よくわかる現代魔法 たったひとつじゃない冴えたやりかた
There'es More Than One Way To Do It!
contents
prologue ヒヨコデイズ hiyoko days
1 小悪魔たちの朝 little bsd
2 姉とエプロンとカレールウ pinafore
3 アキハバラゾイド akihabara zoid
4 ジャム! jam!
5 癒しの乙女 cure maid
6 ウィッシュドール wish doll
7 さらば愛しきひとよ farewell, mai:lish
8 神の見えざる手 lammtarra
epilogue ホームスイートホーム @home
prologue
ヒヨコデイズ hiyoko days
のび太の机の中にはタイムマシンがある。
天板のすぐ下についている幅広のひきだしを開けると、そこは、不思議な四次元空間という場所に繋《つな》がっている。五センチほどの高さしかないはずのところから青いロボットがひょっこりと顔を出し、彼を冒険の旅へと誘《いざな》うのである。
時空を移動する乗り物とはいわないまでも、自分の机のひきだしにも、ひょっとしたら説明のつかないなにかが入ってるんじゃないか?
ひきだしを開ければなにか不思議なことが起きるんじゃないか?
むかしはそう思っていた。
もしもタイムマシンが現れたとき、中に入っていたものがなくなってしまわないよう、ひきだしを空にしたこともあった。
ずっとずっと前のことだ。
その頃は掛け算もできなかったし、アルキメデスの定理も運動方程式も、光の速度を物質はけして超えられないという特殊なんとか理論も知らなかった。当時の聡史郎《そうしろう》にとって、世界は、なんだかわからないものがなんだかわからないまま存在している得体の知れない場所だった。
ちなみに、のび太というのは、国民的な少年マンガに登場する、ダメ人間を絵に描いたような小学生のことである。成績は悪いし運動神経もゼロで、クラスメイトにいつもパシリ扱いされている。だけれど、未来の世界からやってきたネコ型ロボットに不思議な道具を貸してもらって、彼は日常のさまざまな難問を解決する。
……あくまでもマンガの話で現実とは関係ないが。
厳格かつ冷酷な真実に聡史郎が目覚めたのがいつのことかはわからない。サンタクロースの正体が八歳離れた姉と知ったときと同じくらいのことなのではないかと思うが、あいにくと何年前のことかはっきりしない。いまは、机のひきだしにはみっちりとものが詰まっている。
現在の姉原《あねはら》聡史郎は、机のどこかに未来の道具が隠れているなどという夢想はしない。起きているあいだに夢を見ていいのは小学校低学年までだと思う。
ひきだしの中にタイムマシンがあるマンガも、今年の四月に同級生の弟が小学校にあがるというので揃いであげてしまった。自分が読むからとっておけと大学生の姉がわけのわからないことを言っていたけれど、大人が子供のマンガを読むものではないと一喝《いっかつ》して黙らせた。あんたは子供なのに夢がないと、姉が嘆息《たんそく》したのをおぼえている。
たしかに夢のない話だ。
自分でも思う。
歳をとるというのはきっとそういうことなのだ。十一歳の聡史郎は納得している。
聡史郎の机は古めかしかった。
魔法学院の創設者という曾祖父が使っていたもので、それなりに因縁だか由緒だかがあると聞いていた。重くてでかくて、天板となっている一枚板はポットで淹《い》れて十分以上放置した紅茶のような色をしている。板の厚さを計ったら五・五センチだった。勢いをつけて体当たりしても、机はびくともしない。階段を運びあげて二階にある自分の部屋まで持っていくことなどとてもできないシロモノであり、机が置いてある一階の倉庫は、現在、聡史郎の勉強部屋を兼ねている。
歴史があるとはいっても、机は、削刀《けずりがたな》のけずり跡やらシールをはがした跡やらでいっぱいである。天板に空いた穴には丸めた消しゴムのかすが詰まっているし、裏の目立たないところには聞いたことのないふたりの相合《あいあ》い傘が彫ってあったりする。かつては荘厳で、もしかしたら値が張ったかもしれない机も、いまは粗大ゴミと大差ない状態だ。
まあ、サギ師が使った高価な机の末路には、相合い傘の彫刻なんぞがふさわしいのではないかと聡史郎は思う。そもそも魔法などというものが現実世界に存在するはずはないし、つまり自分の曾祖父はサギ師で、金余りのアホな華族から金を巻き上げて銀座という死ぬほど土地の値段が高い場所に学校なんてものを建設し、普通の勤め人の十年分の給料がふっとびそうな机にふんぞり返っていたのだろう。
その後姉原家は没落し、サギ師の末裔《まつえい》たちは、かつて校舎として使っていた建物を住居がわりにして暮らしている。時を経た洋館は、いまにも潰《つぶ》れそうな銀座三丁目のホラーハウスとして有名だ。栄華を誇ったサギ師のおもかげはどこにもない。
まったく嘆かわしい話だった。
倉庫兼勉強部屋の中、十一歳の姉原聡史郎は、ポットで淹れて十分以上経過した紅茶色の机の前に佇《たたず》んでいた。
広い部屋だ。学校の教室と同じ大きさである。
室内は薄暗く、木や紙や金属の箱がところ狭しと積みあがっている。薄汚れていないのは机の周囲からハタキが届く範囲までで、多くの物体は、何年前から積もっているのか想像もつかないぶ厚いほこりに覆われている。いちばん奥のほうでは、自分の巣に絡まったクモが干からびている。厚さが均一でない窓ガラスから射しこむ歪んだ光に照らされ、干からびたクモとその獲物は、聡史郎が生まれたときからずっと部屋の隅にぶら下がっているのだった。
部屋の中にいるのは聡史郎と姉の美鎖のふたりだ。
薄暗い室内の光と闇のはざまにある、どちらかというと闇の支配力が強いモノトーンの空間に溶けこむようにして美鎖は立っていた。銀色の鎖がついたメガネをかけ、真っ黒なアミュレットを首からぶらさげている。自分の姉ながら、人間というよりは幽鬼のように見えなくもないなと、失礼なことを聡史郎は考えたりする。
机の上に細長い木箱を横たえ、美鎖は、金槌を振りあげる。細い腕が金槌を振りおろすたび、がつん、という音とともに鉄の臭いが飛び散り、真新しい鋼《はがね》色の釘が木箱に埋まっていった。
がつん。
振りあげる。振りおろす。
がつん。
がたごと。
金槌を叩きつけるたび、中にネコでも閉じこめたかのように、木箱は不規則に振動し音をたてた。棒状のものしか入らなそうな細い箱だ。ネコが入っていたら大変なところだけれど、美鎖が閉じこめそうな黒ネコはケガをして現在入院中なので安心だった。
「聡史郎。この箱に|おいた《ヽヽヽ》しちゃだめよ。ちょっとばかり危険なものだから」
美鎖が言った。聡史郎は答える。
「しねーよ」
「実を言うと男の子が好きそうなアイテムが中に入ってるんだけど、ほんとにだめよ?」
「しねーって。ていうか自分で中身をばらすなよ」
「あんたくらいの歳の子って、魔法の剣とかに興味|津々《しんしん》だと思うんだけどなあ」
「おれの前で魔法って言うな」
「あ、そ」
がつん。
聡史郎が姉の行動を見守っているのには理由があった。
美鎖が木箱に閉じこめようとしているものに興味はなかった。フッー、剣は勝手に動いたりしないものだけれど、なにしろ元魔法学院だった家のことである。ごとごとと動く剣などかわいいほうだ。すすり泣きにしか思えない声が夜な夜な漏れてきたり、木の板の隙間からときおり青白い光が漏れたり、なにかしゃべっていると思って耳を近づけてみたら「開けてくれ開けてくれ」という言葉だったりと。そんなモノがこの部屋には満載だった。
だいたい、見てしまったが最後、十年は記億にへばりついてはがれないヤバいシロモノがこの部屋にはたくさん存在するのである。
動く剣や地球の裏側に住んでいる原住民の呪いがかかっていそうな置物は初心者レベル。こんなところでびびっていたら姉原家で生活はできない。レベルが上がるにつれて物体のナマモノ度は上昇していって、中級レベルになると、ネットや図鑑を調べてもどこにも載っていない生物が出現するようになる。足の代わりに鼻で歩く生物の剥製《はくせい》なんかがそうだ。
ホルマリンに漬かっている得体の知れないヤツになると相当な高レベルであり、ぷかぷか浮かぶひとつ目小僧がウインクするところを見せたりしたら、百年つきあった相思相愛の女の子でも一発で別れ話になることを保証する。
木箱をわざわざ開いて見ようなんて気はさらさらない。サギ師の祖先が残した得体の知れない物品のイカサマを暴露するのは他の人にまかせ、聡史郎は、いかれた家の中の状況よりむしろ常識を信じるべきだということがわかってきたのだった。
常識よりはどちらかというとイカサマの領域に生息する姉の行動を監視しているのには他の理由がある。
かつて、聡史郎は、お気に入りの消しゴムを机のひきだしの裏側に落としてしまったことがあった。無闇に重い三段のひきだしを全部引っこ抜き、消えた消しゴムの行方を探ったのだ。そのとき見つけたのが第四のひきだしだった。
机についている最下段のひきだしは床から数センチ浮いており、ひきだしの底と床のあいだにはわずかな空間ができていた。考えてみれば当然のことだ。
そこは、なぜか、収納スペースのようになっていた。
上に傾けるとひきだせた。
中には、お気に入りの消しゴムと、セピア色に変色した手紙の束と、綿ぼこりのかたまりが転がっていた。手紙の宛名は姉原だったが、姉や父ではないようだった。名前を知らない聡史郎の祖先へ、誰かわからない人物から届いた手紙だった。
手にとると、束をとめていた輪ゴムが切れて落ちた。時を経た輪ゴムは、伸びきり、力なく床に横たわっていた。ほんのすこしだけ、硫黄《いおう》のにおいがただよったような気がした。
手紙の中身を読んでみようかとも思ったけれど、すでに鬼籍《きせき》に入っている祖先のプライバシーを覗き見るのは気が引けた。くそ重いひきだしをすべて外さねば発見できない場所に隠した手紙だ。釘を打ちつけた木箱にしまいこむよりよほど見て欲しくないものだろう。たとえサギ師の秘密だとしても、それは守られてしかるべきものだ。
代わりに、聡史郎は、自分の秘密もそこにしまいこむことにした。誰にも知られてはならない、特に姉の美鎖には知られてはならない秘密だ。
魔法学院の豪華な机にふんぞり返っていたサギ師の秘密を守り抜いたひきだしなら、聡史郎のちいさな秘密も隠してくれる。未来から来た不思議の道具は入っていなかったけれど、誰も知らない秘密をこの机は飲みこんでくれる。自分だけが知っている第四のひきだしの中は、自分だけが知っているものをひっそりと収納することができる。一方通行かもしれないけれど、もしかしたらそれはタイムマシンであるかもしれないから。聡史郎はタイムマシンを得ることができなかったけれど、誰かにタイムマシンを与えることならできるかもしれない。
そんな気がした。
がつん。
机の上の木箱に美鎖は金槌を振りおろした。
さいわいにしてひきだしには鍵がかかっているし、聡史郎しか知らない場所に隠してある。美鎖の興味は細長い木箱にあり、机にはないようだ。
がつん。
がたごと。
「そういえば、父さんからハガキ来てたわよ」
服の胸ポケットから一枚の絵ハガキをとりだし、美鎖はひらひらと振ってみせた。
心臓がどきどきした。聡史郎の舌はへらず口を叩く。
「なんだよ。まだ生きてたのかよ」
「実の父親にそんなこと言うもんじゃないのよ」
「自分だってよく死んだことにするだろうが」
「それは別。天国の母さんって言うより、天国の父さん母さんって言ったほうが言葉の座りがいいでしょ」
「わけわかんねー」
聡史郎は絵ハガキをひったくった。ハガキの裏は、どこまでも深い蒼《あお》の空を背景に峻険《しゅんけん》な山がそびえる写真だ。白い雪をたたえた山々が、剣のように天にむかって突きたっていた。
「ここ、どこだ?」
「チベットあたりじゃないかしら」
「またそんなとこ行きやがったのか」
「気楽なもんよねえ」
聡史郎と美鎖の父親は考古学者である。しじゅうどこかをほっつき歩き、世界中から手紙を出してくる。肉親なのに顔を忘れてきたやべえ、というタイミングで帰ってくる程度だ。映画に出てくる冒険野郎の考古学者だって普段は教鞭《きょうべん》をとっているというのに、この男はそれさえもせずに姉原家の財産を食い潰しているのだった。
姉いわく、母親の存命中はけっこうなマイホームパパだったそうだが、聡史郎が生まれるとすぐ母親は死んでしまったのでよく知らない。姉原家の基本は、現在、姉と弟で構成されている。
聡史郎はハガキを裏返した。
表には、宛先人の住所と名前しか書かれていない。近況どころか、差出し人の名前も書いてなかった。
「なんにも書いてねえじゃん」
「書き忘れたんじゃない?」
「どうやったらハガキで書き忘れられるんだ?」
「いつものことでしょ。さて、終わり終わりっと!」
がつん。
最後の釘を打ち終わり、美鎖は手をはたいた。箱の中身が懲りずにごとごとと音をだした。
「その箱、どうすんの?」
「そのへんに積んどいてくれるかしら」
「ヤバいもんじゃねえの?」
「そうなんだけど……ここにあるのは多かれ少なかれヤバいものだしねえ。危険なものを奥にしまいこむとしても、順位付けってけっこうビミョウなのよね」
くびれた腰に手をあて周囲を見回す。ヤバいものに囲まれて、困っているのか楽しんでいるのか判断がつかない表情だ。聡史郎は嘆息した。
「悩んでてもしかたないから、そろそろごはんにしましょう」
金槌を片手に、美鎖は倉庫兼勉強部屋の出口に向かって歩きだした。机は作業台として使っただけで、中身に興味を持つことはなかったようである。
聡史郎もついていく。
「ところで姉さん、おれがつくったハバネロ水知らねー? 見つからないんだけど」
「きのうのスープに入れたわよ」
「マジかよ」
「よく出汁《だし》がでてておいしかったでしょ?」
「……いかれてやがる」
聡史郎は、おぼえたばかりの言葉で心を落ちつかせた。
いかれている、という言葉を教えてくれたのは、我輩の辞書に常識という言葉はない姉と違って、まるきりフツーの世界に生きていそうな女性だった。いかれた物品と法則で汚染されたこの家の状況を、そこにいるだけで浄化してくれそうな、そんなかんじがする人だった。
最近会ったばかりのような気がするのだけれど、もはや姿形もはっきりおぼえていない。記憶にプリントされているのはいかれているという言葉だけで、あとのすべては靄《もや》の彼方《かなた》だ。いかれている、という言葉を口に出すたび、聡史郎の胸の中心からすこし左側にずれたあたりには、もぞもぞというかもにょるというかなんとなく苦しいというか、とにかく、得体の知れない面妖なざわめきが発生したりする。
それもこれも、いかれたこの家のせいに違いなかった。
「姉さん、飲食物にヘンなものを混入するの、やめてくれよな」
「まずかった?」
「そういうモンダイじゃねえの」
「よかった。味つけは魔法でしてるからだいじょうぶだと思ったのよ」
「だからおれの前で魔法って言うな」
「はいはい」
このいかれた姉が生きているかぎり、自分の魔法嫌いはなおらないだろうと聡史郎は思う。料理を爆発させたり、部屋の窓ガラスをくしゃみひとつでふっとばしたり、さわっただけで電化製品をショートさせたり、家の前のアスファルトに|人型の穴《ヽヽヽヽ》を空けたり、人間の域をとうの昔に超えている姉が人並に死ぬなどということはとても想像できないが……。
つまり、どんなことがあろうとも未来|永劫《えいごう》姉原聡史郎は魔法が嫌いであり、そんなものの存在は信じてやらないということだ。
ごとごと鳴りつづける木箱と開かずのひきだしを背に、十一歳の聡史郎は、倉庫兼勉強部屋の扉をがちゃんと閉めた。
小悪魔たちの朝 little bsd
新しい朝が来た。
隣家のラジオから聞こえてくる歌のように希望にあふれているかどうかはわからないけれど、朝は朝だ。レモンイエローの陽射しを浴びたスズメがちゅんちゅん、カラスはカア。その日はじめて人間に呼吸される玄関の空気はすこしだけ濡れていて、ひんやりとした湿り気を喉に残していく。東の空のずいぶん高い位置で輝く太陽に、坂崎嘉穂《さかざきかほ》は夏の到来を感じた。
「さて。きょうの世界情勢はっと……」
いつもと同じ着ぐるみパジャマを身につけ、いつもと同じセリフをつぶやき、いつものように朝刊をとるためポストをのぞいた嘉穂は、いつもと違う物体をポストの中に発見した。
その物体は、まず、黒かった。
四角く角張っていた。
断面が角材型の羊羹《ようかん》なんてものがこの世に存在したとして、ものすごくケチな婆さんが薄くうすく羊羹を切ったみたいな、そんな形だ。一方の隅には銀色の鎖がついていて、羊羹の下で複雑なとぐろを巻いている。ポストの中、配達されたばかりの新聞の上にその羊羹状物体は鎮座しているのだった。
物体を手にとる。
新聞とは違うひんやりとした感覚が指先を駆け抜ける。同時に、得体の知れないごわごわとしたものが全体にこびりついていることもわかった。ごわごわは銀色の鎖にも付着し、本来は輝くシルバーである金属をところどころ焦茶色に染めている。
嘉穂は、その物体に見おぼえがあった。
こよみの師匠である美鎖が常時身につけている|首飾り《アミュレット》と同じ形状の物体だ。というか、どうみてもアミュレットそのものである。
そのアミュレットが、固まってごわごわになった血を全面に付着させたまま。坂崎家の朝のポストに投函されていたのだ。
ひとえまぶたを細め、嘉穂は家の周囲を見回した。
陽光とともにふやふやと周囲にただよっていた希望! とか、鮮烈! とか、澄み切った青空にこだまするごきげんよう! とかいう抽象的なマエ向キ概念たちが、急遠冷凍され固まってしまったように感じられた。フリーズドライ状態のマエ向キ概念たちは、地面に落下し、ぱりんばりんと軽い音をたてて木端微塵《こっぱみじん》となるのだった。
前の日の日曜日、嘉穂は美鎖と会っている。六本木の大規模複合ビルに用があるとかで、弟子であるこよみを美鎖は呼びだしたのだ。嘉穂を呼んだのはこよみで、三人は揃って六本木に向かった。
ところが、弓子の闖入《ちんにゅう》により、こよみと嘉穂は美鎖とはぐれ、結局最後まで合流することはなかった。jini《ジニー》の一件が解決し屋上に登ったときには、美鎖と弓子の姿はすでになく、へリボートのコンクリートにぽっかりと穴が空いていただけだった。
連絡がつかないまま嘉穂は帰宅した。多少は気になったけれど、深く考えることはしなかった。
美鎖の突飛な行動はいつものことだ。本人はものすごく考えた末に答えを導きだして行動しているようで、そのことは外側からでもわかる。だが、出力される行動が過程なしの解答であるため、はたから見ていてわかりづらかったりする。数学のテストで答えが合っていても数式を解く過程を書かなければ×になることがあるし、そういうことでいうと、姉原美鎖という女性は現実世界を生き抜く偏差値があまり高くないのかもしれない。
翌日のいま、ポストに美鎖のアミュレットが血まみれで入っている。
あまり普通とはいえない状態だった。
「森下《もりした》や|一ノ瀬《いちのせ》じゃなくてあたし。森下や一ノ瀬じゃなくてあたし。森下や一ノ瀬じゃなくてあたし」
口の中で三回繰り返した。
薄く切った羊羹状のアミュレットは嘉穂のてのひらの中で固く冷たい感触を保ちつづけている。消えるとか煙を出すとか、プラカードを持ってヘルメットをかぶった男が物陰からとび出してくるとかいう様子はない。
坂崎嘉穂は、混じりっけなしのピュアな一般人である。
クラスメイトかつ友人である森下こよみとその師匠の姉原美鎖は現代に生きる魔法使いだ。
ライバルの縦ロール女こと一ノ瀬弓子クリスティーナも同じく魔法使いである。
だけれど嘉穂は、魔法が使えないごく普通の高校生だ。なにもない空中に突然金だらいを召喚したり、輝く剣を空中に生み出してコンクリートに穴を穿《うが》ったりすることはできない。
魔法という不思議の術の存在は知っているし、美鎖が魔法の道具に使用するコンピューターに関してちょっとは詳しい。魔法発動コードを組むときに必要なアセンブラを読み書きすることができ、三十一まで片手の指で数えたり、学校の教科書には載っていない排他的諭理和演算を暗算したりできる。セキュリティーホールを丸出しにしたままネットに接統しているマシンを踏み台にして、他のマシンに侵入したりワームを放ったりすることも、やらないだけでやろうと思えば不可能ではない。それが嘉穂のスペックである。
家やケータイに電話してもおそらく無駄だ。美鎖は意味のないいたずらをするような人間ではない。なんらかの事情で連絡がとれないから、自身がつくりあげた最大のマジックアイテムを送り届けてきたのだ。
森下こよみや一ノ瀬弓子クリスティーナや美鎖の弟の姉原聡史郎ではなく、嘉穂のもとにアミュレットが届いたというのは、受けとるのが自分でなければならない理由があるはずだった。
朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこみ、嘉穂の頭脳は高遠で思考を開始する。
身に迫った危機の情報を他者に伝えるだけでよいのなら、血の繋がった弟の聡史郎に届けたほうがいい。
聡史郎は魔法を毛嫌いしている。目の前の現実よりも教科書に載っている物理法則を信じるタイプだ。彼が血まみれの物体を受け取ったとすれば、アミュレットが美鎖のマジックアイテムだということを考慮せず、ただ、血に染まった姉の身の回りの品が届いたと考え行動するだろう。
つまり、血まみれであることだけがメッセージなのではない。血まみれから意味を見出すことは不可能ではないものの、だからといって、怪我をした美鎖に肉親以上のサポートを嘉穂ができるわけでもない。よって、このアミュレットの存在を、嘉穂は魔法を前提にして解釈しなければならない。
一方、マジックアイテムを託すという意味なら、受け取る人物は古典魔法使いの弓子のほうが適している。四六時中対立しているし、いささか弓子は直情径行《ちょくじょうけいこう》気味ではあるけれど、なんだかんだといってふたりは仲がいい。アミュレットに魔法的なメッセージが隠されているのなら、それを見抜ける人物は古典魔法使いの弓子だけだろう。
事情があって弓子がだめだとしても、次に来るのは弟子のこよみだ。嘉穂ではない。
それに、きょうがウイークデーであることを考えれば、こよみのところに届いたとしても、彼女は学校で嘉穂にかならず見せるはずだった。
魔法的な意味を含んでいるものの、弓子ではだめで、こよみをスキップして嘉穂でなければならない理由――。
嘉穂は考える。
自分はどうすればいいだろうか?
違う。
嘉穂はどうするだろうとアミュレットの送り主は考えたのか、が正答だ。それをこれから推測しなければならない。
こよみに内緒にしろということだろうか。
弓子にも内緒?
「……母ちゃんたちにも内緒だぞ」
つぶやいてから、つっこみを入れてくれる友人がまわりにいないことに気づいた。パジャマのフードから垂れ下がる中途半端な長さの髪に指をからませ、嘉穂は、深い思考に沈降する。
こよみにこのことを伏せておく意味はあまりなさそうだ。血まみれのアミュレットを見ればきゃあきゃあわめいてうるさいだろうけれど、被害といえばそれくらいである。ああ見えて、彼女は意外に芯がしっかりしている。こよみをとび越えて嘉穂のもとにアミュレットが届いた理由は、事実を彼女に隠す以外の意味を含んでいる。
頭上でカラスが鳴いていた。分刻みで進行する朝の時間がだいぶ消費されていた。
嘉穂は、毎朝決まった時刻に起床し、決まった時間で朝食を食べ、決まった電車で学校に行く。校門をすり抜けるのは毎日決まって予鈴が鳴るのと同時だ。目覚まし時計が鳴るタイミングはいつもギリギリで、余分な時間はとっていない。特に寝起きが悪いとかそういうことではなく睡眠時間はすこしでも多いほうがいいという合理主義によるものであり、通学路で無駄にあせったり走ったりしないのがポリシーだ。
学校へ行くならば、新聞を読みながら朝食を食べる貴重な時間を省かなければならない。
嘉穂はいくつかの選択肢を思いついた。
一、なにもしない。
二、欠席する。
三、遅刻する。
四、早退する。
坂崎嘉穂は優等生で通っているから、バカバカしくても社会のルールに従ってみせることが重要だ。不都合なことも全部飲みこんで優等生を演じているからこそ、全校生徒の成績データベースが保存されているサーバーに家からリモートアクセスしても誰も不審に思わない。
いくらなんでも生徒の嘉穂にスーパーユーザー権限を与えるのはどうかとも思うが、管理者の数学教師より嘉穂のほうがコンピューターに詳しいのだからしかたないといえばしかたないかもしれない。
だから、嫌いな教科の宿題は教科書レーダーを丸写ししているとか、小学五年のとき先生にほめられた読書感想文は直子に代筆してもらったものだとか、そういうことは誰にも言えない秘密である。無断欠席なども考えられなかった。
シリコン製のアミュレットを握りしめていたてのひらは冷えきっていた。ふと気づき、クマの顔がプリントされたパジャマのフードを押しのけ、冷たい手を嘉穂はひたいにあててみる。
てのひらに比べるとずいぶんと温度が高いようだった。
「うん。熱い。これはたいへんだ」
棒読み口調で言う。
熱があるので、きょうは学校を休むことにした。
「あなたです」
男は言った。
気配りとか人情とか容赦《ようしゃ》とかが感じられない機械的な口調だった。男の口調にくらべれば、117で聞く時報のお姉さんの声のほうがよほど人間味があった。一番安いガムの支払いに一万円札を出されたタバコ屋のおっちゃんだって、もうすこし愛想のよい声を出すに違いなかった。
坂崎嘉穂が郵便ポストで血まみれのアミュレットを発見したすこしあとのことだ。通勤ラッシュさなかの東武|伊勢崎線《いせざきせん》駅構内で、ひとりの少女が危機感あふれる状況におちいっていた。
日中の暑さを予感させる朝のひとときだった。環状七号線を流れる車の騒音が、南から吹く風に乗ってかすかに聞こえてくる。九州|訛《なま》りの場内アナウンスが、のどかに次の電車の到着を告げている。
少女の周りにはぽっかりと空間ができている。
童顔の少女だ。ショートボブのくせっ毛に包まれた少女の頭は、右隣でスポーツ新聞を広げているスーツ姿の男の胸くらいの高さにある。帽子をかぶってランドセルを背負っていれば小学生にまちがわれてもおかしくない。ひざ小僧に貼ってあるピンク色のバンソーコーが彼女をより幼く見せているのかもしれなかった。
少女の名を、森下こよみという。
こよみは電車が苦手だった。乗車率が三百パーセントに達する朝の電車はとくに不得手《ふえて》だ。身長百四十六センチのこよみは、人込みにまぎれると他人の体が壁になって視界が利かない。バーゲン会場や休日の繁華街なども遠慮したい。そういった数ある「できれば行きたくない場所ランキング」の中で、朝の電車は相当な高順位をキープしつづけていた。
こよみは吊革に手が届かない。人に挟まれると息ができなくなる。おじさんたちが抱えている革のカバンはちょうど頭の位置で、電車が揺れるたびにごちこちとぶつかったりもする。
普通の人が普通に使っている通学電車も、こよみにとっては、途中ですうっと意識が遠くなったり、わりと頻繁に生命の危機を感じたりするデンジャラスゾーンなのだった。
聞いたところによると、すべての座席と吊革が埋まると電車の乗車率は百パーセントなのだそうだ。二階建てバスがあるように九階建てくらいの電車をつくれば全員座ることができると思うのだけれど、そういう計画があるという話はいまのところどの新聞にも載っていない。
だからこよみは、毎朝、決意も新たに駅へとやってくる。
夢見が悪かったり、家を出たとたん玄関の敷居につまずいて転んだり、朝のテレビ番組でやってる『今日の占いカウントダウン』で牡羊座がワーストだったりする日はなおさら注意深くなる。
きょうもこよみは、点字ブロックの前でちいさなこぶしを握りしめ「だいじょうぶ。だいじょうぶ」と口の中で繰り返していたのだ。
男がやってきたのはそのときだ。
人の壁に埋没しているこよみにむかい。男は低い声で言った。
「あなたです」
「え? え?」
首を振って左右を見まわす。
しかし、男の太い指の先にはこよみのほかに誰もいない。何百人もの利用客がいる駅のホームで、男のひとさし指は、よりにもよって一番ちいさな少女を指ししめしている。スポーツ新聞を読んでいた男が、そそくさと身を引いた。
「あの……たぶんなんですけど、人ちがい?」
「あなたです」
「でもでも、身におぼえとかないし、いまは通学途中だし、知らない人についてっちゃいけないとか言われているし、やっぱり違うと思うんですけど……」
「いいえ。あなたです」
男は黒いスーツに身を包み、黒いネクタイをぶら下げ、黒いサングラスをかけていた。背が高いというより、巨大な肉体だ。服の上からでも筋肉の盛りあがりを見てとることができる。
これといって容貌に特徴はなく。しいて言うならコンピューターグラフィックスで合成した顔というか、そんなかんじだった。
鞄を胸にかかえてこよみは一歩下がる。
男が一歩前に出る。
つられて、人の輪も動いた。
都会とは酷薄なところだ。小柄なセーラー服の少女が危機におちいっているというのに、助け出ようとする騎士《ナイト》はひとりもいない。あるいは、男の肉体がそれをさせないだけの圧力を持っていたのかもしれない。まっすぐに伸ばされた腕は、こよみの脚を二本あわせたものよりもまだ太さがあった。
こよみはじりじりと後退する。
ちいさな歩幅で三歩下がるたび、男はのしっと一歩踏みだす。
ホームに電車が突入してくる。
こよみの背がホームの支柱にぶつかった。男の歩みは止まらない。まっすぐに腕を伸ばした姿勢で前進する。「危険ですので白線の後ろまで下がってお待ちください」頭上のスピーカーから流れる場内アナウンスがやかましい。こよみは左右を見やる。こよみと男に注意を払っている人間はひとりもいない。使える魔法発動コードはたったひとつだ。魔法を人に向けて使ってはいけないと師匠の美鎖には言われているけれど、でも、いまは。自然石を削ったような手首がおとがいに届きそうになった瞬間――
電車の扉が開いた。
人の波が動いた。
電車からあふれるうねりに押され、意思のあるなしにかかわらず、こよみと男を取り巻いていた人々が両者の間に割り込んでくる。百四十六センチのこよみは激流に揺れる木の葉と同じ状態だ。どこへ運れていかれるかもわからない。男は巨木のように立ちつくす。
「押し合わず順にご乗車ください」スピーカーがわめいている。おしりを車内へ食いこませようと小太りのおばさんが格闘している。大柄な駅員が、スクラムハーフ顔負けのショルダータックルでおばさんを電車の中へ押し入れた。左隣に立っていた女のバッグが手の甲をひっかいて痛い。発車を告げる電子ベルの音がホームに響きわたった。
ぷしゅ、と圧搾《あっさく》空気の音がして電車のドアが閉まった。
支柱の前には男だけが立っていた。岩のような拳《こぶし》に、ひきちぎられたぬいぐるみが握られている。こよみの鞄についていたものだ。ピンクのカバは、大きな口をあけて、朝のホームにほほえみをまきちらしている。
こよみは電車の中だった。小太りのおばさんの体に半分埋まった状態で、なかば宙に浮くようにして電車に連れこまれたのである。
ドアについているぶ厚いガラス越しに、ホームに立ちつくす男の姿を見ることができた。
「……」
男が口を動かした。なにをしゃべったのかはわからない。「危険ですので駆けこみ乗車はおやめください」車掌が車内アナウンスをしている。
電車が発進する。
男は、人の壁を身体で押しわけて歩み去った。
きょうの明けがた、森下こよみは夢を見た。
ハリウッドで製作する超大作映画みたいにファンタスティックな雰囲気のある夢だった。
夢の中で、こよみは壮年の男性になっていた。鋼色にきらめく鎖帷子《くさりかたびら》を身につけ、幅広の剣を右手にぶらさげた大男だ。左手には複雑な紋章を刻んだ盾を持っていた。金属製の鎧《よろい》は、歩くたびにこすれ合い、がちゃがちゃとうるさかった。
どこだかわからない洞窟をくぐり抜けたこよみは、やがて、たいまつの灯りに煌々《こうこう》と照らされた広場のような場所にたどり着いた。
広場の正面には大きなおおきな扉がある。樫《かし》の一枚板でつくられた年代物の扉だ。ハリウッド製らしく、扉は、凝った意匠で全面を飾ってあった。
夢の中ではこよみであるトコロの騎士は、古い巻き物と村の言い伝えに従ってここまでたどり着いた。黄ばんだ骸骨が転がる砂漠を越え(夢なのでダイジェスト版だった)、人をエサにする怪物の群れと戦い(同ダイジェスト版)、衣装を着ているのか着ていないのかわからないきれいなお姉さんたちと踊ったりもして(サービスシーンらしくノーカットだった)、誰も通ったことがない洞窟を何日もかけて通り抜け、やっと、人類の宝が隠してあるという場所にやってきたのだった。
正面にある扉には、一枚の羊皮紙が貼ってあった。
四隅を釘で打ちつけて羊皮紙はとめてある。釘の頭は錆《さび》で茶色く変色し、ぼろぼろになっていた。羊皮紙そのものも年代物らしく、紅茶をこぼしたあと乾かした紙みたいに変色し、ところどころ虫に喰われた穴が空いていた。
紙の中央には、なんだかとても古めかしい文字で文章が書いてある。学校で習っている英語ではない。こよみは読めないはずなのだけれど、なぜだか意味はわかった。まあ、夢ってのはそういうものかもしれないとこよみは思った。
――汝《なんじ》、修羅《しゅら》の道を望みしか?
そう書いてあった。
こよみ=騎士はいらだたしげな唸《うな》り声をあげた。
誰も修羅などというものは望んでいやしない。はるばる旅をして(ダイジェスト版だったけど)ここまでやってきたのは、見たことも聞いたこともない宝を手に入れるためだった。
鋼鉄に包まれた足で、騎士は、力いっぱい扉を蹴りつける。
扉ははじけとび、黒々とした穴が現れた。
穴の中央に赤くきらめくものが見える。
宝ではない。
炎だ。
赤とオレンジと紅《くれない》と、さまざまな赤がゆらゆらと揺れる炎の中になにかの影が見えた。
白く、小さな顔だった。年齢は、美鎖と同じくらいか、すこし若いように見えた。体の線は見えなかった。真っ白な顔の輪郭が揺らめく炎を卵型に切り取っていた。
焦茶の瞳が、まっすぐにこよみの顔を見つめた。
切れ長の瞳に、長い睫毛《まつげ》。大きな、黒い光彩。感情を捨て去った冷たい眼光だ。女の視線は、物理的な圧力を持っているかのようにこよみの眼球を圧迫する。
周囲の空気が、めらりと揺らめいた。刺激臭が鼻をついた。どこかで嗅いだことのあるにおいだとこよみは思った。
こよみの目は、女の瞳に釘付けになっていた。こういうときこよみはすぐに目をそらしてしまったりするのだけれど、女から目を離すことはできなかった。猫に見つかったねずみというのは、こういう心境なのではないかとか、そんな考えが頭をよぎった。体の奥で、心臓の鼓動が聞こえた。とてもとても息苦しかった。
苦痛や恐怖は感じられなかった。身動きすらしなかった。ただ、それが彼女にできる唯一のことであるかのように、女は焦茶の瞳でこよみを見つめていた。体の芯が凍りつくような冷たい視線だっだ。長いながい時間、こよみは女を見つめていた気がした。周囲の音はまったく間こえなかった。ただ、くちびるが動いたように見えた。それさえも幻覚だったかもしれない。燃えあがる一瞬に、それだけのものが見えるはずはないから。鼻を刺す刺激臭は、ますます強くなっていた。
全身を包みこむような熱風が、こよみの胸を力強く押しつけてきた。女の瞳が見えなくなった。なにかが焦げる臭いにおいが周囲に充満した。髪が焦げたときのにおいだとわかった。
こよみは、うなされて飛び起きた。
昼すぎ。
あたたかい陽射しが窓越しに机を照らしだしていた。
窓際から二番めの列の一番うしろの席。スチールの椅子にぽてっと腰かけ、森下こよみは、熱さと暖かさの中間にあるくらいの光を体いっぱいに浴びていた。
ほのかにぬくまった空気が体の周囲に停滞している。昼食に半分だけ食べたキュウリのベーコン巻きとたまご焼きがお腹の中で格闘していて、言い知れぬ眠りを誘った。きょうは朝からたいへんなことばかりだったから、余計に疲れているのかもしれなかった。
宝探しをしているはずが女の人が火炙《ひあぶ》りになる悪夢を見て、通学途中の駅のホームではヘンな大男に声をかけられ、学校に来てみたら嘉穂が欠席だった。嘉穂に質問しようと思っていた宿題を聞くことができず、なおかつ授業中に当てられて怒られてしまった。
さんざんである。今朝の『占いカウントダウン』も捨てたものではない。たしかに、きょうのこよみは、ワーストと言えるだけの連勢だ。
昼休みになって、いつものように視聴覚室に来たのはいいけれど、嘉穂がいないとなにをしていいかよくわからなかった。
視聴覚室のコンピューターでなにかが動いている気配はあった。きっとこれは「踏み台」とか「りもーとろぐいん」とかなんとかいうやつだと思う。
熱を出して休みという話だったけれど、布団の中でも嘉穂はなにかをやってるみたいだった。風邪をひいて寝ているときでも、嘉穂にとってはコンピューターと戯れるのが薬になるのかもしれない。こよみがそんなことをしたら、風邪の熱に知恵熱が加わってさらに病状が悪化しそうだ。
あくびを噛み殺し、こよみは窓の外を見やる。
誰もいない。ほっとした。
管理の行き届いた女子高である白華《はっか》女子学院に不審者は入ってこれない。今朝がたホームで遭遇した黒ずくめの大男も同様だった。
東武伊勢崎線のホームでまいたはずの男の姿を、こよみは、学校の校門付近でまた見つけたのだ。いそいで学校の敷地内に入ってしまったのであとは知らないが。
もしかしたら、男は、メン・イン・ブラックとかいって、怪奇現象に遭遇した一般市民を追いかける政府のエージェントとかいうやつなのかもしれない。映画で見たことがある。
これも、きのう。美鎖が途中でいなくなってしまったことが原因なのだろうか? 高層ビルのヘリポートに大穴を空けるのはけっこうな犯罪である。そのことで警察が追っているのかもしれない。ワタシルールで動く美鎖は犯罪者と紙一重だ。
なんかとんでもないことになっている気がする。
嘉穂はいないし、とてもとても心細かった。
本当はお見舞いに行きたいところだけれど、こよみを追いかけている黒ずくめ男をなんとかしなければならないだろう。布団の中にいる友人宅に不審な黒服を引きつれていくわけにもいかない。
学校が終わったらまず美鎖の家に寄ろう。
なんだかわからない計算をつづけているモニター画面をぴんと指ではじき、こよみは席を立った。
姉とエプロンとカレールウ pinafore
姉原聡史郎はガミガミオヤジになりたかった。
それも、うんと強烈なやつがいい。
子供向けのマンガによく出てくるようなオヤジだ。庭にとびこんできたボールでガラスを割られて大人げなく怒鳴る。近所のガキがつけるあだ名はもちろんカミナリオヤジで、地震よりも火事よりも怖いと思われていて、道を歩いている他人のガキを平気で叱りとばす。そういうオヤジになりたい。荒らし放題に荒らされた倉庫の片付けをしながら、聡史郎は、そんなことを考えていた。
姉原邸に泥棒が入ったのは五日前のことだ。
明治維新の時代から人の生き血を吸って美貌を保つ女吸血鬼が住んでいるとか、中では魔法人形《ゴーレム》が闊歩《かっぽ》しているとか、住んでいる自分が言うのもなんだがろくでもない噂しか聞いたことのない洋館である。姉の美鎖がネット通販で買った品物を届ける宅配業者は二、三度この家に来るとかならず辞めてしまうし、二十世紀末に地価が高騰したとき乗り込んできた地上げ業者が、三日三晩寝込んだあげく出家《しゅっけ》してしまったそうだ。
そういうわけだから、銀座三丁目にある姉原邸の玄関は鍵もかけずにいつも開けっぱなしなのだった。
まさか忍び込む度胸のある泥棒が存在するとは思ってもいなかった。案外、世の中には鋼鉄心臓にスチールの毛を生やした奴というのがいるものらしい。憎き泥棒ながら、聡史郎は尊敬の念を禁じ得ない。
荒らされたのは、幼い頃聡史郎が勉強部屋として使っていた倉庫である。姉原邸が魔法学院として使用されていた時代から貯めこんだやくたいもない物品を手当たりしだい積みあげてある場所で、いかれた姉原邸の中でももっともいかれた部屋だと言えた。
あやしいテレビ番組に出ている骨董品の鑑定人どもを連れてきたら、とんでもない値段がつくものももしかしたらひとつやふたつ隠れているのかもしれないとは思う。まあ、積みあがっているいかれた品々を調べているうちに鑑定人の頭がおかしくなってしまわなければの話だが……。
学校の教室ほどの大きさの部屋は、埃《ほこり》をかぶった木箱でいっぱいだった。大きさもさまざまな木の箱が天井までみっしりと詰まった部屋である。積みあげられた木箱のてっぺんには、一年ほど前に美鎖が通販で買ったバナナハンガーが置いてあり、尻尾の先が二本に分かれたソフトビニール製の人形がぶらさがってゆらゆらと揺れていた。
部屋の入り口周辺にある木箱は、釘で打ちつけた蓋をはがした痕跡があった。ずれた蓋から覗いているのは、牙の生えたカメの置物だったり、小便小僧を模した陶器製のポットだったり、ホルマリンに漬かっているピアスつきのブタの耳だったりする。侵入者が散らかすだけ散らかして帰っていったのか、なにか価値のあるものを見つけだしたのかはわからない。ほとんどの箱が、蓋を開けただけで放置してあった。
綱長い木箱の中に入っていた武器みたいなものを聡史郎は取り出してみる。一見すると、中国武術で使うヌンチャクに見えないこともないが、片方の端がゴルフクラブのへッドのような形状になっている。いったいなにに使うのか、なんの役に立つのかさっぱりわからない道具だった。
せっかく荒らしてもらったのだし、この際だから蓋の開いた箱に入っているヘンなものは粗大ゴミに出してしまおう。たとえ一部分でもいかれたものどもをこの家から抹殺できると考えれば気もやすまろうというものだ。
三角に折りたたんだタオルを口のまわりに巻きつけ、聡史郎は木箱の整理をはじめた。
二番目の箱をどかすと、そこには、なぜか、カレールウの箱が転がっていた。
なんのへんてつもないカレールウだ。ただし、すこしばかり箱が大きい。手に持つと。羊羹のようにずしりと重かった。
聡史郎はパッケージを裏返してみる。レシピが書いてあった。
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材料●40皿分
1箱(1s)、肉…1.2s、玉ねぎ…中8個(1.6s)、じゃがいも…中8個(1.2s)、にんじん…中5本(750g)、サラダ油(またはバター)…150g、水…約5リットル。
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聡史郎はカレーづくりにルウを使わない。インド人がするように、その都度スパイスを調合してカレーをつくる。ルウを使うのは姉の美鎖だけだ。
このルウの正体も知っている。箱の中に入っているのは焦茶色の物体だ。通常のカレールウみたいな切れ目すら入ってなくて、見た目は失敗したレアチーズケーキみたいである。そんなかたまり塊が、一キログラム分詰まった業務用のパッケージなのだった。
はじめて見たとき、聡史郎は姉に猛烈な抗議を行ったはずだ。
「四十食もつくってどうしようってんだ。ゾウにでも食わせんのか? どこの世界に業務用のカレー買ってくる一般家庭があるんだよ」
「安かったのよ。味変わんないし。ほら、こよみたちにも食べさせてあげようと思って」
「姉さんはいっつもそうだ」
「物事の本質ははずしてないと思うんだけどねえ……」
韜晦《とうかい》する姉の鼻先に、聡史郎はカレールウの塊をびしりと突きつけた。
「人の道にはずれてる。とにかく。これは没収する」
「なんでよお」
「カレーはスパイスを自分で混ぜたほうがおいしいんだ。そんなに料理したけりゃ、カレー粉まではおれがつくってやるよ」
「ありがと。期待してるわ」
そんな会話をしたような気がする。
姉から取りあげたものの、一応は食べものであることだし一キロのルウの塊など一般家庭で使い切れるはずもない。使い道が決まるまで倉庫にしまっておくことにしたのだが、どうやらそのまま忘れてしまっていたらしい。
姉原家で料理をつくるのは基本的に聡史郎の役目だ。姉にまかせると、鍋やまないたを破壊したりキッチンを爆発させたり、その後の始末に余計な手間がかかるからである。料理の腕だって聡史郎はかなりのものだ。そのへんのインド料理屋に負けないカレーをつくる自信がある。
しかし、市販のカレールウを使って姉が作ったカレーのほうがなぜだかおいしかったりするのも事実なのだった。
食品会社のおっちゃんがつくりあげた秘伝の調合があるのかと思い、一度聡史郎もルウを使ってみたがいまいましいことに姉と同じ味のものはできなかった。
日本で消費されるカレールウの生産量から算出すると日本人が毎月三回カレーを家庭で食べている計算になるという。本当かどうか知らないが、世界でインド人の次に日本人はカレーをよく食べているそうだ。
カレーなどというものはカレー粉を適量入れればだいたいカレー味になる。傭兵が戦場に持っていく最良の友はS&Bのカレー粉だというし、例え納豆を混ぜようがカレーはカレーの本質を保つ強力な食品なのだ。カレーなどという、少女マンガに登場するドジなヒロインが彼氏のためにいちばん最初につくるような簡単な料理であの姉に遅れをとるというのはなんだか非常に腹がたった。
とりあえずカレールウのことは忘れて、聡史郎は部屋の片付けをつづけることにする。
今度は、空になったプラスチックボトルを見つけた。いかにもアメリカ人がつくったような大雑把《おおざっぱ》なつくりのボトルで、内部には白色の粉が付着している。もしやと思って舐《な》めてみると、すっぱかった。どうやらビタミンCの粉末らしい。
「まさかこんなものまでカレーにいれてんじゃねえだろうな……」
聡史郎は嘆息する。
壊れているはずのドアノッカーを叩く音が玄関から聞こえてきたのはそのときだ。放っておこうかとも思ったけれど、無視するのも大人げないので相手をしてやることにした。姉と弟ふたりで構成される姉原家で、姉の美鎖がいないという状況であれば来訪者の応対をするのは弟の聡史郎しかいない。
肩をすくめ、聡史郎は玄関へ向かった。
一ノ瀬弓子クリスティーナはひどいありさまだった。
ぬぐうことを考えてもいないのか、右の頬から首筋にかけて、がびがびになった赤黒いものがへばりついた痕跡があった。服はところどころ破れていて、裾は泥で薄汚れ、肌についたものと同じ色のなにかが右半身にべったりと染みついている。二匹の蛇が絡みついた意匠の杖を持ち歩くような女だからもともとまともな格好をしているとはいえないが、きょうは図抜けておかしい。頭のネジが二、三本はずれた画家が描いた抽象画のようななりだった。
黒くて長い羽根をばさばささせながら軒先で数羽のカラスが合唱し、なまぬるい風が錆びた鉄柵を揺らしている。銀座三丁目のホラーハウスと名高い姉原邸にぴったりの情景だ。いまが昼でなかったら、警察に通報する通行人が何人出てもおかしくなかった。もっとも、姉原家に関する通報でわざわざやってくるようなヒマな警官はひとりもいないのであるが……。
「なんの用だ?」
半開きにしたドアに背をもたれかけさせ、聡史郎は言った。
弓子は質問に質問で応える。
「美鎖は……家にいまして?」
「出かけてるよ」
「突然帰ってきたりとかしていませんこと?」
「ねえな。昨日から帰ってない」
「突然というのは突然ということですのよ。本当に突然帰ってきたりしていませんの」
「ねえったらねえよ。突然に二種類も三種類もあるかってんだ」
弓子の紫の瞳に冷たい光が宿る。低い声で言った。
「……探してもよろしいでしょうか?」
「ご自由に」
どうやら姉はまたろくでもないことに首をつっこんでいるらしい。
美鎖は朝帰りどころか何日も家に帰ってこないこともある。たいていの場合、その前に連絡があった。今回のように連絡がないまま帰ってこないことは滅多になかったけれど、だからといって、成人になってからすでに何年も経過している大人の女性の外泊を高校生の弟が心配するというのもおかしな話だ。
外で他人に迷惑をかけていないだろうかとか、警察に捕まっていたりしたら身元引受人を用意するのが面倒くさいなとかそういうことは考えるけれど。
遊園地のホラーハウスでバイトをしている幽鬼のような格好のまま、弓子は、屋敷中を探しまわった。二十以上ある部屋のひとつひとつのドアを開け、何年も誰も出入りしていない屋根裏部屋に登り、クローゼットを開けて洋服を掻き分け、ベッドの下に頭をつっこんだ。杖の先っちょにいかれた光を灯し、ダストシュートの奥のほうを覗きこんだ。
聡史郎は二分で後についてまわるのをやめた。一ノ瀬弓子クリスティーナは、いかれた姉のいかれた知り合いの中でもっともいかれたひとりであり、いかれた行動に理由を求めてもこちらが疲れるだけだ。せいぜい気の済むまで自由にやらせてやるしかない。
三十分以上かけて屋敷中をくまなく家捜ししたあと、弓子は、聡史郎が片付けをしている倉庫にやってきた。
「いざというとき美鎖が行くところに心あたりはありませんこと?」
まだ納得していないようだ。
捨てるかどうか悩んでいた、目玉の形に穴が空いたヘルメットを捨てるの箱に分類しつつ聡史郎は答える。
「家にいるんじゃねえの?」
「それ以外でですわ! なにかの非常事態が発生したときとか、魔法発動コードが絡んでいるときとか、とにかくいざというときですわ!」
「おれの前で魔法の話をするな」
「真面目に答えてくださいまし!」
気圧《けお》された。
そんなことを言われても、聡史郎は最初から真面目に答えてはいるのだった。姉の生活は、家と大学を往復とはほど遠く、得体の知れない相手と怪しげな契約を交わして色々な場所に出向いているが、かといって遊び回っているわけでもない。ほとんどの場合、聡史郎がつくる夕食を毎日食べているのだから遊んでいないとも言える。
「行き先が固定してるのは家と大学だけだ。まあ、六本木のビルにあるコンピューター関連会社からはいざってときに呼ばれたりもするかもしれない」
「大学や企業なら、すでに家に運絡が来ているはずですわ」
「だからなんのいざなんだよ。また犯罪か? いい加減にしろよな」
「お願いですから真面目に考えてくださいまし。本当に本当の緊急事態なんですの。できる限りのことはやったのですけれど、わたくしの感覚では美鎖の場所は捉《とら》えることができないのです」
弓子は真剣な表情だ。よくよく見れば乾いた血液にしか見えない汚れで半身を彩り、屋根裏を探索したときに付いたと思われるクモの巣を銀色の髪にまとわりつかせている。いまの弓子に比べれば、絵画のほうがまだ動きがあるかもしれなかった。
あの姉の緊急事態と言われても、正直なところ聡史郎はあわてている姿すら思いつかない。調べもので研究室に行っただけで雨が降りそうだと言われる女なのである。どちらかというと、平時に眠そうで、なにかが起きたときにメガネの奥の瞳を爛々《らんらん》と輝かせている気がする。
ひとつだけ思いついた。
緊急事態が起きたとき、決まって部品を買いに行く場所がある。
「……秋葉原、という可能性はあるかもな」
「それですわ!」
「よかったな。わかったら早く帰れ」
「わたくしはこれから美鎖を探しに行きますが、そのまえに貴方に知らせておかなければならないことがあります」
「手短にな」
「……わたくしの人生にかけられた呪いは、クリストバルド最大の贈りものだといままでは考えておりました。だけれど、本当に呪いだったのかもしれませんわ。どのような結果になるにせよ、それなりの責任は取るつもりです」
「もったいぶるなよ。これでもおれはいそがしいんだ」
新たな木箱を物色しつつ聡史郎は言う。
二匹の蛇が絡みついた銀の杖を握りしめ、血まみれでぼろぼろの服を着た一ノ瀬弓子クリスティーナは、紫の瞳で聡史郎をまっすぐに見つめた。
「わたくし、美鎖を殺してしまいました」
弓子は、血まみれの服のまま銀座の街へと走っていった。聡史郎はなんのリアクションもできぬまま、風になびく銀色の髪を見つめていた。
普段なら「冗談も休み休み言え」のひとことで終わりにするところだが、きょうの弓子のふるまいには、嘘や狂言で片付けられないなにかがあるような気がする。かといって、突然姉を殺したと言われて、ハイそうですかと答えるわけにもいかなかった。
だいたい、あの姉が死んだというのが信じられなかった。信じたくないのではなく、どうやれは、姉原美鎖という存在を死という状態に持っていけるのか考えつかないのである。美鎖のまわりにはいろいろといかれた人間がやってくる。そうした人間に聡史郎が驚かないのは、中でもとびきりいかれているのが当の美鎖だからだ。実在の人物というより、マンガの登場人物に近い。
記憶の中では、幼い自分が夢と現実をまちがえたのだということで処理されているが、突進してくる十トントラックを美鎖が片手で止めるシーンを聡史郎は一度目撃している。爆発炎上してくずれ落ちた納屋からけろりとした顔で出てきて、髪の先っちょが焦げてしまったとぷりぷり怒っていたこともある。なんというか、この世にいる人間で一番死というものから遠い存在が美鎖であるような気がするのだった。
堂々巡りをつづける思考に聡史郎はストップをかけた。
こういうときはお茶をいれよう。
シナモンをたっぷりと効かせたカプチーノなんかがいいかもしれない。そうやって冷静になってもう一度考えなおしてみることだ。あいつらはいつだってどこかいかれているのだから、こういうときこそ常識人である聡史郎がしっかりしなければならない。
キッチンに向かった聡史郎は、冷凍庫からコーヒー豆を取り出し、ミルで細かく砕いた。棚の上からエスプレッソマシーンをおろして、金属のフィルターに粉をぎゅうぎゅうと詰める。日常きわまりない行動が、混乱した思考を整理していくのがわかった。
冷蔵庫から出した牛乳を蒸気で泡立てる。
論理的に考えてみた。
設問一。姉原美鎖が死ぬことはありえるか?
解答。美鎖とて人間だからいずれは老衰で死ぬはずだ。それだけでなく、首をハネとばせば死ぬだろう。いや、それくらいでは死なないかもしれない。頭蓋骨をかち割って原形をとどめぬまで中身を踏みにじれば死ぬ。たぶん死ぬ。姉を殺すことは可能だ。
設問二。どうやって美鎖を殺すのか?
解答。まともな方法で傷つけることは不可能である。聡史郎が十七年間認めることを拒否してきたいかれた力を美鎖は持っており、しかもそれは相当強力なものだ。ただし、美鎖と同じいかれた力を持つ者であれば可能かもしれない。
そして、一ノ瀬弓子クリスティーナもいかれた力を持っていた。
弓子は嘘をつかない。冗談だって減多に言わない女だ。多少慎重さに欠けるところはあるものの、思いつきでものを言ったりはしない。大嫌いな女だったが、困ったことに彼女の言葉は信用できる。
問題は、ああ見えてずいぶんと姉を慕っている弓子がなぜ殺害などしたかだろう。推測するには、聡史郎が与《あずか》り知らない要素がまだまだ多すぎた。イタリアンローストの豆と牛乳とシナモンスティックとエスプレッソマシーンがなければおいしいカプチーノができないように、なんだかわからないいまの状況を解き明かすには材料が足らないのだった。
「こんにちはあ」
緊迫という単語から十キロ以上離れた声が聞こえた。いかれた姉のいかれた弟子一号である。どうやらきょうの姉原家は千客万来の日らしい。姉がいない日に限っていかれた来訪者が来るというのもいかれたこの家の法則のひとつなのかもしれなかった。できあがったばかりのカプチーノを手に、聡史郎は声の主を玄関に迎えに行く。
森下こよみは、どでかい玄関の扉を体の幅だけそっと開き、ちいさな体をちぢこませるようにして、いつものように、銀座三丁目のスプーキーハウスを覗きこんでいた。
「なんか、すごい格好した弓子ちゃんがすごい勢いで走っていったような気がしたけど……」
答えず、聡史郎は肩をすくめてみせた。
「美鎖さんは?」
「死んだそうだ」
「え? え?」
「……と、銀髪のあの女が言っていた」
「うそ、だよね?」
「知らねえよ。伝聞情報なんだから。きのうから帰ってないのはたしかだけどな。おれ、ザリガニとあの女は苦手なんだ」
「へえ。聡史郎さんにも苦手なものがあるんだね」
こよみはくすりと笑った。美鎖が死んだという言葉は冗談と受け取ったらしい。普通はそうだろう。聡史郎だってできれば悪い冗談だと考えておきたいのだ。だから、敢《あ》えて誤解を正すのはやめておくことにした。
「姉さんはいないけど、せっかくだからお茶でも飲んでいくか? カプチーノでよければだが」
「でもでも、悪いよ……せっかくデリバリーしてもらったのにあたしが飲んじゃうなんて」
「デリバリーなんかしてねえぞ。このカプチーノはおれがいれたんだ」
「すごい! おうちでいれられるの!」
「機械がありゃな」
「そんなきかいがあるんだ」
マジックペンでぐりぐりしたような目でこよみはコーヒーカップを凝視する。心底感心しているようだった。
「いくらでもある。なんなら、一台もってくか?」
「へ?」
「姉さんが次から次へと買うから余ってしょうがねえんだよ。ひとつありゃ十分なのによ」
「もしかして、通販で?」
「通販で、だ」
「いただきます。あ、きかいじゃなくて、かぷちーののほう」
カプチーノは倉庫(兼かつての勉強部屋)で飲むことになった。小学校のときの聡史郎が使っていた椅子だというのに、腰掛けているこよみの脚はぶらぶら揺れ床についていない。コーヒーカップを両手で抱え、こよみは、増えていく一方の捨てるほうの箱の中身をしげしげと見ていた。
よせばいいのに、ブタの耳の瓶を指先でつっついたりしている。
ホルマリンに浮かぶ耳がぴくりと動いた。
「きゃあ! きゃあ! みみが、きゃあ!」
聡史郎は大股で駆け寄り、床に落下しそうになったカップを寸前のところで受け止めた。
「そんなに驚くな」
「みみ! 動いて!」
「中華料理だったら食べててもおかしくないもんじゃねえか」
「だって、みみい!」
「やかましい!」
次にこよみが興味を示したのはカレールウのパッケージだ。業務用という事情を知らなければ、最近よくある巨大化菓子の一種とまちがえてもおかしくないくらい巨大な代物なのだった。
こよみは感心した声を出した。
「へえ。すごいね」
「なにがだ」
「このルウひとつで、カレーの実、何個分なんだろう」
「はあ?」
「え? だって、カレー粉って、カレーの実をすり潰《つぶ》してつくってるんでしょ?」
「んなもんあるか」
「でもでも、インドの畑には見渡す限りカレーの木が生えてて、バラモンのえらいお坊さんが毎年豊作祈願のお祈りをしてるって……」
聡史郎は天を仰いだ。薄汚れた天井の隅に蜘蛛の巣が張っているのが見えた。自分の巣に絡まったちいさな蜘蛛が干からびて死んでいた。
「バカかおまえは」
「ば、ばかじゃないもん」
「カレー粉は何種類ものスパイスを擦り潰して混ぜ合わせたもんだ。なんだカレーの実ってのは。んなもんがどこの地球に生えてるってんだ」
「……嘉穂ちゃん、嘘ついた」
「おれが思うに、それはきっと冗談で言ったんだ。いまどき小学生だってカレーの木なんて話は信じねえぞ」
「そんなあ」
こよみは涙目になっていた。真実と思っていたことがあっさり崩れさったのが相当ショックなようだ。
外見だけでなく頭の中身まで小学生並かと思わなくもないが、それはそれで有用な資質なのではないかと聡史郎は考えたりする。こよみと話すことで、聡史郎はずいぶんとおちつくことができた。ドジでまぬけで小学生にしか見えない森下こよみにも絶大な効用があったということだ。だけれど、そんなことを言うと恥ずかしいので指摘はしてやらない。
もし美鎖がいないとなれは、聡史郎がしっかりしなければならない。魔法を信じたわけではない。もちろん、弓子のいかれた話も完全に信じはしない。弓子が嘘をつかないといっても、もともとがいかれた女のことだから真実をねじまげて解釈しているということは十分にありえるのだ。
冷静になれば簡単な話だ。美鎖の危機と、姉原邸に泥棒が入ったことが無関係であるはずはない。どちらもほとんどゼロといってもいい確率でしか起こり得ないことである。偶然同時に起きたと考えるのは人が好すぎるというものだ。弓子が知らない要素がこの部屋にはきっと隠れている。
荒らされたのは木箱だけではない。聡史郎が使っていた机も泥棒の家捜しの対象になっていた。鍵が壊され、すべてのひきだしが開けられている。一番下にある第四のスペースもあらわになっていた。
そういえは、机のひきだしを長いこと開けていなかったことに聡史郎は気づいた。というか、中学に入ってからは使う机も変え、倉庫の勉強机は存在そのものを忘れていた。第四のスペースが光を浴びるのは、そこにモノが入れられて以来かもしれなかった。
底に隠れていたのはセピア色の手紙の束と、変色し、湿気を吸ってよれよれになった画用紙だ。
広げてみる。
クレヨンで描いた姉の絵だった。
「わあ。絵だね。子供の頃にかいたの?」
「まあな」
「これ、美鎖さんだよね?」
「そうだ」
「いいなあ。あたし、姉妹とかいないから、こういうのあこがれちゃったりするかも」
思い出した。引きだしの奥にしまいこみ二度と開けなかった理由も含めすべて思い出した。
この絵を描いたのは聡史郎が五歳のときで、通っていたのは幼稚園だ。確かに姉のことは好きだったけれど、べつに楽しくて姉の絵を描いたわけではなかった。だから、大好きなはずの姉の絵は、誰も開けることがない秘密のひきだしにしまいこまれたのである。
「くだらねえこと思い出させやがって……」
なにか得体の知れないことが起きているのだけは確かなようだった。どこかでなにかの歯車が狂いはじめている。それはおそらくいかれた姉に関係するいかれたことで、普通であったら聡史郎は見過ごすたぐいのものだった。
だけれど、秘密のひきだしを開けた奴には、それなりの代価を払ってもらわねばならない。
「なにがおかしいの?」
「おれ……笑ってるか?」
こよみはうなずいた。
ぎこちない動作で、聡史郎は自分の顔に触れてみる。たしかに、頬の筋肉がゆるんでいる。外から見れば笑っているように見えるかもしれない。いや、本当に聡史郎は笑っている。世の中のいかれ具合が、あまりにおかしいから。
世の中はいつだっていかれているのだ。
アキハバラゾイド akihabara zoid
五日前に姉原邸に忍びこんだ泥棒の正体であるゲーリー・ホアンは、秋葉原の高層ビルのてっぺんに立ち、ごみごみとした電気街を見下ろしていた。盗み出された物品に染みついたゴーストスクリプトのジャンジャック・ギバルテスは、ホアンの左肩の上に浮かび、持ち主と同じように街を睥睨《へいげい》している。午後の光が南西から降り注ぎ、ビルがつくりだす巨大な影で街をグレーに染めていた。
ふたりがいるのは数年前にできたという高層マンションだ。無闇とセキュリティーレベルの高いビルで、屋上に誰もあがってこないのが好都合だった。
アキハバラの街の全景が見たいと、無理を言ってビルの屋上にホアンをやってこさせたのはギバルテスである。剣に染みついたゴーストスクリプトであるギバルテスは、いまは思考し映像を浮かべるのが精一杯の状態だ。ホアンの助けなしに移動することはできない。
ギバルテスが移動力を欲しているのと同様、魔法を使えぬホアンは古典魔法使いの力を必要としていた。魔女のライブラリを手に入れるということにおいて両者の目的は一致しており、完全なるギブアンドテイクの関係を結んでいる。すくなくとも、ライブラリが手に入るまでは協力し合うということだ。
手に入れてから先のことはわからない。ホアンが裏切る可能性もあるし、ギバルテスが裏切ることもありえた。目的が分かれれば共同戦線を組む必要はない。
地上百四十七メートルを吹く風が、ホアンの細身の体を包んだスーツをばたばたとはためかていた。生え際に汗の滴が見える。首筋までぴったりと覆うマオカラースーツは、夏を間近に控えた日本の気候に適しているとはいえないようだ。吹きつける気体は水の微粒子と熱気を含み、体温を奪うより先に触れるものすべてをべとつかせていく。
もっとも、ゴーストスクリプトであるギバルテスに熱さ寒さは関係ない。身につけている古風な三つ揃いのスーツや五芒星《ごぼうせい》の刺繍《ししゅう》が入った手袋も単なる映像にすぎない。どれほど強い風が吹こうと、あるいは猛烈な炎に巻かれようと、彼の外観は変化しない。
ホアンは、つまらなそうな表情で下方にある豆粒大の街を見つめている。
ギバルテスは問いを発した。
「魔女のライブラリを手に入れてどうする?」
「さあ。どうなんでしょう」
ホアンは言った。神経質そうな眉の下の瞳に、強い意志を待った光が宿っていた。
みずからの肉体でコードを組む古典魔法使いとして、この男は初心者のレベルにも達していない。代わりに、コンピューターという道具を使って魔法発動コードを組むことができた。三千年におよぶ魔法の歴史の中で、この時代になってはじめて現れた新しいタイプの魔法使いである。
「ライブラリの力で世界でも手に入れるか?」
ホアンは苦笑したようだ。
「不能理解。その発想がそもそもわかりません。もしかして、高いところから街を見おろすと支配者の気分になってしまったりするんですか?」
「違う。街にあふれるコードを見ているのだ。貴様には見えんかもしれないがな」
コンピューターと呼ばれるマジックアイテムが満載されたこの秋葉原では、ちいさなコードが瞬間的に生成されかけ、ゆらめいて、結局なにも起こらず消えていく。そんなことがそこかしこで無数に起きているのだった。しかし、コードを感じとることができるギバルテスと違って、ホアンが見る秋葉原は単なる薄汚い街にすぎなかった。
「街のコードって、高いところからじゃないと見えないんですか? 街を俯瞰《ふかん》しなきゃならない? あなたくらい訓練をつんだ人が高いところに登ってやっと見える程度ですか。なるほど……古典魔法ってのはずいぶんと不便なんですね。それじゃあ滅びるわけだ」
「貴様の方法ならもっと簡単に見えるとでもいうのか?」
「見えませんよ。けれど、コードってのは電気の流れのパターンでしょう。特殊なパターンを繰り返すことにより、この世界に別の世界の法則を一時的にプリントする。古典魔法使いはコードの発生に肉体の筋肉組織を使い、現代魔法使いはコンピューターのCPUを使う。たしかそうでしたよね?」
ギバルテスはうなずく。
「つまりコードの流れというのは現代では通信網のことなんです。上から眺めたってわかるのは電線だけです。地中に埋めてある光ファイバーの高速回線は見えないし、無線LANの電波も目では見えません。ネットのどこかにあるはずの通信網のデータをハッキングして手に入れたほうがずっと早いです」
ホアンが主張するコードは、百年以上前の世界で生を受けたギバルデスが知っているそれとはいくぶん異なるものだった。あるいは、コンピューターというマジックアイテムの登場によって、魔法そのものが変化をはじめているのかもしれない。魔法が道具である限り、使われかたによる変質を避けることはできないのである。
はるか彼方にある豆粒大の看板をつかむように手を差し伸べ、ホアンは、なにもない空気を握りしめてみせた。
「何百年前も昔だったら、あなたの言うように魔女のライブラリで世界を支配することもできたのかもしれません。世界はちいさく単純でしたから。でも、いまの世界は、数えきれぬほど多くの人間が動かすシステムなんです。個人が所有するとか所有しないとかではないんですよ」
ホアンは言う。
たとえば悪の秘密結社が世界を支配したとする。しかしそれは、秘密結社のルールが世界を動かすのと同時に、世界で動いているシステムに秘密結社そのものが組み込まれてしまうことに他ならない。そうなってしまえは、どちらが主でどちらが従などということは関係なくなってしまうのだった。
世界の仕組みが複雑化した現代において、世界に対してひとりの魔法使いができるのは、老朽化してところどころおかしくなっているシステムをアップデートすることだけである。それがホアンの主張だ。熱気を含んだ風を受けたせいか、饒舌《じょうぜつ》になっているようだった。
「魔女のライブラリでこの世のシステムとやらをアップデートしたとして、貴様になんの得がある?」
「わたし個人に得なんてありませんよ。世界の機能の仕方について教えてくれるものへのアクセスは無制限かつ全面的でなければなりません。それだけのことです」
「復活したジギタリスが破壊をもたらしてもか?」
「破壊といったって、殺したのはたったの十万人でしょう? わたしたちの目に直接届いてこないだけで、いまだってヒトは死んでます。地球のどこかで戦争が起きてなかったことはいままで一度もないし、アフリカでは五秒に一人が飢えで死んでいるんです。目の前の平穏だけ考えたって意味はありません」
「魔女のライブラリを手に入れるのは、己のためではないというのか?」
「わたしのためですよ。繁栄していた時代のヨーロッパで生まれたあなたにこの気持ちはわからないでしょう。飽食の日本で生まれた姉原さんにもわからないかもしれない。でも、わたしは、中国で生まれて、日本のアキハバラという場所にわざわざ渡ってきたんです」
「だからこの街を選んだのか?」
「そう思ってくださってけっこうです」
「ジギタリスが復活すれば、街はどうなるかわからんぞ?」
「だからですよ。渋谷や六本木はわたしの街ではありませんから。わたしが壊すのは忍びない。この街ならかまいません」
「貴様はおもしろいな」
「おもしろくなくていいですよ。協力さえしていただければ」
生きている人間のホアンと違い、ジャンジャック・ギバルテスはゴーストスクリプトだった。
その元となっているのは姉原研十郎の剣に染みついたコードであり、本当のギバルテスは百年もむかしに死亡している。いまのギバルテスは、かつて活動していたギバルテスのありようを魔法でエミュレートしている存在にすぎない。いわばコンピューター上で動いているプログラムのようなもので、電源を切ればまた初期設定からやりなおしだ。
とはいっても、ヒトという存在そのものが、肉体という生体コンピューターの上で動作しているプログラムのようなものなのかもしれない。ギバルテスは考える。それは、数十年間、ハングアップすることなく延々と動作しつづけ、肉体というマシンが故障すると同時にプログラムも終焉《しゅうえん》を迎える。
すでに滅んだ肉体とその意識がジャンジャック・ギバルテスなのだといままでは考えていたが、それはまちがいなのかもしれない。いまのギバルテスの肉体は姉原研十郎の剣であり、その上で走るプログラムがギバルテスの意識だ。そう考えれば、生きているヒトとたいして変わりはなかった。
百年前、生身の肉体を持っていたギバルテスは、燃え尽きようとしている肉体の炎を長らえさせるために魔女のライブラリを手にいれようとした。立ちふさがったのはクリストバルドと研十郎というふたりの魔法使いだ。激闘の末、研十郎の剣が胸に刺し込まれギバルテスは絶命した。
まばゆい光は見えなかった。白い花畑もなかった。左胸を貫かれた激痛があるばかりだった。立ち枯れた木の葉が散るでもない、ロウソクの火が消える寸前に明るく輝くのとも違う。ガスの供給を止められたガス灯が突然消えるように、生命は一瞬で消えるものらしいとギバルテスは理解した。
大魔女ジギタリスは幾度となく転生を繰り返した。しかしそれは、魂などという不可思議なものをどこかに保存して復活させるわけではなく、ジギタリスというプログラムを保存したということだ。プログラムとデータを肉体の外側に保存し、肉体というマシンが壊れるたびに次のマシンにインストールを繰り返していったのである。
いまになって考えれは、自分はジギタリスが遺したライブラリを誤解していたのだとわかる。
ジギタリスという個人は永遠ではなく、殺されるたびに毎回毎回終焉を迎えている。そういうものだ。滅びぬものなど存在しない。ギバルテスは戦いに破れて滅んだし、その敵であるクリストバルドも研十郎もとうに骸《むくろ》となって墓の下の眠りについた。ジギタリスを追っていたカタリ狩猟騎士団さえも、魔法が減びゆき科学文明が発達する百年という月日を生き延びることはできなかった。いまや。復活しようとしているジギタリスを追う狩人はなく、その名を記憶にとどめる者すらほんのひと握りとなってしまった。
だが、肉体というマシンの外側に保存された魔女のライブラリは永遠だ。それは、単なる情報の塊にすぎないのだから。
さいわいなことに、いまのギバルテスの肉体は鋼鉄の剣である。成長もしないかわり腐りもしない。うまく使えば千年だって保《も》つだろう。魔女のライブラリを手に入れることができれば、ギバルテスというゴーストスクリプトは、あるいはこの先永遠に動作しつづけることができるかもしれない。
古典魔法使いジャンジャック・ギバルテスは二度と戻ってこないが、自分はこうして生きて、思考している。
ただし、ひとつだけ忘れてはならないことがある。研十郎の剣に染みついたコードは、姉原とクリストバルドの眷属《けんぞく》への怨念が基礎となっているのだ。それは、たぎる熱い血潮ではなく冷徹なプログラムだ。ギバルテスのカーネルとなった怨念は、静かに冷たく、奴等を根絶やしにしろと命令する。それが、いまのギバルテスを動かす源であり、逃れられない宿命だった。
いまもまた、クリストバルドが遺したコードが自分を監視しているのを感じる。どこまでもいまいましい男だ。
魔女のライブラリは手に入れなければならないが、同時に、姉原とクリストバルドの眷属を生かしておくこともできない。ゴーストスクリプトのギバルテスというプログラムがこの世に発生したときのいちばん最初の行の命令がそれであり、回避は不可能だ。
六本木のビルで姉原美鎖は退場させることができた。残るはクリストバルドの眷属だ。
六年前にも邪魔をした、銀髪の小娘だった。
それは、血液というより溶かしたチョコレートを連想させた。
いそがしい母親が一度だけ湯煎《ゆせん》してつくってくれた手づくりのチョコレート。食べすぎで鼻から流れ出した血のにおいがなぜか記憶にこびりついている。
だから弓子は、あのとき、コンクリートに広がった黒い血の海を見てチョコレートを思いだしたのかもしれない。
きっと、あり得ないものを見た脳が、この情景はつくりものなのであると必死に弓子に伝えようとしていたのだ。現代最強と名高い魔法使いである姉原美鎖が弓子の攻性コードなどで傷つくはずはない。笑うに笑えぬ悪い冗談だ。
でも、鼻をつんと刺すのは濃密な血の臭気で、リアリティーあふれるそのにおいはじわじわと弓子の体を浸食し、肉体をチョコレートへと変えていく。
美鎖は倒れ、白かったはずのブラジャーが下のほうから滲《にじ》んだ血で斑《まだら》模様に変化していた。それは、サーキットを走るレースカーやレーシングバイクにペイントしてあるファイヤーパターンみたいで、体はぴくりとも動かないというのに不自然なほど勇ましい雰囲気をかもしだしていたのだった。
それが、きのうの夕方のことだ。
頸動脈に穴を空け、心臓停止状態で、美鎖はいずこへか消えてしまった。
美鎖が使ったのはゲートの魔法とかなんとか呼ばれるものだ。距離の概念のない世界の法則をこの世に持ちこみ、一瞬にして長距離を移動する高度なコードである。行き先は本人しかわからない。
弓子は、必死になって周囲のコードを探ってみた。美鎖が消えた六本木の複合ビルを中心とし、半径五十メートルから半径五百メートルまで、五十メートル間隔の同心円上をくまなく歩きまわって美鎖のコードの痕跡がないか調べた。けれど、結局手がかりを見つけることはできなかった。
もっとも、美鎖を危機におとしいれた当の本人が追跡できてしまうようでは、敵から逃げ切るための自動実行コードとしては不適切だ。姉原美鎖はそんなヘマをしない。
死んでいるとは思いたくない。彼女のことだ。なんとかしていると思いたい。だが、姉原邸に戻っていないことは気がかりだった。
アミュレットに秘められた自動実行コードは万が一のものであるはずである。ならば、美鎖にとって一番安全な場所に移動しなければならない。姉原邸には弟の聡史郎がいるし、傷ついて帰ってきたときのためのコードを用意しておくこともできる。なにより、要塞のように守られたあの洋館以上に安全な場所は考えられない。見た目は潰れかけのホラーハウスだが、魔法攻撃に対する防御は皇居と同レベルであり、首相官邸の上をいく場所なのである。
家に戻ってさえいれば、弓子がいなくてもなんとかなるはずだ。そう考えて後回しにしたのが失敗だったのかもしれない。帰宅していないことを前提に捜索の計画をたてるべきだった。仮にコードが失敗してどこかとんでもないところに飛んでいるならば、あの状態だ。すでに死んでいる可能性が高い。
美鎖がもし死んでいれば弓子のせいだ。ゲートのコードが失敗したとしても、美鎖のせいにすることはできない。魔法は力であり、それを行使する弓子はそこから引き出されることの責任を負わねばならない。攻性コードを投げつけあっているさいちゅうに、敵である美鎖に甘えていた自分が悪いのだった。
姉原邸を辞した弓子は、銀座三丁目の裏通りを全速力で走っていた。
唯一残った細い可能性が秋葉原だ。
早くそこに行かなければならない。
タクシーを捨おうかとも思ったが、弓子は、自分の身なりを見てやめた。
服にも肌にも乾いた血がべったりとこびりつき、袖は破れ、排気ガス混じりの雨を吸った洋服の生地は黒くくすんでいる。この格好で夜の六本木を歩いて警官に止められなかったのは奇跡だった。おまけにいまは、姉原邸の屋根裏を這《は》いまわったときについた蜘蛛の巣で髪がべとべとだった。
秋葉原に行く前に本来なら着替えを購入したいところだけれど、このぶんだと店にも入れないかもしれない。自分が店員だったら入店を拒否する。塩をまいて退い払われたって文旬は言えなかった。
おかしくて笑いが漏れた。笑いすぎて、目尻に涙がたまった。脚がもつれた。徹夜で六本木を歩きまわったせいだ。弓子は走るのをやめた。
とぼとぼと歩き出す。
そういえは、六年前もこんな風に銀座の街をさまよい歩いた気がする。あのときの弓子は十歳で、魔法をよく理解していなくて、曾祖父から受け継いだケリュケイオンもうまく使いこなすことができなかった。
だけれどあのときは、いまではもう忘れてしまった誰かが弓子のことを助けてくれたのだ。
よくおぼえてはいないけれど、この近所に住んでいる同世代の子だったのだと思う。暗くて寒いクリスマスの夜道をふたりで歩き、花壇に腰掛けてハンバーガーを食べた。ナイフとフォークなしでかぶりついたはじめてのハンバーガーだった。心細くなると彼女は手を握ってくれた。パンツすらはいてなかった弓子には、頼りない彼女のちいさな手がとてもとても心強く思えたものだ。
六年たったいま、一ノ瀬弓子クリスティーナはケリュケイオンの魔杖《まじょう》を使いこなすことができるようになった。魔法が絡んだ事件をいくつも解決したし、古典魔法では誰にも負けない自信がある。あの姉原美鎖にだって致命傷を与えることができる。
だけれど、弓子はひとりで銀座の街を歩いている。パンツははいていても、手を握ってくれる友達は誰もいない。
弓子は花壇を見つけた。六年前に彼女と並んで座った場所だった。
なぜだかとてつもない疲労を感じた。一刻も早く美鎖を見つけなければならないのに、足が動かない。しかたないので腰をおろした。花壇の石に体が融けこんでしまえばどんなに楽だろう。弓子の疲れた頭脳は、そんなやくたいもないことを考える。
なー。
鳴き声が聞こえた。視線をめぐらす。
姉原邸の周囲に住みついている半ノラの黒ネコだった。聡史郎がかたまりと呼んで、ときおりエサをやっているのを見たことがある。
弓子の視線を避けるように花壇をまわり、黒ネコはぼろぼろになったスカートを爪でひっかきだした。よじよじ。登っている。勝手にひざにはいあがってきて、丸くなった。
以前にも同じようなことがあった気がする。そのときは生後半年くらいの仔猫だったけれど。
背中を撫でようとすると、
みやぅぅ。
おいおいお嬢さんそいつはちっと勘弁なという顔で鳴いた。六年前に仔猫だった子だから、人間の歳に換算すると現在は四十歳ということになる。たしかに、十七になったばかりの弓子に子供扱いされるのもしゃくだろう。
「ひょっとして、また一緒に来てくださいますの?」
なー。
うなずいた。賢いネコだ。
「こんどは銀座ではありませんことよ」
なー。
「ありがとう」
たとえネコの手でも、いまの弓子には心強かった。
「それでは行きますわよ」
右手を伸ばす。ほつれた袖をてててと駆けあがり、黒ネコは肩までやってきた。やわらかい毛が弓子の頬を撫であげる。
そのとき弓子はコードを感じた。
発信源はネコ。いや、ネコそのものは関係ない。ネコの肉体がどこかで動作しているコードに共鳴しているようだ。古いふるい時代の自動実行コードが最近になって動きだした、そんな印象だった。あるいはそれは、このネコの先祖が関係していたコードなのかもしれない。ネコの筋肉組織がアンテナの役を果たし、微弱なコード異常を弓子に伝えたのだった。
コードの中心部はふたつある。
ひとつは、出てきたばかりの姉原邸。
もうひとつが秋葉原だった。
秋葉原というのは、案外まちがったラインではなかったのかもしれない。細いほそい糸のような線だけれどこれで繋がった。誰かがコードを走らせているのならそれは事件ということだ。美鎖がそれに巻きこまれたのであれば助け出せばいい。守りより攻めのほうが弓子は得意だ。裏で糸を操る黒幕がいるなら、それ相応のものは払ってもらう。
「よろしくお願いいたしますわ」
なー。
ケリュケイオンを握る手に力が戻るのを感じた。
電子機器があふれる秋葉原は現代魔法使いのフィールドであり、古典魔法使いの弓子はあまり行かない街である。だが、おそれていてはなにも解決しない。とりあえず秋葉原に行ってみなければならない。それが弓子のやりかたである。
六年前に自分の血筋に気づいたとき、謎の少女に出会ったとき、近くには姉原美鎖という先達の存在があったのだから、弓子は、古典魔法ではなく現代魔法を学ぶ道もあった。だけれど、これから発達していくであろう現代魔法を開拓する魔法使いではなく、衰退する古典魔法を使いこなす最後の魔法使いになろうと弓子は決意した。
だから、最後の古典魔法使いとして、弓子は電子の都に赴《おもむ》くのだ。
ジャム! jam!
空高く金色の太陽が輝いていた。雲はひとつもなかった。直射日光を浴びたアスファルトが、このまま熱しつづければカルビでも焼けそうなかんじにぬくまっていた。むきだしの腕を撫でる風は熱く湿り、気持ちの悪い感触を肌に残していった。
秋葉原の街に、気の早い夏が来ようとしていた。
地面を踏みつけるたび、こよみのローファーはぺたしぺたしという景気の悪い音を響かせる。となりを歩いている聡史郎は足音をたてない。あまり楽しそうとはいえない表情で足を運んでいる。こよみがそうっと一歩踏みだすと、ローファーはつつましげに存在を主張した。
こよみと聡史郎は、姉原邸のある銀座から地下鉄日比谷線に乗って秋葉原までやってきた。
駅前にある大きな本屋さんを背に、日比谷線の駅からJR秋葉原駅まで歩き、さらに中央通りを越え、ちいさなショップが立ち並ぶ路地裏に入ったところである。
電気街と言われるだけあって、秋葉原の街は電化製品でいっぱいだ。最新型のケータイが一面に並べてある家電の量販店があるかと思えば、プラスチック製のバスケットが路傍に並べてあり、こよみにはよくわからない機械の部品がたくさん中に入っていたりする。
道路の中央では、きれいな脚のお姉さんが、なんでこの街に突然そんなものがあるのだろうという絵画ショップに通行人を引きこもうと声をはりあげている。カタコトの日本語をしゃべるお兄さんは、なんだかよくわからない紙の束を持って客引きをしている。シャッターが閉まっている店の前に簡素なテーブルを出して、ホームレスと紙一重のおっちゃんがDVDを並べて売っていたりもする。それは、裸の女性のソフトだったり、絵に描いた裸の女性のソフトだったりして、直視するのもはばかられるのだった。
この街は、渋谷などと違ってきれいな服がショーウインドーに飾ってあるわけではなかった。ときおり見つける人形は、かわいいというよりは女の子のこよみは目をそむけてしまうたぐいのものであり、意味はわからないけれど張り紙に「魔改造!」とか書いてあったりする。
店頭のバスケットの中はメカメカしい部品が山盛りに詰まっていて、下手なボタンを押したら連鎖反応ですべてが爆発炎上しそうなのだった。
はっきりいって、こよみは、この街があまり得意ではなかった。
この街でなにを手に入れればいいのかさっぱりわからないし、こよみが苦手なボタンとメカがこの街には満載なのである。だけれど、大きな荷物を持って道を歩いている人たちはみなわりと楽しそうだった。きっと彼らなりの素敵なサムシングを見つけているのだと思う。
聡史郎が、呪うような視線で太陽を睨《にら》みつけた。
「なに、どしたの?」
「こんな暑い日に外を歩くヤツはバカだ」
自分も歩いているくせにそういうことを言う。ずいぶんと機嫌が悪そうだ。
聡史郎に聞いた限りでは、きのうから美鎖は家に帰っていないらしかった。美鎖と一緒に六本木に出かけたこよみも、途中ではぐれてからは顔を見ていない。
こうなってくると、六本木にあるビルのてっぺんのコンクリートに空いていた大穴が気になるところだ。直径は二メートルくらい。爆弾が爆発した跡とか、空から隕石《いんせき》が落ちてできた穴とか、そういうかんじではなかった。穴は完全な半球状で、縁の部分が焼け焦げたりぎざぎざになっていたりもしなかった。
まるで、超高層ビルのさらに上空にある雲の世界にはコンクリートが大好物の巨人が住んでいて、アイスクリームをすくう巨大半球状のスプーンで、コンクリートを削りとって食べてしまったみたいなのだった。
はっきりいって、魔法でもなければ起きそうもないことである。魔法だとしても、空中からたらいを降らすのとはひと味違う大人のコードだ。
こよみと嘉穂が穴を発見したときは、ビルは停電から復帰したばかりだった。誰かに見つかって怒られる前に、どさくさにまぎれてふたりは逃げ帰った。
今朝の新聞を見たら、ビルの屋上に出現した直径二メートルの穴の記事が一面を飾っていた。停電と合わせた新手《あらて》のテロ事件か? とかなんとか書いてあったと思う。こよみには直接関係ないけれど、師匠の美鎖以外にああいうことをやる人間がいるとも思えない。じゅうようさんこうにん、とかいうもので警察に呼ばれたらとてもとても困ったことになる。ビルの穴は、嘉穂とこよみふたりだけの秘密である。誰にも話してはいけない。
もっとも、あの穴は魔法で空いたのだなどと言ったら、聡史郎などは「おれの前でいかれたことを言うな」と怒りだす可能性のほうが高かった。
こよみの前に姉原邸を訪れていた弓子は、はっきり「美鎖を殺した」と言ったそうである。
本当なら大変なことだ。彼女は嘘をつくような子ではない。でも、言葉どおり受けとるのもなんだかなあという気がする。なにしろ美鎖のことであるから、殺されるという状況が想像できなかった。
電話で美鎖に連絡がとれなくなっている状態なのはたしかであるし、コンクリートに空いた穴が気になるのもたしかだ。それに、こよみは、朝から黒スーツのヘンな男に追われているのだ。通学駅のホームでうまくまいたと思ったのに、学校を出るとやっぱり姿を見かけた。黒スーツの男は、明確に森下こよみを目標に追跡しているようなのである。このまま家に帰ったとしてもついてくることはまちがいない。
頼みの綱の美鎖は雲隠れしている。嘉穂とは連絡がとれて、あの口ぶりではどうやらずる休みのようだったけれど、住んでいる場所が違う彼女にまさか迎えに来てもらうわけにもいかない。なんだか、森下こよみは絶体絶命のピンチっぽかった。
そういうこともあって、秋葉原にいるかもしれない美鎖を探す聡史郎に、こよみはついてきたのだった。
魔法の存在をちっとも信じていないけれど、やっぱりそこはそれ、聡史郎は男の子である。実体を持っている黒スーツの男ならなんとかしてくれそうな気がする。ちなみに、背の高さはだいたい同じくらいで、体の厚みは黒スーツのほうが倍くらい厚い。
美鎖を見つけて、黒スーツをやっつけてもらって、ついでに別行動で秋葉原に向かったらしい弓子と合流できれば一石三鳥だ。
そうとなったら善は急げ、こよみはケータイを取り出した。最近だんだんわかってきた電源っぽいボタンを何個か押すと、軽やかな電子サウンドとともに起動画面が表示される。
「はい」
にこやかに微笑んで、聡史郎に渡した。
「なんだよ」
「弓子ちゃんに電話をかけるんだけど、よくわからないの。たぶんたんしゅくだいやるってのに入ってると思う」
「おまえのケータイだろうに」
「でもでも、嘉穂ちゃんは一緒にいるといつもかけてくれるし。あたしがやるとけっこうまちがい電話になっちゃうし……だめ?」
こよみの手から聡史郎はケータイをむしりとった。まるで、どこを押せばどうなるかわかっているような的確さでいくつかのボタンを押し、こよみに放ってよこした。耳にあててみると、たしかにぶるるると呼び出し音がしている。
「あ、弓子ちゃん? あたしです。あの、森下こよみです。うん。ええとええと、なんの用って言われちゃうとけっこう困るんだけど……ふえええん」
弓子は気が立っているようだ。弓子が怒っているのはいつものことのような気がするし、実際いつものことなのだけれど、それでも深夜の割増料金くらいには言葉がとげとげしかった。
結局、午後六時半に中央通りのドーナツ屋さんで合流することにした。それまでになにかわかったらまた連絡すると約束して電話を切る。ついでに、電源も切った。
「おい」
「なに?」
「おまえはなんで持ち歩いてるケータイの電源を切るんだ?」
「え? あ、だってだって、突然かかってきたら怖いでしょ?」
「アホかおまえは。信じらんねー。やってらんねー」
「そ、そうかなあ……」
聡史郎によると、美鎖が「いざ」というときに使う店というのが秋葉原にはいくつかあるそうだった。聡史郎が代わりに買い物に来たことも何度かあるという。
そのいざというのは、突然PCが壊れたりしたときのいざで、コンクリートに穴を空けてゆくえ行方知れずになったときのいざではないような気がしたけれど、案外、美鎖はそれでも秋葉原に来たりするかもしれないとも思う。美鎖というのは、それくらいには常識がなさそうな人なのだった。
「はぐれんなよ」
こよみの手を握り、聡史郎は裏通りをずんずんと進んだ。
以前ふたりで銀座を歩いたときもそうだったけれど、人が多かったり経路が複雑だったりする場所をふたりで歩くとき、聡史郎がこよみの手をとるのはごくあたりまえの行為であるらしい。
黒スーツの男のこともあるし、手を繋いでくれると心強いからうれしいのだけれど、その反面気恥ずかしかったりもする。でも、聡史郎は平気な顔で、ひょっとしたら迷子でも連れているつもりなのかもしれない。それはそれで、ちょっとだけ悲しい。
聡史郎は、メカメカしい雰囲気の場所へ突入していった。看板に書いてある文字がだんだんと判読できない文字に変化していき、こよみは、ここが日本なのかそうでないのか判断がつかなくなってきた。
左右を見回す。
人込みの中に筋骨隆々の黒い塊を発見した。
「いた! あそこ。黒スーツ!」
聡史郎が立ち止まる。
「ほらそこ!」
せいいっぱい腕を伸ばし、こよみは黒い塊がいた場所を差ししめした。
「いねえぞ」
「あれ? おかしいなあ」
聡史郎は爪先立って周囲を見回す。こよみの視線は、背伸びした彼の胸のあたりだ。それほど高層の上空から探索しても、黒スーツの男は見つからないようだった。
どうやら、男は朝みたいに出てはこないらしい。たしかにこよみのあとをつけてはいるのだけれど、見つけたと思ったとたん隠れてしまう。あれほど目立つ大男が見つからないなどというのは信じられないが、この街を歩く人は皆大きな荷物を持っているからしょうがないのかもしれなかった。
手を繋いだまま、聡史郎とこよみは何軒か店をまわった。美鎖はショップの店員と顔見知りのようだ。聡史郎は目撃情報を聞いていたけれど、彼女を見かけた人間はひとりもいなかった。
カレーショップの前を通りかかる。
食欲を刺激するいいにおいがただよっていた。
くー。
こよみのちいさなお腹がちいさなちいさな音をたてた。嘉穂のこととか、男のこととかいろいろ気になっていたせいで、キュウリのベーコン巻きとたまご焼きのお弁当を半分残してしまったのである。あのときはそれでお腹いっぱいになったつもりだったけれど、遅れていまごろ攻撃してくるとは食欲もあなどれない。
聡史郎に聞こえてませんように。
振り向いた。
聞こえていた。
「ご、ごめんなさい」
「もうすこし待て。そしたらどこかで休もう」
「いいよ。ほんとに。ほんとにごめんなさい」
「あやまらなくていい。人間なんだから腹ぐらい減る。かといって、いまは、カレーは願い下げの気分なんだけどな」
「どうして?」
一瞬返答に詰まり、聡史郎は肩をすくめる。
「姉さんはカレーにダイコンを入れるんだ」
「へ?」
「ダイコンだよ。煮たりすりおろしたり味噌つけて食ったりするアレ」
「ダイコンはわかるけど……入れないの? カレーに」
「おまえん家は入れんのか?」
「……入れないと思う。たぶん」
「だろ。どんなカレーかにもよるけど、日本人が白米にかけるカレーには入れねえんだよ普通は。ダイコン」
聡史郎はいらだたしげに言った。
日本人がカレーを食べるようになったのは軍隊食がルーツであるらしい。大航海時代にインドからイギリスに伝播《でんぱ》したカレーは、明治になってから西洋食として日本に入ってきた。カレーに欠かせないジャガイモもスパイスのひとつである唐辛子も原産地はアメリカ大陸だ。日本に伝来した時点で、インド人が食べていたカレーという食べものはすでに変質していたのだという。
そもそもインド人は神聖なる牛を食べない。カレーにビーフを入れたのはイギリス人で、日曜日に焼いたローストビーフを水曜日あたりに食べる方法として、強い香りのあるカレーが普及したのだそうだ。
ちなみに、美鎖はカレーのことを大学の論文に書いたことがあるらしい。カツカレーは偉大なる先祖返りなのであるとかなんとか、そんなふうにまとめたそうだ。本当のことなのかどうかさっぱりわからないけれど。
料理の腕に自信をもっているだけあって、聡史郎はいろいろなことに詳しかった。
彼と結婚する女性はプレッシャーを感じるだろうなあ、とかこよみは考える。楽ちんでいいかもしれないけれど、夫が見事な食事をつくってくれるからといって、その代わりにこよみがなにかをやってあげられるかというとそんなこともなさそうだ。
「おまえ、なに赤くなってんだ?」
「なんでもない。なんでもないよ」
「……へんなやつだな」
こよみは、ぷいと横を向いてやった。
聡史郎は諭《さと》すように言う。
「まあ、アレだ。おまえももう高校生なんだから、大学の論文にカツカレーのことを書くような女の言ってることを鵜飲みにしないで、そろそろ現実と妄想の区別をはっきりとつけることだ」
「ついてるもん」
「ついてない。きょうだって、黒いスーツの男が後をつけてくるとか言ってたけど、結局一度も見かけねえじゃねえか。メン・イン・ブラックだなんて恥ずかしい妄想はやめろよな」
「魔法使いがいるんだからメン・イン・ブラックがいたっていいじゃないのよう」
「魔法使いなんてものはいねえの」
「いるもん」
「いると思いこんでる奴や、他人にいると思い込ませて金をふんだくるサギ師がいるだけだ」
「そんなことないもん。美鎖さん、魔法使いだもん」
あきれ顔をするかため息をつくか迷ったあげく、聡史郎はあきれ顔を選択したようだった。
「ひとつ質問だ。よく考えて答えろ。馬にはしっぽがある。牛にもある。じゃあカエルには?」
「ない……と思う」
「おまえが言ってる魔法使いもそれと同じだ」
「あー、カエルをばかにしちゃいけないんだよ」
「してねえよ」
音信不通の姉を探している聡史郎には悪いけれど、こんな時間も悪くないとか、歩きながらこよみはそんなことを考える。ちっともロマンチックじゃない街だけれど、これはこれで楽しいかもしれない。信号のない横断歩道を小走りで渡る。
自販機がずらっと並んでいる場所についた。
そこに、黒スーツの男が立っていた。
「わ!」
こよみは大声を出した。
「ほんとにいた! いた! そこ!」
「どこだよ」
聡史郎はきょろきょろと左右を見回している。
「すぐそこだってば。並んでる自販機の前。そこにいる黒い服の大きな人!」
「おまえさあ……」
聡史郎は立ち止まった。おさまりの悪い髪をぽりぽりと掻く。
「言い負かされたからって、小学生みたいな低級なごまかしはやめろ。黒服の大男なんてどこにもいねえじゃねえか」
小山のような男だ。自販機と並んで遜色《そんしょく》がない。そこにいるだけで物理的な圧力を発している。スーツに隠れた筋肉の盛りあがりは、電話帳どころか鉄パイプくらいはねじ切れそうだ。真っ黒なサングラスに隠れて見えないけれど、きっとサメみたいに凶暴な目をしているに違いなかった。
ちょうど道を歩いてきた迷彩パンツの男が、黒スーツを避けるようにして横を通りすぎていった。
それでも、聡史郎は男が見えていない。
魔法発動コードが影響するものだと、たとえばこよみが見えているのに嘉穂は見えないなどということがこれまで何回かあった。今回はこよみが幻覚を見ているのではない。聡史郎だけが男を視認することができていないのだった。
男は言った。
地獄の底から響いてきたような低い声だった。
「あなたです」
「ちちち、違います!」
「いいえ、あなたです」
「違いますってば!」
こよみは聡史郎の背後に隠れる。なにやってんだしょうがないなという顔で聡史郎が見下ろしている。彼の耳には男の声も届いていない。
「……こんなことはあまり言いたくないんだが、いくらなんでも空中と話すのはやめたほうがいいと思うぞ」
「そうじゃないんだってば!」
聡史郎の服をこよみはぎゅっと握りしめ、震えそうになる指をごまかした。
これは困ったことだ。とても困ったことだ。黒スーツの男が物理的な存在ではなく魔法的な存在だというのなら、聡史郎ではなくこよみが相手をしなければならない。美鎖はここにいないし、弓子はこの街のどこか別の場所にいる。それどころか、聡史郎を守ってあげなければならないかもしれない。
男が一歩踏み出した。
こよみは下がれない。聡史郎は動かず、全然関係ない方向を見つめている。こよみが組めるのはたらい召喚のコードだけだ。それが、黒スーツの男に効果があるかどうかはわからない。こよみは息を吸いこんだ。
「おい、誰か来たぞ」
聡史郎が言った。
こよみはそれどころではない。聡史郎には見えてない黒スーツを、まっすぐに見据える。
その視界に、マオカラースーツを身にまとった細身の男が侵入してくる。おだやかだが神経質そうな笑みを浮かべた男だ。彼の手には古風な剣が握られている。肩の上には、三つ揃いのスーツを着た|幽 霊《ゴーストスクリプト》が浮かんでいる。
「また会いましたね。お嬢さん」
秋葉原の街角で、ゲーリー・ホアンは優雅に一礼した。
坂崎嘉穂は疲れていた。
ありていに言ってへとへとだった。半日しかモニターを見つめていないのに目はかすみ、午後の陽光がしみる。肩の筋肉は、成形に失敗したボールジョイントみたいに凝っている。四二・一九五キロのフルマラソンを走ったくらい体力は消耗していて、目の前の路上に低反発まくらが置いてあったら、いますぐ熟睡する自信があるくらいだ。
JR秋葉原駅電気街口の改札を出た嘉穂は、小銭をとりだして駅のすぐそばにあるコンビニエンスストアに入った。一時的な元気一発を注入してくれるドリンク剤を買うためだったが、しばらく物色して、心にひびく銘柄がないのでやめることにする。これなら、チチブデンキ横の自販機で毒物飲料を買ったほうがまだ精神の栄養剤として効きそうだった。
嘉穂は朝からぶっ通しでPCに向かい、あるプログラムを組みあげてから家を出てきたところだ。
いろいろ考えた結果、嘉穂は、最悪のケースを予想して動くことにしたのだった。
コンピューター上で動作する魔法発動コードの勉強をしているといっても、嘉穂はまだ素人と変わりない。簡単なコードなら実際に組めるようにはなったけれど、美鎖がつくったコードを目的のCPUにアレンジすることができるようになったというだけのことである。
ゼロの状態から魔法のシステム設計をして、フローチャートを書き、それに従って新規の魔法発動コードを構築することはできない。つまり、実際に美鎖が使いかたを教えてくれたコードしか嘉穂は組むことができないのだった。
いくつかの知っているコードのうち、血まみれのアミュレットと線で結びつけることができるコードはたったひとつしかない。
そのひとつのコードを活用することを求められているのだとすれば、アミュレットは、|生前の《ヽヽヽ》美鎖がなんらかの手段で嘉穂に送ったものだと仮定できた。生前、というのはあまりよくない想像なのだけれど、いまのところ他の選択肢は考えにくいし、考える必要もない。でなければ、他の人物をスキップして嘉穂にアミュレットが届く意味などないのだから……。
もちろんそれは最悪のケースで、嘉穂の考えすぎだという可能性もある。だけれど、最悪ではない場合は自分がなにかをしてもしなくてもどうにかなるだろう。景悪のケースでだけ、嘉穂は、百二十パーセントの力を発揮しなければならない。
そう考えることにしたのだった。
秋葉原の街に来ていることがわかっているのは、聡史郎とこよみと弓子である。その誰にアミュレットを渡すのが最良な選択か? 自分が使うという手もあるが、できれは、拳銃と同じくらい最後の武器にしたいところだ。
こよみは除外していいだろう。すべてのコードをたらい召喚に変換してしまうこよみは、あるコードを実行させているマジックアイテムを渡す相手として適当ではない。
弓子も違う。彼女は、美鎖を殺害した犯人である可能性がもっとも高い人物だからだ。ああ見えて仲がいいふたりだから、殺害したといっても過失なのだろうけれど、美鎖の遺品を渡すのもどうかと思う。もちろん、あくまでも嘉穂の想像にすぎないのだけれど、最悪のケースを想定して動く以上、そういうことも考えておかねばならない。
残るひとりは聡史郎だ。魔法を毛嫌いしている聡史郎に渡すというのも不安が残るがしょうがない。自分よりはマシだと思うことにした。
聡史郎は携帯電話を持っていない。一緒に行動しているらしいこよみのケータイに電話をかけることにする。
肩かけのバッグからケータイをとりだし。嘉穂は短縮ダイヤルを押した。
おだやかな電子ボイスが、電源が切れているか電波の通じない場所にいると言った。きょうも電源を切っているらしい。森下こよみはそういう子だった。
姉原美鎖は電源の切れているケータイにも電話をかけることができる。しかし、そのコードは美鎖が己の肉体で組んだものであり、プログラムとして組んだものではない。見よう見まねでつくってはみたものの成功する自信はあまりなかった。
慣れ親しんだ街ではあるけれど、ブラウン運動するたったふたりの人間を見つけるのには秋葉原は広すぎる。あせってもしかたがない。とりあえず嘉穂はチチブデンキ方面に歩くことにした。喉をうるおし、明晰《めいせき》な思考ができるようになった頭脳でゆっくり方針を考えたほうがいい。
ところが、きょうの嘉穂はラッキーデーだったのかもしれない。
信号のない横断歩道を渡ろうとしたとき、道の向こう側に見おぼえのあるシルエットを発見したのである。チチブデンキ横の自販機のところだ。百八十センチ台後半の青年と、百四十六センチの少女のなんとも凸凹《でこぼこ》な組み合わせのカップルが立っている。
自販機の横に立っているのはふたりだけではない。ラジオ会館にある等身大世紀末格闘家よりも筋骨隆々の黒スーツが一緒だった。
こよみたちと黒スーツがいる場所とちょうど正三角形を描く位置にマオカラースーツを着た細身の男も立っている。男は片手に、古風なつくりの剣を携《たずさ》えていた。
トムヤムクンの海に沈没している姿しか見ていないので記憶が曖昧《あいまい》だが、マオカラースーツの男は、ソロモンの事件が起きたときに姉原邸に侵入してきた犯人である気がした。あの男も現代魔法の使い手だと、美鎖に聞いたことがある。
男の肩口には、背景が透けて見える人型が浮かんでいた。古風な三つ揃いスーツを着た白人男性だ。一般の社会では、幽霊とか背後霊とか呼ばれているものである。現代魔法ではゴーストスクリプトと呼ぶ。霊感に類する才能がほとんどない嘉穂にも姿が見えるくらいだから、よほど強力なコードで増幅したゴーストスクリプトなのだろう。マオカラースーツの男は、特定のゴーストスクリプトだけを増幅するコードを組むことができるようだった。残念ながら、嘉穂にそれはできない。
けっこうな数の通行人が目撃しているだろうに、宙に浮かぶゴーストスクリプトは注目を集めているわけでもないようだった。
フリフリのメイドや格闘ゲームのキャラクターの格好をした人間が道の中央でチラシを配っいることに比べれば、肩口に浮かぶ男性などというのは敢《あ》えて見るべきものでもないのかもしれない。三つ揃いのスーツは平凡で、特筆すべきデザインでもない。秋葉原という街はまったくいいところだと嘉穂は思う。
三者は、剣呑《けんのん》な一触即発の雰囲気を醸《かも》しだしていた。
事情はわからないけれど、猶予はあまりないかもしれない。すくなくとも、マオカラースーツの男が美鎖と敵対する存在であることは明白なのだから。
バッグからハンドヘルドPCを引っぱりだし、嘉穂はレジュームから復帰させる。
暗号化されていない無線LAN信号をすぐに拾った。都会はいいところだ。無線LANさえ持っていれば、事実上ネットに繋ぎ放題(犯罪)なのである。
嘉穂は深呼吸した。
他人の回線に勝手に接続するくらいのことはいつでもやっている。公共施設のPCを分解したり、OSを解析しようとしてハードディスクのブート領域をふっとばしたり、いろいろなことをいままでやってきた。
でも、明確な犯罪行為はこれがはじめてだった。
学校のコンピューターにリモートログインし、セキュリティーホールを丸出しにしている見ず知らずの他人のPCにさらにリモートログイン。システム権限を強奪する。海外のプロキシを経由してもう一度さらにリモートログイン。半日かけて用意したプログラム名を打ち込む。
リターンキーを押した。
すぐさま、痕跡を消しつつ他人のPCから撤退。背に腹は変えられず使用した白華学院のコンビューターの痕跡を最後に消して、ハンドヘルドPCを閉じた。
さあ、これでもう後戻りはできない。ばれないように細心の注意は払ったつもりだけれど、優等生の嘉穂は、いままで想像の上でしかクラッキング行為をしていない。たとえ頭の中で千回シミュレートしていたとしても、どこかにほころびがあるかもしれない。ばれたら警察が学校に乗り込んでくる。コンピューターウィルスをばらまく行為は犯罪だ。嘉穂がつくったワーム型ウィルスはデータを破壊したりはしないけれど、他人のコンピューターを勝手に動かせば電子計算機損壊等業務妨害という罪になるのだった。
目の前で発生しようとしている事件とは別種の危機を、優等生であるはずの嘉穂個人は抱えことになるが、しかたない。送り主は、嘉穂を信頼してアミュレットを託したのだから、その期待に応えなければならなかった。
この瞬間、嘉穂が種を蒔《ま》いたワーム型ウィルスは、用意したアドレス表に従って無差別にアタックを開始。セキュリティーホールにパッチを当てずにネットに繋いでいるコンピューターを発見すると、そのコンピューター上でも動作を開始する。侵蝕されたコンピューターはアドレス表を交換してアタックをはじめ、ワームに汚染されたマシンはまたたく間に一台が二台、二台が四台となって爆発的に増殖する。
ワームが世界中に蔓延《まんえん》するのに必要な時間は約二十分。魔法発動コードは二十分で完全な効果を発揮する。
通行人のふりをして、三すくみにつっこむことにした。
「ちょっと通りますよ」
三人と、正体不明のゴーストスクリプトの合計八つの視線が集中した。気にせず小銭を取り出す。一瞬、嘉穂の指は缶入りのおでんに動いたが、すこし逡巡《しゅんじゅん》したあと、結局、普通の清涼飲料水のボタンを押した。
「か、か……嘉穂ちゃん?」
こよみが声を出した。
「気づくの遅すぎ」
かがんで清涼飲料水の缶を取り出す。
こよみとゴーストスクリプト憑《つ》きの男と黒スーツの、ちょうど中心点に嘉穂は立っていた。
こよみは心底驚いている。聡史郎は、余計な面倒がまた舞いこんできやがったという顔だ。黒スーツの表情はサングラスでわからない。マオカラースーツの男は宙に浮かぶゴーストスクリプトに視線を送ったようだった。
だいじょうぶ。嘉穂はまだこの場の雰囲気を支配できている。あとすこしは保《も》ちそうだ。
缶ジュースのプルトップをあける。
ぱきょ、と景気のいい音がした。つづく動作でバッグからアミュレットを取り出し、嘉穂は聡史郎に押しつけた。
「首にかけて。すぐ。可及的すみやかに」
「こここ、これって……美鎖さんの?」
「そ」
「美鎖さんは?」
「さあ。ボールペン工場でバイトしてるのかも」
「へ?」
「いまのは冗談」
「そうなの?」
「……なんで、おれなんだ?」
「森下だとだめだから。はやくして」
「姉さんのアミュレットをおれがつけてどうすんだ?」
マオカラースーツの男がアミュレットに気づいたようだ。
なのに、聡史郎は心底迷惑顔なのだった。
「オラオラオラオラ……とか、好きなように使ってくれればいい」
「わけわかんねえぞ。日本語で説明しろ日本語で」
「な、なんでとつぜん、嘉穂ちゃん、やんきー口調なの?」
清涼飲料水をひとくち飲んで、嘉穂はいつもの説明をした。
「わからないならわからないでいい」
漆黒のアミュレットを手に握りしめ、聡史郎はどうしたものかと逡巡しているようだった。
顔を動かさず、嘉穂は視線だけで周囲を見回す。あっけにとられているのかどうかはわからないが、とりあえず黒スーツは動いていない。
マオカラースーツの男が、一歩、進み出た。黒スーツの男もじりと動く。マオカラースーツとこよみのあいだに体を割りこませるような動きだった。
「おとりこみ中もうしわけありませんが、そろそろこちらの問題を解決させてもらおうと思います」
「たしかおまえ、姉さんがつくったトムヤムクンを頭で食った野郎だろ?」
「その節はどうもありがとうございました」
優雅に一礼する。
「ウチに盗みに入ったのはおまえだな。その剣は見おぼえがある」
「そうです。返すわけにはいきませんが」
「そんなものいるかバカ。粗大ゴミがひとつ減ってせいせいしてるくらいだ。やくたいもないそいつはくれてやる。そのかわり一発殴らせろ」
「弟さんはモノの価値がわかってらっしゃらないようですね」
「泥棒に入って言うことかそれが」
宙に浮かぶゴーストスクリプトが口を開いたのはそのときだ。人間がしゃべる声とは違う。古ぼけたラジオから聞こえてくるような、ひろがりの感じられない音だった。
「ここはいったん退《ひ》け、ホアン。たったいまコード異常が発生した。不確定要素はできるだけなしにしたい」
「いまがベストだと思いますが?」
「魔法に関する知識はわたしが上だ。退け」
「いいでしょう」
そのまま、ホアンはきびすを返して歩きだす。
「おい。ちょっと待てよ!」
「もうしわけありませんが、待つわけにはいきません」
「ふざけんなこの」
マオカラースーツを止めようと踏み出した聡史郎の腕を嘉穂はつかむ。後戻りできないリターンキーを押してから経過した時間はまだ五分ほどだ。自分の意思でしゃべることができるゴーストスクリプトと、特定のゴーストスクリプトだけを増幅できる現代魔法使いに対抗する力はまだ、ない。さらに悪いことに、嘉穂が組んだコードは、味方だけでなく敵にも力を与えてしまう可能性がある。
「邪魔すんなよ」
「アミュレット。はやく」
不承不承《ふしようぶしよう》、聡史郎はアミュレットを首からかけた。
マオカラースーツとゴーストスクリプトの姿は秋葉原の雑踏に消えようとしている。首をめぐらすと、黒スーツの男もいなくなっていた。まるで、午後の陽光を浴びて融けてしまったように、男の姿は消えてしまっていたのだった。
嘉穂はこよみを見やる。
口を半開きにしてがくがくとうなずいた。
「もういいだろ。手を離せ」
嘉穂は手を離す。
「おまえもだ!」
こよみがまだ聡史郎の服を握っていた。
「くそ。おまえらのせいで見えなくなっちまったじゃねえか。せっかくの手がかりかもしれねえってのにどうしてくれる」
「まあ、そういう日もあるわよ」
聞きおぼえのある声が上空から降ってきた。漆黒のアミュレットを首にかけた聡史郎の肩の上。地上三メートルほどの空間から、その女性の声は聞こえた。マオカラースーツに憑《つ》いていたゴーストスクリプトと同じく、壊れかけたモノラルラジオが出す音のように不鮮明な声だった。
「しかし、ずいぶんと勘がいいわね。さすが古典魔法が最盛を極めた時代の魔法使いだわ」
その女性は黒一色だった。半透明で、中に浮いていた。アジアンで極彩色な看板が溢《あふれ》れる秋葉原の裏通りのことだ。半透明の女から透けて見える街はそこだけが色を失っている。まるで、色がなくなる不思議なレンズを通して世界を覗いているようだった。
嘉穂が組んだのはワーム型ウイルスを利用したゴーストスクリプト増幅のコードだった。全世界にばらまかれた魔法発動コードにより、物品に染みついた強烈な想いは増幅されエミュレートをはじめた。ゴーストスクリプトを増幅するにしては大がかりすぎるやりかただが、まだ初心者である嘉穂は、血まみれのアミュレットに影響をおよぼす方法をそれしか知らない。
「元気してた?」
半透明の女は言った。
姉原美鎖の、ゴーストスクリプトだった。
癒しの乙女 cure maid
その頃、銀座三丁目をテリトリーとする黒ネコは、一ノ瀬弓子クリスティーナの肩の上であくびをしているところだった。
黒ネコは、四肢をだらっとさせた状態で弓子の肩に乗っかっている。宇宙を探査するパラボラアンテナのようにヒゲはぴくぴく動いているが、体は伸びきった洗濯物みたいにだらけていた。
弓子がこのネコにはじめて会ったのは十歳のときだ。いまでは弓子はいっぱしの古典魔法使いと言える存在になったというのに、いったいどんな生活をしていたのか、黒ネコのほうはずいぶんとぐうたらになってしまったようである。いまや立派な成猫《せいびょう》で、むかしと違ってずいぶんと重かった。
もっとも、ネコが動かないのは弓子にとっては好都合だった。ネコの体がアンテナ代わりになって、普段よりも敏感にコード異常を感じとることができるのだ。いまなら、半径五百メートルくらいの空間で発生しようとしている魔法発動コードのひとつひとつを誤差三十センチで特定できるかもしれない。野生動物の体というのはなかなかあなどれない。
結局、弓子はタクシーに乗って銀座から秋葉原までやってきた。ぼろぼろの服を着て、肩にネコまで乗せた弓予を見て運転手はドアを閉めようとしたが、高額紙幣を渡して黙らせた。まだ、服は着替えていない。
自分のテリトリーを出ない生物であるネコが弓子についてきたのがなぜかはわからなかった。ネコというのは、イヌと違って、人をおぼえて住みついているのではなく、テリトリーを記憶してその場所で生活を送る。六年前の戦いでは、黒ネコにとっても自分の領土を守るという使命があったけれど、今回はまるきり関係がないのである。
そういえば、六年前に銀座で遭遇したクリストバルドらしき人物が連れていたネコも黒ネコだった。あるいは、このネコと弓子に流れる血にはなにか因縁があるのかもしれない。
もっとも、むかし話に登場する黒ネコの使い魔などは、ネコの肉体に|異世界の魔物《デーモン》を憑依《ひょうい》させた存在である。ネコというマシン上で別のプログラムを走らせているようなものだから、ネコそのものとはすこしばかり違うのだけれど……。
タクシーから降りたった秋葉原は、無数のコードが蠢《うごめ》く異質な街だった。
一般の人は雰囲気程度にしかわからないかもしれないが、魔法的な視野を持つ弓子には、この街はモザイク模様のステンドグラスのように見える。何種類もの魔法発動コードが街中の空間をすこしずつ切りとっていて、しかもそれは、一時たりとも止まらず複雑に変化しつづけているのだった。それらのほとんどは、微弱な、コードとも呼べぬような代物であり、発生したと同時にゆらめいて消える。物理法則に影響をおよぼすこともない。この街にある数えきれぬほどのコンピューターの演算結果が生みだすほんの一瞬のきらめきだった。
コードのうちのいくつかは姉原美鎖が流したものだ。
すでに用済みとなったコードでも、インターネットに一度放流してしまえば回収するのは困難である。セキュリティー対策をしっかりしないで放置しているマシンの中では、一年も前のコンピューターウィルスが動作したりしているのだ。開かれたネットワークにウィルスやワームという形で魔法発動コードを流したが最後、根絶は、時間が解決してくれるのを待つしかない。時間が経過すれば、PCやOSが陳腐化して入れ替わりが起きるから。そのときに魔法発動コードもデリートされるのだった。
ウィルスの発達とともにアンチウィルスソフトが発達したように、いまは野放しの魔法発動コードも、いずれはアンチ魔法コードソフトによって消去されるような時代が来るのかもしれない。弓子はそんなことを考えたりする。
コンピューターが生みだす魔法に満ち、人があふれ、洗練された他の街が失ってしまったいかがわしさを残している秋葉原は、姉原美鎖という女性にはぴったりだといえた。
この街のどこに「いざというときの場所」があるのかは想像もつかないけれど、案外、さびれた雑居ビルの細くて急な階段を登っていった狭い部屋に美鎖は安全地帯をつくっているかもしれない。そんなことが想像できる街なのだった。
そんなものが実際にあったとして、秘密の隠れ家をこよみが見つけられるとも思えない。それでも、自分以外にも探している人間がいるというのは心強かった。六時半に合流するまでに、せめて美鎖が残した手がかりくらいは見つけたかった。
きのうの戦いで美鎖は本気を出した。
いままでの戦いも全力ではあったのだと思う。美鎖は基本的には現代魔法使いであり、己の肉体で組むコードには不慣れだ。古典魔法のコードを肉体で組む能力に限っていえは、弓子のほうが美鎖よりすぐれているといえるかもしれない。
渋谷でやりあったときも、ほぼ同時に体力の限界がおとずれた。先に動けるようになったのが美鎖だという事実は認めなければならないが、経験や蓄積やコードそのものに関する理解の深さが違うから、彼女のほうが総合的に上なのはしかたなかった。
だけれど、いつでも全力ではあったが、美鎖は本気ではなかったのだ。
本気を出して弓子と戦うということは、すなわち、弓子を倒すもっとも適した方法をとるということのはずだ。古典魔法という弓子のフィールドに入ってくる必要はない。美鎖は現代魔法使いなのだから、PCで組んだコードで何重もの罠を張り、弓子を陥れればいい。
本来、姉原美鎖というのはずるい手段を平然と行使できるずるい人間であり、正面から正々堂々と戦うなどということはしない。他人には正々堂々を要求するかもしれないが、陰でこっそり本人は抜けがけして目的を達成する。そういう女だ。
そうせずに古典魔法の戦いですませていたということは、美鎖は弓子に合わせてくれていたのである。
くやしいが、それが現実だ。
そういうことから考えると、六本木の複合ビルでの美鎖の行動はよくわからなかった。完全に弓子に勝つつもりであったならもっと別の手を使うべきだし、いつものように力だめしのような戦いをするつもりだったとすれば、使っていたコードが剣呑《けんのん》すぎた。そのせいで、ケリュケイオンに秘められた緊急コードが発動してしまった。
彼女も人間なのだから、迷ったりまちがったりすることはあるだろうが、きのうの美鎖は非常に姉原美鎖らしくない。迷った末に本気を出さざるを得なかったとか、そんな風にすら思える。予期せぬなにかがあって、途中で美鎖は方針を変更せざるを得なくなったのかもしれない。
結局、弓子の中では、美鎖とのことはまだうまくまとまっていなかった。
六本木の複合ビルのコード異常はこよみたちが解決したようだった。たらい召喚のコードしか使えないというのに、彼女の行動力はなかなかあなどれない。
失綜した美鎖と、この街で見つけたコード異常が関係しているかどうかもわからなかった。はっきりいってわからないことづくしだった。
黒ネコがぴくりと動いた。
ビルに隠れて見えない場所に、弓子は紫の瞳を向け、目を細める。
中央通りをはさんだ街並の向こう側、直線距離で弓子から二百メートルほど離れた場所で魔法発動コードが発生した。弓子が追ってきたコード異常だ。
なにかはわからないが、その周囲には、別のふたつのコード異常も集中しているようだった。泡のように浮かんでは消える他のコードと違い、みっつのコード異常は、しっかりとこの世界に存在している。
その中のひとつに、弓子は見おぼえがある。六年前に倒したはずのあの男のコードに似ていた。
もしかしたら、今回の一連の事件にあの男も関係しているのかもしれない。姉原の一族とクリストバルドの末裔と、悪の魔法使いジャンジャック・ギバルテスは切っても切れない関係にある。
コード異常のひとつが集団から離れた。ギバルテスに酷似したコードだ。人間が歩くほどの速度で移動している。
銀座から追跡してきたコード異常のほうへ向かうか、それともギバルテスに似たコードに向かうか。弓子は選択しなければならない。
他のふたつは停止したままだ。と思ったら、もうひとつのコード異常が、人間が走るような速度で最初のコード異常を追いかけはじめた。弓子が追ってきたコード異常だけが元の場に残っている。
ふたつのコード異常は次第に接近していく。先行するコード異常が道を折れた。速度を変えず、弓子から遠ざかっていく。駆けているコード異常は、曲がらず、そのまま駆け足の速度で移動をつづける。弓子のほうにまっすぐ向かっていた。
雑踏に隠れて姿は見えない。弓子とコードを隔てるものは、車が走り抜ける中央通りだけだ。
信号が青になった。
雑踏からコード異常が飛びだす。
弓子はケリュケイオンの杖を構える。
姿を現したのは、姉原聡史郎だった。
その姿を見て弓子は腰を抜かした。冗談で言っているのではない。腰から下のすべての力が一瞬で抜け、立っていられなくなったのだ。ケリュケイオンを手放さないだけで精一杯だった。弓子は、地べたにぶざまに座りこんだ。地面と衝突した膝頭がごつっと音を出したのがわかった。汚れたスカートがアスファルトに円を描いた。肩に寝そべっていた黒ネコは華麗に身をひねり、ふわっと広がったスカートの上に音もなく着地する。
聡史郎が近寄ってくる。
「いまここに野郎が来なかったか?」
弓子はがくがくと首を横に振る。
「ところで旱く立て。なにやってんだよおまえはまったく。いい歳して地面なんかに座りこんで。人の邪魔になるだろ」
肩の上に浮いているのはまぎれもないあの女だ。
「やっほー、弓子。うらめしやー」
能天気な声だった。
「貴女は! 貴女って人は! どうしてそんな明るい顔をしていられますの!」
「そんなに大きな声出さなくても聞こえるわよお」
弓子の叫び声を、美鎖のゴーストスクリプトは涼しい顔で受け流した。驚いたのはネコのほうで、とてとてとてと走って聡史郎の足元に隠れた。
「なんでかたまりがこんなとこにいるんだ?」
なー?
パンツの裾に頬をすりよせたりしている。
「もしかして迷子なのか? 一緒に帰るか?」
ふみ!
ぷいと首を振った。
「ヘンな猫だよな。おまえ」
足首をビミョウに動かし、聡史郎はネコをじゃらしている。彼の興味はネコに集中していて、自分の肩に浮かんでいる姉のゴーストスクリプトにはないようだ。杖をつき、弓子はなんとか立ちあがった。そして、聡史郎へとも美鎖へともとれる言いかたをした。
「ゴーストスクリプトが発生しているということは……つまり、なにが起こったかということは理解されているのでしょう?」
「まあでも、死んじゃったんだったら、いまからじたばたしてもしょうがないしねえ」
美鎖は半透明の肩をすくめる。メガネのチェーンがきらりと光を散らした。その胸にはCPUに鎖をつけたような漆黒のアミュレットがぶらさがっており、もはや、美鎖という存在にとってアミュレットが欠くべからざる附属品となっていることがうかがい知れた。
本物のアミュレットを首にさげた聡史郎はネコをあやしている。
「美鎖の体はまだ見つかってませんのよ。貴女が探さなくて誰が探すというのです!」
「だからこうやって探してんじゃねえか」
「ゴーストスクリプトのわたしは、ゴーストスクリプトとして生成された瞬間までの記憶しか持ってないのよね。その後、体がどこに行ったかをわたしに聞いてもわからないわよお」
「無責任ですわ!」
「なにが無責任なんだよ」
「そんなこと言われてもなあ。ゴーストスクリプトのわたしが生まれちゃった以上、生きていても死んでいても、元の姉原美鎖とは別の存在なのよ?」
ぽりぽりと頭を掻いたりする。
聡史郎は、ビンの中に三百年閉じ込められた魔神と同じ悟りを開いた表情で立っていた。
「……ちょっといいか?」
「いま大事な話の途中なのですわ」
「いやまあ、大事な話ってことはわかるんだよ。ただ、話がビミョウに噛みあってねえ気がするもんでな」
「わたくしは美鎖と話してるのですわ」
「姉貴なんかどこにもいねえだろうに」
「なにをおっしゃいますの。いるでしょうが! 貴方の肩の上です」
聡史郎は首を傾け、自分の肩の上の空間をちらりと見た。まずは右で、美鎖のいないほうだ。次が左で、美鎖が浮かんでいるほうだ。そして、首を左右に振った。
「おれは男子校なんでよくわからんのだが、いま女のあいだでは空中と話すのが流行ってたりするのか? よく電車の中とかにいる空気と話すおっさんみたいに」
「もしかして……見えませんの?」
「なにがだよ」
「無理よ。聡史郎には絶対見えないし聞こえないわ」
「どんなに鈍い人でも見えるくらい強力なゴーストスクリプトですのに……」
「わたしの料理のせいなのよね」
美鎖は説明した。
姉原美鎖は、齢《よわい》八歳のときから姉原家の食卓を切り盛りするようになった。聡史郎が生まれてすぐ、ふたりの姉弟の母親が死んでしまったのだ。人見知りの激しい聡史郎は雇った家政婦を近づけなかった。
料理のつくりかたがわからない美鎖は、魔法を使って母親の料理の真似をした。料理の腕は八歳の女の子だったけれど、魔法の腕は並はずれていた。
おおざっぱな性格の父親は、料理の見てくれにこだわらなかった。美鎖の料理が母親のそれにそっくりなことを誉めさえした。
生まれたときから美鎖の料理を食べていた聡史郎は、異常さに気づくだけの知識がなかった。離乳食も美鎖がつくった。家を空けがちだった父親の被害は、もともとすくなかった。当時すでにいっぱしの魔法使いだった美鎖は抵抗力を身につけていた。自分で料理をつくりだすまでの十五年間、コードまみれの魔法食を姉原聡史郎は食べつづけた。
はっきりいって、世界征服をたくらむ悪の組織がつくりだした戦間人間でも、ここまでスパルタンな食生活は送っていない。朝食も昼食も夕食も、苦いと文句を言ったコーヒーさえも、聡史郎の口に入るものはすべてびりびりするほどのコードが組みこまれていたのだった。
「むかしの中国の皇帝って、毒殺されないように、子供の頃からすこしずつ毒を飲まされてたっていうじゃない? あんなかんじなのよね」
「魔法……不感性、ですの?」
「そういうことになるかしらね」
「いつまで空気と話すつもりだ? いい加減、おれは他人の視線が気になるんだが」
「ここで待っていてくださいまし」
「なんだよ」
なー。
「あらあ、よしよし」
美鎖のゴーストスクリプトは聡史郎の足元まで降りてきて、黒ネコの首筋を撫でたりしている。聡史郎は仏頂面だ。ネコですら見えるコードが見えないというのはちょっとした才能かもしれない。
ちょうどここは秋葉原である。ちいさな店が軒を連ねる路地に弓子は突入し、小型のFMラジオを購入して戻った。
右手にケリュケイオン、左手にFMラジオを持ち、コードを生成。弓子が聞いた美鎖の声を逐一電波に変操してラジオに流し込むことにする。生成過程に魔法が絡んでいても、ラジオが出す音はただの音だからだ。
『やっほー。聡史郎』
モノラルのスピーカーから、割れた美鎖の声が聞こえた。
「なんだこりゃ?」
聡史郎にも聞こえたようだ。
「美鎖の声ですわ。本当は貴方の背後に浮かんでいるのですけれど、聞こえないようですのでわたくしが魔法で変換しております」
「おれの前で魔法と言うな」
「この声は魔法とは関係ありません」
『そうよお。関係ないわよ』
「姉さんの声色を使うな。気持ち悪いだろ」
『あんたって意固地よねえ』
「べつに魔法を信じていただく必要はありませんが、これが美鎖の声であるというのは厳然たる事実です」
「声だけ真似てるって可能性もある」
「貴方と美鎖しか知らないことを聞いてみればよろしいですわ。そうすれば、わたくしが貴方を担《かつ》いでいるのか、本当の美鎖なのかわかります」
いぶかしげな表情で聡史郎は腕を組む。
すこし考えて、言った。
「姉さんが書いた、ある食物に関する論文のタイトルを言え」
『えー』
モノラルのスピーカーから不満そうな美鎖の声が出た。
「言えないのか? じゃあ偽者だな」
『あれ、ある食物に関する論文じゃないわよ。一般物理学の諭文だもの。授業で言ったことはなに書いてもいいって言ったから題材に選んだだけなのに、再提出させられたのよ。ひどいわよね』
「そんなことは聞いてない」
『人はなぜカツにカレーをかけるか、よ。これで信じた?』
どこまでも非常識な姉弟だった。
おれが戻ってくるまでここにいろと勝手なことを言って聡史郎は駆けていってしまった。
筋骨隆々の黒スーツも、ギバルテスのゴーストスクリプトも、美鎖のゴーストスクリプトも聡史郎はまったく見えていないようだった。彼の目に映っていたのはマオカラースーツの男だけで、しかもふたりは顔見知りらしかった。
森下こよみは、マオカラースーツの男ときのう会ったばかりだ。六本木の複合ビルの一室で、きょうと同じく古風な剣を持ち、ギバルテスのゴーストスクリプトを背後に浮かばせていた。美鎖から聞いた、姉原家に入った泥棒というのもどうやらマオカラースーツの男のことであるらしい。
たしか彼は、むかしむかしの偉大な魔法使いがのこしたえいちをふっかつさせる、とかなんとか言っていたと思う。
ギバルテスは悪いわるい魔法使いで、マオカラースーツの男は泥棒で、六本木のビルのてっぺんには穴が空いていて、こよみを追いかけてくる黒いスーツの男の正体はさっぱりわからない。しかも、行方不明の美鎖はとんでもない形でこよみたちの前に姿をあらわした。六本木の事件は解決したとばかり思っていたのだけれど、困ったことにまだ継続中らしかった。
嘉穂は、疲れた様子で自販機に寄りかかっていた。もともと色が白いというか色素が薄い彼女だけれど、きょうはふだんより一層白っぽく見える。二本のおさげがしなびた菜っ葉のように力なく垂れさがっていた。
清涼飲料水を飲み干した嘉穂は財布からふたたび小銭を取り出した。
自販機に投入し、ボタンを押す。
おでん缶だった。
おでん缶というのは、プルトップ式の缶の中におでんが詰まっている代物である。おでんというのはおでんの汁とかおでん味のジュースとかではなく、具と汁のふたつを合わせた正真正銘のおでんだ。そんなものが街角の自販機でなにげなく売っていることも驚きだけれど、実際に買って食べる人間がいることのほうがもっと驚愕《きょうがく》の事実だったりする。
嘉穂は首をかしげる。
「森下も食べる?」
「……い、いらない」
「そ」
「嘉穂ちゃん、それホットだけど……」
「おでん缶はホットが普通かと。冬場は回転が早すぎてぬるいことが多いから、実は夏直前のいまあたりが狙い目」
またわけのわからないことを言う。
立ったまま、嘉穂はおでんを食べはじめた。
缶の中からは湯気が立ちのぼり、かぐわしい出汁のしょうゆの香りがこよみのほうまでただよってくる。おそろしいことに、おでん缶の中身は本当におでんだった。入っているこんにゃくには串がついていたりして、見た目は本格的だ。
正直なところこよみもお腹は空いていて、おでんのにおいは強烈な引力で自販機のほうへこよみを引き寄せようとしている。だけれど、ここで誘惑に負けてしまうと、人間としてなにか大切なものをおでんの代わりに失ってしまう気もした。
「ところで……嘉穂ちゃんも見えたんだよね」
「なにが?」
「美鎖さんのゴーストスクリプト」
嘉穂はこんにゃくにかぶりつきながらうなずく。
以前、ゴーストスクリプトが大量発生したとき、PCの上に浮かんでいたゴーストスクリプトを嘉穂は見ることができなかった。美鎖から聞いたところによると、世の中には、いわゆる霊感と呼ばれるものが強い人もいれば弱い人もいる。それは、この世の法則の歪みであるコード異常を感じとる能力のことである。
どちらかというと現実的な性格の嘉穂は魔法発動コードが関係する現象を見るのが不得意である。やっぱり現実的な聡史郎も見えない。なにか、そういう常識とか社会生活を普通に営む能力とかと霊感能力は反比例しているのかもしれない。
「アミュレットは美鎖さんに渡されたの?」
「今朝、ウチの郵便ポストに入ってた」
「美鎖さんが届けたのかな?」
「ゴーストスクリプトが発生する条件を考えると可能性は低いかと」
「どういうこと?」
「森下が怖がるから言うのはやめておく」
「ちょっと、嘉穂ちゃあん」
答えず、嘉穂は肩をすくめる。
「ここ、これからどうしよう?」
「あたしはどうしようも。森下はなにかできるかもしれないしできないかもしれない」
食べ終わったようだ。
最後の汁まで飲み干して、嘉穂は空き缶を自販機横のゴミ入れに投げこんだ。
天高く輝いていた太陽が傾きはじめていた。こよみと嘉穂の足元にちいさくまとまっていた影は、すこしずつ面積を大きくしつつある。もしかしたらなにか大変なことが起きるかもしれないというのに秋葉原の通りを歩く人々はこよみたちに無関心で、メイドの格好をしたお姉さんは、にこやかな笑みをふりまきながらやっぱりチラシを配っているのだった。
こよみはため息をついた。
ひと心地ついたらしく、嘉穂はハンドヘルドPCをとりだし、てけてけとなにか打ち込んでいる。おでんの自販機は無言でこよみのお腹に圧力をかけている。
やっぱり食べようかな、と、人として大切なものを悪魔に売り渡す決意をこよみがしたとき。ひとりの青年がおそるおそる声をかけてきた。
「森下こよみさん……でしたよね?」
「ご、ごめんなさい!」
「はあ?」
「できごころなんです。本当です! きょうはお弁当はんぶんしか食べてなくって、お腹空いてたんです! もうしません!」
「は……はあ」
細身の青年だった。態度がおどおどしているというか、自信がなさそうというか、生まれてすみませんというか、そんな印象を受ける男の子だった。身長が低いわけではないけれど、こよみのことを見下ろしているように見えないのは物腰がやわらかいせいだ。女の子のような顔に細いフレームの眼鏡をかけている。片手に、やけに大きなバッテリーをガムテープでくくりつけたケータイを持っていた。
嘉穂がPCから顔をあげた。
「こんにちは」
「あ、あ、あな、あなた! 会ったことある!」
こよみは、まあるく口をあけて、青年の顔を見つめた。
ウィッシュドール wish dol1
黒ネコは、ふたりの人間と一体のゴーストスクリプトの先頭に立ち、中央通りと並走する路地を意気揚々と闊歩《かっぽ》していた。
なぜだか知らないけれど、ネコはこの街が気にいったようだった。はじめて来る場所だというのに、十年もむかしから住みついているような物腰だ。ときおり地面をふんふんと嗅ぎながら、迷いなく歩を進めている。弓子の意思が通じているのかどうかはわからないが、ネコが秋葉原のコード異常を敏感に感じとり、ネズミを狩るように追跡しているのはたしかなようだった。
買ったばかりのFMラジオとケリュケイオンの杖を持ち、弓子は黒ネコについて歩いていた。
となりを歩くのは美鎖のゴーストスクリプトだ。宙に浮いていると目立つと考えたのか、美鎖は地面すれすれまで降りてきていた。そんなことをしても浮かんでいることにかわりはないのだが、ふたつの足はアスファルトと接触していて、自分の足でしっかりと地面に立っているように見える。
しかし、よくよく見てみると、地面が流れる速度と美鎖が動かす脚は同期していなくて、ダンスの達人がやるムーンウォークみたいな動きになっているのだった。道を歩く人は、ときおりぎょっとした顔で美鎖を凝視している。
聡史郎は無言だ。FMラジオから聞こえてくる美鎖の言葉に最初はいちいち文句を垂れていたが、いまはそれも飽きたようだった。美鎖と弓子のいかれた会話に首をつっこんで疲れ果てるよりは、聞くふりをして無視を決めこんだほうが得策だと判断したらしい。刑務所に護送される途中の凶悪犯のような顔で、黙って歩いている。
移動しながら、美鎖は状況を説明した。
ホアンが姉原邸から研十郎の剣を盗み出したこと。ゴーストスクリプト増幅のコードでギバルテスを呼び出したこと。その力を借りて、魔女のライブラリの力を手に入れようとしていること。
六年前、弓子が十歳のときに起きようとしていたことと同じだった。
違うのは、コンピューターを媒体に動作する魔法発動コードを書くことができるゲーリー・ホアンが敵側にまわっていることと、魔女のライブラリの封印がすでに解けてしまっていることだ。
ギバルテスの手によって、ケリュケイオンの中で眠っていたライブラリの封印は解け、方法さえ知っていれば誰でもアクセス可能な状態になっている。
しかし、杖を持つ弓子も十歳の少女ではない。いまでは、ケリュケイオンを使いこなす古典魔法使いに成長したという自負がある。
古典魔法が最盛を極めた時代に生を享《う》けた魔法使いジャンジャック・ギバルテスのゴーストスクリプトだ。六年前はかなわなかった。地の利があったのは幸運な偶然で、そうでなければ負けていたのは弓子のほうである。しかし、今回は弓子とて六年前の弓子ではない。同じ条件なら勝つ自信があった。
美鎖本人の生死は不明だと美鎖は言う。
そのことが、弓子にはすこし引っかかった。
魔女のライブラリの復活を止めなければならない事情があったとして、六本木の複合ビルで弓子と美鎖が死闘を演じる必要があったかといえば疑問が残る。たしかに、こと美鎖の犯罪活動に関していえば、頭に血がのぼると弓子は問答無用で魔法攻撃をしかける傾向がある。それは認めよう。しかし、心臓が止まるまで戦う必要はどこにもない。
ホアンが魔法の罠をめぐらせた六本木のビルから、弓子とケリュケイオンを遠ざけたかったのなら素直にそう言えばいいはずだ。あるいは、危険を回避するため、ケリュケイオンを無力化しておきたかったのなら、正面から戦わずにもっとずるい方法で弓子をおとしいれるべきだった。
きのうの美鎖の行動は不可解で、弓子をなにかのペテンに引っかけようとしたか。そんなことはないだろうけれど、たとえば、攻撃を受けてわざと死のうとしたようにも思える。
結局のところ、美鎖の行動原理が弓子にはさっぱりわからないのだった。
疑問をぶつけると、ふわふわと奇妙な歩きかたをしながら美鎖は言った。
「弓子……魔法、好き?」
「好きとか嫌いではありませんわ。魔法はわたくしそのものです。魔法とは一ノ瀬弓子クリスティーナであり、一ノ瀬弓子クリスティーナは魔法であるといえますわ」
「なるほど。そういう答えもアリ……か」
ひとりで納得しているようだ。
なぜだか、とてもしゃくに障《さわ》った。
「美鎖、わたくしになにか隠しておりませんこと?」
「もちろん。たくさん隠してるわよ」
いけしゃあしゃあと言う。
「気にいりませんわね」
「ヒントを言うと。魔女のライブラリの封印は六年前にもう解放されちゃってるってことかしらね」
「知っておりますわ。わたくしの杖に封印されていたものですもの。魔女のライブラリが悪用されるのはなんとしても止めねばなりません」
「ま、止められるんなら、止めたほうがいいんでしょうけどねえ」
他人事のように言う。
「ずいぶんと弱気ですわね」
「世の中にはできることとできないことがあるのよ。大人になればわかるわ」
「貴女らしくもないですわね。不可能を可能にするのが魔法ではありませんの?」
「魔法は万能じゃないのよ。いままであった道具とは違うけれど、それでもやっぱり道具にすぎない。いままでできなかったことはできるようになるけれど、なんでもできるようになるわけじゃないわ。魔法という新たな道具を使って、すこしだけ広がった可能性の中からできるだけベストに近い道をわたしたちは見出していくの。でも、魔法のせいで、逆に道がせばめられちゃうことだってあるかもしれないわけよ」
「それはどんなときですの?」
「魔法がなかったら見えなかったはずのベストの選択肢が魔法のせいで見えちゃったとき、かな? そしたら、たったひとつの冴《さ》えたやりかたを選ぶしかないわよね。まあ、選ぶ選ばないは本人の自由なんだけれど……弓子、あなたならどうする?」
ふわふわ移動しながら美鎖は首をかしげる。美鎖の白い顔が透けて、ショップの店頭に並ぶ液晶モニターが見えた。極彩色のはずの画面がモノトーンに変化していた。
「当然、その冴えたやりかたを選びますわ」
「あなたがそう言ってくれてよかったわ」
「愚問ですわ。魔法使いの道を志したものなら当然のことです。わたくしだけではありません。貴女も、貴女の弟子であるこよみも当然そうあるべきですわ」
「そういうけど、いろいろ世の中って難しいのよね……」
ホアンとギバルテスがこの街でなにをやっているのかは依然として不明だった。魔女のライブラリへのアクセス方法がわからないというのなら、彼らは、まず弓子からケリュケイオンを奪うべきだった。こよみたちに遭遇して、いったん退いたことはよしとしよう。美鎖のゴーストスクリプトの出現は彼らにとっても予測できなかったはずだから。しかし、退いたことにより美鎖と弓子が合流してしまったのは大きなマイナス要因だと言える。
いまの弓子と美鎖の力が合わされば、ホアンとギバルテスの力を凌駕《りょうが》する。
彼らは弓子たちを各個撃破すべきだったし、六本木の街を弓子がさまよい歩いていたときに襲撃すべきだった。
PCが生み出す魔法発動コードがあふれるこの街で、まるで、ホアンたちは時間稼ぎをしているようにも思える。悪い言いかたをすれば、弓子は|泳がされている《ヽヽヽヽヽヽヽ》ような気がするのだ。
黒ネコが立ち止まった。
なー。
鳴いた。
前方百メートル。道を歩くホアンのマオカラースーツが見えた。彼はこちらに気づいていないようだ。宙に浮かぶギバルテスだけが首を曲げ、弓子に顔を向けた。白蝋を思わせる顔に満面の笑みが浮かぶ。
ギバルテスは腕を伸ばす。
光のラインと化した剣が飛来した。
避ける間などない。ケリュケイオンをわずかに動かすのが精一杯だ。絡みあった蛇の一方に衝突した剣のコードは、蛇の頭に巻きつくように変形し、鋼鉄の火花を散らして進行方向を捻じ曲げる。弓子の銀髪をかすめ、PCショップの店内に飛びこんだ。突然音をたてはじけとんだ液晶モニターに通行人が顔を向けた。
どうやら弓子はまだまだ甘かったようだ。警告もなく遠距離から攻性コードを投げつけてくる。それがジャンジャック・ギバルテスだった。
聡史郎が猛然と走りだす。
「あの野郎! 今度こそ逃がさねえぞ!」
「お待ちなさい!」
聡史郎は耳を貸さない。長い脚を回転させてものすごい勢いで駆けていく。聡史郎にはギバルテスの姿が見えていない。飛来した剣のコードも見えていない。弓子のFMラジオがなけれは、背後にいる美鎖の言葉も聞こえない。
あっという間に点になった。すこし遅れて黒ネコがついていく。
弓子は歯噛みする。止められなかったのは弓子の失態だ。いくら足が速くても、ホアンのもとにたどりつく前に一回や二回は攻撃を受けてしまう。ゴーストスクリプト化した美鎖がどれほどの防性コードを組むことができるかもまだわからない。
ケリュケイオンからコードをロード、組みあげる。
「蜘蛛紡ぐ檻《おり》となれ我がコード!」
ギバルテスは強力な魔法使いだが、ホアンは、コンピューターで動作する魔法のコードが書ける人間にすぎない。ならば、狙いはホアンだ。
ホアンはやっと気づいたようだ。
ギバルテスが手をふるう。
魔法使いにしか見えないレース状の網がホアンを包みこむ。魔法がもたらす物理法則の歪みだ。そのとき、レースの内側から発生した金属質の刃《やいば》が網を切り裂き、歪みは一瞬で散って消えた。防御されたのだ。
古典魔法のコードは全身の筋肉組織に特殊な電流を流すことによって組みたてる。筋肉を酷使する走るという行為と、コードを組みあげる行為を同時に行うことはできない。
弓子は走ることを選択した。
弓子の足はそれほど遠くない。一ノ瀬弓子クリスティーナは平均的な女子高生と同程度の体力しか持っていない。違うのは、コードを組めるということだけだ。加えて、いまは徹夜で疲弊していた。
自分の脚の回転はじれったくなるほど遅かった。
聡史郎は駿足《しゅんそく》だ。ホアンとの距離はすでに十メートル。
ギバルテスがふたたび腕を伸ばした。
「剣と化せ我がコード」
ホアンが持つ古風な剣がきらめき、刀身の分身が生成されて半透明のギバルテスの体を経由、脚腰胸腕、内部で幾度となく衝突し爆発的に加速して指先から飛び出した。
聡史郎の真正面だ。防性コードは間に合わない。宙に浮く美鎖のゴーストスクリプトはなんのコードも用意していない。
輝く剣が聡史郎に突き立った。
聡史郎の体には走る勢いがついている。一歩、二歩。三歩と進み、
「見つけたぞ!」
殴りかかった。
ホアンは瞬時に腰を落とし、剣を持っていないほうの手で聡史郎のパンチをなんとか捌《さば》いた。顔に驚きの表情が浮かんでいる。
「バカな。致命傷のはずだ」
ギバルテスの声が聞こえた。
ホアンは、腰を落とした中国拳法の構えを解いていない。聡史郎は睨《みら》みつける。
「一発殴らせろって言ったはずだよな」
「アレをまともに受けてあなたはなぜ動けるんですか? もしや、あなたも魔法使い……」
「冗談じゃねえや。そんないかれたもんとおれを一緒にすんな」
美鎖のゴーストスクリプトは聡史郎の肩口に浮かんでいる。ようやっと、弓子は追いついた。
「魔法使い殺し……なのか」
ギバルテスが言う。百年の長き歳月を経て復活した古典魔法使いにはそぐわない、驚愕《きょうがく》の表情だった。
「なんです?」
「カタリの猟犬どもにはかならず混じっていた。強力な魔法使いに対抗するために教会が生み出した暗殺者ども」
「……この青年が?」
「生まれてすぐの赤子の頃から強力なコードを浴びせつづけるのだ。通常は食物を使う。その者が口にするすべての食物に強力なコードを絡ませる。この世の理《ことわり》が体に根付く前にコードを浴びた子供は、その存在そのものが揺らぎはじめる。多くはそのまま自らの存在を曖昧《あいまい》にして死に至る。だが、十年以上生き残った者は、その肉体にこの世の法則を次第に刻みつけるようになる。成人する頃には魔法使い殺しのできあがりだ。一切の魔法が使えなくなるが、あらゆる異世界の理をはねつけるようになる」
宙に浮くギバルテスは、同じく宙に浮く美鎖を見やった。
「やりおったな――姉原美鎖」
「ま、結果的にはそういうことよね」
「魔法使いすら死に絶えつつあるこの時代によもや魔法使い殺しがいるとはな」
「聡史郎が、美鎖の……最終兵器?」
ギバルテスの言葉が正しいとするなら、たしかに聡史郎は最終兵器だ。
魔法使いが異世界の法則をこの世にもたらす者だとすれば、魔法使い殺しは、いわば、この世の理《ことわり》を極めた者だといえた。その力は単純にして明解だ。すべての魔法は、魔法使い殺しに影響を及ぼすことができない。
すべてのコードをたらい召喚コードに変換してしまう森下こよみよりも、使いかたによっては強力かもしれない。
その場にいる者たちは、みな、息を呑んで聡史郎を凝視している。人間やゴーストスクリプトだけではない。ネコすらも、ふたつの瞳で聡史郎を見つめている。ただひとり、聡史郎だけが、話を聞いていない。異世界の理であるゴーストスクリプトの声が彼の耳に届くことはないのだった。
「おまえも空中と話す仲間だったのか? まったく、きょうはいったいなんだってんだ?」
聡史郎の罵声《ばせい》を無視して、ホアンは肩の上を見やった。神経質そうな眉が歪んでいた。
「どうします? 姉原美鎖のゴーストスクリプトだけでも計算外なのに、もうひとつイレギュラーが現れました。また退きますか?」
「魔法使いの相手はわたしができる。おまえが魔法使い殺しの相手をすればいい」
「なるほど。それも手かもしれません」
ホアンは聡史郎に向きなおった。
「言い忘れましたが、わたしは中国拳法を使います」
「見りゃわかる」
「手加減はしませんよ」
聡史郎は鼻からふんと息を吹きだした。肩をぐるぐるとまわす。
「やってみろバカ」
腰を落とし半身の体勢になるホアンに対し、聡史郎はやや曲げた両腕を前に突きだした。
ふたりの姿に見とれ、コードを組むことを忘れていた弓子のポケットでケータイが振動した。なんだ。こんなときに電話? こんなときだから電話だ。引きずりだし、通話ボタンを押す。耳にあてる。
聞こえたのは、すこし間延びした舌たらずな声だ。
「弓子ちゃん? どこにいるの? 美鎖さん、だいじょぶだって!」
弓子の紫の瞳には、姉原聡史郎の肩口に浮かぶゴーストスクリプトの姿がしっかりと映っている。
全身から力が抜けた。
安堵感と恐怖と混乱とそれらすべてが一体になったものが、視神経を経由して脳に至りシナプスでスパークをとばし見当識を喪失させる。
弓子が願っていたのはなにより美鎖の無事であり、こよみからの連絡でそれがわかったのだからすべて解決であるはずなのに、弓子がつくりあげてしまった姉原美鎖のゴーストスクリプトは弟の肩口でふわふわと浮かんでいて、あとはギバルテスを倒さなければならないホアン聡史郎はぐるぐると円を描くように動いているギバルテスと美鎖も同じ軌跡を宙に描いてこちらは魔法使いがふたりで敵はひとりなのだから弓子がしっかりすればこの戦いはすぐに決着がつくはずいまはケリュケイオンを握りしめろぼうっとしている場合じゃ――
「剣と化せ我がコード」
地獄の底から響くギバルテスの声だ。
弓子が携帯電話を握りしめて立ちつくしているあいだに、いつのまにか背後にまわったらしかった。
口の中に鉄の味がする。
半透明の剣の切っ先が、平均よりだいぶ大きな自分の胸から生えているのが見えた。
森下こよみは走っていた。
ハッピーニュースを知らせるため弓子のケータイに連絡を入れたまではいいものの、通話がはじまっても弓子はひとこともしゃべらなかった。せっかく嘉穂に電話をかけてもらったというのに、例によってまた失敗したのかと思ってぶんぶん振っていると、ケータイからはなぜか聡史郎の声が聞こえたのだった。
「誰だ?」
「あ、あの。聡史郎さん? えと、あたしは……」
「ああ、誰だかわかった。それ以上言わなくていい。こっちはいま、ちょっととりこんでる」
聡史郎にしてはめずらしく焦ったような声だ。
「あのあの、美鎖さんが見つかったって」
「だったらすぐここに連れてこい。バカ女が血を吐いて倒れた」
「え? え?」
「二度も言わせるな。いまから場所を言う。大至急だ」
「ちょ、ちょっと待って。そんなこと言われても……ねえ、たすけて、嘉穂ちゃん!」
嘉穂に電話をかわってもらった。秋葉原の地理に詳しい嘉穂は聡史郎の言った場所がすぐにわかったようだ。こよみたちのいる自販機のところから、そう遠くない場所だそうだ。
ところが、見つかったといっても、こよみたちと美鎖は一緒にいるわけではないのである。
美鎖はまだベッドの上から動ける状態ではないそうだ。渋谷で会った達彦という青年は、美鎖がとりあえず無事でいるということを伝えてくれただけだった。
彼の家に突然降ってきたときは、心臓こそ動いていたものの美鎖はひどいありさまだったそうだ。首、肩、胸、腹の四カ所に日本刀かなにかで刺されたとしか思えないような傷口があり、身につけている黒のサマースーツは流れ出した血でぐしょぐしょだった。
生きるか死ぬかの瀬戸際というか、これはもうまちがいなく死ぬというか普通なら死んでいる状態だ。にもかかわらず、達彦が体に触れると、以前にもあったようなぴりぴりとした感覚が体を駆け抜け、美鎖の体は見る間に治癒していったのだという。
そのかわり達彦の体はすさまじい筋肉痛に襲われ、まともに動けるようになるまで一日かかった。美鎖のメッセージを伝えるのが遅れたのはそのせいだった。
というわけで、現在、美鎖の援助をあてにすることはできない。
聡史郎にはとりあえず救急車を呼んでもらうことにして、こよみと嘉穂、達彦の三人は弓子たちがいる場所に駆けつけることにしたのだった。
弓子たちがいるのは中央通りから一本はずれた路地である。女の子みたいな顔をしている達彦は意外に足が速くて、疲れているわりには嘉穂も軽快な足取りだ。ふたりに手を引いてもらっているというのにこよみばかりが遅れ気味だった。
「ちょっと、嘉穂ちゃん…そんなに引っぱっちゃ……」
「もうすぐ」
「だって、もう……げんかい」
目的地が見えてきた。
午後の秋葉原だというのにその路地には人通りがなかった。いくつかの店は開いていたけれど、どこも閑古鳥が鳴いている状態だ。ある人が道を歩いてきてその路地にさしかかると、急になにかを思いだしたかのようにまわれ右をして別の道へと歩いていってしまう。美鎖がよく使う人払いのコードだった。
宙に浮く美鎖とギバルテスのゴーストスクリプトは、離れたところからでもよく見えた。建物の陰で聡史郎は弓子を抱きかかえている。すこし離れた物陰に潜んでいるのがホアンだ。
人間の頭上に浮かぶゴーストスクリプトは、相手の人間が隠れている場所めがけて、攻性コードを投げつけている。光のラインにも見えるコードが飛ぶたび、電話帳を地面に叩きつけたような音が響く。遮蔽物の一部が砕け散り、コンクリートの粉が舞いあがる。
「無駄無駄無駄よっ」
美鎖の声だ。建造物がはじける打撃音に混じって聞こえた。
こよみたちはとりあえず建物の陰に隠れた。弓子は心配だけれど、ギバルテスと美鎖の攻性コードが飛び交う中に突っこむのは危険だった。
「な、なんであそこに美鎖さんがいるの?」
達彦は混乱しているようだ。嘉穂が説明する。
「あれはゴーストスクリプト……美鎖さんじゃなくて、美鎖さんを魔法発動コードでエミュレートした存在」
「さっぱりわからない」
「これでわからないとものすごく面倒」
「嘉穂ちゃん、どどど、どうしよう」
「前衛は森下の役目。あたしは後衛。この場を解決するのはあたしじゃない」
「そんなあ」
壁際に体をよせ、達彦は、宙に浮かぶ美鎖を注視している。なにか見つけたようだ。
「ところで森下さん。あの人も関係者?」
「へ?」
「ほら、あそこにいる大男」
人気のない道路を、男は悠然と歩いていた。人間というよりは小山のような体型だ。全身を黒のスーツに包み、目をサングラスで隠している。
「ち、違います。嘉穂ちゃんたいへん! きた! 来た! メン・イン・ブラック!」
こよみたちは、ギバルテスと黒スーツにはさまれてしまったようだった。黒スーツから逃げれば攻性コードが飛び交う中に突っこまなければならない。攻性コードを避ければ黒スーツにつかまってしまう。黒スーツはどんどんと近づいてくる。
こよみは嘉穂の服を握りしめる。達彦が、こよみたちをかばうように一歩移動した。
黒スーツは、こよみにむかって言った。
「あなたは神を信じますか?」
「え? え?」
「信じないのですか?」
「あのあの……よくわかんないですけど、神頼みすると弓子ちゃんが怒るんです。でも、いないって言ってるわけでもないです。ええと……」
「ならば祈ってください」
「なにを、ですか?」
「世界が平和でありますように、と」
なんだか意味がよくわからなかった。黒スーツの男はこよみを狙う悪者かなにかだと思っていたのだけれど、実は宗教関係者かなにかだったのだろうか。たしかに、大きくて黒くて筋骨隆々で怖かったけれど、追いかけてくるだけでこよみに危害を加えることはなかったような気もした。
黒スーツは、宙を華麗に舞う美鎖とこよみのあいだを遮るように移動した。
光が湧きたったのはそのときだ。
はちみつのような光だった。
ちょうど弓子がいるところを中心に光は発生したようだ。ぶるぶると震えながら球形に広がった光は看板を呑みこみ電柱を呑みこみ美鎖とギバルテスと投げ合う攻性コードを呑みこみ建物を呑みこんで大きくふくらみ、黒スーツとその陰になっているこよみたちをも呑みこんでそれでもまだ巨大に広がっていった。
ちょうど、真夏にプールに行った帰りに空中を泳ぐような、そんな感覚がする温度と粘度を合わせ持った光だ。だけれど光に照らされた場所は、やすりで削られたように摩耗し、あるいはぼろぼろと崩れていく。黒スーツの男も例外ではない。黒いスーツを着たまま、陽なたの雪だるまのように融けていった。彼がいなかったら、融けていたのはこよみたちかもしれなかった。
光がおさまる。
弓子が立ちあがっていた。
「おまえ、だいじょうぶなのか?」
聡史郎の声が聞こえた。彼は無事のようだ。
弓子は、寝起きの子供のように周囲を見回している。聡史郎の声は耳に入っていないようだ。
視線を定めた。
その先にいるのは、ジャンジャック・ギバルテス。
「ついに目党めたか。ジギタリス・フランマラキア」
「久しいな。ギバルテス。百年ぶりだ」
「貴様、わたしの記憶があるのか?」
「おまえは魔女のライブラリを誤解している。ライブラリは、たったひとりの魔女が遺したものなどではない。すべての時代のジギタリス・フランマラキアの記憶を積み重ねたものだ。おまえとともに戦ったジギタリスもライブラリの一部。いまや、二十世紀最強のエクソシスト、カルル・クリストバルドの血を引く一ノ瀬弓子クリスティーナもジギタリスの一部となった」
「まあいい。また協力しようではないか」
ジギタリスは笑ったようだ。
「ゴーストスクリプト風情がなにを言うか」
「貴様。誰のおかげで蘇ったと――」
「滅びよ」
ひとこと、言った。
こよみを苦しめ弓子を苦しめ美鎖と対等の戦いをした男。古典魔法が隆盛を極めた時代に生を享けた魔法使い。姉原研十郎の剣に染みついた断末魔から生まれたゴーストスクリプトの姿は、強風に吹かれたロウソクの炎のように消えた。
一瞬のことだ。
アスファルトに倒れ伏したホアンの足元に、もとは刀身だった砂鉄の山ができていた。
さらば愛しき人よ farewell,mai:lish
これはヤバいかもしれない。
姉原聡史郎は思った。
弓子は口から血を流していた。
喉の奥に血を送りだすポンプがあって、そこから体内の血液がどんどん送り出されているようだった。人間の体の中にいったいどれくらいの血があるのか知らないが、ひとりの少女から流れ出ていい量の液体ではない気がした。せめて呼吸させようと顔を横向けにしたら、血液は鼻からも流れ出し、頬から耳まで真っ赤なラインを引いてしたたり銀色の髪にべっとりと付着した。
紫がかった弓子の銀の髪が地面にまき散らされている。体は小刻みに痙攣《けいれん》している。
聡史郎は、アスファルトに倒れた弓子を抱きかかえた。あれほどうっとうしい女なのに、抱えてみるとバカみたいに軽かった。
マオカラースーツの盗人野郎はどさくさにまぎれてどこかへ隠れたのか姿が見えない。すぐに来いと言ったのに救急車の音はまったく聞こえない。午後もいい時間の秋葉原だというのに通行人も通りやがらない。こよみと嘉穂が駆けつけているそうだが、ふたりが来たからといって状況が改善するわけでもないだろう。くそったれ救急車はまだなのか。
周囲の壁が突然ばしばしとはじけて粉が散る。なにかいかれたものが飛びかっているようだ。聡史郎には、それがなんなのかさっぱりわからない。いかれたものの担当である肝心の弓子がぶっ倒れてしまっている。
姉の声が聞こえていたFMラジオは地面に転がっている。いまは雑音を発生させるだけだ。かたまりの姿も見あたらない。黒ネコはどこかへ行ってしまった。
頭上でなにかが爆ぜた。コンクリートの欠片がぱらぱらと降ってきた。背中を盾にして弓子にあたらないようにした。
抱きかかえた弓子の体に異変が生じた。
目を開いた。顔をねじまげ、空を見上げる。
「おい、動くな。横を向いてろ」
紫の瞳が凝視してくる。
その少女は、一ノ瀬弓子クリスティーナとまったく同じ顔であるのに別人に見えた。視線を浴びせかけたものすべてを屈伏させずにはいられない強い意思が瞳に感じられなかった。どこまでもどこまでも澄んでいる紫色の深い湖をのぞきこんでしまったような、そんな感覚だった。
抱えた体がどくどくと脈打っている。
なにかはわからないがなにかが起きている。
聡史郎は体に異変を感じた。自分の体はなんともないが、着ている服が熱を帯びている。強力なキャンプファイヤーに間近まで近寄ったときと同じだ。周囲の壁やアスファルトは、グラインダーをかけられたみたいに表面がそぎ落とされていった。
パラパラと落ちる粉がやまない。
周囲を見回すと、弓子を中心にアスファルトが円形に削られていた。円の面積がどんどんと大きくなっていく。がりっという破砕音を聞き、聡史郎は真上に視線を向ける。ビルの軒が、アスファルトと同じように削られていた。弓子の体を中心になにかの力が放射され広がっているのだ。それがなにかは聡史郎にはわからない。
弓子の体の痙攣がようやくおさまった。
頭上から降ってくるコンクリートの粉もなくなる。
弓子が立ちあがった。
「おまえ、だいじょうぶなのか?」
弓子は、寝起きの子供のように周囲を見回している。聡史郎の声は耳に入っていないようだ。
宙の一点に視線を定めた。
「久しいな。ギバルテス。百年ぶりだ」
空中に向かってわけのわからないことをしゃべりだした。
心配していたが、実はとりこし苦労だったのかもしれない。弓子が横たわっていた地面のひびわれは、五百ミリリットルのペットボトルをひっくり返したような黒い染みで濡れているけれど、まあ、それはそれだ。これだけいかれていれば、一ノ瀬弓子クリスティーナ的には許容範囲のいかれ具合なのだろう。
弓子は笑ったようだ。
「滅びよ」
二十メートルほど先で、突然、音がした。逃げたはずのマオカラースーツが倒れており、その足元に金属紛の山ができている。
「こっちです! はやく!」
通りをはさんだ建物の陰から、眼鏡をかけた青年が顔をのぞかせた。聡史郎と同じくらいにも見えるが、あるいはもっと年下かもしれないし年上かもしれない。女っぽい顔が年齢の判断をつけづらくさせている。
見たことのない顔だった。こよみたちと一緒にいるということは、もしかしたらいかれた知り合いなのかもしれない。聡史郎はため息をついた。
弓子の腕を引っぱった。
「おい。動けるなら行くぞ」
動こうとしない。
「おまえ、頭でも打ったんじゃねえだろうな?」
こよみたちが驚愕した顔でこちらを見ているのがわかった。なにを驚いているのかさっぱりわからないが。まあたしかに、五百ミリリットルも血を吐いた人間がけろっとして立ちあがればびっくりするかもしれない。
弓子は、腕を握られた部分をじっと見つめている。
「去れ。おまえに用はない」
「まあ、そう言うなら……」
聡史郎は肩をすくめる。
いつのまにか美鎖のアミュレットがなくなっていた。壊れてしまったのかもしれなかった。姉は悲しむかもしれないが、本人が無事だというのならそれもいいだろう。どうせあれだって、いかれた品なのだから。
眼鏡の青年は皆崎達彦《みなざきたつひこ》と名乗った。
どういう経緯だかは知らないが、美鎖は、中野にある彼の家に昨晩からやっかいになっているらしかった。
聡史郎は達彦について行くことにした。まあ、あんな姉でも心配は心配だ。こよみは秋葉原に残ると言ったが、なぜか嘉穂が強硬に反対した。結局、弓子ひとりを秋葉原に残したまま、聡史郎たちは電車に乗って彼の家に行くことにしたのだった。
達彦の家は一軒家だった。なんというか奇抜なデザインの家で、門柱の脇に、直径二メートルはあろうかという半球状のコンクリートの塊がたてかけてあるのだった。本来車を置くはずのスペースがその奇怪なオブジェによって完全に占領されている。姉の知り合いだから、どこかしらおかしいんじゃないかとは思っていたが、皆崎家は一族揃って相当にまともから逸脱しているようだった。
オブジェによって通りにくくなっている玄関から入り、階段をあがって達彦の部屋へ向かう。
ドアを開けると、美鎖が、半身を起こしてベッドに座っていた。ノートPCに向かって、たかたかとなにか打ちこんでいたりする。
「だ、だめじゃないですか動いちゃ!」
達彦が駆けよる。
「もうだいじょうぶよお」
「そんなことあるわけないでしょうに。いったいぼくがどれだけ苦労したと思ってるんですか!」
「はいはい。わかったわ」
美鎖は男物のパジャマを着ていた。はだけた胸元から血のにじんだ包帯が見え隠れしていた。ベッドの横には透明なポリエチレン製のゴミ袋があり、美鎖が着ていたらしい黒い服が乱雑に放りこまれている。透明な袋の内側には焦げ茶色の汚れが幾筋もついている。誰がどうみても乾いた血に見えた。
よくよく見てみると、壁には血が飛び散った跡がそこかしこにあり、床のじゅうたんにも薄茶色に変色した足型がついていた。ここに寝ているのが美鎖じゃなかったら、惨殺現場をごまかした跡だと言っても通じそうだ。
美鎖の顔はいつにも増して白い。血液が足りないのか、陶器でつくった人形のようにも見える。
「あのなあ……姉さん」
「とりあえず生きててなによりだわ」
「それはこっちのセリフだ。他人に迷惑をかけるな」
「あら。達彦くんはいいのよ。ね?」
「え? ええ……まあ」
「困ってるじゃねえか」
達彦は高校生のようだ。部屋の隅に大学受験の参考書が置いてあった。ということは、聡史郎と達彦は同い歳だということであり、達彦と美鎖は八歳も離れているということになる。
聡史郎はばりばりと髪を掻きむしった。
「ごくろうさま。こよみ。嘉穂。こんな格好でごめんなさいね。これでも、いろいろとあったのよ」
「え、そんなのいいんです。いいんですけど……弓子ちゃんが!」
「全部わかってるわ。コードもわたしが用意したから。あとはまかせて。今回の件はいままでとは比べものにならないくらい危険だから。あなたたちは家に帰りなさい」
美鎖は言った。いつもぼんやりしている姉にしてはめずらしい、有無を言わさない強い口調だった。
美鎖が言うところによれば、一ノ瀬弓子クリスティーナは大魔女ジギタリス・フランマラキアが復活するための筐体《きょうたい》なのだった。ジギタリスは、過去十万人以上の大量殺戮をした悪逆無道《あくぎゃくむどう》の魔法使いである。
幾度倒されても、魔女のライブラリを使ってジギタリスはかならず復活した。弓子の曾祖父カルル・クリストバルドもジギタリスの征伐に成功した。しかし、百年の時を経てジギタリスはまた復活した。今度の筐体は、クリストバルドの血を継ぐ弓子だった。
ホアンとギバルテスによりクリストバルドがかけた封印は解かれ、ジギタリスはふたたび世に放たれたのだ。いまの弓子は弓子ではなくジギタリスであり、百年前に東京を恐怖におとしいれた大魔女である。こうなった以上、倒す以外の道はない。
ノートPCを使って美鎖が組んだのはソロモン召喚のコードを応用した強力なコードである。
クリストバルドの時代にはコンピューターもネットワークもなかった。人間の体が最高の魔法発動媒体であり、その中でジギタリスが最高の性能を持っていた。だが、いまは現代魔法の時代だ。幾千幾万のCPUの力を借りれは、ジギタリスを単純に力で上回ることができる。ジギタリスより強力な魔物を召喚し、その魔物の力をもって、筐体となった弓子や魔女のライブラリごとジギタリスを異世界に吹き飛ばしてしまう。これにより、ジギタリスがこの世界で復活する悪循環を最後にすることができるのだった。
「こうなった以上、これが、たったひとつの冴えたやりかたなのよ」
美鎖は言った。
聡史郎はいろいろつっこもうとも思ったが、自分以外の人間が真面目な顔で聞いているのでやめることにする。こよみなどは涙目だ。
「だめです。そんなのだめですよ。だってだって、弓子ちゃんが……」
「弓子だってわかってるはずよ。誰よりも強く古典魔法使いになりたいと念じて行動してきた彼女だもの。あの子はわかってくれるとわたしは思う」
「おかしいですよそんなの。弓子ちゃんを犠牲にしてあたしたちだけ助かるなんて」
「弓子だからよ。他人ならこんなことしないで自衛隊に戦わせておくわ。でも、一ノ瀬弓子クリスティーナがジギタリスとなって悪の限りをつくすなら、止めるのはわたしたちの役目だと思わない?」
「でもでも!」
「帰りなさい。こよみ。今回に限って言えば、あなたにできることはなにもないわ」
「あたし。もう一回、秋葉原に行ってきます」
「だめよ」
「六時半にドーナツ屋さんで会うって、弓子ちゃんと約束してるんです。かならず連れて帰ってきますから」
「こよみ!」
高校生には思えないちいさな後ろ姿が部屋の扉をくぐり、体にそぐわないどしどしという足音をたてて去っていくのを、美鎖はじっと見ていた。ベッドの上で、美鎖は疲れた息を吐いた。生命のエネルギーみたいなものを半分くらい一気に吐きだしてしまったような、そんな息だった。
なんというか、わけのわからないいかれた理屈でよくもここまで真剣に対立ができるものだと思う。聡史郎には理解できない世界の話である。まあ、最大の懸案だった姉はこうやって生きているのだし、この家の主のことはいずれ聞きださなければならない気がするけれど、聡史郎にとっての事件はここで一件落着だ。
あとは、いかれたものを信じる奴らが勝手にいかれた汗をかけばいい話だった。魔法などといういかれたものに首をつっこむのはまっぴらごめんだ。姉原家の中だけでもいかれているというのに、こいつらと一緒にいるといかれた事態が家の外まで拡大してしまうのである。冗談ではなかった。
だけれど、あのちんちくりんのことはすこしだけ気になった。
「どうしたの。聡史郎?」
ベッドの上にいる姉はめずらしく不安そうな表情を浮かべている。遠いとおいむかし、聡史郎が熱を出したときに一度だけ見たことがある顔だった。
開いたままの扉に聡史郎は手をかける。廊下に一歩踏み出し、振り返って言った。
「なんかあったらおれが電話をかけるよ。姉さん。あのガキは、自分のケータイで電話もかけられないみたいだからな」
気をきかせて達彦が退室し、部屋には美鎖と嘉穂のふたりだけが残された。
嘉穂はベッドの端っこに腰をおろす。
美鎖がうつむいた。
「……嫌われちゃったかしら?」
「……」
「あなたは行かなくていいの? 嘉穂」
「あたしは今回十分に働いたから、あとは皆にまかせようと。あとまあ、他の人は騙《だま》されていたけれど、美鎖さんの話にはおかしなところがあるのでそれを聞いておこうかと」
「なあに?」
「ダウト一。ジギタリスを異世界に吹き飛ばす大規模コードなんか用意できていない。PCに向かってそういうフリをしているだけ。ぼろぼろのいまの体で短期間のうちに組んだというのはおかしいし、大規模コードを世界にばらまくために一番効率のいいワームはあたしがゴーストスクリプト増幅で使ってしまったから」
美鎖はみじろぎする。嘉穂はつづけた。
「ダウト二。しかも、大規模コードでジギタリスがどうにかなるものなら、そもそもあたしのところにアミュレットが送られてくる理由がない。最初から美鎖さんがジギタリスと戦えばいい」
だから嘉穂は考えたのだった。
姉原美鎖は現代一の魔法使いかもしれないが、ジギタリス・フランマラキアは史上最強の大魔女だ。ふたりを比べれは、その力の差は歴然である。二十世紀最強のエクソシストと呼ばれたカルル・クリストバルドでさえ、ジギタリスの転生を彼のところで止めることはできなかった。
ジギタリスの転生がもしも止められないものであるなら、止められないものとして、その後の対処法を考えるのがベストだ。
ジギタリスはジギタリスであるのと同時に弓子でもある。魔女のライブラリというジギタリスの地層の上に、弓子というプログラムとデータがあるのだ。ジギタリスという強力なシステムには対抗できないかもしれないけれど、一ノ瀬弓子クリスティーナというセキュリティーホールがあれば、そこを突破口にジギタリスにウィルスを侵入させることができるかもしれない。
「違いますか?」
「……よくわかったわね」
「あたし、あたまいいのだけがとりえですから」
今回美鎖が用意できたコードはたったひとつだけで、それが自身のゴーストスクリプトである。つまり、あのゴーストスクリプトが弓子に対するウィルスということになる。
「美鎖さんは、ジギタリスの中にある一ノ瀬の強い感情、信頼感を利用して魔法を成功させるつもりだったかと。魔法のコードでありなおかつ一ノ瀬を油断させられるものはゴーストスクリプトだけ」
だけれど、嘉穂には理解不能なことがひとつだけあった。ジギタリスをゴーストスクリプトで倒す方法には、ある決定的な欠点がある。普通の人間が絶対に考えつかない方法をとらなければ、自分のゴーストスクリプトを用意することはできないのだ。
「美鎖さんは最初からゴーストスクリプトを残して死ぬつもりだった。自分を犠牲にするなんて、どうしてですか?」
「弓子を殺すのと弓子に殺されるのとどっちがいいか考えたのよ。たとえ弓子を殺したとしても魔女のライブラリは残って、次の犠牲者が出るわ。だったら、弓子に殺されてここでライブラリの連鎖を終わりにするほうがいいでしょう? あのゴーストスクリプトで、弓子ごとジギタリスを異世界に吹っ飛ばすって部分は本当だから」
「それが、たったひとつの冴えたやりかた?」
「そうよ」
「もし天国と地獄があって、一万人中九千九百九十九人が天国に行けるとしても、美鎖さんは地獄かと」
「ま、そうでしょうね」
美鎖はさびしげに微笑んだ。達彦という青年と美鎖の身長はほとんど変わらないけれど、男物のパジャマを着た美鎖はひどくちいさく見える。それは、肩幅が違うせいなのだと嘉穂は気づいた。
「美鎖さん本人が生き残ったのもイレギュラーですよね?」
「内緒だけど、そういうことになるわね」
「美鎖さんがあたしを信頼してゴーストスクリプト増幅の役目をくれたの、うれしかったです。だから、あたしも、ウチの前衛を信じてみようかと」
「それって、聡史郎?」
「違います。ドジでグズでバカで泣き虫で使えるのはたらい召喚コードだけで普段はどうしょうもないお荷物だけど、いつも、どうにもならないところから一本だけ残ったタイトロープをぐずぐず泣きながら渡る不思議な力がある子です。美鎖さんも、だから、自分の一番弟子を信じてみませんか?」
神の見えざる手 lammtarra
一ノ瀬弓子クリスティーナは川の流れの中にいた。
記憶と呼ばれるデータの川だ。
いままでは、弓子の目や耳や鼻や口やヒフや銀の髪を通じて弓子の中に入ってきたデータは弓子という存在の中だけで処理されていた。弓子は、個人で、見、聞き、嗅ぎ、味わい、触れ、コードを感じとり、脳の中で演算し、演算結果を出力した。
いまは違う。
ジギタリス・フランマラキアという大河のもっとも新しい下流。海に繋がる河口部分に弓子はいる。
弓子は消えたわけではない。弓子自身の記憶はちゃんとある。なくなったりしない。だけれど、弓子の記憶は、四百年の長きにおよび魔女のライブラリに蓄えられた記億たちのたったひとつにすぎないのだった。
弓子が目を動かし、運動して首を動かし、モノを見る。弓子が受け取った映像データは、弓子そのものにとどまらず魔女のライブラリに到達し、最適な演算結果となって弓子に帰ってくる。なにかをするたび、弓子の中を膨大なデータが駆け抜けていく。ライブラリの中に蓄えられた幾百幾千もの記憶が洪水のように押しよせるのだった。
それは、ひとつも怖くはなかった。むしろ気持ちのいいことだった。
弓子はライブラリの川をさかのぼり自由に泳ぎまわる。
胸を貫いた剣のコードの痛み。ドーナツショップで待ち合わせた森下こよみとの約束。美鎖と戦ったときの焦燥感。ソロモンと戦い気を失った屈辱。さらにさかのぼると、なぜかまた森下こよみの記憶があり、黒ネコがいて、両親がいて、痛み。悲しみ。喜び――真っ暗な胎道《たいどう》を弓子はのぼっていく。
――知ってるか、海賊が眼帯をしてる理由を。明るい甲板から暗い船室へ飛びこんたとき後れをとらないようにするためだ。
ある冷徹な男は、表情を微塵《みじん》も動かさずに幼女の喉を掻き切ることができた。ある女は、一声で何千もの人の魂をゆさぶることができた。ある者は一日に千里を駆けることができた。魔法の研究に生涯をかけたものがいた。高名な哲学者がいた。
――仮に神が存在するとして、その確率をpとすれば、存在しない確率を1−pで表わすことができる。神が存在した場合、あの世で得る幸福は永遠で無限だ。対するに、この世で得られる幸福はせいぜいaである。神が存在する。しないの確率と、そこから得られる幸福の量とを総合的に考えあわせれは、神が存在する場合に人間が得る利得の期待値はp×∞。神が存在しない場合は利得の期待値は(1−p)×aとなる。前者は無限であり、後者は有限なのだ。
――バカバカしい。魔法使いが神など信じるな。
――魔法は力だ。ならば、魔法は正義なのか。はたして力は正義と言えるのか。それがわたしに与えられた命題だ。
ある者は岩山に閉じ込もり瞑想し、ある者は日々戦いにあけくれ血を流し、全身の血を流し切って死んだ。すべての男と女と記憶とコードの先に、赤毛の魔法使いがいる。
「よく来た。新しき仲間。そなたを歓迎する」
赤毛の魔女は言った。よく通る声だった。聞くだけで指の先がしびれるような、そんな響きをもっていた。その女はジギタリス・フランマラキア。ヴォージュに生を享《う》けたひとりの魔法使い。ここがすべての源流だ。
ライブラリを通じ弓子に届くすべてのデータは初代ジギタリスを源流とする。そこにもうひとつの扉があるのを見つけた。凝った意匠の古いふるい扉だ。なぜか弓子の背後にはショートボブの少女が立っていて、その扉を開けるなとしきりに叫んでいる。でも、もうここまで来てしまったのだから、弓子は手をかけ――
そこにあったのは炎だった。
弓子は火刑台の上にいる。巧妙な仕組みで煙は立ちのぼらないようになっている。煙が呼吸器官に入れは、犠牲者はすみやかに一酸化炭素中毒で死ぬ。呪われた魔女には呪われた死を! 炎にまかれ生きながら肉を焼かれる痛み。爪先が指が足が燃えていく、肉汁がしたたり炎の勢いを加速する。炎は足から腿へ、そして胴体へと舌を伸ばし、足の骨がきらきらと燐光《りんこう》を発す。呪う。呪う。呪う。呪う。呪う。
呪われよ! すべての生きとし生けるものどもよ。
「ついに目覚めたか。ジギタリス・フランマラキア」
前方に浮かぶ男が言った。
古風な三つ揃いのスーツを身にまとった白人男性だ。両手にはめた手袋に五芒星《ごぼうせい》の縫いとりがある。この男のことは知っている。
六年前の記憶にアクセス。強い。敗けそうだった。なんとか倒した。
ライブラリを検索。百年前のデータにヒット一件。自分を魔王だと思っているケチな魔法使い。姉原研十郎の剣で死んだ。
ライブラリから押しよせるデータから、ジギタリスの最表層にいる弓子は最終的な判断をくだす。この男は、百年ぶりに会ったケチな魔法使いだ。
弓子の口が動いた。
「久しいな。ギバルテス。百年ぶりだ」
「貴様、わたしの記憶があるのか?」
検索。結果。答えてやることにする。
「おまえは魔女のライブラリを誤解している。ライブラリは、たったひとりの魔女が遺したものなどではない。すべての時代のジギタリス・フランマラキアの記憶を積み重ねたものだ。おまえとともに戦ったジギタリスもライブラリの一部。いまや、二十世紀最強のエクソシスト、カルル・クリストバルドの血を引く一ノ瀬弓子クリスティーナもジギタリスの一部となった」
「まあいい。また協力しようではないか」
検索結果から笑うを選択、ジギタリスは笑ったようだ。
「ゴーストスクリプト風情がなにを言うか」
「貴様。誰のおかげで蘇ったと――」
「滅びよ」
ライブラリにアクセス。コードをロード、実行。研十郎の剣ごとギバルテスのゴーストスクリプトが消滅した。
さてこれからどうすればいいか。弓子はライブラリにアクセス。魔女のライブラリの源流から強いつよい欲求が押しよせる。
熱い熱い熱い熱い! 呪われよ!
ならば、この世は呪われるしかないのだろう。弓子は考えた。
ジギタリス・フランマラキアこと一ノ瀬弓子クリスティーナの肉体がこの世から消えるときまで。
電車に揺られながら、聡史郎は、いかれた世の中について考えていた。
いままでどうもおかしいおかしいと思っていたが、やっとわかったのだ。まわりがいかれているのではない。聡史郎の運命がいかれてやがるのだ。でなけれは、こんな最悪のタイミングで、最悪のことばかり起きるはずがなかった。
なにかのまちがいだとは思いつつも、「美鎖を殺した」という弓子の言葉がひっかかり、秋葉原までわざわざやってきたまではいい。FMラジオから姉の声が聞こえたのも許してやる。
聡史郎と同い歳の男の家のベッドで包帯ぐるぐる巻きになって寝ていたのも、命に別状があるわけではないのだから許してやろう。
姉の美鎖は、生まれてこのかたずっと母親がわりだった女性だ。中学の三年間、彼女がつくりつづけてくれた弁当の味を聡史郎はおぼえている。眠れない夜に抱きついて、朝までもぐりこんだ布団のぬくもりをおぼえている。いつのまにか彼女の背を追いこしたとき、ムカつく言って蹴りつけられたすねの痛みをおぼえている。
その女性が、姉が、母親代わりの人が、一ノ瀬弓子クリスティーナを殺す計画を冷静に語っていた。殺すのではなく、異世界とかなんとかいうところに吹き飛ばすだけだと言うかもしれない。両者にはなんの違いもない。まったく、どうしようもなくいかれている。しかも、そんないかれた事態に自分が一枚噛んでしまっているところがなおさら腹立たしかった。
中野から秋葉原へ向かう電車の中、森下こよみは物思いに沈んでいるようだった。吊革にはつかまれない彼女は、代わりに聡史郎の服の端をつかんでいた。
「あたし、破門なのかなあ」
ちいさな背を丸めて、はあ、と大きなため息をつく。西から射した赤い陽がこよみの背中を照らし、うつむいた顔をさらに暗くしている。仕事帰りの夕方の客を来せた電車はごとごとと揺れていた。
「美鎖さんみたいに立派な魔法使いになれればいいなあって思ってたのに……」
「安心しろ。立派もなにも魔法使いなんて職業はもともとない」
「あるよう」
「冷静に考えてみろ。中世じゃあるまいし、魔法なんてもんが商売になるはずないだろ。そんなことばかり考えてるからカレーの実なんて珍妙なものを信じちまうんだ」
「でもでも……あたし、ぜったいあると思ってたのに。ココナッツみたいな殻の中に、黄色い粉がたくさん入ってるの」
「それでバラモンの坊さんが豊作祈願すんのか?」
「そう!」
思わず想像してしまった。ものすごくシュールな光景だ。
聡史郎は、自分の口元が自然とほころぶのを感じた。
森下こよみの話につきあうと、暗く沈んだりまじめに考えたりするのがなんだか馬鹿らしくなる。これももしかしたら、森下こよみという少女の効用なのかもしれない。
「おまえはそのままでいいのかもな」
だから聡史郎は言ってみる。
「え? なになに? なんで?」
「なんにも考えてないような平和な顔して、そのへんにどったんばったんぶつかってりゃいいんだよ。気にすんな。おれが決めた。だから、全然気にしなくていい」
「……それって、な、なぐさめ?」
電車が秋葉原に到着した。
駅から降り立った秋葉原の街は、中野へ向かったときと同じでなにも変わっていなかった。というより、スーツ姿の人が増えていたりもする。長くなった陽は、六時ではまだ沈まない。
ある者は大きな荷物にポスターを挿して、ある者はちいさな紙切れを握り急ぎ足で、ある者は道路でチラシを受け取り、笑いさざめき、信号待ちをし、それらすべてが極彩色の看板が連なる街並みに溶けていく。
聡史郎とこよみは並んで中央通りを歩く。ドーナツショップの前に一ノ瀬弓子クリスティーナが佇《たたず》んでいた。黒ネコのかたまりは道路の端にちょこんと座り、弓子を見上げている。
「弓子ちゃん!」
こよみが駆け寄った。
聡史郎はほっと胸をなでおろす。人間万事|塞翁《さいおう》が馬だ。まあ、常識ある世の中ってのはこうでなくちゃいけない。
「だいじょぶだった?」
弓子が立ちつくしたままだ。紫の瞳にこよみの姿は映っていない。
「弓子ちゃん……?」
「約束ゆえ。それを果たしにきた」
「弓子ちゃん……じゃないの?」
「わたしは弓子であり、ジギタリスでもある。一ノ瀬弓子クリスティーナはわたしの一部だ」
「ね。もう遅いから帰ろう?」
「それはできない。この世界を炎に包まねば」
「なんで。なんで! そんなことだめだよ」
弓子は天を見上げる。灰と群青を混ぜ合わせた夕方の空に、オレンジ色に染まった雲が浮かんでいる。
「森下こよみ……一ノ瀬弓子クリスティーナの友。おまえはここから去るがいい。けして癒されぬ恐怖をライブラリが叫ぶ以上、わたしは戦わねばならない」
天空がきらめく。
光り輝く百本の剣が空から降ってきた。
「圧倒的だわ」
姉原美鎖のゴーストスクリプトはひとりごちた。
こよみと弓子が立っていたドーナツショップの上空三十メートル。みずからが解き放った剣のコードがアスファルトに突き立ち、歩道にクレーターをつくったことを確認し、宙に浮いた美鎖は満足げな笑みを浮かべる。
嘉穂がネットに放ったワームは全世界のPCで増殖をつづけ、ゴーストスクリプトとしての美鎖の力をいまこのときも増大させている。ワームの後押しがあるいまに限って言えは、美鎖の力は六年前のギバルテスよりも強かった。
美鎖は、現代魔法使いであるのと同時に、二千四十八の可変コードが詰まったマジックアイテムでもある。
人間の姉原美鎖だったとき、何日も部屋に籠もってやっと書きあげた魔法発動コードを、いまの美鎖は空気を呼吸するようにつくりだすことができた。周囲の空間にあるCPUは腕の筋肉組織の延長のようなものだ。簡単に乗っとって魔法発動コードを走らせることができる。CPUは人間ほど複雑なコードが組めないが、同じコードを何万回も何億回も忠実に繰り返す。そしてここは秋葉原だ。ショップの店頭は電源が入ったコンピューターで満ちているのだった。
「少年マンガの悪役ってこういう気分かしらね」
ドーナツショップの上空に浮かんだ美鎖は。悪役風にくちびるの片端をゆがめてみる。
ゴーストスクリプトである自分は、ありていに言えばゾンビみたいなものだ。姉原美鎖本体とは、あるときまで同一の存在だったというだけで、いまはもう別の存在である。本体が生きているという情報を聞いてもなんの感慨も湧かない。
美鎖にはやることがある。
世紀の魔女であるジギタリスを異世界にはじき飛ばす。それが目的だ。そのために自分はクリエイトされた。
ジギタリスは強敵である。だが、増殖をつづけるワームと秋葉原の街があれは、その力に対抗できるという自信があった。
美鎖は思う。
さいわいにして人間の美鎖は命をとりとめたようだが、これほどの力が手に入ることがわかっていたなら、死んでも美鎖は後悔はしなかったかもしれない。血液と神経伝達物質が流れる脆弱《ぜいじゃく》な肉体に特別な価値はない。体がシリコンチップでもなんの問題もないのだ。それほど圧倒的な力を、いまの美鎖は手に入れたのだった。
ドーナツショップの店の前は、砕けたアスファルトの煙が濛々《もうもう》とたちこめている。一般の人間があわてふためき、走りまわる様子が見える。中央通りが渋滞をはじめた。ジリジリと防災ベルの音が聞こえる。降りたった剣群の中心部にいた弓子の姿は見えない。
できれは、森下こよみにはこの場にいて欲しくなかったのだけれどいまとなってはしかたなかった。どれほど強力だといっても、美鎖はゴーストスクリプトだ。すべてのコードを変換したらいに変えてしまう能力を持つこよみには注意しなければならなかった。
「出てきなさい! 無傷なのはわかってるわよ」
美鎖は叫んだ。
湧きあがる煙の一点がきらめく。
すさまじい剣のコードが飛来した。
質量を待っているかと思うほどはっきりとした像を結んでいる。硬質な剣は、ビルの横腹にある看板をかすめガリガリと削りとって美鎖のすぐ脇を上昇していった。遥か下方で煙が渦巻く。すさまじい剣圧で、湧きあがった煙が竜巻状に回転している。
渦の中央で、一ノ瀬弓子クリスティーナが片腕を伸ばしていた。
美鎖は口の端をゆがめる。さすがだ。何百年も生きてきた魔法使いはひと味違う。少年マンガの悪役気分にひたっている場合ではないかもしれない。
弓子はコードを組む。体が急遠に上昇し、美鎖と同じ高さに浮かんだ。両者の距離は約二十メートル。
「姉原美鎖のゴーストスクリプトだな」
「お初にお目にかかるわね。あなたは……なんて呼べばいいの?」
「四百年の間考えつづけてきたが正直わからない。わたしはジギタリスであり、弓子でもあり、他の無数の筐体の持ち主でもある。弓子と呼びたければ呼んでもかまわない。それもまたあやまりではない」
現在の美鎖は、数十グラムしかないシリコンの欠片《かけら》だった。
十七歳の女の子とはいえ、弓子はひとりの人間だ。それぞれを宙に浮かべるためには、必要となるコードはだいぶ異なる。ジギタリスのコードをあなどることはできなかった。
足の下数十メートルでは煙が晴れだしたようだ。こよみがなにかを叫び、聡史郎にとがめられている。
「素直に片付けられてはくれないわよねえ?」
「やってみるがいい」
「そうね――剣と化せ我がコード!」
コードを組んだ。美鎖の周囲にボール状になった光の剣山が出現し、わずかなあいだ宙にとどまったあと疾走を開始。その数は百本。いまの美鎖は、周囲のCPUの力を借りて百本の剣を同時に生成することができる。
半透明の剣はねじれ合いうねり互いに接触して火花を散らし、一体の龍のようになって弓子へ向かう。
弓子は避けない。直撃コースの剣だけを選択し、ひとつひとつ対抗魔法コードで消滅させる。無数の剣の群れが、大気にこすれ悲鳴にも似た擦過音を残しながら秋葉原上空を飛んでいった。
「やるわね」
「ならば、こちらも行く。受けてみよ」
弓子の体でコードが組み上がる。
「冗談!」
美鎖は急降下。シリコンチップしか通り抜けられないビルの隙間を自由落下し、地面すれれで水平飛行。路地裏に出てSの字を描きながら飛翔する。美鎖が過ぎ去ったあとのアスファルトが爆発する。過ぎ去る。爆発。過ぎ去る。爆発。狙いが正確になっていく。剣の形をした攻性コードが美鎖を追いつめる。
前方に通行人。急制動して、美鎖はPCショップに入りこむ。すこし遅れて聞こえる悲鳴、攻撃を受けた店の入り口が爆発する。
美鎖の目的はひとつだ。
史上最強の古典魔法使いであるジギタリスと正面からぶつかり合うのは、いまの美鎖でも分が悪い。だが、ジギタリスといえど一個の人間には違いない。
以前に渋谷の神社で弓子にやったことと同じことを、美鎖は今回もやろうと考えていた。弓子の体に無差別にコードを流しこみ飽和状態にしてしまうのだ。
弓子の背後には魔女のライブラリがあり。もしかしたら、通常にコードを組むときの百分の一の労力でコードを組むことができるかもしれない。だけれど美鎖は、全世界のPCから力を借りるゴーストスクリプトだ。美鎖の背後には、電気の魔都で蠢《うごめ》くCPUがほぼ無尽蔵《むじんぞう》にひかえている。ジギタリスと化した弓子を飽和させるのに百倍のコードが必要だというのなら。百倍のコードを流しこんでやればいいのだった。
戦場が秋葉原という街であることは、コンピューターが利用できるということだけでなく、地理に詳しいという利点をも美鎖にもたらしている。弓子も、もちろんジギタリスも秋葉原には詳しくない。
PCショップの表玄関に弓子が降り立った。
すでに美鎖は、裏手にあるトイレの窓をすり抜け、となりの雑居ビルの階段を通って屋上まで登っている。
人通りがないことを一応確認した。
「剣と化せ我がコード!」
百本の剣を降らせた。
急降下する剣の群れと同じ速度で美鎖は下降。弓子はまた冷静に剣をさばいている。命中するものだけを無効化し、あとは地面に突き立つにまかせる。アスファルトに剣のコードが突き立って穴が空き。さらに突き立ってめくれあがり、さらに突き立って粉砕する。
美鎖はただのシリコンチップだ。剣のコードに隠れればその姿は見えない。
湧きたつ石の煙の中、美鎖は弓子の体を捕まえた。
コードを流す。
――瞬間、弓子の体が消えた。
代わりに、剣のコードが目の前にあった。
避ける間もなく像である美鎖の体を刺し貫いた。剣のコードはそのまま突進して背後のビルのコンクリートに突き立ちぶるぶると震える。
美鎖がゴーストスクリプトではなく生身の人間であったなら、この瞬間に死んでいたところだ。普通のゴーストスクリプトでも敗北していただろう。
美鎖の幸運は、美鎖の像がアミュレットを首から下げていたことにある。剣のコードが突き立ったのはその部分で、美鎖のゴーストスクリプトの発生源であるアミュレット本体ではなかった。
美鎖は、偶然助かった。
弓子の姿はどこにもない。いったいなにが起こったのか。
「jini《ジニー》!」
周囲のjiniから情報を掻き集め、美鎖は状況を整理する。いくつかのショップのUSBモニターに映っているぼけぼけの映像を重ね合わせると、いったいなにが起こったのかがわかった。
弓子は、美鎖がつくったコードの網を瞬間的に逃れている。美鎖の目の前に剣が出現するのもまったく同時だった。三十分の一フレームもずれていない。何度映像を確認してもそうだった。
弓子は最初に組んだコードで逃れた。それはいい。だが、次の剣のコードは体内で組まれた形跡がない。まったく突然、空間に出現したものだ。
考えられる可能性はたったひとつ。
時を止めるコード。
ジギタリスは時間を止め、そのあいだに自分だけ動くことができる。流れる時間というこの世界の物理法則からすこしのあいだだけ逃れることができるのだ。
人類の叡知と呼ばれるライブラリだけのことはある。さすがの美鎖も、時間を止めるコードは知らない。次に時を止められたらおしまいだった。
jiniから情報を得る。カメラアイに弓子を発見。彼女は、美鎖から百メートルほど離れたビルの頂上にいた。
どうやら、さすがの魔女のライブラリでも連続して時を止めることはできないようだった。
考えろ。考えろ。考えろ。
弓子からできるだけ距離をとりながら美鎖は考えた。
時間停止のコードは、自分という存在に対して影響を及ぼすコードのはずだ。ほんのすこしのあいだ、時間の流れが違う異世界に身を移す。そんなところだろう。
世界に影響を与えることで時を止め、自分だけが動きつづけるという方法であるはずはない。なぜなら。この街には森下こよみがいるから。彼女がいる限り、時を止めるコードはすべてたらいに変換されてしまう。
ジギタリスがこの世界から逃れることは残念ながら止められない。だが、ジギタリスがコードによってこの世の物理法則を離れようとしたとき、反作用でこの世界そのもののコードを動かすこともできるはずだ。
――我に立てる場所を与えよ。しからば我は地球を動かさん。
そうだ。アルキメデスのテコの原理を応用したコードを使う。ジギタリスが時間から逃れることは変わらないが、こうすれば、ジギタリスだけが止まった時の中で動くのではなく世界のほうがコードによって停止することになる。それはすなわち、すべてのコードをたらいに変換する森下こよみがいる世界だ。
こよみたちがいるドーナツショップへ向けて、美鎖は進路を変更する。美鎖を上回る速度で弓子が急速接近しているとjiniが告げた。
テコで世界は動かない。普通なら不可能なことである。だけれどここは魔の街秋葉原。いまこのときこの街いまの美鎖ならばできる。シリコンチップがうず高く積みあがり、怪しげな電波が飛びかうところ。jiniと呼ばれる電子の精霊たちに、美鎖はそっとささやきかける。
ドーナツショップはもうすぐだ。
クレーターになった歩道の端に聡史郎とこよみが立っているのが見えた。通行人が集まりはじめている。弓子と美鎖の戦いの火蓋《ひぶた》が切って落とされてから、それほどの時間はまだ経過していないのだ。卓越したふたりの魔法使いは、CPUのクロックで戦闘する。
弓子が来た。
世紀の大魔女ジギタリス・フランマラキアに同じ手は二度と通用しない。
勝負は一瞬。
アルキメデスのテコのコード。
ライブラリを無力化するための無数のコード。
ジギタリスを永遠にこの世界から追放する、異世界へのゲートを開くコード。
すべて同時に用意する。街にあるあらゆるCPUは美鎖のものだ。店頭に並ぶ高性能コンピューターのCPU、電子炊飯器のCPU、歩道を歩く青年の鞄の中にある携帯ゲーム機のCPU、携帯電話のCPU、通りを走る高級車のエンジン制御CPU、どんなものでも強奪する。奪いとる。ひとつたりとも無駄にはしない。美鎖が望む計算だけをさせる。ひとつのCPUがひとつのコードを何千回何万回繰り返し、その数は十になり百になり千になり万になり、すべての秋葉原の機械たちが、ただひとり姉原美鎖のためにコードを組みつづける。
弓子は美鎖に急接近。時を止めるコードを発動、そして――
たらいだ。
巨大な金だらいがクレーターの中央に出現する。
突然自分の体を流れたコードにこよみは驚いている。
弓子は時間の中にいる。時間から逃れることはできない。コードを流しこみライブラリを飽和させる。
いまだ。
ドーナツショップの正面に、異世界へ繋がる穴を空けた。
「いかれてやがる」
クレーターの端に立つ姉原聡史郎は、暮れようとしている空を見上げ、毒づいた。ドーナツショップ正面の歩道が突然爆発し、すり鉢状のクレーターができあがったのである。
こよみによれば、弓子がいつも使うような剣のコードが、何十何百とシャワーのように降ってきたそうだが、弓子がいつも使うコードというのがそもそもいかれているので話になっていない。
煙が晴れたあとにいたのは自分とこよみだけで、弓子の姿もかたまりの姿もなかった。
さいわいにケガ人はいないようだ。いまは店員があわただしく店内を駆け回り、集まりはじめた野次馬を散らそうと必死になっていた。
赤鋼色に輝く金だらいとともに、消えたはずの一ノ瀬弓子クリスティーナがクレーターに落下してきたのはそのときだ。
「え!」
こよみの声が聞こえた。
聡史郎とこよみは二メートルほど離れていた。こよみと弓子の距離は三メートルとすこしだった。
その爆発は、聡史郎から三メートルの場所で起こった。弓子からも三メートルの距離だった。音もなく広がった爆風の大部分は弓子に向かい、紫がかった銀色の髪をめちゃくちゃに巻きあげうねらせた。
残りの爆風はクレーターの周囲にいた人間に平等に向かった。男性である聡史郎にはそれほどの影響はなかった。だけれど、身長百四十六センチ体重三十九キログラムの森下こよみは、爆風の影響をもろに受けた。
こよみと弓子、ふたりの体は、落ち葉みたいにふんわりと舞いあがった。透明な巨人の手につままれたように。
聡史郎が指一本動かせないうちに、ふたりの体は頭上でくるくると回転し、爆発によって発生したクレーター中央の穴に吸い寄せられていった。
聡史郎は、弓子とこよみの、どちらかには手が届きそうだった。ふたりとも助ける余裕はなかった。
森下こよみは背中を向けていた。
一ノ瀬弓子クリスティーナは聡史郎のほうを向いていた。
迷っているひまはなかった。
聡史郎の腕は、森下こよみの腕をつかんだ。
ふたりのスカートがはためいていた。弓子の髪が波うっていた。紫の瞳が、静かに光っていた。
弓子の体が不可思議な穴に落下する。爪先から飲みこまれていく。それがなんの穴であるのか見ただけでは判断つかない穴に吸いこまれた足の先は、骨が透けて緑色の燐光を放っていた。
筐体である弓子を殺せば魔女の災厄は何年何十年かのちにふたたび訪れるのだ。殺さず異世界に吹き飛ばすやりかたは理にかなっている。
いかれた姉から聞いたいかれた話を聡史郎は思い出す。
異次元から這い出た黒い靄《もや》は、じわじわと、炎のように舌をだし、足首から弓子の体を侵蝕していく。
「弓子ちゃん!」
こよみが気づいたようだ。
聡史郎の腕を叩いている。
「バカ、やめろって」
異世界の穴へ弓子を吸いこむ力は衰えていないのだ。手をはなせばこよみも吸いこまれてしまうかもしれない。
こよみは手を伸ばす。
もうすこしで弓子に届きそうだ。
「やめるがいい」
弓子が目を開いた。
みずからの体を這いあがる黒い炎を冷静に見つめている。
「一ノ瀬弓子クリスティーナの友人、森下こよみ。もうよいのだ」
「だめ。ぜったいぜったい。そんなの、だめ!」
こよみの手が弓子の手首をつかんだ。すでに弓子の体の半分は、異世界の穴に吸いこまれている。
「あたしが守ってあげるから。弓子ちゃんはともだちだから……ぜったい。ぜったい! ぜったい守ってあげるから。どんなやつが来ても、たとえ相手が……美鎖さんでも。だから、あきらめちゃだめ!」
弓子だけではない。こよみも、こよみを引き止めている聡史郎も、じりじりと穴に吸いこまれていた。
折れ曲がったガードレールを聡史郎はつかんでいたが、次第次第に力は抜け、穴に向けてすべっていく。
「……くそったれ」
考えるんだ。考えるのは自分の役目だ。いまここでなんの役にも立っていない自分ができることは、考えることだ。
仮定の話だ。あくまでも仮定の話として考えてみる。魔法なんていかれたものが仮にこの世に存在するとして、いまここでどうすれば事態が打開できるのかを考えることだ。
仮定1 魔法は存在する
仮定2 姉原聡史郎にはすべての魔法が通用しない
仮定3 森下こよみはすべての魔法をたらいに変換することができる
仮定4 一ノ瀬弓子クリスティーナは魔女にとり憑《つ》かれている
仮定5 弓子を殺すと魔女はふたたび転生する
運命をつかさどる女神はたった一度しかチャンスをくれない。用意ができていようといまいと。自分のタイミングで勝負をかけられる人間なんて、この世にほとんどいないものだ。よいことも悪いことも、運命は空から突然降ってくる。それがきっと、いまなんだろう。
聡史郎は手を離した。
異世界の穴が聡史郎を覆う。覆う。侵蝕しない。姉原聡史郎に魔法は影響しない。そんないかれたものは、自分にとって存在しないのだ。
弓子とこよみを穴から引きずり出した。
吸いこむものがなくなった異世界の穴が次第にちいさくなっていく。
「なぜ、おまえたちはそこまでできるのだ」
弓子が言った。聡史郎は笑う。
「さっき気づいたんだがな。このいかれた世界ってやつが、おれはそんなに嫌いじゃないんだ」
「魔女のライブラリによる転生は、筐体が殺害されることがトリガーとなった自動実行魔法だ。異世界に飛ばしてしまえばジギタリスは二度と復活しない……わたしはまだコードを使うことができない。飛ばしてしまうならいまだぞ」
「弓子ちゃん! 怒るよ!」
こよみは涙目だ。ジギタリス・フランマラキアは、紫の瞳で、一ノ瀬弓子クリスティーナの友人を見つめた。
「だが……この体で、友と一緒に一生を過ごしてみるのも悪くないかもしれない」
「弓子ちゃん!」
「許さん。許さんぞ」
そのとき、クレーターの外側で男の声がした。
マオカラースーツの男。ゲーリー・ホアンだった。
ゲーリー・ホアンは中国拳法の使い手である。伝統技術を操る肉体を持ち、現代魔法を理解する頭脳を持った男だ。
その男が、ほこりまみれになって、叫んでいた。
「許さん。許さんぞ。人類の叡知を! こんなところで! おまえたちに!」
灰色の影と化した。
聡史郎の目にホアンの動きは捉えきれなかったようだ。影となったホアンはまっすぐに進み、聡史郎の胸に一撃を加える。聡史郎は吹っ飛び、ドーナツショップの壁にぶちあたりずるずるとくずれ落ちた。
その様子を上空で見ていた美鎖は、クレーターの中央にそっと降り立つ。
「だめよ。ゲーリー・ホアン」
「姉原美鎖!」
「あなたはこっちよ。わたしと一緒に行きましょう」
「なんだ。なにを言う?」
「住めば都っていうし、行ってみれば異世界もそれほど悪いところでもないと思うわよ。わたしはゴーストスクリプトだから、イブの役はやってあげられないけどね。ひとりで異世界に行くのはさびしいでしょう?」
「なんだと、貴様!」
「あなたもプログラマーならわかるでしょ? 人間は、肉体があってはじめて人間なのよ。シリコンの石の中を走るプログラムであるわたしは、最初から最後までゴーストスクリプトであり、人間じゃないの」
「姉原美鎖……まさか、最初からそのつもりで。騙《だま》していたのか……」
「誤算はあったのよ。まさか、わたしの本体が生き延びるとは思わなかったから。でも、結果オーライってやつよね。予定では弓子と一緒に行くつもりだったんだけど、ふられちゃったみたいだから、あなたで勘弁してあげる」
ゲーリー・ホアンのマオカラーに腕を巻きつける。
美鎖は艶然と微笑んだ。
「よせ! はなせ! 姉原美鎖!」
「最後に弟にさよならも言えないってのはつらいわよね」
だけれど、姉原聡史郎をそうしてしまったのは美鎖本人なのだからしかたなかった。
わめきつづけるゲーリー・ホアンを、姉原美鎖のゴーストスクリプトは異世界へ繋がる穴へと引きずりこむ。
「元気でね。聡史郎」
もちろん、その声は、弟には届かなかった。
なにかが聞こえたような気がして聡史郎は顔をあげた。ポケットの中に弓子が買った携帯FMラジオが入っていた。でも、スイッチは切れているし、どうやら壊れてしまっているようだ。
なにかが聞こえたのはたぶん気のせいだ。いかれたものに縁がない。
聡史郎は、壁にもたれかかり、しばらくあえいでいた。口の中を切ったのか。苦い、血の味がする。わけのわからぬ穴があった場所をのぞきこむと、秋葉原の街を飾る極彩色の看板が見えるだけだ。ホアンの姿は見えない。
月あかりの中に一ノ瀬弓子クリスティーナが立っていた。表情は見えない。きっといつものように、ちょっと怒った表情でこよみを見つめているのに違いない。
ゲームを買いに来たサラリーマンが道を通りすぎる。弓子の姿を見てなにかのイベントだと思い、写真を撮っている男までいる。
弓子は言った。
「約束を忘れるな。この体が殺されれば、わたしはふたたび転生する。この体の主が歳を取って安らかに死ぬそのときまで、せいぜいわたしを守ることだ」
言い終わるなり、ふらりと倒れた。
「弓子ちゃん!」
走り寄った聡史郎が支える。なんとか間に合った。
「だいじょうぶか?」
「平気ですわよ。ド素人と魔法不感性に心配されるいわれはありませんわ」
「……弓子ちゃん?」
「お放しなさい。ひとりで立てますわ」
尊大な態度だ。
こよみがやってきて、聡史郎の体に隠れつつ弓子にはなしかけた。
「弓子ちゃん、ジギタリスさんは?」
「わたくしの中にまだいらっしゃいますわ。わたくしを通して世界を見、そして感じています。ただ、残念なことにわたくしの側からはライブラリに自由にアクセスできなくなってしまったようです」
「そうなんだ」
「ところでこよみ。わたくしひとつ言いたいことがあるのですけれど」
「……な、なに?」
弓子はケータイをとりだした。
「いったいいまが何時だと思ってらっしゃいますの? 一時間も待たせるとはなにごとですか!」
「ご。ごめんなさい」
なんだかうれしそうにあやまっている。
「なにをしてらっしゃいますの? さあ、こよみ。さっさと帰りますわよ」
それまでこよみの手は聡史郎の服の端を握りしめていたのだけれど、弓子にうながされ、とてて、と近寄った。手をしっかり繋いで歩きだす。出るところが出て引っこむところが引っこんだ弓子と幼児体型のこよみである。ふたりが手を繋いで並ぶととても同い歳には見えなかった。どちらかといえば姉妹のようだ。
なー?
どこから出てきたのか、かたまりが聡史郎の足元で鳴いた。
「なんだよ」
なー。
ちょこんと座り、聡史郎の靴を爪でかりかりやっている。どうやら、疲れたから連れていけということらしい。しかたないので聡史郎はかたまりを拾いあげてやった。
弓子が振り返る。
「なにをしてますの。置いていきますわよ?」
「もしかしておまえ、本当に性格悪いんじゃないか?」
片眉をつりあげる聡史郎に、一ノ瀬弓子クリスティーナは極上の笑みをむけた。
「いまごろ気づきましたの? 意外と貴方も人生経験を積んでらっしゃいませんのね」
epilogue
ホームスイートホーム @home
「できたわよお」
ずん胴と呼ばれるどでかい鍋からほこほこと湯気がたちあがっていた。
もとは学校として使われていた姉原家の高い天井へ白い蒸気は巻きあがり、古びた調度や柱に彫られた複雑な模様の中へと散っていく。窓の外から入ってくる週末の陽光と夏の風に複雑に絡み合い、豊かな香りが部屋全体に広がっていた。
ずん胴を手にしているのは美鎖だった。こよみはつまさき立ちになって、鍋の中をのぞきこんでいる。嘉穂は気にせず炭酸飲料を飲んでいる。すこし離れたところに座っている一ノ瀬弓子クリスティーナは、ホッケーマスクをかぶった大男に夜道で遭遇したような顔をしている。
秋葉原で起きた騒動から数日たった週末、美鎖の誘いで姉原家に三人の少女が集まったのだった。いわゆるサバトというやつだ。寝過ごしたのか逃げ遅れたのか、あるいは自分でもおそろしいことに姉の手料理がひさしぶりに食べてみたくなったのか、姉原聡史郎も、なぜか四人の魔女に混じって食卓についていた。
こよみが言った。
「カレーですね。いいにおい!」
「ありがと」
なにが楽しいのか知らないが、エプロンをつけた八歳年上の姉は、満面の笑みを浮かべながらカレーを皿によそっている。
「……言ってくれりゃあ、料理くらいおれがするのに」
聡史郎の口は自動的にへらず口を叩く。
「これみよがしにルウが置いてあったから、つくってほしいのかと思ったわ」
「あれはそういうんじゃねえの。たまたま整理してただけだ。っていうか、ダイコンとか入れてないだろうな?」
「なかったから入れてないわよ。冷蔵庫の中のスイカはちょっと迷ったけど……」
「入れんなよスイカ!」
「えー。あまくておいしいのにい」
よそいおわった。
「どうぞめしあがれ」
美鎖はにっこりとほほえむ。
最初にスプーンを手にとったのはこよみだ。大好きな缶詰をあけてもらったネコみたいに瞳をきらきらさせ、さっそく最初のひとくちを食べようとしている。食べるそぶりを見せつつも、嘉穂は、友人より先にスプーンを口に運ぼうとはしていない。弓子は膝の上でてのひらを握りしめ、青ざめた表情で皿の中身を凝視している。
「おいしいです!」
聡史郎も食べてみた。
温かいのに炭酸みたいなぱちぱちはぜる感じがした。舌と口蓋《こうがい》のあいだではじけた泡にはスパイスの香りと味がちょっとずつ詰まっていて、ごはんを噛みしめるたびに喉を通って鼻腔を刺激する。
たしかにおいしかった。
日本製のカレールウでつくったカレーをインド人に食べさせてもうまいと言うそうだ。和食と言えるまで洗練されたカレーは、いまや世界のどこへもっていっても通用する料理なのである。だけれど、インド人にとっては、ルウでつくったカレーは香りが足りないらしい。彼らにとってのカレーは、スパイスをその都度まぜ合わせてつくる鮮烈な香気を備えたものだからだ。
美鎖のカレーは、日本製業務用カレールウを使っていながら、ルウが失ってしまったはずの強烈な香りのパンチをなぜか持っていた。
「姉さん、カレールウの他になんかいれた?」
「愛情と……ビタミンCかな?」
「ビタミンCかよ!」
「……そっちにつっこむか」
食べながら、嘉穂がぼそりとつぶやいた。
「ビタミン、大切なのよお。壊血病とか怖いし」
「ここは大航海時代の船の上かっての」
「もちろん、ビタミンだけじゃなく愛情も大事よ。ほら、話しかけると植物がすくすく育つっていうし」
話が噛み合っていない。
聡史郎は目をつぶり、目頭を押さえた。蓋をあけて「愛情!」とか言ってる姉の姿が脳裏に浮かび、頭を左右に振って追い払う。本当にやってそうで怖かった。
キッチンにある聡史郎のスパイスを美鎖は使おうとしない。どれとどれを混ぜればカレーの味ができあがるかも知らないはずだ。それでいて。聡史郎よりはるかにおいしいカレーをつくるときている。どこか納得いかないものを感じた。
「なぜか炭酸っぽいんだよな」
「そうだよね。炭酸みたいだよね」
こよみはぱくぱくと食べている。
弓子は、アマゾンの奥地へ行って、はじめて見る現地の食べものをおそるおそる口に入れようとしている観光客の顔でスプーンを持ちあげようとしていた。
「わたくし……生まれてはじめて他人をうらやましいと思いましたわ」
「そうなの?」
「たしかに、わたくしのこの瞳は、最大の贈りものであり呪いなのですね……」
こころなしかスプーンがふるえているようだ。
「森下、カレーついてる」
「あ、ほんとだ」
嘉穂の指摘に、こよみはごしごしと口のまわりをこすったりしている。
「みんな、たあんとめしあがれ」
「はい! あの、あの、おかわり、とかしてもいいんですか?」
「もちろんよ」
「こよみ……貴女はそれくらいにしておいたほうがよいかと思いますわ」
「そ、そうかな。変かな? 太っちゃうかなあ」
こよみは名残惜しそうにカレー皿を見おろした。今度はおあずけをくらったネコの顔だ。ずん胴にはまだたくさんのカレーが残り、盛大な湯気をたちのぼらせている。
「食いたいときは気にせず食え。人よりちいさいんだからすこしでも体積を増やしとけ」
「そ、そうだよね!」
「なにが起こっても知りませんことよ。わたくしには、貴方が見えないものが見えていることをお忘れにならないよう」
「カレー食ってなにが起きるっつうんだバカ」
弓子はそれ以上なにも言わなかった。紫の瞳に憂いをたたえているのみである。美鎖はにこにこと笑っている。もくもくとスプーンを動かしていた嘉穂が、自分の皿とコップを持ってすっと身を引いた。
「ったく。おれの前でいかれたことを――」
言うな、と口にしようとして、聡史郎は弓子の言葉をふたたび考えてみた。そして、カレーとは直接関係のない、あることに思い至った。
もしかしたら、呪いであり最大の贈りものである紫の瞳を持った一ノ瀬弓子クリスティーナには、余人には見えないものが見えているのかもしれない。まあ、魔法なんてものがこの世に存在するとしての話だけれど。
もちろん聡史郎は魔法などといういかれたものが存在するとは思っていない。だが、仮に――あくまでも仮定として、ここは魔法があるとしてみる。
ジギタリス復活の魔法は、世紀のエクソシスト、カルル・クリストバルドの力をもってしても完全に回避することは不可能だったと考えられなくないだろうか?
だからこその大魔女だ。
ライブラリと呼ばれる外部記憶を用意することによって、その魔女は、何百年も前から何度も転生を繰り返してきたのだという。みずからの肉体が殺害されることをトリガーとした自動実行魔法というやつだ。クリストバルドというエクソシストが天才であったとしても、大魔女ジギタリスはその上をいくと考えたほうが自然である。
クリストバルドはだから何重にも呪いの巣を張りめぐらせ、ジギタリスの復活を次で最後にしようとした。そして、次の筐体となる弓子が生を享けた。
弓子が持っている力は、弓子がみずから磨いて伸ばしたものだ。曾祖父から受け継いだ素質もあるのだろうが、それだけで一流の魔法使いになれるほど世の中は甘くない。一流のスポーツ選手や役者、芸術家、みなそうだ。素質という一パーセントの薄っぺらい基盤の上に努力のピラミッドを九九パーセント重ねあげ、彼らは一流と呼ばれる存在になっていく。
弓子が主張する銀髪や紫の瞳が最大の贈りものだとは聡史郎には思えなかった。贈りものでありなおかつ呪いであるものは、それとは別にあるはずだ。
呪いは、一ノ瀬弓子クリスティーナにかかっているのではないのではないか?
聡史郎はそう考えた。
弓子という存在の外側にあり、なおかつ、彼女の人生に影響を及ぼすほど深くかかわりのあるなにかが呪いの源だ。物体であるならケリュケイオンの杖。動物であるなら黒ネコ。人間であるなら聡史郎の姉である美鎖か、あるいは……森下こよみ。
魔法発動コードなどといういかれたもののすべてを受け止めて、その上をいくいかれた金だらいに変換してしまう少女。少女の力は偶然ではないし、少女がこの場所この時代に生を享けたのも偶然ではないのではないか。ジギタリスの筐体がいる場所に少女は現れると決まっていたのではないか。彼女にはそういう呪いがかかっていたのではないか。クリストバルドは、|金だらい《デウス・エクス・マキナ》の少女を用意することによって、大魔女ジギタリスの物語に究極のエンドマークをつけようとしたのではないか?
十万人もの人間を殺害してきた魔女の力が復活するとなれは、誰が為政者だってそいつを退治しようとするだろう。聖人と呼ばれる人々が抹殺指令を出した魔女なのである。
筐体は発見次第、殺す。
バカみたいに頭のいい連中が何百年もかけて出した、これが、たったひとつの解答だった。
筐体の殺害によって魔女の転生は繰り返される。しかし、考えようによってはただひとりの魔女が相手なのである。その都度|速《すみ》やかに抹殺すれば、犠牲も被害も必要最小限で済む。
魔女の友達になって悪事をやめさせようなんて、お子さま向けのチョコレートパフェみたいに甘っちょろいことは、世界のどこを探したって森下こよみ以外考えない。失敗すれば大惨事が待っている。本人だってどうなるかわかったものではないのだ。
だけれど、それこそが、何百年も綿々と実行されてきたただひとつの選択肢から漏れてしまった、最高に冴えたやりかたなのかもしれなかった。
だから「呪いが最大の贈りもの」だ。たとえ全世界が敵に回ってもみずからを助けてくれるかけがえのない友が、呪いと試練と悲惨な運命を押しつけた曾祖父が一ノ瀬弓子クリスティーナに遺したたったひとつの贈りものなのだった。
まあ、あくまでも仮定の話だ。
魔法なんてものが存在するとすれば、案外真実に近い線なんじゃないかと聡史郎は考える。こよみや弓子が聞いても喜ぶとは思えないが……。
クリストバルドという奴はさぞかし冗談のわかる男だったに違いない。思いきり力を込めた一発を顎に叩きこんだあとなら、友達になってやってもいい。
呪いはあくまで魔女の転生に終止符を打つためのものであり、十七歳になったばかりの少女である一ノ瀬弓子クリスティーナが大往生するそのときになってはじめて完遂する。クリストバルドがかけた呪いは、呪いをかけられた少女の人生を保証するものではないはずだ。
だからこの先も、森下こよみに、金だらい以外のものを魔法はもたらしてはくれないのかもしれない。必死でおぼえたアセンブラもCもPerlも魔法発動コードも、|機械仕掛けの神《デウス・エクス・マキナ》の力によってすべてたらいと化してしまうのかもしれない。
そんなことも知らず、少女は、にこやかに笑っている。結局よそってもらうことにしたおかわりのカレーライスにスプーンを差しこみ、持ちあげ、アンコウみたいな大口をあけてぱくっと食いついた。
「あ!」
こよみが叫んだ。聡史郎はめんどくさそうに答えてやる。
「……なんだよ」
四人の魔女の視線が聡史郎の頭上に集中していた。こよみは心底驚いているようだ。美鎖は笑っている。離れた場所に座っている嘉穂は薄笑いを噛み殺しており、弓子は、ほれみたことかという顔だった。
聡史郎も見上げる。
夏の陽射しを受けて銀色の輝きをはなつ円盤状の物体が、なにもないはずの空間になににも吊り下げられることなく浮かんでいた。家の中に突然UFOが出現したのでなけれは、それは、聡史郎にとってもはや馴染みの深い関係になってしまったアレに違いなかった。
たらいだ。
銀色の金だらいは正確に等加速度運動し、聡史郎のひたいを直撃した。があんと派手な音が頭蓋に響く。なぜか、とてもなつかしいかんじがした。
数瞬のあいだ頭の上に乗っていたたらいは、ゆらゆらと揺れ、聡史郎の頭の傾きに沿って床に落下した。テーブルの上は無事だ。コップの水にさざなみも立っていない。『世界頭の上にあるたらいを上手に落とすコンテスト』があったら、一等賞をとれるかもしれない練達の技だった。
「ご、ごめんなさい!」
こよみが立ちあがった。
弓子は嘆息する。美鎖が首をかしげた。
「どうしたのかしら?」
「こんなものをつくっておいてどうしたもなにもないと思いますけれど……」
「こんなものって、カレー?」
「もしかしてわざとじゃなかったりしますの?」
「わざともなにも、わたしのカレーはいつもこうよ。子供のときからずっと」
「き、聞かなかったことにします。そうですのね。だからさ……」
言葉の後半をもごもごと口の中で言いながら弓子が聡史郎をちらっと見やった。紫の瞳にはなぜか憐憫《れんびん》の光が浮かんでいる。最終兵器とかなんとか言っていたようにも思えたが、カレーと最終兵器がどうやって結びつくのかはわからなかった。
テーブルの周囲をどたどたとまわり、こよみがたらいの場所までやってきた。
「あたま、へいき?」
「平気だ。漫才のボケ役並におれの頭は頑丈なんだ。おまえに鍛えられたからな」
「ご……ごめんなさい」
「聡史郎、女の子にそんなこと言うもんじゃないのよ」
「やかましい! だったら姉さんも一度くらってみろってんだ」
「やあよお。そんなの」
「美鎖さん……そんなのだなんてひどいですう」
「あら、そういう意味じゃないのよ。こよみが召喚するたらいってアルマイトじゃなくて銅や鉄だから、女の子の頭にぶつかったらけっこう大変よ。見たところ、きょうのはさらに重いみたいだし」
「そうなんですか」
床に落ちたたらいをこよみはしげしげと見た。
「そういえは、きょうのはなんかぴかぴかしてるような気がします」
「たぶんだけど、それ、銀製だと思うわよ」
「え? ぎん? 銀! ぎんだって! 弓子ちゃん、嘉穂ちゃん!」
「……はがねを通り越してぎんを入手するとはなかなか」
「おまえら、なにわけわかんねえこと言ってやがる」
「だって銀だよ? ぎん!」
「だからそれがどうした。どうせそいつも、いつかみたいに消えちまうんだろ? 喜ぶなら、永久に消えないたらいを出してからにしやがれ」
「それはそうだけど……」
こよみはうなだれた。縁日で買ってきて、一晩放っておいたらしぼんでしまった風船のようだった。胸の先でひとさし指をつんつんしたりしている。
椅子に腰かけたまま、聡史郎は長い脚を組んだ。
「おまえも高校生なんだし、そろそろ世の中のルールってもんを考えろ。たとえこのクソいかれた目の前の現実にたらいが転がってるとしてもだ、世の中の大部分は常識で動いてるんだよ」
「……そんなにまほう、きらい?」
「存在しないものに好きとか嫌いとか関係ねえの」
「あるもん」
「ない」
「ある!」
「ない」
「あるってば!」
こよみは、銀のだらいと聡史郎を交互に見やりながら、あるという言葉をかたくなに繰り返した。そんなふたりを、弓子は馬に念仏を唱える坊主を見るときの目で、嘉穂は、あたしはちょっとここを通りすがっただけですんで関係ないっスという顔で見ている。
「……魔法はあるもん。とくに便利ってわけじゃないし、あたしの場合はなにしてもたらいになっちゃうし、悪いことする人もいたりするけれど……」
「ねえよ」
「あんたって意固地よね。むかしはかわいかったのに……」
美鎖が言った。
「かわいくなくてけっこうだ」
「幼稚園のときなんか本当にかわいかったのよ。わたしが育てかたをまちがってしまったのね。天国の父さん。母さん、至らぬ姉ですみません」
「だから親父を殺すな」
「ごめんね、こよみ。両親がいないせいでわたしがこの子の母親代わりだったの。小学校の課題で出た母の日の絵は、わたしの顔を描いてくれたりもしたのに……わたしの教育方針がまちがっていたのね」
エプロンの端をわざとらしく噛みしめ、美鎖は天を仰いだ。
「い、いえ、あたしならかまいませんけど」
「ちょ。ちょっと待て姉さん!」
「なあに?」
「なんで姉さんが知ってんだ?」
「なにを?」
「絵のことだ。絵!」
「あら、倉庫にある机のひきだしの下に隠した絵のことなら知ってるわよ。姉さんの宝物だもの。勉強と家事の両立でつらいときや悲しいとき、あれを見て心をなぐさめたものだわ。他にもたくさんあるわよ。たとえば――」
「わ、わかった。魔法は存在する。いまこの瞬間だけそういうことにしといてやる。だからそれ以上言うな姉さん。後生だ」
「なにをあわててますの?」
「べつにあわててねえ」
「泣けるいい話かと思われ」
嘉穂はうんうんうなずいたりしている。
「やかましい! 揃いも揃っておまえらときたら人のことをなんだと思ってやがる。この場だけでもクソいかれた魔法を信じてやろうってんだ。黙ってその口にカレーでも詰めこんでろ」
「ええ? この場だけなの?」
「あたりまえだ。それだって特売大サービスなんだ」
「そんなのもったいないよ。せっかくなのに。なろうよ……一緒に――」
現代に生き残る魔法使いの弟子は、ひとつ年上の強情っばりな青年にやさしくほほえみかけた。日だまりのような笑顔だった。ちいさな口の端に、拭き残したカレーのスープがちょっぴりとついていた。
ちいさな指のついたちいさな手をさしだし、森下こよみは言ったのだ。
「あなたも魔法使いに!」
姉原聡史郎は、やっぱり、魔法が大嫌いだ。
[#地付き]おわり[#「おわり」はゴシック体]
あ と が き
小学校の頃は、給食をがばっと食って牛乳を一息で胃に流しこみ、あまつさえおかわりなんぞしたあげく一番早く校庭に遊びに行くようなガキだった。食事に時間をかけるより、余った時間で友達と遊ぶのが好きだった。ニンジンやピーマンが食べられず、体み時間中延々皿とにらめっこしているクラスメイトの姿を見て、
――オマエ、本当は給食が好きで好きでしょうがないんだろう?
などと失礼なことを考えていたりしたものだ。
ごめんよごめんよ。
両国のあいだにある不幸な歴史を直視して深く反省し、ここに謝罪する。
突然こんなことを思い出したのには理由がある。
わたしはけっこう早く原稿を書きはじめるほうだ。というか、プロットをまとめて編集部に提出する期間の短さで言えば、SD文庫でも優等生な部類に入るんじゃないかと自負している。えへん。
ところが、他人様《ひとさま》より早く書きはじめたはずの原稿が書きあがるのは、だいたいその月のビリッケツ(もっとすごい人ももちろんいます)なのだった。
なんだそれは。
小学校のときに確立したオレサマ給食理論によれば、わたしは原稿を書くのが好きで好きでしょうがないということになってしまうではないか。納得できん。給食だって原稿だって早く終わるに越したことはない。そのあと遊びに行けるもんな。
というわけで、修行のため、山ごもりを敢行した。
もとよりインドア派のわたしであるから、山岳地帯で野宿したからといって牛殺しの必殺技や鋼の筋肉がつくわけではない。山の中にある小屋で毛布にくるまり、てちてちとノートPCに向かうのである。
極限っぽい地で精神が研ぎすまされれは、少年マンガの主人公がピンチに陥ったときに発動する能力みたいなものがイヤボーンとわたしにも開花するんじゃないかなあとか、そーゆーステキビジョンがあったことも否定しない。まあ、山奥で原稿を書いて身につくのは、コンビューター|力《ちから》とかなんとか、そういう軟弱でサイバーなパワーが関の山なのであろうが……。
場所は東経百三十八度十七分、北緯三十六度三分。標高千五百メートル。
山の中である。
寒かった。
東京からもってきた電子炊飯器を使うと、沸点が低くて米が生煮えになる高地だ。道を歩けば、人間ではなく野生のシカとこんにちはする。通信可能エリアあたりの人口密度はシーズンオフには一人以下。当然PHSの基地局なんて気の利いたものは存在していない。車に乗って麓《ふもと》まで走らないとメールも読めないのだった。
春だというのにストーブをつけながら、とんでもないところに来ちまったとわたしは考えた。東京から二百五十キロも車をとばしてきたというのに、十分もたたず後悔の念で頭はいっぱいだ。
だけれどそこはそれ極限状況。なんか髪の毛がまとまってとんがってきた気がしますよ? ひょっとしてこれって、スーパー? スーパー?
わたしも烈くんに勝てる!?
……濡れたまま放っておいた髪が凍っていただけだった。
その後、八ヶ岳をゆるがす新事実が発覚する。どうしたら速く書けるのか編集の人に聞き取り調査してみたところ、とんでもない解答が引き出されたのだ。
「Yさんはむかしから速かったですね」
「Sさんは、デビューしてからいままで一度たりとも〆切を破ったことがないです」
なんですとー!
書くのが遠い人ははじめから遠く、〆切を守る人は最初から守るらしい。後天的努力でどうにかなるものだとわたしは思っていたのだが、実は先天的才能だったのである。山ごもりしてもカメはカメで、ウサギにはなれないのだ。甲羅《こうら》の穴から火を吹いて空は飛べるようになるかもしれないが、やっぱりアレもカメの一種であり、ウサギの仲間ではない。
周囲のかたにはこんちくしょうと思われていると推察するが、そういうことらしい。毎度毎度すみません。そしてありがとうございます。とくに宮下さんには迷惑をかけてばかりでもうしわけないっス。
生まれ変わったら、今度はわたしがマンガ家になって予定より遅れてやってきた宮下さんの小説原稿にイラストをつけます! という言い訳を考えたりもしたのだが、ドラえもんを読んでいた頃は、わたしも字書きではなくマンガ描きになりたかったのであり、どうみてもこの生まれ変わりバーター制はわたしばかり得をしそうなので、ポシャるだろう。残念。
ひと区切りついた現代魔法シリーズであるが、もうすこしつづくらしい。この「もうすこし」が本当にもうすこしか、亀仙人のもうすこしかはわたしも知らない。
読者の皆さま、テキトーによろしく頼む。
そうして日々は流れ、原稿を書いたり寒さに震えたり冬眠明けのクマと格闘したりしなかったり剃った片眉がやっと生え揃ったり……桜の花びらと無線LANの電波が空を舞う都内へわたしは帰遠した。
レガシィツーリングワゴンのエアーコンディショナーがいつのまにか暖房から冷房に切り替わっている。助手席に置いてあるノートPCのワイヤレスネットワークが、暗号化されていないヤ○ーBBモデムの電波を捨った。ああ都会へ帰ってきたんだなあ、という気がした。
「ハチオウジよ、わたしは帰ってきた!」
料金所でわたしは叫んだ。おっちゃんが目を剥いた。
嘘をついた。すまん。叫んでない。
目に見えないし肌で感じることもできないけれど、街中では有害な電波がびゅんびゅんと空を飛び、脳を沸騰させようとしたり人知れず命令しようとしたりなんかしんないけど他人の病気を勝手に治療しようとしたりしているらしい。たぶん。それが現代人の往む場所ってことなのだと思う。
ちょっと息抜きにネットでも見るかねリンクだリンクを飛べこのフラッシュおもしれえなあしまったもう×時間も経ってるよ仕事してる時間より長いじゃん! 一見無駄なようにも見えるが、現代を生き抜く戦士たちにはこれが必要なのだ。山奥で悟りを開いたわたしにはわかる。嘘じゃない。ホントウだ。
修行で研ぎすまされたコンピューター力を使ってずっと念じていたのだが、PHSカードの電波到達距離が伸びることはついぞなかった。長野の山の中では、メールはおろか某巨大掲示板もソーシャルネットワークサービスも見ることができない。
マイ、ディア、ビル。
ユビキタスの世界はまだまだ遠いようだよ。
[#地付き]桜坂 洋