謝《あやま》らないといけないことがあるんだ。ソヴレムで、ちょっといろいろあって、ね……。頼《たの》まれてたもの、買えなかったんだ」
「……なにか頼んだっけ?」
アブリルが不思議そうに聞き返してきた。頼まれたものを買えなかったことでさっきから悩《なや》んでいた一弥は、拍子抜《ひょうしぬ》けして、
「頼んだよ! ほら……〈青い薔薇《ばら》〉のペーパーウェイト」
「……あぁ、そっかぁ!」
アブリルはうんうんとうなずいた。首をかしげて、
「べつにいいよぉ。気にしなくて」
「ほんとに? よかった」
一弥は胸《むね》を撫《な》で下ろした。
これがセシル先生やアブリルではなくて、ヴィクトリカだったら、と考えただけで、全速力で走って学園の外まで逃《に》げ出したくなった。ヴィクトリカだったらきっと、仕方なかったんだってば、などといういいわけになど聞く耳を持たず、ここぞとばかりに大喜びで一弥を虐《いじ》めまくるにちがいない……。
「アブリル、君っていい子だね」
一弥の顔をじっと覗《のぞ》き込《こ》んでいるアブリルの顔が、かっ、かっ、かっ……と少しずつ赤くなった。恥ずかしそうに飛び退《の》いて、あわてた声を出す。
「ええーっ? 久城くんったら、なに言ってるのよ。急に、なによぅ!」
「だって君、ぜんぜん怒《おこ》らないからさ」
「普通《ふつう》だってば。普通、そんなことで怒ったりしないってば。怒ら、な、い…………んん?」
真っ赤な顔を左右にぶんぶん振っていたアブリルは、急にあるものに視線《しせん》を吸《す》い寄《よ》せられた。首の動きも止まり、表情《ひょうじょう》も少しずつ変わっていく。
一弥のほうはそれにまったく気づいていないようだ。
アブリルがじっと見ているのは、一弥が小脇《こわき》に抱《かか》えた、赤いリボンが飾《かざ》られた包み紙だった。
ぷぅ、
ぷぅ、
ぷぅ……
と、三|段階《だんかい》くらいかけて、アブリルのほっぺたがふくらんでいった。一弥は驚《おどろ》いて、
「ど、どうしたの?」
「怒ったぁ!」
「ええっ? 怒らないって言った舌《した》の根も乾《かわ》かぬうちに? でも……なににだよ?」
「うー……」
アブリルは唸《うな》り声を上げた。
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それからとつぜん、
「えーい!」
一弥の持っていた包み紙を奪《うば》い取ると、芝生をだーっと走りだした。一弥がぽかんとして見送っていると、十メートルぐらい走ってから振り返り、なぜか頭の上に包み紙を乗せて、遠くから一弥に向かって高笑いし始めた。
「わははははー!」
「……なにしてるんだよ?」
「わはははー!」
それからなぜか落ち込み始めた。肩《かた》を落として小さく、
「……久城くん、ごめん。ぜんぜんなんでもないの。お願い。いまのははやく忘《わす》れて……」
それから走って戻《もど》ってきて、ふてくされたような顔をしつつも、一弥に包み紙を返してくれた。目尻《めじり》にちょっとだけ涙《なみだ》が浮かんでいる。
一弥はというと、つい先日も彼女がなぜか金色の髑髏《どくろ》を頭に乗せてなにやら主張《しゅちょう》していたことを思い出し、
(アブリルは明るくて楽しくて、とってもいい子なんだけど……ときどき、頭にへんなものを乗せるんだよなぁ……)
生真面目《きまじめ》に思い悩んでいた。
アブリルはしょんぼり肩を落として、芝生《しばふ》に戻ろうと歩きだした。それからちょっと考え、ぴたっと足を止めた。
顔を上げる。迷《まよ》いながらも、一弥に向かって聞く。
「あのね、久城くん」
「ん?」
「ええと、その……これはなんとなく聞いてみるだけなんだけど、その……」
「なんだよ?」
「あのね、ヴィクトリカさんって、どんな子?」
「ヴィクトリカ……?」
一弥は戸惑《とまど》ってアブリルをみつめた。とつぜん妙《みょう》なことを聞くなぁと思ったのだが、アブリルのほうはとても真剣《しんけん》な、そしてどこか悲しそうな顔をしてじっと一弥をみつめている。
一弥は答えようとしたが、なんといっていいのか皆目《かいもく》わからず、黙《だま》り込んだ。
(ヴィクトリカって、どんな子って言えばいいんだろう。ええと……)
一弥はさんざん逡巡《しゅんじゅん》した。
「えっと、いい子……じゃ、ないんじゃないかな。うーんと……だけど悪い子ってわけでもなくて、その……」
しばらく悩んでいたが、やがて先日のヴィクトリカ自身の言葉を思い出して、これがぴったりだろうと思い、口に出した。
「悪魔《あくま》的な子、だよ」
「……悪魔的ぃ?」
思いもかけない言葉だったためか、アブリルは不思議そうに首をかしげた。
そんな二人のあいだを、初夏の乾いた風がひゅうっ……と吹《ふ》きすぎていった。
やがて、一弥が「じゃあね」と手を振《ふ》って立ち去っていった後も、アブリルは芝生に戻りながら首をかしげ、またかしげ……悩《なや》み続けていた。
「悪魔的ぃ?」
芝生に座《すわ》って、今度は頭を抱えた。
「久城くんったら、女の子のことを悪魔的だなんて。うーん……。それって仲がいいのかな。よくわかんないや。うんん……?」
アブリルはまた芝生の上に胡座《あぐら》をかいた。
そして、そのままいつまでもいつまでも、首をかしげては真剣に悩み続けていた。
2
一弥は先日の朝と同じ場所に立って、複雑怪奇《ふくざつかいき》に入り組んだ迷路花壇《めいろかだん》を弱り切ってみつめていた。
人の背丈《せたけ》ほどもある生け垣《がき》が四角く刈《か》られ、色とりどりの花が咲《さ》き乱《みだ》れている。入り口から少し覗《のぞ》いただけで、ねじれて入り組んだ迷路の様子が見て取れた。うっかり入ったら二度と出てこれなくなりそうなわけのわからない迷路に嘆息《たんそく》していると、
「……どうした、坊主《ぼうず》」
ふいに足元から野太い声がした。
一弥は飛び上がり、数歩後ずさりながら足元を見た。生け垣の下から見覚えのある顔が覗いていた。日に焼けてなめし革《がわ》のようになった皮膚《ひふ》に、白い髭《ひげ》。……先日、学園と外を隔《へだ》てる生け垣を刈り込んでいた老|庭師《にわし》だ。
一弥が丁寧《ていねい》に、ヴィクトリカに会いにきたのだと告げると、老庭師は驚《おどろ》いたように、
「そりゃ、誰だ? この奥《おく》に人なんて住んでたのか」
ごりごりと頬《ほお》をかきながらあきれ声を上げた。
それから立ち上がり、一弥の頭が肩辺りにようやく届《とど》くかどうかという大柄《おおがら》な体を揺《ゆ》すって、迷路花壇の奥を指差した。
「迷路を近道する方法なんざ知らねえが、いつか迷路の真ん中に辿《たど》り着く方法なら、わかる」
「えっ……?」
「いいか。壁《かべ》伝いにずーっと行くんだ。遠回りだが、壁の一辺《いっぺん》を選んで伝っていけばいい。迷路の壁は全部つながってる計算だから、いつかは真ん中の場所に着くってもんだ」
「な、なるほど……」
一弥は礼を言って、勇気を出して迷路に一歩、足を踏《ふ》み入れた。
その頃《ころ》、ヴィクトリカは……。
いかにも囚《とら》われの姫《ひめ》らしく、窓辺《まどべ》で揺《ゆ》り椅子《いす》に腰掛《こしか》けて物憂《ものう》げにうつむいていた。オーガンジーのリボンとフリル付きの姫|袖《そで》でふっくらふくらんだ白いドレスに身を包んで、揺り椅子を揺らしながら、膝《ひざ》の上に置いた難解《なんかい》そうな書物を物憂げに……しかしすごいスピードでめくり続けていた。
さくらんぼ色をした小さな口にくわえているのは、今日は象牙《ぞうげ》のパイプではなく、白い細い棒《ぼう》だった。どうやらそれは棒付きの小さなキャンディらしい。かたわらの猫足《ねこあし》テーブルに、半透明《はんとうめい》のテディベアやお城《しろ》や耳の垂《た》れた兎《うさぎ》の形をした棒キャンディが乱雑《らんざつ》に散らかっていた。
口の中のキャンディを舐《な》めるたびに、ヴィクトリカのぷくぷくしたほっぺたの片方《かたほう》が大きくふくらみ、むぐ、むぐ、と動く。どうやらキャンディのことは忘《わす》れているらしく、その動きは無意識《むいしき》で、彼女の気持ちは難解そうな書物にのみまっすぐに注がれていた。
熱はだいぶ下がったらしく、顔色もいい。なにより、風邪《かぜ》に苦しんでいたときの気弱で寂《さび》しげな様子が消えて、いまのヴィクトリカは冷静で無表情《むひょうじょう》で、彼女を取り囲む空気もいつも通りの冷酷《れいこく》めいた透明さを保《たも》っていた。
やがて……
小さな家を取り囲む奇怪《きかい》にして難解な迷路花壇の向こうから、誰かがゆっくりと近づいてくる気配がした。ヴィクトリカの小さな耳が、飼《か》い主の帰りを聞きつけた小猫のそれのように、ぴくん、と動いた。しかしヴィクトリカは、気づいているのに顔を上げようともしない。書物のページをめくるスピードが急に落ちたほかは、一|枚《まい》の絵画のようなその姿《すがた》にはなんの変化もない……。
迷路花壇を抜《ぬ》けて、小柄な東洋人の少年が顔を出した。学園に戻《もど》ってきたばかりらしく、制服《せいふく》は着ていない。迷路に相当な苦労をしたらしく、はーはーと荒《あら》く息をしている。窓辺で澄《す》ましているヴィクトリカの姿にようやく気づくと、足を止めてじっと見入る。
ヴィクトリカはまだ我慢《がまん》していた。うれしそうな顔などするものか、と意地になり、知らんぷりを続けていた。
少年――一弥が笑顔《えがお》になった気配に気づいた。ヴィクトリカはまだ無表情のままだ。
一弥がゆっくりと近づいていた。ヴィクトリカはその足音にたったいま気づいたように顔を上げた。表情を変えず、老女のようなしわがれ声で、
「……なんだ、君か」
「そうだよ。ただいま、ヴィクトリカ」
ヴィクトリカはフンッとそっぽを向いた。
「だいたい君はならず者で、ばか者で、凡人《ぼんじん》で、電話|魔《ま》で、とんでもない男だ。君という男は、いったい何度電話をかけてくれば気が済《す》むのだ。そのたびわたしは、ベッドルームからこっちの電話のある部屋まで這《は》って出てだね、ついでに注射《ちゅうしゃ》を打たれたりしながら……」
がみがみと怒《いか》り続けるヴィクトリカを、一弥は窓の外に立ち、窓辺に肘《ひじ》をおいて頬杖《ほおづえ》をつきながら見上げていた。なにを怒《おこ》ってるのかな? と不思議そうにヴィクトリカの横顔を見ていたが、猫足テーブルの上に散らかる棒キャンディに気づくと、
「へぇ! きれいなお菓子《かし》だね」
ぱっと手を伸《の》ばして、オレンジ色をした垂れ耳兎のキャンディの包み紙をはがし、口に放《ほう》り込《こ》んだ。ヴィクトリカはあっと叫んだ。
「な、なんだよ?」
「わたしがいちばん気に入っていた兎のキャンディ! 最後に食べようと思っていた……!」
「なにそれ? 順番なんて関係あるの? 第一、キャンディの味なんてどれも同じだよ」
「……絶交《ぜっこう》だ」
「絶交はいやだって泣いてたくせに」
「!?」
ヴィクトリカが両手で一生|懸命《けんめい》持ち上げた、分厚《ぶあつ》い書物の角で頭を殴《なぐ》られた一弥は、涙《なみだ》を浮《う》かべて黙《だま》った。
夕刻《ゆうこく》が近づき、花壇《かだん》の花々にも眩《まぶ》しい初夏の夕日が降《ふ》り落ちている。花びらの一つ一つがまるで水に濡《ぬ》れたようにきらきら輝《かがや》いていた。
窓辺には清々《すがすが》しい水色の着物がカーテンのようにかけられて風に揺《ゆ》れていた。どうやら一弥の姉から贈《おく》られた着物は、ヴィクトリカの知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠ノよって、カーテンとして再《さい》出発することになったらしい。
また風が吹《ふ》いた。
一弥は、ソヴレムの劇場前《げきじょうまえ》で見かけたあの男、ブライアン・ロスコーについて話そうか話すまいか、しばし迷《まよ》っていた。しかし、たまたま同じ名前だっただけなのだろうと思い返して、余計《よけい》なことは言わないことにした。
二人はしばらく黙っていたが、やがて一弥が、
「……でもさ、ヴィクトリカ。それだけ悪態《あくたい》がつけるようになったってことは――君、だいぶ元気になったってことなんだね。よかったよ」
なぜか上機嫌《じょうきげん》で言うので、ヴィクトリカはじろりと睨《にら》みつけた。
「……なにを言っているのだ」
「ん?」
「けなされて喜ぶとは、君はよくよくおかしな男だな」
一弥はあわてて、
「よ、喜んでないよ! もちろん腸《はらわた》が煮《に》えくり返ってるよ。でも、それはいつものことだろ? 昨日の君みたいな、ぐったりして別人みたいに弱々しいのは、じつに気味が悪いんだよ。だから……つまり…………ぼくは、心配したんだってば」
「……その割《わり》にはずいぶん威張《いば》り散らしていたようだが。人のことを意地悪だのなんだのと……」
「そ、そうだったっけ? ……ごめんよ。気を悪くしてる?」
「もちろんだ」
ヴィクトリカはうなずくと、フンとそっぽを向いて書物に没頭《ぼっとう》し始めだ。
橙色《だいだいいろ》の鮮《あざ》やかな夕日が花壇に射《さ》し込んでいた。背《せ》を向けたヴィクトリカを窓《まど》の外から見守る一弥の横顔にも、夕日が射してかすかに赤く照らしている。
一弥は、どうやらまだなにか怒っているらしいヴィクトリカを前に、困ったように頭をかいていたが、やがて、小脇《こわき》に抱《かか》えていた包み紙をおずおずと差しだした。
「ヴィクトリカ……? ヴィクトリカー。ねぇ」
「……なにかね?」
「おみやげ」
「う……」
ヴィクトリカは胡散臭《うさんくさ》そうに一弥を見た。小声でつぶやく。
「やっぱり持ってきたか……」
しぶしぶ向き直ったが、しばらくのあいだ、警戒《けいかい》するようにじっと包み紙をみつめていた。
「……へんなものなのだろうね?」
「ちがうよ! 今回は……その、いいものだよ」
一弥が強く否定《ひてい》するので、おずおずと手を伸ばし、受け取る。
ヴィクトリカの小さな手が、相変わらず機嫌が悪いらしく、乱暴《らんぼう》に包み紙を剥《は》がしていった。
やがて中から小さな翡翠《ひすい》の靴《くつ》が転がり出てきた。片方《かたほう》だけの、小さなきらきらした靴……。一弥が選んだ靴の形のパイプ置きだ。ヴィクトリカが両手でそっと持ち上げた。それは夕闇《ゆうやみ》の中でぼんやりと幻想《げんそう》的に浮かび上がった。ソヴレムのパイプ屋のウインドウで見たときよりも、この花壇に囲まれた小さな家で、小さな少女の手に握《にぎ》られているいまのほうが、とてもきれいな置物に見えた。それはまるで夢《ゆめ》の中に入っていくための靴のようだった。一弥は内心得意になって、ヴィクトリカの顔を見た。しかしヴィクトリカの瞳《ひとみ》は……相変わらず不機嫌そうに細められていた。
と……。
ヴィクトリカが興味《きょうみ》なさそうに鼻をフンと鳴らした。一弥は、がぁんと内心めげながらも、「い、いらないかな……?」
「…………いる!」
ヴィクトリカは取りあげられまいとするようにあわてて、小さな両手で大切そうにパイプ置きを握りしめた。子供《こども》のように瞳《ひとみ》をまんまるに見開き、一弥を睨《にら》んでいる。
一弥はしばらくその顔をみつめていたが、やがてようやく気づいて、ぷっと吹きだした。
「気に入ったんだね?」
「…………」
かすかに「む」と返事が聞こえた。一弥はほっとして、窓枠《まどわく》に肘《ひじ》をついたままで、興味深そうにパイプ置きをいじくり始めたヴィクトリカを見守った。
「よかった。へへ」
ヴィクトリカは一瞬《いっしゅん》だけ顔を上げて、窓辺に頬杖《ほおづえ》をつく一弥の笑顔《えがお》を一瞥《いちべつ》したが、またパイプ置きに視線《しせん》を戻《もど》すと、熱心にいじくり回し続けた。
そのヴィクトリカの指に今日もあの魔法《まほう》の指輪――光によって色を変えるアレキサンド・ライトの指輪がはめられているのに気づいて、一弥はつぶやいた。
「物事には、二面|性《せい》っていうのがあるときが、あるんだね」
「……なんだね、いきなり」
ヴィクトリカが顔を上げ、気味悪そうに一弥を見た。
「いや……。つい数日前、ぼくは君に、世の中のことはなんだって理屈《りくつ》で説明できるなんてうそぶいたけどさ。それにしても、今回の事件《じけん》はとっても不思議だったんだ」
「ふむ?」
「いままでのぼくは、目に見えるものだけ、自分の目に映《うつ》る面だけを見てきたけど、じつはそれはちがうのかもしれないな……。世界の在《あ》り方だってそうだしね。生まれた国にいたときは見えなかったものが、こうしてソヴュールにきたことで見え始めたりもするし。世界が目に見えるものだけでできていないとしたら、ぼくはもうちょっと勇気を持てるし、もしかしたら……いまよりも強くなれるかもしれないなぁ、なんてことを考えたよ。うまく言えないけど、ぼくは……そんなことを考えたんだ。ヴィクトリカ」
「君自身は残念ながら、単純《たんじゅん》で凡人《ぼんじん》で、表も裏《うら》もない人間なのだがな」
「……ちぇっ。まあ、そうなんだけどね」
一弥はつぶやいた。
それから、ヴィクトリカの憂《うれ》いと高貴《こうき》さと退廃《たいはい》に彩《いろど》られた、不思議な小さな横顔をみつめた。
電話で事件のあらましを聞いただけでたちどころに混沌《カオス》を再構成《さいこうせい》してしまったヴィクトリカ。彼女が知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠ニ呼《よ》ぶ、その頭脳《ずのう》に秘《ひ》められた巨大《きょだい》にして奇怪《きかい》な空間――。
その迷路に自分も入り込みつつあるように一弥は感じていた。それはおそろしい感じもしたが、堪《こら》え難《がた》く惹《ひ》かれるなにかでもあった。
一弥もまた、ヴィクトリカを構成する奇怪な迷路《めいろ》の一部分になりつつあるのだ――。
「それにしても――。どうしてかな。ソヴレムにいるあいだ中、気づくとヴィクトリカ、君のことを考えてたよ。風邪《かぜ》を引いたって聞いてたからかなぁ。君はぜんぜんぼくのことなんて思い出しもしなかっただろうけどね」
「……当たり前だ。久城はまだかー、とか、一人で出かけてしまったのかー、とか、久城なら聞いてくれるのにー、とか、そんなことはまったく夢《ゆめ》にも神にかけても言っていない」
ヴィクトリカはなぜか頑強《がんきょう》に繰《く》り返した。ぶつぶつと「言ってないぞ……」とつぶやくその横顔には、焦《あせ》ったような不思議な表情が浮かんでいた。
一弥はヴィクトリカが焦っている理由がわからず、
「……そう?」
「そうなのだ!」
「も、もうわかったよ。そこまで言わなくてもさ……」
一弥はふてくされて黙《だま》り込んだ。
小さな家には、ヴィクトリカが書物をめくる音だけが響《ひび》き始めた。
やがて一弥がゆっくり口を開いた。
「それでさ、思ったんだけど、ヴィクトリカ。君って本当に不思議な人だね。ぼくにとっては、どんな謎《なぞ》よりも、君がいちばん不思議だよ」
ヴィクトリカがゆっくりと顔を上げた。
ちょっときょとんとしている。緑色の瞳《ひとみ》を瞬《まばた》きさせて、一弥をじっとみつめる。
それから、ゆっくり口を開いた。
「そうか……?」
一弥はうなずいた。
「うん。ぼくには、君みたいにたくさんの謎を解《と》き続けることは到底《とうてい》できないけどね。いつか君を巡《めぐ》る謎は解いてみせるよ。いつか必ずね」
「……勝手にしたまえ」
ヴィクトリカはフンとそっぽを向いた。その頬《ほお》が少しだけ赤くなっているようにも見えたが、気のせいかもしれなかった。
そのかたわらに座《すわ》った一弥は、迷路《めいろ》の真ん中の場所に辿《たど》り着く方法について逡巡《しゅんじゅん》しながら、小さな不思議な友達、ヴィクトリカの横顔をにこにこして眺《なが》めていた。
初夏の乾《かわ》いた風が吹《ふ》いて――
二人の金と黒の髪《かみ》をさらさらと揺《ゆ》らしていった――。
[#挿絵(img/03_297.jpg)入る]
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あとがき
みなさん、こんにちは。桜庭一樹です。『GOSICKV ―ゴシック・青い薔薇《ばら》の下で―』をお送りします。
今回はなんと、風邪《かぜ》を引いてバタンQのヴィクトリカを置いて、一弥《かずや》が一人で冒険の旅へ! しかしヴィクトリカはフリルとレースのベッドルームから、奇妙な事件に巻き込まれて苦しむ一弥に救いの手を差しのべます。ヴィクトリカの出生《しゅっせい》の謎《なぞ》を知る男とのニアミスや、奇妙な少女たちの失踪《しっそう》事件、ブロワ警部《けいぶ》のゴールデンドリルを巡《めぐ》る物語が交錯《こうさく》し……。
と、それらは本編を読んでいただくとして……。
あっ、今回は普通の長さのあとがきです。五ページだよ? なに書こう……。
そうだ、最近、一瞬|解《と》けそうになったけれどやっぱり解けなかった謎について書きます。一巻のあとがきに書いた「担当のK藤さんがなぜかブレインデッドと呼ばれてる」件です。
つい昨日、近所のビデオ屋さんで、まさに『ブレインデッド』というタイトルの映画をみつけました。これかい!? その映画を観ると謎が解けそうな気がしてはりきって手に取ったのですが、スチール写真が、裸で血まみれの男が「ぎゃー!!」と叫んでいて、そのお腹をなぜか、べつの人のぶっとい腕が内臓を食《く》い破《やぶ》ってにょっきり出ているという(いったいどういう状況でそんなことに?)ものだったので、「……こわい。やめよう」と思って借りませんでした。だから謎は解けなかった……。ごめん、この話はこれで終わりです。
あと、ザ・ゴールデンブラジャーのちょっとした近況を書きます……。
「わたし、思春期《ししゅんき》なの」と主張しています。
事の起こりは先週の土曜です。夕方にわたしの携帯《けいたい》に、金ブラと狛犬泥棒《こまいぬどろぼう》の両方から留守電が入りました。どちらも同じ内容で、二人で新宿にきてるからご飯食べようよ、というものでした。わたしがコマドロの携帯にかけ直して約束し、二人との待ち合わせ場所に行くと、なぜか金ブラが泣きそうな顔をして電柱にもたれていて、その傍《かたわ》らでコマドロがおろおろしていました。
どうやら、わたしが金ブラじゃなくてコマドロの携帯のほうにかけ直したのは「コマドロのほうが好きだからでしょー!」というのが彼女の主張で、わたしはあわてて、それはたまたまだよ、とフォローしたのですが「だって先週も別の友達が、やっぱりわたしじゃなくて別の子の携帯にかけ直したもん」と主張して譲《ゆず》りません。わたしもコマドロも真剣に心配して、とりあえずやつにおいしいご飯を食べさせ、お酒も飲ませて落ちつかせたところ……冒頭のへんな主張が出てきたわけです。
「わたし、思春期なの」
「ぶっ!?」
「笑うな! ……だって、小さなことがすごく気になって、不安になったり好戦的になったりするし。将来のことでも悩むしさ……。これって第二の思春期だと思う。だからなにが言いたいかっていうと、みんな、わたしにもっともっと優しくするべきだと思う。世界|規模《きぼ》で」
な、なんて独善的《どくぜんてき》な!
しかし確かに、毒舌《どくぜつ》で独善的になったかと思うとガラス細工《ざいく》のように傷つきやすく、将来の夢を描いては踊るほど楽しくなったり死ぬほど不安になったりを繰り返し、嵐のように気分が変わる……って、それは確かに思春期人間かも。甘酸《あまず》っぱいなぁ、もう!
そんな甘酸っぱい人はともかく、鼻血先輩のほうは……先月、一度大失敗をしました。
とある夕方、わたしが通っている空手道場を出たところ、通り雨が降ったみたいで自転車のサドルがびしょぬれになっていました。困っていたら鼻血先輩が道場から出てきて「ハンドタオル貸してあげる」と、鞄《かばん》からなにか取りだしてわたしに渡しました。
わたしは受け取ってサドルを拭《ふ》こうとして、明らかな違和感《いわかん》に気づいて、それをよく見ました。それは淡《あわ》いピンクで、レース模様《もよう》がついてて、タオルにしてはぽこっとふくらんでて……って…………。
「先輩、これブラジャー!?」
「ん? ……どへぇぇぇ! わたしの着替え!」
「なんでわたしにブラジャー渡すの!? ぎゃあ、汗にしっとり濡《ぬ》れた、人のブラジャー……いやだー!!」
「まちがえたー!! 恥ずかしい!!」
二人でパニックして、先輩がその場を跳《は》ね回《まわ》り、わたしが人のブラジャーを振り回していたところ、道場から中学生男子の後輩が出てきました。この子は、関係ないですが『スレイヤーズ!』の大ファンです。明らかに不審《ふしん》そうな目でこっちを見ているのに気づいて、わたしと鼻血先輩はあわてて素《す》を装《よそお》って「あ、おつかれ」「また明日ー」などと言いながらぶんぶん手を振って追い払いました。冷汗だらだらでした。
いろんなところに落とし穴があって、油断できない日々です。
あっ、もうそろそろまとめの時間が。
さて……今回も執筆《しっぴつ》に当たって、担当K藤さんを初め、関係各位の方にたいへんお世話になりました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。イラストの武田日向さん、またまたすごいです! 表紙のヴィクトリカの潤《うる》んだ瞳《ひとみ》と微熱《びねつ》ほっぺ! 迷路|花壇《かだん》や寝室、衣装《いしょう》のデザインも感涙物《かんるいもの》です。すごい〜……! これからもよろしくです!
そしてこの本を読んで下さった読者の皆さんにも、ありがとうございました。一巻、二巻に引き続き、この三巻も楽しんで読んでいただけたら幸いです。
さて、続く四巻では、ヴィクトリカと一弥が協力して、謎のベールに包まれた聖マルグリット学園の過去を追っていきます。そしてヴィクトリカとアブリルの初対面はなんと……! もしよかったら、楽しみに待っていただけたらなあと思います。
あと、ちょっと時間はかかってしまっているのですが……ファンレターには必ず目を通して、お返事を書くようにしていますので、ぜひぜひご感想などを送ってください。宛先《あてさき》は、
一〇二―八一四四 東京都千代田区富士見一―十二―十四
富士見書房 富士見ミステリー文庫編集部 桜庭一樹 です。
それから……『ファンタジアバトルロイヤル』で『GOSICK』の短編を連載中《れんさいちゅう》のほか、来月、同じ富士見ミステリー文庫から『砂糖菓子の弾丸は撃《う》ちぬけない A Lollypop or A Bullet』も発売されます。そちらもよかったら、見てみていただければうれしいです。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。それでは、また〜! 桜庭でした。
[#地付き]桜 庭 一 樹
[#地付き]〈桜庭一樹オフィシャルサイト〔SCHEHERAZADE〕http://sakuraba.if.tv/〉
底本:「GOSICKV―ゴシック・青い薔薇の下で―」富士見ミステリー文庫、富士見書房
2004(平成16)年10月15日 初版発行
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2006年04月21日作成
2007年08月28日いくつかのルビを纏めた
2007年09月27日校正
2007年10月12日校正
2009年05月18日校正
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このテキストは、Share上で流れていた
(一般小説) [桜庭一樹] GOSICK III 青い薔薇の下で.zip 21,599,977 5a42145e94ecfbfed8480ad6321a33d672a9572c
をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
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このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
底本は1ページ17行、1行は約42文字です。
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使用したWindows機種依存文字
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「V」……ローマ数字3
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html