桜坂 洋
よくわかる現代魔法2 ガーベージコレクター
よくわかる現代魔法2
ガーベージコレクター
CONTENTS
prologue
1.センター街 9:04
2.ハチ公前 9:48
3.センター街 10:00
4.道玄坂二丁目 10:10
5.ハーモニーパーク通り 14:03
6.109前 15:41
7.宮下公園 16:29
8.道元坂下 17:01
9.道玄坂上 17:15
epilogue
あとがき
prologue
王子様に救われた白雪姫、鬼を倒した桃太郎。その後は幸せに暮らしました。って書いてあるけど、本当なのか?
ながいこと疑問だった。
昔話はたいていハッピーエンドで終わる。爺婆《じじばば》に言われたとおり鬼を倒して、桃太郎は一生かかっても使い切れない財宝を手にいれた。白雪姫を眠りからさますのは、通りすがりの王子様だ。それまでの苦労がすべてむくわれるかのように、ENDマークのあと、彼らは幸せな生活を送ることになっている。
だけれど、なに不自由のない満ち足りた生活で、かつて体験した熱い焦燥《しょうそう》感にまさるものが味わえるのだろうか? きらびやかな御殿の中に、彼らの場所はあるのだろうか?
鬼との戦いは苦しかったはずだ。暗い森をさまようのは心細いはずだ。つらいから悲しいから、経験は血となり肉となり骨の髄《ずい》に刻み込まれる。
桃太郎の腕は忘れない。
ぎらつく剣をふるったことを。力強い鬼の棍棒《こんぼう》を受けとめたことを。敵の肉体を切り裂いたことを。かけがえのない仲間とともに命をかけて戦い抜いたあの日々は、心の奥にこびりついて離れない。
白雪姫はおぼえている。
毒リンゴをかじったとき、背中をしたたり落ちた冷たい汗を。誰ひとり信用できないどす黒い想いを。命を狙われつづけた緊張感あふれる毎日を。王子様の抱擁《ほうよう》よりなお熱い戦慄《せんりつ》という鎧《よろい》は、何年何十年たっても、彼女を解き放してはくれない。
平穏な生活で彼らの心が休まることはない。やわらかい羽根布団もあたたかい食事も極上の果実酒も、肉体が記憶している渇《かわき》きを癒《いや》すことはできない。
優雅な舞踏会を抜けだし、だから彼らはひとり夜空をあおぐ。
たき火を囲んでかじった固い干し肉。寝ころんだ土はじとりと湿り、ぶんぶんと飛びまわる薮蚊《やぶか》がうっとうしかった。調子はずれの歌をうたいながら踊っていたのは、猿だったか犬だったかそれとも七人の小人だったか。明日をも知れぬ日々だったけれど、あの頃は、なにか大切なものがあった気がする。
ぼくは。
わたしは。
あの人たちは。
人魚姫みたいに泡《あわ》になっちまったほうが、浦島太郎みたいに爺《じじ》になっちまったほうが、幸せだったんじゃないだろうか?
一見残酷に見える結末だけれど、浦島太郎の人生はすくなくとも満たされていた。
なぜなら。
彼は。
その後におとずれる冷酷な現実を受け入れなくてすんだのだから……。
*
レモンのイエローをどこまでも薄めた朝日が、夜の残滓《ざんし》をたっぷりと詰めこんだ都指定のゴミ袋を照らしていた。宙を舞うカラスどもは黒い翼を広げ群れをなし、ここはおれたちの領土なのだから出ていけと声高《こわだか》に主張中だ。露に濡《ぬ》れた空気が、消えたネオンと路面とゴミ袋とカラスと疲れきった人々と、それらすべてのものを等しく包みこんでいる。
渋谷の街が、長い夜を終え朝を迎えようとしていた。
普通の街なら陽《ひ》がのぼれば活気づいていくものだが、この街の朝ときたら徹夜明けの物憂《ものう》げな靄《もや》をまとっていたりする。道往く車でさえ、まばゆい陽光に目をしばたたかせ、新しい一日のはじまりに呪《のろ》いの視線を投げつけるのだ。
皆崎達彦《みなざきたつひこ》が女と出会ったのは、そんな雰囲気《ふんいき》が充満したセンター街の横丁のことだった。
「拳《こぶし》で語り合うのを否定するわけじゃないけど……少年マンガの主人公みたいにケンカして友人になれるんだったら、合衆国大統領とイスラム教指導者はいまごろマブタチよねえ」
女は言った。
「なんだコラ」
達彦の目の前にいる男が間の抜けた声を出す。
「友情発生パンチよお。知らないの?」
「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ」
「むかしは週刊マンガとかによく出てたんだけどなあ。ズカッバキッ意外とやるじゃねえかおまえもなハッハッハッ……つて友情が芽生《めば》えるやつ」
ああなんだかこの女はとてつもなくピントのずれたことを言っている。
現在の状況をわかりやすく説明すると、たったひとりの達彦をヤンキー風の男たち三人が囲んでいるのだった。名前は知らないのでそれぞれヤンキーA、B、Cとしよう。つまり一対三の状況だ。まだ殴《なぐ》り合いには至っていないが、両者間の雰囲気は最悪に近く、国家間の争いにたとえれば連合軍が歴史的な宣戦布告を告げたところである。先に領有権を侵したのは実のところ達彦のほうだったりするのだけれど、ことここに至ってはどうでもいいことだ。
明け方の渋谷は人通りもまばらで、紛争を監視する国連軍の姿はなかった。達彦は孤立無援《こりつむえん》だった。そんな場面に女は突然現れ、理解に苦しむセリフを吐《は》いたのだった。以上状況説明終わり。
自慢ではないが、達彦は一対多人数のケンカができるような人物ではない。一対一だって苦しい。体は細いし女顔だといつも言われるしおまけにメガネをかけているし高校三年の受験生だし、客観的に見て全然強そうではない。足には自信があるけれどそれは主に逃げ足に発揮《はっき》されるもので、むしろケンカは弱い部類だと自分でも思う。だから、普通の常識を持った普通の人間の普通の視覚には、達彦が三人にからまれていると映《うつ》ったはずだ。
それが、拳で語り合う?
冗談もほどほどにしてくれ。
譲《ゆず》り難《がた》きを譲って達彦が友情発生パンチ能力とやらの持ち主だとしても、一対三の殴り合いってのは、強敵と書いて「とも」と呼ぶカンケイの発端にはならないだろう。
達彦は女をまじまじと見た。
色彩というものが欠如《けつじょ》した女性だった。もしも渋谷の街が天然色の大理石でできているとしたら、まるで、その部分だけ人型の黒曜石《こくようせき》がはまりこんでしまったような、そんな女だ。高い背たけを黒いスーツで包み、子供がすっぽり入れそうな黒いバッグを肩から下げている。腰まであるストレートの髪が黒なら瞳《ひとみ》も黒、胸の中央にぶらさがっている正方形の首飾りも黒である。
歳の頃は二十代半ばといったところだろうか。マネキン並に整った容貌《ようぼう》を鎖付きアンティーク風のメガネに隠した女は、三人の男(ヤンキーABC)、を臆《おく》することなく見つめている。メガネのレンズはずいぶんとぶ厚いようだから、ひょっとしたら目が腐《くさ》っているのかもしれないが。
あ、あくびなんかしている。すごい神経だな。
「ま、本当のところはどうでもいいのよね。わたしはこの場所に用があるだけだし。水を差して悪かったわね」
そう言うと、女は、重そうなバッグを地面におろし、中のものをごそごそとやりだした。ちょうど、達彦と三人の真ん中だった。
「わたしのことは気にしないでつづけてくれていいわよ、ケンカ。こっちも気にしないから」
「……はあ」
達彦はうなずいた。
だけれどヤンキーAは女の主張が気にいらないみたいだった。
「てめえ!」
「なによお。まだなんかあるの?」
「ざけてんじゃねえぞ」
「わたしはいたって真面目《まじめ》よお」
女はぷうっと頬《ほお》をふくらませる。
「本当は武力で占有したいところを先住民族のきみたちに配慮して場所をシェアしてあげてるのに。ぷんぷん。ケンカはどこでもできそうだけど、わたしの仕事はここじゃないとできないもの」
「ごちゃごちゃ抜かすとこますぞコラ」
「それってわたしの邪魔《じゃま》をするってこと?」
「したらどーなんだよ!」
「いまはちょうどコードを用意してあるし、きみたちの戦力を一とすると、わたしの戦力って千二十四くらいあるけどいいの?」
「きっきっから訳わかんねーこと言ってんじゃねーよ! なんだコードってざけんなクソア――」
「あ、そ」
Aは言葉を最後まで言うことができなかった。
女が腕を伸ばしたからだ。
黒いスーツに包まれた女の腕はさしたるスピードもなくゆっくりとAの胸に向かい、ぴんと立ったひとさし指が胸の中央を軽くつついた。ほんとうに軽く。焼きたてのイギリスパンの弾力をたしかめるのと同じくらい優しい手つきだった。
なのに。
Aはよろめいた。
一歩、二歩、三歩と後ろに下がり耐えきれなくなって尻餅《しりもち》をついた。背中がびたんとアスファルトに張りつき腰が浮き足が持ちあがりそのまま後ろに一回転。反動で起きあがった背中はまたびたんと音をたてて地面にくっつき腰があがりごろごろごろとAは後ろ向きに転がる。あああ、と切なくなる声を出しながらAは回転をつづけ、三十メートルほど離れた靴屋のシャッターに激突して止まった。
BとCが顔を見合わせる。
「まだやるの?」
「ふざけん――」
ちょん。ちょん。
ごろりんごろりん。
がしゃがしゃん。
BとCも転がり仲良くシャッターに激突した。
「きみも邪魔する?」
達彦に向かって女が小首をかしげる。達彦は勢いよく首をふる。
「争いって不毛だものね」
メガネの奥の瞳を細め、女はふっと笑った。
三人の男はシャッターに張りついたままぴくりとも動かない。スリッパで叩《たた》き潰《つぶ》された憐《あわ》れなゴキブリと同レベルの停止状態だ。陰に隠れてワイヤーを引っぱっている黒子《くろこ》の姿もない。ここは映画の撮影所ではなく渋谷のセンター街なのだ。なのに、ケンカ慣れした三人の男たちは、細身の女性が指先で触れただけで三十メートルの距離を吹きとばされたのだった。
女は、黒いバッグの中をかき回す作業に戻っている。秒殺した男たちのことはすでに頭の中にないようだった。
「あの……」
「なあに?」
手を止めず女は言った。
「ひとつ聞いていいですか」
「いいわよ」
「拳法でもやってるんですか?」
「けんぽうじゃなくて魔法よ。ま・ほ・う。格闘技とは違うわ。コードを組むのに筋肉は使うけど」
耳がおかしくなったのでなければ、女の口は「魔法」と発声した。達彦は確認してみることにする。
「まほう?」
「うん。魔法」
「……そうですか。大変ですね」
「そうなのよ。これはこれで大変なのよお」
魔法と言えば、おとぎ話やファンタジーに出てくる魔法のことであっておそらく魔法以外にはあり得ないだろう。呪文《じゅもん》を唱えたり火の玉を出したり人間をカエルに変えたり。だけれど、この世に魔法が存在すると達彦が聞いたことはなかった。映画やアニメや、あるいは女の脳内ワールドには存在していたりするのかもしれないけれど……。
バッグから黒い棒状の物体を取り出し、女は、進入禁止の交通標識の裏側にガムテープで貼りつけている。堂々とした態度に反比例して、やっていることはまるっきり不審者だった。
もしかしたら、いやもしかしなくても、この女はお近づきにならないほうがいい人種かもしれない。達彦は思った。嫌味なほど整った顔とかやわらかな口調とかスーツに隠された豊かなバディーとかそばにいるとただよってくるかぐわしい微香とかに騙《だま》されてはいけないのだ。頭の中を別の物理法則が支配するファンタジー世界の住人なのだ。
達彦はそろそろと後ずさった。Aに蹴《け》りとばされたせいで道端に転がっているリュックサックを回収しつつ、なめらかな円軌道《えんきどう》で女から遠ざかる。
「世の中いろいろあるでしょうががんばってください」
「応援ありがと。がんばるわ」
冬眠中のヒグマの横を通り抜けるときと同じくらい憤重な足どりで後退する。一メートル、二メートル……十メートル離れたらダッシュして逃げよう。そう決めた。
「ああ、もう! ガムテープだとけっこう目立つな」
女がぶつぶつとつぶやいている。達彦は気にしない。あと三メートル、二メートル、もうすこしだ。
「そうだ!」
女が振り返る。漆黒《しっこく》の視線が達彦を貫《つらぬ》いた。
「きみが持ってるのスプレー缶よね?」
「ええ……まあ」
「ホワイトも持ってる?」
残念なことに持っていた。白だけじゃなく赤青黄色緑紫、絵を描くときに必要な色はたいがい揃《そろ》っている。そもそも男たちとトラブルを起こす原因となったのがこのスプレー缶なのだった。
「……一応」
達彦はしぶしぶとうなずいた。
「ちょっと貸してくれないかな。返さないけど」
「はあ」
「いますぐ必要なんだけど店が開くまで四時間くらいあるのよね。貸してくれたら、お礼に手料理をご馳走《ちそう》するわ」
「ご馳走してくれなくていいです」
「これでも料理には自信があるんだけどなあ」
「かなりマジで遠慮します。スプレーは使ってくださってけっこうです」
「なんだか悪いなあ」
「悪くないです。ぜんぜん」
白スプレーをリュックから取り出し、手渡す。
女が無造作《むぞうさ》に受け取る。
指先がかすかに触れ合った。
その瞬間、ぴりりとした電流のようなものが達彦の腕を駆けあがり、肩を経由して首の根元で花火を散らして消えた。冬の寒いときに指先で発生する静電気とは違う種類の刺激だった。
いまの電流に女は気づいていないようだ。ジャイ借りしたスプレー缶をしゃこしゃこと振り、ガムテープの上から塗料を吹きつけている。ほどなくして、交通標識の裏側に貼りつけられた得体の知れない物体は、標識のくすんだ白に隠れて目立たなくなった。
「ばっちりね」
スプレーを吹きかけたカモフラージュの出来栄《できば》えにうんうんとうなずくと、女は黒いバッグをかつぎあげた。
「さて。労働、労働! スプレーはありがたく借りとくわ。いそいでるから、じゃあね!」
一方的にしゃべり、女は行ってしまった。
かつて自分のものだった塗料で迷彩《めいさい》されたガムテープを達彦は見上げてみる。
貼りつけてあるのは折りたたみ式の携帯電話のようだった。それもただのケータイではなく、もとからついているバッテリーを取り外し、ノートPCで使うような大型のバッテリーを無理矢理接続してある。
爆発物ではなさそうだけれど、なんだかとても犯罪くさいニオイがした。
達彦はちらりと視線を横にずらす。三人の男は、不自然な姿勢でシャッターの上に折り重なっている。死んではいないようだが動きもしていない。まるで、重力が横から男たちをシャッターに押しつけているみたいだった。
いったいあの女はこの街でなにをやろうとしているのだろう。
ただの電波女なのか、罰ゲームをさせられている不幸な人なのか、または、凶悪なテロリストだったりするのか。女が逮捕されたら、スプレー缶を貸した達彦も共犯ということになってしまうのだろうか。女の名前はなんというのだろうか。歳は何歳なのか。達彦とはどれくらい離れているのだろうか。激しく気になった。
胸の奥に湧《わ》きあがったその感情が、恋と呼ばれるもののはじまりなのだと達彦が気づくのは、渋谷の裏側で起きた不思議な事件がすべて終わってからのことになる。
1.センター街 9:04
そのホームレスはピアニストと呼ばれていた。
誰が呼びはじめたのかはわからない。ただそう呼ばれている。人通りの多い小路の片隅に置いたビールケースに腰かけ、ホームレスの老人は日がな一日ピアノを演奏している。
彼の鍵盤《けんばん》は透明で見えない。薄汚れた指がなにもない空間を踊っているだけだ。道|往《ゆ》く人々は、彼をあざわらい、憐《あわれ》みの視線を投げかけ、遠回りして避けていく。あるいはそのピアノは、渋谷という街の住人にはけして見えない、裸の王様が着ていたという服と同じ材質でできているのかもしれなかった。
演奏法も独特だ。肘《ひじ》は硬直したまま動かず、ただ指だけが華麗《かれい》に鍵盤を叩《たた》きつづける。彼が弾《ひ》いているのは高価なグランドピアノではないのだ。灰色のアスファルトに八十八鍵のピアノは似合わない。小学生が音楽の授業で使う三十二鍵の鍵盤ハーモニカで十分だ。だから、透明なピアノが奏《かな》でる架空《かくう》の音楽はホームレスの周囲にとどまり、華やかな表通りに達することはないのだった。
スーツを身にまとった人物がピアニストの元を訪れたのは、皆崎達彦が女と遭遇《そうぐう》するちょうど二か月前の朝のことだった。
「あなたが……ピアニストの源《げん》?」
問いかけの声にホームレスは演奏をやめ、排気ガスで黒くなった顔をわずかにあげた。
「よく来た。ガーベージコレクター」
「いいえ、わたしの名前は――」
「おまえさんの本当の名前などどうでもいいさ」
源と呼ばれたホームレスは、ひひひと笑った。
「ピアニストの源だってわしの本名じゃない。誰かが勝手につけた名だ。だったら、わしがおまえさんをどう呼ぼうと勝手だろう?」
「それはそうですが」
反論しようとして、スーツ姿の人物――ガーベージコレクターは源に同意することにした。本名を知られないというのはかえって好都合かもしれないと考えながら。
「わかりました。好きに呼んでください。それで、わたしがここに来た理由ですけれど……」
「渋谷のクズ収集をしたいんだろう?」
「そんなことは望んでいません。あなたは記憶を消すことができると聞きました」
「わしにできるのはクズの収集だけだ」
「報酬《ほうしゅう》はいくらでも払います」
「金が欲しいならホームレスをやらずに働いている。おまえさんがあの中国人になにを聞いてきたかは知らんがね」
「犯罪を依頼するつもりはありません。消して欲しいのはわたしの記憶です」
「忘却《ぼうきゃく》なんぞ時間にまかせればよかろうさ」
足元にあったコンビニのビニール袋を源はまさぐった。そうしてやっとつまみあげた吸い殻《がら》は、フィルターから五ミリ程しか葉の部分が残っていない。源は顔をあげた。
「タバコをくれんかね?」
スーツの人物は、苦々しげにタバコの箱を放り投げる。
脚のあいだに落ちたタバコの箱を、顔を走る皺《しわ》と同じほどに目を細めて源は見つめた。低タールが売りのメンソールタバコだった。
「こんなのはタバコじゃない」
「わたしは喉《のど》が弱いんです」
だったらタバコなぞ吸うなとか口の中でもごもごと言いながら、ガスの無くなりかけた百円ライターを何度もこすり、火をつける。源の鼻からゆるゆると紫煙《しえん》がたちのぼった。
「時の力は強大だぞ、ガーベージコレクター。愛情・喜び・悲しみ・憎しみ、すべての想いを薄れさせる。人を殺したことも、大切な人を殺されたことも時間は無慈悲《むじひ》に解決しちまう。わざわざ消す必要なんかない。そういうもんだろ?」
「あなたが詩人もやっているとは知りませんでした」
「ホームレスはみな詩人だ」
ひひと笑った。
新鮮なタバコから源は大きく息を吸いこみ、吐きだした。輪になった煙が鼻から浮かびあがり、湿った朝の空気に消えていった。富も名誉もすべて失い意固地《いこじ》という名のプライドだけを頼りに生きるホームレスにかける言葉が見つからず、ガーベージコレクターはただ佇《たたず》んでいた。
フィルターに達した火が自然に消えた頃、源は、黄ばんだ眼球でガーベージコレクターの目をのぞき覗《のぞ》きこんだ。
「……夢を見ないそうだな」
ガーベージコレクターはうなずく。
「医者に言わせると、わたしの脳は特別製なんだそうです。寝ていても夢というものは見ません。憶えてないんじゃない。まるっきり見ないんです。だからどういうものかもわからない。その代わり記憶が風化しません。どうでもいいことも、どうでもよくないことも、残らずみな憶えています。たとえば、きのうの朝食を言ってみましょうか? ブラジル産のコーヒーを一杯と三分の二、ゆで卵を半分、アスパラガス三本にヨーグルトをかけました。六ツ切のイギリスパンをトーストにして、結局最後の一口が食べられませんでした……まだつづけますか?」
「夢を見ているとき、人間の脳はなにをしていると思うかね?」
「知りませんね。知りたくもありません」
「そう言うな。おまえさんの脳味噌にも関係あることだ」
源の説明によると、夢はデータの整理なのだった。
起きているときに見たり聞いたりしたデータはそのままでは使いものにならない。データにラベルを貼り、過去に記憶したデータとリンクさせ整理|整頓《せいとん》してからしまう必要がある。
脳を図書館だと捉《とらえ》えデータを本だと考えると、昼間の脳は、返却口に本を積みあげるだけ積みあげた状態だと言える。夜型の司書は図書館の主《あるじ》が寝てから活動をはじめ、ラベル通りに本を分類して棚に差すのである。こうしなければ、情報が必要になったときにすぐ引き出すことができないからだ。
重複していたり必要なかったりするクズデータはそのときに抹消《まっしょう》されるのだという。
「つまりそれが|クズ収集《ガーベージコレクト》だ」
源の言葉にガーベージコレクターは目を見開いた。
老人はひひと笑う。
「おまえさんにぴったりの名前だと思うだろう?」
「ですが、消していいデータとそうじゃないデータはどう決めているんです?」
「日常生活だって、必要なものをうっかり捨ててしまったり、いらないものをいつまでも取っておいたりするだろう。寝ているときのことまではわからんよ」
ホアンと名乗る中国人プログラマーに聞いた話をガーベージコレクターは、思いだした。
夢の話はコンピューターに似ている。脳というのは、CPUと記憶装置が一緒になった複雑な装置のようなものなのだろう。だから、記憶の再配置をしているときも、CPUを流れる情報の断片を人は夢として見てしまうのだ。そういうことなら、夢に脈絡《みゃくらく》がないことも理解できる。
コンピューターでは、プログラムの動作はプログラマーが決める。クズデータを抹消するルールもプログラマーがつくったものだ。ならば、人間の場合は、人間の設計図を書いた神様が抹消のルールを決めたのかもしれない。神の手によって、人は日々記憶を薄れさせ、新しい一日へと旅立っていく……夢を見ないガーベージコレクターただひとりを置き去りにして。
ピアニストである源が夢と記憶の仕組みを知っている理由はわからなかった。
源は、渋谷のホームレスで、薄汚れていて、他人に平気でタバコをねだり、空中ピアノを終始弾いている頭のおかしな人間だ。見たところ、正気が二分で狂気が八分にも感じられる。
しかし、この際手段はどうでもよいのだった。ガーベージコレクターに必要なのは、理屈ではできないことをやってのける人物であり、まっすぐのネクタイや印刷された名刺は必要ない。理屈では説明できない不思議な力をホアンという男は操《あやつ》っていた。同種の力を源も持っているという話だった。それだけで十分だ。
「クズの収集ならできると言いましたね」
「ああ。言った」
「それでお願いします」
「他人を巻きこむ覚悟はあるかね?」
「かまいません」
「おまえさんのガーベージだけじゃない。おそらく、この街にいるすべての人間のガーベージをまとめて回収し抹消することになる。それでもいいのかね?」
「かえって好都合なくらいです」
肉親を奪ったこの街と一緒に記憶が消えてくれるのならそれも良いだろう。見るたびに心を締めつけるあの坂道が、自分の記憶と一緒に掃除されるというのも運命的な話だ。後腐《あとくさ》れなく、きれいさっぱりと消してやろうではないか。
スーツの人物は拳《こぶし》を握りしめる。
そして言った。
「わたしは、この渋谷という街のガーベージコレクターとなりましょう」
*
森下《もりした》こよみは渋谷の街が苦手だった。
人が多いし、多いし、多いし、おまけにその人々ときたら通常の三倍くらいのスピードで動いている。本当はそんなことはないのだろうけれど、そう感じる。駅のエスカレーターに並んで乗るときも転ばないように気をつけなければならないこよみにとって、この街の雑踏《ざっとう》は危険地帯だ。もしかしたら、ビルの壁面を飾っている大型屋外ビジョンが、早くあるけー、早くあるけーなどとサブリミナル効果を発生させているのかもしれない。
かわいい雑貨が店に並んでいたり、おいしいアイスクリームが売っていたり、きれいな格好をした同世代の少女が歩いたりしているところは非常にポイントが高いのだが、この街のせわしさはどうも苦手感が先に立ってしまうのだった。
|一ノ瀬弓子《いちのせゆみこ》クリスティーナに休日の朝から呼び出され、こよみは、坂崎嘉穂《さかざきかほ》と一緒にこの街にやってきた。
そして、犬の像がでんと構える駅前広場で、こよみはいきなり難問に直面したのである。
弓子の機嫌が悪いのはいつものことだからよしとしよう。嘉穂がなにもしゃべらないのも通常の状態だ。だけれど、客観的に見ると、お姉さんふたりと勝手についてきて姉を困らせている妹ひとりのグループに見えてしまうのは大いなる問題だった。
こよみは背が低くて鼻が低くてついでに胸もない。だからといって細身かというとそんなことはなく、前から見るとどこが胸部と腹部の境目か判別しがたい幼児体型だったりする。これでもれっきとした高校生なのだが、私服を着るとよく小学生にまちがわれる。カッコイイ服を買おうと思ってもサイズが合うことはまずない。
普段は気にしていなかったけど、きれいな格好をした女の子がたくさんいる街で弓子と一緒にいるとすごいプレッシャーになる。
通りすぎる人がちらちらと視線を送ってくるのはきっと弓子が目立っているせいだ。銀の髪と紫の瞳を備えた一ノ瀬弓子クリスティーナは、こよみと同じ人類だということに疑問を呈《てい》したくなる体型をしている。二十センチあまりの身長差はそのまま足の長さの違いとなって現れているし、こよみのお腹《なか》の両サイドについているお肉を茶腕二杯分くらいずつ胸にもっていかないと同じシルエットにはならない。かといってこよみのお腹には茶碗二杯分もお肉は余ってないから、想像するだけで怖くなるけれど内臓部分も削《けず》る必要があるかもしれない。弓子のウエストは、いったいどこに内臓がつまっているのか不思議なほど細いのだ。
嘉穂も、胸部に山岳地帯があるとは言えない体型だけれど、こよみと違ってそれなりに背があるのでスリムに見える。子供に見えるのはやっぱりこよみだけなのだった。
こよみはため息をついた。
晴れあがった空に、気の早い夏の風が空気をくるくると舞いあがらせていた。東の空にのぼったばかりの五月の太陽は陽光をまき散らし、熱と恵みと有害な紫外線を道|往《ゆ》く人々に与えている。
ハチ公像を囲む樹々がつくりだす淡い影の中で、三人の少女は途方《とほう》に暮れていた。
正確には、ひとりが怒り、ひとりがおろおろし、もうひとりがまったく知らん顔で携帯情報端末《PDA》をいじっていた。ちなみに、怒っているのが弓子で知らん顔をしているのが嘉穂である。
銀髪を振り乱して弓子が怒鳴った。
「いったい美鎖《みさ》はどこにいますの! 連絡もなし。電話も応答なし。まったくもう! あの犯罪者!」
「弓子ちゃん、いくらなんでもそんな言いかたってないと思う。美鎖さんは――」
「犯罪……するよね」
嘉穂がぼそりとつぶやいた。
「嘉穂ちゃあん」
「でもするものはするし。本人も言ってたし。ごまかしはいけないし」
「そうですわ。弟子のあなたがちゃんと見張っていないから、師匠が犯罪を犯すのです」
「ふえええん!」
姉原美鎖《あねはらみさ》は、森下こよみの師匠である。
一応。
こよみは彼女に魔法を習っていることになっているのだった。
魔法といっても、ちちんぷいぷいと呪文を唱えたりルーン文字で魔法人形《ゴーレム》を操ったりする魔法ではない。
習っている場所は、血塗《ちぬ》られた洋館の恐怖OLは見た! 都会の片隅で巻き起こる猟奇《りょうき》連続殺人事件! なんてかんじの建物だったりするのだけれど、教えてもらっている内容は、コードと呼ばれるプログラムをコンピューターで実行して魔法を発動させる現代魔法である。コードという観点から見れば、コンピューターの基板《きばん》も人間の肉体も同じものなのだそうだが、習いはじめたばかりのこよみはまだそのあたりのリクツがよくわからない。
師匠の姉原美鎖は、やさしくてきれいで聡明《そうめい》で、国立大学の大学院生でおまけに凄腕《すごうで》のプログラマーだ。一見すると非の打ちどころのない人物である。
ところが、彼女を支配しているワタシルールは社会一般のそれとすこしばかり異なっている。卓越《たくえつ》した知識と技能を存分に発揮《はっき》して美鎖はいろいろなことをするのだが、ときおり、それは社会が定める常識とか良識とかとにかくそんなものからはみだすことがあり、しかも悪いことに本人にはなんの自覚もないのだった。
弓子が入手した情報によると、なにやら怪《あや》しげな仕事を請《う》け負《お》った美鎖は、現在、渋谷の街に潜伏《せんぷく》してやっぱり怪しげな魔法発動コードをばらまいている最中らしい。
美鎖は意味もなく他人に迷惑をかけたりする人ではないし、問題が起きないかぎりは放っておけばいいんじゃないかなあなどとこよみは事なかれ主義的に思ったりする。だけれど、欧州《おうしゅう》の由緒《ゆいしょ》正しい魔法使いの血を継《つ》ぐ弓子は魔法の悪用が我慢《がまん》ならないようで、なんとしても美鎖の悪業を止める決意だ。
共同責任だと言われてこよみは弓子に駆り出された。怒っている弓子とふたりきりだととても怖そうなので、こよみは同級生の嘉穂に泣きつき一緒に来てもらったのだった。もっとも、嘉穂はもとから渋谷に用があるとか言っていたのだけれど。
「ここに立っていても状況は改善されないと思われ」
嘉穂が言った。
「なにか案があるなら出してくださいまし」
「でも、あたしには関係ないし」
「そんなこと言わないでよう」
「あたしは魔法使えないから。街のどこにいるかわからない人間を探すのも無理かと」
「手がかりならございますわ。最近、あるケータイアプリが流行しているのをご存じ?」
弓子はケータイを取り出した。写真やムービーを撮ったりゲームをダウンロードしたりできる最新の機種だ。液晶画面に二頭身のアニメキャラが映しだされている。赤い髪をした女の子は、ふきだしの中でなにかセリフをしゃべっていた。
「推測ですが、これが今回の美鎖の悪事ですわ。このアプリは魔法発動コードで動いています」
「あ、それ学校で見たことある」
「こよみの機種でも使えましてよ」
「ごめんなさい。まだ使いかたがわからないの」
ケータイの画面に映っているアプリをこよみは知っていた。学校で何人かの生徒が使っているのを見たことがある。基本的には、画面に表示されているキャラクターと文字で対話《とーく》するひまつぶし用ゲームである。だけれど、友達と通信して話題の共通化ができたり、長いこと放っておくとキャラクターが家出したり、逆に仲良くなれば「今月は通話料金で死ぬね」とか「最近彼氏からメールこないね」とかケータイの中の人にしてはなかなかあなどれないセリフを言ってきたりもする。それだけでなく、味なことを書きこむと頭がすうーつと軽くなる効果もあるという噂《うわさ》だった。
ちなみに、こよみは機械の操作が下手《へた》なのでたくさんボタンを押さなければならないケータイアプリを使ったことはない。
「このアプリは、使った人間に幸せを呼ぶと言われています」
「そうなの?」
「そんなわけありませんわ。魔法でも無理です」
「なんで?」
「魔法は特定の目的を持って動作します。幸せを呼ぶなどという抽象《ちゅうしょう》的なコードが存在するはずはありません」
弓子は、ただでさえ大きな胸を張って言う。
ひとえまぶたの瞳を細め、鮮明な液晶画面を嘉穂はうさんくさげな表情で見やった。
「プラシーボ効果という可能性も」
「ぶらしーぼこうかってなに?」
「簡単に言えば暗示のこと。本来効かないはずの偽《にせ》の薬でも本物と同じように効いてしまうことがある。主観的な症状だけじゃなく、血液検査みたいな検査値にも影響がある。それがプラシーボ効果」
「へえ」
「可能性は否足しませんけれど、わたくしは違うと思います」
「なぜ?」
「コードを感じるからですわ」
こよみと違って正当な古典魔法使いである弓子は、コードの異常を知覚することができる。プログラムを解析《かいせき》するように正確にコードを紐解《ひもと》くことはできないけれど、なにかが起きていることはわかるのだった。
携帯電話もコンピューターの一種だ。メモリから読みだされたコードがCPU内部を駆け抜けるとき、微弱な電磁パルスが発生する。一定のパターンを持った電磁パルスはものとものの関係性を歪《ゆが》ませ、この世とは違う法則を仮想的につくりだす。それが魔法だ。かつて魔法使いたちがみずからの肉体を使って行使した魔法とまったく同じものである。
魔法によって空間にプリントされた異《こと》なる世界《レイヤー》の法則は、距離や時間の概念《がいねん》を変え、重力を逆転させ気圧を高め、ときには|異世界の魔物《デーモン》を呼びだしたりもする。そうして呼び出された魔物と戦い、こよみたちはたいへんな目に遭《あ》ったことがある。
そしていま、弓子によれば、ケータイが発動させるコードによって、渋谷の街は魔法的によくない状態になりつつあるということだった。
「……なんで渋谷なんだろう?」
嘉穂の服の裾《すそ》をつかみながら、こよみは、弓子の紫の瞳を直接見つめないように、なおかつできるだけ角が立たないような口調で言ってみた。
「渋谷がターゲットだから若者が使うケータイアプリにコードを組み込んだのか、ケータイアプリが渋谷で流行したからこの街でなにかをするつもりになったのか、いまの時点で判断はできませんわ」
「でもでも、弓子ちゃん」
「なんですの?」
「たしかに美鎖さんはいろいろ無茶をするけど、考えなしに他人に迷惑をかけたりする人じゃないと思うんだけど……」
「考えなしには迷惑をかけないでしょう。考えた末ならいくらでもかける女ですわよ」
「それはたしかにそうかも」
「嘉穂ちゃあん」
「それに、美鎖ではなかったらいったい誰が魔法発動コードなんてものを書いたんですの?」
「うう……」
ここ数週間、美鎖が携帯電話用のプログラムを開発していたのはたしかだった。コンピューターが得意ではないこよみにはなにをしているのかわからなかったけれど、美鎖は真剣な表情でテストを繰り返していた。それを使うのは渋谷の街だという発言もなんだか聞いた気がする。
美鎖の職業はプログラマーである。しかし、ビジネス用のアプリケーションなどといったまともな仕事は受けていない。ソフトの売り上げを伸ばす魔法のプログラムだとか、相手のソフトの売り上げを低下させるプログラムだとか、そういういかがわしい仕事ばかり引き受けている。どれほど困難な仕事も完璧《かんぺき》にこなすが、悪魔のような報酬を要求するため、業界の一部で悪名が高いそうだ。
だからといって、美鎖が悪い人物かというとそんなことはない。社会生活を送る常識人として必要なネジが一本|緩《ゆる》んでいるだけで、正義を愛する弓子以上にいい人なんじゃないかなあとこよみは思ったりするのだ。
「どうやればこのケータイで魔法コードが発動するの?」
「今日あった嫌なことを書きこんで、念じながら実行ボタンを押すんだそうですわ。ご自分でたしかめてみなさいな」
たしかめるといっても、ケータイで動いているはずのコードがこよみには知覚できない。だいたいこよみは、金《かな》だらいを召喚《しょうかん》する魔法しか使うことができないのだ。修得済み魔法のバリエーションは、銅のたらいと鉄のたらいと、水の入ったたらいの三種類である。
念じながらというところがなんだかとてもうさんくさいな、などと考えながらこよみは弓子にケータイを貸してもらった。
朝転んだこと。ひざこぞうが痛かったことをぽちぽちと打ち込む。
だけれど、ケータイアプリが魔法発動コードで組んであることは事実だったようだ。
えいとボタンを押した瞬間、微弱な電流がケータイから右手へ流れ超特急で胸を通過して左手へ駆け抜ける。体の中で変換されたコードは、なぜか森下こよみが唯一《ゆいいつ》使える魔法となって効果を発揮した。
たらいだ。
ぽん、と音を立てて宙に出現した金だらいが、重力に従って落下し、運悪く横を通りすぎようとした見知らぬ青年を直撃した。
2.ハチ公前 9:48
燃えつき症候群という言葉があるそうだ。
約束された楽園が待っていると信じ、快楽を捨て血反吐《ちへど》を飲み込み、ひとつの目標に邁進《まいしん》してついにゴールにたどりついたはいいけれど、そこは期待していたほどの場所ではなかった。そのことに気づいたときにかかる心の病気である。
まあ、基本的には心の弱っちい人間がなる病気だ。皆崎達彦は自分で考えてみても弱っちい人間なので、燃えつきて気力を失ってしまったのも無理はない。ま、そんなもんだ。
達彦はよく、おとぎ話について考えることがある。
桃太郎や白雪姫。
あの人たちは本当に幸せだったのだろうかと。
結末はたしかにハッピーエンドだ。でも、あの人たちは燃えつきていないのだろうか。突然現れた王子様と結婚したり爺婆《じじばば》と幸せに暮らしたりすることが彼らの目的だったのだろうか。そのために、命をかけ鬼と戦い、あるいは毒のリンゴをかじったのだろうか。クソったれな愛のパワーというものはそれほど強いものなのか、目の前につれてきて聞いてみたい。
戦争の帰還兵の話を達彦はテレビで見たことがある。祖国のために外国で戦い、心に深い傷を負って帰ってきた男たちの帰還後の話である。
平和で幸せな社会にとけこめない彼らは、野外にテントを張って暮らしていた。戦争が終わって何年たっても彼らの戦いは終わらないのだった。十年以上前に放たれた敵弾は、帰還兵たちの心の中で、いまも甲高《かんだか》い擦過音《さっかおん》をたてて飛びつづけている。
もしかしたら、彼らの戦争が終わらないのは、戦争のエンディングのあと、通りすがりのお姫様が求婚してくれなかったせいなのか。
そんなことを考える。
皆崎達彦も戦いを経験した。
その戦いは、ひとことで言えば受験だったということになるだろう。二年前、けっこうな努力をして難関高校に合格した。まあ、それなりにたいしたことだとは思うけれど、桃太郎みたいにとてつもないことをなしとげたってわけでもないし、帰還兵のように命を懸《か》けたわけでもない。さらに言うなら、この先大学受験と就職が控《ひか》えているからゴールというわけでもない。
それに、達彦が勉強をがんばったのは、難関高校に入りたかったからではなかった。
中学生の達彦は、勉強は嫌いではないけれど、わざわざ学校が終わってからするほどのものでもないと考えていた。そんな達彦は塾に用がなかったし、塾も自分を必要としていなかった。その頃はいろいろなことに対して嫌になっていて、スプレー缶を持って、学校の壁に落書きをすることを日課としていた。
ある日の夕暮れ、オレンジ色に染まった体育館裏の壁にいつものように塗料を吹きかけていたとき、突然現れた女が言ったのだ。
「なっちゃないわね」
達彦の手からスプレー缶をもぎとり、彼女は、壁いっぱいに見事な絵を描きはじめた。それがグラフィティ・アートと呼ばれるものだと知ったのはずいぶん後になってからのことだ。
圧倒的な画力に打ちのめされ、達彦は落書きをやめた。
その人物は両親が雇《やと》った家庭教師で、名前をキョウコといった。キョウコ先生と呼ばずキョウコさんと呼ぶと顔を赤くして怒る子供っぽい人だった。壁の落書きが彼女の策略《さくりゃく》だとわかっても反抗する気は起きなかった。第一ラウンドはあきらかに達彦の負けであり、挽回《ばんかい》するためには彼女と戦いつづけなければならなかった。
つまり、中学三年の達彦は、キョウコ先生にあこがれていたのだと思う。
ところが彼女は、達彦が高校に合格したその日に事故で死んでしまったのだった。第二ラウンドの結果を見ることなく。だから、達彦とキョウコ先生のストーリーはいまだにエンディングを迎えていない。
家庭教師の彼女に抱いていた感情が恋愛だったといったら失礼になると思う。彼女にはちゃんとつきあっている男性がいたし、そのときの達彦には恋愛というものがよくわかっていなかったから。でも、たとえそれがどんな種類の感情でも、終わりを迎えられなかった想いはとぐろを巻き、前へ進むことなく同じ場所でリサジューとかベジエとか呼ばれる複雑な曲線を描きつづけるのだ。
それからの二年間、達彦は、二分五十九秒で針が止まった第二ラウンドを延々とつづけている。
学生をロールプレイするだけでいまの達彦は精一杯で、なにかをするために体の中に燃え盛る炎を宿すなんてことはない。そんな、蒸気機関みたいな、火力発電所みたいな、エネルギー効率の悪い生きかたは達彦には二度とできなかった。どんなに頑張っても火力はせいぜい百円ライターくらいで、結果もそれ相応だった。
死んでしまったら楽だな、と思うこともあるけれど、もし達彦が死ねば、驚く人も喜ぶ人もおそらく悲しんでくれる人もいる。葬式には金がかかるし、墓を建てれば場所をとる。自分の能動的な行為によって、この世の中はなんらかの影響を受けてしまう。そうした無駄な行為を、達彦は他人にさせたくなかった。いままでなんの役にも立ってこなかった人間にはそぐわないおおげさなセレモニーだ。
達彦に価値があるなら死ななくていいし、価値がないなら、死すらもったいない。だから達彦は、燃えつきたままなんとなく生きている。
一日一日色が薄くなって、ある日誰も気づかないままいなくなる。どちらかといえば、それが、自分にふさわしい消えかたのような気がする。誰に迷惑をかけるわけでもなく、誰を悲しませるでもなく、ドライアイスが空気に消えるように、ぱっといなくなる。とても甘美《かんみ》な誘惑だ。
そんなやくたいもないことを考えながら、きょうも達彦は、彼女に教えてもらったグラフィティ・アートで渋谷の壁を汚していたのだった。
*
モノトーンの女のおかげでヤンキー三人組の襲撃から脱出した達彦は、文化村《ぶんかむら》通りから道玄坂《どうげんざか》に向かい、店の開いていない渋谷の街で時間をつぶした。女がいなくなったあとも男たちはシャッターに貼りついたままだった。もぞもぞ動いているから生きてはいたようだけど、ピンで壁に留《と》められた虫みたいにシャッターから体をはがすことができないのだった。
邪魔もなくなったし、壁に落書きのつづきを描くこともできたのだが、女のせいでなんだか毒気《どくけ》を抜かれてしまった。
女がやっていたことを警察に届けようとも考えたのだが、その場合ヤンキー三人組のことも言わなければならないだろうし、彼らといさかいを起こした原因もしゃべることになる。自分にとってもまずい展開だ。なぜなら、達彦がやっていたこともどちらかといえば犯罪行為に近いから……。
人通りが増えはじめた朝の道玄坂を達彦はぶらぶらとくだり、渋谷の駅前に着いた。
そのときだ。
突然降ってきたなにか[#「なにか」に傍点]が達彦の頭にぶつかった。
金属質の音をたてて衝突したその物体は頭頂部《とうちょうぶ》でくるりと一回転。ぶわんぶわんと前後に揺れて首の骨に嫌な振動を与えたのち、時計回りに回転しながらアスファルトへ落下してもう一度けたたましい音を発した。
衝撃に痛む首をさすりながら、達彦は落ちた物体を見つめる。
息を呑《の》んだ。
金だらい……というのだろうか。テレビのコントで見たことはあったけれど現物ははじめてだ。
直径は一メートル。深さは二十センチ強。銅でできているのか、陽光を受けて赤味がかったオレンジ色に憎たらしく輝いている。これほど大きなたらいの使い道を達彦は想像することができない。長ネギとかゴボウとかダイコンとか、とにかくやたらと長い野菜を丸のまま調理しなければならない選手権でもなければ使うことはないんじゃないかと思う。そんな選手権ないだろうけど。
ハチ公前で待ち合わせをしていた人々の視線が、敷きつめられたタイルの上で光り輝く金だらいに集中していた。
達彦は周囲を見回す。
看板を持ってとび出してくるレポーターの姿も隠し撮りしているビデオカメラも見当たらない。見上げても、どこかにたらいが吊《つ》るしてあったとかそういう雰囲気はなかった。
「ご、ごめんなさいっ!」
舌たらずの声が、右手のずいぶん下の方から聞こえ、達彦は視線を向ける。小学生くらいの女の子が腰を直角に曲げた姿勢で固まっていた。
その子の横には高校生くらいの少女がふたり。とてつもなくメリハリの効いたボディーラインをした銀髪の子と、中途半端な長さの髪を頭の後ろでくくった細身の子が立っている。
いたずらをしたときはひっかかった人間を笑ったりするものだと思うが、ふたりとも、運悪く猟師《りょうし》の罠《わな》に脚《あし》をはさまれたあわれなウサギを見る目つきで達彦を眺めていた。どちらかが小学生の姉なのだとしたら説教ものの態度だ。達彦の学校の生活指導教諭を連れてきて、代わりに怒ってもらってもいいくらいである。
ちいさな背中を精一杯折りまげ、女の子はごめんなさいを繰り返している。
「本当にごめんなさい。おケガはないですか?」
「だいじょうぶだったとは思う、けど」
「よかった。あたしよくやっちゃうんです」
「よくやる?」
「はい。なにをやってもたらいになっちゃって。そろそろ違うコードもおぼえたいんですけど……」
道を歩いている赤の他人の頭にたらいを直撃させることをよくやっているのだとしたら、立派な変質者である。学校と両親は教育方針を考えなおしたほうがいい。
関東圏からさまざまな人間が集まるだけあって渋谷という街にはへンな人間が多い。たてつづけに電波っぽいのに遭遇すると、これからの一日の運勢が呪われているような気がしてさすがにへコむ。
達彦ががっくりするのに合わせたかのように、銀髪の彼女がおおげさにため息をついた。
「貴女《あなた》が召喚《しょうかん》魔法を使えることはわかりましたけれど、コードをなんでもたらいにすればいいと思ったら大まちがいですのよ」
「思ってなんか、ないもん」
「思ってますわ。心に甘えがあるから必要もないときにたらいが出てくるのです」
「うう。弓子ちゃんのいじわる」
「この程度でいじわると言われるようでしたら、わたくしが本気でいじわるをしたら貴女は気絶してしまいましてよ」
「ふえええんー」
弓子と呼ばれた少女と小さな子は、達彦を完全に無視して会話をつづけた。対等に話しているところを見ると、恐しいことにこのふたりにそれほど年齢差はないのかもしれない。遠目で見たら同じ人類に見えるかどうかもあやしいというのに。なおもたたみかけようとする弓子の服の裾《すそ》を、なにも言わずに立っていたもうひとりの彼女がつんつんと引っぼった。
「なんですの?」
無口な彼女は黙って達彦を指さす。
「ああ。貴方《あなた》、まだいましたの? もう行っていいですわよ」
「たらいをぶつけておいてそれかよ。まったく近頃のヤツときたら……」
「ご、ごめんなさい!」
「こよみ、必要以上にあやまるのは逆に無礼になることもありましてよ」
「そ、そうなんだ。ごめんなさい」
「ほら、またあやまっていますわ」
「あう。あう」
「ところでそこの貴方。突然出てきたたらいがぶつかってしまったのは不運だとは思いますが、わたくしたちのやることに深入りしないほうがよろしいですわ」
ひとりでおろおろしているこよみと弓子の顔を見比べ、ついでに弓子が銀色の杖《つえ》を持っていることに気がついて、達彦は肩をすくめた。
いつのまにかこの街では魔法が大流行のようだ。達彦が知らないだけで魔法学院かなにかが近くにできているのかもしれない。さすがは渋谷だ。女子高生に流行するものはあなどれない。
「安心していいよ。いまぼくは、頼まれても魔法は嫌だという気分になってる」
「殊勝《しゅしょう》な心がけですわ」
「ったく。今朝はどこへ行っても魔法だ。やんなっちゃうよ。じゃあな」
達彦は踵《きびす》を返す。
半音階あがった弓子の声が背中から追いかけてきた。
「貴方。いま、どこへ行っても魔法、と言いましたわね」
振り向いた。
「言ったよ。悪いか。マホー、マホー。この世は魔法ばかりだ。冗談じゃない。そんなに魔法が見たいんだったらレンタルDVDで『ロード・オブ・ザ・リング』でも見てろってんだ」
「わたくしたち以外の魔法をどこで見ましたの?」
「井《い》の頭《かしら》通りをずっと行ってロフトの反対側くらいのとこだよ」
「それはいつ?」
「三時間くらい前かな。黒ずくめのへンな女が言ってた。きみたちと同じく、こーどとかなんとかも言ってたっけな」
「その女ですわ!」
「なんだよ。急に叫んで」
杖を持っていないほうの手で、弓子は達彦の腕をむんずとつかんだ。ウェーブのかかった銀の髪がさらりと頬を撫《な》であげ、電気にも似た感触と得体《えたい》の知れない香りを残していった。彼女の髪が生《は》え際《ぎわ》からまるっきり銀の色をしていることに達彦ははじめて気づいた。
「わたくしをその場所へ連れて行ってくださいまし!」
「歩いてきゃすぐだよ。ここから三百メートルもないって」
「それでは確実性がありませんわ。一刻も早くあの犯罪者を止めなければなりません」
「おいおい。マジかよ」
「わたくしはいついかなるときも真面目《まじめ》ですことよ。さ、行きますわよ」
銀髪の自称魔法使いに引きずられながら、達彦は、きょうという日はやはり呪われた一日だったのかなとか、そんなことを考えた。
*
「弓子ちゃん、行っちゃったね」
「……」
「あたしたちのこと置いてっちゃったね」
「……」
「どうしよう」
「……べつにどうも」
「弓子ちゃん、ケータイも置いてっちゃったんだよ?」
「一ノ瀬が持ってない分には問題ないと思われ」
そう言うと、嘉穂は携帯情報端末《PDA》をぴこぴこと押しだした。
名前を知らない青年と弓子が消えたスクランブル交差点を、こよみは目を細めてじいっと見つめてみる。けれど、はるか彼方《かなた》の雑踏の中にも銀髪の少女の姿を発見することはできなかった。
駅前広場から見上げる五月の空は青と灰色の中間の色に染まっていた。渋谷に着いたときよりはだいぶ高く昇った太陽が、夏の到来を感じさせるまばゆい光を放っている。ここにずうっと座っている犬の像も自分と同じ空を見ているのかななどと思いながら、こよみは、熱と湿気の微粒子を含んだなまぬるい空気を胸いっぱい吸いこんでみる。
けほん。
せきこんだ。
こよみたちが弓子についていかなかったのには理由があった。弓子がちょっと怖かったというのもあるのだけれど、一番の理由はタイルの上に転がっている金だらいをそのままにしておけないということである。駅前の交番のおまわりさんが、なんかさっきから金だらいのことを見ている気がするのだ。朝の駅前広場に巨大な金だらいがぽつねんと落ちていたら、警官として気になるのはあたりまえだろうけれど。
これだけ近くに立っていて、こんなたらいは見たことも聞いたこともないですよもちろん他人のものですとしらばっくれる度胸はこよみにはない。
「あたしたちも美鎖さんのこと探したほうがよくないかな?」
「美鎖さんがなにをしようとしているのかわからないうちは、なにをやったとしても見つかるはずも」
「そんなこと言わないでよう」
「どうしてもというのなら見つける方法がひとつだけ」
「ど、どうやるの?」
PDAをバッグにしまい、ひとえの瞳で嘉穂はこよみを見つめる。万年委員長の少女は、とても難しい化学反応式の解きかたを聞いたときと同じ口調で言った。
「ケガ人を出せば救急車、火事を起こせば消防車がやってくる。魔法のスペシャリストを呼びたかったら?」
「まほうの災害?」
「そ。森下がどこかでがあんとやって大規模魔法災害を起こせばいい。美鎖さんはかならずやってくると思われ」
起こるかもしれない災害を未然に食いとめるために弓子は美鎖を探しているのに、それはちょっと違うような気がする。
「どうする?」
「……やめとく」
「そのほうがたぶん賢明」
かといって、弓子が帰ってくるのをずうっと待っているというのも間が抜けている気がした。魔法が絡《から》んだ事件に初心者のこよみが役に立てると本気で思っているわけではないけれど、せっかく自分の意思で魔法を習いはじめたのだからできることくらいはしたいと思う。それに、いまの状態の弓子と美鎖をふたりっきりで会わせたらとんでもないことになるような気がするのである。
「美鎖さん、なにやってるんだろう?」
「ケータイを使った分散コンピューティングだと思われ。どんなコードかはわからないけど」
嘉穂はこともなげに答えた。
「ぶんさんこんぴゅーてぃんぐつて、なに?」
「簡単な説明と難しい説明、どっち」
「かんたんなほう」
「特別な一機の白い試作機じゃなく、たくさんのモスグリーンの量産型を使って物量作戦で計算をする方法」
「あの、ぜんぜんわからないんだけど……それじゃあ、むずかしい説明は?」
嘉穂の説明はこうだった。
世界にあるコンピューターは、いつも稼働《かどう》しているわけではない。使われていないコンピューターの計算能力は無駄に眠っている。世界中で眠っているコンピューターの計算能力を集め、たいへんな計算処理を物量作戦でやってしまおうというのが分散コンピューティングである。嘉穂も、学校の視聴覚室にあるコンピューターでSETIのプログラムを走らせている。もちろん先生には内緒で。
弓子が追っているプログラムは、ケータイと人間がひとつのセットになって魔法が発動するそうだった。ケータイを介して多くの人が繋《つな》がったとき、この魔法は其《そ》の姿を現す……かもしれない。
つまり、なにか難しいことをやっているのだった。
「それで、ぶんさんこんぴゅーてぃんぐが成功するとなにが起こるの?」
「あたしは魔法使いじゃないから。起こってみないと」
「そっかあ」
「それより森下、ヒマならあたしにつきあってくれる?」
嘉穂は理数系で頭はいいしコンピューターの扱いも得意だ。魔法を生みだすプログラムには一定の興味を示しているけれど、魔法そのものにはあまり関心がない。
厳密に言うとこよみはいまも弓子の手伝いをしているのであり、さらに言うならこよみの手助けをしているはずの嘉穂まで含めてまったくヒマではないのだけれど、美鎖を探すために打つ手を持ってないのもたしかだった。
「いいけど、なに?」
「きょう、渋谷でゲリラライブがあるらしい。その場所をつきとめたい」
「嘉穂ちゃん、ライブ行くんだ?」
「普段は行かない。けど、ネットに落ちてた|AA《アスキーアート》フラッシュでそのグループの曲が使われてて生で聞いてみたくなった。イゴール鏑木《かぶらぎ》っていう元ボーカルが公《おおやけ》の場に出てくるのは十年ぶりだとかいう話」
あいかわらず嘉穂が使う言葉は、こよみには三割くらいしか理解できない。
「ゲリラって……突然現れて突然はじめるやつのことだよね」
「そ。でも、ゲリラといったって下準備がなきやできない。バラエティー番組に台本があるのと同じ。情報がネットに流れたのも準備しなきやならなかったから。それを探し出す」
「弓子ちゃんは?」
「気が済めば連絡してくる。たぶん」
「あと……たらい、どうしようか?」
「それはまかせて」
言うなり、嘉穂は、平たい部分が下になってどっしりと地面に根を生やしていた金だらいを持ちあげ、動いている車のタイヤみたいなかんじで置きなおした。
そして。
側面をローファーで一撃。
ごがん。
音が響いた。
「ちょ、ちょっと! 嘉穂ちゃん!」
「だいじょうぶ。人目を引くこのやりかたが実は一番|隠蔽《いんぺい》にはいい……と、美鎖さんが」
嘉穂の細い脚が蹴っとばすたび、赤銅色《しゃくどういろ》の金だらいはごがんごがんと派手な音をたてて転がる。駅前広場にいる六割くらいの人が、目を丸くして嘉穂の姿を見ている。
ごがん。
「嘉穂ちゃあん」
「……」
だけれど、いまにも駆けつけてきそうだった警官はあきれ顔で、さきほどまであった緊張が消えていた。
ごがん。
堂々と歩く嘉穂の後ろを、こよみは肩をすくめてついていく。
たしかに、この方法で広場を脱出するのが一番よいかもしれなかった。
3.センター街 10:00
人形のようだと形容したら失礼かもしれない。
銀髪の彼女の容貌はそう思わせる造形を持っていた。そんな人間が存在するなどと、達彦はいままで想像したこともなかった。
たとえ芸術家が生涯をかけて刻みこんだ彫刻だとしても、彼女より劣っていると断言できる。美しいというのではない。美しい人形ならばいくらでもある。モノにはけっして込めることができない生命の息吹みたいなものを彼女の瞳は発している。高いビルの群れにはばまれて太陽の光たちが地上まで降りてこない街中でも、紫がかった銀の髪は燦然《さんぜん》と輝いているのだった。
絹糸よりも細そうな髪を達彦が飽きもせず眺めていると、視線に気づいた弓子が、紫色の瞳で挑戦的に見返してきた。
「同じことを何度も聞かれるのは嫌いですので、はじめに言っておきますわ」
すこし鼻にかかった声だ。
「わたくしには、オーストリア人の血が四分の一、イタリア人の血が十六分の一混じっております。この髪と目はそのせいです。ですが、両親ともにれっきとした日本人ですので、おまちがえなきよう」
四分の一と十六の一を足したら無闇《むやみ》に複雑な分数になりそうだと達彦は思ったが、指摘するのはやめておいた。
「それから、わたくしの名は一ノ瀬弓子クリスティーナともうします。短いあいだでしょうがよろしくお願いいたしますわ」
「ぼくは皆崎達彦。こっちこそ、その……よろしく」
彼女は手首をがっちりと持って離そうとしなかった。女の子に手を引かれているというのはもしかしたらうれしい状況なのかもしれないけれど、これだと連行されているようにしか思えない。市中引き廻《まわ》しの刑にあっている気分だ。どれほど目立つ格好をしていても渋谷の街には溶けこんでしまうものなのに、弓子という少女の銀髪は道|往《ゆ》く人々の視線を釘付けにするのだった。
モノトーンの女のことを弓子は犯罪者扱いしていた。どういう理由だかは知らないけれど、そいつを追っているらしい。
かたやケンカに無理矢理割り込んで一方的に叩きのめしたあげく怪しげな機械を公共の場に設置していった女。かたや通りすがりの人間に金だらいをぶつけてそののち市中引き過しにしている女。
より正義っぽいほうがどちらかといったら、黒よりは白銀だ。しかし、銀髪の彼女はちっとも正義っぼくなかった。学園マンガだったら嫌味な縦《たて》ロールのライバルの役目を割り振られる性格に思える。
あるいはどちらもマトモでなく、起きるはずもない魔法大戦かなんかを信じて脳内ワールドで戦っている騎士《ナイト》だったりするのかもしれない。そういえば、こよみと呼ばれていた背のちいさな子は、ものすごく人に騙《だま》されやすそうな顔をしていたっけ……。
「貴方、わたくしたちのことを頭のおかしな連中だと思っているでしょう?」
達彦の頭の中を見透かしたように、弓子が言った。
「いや。そんなことないよ」
「では、貴方は魔法などというものが存在することに疑問を感じませんの? それこそ頭のおかしいことだとは思いませんこと? 正直におっしゃい」
「そう言われるとたしかにへンだなとは思うけど……」
「ほらやっぱり」
一瞬だけ眉《まゆ》をはねあげ、弓子はそっぽを向いた。魔法の存在を信じて欲しいのか欲しくないのかさっぱりわからない。まあ、世間から白眼視《はくがんし》されている思想の持ち主なんてものは意固地《いこじ》に考えるものなのかもしれないけれど。
細い指をあごにあててしばらく考えたあと、弓子は、あきらめたというか疲れたような口調で言った。
「理解できないことを理屈をつけて無理矢理飲み下す必要はありませんわ。貴方は、貴方の見たいように世界と折り合いをつければよろしいのです」
かといって、魔法と折り合いをつける方程式は学校では教えてくれなかったし、学校以外で教えてくれる場所があったとしても達彦は習いに行かなかったと思う。もしも魔法なんて便利なものが本当に存在しているなら、この世に存在する不幸の半分くらいはなくなっているはずだから。
魔法があったら、もしかしたらキョウコ先生は死んでいなかったかもしれないし、もしかしたら達彦は燃えつきていなかったかもしれない。達彦が渋谷で落書きをすることもなく、魔法だのなんだのとおかしなことを言うへンな女たちに会うこともなかったかもしれない。つまるところ、やはり、魔法などというものは存在しないのだ。
目の前で現在進行中の出来事と折り合いをつけるとしたら、サギの能力に己《おのれ》の才能のすべてを突っこんだ宗教家かなんかに、頭がちょっと不自由な少女たちがころっと騙されているというところだろう。
天は二物を与えずと言うしなあ、とか達彦は失礼なことを考える。人目を惹《ひ》く容貌《ようぼう》と電波を受信する脳がセットになっているのだとしたら、十人並に生まれたというのもそれはそれで幸福だ。
まあ、どうでもいいことだと思う。彼女たちが幸せなのだったら、わざわざリアルワールドに力ずくで引き戻す必要もない。
達彦は投げやりに聞いてみる。
「で、あの黒い服の女の人が悪の魔女なわけ?」
「かならずしも悪というわけではありません」
「でも、犯罪者なんだろ?」
「犯罪者です」
「じゃ、悪人じゃねえの?」
「すべての犯罪が悪というわけではありませんし、正義もときには犯罪となることがあります」
「なんの犯罪をやったわけ?」
「まだわかりませんわ」
「はあ?」
「ケータイを媒体《ばいたい》にしたコードが実行されているのはたしかです。コードは現在進行形で密度を増して、この街を覆《おお》わんとしていますわ。ですが、まだなにが起きるのかはわかりません」
「コードって……爆薬かなんか?」
「コードはコードですわ。この世に魔法をもたらす源《みなもと》となるのがコードです」
横目で達彦は弓子の顔を盗み見る。
マジだった。まるっきりマジな顔だ。一ピコメートルたりとも冗談は含まれていなかった。
「……それは大変だね」
センター街を通り抜け、ふたりはロフトの裏手にたどり着いた。
ビルの合間を擦《す》り抜けた光があかりのついていない街灯を白銀に照らしだしていた。ヤンキー三人組の姿はない。開店を控えた店と、そこに向かう人々と、混みだした道路をかきわけて走る車が出す音が渾然《こんぜん》となって聞こえる。
怪しげな機械を女が設置した交通標識の正面に、いまはひとりのホームレスが座っていた。ピアノを弾くように指を踊らせているそのホームレスは、達彦の顔を見ると、黒ずんだ顔に走る皺《しわ》をわずかに深め、笑ってみせる。
「きょうも来てたのか。スクリーンセーバーの兄ちゃん」
弓子がいぶかしげな顔をした。杖《つえ》を握る手に力が込もったのを見て、達彦はあわてて説明する。
「彼はピアニストの源《げん》さん。このへんにいる、えと、いわゆる都会《アーバン》な人って言ってわかるかな……」
「つまりホームレスですわね。お知り合いですの?」
彼女の言動は容赦《ようしゃ》がない。達彦はうなずいた。
「でも、あの手の動きはあまりピアノには見えませんわね。ピアノの鍵盤はあんなに狭くなくてよ。どちらかというと」
「いいじゃないかピアニストだって。ちょっとボケてるんだよ。老人をあまりいじめるなって」
なおもつづけようとする弓子の言葉を強引にさえぎる。
「まあ、そちらはどうでもよろしいですけれど……わたくしが気になったのは源という方ではありません。貴方が奇妙な名前で呼ばれたことですわ」
「源さんは人にへンなあだ名をつけるんだよ。本名はおぼえにくいらしい。別にぼくだけ特別ってわけじゃない」
照れかくしに達彦は笑みを浮かべた。
「スクリーンセーバーという名になにか意味はありますの?」
「スクリーンセーバーはスクリーンセーバーさね。他の意味なんかありやあせん」
源はひひひと笑う。薄汚れたみずからの手とやはり薄汚れた壁を見比べ、源はつづけた。
「ところで、きょうは仕事が途中のようだが?」
「邪魔が入ったんだよ。いまもその件で戻ってきたとこ」
「やりかけたことを途中でやめるのは感心せんな。スクリーンセーバーの名が泣く」
「いったいなんの話ですの?」
「そのお嬢ちゃんにも見せてやればいい。スクリーンセーバーの妙技ってヤツを。説明するより早かろう?」
源は演奏をやめている。
むすっとした顔で弓子は腕を組んだ。
無言でうながされている気がしたので、しかたなく達彦はリュックからスプレー塗料をとりだした。さいわいなことに人通りが途絶えている。モノトーンの女にホワイトをとられてしまっていたが、なんとかなりそうだった。
源の背後にはひとつのグラフィティ・アートが描かれていた。絵ではない。ここらへん一帯を縄張りだと主張するチームの名前が変形した英字で書いてあるのだ。スプレー塗料を使った落書きだった。
スプレー缶を勢いよく振る。内部のビー玉が、かこかこと音をたてて跳ねた。
もとのデザインを壊《こわ》さぬように、達彦は英字に新たな文字を重ねる。一分もたたぬうちに、英字は別の単語に姿を変えた。
「ま、こんなもんかな」
弓子が鼻をならした。
「言っておきますけれど、どれほど見事でも落書きは犯罪ですわよ」
最後にもう一度スプレー缶をかこっと振り、達彦はリュックにしまう。
「そうだろうね」
「否定しませんのね」
「もともとぼくが描いたんじゃないからね。かと言って、ぼくがやっていることもたぶん犯罪なんだろうけど」
達彦がやっているのはグラフィティ・アートの描き替えだった。
狙《ねら》うのは主に、変形英字と呼ばれる落書きだ。どれも落書きであり人の迷惑になることには違いないのだろうけれど、描き手がスプレーに命を込めて吹きつけたグラフィティを汚すことはしないことにしている。
達彦は、センスのかけらもない変形英字で街を汚す連中にしっぺ返しをする。たとえば、チーム名に「ka」や「ca」が混じっていたら、同じデザインで「Ba」を先頭に描き加えバカと読めるようにしたりする。子供みたいなやりかただけれど、チーム名を人の壁に書いて平然としているような連中にはえらく頭にくるらしい。今朝もそれで、待ち伏《ぶ》せされていたのである。
達彦の説明を聞いても、弓子にはよくわからないようだった。
「その描き替えになにか意味はありますの?」
「意味はないよ。たぶん……意味はない」
「そうですの」
源さんがひひひと笑う。
「大切なのはいまこのときの想いなんだよ。お嬢ちゃん。生きて、ここに立って、とりかえしのつかないことをする決意をした想いなんだ。それ以外に、人が生きている意味なんてねえのさ」
「詩人ですのね」
「達成された想い。達成されなかった想い。長いながい年月がたって心の底に残るのは、ちいさなトゲのついた塊《かたまり》がひとつっきりだ。そのほかの全部はガーベージコレクターが掃除しちまう」
コンビニのビニール袋からちびたタバコと百円ライターをとりだし、源は、何度もこすって火をつけた。
「ふたりとももう帰んな。きょう、この街はよくないことが起きる」
「なぜそう思いますの?」
「ガーベージコレクターのせいだ。そいつが、この街からすべてのゴミクズをさらっていく」
そのときだった。
けたたましい音が達彦の耳を震わせた。
いままで、人とモノと車が奏《かな》でるせせらぎが支配していた空間を、電気がつくりだした強烈なサウンドが切り裂いたのだ。源のピアノではない。たったいま歩いてきた方角だった。達彦は頭をめぐらす。さっきまで暗かった液晶画面に光が宿っていた。井の頭通り沿いに面した渋谷センタービルの大型屋外ビジョンが、十時になって放送をはじめたのだった。九時から映像を流している駅前と違って街中にある屋外ビジョンは十時にならないと放送を開始しない。
弓子は源となにか会話している。音の洪水にまぎれて内容は聞きとれなかった。
まとわりつく楽曲を振り払うかのように達彦は頭を振り、そして、モノトーンの女が設置した機械をもうひとつ発見した。屋外ビジョンの真下だ。ビジョンの下に構える店のすぐ横の消火栓にくくりつけてあった。ごていねいにも赤いガムテープで巻いてある。
説明できない勘《かん》のようなものに促《うなが》され、達彦は視線をめぐらす。ビンゴ。もうひとつ見つけた。銀色の街灯だ。女が設置した機械は、屋外ビジョンに対して三角形を描いて設置してある。屋外ビジョンを見る人々をとり囲むように。どういう効果を発揮するのかはわからないが、女の機械は屋外ビジョンを見る人々をターゲットにしているのだった。
弓子は気づいていない。源ももちろん気づいていない。見当がつく人間はそういないだろう。日頃、渋谷の路地裏を駆けずりまわっている達彦だからこそわかったことだ。
誰も知らない秘密にたどりついたことで達彦の頭の中は一杯になった。
だから達彦は、手を引っぱられたことに気づかなかった。引かれたのではないかもしれない。足元からふっと重力が消えさり、落ちていく感覚だった。ジェットコースターが登り坂から下り坂に変わる瞬間と同じだと達彦は思った。
気づいたときには、頬に吐息《といき》を感じられるくらいに、女の顔が接近していた。今朝会ったばかりの女。銀髪の彼女が犯罪者と呼ぶ女。モノトーンの女。
白い手が口を押さえた。記憶に新しい香りがした。スパイスとも香水とも違う、なんとも表現しにくい香りだった。
「声を出しちゃだめよ。あの子がこっち向いたら、わたしが隠れてることなんかすぐばれちゃうから」
細くて長くて冷たいひとさし指を達彦のくちびるに押しあて、鎖付きのメガネをかけた魔女は微笑《ほほえ》んだ。ビルとビルの隙間《すきま》の、カビがいっぱいにこびりついたゴミバケツの陰だった。
声をあげて銀髪の彼女を呼びよせることもできたはずだが、達彦の口は黒い魔女の言葉に従うことを選択した。
「困ったことに、あなた、気づいちゃったみたいね」
うなずく。
「わたしの名前、聞いてる?」
耳元で女はささやいた。
達彦は黙って首を振る。
「姉原美鎖よ。よろしく」
*
男は、渋谷の人込みを歩いていた。
男の名は鏑木主税《かぶらざかちから》。人によってはイゴール鏑木と呼ぶ。大柄な体を揺らしながら、色とりどりの人の波に逆らわず鏑木は悠然《ゆうぜん》と道を泳ぐ。
イゴールは、顔立ちがロシア人みたいだという理由で、むかしの仲間が勝手につけた名前である。はじめのうちは鼻の頭に貼りつけたバンソーコーのようにおさまりが悪い気がしていたが、いまでは自分も気にいっている。
そんな適当な名前でも本名よりも知っている人間が多いのだから世の中はおもしろい。もともと本名だって親が勝手につけたものだし、名前なんてそんなものだ。呼び手が自分を区別することができればいいのだった。
鏑木の職業は歌手である。
あった、かもしれない。
いま履歴書《りれきしょ》を書いたとして、現在進行形でシンガーと記す度胸は鏑木にはない。イゴール鏑木はその程度の人物だ。
インディーズバンドブームというものが過ぎ去ってかれこれ二十年が経《た》とうとしている。テレビ局主催のコンペティション番組が火をつけたブームは、またたく間に日本の音楽シーンを席捲《せっけん》し、二、三十人しか客の入らないライブハウスで演奏していたグループを次々と陽《ひ》のあたる場所へ連れだした。すこし奇抜だったり、他人と違う音を持っていたりするだけですぐにメジャーデビューできた。同じような物事がつづくことをよく雨後《うご》の筍《たけのこ》と言うが、あのとき現れた筍がすべて竹となるまで成長していたら、日本の音楽界はバンドという竹で身動きがとれなくなっていたに違いない。
鏑木が所属していたグループも筍のうちのひとつだ。当時はそれなりに売れた。有名なアニメ作品の主題歌を歌ってヒットチャートに載《の》ったりもした。いまでもその曲はカラオケのナンバーに残っている。
ブームは三年と続かず、鏑木のグループもいつのまにか歌の仕事が来なくなった。七人いたメンバーのうちいまも音楽をつづけているのは、ボーカルだった自分とサブのギターのふたりだけだ。彼はいま、スタジオレコーディングで小さな仕事をこなして暮らしているらしい。
一番下手だったサブのギターが音楽業界に居残り、もっと才能のあった他のメンバーが違う仕事を選んだというのもおかしな話だと鏑木は思う。鏑木がボーカルをやることになったのも楽器の才能がなかったからで、つまり、グループの中で下から数えたクズふたりが音楽をつづけていることになる。
それだけではない。あの頃、自分たちより下手だったグループがいまや日本を代表するロックグループになっていたりもする。時を司《つかさど》る女神はなにをしてくれるか予想がつかない。
サングラス無しで渋谷を歩くなどむかしは考えられなかったが、いまは誰も鏑木に気づかない。悲しいことに、イゴール鏑木は、日本人にしては大柄で顔がロシア人に似たエキストラにすぎないのだった。
鏑木はいま、二十年の時を経てふたたびチャンスをつかもうとしていた。新機種の発売に合わせて携帯キャリアが行なうキャンペーンで、鏑木がむかし歌っていた曲が使われたのだ。
ボトムアップ型の宣伝戦略とやらで、あの手この手でケータイを絡《から》ませてネットでいくつもの曲が流された。その中で、たまたま口コミの波に乗ったのが鏑木の曲だった。
鏑木の音楽が選ばれたわけではないことは知っている。数えきれぬほどの弾を撃ち、たまたま盛りあがったのが自分がかかわってる曲だっただけのことだ。プライドの塊《かたまり》だった十代の自分なら、蹴ってしまったかもしれないほどちっぽけなきっかけだった。
きょうの夕方、道玄坂でゲリラライブがある。この情報もネットで流され、情報感度のいい人間が渋谷に集まっているという。そこで鏑木は、嫌味にならない程度新機種の宣伝をし、歌う。どちらが主《しゅ》でどちらが従《じゅう》でもかまわない。人前で歌うチャンスがあるだけで十分だった。
運命の女神を振り向かせるなんて、むかしは簡単なことだった。自分のところにだけは何度だって訪れてくれるものだと思っていた。でも、いまは違うとわかっている。場末《ばすえ》のスーパー屋上のみかん箱さえ、歌を目指す者にとってはピラミッドの頂点であることを現在の鏑木は知っていた。みかん箱でつくられた頂点を乗り越えねば、次のピラミッドはけして見えてこない。歌の世界はそういうものだ。
このライブはなんとしても成功させねばならなかった。空気のように消えていくはずだった自分に、やっとめぐってきたスポットライトなのである。
二十年前の古い音楽ではだめだ。歌いかたひとつで曲は顔色を変える。そのためには、渋谷の空気と自分を同化させ、いまこの瞬間の街のビートを己《おの》が肉体に刻む必要があるのだった。
屋外ビジョンが流す大音量の音楽に身をまかせ、鏑木はゆっくりと歩く。
きょうはブランドショップの宣伝がしきりに流れていた。二十年前には存在しなかったブランドだ。雀荘《じゃんそう》の客引きの声、無言でリズムをとっているアクセサリー売りの靴が地面とぶつかる音、ちょっと変わったものではお香なんてものを売る声も聞こえる。「お時間いいですか。いいですよね。ねえちょっと待ってよ。ねえってば――」「時代は酸素です酸素。あなたも酸素で能率アップ!」「違うんです! 違うんです!」「モデムいかがっスかー、速くてお得なモデムいかがっスかー」すべてがシンフォニーとなり鏑木の耳朶《じだ》を震わせるのだった。
「鏑木さん!」
かぶらぎさん?
そうだ、鏑木もビートの一部だ。
「鏑木さん! 聞こえないんですか?」
雑踏を縫《ぬ》う鏑木の足を女の声が呼びとめた。プロデューサーの佐伯《さえき》だった。
交差点のゼブラを小走りに駆け抜け、鏑木の横に立つと、佐伯はちいさな肩を精一杯いからせた。この女性は、顔に表情というものが希薄なため、感情を表すときは大げさな身ぶりをしてみせるのだった。
「勝手に歩いてもらったら困ります。誰かに見られたらどうするんですか」
「だいじょうぶですよ。わたしのことなんぞ、誰も知りやしません」
「万が一ってことがあるでしょう。たかがゲリラライブって考えてらっしやるかもしれませんけど、ここに至るまでの準備にはものすごい予算と人員が投入されているんです」
万が一というのもひどい言いかただと思ったが、鏑木は素直《すなお》にあやまることにする。
「すみません。この街の空気にビートを合わせてたんです」
「街のビート?」
「それぞれの場所にあるもんなんですよ。エレクトロパンクバンドの元ボーカルが言ったら笑われるかもしれませんが」
鏑木の言葉が佐伯はよくわかっていないようだった。
目上の自分に対して物腰はやわらかいが、佐伯は尊敬の念で慇懃《いんぎん》なわけではない。彼がテレビ画面の中で光り輝いていた時期をこの女は知らない。いまや古くさくなった鏑木の音楽が、彼女の耳には真新しく聞こえるだけの話なのだ。
「渋谷のビートというのは、いまという時を切り取りすぎている気がしますが……」
「そうですかね?」
「この街を歩いている人に聞いたところ、渋谷が好きと答えたのは十人に一人もいなかったそうです。むしろこの街のビートを壊すくらいの勢いが欲しいです」
「安心してください。やる気は十分です。安易に流されたりしません。本気の本気を出しますよ」
「鏑木さんの本気にはいくつも種類があるんですか?」
言われて鏑木は気づいた。おまえはそんなだからいつまでも二流なのだと言ったのは誰だったか。リードギターだったかドラムだったかそれとも別れた女だったか。本気は一種類しかないものだと怒られたことが以前にもあった。
「そうですね。本気は一種類です。老体に鞭打って、死に華《ばな》を咲かせてみせますよ。たとえ、これこっきりで忘れられることになろうとも」
「ずいぶんと不吉なことを言うんですね」
「歳をとって疑り深くなっているだけです。きょうはクズの心意気ってもんを見せてやりますよ。誰でしたっけ、あらゆるものの九〇パーセントはクズである、とかなんとか言った人もいますしね」
「それ、音楽の言葉じゃないですよ」
「そうなんですか?」
「スタージョンです。一九一八年にニューヨークで生まれた作家の言葉です。作家になる前は職を転々としたそうですからもしかしたら音楽もやっていたかもしれませんが」
「佐伯さん、ずいぶんと詳しいんですね」
「高校時代に本で読んだことがあるんです。それに、クズっていうのは直截《ちょくせつ》的すぎて感じのよくない言葉だと思います。ガーベージとかにしません?」
「ガーベージ、いいですね」
もともと鏑木たちの音楽はクズとかゴミとか言われていた。九〇パーセントのクズの山から生まれ出たものだった。竹にもならず、薮《やぶ》の中で腐り果てる運命のものだった。それが二十年たって、華々しくガーベージと散るチャンスを与えられたのだった。
せいぜい派手にやらなければ男がすたるってもんだ。鏑木は思う。音楽の道をあきらめた五人の仲間のためにも、細い糸に必死でぶらさがっている下手くそなサブギターのためにも、ロクでもないガーベージを手に入れるかわりに別れてしまった、なにより大切だったあの女性《ひと》のためにも……。
4.道玄坂二丁目 10:10
魔法とは、この世に異世界の法則を持ちこむ方法のことである。
この世ができあがったとき、物理法則も定まった。だが、それは唯一無二《ゆいいつむに》のものではなく、すぐそばには違う物理法則の成立する異世界《レイヤー》が存在する。ある種の信号を継続してつくりだすことによって他の世界《レイヤー》との敷居を脆《もろ》くし、異なる物理法則を一時的にこの世界《レイヤー》に成立させることが可能だ。
むかし話に出てくる魔法使いが呪文を使うのは、おもに精神を高揚《こうよう》させるためである。韻《いん》を踏み抑揚《よくよう》のついた言葉を歌いあげることにより、魔法使いは肉体を興奮させ、ある一定の電気信号が筋肉組織の中を流れやすいようにする。
魔法使いの肉体を流れる電気信号は、この世にはない特別な構造を仮想的に構築する。それは、異なる世界《レイヤー》の法則によって現象の関連性を|構築しなおす《コードする》作業だともいえる。魔法使いが何度も繰り返すことにより、通常であれば仮想のままである異界の構造が現実世界にプリントされるのだ。
プリントされた異世界《レイヤー》の法則は、ものとものの関係性を歪《ゆが》ませ、この世とは異なる法則を成立させる――すなわち、距離や時間の概念を変え、重力を逆転させ気圧を高め、ときには|異世界の魔物《デーモン》を呼びだすことすらある。
十八世紀のイギリスで起きた産業革命は効率の悪い魔法を無用の長物にした。だが、二十世紀後半に起きたコンピューター革命によって魔法は蘇《よみがえ》りつつある。
コードという観点から見れば、人間の肉体もコンピューターのCPUも同じく電気が流れる物体である。人間ほど複雑なコードは組めないが、その代わり、コンピューターは同じコードを飽きることなく何千回何万回と繰り返すことができる。
現代の魔法使いは呪文を唱えない。コンピューターを使って魔法を操るのだ。
互いの自己紹介のあと、姉原美鎖は魔法をそう説明した。
病院に行けとストレートに言うか、かわいそうな人をなぐさめる口調で話しかけるか逡巡《しゅんじゅん》し、達彦は考えを保留とすることにした。魔法が存在しょうとしまいと達彦に物理的な被害が出るわけではなかったし、一度こちら側についてしまった以上、銀髪の彼女は二度と達彦を許してくれないような気がしたからだ。
毒をもって毒を制す。気性の激しい彼女の防御壁となってもらうためにも美鎖の存在は重要である。それに、せっかく再会したモノトーンの彼女との関係を、ここで終わらせてしまうのはなんとなく悲しいことでもあるのだった。
建造物がつくりだす影を選んで街中を走り抜けたのち、達彦と美鎖はすこしだけ開けた場所にたどりついた。地面は舗装《ほそう》もされておらず、じめじめと湿った黒い土に幸薄《さちうす》そうな雑草がところどころ生えていた。錆《さ》びついたトタンで道路と区切られたなにもない空間だった。ほこりを被《かぶ》った冷房の室外機の上で、太った三毛猫がつまらなそうにあくびをしていた。
達彦は聞いた。
「弓子って子はあなたのことを犯罪者って言ってましたけど、本当のところ、どっちが悪でどっちが正義なんですか? それともどっちが悪いとは言えない関係?」
「どっちかっていうとわたしが悪者よねえ。やってること犯罪っぽいし」
猫と並んで室外機に腰をおろした美鎖は、今朝会ったときと同じく、天然色の世界をそこだけ白黒にしていた。
「犯罪っばいのか、それとも正式に犯罪なのかはっきりしてください」
「グレーゾーンなのよね、え」
メガネのチェーンを指で絡ませ、美鎖は頬をふくらませる。その様子ときたら、ぽやぽやと日光浴をしているパンダのようだが、意外とそういう人畜無害なタイプが犯罪者となるのかもしれないと達彦は思ったりする。自分も含めてこの街は犯罪者予備軍でいっぱいだ。
「なんかいま失礼なこと考えたでしょ?」
ぶんぶん。
達彦はあわてて首を振った。
「わたしにいじわるすると、ネットのBBSで悪口書くわよ」
「……べつにいいですけど」
「えー。わたし、そんなことされたらものすごく悲しいけどなあ」
言葉どおり美鎖はすごく悲しそうな顔をした。価値観がちょっぴり人と違うらしかった。
しばらく悲しんだふりをしたあと、彼女は話しはじめる。
「あるブランドの渋谷二号店がきょうオープンなのよね。渋谷に十以上ある屋外ビジョンを使ってCMを流してるわ。ところがライバルブランドのショップは夏に向けた新作セールをやりはじめたばかりで、このタイミングで客をとられたら大損になってしまうの。ただでさえ新規オープンには注目が集まるから。そこで、CMの妨害をしてくれってわたしに仕事の依頼が来たわけなのよ。商売って容赦《ようしゃ》ゼロよねえ」
自分でその一番容赦のないところを請《う》け負《お》っておいて他人事《ひとごと》のように言う。
「妨害って、電波かなんか飛ばして画面を消したりするんですか?」
「そんな悪辣《あくらつ》なことしないわよお」
「じゃあ、どうやって?」
「決まってるじゃない」
美鎖は胸を張った。
達彦はこわごわ聞いてみる。
「もしかして……魔法?」
「そうよ」
「つまり、街中に設置してあるケータイモドキが、電池の尽きるまでCM妨害コードとやらを組みつづけてるわけですね。だから、屋外ビジョンを見る人が立っている場所を囲むように装置が設置してあったんだ」
「ぴんぽーん。大正解!」
「そんなにうれしそうに言わなくても」
「ケータイもコンピューターの一種だってことをすぐに飲み込めるなんてすごい。優秀な教え子を持つとうれしいわ」
「教え子になったおぼえはありません」
「けちねえ」
美鎖はちっと舌打ちをした。
彼女の言うことが真実なら、たしかにグレーゾーンというか、法律的にはまるっきり悪くなかった。魔法というものが仮に存在するとしても、道義的にどうかはともかく罪には問えないし、存在しなかったのなら最初から潔白《けっぱく》である。せいぜい、へンなゴミを街中にばらまいたくらいの罪だ。魔法で宣伝を妨害するなどと言っている女に本気で仕事を依頼する企業が存在するというのがそもそも信じがたいけれど。日本という国にはけっこう金が余っているのかもしれない。
「ま、本当なら妨害工作とかそういうマイナス方向の仕事は引き受けないんだけど、困ったことに依頼主ってのがわたしのお気に入りのショップだったのよね。そしたら、双方痛み分けくらいにはなるようにするのが人情ってものじゃない?」
「弓子って子はどうしてあんなに怒ってるんです?」
「あの子は魔法に関して潔癖《けっぺき》なのよ。これでも仕事は選んでるつもりなんだけど、ときどき怒られるのよねえ」
美鎖はため息をついた。本気で悩んでいるようだった。
こんにゃくみたいなこの女にカミナリを落とさぬばならない弓子の心労が、達彦にもすこしわかった気がした。
「知り合いなら、話し合ったほうがいいんじゃないですか?」
「そうも行かないのよ」
美鎖は言った。
CM妨害のコードは、美鎖が思ったほどには効果を発揮していないらしい。コードの組みかたが悪くてひとつの画面につきみっつのケータイでは足りないのか、他にもコードがどこかで動いていて干渉《かんしょう》しているせいなのか、弓子が対抗手段をとっているせいなのか、それともこの渋谷という街のせいなのか。
仕掛ける現場を見ているとはいえ、本来ならば達彦がコードの秘密に気づくこともないはずなのだ。けれど、美鎖のコードはうまく動作していない。オープンしたばかりのブランドショップにはぞくぞくと人が詰めかけているそうだ。これでは、美鎖を信用してとんでもない代金を払った依頼主に顔向けできない。早急に手を打つ必要があるそうなのだった。
そんなのあたりまえじゃないか妨害のコードなんてものが効くのは脳内ワールドだけだと喉《のど》まで出かかったが、言葉を飲みくだし、達彦は神妙にうなずいた。
「いまごろはエスタシオンの窓際の席にでも座って、我が策略《さくりゃく》に落ちてCMにまったく興味を示さない愚民《ぐみん》どもめがははーつって見下ろしてる予定だったのに! もう!」
なにやら脳内でとんでもなく甘々《あまあま》かつ人の道を外れた予定を立てていたらしい。
「大ピンチなのよお。わかる?」
達彦の肩をつかみ、女はがくがくと揺すぶった。
「わわわ、わかります。はい。わかりますよ。大変ですね」
「そこできみの出番なのよ」
「へ? ぼく……ですか?」
「そうよ。ぼくがわたしを手伝ってくれるの」
「なんでぼくが手伝わなきゃならないんですか?」
「水くさいわぬえ。同じ犯罪者っぽい繋《つな》がりなのに」
「犯罪者っぽい繋がりってなんですか。犯罪者っぽい繋がりって」
「いちいち細かいわぬえ。つねるわよ」
「っていうかもうつねってるし! あなたは本当に大人ですかー」
「大人よお。年齢はひ・み・つ」
わざとらしくウインクしてみせる。
達彦は嘆息《たんそく》した。
「言っときますけど、ぼくは魔法なんて使えませんよ」
「知ってるわよそんなこと。こうなったら物量作戦で行くしかないの」
「物量、ですか?」
「予備の装置はまだたくさんあるの。ありったけ設置しちゃおうと思って。きみにやって欲しいのは見張り荷物持ち雑役《ざつえき》一般」
「……つまりパシリですね」
「いままでは人がいないときを見計らって取り付けてたんだけど、こう人通りが増えてくるとそうもいかないのよね」
センター街で美鎖と会ったのは朝の六時すぎのことだ。いまは十時を回り、店が開いて人も増えはじめていた。
「はあ」
「手伝ってくれたら手料理をごちそうしてあげるわ」
モノトーンの女性はにこりと微笑んだ。
「そんなに料理、好きなんですか?」
「なによお。そんなに嫌そうに言うことないじゃない。こう見えても得意なのよ」
「得意ってもしかして……魔法で?」
「そ。魔法で」
「考えさせてください」
どうやら、うやむやのうちに手伝うことになったようだった。
*
「デスマーチはなぜ〜、遠くまで聞こえるの〜。あの本はなぜ〜、わたーしを呼んでるの〜」
どこかで聞いたことがあるようなメロディーで悲壮な歌詞を陽気に歌いながら、美鎖は、嬉々《きき》として交通標識にガムテープを巻きつけていた。
「美鎖さん。目立ってます」
「犯罪行為はこそこそやるより堂々としてたほうがいいのよお」
「そういうものですか?」
「そういうものよ」
実際、美鎖という女性はよく目立った。普通の街よりも三割増しで極彩色が散らばっているこの街で、彼女がいる場所だけ色を感じさせないのだから当然といえば当然だ。弓子という子が動くことによって美を感じさせていたとするなら、美鎖という女性はどこまでも静なのだと言える。時間という概念をそのまま琥珀《こはく》の中に閉じ込めてしまったような、そんな姿形をしているのだった。
そんな女性と、交通標識のポールをはさむようにして達彦は立っていた。
女性にしては身長の高い美鎖は、目の高さが達彦とほとんど変わらなかった。いまは上を向いて作業しているから、真っ白なおとがいが真ん前にあり、言葉を紡《つむ》ぐたびに薄い色のくちびるがなまめかしくうごめくのがわかる。かといって視線を下に降ろせば標準よりはだいぶ大きそうな胸の膨《ふく》らみが見え、しかたなく左右を見回すと、
「よそ見しないの」
叱《しか》られるのだった。
美鎖の周囲は、香水と呼ぶのもおかしいし、だからといって他になんとも表現のしょうがない香りがただよっている。密接しているとすーっと意識がどこかに持っていかれそうになる不思議な微香だった。
「スプレーで迷彩《めいさい》したら、次行くわよ」
正直なところ、楽しいのか拷問《ごうもん》なのか達彦にはよくわからない。ひとつだけたしかなのは、呪いっていうのは一日が終わるまでずっとつづくということだ。
「もーもたろさん、ももたろさん」
モノトーンの女は、次の歌を陽気に口ずさんでいたりする。
「もしかしてぼくが犬猿キジじゃないでしょうね」
「あら、キビダンゴが食べたいの? つくったことないけど、初挑戦してみようかしら」
「遠慮します」
「けち」
やけに楽しそうだ。
犯罪っぽい上に効果が出るかどうかも危ういことを、極上の娯楽であるかのように美鎖はやっている。弓子という少女もそうだった。美鎖の犯罪を阻止《そし》するために一直線に突き進む姿には充実感があった。けれど、皆崎達彦というスプレー缶に充填《じゅうてん》されている塗料は、せいぜい半径三メートルのちいさな世界を彩ることができるくらいだ。
美鎖が歌っている桃太郎だってそうだったんじゃないだろうかと達彦は思う。世界平和のために戦ったんじゃない。自分を育ててくれた爺婆《じじばば》のために戦った。ただそれだけのことだったんじゃないかと。
だから達彦は、弓子という正義の少女の対極にいる魔女に疑問をぶつけてみた。
「わたし、勧善懲悪《かんぜんちょうあく》系の昔話って苦手なのよね」
美鎖はすこし困ったようだ。
「そんな気はしてました」
「だって、鬼退治よお。鬼退治。なんか正義の資本主義帝国軍がアラブのテロ国家に戦争をふっかけに行くみたいな気がして嫌なのよねえ」
「ずいぶんと奇抜な解釈ですね」
「桃太郎の原型って日本神話の吉備津彦命《きびつひこのみこと》なのよ。だったら鬼って、絶対大和朝廷に滅ぼされた民族のことよ。そしたら鬼も、飛行機ハイジャックして突っ込んでくるわよねえ」
なんだかとんでもなく不穏《ふおん》なことを言っている。
深刻っばい話題をうまくはぐらかされたのだろうかと考えていると、美鎖は細い腕を伸ばし、同じ高さにある達彦の髪をくしやっとかきまぜた。昼どきの雑踏《ざっとう》を、ふたりはしばらく無言で歩いた。
「美鎖さんはどんな話が好きなんですか?」
「わたし?」
美鎖はすこし驚いた顔をしたが、
「裸の王様かな」
答えた。
バカには見えない服を着たつもりの王様が町を練り歩き、人々に誉めそやされたあと、純真な子供に「なにも着ていない」と指摘されるのが裸の王様のストーリーだ。
だけれど、美鎖は、子供に裸と笑われた王様も本当は服を着ていたんじゃないかと言う。
なにしろ時代は中世だ。キリスト教国のノーブルな方々は下着を着たまま風呂に入っていた時代。肌をさらすなんてもってのほかで、すねをちょっと出しただけで裸と呼ばれてもおかしくなかった。
「わたしね。バカには見えない服って、最新モードのちょっとイっちゃった服だったんじゃないかと思うのよねえ」
「時代の先端を突っ走っちゃったデザイナーがいたとするじゃない。脳にカビの生えた旧世代には裸に見えちゃうかもしれない服という意味で、彼は王様の服をバカには見えないって言ったんじゃないかしら」
「そういう解釈もあり得ると?」
「バカな王様よりずっと夢があるでしょ」
進んだものに理解があったかもしれない優れた王様も、時代を先取りしすぎてしまったデザイナーも、なにも知らない子供の笑い声ひとつで愚か者の烙印《らくいん》を押されてしまう。世の中はそういうものだ。
「それってつまり、魔法と合わせ鏡なわけですね」
「あなたやっぱり頭いいわぬ」
「でも、ぼくは魔法なんていううさんくさいものは信じませんから」
「頭固いわぬえ」
「固くてけっこうです」
「ま、いいわ。次のポイントは難所中の難所だから気を引きしめていくわよ」
「どこですか……つて、まずいですよ、あの屋外ビジョン、交番の目の前にあるじゃないですか」
「そうよお。だから難所って」
「難所とかそういう問題じゃないです。無理ですよ」
井の頭通りが二又《ふたまた》に分かれる地点には交番があった。入り口にはガタイのいい警官が立っていて、ロクでもないことをしておれの仕事を増やしやがったら承知しねえぞコラみたいな視線を、道いっぱいに溢《あふ》れて歩く人々に対して放射している。この場合、ロクでもないことをする人間とは、美鎖とか美鎖とか美鎖のことだ。
笑いさざめきながら流れる人の群れの中で、モノトーンの魔女はきょろきょろとあたりを見回す。
ベストポジションを見つけたようだ。
「交番と同じ色のスプレーも持ってるわよね?」
「グレーならありますけど」
「それでOKよ。じゃ、あそこ登るから下から持ちあげて」
交番の裏手を美鎖は指さした。
「マジですか?」
「マジマジ。大マジ」
「無茶ですよ。交番ですよ?」
「平気よ。灯台|下《もと》暗しって言うじゃない」
「灯台に警官はいません。それにけっこう高いです」
「ぐずぐず言わない。ほら、座って。肩車!」
美鎖がはいているのはパンツではなくタイトなスカートだった。おまけにストッキングなどというものも身につけておらず、つまりは生脚が達彦の顔を左右から危険なほどやわらかくむぎゅっとはさみつけた。
たぶんこの女性は天然ボケと呼ばれる人種なのだとは思うが、実はわかってて天然を装っているなら天国には絶対入れてもらえないヘビー級悪女だ。ああ、しかもなんだかいい匂いがする。むぎゅ。
「ふらふらしないでよお」
「そんなこと言ったって無理ですよ」
作業をしている美鎖はごそごそと動く。後頭部にあるものを想像すると脳髄《のうずい》が沸騰《ふっとう》しそうだ。
「ちょっと、バランス! バランス!」
美鎖の脚が四の字の形で首を絞めた。
気持ちいいやら苦しいやら、このまま一分もつづいたら二か所の天国に同時に旅立てそうなかんじだった。
「く……くるしいです」
「わたしそんなに重くないけどなあ」
「そういう問題じゃないですよ」
「いいけどさ……あ。ヤバ」
「なんですか?」
美鎖を肩車《かたぐるま》している達彦には、殺風景な壁と、白を通り越して青くすらある脚の内側しか見えない。というか、だんだんとかけているメガネのレンズが曇ってきゃがってなんだこれは一体なんの陰謀《いんぼう》だ、目を開けているとバランスを失って倒れてしまいそうなのでさっきから目を閉じていた。
「達彦くん、逃げ足に自信ある?」
いたずらっぼい口調で彼女は言った。
「足はけっこう速いほうだと思いますけど」
「じゃ、警官はまかせたわ」
「マジですか?」
「マジマジ。大マジ。さすがに目立っちゃったみたい」
「ちょっと! 美鎖さん!」
「十分後にタワーレコード前に集合ね。来なかったら恨《うら》むわよ」
「こらあ! そこの二人組!」
ばぼん、と音がした。
飛び込み台から子象がプールにまっ逆さまに落ちたみたいな、そんな音だった。同時に肩にかかっていた重みがすっと消え、達彦はたたらを踏む。
「……美鎖さん?」
周囲三十メートルにいればかならず見つけられそうなモノトーンの女性の姿はなかった。影も形も。彼女の正体は白黒人間ではなく透明人間であるとか、あるいは本当に魔法を使ったのでもなければ考えられないことだった。
警官が口を開けて立っている。
「……」
「……」
「こらあ!」
達彦は走った。
姉原美鎖は、デートの待ち合わせみたいなすました顔でタワーレコード前に立っていた。
黙って立っていれば綺麗《きれい》な女性だから、本当にデートの待ち合わせだったらもしかしたらうれしかったりするのかもしれない。
が、いまは違った。達彦は気管を鳴らして熱い息を吐きだしているというのに、この女はアイスコーヒーなんてものを優雅にちゅーちゅー吸っていたりするのだ。
犯罪者のくせにー。
真横でへたりこんだ達彦に、美鎖はコーヒーを差しだした。
黙ってひったくる。勢いよく吸いこむ。そして気ついた。コーヒーは彼女の飲みかけだった。
「ごめんなさいね。わたし、体力に自信ないのよ。ここに設置する分はもう済ませておいたわ」
薄い色のくちびるが言う。
「いえ……いいですけど」
アイスコーヒーを飲んだというのにさらに熱をもとうとしている喉《のど》を冷却するため、達彦はずるずるとコーヒーをすすった。
「本当に足、速いのね。びっくりしたわ」
「見てたんですか?」
「見てたわよ」
「どこで?」
「あの場所で。達彦くんから降りたあと、わたし動いてないもの」
「いなかったでしょう。っていうか、なにやったらそんな芸当ができるんですか」
「いやあねえ、魔法よ。魔法」
「そういえばそうでした」
「そんなに疲れた顔しない。まだ半分以上仕掛けは残ってるんだから。コーヒー飲んだら立った立った」
ばしばしと達彦の背中を叩く。
「痛いです。融《と》けた氷の分まで飲みますから待ってください。ぼくは疲れてるんです」
飲み終わった紙コップをてのひらの中で潰《つぶ》す。すこしだけ残っていた氷がこりつと音をたてた。達彦は勢いをつけて立ちあがる。
「飲み終わりました。次に行きましょう」
*
クレープをほおばりながら、こよみと嘉穂は正午過ぎの公園通りを歩いていた。
きょうは、きれいなお姉さんたちが列をなして街中を練り歩いていた。どこかのブランドショップがオープンするとかで、その宣伝らしい。こよみはちょっとだけ行ってみたかったのだけれど、残念なことに嘉穂は興味がなさそうだった。
ライブの準備をしている人たちは見つからなかった。弓子からの連絡もなかった。かといって美鎖も見つからない状態で、実のところなんのために渋谷に来たのかわからない。それでも、嘉穂とふたりで歩いているだけでこよみはそれなりに楽しかった。ひとりでいると、声をかけてくる人を避けるだけで精神力の大半を消耗《しょうもう》してしまうというのに、嘉穂ときたら、ちょっと重い空気があるけどあたしは知らないみたいな顔で自然とそういう人を避けてしまうのだ。はっきりいって神業《かみわざ》だった。
まあ、いつかは弓子か美鎖のどちらかが根負けするだろうし、自分の知らないところで一件落着したら嘉穂と一緒に歌を聞いて帰ればいい。こよみはそんな風に考えたりする。
そのとき、嘉穂が道の反対側の歩道を指さした。
「え、なに?」
「たぶん。美鎖さん」
「え? え? どこ、どこ?」
こよみは懸命《けんめい》に目を凝《こ》らす。
たしかに、カラー写真で写された渋谷の風景をそこだけモノクロに切りとった女性の姿が見える。女性は、同じくらいの背の高さの青年と話しながら、こよみたちとは反対側に歩いている。
そうこうしているうちに、ふたりの姿は雑踏に消えた。
「行っちゃったね」
「……」
「弓子ちゃんに連絡……はできないんだっけ。ケータイ、やっぱり必要だったね」
「……」
「弓子ちゃんって、魔法の事件をいつも追いかけてるわりには運が悪いよね。なんだかかわいそう」
見えなくなってしまった美鎖のことはあまり気にとめていないのか、いままでどおり周囲に視線を配りながら嘉穂は歩いている。
ぼそりとつぶやいた。
「……葵《あおい》の印籠《いんろう》の法則かと思われ」
「なにそれ?」
「水戸黄門もはじめからやることはわかってる。その町で一番悪人顔をしたやつをとっつかまえればいい。でも、善人がいたぶられて由美かおるが風呂につかって八兵衛がうっかりしないと格さんは印籠を出さない。そういう風に決まってる。だから一ノ瀬は諸悪の根源にたどりつけない」
「そ、そうなんだ。へえ」
「……森下」
急に立ち止まり、嘉穂はこよみの目を覗《のぞ》きこんだ。思わずこよみはどぎまぎしてしまう。嘉穂の目尻にはほくろがある。ちいさいのが並んでふたつだ。そのせいか、彼女の顔を間近で見ると普段から想像できないくらい艶《いろ》っぽく見えるのだった。
「な、なに?」
「いまのは冗談」
「そうなの?」
「そ。感心するところじゃなくて笑うところ」
「ご、ごめんなさい」
「わかればよろしい」
「でも、美鎖さん、なんであの男の子と一緒だったんだろ?」
「さあ。いろいろあるんだと思われ」
「そうだね。いろいろあるんだね」
ふたりはゆっくりと歩きだす。
こよみは、ぱくりとクレープにかぶりついた。
5.ハーモニーパーク通り 14:03
次の目標を目指し、達彦と美鎖は、ハーモニーパーク通りからオルガン坂に向かっていた。
ほとんど背丈《せたけ》の変わらないふたりは横に並んで歩いていた。足が地面を蹴りつけるたび、腰まである美鎖の黒髪はふわっと持ちあがり、達彦の肩や腕をかすめながら元の位置に戻るのだった。そのたびに電撃にも似た刺激が肩を駆け抜けるので、となりにいる女性のことがどうしても達彦は気になってしまう。
こうして一緒に歩いていても、美鎖という女性は現実世界からスナップショットで切りとったように見える。あるいは、スナップショットであるからこそ、彼女からは色が消えてしまうのかもしれなかった。
「わたしたちって、わりといいパートナーよねえ」
モノトーンの魔女は上機嫌だ。
「わがまま姫とその従者みたいな感じで、一方的にぼくがワリを食ってるような気がしますけど」
「従者くん、姫のわたしに惚《ほ》れるなよ」
「言われなくても惚れません」
「わたしに惚れると苦労するわよ」
彼女の言葉はまごうことなき真実だと達彦は思う。たまたま犯罪現場を目撃したというだけで巻きこまれて苦労しているのだ。こんな女とつき合った日には、世の男性の七〇パーセントくらいは一夜にして白髪になってしまうに違いない。
「わざわざ言われなくてもわかります。それに、年齢差ありすぎです」
「ノりが悪いわねえ。愛さえあれば歳の差なんて、ってよく言うじゃない」
「言うだけで、実際はそんなことないです。たとえば六歳の差があったら、ぼくが小学校に入学したとき美鎖さんは中学校です。犯罪ですよ、それ」
「さめてるのねえ」
「現実的って、言ってください」
そんな達彦に、年上の女性は肩をすくめてみせた。
「まあいいんだけどね。わたし、実のところ恋愛とかってよくわからないから。そんなわたしが説教したら変よね」
「恋愛は恋愛以外のなにものでもないですよ」
「そうは言うけど、恋愛って強迫神経症のことでしょ?」
「きょうはくしんけいしょう……は、神経症というくらいだから病気のことだと思うんですけど」
「以前、強迫神経症のコードを使ったときは五十万人が恋をしたわよ」
「五十万人の人が美鎖さんのこと好きになったんですか?」
「恋の対象はゲームのキャラクター。相手はべつに人間にかぎらないのよ。強迫神経症だもの」
「ゲームのキャラクターに恋したりするのを否定はしませんけど、恋ってもっと違うものだと思います」
「一日に四時間以上ひとりの相手のことを考えると、血液中から神経伝達物質セロトニンの働きを助けるタンパク質が減少するって言われてるわ。それが恋してる状態よ」
「それも魔法?」
「いいえ。人間の体の中で起きている化学変化のお話。つまり、恋の魔法は、外側から強制的に体内の物質に変化を起こさせるコードなわけね」
「ロマンがないですね」
「神様があみだクジで相手を決めてるより、強迫神経症のほうがよっぽどロマンがあるとわたしは思うけどなあ」
「なぜです?」
「一日に四時間も相手のことを考えるって相当なことよ」
「そりゃあそうですけど」
「一日は二十四時間しかないし、睡眠時間を除くともっとすくない。そんな中で、四時間もたったひとりのことを考えてるのよ。誰が結びつけたかわからない赤い糸なんかよりよっぽどロマンティックだと思わない?」
「……はあ」
相手のことを一途《いちず》に想っている状態が強迫神経症だというのならそうなのだろう。
女の子が書いたラブレタ−というやつを達彦は一度見せてもらったことがある。その紙は、たった一枚の紙をどうやったらここまで複雑にすることができるんだという折りかたでたたんであった。それこそ神経症でもなければ不可能な折りかただった。
ラブレターをもらった主《ぬし》は、べつに女の子の手紙を他人に見せる趣味がある嫌な奴《やつ》ってわけでもなく、複雑な折り紙を破らずに開くことができなかっただけの話だ。二時間十三分かけて達彦が開封した知恵の輪のおかげで、彼と彼女はいまでもつき合いつづけている。神経症にかかる相手が実在するというのは幸せなことだ。
渋谷でスクリーンセーバーをつづける達彦は、ならば、家庭教師だったキョウコ先生に対していまも強迫神経症状態にあるのかもしれなかった。この二年間。ずっと。結果は同じでも、彼女が死ぬ前に気持ちを伝えていれば、達彦が第二ラウンドの二分五十九秒で足踏みすることはなかった。ありがとうのひとことを言うだけでもよかったのかもしれない。ENDマークをつけずに中ぶらりんの状態で放置された気持ちは、渋谷の壁でグラフィティ・アートとなりいつまでも回転するのだ。ぐるぐる、ぐるぐると。
達彦の心の底に澱《よど》むそれは、たぶん後悔と呼ばれるもので、美鎖という女性には理解しがたい種類の感情なのだと思う。同じ犯罪者っぽいことを渋谷でやっているふたりだけれど、達彦の落書きはあくまでも後ろ向きで、美銀の仕掛けはどこまでも前向きだ。年齢差以上に、ふたりのあいだには越えられない断絶がある。それをはっきりと感じた。
「どうしたの。なんかさびしそうな顔してるけど?」
美鎖は首をかしげた。動きに合わせて、蜂蜜《はちみつ》色の光の滴《しずく》がゆっくりとメガネの鎖を伝っていくのが見えた。
「ひとつだけわかりました」
「なあに?」
「ぼくたちはあまりいいパートナーじゃないと思います」
「そうかなあ」
ほんのすこし、美鎖は悲しそうな顔をする。
「まあいいわ。あと残りふたつ、ちゃっちゃと片付けてお茶にしましょう」
「そうはいきませんわ!」
美鎖と達彦のあいだに流れていた午後の停滞《ていたい》した空気を、甲高《かんだか》い声が斬《き》り裂いた。一ノ瀬弓子クリスティーナだ。白銀にきらめく杖を捧げ持ち、彼女は舗装路《ほそうろ》の中央に仁王《におう》立ちしていた。切れることなくつづいていた人影はなぜかなく、ただ、銀髪の少女だけがそこに立っていた。
「覚悟を決めなさい。犯罪者ども!」
弓子は叫んだ。
どもという接尾語には自分も含まれるのだろうかと達彦は疑問に思い、正義に燃える紫の瞳を見て、まあそうなんだろうなと考えなおす。もしかしたら、源《げん》のところで置き去りにしたことを根に持っているのかもしれなかった。
「ずいぶんと怒ってるわねえ」
「あたりまえですわ! 人の忠告をことごとく無視して魔法を犯罪行為に使うなんて。きょうというきょうは絶対に許しませんことよ!」
「グレーゾーンよお」
「同じことですわ。貴女のコードのせいでこの街がいったいどういうことになっているか!」
「話を聞く気はない?」
「いますぐコードをお止めなさい。ならば聞いてさしあげます」
「仕事だからそういうわけに行かないのよねえ」
「では、力ずくで止めてから聞くことにいたします」
やれやれ困ったなという風に息を吐きだし、達彦が運んでいた黒いバッグを美鎖は手にとった。中からとりだしたのは白のスプレー缶だ。遠いむかし達彦の所有物だった気がする塗料が達彦の足元に向けて吹きかけられる。スプレー缶は途中でぶしゅうと弱々しい音を出し、中途半端な長さのラインをアスファルトに残して息の根を止めた。
すべての中身を吐きだしたスプレー缶を美鎖は振ってみる。からんからん、とビー玉の音がした。
「なくなっちゃったわね」
「そうですね」
「返すわ」
返すというよりゴミを押しつける行為なんじゃないかと思ったけれど、達彦は素直に受け取っておくことにする。
弓子は杖を掲《かか》げた姿勢のまま微動だにしない。
美鎖は言った。
「三百数えるまでこのラインから前に出ちゃだめよ」
「どうしてですか?」
「返事は、はい」
「……はい」
「約束よ。三百数えるまで動かない」
「いいですけど」
「きょうの弓子は本気っぽいのよね。かなり危険なことになるかもしれないわ。というわけで、弓子、彼には手を出しちゃだめよ」
「言われなくても一般人に刃《やいば》を向けたりなんてしませんことよ」
「それと達彦くん。桃太郎のその後の話、ずっと考えていたんだけど……どうにもならないことやどうしようもないことはたくさんあるけれど、もしもあなたの天秤《てんびん》がゆらゆら揺れているのなら、最後に傾きを決めるのは意思の力だとわたしは思うわ」
「よくわかんないです」
「そのうちわかるわ。きっと」
「お話は終わりまして?」
弓子の声にはいらつきが混じっている。
「いいわよ」
「あの……もう数えはじめていいんですか?」
「剣《つるぎ》と化せ我がコード!」
体に震えが走った。
なにかが飛んで来たのではない。弓子は杖を構え言葉を発しただけだ。なのに、達彦の体の表面は感電したかのようにぶるぶると震えた。
美鎖の周囲に円形の火花が散るのが見えた。ぎゃりんと耳障《みみざわ》りな金属音とともに火花は空間を走り抜け、十メートル先のカラオケボックスの看板に当たってはじけた。
美鎖が走り出す。
弓子が追う。
だけれど達彦の体は動かなかった。美鎖に動いていいと言われても動けなかったに違いない。白スプレーが最後の力を振りしぼって描いたラインの前で、達彦は数をかぞえることも忘れて立ちつくす。午後の陽光が髪の毛をじりじりと暖めている。
ふたりの魔女の姿が見えなくなってはじめて、達彦は硬直した首をめぐらせる。カラオケボックスの看板に焼け焦《こ》げた丸い穴が空いている。
すっかり軽くなったスプレー缶が達彦の手からアスファルトにすべり落ちた。
がらん、と硬質な音がした。
*
「お待ちなさい!」
正義の魔法使いに待てと言われて待つ犯罪者はいない。センター街を経由して道玄坂二丁目の細い路地に走り込んだ美鎖は、脚《あし》が許す限りのスピードで坂をのぼる。きらびやかとけばけばしさを融《と》け合わせた街並みは次第に彩《いろど》りを抑《おさ》え、街の進化にとり残されたような古めかしい建物群が姿を現してくる。
速度を落とさず曲がり角を走り披ける。ポリ容器のゴミバケツを発見。背後も見ずに蹴りとばした。
「剣と化せ我がコード!」
映画の中で海兵隊が撃っている小銃弾の三十倍くらい大きな音がした。つづいて、ポリ容器が地面でバウンドする音と、犬の吠える声。燃えるポリエチレンの臭気《しゅうき》から逃げるように、美鎖は脚を回転させる。
袋小路の奥にたどりついた。
その神社は、渋谷という街の中にあってさえ騒がしさを拒《こば》む静寂《せいじゃく》の中に佇《たたず》んでいた。
息を整えながら、人のいない境内《けいだい》に美鎖は足を踏みいれる。
五メートル四方ほどの狭い空間にコンクリートでできた鳥居が立っていた。鳥居の奥には石像でできた二匹の狐が座り、真昼の闖入《ちんにゅう》者を石の瞳で見つめている。
赤い提灯《ちょうちん》の下がった門をくぐり、弓子はゆっくりと周囲を見回した。
「他人に迷惑をかけない場所を選びましたのね。貴女にしてはよい心がけですわ」
「とは言っても、あんまり騒ぐと住んでる人が出てきちゃうわよ」
「境内から外に音は出しません」
「へえ。そんなこともできるんだ」
狭い空間で、白銀と黒、ふたりの魔法使いが相対《あいたい》した。
「もう一度聞きますけれど、コードを止める気はありませんのね」
「こっちも仕事だもの。あなたが魔法の事件を追わなければならないのと同じくらい大切なことよ」
「しかたありませんわね。できれば穏便《おんびん》に済ませたかったのですが、わたくしも、わたくしの存在にかけて貴女の無法を見逃すわけにはまいりません」
「人生ってそういうものよね」
「いい機会です。貴女とは一度、雌雄《しゆう》を決しておかねばならないと考えていました」
「わたしはできれば勘弁《かんべん》してほしいんだけどなあ。古典魔法じゃかないそうもないから」
「韜晦《とうかい》できるのもいまのうちですわよ」
「弓子……楽しそうね?」
「不謹慎《ふきんしん》ですが、そうかもしれません。いままで、生身の人間相手に魔法で全力を出したことがありませんでしたから……」
銀髪の魔法使いは口の端をわずかに歪《ゆが》めた。
境内をとり囲むように樹々が植えてあった。車や人がつくりだすざわめきは聞こえなかった。ただ、風に揺れた葉が擦《す》れ合う音がさざなみとなって空間を包んでいた。幾重にも重なった緑の葉をくぐり抜け、初夏の陽射しが弓子の銀髪を照らしていた。
稀代《きたい》のエクソシスト、カルル・クリストパルド。悪の限りをつくした魔女を追いかけオーストリアから極東の地までにやってきて、ひとりの女性と恋に落ちた。一ノ瀬弓子クリスティーナの銀髪は天才魔法使いの血を引くことの証《あかし》だった。
弓子は勘違《かんちが》いしているが、姉原美鎖は現代魔法の第一人者であってそれ以外ではない。美鎖の専門分野は、コンピューター上で実行したときに魔法を発動するプログラムを書くことである。魔法というシステムを頭で理解していることにかけては誰にも負けない自負はあるものの、筋肉組織にコードを走らせて魔法を発動させることとイコールではない。己《おの》が肉体でコードを組む古典魔法は、あるいは弓子のほうが上かもしれない。
ものとものの関係性を歪ませ、この世とは違う法則を一時的につくりだすのが魔法のコードというものだ。金と時間と全世界に散らばる他人のコンピューターを使ってつくりあげたアミュレットで美鎖は実力の不足分を補っているが、弓子には二十世紀最強と呼ばれるエクソシストがつくりあげたケリュケイオンの魔杖《まじょう》がある。
条件は五分と五分。
「覚悟はよろしくて?」
うなずき、美鎖は、湿った境内の空気を口から吸いこんだ。
「剣と化せ我がコード!」
白銀の杖からコードがほとばしった。
人間の視界には捉《とら》えることができない物理法則の歪みだ。歪みは実在の刃物と同様に空間を切り裂き、コンクリートに衝突して火花を散らす。
魔法使いである美鎖の視界には半透明な剣が弧《こ》を描いて切りかかってくるように見える。中世の騎士が使っていたような幅広の剣だ。古《いにしえ》の魔法において、剣の属性は火であり攻撃を司《つかさど》るものでありすなわちそれは破壊の象徴であった。
美鎖は跳びのく。
「これはどうかしらー」
弓子は杖を振り回す。
半透明の剣は宙に舞いあがり、そのままぽきんと二本に分かれた。二本の剣が別々の軌跡《きせき》で標的に襲いかかる。
美鎖は、アミュレットから肉体にコードをロード、組みあげたコードを肩から下げた黒のバッグに転写し構造を強化。呪文は唱えない。口頭で発する言葉には調子をとる以上の意味はない。弓子が呪文を唱えるのは肉体を瞬間的に高揚《こうよう》状態に持っていくためで、常日頃からそうした条件付けを自分に対して行なっているということだ。
左の剣をバッグで叩き落とし、右の剣を紙一重《かみひとえ》でかわす。前転して美鎖は立ちあがる。電撃に似た痛みと皮膚《ひふ》がひきつれる感触を肩口に残して剣は宙に舞い戻る。
黒いバッグは一撃で粉砕された。中に入っていたケータイが乾いた音をたててコンクリートの地面に転がった。
弓子はワルツのステップだ。みずからの肉体でコードを組み慣れた彼女は、美鎖を誘うように足を運ぶ。
二本の剣と弓子のすべてを視界に入れたまま、美鎖はじりじりと円を描いて移動する。
五メートル四方のこの境内は、ボクサーが戦うリングのようなものなのかもしれない。
美鎖は思った。
ボクサーたちは、そうしたければリングの外に逃げ出してもかまわない。レフェリーも、セコンドも、観客も、試合を放棄《ほうき》して逃げ出す者までは止めようとしない。だけれどボクサーは、試合がつづく限りリングにとどまる。ロープに囲まれた四角い空間がこの世のすべてであるかのように、あるときはロープを背にして、またあるときはコーナーポストに寄りかかって互いに拳をぶつけ合う。
美鎖と弓子も同じだ。わざわざ人のいない場所を選んだからには、コンクリート敷《じき》のこのリングで決着をつける必要があるのだった。
弓子が杖をふるった。
杖の動きに合わせて二本の剣が旋回、直角に地面に突き立つ。美鎖は跳《と》びのく。突き立つ。横転して避ける。突き立つ。転がる。突き立つ。転がるとみせかけ、横の移勤から縦の移動へ変化、美鎖は弓子に肉迫した。
腕を伸ばして弓子に触れる。アミュレットからコードをロードし、胸と肩の筋肉を使って組みあげる。右腕を経由して敵の体に叩きつけた。
体内に侵入してきた異質なコードにケリュケイオンが自動反応、主《あるじ》の肉体に介入して剣のコードの実行を停止したのち対抗コードをすみやかに組みあげる。美鎖のコードははじかれ、弓子の体表をすべって地面に向かって流れていく。失敗に終わったコードを美鎖は回収。同時に、美鎖の背中のすぐそばまで迫っていた二本の剣が霧散《むさん》する。
ふたりは同時に跳びずきった。
「なかなかやりますわね、現代魔法使い。でも、ジオイドのコードごときではわたくしに通用しなくてよ」
「そんな簡単に行くとは思ってなかったけどねえ」
「まだ余裕がありそうですわね」
「そんなことないわよお。攻性コードで正面切ってドンパチしたら勝ち目がないことは最初からわかってたし」
「なら、降参いたします?」
弓子はくちびるをちろりと舐《な》めあげる。
「やめとくわ。傾向と対策ならできたから」
「聞き捨てなりませんわね。いまのコードだけでわたくしを計るなど見くびられたものですわ」
「そういうわけでもないんだけどね。魔法使い共通の弱点というかな。ホアンとやりあったときからなんとなく思ってたんだけど……」
「ならば、わたくしに見せてごらんなさい」
「いいわ――」
言葉と同時に美鎖は突進した。
よ、という文字を発音しながら美鎖の体が急加速する。ジオイドのコードによるブーストだった。
ジオイドのコードは比較的簡単な魔法だ。このコードは、支配下にある物体に影響するジオイド面を傾ける。つまり、この魔法にかかったモノや人間だけが、坂道にいるような状態になるのだ。今朝方、三人の男たちを靴屋のシャッターまで転がしたのはこのコードだし、達彦を路地に引っぱりこんだのもこのコードだった。
対象に直接コードを流し込む必要があるため、弓子のような魔法使いには通用しない。だけれど、魔法は自分に対して使うことだってできる。
弓子がコードを組む前に、美鎖は相手に接触できる距離まで近づいていた。
「攻性コードはもう組ませないわよ」
手を伸ばし、美鎖は剥《む》きだしの弓子の手首を握った。
右手で左腕を。
左手で右腕を。
がっちりとつかむ。
美鎖は、アミュレットからロードしたコードを次々と組みたて、弓子の体に流し込む。組んだ端からケリュケイオンが妨害し、ひとつとして魔法は完成しないが気にしない。どんなコードであるかも関係ない。アミュレットに格納されている二千四十八の可変コードを片っ端から組んでいく。
ケリュケイオンが自動実行する対抗コードで弓子の肉体は飽和《ほうわ》状態だ。美鎖が次のコードを組み終わる前に対抗魔法を組むことができれば、弓子は自分自身のコードを組んで美鎖を攻撃することができる。しかし、最初の一手で得たアドバンテージで、美鎖は絶対的有利な状況にある。別のコードを組むどころか、弓子は腕を動かすことすらままならない。握りしめた腕の筋肉が、痙攣《けいれん》でびくびくと震えているのが腕ごしに伝わってくる。もちろん、美鎖の全身も震えているだろう。完璧に制御《せいぎょ》した筋肉組織を流れる弱電流で組み立てるコードは、肉体に極度の緊張を強《し》いるのだ。
美鎖のアミュレットも弓子の杖もマジックアイテム。コードが記録された媒体にすぎない。何度コードをロードしようとマジックアイテムがすり減るようなことはない。
だが、肉体は別だ。
使えば使うほど筋肉は疲労する。
「な!」
「これって、つまり、体力勝負よね」
弓子の手首を握りしめた手にぬるりとした感触が伝わった。指先からの出血だ。筋肉組織の酷使《こくし》で脆《もろ》い毛細血管が切れたのだった
頬をひきつらせながらもなんとか笑みを浮かべ、美鎖は、弓子の紫の瞳を覗きこんだ。
「先に疲れてコードを組めなくなったほうが負けよ。わたしが考えたにしちゃ、公平なやりかただと思わない?」
6.109前 15:41
ぽかぽかとあたたかい光が降りそそいでいた。青い空はどこまでも澄んでいて、じっと見つめていると吸いこまれてしまいそうだった。体の周囲にあるぬくまった空気はさわやかな五月の風に押され、熱気を帯びる前に吹き流されていった。
やわらかい陽射《ひざ》しを体いっぱいに浴びながら、午後も遅くなった道玄坂を森下こよみはぽややんと歩いていた。遅いお昼に食べたドネルケバブサンドのお肉の部分とパンの部分がお腹《なか》の中で格闘していて、言い知れぬ眠りを誘うのだった。
となりを歩いている嘉穂は、どちらかといえば細い目をさらに細めて携帯情報端末《PDA》をチェックしている。機械が苦手なこよみにはなにをやっているのかさっぱりわからないけれど、頭のいい彼女のことだからそれなりに深い考えのもとに行動しているのだろう。
「森下」
嘉穂が言った。
「うん、なあに?」
「そこ。段差」
ずべ。
歩道と車道のあいだにできた段をこよみのつま先は正確に捉《とら》え、無慈悲な重力に体が引っぱられる。急速度で接近するアスファルトにこよみが目をつぶったとき、着ている服がなぜか体を支えてくれた。
おそるおそる目をあけると、嘉穂の腕が襟首《えりくび》をつかんでいた。
「あ、あ、あ……ありがとう」
心臓がばくばくしている。
「よそ見すると危ない」
「ごめんなさい」
「きょうの森下は通常の三倍くらいの頻度《ひんど》でこけてると思われ」
「あたし、人込みとか苦手だから」
「そういうことでもないと思われ」
肩をすくめ、嘉穂は歩きだす。友人の後ろ姿をこよみは小走りで追いかけた。
たしかにきょうはよく転びそうになる気がする。実際に転んだのは最初の一回だけで、あとはすべて嘉穂が支えてくれたりしたのだけれど。
こよみは人通りの多い道が苦手で、人の数に比例して転ぶ確率が高くなっていくのはまったく自然の摂理《せつり》だ。それにしてもきょうは多い気がする。嘉穂の片手がPDAで埋まっているのも理由のひとつかもしれない。いつもは手を繋《つな》いでくれるので。
もうひとつ考えられることといえば……。
「もしかしたら、弓子ちゃんの言ってたコードのせいかな?」
「不都合を全部コードのせいにするというのも」
「でもでも、前のときもそんなかんじだったって美鎖さん言ってたし」
「ソロモンが動いていたのはPC。今度のコードはケータイが媒体《ばいたい》。ずいぶん違うと思われ」
嘉穂は説明してくれた。
以前、こよみたちが巻きこまれたソロモンの事件では、魔法のコードは世界中に散らばったPCで動いていた。
もちろんケータイもコンピューターの一種であり、現代魔法のベースに使うことはできる。世界中に存在するPCと比べても数で劣るということもない。が、CPUの演算速度は遅く、PCと違って電源に限りがある。
コンピューター上でコードを組むというのは、すなわちCPUに電流を流すということだ。ケータイみたいにちいさなバッテリーしかついていない機械は、いかにCPUを働かさないかが重要だったりする。そんな機械でコードを組むためにCPUをぶん回していたら、すぐに電池が切れて使えなくなってしまうのだそうだった。
「じゃあ、意味のないコードなの?」
「一か所に集めて一斉に動かすとかすれば、あるいは」
「どどどうしよう」
「まあでも、だいじょうぶかと。ただ一斉に動かしたからといって人間の考えてることは別々だし、コンピューターと違って同期をとるのも難しい。宗教儀式にこのケータイを使う人間がいれば別だけど、そんな宗教は」
「そっか。よかったあ」
ソロモンのコードのときは、ちいさな魔物《デーモン》が現れて、だんだん強くなって最後に大きな魔物が現れたからわかりやすかった。今度のコードは、もともと嫌なことを忘れさせて気分を爽快《そうかい》にするだけだし、それほど悪いことのようにも思えない。
このケータイアプリは、使った人間の気分をすーっとさせると言われている。でも、すーっとするが集まるというのはどういうことなんだろう。こよみは考えてみる。
ひょっとしたら、ものすごくすーっとなったりするのだろうか。こよみが一斉に使ったら、ものすごく巨大なたらいが落ちてきたりするのだろうか。それはそれで怖い気がする。
深く考えるには適していないと自分でも思う頭を一生懸命こよみは回転させたが、いい答えは見つからなかった。
そのとき、嘉穂がつぶやいた。
「見つけた」
「え? なにを?」
「イゴール鏑木。メイクしてないけど、たぶん」
その男は、道ばたに直《じか》に座りタバコをふかしていた。
目をつぶった男の肩はこきざみに揺れていた。イヤホンをしている様子はないし、街中に流れている音楽はミュージックというより音の洪水で、とてもリズムをとれるようなものじゃない。それなのに、人であふれる109前の一角で、男は、天上の音楽でも聞いているかのようにリズムをとっているのだった。
嘉穂に聞いて想像していたよりずっと老《ふ》けた男だった。地元で見つけたらクリーニング店のおっちゃんだと思ったかもしれない。ミュージシャンというかんじではなかった。脱色した長い髪はめずらしいものではなく、服装も普通だ。
「どうするの?」
わかるかわからないかぎりぎりに肩をすくめ、嘉穂は歩きだす。
人の群れを縫って近づく。
声をかける前に、男が目を開いた。
嘉穂は立ち止まった。こよみは、友人の服の裾をぎゅっと握りしめる。
座ったまま脚を組みかえ、男はふたりの少女を見あげた。そして、ゆっくりと言葉を紡《つむ》いだ。弦楽器にも似たしゃがれた声だった。
「足音が聞こえたんですよ。たん、たん、たん、どてどてどてってね。とてもいいアンサンブルでした」
「イゴール鏑木さん……ですよね?」
嘉穂の問いかけに、鏑木はひゅーつと口笛を吹く。
「この街にわたしの顔を知ってる人がいたとはね。どこで知ったんですか?」
「ネットで」
「ほう」
「きょう、この街のどこかでライブやるんですよね?」
「それもネットで知ったんですか? すごいですね。最近のジョシコーセーの情報網は。これなら商売になるはずですよ」
黄色と黒と茶色がまばらに混じった髪に手をさしこみ、鏑木はばりっと掻《か》きむしる。
「あたしたち、どこでやるのか探してるんです」
「場所は確実には決めてないみたいなんですよ。ただポリから一番遠いところだと聞きました。五時を過ぎたら楽器をセットしたトレーラーを流してドン。ああでも、直前にケータイで情報を流すとか言ってたっけかな? GPSっていうんでしたっけ、場所がわかるやつ」
嘉穂はこくんとうなずく。
「このライブはケータイ販促《はんそく》の一環《いっかん》みたいなものでしてね。アプリの性能が大幅アップ! って機種知ってますか?」
鏑木はポケットから携帯電話を引っぱり出した。弓子と同じ最新機種だった。
「スポンサー的にはこいつの宣伝のほうが重要なんです。トークセッションでアプリの宣伝をするんですよ。そこにいる全員で一斉に動かしてみよう、みたいにね」
こよみと嘉穂は顔を見合わせる。
「一斉に、ですか?」
「そうです。一斉にです」
鏑木のてのひらの中でケータイが鳴りだした。二十年前アニメの主題歌になった曲だった。鏑木は恥ずかしそうに顔を歪める。
「佐伯さんだ。プロデューサーなんです。怖い人でね。ごめんなさい。もう行かなきやなりません」
「あの……月並みですけど、がんばってください」
「がんばりますよ。きみたちにいいビートをもらいましたから」
手を振ると、ケータイを耳にあてながら鏑木は雑踏の中へ駆け込んでいった。
こよみは、カバンの中から弓子のケータイを引っぱりだした。小型の液晶画面に映しだされた赤い髪のキャラクターは平和そうな笑顔をふりまいている。
「一斉にって言ってたね」
「……」
「ライブって、宗教儀式に似てる、よね?」
「……」
「偶然、魔法のコードで動いてるケータイアプリを使った計画が持ちあがったってことは、たぶん……ないよね?」
「……」
「ねえ、嘉穂ちゃん!」
「絶対ないと思われ」
なんだかよくわからないけれど、とてもとても悪い方向にものごとが進みつつある気がした。
「これって美鎖さんが組んだコードなんだよね?」
「そう……と、言っていたのは一ノ瀬。美鎖さん本人じゃない。本人の意思をあたしたちは聞いてないし」
「じゃあ、美鎖さんのコードは別にあるってこと?」
滅多《めった》にないといわれる現代魔法が、渋谷の街で同時期にふたつ動いているというのはとてもおかしな状況だ。
プログラムにコードを埋めこむと簡単に言うが、人間技ではないのだ。コンピューターが理解するのは魔法の呪文ではなくマシン語である。魔法発動コードは、元のプログラムの動作を妨げないようにしつつ、別の世界《レイヤー》に働きかけるパターンを組み込む必要がある。できあがるマシン語の姿を頭で完全に描きながらプログラムを書かねばならない。
姉原美鎖はそれができる。こよみも弓子もできない。嘉穂は勉強中だが、まだできない。神西九十九《じんざいつくも》というプログラマーにはできたが、彼は引退して山形にいる。
「五時って言ってたよね。いま何時なんだろ」
「もうすぐ四時かと」
「嘉穂ちゃん……あたしたち、どうしよう?」
「危なくなったらあたしたちはスタコラ逃げれば」
「そうなの?」
「でないとドツボにはまる」
「え? え? なんでドツボなの?」
「わからないならわからないでいい」
「そんなあ」
中途半端な長さの髪に、嘉穂は、指をからませる。
難しい問題を解くときの癖《くせ》だった。
*
皆崎達彦は人込みが苦手だった。特に通学のラッシュがだめだ。揉《も》みあうサラリーマンを見ていると、電車に乗る気力がすうっと消えていくのだった。
押されるのが嫌《いや》とか、人と触れあうのが嫌とかいうわけではなかった。
彼らが押しあうのは、電車に乗らなければならない理由があるからだ。時間どおりに会社に着かなければ給料を減らされるかもしれないし、取引停止になるかもしれない。混んでいなければスリは仕事ができないし、痴漢はおしりをさわれない。千人にひとりくらいはラッシュマニアなんてのもいるかもしれない。
けれど、達彦には理由がない。もとから皆勤賞《かいきんしょう》はねらっていないし、授業に遅れても命を失うわけじゃない。高校に通うのは、どちらかというと惰性《だせい》に近い行為である。そんな自分が割りこんだことで、本来来るべきだった人間が押しだされるかもしれないと思うと、列に入りこむ気が萎《な》えるのだった。
スプレー缶を持って明け方の渋谷を訪れるようになった理由の半分は、ラッシュの時間帯を避けるためだ。
もう半分は、二年前からずっとつづいている第二ラウンド二分五十九秒を演じるため。家庭教師のキョウコ先生が死んだこの街で、彼女が教えてくれたグラフィティ・アートを描くためだった。
美鎖の言葉が正しければ、恋患《こいわずら》いなんて幻想みたいなものだということになる。自分の中で、その人の幻影が勝手な方向にどんどん進んでいって、相手の本来の人格を無視して、理想と重ねあわせはじめるのだ。ふとしたきっかけで、当人の本当の顔や声や仕草を思いだしたりすると、自分の中の像とのギャップに気分が悪くなることすらあるのはそのせいだ。
止まった時の中のあの人は、もはや単なる幻影なのだろう。
達彦にもわかっている。
けれど、達彦はスクリーンセーバーとなった。ホームレスに名付けられたからではなく、時計の針が動かないから。渋谷という街に立ち止まり、いつまでも曲線を描きつづけることを選択した。
達彦が美鎖を手伝ったのは、ひょっとしたら凍りついた針が動くきっかけを彼女がつくってくれるのではないかと考えたからだ。死んだあの人と同じく恋愛対象になることはないだろうけれど、この街でなにかをやらかそうとしている自称魔女なら、見えない時計を修理することができるのではないかと。
でも、もうそれも終わりだ。
結局、足元に引かれた白のラインを達彦はまたぐことができなかったのだから。
達彦は、長いあいだ、ぬるい風が走り抜ける路地をさまよっていた。人のいない場所、できるだけ静かな場所を選んで歩きつづけた。そうしてやっと、現実とは思えない光景を目にした頭がゆるゆると回転をはじめた。
魔法なんてものがこの世に本当に存在すると仮定しての話だけれど。なぜ、弓子と美鎖は戦っているのか。その点が気になったのだ。
達彦は弓子の言葉を必死に思いだした。
彼女は言った。ケータイを媒体にしたコードが現在進行形で密度を増し、この街を覆《おお》わんとしていると。
だけれど、美鎖が使っていたコードは範囲を限定しているものだった。三つのケータイを使って三角地帯をつくってもまだ十分な効果を発揮せず、四台め五台めの設置にふたりは渋谷中を駆けずり回ることになったのだ。
美鎖は、コードが悪いか、弓子が対抗手段をとっているか、あるいは他のコードが干渉《かんしょう》しているかと言っていた。
ふたりの主張の食い違いを解消できる解答はコードの干渉だ。弓子が探しているコードは、美鎖が組んだものではない。
もちろんすべて仮の話だ。魔法なんてものが存在したという仮定条件での話である。仮定が成り立つとしてだけれど、誰かが、この街で、ケータイを使ったまったく別の魔法を便おうとしているのだった。
達彦が、ふたりの魔女たちに連絡する手段はない。
*
「いいパンチだったぞう」
「パ……ンチなんか、打って……おりませんことよ!」
五メートル四方の境内《けいだい》にふたりの女が横たわっていた。
大の字だ。
女は大の字で転がっている。両の鼻からこぼれた血が、がびがびになってこびりついていたりもする。特に黒い服を着た女は、ただでさえ短いスカートがめくれあがって、パンツが丸見えになっていた。
女は恥ずかしがるでもなく、裾をなおすでもなく、全身の筋肉を痙攣《けいれん》させて倒れている。パン屑《くず》を抱えたアリの列が右の太腿《ふともも》をのぼり、降りて、左のふくらはぎにさしかかろうとしていたがまったく気にしていない。いまここに腹を空かせたライオンが偶然横を通りかかったら、ふたりともエサになる運命なのはまちがいなかった。
黒い服の女――美鎖は言った。
「だめねえ。そこは、おまえもな! って言うところよお」
「貴女は……マンガの読みすぎ……ですわ!」
「いいじゃない。引き分けだったんだから」
「いいことなんてひとつもありませんわ!」
弓子と美鎖の戦いは痛み分けに終わった。
何十分そうしていたのかわからない。とにかく、みずからの意思で筋肉組織を動かすことができなくなるまで美鎖は弓子の体にコードを流し込みつづけ、弓子は対抗魔法を組みつづけた。何時間ということはないと思うけれど、時間の感覚は途中でなくなっていた。最後に組んだコードが不発に終わり、ケリュケイオンからロードされたコードが美鎖の体を吹きとばしたのだ。
弓子がまだ動けるようなら降参するつもりだったが、唯一自由になる目を動かしても弓子の姿は見当たらなかった。彼女もまた大の字に倒れ、身動きがとれなくなっていたのだった。
「ところで、さっきから電話が振動しているみたいですわよ。ぶんぶんと耳障りですわ」
「動くのがだるいわ。代わりに出てくれない?」
「ご自分の電話くらいご自分で出なさい!」
とは言うものの、腕の筋肉は石膏《せっこう》で固めたみたいだ。とても動かせる状態ではなかった。しかたがないので、そのまま美鎖は空を見上げることにした。
「おーい、くも〜」
「やかましいですわ!」
「追分山《おいわけやま》のてっぺんまで行くんかあ〜」
「ああ、もう!」
「そんなにヒステリックになることないじゃないのよお」
弓子はきーと奇声をもらす。
「なんですって! 言うにことかいて、こんな! こんな! 非常識にもほどがありましてよ!」
「……そうかなあ。もっとも文明的な解決方法だと思ったんだけどなあ。モノも壊れないし」
「これから先、文明的な解決方法とやらを思いついたら、実行する前にわたくしに相談してほしいものですわね!」
「わかったわよ。お互い、あしたは筋肉痛ひどそうね」
「黙らっしゃい!」
「そんなに怒ることないじゃないの」
寝そべったまま、美鎖はぷうっとほおをふくらませた。
胸ポケットのケータイはいまも振動している。十秒くらいで待機モードになるのだが、しばらくするとまたコールがかかるのだ。そんなことが、かれこれ三分近くつづこうとしていた。
美鎖が知っている人間の中で、ここまでの気の長さを発揮する人物はひとりしかいない。しかたがないので、老骨《ろうこつ》に鞭《むち》打って出ることにした。ケータイを保持する自信がないので、胸にさしたままスピーカーモードで受信する。
「……もしもし」
「あ、よかったあ。美鎖さん!」
こよみだ。
「どうしたの?」
「たた、大変なんです!」
少女の声は震えているようだった。しどろもどろになりながらも、ゲリラライブで起きようとしていることを説明する。弓子の体に緊張が走ったのが気配でわかった。こよみの話が進むにつれ、弓子の緊張も増していく。
とりあえずライブのトレーラーをマークするように指示し、美鎖は電話を切った。
「聞こえた?」
「聞こえてましてよ」
「弓子が追ってるのって、わたしのコードじゃなかったみたいね」
「そのようですわね」
「まずいことになったわねえ」
「自分で組んだものとは違うコードが働いていることに、最初から気づいていればまずくはならなかったのです」
「わたし、そういうの苦手なのよねえ」
ようやくほぐれてきた体を動かし、美鎖はコンクリートに肘《ひじ》をついて寝そべる。立ちあがることはまだできそうもなかった。
「でも、ケータイでしょ? そこんとこが気になるのよね」
CPUの性能やバッテリーの性能を考慮すれば、ケータイは魔法発動コードを実行させる媒体として最適というわけではない。宣伝妨害のコードを有効に動作させるため、美鎖はノートPC用のバッテリーを別に用意する必要があったくらいである。
また、魔法発動コードはCPUごとに書き分ける必要がある繊細なプログラムだ。異なる機種では望む結果はでないし、ケータイは商品としてのライフサイクルも短い。あるいは、望んだ時期にだけコードを街にばらまいてすぐに事態を収束させることをこのコードを組んだ人間は考えているのかもしれなかった。
美鎖は記憶をたぐって考える。コードがもたらす不思議な現象について語っていた通信系の技術者がむかしいたような気がする。
とはいっても、その人物が現役だった頃は有効な魔法をコンピューターで組むことは事実上不可能だったはずであり、実用化に漕《こ》ぎつけたのは美鎖の世代がはじめてのはずである。
生きていればもういい歳のはずだ。同じ時代に生まれていればライバルになったかもしれない男だった。
「誰だったかな、土門《どもん》一郎……三郎……幸三郎? ああもう! 思いだせないな」
「もしかしてその三郎は源三郎《げんざぶろう》ではありませんこと?」
弓子が言った。彼女は地面に横座りになっていた。
「そう。それ! よく知ってたわね」
「今朝方、源《げん》と名乗るホームレスにこの街で出会いましたわ。どうもおかしいと思っていましたが、そういうことだったのですね」
「なにがおかしかったの?」
「そのホームレスはピアニストと呼ばれているのです。指を動かす姿が架空《かくう》のピアノを演奏しているようだと。だけれどわたくしには、その姿が違うものに見えたのですわ。ちょうど、美鎖、貴女がコンピューターのキーボードの上で指を動かしているときと同じ動作でした」
「雲行きあやしいわねえ」
「そうですわね」
「またなんかあるのかなあ。きょうはもう十年ぶんくらいコード組んだんだけどなあ」
「半分は自分で蒔《ま》いた種なのですから、貴女にも刈りとる責任がありましてよ。実がならないことがわかっていても」
「弓子、動けそう?」
「馬鹿にしないでくださいまし。クリストパルドの血を引く魔法使いはこれしきのことでへこたれたりいたしませんことよ」
コンクリートに杖をがっきと突き立て、弓子は立ちあがる。
そのまま、ふらりとくずれ落ちた。
「ちょっと、弓子!」
弓子は横だおしになったまま浅い呼吸を繰り返していた。
美鎖が組んだのは自分のコード。弓子は使い慣れていない対抗魔法コードを組みつづけた。その差が出たのだ。全体の疲労を足せば同じ量でも、使ったことのない筋肉を疲弊《ひへい》させた弓子は満足に動くことができないのだった。
「三十分もあれば……動けるようになりますわ」
現代によみがえった黒髪の魔女は、ひとりで、よろよろと立ちあがった。
「しょうがないから、わたしがなんとかするわ」
7.宮下公園 16:29
ホームレスの源《げん》は夢を見る。
空中に浮かび、自分を見おろす夢だ。
座っている自分を通して地べたに敷いてあるダンボールが見える。夢の中の源の姿は、幽霊写真のように透けているのだ。ちぢれた髪も黒ずんだヒフも真っ赤な血液も頭蓋骨《ずがいこつ》もその中にある脳髄も。みんなみんな半透明になっている。
ふわふわと宙に浮かんだ源は、透明な脳の中を行き交う情報の群れを目にする。目で見たもの、耳で聞いたこと、起きているときに一時記憶にためこまれた情報たち。それは、コンビニの残り弁当の味だったり、あざけるように舞うカラスの黒い翼だったり、すれ違ったときこれみよがしに舌打ちした女だったりとさまざまだ。五感を刺激した情報は、すべてカプセルとなって脳に流れこんでくるのだった。
透明な脳の中には二匹の蜘妹《くも》がいる。
蜘妹たちは働きものだ。
脳の持ち主である源は情報をとりこむことしか考えていない。そこらへんに放りだしていくだけで、整理|整頓《せいとん》をするのは蜘妹たちの役目である。脳の中いっぱいに蜘味は巣を張りめぐらし、複雑に絡みあった糸の真ん中に、記憶という名の獲物をぶらさげる。細くてしなやかな糸で大切にたいせつにぐるぐる巻きにして、蜘蛛たちは記憶をぶらさげる。
二匹の蜘妹を、源はそれぞれ選別屋《マーカー》と編集屋《リファレンサー》と呼んでいた。
マーカーの仕事は記憶の選別である。積みあがった情報をていねいによりわけ、ぐるぐる巻きにして巣の中のもっとも適した場所に運ぶ。待ちかまえていたリファレンサーは新たな糸を吐いて道をつくり、情報をぶらさげる場所をつくる。仕事熱心な二匹の蜘蛛たちによって、脳内にある巣は、より複雑に更新されていく。
だが、蜘妹たちには天敵がいる。そいつが来るのを蜘妹は恐れている。脳の持ち主が眠りにつき、夢を見る頃になるとそいつはやってくる。
そいつの名前は|クズ収集屋《ガーベージコレクター》。蜘妹たちの獲物を、ガーベージコレクターは横から盗み、むさぼり食う。ぐるぐる巻きにして巣に吊るすはずだった記憶がガーベージコレクターの胃の中へと消えていくのだ。マーカーがきっちりと巻いたはずの糸さえも、時とともにほぐれガーベージコレクターに食われていく。ヤツの胃袋は底無しだ。ヤツに目をつけられたら最後、どんな情報も消え去る運命にある。
人間は脳の三割しか使っていないという。ちいさな脳の明日の記憶の保管場所をつくりだすため、持ち主が寝ているあいだに、無慈悲なガーベージコレクターはいらない記憶を次々と食らう。
それは、起き抜けに吸ったちびたタバコの味だったり、娘の七五三写真だったり、給料をはたいて買った婚約指輪のきらめきだったり、あるいは、源の名が本当は源三郎であることだったりする。ガーベージコレクターが口に入れて飲むこむ瞬間、源は、夢という形でその記憶をかいまみ垣間見るのだった。
マーカーとリファレンサーがどれほどがんばってもガーベージコレクターにはかなわない。きょうもガーベージコレクターは、源の頭の中で、大切な記憶をむさぼり食う。
まどろみからさめると、目の前を人の影が覆っていることに源は気づいた。見知った顔だ。さいわいなことに、頭の中のガーベージコレクターはその人物に関する記憶を食らってはいないようだった。
スーツに身を包んだその人物は、タバコをくわえ、渋谷の街並に遠い視線を送っていた。あるいは、ねじれながら宙をのぼっていく紫煙を見ているのかもしれなかった。
「一本くれるかね?」
ガーベージコレクターと源が名付けたその人物は肩をすくめ、タバコの箱を丸ごと投げてよこす。低タールが売りのメンソールタバコだった。箱の中に高級そうなライターが入っている。
源の問いかける視線に、
「それもさしあげます」
ガーベージコレクターは言った。
ここ十年の中でもっとも高そうな炎でタバコに火をつけ、源は盛大に煙を吹きだした。
「ずいぶんとむかし、動物を飼っていたことがあります」
「ほう」
「叔父《おじ》夫婦が長野に別荘を持っていましてね。そこに、リスみたいな動物が勝手に住みついていたんです。背筋に走った黒いラインがとてもかわいらしくて……あんまり弟がせがむものですから、檻《おり》を買ってもらって東京まで連れて帰ってしまいました」
ガーベージコレクターはつづけた。
めずらしいリスだと思っていた生物の名はヤマネといった。十センチくらいの大きさで、褐色の長い体毛を持った生きものだった。
ヤマネは野生の生きものだ。人間にはけして慣れようとしない。どんな餌をやっても食べず痩《や》せ細り、最後は二センチ弱しかない檻の隙間《すきま》から抜け出て家の天井裏に隠れた。
死骸《しがい》になるまで、ヤマネは見つからなかった。
「ヤマネは保護動物で、飼ってはいけないことを知ったのは、だいぶあとになってからのことです。弟とふたりで、公園にお墓をつくりました」
源は見あげる。ガーベージコレクターの視線は源から離れたままだ。あるいは、それは、誰かに向けてしゃべっているのではなく、ひとりごとなのかもしれなかった。
「利発な弟でした。死んだのは二年前、センター街であなたがいつも座っているところです。学生なのに結婚するって、女を連れてきたんです。姉さんと同じ名前の人を好きになっちゃったんだって……あのとき反対しなければ、もしかしたらまだ生きていたかもしれません」
ダンボールの上で源は座りなおす。
あの場所に置いてあった花を捨てたのは仲間のホームレスだ。空き瓶《びん》をリサイクルに出すためだった。
「わたしの家は両親がいなかったものですから、自分が親になったつもりでいました。生きものを閉じこめたらいけないのに……人間っていくつになっても同じ失敗を繰り返すものなのですね」
「だから、いま、解放するのか?」
「そうかもしれません。解放できるのがたとえ記憶だけだとしても。この街とわたしから、解き放つことはできますから」
「……そうか」
ガーベージコレクトのコードは、脳の中にいるきまぐれなガーベージコレクターを強制的に労働させる魔法だった。
その日にあった嫌なことを考えながらボタンを押すというのが、この魔法のキーポイントだ。その動作は、一定のパターンの緊張を全身の筋肉にもたらし、魔法発動コードが使用者の肉体にロードされやすくする。ケータイアプリによって組みたてられたコードは、腕を伝ってケータイの持ち主の肉体へ移り、ちっぽけなCPUで実行されるより何倍も強力な魔法の効果を発揮するのだった。
もっとも、ひとりでコードを実行してもたいしたことは起きない。それこそ、その日にあった嫌な出来事の記憶をガーベージコレクターが食らうだけの話である。
だが、多くの人間が集まり同時にコードを実行すれば、ガーベージコレクターは強大な力を得る。ひとりの人間の脳から抜けだして人の頭を経由するようになる。一旦《いったん》拡大したガーベージコレクターは連鎖反応を起こすのだ。アプリが動作可能なケータイを持った人間が一定範囲内にいる限り連鎖反応は止まらない。ガーベージコレクターは、渋谷という街にある記憶という記憶を食らいつくすだろう。
ガーベージコレクトのコードは、もともと源が自分のために書いたものだった。
あたたかい布団《ふとん》や妻や娘の記憶を忘れるために。失った家庭を、もとからなかったことにするために。マーカーがぐるぐる巻きにした糸をほどき、ガーベージコレクターが収集できるようにするために。
だが、コードを組んだ当時はPCの能力が低く、魔法は完全に動作しなかった。だから源は、まどろみの中で、中途半端な記憶を垣間《かいま》見てしまうのだ。真冬の寒風や下着に染みこむ雨粒以上に、それは源を苦しめる。今度こそ、失敗せずにきれいさっぱり掃除する必要があった。ガーベージコレクターの目的は、同時に源の目的でもある。他人を踏み台にしてもみずからの意思を貫徹《かんてつ》する強さがガーベージコレクターにはあった。それは、ホームレスに身をやつした源が持っていなかったものだ。
「もうすぐ、ここにトレーラーが到着します。トレーラーが道玄坂をのぼりきったら、用意した男が歌を歌い、人を集めてコードを実行させる予定です」
「その男はあわれだな」
源は苦笑する。
ガーベージコレクターはタバコを投げ捨て、踏みにじった。
「選んだつもりです。敗北した戦いを終わらせることのできない男を。一瞬だけつかんだ栄光の感触を忘れられず、人生を無駄に過ごしている男を選びました。道化《どうけ》となることすら、彼は本望《ほんもう》のはずですよ」
その男もガーベージコレクターも、そして源も、全員が戦いを終わらせることができなかった。記憶に残っているのは、ただ果てしない喪失《そうしつ》感だけだ。そして、ガーベージコレクトのコードは喪失感さえも食らいつくす。
「では、行きます。お互いを記憶していられるのはこれが最後かもしれませんね……土門源三郎さん」
「その名を聞いたのはひさしぶりだ。最後に、このおいぼれにあんたの名前も教えてくれるかね?」
ガーベージコレクターは笑った。寒々とした公園の温度をさらに下げる氷点下の笑いだった。
「わたしの名はガーベージコレクターです。あなたがそう言ったんじゃないですか。ですが、かつて親が付けた名前のことなら……それは、佐伯響子《さえききょうこ》です」
ガーベージコレクターはトレーラーに乗り込んだ。
*
魔法使いたちの姿は、宮下公園にも見当たらなかった。
看板に穴を穿《うがつ》つなにか[#「なにか」に傍点]を投げつけ合う戦いをするのであれば人がたくさんいる場所を避けるのではないかと考え、達彦は道玄坂の立体駐車場を探して回った。だけれど、百メートル先からでも認識できそうな、黒い髪と銀の髪の女たちを見つけることはできなかった。そしていま、彼女たちが駆けていった方向とは正反対の方角にある宮下公園まで達彦はやってきたのだった。
線路沿いにつづく細長い公園とその横の道路沿いには、青いビニールシートが点々と張られていた。ごわごわしたビニールシートの下では、ダンボールを組みたてた寝床でホームレスたちが寝起きしている。ビニールシートは、傷ついた都市にへばりついたかさぶたなのかもしれないと達彦は思った。
渋谷という街の中心部にあるのが嘘《うそ》だと思えるくらい公園の中は閑散《かんさん》としていた。風はいくぶん冷たかった。落書きまみれの掲示板の裏側は、そこだけ真新しいグラフィティ・アートが踊っていた。一週間前に達彦が描いたものだった。
ヤンキーとホームレスくらいしか訪れることのない公園のベンチに、ひとりの老人が座っていた。源だった。急速に翳《かげ》っていく空を見あげ、彼はタバコをくゆらせていた。普段と違い、チビた吸いさしではなく、細くて長いタバコだ。透明なピアノは休演中のようだった。
「まだ帰ってなかったのかね? スクリーンセーバー」
源はたずねた。
達彦はとなりに腰を降ろした。
「ぼくにも一本ください」
「ホームレスにタバコをねだるかよ。おまえさん、意外に大物だな」
「くれないならくれないでいいです」
薄汚れた肩をすくめ、封を切ったばかりの箱を源はとりだした。女の人が吸いそうな銘柄《めいがら》のタバコだった。
無言で一本抜きとり、火をつけ、吸いこむ。
むせた。
口と鼻から勢いよく吹きだした煙が渦を巻き踊り散った。視界をさえぎる嫌なにおいの煙を、達彦は手で払う。となりで源がひひひと笑っている。
煙というのは吐きだした息なのだと、そのとき達彦は思った。タバコの煙を避ける人間はいるが、吐きだした息を避けることはない。息は透明だ。見えないけれど、人は互いに吐きだした空気を吸い合っているのだろう。達彦と並んで座る源が吐きだした空気も、達彦が吐きだした空気も、通りすがりの男や女が吐きだした空気も、モノトーンのあの人が吐きだした空気も、風に舞いまざりあい、そしてまた達彦の肺のなかへ侵入してくるのだった。
「おまえさんの活動時間は明け方だろうがよ。こんな時間までなにをしているんだ」
正面を向いたまま源がたずねてくる。
「人を探しているつもりだったんですけど……」
「どうしても見つけなきやいけない人なのかね」
「よくわかりません。本当のところ、見つけてなにを話せばいいのかもわからないし」
「ならば家に帰ることだ、スクリーンセーバー。これからこの街はガーベージコレクターに支配される。巻きこまれるとやっかいなことになるぞ」
「この街はいつだってやっかいじゃないですか」
「信じる信じないはおまえさん次第だ。知り合いのよしみで教えてやっただけなんでな。おまえさんの記憶をガーベージコレクターから守ってやる義務はない。この街を覆《おお》う魔法に巻きこまれて、わしと一緒に空っぽになるのもよかろう」
ひひひと笑う。
思いきり煙を吸いこみ、達彦はタバコをとり落とした。喉《のど》の奥から胸の中心に向けて走った熱い刺激に目尻から涙が出た。火のついたタバコは、コンクリートの上で一度バウンドし、二回転して止まった。
「いま、魔法って言いました?」
「そうだ。魔法だ。ガーベージコレクトの魔法。人の記憶をむさぼり食う魔物《デーモン》を呼びだす魔法だよ」
「なんで源さんが魔法なんか知ってるんです」
「その口ぶりだとおまえさんも知っているみたいじゃないか。最近の渋谷は魔法だらけだ。ならば、わしが知っていてもおかしくはなかろう?」
タバコを弾き、源はピアノの演奏をはじめる。薄汚れた指が煙の中で軽やかに舞った。理由はないが、弓子という少女が魔法を使ったときの仕草に似ていると達彦は思う。
「……もしかして、源さんなんですか?」
「そうだと言ったらどうするね」
「な……なんでですか。なんでそんなことするんです? だって源さんはピアニストで……なんでこの街で人の記憶を奪う魔法なんか使わなきゃいけないんですか。そんなの――」
「意味はない、かね?」
源は達彦の言葉を奪い取る。
「ならば、おまえさんに問おう、スクリーンセーバー。おまえさんの落書きに意味はあるのかね? この街じゃなきやいけない理由はなんだね? おまえさんの行為で迷惑を受ける人間はひとりもいなかったのかね? おまえさんは正義の味方なのかね?」
達彦は言い返せない。
じりじりと火に侵食されてしおれていくタバコを見つめた。
この街にこだわっているのも、グラフィティ・アートを描いたのも、自分だけの理由によるものだった。ロクでもない落書きをすこしはまともな絵に描き替えているけれど、それは正義なんかじゃない。どちらかといえば、犯罪に近い。それも後ろ向きの犯罪だ。達彦に源を責めることはできない。
「家に帰れ。まだ間に合う。おまえさんができることはなにもないし、この魔法はおまえさんには関係ない。おまえさんの探し人だってきっと帰ってる」
「美鎖さんは帰りませんよ。たぶん」
源が息を呑《の》む音が聞こえた。みじろぎする気配もあった。達彦は顔をゆるゆるとあげる。いままで見たことがないほど真剣なホームレスの顔があった。
「そうくるか。おまえさんの探し人がデイジー・デイジーか。中国人が弄《ろう》した策《さく》がこんな形で裏目に出るとはな。これだから世の中はおもしろい」
「美鎖さんが、その……デイジーなんとかなんですか?」
源は直接問いには答えなかった。皺《しわ》だらけの口は思いつくままに言葉を選んでいるようにも思えた。
「連鎖反応するガーベージコレクトのコードを止める方法はただひとつだ。だが、それは魔法使い本人の敗北を意味する。おまえさんの大切な人はガーベージコレクターに負けるぞ」
「大切とかそういうの関係ないですよ。それに、言ってることがよくわからないです」
「おまえさんはガーベージコレクターを止めたいんじゃないのか? それができるとすれば、おまえさんしかいない。この状況において、中国人が予想もしなかった異分子のおまえさんしか。この街に意味を見出《みいだ》すおまえさんが決着をつけることが最善なのだ。すべての意味をなくしたわしなどよりも」
「ぼくは魔法なんて使えません」
「ガーベージコレクターは誰の頭の中にもいる。わしの頭にも。おまえさんの頭にも。ヤツを食いとめることができるのはマーカーとリファレンサーだけだ。もしその記憶が大切ならば、おまえさんのマーカーに特別な働きをさせなきやいかん。おまえさんが、おまえさんの中にいるガーベージコレクターを呼んでしまえば、マーカーがヤツに勝つことはできない」
源の言葉は理解不能だ。
とまどう達彦に、源は、懐《ふところ》からとりだした携帯電話を押しっけた。ホームレスに似つかわしくない最新機種のケータイだった。
「はじめて会ったとき、おまえさんはわしをからかうごろつきどもを追っばらってくれたな、スクリーンセーバー。こいつはその礼だ。受けとっておけ」
「ケータイなんてもらえません」
「ケータイじゃない。こいつは魔法の道具だ。デイジー・デイジーの元に届けてやるがいい。道玄坂の上で、路上駐車のトレーラーがゲリラライブを開いている。デイジー・デイジーはそこにいるはずだ。もっとも、こいつがうまく動くかどうかはおまえさん次第だが……」
「ちょ、ちょっと! なに言ってんのかわけわかんないですよ。源さん!」
「簡単なことだ」
源はひひひと笑う。
「わしのような生ける屍《しかばね》になる前に、おまえさんの想いにケリをつけな」
立ちあがり、源は明治通りへと歩み去った。
「ちきしょう。なんだってんだよ……わけわかんないよ」
達彦の時計の針は、いまもまだ第二ラウンドの二分五十九秒で凍りついている。もしかしたら、この時計を動かす手段もあったのかもしれない。たとえ失恋という結果がわかっていても、キョウコ先生にもっと早く告白していたら。あのとき白のラインを踏み越えていたら。いまこのとき、道玄坂に向かって足りだすことができるなら。
もしかしたら。もしかしたら……。
「よう。探したぜ」
拳《こぶし》を握りしめて立ちあがった達彦を三人の男たちがとり囲んだ。男たちは一様ににやにやとした笑みを浮かべている。
「こんなとこでおまえに会えるとは、きょうのおれたちは運がいい」
今朝がた、モノトーンのあの女《ひと》に排除された三人組だった。
*
「スタンバイ、オッケーですかー?」
ADの声に、鏑木はみずからの顔をぴしゃりと叩く。
「オッケーです」
「確認します。側壁の扉がオープンと同時に一曲目スタート。終了後に挨拶《あいさつ》。二曲三曲とつづけて、トークでケータイアプリの宣伝をして終了です。警察の到着が早かったら、三曲めキャンセルしまーす」
トレーラーの中は薄暗かった。エンジンの振動が、足を伝わって体の中心まで届いている。握るマイクが、スタンドに当たってカチカチ音をたてているのはそのせいだ。たかが路上で歌うだけのことなのだから。かつて浴びたスポットライトの下では、万を越える人々の視線が自分に集中していたのだから。路上ライブごときでビビってなんかいない。
鏑木は、昼間に出会った少女のことを思いだす。娘といってもいい歳の少女だ。自分の曲を期待していてくれたあの子は来ているのだろうか……。
一枚のスチール板をへだてた外の空間に渋谷の街がある。いまは一体化したビートがゆるやかに流れているのかわかる。鏑木はつま先でリズムをとる。
たん、たん、たん。
どん、どん、どん。
いっちょ、やったろうじゃねえか。
イゴール鏑木は息を吸いこむ。
「扉、開きます!」
8.道元坂下 17:01
タクシーの後部座席で、姉原美鎖は携帯電話をこねくりまわしていた。
動作させているのは、こよみから教えてもらったケータイアプリだ。美鎖が書いたコードではないかと弓子が疑惑を持っていたものである。
アプリが魔法発動コードの特性を持っているのはまちがいなかった。美鎖のアミュレットや弓子のケリュケイオンと同じマジックアイテムとしての性質をこのアプリは備えている。ケータイのボタンを押した人間の筋肉組織を流れる弱電流にアプリのコードは自動反応、使用者の体を使用して、たった一種類の魔法発動コードを完成させるのだ。
この方法は、古来より魔法トラップとして使われてきた。ほとんどの人間が持つケータイを利用してトラップをつくりあげるとは、誰が考え出したのか知らないが非常に巧妙《こうみょう》な仕組みだった。
このコードは、どうやら使用者の|記憶の再配置《ガーベージコレクト》を行なっているようだ。容量に限界のある人間の脳は、もともと寝ているあいだにガーベージコレクトをしていらない記憶を捨てている。夢を見るのはそのためだという説もあるくらいだ。このコードは、そのガーベージコレクトを外側から強制的に実行してしまうのである。
単体で動かしても、その日に起こった出来事をひとつふたつ忘れるくらいで済むはずだ。ひとつのケータイがつくりだす魔法発動コードは、ケータイを手に持つ人間程度にしか影響力を及ぼすことができない。ケータイに組み込まれているCPUの能力はその程度だ。
だが、こよみの話では誰かがこのアプリを一斉に動かそうとしているという。ひとつやふたつならなんの問題も起きないコードも、数多くのCPUが同時に実行すれば話は別だ。コードの影響範囲はCPUの数に応じて幾何級数《きかきゅうすう》的に膨《ふく》らみ、その場で「嫌なことを考えている」だけの人間の体でも強制的にコードを実行するようになる。本来なら一度の実行で消えるはずだったコードは、他人の体へと移動し、コードを実行し終わった人間の体に舞い戻ってまた実行、ループと増殖《ぞうしょく》を繰り返して消すべき記憶がなくなるまで何度も実行される。
一度そうなったら、影響範囲は百メートルや二百メートルでは済まない。
だけれど、姉原美鎖にとって本当の問題は、コードを書いた人間の目的なのだった。
このコードが気に食わないのはたしかだ。自分のコードを妨害されたし、結果的に弓子の邪魔《じゃま》もしてしまった。それでも、なにかをしようとしている人間を力ずくで止める理由としては不十分な気がする。
ソロモンのコードを書いた神西九十九《じんざいつくも》はなにが起こるか理解していなかった。だから美鎖は止めることにした。このコードがソロモンと同じく制御《せいぎょ》されていないのなら止めなければならない。だけれど、このコードは綿密な計画の元に制御されている気がしてしかたがない。実際のプログラムを解析すればわかるが、その時間もない。言い知れぬ焦燥感《しょうそうかん》が美鎖の体を包む。
「お客さん、こりゃ事故かなんかあったみたいだ。きっきっからピクリともしない」
運転手の声に、美鎖は思考の海から引き戻される。
「ちょうどそこから脇道に行けるけど、どうする? こっちは代金先にもらってるからこのままでもかまわないけどさ」
フロントウインドウから見る道玄坂は車でぎっしりと埋まっていた。車と車の隙間をひっきりなしにクラクションが駆け抜けているが、動く気配はまったくない。
すこしでも体力を温存するために、美鎖は万札を投げつけてタクシーに乗りこんだ。GPSの表示を追って、ハーモニーパーク通りから渋谷駅前を経由して道玄坂をのぼるルートをとったのが裏目に出てしまった。きょうは休日で、目標のトレーラーは道端に人を集めてライブを開こうとしているのだ。車道にあふれた群衆がの通行を堰《せ》き止めることは十分に考えられた。
「ここで降りるわ。ドアを開けて」
「まだ千円分も走ってないよ」
「次に会ったときタダで乗せてもらうからいいわ」
美鎖は車道に降り立った。
一メートル七十五センチの視界から眺める道玄坂は駐車場と化しており、進めずに困っている車なのか路上駐車している車なのかすら判断がつかない状態だった。携帯キャリアの移動基地局用バンまでが、車の海に飲みこまれ動けないでいる。野次《やじ》と怒号《どごう》とクラクションを貫《つらぬ》き、坂を吹き降ろす風に乗って遥《はるか》か彼方《かなた》からエレクトリックサウンドが聞こえていた。
ライブはすでにはじまっているのだった。
「美鎖さん!」
舌足《したた》らずの声が美鎖の背中を打つ。
こよみだ。
「たいへんなんです。嘉穂ちゃんが!」
「嘉穂がどうかしたの?」
「嘉穂ちゃん、ライブのことずっと楽しみにしてて、聞きに行っちゃったんです。あたしはここにいろって……」
「あの子も意外に熱血ねえ」
「どどど、どうしたらいいんでしょう」
「嘉穂はここにいろって言ったのね?」
「そうです。ここに立ってれば美鎖さんが歩いてくるって。ここから先は車じゃぜったいだめだからって。あとあと、ひとつの交番を空《から》にすれば、そこが一番他の交番から遠い場所になるとかなんとか言ってました」
あわあわとあわてるこよみの髪を美鎖はくしやっとかきまぜた。
他でもない嘉穂のことだ。危険があることはわかっているに違いない。リスクと目的を天秤《てんびん》にかけて目的をとってもなんとかなると判断したのだろう。
こよみをこの場所に待機させたのだって理由があるはずだ。再会できたのは運がいいからではない。道玄坂は車で詰まり一メートルも動かない。かといって脇道《わきみち》に抜ければゲリラライブの現場にたどりつくことはできない。タクシーで出発した美鎖がこの場所を徒歩で通ると嘉穂は確信したのである。だからこよみをこの場に残した。つまりこの交通|渋滞《じゅうたい》は人為的なものなのだ。おそらくは、ライブを行なっているものによって引き起こされた……。
現場につきさえすればライブを止めるのはそれほど難しくない。ケータイアプリのコードが実行されないうちに、攻性コードをトレーラーに二、三発あてて、群衆を散らしてしまえばいい。弓子がいればさらに容易《たやす》いはずだ。古典魔法を得意とする彼女なら、この場所からだってトレーラーに遠距離攻撃が可能である。
あるいは、それをさせないために弓子と美鎖は無駄に戦い、弓子は神社で戦線から離脱しなければならなかったのかもしれない。ここにいるのは、あと一、二回コードを組めるかどうかまで体力の落ちた美鎖だけだ。
「やってくれるじゃない」
仕組まれたように状況は悪化している。
美鎖は苦笑を浮かべる。ここでもうひとつくらい罠《わな》があってもおかしくない。
左右を見回した。
通りの反対側に、美鎖とこよみを見つめている人物を見つけた。スーツを身にまとった小柄な女性だ。顔立ちは三十代くらいだったが、肌のつやのなさが女の年齢をひとつふたつ増加させて見せていた。坂を上るでなく下るでなく、彼女は、立ち止まって美鎖たちがいる場所に生気のない視線を送っている。
やがて、意を決したように、動かぬ車を縫《ぬ》って近づいてきた。
美鎖は後ろ手にこよみをかばう。
「こよみ、コードは組めるわね?」
「く、くめますけど。あのあの、あたしが使えるのはたらいの魔法だけで……」
「十分よ。合図したら組みなさい」
スーツの女性は三歩の距離で立ち止まった。
そして、ゆっくりと、上品でていねいな言葉でしゃべる。
「……現代魔法というそうですね」
こよみの背筋に緊張が走るのがわかった。
美鎖は無言で立っている。
「あなたが来るということは聞いていました。コンピューターを使った大規模魔法を使えば、かならず妨害に来るだろうって。だったら、最初から呼んでしまえばいいって言ったんですよ。ホアンは反対のようでしたが……」
「やっぱりあの男が噛《か》んでたのね」
「彼に会ったのは三か月前になります。公園通りのコーヒーショップで。その日はとても混んでいて、朝のニュースで最高気温が八度だと言っていたにもかかわらずオープンエアの座席まで全部埋まってました。右から三番めの席に座って、遅いお昼のクラブハウスサンドを二口かじったところで相席してもいいかと彼が聞いてきたのがはじまりです。時計を見たら二時十七分三十二秒でした。あ……こんなことまでは興味ないでしょうね」
女はくすくすと笑う。能面に光をあて、人工的につくりだしたような笑顔だった。
「あなたの目的はなに?」
「わたしは夢を見ません。特異体質らしいんです。頭の中でガーベージコレクターが働いているとき、人間は夢というものを見ると聞きました。消え去ってしまう記憶たちが持ち主に最後の別れをしているのだと。だからわたしは、いらない記憶たちにお別れをして、生まれてはじめて夢を見てみることにしたんです」
「無関係な人間を巻きこんでるわよ」
「それはお互いさまです。姉原美鎖さん。あなたに言われる筋合はありません」
「いまのいままで止めるかどうか迷ってたけど、止めるほうに傾きつつあるわ」
「でも、あなたにだって忘れたい嫌な記憶くらいあるでしょう? 心の傷となって消えぬ悪い思い出が。ないとは言わせません」
「あるわよ。だからといって、逃げていいわけじゃないわ」
「逃げているのはあなたたちです。わたしは逃げられないんですから。そのつらさがわかりますか? わからないでしょう。だって、あなたたちの記憶は薄れていくんですから。一番つらかったときの思いをしっかりと思いだすことができますか?」
メガネ越しに美鎖は彼女をにらみつける。
女が夢を理解できないように、美鎖には完全なる記憶が理解できない。楽しさもうれしさも悲しさもつらさも、時とともに薄れていくものだ。けしてゼロにはならないけれど、かつて美鎖が経験したつらさは、女の言うとおりいまはセピア色に変色しアルバムの奥にしまいこまれている。
「あなたは見かけによらず手ごわいそうですね」
能面が笑う。
手をさしあげ、
「しまったこれも! こよみ、た――」
路肩に停《と》まっていたバンから強烈な電波が美鎖に浴びせられた。
「たらい!」
と、美鎖は叫び、なぜ大声をあげたのか理解できずに左右をきょろきょろと見回した。
しかもたらい?
自分はたらいにトラウマでもあるのだろうか。仮に心にキズがあるとしても、もうすこし格好いいものと関連づけられて欲しいものだと思う。
うれしいつもりだったけれど、もうすぐ生まれてくる弟の存在は、自分の精神に思いがけない失調をもたらしているのかもしれない。
八歳の美鎖はため息をつき、生まれてくる存在が弟だとわかっていることに驚きを感じた。
母は臨月《りんげつ》だが、まだ第二子がどちらの性別になるかはわかっていない。
弟が欲しいという願望?
違う。美鎖は、まだ見ぬ弟のことをちゃんと知っている。無駄に背が高くて、口が悪くて、魔法をひとつも信じてくれなくて、くやしいことに姉の自分より料理が上手なのだ。美鎖以外の誰にもなつこうとせず、どこへ行くにもスカートの端を握りしめてついてくる。十歳になるまで部屋の電気をつけたままじやないと眠れない子だった。
しばらく考えた末、八歳の美鎖は、これが夢の中であることに気づいた。いま現在の美鎖が何歳になっているかはわからないが、ともかく、美鎖は八歳の自分になって八歳のときの夢を見ているのだった。
銀座三丁目にある洋館の内部は、記憶よりもすこしだけ新しく、記憶よりもほこりをかぶっていなかった。視界は記憶よりだいぶ低く……いや、むかしはこの高さだったのだ。この高さの視界のことを美鎖はおぼえている。
明治時代には学校として使っていた屋敷の廊下は、父親がどこかから拾ってきたクチバシのついた鬼女の彫像やらカイゼル髭《ひげ》をはやしたタヌキの置き物やらさわると毒がつきそうな物品でいっぱいだったけれど、それはそれで味があると美鎖は感じた。
大正時代から延々と没落をつづけた結果、姉原家の財産は銀座の屋敷ひとつにまで減っている。校舎として使っていた建物を改築もせずに使いつづけているのも、文化遺産の保護とかではなく、そうするだけの甲斐性《かいしょう》がなかったからだ。むかしは山や炭坑をいくつも持っていたそうだが、このまま順調にいけば、美鎖と弟が相続する財産はカイゼル髭のタヌキくらいまで目減りしていそうだ。美鎖はがんばって自分で稼《かせ》がねばならない。
美鎖の父親は考古学者だ。お金にもならないのに始終《しじゅう》どこかへ発掘に出かけている。母親は魔法使いである。しかも、とてもすごい腕の持ち主だという話だ。おまけに料理の腕も絶品だ。才色兼備《さいしょくけんび》とは、つまり母のためにある言葉なのだ。
どちらかひとつの才能だけでも母に追いつくとしたら、まあたぶん魔法は無理だから料理の腕にしておくのが無難かな、などと八歳の美鎖は思ったりするのだった。
「美鎖ちゃあん、どこ?」
母の声がした。
「はあい」
「チーズケーキと洋ナシのタルト、どっちがいい?」
「タルト!」
「わかったわ。焼きあがるまで静かにしてるのよ」
「はあい」
天井に向かって空《から》返事をすると、美鎖は緊急の探険キャラバンを結成し、屋敷の奥に向けて出発した。
きしむ館《やかた》の扉をいつものようにくぐりぬけ、美鎖は古い洋館の中を進む。壁は冷たいぬめりを帯び、射し込む光は蒼《あお》くにごっていた。まるで洞窟《どうくつ》の中を歩いているようだった。
美鎖は、これから自分がなにをするのか知っていた。
しっけの厳しい母は、美鎖が魔法の道具に手を出すことを許してくれなかった。魔法の行使は危険ととなり合わせで、本質を理解してからでなければなにが起きるかわからないというのだ。だから、楽しいものがたくさん置いてある実験室に忍び込めるのは、母が料理に夢中になっている時間だけなのだった。
美鎖はこれからある魔物《デーモン》を操ろうと試み、失敗する。
姉原魔法学院最後の魔法使いであり最強の魔法使いである姉原まゆりが一年の歳月をかけて呼びだし、コード化して瓶《びん》の中に封じ込めた魔物《デーモン》だ。
危険があることはわかっている。だけれど、母の実験室は強力な魔法陣で守られているし、母のコードを利用しない限り美鎖はまだ魔物を使役《しえき》することができないのだからしょうがない。
暗く湿った屋敷の廊下を、美鎖は軽い足どりで進む。
もうじき、母は死ぬ。
美鎖は魔物《デーモン》を操ることができないのだ。召喚《しょうかん》された魔物は地に穴を穿《うが》ち壁の煉瓦《れんが》を吹き飛ばし、自由を喜ぶかのように暴れ回る。そのとき吹き飛ばされた煉瓦をきっかけに、美鎖はソロモンのコードと戦うことを決意するのだが、それをするのは十七年も後のことで、いまの美鎖には関係ない。
美鎖が召喚して操ることができなかった魔物と戦い、身重の母は体力を消耗《しょうもう》する。もともと体が丈夫でない母は、弟を産むのと同時に死んでしまう。
母の死は美鎖のせいだ。実験室に向かう美鎖にはそのことがわかっている。だけれど、ここは夢の世界であり、美鎖の記憶であり、すでに起きたことの再現なのだ。母が死ぬことは定められていて、美鎖はそれに向かって進むしかない。足どりも軽く、大好きだった母の死に向けて美鎖はスキップをつづける。
実験室の扉の冷たいノブを美鎖はちいさな手で握りしめる。
開けたくない。
けれど、期待に胸をふくらませ美鎖は笑顔で開けた。
がちゃり。
十七年前に聞いた音が、鼓膜《こまく》と骨と心臓を冷徹《れいてつ》に震わせる。
美鎖は部屋に足を踏みいれる。
そこに、魔物《デーモン》がいた。
そいつは八本|脚《あし》だった。記憶にある姿と違っていた。一本の脚の長さは竹馬ほどもあり、二つに分かれた体は小型の車ほどもあった。頭の先端には、フライパンと同じ大きさの目が八つもついていた。実験室全体に糸を張りめぐらしたそいつは、部屋の右上の隅で大きな体をゆっくりと揺すっていた。
美鎖は驚いたが、すぐに納得した。なぜならこれは夢だから。夢の中であればなにが起こってもおかしくはない。美鎖は八本脚の魔物《デーモン》に話しかけた。
「あなたは……なに?」
「我が名はガーベージコレクター」
「がーベーじこれくた? フランス産のチョコレートの親戚《しんせき》……じゃないわよね」
「我はクズの収集屋だ。頭の中のクズをエサに生きている。汝《なんじ》のいらない記憶をもらいうけに来た」
「悪いけど、いらない記憶なんて持ってないわ」
「そんなことはない。人間の記憶領域には限りがある。人は毎晩毎晩、夢の中で|記憶を捨て《ガーベージコレクトし》ているのだ。あまねく人の頭の中に我は遍在《へんざい》する」
「言いたいことはわかったから帰っていいわよ。必要なときにまた来て」
「いまが必要なときではないのか?」
ガーベージコレクターは言った。彼は蜘妹なので、人間の言葉をどこで発音しているのかはわからなかった。顎《あご》の横から牙《きば》のように生えている二本の触肢《しょくし》の揺れかたは、テレビで見る翻訳《ほんやく》映画みたいだった。
「必要って……なにがよ?」
「我はこの記憶を食らうこともできる。放って帰ることもできる。我を帰したければ、部屋から出て扉を閉めるがよい。次に扉を開けたとき、汝は夢のつづきを見ているだろう」
「……つづき?」
「そうだ。汝は魔物《デーモン》の召喚を失敗し、壁に穴が空き、母は死ぬ」
「嘘!」
「嘘でないことは汝が知っておる」
「でも、おかしいわよ! あんたが記憶を食べちゃったってお母さんは帰ってこない。だってこれは夢だもの。十七年も前のことだもの。取り返しはもうつかないんだもの」
「だが、夜ごと悪夢に苛《さいな》まれることはなくなる。夜中に悲鳴をあげてとび起きることも、枕を濡らして朝の光を浴びることも。それゆえ人は我をこう呼ぶ。|クズの収集屋《ガーベージコレクター》」
「本当なの?」
「我は汝の頭の中に住む魔物《デーモン》。汝に嘘はつかん」
「約束する?」
「約束しょう」
美鎖はちいさなこぶしを握りしめる。
「ならばわたしは……」
「えい!」
ぽん、と音をたてて金《かな》だらいが出現した。
突然宙に現れたたらいは、立ちつくす美鎖の肩先をかすめアスファルトに落下、クラクションの洪水《こうずい》に負けぬほど大きな音で存在を主張した。
開き慣れた冗談のようなその音に、美鎖は目をさました。
こよみのちいさな手が美鎖の手を包みこんでいる。記憶の中にあった八歳の美鎖とそう変わらぬ大きさのてのひらだった。
「だ、だいじょうぶですか?」
「……え、ええ」
「ご、ご、ごめんなさい! 美鎖さん固まっちゃってるし。なんだかへンなコードが動いてるみたいだったし。た、って、たらいのことじゃないかなあとか思ったんですけど、どうしようかなって……美鎖さん、目になんか入ったんですか? 目薬ならあたし持ってますけど」
「ありがとう。こよみ」
「ごめんなさい! って、え? え?」
肩までしかないこよみのちいさな体を美鎖は抱きしめた。腕の中でこよみはぴきんと硬直している。
たらい召喚のコードしか使えない初心者の魔法使いが美鎖の体で動作していたガーベージコレクトのコードを変換したのだ。彼女がいなければ、美鎖は大切なたいせつなものを永遠に失うところだった。
「危《あや》うくやられるところだったわ。あの女は?」
「美鎖さんが固まっちゃったあと、すぐに坂をのぼって走っていきました」
「何分くらい前のこと?」
「さんぷん……は経《た》ってないと思いますけど……」
おそらくそれは致命的《ちめいてき》な三分だ。たった三分を稼《かせ》ぐために、あの女は美鎖の前に姿を現したに違いない。
「ここからは力技でいくわよ」
こよみは黙ってうなずく。
「あなたのおかげで重要なヒントを手に入れたわ。もうひとがんばりよ」
「はい!」
「クソったれ。あの女……絶対に許さないわ」
滅多《めった》に聞かない美鎖の汚い言葉に、こよみは、まあるく目を見開いた。
9.道玄坂上 17:15
イゴール鏑木はケータイをかかげた。
そして、車道をも埋めつくす群衆に向かって声をはりあげる。
「ありがとー! それじゃ、最後にみんなですーっとしよう!」
*
達彦は走る。
すこしもスピードは出ない。カメの全力|疾走《しっそう》ってのは、こんな状態を言うのかもしれない。考えながら、達彦は走る。
目指すはGPSのあの地点。
源にもらったケータイの画面を見る。自分を示す矢印と、モノトーンのあの人がきっといる場所は一センチも離れていない。たった一センチ。楽勝だ。こんなのすぐじゃないか。
幸いなことに道玄坂は車も人も動きがやけにゆるやかだ。達彦の足の運びがどれほど鈍かろうと、周囲が止まったような状態なら関係ない。これはあれか。映画で見た、時間がゆっくり進むというあれなのか。だからこんなにも風が重く感じるのか。
男たちに殴られた体は熱をもっている。割れたメガネはどこかへ行ってしまった。視界は歪《ゆが》み、腕を振ると肋骨《ろっこつ》に電撃が走る。一歩踏みだすたび膝《ひざ》の関節ががくがくとやかましい。
それでもかまわない。脚を振りあげ、踏みしめる。単純なことだ。これさえすれば体は坂をのぼっていく。どんなに傾斜がきつくても、振りあげ、踏みしめる。動かぬ人をかきわけ、達彦は振りあげ、踏みしめる。
やっとわかったのだ。
止まった時計の針を動かすのは自分しかいないのだと。
桃太郎が倒した鬼には親戚がいて復讐戦《ふくしゅうせん》を挑《いど》んできたかもしれないし、彼の人気をねたんだ大臣が刺客《しかく》を送りつけてきたかもしれない。焼けた靴で踊り死んだ継母《ままはは》には、やっぱりいじわるの姉妹がいて、白雪姫に仕返しをしてきたかもしれない。
戦懐《せんりつ》を背負い喜びを胸に、彼らは、戦場へ戻っていったはずだ。
それが、彼ら、個人の、幸せだから。
「なんだってんだ! こんな坂!」
雄叫《おたけ》びをあげ、達彦は道玄坂を踏みしめた。
*
「な、なんかおかしくないですか?」
坂道をのぼった美鎖とこよみは異様な光景を目にすることとなった。
休日の渋谷の夕刻に、しん、と静かな空間が存在するだけでも普通ではない。人が動けば人の音が、車が動けば車の音がする。呼びこみをする店は隣を圧する大音量を垂れ流し、黒服のお兄さんたちはあやしげな職業の勧誘に忙しい。ここはそういう場所のはずだ。
それなのに、道にあふれる人々はただもそもそと蠢《うごめ》き、車という車がエンジンの炎を失っている。車列がぴくりとも動かないのは坂の下も一緒だったが、こちらは、中の人間も動いていないのだった。
耳慣れぬ音に美鎖は空を見あげた。
普段は聞こえることのない、ビルの風切り音だった。
「まずいわね」
「あ、あたし、こういうの映画で見たことあります。なんとかオブザリビングデッドっていっかて、噛《か》みつかれるとその人もリビングデッドになっちゃうんです」
「こよみ、余裕あるのね」
「よゆうなんてないですよう!」
美鎖は歯噛《はが》みする。
やはり、夢に囚《とら》われていた三分間が命運を分けたのだ。ガーベージコレクトのコードはすでに連鎖反応を起こしはじめているのだった。
ホラー映画に出てくるリビングデッドは、噛みつかなければ仲間を増やせない。人間は家に閉じ籠《こ》もりシャッターを閉めておけばよい。しかし、ガーベージコレクターは新たな獲物に近づくだけでコードを連鎖させることができる。コードに侵《おか》された人間は夢遊病者のようにふらふらと歩き、それだけで仲間を増やしていく。
人口密度が一定レベルに下がればそれ以上はコードが広がることはないだろうが、このままではどこまで広がるかわからない。リビングデッドを撃ち殺してくれるノーマーシーな軍隊は東京には存在しない。ここにいるのは、あと一、二回しか満足にコードが組めそうもない美鎖と、初心者のこよみだけだった。
夢を見ないと言ったあの女はコードが一番濃密な場所にいるはずだ。そこに行ったからといって打開策があるわけではないが、リビングデッド狩りをするわけにもいかない以上、策は限られる。
こよみの肩を美鎖は強くつかんだ。
「たらい召喚コード、あと何回使える?」
「た、たらいですか? ちょっとわかんないんですけど、一日になんかいも魔法を使ったことなんてなくって、いままでの最高は一日二回です」
「あと一回?」
「きょうはもう二回使っちゃいました。肩もこってないし腕もいたくないしまだだいじょうぶだとは思うんですけど……」
「ぶっ倒れるまで組めって言ったら、できる?」
こよみはごくりと唾《つば》を飲みこんだ。
「ででで、できます……たぶん」
「わたしは何回もコードを組めるほど体力が残ってないの。最後に備えて温存したいわ。いつも使ってる防性コードの分も残らず。だから、いまはこよみが頼りなの」
「頼りって、え? あたしがですか? 美鎖さんが頼りに? でもでも、たらい召喚のコードしか使えませんけど。失敗バージョンだとバナナの皮になったり」
「それでいいのよ」
森下こよみが組む魔法発動コードは特異体質と言っていいレベルに達している。召喚魔法という高度なコードを使いこなしながら、呼び出せるものは金だらいひとつきりである。光のコードもマクスウェルのコードもガーベージコレクトのコードも、体内に侵入したコードはすべてたらい召喚のコードに変換してしまう。冗談のように複雑な作業を、この少女は一瞬にしてやってのけるのだ。
たいして利用価値があるとも言えないが、いまこのときだけは、あるいは弓子より役に立つかもしれなかった。
「これからあの女がいるところに突っ込むわ。いいわね」
「はい」
「あなたが前衛でわたしが後衛。これもOK?」
「はい。あたしが前衛で……って、ああああたしがままえなんですか?」
「そうよ。あなたの役目は、ガーベージコレクトのコードがわたしたちに影響を及ぼそうとしたら、それをすべてたらい召喚のコードに変換して無害化してしまうこと。わたしがこよみを守るんじゃないの。あなたがわたしを守るのよ」
「あたしが、美鎖さんを……」
「できるわね?」
こよみはこっくりと首を縦に動かした。
「行くわよ」
ふたりは手を繋《つな》ぎ、徘徊《はいかい》する夢遊病者の群れに突入する。
目指すトレーラーまで直線距離で五十メートル。周囲は人でいっぱいだ。ひとりひとりコードを解除していたら、伝説の巨人ゴリアテだって体力が保《も》ちはしない。こよみの狭い歩幅に合わせて、ふたりは車道を一気に駆け抜ける。
三人の男が密集して立っている。
美鎖は左右に視線を送る。
「突っ切るわ!」
ごがん。
金属質の衝突音が背後で聞こえた。こよみがコードを変換したのだ。美鎖もこよみも振り向かない。そんな余裕はない。進めば進むほど、ガーベージコレクターに侵された人間の密度は高まっていく。
がん。
またひとつたらいが落下した。
握りしめたこよみのちいさな手が震えている。恐怖ではない。筋肉の痙攣《けいれん》だ。身長百四十六センチ体重三十九キロの森下こよみは、一般の平均よりもいささか体力が劣《おと》る高校生であり、召喚法コードをたてつづけに組めるような人間ではない。
邪魔をするように手を広げている男を攻性コードで弾きとばすのを美鎖は寸前で我慢《がまん》する。こよみを信じたのだから、彼女にまかせるのだ。
がん。
またひとつ。
こよみの足がもつれた。美鎖は力ずくで引きあげる。トレーラーはすぐそこだ。
開け放たれたトレーラーの中央にあの女が立っていた。
「はははははは。食らえ食らえ、なにもかも食らいつくすがいい!」
誰もいないステージで女は踊っていた。正気なのかそうでないのかはわからない。夢を見ない女は、人々が眠った状態で見る夢を起きた状態で経験しているのかもしれない。倒れ伏したミュージシャンたちを踏み越え、女は、跳ねるようにステップを踏む。その姿は、焼けた靴を履いて踊っているようにも見える。
そこで待っていなさい。ガーベージコレクター。
こよみを引きずって美鎖は進む。
がががん、と音が連続。みっつたてつづけだ。美鎖の視界に赤い霧《きり》が散った。こよみの腕から力が抜けていく。夢遊病者たちの数に限りはない。奥歯を噛みしめ、美鎖はコードの用意をする。
「剣《つるぎ》と化せ我がコード!」
声がした。鼻にかかった声だ。
魔法使いである美鎖の視覚が捉《とら》えたのは、天空から飛来する半透明の剣だ。欧州《おうしゅう》の博物館に飾ってあるのと同じ形をした幅広の剣は、獲物《えもの》を狩る鷹《たか》のごとく急降下し、トレーラーに突き立って爆音をあげた。美鎖は走る。見なくてもわかる。ケリュケイオンの魔杖《まじょう》がつくりだすコードを扱える人間はこの世でひとりしかいない。
女がトレーラーから転がり落ちた。
「こよみ! あと一回! お願い!」
倒れた女の足首に美鎖は指を伸ばす。
ごがん。
森下こよみはガーベージコレクトのコードを変換し、そのまま意識を失った。
銀色の杖を構えた一ノ瀬弓子クリスティーナは、自身が投擲《とうてき》した魔法の剣から三十秒ほど遅れてトレーラーの上に降り立った。弓子は防性コードを展開、倒れているこよみと座りこんでいる美鎖を包みこむ。
半径五メートルの不可視の力場《りきば》に阻《はば》まれ、夢遊病者たちはトレーラーに近づくことができなくなった。夢を見ながら、彼らは新たな仲間を求めてさまよいはじめる。
ガーベージコレクターを呼びだした女はうつ伏せで震えている。起きているのか、寝ているのか、能面に見えた顔がいまは苦悶《くもん》に歪《ゆが》んでいた。女の中で活動していたコードはこよみが変換してしまった。ガーベージコレクターに中途半端に記憶を食べ散らかされた女は、あるいは、脳の一番深いところにぶらさがっていた苦痛の記憶をエンドレスで再生しているのかもしれなかった。
座ったまま、美鎖は顔をあげた。
「……ゆみこ」
「遅い。遅いですわふたりとも。いままでなにをやっていたのです。後から出発したわたくしが先に着いていてどうするのですか」
「……どうやったの?」
「どうしたもこうしたもありませんわ。稲荷《いなり》神社から素直《すなお》に南下すればここまで五分もかかりませんことよ」
弓子はふんと鼻をならした。
美鎖がタクシーを拾って渋滞《じゅうたい》の中を渋谷駅まで走っているあいだに、弓子もいくぶんの休息をとることができた。彼女のケータイはこよみが持っていたから、GPS情報に惑《まど》わされず、おのれの魔法的感覚のみによって目的地への最短ルートをとることができたのだった。
「嘉穂はすでにわたくしが安全な場所に移しましたわ」
「そう。よかったわ」
「コード異常は依然《いぜん》としてつづいていますわよ。わたくしの知覚では、コードの影響範囲は半径二百メートルに達しょうとしています」
「これからはわたしが責任をとるわ。あの女には責任をとってもらったから」
「奥歯にもののはさまった言いかたですわね」
「ガーベージコレクターの動作は、ピアトゥピアで増殖するワームと一緒でしょ。だから、ひとりの頭の中に仮想環境をつくって閉じ込めちゃえばいいと思うの。他人の記憶を借りて自分の中に環境をいくつもつくるようなものね。そうやって、すべてのガーベージコレクターを誘導しちゃえばもう増殖できなくなるはずよ」
美鎖の説明に、弓子は眉《まゆ》をはねあげる。
「まさか、その頭というのはご自分の頭を使うつもりではないでしょうね」
「でも、それしか選択肢《せんたくし》がないのよねえ」
「増殖したガーベージコレクターをすべて受け入れるなどということをしたら、貴女の記憶がどうなるかわかりませんことよ」
「そればっかりは、わたしの体の魔法|耐性《たいせい》に賭《か》けるしかないわね」
「わたくしの役目ですわ。クリストパルドの血を引くわたくしのほうが魔法耐性は高くてよ」
「残念ながら、ケリュケイオンにそんなコードは入ってないと思うわよ。わたしが作ったアミュレットだからできることなの。わたしだってやりたくないけど、しかたないわよねえ」
弓子は憮然《ぶぜん》とした表情だ。
「トレーラーを中心とした半径五十メートルくらいを人払いできる? 集めたガーベージコレクターが悪影響を及ぼすかもしれないから。それから、こよみをお願い」
「貧乏|籤《くじ》を好んで引く貴女の性格、わたくし嫌いですことよ」
「お互いさまよ」
黒髪と銀髪のふたりの魔法使いは、そう言って苦笑した。
*
その人は、トレーラーのタイヤに背をもたれかけさせ座っていた。
すでに陽《ひ》は落ち、渋谷の街を照らしだすのは電気がつくる人工のあかりだった。赤青緑の三原色を混ぜ合わせた色とりどりの光が街を踊っていたが、その人の周囲だけは、純白の蛍光灯が照らしたように色というものが感じられない空間ができあがっていた。
世の中ってやつは大部分がクソったれだけど、捨てたもんでもない。踏みだしてみれば、なんとかなるもんだ。こうして、最後の最後で彼女に会うことができたのだから。
達彦はよろよろと彼女――姉原美鎖に近づいた。
「来ちゃいました」
どすっと音をたてて横に腰を降ろす。というか、脚が震えてしまって、そんなやりかたじゃないとうまく座ることができなかったのだけれど。
美鎖は、口を開けて達彦を凝視《ぎょうし》している。
「達彦くん。なんで……」
「源さんからの届けものです」
「こんなにケガしちゃって……バカねえ」
白い指をさしだし、美鎖は達彦の頬《ほお》をなであげる。嫌な感触ではなかった。
「そうです。バカなんです。源さんが、これがあれば、ガーベージコレクターを止めることができるって」
達彦はケータイを取りだした。そして、愕然《がくぜん》とする。
液晶画面が光を失っていた。
「そんな! こんなところで!」
いくらボタンを押しても動きそうもないケータイを、美鎖はしばらくいじくつていた。だけれど、結局役には立たなかったようだ。
「ありがとう。気持ちだけ受けとっとくわ」
「どこかで電池を――」
「いいのよ。コードは連鎖反応をはじめちゃってるから、対抗魔法コードを使うなら同じ数だけ用意しないとだめなの。それってば、事実上不可能なのよねえ」
美鎖は色のない笑みを浮かべる。
「なにやってんだぼくは……」
「そんなこと言わないのよお」
美鎖の指が達彦の髪をかきまぜる。できの悪い生徒をなぐさめるような、年上の女性のやさしい手つきだった。
「そんなにぼろぼろになっちゃって、それでもあなたはここまで来ることを選んだんだから、後悔なんてしないのよ。ここでくじけたら、またガーベージコレクターに狙《ねら》われちゃうわよ」
夕方の湿った風が吹いていた。いつもならうるさいほどの渋谷の街は静まりかえり、遥《はるか》か遠くを疾走《しっそう》する山手線の音ががたごとと途切れなしに聞こえていた。数メートル先でスパークを散らすネオン管の音が聞こえた。黒いスーツがかすかに上下するのに合わせて美鎖の吐息《といき》も聞こえた。
熱を帯びたタイヤに背をあずけ、達彦と美鎖は長くなっていく電柱の影を見ていた。
「そろそろタイムリミットよ。あなたはここから離れなさい」
「なんで美鎖さんは離れないんですか」
「わたしはコードの後始末をしなきゃいけないから。放っておいたら、ガーベージコレクターは渋谷中に蔓延《まんえん》して人々の記憶を食らいつくすわ。止めることが不可能なのだとしたら、今度は被害を最小限に抑えることを考えないとね」
「どうやるんです?」
「すべてのガーベージコレクターをこの場所に集めるの。召喚魔法の応用ね。もうすぐそのコードが組みあがるわ」
「そんなことしたら、美鎖さんはどうなるんですか」
「さあ。なにもならないか、あるいは、すべての記憶を失うか。賭《か》けよね」
達彦は源の言葉を思いだした。
連鎖反応するガーベージコレクトのコードを止める方法はただひとつ。
だが、それは魔法使い本人の敗北を意味する。
「美鎖さんが残るならぼくも残ります」
「だめ」
「残ります」
「だめよ。わたしにはやることがあるけれどあなたにはないもの。それは、無駄な危険を増やすだけだわ」
「女の人をひとりで置いていくなんてできるわけないでしょう?」
達彦の言葉に、美鎖は困った顔をする。
「そんなに言うなら、ひとつ頼まれごとしてくれるかしら?」
「なんでもします」
「相当に危険なことよ。それでもいい?」
達彦はほんのすこしだけ首を縦に動かす。
「わたしのアミュレットを持っていって。そして、あとでわたしのところに届けてはしいの」
「それだけですか?」
「魔法が絡《から》んだ物事を見かけで判断しちゃだめよ。あとでアミュレットをわたしに直接手渡して。人に頼んだりしちゃだめ。大事なことよ。もしかしたらわたしに会うのはつらいかもしれないけれど、守れる?」
「守れます」
「じゃ、約束」
美鎖は真剣な顔をしていた。ぴんと立った彼女の小指と自分の小指を達彦はゆるゆると絡みあわせる。
美鎖は笑顔を浮かべた。
「ほんと言うと、ちょっとさびしかったの」
「え?」
「姉原美鎖って人間は、わたしというコンピューター基板の上を走っているプログラムとデータよね。そのデータが消えちゃうってことは、わたしがわたしじゃなくなっちゃうってことかもしれないじゃない。わたしの最後を誰も見ててくれないなんて、さびしいかな、なんて」
「そんな、いなくなるなんて……」
「来てくれてよかったわ。これ、ちゃんとわたしに渡してね」
首からアミュレットを外し、美鎖は達彦の首に巻きつけた。どこかの基板から引っこ抜いてきたCPUのような正方形のアミュレットだった。
「ありがとう」
不意にやわらかい感触がくちびるを覆《おお》った。視界いっぱいに美鎖の顔がある。いままでどうやるのかわからなかったけれど、キスというのはお互いに首を傾け合うものなのだ。だからでっぱった部分もぶつからないし、もちろんメガネも邪魔にならない。
メガネの奥の美鎖のまぶたがそっと閉じられているのが見えた。細いけれど力強い腕は達彦の首を抱えて放さなかった。振りほどくことはできないのに、その感触はどこまでもしなやかで弾力があるのだった。
触れあっているたったひとつの点を通して、ぴりぴりと電流が流れ込んできているような気がする。つまり、男と女というのはプラスとマイナスで、触れ合えばなにかの流れが発生するものなのかもしれない。達彦はそんなことを考えた。
気の遠くなるほど触れ合うと、唯一《ゆいいつ》の接点を離し、美鎖はにっこりとほほえんだ。
「さようなら。達彦くん」
その瞬間、達彦の体は凶暴な力に引かれ背後へとすべりだす。座りこんだままずるずると、やがて背中がびたんとアスファルトに張りつき腰が浮き足が持ちあがりそのまま後ろに一回転。これと同じものを達彦は見たことがあった。三人の男たちをシャッターまで吹きとばした魔法だ。キスと同時に達彦の体にコードを流したのに違いなかった。なんとか地面にしがみつこうとするが達彦はできない。まるで、地球が傾いて急角度の坂になったように。
「美鎖さん!」
「約束、守ってね」
回転をはじめた達彦の視界からモノトーンの女性が消える。ぐるぐるぐると気が遠くなるほど回転する。上るときはあれほど大変だった道玄坂の景色が高速で回転しながらあっという間に移りかわっていく。109前の交差点まで転がって、達彦はやっと止まった。手加減をしてくれたのかどこにもケガはなかった。
美鎖がいるトレーラーは遥《はる》か彼方《かなた》だ。もはや見ることもできない。
特別な光や音はない。美鎖の魔法はいつでも突然だ。
車のクラクションが鳴り、渋谷の街が夢から醒《さ》めたことを達彦は知った。音もなく蠢《うごめ》いていた人々がたったいま目覚しで起きたような顔をして歩きはじめる。交差点隅で座っている達彦を気にする人間はひとりもいない。がやがやと騒々しい喧噪《けんそう》に身を浸《ひた》し、達彦は、夕闇《ゆうやみ》が迫った狭い空を見あげた。
アミュレットにはほのかに美鎖の体温が残っている。最後までふれあっていたくちびるを、達彦は、舌でそっと湿らせる。
涙と同じ、塩の味がした。
epilogue
見舞いというのは、どんなときも憂鬱《ゆううつ》な気分にさせられる。あるいはそれは、病院という場所のせいなのかもと皆崎達彦は思った。
病院は本来人の病気やケガを治療するところなのだけれど、治った記憶より治らなかった悲しい記憶のほうが強く心に刻みこまれる。病院に来たときに感じるわけのわからぬ不安感というのは、うれしい記憶よりも悲しい記憶のほうがガーベージになりにくいということなのだ。だから、薬品の匂《にお》いをかいだだけで人は不安になる。人にとって、それ自体が悲しいことである。
事件から一週間たった休日、達彦は美鎖が入院している病院を訪れた。
大学附属のその病院は、どこもかしこもきれいで整っていて、構造物は冷たい材質でできているようだった。床の灰色のタイルには色とりどりのラインが引いてある。それは、外科へ行くラインだったり、放射線科へ行くラインだったりする。このラインの一本が、どこか判別できないはてしない場所に繋《つな》がっていたりするのかもしれないと、病院というところはそういうことを想像させるのだった。
渋谷で起きた事件は、最近ではめずらしくなった大規模な光化学スモッグということで解決を見たらしい。それだけのことだった。一躍話題の人となったイゴール鏑木は変な人気が出て、その後深夜帯のテレビで見かけるようになった。ゲリラライブを仕掛けたプロデューサーは美鎖と同じく入院中だそうだ。ピアニストの源《げん》のその後の行方は、杳《よう》として知れない。
魔法などというものの存在を世間は信じていないし、実際、一時的な記憶障害やら追突事故やらが起きただけで、大きな被害はなにひとつ起きなかった。
ただひとり、姉原美鎖を除いては。
個室に貼《は》ってあるプレートを見て、実は八歳も離れていたのだと知って達彦はけっこうヘコんだりしたのだが、それはまあいいとする。美鎖の弟である聡史郎《そうしろう》は達彦と同い歳だと、こよみという少女から聞いていた。
気を利《き》かせて病室を出ていった弓子にお見舞いの花束を渡し、達彦は病室の中へ足を踏み入れる。
病室に射しこむ白い光の中で、パジャマを着た灰色の女性がベッドに腰かけていた。
「こ、こんにちは」
達彦は頭を下げる。
「いらっしゃい」
「あ、はい。お元気そうでなによりです」
「元気は元気よね。体はなんの問題もないし」
「あ、はい」
「ごめんなさいねえ。あなたがなぜ悲しそうな顔をするのか、わたしにはわからないのよねえ」
美鎖は、おだやかで、そしてさびしそうな微笑を浮かべた。
渋谷の事件で美鎖の記憶は失われていた。ガーベージコレクターが引き起こした唯一で最大の被害だった。
「そんな。こ、こっちこそごめんなさい」
「あやまんなくていいのよお」
この人は大人だな、と達彦は思う。本人が一番不安だろうに笑顔をつくることができる。一緒に過ごした時間が消えてしまったことを悲しんでいる自分が、ひどく矮小《わいしょう》なものに思えて恥ずかしかった。美鎖にとっては、失われたすべての時間が等価値で大切なものであるはずだから。
彼女は、大切にしていたはずの記憶を振りきるだけのことをした。たぶん、それは、あの時だけのことでなく、それが彼女の生きかたなのだろう。一瞬一瞬を全力で生きているから、みずからの選択を後悔しない。彼女が背負っている悲しい記憶さえも推進剤《すいしんざい》にして突き進むことができるのだ。
「あの……はやくよくなるようお祈りしてます」
「ありがとう。でも、これ以上よくならないんじゃないかと思うのよね。ふつうの記憶|喪失《そうしつ》って、なにかの拍子《ひょうし》に記憶っていうデータにアクセスできなくなることでしょ。データへのアクセス方法を再現すれば、記憶は回復する。でも、弓子って子に聞いたかぎりじゃ、わたしのデータは上書きで消されちゃってるみたいだから」
「プログラマーみたいな言いかたですね」
「わたしの職業はプログラマーみたいよ。腕は立つけど、そのかわりとんでもない報酬を要求する悪徳プログラマーだって……弟だって子が言ってた」
「弟さんのことも忘れてるんですか?」
「そうなのよお。聡史郎ってのがわたしの弟らしいんだけど、はたしてわたしに弟なんていたのやら……背が高いのとか顔のつくりとか似てるんだけどさ、同じ親から生まれたとは思えないくらい性格が違うし。そういうわけだから、あなたのことも思いだせないのよね」
「い、いいですよ。そんなのぜんぜんいいです」
「なに赤くなってんの?」
「赤くなってなんかないです! マジで!」
「あなた、いくつ?」
「高校三年の十七歳ですけど……」
「わたし、二十五歳だって聞いたのよね。まさか八つも下の弟と同い歳の子と恋人同士ってことはないわよねえ。敬語使ってるし」
「こ、恋人?」
達彦の心臓が急に主張をはじめた。
「あなたの反応、変なのよ。泣きそうになったり赤くなったリ。だいたい、八歳上の女性が入院したとして、花を持ってお見舞いにきたりするかしら? ふつう」
「へんなところ鋭いんですね」
「ヒマだから。自分の立ち位置がわからないと今後の予定も立てられないし。いまはホームズの真似《まね》くらいしかすることないの」
「これを届けにきたんです」
達彦はアミュレットをとりだした。黒塗りのアミュレットだ。あの日、トレーラーの横で美鎖から受け取ったものだった。
「以前、美鎖さんから預かったものなんです」
「なんでわざわざ預けてた……いいわ、記憶をなくしちゃうくらいだから、きっといろいろあったんでしょうね」
たしかにいろいろあった。忘れられないことが、たくさん。
いまなら、あの日に美鎖が言ったことが達彦にもわかった。こんなことがなくとも、たぶん、八歳年上の女性に抱いた恋心は失恋という形で終わったのだと思う。
痛くて、苦しくて、胸にぽっかりと空《あ》いた穴。いずれ小さくはなるけれどけしてなくなりはしない。むかしは忘れてしまいたいことがたくさんあった。でも、やっぱり、それはおぼえていなければいけないことだったのだ。
達彦の頭の中には、ひとつのブラックボックスがあった。渋谷で起きた不思議な事件のあとにできたアクセスできない記憶の塊《かたまり》だ。いまの達彦は、記憶喪失と同じようにこれと交信することができない。
まあ、たぶん、失恋の記憶なのだろうけれど。
もうすこししたら、達彦はこれと向き合わなければならない。むかしの記憶と同じように、この失恋もおぼえていなければいけないことだ。忘れてはならないことだ。
同じあやまちを繰り返さないように。はじめて好きになったこの女性と同じくらい……素敵な大人になれるように。頭蓋骨の中にいるガーベージコレクターが掃除してしまわないように、しっかりと刻みつけておこう。どれほどつらくても。苦しくても。悲しくても。
いまの達彦にはそれができると思う。姉原美鎖という女性のおかげで逃げないことを達彦はおぼえた。けれど、それを伝える相手はもういない。達彦の知っていた美鎖はガーベージとなって消えてしまったのだった。
でも、すこしだけ時間が欲しい。がんばってこの記憶と向き合うため気力を用意するから、もうすこしだけ待ってほしい。もうすこしだけ記憶の霧《きり》の中で休ませてほしい。いまはつらすぎるから。涙を我慢《がまん》して仮面を保っておくだけで精一杯だから。
もうすこししたら、もうすこしだけしたら、勇気をだしてこの記憶と真正面から向き合おうと思う。
不意にくちびるに感触がよみがえり、達彦は悲しくなった。ルージュの塗られていない、美鎖の淡い色のくちびるに視線が吸いつけられてしまう。病室の壁は灰色で、シーツは純白だ。美鎖の髪は漆黒《しっこく》に輝き、いつものように色を感じさせない。その中で、すこし湿ったくちびるだけ、淡いピンクの光を放っているのだった。
頬が熱くなった。
いかん。こんなことをしていてはばれてしまう。
美鎖は、そんな達彦に気づかずアミュレットをしげしげと見ている。
「へンなネックレスねえ。どっかのマシンから引っこ抜いたCPUみたい」
「アミュレットだって聞きましたけど……」
「アミュレットつて『魔除《まよ》け』って意味よお。いくらなんでも魔除けにシリコン基板を使う宗教はないでしょう。それにしてもシュミ悪いわねえ」
美鎖はアミュレットを首からかけた。
体を流れる弱電流にアミュレットが自動反応。湧《わ》きあがるコードが命ずるまま、姉原美鎖の腕は達彦の体を引きよせた。
「え、え?」
美鎖の顔が急接近。ふたりがかけていたメガネがかしゃんと音をたててぶつかった。同時にくちびるとくちびるがぴったりと合わさる。茫然《ぽうせん》とした歯の隙間《すきま》から軟体動物のような舌が侵入してきた。逃げようにも逃げられない。美鎖の細い腕がしっかりと頭を抱えている。からみあった舌の上をぴりぴりとしたものが走り抜け喉《のど》の奥から頭のてっぺんまで駆けあがって頭蓋骨の中を暴れ回った。
頭蓋の内側にあったアクセスできない記憶の塊がすごい勢いで回転しながらほどけていくのがわかった。記憶の毛糸玉から流れだしたデータの奔流《ほんりゅう》は、細い糸となって達彦の頭の中をうずまき状に駆けめぐり、視神経でちかちかとスパークを放ち鼻の奥で甘い匂いをただよわせ舌の先に形容しかたい味を残して絡《から》みあった美鎖の口の中へと流れていった。
これがコードと呼ばれるもののせいなのか息ができないせいなのかわからない。達彦はしびれて動けない。
たっぷり十分ほど経《た》ったろうか。キスを終えた美鎖は、くちびるをちろりと舐めあげた。
「……なるほど」
「み……みさ、さん……?」
「ああ、なんか映像にブロックノイズが入ってるし、見にくいったらありやしない。っていうかフツー人間が持ってる映像記憶をこんなコーデックで圧縮したりするかしら。いくら圧縮率がいいからって、このコードを書いた人間は絶対頭がおかしいわ」
美鎖の言うことはさっぱりわからない。
「美鎖さん? だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶよ、って、ちょっとなんで部屋に……こんな顔で、ああやだ……もう! 恥ずかしいな」
いままでオープンだった襟元《えりもと》を美鎖はあわてて隠した。
なぜか美鎖の顔が赤くなっていた。長いキスで上気したとかそういうことではなさそうだ。そんなことはないだろうけれど、なんか達彦の顔を見て顔を赤らめているようにも見える。
「達彦くん。悪いけど弓子を呼んできてくれる? 至急話さなきゃならないことがあるの」
「あ、はい」
達彦は入り口に駆けだした。
「それと――」
「なんですか?」
「退院したら……もしよかったらだけど……とっておきの料理をご馳走《ちそう》してあげるわ」
達彦の記憶にあるのとまったく同じ、すこし眠そうで、背筋をくすぐる、陽《ひ》だまりでまどろむ猫の声だった。色を感じられない顔に微笑《ほほえ》みを浮かべた八歳年上の彼女は言った。
すこしはにかみながら、
きっぱりと、力強く。
「ただいま」
あ と が き
同級生に本を送りました。
手紙が届きました。
一文だけ抜粋します。
おおきなお世話のようですが恋愛をテーマにすると一般の人に共感を得やすいと聞いております。
どんがらがっしゃーん!(ちゃぶ台返しの音)
こここ、このオレれ様に向かってれれれ恋愛を入れたほうがいいだとうっ! どの口がっ! どの口がっ! どの口がっ! てててめえ何様だと思ってけつかるそそそんなことはこちとら百も承知なんだだだみむむむきーっ! やるせないっ! ムカつくっ! なにか当たり散らしたいっ! そうだこういうときはサツバツとした洋ゲー世界に旅立とう。そうだそうしよう。バキュンバキュン死ね死ね死ね! わはははは人がゴミのようだ!
興奮した。失礼。
そんなこんなで、わたしは、慣れない恋愛物に挑戦しようと思い立った。
気のイイやつらが集う編集部はすんなりとプロットを通してくれた。そこまではOK。だが、例によってわたしはぐつぐつと煮詰まってしまった。だって恋愛物だ。どだいラブ・ストーリーなんてーのは、愛よりも血と破壊を好むヴァーチャル世界のシリアルキラーが書いていい話ではなかったのである。
原稿のバイト数は増えない。無慈悲な|〆切《しめきり》は刻一刻と近づいてくる。
電話がかかってきた。
「原稿できてますかー?」
「完璧っス。あと一週間もあればヨユーで完成っス」
ああ、嘘をついてしまった。どうしよう。
特売の値札がついた彼女[#「彼女」に傍点]がわたしの前に姿を現したのは、そんなときのことだった。
彼女は、鳴り物入りで発売された挙句まったく売れなかった外国産ゲーム機の、これまたほとんど売れなかったギャルゲーのキャラクターだった。それもただのギャルゲーではなく、画面の中にいるギャルとマイクで仲良くしゃべっちまいましょうとゆー、プレイしている姿を姉や妹に見られたらブリッジしたまま首を吊って死ねるってな漢《おとこ》のゲームなのであった。
フツーの神経をした人間は特売でも買わない。
けれども考えたのだ。
草木も眠る丑三《うしみつ》つ刻《どき》。鳴き声がひたすらうるせえ裏の家のワンコも寝静まり、BOSEのノイズキャンセリングヘッドホンがなくても心安らかに原稿に向かえる時間帯。書いては消すことを繰り返すノートPCから顔をあげたとき、たとえ液晶画面の中だろうと、ハローページよりでかいゲーム機がつくり出す幻影であろうと、誰かが微笑んでくれたら心強いだろうな……と。
うわああん! ポリゴンギャルばんざい!
かくして。わたしを逆境に突き落とした友からの手紙、失われた稲垣さんの睡眠時間、宮下さんがイラストに画いてくれた嘉穂たんのほくろ、二巻めを迎えてなにやら神がかってきた感じのある小松さんのデザイン、そして二十四時間ストーカーのようにわたしを見つめつづけたPASSの笑顔などによってこの話はできあがった。
この場を借りて礼を言っておく。どうもありがとう。
ああ、だがしかし、ひとつだけ注文がある。
次回作には、オプションでメガネをつけて欲しい。
[#地付き]桜坂 洋
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放流されていたOCRデータを元に校正しました。
校正子
2006/07/16
再校正
2008/08/16