GOSICK
―ゴシック―
桜庭一樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)野兎《のうさぎ》を走らせろ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|匹《ぴき》以上の野兎が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)猟犬[#「猟犬」に傍点]だ
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[#挿絵(img/01_000.jpg)入る]
表紙・口絵・本文イラスト 武田日向
表紙・口絵デザイン 桜井幸子
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目 次
プロローグ 野兎《のうさぎ》を走らせろ!
第一章 金色の妖精《ようせい》
モノローグ―monologue 1―
第二章 暗い晩餐《ばんさん》
モノローグ―monologue 2―
第三章 幽霊船《ゆうれいせん》〈QueenBerry 号〉
モノローグ―monologue 3―
第四章 〈野兎《のうさぎ》〉と〈猟犬《りょうけん》〉
モノローグ―monologue 4―
第五章 ゲーム・セット
モノローグ―monologue 5―
第六章 その手を、離《はな》さない
エピローグ 約束
あとがき
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野原をよこぎって追いかけてゆくと、ウサギがいけがきの下の大きなウサギあなにとびこむのが見えました。
すかさずアリスもそのあとからあなにとびこみましたが、そのときはあなからでてこられるかどうかなど、まったく考えてもみませんでした。
[#地から1字上げ]――『不思議の国のアリス』ルイス・キャロル
[#地から1字上げ]|楠悦郎《くすのきえつお》訳  新樹社刊
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プロローグ 野兎《のうさぎ》を走らせろ!
大きくて黒いものが――
横切った。
犬だ、と子供《こども》は思った。宵闇《よいやみ》にまぎれる、闇のように黒い犬。猟犬[#「猟犬」に傍点]だ。その四肢《しし》はつややかに黒く、二つの目が、闇の中で燃《も》える青い炎《ほのお》のように揺《ゆ》らめいていた。
子供は、黒い森を抜《ぬ》けて、ようやく村道を歩きだしたところだった。お使いにしては遅《おそ》すぎる時間だった。はやく暖炉《だんろ》の燃える暖《あたた》かな我《わ》が家に帰りたかった。近道しようと、村外れのその屋敷《やしき》の庭に一歩入った途端《とたん》、その猟犬《りょうけん》に遭遇《そうぐう》したのだった。
子供は思わず、数歩、後ずさった。
――ぐしゃり。
足の裏《うら》に、いやな感触《かんしょく》がした。柔《やわ》らかく、生暖かい液体《えきたい》をふくんだなにかを踏《ふ》んだ。足元を見下ろすと、ぐじゃぐじゃになった小さな肉塊《にっかい》が落ちていた。赤い肉。血の滴《しずく》を跳《は》ね返す、茶色い毛皮がところどころ見えていた。長いふわふわした耳が肉塊の中から覗《のぞ》いていた。そして、それに埋《う》もれたガラス玉のような丸い瞳《ひとみ》。夜空の暗黒を映《うつ》して、暗く虚《むな》しくこちらを見上げていた。
……野兎だ、と気づいた。
顔を上げた。猟犬の閉《と》じた口蓋《こうがい》から、一筋《ひとすじ》の生々しい血がぼとり、と落ちた。
こいつが食い殺したんだ……!
子供の手から、力が抜けた。ぎゅっと握《にぎ》っていた葡萄酒《ぶどうしゅ》の瓶《びん》が、ゆっくりと地面に落下し、破片《はへん》を飛び散らせた。赤紫色《あかむらさきいろ》の液体が、猟犬の頭にもびしゃりとかかった。
犬は、ズルリ……と、舌《した》なめずりした。
ふいに雷鳴《らいめい》がとどろいた。
白い閃光《せんこう》に、その村外れの屋敷が浮《う》かび上がった。いまは誰《だれ》も住んでいないはずの朽《く》ちた屋敷。そのテラスに、見たこともない姿《すがた》をした何者かが、座《すわ》っていた。
子供は目を見開いた。
頭から赤いリンネルの布《ぬの》を被《かぶ》った人間が、車椅子《くるまいす》に座っていた。その布がかすかにはだけ、頭があるはずの場所にぽっかり空いた暗い空洞《くうどう》が見えた。布の中から、生きている人間のものとは到底《とうてい》思えない、枯枝《かれえだ》のごとく痩《や》せ細り、あまりに老いた手が一本だけ、にょっきりと突《つ》き出ていた。
その手は、金色に輝《かがや》く手鏡を強く強く握りしめていた。ブルブル震《ふる》えていた。
三つの壺《つぼ》――銀の壺、銅の壺、ガラスの壺が置かれ、不気味に輝いていた。
ふいに、老いたしわがれ声が響《ひび》いた。
「一人の青年が、もうすぐ、死ぬ、だろう……!」
子供は息を飲んだ。老婆《ろうば》の声……。まるで、この老婆が口にした不吉なことが、片端から現実《げんじつ》になるような恐怖《きょうふ》を覚えた。声は続けた。
「その死が、すべての始まり。
世界は石となり転がり始める」
誰もいなかったはずのテラスから、無数の男たちの声が響いた。子供は驚《おどろ》いて目をこらすが、雷鳴の瞬間《しゅんかん》に照らされたテラスは、いまは再《ふたた》び、闇に埋もれている。
「どうすれば…」
「我々《われわれ》はどうすれば……」
「ロクサーヌ様!」
「……箱、を」
再び、老婆の声が響いた。
「大きな箱を用意するのじゃ。この庭よりも大きな箱を。それを水面《みなも》に浮かべよ。そして……」
――バリバリバリッ!
雷鳴がとどろいた。
その白い閃光に、テラスと庭が照らされた。
それが浮かび上がらせた光景に、子供は腰《こし》を抜かし、声にならない悲鳴を上げた。
テラスには、赤い老婆と、それを囲む人間たちがいた。人間たちはみな、白い布を被り、手を伸《の》ばして、まるで幽鬼《ゆうき》のようにテラスを彷徨《さまよ》っていた。
そして、庭には……。
たくさんの茶色く丸い塊《かたまり》が、走り回っていた。十|匹《ぴき》以上の野兎が、必死で逃《に》げまどい、それを、さきほどの猟犬が追い回しては噛《か》み殺していた。地面にはいくつもの小さな肉塊が転がり、血溜《ちだ》まりを作っていた。
つぎの瞬間には、雷鳴は去り、再び闇が屋敷と庭を包んだ。
静寂《せいじゃく》。
やがて、テラスから老婆の声が響いた。
「そして……〈野兎を、走らせろ!〉」
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第一章 金色の妖精《ようせい》
それから十年後――。
ヨーロッパの小国、ソヴュール王国。
山脈の麓《ふもと》に構《かま》えられた、名門|聖《せい》マルグリット学園の、豪奢《ごうしゃ》な石造《いしづく》りの校舎《こうしゃ》の一角で……。
「……それでね、海上救助隊が駆《か》けつけたとぎ、その客船にはディナーのお皿にまだ温かい料理が残っていて、暖炉《だんろ》も赤々と燃《も》えていて、テーブルにはカードゲームのカードが並べられていて……なのに、なのによ? だーれもいなかったんだって。船客も、航海士たちも、みんな消えてしまった……。血のついた部屋とか、争った跡《あと》のある部屋もいくつかあったんだけど、とにかく人っ子一人いなくて、ね……」
「うん、うんうん」
校舎|裏《うら》の花壇《かだん》で、二人の生徒が熱心に話していた。
コの字形をした校舎から、中庭に出る小さなドアを開け放ち、三|段《だん》ある石階段の二段目に腰掛《こしか》けている。顔を寄《よ》せている二人の目前には、色とりどりの花が咲《さ》き乱《みだ》れて、春の心地《ここち》いい風に揺《ゆ》れている。
二人の生徒は、小柄《こがら》で生真面目《きまじめ》そうな東洋人の少年と、スラリとした金髪《きんぱつ》の白人少女だ。
少年のほうは、東洋の島国からの留学生《りゅうがくせい》、久城《くじょう》一弥《かずや》。少女のほうは英国からの留学生、アブリル・ブラッドリー。同じクラスになって間もないが、お互《たが》い留学生どうし、気兼《きが》ねなくお喋《しゃべ》りできる仲だ。
アブリルはお話に熱中して、きれいな顔がちょっとユーモラスな寄り目がちになっている。金色のショートヘアが風に揺れている。
[#挿絵(img/01_013.jpg)入る]
「……ところが、よ」
「うんうん」
「救助隊員が船内を調べていたときのこと……。何気なく花瓶《かびん》に触《さわ》った途端《とたん》、どこからかボウガンが飛んできて、あやうく死んじゃうところだったんだって」
「……それどういうこと? 花瓶に仕掛けがしてあったのかな。それとも誰《だれ》かが隠《かく》れていて、たまたま花瓶に触ったときにボウガンを撃《う》ったのかな? それとも……」
一弥が生真面目な顔で仮説《かせつ》を列挙し始めた途端、アブリルがぷうっとふくれっ面《つら》になった。それに気づかずしゃべり続ける一弥の口を、アブリルが白い手のひらをひるがえして、ふさいだ。
「……むふっ!?」
「いいから聞いてよ。ここからが肝心《かんじん》なんだからね。まったくもう、久城くんって真面目なんだから、つまんない」
「……すみません。続けて、アブリル」
一弥はいまいち納得《なっとく》できないまま、相手が女の子なので、つい謝《あやま》る。
「いい? 救助隊は海上|警察《けいさつ》に連絡《れんらく》して、船を調べようとしたんだけどね、船底から浸水《しんすい》していて、詳《くわ》しく捜査《そうさ》するひまもなく、その客船――〈QueenBerry 号〉は、あっというまに、海底に沈《しず》んでしまったのよ。波|飛沫《しぶき》を上げ、大きな不吉《ふきつ》な音とともに、暗い暗い海の底へ……!」
「それは大変だったね」
「だけどね……」
アブリルは、一弥のじいさんみたいな合いの手にめげず、盛《も》り上げようと声を張り上げた。
「十年前に沈んだはずのその船、〈QueenBerry 号〉は、それからも現《あらわ》れるのよ」
「現れないよ。だって沈んだんだろ?」
「うるさい。黙《だま》れ一弥」
「……すみません」
「嵐《あらし》の、夜。霧《きり》の向こうから突如《とつじょ》現れるその船には、いなくなったはずの人々が乗っているのよ。そして生者をうまく誘《さそ》いこみ、生け贄《にえ》として、船とともに沈、め、………………」
アブリルが声を低くしたので、一弥も息をひそめてじいっと待った。
と、アブリルが急にその蒼《あお》い瞳《ひとみ》を見開き、
「……るのだった! きゃあ――――――――――ぁ!!」
「ぎゃあああ!!」
「あはははは。久城くんひっかかったー。悲鳴上げたー。男の子なのにー。軍人の息子《むすこ》なのにー。怪談《かいだん》で悲鳴上げたー。あっはははー!」
勝ち誇《ほこ》るアブリルに、一弥は「く、くそぅ」とうなだれた。
思わず上げてしまったおおげさな悲鳴にくよくよ悩《なや》んでいると、アブリルは立ち上がって、お尻《しり》についた埃《ほこり》をぽんぽんはたいた。制服《せいふく》のプリーツスカートが揺れて、長くて真っ白な足がちらちら見えた。
天気は快晴《かいせい》で、校舎裏の石階段にも眩《まぶ》しく陽光が降り注いでいた。一弥は眩しそうに目を細めた。
アブリルが楽しそうに、言った。
「さっ。そろそろ教室にもーどろっと。いやぁ、久城くんって意外とこわがりなんだねぇ。成績《せいせき》もいいし、いつも真面目な顔してるし、いかにも軍人一家の男の子って感じー、と思ってたけど。いやはや、意外や意外〜♪」
あまりにも無邪気《むじゃき》に勝ち誇っているアブリルに見下ろされ、一弥はますますうなだれた。
「わたしの勝ちね。いやっほぅ!」
と、スキップしながら校舎に入っていく後ろ姿を見送りながら、固く心に誓う。
(うぅ。絶対《ぜったい》にもっとこわい怪談を仕入れて、アブリルに披露《ひろう》してやる。でもってきゃああああ、と悲鳴を上げさせねばならん。この借りは返すぞ。帝国《ていこく》軍人の三男の名にかけて!)
悔《くや》しがりながらも、一弥はアブリルに続いて校舎《こうしゃ》に入っていった。
――教室に入ると、いつものことながら、そこにいるのは十五|歳《さい》の、白人の、貴族《きぞく》の子弟《してい》たちばかりだった。
上質《じょうしつ》なオーク材で贅沢《ぜいたく》に造《つく》られた机《つくえ》が並《なら》び、その机に一人ずつ、やけに上等なカフスやネクタイピンを輝《かがや》かせた少年や、手入れの行き届《とど》いた髪《かみ》や爪《つめ》をした少女が、座《すわ》っている。白い肌《はだ》に、スラリと伸《の》びた手足。どの顔もつんと取り澄《す》ましている。
ここにいると、いかにも生真面目な東洋人少年、久城一弥はかなり浮いていた。現に、一弥が教室に入ってきた途端《とたん》、クラスメートたちはちらちらと一弥を遠巻《とおま》きにしながら、ささやいている。
「死神だ……」
「戻《もど》ってきたぞ……」
優雅《ゆうが》なフランス語でそう呟《つぶや》くのが聞こえ、一弥はますますふてくされた。
時は一九二四年――。
ヨーロッパの小国、ソヴュール王国。
スイスとの国境《こっきょう》は、なだらかな山脈と心地《ここち》よい高原。フランスとの国境は、のどかに広がる葡萄《ぶどう》畑。イタリアとの国境は、地中海に面した騒《さわ》がしい港町。細長い形状《けいじょう》をした国土の一端は、自然|豊《ゆた》かなアルプス山脈の奥《おく》、もう一端は貴族の避暑地《ひしょち》として知られるリヨン湾《わん》に面している。周囲を列強に囲まれながらも、世界大戦を生き抜《ぬ》いたソヴュール王国は、過《す》ごしやすい気候と豊かな自然、そして長く荘厳《そうごん》な歴史を誇っていた。
その王国の、リヨン湾を豪奢《ごうしゃ》な玄関《げんかん》とするなら、アルプス山脈は、もっとも奥深い場所にある、秘密《ひみつ》の屋根裏部屋と言えた。その山脈の麓《ふもと》に、王国そのものほどではないが長い歴史を誇る、聖《せい》マルグリット学園が建っていた。貴族の子弟のための教育機関として、王国に名をとどろかす名門学園。緑に囲まれた過ごしやすい環境《かんきょう》と、空中から見るとコの字形をした荘厳な石造《いしづく》りの校舎は、貴族の子弟である生徒と、教育者のみが出入りでき、一般《いっぱん》には門戸を閉《と》ざす秘密主義の学校でもあった。
しかし、その聖マルグリット学園は、先の大戦――各国を巻き込《こ》み初の世界大戦となった――終結後、同盟《どうめい》国から優秀《ゆうしゅう》な生徒を留学生《りゅうがくせい》として受け入れることを始めた。
極東の島国からやってきた十五歳の久城一弥は、成績|優秀《ゆうしゅう》で、軍人一家の末っ子。兄二人は歳《とし》が離《はな》れており、すでに一人は学者、一人は政治家《せいじか》の卵《たまご》として活躍《かつやく》していた。そこを考慮《こうりょ》され、留学生として選ばれた。そして半年前に一人、ソヴュールにやってきたのである。
しかし、期待に胸《むね》躍《おど》らせてやってきた一弥を待っていたのは、貴族の子弟たちの偏見《へんけん》や、学園中に蔓延《はびこ》る謎《なぞ》の怪談。
一弥の強面《こわもて》な雰囲気《ふんいき》は、生真面目で善良《ぜんりょう》な性格《せいかく》からくるものなのだが、なぜか怪談ネタにつなげられてしまい、いろいろと苦労の多い半年だったわけである。……それはまた別の機会に。
授業《じゅぎょう》の開始を告げる鉄鐘《てっしょう》が鳴り響《ひび》いた。一弥はほかの生徒たちと同じく席に着くと、ふと、窓際《まどぎわ》の空席に目をやった。
ここ半年のあいだ、一度も、その席の主が教室にいるところを見たことがなかった。いつも必ず空いている。なのにクラスの誰もが申し合わせたように、その席に座ったり、近づいたり、物を置いたりはしないのだった。まるでなにかを恐《おそ》れるかのように。
いまでは一弥も、なにを恐れているのかわかっているけれど。
――教室に担任《たんにん》の先生が入ってきた。童顔で小柄《こがら》な女性。大きな丸|眼鏡《めがね》に、ふわふわのブルネット。いつも本や参考書を両手で胸の前に抱《かか》えて、まるで小犬のように小首をかしげている。
その担任――セシル先生は、教壇《きょうだん》の前に立つと、一つため息をついた。
(……あれっ?)
一弥は、セシル先生が元気がないことに気づく。
と、そのとき後ろのほうの席から丸めた紙が投げられてきて、頭にポコンと当たった。拾って広げてみると、英語でサラサラと、
〈今夜、一人でトイレ行ける〜? こわがりの久城くんへ アブリルちゃんより〉
振り返ると、アブリルがにこにこ手を振っていた。ご機嫌《きげん》だ。……一種の愛情表現《あいじょうひょうげん》だろうか?
――授業が終わると、セシル先生は教室を出ようとして、ふと足を止めた。
「久城くん、ちょっとちょっと」
呼《よ》ばれた一弥は、立ち上がって、先生の後を追うように廊下《ろうか》に出た。担任にわざわざ呼ばれるということは、まさか成績が落ちたんだろうか、と心配していると、
「これを頼《たの》もうと思って。はい」
手渡《てわた》されたのは、さっきまでの授業で使われたプリントだった。セシル先生は廊下から、教室の窓際にあるいつもの空席を指差して、
「いつも頼んで悪いけど、これ、ヴィクトリカさんに渡しておいてね」
「そっか……わかりました」
一弥がうなずいたとき、スラリとした影《かげ》が一弥に並んだ。顔を上げると、アブリルのかわいらしい顔があった。ショートにした金髪《きんぱつ》が、窓からの日光を受けてキラキラ輝《かがや》いていた。
プリントを覗《のぞ》き込んで、
「へぇ〜。先生、このヴィクトリカくんって、あの、いつも休んでる子のこと?」
「ええ。でも、学校にはきてるのよ。ね、久城くん?」
一弥はあいまいにうなずいた。
アブリルは不思議そうに首をかしげて、
「どういうこと? じゃ、どこにいるの?」
「……植物園」
「えぇ〜? この学園にそんなの、あったっけ。植物園……?」
「あるんだよ、これが」
一弥はなぜか顔を曇《くも》らせた。不思議そうにしているアブリルに、
「すごく高いところにね……」
「なにそれ? ね、このヴィクトリカくんって、久城くんと仲いいの?」
アブリルの問いに、セシル先生はうれしそうにうなずき、一弥は微妙《びみょう》に首をかしげた。アブリルはますますキョトンとして、
「どっち?」
「いや、ぼくにもよくわからないっていうか……」
「はっきりしなさいよぅ。ね、どんな男の子なの?」
「おそろしいっていうか……けんもほろろっていうか……ひどいっていうか…………」
アブリルは首をかしげていたが、「ま、いっか」とつぶやくと、スキップして教室に戻《もど》っていってしまった。
「……あの、セシル先生」
立ち去ろうとする先生を、一弥は呼び止めた。
「ん? なぁに?」
「なんだか元気ないんじゃないですか? いや、ちょっと気になって……」
一弥がそう言うと、セシル先生は大きな瞳《ひとみ》をますますまんまるに見開いて、
「……よくわかったわねぇ。実はね……ううん、学園のことじゃないの。わたしが住んでる村で、おかしな事件《じけん》が起きてね。朝から、警察《けいさつ》の人が聞き込みにやってきたり、いろいろと……」
「事件?」
セシル先生は、声を落とした。
近所で起こった事件のせいか、不安そうに瞳を曇らせて、
「それがね……とても奇怪《きかい》な事件なの。警察の人から聞いた話と、後は、近所の噂《うわさ》話でしか知らないんだけどね」
「どんな事件なんですか?」
「村外れに住んでいたおばあさんが、何者かに殺されたの。それも、とても奇妙《きみょう》なやり方で……」
「おばあさん……?」
「なんでも、いまは引退《いんたい》したけれど、昔は有名な占《うらな》い師《し》だったんですって。たしかロクサーヌっていう人。政治家《せいじか》や企業《きぎょう》の重役が大挙して押《お》し寄せていたって。未来を視《み》るのが得意だったそうよ」
「先生、占いなんてものはですね……」
迷信《めいしん》ですよ、と話しだそうとして、疲《つか》れた様子のセシル先生に気づき、黙《だま》る。先生は、
「まだ犯人《はんにん》が捕《つか》まっていないらしいのよ。だから、こわくて。とにかく奇妙な殺され方なのよ。どういうことなのかしら……」
セシル先生は、一弥に、警察の人から聞いた話と、近所で流れていた噂話を少し話してくれた。話を総合《そうごう》すると、どうやら、その占い師は鍵《かぎ》のかかった密室《みっしつ》で射殺《しゃさつ》されたのだが、凶器《きょうき》もみつからず、犯人も誰《だれ》だかわからない……ということらしかった。
「こわいけれど、まぁ、もう少しの辛抱《しんぼう》ね。最近、名警部として名前が売れてきた、あのグレヴィール・ド・ブロワ警部が大|騒《さわ》ぎして捜査《そうさ》していたから。部下の人、二人を連れて村中を調べているの」
「それは面妖《めんよう》な……」
思わずつぶやいた一弥に、セシル先生はキョトンとした。
それから、
「殺されたおばあさんも、よくわからない人なのよ。そのお屋敷《やしき》では、野兎《のうさぎ》がたくさんいて、犬に噛《か》み殺されたりしていたらしいの。かわいそうに……。こわかったでしょうね……」
暗い顔でつぶやいた。どうやらセシル先生は、その事件に流れる暗く不気味な雰囲気《ふんいき》そのものに怯《おび》えているようだった。先生は、一弥の心配そうな顔に気づくと、一転して笑顔に戻り、渡したプリントを指差した。
「じゃ、久城くん。これお願いね。ちょっと……高いけど…………その、頑張《がんば》って上ってね」
「はいはい……いつものことですから」
一弥は苦笑《くしょう》しながら、うなずいた。
――聖《せい》マルグリット大図書館。
学園の敷地《しきち》の隅《すみ》にのっそりと建つその建築《けんちく》物は、二百年以上の時を刻《きざ》んだ、欧州《おうしゅう》でも指折りの書物庫の一つである。石造《いしづく》りの外観は荘厳《そうごん》そのもので、観光名所になってもおかしくはないのだが、聖マルグリット学園は関係者以外の人間を閉《し》め出し続けているため、世の人の目に触《ふ》れることはまず、ない。
一弥はさくさくと乾《かわ》いた土が音を立てる道を歩き、大図書館にやってくると、中に入った。
角筒《かくとう》型の大図書館は、壁《かべ》一面が巨大《きょだい》な書棚《しょだな》になっていた。中央は吹《ふ》き抜《ぬ》けのホールで、遥《はる》か上の天井《てんじょう》には荘厳な宗教画《しゅうきょうが》が輝《かがや》いている。そして書棚と書棚のあいだを、まるで巨大|迷路《めいろ》のように、細い木の階段《かいだん》がいかにも危《あぶ》なっかしくつないでいた。
一弥は上を見上げ、思わずため息をついた。
天井辺りから、金色の長い帯のようなものが垂《た》れ下がっているのが見える。
「ヴィクトリカ……。また、いちばん上かぁ」
仕方なく、迷路のような階段を上り始める。
しらず声を出してしまう。
「たまには、もうちょっと下のほうにいてくれてもいいよなぁ。あいつ、毎日この階段を上がってるんだろうか。ご苦労なことだよっ……」
階段を上がるにつれ、床《ゆか》が遠くなっていく。
下を見ると目が回るので、一弥はまっすぐ前をみつめ、帝国《ていこく》軍人の三男らしく背筋《せすじ》をびしっとのばしてカッカッと上り続けた。
途中《とちゅう》で息が切れてくるが、がんばる。
「しかし……なんでこんなことになってるんだよ? この図書館……」
――一説によると、この大図書館は十六世紀初頭、聖マルグリット学園の創始者《そうししゃ》である国王によって建設《けんせつ》された、らしい。恐妻家《きょうさいか》でもあった国王は、愛人との逢《あ》い引きにひたるため、大図書館のいちばん上に秘密《ひみつ》部屋をつくった。そして階段を迷路状に配置したのだ、と……。
今世紀に入って、一部|修復工事《しゅうふくこうじ》の折りに油圧《ゆあつ》式エレベーターが導入《どうにゅう》されたのだが、教職員専用《きょうしょくいんせんよう》とされているので一弥には縁《えん》がない。
だから、上る。
迷路階段を、上る、上る。
……まだまだ上る。
ようやくいちばん上の階に着いた一弥は、投げやりに、
「ヴィクトリカー。いるー?」
返事はない。一弥はめげずに、
「いるよねー。だって長い髪《かみ》が見えたもん。おーい」
吹き抜けの空間に垂れ下がっている、帯のような金色の髪に向かって声をかけた。
白い細い煙《けむり》が、天井に上がっていく。
一弥は一歩踏み出した。
そこには……。
植物園があった。
大図書館のいちばん上の秘密の部屋は、国王と愛人のためのベッドルームではなく、緑|生《お》い茂《しげ》る温室に建設され直していた。南国の樹木《じゅもく》やシダが生い茂り、天窓から射《さ》しこむ柔《やわ》らかな日光に明るく輝《かがや》いている。
明るくて、そして人気《ひとけ》のない植物園。
その温室から階段の踊《おど》り場に、半身を投げ出したように、大きな陶《とう》人形が置かれていた。
等身大に近い、百四十センチぐらいの背丈《せたけ》。絹《きぬ》とレースをふんだんにあしらった贅沢《ぜいたく》な衣装《いしょう》に身を包み、長い見事な金髪《きんぱつ》を、ほどけたターバンみたいに床に垂らしている。
横顔はひんやりとした陶器の冷たさ。
大人とも子供《こども》ともつかない、醒《さ》めた瞳《ひとみ》は、透《す》けるように薄《うす》いエメラルド・グリーンに輝いている。
その陶人形は口にパイプをくわえ、ぷかり、ぷかり、と吸《す》っていた。白い細い煙が天窓に向かって上っていく。
一弥はスタスタとその陶人形……いや、人形そのものに思える美貌《びぼう》の少女に近づき、
「……返事ぐらいしろよな、ヴィクトリカ」
少女の緑色の瞳は、床に並《なら》べられた書物の上を忙《せわ》しく行き来していた。彼女の頭部を中心点として放射線状《ほうしゃせんじょう》に並べられた書物は、古代史から、最新の科学、機械学、呪詛《じゅそ》に錬金術《れんきんじゅつ》……。英語からフランス語、ラテン語に中国語と、書かれた言語もさまざまだ。
それらを無造作《むぞうさ》に流し読みしていた少女――ヴィクトリカが、ふっと我《われ》に返り、顔を上げた。
一弥の不満そうな顔を見上げると、一言、
「なんだ、君か」
まるで老人のような、しわがれて低い声。小さな体と妖精《ようせい》のような美貌とは、あまりにかけ離《はな》れた声。
その取り澄《す》ました、貴族《きぞく》特有の鼻持ちならない態度《たいど》に、一弥はムッとした。……まぁ、毎度のことだ。ここにくるたび、ヴィクトリカにはイライラさせられる。
黙《だま》っていると、ヴィクトリカはまた書物に視線《しせん》を戻《もど》した。
つぎつぎページをめくり、流し読みを続けながら、
「死神が、わたしになんの用だ?」
「それを言うなってば」
一弥はうなだれて、階段の手すりにもたれた。
死神≠ニは、あまりありがたくない一弥の別名である。元来、この学園の生徒たちは怪談《かいだん》に目がない。また、歴史の深いこの学園は、怪談ネタに事欠かなかった。曰《いわ》く〈春やってくる旅人が学園に死をもたらす〉、曰く〈階段の十三段目には悪魔《あくま》が棲《す》んでいる〉、曰く……。
黒髪に漆黒《しっこく》の瞳、東洋からやってきた無口な旅人、久城一弥は、まんまと〈春くる死神〉として認識《にんしき》されてしまった。怪談好きな生徒たちは一弥にあまり近づかない。どこまで信じているのかは疑問《ぎもん》だが、この学園中が一つの遊びを盛《も》り上げる協力をしあっているかのように、生徒たちは怪談に対してノリがよかった。
というわけで、一弥はなかなか親しい友人もできず、セシル先生の計らいによって、気づいたらこの学園一の変人、ヴィクトリカの連絡係《れんらくがかり》というか、付き人のような立場になっていたのである。
好きでこの鼻持ちならない美少女の相手をしているわけではない……はずなのだが、気づくと、彼女に会うためにあの迷路階段《めいろかいだん》を上るはめになっている。そのことをくよくよする一弥には構《かま》わず、ヴィクトリカは続けて、しゃがれ声で、
「久城、君、いくら友達ができないからって、またわたしのところにくるとはね。懲《こ》りないやつだ。それとも、君は階段が好きなのかね?」
「……そんなわけないだろ。はい、これ」
一弥が先生から預《あず》かったプリソトをぐいっと出すと、ヴィクトリカは鼻先で「そこにおけ」というように床を差してみせた。
それから歌うように、
「天気がいいからって、花壇《かだん》で逢《あ》い引きか?」
「いや、逢い引きじゃなくて、ただ喋《しゃべ》ってただけだよ。あのね、無人の豪華客船〈QueenBerry 号〉って怪談を聞かされ、て…………って、ちょっと待って、ヴィクトリカ」
さっさと温室を去ろうとしていた一弥が、小走りに戻《もど》ってきた。書物に顔を埋《うず》めるヴィクトリカを覗《のぞ》き込んで、
「どうして知ってるんだよ? もしかして、見てたの?」
「いや」
「じゃ、なんでだよ?」
「例によって、例のものだよ、君」
ヴィクトリカは書物を読みながら、物憂《ものう》げに、
「湧《わ》き出る知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠ェ教えてくれたのだ」
じりじりとつぎの言葉を待つ一弥に気づかず、パイプをくゆらしながら、ヴィクトリカは歌うようにのんびりと続けた。
「久城、君は几帳面《きちょうめん》でくそ真面目《まじめ》な秀才《しゅうさい》だ」
「……悪かったね」
「そんな人間はだね、屋外に出るときは律儀《りちぎ》に制帽《せいぼう》を被《かぶ》るものだ。君の髪《かみ》に、きっちり制帽を被っていた跡《あと》が残っている。そして襟《えり》についたピンクの花びら。花壇に咲いているパンジーのものだ。よって君は花壇にいたと推測《すいそく》されるのだよ」
「でも、逢い引きって……一人でいたかもしれないじゃないか…………」
「久城、今朝の君は浮《う》かれている。うきうきとした足音で階段を上ってきた」
「えっ……?」
そうだっけ? と一弥は首をかしげた。
いつも通りに上ってきたつもりだったけど……規則《きそく》正しく、背筋《せすじ》をのばして……。
ヴィクトリカは吐《は》き捨《す》てるように冷たく、
「わたしの台詞《せりふ》への反論《はんろん》も、いつになく元気いっぱいではないか。君、ゆめゆめ、人間の雄《おす》がそのような浮かれた動作をする原因《げんいん》は、決まっているのだよ。欲情《よくじょう》だ。久城、君は柄《がら》にもなく欲情し浮かれ非常《ひじょう》に機嫌《きげん》のよい状態《じょうたい》というわけだ。一人で花壇にいて欲情もなにもない。ゆえに君は女性《じょせい》とともにいた。それは憎《にく》からず思っている女性にちがいない。そう知恵の泉≠ェわたしに告げるのだよ」
「いや、ヴィクトリカ……もっと言葉を選んでよ。欲情って……。それに、柄にもないとか、もう…………」
一弥は真っ赤になり、膝《ひざ》を抱《かか》えて座《すわ》りこんだ。
こうやって、見てもいないのにヴィクトリカが、その日の一弥の行動をピタリと当てるのはいつものことなのだが、今朝のはとくに恥《は》ずかしい。
膝を抱え、恨《うら》めしそうにヴィクトリカの横顔をみつめる。
「よく当てるよね……。感心しちゃうよ…………」
ヴィクトリカはしばらく返事もせず、書物を読み進めていたが、ようやく一弥の言葉が脳《のう》に到達《とうたつ》したらしく、「ああ」とうなずいた。
「それはだね、君。五感を研《と》ぎ澄《す》まし、この世の混沌《カオス》から受け取った欠片《かけら》たちを、わたしの中にある知恵の泉≠ェ、退屈《たいくつ》しのぎに玩《もてあそ》ぶのだよ。つまり、再構成《さいこうせい》するのだ。気が向けば、君のような凡人《ぼんじん》にも理解《りかい》できるよう、さらに言語化してやることもある。まぁ、たいがいは面倒《めんどう》なので黙《だま》っているがね」
「……なんでぼくには黙っていないんだよ」
「それはおそらく、久城、君を見ているとからかいたくなるからだと推測されるよ」
それきりヴィクトリカは黙り、書物にますます頭をめりこませた。
一弥は肩《かた》をすくめ、ヴィクトリカの横顔をみつめた。
――一国の代表になるほど秀才《しゅうさい》の久城一弥をして君のような凡人≠ネどと称《しょう》することを、普段《ふだん》の一弥ならけして許《ゆる》さないはずだった。だがこの、一度も授業《じゅぎょう》に出てこない不思議な貴族の娘《むすめ》、ヴィクトリカに言われると、なぜか二の句がつげなくなるのだ。
ヴィクトリカがどういった生《お》い立ちの、どういった娘なのか、じつは一弥はあまり知らなかった。
すごく美形で、すごく小さく、すごく頭が良く、そしてまったくとりつく島もないこの少女。なぜか男性名を名付けられた、少し狂気《きょうき》じみた、しかしもしかすると天才かもしれない少女。
幾人《いくにん》かの事情通によると、貴族の妾腹《しょうふく》の子であるとか、一族の中ではなぜか恐《おそ》れられており、屋敷《やしき》においておきたくなくてこの学園に入れられたのだとか、母は有名な踊《おど》り子で、発狂したとか、伝説の灰色狼《はいいろおおかみ》の生まれ変わりだとか、生肉を貪《むさぼ》り食っているのを見たとか……。さすがに怪談《かいだん》学園だけあって、だんだん怪《あや》しい話になってくる。
一弥はヴィクトリカに、そういったことを質問《しつもん》したことがない。帝国《ていこく》軍人の息子《むすこ》として、下司《げす》な好奇心《こうきしん》をもって人を見ることは許せなかったし、それ以上に、ヴィクトリカ本人が奇天烈《きてれつ》すぎて、まずなにを質問したらいいのかもよくわからなかった。
わからないまま、この植物園まで苦労して上がってきては、ヴィクトリカの毒舌《どくぜつ》に腹《はら》を立てる。それがいまの一弥の、なんだかなぁ……の、日課だった。
「ところで、ヴィクトリカ。毎日大量に書物を読んでるけどさ」
一弥はめげずに話しかけてみた。
ヴィクトリカは返事もせず、ただかすかにうなずいてみせるだけだ。
「もしかしてこの大図書館の本、全部読んじゃうつもりなの?」
冗談《じょうだん》で言ったのだが、ヴィクトリカは顔を上げると、無造作《むぞうさ》に階段《かいだん》の手すりから下を指差して、
「こっちの一面は、そろそろ読破《どくは》するころだろう。……おや? 久城、君、目玉が飛び出しそうなおかしな顔になっているが。どうしたのだね?」
「いや……ビックリしただけ。いまはなにを読んでるんだよ?」
「いろいろだよ、君」
ヴィクトリカはあくびをすると、猫《ねこ》のように体を弓なりにして伸《の》びをした。
「あぁ、退屈《たいくつ》だ。再構成すべき混沌《カオス》が足りないのだ。読んでも読んでも、足りないのだよ、君」
「……これ一|冊《さつ》読むだけで、頭がパンクしそうになると思うけどね。普通」
一弥は手前に広げられていたラテン語の書物を指差して、そう言った。と、あくびを連発していたヴィクトリカが、ふと顔を輝《かがや》かせ、
「そうだ、久城。君に説明してやろう」
「なにをだよ?」
「この書物についてだ。これはだね……。古代の占《うらな》いについての本だよ、君」
「占い? 興味《きょうみ》ないな」
「関係ない」
「って……なんでぼくに話すんだよ?」
「退屈だから」
ヴィクトリカは、当たり前だ、というようにうなずいた。
面倒くさがって逃《に》げようとする一弥を抑《おさ》えつけ、無理やり聞かせ始める。
「この書物によるとだね、君。占いとは古代から人間の欲望《よくぼう》と隣《とな》り合わせにあったものなのだよ。例えば古代ローマ帝国。人々は動物の腸《はらわた》や肩胛骨《けんこうこつ》を焼いて生じた亀裂《きれつ》によって吉兆《きっきょう》を占った。これはなんと十一世紀まで続いたが、キリスト教の宗教会議《しゅうきょうかいぎ》によって禁止《きんし》されてしまった。また、書物を開いて、そのページに書かれていたことから占う、書物占いも古代から続いていた。古代人はホメロス書で占ったが、キリスト教徒たちは聖書《せいしょ》を使い始めた。これもまた宗教会議によって禁止されたのだが……。おい、久城、寝《ね》るな。わたしが退屈で死ぬぞ」
「……はい、すみません」
「つまり占いとは異端《いたん》であるのだな。だが政府《せいふ》によって、教会によって禁止されても、人々は続けるのだ。中には何世紀にも亘《わた》り、教会内でこっそり聖職者《せいしょくしゃ》が続けていた例もある。なぜだかわかるかね、君?」
「さぁ……」
ヴィクトリカはパイプを口から離《はな》し、ぷかりと煙《けむり》を吐《は》くと、物憂《ものう》げに言った。
「当たるからだよ、君」
「……まさか」
「古代ローマ帝国の皇帝《こうてい》ヴァレンスは、自らの地位に不安を感じていた。そこで占い師《し》を呼び寄せ、自らを脅《おびや》かす者の名を占わせた。それは、平らな土地にアルファベットを描《か》き餌《えさ》を置き、鶏《にわとり》を放すという占いだった。結果、鶏は〈T〉〈H〉〈E〉〈O〉〈D〉の場所にある餌を食べた。皇帝はそれをテオドーレウスという名と解釈《かいしゃく》し、帝国内のその名を持つ者すべてを処刑《しょけい》した。しかし、皇帝のつぎに帝国を支配《しはい》したものの名はテオドシウスであったのだよ。つまり人違いだったというわけだ」
「……物騒《ぶっそう》な話だねぇ」
「まじめに聞きたまえ。わたしが退屈で寝てしまうぞ」
「すみません」
「さまざまな書物からの検証《けんしょう》によると、もっとも信憑性《しんぴょうせい》の高いものは〈魔法《まほう》の鏡〉と呼ばれる代物《しろもの》だがね。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画〈魔法の鏡を用いる魔女〉にも描かれたこの鏡は、水晶《すいしょう》占いの前身なのだ。葡萄酒《ぶどうしゅ》を満たした銀の壺《つぼ》、油を注いだ銅の壺、水を入れたガラスの壺を用意し、三日三|晩《ばん》かけて占うのだ。銅の壺からは過去《かこ》、ガラスの壺からは現在《げんざい》、そして銀の壺からは未来が立ち上り、魔法の鏡に写《うつ》し取られるのだ」
ずいっとヴィクトリカが差しだした書物の一ページには、頭から赤い布《ぬの》を被《かぶ》った女が、三つの壺を前にして、金色の手鏡を掲《かか》げる説明図が載《の》せられていた。白ずくめの服装《ふくそう》をした男たちが地面に額《ひたい》をこすりつけるようにひれ伏《ふ》している。
ヴィクトリカは書物をめくっては、とうとうと語り続けている。
一弥は、怒《おこ》られるのがこわいのでおとなしく聞いていた。
思えば自分の生まれ育った国では、婦女はおとなしく三歩|遅《おく》れてついてくるものなので、自分はこういう、三歩先を歩きつつ振《ふ》り返って「はやくっ!」と怒るようなタイプの女の子と、うまく渡《わた》り合う訓練ができていない気がする。
なにごとも修業《しゅぎょう》だ、と一弥は思った。修業は辛《つら》いものなのだ。眠《ねむ》い。
「さて、予言者モーゼによる棒《ぼう》占いについての記述《きじゅつ》が、民数記に記されているのも興味深い。イスラエルの民《たみ》の長《おさ》になるべき人物がどの種族から生まれるかを知るため、それぞれの種族名を記した十二本の棒を用意し、占ったのだ」
「……ふ〜ん。それにしても、意外だな」
「なにがだね?」
「ヴィクトリカが、占いを信じてるなんてさ」
「信じているわけないだろう」
「へっ?」
ヴィクトリカは、放射線状《ほうしゃせんじょう》に広げた書物の山から、なにやら別の書物を一冊、引っぱり出した。その書物を開いて一弥に示《しめ》してみせるが、難解《なんかい》そうなドイツ語で書かれたその書物から、一弥は思わず身をひねって逃《に》げようとした。ヴィクトリカの小さな手が伸《の》びてきて、一弥を押《お》さえ込んだ。一弥はあきらめて、
「……そっちの本は、なに?」
「心理学だよ、君。頭の固い、中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才である君に、わたしが説明してやろうではないか。人はなぜ占いを信じるのか?=v
「はぁ……」
「占いは、当たる。それは客観的事実ではもちろんない。主観的事実として、当たるのだよ。つまり当たったように思う≠フだ。それが紀元前から綿々《めんめん》と、占いという迷信《めいしん》が持ち続けた本質《ほんしつ》的な力だ。それはだね、君、占いが当たってほしい≠ニいう集団《しゅうだん》心理によって支《ささ》えられているからなのだ。……つまり、この学園に蔓延《はびこ》る怪談《かいだん》ブームと、同じだ。全員が無意識《むいしき》の集合体、同時発生的な共犯者《きょうはんしゃ》たちなのだよ」
「うん……」
「それ故《ゆえ》に、起こりうる三つの原因《げんいん》を挙げてみよう。一つ目は、当たった占いだけが歴史上に残る。当たった一例の陰《かげ》には、いくつもの外れた占いが眠っているわけだ。二つ目は、相手の顔色を窺《うかが》い、望みを言い当てるという占い師の技術《ぎじゅつ》。そして三つ目が、どちらとも取れる答えを出された場合だ」
「ん……」
「例えば久城、君がだね、この国に留学《りゅうがく》する前に、留学後の生活を占ったとしよう。それが吉と出れば、留学後、成績《せいせき》がよかったときに『当たった!』と思う。凶《きょう》と出れば、辛いことがあったときに『当たった!』と思う」
「うーん……」
「……さきほどの皇帝ヴァレンスもまた、然《しか》り。鶏が選んだ五つのアルファベットには、無数の組み合わせがあったはずなのだ。だが皇帝は、内心、テオドーレウスという名の青年を疑《うたが》っていた。だから、占《うらな》いの結果をその名に結びつけたのだ。つまり占いとは、内心、行動を起こそうとすでに決めていることの背中《せなか》を押してほしい≠ニいう心理に支えられた迷信なのだ。つまり、責任回避装置《せきにんかいひそうち》としての……………ああっ!」
「な、ななな、なに!?」
朗々《ろうろう》としゃべっていたヴィクトリカが、とつぜん、小さな金色の頭を抱《かか》えて呻《うめ》いたので、一弥は飛び上がった。とうとう発狂《はっきょう》したのかと心配していると、ヴィクトリカは恨《うら》めしそうに一弥を睨《にら》み、
「君のような凡人《ぼんじん》に説明していたら、よけい退屈《たいくつ》になってしまった」
「……し、失礼な」
「くぅぅ、胸《むね》が苦しい。退屈で苦しいよぅ。……さて、どう責任をとるのだ、君?」
「あのねぇ!」
怒りかけた一弥は、ふっと、あることを思い出した。
「そうだ。ねぇ、ヴィクトリカ。占いといえばさ……」
セシル先生が漏《も》らしていた事件《じけん》を思い出す。
確《たし》か、近くの村で、おばあさんが奇妙《きみょう》なやり方で殺された、とか……。密室《みっしつ》で射殺《しゃさつ》されていて、凶器《きょうき》もみつからなかったと話していた気がする。被害者《ひがいしゃ》はロクサーヌとかいう人で、職業《しょくぎょう》は確か……。
「昨日、近くの村で、占い師《し》が殺されたよ」
と話しかけた途端《とたん》、ヴィクトリカの細い肩《かた》が、びくん、と震《ふる》えた。
顔を上げて、その朝初めて、一弥の姿《すがた》を真正面《ましょうめん》からじっとみつめた。
糸のように細く輝《かがや》く金色の髪《かみ》。淡《あわ》いウェーブを描《えが》いて床《ゆか》にごぼれ落ちている。
血管が透《す》けて見えそうなほど白いその肌《はだ》。
そして、エメラルド・グリーンの双眼《そうがん》は、まるで長く生きすぎた老人のようにもの悲しく、どこをみつめているのかわからない遠い眼差《まなざ》しをこちらに投げかけている。
一弥はヴィクトリカのその瞳《ひとみ》に、思わず後ずさった。
と、ヴィクトリカは静かに口を開き、
「……混沌《カオス》か」
一言つぶやくと、一弥の顔に、ぷうっと煙《けむり》を吹《ふ》きかけた。
「ゲホ、ゴホ、ゴホ……。いや、詳《くわ》しく話せって言われてもね……」
一弥はヴィクトリカのとなりに腰《こし》を下ろすと、煙に咳《せ》き込み、瞳に浮《う》かぶ涙《なみだ》を拭《ふ》きながら、話し始めた。
「さっきセシル先生と立ち話したとき、ちょっと聞いただけなんだよ。セシル先生も、警察《けいさつ》の人の話と、近所の噂《うわさ》話から聞いただけらしいし……。ま、とにかく、そのおばあさんは、世界大戦が始まる頃《ころ》、小さくて住み心地《ごこち》のいいお屋敷《やしき》を買い取って住み始めたらしいんだけど……」
占い師、ロクサーヌ。
八十|歳《さい》とも九十歳とも噂される皺《しわ》だらけの老婆《ろうば》は、その屋敷にインド人の下男とアラブ人のメイドと三人で住んでいた。そこに孫娘《まごむすめ》が訪《たず》ねてきた昨晩、事件は起こった、らしい。
「……待ちたまえ、君。なぜ下男がインド人でメイドがアラブ人なのだ?」
「異国情緒《いこくじょうちょ》のある使用人が好きだったんだって。それに、博識なおばあさんで、ヒンズー語とかアラビア語とかも、日常《にちじょう》会話ぐらいならできるから苦労しないって。あ、メイドはアラビア語しかわからないけど、下男は英語とフランス語がペラペラらしいよ」
老婆ロクサーヌはその夜、自室で射殺された。弾丸《だんがん》は左眼《ひだりめ》を貫《つらぬ》き、即死《そくし》だった。
犯人は不明。その夜屋敷にいた下男、メイド、孫娘のうちの誰《だれ》かだと思われるが、捜査《そうさ》のめどは立っていない。
「なぜだね?」
「ええと、確か……ドアも窓《まど》も内側から鍵《かぎ》がかかってて、しかも凶器のピストルがみつからないんだって。三人ともやってないって言ってるらしいよ」
「ふぅむ……」
ヴィクトリカが先をうながすように一弥を見上げた。一弥はその視線《しせん》に困《こま》ってもじもじした。
さっきセシル先生との立ち話で仕入れた情報《じょうほう》は、これだけだ。それに、セシル先生だってそれ以上のことは知らないようだった。もっと教えろと言われても困ってしまう。
そう思ったとき、大図書館の入り口辺りから、誰かが入ってくる足音がした。手すり越《ご》しにそれを見下ろした一弥の目に、さっきセシル先生が名警部と称《しょう》した、グレヴィール・ド・ブロワ警部がさっそうと入ってくるのが見えた。
(また、きた……)
あきれながらも、一弥はヴィクトリカの肩《かた》をちょんちょんつつき、
「続きは、おかしなヘアスタイルの人に聞いてよ」
「……むっ?」
ヴィクトリカの顔が、かすかに険《けわ》しくなった。
ド・ブロワ警部が教職員用《きょうしょくいんよう》の油圧《ゆあつ》式エレベーターに乗り込んだらしい音がきこえた。
ガタン、ガタタン――!
無骨《ぶこつ》な音を立てて鉄檻《てつおり》が上がってくる。
続いて警部の部下である、兎革《うさぎがわ》のハンチングを被《かぶ》った若《わか》い男二人組が見えた。仲良く手を繋《つな》いでスキップしたまま、大図書館に入ってくる。彼らは下で待機しているつもりらしく、こっちを見上げて、空いているほうの手でほがらかに手を振《ふ》っている。
犯罪《はんざい》好きの貴族《きぞく》の青年、グレヴィール・ド・ブロワを無理やり警部に起用した地元|警察署《けいさつしょ》で、趣味《しゅみ》でもって捜査に関《かか》わる彼にいつも振り回され、苦労している二人だ。
一弥が部下二人から目を離《はな》したとぎ、ガタン――! と大きな音とともに、エレベーターが到着《とうちゃく》した。植物園の手前にある小さなホールに、ド・ブロワ警部が姿《すがた》を現《あらわ》した。
生《お》い茂《しげ》る緑と、天窓からの柔《やわ》らかな光の向こうに、おかしな様子の男が立っている。
三つ揃《そろ》いのスーツに、派手《はで》なアスコットタイ。手首には上質な銀のカフスが輝《かがや》いていた。いかにも貴族的な若い伊達《だて》男、なのだが、しかしなにかが間違《まちが》っていた。
ヘアスタイルだ。濃《こ》い金髪《きんぱつ》をなぜか、先端をぐりゅんと尖《とが》らせた流線形にまとめ、がっちり固めている。使い方によっては十分、凶器《きょうき》になりそうな頭だ。
腕《うで》を組み、扉《とびら》の桟《さん》に体重をかけて斜《なな》めに立つというナイスポーズに決め、口を開いた。
「よう、久城くん!」
「……どうも」
ド・ブロワ警部は上機嫌《じょうきげん》な様子で近づいてくると、一弥だけに親しそうに話しかけた。ヴィクトリカのほうはまったく見ようともしない。ヴィクトリカもそっぽを向いてパイプをくゆらしている。
「君、君はだね、このわたしの優秀《ゆうしゅう》なる頭脳《ずのう》でもって命を救われたことがあったね。いやぁ、あれは大変な事件だった。思い出すなぁ……」
「解決《かいけつ》したのはヴィクトリカだったような……」
「君に事件の話を聞いてもらおうと思ってね。君に聞かせるとなぜか頭が冴《さ》え始めるのでね。この名警部の頭脳が、ね」
――一弥は以前、通学|途中《とちゅう》に遭遇《そうぐう》した殺人事件の容疑者《ようぎしゃ》にされ、このド・ブロワ警部に逮捕《たいほ》されそうになったことがあった。国に強制送還《きょうせいそうかん》か、殺人罪で裁《さば》かれるのか、と悩《なや》む一弥を救ったのは、この植物園で出会った不思議な美少女、ヴィクトリカだった。
もちろんヴィクトリカが、一弥を心配して助けてくれたわけではない。彼女の言う知恵《ちえ》の泉≠ェ、その事件を再構成《さいこうせい》すべき混沌《カオス》の欠片《かけら》と判断《はんだん》し、真相を言い当てただけだ。現に、推理《すいり》を終えた後もヴィクトリカは、それをもとに一弥の無実を訴《うった》えてくれたりはしなかった。一弥は自力で、ヴィクトリカの推理を警部に説明し、無実を勝ち取ったのだ。
……あのときのことを思い出すと、いまだにだらだら冷汗《ひやあせ》が出る。
しかしそれ以来、味を占《し》めたド・ブロワ警部は、難《なん》事件に遭遇するたびにこの植物園に足を運んでは、一弥に事件の詳細《しょうさい》を話して聞かせる。それを横で聞いていたヴィクトリカが混沌の欠片を再構成する≠ニ、警部は地上に降りて、事件を解決するというわけだ。
つまり彼は名警部でもなんでもない。いわば、人間アンチョコに頼《たよ》っているだけなのである……。
「警部、ヴィクトリカに話してくださいよ。ぼくが聞いてもわかんないんだから」
「なんだって? ここには君とわたししかいないが?」
「…………」
一弥はあきれて二人の顔を見比《みくら》べた。
どうやらヴィクトリカとド・ブロワ警部は、最初の事件《じけん》の前から知り合いらしかった。だが、二人ともけっして目を合わせようとしないし、警部はヴィクトリカの力を借りることに憤《いきどお》りを感じているらしかった。では頼らなければいいのではと思うが、そこはそこ、らしい。
ヴィクトリカがついっと顔を上げると、一弥に言った。
「いいじゃないか、久城。わたしはここで読書をしている。君たちは話を続けたまえ。ときどきわたしが独《ひと》り言を言っても、気にしなければいい。それがたまたまヒントになったとしても、わたしには関係ないことだ」
「いや、でも、そういうのはさ……」
「よぅし、話すぞ。さて、おい、こっちを向きたまえ」
ド・ブロワ警部は張《は》り切って腕《うで》まくりをした。
一弥は観念して聞くことにした。
ド・ブロワ警部は懐《ふところ》からパイプを取り出すと、一分の隙《すき》もないキザな動きで口にくわえた。警部の口からも、パイプからも白い煙《けむり》が立ち上って、彼の流線形をした前髪《まえがみ》の中に消えていくのを、一弥はぼんやりとみつめていた。
ヴィクトリカは相変わらずそっぽをむき、こちらもパイプをくわえて煙をくゆらせている。
警部は口から煙を吐《は》き終わると、話し出した。
「このロクサーヌという占《うらな》い師《し》が殺されたのは、昨晩。屋敷《やしき》にいた人々は夕食を終え、各自のんびりしていた。占い師は自分の部屋でくつろいでいた。部屋は一階だ。下男はその窓の下で、本人|曰《いわ》く、庭に放した野兎《のうさぎ》を飼育《しいく》小屋に戻《もど》していた」
「……野兎?」
ヴィクトリカが聞き返すと、ド・ブロワ警部はビクリとした。
一弥に向かってうなずいてみせ、
「この占い師はたくさんの野兎と、一|匹《ぴき》の猟犬《りょうけん》を飼《か》っていた。ときどき野兎を放して、猟犬に噛《か》み殺させたりしていたらしい。なぜかわからないが、殺される野兎と、大切に育てて天寿《てんじゅ》を全《まっと》うさせる野兎に分かれていたらしいが、その法則《ほうそく》はまったくわからない。変わり者のばーさんだったらしいからな」
「なるほど」
これもヴィクトリカの声だが、二人とも会話しているというのにお互《たが》い顔も見ない。一弥は真ん中にはさまれてくさっている。……毎度のことなのだが。
「メイドはとなりの部屋で掃除《そうじ》をしていた。孫娘《まごむすめ》はちょうど上の部屋で、レコードを大音量でかけて踊《おど》っていた。そのとき銃声《じゅうせい》が響《ひび》いて、みんな驚《おどろ》いて屋敷の廊下《ろうか》に集まった。占い師を心配してメイドがドアを叩《たた》き、大声で呼《よ》んだが、返事がなかった。ドアには鍵《かぎ》がかかっていた。下男はあわてふためき、斧《おの》を持ってきてドアを壊《こわ》そうと提案《ていあん》した。ドアは車椅子《くるまいす》ばーさんでも簡単《かんたん》に開閉《かいへい》できるようにと、軽くて薄《うす》い素材《そざい》で作られていたから、斧を一振りすれば簡単に壊せるはずだと思ったのだ。だがここで、孫娘が金切り声を上げ、強硬《きょうこう》に反対した。ばーさんが死んだら自分の屋敷になるんだから壊さないでくれという罰当《ばちあ》たりな理由だった。下男は引き下がったが、メイドのほうは外国人で、孫娘の言っていることがわからなかったため、となりの部屋から護身用《ごしんよう》のピストルを持ってくると、止める間もなくドアの鍵を撃《う》ち壊した。これに怒《おこ》った孫娘がメイドに襲《おそ》いかかり、女二人で殴《なぐ》り合いになった。そのあいだにインド人の下男が、一人で部屋に入った。すると、下男が言うには……いつも乗っていた車椅子から崩《くず》れ落ちるように、占い師が倒《たお》れていた。左眼《ひだりめ》を撃ち抜《ぬ》かれ即死《そくし》だった。窓《まど》にも内側から鍵がかかっていた。凶器《きょうき》もみつからない」
「ふぅむ」
「なにがなんだかさっぱりわからない……」
警部《けいぶ》がそうつぶやいたのとほぼ同時に、ヴィクトリカが、
「なんだ。そんなことか」
じつに退屈《たいくつ》そうに大あくびをすると、細い両腕を伸《の》ばして怠惰《たいだ》な猫《ねこ》のように伸びをした。そしてまたあくびを一つ。
ド・ブロワ警部はそんなヴィクトリカの横顔を、驚《おどろ》くほど強い憎悪《ぞうお》の眼差《まなざ》しで睨《にら》みつけていた。それからフッと目をそらし、
「まぁ、犯人はわかっているがね。窓の下にいた下男がどうもあやしい。しかし証拠《しょうこ》が……」
「……犯人はメイドだよ、グレヴィール」
ヴィクトリカがあくびの途中《とちゅう》で、くぐもった声を出した。警部がぐっとつまり、驚いたようにヴィクトリカを見る。と、あわてて目をそらし、一弥に向かって、
「なんだ、君。それはどういうことだ!」
「知りませんよ! そんながっくがっく首を揺《ゆ》さぶられても!」
ヴィクトリカが静かな声で言った。
「メイドはアラビア語しかしゃべれないのだろう。それを理解《りかい》できるのは占い師だけだ」
「へっ……?」
一弥とド・ブロワ警部は、争ったポーズのままでヴィクトリカのほうを見た。
[#挿絵(img/01_047.jpg)入る]
「どういうこと、ヴィクトリカ?」
「簡単なことだ。混沌《カオス》というほどのものではない。いいかね? メイドはドアを叩き、アラビア語で叫《さけ》んだ。返事がないのでとなりの部屋のピストルを持って廊下に戻ってきた。ドアの鍵を撃ち、壊した」
「うんうん」
「そのときメイドがなにを叫んだのか、知っているのは本人と、占い師だけだ」
静かな声に、一弥はヴィクトリカのほうに向き直った。
「なんて叫んだんだよ?」
「おそらく、こう言ったのだ。孫娘と下男、どちらを悪役にしたのかはわからないがね。『御主人《ごしゅじん》さまは命を狙《ねら》われている。さっきの銃声を聞きましたね? 窓《まど》から離《はな》れて、ドアの近くへ。いま助けます』」
一弥と警部は顔を見合わせた。
「なんだ? どういうことだ? うぅ〜………………」
警部が頭を抱《かか》えて悩《なや》み始めたので、一弥が代わりに、
「あの……そのときって、占い師はまだ……生きてたの?」
「もちろんだ」
ヴィクトリカはこともなくうなずいた。
そのまま書物の中に埋没《まいぼつ》しようとして、ふと気づいて顔を上げる。
一弥と警部が、キョトンと首をかしげて彼女をみつめていた。二人の頭上に、天窓から陽光が降《ふ》り注いでいた。おだやかな風に、緑|生《お》い茂《しげ》る温室の枝《えだ》も、ド・ブロワ警部の前髪《まえがみ》も、ふわふわと揺れていた。
しばしの静寂《せいじゃく》の後、ヴィクトリカが「ふわ〜あ……」と大あくびした。
誰も理解《りかい》していないのだと認識《にんしき》し、非常《ひじょう》に面倒《めんどう》くさそうに、
「……言語化の作業が足りないかね?」
「まったく足りないよ。頼《たの》むよ、ヴィクトリカ」
「つまりだね。占い師を殺したのは一発目の銃声ではない。そっちはダミーなのだ。事件《じけん》が起こったと駆《か》けつけた目撃者《もくげきしゃ》たちの前で、メイドは堂々と占《うらな》い師《し》を射殺《しゃさつ》したのだよ、君。アラビア語で叫んで占い師を騙《だま》し、安全だからとドアの前に立たせて、ドアの鍵ごと占い師を撃ったのだ。左眼を撃ち抜かれていたのは、おそらく占い師が、鍵穴《かぎあな》から外を覗《のぞ》こうとしたからなのだ。鍵穴の向こうにあったのは、銃口だったというわけだよ、君」
「ちょっと待て……。では、一発目の銃声は、久城くん?」
「警部さん、推理《すいり》してるのはぼくじゃなくてヴィクトリカ」
「一発目の銃声はだね……」
ヴィクトリカはまた大あくびをした。
「……となりの部屋で撃ったのだよ。占い師を怯《おび》えさせ、屋敷の人々を呼び寄せるために。どこに向かって撃ったのかまではわからないがね。となりの部屋を調べるといい。まだ新しい銃創《じゅうそう》がみつかるはずだ」
「…………なるほど」
ド・ブロワ警部《けいぶ》が立ち上がった。
まるで何ごともなかったかのように、三つ揃《ぞろ》いのスーツの裾《すそ》を引っ張《ぱ》って整え、流線形の頭を手のひらで整えると、エレベーターに向かって早足で歩きだそうとした。まるで逃《に》げるように。
その後ろ姿《すがた》に、一弥が義憤《ぎふん》にかられて、声をかけた。
「警部!」
「……なんだね?」
「ヴィクトリカにお礼を言うべきじゃないですか。捜査《そうさ》を手助けしてもらったんだから……」
「いったいなんのことかね?」
振《ふ》り返った警部の顔は、傲慢《ごうまん》そのものだった。肩《かた》をそびやかし、顎《あご》をグイッと上げて一弥を睨《にら》む。ゆっくりとパイプを口から離し、一弥の顔にぷうっと煙《けむり》を吹《ふ》きかけた。
「ゲホ、ゴホ、ゴホ……」
警部は、歩き去りながら早口でまくしたてた。
「久城くん、わたしはだね。ただ、わたしが助けてやった東洋人の少年が、その後、元気にしているか心配で、様子を見にきてやっただけだ。元気そうでなによりだが、おかしな言いがかりはだね……」
「……グレヴィール」
ヴィクトリカが顔を上げて、静かに声をかけた。
エレベーターの鉄檻《てつおり》に乗り込《こ》んだド・ブロワ警部が、不安そうな顔で振り返った。小さなヴィクトリカのほうを、強大な何者かを見るようにびくついてみつめている。
その瞬間《しゅんかん》、大人と子供《こども》の立場がカチリと音を立てて入れ替《か》わったような……不思議な光景だった。
一弥は黙《だま》って二人を見比《みくら》べていた。
「犯人《はんにん》の動機の謎《なぞ》は、一発目の弾丸《だんがん》でなにを撃《う》ったかに隠《かく》されているはずだよ」
「……どういうことだ!?」
「それぐらいは自分で考えたまえ、グレヴィール」
ガタン――!
エレベーターが動き出した。
ド・ブロワ警部の伊達《だて》男じみた顔が、悔《くや》しそうに歪《ゆが》んだ。そのまま鉄檻は落下していき、警部の姿は地上へと消えていった。
「ふわ〜〜〜ぁ!!」
ヴィクトリカが大あくびした。ついで、猫《ねこ》のようにゴロンと床《ゆか》に寝転《ねころ》がると、ぐるぐる回りながら駄々《だだ》をこね始めた。
「一瞬で終わってしまった。また退屈《たいくつ》がやってきた。あぁ、あぁぁ〜……」
「ねぇ、ヴィクトリカ」
一弥は不機嫌《ふきげん》そのものだ。
もちろんヴィクトリカは、一弥の機嫌など気にもしていない。開いた書物の上をぐるぐるし続けている。
「あのおかしなヘアスタイルの警部、きっとまた、手柄《てがら》を独《ひと》り占《じ》めするつもりだよ。本当はいつもヴィクトリカに教えてもらってるのに」
「……気にしてるのか?」
意外そうにヴィクトリカが聞く。
一弥は強くうなずき、
「筋《すじ》の通らないことは、好きじゃないよ。だいたい、頼《たよ》ってる割《わり》には態度《たいど》が悪いだろう?」
ヴィクトリカは興味《きょうみ》なさそうに、相変わらずぐるぐるしていた。一弥はふと、
「そうだ……。ねぇ、君と警部って知り合いなの? なんだかあんまり……仲がよくなさそうだけど…………」
ヴィクトリカは答えない。
一弥はあきらめて、肩をすくめた。
と、ヴィクトリカが急に起きあがると、
「久城、君、ちょっと踊《おど》ってみろ」
「……はぁ!?」
「ぼんやりしていないで立ち上がりたまえ。そしていますぐ、踊りだせ」
「なぜですか!?」
ヴィクトリカは当たり前だ、というようにうなずきながら、言った。
「退屈しのぎだ」
「……いやだよ。帰る! あっ、そろそろ午後の授業《じゅぎょう》が始まるから、その…………」
「久城」
ヴィクトリカの緑色の双眼《そうがん》にじっとみつめられると、一弥は蛇《へび》に睨まれた蛙《かえる》のように動けなくなった。ぷうっと煙を吹きかけられ、一弥はまた咳《せ》き込んだ。
「ゲホッ……! あのね、ヴィクトリカ」
「久城、はやく……」
ヴィクトリカは据《す》わった目つきで、一言、
「踊れ」
「…………はい」
一弥は記憶《きおく》の糸をたぐり寄《よ》せ、故郷《ふるさと》の夏祭りの踊りをやり始めた。軍人一家の息子《むすこ》として、踊ったり歌ったり、浮《う》かれたことにうつつを抜《ぬ》かしたことなどこれまでない。
「……ふうむ。それはなんという踊りだ?」
「盆踊《ぼんおど》りだよ。君もやる?」
「やるはずないだろう。あぁ……退屈だな」
「君、ほんと……ひどい人だよね」
「もう、寝ようかな……」
植物園の中に、ヴィクトリカのため息が響《ひび》き渡《わた》った。
そして、翌朝《よくあさ》――。
聖《せい》マルグリット学園男子|寮《りょう》の自室で、一弥はいつも通り朝七時半ぴったりに起床《きしょう》した。眠そうに洗面所《せんめんじょ》や廊下《ろうか》をふらふらしている少年たちを尻目《しりめ》に、顔を洗《あら》って髪《かみ》もしっかりとかしつけ、食堂のいつもの席に座《すわ》る。
やけに色っぽい赤毛の寮母さんが、朝食をテーブルに置いてくれた。パンとミルク、フルーツの朝食を口に運ぼうとして、一弥は、
「………………ああっ!?」
隅《すみ》の椅子《いす》に足を組んで座り、くわえ煙草《たばこ》で朝刊《ちょうかん》を読んでいた寮母さんが、ビックリして顔を上げた。
「どうかした!? なにか混入《こんにゅう》してた?」
「いや、食事はおいしいです。じゃなくて、その見出し……!?」
一弥は、寮母さんから朝刊を譲《ゆず》ってもらい、むさぼるように読んだ。
見出しにはこんな煽《あお》り文句《もんく》が躍《おど》っていた……。
〈またもお手柄《てがら》! ド・ブロワ警部。
占《うらな》い師《し》ロクサーヌ射殺事件を見事解決!!〉
例によって、ド・ブロワ警部がヴィクトリカの推理《すいり》を自分の手柄にしてしまったのだ。記事には続いて、アラブ人メイドが逮捕《たいほ》されたこと、そのメイドがすごく美人なこと、そのせいもあってか警部が張り切って取り調べしていること、そして……。
「なっ!?」
占い師の遺産《いさん》を相続することになった孫娘《まごむすめ》――あのメイドと殴《なぐ》り合ったという恐《おそ》ろしい――から、感謝《かんしゃ》の気持ちを込めて、ド・ブロワ警部に熱いキスと――それはべつにいいが――豪華《ごうか》なヨットがプレゼントされた、と。
警部はこの週末にでもさっそく、ヨット遊びに興《きょう》じるつもりだと高笑いしていた、と……。
「ヨットぉぉぉ!?」
一弥は朝刊を寮母さんに返し、椅子に座り直した。
二、三秒、考え込む。
(その感謝のキスと豪華なヨットは、もともとヴィクトリカに贈《おく》られるはずのものだよな……。まちがったことは許《ゆる》せない……。くそぅ、あのドリルみたいな頭の警部め!)
――一弥は立ち上がった。
「ヴィクトリカ――――――――――!!」
朝いちばんで聖マルグリット大図書館に駆《か》け込み、細い迷路階段《めいろかいだん》を駆け上がった一弥を待っていたのは、なぜか無人の植物園だった。時計を見ると、まだ朝の八時前だ。きっとヴィクトリカもこれから植物園にくるのだろう……。
一弥はまた、数分間かけて迷路階段を降《お》りた。降りている途中《とちゅう》で、教職員《きょうしょくいん》の誰《だれ》かが乗り込んだらしく、油圧《ゆあつ》式エレベーターがガタタンッと音を立てて上っていくのが見えた。
大図書館を出て走り出したとき、ちょうど登校してきた生徒に思い切りぶつかった。
「きゃっ!?」
「す、すみませ…………あ、なんだ、アブリルか」
金色のショートヘアに、長くしなやかな手足が眩《まぶ》しい、英国人の少女が立っていた。手にしていた写真がヒラヒラと落ちたので、一弥はかがんで、それを拾った。
若《わか》い男の写真だった。
控《ひか》えめな笑顔《えがお》を浮《う》かべてこちらをみつめているが、その顔は眩しい美貌《びぼう》で、誰もを魅了《みりょう》するさわやかな魅力に溢《あふ》れていた。一弥はテンションを落としながら、
「おはよう、アブリル……。これ、誰? 恋人《こいびと》とか……?」
「あっはははー! やだもぅ、久城くん、そんなはずないでしょー!」
アブリルは大笑いして、ばしばしと一弥の背中《せなか》を叩《たた》いた。かなり痛《いた》かった。女の子って意外と腕力《わんりょく》があるものなのかもしれない。
「いてて……」
「これはねぇ、ネッド様よ」
「はぁ?」
「知らないの? ネッド・バクスター様。英国の舞台《ぶたい》俳優《はいゆう》で、いますっごい人気なの。見た目も素敵《すてき》だけど、こう見えて演技派《えんぎは》なのよ」
「ふーん。ファンなんだ?」
「ううんー」
アブリルが首を振《ふ》った。
「英国の友達がくれたから、大事にしてるだけ」
「なんだ……」
アブリルは大切そうに写真をポケットにしまうと、
「じゃ、あとで教室でね!」
「う、うん」
「またこわい話しよっか?」
「いやっ……。今度はぼくがアブリルに、こわい話をするよ」
「こわがりなのに?」
一弥はガーンとショックを受けたが、アブリルはそれに気づく様子もなく、ほがらかに手を振って走り去っていった。
(こわがりって……)
気を取り直し、一弥も走り出す。
――学園の敷地《しきち》を出て、村に向かった。人や馬車、それに最近は車が忙《いそが》しく行き来する大通りにある、地元|警察署《けいさつしょ》に入っていく。
煉瓦造《れんがづく》りの小さな建物は、外壁《がいへき》に蔦《つた》がびっしりからまり、いまにも崩《くず》れそうに古い建物だった。正面入り口のガラス扉《とびら》にはいくつもの亀裂《きれつ》が入り、床《ゆか》に敷きつめられたターコイズ色のタイルも、ところどころが割《わ》れていた。
三階のいちばん大きな部屋――警察署長より立派《りっぱ》な部屋だ、さすが貴族《きぞく》の息子《むすこ》というところだろうか――を陣取《じんど》っていたグレヴィール・ド・ブロワ警部は、手を繋《つな》ぎながら騒《さわ》いでいる部下二人に止められながらもずんずん入ってきた一弥の姿《すがた》に、ビックリして顔を上げた。
部屋の四方は棚《たな》になっていて、警察署だというのになぜか、高価《こうか》な西洋人形がたくさん並《なら》んでいた。趣味《しゅみ》が丸出しの奇天烈《きてれつ》な部屋だ。
「……よぅ、久城くん」
「け、警部さんの…………ばかー!」
「はぁ?」
何ごとだ? と署内の男たちがたくさん集まってきた。ドアの前で手を繋いで通せんぼしている部下二人に邪魔《じゃま》されながらも、有名な貴族警部と、やってきた東洋人の少年が睨《にら》みあっている様子を、興味津々《きょうみしんしん》で見守っている。
「今朝の朝刊、読みました。なんですか、あれは?」
「いや、その……」
ド・ブロワ警部はあわてていいわけし始めた。
「あのキスはねだったわけじゃなくて向こうがね、それに割と年増《としま》だったし別にそんなにうれしくは……」
「キスじゃない!」
「えっ?」
「豪華《ごうか》ヨット! あと、遺族《いぞく》の感謝《かんしゃ》の念ですよ。あれはもともと、あなたじゃなくて別の人に贈られるべきものですよね。ヴィク、トリ、カ………………もふっ!?」
一弥がヴィクトリカの名前を出そうとした途端《とたん》、ド・ブロワ警部は走り幅跳《はばと》びのような跳躍《ちょうやく》力で一弥に飛びかかった。口を押《お》さえて、血走った目で、黙《だま》れ〜というように一弥を睨んでいる。
野次馬たちが、なんだなんだ、と耳をそばだてている。警部は両腕で一弥の首と口を押さえ込《こ》みながら、そろそろと移動《いどう》して、足を伸《の》ばし、ドアを乱暴《らんぼう》に蹴《け》っ飛ばして閉めた。
ようやく一弥の口から手を離《はな》す。
「……げほっ!?」
「口を慎《つつし》みたまえ。ばれちゃうじゃないか」
「あのですね!」
「ああ、もう、わかったわかった。仕方のない男だな。君の情熱《じょうねつ》には負けたよ」
「はぁ……?」
「週末のヨット遊びの計画は、当初、わたし一人で心ゆくまで男と海≠テーマに自然と戯《たわむ》れるつもりだったがね。仕方ない。君たちも招待《しょうたい》するよ」
警部はおおげさにため息をついてみせた。そして机《つくえ》に尻《しり》を乗せて浅く座ると、棚に置かれていた西洋人形を一つ胸《むね》に抱《だ》いて、長い髪《かみ》を愛《いと》おしそうになで始めた。
その様子を、変態《へんたい》を見るような目で遠巻《とおま》きにしている一弥には構わず、独《ひと》り言のように、
「彼女のだね……」
「彼女?」
「その、ヴィクトリカ……だよ。あいつの外出|許可《きょか》≠フ特例も、このわたしの働きかけがあれば下りるだろう。なんといってもわたしはグレヴィール・ド・ブロワ警部だからね。尽力《じんりょく》してやってもいい。ふむ……」
一弥は首をかしげた。
「外出許可って?」
「いや、なんでもない……。では、週末に。詳《くわ》しいことは追って連絡《れんらく》するよ」
ド・ブロワ警部は人形の片手《かたて》を掴《つか》むと、一弥に向かって「ばいばい」と振ってみせた。一弥は不気味に思い、逃《に》げるようにその部屋を出た。
「……では、週末の約束をしてきてしまったのか?」
聖《せい》マルグリット大図書館。
再《ふたた》び迷路階段《めいろかいだん》を駆け上がってやってきた一弥に、いつのまにかいつもの植物園に陣取《じんど》り、パイプをくゆらしていた美少女、ヴィクトリカが言った。
目の前の床《ゆか》には、放射線状《ほうしゃせんじょう》に広げられたたくさんの難解《なんかい》な書物。ヴィクトリカは顔も上げず、長い金髪《きんぱつ》をほどけたターバンのように散らしながら、読書に没頭《ぼっとう》している。
一弥の話に耳を傾《かたむ》けながらも、ひっきりなしにページをめくっているところを見ると、難解な書物を読むことと会話することを同時にやってのけているらしい。
「うん、そう」
「……グレヴィールと?」
一弥は得意そうに胸を張《は》った。
「ヨットの所有権までは主張《しゅちょう》できなかったけど、とりあえずは暫定《ざんてい》的勝利というか、ね」
その義憤《ぎふん》に燃え、勝利に酔《よ》う一弥の生き生きとした顔を、ヴィクトリカはのっそりと首をもたげて、あきれたように見上げた。
長く生きすぎた老人のような、もの悲しい緑の双眼《そうがん》。
老女のようにしゃがれた、しかしよく通る声。
「一つ、聞くが」
「はいはい、なんでしょう?」
「久城、君、グレヴィールが好きか?」
「まっさか! あんなやつ、大ッキライだよ。反吐《へど》が出る!」
「もう一つ、聞くが。貴重《きちょう》な週末をだね、その大ッキライなグレヴィールとともに過《す》ごしてだね、久城、君、楽しいのか?」
「楽しくないよ!…………………………あっ?」
一弥はしばし呆然《ぼうぜん》とした後、首をかしげてその場にしゃがみ込んだ。
「…………どうしてこうなったんだっけ?」
「わたしとしても、君に聞きたいところではあるが。しかし、そうか……」
落ち込んでいる一弥にはまったく気を使うことなく、ヴィクトリカは書物から顔を上げると、けだるげにパイプをくゆらした。
天窓《てんまど》から射《さ》し込む柔《やわ》らかな光。
それを見上げる彼女の肌《はだ》も、照らされて白々と輝《かがや》く。
「そうか……。では、出られるのか。この牢獄《ろうごく》を。グレヴィールが外出許可≠取ると、そう、言ったのだな……!」
その謎《なぞ》のつぶやきに、落ち込んでいる一弥は気づかない。
「警部《けいぶ》と週末旅行……。どうしてそんなことになったんだろう? いや、向こうも悩《なや》んでるころだろうから、いわば相打ちだな。しかし……せめてあのヘアスタイルだけでもなんとかしてくれないかな。一緒《いっしょ》に歩くの、微妙《びみょう》に恥《は》ずかしいよ……」
――ふと気づくと、ヴィクトリカが立ち上がっていた。
身長は百四十センチぐらい。長い金髪を垂《た》らし、白い肌とエメラルド・グリーンの瞳《ひとみ》を輝かせるその姿は、人間というより、精巧《せいこう》な人形が動いているような奇妙《きみょう》さを感じさせる。
つられて一弥も立ち上がった。
めったにヴィクトリカが立ったところを見ることはないのだが、たまにこうすると、一弥は彼女の体の小ささに改めて驚《おどろ》いてしまう。少年としては小柄《こがら》な一弥の胸かお腹《なか》辺りに、小さな金色の頭があった。子供《こども》のように首をもたげてこちらを見上げ、ヴィクトリカは、
「旅行の支度《したく》をする」
「……えっ? だって、週末までまだ何日もあるよ」
「…………」
ヴィクトリカはなぜか悔《くや》しそうな顔をした。それから黙《だま》って歩き始めた。
と……。
教職員用《きょうしょくいんよう》の油圧《ゆあつ》式エレベーターのボタンを押し、開いた鉄格子《てつごうし》から鉄檻《てつおり》に入っていった。
「げげぇ!?」
「……どうした、久城?」
「ヴィクトリカ、君、なんでエレベーターに乗ってるの?」
振り返ったヴィクトリカは、パイプを口から離し、
「許可があるからだ。これは教職員とわたし用のエレベーターなのだよ。……どうした? なぜ泣きそうになっている?」
「いや、ぼくはまた、君も迷路階段を上がっているものだとばかり……。ぼくらは同じ苦労をともにしているのだと……」
「そんな馬鹿《ばか》な。こんな階段を何分もかけて上がるマヌケは、君ぐらいだ、久城。そういえば……」
ヴィクトリカは遠い目をした。
「今朝、わたしがエレベーターで上ってきたとき、君、階段にいたな。やけに急いで駆け下りていたので、声はかけなかったが」
「……ぜひ、かけてよ! それは君に会いにきたんだから!」
落ち込んでいる一弥に構わず、鉄格子がギギーッと閉《し》まった。
あわてて、
「ぼくも乗せてよ」
「それはいけない。これは教職員とわたしのためのものだ。君は辛《つら》い辛い思いをして腿《もも》をだるぅくしながらえっちらおっちら階段を降りたまえ。勉強ばかりしている君には、貴重な運動だ。せいぜい無駄《むだ》に体力でもつけたまえよ」
一弥はガーンとショックを受けた。生まれ育った東洋の島国では、兄二人が、成績優秀《せいせきゆうしゅう》なだけではなく体も相当|鍛《きた》えていたので、事あるごとに家族に、おまえも走れだの腕立《うでた》て伏《ふ》せをしろだのと言われて家の近所を走ったりしていた一弥だったが、そういえば、ソヴュール王国にきてからは、運動らしい運動はしていなかった。ちなみに、国に残してきた兄たちは大柄《おおがら》で腕力《わんりょく》もあり、昔は二人|揃《そろ》ってよく近所の悪ガキを締《し》めていた。長じて、喧嘩《けんか》バカの長兄は学者になり、逃《に》げ足の早い次兄は政治家《せいじか》になった。適材《てきざい》適所ともなんとも言い切れないが……。
思わず遠い目になって立ち尽《つ》くす一弥に、ヴィクトリカはとってつけたように笑顔《えがお》を見せ、ぱたぱたと小さな手を振った。
「では、友よ。下で会おう」
「えっ……ちょっ、ヴィクトリカぁぁぁ!?」
ガタタン――!
鉄檻は無情にも、ヴィクトリカだけを乗せて落下し始めた。
さて、時が過ぎ、その週の週末――。
あいにくの曇《くも》り空が、聖《せい》マルグリット学園の静かな敷地《しきち》内を覆《おお》っていた。
なだらかな山の中腹《ちゅうふく》に位置する敷地の隅《すみ》に、学生|寮《りょう》がそびえていた。学生寮といっても、そこは貴族《きぞく》の子弟《してい》の寝起《ねお》きする場所だ。上質《じょうしつ》なオーク材で造《つく》られた二階建ての建物で、各部屋の窓には絹《きぬ》のカーテンが揺《ゆ》れている。内部は生徒一人一人に与《あた》えられた広い個室のほか、シャンデリアの輝《かがや》く大食堂まであり、至《いた》れり尽《つ》くせりである。
その学生寮の前で、一弥とヴィクトリカが、言い争いをしていた。
「……どうしてこんな大荷物なんだよっ! 君、おかしいよ、ヴィクトリカ」
「これはだな、わたしのこの頭脳《ずのう》が英知を尽くして考えた、旅行に最低限《さいていげん》必要な持ち物、なの、だ……」
ヴィクトリカはちょっと自信なさそうだ。
一弥のほうは顔を真っ赤にして、彼女が地面に置いている、体の倍はありそうな旅行|鞄《かばん》を指差している。
「ヨットの一泊《いっぱく》旅行に、どうしてこんな大荷物が必要なんだよっ? これじゃ、君、家出少女じゃないか。ぼくたち二人がすっぽり入る大きさだよ」
「必要だったら、必要なのだ!」
意地になったように、ヴィクトリカが繰《く》り返した。
一弥は負けじと、
「だいたい、どうして、留学《りゅうがく》してきたときのぼくの荷物より多いんだよ? 極東からはるばる海を渡《わた》ってきたんだよ。ええと……一か月ぐらい船に乗ってた。そうだ、ヴィクトリカ、君、この鞄が自分で持てるのか」
「もちろん持てない」
「じゃ……?」
「久城、君が持つのだ」
「ばかー!」
一弥はおろおろと止めるヴィクトリカに構わず、巨大《きょだい》な旅行鞄を開けると中を点検《てんけん》し始めた。ヴィクトリカが「君、勝手に人の荷物を……」「プライバシーが……」などと抗議《こうぎ》するが、こうなると一弥は誰《だれ》にも止められない。
のんびりと通りがかったセシル先生が、そんな二人の様子をビックリしたようにみつめた。
「……あなたたちって、いつも仲がいいわねぇ。でも……なにしてるの?」
「ちょうどよかった。先生、はい、これ」
顔を上げた一弥が、セシル先生に向かってなにか投げた。先生は驚《おどろ》いて受け取る。ヴィクトリカが悲しそうに、
「それはわたしのコンパス……!」
「そんなものヨットにあるって。あ、この救命|胴衣《どうい》もいらない。あとこの……着替《きが》えの山も、一着でいいよ。うーん……なんで食器セットが入ってるんだよ!? 椅子《いす》とか!? 君、難民《なんみん》なの!?」
――結局、小さなヴィクトリカが肩《かた》からかけられるバッグ一つ分の荷物に減《へ》らされ、二人は無事に出発することになった。巨大鞄をセシル先生に預《あず》け、村に向かって歩き始める。
「久城、君という男は……」
ヴィクトリカが憮然《ぶぜん》として言った。
「仕切り屋なのだな」
「そんなことないよ」
「仲のよい友人も、旅行をすると意外な欠点が露呈《ろてい》し、友情に亀裂《きれつ》が入ることがあるというがね……」
「なに言ってるんだよ? あ、ヴィクトリカ、走って。五四分の列車に乗るって、ぼくが決めてるから」
「むぅ……」
二人は村に一つだけある駅に走り込《こ》んだ。三角屋根にかけられた丸い時計が目印の、小さな駅だ。蒸気《じょうき》機関車が到着《とうちゃく》するたび、小さな駅舎《えきしゃ》がぶるぶると震《ふる》えて、足の下から振動《しんどう》が伝わってくる。
一弥が切符《きっぷ》を買い、改札を通ろうとすると、ヴィクトリカがぼんやりとそれをみつめていた。
「ヴィクトリカ、切符は?」
「……切符?」
「ここで買うんだよ。ほら、財布《さいふ》出して」
と、出した財布にぎっしり紙幣《しへい》が詰《つ》まっているのを見て、一弥はあわててそれをしまわせた。彼女の分の切符も自分で買って、手を引っ張って駅のホームに走る。
旅支度《たびじたく》の大人たちのあいだを、まるで台所の床《ゆか》を走る二|匹《ひき》の鼠《ねずみ》みたいに、二人でバタバタ駆《か》け抜《ぬ》けた。乗るはずの蒸気機関車が、ホームの真ん中で、ちょうど動き出したところだった。一弥は振り返って、ヴィクトリカの手を引っ張った。彼女は金髪《きんぱつ》をなびかせて、小さな体で懸命《けんめい》に走っていた。ヴィクトリカの小さな体を持ち上げるようにして乗せると、自分も後から、飛び乗った。
二人を乗せた機関車が、速度を増《ま》して、小さな駅舎のホームを轟音《ごうおん》とともに駆け抜けていく……。
ドアの近くに立って、手すりをつかんでいるヴィクトリカの金色の髪《かみ》が、風に吹《ふ》き上げられて綿菓子《わたがし》みたいにふくらんだ。その向こうに、びっくりしたように見開かれたエメラルド・グリーンの瞳《ひとみ》があった。
機関車はどんどん速度を増していく。
村に広がる葡萄《ぶどう》畑の中に、ぽつん、ぽつん、と人が立っているのが見えて……だんだん、目で追えないほどに速くなっていった。
一弥は、立ち尽くしているヴィクトリカをうながして、座席《ざせき》に向かった。ヴィクトリカはおとなしくついてくる。
向かい合わせのボックス席に着いた。固い座席に腰《こし》を落ち着けて、一服おいてから……一弥が叫《さけ》んだ。
「……なんでそんなたくさん、お金を持ってきたんだよっ?」
「必要だろう」
「そんなにいらないよ! それに、あんな財布を人に見られたら、スリにモテモテになっちゃうよ。ああ、もう、ビックリしたなぁ…………って、ヴィクトリカ?」
ヴィクトリカは子供《こども》のように窓《まど》の桟《さん》に小さな両手をつき、窓の外の風景をみつめていた。
一弥はその顔を、おそるおそる覗《のぞ》き込んだ。
朝からお説教ばかりして、怒《おこ》らせちゃったかな……と心配になったのだが、ヴィクトリカは怒った様子はなく、ただ驚《おどろ》いたようにエメラルド・グリーンの瞳を見開いて、窓の外に目をこらしていた。
生《お》い茂《しげ》る緑。山脈のつらなる雄大《ゆうだい》な光景。
それが次第《しだい》に、建物や道路が増《ふ》え、都会の街角へ変わっていく。
学園のある山を降《くだ》り、街に近づいていくのだ。それをヴィクトリカは、熱っぽくみつめている。
そして時折、視線《しせん》を動かして、しゅっぽしゅっぽと音を立てる車輪や、黒煙《こくえん》を上げる煙突《えんとつ》などにじっと見入っている。
(まるで、初めて機関車に乗った人みたいだな……)
一弥は口を閉《と》じて、一心に窓の外をみつめるヴィクトリカの横顔を、見るともなしにじっと眺《なが》めていた。
――目指す駅は、地中海|沿《ぞ》いの騒《さわ》がしい町にあった。アルプス山脈の麓《ふもと》にあるあの村とは、同じ国とは思えないほどに活気があり、駅のホームにまで、かすかな潮《しお》の匂《にお》いが漂《ただよ》う大きな港町だった。
一弥は、ヴィクトリカをうながしてホームに降り立った。村の駅舎《えきしゃ》とちがって、ホームが何本もあり、天井《てんじょう》も見上げたら気が遠くなりそうなほど高かった。油断《ゆだん》すると駅の中で道に迷《まよ》ってしまいそうだ。
旅|慣《な》れた様子の大人たちが忙《いそが》しく行きすぎ、大きな荷物を預《あず》かった赤い制服《せいふく》のポーターが横切っていく。
何本ものホームに、たくさんの人が向かい、また、降りてくる。人と人が無限《むげん》に交差する、都会の駅。しかし子供の姿《すがた》は少なかった。通り過《す》ぎる人々が、二人だけで立っている一弥とヴィクトリカを、時折、不思議そうに一瞥《いちべつ》していく。
ホームに降り立ったヴィクトリカは、きょろきょろし続けていた。ようやく改札の場所をみつけた一弥が、一緒《いっしょ》にそちらに歩きだそうとしても、ヴィクトリカが熱に浮《う》かされたように、興味《きょうみ》をもったままあっちにこっちに歩きだしてしまうので、難儀《なんぎ》した。一弥は意を決し、ヴィクトリカとしっかり手を繋《つな》いだ。
――小さな手だった。学園の同級生というより、まるで幼《おさな》い妹を連れているみたいだ。
「ぼくからはぐれないでよね、ヴィクトリカ」
「…………」
ヴィクトリカはきょろきょろし続けている。不思議なものをみつけては、
「あれはなんだ?」
「アイスクリーム屋だよ」
「あれは?」
「新聞売り。……ちょっと、まっすぐ歩いてよ。轢《ひ》かれちゃうよ」
一弥はヴィクトリカの小さな体を抱《かか》え込むようにして、通りに出た。
広い道幅《みちはば》に、何車線も線が引かれて、ひっきりなしに馬車や車が通り過ぎていた。舗道《ほどう》には人々が溢《あふ》れ、慣れた足取りで、馬車や車の行き交《か》う大通りを渡《わた》ったり、馬車を止めては乗り込んでいる。舗道沿いにはきらびやかな店舗《てんぽ》が並《なら》び、ウインドウに高級菓子やあでやかなドレス、帽子《ぼうし》や扇子《せんす》などが飾《かざ》られている。
また、かすかに潮の匂《にお》いがした。海が近いのだ。
一弥は立ち止まり、ぴゅうっと口笛を吹いた。と、パッカパッカと四輪馬車が近づいてきて、二人の前で停まった。ヴィクトリカが驚いて、
「……魔法《まほう》か?」
「こうやって呼ぶものなんだよ。ほら、乗って」
馬車に乗ってからも、ヴィクトリカは顔を外に向けて、めずらしそうに通りの人々や建物を観察し続けていた。一弥は行き先を告げてから、
「ねぇ、もしかしてヴィクトリカ……あんまり外出したことないの?」
「…………」
ヴィクトリカは答えなかった。急に横顔が不機嫌《ふきげん》になったような気がして、一弥はそれ以上聞くのをやめた。
――警部《けいぶ》と待ち合わせをした、リヨン湾《わん》の海岸に着く頃《ころ》には、一弥はへとへとになっていた。
地中海に面した大きな波止場の一角。
貴族《きぞく》や金持ちの豪華《ごうか》ヨットや、異国情緒《いこくじょうちょ》あるデザインの客船が停泊《ていはく》し、肌《はだ》の色もさまざまな船乗りたちが乗り降《お》りを繰《く》り返していた。
岸につけられたピカピカのヨットの上に、若《わか》い男が立っていた。
横縞《よこじま》の水夫風シャツに、白いぴちぴちパンタロン。首に朱色《しゅいろ》のバンダナを巻《ま》いて、頭は相変わらず攻撃《こうげき》的に尖《とが》らせている。……グレヴィール・ド・ブロワ警部だ。
警部は二人の姿《すがた》を目に留《と》めると、上機嫌で手を振《ふ》った。
「よーぅ、相棒《あいぼう》!」
一弥はぐったり疲《つか》れた顔をして、力なく手を振った。
ド・ブロワ警部は軽快《けいかい》にヒラリと飛び降りてくると、一弥たちの前で、片足《かたあし》を前に出し、扇情的なナイスポーズを取ってみせた。それからふと、途方《とほう》に暮《く》れたように、
「……悩《なや》んでたんだがね……どうしてわたしは、君たちと週末を過ごすことになったのかな?」
「ぼくも不思議に思ってました。……いいヨットですね?」
「ブロワ号だよ。ところで、久城くん」
警部は急にまじめな顔になった。
傍《かたわ》らに立つヴィクトリカにも聞こえるように、中腰《ちゅうごし》になって――こうしてみると二人の身長差は四十センチ以上あった――ささやいた。
「例の事件《じけん》……となりの部屋での一発目の発砲《はっぽう》だがね」
「また、警部さん、ヴィクトリカに頼《たよ》ろうとし、て……」
一弥が怒《おこ》りだしたのを、ヴィクトリカがつついてやめさせた。ヴィクトリカの顔を覗《のぞ》き込むと、聞きたそうな顔をしていたので、仕方なく黙《だま》る。
「撃《う》たれていたのは、鏡だった。粉々にされていたよ。どうやら占《うらな》い師《し》ロクサーヌが占い用に使っていた、古く由緒《ゆいしょ》ある鏡だったらしい」
「魔法《まほう》の鏡、か……」
ヴィクトリカがつぶやくと、ド・ブロワ警部はビクリと体を震《ふる》わせた。
「部屋には占いに使う道具がたくさんあった。たとえば……」
「葡萄酒を満たした銀の壺《つぼ》。油を注いだ銅の壺。そして水を入れたガラスの壺だな」
「う……?」
警部は恐《おそ》ろしいものを見るようにヴィクトリカを見た。
ヴィクトリカは肩《かた》をすくめ、
「占いに使う道具だよ、グレヴィール」
「そういうことには詳《くわ》しいよね。切符《きっぷ》の買い方とかは知らないのに」
一弥が口をはさむが、二人とも返事をしない。一弥はしょんぼりした。
「それから、例のアラブ人メイドだが……」
「ふむ」
「美人だ」
「……警部さん、それ新聞にも書いてありましたよ」
また一弥が口をはさむ。
「そのメイドが、動機について謎《なぞ》の言葉を口走った。アラビア語の通訳《つうやく》が、怪《あや》しげなやつしかみつからなかったので、まだ意思の疎通《そつう》が計りきれないのだがね。通訳は、彼女がこう語ったと言っている」
ド・ブロワ警部は一度、言葉を切ってから、静かに、
「〈これは箱の復讐《ふくしゅう》です〉、と……」
ヴィクトリカが顔を上げた。
警部と目を合わせる。
二人の視線《しせん》が合ったところを見るのは、これが初めてだった。どうなることかと一弥は息を飲んで見守っていたが、どうもならなかった。
と、遠くから、おかしな声が聞こえてきた。
「警部ぅぅぅぅぅー!」
「ぶぅぅぅぅぅー!」
三人が顔を上げると、桟橋《さんばし》の向こうから、見慣《みな》れた男二人組が走ってくるのが見えた。
兎革《うさぎがわ》のハンチングをかぶった二人組だ。仲良く手を繋《つな》ぎながら走り寄《よ》ってくる。
――ド・ブロワ警部の部下だ。
「どうした! 何ごとだ?」
ド・ブロワ警部が胸《むね》を張《は》り、ビシッと二人を指差して言うと、二人は足を止め、
「警部、ナイスポーズですー!」
「きれてますー!」
一弥は、無理して警部を褒《ほ》めちぎる二人を横目で睨《にら》んだ。
(こいつらが甘《あま》やかすから、へんな警部なんだよ……。ヘアスタイルも直らないし……)
ヴィクトリカにもそう言おうかと傍らを見ると、いつのまにか彼女は姿を消していた。きょろきょろと捜《さが》すと、ヨットに飛び乗って熱心に中を調べていた。……また、好奇心《こうきしん》の虫にとりつかれたらしい。
「警部ー、たいへんですー! アラブ人メイドがー」
「逃《に》げましたー!」
「げげぇ!? ほ、本当か!」
ド・ブロワ警部は飛び上がった。
部下二人について走りだそうとして、はっと気づき、戻《もど》ってくる。
「おい、久城くん。わたしはここで失礼する! ヨットだが、乗ってもいいが運転してはいかんぞ。免許《めんきょ》を持っているのはわたしだけなのだからな」
「ええ!? 乗ってるだけ? 運転はダメ?………………つまんないですけど?」
「わかってる! 我慢《がまん》だ!」
警部はきっぱり言い切ると、部下二人と手を繋いで、走り去っていってしまった。
一弥はその後ろ姿を、呆然《ぼうぜん》と見送った。
(運転するなって……。我慢だって………………えぇ〜?)
弱り切って、ヴィクトリカのほうを振り返ると、彼女はレースがふわふわしたワンピースを際限《さいげん》なく汚《よご》し、糸のように細くきらきら輝《かがや》く金髪《きんぱつ》をぼさぼさにした姿で、ヨットから降《お》りてきた。
チラッとド・ブロワ警部の後ろ姿を見ただけで、気にする様子もなく、
「おい、君。このヨットは占《うらな》い師《し》ロクサーヌの孫娘《まごむすめ》のもの、だったな」
「うん、たしかそうだよ」
「孫娘はロクサーヌの遺産《いさん》を相続したのだな。ということはこのヨットはもともとロクサーヌのものだったのだな」
「……そうだね」
「ふぅむ、ところでだね」
ヨットが運転できないことにしょんぼりしていた一弥は、ヴィクトリカの言葉に生返事を返すばかりだった。その様子に気づいたヴィクトリカはムッとし、さっきから手に握《にぎ》っていたなにかを、ずいっと一弥の目前に差しだした。
――白い封筒《ふうとう》だった。
「なに、これ?」
「ヨットの中でみつけたのだ。招待状《しょうたいじょう》だ。……ロクサーヌ宛《あて》の」
一弥は興味を持って、封筒を開けてみた。
二人でヨットの縁《ふち》に腰《こし》を下ろし、中から現《あらわ》れた、流麗《りゅうれい》なフランス語で書かれた手紙を読む。
内容《ないよう》は、豪華《ごうか》客船への招待だった。この近くの海岸に停泊《ていはく》中の客船でのディナーに、ロクサーヌを招《まね》いていた。日付は今日の夜。
「……気になる部分があるな」
「そうだね……」
一つは、料理のメニュー。ひときわ大きな飾《かざ》り文字で、わざわざこんな言葉が綴《つづ》られていた。
〈メインディッシュは野兎《のうさぎ》≠ナす〉
野兎――。
占い師ロクサーヌのお屋敷《やしき》でたくさん飼《か》われていた動物だ。
猟犬《りょうけん》に噛《か》み殺させていたという……。
そして、もう一つ。
ディナーのタイトルだ。
〈〜箱庭の夕べ〜〉
「……箱、って言葉、さっきも聞いたよね?」
「ああ、そうだな」
一弥とヴィクトリカは、顔を見合わせた。
ヴィクトリカの表情《ひょうじょう》が、はやくも「退屈《たいくつ》だ」「退屈しのぎだ」と一弥にからむときの顔つきに変わってきていた。どこがどう、とうまく言えないのだが、経験《けいけん》からわかるのだ。
ついで一弥は、ヨットの中を振り返ってみた。
ぴかぴかの豪華なヨット。
素敵《すてき》だけれど……動かしちゃいけないっていうのは、ちょっと……つまらない。
ヴィクトリカと、うなずきあう。
「……行ってみようか」
「うむ」
――二人が、招待状の地図を頼《たよ》りにその客船をみつけた頃《ころ》には、日が暮《く》れかけていた。薄暗《うすぐら》い岸に停《と》められたその船に、招待状を見せて、乗り込《こ》む。
[#挿絵(img/01_083.jpg)入る]
二人が最後の客だったらしく、船はすぐに岸を離《はな》れて、波の音をさせながら動き始めた。
(あれっ……?)
静かな船だった。岸に停泊しているときから、闇《やみ》に溶《と》けこむように暗い色で、目をこらさなければそこに船があることを見逃《みのが》してしまいそうな……暗い幻《まぼろし》のような船だった。やけに太い煙突《えんとつ》が、夜空に向かって不気味にそびえ立っていた。一弥は思わず身震《みぶる》いした。
(あれっ? この船の名前……)
ふと、首をかしげた。
(どこかで聞いたことがあるような……うーん、思い出せない。まぁ、いっか)
船は海を割《わ》るように、進んでいる。
遠くで雷鳴《らいめい》が鳴った。天候《てんこう》はよくないらしい。
船には、その名が控《ひか》えめに記されていた。
〈QueenBerry 号〉と――。
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モノローグ―monologue 1―
さむかったしお腹《なか》もすいていた。
ソヴュールは豊《ゆた》かな国のはずだったけれど、ダウンタウンの路地にしゃがみ込んでいる孤児《こじ》にとっては、凍《い》てついた森にいるのと同じだった。
施設《しせつ》を抜《ぬ》け出して、三日。
残飯を漁《あさ》ったり、盗《ぬす》んだりして食いつないでいたけれど、もう限界《げんかい》だった。
――急にがっちりした大人の腕《うで》に肩《かた》を掴《つか》まれて、持ち上げられた。
みつかってしまった、施設に帰されるんだ、と思ったけれど、抵抗《ていこう》する力もなかった。
鉄格子《てつごうし》がはめられた馬車に放《ほう》り込まれた。
まるで動物を入れる檻《おり》みたいだ、と思った。
暗かったけど、闇《やみ》に慣《な》れた瞳《ひとみ》に、同じ檻に入れられた数人の子供《こども》たちが見えた。みんなボロを着て寒さに震《ふる》えていた。男の子のほうが多かったけれど、女の子もいた。
馬車が動き出す。馬の蹄《ひづめ》が、石畳《いしだたみ》を蹴《け》って、軽い音を立てる。
御者席《ぎょしゃせき》からさっきの大人の声がする。男が二人いて、なにか相談している。
「ソヴュールの子供を確保《かくほ》したぞ」
「身元は?」
「ありゃあ、孤児だろう。いなくなったって誰《だれ》も捜《さが》さない。だいじょうぶだ」
(……どういうこと?)
思わず耳をそばだてる。
「あとはどこ[#「どこ」に傍点]だ?」
「あと……二人だな。まぁ、すぐ集まるだろう」
「簡単《かんたん》だったな」
寒くてたまらなかったので、傍《かたわ》らの子供にくっついて、暖《あたた》めあった。
馬車が揺《ゆ》れている。
(どこに連れていかれるんだろう……?)
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第二章 暗い晩餐《ばんさん》
豪華《ごうか》客船の周りは、真っ暗だった。異国人《いこくじん》らしい、漆黒《しっこく》の肌《はだ》をした案内人は無言で、手にした洋燈《ようとう》の灯《あか》りを頼《たよ》りに、一弥《かずや》とヴィクトリカを誘導《ゆうどう》していた。
ザバン、ザバーン……と、進み始めた船が立てる、波の音が聞こえてくる。
静かな夜だった。
ふと夜空を見上げた一弥は、星の瞬《またた》く暗い空が、とつぜんある場所から遮断《しゃだん》されているのに気づいた。空にまぎれて真っ黒な壁《かべ》が立っていた。上から迫《せま》ってくるような黒い壁によく目をこらすと、それは大きくそびえ立つ煙突《えんとつ》だった。
その煙突は、なぜか、船の大きさとはバランスが合わないほどに太く、船の中央に漆黒の塔《とう》のようにそびえ立っていた。
「……行くぞ、久城《くじょう》」
ヴィクトリカの声に、一弥はあわてて後を追った。船内の階段に降《お》りて、どんどん下っていく。船内に入れば明るいのかと思ったが、なぜか薄暗《うすぐら》いままで、相変わらず案内人の持つ洋燈だけが頼りだった。
――二人が通されたのは、細長い大テーブルとシャンデリアが輝《かがや》く大食堂だった。そのシャンデリアは灯りがついておらず、部屋は薄暗い……いや、真っ暗だった。大テーブルには、十人分のディナーが並《なら》べられてほかほかと湯気を立てていた。各自の手元だけがかろうじて見えるほどのかすかな蝋燭《ろうそく》の光が、十人分、闇《やみ》の中に揺《ゆ》れていた。
給仕《きゅうじ》はいないらしく、順に運んでこられるはずの皿は、前菜からメインディッシュまですべてテーブルに並べられていた。
闇の中に、九人の大人が席に着いていた。ディナーは始まっているらしく、カチャカチャとナイフやフォークが音を立てている。
隅《すみ》にある席が、一つだけポツンと空いていた。そこが、殺されたロクサーヌがつくはずだった席なのだろう。一弥は案内人のほうを振り返って、
「二人いるので、椅子《いす》をもう一つ…………あれっ?」
誰《だれ》もいないので、扉《とびら》を開けて廊下《ろうか》に顔を出す。
案内人の持つ洋燈の、橙色《だいだいいろ》の灯りが、廊下を揺れながら遠ざかっていった。
「あ、あの、ちょっと……?」
声が聞こえているはずなのに、振り向こうとしない。
一弥は不安になった。暗い廊下を走って、彼を追いかける。と、洋燈の灯りも左右に大きく揺れ、遠ざかっていった。走っているらしい……。
(どうして、ぼくから逃《に》げるんだ……?)
――真っ暗な甲板《かんぱん》に出ると、案内人の姿《すがた》は、どこにもなかった。一弥は戸惑《とまど》って、キョロキョロと辺りを見回した。
(そんな……。消えるはずない。確《たし》かにここから甲板に出たんだ……!)
――ポチャリ!
遠くで、水音がした。
一弥は甲板を走り、手すりから身を乗り出した。
小さな水音を立てながら、暗い海を、洋燈の橙色の灯りが遠ざかっていった。案内人は、最後の客である一弥とヴィクトリカをこの船に乗せた後、ボートに乗って船から去ったのだろうか。暗くて、ボートに乗った人影《ひとかげ》までは見えなかったが、一弥はそうなのだろうと考えた。手すりから身を乗り出し、呆然《ぼうぜん》とボートを見送る。
(なっ……? どういうことだよ……ッ?)
しばらくそこに立ち尽《つ》くしていた。
と、船体に、控《ひか》えめに書かれた文字が、目に飛び込んできた。
――〈QueenBerry 号〉。
やっぱり、どこかで聞いたことのある名前だよなぁ、と思った。
首をかしげる。
……思い出せない。一弥はボートで遠ざかっていく男を追うことをあきらめ、甲板を歩いて、もとの大食堂に戻《もど》った。
「ねぇ、ヴィクトリ、カッ…………?」
真っ暗な大食堂には、相変わらず、手元の蝋燭の灯りだけを頼りに、人々が食事を続けていた。隅の空いていた席……には、ヴィクトリカがチョコンと座《すわ》り、もぐもぐと豪華なディナーを口に運んでいた。
小さな手でナイフとフォークを動かしては、小さな口に料理を運んでいく。優雅《ゆうが》で、それでいて素早《すばや》い動きだった。咀嚼《そしゃく》も早い。どんどん料理がなくなっていく。
一弥があわてて近づき、
「ちょっ、ちょっと、ヴィクトリカ!」
「むぐ、むぐ……なんだね、久城? 食事中なのだよ、君。静かにしたまえ」
「ぼくもいるんだけど」
「……知っているが?」
もりもりと前菜を平らげ、ナイフとフォークを代えると魚料理に取りかかりながら、ヴィクトリカが不思議そうに聞き返した。
「ぼくもお腹《なか》が空いてるんだよ!」
「しかし、君。これはロクサーヌ宛《あて》の招待状《しょうたいじょう》なのだからね」
「……だからなんだよ?」
「ロクサーヌは一人しかいない。従《したが》って、彼女宛の招待状を手にやってきた我々《われわれ》のディナーも、一人分しかないというわけなのだ」
「………………わかったよ。君はそういうやつだよね。ねぇ、荷物にクッキーかなにか入ってないの? それで我慢《がまん》するよ」
魚用ナイフで器用に小骨《こぼね》を取り除きながら、ヴィクトリカが顔を上げた。
その顔には、奇妙《きみょう》な微笑《びしょう》が浮《う》かんでいた。文句《もんく》なしに美しい顔は、一見笑っているようだが、口の端《はし》が歪《ゆが》み、片頬《かたほお》がぴくぴく痙攣《けいれん》している。
……ヴィクトリカが怒《おこ》っているときの顔だ。
「持って、いたのだが。君」
「わーい! じゃ、それちょうだい」
「あの旅行|鞄《かばん》になのだよ」
「………………あっ?」
「わたしの頭脳《ずのう》が導《みちび》き出した、必要なはずの道具たち。食器セット、椅子セット、そして非常《ひじょう》食セット」
「……食器と椅子はいらないだろ?」
「いまごろ、旅行鞄ごと、セシルの部屋にあることだろう。自業自得《じごうじとく》だよ、君」
ヴィクトリカはふんっとそっぽを向いた。
続けて小声で、
「君、いくら極東から優秀《ゆうしゅう》な成績《せいせき》で留学《りゅうがく》してきたといってもだね、お堅《かた》い軍人一家の息子《むすこ》といってもだね、えらそうに屁理屈《へりくつ》を並べて人を惑《まど》わすのはどうかと思うがね? だいたい君は、偏屈《へんくつ》で、自信家なのだ。そんなやつに分けてやるクッキーなど、ないのだよ。ふんっ」
(げげぇ!?)
一弥は唖然《あぜん》とした。
(確《たし》かにぼくは、頭が固くて真面目《まじめ》すぎるし、そりゃ欠点だってあるけど……)
ヴィクトリカはすねているのか、知らんぷりして肉料理に取りかかっている。旅行の出だしから一弥に仕切られたことに、じつはプライドが傷《きず》ついていたらしい。
(偏屈って、自信家って、屁理屈で人を惑わすって…………ヴィクトリカにだけは言われたくないぞぉぉぉっ!!)
ひそかに拳《こぶし》を固めた一弥のお尻《しり》を、ちょんちょん、と後ろからつつくものがいた。一弥があわてて振《ふ》り返ると、となりの席についていた若《わか》い白人|男性《だんせい》が、一弥を見上げていた。
「あ、すみません……うるさいですよね」
「いや……。君、座りたまえよ」
そう言われても、空いている椅子はない。一弥が困《こま》っていると、男は人のいい笑《え》みを浮かべ、自分の膝《ひざ》をポンポンと叩《たた》いてみせた。
「ここでよければ」
「ええっ? いや……」
「座れ、久城」
機嫌《きげん》の悪いヴィクトリカに低い声でささやかれ、一弥は仕方なく、その見知らぬ男の膝にそうっと座った。首を曲げて男の顔を見ると、愛想《あいそ》よく微笑《ほほえ》んでいる。
どこかで見た顔だ、と一弥は思った。
端整《たんせい》ではあるが、人柄《ひとがら》の良さそうな微笑《びしょう》のせいで、ハンサムというより、いい人という印象のほうが強い。イギリス人らしい、どこか硬質《こうしつ》な響《ひび》きを持つクイーンズイングリッシュが、あのかわいい転校生、アブリルを思い出させた。
そうだ、アブリルが……。
「あなた、イギリスの舞台《ぶたい》俳優《はいゆう》の人じゃないですか?」
一弥が言うと、男の顔がパッと輝《かがや》いた。
「俺《おれ》を知ってるのか?」
「クラスメートの女の子がブロマイドを持ってたんです。ネッド・バクスター様、って」
「いや、うれしいなぁ。君、俺の肉を食べたまえ。ほら、遠慮《えんりょ》しないで」
大きく切ったメインの肉料理をさしたフォークを口の前まで持ってこられた一弥は、目を白黒させながらもぱくっと食べた。舌《した》の上でとろけるようなおいしい肉だった。ネッド・バクスターは小食なのか、肉料理をほとんど残していた。せっせと一弥の口の前に運んでは、食べさせる。ヴィクトリカがその様子を横目で見て、意地悪な声で、
「……お似合《にあ》いだぞ」
「あのねぇ、ヴィクトリカ」
「ほらほら、もっと食べたまえ、君」
「あああ、ありがとうございます……」
――しんとした食堂に、うれしそうにネッド・バクスターが語るイギリスの演劇事情《えんげきじじょう》やらシェークスピア論議《ろんぎ》などが響き渡《わた》った。
ほかの客は皆《みな》、黙《だま》って食事を続けている。
そして、十数分後――。
食器の立てる音は聞こえなくなっていた。ネッドの声も途絶《とだ》えた。
暗い食堂に、ただ蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りだけが、薄《うす》ぼんやりと揺《ゆ》れていた。規則《きそく》正しく、十人分の席の前で鈍《にぶ》く輝いている。その、それぞれの席に着いていた客は……。
ある客はテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》し、動かなくなっていた。そのとなりの客は、椅子《いす》に深くもたれて、ぽかりと口を開けていた。鼾《いびき》に似たかすかな息が漏《も》れ聞こえ、また途絶えた。
客は全員、ぐぅぐぅと眠《ねむ》ってしまっていた。ネッドの膝から一弥が転がり落ちて、大きな音を立て、床《ゆか》にうつぶせに倒《たお》れた。
食堂に、静寂《せいじゃく》が落ちる。
蝋燭の炎《ほのお》がじじっ……と音を立てるほかは、なんの音も聞こえない。
やがて……。
静かにドアが開き、誰かが入ってきた。
その十二人目の人物は、注意深く一人一人の顔を覗《のぞ》き込《こ》み、眠っているかどうかを確認《かくにん》した。かすかな足音を立てながら、テーブルの周りをゆっくり歩く。床に転がっていた一弥をぎゅむっと踏《ふ》んづけ、驚《おどろ》いたように小さな叫《さけ》び声を立てる。
不思議そうに少年を見下ろし、ついで、となりの席で眠る、帯のような長い金髪《きんぱつ》を椅子から垂《た》らすヴィクトリカに気づくと、まずその精巧《せいこう》な美貌《びぼう》にみとれた。それから怪訝《けげん》な顔になり、床の一弥と、椅子のヴィクトリカを順番にじろじろ見た。
そして、ヴィクトリカの目前にあるネームプレートを確認する。
〈ロクサーヌ様〉と書かれている。……その席に、どうしてこの少女がいるのだ、というように首をかしげる。
静かな侵入者《しんにゅうしゃ》に気づかず、十一人の客は、すやすやと眠り続けている……。
「……おい、君、起きたまえ」
「うう〜ん……?」
「仕切り屋で屁理屈《へりくつ》こきの留学生《りゅうがくせい》の人。起きなさい」
「……君にだけは言われたくないよ、ヴィクトリカ!」
一弥は怒《おこ》りながら起きあがった。
途端《とたん》に、鼻先にぷうっと煙《けむり》を吐《は》きかけられた。手のひらで煙を追っ払《ぱら》いながら、ゴホゴホ咳《せ》き込む。
「ゴホン、ゲホン……もう、やめてよ、ヴィクトリカ。まったく、子供《こども》っぽいんだから……」
ヴィクトリカが、心外な、という顔をした。
一弥はそんなことは気にせず、キョロキョロと周囲を見回した。
「あれっ……ここ、どこ?」
「船室の一つだ。ラウンジだよ」
ヴィクトリカが、ぷいっとそっぽを向きながらも、答えた。
そこは、さきほどの大食堂と同じぐらいの広さのラウンジだった。さきほどまでいた部屋とは対照的に、天井《てんじょう》の豪華《ごうか》なシャンデリアが、目が痛《いた》くなるほど眩《まぶ》しかった。
壁際《かべぎわ》に小さな舞台《ぶたい》があり、まるで、ついさっきまで楽隊が演奏《えんそう》していたかのように、楽譜《がくふ》が開きっぱなしになっていた。中央には、ポーカーに興《きょう》じたりお酒を飲むための小テーブルがいくつも並んでいた。隅《すみ》にバーカウンターがあり、高級そうな酒瓶《さかびん》がいくつも並んでいた。
さきほどの大食堂にいたらしい大人たちが、それぞれ椅子《いす》に座《すわ》ったり、テーブルをベッド代わりに寝《ね》かされたりしていた。明るいこの部屋で見ると、ほとんどは四十代か、もっと上の世代の男だった。仕立てのいいスーツに、ピカピカの靴《くつ》やカフス。手入れの行き届《とど》いた口髭《くちひげ》。かなり身分の高そうな男たちばかりだったが、いまはみんな、頭を抱《かか》えて、辛《つら》そうにうめき声を上げている。
部屋の中には、なぜか、シンナーのような刺激臭《しげきしゅう》がかすかに漂《ただよ》っていた。息をするたびに鼻孔《びこう》をつんと刺激する。みんなが気分悪そうなのは、この臭《にお》いのせいでもあるのだろうか。
一弥が座らされている椅子のとなりに、ヴィクトリカがちょこんと座っていた。そのとなりにネッド・バクスターもいた。彼は頭を抱えて辛そうにうつむいていた。
一弥も、かすかな頭痛《ずつう》を感じながらヴィクトリカを見た。彼女のほうは平気そうだ。
「……どういうこと?」
「食事に一服|盛《も》られていたようだ。目覚めたら全員このラウンジに移《うつ》されていた」
「どうして?」
「…………」
ヴィクトリカは答えなかった。
代わりに、ラウンジの中を見渡《みわた》す。
男たちが年輩者《ねんぱいしゃ》ばかりなのに、一弥は改めて驚《おどろ》いた。二十代半ばぐらいのネッドが、もっとも若《わか》い男だった。
「おじさんばっかりだね、ヴィクトリカ」
「いや、そうでもないぞ。あそこに女がいる」
一弥はヴィクトリカの視線《しせん》を追った。
ドア近くのテーブルに、若い女が一人、小さくて形のいい尻《しり》を乗せて座っていた。鮮《あざ》やかな朱色《しゅいろ》のドレスをまとっていた。そして、その赤とは対照的な、つややかな黒髪《くろかみ》が腰《こし》まで垂れていた。
視線を感じたのか、女がふとこちらを見た。
ドレスに合わせた赤い口紅《くちべに》が目に飛び込んできた。瞳《ひとみ》が、長い睫毛《まつげ》に縁取《ふちど》られて蒼《あお》く輝《かがや》いていた。
童顔のせいで、一瞬《いっしゅん》、子供が大人ぶった服装《ふくそう》をしているようにも見えたが、おそらく二十代前半ぐらいだろう。唇《くちびる》をギュッと結んでいる。まるで、さあこれから口|喧嘩《げんか》をおっ始めるわよとでも言いたげな、いかにも気の強そうな表情《ひょうじょう》だった。
ラウンジは、うめき声や、怯《おび》えたような小さなささやきが漏《も》れるだけで、しんと静まり返っていた。誰《だれ》もが身動きもせず、ただ辛そうに頭を抱えていた。
ヴィクトリカは、赤いドレスの女から目を離《はな》すと、一弥にささやいた。
「久城、おかしなことがある」
「……なに?」
「一人|増《ふ》えているのだよ」
一弥は目をしばたいた。
「そりゃそうだろ? 十人しか席がないところ、ぼくとヴィクトリカがきたんだからさ」
「そうではないよ、久城。わたしたち以外に、さらに一人、だ」
「どういうこと?」
ヴィクトリカは、なかなか話が通じないことにいらつくように、その場で地団駄《じだんだ》を踏《ふ》んだ。しかめっ面《つら》をしてみせ、いつもより早口で、
「つまりだね。さきほどの食堂にいたのは、九人だった。そこにわたしたちがやってきて、十一人になった。しかし……数えてみたまえ」
一弥は言われたとおり、ラウンジで呻《うめ》いている人間を数えてみた。
一人。二人。三人……。
四人……五人…………六人……………………。
数え終わると、不思議そうに言った。
「ほんとだ! 十二人もいる……!」
「そうだ」
ヴィクトリカは満足そうにうなずいた。話が通じたことに安心したのだろう。
「つまり、さきほどの食堂にはいなかった人間が、紛《まぎ》れ込んでいるのだ。君、そいつが犯人《はんにん》なのかもしれないよ。そいつはあのディナーを食していない。眠《ねむ》ったわたしたちをここに移動させたのは、そいつなのだ。そしてそのまま、わたしたちの中に紛れ込んでいるのだよ……」
一弥はラウンジを見渡した。
男たちは一様に、睡眠薬《すいみんやく》のせいで頭が痛《いた》いだけではなく、なにかに怯えるように辺りを見回していた。互《たが》いの顔に見覚えがあるようで、顔を合わせては「あっ!」などと小声で叫《さけ》んでいた。
若いネッド・バクスターだけ、キョトンとして、
「こいつは、なんだ? 俺……俺、わからねぇ…………」
困《こま》ったようにつぶやいている。
あの赤いドレスの女が、急に立ち上がった。腹立《はらだ》たしそうに叫《さけ》ぶ。
「なによ、これっ! ここはどこよ? もうっ……あ、開かない」
ドアノブを両手でつかみ、がちゃがちゃ乱暴《らんぼう》に揺《ゆ》らした。ラウンジにいる全員が、彼女に注目した。女は急にドアノブから手を離すと、怯えたような顔でラウンジを見回した。
「どうしてよ? ここ、どこ……? どうして鍵《かぎ》がかかってるのよ!?」
誰も答えない。
年輩の男たちは、気まずそうに目をそらした。ネッドと、ヴィクトリカ、一弥の三人は、立ち尽《つ》くす女をじっと見上げていた。すると女はつかつかと三人に近寄《ちかよ》ってきて、そばの椅子《いす》にどしんと腰《こし》をかけた。
その拍子《ひょうし》に、彼女の小さなハンドバッグが、一弥の頭に当たり、ゴチンと音を立てた。
「イテッ!」
「…………」
女は謝《あやま》ろうとせず、一弥を見下ろし、フンと鼻を鳴らした。代わりにネッドが、
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「ええ、まぁ」
ずいぶん重たいハンドバッグだったな、と思いながら、横目で女を見る。
それから、ヴィクトリカに向き直り、小声で聞いた。
「ねぇ、ヴィクトリカ。これ、いったいどういうこと?」
「…………混沌《カオス》だ」
ヴィクトリカは機嫌《きげん》悪そうに言った。
一弥が「えっ?」と聞き返すと、
「…………まだ再構成《さいこうせい》の材料となる欠片《かけら》が不十分だと言わざるを得ない」
「つまり、わかんないんだね」
一弥が納得《なっとく》すると、ヴィクトリカはムッとした。白いほっぺたを子供のように膨《ふく》らませ、一弥をきっと睨《にら》みつけて、
「わたしは、材料不足を認《みと》めたに過《す》ぎない。わからないのではない」
「…………屁理屈《へりくつ》」
「むっ! だいたいだな、わたしにわからないことなどないのだぞ。それを……」
「……自信家」
「むむっ!」
一弥とヴィクトリカが睨みあった。
一弥の漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》が、ヴィクトリカの澄《す》んだエメラルド・グリーンの双眼《そうがん》と、火花を散らす。
そして、数秒後……。
敗北した一弥は、
「すみません……」
「ふむ、わかればいいのだ」
眼力に負け、悪くないのにうっかり謝っていた。
徐々《じょじょ》に睡眠薬による頭痛《ずつう》から回復《かいふく》してきた一弥は、立ち上がり、ラウンジの中をいろいろ調べ始めた。
バーカウンターの中を覗《のぞ》く。とくになにもなかった。並《なら》べられたお酒を見ていると、ヴィクトリカも近づいてきて、酒の瓶《びん》をざっと見渡《みわた》した。
「葡萄酒《ぶどうしゅ》があるな」
「うん……」
ヴィクトリカは瓶の栓《せん》を抜《ぬ》くと、手近にあったグラスにとぽとぽと注いだ。鮮やかな赤紫色《あかむらさきいろ》の液体《えきたい》が、シャンデリアのライトを反射《はんしゃ》してキラキラと輝《かがや》いた。
ヴィクトリカは瓶のラベルをじっと見た。それから、グラスを手に取って、鼻先に近づけ匂《にお》いを嗅《か》いだ。
「古くて上等の葡萄酒だ」
「そうなの?」
ヴィクトリカはうなずいた。
「ラベルによると、な……」
二人が小声で話しているところに、ネッドが頭を押《お》さえながらフラフラ近づいてきた。
「なにしてるんだ、坊主《ぼうず》?」
「いや、なにかヒントがないかなぁっと……」
「あまりあちこちに触《さわ》るなよ」
低い声に、一弥が驚《おどろ》いて顔を上げると、ネッドは表情《ひょうじょう》を歪《ゆが》めて、
「食事に睡眠薬が入ってたぐらいだ。どこになにがあるか、わからないぜ」
「そっか……」
ネッドは辺りをきょろきょろし、テニスラケットとボールが投げ出されているテーブルに近づいた。
テーブルには、まるで誰かがついさっきまで座《すわ》っていたかのように、ウイスキーの瓶と氷、二人分のグラスも置かれていた。氷はまだ溶《と》けきっていない。となりのテーブルには、カードゲームに興《きょう》じていた途中《とちゅう》で誰かがちょっと席を立ったように、カードが何|枚《まい》も散らばっていた。
一方、一弥はバーカウンターの中に入ったり、出たり、舞台《ぶたい》のほうをうろついたりし始めた。楽譜《がくふ》が、クラシックらしぎ曲の途中のページで開きっぱなしになっていた。まるで、たったいままで、誰かがここに立って演奏《えんそう》していたようだった。
……そのとき、一人の男が急に立ち上がった。
「ウロウロするなっ!」
怒《いか》りを込《こ》めた叫《さけ》びに、一弥もネッドも、驚いたように振《ふ》り返った。
男は、上等なスーツに、宝石《ほうせき》のついたカフスを輝かせた伊達《だて》男だった。ダークブラウンの髪《かみ》を七三にきっちり撫《な》でつけ、そばかすの浮《う》く頬《ほお》を怒りにひくひく震《ふる》わせている。
「こっ、この船が、危険《きけん》なことはっ、おまえらもわかってるだろうっ! 静かに座《すわ》っていろ! 動くとなにがあるかわからんのだぞっ!!」
「……どういうことだね?」
しんとしたラウンジに、隅《すみ》の席でヴィクトリカのつぶやいた声が響《ひび》き渡った。男はキッと振り返ったが、しわがれた老婆《ろうば》のような声に該当《がいとう》する人物が見当たらないので、戸惑《とまど》ったように立ち尽《つ》くした。
「……いまの声は、誰だっ!?」
「わたしだが」
ヴィクトリカが落ちついて挙手すると、全員が一斉《いっせい》にこちらを見た。
隅の席に、ポツンと座るその少女に、全員がハッと息を飲む気配がした。ヴィクトリカは緑色の瞳を輝かせ、彼らを見渡していた。金色の髪が、ほどけたターバンみたいにその小さな体にこぼれ落ちていた。
ほうっ……と嘆息《たんそく》するたくさんの声が響いた。
上玉だな……、美しい……! などのささやき声も続いた。男たちは初め驚き、それから多大な興味を持ってヴィクトリカの精巧《せいこう》な人形のような様子をみつめた。
一弥は思わず、ヴィクトリカの前に駆《か》けつけて、その視線《しせん》を遮《さえぎ》った。
ヴィクトリカが不審《ふしん》そうに、
「なにしてるのだ?」
「邪悪《じゃあく》な視線から君を守ってる」
「……邪魔《じゃま》だ。前が見えない」
一弥はすごすごともとの場所に戻《もど》った。
怒鳴《どな》っていた男が、ヴィクトリカを強く睨《にら》んでいた。
「子供《こども》は黙《だま》っていたまえ!」
一弥が驚いて、その言葉に反論《はんろん》しようとしたとき、誰かがズイッと前に出てくる気配がした。顔を上げると、あの赤いドレスの女だった。気の強そうな瞳がらんらんと輝いていた。
「だけど、おじさん。この船おかしいわよ」
男はムッとした表情を浮かべ、振り返った。若い女は近くのテーブルを指差し、
「見てよ、このテーブル。ラケットとボール、それにウイスキーの水割《みずわ》り。氷はまだ溶《と》けてないわ。まるで誰かがテニスコートで遊んで、ラウンジで飲み始めたばかりのよう。こっちのテーブルにはカードが散らばってるわ。でも……だぁれも、いないの。わたしたち以外」
「黙れっ!」
男は叫んだ。
「女は黙ってろ」
赤いドレスの女は、驚いたように目を見開いた。
となりに立っていたネッドが、助け船を出すように、
「おいおい、オッサン、でもな、彼女の言うとおり……」
「役者ふぜいは、静かにしたまえ!」
「……なっ!?」
ネッドが怒って殴《なぐ》りかかりそうになり、女が「ちょっとちょっと……!」と羽交《はが》い締《じ》めにして止めた。
おそるおそる、一弥が発言する。
「でもさ……」
振り返った男は、一弥を睨むと、
「東洋人はしゃべるな!」
一弥は口を閉《と》じた。
辺りを見回すと、男の暴言《ぼうげん》に怒っているのは、一弥とヴィクトリカ、それにネッドと女の四人だけのようだった。残りの七人は男と同世代か少し年上の男ばかりで、次第《しだい》に一所《ひとところ》に固まり、こちらを遠巻《とおま》きにしている。
一弥たちのそばに、ネッドと女も近づいてきた。
小声で、ネッドが一弥に文句《もんく》を言う。
「あの論理だと、しゃべっていいのはオッサンだけってことか?」
「むぅ……」
「どういう理屈《りくつ》だよ。まったく、偉《えら》そうに。ムカつくやつだな」
ネッドがぶつぶつ文句《もんく》を言い続ける。
その横で、ヴィクトリカが、
「…………混沌《カオス》だな」
とまじめな顔で言った。
ドレスの女が、うろうろと歩きながら考え込み始めた。くせらしく、ぴったり五歩、歩いてはターンして、また五歩進んでターンを繰《く》り返している。その様子をヴィクトリカが興味深そうにみつめていた。
――閉じこめられた十二人のうち、年輩《ねんぱい》の男性八人は顔見知りらしかった。血色もよく、揃《そろ》いも揃って、高級なスーツにピカピカの革靴《かわぐつ》を履《は》き、髭《ひげ》の手入れもピンと行き届《とど》いている。どうやら彼らは久《ひさ》しぶりに会ったらしく、小声で近況《きんきょう》などを聞きあっていた。漏《も》れ聞こえる会話からすると、八人はそれぞれ、ソヴュールの政府《せいふ》高官、大手|繊維《せんい》会社の経営者《けいえいしゃ》、外務省《がいむしょう》の幹部《かんぶ》などの役職《やくしょく》に就《つ》く男たちだった。
こんなときでも、習性《しゅうせい》なのか、自分の役職や子供の通う学校などの自慢話《じまんばなし》が行き交《か》っていた。しかし、ひとしきりそれらの会話が終わると、不安そうに顔を見合わせ、小声でささやきあい始めた。
「それにしても、この船は……」
「ああ。まるで、あのときの箱だ。乗るときは気づかなかったが……」
「まさか……」
不安そうにつぶやきあう声が聞こえる。その様子をネッドが、どういうことなのだろうというように、ちらちらと盗《ぬす》み見ている。
一弥は、黙《だま》って考え込んでいた。
船……。温かい料理……。カードゲーム…………。
それらの言葉に、なぜか胸騒《むなさわ》ぎがした。なにかを思い出しそうで、思い出せない。息苦しさを感じて一弥は思わず頭をブンブン振《ふ》った。
その様子に気づいたヴィクトリカが、
「どうしたのだ?」
「いや……」
一弥は、ヴィクトリカの不思議そうな顔を見下ろしながら、ゆっくりと、
「そうだ。ぼく、この船の名前に聞き覚えがある気がするんだよ。確《たし》か……〈QueenBerry 号〉って。それに……」
話しながら、どんどん不安が押し寄せてくるのを感じて、顔をしかめる。いつのまにかラウンジにいる男たちが、じっと一弥をみつめていた。なんの表情《ひょうじょう》も浮《う》かんでいない、蝋人形《ろうにんぎょう》のように青白い男たちの顔。一弥は顔を上げて、彼らを見回した。
(この反応《はんのう》は、なんだ……?)
ますます不安になり、考え込む。
(そうだ……。それと、なんだっけ。花瓶《かびん》……?)
ふと、かたわらのアンティーク棚《だな》に飾《かざ》られた花瓶に気づいた。なぜか、これだ、という気がした。どうやらもう少しで思い出せそうだ。
一弥が、その花瓶に、無造作《むぞうさ》に手を伸《の》ばした途端《とたん》……。
男たちがハッと息を飲んだ。
さっきの伊達《だて》男が立ち上がり、焦《あせ》った声で叫《さけ》んだ。
「おい! その花瓶に、触《さわ》るな!」
――ひゅん!
空気を切るような音が響《ひび》いた。
ボウガンの矢が、一弥の頭上すれすれを飛び、壁《かべ》にズンッと突《つ》き刺《さ》さった。
若《わか》い女が、口に両手を当てると、声にならない悲鳴を上げ、後ずさった。ネッド・バクスターもあわあわと妙《みょう》な声を上げている。ヴィクトリカさえも、そのエメラルド・グリーンの瞳《ひとみ》を見開いて、驚《おどろ》いた表情を浮かべてこちらを見上げていた。
遅《おく》れて……。
男たちが一斉《いっせい》に叫び声を上げた。
「やっぱり……!」
「やっぱりこの船はっ…………!」
一刻《いっこく》を争うように立ち上がると、ドアに向かって走りだした。あわてすぎて転び、うめき声を上げた男もいた。
驚きのあまり硬直《こうちょく》していた一弥は、ヴィクトリカとネッドに左右から掴《つか》まれて、がくがく揺《ゆ》さぶられた。
「だいじょうぶか、坊主《ぼうず》!」
「おい、死にぞこなった気分はどうだ!」
一弥は口をパクパクさせた。
――思い出した。
花瓶に手を触れた途端……ボウガンが飛んできた…………船の………………お話。
誰《だれ》に聞いた、なんの話なのか。
……アブリルだ。
つい先日、聖《せい》マルグリット学園の校舎裏《こうしゃうら》に座《すわ》って、彼女からふざけ混《ま》じりに聞いた、あの怪談《かいだん》。
そう。その船には……。
〈それでね、海上救助隊が駆《か》けつけたとき、その客船にはディナーのお皿にまだ温かい料理が残っていて、暖炉《だんろ》も赤々と燃《も》えていて、テーブルにはカードゲームのカードが並《なら》べられていて……なのに、なのによ? だーれもいなかったんだって……!〉
〈船客も、航海士たちも、みんな消えてしまった……〉
〈とにかく人っ子一人いなくて……〉
〈救助隊員が船内を調べていたときのこと……。何気なく花瓶に触った途端、どこからかボウガンが飛んできて、あやうく死んじゃうところだったんだって〉
〈……あっというまに、海底に沈《しず》んでしまったのよ。波|飛沫《しぶき》を上げ、大きな不吉《ふきつ》な音とともに、暗い暗い海の底へ……!〉
〈十年前に沈んだはずのその船、〈QueenBerry 号〉は、それからも現《あらわ》れるのよ。嵐《あらし》の、夜。霧《きり》の向こうから突如《とつじょ》現れるその船には、いなくなったはずの人々が乗っているのよ。そして……〉
〈生者をうまく誘《さそ》いこみ、生け贄《にえ》として、船とともに沈めるの……!〉
――一弥は思いだした。
たったいままで人がいたようなテーブル。
温かい料理。
散らばったカード。
花瓶に触《ふ》れると飛んでくる、ボウガン……。
そして、船の名前の一致《いっち》。アブリルが語った〈QueenBerry 号〉と同じ名前が、確《たし》かにこの船の船体に書かれていた……!
「どうしたのだ、久城?」
「ヴィ、ヴィ、ヴィクトリカ、お、落ちついて聞いてね。ぼくたちが乗っちゃったこの船は、その、つまり……ぜったい驚《おどろ》かないでよ」
「なんなのだ?」
「あ、あと、笑わないでよ。ほんとうなんだから。約束して」
「いいとも」
「幽霊船《ゆうれいせん》なんだよ!」
「…………」
ヴィクトリカはパカッと口を開くと、真剣《しんけん》な顔で、
「……わはははは!」
一弥はがっくりと崩《くず》れ落ちた。
その様子を不思議そうに見下ろして、ヴィクトリカが言った。
「愉快《ゆかい》だな、君は」
「説明を聞いてよ。十分、論理《ろんり》的だからさ」
一弥は気を取り直し、アブリルの話をして聞かせた。その様子に、ドアの前で押《お》し合いへし合いするグループから弾《はじ》き飛ばされてきた、あの伊達《だて》男が、興味深《きょうみぶか》そうに耳を傾《かたむ》け始めた。と、その顔が次第《しだい》に、恐怖《きょうふ》にひきつり始めた。
ヴィクトリカのほうは、あきれかえった表情を浮かべている。
「幽霊船? 久城、君、もしかして本気で言っていたのかね?」
「いや、うん、もしかしたら、って……」
「この船がか?」
ヴィクトリカはぶつぶつと「てっきり冗談《じょうだん》かと思って、笑ってやったのに。まったく、君はおかしな男だな……」と文句《もんく》を言い始めた。それからバーカウンターに置かれた葡萄酒《ぶどうしゅ》の瓶《びん》と赤紫色《あかむらさきいろ》の液体《えきたい》を注いだグラスを手にして、戻《もど》ってきた。
「君、この酒を、よく見たまえ」
「なんで?」
「鮮《あざ》やかな色をした葡萄酒と、古いものであることを示《しめ》す瓶のラベルだ」
「……なんだよ?」
ヴィクトリカが不満そうに口をつぐんだ。
その瞬間《しゅんかん》……。
ふいに、パッと室内の灯《あか》りが消えた。
明るすぎるぐらいきつい照明がとつぜんなくなり、ラウンジは闇《やみ》に包まれた。ドアに押し寄せて争っていた男たちが、パニックに陥《おちい》ったように次々と大声を上げた。怒《いか》りの声と悲鳴が入り混《ま》じっている。その声と、闇に押されるように、一弥も急に強い不安に襲《おそ》われた。膝《ひざ》ががくがくと震《ふる》えだし、近くにいるはずのヴィクトリカを守ろうと、手を伸ばす。
どこにもいない。小声で名前を呼《よ》びながら、手探《てさぐ》りする。
不安がどんどん強くなる。ヴィクトリカを心配する気持ちも。
……しかし、その停電は、ほんの一瞬のことだった。ふいに再《ふたた》び灯りがつき、眩《まぶ》しすぎるぐらい強く部屋が照らし出された。隅《すみ》に立っていたヴィクトリカが、へっぴり腰《ごし》で両手を宙《ちゅう》にのばしている一弥を見て、驚《おどろ》いたように、
「……君、なにをしようとしていたのだね?」
一弥はあわてて手を引っ込《こ》めた。
ラウンジは死のような静寂《せいじゃく》に包まれていた。叫び声を上げていた男たちは、夢《ゆめ》から醒《さ》めたように口をつぐみ、恥《は》ずかしそうにうつむいた。安心したせいか、驚きからまだ醒めないのか、誰も、なにも言おうとしなかった。
ふいに、ネッドが甲高《かんだか》い悲鳴を上げた。
全員が驚いて、彼のほうを振り返った。
ネッドは、壁《かべ》の一方をみつめていた。バーカウンターのあるほうだ。その近くに立っていた赤いドレスの女が、びっくりしたようにネッドをみつめ返している。
ネッドは、いかにも舞台《ぶたい》俳優《はいゆう》らしいおおげさで隙《すき》のない動きで、片手《かたて》を上げると、壁を指差した。バーカウンターにもたれていた女が、その指差す方向を、ゆっくりと振り返った。
はっ、と息を飲んだ。
それから、まるで泣き声のような、甲高くもの悲しい悲鳴を上げた。
「……きゃああああああ!」
ほかの人々もそれに気づき、遅《おく》れて、叫び声を上げた。
――壁には、たった数秒前にはなかったものがあった。血で描《えが》かれたような大きな文字だ。
血文字は、あるメッセージを残していた。
それは……。
〈あれから、十年。
はやいものだ。
こんどは貴様《きさま》たちの番だ。
箱は用意された。
さぁ……〉
〈野兎《のうさぎ》≠諱A走れ!〉
伊達男が、大声を上げた。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
かたわらにいた太った男が、それにつられたようにパニックになり、叫んだ。
「あの招待状《しょうたいじょう》……!」
「箱庭の夕べ…………!」
「メインディッシュは野兎…………!」
「野兎走りを楽しめるんじゃなかったんだ。わたしたちこそが……野兎だったのだ!!」
八人の男たちは、へたりこむもの、頭を抱《かか》えるもの、怒りを露《あら》わにするものと、さまざまだった。
驚いて見回している一弥たちにはわからない、謎《なぞ》の言葉を口走っては、恐怖の叫び声を上げている。
「幽霊《ゆうれい》だ! 少年たちが戻《もど》ってきて、わたしたちを生け贄《にえ》にするんだ!」
「この血文字がなによりの証拠《しょうこ》!」
太った男が、立ち上がった。
ラウンジから逃《に》げ出そうと走り出す。ドアに向かうと、ドアノブをつかんで思い切り引いた。
さっきまで鍵《かぎ》のかかっていたドアは、なぜか今度は、かんたんに開いた。
男が、ドアから飛びだそうと、一歩|踏《ふ》み出した。
廊下《ろうか》のほうから、なにかが飛んできた。黒い一筋《ひとすじ》だ。一弥にはそれが、太い絵筆《えふで》で描かれた黒い線のように見えた。
その線が男の眉間《みけん》に突《つ》き刺《さ》さり、後頭部から少し頭を出したところで、止まった。黒かった線は、赤いマジックペンで書き足したように、先端《せんたん》だけが赤黒く染《そ》まっていた。
――線ではない。
ボウガンの矢だった。廊下から飛んできたのだ。
全員が呆然《ぼうぜん》と、その様子を眺《なが》めていた。誰も動かなかった。
男の頭部は、まるで柔《やわ》らかな素材《そざい》でできているかのように、ボウガンで軽々と貫《つらぬ》かれていた。後頭部から血と脳《のう》しょうにまみれたボウガンの矢先が顔を出した。
その勢《いきお》いに止められ、一瞬立ちすくんだ後、男は仰向《あおむ》けに……。
――バタン!
と、倒《たお》れた。
一瞬《いっしゅん》の静寂《せいじゃく》の後、女が、
「……いやあああああ!」
いまにも泣き出しそうな悲鳴を上げた。ついで、あわてて言い訳するように、
「わっ、わたし、ついさっきあのドアを開けようとしたのよ! 開かなかったわ! ほんとよ、信じて。でも、もし開いてたら、わたしが…………!」
その恐怖《きょうふ》にひきつる顔を、ヴィクトリカが瞳《ひとみ》を細め、じっとみつめていた。
しかし、残った七人の男たちは、女の言うことなどまったく聞いていなかった。ほんの一瞬、立ちすくんだ後、誰からともなく廊下に走り出した。
おかしな言葉を、つぎつぎに口走っている。
「このドアはもう安全だ! 罠《わな》が解除《かいじょ》された!!」
「甲板《かんぱん》だ、甲板へ!」
「逃げろ!……船に、殺されるぞ!」
彼らは死体をまたいでは廊下に飛び出し、走る。我先《われさき》にと階段《かいだん》を駆《か》け上がり、船の甲板に走り出ていく。
ヴィクトリカたちは顔を見合わせた。
ネッドが、驚きと疑問《ぎもん》に顔を歪《ゆが》ませながらも、
「俺《おれ》たちも、追おう……。な?」
一弥とヴィクトリカ、それにネッド、若い女の四人も、おそるおそる廊下に出た。
廊下には、ところどころに洋燈《ようとう》が揺《ゆ》らめいていた。豪奢《ごうしゃ》な造《つく》りの廊下で、歩くたびに深紅《しんく》の絨毯《じゅうたん》が心地《ここち》よい柔らかさで床《ゆか》に沈《しず》み込んだ。やがて階段をみつけて、上がっていく。甲板に出ようとすると、いちばん前を歩いていたネッドが、
「雨だ。空が、荒れてる……」
とつぶやいて、ため息をついた。
――船尾《せんび》側のせまい甲板だった。激《はげ》しい雨が叩《たた》きつけ、雷鳴《らいめい》の轟《とどろ》く夜空と暗い海に囲まれていた。気をつけないと滑《すべ》って転んでしまいそうに、雨水でつるつるしていた。
暗い空は、星も消えて、暗く、重苦しく陰《かげ》っていた。
海面では、黒い波が激しく寄せては返していた。見ているだけで吸《す》い込まれそうな、不吉《ふきつ》な暗さだった。波の音も大きく、響《ひび》いてくる。
女が顔をしかめた。
「荒れてるわね……」
ネッドが振り返って、聞いた。
「これじゃ、救命ボートは、ダメだな……?」
「ええ、もちろんよ。こんな天候でボートなんて、自殺|行為《こうい》だわ。すぐに沈んでしまう」
女の声に、男たちが振り返り、怒鳴《どな》った。
「じゃあ、どうする!?」
「どうって……」
そのとなりで、ネッドが叫《さけ》んだ。
「そうだ、操舵《そうだ》室へ行けばいい! 船を運転して陸地に戻《もど》るんだよ!」
ネッドの声に、男たちは我先にと走り出した。
濡《ぬ》れた甲板はつるつると滑り、焦《あせ》った男たちは転んだり、足をくじいたりし始めた。そのたびに腹立《はらだ》たしそうに怒声を上げる。
操舵室をみつけた。鍵《かぎ》がかけられているので、ネッドが体当たりして、木製《もくせい》のドアを壊《こわ》した。中に飛び込んだネッドは、しかし、顔をひきつらせて出てきた。
「ダメだ……」
「なぜだ!?」
男たちが怒声を上げる。ネッドも怒ったように、
「舵《かじ》が壊《こわ》されてる。これじゃ、この船は動かねぇ」
「嘘《うそ》をつけ!」
ネッドを押《お》しのけて、何人かの男が操舵室に飛び込む。ネッドはふらついて、転びそうになった。男たちは操舵室から出てくると、悔《くや》しそうにつぶやいた。
「本当だ。壊されてる!」
「……だから、俺がそう言っただろ」
ネッドの声には答えず、立ち尽《つ》くす。
――どうやら〈QueenBerry 号〉は、あてどもなく嵐《あらし》の海を漂《ただよ》っているだけらしかった。航海士の姿《すがた》もなく、行き場所もわからずただ海に浮《う》かんでいる。
男たちが、ネッドに言葉荒く詰《つ》め寄り始めた。どうやら彼がいちばん船について詳《くわ》しいようだと考えたらしい。しかしネッドは困《こま》ったように、
「だって、じゃあどうすれば……。俺にだってわかんねぇよ…………。あ、そうだ。無線を使って助けを呼べばいいんじゃないか? 海上救助隊がきてくれるぜ」
「じゃあ、はやくやりたまえ! ぐずぐずするな!」
男たちが口々に叫んだ。
ネッドは一瞬《いっしゅん》、ムッとした。しかし気を取り直すと、甲板の反対側――船頭部分を指差して、無線室は船頭のほうだ。あちらに行こう!」
「早くしろ!」
雨が痛《いた》いほど皮膚《ひふ》を強く打った。
甲板の横幅《よこはば》は二十メートルほどに感じられた。船頭ははるか向こうなのか、暗い中ではまったく見えなかった。
と、走っていたネッドが、立ち止まり、首を振《ふ》った。
「どうした?」
「無理だ……」
後を追ってきた女も、叫んだ。
「ここに飾《かざ》り煙突《えんとつ》があるのよ。大きすぎるわ。船のデザインとして、不自然よ。とにかく、向こうには行けない……」
闇《やみ》に溶けこみ、見えにくかったが、そこには黒い巨大《きょだい》な煙突があった。船頭部分がまったく見えなかったのは、暗いせいではなく、この煙突が視界《しかい》をふさいでいたからだった。一弥が、最初にこの船に案内されたときに見たあの煙突だ。
デザイン重視の客船によく使われる、飾りのための煙突――。
しかしそれは、船とのバランスがおかしく感じられるほど大きく、船の前半分と後ろ半分を隔《へだ》てていた。高さは煙突にしては低かった。
一弥とネッドが、右にも左にも走り、確認《かくにん》したが、抜《ぬ》け道はなかった。船の甲板は、船頭側と船尾側をつなぐ通路が、このおかしな煙突によって完全に区切られていたのだ。
若《わか》い女が、男たちを振り返った。
激しい雨に黒髪《くろかみ》もドレスも濡れ、白い肌《はだ》に張《は》りついている。
「上からじゃ、通れないわ。一度、船の内部を通って向こう側に行かなくては」
「……いやだ!」
男たちが叫《さけ》んだ。
震《ふる》えながら、
「中に戻《もど》れば野兎《のうさぎ》になる! 絶対《ぜったい》にいやだ!」
「野兎ってなによぅ!?」
女が苛立《いらだ》ったように叫び返した。
ネッドもそのとなりに立ち、
「そうだよ。さっきから、オッサンたちの言ってることはわけがわからねぇ。あの血文字もだ。おまえらにはわかってるんだろ? 知ってることを俺たちに説明しろよ! その義務《ぎむ》があるだろう!! あっ、おい……」
伊達《だて》男が叫び声を上げ、救命ボートを指差していた。男たちは協力しあい、救命ボートを降《お》ろし始めた。しかし海は荒《あ》れて、強い雨と波に激《はげ》しく揺《ゆ》れている。とてもボートを降ろせる状態《じょうたい》ではない。
ネッドと女、それに一弥が必死になってそれを止めた。
「こんな天気のときにそんなことしたら、転覆《てんぷく》して死にますよ!」
「うるさい、黙《だま》れ!」
男たちはつぎつぎにボートに飛び乗った。止めようと叫ぶネッドたちに構《かま》わず、逃《に》げようとする。
伊達男が、ボートに乗る瞬間、ふいに不安そうな顔でこちらを振《ふ》り返った。
女が呼《よ》びかける。
「危《あぶ》ないってば! 残りなさいよ!」
伊達男の血走った目が、迷《まよ》うように宙《ちゅう》を泳いだ。
数秒間の沈黙《ちんもく》の後、
「…………わかった」
男は荒れる海と、ボートと、残った若者《わかもの》たちの顔を順番に見回している。
ボートに乗った男たちは、伊達男のことを気にすることなく、振り返りもしなかった。それを見送る伊達男の目には、反対に、迷いと焦燥《しょうそう》感が溢《あふ》れていた。
救命ボートが、しつこく止める女の声も空しく、海に降りていった。
――六人の男を乗せたボートが海上に落ちた。
一弥たちは手すりから身を乗り出し、その様子を見守っていた。
ボートはほんの一瞬、波に揺れた。それから、大波にさらわれて大きく横に揺れ、転覆した。
一弥は叫び声を上げ、海底に消えていく男たちをなすすべもなく見守った。
男たちは声を上げる間もなく、海底に引きずり込《こ》まれていった。白い泡《あわ》が波間にできて、漂《ただよ》った。ボートも消えた。
ほんの数秒のことだった。
[#挿絵(img/01_127.jpg)入る]
甲板に残った人々の体に、激しい雨が叩《たた》きつける。
一弥は、かたわらに立つネッドと女の顔を見上げた。
ネッドは蒼白《そうはく》な顔をしてぶるぶる震《ふる》えていた。唇《くちびる》まで真っ青で、言葉を失っていた。
そして、女は……。
女は、奇妙《きみょう》に満足げな微笑《びしょう》を浮《う》かべ、消えていくボートを見下ろしていた。ぞっとするほど冷たい目つきだった。
赤い唇を動かし、なにかつぶやく。
誰《だれ》かに聞かせるための言葉ではなかった。だが、一弥の耳には、かすかにその独《ひと》り言が聞こえてきた。
女はこう言った。
「……だから言ったのに。警告《けいこく》してあげたのに」
ふと、自分を見ている一弥に気づく。と、今度は一弥に向かって、つまらなそうにつぶやいた。
「大人っていつも、バカね。自信たっぷりで、わけのわからないことばかりするの」
肩《かた》をすくめると、船室へ戻る階段《かいだん》に歩いていった。
「ちょっ……こんなときにそんなことを! 不謹慎《ふきんしん》ですよ……!」
一弥の声は、届《とど》かない。
その細い後ろ姿《すがた》を、一弥は怒《いか》りと驚《おどろ》きをもって見送った。
――生き残った五人は、もとのラウンジに戻ろうとした。
とぼとぼと廊下《ろうか》を戻り、開け放されたドアから、ラウンジに入る。
と……。
いちばん最初にラウンジに足を踏《ふ》み入れた女が、目を見開いた。
ゆっくりと口の前に両手をかざし、声にならない悲鳴を上げる。
続いてラウンジに入ろうとしていた一弥が、怪訝《けげん》そうに、
「どうしたんですか?」
「あ、あ、あ…………」
女が目を閉《と》じた。
それから、悲鳴を上げた。
「……きゃああああぁぁぁ!」
ネッドが急いで、廊下の向こうから駆《か》け寄《よ》ってきた。大声で叫ぶ。
「なんだよ! どうしたんだよ!」
女が、ポロポロと泣き始めた。
震えながら、細い腕《うで》を上げる。ラウンジの中を指差し、
「この部屋、この部屋……」
「なんだよっ?」
「もう、いやぁ!」
一弥は、女の横から顔を出した。
そして、絶句《ぜっく》した。
――ラウンジは、ついさっきまでとは様変わりしていた。
壁《かべ》も、天井《てんじょう》も、そして床《ゆか》も……ラウンジはこの数分のあいだに、見事なほどに水浸《みずびた》しになっていた。バーカウンターも、テーブルも、酒瓶《さかびん》もそのままに、まるで長いあいだ海底に沈《しず》んでいた沈没《ちんぼつ》船のように、壁も朽《く》ち、水を含《ふく》み、天井からもぽたぽた汚《よご》れた水が落ちてきた。
その水浸しのラウンジを、薄暗《うすぐら》い洋燈《ようとう》が白々と照らす。
女がヒステリーを起こしたように、激しく泣き始めた。ネッドがその横に立ち、オロオロしている。なぐさめようと声をかけると、
「どういうことよ! 誰か、なんとかしてよっ!」
わめかれて、閉口《へいこう》する。
ネッドが困《こま》りながらも、辺りを見回し、
「このラウンジ……。どうしてこうなっちまったんだ? 壁の、あの文字は……あるけど……」
壁には、さきほどと同じ血文字が躍《おど》っていた。白々とした洋燈に不気味に照らされている。朽ちたテーブルが、歩きだしたネッドの足に軽く蹴《け》られると、ぐじゃりと潰《つぶ》れた。海水の臭《にお》いが、残骸《ざんがい》からぷんと臭ってきた。床も、腐《くさ》りかけたように柔《やわ》らかく、一歩歩くごとに、ぐにゃりぐにゃりと不快《ふかい》な感触《かんしょく》を足に伝えてくる。
「……おい」
いちばん最初に、その水浸しのラウンジに入ったネッドが、振り返った。ラウンジの真ん中に立ち、呆然《ぼうぜん》とした顔でこちらをみつめている。
ゆっくりと、ドア付近の床を指差す。
震え声で、助けを求めるような目つきで、一弥たちをみつめると、口を開いた。
「おい……。さっきの、ボウガンで死んだオッサンの、死体は、どこだ?」
女がピタリと泣きやんだ。
一弥も驚いて、辺りを見回した。
――死体は消えていた。水浸しのラウンジのどこにもなくなっていた。飛び散った血も脳《のう》しょうもきれいに消えていた。
女が泣き叫び始めた。
「消えてるやつが怪《あや》しいのよ! きっとあいつがやったのよ! わたしたちを閉じこめて、死んだフリをして、恐《こわ》がらせて喜んでるんだわ。ちょっと、出てきなさいよ! どこにいるの!」
ラウンジを横切り、テーブルの下などを覗《のぞ》き込んでは、叫び始める。ネッドがあきれて、
「落ち着けよ。あいつは確《たし》かに死んでた。俺《おれ》、確かめたんだからな。本当だよ」
「じゃ、あなたもグルなんじゃないの!?」
ネッドが顔をしかめた。
「……いい加減《かげん》にしろよ!」
二人が睨《にら》みあう。
そこに、あのボートに乗らなかった伊達《だて》男が、割《わ》って入った。
「……争うのはやめたまえ。くだらない」
「くだらないだと?」
「とりあえず、座《すわ》ろう。わたしは、疲《つか》れた……」
五人は顔を見合わせた。
比較《ひかく》的|濡《ぬ》れていない椅子《いす》を選んで、座る。
ネッドはイライラと落ちつかない様子で、貧乏揺《びんぼうゆ》すりを始めていた。彼が足を動かすたびに、床に溜《た》まった海水がびしゃびしゃいやな音を立てた。若《わか》い女は、顔を蒼白《そうはく》にして座りこむと、両手で頭を抱《かか》えこんだ。つややかな黒髪《くろかみ》がその膝《ひざ》にごぼれ落ちていた。伊達男はやけに静かだった。唇《くちびる》まで紫色《むらさきいろ》に染《そ》めて、怯《おび》えきった顔をしている。
ヴィクトリカだけが、いつもと変わらず、優雅《ゆうが》で落ちついた様子で座っていた。一弥はその顔を見ると、ほっと心が落ちつくのを感じた。
五人は順番に名前を名乗った。
伊達男が口を開いた。
「モーリスだ。ソヴュール王国|外務省《がいむしょう》の幹部《かんぶ》だ」
それ以上は語ろうとしない。続いて若い女が名乗った。
「ジュリィ・ガイルよ。職業《しょくぎょう》は……なしよ。父が炭坑《たんこう》を所有しているの」
どうやら金持ちの娘《むすめ》らしかった。モーリスがフンと鼻を鳴らすと、ムッとして言い添《そ》える。
「……なによ。働かなくても生きていけるんだから、べつに、いいでしょ」
その言葉に、苦労人らしい舞台《ぶたい》俳優《はいゆう》のネッド・バクスターが、かすかに顔をしかめた。
一弥とヴィクトリカが名乗ると、モーリスはヴィクトリカの名字に聞き覚えがあるらしく、急に態度《たいど》を改めた。ほかの三人には、横柄《おうへい》なままだ。
五人は疲れ切ったように座り、互《たが》いの顔をみつめていた。
女――ジュリィ・ガイルが、少し落ちついたように小声でささやいた。
「いったいどういうことなの? ここはどこ? どうしてこんなことになったの?」
「まったくだ。俺にもさっぱり……」
「ぼくにもわかりません……」
モーリスは下を見て黙《だま》り込んでいる。三人は口々に疑問《ぎもん》を口にしていたが、次第《しだい》に、もの静かなモーリス、そしてそれをじっと観察しているヴィクトリカに注目し始めた。
静かな緊張《きんちょう》が、部屋に満ちていく。
と、その緊張が極限《きょくげん》に達した頃《ころ》……。
ずっと黙りこくっていたヴィクトリカが、急に、口を開いた。
そのしゃがれた、よく通る声で、
「……モーリス」
呼ばれた男は、ビクリとした。
全員が、二人を注視《ちゅうし》する。
モーリスは蛇《へび》に睨《にら》まれた蛙《かえる》のように硬直《こうちょく》し、ヴィクトリカのつぎの言葉を待った。
ヴィクトリカが口を開いた。
「君、君はさきほど、わたしの友人があの花瓶《かびん》に触《ふ》れようとしたとき、警告《けいこく》したが」
「あ、ああ……」
「なぜその仕掛《しか》けを知っていたのだね?」
モーリスは唇《くちびる》を噛《か》んだ、
ジュリィとネッドも、小声でアッと叫《さけ》んだ。
水浸《みずびた》しの薄暗《うすぐら》いラウンジに、沈黙《ちんもく》が降《お》りた。
ぴしゃん……ぴしゃん…………。
いやな水音が、静かな中で、響《ひび》く。
答えないモーリスに、ヴィクトリカは、続けて、
「わたしたち……この若者四人以外は、どうやら知っていたようだ。年輩《ねんぱい》の男八人だけが、わたしたちにはわからない言葉を吐《は》いていた。その中で生き残ったのは、モーリス、君だけだ。君は、この船に乗った若者たちに、説明するべきではないのかね?」
モーリスは唇を強く噛み続けている。
ぴしゃん……ぴしゃん…………。
水音だけが、響く。
――やがてモーリスは、観念したように顔を上げた。くぐもった小声で、
「……同じだからだ」
「なにがだね?」
「十年前の、あのときと。だから知っていた」
ゆっくりと上げられた顔は、死人のように蒼白だった。紫色に変色した唇を開き、モーリスは言った。
「この船は、十年前にこの地中海に沈んだ〈QueenBerry 号〉なのだ。つまり、またあれ≠ェ始まったのだ。だからわたしは知っていた」
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モノローグ―monologue 2―
誰《だれ》かに体を揺《ゆ》すられているのに気づいた。
目を開けると、漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》が心配そうに覗《のぞ》き込《こ》んでいた。瞳と同じ、濡れたように黒いロングヘアが床《ゆか》に垂《た》れていた。
同じぐらいの年齢《ねんれい》の、きれいな少女だった。
「うっ……!」
起きあがろうとしたら、頭が痛《いた》くて、思わずうめいてしまった。少女は「アッ……!」とつぶやいて、細い両手で支《ささ》えてくれた。
ここは、どこ……?
どうしちゃったの?
頭を押《お》さえながら、辺りを見回した。そこは広いラウンジだった。アンティークらしい上質《じょうしつ》な丸テーブルと椅子《いす》があちこちに置かれていた。隅にはバーカウンターがあり、酒瓶《さかびん》がたくさん並《なら》んでいた。小さな舞台《ぶたい》も用意されていて、楽譜《がくふ》が途中のページを繰《く》られたままになっていた。
木目のつやつやと輝《かがや》く床に、同じぐらいの年齢の少年や少女がたくさん、倒《たお》れ伏《ふ》していた。十人以上いるようだった。どの子も頭を押さえて、頭痛《ずつう》を訴《うった》えていた。
その子供《こども》たちの人種がさまざまなことに、気づいた。肌の白いものが圧倒《あっとう》的に多い。でも、いかにもゲルマン風の金髪碧眼《きんぱつへきがん》の、大柄《おおがら》な少年や、地中海育ちに見える日に焼けた巻髪《まきがみ》の少年が入り混《ま》じり、国籍《こくせき》がバラバラなことが見て取れた。黄色い肌をした小柄な少年もいる。浅黒い肌をした小柄な少年と、同じ肌色の少女もいたが、二人は互《たが》いがかけあう言葉が異国《いこく》のものだと気づいて、戸惑《とまど》っているようだった。
彼らが発する、頭痛を訴えるらしいわめき声は、英語とフランス語はわかるけれど、早口の異国の言葉も多く、なにを言っているのかわからなかった。
かたわらに、黄色い肌の少年がやってきて、起きあがろうとするのを手伝ってくれた。フランス語で「|ありがとう《メルシー》」とお礼を言うと、彼は理解《りかい》したようにうなずいた。
「ここは、どこだ!?」
はっきりとした英語の発音が響《ひび》いた。大声だったので、子供たちはみんなそちらを振《ふ》り返った。
白人の少年が立っていた。痩《や》せて、髪は短い。そばかすの浮《う》いた肌は、よく日に焼けて健康的だった。
「へんな馬車に乗った大人に捕《つか》まって、飯を食わされたら眠《ねむ》くなった。気づいたらここにいたんだ。頭も痛《いた》いし……どういうことだよ?」
立ち上がって、自分も同じだと言うと、その少年は不安そうに、
「みんなも、そうなのか……?」
英語がわかる子供だけが、うなずいた。
そばかすの少年は、ラウンジを見回した。部屋中をイライラと歩き回ってから、顔を上げ、ドアをみつめた。
ドアノブに手を伸《の》ばす。
……開ける。
つられてドアに近づいて、外を覗《のぞ》いてみた。外は長い廊下《ろうか》だった。眩《まぶ》しすぎるほど明るい洋燈《ようとう》に、豪奢《ごうしゃ》な木の壁《かべ》と、深紅《しんく》の絨毯《じゅうたん》が照らしだされていた。
そばかすの少年が、不安そうに顔をしかめて、こちらを見た。
「なぁ……」
半信半疑《はんしんはんぎ》だというように首をかしげながら、
「揺れて、ないか?」
「……そうだね」
言われてみると、床が左右にゆっくり揺れている気がした。規則《きそく》正しく、数秒ごとに横に揺れ続けている……。
ここはどこだ?
どうしてここにいるんだ?
と、頭を押さえていた少女がふいに顔を上げた。甲高《かんだか》い声で、叫《さけ》ぶ。
「地震《じしん》じゃない? そうよ、地震が起こってるのよ!」
ラウンジに動揺《どうよう》が走った。
あわててテーブルの下に入ろうとする子供もいた。パニックになりかけたとき、さっき手を貸《か》してくれた中国人の少年が、
「……ちがう」
英語で言った。美しい発音だった。
全員が彼のほうを振り返った。
「この揺れは、地震じゃない」
「……どうしてそう言えるんだよ?」
そばかすの少年が聞き返す。中国人の少年は、落ちついた声で、
「ここは、地上じゃないからだ」
「なんだって?」
「この揺れは……波だよ。ぼくたちは海の上にいるんだ。この部屋はおそらく船室の一つだ。これは地上の建物じゃなくて、船だと、思う」
ラウンジはしんと静まり返った。
そばかすの少年が、頭痛から回復《かいふく》した数人を連れて廊下に出た。その中にはさっきの中国人の少年と、最初に起こしてくれた黒髪の少女も混ざっていた。
廊下は洋燈の灯《あか》りに眩しく照らされていた。深紅の絨毯は、これまで踏《ふ》んだことがないぐらい上等のもので、一歩一歩歩くごとにふわふわと沈《しず》み、足を取られて転びそうだった。
そうつぶやくと、中国人の少年が、
「うん。きっとここは、船内でも上のほうの階なんだよ」
「どうしてだよ?」
「こういう客船は、上の階のほうが、高い船賃《ふなちん》を払《はら》って豪華《ごうか》な船旅を楽しむ、一等船客のために使われるものなんだ。だからラウンジも客室も、廊下までが豪華なんだよ」
「へぇ……」
「下の階に行くほど、二等船客や三等船客を詰《つ》め込む安い客室や、船員のための施設《しせつ》になっていくんだ。だから照明もけちられるし、絨毯も古びたものになる。もっと下に行くと、貨物《かもつ》室やボイラー室になる。同じ船とは思えないぐらい、薄汚《うすぎたな》い風景になるんだよ」
「……やけに詳《くわ》しいな」
そばかすの少年が、疑《うたが》わしそうにつぶやいた。すると中国人の少年は苦笑《くしょう》した。
「おいおい、疑わないでくれよ。ぼくはただ、三等船客としてこういった船に乗った経験《けいけん》があるんだよ」
「ふぅん……」
歩きながら、互《たが》いに自己紹介《じこしょうかい》することになった。
そばかすの少年は、ヒューイと名乗った。中国人の少年の名はヤンだった。
「君は?」
聞かれたので、答えた。
「アレックスだ。よろしく」
「フランス人なの? いや、最初にフランス語を話したし、英語に少し訛《なま》りがある」
「いや、ちがう。ソヴュールだよ」
「そうか。あの国の公用語はフランス語だものね」
黒髪の少女は、英語もフランス語もわからないようだった。でも、みんなが自己紹介しているのはわかったらしく、自分の顔を指差して、
「リィ」
それから手の指で、十四|歳《さい》なのだと説明した。
――ヤンが説明したとおり、豪華《ごうか》なラウンジのあった階は船内でも上のほうだったらしく、階段《かいだん》をみつけて上がると、すぐに船の甲板に出ることができた。
一人、また一人と甲板に出る。使い込まれた木目の甲板は、少年たちが上がってくるたび、コツコツと硬質《こうしつ》の音を立てた。
上がってきた少年たちは……全員、呆然《ぼうぜん》と立ち尽《つ》くした。
そこは、本当に海だった。
夜の海……。
街では考えられないぐらいの濃《こ》い闇《やみ》が落ちて、黒い波がぽちゃり、ぽちゃりと揺《ゆ》れていた。遠くに青白い月が上がり、海の上に一筋《ひとすじ》の、光のラインを浮《う》かび上がらせていた。見渡《みわた》す限《かぎ》りの暗い大|海原《うなばら》。そこには、この客船以外にはなんの姿《すがた》もみつけることはできなかった。
少年の一人が甲板を走り、
「お―――い!」
叫《さけ》んだ。
「誰《だれ》か、いないかー! 助けてくれ――――――!」
波の音だけが静かに寄せては返すばかりだった。
もう一人、ハンガリー人の少女も走り出した。大柄《おおがら》で、むっちりと肉づきのいい少女だった。彼女が手すりによりかかり、叫ぼうとしたとき……。
――ヒュン!
妙《みょう》な音がした。
風を切るような音に続いて、少女の甲高《かんだか》い悲鳴が響《ひび》いた。
ヒューイがあわてて、
「どうしたんだ?」
「なにかが顔をかすったわ。このへんを踏《ふ》んだら、あっちからなにかが飛んできて、海に……」
少女の顔に、ヒューイが手を伸《の》ばす。
その手に、べったりと鮮血《せんけつ》がついたのが、暗い中でもはっきりと見えた。
少女の右|頬《ほお》は、なにかが削《けず》り取ったように浅い溝《みぞ》が走り、そこから血が滴《したた》り落ちていた。それに気づくと少女本人が悲鳴を上げてへたりこんだ。
黒髪のリィと二人で、少女を助け起こす。
ヒューイたちが、少女の指差した方向を調べていたが、暗いこともあって、なにが飛んできたのかわからなかった。
――操舵室《そうだしつ》に入っていたヤンが、「ダメだ」と首を振りながら戻《もど》ってきた。
「舵《かじ》が壊《こわ》れてる。いや……壊されてる」
「どうしてだ? 俺《おれ》たち、どうしてここにいるんだよ? それに、この船には俺たち以外に人間の気配がないぜ? どうして子供《こども》しかいないんだよ?」
叫びだした少年に、ヤンが困《こま》ったように首を振《ふ》った。
「……わからない」
立ち上がったヒューイが、
「このまま船にいても、遭難《そうなん》してしまうだけだぜ? そうだ、無線は? こういう船って無線があるだろう?」
「そうだな。おい、アレックス……無線室って、確《たし》か船頭のほうにあるんだよな」
ヤンに聞かれたが、こういった船に乗るのは初めてなのでわからなかった。首を振ると、ヤンとヒューイが、
「あっちにあるはずだ……!」
二人で走り出した。
しかし、すぐにうなだれて戻ってきた。
「どうしたの?」
「ダメだ……。やけに大きな煙突《えんとつ》があって、通路を遮断《しゃだん》されてるんだ。この船尾《せんび》から船頭には、甲板をつたっては行けないよ。多分、飾《かざ》り用の煙突だと思うけど……それにしては大きすぎる。まるでわざと大きく造《つく》ったみたいだ。ぼくたちが無線室に行けないように……」
「じゃ、どうすれば……」
ヒューイが顔を上げた。
「方法はあるさ。船の甲板じゃなくて、一度中に戻るんだ。階段を降りて、廊下《ろうか》を船頭方向に向かって歩いて、向こう側の階段を上がればいい。そしたら、反対側に行ける。無線で海上救助隊を呼ぼう」
「そうだ。きっとすぐだよ」
ヤンもうなずいた。
腕《うで》にふと、柔《やわ》らかな感触《かんしょく》がした。リィが不安そうにくっついてきていた。言葉は通じないけれど、だいじょうぶだよ、というようにうなずいてみせる。
頬から血を流すハンガリー人の少女を、両側から支《ささ》えながら、また階段を降りていった。
廊下は相変わらず、洋燈《ようとう》の灯《あか》りに眩《まぶ》しく照らし出されていた。柔らかな深紅の絨毯《じゅうたん》が、さきほどまでとはちがって感じられた。血の色のようにどす黒く思えてしまう。支えているハンガリー人の少女が、静かに泣き始めた。リィと顔を見合わせ、彼女を支える腕にいっそう力を込《こ》めた。
もとのラウンジに戻ると、頭痛《ずつう》から回復《かいふく》したらしい少年たちが、怪我《けが》をした少女をみつけてギョッとした。
ラウンジでは、残った少年たちがそれぞれ椅子《いす》に座《すわ》り、不安そうにうつむいていた。シャンデリアに明々と照らし出されたどの顔も、青白く、瞳《ひとみ》は暗かった。
立ち上がると口々に、
「なっ……」
「ど、どうしたんだよ」
こちらに詰《つ》め寄《よ》ってくる。ヒューイがそれを押《お》しとどめた。
「……いま説明するよ」
ヒューイが代表して、甲板で起こったことを説明した。それから、みんなで無線室のある船頭のほうに向かおうと提案《ていあん》すると、反対するものはなく、力なくうなずいた。
かんたんに自己紹介《じこしょうかい》をした。名前と年齢《ねんれい》と、国籍《こくせき》。どうしてこの船にきてしまったのか。
全員が食い違《ちが》っていることが一つあった。国籍だ。
イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、 ハンガリー、イタリア、アメリカ、トルコ、アラブ、中国、そして……ソヴュール。
言葉の通じない相手も、リィを含《ふく》めて何人かいたが、どうやら十一人いる少年少女のうち、同じ国籍の者はいないようだった。まるで世界中から一人ずつ集めたようだ。
そして、共通点もあった。
全員が孤児《こじ》だったのだ。このまま消えても、誰も捜《さが》しにこない。
再《ふたた》び廊下を歩きだした。今度は、十一人全員で、ぞろぞろと。同じ廊下を、さっきとは逆《ぎゃく》の方向に進んでいく。
不安のあまり、頭痛がぶり返しそうになった。思わず頭を押さえて低く呻《うめ》くと、リィがその様子に気づいて立ち止まった。
「アレックス……」
リィは、首からかけたハートのペンダントを指差した。ぴかぴかしたエナメルの、ピンク色をしたペンダントだった。手をつかんでちょっと強引《ごういん》にそのペンダントに触《さわ》らせると、瞳を閉《と》じて、リラックス、というようなジェスチャーをしてみせた。
ハートのペンダントは、リィのおまもりらしい。これがあるからあなたも大丈夫《だいじょうぶ》、と言ってくれているようだった。
大きな黒い瞳が、おだやかな輝《かがや》きをたたえている。優《やさ》しい子だ、と思った。感謝《かんしゃ》するようにうなずいて、再び、みんなについて歩きだした。
先頭を歩いていたヒューイとヤンが、急に大声を上げた。みんなビクリとして足を止めた。
「……ふさがってる」
ヒューイがつぶやいた。
「どういうこと!?」
頬《ほお》を怪我しているハンガリー人の少女が、みんなをかき分けて前に進んだ。二手に分かれたので、いちばん後ろに立ったままでも、そこにあるものがよく見えるようになった。
壁《かべ》、だった。
天井《てんじょう》までの黒い壁に、廊下が塞《ふさ》がれていた。これでは、通れない……! ヤンが顔色を変えて振り返った。廊下を走り出す。
「ヤン?」
叫ぶと、こちらを振り返って、
「この階の廊下は、ここだけじゃないはずだ。船頭の側に行ける廊下がないか、確認《かくにん》しないと!」
全員がうなずいて、ヤンの後を追った。
しかし……廊下はすべて、同じ黒い壁で仕切られていた。いちばん初めに、ハンガリー人の少女がしくしく泣きだした。つられて泣きそうになる子も出始めた。
ヒューイとヤンが、小声で相談を始めた。それから顔を上げると、
「みんな、エレベーターを捜《さが》そう!」
全員が顔を上げた。
ヒューイは力強く言った。
「下の階に降りるんだ。そっちは、こんな壁で仕切られていないかもしれない。いいな? よし、エレベーターを捜すぞ」
ヤンが廊下《ろうか》の一方を指差して、
「こっちにあった」
二人は有無《うむ》を言わせず、先導《せんどう》して歩きだした。
ひときわ明るい一角に、エレベーターホールがあった。不気味に感じられる鉄の檻《おり》が一つ、黒く輝いていた。そのとなりに、白いタイルが輝く階段《かいだん》もあったが、そちらはなぜか照明が切れていて、闇《やみ》を落としたようにそこだけ暗かった。
ヒューイが、少年たちを見渡《みわた》して、
「階段もあるけど、君たち、どうする?」
全員が顔を見合わせた。
暗い階段を恐《こわ》がったのか、我先《われさき》にエレベーターに乗り込み始めた。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた少年たちを、ヒューイはポカンとして見ていたが、気を取り直したように言った。
「あと二人ぐらい、乗れるか……。ヤン、アレックス、彼らを誘導《ゆうどう》して一つ下の階に連れていってくれ」
「ヒューイ、君は?」
聞き返すと、リィの手を引っ張って階段のほうに歩きだした。
「ぼくとリィは、階段から行くよ。じゃ、下で会おう」
リィがこちらを振《ふ》り返って、ぱたぱたと手を振った。かわいらしい動きだった。ヤンに目で合図されて、あわててエレベーターに乗り込む。
ガタン、ガタン――!
無骨《ぶこつ》な音を立てて鉄格子《てつごうし》が閉《し》まった。
ぶぉん、ぶぉん、と音を立てて、エレベーターがゆっくりと下降《かこう》していく。
照明灯に白々と照らされて、誰もが緊張《きんちょう》感をはらみ、黙《だま》っている。
と、そのとき……。
「キャアァァァ!!」
少女の悲鳴が響《ひび》いた。リィの声だ。
ヤンがあわてて鉄格子を開こうとした。エレベーターが一階下で止まり、しばらく無骨な音を立てて揺《ゆ》れてから、鉄格子がゆっくりと開いた。
全員、転がるように飛び出した。
「リィ!?」
「どうした、ヒューイ!」
暗い階段のほうに、一歩|踏《ふ》み出す。
あまりに濃《こ》い闇が落ちているので、戸惑《とまど》って、声を出して呼《よ》ぶだけになる。上のほうから、かすかにしゃくり上げるような声が聞こえてきた。
「……リィ?」
駆《か》け上がろうとすると、ヤンがエレベーターの中から・非常用らしい小さな懐中電灯《かいちゅうでんとう》みつけて、追ってきた。スイッチを入れて、階段の上の闇を、照らす。
懐中電灯の、白く丸い、おぼろげな光に、死体が照らし出された。
全員が低い悲鳴を上げ、立ち尽《つ》くした。
……ヒューイが倒《たお》れていた。
階段の踊《おど》り場に、壊《こわ》れたマリオネットのように体を投げ出していた。うつぶせの姿勢《しせい》で、左手は体の下に隠《かく》れ、右手は姿勢を正して腰《こし》にぴったりくっつけたようになっていた。
そのかたわらに、リィが腰を抜《ぬ》かしたようにしゃがみこんでいた。
「どうしたんだ!」
ドイツ人の少年がリィを怒鳴《どな》りつけた。大柄《おおがら》で、十四|歳《さい》だという実|年齢《ねんれい》よりもずっと、大人に近い体格《たいかく》をした威圧《いあつ》的な少年だった。
怒鳴られたリィは、しかし、説明することができなかった。身振り手振りで、ヒューイを追いかけて階段を降りたら、ここに倒れていた、とジェスチャーする。
ドイツ人の少年が、ドイツ訛《なま》りの英語で、苛立《いらだ》ったように叫《さけ》んだ。
「そんな身振りじゃ、わからん!」
ヒューイに駆け寄り、脈を取ろうとした。こちらに向かって投げ出されたヒューイの右手を取り、手首の内側に指の腹《はら》を当てる。
――脈は完全に止まっていた。
「どうして死んだんだ!?」
誰かの声に、リィが、わからない、というように首を振った。
真っ暗な階段には、ヤンが照らす懐中電灯の丸い光だけが輝《かがや》いていた。と、ヤンが驚《おどろ》きのあまり取り落としてしまったらしく、その丸い光が下に落ちて、カン、カラララ……と階段を転がり落ちていく音がした。階段は再《ふたた》び真っ暗になった。
静寂《せいじゃく》は、死のように重い。
と、誰かがふいに甲高《かんだか》い悲鳴を上げた。
「やだ! もうやだ! 帰る……ッ!」
あの、頬《ほお》に怪我《けが》をしたハンガリー人の少女の声だった。続いて、階段を駆け下りる音がした。あわてて彼女を追おうとする。ヤンもハッと息を飲んで、
「おい、どこに行くんだよ! はぐれるな!」
返事はない。ヤンはさらに叫んだ。
「ぼくたち、一緒《いっしょ》にいないと……危《あぶ》ないよっ!」
一階下の廊下《ろうか》にたどりつく。辺りを見回すと、闇雲《やみくも》に走り去る少女の後ろ姿《すがた》が見えた。廊下の角を曲がり、姿を消してしまった。
「おいっ……!」
続いて、追ってきた少年たちも、顔を見合わせた。
放《ほう》っておくわけにはいかない……。このエレベーターホールを集合場所に、みんなで、彼女を捜《さが》してその階を歩き始めることにした。
廊下は、少し暗く感じた。
たった一階下にきただけで、最初にいたあのラウンジのある廊下《ろうか》より、照明が少し落とされて、廊下の木目も、節が目立つ木材が使われているのがわかった。深紅《しんく》の絨毯《じゅうたん》も、使い古されているのかところどころ黒ずんでいて、人々がよく歩く真ん中辺りがけばだって、生地《きじ》が薄《うす》くなっていた。
一人用の客室がずっと続いていた。同じ場所をぐるぐる回っているような錯覚《さっかく》を覚えるほど、廊下は変化なくただ続いていた。
一人で、柔《やわ》らかすぎる絨毯を踏《ふ》んで歩いていると、次第《しだい》に不安が増してきた。
いやな、予感がする。
どきどぎと心臓《しんぞう》が脈打つ。
つぎの角を、曲がりたくないなぁとなぜか思う。足が勝手に止まりそうになる。自分を奮《ふる》い立たせて、その角をむりやり、ゆっくりと、曲がる。
そこに……。
捜していたハンガリー人の少女が、立っていた。一人でポツンと。ビックリしたように目を見開いて、硬直《こうちょく》している。その目と、目があった。そらそうとしたけれどできなかった。
……少女は死んでいた。
知らない間に、口が開いて、自分のものとは思えないぐらい大きな悲鳴が響《ひび》き渡《わた》った。
彼女はそこに立っているのではなくて、タクティカルナイフで喉《のど》を正面から貫《つらぬ》かれて、廊下の壁《かべ》に串刺《くしざ》しにされていたのだった。ふらふらと近づいて、なんとかしなければと、手を伸《の》ばす。
震《ふる》える手で触《さわ》った途端《とたん》、壁にめりこんでいたナイフの刃先《はさき》がはずれて、腕《うで》の中に死体が落ちてきた。
重たかった。ずしりと重量感があった。
悲鳴を聞きつけて、つぎつぎに少年たちが集まってきた。角を曲がって姿を現《あらわ》しては、死体を見て大声を上げる。ヤンがおそるおそる近づいてきて、
「アレックス……だいじょうぶか?」
力なくうなずいた。
集まってきた子供《こども》たちは顔を見合わせ、震えるばかりだった。やがて、体格《たいかく》のいいドイツ人の少年が、怒《いか》りにかられたように大声を上げた。
「誰《だれ》が殺したんだ?」
「さぁ……わからない」
ヤンの答えに、激高《げっこう》し、
「わからないだと!?」
「だって、誰もナイフなんか持っていなかっただろう。全員、手ぶらでこの船に乗せられていたんだ。それに、こんな軍隊用の無骨《ぶこつ》なナイフが、客船にあるものか」
「じゃ……?」
顔を見合わせる。
遅《おく》れて、リィがその場所にやってきた。少女の死体をみつけると、息を飲み、手のひらで口を押《お》さえた。
静かなその場所で、死体を抱《かか》えながら、一つ、誰にも言えないことがあった。
廊下の端《はし》にある、アンティークの棚《たな》。引き出しが少し開いていた。ちょうど立っている位置から、引き出しの中身が見下ろせた。
中には、小型|拳銃《けんじゅう》が入っていた。銃身が不吉《ふきつ》な漆黒《しっこく》に輝《かがや》いている。
武器《ぶき》は、ある。
この船にあるんだ。
でも……。
どうして……………………?
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第三章 幽霊船《ゆうれいせん》〈QueenBerry 号〉
水浸《みずびた》しのラウンジには、重苦しい空気が立ちこめていた。一人、超然《ちょうぜん》としているのはヴィクトリカで、あとの四人はうつむいたり、互《たが》いを睨《にら》んだりを繰《く》り返していた。
ぴちゃん、ぴちゃん……。
海水が染《し》み込《こ》んだ壁《かべ》や天井《てんじょう》から、澱《よど》んだ色をした水滴《すいてき》が床《ゆか》に落ちてくる。湿《しめ》った空気が、ラウンジ全体を包む。
「……この船にはかつて、十一人の少年少女が乗せられたんだよ。〈野兎《のうさぎ》〉だ」
モーリスはそううめくと、子供のように膝《ひざ》を抱《かか》えて震《ふる》えだした。
残りの四人が、顔を見合わせた。
と、ジュリィ・ガイルが勢《いきお》いよく立ち上がり、モーリスに迫《せま》った。
「……それ、どういうこと?」
ネッド・バクスターが低い声で言った。
「おい……。そいつらはどうなったんだよ?」
「……死んだよ。殺しあったんだ」
「ど、どうしてだ!?」
「そういうふうに仕組まれていた」
モーリスはつぶやくと、おそるおそる顔を上げた。
ラウンジの壁には、さきほどと同じ血文字がおどろおどろしく躍《おど》っていた。それを見上げるモーリスの瞳《ひとみ》には、怯《おび》えと絶望《ぜつぼう》が揺《ゆ》れていた。色をなくした唇《くちびる》を開き、
「これ以上は話せない。わたしの職務規定《しょくむきてい》に違反《いはん》する。だが……とにかく、この船〈QueenBerry 号〉は、その運命の夜が明けると、少年少女たちの遺体《いたい》が回収《かいしゅう》され、海に沈《しず》められた。我々《われわれ》が回収作業を終えて撤収《てっしゅう》した直後、海上救助隊が駆《か》けつけて船を確認《かくにん》したが、もちろん内部は無人だった。少年少女用のトラップがいくつか残っていたことと、争った形跡《けいせき》もあったことから、彼らは船内を調査《ちょうさ》しようとしたが、浸水《しんすい》が進んでいたため叶《かな》わなかった。君、君が……」
モーリスは一弥《かずや》を指差した。
「同級生の少女から聞いたという怪談《かいだん》は、この十年前の事件《じけん》が元になっているのだ。君から、〈QueenBerry 号〉が繰り返し海上に現れ、人々を誘《さそ》い込むという話を聞いたとき、わたしは確信した」
モーリスは暗い声を絞《しぼ》り出した。
「……この船が、幽霊船《ゆうれいせん》だと!」
ネッドとジュリィが、顔を見合わせた。二人とも半信|半疑《はんぎ》ながら、不安そうに表情《ひょうじょう》をひきつらせている。
[#挿絵(img/01_157.jpg)入る]
ネッドが、テニスボールをつかんで放《ほう》り上げた。落下してくるボールを受け止めては、また放り上げる。ジュリィのほうは、立ち上がってラウンジを行ったり来たりし始めた。
モーリスが続ける。
「この船は、死んだ少年少女の恨《うら》みが海上に押《お》し上げた幽霊船なのだ。あれからちょうど十年だ……」
話すうちに、肩《かた》を細かく震《ふる》わせ始める。
「彼らに死をもたらした大人たちが集められ、こうして死んでいった……」
モーリスの顔は蒼白《そうはく》だった。
「我々も死ぬんだ……」
震えが全身に行き渡《わた》り、モーリスは絶望《ぜつぼう》的な表情で、
「無線室になんてたどり着けるものか! 我々は、あの子供たち――〈野兎〉に、呪《のろ》われているんだよ!」
「……ぷっ」
誰《だれ》かが吹《ふ》き出した。
モーリスがキッとこちらを睨んだので、一弥はあわてて首を振《ふ》った。かたわらを見ると、ヴィクトリカがうつむいて座《すわ》っていた。まるで黄金の糸のような長い金髪《きんぱつ》に隠《かく》され、顔は見えない。
その細い肩がカタカタ揺《ゆ》れていた。
「……おーい、ヴィクトリカ?」
「ぷくくくくっ!」
へんな声を出すなぁ、と一弥が金髪に手をのばし、かきあげてみると、ヴィクトリカはぽろぽろ涙《なみだ》を流して……笑っていた。
「わはははは!」
「おい、君! なにがおかしいのだ!?」
ネッドたちもそれぞれ、テニスボールをいじることと、うろうろ歩くことをやめ、驚《おどろ》いたように、笑いの発作《ほっさ》を起こしたヴィクトリカをみつめた。
ヴィクトリカは優雅《ゆうが》な仕草で、鞄《かばん》からパイプを取り出した。ポカンとしてみつめている大人たちには構《かま》わず、火をつけてぷかりと一服|吸《す》う。
ゆっくりと煙《けむり》を吐《は》きだし……その煙を、モーリスの顔めがけて吐きだした。モーリスは「ゲホッ、ゴホッ、ゲホホッ……」と咳《せ》き込んだ。目尻《めじり》に浮《う》かんだ涙を指の腹《はら》で忙《せわ》しく拭《ふ》いている。
しばらくパイプをくゆらしていたヴィクトリカは、やがて、空いているほうの手を、レースの衣装《いしょう》のポケットに入れた。
ポケットから出てきた小さな手には、一通の封筒《ふうとう》が握《にぎ》られていた。一弥にも見覚えのある、それは……ヴィクトリカが、ロクサーヌのヨットでみつけた招待状《しょうたいじょう》だった。
ネッドがそれを見て、
「あ、俺《おれ》もそれ、受け取った」
「わたしもよ。鍵《かぎ》をかけた車に入ってたの」
「……一つ聞くがね、モーリス」
ヴィクトリカは、三倍も年上の外務官僚《がいむかんりょう》に向かって、笑いながら言い放った。
「君、思うかね?……幽霊《ゆうれい》が招待状なんてものを書くと」
「!?」
モーリスはハッと息を飲んだ。
一弥たちも、我に返った。互《たが》いの顔をみつめあって、夢《ゆめ》から醒《さ》めたように目をぱちくりしている。
モーリスは口を開いた。反論《はんろん》しようとして、自信なさそうに首をかしげる。
「だが……しかし……それにしたって、おかしいじゃないか。この船は確《たし》かに海底に沈《しず》んだのだ。それに、あの壁《かべ》の血文字。停電したのはほんの十秒足らずのあいだだったんだぞ! 人間に、そんな短時間で大きく長い文字が書けるかね? それに、このラウンジだって……さっきとぜんぜんちがう!」
澱《よど》んだ瞳《ひとみ》に、涙が浮《う》かんでいる。
むきになって叫《さけ》んだ。
「説明してみろ! 幽霊じゃなきゃ、なんなんだ!」
「そりゃ、人間だろう、君」
ようやく笑い終わったヴィクトリカが、つぶやいた。静かな声だった。ネッドは不安そうにテニスボールを握りしめていた。ジュリィはくせなのか、首に下げたハートのペンダントをいじりながら、うろうろ歩き続けていた。
五歩歩いては、ターン。また五歩歩く。無意識《むいしき》だが正確な動きだった。ヴィクトリカはそれをチラリと見て、かすかに顔をしかめた。
ペンダントはハート形をしたエナメルだった。かなり古びて、ところどころ塗装《とそう》がはげていた。ずいぶんと子供っぽいデザインで、彼女の深紅《しんく》のドレスには合わなかったが、ジュリィはそのペンダントを大切そうに指の腹で撫《な》で続けていた。
「人間にできることばかりだよ、君。ちょっとは考えたまえ」
「なんだと? どういうことだ」
モーリスはずいっと顔を近づけて、ヴィクトリカに迫《せま》った。ヴィクトリカはいやそうに身をよじると、一弥のほうを振《ふ》り返った。機嫌《きげん》悪《わる》そうに、
「久城《くじょう》、君《きみ》、説明しろ」
「えっ、なにを?」
「混沌《カオス》の再構成《さいこうせい》」
「……ぼくがぁ?」
澄《す》んだ緑の双眼《そうがん》が、一弥をひたと見据《みす》えた。
わずか、三秒。一弥は眼力戦に負け、しどろもどろに、
「ええとですね、混沌《カオス》、もしくはこの世の謎《なぞ》をですね、その数々を、つまり欠片《かけら》ですね、鍋《なべ》に全部入れて煮込《にこ》んで、そう、闇鍋《やみなべ》ですね。お椀《わん》についで、結局、再構成ということですね、そうすると見事に謎が解《と》けるけれど手柄《てがら》は警部《けいぶ》に横取りされると…………ぼく、なんの話をしてるんだっけ?」
「もう、いい。中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才《しゅうさい》め」
「ヴィッ…………!?」
口の中でもごもごと、中途半端だったら留学《りゅうがく》できないんだぞ、とつぶやく一弥を置いてきぼりに、ヴィクトリカは話し始めた。
「まず、幽霊はだね、君たち。招待状など書かない。わかるかね?」
ネッドがまず、うなずいた。続いてジュリィが、最後にモーリスがいやいやうなずく。
ヴィクトリカは招待状を振りかざして、
「何者かがこれを書き、我々《われわれ》をこの船に集めたのだ」
「しかし君、この船は沈《しず》んだはずなのだぞ!」
「これが十年前に沈んだ〈QueenBerry 号〉だと、なぜわかる?」
静かな声に、モーリスはなにか言いかけ、口を閉《と》じた。ヴィクトリカは続けて、
「ここで一つの仮説《かせつ》をだね、提案《ていあん》しよう」
全員が固唾《かたず》を呑《の》んで、この自信満々でしゃべり続ける小さな少女を、見守った。ヴィクトリカは落ちついた声で、言い放った。
「これは、昔を知る者が当時そっくりの船を再現《さいげん》したものである≠ニ」
ラウンジはしんと静まり返った。
ネッドとモーリスが、顔を見合わせて、黙《だま》りこくった。一弥もキョトンとしていた。
水浸《みずびた》しのラウンジに、ぴちょん、ぴちょん……と、水音だけが響《ひび》いている。
やがてジュリィが、我に返った。おそるおそる聞く。
「それ、どういうことよ?」
ヴィクトリカは彼女のほうを振り返った。相変わらず自信満々の態度《たいど》だ。いつものように低いしゃがれ声で、説明を始める。
「君、これはきわめて単純《たんじゅん》な、論理的解釈《ろんりてきかいしゃく》だ。まず〈QueenBerry 号〉だが、これは十年前に沈《しず》んだらしい。もしそれが事実であるなら、いま我々が乗っているこの船は、よくできたレプリカなのだ」
「はぁ……?」
「そう考えればすべては反転する。幽鬼《ゆうき》現象じみていたことも説明がつくようになるが、どうだね?」
ジュリィは眉間《みけん》にしわをよせ、考え込んでいた。困《こま》り切った声で聞き返す。
「えと、つまり……?」
ヴィクトリカは面倒《めんどう》くさそうな顔をした。パイプをくゆらしながら、だるそうに、
「君たち、鼻を使ってみたまえ」
一弥たちはクソクソと鼻をうごめかせた。鼻を使えと言われても、ヴィクトリカが吸《す》い始めたパイプから漂《ただよ》う匂《にお》いに邪魔《じゃま》されて、よくわからない。
と、ヴィクトリカが言葉を続けた。
「……塗《ぬ》りたてのペンキの臭いがしないかね?」
「あっ!?」
一弥は、最初に感じたシンナーのような臭いを思い出した。ラウンジ全体に充満《じゅうまん》していたあの臭い。頭痛《ずつう》がひどかったのも、睡眠薬《すいみんやく》だけでなくそのせいだったのだろう……。
「そして、わたしが気にしていた葡萄酒《ぶどうしゅ》。久城、君、覚えているかね?」
聞かれて、一弥は思いだした。さっき、この船が幽霊船かもしれないと言い出した自分にあきれ顔になり、ヴィクトリカが見せようとした葡萄酒の瓶《びん》と、それを注いだグラス。その直後に停電|騒《さわ》ぎがあり、すっかり忘《わす》れていたが……。
「あれと同じ葡萄酒の瓶が、確《たし》かにこのラウンジのバーカウンターにも、あるが……」
ヴィクトリカはバーカウンターのほうを指し示《しめ》した。全員がそちらを振り返った。カウンターにはぎっしりと酒瓶《さかびん》が並《なら》んでいた。
「わたしが栓《せん》を抜《ぬ》いてグラスに注いだ葡萄酒が、また元に戻《もど》っている。おかしくはないかね?」
「あっ……」
一弥がつぶやいた。
確かに、ヴィクトリカが栓を抜いた葡萄酒も、中身を注いだグラスも、見当たらなかった。カウンターに近づいて調べてみると、同じラベルを貼《は》られた、まだ栓の抜かれていない瓶があった。
ヴィクトリカが一弥を手招《てまね》きした。葡萄酒の瓶を受け取ると、
「これはだね、一八九〇年、つまり三十年以上も前に醸造《じょうぞう》されたソヴュール産の葡萄酒だ。おそらく、十年前に沈んだ本物の〈QueenBerry 号〉に乗せられていたため、忠実《ちゅうじつ》に再現しようと、犯人《はんにん》はこの葡萄酒を載《の》せたのだろう。だが、しかし……」
ヴィクトリカは肩《かた》をすくめた。栓を抜いて、手近にあった汚《よご》れたグラスにとぽとぽと注いでみせる。さきほどと同じく、鮮《あざ》やかな赤紫色《あかむらさきいろ》の液体《えきたい》が瓶から流れ出てきた。
「中身はにせものだ。こうやって注ぐと、作りたての葡萄酒特有の鮮やかな色をしているのがわかる。古い葡萄酒はもっとにごった色をしているものなのだよ。そして香《かお》りもまた……」
グラスを持ち上げ、鼻に近づける。
「ほら……新しい葡萄酒のものだ」
「……どういうこと?」
一弥は聞き返した。ヴィクトリカはラベルを指差してみせた。
「この醸造元は、一九一四年の夏、開戦された世界大戦の戦火で、焼け落ちたのだよ。いまではもう、手に入らない。おそらくそれで、ラベルだけを再現して新しい葡萄酒のラベルと張《は》り替《か》えたのだろう」
四人は顔を見合わせた。誰《だれ》もが不安そうな顔だった。
「……し、しかし!」
モーリスが叫《さけ》んだ。
「この壁《かべ》の血文字は? 水浸《みずびた》しのこのラウンジは!? 死体はどこに消えた!」
「……わめかなくても聞こえるよ、モーリス」
ヴィクトリカは顔をしかめた。
それから、椅子《いす》から立ち上がり、ちょこちょこと歩きだした。
ラウンジのドアを開けながら、
「おそらくこの部屋は、最初にわたしたちがいたラウンジではないのだ」
「!?」
「わたしたちは、一度、船の甲板《かんぱん》に出た。そして戻《もど》ってきた。同じ廊下《ろうか》を通り、当然のようにこの部屋に入ったが、それはなぜだ?」
ジュリィが自信なさそうにつぶやいた。
「だって、ドアが開いていたからよ。ほかの部屋は閉《し》まっていたから……」
「その通り。では……おい、久城」
ヴィクトリカに呼ばれて、一弥は立ち上がった。ヴィクトリカは廊下に出ると、指で合図をして、
「君、同じ側のドアを順番に開けてみたまえ」
「うん……」
一弥はとなりの部屋を開けた。豪華《ごうか》な一等船室だった。天井《てんじょう》からシャンデリアが垂《た》れ下がっていた。大きな天蓋《てんがい》付きベッドと、柔《やわ》らかなソファ。テーブルクロスもクロゼットも、豪奢《ごうしゃ》なものだった。
さらにとなりのドアも開ける。まったく同じ造《つく》りの船室だった。
何室かドアを開けてみるが、同じ部屋が続いていた。だんだん飽《あ》きてくる。一弥は一度、もとのラウンジのほうに戻った。そして、いま開け続けたのとは反対側の、一つとなりのドアを、開けた。
「…………?」
そこに展開《てんかい》された光景に、思わず、息を飲む。
ヴィクトリカのほうを振《ふ》り返り、口をパクパクさせると、ヴィクトリカはわかっているというように「……うむ」とうなずき、残りの三人を手招《てまね》きした。
全員で、そのとなりの部屋を覗《のぞ》き込《こ》む。
……そこには、まるで写真のように、まったく同じラウンジがあった。テーブルとバーカウンター。小さな舞台《ぶたい》。そして……。
壁に血文字。
開けられた葡萄酒の瓶と、中身が注がれたグラス。
床《ゆか》には、ボウガンで眉間《みけん》を貫かれた、太った男の死体。
ジュリィとモーリスが叫《さけ》び声を上げた。
振り向くと、ヴィクトリカは満足そうにうなずいていた。
「最初にいたのは、こっちの部屋だ。誰がドアを開け閉めし直したかまではわからないが。これは簡単《かんたん》なトリックだったのだよ、君たち」
――五人は、床に死体が転がる、もとのラウンジに入った。
水浸しだったほうと比《くら》べると、シャンデリアの輝《かがや》きが眩《まぶ》しすぎるほどで、かえって落ちつかなかった。適当《てきとう》な椅子をみつけて座《すわ》り、互《たが》いの顔をみつめあう。
ヴィクトリカは、血文字の躍《おど》る壁を見上げていた。睨《にら》みつけるような鋭《するど》い視線《しせん》だった。やがて彼女は、壁のかたわらにあるバーカウンターを指差してみせた。
「久城、君、その中を覗いてみたまえ」
「えっ……?」
「混沌《カオス》を再構成《さいこうせい》した結果、導《みちび》き出した答えだ。おそらくそこに、最初に覗いたときはなかったものがあるはずだよ、君」
一弥は戸惑《とまど》いながらも、立ち上がった。バーカウンターに近づいて、言われたとおり、その中を覗き込んでみる。
そっと隠《かく》すように、くしゃくしゃに丸められた何かが、落ちていた。大きな布《ぬの》……? いや、ちがう。これは……。
「壁紙だ!」
一弥は思わず叫んだ。ジュリィとネッドも、その声に立ち上がって、一緒《いっしょ》にバーカウンターの中を覗き込んだ。
「あっ?」
「これって、もしかして……?」
そこに丸められていたのは、壁《かべ》と同じ模様《もよう》を施《ほどこ》された壁紙だった。くしゃくしゃにされて無理やり押し込まれている。
遅《おく》れて、バーカウンターに近づいたモーリスが、叫んだ。
「こ、これは……確《たし》かに、壁紙だ!?」
「そうだ」
ヴィクトリカは落ちついて、うなずいた。
「いいかね、モーリス。確かに十秒ほどの時間で、壁に大きく長い文字を書くことはできない。しかし、あらかじめ書かれていた文字の上から、張られた壁紙を一気に剥《は》がして隠すには、十分な時間ではないかね?」
ネッドが、ほうっ……とため息をついた。
そのとなりでジュリィが、ハートのペンダントをいじりながら、首を振った。長い黒髪《くろかみ》がさらさら揺《ゆ》れた。
「なるほどな」
「なーんだ、わかってみれば簡単ね」
ネッドはまたテニスボールをいじり始め、ジュリィは五歩歩いてターンを繰《く》り返し始めた。落ちつかないのだろう。
その様子を、モーリス一人が、肩《かた》を震《ふる》わせて睨《にら》みつけていた。床《ゆか》に仁王立《におうだ》ちし、一人、一人を順繰《じゅんぐ》りに見回していたが、やがて、とつぜん叫んだ。
「おい、おまえら!」
ヴィクトリカが顔をしかめた。
「……なんだね、その言い方は」
モーリスは壁|際《ぎわ》まで後退《こうたい》すると、おそろしそうに、一弥、ネッド、ジュリィ、そして最後にヴィクトリカの顔を、順番に見回した。
それから、誰にともなく、震え声で聞いた。
「誰が[#「誰が」に傍点]〈野兎[#「野兎」に傍点]〉なんだ[#「なんだ」に傍点]……?」
残りの四人が、不思議そうにモーリスの顔を見る。
「〈野兎《のうさぎ》〉とはなんだ?」
「あの少年少女の別称《べっしょう》だ。我々はあの子たちをそう呼《よ》んでいたんだ!」
モーリスはがたがた震えていた。
血文字の躍る壁に背をつけ、叫ぶ。
「だって、そうだろう? これが幽霊船《ゆうれいせん》じゃないなら、呪《のろ》いじゃないなら、なんなんだ!?」
全員が顔を見合わせた。やがてジュリィが「あっ!」と叫《さけ》び、口に手を当てた。
小声で、ささやく。
「……もしかして、復讐《ふくしゅう》?」
ジュリィの半信|半疑《はんぎ》の声が響《ひび》いた。ネッドもその声に、
「あっ、そうか!」
モーリスは震えながら、
「しらばっくれるな! だいたい、あの招待状《しょうたいじょう》は誰に配られたんだ? わたしを含《ふく》む、あのときの大人たちが集められていたじゃないか。みんな死んで、わたしだけ残った。だが、ここにいる四人の若者《わかもの》たち……おまえらは何者だ? 十年前の、わたしたちの側の人間ではない。ではなぜ招待状が届いたのだ?」
激《はげ》しい息に肩を震わせながら、続ける。
「〈野兎〉は全員死んだわけじゃない。数人が生き残り、解放《かいほう》された。太らせろとのことで、その後は贅沢《ぜいたく》な暮《く》らしが保証《ほしょう》されたはずだ。……おい、おまえらの中に、生き残った〈野兎〉がいるんじゃないか? そして十年後のいま……」
ジュリィはペンダントを激しくいじっている。ネッドはテニスボールを握《にぎ》りしめている。
「我々に復讐するために、このレプリカの船を造《つく》り、招待したんだ!」
「ちがうわ……」
「俺《おれ》だって、そんな……」
二人の若者は戸惑《とまど》ったように顔を見合わせた。
「じゃあ、どうして招待状を持っているんだ!」
一弥がおそるおそる、自分とヴィクトリカの説明をした。
自分たちは学園の同級生だということ。本当は週末にヨット遊びをするつもりだったこと。しかし、直前に中止になってしまったこと。退屈《たいくつ》しているとき、ヨットの中で招待状をみつけたこと……。
ヨットの持ち主が有名な占《うらな》い師《し》、ロクサーヌだったことと、彼女が殺されたことを聞くと、モーリスの顔が蒼白《そうはく》になった。
「ロクサーヌ様が……殺された!?」
「知り合いだったんですか?」
一弥の問いに、モーリスは答えなかった。
続いてネッドが、話し出した。
「俺はもともと孤児《こじ》で、家族はいない。十八|歳《さい》まで施設《しせつ》にいた。それから、働きながら役者になる修業《しゅぎょう》を積んで、幸い、舞台《ぶたい》に立つことができるようになってね。いつのまにか、ちょっとは有名になってた。で、今週……」
一度、言葉を切る。語るべきことを迷《まよ》うように、ゆっくりした口調になり、
「俺が出演《しゅつえん》していた舞台の控《ひか》え室に、花束と招待状が届《とど》けられたんだよ。ま、熱心なファソの招待ってのは、ときどきあるからね……。ちょうど舞台も終わったところだし、息抜《いきぬ》きにと思って、やってきたってわけだ」
語り終わると、うつむく。
続いてジュリィが説明を始めた。
「さっきも話したけど、わたしの親は炭坑《たんこう》を所有している資産家《しさんか》なのよ。かなり好き勝手に育ってきたわ。広い屋敷《やしき》でのびのびと、わがままに育てられたのよ……」
ジュリィは、ネッドとは逆《ぎゃく》に、早口だった。急いで語り終えようとするように、まくしたてる。
「ついこないだのことよ。わたし専用《せんよう》の車の中に、鍵《かぎ》をかけていたのに、なぜかあの招待状が入っていたの。確《たし》かに、少し妙《みょう》だとは思ったけど……。誕生日《たんじょうび》も近いし、友人たちの悪ふざけだろうと思ったの。で、内心クスクス笑いながらやってきたのよ。ふっ……。とんだ勘違《かんちが》いだったけどね……」
それぞれの話が終わった。
モーリスはうなだれて考え込んでいた。眉間《みけん》にしわを寄《よ》せて、厳《きび》しい顔をしている。
それから顔を上げると、ネッドとジュリィを指差し、
「おまえらの、どちらかだ。……だろう?」
「な、なんでよ!? ちがうわよ!」
モーリスはヴィクトリカをチラリと見て、
「この少女の身元は、はっきりしている。貴族《きぞく》のお姫《ひめ》さまだ。こんなことをしないだろう。その友人もだ。それに年齢《ねんれい》が幼《おさな》すぎる。十年前なら二人ともまだわずか五歳だ。そんな小さな〈野兎《のうさぎ》〉はいなかった。全員が十代前半だったはずなんだ」
「どうしてそう言い切れるの? この子の身元なんて、本人が自称《じしょう》してるだけよ! ほんとはどこの馬の骨《ほね》ともわからないガキかもしれないわ」
「バカを言うな。貴族は、見ればわかる。庶民《しょみん》とは空気がちがうんだよ。おまえみたいな成金の娘《むすめ》にはわからないかもしれないがな、わたしは自分自身も子爵《ししゃく》の称号を持ち、また長年、上流階級と接《せっ》してきた。そのわたしが保証する。この子供《こども》は本物の貴族だ」
「なっ……成金ですって!?」
つかみかかろうとするジュリィを、ネッドが「よせよ!」と止めた。
モーリスはその二人を軽蔑《けいべつ》するように見て、
「〈野兎〉たちは、孤児だった。卑《いや》しい生まれの者は、見ればわかる。一人は役者、もう一人は成金の娘、か。果たしてどちらが、あの死に損《ぞこ》ないの少年少女のなれの果てなのかな……くっ!」
モーリス天井《てんじょう》を見上げて、笑いだした。
ジュリィが獣《けもの》のように暴《あば》れて、モーリスに襲《おそ》いかかろうとする。ネッドが一弥を呼《よ》んで、手伝ってくれと叫《さけ》んだ。あわてて一弥もジュリィを押《お》さえつける。
ジュリィがぐるるる、と獣じみた唸《うな》り声を発してから、
「モーリス、あんただって怪《あや》しいわよッ!」
「……なんだと?」
ようやく暴れるのをやめたジュリィから、手を離《はな》す。彼女は手負いの獣のようなせっぱ詰《つ》まった危険《きけん》な目つきで、モーリスを睨《にら》んだ。モーリスは壁際《かべぎわ》に追いつめられ、怯《おび》えたようにジュリィを見返している。
「その〈野兎〉とやらには、親がいたのかもしれないわ。もしくは親代わりとなる大人が。かわいがっていた大人が。ちがう?」
「…………」
「十年前なら、モーリス、あんたは三十代の半ばぐらいね。二十歳《はたち》過《す》ぎにできた子供が、十代前半になっている頃《ころ》だわ。あんた曰《いわ》く、ちょうど〈野兎〉の年齢に」
「わたしの娘は貴族の学校に通わせている」
「あんたが貴族だって話も、外務官僚《がいむかんりょう》だって話も、自称しているだけよ。この船にいる限《かぎ》り、確かめる術《すべ》はない。もしかしたらあんたは、死んだ子供の復讐《ふくしゅう》のためにこんなばかげた船を造《つく》った、狂《くる》った親なのかもしれないわ。そうよ。あんたはきっと、子供を亡《な》くして狂った父親なのよ!」
「馬鹿《ばか》な……」
モーリスは失笑《しっしょう》した。
それからジュディを睨《にら》みつけ、
「侮辱《ぶじょく》は、許《ゆる》さん!」
その顔を見て、一弥は確信《かくしん》した。モーリスは貴族だと。この国にきてからいやというほど見た、貴族特有のプライドと、取り澄《す》ました物腰《ものごし》が、モーリスにもまた染《し》みついていた。この男は身分を詐称《さしょう》してはいないだろう……。
「そうだ。この探偵《たんてい》みたいなお嬢《じょう》ちゃんが、最初に言っていたな。一人|増《ふ》えている、と。近くにいたから聞こえていたよ。最初の食堂で、十一人だった我々は、ラウンジで目覚めたとき、一人増えていた。十二人に。あの食堂にいなかったものが犯人だ。我々に紛《まぎ》れ込《こ》んで、怯えたり、死んでいくのを、腹《はら》の中で笑って見ているんだ」
「なっ……!」
「そこの役者の男は、確かに食堂にいた。暗くて顔は確認《かくにん》できないほどだったが、つまらん役者話を延々《えんえん》語っているのが耳に入ったよ」
ネッドの頬《ほお》が、恥《は》じ入るようにカッと赤くなった。
ジュリィが唇《くちびる》を噛《か》み、モーリスを睨む。
「……だが、成金娘。貴様はいなかったな?」
「いたわ!」
「証拠《しょうこ》はない」
「それはあんたも同じよ。あんたの顔だって、誰《だれ》も見てない。犯人は、わたしかあんたってことね」
「くっ!」
二人は睨みあった。
ジュリィが怒《いか》りに震《ふる》える声で、
「それに、モーリス。あんたどうして、あの救命ボートに乗らなかったのよ?」
「そ、それは……」
「仲間はみんな、船から逃《のが》れようと争ってボートに乗ったわ。そうだ、救命ボートで逃《に》げようって最初に言い出したのはあんたじゃなかった? なのにみんなが乗って海上に降《お》りたときには、あんた一人乗ってなかった」
「それは……、お、おまえらが危《あぶ》ないって叫んだじゃないか」
「成金の言うことを素直《すなお》に聞いたわけ? 貴族のおじさまが」
嫌味《いやみ》っぽくジュリィが言うと、今度はモーリスが拳《こぶし》を固めて襲いかかろうとした。ネッドがあわてて二人の間に入る。
鼻息を荒《あら》くするモーリスと睨みあっていたジュリィが、ふいにビクッと肩《かた》を震わせた。
「……しっ!」
唇に人差し指を当てると、黙《だま》って耳を澄《す》ます。
ネッドが小声で、
「どうしたんだ?」
「……水が」
ジュリィの顔が恐怖《きょうふ》にひきつった。
「水音がするわ!」
ドアを開けて廊下《ろうか》に飛び出す。
立ち止まって、耳を澄ました。
と……。
……ばしゃっ、ばしゃっ、ばしゃっ!
下の方から、かすかに水音が聞こえてきた気がした。なぜなのかわからず立ち尽《つ》くしていると、ふいにモーリスが、
「浸水《しんすい》だ……!」
うめいて、その場にがっくりと膝《ひざ》をついた。ネッドがその肩を揺《ゆ》さぶって、
「どういうことだよ! オッサン!」
「…………」
モーリスは答えない。ネッドがその肩をつかんでがくがくと揺さぶった。モーリスは固く閉《と》じていた目を開けた。その顔は恐怖にひきつっていた。低い声で、
「船底に……小さな穴《あな》を開けて、少しずつ少しずつ浸水させるのだ……。それによって……タイムリミットができる」
「えっ……?」
「これは、わたしの……わたしのアイデア…………だった」
「はぁ!?」
モーリスはしばらく黙って肩を震わせていた。
それから、顔を上げた。鬼気迫《ききせま》る声で、叫《さけ》ぶ。
「はやく、無線室へ! 船が沈むぞ!」
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モノローグ―monologue 3―
「武器《ぶき》なら、あるぞ――!」
大声が響《ひび》いた。
洋燈《ようとう》に明々と照らされた廊下《ろうか》に、少年たちは立ち尽《つ》くしていた。その真ん中に、喉《のど》をタクティカルナイフで貫《つらぬ》かれた死体を抱《かか》えて、立っていた。しばらくのあいだ、誰《だれ》も身動きせず、声も発しなかった。
残った少年少女は、九人……。ヒューイと、このハンガリー人の少女が欠けたのだ。
そのとき、ドイツ人の少年が叫《さけ》んだのだった。十四|歳《さい》にしては大柄《おおがら》な、ほとんど大人に近い体躯《たいく》を、怒《いか》りに震《ふる》わせていた。
少年は、いちばん遅《おく》れて駆《か》けつけてきた少女、リィが背中《せなか》に隠《かく》していた手を、強引《ごういん》にねじるようにして前に出させた。
思わず、
「やめろ!」
「……よく見ろよ。武器ならある。この女がこうして、持ってるじゃないか!」
威圧《いあつ》的に感じられるドイツ訛《なま》りの声が、廊下に低く響《ひび》いた。
彼が差しだしたものに、全員がアッと息を飲んだ。
リィの手には、なぜか、小さめのナイフが握《にぎ》られていた。象の牙《きば》のような流線形をしたナイフが、洋燈に冷たく照らしだされた。
少年は憎々《にくにく》しげに、
「こいつだよ。この女が殺したんだ!」
リィが、その手をふりほどこうとした。小さな手からナイフが落ちると、ドイツ人の少年は彼女の手をつかんだままかがみ、ナイフを拾った。
リィは、ちがうの、というように首を振《ふ》っている。泣きそうな顔だ。ヤンが進み出て、
「やめたまえ!」
「黄色人種に指図される覚えはないね」
「なっ……!?」
怒《おこ》るヤンの前に、ずいっとほかの少年が進み出た。
最初からドイツ人の少年とよく一緒《いっしょ》にいた、大柄で筋肉質《きんにくしつ》の少年だった。ドイツ人の少年とよく似《に》た雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出していた。国籍《こくせき》はオーストリア。彼は、ドイツ人の少年と一緒になって、リィのもう一方の手をつかみ、
「こいつさえいなけりゃ、俺《おれ》たちに危険《きけん》はないってことだろう? 武器を隠し持っていたのはこの女なんだからな。ちくしょう、言葉がわからないフリをしやがって!」
「ちがう。その子は本当に、わからないんだよ!」
叫んだが、彼らはこちらを振り向こうともしなかった。身動きできないリィの頭を、ドイツ人の少年が思いきり殴《なぐ》りつけた。リィの小さな頭が揺《ゆ》れて、長い黒髪《くろかみ》がふわりと宙《ちゅう》に舞《ま》い上がった。ヤンがあわてて止めに入った。ほかの少年少女たちは、体を硬直《こうちょく》させ、ただその光景をみつめている。
「そうだ。だいたいこいつは、ヒューイが死んだとき、やつと二人きりだった。おまえが俺《おれ》たちをここに閉じこめて、一人ずつ殺してるんだ!」
「そうはいかない! おまえを殺すのは俺たちだぞ!」
二人の大柄な少年は、そう決めつけると、リィを痛《いた》めつけ始めた。
……常軌《じょうき》を逸《いっ》していた。
こんな場所に閉じこめられて、目の前で死体を見て、気が動転しているのだろう。ヤンが「やめたまえ!」と二人を止めるが、大柄な少年二人が相手では、あまりに体格《たいかく》差が大きく、弾《はじ》き飛ばされた。
と……。
ドイツ人の少年が、叫び声を上げ、ナイフを振り上げた。
少年少女たちの悲鳴が上がった。
ナイフが思い切り振り下ろされた。リィの心臓《しんぞう》めがけてまっすぐに降《お》りていくそれを、ヤンが少年に体当たりして止めようとした。周りを囲む少年少女たちの中から、ドイツ人の少年を止める声が上がった。
ヤンの邪魔《じゃま》が入り、ナイフは狙《ねら》っていたリィの心臓をそれた。横腹《よこはら》を軽く撫《な》でるようにすり抜《ぬ》け、ドイツ人の少年の渾身《こんしん》の力は、リィの心臓ではなく、廊下《ろうか》の赤い絨毯《じゅうたん》めがけて落ちていった。床の板がガツッと音を立てた。
切れ味のいいナイフらしい。リィの横腹に開いた浅い傷口《きずぐち》から、鮮《あざ》やかな鮮血《せんけつ》が飛んで、切れた皮膚《ひふ》が、そこだけ大輪の花が咲《さ》いたように、赤く染《そ》まった。
全員が硬直した。
リィが、か細い悲鳴を上げ、かくっ……と気絶《きぜつ》した。
「…………!?」
オーストリア人の少年のほうが、血を見て我に返り、リィからばっと手を離《はな》した。だがドイツ人の少年のほうは、血走った目で再《ふたた》びナイフを振り上げた。
思わず、抱《かか》えていた死体を放《ほう》り出した。
棚《たな》の引き出しを開けると、小型|拳銃《けんじゅう》を取り出した。
それを両手で構《かま》え、大声で叫《さけ》ぶ。
「リィから離《はな》れろ! 撃《う》つぞ!!」
……振り返ったドイツ人の少年は、信じられないものを見た、というように手を止め、それから静かにホールドアップした。
ほかの少年少女も、驚《おどろ》いた顔でこちらをみつめている。
廊下《ろうか》は静寂《せいじゃく》に包まれた。
銃を持つ自分の両腕《りょううで》がブルブルと震《ふる》えているのがわかった。自分が果たして、正しいことをしているのかどうか、わからなかった。ただ、リィを助けねばと思った。あの子が優《やさ》しい、いい子だということは、言葉が通じなくてもわかっていたから。
ヤンが口を開いた。静かな声で、
「アレックス……落ちついて」
「うん……」
「その拳銃、どうしたんだ?」
「ここに入ってた」
棚を指し示《しめ》す。全員の視線《しせん》がそこに釘付《くぎづ》けになった。
「さっき気づいたんだ。どうしてかはわからないけれど、この船に武器はあるんだ。リィもきっと、同じようにしてそのナイフをみつけたんだと思う。自衛《じえい》のためか、みんなにそれを知らせるためかはわからないけれど、みつけたナイフを持ってきただけだと思う」
「なっ……!」
「二人はリィから離れろ。ヤン、リィの傷口を……」
ヤンがうなずいて、跪《ひざまず》いた。自分のシャツを引き裂《さ》くと、リィの脇腹《わきばら》を止血した。
ホールドアップしている二人に、
「撃たないよ。そんなことするもんか。ただ……仲間を疑《うたが》うのはもうやめよう。みんなで協力しあって、はやく一緒《いっしょ》に、無線室へ……」
「こ、断《ことわ》る!」
ドイツ人の少年が震え声で、叫んだ。
意地になっているようだった。戸惑《とまど》っているオーストリア人の少年を引き立てて、二人で離れていく。
「おい……」
「武器があるんだな? それなら俺たちも武装《ぶそう》する。信じられるもんか。武器を隠《かく》しもっている女なんて!」
倒《たお》れているリィを憎々《にくにく》しげに睨《にら》むと、廊下にある棚などを片《かた》っ端《ぱし》から開けていった。武器を捜《さが》しながら、離れていく。
だいぶ遠ざかった頃《ころ》、遠くから、
「……みつけたぞ!」
叫び声が聞こえた。
彼らの姿は、廊下の角を曲がってもう見えなくなっていた。
ふいに、トルコ人の少年が立ち上がった。漆黒《しっこく》の肌《はだ》に、しなやかに長い手足をした少年だった。低い声で、義憤《ぎふん》にかられたように、なにか叫び始めた。言葉が通じないのでわからなかったが、おそらく、危険《きけん》だから彼らを呼《よ》び戻《もど》してくると言っているのだろう、とわかった。廊下のほうを指差し、ついで自分を指差して、うなずき、走り出す。
トルコ人の少年の細い体が、廊下の角を曲がり、消えた。
そのつぎの瞬間《しゅんかん》……。
大きな発砲《はっぽう》音がした。廊下の床《ゆか》や壁《かべ》、そして空気が、ビリビリと震《ふる》えたように感じられた。続いて、視界に、角を曲がったばかりの少年の体が、吹《ふ》き飛ばされるようにして再《ふたた》び現《あらわ》れ、ズサリと仰向《あおむ》けに倒れるのが映《うつ》った。
静寂《せいじゃく》。
……遅《おく》れて、誰《だれ》かが、悲鳴を上げた。
拳銃を握《にぎ》りしめたまま、トルコ人の少年に駆《か》け寄《よ》った。
助け起こそうとして、その胸《むね》に大きな穴《あな》が開いているのに気づいた。床に敷《し》かれた絨毯の模様《もよう》が、一瞬見えたと思ったら、穴からじわりと染《し》み出る鮮血《せんけつ》に染められ、見えなくなった。
威力《いりょく》の強い銃で撃《う》たれたのだとわかった。トルコ人の少年は、少し怒《おこ》ったような顔をしたまま、絶命《ぜつめい》していた。自分の身に起こったことに気づくまもなく、死んだのだろう。
顔を上げると、ドイツ人の少年とオーストリア人の少年が逃《に》げていく後ろ姿《すがた》が見えた。ドイツ人のほうが、機関銃らしきものを抱えていた。
死んだのは、三人。ヒューイとハンガリー人の少女、そしてトルコ人の少年。
痛《いた》みと出血で気を失っているリィをおぶって、移動《いどう》し始めた。無線室に向かうため、船頭方向に廊下《ろうか》を進む。
残っているのは、六人だった。中国人のヤン、黒髪《くろかみ》のリィ、自分。それから、彫《ほ》りの深い顔をした、大柄《おおがら》なイタリア人の少年。対照的にひょろりと痩《や》せて、天使を連想させるくるくるした巻《ま》き毛の、アメリカ人の少年。長いブルネットを三つ編《あ》みにした、小柄なフランス人の少女。
みんな怯《おび》えた顔をして、無言で歩いていた。
下の階は、豪華《ごうか》だった上の階と比《くら》べると、やはり薄暗《うすぐら》く、どこか不気味だった。廊下のところどころにある洋燈《ようとう》も、ドアノブも、少しだけ地味で実用的なデザインのものに変わっているようだった。
「……あっ!」
先を歩いていたフランス人の少女が、悲しそうな声を上げた。振《ふ》り返って、ダメだというように首を振る。
……この階もまた、廊下が途中《とちゅう》で壁《かべ》に仕切られ、通れなくなっていた。さらに一階下に降りようと、階段《かいだん》に向かって、みんなでまた歩き始めた。
ヤンが声をかけてきた。
「アレックス。さっきは勇敢《ゆうかん》だったね」
「いや、君のほうが……」
「さっきの銃《じゅう》、まだ 持ってる?」
うなずくと、ヤンは「出してみて」と言った。銃を受け取ると、
「これが安全|装置《そうち》。外さないと撃《う》てないよ」
「そっか」
うなずいてから、ふと、
「……じゃ、さっきは引き金を引いても、撃てなかったんだ?」
「うん。でも、アレックスは撃たないだろうと思ってたよ」
目があった。
ヤンが糸のように目を細めて、微笑《びしょう》した。
階段を使い、さらに一階下に降りた。
さっきよりもっと薄暗く感じられる廊下を、五人で歩いていく。背負《せお》ったリィはまだ気を失っていた。出血が止まっているか心配だが、いまはただ歩くしかなかった。
ひたすら、廊下を進んでいく。壁で仕切られていないことを祈《いの》りながら。
この階は、二等客室や機関士用の食堂などが多く、古びて粗末《そまつ》な部屋が多かった。廊下も薄暗くて、もとは深紅《しんく》だったらしい絨毯《じゅうたん》も、くすんで毛羽立《けばだ》っていた。
フランス人の少女がとつぜん、小声で、関係ない話を始めた。自分の育った田舎《いなか》町の話だった。唐突《とうとつ》なその話題に、戸惑《とまど》った。
「羊を飼《か》っていたの。貧乏《びんぼう》だから、そんなにたくさんじゃないけど。羊のミルクでチーズを作って、家族で食べたわ。その頃《ころ》はみんな元気だったから。裕福《ゆうふく》な家の友達がいて、その子の家の葡萄酒倉《ぶどうしゅぐら》でよく遊んだわ。懐《なつ》かしい……」
男の子みたいなボロ服に身を包んだ三つ編みのその少女は、よく見るとなかなかかわいらしい顔をしていたが、いまは怯《おび》えきった蒼白《そうはく》な表情《ひょうじょう》を浮《う》かべていた。アメリカ人の少年が、その話題に、無理に声を張《は》り上げて、乗った。
「うへー、羊のチーズなんて、くさくって食べられたもんじゃないですよ」
声変わり前の、まるで少女のようにかわいらしい声だった。フランス人の少女がムキになって反論《はんろん》してみせる。
「あら、それがおいしいんだってば」
「ふーん……。ぼくの住んでいたところは、一面のとうもろこし畑だったんですよ。とうもろこし、好きですか? あのころは、毎日みたいにとうもろこしをスープにしたり、肉と一緒《いっしょ》に煮《に》たりして食べてたんです。……懐かしいなぁ」
ヤンもまた、優《やさ》しくおだやかな声で、自分の話をし始めた。父親が生きていたころは、二人で旅を続けていたこと。孤児《こじ》になってからは、港の荷下ろしの仕事をしてなんとか食いつないできたこと。旅から旅の生活が、とても楽しかったこと……。
と、イタリア人の少年が、
「けっ……!」
つまらなそうにつぶやいた。
「……そんな話をしている場合かね? 聞きたくないよ」
みんな白けてしまい、口をつぐんだ。
それきり、しばらく黙《だま》って歩き続けていた。と、アメリカ人の少年が、急に口を開いた。
「犯人《はんにん》なんていない。そう思いませんか?」
みんな驚《おどろ》いて、彼の顔をみつめた。
アメリカ人の少年は、その少女のような声で、熱心に話し始めた。
「ぼく、考えたんです。確《たし》かに、この船にはぼくたちしか乗っていないようだし、武器《ぶき》はあちこちに隠《かく》されています。だけど、ちがう。ぼくたちの中に犯人なんていない。そう思うんです」
「……うん!」
フランス人の少女がうなずいた。
うれしそうに声を張り上げて、
「わたしも、そう思うわ。だって、わたしたちのほかに、わたしたちをここに閉《と》じこめた悪者がいるはずなんだもの。どうしてかはわからないけど、わざわざこんな船に連れてきて、意地悪にも舵《かじ》を壊《こわ》して、こわい目に遭《あ》わせて喜んでいる人がいるんだわ。だから、廊下にこんな壁《かべ》が作られているのよ。それは……わたしたちのしわざなんかじゃないわ」
うなずきあう二人に、くっきりと彫《ほ》りの深い顔をしたイタリア人の少年が食ってかかった。
「おいおい! ではなぜ、ヒューイは死んでいたのだね? あの場所にはぼくたち以外の人間はいなかったのだぞ。ヤンが懐中電灯《かいちゅうでんとう》で照らしたときは、リィのほかはだれもいなかった。それに、あの、喉《のど》を刺《さ》し貫《つらぬ》いたナイフ……」
話しているうちに思い出したのか、声を震《ふる》わせながら、
「あのハンガリー人の少女も、もしぼくたち以外の見知らぬ人間に会ったら、悲鳴ぐらい上げたのではないか? それが一声も発せず刺されていた……。それは、あの子を殺したのが、ぼくたちの中の誰かだったから……」
「えっと……それは、ですね………………」
アメリカ人の少年は言葉に詰《つ》まり、うつむいてしまった。
沈黙《ちんもく》が落ちる。
と、ヤンが顔を上げた。
「アレックス……。甲板《かんぱん》に出たときのこと、覚えてる?」
「ああ、うん」
「あのとき、ハンガリー人の子が、頬《ほお》を怪我《けが》したよね。あのとき、彼女が言ってたこと……」
思い出した。
甲板に出て、手すりに近づいて大声で助けを呼ぼうとしたハンガリー人の少女が、叫《さけ》んだのだ。
(なにかが顔をこすったわ。このへんを……)
そうだ。彼女は確か……。
(このへんを踏《ふ》んだら、あっちからなにかが飛んできて、海に……)
ヤンがうなずいて、
「あの子はなにかを踏んだ。そしたら、おそらく矢かなにかが飛んできて、頬を削《けず》ったんだ。彼女が指差した方向には、誰もいなかったんだから」
「つまり、なんだね……?」
イタリア人の少年が身を乗り出した。
ヤンが、半信|半疑《はんぎ》の顔で、
「もしかすると、犯人はあらかじめ、この船に無人のトラップを仕掛《しか》けているのかもしれない。ナイフも、誰かが刺したんじゃなく、そこを人が通ったら飛ぶように、設計《せっけい》されていたのかもしれない」
「まさか……?」
――六人で、安全なように床《ゆか》にかがんで、船室のドアを開けたり家具を動かしたりした。
ある部屋では、ドアを開けた途端《とたん》、ボウガンが飛んできた。
イタリア人の少年が部屋に入り、用心深く、くまなく捜《さが》した。だが、誰もいなかった。
別の場所では、横からハンマーが落ちてきて、あやうくフランス人の少女が直撃《ちょくげき》されそうになった。ヤンに突《つ》き飛ばされて転がった彼女の鼻先を、大きな鉄の塊《かたまり》が、ブンッとうなって通り過ぎていった。
そこは、床のある場所を踏むと、ハンマーが動き出す仕掛けになっていた。
トラップはすべての部屋や廊下にあるわけではなかった。だが悪意と狂気《きょうき》を感じた。おそろしかった。みんな、体を温めあうように、庇《かば》いあうように、寄《よ》り添《そ》って歩いた。
しばらくして、フランス人の少女がビクリと肩《かた》を震わせた。
「どうしたの?」
「……水音がするわ」
全員、耳を澄《す》ませる。
べつになにも聞こえなかった。フランス人の少女に聞き返そうとすると、ヤンが、
「しっ……!」
言葉を飲んだ。
やがて……。
――ちょろ、ちょろ、ちょろ。
かすかな水音が聞こえてきた。
これは、なに……?
戸惑《とまど》って立ち尽くしていると、ヤンが大声で叫《さけ》んだ。
「浸水《しんすい》だ――!」
「まさか?」
「少しずつだけど、船底から水が流れ込んでる。おそらく……朝には沈《しず》んでしまう。急ごう! とにかく船頭のほうに、急ぐんだ!」
顔を見合わせ、うなずきあったとき……。
どこからか少年たちの悲鳴が響《ひび》いた。
声のした方向に、全力で走った。
角を曲がると、白々と白熱灯《はくねつとう》に照らされる、その階のエレベーターホールにたどりついた。下の階に降《お》りてくるにしたがって、廊下も、部屋も、薄暗《うすぐら》く粗末《そまつ》になっていたから、この場所だけが異様《いよう》に明るく、目に眩《まぶ》しく感じられた。
声は、その場所からしたはずだった。だが誰の姿《すがた》もない……。
戸惑って辺りを見回していると、ふいにどこからか、がっちりした腕《うで》が現《あらわ》れた。髪《かみ》の毛をむんずとつかまれ、強く引っ張《ぱ》られた。
思わず悲鳴を上げた。と、耳元で、その腕の主の声が、聞こえた。
「助けてくれ!」
……ドイツ訛《なま》りだった。聞き覚えのある声。
振《ふ》り返ると、その腕は、エレベーターの鉄格子《てつごうし》の中からこちらに伸《の》びていたのだった。鉄檻《てつおり》の中に、あのドイツ人とオーストリア人の少年がいた。大人のような大柄《おおがら》な体を、ガタガタ震わせ、こちらに腕を伸ばしていた。
「どっ、どうしたの!?」
「助けてくれ! 鍵《かぎ》が、鍵が……ッ!」
背負《せお》っていたリィを床に降ろし、エレベーターに走り寄る。がちゃがちゃと鉄格子を揺《ゆ》らすが、外から鍵がかけられていた。駆《か》けつけた少年たちが口々に聞くが、中の二人は怯《おび》えきり、まともに口が利《き》けなかった。
「幽霊《ゆうれい》が、出たんだ……!」
「俺《おれ》たちから銃《じゅう》を取り上げて、ここに放《ほう》り込んだ……」
ヤンが振り返り、叫《さけ》んだ。
「そうだ。アレックス、銃だ!」
銃を取り出すと、中の少年二人は恐怖《きょうふ》にかられて叫び声を上げた。
「離《はな》れてろよ!」
叫んで、鉄格子の鍵に狙《ねら》いを定め、引き金を引く。
両腕《りょううで》から肩《かた》に、激《はげ》しい衝撃《しょうげき》が貫《つらぬ》いた。耳が痺《しび》れるほどの音。
一発目は外した。すぐに二発目を撃《う》つ。
――ガチャッ!
鈍《にぶ》い音とともに、鍵が壊《こわ》れて鉄格子から外れた。
「よかった……!」
心の底からホッとした。中の二人の表情も、安堵《あんど》のために緩《ゆる》んでいる。
ヤンがすばやく手を伸ばし、急いで鉄格子を開けようとした。
そのとき……。
ガタタンーッ!
エレベーターがとつぜん下降《かこう》し始めた。
少年たちの顔が、恐怖にひきつった。眼球《がんきゅう》が飛び出さんばかりに目を見開き、こちらに太い腕を伸ばす。また髪の毛をつかまれた。つられて大声を上げてしまう。彼らも絶叫《ぜっきょう》している。
ぶちっ、ぶちぶちっ……!
髪の毛が何本も、根元から引き抜《ぬ》かれる音がした。頭皮に鈍《にぶ》い痛《いた》みが走り、目の奥《おく》がチカチカする。
二人の少年の、恐怖と憤怒《ふんぬ》にひきつる顔。鉄格子の向こうにある顔。それが……ガクンと揺れて、鉄檻の急激な下降とともに、奈落《ならく》の底へ消えていった。
鼓膜《こまく》を破《やぶ》るほどの絶叫も、みるまに遠くなっていく。
そして……。
はるか下のほうで、じゃぶんっ……水音がした。
エレベーターは壊されていた。上昇《じょうしょう》させようとしたが、動かない。
ヤンと二人で必死になって動かそうとし、ついには叩《たた》いたり泣いたりしていると、アメリカ人の少年が、肩にそっと手を置いてきた。
泣きながら振り向くと、静かに首を振った。
その背後《はいご》で、フランス人の少女も声を立てずに泣いていた。
「あの二人は、もう……死んでいます」
「そんなっ……!」
「十分以上、経《た》ちました。水が流れ込《こ》んで、溺死《できし》したと……思います」
イタリア人の少年が、獣《けもの》のように咆哮《ほうこう》し、壁《かべ》を叩いた。
いつまでもそこにいるわけにはいかなかった。船の浸水《しんすい》は少しずつ進んでいるようだった。まだ気絶《きぜつ》しているリィを背負い、残った仲間とともに歩きだした。
注意深く、トラップの有無《うむ》を確認しながら、歩いていく。また壁《かべ》をみつけて、階段《かいだん》に戻《もど》る。下の階に行くほど、照明は暗く、廊下《ろうか》も粗末《そまつ》になっていった。水音はどんどん迫ってきていた。
と、ヤンが独《ひと》り言のように、つぶやいた。
「……外から鍵がかけられた、と言っていたな」
となりで、うなずく。
「うん。幽霊がきて、やった、って」
「どういうことだろう……?」
「さぁ」
ヤンが続ける。
「ぼくたちがみつけたトラップは、全部、無人の仕掛《しか》けだ。だけどさっきのはちがう。ぼくたちのほかに誰《だれ》かがいる。この船に隠《かく》れて、狙《ねら》っている。そうとしか……思えない」
足元がかろうじて見えるほどの、かなり薄暗《うすぐら》い廊下を、歩き続ける。
誰の声もない。自分たちの足音しか聞こえない。
と……。
背負っていたリィが、
「ううっ……ん」
「リィ? 気がついたか?」
目を開げたリィは、痛そうに顔をしかめた。それから、こちらをみつめて、ありがとう、というように弱々しく微笑《ほほえ》んでみせた。
そのまましばらく、リィは背負われたまま黙《だま》っていた。が、急に叫び声を上げ、暴《あば》れ始めた。あわてて床《ゆか》に降ろし、
「どうした?」
リィは狂《くる》ったように、自分の首もとを指差した。
「あ……!」
ペンダントがなくなっていた。
ハート形をしたピンクのエナメルのペンダント。リィの大切なお守り。
気づいたヤンが、いなすように、
「いまはそれどころじゃないんだ。また同じものを買うといいよ。生きて帰れたら、なんだってできる。我慢《がまん》してくれ」
リィは漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》に涙《なみだ》をためて、何度も何度も首を振《ふ》った。
ヤンはそれにかまわず、少し開いてきたリィの脇腹《わきばら》の傷口《きずぐち》を、自分のシャツで止血し直している。
少し時間がかかりそうだった。
ふと、最初にこの船で目覚めたとき、心配してくれたリィの、優《やさ》しい笑顔《えがお》を思い出した。気づくととなりにいて、気遣《きづか》ってくれたこの少女のことを思うと、胸が痛《いた》んだ。自分を力づけようと、大切な、ハートのペンダントに触《さわ》らせてくれたリィ。
その彼女は、いまは青白い顔をして、黙って痛みに耐《た》えている。
――急に立ち上がると、ヤンが不思議そうに見上げた。
「どうした、アレックス」
「あの、ちょっと……取ってくる」
「え……?」
「ペンダント。多分、ヒューイが倒《たお》れた場所に落ちてるよ。その後、あいつらがナイフがどうのって騒《さわ》ぎ始めたときは、リィ、もうペンダント、つけてなかった気がするから」
「……アレックス!」
ヤンが止めた。
「危険《きけん》だ。ここにいろよ。ぼくたちとはぐれるな」
ほかの少年少女たちも、口々に止めた。
「そうですよ。ペンダントくらい、また買えばいいんです!」
「危険だわ。一緒《いっしょ》にいましょうよ」
「君、いまは無駄《むだ》な動きをしないほうがいい……」
リィの、血の気の引いた顔を見下ろした。このまま連れていって、最後までこの少女の体力が持つのか、よくわからなかった。ペンダントをみつけて、手渡《てわた》したかった。リィとは言葉が通じないのだ。リィの優しさに感謝《かんしゃ》していることを、言葉では伝えられない。
「でも、階段の踊《おど》り場だったから、すぐだよ。すぐ戻《もど》ってくるから」
強引《ごういん》に言い切ると、走り出した。
ヤンたちの声が追いかけてきた。
暗い階段を上がっていく。
エレベーターからヤンが持ち出した懐中電灯《かいちゅうでんとう》で、足元を照らしながら、上っていく。注意深く、トラップらしいものを踏まないように気をつけ、一歩、一歩。
懐中電灯の丸い光に照らされて、階段の白いタイルが冷たく輝《かがや》いていた。不安が押《お》し寄せてきた。一度はぐれたら、もう二度とさっきまでの仲間には会えないのではないか。自分は一人でこの船を彷徨《さまよ》わなくてはいけないのではないか。そう思うと、自然と目尻《めじり》に涙が浮《う》かんだ。そんな暗い考えを追い払《はら》うように、一歩一歩、上り続けた。
もうすぐヒューイの倒れていた場所に着く、と思ったとき、なにか丸くて弾力《だんりょく》のあるものを踏んづけて、転びそうになった。
一瞬《いっしゅん》、トラップがまたあったのか、とヒヤリとした。あわてて足元を照らすと、それはトラップではなかった。小さなボールだった。テニスボールだ。
どうしてこんなところに落ちているんだろう? と不思議に思い、拾い上げる。
それから、また階段を上がった。
そして……息を飲んだ。
死体は消えていた。
ヒューイが倒れているはずの場所には、なにもなかった。
ついさっきまで、そこに死体があったことを示《しめ》すものはなにも残されていなかった。跡形《あとかた》もなく消えてしまったのだ。
呆然《ぼうぜん》として、座《すわ》りこむ。
懐中電灯の光が、それにあわせて動いた。すぐ足元に、つやつやしたピンクのエナメルの、ハート形をしたペンダントが落ちていた。リィが捜《さが》していた、大切なペンダントだ。それを見た瞬間、リィと心が繋《つな》がった気がして、ホッとした。
拾い上げて、握《にぎ》りしめる。わけがわからなくなり、涙が溢《あふ》れてきた。
死体はどこにいった?
誰が、なぜ隠《かく》した?
自分たち以外の人間が、この船に、いるのか……?
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第四章 〈野兎《のうさぎ》〉と〈猟犬《りょうけん》〉
廊下《ろうか》を歩きだした五人は、無言だった。
ヴィクトリカと一弥《かずや》は最後尾《さいこうび》を並《なら》んで歩いていた。その前を、ジュリィ・ガイルが赤いドレスを引きずるように歩いている。一歩、一歩進むたびに、長い黒髪《くろかみ》が左右に揺《ゆ》れている。
ネッド・バクスターがいちばん前を進んでいた。モーリスは一人、グループから離《はな》れて早足で歩いている。
赤い絨毯《じゅうたん》はふわふわして、一足ごとに足を柔《やわ》らかく包み込んだ。豪華《ごうか》だけれど、歩きにくい。洋燈《ようとう》も装飾《そうしょく》の多い派手《はで》すぎるデザインだった。明々と五人を照らしている。
「こ、これは……?」
ネッドが立ち止まり、絶句《ぜっく》した。
全員足を止めて、それを見上げた。
船頭方向を目指して歩いていた五人を止めたものは、廊下を阻《はば》む黒い壁《かべ》だった。その階のどの廊下も、この壁に遮《さえぎ》られて、それ以上向こうには進めなかった。
モーリスが舌打《したう》ちし、
「十年前と、同じだ……」
ネッドとジュリィが詰《つ》めよると、暗い顔で説明し始めた。
「野兎たちが、簡単《かんたん》に無線室にたどりついては、つまらない。トラップに引っかかって命を落としたり、武器《ぶき》をみつけて傷《きず》つけあったりして、数を減《へ》らす必要があった」
「……なんでよ?」
「…………」
ジュリィの問いに、モーリスは答えようとしなかった。
沈黙《ちんもく》の後、ため息|混《ま》じりに、
「ここから三階下まで降《お》りる必要がある。この下と、さらにその下の階は、同じように壁で廊下を仕切っているはずだ。この船が……〈QueenBerry 号〉なら、な」
五人は階段《かいだん》を捜《さが》して、廊下をまた戻《もど》り始めた。
一弥はふと、となりのヴィクトリカを見た。
ずっと黙《だま》りこくっていたヴィクトリカが、かすかに、ふぅっと息をついたのが聞こえたのだ。一弥は心配になり、その横顔を覗《のぞ》き込んだ。
小さな人形じみた少女の、青白い額《ひたい》に、汗《あせ》の粒《つぶ》が浮《う》かんでいた。
「……ヴィクトリカ、疲《つか》れてない?」
「…………」
ヴィクトリカは答えない。
「足、痛くない? お腹《なか》は空いてない? あ、荷物重いんだろ。ぼくが持つよ」
「……いい」
「遠慮《えんりょ》してるの? そんな君らしくないこと、するなよ」
「……久城《くじょう》、君に仕切られるとだね、わたしはだね」
ヴィクトリカが顔を上げた。
すねた子供《こども》のようにぷうっと頬《ほお》をふくらませている。本人の意図とはおそらくかけ離《はな》れているだろうが、その姿《すがた》はまるで、頬袋《ほおぶくろ》いっぱいに木の実を詰《つ》め込《こ》んだリスのようにかわいらしかった。
「……なぜかとても腹《はら》が立つのだよ」
「だーっ? どこが仕切ってるんだよ! 心配してるだけだろ。この、負けず嫌《ぎら》いの偏屈《へんくつ》人間!」
「偏屈は君だ」
「ヴィクトリカだよ!」
一弥は叫《さけ》ぶと、強引《ごういん》にヴィクトリカの鞄《かばん》を奪《うば》い取り、彼女の小さな手を空いているほうの手で握《にぎ》りしめると、歩きだした。
その様子を、ジュリィが驚《おどろ》いたようにみつめていた。ネッドは素知《そし》らぬふりをしている。
――歩きながら一弥は、ヴィクトリカに話しかけた。頭の中に、さまざまな疑問《ぎもん》が浮かんで、誰《だれ》かに話さずにはいられなかったのだ。
「ねぇ、ヴィクトリカ。これっていったい、どういうことだろう?」
返事はない。
その横顔を覗き込むと、一応《いちおう》、一弥の話を聞いているようなので、安心してまた話し出す。
「この船そっくりだったという〈QueenBerry 号〉で、十年前に起きたことって、いったいなんなのかな? ぼくたちぐらいの年齢《ねんれい》の少年少女は、どうしてこの船に乗せられたんだろう? そして、船の中でいったいなにが起こったんだろう? そして、十年後のいま、こんな大がかりなレプリカが造られて当時が再現《さいげん》されているのは、どうしてなんだろう?」
ヴィクトリカは答えない。
ただ、一弥のとなりをちょこちょこと歩き続けている。一弥は続けた。
「いったい誰が、なぜ、こんなことをしているんだろう……?」
一弥は、あの、大食堂でのディナーを思い出した。
暗かったあの部屋。
ボートで船から離れていった案内人。
暗い海を遠ざかる、ボートに置かれた橙色《だいだいいろ》の洋燈。
そして大食堂の席についた、十一人の客。食事に入れられていた睡眠薬《すいみんやく》によって、ラウンジに移《うつ》された。そしてそのときは、一人|増《ふ》えていた。
誰か、ディナーの席にはいなかった人間が紛《まぎ》れ込んでいるのだ。
それこそが、この血塗《ちぬ》られた再現|劇《げき》の首謀者《しゅぼうしゃ》なのだろうか?
「……あの席に、ネッドがいたのは確《たし》かだよね」
「君を膝《ひざ》に乗せていたからな」
ようやくヴィクトリカが口を聞いた。
「う、うん……。だとすると、ジュリィ、もしくはモーリスが、十二人目の客なんだよね。年齢から考えると、若《わか》いジュリィのほうが怪《あや》しい。だって、十年前は十代前半だったはずだから。この船に乗せられた少年少女と同じぐらいの歳《とし》だ」
一弥は考え込んでいる。
「だけど、そうすると、どうしてネッドにも招待状《しょうたいじょう》が届《とど》いたのかな? モーリスは当時、彼らを船に乗せたほうの人間らしい。だから呼ばれて、殺されそうになった。でも、ネッドは? 彼だって、年齢は十年前なら、十代前半。被害者《ひがいしゃ》のほう……のはずだ」
「久城、君、さっきからなにを当たり前のことばかり、呻《うめ》いているのだ」
ヴィクトリカが心底あきれたように言った。一弥はめげそうになり、「……でもさ」と反論《はんろん》した。
「いろいろ、わからないじゃないか」
「…………」
「あ、そうだ。ネッドも犯人《はんにん》なんじゃないかな。ジュリィとの共犯で……。いや、それなら、こんなまどろっこしいことをせずに、二人でモーリスを殺してしまうよね」
「うーむ。またもや、当たり前のことだな」
「くう、悔《くや》しい……。あ、そういえば、船に乗る前の……占《うらな》い師《し》ロクサーヌ殺人|事件《じけん》。この〈QueenBerry 号〉に呼ばれたうちの一人、ロクサーヌが殺されて、犯人らしきメイドは、逃亡《とうぼう》した……」
「そうだな、久城」
「ええと、つまり……」
「つまり?」
「うーんと…………わかんない」
「君の混沌《カオス》は、本当に、退屈《たいくつ》だな」
ヴィクトリカが心底つまらなそうにつぶやいた。
一弥はすねてしまい、それきり黙《だま》って、彼女の手を引いて歩いていた。
五人はようやく階段《かいだん》にたどりついた。白いタイルが輝《かがや》いているその階段は、なぜか照明が暗く、まるで闇《やみ》を落としたようだった。
となりに、対照的に白熱灯が白々と照らすエレベーターホールがあった。鉄檻《てつおり》の中も明るく、こちらのほうが安心できそうだった。しかし、一弥がエレベーターのほうを指差し、乗りませんかと提案《ていあん》しようとすると、ネッドがなぜか、顔色を変えて反対した。
「階段にしよう。こっちのほうが安全な……気が、する」
一弥は、ヴィクトリカと顔を見合わせた。
ヴィクトリカは肩《かた》をすくめ、
「……だ、そうだ」
五人は、暗い階段を、そろそろと注意深く降《お》りていった。
ゆっくり、ゆっくりだが、だいぶ降りたな、というころ……。
――タンッ!
短い音がした。
モーリスがくぐもったような叫《さけ》び声を上げた。
残りの四人も、思わず、心臓《しんぞう》をギュッとつかまれたような気分になり、飛び上がった。
「どっ、どうしたんだよっ、オッサン!?」
「こっ、こっ、これっ……!」
暗い中、モーリスの震《ふる》える指が指差すものを、全員がみつめる。
――モーリスの横顔ぎりぎりのところを、ボウガンの矢が通り過《す》ぎ、壁《かべ》にズンッとめりこんでいた。続いて全員で調べると、タイルの床《ゆか》に、目立たないボタンが仕掛《しか》けてあった。恐《おそ》らくモーリスは、うっかりこれを踏んだのだろう。
モーリスはゆっくりと寄《よ》り目になり、矢をじっとみつめ……。
「ふっ、ふざけるな! おまえらっ、このわたしを………………!」
ヴィクトリカたちを憎々《にくにく》しげに睨《にら》みつけた。
「オッサン、だいじょうぶか?」
ネッドの声に、ますます激高《げっこう》する。
「なにが、だいじょうぶか、だ。おまえらの中にいる〈野兎《のうさぎ》〉が、わたしを狙《ねら》ったトラップだろう? いや、それともおまえたちは全員グルで、わたしを殺そうとしているんじゃないのか!」
「いい加減《かげん》にしてよ、おじさん」
ジュリィが顔をしかめた。
ハートのペンダントをいじりながら、
「それなら、おじさんが救命ボートに乗ろうとしたとき、危《あぶ》ないって止めるわけないでしょ。言いがかりはよしてよ」
二人は睨みあった。
その緊張《きんちょう》感|溢《あふ》れる静寂《せいじゃく》に、一弥の声が響《ひび》き渡《わた》った。のんびりした響きで、一弥は、となりにいるヴィクトリカに声をかけていた。
「ヴィクトリカ、君もトラップに気をつけなよ。もちろん、ぼくも君の分まで見てるけど……」
その生真面目《きまじめ》でおだやかな声に、ジュリィの険《けわ》しかった表情《ひょうじょう》が、緩《ゆる》んだ。しかし、それに答えるヴィクトリカの声に、今度は怪訝《けげん》そうな顔になる。
ヴィクトリカが自信ありげにこう答えたのだ。
「わたしにはその心配はない」
一弥はキョトンとした。大人三人も、その言葉にひっかかりを感じて、振《ふ》り返った。
ネッドが歩み寄り、こわい顔をして、
「どういう意味だよ。おい」
その声にも態度《たいど》にも威圧《いあつ》感があったが、ヴィクトリカはひるむ様子もなかった。いつも通りの冷静な声で、
「この船は、大人を殺すためのものだ。だからだいじょうぶなのだよ」
「そんな……。だからってトラップは相手を選ばないぜ? うっかりドアを開けたり、踏んだり、触《さわ》ったりすれば、お嬢《じょう》ちゃん、あんただって……」
ヴィクトリカは小首をかしげて微笑《ほほえ》んだ。天使のような顔だった。
「トラップはすべて、君たち大人の身長に合わせて仕掛けられている。身長で言うなら、百七十センチから百八十センチぐらいの人間の脳天《のうてん》を貫《つらぬ》くように」
「あっ……!」
一弥が叫んだ。
……確《たし》かに、その通りだった。最初に男を殺したボウガンも、いま飛んできたものも、すべて、その高さに仕掛けられていた。
ということは……。
百四十センチぐらいしかないヴィクトリカが仕掛けに引っかかっても、彼女のはるか頭上を飛びすぎるだけだ。
驚《おどろ》いたような顔をしている一弥に、ヴィクトリカは、ただ知っていることを口にする子供のような無邪気《むじゃき》さで、
「久城、君もちょっとかがんだほうがいいだろうね。でないと、脳天は無事でも頭頂部《とうちょうぶ》がちょっと削《けず》れるかもしれないよ」
「け、削れ……こわっ!?」
一弥はヴィクトリカの手を引いたまま、前屈《まえかが》みになって歩きだした。さっきよりずっと、ヴィクトリカの手を強く握《にぎ》りしめている。疲《つか》れていないか、その顔色を観察しながら。
その様子を、後ろを歩きだしたジュリィが、じっとみつめていた。
階段《かいだん》は相変わらず暗かった。トラップを警戒《けいかい》してゆっくり降りていくため、もうずいぶん長いあいだ、この階段を降り続けているような気がした。
後ろにいたジュリィが「ねぇ……」と一弥に話しかけてきた。
「……意外と優《やさ》しいのね、少年?」
一弥は顔を上げた。
なんのことかな? と首をかしげると、ジュリィは、一弥のとなりを歩いているヴィクトリカのほうをチラリと見て、
「女の子を庇《かば》って、一生|懸命《けんめい》になっちゃって」
からかうような口調に、一弥は赤面した。
「べ、べつに、ぼくは……。それに、彼女もぼくには文句《もんく》たらたらだし」
「甘《あま》えてるのよ」
ジュリィは軽く言った。
一弥はまったく納得《なっとく》できなかった。
「甘えてるぅ?」
「あの子も女の子なのよ。ぶっきらぼうだけど、あなたのことは信頼《しんらい》してると思うわよ。荷物も任《まか》せるし、ほら、つないだ手をけして離《はな》さない」
一弥は、手に神経《しんけい》を集中した。
確かに、文句を言いながらも、ヴィクトリカは一弥の手をぎゅっと握りしめていた。本当に、少しは信頼してくれているのだろうか。それとも、ヴィクトリカなりに、いまの状況《じょうきょう》に不安を感じているのだろうか。
彼女の態度からも、言葉からも、微塵《みじん》も不安など感じなかったけれど、つないだ手からは、気持ちが流れ込《こ》んでくるようだった。一弥も思わず、ギュッと手を握り返した。
「……ああいうタイプの人間はね、少年。よほど信頼した相手にじゃないと、自分の荷物なんてぜったい渡《わた》さないわよ。賭《か》けてもいいわ」
「ぼく、旅行の前に、彼女の鞄《かばん》を勝手に開けて荷物を減《へ》らせって騒《さわ》いだりしたけど……」
「そりゃ、相手によっては、ぜーったいに許《ゆる》さないわよ。そんなことされたら、旅行になんてこないわ。くるっときびすを返して、帰っちゃう」
「む……」
一弥は考え込んだ。
それから、感心した顔で自分を見守るジュリィに、照れと反発から、
「でも、ぼくはただ……この事態に、責任《せきにん》を感じてるんですよ」
「……あら、あなたが犯人《はんにん》なの?」
「冗談《じょうだん》はやめてください。そうじゃなくて……」
一弥の顔が曇《くも》った。
そう、もともとこの旅行にヴィクトリカを連れ出したのは、自分なのだ。彼女は、一弥が知る限《かぎ》りいつも、あの大図書館の植物園にいた。国王が愛人との逢《あ》い引き用に造《つく》ったという、最上階の天窓《てんまど》つきの快適《かいてき》な部屋。書物を読み飛ばし、たまに下界の事件《じけん》を聞いては即座《そくざ》に解決《かいけつ》するヴィクトリカは、聖《せい》マルグリット学園にとりついた精霊《せいれい》のような、小さな神のような、不思議な存在《そんざい》だった。
きっと彼女の一日一日は、不思議と謎《なぞ》に取り囲まれ、平和に過《す》ぎていたのだと思う。
それを、よりによって自分は週末旅行に誘《さそ》いだし、こんな危険《きけん》な場所に連れてきてしまった。もしヴィクトリカの身になにかあったら、自分の責任だ。
彼女にあるのは、頭脳《ずのう》だけ。
体はこんなに小さく、か弱いのだ。自分だって無力な子供《こども》の一人に過ぎないけれど、せめてヴィクトリカのことは守らなくては。
一弥は、そう思っていた。……こういうところが生真面目《きまじめ》な堅物《かたぶつ》と称《しょう》される由縁《ゆえん》なのだが。だが、自分にも他人にも厳《きび》しい父や、年の離れた兄たちから、事あるごとに一弥は言われてきたのだった。〈自分より弱いものを、守れ〉〈自分も弱くても、無理して守れ〉と。
正直、そんなことはできない、自分はそんなに立派《りっぱ》な存在とはほど遠い、無理なものは無理、と思ってきた。でも、いまこの場所でジュリィに向かって、弱音を吐《は》くのはなんだかいやだった。一弥は少し意地になってもいた……。
そんな気を知ってか知らずか、ジュリィはからかうように言った。
「あらあら、立派ねぇ、少年」
「いえ……これでも帝国《ていこく》軍人の三男ですから」
「ていうより、男の子ねぇ」
ジュリィはくすくす笑った。
笑われたことに一弥は赤面したが、ジュリィは楽しそうに、
「そういう子、好きよ。一緒《いっしょ》に生きて帰りましょうね」
無邪気《むじゃき》にも聞こえるジュリィの言葉に、一弥ははずかしくなった。なんと答えたらいいかわからず、口ごもる。
――ようやく、目指す階に着いたようだった。先を歩いていたネッドが、安堵《あんど》したように「着いたぞ」と声を上げた。一弥はホッとして、かたわらのヴィクトリカに、
「もう少しだよ」
声をかけた。
しかし、そのとき……。
ネッドに続いていたモーリスが、絶望《ぜつぼう》したような叫《さけ》び声を上げた。
一弥とジュリィは、ハッと顔を見合わせた。続いて階段《かいだん》を降《お》りていく。
階段の最後の二段は、足を降ろすとばしゃばしゃと水音がした。靴《くつ》にもはっきりと、水をかき分けて歩くという感触《かんしょく》がした。青白い白熱灯に、それは映《うつ》しだされた。
海水だった。
だいぶ浸水《しんすい》が進み、膝《ひざ》の辺りまで濁《にご》った海水が迫《せま》っていた。
貨物《かもつ》室と機関室がつらなるこの階は、上とは大違《おおちが》いだった。まるで巨大《きょだい》な土管の中にいるようだった。あまりに殺風景で、非衛生《ひえいせい》的に見えるその廊下《ろうか》。汚《よご》れた水が、小さな波をつくってぼちゃりぼちゃりと揺《ゆ》れていた。絶望的な光景だった。
ネッドとモーリスが、気が抜《ぬ》けたように、顔を見合わせている。
と、モーリスが先に、わめき声を上げ始めた。
「どういうことだ! まったく……これじゃ、船頭のほうにいけないじゃないか!?」
ネッドも頭を抱《かか》え、低いうめき声を上げた。
と……。
遅《おく》れて階段から降りてきたジュリィが、水に膝まで浸《つ》かったまま、ばしゃばしゃと廊下を歩きだした。男二人がその後ろ姿《すがた》をただみつめていると、ジュリィはキッと振《ふ》り返った。
一弥に向かって、
「なにしてるの? 早くきなさいよ。急げば間に合うわ!」
「あっ…………はい!」
一瞬《いっしゅん》ためらったが、一弥は力強くうなずいた。
前屈《まえかが》みになり、ヴィクトリカに向かって、
「乗って!」
ヴィクトリカは一瞬、鳩《はと》が豆鉄砲《まめでっぽう》をくらったような顔をした。
遠くからジュリィが、
「乗りなさいってば!」
「早く早く! 急いでるんだよ!」
ヴィクトリカは「うー、うぅー……」とうなってから、渋々《しぶしぶ》、一弥の背中に乗った。
[#挿絵(img/01_223.jpg)入る]
ちょこん、と犬か猫《ねこ》が乗っかってきたような、人間にしては軽すぎる感触がした。いやいやの割《わり》には、一度乗ると、一弥の首に細っこい両腕《りょううで》を回して、ぎゅうっと強く強く抱《だ》きつく。
「いたた、ヴィクトリカ、首が締《し》まる」
「……我慢《がまん》したまえ」
「やだよ。死んじゃうってば」
言い合いながらも、一弥はじゃぶじゃぶと水を蹴《け》って進む。
後ろから、モーリスとネッドも歩きだす音がした。
――やがて、先を歩いていたジュリィの、うれしそうな叫び声が聞こえてきた。
「やった! この階は廊下を仕切られていないわ。みんな、船頭側に出たわよ。はやく上へ! 階段を上がるわ!」
その声に、一弥は足を早めた。ヴィクトリカがうれしいのか、背中《せなか》の上で、体をのけぞらせ、小さな両足をばたばたさせ始めた。水の中に落っことしそうになり、一弥は、彼女を支《ささ》える両腕にいっそう力を込めた。そんな苦労を知ってか知らずか、ヴィクトリカはうれしそうに足をばたばた揺らし続けていた。
船頭側の階段に辿《たど》り着き、また、トラップを避《さ》けてゆっくり上がりだそうとする。
モーリスはぶつぶつと、
「どうしてこんなことになったんだ。この中に〈野兎《のうさぎ》〉がいるんだ。油断《ゆだん》はしないぞ。そうだ……!」
叫ぶと、とつぜん上の階の廊下に飛び出した。
そこは、最初にいた階と比《くら》べると、まだ下のほうで、そのせいか照明も薄暗《うすぐら》く、廊下にしかれた絨毯《じゅうたん》も毛羽立って古びたものだった。もとは深紅《しんく》だった色が、黒ずんで、人々がよく通る中央から、薄くなり始めていた。洋燈《ようとう》も装飾《そうしょく》の少ない実用的なもので、壁《かべ》に使われる板も節目が目立った。
モーリスは走り出し、手近なドアを片端《かたはし》から開けていった。そこは三等船室で、天井《てんじょう》までぎっちりと四段ベッドが詰《つ》め込まれた部屋が、ドアを開けても、開けても、無限《むげん》に続いていた。モーリスはどうやら、なにかを捜《さが》しているようだった。
ネッドがびっくりして、
「オッサン、なにしてんだよ?」
「この船が、かつての箱を再現《さいげん》したものだとすれば、この辺りにもあるはずなんだ。そう…………あった!」
モーリスの横顔が、勝利を確信《かくしん》し、歪《ゆが》む。
近づこうとしたネッドが、
「あっ!?」
叫《さけ》んで、あわてて立ち止まった。
こちらを振り返ったモーリスの手には、拳銃《けんじゅう》が握《にぎ》られていた。震《ふる》える両手に支《ささ》えられ、闇《やみ》のように黒く輝《かがや》いている。
ネッドが、
「あわわっ!」
と叫ぶと、ヴィクトリカや一弥たちの後ろに逃《に》げ隠《かく》れた。モーリスはニタニタ笑いながら、銃口を彼らのほうに向けた。
「この船には、たくさんの武器《ぶき》が隠《かく》されていた。引き出し、花瓶《かびん》の中、絨毯の下……。あちこちにだ。これもその一つだよ」
「どうしてなの……?」
後ろからジュリィの声がした。
悲しそうな顔でモーリスをみつめている。手が震えて、いまにも泣き出しそうだ。その顔をみつめ返すモーリスのほうは、無表情だった。そして、さも当然だと言わんばかりに、威張《いば》りくさって話し出した。
「殺しあわせるためだ」
「どういうこと……?」
モーリスは肩《かた》をすくめた。
「彼らのある者は、トラップに引っかかって死んだ。またある者は、武器をみつけ、それによって互《たが》いに殺しあった。こちらの計算通りだった。たくさん生き残っては、意味がなかったのだからね」
「なんなのよ、それ!?」
「君たちが知る必要はない。それに……」
モーリスはニヤリと笑った。
「〈猟犬《りょうけん》〉もいた」
「……〈猟犬〉?」
「ああ、そうだ」
モーリスは口を閉《と》じた。
それから、ゆっくりと銃のスライドを引いた。
カチャリ――!
弾倉《だんそう》に弾《たま》が滑《すべ》り込む、不吉《ふきつ》な音が響《ひび》いた。
「……〈野兎《のうさぎ》〉は、死ね!」
銃口がぴたりとヴィクトリカに向けられていることに気づき、一弥は驚《おどろ》いて叫んだ。
「ちょっ……モーリスさん、どうして? ヴィクトリカは犯人《はんにん》じゃない、本物の貴族《きぞく》だからって、言ってたじゃないですか!」
「こうなっては、もう、なにがなんだかわたしにはわからん。幸い、弾は六発もある。全員殺して、わたしだけこの船から逃《のが》れるのだ!」
「なっ……!?」
「どうせこの船はすぐに沈《しず》む。証拠《しょうこ》もなにも海の底だ。十年前と同じようにな……!」
一弥が、ヴィクトリカの前に立ちふさがった。
銃口の真正面だった。冷汗《ひやあせ》が出てきて、知らないあいだに足ががくがく震え始めていた。一弥が歯を食いしばって立ちふさがっていると……。
後ろからヴィクトリカが、緊張《きんちょう》感のない感じで、つんつん背中をつついてきた。
「久城、君……なにをしているのかね?」
「ななな、なにって、ヴィヴィヴィクトリカを、じゃ、邪悪《じゃあく》な弾丸から、まままもってる!」
「君が、死ぬが?」
「かかかもね。でもこうすれば、ヴィヴィヴィクトリカは、しし死なない」
「まあそうだが……?」
「ぼっ、ぼくが誘《さそ》ったんだから。君を生きて帰さないと。帝国《ていこく》軍人の三男として、責任《せきにん》がある」
一弥の脳裏《のうり》に、いつも姿勢《しせい》をびしっと正した荘厳《そうごん》な父、そしてその父にそっくりな兄二人の姿が蘇《よみがえ》った。いつだったか、晴れた気持ちのいい午後、彼らが通う近所の道場に連れていかれたときのこと……。一弥はいきなり大人に投げ飛ばされた。向かっていく勇気もなく、一弥は道場の白い畳《たたみ》に這《は》いつくばって、男の子なのに泣きそうになった。悔《くや》しいような、悲しいような、自分がふがいないような……。そんな自分を、がっかりしたような顔で見下ろしている兄たちの顔が思い出された。
(末っ子だから、甘《あま》ったれだな……)
あのとき、あの道場にいた誰《だれ》かがつぶやいたのだ。見ていた大人たちの一人だろう。何気ないそのつぶやきが、一弥の心には消せない痛《いた》みになって、残っていた。
「だから、ヴィ、ヴィクトリカ……」
かたわらの彼女を、真剣《しんけん》な顔で見下ろす。
と、ヴィクトリカは……。
「――――!!![#「!!!」は縦中横]」
彼女は、エメラルド・グリーンに輝《かがや》く大きな瞳《ひとみ》をまんまるにして、一弥を見上げていた。
一弥は初めて、ヴィクトリカがとても驚いた顔をしていることに気づいた。これまで、おかしな事件《じけん》について報告《ほうこく》するたびに、彼女はうれしそうにその謎《なぞ》――つまり混沌《カオス》≠ノ食いついてきた。そのときも、少しは、驚いたような顔をしていたように思う。
でも、いまヴィクトリカの顔に浮《う》かんでいるのは、そういうときの表情とは、まったくちがうものだった。
彼女は純粋《じゅんすい》に驚き、珍《めずら》しいものをみつけて一心に観察するような顔をしていた。そして、しみじみとつぶやいた。
「久城、君はもしかすると…………善人《ぜんにん》なのかね?」
「なにそれ?……誉《ほ》めてるの?」
「いや」
「バカにしてる?」
「……なんだね、それは。これは単なる事実の指摘《してき》だよ、君。いったいなにをムキになっているのだね?」
「うぅー……」
一弥が怒《おこ》りだしそうになったとき……。
――ズキューン!
銃声《じゅうせい》が響いた。
(撃《う》たれた……ッ!?)
一弥は思わず、ヴィクトリカを庇《かば》って抱《だ》きしめたまま、身を縮《ちぢ》めた。固く目をつぶって、声にならない悲鳴を上げる。
生まれてからこれまでのこと――優秀《ゆうしゅう》な兄たちを見て育ち、自分もやらなくてはと猛《もう》勉強した子供《こども》時代。留学《りゅうがく》が決まり、旅立ったこと。聖《せい》マルグリット学園の日々と、ヴィクトリカとの運命的というか取り返しがつかないというか、とにかく衝撃《しょうげき》的な出会い――それらが走馬燈《そうまとう》のように浮《う》かんでは消えた。
(……あれっ?)
一弥は死んでいなかった。
おそるおそる目を開けると、ヴィクトリカがいやそうに身をよじらせていた。
「……苦しい。君、殺す気かね?」
「あのねぇ!」
命の恩人《おんじん》に向かってなにを、と怒りながらも、ヴィクトリカの細い体から手を離《はな》す。
モーリスが仰向《あおむ》けに倒《たお》れていた。眉間《みけん》に黒い穴《あな》が空いている。驚《おどろ》いたような表情《ひょうじょう》で事切れていた。
振《ふ》り向くと、片膝《かたひざ》をついて小型|拳銃《けんじゅう》を構《かま》えるジュリィがいた。赤いドレスの裾《すそ》がはだけて、眩《まぶ》しいほど白い足が少しだけ覗《のぞ》いていた。
無表情で銃を降ろし、立ち上がる。
言い訳《わけ》するように、
「……わたしもみつけたのよ。壁《かべ》の洋燈《ようとう》の陰《かげ》に隠《かく》してあったわ。理由がわからないから黙《だま》ってたの」
ネッドがこわい顔をして、モーリスの死体に近寄った。握《にぎ》りしめている拳銃を拾うと、階段の下、浸水《しんすい》が進むほうに向かって放《ほう》り投げた。
――ボチャン!
水音の後、ぶくりと不吉《ふきつ》な泡《あわ》を一つ立て、銃は沈《しず》んでいった。
ネッドは、ジュリィを振り返り、言った。
「君の銃も、投げるんだ」
「なっ……!」
「ただでさえ、お互《たが》い疑心暗鬼《ぎしんあんき》になってる。こんなものがあったら、それこそ殺しあってしまう。俺《おれ》も捨てたぞ。さぁ、君も……」
「……でも」
「それとも、武器を持っていたい理由があるのかい?」
ジュリィは舌打《したう》ちした。
小型拳銃を階段《かいだん》の下に投げた。ぼちゃんと水音がした。
もう一度舌打ちし、
「……行くわよ。無線室へ」
階段を上がり始める。
その手から、ハンドバッグが滑《すべ》って落ちた。
ヴィクトリカがそれを拾った。一弥は、おや? と首をかしげた。ヴィクトリカに限《かぎ》って、人が落としたものを拾ってやるなんて親切心を持っているだろうか。
ていねいに渡《わた》してやる気はないようで、ヴィクトリカはジュリィに向かってハンドバッグを投げた。ふわふわと飛んで、ジュリィの手にキャッチされる。
受け取ったジュリィが、また階段を上がり始めた。
三人も後に続いた。
階段を一歩一歩、上がるたびに、一弥とジュリィ、ネッドの濡《ぬ》れた衣服から、ぽたり、ぽたりと水の滴《しずく》が落ちた。
一人だけ濡れずにすんだヴィクトリカの衣服は、しかし上等なレースもフリルも、その下から見える絹《きぬ》の靴下《くつした》もぜんぶ、埃《ほこり》などで黒っぽく汚《よご》れてきていた。
一弥はそれを横目で見ると、なんともいえず申し訳《わけ》ないような、情《なさ》けないような気持ちになった。いつもあの大図書館の植物園で、悠然《ゆうぜん》と書物をめくっていたヴィクトリカ。なにものにも冒《おか》しがたいような、神聖《しんせい》にしておそるべき少女を、こんな沈みかけた船で泥《どろ》だらけにさせているなんて……。
強く手を握ると、ヴィクトリカがキョトンとしたような顔でこちらを見上げ、
「……さっきから気になっていたのだが」
「なぁに?」
「久城、君、帝国《ていこく》軍人の三男だと叫《さけ》んでいたが」
「はい」
「三男は、いる意味があるのか?」
「………………がーっ!?」
一弥はヴィクトリカの手をふりほどき、怒《おこ》った。
その本気で怒っている顔に、ヴィクトリカのほうがビックリして、
「き、君、なにを怒っているのだ?」
「あのねぇ、さっきから、善人だの、三男だの。君、ぼくに喧嘩《けんか》売ってるの、ヴィクトリカ?」
「ち、ちがう。単なる事実の指摘《してき》だ。わたしはただ、混沌《カオス》の一つとして認識《にんしき》したのだ」
「言っとくけど、三男だけど、ぼくがいちばん成績優秀《せいせきゆうしゅう》なんだからね!」
二人の会話は噛《か》み合っていなかった。
「……彼《か》の国では、優秀な三男は長男に昇格《しょうかく》するのか?」
「しません。……単なる意地だよ。兄貴《あにき》たちばかりが優遇《ゆうぐう》されるもんだから、対抗《たいこう》しようと思って猛《もう》勉強したんだ」
とはいえ、あの近所の道場で投げ飛ばされた日に、すべての努力が水の泡《あわ》となった……ように、一弥は感じたのだが。それもあって一弥は、通っていた士官学校からの、ソヴュール留学《りゅうがく》の打診《だしん》に飛びついた。優《やさ》しい母や姉など、家族が止める間もなく、手続きをし、荷物をまとめて船に乗った。まるで国から、家族から、自分自身からも逃《に》げるように……。
それでいま、一弥はここにいる……。
「ふぅむ……?」
ヴィクトリカはうなずいた。
しばらくの沈黙《ちんもく》の後、歌うようなのどかな声で、
「この国の貴族《きぞく》も、同じだ。家督《かとく》を継《つ》ぐのは長男と決まっている」
ヴィクトリカの顔がまた、不思議な表情に変わった。一弥を見上げ、めずらしいものを一心に観察するような様子で、
「意地、か」
「……ん?」
「久城、君は善人《ぜんにん》なだけでなく、素直《すなお》だな」
「はぁ?」
「意地と口に出してしまえるだけ、君の魂《たましい》は単純《たんじゅん》で美しい」
「誉《ほ》めてる? 遠回しにバカだって言ってる?」
ヴィクトリカは、怒りだした一弥を、不思議そうにみつめていた。それから顔をそむけて黙《だま》りこんだ。その横顔を覗《のぞ》き込《こ》むと、頬袋《ほおぶくろ》に木の実をめいっぱい詰《つ》めたリスのような、ふくれっ面《つら》をしていた。彼女がちょっとすねたときの顔だ。
おそらく、ここまでの一連の会話は、ヴィクトリカなりに一弥を誉めた、もしくは、自らを盾《たて》に守ってくれたことに礼を言ったつもりだったのかもしれない。友愛の情を表現したつもりだったか……。
となりでまだぶつぶつ文句《もんく》を言っている一弥に、ヴィクトリカはすねた口調で、
「くだらない。単なる事実の指摘だよ、君。混沌《カオス》の再構成《さいこうせい》を言語化しただけだ」
それきりヴィクトリカは黙った。
一弥は一弥で、急に不機嫌《ふきげん》になったヴィクトリカを、理由はわからないが自分のことをなにやら怒っているのだろうと思い、困《こま》っていた。
――四人で、黙りこくって階段を上がっていく。
先頭を行くネッドは、相変わらず、暗い中でも器用にテニスボールを投げてはキャッチし続けていた。そのまま、暗い階段の躍《おど》り場を曲がり、ネッドはゆっくりと姿《すがた》を消した。
つぎの瞬間《しゅんかん》、ドンッと鈍《にぶ》い音がした。
続いて、小さな悲鳴が聞こえた……気がした。
一弥は、ジュリィと顔を見合わせた。
「……ネッド?」
ジュリィが、おそるおそる声をかける。
返事はない。
一弥が続いて、
「どうかしたんですか?」
階段はしんと静まり返っている。
一弥とジュリィは、また顔を見合わせた。
つぎの瞬間、二人とも階段を駆《か》け上がった。薄暗《うすぐら》い踊り場に足を運ぶと、そこに、思いもかけないものがあった。
そこで……
ネッドがうつぶせに倒《たお》れ、死んでいた。
一弥が叫び声を上げて駆《か》け寄った。
死体はこちらに足を向けて倒れ、右手が体の下に隠《かく》れていた。左手はこちらに向かって、腰《こし》に手のひらを当てて気を付けの姿勢《しせい》をとったように伸《の》ばされていた。
その左手を取り、脈を確《たし》かめる。
ネッドの脈は完全に止まっていた。
(どうして!? どうして……!? いったいなにが……。トラップか? ここになにか仕掛《しか》けてあったのか? いったい……)
「……久、城」
ヴィクトリカが低いしゃがれ声で、一弥を呼んだ。振《ふ》り返ると、彼女にしてはめずらしく、心の底から心配そうに表情を強《こわ》ばらせ、こちらを見下ろしていた。
「なに……?」
「こっちにきたまえ、久城」
「ちょっと待って。この人、死んでるから。なんのトラップでどうなったか調べないと……」
「いいから、こい、久城」
ヴィクトリカは頑固《がんこ》に言い張《は》った。
一弥はその言い方に少しムッとして、
「ヴィクトリカ、わがままもいい加減《かげん》に……」
「こわいんだ。おねがいだ、そばにきて……。頼《たの》む、久城」
一弥は――キョトンとした。
床《ゆか》に片膝《かたひざ》ついたまま、ヴィクトリカの顔をじっと見上げる。
彼女はいつも通りの、有無《うむ》を言わせぬ表情で自分をみつめていた。早く、早く立て、と言っているようだった。いまの台詞《せりふ》……こわいからそばにきて、は、まったくヴィクトリカらしからぬものだった。
一弥は戸惑《とまど》い、それから、ヴィクトリカが嘘《うそ》をついている、と思った。
(こわいなんて、嘘だ。それに、こいつが、頼む、なんて言うわけない)
はっと息を飲む。
(そうか。わかったぞ……! ヴィクトリカはぼくを動かしたいんだ。この……ネッドの死体から、遠ざけたいんだ!)
一弥は立ち上がって、そろそろとヴィクトリカのそばに戻《もど》った。
ふとかたわらを見ると、ジュリィは硬直《こうちょく》していた。両手のひらを口に当てて、信じられないというように瞳《ひとみ》を見開いている。
「まさか、まさか……」
小声でつぶやいている。
「おんなじだわ。おんなじだわ。これ、あのときとおんなじだわ……! どういうこと!?」
一弥はジュリィを気にしながらも、ヴィクトリカにささやいた。
「……どうしたんだよ?」
「いいか、久城」
ヴィクトリカの声は緊張《きんちょう》していた。
「三人でこの階段を抜《ぬ》けたら、上の階に行き、隠《かく》れるのだ。武器《ぶき》を捜《さが》したほうがいい。船中にあるようだからな」
「なっ……?」
ヴィクトリカは硬《かた》い表情を浮《う》かべ、そして……謎《なぞ》の言葉をつぶやいた。
「こちらは三人、あちらは一人だ。だが、子供《こども》二人と女一人が、大人の男一人に勝てるかというと、はなはだ心許《こころもと》ない。ああ、さっき彼女の拳銃《けんじゅう》を捨《す》てさせたのは失敗だったようだ……いまさら悔《く》いても仕方ないが」
ジュリィも小声で聞き返した。
「なんのこと? どうなるの?」
ヴィクトリカは顔を上げた。
エメラルド・グリーンの瞳《ひとみ》が見開かれ、不安に揺《ゆ》れていた。
薄《うす》く、色のない唇《くちびる》を動かし、きっぱりと言い切る。
「殺されるぞ」
「なっ……?」
一弥はなにか言いかけ、口を閉《と》じた。
こいつの言うとおりにしてみよう、と思い直し、呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいるジュリィを引き立てて、ゆっくりと死体の横を通り、階段の踊《おど》り場を抜ける。
ヴィクトリカが小声で、
「……走れ!」
一弥は、ヴィクトリカの手をギュッと握《にぎ》りしめた。
その階は、だいぶ上にきたため、また豪華《ごうか》なふわふわの絨毯《じゅうたん》が敷《し》かれ、贅沢《ぜいたく》なデザインの洋燈《ようとう》が瞬《またた》いていた。手近な部屋に飛び込むと、そこは、一等船客のための広々とした読書室だった。きらきらしたシャンデリアに、壁際《かべぎわ》につらなる豪奢《ごうしゃ》な書棚《しょだな》。トラップに気をつけながらも、書棚や引き出しの中、絨毯の下を徹底《てってい》的に捜した。
一弥は、棚の引き出しから、小さなメリケンサックを二つ、みつけた。両手にはめる。それから振り返り、ジュリィを見た。彼女は大きめのペーパーナイフをつかんで、肩《かた》で息をしていた。
目があった。ジュリィが、静かに、というように唇に人差し指を当てた。一弥も、うなずく。
――しん、と静まり返る。
一弥の心臓《しんぞう》の音が、どくっ、どくっ……と音を増《ま》して感じられた。こめかみがずきずきと痛《いた》んだ。
そのまま、数刻《すうこく》……。
なにも起こらない。
一弥とジュリィは、みつめあったまま、首をかしげた。それから一弥が、背中に庇《かば》ったヴィクトリカを振り返った。彼女に「ねぇ、どういう、こと……?」と聞こうとした、その瞬間《しゅんかん》……。
音もなく、部屋のドアが開いた。
そこに立っていたのは――。
死んだはずのネッド・バクスターだった。
[#挿絵(img/01_241.jpg)入る]
ネッドは、右手に大きな斧《おの》を握《にぎ》りしめていた。
ついさっきまでとは別人のような、無表情だった。読書室の気温が、とつぜんぐっと下がったように感じられた。
ぶん、ぶん……と首を左右に振《ふ》ると、まず、壁際《かべぎわ》に立ち尽《つ》くして自分を睨《にら》みつけているジュリィをみつけた。ゆっくりと彼女に歩み寄《よ》る。斧をふりかぶってくるネッドに、ジュリィがナイフを振り回して応戦《おうせん》する。一弥たちに向かって、
「なにしてるの? 逃《に》げなさいよ! はやく無線室へ行って、助けを呼んで!」
その声に、ネッドがゆっくりと振り返った。
そして、一弥と、その背後《はいご》に庇《かば》われたヴィクトリカをみつけた。
顔にポッカリと二つの穴《あな》を開けただけのような、暗く空虚《くうきょ》な瞳。
しかしそれは、ヴィクトリカをみつめているうちに、らんらんと輝《かがや》き始めた。
「少女だ。〈野兎《のうさぎ》〉だ……!」
「なっ!?」
「〈野兎〉は狩《か》らなくてはいけない。俺《おれ》は、〈猟犬《りょうけん》〉だから、な!」
斧を振り上げ、床《ゆか》を蹴《け》って飛翔《ひしょう》してくる。
ネッドはまっすぐにヴィクトリカを狙《ねら》ってくる。一弥は彼女を床に突《つ》き飛ばすと、着地したネッドの頭を、横から思い切り殴《なぐ》りつけた。
体格《たいかく》の差がすごくあったけれど、手につけたメリケンサックのおかげで、びっくりするぐらい一弥のパンチに威力《いりょく》が出た。ゴンッという確《たし》かな手応《てごた》えとともに、ネッドはそのままうつぶせに倒《たお》れた。
――どさり!
ジュリィが駆《か》け寄ってきた。一弥の頭をおおざっぱにぐりぐり撫《な》でて、
「よくやったわね。男の子ね」
「いや、帝国《ていこく》軍人の……」
「はいはい、三男ね。はやく逃げましょ!」
ジュリィが斧を奪《うば》い取った。三人で部屋を出ると、廊下《ろうか》に置かれた大きなキャビネットを、力を合わせて押《お》し、ドアの前に置いてとおせんぼにした。
階段を駆け上がる。やがて起きあがったらしいネッドが、ドアに体当たりする音が聞こえてきた。
甲板《かんぱん》目指して、少しずつ明るくなる階段を、上がっていく。
一弥は、ヴィクトリカの小さな体を抱《かか》え込《こ》むようにして走っていた。ヴィクトリカは、その一弥の装着《そうちゃく》したメリケンサックに、ネッドのものらしい血がべっとりついているのを、不思議なものを見るようにじっとみつめていた。
後ろから、ジュリィが追いすがってきた。斧を両手で握《にぎ》りしめたまま、階段を駆け上がっている。一弥ではなく、小さなヴィクトリカに向かって、悲愴《ひそう》な顔で、
「あなた、どうしてわかったの? あいつが死んでないって……?」
一弥は、いまはそんなことを話している場合ではない……と言いかけて、ジュリィの顔があまりに蒼白《そうはく》で、せっぱ詰《つ》まっているのに気づき、口を閉《と》じた。
ヴィクトリカは、わずかに顔をしかめた。
それから、こんな切迫《せっぱく》した状況《じょうきょう》とは思えないほど、いつも通りの声で、言った。
「簡単《かんたん》なことだ。湧《わ》き出る知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠ェ教えてくれたのだ」
「ヴィクトリカ、言語化してあげて、言語化」
「うむ……」
ヴィクトリカは不承不承《ふしょうぶしょう》、うなずく。
「簡単なことだ。あの倒れ方は、不自然ではなかったかね? うつぶせに倒れ、右手は体の下に隠《かく》していた。まるで触《さわ》られては困《こま》るかのように。そして左手は逆《ぎゃく》に、こちらに向かって伸《の》ばされていた。まるでここで脈を取れと言わんばかりに、ね」
「そういえば……」
「なにか思わぬトラップにかかり倒れたとき、あんなポーズを取るものだろうか? 両腕《りょううで》とも前に向かって伸ばされているのがもっとも自然な状態だ。あれはおかしいと気づくべきなのだよ」
「でも、脈は止まってたよ。それは確《たし》かだ」
「そうよ……」
ジュリィが小声で、つぶやいた。
その顔は死人のように青ざめ、唇《くちびる》も小刻《こきざ》みに震《ふる》えていた。そして独《ひと》り言のように、小さくささやいた。
「あのときだって……脈は………………確かに止まってたのに」
「……あのとき?」
「う、ううん。なんでもないわ。続けて、小さな探偵《たんてい》さん」
ヴィクトリカはその呼ばれ方に、不満そうにクスンと鼻を鳴らした。
「一時的に脈を止めることは、できる」
「どうやって?」
「脇《わき》にはさむのだ。……テニスボールを」
一弥とジュリィが、アッと叫んだ。
顔を見合わせ、瞳《ひとみ》を何度もパチクリする。
「そう、か……」
ネッドがずっと、テニスボールをいじったり、放《ほう》り投げたりしていたのを思い出す。あのボールを左の脇の下にはさんで、強く脇を締《し》めると……。
「一時的に脈が止まり、その腕に触《ふ》れて脈を取った人間に、死んでいると思いこませることができるというわけだ。それに気づいたため、久城、君を呼《よ》んだのだよ」
「こわいからそばにいて、って?」
ジュリィがからかうように言う。
ヴィクトリカはカッと頬《ほお》を染めた。やけにムキになって、
「あれは本心ではない。ああでも言わないと、この帝国《ていこく》軍人の三男が動こうとしなかったからだ」
「その呼び方、やめてよ」
「おや、では帝国軍人の優秀《ゆうしゅう》な三男が、とでも言えばいいのかね?」
「……だーっ! 腹立《はらた》つ、腹立つ!」
文句《もんく》を言い合いながらも寄《よ》り添《そ》って離《はな》れない二人を、ジュリィは、どこか寂《さび》しそうな瞳《ひとみ》で見守っていた……。
三人は甲板に出た。
――夜は明けかけ、白々とした朝日が濡《ぬ》れた甲板を照らしていた。夜のうちにあれだけ激《はげ》しかった雨は小ぶりになっていたが、まだやんではいなかった。海は暗く、波も不気味に高かった。
まるで山腹《さんぷく》にぽつんと建てられた山小屋のように、無線室が三人を待っていた。甲板はつるつる滑《すべ》った。ヴィクトリカが何度も転びそうになり、そのたびに一弥があわてふためいた。
二人が無線室に入ろうとしたとき……。
遅《おく》れてついてきていたはずのジュリィが、背後《はいご》で甲高《かんだか》い悲鳴を上げた。
「きゃあぁぁぁぁ!」
あわてて振《ふ》り向いた一弥の目に、ジュリィの長い黒髪《くろかみ》を、後ろから引っ張《ぱ》る、男の太い腕《うで》が見えた。
――ネッド・バクスターだった。
ジュリィがまた悲鳴を上げた。
「いやあぁぁぁぁぁぁ!」
ネッド・バクスターの目は血走り、口は大きく開き、まるで、子供《こども》が悪夢《あくむ》に見る、邪悪《じゃあく》な獣《けもの》のような形相に変わっていた。ジュリィの首がぐりりと曲がり、断末魔《だんまつま》のような悲鳴が響《ひび》き渡《わた》った。握《にぎ》っていた斧《おの》が甲板に落ちて、転がった。
ネッドは、ぐったりしたジュリィの体を甲板に投げ出すと、大股《おおまた》でこちらに歩いてきた。
「ヴィ、ヴィクトリカ、こっちだ……っ!」
一弥は、恐怖《きょうふ》のあまりか立ちすくむヴィクトリカを、強引《ごういん》に引きずって走り出した。濡れた甲板を、何度も転びそうになりながら。
……無線室のドアを開ける。
ヴィクトリカだけを中に入れ、ドアを閉《し》めようとした。するとヴィクトリカが小さな手を伸《の》ばし、一弥を引っ張った。
「ヴィクトリカ、君はここにいて! 無線で助けを呼んで!」
「久城、君は……?」
「あいつをなんとかしなきゃ。君が殺されちゃうだろ!」
「久城……」
「ぼくが、君を……」
一弥は、ゆっくり近づいてくる〈猟犬《りょうけん》〉、ネッドの姿にがたがた震《ふる》えながらも、言った。
「ぼくが君を、ここに連れてきたんだ。無事に返す責任《せきにん》がある」
「――ちがう!」
ヴィクトリカが震え声で叫《さけ》んだ。
その顔はとても苦しそうだった。言いたいことがあるのに、自分は、それを伝えるべき言葉を持っていない……。そのことに初めて気づいたように、ヴィクトリカは何度も口を開いては、言葉がみつからず空しく閉じることを繰《く》り返した。
やがて、ようやく、ヴィクトリカは言葉をみつけた。
「君……ここにはわたしがきたがったのだよ。わたしが招待状《しょうたいじょう》をみつけて、君をだね……」
「ちがうよ。ぼくのせいなんだよ」
「君、論理《ろんり》的に考えたまえ。責任がどちらにあるかをだ」
「そ、そんなこと関係ないだろ!」
一弥は地団駄《じだんだ》を踏《ふ》んだ。ヴィクトリカも真似《まね》するように何度も床《ゆか》を踏み鳴らした。やがて一弥は、
「あのね、ぼくは、君を助けないと、帝国軍人の三男として……」
一弥は急に、この帝国軍人の三男≠ニいう言葉を、呪縛《じゅばく》のように感じた。それではヴィクトリカに、自分の本当の気持ちが、どうやっても伝わらないような気がした。さっきの会話のように噛《か》み合わなくなってしまう。
「……いや、ちがう。そうじゃなくて」
一弥はがんばって、正直に言った。
「ぼくは、君を助けたいんだよ」
ヴィクトリカの顔が歪《ゆが》んだ。
悲しそうに、でもなにかを言おうとして、口を開いた。
一弥はドアをむりやり閉めようとした。
――ヴィクトリカは、これまで見せ続けてきた、冷静でどこかシニカルで、つんと取り澄《す》ました貴族《きぞく》特有の顔ではなくなっていた。ヴィクトリカと世界をいつもへだてていた、目には見えない薄《うす》い膜《まく》のようなものがなくなり、そこには、年|相応《そうおう》の、不安に揺《ゆ》れる少女の顔があった。
……一弥はドアに力を込めた。
ヴィクトリカの、迷子《まいご》の小犬のような、不安な緑色の瞳《ひとみ》が、最後に見えた。
「く、久城……」
聞こえないほどの小さな声。
「久城、頼《たの》む…………そばにいて。一緒《いっしょ》に帰ろう。一人じゃいやだよぅ。久城……っ!」
一弥は目をつぶり、ドアをバタンと閉めた。
つぎの瞬間《しゅんかん》、〈猟犬〉が襲《おそ》いかかってきた。
一弥はメリケンサックをはめた手をぐっと握《にぎ》りしめ、構《かま》えた。頭の中で、あの東洋の島国で、兄たちが折に触《ふ》れ自分に教えた、徒手の拳法《けんぽう》を思い出す。兄たちは熱心だったし、一弥も記憶《きおく》力には自信があった。だからこその秀才《しゅうさい》なのだ。
一弥は拳《こぶし》を引いて、ネッドの鼻柱に向けて思い切り突《つ》き出した。
ネッドは、一弥のパンチを顔面に受けて、少しだけよろめいた。それから手のひらを広げて、自分の顔を上から下に、つるりと撫《な》でた。手のひらが下に向かって離《はな》れたとき、ネッドのその顔には奇妙《きみょう》な笑顔《えがお》が張りついていた。一弥はそれを恐《おそ》ろしく思った。こわいものを叩《たた》き伏《ふ》せるように、もっと強いパンチを繰《く》り出した。ゴスッと鈍《にぶ》い音がした。ネッドの鼻から、鼻血がだらりと流れた。また上から下へ、顔をつるりと撫でたネッドの手のひらに、べっとりと血がついた。
それを見た途端《とたん》、ネッドは片眉《かたまゆ》をピクピクッとさせた。……怒《おこ》ったのだ。
ふいにネッドが甲板《かんぱん》を蹴《け》って、飛び上がった。一弥の上に覆《おお》い被《かぶ》さるように、落下してきた。一弥は吹《ふ》っ飛ばされて、甲板に背中を打ちつけ、仰向《あおむ》けに倒《たお》れた。ネッドがその上に覆い被さり、何度も一弥の顔を殴《なぐ》りつけた。気が遠くなった。
あのときみたいだ……と思った。あの近所の道場で、畳《たたみ》に這《は》いつくばって震《ふる》えていたとき。
でも……あのとき一弥を待っていたのは、一弥よりずっと強くて大人の、兄たちだった。でも、いまはちがう。ここはあの国をはるか遠く離れた異国《いこく》だし、一弥は、その異国で友達になった小さな少女と二人きりだった。一弥が負けると、二人の命が、この地上から簡単《かんたん》に消え去ってしまうのだ。そこにはただ、無情なエンドマークが待っているだけだ。
一弥は歯を食いしばって、耐《た》えた。ネッドの動きが少しゆるくなった瞬間を見透《みす》かして、自分の拳を、空に向かって振り出すようにして突いた。ネッドの顔面に、何度も一弥のパンチが当たった。
不思議と息が切れなかった。どうしてだろうと一弥は考え、ふとあることに思い当たった。最近、毎日のように自分が、あの聖マルグリット大図書館の迷路階段《めいろかいだん》を上り下りしていたこと。ヴィクトリカはいい運動になるだろうと一弥をからかったが……おそらく、知らないあいだに少し体力もついていたのではないだろうか。
一弥のパンチに、ネッドの頭は何度も後方に吹き飛ばされた。だが、吹き飛ばされても吹き飛ばされても、またしつこく戻《もど》ってくる。その顔は血に染《そ》まり、赤い、不気味な塊《かたまり》のようだった。一弥は何度も何度もその頭を殴りつけた。
ネッドがぐいぐいと一弥の首を絞《し》め始めた。少しずつ、一弥の気が遠くなっていく。
(負けないぞ……。ぼくは、負けない!)
しかし、きつく首を絞められ、大人の男の力に、少しずつ体の力が抜《ぬ》けていく。
(ヴィクトリ、カ……!)
一弥は目を開けた。視界《しかい》は白くかすんでいた。
歯を食いしばり、思いっきりネッドのこめかみを殴りつける。ふっと、首を絞めるネッドの力が弱まった。一弥は荒《あら》く息をしながら、目を開けた。
息をするたび、視界が戻ってきた。一弥は立ち上がった。少し後ずさる。甲板の手すりに、背中をつく。血まみれの顔をしたネッドも立ち上がり、フラリ、フラリと体を揺《ゆ》らして、追ってくる。
その背後《はいご》に、人影《ひとかげ》が映《うつ》った。一弥は目をこらした。
……ジュリィだった。意識《いしき》を取り戻して、そうっとこちらに近づいてくる。その手に斧《おの》を握《にぎ》りしめていた。一弥と目が合うと、静かに、というように口に人差し指を当てた。一弥は小さくうなずいた。
また、ネッドが拳を振り上げる。一弥の頭に叩《たた》き降《お》ろそうとする。
その瞬間……。
一弥はパッとその場にかがむと、ネッドの両足のあいだをすばやくくぐり、背後に回った。体重を前方にかけてパンチを繰り出していたネッドが、的を失って前によろめく。ジュリィが斧を振り上げて、その背中に思い切り叩き込《こ》んだ。斧はネッドの背中に斜《なな》めにめりこんだ。ネッドが獣《けもの》のように咆哮《ほうこう》した。
ジュリィが、斧から、震《ふる》える両手を離《はな》した。
同時に一弥が、振り向こうとするネッドの両足を抱《かか》え上げ、思い切り持ち上げた。
「……うわぁぁぁっ?」
ネッドの体が、くるりと回転した。
背中に斧をめりこませたまま、頭を下にして、手すりを乗り越《こ》えて海に落下していく。
一弥はあわてて手すりに走り寄り、海上を見下ろした。
ばしゃああん……!
高い波が、ネッドの体を飲み込んでいった。
白い泡《あわ》がたくさん立った。二、三度、高い波が揺れた後、ネッド・バクスターの体は海の底へ消えていった。
ジュリィも手すりに近づいてきた。肩《かた》ではぁはぁと息をしながら、
「助かったわ。少年……」
「いや、ぼくのほうこそ」
「よくやったわね」
ジュリィが薄《うす》く微笑《ほほえ》む。
海上では、白い波が寄せては返していた。夜明けの近づいた海は静かだった。二人はしばらく黙《だま》って、ネッドを飲み込んだ暗い海を見下ろしていた。
無線室では、ヴィクトリカが海上救助隊へSOSを発信していた。
大きな四角い機械の前に、誰《だれ》かがふざけて人形を置いたかのように、小さな体でチョコンと座《すわ》っていた。しかし、人形ではない証拠《しょうこ》に、その顔は青白く、また、両手が忙《いそが》しく動いていた。
ドアが開いた。ヴィクトリカはビクリと肩を震《ふる》わせた。
一弥が入ってくると、一瞬《いっしゅん》、安堵《あんど》のあまり泣きそうな顔をした……ように見えた。つぎの瞬間にはいつもの静かな、そして少し皮肉っぽい貴族《きぞく》の表情に戻り、
「……見たところ、どうやら無事のようだね、君」
続いて入ってきたジュリィを見ると、なぜかヴィクトリカは微妙《びみょう》な表情を浮《う》かべた。
ジュリィはそれに気づかず、明るい声で、
「助けを呼《よ》んだのね?」
「もちろんだとも。すぐにきてくれるそうだよ。ところで、どうもここは……」
ヴィクトリカが暗い顔で、肩をすくめた。
「わたしたちが出航したあの港から、たいして離《はな》れていないらしい。そんな陸の近くで、どうして遭難《そうなん》したのだ、と不思議がられたよ。無線で説明するのは、骨《ほね》が折れたがね」
それから、ヴィクトリカは立ち上がり、とことこと、手からメリケンサックを外している一弥のそばに、寄ってきた。
小さくて精巧《せいこう》な人形が歩いてきたようだった。だが人形ではない証《あかし》に、その顔には、説明しがたい表情が浮かんでいた。安堵と、心労と、あと透明《とうめい》ななにか。
ヴィクトリカは黙って、一弥の手をギュッと握《にぎ》った。
海上救助隊に三人が保護《ほご》され、そちらの船に乗り移《うつ》った、数分後――。
客船〈QueenBerry 号〉は大きな音を立て、海底に沈《しず》んでいった。
その様は、壮観《そうかん》だった。大きな船はゆっくりと沈んでいったのだが、その後には静かな海だけが残り、波を起こしては消えていった。まるで、初めからなにもなかったのだというように。
救助船は〈QueenBerry 号〉とは異《こと》なり、飾《かざ》り気のない頑丈《がんじょう》そうな船だった。よく使い込まれた甲板《かんぱん》。手すりのペンキは剥《は》げかけて、ところどころ斑《まだら》になっていた。
と、救助隊員に混《ま》ざり、兎革《うさぎがわ》のハンチングを被《かぶ》った若《わか》い男二人組が、こちらに駆《か》け寄《よ》ってきた。なぜか手を繋《つな》いでいる。……グレヴィール・ド・ブロワ警部《けいぶ》の部下だ。
二人とも青い顔をして、大声を上げていた。ヴィクトリカの無事を確認《かくにん》し、
「よかったー。生きてたー。奇跡《きせき》だー」
「驚《おどろ》いたー。わー船沈んだのー。たいへんだー」
大騒《おおさわ》ぎしている。
――ヴィクトリカは甲板の手すりにもたれ、海面をみつめていた。糸のように細く、いつもきらきらと輝《かがや》いている長い金髪《きんぱつ》が、海からの強い潮風《しおかぜ》に揺《ゆ》れていた。仕立てがよく豪奢《ごうしゃ》なその服は、白いレースが汚《よご》れ、あちこちに染《し》みやほつれがあった。
寂《さび》しそうな表情だった。
一弥が横に並《なら》んで、
「なに見てるの?」
ふっと顔を上げたヴィクトリカは、かすかに笑った。それから、重大な秘密《ひみつ》を教えてくれるかのように、一弥の耳に唇《くちびる》を寄せ、小声でささやいた。
「美しいものは、嫌《きら》いじゃないのだよ」
そうして、海面に朝日が映《うつ》り、燃《も》えるように赤い波が寄せては返すのを、指差してみせた。
小さな指だった。
いつのまにか雨はやんで、眩《まぶ》しい朝日が船を包んでいた。海を鮮《あざ》やかな赤に染める、その強い朝日は、二人の上にもさんさんと降り注いでいた。
この小さな金色の女友達が、自分に好き嫌い≠教えてくれたのは、これが初めてだということに一弥は気づいた。特別なことを言われた気がした。一弥は微笑《ほほえ》んだ。
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二人は並んで、しばらくその光景をみつめていた。
やがて一弥が小声で、
「また、こようよ」
「……また?」
「うん。二人で海を見にこよう」
ヴィクトリカはなぜか、寂しそうに笑った。
「また、か」
「ん?」
「いや、なんでもないよ。久城。なんでもないのだ……」
少しずつ朝日が昇《のぼ》っていく。
きつく感じたその赤い輝きも、柔《やわ》らかな光に変わっていく。
船が陸地に近づいていく。
そして、波は柔らかに、寄せては返していた。
ジュリィ。ガイルは、船を下りた。目立たないように顔をうつむかせ、歩きながら、どんどん早足になる。
やがて駆《か》け足になり、船から離《はな》れていく。
(なるほど、ね……)
心の中でだけ、そっとつぶやく。
船が港に着き、人々がぞろぞろと降りていく。荷下ろしの掛《か》け声や、行き交《か》う水夫たちの忙《いそが》しそうな声。長旅のため船に乗り込もうとやってきた人々や、見送りのため集まった家族。荷物が運び出されたり、持ち込まれたり。港は朝の喧噪《けんそう》に包まれていた。
その喧噪に、ジュリィはうまく混ざり、姿《すがた》を消そうとしていた。もちろん、警察官に残るように言われたのだが、聞く気はなかった。ジュリィは港の朝の人混《ひとご》みに紛《まぎ》れて、さっさと歩きだしていた。
あの船さえ降りれば、ジュリィ・ガイルと名乗った女は消える。都会に紛れればもうみつかるまい。
足早に歩きだすジュリィは、後をついてくる男たちの姿に気づいていなかった。
手を繋いで、スキップしてついてくる二人組。揃《そろ》って兎革のハンチングを被っている。
ジュリィはつぶやく。
(なるほど。あのときもあんたはそうやったのね。そうだったのね……)
その瞳《ひとみ》には涙《なみだ》が光っている。
――思い出が押《お》し寄せてきた。
いや、思い出などというきれいな言葉では言い表せない。
あれは、悪夢《あくむ》だ。悪夢のような一夜――。
(そうだったのね。騙《だま》されたわ、ヒューイ……)
〈野兎〉の群《む》れに放された〈猟犬《りょうけん》〉。
ヒューイこと、ネッド・バクスター――。
(あなたはあのときも、ああやって、死体のフリをしたってわけね…………!)
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モノローグ―monologue 4―
わたしは、階段《かいだん》で拾ったハートのペンダントをポケットに押《お》し込むと、立ち上がった。そろそろと暗い階段を降《お》り、もとの廊下《ろうか》に戻《もど》ろうとした。
しかし、階段の途中《とちゅう》で、不測《ふそく》の事態《じたい》が起きた。
遠くから聞こえた銃声《じゅうせい》と、いくつもの悲鳴……。
わたしは走り出した。階段を駆《か》け下りて、薄暗《うすぐら》く粗末《そまつ》な廊下に、躍《おど》り出る。
そして、驚《おどろ》きのあまり立ち尽《つ》くした。
「…………ヒューイ!?」
廊下に、折り重なるように仲間たちが倒《たお》れていた。小柄《こがら》なフランス人の少女が、リィを庇《かば》うようにしてうつぶせに倒れている。がっちりしたイタリア人の少年は、廊下の壁《かべ》に背《せ》を預《あず》け、その肩《かた》からどくどくと流れる血を、呆然《ぼうぜん》とみつめている。痩《や》せてくるくるとした巻き毛のアメリカ人の少年は、仰向《あおむ》けに倒れてうめき声を上げている。その前に、腕《うで》から血を流すヤンが立ちふさがっている。
そして、その阿鼻叫喚《あびきょうかん》の真ん中に、痩せた少年が――
死んだはずのヒューイが立っていた。
思わず上げた声に、ゆっくりとこちらを振《ふ》り返る。わたしは息を飲んだ。彼の青白い顔には、なんの表情も浮《う》かんでいなかった。彼自身の意志《いし》ではなく、なにか大きな力に操《あやつ》られた、おそろしいマリオネットのようだった。
「〈野兎《のうさぎ》〉、みっけ」
そうつぶやくと、急に、ニヤリと笑った。
片手《かたて》に、無造作《むぞうさ》に機関銃を持っていた。溺《おぼ》れ死んだあの二人の少年から奪《うば》い取ったものだろうと推測《すいそく》できた。
ということは……彼らが言い残した言葉は……。
(幽霊《ゆうれい》が、出たんだ……!)
(俺《おれ》たちから銃を取り上げて、ここに放《ほう》り込《こ》んだ……!)
あの幽霊≠ニは、死んだはずのヒューイのことだったのだろう。
そしていま、体中から血を流して倒れている、仲間たち。
――頭にカッと血が上った。わたしはポケットに突《つ》っ込んだままになっていた拳銃《けんじゅう》を取り出して、ヒューイの胸《むね》に狙《ねら》いを定めた。
「ヒューイ、銃をおろして!」
「……おまえこそ」
ヒューイは笑いながら引き金を引いた。
右肩に熱い衝撃《しょうげき》が走った。撃《う》たれた、と気づいたときにはもう、床《ゆか》に膝《ひざ》をついていた。握《にぎ》っていた銃も床に落としていた。額《ひたい》に冷汗《ひやあせ》が浮かび、悪寒《おかん》がした。
ヒューイは楽しそうに、一歩一歩、近づいてくる。銃口をわたしの頭に向けて……。
「……やめろっ!」
少年の叫《さけ》び声がした。
腕からだらだらと血を流したヤンが立ち上がり、わたしとヒューイのあいだに割《わ》り込んだ。怒《いか》りに震《ふる》える声で、
「どうしてこんなことをするのか、わからないが……女の子に銃なんか、向けるな」
「そんなことは関係ない。男も女も、この箱の中では、関係ないんだ」
ヒューイの声も、震えていた。
なにに怯《おび》えているのか、瞳《ひとみ》を不安そうに揺《ゆ》らし、
「重要なのは国籍《こくせき》≠セ。性別《せいべつ》じゃないんだ」
「……どういうことだ?」
「俺は協力者なんだ。君たちは〈野兎〉で、俺はその群《む》れに放たれた〈猟犬《りょうけん》〉なんだ。適当《てきとう》に噛《か》み殺せって命令された。国のためだ。最後までやる!」
「ヒューイ……?」
わたしも、彼の悲愴《ひそう》な表情と、繰《く》り出される謎《なぞ》の言葉に、戸惑《とまど》って彼の顔をただ見上げるばかりだった。ヒューイは機関銃を振り上げ、
「ここで起きたことは未来≠ネんだ。これは絶対《ぜったい》なんだよ!」
ヤンが飛びかかる。
その胸に銃口が当てられた。ヒューイが引き金を引いた。
ヤンの小柄な体が吹《ふ》き飛ばされ、血|飛沫《しぶき》がわたしの顔にびしゃっとかかった。至近距離《しきんきょり》から弾《たま》を受けたヤンは、胸に大きな風穴《かざあな》を開け、小柄な体からは予想もつかないほど大きな音を立てて、床にどさりと倒れた。どくどくと血が流れ出て、またたくまに、黒ずんだ古い絨毯《じゅうたん》を鮮《あざ》やかな赤色に染めた。
わたしは悲鳴を上げた。するとヒューイは、こちらにも銃口を向けた。
ニヤリ、と笑う。
薄《うす》い唇《くちびる》を開き、一言、
「命乞《いのちご》いしろよ」
わたしはキッと睨《にら》みあげた。ヒューイの表情は変わらない。
「……いやよ」
「じゃあ、死ね!」
銃口が迫《せま》ってくる。わたしは思わず目をつぶった。
――カチッ!
引き金を引く、小さな音がした。
わたしは目を開けた。
弾が切れたらしい。わたしはあわてて、落とした銃を拾い、左手で握りしめた。
ヒューイは身をひるがえし、走り出した。
その後ろ姿に、引き金を引く。
大きな発砲《はっぽう》音が何度も繰り返される。だが、当たらない。肩からの出血に、気が遠くなる。
気づくとわたしは、泣きじゃくっていた。引き金を引きながら、溢《あふ》れる涙《なみだ》に視界《しかい》を阻《はば》まれ、嗚咽《おえつ》で大きく肩を揺らしていた。
事切れているヤンに目をやってから、立ち上がった。ふらつきながら、ほかの仲間のところへ行く。
アメリカ人、イタリア人の少年は、それぞれ脇腹《わきばら》と肩を撃たれていたが、弾はかすっただけのようで、声をかけるとなんとか立ち上がることができた。フランス人の少女は、恐怖《きょうふ》で気を失っていただけのようだった。
三人ともが立ち上がると、わたしは、出血のためかまた意識《いしき》を失っているリィを担《かつ》いだ。彼女のハートのペンダントは、まだわたしのポケットに入っていた。これを彼女に渡《わた》さなければ、と思った。また歩きだした。
イタリア人の少年が、ふらつくアメリカ人の少年を力づけるように、話し始めた。故郷《ふるさと》のことを。場違《ばちが》いな話だった。
「ぼくは、市場のすぐ近くに住んでいたのだよ。朝は、屋台の店番などをして小遣《こづか》いを稼《かせ》いでいた。色とりどりの野菜を積んだ屋台は、圧巻《あっかん》だよ。夏野菜の美しさと、おいしさは、どこの国にも負けないと思っていた……」
アメリカ人の少年が、聞こえているよ、というように力無く微笑《ほほえ》んだ。
ふいに、フランス人の少女がうめいた。
「どうして……?」
ほかの少年たちも、振り返る。
フランス人の少女は、絞《しぼ》り出すような声で、誰《だれ》にともなく問う。
「生きてたの? あの男の子? 死んでたはずよ……」
誰《だれ》も、なにも言わなかった。
わからなかったのだ。
わたしも、狂《くる》ったように何度も、頭の中で、反芻《はんすう》していた。あのとき……あのとき、ヒューイは確《たし》かに、脈が止まっていたのに、と……。
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第五章 ゲーム・セット
ジュリィ・ガイルは、港を離《はな》れ、街で拾った辻馬車《つじばしゃ》に揺《ゆ》られていた。舞《ま》い込む風に長い黒髪《くろかみ》が揺れ、その青白い顔にかかったり、また離れたりを繰《く》り返している。
ガタゴトと揺れる座席《ざせき》で、ジュリィは一人、遠い目をして考え込んでいた。
「そうよ……」
思わず、声がもれる。
「あのとき、倒《たお》れているヒューイの脈を取ったのは、わたし。確かに脈は止まり、死んでいるように見えたわ。あれからずっと……考えていた。どうしてか、と」
外の風景は次第《しだい》に、町中の喧噪《けんそう》に入っていった。都会の人混みに、ジュリィは安堵《あんど》を強くする。自分はついに復讐《ふくしゅう》を終え、逃《に》げ切ったのだと。
御者《ぎょしゃ》が、素《す》っ頓狂《とんきょう》なほど明るい声で、
「今日はいい天気ですねぇ、お嬢《じょう》さん」
声をかけてきたが、無視した。
御者はそれでもしつこく、
「ついさっきまで曇《くも》っていたのに。いい一日になりそうだ」
「……そうね」
ジュリィは低く返事をした。
一人、目を細める。
ヴィクトリカを思いだし、知らず微笑《ほほえ》みがこぼれた。本人は知らないことだろうが、自分が十年ものあいだ抱《かか》えていた疑問《ぎもん》を、あのおかしな美少女は、一瞬《いっしゅん》にして解《と》いてくれたのだ。
ヒューイが倒れていたはずの場所に、転がっていたテニスボール。
きっと十年前も、ヒューイは同じ手を使って死体のフリをしたのだ。そうして少年少女を恐怖《きょうふ》に陥《おとしい》れ、争いあう原因《げんいん》の一つになった。その後は、グループを離れて、悪戯《いたずら》にその命を奪《うば》ったりした。
「なるほどね……」
胸《むね》にかけた、ハートのペンダントをぐっと握《にぎ》りしめる。
しかし自分は、見事に復讐をやってのけた。あの箱に〈野兎《のうさぎ》〉たちを閉《と》じこめてなぶり殺した大人たちも、〈猟犬《りょうけん》〉の少年も、もういない。すべて終わったのだ。遠くへ……後は遠くへ逃げればいい。
――ふと、ジュリィは異変《いへん》に気づいた。
辻馬車は、ジュリィが命じた、異国へ続く列車の出る駅ではなく、別の街角を走っていた。駅は遠ざかっていく。あわてて御者に向かい、
「どこへ行くのよ!」
「……どこへって、お嬢さん」
御者は振《ふ》り返った。
ハンサムな若《わか》い男だった。貴族《きぞく》的な品のある顔立ちに、皮肉っぽく歪《ゆが》められた口もと。御者にしては上等すぎる外套《がいとう》に身を包み、首には高価《こうか》そうなシルクのタイを巻《ま》いていた。
「あんた、誰《だれ》!」
ジュリィは、その御者の異様なヘアスタイル――先端《せんたん》をぐりゅんと流線形にかためた、見たこともない形だ――に目を奪われながら、叫《さけ》んだ。
「グレヴィールです」
「……グレヴィールって、誰よ!」
「名|警部《けいぶ》です」
「は?」
御者が強く手綱《たづな》を引いた。
馬が、ヒヒーンと一声鳴いて、足を止めた。
と同時に、ズザザッとたくさんの足音がした。ジュリィは息を飲んだ。いつのまにか辻馬車の周りを、たくさんの警官が取り囲んでいた。
辺りを見回す。そこは警察署《けいさつしょ》ビルの前だった。鉄格子《てつごうし》のはめられた四角い窓《まど》がいくつも並《なら》ぶ、真四角のビル。古くからここに建っている由緒《ゆいしょ》あるこの建物は、どこか刑務所《けいむしょ》を連想させる威圧《いあつ》的なものだった。その、くすんだオレンジ色をした煉瓦《れんが》の壁《かべ》が、じわじわとこちらに迫《せま》ってくるように感じられた。
ジュリィは目をこらした。
警察署の前に、少年と少女が立っていた。あの東洋人の――帝国《ていこく》軍人の三男だと言っていた――久城《くじょう》一弥《かずや》と、ジュリィ自身が、小さな探偵《たんてい》さんと呼んだ、いかにも貴族的な金髪《きんぱつ》の少女、ヴィクトリカ。
二人は手をつないで、こちらをみつめていた。
ジュリィは肩《かた》をすくめた。
御者に向かい、笑いかける。
「ゲーム・セットね?」
「……そのようですな」
御者は馬車から飛び降りると、外からドアを開け、うやうやしくジュリィに手を差しのべた。攻撃《こうげき》的に尖《とが》った髪の毛が、ジュリィの顔に突《つ》き刺《さ》さりそうだった。その手を取って、ジュリィが馬車から降りると、御者は胸を張り、
「ジュリィ・ガイル。殺人罪《さつじんざい》で、逮捕《たいほ》する!」
ジュリィは一瞬《いっしゅん》だけ、笑った。
それから氷のような無表情になり、警察署に向かって歩きだした。
警察署の一部屋で、ジュリィ・ガイルは、ド・ブロワ警部と、ヴィクトリカ、一弥の三人を前にして座《すわ》っていた。
警部の部下二人はなぜか外に閉《し》め出され、手を繋《つな》いでドアの前に立っていた。
――この警察署はド・ブロワ警部の管轄《かんかつ》ではないのだが、ヴィクトリカからの連絡《れんらく》が入ったためと、やはりその出自《しゅつじ》から発言力があるために、警部はまるで自分の管轄であるかのように自由に振《ふ》る舞《ま》っていた。
その部屋は薄暗《うすぐら》く、やけに広々としていた。なんの飾《かざ》り気もない長テーブルが、部屋の真ん中にでんと置かれていた。照明は実用一点張りの白熱灯で、各自に与《あた》えられた粗末《そまつ》な木の椅子《いす》は、少し動くたびにギィギィといやな音を立てた。
その椅子に、ジュリィ・ガイルは、不思議そうな顔をして座っていた。ヴィクトリカに向かって、
「どうしてわかったの? 犯人《はんにん》がわたしだって」
ヴィクトリカとド・ブロワ警部は、なぜかほぼ同時に、鞄《かばん》を開けるとパイプを取り出し、口にくわえた。火をつけて一服、吸《す》うと、ヴィクトリカは問いを発したジュリィを、警部は問われたヴィクトリカを、煙《けむり》をぷかりと吐《は》きながら、ひたと見据《みす》えた。
「……知恵《ちえ》の泉《いずみ》≠セ」
ヴィクトリカはそっけなく言った。
ジュリィ、警部、そして一弥も、自分の顔をじっとみつめているのに気づくと、面倒《めんどう》くさそうにその長い金髪をかきあげ、
「説明するとだね。あなたはまず、最初に嘘《うそ》をついた」
「……嘘ですって? わたしが?」
ジュリィが目をパチクリする。
ヴィクトリカはうなずいた。顔を上げる。
「自己紹介《じこしょうかい》のときだ。ジュリィ・ガイル。資産家《しさんか》の令嬢《れいじょう》で広い屋敷《やしき》でのびのび育った≠ニ」
一弥が不思議そうに、
「どうしてそれが嘘だってわかったんだよ?」
「久城、君、覚えているかね? この人が考え事をするときに、必ずしていた、癖《くせ》を」
ヴィクトリカは立ち上がると、胸《むね》のペンダントをいじるような真似《まね》をしながら、歩きだした。五歩歩くと、ターンして、戻《もど》ってくる。また五歩歩くと、ターンする。ぐるぐるとこれを繰《く》り返し、顔を上げる。
「……な?」
「な、ってなにが?」
三人ともがキョトンとしていることに気づくと、ヴィクトリカは苛立《いらだ》ったように、
「君たち、考えてみたまえ。広い屋敷でのびのび育った人間が、こんな動きをするものかね?」
「どういうこと?」
「この動きはだね、狭《せま》い場所――五歩歩くと壁にぶつかってしまうぐらい――に居続《いつづ》けた人間のくせなのだよ」
「……住んでる部屋が狭いってこと?」
「それも否定《ひてい》できないが、もっと範囲《はんい》を狭《せば》めるとだね」
ヴィクトリカは椅子に座り直した。
低いしゃがれ声で、
「たとえば、刑務所《けいむしょ》の独房《どくぼう》。もしくは病院の病室。屋敷の屋根裏《やねうら》部屋。長いあいだ外に出ないと、こうなるのだよ」
ド・ブロワ警部がなぜか居心地《いごこち》悪そうに体を揺《ゆ》らし、咳払《せきばら》いした。
それを横目で見ると、ヴィクトリカが小声で、
「いまのは一般論《いっぱんろん》だ、グレヴィール。深い意味はない」
「…………」
警部は返事をしない。
ヴィクトリカは続けて、
「外出許可≠フことは感謝《かんしゃ》しているよ」
「…………」
一弥は、二人のおかしな雰囲気《ふんいき》に戸惑《とまど》い、その顔を見比《みくら》べた。
ヴィクトリカはジュリィのほうに向き直り、
「あなたは身分を詐称《さしょう》していた。そして、もう一つ大事なことがある。あなたは最初から武器《ぶき》を持っていた」
一弥が驚《おどろ》いて、声を上げた。
「武器?」
「ああ。この人は、モーリスが武器をみつけて使おうとしたとき、自分も拳銃《けんじゅう》を取り出して、逆にモーリスを撃《う》ち殺した。そのとき、銃は途中《とちゅう》でたまたまみつけて持っていたのだと言ったが、それも嘘なのだよ」
「どうしてわかったんだよ?」
「バッグの重さだ」
ヴィクトリカは、ジュリィのハンドバッグを指差した。
「そのバッグはだね、いちばん最初にラウンジで出会ったとき、とても重かった。久城、君の頭に当たったとき、ゴツンと大きな音がしたのを覚えているかね?」
「うん、もちろん」
「あのときすでに、銃が入っていたのだ。バッグの重さはそのためだ。そして銃を使い、捨てた後、この人はうっかりバッグを落とした。わたしが拾った」
「ああ、覚えてる……」
一弥は、ヴィクトリカが拾ったバッグを、ジュリィに投げ渡《わた》したときのことを思い出した。バッグは軽いらしく、ふわふわと宙《ちゅう》を飛んだ……。
「ネッド・バクスターがわたしたちの命を狙《ねら》ったのは、犯人だったからではない。おそらく彼もまた、十年前の事件《じけん》に関《かか》わる男だったのだろう。モーリスと同じく、わたしたちの中に、復讐《ふくしゅう》を企《くわだ》てるかつての〈野兎〉がいると信じ、密《ひそ》かに怯《おび》えていた。そして、殺される前に殺そうとしたのだ」
部屋はしん……と静まり返った。
やがて、ジュリィがうなずいた。
「そうよ……」
その表情は、奇妙《きみょう》に明るいものだった。罪《つみ》を暴《あば》かれ捕《つか》まったことに、かえってホッとしているようにも見受けられた。ジュリィはきわめて率直《そっちょく》な口調で、
「わたしがやったの。船を用意して、招待状《しょうたいじょう》を書いて。全員殺して、船を沈《しず》めるつもりだった。でも、思わぬ誤算《ごさん》が……。ロクサーヌがすでに死んでいて、代わりになんの関係もないあなたたちが乗り込《こ》んでしまった。焦《あせ》ったわ。あなたたちを死なせるわけにはいかなかったから、ずっとハラハラしていたわ」
ジュリィは薄く微笑《ほほえ》んだ。
「あなたたちを見ていたら、昔を思い出したの。ヤンっていう中国人の少年がいてね。優《やさ》しくてしっかりした人で、頼《たよ》りになったわ。最後はネッド・バクスターに殺されてしまったけど……。久城くん、あなたを見てたら、彼を思いだしてね」
「なにがあったか、十年前のことを話してもらえますか」
ド・ブロワ警部が口をはさんだ。
ジュリィはうなずいた。
「……いいわ」
そして、ジュリィ・ガイルは話し始めた。
十年前。夜、この町の路上で、鉄格子《てつごうし》のはめられた黒い馬車に乗せられたこと。たくさんの少年少女とともに、あの船――本物の〈QueenBerry 号〉で目覚めたこと。そして悪夢の一夜が始まったこと。
つぎつぎと仲間が死んでいったこと。ヒューイの裏切《うらぎ》り。傷《きず》ついた仲間を連れて、甲板《かんぱん》へ上がっていったこと。
そして、生き残った〈野兎〉たちが、そこで見たもののことを……。
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モノローグ―monologue 5―
わたしたちは、水浸《みずびた》しの廊下《ろうか》を進んで、船頭側の階段《かいだん》を上がり、甲板《かんぱん》へ向かった……。
背中《せなか》に担《かつ》いだリィの体は、どんどん重くなっていった。一歩一歩、階段を上がるたびに膝《ひざ》が震《ふる》えた。でも、わたしが担ぐしかなかった。少年二人はヒューイに撃《う》たれた傷《きず》から出血し次第《しだい》に顔色が青くなっていたし、残った少女は、ショックで泣き始めていた。わたしが背負わなければ、リィを置いていくことになってしまう。
背中にぐったりもたれかかるリィが、まだ生きているのか、すでに息《いき》絶《た》えてしまったのか、わからなかった。彼女の黒髪《くろかみ》が、階段を上るたびにさらさら揺《ゆ》れた。チョコレート色をしたつややかな肌《はだ》も、健康的な色を失っている。
――そうして、階段を上り続け、ようやくわたしたちは甲板に出た。
夜は明けかけていた。
昨夜、船尾のほうから甲板に出たときは、深い闇《やみ》が立ちこめてなにも見えなかった。でもいまは夜明けの青白い光が、東の空から白々と甲板を照らしていた。海は灰色《はいいろ》で、静かに波を寄《よ》せては返していた。
震える足で、一歩一歩、進み、無線室へ。
ドアを開けると……。
白い煙《けむり》が、その部屋の天井《てんじょう》辺りに立ち上り、霧《きり》のように視界《しかい》を邪魔《じゃま》していた。
血だらけで入ってきたわたしたちに、部屋にいた人間――九人の大人の男たち――が一斉《いっせい》に振《ふ》り返った。
ある者は、カードゲームに興《きょう》じていた。ある者は葉巻《はまき》をくゆらしていた。ある者は書物に目を落としていた。
天井に葉巻から白い煙の筋が上がっていく。
男たちは、わたしたちを見ると、ポカンと口を開けた。
それから一斉《いっせい》に叫《さけ》んだ。
「どこの国だ!」
「国籍《こくせき》を言え! 死んだのはどこの子供《こども》だ!」
「よし、こいつはソヴュールだぞ! 同盟《どうめい》国はどこだ!!」
わたしたちの肩《かた》をつかみ、乱暴《らんぼう》に揺《ゆ》する。
ブランデーのグラスをかたむけていた男が、立ち上がった。男たちの中では、比較《ひかく》的|若《わか》い。三十代の半ばぐらいか……。初老の紳士《しんし》の腕《うで》をつかみ、
「まぁ、まぁ、まずは労《ねぎら》おうではありませんか」
「モーリス君……」
「さぁ」
モーリスと呼《よ》ばれた男は、呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいるわたしたちを見下ろし、両腕を上げた。
そして手のひらを合わせ、パチパチパチ……! と拍手《はくしゅ》をした。
「ようこそ! 勇敢《ゆうかん》な〈野兎《のうさぎ》〉たちよ!」
男たちがそれに合わせ、拍手し始める。
その笑顔《えがお》、笑顔、笑顔……。
気が狂《くる》いそうだった。
――背中に担いでいたリィの体が、わたしが力を抜《ぬ》いたためか、ずるずると床《ゆか》に落ちた。わたしが「リィ……!」と叫んでかがみ込むと、男の一人がこちらを見下ろした。
リィの黒い髪と、チョコレート色の肌を凝視《ぎょうし》する。
フン、と鼻を鳴らして、
「アラブ、か」
あろうことか、リィの倒《たお》れた体を足蹴《あしげ》にした。
わたしは叫び声を上げた。
リィは動かない。本当に死んでしまったのかもしれない……。
わたしは、彼女に返すつもりだったハートのペンダントを、ポケットの中に入れた手で、ぐっと握《にぎ》りしめた。涙《なみだ》が溢《あふ》れてきた。
男たちはわたしたちを眺《なが》め、
「イギリス、は、生きてるな」
「もちろん。あいつは〈猟犬《りょうけん》〉だ。生きて戻《もど》ってきた」
「あとは、この……フランス、イタリア、アメリカ……そして、ソヴュール」
顔を見合わせ、うなずきあう。
――部屋の奥《おく》に、不気味な人間がいた。車椅子《くるまいす》に座《すわ》っていた。頭部だけを赤いリンネルの布《ぬの》で覆《おお》っていた。皺《しわ》だらけの皮膚《ひふ》が垂《た》れ下がって、その瞳《ひとみ》を半ばまで隠《かく》していた。
老いた女だった。
彼女の前には、銀の壺《つぼ》、銅の壺、そしてガラスの壺が置かれていた。金色に輝《かがや》く手鏡を、皺だらけの手でつかんでいた。
「一人の青年が、もうすぐ、死ぬ……」
低い声だった。
男たちは振り返り、老女に、
「ロクサーヌ様……!」
「それがすべての始まり。
世界は石となって転がり始める」
部屋はしんと静まり返った。
老女、ロクサーヌは叫んだ。
「お告げの通りにするのじゃ。そうすれば、この国はますます発展《はってん》するじゃろう」
「はっ……!」
男たちは頭を下げる。
わたしは混乱《こんらん》し、立ちすくんでいた。
(お告げ……? どういうことよっ……?)
やがて老女は、首を揺らし、しわがれた声で笑いながら宣言《せんげん》した。
「これにて〈野兎走り〉を終える。ただちに箱を沈《しず》めよ! そして〈野兎〉たちは、太らせよ!」
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第六章 その手を、離《はな》さない
ジュリィは警察署《けいさつしょ》の一室で、長い告白を終えた。
部屋はしんと静まり返っていた。
ヴィクトリカとド・ブロワ警部が手にした陶製《とうせい》のパイプから、白い煙《けむり》が二筋《ふたすじ》、細く、天井《てんじょう》に上がっていく。
誰《だれ》もなにも言わなかった。やがてジュリィが、低い声で、
「……ずっと、わからなかったの。苦しかったわ。ねぇ、ヴィクトリカ。小さな探偵《たんてい》さん。あなたならわかるんじゃ、ない?」
一弥《かずや》が顔を上げると、ジュリィは唇《くちびる》を噛《か》み、ひたとヴィクトリカを見据《みす》えていた。
一弥は、ヴィクトリカの横顔をチラリと見た。彼女は混沌《カオス》の再構成《さいこうせい》を終えたようで、それを言語化しようと考え込《こ》んでいた。
ド・ブロワ警部は、頭の許容量《きょようりょう》を超《こ》えたようで、遠い目をして、窓《まど》の外を飛びすぎる小鳥を眺《なが》めていた。ぐりゅんと尖《とが》らせた金髪《きんぱつ》の先端《せんたん》が、窓からの朝日に透《す》けて淡《あわ》い金色に輝《かがや》いていた。パイプは口から離《はな》され、忘《わす》れられたように、心ここにあらずの様子をした警部の手の中で、いたずらに白い煙をたゆらせていた。
ヴィクトリカが口を開いた。
慎重《しんちょう》に、ゆっくりと、言う。
「おそらく――大規模《だいきぼ》な占《うらな》いだったのだと推測《すいそく》されるが」
「……占い!?」
ジュリィが叫《さけ》んだ。首を振《ふ》り、
「あんなにたくさん死んだのよ。船も沈《しず》んだわ。いったいどういうことよ。なにを占ったの? どうやって? 資金《しきん》だってかなりかかっているわ」
「久城《くじょう》、君には説明したことがあるが」
とつぜん話題を振られた一弥が、飛び上がった。
「な、なに?」
「古代の占いだ。予言者モーゼが行った、棒《ぼう》占い」
「あぁ……聞いたような気もするけど」
「イスラエルの民《たみ》の長《おさ》となるべき人物が、どの種族から生まれるかを占うために、それぞれの種族名を書いた十二本の棒を用意した。その棒の運命が、種族の運命というわけだ」
「うん……」
「また、占い師《し》ロクサーヌは、庭で野兎《のうさぎ》を飼《か》っていた。しかし、ときどき猟犬《りょうけん》に噛《か》み殺させたりしていたようだ。殺される野兎と、生き残る野兎。生き残ったほうは太らされ、大事に飼われていたのだ」
ヴィクトリカは言葉を切った。
次第《しだい》に、ジュリィの顔が暗く陰《かげ》っていった。
「おそらくロクサーヌは、野兎を占いに使っていたのだ。それぞれに、占うべき人名などをつけて猟犬の中に放す。どの野兎が生き残るかで、未来を占った」
「ねぇ、まさかその野兎が、わたしたち……?」
ヴィクトリカがうなずく。
「でも、どうしてよ? 人間よ?」
「おそらく、それまで行ったどんな占いより、大規模な未来予測が必要となったのだろうと推測されるが。……ここで、材料となるべき混沌《カオス》の欠片《かけら》が、いくつかある。世界中から集められた、十一の国籍《こくせき》を持つ孤児《こじ》たち。ロクサーヌの〈一人の青年がもうすぐ死ぬ。それがすべての始まり。世界は石となって転がり始める〉という言葉。その場にいた男の〈同盟《どうめい》国はどこだ〉という言葉。それから、ヒューイの〈この船で起こることは未来≠セ〉〈大切なのは国籍≠セ〉」
ヴィクトリカは低い声になった。
「そして、それは十年前――一九一四年の春に起こったということ」
「……あっ!」
一弥が叫《さけ》んだ。
全員が振り返った。一弥はあわてて、
「あ、いや……。ごめん。十年前と言えば、その年の六月に〈サラエボ事件《じけん》〉があって、世界大戦が起こったなぁと思って。関係ないよね」
「いや、関係はあるよ、君。それが答えなのだ」
ヴィクトリカの声に、ジュリィが叫び声を上げた。
「どういうこと!?」
――一九一四年六月末。オーストリアの王位|継承者《けいしょうしゃ》がサラエボで暗殺される事件があった。犯人《はんにん》の引き渡《わた》しを要求するオーストリアに、セルビア政府《せいふ》が反発、それを支援《しえん》する国家も出た。オーストリア、ハンガリー、ドイツなどが結託《けったく》し、開戦。イタリア・アメリカなどがこれらと戦うことになり、やがて戦争は世界規模の拡《ひろ》がりを見せた……。
ヴィクトリカは低い声で、
「いまとなっては推測することしかできないがね。おそらく、十年前、世界を覆《おお》うきな臭《くさ》い空気を感じた政府関係者が、有名な占い師を使い、世界の未来を読もうとしたのだ。大規模な舞台《ぶたい》――〈QueenBerry 号〉という箱を用意し、そこに、世界中から集めた〈野兎〉を放った。トラップだらけの箱に、〈猟犬〉役のイギリス人の少年も混ぜた。箱の中では、少年少女が、それぞれの国の未来を担《にな》っていた」
「そんな……っ!」
「占いは、当たったのだ」
ヴィクトリカは金髪をかきあげて、
「あの世界大戦のことを思い出してみたまえ。おい、中途半端《ちゅうとはんぱ》な秀才《しゅうさい》の久城」
「……あのねぇ!」
「戦争の結果を、言ってみたまえ」
一弥は戸惑《とまど》いながらも、つっかえつっかえ、
「世界大戦は、三国同盟と連合国に分かれて始まったけど、ええと、連合国の勝利に終わったよ。三国同盟のほうは、最終的に……ドイツ、オーストリア、ハンガリー、それにトルコ…………」
「連合国側は、久城?」
「ええと……フランスとかイタリア、イギリス、アメリカ、あとはソヴュールとか…………」
ヴィクトリカは、じっとジュリィをみつめた。
その瞳《ひとみ》にはなんの表情《ひょうじょう》も浮《う》かんでいなかった。ジュリィのほうは激《はげ》しい葛藤《かっとう》に唇《くちびる》を強く噛《か》んでいた。
「そんな……」
「占いは、当たったのだよ」
「…………」
「あの船の中で、少年少女は二手に分かれてしまった。三国同盟側と、連合国側。まずハンガリー人の少女がトラップで死に、ついでトルコ人の少年が撃《う》たれて死んだ。そしてイギリス人の少年は二|枚舌《まいじた》を使い分けて生き残った。そう、イギリスはあの戦争のトリックスターだった。ドイツとオーストリアの少年も死に、中国人の少年も撃たれて倒《たお》れた。そしてアラブ人の少女は……」
「リィ……!」
「アラブはあの戦争に巻《ま》き込まれて、国土を失いボロボロになってしまった」
ジュリィは泣いていた。
それを見守り、ヴィクトリカは少し困《こま》ったような顔をした。ポケットから、いかにも高級そうなハンカチを取り出すと、おそるおそるジュリィに差しだす。
ジュリィがそれを受け取り、涙《なみだ》を拭《ふ》くと、ヴィクトリカはかすかに、ホッとしたような表情を浮かべた。
ジュリィは涙をすすりながら、問う。
「じゃあ……あいつらは、わたしたちの動きを元に、その後の政治を動かしたのね」
「そうだ」
ヴィクトリカはうなずいた。
「ソヴュールは、連合国側について世界大戦に参戦した。歴史が動いた。どこまでが偶然《ぐうぜん》か、必然かは、ロクサーヌも関係者も死んだいまとなっては、わからないが……ともかく、占《うらな》いは当たった。もちろん客観的事実としてではなく、主観的事実としてだ。大規模《だいきぼ》な占い〈野兎《のうさぎ》走り〉の結果が、心理的に、彼ら……政治家《せいじか》や貴族《きぞく》、外務官僚《がいむかんりょう》たちの責任回避装置《せきにんかいひそうち》として作動したことは、言うまでもない」
ジュリィは顔を上げた。
「ひどいわ」
それから、ゆっくりと、その後の自分について語り始めた。ショックから回復《かいふく》できず、長いあいだサナトリウムにいたこと。ようやく落ちついて退院し、当時のことを調べ始めたこと。
生き残った少年少女は、ある者は自殺してしまい、ある者は殺人者となってすでに刑《けい》を執行《しっこう》されており、元気な姿《すがた》を見ることはできなかった。リィの生死は知れなかった。もしかするとあのとき、もう死んでいたのではないかと推測《すいそく》した。
ただ一人、ヒューイだけは、ネッド・バクスターと名を変え、元気に暮《く》らしていた。舞台《ぶたい》俳優《はいゆう》となって活躍《かつやく》してる記事をみつけ、彼もまた復讐《ふくしゅう》の対象に加えることにした。
十年後の、いま。
財産《ざいさん》だけは、太らせろ、との指示《しじ》のせいかたくさんもらっていた。それを全部使い切り、〈QueenBerry 号〉――あの箱のレプリカを造《つく》った。招待状を送った。
彼らは集まってきた。すでに殺されていたロクサーヌを除いて。
――警察署《けいさつしょ》の一室は、そのような話をしているとは思えないぐらい静かで、落ちついた雰囲気《ふんいき》になっていた。逮捕《たいほ》されたジュリィ自身が、静かに座《すわ》り、話をしているからだろう。
ジュリィはしばらく黙《だま》っていたが、顔を上げると、ヴィクトリカに聞いた。
「ねぇ……あなた、いったいいつから、わたしが犯人《はんにん》だってわかってたの?」
しばらく、ヴィクトリカは黙っていた。
「確信《かくしん》したのは、モーリスを撃《う》ち殺したときだ。しかし、あなたを最初に疑《うたが》ったのは、あのラウンジで目覚めたときだ」
ジュリィはキョトンとした。
「……どうして?」
「あなたはラウンジのドアの、すぐそばにいた。そしてドアを開けようとガチャガチャ音を立て、鍵《かぎ》がかかっていると騒《さわ》いだ。しかし、その後に別の男がドアを開けると、簡単《かんたん》に開いた。そして、仕掛《しか》けられていたボウガンの矢が飛んできて、男は死んだ」
「ええ」
「最初から鍵などかかっていなかった。あのときあなたが、鍵がかかっていると騒いだのは、彼らを部屋に足止めするためだった。壁紙《かべがみ》をはがして脅《おど》しの文句《もんく》を見せ、これがなんの儀式《ぎしき》なのかを彼らに教える必要があった。彼らを殺すのはその後と決めていたのではないかね?」
「……そうよ」
ジュリィはしみじみと、ヴィクトリカの小さな顔をみつめた。
ヴィクトリカが先に目をそらした。
「確証《かくしょう》はなかった。だから、ただそう考えただけなのだよ。あの時点ではね」
「そう……」
くすり、とジュリィが笑う。それから、一弥のほうを指差して、
「ねぇ、小さな探偵《たんてい》さん。あなた、それで、この男の子の手をしっかり握《にぎ》っていたのね。犯人とは知らずに、わたしと仲良くしゃべっていたから」
「む……」
「たえず意地悪なことを言いながらも、絶対《ぜったい》に手を離《はな》さなかったわ。あなた、この子のことが心配だったのね」
「…………」
ヴィクトリカは知らんぷりした。
一弥は驚《おどろ》いた顔をして、ジュリィとヴィクトリカを見比《みくら》べていた。船の中を逃《に》げていたときのことを思い出す。自分はヴィクトリカを守るつもりで手を繋《つな》いでいたけれど、ヴィクトリカはヴィクトリカで、自分のことを心配してくれていたのだろうか……。
――やがて、部屋を出るときになると、ジュリィがつぶやいた。
「ねぇ、小さな探偵さん」
「……その呼び方はやめたまえ」
「いいじゃない。ねぇ……わたし、最初にあなたを見たとき、どこかで会ったことがある、と思ったんだけど」
ジュリィはヴィクトリカの顔をしみじみ見て、
「思い出したわ……」
横にいたド・ブロワ警部が、なぜか、びくりと肩《かた》を震《ふる》わせた。
「ずっと入っていたサナトリウムよ。そこで、あなたとそっくりの顔をした女性《じょせい》に出会ったの。それで覚えていたのよ。あれは……誰だったのかしら…………」
ヴィクトリカは緑色の双眼《そうがん》を、一瞬《いっしゅん》だけ見開いた。
それから首を振《ふ》り、
「さてね」
「お姉さんとか? それとも……」
「…………」
ヴィクトリカは答えず、ジュリィに、さよなら、というように手を振った。
取り調べが終わった。
一行は警察署の廊下《ろうか》に出た。幅広《はばひろ》い廊下を、制服《せいふく》を着た警官や、刑事《けいじ》らしき男たちが忙《いそが》しく行きすぎていた。時折、一弥とヴィクトリカのほうを、どうしてこんなところに子供《こども》がいるのだろうというように、振り返る警官もいた。
角を曲がって、兎革《うさぎがわ》のハンチングを被《かぶ》った男二人組が走ってきた。ド・ブロワ警部は足を止めた。
「警部ー」
「いま、連絡《れんらく》がありましたー」
手を繋いだままで、二人組は、その手をぶんぶん振った。
「逃《に》げていた、ロクサーヌ殺しのメイドが、捕《つか》まりましたー」
「いま連行されてきます。あ、ほら、きたー」
指差した方向を振り返ったジュリィ・ガイルが、はっと息を飲んだ。
警官に両側から押《お》さえつけられ、連行されてきたのは、美しいアラブ人の女だった。黒髪《くろかみ》と、張りのあるチョコレート色の肌《はだ》が、廊下の洋燈《ようとう》につやつやと照らし出された。
その女も、顔を上げてジュリィをみつけると、息を飲んだ。
二人とも大人になり、かつてとはあまりに面立《おもだ》ちが変わっていた。しかし、瞳《ひとみ》を見ると、以前と同じ輝《かがや》きがみつけられた。二人は半信|半疑《はんぎ》のように、小声でささやきあった。
「もしかして、リィ、なの……?」
「…………アレックス?」
十年ぶりの再会《さいかい》は、ほんの一瞬、廊下ですれ違《ちが》い、終わった。
アラブ人メイドの後ろ姿《すがた》に、ジュリィは震え声で、
「警部さん。あれが……ロクサーヌ殺しの犯人なの?」
「そうだ」
「そう……。リィも、やったのね。十年後に、復讐《ふくしゅう》を」
ジュリィは首元に手をかけると、ハートのペンダントをつかんだ。あの日から、この十年間、ずっと大切に保管《ほかん》していたペンダント。リィの幸運のお守り。彼女に返すためにあの階段《かいだん》で拾い、そのまま返しそびれていた……。ジュリィはペンダントをつかんだ手にぐいっと力を込《こ》め、外した。
「リィ!」
叫《さけ》び声に、リィが振り返る。
ジュリィが投げたペンダントが、宙《ちゅう》を舞《ま》った。
[#挿絵(img/01_295.jpg)入る]
リィは警官の手をふりほどいて、腕《うで》を伸《の》ばし、そのペンダントを手に取った。
「……あんたのお守り、返すわ」
言葉の通じないリィは、小首をかしげた。
片手《かたて》を上げ、かすかに手を振るような動作をすると、再《ふたた》び警官に連行されていく。廊下の角を曲がり、消える。
ジュリィ・ガイルはしばらくそこに立ち尽《つ》くし、誰《だれ》もいなくなった廊下をただみつめていた。
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エピローグ 約束
「……というわけで、幽霊船《ゆうれいせん》〈QueenBerry 号〉は、再び海に沈《しず》んでいったんだ。過去《かこ》の亡霊《ぼうれい》たちの復讐《ふくしゅう》を終えて、暗い海の底に」
天気のよい朝。
聖《せい》マルグリット学園の校舎裏《こうしゃうら》。咲《さ》き乱《みだ》れる花壇《かだん》を見渡《みわた》せる場所にある、三|段《だん》ほどの階段に座《すわ》り、二人の子供《こども》が顔を寄《よ》せて話していた。
二人の目前には、色とりどりの花が咲き乱れて、太陽の光を浴びて眩《まぶ》しく輝《かがや》いていた。甘《あま》い花の香《かお》りが鼻孔《びこう》をくすぐる。花壇のあいだに作られた小さな通路を歩く、生徒たちの話し声が遠く聞こえてくる。だがこの階段は穴場《あなば》らしく、寄り添《そ》って話している二人のほかには、人気はない。人の多い学園の中に、ぽっかり空いたエアポケットのような、心地《ここち》よい場所だった。
そこにいる二人は、小柄《こがら》で生真面目《きまじめ》そうな東洋人の少年と、金髪《きんぱつ》のショートヘアを風に揺《ゆ》らす、スラリとした白人の少女だ。
少女――英国からの留学生《りゅうがくせい》、アブリル・ブラッドリーは、大きな瞳《ひとみ》をまんまるに見開いて、少年の話を聞いている。
久城《くじょう》一弥《かずや》は、その顔をみつめて、内心得意になっていた。
(よしよし。どうやら、アブリルをギャフンと言わせることに成功したぞ。それに、アブリルのネタはただの怪談《かいだん》だけど、こっちはなんといっても、本当の話だからな)
うんうんとうなずいて、心の中で、勝利を確信《かくしん》する。
(ぼくの勝ちだ。いやっほぅ!)
「……ぷうぅぅぅぅ〜っ!」
アブリルが吹《ふ》き出した。
「あれっ?」
「やだもー、やだもー、久城くんたらー。きゃははははー!」
どうしたことか、アブリルは階段に座ったまま、長い手足をばたつかせて、大|爆笑《ばくしょう》していた。ほっそりとしなやかな足が、風にスカートがふわふわめくれるたびに眩しかった。
「なんで笑ってるんだよ?」
「だってー。そんなわけないじゃないー」
アブリルは、笑いすぎて浮《う》かんだ涙《なみだ》を、手の甲《こう》でごしごし拭《ふ》いた。
「久城くんたらー」
「ほんとなんだってば」
「もう〜! 言っとくけど、わたし、ぜったい信じないからね」
アブリルが、一弥の顔の前で人差し指を立て、「めっ!」と言いながら左右に振《ふ》った。一弥の目が、その人差し指を追っているうちに寄り目になってくる。
どういうことだろう……? と悩《なや》んでいると、
「だって、あのサボり魔《ま》のヴィクトリカくんが、じつは女の子で、すっごい美人ちゃんで、しかも……名|探偵《たんてい》?」
「……ほ、ほんとなんだってば! なんなら、一緒《いっしょ》に大図書館のいちばん上においでよ。ヴィクトリカがほんとにいるんだから!」
「べーだ! その手には乗りませんよーだ」
アブリルは小憎《こにく》たらしい表情《ひょうじょう》をつくって、一弥に向かって舌《した》を出してみせた。笑顔《えがお》だけでなく、その顔もまたすごくかわいかった。一弥が思わず黙《だま》ると、
「それに、あんなすごい迷路階段《めいろかいだん》のある大図書館を、いちばん上まで上がるなんて、ぜったいいやだよー。そんなことする人がいるなんて、信じられない」
「…………」
ヴィクトリカにも言われたな……、と一弥が落ち込んでいると、アブリルはまた、幽霊船の話をしたときみたいに低い声になって、言った。
「それに、あの大図書館にも怪談があるんだよ。〈迷路階段のいちばん上には、金色の妖精《ようせい》が棲《す》んでいる〉。…………きゃああああ!」
「うわあああ!」
「きゃはははは、また引っかかったー。恐《こわ》がって悲鳴上げたー。久城くんの恐がりー」
「……いや、いまのはアブリルの悲鳴にびっくりしたんだよ。恐がりじゃないってば。それに、その怪談は当たってるよ。妖精じゃなくて人間だけど、人間|離《ばな》れしてるから人間って言わなくてもいいかも。とにかくヴィクトリカが……」
「はいはい、もうそのほら吹《ふ》きは、おーわーりー」
アブリルがパチンと指を鳴らした。
一弥は思わず、
「……すみません」
また、謝《あやま》ってしまった。どうもこの国にきてから、同い年の女の子に、悪くないのに謝り続けている気がする。気のせいだろうか。
アブリルはニコニコして、
「だいたい、久城くんがどうして、そんな探偵役を思いついたのかはわからないけどさ。元ネタは知ってるんだよ。わたしだって、今朝の新聞、読んだもん」
「……今朝の新聞?」
「じゃじゃーん!……これでしょ? もう、わかってるんだからねーだ」
一弥は、アブリルが得意になって差しだした今朝の新聞の一面に、目をこらした。
「……あ、あ、あぁぁぁ〜!」
奇声《きせい》を上げる一弥に、アブリルがギョッとした。
新聞の向こうから、元気でかわいらしいその顔を覗《のぞ》かせて、
「……どうかした、久城くん?」
「や、や、やられた」
「えっ?」
新聞の見出しには――
こう書かれていた。
〈またまたお手柄《てがら》、ド・ブロワ警部《けいぶ》!
幽霊船《ゆうれいせん》 QueenBerry 号|事件《じけん》′ゥ事|解決《かいけつ》!〉
――一弥は新聞を握《にぎ》りしめ、立ち上がった。
アブリルがキョトンとして、その顔を見上げている。
「ど、どうかしたの? 久城くん」
「……ちょっと急用。あとでね、アブリル!」
びっくりしているアブリルを花壇《かだん》に残し、一弥は走り出した。
そこに、花壇のあいだの細い道を、肩《かた》までのブルネットを揺《ゆ》らしながら、小柄《こがら》な女性が歩いてきた。大きな丸|眼鏡《めがね》に、小犬みたいな垂《た》れ目の、童顔。担任《たんにん》のセシル先生だ。
一弥をみつけると、にっこりして、
「あら、ちょうどよかった。久城くん」
「あっ、先生……。ぼく、いまちょっと急いでて……」
「急いでるってことは、大図書館に行くんでしょ?」
「いや……。ん? あ、そうです。……なんでわかったんですか?」
セシル先生はクスリと笑って、言った。
「久城くんが急いで走るっていったら、そうに決まってるじゃない。はい、これ。ヴィクトリカさんに渡《わた》しておいてね」
いつものように、授業《じゅぎょう》で使ったプリントを渡された。一弥はそれを受け取り、
「どうして……決まってるんだろう?」
不思議に思いながらも、また走り出した。
そこに、遅《おく》れて歩いてきたアブリルが、一弥の後ろ姿《すがた》を見送りながら、つぶやいた。
「なーんだ。ヴィクトリカくんに会いに行くんだ。ふーん」
セシル先生は微笑《ほほえ》んで、うなずいた。
「そうなのよ。とっても仲がいいの」
「どんな男の子なの、先生?」
セシル先生は、丸眼鏡の奥《おく》の瞳《ひとみ》を、ぱちくりとした。
人差し指を振《ふ》ってみせて、
「あら、アブリルさん。ヴィクトリカさんは、女の子よ」
「えええ〜!」
アブリルは叫《さけ》んだ。
「ほんとに、女の子だったんだ。そうだ。それに、あの名字……? もしかしてさっきの話……」
ちょっと首をかしげてから、その首をぶんぶん振る。
「……まさかね。作り話に決まってるわ」
アブリルはそうつぶやいた。
春先の暖《あたた》かい風が吹いて、二人の髪やスカートの裾《すそ》を、ふわふわ揺らしていった。
空は青く澄《す》んで、今日は一日、いい天気になりそうだ。
「そっか。ヴィクトリカって、女の子なんだ。ふーん……」
アブリルは拗《す》ねたように、口を尖《とが》らせている。
「なんだか、ちょっと妬《や》けちゃうな」
また、暖かい春の風が吹いた。
アブリルの短い金髪《きんぱつ》とスカートを、揺らしていく。つられたように、花壇に咲き乱れる色とりどりの花も、吹いてきた風に小さくブルッと震《ふる》えた。
「ヴィクトリカ――――――――――――!!」
――さて、こちらは聖《せい》マルグリット大図書館。
二百年以上の時を刻《きざ》んだ、欧州《おうしゅう》でも指折りの歴史的|建造物《けんぞうぶつ》。
壁《かべ》一面が巨大《きょだい》書棚《しょだな》と化した、吹き抜《ぬ》けの角筒《かくとう》型ホール。遥《はる》か上の天井《てんじょう》に、荘厳《そうごん》な宗教画《しゅうきょうが》が描《えが》かれているのが、遠く見える。書棚と書棚のあいだを結ぶのは、細い木階段だけ。まるで巨大迷路のような不思議な建物。
その昔、国王と愛人が秘密《ひみつ》の情事《じょうじ》に耽《ふけ》るため、わざと迷路状に造ったという言い伝えのある、大図書館――。
その迷路階段を、一弥は今朝も、一人の少女の名を呼びながら駆《か》け上がっていた。
「ヴィクトリカ――――――!」
「……そんな大声で呼ばなくても、聞こえている」
――いちばん上の階。
白い細い煙《けむり》が、天井に向かって上がっていく。ほどけたターバンのように、長い見事な金髪を床《ゆか》に垂《た》らした少女が一人、パイプをくゆらしている。煙はそのパイプから、明るい光の射《さ》し込《こ》む天窓《てんまど》に向かって、まっすぐ上っている。
うっそうと緑の茂《しげ》る植物園。その温室から半身投げ出すように床に座《すわ》りこみ、放射線状《ほうしゃせんじょう》に広げたたくさんの書物を、退屈《たいくつ》そうに、しかしすごいスピードで読み飛ばしている。
壊《こわ》れた人形が、立てかけられているような姿。
――ヴィクトリカだ。
そのヴィクトリカは、はーはー肩《かた》で息をしながら駆け上がってきた一弥をチラリと見ると、
「毎日、ご苦労なことだ」
「……あのねぇ」
「心臓《しんぞう》に負担《ふたん》をかけ、下を見下ろしては青くなり、腿《もも》をとてもだるぅ〜くしながら、この階段を駆け上がり、大声で叫《さけ》ぶのが日課になるとは。君もよくよく、不思議な留学《りゅうがく》生活だな」
「人ごとみたいに言うなよ。だいたい、ぼくは君に会いにきてるんだぜ?」
「それは知っている。単なる事実の指摘《してき》だ」
「うそだー。悪意があるよ、悪意がー」
「だったらなんだね?」
「うー……なんでもありません」
学園に戻《もど》ったヴィクトリカは、いつもの、取り澄《す》まして少しシニカルな彼女に戻っていた。この図書館でさんざん見慣《みな》れた、いつもの彼女だ。
一弥は、口では敵《かな》わないことを悟《さと》り、おとなしく引き下がることにした。
そして、アブリルから受け取った新聞を、ずいっと差しだしてみせた。
「それより、これを見てよ。ヴィクトリカ」
怒《いか》りに震《ふる》えながらヴィクトリカの表情を窺《うかが》うが、当のヴィクトリカは平気な顔だ。落ちついて新聞記事を流し読みすると、うなずいてみせる。
「なるほど」
「……これ、全部、ヴィクトリカの推理《すいり》じゃないか。君の通報《つうほう》で犯人《はんにん》が捕《つか》まったんだし、その後の推理も、君が警察署《けいさつしょ》で説明したこと、そのままだよ。あのときド・ブロワ警部は、窓の外の小鳥を見てたんだぜ? いかにも、なにがなんだかさっぱりわからないって顔で、遠い目をしてた。ぼく、こういうのは……」
「うむ」
ヴィクトリカは、ふわぁ〜、とあくびしながら、興味《きょうみ》なさそうに、
「兄貴《あにき》は、俗物《ぞくぶつ》だからな」
「そうだよ。だいたいあの警部は、俗物なんだよ。……ちょっと待ったヴィクトリカ、いまなんて言った?」
「兄貴は俗物だ、と言ったが?」
「ちょっと聞くけど、兄貴って誰《だれ》?」
ヴィクトリカはキョトンとした。
パイプを口から離《はな》し、白い煙とともにその言葉を吐《は》く。
「グレヴィール」
「……あ、兄貴なんだ?」
「ああ、そうだ」
「ふーん。……誰の?」
「わたしのだ」
「ふーん。…………………………いや――――――――――!?」
一弥は叫《さけ》んだ。
ヴィクトリカの、精巧《せいこう》な人形のように整って艶《あで》やかな、しかし小さすぎる姿を、じっと凝視《ぎょうし》する。
それから、ハンサムで洒落《しゃれ》者だが、ヘアスタイルがちゃんちゃらおかしい、ド・ブロワ警部の姿を思い浮《う》かべる。
……よくわからなかった。
頭を抱《かか》える。
ふと、床に投げ出したっきりになっていた、セシル先生から受け取ったプリントに、目が吸《す》い寄せられた。毎日これを受け取っては、ヴィクトリカに渡《わた》していたのだが、じっくり真面目《まじめ》に見たことはなかった。
ヴィクトリカが貴族なのは知っていた。態度《たいど》や物腰《ものごし》ですぐにわかるし、確《たし》か名前が、ヴィクトリカ・ド・なんとかと……。
「うはー……」
プリントには、ヴィクトリカの名前がちゃんと書かれていた。
――〈ヴィクトリカ・ド・ブロワ〉と。
一弥は虚《うつ》ろな目を上げて、彼女を見た。ヴィクトリカはパイプをくわえたまま、じっと一弥をみつめている。
「久城、君、大丈夫《だいじょうぶ》かね? 顔がおかしいぞ」
「どうして君と警部の名字が、一緒《いっしょ》なんだろう?」
「兄妹《きょうだい》だからだろう?」
「いや――――――――――!!」
一弥は叫んだ。
しかし、そういえば……およそ、貴族であること以外に共通|項《こう》のなさそうなヴィクトリカと警部ではあるが、一心にパイプをくゆらしたり、人の顔に煙《けむり》を吹《ふ》きかけて喜ぶところなどは、似《に》ていなくもない、という気がする。それ以外は、容姿《ようし》も、頭脳《ずのう》も、まるで似てはいないのだが……。
一弥は真顔になり、ヴィクトリカに聞いた。
「なんで?」
「……わたしのせいではない」
ヴィクトリカは不機嫌《ふきげん》になり、ぷいっとそっぽを向いた。しかし、そっぽを向いても、向いても、一弥が回り込んできて「なんで?」「なんで?」と連呼《れんこ》する。
根負けしたように、ヴィクトリカが、
「久城、君、ずっと知らなかったのか?」
「うん!」
「おかしなやつだな」
「だ、だ、だって、ヴィクトリカ。そのこと、ぼくに話した?」
ヴィクトリカは首をかしげた。
金髪《きんぱつ》がサラリ、と揺《ゆ》れる。絹《きぬ》のカーテンのように艶《つや》やかに輝《かがや》いた。
やがて、あくびをしながら面倒《めんどう》くさそうに、
「……話してないが」
「じゃ、知らないよ!」
「うるさいなぁ、もう」
この話題は不愉快《ふゆかい》らしく、ヴィクトリカはとつぜん怒り、一弥を無視《むし》し始めた。興味《きょうみ》なさそうに読んでいた書物に、頭を突《つ》っ込むようにして、わざとらしいほど読書に没頭《ぼっとう》し始める。
しかし、一弥があまりにも、「あー……」「うー」「うそだー…………」などと呟《つぶや》き続けているので、根負けして、顔を上げた。
「君、うるさいぞ」
「だってさー……」
「つまり、だな」
きわめて面倒くさそうにだが、説明し始める。
「彼は、グレヴィール・ド・ブロワ。ブロワ家の嫡男《ちゃくなん》にして、ブロワ侯爵《こうしゃく》さまだ。俗物《ぞくぶつ》で女好きで迷警部《めいけいぶ》だが、長男なのでね。父の正統な跡継《あとつ》ぎなのだよ。わたしたちは血の繋《つな》がった兄妹だが、公式な場で顔を合わせることは、まず、ないのだよ」
「……どうして?」
「それはだな」
ヴィクトリカは、顔をしかめた。
「わたしの母が、妾《めかけ》だったからだ。グレヴィールの母は、貴族の血が流れる、正式な妻だ。つまりわたしたちは腹違《はらちが》いの兄妹なのだよ」
「でも、だからって……」
「それに、わたしの母は危険《きけん》人物だった。職業《しょくぎょう》は踊《おど》り子だが、狂人《きょうじん》でもあり、先の大戦では物騒《ぶっそう》にも……いや、まぁ、それはいい」
母親のことを語るとき、ヴィクトリカは一瞬《いっしゅん》だけとても饒舌《じょうぜつ》になった。しかしすぐに口をつぐんだ。
一弥は、この学園に蔓延《はびこ》る噂《うわさ》話のことを、ふと思い出した。ヴィクトリカについても、いくつかの怪談《かいだん》めいた噂があった。
貴族の妾腹《しょうふく》の子であるとか。一族の中でなぜか恐《おそ》れられており、屋敷《やしき》においておきたくなくて、この学園に入れられたのだとか。母は有名な踊り子だが、発狂したとか。伝説の灰色狼《はいいろおおかみ》の生まれ変わりだとか。
そして、あの〈QueenBerry 号〉事件《じけん》の犯人《はんにん》、ジュリィ・ガイルが、サナトリウムで見たという、ヴィクトリカそっくりの、大人の美しい女性《じょせい》――。
ヴィクトリカは言葉少なにだが、また口を開いた。
「……つまりだね。わたしは高貴な血と、危険人物とのあいだに生まれたのだ。そしてわたし自身も、通常《つうじょう》の子供《こども》とは様子がちがったため、ブロワ家の屋敷の奥《おく》深くに隔離《かくり》されて育った。そしてこの学園に入れられてからは、ここからは出られないようになっているのだ」
「そんな……」
「先週、ここを出ることができたのは、兄貴の特別な外出|許可《きょか》≠ェ下りたからなのだよ。彼が同行することが条件《じょうけん》だった。途中《とちゅう》でコロッと忘《わす》れて、帰ってしまったがね。そういうわけで、わたしがつぎにこの学園の外に出られるのは、いつのことか、自分にもわからないのだよ」
「ヴィクトリカ……」
一弥は言葉を失った。
先週、外出したときのことを思い出した。慣《な》れない様子だったヴィクトリカ。機関車や馬車から身を乗り出し、外の風景をじっとみつめていたヴィクトリカ。海に上がる朝日にみとれていたヴィクトリカ。
美しいものは嫌《きら》いじゃないのだ、と語る彼女に、また見にこようと言うと、彼女はなぜか、寂《さび》しそうに笑った……。
ヴィクトリカはぷかぷかパイプをくゆらしながら、冗談《じょうだん》めかせて、
「わたしは囚《とら》われの姫《ひめ》なのだよ。どうだ、似合《にあ》わないだろう?」
「…………」
温室に、沈黙《ちんもく》が落ちた。
天窓《てんまど》から柔《やわ》らかな春の日射《ひざ》しが落ちて、黙《だま》り込んだ二人を照らしていた。生い茂《しげ》る植物が、天窓からのかすかな風に、緑の葉を軽く揺《ゆ》らしていた。地上とちがい、ここはとても静かだった。二人が黙れば、なんの音も聞こえなくなる。
ヴィクトリカが口を開いた。
「……そういうわけで、姫は退屈《たいくつ》している」
「うん。……んっ?」
いやな予感がして、一弥は表情《ひょうじょう》を固くした。
顔を上げると、ヴィクトリカが、駄々《だだ》をこねようとしているときの顔をしていた。どこがどう、と説明できないのだが、経験《けいけん》から、わかるのだ。
「あー……退屈だ」
「ぼくちょっと、そろそろつぎの授業《じゅぎょう》に……」
立ち上がろうとすると、ズボンの裾《すそ》を引っ張《ぱ》られて、転んだ。
「イテ!」
「退屈だ。こら、退屈だと言ってるだろう」
「すみません……?」
明らかに自分が謝《あやま》るところではないので、疑問符《ぎもんふ》がついてしまう。
ヴィクトリカはじたばたと体を揺らして、
「姫が退屈だと言ってるだろうー。謎《なぞ》だ。謎をご所望《しょもう》だぞ」
「そんなこと言ったって、いまべつに、不思議なことなんてなにもないよ」
「だったら久城、君、ちょっと下界に降りて、不思議な事件を捜《さが》してこい」
「やだよ。ないし」
「なければ自ら起こしたまえ。なにかに巻き込《こ》まれて、死ぬほど困《こま》れ」
「無茶《むちゃ》いうなってば」
ヴィクトリカはますますじたばたしている。よほど退屈しているのだろう。
「あー。つまらんー。退屈だ、退屈すぎて死ぬかもしれない。きっと死ぬだろう。おい、久城。君、そしたらただでさえ少ない友達が、一人|減《へ》ってしまうぞ」
「……余計《よけい》なこと言うなよ。怒《おこ》るよ」
「退屈、だ…………」
急に静かになった。
あれ? と不思議に思ってヴィクトリカの顔を覗《のぞ》き込むと、こてん、とこちらに、小さな頭が倒《たお》れてきた。
「ちょ、ちょっとヴィクトリカ! 死んだの? 退屈で死んだの? なにそれ。退屈≠ネんて死因《しいん》あるの、ちょっとー!?」
「くー……。すぴー……」
「…………なんだ、眠《ねむ》ったのか。紛《まぎ》らわしいなぁ」
ヴィクトリカは、一弥の肩《かた》に小さな金色の頭を預《あず》けて、眠ってしまっていた。さっきからあくびを連発していたし、きっと眠いのだろう。
週末の冒険《ぼうけん》のせいで、週のはじまりの朝、眠いなんてことは、よくあることだ。ヴィクトリカにはめずらしいことらしいけれど……。
一弥はつぎの授業に出るのをあきらめて、ヴィクトリカに肩を貸《か》し続けていた。
こうして座《すわ》っていると、確かに退屈だな、と思った。彼女が開いたままの書物を一|冊《さつ》、手に取ってみたけれど、難解《なんかい》なラテン語で書かれた哲学《てつがく》書で、一ページも読み下すことなく、投げ出してしまった。
遠くで小鳥が鳴いた。
春だ。
いい季節だ。
[#挿絵(img/01_315.jpg)入る]
膝《ひざ》を抱《かか》えて座っていた一弥は、小声で、眠っているヴィクトリカにささやいてみた。
「ねぇ、ヴィクトリカ。いつか、また、二人で……」
ちょっと照れる。
どうせ眠ってるんだし、と思い、続けてみる。
「外に出かけよう。そして、また海に上る朝日を見ようよ」
眠っていたはずのヴィクトリカが、ぱちりと緑色の瞳《ひとみ》を開いた。
「……約束だぞ」
そう言うと、また、静かに瞳を閉《と》じた。
[#改ページ]
あとがき
みなさん、こんにちは。桜庭《さくらば》一樹《かずき》です。
新作『GOSICK』をお送りします。よろしくです。
……ところでいま現在、というのは十一月の半《なか》ばぐらいですが、わたしは今年最大のプレッシャーの中にいます。事の起こりは、昨晩届いたメールです。たいへんお世話になっている担当のK藤さんからのものです。ちょっとした依頼なのですが、とはいえある意味、ぜんぜん、ちょっとしてはいないのです。
その依頼というのは、本屋さんの店頭配布用の宣伝素材に使う『GOSICK』の武田《たけだ》日向《ひなた》さんのイラストに、手書きでちょこっと、わたしから読者の方にメッセージを書《か》き添《そ》える、というものでした。ああ、そんな宣伝をしていただけるとはかなりうれしいです。しかしそれはうれしいのですが、メールの最後に、
「GOSICK よろしくねん、桜庭一樹、みたいな感じで、
女子高生っぽい、はにゃ〜んとした文字でお願いします。では!」
ものすごいプレッシャーです。書きました。半日かけて二十枚ぐらい、書いては丸めて捨て、書いては丸めて捨て……まるで昔の文豪《ぶんごう》のコントみたいでした。ザ・必死。
というわけでこのあとがきを書く五倍ぐらい時間と集中力をかけたあのはにゃ〜んメッセージ、あっ、ホントに使われるのかな、いじいじ……もし店頭でみかけたら、これかよ、と、数秒じっとみつめてやってください。はにゃ〜んが足りなかったらほんとにすみません。精進《しょうじん》します。
とはいえ、女子高生だった頃からあまり、はにゃはにゃはしていなかった気がします。手書き文字も普通でした。ちょっと思い出してみます。……授業をサボって図書館で本をむさぼり読んでいるところと、部活(テニス部でした)の帰りに女の子ばかりでいつものパン屋さんに寄って、おしゃれや映画の話をしながら棒アイスを食べているところしか思い出せません。そういえば『あずまんが大王』を読んで、自分の高校生活はほぼこんなんだったなぁ、としみじみしたことが……。
あ、テニス部といえば、とっておきのネタがありました。わたしが『米子東高校《よなごひがしこうこう》硬式庭球部《こうしきテニスぶ》最後のブルマ隊』の一員であった、というお話です。でもおもしろすぎるのでこのあとがきの最後のほうに使うことにします。今回、あとがきが長いのです。最後まで読んでもらうためにバラエティ番組みたいな姑息《こそく》な手を使ってみます。ひっかかってください。プリーズ。
はにゃネタで二ページも進んでしまいましたが、本来、先に言うべきことがありました。この新作『GOSICK』は、長編版となるこの本に先だって、ドラゴンマガジン十二月号に短編が掲載されています。龍皇杯参加作品です。結果はまだわかりません。というかまだ終わっていません。短編を読んで興味を持って下さった方が、こちらも手にとって下されば、ということでこの時期に合わせて出ているのですが、短編を読んでいない場合も、最初から楽しく読めるようになっています。というわけで、どうかよろしくお願いします。
ところでこの『GOSICK』というタイトルは、担当K藤さんがつけてくれました。この方は、ほかの作家さんのあとがきなどでよく「ブレインデッドK氏」と呼ばれている方です。ブレインデッドってなんだろう? と、英語にかなり弱いわたしはずっと考えていました。脳死……? でも使われ方からしてぜったいちがう。アイデアマンとか知恵袋とか、そういう感じの使われ方なので、ぜったいちがいます。確かにそういう方です。わたしもすごーく感謝しているッス。
そして、このK藤さん曰《いわ》く、『GOSICK』には表の意味と裏の意味があり、裏のほうは、わたしはさっきも書いたけど英語に弱いので言われるまでぜんぜん気づきませんでしたが、要するに「桜庭さんの周《まわ》り、変なヒト多いじゃん」ということでこれ、という一面もあるようです。変なヒトが多い……。いろいろ思い当たるのですが、同業者の友人の話など持ち出すと迷惑《めいわく》がかかるので(かかってもいいですが)、ここは一つ、大事な女友達を犠牲《ぎせい》にして、変なヒトについての話を書こうかと思います(ブルマ隊の話はまだまだ書きません)。
【その一】
友達が狛犬《こまいぬ》を盗みました。
狛犬というのは神社に入るときに入り口の左右に飾《かざ》ってある石でできたアレです。台車で盗みました。新宿にトルネード並《な》みの大台風がきた夜のことでした。なにをやってるんでしょうか。
その人は小柄《こがら》でクリッとした瞳が愛らしい、中学の数学教師です。実を言うとセシル先生のモデルにした人です。おそらくじゃなくてぜったい、生徒さんにも人気があると思います。はにゃ〜ん人気が。しかしおかしな人です。生徒たちは知らないにちがいない(大人は狡猾《こうかつ》な生き物なので、気心の知れた友人にしか変な面を見せないものだから)のです。
彼女が言うには、近所の神社が閉鎖《へいさ》されることになり、とても気に入っていたいい顔の狛犬≠ェ処分されるのをおそれて、車を持っている同僚に電話して狛犬泥棒の共犯を頼《たの》みました。そしたら断《ことわ》られました(←当たり前)。仕方なく、台車を借りてきて、台風の中、青いビニールシートがあちこちかけられている工事中の神社に入っていき、怪力《かいりき》でもって狛犬を持ち上げて台車に乗せました。雨の中、狛犬とみつめあうと、惹《ひ》かれあう運命を感じました(と、彼女は言っています)。そしたら作業中のおじさんが出てきて、背後からなにか叫《さけ》びました。手伝ってあげるよと言われたのだろうと彼女は思いましたが、そのときはもう、自分の手で狛犬を家まで連れて帰ってあげたいという気持ちでいっぱいだったので、振り切って、台車をゴロンゴロン押して走って甲州街道《こうしゅうかいどう》を逃げました。
その話を聞いてわたしが思ったのは、おじさんは「手伝ってあげるよ」と言った……わけないじゃん、「狛犬泥棒め、待て!」と叫んだんだよ。……彼女から話を聞いていた近所の沖縄《おきなわ》料理屋さんで冷静《れいせい》にそう指摘したところ、彼女は笑っていましたが、翌日、学校のパソコンからうちに抗議《こうぎ》のメールがきました。あくまで譲《ゆず》りません。先生って、頭、かたいよなぁ。
そういえばこの友人が、さっき、昼休みに学校から電話をかけてきました。わたしが文豪ごっこに明け暮れているときのことです。曰く……。
狛犬泥棒「ねぇねぇ、『キル・ビル』見に行かない?」
桜庭一樹「うわー、さすがにへんな映画に誘《さそ》うねぇ」
狛犬泥棒「だってあんなへんな映画、あんた以外に、
一緒に見に行く人を思いつかないもん。今週行こうよ」
桜庭一樹「……じつは、先週もう見た」
狛犬泥棒「いやーん、へんなひとー」
……電話は切れました。すっごい不満《ふまん》でした。そういえばこの狛犬の話には続きがあって、彼女が全身びしょ濡《ぬ》れになりながら家に帰り着き、狛犬を部屋に運び入れた途端《とたん》、部屋で飼《か》っているアメリカンショートヘアの雌(←名前はキムタク)が、ぐるぐると唸《うな》り声《ごえ》を上げ、狂ったように部屋中を駆《か》け回《まわ》って止まらなくなったのです。これは、狛犬になにか憑《つ》いているにちがいない、と焦った彼女は、狛犬をベランダに押し出しました。するとキムタクは元のキムタクに戻ったそうです。ホラーっぽい不思議なオチです。でも泥棒《どろぼう》はいけないと思う。
【その二】
狛犬の話の後ではなにを書いてもインパクトが薄《うす》いですが……。
通っている空手道場の女の先輩が、鼻の穴を焼《や》きました。
とても美人で強い先輩です。知的で大人っぽいタイプのOLさんで、全日本大会女子軽量級のチャンピオンです。ちなみにわたしは同じ大会でもっとずっと下のほうで負けました。それはいいです。この先輩は美人で強いのに意外な弱点があります。それは「鼻血が出やすい」ことです。彼女曰く、もともと鼻の粘膜《ねんまく》が弱いらしくて、小学生のときからよく教室で鼻血を出していたそうです。大人になったいまも、運動して血行《けっこう》がよくなるといきなり真顔で鼻血を噴き出します。道場でも稽古中《けいこちゅう》にときどきあり、みんなあわててティッシュの箱やらタオルやらモップやらを抱えて「先輩!」と走りよります。
もちろん試合中も出してしまうので、このたび、とある大事な試合の前に、先輩は近所の耳鼻科《じびか》に行って相談したそうです。それで鼻の穴の中を薬品で焼《や》いて、鼻血が出ないようにしました。試合当日、わたしたちセコンドについた後輩に、先輩は自信満々でこう宣言《せんげん》しました。
「今日は大丈夫。鼻の穴、焼いてきたから」
耳鼻科の先生曰く、一か月ぐらいは鼻血が出にくくなるそうです。わたしたちは顔を見合わせ、半信半疑《はんしんはんぎ》ながら「……押《オ》〜忍《ス》」と返事しました。
そして、試合が始まりました。順当に一本勝ちを決めて勝ち進む先輩。強い! かっこいい!! わたしたちは最初の不安を忘れて夢中で応援していました。そして、準決勝戦が始まり、残り一分。接戦《せっせん》になり盛り上がる会場。と……。
ぶふ――――――――――!!
……出ちゃいました。やっぱり……。試合は中断し、「選手の鼻血が止まり次第、再開いたします……」という場内アナウンスが会場に響き渡りました。
うなだれるわたしたち。誰ともなく発した「……焼いたのにね」というつぶやきも、会場のざわめきにかき消されて……。
【その三】
読んでいる方の脳裏には、美人空手家がどくどく噴き出す鼻血と阿鼻叫喚《あびきょうかん》の様子が展開されていると思いますが、つぎの話に行きます。こちらもまたきれいな友達ですが、少し強面《こわもて》で、こわくなければもっとモテると噂《うわさ》されている人です。職業は看護師で、口を開かなければ白衣の天使です。口を開くと容赦《ようしゃ》ない(とくに男子に)人です。
この人はある朝、顔を洗っていたら右手の小指が鼻《はな》の穴《あな》にツルリと入って奥に突《つ》き刺《さ》さり、どくどくと鼻血が止まらなくなって勤務《きんむ》している病院に遅刻《ちこく》しました。
……すみません、それだけです。鼻血のことを書いていたら急に彼女のことを思い出しました。
【その四】
同じ強面天使の話です。しゃれが通じないかもしれないと思うと、いろいろとツッコミにくい人です。でも意外と隙《すき》の多い人です。その隙の一つに、下着があります。
金色《きんいろ》のブラジャーをしています。
女友達四人で、今夏、常夏の島プーケットに旅行に行きました。海! フルーツ! ムエタイ! 新婚旅行のカップルが多く泊まっているなにやら豪華《ごうか》なホテルに泊まりました。五泊なので、女ばっかりだし、下着を洗ってバスルームに干《ほ》している人もいました。
朝、わたしが起きて、バスルームに入ると、金色に輝くブラジャーが干してありました。
一度、目をそらしました。
もう一度、見ました。
ブラジャーはまだそこにありました。幻ではなく、確かに実体として、そこにありました。
わたしは頭を抱《かか》えました。黙って顔を洗って歯を磨《みが》いてバスルームを出ると、先に起きた二人もまた、顔を硬くしてそれぞれのベッドに座《すわ》っていました。わたしたちはチラチラと互いの顔を見て、また目をそらし……一人が思いきって、口を開きました。
狛犬泥棒「わたしじゃないよ」
桜庭一樹「……わたしでもないってば」
もう一人「わたしもちがう!」
それから三人は、残りの一人……強面天使がまだすやすや眠っているベッドを、ゆっくりと振り返りました。起きているときはこわいですが、こうして眠っていると、黙っているから本当に天使のようです。
彼女が眠っているうちに、わたしたちは彼女のあだ名を『ザ・ゴールデンブラジャー』に決定しました。満場一致《まんじょういっち》でした。狛犬泥棒は転げ回って喜んでいました。やがて起き出してきたザ・ゴールデンブラジャーは「なんでよ!? やだってば。いままで通り名前で呼んでよ!」と怒り狂い暴れ回って抗議《こうぎ》しましたが、数の正義には勝てませんでした。
しかし、それにしても……。
普段《ふだん》はニコリともしないクールビューティーが、まさかあんな、ラスベガス人みたいな下着をつけていたなんて。あ、どこで買ったのか聞くの忘れた。ドンキ……?
人間には、下着いっちょうにならないと見えてこないものもあるのだ、と、とってつけたように教訓《きょうくん》に走ってみました。ああビックリした。
……わたし、なんでこんな話を書き連ねてるんだっけ? あ、あとがきのページ数がいつもよりベリー多かったのでした。でもだいぶ進んだぞ。友達がこの本を読みませんように。
そろそろ『米子東高校硬式庭球部最後のブルマ隊』の話を書きます。でもじつはそんなにおもしろい話じゃありません。わたしが入部したテニス部は、硬式は硬派《こうは》、軟式《なんしき》は軟派《なんぱ》、みたいなわかりやすい図式《ずしき》でした。硬派な硬式のほうに入ってしまったわたしたち新入部員にとってもっとも辛《つら》かったのは、「一年だけブルマ」という、十年以上続く伝統≠ナした。
テニス部って、もっとかわいいウェアのイメージがあったのに……!
二年、三年の先輩は、スコートと呼ばれる白いふわふわミニスカートを履《は》いていました。さらにその下にレースたっぷりのアンダーウェアをつけるわけです。しかし一年だけ「上はTシャツ、下はブルマ」です。Tシャツが長すぎると、ズボンを履《は》き忘《わす》れたうっかりさんみたいになってしまいます。ただでさえ辛《つら》いのに、詰襟《つめえり》の応援団員たちが、わたしたちが通るたびに「ブルマ隊だ! ブルマ隊がきたぞ! であえであえ〜!」と囃《はや》し立《た》てます。テニスラケットでがしがし殴《なぐ》りますが、笑っています。よっぽどおもしろかったのでしょう。
もっとも辛かったのは、そのまま学校の敷地を出て、外の道路などを「東高〜! ふぁいっ、おー! ふぁいっ、おー!」などと元気よく掛け声をかけて走り回らなくてはならないことでした。当然、ブルマ隊の存在は学外でも少し知られていました。間抜けでした。
ようやく一年間が終わり、今年からスコート! ふわふわレース! と思ったとき、最後の悲劇《ひげき》がやってきました。
つぎの部長になった先輩が、とつぜん「もうこんな無意味な伝統はやめよう。今年からは一年もスコートを履いていいよ」と言い出したのです。改革派《かいかくは》というやつです。な、なんつー急展開……! しかし、じゃあ、わたしたちの一年間はなんだったというのでしょうか。
というわけでブルマ隊はその年をもってとつぜん姿を消し、わたしたちは『最後のブルマ隊』(確か七人いたような)という十字架《じゅうじか》を背負《せお》ったまま、一年と一緒にスコートを買いに行ったのでした……。なんか地味《じみ》だな。ほかの話と比べると。
あぁぁ、あとがき長いよ〜。ここまで読んで下さってほんとにありがとです。
それではそろそろ、まとめに入ります〜。
今回も、担当のK藤さん初め、関係各位のみなさんにたいへんお世話になりました。イラストの武田《たけだ》日向《ひなた》さん、にこにこ笑顔のやえかちゃんとはまたちがうタイプのヒロインを、かわいくて透明感のある絵に仕上げていただいて、たいへんありがとうございました。むすぅ〜、としてるのに、ほっぺたがぷっくぷくで、小指とかでつつきたくなるヴィクトリカで、すげぇいい感じです。ありがとです。
そして、この本を読んで下さった読者のみなさんにも、ありがとうございました。楽しんで読んでいただけたなら幸《さいわ》いです。またお会いしましょう。それでは〜!
[#地から2字上げ]桜 庭 一 樹
底本:「GOSICK―ゴシック―」富士見ミステリー文庫、富士見書房
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2005年04月05日作成
2006年02月05日校正。ダッシュに罫線を使用していたのを修正。
2006年04月20日校正
2007年08月28日校正
2007年09月27日校正
2007年10月12日校正
2007年11月04日校正
2009年05月18日校正
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このテキストは、Share上で流れていた
[富士見ミステリー文庫][桜庭一樹] GOSICK T〜V.rar たかしEK8XdD1GHb 68,832,502 b559bd58757bdcf53abb6df176fa0ba7b29977fc
の中の第一巻をOCRソフトでスキャンし、それを校正して仕上げました。
奥付画像が入ってなかったので、底本の発行年度等は分かりません。
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このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
底本は1ページ17行、1行は約42文字です。
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本33頁5行 亀裂《きれつ》によって吉兆《きっきょう》を占った
「吉兆(きっちょう)」のルビが「きっきょう」になっています。ルビ間違い?
底本245頁3行 唇《くちびる》も小刻《こきざみ》みに震《ふる》えて
底本では「小刻」のルビが「こきざみ」となっていましたが、「み」が余分なのでこのテキスト本文では取りました。