よくわかる現代魔法
ゴーストスクリプト・フォー・ウィザーズ
CONTENTS
prologue:six years ago #1
1:the present #1
2:the present #2
3:six years ago #2
4:six years ago #3
5:six years ago #4
6:six years ago #5
7:six years ago #6
8:six years ago #7
9:back to the future
epilogue:the present #3
postscript:the fastest claw alive
あとがき
prologue
six years ago #1
|一ノ瀬弓子《いちのせゆみこ》クリスティーナはパンツをはいてない。
光の加減で角度によってははいてないように見えるけれど本当ははいてるんですよ? だからクレームをつけるのはやめてください、などという詭弁《きべん》を弄《ろう》するまでもなく、正真正銘、はいてない。
だからといってパンツはかない同盟とかに加入しているわけではないし、パンツはかない健康法とかにハマってもいない。いつも身につけていないのではなく今日このときたまたまはいていないだけであって、確率で言えば三万六千分の一くらいのめずらしいできごとなのである。
本当だ。
嘘じゃない。
いや、赤ん坊のときはパンツではなくオムツだった可能性はあるけれど、それでもスカートの下になにもはかず街中をうろついていたなどということはなかったはずであり、弓子のパンツ着用率(推定)は九十九・九九七パーセントを超えている。いままで生きてきた十年《ヽヽ》あまりの歳月と、ケリュケイオンの魔杖《まじょう》にかけて誓う。
まあ、とにかく。
弓子はパンツをはいてなかった。
足を踏みだすたびスカートが腰を直接|撫《な》であげる。ふわっと持ちあがった布地は、踵《かかと》が地面につくのと同時におしりにくっつき、次の一歩とともにまた持ちあがるのだ。緊張のせいでお腹の表面に発生した汗の粒は、パンツに遮られることなく腰を通過し太腿の内側をつつつとすべり落ちて、ソックスでやっと止まるありさまだ。
弓子はいらだたしげに息を吐きだした。
小学五年生になるというのに、男子というセイブツはなぜあそこまでガキなのだろう。男女の成長差は弓子が考えているよりずっと大きいのだろうか。それとも。脳の成長が幼稚園の段階で止まってしまったのか?
特にあのセクハラド変態! 女子のスカートをめくるなんて最最最最最低だ。
これだから小学校なんかに行くのは嫌だったのだ。いままで通り家庭教師に教わっていればなにも間題は起きなかったのに。たった三カ月だったけれど、行く必要のない場所だということがきょうの一件でよくわかった。
同級生に知性はなく、役立たずの教師どもは表面上の言葉で叱ったふりをして根本的な解決策をとろうとしない。男子は気になる女子にちょっかいを出してしまうのだとかなんとか言って人を丸めこもうとして。小学五年生にもなってみずからを律することができないセイブツのレベルになぜ弓子が降りていってやらねばならないのか。バカバカしいにもほどがある。
もちろん、自分にも非があることは弓子もわかっている。
スカートをめくられたからといって、パンツを脱いで投げつけたのは大人げなかった。いまは反省している。
『そんなに見たければ一生顔にはりつけていればよろしくてよ!』
言葉とともに宙を駆け抜けたパンツは、男子の額にクリーンヒット。短い髪の毛をかき乱し、右肩にちょこんと着地した。かわいい縞々《しましま》がプリントされたお気にいりのパンツだったけれどしかたない。正義を為すにはコストがかかる。
でも。
パンツをぶつけられて泣き出すとはどういう了見なのだ。卑怯者《ひきょうもの》め。男のくせに人前で簡単に涙など見せるな。だったら最初からスカートなどめくらなければいいだろうに。
味方をしてくれていた女子も、男子が泣きだすと敵にまわってしまった。弓子をとりかこんでぎゃあぎゃあとわめき声をあげた。セクハラ男をやってしまえと声高に叫んでいた者ほど変わり身が早かった。まるで、スカートをめくった男子ではなく弓子が悪者であるかのように……。
そのまま学校を早退《はやび》けし、弓子は帰宅した。部屋にあるケリュケイオンの杖を手に家を飛びだした。学校でなにかあったのかと、家にいるあいだじゅう母親がつきまとって聞いてきたせいで、残念ながら新しいパンツをはく余裕はなかった。
電車を乗り継ぎ、弓子はいま、銀座の街中にいる。
一ノ瀬弓子クリスティーナは人の視線を集めるタイプの少女だ。オーストリア人だった曾祖父から隔世遺伝した銀色の髪と紫の瞳が、人々の興味をスナップショットで引きつけるのである。すれ違う瞳に浮かんで消える奇異の光はもはや慣れっこだった。こんなのどうってことはない。
だけれど、たった一枚の薄い布きれをつけずに街角を歩いているだけで、全世界の通行人に視線で体を射抜かれているような気がした。
パンツというものは意外に奥が深い。
心持ち慎重に足を振りあげ、弓子は、いくばくかの怒りとともに地面を踏みつけた。そして、紫水晶《アメジスト》の視線で周囲を探る。
銀座三丁目にそびえるビルの群れが、身長百四十五センチの弓子を黙って見下ろしていた。どこまでも高い空のずうっと下のほうにある太陽は弱々しげな光を放ち、ビルの窓で反射した陽光が弓子の銀髪をはちみつ色に染めている。スカートの裾をすり抜けた冷たい風が、枯れた葉っぱをくるくると宙に舞いあげている。
街頭にはきれいにデコレーションされたモミの木が立ち並んでいるけれど、師走の街の住人は立ち止まって見たりしないようだった。身長と不釣り合いに長い杖を大事そうに抱えた少女のことも、通行人は一瞬だけ見やり、そうして次々と背景にとけこんでいく。
弓子はいま、ある場所に向かっている。
その名称を姉原《あねはら》十字《じゅうじ》魔法学院という。
いまから百年以上もむかし、陰陽師《おんみょうじ》の家系であった姉原氏が創設した西洋魔術の研究所である。血筋・家系に偏らず広く才能を集めるための学院だったそうだ。輩出された魔法使いは大日本帝国の発展・近代化に役立つところが大で、日露戦争では特に獅子奮迅《ししふんじん》の働きを見せた。
……と、曾祖父カルル・クリストバルドの手記に書いてあった。
百年も前のしかも魔法学院なんてものが現代の世の中に残っているかどうかは怪しいものだと思う。弓子も再来年は中学生だ。おとぎ話の世界以外に魔法などというものが存在していないという常識は身につけている。
しかし、ケリュケイオンの杖とともに見つけた曾祖父の手記は、昨日買ってきたもののように真新しかった。
倉庫のいちばん奥で遭遇した銀色の杖。銀細工の蛇が二匹先端に絡みつき、ぶ厚く積もった埃《ほこり》の下でぼうっと光を放っていた。お話の中に出てくる魔法使いが持っていそうな杖だった。学校で起きたことがくやしくて、ひとりで隠れて泣いていた夜のことだ。弓子は、曾祖父が遺《のこ》した宝物を見つけたのだった。
手記にはいろいろなことが書いてあった、曾祖父がカタリ十字狩猟騎士団という秘密結社の一員であったこと。悪の魔女を倒すため禁忌に手を出しローマ法王に教会を追放されたこと。魔女を追いオーストリアから日本へやってきたこと。弓子の曾祖母にあたる|一ノ瀬小夜子《いちのせさよこ》に逢い、恋に落ちたこと。
銀の髪には魔を探知する力がある。曾祖父はそう記していた。
紫の瞳には魔を見抜く力がある。手記にはそう書いてあった。
|魔を見る者でなければこの手記を読むことはできない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。魔法の力は世界のため使わねばならない。それは、クリストバルドの血を継ぐ者の宿命なのであると。
クオーターの父の瞳は黒で、ハーフの母は緑だ。目立つだけで、日常生活を送るにはあまり益のない銀髪と紫の瞳は、祖父と父の代を跳び越して弓子に遺伝した。両親はクリストバルドの手記を読むことができなかった。「いい日記帳を見つけたわね」と、母はほほえんで弓子の頭をなでた。
弓子は小学五年生になる。
空想の世界で遊ぶには歳をとりすぎている。
だけれど、魔法と呼ばれる不思議な力はどうやら本当に存在するらしい。
手記には魔法の使いかたが書いてなかった。曾祖父が言う「コードを組む」ということが、なにをどうする行為なのかがさっぱりわからない。失われた力を現代によみがえらせる魔法の学院が必要だった。弓子が通うべき学校は小学校などではないのだった。
銀座の街をさまよった末、弓子は目指す魔法学院にたどりついた。
二階建ての洋館だった。震災と空襲をくぐり抜け明治時代からずっと建っているらしき館は、午後の光に不気味な姿を浮かびあがらせていた。死にかけた老婆の指先のごとき蔦《つた》が壁面で複雑に絡みあい、閉めきった窓には灯りも見えない。壁の煉瓦《れんが》は乾いた血の色だ。近代的なビルの谷間に、その館は異空間としか言いようがないものをつくりだしている。
学校というより廃虚という表現のほうがしっくりくる建物だった。館の前にそびえる鉄柵の門が、ぎいぎいと音をたてビル風に揺れている。頭上にはカラスの群れが舞い飛び、不景気な合唱で弓子を歓迎していた。
正直、半径百メートル以内に近寄りたくない雰囲気だった。
幽霊やオバケなどという子供じみたものを弓子は信じない。けれど、いかにもなにか出てきそうな廃虚にパンツなしで踏み込むのは気が引ける。いつまでも突っ立っていてもしかたがないのはわかっているが、先に進むのも嫌だ。
スカートが風に揺れた。
おおきく息を吸う。
廃虚なら廃虚で、魔法の教科書を入手する方法を考えなければならない。
弓子は、意を決して鉄柵に歩み寄る。
白人の男が現れたのはそのときだった。
「ジョワイユ・ノエル。マドムアゼル」
男は言った。
生気の感じられない男だった。皺《しわ》のない肌は青年のようであり、あるいは蝋《ろう》人形のようにも見えた。青い色をした瞳はガラス玉のようでもあり歳老いた老人のようでもあった。古風な三つ揃《そろ》いのスーツを隙《すき》なく着こなした男は、子供好きしそうなおだやかな笑みを蝋細工の顔に浮かべていた。
弓子の足がじりと後退する。
ものすごい圧迫感だった。うまく説明できないけれど、草食獣が肉食獣を前にしたときの気分といったらいいだろうか。男は微笑んでいるだけだというのに、弓子は一歩も動くことができない。
「……この国では挨拶を教えないのかね?」
男がまた口を開いた。今度は日本語だ。
「こ、こんにちは……ですわ」
「よいコードを持っているな。さすがクリストバルドの血を引くだけのことはある」
「……コード?」
「そう、コードだ」
「曾祖父を知ってらっしゃいますの?」
「昔からの友人だ」
くすくすと笑った。
「なにがおかしいんですの」
「曾祖父とはな。わたしもずいぶんと歳をとった」
「冗談もほどほどでなければ笑えませんことよ」
「冗談というわけでもないのだが、まあいい。説明している時間が惜しいのでな。手短に言う。その杖を渡してもらおう」
「これはわたくしのものです」
「ケリュケイオンごときに用はない。わたしは、クリストバルドが杖に封印した魔女のライブラリに用がある」
「なんと言われようと渡すわけにはまいりません」
銀の杖を弓子は後ろ手に握りしめる。
冬だというのにふたたびお腹に汗の粒が浮かびあがり、太腿に沿って転がり落ちていった。
「敵の力を知るのも能力のうちだぞ。マドムアゼル」
おだやかな笑みのまま、男は弓子に迫った。
そういえば――
弓子は気づいた。
きょうは聖なる夜。クリスマス・イヴ。
呪《のろ》われた宿命を受け継いだひとりぼっちの魔法使いが罰を受ける、一年でもっとも適した日かもしれなかった。
1
the present #1
吾輩は幽霊である。ついでにネコだ。
ネコが基本でついでに幽霊だったかもしれない。どうでもいいことだ。いまとなってはどちらでも大勢に影響はない。
一説によるとネコは百万回生きるというけれど、吾輩は死んでいる。幽霊だから。もしかしたらこのあいだ死んだのがちょうど百万回めだったのか?
ハッピーアニバーサリー、吾輩。
死んだ回数など数えていないのではあるが……。
吾輩に名前はない。
むかしはあったのかもしれない。死んだのは何年も前のことだから忘れてしまった。
もともと吾輩の種族は名前に頓着しないので、生きていたとしてもおぼえていたかどうか怪しくはある。呼び名などそんなものだ。どうせついていたとしても、クロとかコゲとかそんなかんじのオリジナリティーのかけらもない名だったに違いないのである。
まったくニンゲンというやつは気軽にネコを色で呼ぶ。しかしながら、黒色のネコは吾輩の他にもたくさんいるわけで、十把《じゅっぱ》ひとからげの名に頼っていてはいずれレゾンデートルを脅かされることになりかねない。ニンゲンは気にしないかもしれないが、ネコにとっては由々しき事態だ。
二十グラムの灰色の脳細胞を高速回転させ、だから吾輩は考えた。
吾輩は吾輩であり、ここで思考している唯一無二の存在であると、呼び方は外側の世界の問題で、どう呼ばれようと吾輩の自我には関係ないのだ。よって吾輩に名がなくてもなんの支障もない。こうして歩けるし日なたぼっこできるしエサも食べられる。Q・E・D。にゃにゃにゃ。いや幽霊だからエサは必要ないか。
ご覧のとおり、吾輩、少々リクツっぽい。ネコはリクツっぽいものだ。知らなかったのならおぼえておくがいい。
ニンゲンが銀座と呼ぶ街の一角に建つ洋館を吾輩はテリトリーにしている。吾が母猫のそのまた母猫のそのまた母猫の、とにかく気の遠くなるほど代々家系をさかのぼった頃からずっと建っている館である。ニンゲンどもは、ホーンテッドハウスとか銀座番外地とか呼んでいるらしい。幽霊である吾輩の領地なのだから、ホーンテッドなのはまちがいない。
びっしりと蔦が絡みつく壁面は煉瓦造りで、爪を立ててよじ登るのにとても都合がよい。緩やかな傾斜を帯びた屋根や門柱のてっぺんの平たい場所などは昼寝にぴったりだ。年月を経て多少の凹凸ができた石は冷たすぎず熱すぎず、吾輩を心地好い眠りに誘う。古いだけあって吾が主食であるところのネズミも豊富で、ガアガアとうるさいカラスさえいなければ天国と言ってもいいくらいである。繰り返すが幽霊なので食べないけれど。
館には二匹のニンゲンが住んでいる。
一匹はメスだ。このメスは、ネコと同じく一日の大半を寝てすごす。真夜中になって起き出すかと思えば、一日中ベッドから出てこないときもある。食料をだいなしにするのが得意で、換気扇が回りだしたときキッチンに立っているのがメスだったら要注意だ。鼻がもげぬうちに逃げださねばならない。ネコの聴覚には拷問に等しい騒音を出すこともある。はた迷惑なメスである。
ネコの目は色を感じとる能力が低いのであるが、このメスにはもとから色がついていないらしい。吾輩がかろうじて感じとれる青も緑もこのメスには存在していない。
門柱の上で吾輩が昼寝をしていたりすると、このメスは、わざわざ手を伸ばしてのどをくすぐってきたりするからあなどれない。幽霊にさわるとは非常識なニンゲンだ、うにゃん。
もう一匹はオスである。
このオスは規則正しい生活を送っている。毎朝同じ時間に起き、同じ服を着て出かけていく。午後遅くなると帰ってきて、水色のエプロンをつけて庭の手入れをする。朝と夕の二回、皿にミルクを入れて門のそばに置いておくことも忘れない。ニンゲンながらなんとも気の利くやつ奴である。
吾輩のテリトリー内で毎日エサを用意しておくということは、つまり、こいつは吾輩の子分なのだと思われる。いつケンカして勝ったのかはっきりおぼえていないが、最強のセイブツであるニンゲンを子分にするとは吾輩もたいしたものだ。幽霊となった猫徳《びょうとく》かもしれない。
このオスはニンゲンの平均から見てもずいぶんと体が大きく、力も強そうである。ところが、この館で優位に立っているのはメスのほうであるらしい。吾が子分ながら情けない。
きょうも屋根の上で寝転んでいると、館の中からオスが出てきてミルクの用意をはじめた。
吾輩は、屋根から廂《ひさし》に跳び降り、空中で一回転して門柱の上に降り立った。
なー。
ねぎらいの声をかけてやった。
吾肇のほうを見ようともせず、オスはネコ用ミルクを皿に注いでいる。
視線を合わさぬのはビビっている証拠である。いくら図体がでかいとはいえ、門柱の上という地の利を得た吾輩に勝てるはずもないしな。まったく肝っ玉のちいさいニンゲンだ。うむうむよしよし。
オスがうやうやしくどくのを待って、吾輩はミルクを舐《な》めはじめる。
てちてち。
しつこいようだが吾輩は幽霊なのでエサはいらない。ただ、なんというか、生前の行動をなぞっていると心が休まるのだ。吾輩の舌が液面にさし込まれても、白いミルクはさざ波も立てない。
幽霊に食欲はない。本能に従って狩りをしようとしてもスズメにもネズミにもさわれないし、吾輩のテリトリーであることを示すマーキングを電柱にこすりつけることもできない。せっかくオスが用意してくれた吾輩のミルクだって、パトロールに出かけているうちに他のネコが舐めてしまうのだ。それが幽霊というものだった。
吾輩は過去になにか失敗をやらかしたような気がしている。それが原因で命を落とした。大文豪が小説に書いたネコのように、酔っぱらったあげく水甕《みずがめ》に落ちて溺死したとかそういうことではなかったはずだ……と思いたい。
死んだというくらいだから死んだときは死ぬほど苦しかったのだと想像するが、幸いなことにそのへんの記憶もない。よかったよかった。死ぬほど苦しいことを思いだしたらまた死んでしまうではないか。幽霊になっただけでも苦労しているというのに、幽霊の幽霊になってしまったら大変だ。
生きとし生けるものの背後には、死をつかさどる魔物が立っている。ニンゲンにはニンゲンの、ネコにはネコの魔物だ。機械巻きの時計がコツコツと音をたてて、この世に生まれ出たときから、命を刈りとる瞬間にむけて秒読みをつづけているのだ。耳を澄ませば、誰だって、死を刻む秒針の音を聞くことができる。見て見ぬふり、聞こえぬふりをしているのはニンゲンだけだ。野生のケモノはみな魔物の存在を知っている。
だから、ネコにとって死は運命だ。あらがいようもなく、生の終焉《しゅうえん》はいつか必ずやってくる。もとより生は奪うか奪われるかなのだ。肉食のケモノであるネコはそのことをよく知っている。生きものの死骸をむさぼり、他者の命を啜《すす》って吾等が眷属《けんぞく》は生き延びてきた。
ネコは三代|祟《たた》るなどとよく言うが、それは嘘だ。ネコの尻尾の動きがヘビに似ているからとか、暗闇で瞳が光るからとか、獲物を狩る姿がおそろしく見えるとか、そうしたニンゲンの勝手な思い込みにすぎない。
死が訪れたとして、とりたてて悲しむ必要はない。あわてることもない。おだやかな心で受け入れればいい。運命を受け入れたネコはたとえ死んだとて幽霊になることなどない。
吾輩は失敗を犯したのだ。たぶんその失敗が、吾輩を幽霊ネコとしてここに存在させている理由だ。
どんな失敗かは忘れてしまったのでわからない。
皿につがれたミルクを減らすこともなく、きょうもまた吾輩は銀座の街をさすらっている。
*
「こんにちはあ」
暖かさと涼しさが半々ぐらいで混じった春の終わりの風が吹いていた。
学校の帰り道、クラスメイトの坂崎嘉穂《いたざきかほ》とふたりで姉原《あめはら》家にやってきた森下《もりした》こよみは、おどろおどろしい姿をさらす洋館を上機嫌な顔で見上げた。
「こんにちは。カラスさん。ネコさん」
鉄の門へ舞い降りてきたカラスと、足元でミルクを舐めている黒ネコにこよみはにっこりとほほえみかける。ネコはうさんくさげな視線でこよみを一瞥《いちべつ》し、カラスはガアと応えた。
いつものようにエプロン姿で水まきをしていた姉原聡史郎《あねはらそういちろう》は、穴の空いていない砂時計を見る目つきでこよみたちを見つめた。
「ち」
失礼なことに舌打ちなんかしたりしている。
百八十センチ代後半の高い背をそびやかせ、聡史郎は来訪者を睨《ね》めつけた。
「……サバトはきのうだったんじゃねえのかよ」
「きのうは材料が足りないからって、延期になったの」
「だからあのバカ女も来てやがるんだな。だったらもっと遅く帰ってくるんだった」
吐き捨てるように言う。
「いけないんだ。そんなふうに人の悪口言ったら。バカって言ったほうがバカなんだよ」
「小学生みたいな言いかたすんな。いくらちんちくりんだからといって、頭の中まで退化してどうする」
「関係ないもん。小学生だって正しいことは正しいもん」
「わかった。おまえはりこうだ」
「なんかそれも頭にくるんだけど……」
「やかましい。とっとと家に入れ」
「さばとって、魔女の集会って意味なんだよね?」
「そうだよ。悪いかよ」
「えへへ。さばとさばと」
「サバトなんてうれしそうに言うな!」
「ええ! だって魔女の集会なんだよ。あたし、魔法使いになりたくてここに来てるんだもん。いいじゃない、魔女」
森下こよみは魔法を習っていた。
魔法といっても、呪文《じゅもん》を唱えて杖を振ると人間がカエルになったりとか、ホウキにまたがって空を飛ぶとかそういう古典的な魔法ではない。二千年くらい修行を頑張ればもしかしたらそういう魔法も使えるようになるんじゃないかと思うけれど、とりあえずいまは関係ない。
こよみが教えてもらっているのは、コードと呼ばれるプログラムをコンピューターで実行して魔法を発動させる現代魔法である。コードという観点から見れば、コンピューターの基板も人間の肉体も同じものなのだそうだ。習いはじめたばかりのこよみはまだそのあたりのリクツがよくわからないけれど、古典魔法という呼び名より現代魔法という呼び名はなんだかカッコいいので気にいってたりする。
師匠の姉原美鎖《あねはらみさ》は、国立大学で関数型言語を研究している大学院生だ。美人で聡明でやさしくてちょっぴり厳しいところもあったりして、ときどきヘンなものが入った料理をつくるけれどそれ以外に欠点というものが見当たらない女性である……すくなくとも、表向きは。
凄腕のプログラマーである美鎖は、ある製品の売り上げを伸ばしたり、あるいは反対に他社製品の売り上げを邪魔したり、呪いをかけたりと、そういう後ろ暗いプログラムを書いて大企業に売りつけている。彼女が組んだプログラムがなぜか効果を発揮することは業界に知れ渡っていて、だから美鎖のもとにはいつも仕事が来る。その代わり、まともな人間なら絶対に払いたくなくなるようなとんでもない報酬を要求するそうだ。
聡史郎は、美鎖の弟で、こよみのひとつ年上の男の子である。
すこしばかり背が高くて顔が整っていて頭の回転が早くておまけに運動神経が優れているからといっていい気になっている嫌味な奴だ。っていうか、こういう人のことをなんと言うのだっけ? かんぺきちょうじん?
こよみは背が低くて鼻も低くて胸の高さは初心者向けのスロープ並で、高校二年生だというのに私服だと小学生にまちがわれたりする。運動神経を母親の体に忘れてきてしまったのか、なにもないところで突然転ぶし、成績だってそれほどよくはない。バストが永遠の発展途上なのはとなりにいる嘉穂も同じだけれど、こよみと違って彼女は頭の中身で勝負することが可能だ。
自分を変えるためのきっかけとして、かつてこよみは魔法を選び取った。
魔法はけして万能ではなくって、どちらかというと使い勝手の悪い道具である。人類の歴史において完全に廃《すた》れてしまったことからもそれはあきらかだ。科学の力を使えば魔法と同等以上のことを人間は実現することができる。
こよみが魔法を習うのは、偶然出会った魔法という不思議を自分の手で運命にするためである。そういう風に美鎖に言われた。
それなのに、聡史郎は魔法を信じていない。彼を魔法でぎゃふんといわせてやるのが、目下こよみの目標なのであった。
「ふん、だ」
聡史郎に向かって、思いきりあっかんベーをしてやった。
こよみの精一杯の攻撃を助太刀するつもりなのか、皿からミルクを舐めていた黒ネコが足元に近寄ってきた。仔猫ではないけれど大人にはなりきっていないちいさなネコである。
なー、とひと声甘えた声を出して、こよみのローファーをくんくんと嗅ぎだす。
「ネコ飼いはじめたんだね。かわいいね」
「ネコなんて飼ってねえよ」
「この子、ノラなの?」
「この子ってなんだ」
「この子はこの子だよ」
こよみは足元のネコを指さした。テリトリーに侵入してきた見慣れない物体のにおいを嗅ぎ飽きたのか、今度は嘉穂の靴にまとわりついている。
「……なるほど」
いままで黙っていた嘉穂がぼそりとつぶやいた。
「なるほどってなに? 嘉穂ちゃん」
「学校で以前似たようなことが。ネコはあたしにも見えず」
「ええ! うそうそ。だってくんくん嗅いでるんだよ。ほら。嘉穂ちゃんのあし!」
ひとえまぶたに隠された瞳をわずかに動かして嘉穂は足元を見やる。
「へんじがない。ただのしかばねのようだ」
「なになに? どういうこと?」
「わからないならわからないでいい」
「嘉穂ちゃあん」
そのとき、館の中からものすごい音がした。
ノコギリで金属を無理矢理切っているような音だ。騒音にびっくりしたのか、黒ネコは鉄柵をすり抜け銀座の街へ駆けていってしまった。
「あ、逃げちゃった」
ホラーな音が聞こえてくる館をしかめっつらで見やり、聡史郎はばりばりと髪をかきむしる。
「また姉さんがなんかやってやがるな。ただでさえ悪い尊が絶えねえってのに、この上評判を落としてどうすんだか」
こよみと嘉穂は顔を見合わぜた。
「ところで、おまえたちっていつもそんな会話してんのか?」
「……わりと」
「ったくこの家ときたら、どいつもこいつもいかれてやがる」
疲れ果てた表情で、聡史郎は、ひと足先に夏の雲が浮かびあがった五月の空を仰いだ。
聡史郎のあとについてこよみと嘉穂は館の中に入った。口の中でぶつぶつと文句をくり返しながら、ガリガリと騒々しい音を発する部屋の扉を彼は押し開ける。
そして、その瞬間、目が点になった。
美鎖が。ノコギリで金属のたらいを切っていた。
「な、な、な……」
「あら、聡史郎。こよみと嘉穂もいらっしゃい」
「なにしてやがる!」
「いいとこに来たわ。ちょっとそこのビンとってくれる?」
美鎖は、黒いジーンズに生成《きな》りのシャツというラフな格好をしていた。白黒の液晶モニターからとびだしてきたみたいに色というものを感じさせない顔に、鎖つきのメガネをかけている。わりと大きめの胸の中央には、どこかの基板から引っこ抜いたCPUを思わせる首飾りがぶらさがっていた。
部屋にはもうひとりの女性がいた。銀髪と紫の瞳を持つ少女、一ノ瀬弓子クリスティーナだ。たらいを切断している美鎖に協力するわけでもなく、弓子は、困ったような怒ったような表情ですこし離れた椅子に腰かけていた。
「ほら。はやく、はやく!」
「だからなにやってんだよ……ってこれ塩酸じゃねえか。んなもんどこで手に入れやがった」
問いには答えず、美鎖はワイングラスに塩酸を注ぎこむ。つづいて、ノコギリで削りだしたたらいの金属粉を入れ、もう一種類、透明な液体をグラスに加える。
どうやら、たらいを切るのが目的ではなく。たらいの金属片が必要だったようだ。
つん、と、鼻を刺す嫌な臭いが室内に充満する。
しゅわしゅわと泡が立ち、グラスの中の液体が藻の生えた水槽の色に変化した。
「溶けるわね。やっぱり」
美鎖はグラスを電灯の光にかざした。赤銅《しゃくどう》色の金属粉はあとかたもなくなっている。
「……そのワイングラスはどこから持ってきたんだ?」
「キッチンの食器棚」
「っておい!」
「洗えばだいじょうぶよお」
短く切った針金をとりだし、美鎖はグラスの中の液体にひたした。針金の先端に黒っぽいもじゃもじゃの塊がついていた。彼女の横には、鍋洗いに使うスチールウールが転がっている。
「バーナーをとって」
「ほらよ」
キャンプ用の携帯バーナーで、美鎖は、液にひたした針金を炙《あぶ》る。
青いバーナーの炎の中に、一部分、緑色の炎が浮かんで、消えた。
「あら、きれいな緑……なんだっけ?」
「炎色反応が青緑に見えるのはCu」
嘉穂がぼそっと言った。
「てことは、この金だらいはマトモな銅製品なのね」
美鎖はすこしだけ残念そうだった。聡史郎は腕を組んで仁王立ちしている。弓子は頼杖をついて座っている。嘉穂に半分隠れるようにして、こよみはちょこっと顔をのぞかせた。
「あの……そのたらい、きのうあたしが召喚したものですよね?」
「そうよお」
「召喚とかいかれたことを言うな」
「でもでも、召喚魔法は召喚魔法だよ」
森下こよみが唯一使える魔法は金だらい召喚のコードである。子供が行水できそうな大きさのたらいをひとつ、なにもない空中から突然降らすことができるのだ。いまのところ、銅のたらいと鉄のたらいと水の入ったたらいの三種類のバリエーションがある。
最近の目標はとりあえず鋼のたらいを呼び出すことだ。なんで鋼なのかこよみは知らないけれど、美穏いわく銅、鉄ときたら次は鋼と決まっているのだそうだ。魔法の世界は奥が深い。
「まるっきり銅とはねえ。もうちょっと魔法っぽいものかと期待してたんだけど……」
美鎖は言った。召喚したたらいの素材を調べていたらしい。
「ごめんなさい」
「いいのよお、あやまらなくても。ダメもとでやってみただけだから」
「ダメもとでノコギリを破壊するな」
端正な眉をひそめ、聡史郎はノコギリを拾いあげる。
金属にこすりつけられた刃ががびがびになっているのが見えた。ノコギリは木を切るもので、金属を切るものではない。ノコギリで削りとられた金だらいは、きらきらとオレンジ色の光を反射させている。
「悪かったわね。包丁じゃ削れそうもなかったのよ」
「あたりまえだ! なお悪い。この有様を見てみろ。大惨事じゃねえか」
視界に映るものは、金属のたらいと、怪しげな液体の入ったビン。ノコギリ、バーナー、泡をふいているワイングラスだ。いま名探偵に踏みこまれて猟奇殺人の現場だろうと問いつめられたら、反論するのはちょっと難しい光景である。
床に置かれたワイングラスの中で、緑色の液体がぽこぽこと小さな泡を出しつづけている。
本来の用途とは違う使われかたをしたノコギリは、無惨に刃が折れ曲がっていた。
こよみは、顔を動かさず目だけを動かして聡史郎の顔をのぞいてみる。西洋の絵画によく描いてある苦悩する僧侶みたいな表情だった。
「おれはこれから買い物に行く。帰ってくるまでに部屋をかたづけるんだぞ」
「はいはい」
「それから台所に|ふ《ヽ》を返しておくように。勝手に持ってくな」
「だって、食べるものなかったんだもん」
「姉さんは池のコイか。ふは味噌汁に入れるもんだ」
「そのまま食べてもおいしいのよ」
「やかましい! 食べものは決められた食べかたをするもんなんだ。わかったか。廃液をトイレやシンクに捨てるなよ。庭に穴を掘ってこっそり埋めるのもだめだ。業者を呼ぶか、大学に持ってってちゃんと処理するんだぞ」
「わかってるわよお」
「わかるってのは実行がともなうときに使う言葉で――」
ぽひゅ。
小さなちいさな音がした。たらいが置いてあった場所だ。床から紫色の煙がたちのぼっている。赤銅色の物体はない。見るなといってもそこに置いてありさえすればかならず視界に入るほどでかい金だらいが消え失せている。床に穴があいて落ちたのでも、溶けて水になったのでも、足が生えて駆けだしたのでもなく。突然たらいは消えてしまった。
「……あらら」
美鎖は、苦笑いを浮かべて聡史郎を見やった。
「オール・アット・ワンス・ノー・タブってとこかしらね」
「おれはなにも見なかった」
「あなたって往生際の悪い子よね」
「いいんだよ。このクソいかれた家の中よりおれは常識を信じるんだ」
「あ、そ」
「出かける。廃液のかたづけ、忘れるなよ」
魔窟《まくつ》に巣喰う四人の魔女を背に、聡史郎は人間と常識が支配する街へと出ていった。
2
the present #2
ダンスパーティーが開けそうな空間に太い導線《コード》が何本ものたくっていた。光のついていないモニターテレビが壁際に複数設置してあり、オフィスにあるような椅子が乱雑に置いてある。モニター台下の暗がりではオレンジ色のLEDがゆっくりと点滅し、低い機械音が部屋いっぱいに満ちていた。
かつては魔法学校だったという姉原家も、いまではコンピューター専門学校の一室みたいになっていた。吸血鬼でも住んでいそうな外観をした洋館の中身がハイテク機器で埋まっていると知ったら近隣住民は驚くかもしれないけれど、ここには、ゆらめく炎を灯したロウソクもきらめく水晶玉もない。部屋を照らしているのは蛍光灯の白い光である。
でも、魔法などというものはそういうものなのかもしれないと、最近、森下こよみは思うようになった。
床に這《は》ってる青や縁の導線を、館というイキモノの皮膚の内側を走る静脈だと考えればいい。金属の導線を流れるのは、なまぬるい血液ではなく目に見えない電子の情報だ。プログラムに従って電子が脈を打ち、コードを形づくり、魔法となって現れるのである。
きょうの美鎖の部屋は、いつにも増して乱雑度が増しているようだった。
たらいの材質を調べるために用意したノコギリとバーナー。これだけでも十分怪しいのだが。古時計やら、宅配ピザのダンボールやら、ゲームセンターの筐体《きょうたい》から引っこ抜いてきたっぽいジョイスティックのボックスやら、アニメ顔をした等身大の人形やら、ひと抱えじゃすまなそうな木の切り株やら、洋式の便器やら、部屋に置いてあってもなんの役にも立たないどころかなにに使うのかわからないものがところ狭しと並んでいる。
そんな混乱の中にあって、一ノ瀬弓子クリスティーナだけは超然としていた。
スイスの時計職人が一本一本ていねいにつくったような銀髪を持つ少女は、曾祖父から譲り受けた杖を手に静かに座っている。彼女の歳はこよみと同じだ。魔法使いの女の子が出てくる少女マンガだとたぶんこよみのライバル的存在になるのだろうけれど、残念なことに弓子のライバルは師匠の美鎖であるらしい。こよみと弓子の実力にはそれくらい差があった。
「ごちゃごちゃしてるけど、そのへんに適当に座っていいわよ」
使ったばかりのバーナーやノコギリを、部屋の隅の見えないところに隠蔽《いんぺい》しつつ美鎖は言った。
椅子の上はピザのダンボールで占拠されているので、こよみは、しかたなく切り株に腰かけることにする。
「あ、切り株はだめ。中に基板が入ってるから」
「この中に、ですか?」
「そうよお。切り株だけじゃないわ。そこらへんに置いてあるのにはみんな入ってんのよ」
「みんな……」
こよみはもう一度周囲を見回した。
切り株。
等身大の人形。
古時計。
宅配ピザのダンボール。
ゲームセンターのジョイスティック。
…便器?
わけがわからなくなった。
美鎖が言う基板とはコンピューターの基板のことである。木の幹をくりぬけば中にPCのマザーボードを入れることはできるだろう。ロボットなんかを造るため、人型の模型にメカニクスを内蔵することもあるかもしれない。古時計にコンピューターを入れるのは聞いたことがないけれど、アンティーク趣味の一種として考えれば許せないこともない。
だけれど、宅配ピザのダンボールや便器になんの意味があるのだろう。ピザをデリバリーしているときやトイレで用を足してるときにどうしてもコンピューターを使わなければならなくなった人のためのものなのか。そういうときは箱の中にも便器の中にもコンピューター以外のものが入ってしまっているのではないだろうか。それとも、映画に登場するやたらと彫りが深くて男臭いスパイが使う秘密兵器だったりするのだろうか。
嘉穂はピザのダンボールに興味を持ったようだ。なるほどとかつぶやきながら、ダンボールのふたをちょっとだけ開けて中をのぞきこんでいる。よく見てみれば、使い捨てダンボールの分際で側面に穴が空いていて、電源ケーブルを差しこむコンセントや熱を逃がすファンがとりつけてあるのだった。
「これ、みんなこんぴゅーたーなんですか」
「そうよお」
「なんでこんなものに入れるんです?」
「そこに箱があるからだ、とかそういうレベルらしいわよ。わたしは山男じゃないからよくわかんないけど」
「……気持ちはわからなくもない」
嘉穂が言った。
「でもでも、こんなにたくさん集めてどうするんですか?」
「理由があるのよ。そのピザケースに電源入れてくれる?」
ちいさくうなずき、嘉穂がピザケースのスイッチを押す。
側面にあるファンが回転をはじめ、横についているLEDが緑の光を発した。平べったいダンボールの中からハードディスクが動作するカリカリという音が聞こえてくる。
嘉穂はなんだかとても楽しそうだ。離れた場所で弓子は興味のなさそうな顔をしている。こよみは、人さし指の先で、ありえない音を出すピザケースをちょっとだけさわってみた。
やっぱりダンボールだった。
「あの、もにたーがついてませんけど……」
「自動で起ち上がるようになってるからだいじょうぶ。まあ、見てなさいな」
メガネの奥にある瞳を美鎖はいたずらっぽく細める。
生意気にもダンボール製のピザケースはカリカリという駆動音を発しつづけている。宅配ピザの箱でありながら、本当に中身はコンピューターのようだ。
一分くらい経ったろうか。
鮮烈な赤のマークが描かれたピザケースの上に、薄ぼんやりした人影が立ち上がった。
「わ、わ、わ。ゆゆゆ、ゆうれい!」
嘉穂の服の裾を握りしめ、こよみはちいさくちぢこまる。
人影は女性のようだ。向こう側がうっすらと透けて見える両腕に棒状の物体を握りしめている。一時停止したビデオみたいな躍動感あふれる姿勢だ。よくよく見れば棒はゴルフクラブである。半透明の彼女は。半透明の瞳で宙の一点を凝視し、スイングを終えた姿勢で固まっているのだった。
「あ、あたし幽霊とかおばけとかににに苦手なんですよう。昼間でもだめなんです。よよ夜はもっとだめですけど」
「言っとくけど、例によってあたしには見えてないし」
嘉穂だ。もとから細い目をさらに細めたりしている。
「そうなの?」
「森下にはなにが」
「女性ゴルファー。ええと、ないすおん! みたいなそんなかんじの。のの呪われたりしたらどうしよう」
こよみは友人の服をより強く握りしめる。
美鎖がくすりと笑った。
「幽霊って考えるからおかしくなるのよ。見えるようで見えなくて、コンピューターでも肉体でも実行できるもの、なんだ?」
「じゃあ、ひょっとして……この人影ってコードがつくってるんですか?」
「ご名答よ」
人さし指を顔の横でぴんと突き立て、美鎖は笑ってみせた。
コードとは世界を構築する法則のことだ。コードを感じるとは、普段、不安だったり視線だったり殺気だったりもともと感じている情報を統合してコードによるものだと認識できるようになることである。
ぶつ切りの音声だと聞きとれなくとも、切れた部分に雑音を挿入することで音芦を聞きとることができるようになる場合がある。雑音でかき消された部分を脳が無意識のうちに補うためだ。カクテルパーティー効果と呼ばれる現象も同じで、会場がざわついていても人間は特定の人物の声だけを聞きとることができる。
もともと人間の脳は、受けとった情報をそのまま解釈しているわけではなく、幾重ものフィルターを通して認識している。ときにはデータを捏造《ねつぞう》することすらある。この脳の活動を恣意《しい》的に行なうのがコードを「読む」ということだ。魔法の訓練を積めば、普通の人には感じとれないコードを感じとることができるようになる。
魔法を習っているこよみと違って嘉穂はプログラムを習っているだけだ。よってコードを見ることはできない。
一人前の魔法使いとはいえないけれど、こよみも一応コードは見える。人は苦手なものを見つけるのが得意だというし、幽霊やおばけが苦手なこよみは、ぼんやりしたなにかを見つけだしてしまう特殊能力を持っているのかもしれない。
……そんな能力はいらないけれど。
友人の服を握ってちぢこまっているこよみを、美鎖は楽しそうな表情で見ている。
「たとえば、画家が絵を描くとするでしょ。このときに腕を流れる電気信号がコードね。このコードは画家の腕というハードウェア専用だから、ピザケースみたいな他のハードにコピーしただけでは発動しない。単に無駄な情報が組み込まれたってだけだわ」
障害物の合間を縫ってピザケースまでやってきた美鎖は、透けている人影に手を差しこんでひらひら振った。
「でも、絵を描くコードを他のハード用に変換するコードがそこに加われば、ピザケースは絵を描くことをエミュレートしはじめる。これがいま見てる幽霊の正体。ピザケースが描いた絵はオリジナルから見たら劣化した複製だから、わたしたちは|幽霊のようなもの《ゴーストスクリプト》と呼んでるの。といっても、場合によっては見えるだけじゃなくてさわれたりもするんだけどね」
いつものことながら美鎖の説明は難しくてさっぱりわからない。
足のないものが苦手なこよみにとっては、そんなことより幽霊であるか幽霊でないかのほうが重要なのである。だから、こわごわ聞いてみる。
「……やっぱりゆうれいなんですか?」
「死んだ人間が残したコードとは限らないから幽霊って言い切っちゃうのは問題あるわよね。生物が死ぬときに強烈なコードをその場所に残すことがよくあるってだけで、ゴーストスクリプトといってもかならず人が死んでるわけじゃない。このピザケースの上に浮かんでるゴーストスクリプトも化けて出た人間じゃないと思うわよ」
「そうなんですか。ほっとしました」
「ケースをつくってた人が強く持っていたイメージかなんかが箱に組み込まれちゃったんじゃないのかな。普通だったらそれで終わりなんだけど、中のプログラムで増幅されて浮きあがったのね」
「よくあることなんですか」
「PCを自作するたびにゴーストスクリプトが発生してたら、いまごろ世界は幽霊屋敷みたいになっちゃってるわよ。滅多に起きないことだからわたしのところに依頼がきたの。まあ、これだけPCがあれば、中にはひとつくらい本当に呪われてるのもあるかもしれないけどね」
「もしかして、ここにあるヘンな容れ物って、全部ゴーストスクリプトが憑《つ》いてるんですか」
「そうなのよ。びっくりよね」
美鎖の話によると、普通の箱の代わりにヘンな箱にマザーボードを仕込んでコンピューターをつくる人はむかしからたくさんいたらしい。そこで、ヘンなものにPCを組み込むコンテストが行なわれたのだが、全国から作品を集めてみたら、ヘンなものの上にさらにヘンなものが浮かんでいたのだった。
ゴルファーの姿が嘉穂に見えないように、もちろんすべての人間にゴーストスクリプトが見えたわけではない。いわゆる霊感が強いと言われる人たちがなんとなく感じた程度である。だけれど、写真を撮ってみると心霊写真が写ってしまったりしている。こんな状態では発表会を開くこともできない。困った主催者が美鎖のところに打開策を探してくれるよう依頼にきたのだという。
「そういえばあたし、玄関のところで黒いネコを見ました。嘉穂ちゃんも聡史郎さんも見えなくて……あれってネコのゴーストスクリプトなんですよね? あ、でも、ネコに見えるからといってネコとは限らないのかな?」
「そのネコはネコそのものですわ」
いままでずっと黙っていた弓子が口を開いた。
「そうなの?」
「そうですわ」
「なんで弓子ちゃん、わかるの?」
こよみの質問には答えず、スカートをひるがえして弓子は立ちあがった。そのまま部屋の扉まで歩いていく。
「悪いですけれど、やはり今回の件にわたくしは協力できません」
「手伝ってくれると助かるんだけどなあ」
「ごめんこうむります。わたくし、ネコも犯罪も嫌いなんですの。それがたとえ過去に起こったことであっても」
「あ、ちょっと……弓子ちゃん!」
「貴女もかかわらないほうがいいと忠告しておきますわ、こよみ。それでは失礼いたします」
音を立てて扉が閉まった。
「あらら……ほんとに行っちゃったわねえ」
「なんか弓子ちゃん怒ってるみたいでしたけど」
「一ノ瀬が怒ってるのはいつものことだと思われ」
「……たしかに弓子ちゃんはいつも怒ってるけど、ってそうじゃなくって、いつも以上に怒っているというか怒りかたが増量中というか理不尽というか、理不尽に見えるのは毎度のことなんだけど本当はそうじゃないっていうか……うまく言えないけど」
銀髪の魔法使いが消えた扉をこよみはじいっと見つめてみる。
もちろん、なにも不思議なことは起きなかった。
*
六年前、姉原美鎖はひとつのプログラムを書いた。クリスマスショッパーと呼ばれるワーム型ウィルスだ。
普及したインターネット網《もう》に乗ってクリスマスショッパーは爆発的に拡散し、オフィス街が寝静まるクリスマスの深夜、勝手にマシンを起動して数十秒のあいだ音楽を演奏した。ウィルスに感染しデイジー・デイジーを奏でたコンピューターの総数は四百万台とも五百万台とも言われている。
ウィルスをばらまく行為はもちろん犯罪だ。当時の警察はやっきになって犯人探しをした。美鎖も重要参考人として取り調べられたが、証拠不十分で釈放されたそうである。
現代魔法使いの姉原美鎖がわざわざ書いたプログラムがデイジー・デイジーを鳴らすだけで済むはずはない。クリスマスショッパーは魔法発動コードだ。誰にも知られることなくクリマスショッパーは目的を遂行し、自身をデリートして消え去った。
ところがである。
最近立てつづけに起きたソロモンやガーページコレクト事件のコードがクリスマスショッパーの残した効果に干渉し、予期せぬ結果が表れてしまったらしい。それが今回大量に発生しているゴーストスクリプトなのだ。
ゴーストスクリプトを消すためには大本であるクリスマスショッパーの影響を抑えるしかないのだが、証拠を隠滅《いんめつ》するために美鎖はソースコードの一切を廃棄してしまっている。
まあ、犯罪を隠すためなのでしかたないのだが。
むかしのえらいひとはこれを因果応報と言ったらしい。
「困ったわねえ」
弓子が座っていた椅子にどすんと美鎖は腰をおろした。とても困っているようには見えない表情だった。
「……楽しそうですね」
「そんなことないわよお。正真正銘困ってるわ」
「弓子ちゃんがいないとなにか困ることでもあるんですか?」
「たらいを使ってディスペルできるかとも思ったんだけど無理そうだし。わたしがクリスマスショッパーを組むときに使ったパスワードが必要なんだけど、ところがわたしはなぜか忘れちやってるのよ」
「パスワードって忘れるものなんですか?」
「そうなのよ。普通だったら忘れないものなのよ。ガーベージコレクトのせいで多少記憶に抜けがあるのよね。あるいは、一応犯罪だから頭の中まで証拠隠滅したのかしらねえ」
さらりと怖いことを言う。
嘉穂が質問した。
「……解析とかは」
「もちろん解析できるわよ。でも、クリスマスショッパーをつくった当時、邪魔しようとした人間がいたから魔法発動コードそのものに二重の暗号化をかけてるのよね。当時のわたしが意地になってつくった暗号ルーチンで、ワームを使って世界中の遊んでるCPUをぶんどって計算したとしても解読に三カ月くらいかかっちゃう。自分が書いたパスワードを盗み見してくるほうが早いわ」
「見る?」
「そ。過去をのぞき見する魔法で見るの。モノや場所に積み重なったコードを逆計算して過去の映像を再構築する。言ってみればゴーストスクリプトの応用ね」
逆計算というのがこよみにはよくわからなかった。いや、他のこともほとんどわからないけれど。
「というわけで、頼んだわよ。こよみ」
「あ、あ、あ、あたし、ですか?」
「そうよお」
「美鎖さんは?」
「わたしがいなかったら魔法発動コードを使う人間がいないでしょ」
「じゃあじゃあ、嘉穂ちゃん!」
「……あたしはゴーストスクリプトが見えないし」
「強度にもよるから絶対嘉穂には見えないってわけでもないんだけど、無駄な危険は避けたいわよね」
自分は後方任務専門だとか、そんなかんじの表情で嘉穂は重々しくうなずいている。
「本当は弓子に頼もうと思ってたのよ。でも、もしかしたらトラウマになってるのかもしれないわねえ」
「なにかあったんですか?」
「あったと言えばあったわね。ネコって、まあ、あのネコのことなんでしょうね。当時はまだ子供だったし不可抗力なんだけど」
鎖のついたメガネをきらりと光らせ、美鎖は考えこむ顔をした。
「そんなに昔から弓子ちゃんと知り合いだったんですか」
「はじめて会ったのがそのときよ。六年前のクリスマス・イヴ。悪い奴っていうかまあそんなのがいて、ふたりで協力してなんとかやっつけたのよ。あのときはかわいかったわよねえ……」
「知らなかったです」
「さあ、ちゃっちゃとやっちゃいましょう」
勢いよく手を叩いて美鎖は立ちあがった。
「こよみ、ここに座って。これを頭からかぶる」
金色のごついメガネのようなものを美鎖は取り出した。
メガネといっても透き通ってはおらず、端から黒いコードが伸びて近くのデスクトップPCに繋がっている。内側をのぞきこんでみると、モニターの画面のような映像が映しだされていた。
「ゴーグル型モニターよ。これ自体は魔法でもなんでもないんだけど、視線が画面からはずれると困るからつけてもらうわ。モニター画面をじっと見つめてね」
ひんやりとしたゴーグルをこよみはつけてみる。
ゴーグルの中にある画面は真っ黒で、なんだかよくわからないアルファベットがたくさん書いてあった。たしか、こういうのをコマンドプロンプトというのだっけ。
「あの……行ったっきり帰れなくなるってことはないですか?」
「だいじようぶよ。ゴーストスクリプト・ビューの魔法は見るだけだもの。あなたの体にコードを流したらたらい召喚コードに変換されちゃうでしょ。だから見るだけ」
「でもでも、怖い映画とかマンガによくあるじゃないですか。こんぴゅーたー世界から意識が戻ってこれなくなっちゃったり。ねっとわーくと意識がくっついちゃったり」
くすくすと笑う美鎖の声が聞こえた。
「むかしはそんな風に考える人、いっぱいいたらしいわね。でも、人間の意識っていうのは脳内の電気信号のことよ。肉体の外に出ることはないわ。たとえネットをのぞいていたとしても、電源を引っこ抜けば戻ってこれるでしょ。いまどき、ハードディスクだって停電が起きても壊れないようにできてるのよ。そりゃあ、いきなり現実に引き戻されたら気持ち悪くなるかもしれないけど」
たしかに、目覚まし時計に叩き起こされた朝の気分はこれ以上ないくらい嫌なものだ。
「あんまり時間がかかるようだったらわたしがゴーグルをはずしてあげる。だから安心しなさい」
「……はあ」
かちゃかちゃとキーボードを打つ音が聞こえた。となりに立っていた嘉穂が移動する気配を感じた。美鎖の前にあるコンピューターの画面をのぞきに行ってしまったようだ。本当は手を握っていてほしかったのだけれど。
ゴーグル内部に映し出されている画面はとても大きく見えた。顔のすぐ前に五十インチくらいの巨大なテレビが置いてあるかんじというか、視線を逃がす場所がないのでちょっと怖かった。
「まばたきしちゃだめよ。大きく息を吸って――」
「こ、心の準備がまだなんですけど」
「やあねえ。準備なんかいらないわよ」
胸いっぱいに息を吸いこむ。
かちりとキーを叩く音がした。
「それじゃ、パスワード、頼むわね」
まったく緊迫感のない美鎖の声とともに、こよみの意識は急速に闇の中へと突入した。
3
six years ago #2
魔法とは、この世に異世界の法則を持ちこむ方法のことである。
この世ができあがったとき、物理法則も定まった。だが、それは唯一無二のものではなく、すぐそばには違う物理法則の成立する異世界《レイヤー》が存在する。ある種の信号を継続してつくりだすことによって他の世界《レイヤー》との敷居を脆《もろ》くし、異なる物理法則を一時的にこの世界《レイヤー》に成立させることが可能だ。
むかし話に出てくる魔法使いが呪文を使うのは、おもに精神を高揚させるためである。韻《いん》を踏み抑揚のついた言葉を歌いあげることにより、魔法使いは肉体を興奮させ。ある一定の電気信号が筋肉組織の中を流れやすいようにする。
魔法使いの肉体を流れる電気信号は、この世にはない特別な構造を仮想的に構築する。それは、異なる世界《レイヤー》の法則によって現象の関連性を|構築しなおす《コードする》作業だともいえる。魔法使いが何度も繰り返すことにより、通常であれば仮想のままである異界の構造が現実世界にプリントされるのだ。
プリントされた異世界《レイヤー》の法則は、ものとものの関係性を歪ませ、この世とは異なる法則を成立させる――すなわち、距離や時間の概念を変え、重力を逆転させ気圧を高め、ときには|異世界の魔物《デーモン》を呼びだす。
|幽霊やおばけ《ゴーストスクリプト》も、コードという観点から見ればなんら不思議なものではない。山や海の天候予測や雨の予感など、訓練されていなければ同じものを見ていても認識できないことが世の中にはたくさんある。コードもそれと同じだ。魔法の訓練を受けてない人間はゴーストスクリプトをうまく知覚することができない。ただそれだけのことである。
十八世紀のイギリスで起きた産業革命は効率の悪い魔法を無用の長物にした。異世界の存在を人は信じなくなった。むかしの人々が知覚できていた幽霊や妖精やおとぎ話の怪物は、魔法と一緒にみな消え去った。
だが、二十世紀後半に起きたコンピューター革命によって魔法は蘇《よみがえ》りつつある、コードという観点から見れは、人間の肉体もコンピューターのCPUも同じく電気が流れる物体である。人間ほど複雑なコードは組めないが、その代わり、コンピューターは同じコードを飽きることなく何千回何万回と繰り返すことができる。
百年以上の時を経て、消えたはずの幽霊や妖精は。静かな駆動音とともに緑色の基板の上で復活しようとしているのだった。
*
今年で十一歳になる姉原聡史郎には宿敵がいる。
隻眼《せきがん》のすごいヤツだ。
人間ではない。都会と呼ばれる厳しいジャングルの生存競争を生き抜いてきた野生の来訪者である。むかしむかし、聡史郎が手足を使ってはいはいしていた頃、そいつは森林からやってきた。体長は六十センチ。体重一キログラム。漆黒の体表は陽の光を浴びても反射することすらない。
ヤツをあなどってはならない。潰された片方の目は歴戦の兵《つわもの》の証《あかし》だ。よく見れば、ヤツが歩くときかすかに足をひきずっていることもわかるはずだ。ヤツとて血の通った生物。戦えば傷つくこともある。
だが、ヤツは強い。とてつもなく強い。肉切リナイフのようなカーブを描く生来の武装《アームズ》は、すべての物質を斬り裂き穴を穿《うが》つ。
ヤツが胃の腑《ふ》におさめるものは飲食店が出した残飯だけではない。昆虫を喰らい、他の動物が産んだ赤子をさらってむさぼり喰らい、買い物帰りの人間が持つ食料を横から盗みとる。
もしも銀座三丁目を歩いていて、視界の端を黒い影がよぎったのなら、なにもかも捨てて逃げだすがいい。頭蓋をびりびりと震わせる威嚇の鳴き声が聞こえたら、手近な建物にすぐさま避難することだ。立ち向かおうなどというバカな真似はやめておけ。銀座三丁目の生物ピラミッドの頂点に君臨するのがヤツという生物なのだ。
はっきり言おう。
|そいつ《ヽヽヽ》に触れることは死を意味する!
聡史郎は小学六年生にして中学生に負けないくらいの背の高さになっていたが、ヤツとの戦いは負けつづけだ。姉原家の塀沿いにあるゴミ捨て場の安寧《あんねい》のため、これまで聡史郎はヤツと戦いつづけてきた。結果は〇勝三十六敗。このあいだ髪をむしられた頭皮はいまもずきずきと痛い。
だが、きょうの聡史郎はひと味違う。アメリカ合衆国生まれの新兵器がある。
おかしなものをネット通販で買い込む癖のある姉が、クリック一発で直輸入した水鉄砲《ウォーターガン》。表面張力によって形成された水滴状の弾丸を一分間に八十発撃ちだすことができる代物だ。射程は六メートルに及び、学校で水鉄砲合戦があったとき持っていったらずるいと仲間外れにされてしまったほどのスーパーウェポンである。いままで廊下の隅で埃をかぶっていたが、意外なところで意外なものが役に立つ。
ちなみに姉は、軒下にできたスズメバチの巣を焼き払うため、ウォーターガンで火のついたガソリンを放射しようと画策していたようなのだが、いくらなんでも危険すぎるので聡史郎がやめさせた。ハチの巣は、その後、区の処理業者に駆除してもらったようだ。
聡史郎も水以外のものをウォーターガンに装填《そうてん》している。ハバネロの実を磨《す》り漬したものを水で千倍に薄めた魔の液体である。オレンジ色のその液体を装填前にちょっぴり舐めてみたけれど涙が出るほど辛かった。
こいつをくらえば、いくらヤツとて平気ではいられまい。
ヤツをおびき寄せるエサのフライドチキンにも魔のハバネロ水がふりかけてある。そうしないと、聡史郎の味方である黒ネコが食べてしまうのだ。その点、|ハシブトガラスである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ヤツにはハバネロの匂いはわからない。
人間の知性と魔性のウォーターガンを武器に、黒ネコ人間連合軍と銀座三丁目の魔王・隻眼《せきがん》のハシブトガラスの決戦のときが刻一刻と近づいている。
黒ネコと聡史郎が出会ったのは一カ月ほど前のことだ。なわばり争いに敗れ、ぼろぼろになったあげく隻眼のハシブトガラスにとどめを刺されそうになっていたところを助けたのがはじまりだった。
戦友としての友情が芽生えたのか、それとも聡史郎のことを便利な自動ミルクやり機だと認識したのか、おそらく後者の可能性のほうが高いが、とにかく黒ネコは姉原家を自分のテリトリーに決めたようだった。以来、宿敵ハシブトガラスに対してひとりと一匹は共同戦線を張っている。
大型犬さえも撃退する銀座の魔王に対して生後六カ月くらいのネコがどれほど戦力になるかさだかではない。聡史郎が狙いを定めるまで囮《おとり》となってもらうつもりだったが、なにしろネコであるから油断は禁物だ。
だけれど、たったひとりで戦うよりは、ネコの手を借りたほうがずっと心強かった。
「もうすぐヤツがやってくる時間帯だ」
聡史郎はささやき、ウォーターガンをぎゅっと握りしめる。てのひらが汗で湿っている。服でごしごしと拭いた。
姉原家の庭は周囲にあるビルの影であまり陽が射さない。いつもじめじめしていて、魔女の庭かアフリカの奥地にでも行かなきゃ発見できないんじゃないかという得体の知れない植物がうじゃうじゃと密生しているのだ。
冬にもかかわらず鬱蒼《うっそう》と茂った常緑樹の陰に聡史郎は身をひそめている。
その横で、黒ネコは一心不乱にミルクを舐めていた。
「聞こえてんのかよ、クロ」
てしてし。
あいかわらず舐めている。
聞いていないようだ。
なんとなく聡史郎は黒ネコのことをクロと呼んでいたが、まともな反応が返ってきたことは一度もない。オリジナリティーのない呼びかただとは思うものの、野良ネコにわざわざ名前をつけるのもおかしいし……。
「頼むぜ相棒。おまえが頼りなんだぞ」
今度は毛づくろいなんかはじめやがった。
尻尾と足を巻き込んでクロワッサンの形に寝そべリ、満足そうに体を舐めている。
「そうしてるとおまえ、ただの毛のかたまりみたいだよな」
鳴いた。
「え……?」
うにゃん。
なにかを促すような鳴きかただ。
「か、かたまり?」
なー。
「かたまりなんてヘンな名前がいいのか?」
なー。
どうやら気にいったらしい。
「まあいいか」
聡史郎はつぶやいた。
ネコにはネコの都合がある。ネコの耳は人間と違って十万ヘルツの音まで間こえるというし、高周波が聞こえる聴覚の世界では、カタマリという音声がなんだかとても素晴らしく聞こえたりすることがあるのかもしれない。
それより戦闘準備だ。かたまりとの意思疎通が図れるようになったことにより、連合軍の情報通信網は飛躍的に進化した。三十七度めの正直でハシブトガラスを倒すすのだ。
体を舐めていたかたまりの耳がぴくりと動いた。
「ヤツか!」
聡史郎は息をのむ。突然心臓がばくばくと主張をはじめるのがわかった。
かたまりの耳は自衛隊基地のパラボラアンテナのようにぐるぐると回転し、館の内側に向けてぴたりと停止した。長めの尻尾はぴんとそそり立ち先端だけがぴくぴくと左右に振れている。
聡史郎はしゃべらず、空いているほうの指で館の内側を差し示す。
うなずいた。
姉の美鎖は外出中だ。クリスマスの用意をするからと買い物に出かけている。ネットを使ってまた犯罪まがいのことをしているらしく、朝から姉は上機嫌だった。やたらと張りきっていたので、七面鳥を丸ごと買ってきてしまうかもしれない。母とは死別し父は海外出張中なので、姉原家には姉と聡史郎のふたりしかいないというのに。
狩りをする習性を持つネコの耳は優秀である。壁越しにネズミが動くかすかな音すら聞きとると聞いたことがある。聡史郎が聞こえない音もかたまりの耳には届く。
館の中になにかいる。それはまちがいない。
「行くぞ。かたまり」
なー。
ハバネロ水入リのウォーターガンを聡史郎はしっかりと抱える。
どうやら、隻眼のハシブトガラスをやっつける前に退治すべき敵がいるようだ。
*
突然こよみは部屋の中に立っていた。
のぞき見ると言っていたから、てっきりゴーグル型モニターの画面に過去の映像が映し出されるのかと思っていたのだけれど、どうやらそうではないらしい。制服姿のまま、肌寒い空気で満たされた部屋の中央にこよみは佇《たたず》んでいた。
窓ガラスが揺れる音が聞こえる。顔を触ってみても、なにかをつけているかんじはない。
こよみは二度、三度、床を踏みしめてみる。
ぎしぎしと板が軋《きし》んだ。
「ば……ばーちゃるりありてい?」
漏らした言葉が、ひとりきりの部屋の静寂に吸い込まれ、宙を舞うほこりの粒とともに光の中へ消えていった。
こよみが立っているのは。ゴーグル型モニターをかぶったのと同じ部屋の中だった。
デスクトップPCが何台も壁際に置いてあり、色とりどりのコードが床にのたくっている。スパイスでも香水でもない、なんともいえない匂いがただよっているのは姉原家の特徴だ。並んでいるコンピューターは、ちょっとだけ形や位置が異なっているような気もするけれど、デスクトップPCの見分けがこよみはつかない。
「美鎖さあん。聞こえてますかあ?」
大きく声を出してみる。
「……」
返事はない。
頬をつねってみる。
とてもとても痛い。ちょっぴり涙が出た。
パスワードを探してこいと言われたけれど、いったいどうすれば探せるのかこよみにはさっぱりわからなかった。パスワードというくらいだからコンピューターの近くに行けば見つかると思う。でも、コンピューターを操作するのは苦手だ。こよみがいじったりしたら、もしかしたら爆発してしまうかもしれない。
だいたい美鎖という人は説明が足りないのだった。すべての人間が自分と同じくらい頭がいいと思っているフシがある。美鎖の十倍くらいの説明を受けてやっと半分だけ頭に入る人間が存在するということが理解の範疇《はんちゅう》外らしいのである。
ふう。
こよみは大きくため息をついた。
部屋の出入り口付近の壁にはホウキが置いてあった。いまどきどこから持ってきたのかというくらい古くさい竹ボウキだ。
小枝の束を上にしてホウキが二本、それと並んでモップが一本、扉のわきの壁に立てかけてある。これはたぶん、元の部屋にはなかったものだと思う。
「え、ええと……」
中世の魔女はホウキに乗って空を飛んだそうだ。悪魔からもらった秘密の軟膏《なんこう》を柄の部分に塗りこみ、魔女たちは夜会《サバト》の空を行き交った。一説によると、ホウキについている小枝の束は、敵の追跡を逃れるため、飛行の航跡を掃いて消す役目を果たしていたらしい。ちなみにこれは弓子の受け売りである。
だから、かつては魔法学校だった姉原家に空飛ぶホウキがあってもおかしくはない。冷静に考えればホウキとモップは掃除に使うもののような気もするが、広い世の中のことだからモップで空を飛ぶ変わった魔法使いもいたかもしれない。
竹ボウキを一本つかんでみる。節くれだった竹の表面はひんやりと冷たかった。
いまはたらい召喚の魔法しか使えない自分も、いつかはホウキで空を飛んだりできるのかなとこよみは思う。自由に空を飛べたらとても気持ちがよさそうだ。ジェットコースターやフリーフォールは苦手なので、ゆっくりじゃないとだめだけれど。
こよみは、すこしだけ、ホウキにまたがってみることにした。「手をあげろ!」
扉が開いたのはそのときだ。
SF映画に出てくるような白い銃を構えた少年が立っていた。銃口がこよみの顔面にぴたりと向けられている。
「え? え?」
「手をあげろ。ヘンな動きを見せたらハバネロ入りの水を顔にお見舞いするぞ」
小学生くらいの男の子だった。とはいっても、百四十六センチのこよみと比べるとてのひらひとつ分以上背は高そうである。身長のわりに腕も脚も棒きれみたいでひょろっとして見えるところが少年を感じさせるのだ。わずかに丸みを帯びた顔の輪郭に、年齢不相応に大人びた表情が浮かんでいた。
「もしかして……聡史郎、くん?」
少年は眉をひそめる。
「なんでおれの名前知ってんだよ」
「か、かわいいー」
顔に赤味がさした。
「おい、おまえ。失礼だろ。男に向かって『かわいい』とはどういう嫌がらせだ」
「あ、ごめんなさい」
ホウキにまたがったまま頭を下げる。
ぷいと横を向き、聡史郎少年はゆっくりと銃口をおろした。
「……っていうか、そのホウキはなんなんだ?」
「勝手にごめんなさい。あたしも飛べたらいいなあって、ちょっとまたがってみたの」
えへへ、と照れ笑いしてこよみはホウキから降りた。
「飛ぶって……ホウキでか?」
「うん」
「ベルヌーイの法則って知ってるか?」
ぶんぶん。
首を振った。
「ま、小学生じゃ知らなくてもしょうがねえか」
「しょ。小学生じゃないよ。あたしは高校生! ほら、制服着てるでしょ!」
こよみの言葉に、やれやれ困った奴だぜと聡史郎は肩をすくめる。
「つくならもうちょっとマシな嘘をつけよ。イマドキ小学校だって制服ぐらいあるだろ」
「嘘じゃないもん。高校二年生だもん」
「よしてくれ。おれが大学生だって言ったほうがまだ真実味がある」
ふっと息を吐いた聡史郎の足元から見おぼえのある小動物が姿を現した。黒ネコだ。板張りの床をてててと駆け抜け、ネコはモニター台の下にもぐり込む。
「おい、そんなとこ入んなよ。感電するぞ。おいったら……しょうがねえな」
ネコはPCケースの中に入ってしまったようだ。聡史郎は心配そうな顔で見ている。
「もしかして、見えるんだ」
「見える?」
「ネコのゴーストスクリプト……あ、ええとゴーストスクリプトっていうのは幽霊というかなんというか……」
「なんであいつが幽霊なんだよ」
「幽霊じゃないの?」
「さっきからわけわかんないやつだな。幽霊だと思うなら自分で| 箱 《PCケース》をのぞいて確かめてみりゃいいだろ。そうすりゃ生きてるか死んでるかすぐわかる」
ホウキを壁に立てかけ、こよみは、よつんばいになってモニター台の下をのぞきこんだ。開いたままになったPCケースの中で、LEDの緑とは違う宝石みたいなエメラルドグリーンがふたつ輝いていた。
手を差しだす。
箱から顔だけ出した黒ネコが指の匂いをくんくんと嗅ぎはじめた。濡れた鼻先がときおり指に触れてくすぐったい。どうやら黒ネコは本当に生きているようだ。
「この子、かわいいね」
「この子じゃなくてかたまりだ。か・た・ま・り」
「かたまり?」
「そう。かたまりが名前。さっき決まったんだ。固まって動かなくなるからかたまり。ヘンかもしれないけど、本人が気に入ってんだからしょうがねえだろ。悪いか」
「ううん。悪くないよ。いい名前だね。かたまり」
なー。
かたまりは満足そうに答えた。
聡史郎はすこし不満そうだ。
「おまえ、姉さんの知り合いだろ。違うか? ホウキで空とかネコが見えるとか見えないとか」
「たぶん。そう」
「まったく姉さんはロクな知り合いがいやしねえんだから」
「そういう言いかたってよくないと思う」
「おまえも姉弟になってみりゃわかる。幽霊屋敷に住んでるとか、窓からオバケが見えたとかしじゅう言われてみろ。おまけによくよく話を聞くとそのオバケってのはどう考えても姉さんのことだとか、そういう苦労を知らないで勝手なこと言うなよな」
「……ごめんなさい」
さんざん匂いを嗅いで安心したらしい黒ネコは、差しだしたこよみの腕を登攀《とうはん》することに決めたようだった。服にツメをひっかけ、二歩で肩の上にたどり着いた。成猫ではないといってもけっこう重く、こよみはバランスをとるのがたいへんだ。
「わ」
なー。
満足そうである。
「ところで、空を飛ぶ方法って知ってるか? おまえ、飛びたいんだろ」
聡史郎が言った。
「知らないけど……」
「おれ、知ってるぜ、ホウキなんかなくてもラクショーだ」
「本当?」
「まじほんとー。まず右足をあげて、それが地面につかないうちに左足を持ち上げる。これが極意なんだ」
ネコを乗せたままこよみは立ちあがり、言われたとおりやってみる。
うまくいかなかった。
「はじめは難しいが慣れればたいしたことはねえ。すばやくかつ正確に、左右の足をより高くあげるようにすればいい。ねばり強い根気とじゅうぶんな運動神経さえあれば、誰でもできるようになる。十八世紀初頭のイギリスでは、この方法で実際に空を飛んだ人間が何人もいたって話だ」
「へええ。すごいんだね」
「まあな」
「あたし、がんばって練習してみるねっ!」
「……って、おい」
「なあに?」
「こんなんで本当に空が飛べると思ってんのか?」
「飛べないの?」
「足ばたばたさせただけで空飛べんなら、鳥人間コンテストの立場はどうなるんだ? 嘘に決まってんだろうが嘘に」
「か、からかったのね!」
「おまえはバカか。こんなのにひっかかるほうが悪い」
「ううつ。聡史邸くんのいじわる」
六年後に宿敵となる少年をこよみはじと目で睨《にら》みつけた。聡史郎は、砂糖のかわりに塩をいれてしまったコーヒーを見る目つきだ。小学生にからかわれたあげくバカと言われちゃう自分がちょっと情けなかったりする。これでも、本当にほんとうに高校生なのに。
こよみはうなだれる。
肩の上でネコの耳がくるりと回転するのが見えた。
「あれ?」
聡史郎も気づいたようだ。だらりと下げていた白い銃を構えなおした。
「しまった。ヤツだ。ぐずぐずしてるから来ちまった!」
「……やつ?」
「銀座三丁目の魔王だよ! 行くぞ。かたまり」
み!
ネコがジャンプした。扉を開け放したまま、ひとりと一匹は全速力で駆けていった。
こよみは部屋の中に取り残された。
魔王?
聡史郎はたしか魔王と言った。
魔王というからには魔王なんだろうけれど、魔王とはいったいなんだろう。ソロモンの魔物みたいのがまた出てきたらとてもとても嫌だ。けれど、小学生の男の子とネコを魔王と戦わせるというのも非情な気がした。
ひとりと一匹のあとを退って、こよみは走りだした。
4
six years ago #3
「冗談もほどほどでなければ笑えませんことよ」
弓子の言葉に、スーツの男は苦笑で答えた。
「冗談というわけでもないのだが、まあいい。説明している時間が惜しいのでな。手短に言う。その杖を渡してもらおう」
「これはわたくしのものです」
「ケリュケイオンごときに用はない。わたしは、クリストバルドが杖に封印した魔女のライブラリに用がある」
「なんと言われようと渡すわけにはまいりません」
灰色の空で灰色の雲が渦を巻いていた。師走の空気がスカートを揺らし直に肌をなぶっていた。洋館の屋根に止まっているカラスがガアガアとうるさかった。
スーツの男がつくりだす影は弓子の体をすっぽりと覆っている。
「敵の力を知るのも能力のうちだぞ。マドムアゼル」
「貴方は……何者ですの」
「きみの家では、人に名を尋ねるときはまず自分かち名乗れと教えないのかね」
「……イチノセ・ユミコ・クリスティーナ」
「ジャンジャック・ギバルテス。我が名とともに墓の中へ入るか、杖を渡すか、ふたつにひとつだ」
ケリュケイオンの杖を弓子は後ろ手に握りしめた。曾祖父カルル・クリストバルドが遺した銀の杖。魔法使いの杖。銀の髪と紫の瞳を受け継いだ弓子が、弓子であることを証明するための大切なたいせつな杖だ。誰にも渡すわけにはいかなかった。
「さあ」
男は腕を差し出した。その手はシルクの手袋に覆われている。手の甲にある刺繍は五芒星《ごぼうせい》。古き力を継承する魔法使いの証だった。
弓子は半歩あとずさる。杖を握る指が震えている。歯を食いしばった。怖くなんかない。指の震えは寒さでかじかんでるせいだ。だけれど。弓子の足は勝手に後ろへ下がっていく。
ギバルテスが大股に一歩踏みだしたとき、館の扉が音をたてて開いた。バイオリンが破壊されるときに出す断末魔の音みたいだった。
現れたのは背の高い少年だ。弓子と同じかひとつふたつ年上に見えた。足元に黒いネコがちょこまかとまとわりついている。白い銃みたいなものを両手に抱えた少年は鉄柵のところまでのしのし歩いてくると、興味のなさに憤慨《ふんがい》を付け加えた顔で言った。
「おまえら、人ん家の前でなにやってんだよ」
少年は胸を張る。
ネコが跳びあがり、門柱の上で威嚇の姿勢をとった。
ギバルテスはふんと鼻をならす。
「コードは封鎖していたはずだが……そうか。使い魔がいたか」
「なにわけわかんねえこと言ってやがる」
「子供は引っこんでいたほうが身のためだ。黙って家の中に入るがいい」
「感じ悪いぞ、おっさん。人の家の前で勝手抜かすな。あんたの前にいる女だってガキじゃねえか」
「怪我をすることになるぞ」
「あんた、頭おかしいんじゃねえの?」
「ならばいたしかたない――」
シルクに包まれた手が少年に向かってゆっくりと伸びていく。
弓子はまばたきする。よくはわからないけれど、スーツに包まれた体の内側に剣状の物体が浮かんで見えたのだ。剣からはじけとんだ光の粒は渦を巻き、体の内側で螺旋《らせん》を描きながら肩から腕へと下っている。
ケリュケイオンが魔法の杖ならば、ギバルテスと名乗る男が魔法使いならば、クリストバルドの血が真実のものであるならば、少年は本当に怪我をする。怪我ではすまないかもしれない。
だけれど、弓子は動けなかった。
男の腕が途中で止まったのは、館の中からもうひとりの少女がとび出してきたからだ。
小学生くらいの女の子だった。ショートボブの頭の位置は弓子と同じ高さにある。制服に身を包んだ少女は転がるように走ってきて、少年の横で立ち止まりぶるっと震えた。
「うわ、さむ!」
「なんだよおまえも来たのかよ。十二月なんだぞ。そんな薄着じゃ寒いのあたりまえだろうに」
「寒いのなんて知らなかったんだもん。いまはこれしか持ってないし」
くしゅん。
くしゃみをした。
ギバルテスの腕は伸ばしかけのまま動かない。ふたつの標的のうちどちらを狙えばいいか迷っているヘビと同じだ。蝋人形の顔は冷静さを保っている。
赤錆の浮いた鉄柵を隔て、道路の側に弓子とギバルテス。家の敷地内に制服の少女と少年。門の上に黒ネコ。四人と一匹が寒空の下に立っていた。
「上着持ってねえの?」
「うん。ごめんなさい」
「あやまらなくていいよべつに。こいつでも着とけ」
自分の着ていたブルゾンを少年は少女に手渡した。
「いいの? 寒くない」
「おれのほうが体が丈夫にできてる。気にすんな」
「ありがとう」
寒さがやわらぐ笑みを少女は浮かべた。ずいぶんと手こずりながら借りたブルゾンに腕を通し、ギバルテスと弓子のことをじいっと見つめる。
「あ、こんにちは」
ぺこり。
挨拶なんかしている。
弓子は返事をしない。もちろんギバルテスもしなかった。
「ところで、あの男の人が銀座三丁目の魔王さんなの?」
「おまえ、絶対なんか勘違いしてるだろ」
「でもでも、女の子のほうだったら魔王じゃなくてクイーンとかプリンセスとか言いそうだし……ええ! ももも、もしかしてあの子。弓子ちゃん? かわいい!」
「あいつも知り合いかよ」
「……わたくしは貴女のことなど知りませんことよ」
「そうだね。弓子ちゃんはまだあたしのこと知らないよね」
「え、ええ……」
「この頃から髪の毛きれいだったんだね。いいなあ。ちいさいときから弓子ちゃんはやっぱり銀髪なんだ。考えてみればあたりまえなんだけど、いいなあ」
「つまんねー。やってらんねー」
名も知らぬ少女はひとりで納得してほほえんでいる。少年は、キリストの誕生日が厄日だと誰か決めた奴でもいやがるのかとかなんとか口の中でぶつぶつとつぶやいている。
「話は済んだかね。マドムアゼル」
黙って成り行きを見ていたギバルテスが会話に割り込んだ。
「なんだよまだいたのか。おっさん、あんたは帰っていいそ」
「だめだよ、聡史郎くん。そんな言いかたしちゃ」
「いいんだよ。たまに来るんだ。こういうの」
「悪いが子供と遊んでいる暇はない」
「あのあの……すみません。そうは見えないかもしれないですけれど、あたしは子供じゃないんですよ」
男は一瞬だけ目を見開いた。姿勢を変えぬまま、少女の姿を睨めつける。
「東洋人は若く見えるというが……そうか」
「そうなんですよ。よく小学生にまちがわれちゃうんです。背もこの子たちと変わらないっていうか男の子のほうより低かったりするんですけど、ほんとはずっとお姉さんなんです」
「一瞬だけコードが揺らいだと思ったが、館の中に転移したのだな。なかなかやるな。姉原美鎖」
「え? え?」
「ならばこれを聞いたことがあろう。汝が時を刻むなら、我は時を遡《さかのぼ》れり。汝が時に逆らうならば、我は時を刻むものなり」
「それってたしか弓子ちゃんの……」
「めぐれめぐれゆらぎの数無くなるときまで。我もてまわせ、汝が時計――」
ギバルテスはにやりと笑った。
腕の先にあるのは、今度は、弓子の体だ。
「ちょ、ちょっと待って!」
「剣《つるぎ》と化せ我がコード」
一瞬のことだった。
最後の言葉が発せられるのと同時にギバルテスの体内に浮かぶ剣が光り輝き、透明な複製を形成。生まれた剣はきりもみ状に回転しながら腕を伝い弓子に向かって突進する。手記に書いてあったとおりだ。魔法使いは、精神を高揚させるために呪文を唱える。
黒ネコが低いうなり声を発した。弓子はケリュケイオンを強く握った。息が熱い。空気は冷たい。それくらいしか弓子にできることはない。少年はなにも気づいていない。呆れた顔で、呪文を唱えた外国人の男性を見上げている。輝く切っ先が音もなく迫る。
少女は――
動いた。
けして素早い動きではない。どちらかといえば遅いほうだ。けれど、ブルゾンの袖からとびでたちいさなてのひらが鉄柵越しに伸び、正確に男の腕をつかむ。
瞬間、剣が消滅。ギバルテスの姿が蛍光灯のように明滅した。光の粒子に分解された剣は少女の手に吸い込まれ、螺旋状に腕を駆けのぼって体の中心で花火のごとくはじける。
そして、それが突然現れた。
腕を伸ばして立つギバルテスの頭上一メートル。なにもないはずの空間に煙とともにそれは姿をあらわし、重力にしたがって落下をはじめた。
はじめはゆっくりと。そして一気に加速して。
たらいだ。
見たこともないくらい大きな金だらいだった。弓子が両手をいっぱいに伸ばしたほどの直径がある。色・形ともにもうしぶんなく、金物屋の店先に並んでいたらさぞかし人目を引くことだろう。
赤銅《しゃくどう》色の輝きをはなつ金だらいは正確に等加速度運動をし落下する。
があん、と派手な音をたててたらいは地面に衝突。ギバルテスのすぐ横だ。がらんがらんとアスファルトの上で回転した。
「な……なにするんですかっ!」
「我がコードを一瞬で組み換えるか、さすがは研十郎《けんじゅうろう》の血を引くだけのことはある」
「そういうことじゃなくって! 剣のコードを人に向けるなんて!」
「おい、おまえら。いったいこれはなんの冗談だ?」
ギバルテスが顔を歪めた。少女の腕をふりほどく、身構える。アスファルトと金属が衝突した残響は消えていない。
「だが、次はそうはいかん」
「弓子ちゃん、下がって――」
鉄柵の隙間をすり抜け、ブルゾンの少女は弓子とギバルテスのあいだに割り込んだ。だけれどふたりの身長はほとんど変わらず、彼女が防波堤になることはない。高い位置にある魔法使いの青い視線が少女の上空を通過し弓子に突き刺さる。
「わたしに対抗できると思うか?」
「あたし、あんまし頭よくないからわからないけど、あなたのやったことはよくないことだと思います」
「関係のない娘のために命をかけるというか」
少女は動かない。ちいさな手を精一杯広げてギバルテスの言葉を受け止めた。
両者の力の差は歴然だった。片方は大人で、もう一方は弓子と同じくらいの少女で、体内を駆け抜けた光の粒子の完成度もギバルテスが圧倒的に上だ。魔を見抜く紫の瞳にはそれがわかってしまった。
緊迫した空気に少年も言葉を失っている。
「貴様は何様だ? 思いあがりもはなはだしい」
「そのときはわからないものなんです。どれだけ大切だったかって。あたし失敗ばかりだから、やる前からあきらめちゃうことって多くて。あとになってわかるんです。ああしておけばよかった、こうしておけばよかった。そんなのの繰り返しで。でも、ひとつだけ自分に誇れるようになったことがあるんです。ここってとき、怖くても逃げたくてもその場に立っていること。いまもひざが震えちゃってたりするんですけど、でもいいんです。当然なんです」
「ほう」
「よくわかんないけど、よくわかんないけど、えーと、なんだったけかな……あたしはいつだって本気……じゃなくて、格さんが印寵《いんろう》を出すのは八時四十五分……じゃなくって! そう! 最初は本当の偶然でも、選択によって偶然は運命にすることができるんです」
「立派な心がけだ。ならば、その意志とともにここで果てるがいい」
ギバルテスはゆっくり腕を伸ばす。
にゃー。
黒ネコが鳴いた。
風が吹いた。凍《い》てついた時をさらに冷たくする冬の風だ。館の上で数羽のカラスがうるさい羽音を立てて飛び立った。思い出したかのように鉄柵が揺れ、ぎしぎしと不満気な軋《きしみ》みをあげた。ネコは首を回転させる。
視線の先に新たな人物が立っている。
メガネをかけた女サンタクロースだった。
「あらあらずいぶんたくさんのお客さんねえ。七面鳥一羽で足りるかしら」
サンタクロース姿の女性は、状況をまったく理解していないのんびりとした口調で言った。
「……やっぱり丸ごと買ってきやがったな」
「よかった。やっと会えました」
「邪魔が入ったか」
なー。
「お客さまが多いと腕のふるい甲斐《がい》があるわ」
「そういう格好で街をうろつくなといつも言ってるだろうに」
「クリスマスなんだからいいじゃない」
かなんだか全然会話が噛み合っていない。
ぼけているのか本気で言っているのか判断のつかない女性だった。長い黒髪と白い肌と鎖のついた銀のメガネ、そして、真っ赤なサンタクロースの衣裳。天然色の世界の中で。彼女の姿だけ、二色刷りの雑誌からとび出してきたような違和感がある。彼女をとりまく空気は弓子たち子供だけではなくギバルテスすらも覆い、二色刷りの雑誌の世界へと誘《いざな》っているのだった。
赤いミニスカートからとびでた長い脚をぽりぽりと掻き、女性は言った。
「さっきから疑問に思ってることがひとつあるんだけど、いいかしら?」
「なんだよ。言えよ。こいつらが家の前に大集合してる理由だったらおれも知らねえし、たらいが転がってる理由もNGだ」
「そういうことじゃないんだけど……そこの男の人。あなた、人間?」
女性の問いには答えず、蝋細工の表情をギバルテスは歪ませる。
「こうなっては多勢に無勢か。貴様との決着はまたの機会にしよう、姉原美鎖」
「あなた、誰?」
「貴様に用はない」
「あら、|アネハラミサ《ヽヽヽヽヽヽ》に用なのかと思ったのに」
「運がよかったな、マドムアゼル。次に会うときを楽しみにしているぞ」
弓子は杖をぎりと握りしめる。スーツの裾をひるがえしギバルテスは悠々と歩み去った。
その背中を見ながら、二色刷りの女性がぽつりとつぶやく。
「もしかして初対面で謎の因縁とか生まれちゃってるのかしら? 困ったわねえ」
「なに言ってやがる。ヘンな連中が来るのはいつものことだろうに」
「ヘンな連中とか言わないの。聡史郎」
「け」
「ま、いいわ」
彼女はくびれた腰に手をあてた。女性にしては高い背たけを折り曲げるようにして、制服の上にブルゾンをはおった少女と弓子の顔を交互にのぞきこんでくる。
「さて、よかったら説明して欲しいんだけどな」
「あのあの……すみません」
少女が頭を下げる。
「べつにあやまらなくてもいいけど。そっちの杖持ってる子のほうはどう?」
「悪いですけれど、突然やってきた方に話すことなどありませんわ」
「あら、そうなの? 残念ね」
「おまえだってイキナリやってきたんじゃねえか」
「聡史郎くん。そういう言いかたってないと思う」
なー。
「なんだよおれだけ悪者かよ。納得いかねー」
「弓子ちゃんにだってきっと弓子ちゃんなりの理由があるんだよ。まだ小学生なんだから。ちゃんと聞いてあげなきゃだめだよ」
「あなたが一番状況をわかってるみたいねえ。まあいいわ。せっかくだから料理をごちそうしてあげる。みんな、食べてくでしょ?」
女サンタクロースが全員の顔を見回す。
弓子は駆けだした。
「あ、弓子ちゃん!」
逃げだした理由は自分でもわからない。ただ、自分がここにいるべきではないと思ったから。
背中から追いかけてくる声よりも速く弓子は走った。
*
師走の銀座は、男と女とジングルベルのメロディーでいっぱいだった。老いも若きも笑いさざめき、あるいはたがいに手を繋ぎながら歩いている。きょうは、いそがしい年末の中でも特別な聖なる夜なのだった。
人の群れを無視してまっすぐに走りつづけ、やがて弓子はT字路にぶつかった。
下をのぞきこんでみると、一段低くなった道を車が走っているのが見えた。首都高速の環状線だ。道路脇に立っているオレンジのミラーにもたれかかり。弓子は呼吸をととのえる。心臓がばくばくとうるさい。背後からは、スピードを出した車がひっきりなしに通りすぎるロードノイズが聞こえてくる。
自分の瞳の色と同じ薄紫に変化しつつある空を見上げているうち、弓子は気づいた。背後を流れるそれは川なのかもしれない。水の代わりに車と騒音が流れる都市の川だった。
鋼鉄の川に沿って弓子は歩いた。
橋があった。
広々とした橋には公園が隣接していた。車が流れる川を覆う空中庭園だ。鉄骨とコンクリートの土台の上に黒い土と樹々が乗せられている。枝だけとなった桜の樹は、通りの反対側にあるイルミネーションのついたモミの木をうらやましそうに見つめていた。
ひょっとしたら、魔法使いを名乗る者にとって銀座はぴったりな街なのかもしれない。弓子はふと思った。さびれた洋館も、ちょっぴり古びた街並みも、ケリュケイオンの杖に刻まれた古風な蛇も。どれこれもファンタスティックで、なおかつ埃をかぶっている。
公園に弓子は足を踏み入れる。人気はない。藤のからみついた緑廓《パーゴラ》を見つけ、木製のベンチに座りこんだ。
気温と同じ温度に冷えたベンチがおしりに冷たい。木の板のでこぼこはいつもより攻撃的だ。こんなときまで下着がないことを意識させられるとは情けない。
まったく頭にくる。
なー。
鳴き声に弓子は視線を下ろした。
姉原の家で見た黒ネコだった。前脚を揃えて座り、首をすこしだけ傾けて弓子を見上げている。どういう風の吹きまわしかあとを追ってきたらしい。
「わたくしといてもおもしろくなんかありませんことよ」
なー。
黒ネコは答えた。
なにを主張しているのかはわからない。だけれど、わからないからこそ人はネコと仲良くいられるのかもしれない。意思が通じ合ってしまえば、好き嫌いがはっきりと伝わりかえってうまくいかないこともある。
ため息が漏れた。
そんな弓子の気持ちにまったく頓着せず、ネコは、ケリュケイオンの杖を前脚の爪でかりかりとひっかいている。
ブルゾンの少女のことをギバルテスはアネハラミサと呼んでいた。ならば、あのちんちくりんの女魔法使いが姉原家の末裔《まつえい》なのだろう。彼女は弓子のことも知っているようだった。
弓子が持っていた魔法使いのイメージは、アネハラミサよりむしろギバルテスに近い。魔法という異質な術を身につけてしまったが故に世間と相容れなくなることだってあるはずだと弓子は思う。悪の魔女を倒すため、たったひとり東洋の島国までやってきた孤高のエクソシスト、カルル・クリストバルド。彼が味わった孤独は弓子の比ではないはずである。
少年が気づかなかった剣のコードを弓子が見ることができたのは、紫の瞳を受け継いだからだ。銀の髪を背負ったからだ。それだけ重い使命をその身に秘めて弓子は生きている。
誰でも子供のときは夢を持っている。ひこうきのパイロット。やきゅうの選手。サッカーの選手。いつのまにか、夢は現実にすりかわって、思いもよらない場所に人は立っている。まるで、最初からレールが敷いてあったかのように運命に引きよせられてしまう。
それが、弓子の場合は魔法使いだった。
そこまで考え、気づいた。
――選択によって偶然は運命にすることができる
アネハラミサの言葉が弓子は気に食わなかったのだった。
彼女が魔法使いの宿命を負っているのかは疑問だ。一方のギバルテスは、弓子と同じく宿命を背負っているようにも感じられた。自分から杖を奪おうとしている人間に共感をおぼえ、教えを乞うために訪ねていった人間に違和感をおぼえるのも妙な話だと思う。
だが、それが唯一の答えだ。
銀色の杖を握りしめ、弓子は、ベンチ前のタイルに突き立てた。遊び道具を勝手に動かされた黒ネコが不満気な顔で見上げている。
精神の力によって異世界の力を引きだすのが魔法だ。そのために、精神的・肉体的な訓練を積み、古来より定められた物品を使用し、古来より定められた手順に従って儀式をとりおこなう。確定した法則と科学実験によって成りたったものではなく、流派の数だけその技術修得方法が存在する。独自に技を身につけた魔法使いは、独自に書を記した。それが中世以降の欧州で書かれた魔術書《グリモア》と呼ばれる書物である。
生まれたときから弓子は不思議なものが見えた。自分の生が呪われているためだと思っていた。紫の瞳は魔を見抜く瞳。弓子が見ていたのはコードと呼ばれるものだ。ギバルテスの剣の魔法も、アネハラミサの召喚魔法もみな見えた。
魔法使いは体を使ってコードを組む。
ギバルテスが魔法を使ったとき、かすかに杖が震えたのを弓子はおぼえている。彼が組んだコードにケリュケイオンが呼応したのだ。ぴりぴりと電気のようなものが流れていたような気もする。
もし、あれが、魔法を生み出す源ならば……。
弓子は指先に全神経を集中する。
杖は体の外側にあるものではない。そんな風に考えるから魔法が使えなかった。体は杖の延長だ。肉体は魔法を行使するためのデバイスにすぎないのだ。かつて曾祖父が杖に込めた力も術も強さも痛みも呪いも悲しみもすべてこの身に受けとめよう。力だけなど望むまい。春も秋もおだやかな陽射しも必要ない。冬の風に吹かれ銀の杖が凍てつくというならば、体ごと冷たくなってしまえ。夏の灼熱《しゃくねつ》に燃えあがるならば、肉も骨も焼き尽くせ。呼びかけに応えよケリュケイオン。我が体にコードを流せ。
右手に電流が流れた。
突入した電気の粒は体の中心で渦を巻く。色でも形でも音でもない|なにか《ヽヽヽ》が複雑に変形しながら体内で反射する。腕の筋肉がびくびくと震えている。筋繊維を流れる電流が意思と関係なく指を震わせる。弓子は杖に呼びかける。クリストバルドのコードよここに来たれ。
「剣《つるぎ》と化せ我がコード!」
瞬間、半透明の剣が出現した。
わずかなあいだ宙にとどまった剣は爆発的に加速、緑廊《パーゴラ》の端をかすめてカーブを描きながら虚空へ駆けのぼり、光の粒となって消えた。
こすれあった藤の枝がさらさらと鳴る。
落下してきた小枝が、ひざの上で、音もなく割れた。
弓子はベンチにへたりこんだ。百メートルを全力疾走したときのように、全身を疲労感が覆っていた。
そんな弓子を、黒ネコは不思議そうに眺めている。
やっと理解できた。
わかってみれば簡単な話だった。たしかにこれではコードを組むとしか言いようがない。
弓子が欲しかったのはきっかけだった。ケリュケイオンの杖さえあれば、見よう見まねであとはなんとかできるはずだ。他の誰にもできなくとも、カルル・クリストバルドの血を継いだ自分ならできる。そう決まっている。人の助けを得ようなどと考えたのがそもそものまちがいだったのだ。
黒ネコを抱きあげ。勢いよく立ちあがった。
ギバルテスを見つけ出し、決着をつける。それだけじゃない。余計な手出しをしたアネハラミサだってコテンパンにしてやる、邪魔する者は許さない。それが、クリストバルドの血を継いだ弓子の生きかただ。投げつけたパンツが返ってこないというのなら、いくらでも投げつけてやるのだ。
くちびるを引きしめ。弓子は思う。
この呪われた運命を選んだのが神さまだったとしたら、地の果てでも地獄でも追いかけていって清算させてやる。
5
six years ago #4
むかしむかし、人がまだ魔法を信じていた時代の話だ。
あるところにジギタリスという女性が住んでいた。
それは、フランス東部のヴォージュ地方とも言われているし、イギリス西部のシュロップシャーの森だとも言われている。どこであったか、いまとなってはさだかではない。
ジギタリスは赤紫の花をつける草の名前である。心臓の病に効く薬草で、別名をキツネノテブクロという。ただし、適切な量であれば心筋を強化するが、多く摂《と》りすぎると不整脈をおこして死をまねく。人々は長く、ジギタリスを毒草として扱ってきた。シュロップシャーの森に住む老婆だけが、この草を煎じて病人に与えていたという。
ジギタリスは、だから、名前も無き老婆についたふたつ名のことである。
老婆であったかどうかも本当は確実ではないのだ。放蕩《ほうとう》を尽くした諍《いさか》い女《め》であったという説もあれば、うら若き乙女であったという説もある。それくらい茫洋《ぼうよう》とした話だ。
十四世紀から十七世紀にかけて、欧州を魔女狩りの嵐が吹き抜けた。
魔女とされた人々のほとんどは濡れ衣だったという。彼女たちはなんの力も持たず、日銭をかせ稼ぐ貧しい労働者だった。老婆であったり未亡人であったり、あるいは村の嫌われ者であったりした。多くの罪無き人々が一方的な断罪を受けて火炙りになった。それが魔女狩りの真相である。
だが、中には本当の魔力を持つ者もいた。
ジギタリス・フランマラキア。
カタリ十字狩猟騎士団の十万行に及ぶ抹殺リストの一行目にその名は書いてあった、炎を能く使い、六万五千のコードを自在に操る極悪非遣の大魔法使い。騎士団に捕らえられ火刑に処せられるまでに十万人もの人命を奪ったと言われている。
二十世紀初頭、死んだはずのジギタリスは再び歴史の表舞台に姿を現し、欧州を荒らしまわった。
ある者は亡霊と畏《おそ》れを抱いた。
ある者はジギタリスの名を駆った偽者と笑った。
ただカルル・クリストバルドだけがジギタリスの復活を信じ、人生のすべてをかけて戦った。禁忌を犯して強力な魔力を手に入れ、ローマ教会から破門されても戦いつづけた。世紀の魔女を欧州から追い払い、極東の島国に追いつめ討ち果たした。
ジギタリスは、魔法によって転生したとも言われている。
どこまで本当の話かはわからない。ただ、ジギタリスと名乗る魔女が人類の歴史の影にずっといたことだけは確かなことだった。
*
ひさかたぶりの東京はずいぶんと趣を変えていた。
数寄屋橋交茎点にある巨大なピルの屋上に立ち、ジャンジャック・ギバルテスは、街に澱《よど》むコードをじっと見つめていた。
見渡す限りの地平に建造物が建ち並んでいる。煙を吐く煙突は一本もなく、大気は澄んでいる。にもかかわらず、いがらっぽい微粒子が喉を刺激する。車も人もむかしよりずっと多いのに、生命が発する力は減っている。それはまるで、氷が溶けて薄まったアイスティーのようにも感じられた。
カルル・クリストバルドとその協力者|姉原研十郎《あねはらけんじゅうろう》。ふたりの魔法使いと死闘を繰り広げ、敗れ去ったのはちょうど百年前のこの街でのことだ。
勝利者はとうの昔に墓の下で眠りについた。ギバルテスの前に立ちふさがるのは、彼らの血を引く若き魔法使いたちだった。百年もの月日をおいて、同じ血族と同じ街で再び戦うことになるとは皮肉なものである。
運命とはよくできている、とギバルテスは思う。クリストバルドと研十邸に倒されたのが運命ならば、その血族と相まみえるのも運命なのだろう。戦いの結果は力ある勝者が総取りする。それもまた運命だ。
そういえば。忌々《いまいま》しいクリストバルドも黒ネコを使い魔にしていた。姉原の血。クリストバルドの血。黒ネコにケリュケイオン。すべての符合は揃っているのだ。いまここにいないのは、大魔女ジギタリス・フランマラキアだけだった。
ギバルテスは百年前の記憶でできている。
人間としてはもはや死んでいると言えるのかもしれない。百年という月日は、血と肉で構成された体が滅ぶのに十分すぎる時間だった。血潮がもたらす熱い情熱はギバルテスの内に存在しない。彼を動かすのは宿命であり運命だ。巨大な力を操る魔法使いは、世界を動かす大きなうねりの一部であり、あるいはうねりそのものである。死をつかさどる魔物が存在するというのなら、ギバルテスこそがそれなのだ。
意識をこの世に繋ぎとめるコードが薄れ霧散してしまう前になんとしても魔女のライブラリを手に入れる。大魔法使いジギタリスが生涯をかけて集めたコードを記した魔導書。百年前は手に入れることができなかった魔法使いの至宝である。そのためには、クリストバルドが命をかけて果たした封印を解かねばならない。
ケリュケイオンは、ジギタリスを倒すためにつくりあげられた魔杖だ。ザルツブルグの戦場で六百六十六の兵《つわもの》の血を吸って育ったナナカマドを憑代《よりしろ》に使い、六百六十六人の司祭が六百六十六日間析りを捧げて聖別した銀に浸して融合させた。この杖を使い、クリストバルドは魔女のライブラリの封印に成功したのだった
姉原美鎖ともうひとりの魔法使い、ふたりを相手にすると分が悪い。ギバルテスの力は完全ではない。もはや時間もない。
ギバルテスは街のコードを感じとる。
そして、百年前にはなかった新しいコードを見つけた。眠りからギバルテスを呼び起こしたコードだ。百年前には存在しなかった機械文明によってつくられた機械のコード。それでいて研十郎の匂いも感じさせるコード。
このコードが姉原美鎖によるものなら、あるいは、取り引きができるかもしれない。
敵はひとりずつ倒すものだ。目的はひとつずつ達成するものだ。百年前はふたりの魔法使いを同時に相手にして遅れをとった。そのことは大いなる教訓となってギバルテスの内に染みついている。たとえ相手が兎ほどの力しか持たぬ駆けだしの魔法使いであろうと、二度と油断はしない。
蝋細工のくちびるをギバルテスは歪める。
クリストバルドと姉原の血族を抹殺するのは、魔女のライブラリを手に入れてからでも遅くないのだから……。
*
「……だいたい話はわかったわ」
乱雑な手つきでロブスターを解体しながら美鎖は言った。
姉原家のキッチンでのことだ。
かつては学校として使われていた姉原家は、キッチンも尋常ではなく広かった。スカッシュができそうな寒々とした空間に調理器具がずらりと並んでいる。テレビの料理対決番組で使いそうな道具だけでなく、子牛を丸ごと焼けそうなガス台とか、こよみがすっぽり入れそうな大鍋とか、刃渡り三十センチはありそうな四角い包丁が突き立っている切り株状のまな板とかもある。
おまけに、隅のほうには、さわると痛そうなトゲが中にうじゃうじゃ生えている人型の棺桶とか、三角のギザギザがたくさんついている石板とか、いやそれを調理に使うのはちょっとまずいだろうみたいな品が積んであったりもする。
サンタクロースの格好をした十九歳の美鎖は、そんな中で、
「にゃんこが住んでるよいまちはー、たのしいたっのしいねこのまちー」
などと鼻唄を歌いながら料理をしているのだった。
見たままを表現すればこれはこれで六歳分幼い姿なのだといえそうだけれど、美鎖は二十五歳になってもむちゃくちゃな鼻唄を歌いながら料理するから注意が必要である。
キッチンの隅に置いてあるストゥールにちょこんと腰かけたこよみは、ゴーストスクリプトが出現したところからはじまって、ゴーグル型モニターをかけてなぜかここに来てしまったことまでを説明したところだった。ちなみに聡史郎から借りたブルゾンは着たままである。
頭のいい美鎖のことだから、料理をしながらでもちゃんと話を聞いているのはわかっている。でも、調理方法を見ているとなぜだか疑問が湧いてくる。不思議だ。
キッチン台には、しその葉、ショウガ、マッシュルーム、セロリなどの見たことのある食材がところせましと並んでいる。次々と材料を手にとり、美鎖は、首斬り処刑人みたいな勢いで包丁を振り下ろしている。
あくまでももしかしたらだけれど、なにをつくっているのかこよみには予想がつくような気がした。
「……それ、トムヤムクン、ですよね」
「あら、すごいわね。わたしが料理してるところを見て完成品を当てたのはあなたがはじめてよ」
「クリスマスにトムヤムクンってなんか理由があるんですか」
「特にないけど……寒いときって体が温まるものが食べたくならない?」
「なりますね。はい。なります」
まな板を傾け、切った野菜をざぶざぶと鍋の中に注ぎこむ。
何種類もの調味料を大雑把に叩きこむ。
白ワインをどぶどぶと鍋に注ぎこむ。ついでに、グラスを取りだしてワインをついだ。
「あなたも飲む?」
「だ、だめですよ。あたし未成年なんですから」
どでかい鍋をおたまでかきまぜながら、美鎖はワインをくいと呷《あお》る。かぐわしさと刺激を足してルートの記号をつけたような難解な香りがキッチンをただよいはじめた。
「そうね。小学生だものね」
「違います! さっき話したじゃないですか。高校二年生です」
「でも、住基ネットによると、森下こよみさんは十歳ってことになってるんだけど……」
じろりん。
こよみを見た。
「まあ、十歳でもいいかしらね」
「美鎖さあん」
「ごめん。冗談よ。ちょっと味見してくれるかしらア」
トムヤムクン(仮)のスープを美鎖は小皿によそった。
こよみはおそるおそる受け取る。
美鎖の料理は何度か振る舞ってもらったことがあった。トムヤムクンも食べたことがある。
とてもとてもおいしかったけれど。まさかこんなつくりかたをしているとは思わなかった。包丁|捌《さば》きも煮込みかたもこよみのほうがまだていねいである。人外魔境だと聡史郎が言っていた意味がやっとわかった。
目をつぶって、えいや、と飲んでみた。
おそろしいことに、おいしかった。
辛さと熱さをミックスしたようなそうでないようなぴりぴりとした感覚が舌先から喉の奥に走り抜け、液体を飲み込むと同時にすうっと消えるのだ。口の中に残るのは野菜の旨みとスパイスの香りであり。鮮烈なさわやかさであり、サウナのあとに水風呂にとびこんだときみたいな目がさめる感覚だった。
「どお?」
「すごくおいしいです!」
「よかった」
にこりとほほえんだ。脚を伸ばしてストゥールを引き寄せ、腰を下ろす。ワインをひとくち飲んだ。
「で、あなたはクリスマスショッパーのパスワードを見て帰ればいいのね?」
「そうです」
「クリスマスショッパーっていうのは、日本中のPCにひそかに蔓延《まんえん》しているワーム型ウィルスであり、その作者はわたしであるとあなたは主張するわけだ」
「そう。そうなんです」
「証明できる?」
「え、え? 証明……ですか?」
「わたしがそのクリスマスショッバーの作者だってことの証明」
美鎖は首をかしげる。高い天井の蛍光灯の光を反射して、鎖のついたメガネがきらりと光った。着ているのは真っ赤なサンタクロースの衣裳だ。なにか変だと思ったら、六年後の世界でアミユレツトはどんなときでも身につけている漆黒の|首飾り《アミュレット》を下げていなかった。
「でもでも、美鎖さん本人が言ってましたし。違うんですか?」
「それをあなたに聞いてるの」
「ええと……たしかクリスマスショッパーが奏でるのはクリスマスなのにデイジー・デイジーで、それが美鎖さんの、アクセル……じゃなくてブレーキ? じゃなくてハンドル! なんです」
「なんでそんなことまで知ってんのよ」
「だから美鎖さん本人に聞いたんですよう」
ぐいとワインを飲み干し、美鎖は高い天井を仰いだ。黒髪にひとさし指をさしこみ、ぽりぼりと掻いている。思案顔だ。
立ちあがった。
長い脚を交差させてキッチンを歩きまわり、ワイングラスを手の中でくるくると回しはじめる。
「わたしはあなたの言うことを信じてないわけじゃないの。でも、あなたの説明が正しいとすると。この世界のすべての存在はあなたが見ているゴーストスクリプト、つまりあるモノに染みついたコードの再生にすぎなくなるのよね。わたし自身が過去の記憶の再生だと考えるのはしゃくだけど、そんなことを言ってたら話がはじまらないからそのへんはよしとしましょう」
「あのあの、言ってることがよくわからないです」
「それなのに、六年前のこの世界の物体にあなたはさわることができるしスープの味見だってきる。通常じゃありえない現象よね。コードに対する感応力が尋常じゃなく高くて、ゴーストスクリプトが五感のすべてに影響を与えてしまっているのかしら」
「そうなんですか」
「どうやって帰るの?」
「すみません。聞いてないんです」
「だとすると、元の世界に帰れない可能性もあるわよね」
こともなげに爆弾発言したりする。
「ええ! こ。困りますよう。だって美鎖さん、電源を引っこ抜けば帰ってこれるって」
「あなた、こっちの世界に来てからどれくらい時間が経ってる?」
「ええと……たぶん二時間くらいだと思います」
「ゴーグル型モニターをかぶっている女の子を二時間も放っておくものかしら? わたしが六年後の自分だったらもうすこし早く止めると思うわよ」
「どういうことですか?」
「これは推測になるけど……」
美鎖は言った。
こよみはものすごい勢いでゴーストスクリプトのコードに感応していて。過去の世界の情報がぎゅっと圧縮されて脳に届いている。だから、六年後の世界ではそれほど時間が経っていないのではないか。
もちろん、十分だか二十分だかすれば六年後の美鎖はゴーグル型モニターを外してゴーストスクリプトへの感応を強制的に停止させるはずだ。しかし、その十分が、こよみの主観にとっての十分とは限らない。十時間かもしれないし百時間かもしれない。十分のあいだに六年間分の情報を体験してしまう可能性だってある。こよみの肉体は歳をとらないけれど、過去の世界に囚われた体験をしてしまうことにかわりはない。
「あたし、ど、どうしたらいいんでしょう」
「悪いけど、あなたの話が本当ならどうにもならないわ」
「そんなあ」
「六年後のわたしが早く気づいてゴーグル型モニターを外してくれるのを祈るしかないんじゃないかな。肉体の年齢はとらないし、バカンスだと思うことね。そのかわり、帰れるまで家にいていいわよ」
ストゥールの上でこよみはへなへなと肩を落とした。
「ほんとにへんですよね。あたしは過去をのぞいてるだけなのに、会話できたり、ものにさわたり……そうだ! 弓子ちゃん!」
「誰?」
「さっき入り口にいた銀髪の子です」
「その子がどうかしたの?」
「六年後の美鎖さんに聞いたんです。悪い奴がいて、弓子ちゃんとふたりで協力してやっつけたって」
「ふうん。あなたのところではそうだったのね」
美鎖は興味のなさそうな声を出した。
「え……だって美鎖さん、助けてあげないんですか?」
「わたしはウォシュレットじゃないわ。彼女に敵がいるとして、自分のおしりは自分で拭かなきゃ。そりゃあ、大人と子供だし、助けてくれってきたら考えなくもないけど、いまの時点で手を出すのは余計なお節介でしょ」
「でもでも、たしかきょう弓子ちゃんと美鎖さんは知り合ったとかなんとか……」
「あなたのところではそうだったんでしょ。この世界がゴーストスクリプトなら、記憶の再生にすぎないのだからわざわざ歴史をなぞって助ける意味はないし、そうでなく独立した世界だとすればやっぱり歴史をなぞる必要はないわ」
「そんなあ」
サンタクロース姿の美鎖が帰ってきたとき、悪そうな男と弓子は一触即発の状態に陥っていた。こよみは思わず男の魔法をたらいにしてしまったが、それは余計なお世話だったのではないだろうか? こよみがその場にいなかったら、こよみの役は美鎖になっていたのではないだろうか? 弓子が男の魔法を受け倒れていたら、美鎖は弓子と協力して戦ったのではないだろうか?
難しいことを考えるのは苦手だけれど、なんだかとても困ったことになってしまった気がする。
美鎖は難しい顔で歩き回っていた。
キッチンの扉が開き、聡史郎が顔を出した。
「姉さん。表のたらい、どうすんだ?」
「あら、スティーブ。いいところに来たわ」
「なんだよスティーブって。それよりたらいだよ金だらい。あんなでかいもん玄関に転がしとくわけにもいかねえだろう」
「はいはい。せかさないでよスティーブ」
「だからスティーブじゃねえっての。なんなんだその妙なあだ名は」
「いやあねえ。スティーブっていったらイアン・ロングと並ぶ名補佐役じゃないの」
「どっちも知らねえっつうの!」
六年前からずっと姉原姉弟はこんな会話をしていたらしい。
ぶちぶちと文句を言う聡史郎にこよみは頭を下げた。
「ごめんなさい。そのたらい、あたしなんです。そのへんに放っといてください。一日くらいで消えますから」
「なんだそりゃ。出したり消えたり、マジックじゃねえんだからそんなことあるわけねえだろうに」
「消えるって、もしかしてあのたらい……召喚したの?」
「そうですよ」
「あんなに質量のある物体を召喚? いくらなんでも人をからかうのはよくないわよ」
「ほんとですよう」
「召喚魔法ってものすごく難しいのよ。どっかのコメディーみたいに裏方さんが上から落としてくれるわけじゃないんだから」
「そのかわり、あたしはその魔法しか使えないんです。なにをやってもたらい召喚のコードになっちゃって。さっきも、銀座の魔王って人が出そうとした剣のコードを変換してたらいが出てきたんです」
「変換?」
「体の中でコードを組み換えるんです」
「それってどれくらい時間がかかるの?」
「時間はかかりませんよ。すぐです。なんといってもイッコしかコードを使えませんから」
「規模はどれくらい?」
一対一ならどんなコードでも、だと思います……たぶんですけど」
「それってある意味ものすごい能力よ」
「そ、そうなんですか?」
真剣な表情で美鎖は腕を組んだ。
扉に背をもたれかけさせ、聡史郎があきれた声を出す。
「姉さん、いい大人が真剣になって小学生のジョーク真に受けてんじゃねえぞ」
「小学生じゃないってば!」
「どう見ても小学生だろうに。それに銀座三丁目の魔王は人間じゃねえの。カラスだよカラス。このへんを根城にしてる片目のカラスだ」
「聡史郎、黙りなさい」
「ちぇ。つまんねーの」
高い天井についている蛍光灯が美鎖のメガネに白いラインを描き出していた。黙って立っていると、ウインドウガラスの中にいるマネキンみたいだ。サンタクロースの格好をしているきょうはなおさらそう見えた。
「……もしかしたらなんとかなるかもしれないわ」
「え?」
「あなたの言うことがすべて本当なら元の世界に帰してあげられるかもしれない」
「本当ですか!」
「ここは、あなたの頭の中であるともいえるし。別の世界であるともいえる。この世界全体に影響を与える大規模な魔法発動コードを実行すれば、それはすなわちこの世界に深く感応している現実世界のあなたにコードを実行させることになり、たらいに変換されてゴーストスクリプトそのものを停止させることができるかもしれない」
「どうやってやるんです?」
「タイミングのいいことにネットワークを使った大規模魔法をちょうど仕掛けてるところなのよね。ヘンなところで邪魔されたらかなわないからそっちにも協力してあげるわ」
美鎖は笑う。六年後の世界でも見たことのある、いたずらっぽい笑みだった。
「それがクリスマスショッパーよ。知ってるでしょ?」
6
six years ago #5
吾輩はかたまりである。ついでにネコだ。
や。お約束なので言わせてもらった。
さきほど聞いたところによると、ニンゲンは考える葦《あし》なのだそうだ。どうにもよくわからん。考える葦はニンゲンに変化《へんげ》するのか? 考えても考えなくても、生まれたときからネコはネコである。
それはともかく、生まれてより六カ月ほどのあいだ名無しであった吾輩は「かたまり」という名を得た。ニンゲンが発音する言葉がそのまま吾等ネコに通じているわけもなく、大通りを珍走するバイクの群れも雷の音も大工のでかい声もみな吾輩には同じに聞こえるし、ネコに名前をつけるのはニンゲンの一方的な都合にすぎぬのではあるが、くれるというのならもらっておく。
かたまり。
うにゃん。
ニンゲンが名前をつけるのは、不死身の魔物の姿が見えなくなったからだと言われている。
首のうしろで鎌をふりあげている魔物のことをニンゲンは知っているが、姿を見ることも声を聞くこともできない。だからその魔物にニンゲンは名前を与える。不可解なるモノにまず名前を与えて、それを認識しようと試みる。名前が与えられることにより、不可解なものも形あるものとなるのだった。
命を刈りとる魔物の存在を日々知覚している吾輩に、だからニンゲンの恐怖はわからない。
よく「ネコは死期を悟る」などとニンゲンは言う。
それはまあ、当たらずとも遠からずである。
かといって、未来を予知する能力をネコが持っているわけではない。無闇にネコを神秘化するのはよくない。吾等ネコという種族は、ニンゲンより耳がよく、ちょっとばかり鼻も利いて、暗いところが見えるかわりに遠くのものも色彩もよくわからないドウブツにすぎない。
たとえば、沈没する船からネズミが逃げだすのは、気圧の変化や風の湿り気を読みとり、ここにいては危ないと予測してのことだ。訓練されたニンゲンは山の天気を予測することができるし、濁流の流れを読みとり船を操舵することができる。多くのニンゲンが、本当は届いているはずの情報を捨て去ってしまっているだけの話である。
環境の大幅な変化によってネコは死の訪れを予感する。いまの吾輩もそうだ。ネコの死神が鋭い牙を吾が首筋に打ち込もうとしているのをひしひしと感じている。
その変化とは、隻眼《せきがん》のハシブトガラスを倒すためにニンゲンのオスが持ちだした新兵器だったり、突然現れた二匹のメスだったり、よくわからぬ力を使う正体不明のオスだったり、銀座の街を覆わんとしている不気味な雰囲気であったりさまざまだ。いま現在、吾輩のテリトリーにはかつてないほど大きなうねりが生じている。それがあるいは吾輩の命を奪うことになるやもしれぬのである。
吾輩は死ぬかもしれないし死なないかもしれない。
隻眼のハシブトガラスに一矢《いっし》報いずに死ぬのは心残りではあるが、それはそれでしかたのないことだと思う。危なくなったら安全な箱の中に隠れていればよいし、それでもだめなら箱ごと潰されるだけだ。ネコはじたばたせず運命を従容《しょうよう》として受け入れるのだ。
公園を出た銀髪のメスは、吾輩を抱えたまましっかりとした足取りで銀座の裏通りを歩きはじめた。
野生の吾輩を抱きかかえるとは失れな。
よじよじ。
手の追求を逃れ、肩までよじのぼった。
むむ、喉などくすぐるな。しゃらくさい。ネコの扱いかたをわかっているニンゲンだな。ごろごろ。
「この街にはコードが渦を巻いていますのね。貴方も感じていらっしゃるのかしら?」
メスが言った。
にゃ。
なにを言っているかはわからないがとりあえず同意してやることにする。
「コードを読むということがだんだんわたくしにもわかってまいりました。世界はこんなにもコードに満ちていたのですね」
このメスには吾輩と同じ匂いがした。単独で行動するケモノの匂いだ。仲間の匂いがついていないといえばいいだろうか。イヌのようには群れをつくらないドウブツだった。
しかし、まだ幼いから、このメスは狩りの仕方がよくわかっていない。どのタイミングで獲物に跳びかかり、どこに牙を打ち込むかがまったく理解できてないのだ。おまけにヒゲもないではないか。どうやって牙を打つ場所を探るというのだ。
テリトリーで勝手をされると吾輩は非常に困る。よって、このメスを見張っていなければならない。ひらりんひらりんと魅惑の輝きを発する髪を追いかけているうちに抱きかかえられてしまったのではけっしてない。吾輩の名誉のために言っておく。
「わたくしにも敵が見えますわ。手はじめは……そうですね。わたくしの名を知っていたあの女から……」
銀髪のメスは、くくくと、顔を歪めてニンゲンらしからぬ笑いを漏らす。
吾等ネコが、敵のマーキングを嗅ぎとる表情に似ていた。
*
クリスマスショッパーのコードが完成する夜九時頃までに帰ってくる約束をして、こよみは、暮れなずむ銀座の街に銀髪の少女を探しに出かけた。
これといってあてがあるわけではなかったけれど、弓子をひとりで放っておくのは危険だった。
六年後の世界の美鎖はたしか「弓子とふたりで協力して悪い奴をなんとかやっつけた」と言っていたはずだ。悪い奴というのは、弓子に向かっていきなり剣のコードを放った白人男性のことだろう。なんの防御もされていない小学生の女の子に剣のコードをぶつけたら死んでしまう可能性だってあるのだ。そんな人間が悪くないはずはない。
この世界の美鎖は、悪い奴をやっつけるのに協力してくれないらしい。
こよみを六年後に帰すためのクリスマスショッパーの調整で手いっぱいで、その気があっても協力してくれる余裕があるかどうかは怪しいし、それどころかあの男には近寄らないほうがいいなどと言われてしまった。普通の人間にしてはコードが異常なのだそうだ。
美鎖が手伝ってくれないとすると、こよみと弓子のふたりでその悪い奴をなんとかしなければならない。かつてソロモンの魔物を止めたときもこよみと弓子はふたりで出かけた……ちょっと違うか。弓子が助けてくれたというか。こよみが勝手についていったというか。とにかくそんな感じだ。でも、十六歳になった弓子は一人前の魔法使いであり、ケリュケイオンの杖を使いこなしていたのだった。
それにしても、美鎖の代わりがこよみというのは戦力が思いっきり落ちてしまった気がする。トランプゲームで、ハートのクイーンを捨てた代わりにスペードの3くらいのカードを引いてしまった気分だ。自分で自分のことを3と言ってしまうのもちょっとなさけないけれど。
でも、この世界の美鎖はこよみの能力をものすごく×10過大評価しているようだ。たらいをしようかん召喚する魔法がそんなにすごいわけがないのに。
ゴーストスクリプトを見ているだけだからといってこよみが安全とは限らないとも忠告された。物理法則を変化させるコードがすなわち魔法である。この世界でこよみがケガをしたり死んだりすれば、コードの感応によって六年後のこよみもケガをしたり死んだりする可能性が高いらしい。
こよみにとってはどうせ消えてしまう世界なのだから安全のために黙って座っていろと美鎖は言うけれど、やっぱりこよみは、小学生の弓子をひとりで放っておくことができない。たとえそれが消えてしまう弓子だとしても、放っておくのはなにか違う気がする。だから、せめて帰還する時間まではなにか協力してあげようと思ったのだった。
なにかあったときのために美鎖が貸してくれた予備のケータイを手に、こよみは銀座の街へ出た。
夕暮れの街はイルミネーションでいっぱいだった。暗くなりつつあるビル街のきらびやかな夜景の中で、樹々に飾られた電飾が寒さにかじかむようにひっそりと光っている。通りを行き交う車のエンジン音とジングルベルは混ざり合い、空気をいつもよりすこしだけ透明にしている。そんな中を、聡史郎から借りたブルゾンを制服の上にはおってこよみは歩いていた。
となりには、つまらなさそうな顔をした聡史郎がのしのしと歩いている。どうやら、小学生が夜にひとりで歩くのは危ないという理由でついてきてくれたらしい。自分だって小学生なのに。いまだに彼は、こよみが高校二年生であることを信じてくれない。
十一歳の少年はこよみよりもだいぶ背が高かった。真横を見てみると、こよみの身長は彼の鼻くらいまでしかない。遺伝子の神さまはとてもとても不公平だ。
ビニールパックからなにかつまんでは、聡史郎は歩きながらぽりぽりと食べている。こういうところが、大きく見えてもやはり小学生なのだなとこよみは思ったりする。歩きながらお菓子を食べるなどと言ったら、六年後の姉原聡史郎はみっともないことをするなと怒りだすはずである。
差しだしてきた。
「おまえも食うか?」
「な……なに」
「ふ」
聡史郎は言った。
ひとつつまんでみると、ふんわりとした一口大のパンを力自慢の大男がぎゅっと握り潰して固めたような物体だった。これはまぎれもなく|ふ《ヽ》だ。
「これって……お味噌汁に入れるものじゃなかったっけ?」
「コウチョクカした思考が世界の発展をさまたげると姉さんは言ってたぞ」
少年はビニールパックに手をつっこみ、ひとかけらつまみ出した。
ぽりぽり。
食べている。
こよみも思いきって食べてみることにした。
前歯でちょっぴり齧《かじ》った。舌の上に乗っかったふは、固い物体であることをすぐに忘れやわらかく溶けだす。どこまでも淡白で、どこかせつない味だった。
「まずいか?」
「ううん。おいしいね」
人工の光の中を歩きながら、ふたりはぽりぽりとふを齧る。
「つきあわせちゃってごめんね」
「言っとくが、おれはかたまりを探してるんだ。おまえにつきあってるわけじゃねえの」
「うん。ごめんなさい」
「なんだそりゃ。ヘンなタイミングであやまんなよ」
「ごめ……わかった」
「前にかたまりのハンティングエリアを調べたことがあるんだ。銀髪の弓子ってガキをかたまりは追ってったみたいだからな。一緒にいる可能性は高いと思うぞ」
「は、はんていんぐえりあ?」
「ネコは二種類のテリトリーを持ってんだよ。他のネコを寄せつけない自分の家みたいなエリアと、エサを狩るためのエリア。たいていの場合、ネコがこのエリアから出ることはねえの」
「すごい。もの知りなんだね!」
「よせよ」
照れたようだ。
聡史郎と出会った最初のクリスマスもこうやって銀座の街を歩いた気がする。一年年上の高校生だった彼のてのひらは大きくて、あたたかくて、ちょっとどきどきしていた。いや、どきどきしていたのはこよみの心臓だったかもしれない。
そこまで思いだして、こよみは考えた。
ここは六年前の世界だ。だとすると、聡史郎と出会ったクリスマスは今回が最初ということになるのではないだろうか? 詳しい仕組みはよくわからないけれど、こよみと聡史郎が出会う五年前の世界であることはたしかである。
せっかく最初のクリスマスに手を繋いだと思っていたのに、こんな反則みたいな形でそれが変わってしまうのはなんだかずるい気がする。ずるいずるい。べつに聡史郎のことが好きとかそういうわけじゃないんだけどないんだけどほんとに。だって彼は、現代魔法をマスターしたら一番最初にがあんとやってやる宿敵だ。
「なに赤くなってんだ? 風邪でもひいたか?」
聡史郎はいぶかしげな表情をした。
「ううん。へいき」
「さっきからヘンだぞ。おまえ」
「……」
「なんだよ」
「手。つなごっか?」
「冗談言うな。恥ずかしいだろ」
「ええ! つないでくれないの……」
うるうる目でこよみは見つめた。
背の高い少年は狼狽している。
「……くれないの?」
「わかったよ。わかったからそんな顔すんなって。お願いだからやめてくれ。ったく、おまえはガキか」
「いーだ。ガキで悪かったですよーだ」
わざと乱暴につきだしてきた手を、こよみはそっと握りしめた。小学生だというのにやっぱり大きくて、そしてあたたかいてのひらだった。
「ねえ」
「なんだよ」
口調はぶっきらぼうだ。
「ぎんざさんちょうめのまおうってなんなの?」
「言っただろ。カラスだよ」
「それは聞いたけど、カラスさんがなんで魔王なの?」
「銀座のハシブトガラスをなめんなよ。高級料理店の残飯食ってバカでっかく育ちやがって、ゴミは荒らすわ人は襲うわペットは襲うわ光り物は盗むわで、ヒッチコック並みなんだぞ」
「でも、なんで聡史郎くんがやっつけようとしてるの?」
「家の敷地とヤツのエサ場が重なってるからだよ。かたまりのテリトリーも家だからな。おれたちにとっての共通の敵なんだ。だから共同戦線を張ってる」
「……いろいろたいへんなんだね」
「まあな」
手をつないだまま聡史郎は器用に肩をすくめた。
そして。立ち止まった。
「……どうしたの?」
真っすぐ前を見つめている。
視線の先に、イルミネーションを浴びてきらめく少女の銀髪があった。
「見つけましたわ」
「弓子ちゃん! よかったあ」
「かたまり!」
弓子の肩に乗っていた黒ネコはぴくっと耳を動かした。そのまま、ぴょんと跳んで闇の中へ溶けこむ。
「おいちょっと。かたまり!」
聡史郎の手をこよみはぎゅっと握りしめる。
「だいじようぶ。行っていいよ」
「わりい」
「がんばってね」
「そっちもなー」
黒ネコが消えた闇に向かい、聡史郎少年は駆けていった。
7
six years ago #6
サンタクロース姿の姉原美鎖は液晶ディスプレイに向かってキーを叩いていた。
すぐ横には剥きだしの基板が置いてあり、直接ハンダ付けした太いコードでコンピューターに接続されている。緑色の基板に差し込んであるのは、豆のようなコンデンサーや、小人さんが食べるソーセージみたいな抵抗だ。ごちゃまぜの部品の上を色とりどりのコードが宙をとびかっている。
基板の中央にあるのは光を反射しない四角い物体だった。シリコンでできた石である。コンピューターを見慣れた人間であれは、ヒートシンクをつけなかった時代のCPUだと思うかもしれない。
だが、コンピューターに差しても起動はしない。このままではただの石ころにすぎない。
クリスマスショッパーのコードが成功すれば、いまはただの石であるこの物体は二千四十八の可変コードが詰まったアミュレットとなるはずだ。そのために美鎖は危険を冒し、ネットワークに繋がった世界中のコンピューターにワーム型ウィルスをばらまいたのだった。
こよみという少女の話では、クリスマスショッパーは意図せぬゴーストスクリプトを発生させるらしい。
たしかに、たったひとつのマジックアイテムをつくりだすにしては、クリスマスショッパーは大がかりな魔法だといえる。マジックアイテムをつくるのははじめてだったため。どのくらいの規模のネットワーク魔術を行使すればよいか美鎖にも見当がつかなかったのである。
姉原学院に残っている記録によると、近代において、六百六十六人の司祭が六百六十六日間のあいだ祈りを捧げてマジックアイテムをつくった例があるそうだ。実のところ六六六という数字にはなんの意味もないのだが、六百六十六という量は重要だ。それだけの人間が一心不乱になって組んだコードなのである。複雑なコードが人間のようには組めないコンピューターが祈りを捧げるのだから、一万倍くらい必要であってもおかしくない。
クリスマスショッパーは、ただの石に何百万何千万回とコードを叩き込み、石の構造そのもに染みつかせる。簡単な言いかたをすれは、幽霊というアプリケーションを人工的につくりだし。石の中に閉じ込める魔法だとも言える。原理的にはゴーストスクリプトと一緒だ。
適切な方法に従ってつくりあげた幽霊は適切な呼び出しによって適切なルーチンを渡してくれる。だが、自然に発生したゴーストスクリプトではそうはいかない。モノに強烈に染みついてしまっただけの幽霊は。好き勝手に出没し、ときには勝手にうろつきまわる。
クリスマスショッパーの余剰コードによってゴーストスクリプトが発生するというのは理にかなった説明である。言うこともやることも無茶苦茶だけれど、現時点では、六年後の世界から来たという森下こよみの言葉を疑う理由はなかった。
予定では、クリスマスショッパーのコードが完成するのほ午後九時前後。
アミュレットを完成させたのち、余剰コードを変換して彼女を六年後の世界に帰してやれば、こよみという子も助かるし、美鎖も余剰コードに悩まされなくてすむようになる。一石二鳥だった。
六年後の世界でも警察に捕まっていないらしいのは朗報だ。だいたい、使っていないCPUを勝手に借りたくらいで逮捕されるほうがおかしいのだ。CPUを遊ばせておくことこそ許しがたい犯罪なのだから……。
座ったまま美鎖は大きく伸びをした。ファンとハードディスクの駆動音しか存在しない室内に椅子がぎしりと軋《きし》む音が響きわたった。
使用していないディスプレイの黒い画面には白いフリルのついた真っ赤な衣裳の女性が映りこんでいる。クリスマス・イヴにサンタクロースがプログラミングをしているのを見たら、全国のよいこたちはヘンな悪夢にうなされてしまうかもしれない。
二、三年前までは、クリスマスにサンタの格好をすれば聡史郎は喜んでくれたのにいまはとりあってもくれなくなってしまった。それはちょっぴりさびしいことだ。これが大人になるということなのかもしれないが、母親代わりに育ててきた姉としては複雑な気分だった。
気の抜けた炭酸水を口に含む。
遠くノックの音が聞こえた気がした。
来訪者だ。
こよみという少女ではない。もちろん聡史郎でもない。弟はノックなどしない。銀髪の少女でもないだろう。近隣住民の可能性も捨てていい。ここは、新聞拡張員でさえ避けて通るホーンテッドハウスである。
ネコか……いや、聡史郎よリノックをする確率が低い生物がネコだ。だが、感じとれるコードは、人間よりも動物のそれに近い気がする。あるいは、優れた魔法使いがみずからのコードを隠蔽《いんぺい》しているのかもしれない。
姉原美鎖は衣ずれの音とともに立ちあがった。
玄関の扉の前に男は悠然と立っていた。
生気のない男だった。夜の墓場の雰囲気を外套《がいとう》がわりにまとっている。古風な三っ揃いのスーツを隙なく着こなす姿は、高級紳士服店にディスプレイしてある人形を想像させた。美鎖が帰宅したとき、館の前で言い争いをしていた男である。
すこしだけ開けた扉から顔をつき出し、美鎖は言った。
「新聞の勧誘ならまにあってるわ。NHKの受信料はちゃんと払ってるし、外貨も生命保険も聖書もゴムヒモもいらないわよ」
男は苦笑したようだ。白人特有の彫りの深い顔に、玄関の照明がつくりだす光が死人のような陰影をつくりだした。
「ジョワイユ・ノエル。マドムアゼル」
できの悪いスピーカーが奏でるかすれ声に聞こえた。
「ここは日本。あいさつは日本語でしてくれないかしら」
「姉原美鎖を出してもらおう」
「ここにはわたししかいないし、アネハラミサはあなたに用はないと思うわよ」
一瞬だけ考え、美鎖は答える。
目の前の男は、こよみという少女と美鎖を勘違いしているようだ。訂正してやる義理もないので放っておくことにする。
「貴様は何者だ」
「なにって、正義のサンタさんよ。見ればわかるでしょ。あなたは誰なの? 悪のスケルトン?」
「ジャンジャック・ギバルテス」
「他人の名前を騙《かた》るのは感心しないわね」
「その様子では知っているようだな。まちがいない。わたしがギバルテスだ」
その名に美鎖は聞きおぼえがあった。
古いふるい書物に載っていた名前だ。曾祖父姉原研十郎と戦い討ち果たされた魔法使いと聞いている。大魔女ジギタリスを追い日本にやってきたエクソシストと、ジギタリスの秘術を盗むために上陸したギバルテス。百年以上むかし、四者は壮絶な戦いを繰り広げたそうである。
もっとも、美鎖は頭からそれを信じているわけではないが。
「よいコードを持っているな。これほどの素養のある人間がひとつの街に三人もいるとは、二十一世紀も捨てたものではない」
「ほめてもらえてうれしいわ」
「敵の力を知るのも能力だと東洋の軍師も言っている」
「知ってるわよ。それも」
目の前の男が本当にジャンジャック・ギバルテスであるなら美鎖が敵うはずはなかった。魔法が近代科学に置き換えられようとしていたまさにそのとき、古典魔法というものに対する研究が頂点を極めていた時代の人物である。そんな時代に、大日本帝国が総力をあげてつくりだした英才姉原研十郎と、欧州の天才エクソシスト、カルル・クリストバルドのふたりを相手にギバルテスは対等に渡り合ったという。
だが、それも、百年もむかしの話だ。二十一世紀の現在、力ある古典魔法使いはすべて墓石の下で眠っている。永遠に生きる方法を魔法使いは編みだせていない。
「ここも寂れたものだな」
唐突に男は言った。
「わたしが知っている煉瓦はこんなくすんだ色ではなかった。鉄の門はぴかぴかに磨いてあったよ。庭に植えられた草が毒草ばかりなのはいまもむかしも変わらんがね」
「ギバルテスのフリをしてもだめよ」
「信じなくともよい。わたしは取り引きに来たのだから」
「それなら、場合によっては聞いてあげなくもないわ」
「わたしの目的は、ジギタリスが遺した魔女のライブラリだ。そして、それはケリュケイオンの杖に封印されている」
「ここにその杖はないわよ」
「杖を持っているのはクリストバルドの末裔《まつえい》だ。それはもうわかっている」
「あの。銀髪の子ね? あの子が……クリストバルドの末裔だったのね」
ギバルテスはうなずいた。
「わたしはライブラリさえ手に入ればいいのだが、いろいろ邪魔が入るのでな。姉原美鎖に手を引いてもらおうとやってきたわけだ。そのかわり、わたしは、姉原美鎖が行なっている大規模な魔術儀式を邪魔しない。対等な取り引きだろう?」
「その魔術儀式をやってるのはわたしよ。あなたが探している|アネハラミサ《ヽヽヽヽヽヽ》じゃない」
「ほう」
青い瞳に驚きの光が交じった。
「てっきり姉原の末裔の魔術かと思ったが。貴様だったか」
「魔女のライブラリにもケリュケイオンにもわたしは興味はないけれど、気になるんだったら約束してあげてもいいわ」
「なかなか話が早いな」
「そうね……自分がやってることが終わるまではお互いに邪魔しないってのはどう?」
「つまり早い者勝ちで邪魔できるということだな?」
「そういうことになるかしらね」
「なんの約束にもならん。が、正直だ。気にいった」
ジギタリスは、魔女狩りをやめぬ権力に対抗し、欧州を荒らし回った悪の大魔法使いだ。一度は騎士団に捕らえられ火炙りにされたが、彼女は幾度となく復活し、教会に戦いを挑んだ。彼女の秘術を記した魔道書《グリモア》がどこかにあるという噂は、古典魔法をかじる者なら誰でも知っている。
もちろん、美鎖は、伝説の魔女の復活など信じていない。
人間の知識はデータであり、精神も魂も演算活動にすぎない。死んでしまえばすべてが終わりだ。そう考えるのが現代魔法である。親に教わらずとも捕食し空を飛ぶ昆虫などの原始的な生物と違い、人間はデータを持って生まれてくるわけではない。人間というマシンの外側に蓄えなけれは、その人物が死んだときデータは失われてしまうのだ。
魔女のライブラリは、だから、ジギタリスが生涯をかけて記したコードの集合体である。適切なコードを使うことによって、魔法使いはジギタリスの叡知を外部関数として呼び出せるようになる。それゆえ特別にライブラリと呼ばれるのだ。魔女のライブラリを手に入れた者は、大魔女が使った幾万ものコードを自由に操れる。
外側から見れは、それは、ジギタリス・フランマラキアが甦ったようにも見えるだろう。
「できれば女の子たちに危害を加えないでくれると助かるんだけど」
「邪魔しなければなにもせん。だが、邪魔だてすれば、保証の限りではない。いい話し合いができた」
「そうね」
「機会があればまたお会いしよう。マドムアゼル」
そう言ってギバルテスは去った。
美鎖が呼吸をしようと思いたったのは、男のコードが完全に感じられなくなってからだ。
口の中がからからだった。息を吸いこむと音がした。肺が新鮮な空気を求めていた。金縛りにあったわけでもなくただ話していただけだというのに、息をすることすら忘れ、十二月の夜風が吹く玄関に美鎖は立ちつくしていた。
「おいおい、把手《とって》でもねじ切るつもりか?」
耳慣れた弟の声で美鎖は現実に戻る。
ほとんど背たけの変わらない弟が顔を見つめていた。
「……おかえりなさい。聡史郎」
「どうしたんだよ姉さん。クリスマスを寝過ごしたサンタクロースみたいな顔してるぞ。っていうか、なんでこんな手が冷たいんだよ。風邪ひいちまうじゃねえか」
「そ、そうね」
上から包みこんでくれた聡史郎の手があたたかい。
一緒にやってきた黒ネコは門柱に跳びあがり、四肢を踏んばって、スーツ姿の男が消えた方角に警戒の視線を向けていた。
ギバルテスは本物だ。
美鎖にはそれがわかった。
いや、偽者でもなんでもいい。彼の実力が本物であることはまちがいなかった。手を伸ばせばさわれる距離で話したことにより、男のコードがどれほどのものか美鎖には理解できたのだ。あの男は、古典魔法最盛期の魔法使いとしか思えない卓越したコードを内に秘めていた。
百年もむかしの古典魔法使いが突然現れた理由。魔杖《まじょう》ケリュケイオンの継承者。ゴーストスクリプトを消しに過去の世界をのぞきに来た少女。少女は、ゴーストスクリプトの発生はクリスマスショッパーのせいだと言う。
だんだんわかってきた。ギバルテスの存在そのものが、森下こよみが真実を言っているという証明になっているのだ。なぜ魔女のライブラリを手に入れなければならないかも。
ゴーストスクリプトがすべての鍵だ。
それが、さまざまな出来事を一本の細い線で繋ぐ。
あのギバルテスが、曾祖父姉原研十郎とカルル・クリストバルドと戦って敗れた男であるなら、姉原の末裔を生かしておくとも思えない。そうするだけの理由があの男にはある。だけれど、いまの美鎖の実力では逆立ちしたって敵わないはずだ。二千四十八の可変コードを持つアミュレットが完成して、ふたりの魔法使いと協力したとしても太刀打ちできるかどうか……。
だとすれば、急がねばならない。
銀髪の少女が持つ魔女のライブラリをあの男が手に入れる前に森下こよみを呼び寄せ、クリスマスショッパーの余剰コードをすみやかに消滅させる。
それだけが、百年前の世界からやってきた強力な古典魔法使いに対抗する、唯一の手段だった。
*
「じろじろとなんですの?」
甲高い声で弓子は言った。
場所は銀座三丁目の裏通り。時刻は午後七時をまわろうとしていた。
聖なる夜も更けはじめ、道往く人々は仲睦まじく寄り添い、あるいは家路を急ぎ、あるいは赤い顔をつきあわせて笑い合っている。どこかからかすかに聞こえてくるジングルベルのメロディーに合わせてそんな光景が繰り返されていた。
制服の上に男物のブルゾンを着たアネハラミサの視線は弓子の上半身から離れない。あるいは、体を流れるコードを調べているのかもしれない。子供にしか見えない幼い顔からは緊張感というものが感じられなかったが、油断は禁物だ。この女は、他人が組んだコードを一瞬にして組み換えることができるのである。
「ごめんなさい。なんでもないの」
アネハラミサはぺこりと頭を下げる。
弓子はケリュケイオンを強く握った。
「貴女、わたくしをバカにしていますの?」
「そうじゃないけど……」
「けど、なんですの?」
「……おこらない?」
上目遣いにアネハラミサは言った。とても年上の女性には見えない仕享だ。弓子はため息をつく。
「怒りませんことよ。隠しごとをされるほうが気に障ります。さあ」
「あのねあのね……本当におこらない?」
「ぐずぐずしていると怒りますことよ!」
「ご、ごめんなさい!」
身をちぢこまらせた。
弓子はぎろりと睨みつける。
「……このかんとー平野みたいな胸が数年後にはチョモランマになっちゃうんだなあって……いいなあって、思ってたの」
「は、はあ。そうですの……」
「あ、でもいまはまだあたしのほうが大きいよね。えへへ」
「わたくし、こう見えても小学生ですのよ」
「それはわかってるの。いまの弓子ちゃんが小学五年だって。小学生の女の子と比べてほっとしちゃったりするのが情けないのは自分でもわかってるんだけど、いまこの瞬間を逃したらゆうえつかんを味わうチャンスは未来|永劫《えいごう》来ない気がするし……ごめんなさい」
ぺこりん。
頭を下げた。
弓子は、ケリュケイオンの杖を握り、開き、そしてまた握る。
全身から力が抜けていた。
ここに来るまでは、ギバルテスどころかアネハラミサまでもケリュケイオンの魔法でやりこめてやるつもりだったのだが、目の前にいる女は高ぶった感情をアリ地獄のように際限なく吸いとってしまう。なんというか、怒るのもバカらしくなった。
「わたくし、アネハラミサという人物を誤解していたようですわ」
「美鎖さん?」
「貴女のことですわよ」
「あたしは美鎖さんじゃないよ。あたしの名前は森下こよみ。六年後の世界から来た美鎖さんの弟子。これでも高校生なんだよ」
「冗談も休み休みにしてくださいまし」
「なんで?」
「なんでと言われましても、未来の世界だなんて」
「まほうがあるのにみらいの世界があっちゃだめなの?」
こよみと名乗った少女は首をかしげた。
「そういうわけではありませんけれど……」
こよみは、砂利敷きの花壇にちょこんとおしりをあずけた。背の低いこよみがそうして腰かけるとほとんど足が地面から浮いてしまう。ぶらぶらさせている様子はとても年上には見えなかった。
こよみが自分の横をしきりに指さすので、しかたなく花壇の端のほうに弓子も腰を下ろした。大理石のブロックがおしりに冷たい。道往く人々は、ふたりの少女にちらりと視線を投げては足早に去っていく。
たどたどしい口調でこよみは説明をはじめた。
いわく、こよみの年齢は十六歳であること。未来の世界でこよみと弓子は友人であること。そこではゴーストスクリプトのコードが異常発生していること。それをなんとかするべく過去の世界をのぞいたつもりが、なぜか体ごと過去に来てしまっていること。本当は美鎖と弓子が協力してギバルテスを倒すはずだったのに、なぜか美鎖の役割がこよみになってしまっていること。
姉原美鎖が用意しているネットワーク魔術をたらいに変換させれば、彼女は六年後の世界に帰れるらしい。にわかには信じられないが、それを言ったら魔法の存在だって誰も信じていないのだ。彼女が弓子に嘘をつかなければならない理由はない。まあ、こよみが魔法を変換するだけですべての事件が解決してしまうというのは眉唾《まゆつば》だと思うけれど。
「つまり、貴女もこの世界では異邦人というわけですね」
「いほうじん?」
「貴女は高校生ではありませんの?」
「そ、そうだけど……」
「だったら異邦人の意味くらい知っておきなさい。なんで小学生のわたくしが高校生に言葉の意味を説明しなければいけませんの?」
「ごめんなさい」
こよみはうなだれたようだ。
さらに怒ってやろうと息を吸いこんだとき、弓子のお腹がくーとちいさな音をたてた。
そういえは、朝からなにも食べていなかった。
「あ、弓子ちゃん、お腹減ってるんだ」
「平気ですわ」
「美鎖さんの家に行けばたぶん料理をごちそうしてくれるよ」
「いまはそれどころではありません。貴女の話によればギバルテスという男をなんとかしなければならない上に、姉原美鎖はあてにならないのでしょう?」
「わかった」
ぴょんと花壇から跳び降りた。
「どうしましたの?」
「そこでハンバーガー買ってくるね。あたしもちょっとお腹空いてるんだ」
駆けていってしまった。
どうも調子がおかしかった。タイミングが狂うというか、こよみという少女は、弓子がどう受け答えするかわかっていて会話をわざとずらしているような気がする。あんなとろそうな少女に先回りされていると思うとすこし腹立たしい。でも、六年後の世界でつきあいがあるというのなら、それもしかたないかもしれない。同い歳で弓子と友達づきあいができる性格とはとても思えないのではあるが。
遠くで点滅する電飾を見上げていた弓子は、黒ネコがひざをよじのぼりはじめているのに気づいた。
ネコなのだからひと跳びすればいいものを、そのネコは、弓子の視線をわざわざ避けるように行動している。二度失敗したあと、黒ネコはスカートに爪をひっかけ登頂に成功、弓子の太腿の上で肉まんの形に丸まった。
一瞬、あの黒ネコが帰ってきたのかと思ったが違うようだ。姉原家で出会ったネコより一回りほど大きい。そして、あのネコほど温かくなかった。
「となり、よろしいかね」
歳老いた声に弓子は顔をあげる。
白髪の老人だった。古めかしいフロックコートを着てシルクハットをかぶっている。いまどきめずらしい格好だけれど、クリスマスだからといってサンタクロースの衣裳を着る人間がいることを思えばそれほどおかしくもない。帽子に隠れ顔はよく見えなかったが、その彫りの深さは、弓子と同じく異国の血が流れている人物のような気がした。
「よろしいですわよ。わたくし、もうすぐ行くところですから」
「安住の地にたどりついたネコをすぐさま放りだすのはかわいそうじゃないかね」
黒ネコは目をつぶっている。ときおり、思いだしたかのようにしっぽがゆらゆらと揺れた。
「となりといっても花壇ですことよ?」
答えず、老人は腰を下ろした。
「お嬢さん」
「なんですの?」
「大統領とゾウという話を知っておるかね」
「知りません。悪いですけれど興味もございませんわ」
ほっほっは、と老人は乾いた笑い声をあげた。
「ネコが起きてどこかへ行くまでだ。そう言わず聞きなされ」
「……」
かまわず老人は話しだす。
「大統領とゾウ、どちらがケンカが強いのかという話がある」
アフリカゾウの成獣の体長は六メートルから七メートル、高さにして四メートル、大きい個体の体重は七トンにも及ぶ。
百獣の王はライオンとされているが、一対一の戦いでライオンがゾウに敵《かな》うことはない。水飲み場にゾウの群れが来たらライオンの群れは場所を譲るのだ。戦いを挑んだとしても、牙によって致命傷を与える前に踏み潰されて死んでしまう。草食の獣でありながら現存する中でゾウは地上最強の生物である。
ところが、銃を持った人間のハンターはゾウ相手に易々と勝利を収め、牙を抜いて去っていく。そのハンターも夫婦喧嘩をすると奥さんに負ける。奥さんは町内会の会長に負けて、会長は市会議員に負ける。
こうやって次々に強いものをたどっていくと、最後には合衆国の大統領にたどりつく。大統領は世界最強の軍隊と核ミサイルを持ってるから一番強い。どんなケンカにも負けない。
「なんですの、それ?」
「しかし、ホワイトハウスの執務室に大統領とゾウを閉じこめればどうなるかね」
「人間とゾウですもの。勝負になりませんわ」
「そうだ。まちがいなくゾウが勝利を収める。では、いったい一番強いのは誰なのかね。ゾウかね。ハンターかね。それとも大統領かね」
皺《しわ》だらけの口もとに、老人は人の悪い笑みを浮かべた。
「知りませんわ」
「こんど、人に会ったら聞いてみるといい」
「答えを教えてくれるのではありませんの?」
「答えなどないんだよ。誰が強いかなど誰にもわからない。その人物がどう考えているかによって答えは変わる。お嬢さんはゾウとハンター、どちらだと思うかね?」
「大統領かもしれませんわ」
「嘘はいかんな」
「初対面の方にそんなことを言われるおぼえはなくってよ」
銀の杖を弓子は握りしめる。
老人は目を細めた。
「それほど杖が大切なのかね?」
腿の上の黒ネコがびくっと震えた。弓子の体に緊張が走ったからだ。
「ギバルテスの仲間でしたら、老人とて容赦しませんわよ」
ほっほっほ、と笑う。
「それぼど大事そうに抱えておれば誰でもわかるよ。幸いなことにわたしはまだ健脚だ。盗ったりせんから安心しなさい」
「誰にでも大切なものはございますわ。貴方もそうでなくって?」
老人はゆっくりとうなずいた。
「そうだな。わたしにも大切なものがある。でも、それはわたしの歴史が刻まれたものだ。わたしが生きた証《あかし》だ。その杖がお嬢さんにとっての大切なものとなるのは、お嬢さんがみずからの歴史を刻んでからのことだと思うが、違うかね?」
「余計なお世話ですわ!」
「さよう。余計なお世話だ。だが、大切なことだ」
老人は顔をあげる。シルクハットのつばに隠れた瞳が弓子を射抜いた。通りを横切る車のへッドライトが老人の顔を照らしだしたのだ。その瞳は紫。あるいは光の加減かもしれない。老人と思った顔もずっと若く見えた。銀の髪と紫の瞳を持った男は、弓子にやわらかな笑みを向けていた。
「きみの人生にかけた呪いは、わたしができた最大の贈りものだ。大事にするがいい」
「呪い……贈りもの? なんのことですの?」
「ギバルテスにケリュケイオンを渡してはならない。いざというときは――」
なー。
黒ネコが鳴いた。
弓子は男から目をそらす。
気づくと、ひとりきりだった。
弓子が座った大理石の側面を肌寒い風が撫《な》でていった。街の喧噪《けんそう》が聞こえた。あちこちで光るイルミネーションが闇ににじんで見えた。老人の姿はない。腿の上に座っていたはずの黒ネコの姿もどこにもない。
もとから誰もいなかったかのように、老人とネコは消えてしまった。
「買ってきたよー」
舌たらずの声に、弓子は現実に引き戻される。
「はい、弓子ちゃんの分。あ、お金はいいからね。これでもあたし、お姉さんだから。でもでも。お金が違うって言われてびっくりしちゃったんだよ。あたしが持ってたの新しいお札だから。二千円札っていままでなんの役にも立たないと思ってたけどこれからはバカにしないようにする」
「……ネコと老人を見ませんでした?」
「え? あたしが見てた限りでは弓子ちゃんひとりだったよ。どうしたの。誰か来たの?」
「いえ、なんでもありませんわ」
こよみはふたたび花壇に腰かけ。足をぶらぶらさせながら袋の中を探っている。
弓子も中を見た。
「ちょっとよろしくて?」
「なあに?」
「ナイフとフォークがございませんけれど、どうやって食べるんですの?」
「な、ないふ? ハンバーガーに? ナイフ……なんてどうやって使うの?」
「ナイフは切るものですわ」
「はんばーがーを?」
弓子はうなずく。
「ハンバーガーはこうやって食べるんだよ」
包み紙を半分だけ開き、口よりもだいぶ大きなハンバーガーにこよみはかぶりついた。
もぎゅ。むぎゅむぎゅ。
口全体を使って噛んでいる。とてもおいしそうだ。
「ね?」
弓子もためしてみる。
むぎゅ。
安物の香辛料にまみれたどぎつい味なのに、不思議なことにけっこうおいしかった。
どうすることもできなかったギバルテスの魔法を一瞬で分解し組み換えた少女。彼女がすぐれた魔法使いであるのは、弓子がクリストバルドの血を受け継ぐように、姉原の家に伝わる血を受け継いでいるからだと思っていた。
だけれど彼女は森下こよみという名前で、なんのへんてつもない高校生だ。ハンバーガーにかぶりつくだけで口のまわりをケチャップだらけにするとろくさい少女で、ひとつも悪いことなどないのに短いあいだに何度も人にあやまる。性格は弓子の正反対だ。見ていてイライラすることもある。
彼女が選ぶものはなんだろう。ゾウだろうか。ハンターだろうか。大統領だろうか。
もぎゅもぎゅと弓子はハンバーガーを食べる。
飲み込んだ。
紙をまるめる。
左手でこよみの服を引っぱった。
右手にはケリュケイオン。銀の杖は冷たく臨戦態勢をとっている。
「どうしたの? 弓子ちゃん」
「来ましたわよ」
弓子は立ちあがる。
「ボンソワール、マドムアゼル」
百年前の世界からやってきた古典魔法使いジャンジャック・ギバルテスが立っていた。
8
six years ago #7
「杖を構えてどうするつもりだ」
ギバルテスは言った。
立ちあがった弓子はケリュケイオンの杖を捧げ持った。こよみは弓子の後ろにいる。両の足で立っていられるうちは、二度とこよみを前に立たせたりなんかしない。弓子だって魔法使いなのだ。胸を張り足を踏んばった。
「余計なお世話ですわ」
「その杖は、貴様にとっては花火が出る便利な棒きれにすぎん」
「聞き捨てなりませんわね」
「自分はどこから来てどこに行くのか、自分の為すべきことはなにかと考えたことはないかね」
三つ揃いのスーツに身を包んだ男はゆっくりと近づいてくる。
誰もがどこかへ向かっている聖なる夜に、道端で立って話している他人に注意を払う人間はいない。たくさんの人の中にいながら、弓子とこよみは孤立無援だ。
「しじゅう考えておりますことよ」
「そう。魔法を志す若者が読む本にはたいてい書いてある言葉だ。だが、魔法はそんなものに答えをくれない。その杖を使ったのならわかるだろう。マドムアゼル」
弓子は奥歯を噛みしめる。
ギバルテスの言っていることは正しい。だからこそ許せない。
「杖を渡せ」
「お断りします」
こよみが袖を引っぱった。
「ゆゆ、弓子ちゃんどうしよう」
「ご安心ください。これはわたくしの戦いですわ」
こよみは目を見開く。つばを飲みこんだ。そして、なにか決意したかのような表情で言った。
「ごめんね。そうだよね。ここではあたしがお姉さんなんだよね。だいじょうぶ。ふたりでやろう。ふたりでやればなんとかなるよ」
「わたくしたちがふたりになったところでたいして変わりはありませんことよ」
「そんなことないよ」
「では、どうしますの?」
「こういうときは嘉穂ちゃんになって考えるの。嘉穂ちゃんならどういうずるいことをするかなあって」
「それ、誰ですの?」
「相談は済んだかね。あまり結論が出ないようなら、力ずくということになるが」
「ええとですね。その、あのあの……」
弓子の肩口から顔だけのぞかせて、こよみはギバルテスに話しかける。
「ごめんなさい! えい!」
流れるコードを弓子が背中に感じたのはそのときだ。
音はしなかった。
|それ《ヽヽ》は突然空中に現れ、ギバルテスのとなりを歩いている大学生の集団に頭上から襲いかかる。
たらいだ。
「おっさんなにすんねん!」
「逃げるよ!」
制服の上にブルゾンをはおった小学生にしか見えない少女は。弓子の手を握って走りだす。
白人の魔法使いの姿が見えなくなってもふたりはさらに走りつづけた。できるだけ人が多い道を選び、松屋通りから中央通りへ。片側二車線道路の脇でこよみがギブアップした。
「ちょっと……弓子ちゃん、ストップ」
膝に手をついて大きく息をしている。
弓子は走り足りないくらいだ。背中をさすってやった。
「貴女、高校生にしては体力が足りないのではありませんこと?」
「ごめんなさい……そう…みたいなんだけど、うんどうは苦手なの」
「腕の立つ魔法使いに対抗しようとした人間がこれではあきれますわ」
「ごめんなさい」
「およしなさい。ぺこぺこあやまるものではなくってよ」
こよみは必死で息を整えている。
その胸ポケットでケータイが震えた。
姉原美鎖からの連絡だ。クリスマスショッパー余剰コード解除の用意ができたから家に戻るようにという指示だった。このタイミングを逃すと、こよみは元の世界に帰れなくなってしまうらしかった。
「行ってらっしゃい」
「まだ弓子ちゃんのほうが……」
「わたくしはもうだいじょうぶです。わたくしがやるべきことはわかりました。貴女は貴女の為すべきことをするべきですわ」
「でもでも」
「さっさとお行きなさい。でないとわたくし、貴女のことを嫌いになりますわよ?」
「どうするの? なにか方法が見つかったの?」
「あの場所へ行きますわ。あそこで決着をつけます」
弓子は、通りに面しているデパートの屋上を指さす。
「でぱーと?」
「わたくしも貴女も時間がありません。おたがいの最善を尽くすべきです。わたくしはけしてギバルテスにこの杖を渡したりなどしません。約束いたしますわ」
「……わかった」
「それでは、六年後にお会いしましょう」
閉店間際のデパートにとびこみ弓子は階段を登った。クリスマスの夜はどこもかしこも人でいっぱいだった。
いまよりずっとずっと幼かった頃、弓子は、一度だけ両親にこのデパートへ連れてきてもらったことがある。忙しい人たちなのでふたり一緒で連れてきてもらったのはそれ一度きりだったけれど、いまでも鮮明に記憶している。
屋上にある遊戯施設は、いやに寂れたところで、昼間だというのに遊んでいる子供など全然いなかった。隅のベンチに老婆が腰かけおしゃべりをしていた。そんな場所だ。
並んでいるのは、どうしようもない子供|騙《だま》しのアトラクション。ゲームセンターにある体感ゲーム機のほうがよほど気の利いたつくりをしている。併設されているぺットショップではイヌやネコがきゃんきゃんとうるさく、薄汚れた都心の空気は排気ガスで濁っていた。はっきりいって、風情もへったくれもない場所だった。
これでは人が訪れないのもいたしかたない。
弓子は思った。
けれど、楽しかった。それをよくおぼえている。
誰もいなかったからこそ楽しかったのかもしれない。髪の色も瞳の色も違う両親と一緒にいても、誰も気にすることがない閑散とした場所だったから。
だから、弓子の戦いの決着をつけるのもこの遊戯場がふさわしいと思う。
非常階段で最上階まで登った弓子は、閉め切られたドアをケリュケイオンで破壊して屋上へと歩み出た。異常を察知した警備員が来るかもしれないが、そのときにはすべてが終わっているはずである。
黒々とした闇の中に、ライトアップされたデパートのマークが赤く浮かびあがっていた。タイル張りの床は夜の水面のようだった。そんな中に、ミニチュアの車がぽつぽつと浮かんでいる。夏のあいだだけ使われるビアガーデンの会計所や、たくさんの椅子とテーブルや、なにがまつってあるかさだかではない鳥居もタイルの湖に浮かんでいた。
暗くはなかった。街の光が空に浮かぶ雲を下から照らしだしている。この街では、太陽は地上にあるのだ。
「観念したようだな」
屋上の中央まで進んだとき、右手後方からかすれた声が聞こえた。
ギバルテスだ。階段を使わずデパートの頂上に直接やってきたらしい。
「わたくしに貴方のコードが見えるように貴方にもわたくしのコードが見えるのでしょう? ならば、体格で勝る貴方から逃げきる方法はないと考えたほうが正しいですわ」
「賢いな。それなのに、杖を渡さずこのわたしに立ち向かおうというのかね?」
「そのまえにひとつ聞いてよろしいかしら?」
「なんだ」
「ゾウとハンターと合衆国大統領の中で貴方は誰が一番強いと思いまして?」
ケリュケイオンと同じ色をした銀の髪に指をさしこみ、弓子はゆっくりと梳《くしけず》ずった。
魔法使いは笑ったようだ。チューニングを失敗したラジオから出る雑音みたいな笑い声だった。
「むかし、似たようなことを聞いた奴がいる。わたしの答えはそのときと変わらない。魔法使いはゾウだ。ハンターでも大統領でもない」
「どうしてですの?」
「魔法とは力なのだよ、マドムアゼル。答えではないのだ。純粋な力だ。そして、力とはすなわち破壊を意味する。ゾウがじゃれるだけでヒトは簡単に死ぬ。魔法も同じだ」
ギバルテスは言った。
文明社会でコップ一杯の飲料水が欲しくなったら蛇口をひねればいい。簡単に手に入る。しかしそれは、人里離れた山奥にダムを建設し、水道局で水を化学処理し、各家庭まで延々と水道管を引いてやっと手に入るものだ。幾千幾万もの人の手によって人間は水を手に入れている。簡単に水を手に入れる代わりにヒトは別の形で社会に貢献する。それは、食料品の販売かもしれないし、機械の修理かもしれない。絵を描き歌を歌うことだって社会に対して行なうある種の行動だ。
だが、魔法使いは違う。自分ひとりの力で魔法を行使し、他人の力を借りずに水を手に入れる。大変な作業であるうえ、非常に効率が悪い。産業革命後に魔法使いたちが歴史の表舞台から姿を消したのはそうした理由なのだ。
直接会うことのなかった曾孫に、曾祖父が伝えたかったことが弓子は理解できたような気がした。こよみが買いものに行っているあいだに出現したあの老人はやはりカルル・クリストバルドだったのだろう。
魔法使いは個人でなんでもできる。だからこそ、魔法使いの精神はねじまがる。
呪いをかけたのは神さまなんかじゃない。クリストバルドの力そのものが呪いだったのだ。
弓子は、クラスの誰にだって自分から話しかけたりしなかった。銀色の髪と紫の瞳に閉じこもっていたのは弓子のほうだ。スカートをめくるという関心を示してくれた男子の名前さえおぼえていない。
スカートめくりというコミュニケーション手段そのものは万死に値するものの、彼にはそれしか手段がなかったのだろう。とてつもなく不器用だけれど、それが、たったひとつの、彼にとっての勇気のあらわしかただったというのに……。
だから弓子も勇気を見せなければならない。
もしもこの戦いに勝利することができたならば、この戦いが終わってもなお魔法使いの道をあきらめていなかったならば、スカートをめくった彼にあやまろう。
そして。お気にいりの縞々パンツを返してもらうのだ。
銀色に輝くケリュケイオンの杖を、弓子は、段差のある地面に立てかけた。
「貴様……なにをする気だ」
「見てわかりません?」
「よせ。貴様は魔女のライブラリの価値をまったくわかっていない」
「もちろんわかっておりませんわ。それがどうかしましたの?」
稀代のエクソシスト、カルル・クリストバルドの血を継いだ魔法使い見習いが弓子だ。
だけれど。
いつの日か、一ノ瀬弓子クリスティーナの曾祖父だったカルル・クリストバルドと言われることになる。稀代のエクソシスト、カルル・クリストバルドが紡いだケリュケイオンの物語は役目を終えたのだ。きょうこのときからはじまるのはまったく新しい物語だ。
「それを手にしたものは。世界すら手に入れることができるのだぞ」
知ったことか。
三千世界の魔物どもよとくと聞け。耳がなければ心で感じろ。
「わたくしの名は一ノ瀬弓子クリスティーナ、世界はすでにわたくしのものですわ」
弓子は、高々と上げた足を、すべての体重を込め思いきり杖に叩きつけた。
*
闇に浮かびあがる姉原邸は幽霊屋敷の雰囲気を醸《かも》しだしていた。
館が幽霊屋敷に見えるのはきょうに始まったことではないのだけれど、いつもより多くユーレイっぽく見えるというか、異次元空間っぽく見えるというか。息苦しいというか……。
足がないからこよみは幽霊が苦手だ。幽霊はゴーストスクリプトなのであるなどと説明されても怖いものは怖い。
館はなんだかうっすらと光っているようにも見えた。こういう状態の建物なら以前にも見たことがある。ネットワーク魔術によってソロモンの魔物が召喚されたビルがたしかこんなかんじだった。
デパートの前から銀座三丁目までの三百メートルあまり、脚が許すかぎりの速度で走ってきたこよみは、形ばかりのノックをして館の扉を開ける。まっすぐ美鎖のコンピューター室へ向かった。
「すみません。遅くなりました」
「ジャストタイミングよ」
美鎖はモニター画面に向かっている。サンタクロースの衣裳は着たままだったけれど、顔には疲労の色が見えた。
美鎖の前にあるデスクトップPCの横には剥きだしの基板が置いてあり、なんだかよくわからない部品がたくさんついている。基板からは太いコードが何本も伸びていて、そのうちの一本が床に置いてあるヘルスメーターに繁がっていた。
JISマークがしっかりと刻まれた体脂肪計測機能付ヘルスメーターである。こよみが一番最初にここに来たときにたらいを召喚するのに使ったものと同じもののようだった。
ヘルスメーターを流れる電流と人間の筋肉を流れる弱電流は、コードという観点から見ればまったく同じものである。機械から足へと流れ込んだコードをこよみは体で変換すればいい。
そうすれば、六年後の世界に帰還できる。
部屋の中には美鎖のほかに聡史郎とかたまりもいた。
かたまりはヘルスメーターに興味|津々《しんしん》のようで、動かない金属製の物体を仮想敵にしてしきりにちょっかいをかけている。板張りの床に直接座っている聡史郎は、リボンを巻きつけた棒を振ってかたまりの注意を逸《そ》らしていた。
「あの……美鎖さん」
「なにかしら?」
「あたし。弓子ちゃんを見つけたんですけど。ひとりで置いてきちゃったんです」
「賢明な判断よ」
「そ、そうでしょうか。あたし――」
「その弓子って子を合わせてわたしたちが三人束になったところで、ギバルテスと対等の勝負ができるかは怪しいわ。いまは放っておくしかないの」
「そんなにすごい人なんですか? 美鎖さんがいちばんすごい魔法使いじゃなかったんですか?」
美鎖は椅子を回転させ、こよみの顔を真っすぐに見返す。
「六年後のわたしはスーパーサイヤ人になってるのかもしれないけど、残念ながらわたしは普通の人間よ。どちらかというと古典魔法は苦手だし」
すーぱーさいや人というのがなんの意味かはわからなかったけれど、美鎖は真剣な表情だったので質問しないことにする。
「ギバルテスが弓子って子を追いかけているうちにクリスマスショッパーの余剰コードをあなたが消してしまえば万事解決よ。そろそろ時間だから、用意してくれるかしら」
「はい。裸足になってヘルスメーターの上に乗ればいいんですよね」
「さすが。現代魔法にずいぶん詳しいわねえ」
「なんだよ。これ、おまえが使うんだったのか」
床に座っている聡史郎が言った。
「実はそうなの」
「わざわざ人の家にやってきてヘルスメーターかよ。どこの暗黒宗教だそれは」
「せっかくのクリスマス・イヴなのにごめんね」
「それはいいんだよ。でも、姉さんみたいにヘンな格好してるならともかく、おまえみたいにあからさまにフツーの奴の中身がやっぱりヘンだと精神的にヘコむんだよな」
「そうだね。世の中っていかれてるよね」
「いかれてる?」
「背が高くて目つきが悪い人の口ぐせなの」
「そうか。いかれてるか……」
少年は口の中で何度か言葉をくり返した。なんだか気にいったらしい。
「うん、なかなかいいな。なぜだか気分が落ちついた。その背が高くて目つきの悪い奴とやらはなかなかいいことを言った。うん」
こよみはくすりと笑う。
「はじめるわよ」
ヘルスメーターに乗った。ひんやりとした金属が、いままでくつしたに包まれていた足の裏から体温を奪い去っていく。かすかにぴりぴりとするのはコードだ。クリスマスショッパーの余剰コードがすぐそこまで来ているのがわかった。
このコードが成功すれば、六年後の世界に帰ることができる。こよみが干渉したせいでおかしなことになってしまった世界も、ゴーストスクリプトの再生が終わればすっかり元に戻るはずである。
こよみはこの世界とは関係ないのだし、未練もやり遺しもあるはずがない。そもそも、こよみから見ればここはゴーストスクリプトの再生にすぎないのだから。なにが起こっても関係ないのだともいえる。この世界の弓子が言ったように、お互いの最善を尽くせばいいのだった。
「じゃ、未来のわたしによろしくね」
「はい」
押し寄せるコードに備え、こよみは精神を集中する。
9
back to the future
踏み下ろした足が金属質の音とともに跳ね返された。
一ノ瀬弓子クリスティーナはきりもみ状に回転しながら屋上の金網に激突する。杖に体重をかけた瞬間、体全体がふわっと持ちあがり見えない巨人の手で運ばれたのだ。
肺の中にある空気をすべて吐きだし、弓子はタイル張りの床にずるずると落下した。
「愚か者め、なにをするかと思えば。人間の体重ごときでケリュケイオンが折れてたまるものか!」
罵《ののし》る魔法使いの声が聞こえた。
弓子は息ができない。
ギバルテスは大股でケリュケイオンに歩み寄る。
金網に爪を突きたて弓子は立ちあがった。
奴はケリュケイオンに手を伸ばそうとしている。
走った。
ギバルテスの右脚に照準。体ごとぶつける。
「はなしなさい!」
「ガキめ! つけあがりおって!」
ギバルテスが腕をふり払った。大人の一撃だ。鉄板みたいな手が弓子の顔にぶちあたる。痛みより熱さより衝撃で視界が揺れた。口の中に鉄の味がする。よろめいた。
右脚を――踏んばりがきかない。ずるりとすべってタイルに右膝がぶつかる。ごちんと嫌な音が骨を通して耳に聞こえた。顔をはたかれただけで力が抜けてしまうとは、子供にすぎない自分の肉体が恨めしい。三つ揃いのスーツに弓子はしがみつく。
「運命を足蹴にしおって。なにをやろうとしたかもわからぬ愚か者め!」
「杖を……はなしなさい!」
「それほど死にたいか」
青い瞳が冷たく輝く。
弓子の頭に向けてゆっくりと手を伸ばした。
ふたたび弓子は、ギバルテスの体の中心にある剣を見た。剣から飛び散った光の粒子は無数の渦巻きを形成し、さらに集まりひとつの塊となって肩へ向かう二の腕を走る肘で爆発し光の奔流が――
首を動かす。まにあえ。
首のヒフを削り、銀の髪を引きちぎって、コードとしか呼びようがない奔流が流れる。まちがいない。これをまともにくらえば死ぬ。熱さでも寒さでも痛さでもない。首の一部が突然クリームになってごそっと持っていかれる感覚だった。
だけれど敵は無防備だ。
弓子は手をまっすぐ伸ばす。子供だと思ってバカにするな。
「剣と化せ我がコード!」
腕の先からほとばしったコードが透明な剣を形成しギバルテスの腹に突き刺さった。
弓子は尻餅をつく。
ギバルテスも一歩あとずさった。首を曲げ、自分の腹に突き立った巨大な剣を凝視している。輝く剣の長さは成人の肩ほどもある。横から見れば、男の姿は巨大なXの字に見えるはずだった。
ヤツの顔は驚きとも薄笑いとも判断のつかない蝋細工だ。
弓子も無理矢理笑みを浮かべた。そうしないと、泣いてしまいそうだったから。
「たった一度見ただけでクリストバルドのコードをマスターしたか。さすがは末裔、それだけは誉めてやろう」
蝋の口が歪んだ。
「だが、無駄なことだ」
みずからの腹に突き立った透明な剣を、ギバルテスは平然と引き抜いた。
「そんな……」
「魔法とは力だと言っただろう、マドムアゼル。力無き者は虫ケラのごとく踏み潰されるしかないのだ」
磨き抜かれた革靴が言葉とともに降ってきた。弓子は体を丸める。降りつづく。ひとつ降るたびに、体温と違う温度のしびれが駆け巡る。それが熱いのか冷たいのか弓子には感じとれない。いつまでたっても足はやまない。しびれは。薄い胸を打ち鳩尾をえぐり脇腹に突き刺さって体のあちこちに波紋を形づくった。
魔法使いはふんと息を吐く。
「魔女のライブラリが我が手に入る瞬間をそこで見ているがいい」
声はわんわんとこだまし、よく聞こえなかった。
視界はぼやけて、おまけに傾いている。これなら目をつぶったほうがましかもしれない。
たぶん右の頬にあたっているのが水面みたいだったきれいなタイルで、だから右半身は涼しく左半身は炎を浴びたように熱いのだろう。
こよみという少女は六年後の世界に帰ることができたのだろうか。弓子はそんなことを考える。ひとりでやって結局うまくいかなかった姿を彼女に見られないですんだのはありがたかった。
ギバルテスは屋上全体を見回し、隅にある赤い鳥居に近づいていった。どうやらそこでケリユケイオンの封印を解くつもりのようだ。デパートの屋上にあるような神社でも、コードの実行にすこしは効果があるらしい。
すでに彼は弓子を完全に無視している。おそらく目的はケリュケイオンで、杖の持ち主である少女は計算に入れなくてもよいほどの存在なのだろう。敵対の意思を示したにもかかわらずギバルテスは弓子を敵として認めなかった。決意をいともたやすく踏みにじった。それは絶対に許せないことだ。
死ぬのは怖いけれど正直に言ってあまりリアリティーがない。生きていることのほうがよほど怖いんじゃないかと思うことだってある。毎朝鏡を見るのが怖いし学校に行くのが怖い、クラスの人間に無視されるのが怖いし話すのはもっと怖い。
たぶんいま弓子は涙ぐんでいる。とてもとても格好悪いと思う。でも、それが一ノ瀬弓子クリスティーナという人間の器なのだ。
なにをしようとも個人の力ではどうにもならない大きなうねりが世の中にはあって、弓子もまた激流にもてあそばれる木の葉にすぎない。ただひとつできるのは、役に立たないとわかっているちいさな石ころを投げつけることだけだ。
弓子は弓子という人間の大きさを、冷静に、客観的に。魔法使いの血筋抜きで、過不足なく認識しなければならない。とてもとてもつらく口惜しいけれど。それが弓子にとっての第一歩となる。レボリューションを起こしたのは内なる世界だけで、それが外側の世界に自動的に波及してくれるなんてことはないのだから。自分の手と足と肉体で、ひとつひとつ倒していかねばならないのだから……。
ざらざらとしたものをくちびるに感じ、弓子は目を開いた。黒い毛むくじゃらの物体が一心な不乱に弓子の口を舐めている。
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶですわ」
「こんなにひどくぶたれて。弓子ちゃん、かわいそう」
「ぶたれたのではありません。蹴られたのですわ」
答えてから弓子は気づく。舌たらずの声に聞きおぼえがある。
力をふりしぼって上半身を起こした。
「わ!」
声の主は驚いたりしている。この反応はまちがいない。小学生にしか見えないけれど本当は高校生の森下こよみだ。
思わぬ事態にふらついた弓子の体を、こよみはもう一度驚いてから手でささえた。顔を舐めていた黒ネコは、弓子の死角から腿の上へよじのぼろうとしている。
「なにを……やっていますの!」
「えへへ。戻ってきちゃった」
「えへへなんて言ってる場合ではありませんわ。貴女は自分の世界に帰るはずだったのでしょうに」
「でもでも、弓子ちゃんをひとりで置いていけないし。前にあたしのこと助けてくれたでしょ。そのお返しだよ」
森下こよみは、困ったような顔でほほえんだ。
「笑ったってしかたないでしょうに!」
「ごめんなさい。美鎖さんにも怒られちゃったの」
「ごめんなさいじゃありませんわ」
「心配しないで。六年後の世界で美鎖さんが電源を引っこ抜いてくれたらあたしはしゅって帰れるんだよ。ううん。帰れなくても待ってればいいだけの話だし。ここにいたからってあたしは歳をとるわけじゃないから。六年なんてすぐだよ」
「貴女ってひとは……貴女ってひとは!」
「杖、とられちゃったんでしょ。がんばってとり返そうよ」
「杖なんていいのです。あれはカルル・クリストバルドの歴史が詰まった杖であってわたくしの杖ではございません。わたくしの杖はこれから自分でつくりあげていけばいいのですから」
「ひいおじいさんの杖なんでしょ。弓子ちゃん。いつも大事そうに持ってたのおぼえてる。いまはないかもしれないけれど、あたしが知らないこれからの六年間できっときっとたくさんの大切な思い出ができるんだよ。だから、なくしちゃだめだよ。ね。悪い奴から一緒に取り返そう?」
こよみの言葉ひとつひとつが、体の痛みを溶かしていく。
ちんちくりんで腕力もなくてスタイルもいいとはいえないし成績だってそれほどいいとは思えないし、ちょっと走っただけで息を切らして魔法が使えるといってもカッコ悪い金だらいを召喚しただけだ。本当は怖くてしょうがないくせに。弓子の肩をささえている手はずっと震えているくせに。
それでも。
人間の価値が決まる極限状態で一歩踏みだすことができる。
憎たらしい。なんて女だ。
「ひとつだけ言っておきますわ」
「なあに?」
「わたくし、貴女を見ているとイライラするのですわ」
「うん」
「うなずくところではないでしょうに!」
「そんなことないよ。弓子ちゃんは、イライラしたり怒っていたりしたほうが弓子ちゃんらしいと思う」
ちいさな少女のちいさな手を借りて、弓子はしっかりと立ちあがった。
先に異変に気づいたのはこよみのほうだ。
「弓子ちゃん。あれ、なんだろう?」
子供が乗り回すゴーカートサーキットの中央部あたり。こよみの指が示す方角に灰色の影が揺れていた。クリスマスのイルミネーションが雲に反射したとかそういうことではなさそうだった。
「幽霊かな。幽霊かな……あ、あっちも!」
灰色の影は数を増していた。照明の消えた遊戯場のそこかしこに半透明の影が出現し、ゆらゆらと揺らめいている。
ギバルテスの姿が消えた赤い鳥居の方角に弓子は目を凝らす。暗闇の中に、銀色の杖がぼうっとした光を発して浮かびあがって見えた。そのとなりにあるのは金色に輝く剣だ。
剣と杖が二本、境内の前に並んで突き立っている。
弓子は目をこする。
見まちがいだった。杖を捧げ持つギバルテスだ、魔法使いの体から伸びたリボンのようなコードがケリュケイオンに絡みつき高速で回転していた。なにか強烈なコードが働いていることはわかったが、それがなにかはわからない。
こよみが服の裾をつかんだ。
「なんかどんどん色が濃くなってる!」
「あれがゴーストスクリプトというものではありませんの?」
「でもなんでこんなところに……」
「しっかりしてくださいまし。貴女がわからなければわたくしはもっとわかりませんことよ」
「そんなこと言われても」
影は次第に明るさを増し、ディテールがはっきりと見えるように変化していた。
砲弾型のレースカーに乗ったレーサー。キャリーを引いて颯爽《さっそう》と歩くパイロット。大柄なきこり。馬にまたがったガンマン。種々雑多なものの影が、営業を終了した夜の遊戯場に姿を現そうとしていた。
本物そっくりというわけではなく、影は、どこかデフォルメされたアニメ番組に出てくるような形をしていた。きこりが持っている斧は刃渡りが五十センチもありそうで、ガンマンの二丁拳銃は銃身が腕より長い。まるで、幼い子供たちが持っているイメージをそのまま具象化したみたいだ。
ゴーカート場を走り回っていたレースカーが弓子たちのほうに突進し、そのまま背後に突き抜けていった。すれ違いざま、タイヤが軋む音がかすかに聞こえた。
黒ネコは四肢を踏んばり、威嚇するように喉を震わせている。いまの影が単なる影ではなくさわることができるものなら、たったいまふたりと一匹は死んでいたところだ。
巨大な斧を持ったきこりが近づいてきた。今度は足音もはっきりと聞こえる。ゴーストスクリプトがさわれないものであるという保証はどこにもない。コードの密度が高けれは、誰にでも見えるしさわれるようになってもおかしくない。
斧をひと振り。
ぶんという風切り音。
銀髪が数本、千切れて飛んだ。
「剣と化せ我がコード!」
弓子のコードときこりのゴーストスクリプトが衝突し、ともに光の粒となって消えた。
この事態は予想外だ。ギバルテスひとりですら手に余るというのに、この上無数のゴーストスクリプトまで相手にしなければならないというのか。
「弓子ちゃん、あそこ!」
こよみが示した場所にはビアガーデン用の会計所が建っていた。幅、奥行き、高さともに二・五メートルほどのちいさなプレハブハウスだ。壁面の色を見る限りでは比較的新しそうである。つまりそれは、ゴーストスクリプトが発生する可能性が低いということだった。
ふたりと一匹は会計所に走る。
「剣と化せ我がコード!」
鍵を破壊した。駆け込む。扉を閉める。内側から押さえつけた。
遊戯場をうろつくゴーストスクリプトの数は増える一方だった。細長い剣を持ち片手にフックをつけた男が、ナイフを持った緑色の服の少年と斬りあっている。レースカーは数を増し、群れをなして屋上中をぐるぐると周回している。その中心にあるタイルの湖に潜望鏡がぬっと姿を現し。次の瞬間しぶきをあげて潜水艦が浮上した。イギリスの儀仗兵《ぎじょうへい》のような格好をした兵隊は広場の片隅で行進をはじめ、まっすぐに進んだあと、金網を乗り越えてぽとぽとと暗闇に落ちていった。
彼らは、ただ、コードの命ずるままに動いている。きこりは前にものがあれば伐り倒すし、レースカーはとにかく走りつづける。意思ではなくさだめられた運命に縛られる存在がゴーストスクリプトだった。
「弓子ちゃん、また血が出てる!」
こよみが言った。
弓子の指先からは血がにじみ出ていた。さきほどから鈍痛がすると思ったのだ。体中が痛いのでそれどころではなかったが。
「また?」
「コードを組みすぎると毛細血管が切れちゃうの」
つまり魔法にもリスクがあるということだ。コードを組めば疲れるし、使い過ぎれば血管が破裂する。曾祖父の時代から流れる血とは関係なく、人間はその体が壊れるまでコードを組むことができる。よろしい。いまの弓子には、そのほうがやりがいがある。
ゴーストスクリプトの増加は止まらない。いまや遊戯場は立錐《りっすい》の余地もなかった。密度を増した影によってギバルテスがいる鳥居も見えなくなった。ただ、銀と金の光が渦を巻いているのがわかるだけだ。
会計所が軋み出した。
数が増えただけでなく、ゴーストスクリプトは実体化をはじめている。剣がぶつかりあう甲高い音。レースカーが走り回る爆音。兵隊は足を踏み鳴らし、きこりは木を伐ってデパートの屋上に木霊《こだま》を鳴らす。それらの音が渾然《こんぜん》一体となり、低く高くうなりとなって体を震わせる。
一匹の巨大なケモノが咆哮《ほうこう》をあげているかのように。
増えすぎたゴーストスクリプトは、行き場を失い互いに押し合いへし合いし、あるいは潰れ、あるいは融合しひとつの塊となっていく。金網の外側は注ぎすぎた炭酸飲料のようだ。あふれたゴーストスクリプトが次から次へとこぼれ落ちている。空間にただようコードの濃密さは気持ち悪くなるくらいだ。安普請のプレハブは内側にたわみ破滅の音を発しはじめている。
軋む壁に弓子はもたれかかる。こよみの顔も青ざめ、額に汗の粒が浮かんでいた。
「しかたありません。打って出ますわよ」
「でも……」
「他に方法がありませんわ」
「弓子ちゃん、あれ!」
ゴーストスクリプトが収束をはじめたのはそのときだった。増えすぎひとかたまりとなったゴーストスクリプトの群れはバターのように溶けだし、渦となって左回りに回転をはじめた。屋上いっぱいに広がる巨大な渦だ。人も車も潜水艦もすべてが連なり変形して渦の中に消えてゆく。
中心にあるのは赤い鳥居。その中心にギバルテス。ケリュケイオン。魔女のライブラリ。
排水溝に流れ込む水のように渦は鳥居に吸い込まれる。屋上に出現した幾百幾千のゴーストスクリプトが、たったひとつの塊となって一点に収束した。
びゅうびゅうと上空で風が巻く音が聞こえた。
杖を手にしたギバルテスが立っている。
手を振る。
会計所が吹きとんだ。
コードの流れを見ることすらできない。組みあげられたパネルが瞬間で分解し、黒い空へ舞いあがり消えた。
屋根も壁もなくなった木の床にこよみと弓子と黒ネコは立っていた。
ギバルテスはゆっくりと近づいてくる。
「ここに入ってるんだよ」
かろうじて形をとどめていた木箱の中に黒ネコを押し込め、こよみは立ちあがる。
汗ばんだてのひらで弓子の手を握った。
「えへへ。怖いよね。あたしもすごく怖いんだ」
「貴女はどんなコードでも組み換えられるのですよね」
弓子は耳元でささやく、こよみはこくんとうなずいた。
「それが魔女のライブラリでも?」
「よくわかんないけどできると思う」
正直なところ、魔女のライブラリをディスペルしたからといってギバルテスを倒せる保証はどこにもなかった。ライブラリなしでも敵は十分に強い。しかし、いまさら文句を言ってもしかたがない。ここにいたっては、魔女のライブラリが世界全体に影響を及ぼすほど強いコードであることを、六年先から来た少女を元の世界に帰せるほど強いコードであることを願うしかないのだ。そうすれば、すべてが解決する。
「では、わたくしが囮。貴女が攻撃です。最終的に貴女のほうが危険が大きくなりますけど、よろしくって?」
「へいきだよ。やっぱりそうなるんだよね。あたしたち」
ふたりの少女の前で男は立ち止まった。
銀色の杖を放り投げる。
タイルの水面にからんと転がった。
「目的は達した」
「魔女のライブラリとやらは手に入れましたのね」
「そうだ、ずいぶんと定着に手間どったが、この体なら長く保つ」
ギバルテスの言葉はよくわからない。
弓子は、こよみと手を繋いで、一歩一歩あるいていく。ケリュケイオンに届いた。拾った。
クリストパルドの杖はどこも変わっていない。最初にさわったときと同じく、冷たいコードを内に秘めていた。
「貴方はこれからどうしますの?」
「ケリュケイオンに用はない。ただ――クリストバルドと姉原の眷属《けんぞく》には死んでもらう」
暴力的な塊が飛来した。
それ以外の説明ができない。なにかを形づくるでなく、コードが見えるわけでもなく、ギバルテスの中で一瞬で組みあがったコードは純粋な力となって放射された。捌《さば》くより避けるより瞬くより速くそれは迫りくる。
直撃しなかったのは単に運がよかっただけだ。
偶然弾道上にあったケリュケイオンは、純粋な力に耐えきり爆風を放射状に散らした。
「剣と化せ我がコード!」
弓子が組んだコードは輝く剣となり直進する。
ギバルテスは避けもしない。光の剣は突き刺さり飲み込まれそして消えた。
敵に向かって一直線に弓子は走る。銀髪がたなびく。
まだだ。もうひとつ。
「剣と化せ我がコード!」
杖を捧げ持った手から血しぶきが飛んだ。体が悲鳴をあげていた。怖くない。つらくない。
そうだ。笑いたい気分だ。流れる血は弓子が魔法使いである証なのだから。
走る弓子を敵魔法使いは悠然と眺めている。
たどり着いた。
「油断大敵ですわ」
ギバルテスの長身を弓子は見上げる。
「剣と――」
男の中でコードが膨れあがる。弓子がコードを組むより速い。比較にならないスピードだ。しかし、それでいい。もとより弓子はコードを組むふりをしただけだ。体の前にあるのはケリュケイオン。もう一度だけ運をちょうだい。ギバルテスの魔法を防げ。
前面で力が弾け、弓子の体が宙を舞った。
そのうしろには必死で駆けてきたこよみがいる。空中をただよい激痛に震えながら、しかし弓子は笑みを浮かべる。
こよみが手を伸ばす。
コードを組む。
たらいが落下した。
成功だ。
だが、それだけだった。
ギバルテスはゆらぎもせず立っている。
蹴った。
こよみの体はぼろくずのように吹きとび、逆さまになって金綱に激突する。がいんと嫌な音が響いた。同時に弓子の体もタイルの床に落下した。
「……なぜ」
「その女が使うコードの特性はわかっている。一度ディスペルされそうになったからな。この体を覆うのは数百に及ぶゴーストスクリプトの集合体だ。おまえたちが魔女のライブラリに手を触れる可能性はもはやない」
金網際のこよみは動かなかった。
弓子白身はなんとか動けるようだ。杖を突き立て、立ちあがる。スカートがめくれあがっていた。太腿にみにくいみみず腫れが走っている。笑いたくなる。こんなときまで弓子はパンツをはいていなかった。
ゴーストスクリプトを排除しなければ魔女のライブラリに到逢することはできない。どれほど巨大で複雑なコードであろうとこよみは変換することができるそうだが、一度に変換できるコードはたったひとつに限られている。さきほどの魔法でたらいに変換されたのはたったひとつのゴーストスクリプトだ。体を覆う無数のゴーストスクリプトに穴を空けねば、こよみのコードはギバルテスに威力を発揮できない。
ゴーストスクリプトはモノや場に憑《つ》くものだ。ゴーストスクリプトそのものをディスペルしても、それを動かしている源を止めねばすぐにまた復活する。
ゴーストスクリプトがある限り魔女のライブラリに手は出せない。
魔女のライブラリがある限りゴーストスクリプトは無限に復活する。
こよみと弓子に抗う手段はない。
弓子は奥歯を強く噛む。自分が負けるなんて許せない。
でも、もうだめかもしれない。
「苦戦しているようねえ」
屋上の入り口から声が聞こえた。緊迫した状況にはそぐわない、ひどくのんびりとした声だった。
最初に視界に入ったのは真っ赤な衣裳に白のフリルだ。黒髪は闇に溶けこみ輪郭がよく見えなかった。鎖のついたメガネをきらめかせ、胸の中央に漆黒のアミュレットを下げていた。まるで、コンピューターの基板から引っこ抜いたCPUのような物体だった。
サンタクロースの格好をした姉原美鎖が現れた。
「やはり来たか」
ギバルテスは驚かなかった。
「そういうことね」
「貴様はいったい何者で、何が目的だ」
「最初に言ったじゃない。わたしは正義のサンタさんよ」
話しながら美鎖は屋上を横切り、金網のそばで倒れているこよみを抱き起こした。
ギバルテスは黙って様子を見ている。
心が握り漬されそうな声を一度あげ、こよみは気を取り戻した。
「だいじょうぶ?」
「……あ、う……はい」
「コード、まだ組める?」
「あと一回くらいです」
美鎖は弓子を手招きした。
敵の魔法使いは平然と眺めている。なにが起きようと勝つ自信があるのかもしれない。あるいは行動原理が人とは違うのかもしれない。ギバルテスはまるで、意思ではなく運命によって動くかのような行動をする。
足を引きずり、弓子はふたりのもとに向かう。なんとかこよみが立ちあがった。
「ごめんね弓子ちゃん。跳ね返されちゃった。あたしの魔法じゃ、やっぱりだめみたい」
「わたしが時間を稼ぐから、ふたりでなんとかしなさい」
美鎖は小声で言った。
「え……でも、あたしたち、なんですか?」
「魔女のライブラリを手に入れたギバルテスをなんとかできるのはあなただけよ。こよみ。わたしは時間を稼ぐことくらいしかできないわ。やれるわね」
「わたしと戦って勝てると思うのか」
ギバルテスは笑った。
「どうかしらね。この子たちと違ってわたしはずるい手を平気で使うから」
「おもしろい。見せてもらおうか」
「残念。もう使ってるの。環代魔法使いが現場に来るときは、コードの組み立てはすでに終わっているのよ。現代の街には無線LAN基地っていうのがたくさんあるの。知らないと痛い目に遭うわよ」
「ほう。おもしろいな」
「あなたが取り込んだゴーストスクリプトにはクリスマスショッパーがすでに入りこんでる。この意味がわかるなら、はやく鎧《よろい》を脱いだほうがいいわ」
「ではそのまえに死ね」
力の塊が飛んだ。
美鎖の周囲に光の球が発生し、ギバルテスのコードと相殺《そうさい》して消えた。
「やるな」
「あなたもね」
「だが、コードを生成する効率に圧倒的な違いがある。現代魔法使い」
たてつづけに塊が飛来。
二撃まで美鎖は防いだ。三撃めの爆風を浴びた。四撃めは脚をかすめた。メガネの奥に美鎖は苦痛を閉じ込める。
「早くなさい!」
こよみの手を引いて弓子は駆ける。
「もう一度やりますわよ」
「どうやって?」
「わたくしが剣を突き立て鎧に穴を空けます。その穴からコードを引き出すのですわ」
「でも……ううん。わかった」
美鎖は劣勢だった。ギバルテスの注意を引きとめておくだけで精一杯のようだ。次第次第に、敵の攻撃が美鎖の至近で爆発するようになっていく。
走り出した弓子は気づいた。
ギバルテスが撃ち出す力の塊も剣のコードなのだと。圧倒的に速く巨大で光り輝き純粋に強い。それゆえひとつの塊にしか見えないだけなのだった。
いまや美鎖は逃げるので精一杯だ。
でも、こちらは三人いる。
「剣と化せ我がコード!」
弓子の剣がギバルテスに突き立つ。敵は避けもせず苦痛の表情も浮かべない。ただ、駆けまわる美鎖に攻撃を集中している。
「まだ! 剣と化せ我がコード!」
同じ場所に剣を突き立てる。ギバルテスの様子に変化は微塵《みじん》もない。まだか。口の中は血の味でいっぱいだ。生あたたかい液体でぬるぬるとして杖が持ちにくい。右脚が勝手に膝をついた。もう一度コードを組めるなら死んでもいいというのに。弓子の体からは力が抜けていく。
「弓子ちゃん!」
「死ね!」
ギバルテスの一撃が美鎖に直撃した。赤い衣裳が闇に舞いあがる。
振り向く。次の目標はこよみと弓子だ。この攻撃を避ける力は残っていない。
そのとき、黒い影が視界の端を駆け抜け、ケリュケイオンを踏み台にギバルテスに襲いかかった。
生後六カ月の黒ネコが首筋に牙を剥く。ゴーストスクリプトの鎧にわずかな傷がついた。
「畜生が!」
ギバルテスはコードを絡めた腕をネコに叩きつける。タイルの床でバウンドして動かなくなった。
弓子の体力は限界だ。慣れないコードをたてつづけに組んだだけではない。金網に叩きつけられた影響が大きい。屋上の反対側で美鎖は倒れ伏し、こよみも立っているのがやっとだった。黒ネコは叩きつけられたままぴくりともしない。
ギバルテスの鎧は、数百ものゴーストスクリプトが密集し強固な防壁となっている。ネコが噛みついた場所のゴーストスクリプトがゆらいで見えたときにわかった。モノや場所に憑くゴーストスクリプトを、ギバルテスは常時取り込み解放しているのだ。言いかたを変えれば、現在いる土地のゴーストスクリプトによって守られている。その数とバリエーションは無限である。
いまギバルテスを守っているのは遊戯場のゴーストスクリプトだ。
その中のひとつに弓子は見覚えがある。たしかにさっき見えたのだ。他の誰にもわからない。こよみも、美鎖も、ギバルテスも、曾祖父クリストバルドだって知らない。弓子だけが知っている。これは、弓子だけのものだ。
ゴーストスクリプトに手を伸ばす。そのコードは、なぜかあたたかく、やわらかい。弓子は呼びかける。
こんにちは。はじめまして。貴女のことならよく知っている。つらいことも悲しいこともみんなみんな知っている。だから、貴女にひとつだけお願いがある。たったひとつだけ聞いて欲しい。それはとっても簡単なこと。人生でいちばん楽しい一日がつくりだした貴女なら、かならずできる。
友達を連れてここにおいで。
ギバルテスの体から銀髪の少女が飛びだした。
五歳ほどの少女だ。少女のゴーストスクリプトは軽やかにスキップし、その場でくるくると回転して紫水晶の瞳でほほえんだ。まっすぐ歩くことはなく、すぐ横にそれたりジャンプしたりスキップしたり、ただそこにいるのが楽しいと言わんばかりに踊りつづける。少女がふわりと舞うたびに、銀色の光の粒がはじけて散り、タイルの水面に降り積もる。笑いながら少女は弓子のもとに駆けてくる。たくさんの、|友 達《ゴーストスクリプト》を連れて。
ギバルテスのコードがほつれた。
「お父さま、お母さま――ありがとう」
森下こよみは魔法使いに手をあてる。ほつれた穴にクリスマスショッパーがコードの道をつくったのが弓子にも見えた。土台となったクリスマスショッパーは魔女のライブラリーと渾然一体となり二重の螺旋状に絡みねじれる。ふたつのコードが縞模様を描きながらこよみの体に流れ込んだ。コードが組みあがった。
からん、と音をたてて年代物の剣が落下した。ギバルテスのいた場所だ。遅れて、こよみが着ていたブルゾンが人の形を保ったままタイルに落ちる。
こよみも、ギバルテスも、ゴーストスクリプトも、突然すべてが消え去った。
静寂と平和が訪れた遊戯場を見て、なぜか弓子は、カーニバルが終わったあとのさびしげな広場を思い浮かべた。
*
「弓子ちゃんだっけ、だいじょうぶ?」
転がった剣を足の先でつんつんやりながら美鎖は言った。
「ご心配にはおよびませんわ」
「そ」
夜景の弱々しい光に剣をかざしてなにがわかるのかは知らないが、拾いあげた剣を美鎖はためつすがめつしている。
「柄《つか》に研十郎って彫ってあるわ。百年前、きっとこの剣でとどめを刺されたんじゃないかな。ま、無念だったんでしょうね」
「彼もゴーストスクリプトでしたのね。だから転生の秘術にこだわって……」
「そういうことになるわね」
はじめから知っていたような口振りだ。
姉原美鎖が仕掛けたクリスマスショッパーがゴーストスクリプトを活性化させ、六年後の世界から少女がやってきた。つまりこの世界でも六年後の世界でもクリスマスショッパーが原因でゴーストスクリプトが活性化したのだった。そう考えればすべて辻褄《つじつま》が合う。
少女がいなくなったあとには男物のブルゾンが落ちていた。黒い毛のはえた生きものがブルゾンの下で力尽き倒れている。
美鎖はブルゾンごと黒ネコを抱えあげた。
「あらら……まいったな。これはひどいわね。こんな日に開いてる獣医があればいいけど。聡史郎、悲しむだろうなあ」
節々が痛む体に鞭を打って弓子も立ちあがった。
ケリュケイオンの杖を拾いあげる。
銀の魔杖《まじょう》には傷ひとつない。絡みあった二匹の蛇は、デパートのマークが発する赤い光を反射させ、力一杯周囲を威嚇しているようだった。
「これからどうするの?」
「家に帰りますわ」
「いろいろたいへんだったわねえ」
「そうですわね」
「ところで……わたしでよかったら教えてあげてもいいわよ、魔法。そんなに得意ってわけじゃないけど」
「せっかくのお誘いですけれど、ご遠慮させていただきます。わたくしの目標はもう決まっていますので」
「あらそう。残念ね」
たいして残念そうでもない顔だ。
「つらそうだけど、ひとりで帰れる?」
「心配ご無用ですことよ」
「じゃあ、わたしは先に失礼するわ。そんな格好で風邪ひかないようにね」
ブルゾンに包まれた黒ネコと研十郎の剣を手に、姉原美鎖は屋上入り口の闇へと消えた。
弓子はしばらく動けそうもない。
塗装のはげた金網になんとかよりかかった。体の熱が網目状の金属に吸いとられていくのが心地好かった。
そうしているあいだにも、制服の上にブルゾンをはおった少女の記憶は急速に薄れていく。
ギバルテスのゴーストスクリプトは銀座の街全体に広がっていた。あるいは、彼女の変換の魔法は、彼女が存在した理由そのものも組み換えたったひとつの金だらいにしてしまったのかもしれない。
思い浮かべた顔は、夢の中に出てきた人物のようにぼんやりとしてあいまいだ。銀の髪をきれいだと言ってくれた彼女。その視線には奇異の色などすこしも混ざっていなかった。
危機を前にして一歩も退かず、むしろ前に出ていく。自分を犠牲にして他人を助ける。いちばん困難なことを平然とやって、しかも困ったような顔で笑っている。
そんな、彼女のような魔法使いになりたいと弓子は思う。
もう名前も思い出せないけれど、彼女が言っていたことが本当ならば、何年か経てばまた会うことができるはずだ。
そのとき、胸を張って再会できるような魔法使いに弓子はなろう。
そう決めた。彼女が似合うと言ってくれたから、つんつんと怒って、どんなときでも一歩も退かない強情な魔法使いになろう。そして、ふたたび巡り合えたそのときは、出会い頭に怒鳴りつけてやるのだ。友達なんかつくったことのない弓子だけれど、彼女とは絶対に仲良しになるのだ。
あの女性《ひと》が好きでいてくれるなら、本当は大嫌いなこの髪も好きになれるかもしれないから。
epilogue
the present #3
突然たらいが落下した。
赤銅色の輝きを放つたらいは、板張りの床に衝突してぐわらんぐわらんと回転する。
その音にびっくりして、森下こよみは、頭につけていたゴーグル型モニターを落としてしまった。
「わ!」
「……あらら」
「ご、ごめんなさい!」
美鎖がいつも仕事に使っているコンピュータールームだった。ダンスパーティーが開けそうな空間に太い導線《コード》がのたくり、モニターテレビがずらりと並んでいる。
デスクトップPCの前で並んでモニター画面を眺めていたらしい美鎖と嘉穂がすこし驚いたような表情でこよみを凝視していた。たらいが出現することが予測できなかったためだ。
「おかしいわねえ。体にコードを流したわけでもないのにたらいが出てくるなんて」
「どれくらいですか?」
「なにが?」
「あたしがゴーストスクリプトを見ていた時間です」
「二、三秒よ、正直、見るってほどでもない時間よね」
「だからわたくしがやればよかったのですわ」
背後で声がした。
振り返ると、午後の陽射しに銀髪をきらめかせた弓子が立っていた。
「……弓子ちゃん、いたんだ?」
「わたくしがここにいてはいけませんの?」
「ううん。そうじゃないけど、そうじゃないけど、さっき姿が見えなかったかなあなんて思ったりしたから……」
「皆さんがとりこんでいたようでしたから。軽食を買ってきてさしあげたんですのよ」
テーブルの上には有名なハンバーガーショップの袋が並んでいた。銀座にはない店のものである。わざわざ遠出して買ってきてくれたらしい。
こよみは室内を見回してみる。
あることに気づいた。ゴーグル型モニターをつける前にピザケースの上にゆらゆらと立っていた半透明のゴルファーがいなくなっていた。
「美鎖さん。あれ見てください」
こよみは指さす。
かしょかしょとキーを叩き、美鎖は画面を見つめてうなった。
「消えてるわね。ゴーストスクリプト。それだけじゃない。クリスマスショッバーの余剰コードによる影響が全部なくなってる。こよみ、もしかしてコードを使ったりした?」
「使ったというか使わなかったというか……わたしにもよくわかんないんです。あ、そうだ。パスワード見るの忘れちゃいました!」
「いいのよ。もう必要ないから。でも、おかしいわねえ」
「いつも犯罪をしているからしっぺ返しをくらうのです。いい気味ですわ」
「……考えられる可能性は、見ているゴーストスクリプトに対してこよみが使ったコードが遡《さかのぼ》って現実世界のコードまで書き換わっちゃったなんてことは……まあ、いくらなんでもないわね」
ひとりで納得したりしなかったりしている。
「やくたいもないことで悩むのは美鎖にまかせておけばいいですわ。こよみも嘉穂も冷めないうちに食べたほうがよくってよ」
弓子はストゥールに腰かけ、ハンバーガーの包装紙を剥きだした。窓から射し込む陽射しに銀髪が溶けて見えるその姿は、洋画の一シーンと言ってもいいくらいだった。
「弓子ちゃん、ナイフとフォークは使わないんだ?」
「わたくしをからかっているのでしたら怒りますわよ。ハンバーガーをそんな風に食べる方なんていませんことよ」
「うん。森下、さすがにそれはからかいすぎ」
嘉穂にまでたしなめられてしまった。
こよみはぺこりと頭を下げる。
「……ごめんなさい」
こんな弓子でもむかしはこよみより胸がちいさかったのである。たぶんないと思うけれどもしかしたら、絶対ないんじゃないかと思うけれど〇・〇一パーセントくらいの確率だったら。こよみもどどーんというプロポーションを手に入れる日が来るかもしれない。
「ハンバーガー食べたら、むね、大きくなるかな?」
「森下は、むね、大きいほうがいいんだ」
「だって……そうでしょ?」
包み紙をあける手を止め、嘉穂は自分の胸を見下ろした。坂崎嘉穂の胸部にある丘陵地帯も。こよみよりはあるけれど平均から見ればたぶんない部類に入る。
肩をすくめた。
「あたしはいらない。燃費悪そう」
「そういうもんかなあ」
「失礼ですわね!」
「……価値観の問題だから」
弓子はいつもの怒り顔だ。
「そうですわ、こよみ」
「なあに?」
「優しいわたくしは聡史郎のバカの分も買ってきてさしあげたのですけれど、あの男はわたくしが持っていったのでは受けとりませんから貴女が持っていってさしあげるとよろしいですわ」
「聡史郎さん。買いものに行ったんじゃ?」
「あら、わたくしが帰ってきたときは庭の掃除をしてましたわよ」
「そうなんだ。じゃあ、冷めないうちに行ってくるね」
ハンバーガーの袋を持って、こよみは玄関に向かった。
postscript
the fastest claw alive
いい陽気だった。
うろんな草がうじゃうじゃと生える庭の隅に座り込み。姉原聡史郎はミルクが注いである皿をぼんやりと眺めていた。皿の前では、黒ネコがてちてちと舌を動かしミルクをはねかえしている。こんな日は、毒草の緑も輝いて見えるから不思議だ。
すると、扉が開き、有名なハンバーガーショップの袋を抱えた森下こよみが姿を現した。少女が持つ袋を目ざとく見つけたカラスがガアガアと騒ぎ出す。
「買い物に行ったのかと思ったのに、やっぱりいたんだね」
「買い物なんか行ってねえ。それより気をつけろよ」
「なにを?」
「カラス。たちの悪いのが一羽いるんだ」
死体を狙う禿鷹のように上空を舞ってはいるが、カラスどもが近寄ってくることはなかった。鳥の天敵であるネコがミルクを舐めているのだから当然といえば当然だろう。
「ねえ。そのカラスって……もしかして、三丁目の魔王?」
「アホかおまえは。なんだ魔王ってのは。学生なんだからRPGばっかりやってねえでちゃんと勉強しろ。カラスはカラスに決まってんだろ」
「ごめんなさい」
どうしたらその背でそんな風に歩けるのかというやかましい歩調でこよみは近づいてきた。
聡史郎のとなりに座りこむ。ネコを見ているようだ。
「……ちゃんと食べてるね」
「ネコがエサを食うのはあたりまえじゃねえか」
「幽霊じゃ、ないんだ?」
手を伸ばし、聡史郎はこよみの額に手をあてた。
「とうとう頭がいかれちまったのか」
「そんなことありませんよだ」
「かわいそうに……」
「そんなんじゃないったら!」
「陽気もいいしなあ」
ハンバーガーの袋をわきに抱えなおし、こよみは胸を張ってみせた。小学生よりは大きいけれど高校生には見えないバストが制服にふたつの丘を形づくる。
「そんなことばかり言ってると、舌が腐っちゃうんだから」
「非科学的なことを言うな」
「いつか、魔法を使ってがあんとやってやるもん。このあいだから、あせんぶらの魔法を本格的に習いはじめたんだから」
「おまえの『があん』はもういい。懲りた」
「ああ! あたしなんかじゃ魔法使えないと思って、バカにしてるでしょ」
「違う。アセンブラは魔法じゃねえの。プログラム言語だ」
「うそ」
こよみは急に立ちあがった。
どたどたと家の中に走り込み、今度は付箋のたくさんついた本を抱えて出てきた。『よくわかるアセンブラ』と書いてある。
ぱらぱらとページをめくって、
「だって、教科書にはこんなにいっぱい呪文が書いてあるよ」
「おまえ……読めないもんはみんな呪文なのか?」
「美鎖さんはコードの一種だっていってたもん」
「それをプログラムというんだ。ばかたれ」
「じゃあ、ぶろぐらむっていうのは、魔法じゃなくて呪文のことなのね」
「おまえ、熱でもあるんじゃねえのか? 姉さんになに吹きこまれた。だいたい幽霊なんてこの世にいるわけないだろうに」
「じゃあ、ネコさん、もしかして生きてる?」
「最初からそう言ってるだろ。勝手に殺すな」
「そうか。そうなんだ。よくわかんないけど、よかった」
この少女の脳の回路はときとして聡史郎が想像できる範囲の斜め上をいく。
こよみがさしだした指を黒ネコはくんくんと嗅いでいる。
「ずいぶんと大きくなったね。かたまり」
なー。
ちいさく答えた。
「なんでおまえがこいつの名前知ってんだ?」
「固まって動かなくなるからかたまりなんでしょ? かわいい名前だね」
「おれ。こいつの名前なんて教えたっけか?」
いまいましい魔法とやらの修行でこよみが姉のもとに通いだしてからもうずいぶんになる。
たしかに黒ネコのことを知っていてもおかしくはないが。
「むかし教えてもらったの。この子がもっとちいさかったとき」
「むかし?」
「むかしじゃないかな……いまさっきかも」
「なんだそりゃ。また例のいかれたなんとかなのか?」
「なんとかって、魔法、のことだよね?」
「だからおれの前で魔法という単語を口にするな。こっちは世界中の辞書から抹殺してやりたいくらいなんだ」
「ごめんなさい。わかった」
「なんだよ。そんな目で睨んでもだめだぞ。いかれてるもんはいかれてるんだ」
「でもでも……いかれてるのって、そんなにだめ?」
こよみは聡史郎を見上げる。となりの家の大型犬に、お気にいりの毛糸玉をとりあげられてしまった仔猫の目だった。なにが楽しいのかしっぽをゆらゆらと振りながら黒ネコも聡史郎を見上げている。
「わけのわからんことを。いかれてるってのは正味いかれてるって意味でそれ以外の――」
口に出してから聡史郎は考えた。
そういえば、この「いかれている」という言葉はどこでおぼえたのだろう。いまではすっかり口ぐせになってしまったけれど。ずいぶん昔、姉とは違ってひどく常識的な女性に教えてもらったような……人見知りする子供だった自分がはじめて気を許した肉親以外の女性だったようなおぼえがあるのだが、あいにくと子供の頃のことなので記憶が薄れている。すべては靄《もや》のかなた彼方だ。
教えてくれたのは、森下こよみのように、ドジでまぬけで突然天からたらいを降らしたりするそんな女性だったような気がする。たらいを召喚する女がこの世にふたりもいるなどと考えると正直なところぞっとするけれど、とにかく、そんな女性だったのだ。どんなにつらいときも悲しいときもぽやぽやと笑っていて、春のやわらかい陽射しを全身に浴びたみたいなそんな気持ちにさせてくれる女性《ひと》だった。
そのときの聡史郎は小学生で、その女性はきっと大人で、一回こっきりのすれ違いで、もはや再会することはないのだろう。
いまごろは、彼女にぴったりの素敵な男性の横で、こよみと同じようにくったくなく笑っていたりするんじゃないかと思う。
「世の中っていかれてるよね。」
きっと。そんな風に。
だから聡史郎は思う。いかれていることで世の中がうまくいっているのならば、いかれているのもそれはそれでいいのではないだろうか。広い世の中のことだ。いかれていることが原因でうまくいった物事というものもひとつやふたつ存在するかもしれない。聡史郎の額に刻まれたたてじわの分だけ、このちんちくりんの少女がほほえむというのなら、笑顔の分だけ人の心があたたかくなるというのなら、せいぜいしかめっつらをする価値もあるというものだ。
こよみの頭は聡史郎の肩とちょうど同じ高さにある。
くせっ毛のショートボブをくしゃっと掻きまわした。
「そうでもないな」
「え? え?」
こよみは目をきょろきょろさせている。
「そうでもないって言ったんだ。言薬どおりの意味だよ。はは……まったくいかれてやがる」
なー。
黒ネコは重々しく同意の鳴き声を出した。
どこまでも透きとおった初夏の空の下、ふたりと一匹は、はちみつ色の陽射しを含んだ風を胸いっぱいに吸いこんだ。
[#改ページ]
あ と が き
小学校時代のわたしは、夏休みの宿題を、休みがはじまるとすぐにかたづけてしまう生真面目で優秀な子だったのである。
そこ、眉につばをつけるな、本当の話だ。
そうした習慣が何歳のときに消滅したのかはおぼえていない。なぜ消滅したかについては明確に記憶している。宿題を最初に終わらせたからといって、いいことなんぞひとつもなかったからだ。
八月も終わりに近づく頃、無計画な友人どもはあわてて宿題をはじめる。普通にやったんじゃ間に合わないペースだ。誰かの家に集まって一緒に倒しちまおう。誰の家だ。たしかあいつはもう終わらせてるぞ……って、わたしか? わたしなのか? 夏休みを有意義に過ごすためにわざわざ宿題を終わらせておいたのに、クソ厳しい残暑の中、宿題を写す悪友どもの姿を見て時間を潰す運命を受け入れねばならんのか? しかもおまえら男だろう。ミツアミでもメガネでも委員長でもないだろう。汗を拭くとき日焼けしてない白い肌なんか見えちゃったりしてドキっとする甘酸っぱい思い出をつくってくれないだろう。嘘だ嘘だ嘘だお願いだ嘘と言ってくれおまえのかーちゃんでべそ! ファック・ユー! 神よ!
子供のわたしは思った。
せっせと働いてエサを貯めこむアリさんは損だ。
わたしはキリギリスになろう。
暑い夏は歌ってすごそう。バンジョー片手にベベンベン。面倒なことは後まわし。裏庭にでも埋めちまえ。アリさえも助けてくれない厳しい冬が来たら、潔くのたれ死ぬロックな生き様を選ぼう。オール・ユーニード・イズ・ラブ! イエア!
キリギリスの執筆姿勢は明確だ。
書きたいところから書く。苦労するシーンは後まわし。断固後まわし。いやもう全然後まわし。下手をするとエンドマークの前にあとがきができている。十人にひとりくらいの割合で本文よりおもしろいとか言いやがってわたしを憤慨させるこのあとがきだ。くそう。おぼえておれ。
寝ている間に青いロボットが現れて、つづきスプレーをこっそりかけてくれるかもしれないとわたしは本気で信じている。そんなチャンスを逃したら一生の不覚だ。よって、面倒は後まわしと決まっているのである。
やがて原稿は最終局面を迎え、苦労するシーンだけが残っているという悲惨な状況になる。なんつーか。九月一日の朝、自由研究にまだ手がついていなくて、泣きながらグーグルで過去の天気を調べている気分だと思いねえ。これがまた時間がかかるのだ。
そんなこんなで、毎回、わたしは人に迷惑をかける。イラストの宮下さんと校正のTさんには足を向けて寝られない。ごめんなさい。そしてありがとう。さいたまとトーキョーの境あたりにわたしは在住しておるので、北枕にならないような場所に両氏が住んでいてくださるとうれしい。
編集長と稲垣さんは、つらいつらいと言いつつ、毎回の校了を修羅場ハイになって楽しんでいるフシがあるので絶対にマゾっ気があると思う。このふたりに関しては心配してない。嘘だ。ごめんなさい。
もしもタイムマシンがあったら、小学生の頃まで戻って自分に助言してやろうと思う。
「夏体みの宿題は、夏休みの最後に、友達と一緒に楽しくやれ」
だから、今回の話は、そういう話だ。
[#地付き]桜坂 洋