GOSICKU
―ゴシック・その罪は名もなき―
桜庭一樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)咎人《とがびと》に非《あら》ず
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)買い物|袋《ぶくろ》を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)へんなもの[#「へんなもの」に傍点]はその床
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[#挿絵(img/02_000.jpg)入る]
表紙・口絵・本文イラスト 武田日向
表紙・口絵デザイン 桜井幸子
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目 次
プロローグ 咎人《とがびと》に非《あら》ず
第一章 ヴィクトリカ・ド・ブロワは灰色狼《はいいろおおかみ》である
モノローグ―monologue 1―
第二章 帽子《ぼうし》入れの栗鼠《りす》
モノローグ―monologue 2―
第三章 コルデリアの娘《むすめ》
モノローグ―monologue 3―
第四章 赤カブ提灯《ちょうちん》と〈冬の男〉
モノローグ―monologue 4―
第五章 森には秘密《ひみつ》が眠《ねむ》っている
モノローグ―monologue 5―
第六章 金の蝶《ちょう》
エピローグ 友達
あとがき
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登場人物
九城一弥……………………………日本からの留学生、本編の主人公
ヴィクトリカ・ド・ブロワ………知恵の泉を持つ少女
グレヴィール・ド・ブロワ………警部、ヴィクトリカの兄
アブリル・ブラッドリー…………英国からの転校生
コルデリア・ギャロ………………謎の人物
セシル………………………………教師
ミルドレッド・アーボガスト……シスター
アラン………………………………美術大学の学生
デリク………………………………美術大学の学生
ラウール……………………………美術大学の学生
セルジウス…………………………村長
シオドア……………………………前村長
ハーマイニア………………………メイド
アンブローズ………………………村長の助手
ブライアン・ロスコー……………謎の人物
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いっといで。マツユキソウをもたずに、帰るんじゃないのよ。
[#地から1字上げ]――『森は生きている』サムイル・マルシャーク
[#地から1字上げ]湯浅《ゆあさ》芳子《よしこ》訳 岩波少年文庫
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プロローグ 咎人《とがびと》に非《あら》ず
金色でまんまるくてきらきらと輝《かがや》いてるへんなものが――
暗闇《くらやみ》の中で光っていた。
そこは大きな屋敷《やしき》の奥《おく》にある狭《せま》い狭い部屋で、闇に沈《しず》み、頬《ほお》が切れるほどの張《は》りつめた静寂《せいじゃく》が立ちこめていた。
コルデリアはその金色でまんまるくてきらきらと輝いているへんなものを見下ろしていた。
――なにかしら?
綿菓子《わたがし》のような柔《やわ》らかな巻《ま》き毛が、コルデリアの頬にかかっていた。彼女は小さなかわいらしいメイドだった。子供《こども》みたいに小さくてふくふくとした手には不似合《ふにあ》いな、無骨《ぶこつ》な鉄の燭台《しょくだい》を握《にぎ》りしめていた。
蝋燭《ろうそく》の頼《たよ》りない橙色《だいだいいろ》の炎《ほのお》が、暗い部屋の床《ゆか》をほんの少しだけ照らし出していた。
へんなもの[#「へんなもの」に傍点]はその床にコロンと転がっていた。
コルデリアは手を伸《の》ばして、おそるおそる拾い上げた。
――きれーい!
それはすべすべしていて、顔に近づけてよく見ると、まんまるくて平たくて、人間の横顔が彫《ほ》り込《こ》まれていた。なぜか数字も書かれていた。いったいなんだろう?
蝋燭の炎が、コルデリアのひそめた息によって、ゆらりと揺《ゆ》れた。
へんなものもそれに合わせてきらめいた。
――こんなきれいなもの、見たことないわ!
コルデリアは瞳《ひとみ》を輝かせて、指の腹《はら》で何度も何度もへんなものを撫《な》でた。へんなものも撫でられてうれしいようにさらにきらきら光った。楽しそうにみつめていたコルデリアは、ふと気づいて、燭台を床にかざした。
右に、左に。
前に、後ろに。
闇に溺《おぼ》れる床を照らし出す。
――一つ、二つ、三つ。
コルデリアは不思議そうな顔になった。
――このへんなもの、たくさんある! いっぱい、いっぱい、床に落ちてる!
コルデリアは床にそろそろとしゃがむと、おそるおそる手を伸ばした。へんなものは床中に散らばっていた。金色のまんまるいものが蝋燭の炎を密《ひそ》やかに照らし返していた。コルデリアの小さなかわいらしい顔を黄金《こがね》色に染《そ》めていく。
――宝物《たからもの》! たくさんある! きれい!
コルデリアはうれしそうにへんなものを拾い集めていたが、あまりにたくさん落ちているので、拾いきれなくなった。
小さな顔が次第《しだい》に不安に歪《ゆが》んでいった。手から力が抜《ぬ》けて、へんなものは再《ふたた》び床にごぼれ落ちて音を立てた。
――これはなに? どうして落ちてるの? そうだ、ここにいるはずの……あの人は?
辺りをそうっと見回す。
部屋は闇に飲み込まれ、漆黒《しっこく》に染まっている。
コルデリアは震《ふる》える声であの人[#「あの人」に傍点]を呼んだが、答える声はなかった。少女の声は闇に吸《す》い込《こ》まれるように小さくなった。紅《あか》い唇《くちびる》がひきつる。
ジジ……ッ!
音を立てて蝋燭の炎が揺れた。
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第一章 ヴィクトリカ・ド・ブロワは灰色狼《はいいろおおかみ》である
よく晴れた午後――。
通りの左右に並《なら》ぶ木骨組《もっこつぐ》みの家々に絡《から》まる蔦葛《つたかずら》の葉も鮮《あざ》やかな緑色に染まり、ふわりふわりと優《やさ》しく吹《ふ》く春風に揺れている。空は高く、そろそろ初夏にも近づいた気候は、この地方ではもっとも過《す》ごしやすい日々と言える。
そんな穏《おだ》やかな昼下がり。
村の一角にある、蔦の絡まる小さな郵便局《ゆうびんきょく》の扉《とびら》が勢《いきお》いよく開いて、小柄《こがら》な東洋人の少年が飛び出してきた。村にほど近い山脈の麓《ふもと》に構《かま》えられた貴族《きぞく》のための名門、聖《せい》マルグリット学園の制服《せいふく》に身を包み、律儀《りちぎ》にも制帽《せいぼう》をきっちりかぶっている。
生真面目《きまじめ》そうに口を結んで、背筋《せすじ》をきりりと伸《の》ばして歩きだしながら、少年――久城《くじょう》一弥《かずや》はひとりごちた。
「……お金じゃなくって、本を頼《たの》んだんだけどなぁ。どうしてお小遣《こづか》いを送ってきたんだろ。ぼくの手紙と入れ違《ちが》いになったのかな。うーん……」
その手には、国際《こくさい》郵便で送られてきたらしい封筒《ふうとう》が握られていた。
「どうしようかな……。ま、いいか。とりあえず学園に戻って……」
一弥が思い悩《なや》みながら歩くその道に面した、小さな雑貨屋《ざっかや》さんの扉が開いた。買い物|袋《ぶくろ》を抱《かか》えてゆっくり出てきたのは、一弥と同じ聖マルグリット学園の制服に身を包んだ、背の高い少女だった。
金色のショートヘアにすらりと長い手足。大人びた顔つきをしたなかなかの美少女だ。彼女は前を歩く一弥に気づくと、パッと顔を輝《かがや》かせた。
「……あれ、久城くーん!」
とつぜん大きな声をかけられて、一弥は「うわっ!?」と声を上げて飛び上がった。その声に驚《おどろ》いたように、少女もまた「きゃっ!」と叫《さけ》んで飛《と》び退《の》いた。
それから、ぷぅっと頬《ほお》を膨《ふく》らませて一弥を睨《にら》んだ。
「もうっ! なんて声出すのよ。ビックリしたじゃない」
「なんだ、アブリルか……」
少女――アブリル・ブラッドリーは、一弥の反応《はんのう》が気に入らなかったらしく、しばらく頬を膨らませていたが、やがて笑顔《えがお》に戻《もど》り、
「なに持っているの? 手紙?」
「うん。あのさ…………うわっ、アブリル!?」
アブリルは一弥の手から勝手に封筒を取ると、無造作《むぞうさ》に中を覗《のぞ》き込んだ。
「あー、お小遣い!」
「うん……。兄がね、送ってきたんだ」
「いいなぁ! わたしの両親なんて、すっごくケチなの。女の子だからいろいろ買わないといけないのにね」
「ふう……ん?」
女の子だから、というところに首をかしげながらも、一弥は相づちを打った。
アブリルはうらやましそうな顔のまましばらく封筒を握りしめていたが、やがて渋々《しぶしぶ》、一弥に封筒を返した。
それからまた笑顔になり、
「ねぇねぇ、そのお小遣いでなに買うの?」
「ええっ? わ、わかんないよ。教科書もちゃんとあるし、着替《きが》えや日用品も、必要なものは国から持ってきたし、それにさ……。あれ? どうしたの、アブリル?」
一弥はあわてた。なぜかアブリルがこちらを横目で睨《にら》んでいたのだ。アブリルは両手を腰《こし》に当てて、
「必要なものと、ほしいものは、ちがうでしょ?」
「へっ?」
「久城くんって、ほんと真面目なんだから」
「ええっ?」
「アブリルちゃんが教えてあげる。あのねぇ、お買い物の醍醐味《だいごみ》はねぇ、いろいろ見て、なにを買うか迷《まよ》うことにあるのであって……」
「わかんないな。必要なものだけ買って、すかさず帰ればいいじゃないか」
「そんなことないってば。買い物は娯楽《ごらく》だもの」
「そうかなあ?」
首をかしげる一弥に、アブリルは次第《しだい》にムキになってきた。強い口調で、
「そうだ。久城くん、いいとこ連れてってあげる。いいからいいから」
「いや、あの……」
「あら? どうして足を踏《ふ》ん張《ば》って抵抗《ていこう》してるの? 行かないと、わたし怒《おこ》るよ?」
「……はい、すみません」
一弥はなんとなくいやな予感がしながらも、アブリルに強引《ごういん》に、学園に帰る道とは反対の方角にずるずると引っ張られていった。
時は一九二四年――。
ヨーロッパの小国、ソヴュール王国。
長い伝統《でんとう》を誇《ほこ》るソヴュール王国は、小さいながらも、今世紀初頭に起こった世界大戦を生き抜いた国力を持つ、西欧《せいおう》の小さな巨人《きょじん》と呼《よ》ばれていた。国土は塔《とう》を思わせる縦《たて》に長い形状《けいじょう》をしており、フランスとの国境《こっきょう》を豊穣《ほうじょう》な葡萄畑《ぶどうばたけ》、イタリアとの国境を貴族《きぞく》の避暑地《ひしょち》として栄《さか》える地中海のリヨン湾《わん》、スイスとの国境をなだらかな高原と深い山脈に囲まれていた。
小さいが豊《ゆた》かな国ソヴュールの、リヨン湾を豪奢《ごうしゃ》な玄関《げんかん》とするなら、アルプス山脈は、もっとも奥深《おくふか》い場所にある秘密《ひみつ》の屋根裏《やねうら》部屋であると言えた。そしてその秘密の場所に、ひっそりと、一つの学園がそびえていた。
聖《せい》マルグリット学園である。
周囲を緑に囲まれた過ごしやすい場所にある聖マルグリット学園は、空中から見るとコの字型をした荘厳《そうごん》な石造《いしづく》りの校舎《こうしゃ》でできていた。学園もまた、王国そのものほどではないがやはり長い歴史と伝統を誇っていた。生徒は貴族の子弟のみに限《かぎ》られ、学園関係者以外の立ち入りは固《かた》く禁《きん》じられた秘密主義の場所として知られていた。
しかし、世界大戦終結後――聖マルグリット学園は、一部|同盟国《どうめいこく》の優秀《ゆうしゅう》な生徒を留学生《りゅうがくせい》として受け入れ始めた。
極東の島国からやってきた久城一弥は、成績《せいせき》優秀で品行方正。軍人一家の末っ子で、兄二人もまた優秀であり、長兄は学者、次兄は政治家《せいじか》の卵としてすでに身を立てていた。そして一弥自身も優秀であり、また非常《ひじょう》に真面目《まじめ》な少年であると折り紙付きの推薦《すいせん》だった。
しかし、期待に胸《むね》を躍《おど》らせてやってきた一弥を待っていたのは、貴族の子弟たちの偏見《へんけん》と、なぜか学園中に蔓延《はびこ》る怪談《かいだん》ブームだった。一弥は学園になかなかなじめないまま、おかしな事件《じけん》に巻《ま》き込《こ》まれたり、おかしな友達ができたり、ここ半年ほど苦労の多い留学生活を送っているのである――。
「……それでね、その夜|遅《おそ》く、森に抜ける道を自動車で走っていた二人は、銀色に光るなにかに追い越《こ》されたの。あわてて窓《まど》の外を見ると、なんとそれは……全速力で走る騎士《きし》の甲冑《かっちゅう》だったのよ!」
「……それはこわいね」
「しかもその甲冑が、追い越した瞬間《しゅんかん》、自動車のほうをゆっくりと振り返ったの。ところが、その、中身、は……」
「それにしても、いい天気だなぁ」
「空っぽで、だぁれも、いな、かっ、た……………………きゃあああああ!!」
「うわあぁぁぁー!?」
「あはははは。久城くん、また悲鳴上げた。こわがりー。久城くんのこわがりー。あっはははー!」
アブリルが楽しそうに笑い声を立てるその横を、一弥はどこか憮然《ぶぜん》とした表情《ひょうじょう》で歩き続けていた。ぶつぶつと、
「だから、いまのは怪談の中身じゃなくて、君の大声に驚《おどろ》いたんだってば」
「またまた!」
「ほんとだよ! それにね、君、幽霊《ゆうれい》なんてものはいないよ」
「えー、いるよー」
「じゃ、アブリルは見たことある?」
「そりゃ、わたしはないけど……。でもね、わたしの友達の友達の友達が……」
熱心に話しながら歩いていく二人の横を、毛足の長い老馬が引く荷馬車がゆっくりと通り過ぎていった。
二人が歩く通りの左右には木骨組《もっこつぐ》みの家々が建ち並《なら》び、その白壁《しらかべ》の上を蔦葛《つたかずら》の葉が鮮《あざ》やかな緑色にうねっている。窓辺を飾《かざ》るゼラニウムの花が、鮮やかな深紅色《しんくいろ》の点となっておだやかな風に揺《ゆ》れている。
どこからか土や草の優《やさ》しい香《かお》りが漂《ただよ》ってくるのは、村の中心部から少し離《はな》れたところに、なだらかに広がる葡萄畑からだろうか。
穏やかな、優しい季節だった。
昼下がりの村道は次第《しだい》に人の数が増《ふ》えていくようだった。その道を、一弥とアブリルは相変わらず、幽霊がいる、いないでもめながらゆっくりと歩いていた。
いつになく強気の一弥についに論破《ろんぱ》されそうになったアブリルが、つまらなそうに、
「だって……幽霊がいたほうが、楽しいじゃない」
「そういう問題じゃないよ。だいたいね……」
「久城くんと仲がいい、あの、ほら、ヴィ……ヴィクトリカさんだっけ? あの子だって、じつは人間じゃなくて伝説の灰色狼《はいいろおおかみ》だって噂《うわさ》があるんだよ。友達が伝説の灰色狼かもって思ったら、毎日わくわくしない?」
「しないよ! ていうか、なんだよその噂。不謹慎《ふきんしん》じゃないか」
一弥は抗議《こうぎ》した。ただでさえ留学してから半年あまり、自分のことを死神だという怪談のせいでなかなか友達ができなかったり、苦労の連続だったのだ。どんなに流行《はや》っていても、怪談などとても好きにはなれそうにない。
と、アブリルが口を尖《とが》らせて、
「まったく、久城くんって真面目なんだから」
「うっ……」
一弥は開きかけた口をしょんぼりと閉《と》じた。
――一弥が生まれ育った東洋の島国では、男子たるもの余計《よけい》なことは言わず黙々《もくもく》と為《な》すべきことを為せと教えられてきた。一弥自身もそう思って、多少は無理をしてそのように心がけてきたのだが、どうもソヴュールに留学してからは勝手がちがうのだ。
仲良くなったこのイギリスからの留学生、アブリル・ブラッドリーにも、真面目だの頭が固いだのとからかわれること、しばし。それにもう一人の友達――それも女の子だけど――にも、中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才《しゅうさい》だの凡人《ぼんじん》だのと毎日のようにけなされて、一弥としてはおもしろくない。
「あ、久城くん。着いたよ、ここ、ここ」
アブリルが、一人で悩《なや》んだり怒《おこ》ったりしている一弥にはぜんぜん気づかず、上機嫌《じょうきげん》で指差した。一弥は顔を上げた。
村を縦横《じゅうおう》によぎる二つの村道の交差地点に当たる広場に、村人がたくさん集まっていた。広場に即席《そくせき》の青空市ができて、あふれるほどの品物と、やはりあふれるほどの買い物客でごった返している。
「今日は月に一度ののみの市≠ネの。わたし、これが楽しみでお小遣《こづか》いをためてたんだから」
「へぇ……!」
一弥はアブリルに手を引っ張《ぱ》られて、のみの市の真ん中に滑《すべ》り込《こ》んでいった。
――市にはさまざまなお店が軒《のき》を連ねていた。この日のためにわざわざやってきた古物商が並べているのは、前世紀に造られたと思われるアンティークの人形や、かわいらしい食器セットだ。一弥たちと同い年ぐらいに見える村娘《むらむすめ》がくすくす笑いしながら勧《すす》めてくるのは、手作りの香草《こうそう》入り石鹸《せっけん》やポプリの花束。色とりどりの草木|染《そ》めのスカーフがたくさんひしめく店には、穏やかな笑みを浮《う》かべた老婦人《ろうふじん》が店番をしていた。
一弥があまりの品物の多さに目を白黒させていると、誰《だれ》かに制服《せいふく》の端《はし》っこを握《にぎ》られて引っ張られた。
「あんた、見ていきなよ。絶対《ぜったい》見たほうがいいって。ねぇ、あんた」
やけに婀娜《あだ》っぽい声だった。
一弥が振り向くと、そこには声とはかなりイメージのちがう人が座《すわ》っていた。重苦しい尼服《あまふく》に身を包んだ若《わか》いシスターだ。
「ほら、見なってばよ。な?」
「は、はぁ……」
ずんずんと先を歩いていたアブリルが、一弥が後ろについてきていないのに気づいて、あわてて戻ってきた。そして、一弥が前にしている店を見ると、「あ!」と顔を輝かせた。
「教会のバザーだ」
「そうなの?」
「うん。久城くん、ここで買いなよ。教会のバザーはね、信者の人がいろいろ持ってきてくれた品物で開くから、ほかのお店より値段《ねだん》が安いんだよ。それにほら……このお店、かわいい!」
アブリルが言うとおり、シスターの前に広げられた品物は、手作りの繊細《せんさい》なレースや、きらきら輝くガラスの器《うつわ》、アンティークの指輪《ゆびわ》など、少し古めかしいけれど、男の子の目にもきれいだとわかるものばかりだった。
一弥は厳《いか》めしい顔をしてそれらを見回していたが、やがて一つのことに思い当たり、
「……よし、買うぞ」
「えっ、本当に?」
アブリルが少しびっくりしたように聞き返した。
一弥は真剣《しんけん》な顔をして品物をみつめている。
「うーん……とはいえ、よくわからない」
一弥は顔を上げて、売り子をしているそのシスターを見た。
尼服に隠《かく》されて髪《かみ》の色はわからないが、瞳《ひとみ》はスッキリとした切れ長で、見たことのない不思議な青灰色《せいかいしょく》をしていた。まるで砂漠《さばく》で見上げた空のような、寂《さび》しげだが印象的な輝きだった。年の頃《ころ》は十八、九|歳《さい》だろうか。
しかし、その禁欲《きんよく》的な尼服や澄《す》んだ瞳と、さっきのあまりにくだけた話し方、それに、椅子《いす》代わりの木箱に両足を広げて男のように座《すわ》る姿勢《しせい》は、どうもアンバランスだった。
それにさっきから、おおざっぱな動きで頭を掻《か》いたり、不機嫌そうに鼻を鳴らしたりしている。およそ尼服にはふさわしくない動きだった。そして細かなそばかすの浮かぶ白い顔も、見る人によって美しくも、変わった顔にも見えるような、どこか個性《こせい》的なものだった。
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「あの……」
話しかけようとして一弥は、シスターから甘《あま》ったるいような不思議な匂《にお》いが漂《ただよ》ってくるのに気づいた。香水とはちがう妙《みょう》な香《かお》り……。
(……あ!)
一弥は気づいた。
(これはお酒の匂いだ。でも……どうして教会のシスターからお酒の匂いが?)
それに、尼服の裾《すそ》からかすかに見える革靴《かわぐつ》の先が白く汚《よご》れていた。禁欲的な生活をしているはずのシスターが、昼間からお酒くさくて、靴も磨《みが》いていないなんてことが果たしてあるだろうか……?
「なにさ?」
シスターに面倒《めんどう》そうに聞き返されて、一弥はあわてた。
「あ、いえ、あの……その、女の子のおみやげにいいものがないかなと……」
「女の子ぉ?」
「は、はぁ」
恥《は》ずかしくなってきた。やっぱりやめようかな、と悩む一弥のかたわらで、アブリルの顔がぱぁっと輝いた。
一弥はレースの付け襟《えり》を手にとって、
「これなんかどうかな。よくわかんないけど……。アブリル、ちょっとそこに立ってて。あ、もうちょっとかがんで。うーん……もうちょっと。もっと。それぐらいだったかなぁ。いつも座ってるからよくわかんないんだよなぁ。うーん……」
一弥にきれいな付け襟を合わせられて、最初はうれしそうだったアブリルの顔が、かがんで、と言われるたびに怪訝《けげん》な表情になり、やがて不機嫌《ふきげん》そうにぷぅっとふくらんだ。その様子を、足を広げた男のようなポーズで座っていたシスターが、ポカンとして見上げていた。やがて事態《じたい》に気づくと、笑いをこらえ始める。
一弥がつぎつぎ、かわいらしい小さなハンドバッグや、古風だが上品なデザインの指輪などを手にとって考え込んでいると、アブリルがそれを全部|奪《うば》い取った。
「な、なんだよ。アブリル?」
「そんなの全然ダメ」
「えぇー?」
「……ねぇ、久城くん。これって、ヴィがつく人へのおみやげ?」
「うん、そう。学園から外にぜんぜん出られない……いや、出ないからさ。って、あれ? そういえば君、ヴィクトリカのこと知ってるの?」
「直接《ちょくせつ》は知らないけど……でも…………」
アブリルはつまらなそうに足元の小石を蹴《け》った。
それから顔を上げて、
「これがいいよ、絶対《ぜったい》!」
――こぶし大の、金色の髑髏《どくろ》を持ち上げた。
一弥より先に、見ていたシスターのほうがギョッとして息を呑《の》んだ。
「な、なにそれ? なんに使うの?」
「こうするの」
アブリルはまじめな顔で、頭の上に髑髏を乗せてみせた。
「うそだ!」
「ホントだってば。あとね、これ」
アブリルは絵葉書の山を見ていた村娘《むらむすめ》たちを押《お》しのけると、すごい勢《いきお》いで探《さが》し始め、鼠《ねずみ》の大群《たいぐん》が押《お》し寄《よ》せてくる模様《もよう》の絵葉書を取りだしてみせた。
「……やだよ」
「じゃ、これ」
王冠《おうかん》に似《に》たデザインの、インド風のきらきらした帽子《ぼうし》を取り上げてみせる。それをかぶったところは想像《そうぞう》できないが、帽子だけを見ると繊細《せんさい》な飴細工《あめざいく》のようで確《たし》かにきれいだったので、一弥は迷いだした。アブリルはそれを振り回してみせ、
「ほら、きれいでしょ。絶対喜ぶよ」
「う〜ん……?」
次第《しだい》に涙目《なみだめ》になっていくアブリルに、とうとうシスターが、同情したのか、それともおもしろ半分か、加勢《かせい》し始めた。
「ほんとだよ。それ、すっごくいいよ。アタシもほしかったんだよ。でも売り物だからさぁ」
「えぇっ? 本当ですか?」
アブリルとシスターは顔を見合わせた。それから同時に一弥のほうに向き直り、うんうんとうなずく。
――迷《まよ》うこと、数刻《すうこく》。
一弥はつい、インド風の不思議な帽子を買ってしまっていた。
シスターが広げる教会のバザーには、ほかにもたくさんの品物があった。パッと見回したときにいちばんに目につくのが、ドレスデン焼の美しい皿だった。一つだけ奥《おく》に飾《かざ》られたそれに、フェルト帽をかぶった痩《や》せた老人が目を留《と》め、シスターに値段《ねだん》を聞いた。
と、シスターは得意そうに胸《むね》を張って値段を言った。とんでもない高額《こうがく》だったので、一弥とアブリルは思わず顔を見合わせた。老人はう〜むとうなって、頭《あたま》を振《ふ》りながら離《はな》れていった。
絵葉書を見ていた村娘たちが顔を上げて、シスターに聞いた。
「そのお皿だけ、どうしてそんなに高いの?」
シスターがまた得意そうに胸を張った。
「アタシもよくわかんないけど、なんでもずいぶんと古い皿らしいんだよ。歴史があるから値打ちもんってわけさ。信者の奥さんが特別に出してくれたものでね。今日のメインはこれだよ」
村娘たちは、かわいらしい花や果物柄《くだものがら》の絵葉書を一|枚《まい》ずつ買うと立ち去っていった。「あのお皿、高〜い」「でもすごく古いし、いらないよ」などときゃあきゃあ言い合う声が、少しずつ遠ざかっていく。さきほどドレスデン皿の値段を聞いた老人が、まだあきらめきれないらしく、いかにも欲《ほ》しそうな顔で遠くから皿をみつめていた。かぶっていたフェルト帽を脱《ぬ》いで小脇《こわき》に抱《かか》え、どこかの店で買ったらしい小さな花瓶《かびん》を握《にぎ》っていた。
「……ねえあんたたち、これも買わない?」
シスターに声をかけられた。振《ふ》り向くと、シスターは品物の一つを指差していた。
「アタシのおすすめはこれだね。すごくかわいいし、値段も手頃《てごろ》だよ」
「ふぅ〜ん……?」
それは手のひらに乗るほどの大きさの四角い箱だった。オルゴールだ。アブリルが思わず手を伸《の》ばした。
「楽譜《がくふ》のカードを入れると、いろんな曲を演奏《えんそう》してくれるよ。手回し式でね。ほら、そこのレバーを……」
「これ?」
アブリルが左手にオルゴールを乗せて、右手でレバーを回した、瞬間《しゅんかん》……。
――パン!
大きな音がして、オルゴールがバラバラに解体《かいたい》した。そして中から白いものが……。
白い大きな鳩《はと》が飛びだして、バサバサと羽音を立て、青い空に飛び立っていった。
アブリルは「きゃっ!?」と叫《さけ》んで二、三歩後ずさり、それから一弥の顔を見て、
「な、なにいまの?」
周りの村人もみんな、驚《おどろ》いたように一弥たちのほうを見ていた。飛び立った鳩は広場の上空をのんびりと二周すると、ぽっぽー、と鳴いてどこかに飛び去っていった。
「………………あぁぁぁぁぁ!!」
シスターの叫び声が響《ひび》いた。
人々は彼女に注目した。シスターは両手を頬《ほお》に当てて、青灰色の瞳《ひとみ》を見開いて叫んだ。
「皿が!」
一弥たちも息を飲んだ。
シスターが震《ふる》える手で指差す。
そこにあったはずの……高価《こうか》な皿はいつのまにか煙《けむり》のように消えていた。
シスターが腰《こし》を抜《ぬ》かしたように座《すわ》り込んでいた。アブリルは驚きのあまり唇《くちびる》を震《ふる》わせている。
辺りを見回すと、さっき絵葉書を買った村娘たちは、少し離れた場所にかたまってきゃあきゃあ叫び声を上げていた。皿を欲《ほ》しがった老人は不思議そうな顔でこちらを見ていた。
誰かが「警察《けいさつ》だ、警察を……」とささやいたのが聞こえてきた。
一弥も驚いていたが、一方で、
(この事件《じけん》がいちばんのおみやげだったかなぁ……。ヴィクトリカへの…………)
少しだけ不謹慎《ふきんしん》なことを考えていた。
――聖《せい》マルグリット大図書館。
山間《やまあい》のなだらかな平地という地理をぞんぶんに生かして広々とした学園の敷地《しきち》の隅《すみ》に、のっそりと建つその建築物《けんちくぶつ》は、三百年以上の時を刻《きざ》んだ、古い、そして欧州《おうしゅう》でも指折りの巨大《きょだい》な書物庫である。角筒《かくとう》型をしたその塔《とう》は石造《いしづく》りで、風雨に晒《さら》された幾年月《いくとしつき》を刻み、荘厳《そうごん》そのものの様相であった。
コの字型をした大|校舎《こうしゃ》から図書館に続く白い砂利道《じゃりみち》を、一弥はインド風の帽子を片手《かたて》に握りしめて、早足で歩いていた。
「さっきの騒《さわ》ぎのせいで、いつもよりすっかり遅《おそ》くなっちゃったな。機嫌《きげん》が悪くなってなきゃいいけど……」
思わず独《ひと》り言を言う。
そして、図書館にいる例の友達が自分を待っているわけではないことを思い出して、気にしなくていいか、と続けてつぶやいた。それに彼女の機嫌がいいときなんてめったにないことも思い出して、ちょっとだけ顔をしかめる。
一弥は図書館の入り口に着いた。
真鍮《しんちゅう》の乳鋲《ちびょう》を打った革張《かわば》りの大きな扉がそびえていた。一弥は両手でドアノブを握りしめると、思い切り引いた。
図書館の中に満ちていた湿気《しっけ》のあるひんやりとした空気が、一弥の頬《ほお》をひやっと撫《な》でた。
埃《ほこり》と塵《ちり》と、知性《ちせい》の匂《にお》い。知らず敬虔《けいけん》な気持ちになる。
上を見上げる。
角筒型の大図書館の壁《かべ》いっぱいが、あふれる書物で埋《う》め尽《つ》くされていた。一瞬《いっしゅん》、壁の模様《もよう》なのかと見まごうが、それはすべて書物なのである。中央は吹き抜けのホールになっており、はるか上の天井《てんじょう》は荘厳な宗教画《しゅうきょうが》が描《えが》かれている。かすかに鮮《あざ》やかな緑色をした大きな葉も見える気がするが、たいがいの人は目の錯覚《さっかく》かと思うことだろう。図書館のもっとも上、天井近くに、南国の木々を思わせる大きく鮮やかな葉などあるはずがない、と。
一階のホール奥《おく》にはどこか不吉《ふきつ》な薄暗《うすくら》がりがあり、そこには今世紀になってから一部|修復《しゅうふく》工事の折りに取りつけられたという油圧《ゆあつ》式エレベーターが隠《かく》されている。とはいえそれは教職員《きょうしょくいん》ととある一人の生徒のみに許《ゆる》された乗り物で、一弥には無縁《むえん》のものだ。
一弥がこれから上ろうとしているのは、壁一面の巨大|書棚《しょだな》を危《あぶ》なっかしくつなぐ細い木の階段《かいだん》なのである。まるで上に上に向かって作られた巨大|迷路《めいろ》のように、細い階段はカクカクと直角に天井に向かっている。
一弥は知らずため息をついた。
「……それにしても、遠いよなぁ」
天井辺りの木製《もくせい》のてすりの向こうから、かすかになにかが垂《た》れ下がっている。
金色に輝《かがや》く帯のようなものだ。
彼女の長い髪《かみ》……。
「ま、でも、あそこにいるらしいな。仕方ない。上るかぁ」
一弥はぴしりと姿勢《しせい》を正し、カッカッと靴音《くつおと》を響かせながら細い木の階段を上りだした。下を見ると目が回るので、絶対《ぜったい》に見るまいと心に言い聞かせながら。
――一説によると、この大図書館は十七世紀初頭、当時のソヴュール国王によって造られたらしかった。恐妻家《きょうさいか》であった国王は、若《わか》い愛人との逢《あ》い引きに浸《ひた》るため、図書館のもっとも上の階に秘密《ひみつ》部屋を造った。そして、愛しあう二人のほかは誰《だれ》も上がってこれないように階段を迷路状に設計《せっけい》したのだ、と……。
確《たし》かに、あのいちばん上までわざわざ上がるような人間は滅多《めった》にいないだろう、と一弥は思った。よほどの理由があれば別だが……。
そんなことを思いながら、上がる。
階段を上がる。
上がる。
……まだ上がっている。
もう少し。
疲《つか》れてきた。
――ようやくいちばん上の階に着いた一弥は、少し息を切らしながら、そこにいるはずの友達の名前を呼《よ》んだ。
「ヴィクトリカー。いるー?」
返事はない。
それもいつものことだ。
一弥は一歩、進んだ。
その先にあるもののことはよく知っている。
そこにあるのは……。
――植物園だった。
大図書館のいちばん上の秘密部屋は、国王と愛人のためのベッドルームではなく、いまは緑|生《お》い茂《しげ》る植物園に改造《かいぞう》されていた。南国の樹木《じゅもく》やシダ、どこか毒々しい原色の花々が咲《さ》き乱《みだ》れ、風にさわさわと揺《ゆ》れている。
風は開かれた天窓《てんまど》から穏《おだ》やかな日光とともに入ってくる。
静かで満ち足りた、小さな楽園を思わせる場所だった。
その植物園から階段の踊《おど》り場に半身投げ出すように、かわいらしい陶《とう》人形が置かれていた。等身大に近い百四十センチぐらいの背丈《せたけ》を、絹《きぬ》や濃紺《のうこん》のベルベット、トーションレースなどをふんだんにあしらった豪奢《ごうしゃ》なドレスで包んでいる。長い見事な金髪だけがなぜか、編《あ》まれたりまとあられたりすることなく、小さな革靴を履《は》いた足元にまで流れ落ち、まるでビロードのターバンがほどけたかのようにその体にまとわりついていた。
うつむき加減《かげん》の横顔は、まさに陶器を思わせるひんやりと取り澄ました表情《ひょうじょう》。
大人とも子供《こども》ともつかない醒《さ》めた瞳は薄《うす》ぼんやりと見開かれ、明け方の夢《ゆめ》を見ているようにつかみどころがない。
その陶人形は口元に白い陶器のパイプをくわえ、ぷかりぷかりと吸《す》っていた。ほの白い煙《けむり》が天窓に向かって揺れながら上っていく。
一弥は一瞬立ち止まり、その静止画のような様子に思わずみとれた。それからいつもの表情に戻り、陶人形そのものに思える美貌《びぼう》の、しかしやけに小さな少女のもとに近づいていった。
「さっきからずっと呼んでたのに。返事しろよな、ヴィクトリカ」
「……なんだ、君か」
少女がほんの少しだけ口を開いた。
小さな姿とはかけ離れた、まるで老人のようにしわがれた低い声だった。少女――ヴィクトリカは一言だけ言うと、また口を閉《と》じた。
ヴィクトリカの前には、ページを広げられた書物が放射線状《ほうしゃせんじょう》にたくさん並《なら》んでいた。ラテン語やドイツ語、アラビア文字らしい蚯蚓《みみず》がのたくったような文字など言語もさまざまで、見るからに難解《なんかい》そうな本ばかりだ。ジャンルもまた、呪詛《じゅそ》に錬金術《れんきんじゅつ》、化学に高等数学、古代史と多岐《たき》にわたっている。
「君か、って。こんなところまで上ってくるのはぼくぐらいじゃないか」
「……以前はセシルがときどききていたがね。君に用事を頼むようになってからは、とんとご無沙汰《ぶさた》だな」
「ふぅ……ん」
一弥はうなずいた。
セシルというのは、久城一弥やアブリル・ブラッドリー、それにヴィクトリカ・ド・ブロワが所属《しょぞく》するクラスの担任《たんにん》の先生である。留学《りゅうがく》して半年、なかなか貴族《きぞく》の子弟たちになじめない一弥のことをなにかと心配してくれるのだが、いつの頃《ころ》からか一弥に、入学以来一度も授業《じゅぎょう》に出てこないという問題児、ヴィクトリカの世話や連絡係《れんらくがかり》を頼むようになった。一弥は渋々《しぶしぶ》、不思議な少女ヴィクトリカがいる大図書館に通うようになり、やがて一弥が巻《ま》き込《こ》まれたさまざまな事件《じけん》をヴィクトリカが解決《かいけつ》しているうちに、次第《しだい》に二人は気心が知れてきたのだが……。
くるたびに、ヴィクトリカのけんもほろろな、貴族特有の鼻持ちならない態度《たいど》に腹《はら》を立て、もう二度とくるもんかと心に誓《ちか》ったりしながらも、一弥はなぜか、相変わらずこの植物園に通い続けているのだった。
一弥はふと、ヴィクトリカのかたわらを見た。書物が山と積まれた床《ゆか》の上に、ウイスキーボンボンやマカロンなどのお菓子《かし》がたくさん転がっていた。ヴィクトリカのほうを見ると、書物を読み進めるのに夢中《むちゅう》で、自分で持ってきたらしいお菓子のことなど忘《わす》れているようだ。
「こんなに散らかして。君、だらしないなぁ」
一弥は文句《もんく》を言いながら、散らかったお菓子をかき集めて一所《ひとところ》にまとめようとした。
そんな一弥の様子はまったく気にも止めず、ヴィクトリカが話し出した。
「君、特別な民《たみ》≠ニいうものの存在《そんざい》を信じるかね?」
突然《とつぜん》の問いかけに、一弥は驚《おどろ》いて顔を上げた。ヴィクトリカはかまわず話し続ける。
「神話に出てくる神々のような人々のことだよ、君。たとえばギリシア神話の神々。北欧の巨人。中国にも天上人の伝説はある。君の国にもおそらくあることと思うが」
「ああ……まあ、そりゃ。でも、そんなの神話だろ?」
「大きく強く万能《ばんのう》な、ほかの種族から神々と恐《おそ》れられる人々。もし本当にいたとしたら、少しばかり愉快《ゆかい》ではないかね?」
再《ふたた》び散らかったお菓子を集めて整理することに没頭《ぼっとう》し始めた一弥には構《かま》わず、ヴィクトリカは滔々《とうとう》と語りだした。
「東欧の歴史を繙《ひもと》いてみるとだね、古代セイルーン人についての記述《きじゅつ》が多くみられるのだよ、君。古代からとりわけ戦《いくさ》の多かった東欧の地を制《せい》した、伝説の民族だ。彼ら一人一人は小柄《こがら》で非力《ひりき》であり、また数も少なかったが、頭脳《ずのう》によってその地を制した。九世紀にはバザール人と、十世紀から十一世紀にかけてはペチェネグ人と、十二世紀にはポロヴェツ人と勇敢《ゆうかん》に戦い、また十三世紀にはモンゴル人の来襲《らいしゅう》をも下した。彼らの民族は長く栄華《えいが》を誇《ほこ》った。春とともに攻《せ》めてくる騎馬《きば》民族、森に暮《く》らす獰猛《どうもう》な野生の狼《おおかみ》などを、ものともせずすべて下し続けたセイルーン人は、伝説の神々のようだと思うがね。だがいまはどこにもいないのだ。セイルーンと名の付く国家もない。どの書物を読んでも、十五世紀を境《さかい》に彼らに関する記述はぴたりとなくなる。彼らはある日とつぜん東欧の地から、いやこの地上から、煙のように消えてしまったのだ。果たして彼らは何処《いずこ》より来たりて何処へと消えたのか? そこでヒントとなるのは、十五世紀といえば魔女狩《まじょが》りと異端審問《いたんしんもん》の時代でもあったということだ。久城、君、村に行ってきたのかね?」
「……!?」
一弥はお菓子をかき集めていた手を止めた。目を白黒させながら、
「なんだよ、急に。えっ、どうしてわかったの?」
「君の行動などわたしにはお見通しだよ」
「……そりゃそうだけどさ」
ヴィクトリカは小さくあくびをした。そして、せっかく一弥がかき集めたお菓子の山に無造作に手を伸《の》ばすと、ぐちゃぐちゃにかき混《ま》ぜて中からお目当てのウイスキーボンボンをみつけだし、包み紙を剥《は》がすと、口に放りこんだ。
むぐむぐ、と小さな顔の中でほっぺただけが別の生き物みたいに動いた。彼女がぽんっと放り出した包み紙を、一弥が受け取って、きょろきょろゴミ箱を捜《さが》し、まるで見当たらないので仕方なく自分のポケットに入れた。ヴィクトリカはもごもごと食べながら、
「君の頭についている葉っぱは、学園内部にある樹木のものではないしね。だいいち、制服《せいふく》の胸《むね》ポケットから郵便物《ゆうびんぶつ》が覗《のぞ》いている。それに、いつもより遅《おそ》い時間にやけに急いでやってきたところをみると、午後の授業が終わった後でどこかに出かけたらしいとわかる。それだけだよ、君。きわめて簡単《かんたん》なことだ」
「……うん。そう聞くと、ね。でも、いつもビックリするよ。君はまるで見てもいないのに、ぼくの行動を全部当てちゃうんだもの」
ヴィクトリカがとつぜん顔を上げた。
そして、南国の海のようなきらめく緑色をした瞳《ひとみ》を大きく見開いて一弥をみつめた。
「それは簡単なことだ。湧《わ》き出る知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠ェ教えてくれるのだよ、君。五感を研《と》ぎ澄《す》まし、この世の混沌《カオス》から受け取った欠片《かけら》たちを、わたしの中にある知恵の泉≠ェ退屈《たいくつ》しのぎに玩《もてあそ》ぶというわけだ。つまり再構成《さいこうせい》するわけだ。気が向けば、君のようなつまらない凡人《ぼんじん》にもわかるようにさらに言語化してやることもある。……面倒《めんどう》なのでわざわざ言語化しないときのほうが圧倒《あっとう》的に多いのだがね。わかったかね、君?」
「またぼくのことを、凡人とかなんとかバカにしてさ……」
「いけないかね?」
ヴィクトリカは心底不思議そうに聞き返した。エメラルドグリーンの瞳がきらりと瞬《またた》いた。
一弥は肩《かた》をすくめて、
「だいぶ慣《な》れてきたけど」
「それはいけない。慣れというものは、君、知性の墓場《はかば》だよ。反省したまえ」
「反省? ぼくが? いまの話の流れでどうしてぼくが反省するのさ?」
一弥は怒《おこ》りながらも、しかし、本気で怒り切れない自分を感じていた。
――普段《ふだん》の一弥なら、よりにもよって、一国の代表になるほど優秀《ゆうしゅう》な学生である自分を凡人呼ばわりするなどということを、けして人に許《ゆる》さないはずだった。だがこの……入学してから一度も授業《じゅぎょう》に出たことのない、しかし難解《なんかい》な書物を簡単に読み飛ばしていく、風変わりで狂気《きょうき》じみた小さな少女に言われると、いつもなぜか黙《だま》り込んでしまう。
一弥はじつは、ヴィクトリカが何者なのかいまだよくわかってはいないのだった。貴族《きぞく》の妾腹《しょうふく》の子であるとか。一族の中ではなぜかとても恐《おそ》れられており、屋敷《やしき》に置いておきたくなくてこの学園に入れられたのだとか。母は有名な踊《おど》り子だが、発狂したとか。灰色狼《はいいろおおかみ》の生まれ変わりだとか。……学園で聞こえてくる噂《うわさ》は怪《あや》しげでいかにも怪談《かいだん》じみたものが多かったが、一弥自身はヴィクトリカにそういったことについて聞いたことがなかった。下司《げす》な好奇心《こうきしん》をもって人に接《せっ》するなどとんでもないと思ったせいでもあるし、なによりも小さなヴィクトリカが、どこか冒《おか》しがたい静かだが獰猛《どうもう》な雰囲気《ふんいき》を持って、知らず周囲を威嚇《いかく》しているせいでもあった。
なかなか人に慣れない小型の野生動物と少しずつ気心が知れてくるような……そんな日々ももう数か月を過ぎた。一弥はいつも、なんだかなあと思い悩みながらも、この奇妙《きみょう》な少女のために今日も迷路《めいろ》階段を苦労して上ってきてしまう……そんな留学《りゅうがく》生活なのだった。
「ところでさ、ヴィクトリカ。村に出かけた用事なんだけど……」
一弥は、もぐもぐとウイスキーボンボンを咀嚼《そしゃく》しながら読書にいそしむヴィクトリカに、めげずに話しかけてみた。
「郵便局に行き、郵便物を受け取るのが目的だったのだろう?」
「……うん。本当はある本を送ってくれって頼《たの》んだんだけどさ、行き違《ちが》いになったみたいで、長兄からお小遣《こづか》いが届いたんだ。なんでも、学者になってからの初月給だから、ぼくにも少し送るって」
「ふぅむ」
「で、ぼくにとっては臨時収入《りんじしゅうにゅう》だったから、これ、君におみやげ」
一弥が自信を持って差しだしたインド風の帽子《ぼうし》を、ヴィクトリカは顔を上げて面倒くさそうにちらりと見た。また書物に目を戻して……それから驚《おどろ》いたようにもう一度見た。
「それはいったいなんだね!?」
「なにって、帽子だよ」
「帽子なのか!? それは!?」
思わぬ食いつきに……しかし、喜んでいるのではなく驚いているらしい反応《はんのう》に、一弥はがっかりした。
「……へん?」
「へんだ!」
「そ、そっか……。いらないなら返してくるよ」
一弥がうなだれて帽子に手を伸《の》ばすと、ヴィクトリカが書物の前からごろりと一回転してきて帽子を奪《うば》い取り、また一回転して元の場所に戻ると、帽子を自分の体で隠《かく》すようにして、一弥とは反対側の床《ゆか》に置いた。一弥は怪訝《けげん》な顔になり、
「ほしいの?」
「君、わたしはへんだ、と言っただけだよ。いらないとは言っていない」
「でも……へんなら、君が気に入るものに取り替《か》えてもらってくるよ。……やっぱりレースの襟《えり》かきれいな指輪にすればよかった。ぼく、だまされたのかな。そういえばあのシスター、いかにも頭のおかしそうな人だったし……」
悩《なや》んでいた一弥がふと顔を上げると、ヴィクトリカは背中を丸めて熱心にインド風の帽子をいじくり回していた。猫《ねこ》が新しいおもちゃで遊びだしたような風情《ふぜい》で、かわいらしいと言えなくもなかったが、しばらくするととつぜん帽子を放《ほう》り出し、
「……あきた」
「あのね、君。帽子は遊ぶものじゃなくてかぶるものなんだよ。かぶる前にあきないでよ」
「退屈《たいくつ》だ」
「だから、その……えっ? 退屈って言った?」
一弥はいやな予感がして、逃《に》げ出す準備《じゅんび》を始めた。立ち上がって「そろそろぼく、寮《りょう》のほうに……」と言いかける一弥を、ヴィクトリカが横目で見た。そして、歩きだした一弥のズボンの裾《すそ》をぐいっと引っ張った。
一弥は思いきり転び、床で顔をしたたかに打った。
「イテッ!」
「退屈だと言っている」
「聞こえたよ! でも、そんなことぼくに言われても…………あっ、そうだ!」
一弥はむっくりと起きあがった。
「もう一つのおみやげのほう、すっかり忘《わす》れてたよ。さっき村ののみの市で帽子を買ったときにね、おかしな盗難事件《とうなんじけん》が起こったんだ……」
――のみの市で。
帽子を買って立ち去ろうとする一弥に、バザーの店番をしていたシスターが小さなオルゴールを勧《すす》めた。連れのアブリルが手に取った途端《とたん》、なぜかオルゴールは解体《かいたい》して、中から鳩《はと》が飛び出した。みんながそれを見上げているうちに、バザーに出品されていた高価《こうか》な皿が煙《けむり》のように消えてしまった。
もちろんその場にいた客たちは、一弥とアブリルも含《ふく》め、駆《か》けつけた警官《けいかん》が身体|検査《けんさ》をして潔白《けっぱく》を確認《かくにん》した。シスターは大騒《おおさわ》ぎして皿を捜《さが》してくれと言ったが、ついに会場からみつかることはなかった。
騒ぎのおかげで一弥とアブリルは帰りが遅《おそ》くなってしまい、学園の門限《もんげん》に遅《おく》れて、ぴたりと閉《と》じた鉄製《てつせい》の正門の前で呆然《ぼうぜん》と立ち尽《つ》くすはめになったのだ。
のみの市での一件を説明して中に入れてもらおうと言う一弥に、アブリルは「ここから戻ろ!」と、生け垣《がき》の中に密《ひそ》かに空けた抜《ぬ》け穴《あな》を案内した。
先週も門限破りをしてしまったアブリルは、こういうときのために鋸《のこぎり》で生け垣の頑丈《がんじょう》な枝《えだ》を二、三本|叩《たた》き斬《き》って置いたのだという。こんなことはいけないと言いながらも、一弥はアブリルに引っ張られて、抜け穴から学園に戻ってきた。
そういうわけで、一弥の頭には学園内にはない樹木《じゅもく》――つまり生け垣の葉っぱがくっついていたのである。
「でも、ずいぶんとおかしな事件だろ? オルゴールは手のひらに乗るぐらい小さくて、とても中に鳩が隠《かく》れられる大きさじゃないんだ。それなのに、ぽんっと解体した途端に白い鳩が飛びだした。しかも、同時に高価な皿がなくなったんだ。誰《だれ》もその場から逃《に》げ出していないし、皿はどこにもない……」
「……なんだ、そんなことか」
ヴィクトリカが大あくびをした。
一弥は目を瞬《しばたた》かせた。
あくびだけでは足らずに伸《の》びまでして、またいたずらに帽子をいじり始めたヴィクトリカに、
「どういうこと?」
「犯人《はんにん》は一人しかいない。久城、それは君のすぐそばにいた人なのだよ」
「えぇっ?」
「なんと単純《たんじゅん》な欠片《かけら》だ。こんなものは混沌《カオス》などとは呼《よ》べない。ああ、退屈だ。死ぬかもしれない。それぐらいひどく退屈だ。久城のバカ」
「……げっ」
一弥は少し腹《はら》が立って、投げやりに、
「じゃ、その帽子《ぼうし》でもかぶれば?」
「……うむ」
ヴィクトリカがインド風の帽子をかぶった。長い金髪《きんぱつ》を後ろに流して、王冠《おうかん》のようなそれをすっぽりとかぶる。小さな頭にちょうどいい大きさで、そうすると、ヴィクトリカはまるで遠い砂漠《さばく》の国のお姫《ひめ》さまみたいに見えた。
一弥が、似合《にあ》うよと誉《ほ》めようか、余計《よけい》なことを言うのはやめておこうか迷《まよ》っていると……。
遥《はる》か下界から、無骨《ぶこつ》な足音が飛び込《こ》んでくるのが聞こえた。革靴《かわぐつ》を履《は》いた大きな足だ。一弥が階段《かいだん》の手すりから階下を見下ろしたとき、ちょうど一階のホールで足を止めたその人物と目があった。
一弥はヴィクトリカのほうを振《ふ》り向いて、
「またきたよ」
「……むっ?」
ヴィクトリカはかすかに顔をしかめた。
ガタン、ガタン、ガタン――!
油圧《ゆあつ》式エレベーターが動き出す。
ヴィクトリカが少しだけ身じろぎした。
――ガタン!
鉄檻《てつおり》はひときわ大きな音を立て、植物園の前にある小さなエレベーターホールで止まった。
細い鉄製の檻の向こうに、若《わか》い男が立っているのが見えた。
キィッ、キィッ、キィッ……と、少し甲高《かんだか》い音を立てて檻が開く。
そこに、片腕《かたうで》を上に伸《の》ばしてもう片方の腕を腰《こし》に当てたナイスポーズで、おかしなヘアスタイルの男が立っていた。
仕立てのいい三つ揃《ぞろ》いのスーツに、派手《はで》なアスコットタイ。手首には銀のカフスが輝《かがや》いている。申し分のない伊達《だて》男なのだが、ヘアスタイルだけがなぜかおかしかった。輝く金髪の先端《せんたん》をドリルの先のように流線型に固め、そこだけがまるで人間|凶器《きょうき》のようだ。
一弥が小声で、
「……どうせ、いまぼくが話した事件のことを君に聞きにきたんだよ」
そうささやくと、ヴィクトリカは興味《きょうみ》なさそうにあくびを一つした。
男――ヴィクトリカの腹違《はらちが》いの兄であり、貴族《きぞく》の気まぐれで警察に勤《つと》めているグレヴィール・ド・ブロワ警部《けいぶ》は、革靴を鳴らしてさっそうと入ってきた。そして一弥たちに向かって自信たっぷりに、
「君、君たち、ちょっと話を聞きたいんだが、ね、ぇ……」
と言いかけて口をつぐんだ。
自信に満ちていた顔がゆっくりと蒼白《そうはく》に変わっていった。口を開き、目を見開き、まるで幽霊《ゆうれい》でも見たかのように指先を震《ふる》わせている。
一弥は驚《おどろ》いて自分たちの周りを見回した。一弥と小さな友達ヴィクトリカ――いまはインド風の帽子をかぶっているが――、それから書物の山と、お菓子《かし》と、植物園。
いつも通りだ。顔色を変えて驚くようなものはなにもない。
ブロワ警部は真っ青な顔で口をパクパクさせていたが、やがてようやく声を絞《しぼ》り出した。
「コルデリア[#「コルデリア」に傍点]・ギャロ[#「ギャロ」に傍点]…………ッ!? どうして貴様《きさま》がここに…………ッ?」
「……ちがう。わたしだ、グレヴィール」
ヴィクトリカが落ちついた声で答えると、インド風の帽子を脱《ぬ》いだ。
さらり、と絹《きぬ》のような金髪がこぼれ落ちた。
ブロワ警部は、蒼白の顔を次第《しだい》に怒《いか》りで赤く染《そ》め変えた。怯《おび》えきって叫《さけ》び声を上げたことに苛《いら》立つように、
「……ま、紛《まぎ》らわしい!」
「ねぇ、コルデリア・ギャロって何?」
一弥の問いを、このまったく似《に》ていない兄妹《きょうだい》はそろって無視《むし》した。一弥はうなだれて、
「わかったよ。聞かないよ。ちぇっ……」
ヴィクトリカはすねている一弥をまったく気にすることなく、パイプをくゆらしていた。やってきたブロワ警部もまたパイプを取りだして火をつけた。
天窓《てんまど》に向かって二本の煙《けむり》の線がゆっくりと上っていく。
やがてブロワ警部が、いつも通り話し始めた。
ほんの一瞬《いっしゅん》だけ雲が風に流れて太陽を隠《かく》したらしく、植物園の天窓から差し込む光が、ゆっくりと陰《かげ》った。それからまた柔《やわ》らかみを帯びた日射《ひざ》しが差してきて、一弥たちの上を照らした。わずかばかりの風が吹いて、南国を思わせる大きく分厚《ぶあつ》い葉を二、三度|揺《ゆ》らした。
「……というわけで、教会のバザーに出されたドレスデン焼の皿は煙のように消えてしまった。警官がその場にいた客たちを身体検査したが、どこからも出てこない。人の頭ぐらいの直径の皿らしくてね、もともと服の中などにかんたんに隠せる代物《しろもの》じゃないのだが」
警部は一弥のほうをみつめながら滔々《とうとう》と語っている。一弥は小声で、
「そんなの、ぼくは現場《げんば》にいたんだから知ってますよ。どうしていつもヴィクトリカのほうを見ないんですか?」
「なんのことだね? わたしはただ、目撃者《もくげきしゃ》の一人である君の話を聞きにきたに過《す》ぎない。どうやらここにもう一人誰かいるようだが、わたしにはよく見えないのだよ。さて、と……」
ブロワ警部は、ヴィクトリカの言うことがよく聞こえるように、左耳を彼女が座《すわ》る方向に向けて座り直した。尖《とが》らせた髪が天窓からの日射しに映《は》え、黄がかった明るい金色に輝いた。
ヴィクトリカは熱心に本を読み続けていた。題名がちらりと見えたところによると、それはさきほど彼女が語った、東欧の古代から中世にかけての歴史を綴《つづ》った書物らしかった。みっしりと細かい文字で書かれたその書物を忙《せわ》しくめくり続けている。
と、ふと顔を上げたヴィクトリカは、とても退屈《たいくつ》そうにあくびを一つした。
「……だから、さっきから言っているだろう、久城。犯人《はんにん》は君のとても近くにいた人だ、と」
「誰のことだよ?」
一弥が不思議そうに聞き返すと、ブロワ警部が彼を押《お》しのけるように身を乗り出した。
「わかったぞ。あの留学生《りゅうがくせい》だな!?」
「……どうして久城の連れが皿を盗《ぬす》むのだ。それに彼女は、久城といっしょに身体検査をされている。そうではなくて、もう一人そばにいただろう? ただ一人、身体検査をされていない人物が。考えてみたまえよ」
ヴィクトリカはそれだけ言うとまた書物に顔をめりこませた。一弥とブロワ警部は顔を見合わせて考え込んだ。
「もう一人って、もしかすると……あのシスター?」
「そうだ」
ヴィクトリカは一弥の問いにうなずくと、それきり二人のことは忘《わす》れたように、書物の世界に埋没《まいぼつ》した。
数刻《すうこく》が静寂《せいじゃく》のうちに過ぎた。パイプをくゆらしていたヴィクトリカは、ふと視線を上げた。
一弥とブロワ警部《けいぶ》が、なにか言いたそうな顔つきをして、ヴィクトリカが気づくのを待っていた。ヴィクトリカは口からパイプを離《はな》し、もう一方の手で床《ゆか》に転がったマカロンを拾うと包み紙をはがして小さな口に放《ほう》り込み、むぐむぐと咀嚼《そしゃく》し、それから一息ついて、言った。
「……なんだね? 人の顔をじろじろと」
「言語化してほしくて、待ってたの」
「わからないのかね!?」
ヴィクトリカは心底驚いたような顔をして二人の顔をみつめた。
それからパイプをくわえて一服|吸《す》い、口から離して煙をぷうっと吐《は》き、もう一つマカロンに手を伸ばすと口に放り込み、またむぐむぐと食べながら、
「君らは、本当に……バカなのだな」
「こらっ!」
一弥が怒《おこ》ると、ヴィクトリカはビックリしたように目を見開いた。ブロワ警部のほうはと言うと、怒りのあまり顔を青紫色《あおむらさきいろ》に染めて黙《だま》り込んでいた。ヴィクトリカは気にする様子もなく、
「皿を盗んだ犯人は、シスター以外にはあり得ないのだよ。久城、君の話を聞く限《かぎ》りではね。いいかね? 君の連れがシスターの勧《すす》めで小さなオルゴールを手に取った途端《とたん》、音を立てて解体《かいたい》した。オルゴールにもともとそのような仕掛《しか》けがしてあったためだ。そして同時に、中から白い鳩《はと》が飛びだし、広場にいた村人はみんな驚いて飛び立つ鳩を見上げた。しかし鳩はオルゴールの中から出てきたのではない」
「どういうこと?」
「シスターのスカートの中から出てきたのだよ」
「ス、スカート……?」
「久城、君は自分で言ったではないか。慎《つつし》み深いはずのシスターが、まるで男のように両足を広げて座っていたと。君はそのことに違和感を感じた。シスターのそのポーズには、しかし、理由があったのだよ。彼女は足と足の間にある物を隠していたのだ」
一弥はあのときの情景《じょうけい》をよく思いだしてみた。大きく足を広げて座っていたシスター。紺色《こんいろ》の分厚い尼服《あまふく》に体が覆《おお》われていて、その裾《すそ》は足元まで隠していた……。
「おそらく足の間に台のようなものを設置《せっち》して、そこに鳩を忍《しの》ばせていたのだ。客がやってきてオルゴールを手にした瞬間《しゅんかん》、スカートを持ち上げて鳩を放す。オルゴールが解体した瞬間にうまく合わせれば、まるでオルゴールの中から鳩が飛びだしたように見えるというわけだ。そして村人たちが驚いて鳩を見上げている問に、スカートの中に今度は皿を隠す。それから叫《さけ》んだわけだ。皿がなくなった、と」
一弥は驚いて、ヴィクトリカの顔とブロワ警部の顔を見比《みくら》べた。
「だって、でも……シスターはバザーを出していた本人なんだよ。それがどうして売り物の皿を盗むんだよ?」
「それは本人に聞いてみなければなるまい。しかしだね、君の話では、シスターは昼間からお酒くさかったそうだ。なかなか事情のありそうなシスターではないかね? それに、バザーの売り物は教会の持ち物で、売ったお金も彼女自身のものになるわけではない。となれば彼女も容疑者《ようぎしゃ》の一人であっておかしくあるまい。それから、だね……」
「うん」
「シスターの尼服と靴《くつ》をよぅく調べることだよ、君。チラリと見えた黒い革靴《かわぐつ》がところどころ白く汚《よご》れていたという話だがね。それはおそらく、スカートの中に隠していた鳩のフンだと推測《すいそく》できるよ。長い尼服に隠されたはずの靴に、なぜ鳩のフンが付着したのか。おそらく彼女にはうまい釈明《しゃくめい》ができないことだろうよ」
話すだけ話すと、ヴィクトリカは面倒《めんどう》くさそうにあくびを一つした。ついでにうーん……と伸びもして、目尻《めじり》に浮《う》かんだ涙《なみだ》もそのままに、また書物の世界に戻っていった。
一弥はかたわらのブロワ警部をチラリと見た。いつも真相がわかった途端にそそくさと帰っていくはずのブロワ警部は、今日はなぜか腕組みをして、険しい顔で考え込んでいた。
「……警部? どうかしましたか?」
「まいったな」
「えっ?」
「あ、いや……なんでもない!」
警部はあわてたように言うと立ち上がった。ゆっくりとエレベーターのほうに歩きだす。
一度|振《ふ》り向いて、なにか言いたそうな顔をしてから……。
口をつぐみ、鉄檻《てつおり》の中に消えていった。
「警部?」
「…………」
ガタン、ガタン、ガタタン――!
無骨《ぶこつ》な音を立てて、エレベーターが階下へ降《お》りていく。
――やがて、ブロワ警部の足早に去っていく足音が一階のホールから聞こえてきた。足音が遠ざかり静かになると、一弥はヴィクトリカに向き直って、聞いた。
「ところでさ」
「……む?」
「コルデリア・ギャロって誰? どうして警部はあんなにビックリしたのさ。なんのこと?」
「…………」
ヴィクトリカはずいっと一弥に背を向けると、書物に顔を突《つ》っ込《こ》んだ。一弥は「……ちぇっ」とつぶやいて、転がっていたマカロンを一つ口に放り込んだ。
少しずつ日が陰《かげ》ってきた。
風が止まったらしく、木々の葉の密《ひそ》かな揺《ゆ》れが止まった。
白い細い煙《けむり》が一筋《ひとすじ》、ヴィクトリカのくわえるパイプから天窓《てんまど》へ立ち上っていく。
一弥が黙《だま》ると、最上階の植物園は、ここ三百年余そうであったように、天上の世界を思わせる静謐《せいひつ》な静寂《せいじゃく》に包まれた――。
翌朝《よくあさ》。
一弥は起床時間ぴったりに、聖《せい》マルグリット学園|男子寮《だんしりょう》の自分の部屋で、起きあがった。
この男子寮は貴族《きぞく》の子弟たちのために、一人一人の個室《こしつ》を快適《かいてき》で豪奢《ごうしゃ》な部屋に工夫《くふう》されている。上質《じょうしつ》なマホガニー製《せい》の机《つくえ》やベッド。クロゼットには美しく刺繍《ししゅう》された垂《た》れ絹《ぎぬ》がかけられ、水差しは磨《みが》き込まれた真鍮《しんちゅう》製で、床《ゆか》にはふかふかとした毛足の長い絨毯《じゅうたん》が敷《し》きつめられている。
どの部屋も男の子が一人で使っているために少し散らかっているのが常《つね》だったが、一弥の部屋だけはいつもきっちり整頓《せいとん》され、万が一、塵《ちり》一つでも落ちていれば、すかさず一弥が拾ってはゴミ箱に捨《す》てていた。
その朝も一弥は、起きると顔を洗《あら》い、着替《きが》え、鞄《かばん》の中身を整理し、背筋《せすじ》を伸《の》ばして一階の食堂に降《お》りていった。ほかの男子学生たちはぎりぎりまで眠《ねむ》っていることが多いため、この時間に食堂に降りてくるのは一弥一人か、多くても二、三人がいいところだった。
食堂の隅《すみ》に置かれた木|椅子《いす》に、やけに色っぽい赤毛の寮母さんが足を組んで座《すわ》っていた。くわえ煙草《たばこ》で眉間《みけん》にしわを寄《よ》せ、朝刊《ちょうかん》を読んでいる。
一弥に気づくと立ち上がり、パンとフルーツ、軽くソテーしたハムの朝食を出してくれた。
そして、お礼を言って食べ始めた一弥が自分のほうをちらちら見ていることに気づくと、「……読む?」とけだるそうに聞き、手にしていた朝刊を一弥に渡《わた》してくれた。
一弥は朝食を取りながら、朝刊を隅々まで読んだ。
「……あれ? おっかしいなぁ?」
首をかしげる。
つい昨日ヴィクトリカが謎解《なぞと》きをしてみせたドレスデン皿|盗難事件《とうなんじけん》=B犯人がわかると即《そく》、自分の手柄《てがら》にしてしまうのが常《つね》のブロワ警部《けいぶ》が、なぜかこの事件に対しては、
〈ブロワ名警部、脱帽《だつぼう》!
消えたドレスデン皿、行方《ゆくえ》わからず〉
……こんな見出しで、犯人であるはずのシスターを捕《つか》まえた気配がなかった。
「おっかしいなぁ。いつもならすぐに捕まえて、翌朝の朝刊でお手柄だのなんだのってかき立てられているのに。どうしたんだろう……?」
そういえば昨日も、帰り際《ぎわ》のブロワ警部の様子が少しおかしかったな、と一弥は思いだした。
青紫色《あおむらさきいろ》の顔をして、いつになく無口で、なにか言いたそうな表情《ひょうじょう》を浮かべていた……。
「ネェネェ、久城くん」
顔を上げると、隅の木椅子に足を組んで座った寮母さんが、煙草を吹かしながら一弥を手招《てまね》きしていた。
「はい?」
「その朝刊のいちばん下のさ、三行広告があるじゃない。あたし、そこがいつもお気に入りで、読んでるんだけどね」
「どうしてですか?」
「だって、おもしろいのよ。家出した娘《むすめ》に呼びかける広告とか、仕事を探《さが》している人の宣伝とか、たまには犯罪《はんざい》を匂《にお》わせるような怪《あや》しい広告も載《の》るし。……でね、今日の広告」
一弥は寮母さんが指差す場所に目を走らせた。
そして首をかしげた。
そこには……。
〈灰色狼《はいいろおおかみ》の末裔《まつえい》≠ノ告ぐ。
近く夏至《げし》祭。我《われ》らは子孫を歓迎《かんげい》する〉
続いて、簡単《かんたん》な道のりの説明もしてあった。スイスとの国境《こっきょう》に近いホロヴィッツという小さな町の住所が書かれている。
「……なんですかね、これ?」
「さぁ〜、さっぱり。だけどさ、灰色狼って、ソヴュールじゃポピュラーな言い伝えなのよね。ほら、吸血鬼《きゅうけつき》とか雪男とかさ、国によっていろいろあるじゃない? ソヴュールでは昔から、楡《にれ》の茂《しげ》る山奥《やまおく》には静かなる灰色狼が住んでいるって言い伝えられてるのよ」
寮母さんは熱心に、
「灰色狼って、人間よりもずぅっと頭がいいんだってさ。だから、あんまり頭の回転がいい子が生まれると、母親は狼の子を生んだ≠チて言われて村から追いだされることもあったって。ま、昔の話だけど」
「ふぅ……ん?」
一弥は、ヴィクトリカのことを灰色狼の生まれ変わりだという怪談《かいだん》を思い出した。どうしてだろうとずっと腑《ふ》に落ちなかったのだが、いまの話で少しだけ理解《りかい》できた気がした。
要するに、頭がよすぎるからか、と……。
「……あ、おはよー」
寮母さんが顔を上げてつぶやいた。遅《おく》ればせながら、貴族《きぞく》の子弟たちが起き出して食堂にやってきたのだ。
一弥を見るとみんな伏《ふ》し目がちになり、黙《だま》って離《はな》れた席に座る。そんなことにもいい加減《かげん》慣れてきたので、一弥は気にせず立ち上がった。
寮母さんがどんどん彼らの前に食事を出していくのを横目で見ながら、食堂を後にする。廊下《ろうか》を歩き始めてから、さっきの広告のことを思い出した。少しは退屈《たいくつ》しのぎになるかな、とひとりごちながら食堂に戻り、
「この朝刊、借りていいですか?」
「あげるー。もう読んだから」
「あ、ありがとうございます」
一弥は朝刊を小脇《こわき》に、食堂を後にした。
寮の玄関《げんかん》を出た一弥は、背筋を伸ばして大校舎に向かう小道を歩いた。道の途中で、担任のセシル先生が芝生《しばふ》の上に立って小首をかしげているのが見えた。
小柄《こがら》な体に肩《かた》までのブルネット。大きな丸眼鏡《まるめがね》をかけたどこか幼《おさな》い雰囲気《ふんいき》の女性《じょせい》だ。そのセシル先生はなぜか、朝からがっくりとうなだれていた。
[#挿絵(img/02_059.jpg)入る]
「……おはようございます、先生」
「あら、久城くん」
一弥に気づいて、笑顔《えがお》になる。
「どうかしたんですか?」
「ううん、あのね……」
セシル先生は芝生の向こうにある木陰《こかげ》――学園の敷地《しきち》と外を隔《へだ》てる高い生け垣《がき》のほうだ――を指差してみせた。
「あの辺りにきれいな菫《すみれ》が咲《さ》いていたから喜んでいたんだけど、昨日|誰《だれ》かが踏《ふ》んでしまったみたいなの。残念だわ。でもね……あんなところ、いったい誰がどうして通ったのかしら。だって道もなにもないのよ。奥《おく》にあるのは生け垣だけだわ」
「うーん………………んっ?」
一弥は口をつぐんだ。
――そういえば昨日、自分とアブリルが門限《もんげん》に遅れて、生け垣に空いた抜《ぬ》け穴《あな》からこっそり入ってきたのがあの辺りだった。ということは、菫を踏んでしまったのは自分たちなのかも……。
しまった、と顔色を変える一弥には気づかず、セシル先生はしょんぼりしたまま立ち去ってしまった。
その日のお昼。
一弥は天井《てんじょう》のモザイクガラスから陽光が眩《まぶ》しく降《ふ》り注ぐ学園の大食堂で手早く昼食を取ると、そそくさと立ち上がった。パンを千切っていたアブリルがそれに気づいて、どこに行くのかしら? と不思議そうに一弥を目で追った。
一弥は敷地の外れにある大図書館に向かった。
昨日に比《くら》べて風が強く、そのせいか初夏に近い季節だというのに肌寒《はだざむ》く感じられた。
こんな時間に急ぎ足で校舎を離れていく生徒など一人もいない。無人の細い砂利道《じゃりみち》を歩きながら、一弥は寒そうに少し肩を縮《ちぢ》めた。
「……ヴィクトリカー?」
返事などしてくれないのをわかっていて、今日もまた、彼女の名を呼《よ》びながら細い木の階段《かいだん》を上がり続ける。
上がる。
……上がる。
…………ようやくたどりつくと、ヴィクトリカはいつ訪《たず》ねてもそうであるように、革張《かわば》りの大きな本をいくつも放射線状《ほうしゃせんじょう》に並《なら》べ、座《すわ》って……いや、今日は小さな体をうつ伏せに寝《ね》ころばせ、床《ゆか》に肘《ひじ》を立てて頬杖《ほおづえ》をついていた。ぷっくりとしたほっぺたが、小さな手のひらの上で柔《やわ》らかくつぶれている。もう片方《かたほう》の手はいつも通り陶製《とうせい》のパイプを持ち、口に近づけてはぷかりぷかりと吸《す》っている。
「そんな格好《かっこう》して。せっかくの洋服が汚《よご》れちゃうよ」
「……新聞に気になる記事でもあったのかね?」
一弥はなにか言いかけて口を閉《と》じた。内心(どうしてなんでもわかっちゃうんだろう?)と不思議に思いながらもヴィクトリカの横に座った。と……。
「……イテッ!?」
なにか丸くて固いものを尻《しり》で踏んづけた。お尻の下でカシャリと乾《かわ》いた音がして、それは潰《つぶ》れてしまった。あわてて腰《こし》を上げる。覗《のぞ》き込んでみると、それはヴィクトリカが床のあちこちに散らかしたお菓子《かし》だった。ココアのパウダーをふったマカロンだ。
一弥はあきれたように、
「またこんなに散らかして。ヴィクトリカ、床に直接《ちょくせつ》置かずにお菓子入れを用意しなよ。ぼく、踏んじゃったよ」
「あああああ!!」
顔を上げたヴィクトリカが、エメラルドグリーンの瞳《ひとみ》を大きく見開いて、驚愕《きょうがく》の表情を浮かべた。
「わたしのマカロンがぁ!」
「……潰れたけど。捨《す》てちゃうよ」
「それはいけない。責任《せきにん》を持って食べたまえ」
「ええ〜? だって、こなごなだよ」
「久城……」
みつめられること、数秒。
「食べろ」
「…………はい」
一弥はヴィクトリカの眼力《がんりき》に負け、こなごなになったマカロンの残骸《ざんがい》を仕方なく口に運んだ。
もぐもぐと咀嚼《そしゃく》しながら、改めて彼女のかたわらに座り直し、一弥は寮母《りょうぼ》さんからもらった朝刊《ちょうかん》を差しだした。ヴィクトリカはちらりとも見ず、書物に顔を突《つ》っ込《こ》んでいる。
「ブロワ警部《けいぶ》、昨日のドレスデン皿|盗難事件《とうなんじけん》、解決《かいけつ》してないみたいなんだよ」
「……うむ」
「びっくりしないの?」
「なにやら曰《いわ》くありげだったからな。しかし、ブロワ家の男共にはあまり関《かか》わりたくなくてね」
「ふぅ……ん」
「全員ヘアスタイルがへんなのだ」
「……あれ、全員なの!?」
ヴィクトリカは顔を上げ、ふわぁ〜とあくびをした。
「遺伝《いでん》だろう」
「そんなこと遺伝しないよ。それに、ヴィクトリカのヘアスタイルは普通《ふつう》じゃないか」
「わたしは母親の遺伝が強いのだ」
「ふぅん?」
一弥はうなずいた。
しらず遠い目になり、海の向こう、遥《はる》か遠くの島国に残してきた自分の家族のことを思い出す。軍人であり、厳格《げんかく》で常《つね》に正しいことを為《な》す、男の中の男のような父。二人の兄も父によく似た、器《うつわ》の大きな、だが大きすぎて少しばかりおおざっぱなところが気になる男たちだった。それとは反対に、母はおっとりして気の優《やさ》しい女性《じょせい》で、二つ違《ちが》いの姉もまた、母によく似たかわいらしい人だった。一弥は自分のことを、男の子なのにどうして父に似なかったのかなぁと思うこともあったが、それは大好きな母や姉を否定《ひてい》することに思えて、口に出したことはなかった。
「……ぼくも、母親似かなぁ」
返事はない。
かたわらを見ると、ヴィクトリカはパイプを口から離《はな》して、くうぅ、と伸《の》びをしていた。猫《ねこ》が伸びをするときのように、小さな体が意外なほど縦《たて》に長く伸びた。
「グレヴィールのことを言いにきたのかね?」
「うん。それもあるけど」
「君はよくよく、我《わ》がカボチャ頭の兄君のことがお気に召したようだな。一挙手一投足をチェックしている」
「逆《ぎゃく》だよ! 気に入らないんだってば!」
「……知っている。君が怒《おこ》ると少しばかりおもしろいので、からかったのだ。グレヴィールに関することとなると、久城、君はまことに怒《いか》りの沸点《ふってん》が低い。それはわたしにとってはとても奇妙《きみょう》で、そして少しばかり愉快《ゆかい》なことなのだよ」
「……悪かったね」
一弥はぶつぶつと文句《もんく》を言いながら、抱《かか》え込んでいた膝《ひざ》を伸ばした。それから朝刊の三行広告のページを開いて、ヴィクトリカの前に差しだしてみせた。
ヴィクトリカはその〈灰色狼《はいいろおおかみ》の末裔《まつえい》≠ノ告ぐ……〉で始まる広告に、じつに面倒《めんどう》くさそうに横目でちらりとだけ目を走らせた。
それからむくっと起きあがった。
一弥の手から朝刊を奪《うば》い取ると、新聞に睫毛《まつげ》がふれそうなほど顔を近づけて、何度も何度も、その広告を左から右に、また左から右に、首を振《ふ》っては読み返した。
「灰色狼の末裔≠ノ告ぐ……。近く夏至《げし》祭……」
「おかしな広告だろ。教えてくれた寮母さんによると、三行広告って、家出人への呼びかけから、仕事を求めるメッセージから、それに犯罪《はんざい》を想像《そうぞう》させる謎《なぞ》めいたものもあるんだってさ。これなんてとびきり不思議なメッセージだよね。ヴィクトリカ、君、退屈《たいくつ》だって言うからさ。下界の不思議を一つ拾ってきて、あげた………………どうしたの?」
ヴィクトリカがむくっむくっと立ち上がった。ゼンマイを巻《ま》かれた人形が動き出したような動きだった。その顔は、昨日のブロワ警部ほどではないが、彼女にしては動揺《どうよう》が見えるほどに蒼白《そうはく》になっていた。
「……どうしたの?」
ヴィクトリカは走りだそうとして、一弥が投げ出していた足につっかかって、転んだ。びたーん、とすごい音がした。釦付《ボタンつ》きの小さな革《かわ》ブーツの底が見えた。それから白いフリルのペティコート、刺繍《ししゅう》の入ったかわいらしいドロワーズが、一瞬《いっしゅん》ふわりとふくれあがって、倒《たお》れたヴィクトリカ本体の上にゆっくりと戻っていった。
「ヴィクトリカ?」
「…………」
静寂《せいじゃく》が数刻《すうこく》、続いた。
むくり、とヴィクトリカが起きあがった。
黙《だま》り込んでいるので、一弥は彼女の顔を覗《のぞ》き込んで「大丈夫《だいじょうぶ》?」と聞いた。ヴィクトリカは小さな両手を広げて、顔を押《お》さえていた。
「痛《いた》い」
「……だよね? すっごい音がしたもん」
「痛い」
「うん」
「…………痛いったら痛いのだ!」
「ぼくに怒らないでよ。自分で転んだんだから」
めずらしく自分のほうが優位《ゆうい》に立っているので、一弥は彼女を心配しながらも、少しうきうきと声をかけた。
「まったく、大丈夫? ほら、起きあがって。君、どこに行こうとしたんだよ」
「右側の書棚《しょだな》の、上から七|段目《だんめ》の右から三十一|冊目《さつめ》の本を取ろうとしたのだ。久城、君、取ってこい」
「へっ?」
「茶色い革張りで乳鋲《ちびょう》が打ってある分厚《ぶあつ》い本だ」
「……わかったよ」
ヴィクトリカが顔を押《お》さえたままで言うので、一弥は仕方なく、階段を少しだけ降りて、彼女が言う場所にあった本に手を伸ばした。木製の階段は危《あぶ》なっかしく、一弥の動きに合わせてみしり、と揺《ゆ》れた。
と、ヴィクトリカが降りてきて、不安定なポーズのままでいる一弥の背中《せなか》を、いきなりブーツの底で蹴飛《けと》ばした。思い切りの動きの割《わり》には、子供《こども》に押されたような小さな力だったが、不安定なポーズをしていた一弥はバランスを崩《くず》して転がり落ちそうになった。階段の上にもんどりうって倒れ、
「なっ、なにするんだよ!」
「ふふん。君もせいぜい気をつけたまえ」
「いまのは人災《じんさい》だ!」
――いまにも一触即発《いっしょくそくはつ》の空気を醸《かも》し出しながらも、二人はもとの植物園に戻《もど》り、ヴィクトリカが指示《しじ》した書物を前にした。
ヴィクトリカは慣《な》れた様子でその書物をめくりながら、マカロンを一つ口に放り込み、包み紙をぽーんと放《ほう》り出した。一弥がすばやく拾い、ポケットに入れる。
「……ソヴュールには昔から、山奥《やまおく》に入れば入るほど一つの怪談《かいだん》が幅《はば》を利《き》かせているのだよ。君も聞いたことがあるだろう。灰色狼≠フ怪談だ」
一弥はうなずいた。
「多くはいかにも作り物めいた伝説だが、ここに一つ信憑性《しんぴょうせい》のある資料《しりょう》があるのだ。十六世紀に書かれたとあるイギリス人旅行者の日記なのだよ。君、わたしはずっとこの記述《きじゅつ》について考えていたのだ」
ずいっとヴィクトリカが本を差しだしてくる。
ラテン語やギリシア語だったらお手上げだ、と思いながらおそるおそる覗き込むと、幸いなことに英語で書かれていた。昔風の言い回しに戸惑《とまど》いながらも、一弥は苦労してなんとかそのページを読んでいった。
『……一五一一年のことである。私はソヴュールとスイスの国境《こっきょう》に近いとある山脈で道に迷《まよ》った。道案内人は雇《やと》っておらず、方位|磁石《じしゃく》は狂《くる》い、暗い森をあてどもなく彷徨《さまよ》う。夜になり、獣《けもの》の気配に怯《おび》えた私は焚《た》き火を焚いた。野生動物は火を恐《おそ》れる。そして夜半近くになったとき彼≠ェ現《あらわ》れた。
まだ若《わか》い雄狼《おすおおかみ》だった。シルバーグレイの毛並《けな》みをもつ狼だ。彼はほかの動物とちがい、火を恐れなかった。落ち葉を踏《ふ》みしめてゆっくり近づいてきた。
死を覚悟《かくご》したそのとぎ、驚くべきことが起こった。
狼は口を開いた。口蓋《こうがい》が裂《さ》け深紅《しんく》の舌《した》が見えた。しかし彼は、私を食おうというのではなかった。
なんと彼は、語ろうとしたのだ。
灰色狼は物静かで、若さには似合わぬ知性と落ち着きを持っていた。山奥におり、話し相手も少なかったのだろうか。彼は私に問いかけ、私も答えた。深遠なるこの世の謎《なぞ》について、人々と獣の歴史について。気づくと夜は明けかけ、彼は私に森を抜《ぬ》ける道を教えてくれた。
別れ際《ぎわ》に、私は灰色狼と一つの約束をした。
人語を話す狼と逢《あ》ったことを、けして口外せぬ≠ニ……。
しかし私は約束を守ることができなかった。無事に戻った私は我慢《がまん》できず妻《つま》に話し、妻は兄に話した。巡《めぐ》り巡って役人の知るところとなり、私はその場所について子細に問いただされた。そして役人もまた同じことを私に約束させたのだ。
けして口外せぬ≠ニ……。
一年後。
私は再《ふたた》びあの山脈を訪《たず》ねた。
灰色狼に逢った場所にたどりつくと、すぐ近くに小さな村があった。あのときは夜で気づかなかったのだ。しかし村は無人だった。何者かによって焼《や》き払《はら》われ、無残な廃村《はいそん》となっていた。
役人どもの顔が脳裏《のうり》をよぎった。
私のせいなのだろうか。約束を違《たが》えた私の……。
大声で若き雄狼を呼んだ。
答える声はない。
だが……。
ガサリ、と落ち葉が鳴った。
振《ふ》り向くと、森の奥に消えていく何者かの影《かげ》を見た。シルバーグレイが一瞬《いっしゅん》だけ木々の間から見えた。
遠く遠吠《とおぼ》えが聞こえてきて、私は一心に山を降りた。無数の狼たちの咆哮だった。私は転がるように山を降りた。とつぜんおそろしくなったのだ。己《おのれ》の罪《つみ》が。ただ、走りながら私が思ったのは、一つのことだった。
彼らは生きていた。彼らは逃《のが》れたのだ。
いまもまだ山の中にいるのだ、と……』
一弥はなんとかその英語で書かれたページを読み終わった。ふう、と息をついて、ヴィクトリカに「読んだよ」と声をかけると、ヴィクトリカは驚《おどろ》いたような顔をした。
「君、いまずっと読んでいたのかね?」
「……悪かったね。ぼくは君ほど早く読めないんだよ」
「まったく、君の秀才《しゅうさい》ぶりの中途半端《ちゅうとはんぱ》さには恐《おそ》れ入るよ。わたしはまた、目を開けて眠《ねむ》っているものだとばかり思ったのだがね」
「うう……悔《くや》しい…………」
眉間《みけん》にしわを寄せてうなり始めた一弥をまったく気にも留《と》めず、ヴィクトリカは書物を取り上げると、忙《せわ》しくページをめくりながら話し始めた。
「元来この国には狼伝説が多い。それは人食い狼や、月夜に人を殺《あや》める人狼などといった血生臭《ちなまぐさ》い伝説とは異《こと》なる。静かなる灰色狼∞毛皮を着た哲学者《てつがくしゃ》≠ネどと……。これについてはさまざまな諸説《しょせつ》があるのだが。わたしが思うにはだね、一度この国を出て広い視野《しや》で思考したとき、初めてわかることも多いのだよ。そこで問題となるのが、狼伝説が生まれたのが意外にもここ数百年のことで、たとえば一三世紀|頃《ごろ》の書物など読むと、狼などというものはまったく出てこないということだ。つまりだね……」
滔々《とうとう》としゃべり続けるヴィクトリカを、一弥はぼんやりとみつめていた。話がよくわからないので、だんだん退屈《たいくつ》になってきた。
(そういえば……)
ふと、さきほどヴィクトリカがびたーんと転んだとき、痛《いた》い、痛いと繰《く》り返していたことを思い出した。
(ヴィクトリカって、痛いのが苦手なのかな? ま、確《たし》かにみんな痛いのはいやだろうけど、それにしても、一人で、この世の終わりみたいに大騒《おおさわ》ぎしていたものな)
さっき一瞬だけ優位に立ったあの瞬間のことを思い出して、一弥は知らずにんまりした。それに気づいたヴィクトリカが、
「……どうしたのだね、君? 気味の悪い顔をして」
「ヴィクトリカ、ちょっとこっち向いて」
「む?」
一弥は冗談《じょうだん》のつもりで、こちらに向き直ったヴィクトリカの、賢《かしこ》そうに秀《ひい》でた陶器《とうき》を思わせる白い額にびしっと軽くデコピンした。
もちろん痛くないようにほんの少し当てただけで、軽く音がしたかしないかという程度《ていど》だったが、くすくす笑う一弥のほうを見上げるヴィクトリカのエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》には、なぜか、みるみる涙《なみだ》が溜《た》まってきた。
「あはは、ビックリ、し、た…………? ヴィ、ヴィクトリカ!?」
「い、痛い」
「そんなはずないよ。軽くしたもん。おおげさだよ、君」
「痛い」
「な、なに言ってるんだよ。ヴィクトリカ」
ヴィクトリカは小さな両手で額を庇《かば》うようにして、ずりずりと後ずさった。まるでかわいがってくれていた飼《か》い主にいきなり蹴飛《けと》ばされた小猫《こねこ》のように、おびえて、信じられないという表情《ひょうじょう》を浮かべている。
「なんだよ、その反応《はんのう》!」
「久城、君がそんな男だとは思わなかった」
「えぇ〜っ? わ、わかったよ。ごめん。ごめんってば。そんなに痛かった? でもさ……うわ、ごめん」
「君とは一生口を利《き》かない。絶交《ぜっこう》だ!」
「まっさか〜?」
一弥はヴィクトリカのおおげさな言いようにしばらくくすくす笑っていたが、その後、どう話しかけてもヴィクトリカが自分に返事をせず、あろうことかまるでそこに誰《だれ》もいないかのように完全に無視していることに気づくと、はじめは悲しくなり、ついで腹《はら》が立ってきた。
(これはまるで、ヴィクトリカのことを無視するブロワ警部《けいぶ》みたいな態度《たいど》じゃないか。そうか。この兄妹《きょうだい》は、気に入らないことがあると相手がいないことにしちゃうんだな。それにしても……)
一弥は憮然《ぶぜん》として立ち上がった。
「ひどいのは君のほうだよ、ヴィクトリカ。なにが絶交だよ。ぼくはきちんと筋《すじ》を通して謝《あやま》ってるのに。君はわがままだよ。もう、知らないからな」
ヴィクトリカは返事をしない。
パイプをくゆらして、そこには誰もいないというように書物に没頭《ぼっとう》している。
「ぼくより本のほうが好きなんだよな、君は」
「…………」
「わかったよ。もうこない」
「…………」
「本当に、もう絶対、図書館になんてこないぞ。ヴィクトリカの……ヴィクトリカの、痛がり!」
一弥は叫《さけ》ぶと、持ってきた朝刊《ちょうかん》はそのままに、細い木|階段《かいだん》を勢《いきお》いよく駆《か》け降《お》りていった。
降りる。
降りる……。
……まだ降りている。
転びそうになった。
――やがてようやく一階のホールまで降りた一弥は、未練がましく天井《てんじょう》のほうを見上げた。一瞬《いっしゅん》、小さな白い顔がこちらを見下ろしているような気がしたが、つぎの瞬間あわてたように引っ込《こ》んだ。
「なんだよ。ヴィクトリカのやつ……」
一弥はもう一度つぶやいた。
「……本当に、もうこないからな」
遠くで、午後の授業《じゅぎょう》の始まりを告げる鉄鐘《てっしょう》が鳴り響《ひび》いた。
「本当だからな……」
重たい扉《とびら》を開くと、暖《あたた》かな陽光とともに、小鳥がピチチチ……と鳴く声も飛び込んできた。一弥は少しうなだれて図書館を後にした。重たい扉がゆっくりとまた閉まっていき、やがて図書館内部はまた、埃《ほこり》と塵《ちり》と知性の、静謐《せいひつ》で冒《おか》しがたい空気に包まれた。
ただただ、静まり返った。
夜になると聖《せい》マルグリット学園は、まるでこの世の終わりのような静寂《せいじゃく》に包まれる。誰もいないかのようにしんと静まり返った校舎《こうしゃ》や寮《りょう》の建物を、深遠な森にも似《に》た樹木《じゅもく》の多い庭園が囲い、暗い影《かげ》を落としている。時折、青白い月光が枝《えだ》や葉のあいだからうっすらと差し、また群青色《ぐんじょういろ》の綿雲《わたぐも》に遮《さえぎ》られて暗闇《くらやみ》になる。
この時間――といっても夕食が済《す》み、午後七時を少し回ったという、夜にしては早い時間だが――生徒たちは寮の各部屋で勉学にいそしむことになっていた。寮長と呼ばれる最上級生が定期的に下級生たちの部屋を見て回るほか、職員《しょくいん》である舎監《しゃかん》が玄関《げんかん》前の詰《つ》め所で生徒の出入りをチェックしている。
寮長は死神の噂《うわさ》がよほどこわいのか、一弥の部屋だけは見回ることなく通り過《す》ぎるのが常《つね》だった。しかしチェックされる必要もなく、一弥はいつも分厚《ぶあつ》い教科書を開いては、その日の授業の復習《ふくしゅう》と翌日《よくじつ》のための予習、そして英語とフランス語、特に苦手なラテン語の勉強に励《はげ》んでいた。
その夜も、一弥は窓際《まどぎわ》に置かれた勉強|机《づくえ》に向かって、ぶつぶつとラテン語の単語をつぶやきながら勉強していた。
ジジジ……と壁掛《かべか》けのガス灯《とう》が音を立てる。
分厚い勉強机の上には、教科書や文房具《ぶんぼうぐ》がきっちりと整理|整頓《せいとん》されて並んでいる。
一弥の顔は真剣《しんけん》そのものだ。
「…………?」
ふと顔を上げた一弥は、また教科書に視線《しせん》を落とそうとして……怪訝《けげん》な表情になり、もう一度窓の外を見直した。
暗い窓の外。
ゴブラン織《お》りのカーテンは月明かりのために開け放たれ、フランス窓も少しだけ開いている。
その外……暗い小径《こみち》を、なにかがずるずると動いているような気がした。
(なに……!?)
一弥は少し怯《おび》えながらも、フランス窓を大きく開けて外を見下ろした。
二階の端《はし》にある一弥の小さな部屋からは、まず芝生《しばふ》に覆《おお》われた敷地《しきち》が、そしてその向こうに樹木のあいだをうねって続く薄暗《うすぐら》い小径が、遠いとはいえよく見渡せた。
小径を……それ[#「それ」に傍点]が、きわめてゆっくりゆっくりと移動《いどう》していた。
それ……。
――巨大《きょだい》なトランクだ。
旅行用の大きなトランクが、誰も抱《かか》えていないのにゆっくりゆっくりと動いていた。わずかに……おそらく十センチほど動くとしばらく止まり、数秒後にまた十センチほど動くことを繰り返している。
ぴょこっ……ぴょこっ……ぴょこっ……。
遠く向こうの小径とはいえ、おぼつかない月明かりの下とはいえ、ほかになにも動くものがない中、トランクのぴょこぴょことした動きは、異様《いよう》な情景として一弥の目に焼きついた。
(トランクだけが、動いて、る……?)
どうやら学園の正門がある方角に向かっているようなのだが……。
ぴょこっ……ぴょこっ……ぴょこっ……。
一弥はしばらくポカンとしていた。
それから我《われ》に返ると、教科書も鉛筆《えんぴつ》も放《ほう》り出して立ち上がった。
窓辺に差し掛《か》かっている樹木の太い枝に、注意深くそうっと腕《うで》を伸《の》ばす。木登りなどは得意ではなかったが、悪気のないおおざっぱな兄たちに、もっと小さい頃《ころ》、笑いながら木の上に置いてきぼりにされたり、川に流されたり、よくしたのだった。それはいやがらせなどではなく、男の子は木登りや川遊びが好きだと思いこんでいる兄たちなりに、少し乱暴《らんぼう》にだが、年の離《はな》れた弟と楽しく遊んであげる行為《こうい》だったのだが……。
その頃に無理やり培《つちか》われた腕でもって、一弥は器用に樹木の幹《みき》をつたい、するすると降りていった。
頭の中には、一つのことしかなかった。
(下界の謎《なぞ》だ……。月明かりの下、動くトランク!)
奇妙《きみょう》な友達、ヴィクトリカに話すおみやげ話のつもりなのである。
一弥は樹木の枝から枝を伝って降りると、最後の二メートルほどの高さを、少しこわかったが、思い切って飛び降りた。
バサッ――!
枝が揺《ゆ》れて大きな音を立てた。
一弥は立ち上がると、足音を立てないように気をつけながらそうっと芝生を横切った。少しずつ少しずつ暗い小径に近づいていく。
トランクはまだ、ぴょこっ……ぴょこっ……と、少しずつだが確実《かくじつ》にどこかに向かって動き続けている。
一弥は次第《しだい》にわくわくしてくるのを感じてきた。この謎を拾ったら、また図書館に上がってヴィクトリカに話してあげようと思うと楽しみになり、気がはやった。
だが……。
トランクの後ろに回り込んで見極《みきわ》めようとした一弥は、しかし、角度が変わるにつれて見えてきた、トランクの後ろ側にあるものに、次第に不思議そうな表情を強めた。やがてその顔はあきれた表情に変わっていった。
トランクの後ろから……。
動きにあわせて、ぴょこっ……ぴょこっ……と覗《のぞ》いているのは……。
小さな足だった。
その足は、レースのついた革靴《かわぐつ》を履《は》いていた。豪奢《ごうしゃ》なドレスの裾《すそ》のフリンジが、動くたびに小さく揺れている。帽子《ぼうし》に飾《かざ》られたベルベットのリボンも、夜風に吹《ふ》かれて揺れていた。
もしかすると、ヴィクトリカなのではないか?
だが……。
「……君、いったいなにしてるのさ?」
一弥は芝生の上から、遠くの小径に向かって声を張《は》り上げた。
ぴょこっ……ぴょ……………………。
トランクの動きがぴたりと止まった。
とつぜん響《ひび》いた男の子の声に、ヴィクトリカがびくりと肩《かた》を震《ふる》わせた。一弥がトランクのさらに後ろのほうを覗き込むと、彼女はなぜか、巨大なトランクに小さな両手を這《は》わせて、ゆっくりゆっくりと引っ張っていたらしいとわかった。
ヴィクトリカが答えようとしないので、一弥は芝生を走り、小径に近づいた。近づいてみると、トランクはとても大きかった。上手に収納《しゅうのう》すれば、一弥とヴィクトリカの二人がすっぽり入れそうなサイズだ。
「君、なにしてるの?」
一弥がもう一度聞いた。
「う……む………………」
ヴィクトリカはなにか言いかけて、しかし口をぎゅうっと結んだ。知らんぷりしてまたトランクを引っ張り始める。
ぴょこっ……ぴょこっ……ぴょこっ……。
「どこか行くのかい?」
「………………」
「ねぇ、ヴィクトリカ?」
「………………」
「君、学園から勝手に出られないんだろ? 自分で言ってたじゃないか。それに、正門には鍵《かぎ》がかかっていて開けられないよ」
一弥たち聖マルグリット学園の生徒には、門限《もんげん》を過ぎた時間に勝手に外出することはもちろん許されていない。門はしっかりと鍵をかけられている。万一、強引《ごういん》に外に出たりすれば、その後はしばらく週末の外出を禁止《きんし》されるなどの罰則《ばっそく》があるし、もしかすると学園から両親に報告《ほうこく》されてしまうかもしれない。
そして、ヴィクトリカは――
詳《くわ》しいことは一弥にはわからない。彼女は如何《いか》なるときも学園の外に出てはいけないらしいのだ。グレヴィール・ド・ブロワがどこかに申請《しんせい》して外出|許可《きょか》を取り、彼女に同行した、あのときを除《のぞ》いて……。
しかし……。
「………………」
ヴィクトリカは一弥の問いに答えなかった。
トランクはゆっくりゆっくり、正門に向かって、毎分十五センチの分速で移動している。
「ど、どうして黙《だま》ってるのさ?」
一弥の声に、無視《むし》していたヴィクトリカが、驚《おどろ》いたように振り返った。
その顔には、信じられないという驚愕《きょうがく》の表情が張りついている。一弥は不思議そうに、
「な、なんだよ?」
「………………!!」
「しゃべれないの? あ、わかった。虫歯だろ?」
「!?」
ヴィクトリカは悔《くや》しそうな顔をした。
「そういえばほっぺたがふくれてるよ。右……あ、左も」
それはもともとだ! と言いたそうに、ヴィクトリカが眉間《みけん》にしわを寄せて歯ぎしりした。一弥のほうはそんな様子には気づかず、
「歯医者に行くの? それならこんな大荷物はいらないよ。開けてみなよ。うわっ、なんだよ、この荷物。着替《きが》えに、大きな鏡に、椅子《いす》!? 十人分のお茶セットに、君がすっぽり入れそうな大きな花瓶《かびん》に、あと、なにこれ……簡易《かんい》ベッドまで!? 君はいったいどこに行くんだよ。新大陸に移住する家族じゃあるまいし。こないだより荷物が大きくなってるじゃないか。君ってほんとにしょうがない人だなぁ!」
一弥はぶつぶつ言いながら勝手に荷物を減《へ》らし始めた。その横でヴィクトリカが両手両足をばたつかせ、無言で抗議《こうぎ》する。一弥は荷物を勝手にどんどん減らしながら、
「歯が痛い人は、おとなしくしてて」
「!?」
ヴィクトリカは両手でぷっくりとしたほっぺたを押《お》さえ、涙目《なみだめ》になった。
「いいかい? 歯医者に行ったらすぐ戻《もど》ってくるからね。後、この抜《ぬ》け穴《あな》のことは絶対《ぜったい》に秘密《ひみつ》だよ。アブリル……作った生徒にも迷惑《めいわく》がかかるから」
――数刻《すうこく》後。
一弥は小さくなったヴィクトリカの荷物を入れたミニトランクを片手にし、もう片手で、ふりほどこうとじたばたするヴィクトリカの手を握《にぎ》りしめて、アブリルに教えられた生け垣の抜け穴を抜けようとしていた。
ヴィクトリカの余計《よけい》な荷物を林の中に隠《かく》し、自分も部屋に戻って財布《さいふ》と上着だけを持ち、彼女を案内してきたのだ。
不満そうに浮《う》かない顔をしているヴィクトリカを振り返り、
「あ、しまった。忘《わす》れてた!」
ようやく思い出したか、という顔をしたヴィクトリカに向かって、一弥は足元を指差した。レースのついた小さな革靴《かわぐつ》を履《は》いた足。そのすぐかたわらに、夜露《よつゆ》に濡《ぬ》れて輝《かがや》く菫《すみれ》の蕾《つぼみ》が、ひっそりと揺れていた。
「花を踏《ふ》まないようにね。セシル先生が嘆《なげ》くからさ」
「…………!!」
ヴィクトリカはかすかにうなだれた。
――学園の外に出ると、一弥はヴィクトリカが勝手にどこかに行ってしまわないよう、彼女の小さな手を強く握りしめた。荷物も意外と重くてたいへんだ。しかしこの、頭脳明晰《ずのうめいせき》で口が悪く、しかしじつは学園の外にほとんど出たことがないヴィクトリカは、放っておいたらどこに行ってしまうかわからない。道に迷《まよ》ったり、交通機関の使い方がよくわからなくて泣いてしまうかもしれないし、もしかしたら古|井戸《いど》とか動物用の落とし穴などに落ちて、上がってこれなくなってしまうかもしれない。
さまざまな危険《きけん》な出来事を予想して、一弥は顔色を青くした。いっそう強く彼女の手を握りしめる。
そんな一弥の思いを無下《むげ》にするように、ヴィクトリカはふりほどこうと乱暴《らんぼう》に、一弥に握られたほうの手を上に下に右に左に振り回していた。
「イテテ、ヴィクトリカ。関節が。肩《かた》の関節が。脱臼《だっきゅう》する!」
「…………」
「歯医者はどこ? ヴィクトリカ」
「…………」
ヴィクトリカは黙って歩き始めた。
仕方なく一弥は後をついていく。
――やがてヴィクトリカは、いつぞやも一弥とともにきた場所にやってきた。村に一つだけある駅だ。小さな三角屋根の真ん中に丸時計が輝いていた。時間は七時過ぎを差している。
一弥が仰天《ぎょうてん》して、
「駅!? 君、もしかして機関車に乗るつもりかい? いったいどこに行くんだよ。歯医者じゃ……ない…………の?」
ヴィクトリカは知らんぷりして駅舎《えきしゃ》に入っていった。切符《きっぷ》を買うために、一弥の手を振り落として両手を自由にすると、駅員に小声で行き先を告げた。一弥はあわててヴィクトリカの手を引っ張り、
「ダメだよ。遠くに行ったら、学園の外に出たことがばれちゃうよ!」
「…………」
「それに、ぼく、財布しか持ってきてないし……」
「…………」
「戻ろうよ、ヴィクトリカ。君、いったいどうしたんだよ?」
「…………」
ヴィクトリカが一弥を振りきって歩いていってしまったので、一弥はあわてて駅員に、
「いまの子と同じ行き先、もう一|枚《まい》!」
「……ホロヴィッツに行くのかい?」
「ホロヴィッツ……?」
一弥はあわててうなずくと、切符を受け取ってお金を払い、ヴィクトリカの後を追った。
彼女の小さな後ろ姿《すがた》はホームの中程《なかほど》まで遠ざかっていた。一弥はあわてて走り寄《よ》り、
「ヴィクトリカ、君……」
「…………」
「どうして?」
ヴィクトリカはあくまで答えなかった。
小さな駅のホームが、やってくる蒸気機関車の震動《しんどう》に足元から大きく揺《ゆ》れた。空には星が瞬《またた》いていた。
改札を抜けて誰《だれ》かべつの客がホームに出てきたのが、遠く見えた。
しゅぽしゅぽと煙《けむり》を立てながら、黒い蒸気《じょうき》機関車がホームに到着《とうちゃく》した。
車掌《しゃしょう》が降《お》りてきて、真鍮《しんちゅう》のレバーを引き、ドアを開ける。
ヴィクトリカが乗り込《こ》むと、一弥は戸惑《とまど》いながらも、彼女の後を追って機関車にのってしまった……。
車掌が笛を吹《ふ》く。
ドアが音を立てて閉《し》まる。
(ホロヴィッツ……。三行広告に出ていた町の名前だ)
一弥は新聞広告のことを思い出した。確《たし》かあれには〈灰色狼《はいいろおおかみ》の末裔《まつえい》≠ノ告ぐ。近く夏至《げし》祭。我らは子孫を歓迎《かんげい》する〉という謎《なぞ》のメッセージが書かれていたのだ。
そして……。
(スイスとの国境《こっきょう》に近いホロヴィッツという小さな町の名前と、簡単《かんたん》な道のりが書いてあった。ここよりもずっと奥深《おくふか》い山脈の麓《ふもと》にある、小さな町の名前が……。でもヴィクトリカ、いったいどうして……)
一弥の心配そうな視線《しせん》をよそに、ヴィクトリカは一言もしゃべらない。
一弥のほうは、彼女がしゃべらない理由を思い出す気配もない。
(そういえばあの三行広告を見せたとき、ヴィクトリカのやつ、なぜか顔色を変えていたな。それに、アブリルから聞いたヴィクトリカの噂《うわさ》……。〈ヴィクトリカ・ド・ブロワは伝説の灰色狼である〉……。それからブロワ警部が叫《さけ》んだ謎の名前、コルデリア[#「コルデリア」に傍点]・ギャロ[#「ギャロ」に傍点]……。わからないことだらけだ。ヴィクトリカは押し黙《だま》っていて、しゃべらないし……)
一弥はひとりごちた。
(まったく、困《こま》ったな……)
ヴィクトリカのほうは、ボックス型の座席《ざせき》の一方にふわんと座《すわ》り、小さいのにレースとフリルのふくらみだけで二人分の座席を占領《せんりょう》していた。お人形が飾《かざ》られているかのように身動き一つせず、ただエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》だけが時折|瞬《まばた》きを繰《く》り返しているだけだ。
表情《ひょうじょう》は沈《しず》み、いつもより元気がないように見えた。でも、ぷっくりとしたほっぺたはいつも通り、まるで頬紅《ほおべに》をひとはけしたかのように暖《あたた》かな薔薇《ばら》色をしていた。
「……ありゃ、誰かいたのかぁ」
急にドアが開いて、一弥たちのいるボックス席に若《わか》い女が顔を出した。一弥は驚《おどろ》いて飛び上がった。
おそらくさっき駅のホームに入ってきたもう一人の客だろう。
「さすがにこんな時間になると客も少ないね。なんだか寂《さび》しくってさ。ご一緒《いっしょ》してもいいかい、お嬢《じょう》ちゃんたち?」
リラの香水《こうすい》を思わせる甘《あま》い、だが少しかすれた婀娜《あだ》っぽい声。一弥はその声に聞き覚えがあるような気がした。「どうぞ……」と言いながら顔を上げると、相手もまた一弥の顔に、あらっ? という顔をした。
「なんだ。あんたかい」
「いや、はぁ……」
そこに立っていたのは……。
重い尼服《あまふく》に、砂漠《さばく》の乾《かわ》いた空を連想させる寂しげな青灰色《せいかいしょく》の瞳。
あの、バザーでドレスデン皿を盗《ぬす》んだ若いシスターだった。
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モノローグ―monologue 1―
夜毎《よごと》――想《おも》い出すのは、血の記憶《きおく》である。
そう、あれ≠ヘもう遠い昔のことであるはずなのに、夜毎、鮮《あざ》やかな色と音と手触《てざわ》りで、想い返される。
ぶすりと鈍《にぶ》い音を立てて根元まで刺《さ》さった短刀の柄《え》が、真鍮《しんちゅう》の飾《かざ》りのついた豪奢《ごうしゃ》なものであったことも。
ダイヤガラスをはめた窓《まど》の外で、沈みかけた太陽が炎のように燃《も》えていたことも。
青ビロードの重いカーテンが、その瞬間《しゅんかん》風を受けてかすかに揺れ、しゃらりっ……と乾《かわ》いた音を立てたことも。
悲鳴一つ立てず崩《くず》れ落ちた男の胸から突《つ》きでた刃先《はさき》が、赤黒く輝《かがや》いていたことも。空気が漏《も》れるようなかすかな音が喉から洩《も》れた後、あの世でもあるかのようにしんと静まり返り、何者も冒《おか》せないほどの静寂《せいじゃく》が待っていたことも。やがて窓の外の陽《ひ》が完全に落ちて闇に包まれるまで、自分がそこに立ち尽《つ》くしていたことも。我《われ》に返り元の場所[#「元の場所」に傍点]に戻った後、ゆっくりとこみあげる喜びを一人|噛《か》みしめていたことも。
そしてあの声。かわいらしい声も。
――こんなきれいなもの、見たことないわ!
それもこれも、まるでついさっき起こった出来事のようだ。
忘《わす》れられない。
――囚《とら》われているのか。
人々は我らを灰色狼《はいいろおおかみ》≠ニ呼ぶが、それは間違《まちが》いである。
狼は同族を殺したりしないものだ。ことに、あんな理由[#「あんな理由」に傍点]では。
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第二章 帽子《ぼうし》入れの栗鼠《りす》
一弥《かずや》たちはしばらくしてとある駅で降《お》り、山脈の奥《おく》に向かう登山鉄道に乗り換《か》えた。
アプト式と呼ばれる、急|勾配《こうばい》の山を登るための歯|軌条《きじょう》がついたレールと、歯車付きの機関車。さきほどまで乗っていた機関車のような凝《こ》った窓《まど》や垂《た》れ絹《ぎぬ》のカーテンなどの装飾《そうしょく》がなくなり、車内はとても殺風景だった。照明も薄暗《うすぐら》くなり、気温も少しばかり低く感じられた。
ガタン、ガタタン――!
機関車がゆっくりと動き出す。
左右に大きく揺れながら。
レールの歯軌条と機関車の歯車がこすれあう金属《きんぞく》音が、床からきしりきしりと伝わってくる。
車内は月明かりにも似《に》た青白い光に包まれていた。となりに黙《だま》って座《すわ》るヴィクトリカの薔薇《ばら》色をしているはずの頬《ほお》も、いまはほの青く染《そ》まっている。壁掛けのランタンに青白いガラスをはめこんである。月光に似た薄明かりはそのランタンから、たゆたうように二人の上に落ちてきているのだった。
「……ありゃま。また奇遇《きぐう》じゃないのさ?」
二人が座っていた個室《こしつ》の薄い扉《とびら》を乱暴《らんぼう》に開けて、若《わか》い女が入ってきた。……さっきまで一緒《いっしょ》に前の機関車に乗っていたシスターだ。
一弥は驚《おどろ》いて、
「えっ? あの、あなたも……?」
「ええ。まったく、あんたたちどこに行くのさ?」
それはぼくも知りたい……とひとりごちながら、一弥はヴィクトリカのほうをちらりと見た。
相変わらずヴィクトリカは強情《ごうじょう》に黙り込んで、一弥を無視《むし》していた。一弥のほうが戸惑《とまど》っていろいろ質問《しつもん》するたび、明らかにさらにへそを曲げているようだった。さっきは歯が痛《いた》いからだろうと思ったのだが、どうもそうではないらしい。腫《は》れている気がした彼女のほっぺたも、そういえばもともとこれぐらいふっくらしていた気もしてきて、一弥は混乱《こんらん》していた。
二人の前にどっかりと腰《こし》を下ろしたシスターに、一弥は困《こま》ったような顔をした。さっきから、ヴィクトリカにシスターのことを話したくてたまらなかったのだ。目の前で話すわけにはいかないから、こちらの登山鉄道に乗り換えてからゆっくり話そうと思っていたのだが、まさかまたシスターと同乗することになるとは……。
仕方なく、一弥は身振り手振りでヴィクトリカに例のことを伝えようとした。
例のこと……。
シスターが、ヴィクトリカが推理《すいり》した〈ドレスデン皿|盗難事件《とうなんじけん》〉の犯人《はんにん》であるということだ。
なぜかブロワ警部《けいぶ》が犯人を逮捕《たいほ》することなく、迷宮《めいきゅう》入りになりそうなあの事件である……。
――オルゴールがパンッと解体《かいたい》して、みんなが驚いて、シスターがスカートの中から離《はな》した鳩《はと》が飛び上がって、みんなが見上げて、そしたら皿がなくなったと大騒《おおさわ》ぎに……という一連の流れを、一弥はヴィクトリカにジェスチャーで伝えようとした。ヴィクトリカは知らんぷりして一弥に背《せ》を向けると、子供《こども》のように窓に張《は》りついた。
外は真っ暗で景色などなにも見えないのだが……。
一弥はうなだれてジェスチャーをやめた。
ふと、目の前に座るシスターを見る。
月光に似た青白いランタンの光が、機関車の揺れにあわせて右に、左に揺れていた。青灰色《せいかいしょく》をした切れ長の瞳《ひとみ》は、昼間は健康で明るい女性《じょせい》のものに見えたが、いまは正体の知れない不気味な無表情にも見えた。睫毛《まつげ》の影《かげ》がそばかすの浮《う》かぶ白い頬にやけに長くかかっている。
青白いシスターの顔に、ランタンの明かりが揺れるたびにかかったりまた暗くなったりした。見ているとなぜか不安になってくる。
シスターが急に口を開いた。
不気味な雰囲気《ふんいき》とは正反対の、明るい声だった。
「あんたたち、いったいどこに行くのさ? この先は山だよ」
「……ええ」
「こんな夜中にさ」
「シスターはどこに行かれるんですか?」
「…………」
シスターは口を閉《と》じた。
一弥の顔をじいっと睨《にら》む。
「……あんたたちは?」
「えと、ぼくたちはホロヴィッツに……」
「なんだ。一緒じゃないか。アタシもホロヴィッツだよ。道理で同じ列車に乗っているわけだ」
「へえ……ホロヴィッツに? どうして?」
「あんたたちは?」
質問するたびに聞き返されるので、一弥は戸惑って口を閉じた。考え考え、
「ええと……いろいろあって。シスターは?」
「アタシは……その、育った町なんだよ。だからさ」
「へぇ! そうなんですか。ホロヴィッツって、どんな町ですか?」
シスターは一瞬だけ、しまったという顔をした。かすかに舌打《したう》ちをする。それから、
「さぁ……。普通《ふつう》の町さ」
そう答えると口を閉じた。
窓の外を見ていたヴィクトリカが、ちらり、と窓に映《うつ》るシスターの横顔に目を走らせた。ほんの一瞬の視線だった。シスターが気づいて、険《けわ》しい目つきでヴィクトリカを睨む。そのときにはもう、ヴィクトリカは窓の外に視線を戻《もど》して頬杖《ほおづえ》をついていた。シスターは少し考え、ヴィクトリカの小さな後ろ姿《すがた》から目を離した。
「……アタシ、ミルドレッドだよ。ミルドレッド・アーボガスト。あんたたちは?」
「ぼくは久城《くじょう》です。久城一弥。こっちは友達のヴィクトリカ」
「昨日一緒にいた子は誰《だれ》さ?」
ミルドレッドと名乗ったブルーグレイの瞳をしたシスターが、とつぜん揶揄《やゆ》するような小声になったので一弥は驚いた。戸惑いながら、
「昨日? ああ、一緒にバザーに行ったのはアブリルっていう子です。同じクラスの」
一弥はふと思い出してシスターに聞き返した。
「昨日と言えば、あれからどうなったんですか? 盗《ぬす》まれた皿は……」
「……さぁね。あれきりみつからないよ」
残念そうな口ぶりだが、シスターの顔には明らかに言葉と裏腹《うらはら》のうれしそうな表情が浮《う》かんでいた。口元がゆるんで、いまにもげらげら笑いだしそうだ。
「犯人《はんにん》はいったい……」
「……誰だろうねぇ。どうやったんだろうねぇ。ほんとに不思議だよ」
「…………」
「あ、ほら。そろそろ着くよ」
ミルドレッドがごまかすように窓の外を指差した。
――いつのまにか登山列車は山脈を分け入り、目指す駅に到着《とうちゃく》していた。
ホロヴィッツ駅。
三行広告に載《の》っていたあの町だ。
町には宿屋は一|軒《けん》しかなかった。
「登山にくる観光客? そんなものいないね。この辺りは勾配が急すぎて、よほどのことがなければさらに上になんて登る気はしないんだよ」
宿屋に到着して質問すると、そんな答えが返ってきた。
町はとても寂《さび》れていて、いちばんの大通りらしい宿屋の前の石畳《いしだたみ》の通りにも、人気《ひとけ》はほとんどなかった。宿屋の前になぜか最新式のドイツ製《せい》の自動車が停《と》められていたが、ぴかぴかの車体は、この町のどの風景とも合わないように思われた。
うらぶれた三階建ての宿屋の玄関扉《げんかんとびら》には、なぜか、矢が突《つ》き刺《さ》さって絶命《ぜつめい》した野鳥の死骸《しがい》が逆《さか》さにされてぶら下がっていた。
一弥がじっと見ていると、強い風が吹《ふ》いた。野鳥の羽毛《うもう》が風に吹かれて逆立ち、かすかにいやな音を立てた。ぼとっ、ぼとっ……と、矢が刺さった傷口《きずぐち》から、赤黒い血が玄関の石畳に落ちて小さな血溜《ちだ》まりを作った。
風で、宿屋の屋根がきしむような音がした。
その風とともに、どこか獣《けもの》くさいような奇妙《きみょう》な臭《にお》いも漂《ただよ》ってきた。
「今夜は荒《あ》れるな。あんたたちも夜のあいだは外に出るなよ」
一弥は振《ふ》り返り、宿屋の主人に聞いた。
「外に出ないほうがいいんですか?」
「ああ。こんな夜は、狼《おおかみ》が出るから」
「狼?」
「灰色《はいいろ》狼だよ」
宿屋のきしきしときしむ受付台の前に立っていたヴィクトリカが、ふいに顔を上げた。主人はそれに気づくと、子供《こども》をこわがらせるときのようにかがんで顔を近づけ、
「昔から、この辺りの山奥《やまおく》には灰色狼が住んでるんだ。風の強い晩《ばん》には、山から降りてきて人を殺す。かわいい顔のほっぺの肉を食い破《やぶ》られたくなかったら、部屋から出ないこった、お嬢《じょう》ちゃん」
ヴィクトリカがさっぱりこわがらなかったので、主人は気落ちしてうつむいた。一弥が、
「そういう灰色狼の伝説って、ソヴュールの国中にあるんですよね」
「いや。ホロヴィッツの町は本物だよ。本当にいるんだ」
主人は扉のほうを指差した。
「あの鳥の死骸も、灰色狼が入ってこないように吊《つる》してるんだ。なぜだか、鳥が苦手ってことでね。本当かどうかは知らないが。この辺りの森には野生《やせい》の狼がいるから、わしたちも気をつけているということもあるがね。しかしこの山の奥深くには本物の灰色狼の村がある。わしたちがもう四百年ものあいだ怖《おそ》れ続けているのは、それさ」
主人が言葉を切ったとき、宿屋の奥から、部屋の確認《かくにん》をしていたミルドレッドが戻《もど》ってきた。女の人とは思えないぐらい大きな足音が階段《かいだん》を降《お》りて近づいてきた。一弥は思わず、のみの市でこのシスターに出会ったときのことを思い出した。確《たし》かあのときも、ずいぶんがさつでおおざっぱな印象を持ったのだった……。
登山鉄道を降りてホロヴィッツについた後、一弥とヴィクトリカだけでは泊《と》めてもらえそうになかったので、二人はミルドレッドと一緒にここまできたのである。尼服《あまふく》が効《き》いたのか、宿屋ではとくになにも聞かれることなくチェックインできた。主人は三人の荷物を持って二階に上がる階段を上がりながら、話を続けた。
「その村に住んでいるのは、おそるべき人狼《じんろう》たちだ。やつらはおとなしそうな顔をしているが、けして怒《おこ》らせてはいけない。並外《なみはず》れて器量がよく、頭もすこぶるいい人々なのだが、得体が知れない。けして、つまらないことで彼らを怒らせてはいけない……」
「あの、人狼ってことは……その村って、つまり、普通の人間が住んでいるんですか?」
「見た目は、な」
一同は二階に着いた。
薄暗《うすぐら》い宿屋の廊下《ろうか》は寄《よ》せ木|張《ば》りで、歩くたびにキィキィと音を立てた。白い漆喰《しっくい》の壁《かべ》は、ところどころが剥《は》げて焦茶《こげちゃ》色に変色していた。壁に掛けられたランタンの薄明かりが、床《ゆか》が揺《ゆ》れるのに合わせてかすかに揺らめいていた。
小さな部屋を三つ用意されて、一弥たちはそれぞれの部屋に入ろうとした。
古いビーズのカーテンがかかった窓の外から、夜に沈《しず》む山脈が迫《せま》ってくるようだった。
宿の主人が大きな声で言った。
「見た目は人間だ。だが、ちがう」
「……まさか」
「考えてもみろ。山奥でひっそり暮《く》らしているあいつらの、髪《かみ》を、肌《はだ》を」
おそろしそうに肩《かた》を震《ふる》わせて、
「波打つ金色の髪に、白い肌。薔薇《ばら》色の頬《ほお》に、小さな体。全員、判《はん》で押《お》したように同じような容姿《ようし》だ。ソヴュール人にはもっといろいろな髪の色や体格《たいかく》があるはずだ。ブルネットもブラウンも赤毛もいる。それが、そう、そうだ……」
主人ははっと気づいて、小さな客ヴィクトリカを見下ろした。
顔をひきつらせてつぶやく。
「そう、こんな……こんな様子なんだ。おそるべき、静かなる灰色狼たちは」
自分の部屋を確認した後、となりの部屋を覗《のぞ》くと、ヴィクトリカもくつろいでいた。一弥は、
「なにか手伝うことある……?」
一応《いちおう》声をかけてみたが、ヴィクトリカはその声を聞くと、一弥にくるりと背《せ》を向けた。それきり返事もせずに黙《だま》りこくっている。
「……どうしちゃったんだよ、ヴィクトリカ?」
「…………」
「ちぇっ……!」
一弥は戸惑《とまど》いながら扉を閉《し》めた。
廊下を歩きながら、ひとりごちる。
(いったいどうしたんだろう。ヴィクトリカのやつ、ずっと黙ってるし、それに、なにも説明せずに学園を出て、こんなところまできちゃって……。学園の先生たちにばれたらたいへんなことになる。それにブロワ警部《けいぶ》とか……ヴィクトリカの家族も黙ってはいないよな……)
思わず頭を抱える。
前回、ブロワ警部の外出|許可《きょか》≠ノよって特別に学園の外に出たヴィクトリカが、機関車に乗るのも、駅に降りるのも、都会の大通りを歩くのも初めてらしい様子で、めずらしそうにきょろきょろし続けていたことを思い出す。ヴィクトリカは、一弥には理解《りかい》しきれない理由があって、学園から出ない生活を送っているのだ。地中海深くに沈んだ船から無事に脱出《だっしゅつ》した二人をみつけたとき、ブロワ警部の部下である二人の警察官が、心から安堵《あんど》したように(よかった、生きてた……!)と叫《さけ》んだときの、ひきつった顔が思い出された。
そのヴィクトリカが、勝手に学園を出て列車に乗り、こんな遠くまで外出したと知られたら、どうなってしまうのだろうか?
(ヴィクトリカ、君、いったいどうしてこんなところに……? 新聞の三行広告が、いったいなんだったって言うんだよ……?)
頭を抱えて悩《なや》み続ける。
しかしいまは考えていても仕方ない。ヴィクトリカは一弥の言うことは聞かないだろうし、一弥としては、なんとかして無事に彼女が学園に戻《もど》るまでくっついていなくては気が済《す》まない。なにしろヴィクトリカは、なるほど頭はいいかもしれないが、外出などほとんどしたことがないのである。ほうっておいたらどうなってしまうかわからない……。
一弥はそっと階段を降りた。
安酒をちびちび舐《な》めながら雑誌《ざっし》を読んでいた主人をみつけると、おそるおそる声をかける。
「あの……」
三行広告のことを言い出した途端《とたん》、主人はあきれ顔になった。
「なんだ。あんたら三人もそれでここまできたクチか」
「いえ、その……。えっ? ほかにもいるんですか」
「ああ。表にドイツ車が停《と》めてあるだろう?」
一弥は宿屋の前に高級な自動車が停められていたことを思い出し、うなずいた。
「若《わか》い男の三人組があれに乗ってきてね。やつらにも同じことを聞かれたよ。新聞広告を読んで興味《きょうみ》を持って、わざわざやってきたらしい。おもしろ半分の様子だったから、注意は促《うなが》したんだがねえ。灰色狼の村になんぞ興味本位で行くもんじゃないって」
「はぁ……」
「迷信《めいしん》だって頭からバカにして、笑いやがって。痛《いた》い目を見るのも知らないで」
主人は低い声になり、まるで独《ひと》り言のようにゆっくりとつぶやいた。
ジジジ……音を立て、ガス灯《とう》の灯《あか》りが一瞬暗くなった。
主人の皺《しわ》の刻まれた顔が影《かげ》になり、声だけが響《ひび》いた。
「きっと血を見ることだろう。静かなる灰色狼《はいいろおおかみ》は、やつらの好奇心《こうきしん》をけして許《ゆる》すまいよ」
――ジジジッ。
ガス灯がまたつくと、主人は一転して明るい声で、
「やつらは三階の部屋に泊《と》まっているよ。同じところを目指すなら朝にでも話してみるといい。バカだけど気のいいやつらだ」
「はぁ……」
「自動車で山を上るって張り切っていたけどね。勾配が急すぎて、とても自動車なんかで上れる山じゃないよ。行き先が同じなら、彼らと相談して一緒《いっしょ》に馬車を雇《やと》うといい」
「そっか……。あの、その村の名前を教えてもらえますか?」
「……名前はないんだ」
聞き返そうとすると、主人の顔が歪《ゆが》んだ。
低い声になり、
「四百年も前からあの場所に……山脈の奥にあるのに、名前がないんだ。やつらは村に名前をつけない。理由は誰も知らない。だから……恐《おそ》ろしいんだよ…………。俺《おれ》たちはいつも生きた心地《ここち》がしないのさ」
死人のような声――。
一弥の背筋《せすじ》がふいにぞくりとした。
お礼を言って歩きだした一弥は、ふと、
「そういえばミルドレッドさんの家ってどこなんだろう? ぼくたちと一緒にここに泊まったけど……」
主人が顔を上げた。
「なんだって?」
「ぼくたちと一緒にきたシスター、この町で育ったんです」
「……そんなはずはない」
「でも」
「せまい町だ。町を巣立った子供のことならみんな覚えているよ。それに、僧職《そうしょく》に就《つ》いたとなればなおさらだ。町の人間はみんな信心深いからね」
「…………」
「君の聞き違いだろう。あんな女の子、わしらは知らないね」
一弥は宿屋の主人に挨拶《あいさつ》をして部屋に戻ろうとした。
一階の廊下を階段に向かって歩いていると、ちょうど階段から降りてきたミルドレッドと目があった。どすどすと足音を立てて降りてきたミルドレッドは、廊下の先に立つ一弥を見下ろすとなぜかびくりと肩《かた》を震《ふる》わせた。
ほの白いランタンの灯《ひ》が、ミルドレッドのそばかすの浮《う》かぶ肌《はだ》と憂《うれ》いのあるブルーグレイの瞳《ひとみ》を薄《うす》ぼんやりと照らし出していた。
「……なにうろうろしてんのさ?」
「いや、その」
「もう寝《ね》なよ」
ミルドレッドは少し乱暴《らんぼう》な口調で言うと廊下《ろうか》を歩いていった。一弥は足を止めて、彼女の後ろ姿《すがた》をみつめた。
主人に声をかけるのが聞こえてきた。
「電話、貸《か》してくれる?」
「……いいですよ」
どこにかけるのかはわからなかった。
一弥は電話で話す声に耳を澄《す》ませようとして、盗《ぬす》み聞きはよくないと思い返した。そのままきびすを返して、階段《かいだん》を上がっていった。
二階の廊下に戻《もど》った一弥は、ゆっくりと歩きだした。寄《よ》せ木|張《ば》りの床は、一弥が一歩一歩進むたびに、きぃ、きぃ……と甲高《かんだか》い音を立ててきしんだ。白い漆喰《しっくい》の壁にはさまれた廊下は、人一人通るには十分な幅《はば》とはいえ、天井《てんじょう》が高い割《わり》にはとてもせまく、どこか息苦しく感じられた。
知らず早足になり、部屋に向かう。
きぃ、きぃ、きぃ……。
床がきしむ。
きぃ、きぃ、きぃ、きぃ……。
そのたびに、壁の両側に等間隔《とうかんかく》で並《なら》べられた古いガラスのランタンが、揺れる。揺れは少しずつ大きくなっていき、一弥は息苦しさに思わず小さく吐息《といき》をついた。
細く天井の高い廊下が、まるで海に浮かぶ船のそれであるかのように、揺れ動いて感じられた。一弥は船という不吉《ふきつ》なイメージが蘇《よみがえ》ろうとすることに気づいて、あわてて打ち消そうとした。
(もし、これが船であるなら……)
打ち消そうとしても考えてしまう。
(船であるなら、揺れは大きな波。嵐《あらし》の前兆《ぜんちょう》だ…………)
早足になり、自分の部屋の前へ急ぐ。廊下の角を曲がり、よりいっそう早足になったとき、一弥は突き当たりにある大きな窓に気づいて足を止めた。
窓の外には、勾配の急な山脈がまるで鋸《のこぎり》の歯のような鋭利《えいり》さで暗い夜空を斬《き》りつけていた。その向こうからかすかに月光が輝《かがや》いていた。
一弥は窓に近づき、そうっと開けた。
夜が更《ふ》けて、冷えた空気が少しずつ動き出していた。
ひやりとした風が一弥の髪《かみ》を揺らした。
またどこからか、獣《けもの》くさいいやな臭《にお》いが立ち上ってきた。
遠くでなにか……犬かなにかが遠吠《とおぼ》えをした。
(この臭いはきっとあれだ。玄関《げんかん》の扉《とびら》にぶら下げられていた鳥の死骸《しがい》……。あれから臭ってくるにちがいないんだ。それだけのことなんだ……!)
一弥は自分に言い聞かせるように思った。
――カタン!
背後《はいご》でかすかな音がした。一弥はビクンとした。肩越しに振りむいた一弥の横顔を、窓からの月光が斜《なな》めにほの青く照らし出した。
「……なんだ。ヴィクトリカ」
部屋の薄い扉を開けて廊下に出てきたのは、小さなヴィクトリカの姿だった。白いモスリンの寝間着《ねまき》姿だった。三段フリルでふっくらとふくらんだワンピース型の寝間着の下から、一弥から見るともんぺにも似《に》た、七分|丈《たけ》のふかふかのズボンが覗《のぞ》いていた。ズボンの裾《すそ》が海を思わせるアクアブルーの梯子《はしご》レースできゅっとしばってあった。
つるつるしたサテン生地《きじ》のまんまる帽子《ぼうし》に、長い髪の半分ほどが入っている。
[#挿絵(img/02_107.jpg)入る]
小さな両手で目をこすりながら、
「君、帽子入れの中から栗鼠《りす》が出てきたら、いったいなぜだと思う?」
「…………はぁ?」
「栗鼠に聞いてみればよいのだ。栗鼠語でなぁ」
「えぇ?」
「ところで、ここはどこだろう?」
「ど、どこって……」
一弥は窓をそっと閉めると、廊下に迷《まよ》い出てきたヴィクトリカに駆《か》け寄《よ》った。
「ヴィクトリカ? ヴィクトリカ? おーい。もしかして……君、寝《ね》ぼけてるの?」
彼女は小さな手で忙《せわ》しく目をこすっていた。いつもはぱっちりと見開かれているエメラルドグリーンの瞳も、いまは眠《ねむ》そうに半分以上閉じられ、しぱしぱと瞬《まばた》きを繰《く》り返している。
「……寝ぼけていない。君は失礼な男だ。レディに対して寝ぼけたとは。それより、ここはどこだ?」
「宿屋だよ。ホロヴィッツの」
「ホロヴィッツ?」
「君がきたがったんだろ。ヴィクトリカ」
「…………………………」
長い沈黙《ちんもく》。
かすかにヴィクトリカの顔が赤くなった。
それからくるりときびすを返し、部屋に戻ろうとした。一弥はあわてて引き留《と》めた。
「なんだね?」
「いや、その……。眠たいところ悪いんだけど……」
「眠くなどない。いったいなんだね?」
「せっかくヴィクトリカがしゃべるようになったから、聞きたいんだけどさ……」
「……わたしが、しゃべるように?」
ヴィクトリカは廊下《ろうか》と部屋のあいだ辺りに立ったまま、不思議そうに一弥の真剣《しんけん》な顔を見上げていた。二人の顔はすごく近かった。ヴィクトリカのひっそりとした息づかいが顎《あご》の辺りにかすかにかかって、むずがゆかった。やがてヴィクトリカが次第《しだい》に表情《ひょうじょう》を変えた。緑色の瞳を見開き、何度か瞬きして、それから明らかに、しまった、と思っているらしい顔をした。
「………………あ!」
「どうしてずっと黙ってたんだよ? やっぱり歯痛《はいた》?」
「ちがう!」
ヴィクトリカは機嫌《きげん》を損《そこ》ね、一人で部屋に戻っていった。一弥が後を追うと、部屋の中から入り口に向けて、クッションが、枕《まくら》が、続いて帽子が、最後に靴《くつ》が飛んできた。
「うわっ! ちょっと、君!?」
ヴィクトリカのほうを窺《うかが》うと、なんと今度は猫足《ねこあし》型の椅子《いす》を持ち上げようと踏《ふ》ん張っているところだった。一弥があわてて、
「なにしてるの!? どうしてそんなに怒《おこ》ってるの!?」
「レディの部屋だぞ、君。入ってくるな!」
「レ、レディって……まぁ、そうだけど…………?」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ヴィクトリカはすごく疲《つか》れたらしく、椅子を持ち上げるのをあきらめると、かわりにその椅子の上にどかりと座《すわ》った。椅子は細木|造《づく》りでいかにも軽そうで、一弥にだったら上に座ったヴィクトリカごと持ち上げてぐるぐる回転することもできそうだった。
一弥は戸惑《とまど》いながらも部屋に入ってきて、扉の横に、礼儀《れいぎ》正しく扉を半分ほど開けたまま立った。ヴィクトリカはそれを睨《にら》むと、
「久城、だいたい君はだね、わたしのことを本のほうが好きだなどと言っておいて、自分のほうこそ、ころころといろいろ忘《わす》れすぎだ。君という男はだね……」
なにか言いかけて黙った。
窓がかすかに揺れた。風が強くなっているらしい。
暗い雲が窓の外の山脈にたれ込《こ》め始めた。濃《こ》い群青《ぐんじょう》色の雨模様《あめもよう》の空が重苦しくのしかかり、浮かんでいた星々をかき消していった。
遠くで雷鳴《らいめい》が鳴った。
「ヴィクトリカ?」
「……もう、いい」
「だから、なにがだよ?」
「もういいったら、いいのだ」
「なんだよ、もう!」
一弥もいらいらして、思わず壁《かべ》をゴンッと叩《たた》いた。こぶしが痛《いた》かったので涙目《なみだめ》になり、黙り込む。
しばらくの沈黙の後、一弥が口を開いた。
「……あのさ、ヴィクトリカ。君、どうしてここにきたんだい?」
「…………」
「ぼくが見せた新聞の三行広告。そのせい……だよね? 君はあれを見たときから様子がおかしいし、とうとう学園を抜《ぬ》け出してここまできちゃって……。君、勝手に学園を出てはいけないんだろう? 自分でそう言ってたじゃないか。これまではおとなしくしていたのに、広告を見た途端《とたん》、とつぜんこんな行動を取って……。いったいどういうことなんだよ?」
「…………」
「ヴィクトリカ、ぼく怒るよ。君のその態度《たいど》は、ブロワ警部《けいぶ》……お兄さんと同じだよ。あの人が君を無視《むし》するのと、君がいまぼくに背を向けているのとは、そっくり同じ態度だ。君はあんなふうに……ぼくのことを嫌《きら》ってるのか? ぼくらは友達じゃないの?」
「…………」
「君はぼくに言ったじゃないか。自分のことを、ぼくの、数少ない友達だって……」
一弥はそこまで言って、口を閉じた。
さぁぁぁぁぁ……。
かすかな音を立てて窓の外で雨が降《ふ》り始めた。霧雨《きりさめ》だ。白い霧が立って山脈が見えなくなった。
窓の曇《くも》ったガラスを雨の粒《つぶ》が外側から叩く小さな音が響いていた。雨粒はころころと落ちては消えていった。部屋は少し寒くなったようだった。
やがて――
ヴィクトリカが口を開いた。
「ある人の無実を晴らしにきたのだ」
「えっ?」
「コルデリア・ギャロの無実をだ」
一弥は顔を上げてヴィクトリカを見た。彼女は下唇《したくちびる》を噛《か》み、強情《ごうじょう》そうに眉間《みけん》に力を入れた顔つきで一弥を睨んでいた。
一弥は思わず廊下のほうをちらりと見て、誰《だれ》かに聞かれないようにそっと扉《とびら》を閉めた。ヴィクトリカのほうに近づく。椅子は一つしかないので、彼女が持ってきた箱型のミニトランクを彼女のかたわらに置き、その上にそっと腰《こし》を下ろした。下からヴィクトリカを見上げる。
「……これを」
ヴィクトリカは一弥になにか見せようとして、小さな手で寝間着《ねまき》の胸元《むなもと》をいじくり始めた。モスリン生地《きじ》の大きなフリルを、めくる。またフリルがあるので、それをめくる。またまたフリルが……。
「……なにしてるの?」
「待て!」
「…………」
まだまだフリルをめくっている。
「ねぇ?」
「待て! 待て! 待て!」
「……犬じゃないんだからさ」
ヴィクトリカは一弥の言葉に、ついっと顔を上げて、不思議そうな顔をした。
――フリルの迷路《めいろ》からようやく出てきたのは、きらきらした金色のまるいものだった。一弥はしばらくそれをみつめていて、一|枚《まい》の金貨《きんか》だということに気づいた。小さな穴《あな》を開けて鎖《くさり》を通し、ペンダントに加工されているのだった。
まるで子供《こども》がつくったおもちゃのようで、ヴィクトリカの豪奢《ごうしゃ》な衣装《いしょう》とはあまりにアンバランスに感じられた。なにしろ、金貨に鎖がついているだけのものなのだ。
ヴィクトリカが小声でささやいた。
「コルデリアがこれをくれたのだ」
「……ブロワ警部が、インド風の帽子《ぼうし》をかぶった君を見て、その名前を言ったよね」
「コルデリア・ギャロは、わたしの母だ」
彼女の声は小さかった。
ゆっくりとペンダントを裏返《うらがえ》してみせた。そこに貼《は》ってあるなにかを一弥に見せようとする。彼女の足元に座《すわ》っていた一弥が手を伸《の》ばした。その姿《すがた》は貴婦人《きふじん》から贈《おく》り物を受け取る騎士《きし》のようでもあった。
金貨の裏側には、一枚の小さな写真が貼られていた。
モノクロームの写真――ヴィクトリカ・ド・ブロワの。
一弥があげたインド風の帽子をかぶったときのように、長い髪を後ろでまとめて、くっきりと艶《あで》やかな化粧《けしょう》をしていた。紅《あか》い唇の艶《なま》めかしさが、一弥に激《はげ》しい違和《いわ》感を抱《いだ》かせた。それはまったくヴィクトリカらしくない色――大人の色だった。
「……これ、あの……君、なの?」
「ちがう」
ヴィクトリカは首を振《ふ》った。
「それがコルデリア・ギャロだ。わたしの母」
一弥は息を呑んだ。
夜空から雨がしたたかに降り始め、窓《まど》を激《はげ》しく叩《たた》いた。
ヴィクトリカは下唇をかみしめて、猫足《ねこあし》の椅子《いす》にじっと座《すわ》っていた。
「母は踊《おど》り子だった。羅紗《ラシャ》の衣装に異国風《いこくふう》の化粧をして舞台《ぶたい》に出ていて、たいへんな人気者だったということだ。だがしかし、母の行く先々ではじつにさまざまな事件《じけん》が起こってね。謎《なぞ》めいた女性《じょせい》であったと言われている」
ヴィクトリカの声は、大図書館の最上階で南国の木々と書物に囲まれているときと同じ、平坦《へいたん》で落ちついたものだった。
窓の外では雨が降り続き、部屋の中も少し冷えてきた。一弥は、ミニトランクに座って膝《ひざ》を抱《かか》え、ヴィクトリカを見上げていた。
「母はある時期ブロワ侯爵《こうしゃく》と関《かか》わりがあり、わたしを生んだが、その後に姿を消した。わたしはわけあって侯爵家の塔《とう》の上にある部屋に隔離《かくり》されて育っていた。生みの母のことは知らされていなかったが、ある夜、塔の上に母が上がってきて、この金貨のペンダントを渡《わた》してくれたのだ。窓の外に母がいた。わたしとそっくりなのですぐにわかったがね」
「窓の外? 塔の!?」
「コルデリアはとても身軽なのだよ……。とても、とてもね……」
一弥は押《お》し黙《だま》った。
「母はいつもわたしを見守ってくれている」
「……うん」
「母は、ソヴュールに根付く灰色狼《はいいろおおかみ》の伝説の元になったと思われる、とある村の出身でね。その村の人々は十六世紀初頭から山奥《やまおく》に住み、文明と切り離された生活をしていると言われていた。小さく金色で、とても賢《かしこ》く、だがきわめて不思議な村人たちだとね。その村の出身者を街で捜《さが》すことは困難《こんなん》だ。ほとんど村からは出ないのだから。だがブロワ侯爵は、その特別な力を一族の血に取り入れたいと願った。そして人気の踊り子がどうもそれらしいと調べると、彼女を自分のものにしたのだ。しかし生まれた子供は侯爵が望んだ男子ではなく、わたしだった。そしてその後、母が生まれた村を追われた理由を知った。母は村でメイドとして働いていたが、ある夜おそろしい罪《つみ》を犯《おか》し、村を追放された。彼女は罪人《ざいにん》だったのだ。呪《のろ》わしい血を一族に取り入れてしまったと、ブロワ侯爵は後悔《こうかい》した。そして生まれた子供――わたしの様子もただならなかったため、恐《おそ》れ、塔に閉じこめて育てた。ただ書物と、有り余《あま》る時間だけを与《あた》え……。母は逃《に》げ、やがて始まった世界大戦の戦火に身を投じた」
ヴィクトリカは言葉を切った。
一弥の手からペンダントを受け取ると、首に巻《ま》きつけた。シンプルな金貨のペンダントは、またフリルの海の奥深くに沈んでいった。
「わたしはずっと知りたかったのだ。母が生まれ、村人によって追われたという村を」
「うん……」
「すべての元凶《げんきょう》はその夜に戻《もど》る。母がおそろしい罪を犯したという夜に。それさえなければ、母は村を追われることはなかった。わたしという存在《そんざい》も生まれることはなかったのだ」
「……それは困《こま》るよ」
ヴィクトリカはびっくりしたように緑色の瞳《ひとみ》を見開いた。それから両手を唇《くちびる》に当て、ぷふふっと吹《ふ》き出した。
一弥は顔を赤くして、
「な、なんだよ」
「君は愉快《ゆかい》な男だ、久城」
「……悪かったね」
ヴィクトリカは笑った。それから片手《かたて》を上げると、ぴしりと部屋の扉《とびら》を指差した。
「もう寝《ね》る。君、出ていきたまえ」
「……むっ? わ、わかったよ。レディの部屋だからね」
「わたしはもう寝る。すぐに寝る。ほら、出ていきたまえ」
「わかったってば! もう……おやすみ、ヴィクトリカ」
一弥はあわてて立ち上がり、部屋を退散《たいさん》しようとした。
ドアの前に立ったとき、後ろからなにか言われた気がして、振り向いた。
気のせいだった。ヴィクトリカの口は閉じられていた。でも、黙ったままじっと一弥をみつめていた。
「……ん?」
「わたしは、母の無実を晴らしにきたのだ」
「う、ん……」
一弥は戸惑《とまど》って彼女をみつめ返した。見慣れたヴィクトリカの顔が、まるで知らない人のそれのように遠く思えて、急にとても不安になった。
ヴィクトリカは言った。
「これは戦いなのだ。灰色狼の村と、彼女の」
「う、ん……」
「だから、コルデリア・ギャロが勝つまで、わたしは帰らない」
――廊下《ろうか》に出ると、誰かが行き違《ちが》いに扉を閉《し》めたらしい、小さな音がした。
顔を上げると、ミルドレッドが借りている部屋の扉が……かすかに揺れていた。
――翌朝《よくあさ》。
一弥とヴィクトリカが宿屋の食堂で紅茶《こうちゃ》とパンとコールドハムの朝食を取っていると、若《わか》い男たちがどやどやと降《お》りてきた。
髭《ひげ》を生やして鼈甲縁《べっこうぶち》の眼鏡《めがね》をかけた中肉|中背《ちゅうぜい》の男が、階段《かいだん》を降りながら早口でひっきりなしにしゃべっている。どうやらお喋《しゃべ》りな性格《せいかく》らしい。同じぐらいの背丈《せたけ》で、やけに高級そうな仕立てのジャケットにピカピカの金時計をはめた男が、人の良さそうな笑顔《えがお》を浮《う》かべて相づちを打っている。その声は甲高《かんだか》くてよく響《ひび》いた。
二人の後ろから大柄《おおがら》で猫背《ねこぜ》な男が降りてきた。大柄な男だけが、一弥たちに気づくと少し顔を赤らめ、消え入りそうな小さな声で挨拶《あいさつ》をした。どうやらずいぶんと内気な青年らしい。
彼らは椅子《いす》に腰掛《こしか》けると、紅茶にミルクをどばどばと入れ、パンをかたまりのままつかんで食べ始めた。旺盛《おうせい》な食欲《しょくよく》だった。
髭を生やして鼈甲の眼鏡をかけたお喋りの男が、ひっきりなしにしゃべりながら一弥たちに自己紹介《じこしょうかい》をした。それによると三人はソヴュールの美術《びじゅつ》大学の学生で、絵画の勉強をしているのだという。旅行が趣味《しゅみ》で、三人連れだって田舎《いなか》を巡《めぐ》っては、スケッチなどをしているらしい。
「こいつの家が金持ちだから。外の車、見たかい? デリクが親に買ってもらった自動車さ」
肩《かた》を叩《たた》かれた、金時計に高級ジャケットの男が、甲高い声で返事をした。彼の名前はデリクというらしい。髭の男と同じぐらいの体格だが、こちらはつるりとした女性《じょせい》的な顔をしていた。よく喋る髭の男は、アランと名乗った。もう一人、三人の中でいちばん背が高い男は、恥《は》ずかしそうに小声でラウールと名乗った。よほど恥ずかしがり屋なのか、名前を名乗るだけでまた少し赤くなっている。
アランが楽しそうに、自分たちは最新式のドイツ車で灰色狼《はいいろおおかみ》の村に行くんだと自慢《じまん》をし始めた。自動車を買ってくれたデリクの親を褒《ほ》め称《たた》えている。どうやら三人はデリクの財布《さいふ》を頼《たよ》りに旅をしているらしく、ことあるごとにデリクを立てるが、ボスはお喋りのアランのようだった。ラウールは黙《だま》って笑顔を浮かべていた。いるかいないかわからないようなおとなしい青年だった。
そこに、宿屋の主人が紅茶のお代わりを持ってきて、彼らの会話に口をはさんだ。
「残念だけど、自動車で灰色狼の村に行くのは無理だよ。あの山は勾配がきついから、自動車ではとても登れない」
「……まさか!」
車の持ち主であるデリクが、甲高い声で抗議《こうぎ》し始めた。アランも驚《おどろ》いて大騒《おおさわ》ぎをし始めた。ラウールは黙って不安そうな顔をしている。
「馬車を雇《やと》うことだね。馬なら、あの勾配でもなんとか登ってくれるだろう」
デリクはあきらめたらしくうなずいたが、髭のアランはいつまでも大声で文句を言っている。無口なラウールは困《こま》ったようにアランをみつめていた。
そこに、いちばん寝坊《ねぼう》したらしいミルドレッドが、大きな足音を響かせて歩いてきた。大あくびをしてだるそうに、
「おはよーさん……」
「……うわっ!」
一弥は思わず声を上げた。またもやシスターからは、お酒の匂《にお》いがぷんぷんしていた。三人の大学生もそれに気づいて、不思議なものを見るようにミルドレッドをみつめた。
宿屋の主人がのんびりと、
「この子供《こども》たちも行き先は同じだよ。だから一緒《いっしょ》に馬車を雇うんだね。五人で乗れば一人当たりの値段《ねだん》も安くつく」
「……六人だよ」
だるそうに席に着いたミルドレッドが、よろよろとした仕草で挙手した。全員が驚いたように彼女を振り返った。
「アタシも行くんだよ」
「……どうしてですか?」
一弥が問うと、ミルドレッドはキッと一弥を睨《にら》んだ。
「どうしてでもいいだろ。わたしも行きたいってことさ。六人だ。よろしく、あんたたちも」
三人の大学生は、ぷうっと吹《ふ》きかけられたミルドレッドのお酒くさい息に目を白黒させながらもうなずいた。
遠くで雷鳴《らいめい》が鳴った。
まるで肉切り台の上に乗せられた肉のかたまりを大包丁で叩《たた》き切るときのような、鈍《にぶ》い音が響いた。雷鳴が数回鳴った後、朝方の曇《くも》った空はしんと静まり返った。
ぽつん、ぽつん、ぽつん……!
大きな雨粒《あまつぶ》がいくつも落ちてきて、宿屋の前に立っている一弥たちの服に水の染みをつけた。
「……この箱型馬車だよ。御者《ぎょしゃ》の腕《うで》は一流だ」
宿屋の主人が、ゆっくりと通りを近づいてくる馬車を指差した。二頭立ての古ぼけた四輪馬車で、御者は長い髭に顔の半ばを隠《かく》された老人だった。老人ではあったが、馬車同様に古ぼけたマントの上からも、強靭《きょうじん》な太い腕とがっちりした肩が見て取れた。
近づいてきた馬車の御者台から、老人が言葉を投げかけてきた。
「自動車なんてとんでもない。馬車で登るのも、慣《な》れた腕じゃなきゃ無理だ」
老人が言うには、〈名もなき村〉の人々から、もしも広告を見てやってきた客人がいれば、馬車で村まで送るようにと言われているのだという。しかし申し出された料金は相場よりもずいぶん高かった。一弥が高すぎると抗議しようとすると、金持ちの息子《むすこ》であるデリクが、分厚《ぶあつ》い財布を取りだして、すぐにお金を払《はら》った。
御者が驚いたようにその財布を見て、もう少しふっかければよかったと後悔《こうかい》するように顔を曇らせた。なにか言おうとした一弥を、髭面《ひげづら》のアランが止めた。
「いいんだよ。あれぐらい、デリクにはなんでもないのさ」
「……しかし。ぼくも少し払います」
「いいんだって。ま、気にするなよ」
まるで自分が払ったかのようにアランが胸《むね》を張《は》った。ラウールと目があった。無口な大男もまた、気にするなと言うように肩をすくめてみせた。
六人は荷物を抱《かか》え、三人ずつ向かい合うように座った。馬車がゆっくりと動き出した。
――町中を石畳《いしだたみ》を蹴《け》りながら進み出した馬車は、やがて泥炭《でいたん》にぬかるむ山中の道に差し掛《か》かると、急にがたがた音を立て始めた。勾配のきついぬかるむ道に差し掛かったのだとわかった。箱型馬車は、まるで巨人に上からつかまれて左右に揺《ゆ》さぶられているかのように、大きく絶え間なく揺れた。
ミルドレッドが「気持ち悪いかも……」とつぶやいた。陽気にしゃべり続けていた三人組が、困ったように顔を見合わせた。
「二日酔《ふつかよ》いか、シスター?」
髭面のアランが代表して聞く。ミルドレッドは口を開くのもいやだという様子で、首を横に振った。
ヴィクトリカが窓《まど》に手を伸《の》ばし、木製《もくせい》の窓を少し開けた。
降《ふ》り始めた雨が、細かい模様《もよう》のように窓の外を揺らめいていた。
赤銅《しゃくどう》色の茨《いばら》が頑丈《がんじょう》に絡《から》みあって道の左右に続いていた。雨に打たれても揺れる様子もなく、互《たが》いにがっちりと絡みあっている。やがて苔《こけ》やシダの生《お》い茂《しげ》る土手が見え、すぐ下には目もくらむような崖《がけ》がそびえていた。少しでも馬の扱《あつか》いを間違《まちが》えたら、真《ま》っ逆様《さかさま》に奈落《ならく》に落ちてしまうことだろう。そのまた向こうには、霧《きり》にかすみながら、小山のいただきがのっそりとこちらを見下ろしていた。
ガタンガタンと硬《かた》い音がして、馬車は細い古びた石橋を渡《わた》った。橋の下には激《はげ》しく流れる濁流《だくりゅう》があった。渓谷《けいこく》を流れる寒々しい川だ。
川を渡ると、次第《しだい》に木々の高さが増《ま》していった。草木はオリーブ色で、細かな小雨《こさめ》にしっとりと濡《ぬ》れて揺れていた。黒に近い濃《こ》い色の土がその下に広がっていた。どれぐらいの間登り続けただろうか。木々の高さは増し、それにつれ森は暗くなっていった。朝だというのに漆黒《しっこく》の闇《やみ》に包まれ、この世ならざる場所へ迷《まよ》い込《こ》んだ悪夢《あくむ》のようだった。樫《かし》の木々は風雨にさらされたためか曲がりくねり、老婆《ろうば》の背中のようなシルエットをつくっていた。互いに絡みあい白く乾《かわ》いている。
一弥は小声でヴィクトリカに話しかけた。
「そういえばさ……」
「なんだね?」
「あのシスター、バザーでドレスデン皿を盗《ぬす》んだのに、捕《つか》まってないんだよね。それに、ホロヴィッツの出身だって言ってたけど、宿屋の御主人《ごしゅじん》はそんなはずないって否定《ひてい》してた。あの人はいったい……」
「……彼女のことなら、気にすることはない」
ヴィクトリカはなぜか言いきった。そしてその話題には興味《きょうみ》なさそうに顔をそらした。一弥は仕方なく黙《だま》り込んだ。
――そのままどれぐらいの時間、馬車は走ったか。
やがてとつぜん明るくなった。
森が絶《た》え、そこに、朝日が白く降り注ぐ不思議な一角があった。
周囲は小山に囲まれて浅い底のグラスのように丸くなっていた。グラスの底に当たる場所に、高い城壁《じょうへき》に囲まれ、石造《いしづく》りの家々が密集《みっしゅう》する小さな町が……。
いや……。
村が、あった。
馬車が停《と》められた。
ヒヒーン……!
二頭の馬がなぜかブルルと音を立てて首を振《ふ》った。いやがるように暴《あば》れる馬を、御者《ぎょしゃ》が鞭《むち》で無理《むり》矢理おとなしくさせる。馬はいつまでも首を振り、イライラと小さく足踏《あしぶ》みを繰り返していた。
六人はゆっくりと馬車を降《お》りた。
窪地《くぼち》と馬車が登ってきた険《けわ》しい道のあいだに、深い崖があった。切り立った岩が分厚い壁となって下へ下へ続いていた。そっと覗《のぞ》くと、目もくらむほどの深さだった。崖は鋭利《えいり》な刃物《はもの》のような鋭《するど》い岩肌《いわはだ》を光らせていた。遥《はる》か下に白い一筋《ひとすじ》が見えた。ごぅごぅと音を立てて激しく流れている。濁流だ。白い泡《あわ》を立てて激しく水が流れ、岩に当たっては寒々しい波飛沫《なみしぶき》を上げている。
一弥は崖下から目を離《はな》した。石でできた灰色《はいいろ》の村を見上げる。
そのとき雲が晴れて、朝日が白々と、苔生《こけむ》した石造りの塔《とう》や四角い家などを照らし出した。
一弥たちは眩《まぶ》しくて目を細めた。
若者《わかもの》三人組が、おおげさなぐらい大きな歓声《かんせい》を上げた。
「さすが!」
「これこそ秘境《ひきょう》ってもんだ。すげえなぁ!」
それを聞いた御者が顔をしかめた。
一弥はかたわらに立つヴィクトリカの顔を窺《うかが》った。
彼女はじっと、灰色をした石の村を見上げていた。その顔にはなんの表情《ひょうじょう》もなかった。
――崖の向こうに石でできた門柱と鉄製《てつせい》の巨大《きょだい》な扉《とびら》が見えた。外部からの侵入《しんにゅう》を防《ふせ》ぐためであるかのように、大きく冷え冷えとしていた。どこからも侵入できそうにないほど高い塀《へい》が張《は》り巡《めぐ》らされている。まるで中世の城塞都市《じょうさいとし》そのものの佇《たたず》まいだった。
木製の古びた跳《は》ね橋が上がっていた。粗末《そまつ》な木板で造《つく》られており、使い古されて白く変色していた。幅《はば》は馬車が一台|余裕《よゆう》を持って通れるぐらいのもので、橋の左右に太い紐《ひも》が数本、手すり代わりに張り渡されていた。
鉄の扉には、不吉《ふきつ》な灰色狼の紋章《もんしょう》がくすんで浮《う》かび上がっていた。
「……じゃ、わしはこれで」
御者がそそくさと立ち去ろうとした。
「村の話じゃ、明日の朝に夏至《げし》祭が始まって、晩《ばん》には終わるってことだから。晩にこの場所まで迎《むか》えにくるから……」
馬がまたヒヒーン……と乾いた鳴き声を立て、忙《せわ》しく足踏みした。
一弥が馬車のほうを振り返っていると、背後《はいご》でがたがたと大きな音がした。そちらに目を向けると、古びた跳ね橋が……。
ゆっくりとこちら側に向かって降りてきた。
そして、重い鉄の扉もまた、ゆっくりゆっくり、開こうとしていた……。
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モノローグ―monologue 2―
我々《われわれ》は険しい山を登っていった。
道は勾配がきつく、箱型馬車は左右に大きく揺れ続けた。驚《おどろ》くほどだった。雨が細かく降り続いていた。馬車の中はほとんど誰《だれ》も口を聞かず、ただ轍《わだち》が立てる音だけが響いていた。
例の小さな少女が、窓《まど》を開けた。
連れの東洋人の少年――久城一弥《くじょうかずや》が、心配そうにその横顔をみつめた。
少女の一挙一動に少年が反応《はんのう》するのが、見ていて微笑《ほほえ》ましかった。そのくせ二人はすぐに喧嘩《けんか》を始めるようだ。仲がいいのは大人が見ればわかるが、この子たちには自分たちのことが理解《りかい》できていないのかもしれない。
馬車は揺れた。
窓の外は絡《から》まる木々の白く乾いた枝《えだ》が続き、気が遠くなる。
それでもこの先に行かなくてはならない。
あの村に、行かなくてはならない。
少女の横顔にそっと目を走らせる。
緑色の瞳《ひとみ》は南国の海のように鮮《あざ》やかな色で、風雨に晒《さら》された暗い森には似合《にあ》わない。
少年の顔をちらりと見る。
漆黒《しっこく》の瞳はまっすぐな視線《しせん》を少女に向けている。気は優《やさ》しいが、なかなか頑固《がんこ》そうな顎《あご》をしている。
彼らは知らない。
この同乗者の目的を。
知らないのだ……!
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第三章 コルデリアの娘《むすめ》
時の狭間《はざま》を越《こ》えて、遠く中世の村に辿《たど》り着いたような風情《ふぜい》だった。
――降《ふ》り続ける小雨《こさめ》が、鋸《のこぎり》の刃《は》のように切り立って村を囲む山麓《さんろく》から狭《せま》い窪地《くぼち》に、乳色《ちちいろ》をした濃《こ》い霧《きり》を落とし続けていた。それはさながら、こっくりと色をつけた空気のカーテンのように窪地全体を覆《おお》い尽《つ》くしていた。
重いクリーム色のカーテンをめくって部屋に入っていくように、一弥《かずや》たちは霧の中をゆっくりゆっくりと、〈名もなき村〉へ分け入っていった。
橋はとても古く、六人の足が動くたびにギィギィといやな音を立ててきしんだ。遥《はる》か下のほうで濁流《だくりゅう》が激《はげ》しく流れ、岩肌《いわはだ》に当たって白い泡《あわ》が波打つのが見えた。ひゅうぅぅぅ……といやな風が吹く。六人ともが知らず早足になり、いそいで跳《は》ね橋を渡《わた》った。
六人全員が渡り終えた途端《とたん》、跳ね橋はまた音を立てて上がっていった。門の内側に石製《いしせい》のアーチがあり、その上に櫓《やぐら》らしきものが見えた。男が数人、跳ね橋を動かしている。後ろで結ばれた長い金髪《きんぱつ》が、腕《うで》を動かすたびに大きく揺《ゆ》れる。一弥は彼らに声をかけようとしたが、そのとき強い風が吹いて、より深い霧が男たちの姿《すがた》も馬蹄《ばてい》型アーチも覆い隠《かく》してしまった。
霧が風に揺れて視界を覆ったかと思うと、急にきれいに晴れて、驚くほど遠くまで見渡せるようになった。びゅううっ……と強い風に耳をふさがれそうになる。ヴィクトリカ以外の人々は、耳を両手で覆って怯《おび》えたように辺りを見回していた。
「おい、見ろよ」
髭面《ひげづら》のアランが指差した。
霧がどんどん晴れていく。
「……あ!」
一弥も声を上げた。
――そこに現れたのは、石造《いしづく》りの四角い家々が並《なら》ぶ小さな村だった。苔生《こけむ》した灰色《はいいろ》の石を謎《なぞ》めいた高等数学で並べたような、幾何学《きかがく》的な、それでいてばらばらとも思える、不思議な形で造られていた。
開いたままの木戸が、風に揺られてきぃきぃと音を立てた。
小さな広場の真ん中に大きな井戸《いど》があった。
……誰もいない。
「遺跡《いせき》、か……?」
無口な大男のラウールが、感に堪《た》えない様子でつぶやいた。と、デリクがうなずいて、甲高《かんだか》い声でまくしたてた。
「中世の村だな! 見ろよ、あの聖堂《せいどう》の……」
遠く霧が晴れて見え始めた、石造りの聖堂らしき塔《とう》を指差す。
「……薔薇窓《ばらまど》と尖塔《せんとう》を!」
「昔の絵画にある、中世の聖堂だな」
アランがかぶっていた帽子《ぼうし》を脱《ぬ》いだ。若者《わかもの》三人は敬虔《けいけん》な面《おも》もちで聖堂をみつめ、しばし沈黙《ちんもく》した。
もの問いたげに振《ふ》り向く一弥に、デリクが説明する。
「俺《おれ》たちは美術《びじゅつ》大学に通ってるから、こういうのには詳《くわ》しいんだよ」
「ひゅう!」
アランがうれしそうに口笛を吹いた。ミルドレッドはまだ気持ち悪そうにうつむいて、黙《だま》り込《こ》んでいる。
――また風が吹き、霧がとつぜん、ザザーッ……と音を立ててすべて晴れた。
一弥たちはあわてて立ち止まった。
いつのまにか、目の前に男たちが立っていた。全員が槍《やり》や長剣《ちょうけん》などを手にし、無表情《むひょうじょう》に一弥たちをみつめていた。
「……幽霊《ゆうれい》か?」
アランがつぶやいた。髭をいじりながら、冗談混《じょうだんま》じりの口調だった。
その反応《はんのう》も無理はなかった。村が中世の遺跡さながらに古めいているのに似《に》て、目の前に現れた村人たちは、クラシカルすぎる扮装《ふんそう》で統一《とういつ》されていた。
男たちは毛織《けお》りのシャツに革ベストを羽織り、鋭角《えいかく》に尖《とが》った帽子をかぶっていた。女たちのスカートはゆったりとして後ろが大きくふくらみ、髪《かみ》もレース飾《かざ》りのついた丸帽子で後ろをふくらませている。
シェイクスピア劇の扮装にも似た、中世そのままの様相――。
そして人々は、全員がよく似通《にかよ》っていた。男も女も金髪を長く伸《の》ばしてきっちり結んでいた。体格《たいかく》は小柄《こがら》で、職人《しょくにん》が丹誠《たんせい》込めて造った人形を思わせる、整った小さな顔をしていた。
村人たちは濁《にご》った緑色の瞳《ひとみ》で一弥たちをじろりと見回した。表情は固まり皮膚《ひふ》も乾《かわ》いており、そのせいか、小さくて整った容姿《ようし》にかかわらず、まるで幽鬼《ゆうき》のような生気のない集団《しゅうだん》に見えた。
村人たちはヴィクトリカに注目した。
ざわめきが広がっていく。
「……コルデリアの娘《むすめ》だ」
「コルデリアだと……?」
「そっくりだ。見ろ、あの顔を」
「不吉《ふきつ》な……!」
カサカサと枯葉《かれは》が落ちるような乾いた声ばかりだった。村人たちは一斉《いっせい》に武器《ぶき》を持ち上げた。あちこちから鉄と鉄の合わさる重い音が響《ひび》いた。
そのとき……。
どこからか、しわがれた声が響いた。
「待て」
村人が一斉に武器を下ろした。
彼らが自然に道を開け、やがて一人の老いた男が進み出てきた。
古めいたフロックコートを羽織った六十がらみの男――。
ほとんど白といってもよい白金の髪が、長く伸ばされて後ろできつく結ばれていた。もみあげと顎鬚《あごひげ》が長く伸び、瞳は皺《しわ》とたるみに覆《おお》われた顔の肉によって半ば隠されている。大きな皺だらけの手でつややかな黒檀《こくたん》のステッキを握《にぎ》りしめていた。
男はヴィクトリカの前に進み出ると、まるで聖者の像《ぞう》のような、両手を握りあわせた姿勢《しせい》で立った。静かな瞳は冷たく濁った光をたたえていた。ヴィクトリカをじろりと見下ろす。
「……コルデリアの娘か。名前は?」
「ヴィクトリカ・ド・ブロワ」
問われたヴィクトリカも、負けないほど低い、老女のようにしわがれた声で答えた。男はかすかに息を飲んだ。
「ド・ブロワだと……? なんと、この国の貴族《きぞく》の血が混《ま》じったか……」
「文句《もんく》があるかね?」
「いや……。母親は……コルデリアはどうした?」
「消えた」
「なるほど、罪人《ざいにん》には心安らぐ暇《ひま》はあるまい」
「…………!!」
ヴィクトリカがぐっと唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「コルデリアは罪人ではない」
「……年長者の言葉に刃向《はむ》かうのは愚《おろ》かなことだ。おまえはこの村で育つことができなかったために、子供《こども》らしい謙虚《けんきょ》さを持っていないと見える。コルデリアでさえ、わしの言葉に逆《さか》らわず、おとなしくここを去ったというのに。……まぁ、よい」
男はヴィクトリカの怒《いか》りに燃《も》える瞳を気にする様子もなく、村人たちを見回した。
「我《われ》らのメッセージを読んでやってきた子孫《しそん》は、この少女だ。コルデリアの娘。しかし娘に罪はない。追いだすこともあるまい。ともに夏至《げし》祭を祝おうではないか」
村人は黙《だま》っている。濁った目と目が密《ひそ》やかに合わされるが、誰もなにも言わなかった。
男は続けた。
「わしの言う通りにするのだ。気にするな。不吉なことは起こるまい。たとえこの娘の母、コルデリアが……」
風が吹いた。男の白金色の髪が揺《ゆ》れた。
「……人殺しであろうとも、な」
――男は、村長のセルジウスと名乗った。村はもう四百年ものあいだここにあり、下界との接触《せっしょく》を断《た》って、できるだけ自給自足を心がけて住んでいると言う。
セルジウスの案内で村を歩いていく。
「夏至祭とは、夏に還《かえ》ってくる先祖《せんぞ》の霊《れい》を迎《むか》えて、豊穣《ほうじょう》を祈《いの》るための祭だ。明日の朝……夜明けとともに始まって、晩に終わる。あなたがたには、明日の晩《ばん》まで滞在《たいざい》していただきたい」
「明日の晩までか……」
ヴィクトリカがつぶやいた。
「ああ。あと一日と少しということだな。明日の夜明けとともに、広場に山車《だし》を出して楽器を鳴らし、森に祭が始まることを告げる。その後少しの時間をおいて、昼前からまた祭を始める。娘たちがハシバミの実を投げるのが祭の始まる合図なのだ。その後、若《わか》い男たちに扮装をさせ、広場で寸劇《すんげき》をさせる。〈夏の軍〉と〈冬の軍〉が戦って夏が勝利を収《おさ》め、〈冬の軍〉の大将《たいしょう》である〈冬の男〉が倒《たお》されるというものだ。夏の勝利を祝い、その後で先祖を迎える支度《したく》をする。先祖は聖堂《せいどう》を通って広場に戻《もど》ってくると言われているため、その時間だけは聖堂を無人にしなくてはならない。そして夜になると、選ばれた村人が仮面《かめん》をかぶり、戻ってきた先祖の役をやって、舞《ま》い踊《おど》る。祭はそれで終わりだ。一年の平和と豊穣が約束されるのだ……!」
セルジウスの説明は続いた。
だが一弥は、さきほどの人殺し≠ニいう言葉に驚《おどろ》いて気もそぞろだった。一方、若者三人はおかまいなく、村の様子を見てははしゃいで大声を上げていた。
「見ろよ、この井戸《いど》!」
「石造《いしづく》りの家に、暖炉《だんろ》。煙突《えんとつ》も、うへぇ! 古くさいぜ!」
セルジウスの助手らしくかたわらについている金髪《きんぱつ》の若者に、アランが自分の持っている最新式の腕《うで》時計を自慢《じまん》し始めた。猟銃《りょうじゅう》を片手《かたて》にした、村人の中では背《せ》が高くひときわ美しい顔を持つその若者は、ちらりと腕時計を見て、それから驚いたようにじっくりとみつめ始めた。
「見たことないのかよ?」
「……村から出ませんので」
「本当に? じゃ、毎日なにしてんだよ?」
同世代の若者に、アランが騒々《そうぞう》しく話しかける。時計のつぎは鼈甲縁《べっこうぶち》の眼鏡《めがね》を自慢し、となりを歩くデリクの洋服を引っ張《ぱ》って仕立てを自慢し……。
村長のセルジウスが不快《ふかい》そうに顔をしかめた。長い眉《まゆ》がぴくりと動いた。
セルジウスの案内で、村の中心の広場に向かって歩いていった。広場の向こう側には、切り立った断崖《だんがい》と小さな暗い森があった。村は森に囲まれた小さな丸い形をしているらしかった。城壁《じょうへき》に囲まれていたのは入り口の崖《がけ》のところだけで、裏側《うらがわ》に壁《かべ》はなかったが、森のところどころに断崖があり、いかにも危険《きけん》な様子だった。
小さな村だった。だがその小さな村で、昔のままの生活がきっちり保《たも》たれているということに、一弥は驚きを感じた。
と、そのとき……セルジウスがちらりと森に目を走らせた。
かすかに木の枝《えだ》が風に揺れた。
カサッ――!
つぎの瞬間《しゅんかん》、セルジウスが助手の若者から猟銃を奪《うば》い取り、持ち上げた。森に向かって銃口を向ける。
上機嫌《じょうきげん》でしゃべるアランやデリクは、気づかない。
助手の若者がアッと息を呑《の》んだ。
――乾いた銃声が響《ひび》いた。
アランたちは三人|揃《そろ》って飛び上がった。驚いたように顔を見合わせ、
「な、なん、だよ?」
「……狼《おおかみ》だ」
セルジウスはこともなく言った。
「この辺りの山には、野生の狼が住んでいる。体も大きく、なかなか強靭《きょうじん》でね。みつけたら、村に近づかないよう脅《おど》すのだ。こうやって」
若者たちは顔を見合わせた。
「森にはわかりにくい断崖が多く、また野生の狼がいるので、そちらには入れない。安全に村に入る唯一《ゆいいつ》の方法が、跳《は》ね橋を渡《わた》ることなのだ」
助手の若者は怯《おび》えたように口をきつく結び、それきり一言もしゃべらなかった。
おしゃべりのアランが髭《ひげ》をいじりながら、セルジウスに声をかけた。
「だけどじいさん。麓《ふもと》のホロヴィッツでは、この村に住んでいる人間のことを灰色狼《はいいろおおかみ》って呼《よ》んでたぜ? とにかく得体が知れないってさ。な?」
同意を求められた無口なラウールが、大きな体を縮《ちぢ》こまらせ、怯えたように猟銃を横目で見ながらも、うなずいた。助手の若者は、よりによって村長がじいさんと呼びかけられたことに息を呑み、怒《おこ》るべきだろうかと迷《まよ》うように、アランとセルジウスの顔を見比《みくら》べた。
と、セルジウスが乾いた笑い声を上げた。
「そんなはずはない! 我々《われわれ》はただの人間だ。こんな山奥《やまおく》で古めいた生活をしていると、いういろ邪推《じゃすい》されるというだけだよ」
「へぇ……」
アランがうなずくと、デリクが甲高《かんだか》い声で笑った。つられてラウールもにやにやした。
「……ただ、ほんの少し種族がちがうというだけだ。下の人間はそれ――種族の違《ちが》いを、皮膚《ひふ》で感じているのだろう。我々からはなにもしていないのだからな」
セルジウスは妙《みょう》な言葉を付け足した。そしてそのまま歩いていつた。
乾いた石畳《いしだたみ》の道が続いていた。一同は村の中心にあった広場を通り抜《ぬ》け、古めかしい建築《けんちく》の聖堂を横手に眺《なが》めながら通り過《す》ぎた。聖堂の裏に、霧《きり》にかすむ墓地《ぼち》が薄《うす》ぼんやりと浮《う》かんでいた。なぜか不吉《ふきつ》な気がして、一弥は顔を背《そむ》けた。墓地の向こうには黒ずんだ森がこちらに迫《せま》りくるように盛《も》り上がり、木々の枝のあいだをやはり濃《こ》い霧がみっしりと覆《おお》っていた。
狭かった道幅《みちはば》が急に大きくなった。これ以上進んだら森に入り込《こ》んでしまう……と思ったとき、セルジウスが足を止めた。
広くなった石畳の道は、ゆるやかな傾斜《けいしゃ》で上へ続いていた。薄《うす》いオーガンジーのカーテンのような霧が何層《なんそう》も覆い尽《つ》くして、風に揺《ゆ》らめいていた。幾《いく》つもの霧の層が、風に揺られて上に舞い上がった。そのとき、道の先――小高い不吉な黒みを帯びた丘に、背骨《せぼね》を折り曲げるように丸くうずくまる巨大《きょだい》なモノが見えた。
想像《そうぞう》できないほど大きな体を持った、灰色のモノだった。ミルドレッドが声にならない悲鳴を上げた。
巨大な灰色の動物――!
いまは黒ずんだ暗い丘にうずくまっているが、いまにものっそりと起きあがり、こちらに首をもたげたかと思うと、後ろ足で丘を蹴《け》り壊《こわ》しながら襲《おそ》いかかってきそうな……。
巨大な灰色狼の姿《すがた》……。
思わず、麓のホロヴィッツで聞いた不吉な噂《うわさ》が脳裏《のうり》をよぎった。怯えたような宿屋の主人の暗い顔も。
〈灰色狼が棲《す》んでいる――〉
〈やつらを怒らせてはいけない――〉
〈つまらないことで彼らを怒らせてはいけない――〉
〈おそるべき人狼《じんろう》たちだ――〉
びゅうっと風が吹《ふ》いた。
(……あれっ?)
一弥は目をこすった。
巨大な姿のそれが、しかし、石でできていることに気づいた。冷たく乾いた灰色の無機物。そしてつぎに、それもまた目の錯覚《さっかく》だったことに、気づく。
それは、暗い灰色をした、大きな館《やかた》だった。
石造《いしづく》りの平坦《へいたん》な造りだった。左側にある高い塔《とう》が、動物のもたげた頭部のように見えたのだった。玄関《げんかん》のポールは凝った円花|飾《かざ》りで造られ、屋根の飾りも美しかった。だが、天気のいい日なら眩《まぶ》しい白亜《はくあ》の建物に見えるかもしれない石の外壁《がいへき》は、いまは濃い灰色に不吉に沈《しず》んでいた。
黒一色の筆ですべてを描《か》いたような――豪奢《ごうしゃ》だが色彩《しきさい》に乏《とぼ》しい、不思議な館だった。
館の周りで、細い花壇《かだん》が不思議な模様《もよう》を造っており、名前のわからない赤色をした花が揺れていた。鮮《あざ》やかな色彩はそれだけで、花壇は赤い血管がのたうつように不吉で暗い印象を投げかけていた。
セルジウスがしわがれた声で言った。
「ここが、わしの館だ」
一弥たちは顔を見合わせた。セルジウスは続けた。
「君たちは夏至《げし》祭のあいだ、ここに泊《と》まってもらう」
館は大きく、薄暗かった。
豪奢な造りで、どの部屋も磨《みが》き込まれたマホガニーの家具やビロードのカーテンに囲まれ、石造りの粗末《そまつ》な村とはずいぶん趣《おもむき》のちがう館だった。
大きな玄関を入ると、赤絨毯《あかじゅうたん》の敷《し》かれた大階段《だいかいだん》があり、奥にシャンデリアの輝《かがや》くホールがあった。大階段を上がると長い回廊《かいろう》があり、重苦しいカーテンがたれ込めていた。天井《てんじょう》近くの壁灯《へきとう》が橙色《だいだいいろ》に揺らめいていた。
薄暗い回廊には、先祖《せんぞ》たちの肖像画《しょうぞうが》がかけられていた。どの顔も整っていかめしく、金髪《きんぱつ》を長く伸《の》ばして結んでいた。もっとも手前にある肖像画がいちばん若《わか》く、まだ四十代に差し掛《か》かったところと思われた。
一弥たちが肖像画を見上げていると、どこからか、あどけない子供《こども》のような声がした。
「それがシオドア様。殺された村長です」
ヴィクトリカの肩《かた》がびくっと揺れた。
全員、声のした方向を振《ふ》り返った。
洋燈《ランプ》を手にした女が立っていた。年の頃《ころ》は二十五、六|歳《さい》か。濃い金髪を細いたくさんの三つ編《あ》みにして、一つ一つをくるりと巻《ま》き込んだ凝った髪型《かみがた》をしていた。きれいに整った顔はしかし、表情《ひょうじょう》にとぼしく、壊《こわ》れた人形のようだった。カタリと真横にかたむけた首は、いまにもごろりと音を立てて床《ゆか》に落ちそうに思えた。
翡翠《ひすい》を思わせる濁《にご》った緑色の瞳《ひとみ》は、薄闇《うすやみ》によく光った。
――その服装《ふくそう》から、彼女がメイドであることがわかった。村長のセルジウスと同じく、クラシカルなスタイルの服を身につけている。スカートの丈《たけ》は長く、後ろが大きくふくらんでいる。腰《こし》はコルセットで細く締め、首もとは白い襟《えり》で肌《はだ》が見えないよう覆われていた。
セルジウスが振り返り、
「彼女はハーマイニア。この館のメイドだ」
ハーマイニアは片膝《かたひざ》を折って、軽く会釈《えしゃく》をした。
それから冷たい瞳でヴィクトリカを見下ろした。
「コルデリアにそっくりですわ」
――一弥は息を呑んだ。
彼女の声は、さきほどの子供のような声とはまるで別人のものに聞こえた。今度の声は男のように低く、太かった。
ハーマイニアはしゃべり続けた。声は高くなり、低くなり、男か女かも、大人か子供かもわからないぐらい自在《じざい》に変わった。
「わたしはまだ子供だったけれど、よく覚えています。コルデリアが追放されたときのことを。ちょうど二十年前。この館で……」
「ハーマイニア」
「シオドア様の書斎《しょさい》で、コルデリアが金貨をばらまき、シオドア様を……」
「ハーマイニア」
「短刀で……」
「ハーマイニア!」
「…………」
口を閉《と》じると、ハーマイニアはつっと左手を上げた。
皆《みな》が見ていると、彼女は濁った翡翠のような目に、左手の人差し指を近づけた。下瞼《したまぶた》をぐっと引っ張《ぱ》り、人差し指の腹《はら》でぐりぐり、ぐりぐり、と目をこすった。
おそろしい力で目をこすっているように見え、一弥たちははっと息を呑んだ。ハーマイニアの左眼《ひだりめ》の、白目の下のほうがよく見えた。赤い毛細血管がたくさん集まり、細かいひび割《わ》れのように白目を細く赤く染《そ》めている。
ぐりぐり、ぐりぐり……。
白目がむき出される。
ぐりぐり、ぐりぐり……。
ハーマイニアは急に、目から手を離《はな》した。
――洋燈の灯《ひ》がとつぜん、少し暗くなったように感じられた。
「事件《じけん》は書斎で起こった。いまはもう誰《だれ》も使っていないがね。一階|奥《おく》にある古い部屋だ」
ハーマイニアが用意した軽い昼食を前に、一同はダイニングルームのテーブルを囲んでいた。
大理石のマントルピース。黒光りする鏡板の壁《かべ》には、四隅《よすみ》にガラス細工の壁灯がかけられている。壁には絵が何枚《なんまい》か飾られている。豪奢な部屋なのに、なぜか息苦しい。一弥はふと、天井の低さのせいではないかと気づいた。部屋も廊下も天井が低く、いまにも押《お》しつぶされそうな不安感をそそる造《つく》りだった。……村の人々が小柄《こがら》なせいだろうか。
運ばれてくるサンドイッチや紅茶《こうちゃ》、焼き菓子《がし》などは、すべて揃《そろ》いの銀食器に乗せられていた。幾《いく》世紀前から磨《みが》かれ続けたのだろうか。古いが、よく磨き込まれて鈍《にぶ》く輝《かがや》いていた。
セルジウスが話している。
「書斎には、夕方から村長のシオドア様が一人でこもっていた。夜の十二時になると、メイドのコルデリア――当時十五歳の少女が、水差しの水を換《か》えにいく習わしだった」
十五歳なら……と一弥はひとりごちた。いまの一弥やヴィクトリカと同じ歳《とし》だ。
「わしは当時、シオドア様の助手をやっていたからね、この館《やかた》にいた。ほかの男たちとともに廊下《ろうか》の前を通りかかったとき、ちょうど、書斎に入ろうとするコルデリアの後ろ姿《すがた》が見えた。彼女はいつも通り、無骨《ぶこつ》な鉄の燭台《しょくだい》を持っていた。ノックをしてから、ドアノブに手を伸ばした。鍵《かぎ》がかかっていたらしくドアは開かなかった。いつもは鍵などかかっていないのだが、シオドア様はあまり邪魔をされたくないとき、ときどき鍵をかけるのだ。コルデリアは鍵を取りだして扉《とびら》を開けた。そのときわしたちは廊下の前を通り過《す》ぎた。時間は十二時ぴったりだったと思う。わしは懐中《かいちゅう》時計を見たのでね。コルデリアも時間に正確《せいかく》な人間だった。しかし一緒《いっしょ》にいた男たちの、時間に関する証言《しょうげん》はなぜかまちまちで、いまとなっては何時だったのかはっきりしない。ともかく……」
若者三人はむしゃむしゃと食事をしながら、古くさい食材だのなんのと、ひっきりなしにケチをつけていた。アランが大きな声でなにか言うたび、デリクが甲高《かんだか》い声で返事をする。ラウールは黙《だま》っていたが、銀食器をめずらしそうにじろじろ見たり叩《たた》いてみたりを繰《く》り返していた。三人ともセルジウスの話には興味《きょうみ》がないらしく、ろくに聞いていなかった。
ミルドレッドはまだ二日酔《ふつかよ》いなのか、気持ち悪そうに押し黙っていた。食も進んでいないようだ。
ヴィクトリカはセルジウスの話に耳を傾《かたむ》けていた。
「……コルデリアが、叫《さけ》び声を上げて書斎から飛び出してきた。わしたちはあわてて駆《か》けつけた。恐怖《きょうふ》にかられて暴《あば》れるコルデリアを押さえつけて、書斎に入ると……書斎は闇《やみ》に沈《しず》んでいた。燭台で床《ゆか》を照らすと、シオドア様がうつぶせに倒《たお》れていた。すでに絶命《ぜつめい》していた。短刀で、背中の上部を背後から刺《さ》され、胸から血に染まった刃先《はさき》が突《つ》き出ていたのだ。そして、なぜか……」
セルジウスは一度言葉を切って、じつに不思議そうに言った。
「床に、金貨がたくさん散らばっていた」
「……金貨?」
「そうだ。二十枚近くあったはずだ。しかしこの村では、金貨などというものは使われないため、普段《ふだん》はシオドア様がまとめてしまっていたはずだ。金貨はシオドア様の血に浸《つ》かり赤く染まっていた」
「……」
「その夜から、コルデリアは高熱を出して寝込《ねこ》んだ。うわごとのように『まるいもの、まるいものがたくさん、きれい……』と繰《く》り返していたらしい。おそらく金貨のことを言っていたのだろう……。そのあいだにわしたちは話し合った。そして十日後。コルデリアの熱が下がり、起き上がれるようになるのを待ち、わしたちは……いや、つぎの村長となったわしは、彼女を村から追放した」
「追放……?」
一弥が聞き返した。
「そうだ。トランク一つと金貨一枚を持たせて村から出すと、跳《は》ね橋を上げた。その後のことは、山を無事に降《お》りられたのかさえ知らなかった。野生の狼《おおかみ》、険《けわ》しい断崖《だんがい》、そして渓流《けいりゅう》……。村を一歩も出たことのない娘《むすめ》に、無事に麓《ふもと》の町までたどり着けるとは思えなかった。……いまも思い出す。まるいもの……金貨一枚を握《にぎ》りしめ、緑の瞳《ひとみ》いっぱいに涙《なみだ》をためて、無情《むじょう》に上がっていく跳ね橋を見上げていたあの顔を。コルデリアは孤児《こじ》だった。誰もあの子に山を降りる方法を教えず、防寒具《ぼうかんぐ》も食べ物もなにも与《あた》えなかった。あの子の唯一《ゆいいつ》の保護者《ほごしゃ》が、村長の助手であったわしで、身寄《みよ》りのないあの子に館のメイドをさせていたのだ。そのわしがコルデリアを罰《ばっ》したのだ……。罪人《ざいにん》となった、病《や》み上がりのコルデリアは、一人で数日かけて山を降り、都会に出て……しかし、なんとかして生きていったのだろう。こうやっていま、娘がやってきたということは」
一弥は聞き返した。
「そんな……どうして? 追放だなんて……」
「コルデリア以外に犯人《はんにん》は考えられなかったのだ。書斎《しょさい》には内側から鍵がかかっていた。それは彼女自身も認《みと》めておる。そして書斎に誰もいなかったことも。書斎の鍵は二つしかなかった。そのうちの一つはシオドア様が身につけていたし、もう一つはずっとコルデリアの手にあった。それに彼女は書斎に入ったとき、手にした燭台できっちり見渡《みわた》したと言っていたのだ。シオドア様と彼女以外には誰もいなかった。コルデリアは、そのときもうシオドア様は死んでいたと言うが、つじつまがあわん。おそらく彼女が書斎に入った後、なにかが起こったのだろう。そしてコルデリアは、シオドア様を殺してしまった。その後熱を出したのも、自責《じせき》の念からだろうということになった」
「でも、それだけじゃ……。彼女が犯人だという明確な証《あかし》にはならないのでは……」
「わしの判断《はんだん》にまちがいはない」
セルジウスは低い声で言った。
「そしてわしは、シオドア様が死んだためにつぎの村長となった。わしの決めたことは絶対のこととなるのだ」
「だけど……」
「罪人は置いておけぬ。村に厄《やく》がやってくるからだ。村を守るのがわしの務《つと》めだ」
「…………」
「コルデリアは罪人なのだ。そうとしか考えられぬ」
セルジウスは頑固《がんこ》に繰り返した。
静かに聞いていたヴィクトリカが、ふいに言った。
「その書斎に入りたいのだが」
セルジウスが首を振《ふ》った。
「それはいかん」
「なぜだね?」
「……客人に勝手にうろつかれては困《こま》る」
セルジウスは不機嫌《ふきげん》そうにそう言うと、それきり押し黙《だま》った。
それぞれに用意された部屋は、館《やかた》の三階|奥《おく》にある客用|寝室《しんしつ》だった。十分な広さがあり、部屋の中央には天蓋付《てんがいつ》きの大きなベッドが鎮座《ちんざ》していた。鏡は胸《むね》から上が映《うつ》る大きさで、壁《かべ》に作りつけになっていた。部屋の奥に、光沢《こうたく》あるビロードのカーテンが重そうに立ちこめていた。
ヴィクトリカ、一弥、ミルドレッド、アラン、デリク、ラウールの順に、端《はし》から部屋に入っていく。一弥は黙り込《こ》んでいるヴィクトリカの荷物を持って、彼女の部屋に運び込んだ。ヴィクトリカは一弥のほうを見もせずに、白い顎《あご》に小さな手を当てて考え込んでいた。
パイプをくわえ、火をつける。
それからぎゅっと背伸《せの》びをして、窓《まど》の端にある紐《ひも》に手を伸《の》ばし、思い切り引っ張《ぱ》った。
カーテンが波打ちながらゆっくり開き、石造《いしづく》りのバルコニーと欝蒼《うっそう》とした樫の大木の景色が広がった。
ヴィクトリカは目を細め、じっと景色を見下ろしていた。一弥が手を止めて「……どうしたの?」と言いながら彼女に並《なら》んだ。
木々のあいだから、古めかしい聖堂《せいどう》の裏《うら》にある、うらぶれた墓地《ぼち》が覗《のぞ》いていた。
ヴィクトリカはしばらく黙っていた。
それからとつぜん部屋を出ていった。一弥はあわてて、
「どこに行くんだよ?」
「散歩だ」
「散歩……?」
「…………」
ヴィクトリカは答えず、磨《みが》き込まれた青銅《せいどう》のてすりに片手《かたて》を置くと、大理石の大階段《だいかいだん》をゆっくり下りていった。
真鍮《しんちゅう》のバケツと白い布《ぬの》を手に掃除《そうじ》していたハーマイニアが、蛇《へび》が鎌首《かまくび》をもたげるようにくにゃりと首を曲げ、小さな少女の姿《すがた》を目で追った。
――ヴィクトリカは、館の玄関《げんかん》を出ると、ゆっくりした足取りになった。一弥はようやく追いついて、となりを歩きだした。
石畳《いしだたみ》の小径《こみち》で、数人の村人とすれちがった。誰もこちらを見ようとしない。ヴィクトリカもまた、彼らのほうを見向きもせずに歩いていく。
「……どこへ行かれるのですか?」
急にどこからか声がした。一弥が振り向くと、いつのまにか背後《はいご》に……霧《きり》にまぎれるようにして一人の青年が立っていた。
青年は、村人の一人であると一目でわかるような、シェイクスピア劇《げき》の登場人物のように古めかしい衣装《いしょう》を身につけていた。長い金髪《きんぱつ》が後ろできっちり結ばれ、透《す》き通るように白い肌《はだ》は少女のようにすべすべしていた。ヴィクトリカと同じ深い緑色をした瞳《ひとみ》には、しかしなんの表情《ひょうじょう》も浮かんでいなかった。冷たい能面《のうめん》のような顔――。
一弥は青年が誰なのかを思い出した。セルジウスの助手として、かたわらについていた青年だ。アランたちの時計や衣服にいちいち驚《おどろ》いていた、あの……。
「ぼくが案内します。あ、ぼくはアンブローズといいます。よろしく」
青年――アンブローズが、一弥とヴィクトリカに名を名乗った。一弥はおやっと思った。青年の印象がとつぜん変わったのだ。笑顔《えがお》で話しだした途端《とたん》、彼は生き生きとした明るい青年に見え始めた。頬《ほお》にも生気がみなぎり、薔薇《ばら》色に染《そ》まっている。貴婦人《きふじん》然《ぜん》とした彫《ほ》りの深い整った美貌《びぼう》には、愛嬌《あいきょう》のある楽しそうな表情が浮かび始めた。
「外からのお客人は久《ひさ》しぶりなので、その、うれしくて。でも、あまり調子に乗らないようにしますけど……」
「あなたはぼくたちを歓迎《かんげい》してくれるんですか?」
一弥は意外に思って、聞いた。
「…………」
アンブローズは困《こま》ったように沈黙《ちんもく》した。
「……村人たちはみんな、変化を好まないんです。べつの文化に暮《く》らす人々との接触《せっしょく》は、あまり好ましくないと考えているんです。外の世界の人たちはよくない生活をしていると……セルジウスさまが……」
「ふぅん……? アンブローズさんもそう思うんですか?」
「ぼくは、よくは…………」
アンブローズは沈黙した。
それから、一弥の顔や姿を観察し始めた。どうにもじろじろ見られるので困っていると、つぎにアンブローズはおずおずと手を伸ばした。高貴な貴婦人のような姿に、一弥はつい遠慮《えんりょ》がちになり、されるがままになっていた。アンブローズはめずらしそうに一弥の頬を撫《な》でたりこすったり、髪《かみ》の毛をつまんだり引っ張ったりし始めた。一弥はしばらく我慢《がまん》していたが、ついに、
「……なんですか!」
「いや、どうして肌や髪の色がちがうのかと。外の世界の人は金髪とは限《かぎ》らないと知っていましたが……」
どうやら、東洋人を見るのは初めてらしい。いやがる一弥の目を覗《のぞ》き込んだり、顔の彫りを確《たし》かめるように手のひらでぺたぺた撫で回したりするのに、一弥がついに、
「ヴィクトリカ、助けて!」
呼《よ》ばれたヴィクトリカは、興味《きょうみ》なさそうにふんと鼻を鳴らした。そしてアンブローズを見上げた。
「……君、案内してほしいところがあるのだが」
アンブローズが笑顔で聞いた。
「どうぞおっしゃってください。その代わり、もう少しこの人を触《さわ》っていていいですか?」
「好きにしたまえ」
「ヴィッ……!?」
ヴィクトリカはフンッとそっぽを向いた。
そして小声で言った。
「コルデリアの住んでいた家だ」
――アンブローズの指が、急にすうっと冷たくなった。一弥の顔から手を離《はな》し、ヴィクトリカを睨《にら》む。その顔にはもう生気はなく、村人たちと同じ濁《にご》った目に、ひんやりした無表情だけが浮かんでいた。
コルデリアの家は、村人たちの四角い石造《いしづく》りの家が並《なら》ぶ一角に、ぽつんと残されていた。
それ自体が禁忌《きんき》であるというように、ほかの家から離れたところに孤島《ことう》のようにたゆたっていた。手入れされていないためか、外壁《がいへき》は風雨の染《し》みとからまったまま枯《か》れた蔦《つた》がつくるカラカラに乾《かわ》いた模様《もよう》に彩《いろど》られ、ひどく寂《さび》れていた。
案内してきたアンブローズは、逃げるようにその場を離れ、霧の中に消えていった。
一弥ははらはらしていたが、ヴィクトリカは平気な様子で扉《とびら》のドアノブに手をかけた。鍵《かぎ》はかかっていなかった。長い時間に堆積《たいせき》した汚《よご》れで、ヴィクトリカの小さなふくふくした手のひらが真っ黒になってしまった。一弥がハンカチを取りだして手を拭《ふ》いてやる。ヴィクトリカは面倒《めんどう》くさそうに一弥をふりほどくと、小さな家に入っていった。
驚くほどせまくて、古びた部屋だった。
村のどの家もこうなのだろうか? 寒々とした石の壁《かべ》に仕切られた部屋は、小さな台所と寝室《しんしつ》があるだけで、暖炉《だんろ》と呼ぶにはあまりにも粗末《そまつ》な囲いが、壁際《かべぎわ》で埃《ほこり》をかぶっていた。使い古された机《つくえ》と椅子《いす》。ほつれた木綿《もめん》のシーツがかけられた小さな木のベッド。薄暗《うすぐら》い部屋は、家具の一つ一つが粗末で古びていた。それは、村人たちの濁った目と生気のない顔つきと重なるイメージだった。
一弥はこの部屋と、村長のための豪奢《ごうしゃ》な館《やかた》のちがいに気づき、ひそかに愕然《がくぜん》とした。
(まるで、まったくべつの場所みたいだ……!)
しかし、コルデリア・ギャロが一人で住んでいたという部屋は、目が慣《な》れてくると、ところどころに少女らしいかわいらしい飾《かざ》りつけが見て取れた。ジャムが入っていたガラス瓶に野の花をかざっていたらしく、窓際《まどぎわ》にその名残《なごり》が置かれていた。カーテンはボロボロになってはいたが、かわいらしい模様がつけられた手縫《てぬ》いのレースだった。
二十年前まで――この部屋に確《たし》かに少女がいたのだと感じられた。一弥は急に、部屋から濃密《のうみつ》な少女の気配が……いまはもうここにいない人の存在《そんざい》が、甘《あま》く迫《せま》ってくるように感じられた。
ヴィクトリカが大切に持っていた、あの写真――。
彼女と顔こそよく似《に》ているが、見慣れない艶《あで》やかな化粧《けしょう》で婉然《えんぜん》とこちらをみつめていた、謎《なぞ》めいた大人の女性《じょせい》――。
コルデリア・ギャロがここにいたのだ、と。
ヴィクトリカは、一言もしゃべらずに部屋を見回していた。かわいらしい赤い唇《くちびる》をきつく噛《か》んで、部屋のあちらこちらを歩いては、観察を続けていた。
「……なにしてるの?」
「わからない。なにかを探《さが》している」
ヴィクトリカは振《ふ》り向いた。眉間《みけん》にぎゅっと力を込めたとても必死な顔だったので、一弥も真剣《しんけん》な顔になった。
「わたしたちは、明日の晩《ばん》までしかこの村にいられない。夏至《げし》祭が終われば追いだされてしまう。だからその前に、わたしはなにかをみつけなければいけないのだ……!」
「うん……」
ヴィクトリカは部屋中を探し回った。少しずつ動きが早くなっていく。埃が舞《ま》い、一弥は咳《せ》き込んだ。やがてヴィクトリカは、あきらめたように動きを止めると、
「……なにもないな」
「そうみたいだね……」
「母はなにかメッセージを残している。この村になにかを……。そんな気がしてならなかったのだ。だがみつからない……」
ヴィクトリカは唇を強く噛んだ。
それからしゃがみこむと、小さな拳《こぶし》を固めてトントン、トントンと床《ゆか》を叩《たた》き始めた。白い埃が舞った。一弥はさらに咳き込みながら、
「なにしてるの?」
「……床を叩いている」
「そりゃ、見ればわかるけど……」
「床の音が変化する場所があれば、下に空洞《くうどう》があるということになる」
「……じゃ、ぼくがやるよ。君は立ってて」
一弥は床に膝《ひざ》をつくと、几帳面《きちょうめん》に部屋の隅《すみ》から始めて、トントン、トントンと拳で叩き続けた。トントン、トントン……。台所の床を叩き終わり、寝室に移動《いどう》する。まもなく、音が大きく反響《はんきょう》する場所をみつけた。ヴィクトリカがちょこちょこと近づいてきた。
二人で床板を上げる。
埃が大量に舞い上がる。
下に……小さな空洞があった。本が二、三|冊《さつ》入るほどの浅い四角い穴《あな》だった。そこにはなにもないようだったが、よく見ると、埃に隠《かく》れて一|枚《まい》の写真が残されていた。
二人は顔を見合わせた。
ヴィクトリカが手を伸《の》ばして、その古い写真を握《にぎ》った。
小さな白い人差し指で、溜《た》まった埃を払《はら》う。
――貴婦人《きふじん》の写真だった。
髪《かみ》を結《ゆ》い上げて真珠《しんじゅ》の飾りを輝《かがや》かせ、胸元《むなもと》の開いたドレスを身につけている。なにかを抱《だ》いている。絹《きぬ》とレースに縁取《ふちど》られた柔《やわ》らかな布《ぬの》に包まれた、赤ん坊《ぼう》だ。
母と子の写真――。
貴婦人の顔は、コルデリア・ギャロにまちがいなかった。
ヴィクトリカが持つ金貨のペンダントに貼《は》られた写真と、同じ人物だ。
大人になったコルデリア・ギャロと、その子供《こども》の写真……?
「……どうしてここにこんな写真が?」
ヴィクトリカはつぶやいた。
「久城、これはおかしい。コルデリア・ギャロは十五|歳《さい》のときに村を追われたのだ。それきり彼女は戻《もど》ってきていない……はずだ。それから遥《はる》か二十年の時が過《す》ぎている。だがこの写真の彼女はすでに大人になっているし、赤ん坊がわたしだというなら、おそらくこの写真は十年ちょっと前に撮《と》られたもののはずだ。久城……」
ヴィクトリカは顔をしかめた。
「この欠片《かけら》はなにを意味する? この混沌《カオス》は何処《どこ》へ向かっているのだ?」
「ヴィクトリカ……」
「誰《だれ》かがここにきたのだ。コルデリアが追放されてから数年後に。そしてその誰か≠ヘこの家にきて、おそらく、隠し場所に残されていたなにか≠持ち去ったのだ。さらに、密《ひそ》かなメッセージとして、大人になったコルデリアの写真を残していった。それは誰か? コルデリアとの関係はなんだ? そして、ここから持ち去られたものとはなんなのだ?」
ヴィクトリカは首を振った。
「わからないことばかりだ。だがしかし、わたしは欠片を一つみつけたぞ。欠片を一つ……!」
二人はコルデリアの家を出ると、そっと扉《とびら》を閉《し》めた。
ヴィクトリカは考え事に夢中《むちゅう》になっていて、次第《しだい》に、一弥に説明してくれなくなってきた。扉の前にただ佇《たたず》んで物思いに耽《ふけ》っている。
一弥はヴィクトリカの髪や服から埃《ほこり》を払い、ほっぺたや手のひらについた汚《よご》れをハンカチでふいてやった。と、ヴィクトリカがどんどん歩きだしたので、一弥は自分の衣服は汚れたままで、文句《もんく》を言いながら、後をついていった。
「君もぼくもすっかり埃だらけになっちゃったよ。まったく、ぼくは着替《きが》えを持ってきてないんだぜ? それはなぜかって言うと、夕べ君が、どこに行くかぜんぜん教えてくれなかったせいなんだけどね。……聞いてる?」
ヴィクトリカはフンと鼻を鳴らしたきりだった。そのまままっすぐ、聖堂《せいどう》の裏《うら》にある墓地《ぼち》へ向かっていく。歩調がどんどん早くなっていく。
「どこ行くんだよ?」
「殺された人間の墓《はか》を見るのだ」
一弥は顔をしかめたが、仕方なく後をついていった。
煙《けむり》のように狭霧《さぎり》が立ちこめる墓地に入ると、急に気温が低く感じられた。濃《こ》い緑の蔦《つた》が張《は》る古びた墓石が、いくつも続いている。霧に邪魔《じゃま》されて視界《しかい》が悪かった。一弥は、先に歩いていくヴィクトリカのふっくらしたスカートの裾《すそ》からのぞくフリンジや、帽子《ぼうし》から長く垂《た》れているベルベットのリボンが揺《ゆ》れているのを頼《たよ》りに、彼女の後を追った。
(しょうがないなぁ、もぅ……! こんな妙《みょう》なところでヴィクトリカを一人きりになんてさせられないからな。転んだり穴に落っこちたら困《こま》るし……。ぼくがしっかりしなきゃ……)
やがて、ヴィクトリカが足を止めた。
レースのついた革靴《かわぐつ》が踏《ふ》みしめる砂利《じゃり》の、乾《かわ》いた音が響《ひび》いた。
一弥は、目の前にある苔生《こけむ》した石の十字架《じゅうじか》に目を留《と》めた。ヴィクトリカの視線はそれに強く注がれ、唇《くちびる》はきゅっと引き結ばれている。一弥は墓石に彫《ほ》られた名を読み上げた。
「……シ、オ、ド、ア」
二十年前に殺された村長の名だった。墓碑銘《ぼひめい》には、彼が若《わか》かりし頃《ころ》から聡明《そうめい》な人間であったことや、立派《りっぱ》な村長であったこと、不慮《ふりょ》の死を遂《と》げたことなどが、古めかしい散文のような文章で綴《つづ》られていた。一弥が文法に苦心しながらなんとか読んでいると、ヴィクトリカが小さく「……アッ!」と叫《さけ》んだ。
「どうしたの?」
「久城、これを」
ヴィクトリカの指差す指が少しだけ震《ふる》えて見えた。
そこには……。
墓地の柔らかな土に埋《う》められた十字架の下のほう、盛《も》り上がった土に隠《かく》れるぎりぎりのところに、なにかが見えた。鋭利《えいり》な石かなにかで無理やり刻《きざ》み込《こ》んだような、小さな手書きの文字のようだった。わずかに一文字だけが覗《のぞ》いていた。ヴィクトリカが小さな手をのばして土を掘《ほ》ろうとした。それは小動物が木の実を埋めようと穴《あな》を掘る様子に似《に》ていた。一弥はあわてて彼女を止めると、自分が手を伸《の》ばして、爪《つめ》の中を真っ黒に汚《よご》しながらも穴を掘った。
文字が現《あらわ》れてきた。
だが土が邪魔をしてよく見えない。
一弥がハンカチで十字架を拭《ふ》いた。ハンカチは黒く染《そ》まっていき、少しずつ文字が浮かび上がってきた。
過去《かこ》からいまへと、不思議な力で蘇《よみがえ》るように……。
みつめるヴィクトリカの瞳《ひとみ》に、涙《なみだ》が溜《た》まっていく。
そこには……。
〈我《われ》は咎人《とがびと》に非《あら》ず C〉
――震える小さな文字だった。
ヴィクトリカはしばらく文字をみつめていた。それからすっくと立ち上がった。
怒《いか》りを爆発《ばくはつ》させるように、小さな足で地面を蹴《け》る。レースのついた革靴を履《は》いた足が、砂利にめりこんだ。
その音か、空気を震わせる怒りそのものかに……驚《おどろ》いたように、霧の向こうで鳥が一斉《いっせい》に飛び立った。バサバサという羽音が絶《た》え間なく聞こえ、やがて遠のいていった。
乳色《ちちいろ》をした濃い霧の立ちこめる上から、ひらりひらりと白い羽毛《うもう》が、一つだけゆっくりと落ちてきた。目で追っていると、砂利の上に落ちてぶるる、と震えた。
風が吹《ふ》いて霧が動いた。
どこからかかすかに……。
笑い声が聞こえた気がした。
かすかな声だった。あの世のざわめきにも似た、甲高《かんだか》く、そのくせ冷え切った妙な笑い声……。
一弥は思わずヴィクトリカに駆《か》け寄《よ》った。
ヴィクトリカは、なにも聞こえていないかのように立ち尽くしていた。小声でつぶやく。
「これを書いたのは、コルデリアだ……」
「ヴィクトリカ、もう戻《もど》ろう」
「母はやはり、無実の罪《つみ》で村を追われたのだ」
「ヴィクトリカ……」
「それなら、本当の罪人《ざいにん》はどこにいるのだ?」
ヴィクトリカがついっと首を上げた。一弥の顔を見上げる。エメラルドグリーンの瞳にゆらめく霧《きり》が映《うつ》り、白く濁《にご》って見えた。
「――犯人《はんにん》はまだこの村にいるのではないか?」
かすかな笑い声が、またどこからか響いた。
ヴィクトリカの瞳に一弥の背後《はいご》が映っていた。一瞬《いっしゅん》、風が吹いて乳色の濃《こ》い霧が晴れ、その向こうになにか黒っぽい大きなかたまりを見たように思った。一弥は息を呑んで、ヴィクトリカを庇《かば》いながら背後を振《ふ》り返った。
――今度ははっきり聞こえた。
獣《けもの》の唸《うな》り声だ。
が、る、るるる――!
喉《のど》を鳴らすようなかすかな声。
続いて、
がるるるるるるるッ――!
唸り声は大きくなっていく。
どこかで嗅《か》いだことのある臭《にお》いがした。なんの臭いであるかに気づき、一弥は心臓《しんぞう》をぎゅっと掴《つか》まれたような気持ちになった。
動物園だ。家族と出かけた動物園に満ちていた臭い。
獣の体から放たれる、あの……。
「ヴィクトリカ、なにかいるよ!?」
一弥はヴィクトリカの小さな手を握《にぎ》りしめた。霧はますます厚《あつ》くたれ込めて、重たい布《ぬの》を頭からかぶせられて上から押《お》さえつけられるような圧迫《あっぱく》感があった。重量のある布をめくるように手を大きくかざしながら、一弥は走り出した。
「久城?」
「なにかいるってば! ヴィクトリカ、走って!」
ヴィクトリカが振り向いた。
かぶっていた帽子《ぼうし》が飛びそうになり、手を伸ばす。一弥が先に気づいて帽子をつかんだ。また走り出す。
いまはもう、獣の息づかいや苦しそうな唸り声、生臭《なまぐさ》い息などがすぐ背後に迫《せま》って感じられた。石畳《いしだたみ》の小径に出ると、転がるように駆ける二人の足音だけでなく、その後ろから、蹄《ひづめ》のようなものが立てている乾《かわ》いた音も聞こえてきた。四本の足が絶え間なく石畳を蹴っているのだ。
一弥たちは走り、館《やかた》の前に着いた。強い風が吹いて、ヴィクトリカのビロードの帯のような長い金髪《きんぱつ》を大きく上に吹き上げた。
霧が晴れていく。
二人は玄関《げんかん》の扉《とびら》を開けた。
一弥がヴィクトリカの小さな体を押し込み、それから自分も転がるように中に入った。
――扉を閉《し》める。
外から唸り声が続いていた。がぅ、がぅ、と唸る声と、はぁはぁと息づかい。そして扉をこじ開けようとするような大きな音。
一弥はヴィクトリカを抱《だ》きしめてじっとしていた。ヴィクトリカはすぅすぅとかすかな息づかいをして、目を見開いて小さくなっている。
――数刻《すうこく》が過《す》ぎた。
音と、気配が、消えた。
一弥はヴィクトリカを庇《かば》いながらそっと扉を開けた。
霧は嘘《うそ》のように晴れ、そこにはなにもなかった。雨も完全に止《や》んだらしく、太陽がうっすらと射して暖《あたた》かみがあった。
一弥はなんだ、と笑顔《えがお》になろうとして……。
あっと息を飲んだ。視線《しせん》が少しずつ下がっていく。
そこに……。
玄関の扉の下のほうに……。
獣が突《つ》き破《やぶ》ろうとしたように、爪《つめ》の跡《あと》が幾筋《いくすじ》もついて白く変色していた。
二人がゆっくり階段《かいだん》を上がり、客用|寝室《しんしつ》に戻《もど》ろうとしていると、廊下《ろうか》の奥《おく》から騒《さわ》がしい話し声が聞こえてきた。
一弥がそっと近づいて扉をノックする。
(確《たし》かここは、髭《ひげ》を生やしたよく喋《しゃべ》る人……アランさんの部屋だよな)
返事があったので覗《のぞ》いてみると、部屋にはアラン、デリク、ラウール、それから知らない女の人がいた。
四人はカードを配ってポーカーをしているらしかった。デリクが女の人のカモになって負け続けているようだ。デリクは甲高《かんだか》い声を上げてしきりに負けを嘆《なげ》いているが、それを眺《なが》めるアランとラウールは楽しそうににやにやしている。アランがおもしろ半分に大声でアドバイスを言うと、ラウールが大きな体を縮《ちぢ》こまらせるようにしてにやにや笑いを浮かべた。どうやら、デリクの財布《さいふ》がどうなろうと、後の二人にはどうでもいいことらしい。
「……どこ行ってたのさ?」
知らない女の人が顔を上げ、一弥になれなれしく声をかけた。一弥は戸惑《とまど》って彼女をみつめた。
燃《も》えるような赤毛の若《わか》い女の人だった。にんじんを思い出させる明るい髪《かみ》は、くるくると渦巻《うずま》くドーリィカールで、原色の綿菓子《わたがし》のように大きくふくらんでいた。しかし瞳《ひとみ》は、どこかで見たことがあるような寂《さび》しげな青灰《せいかい》色をしていた。
シンプルな白いサマードレスのスクエアカットの胸元《むなもと》から、お尻《しり》と見間違《みまちが》えそうなほど大きくてまん丸い、見事な胸《むね》が覗いていた。頬《ほお》に浮かぶものと同じ色合いの細かなそばかすが、胸の谷間にも、かわいらしい小花|模様《もよう》のようにほの紅《あか》く散っていた。
一弥が困《こま》ったような顔をしていることに気づくと、女の人はあきれたように、
「やだ。アタシよ、アタシ!」
手近にあったシーツをぐるっと頭に巻いてみせた。一弥は驚《おどろ》いて、
「えっ、ミルドレッドさんですか!?」
確かに、青灰色の瞳をしたシスター、ミルドレッドの顔にちがいなかった。しかし、まるで別人のように雰囲気《ふんいき》が一変していた。重苦しく、らしくない尼服《あまふく》から普段着《ふだんぎ》に着替《きが》えた途端《とたん》、本来の彼女が持つ明るさやがさつなほど陽気な性分《しょうぶん》が全面に押し出されていた。ミルドレッドは顎《あご》を仰《の》け反《ぞ》らすと大笑いした。両腕《りょううで》をばたばた振《ふ》りながら楽しそうに、
「髪型が変わったらわからなくなるなんて。ヤボな子だねぇ」
三人の若者も愉快《ゆかい》そうに笑いだした。一弥は赤面した。
一弥とヴィクトリカもその部屋に落ちつき、客人六人それぞれが、あの後どうしていたかを報告《ほうこく》しあい始めた。若者たちは、天気も悪いし村人が気味悪いので、部屋にこもってずっとポーカーをしていたらしい。途中《とちゅう》でミルドレッドが加わり、盛《も》り上がっていたところだという。
「……狼《おおかみ》に追われたんですよ」
一弥が墓地《ぼち》から逃《に》げ帰ってきたことを話すと、ミルドレッドはこわそうに顔を歪《ゆが》めたが、若者三人は逆《ぎゃく》に喜び始めた。アランが髭を引っ張《ぱ》りながら大声で、
「おもしろいねぇ!」
そう叫《さけ》ぶと、デリクも甲高い声で笑い始めた。ラウールは黙《だま》ってにやにやしている。
ふざけた様子に、一弥はムッとした。
「……おもしろくないですよ」
「確かに村長が、狼が出るって騒いでたもんなぁ」
「……まぁ、そうですけど」
「俺《おれ》たちも気をつけようぜ、なぁ?」
アランが大声で言うと、デリクがまた甲高い声で笑いだした。ラウールだけが怖《こわ》そうに大きな体を縮こまらせた。彼が座《すわ》る豪奢《ごうしゃ》だが古い椅子《いす》が、キィッときしむような音を立てた。
アランがミルドレッドのほうを振り返った。
「そういやシスター。電話は?」
聞かれたミルドレッドが、駄目《だめ》だというように首を振った。一弥が聞きとがめて、
「電話って……?」
「あぁ。さっきシスターが、電話をかけたいって騒いでたんだよ。村長に頼《たの》んで。電気が通ってるって話だったから、もしかしたら電話もあるんじゃないかって思ってさ」
一弥がふと気づいて、
「そういやミルドレッドさん、夕べも宿屋で、どこかに電話をかけて……」
ミルドレッドがわざとらしくゴホゴホと咳《せ》き込《こ》んだ。話題が止まる。
黙っていたヴィクトリカが、急に聞いた。
「……やはり、電気が通っているのかね?」
その声に一弥もようやく気づいた。驚いて大声になる。
「そうだ!? こんな山奥で、しかも人里とつきあいもなくて、なのに電気が……?」
アランがにやりとした。
「そう。驚くべきことにはね、この館《やかた》の壁灯《へきとう》も、油でもなければガスでもない。電気なんだ。まぁ確かにここは山奥だけれど、人家がないぶん工事もしやすい。資金《しきん》はかかるだろうけどなぁ! スイスのほうの山でも、観光地はけっこう進んでるらしいぜ」
「でもここは……」
「そう、観光地じゃない」
アランがうなずいた。
それからヴィクトリカの顔を覗き込んだ。
「いまお嬢《じょう》ちゃん、やはりと言ったが。わかってたのかい?」
「ある程度《ていど》は、だが」
ヴィクトリカがうなずいた。
全員が彼女の小さな姿を凝視《ぎょうし》した。部屋は急にしんと静まり返った。ヴィクトリカだけが落ち着き払《はら》っているように見えた。
小さな唇《くちびる》が開き、滔々《とうとう》と語り出す。
「さっき村長のセルジウスは、自給自足に近い暮《く》らしをしていると言っていたがね。君たち、そんなことが本当にできると思うかね……? 鉄はどうするのだ!? 紅茶《こうちゃ》の葉や葡萄酒《ぶどうしゅ》も、すべて村で作れるのか? そんなことは不可能《ふかのう》だよ。それにセルジウスは言った。シオドアが金貨をしまっていたと。そして彼自身も、コルデリアを追放したとき、金貨を一|枚《まい》持たせたと。つまり彼らは外の世界と同じ通貨を持っていて、どれほどの価値《かち》かも把握《はあく》しているわけだ」
「あぁ……」
一弥とアランは同時にうなずいた。ヴィクトリカが続ける。
「彼らはある程度、外の世界との接触《せっしょく》があるのだろうよ。村人のほとんどがここから一歩も出ないとしても、少なくとも村長には知識《ちしき》も情報《じょうほう》もある。だからあんな新聞広告を出すことができたのだ。それに、わたしたちが乗ってきた馬車の御者《ぎょしゃ》は、ここをこわがってはいたが、あの山を登り慣《な》れているようだったからね。きっといままでも、紅茶や葡萄酒、それに新聞や雑誌《ざっし》などを持って上がってきたことがあるのだろうよ」
ヴィクトリカは滔々と語ると、急に口を閉《と》じた。
部屋に沈黙《ちんもく》が落ちる。
と――。
カードをめくったり考え込んだりに忙《いそが》しかったミルドレッドが、つっと顔を上げた。
「アタシ、さっき、あのへんなメイドに聞いたんだよ。電気がきているっていうから、不思議でさ。そしたら、スポンサーっていうのかな、そういうやつがいるんだってさ」
「スポンサー?」
一弥は聞き返した。
「そっ。名前は、なんだったっけ。……ブライアン。うん、ブライアン・ロスコーって男。村から出て外で暮らしたやつの子孫《しそん》らしいよ。金持ちの若《わか》い男って以外は、みんなよく知らないらしいけどね。十年ぐらい前に、そいつが村のことを知って、資金を出してくれたんだってさ。ずいぶん酔狂《すいきょう》だよね。こんな山奥《やまおく》に、たったこれだけの村のために、わざわざ電気を引くなんてさぁ」
「……なるほど」
ヴィクトリカがうなずいた。
一弥のもの問いたげな瞳《ひとみ》に気づくと、
「いったいなぜ彼らは広告を出して子孫を呼《よ》んだのだろうと、ずっと不思議だったのだよ。しかしおそらく、夏至《げし》祭にかこつけて子孫を呼び、ブライアン・ロスコーという男のように、彼らのスポンサーとなってくれる子孫を捜《さが》したかったのだろう」
「そ、っか……」
「だからこそ、わたしが名乗ったとき、セルジウスは貴族《きぞく》の名にこだわったのだ。そしてコルデリアの娘《むすめ》だからと反対する村人を押《お》さえて、わたしたちを館に呼んだ」
「……なんだ。アンタ貴族なの? 金持ち?」
ミルドレッドが急に顔を輝《かがや》かせて訊《たず》ねた。
ヴィクトリカは瞳を糸のように細め、
「わたしの意志で動かせる資金は、一切ない」
「……なんだ」
ミルドレッドが、負けの込んだカードをテーブルに放《ほう》り出した。
ヴィクトリカがなにか言いたげな瞳で一弥を見上げた。なんだろうと思って顔を近づけると、彼女は一弥だけに聞こえるほどのささやき声で言った。
「……十年前に一度、子孫が村にやってきたのだ。ブライアン・ロスコーはなにか目的があって、村にきた」
「目的って……電気を引いてあげることだろ?」
「コルデリアの家に入って、なにかを持ち去った人間がいる。その人間は、大人になったコルデリア[#「大人になったコルデリア」に傍点]の写真を置いて去った。ここ二十年以内に外から村にやってきた人間のしわざだ。となれば、それはブライアン・ロスコーと名乗る男に他《ほか》ならない。だが、彼は何者なのか? どこでどうしてコルデリアに出会い、なんの目的を持っているのか? 彼が持ち去った、コルデリアが床下《ゆかした》に隠《かく》していたものとはなんなのか?」
「う、ん……」
「十年前と言えば、君、先の世界大戦が始まった頃《ころ》のことだよ。山奥に電気を引くには、少し慌《あわ》ただしすぎる時代であったと思うがね……」
ヴィクトリカはぴたりと口を閉じた。
その先は自分の心の中だけで逡巡《しゅんじゅん》しているらしい。暗い瞳は、なにを考えているものかわからなかった。
ゲームの時間はなんとなくお開きになったようだった。無口なラウールが立ち上がると、みんなを見渡《みわた》した。
「ラ、ラジオでも聞きませんか?」
「……ラジオ?」
一弥が聞き返す。と、デリクが少し得意そうに言った。
「俺が持ってきたんだ。電気が通じるって聞いて、つなげてみた。山奥だし、なかなか聞き取りづらいとは思うけれど……」
「荷物の中にラジオなんて入れてたんですか?」
一弥はあきれて聞き返した。
デリクが、チェストの上に乗せた四角いラジオに近づいた。ラジオの横には古びたマリア像《ぞう》や飾りの羅針盤《らしんばん》などが飾られていた。デリクが熱心にラジオをいじっている。
ギリギリと音を立ててボタンを回すと、ラジオから耳障《みみざわ》りな雑音《ざつおん》が響《ひび》いてきた。
雑音の中に、ズンッと響くトランペットの音が混《ま》ざった。
デリクがその音を探《さが》すようにボタンを慎重《しんちょう》に回す。
やがて雑音が途切《とぎ》れ、ゆっくりと――
軽快《けいかい》な音楽が流れ始めた。ときどき途切れそうにはなるが、なんとか聴《き》き取れた。ボリュームが上げられる。高らかなトランペットが響き渡った。デリクがにこにこして顔を上げた。
「ね?」
一弥も笑顔《えがお》になった。村の不気味な雰囲気《ふんいき》を押し返すような景気のいい音楽に、心が浮《う》き立ってきた。アランが口笛を吹いた。いかにも内気な大男といった様子のラウールも陽気になり、肩《かた》を揺《ゆ》らし始めた。
ミルドレッドがうれしそうに立ち上がり、アランの真似《まね》をして口笛を吹いた。
「いいじゃないの。湿《しめ》っぽかったし、いい景気づけだよ。誰《だれ》か踊《おど》ろ!」
「……君、本当にシスター?」
デリクがあきれたようにつぶやく。ミルドレッドは気にせず、恥《は》ずかしそうにいやがるラウールの腕《うで》を引っ張《ぱ》ると、強引《ごういん》に二人で踊りだした。音楽が次第《しだい》に大きくなっていく。
ミルドレッドは踊るときもまた大きな足音を立てるようだった。陽気で楽しそうだ。大ざっぱにターンすると、赤い髪《かみ》がバサリと音を立てて大きく広がった。
[#挿絵(img/02_179.jpg)入る]
一弥はぼんやりと、踊るシスターと、照れているラウールをみつめていた。
どことなく……。
違和《いわ》感を感じ始めた。
まるで壁《かべ》が少しずつ後ずさりし、大きくなり、部屋全体が揺らいでいくような……。
ジジ、ジジジッ――!
いやな音が響いた。
ボリュームが上げられていた分、雑音も大きく不吉《ふきつ》に響いた。デリクが怪訝《けげん》な顔になって、ラジオをいじり始めた。
ラジオは急にがたがた揺れるような妙《みょう》な音を出し、それから止まった。
「……あれ?」
デリクがつぶやく。
部屋は静まり返り、全員が顔を見合わせた。
デリクがムキになってラジオをいじり回した。しかしどうしても、ラジオはそれ以上は鳴らなかった。
「壊《こわ》れたのか?」
アランがつまらなそうに聞くと、デリクの肩が震《ふる》えた。それからムキなって甲高《かんだか》い声を張り上げた。
「まさか。最新式だよ?」
デリクは悔《くや》しそうに、いつまでもラジオをひっくり返しいじり続けていた。
窓《まど》の外でまた日が陰《かげ》り、部屋は急に薄暗《うすぐら》くなった。
みんな押し黙《だま》って顔を見合わせた。ミルドレッドが乱暴《らんぼう》に椅子《いす》にお尻《しり》を乗せた。
「……ふわーあ!」
ヴィクトリカが急にあくびをした。小さな体をぎゅううっと伸《の》ばすと立ち上がる。
とことこと歩いてさっさと部屋を出ていってしまう。一弥もあわてて立ち上がり、
「部屋に帰るの?」
「うむ。荷物を出さねばな」
「そっか。じゃあぼくも自分の部屋に戻《もど》ろう……」
「いや、君はわたしの部屋で、わたしの荷物を出すのだ」
「えっ? そうなの?」
「それはそうだろう、君」
言い合いながら、二人は廊下《ろうか》を歩いていった。扉《とびら》が閉《し》まる。
不安そうに青灰《せいかい》色の瞳《ひとみ》を陰らすミルドレッドが、顔を上げて、二人の消えた扉をじっとみつめていた。
ヴィクトリカの部屋に戻った二人は、それぞれの行動に没頭《ぼっとう》していた。
一弥は床《ゆか》に膝《ひざ》をついて、彼女のミニトランクから荷物を出しては部屋のあちこちに並《なら》べていた。洋服は白木の衣装箪笥《いしょうだんす》にしまい、細々とした小物はマントルピースの上にわかりやすく並べる。壁に作りつけの鏡の前を通りかかった一弥は、鏡に映《うつ》ったヴィクトリカとふと目があった。
ヴィクトリカのほうは、窓際《まどぎわ》の大きな揺り椅子に腰掛《こしか》けて、ぷかりぷかりとパイプをくゆらしていた。大人用の揺り椅子は彼女にはもちろん大きすぎて、体のほとんどはゴブラン織《お》りのクッションに沈《しず》み込《こ》んでしまっていた。ヴィクトリカはさっきからカーテンを開いた窓の外をみつめていて、そこには石造《いしづく》りのバルコニーと樫《かし》の大木が、霧に隠《かく》れたりまた姿《すがた》を現《あらわ》したりしていたのだが……いつのまにか、視線《しせん》を部屋の中に戻していた。
鏡|越《ご》しにじっと一弥をみつめている。
「……なに?」
「君は、片《かた》づけ魔《ま》だな」
「し、失礼な。これぐらい普通《ふつう》だよ」
「…………」
ヴィクトリカはつっと手を伸ばして、揺《ゆ》り椅子用のクッションを手に取ると、床にポーンと投げた。一弥は反射《はんしゃ》的に駆《か》け寄《よ》るとクッションを拾ってよく払《はら》い、ヴィクトリカのもとに持っていった。
「うむ、ご苦労」
「……いまの、なに?」
「君が片づけ魔だということを証明《しょうめい》したのだよ。気は済《す》んだ。君、片づけが終わったのなら自分の部屋に戻りたまえ」
「うん……。あれっ? ちょっと待ってよ。どうしてぼく、君の荷物を一生|懸命《けんめい》片づけてたんだろう?」
「その謎《なぞ》も証明してやってもいいが、いかんせん面倒《めんどう》だ。出ていきたまえ」
「ちぇっ……」
一弥はうなだれた。
ヴィクトリカは一弥から視線を離《はな》すと、パイプを片手に、窓の外の濃《こ》い霧を物憂《ものう》げに眺《なが》めた。ふと一弥のほうを振《ふ》り向く。一弥が部屋を出ていこうとしていることに気づくと、ふいに「久城……」と呼《よ》び止めた。
「なに?」
「あのメッセージには、村人の誰も気づいていなかったのだろうな。シオドアの墓碑《ぼひ》に刻《きざ》まれたコルデリアのメッセージ。〈我《われ》は咎人《とがびと》に非《あら》ず C〉には……」
「……そうだね。誰かが気づいたら、消していたんじゃないかな」
「二十年後に気づいたのが、わたしなのだ」
「うん……」
ヴィクトリカは口を閉《と》じた。きつく唇《くちびる》を噛《か》みしめて、それきり黙った。
一弥は、彼女の強情《ごうじょう》に感じるほど強い意志《いし》に戸惑《とまど》い、立ち尽《つ》くした。どうしてもこのままでは帰らないというヴィクトリカの決意をひしひしと感じた。
それから、聖《せい》マルグリット学園の植物園に訪《たず》ねてくる彼女の腹違《はらちが》いの兄――グレヴィール・ド・ブロワ警部が、けしてこの頭脳明晰《ずのうめいせき》で、小さいが人形のように美しい妹と目を合わせないことを思い出した。
学園に蔓延《はびこ》る怪談《かいだん》の一つ――〈ヴィクトリカ・ド・ブロワは灰色狼《はいいろおおかみ》である〉についても……。
怖《おそ》れと憧《あこが》れの入り混《ま》じった不思議な声で熱心に語っていたクラスメート、アブリル・ブラッドリーの、輝《かがや》く瞳のことも……。
気心が知れてきたいまでも、一弥にとってこの小さな美しい友達は、とても謎めいていた。
――ごちん!
思い悩《なや》む一弥の後頭部に、なにか小さくて固いものが当たった。
頭を押さえながら振り向くと、小さな美しい友達、ヴィクトリカ・ド・ブロワが、揺り椅子《いす》の上からまだなにかを投げようとしていた。床を見下ろすと、さっきから彼女が投げていたらしい、金色の包み紙にくるまった丸いマカロンがたくさん転がっていた。
「なにしてるんだよ? もう、また散らかして!」
「なかなか当たらないので、つい、な」
「誰が拾うんだよ?」
「君だろう」
「……そんなはずないよ!」
一弥は文句《もんく》を言いながら、散らかったマカロンを全部拾って、ヴィクトリカのもとに持っていった。
頭の中で、この不思議な少女に対する心配と、振り回されていることに対するいらつきと、自分では把握《はあく》しきれない未知の思いがごちゃごちゃに入り混じった。それは、口にしようとすると、こんな言葉になった。
「……心配だよ、ヴィクトリカ。こんな場所を出て、はやく学園に戻《もど》ろう」
返事はなかった。
「ぼくは君を心配してるんだよ。ここはわけのわからない村だし、狼も出るし……」
「…………」
一弥は水差しを手にして、赤いダイヤガラスのコップに水を注いだ。
「……悩んだら、猛烈《もうれつ》にのどが渇《かわ》いたよ」
「それは気の毒なことだ」
「……君が言うなよ! 君がぼくを悩ませてるんだからな」
ヴィクトリカは知らんぷりした。
怒《おこ》ろうとして、一弥はふと手元を見た。
――水を注いでいたはずなのに、なにかがぽちゃんと落ちる音がしたのだ。コップを覗《のぞ》き込んだ一弥は思わず声を上げそうになった。ヴィクトリカが怪訝《けげん》そうな顔をして一弥を見た。
コップに入っていたのは……。
少量の水と、丸くてぷるぷるとしたなにか……。
真ん中に黒い部分がある、それは……。
目、だった。
部屋がすうっと寒くなり悪寒《おかん》がしてくるような、奇妙《きみょう》な感覚があった。
それは動物のものらしく、人間よりは少し小さかった……。
コップの中で水に揺《ゆ》られて眼球《がんきゅう》が動いた。黒目がこちらに向く。目があった。一弥は声を上げそうになり、それからヴィクトリカの視線《しせん》に気づいて、なんとかして平静を装《よそお》ったままコップを置いた。
「どうしたのかね?」
「いやその……虫が、ね。あとでハーマイニアさんに入れ替《か》えてもらってくるよ」
一弥は水差しをテーブルに戻した。
――心臓《しんぞう》がどきどきと脈打っていた。
ゆっくりと日が暮《く》れていき、一日の終わりらしい静かな闇《やみ》が〈名もなき村〉を覆《おお》い尽《つ》くそうとしていた。ヴィクトリカの部屋の、カーテンを開け放した窓《まど》から、樫《かし》の大木に落ちかかる沈《しず》みかけた太陽が燃《も》えているのが見え、やがて薄闇《うすやみ》の奥《おく》へ消えていった。陽が落ちると村は漆黒《しっこく》に染《そ》まり、ただ乳色《ちちいろ》をした霧《きり》のベールだけが、昼間と変わらずかすかな風にそよいで、闇の中を泳いでいた。
黒くもつれあった樫の枝々《えだえだ》は、闇の中でまるで骸骨《がいこつ》の集団《しゅうだん》のように、黒々とした骨格《こっかく》を浮《う》き上がらせていた。
「カーテン閉《し》めるよ。ヴィクトリカ」
一弥が立ち上がって、窓の上から垂《た》れている紐《ひも》を引っ張《ぱ》った。ビロードの重いカーテンは、大きく揺らめきながら閉まっていった。
揺り椅子に深く腰掛《こしか》けたヴィクトリカは、さっきからずっと黙《だま》って考え込んでいる。セルジウスと客人たちで簡単《かんたん》な夕食を済《す》ませ、部屋に戻ってきてから、ずっとそんな様子だった。聞こえているのかいないのか、声をかけても返事をしようともしないので、一弥はため息|混《ま》じりのまま元の場所――椅子代わりにした彼女のミニトランク――に戻り、腰を下ろした。
ふいに扉《とびら》がノックされ、返事もしないうちからゆっくりと開いた。一弥が腰を浮かせる。かすかな衣擦《きぬず》れの音とともに、誰かが入ってきた。
――ハーマイニアだった。
いっぱいに湯を入れた大きな真鍮《しんちゅう》の入れ物を両手で抱《かか》えていた。低い声で、
「お風呂《ふろ》の湯です。水で薄めてお使いください」
部屋の奥にあるバスルームの薄い扉を開けてバケツを下ろすと、早足で出ていこうとする。一弥は顔をしかめた。
ハーマイニアは足音というものをまったく立てない……。
まるで誰もそこを歩いてなどいないようだ……。
一弥はそれを、赤毛のシスター、ミルドレッドとはずいぶん対照的なことに感じた。ミルドレッドときたら、歩くたびに、大柄《おおがら》な男性《だんせい》でも立てないような大きな足音を立てるのだ。しかしハーマイニアは、足音どころか気配さえ微弱《びじゃく》で、そのくせ得体がしれないのだ……。
部屋を出るとき、ハーマイニアは急にクルリと振《ふ》り返った。目玉をひん剥《む》くようにしてぎょろり、ぎょろりと一弥とヴィクトリカを見た。
ゆっくりと唇《くちびる》が開く。
薄く色のない唇だった。
「……ご用があれば、呼《よ》び鈴《りん》でお呼び下さい」
「わかりました」
扉が閉まった。
ヴィクトリカは急に上機嫌《じょうきげん》になり、揺り椅子《いす》からぴょんっと飛び降《お》りると、床《ゆか》を踊《おど》るように飛び跳《は》ねながらバスルームに向かった。一弥が不思議そうに見ていると、真鍮の猫足《ねこあし》がついたクリーム色のバスタブに、どぼどぼとお湯を入れ始めた。黒と白の格子縞《こうしじま》のタイルが張られた床に小さな膝《ひざ》をついて、いっぱいに湯をはったバスタブをうれしそうに覗き込んでいる。
いまにも鼻歌を歌いだしそうな様子に、一弥は不思議になり、
「……どうしたのさ?」
ヴィクトリカは顔を上げた。
当然だ、という様子で、
「お風呂が好きなのだ」
「……へぇぇ? ふぅん。そうか。旅行をすると意外な面が見えるって本当だね。ヴィクトリカ、君はきれいなものが好きで、あと、お風呂が好きなのか」
「…………」
「それから本とお菓子《かし》だろ? フリルとレース。あと……なんだよ? なんでそんなに物騒《ぶっそう》な目つきでぼくを睨《にら》んでるの?」
「見透《みす》かしたようなことを言うな」
「……ちょっと、なんだよそれ!」
ヴィクトリカは知らんぷりして、荷物の中からお風呂セット――象牙《ぞうげ》でできたきらきらした櫛《くし》や、薔薇《ばら》の香《かお》りのする石鹸《せっけん》、金色の縁取《ふちど》りの化粧《けしょう》鏡など――を取りだした。振り向いて一弥を睨む。
「……なんだよ」
「レディの入浴だ。あっち行け」
「あっ……ご、ご、ごめん!」
一弥は立ち上がった。部屋の入り口辺りまで駆《か》けていき、振り返って、
「廊下《ろうか》にいるから。なにかおかしなことがあったら、呼んでくれよ」
返事はなかった。
一弥は廊下に出て扉を閉めた。知らずため息をつく。
廊下で一人きりになると、急に不安が押《お》し寄《よ》せてくるようだった。この得体の知れない山奥《やまおく》の村と、人々。一緒《いっしょ》にきた四人のこともじつはよく知らないのだ。急に止まってしまったラジオや、水差しの中に沈《しず》められていた目玉……。
不安になるほど、廊下がゆらりと揺《ゆ》らめいて、壁《かべ》や天井《てんじょう》が四方から一弥に迫《せま》ってくるように感じられた。一弥は頭を強く振って、不安に負けまいとした。
(ヴィクトリカは、ぜったい帰らないって言うだろうからな。なんとか危険《きけん》なことがないようにしないと……)
やがて……。
扉|越《ご》しに、部屋の中からかすかな水音が聞こえた。ぽちゃり、ぽちゃり、ぽちゃり……。とても軽い音で、人間というよりも小猫|一匹《いっぴき》がお湯に入ったようにしか聞こえない。
と……。
続いて、部屋の中から遠く、ヴィクトリカの声がした。
「おっ、おっ、おっ……」
「……ヴィクトリカ!?」
一弥はあわてて振り向いた。扉を開けて部屋に飛び込むと、耳を澄《す》ます。
と……。
「お風呂《ふろ》が、好きだぁ」
「!?」
「あったまるから〜」
(…………………………歌?)
一弥はあわてた自分が恥《は》ずかしくて、扉《とびら》に寄りかかり、わざとぞんざいな言い方をした。
「なにしてるの? ヴィクトリカ」
「……歌っている」
「へたくそだなぁ!」
バスルームのほうから、怒《いか》りの波が空気を震《ふる》わせて一弥まで届《とど》いた。しばしの沈黙《ちんもく》の後、一弥がまた廊下に出ようとすると、ヴィクトリカが低い、地の底から響《ひび》くような声で言った。
「……へたくそだと? では久城、君、歌ってみたまえ」
「えぇっ? や、やだよ。歌なんて、恥ずかしいよ」
「久城………………歌え」
「………………うぅ」
一弥はヴィクトリカをからかったことを後悔《こうかい》しながらも、逆《さか》らえず、両手を腰《こし》に当てた。
故郷《ふるさと》にいたころよく歌った童謡を思い出して、朗々《ろうろう》と歌い上げる。
――子供《こども》の頃《ころ》のことだが、一弥がまだ声変わり前のあどけない声でこの歌を歌うと、母や姉が手を叩《たた》いて「一弥さんはお歌がうまい」だの「お父さまやお兄さまたちは歌えないのにね」などと喜んでくれたものだった。父や兄たちに歌っているところをみつかり、男らしくないと怒《おこ》られてからは、一弥は一人のときでも鼻歌一つ歌わない男になったのだが、久《ひさ》しぶりに歌っていると、だんだん興《きょう》が乗ってきた。
一弥が胸《むね》を張《は》って朗々と歌っていると、バスルームの扉に内側からなにかが投げられたらしい、ゴトンッという音がした。続いて、
「うるさいぞ!」
「……き、君が歌えって言ったんじゃないか!」
一弥は涙目《なみだめ》になり、歌をやめた。
それから小声で、
「上手だろ?」
返事はなかった。
一弥はうなだれて口を閉《と》じた。
部屋はまた、かすかな水音のほかはしんと静まり返り、一弥の心臓《しんぞう》の音と、風に揺らめくビロードのカーテンの立てる音がかすかに響くだけとなった。
カーテンの向こうから時折、白い霧《きり》が部屋に迷《まよ》い込んできて、すうっと消える。
静かだった。
遠くでまた狼《おおかみ》が吼《ほ》えた。
鳥の羽音が聞こえた。
――視界《しかい》の隅《すみ》でなにかが動いた。
一弥はふとその違和《いわ》感に気づいて顔を上げた。確《たし》かになにかが動いた、自分の目はそれをとらえた、と思った。ゆっくりと部屋を見回すが、なにも変化はない。
(……そんなはずはない。いま確かに、なにかが、動いた…………?)
天蓋《てんがい》付きのベッド。
ミニチェスト。
揺《ゆ》り椅子《いす》と華奢《きゃしゃ》なターンテーブル。
衣装箪笥《いしょうだんす》。
ビロードのカーテン。
壁に作りつけの鏡。
……鏡?
一弥はそれ[#「それ」に傍点]をじっとみつめた。
鏡の中で、なにかが動いていた。ベッドだ。ベッドの上にふわりと置かれた羽布団《はねぶとん》。ついいままで誰《だれ》もいなくてぺったりとしていたのに、なぜかかすかにふくらんでいた。
一弥は振《ふ》り向いた。ベッドを見るとさっきまでと同じようにぺったりとしている。
鏡を見る。
――鏡に映《うつ》ったベッドは、布団が少しずつ少しずつふくらんでいた。
部屋の灯《あか》りが揺らめいて少し陰《かげ》った。
鏡の中で布団がどんどんふくらんでいる。人間が一人入っているほどのふくらみで、どんどん、どんどん大きくなり……。
一弥は声を上げた。
思わず廊下《ろうか》に出る扉《とびら》に向かって逃《に》げ出そうとして……ヴィクトリカがいることに気づいて、バスルームのほうに取って返した。薄《うす》い扉を叩《たた》いて、
「ヴィクトリカ! ヴィクトリカ!! そっちは大丈夫《だいじょうぶ》!?」
……返事はない。
一弥は、とつぜん鳴らなくなったラジオや、水差しに入っていた目玉のことをまた思い出した。
(へんだ……。なにかへんだ!! ヴィクトリカ!!)
――部屋の灯りが消えた。
とつぜん闇《やみ》に包まれる。
一弥はヴィクトリカを守ろうとバスルームの扉に張《は》りついていた。何度も彼女の名前を呼ぶが、返事はない。
一弥は大声を上げた。
と……。
ふいに、部屋の灯りがとつぜんついた。
鏡に映っていた盛《も》り上がるベッドも、いつのまにか元に戻《もど》っていた。
「……君、ずいぶんとうるさかったなぁ。いったいなにを騒《さわ》いでいたのだね?」
ヴィクトリカがバスルームから出てきたのは、それから十分ほど経《た》ってからだった。
白いフリルとアクアブルーの梯子《はしご》レースでふっくらとふくらんだ寝間着《ねまき》に、白いサテンの丸|帽子《ぼうし》をかぶっている。長い金髪《きんぱつ》の半分ほどが帽子の中に隠《かく》れ、残り半分は背中《せなか》に向かってこぼれ落ちていた。
一弥はぐったりと揺り椅子に座《すわ》りこんでいた。
ヴィクトリカがむっとして、
「君、それはわたしの椅子だ」
「…………」
一弥は立ち上がった。
それから口を開き、きれぎれに、いま起こった不思議な現象について話した。ヴィクトリカはなぜか興味《きょうみ》なさそうにあくびをして、お風呂《ふろ》セットを大事そうにしまったり、きょろきょろとマカロンの袋《ふくろ》を捜《さが》したりしていた。
「ヴィクトリカ、明日の朝になったら、すぐ帰ろう」
一弥がせっぱつまった声でそう言うと、驚《おどろ》いたように顔を上げる。
「……どうしてだね?」
「だって、危険《きけん》だよ。こんなおかしなことが起こるなんて……この村はおかしいよ。だいたい、ラジオが急に鳴らなくなったのも不気味じゃないか……」
「ラジオだと?」
ヴィクトリカは唸《うな》った。
面倒《めんどう》くさいなぁ、と小声でつぶやくのが聞こえた。
「……な、なんだよ?」
「あれはトリックだろう、君」
「まさか!?」
ヴィクトリカは大きくあくびをした。しょうがないなぁと言うように、
「君、ラジオが置かれたチェストの上に、ほかになにがあったか覚えているかね?」
「チェストの上に? ええと、ラジオとマリア像《ぞう》と、飾《かざ》りの羅針盤《らしんばん》……」
一弥は考え込んだ。ヴィクトリカはあくび混《ま》じりに、
「羅針盤は磁石《じしゃく》だ。そばに磁石があると、電気を使う機器は狂《くる》うのだよ。たまたまなのか、誰かがわざとおいたのかはわからないがね」
「……ヴィクトリカ、それって」
一弥は顔をしかめた。
「もしかして、あの場でわかってたの?」
「もちろんだ」
「じゃ、言ってよ! みんなも、それにぼくも、不安そうにしてたじゃないか」
「ほかのことで頭がいっぱいだったのだ」
「あのねぇ……」
一弥が唸るのを、ヴィクトリカは、揺り椅子に腰掛けてじっとみつめていた。
それから立ち上がると、根負けしたように言った。
「久城、君はわがままな男だなぁ!」
「…………そっくりぼくの台詞《せりふ》だよ!」
「仕方ない。久城、君のようにわがままで、しかも中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才《しゅうさい》にもわかるように、言語化してやる」
「……悪かったね」
「その代わり、もう帰ろう帰ろうと騒ぐな。わたしは帰らないのだ」
「……う、ん」
ヴィクトリカはちょこちょこと歩いて廊下に出ていった。一弥が後を追おうとすると、
「君はそこにいたまえ」
「……わかった」
「それから、いいと言うまで目をつぶって、反省していたまえ」
「反省!? なにをだよ?」
一弥は仕方なく、言われたとおり目を閉じた。
ヴィクトリカがどこかへ去っていく気配がした。扉が閉《し》まった。
静寂《せいじゃく》。
どこからか……ごく近くから、なにかがガタガタと揺れている音がした。一弥は目を開けたくて仕方ないのをぐっと我慢《がまん》していた。
やがて……。
部屋から出たはずのヴィクトリカの声が、とても近いところから聞こえた。
「……もういいぞ。目を開けたまえ」
一弥は目を開けた。
――目の前の壁《かべ》にかかった、胸《むね》の辺りまで映《うつ》る鏡に、なぜかヴィクトリカの頭頂部《とうちょうぶ》らしいものが映っていた。白いサテンの丸帽子ときらめく金髪がちょっとだけ覗《のぞ》いている。
声も聞こえた。
「わかったかね。中途半端な秀才の久城」
「……さっぱり。ヴィクトリカ、君、いったいどこにいるのさ?」
鏡に近づいて覗くと、そこにあった鏡はいつのまにか取り外されて、内窓《うちまど》のようにぽっかり空いていた。となりにあるのはこちらの部屋と左右|対称《たいしょう》の客用|寝室《しんしつ》で、ヴィクトリカはその四角い穴《あな》から顔を出そうと、一生|懸命《けんめい》背伸《せの》びをしていた。
背伸びをしても届《とど》かないことをようやく認《みと》めたらしく、ヴィクトリカはどこかへ走っていって、踏《ふ》み台になる小さな箱をみつけて戻《もど》ってきた。いかにも軽そうな箱を、ヴィクトリカはとても重いものであるかのように、歯を食いしばってゆっくりゆっくり運んできた。
やがて箱に乗ると、ヴィクトリカはようやく、一弥と同じぐらいの背丈《せたけ》になった。四角い穴から顔を出して、
「……な?」
「はぁ」
一弥がまだわかっていないらしいことを悟《さと》ると、ヴィクトリカは箱の上で地団駄《じだんだ》を踏《ふ》んだ。
「つまり、誰かがこちらの部屋に入って鏡を外したのだ。久城、君が見たのは鏡ではない。誰かがこちらの部屋でベッドに潜《もぐ》って盛《も》り上げて見せ、君を脅《おど》そうとする姿《すがた》だったのだよ」
「…………」
一弥はヴィクトリカとじっとみつめあった。
普段《ふだん》はないことだが、いまは彼女が踏み台に乗っているために、同じぐらいの高さに顔があった。ヴィクトリカの大きな緑色の瞳《ひとみ》と、じっとみつめあう。
「……わかったかね?」
ヴィクトリカは、わかったのかなぁと心配するように瞳を見開いて、じいっと一弥をみつめていた。一弥はふっと顔を曇《くも》らせた。ヴィクトリカはあわてて、
「ど、どうしたのだ、久城?」
「つまり、さっきのことには犯人《はんにん》がいるんだよね」
「ああ、そうだ。だから大丈夫なのだよ」
「……大丈夫じゃないだろ!」
急に声を荒《あら》げると、ヴィクトリカは驚《おどろ》いたようにますます瞳を見開いた。一弥はやり場のない気持ちに困《こま》って、床《ゆか》をどんどんと蹴《け》った。
「幽霊《ゆうれい》ならまだいいよ。ここが幽霊|屋敷《やしき》だってことだもの。でも、これには人間の犯人がいる……。それにここは、ぼくじゃなくて、ヴィクトリカ、君の部屋だ。誰かが君をこわがらせようと思って、わざとやったんだ。だろう?」
「…………」
「ヴィクトリカ……」
「…………」
「誰が、どうしてこんなことをするんだろう?」
「誰かはわからない。村人たちの中にいるのだろうとしかね。だが理由は推測《すいそく》できる。それは、わたしがコルデリアの娘《むすめ》だからなのだ、と」
ヴィクトリカの答える声は低かった。
目の前にあるヴィクトリカの小さな顔は、瞳も陰《かげ》って、表情《ひょうじょう》をなくしていた。一弥はその顔をじっと見守った。ヴィクトリカの声が震《ふる》え始めた。
「コルデリアが厄《やく》を為《な》す罪人《ざいにん》と信じる村人のしわざか、それとも……わたしに真相を悟《さと》られるのを恐《おそ》れる、本当の罪人のしわざか……」
「ヴィクトリカ……」
一弥の脳裏《のうり》に、村人たちの濁《にご》った緑色の目が浮かんでは消えた。手に手に持った武器《ぶき》を持ち上げて追い払《はら》おうとした村人たち。最後に現《あらわ》れ、村に入ることを許《ゆる》したセルジウス。客人の中からヴィクトリカをみつけ、コルデリアの罪《つみ》を糾弾《きゅうだん》したハーマイニアの、剥《む》き出された目玉。そしてアンブローズの、愛想《あいそ》良く話してくれるのに、話題によってはとつぜん冷たくなる態度《たいど》……。
しかし、すべての背後《はいご》にはセルジウスがいるようにも感じられた。彼は村を守ろうとしていて、そのことと、ヴィクトリカの求める真実は、もしかすると……。
ヴィクトリカが強情《ごうじょう》な声で言い張った。
「だが、わたしは帰らない」
「危険《きけん》だよ!」
一弥もヴィクトリカも、壁をはさんで睨《にら》みあいながら地団駄を踏んだ。
「しかし久城、君が……」
ヴィクトリカはちょっと迷《まよ》うように言葉を切った。それからまじめな顔で、
「君がわたしを守ってくれるのだろう?……荷物一つ持たずにここまでついてきたということは」
「……当たり前だ!」
一弥は叫《さけ》んだ。
二人はじっとみつめあった。
そこにはいつもの仲の良さはなく、まるで睨みあうような……決闘《けっとう》でも始めるかのような物騒《ぶっそう》な目つきだった。そのまま二人とも、なにも言わずにみつめあい続けていた。
急に……。
ヴィクトリカの部屋の扉《とびら》が、勢《いきお》いよく開いた。
立っていたのは、赤毛のドーリィカールを揺《ゆ》らすミルドレッドだった。なにやらとても怒《おこ》っている様子で、
「聞いてよ。そこの子たち!」
どすどすと大きな足音を立てて、部屋に入ってきた。一弥は、さきほどお湯を持ってきたハーマイニアがまったく足音を立てなかったことを思い出して、また、ずいぶんと対照的な二人だと思った。ミルドレッドは大股《おおまた》で入ってくると、四角い穴から顔を出しているヴィクトリカに気づき、クスッと笑って指を伸ばした。
ヴィクトリカの鼻先をつつく。ヴィクトリカはいたずらな大人に脅《おど》された小猫《こねこ》のように、びくっと肩《かた》を震《ふる》わせた。びっくりしたように目をぱちぱちさせている。
「なにしてるのさ、おチビちゃん?」
ヴィクトリカの顔色が変わった。一弥は内心そのことに驚いて、
(もしかして、背が低いことを気にしてるのかな……?)
ミルドレッドのほうは悪びれる様子もなく、どすどす歩き回りながらしゃべりだした。
「あいつらバカなんだよ! あいつらって……あいつらだよ! 髭《ひげ》のアランと、金持ちのデリクと、無口なラウールの三人組。なにさ、デリクがお金持ってるって言うから、仲良くしてたのにさ」
「そ、そんな理由で……」
「アタシはお金が大好きなんだよ!」
ミルドレッドはなぜか怒りながら言い放った。
「おいしい葡萄酒《ぶどうしゅ》よりきれいなドレスより、なによりお金が好きなんだよ!」
一弥とヴィクトリカは、思わず顔を見合わせた。
のみの市のバザーで彼女が盗《ぬす》んだはずの、ドレスデン皿のことを思い出す。
お金の話になった途端《とたん》、なぜか、それまでは大ざっぱでがさつな感じだったミルドレッドの雰囲気《ふんいき》が、がらりと変わった。花の香水《こうすい》をつけたように甘《あま》くて濃い匂《にお》いが充満《じゅうまん》し、豊満《ほうまん》な体から甘ったるい色気が粒《つぶ》になってはじけ飛ぶようだった。
(なんだかなぁ……)
お金お金、と繰り返しているミルドレッドを、一弥は少しあきれてみつめた。
ヴィクトリカがぼそっと口をはさんだ。
「……葡萄酒もドレスも、お金で買うものだが」
ミルドレッドは聞こえなかった振りをした。
「とにかくあいつら、観光気分でさ。夏至《げし》祭の前夜で村の人がピリピリしてるのに、聖堂《せいどう》の見学なんかに行っちゃってさ。なんでもあの聖堂は、一年に一度、夏至祭の決まった時間にしか無人にしちゃいけないんだって。ずいぶんといろいろ決まりがあるらしいんだよ。で、アタシもついていったら、あいつら聖堂でなにをしたと思う? 大切にされてる古くさい壷《つぼ》があってさ。飾られてたその壷を、聖水の大瓶《おおがめ》にぽっちゃり落としたんだよ。おもしろいから見せてくれってさんざん騒いで、見たら見たで、ぼろぼろのこんなものをなんで大事にするんだ、なんて笑って、村人をカンカンに怒らせて、あげくに、ぽちゃん! それも一回じゃないんだ。三人が三人とも見たがって、落っことして……。壷のほうもよく壊《こわ》れなかったもんだよ。まったく……村長のセルジウスが、頭から湯気を出して怒ってたよ。あいつらは新しい物の価値《かち》ばかりを追い求めて、本当の物の価値を知らないってさ。…………ゲホッ!」
ミルドレッドはしゃべりながら、水差しのとなりに置いてあった赤いダイヤガラスのコップを手に取り、中も見ずにゴクンと飲み干《ほ》した。と、咳《せ》き込《こ》み始めて、
「ゴホッ! ゲホッ! な、なんか入ってた……! 丸いもの……飲んじまったよ?」
「……あ!」
一弥は(目玉だ……!)と気づいたが、余計《よけい》なことは言わないことにした。お菓子《かし》かなにかでしょうと言うと、彼女は納得《なっとく》したようにうなずいた。
――大きな足音とともにミルドレッドが出ていくと、部屋はまた静けさを取り戻《もど》した。
ヴィクトリカが、となりの部屋から廊下《ろうか》を伝って戻ってきた。
二人とも口数が少なくなり、一弥はやたらと、扉にかけた鍵《かぎ》を何度も確認《かくにん》したり、鏡の前に衣装箪笥《いしょうだんす》を移動《いどう》させてとなりの部屋からなにも入ってこないようにしたり、窓もしっかりと閉めたり、戸締《とじ》まりに精《せい》を出した。
「ヴィクトリカ、ぼくもこっちの部屋にいるよ。扉のすぐ横にいるから、誰《だれ》かが入ってきたらぼくがやっつけるからね」
「うむ、勇ましいことだな」
「……ちょっと、真面目《まじめ》に聞いてよ! 言っとくけど、狙《ねら》われてるのは君なんだよ!」
一弥は扉の前に揺《ゆ》り椅子《いす》を置いた。深く腰掛《こしか》けて目をつぶってみる。
……眠《ねむ》れそうになかった。家族の中でもとくに繊細《せんさい》なたちの一弥は、もともと、枕《まくら》が変わっただけでなかなか眠れないのだ。それがさらに、椅子に座った状態《じょうたい》となれば、とても熟睡《じゅくすい》できるものではない。
そのことを小声でぼやくと、ヴィクトリカがいかにもうれしそうに振り向いた。
「君……わたしの荷物の中に、素敵《すてき》な簡易《かんい》ベッドが入っていたことを覚えているかね?」
一弥は不思議そうに聞き返した。
「君の荷物って、あの……新大陸に移住する家族|規模《きぼ》の、ばかみたいな大荷物のことかい?」
「むっ!? ばかは君だ。わたしの頭脳《ずのう》が英知《えいち》を尽《つ》くして考えた、最低限《さいていげん》必要なはずのあの荷物……。君、えらそうな説教を垂《た》れて自ら置いてきたのだから、責任を持って揺り椅子で眠りたまえよ」
「……花瓶《かびん》とかお茶セットは、絶対《ぜったい》いらなかったと思うけどね」
憎《にく》まれ口を叩《たた》き返すと、またマカロンがかしかしと宙《ちゅう》を飛んできた。一弥は怒りながら床《ゆか》に転がるお菓子を拾い、もとの場所に戻して……。
「ヴィクトリカ……?」
顔を上げたときには、ヴィクトリカは、心ここにあらずの様子でなにか考え込んでいて、もう一弥のほうを見もしなかった。一弥はため息をついて、揺り椅子に腰掛けた。
やがて夜が更《ふ》けてくると、館《やかた》はしんと静まり返った。
壁灯を少し落として、一弥も眠ることにした。
ヴィクトリカはとっくに天蓋《てんがい》付きの大きなベッドに横になり、くぅくぅとかすかな寝息《ねいき》を立てていた。一弥も揺り椅子に座ったままで目を閉じた。
無理やり眠ることにする。
ふと……すでに眠っているヴィクトリカのほうに、目をこらす。
ヴィクトリカの小さな後頭部が見えた。彼女はうつぶせになり、小さな顔を大きなふわふわの枕にぎゅっと押《お》しつけて眠っていた。
「……不思議な寝相だなぁ」
「くぅ〜、くぅ〜、くぅ〜……」
かすかな寝息が途切《とぎ》れなく続いている。
こうして見ると、大きすぎるベッドに眠る小さすぎるヴィクトリカは、人間というより、白い毛足の長い小犬が、紛れ込んだまま眠ってしまったようにも見えた。
やがて階下から、柱時計が鳴る音が聞こえてきた。
――ボーン! ボーン! ボーン!
一つ、二つ、と一弥は数え始めた。十二まできて音が止まった。もう夜の十二時なのだと気づいて、自分もいい加減《かげん》眠ることにして……。
一弥は、不安を胸《むね》に、ゆっくりと目を閉じた。
[#改ページ]
モノローグ―monologue 3―
夜半、気配に気づいて目を覚ました。
屋敷《やしき》は静まり返り、窓《まど》の外からのかすかな風の音だけが、妙《みょう》に響《ひび》いている。
――そっと部屋の扉に近づき、聞き耳を立てる。
「……だから、祭の途中で…………」
誰かが小声で話している。廊下《ろうか》の端《はし》辺りから、男たちの低い声が聞こえてくる。
「村人も誰も気づかない……」
「……うん。あいつ[#「あいつ」に傍点]も気づかないに違《ちが》いない」
男たちがこそこそと話している。
「自動車で運べばいい。麓《ふもと》の町まで降《お》りれば、自動車があるんだ」
――怒《いか》りがわき上がってくる。
おそらくそうであろうと想像《そうぞう》してはいたが、やはりそうだったのだ。
男たちは聞き耳を立てる人間がいることに気づかず、いつまでも明日の計画を話し合っている。
「祭の最中なら、村人も気づくまい。聖堂《せいどう》は、明日のある時間だけ無人になる」
「山を降りるんだ。そうすれば……」
そうすれば……?
[#改ページ]
第四章 赤カブ提灯《ちょうちん》と〈冬の男〉
夜明けがゆっくりと〈名もなき村〉に近づいてきていた。一弥《かずや》は部屋の隅《すみ》で揺《ゆ》り椅子《いす》に揺られながら、浅い眠《ねむ》りから醒《さ》めたり、また眠りに落ちたりを繰《く》り返していた。
目を醒ますたびに、ヴィクトリカが大きな天蓋付《てんがいつ》きベッドの上で、あっちの隅こっちの隅と、毎回ちがう場所でちがう形で眠っているのが目に入った。夢うつつのまま一弥は(ヴィクトリカ、君……いつ動いてるんだよ……?)と不思議に思っていた。
やがて、夜が明けたことを告げたのは、突然《とつぜん》鳴り響《ひび》いた大きな太鼓《たいこ》の音だった。
――ドーン!
ドーン! ドーン! ドーン!
続いて甲高《かんだか》い笛の音が響いた。夜明けの薄闇《うすやみ》を切り裂《さ》くように高く、細く。
――一弥は飛び起きた。
あわてて立ち上がると、寝間着姿《ねまきすがた》のヴィクトリカが、もこもこした動きでベッドから降《お》りるところだった。ヴィクトリカは窓《まど》に駆《か》け寄《よ》ると、後ろから近づいてきた一弥をくるりと振《ふ》り返った。
一弥は眠たそうな顔だったが、ヴィクトリカのほうはすっかり覚醒《かくせい》し、いつも――植物園で会うときと同じ、静かだが鋭《するど》い目つきをしていた。白いサテンの丸帽子《まるぼうし》から、長い金髪《きんぱつ》のほとんどが落ちて、床《ゆか》に向かって金色の濁流《だくりゅう》のようにうねりながら落ちていた。
「おはよう、久城《くじょう》」
「……おはよ、ヴィクトリカ。いまのなに?」
「さてね。おそらく、推測《すいそく》されるのは……」
そうつぶやきながら、ヴィクトリカが天井《てんじょう》から落ちる紐《ひも》をぐいっと引っ張《ぱ》った。
重いビロードのカーテンが揺らめいて、左右に開いていった。
窓の外には……。
――昨日とはまったくちがう風景が広がっていた。
石のバルコニーと樫の大木以外のほとんどを乳色《ちちいろ》の霧《きり》が隠《かく》していた昨日とはちがい、今朝は、まだ夜明けだというのに空気は澄《す》み切り、遠くまでよく見渡《みわた》せた。天気がよく、風は乾《かわ》いていた。太鼓《たいこ》の音が空気を震《ふる》わせ、絹《きぬ》を裂《さ》くような笛の音がそれを追いかける。
原色の幟《のぼり》がいくつもはためいていた。どれにも黒々と狼《おおかみ》の紋章《もんしょう》が描《えが》かれていた。
誰かが水を――おそらくは聖水《せいすい》を、朝の空に向かって撒《ま》いている。飛沫《しぶき》がバルコニーの石にも飛んできて、水の跡《あと》をいくつも作った。
鞭《むち》が鳴らされ、空砲《くうほう》が撃《う》たれる。
「……推測されるのは」
ヴィクトリカの言葉を一弥が引き取った。
「夏至《げし》祭が始まったんだね」
「うむ」
二人は顔を見合わせた。それから駆けるようにしてバルコニーに出た。苔生《こけむ》した石の手すりから乗り出すようにして、外の光景にただただ目を奪《うば》われる。
鮮《あざ》やかな赤いかたまりが、揺らめきながら広場に入っていこうとしていた。揺らめきの正体がなんなのか、いくら目をこらしてもわからなかった。大きな山車《だし》であるのだが、それ全体が火のかたまりであるかのように鮮やかなオレンジ色に燃《も》えていた。
村人が、昨日のもの静かさが嘘《うそ》のように広場を練り歩き、叫《さけ》び声を上げていた。
――二人が広場の様子に目を奪われていると、控《ひか》えめに部屋の扉《とびら》がノックされた。一弥が返事をして、バルコニーから部屋に戻《もど》る。
扉を開けると、長い金髪を後ろで結んだ若者《わかもの》が立っていた。村人にしては背《せ》が高く、際《きわ》だって美しい顔立ちに、よく澄んだまっすぐな瞳《ひとみ》をしていた。……村長の助手のアンブローズだ。
「……廊下《ろうか》を通ったら話し声がしたので。起きてらっしゃるのかと」
アンブローズは両手に妙《みょう》なものを持っていた。黄土色の布《ぬの》でぐるぐるに巻《ま》かれたミイラのような形をした人間大の張りぼてと、おそろしい黒い顔が彫《ほ》られた木の仮面《かめん》だ。
一弥がじろじろ見ていると、アンブローズは笑って、
「祭に使う張りぼてと、仮面です。めずらしいですか?」
「ええ」
「ぼくから見れば、あなたがたの持ち物のほうがずっと……」
アンブローズは控えめながら、部屋を覗《のぞ》いて、めずらしい持ち物に視線を彷徨《さまよ》わせた。それからまた一弥の顔をじろじろ見て、不思議そうに手を伸《の》ばしてきたので、一弥はあわてて彼から離《はな》れた。頬《ほお》の肉を掴《つか》まれたり髪《かみ》を引っ張られたりするのは、どうも苦手だ。
話し声に起こされたのか、ほかの部屋の扉もつぎつぎに開いた。アランが髭《ひげ》をいじりながら眠そうに出てきた。デリクは一目で高級なものとわかる絹の寝間着を着ていたが、寝相が悪いのかくしゃくしゃになっていた。ラウールの大きな体も、のっそりと出てきた。
最後に、ミルドレッドの部屋の扉が開いた。女の人とは思えないぐらい大きな足音を立てて、廊下に出てくる。真っ赤なドーリィカールの髪がゆさゆさ揺れていた。
ヴィクトリカがバルコニーを離れて、こちらに向かってとことこと歩いてきた。
「昨日、セルジウス様も話しておられましたが……この村の夏至祭とは、夏の豊穣《ほうじょう》を祝い、冬を倒《たお》して燃やしてしまうという儀式を兼《か》ねた祭なんです。それから祖先《そせん》の霊《れい》を呼《よ》び、豊穣に潤《うるお》うぼくたちの姿《すがた》を見てもらう……」
アンブローズは流れるように説明しながら、一弥たちを広場に案内していた。館《やかた》にはもう人気はなく、村人はほぼ全員が広場に集まっているとのことだった。
「聖堂を無人にしてはいけないので、何人かがそちらに。あとはみんな広場にいます」
「……昨日とはずいぶんちがいますね」
一弥が聞くと、アンブローズは笑って、
「準備《じゅんび》で忙《いそが》しかったのですよ。赤カブが間に合いそうになかったし」
「赤カブ?」
「山車の灯《ひ》です。……ほら!」
広場に着いた一弥たちは、びっくりしたように目を見開いて、巨大《きょだい》な丸い炎《ほのお》のように燃える山車をみつめた。
山車のそこここに、オレンジ色に光る小さな丸いものがたくさんつけられていた。よく見るとそれは、中をくり抜《ぬ》いて外にさまざまな模様《もよう》を彫った赤カブだった。中に小さな蝋燭《ろうそく》が立てられて、山車の動きに合わせて揺《ゆ》れながら小さな炎を上げていた。一つ一つの揺れに合わせて、山車そのものも炎の揺らぎのようにあちらにこちらにうごめいている。
「……きれいだな」
ヴィクトリカが言った。
[#挿絵(img/02_215.jpg)入る]
それを聞いたアンブローズがうれしそうにうなずいた。
「村人はこれを彫っていて忙しかったんです。ぼくはこの張《は》りぼてを作るので……。不器用なので苦労しました」
アンブローズが黄土色のミイラのような張りぼてをそっと山車の上に置いた。一弥が聞く。
「その張りぼてはなんですか?」
「〈冬の男〉と呼ばれるものです。昼になると村人は扮装《ふんそう》をして、〈冬の軍〉と〈夏の軍〉の二手に分かれて戦争の真似事《まねごと》をします。〈冬の軍〉は茶色い服、〈夏の軍〉は青い服を着ます。やがて〈夏の軍〉が勝って〈冬の軍〉を蹴散《けち》らすと、〈冬の男〉に山車ごと火を放って燃やします。それから夏が勝利したことを祝い、食べ、飲み、踊《おど》るのです」
「へぇ……」
「その後、聖堂《せいどう》を無人にします。聖堂があの世との通用門であり、ぼくたちの豊穣を見に帰ってきてくれる祖先の通り道となるからです。祭の最後は、帰ってきた祖先がこの仮面をかぶり……」
アンブローズは、これまた彼の苦心の作であるらしい、不気味な仮面を持ち上げてみせて、
「豊穣を喜んで踊ります。祖先は、ぼくたちにはわからない言葉で語ります。それはあの世の言葉であると考えられています」
いつのまにか彼らの後ろから、ぎょろりと目を剥《む》きだして、ハーマイニアが近づいてきていた。アンブローズが持っている仮面をじいっとみつめると、とつぜん口蓋《こうがい》が裂《さ》けるほどに強い笑《え》みを浮《う》かべた。仮面の出来に満足したらしい。聞き取れないほどの小声で、よい出来ですね、とつぶやいた。
アンブローズは誉《ほ》められてうれしそうだ。
「今年はぼくがこの仮面をかぶります」
「……つぎの村長の候補《こうほ》ですからね」
ハーマイニアが低い声で言った。一弥たちが首をかしげると、今度はさらに低い声で、
「村長には年下の助手がつきます。村長が亡《な》くなると、助手がつぎの村長になります。セルジウス様もシオドア様の助手でした。つまりアンブローズは、セルジウス様にとても買われているということです」
「そうなんですか……」
一弥たちは改めてアンブローズをみつめた。アンブローズは、貴婦人《きふじん》のようにも見える整って上品な顔をぽっと赤らめた。照れたように首を振っている。
「若者《わかもの》の数が少ないおかげでもあるんです。村には子供《こども》が少ないんですよ」
山車《だし》がゆっくりとくるくる回り始めた。残滓《ざんし》のように赤い線を描《えが》きながら、いくつもの赤カブがくるくる回る。みとれていると、髭面《ひげづら》のアランが急に、
「……ちぇっ! くだらねぇなぁ」
アンブローズがはっと息を飲んだ。
ハーマイニアが目を剥いた。
ちょうどそのとき、太鼓《たいこ》の音や笛の音が止んで、広場は一瞬《いっしゅん》の静寂《せいじゃく》に包まれていた。広場にいた村人たちが残らず振り向き、たくさんの暗い瞳が、声の主を捜《さが》すように一弥たちの上を彷徨《さまよ》った。
それは村に入ってからアランが繰《く》り返していたポーズだったが、こんなにも注目を浴びるのは初めてだった。アラン自身も驚《おどろ》いたが、後には引けなくなったらしく、ムキになって続けた。
「こんな前時代的な迷信《めいしん》がまだ残っているなんて。なにが秘境《ひきょう》だ。灰色狼《はいいろおおかみ》の村だ。くっだらねぇよ!」
いつもなら甲高《かんだか》い声で返事をするデリクが、となりで黙《だま》っていた。アランは焦《あせ》ったように、
「なぁ、ラウール?」
とつぜん同意を求められたラウールが、大きな体を縮《ちぢ》めて、困《こま》ったように顎《あご》をかいた。
「……う、うん」
「なにが先祖の霊だ。そんなもの、戻《もど》ってきやしねぇよ。朝っぱらからバカ騒《さわ》ぎして……!」
なおも言い続けようとするアランを、デリクが遠慮《えんりょ》がちに止めた。甲高い声が響《ひび》く。
「まったく、うるさいのは確《たし》かだよな。な、アラン。部屋に戻ってポーカーでもやろうぜ?」
アランがうなずいた。三人がぶらぶらとした足取りで館《やかた》に戻っていこうとするのを、ハーマイニアの低い……よく響く声が止めた。
「お客人、お待ちなさい」
村人がいつの間にか、ハーマイニアの後ろに集まってきていた。
ハーマイニアと同化したかのように、みんな胡乱《うろん》な目つきで三人をみつめている。目玉は見開かれ、無表情《むひょうじょう》で身動き一つしない。彼らはクラシカルな服装《ふくそう》のせいもあり、まるで幽霊《ゆうれい》の集団《しゅうだん》のように見えた。振り向いたアランは自信たっぷりの態度《たいど》を崩《くず》し、たじろいだ。
「な、なんだよ……っ!」
「侮辱《ぶじょく》するなら、村から出ていきなさい」
「なっ……メイド風情《ふぜい》が、客になにを言うんだ?」
アランが反論《はんろん》する。しかしハーマイニアは黙らなかった。
「死者の霊は本当に……」
「ほ、本当に、なんだよ? 言ってみろよ?」
「本当に還《かえ》ってきます」
「くっだらねぇ!」
「夜空から無人の聖堂を抜《ぬ》けて広場にきて、あの世の言葉で語ります。その言葉はわたしたちにはわからない。でも死者の霊にはなにも隠《かく》せない。夏至《げし》祭には意味があるのです」
ハーマイニアの顔つきからすると、心の底から祭を信じているようだった。アンブローズのほうを振り返り、あなたもなにか言いなさいと責《せ》めるようにギロリと睨《にら》みつけた。アンブローズの顔には、ハーマイニアほど迷《まよ》いのない表情は浮かんでいなかったが、ハーマイニアはそのことに気づいていないようだった。
アランがムキになってなおも叫《さけ》ぼうとするのを、アンブローズが静かに止めた。
「お客人。考えは自由ですが、夏至祭を邪魔《じゃま》するのなら、出ていっていただかなければ」
「……そ、それは困る」
アランが小声でつぶやいた。なぜか急にあわて始めた。どうやら彼らは村を出ていきたくはないらしい。若者三人は顔をつきあわせて何ごとか相談していた。デリクが甲高い声でアランを戒《いまし》めているようだった。「だいたいおまえは、どこにいっても喧嘩《けんか》したがるんだから……」などと責める声が聞こえてきた。ラウールは黙っておろおろしている。
しばらくするとアランが顔を上げ、ふざけたように両手を上げてみせた。
「……わかったよ。祭の邪魔はしねぇ。俺《おれ》たちは部屋でおとなしくしてるよ。な?」
アンブローズが笑顔になり、頭を下げた。ハーマイニアは、去っていく三人をおそろしい形相で睨みつけている。
アンブローズは少し元気がなくなってしまったようだった。一弥が気を遣《つか》って声をかけた。
「あの……ぼくの育った国でも少し似《に》た風習があります」
「あなたの国?」
「はい、あの……海をずーっと渡《わた》ったところにある島国なんですけど。昔から、夏のある日に戻ってくる先祖《せんぞ》を、大切に迎《むか》えるっていう風習があって。信じてるかっていうと微妙《びみょう》なんですけど、でも、家族でお墓《はか》に挨拶《あいさつ》に行ったり、お供《そな》え物をしたりしますよ」
「へぇ……。その国って……」
アンブローズが興味《きょうみ》を持って質問《しつもん》してくるので、それからしばらく、一弥は自分の国や世界の地理、世界|情勢《じょうせい》などについて説明することになった。驚いたことに彼は、ほんの数年前に終わったはずの世界大戦のことも知らなかった。外の世界に飛行機という乗り物があることは知っていて、その頃《ころ》やけによく飛んでいたことは覚えているという。
まさに隠遁者《いんとんしゃ》の生活だった。
だがアンブローズは、生活こそ中世さながらのものだったが、驚くほど飲み込《こ》みが早く、十分ほどの会話でまたたくまに様々なことを理解《りかい》した。そして知識欲《ちしきよく》旺盛《おうせい》な若者《わかもの》らしく、つぎつぎと的確《てきかく》な質問をしては、一弥の答えを吸収《きゅうしゅう》していった。澄《す》んだ緑色をした二つの瞳《ひとみ》は、知識欲にきらきらと輝《かがや》いていた。
(この人は、すごく頭がいい…………!)
一弥は内心|敬服《けいふく》した。
(灰色狼《はいいろおおかみ》の伝説もなるほどと思えるな。これはまるで、ヴィクトリカに見せてもらった十六世紀の旅人の日記に出てくる、山奥で出会った若い雄狼《おすおおかみ》との会話みたいだ。頭脳《ずのう》明晰《めいせき》な、静かなる灰色狼たち……)
アンブローズの質問はいつまでも続いて、知識欲は乾《かわ》くことがなかった。やがて一息つくと、アンブローズは少し恥ずかしそうに、
「昔……ぼくがまだ子供《こども》の頃、村を子孫《しそん》の人が訪《たず》ねてきたことがあったんです。ブライアン・ロスコーという人が。ぼくは彼のことも質問責めにして、後でセルジウス様にきつく叱《しか》られました」
「あ、それは確《たし》か……村に電気を引いた人のことですね?」
「はい。でも彼は、工事の手配をするとすぐに去ってしまったのです……」
アンブローズは寂《さび》しそうに言った。
――明け方の騒《さわ》ぎの後、村人は一度それぞれの家に戻《もど》ったようだった。簡単《かんたん》な朝食を済《す》ませ、再び広場に集まったのは昼過ぎのことだった。
山車《だし》の灯《あか》りは消されて、原色の幟《のぼり》だけが広場を囲んで強い風に吹《ふ》かれていた。鞭《むち》の音と空砲《くうほう》が続いている。
アンブローズが説明した、〈夏の軍〉と〈冬の軍〉が戦って夏が勝つという豊穣《ほうじょう》を祈《いの》るための寸劇《すんげき》が、まもなく広場で始まろうとしていた。一弥はアランやデリクたちの部屋を訪ねて見学に誘《さそ》おうとしたが、若者三人は機嫌《きげん》を損《そこ》ねているのか、部屋にいる気配はあるのだが、返事もしようとしなかった。ミルドレッドが言うには、三人はお互《たが》い気まずいらしく、会話もせずそれぞれの部屋で静かにしているらしかった。
ミルドレッドもまた、興味なさそうに「うーん、部屋のベランダからでも広場は見れるしねぇ……」とつぶやいていた。
結局、一弥はヴィクトリカと二人きりで、手をつないで広場に向かった。
二人が着いたとき、ちょうど広場に、赤いスカートに身を包んだ娘《むすめ》たちが走り出てきたところだった。娘たちは広場の真ん中で立ち止まり、礼をする。揃《そろ》って片手《かたて》にバスケットを持っていた。
ゆっくりと歩き過ぎる村長のセルジウスについて、アンブローズが忙《いそが》しそうにあれこれ話しながら通り過ぎた。広場の隅《すみ》っこで見学している一弥たちに気づくと、振《ふ》り向いて、
「そこにいると危《あぶ》ないですよー」
「危ない?」
「いや、危ないというほどではないですが。ちょっと痛《いた》いですよ」
「い、痛い……?」
アンブローズは、フフフ……と悪戯《いたずら》めいた笑《え》みを浮《う》かべて歩き去っていった。一弥がとなりを見ると、ヴィクトリカがしかめっ面《つら》をしていた。
(痛い……? 痛い……? あっ、いけない!)
一弥は、ヴィクトリカが痛いのが苦手だと言うことを思い出して、彼女の手を引いてその場所を離れた。ヴィクトリカのほうは、広場をきょろきょろして村人たちを観察し続けていた。引っ張《ぱ》っていく一弥を不気味そうに見上げて、
「いったいどこに引っ張っていくのだね?」
「いや、よくわかんないけど……」
一弥たちがそこを離れたとき、娘たちが一斉《いっせい》にきゃあきゃあ声を上げて、バスケットに手を入れた。固いハシバミの実を掴《つか》んだその手を空高く掲《かか》げて、「せーの!」と掛《か》け声をかけ……。
ハシバミの実をあちこちに投げ始めた。
村人たちは笑いながら見ている。
――ついいままで一弥たちが立っていたところに、ハシバミの実がどんどん投げられた。ちょうどそこを、髭《ひげ》に眼鏡《めがね》、帽子《ぼうし》をかぶった若い男がぶらぶらと通りかかった。
「……アランさんだ」
一弥がつぶやく。
「さっき誘ったのに。なんだ、やっぱり気になって、祭を見にきたんだ……」
娘たちはきゃあきゃあ騒いで、豊穣を祈る歌を口ずさみながら、通りかかった男にどんどんハシバミの実を投げた。乾いた固い音が続き、男が痛さに飛び上がりながら退散《たいさん》していくのが見えた。娘たちは大笑いして、つぎに誰《だれ》か通りかからないものかと辺りを見回している。村の若《わか》い男がわざと近づくと、喜んで実を投げる。男たちはあわてて逃《に》げ出す。その繰《く》り返しで、嬌声《きょうせい》と悲鳴が広場を覆《おお》い尽《つ》くした。
「うわぁ! 痛そう……!」
一弥は思わずつぶやいた。
(よかった……。アンブローズさんに感謝《かんしゃ》しなきゃ。あのままあの場所にいたら、ヴィクトリカが痛がってたいへんだったよな……)
かたわらのヴィクトリカをそっとみつめる。
ヴィクトリカは相変わらず、村人たちの様子をじっと観察し続けていた。
――やがて、村娘たちがバスケットを空にして笑いながら退散すると、若い男たちが、茶色い服を着て馬に乗った〈冬の軍〉と、青い服を着て槍《やり》を持った〈夏の軍〉に分かれて、戦争を模《も》した舞《ま》いを舞い始めた。
娘たちは黄色い声を上げて〈夏の軍〉を応援《おうえん》し、年輩《ねんぱい》の男たちは周りでのっそりとステップを踏《ふ》んだり声を荒《あら》げたりする。
長い舞いだった。
ようやく〈夏の軍〉が勝利を収めると〈冬の軍〉は退散し、〈夏の軍〉の中心にいた若い男が高らかに勝利を宣言《せんげん》した。
「あれ……? いまの声って」
一弥はそこで初めて、それがアンブローズであることに気づいた。
こうして見ると彼は、村のどの青年ともちがって見えた。村にいるのは、変化を拒否《きょひ》する濁《にご》った瞳《ひとみ》をした灰色狼《はいいろおおかみ》たち……。彼らとは違《ちが》い、アンブローズは若い輝《かがや》きに満ちていた。
青い服に身を包んだアンブローズは、誇《ほこ》らしげに夏の勝利と今年の豊穣《ほうじょう》を宣言し、手にした松明《たいまつ》をぐるぐると振り回した。
「〈冬の男〉よ、燃《も》え上がり消え去るがよい!」
大きな声とともに、広場の中央に置かれていた山車《だし》に松明をかざす。
山車の上には、アンブローズが作った黄土色の張りぼてが置かれていた。〈冬の男〉の張りぼてだ。山車も張りぼても燃えやすい素材《そざい》で造《つく》られているらしく、アンブローズが松明を落とすと、あっというまに炎《ほのお》に包まれ、大きな音を立てて燃えた。
しかし、そのとき……。
――山車の上になにかが立ち上がった。
アンブローズが叫《さけ》んだ。その顔は驚愕《きょうがく》にひきつっていた。口を大きく開けて叫び続けている。
立ち上がったのは……張りぼてだった。黄土色の布《ぬの》を巻《ま》かれた人間大のそれ……は、山車の上に立ち上がり、くるくると回転した。両手で頭を押《お》さえたポーズで回転し続け、やがて山車の上にうつぶせに倒《たお》れた。
「……人が!?」
アンブローズが叫ぶのが、炎の向こうから聞こえてきた。
「離せ! あれは……人間だッ!?」
アンブローズが仲間の制止《せいし》を振《ふ》り切って山車に飛び移《うつ》った。彼のタックルで山車は燃えながら真横に倒れた。大きな音がして、広場全体が地響《じひび》きを立てて揺《ゆ》れた。赤カブがつぎつぎ潰《つぶ》れて、ぐじゃりと赤紫色《あかむらさきいろ》の汁《しる》を垂《た》らし、広場の石畳《いしだたみ》に染《し》み込んでいった。
誰かが井戸《いど》に走った。桶《おけ》いっぱいの水を抱《かか》えて走ってきて、燃えながら苦しそうにうごめく張りぼてにかけた。
じゅう、う、ぅ、ぅ……。
火が消えていき、黄土色の張りぼてはしばらくうごめいていたが、じわりじわりと動きを止めた。
「……人だ」
アンブローズは呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
「柔《やわ》らかい。人の体だ。ぼくが造《つく》った張りぼてじゃない。人に……変わってる。人に…………!」
仲間の若者が、叫び声を上げるアンブローズを引きずって、張りぼてから引きはがした。アンブローズは石畳に尻餅《しりもち》をつき、
「人だ……。人だ…………。布をほどいてみてくれ。人なんだ…………!」
村長のセルジウスがゆっくりと進み出てきた。村人が自然に道を開ける。
セルジウスが震《ふる》える手で、半ば燃えてしまい体に張《は》りついている黄土色の布を剥《は》がしていった。顔を覆う布を取ったとき、広場全体がぐにゃりと歪《ゆが》んで感じるほどの衝撃《しょうげき》と、かすかな……やはり、という無言のつぶやきが、辺りを覆い尽くした。
苦悶《くもん》の表情《ひょうじょう》を浮《う》かべ、目を見開いたまま絶命《ぜつめい》しているのは……。
アランだった。
――一弥は思わず、ヴィクトリカに見せまいと、両手で彼女の顔を覆おうとした。するとヴィクトリカがその手を乱暴《らんぼう》に振り払《はら》った。
一弥は驚《おどろ》きと少しの怒《いか》りを持って、ヴィクトリカを見た。
彼女は冷静な目で広場中を見渡《みわた》していた。
つられて一弥も、辺りをぐるりと見渡した。
なぜかハーマイニアの顔が、まずいちばんに目に飛び込んできた。彼女は驚きを浮かべてはいたが、かすかな笑《え》みもまたその顔から見て取れた。アンブローズは仲間に支《ささ》えられてふらふらと立ち上がったところだった。顔がショックに歪んでいる。セルジウスは険《けわ》しい顔でアランの体を調べていた。村人たちは皆《みな》、黙《だま》り込んでアランの体を見下ろしている。
館《やかた》のほうから駆《か》けてくる足音が聞こえてきた。どすどすと大きな足音なので、ミルドレッドなのだろうとわかった。赤毛を揺《ゆ》らしながら走ってきた彼女は、
「部屋のベランダから見てたんだけど、人間みたいなのが、燃えてなかったかい……?」
人垣《ひとがき》に近づいて、倒れているアランに気づくと、
「……いやだ。たいへんじゃないのさ!」
震え声でつぶやいた。
遅《おく》れてデリクとラウールがやってきた。アランの様子に気づくと、二人ともヒッと息を呑んだ。デリクが震え声で、
「……どういうことだ?」
「わからん」
セルジウスがつぶやいた。ラウールは無言でぶるぶる震えているだけだが、デリクは甲高《かんだか》い声を張り上げて怒鳴《どな》りだした。
「お、おまえら、なんてことを……! ただじゃ済《す》まさないからな。こんなことをして……!」
「これは事故《じこ》だ」
セルジウスが有無《うむ》を言わさぬ口調で言った。憤怒《ふんぬ》に染《そ》まるデリクの顔を、ぎろりと睨む。
「いつのまにかこの馬鹿《ばか》が、張りぼてと入れ替《か》わっていたのだ」
「馬鹿って……」
「祭を邪魔《じゃま》する嫌《いや》がらせだったのだろう。最後に火をつけられることを知らなかったのか」
セルジウスは軽蔑《けいべつ》の眼差《まなざ》しでアランの体を見下ろした。
「愚《おろ》かな客人だ」
「……そんなはずはない!」
デリクが言い返した。怒りのあまり体を震わせている。もともと甲高い声が、ほとんど裏返《うらがえ》っている。喉《のど》を振り絞《しぼ》って、
「そんなはずはない! 俺たちは知ってたんだからな! 今朝、この男に……」
びしりとアンブローズを指差す。
「祭の説明をされたんだ。そのとき、最後に張りぼてに火をつけるって、確《たし》かに……」
セルジウスが首を振る。
「炎《ほのお》が上がる前に飛び出すなどして、台なしにするつもりだったのだろう」
「そんな馬鹿な!」
デリクが叫《さけ》ぶ。
村人の顔を見渡すが、誰も目を合わせようとしない。セルジウスの言葉を、疑《うたが》う様子もなく信じたようだった。デリクは絶望したようにうめき声を上げ、その場に崩《くず》れ落ちた。
と、顔を蒼白《そうはく》にしたアンブローズが、息絶《いきた》え絶《だ》えの声で言った。
「セルジウス様……。もしこの若者《わかもの》がそう企《たくら》んだとしても、不可能《ふかのう》です」
「なんだと?」
「ついさっき……乙女《おとめ》たちがハシバミの実を投げたとき、この若者が通りかかり、ハシバミの痛《いた》みに驚いたように逃《に》げていきました。その後、彼は広場にやってきてはいないし、ここにはたくさんの人の目が……」
「つまり……?」
「張りぼてと入れ替わるのは不可能です。だから……」
アンブローズはセルジウスに睨まれて口をつぐんだ。
村人たちに動揺《どうよう》が広がっていった。疑うような濁《にご》った眼差《まなざ》しが、セルジウスに集まる。セルジウスは苛立《いらだ》ち、アンブローズをおそろしい顔つきで睨んだ。
「……余計《よけい》なことを言うな。饒舌《じょうぜつ》は愚《おろ》か者の罪《つみ》だということを、おまえは忘《わす》れたのか!」
「も……申しわけ、ありま……せん」
アンブローズは途方《とほう》に暮《く》れたように首を振《ふ》り、うつむく。
デリクが叫んだ。
「……どういうことだよッ!」
その大声に驚いたように、広場から一斉《いっせい》に鳥が飛び立ち、霧《きり》の中に消えていった。
激《はげ》しい羽音が遠のいていく。
広場は静寂《せいじゃく》に包まれ、デリクの問いに答える声はなかった。
[#改ページ]
モノローグ―monologue 4―
ざ、ま、あ、み、ろ。
――と思っていた。顔に出さないよう必死だった。ここは驚いて、衝撃《しょうげき》を受け、悲しんでいるように見せなければならない。
幸い誰も気づいていないようだった。もしかしたらと危《あや》ぶんでいたのだが……その心配は杞憂《きゆう》に終わったらしい。
そう、昨夜のあの声を聞いた以上、彼らを許《ゆる》すわけにはいかない。こちらにはこちらの計画があるのだ。彼らはそれを邪魔しようとしていた。
残りの男、も……。
うまく殺してしまおう。
あれを奪《うば》い、車に乗って逃げるのは、彼らではない。
彼らではないのだ。
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第五章 森には秘密《ひみつ》が眠《ねむ》っている
朝いちばんで麓《ふもと》の町ホロヴィッツを出発したらしい箱型馬車が、蹄《ひづめ》を鳴らしながら茨《いばら》に覆《おお》われた急勾配の山を登り、〈名もなき村〉のあるガラスのコップのような窪地《くぼち》に辿《たど》り着いたのは、昼を少し過《す》ぎた頃《ころ》だった。
村は思いもかけなかった旅人の死に動揺《どうよう》し、夏至《げし》祭を一時|中断《ちゅうだん》して、村長を始めとする人々が灰色《はいいろ》の館《やかた》のダイニングルームに集まって、討議《とうぎ》を続けていた。櫓《やぐら》の上に立つ見張《みは》りの若者《わかもの》が、馬車に気づき、力を合わせて跳《は》ね橋《ばし》を下ろして、客人を迎《むか》えた。
金髪《きんぱつ》に青い瞳《ひとみ》、上等の絹《きぬ》のシャツにきらきら輝《かがや》く銀のカフスというなかなか洒落《しゃれ》者の若い客人は、威張《いば》りくさったポーズで跳ね橋を見上げていた。
ゆっくりと跳ね橋を渡《わた》り始める。
見張りの若者たちは、新しい客人の不思議なヘアスタイル――金髪を流線型にかため、まるで歪《ゆが》んだドリルが頭についているようだ――に、呆気《あっけ》にとられて櫓から彼を見下ろしていた……。
灰色の館では、その男――グレヴィール・ド・ブロワ警部《けいぶ》が追ってきた当人である、美しく小さな、そして謎《なぞ》めいた妹、ヴィクトリカ・ド・ブロワが、騒《さわ》ぎに乗じて、入るなと言われた一つの部屋に忍《しの》び込《こ》んだところだった。
一階の薄暗《うすぐら》い廊下《ろうか》の奥《おく》にある部屋――。
二十年前に殺人が起こったとされる、あの書斎《しょさい》に。
書斎は静まり返っていた。
久《ひさ》しく人が入っていないらしく、書棚《しょだな》にも書物|机《づくえ》にも埃《ほこり》がたまり、半分ほど開いたままの青ビロードのカーテンからの日射《ひざ》しで床《ゆか》の板材も焼け、ところどころ色を変えていた。
ヴィクトリカがそっと扉《とびら》を開けて中に入ると、小さく軽いはずの彼女の数歩で、床から埃がぶわりと巻《ま》き上がった。ヴィクトリカはかすかにコホンと咳《せき》をした。それから息をひそめ、ゆっくりと書斎を見回した。
せまい部屋だった。書物机と大きな書棚、曲がり足の大きな椅子《いす》。チェストの上に鉄の燭台《しょくだい》が置かれていた。机も椅子も、なにもかもが……狭《せま》い部屋の割《わり》には大きくて豪華《ごうか》な造《つく》りだった。
壁《かべ》の一方に横長い飾《かざ》り棚が作りつけられていて、ガラス張りの棚の中に、中世の騎士《きし》たちが使ったと思われる、古めかしい武器《ぶき》の数々が飾られていた。鉄と削《けず》った樫《かし》の枝《えだ》でできた重そうな槍《やり》や、細く長い剣《けん》などがみっしりと詰められていた。
その横にはこれまた大きな柱時計があったが、これは誰《だれ》かが整備《せいび》しているらしく、きちんと動いていた。振《ふ》り子がゆっくり揺《ゆ》れていた。文字|盤《ばん》は古くて消えかけていたが、なんとか数字を読むことができた。
ヴィクトリカは視線《しせん》を止め、床の一点をじいっと睨《にら》みつけた。
小さな唇《くちびる》が開く。
「ここに、死体が倒《たお》れていた」
少しだけ視線を動かす。
「そしてここに、金貨がたくさん落ちていた」
瞳を閉《と》じる。
「……なぜ金貨が山のように落ちていたのだ? 理由があるはずだ。必ず。これは欠片《かけら》だ。混沌《カオス》の欠片なのだ。必ず再構成《さいこうせい》のためのピースの一つとなる。考えるのだ。考えるのだ……!」
緑色の瞳をゆっくりと見開く。
扉を振り返り、つぶやく。
「そして、コルデリアが入ってきた。鍵《かぎ》のかかった扉を開けて。書斎には自分のほかは誰もいなかった。夜中の十二時のことだったと思われるが、時間ははっきりしない。そして、コルデリアが死体をみつけた。……窓《まど》は?」
埃を上げながら窓際《まどぎわ》に走る。カーテンを乱暴《らんぼう》に開けると、また埃が煙《けむり》のように立った。窓の外を見て、ヴィクトリカは首を振った。
外は切り立った断崖《だんがい》だった。はるか下を濁流《だくりゅう》が流れる音が聞こえてくる……。
「ここではない……」
ヴィクトリカはつぶやく。
「ここから出入りしたのではない。犯人《はんにん》は扉から出ていったはずなのだ。いつものままだった書斎。だがここで殺人が起こった。そして……」
小さな真珠色《しんじゅいろ》の歯を食いしばって、ヴィクトリカは耐《た》えた。
それからかすかな声でささやいた。
「ママン…………!」
「…………なにをしているのです?」
ふいに、しっとりと柔《やわ》らかな声が響《ひび》いた。ヴィクトリカははっと息を呑《の》んで振り返った。
ハーマイニアが立っていた。音もなく扉を開け、責《せ》めるような顔をして小さな闖入者《ちんにゅうしゃ》を見下ろしている。
ヴィクトリカは唇をきつく結んだ。
「ここには入ってはいけないと、セルジウス様が」
「……なぜだね?」
ヴィクトリカは言い返した。
「なぜって……」
ハーマイニアは戸惑《とまど》ったように、首をカタリとかしげた。また、壊《こわ》れた人形が動いているような異様《いよう》な姿《すがた》になる。
「気づかれては困《こま》ることがあるから、ではないかね?」
「……どういうことですか?」
「この書斎で起きた事件《じけん》に、べつの真相が隠《かく》されているからだ」
「まさか!」
ハーマイニアは笑った。
くっくっくっと笑う声がしばらく続いた。
くっ、くっ、くっ……!
ヴィクトリカが有無《うむ》を言わさぬ声で、おかしな笑いをさえぎった。
「セルジウスは反論《はんろん》を許《ゆる》さない男だ。村長となった彼の判断《はんだん》に誰も意見ができなかったのだろうと推測《すいそく》される。その呪縛《じゅばく》はいまも続いている。だが……彼が書斎を見ることをわたしに禁止《きんし》したのは、自分の理論に、内心では不安を感じているからなのではないかね? もしくは……知られては困ることがあるのだ。ちがうかね?」
ハーマイニアはますます高い笑い声を上げた。
しかしその声は次第《しだい》に途切《とぎ》れ、青白い幽鬼《ゆうき》じみた顔には、少しずつ不安そうな表情《ひょうじょう》が浮《う》かび始めた。
目玉をひん剥《む》く。黒目はなにも映《うつ》っていないような虚《うつ》ろな様子で、剥き出された白目には細く赤い毛細血管が無数に走っていた。不安そうに首をカタリカタリと左右に振り、ハーマイニアは大きく息を吐《は》いた。
ふ、う、う、ぅ、ぅ……!
「どうしたのだね、ハーマイニア?」
ハーマイニアはひゅうっと息を吸《す》い、それから言った。
「……じつは、ずっと気になっていたことが。口には出せなかったけれど」
ヴィクトリカはじっと彼女をみつめた。
[#挿絵(img/02_239.jpg)入る]
ハーマイニアは足音も立てずに近づいてきた。ゆっくりヴィクトリカに歩み寄《よ》ると、空気を振動《しんどう》させる低い声で、
「わたしは当時、この館《やかた》にいました。あの夜の出来事も、どんなに大騒《おおさわ》ぎになったかも覚えています。でも、あのときわたしはまだ六|歳《さい》でした。コルデリアの犯《おか》した罪《つみ》に怯《おび》え、熱に魘《うな》される彼女に付き添《そ》うことを求められても拒否《きょひ》しました。こわかったのです。そうしてようやく、罪人《ざいにん》がわずかな荷物だけを持たされ村から追放されると、安心し、今度は自分が熱を出したのです。それほどわたしはコルデリアが……罪人の気配がこわかった」
ハーマイニアは言葉を切った。
白目がまた大きく剥き出され、真ん中の黒目がぐるりと動いた。どこを見ているかわからない異様な顔つきだった。その顔を、腰《こし》を屈《かが》めてヴィクトリカの頬《ほお》に近づけ、
「しかし、コルデリアが追放された後も、厄《やく》は彼女について村を出ていきはしなかったのです。その後の二十年で、村は少しずつ変わっていった。村はいつのまにか色鮮《いろあざ》やかさを失い、まるで白と黒だけで描《えが》かれた寂《さび》しい絵画のよう。そして、子供《こども》がとても減《へ》ったのです。新しく生まれる子供が……。厄は村から去らなかった。もしかしたら、とおそろしい考えがよぎりました。もしかしたら……」
ハーマイニアはその先を言おうとしなかった。
ヴィクトリカが代弁《だいべん》する。
「罪人は、まだこの村にいるのかもしれないと?」
「…………」
ハーマイニアは口をきつく結んだ。
「……セルジウス様のおっしゃることももっともです。コルデリアが犯人だったと考えるのがもっとも簡単《かんたん》なことなのです。書斎《しょさい》の扉《とびら》には内側から鍵《かぎ》がかかっていたし、その鍵はシオドア様とコルデリアしか持っていなかった。中には誰もいなかった。自ら書斎に入ったコルデリア以外の誰にも、シオドア様をナイフで刺《さ》すことはできなかったはずです。もちろんわからないこともある。床《ゆか》に散らばっていたたくさんの金貨のことや、時間に関する証言《しょうげん》がみんなまちまちだったことや……。それでも、コルデリアが限りなく犯人に近いということは変わりません」
「ふむ……」
「ですが……」
ハーマイニアはさらに白目をぎょろつかせて叫《さけ》んだ。
「大人になってから気づいたのです! この話がどこかおかしいということに! シオドア様はこうやって……背中の上部を後ろからブスリと刺されていました。その短刀は柄《つか》までぎっちりと背中に食い込んでいたそうです。しかしシオドア様は大人の男で、追放されたコルデリアは十五歳の少女。背《せ》の高さもちがいます。こうしなければ……」
ハーマイニアはなぜか晴れやかな笑顔《えがお》になり、両手を合わせて振《ふ》り上げると、上から下に思い切り振り落とした。目に見えない短刀が窓《まど》からの日射《ひざ》しにきらめき、そこに立つ二十年前に死んだ男の幻《まぼろし》にグサリと突き刺《さ》さるような……寒々しい一瞬《いっしゅん》だった。
「……こうしなければ殺せません。でもコルデリアはなぜ、わざわざシオドア様の背後《はいご》に回って、こんな刺し方をしたのです? それに背の低いほうがこんなことをしたら、よほどの力がなければ、根元までぶっすりと刺さらないのではないでしょうか?」
「……その通りだ」
「わたしならこうすると思うのです。自分よりも大きな、大人の男を刺すのなら」
ハーマイニアは幻の短刀を腹《はら》の前に構《かま》えて、まっすぐに体ごと相手にぶつけて刺し貫《つらぬ》くポーズを取った。
目玉をぎょろつかせ、首をカタリと真横にかしげて、ヴィクトリカを見下ろす。
「ね?」
「そうだな」
「…………………………」
ハーマイニアは急に押《お》し黙《だま》った。
「殺したのは誰だね?」
「わかりません。わたしにはただ、なにかがおかしいとしか」
それだけ言うとハーマイニアは口を閉《と》じ、足早に……逃《に》げるように書斎を出ていった。
ヴィクトリカ一人が部屋に残され、その後ろ姿《すがた》をみつめていた。
小声で独《ひと》り言を言った。
「おかしな刺さり方をしていた短刀。散らばっていたたくさんの金貨。そして、時間がまちまちなこと……!」
首を振った。
窓からの日射しが、二人の人間によって舞《ま》い上がらされた細かい埃《ほこり》を、白く浮《う》かび上がらせていた。柱時計の振り子の音だけが重く、規則《きそく》正しく響《ひび》いていた。
と……。
――カチッ!
かすかに音がした。
そして……。
――ボーン! ボーン!
柱時計が鳴り始めた。
ヴィクトリカの瞳《ひとみ》が大きく見開かれた。驚《おどろ》いたようにその音に耳を澄《す》ます。
頬に赤みがさし、表情《ひょうじょう》も明るく変わる。
小さな唇《くちびる》を開いてなにか言いかける。そのとき……。
窓の外でバサバサと鳥の羽音が響いた。ヴィクトリカは思考を邪魔《じゃま》されたことにいらつくように、顔を上げて窓の外をきつく睨《にら》みつけた。窓の外を白い鳩《はと》が何羽も飛びすぎていくところだった。白い小さな体が幾《いく》つも暗い空に舞い上がっていく。
ヴィクトリカの表情が、人形のように物静かなものに変わった。
……何ごとか考えている。
エメラルドグリーンの瞳がちろちろと揺《ゆ》れる。まるで緑色の炎《ほのお》が燃《も》えているような――、熱のこもった、だが不思議な冷たさもある、その瞳――。
ゆっくりと瞳を細める。
そのまま数刻《すうこく》。
やがて――、
ヴィクトリカは顔を上げた。その顔には確信に満ちた冷たい表情が浮かんでいた。
「知恵の泉≠ェ語りかけた――。いま欠片《かけら》はすべて再構成された――!」
無人になった書斎の重い扉のほうを、ゆっくりと振り返る。
「だが………………」
急に顔を曇《くも》らせる。
「だが、これをどう証明《しょうめい》するのだ……?」
その頃《ころ》、一弥《かずや》は――。
広場や墓地《ぼち》やあちこちを走り回って、はぐれてしまったヴィクトリカを捜《さが》していた。
昨日、野生の狼《おおかみ》に追いかけられたことや、誰かわからない人物によって水差しに動物の目玉が入れられていたこと、となりの部屋で羽布団《はねぶとん》の中に潜《ひそ》んで脅《おど》した謎《なぞ》の人物のことや、ついさっき起こったおそろしい殺人|事件《じけん》……。
さまざまなことが頭に浮かんでは消え、一弥を不安にしていた。
うろうろと歩いて、村人に連れの少女を見なかったかと質問《しつもん》しては、首をかしげられ……。
はぁ……とため息をついたとき、なにかが後頭部に突《つ》き刺《さ》さった。先の尖《とが》った妙《みょう》なものが……。
振《ふ》り返ると、金色のドリルの先のようなものが視界《しかい》いっぱいに広がっていた。目に刺さりそうな恐怖《きょうふ》を覚えて、一弥は思わず後ずさった。
「……君」
怒《いか》りに震《ふる》える男の声。
「確《たし》か、久城《くじょう》一弥くんだったかねぇ?」
「…………警部《けいぶ》!?」
グレヴィール・ド・ブロワ警部が立っていた。巨大《きょだい》すぎる旅行用の四角いトランクを抱《かか》えている。顔をひきつらせ、両手をわなわなと震わせていた。怒《おこ》ってるらしい。
「荷物、大きいですね?」
「君ね……」
「それも遺伝《いでん》なのかなぁ。ヴィクトリカの荷物もやたらと大きいし……」
「君ね、君…………」
青い血管の筋《すじ》が額《ひたい》に数本浮かんだ。
一刻置いて、ブロワ警部が怒鳴《どな》った。
「どうして君までここにいるのだね! それと、あの、あれは……あれだよ、あれ! 髪《かみ》の長い、生意気な、ちびっこい……」
一弥は警部の体から溢《あふ》れ出す怒りに圧倒《あっとう》されながらも、
「ええと、警部の妹さんですか?」
「…………」
ふんふんと鼻息だけが荒《あら》く聞こえた。
警部は返事をしようとせず、いらいらと足踏《あしぶ》みを続けていた。それからようやく小声で、
「……あれも、ここにきているだろう?」
「はぁ……」
「久城くん、君が一人でこの村にくるわけがないのだからな……」
「おかあさんの故郷《ふるさと》らしいですね」
警部は頭を振り、忌々《いまいま》しそうに呻《うめ》いた。
「あれはどこだ! あれは!」
「それが、ぼくもいま捜してるんです」
「なにをのんきな! 君も知っての通り、あれには特別な外出|許可《きょか》がいるのだ。だからほとんど学園から出たことがないし、学園に入れる前は館《やかた》の塔《とう》から出さなかったのだ。それが勝手にこんなところまできたと知れたら、わたしも大変なことになるのだよ……!」
ブロワ警部はいらいらと地面を蹴《け》った。
「大変なことって……? 警部、ヴィクトリカはどうして外に出てはいけないんですか? ときどき休暇《きゅうか》を取って旅行をしたり、週末に買い物に出かけたりするぐらい、誰《だれ》だってできることだと思うんですが……」
警部は聞こえない振りをした。一弥はため息をついて、
「それにしても警部……ヴィクトリカを追いかけてきたんですよね? でも、よく、ここにきたってわかりましたね」
「当たり前だ。あいつが勝手に聖《せい》マルグリット学園を抜《ぬ》け出すなんて、前代|未聞《みもん》だよ、君。そうなれば、わざわざ向かうのはここぐらいなものだろう?」
「……そうなんですか」
二人が言い争っているところを、遠くからくるくる渦巻《うずま》く赤毛の女性《じょせい》が通りかかろうとして……あわててきびすを返すのが見えた。
一弥はそれに気づいて、
「そうだ、警部さん……! 例のバザーでのドレスデン皿|盗難《とうなん》事件の犯人《はんにん》、なぜかぼくらと一緒《いっしょ》にきてるんですよ。あのシスター……。シスターだっていう割《わり》には、賭事《かけごと》やお酒が大好きで、なによりお金が好きだって言ってましたけど。とにかくおかしなシスターで……」
「…………」
警部はなぜかまた、聞こえていない振りをした。
一弥は口を閉《と》じ、警部の顔をじっとみつめた。
(なにか、おかしいな……)
思えば、バザーでのドレスデン皿盗難事件のことをヴィクトリカが解決《かいけつ》してみせたときも、警部の態度《たいど》はおかしかった。犯人を知ると、困《こま》ったような顔をして図書館を出ていき、しかもその犯人を捕《つか》まえなかった。それにいまは、ミルドレッドのほうが、警部の姿《すがた》に気づくとあわてて逃《に》げていったようだが……。
――一弥が考え込《こ》んでいると、館の玄関《げんかん》の扉《とびら》が開いて、ヴィクトリカがとことこ出てきた。警部はアッと叫《さけ》ぶと、一弥の両肩《りょうかた》に手を置いてぶんぶん揺《ゆ》さぶった。
「いいかね! あれにすぐ学園に戻《もど》るように言え! 君、わかったかね!」
「……どうして自分で言わないんですか!」
ヴィクトリカは二人が争う声に気づいて顔を上げたが、驚《おどろ》いた様子はなかった。一弥は警部から離《はな》れ、ヴィクトリカに向かって走り出した。
彼女の前に着くなり、
「……いったいどこに行ってたんだよ? ヴィクトリカ。心配して捜《さが》してたんだからな」
一弥はやきもきして話しかけるのだが、ヴィクトリカのほうは何ごとかに思い悩《なや》むように早足で歩き続けている。
一弥がなおも話しかけていると、ようやく気づいたように顔を上げ、
「……なんだ、君か」
「君か、じゃないだろ。あと、お兄さんもきたんだけど……」
「ああ、グレヴィールか。彼なら、そろそろくるだろうと思っていたよ」
「本当に? どうしてわかったんだい?」
ヴィクトリカは驚いたように一弥の顔を見上げた。じつに不思議そうに、
「……君、気づいてなかったのか?」
「気づいてって、なにを?」
「あれにだ」
「あれって?」
「……もう、いい」
ヴィクトリカは苛立《いらだ》ったようにそう言うと、口を閉じた。
そのまま歩いていってしまうので、一弥はあわてて後を追った。
「とにかく、あんなおそろしい事件《じけん》があった後なのに、一人でうろうろして。ヴィクトリカ、帰らないのなら仕方ないけど、その代わり君、頼《たの》むからぼくから離れないでくれよ」
「どうしてだね?」
「――心配だからだろ!」
一弥が怒《おこ》りだした。
ヴィクトリカは初め、不思議そうに相手の顔を見上げてぼうっとしていたが、その顔に次第《しだい》に固い表情《ひょうじょう》が浮《う》かんだ。
「……わたしはそれどころではないのだよ、君」
「それどころって……。ヴィクトリカ、ぼくは君のことを心配……」
「心配などしなくていい」
「…………!!」
「わたしのことは放っておいてくれ。君、なぜそんなにおせっかいなのだ? 暇《ひま》なのかね」
「なっ……!?」
一弥の顔が怒《いか》りで赤く染《そ》まった。なにか言い返そうと口をぱくぱくさせていると、遠くから誰かが二人を呼《よ》ぶ声が聞こえてきた。
二人が同時に振り向くと、聖堂の前に立ったアンブローズが手招《てまね》きしていた。
顔を見合わせ、口喧嘩《くちげんか》は休戦ということにして、二人は聖堂《せいどう》に向かっていった。
――聖堂の前には、いつのまにか、アンブローズのほかに十代の少年少女が数人集まっていた。アンブローズは疲《つか》れた顔をしてはいたが、努《つと》めて明るく、
「セルジウス様のお考えで、夏至《げし》祭を続けることになりました。なので……」
アンブローズの説明によると、夏至祭の夕方、聖堂に子供《こども》だけを集めて、未来を視《み》るのだという。
昼間の寸劇《すんげき》で〈夏の軍〉が勝利し、豊穣《ほうじょう》が約束された後、夕刻《ゆうこく》に聖堂を無人にする。その無人となった聖堂を通って先祖《せんぞ》が広場にやってくる。夜になると今度は、先祖に豊穣のさまを見てもらう儀式《ぎしき》が始まる。
その前に……だいぶ近づいてきた先祖の霊《れい》に質問《しつもん》するという形で、子供にだけ、一人が一つ未来について教えてもらえる儀式が行われるらしい。先祖の言葉は村長のセルジウスが代弁《だいべん》するという。
「せっかくだから、お二人もいかがですか? ぼくはセルジウス様の助手につきますから、列に並《なら》んでおいて下さい」
ヴィクトリカは面倒《めんどう》くさいといやがったが、一弥は参加するだけしてみようと言って彼女を列に並ばせた。
聖堂の中はしっとりと湿《しめ》った空気に満たされていた。天井《てんじょう》は高いが幅《はば》が狭《せま》く、上に近づくにつれさらに細く尖《とが》っていた。ステンドグラスが輝《かがや》き、ささやき声さえも響《ひび》いて聞こえるほどによく反響《はんきょう》した。
内部は暗く沈《しず》んでいた。花のような模様《もよう》にそった小さな穴《あな》がいくつも開いている薔薇窓《ばらまど》から、薄《うす》い日光が細かく分断《ぶんだん》されて床《ゆか》に落ちていた。牡丹雪《ぼたんゆき》が舞《ま》うように、白く小さな光がたえまなくこぼれ落ちてきていた。
手前の広いホールには、聖歌隊席の長椅子《ながいす》が五列並んでいた。石造《いしづく》りの長椅子には花が撒《ま》かれていた。ピンクやオレンジ、クリーム色の花びらに埋《う》まっていた。
聖堂のいちばん奥《おく》に、秘密《ひみつ》部屋のような小さな礼拝堂《れいはいどう》があった。屋内にもう一つ小さな家を建てたように、尖った屋根に覆《おお》われたその部屋だけが、日光も花びらの輝きも届《とど》かず、暗く闇《やみ》に沈んでいた。
と、礼拝堂にかすかな灯《あか》りがついた。燭台《しょくだい》が置かれて、小さな炎《ほのお》が揺《ゆ》らめいた。その横に古びた壷《つぼ》が大切そうに置かれているのが照らし出され、一弥は、あれが聖水の大瓶《おおがめ》に何度も落とされた壷かと思い当たった。
暗さに目が慣《な》れてくると、礼拝堂の奥にセルジウスとアンブローズが座《すわ》っているのが見えた。セルジウスは躰《からだ》に僧《そう》を思わせるトーガを巻《ま》きつけていた。紫色《むらさきいろ》をした帯が、裾《すそ》から床に長く垂《た》れていた。目を閉《と》じていて、グラスのコップに注がれた水をやたらと飲み干《ほ》した。そのたびにアンブローズが水差しから水を足していく。
少年少女たちが順番に礼拝堂の奥に行き、村長のセルジウスになにかささやく。そのたびにセルジウスは目を閉じて、祈《いの》るように数刻|黙《だま》り……なにかをささやき返す。
その言葉は驚《おどろ》くほど長いこともあれば、ほんの一言のこともあった。少年少女たちは、ある者は満足そうに笑顔《えがお》で、ある者は怯《おび》えて泣きながら、一人また一人と去っていく。
静かで、どこか敬虔《けいけん》な雰囲気《ふんいき》だった。初めは真剣《しんけん》ではなかった一弥も、村の少年少女たちの様子に押《お》されて、少しずつ真面目《まじめ》な気持ちになってきた。
(それにしても……未来についてか。なにを質問しようかな…………?)
やがて一弥たちの番になった。ヴィクトリカが一弥をぐいっと押して、
「君、先に行きたまえ」
「ええっ、ぼくから? わ、わかったよ……」
一弥はそっとセルジウスの前に進み出た。
「ええとですね……」
セルジウスが目を閉じる。一弥は忙《いそが》しくいろいろなことを考えた。
(ええと、一国の、そして世界に役立つ優秀《ゆうしゅう》なる人材になれるかどうか。将来《しょうらい》のことを……)
「……じつは、友達がいるんですけども」
口が勝手に動いて、考えていることとまるでちがうことを言い始めた。しかも、話し始めたらなぜか止まらなくなってしまった。
「あの、女の子なんですけど、とにかく頭が良くて口が悪くて、なんていうか、ぼくにはどうしたらいいかぜんぜんわかんないんですけど。もっともそれはぼくのせいじゃなくて、向こうがおかしいんだと強く思うんです。いつもばかにされるしこき使われるし、そのくせ邪魔者扱《じゃまものあつか》いされたりするし」
「……それはひどいな」
「ええ。もう苦労の連続で、本当に腹《はら》が立っているんです」
「……察するよ」
「本当にもう、我慢《がまん》できないぐらい腹が立っているんです」
「うむ……」
「つまり、ぼくが言いたいのは……」
「……言いたまえ」
「ぼくはその……」
一弥は迷《まよ》った。
それから思い切って、心に浮《う》かんだことを口に出してみた。
「ヴィクトリカと、これからもずっと一緒《いっしょ》にいられるのでしょうか?」
顔が赤くなった。一弥はなぜか急にとても悲しい気持ちになった。そして、そんな質問を口に出したことを強く後悔《こうかい》した。苛立《いらだ》ちや期待や、得体の知れない感情《かんじょう》が胸《むね》に満ちてくる。一弥は努めてそれを無視《むし》しようと踏《ふ》ん張《ば》った。その感情は男らしくないものだという気がした。
礼拝堂は静寂《せいじゃく》に包まれ、闇に沈んでいた。
きらりとなにかが光った気がした。目を閉じるセルジウスの上に、薄闇に沈んでいるはずの礼拝堂のどこからか……陽光の欠片《かけら》のようなものが……一瞬《いっしゅん》だけ、きらきらっと輝きながら降り落ち、すぅっと消えた。
その後は、さっきよりずっと暗くなった気がした。一弥は唇《くちびる》を噛《か》んで待った。
やがてセルジウスが、しわがれた声でつぶやいた。
「ともには、死ぬまい」
一弥は顔を上げた。
セルジウスがゆっくりと目を開いた。
黒目が消えて、濁《にご》った卵色《たまごいろ》をした白目が二つ、ぽっかりと顔に浮かんでいた。口を開き、うめき声を上げる。
最初は聞き取れなかったが、次第《しだい》に言葉としてなんとか聞き取れるようになってきた。
「……それは……これから何年後か……世界を揺《ゆ》るがす大きな風が吹《ふ》くであろう」
「はい……」
「そなたたちの体は軽い。いかに思いが強くとも、風には敵《かな》うまい」
「…………」
「その大きな風によって、二人は離《はな》ればなれになることだろう」
一弥はすっと血の気が引くのを感じた。
「しかし、案ずるな」
「…………」
「心は、ずっと離れまいからな」
「心、は……?」
「ああ、そうだ」
セルジウスの黒目がきゅううっ……と元に戻《もど》ってきた。水差しから直接《ちょくせつ》水をぐいぐいと飲み干《ほ》す。口元から顎《あご》へ、そしてトーガへ……水が細い滝《たき》のように流れ落ちた。一弥に「行ってよいぞ」とつぶやくと、つぎにヴィクトリカを呼《よ》んだ。
釘《くぎ》を差すように、
「母親のことは聞くな」
と言うのが背後《はいご》で聞こえた。
一弥は子供《こども》たちで騒《さわ》がしい聖堂《せいどう》から走り出た。
外はだいぶ明るかった。まだ昼間なのだ。
足がもつれそうになり、外に出たところでようやく止まる。
乳色《ちちいろ》の濃《こ》い霧《きり》がまた立ちこめていた。前にも後ろにも人気はなく、一弥は一人きりでそこに立っていた。
頭の中で、セルジウスの声が響《ひび》き渡《わた》った。
〈心は、離れまい……〉
〈風によって、二人は離ればなれに……〉
〈世界を揺《ゆ》るがす大きな風が吹《ふ》く……〉
〈何年後か……〉
〈風が……〉
一弥は大きく首を振《ふ》った。
「信じないぞ。占《うらな》いなんて信じない……」
その声がとても不安そうに震《ふる》えているのに気づいて、一弥は自分らしくないと感じた。そして、どうして自分はあんな質問《しつもん》をしたのかなぁと首をかしげた。
そのまましょんぼりとうつむいて靴《くつ》の先を見ていると、立ちこめる乳色の霧の向こうから、誰《だれ》かの気配がした。足音一つ立てずそれは近づいてくる。やがて霧の中から、金色の髪《かみ》を細かく編《あ》み込《こ》んだ小さな頭が見えた。
目玉をぎょろりと剥《む》いて、一弥を見る。
ハーマイニアだった。
「あの、占いを……」
一弥が短く説明すると、ハーマイニアは、あぁとうなずいた。男のような低い声だった。
それから急に甲高《かんだか》い若《わか》い女の声になり、
「いやな結果が出たのでしょう?」
「はぁ。まぁ……うん、多分」
「占いの結果は覆《くつがえ》りませんよ」
「べつに、占いなんて信じてるわけじゃないんですけど……」
「覆りませんよ」
ハーマイニアは繰《く》り返して、くっくっと笑った。
ぽかんとして見ている一弥の後ろから、ヴィクトリカもやってきた。ハーマイニアは二人を見比《みくら》べながら、今度は老人のようにしゃがれた声で言った。
「しかし、過去《かこ》に一度だけ覆ったことがありますが……」
ハーマイニアはそれだけ言うと、立ち去っていった。その姿《すがた》は濃い霧のヴェールにはばまれてすぐに見えなくなった。
「なんなんだよ。覆るとか、覆らないとか。ヴィクトリカ……わぁっ!? 君、どうしたの?」
ぶつぶつ文句《もんく》を言っていた一弥は、かたわらの彼女を見下ろして驚《おどろ》いた。
ヴィクトリカは、かなり不機嫌《ふきげん》そうにほっぺたをふくらましていた。栗鼠《りす》が木の実を詰《つ》め込んだような大きなふくらみだった。そして瞳《ひとみ》には、いっぱいに涙《なみだ》がたまっていた。
(この顔は……よっぽどいやなことを言われたんだろうなぁ……)
館《やかた》に向かって歩きだしながら、一弥はヴィクトリカに聞いた。
「君、いったいなにを聞いたのさ?」
「……君に関係あるかね?」
ヴィクトリカの答えは喧嘩腰《けんかごし》だった。相変わらず、すこぶる機嫌が悪いらしい。一弥はいい加減《かげん》腹《はら》を立てて、
「……そりゃ、ないけどさ」
自分もなにを聞いたのか聞かれたら困《こま》ることを思い出して、一弥は黙《だま》った。
(もしかしたらヴィクトリカは、人には言えないような、とても深刻《しんこく》なことを質問したのかもしれない……。それなら無理に聞いちゃいけないし……)
と、ヴィクトリカがきわめて不機嫌な声で、ぼそっと言った。
「……伸《の》びるか、聞いたのだ」
「伸びるってなにが?」
「背《せ》だ」
「…………背ぇ!?」
一弥は足を止めて、かたわらの彼女を見下ろした。
少年としてはどちらかといえば小柄《こがら》な一弥の胸《むね》の辺りに、彼女の小さな頭がある。十五|歳《さい》という年齢《ねんれい》にしてはずいぶん小柄と言えるだろう。どうやら彼女はそれを気にしていたらしい。
一弥は思わず、失礼にもぷっと吹《ふ》き出しそうになった。
「なんだ、背かぁ……」
心の中だけで(そっか。占いで、もうこれ以上伸びないよって言われたんだ……)と付け足し、かわいそうに思いながらも、ついつい笑い出しそうになった。
さっきまでの怒《いか》りやもやもやした気持ちが、他愛《たあい》もなくどこかに消えていく。一弥は元来、あまりいつまでも思い悩《なや》むほうではないのだ。父や兄たちとすれ違《ちが》ってしまったときのように、本当に傷《きず》ついたとき以外は。
しかし、にこにこし始めた一弥の顔を見上げたヴィクトリカのほうは、他愛もなく笑顔《えがお》に、とはいかないようだった。静かな危険《きけん》な目つきで、一弥を睨《にら》む。
「……久城、君、笑ったな?」
「へっ?」
ヴィクトリカの表情《ひょうじょう》がとつぜん悲しげに滲《にじ》んだ。
「君はいつもそうだ。わたしのことなど……わかっていないのだ。なのに、見透《みす》かしたようなことを簡単《かんたん》に言うのだな、君は」
[#挿絵(img/02_261.jpg)入る]
ヴィクトリカは謎《なぞ》のような言葉を吐《は》いた。
なんだか彼女らしくない言葉だった。声のトーンもいつになく暗く、いまにも泣きそうに沈《しず》み込んでいた。一弥は驚いて聞き返そうとした。
そのとき……。
――ごちん!
ヴィクトリカがレースのついた革靴《かわぐつ》のつま先で、一弥の向こう臑《ずね》を思いっ切り蹴飛《けと》ばした。たいした力ではないのだが、彼女の小さな革靴はとても固くて、一弥は飛び上がった。
「イテーッ!」
ヴィクトリカが一弥を睨んだ。少し涙ぐんでいるようだ。
「おい……ヴィクトリカ? 痛いだろ。こら、痛《いた》いってば。なにするんだよ!」
ヴィクトリカは答えず、先に館の玄関《げんかん》を抜《ぬ》けて、ホールに入っていってしまった……。
彼女を追いかけようとした一弥は、またもや彼をみつけて追いかけてきたブロワ警部《けいぶ》に呼《よ》び止められ、ヴィクトリカのほうを気にしながらも、その場に足止めされてしまった。
「おい久城くん。それで君、うちのその、あれは……帰らないのか? 学園にいてくれないと困る。わたしは困るのだ。君からよく言い聞かせてくれたまえ………………」
「いや、警部……」
一弥が困りながらも、ヴィクトリカがまだ帰らないということと、自分がついているということを主張《しゅちょう》すると、警部はそれを鼻で笑った。
「久城くん、君がついていようがいまいが関係あるかね? 確《たし》かに君はあれと仲がよいようだがね、それは君とあれとのあいだのことに過《す》ぎない」
「……どういうことですか?」
ブロワ警部は目を細め、一弥を見下ろした。
「あれは外に出てはいけないのだ……。コルデリア・ギャロは先の世界大戦でしてはいけないことをした。あれは普通《ふつう》の人間ではない。危険《きけん》なのだ。君はまだそのことを知らないのだよ、久城くん……」
警部の顔には嫌悪《けんお》や怖《おそ》れといった表情が浮《う》かんでいた。一弥は黙って警部の顔を見上げていた。なにかを質問《しつもん》したかったけれど、なにを聞けばいいのかわからなかった。ただ自分はヴィクトリカのことをなにも知らないのだという気がしてきて、そう思うとともに、悲しみや怒りがこみあげてきた。
ブロワ警部は続けた。
「とにかく、あれはひとまず聖《せい》マルグリット学園に戻《もど》らなくてはいけないのだ。そういう約束で学園への入学を決めたのだからな。後のことはおそらく……父が決める」
「父って、ブロワ侯爵《こうしゃく》ですか……?」
「そうだ……! あれと、それからわたしも、謗《そし》りを受けることだろう。あれの監督《かんとく》は、一族の中でわたしの義務《ぎむ》とされていたのだからな……」
一弥はわけがわからず、首を振《ふ》った。
もめている二人に向かって、霧《きり》の中から近づいてくる人影《ひとかげ》があった。一弥がその大きな足音に気づいて振り返る。警部も遅《おく》れてそちらをじろりと見た。
濃《こ》い霧をかき分けて近づいてきたのは、アンブローズだった。聖堂から早足で歩いてきて、二人に気づくと足を止める。
そうして見ると彼は、霧の奥《おく》から迷《まよ》い出てきた大昔の人間のようだった。ごわごわと毛羽だった毛織《けおり》のシャツはあまりに古めかしく、革のベストも膝《ひざ》までのキュロットも、大きな音を立てる先の尖《とが》った木靴も、中世に生きた農民《のうみん》が幽霊《ゆうれい》となって迷い出てきたようだ。
しかし彼の顔は、金色の長い髪《かみ》と緑色の瞳《ひとみ》、少女のようにも見える薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》、そしてなによりも表情が好奇心《こうきしん》に生き生きと輝《かがや》いており、まだ少年から青年となってまもない若者《わかもの》に特有の、若々しい魅力《みりょく》にあふれていた。
彼は一弥に笑顔《えがお》を向けてから、新しい客人に気づいた。礼儀《れいぎ》正しく、
「見張《みは》りの者から連絡《れんらく》を受けました。新しい客人が、こら、れた、と…………?」
次第《しだい》に声が途切《とぎ》れがちになり、アンブローズの輝く瞳はまっすぐに、グレヴィールの貴族《きぞく》らしい気取った顔つきの上にある、ドリルの先のようなものに注がれた。
アンブローズの本質にある、無邪気《むじゃき》な子供《こども》らしさの名残《なごり》が顔を出したらしく、彼は村長の助手という立場をたちまち忘《わす》れて、新しい客人を好奇心をむきだしにして眺《なが》めた。それから急に、まさに子供のように質問|責《ぜ》めにし始めた。
「お客人、そのヘアスタイルは若者の流行ですか? なにをイメージしているのでしょう? それからシャツは……絹《きぬ》ですね。男性《だんせい》も絹のシャツを着るのですか? それから袖口《そでぐち》の銀色に光るものは……? 釦《ボタン》の代わりなのですね。きれいだなぁ……銀製《ぎんせい》ですか? それから……」
「……アンブローズ!」
霧の奥深くから険《けわ》しい声がかけられた。
アンブローズははっと我《われ》に返り、口を閉《と》じた。質問責めにあったブロワ警部のほうは、まんざらでもない様子で自分のファッションについて語ろうとしていたが、霧の向こうから現《あらわ》れた中世の僧《そう》のような老人の姿《すがた》に驚《おどろ》いて、口を閉じた。
一弥の小柄《こがら》な体に隠《かく》れ、後ろからささやきかける。
「……誰だね?」
「村長です」
セルジウスは怒《いか》りに震《ふる》え、髭《ひげ》も逆立《さかだ》つほどの形相で若い助手を睨《にら》みつけていた。アンブローズはしまったというように唇《くちびる》を噛《か》み、頭を深く垂《た》れている。
「アンブローズ……。おまえはまだ、そのようなことに興味《きょうみ》をもっておるのかね? おまえはつぎの村長として村を守らなければならない人間だというのに。このわしが、見込みのある青年だと推《お》してやったというのに」
「はっ……」
「外の世界から客人がくると、おまえはそわそわと浮き立つ。まだ子供だったときもそうだった。ある日とつぜんブライアン・ロスコーと名乗る子孫《しそん》が訪《たず》ねてきて、村にしばらく滞在《たいざい》し、莫大《ばくだい》な富《とみ》で村に電気を引いたとき。あのときもおまえはブライアンになつき、一日中、町の話をしてくれとねだった。愚《おろ》かなる好奇心。ブライアンが去った後は何か月も、おまえは櫓《やぐら》に上り、山の向こうを眺めてばかりいた。立派《りっぱ》な青年となったいまも、おまえは愚かな子供であったときと、少しも変わっていないというのかね?」
「申しわけありません……」
アンブローズがますます頭を垂れた。
「それから、アンブローズ……髪がほどけかかっているぞ。きちんと固く結ぶのだ。髪につられて心があやふやになるのを防《ふせ》ぐためにな」
アンブローズはあわてて髪に手をやった。そう乱《みだ》れているようには見えなかったが、金髪《きんぱつ》が二筋《ふたすじ》ほどほどけて首にふわりとかかっていた。
しばらくセルジウスは髪を結び直す若者を睨みつけていたが、やがて視線《しせん》を、一弥の後ろに隠れているおかしな洒落《しゃれ》者の男に向けた。
「あなたは?」
アンブローズが、新しい客人がきたのだと告げた。一弥が続けて、ヴィクトリカの腹違《はらちが》いの兄なのだというと、セルジウスはかすかに眉《まゆ》をひそめた。
ブロワ警部《けいぶ》が胸《むね》を張《は》って挨拶《あいさつ》をした。
「グレヴィール・ド・ブロワ。職業《しょくぎょう》は名警部です……。いや、冗談《じょうだん》です、が………………どうしました?」
ブロワ警部の職業を聞いた途端《とたん》、セルジウスの表情《ひょうじょう》が変わった。
「警部なのかね……?」
「はぁ。あの、なにか?」
「それならば……」
セルジウスはまっすぐにブロワ警部をみつめた。
「ぜひとも、解決《かいけつ》してもらいたい事件《じけん》がある」
――灰色《はいいろ》の館《やかた》の一階にあるダイニングルーム。
大理石のマントルピース。黒光りする鏡|板《ばん》の壁《かべ》の四隅《よすみ》に、ガラス細工の壁灯《へきとう》がかけられている。壁には絵画が飾《かざ》られていて、それはどうやら、この村の風景を描《えが》いたものであるらしい。
豪華《ごうか》な部屋は、やはりなぜか息苦しかった。天井《てんじょう》が低く、じっとしていると少しずつ押《お》しつぶされていくような気がしてしまう。一弥はため息をついて、となりに座《すわ》るブロワ警部の様子をうかがった。
一弥とブロワ警部は、セルジウスに連れられて、有無《うむ》を言わさず部屋に通されていた。つぎつぎと村の重鎮《じゅうちん》らしい老人がやってきては、席に着く。一弥とブロワ警部は隅の席に小さくなっていた。
ハーマイニアが足音一つ立てずに入ってきた。古いがよく磨《みが》かれた銀食器を抱《かか》えている。それぞれにお茶やブランデー、葡萄酒《ぶどうしゅ》などが給仕《きゅうじ》されていく。
セルジウスはブロワ警部に向かって、つい数時間前に起こった、〈冬の男〉の張《は》りぼてが人間に変わって焼け死んだ事件を説明していた。
「……つまり、死んだアランという男は、事件の直前に別の場所を歩いているところを目撃《もくげき》されているのです。ハシバミの実を娘《むすめ》たちに投げつけられて、痛《いた》そうに退散《たいさん》していった……。しかしその後、アンブローズが人間の形をした張りぼての乗った山車《だし》に火をつけると、いつのまにか張りぼてとアランがすり替《か》わっていて、彼は炎《ほのお》に巻《ま》かれて死んでしまった……」
「はぁ」
警部は不安そうに足踏《あしぶ》みしながら、話を聞いていた。
「警察の方なら、好都合というものです。この事件の謎《なぞ》が解《と》けないままでは、わたしどもとしても……」
「……おい」
警部が一弥の膝《ひざ》をつついた。
「……なんですか?」
「あれはどこだ?」
「警部の頭のいい妹のヴィクトリカなら、多分自分の部屋ですよ」
「呼《よ》んできてくれたまえ、君」
一弥は腹《はら》を立てて、警部にささやいた。
「またヴィクトリカの知恵《ちえ》を借りておいて、自分の手柄《てがら》にするつもりでしょう? それなら自分から、彼女に力を貸《か》してくれと頼《たの》むべきです。あなたのやることには、いつも筋というものが通っていないんです」
ブロワ警部は、一弥の顔を不思議な目つきで見返した。その顔が少しずつ、なぜか悔《くや》しそうに歪《ゆが》んだ。そして吐《は》きだすように、
「……ぜったいにいやだ!」
「なんでですか?」
「わたしが頼むのと君が頼むのでは、違うのだ。結果がぜんぜん違うのだよ。久城くん、君自身は気づいていないが、君の受け取っている恩恵《おんけい》は、悪徳《あくとく》高利貸しからただでお金をざくざくもらい続けるような、奇特《きとく》で不思議すぎるものなのだ」
「……なにを言ってるんですか?」
「いいから呼んでこい! くれぐれも、君があれに頼むんだぞ、久城くん」
「警部……っ!」
そうは言っても、彼女を一人にしておくのは、一弥としても不安だった。一弥はそっと立ち上がって、ダイニングルームを出た。
豪奢《ごうしゃ》な造《つく》りだが、やはり天井が低く圧迫《あっぱく》感のある廊下《ろうか》を、一人で歩く。
青銅《せいどう》のてすりがついた大階段《だいかいだん》を上がり、ヴィクトリカの部屋の扉《とびら》をノックする。すぐに扉が開いて、ヴィクトリカのかなり不機嫌《ふきげん》そうな顔が覗《のぞ》いた。
「……なんだね?」
「心配だから、見にきた」
「わたしは無事だ。久城なんか知らない。放っておいてくれ」
「君ねぇ!……ちぇっ、わかったよ。もううるさく言わないよ。……それから、ダイニングルームで君のお兄さんが助けを呼んでるけど」
「助けだと?」
ヴィクトリカは大きな瞳《ひとみ》を瞬《まばた》きさせた。
「村の人たちに囲まれて〈冬の男〉の事件を解決してくれと言われてるんだけど、ぜんぜんわからないって遠い目をして、君を呼んでこいってぼくをせっついていたよ。ぼくから君に頼めってさ」
「相変わらずばかな男だな」
「残念ながら、ぼくじゃなくて君の兄貴《あにき》なんだけどね。……どうする?」
ヴィクトリカは少しだけ首をかしげて、考えこむような顔をした。それからうなずいて、
「よし、行こう」
部屋からちょこちょこと出てきた。
一弥はほかの部屋のほうをちらりと見て、
「ほかの人たちは?」
「……ミルドレッドは部屋にいるようだ。どうやら彼女はあまり祭に関心がないらしいな。男二人はさきほどまでどちらかの部屋で騒《さわ》いでいたが、いまは外に出かけたようだ。どうやら友人の死を傷《いた》むというよりは、村人を恨《うら》んでいるようだったな。彼らは、アランは村人を侮辱《ぶじょく》したために、彼らの手によっておそろしい方法で殺されたのだと思っているようだった」
ヴィクトリカはそれだけ言うと先に廊下を歩きだした。一弥もあわてて後を追った。
パニエでふっくらふくらんだスカートの裾《すそ》からフリンジが覗いて、歩くたびに揺《ゆ》れているのを、一弥は彼女の後ろを歩きながらぼんやりとみつめていた。レースのついた革靴《かわぐつ》を履《は》いた足はとても小さくて、子供《こども》用の靴なのではないかと疑《うたが》いたくなるほどだ。ヴィクトリカの小さな体は、レースやパニエやベルベットでふくらんで、歩くたびにふかふかと揺れていた。
――二人がダイニングルームに戻《もど》ると、ブロワ警部《けいぶ》以外の全員が、なぜか椅子《いす》から立ち上がっていた。大きな窓《まど》が開け放たれ、外の暗い森が部屋まで迫《せま》ってくるようだった。黒くもつれあった枝《えだ》とみっしりと生えた葉が、光が入り込《こ》めない暗い森を作っていた。
セルジウスが猟銃《りょうじゅう》を構《かま》えていた。
一弥が驚《おどろ》いて、
「なにしてるんですか!?」
「……狼《おおかみ》だ」
セルジウスは短く答えた。
一弥は彼が睨《にら》みつけている森の奥《おく》をみつめたが、そこにはなにも見えなかった。昨日この村に着いたときも、セルジウスはかすかな音に反応《はんのう》し、狼がいると言って森に発砲《はっぽう》していたが……。
――ぴしり!
森の中から、何者かが枝に当たって折ったような乾《かわ》いた音が響《ひび》いた。
「やはりな!」
セルジウスがつぶやき、止める間もなく森に向かって発砲する。
――乾いた銃声が響いた。
となりでヴィクトリカが息を呑んだ。「いけない……!」とかすかなつぶやきが洩《も》れた。となりを見ると、彼女は真珠《しんじゅ》色の小さな歯を噛《か》みしめていた。それから窓に向かって走る。
セルジウスがなおも撃《う》とうとするのを、止める。
「やめたまえ!」
同時に、外からうめき声が聞こえてきた。セルジウスが猟銃を下ろして、つぶやいた。
「仕留《しと》めたか……」
「ちがう! あれは人間の声だ!」
ヴィクトリカの言葉の意味がわからず、セルジウスはただ彼女をみつめた。
「さっき……あの二人は散歩に行こうと言っていたのだ。森のほうに……!?」
ヴィクトリカは叫《さけ》ぶと、身をひるがえしてダイニングルームを飛び出した。ちょうど廊下にいたらしいアンブローズが、驚いたように彼女を振《ふ》り返った。
一弥たちもヴィクトリカの後を追った。玄関《げんかん》を飛び出して、ちょうどダイニングルームの窓の外にある森に辿《たど》り着く。
ヴィクトリカは黒い枝をかき分け、森に入っていった。せっかくのドレスは枝に引っかかったり土にまみれたりして、どんどん様子を変えていった。
一弥は必死でヴィクトリカの後を追った。
森の外から……。
切れ切れにおかしな叫び声が響いていた。
うっ、うっ、うっ……。
人間が泣き声を押し殺しているようにも、獣《けもの》が短く鳴いているようにも聞こえる。
うぅっ……うぅぅっ…………。
どこから聞こえてくるのかわからず、一弥は思わず天を仰《あお》いだ。空はまるで見えず、黒い細い枝と生《お》い茂《しげ》る大きな葉が風に不気味にそよいでいた。
狼《おおかみ》が出る……。
野生《やせい》の狼が出る……この森………………。
「ヴィクトリカ!!」
一弥は歯を食いしばって、彼女の後を追った。
不気味な低い鳴き声が、背後《はいご》から近づいてくる。
やがてヴィクトリカが足を止めた。
鳴き声がさらに大きくなり、天高くに甲高《かんだか》く突《つ》き刺《さ》さる。
「ヴィクトリカ……?」
一弥の声に、ゆっくりとヴィクトリカが振り返った。
困《こま》ったような顔をしている。
「……二人目だ、久城」
「えっ?」
「ラウールも殺されたようだぞ」
一弥は走り、ヴィクトリカに追いついた。そして彼女が指差している地面を見た。
そこには……胸《むね》から血を流して倒《たお》れているラウールがいた。
瞳《ひとみ》は見開かれ、呆然《ぼうぜん》と虚空《こくう》を見上げている。すでに事切れているのは一目見てわかった。
泣き声の主はデリクだった。森の外から、一弥たちを追って走ってきていた。甲高い奇妙《きみょう》な声を上げて泣きながら、彼は立ち止まった。倒れているラウールに気づき、さらに声を大きくした。
「二人で散歩してたんだ。ラウールがおもしろがって、どんどん森の奥に入っていった。そしたら、どこからか銃声がして……続けてラウールの声がした。短くて……悲鳴みたいだった。撃《う》たれたんだってわかった。だけど……どうしてだ? どうして…………死んじまってるじゃないか! どうして撃たれたんだ?」
「狼と間違《まちが》えられたんです」
デリクは、言われた意味がわからないというようにぽかんと口を開けた。
「……狼?」
村人たちもやってきた。惨状《さんじょう》に気づいて、皆《みな》押し黙《だま》る。
「昨日デリクさんも、村長が森に発砲《はっぽう》したところを見たでしょう? 森の奥《おく》から音がしたから、狼だと思って……」
アンブローズが小声で付け足した。
「村人は森には入らないんです。だから、まさか人間だとは思わなかったのだと……」
「なに言ってるんだ? 死んだんだぞ? 人を撃って死なせたんだぞ? 俺《おれ》だって、もしかしたら撃たれていたかもしれないんだ。おまえら……わかってるのか!?」
デリクが叫んだ。キンキンと耳に響《ひび》く声だった。村人は顔を見合わせて黙り込んだ。
――ヴィクトリカがふっとしゃがんだ。一弥は、なにをしているのだろうと彼女の手元を見た。
ヴィクトリカは地面からなにかを拾い上げた。一弥の視線《しせん》に気づくと、ちらりとだけそれを見せる。だが一弥には意味がわからなかった。ヴィクトリカだけが納得《なっとく》したように瞳を細め、うなずいている。
ヴィクトリカが拾い上げたもの、それは……。
固いハシバミの実だった。
「この森はハシバミの森ではないのだよ、久城。つまり、あの場所に実が落ちているはずはないのだ」
ヴィクトリカは面倒《めんどう》くさそうに小声で説明しながら、森を出ようと歩いていた。小走りについていきながら、一弥は、
「つまり、どういうことだよ?」
「ハシバミの実は、死んだアランに投げつけられたものだ」
「うん……」
「ところで、ドレスデン皿|泥棒《どろぼう》のミルドレッドはどこだ?」
急にヴィクトリカが言い出したので、一弥は驚《おどろ》いて、
「し、知らないよ……。部屋じゃないかな」
「ふむ……」
ヴィクトリカは急にふわぁ〜とあくびをした。
――しばらくのあいだ村は混乱《こんらん》していたが、村人たちは祭を続けていた。アンブローズは二人をみつけると、セルジウスが「わしが撃ったのは狼で、人間ではない」と言い張《は》っているのだとため息をついた。
ヴィクトリカはしばらく黙ってアンブローズの顔をみつめていた。不思議な表情《ひょうじょう》だった。やがて彼女は低い声で、
「君自身はどう思うのだね?」
「ぼく、ですか……」
アンブローズは口を開いたが、答えることをおそれるように閉《と》じた。それから迷《まよ》い、しばらく黙っていたかと思うと、とつぜん堰《せき》を切ったように話しだした。
「ぼくにはなんとも言えません。誰《だれ》もラウールさんが倒れたところを見ていないからです。ただ、ぼくがセルジウス様の立場だったなら、もしかすると自分が人を殺《あや》めてしまったのではないかと疑うのではないかと思います。誰も狼を見ていないのもまた事実ですから。ぜったいにちがうと言うのなら、証《あかし》を立てねば」
アンブローズは少し迷い、ヴィクトリカをじっとみつめると、
「罪《つみ》があることにもないことにも、証は必要です」
その言葉はセルジウスのことだけではなく、コルデリア・ギャロの罪に対しても向けられているようだった。ヴィクトリカは静かにうなずいた。
「……その通りだ」
二人のあいだに、共感の空気が生まれたように見えた。
「ところで、アンブローズ。君は夏至《げし》祭を無事に終わらせたいのだね? そして、諸悪《しょあく》の根元を退治《たいじ》したいのだね?」
「もちろん、そうですが……?」
「いま〈名もなき村〉には混沌《カオス》が渦巻《うずま》いている。その原因《げんいん》となる欠片《かけら》たちすべてを、わたしは握《にぎ》っている。欠片を再構成《さいこうせい》させれば、謎《なぞ》は解《と》ける。たいがいの場合わたしは退屈《たいくつ》しのぎにそれを玩《もてあそ》ぶのだが、自分以外の人間にもわかるよう言語化してやることはきわめて少ない。面倒くさいからだよ、君。大人がきわめて複雑《ふくざつ》な問題について子供《こども》に説明を求められるようなものだ。面倒なので言語化してやることは滅多《めった》にない。わたしに毎回それをさせることができる人間は、ここにいる久城ぐらいのものだ」
「……そうなの?」
一弥は少し驚いて聞き返した。ヴィクトリカはそっぽを向いて無視した。
「君、ぼくが頼《たの》むからいつも説明してくれるの? 普段《ふだん》はしないんだ……。そっかぁ……!」
「久城、うるさい」
ヴィクトリカが不機嫌《ふきげん》そうに低い声で言った。一弥はあわてて口をつぐんだ。
「ご、ごめん……」
アンブローズが戸惑《とまど》ったように、
「あの、つまりどういうことですか?」
「わたしは犯人《はんにん》を知っている」
「……えぇっ!?」
アンブローズが聞き返した。
「どういうことですか? ラウールさんを撃《う》ち殺したのは、セルジウス様では……」
「……ちがうと言ったら、君はどうするかね?」
「しかし、確《たし》かにあのとき、セルジウス様が猟銃《りょうじゅう》を撃ったのだと……」
「確かに彼は猟銃を撃ったが、ラウールに命中した弾《たま》がそれだと、なぜわかるのだね?」
「そ、それは……」
アンブローズは黙《だま》り込《こ》んだ。
彼の顔が急に無表情に変わった。なにを考えているのかわからない不思議な顔つきで、地面をきつく睨《にら》みつけて黙り込んでいる。
「アンブローズ、君は混沌《カオス》の再構成を言語化してほしいかね?」
「……ええと?」
一弥が助け船を出した。
「犯人を教えてほしいかってことですよ」
「そっか……。ええ、もちろんです」
アンブローズの声は固い。
「では、協力してくれたまえ」
「協力? なにを?」
「わたしがアランとラウールを殺した犯人をみつけてやる。その代わり君は、わたしが持っている二十年前の混沌《カオス》の欠片を再構成させる作業を手伝いたまえ」
「二十年前と言うと、シオドア様の事件《じけん》のことですか………………?」
「そうだ。犯人は別にいる。しかしその証明《しょうめい》には、君たちの協力が必要だ」
ぼんやりと聞いていた一弥は、不思議に思って聞き返した。
「……君たちって?」
「アンブローズと、久城。君たちのだ」
一弥とアンブローズは顔を見合わせた。
ヴィクトリカの瞳《ひとみ》がひんやりと冷たく輝《かがや》いた。瞳の奥《おく》で緑色の炎《ほのお》が激《はげ》しく燃《も》えていた。
「わたしは混沌《カオス》の再構成を取引に使うことがある。わたしが謎を解いてやる代わりに、相応《そうおう》の見返りを要求するのだ」
一弥はふと彼女との初対面を思い出した。ヴィクトリカは、一弥が巻き込まれたとある事件の真相を教える代わりに、めずらしい食べ物を持ってこいと要求したのだった。そのことを言うと、ヴィクトリカはくすりと笑った。
「あんなものは見返りの内に入らない。わたしが要求するのはたいがいの場合、もっと大きく、痛《いた》みをともなう犠牲《ぎせい》なのだよ。それはごく幼《おさな》い頃《ころ》からのわたしの習性《しゅうせい》なのだ。なるべく悪魔《あくま》的な要求になるよう、日々心がけていたものだ。退屈しのぎにな。そういうわけで、久城」
ヴィクトリカはなぜか思い出し笑いをした。ずいぶん楽しそうな顔だ。
「グレヴィールはわたしを頼《たよ》るくせに、とても嫌《きら》っているのだよ」
「……なるほどね」
一弥は彼ら兄妹のことが少しわかった気がして、うなずいた。さきほどのブロワ警部《けいぶ》との妙《みょう》な会話のことを思い出して、
「そういやさっき、悪徳《あくとく》高利|貸《が》しがどうのって言っていたよ」
「それはおそらく、わたしのことだと推測《すいそく》されるが」
「怒《おこ》ってたみたいだよ」
ヴィクトリカは興味《きょうみ》なさそうに肩をすくめた。
夕刻《ゆうこく》――。
夏至《げし》祭は進み、村人たちの祖先《そせん》が聖堂《せいどう》を通って帰ってくるとされる時間が近づいていた。
聖堂にいた僧《そう》や見張《みは》りの若者《わかもの》も、一人また一人と外に出てきて、広場に集まった。聖堂を無人にして、先祖があの世から還《かえ》ってくるのを待つのだ。先祖が戻《もど》ってきた後は、夜、豊穣《ほうじょう》を見せる最後の祭が始まる。
空が暗くなるにつれ、広場には大きな松明《たいまつ》が何本も立てられた。昼間よりも明るく感じるほどに、古い石畳《いしだたみ》や、中世の服装《ふくそう》をした村人たちを照らし出していた。
ヴィクトリカは一弥とアンブローズ、それに彼が集めた村の若者数人を伴《ともな》い、聖堂の、花びらが撒《ま》かれた聖歌隊席の陰《かげ》に隠《かく》れていた。
聖堂が無人になる、その時間――。
一弥はヴィクトリカたちといっしょに、息を潜《ひそ》ませ、体を縮《ちぢ》めて隠れていた。
聖堂はしんと静まり返り、遠く広場からの松明がぱちぱちと爆《は》ぜる音までがよく聞こえてくる。空気は湿《しめ》って、外よりもずいぶん冷えていた。撒かれた花びらから甘《あま》ったるい匂《にお》いが立ち上ってくる。
昼間でさえ暗く沈《しず》んでいた聖堂は、薔薇窓《ばらまど》から降《ふ》り落ちる丸い光も青白い月光になり、ますます暗く、寒々しく感じられた。広場の松明から橙色《だいだいいろ》の灯《あか》りが届《とど》いて、ステンドグラス越《ご》しに床《ゆか》をかすかに照らしている。目が慣《な》れてくるとようやく、お互《たが》いの顔が見えるようになった。
ヴィクトリカが小さくくしゅんとくしゃみをした。一弥もつられてくしゃみをしそうになり、我慢《がまん》する。
小声でヴィクトリカに聞く。
「ねぇ……どうしてここに隠れてるんだよ?」
「犯人《はんにん》がここにくるからだ」
「……どういうこと?」
「聖堂にはいつも誰かしら人間がいて、無人になるのはこの時間……祖先の霊《れい》が通り抜《ぬ》けると言われているいまだけだ。それならば犯人は、この時間を狙《ねら》って盗《ぬす》みにくるにちがいない」
「……盗む?」
アンブローズが小声で聞き返した。
「いったいなにをです? この村に、盗まれるような価値《かち》のあるものなど……」
ヴィクトリカが固い声で言った。
「君にはわからないだろうが、アンブローズ。古いからこそ値打《ねう》ちがあるということもだね、あるのだよ。人間とは、飽《あ》くことのない欲望《よくぼう》で新しい刺激《しげき》を追い求める一方で、希少価値というものを尊《とうと》ぶ奇妙《きみょう》な生き物であるのだ。昔に造《つく》られたものはいまのものとは異《こと》なり、また時が経《た》つにつれ数が減《へ》る。その分、好事家《こうずか》は金貨をいくら積んででもほしがるというわけだ。久城、ほら、君も覚えているだろう。盗まれたドレスデン皿のことを」
一弥はうなずいた。
バザーに並《なら》んでいたあの皿をまざまざと思い出す。とても古くていまにも壊《こわ》れそうで、でもどこか心惹《こころひ》かれる不思議な皿。売り子のミルドレッドに値段《ねだん》を聞くと、驚《おどろ》くほどに高かった。あのときミルドレッドは、古いからだよ、と得意そうに言ったのだ……。
「この村は、見る者にとっては宝《たから》の山だ。好事家が金貨をいくら積んでもほしがる、古くて価値のあるものがたくさん残っている。わたしたちが泊《と》まった部屋の古びたチェストも、ヒビの入ったマリア像《ぞう》も、食事用の古い銀食器も……。それから………………」
ヴィクトリカはシッとささやいた。
聖堂の重たい木の扉《とびら》が音もなく開いた。暗闇《くらやみ》に滑《すべ》り込むように、何者かが入ってきた。床に敷《し》きつめられた石のタイルが、密《ひそ》やかな足音を響《ひび》かせる。
足音を立てまいとそうっと歩く姿《すがた》が、広場の松明の明かりで細く長く、聖堂の石壁《せきへき》の天井《てんじょう》いっぱいまで延《の》びた。影法師《かげぼうし》はユラユラと不吉《ふきつ》に揺《ゆ》らめき、少しずつ少しずつ近づいてくる。
一弥たちの潜む聖歌隊席の横を通り過《す》ぎるとき、その人影の顔を、薔薇窓から降り落ちる丸く分断《ぶんだん》された月明かりが一瞬《いっしゅん》照らした。
薄笑《うすわら》いを浮《う》かべる、青白い顔を……。
一弥は目をこらして、薄暗がりの中に浮き上がる犯人の顔を、見た……。
「……まさか! あの人が!?」
「覚えているかね、久城」
ヴィクトリカがささやいた。
「聖水に沈められた古い壷《つぼ》の話を」
一弥は少し考え、うなずいた。
……ミルドレッドが……昨夜、怒《いか》りに燃《も》えながら自分たちに語ったことを。
若者たちがふざけながら聖堂に入り、あろうことか村人が大事にしている古い壷を、聖水の入った大瓶《おおがめ》に落としたのだと。三人が三人とも同じことをして、村人はカンカンに怒った。彼らは新しい物の価値ばかりを追い求めて、本当の物の価値を知らないのだと……。
ヴィクトリカは首を振《ふ》った。
「……それは逆《ぎゃく》だ。彼らは……あの三人の若者《わかもの》は、誰よりも価値をわかっていたのだよ。だからこそ、いちばん初めにこの村に入ってきたとき、聖堂《せいどう》の古めかしい尖塔《せんとう》と薔薇窓をみつけるなり叫《さけ》び声を上げ、三人|揃《そろ》って敬虔《けいけん》な表情《ひょうじょう》を浮かべ、祈《いの》るようなポーズでみとれたのだ。あれこそが彼らの本心だ。その後の腕《うで》時計やラジオの自慢《じまん》や、村を古くさいと侮辱《ぶじょく》する言葉は、すべてが嘘《うそ》だ。死んだアランもラウールも、そしてデリクも、誰よりも古いものに詳《くわ》しく、また村に残る中世のままの夏至《げし》祭に、内心感動で打ち震《ふる》えていたはずなのだよ」
「それじゃ、なぜあんなことばかり……!」
アンブローズが小声で叫んだ。
答える代わりに、ヴィクトリカはつっと片手《かたて》を上げて影法師の主を指差した。
「……彼らが盗人だったからだ」
一弥たちは小声でアッと叫んだ。
影の主は……。
聖堂の奥《おく》にある礼拝堂《れいはいどう》に足を踏み入れていた。暗闇の中で慎重《しんちょう》に手探《てさぐ》りで手を伸ばし、いままさに、古い壷を両手で持ち上げていた。
ヴィクトリカがつぶやく。
「彼らは壷を聖水に落とした。もちろんふざけていたわけではなく、真剣《しんけん》そのものだったのだよ。彼らは本物の骨董《こっとう》を捜《さが》していたのだ。新聞広告を見てわざわざやってきたのも、伝説の灰色狼《はいいろおおかみ》の隠《かく》れ里なら、価値のある骨董がたくさんあるのではと見込んでのことだ。壷を水に落としたのは、水に浮くか沈《しず》むかを確《たし》かめるためだ。本物なら水に沈むが、メッキの偽物《にせもの》なら水に浮く。壷は沈んだ。本物だったのだ。だからこうして……」
ヴィクトリカは立ち上がった。
影法師の主に声をかける。
「そこまでだよ――、デリク」
びくん、と男が肩《かた》を震わせた。
古い壷を大切そうに抱《だ》きしめ、息を荒《あら》げている。薄暗がりの中にとつぜん現《あらわ》れた小さなヴィクトリカを睨《にら》みつけている。その顔には、ついさっき友人の死に涙《なみだ》していた悲しそうな表情とはまったく別人のような、冷え切った無表情が浮かんでいた。
ヴィクトリカを睨みつけると、そのまま走りだした。聖歌隊席の横を通り過《す》ぎて、重たい木の扉に向かおうとする。一弥が聖歌隊席から花びらを撒《ま》き散らしながら飛び出した。走り込んできたデリクに体当たりして止める。壷を大切そうに庇《かば》っているため、デリクの動きは鈍《にぶ》かった。おそろしい表情で一弥を睨むと、振り切ってまた走ろうとする。その足を掴《つか》んで一弥は強く引いた。デリクは頭から冷たい石タイルの床《ゆか》に叩《たた》きつけられ、うめき声を上げた。
続いて、呆然《ぼうぜん》としていたアンブローズと若者たちも飛び出し、デリクを押《お》さえつけた。つぎつぎと色とりどりの花びらが舞《ま》った。逃《に》げられないように数人で囲み、押さえつける。若者の一人が、村人を呼《よ》ぶために走り出した。
デリクは誰《だれ》にも渡《わた》すまいとして古い壷を抱きしめている。
「これは俺《おれ》のだ。俺のだ。俺がみつけたんだ。俺が……麓《ふもと》の町まで持って帰って、自動車で……持っていくんだ。俺が……アランでもラウールでもない。俺が……!」
デリクは甲高《かんだか》い声でつぶやくとすすりあげた。まるでわがままな子供《こども》のような様子だった。
彼を見下ろしていた一弥は、ころり……と、かすかに乾《かわ》いた音を立てて、デリクの洋服から転がったものに気づいた。しゃがみこんでそれを拾う。
――ハシバミの実だった。
ヴィクトリカに見せると、彼女は満足したようにうなずいて、
「そうだ。ハシバミの実だよ、久城。わかったかね?」
「……ううん、ぜんぜん」
一弥は首を振った。
石造《いしづく》りの古い聖堂に、村人たちが集まってきていた。
捕《と》らえられたデリクを、小柄《こがら》ながら屈強《くっきょう》な村の若者たちが取り押さえていた。村人は少し距離《きょり》を置いて、濁《にご》った不気味な瞳《ひとみ》でデリクを見下ろしていた。
聖堂は冷えて湿《しめ》った空気に覆《おお》われ、薔薇窓《ばらまど》から、暮《く》れていく空にかかった月の青白い光がきらめいて石の床にこぼれ落ちていた。
人気がなくなった広場で、大きな松明《たいまつ》がまだ燃《も》えさかっている。ぱちぱちと炎《ほのお》が爆《は》ぜる音が遠く聞こえてくる。
足音が近づいてきた。
重たい木の扉《とびら》が開く音がした。
アンブローズに付き添《そ》われて、セルジウスが聖堂に現れた。石タイルがセルジウスの足音を重く響《ひび》かせた。
と、いつのまにかやってきていたブロワ警部《けいぶ》が、まるで自分が捕らえたのだと言わんばかりに大股《おおまた》でデリクに近づくと、
「話は麓の町でゆっくり聞こう。わたしの権限《けんげん》で君を逮捕《たいほ》する。さぁ、立ちたまえ」
「……警部、待ちたまえ」
セルジウスが細くしわがれた……しかし、有無《うむ》を言わせぬ声で言った。
警部が振り返る。
その横顔に、アンブローズが手にしている小さな松明の炎が映《は》えて鮮《あざ》やかな橙色《だいだいいろ》に染《そ》まった。瞳にも炎が映《うつ》りゆらゆらと揺《ゆ》らめいていた。
「説明していただかなくてはな」
「…………」
[#挿絵(img/02_291.jpg)入る]
警部がつっと下がった。
一弥に向かってなにか合図をしている。一弥は警部にあきれたような視線《しせん》を投げかけ、それからヴィクトリカを振《ふ》り返った。
ヴィクトリカは聖歌隊《せいかたい》席からこぼれた花びらだらけの床にしゃがみ込《こ》み、デリクが盗《ぬす》もうとした古い青銅《せいどう》の壷《つぼ》を両腕《りょううで》で抱《かか》え込むようにして、熱心に観察していた。まるで小猫《こねこ》が新しいおもちゃと戯《たわむ》れるような様子で、一弥だけでなくアンブローズもまた、邪魔《じゃま》するのは悪いかなというように少し躊躇《ちゅうちょ》した。しかしアンブローズは気を引き締《し》め、
「……あの、ヴィクトリカさん。解決《かいけつ》してくれるというお約束でしたが」
ヴィクトリカは顔を上げた。
長い金髪《きんぱつ》を揺らし、一弥のほうを振り返る。
「久城、君、わかる範囲《はんい》で説明したまえ」
「…………」
一弥が困《こま》ったように黙《だま》っていると、ヴィクトリカはびっくりして一弥を見上げた。
「久城、君……」
「……わかったよ。中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才《しゅうさい》なんだよ。ヴィクトリカ、言語化して」
「むぅ……」
ヴィクトリカはようやく壷を離《はな》すと立ち上がった。
村人は、彼女が輪の中心に進み出てじろりと見回すとかすかにたじろぎ、それぞれが半歩ほど下がった。気圧《けお》されずにじっとヴィクトリカをみつめ返しているのは、村長のセルジウス、そのかたわらで松明を持つアンブローズ、そしてメイドのハーマイニアの三人だった。
「アランが〈冬の男〉の張《は》りぼてと入れ替《か》わって焼け死んだ事件《じけん》。それからラウールが森の中で野生《やせい》の狼《おおかみ》と間違《まちが》えられて撃《う》たれた事件。これは両方ともデリクの仕業《しわざ》だ」
「しかし、どうやって……」
アンブローズがつぶやいた。
「事件の直前、アランさんが広場を通りかかって、ハシバミの実を投げられて退散《たいさん》したのをぼくたちはみんな見ています。すぐ後で〈夏の軍〉と〈冬の軍〉が戦い、勝利した〈夏の軍〉のぼくが、みずから張りぼてに火をつけた……。とても入れ替わる時間などなかった……」
「アランと張りぼてとが入れ替えられたのは、もっと前だ。朝、広場が無人になったときだ。明け方にわたしたちは、アンブローズ、君から祭の概要《がいよう》を説明された。その後、広場は一度無人になった。そのときデリクはアランを殴《なぐ》るなどして昏倒《こんとう》させ、布《ぬの》でぐるぐる巻《ま》きにして張りぼてと入れ替えたのだ」
「しかし……」
「直前に目撃《もくげき》されたのはアランではない。わたしたちは遠くからその男を見た。アランとデリクは体格《たいかく》が似通《にかよ》っており、服装《ふくそう》は三人とも同じようなものだ。デリクがアランの特徴《とくちょう》である髭《ひげ》と眼鏡《めがね》、帽子《ぼうし》で変装し、アランが通ったと思いこませたのだ」
デリクが顔を上げた。
「……証拠《しょうこ》はない」
「ラウールは背《せ》が高い。アランに化けることは不可能《ふかのう》だ。しかしデリク、君なら同じぐらいの体格だ」
「しかし……」
「それから……」
ヴィクトリカは手のひらに握《にぎ》っていたあるものを取りだしてデリクに見せた。
――ハシバミの実だ。
デリクはしばらく意味がわからないというように首をかしげてヴィクトリカを見上げていたが、やがて青白い顔を、憤怒《ふんぬ》と、それから絶望《ぜつぼう》のようなものに赤黒く染めていった。
「くっ…………くそっ!」
「君の体から、ついさっきこれが転がり落ちた。君がアランに化けていなかったとしたら、どこでどうして、ハシバミの実が洋服についたのだね?」
「…………」
デリクは答えない。
村人たちの後ろに立っていたミルドレッドが、鮮やかな赤い巻き毛を揺らして飛び出してきた。抵抗《ていこう》するデリクを押さえつけて、ズボンの裾《すそ》の折り返しを引っ張る。
――コロン!
また一つ、ハシバミの実が転がり出てきた。
聖堂は湿《しめ》って暗い、おそろしい静寂《せいじゃく》に包まれていた。ステンドグラスを通して射《さ》し込んでくる、広場で燃《も》える松明《たいまつ》の明るい色が、ヴィクトリカと村人たちの顔を不吉《ふきつ》に橙色に染めあげた。
口火を切ったのは、小さなヴィクトリカだった。
「そして、ラウールが撃たれて倒《たお》れていた森にも、ハシバミの実は落ちていた。あの現場《げんば》に、デリク、君がいたということだ」
セルジウスが顔を上げた。
訳《わけ》がわからないというように首を振っている。
「つまりデリクは、あらかじめ森にラウールをおびきだし、撃ち殺した。祭のあいだ、鞭《むち》や太鼓《たいこ》、それに空砲《くうほう》がひっきりなしに響《ひび》いていたから、遠くから銃声《じゅうせい》がしたとしてもだれも気にしなかったことだろう。そしておそらく、セルジウスが通りかかるか、窓《まど》から森の外を見るかしたとき……タイミングを計って森に向かって石を投げ、音を立てたのだろう。セルジウスは例によって野生の狼だと思い、森に向かって発砲した。するとデリクが走り出てきて、森にはラウールがいる、悲鳴を聞いたと騒《さわ》ぐ」
「それでは……」
セルジウスがつぶやいた。
「あの客人を殺したのは……」
「セルジウス、あなたではない」
「なんと……」
セルジウスは金色の髭に覆《おお》われた顔を歪《ゆが》めた。
天を仰《あお》ぐようにしてしばらく黙《だま》り、誰にも聞こえないほどの小声でつぶやいた。
「…………コルデリアの娘《むすめ》に救われるとはな」
ヴィクトリカはなにも答えなかった。
ただセルジウスの顔を、いまにも爆発《ばくはつ》しそうなものをこらえるように歯を食いしばり、見上げていた。
アンブローズがおずおずと言った。
「しかし……動機はいったいなんなのでしょうか? 先ほどの話では、三人の客人は盗人であるとのことでしたが、起こったのは盗みだけでなく、殺人でした……」
「おそらく、仲間|割《わ》れだろう」
ヴィクトリカの言葉に、うつむいていたデリクが顔を上げた。
その顔には、おかしな微笑《びしょう》が張《は》りついていた。
「そうだ……」
「取り分の配分かね?」
「まさか! そんなことでもめるものか!」
デリクは鼻で笑った。
「では、なにかね?」
「俺は物の価値《かち》がわかっているんだ。だから大事にするために盗む。金には困《こま》ってないからな。だけどアランとラウールの目的は、結局、金だった。あいつらは俺の資金《しきん》を元に盗みを続けたくせに、俺を裏切《うらぎ》って、二人で壷《つぼ》を盗んで先に山を降《お》り、俺の自動車で逃《に》げようとしていた。聞いたんだ。夜中に、二人が俺に内緒《ないしょ》で相談しているのを……。壷を手に入れても、俺は売る気がなかった。自分の家に大事に置いておきたかったんだ。なのにあいつらは、コレクターに高く売りつけるつもりで……俺が邪魔《じゃま》で………………」
デリクはぎろりぎろりと村人たちの暗い顔を睨《にら》み回した。
アンブローズが握りしめる松明が、ぱちぱちと音を立てて爆《は》ぜた。
デリクの憤怒に燃える顔に橙色《だいだいいろ》の炎《ほのお》が映《は》え、不気味に赤く染《そ》まった。
「おまえらも同罪《どうざい》だ。時代|遅《おく》れの愚《おろ》か者めらが。この村にどれだけ宝《たから》があるかわかってない。おい、そこのメイド。あんな素晴《すば》らしい中世の銀食器を、食事なんかに使いやがって。坊《ぼう》さんたちも同罪だ。あんな壷を無造作《むぞうさ》に置いておくなんて信じられない。壷も食器もなにもかも、本当の価値をわかっている人間に大切に保管《ほかん》されたほうが、ずっと幸せなんだ。俺は……!」
アンブローズが短く答えた。
「物の幸せとは、使われることなのではないでしょうか」
「……おまえになにがわかる!」
デリクは短く叫《さけ》び、それからうつむいてむせび泣いた。
聖堂《せいどう》の中は、村人たちの重い沈黙《ちんもく》に包まれていた。空気はますます湿り気を帯びて、人々の頬《ほお》をひんやりと撫《な》でていった。月光が強くなり、薔薇窓《ばらまど》の模様《もよう》に合わせた形で、石タイルの床《ゆか》を白々と照らし始める。
やがて、セルジウスが若者《わかもの》たちに告げた。
「連れていけ! この者の処分《しょぶん》はわしが決める」
ブロワ警部《けいぶ》が抗議しようとすると、セルジウスは大声で遮《さえぎ》った。
「ここにはここの掟《おきて》がある。村にいるあいだはそれに従《したが》ってもらう」
「しかし、この村はソヴュール王国の国土です。ソヴュールの法律《ほうりつ》と警察に従ってもらわなくては困る」
「……ここがソヴュールだと?」
セルジウスは背《せ》をそらし、大声で笑った。
しわがれたその声が、聖堂の天井《てんじょう》高く、ステンドグラスのきらめきも越《こ》えて、星の瞬《またた》く夜空高くに響《ひび》き渡《わた》る。
セルジウスの濁《にご》った緑色の瞳《ひとみ》が、ぎろりとブロワ警部を見た。
ブロワ警部は、目に見えないなにかをおそれるようにじりじりと後ずさった。そこにはセルジウスの小柄《こがら》な体だけではなく、見えないなにかがいた。それこそが、麓《ふもと》の町の人々がおそれる人外の存在だった。
セルジウスは笑いながら口を開き、ゆっくりつぶやいた。
「ここは村ではない」
「……はっ?」
「ここがソヴュールだと? 君はなにもわかっておらんのだ。お客人、ここはだね……」
村人たちも誰《だれ》も彼もが聖堂を出ていき、いまやセルジウスとブロワ警部の二人しか残されていなかった。青白い月光が天井から降《ふ》り注ぎ、ブロワ警部の顔はいつもより青ざめて見えた。石タイルの床に散らばった花びらは、しおれて生気をなくしていた。人外の存在――灰色狼《はいいろおおかみ》に命を吸《す》い取られたかのように。
セルジウスは笑い続けていた。
ブロワ警部の顔に疑念《ぎねん》がよぎった。セルジウスの笑いを、この男は狂《くる》っているのではないかと疑《うたが》うように、じっとみつめる。
しかしセルジウスはきわめて楽しそうだった。ブロワ警部にそっとささやき、また笑いだした。
「ここはセイルーンだ[#「ここはセイルーンだ」に傍点]。セイルーン王国なのだよ[#「セイルーン王国なのだよ」に傍点]。わたしも村長ではなく、国王ということだ。我々《われわれ》はそもそも種族がちがうのだよ。……わかるかね、君に?」
広場の松明《たいまつ》は大きく燃《も》えさかり、ぱちぱちと激《はげ》しい音を立てて、夜空高くに炎を揺《ゆ》らめかせていた。村人たちは中断《ちゅうだん》されていた夏至《げし》祭を再開《さいかい》するために忙《いそが》しく走り回り、衣装《いしょう》を身につけて大声でなにかを言い合っていた。
「……夏至祭の最後はなんだったっけ?」
ミルドレッドが赤毛を揺らして近づいてきて、聞いた。どかどかと大きな足音がした。一弥はヴィクトリカと顔を見合わせて、
「ええと…確《たし》か、聖堂を通って戻《もど》ってきた先祖《せんぞ》の霊《れい》に、豊《ゆた》かな暮《く》らしを見せて……」
会話が聞こえていたらしく、ハーマイニアが近づいてきて、地の底から響くような低い声で続きを言った。
「先祖はわたしたちにはわからないあの世の言葉で語ります。死者の霊にはなにも隠《かく》せません」
「そう、そうですよね……。アンブローズさんが先祖役をやるって張《は》り切ってましたよね。黒い仮面《かめん》を作って……」
心の中でだけ(〈冬の男〉の張りぼてと一緒《いっしょ》に、今朝、彼が持ってたんだ……)と付け足す。
それから、一弥の生まれ育った国で、夏のある日に先祖の霊が還《かえ》ってくる行事のことを、アンブローズに根ほり葉ほり聞かれたときのことも思い出した。
留学《りゅうがく》してからというもの、生まれた国を出るときに音を立てずにそっと閉《し》めた心の扉《とびら》の前に、ずっと立ち尽《つ》くしていた。悲しくなるから開けないようにと、ずっと気をつけていた。しかし不思議な中世の村で夏至祭に参加するうちに、少しずつゆっくりと緩《ゆる》んでいき、いまふいに音を立てて扉が開いた。一弥は思わず息を呑《の》み、目を閉じた。
なつかしい記憶《きおく》の中の情景《じょうけい》に、とつぜん立ち戻った。
蝉《せみ》が鳴いていた――。
けたたましいその鳴き声に混《ま》じって、どこからかひぐらしも密《ひそ》やかに声を立てていた。
縁側《えんがわ》に家族の誰かが置きっぱなしにしたウチワに、夏の日射《ひざ》しが射し込《こ》んで眩《まぶ》しく照らしている。どこからか、胸《むね》のすくような気持ちのいい水音が聞こえてくる。母が着物の裾《すそ》を慎《つつ》ましく少しだけ上げ、ほおかむりをして、乾《かわ》いた庭に打ち水をしているのだ……。
畳《たたみ》に寝《ね》ころんでぼんやりと眩しい庭をみつめていると、母らしき人影《ひとかげ》が縁側のたたきに近づいてきた。小さな足音と、ひそやかな笑い声。外は夏のきつい日射しにおおわれていて、暗い畳の部屋からは、大好きな母の顔が眩しすぎてよく見えない。
(あらあら、一弥さん。はやく着替《きが》えなくてはお父さまに叱《しか》られますよ)
――幼《おさな》い一弥は、その言葉にあわてて起きあがる。そのとき襖《ふすま》が大きな音を立てて開き、きっちりと羽織袴《はおりはかま》を身につけた父が大股《おおまた》で入ってくる。後ろから同じく正装《せいそう》した兄二人が続く。彼らはまるで三つ子のようにそっくりだ。大柄《おおがら》で肩幅《かたはば》も胸板《むないた》も頑丈《がんじょう》そうで、いつも自信に満ちて輝《かがや》いている。
父が、畳の上に座《すわ》ってぼんやりしている一弥を見下ろすと、驚《おどろ》いたように言う。
(一弥、なにをしているのだ。はやく出かける用意を! おい、おまえがしっかり監督《かんとく》しないから……)
責《せ》めるような声に、縁側のたたきに立っていた母はかすかな笑《え》みを返して、申しわけありません……とささやいた。一弥は自分のせいで母が叱られたと身を縮《ちぢ》め、早く着替えなくてはとあわてて部屋を飛び出した。
暗い廊下《ろうか》で姉とすれちがった。よそ行きの着物|姿《すがた》で菊《きく》の花束を抱《かか》える姉は、とてもかわいらしかった。鮮《あざ》やかな赤い着物を、素敵《すてき》でしょうと言われ、一弥は思わずその素晴《すば》らしい絹《きぬ》の着物にみとれた。小声で賛美《さんび》の言葉をつぶやくと、姉がうれしそうに、一弥さんはいい子ねぇと微笑《ほほえ》んだ。部屋から父の声がして、一弥はあわてて、着替えるために走り出した。
――あれは先祖の霊が還《かえ》ってくる日だった。それから一弥たちは、家族で墓参《はかまい》りに出かけたのだ。
外は暑かった。
ひぐらしが密やかに、そして蝉がけたたましく鳴いていた。
父を先頭にして、寺までの道を歩いた。父の後ろを兄たちが歩き、幼い一弥は右手を母に、左手を姉に引かれて、大人たちについていこうと一生|懸命《けんめい》歩いていた。
前を歩く父たちの背中《せなか》はあまりに大きかった。
道端《みちばた》の草も木々の葉も鮮やかな緑色で、太陽を照り返していた。あの国の夏は美しかった。一弥の好きな季節だった。
熱風じみた風がふいに吹《ふ》いて、母の白い日傘《ひがさ》がくるくると揺れた。
その風に、姉のつややかな黒髪《くろかみ》が大きく揺れて、一弥の視界《しかい》をふさいだ。驚いて石段《いしだん》で転んだ一弥が泣き声を上げ、母と姉が笑いながら抱《だ》き起こしてくれた。二人からは甘《あま》く密やかないい匂《にお》いがした。あれは女の人の匂いで、あれは優《やさ》しく、包み込むような慈愛《じあい》があり、そしてそれは、父や兄たちからはなぜかしないのだった。
寺に着くと、父が墓の前で、先祖の男たちがいかに立派《りっぱ》な武将《ぶしょう》であり政治家《せいじか》であったかを語った。低い声が朗々《ろうろう》と響く中、母の白くて折れそうに細い腕《うで》が、姉が抱えてきた菊の花束を受け取って墓前《ぼぜん》に飾《かざ》った。柄杓《ひしゃく》に取った水を、墓石の上にさらさらとかける。水を撒《ま》くのはいつも母の細い腕だった。見ているだけで心がうるおう、なつかしいあの水の情景……。
父の声は続き、それを聞く兄たちは誇《ほこ》らしげな顔をしていた。先祖は立派な男たちで、父もまた立派な男なのだ。兄たちもまたそうなろうとしていたし、それは近しい未来のことと決まっていた。一弥も父の言葉をちゃんと聞こうとしたが、それは朗々として難《むずか》しく、幼い一弥にはよくわからない言葉ばかりだったのだ……。
あのとき、夏の蝶《ちょう》が一羽、すうっと一弥に近づいてきた。うっすらと眩しい金色で、薄羽《うすはね》が木漏《こも》れ日に透《す》けていた。手を伸《の》ばすと逃《に》げるように離《はな》れていき、少し離れたところで誘《さそ》うように止まった。金色は一弥の好きな色だった。やがてその小さな蝶は飛び去っていったが、一弥は誰にも内緒で、うっとりといつまでも、金色の蝶のことを考えていた……。
遠くで蝉が鳴いていた……。
――あの国の夏はとても美しいのだ。
一弥は目を開けた。
もといた〈名もなき村〉の広場に、一弥は立っていた。一瞬《いっしゅん》の記憶《きおく》の旅に周囲の誰も気づかず、一弥一人がぼんやりと目を見開いていた。
――すべてが遠い出来事に感じられた。
ほんの数年前のことなのに。
距離《きょり》が……海に隔《へだ》てられて、遠く離れているせいなのだろうか。
ふとかたわらを見ると、いまの一弥にとっての小さな金色の蝶、ヴィクトリカもまた、目を見開いて広場の喧噪《けんそう》をみつめていた。そのとなりに立つミルドレッドもいつになく静かで、なにか思い出すように遠い目をしていた。誰もなにも話そうとしなかった。ぽっかりと空いた静かな時間だった。
一同は黙《だま》って、それぞれの思いを胸《むね》に広場の喧噪を眺《なが》めていた。
ふいにヴィクトリカが、つっと手を伸ばした。
そしてとなりに立つミルドレッドの、真っ赤な綿菓子《わたがし》のような巻《ま》き毛をぐいっと引っ張《ぱ》った。
「イタッ! な、なにすんだよ。おチビちゃん!」
「……それで、ミルドレッド」
「な、なにさ?」
「君はどうして、グレヴィールと知り合いなのかね?」
「……!!」
ミルドレッドのそばかすの浮《う》かぶ血色のいい頬《ほお》が、はたで見てもわかるぐらいたちまち真っ青になった。
「な、なんのことかい?」
「彼に雇《やと》われているのかね? それとも友達なのかね?」
ミルドレッドは観念したように肩《かた》を落とした。
一弥は二人の顔を見比《みくら》べて、なんのことだろうと不思議そうにしている。
「いつからばれてたんだい? おチビちゃん」
「君が無理やり機関車に乗り込んできたときからだ」
「……最初からじゃないか!?」
「ねぇねぇ、なんのこと?」
一弥が割《わ》って入った。
ヴィクトリカはしばらく面倒《めんどう》くさそうにぐずっていたが、一弥の視線に負けて、
「久城、君、それでは本当に気づいてなかったのかね?」
「だから、なにが?」
「ミルドレッドが、グレヴィールの手先だということにだ」
「ええーっ!?」
「君という男は……。いいかね、ミルドレッドはバザーでドレスデン皿を盗《ぬす》んだが……」
ミルドレッドが小さく「げっ!?」と叫《さけ》んだ。
「あんた、それも知ってんの?」
「もちろんだ。だがしかし、グレヴィールは彼女を見逃《みのが》した。それはなぜか? 何らかの理由で彼女と共存《きょうぞん》関係にあるからだろう。そして、聖《せい》マルグリット学園から出てはいけないわたしが夜こっそり抜《ぬ》け出すと、どこからかミルドレッドが嗅《か》ぎつけて、どこまでもどこまでもついてきた。二日酔《ふつかよ》いで苦しいというのに、激《はげ》しく揺《ゆ》れる馬車に乗ってまで。そして彼女は、どこかに電話をかけようとしていた。彼女には連絡《れんらく》を取らなければならない相手がいるということだ」
「ということは……?」
「彼女はグレヴィールからの依頼《いらい》で、村でわたしを見張る役なのだ。だから皿を盗んだことに気づいても、グレヴィールは彼女を逮捕《たいほ》しなかったのだ」
「……賭《か》けポーカーで、しくじっちゃってね」
ミルドレッドはつまらなそうに言った。
「村のバールでアタシから声をかけたのさ。だって、あいつ貴族《きぞく》だし。高い服着てるし。それに頭が抜けてるように見えたからさ。いいカモだって思ったんだけど、途中《とちゅう》でいかさま用のカードが袖《そで》からざくざくこぼれ落ちちゃって。あいつ、それまでさんざん負けてたもんだから、逮捕する逮捕するってしつこく騒《さわ》いでね。だったらあんたのいう仕事をするよって言ったのさ。それ以来こき使われて、いい迷惑《めいわく》さ」
「ミルドレッドさん、それは最初のいかさまポーカーが悪いんですよ」
「お金がほしかったんだよ!」
ミルドレッドはなぜか声を荒《あら》げた。本気で怒《おこ》っているように、地面を乱暴《らんぼう》に蹴《け》っている。大きな胸《むね》がゆさゆさと揺れた。匂《にお》うような色気が大柄《おおがら》な体から撒《ま》き散らされ、濃《こ》く甘《あま》い花の滴《しずく》となって地面にぽたぽた落ちていくようだった。
「だって、お金が好きなんだ!」
一弥は思わず気圧《けお》され、内心(どうしてこの人は、お金の話をしているときだけ色っぽくなるんだろう……?)と困《こま》りながら首をかしげていた。ミルドレッドは続けて、
「アタシの家は、そりゃあ貧乏《びんぼう》だったんだよ。苦労したんだよ。芋《いも》の根っこを囓《かじ》りながら、恨《うら》みの涙《なみだ》を流したもんさ」
哀《あわ》れっぽい声で訴《うった》えながら、綿《めん》のハンカチを取り出して涙を拭《ふ》く仕草をする。しかし涙は出ていないようだった。
「親父《おやじ》はウイスキー片手《かたて》にくだを巻くアイルランド移民《いみん》で、お袋《ふくろ》は……ええと、うーんと…………うぅ、とっさに思いつかないけど、とにかくね……」
「作り話はやめて下さいよ。嘘《うそ》泣きも」
「うるさいねぇ! とにかくおかげで、お金を見たら涎《よだれ》が出るぐらいうれしくなっちゃうんだよ。お金が好きで好きで大好きで、夜も眠《ねむ》れないぐらいなんだよ! まぁ、まさかこの村がそんな宝《たから》の山とは知らなかったけどさ……」
「なにも盗んじゃ駄目《だめ》ですよ。セルジウスさんに裁《さば》かれることに……」
「貧乏なんだからさ……」
ミルドレッドは唇《くちびる》を噛《か》み、頑固《がんこ》に言い張《は》った。
「泥棒《どろぼう》になったって、いいだろ!」
「駄目ですよ!」
二人はしばらく睨《にら》みあっていた。一弥が一歩も引かない様子に、やがてミルドレッドはあきれたように、
「……真面目《まじめ》な男だねぇ」
「うっ……」
一弥は気にしていることを指摘《してき》されて、かすかにうなだれた。
ミルドレッドはなぜか機嫌《きげん》を直し、
「わかったよ。あの皿は教会にそうっと返しておくよ。高いって聞いて盗んだものの、どこに売りにいったらいいものかわからなくてさ。こっそりシーツに包んでベッドの下に隠《かく》したっきりなのさ。……見逃してくれてもいいだろ? それならさ」
「……わかりました。ちゃんと返すのなら」
「口止め料に、なんかほしいだろ?」
「そんなのいりません」
「あげるって言ってるんだから、固いこと言うなよ。つまんない男だねぇ、あんたって……」
「なっ、なにを…………あっ!」
怒っていた一弥は、ふいに思い出した。
あのバザーで売られていた、色とりどりの品々――。
インド風のおかしな帽子《ぼうし》を選ぶ前に、クラスメートのアブリルと一緒にたくさんの品を見たのだった。
きらきらしたきれいな指輪や、レースの付け襟《えり》や、絵葉書《えはがき》、それに……。
「……あの、それなら、バザーで売っていたものを一つ、譲《ゆず》ってほしいんですけど」
「なに? どれのことさ? 言っておくけど高い物は駄目だよ。あんたはお金が好きじゃないんだから、人から高い物をもらう資格《しかく》はないんだからね」
「どういう理屈《りくつ》ですか!?」
一弥はため息をついた。それからミルドレッドの耳に口をつけ、小声でささやいた。するとミルドレッドは、小花|模様《もよう》のようなそばかすの浮《う》かぶ顔に、とても奇妙《きみょう》な表情《ひょうじょう》を浮かべた。
一弥の顔をじいいっとみつめて、
「……そんなものでいいのかい?」
「はい!」
「真面目だけどへんな子だねぇ、あんたって」
一弥は赤くなった。
「アタシさぁ、あんたのこと嫌《きら》いじゃないよ。あの二枚目《にまいめ》ぶった洒落《しゃれ》者の警部《けいぶ》より、ずっと好きさ」
そう言うと、ミルドレッドは鮮《あざ》やかな赤毛を揺《ゆ》らして楽しそうに笑いだした。
遠くから、松明《たいまつ》を持ったアンブローズが一弥たちをみつけて走ってきた。持っていた松明を、少し迷《まよ》ってから、かたわらにいたハーマイニアに渡《わた》す。
ぱちぱち、ぱちぱち――!
炎《ほのお》が爆《は》ぜる。
オレンジ色の光の粒《つぶ》が飛び散る。
「そろそろ始まります。先祖《せんぞ》の霊《れい》を迎《むか》える儀式《ぎしき》が……」
「そっか……!」
一弥はうなずいた。
ヴィクトリカがかすかに身じろぎをした。一弥はアンブローズと目を見合わせた。アンブローズは、緊張《きんちょう》のためか少し表情が硬《かた》い。
夜風がぶわりと吹《ふ》いた。
ぱちぱち、ぱちぱち――!
ハーマイニアが青白い乾《かわ》いた手で握《にぎ》りしめる松明が、風をはらんでひときわ大きく燃《も》えた。ぶわっぶわっと音を立てて、炎が左右に大きく揺れた。
祭はクライマックスを迎えようとしていた――。
[#改ページ]
モノローグ―monologue 5―
夜毎――
想《おも》い出すのは――
血の記憶《きおく》である。
あれ≠ヘもう遠い昔のことであるはずなのに、夜毎、鮮やかな色と音と手触《てざわ》りで想い返される。
ぶすりと鈍《にぶ》い音を立てて根元まで刺《さ》さった短刀の柄《え》が、真鍮《しんちゅう》の飾《かざ》りのついた豪奢《ごうしゃ》なものであったことも。
ダイヤガラスをはめた窓《まど》の外で、沈《しず》みかけた太陽が炎のように燃《も》えていたことも。
青ビロードの重いカーテンがその瞬間《しゅんかん》、風を受けてかすかに揺れ、しゃらりっ……と乾いた音を立てたことも。
悲鳴一つ立てず崩《くず》れ落ちた男の胸から、突《つ》きでた刃先《はさき》が赤黒く輝《かがや》いていたことも! 空気が漏《も》れるようなかすかな音が喉から洩《も》れた後、あの世でもあるかのようにしんと静まり返り、何者も冒《おか》せないほどの静寂《せいじゃく》が待っていたことも! やがて窓の外の陽《ひ》が完全に落ちて闇《やみ》に包まれるまで、自分がそこに立ち尽《つ》くしていたことも! 我《われ》に返り元の場所[#「元の場所」に傍点]に戻《もど》った後、ゆっくりとこみあげる喜びを一人|噛《か》みしめていたことも!
まるでついさっき起こった出来事のようだ!
忘《わす》れられない。
――囚《とら》われているのか。
人々は我らを灰色狼《はいいろおおかみ》≠ニ呼《よ》ぶが、それは間違《まちが》いである。
狼は同族を殺したりしないものだ。ことにあんな理由[#「あんな理由」に傍点]では。
わたしは松明を持ち、じっと立っていた。
夏至《げし》祭がようやく終わろうとしていた。思いもかけぬ客人が相次ぎ、また、客人どうしの愚《おろ》かな殺人が瞬《またた》く間に謎《なぞ》が解《と》かれその愚かな者が捕《と》らわれるあいだ、わたしはずっと笑っていた。
愚かな者は殺人など犯すべきではないのだ。すぐに見破《みやぶ》られ、裁《さば》かれてしまう。
裁かれるのなどごめんだ。
――わたしは空いているほうの手をのばし、自分の顔に触《ふ》れた。人差し指の腹《はら》で下瞼《したまぶた》を引っ張《ぱ》る。ぐりぐり、ぐりぐり、とにちゃついた音を立てて、眼球《がんきゅう》の下のほうを掻《か》く。
緊張《きんちょう》や怒《いか》りを感じると、目がかゆくなるのだ。かゆく、かゆくなるのだ。あのときもそうだった。あの場所に隠《かく》れ、息をひそめているあいだ、わたしの目は燃えるようにかゆくてかゆくて叫《さけ》びだしそうだったけれど、子供《こども》だったわたしは歯を食いしばり我慢《がまん》していたのだ。もうちょっともうちょっともうちょっとで終わるから、と。
あのとき……。
そう、わたしの思考はいつもあのときに戻る。殺人の記憶に。
囚われているのか――?
遠くから砂利道《じゃりみち》を踏《ふ》みしめる音を立てて、松明《たいまつ》を手にした先祖たちが練り歩いてくる。広場の太鼓《たいこ》と、鞭《むち》と、空砲《くうほう》が、死者たちの霊《れい》を迎《むか》え入れる喜びのために大きく鳴らされ続けている。ぴしり、ぴしりと鞭が鳴る。太鼓の音は大きく、夜空の冷えた空気をぶるると震《ふる》わせる。
夜空は狭《せま》くなり、暗い色の天井《てんじょう》が低くせまってくるように感じられる。ここが小さな舞台《ぶたい》で、星空の下などではないような気がし始める。祭のクライマックスはいつもそうだ。太鼓の音が響《ひび》き、夜空を震わせる。
先祖《せんぞ》たちの列は、陽気に踊《おど》りながら広場に近づいてくる。赤や黒などの毒々しい色の衣服、藁《わら》で造《つく》られた気味の悪い上着。あの世の人々は、この世にいる我々と、なんとちがって見えることか。衣服も、動きも、けたたましい叫び声も、もとは我々と同じ人間だったとは思えない。だがしかし、我々は彼ら――遠い先祖たちを、夏至《げし》祭で歓待《かんたい》し喜ばせて送り出さなくてはならないのだ。
彼らが近づいてくる。
先頭には、黒い仮面《かめん》をかぶった男がいる。
後ろを歩いてくるほかの男たちが、陽気に踊り、地面を踏《ふ》みしめては飛び上がっているのに比《くら》べ、黒い仮面の男はぎくしゃくとおかしな動きだ。まるでそうやって四肢《しし》を動かすのが久方《ひさかた》ぶりだというように、腕《うで》がガタリと揺《ゆ》れ、足もゴトリゴトリと前に踏み出される。いまにも転びそうなおぼつかない足取りで、それでも死者の列の先頭を進んでくる。
アンブローズが造った仮面はなかなかよくできていると、わたしは満足する。自分で作った仮面をつけて練り歩くとなれば、あの若者も満足しているだろう。大役を仰《おお》せつかったのは、村長の助手として有能《ゆうのう》であることへのご褒美《ほうび》なのだ。さぞかし誇《ほこ》らしいことだろう。
先祖たちはついに広場に足を踏み入れた。
わたしたちの歓声《かんせい》や空砲に迎えられ、ひときわ愉快《ゆかい》な動きで練り歩く。村人たちは彼らに豊穣《ほうじょう》の様を見せようと、熟《う》れた野菜や葡萄酒《ぶどうしゅ》の大樽《おおたる》、艶《あで》やかな織物《おりもの》などを手に手に、彼らの踊りの列に入っていく。
わたしは一緒に踊ろうとはしなかった。広場の隅《すみ》に立ち、風景をただじっとみつめていた。
――わたしが殺人を犯《おか》したことは、誰《だれ》も知らないのだ。
くっ、くっ、くっ……と笑いがこみあげる。愉快でたまらないのだ。
祭の喧噪《けんそう》が広場を覆《おお》い尽くしている。村人のある者は野菜を、ある者は鮮《あざ》やかな織物を、ある者は酒樽を手に、踊っている。叫び声や太鼓の音、鞭のしなる音が響き渡る。わたしの笑い声は、それらにかき消されてだれも気づく様子はない。
くっ、くっ、くっ、くっ……。
――と、
黒い仮面の男が、ふいに動きを止めた。
わたしだけがそれに気づいた。
笑い声を飲み込《こ》む。なぜだか心が警笛《けいてき》を鳴らし始めた。逃《に》げろ、となにかがささやいた。わたしは足がすくみ、立ち尽くしていた。心臓《しんぞう》が脈打ち始めた。
いやな予感がする。
仮面の男はしばらく、そこにじっとうずくまっていた。
それから、ぴくっ、ぴくっと短く動いた。
顔を上げた。
――逃げろ!
またなにかが警笛を告げた。しかし遅《おそ》かった。わたしは仮面の男と目を合わせてしまった。もう動けない。
仮面に彫《ほ》り込まれた、左右の高さがばらばらの、大きな表情《ひょうじょう》のない目と――
ばちりと音を立てるほどに強く、目があった。
わたしは声にならない悲鳴を上げた。
仮面の男がなにか言った。言葉はわたしの耳まで届《とど》かず、聞き取ることはできなかった。だがしかし、それとともに、わたしの中にいる者がつぶやいた声ははっきり聞こえた。
――もう手遅れだ。おまえは、あれにみつかってしまったのだ……ハーマイニア!
広場は少しずつ静かになっていった。
暗さ増《ま》し、気味の悪い静寂《せいじゃく》だけが広場を覆い尽《つ》くしていた。夜空は急に高くなり、星が瞬《またた》き始めた。
わたしは松明《たいまつ》を片手《かたて》に立ち尽くしていた。
仮面の男は、ぶつぶつとなにごとかを語り続けていた。
広場に集まった村人たちは、わたしと仮面の男とを息をひそめて見比《みくら》べていた。
ぱちぱち、ぱちぱち……!
松明の炎《ほのお》が爆《は》ぜる。
仮面の男の声は次第《しだい》に大きくなった。
だが聞き取れない。こんなに大きな声なのに……。
わたしはそれが死者の声なのだと気づいた。なぜならそれはわたしたちが知るこの世の言葉ではなかったから。聞いたこともない抑揚《よくよう》でゆっくりとあの世の声が響《ひび》いてきて、男がゴトリゴトリとおかしな足取りでこちらに近づくたびにあの世の言葉は大きくのしかかり、男の首の上で黒い無表情な歪《ゆが》んだ仮面が左右に大きく揺れている。
わたしは辺りを見回した。
――アンブローズが不思議そうにこちらをみつめているのが見えた。わたしも不思議になる。アンブローズがいるのなら、この仮面《かめん》の男は彼ではないのだ。それでは、いったい誰が入っているというのか……!
目の前が一瞬《いっしゅん》、真っ暗になった……。
閃《ひらめ》いたのだ。
この死者が、誰なのか。
耳の奥《おく》で何者かがささやいた。
――そうだ。おまえが殺した男だ、ハーマイニア!
わたしは足を震《ふる》わせる。
仮面の男の声が、少しずつ現世《うつしよ》と入り混《ま》じるように、聞き取れる言葉に変わっていった。彼はもうわたしの目前まできていた。うずくまるように背《せ》を屈《かが》めて、うめいた。
「みつけたぞ……。わたしを殺した娘《むすめ》よ」
わたしは声を上げた。ようやく出せたその声は、獣《けもの》の咆哮《ほうこう》のような不思議なものだった。
後ずさる。
「ハーマイニアよ」
わたしは震え声でその死者の名を呼《よ》んだ。
「…………シオドア、様」
仮面の男は、怒《いか》りに震える声で叫《さけ》んだ。
「おまえがわたしを殺したのだ。誇《ほこ》り高きこの男を、幼《おさな》い手でいとも簡単《かんたん》に殺したのだ。よくも二十年のあいだ、のうのうと暮《く》らせたものだ。ハーマイニア……愚《おろ》かな子供《こども》よ!」
わたしはさらに後ずさった。
「……ちがう。わたしじゃありません!」
「金貨が降《ふ》ってきた」
わたしは息を飲んだ。
仮面の下で男がクククッと笑った。
「金貨がきらきらと降ってきた。よぅく覚えているぞ。ハーマイニアよ。柱時計から星のように降り落ちたたくさんの金貨を……。あぁ、よぅく覚えているぞ。最後の記憶《きおく》だからな。ハーマイニア。幼き殺人者よ……」
「き、金貨のことを……!」
……知っているのは、死者だけだ。わたしのほかは誰も知らないのだ。床《ゆか》に落ちていたたくさんの金貨の理由は……。
わたしは泣き叫んだ。
「シオドア様! いやよ。どうか帰ってください! あの世へ…………!」
「認《みと》めるのか。ハーマイニアよ」
「認める。認める。わたしが……」
わたしは松明を振《ふ》り回して叫んだ。炎《ほのお》の細かい粉が夜空に舞《ま》い、オレンジ色の粉のようにわたしの上に降り注いだ。
「……わたしがあなたを殺した!」
広場はしんと静まり返っていた。
真ん中の大きな松明がぱちぱちと音を立てていた。肌寒《はだざむ》い風が吹《ふ》いた。風に乳色《ちちいろ》の霧《きり》が流され、ふわりふわりと、わたしと死者のあいだを横切っていった。
村人はみんな……それに客人たちも……驚《おどろ》いたようにわたしの顔をみつめていた。濁《にご》った緑色の瞳《ひとみ》に、怖《おそ》れと嫌悪《けんお》が入り混じり始めた。彼らは少し後ずさった。
「……仕方、なかったんです」
わたしはうめいた。心の中で(そうでしょう……?)とつぶやくが、何者かの声はもう聞こえない。わたしは一人きりだ。恐怖《きょうふ》に囚《とら》われて叫ぶ。
「だって……わたしはまだ子供だったのです!」
「あなたが殺したんですね」
――ふいに。
仮面の男がごく普通《ふつう》の抑揚《よくよう》の声で言った。
「やっぱりあなたが殺したんだ。……君の推理《すいり》通りだったよ、ヴィクトリカ」
「!?」
大きな松明《たいまつ》の影《かげ》から、ちょこちょことした足取りで、あの少女が姿《すがた》を現《あらわ》した。
コルデリアの娘《むすめ》だ。緑色をした澄《す》んだ瞳を見開いて、じっとこちらをみつめている。
わたしは戸惑《とまど》った。大股《おおまた》で仮面の男に近づいていった。手を伸《の》ばし、乱暴《らんぼう》に仮面を剥《は》ぎ取る。
現れたのは……。
客人の一人――東洋人の少年の、すまなそうな顔だった。
彼にはどこもおそろしいところはない。体つきは小柄《こがら》で、線も細い。人が良さそうだが、どこか頑固《がんこ》そうにも見える顔をしたごく普通の少年で、おそれるような相手ではないはずだった。
彼は申しわけなさそうな顔をしていたが、一歩も引く様子はなかった。
口を開くと、遠慮《えんりょ》深い静かな声で、わたしに告げた。
「ハーマイニアさん、ぼく、あなたの言葉が聞きたくて演技《えんぎ》をしたんです……」
「では……!」
「シオドアさんを殺したのはあなただと、ヴィクトリカが……」
わたしはもう一度、コルデリアの娘を見た。
目があった。
少女もまた、一歩も引かないという決意を秘《ひ》めた瞳をしていた。わたしをじっとみつめ返している。
わたしは立ち尽《つ》くした。
――カッ!
油をかけられ点火されたように、ふいに目玉に、燃《も》えるようなかゆみを感じた。
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第六章 金の蝶《ちょう》
――仮面《かめん》を外した一弥《かずや》は、恥《は》ずかしさに真っ赤になりながら、ヴィクトリカの陰《かげ》に隠《かく》れた。広場に集まっている村人たちは、それぞれが葡萄酒《ぶどうしゅ》の樽《たる》や鮮《あざ》やかな織物《おりもの》などを手にしたまま、訳がわからず一弥たちに注目していた。
(踊《おど》ったり、声色《こわいろ》を使ったりって……。実に恥ずかしいものだなぁ)
一弥が少しめげていると、アンブローズが走り寄《よ》ってきた。
「あの、さっきあなたが話していた聞き慣《な》れない言葉は、もしかすると……」
「はい。ぼくの国の言葉です。あの世の言葉って言われてもよくわからないから、とりあえずみんなが聞き覚えのない言語を話せば、そういう感じになるかなぁ、と……」
「母音はいくつですか? 文字は右から書きますか? えっ、縦《たて》に書く!! それから……」
例によってアンブローズが質問責《しつもんぜ》めにし始める。一弥はやっとのことでそれを遮《さえぎ》り、ヴィクトリカに声をかけた。
「説明してよ。その……ハーマイニアさんがやったという殺人のことを」
ヴィクトリカはうなずいた。
取り押《お》さえられたハーマイニアを見下ろす顔には、不思議な表情《ひょうじょう》が浮《う》かんでいた。
「鳩《はと》が飛んだのだ」
「……鳩?」
「二十年前の事件《じけん》が起こった書斎《しょさい》で、わたしは考えていた。そこにハーマイニアが入ってきた。わたしは彼女と会話をした。やがて彼女は出ていき、わたしはそのまま考え続けていた。そのとき……窓《まど》の外で白い鳩が飛び立ったのだ」
「うん……」
「それを見たとき、知恵の泉≠ェわたしに語りかけた」
ヴィクトリカは奇妙《きみょう》な笑《え》みを浮かべて一弥を見上げた。
「君、これはのみの市での〈ドレスデン皿|盗難《とうなん》事件〉と同じ構造《こうぞう》を持つ混沌《カオス》だったのだよ。わかるかね? ミルドレッドはスカートから鳩を飛ばして、みんなが驚《おどろ》いて空を見上げているあいだに、ドレスデン皿を盗んだ。動くものを使って人の視線《しせん》を限定《げんてい》する≠スめに鳩が必要だったのだ」
「そうだったね……。でも、それがどうしたの?」
「鳩が金貨に変わっただけだ。とても簡単《かんたん》なことだったのだよ。あぁ、なんということだ」
ヴィクトリカはつぶやいた。
――一同は灰色《はいいろ》の館《やかた》に入り、二十年前の惨劇《さんげき》の舞台《ぶたい》となったあの奥《おく》の書斎に並《なら》んでいた。
ヴィクトリカは落ちついて話し始めた。
「……事件当時、ハーマイニアはまだ六|歳《さい》の子供《こども》だった。彼女自身が事件についてわたしに語った言葉の中に、こういうものがあった。『十代半ばの少女であったコルデリアが、大人の男の背中上部を背後《はいご》から刺《さ》し貫《つらぬ》くのは難《むずか》しいのではないか』と。なぜハーマイニアはこんなことを言ったのか? 暗に、当時は子供だった自分にとっては、コルデリアよりさらに不可能《ふかのう》な犯罪《はんざい》だと匂《にお》わせたかったのだ」
「しかし……!」
セルジウスがきつい口調でその言葉を阻《はば》んだ。
「実際《じっさい》にハーマイニアは小さな子供だったのだ」
「子供にでも、やり方しだいでは可能なのだよ」
「いや、不可能だ」
セルジウスは強情《ごうじょう》に言い張《は》った。なにも聞かずに書斎を出ていこうとする。アンブローズが静かに止めた。
「セルジウス様……話を聞くだけなので……」
セルジウスが険《けわ》しい顔で睨《にら》みつける。
「わしに意見するのか? 愚《おろ》かな若者《わかもの》よ」
ヴィクトリカが小声でささやいた。
「セルジウス、彼の言うとおりだ。わたしの話を聞くだけなのだから、ここにいたまえ」
セルジウスは怒《いか》りを込《こ》めて振《ふ》り向いたが、出ていきはしなかった。
書斎には不吉《ふきつ》な沈黙《ちんもく》が流れていた。壁《かべ》の飾《かざ》り棚で、よく磨《みが》かれた中世の武器《ぶき》が鈍《にぶ》く輝《かがや》いていた。書物|机《づくえ》や書棚には白く埃《ほこり》がたまっていた。
「この事件には幾《いく》つかの不可思議な面がある。一つめは、シオドアが鍵《かぎ》のかかった書斎で死んでいたことだ。そして床《ゆか》に金貨がたくさん落ちていたこと。それから凶器《きょうき》の短刀が背中の上部を後ろから刺し貫いていたこと。最後が、時間だ」
ヴィクトリカはセルジウスの険しい顔を見上げた。
「セルジウス、君は時間について語ったね。『たしか十二時ぴったりのことだったと思う。自分は懐中《かいちゅう》時計を見たし、コルデリアも時間に正確《せいかく》な娘《むすめ》だった』と」
「あぁ……」
「だが……『一緒《いっしょ》にいた人間たちの、時間に関する証言《しょうげん》はなぜかまちまちだった』と」
「そうだ。しかしそれが……」
「なぜその夜、館にいた人々の時間の認識《にんしき》がまちまちだったのか。考えてみたまえ」
ヴィクトリカは一同をぐるりと見回した。
――若者たちに捕《と》らえられているハーマイニアが、かすかに唇《くちびる》をゆがめた。
やがてヴィクトリカは、小さな指で壁の一方を指差した。
「いつも鳴る柱時計が、その夜は鳴らなかったからではないかね?」
そこには大きな柱時計があった。古びて装飾《そうしょく》の多い文字|盤《ばん》の数字は消えかけていたが、振り子はいまも規則《きそく》正しく動いていた。
カッチ、カッチ、カッチ――!
セルジウスが叫《さけ》んだ。
「……そうだ!?」
「その夜、柱時計は鳴らなかったのだ。だから懐中時計で時間を確《たし》かめたセルジウスだけが十二時ぴったりだったと思い、ほかの人間はそうは思わなかった。……ではなぜ、柱時計は鳴らなかったのか?」
ヴィクトリカの小さな顔を全員が注目した。
「……ハーマイニアが中に隠《かく》れていたからだ」
「なんだって?」
セルジウスが鼻で笑った。ヴィクトリカはそれを気にせず話し続けた。
「ハーマイニアはシオドアが入るより先に、鍵の開いていた書斎に忍び込んだのだ。そして柱時計によじ上り、振り子の箱の中に身を隠した。子供の小さな体なら不可能ではない。そして彼女は息を殺し、シオドアが書斎《しょさい》にくるのを待っていた。そのあいだずっと、柱時計は鳴らなかっただろうがね。やがてシオドアが書斎にやってきた。そこで……つぎは、床に転がっていたというたくさんの金貨の出番だ」
「どういうことだね……?」
セルジウスの顔から表情が次第《しだい》に消えていく。頬《ほお》の色も青白く変わっていく。ヴィクトリカは続けた。
「柱時計の中に隠れていたとして、小さな彼女は、いったいどうやってシオドアを殺す? 子供の力で大人の男を刺し殺せると思うかね? 無理だ。だがしかし、方法はある。腕《うで》の力に頼《たよ》らず、体重すべてをかけ、また重力にも頼《たよ》れば可能だ。幼《おさな》いハーマイニアは、立った状態《じょうたい》で彼を刺したのではない。隠れていた柱時計の上から、武器ごと飛び降《お》りたのだ」
部屋は不気味な静寂《せいじゃく》に包まれた。
誰《だれ》もがごくりと唾《つば》を飲み、黙《だま》っていた。
柱時計をおそろしそうに見上げ、それから無表情で押し黙るハーマイニアをみつめる。彼女はふっとかすかに笑った。
「金貨はもともと床に落ちていたのではない。ハーマイニアが持っていたのだ。そして床に向かってたくさん降《ふ》らせたのだ。金貨はきらきら光りながら、柱時計から床へ、明るい金色の縦糸《たていと》をいくつもつくりながら降り落ちていく。さながら金色の流星|群《ぐん》のようだったろう。目の上辺りに差し掛《か》かったところから、シオドアはとっさにそれを目で追っただろう。もし気づかなかったとしても、やがて絨毯《じゅうたん》の上に落ちて音を立てれば、気づく。歩いていたシオドアは、柱時計の真下……ハーマイニアにとっていちばん飛び降りやすい場所で、金色の雨に驚《おどろ》いて立ち止まる。動くものを使って人の視線《しせん》を限定《げんてい》する≠フだ。視線によってシオドアの動きは限定された。そしてハーマイニアは、立ち止まって床を見下ろすシオドアめがけ、柱時計から飛び降りたのだ。短刀は彼女の体重の分だけぶすりと根元深くまで突《つ》き刺《さ》さった。シオドアは金貨とともに床に崩《くず》れ落ち、声もなく絶命《ぜつめい》した。それで二つの謎《なぞ》――散らばる金貨と、短刀が背中の上部に刺さっていたことについての説明がつく。そしてハーマイニアは、シオドアを殺した後でドアに鍵をかけ、また柱時計の中に隠れた。誰かが死体を発見するまで辛抱《しんぼう》強く待っていた。だから書斎には誰もいないように見えたのだ」
ヴィクトリカの声がわずかに震《ふる》え始めた。
「そして入ってきたのが、メイドのコルデリアだ。彼女が死体に気づき、声を上げて逃《に》げた。その扉《とびら》からハーマイニアが逃げたのだ。かくして犯人《はんにん》はコルデリアにちがいないということになった。ずいぶんと乱暴《らんぼう》な推理《すいり》によって。……さて、セルジウス」
呼《よ》ばれたセルジウスの肩《かた》が、ぴくりと震えた。その顔は、疲労《ひろう》のためか一日でずいぶん歳《とし》を取ったように見えた。しかし眼差《まなざ》しには、けして譲《ゆず》らず非《ひ》を認《みと》めない、強情《ごうじょう》な老人らしい剣呑《けんのん》な光があふれていた。
「セルジウス、君の責任《せきにん》だ。無実の罪《つみ》で村を追われたコルデリアに、どう謝罪《しゃざい》するかね?」
長い沈黙《ちんもく》。
やがてセルジウスは肩を震わせ、絞《しぼ》り出すような声で、
「……この民《たみ》の長としての権限《けんげん》のすべてを使って、この女を罰《ばっ》する」
怒《いか》りと軽蔑《けいべつ》の入り混《ま》じった顔でハーマイニアを睨《にら》むと、びしりと指差した。
ハーマイニアが叫びだした。
「いやです! わたしは追放されるのは絶対《ぜったい》にいや。村の外になんて行きたくない!」
アンブローズが、暴《あば》れるハーマイニアを押さえつけながら、
「……コルデリアさんも、無事に山を降りて外で暮《く》らしたんです。それに、外の世界にはブライアン・ロスコーもいる。彼を捜《さが》して頼《たよ》れば……」
「コルデリアもブライアンも嫌《きら》いです。わたしはここにいたいんです!」
「だけど、外は素晴《すば》らしいのに……」
アンブローズは思わずつぶやいて、それからはっと口をつぐんだ。
暴れるハーマイニアのほうに、ヴィクトリカが近づいてきた。
「君……動機はなんだね? 六|歳《さい》の子供《こども》が、皆《みな》に尊敬《そんけい》される村長を刺し殺すほどの動機とは、いったいなんだね……?」
「当ててごらんなさいよ」
ハーマイニアが低い声で言った。
「……未来かね?」
短い答えに、ハーマイニアは白目をぐりりと剥《む》き出して、叫《さけ》んだ。
「どうしてわかるんです……!」
「……子供と村長との関《かか》わりと言えば、夏至《げし》祭の占《うらな》いぐらいしか思いつかないのでね。不都合な未来を読まれたと、村長を恨《うら》む子供もいるだろう」
一弥はヴィクトリカが、背《せ》がもう伸《の》びないと言われたのだ、と暗い顔をしていたときのことを思い出した。そして聖堂《せいどう》の出口のところで出会ったハーマイニアが、謎のような言葉を口走ったときのことも……。
〈占いの結果は覆《くつがえ》りませんよ〉
〈しかし、過去に一度だけ覆ったことがありますが……〉
一度だけ覆ったとは、なんのことだったのだろう……?
ヴィクトリカがつぶやいた。
「ただの占いだと、気にしなければすむ。だがハーマイニア、君は村の掟《おきて》や村長の言葉などに強い信頼《しんらい》を寄《よ》せていた。君には占いを信じない≠ニいうことはできまい」
「そう……信じるしかなかった……。でも、受け入れがたかった……!」
ハーマイニアがつぶやいた。
「わたしは……聞いてはいけない未来を聞いてしまったのです。子供らしい好奇心《こうきしん》で、おそろしいことを」
「なにをだね?」
「自分の死期を」
「……あぁ」
ハーマイニアは涙《なみだ》を浮《う》かべて一同を見渡《みわた》した。
「いまから二十年後、二十六歳のときにおまえは死ぬだろうと告げられました。二十六歳ですって……? わたしはもっと生きたかった。もっともっと長く生きたかった。未来を覆すためには、その未来を読んだシオドア様を殺さなくてはいけないと……」
セルジウスが震え声で叫んだ。
「そんな理由でか! そんな理由で偉大《いだい》な長を殺したのか! 子供|風情《ふぜい》が!」
「告げられた者にしかわかるまい! あの絶望は、あの怒りは、あの悲しみは!」
二人は睨みあった。
ハーマイニアの瞳《ひとみ》は大きく前に剥き出され、いまにも床《ゆか》に落ちてべちゃりと潰《つぶ》れそうに見えた。セルジウスのほうは目を血走らせ、怒りで拳《こぶし》をぶるぶると震わせていた。
いまやセルジウスの顔には、狂信者《きょうしんしゃ》そのものの表情が浮かんでいた。眼球《がんきゅう》が真ん中に寄り、どこを見ているかわからない奇妙《きみょう》な目つきのままで、ハーマイニアを震える指で指差した。そして、地の底から響《ひび》くような声で叫んだ。
「アンブローズ、この者の首を打ち落とせ!」
「…………えっ?」
言われたアンブローズが、大きく口を開けた。セルジウスは大声で続けた。
「罪人《ざいにん》の首は打ち落とす、もともとそういう風習だった。大きな罪《つみ》を犯《おか》す村人がいなくなり、すたれてはきたが……。わしもおまえの歳《とし》のときには、罪人の首を斬《き》る仕事をしたものだ」
後ろのほうで聞いていたブロワ警部《けいぶ》が、あわてて前に出てきた。
「あの、セルジウスさん。もう一度言いますが、デリクはわたしが逮捕《たいほ》して警察|署《しょ》に連行します。そしてこの娘《むすめ》さんの罪は、時効《じこう》が成立しています。首を落とせば、今度はこっちの若者《わかもの》がソヴュール警察から殺人罪に問われます。そして、村人たちが黙認《もくにん》すれば、殺人|幇助《ほうじょ》に……」
「ここはソヴュールではない!」
「……いや、勝手につけたへんな国名を言われてもね」
「出て行け!」
セルジウスが若者たちに命じると、彼らは言われるままに、ブロワ警部を担《かつ》ぎ上げて廊下《ろうか》に出ていった。ブロワ警部の叫び声が廊下を遠ざかっていった。はるか遠くで「久城《くじょう》くん、なんとかしろ……!」と叫ぶのが聞こえてきた。
セルジウスは壁《かべ》を震《ふる》わせるほどの声で、
「コルデリアは、罪が確定《かくてい》されなかったために追放だけで済《す》んだのだ。ハーマイニア、おまえは首を落とされ、首と胴体《どうたい》を別々に埋葬《まいそう》される。夏至《げし》祭の夜にも帰ってこれまい。罪人は二度と子孫《しそん》の前に姿《すがた》を現《あらわ》せぬ決まりだ。アンブローズ!」
「セ、セルジウス様……」
呼《よ》ばれたアンブローズは、がたがたと震えていた。ひときわ美しい、女性《じょせい》であれば貴婦人《きふじん》然《ぜん》としていたであろう顔が、蝋《ろう》のように青白く染《そ》まっていた。
セルジウスは飾《かざ》り棚から大きな斧《おの》を取りだし、彼に向かって投げた。思わず受け取ったアンブローズは、大きな声を上げて放《ほう》り出した。大斧が床に落ちて、細かく白い埃《ほこり》が舞《ま》い上がった。
セルジウスは目を赤く腫《は》らし、助手の若者を睨《にら》みつけている。
「やるのだ。この村を継《つ》いでいくのなら、罪人を許《ゆる》すな!」
「でも……子供《こども》の頃《ころ》の罪です。二十年も前の罪です。それに、それに……」
「アンブローズ!」
「ぼ、ぼくは……子供の頃、ハーマイニアによく遊んでもらったんです。とっつきにくいけれど、優《やさ》しいおねえさんだった。シオドア様を殺したとしても、ぼくには優しい人だった。いやです。セルジウス様……!」
「ここの掟だ。ハーマイニアはシオドア様の予言通り、二十六|歳《さい》で死ぬのだ」
アンブローズは睨まれて抵抗《ていこう》できなくなり、のろのろと動いて大斧を手に取った。腕《うで》がぶるぶると震えていた。
歯の鳴る音が聞こえるほどに、アンブローズは怯《おび》えていた。大きな澄《す》んだ瞳には涙が盛《も》り上がり、やがて青白い頬《ほお》に花びらのようにはらはらとこぼれた。細い肩《かた》が激《はげ》しく揺《ゆ》れた。
すがるように一弥のほうを振《ふ》り向く。一弥も震えていた。
「お客人……。外では、外の世界では、こういうときどうするのですか……?」
一弥は震え声で答えた。
「警察が捕《つか》まえます。それで……いろいろ調べて…………ヴィクトリカ」
ヴィクトリカが口を開いた。
「裁判《さいばん》を開く」
「さい、ばん?」
「そうだ。ハーマイニア側と警察側に分かれてそれぞれの主張《しゅちょう》をし、話し合う。そして罪が決まる。罪によって死刑《しけい》になることもあり、刑務所《けいむしょ》に入ることもあり、釈放《しゃくほう》されることもある。子供の犯した罪には、死刑という求刑はない」
アンブローズが斧を取り落とした。
横顔にはとても寂《さび》しそうな表情《ひょうじょう》が浮かんでいた。しかし強い意志《いし》が見て取れた。唇《くちびる》を引き結び、悲しそうに顔を上げる。
憤怒《ふんぬ》に燃《も》えるセルジウスをみつめて、震え声で言う。
「ぼくはずっと、セルジウス様を尊敬《そんけい》していました。それに、村のことも好きでした。ぼくの生まれた村だし、あなたは、名もなき若者であるぼくを認《みと》めてくれた。でも……世界はそれだけではないし…………その、つまり……………………ハーマイニア、逃《に》げて!」
アンブローズがとつぜん、ハーマイニアを押《お》さえつけていた若者たちを突《つ》き飛ばした。驚《おどろ》きの叫《さけ》びや抗議《こうぎ》する声が上がる中、ハーマイニアはべつの生き物のように大きく動いた。床《ゆか》を蹴《け》って飛翔《ひしょう》すると、飾り棚に飾られている長い槍《やり》を一本、鷲掴《わしづか》みにした。
一度振り返る。
目玉を剥《む》き出し、青白い唇を開いて、なにかつぶやく。
それから身を翻《ひるがえ》し、脱兎《だっと》の如《ごと》く逃げた。
アンブローズは自分のしたことにしばし呆然《ぼうぜん》とし、立ち尽《つ》くしていた。小柄《こがら》で濁《にご》った目をした若者たちが、彼を囲んで口々に責《せ》め始めた。それはさながら七人の小人に囲まれた白雪姫《しらゆきひめ》のような姿だったが、一瞬後《いっしゅんご》には若者たちは、彼らのボスであるアンブローズを置いて、廊下に飛び出していった。
口々にハーマイニアの名を叫びながら。
セルジウスが呪《のろ》いの叫びを上げた。ぶるぶる震《ふる》える拳《こぶし》をアンブローズに向かって振り上げ、
「アンブローズ……愚《おろ》かなわしの継承者《けいしょうしゃ》よ。すぐに追うのだ。そしてハーマイニアの首をはねろ。そうする以外に、おまえがわしに許《ゆる》される道はない……!」
アンブローズは震え声で言い返した。
「いくらセルジウス様のお言葉でも、ぼくは人を殺したりしません」
「おまえはなにもわかっていないのだ。おまえが逃《のが》したハーマイニアは、必ず村に厄《やく》を起こす。すでにもう……厄が始まっている。早く行け! そしてハーマイニアを殺せ! おまえはわしの言うことだけを信じて動けばよいのだ。わしが知るなと命じたことを知ろうとするなど、愚かなことだ。若者《わかもの》よ、肝《きも》に銘《めい》じるがいい……」
アンブローズはいつものようにうつむいたが、いつものように悲しげにうなずくことは、もうしなかった。首を振ると、黙《だま》って部屋を出ていこうとした。
そのとき……。
廊下《ろうか》のほうから、若者たちの大声が響《ひび》いた。
一弥とアンブローズが顔を見合わせた。あわてて扉《とびら》から外に出る。
巨大《きょだい》な動物の舌《した》が――
赤く分厚《ぶあつ》いものが、どろりとうごめきながら、こちらに迫《せま》ってきていた。
それは――
火だった。
廊下の窓《まど》にかけられた青ビロードの分厚いカーテンが燃え上がり、崩《くず》れ落ちて、生き物の断末魔《だんまつま》のように震えながら床に落ちた。灰色《はいいろ》の絨毯《じゅうたん》に燃え移《うつ》ると、さらに勢《いきお》いを増《ま》しながらこちらに迫《せま》ってきた。
若者たちが口々に、
「火だ……!」
「ハーマイニアが、火を!」
叫びながら走り戻《もど》ってきた。
一弥は目をこらした。生き物の舌のようにうごめく炎《ほのお》の向こうに、松明《たいまつ》を片手《かたて》に掲《かか》げている女の人が見えた。ハーマイニアだ。目玉をぎょろりと剥き出して、首がいまにも床にゴトリと音を立てて落ちそうなほどかたむいている。壊《こわ》れた人形のような姿《すがた》――。
若者たちが、廊下の別の方向に向かって走っていく。
「裏口《うらぐち》から出るんだ! 裏にはまだ火が回ってない!」
一弥は我《われ》に返ると、書斎《しょさい》に走り戻った。若者たちの声が聞こえたらしく、ミルドレッドやブロワ警部《けいぶ》が、あわてて飛び出してきた。一弥はその流れに逆《さか》らって書斎に飛び込《こ》むと、真ん中にぽつんと立っていたヴィクトリカをみつけ、手を引っ張《ぱ》った。
「ヴィクトリカ、火事だ! 早く!」
その後ろから、アンブローズも飛び込んできた。セルジウスに駆《か》け寄《よ》ると、老いた男の杖《つえ》を奪《うば》い取った。背中《せなか》にセルジウスを背負うと、一弥とヴィクトリカに続いて廊下に飛び出した。
廊下には白い煙《けむり》が立ちこめていた。目にしみるので、一弥はヴィクトリカを抱《かか》え込んで、
「君、目をつぶってて!」
自分は目の痛《いた》さを我慢《がまん》して走り出した。
ふとかたわらを見ると、ヴィクトリカは言われたとおりにぎゅうっと固く目をつぶったままで懸命《けんめい》に走っていた。ヴィクトリカは足が遅《おそ》い。セルジウスを背負ったアンブローズに追い抜《ぬ》かれた。それでも、目を閉《と》じたままで一弥に握《にぎ》られた手を頼《たよ》りにしているだけにしては、こわがることなくまっすぐ走っている。一弥の手を握り返す力が強まっていく。
二人はようやく、裏口の粗末《そまつ》な扉から外に転がり出た。一弥は煙に咳《せ》き込みながら、館《やかた》を見上げた。
館は燃えていた。
暗い空に向かって炎がぱちぱちと音を立て、もっと上へ上へと燃え広がっていく。
初めて見たときに巨大《きょだい》な灰色狼《はいいろおおかみ》のように見えたその館は、身動き一つせずうずくまったまま、炎に覆《おお》い尽《つ》くされていく。
「ハーマイニア……!」
セルジウスがおそろしい声でつぶやくのが聞こえた。硬《かた》い土に膝《ひざ》をつき、怒《いか》りに顔を赤黒く染《そ》めて、夜空を見上げていた。深い恨《うら》みの気配が濃厚《のうこう》に漂《ただよ》っていた。
彼を助け出したアンブローズはどこかに去ったらしく、セルジウスは一人だった。
「ハーマイニアよ……! シオドア様を殺しただけでは飽《あ》きたらず、村に火を放つとは!」
目を開けたヴィクトリカがアッと息を呑《の》んだ。一弥がその視線《しせん》を辿《たど》ると、そこには……燃《も》え広がる〈名もなき村〉があった。
家々の屋根や木々や、あらゆるものがちろちろと炎を瞬《しばた》かせて燃えようとしていた。石でできた外壁《がいへき》が、熱を帯びて不吉《ふきつ》な赤色に染まっていた。屋根に葺《ふ》かれた藁《わら》が、ぱちぱちと音を立てて夜空に向かって炎を立たせていた。炎の帽子《ぼうし》をかぶったかのような家々は、村全体を見ると、まるで巨大《きょだい》なシャンデリアが瞬《またた》いているようだった。
村全体が赤く揺《ゆ》らめいている。
広場に村人たちが集まっていた。井戸《いど》の水をくみ出しては、炎にかけている。
アンブローズの姿は見えなかった。
と、広場の遥《はる》か向こうで、若者たちの叫《さけ》び声が響《ひび》いた。口々になにかを言っている。やがて輪の中から、アンブローズがこちらに駆けてきた。長い金髪《きんぱつ》がほどけかかり、肩《かた》にふわふわと垂《た》れていた。一弥たちをみつけると、恐怖《きょうふ》にひきつった顔で叫ぶ。
「ハーマイニアが……ッ!」
一弥たちは駆け出した。
広場を抜けて、シャンデリアのような炎のあいだをすり抜けるように石畳《いしだたみ》の道を走り、村の入り口に辿り着く。アンブローズの震《ふる》える指が、それを指差していた。
村と外の世界をつなぐ唯一《ゆいいつ》の道である、跳《は》ね橋を――。
跳ね橋はいつのまにか下ろされていた。
アンブローズの震える指が、続いて櫓《やぐら》の上を指差した。村の若者《わかもの》が見張りをし、客人がくれば跳ね橋を下ろす……あの石の櫓だ。
炎に照らされる村の中で、そこだけが漆黒《しっこく》の宵闇《よいやみ》に染まっていた。
暗い櫓の上に、誰《だれ》かが潜《ひそ》んでいた。
濃紺《のうこん》の古めかしい衣服。細かい三つ編《あ》みにされた金髪。ぎょろりと剥《む》き出された深緑の瞳《ひとみ》。
――ハーマイニアだ。
一弥たちが見上げていると、彼女がゆっくりとこちらを見下ろした。
ぎょろり、と白目が剥き出される。
――片手に握りしめていた燃える松明を、上に掲げる。ぱちぱちと音を立てて火が爆《は》ぜる。もう片方の手には槍《やり》を握りしめていた。古代の戦士のような不思議な姿で、ハーマイニアはそこにすっくと立っていた。
ほんの数刻《すうこく》。
と……。
ハーマイニアは笑った。白目が剥き出し、口角が裂《さ》けそうなほどに口を開けている。彼女が笑うところを見たのはこれが初めてだった。
ハーマイニアは大きくかがんだ。
かがんで縮《ちぢ》んだ躰《からだ》が、つぎの瞬間《しゅんかん》、倍に感じられるほど伸《の》びた。力を込めてえいやっと飛翔《ひしょう》したハーマイニアは、しなやかな動きでこちらに降《お》りてきた。石畳の上に大きな音を立てて着地すると、一弥たちをぎろりと見る。
剥き出された目玉は、どこを見ているのかわからなかった。
一弥はヴィクトリカを背後《はいご》に庇《かば》った。
「……余計《よけい》なことをしやがって」
ハーマイニアが低い声で言うと、槍を構《かま》えた。
一弥は震えながらヴィクトリカを庇った。アンブローズは驚《おどろ》いたように、ハーマイニアと一弥たちを見比《みくら》べていた。
一弥はハーマイニアを睨《にら》みつけた。
「余計なことじゃありません。ハーマイニアさん、ヴィクトリカは母親の無実を晴らしただけです! あなたは二十年ものあいだ、無実の人を……」
「わたしにとっては余計なことだ」
ハーマイニアは繰《く》り返した。それから首をゴトリと大きくかたむけ、笑顔《えがお》を浮《う》かべてヴィクトリカを見下ろした。笑顔が急に虚空《こくう》に吸《す》い込まれるように消えた。
「コルデリアの娘《むすめ》よ……死ぬまでここにいるがいい!」
一弥ははっと息を呑んで、槍を構えるハーマイニアからヴィクトリカを庇った。だが、ハーマイニアは襲《おそ》いかかってくるのではなかった。
身を翻《ひるがえ》す。
跳ね橋をまっすぐに渡《わた》っていく。
走るハーマイニアの後ろ姿《すがた》が、あっという間に遠ざかっていった。彼女の革靴《かわぐつ》の底がよく見えた。黒い革靴の、黒い底。不吉な色だった。
アンブローズがふいに声を上げた。彼女のやろうとしていることに気づいたらしい。
「ハーマイニア、駄目《だめ》です!」
「……こうすれば追ってこれまい!」
「ハーマイニア!?」
橋を渡り終わったハーマイニアが、こちらを振《ふ》り返った。掲《かか》げた松明《たいまつ》を少しずつ降ろしていく。
次第に村人たちが集まってきた。跳ね橋のあちらには一人、ハーマイニアが立っていた。こちらには村人たちと客人が呆然《ぼうぜん》と立ち尽《つ》くしていた。
アンブローズが叫んだ。
「ハーマイニアは……橋を燃《も》やそうとしているんです!」
一弥は息を呑《の》んだ。
ハーマイニアは松明を橋の真ん中に向かって投げた。炎《ほのお》がちろちろと揺《ゆ》れ、やがてゆっくりと燃え広がり始めた。
村人に支《ささ》えられてセルジウスが近づいてきた。アンブローズが振り返ってなにか言おうとすると、セルジウスはそれを制《せい》し、
「アンブローズ、髪《かみ》がほどけているぞ」
「えっ……?」
言われたアンブローズは虚《きょ》をつかれたようにポカンとした。セルジウスは苛立《いらだ》ち、
「きちんと結べといつも言っておるのに。早く髪を直すのだ」
「セルジウス様……でも、橋が……!」
「橋などなくても困《こま》るまい。わしらがいるのはこの村だ。外に出る必要はない」
アンブローズが短くうめいた。
彼はもう、セルジウスに叱《しか》られたときにいつもするうなだれたポーズをしなかった。まっすぐにセルジウスをみつめ返しただけだった。
橋が燃え広がろうとしている。
馬車が一台ちょうど通れるぐらいの幅《はば》。両端《りょうはし》にある太い紐《ひも》が炎を上げて燃え、橋は支えがゆるくなって上下に細かに揺れ始めていた。木材の床《ゆか》も少しずつ黒く変色し始めていた。一弥が叫んだ。
「ヴィクトリカ、早く! 橋を渡らなきゃ!」
手を引っ張《ぱ》られたヴィクトリカは、怯《おび》えたように一弥の顔を見上げた。
「しかし……」
「橋が落ちたら、戻《もど》れなくなるよ!」
「しかし、橋の向こうには……」
一弥は怯えるヴィクトリカに、諭《さと》すように言った。
「怖《こわ》かったら目をつぶってて。わかる?」
答えを待たずに一弥は走り出した。ヴィクトリカは抵抗《ていこう》せずについてきた。振り向くと、さっき館《やかた》の廊下《ろうか》を走ったときと同じように、ヴィクトリカはぎゅうっと力を込めて目をつぶっていた。小さな鼻にかわいらしい縦皺《たてじわ》が寄《よ》っていた。
それを見て一弥は安心した。それから背後に向かって叫ぶ。
「警部《けいぶ》! ミルドレッドさんも!」
どの顔も恐怖《きょうふ》に青白く染《そ》まっていた。
客人たちは震《ふる》えながら、燃え始めた橋を渡り始めた。
橋は揺れている。
ぱちぱちと音を立てて燃えてもいる。
一弥はそっと下を見た。
遥《はる》か奈落《ならく》の底は夜目には見えず、ただ暗く深いなにかがあるとしかわからない。濁流《だくりゅう》が流れているらしき音が、下から響《ひび》いてきた。
みんなが怯えて足を震わせる中、なぜか一弥だけが平気で橋を渡っていた。振り向いてブロワ警部や、ミルドレッドの恐怖にひきつる顔を見て、一弥は初め不思議に思ったが、やがて一つのことに思い当たった。
(……そうか! ぼくはこういうのに慣《な》れてるんだ。いつも聖《せい》マルグリット大図書館の迷路階段《めいろかいだん》を上がっているから……。確《たし》か、慣れるまではとてもこわかったんだよな……)
橋の途中《とちゅう》まで差し掛《か》かったとき、前方から獣《けもの》の雄叫《おたけ》びのような声が響いた。ヴィクトリカがびくりと肩《かた》を震わせて一弥にしがみついた。フリルの奥《おく》の奥にある小さな体が震えているのに気づいて、一弥は両腕《りょううで》で抱《かか》え込むようにしてヴィクトリカを庇《かば》った。
顔を上げると、鋭利《えいり》な金属《きんぞく》の先端《せんたん》がこちらに迫《せま》ってくるのが見えた。
槍《やり》を構《かま》えたハーマイニアだった。おかしな声を上げてこちらに走ってくる。燃え落ちる寸前《すんぜん》の跳《は》ね橋が、ハーマイニアの動きに合わせて激《はげ》しく揺れた。
ハーマイニアはまっすぐに一弥に……いや、ヴィクトリカに向かってくる。
その横を、警部と彼に連れられたデリク、ミルドレッドの三人が素早《すばや》く走り抜《ぬ》けていった。
槍の先端《せんたん》は不吉《ふきつ》に黒ずんでいた。近づいてくる刃先《はさき》の向こうに、狂《くる》ったように笑うハーマイニアの顔があった。首が右に左に激しく揺れていて、いまにも首だけが谷底にゴロリと落ちてしまいそうだ。一弥はヴィクトリカの小さな体を抱えたまま、後ずさった。燃える橋がぐらりと揺れた。端で炎を上げる太い紐から、一弥の頬《ほお》をちろりと炎が撫《な》でた。
ビシリ……!
槍の先端が、一弥の右腕をかすった。熱い、と思った。腕を見ると、薄《うす》く長く服の袖《そで》が切られ、血が滲《にじ》み始めていた。腕の中を見ると、ヴィクトリカはぎゅうっと目をつぶったままだった。
一弥はふいに、目をつぶったまま走るのがどんなにこわいことなのかに思い当たった。自分はヴィクトリカに、目をつぶってついてきて、と言ったけれど、周りが見えない状態《じょうたい》では、走るどころかそろそろと歩くことさえとてもこわいことなのだ。
それなのにヴィクトリカは、言われたとおり目を閉《と》じ、一弥の手を握《にぎ》ってついてきた。
自分の力を信じてくれているからだろうか……?
もしそうだとすれば、一弥にとってそれは初めてのことだった。ヴィクトリカ以外の誰が……? 父と兄たちには期待され、母と姉にはかわいがられてきたが、これまで誰も、一弥の力を信じて大切なものを預《あず》けてくれた人はいなかった。
(……どうしてもしなきゃいけないことは、ヴィクトリカを助けることだ)
一弥は強くそう思った。
ハーマイニアが槍を握った腕を振《ふ》り上げてきた。
そのたび一弥はヴィクトリカを庇って、右に左に避《よ》けた。
心の中にセルジウスの不吉な声が蘇《よみがえ》ってきた。
(あの占《うらな》いでは、確か……)
セルジウスに告げられた未来……。
〈いまから何年後か……世界を揺《ゆ》るがす大きな風が吹《ふ》く〉
〈その風によって、二人は離《はな》ればなれになることだろう〉
〈いかに思いが強くとも、風には逆《さか》らえまい……〉
〈だが、心は……〉
〈ずっと〉
〈離れまい〉
一弥はごくりと唾《つば》を飲んだ。
(ただの占いだ。当たるものか。こんな中世そのもののような村にずっと住み続けている人に、世界のことが……世界を揺るがす風のことが、本当にわかるはずはないんだ……。だけど、だけどもし……あれが本当なら…………)
一弥はハーマイニアの視線《しせん》に負けまいと、彼女のぎょろりとした目を睨《にら》みつけた。
(あれが本当なら、まだぼくとヴィクトリカが離ればなれになる時はきていないんだ。ここから無事に帰るんだ。聖マルグリット学園に……。いつものぼくたちの場所に……)
槍が、一弥とヴィクトリカの真ん中を狙《ねら》って突《つ》きこんできた。
一弥はヴィクトリカの体を向こうに押《お》して、自分は一歩後ずさった。二人の中間を槍が貫《つらぬ》いた。一弥はヴィクトリカと離れてしまったことに気づいて息を呑《の》んだ。ハーマイニアもそれに気づいた。
ハーマイニアは燃《も》える橋の上でにたりと笑った。
目玉が充血《じゅうけつ》して、真っ赤に染《そ》まっていた。
「まずあんたから……。あんたからにする……!」
一弥に向かって槍を振り上げる。
橋はますます燃えさかっている。
ハーマイニアは一弥が逃《に》げることを見越《みこ》して、一弥の左側――より安全な、炎《ほのお》の少ない場所に向かって、思い切り槍を突き立てた。
だが一弥はとっさに、逆《ぎゃく》――右側に動いていた。そちらにヴィクトリカを一人置いてしまっていたからだ。彼女を庇って立ちふさがるようにした一弥を、振り返ったハーマイニアは不思議そうにみつめていた。なぜそっちにいるのだ? と聞きたそうな顔だった。
ハーマイニアはバランスを崩《くず》した。
槍が突き刺《さ》したのは無人の宙《ちゅう》で、彼女は一弥を刺し殺すつもりで体重をかけすぎていた。
もんどりうって倒《たお》れ、そのまま橋から落ちて、奈落《ならく》の底に落ちていく。
――ぎゃ、あ、あ、あ、ぁ、ぁ、ぁ!
何年|経《た》とうとも忘《わす》れられないようなおそろしい声が遠ざかっていき、やがて遥《はる》か下に呑《の》み込《こ》まれ消えていった。
いまは闇《やみ》に落ちていて見えないが、深い谷底があり遥か下に激《はげ》しい濁流《だくりゅう》が流れていることを、一弥は知っていた。ぞっと背中《せなか》が総毛《そうけ》立つ。
ぱちぱち、ぱちぱち……!
音を立てて橋が落ちようとしていた。もう橋の真ん中のわずかな場所しか歩けない。左右は炎を強くして、火の壁《かべ》となって二人に迫っている。
一弥は我《われ》に返り、ヴィクトリカの手を引いて走りだした。
残り十歩ほどの距離《きょり》を、一弥は火からヴィクトリカを庇《かば》うように抱《かか》え込んで、走り抜けた。あと一歩。
安心した。ヴィクトリカを無事に外に連れ出したのだ。一弥自身の力で。
と……。
――ぐらり!
体が揺れた気がした。
安心したせいだと思った。でもそうではなかった。橋が傾《かたむ》いたのだ。
ついに燃え落ちて、燃え残りが、鮮《あざ》やかな橙色《だいだいいろ》に輝《かがや》きながら奈落に落ちていった。
最後の一歩――。
先にヴィクトリカが地面に足を着いた。
続いて一弥も、地面に足を踏《ふ》み出した――
そのとき、落ちていく橋とともに、一弥の体も傾《かし》いで斜《なな》めになった。振り返ったヴィクトリカの顔がアッと叫《さけ》ぶように変わり、その彼女の顔が視界の下に向かって消えていった。かわりに夜空が――満天の星が輝く夜空が、視界いっぱいに広がった。
一瞬《いっしゅん》とてもきれいだった。
つぎの瞬間、がくんっと体が落下を始めた。
崖下《がけした》に向かって。
満天の星空があっというまに遠のき、断崖《だんがい》と、そのこちら側で大声を上げているヴィクトリカ、ぎょっとしたように一弥を見下ろすブロワ警部《けいぶ》、悲鳴を上げるミルドレッドとアンブローズが見えた。向こう側には中世そのものの聖堂《せいどう》や石造《いしづく》りのアーチなど、美しいが絶望《ぜつぼう》的なまでに時間の止まった村が見えた。まだ炎がくすぶっているようだ。
ヴィクトリカの胸元《むなもと》からあの……麓《ふもと》の町の宿屋で見せてくれた、金貨を鎖《くさり》に通したペンダントがこちらに垂《た》れ下がっているのも見えた。フリルの海から顔を出し、一弥に向かって金貨が迫ってくるようだった。
落ちていく一弥は、その一瞬をとても長く長く感じた。やけに冷静にヴィクトリカのペンダントを観察し、それから(あれ? どうしてアンブローズさんが、橋のこっち側にいるんだろう?)と思った。聞こうとしたが、言葉にはならなかった。がくんっと大きく揺《ゆ》れた後、あっというまに一弥の体は落下を始めた。
すべてが遠ざかっていく気がした。
……急に家族に会いたくなった。
故郷《ふるさと》の空の色や、船で海を渡《わた》ったときに見た荒《あ》れる海面や、聖マルグリット学園の寮《りょう》の部屋に初めて入ったときのこと……。そして、セシル先生に頼《たの》まれて、初めて大図書館の迷路階段《めいろかいだん》を上がった、あの春の日のこと……。
いろいろな情景《じょうけい》が、現《あらわ》れては消えた。
悔《くや》しさとプライドと、申しわけないような気持ちが入り混《ま》じって、一瞬のあいだに一弥を責《せ》めさいなんだ。
思いは、生まれた国へ還《かえ》っていく。
あの国を離《はな》れた理由に……。
(父さん、兄さんたち……ごめん)
一弥は悲しい気持ちになり、つぶやいた。
(ぼくは望まれるような息子《むすこ》に、弟に、なれなかったんだ。だから逃《に》げたんだ。ほんとはこの国に勉強しにきたんじゃない。うちにいるのが辛《つら》かったんだ。父さんたちのそばにいると自分が情《なさ》けなくて……だけど自分のことをこれ以上つまらない男だと思いたくなくて……ごめん。父さんたちのことが嫌《きら》いなわけじゃないんだよ……。それどころか、とてもとても尊敬《そんけい》しているんだ……!)
迷路階段はいつも一弥の心の中にもあった。一弥は迷《まよ》ってしまったのだ。
(どうしたらいいかわからないんだ……。ぼくは自分のことが嫌いになってしまったんだよ。迷って、辛くて、逃げたんだ……。ぼくはとてもつまらない男だ。ヴィクトリカの言う通り、中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才《しゅうさい》で、どうにも凡人《ぼんじん》なんだよ。ぼくはとるにたらない存在《そんざい》なんだ。だから……ぼくなんて……こうやって崖《がけ》から落ちちゃっても…………)
視界《しかい》を金色の蝶《ちょう》がよぎった気がした。
木漏《こも》れ日に薄羽《うすはね》の透《す》ける、小さな蝶……。
昔見たことがある……。
一弥は涙《なみだ》ぐんだ。
(落ちちゃっても仕方ないんだ……ぼくなんて…………)
金色の蝶が……。
(ヴィクトリカを助けただけでも、すごいことだよ……。だから…………)
遠ざかっていくヴィクトリカや、ミルドレッド、アンブローズなどの顔。
しかし、遠ざからないものが一つだけあった。大切なはずの彼女の金貨のペンダントだ。それは遠ざかるどころか、どんどん近づいてくる。ヴィクトリカの胸元から離れて。一弥は、ペンダントの古い鎖が切れて、自分と一緒《いっしょ》に谷底に落ちていくのだと気づいた。
ヴィクトリカの大切なペンダントなのに……!
なにか叫びながらヴィクトリカが手を伸《の》ばした。ペンダントを拾おうとしている。
(君まで落ちるなよ……。ぼくはいいんだけどさ。君はさ……気をつけないと……!)
そう思った、つぎの瞬間……。
――がくんっ!
体が揺れた。
一弥の頭が真っ白になった。なにがなんだかわからなくなった。誰《だれ》かに強く体を揺らされて夢《ゆめ》からとつぜん醒《さ》めるときのようだった。
視界が……
ぐるり。
回転して、つぎの瞬間《しゅんかん》、一弥の目の前は暗く固い断崖《だんがい》に包まれた。
「……久城!」
上のほうから誰かが自分を呼《よ》んでいた。
一弥は顔を上げた。
頭上にヴィクトリカがいた。うーん、うーん、と力を込めているような不思議な顔をしていた。薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》が苦しそうに真っ赤になっていた。どうして上にいるのかな、ヴィクトリカはとても小さいのに、と思った。
手を見る。
自分が彼女に手を引っ張《ぱ》られていることに気づいた。
一弥は断崖に宙《ちゅう》ぶらりんになり、地面にしゃがみこんだヴィクトリカに片手《かたて》をぎゅうっと掴《つか》まれていた。
目の前は断崖で、かすかに土の匂《にお》いがした。
遥《はる》か下からは水音がした。
濁流《だくりゅう》の流れる激《はげ》しい音だ。
――ヴィクトリカは、むんっと歯を食いしばっていた。
一弥はその手を見た。
小さな両手が懸命《けんめい》に一弥を引っ張り上げようとしている。でもヴィクトリカの力はとても弱い。小さな椅子《いす》一つ、自分ではなかなか持ち上げられないぐらいなのだ。
「ヴィクトリカ……大事なペンダントが落ちちゃったよ」
彼女は歯を食いしばっていて、返事をしなかった。一弥は、ヴィクトリカが手を伸ばした理由が、ペンダントを拾うのではなく、ほかならぬ自分の手を掴むためだったのだと気づいた。
ヴィクトリカが力を込めている手を、みつめる。小さな手の甲《こう》は、血の気をなくして紫色《むらさきいろ》に染《そ》まっていた。ヴィクトリカが真珠《しんじゅ》のように小さくて白い歯を食いしばりながら、叫《さけ》んだ。
「……なにしてる、久城! 上がってこい! バカ!」
「でも、ぼくなんて……」
「無駄口《むだぐち》叩《たた》かずに上がってこい。バカで中途半端な秀才で凡人でどうしようもないならず者で歌の下手な死神の久城!」
「……ならず者じゃないよ……多分」
「早くしたまえ!」
一弥は自分の手を必死で引っ張るヴィクトリカを、とても不思議そうに見上げた。どうしてこんなに一生懸命なのかなぁと思った。ふいに気づいて、
「ヴィクトリカ、君……」
「なんだ!?」
「手、痛《いた》くない?」
「……………………痛くない」
ヴィクトリカは言った。
「痛いだろ?」
「……………………痛くない」
「でも……」
「痛くないったら、痛くないのだ!」
むきになったように繰《く》り返すその顔を、じっと見上げる。
(……あ!)
一弥はふと思った。
(痛くないはずない。ヴィクトリカはすごく痛がりなんだ。ヴィクトリカが……嘘《うそ》をついてる。初めて見たな……。嘘をつくところなんて。あれれ、へんな顔だなぁ……)
ほっぺたはいつもよりふくらみ、エメラルドグリーンの瞳《ひとみ》が水っぽく潤《うる》んでいる。
「久城、早くしろ!……なにを笑ってるのだ! 早くしろと言っているのだ!」
一弥は急に我《われ》に返った。ヴィクトリカの小さな足が、ずるずると崖《がけ》に近づいてきている。このままでは自分も一緒《いっしょ》に落ちてしまいそうになっているのに、それでもヴィクトリカは、一弥の手をどうしても離《はな》そうとしない。
「一緒に帰るんだ。こないだも言ったぞ。一緒に帰るんだ。こないだもわたしはそう言った。言ったのに」
「……うん」
「早くしろバカならず者|音痴《おんち》の死神!」
「ごめん、そうだよね……ヴィクトリカ」
「なんだぁぁぁぁ!」
ヴィクトリカが怒《おこ》っていた。一弥は妙《みょう》に神妙に、
「あのね……ありがとう」
「ばかぁぁぁぁ!!」
「……へへへ」
[#挿絵(img/02_361.jpg)入る]
一弥はもう片方《かたほう》の腕《うで》を伸《の》ばして、地面から突《つ》き出た木の根っこを掴んだ。ぐうっと力を込《こ》めると、なんとか自分の体を少しずつ引き上げることができた。
ゆっくりずるずると地面に近づいていく。ヴィクトリカの小さな息づかいが、やけに耳に響《ひび》く。遠くでぱちぱちと炎《ほのお》の燃《も》え広がる音もする。一弥はようやく、自分の体をちゃんと地面まで引き上げた。
息をつく。
そのまま眠《ねむ》ってしまいたいぐらい疲《つか》れていた。
一弥は大きく深呼吸《しんこきゅう》した。息を吐《は》くと、ついさっきまで囚《とら》われていた悲しい気持ちも、体の外に出ていくようだった。
膝《ひざ》をついて、はぁはぁと息をする。
やがて一弥は顔を上げた。かたわらにうずくまっているヴィクトリカをみつめる。
ヴィクトリカは地面にぺたりと座《すわ》り、小さな両手を開いていた。じいっと手のひらを覗《のぞ》き込んで、不思議そうな顔をしていた。
一弥もその手のひらを覗き込む。
ヴィクトリカの手は真っ赤に腫《は》れ上がっていた。重いものなど持ったことのない肌《はだ》はとても弱いらしく、火傷《やけど》でもしたように痛々しくふくれていた。
「……ヴィクトリカ」
一弥の視線《しせん》に気づくと、ヴィクトリカはあわてて両手を背中《せなか》に回して隠《かく》した。そして一弥の腕の傷《きず》からも血が流れているのに気づくと、また不思議そうにそれをみつめ始めた。
「ヴィクトリカ、あの……」
一弥がなにか言いかけると、ヴィクトリカは怒ったように鼻を鳴らした。そして一弥にくるりと背を向けると、小さくつぶやいた。
「久城、君、落ちてもいいやと思っただろう」
「えっ、えっと…………」
ヴィクトリカの声はとても怒っていた。一弥は頭を掻《か》いた。なんと答えようか困《こま》っていると、ヴィクトリカは怒った声のままで短く言った。
「落ちたら駄目《だめ》だ」
「……そうだよね」
「………………………………ばか」
ヴィクトリカは聞こえないぐらいの小さな声でつぶやいた。
夜の帳《とばり》が降《お》りる頃《ころ》、村から上がっていた炎は鎮火《ちんか》した。それからしばらくすると、麓《ふもと》のホロヴィッツから迎《むか》えの馬車がやってきた。暗い中で、老いた御者《ぎょしゃ》は〈名もなき村〉を襲《おそ》った異変《いへん》には気づいていないようだった。ただ一弥たちの顔ぶれ――一弥、ヴィクトリカ、ブロワ警部《けいぶ》、デリク、ミルドレッド、それにアンブローズの六人を見渡《みわた》すと、首をかしげてつぶやいた。
「六人乗せてきて、また六人乗せて戻《もど》るにはちがいねぇけど……この顔ぶれだったかね?」
馬車に乗るとき、アンブローズは迷《まよ》うように村のある窪地《くぼち》を振《ふ》り返った。宵闇《よいやみ》に沈《しず》む窪地は人が住んでいることを感じさせず、頑固《がんこ》な老人のように身動き一つせず、ただそこに在《あ》った。
アンブローズがつぶやいた。誰にともなく、いいわけのように。
「橋が燃え落ちるのを見ていたら、つい……火の中を渡ってしまったんです。ぼくはずっとあの橋を渡りたかったんです。ブライアン・ロスコーによって外の世界のことを知ったときから……。〈名もなき村〉が唯一《ゆいいつ》の世界ではないと知ったときから……。ぼくだけが、ここを終《つい》の棲家《すみか》だと思えなくなってしまったのです」
それだけ言うと、アンブローズは胸《むね》を張《は》って馬車に乗り込んだ。髪《かみ》を結んでいた麻《あさ》の紐《ひも》に手を伸ばすと、さっとほどいて、馬車の窓《まど》から投げ捨《す》てた。絹《きぬ》のようにたおやかな金色の髪がふわりと広がって、品のある女性《じょせい》的な美貌《びぼう》の上にこぼれ落ちた。
ヴィクトリカが小さな声で言った。
「外は……いい」
一弥がかすかに息を呑《の》んだ。ヴィクトリカの小さな手をそっと握《にぎ》りしめた。ブロワ警部は知らんぷりをしていたが、ちらりとだけ腹違《はらちが》いの妹を見て、
「もう二度と出られないかもしれないぞ。こんな騒《さわ》ぎを起こしたのだからな……」
「それでもわたしは満足だ」
ヴィクトリカが返事をしたので、一弥は驚《おどろ》いた。この不思議な距離《きょり》のある兄妹が、まともに会話らしきものをしたのは、これが初めてだったのだ。それが棘《とげ》のある、そして不吉《ふきつ》な内容《ないよう》だったとしても。
「わたしはコルデリアの無実を証明《しょうめい》した。娘《むすめ》は母の名誉《めいよ》を守らねばならない」
「……ふんっ!」
ブロワ警部が鼻を鳴らした。
「たとえ、コルデリア・ギャロが生まれた村を追われた理由が冤罪《えんざい》だったとしても、あの女が先の世界大戦でさまざまなことを引き起こしたことに変わりはない。その血を引く娘に自由が与《あた》えられないことにも、変わりはないだろうがな」
「父親の受け売りだろう?」
「なっ!?」
ブロワ警部はおそろしい顔をして、小さな腹違いの妹を睨《にら》みつけた。ヴィクトリカはおそれる様子もなく静かに視線を返した。
馬車の中は静まり返った。
そして、箱型馬車はきたときと同じように激《はげ》しく揺《ゆ》れながら、蹄《ひづめ》の音を立て、急|勾配《こうばい》の山を降り始めた。
「あの村はこれからどうなるんでしょう?」
一弥が誰《だれ》にともなくつぶやいた。
向かい側に座《すわ》っていたアンブローズが答えた。
「さぁ……。きっと、跳《は》ね橋をもう一度作るのにしばらく時間がかかると思います。でも、これまでと同じように……これからもあの暮《く》らしを続けるのでしょう」
彼の顔は青白く憔悴《しょうすい》しきっていた。
「アンブローズさんは……」
「ぼくは……ずっと外の世界に憧《あこが》れていたので。どうなるかはわかりませんが、外で生きていきたいと思います」
黙《だま》り込んでいたデリクが、甲高《かんだか》い声で苦々しげに言った。
「外がそんなにいいかねぇ? 君らはあの骨董《こっとう》の価値《かち》がわかっていないんだよ。あげくにたくさん燃《も》やしてしまうし」
ミルドレッドが思い出したようにため息をつく。
「そうだ。あの火事って、つまりお金が燃えてたってことだよね。憂欝《ゆううつ》になるよ……」
デリクの頭をブロワ警部が小突《こづ》いた。あきれたようにため息をついて、デリクに説く。
「デリク、おまえはその骨董の村の掟《おきて》で裁《さば》かれるところだったんだぞ。どう考えても、ソヴュールの法律《ほうりつ》よりも残虐《ざんぎゃく》な刑《けい》が待っていたと思うがね。あの斧《おの》を見たかね? 錆《さ》びついて切れ味の悪そうな中世の斧で首を落とされるなど、ぞっとしないか? きっとなかなか首が落ちずに、何度も斧を振り下ろされて、絶命《ぜつめい》するまで、長く苦しむにちがいない……」
自分で口にした言葉に自分でぞっとしたように、ブロワ警部は黙り込んだ。
しばらく馬車の中に沈黙《ちんもく》が流れた。
山道を下る馬の蹄の音が、規則《きそく》正しく聞こえてきた。大きく揺れ、がたごとと音を立てる。やがてブロワ警部がぼそりと言った。
「それにしても、セイルーン王国ってなんだろうな」
「……セイルーン?」
ヴィクトリカが聞き返した。
警部はあわてて一弥のほうを向いた。もうこれ以上は妹と会話する気がないらしい。いつものように一弥に向かって話し出す。
「デリクの処分《しょぶん》について、村長と言い合いになったときにだね、彼が妙《みょう》なことを言ったのだ。『ここはソヴュール王国ではない』『村ではない』と。続けて彼は誇《ほこ》らしげに言ったのだ。『ここはセイルーン王国で、わたしは国王だ』と」
警部は肩《かた》をすくめた。
「……勝手に国名をつけて山奥《やまおく》に住まれてもだね、話にならないだろう。ここはソヴュールの国土なのだから。まったく頭のおかしなやつらだよ。……おっと、失礼」
アンブローズの視線《しせん》に気づいて、少しあわてる。
ヴィクトリカが大きくため息をついた。
「そうか。それでなのだな……」
全員がヴィクトリカに注目した。
彼女は物憂《ものう》げに長い金髪《きんぱつ》をかきあげた。それから少し眠《ねむ》そうに瞳《ひとみ》を細め、となりに座る一弥を見た。
「久城、君、覚えているかね? わたしが特別な民《たみ》≠ノついて語ったときのことを」
「あぁ、うん……」
一弥はうなずいた。
「ギリシア神話の神々とか、北欧《ほくおう》の巨人《きょじん》とか、中国の天上人とか……」
「そうだ。そういった文献《ぶんけん》を読んでいて気づいたのが、実際《じっさい》の歴史に――多くは古代史にだが――登場する神の如《ごと》き人々のことだ」
ヴィクトリカはため息をついた。
「その昔、東ヨーロッパの地を制覇《せいは》した森の民。その伝説はいまもなお残っている。バルト海|沿岸《えんがん》の地は数々の外敵《がいてき》に晒《さら》されていたが、その森の民はけして負けることがなかった。彼らは小柄《こがら》で力もなかったが、並外《なみはず》れた知力によって、外敵を下していった。九世紀にはハザール人を、十〜十一世紀にはペチェネグ人を、十二世紀にはポロヴェツ人を下した。そして十三世紀にはモンゴル人の来襲《らいしゅう》をも下した。彼らの敵の多くは、平原から攻《せ》めてくる大柄な騎馬《きば》民族だった。彼らは栄華《えいが》を誇ったが、しかし十五世紀を境《さかい》に、忽然《こつぜん》と姿《すがた》を消した。戦争があったわけではない。ある日とつぜん歴史から消えた。果たして彼らは何処《どこ》へ消えたのか?」
馬車の中はしんと静まり返っていた。
「彼らの名が、セイルーン人だ」
あっ、と誰かが叫《さけ》んだ。
アンブローズがおそるおそる言った。
「そういった歴史のことは知りませんが、村ではぼくたちはセイルーン人だと教えられてきました。ここはソヴュール王国で、村の形態《けいたい》をとっているけれども、本当は村ではなく王国なのだと、子供《こども》の頃《ころ》から……。しかし、けしてそれを言ってはいけないと。その名も口にしてはいけないと。なぜなら迫害《はくがい》され、焼き払《はら》われてしまうからと……」
「そう。彼らは迫害される民なのだ」
ヴィクトリカがうなずいた。
「君たち、十五世紀と言えばなにを思い出すかね? それは異端《いたん》審問《しんもん》と魔女狩《まじょが》りの季節でもあった。小さく、賢《かしこ》く、謎《なぞ》めいたセイルーン人は、その波に呑まれ異端のレッテルを貼《は》られ、やがてバルト海沿岸の小さな王国を保《たも》つことができなくなった。戦争ではなく迫害によって、彼らは追われた。そして十五世紀を境にソヴュールで急速に増《ふ》えたのが、例の〈灰色狼《はいいろおおかみ》〉の伝説だ。森の奥深くに言葉を話す静かなる狼が住んでいる、頭のいい子は灰色狼の子と呼《よ》ばれてしまう……。それは十五世紀にバルト海沿岸を追われたセイルーン人が、ソヴュールの山奥に逃《のが》れて、ひっそりと住んでいたためではないか。そして彼らが〈灰色狼〉と呼ばれたのは、かつて暮《く》らした東欧の森に多く棲息《せいそく》していた狼からきた名称《めいしょう》ではないか。しかしソヴュールに逃れた彼らは、みつかるたびに村を焼き払われ、さらに森の奥に追われていく。やがて子孫《しそん》の数は減《へ》り、伝統《でんとう》と古い村だけが残った。おそらく、それがあの村なのだろう」
ヴィクトリカは低い声で続けた。
「君たち、あの夏至《げし》祭を覚えているかね? 〈夏の軍〉と〈冬の軍〉の戦いを。あれは豊穣《ほうじょう》を祈《いの》るための儀式《ぎしき》で、ヨーロッパ各地に似《に》たような風習がある。しかし〈冬の軍〉だけが馬に乗っていたのはなぜだろう? わたしは一つの仮説《かせつ》を立てることができる。それは、彼らの敵が長く騎馬民族であったからではないか、と。あの儀式は冬を追いやるためのものであるとともに、季節ごとに攻めてくる大柄な騎馬民族を、豊穣なる森から乾《かわ》いた平原に追い返すための儀式でもあったのではないかと」
馬車は山を降《お》り続けている。
大きく揺《ゆ》れている。
ランタンの炎《ほのお》が、ヴィクトリカの顔を照らしたり、暗い影《かげ》に隠《かく》したりを繰《く》り返している。
誰もなにも言わない。
やがてヴィクトリカが、しわがれた低い声で言う。
「どちらにしても、遥《はる》か昔のことだ。我々《われわれ》はいまを生きている。いまを……」
――がたん!
馬車の轍《わだち》が大きな石か木の根っこを踏《ふ》んだらしく、大きく揺れた。
ランタンが激《はげ》しく揺れて、向かい側に座《すわ》るアンブローズの顔を一瞬《いっしゅん》明るく照らし出した。
アンブローズの頬《ほお》には涙《なみだ》が光っていた。
「……いまを?」
小さく聞く。
ヴィクトリカがうなずいた。
「そうか……それなら生きていけます」
そうつぶやいたアンブローズがかすかに微笑《ほほえ》んだ気がしたが、暗くてよく見えなかった。
ミルドレッドが大あくびをした。それからつぶやいた。
「むずかしいことはよくわかんないけどさ、とにかく健康で、あとお金があったら万々歳《ばんばんざい》ってことだよ。いいじゃないのさ。……お金はもっともっとほしいけどさぁ!」
アンブローズがくすっと笑った。一弥もつられて笑顔になった。ミルドレッドはまたあくびをすると、疲《つか》れ切ったように目を閉《と》じた。
がたがたと揺れながら、馬車は山を降り続けている。うねった道を、蹄《ひづめ》を鳴らしながら。
ヴィクトリカが小さくあくびをした。
「……疲れたの? 眠《ねむ》くなった?」
「…………」
ヴィクトリカは無言でうなずいた。それから小声で、
「久城、君、歌え」
「……歌うの?」
「そうだ」
「……なんでだよ? まったく……」
一弥はため息をついた。
それから小声で、得意な童謡を口ずさみ始めた。朗々《ろうろう》と歌っていると、ヴィクトリカがかすかに笑ったような気配がした。
「な、なんだよ?」
「……へたくそめ」
「君もね、ヴィクトリカ」
ヴィクトリカはくすくす笑い続けている。
馬車はまだまだ山を下っている。
ようやく麓《ふもと》の町にたどりついたときは、夜もすっかり更《ふ》けていた。一同は一|軒《けん》しかない宿屋に泊《と》まり、翌朝《よくあさ》出発することにした。宿屋の主人は、アンブローズが金色の髪《かみ》に貴婦人《きふじん》然《ぜん》とした顔つき、そして中世のような服装《ふくそう》をしているのに気づくと、おそろしそうに、
「灰色狼だ……!」
などとつぶやいていたが、アンブローズが屈託《くったく》なく、宿屋の経営《けいえい》やら電話の仕組みやら、玄関《げんかん》の扉《とびら》に吊《つる》してある鳥の死骸《しがい》やら……について質問《しつもん》し続けるたび、おそろしさは消えていくようだった。代わりに面倒《めんどう》くさくなってきたらしく、
「聞き分けのない子供《こども》みたいに、質問|責《ぜ》めにするな。あんた、いったい幾《いく》つだね!」
ついには怒《おこ》りだして、どこかに退散《たいさん》してしまった。
――翌朝はよく晴れていた。登山鉄道に乗り込《こ》み、山を降りて、さらに蒸気《じょうき》機関車に乗り換《か》えて……昼頃《ひるごろ》にようやく、聖《せい》マルグリット学園のあるいつもの村に帰り着いた。
ミルドレッドは、サマードレスの上から重苦しい尼服《あまふく》を着込んで、教会に帰っていった。
「あーあ、しんきくさい生活に戻《もど》るかぁ……」と一言だけ文句《もんく》を言ったが、ぴたりと口を閉じたときにはもう、色鮮《いろあざ》やかなドーリィカールの赤毛も尼服の奥深《おくふか》くにしまい込まれ、顔つきも若干《じゃっかん》引き締《し》まり、一見するとまともなシスターのように見えた。どかどか大きな足音を立てて、歩き去っていく。
ブロワ警部《けいぶ》はデリクを連行して、警察|署《しょ》に向かうために馬車に乗り込んだ。馬車の窓《まど》から振《ふ》り返って一弥たちに、
「とりあえず、学園に戻りたまえ。その後の指示《しじ》は学園側に連絡《れんらく》する」
暗い声に一弥は不安になったが、いまは、この先どうなるのかわからなかった……。
ブロワ警部とデリクを乗せた馬車が遠ざかっていく。ミルドレッドの姿《すがた》はもう見えない。
それぞれがそれぞれの場所に散っていくのだ。
――旅は終わった。
駅舎《えきしゃ》から村の大通りに出ると、初夏に近い風が吹《ふ》いて、心地《ここち》よかった。昼どきの大通りにはたくさんの人が歩いていた。通り沿《ぞ》いの店も活気があり、人の出入りが激《はげ》しい。
乗り合い馬車が通り過《す》ぎ、反対側からは最新式の自動車が飛ばしてきて、がたがたと大きな音を立てている。
アンブローズは珍《めずら》しそうに通りを見回していた。
「……ここが、いま、か」
どこへともなく歩きだそうとする。不安と楽しさの入り混《ま》じった表情《ひょうじょう》を浮《う》かべている。一弥とヴィクトリカがそれを見送っていた。
穏《おだ》やかな風とともに、葡萄《ぶどう》畑から甘《あま》い果実の匂《にお》いと、暖《あたた》かみのある土の匂いが漂《ただよ》ってきた。遠く駅舎のほうから、つぎの蒸気機関車が近づいてくる、汽笛の甲高《かんだか》い音が聞こえてきた。
ゆったりとした、いつものこの村の情景だった。
アンブローズは急になにかを思い出したように走って戻ってきた。一弥を捕《つか》まえると、少しあきれたような顔で耳打ちする。
「……そういえば、占《うらな》いのときに」
「占いって、あの?」
「ええ。あなたと、友達の女の子は……」
「ぼくと、ヴィクトリカ?」
「ええ」
アンブローズは、わからないと言うように首を振って、
「あなたがた、どうして二人で同じ質問をしたんです?」
「同、じ……?」
一弥は首をかしげた。
あのとき――聖堂から出てきたヴィクトリカが、瞳《ひとみ》に涙《なみだ》を溜《た》めて、とても不機嫌《ふきげん》な様子だったことを思い出す。
よほどショックなことを言われたのだろうと思っていたら、彼女は言ったのだ。背《せ》が伸《の》びるかどうか聞いたのだ、と……。
(同じ質問って……。ぼく、ヴィクトリカの背が伸びるかどうかなんて聞いてないけど……)
一弥はしばらく考え込んでいた。
そしてようやく気づくと、あっと叫《さけ》んだ。
(ちがう。逆《ぎゃく》だ……! ヴィクトリカがぼくと同じことを聞いたんだ。本当は背が伸びるかどうかじゃなくて……)
わたしと久城一弥は、ずっと一緒ですか、と……。
答えは一弥と同じだった。
――だから、少し泣いていたのだ。
アンブローズは不思議そうに、
「二人がべつべつの質問をしていたら、未来が二つ聞けたのにと思って。でも、よほど聞きたいことだったのでしょうね。うん……」
それだけ言うと、アンブローズは気軽にぶらぶらと歩き去っていった。
一弥はヴィクトリカのとなりに戻った。その顔をじいっと見下ろしていると、ヴィクトリカが不機嫌そうに、
「……なんだね。じろじろと見て」
「いや、べつに……」
「じゃあ、あっちを向け」
「……君ねぇ!」
また、忘《わす》れていた怒《いか》りがこみあげてきた。
まったく、ヴィクトリカには腹《はら》が立つ。とにかく頭が良くて口が悪くて、どうしたらいいかぜんぜんわからない。一弥ではなく、ヴィクトリカのほうがおかしいのだ。ばかにされるし、こき使われるし、そのくせ邪魔者扱《じゃまものあつか》いされるし。それに……。
それに……。
(……二人で無事に帰ってこれて、よかった)
まぁ、そういうことだ。
――それから一弥は、遠ざかっていくアンブローズを見送った。
〈名もなき村〉で見たときは、古風な服装《ふくそう》も礼儀《れいぎ》正しい態度《たいど》もいかにもあの村の住人らしく、ただ瞳の輝《かがや》きだけが、彼の生き生きとした内面を物語っていた。だがいま現代《げんだい》の大通りを歩いていくアンブローズは、歩くごとに、ポケットに手を入れ、口笛を吹き、ゆったりと歩き……あっというまに周囲の空気に溶《と》けこんで、大通りの情景の一部になっていた。服装も、彼の態度の変化につれて、妙《みょう》なものには見えなくなっていった。アンブローズとすれちがった村娘《むらむすめ》が、素敵《すてき》な人だわ、と感嘆《かんたん》するように振り向いて彼を熱心にみつめた。それに気づいたアンブローズは、少し恥《は》ずかしそうにだが、愛想《あいそ》よく村娘に会釈《えしゃく》した。
――あっというまの順応《じゅんのう》だった。
暖かな春風が吹《ふ》いた。
彼のほっそりとした背中にかかる、絹《きぬ》のように輝く長い金髪《きんぱつ》が、風に揺《ゆ》られてふわりと舞《ま》い上がるのが見えた。
風が止んだときにはもう、アンブローズの姿《すがた》は消えていた。通りのどこかで曲がり、歩き去っていったのだろう……。
一弥が少し心配そうにつぶやいた。
「アンブローズさん、これからどうするんだろう?」
ヴィクトリカはしばらく黙《だま》っていた。瞳には憧憬に似《に》た不思議な光が湛《たた》えられていた。自由を得たアンブローズをうらやんでいるようにも見えたが、彼女はそれについてはなにも言わなかった。ただ一弥の問いに、短く答えた。
「生きていくのだろう。コルデリア・ギャロもそうしたように」
それが、旅の終わりだった。
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[#改ページ]
エピローグ 友達
よく晴れた午後――。
だいぶ初夏に近づいた日射《ひざ》しが、大通りの乾《かわ》いた土の上に照りつけて眩《まぶ》しく輝いている。木骨組《もっこつぐ》みの家々に絡《から》まる蔦《つた》も、二階の窓辺《まどべ》から垂《た》れている赤いゼラニウムの花も、日射しを反射《はんしゃ》してきらきらとしている。
穏《おだ》やかで過《す》ごしやすい、昼下がり。
村の一角にある小さな郵便局《ゆうびんきょく》の扉《とびら》がゆっくり開いて、聖《せい》マルグリット学園の制服《せいふく》に身を包んだ小柄《こがら》な東洋人の少年が出てきた。制帽《せいぼう》を律儀《りちぎ》にかぶり直し、背筋《せすじ》を伸《の》ばして歩きだす。
その手には、国際郵便で届《とど》いたらしい小さな四角い小包が握《にぎ》られていた。
郵便局の向かい側にある小さな花屋さんから、同じ制服に身を包んだ、すらりと背の高い少女が飛び出してきた。金色のショートヘアに、いかにも活発そうに輝く表情《ひょうじょう》――。
少女は少年――久城《くじょう》一弥《かずや》をみつけると、ぱっと顔を輝かせた。
「久城くん!」
呼《よ》ばれた一弥も、少女――アブリル・ブラッドリーに気づくと、笑顔《えがお》になった。
「やぁ、アブリル」
「なにしてるの? あ、今週もまた郵便局にきたのね。それ、故郷《ふるさと》からの郵便?」
「うん。ようやく兄に頼《たの》んでた本が…………わわっ、アブリル!?」
「お小遣《こづか》い? お小遣い? あれっ…………なーんだ」
一弥の手から郵便物を奪《うば》って封《ふう》を開いたアブリルは、中身が東洋の言葉で書かれた古めいた書物なのに気づくと、あからさまにがっかりした。
「……だから、本だって言ったじゃないか。少し前に、長兄《ちょうけい》に送ってほしいって手紙で頼んでおいたんだよ。それがようやく届いたんだ」
一弥は歩きだしながら小声でつぶやいた。
「……ちょっとタイミングがね、遅《おそ》かったけど」
「ふぅん? ね、なんの本?」
「それは、ええと……いや、いいよ。たいしたものじゃないし」
一弥は急に赤くなると、アブリルの手から、その緑色の表紙をした本を奪い取った。
アブリルは不満そうに頬《ほお》を膨《ふく》らませると、本を取り返した。表に裏《うら》にひっくり返してみつめていたが、東洋の言葉はわからないので、仕方なく一弥に本を返す。
――二人の歩く大通りは、日射しのせいか土埃《つちぼこり》が舞《ま》って、少し煙《けむ》たかった。毛足の長い老馬が、ゆっくりと荷馬車を引いていくのとすれちがった。山ほどの干《ほ》し草を積んだ荷馬車から、あたたかくて少し甘酸《あまず》っぱい、初夏の匂《にお》いとしか言いようのない香《かお》りがした。
学園に近づくに従《したが》って、道は少しずつ人気がなくなっていった。家々も減《へ》り、山の中腹《ちゅうふく》に向かってなだらかな傾斜《けいしゃ》が延々《えんえん》と続いている。
「……そうだ、アブリル」
一弥が、本から話題を変えようとするように大きな声を出した。
「あのさ、ぼく、先週いろいろあって……話すととても長くなるからやめておくけど……。のみの市のバザーで会ったシスター、覚えてる?」
「うん」
「あの人、ミルドレッドさんって言うんだけど、知り合いになってさ。バザーに出していた品を一つだけくれるって言われたんで、これ、その……君に…………」
一弥が鞄《かばん》を開けて、中をごそごそと捜《さが》し始めた。君に≠ニ言われた瞬間《しゅんかん》、アブリルの顔がぱぁっと輝《かがや》き、うれしそうに彼の鞄の中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「わたしに?」
「そう。君にと思って。すごく気に入ってたみたいだったからさ……」
鞄の中で、なにか金色のものが不吉《ふきつ》に光った。
アブリルの顔から笑顔が幻《まぼろし》のように消えた。金色のものを握って一弥が顔を上げたとき、そこには、ものすごく怒《おこ》っているようにしか見えない、アブリルのとがらせた唇《くちびる》があった。
「君、こうやって、ほしいほしいって騒《さわ》いでたからさ。これを君に、あげ、よう、と…………アブリル、どうしたの? なんだよ? なんでそんな顔してるんだよ?」
一弥はそれ――こぶし大の[#「こぶし大の」に傍点]、金色の髑髏[#「金色の髑髏」に傍点]をばかみたいに頭に乗せたまま、アブリルとみつめあっていた。
アブリルはじいぃっと一弥を睨《にら》んでいた。ぱっちりとして鮮《あざ》やかな青い瞳《ひとみ》の端《はし》になぜか涙《なみだ》が溜《た》まり始めたので、一弥はあわてて「あの……?」と言おうとした。頭がぶれて、金色の髑髏《どくろ》が落っこちた。ころころ、ころころ……と、なだらかな勾配の通りを、土埃を上げて髑髏が転がり落ちていく。
あわててそれを追いかけていると、背後《はいご》からアブリルの声が聞こえてきた。
「久城くんの、ばぁか!!」
「…………えぇぇぇぇぇ?」
やっとのことで髑髏を拾い上げて、一弥が顔を上げたときには、アブリルはカモシカのようにしなやかな動きで通りを走りだしていた。
一弥は驚《おどろ》いて追いかけるが、アブリルの足は速く、少しだけ距離《きょり》を縮《ちぢ》めるのがやっとだった。学園の前に辿《たど》り着いたとき、アブリルのスカートのはしっこが、例の抜《ぬ》け穴《あな》――彼女が鋸《のこぎり》で枝《えだ》をぶち斬《き》って作ったという――から、学園の敷地《しきち》内へ消えて行くのが見えた。
「待ってよ、アブリル! どうして怒ってるんだよ? ちょっと……」
一弥が大慌《おおあわ》てで抜け穴を通り、細い枝が突《つ》き刺《さ》さったり葉っぱだらけになったりしながら、敷地内に戻《もど》ると……。
「アブ、リ、ル………………あ、セシル先生。その、どうも……」
そこにはアブリルの姿《すがた》はもうなかった。走り去ってしまった後らしく、代わりに、芝生《しばふ》にしゃがんで菫《すみれ》を愛《め》でていたセシル先生と、大きな丸眼鏡越《まるめがねご》しに目があった。
「……久城くん?」
慌てて、体から葉っぱや折れた枝を払《はら》う。セシル先生は不思議そうに一弥を見上げていたが、やがてようやく気づいたらしく、はっと息を呑《の》んで生け垣《がき》の奥《おく》をみつめた。
そこには、あってはいけないもの――人が一人通れるぐらいの小さな抜け穴があった。
「久城くん!?」
「……す、すみません!」
「わたしの菫を踏《ふ》んだ人は…………」
「すみません、ぼくです……」
「そうだわ。先週ヴィクトリカさんが抜け出したときも、この穴から……? あなたとヴィクトリカさんが二人で、正門が開いてたって言い張《は》るから、納得《なっとく》したけど……あなた達、本当はここから出たのね? く、久城くん!」
「す、すみません……」
一弥は頭を下げて何度もあやまった。セシル先生はよほど怒っているらしく、菫が、芝生が、ヴィクトリカさんが、とずっとお説教を続けている。
抜け穴は庭師《にわし》によってすぐに閉《と》じられてしまうことになった。一弥が内心(アブリル、がっかりするだろうなぁ?)と思っていると、木の陰《かげ》から、金色の髪《かみ》がちらりと覗いているのが見えた。
アブリルだ。
先に学園に戻ったものの、一弥が先生に捕《つか》まったのに気づいて様子を見にきたのだろう。
――結局、一弥はセシル先生から「おトイレ掃除《そうじ》を一か月と、夜の外出|禁止《きんし》を一週間」という罰《ばつ》を言い渡《わた》されて、その場を去ることになった。
うなだれて歩きだすと、なにかが頭にぽこんと当たった。
頭をさすりながら、振《ふ》り返る。
走り去っていくアブリルの、すらりとした後ろ姿が見えた。足元に丸めた紙が転がっている。頭に当たったのはこれだろうか……?
拾って開いてみると、やっぱりそうだった。アブリルの丸っこくて細い筆跡《ひっせき》で、こう書かれていた。
〈久城くんへ
抜け穴つくったのはわたしだっていうこと、先生に黙《だま》っててくれてありがと。
……でも、髑髏なんていらない。久城くんはやっぱり、ばぁか、だよ!
[#地から4字上げ]アブリルちゃんより〉
一弥はそのくしゃくしゃの紙をきれいに伸《の》ばして四角くたたむと、胸《むね》ポケットに入れた。
……やっぱり、よくわからない。
「どうしてばぁかなのかわからないから、ばぁかだって、ことなのかなぁ?」
そうつぶやく一弥の周りに、急に強い風が吹《ふ》いて、黒い髪と制服《せいふく》の裾《すそ》を揺《ゆ》らしながら通り過《す》ぎていった。
風が止むと、とても暖《あたた》かく感じられた。
夏が刻々《こっこく》と近づいているらしかった。
「……ま、それに気づいただけでも、君、少しはましになったと言えるのではないかね? ばか者の久城」
――聖《せい》マルグリット大図書館。
二百年以上の時を刻《きざ》んだという古く荘厳《そうごん》な建物。世界大戦の戦火を生き抜いた後は、欧州《おうしゅう》でも指折りの書物庫としてその名を馳《は》せている。
だが、学園の生徒と関係者以外は入れないという秘密《ひみつ》主義《しゅぎ》のため、その存在《そんざい》を知る人は少ない。図書館はいつも静まり返り、埃《ほこり》と塵《ちり》と知性《ちせい》の匂《にお》いだけが充満《じゅうまん》している。
その大図書館の、目がくらむほど高いところへ続く木の迷路階段《めいろかいだん》。一弥はその午後も、一人で階段を何分もかけて上り、いちばん上にいる友達のところに辿《たど》り着いていた。
最上階には眩《まぶ》しい陽光の降《ふ》り注ぐ天窓《てんまど》と、南国の植物や花が生《お》い茂《しげ》る植物園。そして陶人形《とうにんぎょう》そのものに思える美貌《びぼう》の、しかしとても小さな少女がいた。いつもいるようにその日も。いつもとまるで同じように。
少女――ヴィクトリカ・ド・ブロワは、週末の旅などなかったかのように落ちついて、書物の山に埋《う》もれていた。腹違《はらちが》いの兄グレヴィール・ド・ブロワからはまだなんの連絡《れんらく》もなかった。このままなんの咎《とがめ》も受けずにすめば、といったところだが……一抹《いちまつ》の不安は残っている。
陶器のパイプをくわえた小さな口から、白い細い煙《けむり》が天窓に上がっていく。一弥はその煙を頼《たよ》りに、書物の山の中からヴィクトリカの小さな体をみつけだし、となりに座《すわ》った。
「……ばか者とか言うなよ。今日は女の人たちに怒《おこ》られ通しで、本当にめげてるんだからさ」
「自業自得《じごうじとく》だよ、君。くわしい理由は知らないがね」
「ちぇっ!」
一弥は機嫌《きげん》を悪くした。だがヴィクトリカは気にする様子もなく、
「だいたい君はいつも、人のことなどわかっていないくせに、見透《みす》かしたようなことを言ったり、とんちんかんなことで怒って絶交したり、まったく、くだらんやつなのだ」
「な、なんだよそれ!?」
「ふんっ! 己《おのれ》の胸《むね》に聞きたまえよ」
「なんだよ、まったく。……まぁいいや。ヴィクトリカ、これ、いる? なんだかわからないから、ぼくにも、なにに使えとか言えないんだけどさ」
ヴィクトリカは一心にパイプをくゆらしながら大きくて分厚《ぶあつ》い書物に頭を突《つ》っ込んでいたが、一弥に言われて、面倒《めんどう》くさそうに顔を上げた。
ちらりとだけ一弥が差しだすものを見て、また書物に頭を、突っ込もうと、して……。
「……なんだね、それは!?」
一弥は戸惑《とまど》ったように、差しだしていたもの――金色の髑髏を、おずおずと引っ込めた。
「なんだろう。文鎮《ぶんちん》、かなぁ?」
「久城、君はだいたいにおいて、じつにつまらない凡人《ぼんじん》だがね」
「ほっとけよ!」
「ときどき、とつぜん、わけがわからないのだなぁ」
「……それ、誉《ほ》めて、は、ないよね?」
「東洋の神秘《しんぴ》というやつかね? それとも、君だけ特別におかしいのかね?」
一弥はヴィクトリカの毒舌《どくぜつ》が本当に辛《つら》くなってきて、口を閉《と》じた。小声で「ここにおいとくよ……」と、金色の髑髏を床《ゆか》に乗せる。
そのとき、床に置かれたあるものに気づいた。
一弥がプレゼントした、あのインド風の不思議な帽子《ぼうし》だった。やっぱりヴィクトリカは、帽子としては気に入らなかったらしい。代わりにそれは上下|逆《ぎゃく》にされて床に置かれていた。中にウイスキーボンボンやマカロンがこんもりと積まれていた。
――ヴィクトリカが明晰《めいせき》なる知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠ナ考えた末に、帽子はお菓子《かし》入れとして再出発《さいしゅっぱつ》することになったらしい。
一弥は帽子のとなりに髑髏をちょんっと置いた。
……どうも、妙《みょう》な空間になった。
「東洋の神秘と言えばさ、ヴィクトリカ」
「なんだね? 海を越《こ》えてわざわざやってきたばか者で死神の久城」
「……君、いつも、一言も二言も多いよ」
一弥はめげそうになりながらも、鞄《かばん》からある物を取りだした。
あの、郵便局《ゆうびんきょく》で受け取った、長兄《ちょうけい》に送ってもらった本だ。
ヴィクトリカは興味《きょうみ》なさそうに顔を上げたが、ものが本だったので、意外なほど興味を持って奪《うば》い取り、ぱらぱらとめくり始めた。なじみのない言語らしく、額《ひたい》にかわいらしいしわを寄《よ》せて、うむむ……などとうめきながらページをめくっていく。
本には、二人の人間が組み合ったりしている絵がたくさん描いてあった。
「……これはいったい、なんの本なのだね?」
「東洋の格闘術《かくとうじゅつ》についての本だよ。父や兄たちは詳《くわ》しいんだけど、ぼくにはさっぱりわからなくてね。それで長兄に、この本を送ってほしいって頼《たの》んでたんだ」
「格闘術の本を、かね……?」
ヴィクトリカが不思議そうにつぶやき、顔を上げる。
一弥は目をそらした。少しだけ赤面している。
――前回、ヴィクトリカと共におそろしい船に乗り込んでしまい、危険《きけん》な目に遭《あ》った後、一弥は少しだけ後悔《こうかい》したのだった。もともと一弥は、父や兄たちから習った格闘術がどうも苦手で、なんとかしてかかわらずにいようと思っていたのだった。でもあの船の中で、誰《だれ》の助けも期待できずに小さなヴィクトリカと二人きりになったとき、一弥は、あぁ、もっとちゃんと勉強していたらなぁ、と心の底から後悔したのだった。
そんなことを思って、一弥は長兄に手紙で、成績《せいせき》の報告《ほうこく》やらこちらの国のことなどを書いた折り、できれば格闘術の本を一冊送ってほしいと頼んでおいたのだ。
とはいえ、少しタイミングがずれて、長兄の本は、二度目の冒険《ぼうけん》を終えて学園に帰ってきた後で届《とど》いてしまった。
(そういえば、兄さんって昔からそうなんだよなぁ……。ご飯を食べた後でお菓子をくれたり、試験が終わった後で勉強を教えてくれたり。いい人なんだけど、いつも、そうなんだよなぁ……)
そのせいか長兄は、頭もよく姿《すがた》も美丈夫《びじょうぶ》なのに、失恋《しつれん》ばかり繰《く》り返していた。いつだったか、徹夜《てつや》で書いた恋文《こいぶみ》を手に意中の人の家を訪《たず》ねたら、なんと彼《か》の君の祝言の真っ最中だったということがあった。長兄は激《はげ》しい乾布摩擦《かんぷまさつ》でその悲しみを乗り越えたようだ……。
「……手紙も入っているようだぞ」
「えっ、本当?」
一弥はヴィクトリカが差しだしてきた手紙を受け取った。大きなおおざっぱな字で書かれた手紙だった。長兄の字だ。一弥はそれを開いて読み始めた。
〈まったく、どうした風の吹《ふ》き回しだ? 一弥、おまえがこんな本をほしがるなんて。弟と一緒《いっしょ》に首をひねっているよ。しかしいい兆候《ちょうこう》だ。おまえがもっと男らしく、大きな男になってくれればと、父や弟ともしみじみ話していたところだ……〉
ここまで読んで、一弥の心はどよーんと沈《しず》んだ。
〈……ところで、君の優秀《ゆうしゅう》なる成績については、父君はたいへんお喜びになっている。わたしたちも誇《ほこ》りに思っているよ。君が我《わ》が国を出て、外の世界で勉強することを選んだのは正解《せいかい》だったと見える。母君と妹は寂《さび》しがってたいへんだがな。わたしや弟がいても、一弥、おまえがいないとまったくつまらないらしい。えこひいきというやつだ〉
一弥は少しだけ笑顔《えがお》になった。
〈しかし、男にはやらねばならぬことがあるからな。母君や妹にはきつく言っておいたぞ。一弥はいま、男として大いなる成長を遂《と》げている途上《とじょう》。女|子供《こども》が邪魔《じゃま》をするなとな。一弥、一日も早く一人前の男になって戻《もど》ってこい。立身出世、そして国のためになる男になってな。くれぐれも、国の大事とは無関係な、生きている価値《かち》のない男になどなるな。立派《りっぱ》な男になれ。わたしたちも、国のために一心|不乱《ふらん》に働きながら、君の帰りを待っている。――長兄より〉
一弥はため息とともに手紙を閉《と》じた。
遠い目になる。
とつぜん静かになった一弥に、ヴィクトリカが顔を上げて、わずかに心配そうな顔をした。だが、めずらしい東洋の本に興味が戻ったらしく、本に頭を埋《うず》める。
だが、また……。
開いた本の上からそっと顔を出して、一弥を見る。
一弥はまだため息をついている。
ヴィクトリカはしばし首をかしげ、まぁいいかというように、一弥からまた目を離《はな》す。
(……兄さん)
一弥はあからさまにしょんぼりして、階段《かいだん》と植物園のあいだぐらいのところに座《すわ》り、下を向いていた。くよくよと、
(ぼくは、兄さんが望むような……立派な男になんてなれそうにないよ。それに、国の大事に係《かか》わることだけが、人間の価値なんだろうか。本当にそうなのかな……。あぁ、ぼくには……)
――ゴン!
急に後頭部に鋭《するど》い痛《いた》みを感じた。
振《ふ》り向こうとして、体がバランスを崩《くず》した。一弥は「うわあぁぁぁ!?」と悲鳴を上げながら、迷路《めいろ》階段を何段か転がり落ちた。
斜《なな》めに転がったので、あとほんの数センチで遥《はる》か下の奈落《ならく》に落ちそうになった。一弥がなんとか階段にしがみついて起きあがると、ぎゅう、と握《にぎ》ったこぶしを突《つ》き出しながら、びっくりしたようにこちらを見下ろしてるヴィクトリカがいた。
「なんだ、君、まだそこにいたのか」
「……いまの、ヴィクトリカ…………その」
ヴィクトリカは大あくびをして本を置いた。一弥は這々《ほうほう》の体《てい》で階段から這《は》い上がり、
「ヴィクトリカぁ!?」
「……いや、この本の挿絵《さしえ》に描《か》いてある通りに手を出したらだね。たまたま、久城、君がいたのだよ」
「うそだぁ! わかっててやったんだ。おもしろいから……。だろ?」
「むっ。……だったらなんだね?」
「万一ぼくが死んだら、どうするんだよ!」
「……どうもしないが」
一弥は再《ふたた》び、ヴィクトリカのとなりに座った。膝《ひざ》を抱《かか》え、彼女に背《せ》を向ける。お菓子《かし》入れから勝手にマカロンを一つ取って、包み紙をはがし、口に入れる。ヴィクトリカはむっとしたようにそれを見ていたが、文句《もんく》は言わなかった。
やがて一弥が、ぼそっとつぶやいた。
「……嘘《うそ》だね」
「嘘? なにが嘘なのだね?」
「どうもしないっていうのがだよ。ヴィクトリカ、君、ぼくがいなくなったらいやだろ?」
「…………」
ヴィクトリカは返事をしない。
一弥は心の中だけでつぶやいた。
(君、ちょっと涙《なみだ》ぐんでたじゃないか。あの占《うらな》いを聞いたときに)
それだけでは不安なので、付け足してみる。
(それに君は、ぼくを助けてくれた。あのとき君はすごく一生|懸命《けんめい》だった。……そうだろ、ヴィクトリカ?)
でも、口に出してはなにも言わなかった。
――図書館の中も少しずつ日が暮《く》れてきた。
天窓《てんまど》から射し込《こ》む陽光も、寂《さび》しげな静かな日射《ひざ》しに変わっていく。
ヴィクトリカは、いつもそうであるようにそこに座り、書物に読みふけっていた。
となりに座った一弥は、書物の山に体を預《あず》けるようにして、さっきからじっとしている。ヴィクトリカが書物に顔を埋めたままで、ふっと耳を澄《す》ました。
「すぅ……すぅ…………。すぅ」
一弥はかすかに寝息《ねいき》を立てている。ヴィクトリカはあきれたように顔をしかめた。また、知らんぷりして書物を読み続ける。
それから数刻《すうこく》――。
ヴィクトリカが書物から顔を上げた。
「久城、君、眠《ねむ》ったか?」
返事の代わりに、穏《おだ》やかな寝息だけが続いている。
「眠ったか?」
「すぅ……」
「眠ったのか」
ヴィクトリカは繰《く》り返した。
暖《あたた》かな陽光とともに、少し強い風が天窓から入ってきた。植物園に咲《さ》き誇《ほこ》る毒々しい原色の花や大きな棕櫚《しゅろ》の葉が、かさかさと揺《ゆ》れる。
「……本より友達のほうが大事だ」
ヴィクトリカがとつぜん言った。
――眠っていた一弥が、むくっと体を起こした。ヴィクトリカがびくりと肩《かた》を震《ふる》わせる。
また風が吹《ふ》いてきた。二人の金と黒の髪《かみ》を、さらさらと揺らしていく。
「……へへへ」
一弥はうれしそうな顔をした。
一瞬《いっしゅん》おいて、ヴィクトリカの薔薇色《ばらいろ》の頬《ほお》が、少《すこ》ぅしだけ、赤くなった。
[#改ページ]
あとがき
みなさん、こんにちは。桜庭《さくらば》一樹《かずき》です。
『GOSICKU―ゴシック・その罪は名もなき―』をお送りします。一巻に引き続き、ヴィクトリカと一弥が聖マルグリット学園を飛び出しての冒険《ぼうけん》! 今回は山奥の不思議《ふしぎ》な村にたどり着いて、事件を解《と》きながら、ヴィクトリカのおかあさんの謎《なぞ》にも迫《せま》っています。と、その辺《あた》りは本編を読んでいただくとして……ところで……。
あああぁぁ、今回もあとがきのページ数が長いのです。なんと十五ページです。って、そんなに長いの見たことないよ!
ええと、なにを書こうかな……? 前回は『GO→SICK!』と言うことで、友人のちょっと変わった振《ふ》る舞《ま》いなどについて書いたのですが……。
そうだ。先日、榊一郎《さかきいちろう》先生に呼んでいただいて、某《ぼう》専門学校のゲスト講師《こうし》に行ってきました。で、『GOSICK』執筆《しっぴつ》秘話《ひわ》などをもしゃもしゃしゃべってきたのですが……生徒さんはみんな感じがよく、とくに変わったふるまいをする奇怪《きかい》な人もいなかったので、ええと、この話は終わりだ。あっ、四行しか進んでない……。
む……。
いちばんいいのは、途切《とぎ》れなく変わった振る舞いをし続ける人がそばにいてくれることです。そうすればあとがきエピソードの泉がいつも潤《うるお》ってくれるわけです。
しかし……。
頼《たの》みの綱《つな》(?)の狛犬泥棒《こまいぬどろぼう》は、中学教師という仕事柄、春先はとても忙《いそが》しいようなので、いま抜群《ばつぐん》に機嫌《きげん》が悪いのです。さっき、このあとがきを書くに当たって取材をしようと、学校の昼休みをねらって電話してみたところ、
桜庭一樹「最近なにか盗《ぬす》んだ?」
狛犬泥棒「ばか、切るよ」
……本当に切られてしまいました。つ、冷《つめ》た……! よい友達は人生のスパイス。もっと大事にしなきゃいけないと思います。大人げないんだよなぁ、いつも。
仕方《しかた》ないので、今回は〈もう一人の狛犬泥棒〉の話をしようと思います。
狛犬を盗む人はことのほか多いものなのか――よく考えたら、ごく近くにもう一人、同じ罪を犯《おか》した人がいました。では、その人の話をします。意外と近いところにいた人です。
【昭和の狛犬泥棒の話】
わたしの祖父《そふ》です。
母方の祖父です。
このことを思い出したのは、去年の年末のことです。年末に行われる富士見書房の謝恩《しゃおん》会に出席したところ、なぜか会う人会う人に「あれ、狛犬泥棒連れてこなかったの?」と聞かれ(……なんで連れてくるんだよ!)、なんだかわかんないけど頭の中が狛犬でいっぱいになって帰ってきました。
ほろ酔《よ》いで、東京で一人暮らしするマンションのベッドに潜り込んで眠ろうとしたところ、ふと、一つのイメージがぼんやりと、閉じた瞼《まぶた》の闇の先に浮かび上がりました。
白っぽい灰色の、丸っこいラインの、へんなもの……。
へんなものが、二つ……。
あ、眠たい。眠っちゃいそう……。
でも輪郭《りんかく》がはっきりしてきた。んん……? 石っぽいなぁ。あ、顔がある。なんだっけ、これ? これ……。
これ……これ……。
わたしはガバッと飛び起きました。
「――狛犬だぁ!」
めっちゃ目が覚めました。なんというか、ミステリーでふとしたきっかけで、封印されていた幼い頃の忌《い》まわしい記憶が蘇《よみがえ》る……≠ンたいなのがありますが、まさにあれです。
動揺《どうよう》しつつも、だんだん記憶が蘇ってきました。
どうも記憶にあるのは、亡き祖父の部屋のようです。山奥に建てられた邸宅《ていたく》の一室。静かな書斎《しょさい》。祖父は植物学者でした。静謐《せいひつ》で冒《おか》しがたい空気が立ちこめる彼の書斎には、百科事典みたいな分厚い本がズラリと並んでいました。知性と静寂《せいじゃく》にのみ支配された彼の部屋。丈夫《じょうぶ》な造りのチェストの上に、重たそうな本が並んでいました。そして本の両脇《りょうわき》を支えるのは、石でできた、灰色の、ブックシェルフ……。
問題は、どう考えてもそのブックシェルフが市販《しはん》のものではなく、いわゆる本物の狛犬≠セったような気がしてならないことです。
しかし、記憶は後から造《つく》り替《か》えられられることもあると言うし、狛犬、狛犬って思ってたからそういう記憶をいま造っちゃっただけかもしれないし、とわたしは思い返して、とりあえずおとなしく眠ることにしました。
でも翌日になっても、その翌日になっても、やっぱり祖父の書斎《しょさい》にはどうしても、さりげなく狛犬がいた気がしてなりません。
気がしてならないどころの騒《さわ》ぎではなく、だんだん輪郭までくっきり思い出してきました。さりげなく狛犬が……って、ぜんぜんさりげなくないような気もしてきました。
それどころか、ものすごく存在感があったような……。
気になってたまりません。
ちょうど年末だったので、わたしは、実家に帰省《きせい》したときに調べてみようと思いました。
東京から飛行機で一時間ちょっと。十二月某日。空気が澄《す》み、山々の緑に包まれる中、はらはらと牡丹雪《ぼたんゆき》の散るその地に、わたしは降り立ちました――。
[#地から2字上げ]〈つづく〉
……すみません。ごめん。なんだよ〈つづく〉って……。
ほんとは後十ページぐらいこの話が続いていたのですが、さっき担当のK藤さんから電話があって「思ったんだけど、おじいさんの話……もしかするとちょっと長いかもしれない。えーと、そういう説もあるよ?」という指摘《してき》を受けて、いま涙目《なみだめ》でもしゃもしゃ書き直しています。そういや長かった。それに考えてみたら、みんなはわたしの祖父が狛犬を盗んだり、祖母が狛犬のことですごく悩んだりした話にはあまり興味を持ってくれないかもしれないし……。出てくるの、おじいさんとおばあさんと狛犬だけだもん。昔の民話みたい。
それだけじゃなく、美人だけどへんなブラジャーをつけている人の話とか、鼻血を吹き出す人の話もあったほうが楽しいだろうなぁ。……というわけで、この話は【狛犬|劇場《げきじょう》】という題をつけて続き物にしようかといま思ったので、そうします。次巻のあとがきに〈つづく〉!(ごめんなちゃい……)
ここから強引に話を変えて、鼻血を吹き出す人の話をしようと思います。
【走れ! 先輩《せんぱい》】
彼女はわたしが通っている空手道場の先輩で、職業《しょくぎょう》はOLさんです。一巻のあとがきにも書いたように、この人は知的な美人で、しかもすごく強いのですが、鼻血をやたらぷーぷー吹き出します。それだけではなく、考えてみたらもう一つへんな弱点がありました。しかも格闘《かくとう》家にとって致命《ちめい》的な弱点です。
減量《げんりょう》が極端《きょくたん》にへたなのです。
大事な試合の前になると、選手はみんな減量に精《せい》を出します。といってもわたしはもともと体が小さく、最小最軽量なので「死ぬわよ。太りなさい」とか「背を伸《の》ばしなさい。あと五センチほしいわ」(←無理!)などとやいやい言われて一人でのびのびとご飯を食べています。なのでこの時期敵が多いです。というのはほとんどの選手は本来の体重より軽めの級を選んで出るので、一か月で五キロほどの減量をするからです。みんなかなり気が立っています。
こないだのとある大事な試合前、道場の前でポッキーをかじりながら女子高生の後輩と談笑《だんしょう》していたら、びゅんっと音を立てて空から踵《かかと》が降ってきたことがありました。ミュウミュウの三万円ぐらいするぴかぴかのサンダルを履《は》いた、鼻血先輩の右足でした。靴《くつ》のまま蹴《け》るな! かわいい靴でもダメ!
この先輩はほかの人より体重が落ちにくいため、とくに気が立っているのです。まるで手負いの猛獣《もうじゅう》です。しかしわたしは、彼女の減量がへたな理由をじつは知っていました。というかなんとなく察《さっ》していました。
流行のダイエット法を試《ため》すせいです。流行の、とは、たとえば『辺見《へんみ》マリ・ダイエット』(えみりじゃなくて?)とか『低インシュリンダイエット』とか『血液型ダイエット』とかのことです。ちなみに普通は食事を減《へ》らし、運動量を増やして調整《ちょうせい》するのですが、この先輩はなぜか、試合の直前になっても、
鼻血先輩「あぁ、お腹いっぱい!」
桜庭一樹「ええっ! 大丈夫ですか?」
鼻血先輩「うん? 大丈夫だよ? だってわたしA型だもん!」
桜庭一樹「へ?」
鼻血先輩「A型は、おそばはいくら食べても太らないんだよ。へへん!」
こんなこと言ってます。シーイズクレイジー。わたしはそれを聞いたとき一瞬《いっしゅん》だけ、ちゃんと意見せねばと思ったのですが、このまま試合当日になったら先輩はいったいどうなってしまうのだろう? という好奇心《こうきしん》に負けてしまい、「……なるほどー」と引き下がりました。それで試合当日にどうなったかというと、朝、どこからかねぎの匂《にお》いがするので先輩に聞くと「あ、わたし〜。今朝もおそばをたくさん食べてきたから!」と笑顔で言うので、すごくいやな予感がしました。良心の呵責《かしゃく》も感じました。で、計量タイムになりました。先輩は重さが百グラムしかないという計量用のTシャツ姿で、堂々と体重計に乗りました。
ガーン! 三百グラムオーバー。大ショック。(本人以外にはわかってたけど……)
体重オーバーになるとどうなるかというと、もちろん試合には出られません。先輩は優勝候補《ゆうしょうこうほ》の有名選手ですが、出られないものは出られません。で、どうなるかというと、制限時間内に三百グラム分落とすために辺りを闇雲《やみくも》に走り回らなくてはいけません。先輩は仕方《しかた》なく、ウインドブレーカーを着込んで体育館の周りを全速力で走り始めました。口をへの字に曲げ納得できない≠ニいう表情を浮かべたままいつまでもいつまでも走っていました。その姿を見ているうちに、我慢《がまん》できなくなって笑ってしまいました。
桜庭一樹「あははは、先輩、いくらなんでもおそば食べ過ぎですよ。あはははは!」
鼻血先輩「……そう思ってたんなら、言ってよ!」
ものすごく怒っていましたが、自分でもおかしくなったらしく、最後には笑いながら走っていました。で、なんとか三百グラム分落とすことができ、途中《とちゅう》で鼻血は出したものの、先輩は優勝しました。強!
鼻血の人の近況《きんきょう》は、そんな感じです。
ザ・ゴールデンブラジャーはどうしてたっけ? あ……! こないだちょっとだけおかしな振る舞いをしていました。そのことを書きます。
【自由の女神】
彼女はクールビューティー……というにはこわすぎる、黙《だま》っているときに限って白衣の天使と呼んでもいい感じの人です。彼女が勤《つと》める病院の患者《かんじゃ》さんは、きれいで気位の高い彼女のファンになる人と、こわいから苦手に思う人が半々らしいです。どちらの反応ももっともな感じがします。
そんな強面の彼女にも、やはり、妙《みょう》な弱味があります。
都市伝説を信じすぎるところがあるのです。
まだ高校生のとき、彼女はよく、携帯《けいたい》電話のアンテナをぴーんと伸ばして親指と人差し指でやたらこすっていました。そして天に向かって、携帯を握《にぎ》った手を伸ばすしぐさをよくしました。いったいなにをしているかというと、「こうすると電波がよく入る。ほら、アンテナ三本たった!」などと機械に弱いおやっさんみたいなことを自信満々で語っていました。
それにその頃、暗闇《くらやみ》に浮かぶ白いキューブの上を逃げ回る、なんとかいうゲームが流行《はや》っていました。逃げ回るのは男性キャラクターなのですが、彼女は「ある面をクリアするとこれが女性キャラクターに変わり、つぎのステージが始まる」という都市伝説を信じて寝ずにゲーム漬《づ》けになっていました。さらに「それもクリアするとキャラクターが白い犬に変わり、キューブの上から落ちるときに悲しげにキャウーン……と鳴く」というのも言い張っていました。へんなひと。(あと『バイオハザード』の鴉《からす》がなにかに変わるのなんのという説も熱心に語ってたけど、忘れちゃいました……)
まあ、それは高校生のときの話です。いまはもう大人です。わたしもそんなことはすっかり忘れていました。そしてつい先日、彼女と一緒にタカノのフルーツバイキングに行きました。フルーツが食べ放題でおいしいのです。彼女は生ブルーベリーの上にバニラアイスをふんわりかけたものを、ティースプーンでちょっとずつすくっては、うれしそうに頬張《ほおば》っていました。
その日はもう一人友達がくるはずでしたが、仕事で遅れていました。どちらかの携帯にかけてくるだろうから、と、わたしと彼女はそれぞれの携帯をバッグから取り出しました。わたしは自分の携帯をテーブルの隅《すみ》に置きました。ふと気配を察《さっ》しました。なんの気配かというと、彼女が親指と人差し指でなにかを懸命《けんめい》にこすっているような気配です。
やな予感がしました。
おそるおそる顔を上げると、彼女がアンテナをぴーんと伸ばした携帯を握《にぎ》っていました。それから真顔で、その手をまっすぐに伸ばして天に向かって掲《かか》げました。自由の女神のポーズです。目が合いました。
桜庭一樹        「……なにしてんの?」
ザ・ゴールデンブラジャー「なにってなにが? あ、メロンも食べようよ」
桜庭一樹        「うん……。あのさ、前から思って、たんだけど……」
ザ・ゴールデンブラジャー「なによ?」
桜庭一樹        「……いや、その、なにから話していいか………………」
ザ・ゴールデンブラジャー「なによ、悩み事? わたし、聞かないよ」
おまえのそのポーズに悩んでるんだ!
……とはこわくて言えず、おとなしく席を立って、二人分のメロンを取りに行きました。メロンは甘くておいしかったです。
それから、しゃちほこみたいな金色をしたブラジャーについては、どうやら風水的な理由があるらしいということがおぼろげながらわかってきました。……風水ってあなた! ブラジャーの色は普通がいちばんなんじゃないかなぁと……。万一下着ドロに盗まれたときに、どうにも警察に届けづらいような色とは、いかがなものかと思う次第であります。
それと、本家狛犬泥棒、はにゃ〜ん先生が最近どうしているかというと……。
さっきも書いたとおり、中学の新学期を迎《むか》えて忙しいみたいで、殺気立っています。はにゃ〜ん≠ゥらがるるる……!≠ノ変わっています。こわ〜い。
と、これだけで終わると寂《さび》しいので、一応、近況を一つだけ書いてみます。
【薔薇《ばら》の人】
忙しくなる前、狛犬泥棒がわたしを誘《さそ》ったものの、わたしがすでに見てしまっていた映画『キル・ビル』ですが、狛犬泥棒は結局、ほかの子を誘って見に行ったそうです。
その子は狛犬泥棒の同僚《どうりょう》の音楽教師で、わたしも何度か会ったことはありますが、やっぱりふにゃにゃ〜とした、浮世離《うきよばな》れしたお嬢《じょう》さま風のかわいらしい女の人です。最初わたしはその人のことを名字にさん付けで呼んでいましたが、とある奇妙《きみょう》な出来事の後あの薔薇の人≠ニいうへんな呼び方に変わりました。その出来事というのが、狛犬泥棒と薔薇の人が二人で『キル・ビル』を見に行ったときのことなのです。
その日、二人は渋谷で待ち合わせて、連れだって映画館に行きました。しかし、狛犬泥棒が訴《うった》えるには、薔薇の人は映画のかなり前半(ユマ・サーマンの足の裏が大写しになってる辺り)でいきなり立ち上がり、全速力で映画館を走り出ていったそうです。そしてそれきり二度と座席《ざせき》に戻ってくることはなかったそうです。
狛犬泥棒は仕方なく、一人でさびしく最後まで見ました。そしてうなだれながらとぼとぼと映画館を出たところ、出口のところで彼女が待っていました。
なぜか大きな赤い薔薇《ばら》の花束を抱えて。
泣き笑いっぽい、満面の笑みで。
そして、鈴の鳴るようなかわいらしい声で、
「映画があんまりひどかったから、あなたが辛《つら》い思いをしてらっしゃると思って……!」
薔薇の人は映画館を走り出て、そのまま全速力で花屋に走って、財布《さいふ》に入っていたお金を全部使って大きな薔薇の花束を買い、また走って戻ってきたそうです。そして映画が終わって狛犬泥棒が出てくるまで、出口に立って、じーっと待っていたそうです。
わたしはその話を、近所のタイ料理屋さんで狛犬泥棒から聞いて、なんのことやらさっぱりわかりませんでした。でも狛犬泥棒は、「優しい人って好きだなぁ!」と、薔薇の人のことをべた褒《ほ》めしていました。その後なにか言いたそうな顔をしてわたしをじろじろ見ていました。にょ? わたしが優しくないとでも勘違《かんちが》いしてるのかな……?
ちょっと怒りつつ、ジェラりつつ、でもさっぱりわかんない話です。へんなひとー。
ま、そんなへんな人たちのことはいいや……。
そろそろ終わりそうなので、まとめに入ります。
今回も執筆《しっぴつ》に当たって、担当K藤さん始め、関係各位の皆《みな》さんにたいへんお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。
イラストの武田日向さん、今回もかわいいヴィクトリカを描いていただいてありがとうございます。相変わらずほっぺたぷくぷくでむにゅむにゅで、いいです。枕抱《まくらかか》えたねぼけ顔とか、涙をためて頬をふくらませた顔とか、か、かわいい……!「ブロワ警部《けいぶ》のドリル頭はもっとヅガーン! と尖《とが》らせてください」とか、とつぜんへんな注文をつけたりしてご迷惑《めいわく》をおかけしてるかと思うのですが、これからもよろしくです……!!
そしてこの本を読んでくださった読者のみなさんにも、ありがとうございました。一巻に引き続き、楽しんで読んでいただけたなら幸いです。
それと……『ファンタジアバトルロイヤル』の五月号から短編の連載《れんさい》が始まりました。そちらでは、出会ったばかりのヴィクトリカと一弥がわたわたがんばっています。特集記事のほうにソヴュール王国の地図とかいろいろ載《の》っているので、よかったら見てみてください。
そして長編のほうは、続く『GOSICKV』で……ヴィクトリカが○○になったりとか、警部の金色のドリル≠フセンチメンタルな理由が明らかになったりする……予定なので、もしよかったら、楽しみに待ってくれたらなぁ……! と思います。それでは、また〜!
[#地付き]桜 庭 一 樹
底本:「GOSICKU―ゴシック・その罪は名もなき―」富士見ミステリー文庫、富士見書房
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2006年02月05日作成
2006年04月20日校正
2007年08月28日校正
2007年09月27日校正
2009年05月18日校正
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このテキストは、Share上で流れていた
[富士見ミステリー文庫][桜庭一樹] GOSICK T〜V.rar たかしEK8XdD1GHb 68,832,502 b559bd58757bdcf53abb6df176fa0ba7b29977fc
の中の第二巻をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
奥付画像が入ってなかったので、底本の発行年度等は分かりません。
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このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
底本は1ページ17行、1行は約42文字です。
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使用したWindows機種依存文字
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「U」……ローマ数字2
「V」……ローマ数字3
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本131頁
他の章と同じ体裁を採るなら、第三章の第一節であることを示す「1」という数字が章題の後に書かれるはずなんですが、底本では抜けてます。校正ミスによる欠落と思われるので、本テキストでは記入しておきました。