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柴門ふみ
男性論
目 次
〈いい男〉の数は本当に少ない。全身全霊を打ち込んで努力して探し回らないと見つからないのだ。
男性論[#「男性論」はゴシック体]
私は筋肉少女帯の歌詞のいくつかに、本物の詩人の匂いを感じることができる。
大槻ケンヂ[#「大槻ケンヂ」はゴシック体]
私の答えはいつも決まっていた。「私は、男は才能で選ぶ」
ポール・サイモン[#「ポール・サイモン」はゴシック体]
野獣になるなら、一人でキバを磨け、と言いたい。
江口洋介[#「江口洋介」はゴシック体]
行かないでくれ。僕には他に友達がいないんだ。
リバー・フェニックス[#「リバー・フェニックス」はゴシック体]
私は、男二人の兄弟というものに、ずっと関心があった。
若・貴兄弟[#「若・貴兄弟」はゴシック体]
恥ずべきは、きみを恥じた僕の心だった。きみを求めている。
ジェームズ・スペイダー[#「ジェームズ・スペイダー」はゴシック体]
メソメソしてるうちは、人間の傷なんて浅いものである。
中原中也[#「中原中也」はゴシック体]
自分の美ボウを笑いものにできた日から、阿部寛の役者としての成功が始まったのだと思う。
阿部寛[#「阿部寛」はゴシック体]
才能ある人間の、サービスとしてのカッコ悪さである。
ウッディ・アレン[#「ウッディ・アレン」はゴシック体]
「あんな男のどこがいいの」「だって、ステキなんだもん」これで終わり、である。
高校教師[#「高校教師」はゴシック体]
目立つとは、よくも悪くも人を引きつけるパワーがある、ということだ。
浜田雅功[#「浜田雅功」はゴシック体]
「女と話すこと? 『好きだ、好きだ、好きだ』これしかないッス」
筧利夫[#「筧利夫」はゴシック体]
ごめんね、ごめんね、ぼくはただ単に嫉妬《しつと》深い男なんだ。
ジョン・レノン[#「ジョン・レノン」はゴシック体]
「ババア、くたばれ」「ブスは近づくな」――彼の基本は、この悪タレにある。
ビートたけし[#「ビートたけし」はゴシック体]
本当の愛を知ってるからこそ、潔く捨てることもできるのだ。
鈴木大地[#「鈴木大地」はゴシック体]
私が武士道に憧《あこが》れるのは、そこに理想の父親像を求めているからかもしれない。
拝一刀[#「拝一刀」はゴシック体]
漫才ブームに受けた逆説的本音ギャグのルーツは、つかこうへいにある。
つかこうへい[#「つかこうへい」はゴシック体]
一度裸になった人間には、もう怖いものはないはずだ。
ゲイたち[#「ゲイたち」はゴシック体]
私にとって、男性の身体《からだ》のパーツで、お尻《しり》はかなり重要な位置を占めている。
男のヒップ[#「男のヒップ」はゴシック体]
繊細な人にとっては、心優しさと真面目《まじめ》さが、逆に突拍子もない表現に結びついてしまうのだろうか。
桑田佳祐[#「桑田佳祐」はゴシック体]
外人でカーテン越し、このくらいのベッドシーンが少女には適当なのだ。
マイケル・ダグラス[#「マイケル・ダグラス」はゴシック体]
女は恋に走るが、男の大抵は恋より男同士の友情や仕事の方を選ぶ。
とんねるず[#「とんねるず」はゴシック体]
ガイジン=美形という図式は、アメリカの田舎町を旅すれば、すぐ崩れ落ちる。
永瀬正敏[#「永瀬正敏」はゴシック体]
若者たちがクイズという無駄なものに真剣な汗を流す姿が良かった。
高校生クイズ[#「高校生クイズ」はゴシック体]
本当に価値ある人間は、普通の顔をして目立たず、はしゃがず、普通に生きているものだ。
毛利衛[#「毛利衛」はゴシック体]
ハンサムで長身で金持ちでも、モテない奴は、とことんモテない。
伊集院静[#「伊集院静」はゴシック体]
女性を頂点に置いた二等辺三角関係は、すがすがしく、人々に好まれる。
ドリームズ・カム・トゥルー[#「ドリームズ・カム・トゥルー」はゴシック体]
「僕が一生、全力でお守りします」まさに、名言である。
皇太子殿下[#「皇太子殿下」はゴシック体]
慣れぬ異国で努力を重ね精進したチャド。強い横綱になって下さい。
チャド[#「チャド」はゴシック体]
「君が大好きだよ、ミドリ」「どのくらい好き?」「春の熊くらい好きだよ」
村上春樹[#「村上春樹」はゴシック体]
すけべだけど、でも悪戯《いたずら》小僧の雰囲気を漂わせている男がいたら、それは私の好みである。
ジャック・ニコルソン[#「ジャック・ニコルソン」はゴシック体]
フミヤさんの周りの空中に漂う色香――それがフェロモンなのだ。
藤井フミヤ[#「藤井フミヤ」はゴシック体]
全然カッコよくない状況を愛敬や切なさにすり替える、マッキー・ワールド。
槇原敬之[#「槇原敬之」はゴシック体]
狂気とハードさと礼儀正しさと。平成の中原中也、宮本浩次。
エレファント・カシマシ[#「エレファント・カシマシ」はゴシック体]
もう一度「愛のことば」を生で聴きたい。スピッツへの便り――。
スピッツ[#「スピッツ」はゴシック体]
〈太田光、超セクシー説〉は、誰にも支持されていない。
爆笑問題[#「爆笑問題」はゴシック体]
男は顎《あご》。ブラッド・ピットは、まさにフェロモン顎男なのだ。
ブラッド・ピット[#「ブラッド・ピット」はゴシック体]
女はやっぱり、キザ男(ミッチー)が好き。
及川光博[#「及川光博」はゴシック体]
単行本あとがき
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[#小見出し] 〈いい男〉の数は本当に少ない。[#「〈いい男〉の数は本当に少ない。」はゴシック体]
[#小見出し] 全身全霊を打ち込んで努力して探し回らないと[#「全身全霊を打ち込んで努力して探し回らないと」はゴシック体]
[#小見出し] 見つからないのだ。[#「見つからないのだ。」はゴシック体]
いい男というのは、本当に数が少ない。
これが人生三十六年生きてきた私の率直な感想である。
多分、平均的三十六歳の女性の何倍も多くの男性と出会ってきたと思う。アーティスト、芸能人、国会議員、企業のトップ、実業家、学者、エトセトラ。あらゆる職種の、あらゆる年代の男性と出会い、会話し、観察し、そして、
「本当にいい男というものは、なんと数の少ないものか」
という結論に至ったのである。
本書で私が、
〈いい男〉
と定義するのは、女にとってのみの、
〈いい男〉
である。
女が全身全霊で命を賭《か》けて愛し抜いても悔いのない、価値のある男のことだ。したがって、男社会で、
「あいつは、いい奴《やつ》だよ」
と評される人物とは、必ずしも一致していない。
恋と淫蕩《いんとう》の快楽を貪《むさぼ》り尽くした凄腕《すごうで》の女性にとっては美食であっても、日本の平均的女の子たちにとっては理解不可能な人物たちも又、本書では省かれている。
「時間にも金にもルーズで、歯も汚らしく、下品で乱暴者だけど、こういう男こそ、きわめればおいしいのよ」
という境地もあるのかもしれない。しかし、本書ではあくまで〈ノンノ〉読者である日本のスタンダードな女の子たちにとって、手の届く範囲での〈いい男〉にしぼられている。
スタンダードな女の子たちが求めている、気持ちの良い関係を継続的に築いてゆけるパートナーとしての男性を、敢《あ》えて、
〈いい男〉
と、定義づけよう。
何百人もの男と枕《まくら》を重ねてきた手練手管《てれんてくだ》の恋多き女性にとっての〈いい男〉ではなく、月に二回は〈ノンノ〉を買って、話題のテレビドラマを入念にチェックし、明日の幸せを信じるスタンダードな女の子たちが、一生に一人巡り会えれば大もうけ、と感じられる〈いい男〉について論じたつもりである。
〈いい人〉
と、女にとっての、
〈いい男〉
の違いは、そこにセクシャリティが介在《かいざい》するかどうか、の点にある。
いわゆるフェロモンのない男は、いくら好人物であっても女にとっての〈いい男〉ではあり得ない。
では、どういうのが〈いい男〉かというと、それは本文の個々の実例に沿って述べてあるので、それをお読み下さい。
その多くは、柴門自身の好み《ヽヽ》の男であるが、それに加え、現在魅力的な男性のどこがいったい魅力なのか、より客観的に接近しようと試みたつもりである。
それにしても〈いい男〉の絶対数は、本当に少ない。
そこで私は年若い読者に敢えて言いたい。
「自分にとって、生涯もう二度と巡り会えないくらいの男と恋に落ちたら、どんなに汚い手を使っても自分のものにすべきである」と。
たとえ友人の恋人でも、他人の夫でも。
とっちゃえばいいのだ。
一生後悔するよりも、その方がずっといい。
が、ここで肝心なのは、
〈人生でもうこれ以上は考えられない男と、幸運にも恋に落ちてしまった場合〉
にのみ、許されるという点である。
ちょっと好みのタイプだと、誰かれなく、すぐちょっかいを出すのとは訳が違う。
「ま、この程度の男でも、いないよりはマシかあ」
レベルでは、お話にならない。
私は宗教的人間ではないが、それでも神様はすべての人に平等にチャンスを与えてくれてると信じている。
誰にだって、一生に一度の巡り会い、チャンスというものはやってくる。
大切なのは、そのチャンスの瞬間にどれだけ多くのものをつかみとるか、である。
恋とは一種の〈気〉のようなものだ。それは探し求めて手に入るようなものでもない。条件を並べて人を呼び集めても、なかなか〈気〉は訪れてくれない。
恋の〈気〉を感じ取り、その相手の男性が貴女《あなた》にとって継続的な快適さを与えてくれる信用できる人物だと判断したら、あとはもう体当たりしてでも自分のものにすべきである。
なぜなら、そのようなチャンスは、やはり一生において一度か二度しか訪れないのだから。
ともかくも大切なことは、食わず嫌いをしないで、色んなタイプの人間と出会い、会話し、つきあってみることだ。
自分の条件にかなった人間とだけつきあうのではなく、とにかく行き当たりバッタリに大勢の人と会ってみて、
「あ、この人と気が合う」
と、感じることが大切なのだ。
若くて元気のあるうちは、とにかく自分の足で出歩いて〈出会い〉の数をこなすこと。年齢、人種、身長、容姿、そんなものにはこだわらず、数多くの人と知り合うことが、貴女にとっての〈いい男〉に出会うための第一歩であることは間違いない。
あらゆる映画、文学、音楽に表現されている〈男〉に出会うことも又、修行の一つである。男を見る目を養うためにも、この努力も惜しんではいけない。
人生のあらゆる局面でいえることだけれど「一生懸命生きている人間は、必ず何かをつかむ」ということなのだ。
ましてや〈いい男〉の数は本当に少ない。全身全霊を打ち込んで努力して探し回らないと見つからないのだ。
ボーっと木の下で寝っ転がっていたら、この木の実が通りすがりの〈いい男〉の頭にぶつかって、私の目の前でバッタリ倒れるの。そしてその彼を介抱《かいほう》してる内に恋が芽生えるはず――なんてことは、百万分の一くらいの確率でしか起こらない。
木の下で、そよ風に吹かれて昼寝していてはいけない。
若い時間は本当に短いのだから。
波の打ち寄せる浜辺で砂の粒をかきわけて、たった一個の直径三ミリの砂金を見つけるくらい、全世界を探訪して私にとってのたった一人の〈いい男〉を見つけるのは困難な作業である。
満天の星空を仰ぎ見て、これぞ、と思って私のものだと一個の星を見つけても、ほんの一瞬のまばたきでその遠く弱い光を見失ってしまうかもしれない。
毎日、一生懸命頑張るしかないのだ。
努力なくして、幸福はつかめないのだから。
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[#小見出し] 私は筋肉少女帯の歌詞のいくつかに、[#「私は筋肉少女帯の歌詞のいくつかに、」はゴシック体]
[#小見出し] 本物の詩人の匂いを[#「本物の詩人の匂いを」はゴシック体]
[#小見出し] 感じることができる。[#「感じることができる。」はゴシック体]
大槻ケンヂを初めて見た時、せっかく整った顔立ちをしておりながら何が悲しゅうて死神博士のような格好をせにゃならんのか、と私はいぶかしく思ったものだ。
サンプラザ中野の光頭も、デーモン小暮の白塗りも、それなりに納得はできた。というのは、彼らは芸能人として第一線で参加するには素顔があまりにも地味そうだからだ。
奇をてらわなければ、業界でやってけなかったのだろう。
けれど、大槻ケンヂには、
「なぜ!?」
の疑問符が残り続ける。
奇抜なファッションをしなくとも立派に芸能人として通用する顔である。
はっきり言って、私の好みだ。
あの白髪まじりのソバージュヘアと、稲妻のような顔面メイクを省けば、惚《ほ》れたっていいとさえ思った。
私は、強い疑問符とともに、大槻ケンヂに魅《ひ》かれずにはおられなくなった。
「こいつは一体何者だ?」
彼は、テレビのトーク番組に現われては、突然UFOについて、とうとうと語り始める。
雑誌に発表される彼のエッセイは、滅法おもしろい。おかしさと、まっとうな骨太さが奇妙に入りまじっていて、読む者を引きつける。
そして、きわめつけが筋肉少女帯の音楽。荘厳なクラシック調の前奏が終わるや否《いな》や、訳のわからない絶叫が突然、始まる。
「俺《おれ》は、高木ブーだ。
まるで、高木ブーだ。
高木ブーだ、よーん」(『元祖高木ブー伝説』)
どうして、あんなに完璧《かんぺき》な鼻筋を神から授かった美少年が、
「高木ブーだ、よーん」
などと、叫ばなければならないのか。
私は、この疑問を解明するために、ますます筋肉少女帯の音楽にのめり込んでいった。
「夜歩くプラネタリウム人間」(『夜歩くプラネタリウム人間』)
「少女の王国を作ったのさ。
古い人形を燃やしているのさ」(『少女の王国』)
筋肉少女帯の作る世界は、まるで、あやうい江戸川乱歩、夢野久作、つげ義春の世界である。
それは、昭和初期の、シルクハットにマント姿の怪人が活躍する冒険小説を思い起こさせる。およそ、平成の若者からは縁遠いイメージ世界なのである。
大槻ケンヂは、時代を超越している。
で、時代を超越した芸術家特有の深刻さを持っているのかというと、
「コア《核》なファン、捨てても欲しいタイ・アップ」
と公言するほど、気さくなのである。このへんが、今風であるといえば今風である。
もうあと一歩で嘉門達夫という、ギリギリのところで、大槻ケンヂは踏んばっている。
お笑い、あるいは、変人おたくの、そのスレスレの線で、大槻ケンヂは踏んばっている。
私が一番好きな筋少の歌は『サボテンとバンドライン』である。
そこに歌われている少年は、孤独で、屋根裏部屋でサボテンを育て、猫と暮らしている。――友達もいず、映画を観ている時だけが幸福だった少年――。私は、実は、こういう少年が大好きなのだ。
大槻ケンヂがギリギリのところで踏んばっているのは〈詩人〉と〈お笑い〉の境界線上なのである。
亡くなった姉の恋人と旅に出て、アンテナ売りになる少年のイメージは〈詩人〉にこそ許されるものである。
私は、筋少の歌詞のいくつかに、本物の〈詩人〉の匂いを感じることができる。
それは、薄っぺらで耳ざわりだけのいい、商業作詞家の作るラブ・ソングとは全く異なるものである。
だから、私は、大槻ケンヂが好きなのだ。
知れば知るほど、のめり込んでしまう。
ひょっとしたら、本物の芸術家なのではないか、と、時々思うことさえある。
だから、あんまりUFOにのめり込まないで、詩人の魂を追求して欲しいものだと思っている。実は、三十八歳になる私の姉も大槻ケンヂのファンで、筋少のコンサートにまで出むいている。
「いやー、さすがにあたし以外の観客は十代の女の子ばっかりで恥ずかしかったよ」
と、姉が報告してくれた。
十代から三十代後半まで、広い幅のファンが応援しているのだから、大槻ケンヂには、今後、尚《なお》一層頑張って欲しいものだ(でも、三十代後半の女性ファンって、私と私の姉しかいないんじゃないかしら)。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※何年か前、大槻さんから「笑っていいとも」のテレフォン・ショッキングをまわしていいかと打診があった。[#「※何年か前、大槻さんから「笑っていいとも」のテレフォン・ショッキングをまわしていいかと打診があった。」はゴシック体]テレビには出ない主義なので辞退したのだが、私の代わりに誰が出るのか楽しみにしていたら、エビスヨシカズであった。[#「テレビには出ない主義なので辞退したのだが、私の代わりに誰が出るのか楽しみにしていたら、エビスヨシカズであった。」はゴシック体]大槻ケンヂにとって、私ってそんなポジションなの?[#「大槻ケンヂにとって、私ってそんなポジションなの?」はゴシック体]
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[#小見出し] 私の答えは[#「私の答えは」はゴシック体]
[#小見出し] いつも決まっていた。[#「いつも決まっていた。」はゴシック体]
[#小見出し] 「私は、男は才能で選ぶ」[#「「私は、男は才能で選ぶ」」はゴシック体]
一九六〇年代、ロックンロールは不良の音楽だった。フォークは政治的メッセージソングだった。ともに、十代の女の子の聞く類《たぐい》の音楽ではなかった。
それが六〇年代後半フォーク・ロックという新しい分野が出現する。そして、サイモン&ガーファンクルがまさにその代表グループであった。彼らは反抗に怒り狂う若者でもなく、過激な政治的シンパでもなかった。美しい美しい愛の歌を澄んだハーモニーと繊細なメロディーラインで私たちに届けてくれた。
「ぼくは雨の音を聞いている。
それはぼくたちの思い出のように静かにふり注ぐ。
優しく、温かく降り続く雨の向こうに
ぼくは君の住むイングランドを思う」(『KATHY'S SONG』)
[#地付き]※日本語訳:柴門ふみ
S&Gの初期のラブ・ソング『キャシーの歌』は、たとえばローリング・ストーンズのような「ベイビー、今夜はおまえを落としてやるぜ」といった荒っぽさはない。文学的とも言える洗練された歌詞は、すべてポール・サイモンの手によるものだった。時々S&Gの作品はポール・サイモンとアート・ガーファンクル二人の合作と思われている節があるが、作詞作曲、すべてポール一人のものである。
S&Gの並んで立つ写真を見た人から、
「どうしてこんな背の低い方の男が好きなの?」
と、私は質問されたものだ。なるほど、ガーファンクルの方が長身で金髪で青い目でおまけにコロンビア大卒である。見栄えは、はるかにポールより上だ。けれど私の答えはいつも決まっていた。
「私は、男は才能で選ぶ」
その少年のように小ぶりなポール・サイモンの描く世界は、やはり少年の純粋な魂そのものと言っていい。
S&Gとして成功してから後も彼の書く詞に表現されているものは、いつまでたっても生きることに不器用で、成功になじめず、孤独を内に抱え彷徨《さまよ》えるユダヤ少年の哀《かな》しみなのである。
実は、私は一九九二年十月十二日、ワールドツアーの一環で来日したポール・サイモンと劇的対面を行っていたのだ。二十年来恋焦がれた相手に、ついに邂逅《かいこう》したのである。
そのインタビューの席で、私はこの、
「どうして成功してのちも、いつも哀し気な歌が多いのか」
という質問を彼にぶつけてみた。すると、
「別にいつも気分が沈んでる訳じゃない。僕だって哀しい時も楽しい時もあるよ。その時の気分で曲を作ってるだけさ。でも、こんな顔だから(と、自分の顔を指差す)みな僕のことを気難しい奴《やつ》と思うらしい」
と、スルリとかわされてしまった。
おとななんだな、と私は思った。まあ、いきなり初対面の東洋女に内面まで突っ込まれても困るとは思うけど。
実物のポールに会ってみて、彼はまさしく私が長年思い続けていたとおりの、いや、それ以上の男性だった。
何のコケおどしも、威嚇《いかく》的な態度もなく、静かに、誠実に、美しい発音の英語でこちらの質問に答えてくれた。これが世界的ミュージシャンかと思えるほどの丁寧な物腰。かつてはビートルズと二分する人気を世界中で得ていたS&Gのポール・サイモンなのに、彼はポップミュージックのスターというよりは、穏やかな宣教師のように見えた。
ジーンズにセーター、黒いジャケットというラフなスタイルは、そのへんの成功を収めた大金持ちの成金スーツ姿とは大違いである。
私は彼の瞳《ひとみ》を見つめて対談を進めながら、
「ああ、私の魂が求めていたのは、やはり世界中で唯一、この男だったのだ」
という思いを再確認したのだった。
赤い糸があるなら、やっぱり彼だった。飾らずに誠実に笑みを絶やさずに自然に生きている――内面の孤独を誰にもさとられまいとしながら――知的な紳士。こんなに見事に年を重ねた男性を私は他に知らない。ポール・サイモン。今年五十歳である。
好みの男性は? と聞かれ、私は間口が広いから、大抵の男は好きですよ、と答えてきたが、突きつめると、知性・感受性・意志の力が最高レベルの男が私の理想らしい。――ポールに出会って、やっとそれがわかった。そして、ポール・サイモンこそ、その人である。
対談終了後、例によってミーハーに記念写真をせがむ私にポールは気軽に応じてくれた。その写真は、今も私の仕事机の脇《わき》に飾られている。
十月十二日は生涯最高の至福の夜だった。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※アート・ガーファンクルは、間違いなくコロンビア大卒である。サッチーとは違う。[#「※アート・ガーファンクルは、間違いなくコロンビア大卒である。サッチーとは違う。」はゴシック体]
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[#小見出し] 野獣になるなら、[#「野獣になるなら、」はゴシック体]
[#小見出し] 一人でキバを磨け、[#「一人でキバを磨け、」はゴシック体]
[#小見出し] と言いたい。[#「と言いたい。」はゴシック体]
『ランブル・フィッシュ』『アウトサイダー』といったアメリカ青春映画には魅力的な不良少年が数多く登場している。
マット・ディロンやロブ・ロウらがその代表スターである。
彼らは黒い皮ジャンに身を包み、暗く挑戦的な瞳を光らせている。家庭環境的には貧しく、不幸な生い立ちの設定が多い。学業はサボり、ケンカに明け暮れ、女をたらし込む。そのくせ友情に厚く、いつも徒党を組んでいる。
古くは『ウエスト・サイド物語』のシャーク団からこのテの系譜は受け継がれている。彼らにはニューヨークの下町、屋外のらせん階段、フェンスに囲まれたバスケットボールコートが似合う。
女の子には誰でも一度は不良少年に憧《あこが》れる時期があると言われる。
けれど、実は、私は全くない、のである。というのは、性格的に徒党を組むのが大嫌いなので、いつも群れている不良グループにはどうしてもなじめなかったのだ。
それでも不良がかった雰囲気というものには心魅《ひ》かれる。薄汚れた地下鉄の壁。打ち壊されたビルディングの跡地に転がるコンクリートの残骸《ざんがい》。錆《さ》びた鉄パイプ。これらは〈不良〉の匂《にお》いを漂わせる。そして多分、私はロココ調のきらびやかな室内よりも、これらの崩れかけてすさんだ〈不良グッズ〉の方が好きである。
すさむのなら、とことんすさんでしまえばいいものを、妙に不良グループの友情に厚く徒党を組みたがる点に変な健全さを感じ、その違和感に私は戸惑《とまど》う。
「なんだ、ウソつき」
と思ってしまうのだ。
グレるなら、一人でとことんグレれば?
と、私はいつも思っていた。
野獣になるなら一人でキバを磨け、と言いたい。
甘ったれた不良より、潔く孤独な優等生の方が好きである。
「友情」を口にする不良なんて信じない。それは不良ではなく〈健全〉であるから。友情、団結、信頼といった言葉は、すべて〈健全〉のカテゴリーに含まれる。
すべてを否定してしまったニーチェとか「生きててスミマセン」の境地にまで至ってしまった太宰治こそが真の不良ではないかと、これは私の個人的見解ですけど。
さて、江口洋介くんは、前出の『アウトサイダー』類の映画に出てピッタリの日本人男優だと思う。
彼のいいところは、一人だけ浮いてしまってるところだ。
同じ髪型、同じ皮ジャンの似たような仲間をウジャウジャ後に引きつれていたりしたら、それだけで興醒《きようざ》めであるが、今のところ彼は芸能界で孤高を保ってるように見え、そこがすがすがしい。
彼はかつて浅草方面のデパートの屋上のビアホールでウエイターをやっていたそうだ。そういうのも、いい。下町育ちは、いい。
実際、実物の彼に一度だけお目にかかったことがあるが、長身でスリム、思わず、
「あっ、かっこいい」
と叫びたくなった。
彼を起用したテレビプロデューサーは、
「江口が撮影に現われると、タイムキーパーの女の子やヘアメイクの女性が膝《ひざ》から崩れ落ちる」
と語った。むべなるかな。
でも、例えば〈江口洋介〉が一ダース列をなして歩いていたら、やっぱり困ってしまう。
勝手なお願いだが、どうぞどうぞ江口様、そのまま孤高でいて下さい。
『東京ラブストーリー』の三上役は、実に良かった。ああいう男が医学部にいれば、やはり浮いてしまうに決まってる。その場違いな孤独感が妙にはまって良かったのだ。
孤独な少年、というのは、やはり私のキーポイントである。
不良であれ健全であれ、やっぱり少年は孤独でなきゃあ、と私は思う。それが私の美学なのである。
ロブ・ロウが『アウトサイダー』より『セント・エルモス・ファイヤー』の方が良かったのも、後者では、エリート同級生に囲まれて一人だけ浮き上がっていた不良だったからだ。
不良がウジャウジャ群れてるだけの映画はやはり私はパス、である。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※江口洋介はその後、「ひとつ屋根の下」のアンちゃんになり、「ER」の医者になった。[#「※江口洋介はその後、「ひとつ屋根の下」のアンちゃんになり、「ER」の医者になった。」はゴシック体]達者な役者になったんだなあと思う。[#「達者な役者になったんだなあと思う。」はゴシック体]
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[#小見出し] 行かないでくれ。[#「行かないでくれ。」はゴシック体]
[#小見出し] 僕には他に[#「僕には他に」はゴシック体]
[#小見出し] 友達がいないんだ。[#「友達がいないんだ。」はゴシック体]
二十年ほど昔に観た映画『ジェレミー』で、主人公の少年が、転校して去って行く恋人に告げるセリフが印象に残っている。
「行かないでくれ。僕には他に友達がいないんだ」
ボクニハ ホカニ トモダチガ イナインダ。
このセリフはすごい。
いかにも友達のいなさそうな男がこう言っても、そんなの一目見りゃわかるわよ、と、フンと鼻であしらわれてしまうセリフであるが、ものすごく魅力的な男の子がこう言ったなら、それを聞かされた女は彼を愛さずにはいられなくなる。
この言葉くらい、使う人間によって石炭とダイヤモンドほどの差を産み出すものはないだろう。
リバー・フェニックス。
そして、彼こそこのセリフが世界一似合う男なのである(『ジェレミー』の少年は、もう片方の意味で似合ってたけど)。
一昔前ならジェームス・ディーン。けれど、リバーにはディーンのようなすねた反抗的態度は、ない。反抗する甘えさえ払拭《ふつしよく》した深い深い、孤独――これがスクリーンを通して私がリバーに抱いたイメージである。
『スタンド・バイ・ミー』では、女教師に盗人《ぬすつと》のぬれぎぬを着せられた不良少年。
『モスキート・コースト』では、妄想狂の父に振り回される一家の長男役。
『旅立ちの時』では、指名手配されたテロリストの両親と共に逃亡生活を送る少年ピアニスト。
これらの役を、リバーは深い深い哀《かな》しみの色をたたえた瞳《ひとみ》で演じた。その端正な顔立ちに、一度も満面の笑みを見せずに。
不幸な境遇の哀しい瞳の少年。ただのこういう役の俳優なら、過去にゴマンといた。けれど、リバーの新しさ、個性というものは、こんなグレて当たり前の環境で、純粋さを失わず、正しく家族を愛し抜く健気《けなげ》さの中にあるのだ。
親が悪いんだァ、育った町が悪いんだァと甘ったれてすねるのではなく、孤高の哀しみで存在する少年。
グレて当たり前の環境で非行に走るなんてのは陳腐。それよりも、深い絶望を胸の奥に秘めながらも、人を愛する努力をする男の子の方がずっと魅力的なのは言わずもがなである。
しかも、ハンサム。まぶしそうな目、上を向いた鼻、めくれあがった唇。特に『モスキート・コースト』に出演したミドル・ティーン時の彼の容姿は完璧《かんぺき》だった。『スタンド・バイ・ミー』では幼すぎたし『インディ・ジョーンズ最後の聖戦』では、青年になりすぎていたから。
いくら孤高だからといって、彼を女が放っておくはずがない。心を許した男友達がいなくても、ガールフレンドなら群れなすぐらいいるでしょ、と思っていた貴女の目の前で「僕には、他に友達がいないんだ」と彼が告白したとしたら、もう膝から崩れ落ちるしかない。
つまり、それは、ずっと孤高を保ってきた魅力的な少年が初めて弱みを他人にさらけ出した瞬間なのであるから。
この〈初めて〇〇〇〉という男の告白くらい女を優越の歓喜に浸らせるものはない。
「初めて本気で好きになった」
「初めてこんな可愛《かわい》い女の子に出会った」
「初めて結婚したいと思った」
女を口説くには、この〈初めて〉くらい有効な副詞はない。
おさらいしますと、
「僕には、他に友達がいないんだ」というセリフは「僕は初めて心を許せる人に出会えたんだ、それはきみだよ」というセリフと同じ意味なのである。
だから、このセリフは、女心を揺さぶるのだ。
さて、という訳でここ数年映画を通してリバー・フェニックスに憧《あこが》れまくっていた私だったのだが、つい先日、実物のリバー君とついにご対面してしまった。
新作映画のプロモーションのため来日していたリバーと、都内の某ホテルで、密会、ではなく公開インタビューしたのだ。
驚いたことに、私のイメージしていた暗い瞳の少年はそこにいなくて、やたらひょうきんで気さくな、ヤンキー兄ちゃんが、実物のリバーだった。おまけに突如、地球環境保護を訴えたり、で(彼は菜食主義者でもあるそうだ)、やはり人は会ってみないとわからないものだという実感を抱いた次第である。
それでも私が勝手に抱いたリバーのイメージは一人歩きし、私の漫画のキャラクターの中に受け継がれている。私の作品中、
「僕には、他に〜」
というセリフをしゃべる少年を見つけたら、それが私のリバーと思って下さい。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※そして、リバーは突然死んでしまった。ヤク中で。[#「※そして、リバーは突然死んでしまった。ヤク中で。」はゴシック体]生きていればブラピになれたことであろうに。惜しい。[#「生きていればブラピになれたことであろうに。惜しい。」はゴシック体]ちなみに拙著『あすなろ白書』の掛居君はリバーがモデルです。[#「ちなみに拙著『あすなろ白書』の掛居君はリバーがモデルです。」はゴシック体]
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[#小見出し] 私は、男二人の[#「私は、男二人の」はゴシック体]
[#小見出し] 兄弟というものに、[#「兄弟というものに、」はゴシック体]
[#小見出し] ずっと関心があった。[#「ずっと関心があった。」はゴシック体]
私は男二人の兄弟というものにずっと関心があった。というか、私は二人姉妹の妹という立場で、ずっと子供時分を過ごしたために〈おねえちゃん〉以外のきょうだいなら何でもいいやという気になっていたのだ。姉と妹以外の組み合わせのきょうだいすべてに憧れていたと言っていい。
兄と弟。
男兄弟のいない私にとって、これは見当もつかない世界であった。
近所にA兄弟という秀才兄弟がいた。一つ違いのこの兄弟の弟の方が私の同級生だった。この兄弟は非常に仲が良く、二人で推理小説の最終|頁《ページ》をなぜか破り捨てては読み進み、犯人当てっこゲームをしたりしていた。弟は兄から借りたというアインシュタインの本をよく学校に持ってきては休み時間中読んでいた。
この二人は似てはいたが、微妙に違ってもいた。兄は龍虎に似ていたが、弟はフジテレビの山中アナウンサーに似ていた(今思うと、である。当時は山中氏はまだフジテレビに入社していなかった)。似てるけど、違うんだよなあ。なぜだろう、と、私はいつも不思議に思っていた。
弟の山中アナウンサーと私は中学三年の時同じクラスになった。
当時クラスにひょうたんみたいな顔したいけすかない男の子がいた。彼は名門といわれる関西の私立B高に早々と合格し、四国の地元公立高校の入試を目指す残りのクラス全員を馬鹿にしきっていた。
ホームルームの時間、教師が公立高の受験申し込み用紙の記入について説明していた時、このひょうたん男は、
「僕はもう聞かなくていいの。だって、Bコウに受かってるから」
と、ひゃらひゃら体をゆすりながら、教師に茶々を入れた。前々からこの男が大っ嫌いだった私の堪忍袋の緒がついに切れた。
「ひょうたんみたいな顔して、クラスに迷惑をかけるのはやめないかっ」
と、怒鳴りつけたのである。それまでおとなしく真面目《まじめ》な女の子で通っていた私の豹変《ひようへん》ぶりにクラス全員はど肝を抜かれた様子だった。
私は、時々、切れるのである(五年に一度くらい)。
クラスでも内気で目立たない、と、思われていた私がわめきちらし出したのでクラスの誰もどうしていいかわからず手をこまねいて遠まきに眺めていた。
そんな私をたった一人でなだめすかしてくれたのがA兄弟の弟〈山中アナウンサー〉であった。
「ひょうたんが悪い。確かに悪い。でも、おまえもそんなに興奮するな」
私は山中アナウンサーに感謝しつつも、どうして彼が兄の龍虎の方の容姿でなかったのか、それが残念だなと妙に冷静に分析していたのを覚えている。
若花田、貴花田兄弟を見ると、いつもこのA兄弟を思い出す。
何だかんだ言っても、外見が人に与える印象は、かなり大きい。
「若花田はきっと切れ味が鈍《にぶ》いに違いない」
と、かなり大部分の人が思っていたはずだ。
若花田のガールフレンドは、
「彼ってとってもいい人なんだけど。――でも、どうしてルックスが弟と入れ違いにならなかったのかしら。それが悔しい」
と、きっと感じたであろう。そして、弟、貴花田のガールフレンドと同席した日には、ほんの少し淋《さび》しい気分になる。
若も貴も、そんな相方のガールフレンドの気持ちを見抜いてしまっている。
そんな日に限って、兄は弟に優しく振舞ってしまう。はしゃぎすぎてるんじゃない、と思えるくらい明るく振舞ってしまう。
やっぱり男兄弟っていいなあ、と思う。
映画『恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』では、実生活でも本当の兄弟であるボー・ブリッジスとジェフ・ブリッジスが性格の違う兄弟をうまく演じ分けていた。実直で苦労性の兄と気ままな根無し草の弟のコントラストがおもしろかった。
『パリ、テキサス』では、逆に、狂気の兄に対して誠実な弟の設定だった。
映画ではこのように兄弟の性格が正反対の場合が多いが、それは単にその方がドラマにめりはりがついて観客にわかりやすいからだけだろう。現実には、兄がチャランポランなら弟もチャランポランのヤクザ兄弟、という方が多い。
若・貴はどのような結末を迎えるのであろうか。
〈追記〉
さて、九二年末から九三年初頭にかけて、貴ノ花はアイドルとの婚約、最年少大関昇進、と一挙に兄若ノ花を引き離したかのように見えたが、それを後追うように若ノ花は春場所優勝、夏場所後、大関昇進を遂げた。
さらに、バブル崩壊後、女の子も男性に温かさと親しみやすさを求め出した。ヤクルトの古田、ミュージシャンの槇原敬之らの人気が、その風潮を裏付けしている。
九三年は、実力プラス親しみやすい愛敬顔の時代である。
ということは、やっぱり若ノ花、なのだ。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※その後、貴ノ花は整体師に洗脳され、若ノ花も外見に似合わず浮気の果ての離婚騒動。[#「※その後、貴ノ花は整体師に洗脳され、若ノ花も外見に似合わず浮気の果ての離婚騒動。」はゴシック体]兄弟の確執も報道されている。傍で見るより男兄弟って大変なんだな。[#「兄弟の確執も報道されている。傍で見るより男兄弟って大変なんだな。」はゴシック体]
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[#小見出し] 恥ずべきは、きみを恥じた[#「恥ずべきは、きみを恥じた」はゴシック体]
[#小見出し] 僕の心だった。[#「僕の心だった。」はゴシック体]
[#小見出し] きみを求めている。[#「きみを求めている。」はゴシック体]
「きみが、欲しい」
二十七歳のハンサム・エリート、マックスは、四十三歳のハンバーガー屋の赤毛の店員ノラにこう告げる。
グレン・サヴァンの小説『ぼくの美しい人だから』が映画化され、平成三年の冬、日本でも公開された。マックスとノラはこの映画の主人公たち。そして、マックス役のジェームズ・スペイダーが実にはまり役なのだ。
マックスは美しい妻に先立たれ、独身生活を送っている。部屋の埃《ほこり》や灰皿の位置がいちいち気になってしまう神経質な男。最初原作を読んだ時、この小説が映画化されるなら、マックス役は絶対マイケル・J・フォックスだと思っていたのだが、最近小じわが目立つJ・フォックスよりスペイダーの方がはるかに適役だったと、試写を見終えて私は納得した。
スペイダーはこれまで『レス・ザン・ゼロ』のプールサイドの変な男や、『セックスと嘘《うそ》とビデオテープ』でのおたくっぽい嫌な奴《やつ》といった損な役でばかり日本の観客の前に現われていた。だからマックス役がスペイダーと聞いて私は、
「ちょっと違うのではないか。原作のマックスはあんな変な奴じゃない」
と拒絶反応を起こしてしまった。『セックスと嘘とビデオテープ』がよっぽど悪い印象だったのだろう。首すじでたなびくたてがみのような長髪も良くなかった。
ところが『ぼくの美しい人だから』のスペイダーは生まれ変わったような美青年なのだ。完璧《かんぺき》に整った目鼻だち。長髪をバッサリ切ったのが正解だった。あらわになった彼の面立ちは、甘さと気品と知性がほどよくミックスブレンドされ、神々《こうごう》しいばかりである。
こんなハンサム青年が下品で無教養な年増の女と恋に落ちる――これは、実に痛快なラブストーリーである。ラブストーリーでありながら、一青年が自分が本当は何を求めているか、人を本当に愛することとはどういうことかに目覚めてゆく成長物語である。
ひょんなことで知り合ったマックスとノラは、一夜を共に過ごしてしまう。マックスは完璧なカップルと誰からも羨《うらやま》しがられていた美しい妻ジェイニーを二年前交通事故で亡くし、その痛手から立ち直っていなかった。ノラは暴力亭主とすさんだ結婚生活を過ごし、その間にもうけた一人息子を亡くしていた。傷を負った二人は、互いに貪《むさぼ》るように求め合う。
最初マックスは、部屋の掃除もしない、だらしなくて低俗なノラとのセックスに溺《おぼ》れる自分に自己嫌悪を抱く。ノラはマリリン・モンローにかぶれていて、彼女の写真を壁一杯に飾ったり伝記を読んだりしている。これを日本に置き換えると例えば、美空ひばりのおっかけのオバサンである。
「ひばりちゃんはねぇ……」
とウットリした面持ちで語りながら、せんべいのかけらを床にバラバラ落とす女性週刊誌好きのオバサン――これがこの映画のヒロインである(日本人で演《や》るなら、あき竹城さんが適役)。
映画ではスーザン・サランドンが実に魅力的に演じていたが、原作のノラはもっともっと、どうしようもない女のように描かれている。
それでもマックスが徐々にノラに魅《ひ》かれてゆくのは、彼女の精神の高貴さに気づくからである。
貧しく最低の生活をしながらも、ノラはマックスに媚《こ》びることなく毅然《きぜん》と対処する。普通、四十三歳の女が二十七歳のハンサムな恋人を捕まえたら、これを逃がすものかとあの手この手で彼の気を引くことばかり考えるであろう。初老の紳士が小悪魔のような年若い愛人に気の毒なくらいへり下るように。
ところがノラにはそんなそぶりすらない。逆に、掃除機をプレゼントとして持ってきたマックスに対し、
「馬鹿にしないでよ」
と、追い返してしまう。そしてマックスの又良いところは、すぐさま掃除機の代わりに花束を抱えて戸口に戻ってくるところである。
それでも、マックスは年増のハンバーガー屋の女店員を恋人として親や友人に紹介することに逡巡《しゆんじゆん》する。それを、ノラは見抜き、マックスのもとから去ってしまう。
ノラに去られ、マックスはやっと真実の愛に気づく。ようやくノラを探し当てて、彼は彼女にこう言う。
「恥ずべきは、きみを恥じた僕の心だった。きみを求めている。きみを愛している」
恋人を無教養だ、ブスだ、年増だと恥じてしまう自分に嫌悪しそれを乗り超えようと葛藤《かつとう》する。――こんな律儀《りちぎ》なハンサム男なんてちょっといない。
こういう男こそ、現代の白馬の王子様だと私は思う。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※年増女と若い男の組み合わせは、最近では長山藍子さんと二十ン歳年下のダンナの結婚が話題になった。[#「※年増女と若い男の組み合わせは、最近では長山藍子さんと二十ン歳年下のダンナの結婚が話題になった。」はゴシック体]長山さんは色っぽいから許されるのだろう。それより森光子さんと少年隊は……?[#「長山さんは色っぽいから許されるのだろう。それより森光子さんと少年隊は……?」はゴシック体]
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[#小見出し] メソメソしてるうちは、[#「メソメソしてるうちは、」はゴシック体]
[#小見出し] 人間の傷なんて[#「人間の傷なんて」はゴシック体]
[#小見出し] 浅いものである。[#「浅いものである。」はゴシック体]
ある若い男の編集者が私にこう言った。
「やっぱり編集長になれる人間というのは、押しが強くなきゃいけませんね。他人に嫌がられようと反発くらおうとも、そんなことでいちいち傷ついて身を引いているようでは編集長という仕事は務まらない」
多分、彼自身は自分がとても編集長になれる性格ではないということに気づいてこう言ったのだと思う。
「じゃあ、繊細でいちいち傷ついてばかりの人間は何になるの?」
と、私は聞き返した。しばらく考えて、彼はこう答えた。
「詩人になるしかないですね」
逆を返すと、詩人とは、傷つくことが商売の人間だということになる。
彼のこの言葉に、私は中原中也を思い出した。
中原中也こそ、傷ついて苦悩することだけが商売だった男のような気がする。
私は一時期、詩人と恋することを夢見ていた。中・高校生の多感な頃のことである。北杜夫の『楡家《にれけ》の人々』にも、盲目の詩人との恋を夢見る少女が出てくるが、ある時期の女の子にとって詩人くらい魅惑的な男の職業はないのだ。
天才的な詩人と恋に落ち、彼から美しい恋の詩を捧《ささ》げつくされる人生。私はこれに憧《あこが》れたのだ。
その中で、立原道造でもなし、北原白秋でもなし、なぜ中原中也を私が選んだかというと、第一には彼のルックスであった。中原中也詩集の扉には必ず彼の帽子をかぶったポートレートが掲げられている。黒目がちのつぶらな瞳《ひとみ》の少年がキッとこちらを見据《みす》えている。少女とも見まごうあどけない表情に、私はまず惚《ほ》れた。
中也自身のエピソードも心を打った。彼は年上の映画女優長谷川泰子と同棲《どうせい》するのだが、彼女を親友小林秀雄に奪われてしまう。そして天才でありながら一向に作品が世に認められない。貧困の天才詩人。失恋の天才詩人。こういうのって好き。
けれど、ただ傷ついてるだけの男ならすぐ飽きてしまう。映画『モンパルナスの灯』のジェラール・フィリップだって傷ついて苦悩するハンサム画家だけれど、それほど私の心に訴えてこない。
中也の、繊細な詩の底に流れる、やんちゃな駄々っ子さが実は私は好きなのである。そりゃあ傷ついてはいますけどね、でも僕は、僕の天才を信じてますもんね、といったある種ふてぶてしさと無鉄砲さを私は感じとるのだ。そこには突き放したユーモアさえ漂っている。傷ついてはいるけれど、どこか不遜《ふそん》とも言える自信が見え隠れするところが、
「少年っぽくていいなあ」
ということになる。
やんちゃな駄々っ子が好き、という私の好みの系譜は、吉田拓郎が好き、つかこうへいが好き、というふうに受け継がれてきている。
女に振られてメソメソしてるだけの男に魅力なんて感じない。
「みなさん今夜は静かです
薬鑵《やくわん》の音がしてゐます
僕は女を想つてる
僕には女がないのです」(『冬の夜』)
この自嘲《じちよう》さがたまらない。きっと傷ついて傷ついて自分を笑うしかないくらい追い込まれた果ての自嘲なのである。メソメソしてるうちは、人間の傷なんて浅いものである。
「私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて」(『無題』)
このような美しい愛の歌を詠《よ》んだ詩人の繊細な心が、傷ついた果てに狂ってゆく。
「僕にはもはや何もないのだ
僕は空手空拳だ
おまけにそれを嘆きもしない
僕はいよいよの無一物だ」(『秋日狂乱』)
――で、始まる『秋日狂乱』は、中也の詩の中で私が一番好きな歌である。
「さるにても田舎のお嬢さんは何処に去つたか
その紫の押花《おしばな》はもうにじまないのか
草の上には陽は照らぬのか
昇天の幻想だにもはやないのか?
(中略)
ではあゝ、濃いシロツプを飲まう
冷たくして、太いストローで飲まう
とろとろと、脇見もしないで飲まう
何にも、何にも、求めまい!……」(『汚れつちまった悲しみに……』)
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※私は平成の中原中也はエレカシの宮本浩次だと思う。[#「※私は平成の中原中也はエレカシの宮本浩次だと思う。」はゴシック体]だったら、やっぱり中也と私はつきあいきれないなあ。[#「だったら、やっぱり中也と私はつきあいきれないなあ。」はゴシック体]
[#地付き](『汚れつちまった悲しみに……中原中也詩集』集英社文庫より)
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[#小見出し] 自分の美ボウを笑いものにできた日から、[#「自分の美ボウを笑いものにできた日から、」はゴシック体]
[#小見出し] 阿部寛の役者としての成功が[#「阿部寛の役者としての成功が」はゴシック体]
[#小見出し] 始まったのだと思う。[#「始まったのだと思う。」はゴシック体]
あまりにも恵まれた男性は、逆に不幸である。
顔もスタイルも育ちもいい男性は、まず男性に妬《ねた》まれる。そして、遠まきに女性たちも敬遠する。
「きっと、鼻もちならない奴《やつ》に違いない」
こう、勝手に思い込むからだ。
これで本当に鼻もちならない奴だと、逆に居直って、それなりにパワーを持ち得るのだが、本当に不幸なのは、じつは性格もすごくいい男性だった場合である。
どうしたって目立ってしまう。人々のやっかみを買ってしまう。彼は、うっとおしい嫉妬《しつと》をかわそうと、痛々しいまでにいい人になってしまう。そして、そのためにトーンダウンしてしまうのだ。
素質に恵まれておりながら、逆に恵まれすぎてしまったことで、活躍の場をせばめられてしまっている男性が、世の中にはいるものだ。
例えば、石黒賢という俳優さんもそうであろう。人の良さそうな青年顔で、多分人間的にもいい人なのだろうが、それゆえ俳優として与えられる役が限られているみたいで、かわいそうである。
そして、阿部寛。
あまりにもハンサム。あまりにも長身。あまりにも善良。
少女の憧《あこが》れを一身に集めて体現したような彼には、男性のやっかみも集中したはずだ。
実は、私もつい最近まで、
「阿部寛みたいな男性は整いすぎてて苦手だなあ」
と、思っていたのである。
ごめんね、阿部ちゃん。
私は、つかこうへい『熱海殺人事件』の木村伝兵衛部長刑事役の阿部寛を見て、目からウロコが落ちたのである。
ちょっとキレかかっている警視庁刑事、木村伝兵衛。――元オリンピック選手でおまけにオカマという、とんでもない部長刑事――この難しい役に挑戦し、見事にこなした阿部寛の俳優としての才能に、私は目を見張ったのだった。
あの美しい長身にチャイナ服をまとい、オカマのしなを作る阿部寛は、もはや、ノンノボーイフレンドの阿部クンではなかった。
「うーむ、そこまでやるのか」
と、私は、腹の底でうなった。
ハンサムな男性の陥りがちなナルシシズムは、もはや阿部寛にはみじんもなかった。
自分を壊し、目茶苦茶に壊し、そこから演技者としての何かをつかんだ若い俳優の姿をしかと、確かめたのだ。
自分を壊してゆける男優は、本物である。
カメラ映りばかり気にし、カッコ良く演じることばかり考えているタレントは、まだまだ、なのだ。
「男優なんて、しょせんクジャクだよ。自分がどうキレイに映るかしか頭にないんだもの」
と、私に語ったテレビプロデューサーがいた。
確かにテレビタレントの多くは男クジャクかもしれない。が、本物の男優も、世の中にはいるのだ。アーティストと呼べる男優が。
自分を壊す本物の男優として私が今、もう一人期待しているのが、筒井道隆クンである。
映画『きらきらひかる』での同性愛の少年役(相手役の豊川悦司との、音の響くキスシーンは圧巻であった)。そしてテレビ『或る「小倉日記」伝』での身体障害者の青年役。
普通のテレビタレントでは腰がひける難しい役に挑戦し続ける若い才能に、私は期待している。
筒井クンは阿部ちゃんほどハンサムでないから、フットワークが軽く、得しているかもしれない。
あの阿部寛が、つかこうへい氏のしごきにあって、あれだけの変ボウを遂げた、それも一つの感動である。
ナルシシズムを脱却したところで、真の役者は生まれるのだ。
カメラ目線で、目を細める気取ったポーズしかできないテレビタレントでは、ゆくすえが知れている。
阿部寛は、年をとるにしたがって、どんどんよくなる役者さんではないか、と、思う。
黙っていても少女の夢の王子様、という時期を過ぎ、自分の美ボウを笑いものにできた日から、彼の役者としての成功が始まったのだと思う。
きれいな男性を、ただ、
「きれい、きれい」
と見てるだけも、実は好きな私であるが、きれいな男性が、
「そこまで、やるか」
という演技を見せてくれる芝居こそ、心底感動を覚えるのだ。そして、そこまでやるか、が、芸なのである。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※近年、阿部ちゃんはますます輝いている。[#「※近年、阿部ちゃんはますます輝いている。」はゴシック体]「とりあえず泳ごうか」「泳いだなあ」というピップエレキバンのCMも好き。[#「「とりあえず泳ごうか」「泳いだなあ」というピップエレキバンのCMも好き。」はゴシック体]
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[#小見出し] 才能ある人間の、[#「才能ある人間の、」はゴシック体]
[#小見出し] サービスとしての[#「サービスとしての」はゴシック体]
[#小見出し] カッコ悪さである。[#「カッコ悪さである。」はゴシック体]
中学時代ポール・サイモンに凝っていた私は、ポールに関するあらゆる情報を収集することにつとめていた。
ポールの好きな作家の本を読み、ポールの好きなミュージシャンを聞き、そうこうしているうちに、ポールの好む人物の多くがユダヤ人であることに気がついた。
ポール・サイモン自身もユダヤ人である。
J・D・サリンジャー、J・アップダイク、ニール・サイモンといった人たちももちろんユダヤ人である。ユダヤ人は数多くの優秀な芸術家を輩出しているのだ。
ウッディ・アレンも、在アメリカの優れたユダヤ人の中の一人である。
映画『アニー・ホール』を初めて観た時は、こんなに背が低く頭が薄く鼻が長い男がなんでダイアン・キートンみたいないい女の恋人なのだろうといぶかしく思ったものだ。
容姿はともかく、性格がすごくいいのかというと、そうでもない。『アニー・ホール』で彼は、常にブツブツ不平や文句ばっかり口にする弱気なインテリであった。
けれど、今にして思えば、アメリカ映画界におけるウッディ・アレンは、それまでのジョン・ウェイン的西部劇をひっくり返した立役者だったのだ。
アメリカ西部劇に登場するヒーローの多くは、男臭く筋肉マンで腕っぷしは強いが女子供に優しいいわゆる〈男の理想〉であった。
ところがウッディ・アレンは、女にネチネチ未練たらしいし、時には女をリツ然とさせる毒舌すら投げかける。彼はきっと子供嫌いだろうし、地震が起きれば一番に外に飛び出すタイプだと思う。
けれど、彼がモテるのは(ダイアン・キートンの他にマーゴ・ヘミングウェイ、ミア・ファローとも浮名《うきな》を流す)、その感性、知性、才能の素晴らしさもあるだろうが、何より、アメリカの女たちが西部劇的ヒーローのうさん臭さに気づき始めたからではないだろうか。
少し前『男について』というコラム集を読んだのだが、この本はアメリカ男性作家たちが各々、
「もう≪男らしく≫するのは、つらいよう」
と悲鳴をあげている本音集である。
特にアメリカの教育は、フロンティア・スピリッツ、男は男らしく、を徹底的にたたき込むらしい。そして、男らしく行動できなかった場合はとことん自分を恥じるシステムに、幼い頃からなじまされているのだ。
しかし、ちょっと気のきいた男なら、
「痛い時に痛い、と思わず言ってしまったことで、両親に顔向けできないほど自分を恥じる必要があるのだろうか」
と、疑いを持ち始めるものだ。
「男は泣かない、男は弱音《よわね》を吐かない」
と教えこまれ、無理に抑圧されてしまった本音部分が、ウッディ・アレンというキャラクターに凝縮して表現されているような気がする。
映画『ハンナとその姉妹』では、病気恐怖症の男の役をウッディはコミカルに演じている。
少しでも身体《からだ》のどこかに異常があれば、
「自分は癌《がん》かもしれない。死ぬかもしれない」
と、大ゲサに騒ぎたてるのだ。そんな臆病者《おくびようもの》でどうする、と、見る者は笑いながらも、そこに人間が根源的に持つ死への恐怖のナマのカタチを発見し、やがて身につまされてしまうのだ。
最初笑いながらも、最後には笑えなくなってしまう。――これがウッディ・アレン映画の本質である。
西部劇ヒーローの楽観的性格は、娯楽としては楽しめても、現実にそういう男がいたら、その鈍感さにあきれてしまうことだろう。ねえ、人間ってもっと複雑な生き物じゃない、と言いたくなってしまう。
ウッディ・アレンは人間の持つ弱さや哀《かな》しみを笑いのオブラートに包んで提示してくれる。
ただし、日本においてウッディ・アレン人気がイマイチなのは、日本にはアメリカ西部劇的男がほとんどいなくて、逆にグチや弱音をまき散らす男がゴロゴロしているからなのだ。
日本ではウッディ・アレンは貴重な個性ではなく、
「ああ、いるいる、ああいう神経質でグチャグチャ文句の多い男」
と見なされがちである。
いやしかし、ウッディ・アレンと日本の弱い男の子たちとの間には大きな差がある。
『インテリア』で見せた芸術性。『カイロの紫のバラ』で見せた人間に注ぐ優しい目。彼が類《たぐい》まれな映画作家であることは間違いない。
才能ある人間の(当然、自信もある)サービスとしてのカッコ悪さであることを見逃がしてはいけない。
彼がなぜ、美人女優たちに愛されたかは、これでおわかりでしょう。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※ウッディ・アレンはミア・ファローと別れ、養女の東洋女と再婚してしまった。[#「※ウッディ・アレンはミア・ファローと別れ、養女の東洋女と再婚してしまった。」はゴシック体]なんじゃい。ただのロリコンかい。[#「なんじゃい。ただのロリコンかい。」はゴシック体]
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[#小見出し] 「あんな男のどこがいいの」[#「「あんな男のどこがいいの」」はゴシック体]
[#小見出し] 「だって、ステキなんだもん」[#「「だって、ステキなんだもん」」はゴシック体]
[#小見出し] これで終わり、である。[#「これで終わり、である。」はゴシック体]
私のアシスタントE子ちゃんは女子高あがりの現役女子大生である。
彼女|曰《いわ》く、
「女子校の教師って、どんなのでもモテるんですよね――、若い男でさえあれば」
十代後半の女の子は、自分よりちょっとおとなで、教えを説いてくれて、世話を焼いてくれる男性に心が傾きがちになる。
スポーツ選手とコーチ。
アイドル歌手とマネージャー。
少女漫画家と担当編集者。
こちらも又、そのパターンの発展型である。
同い年で同じレベルの同級生の男の子よりずっと頼もしく、快適な関係が持てる気がするのだ。十代の男の子は概《がい》して幼く情なく頼りないから、それはしょうがないことであるが。
ましてや、閉ざされた女の園で、目につく異性が教師しかいないとなれば、事態は全くもっていたしかたない展開となる。
私は、十代後半の女の子の恋心にかなう敵はこの世になし、と最近思うようになった。
「ステキっ。キャーっ」
この感情のエネルギーの爆発は、二十代半ばすぎて結婚相手を物色中の女性にはもはや見られないものである。
条件を検討し、慎重に相手を選び抜き、その果てにようやく心を開こうとする〈結婚前提恋愛〉には、
「ステキっ。キャーっ」
という高まりがなかなか訪れないものである。
高校時代、私はよく同級生の恋する女の子に、
「あんな男のどこがいいの」
と、聞いたものである。言われた友人は必ず、
「だって、ステキなんだもん」
と答えた。そう返されると、会話はもうそれ以上突っ込めない。
「だって、ステキなんだもん」
これで終わり、である。
私の高校時代の友人A子は、英語教師に恋していた。妻子持ちの田舎の公立高校教師である。橋幸夫に似ていた。
本人もそれが自慢らしく、文化祭では橋幸夫の持ち歌を体育館の壇上で披露してくれた。けれど、文化祭以外では全く目立たない存在だった。熱血教師でもハンサム教師でもなかった。
それに対しA子は、校内でちょっと知れ渡った美少女だった。
共学だったので、何人もの男の子が彼女に交際を申し込んではフラれていた。
実家も金持ちでいつもいい身なりで、成績も優秀、性格も裏表のない明るい、つまり非の打ちどころのない完ペキな女子高生だったのだ。
彼女は、英語教師の補習に唯《ただ》一人、毎回出席していた。
この教師の指導法は魅力がなかったので、他の誰も出なかったのだ。
それでも彼女はいつもたった一人、夏休みも冬休みも補習授業を受け続けていた。
ある日、向こうの校舎から渡り廊下を伝ってその教師がこちら側に歩いてくるのを見つけた私は、A子をからかってやろうと思い、窓を開け、
「先生〜っ、あなたのA子がここにいるわよ〜っ」
と、叫んだ。渡り廊下は百メートル以上も先で、おまけにそこの窓は閉じられていたのでどう考えても教師の耳にその言葉が届くはずもなかった。
「やめてっ」
A子は顔を真っ赤にして、私にくってかかった。
「やめてよっ。聞こえたらどうするの。私ずかしいっ。恥ずかしくてあたし死んじゃうっ」
A子が取り乱した姿を私が見たのは、高校三年間を通じてこの一回きりである。
同級生の男の子に想いを打ち明けられては、無難な笑顔でかわして逃げていたA子が、唯一恋した相手は、安っぽい霜《しも》ふりツイードの背広を着た高校教師だった。
そこまで美少女から熱い想いをかけられれば、男たるもの妻子を捨てて駆け落ちすべきではないかと、やじ馬である私は勝手に思っていたが、現実はやはり現実で、ドラマや小説とは違うのである。
卒業を控えた高校三年の春、A子は母親とその教師と三人で食事をした、という。
それはそれでいい話だと思う。
のちにA子はお見合いでエリートサラリーマンと結婚し、幸福な家庭生活を送っている。
でも、若い頃の、
「ステキっ。キャーっ」
の思い出は彼女にとってとてもいい記憶に残っているに違いない。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※「高校教師」という野島伸司ドラマがあったが、今や「魔女の条件」である。[#「※「高校教師」という野島伸司ドラマがあったが、今や「魔女の条件」である。」はゴシック体]女教師が美しい男子生徒を狙《ねら》うのだ。[#「女教師が美しい男子生徒を狙うのだ。」はゴシック体]
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[#小見出し] 目立つとは、[#「目立つとは、」はゴシック体]
[#小見出し] よくも悪くも人を引きつける[#「よくも悪くも人を引きつける」はゴシック体]
[#小見出し] パワーがある、ということだ。[#「パワーがある、ということだ。」はゴシック体]
関西地区以外在住の人についていえば大阪芸人のアクの強さと泥臭さに、拒否反応を示す人と、嫌だけどついつい目を引きつけられ、ふと気づくとズッポリはまってしまう人とがいる。
東京地区の〈粋〉を重んじる人には、吉本新喜劇には許しがたいものを感じるらしい。私はそういう人を何人か知っている。
けれど、関西文化圏で育った私は、毎週土曜日、吉本新喜劇と松竹新喜劇の舞台中継を見て育った環境に身体《からだ》がなじんでしまっている。
時々、
「あ、やだな」
と思うこともあるが、実のところ、根は好きなのである、吉本新喜劇が。
泥臭さとパワーは、人を引きつける魔力がある。洗練されてない分、ダイレクトに訴えてくるのだ。都会のオシャレが面倒臭くなった時、この気取りのないストレートな訴えは結構心に響いてくる。
今、パワーと言えば、ルー大柴と浜ちゃんである。
ルー大柴は東京育ちのくせに妙に垢《あか》抜けないパワーを持っている。普通、東京のコメディアンが持ってる〈シャイさ〉が、彼にはほとんど見られないのだ。関根勤も小堺一機も隠そうとしてもシャイさがこぼれ落ちてくるのがわかって、それが時に痛々しい。ところがルーにはその片鱗《へんりん》も見られないのが、逆に安心できて、無防備に見せ物を楽しめる快楽がある。ルーは、結構、手ごわい。
そのルーに対抗するのがダウンタウンの浜ちゃんこと、浜田雅功である。
にぎにぎしく画面をゆき回り、自分に都合が悪くなると、相手に罵声《ばせい》を浴びせ、あるいはメガホンでひっぱたく。
人の言葉にチャチャを入れ、それを反ばくされるとスネてそっぽを向く。
強気なのか、弱気なのか。
ハレンチなのかと思えば、突然、赤面してうつむく。
この、時折見せる〈浜ちゃんの赤面〉が、女の子にとっては魅力である。
「吉本の人間にしては、シャイだ」
という評価になるのだ。だって、桂三枝や西川きよしが赤面したところなんか見たことないのだから。
多分、浜ちゃんの〈シャイ度〉は、ルー大柴と数値として同じくらいであろう。
東京ではハレンチ、が、大阪ではシャイな奴《やつ》、となってしまう不思議。
浜ちゃんに対して、
「ハタ迷惑な奴」
と、社会人は思う。常識をわきまえ、キチンと日常生活を送るおとなは、彼の乱暴な関西弁や脈絡のない行動に戸惑う。
この戸惑いは、実は、憧《あこが》れなのだ。
自分の感情を抑え、他人とのマサツを極力避けて無難な生活を送ろうとしている人々にとって、浜ちゃんは〈突破口〉のように思えるのだ。
強気な浜ちゃんが、時に松ちゃんに逆襲され、瞳《ひとみ》に弱気が宿るのを見て、女の子は、
「カワイイ」
と思う。
そして、浜ちゃんが、いつもワタシのためにおもしろおかしい話をまくしたてていてくれるなら、ワタシは愛してあげる、と、女の子は思うのだ。
浜ちゃんタイプの男の子は、クラスに一人必ずいるものだ。
先生の一言一言にやじを飛ばし、
「〇〇君、ちょっと黙ってなさい」
と叱《しか》られる。
「目立ちたがり屋なのよ」
女の子たちは休み時間に彼の噂《うわさ》をする。
目立ちたがり屋の彼は、女の子にもしょっちゅう声をかける。
それが男の子の反感を買うケースが多い。
多くの若い男の子は、女の子に声をかけたくてもかけられない小心者がほとんどなのだから。
それを、ひょうひょうと、女教師にやじを飛ばす身軽さでクラス一|可愛《かわい》い女の子に軽口をたたきながら接近する彼に、残りの男子は嫉妬《しつと》するのだ。
「やな奴」
と、多くの男の子は思う。
「軽い子」
と、多くの女の子は侮る。
だから彼は、目立つ割に評判の良くない人物である場合が多い。
けれど、目立つ、とは、良くも悪くも人を引きつけるパワーがある、ということだ。
ウヤムヤではっきりせず、ボンヤリした男の子が多い昨今、目立ちたがりのパワー人間がのし上がってくる傾向はいなめないのである。
浜ちゃんの時代、で、ある。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※浜ちゃんはとってもオシャレである。でも、歌はやめた方がいいと思う。[#「※浜ちゃんはとってもオシャレである。でも、歌はやめた方がいいと思う。」はゴシック体]
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[#小見出し] 「女と話すこと?[#「「女と話すこと?」はゴシック体]
[#小見出し] 『好きだ、好きだ、好きだ』[#「『好きだ、好きだ、好きだ』」はゴシック体]
[#小見出し] これしかないッス」[#「これしかないッス」」はゴシック体]
映画、テレビドラマ、芝居は似ているようだが、微妙に違う。
大スペクタクルや映像美では映画が抜きん出ている。
手軽に楽しめるというのなら、テレビドラマに限る。
そして、役者の迫力を感じ取りたいなら、何より舞台を見ることだ。
演劇とは、役者を見にゆくものだ、と私は思っている。だから、舞台装置やストーリーは二の次でよろしい、という考え方である。
以前、つかこうへい氏の芝居を夫婦で見に行った時、
「なんだ、あの役者、さっきと言ってることが全く違うぞ。どういうストーリーなんだ」
と、途中で夫が焦り出した。だから、芝居とはストーリーを追うものじゃないんだからと私が説明しても、筋を通すことが大好きな合理主義人間の夫には合点がゆかずじまいだった。
役者を見たい。役者を感じたい。これが、私が芝居を見る目的である。
そんな私がここ一、二年、最も注目しているのが第三舞台の筧《かけい》利夫という役者である。
彼を初めて舞台で見たのは、おととし、つかこうへい氏の『飛龍伝'91』の公演の時であった。最初の動機は富田靖子ちゃんを見にゆこうというものであったが、いつの間にか、その相手役の筧利夫にぐいぐいと引き込まれていったのだ。
『蒲田行進曲』の風間杜夫、『幕末純情伝』の西岡徳馬以来、久々に私を熱中させてくれる舞台俳優に出会えたのだ。
筧利夫の一番の魅力は、その、肉体である。
私はそれまで男の魅力の位置づけの中で、肉体をあなどっていた。肉体よりも知性、肉体よりも感性、肉体よりも人間性、といったふうに。
なんだかそれが間違いであったような、そんな気にさせられたのだ、筧利夫に出会って。
筧利夫の舞台の上での肉体の動きは芸術である。バレエ、ではない。体操、でもない。けれど、芸術というべき、完成された動きを彼の肉体は遂行するのである。体操競技における微動だにせぬ着地の見事さ、と言おうか。
私は、その肉体の動きに圧倒されてしまった。
さらに筧利夫のすごさ、新しさ、というのは〈ナルシシズムの欠如《けつじよ》〉である。
ぴったりしたコスチュームに身を包んで陶酔する男性バレリーナのナルシシズムは彼には皆無である。
「どうせ、オレ、アホッスから」
と、演技中の彼の顔には書かれている。
こんな男、今まで私は見たことがなかった。
なんだかものすごいインパクトを感じてしまった私は、知り合いの編集者に頼んで彼と対談させてもらった。
実物の筧利夫は私の思っていたとおりの男だった。
「デート? したことないッス」
「女と話すこと? 『好きだ、好きだ、好きだ』これしかないッス」
うーん。なんて新しい男だ、と、私は目からウロコが落ちる思いがした。
一部に〈ケダモノ筧〉と評判の彼らしいが、結局、男のプリミティブな原型って、そんなもんじゃないのかしら。
社会、情報の複雑化が進む一方の現在において、彼のような、わかりやすいストレートなキャラクターは異彩を放っている。
もうマニュアル男はイヤ、ウンチク男もウンザリ、と思っている女の子には、大ウケすること間違いなし、と、私は思う。
もちろんタダのケダモノでは困る。
筧利夫は日々、自分の肉体を鍛《きた》えるためのハードトレイニングを重ねている。
「休みの日は?」
と聞くと、
「ジャズダンスや体操を習いに行ってます」
という答えだった。
向上心を持って、毎日鍛えている人間(その鍛えるものは感覚でも頭でも肉体でもいい)。――そういう人間はいつまでも青春でいられる。
人生を投げ出さずに、緊張感を持ちつつ努力して前進を続けること――それが青春であるのだから。
まあ、この原稿を書いているのが、たまたま冬季アルベールビル・オリンピックの開催時期ということもあって、今回は「肉体の美再発見」がテーマとなりました。
若い頃の私は、スポーツマンの汗臭さが嫌いで、それよりも青白き病身の美少年に憧《あこが》れたりしたものである。
人間、変われば変わるものだ。
いよいよ、夏にはバルセロナ・オリンピックも始まるし、今年は鍛え抜かれた肉体美鑑賞の年になりそうである。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※筧さんはその後も舞台、映画で活躍中である。[#「※筧さんはその後も舞台、映画で活躍中である。」はゴシック体]阿部ちゃんもそうだけど、つか芝居で鍛えられた役者は、必ず飛躍する。[#「阿部ちゃんもそうだけど、つか芝居で鍛えられた役者は、必ず飛躍する。」はゴシック体]
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[#小見出し] ごめんね、ごめんね、[#「ごめんね、ごめんね、」はゴシック体]
[#小見出し] ぼくはただ単に[#「ぼくはただ単に」はゴシック体]
[#小見出し] 嫉妬深い男なんだ。[#「嫉妬深い男なんだ。」はゴシック体]
私より一世代上の人々にとって、ビートルズは神様であるらしい。けれど、三十五歳の私にとってすら遠い存在であるミュージシャンなど、読者にとっては、もっと伝説の霧のかなたの人だろうと思う。
ジョン・レノンという男がいた。
ポール・マッカートニーと共にビートルズの中心的存在であった。あった、というのは、ビートルズはすでに解散し、さらにジョン・レノン自身も他界しているからだ。
そもそもビートルズは、イギリスの光GENJIであった。初期はティーン向けのアイドルグループと見なされていたのだ。
ビートルズの誕生したイギリスは、女王陛下と、紳士の国である。きびしい階級制度と、規律正しい社会風習が現存するお国柄である。
私が以前観たイギリス映画では、子供は親によってムチでしつけられ、口ごたえは許されず、お行儀の良さと忍耐を押しつけられていた。
そんな抑圧されたイギリスの子供たちが、リバプールの労働者階級から出現した、イキのいいロックグループ、ビートルズに飛びついたのも納得できる。
だから、ビートルズは当初、反抗的な不良グループだとおとなたちから思われていた。けれど、今見直すと、ビートルズなど可愛《かわい》いものである。多少エッチな暗示を含んだ歌詩があるものの、過激さにおいてはローリング・ストーンズの方がはるかに勝《まさ》っている。
タブーに挑戦しつつ、若者の圧倒的支持を得た点では、光GENJIより、とんねるずに近い存在だったのかもしれない。
おとなたちが眉《まゆ》をしかめたビートルズのサウンドが、やがて、芸術性を深めてゆき、ついに女王陛下の勲章を授かるほどになったことを、とんねるずの日本歌謡大賞受賞に重ね合わせるのは、おそらく世界中で私一人であろう。
さて、とんねるずは石橋・木梨両者とも仲良くコンビを今も続けているが、ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーは、実は仲が悪かったらしい。
グループとして頂点をきわめた一九七〇年前後で、ビートルズは事実上活動を停止している。その原因はジョンとポールの仲違い、と、当時ささやかれた。
両者の作る音楽を聞けば、彼らが離れていったのもわかるような気がする。
ポールは洗練されたポップミュージックを目指し、ジョンは不器用ながらも魂の叫びを追求している。
ポールがユーミンなら、ジョンは中島みゆきである。
だから、ビートルズ解散後、ソロとしてのジョンの作品は非常に個人的な歌が多い。私小説というか、日記風というか。一九七〇年にリリースされたアルバム『ジョンの魂』では、
「ぼくがママを必要なときにママはぼくを必要としなかったから、
だから、さよなら、ママ、さようなら。
でもやっぱり行かないでママ」(『MOTHER』)
[#地付き]※日本語訳:柴門ふみ
と、母親に対する屈折した思いを歌っている。
また、私がこのアルバムの中で一番好きな歌詩は『神』というタイトルのものである。
「神なんて我々の苦悩をはかる物差しだ」(『GOD』)
[#地付き]※日本語訳:柴門ふみ
私たちがふだん慣れ親しんでいる「困った時の神頼み」を痛烈に批判する衝撃的な言葉だ。
これらの、母親、そして神すらも否定してしまったジョンの心の叫びに、十四歳の私は涙を流したものだ。
そして、疑わしき神に対してはそこまできびしく突き放す男が、たった一人の恋人に向かっては、とろけるように優しく、切ないラブ・ソングを歌いかけるところが又、心ニクイ。
オノ・ヨーコ。
彼女がジョン・レノン夫人である。ソロとなったジョンの作品の歌詩にいく度も登場する彼の妻である。
『ジョンの魂』に続いて発表されたアルバム『イマジン』は、まさにジョンの最高傑作と言ってよい逸品であるが、その中でタイトル曲『イマジン』に次ぐ名曲が『ジェラス・ガイ』である。
ここまで男の弱みを赤裸々にさらけ出した歌詩は、ロック史上類を見ないと思う。
世界最高のミュージシャンの地位を築き、若者たちの神と崇《あが》められたスーパースターが、そんなものかなぐり捨てて、たった一人の自分の妻の前で、ジェラス・ガイ≠ニ、切なく歌い上げる姿は、全世界の女の胸を打つのである。
自分の弱さに正直な男が、自分の弱さに目をつむり虚勢を張って生きる男より数段好きな私である。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※ジョンの未亡人、ヨーコ・オノは今も大活躍中である。女は強い。[#「※ジョンの未亡人、ヨーコ・オノは今も大活躍中である。女は強い。」はゴシック体]
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[#小見出し] 「ババア、くたばれ」[#「「ババア、くたばれ」」はゴシック体]
[#小見出し] 「ブスは近づくな」[#「「ブスは近づくな」」はゴシック体]
[#小見出し] ――彼の基本は、この悪タレにある。[#「――彼の基本は、この悪タレにある。」はゴシック体]
顔は男の履歴書、という言葉がある。ビートたけしを見ると、まさにそれがぴったりだと思う。
十年ほど前、漫才ブームが起こった。
B&Bやザ・ぼんち、紳助竜助らとともにツービートがいた。
『おれたちひょうきん族』『笑ってる場合ですよ』といったフジテレビのお笑い番組路線が大当たりした時期である。
当時、アイドル的人気を博したのがB&Bである。洋七、洋八のコンビには親衛隊までいたらしい。若い女の子の評判は、確かにツービートよりB&Bの方が高かったようだ。
ツービートのギャグは毒が強すぎたらしい。「ババア、くたばれ」だの「ブスは近づくな」といった悪タレが上品な人々のひんしゅくを買ったのである。
今でもたけしを見ると、彼の基本はあの悪タレにあるのだな、と思う。
けれど、彼の顔つきがどんどん変わっていったのと同じく、彼の悪タレを発する態度にも変化が読み取れる。
初期のツービートの頃には、
「とにかく目立てばいいや」
といった半ばヤケッパチ的な開き直りが見えた。それはそれで、すごいパワーがあったと思う。実はこの時期、私はビートたけしと池袋の地下道ですれ違い、なんとサインまでせびっているのだ。ビートきよしとあき竹城と連れ立って、ほろ酔い気分だったのか、赤い顔で、池袋東口パルコ前の地下道をたけしが歩いていた。私は武道館でRCサクセションのコンサートに行った帰りだったので(そのせいかしら)、妙にコーフンして、たけしにサインサインと迫ったのである。
たけしは実に気さくでいい人だった。
私の手帳の切れ端にスラスラと、
「ツービート・たけし」
とサインをしてくれた。
サインを書いてもらってる最中、通りすがりの若い男が、
「コマネチ」
と声をかけた。するとたけしは、例の、股《また》の切れ込みを両手で鋭角にすくい上げるあのポーズをとったのだ。コマネチ
だから、私は、たけしが好きである。
その後色々な事件もあったけど、私は池袋の地下道での好印象のままずっとたけしが好きだった。
たけしブームの第二期は『ひょうきん族』でさんまと組んだ、たけちゃんマンの時期だろう。たけしのアイドル的人気は頂点に達したけれど、どうも悪タレに精彩が欠けてしまっていたように思える。
子供たちの圧倒的支持も得、『たけし君、ハイ』でNHK的評価まで得てしまい、逆にそのことに戸惑っているのか、悪タレを発する時に妙にオドオドした目の動きが感じられたものである。彼の中で、
「このままでは欽ちゃんになってしまう」
という恐れが芽生えていたのではないか、と、これは私の勝手な解釈です。
そして、いくつかのスキャンダル。事件。謹慎。
これらの一連の騒動の中で最も私の印象に残っているのは、夫人からの一方的離婚宣言を受けた時のたけしの表情である。
「とにかく別れることにします」
と告げる夫人のインタビューテレビ画面をまばたきひとつせず凝視しながら、
「悪かった。俺《おれ》が悪かった。いや、別れない」
と、呪文《じゆもん》のようにつぶやき続けたたけしの顔が私の心に焼きついている。
悪タレを脱いだ、初めての、彼の顔だった。
そしてスキャンダルを乗り越え、再び高視聴率の帝王となり、映画監督として不動の地位を築き、ベストセラー作家にもなったたけしは、今やマスコミ、出版界においてトップに立っている。第三期のたけしブームである。
そして、相変わらず悪タレをつく。
おどけたり、目をひんむいたりもする。
けれどその裏には余裕と自信が波打ってる様子が見てとれる。
第一期の無鉄砲さ、第二期の戸惑いは、もうそこには認められない。
そして、すごくいい顔になった。セクシーで、尚《なお》かつ人生経験によって研《と》ぎ澄まされた、男の顔である。
見事にいい男になったなあ、と、惚《ほ》れ惚《ぼ》れしてしまう。
宮沢りえちゃんにギンギラギンの瞳《ひとみ》で見つめられちゃうのも思わず納得、である。
けれどあの年で(確か四十五歳)、そこまできわめてしまったビートたけしという男は、このあと一体どうするのであろう。
ビートたけしの第四期、さらに第五期は存在するのか。
今後、ますます見守っていきたい男性の一人である。
(おめーになんか見守ってもらいたかねえよっと、悪タレが返ってきそうであるが)
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※今や世界的名監督の北野武である。[#「※今や世界的名監督の北野武である。」はゴシック体]バラエティの司会はやる気なさそうなのだが、それでも時々往年の冴《さ》えをホーフツさせるギャグを飛ばすようになった。[#「バラエティの司会はやる気なさそうなのだが、それでも時々往年の冴《さ》えをホーフツさせるギャグを飛ばすようになった。」はゴシック体]どこかに達したみたいだ。[#「どこかに達したみたいだ。」はゴシック体]
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[#小見出し] 本当の愛を知ってるからこそ、[#「本当の愛を知ってるからこそ、」はゴシック体]
[#小見出し] 潔く捨てることも[#「潔く捨てることも」はゴシック体]
[#小見出し] できるのだ。[#「できるのだ。」はゴシック体]
子供の頃好きだった童話に『水の子』というのがある。
少年がある日、水に誘われて裸で水遊びしてる間に、水の精になってしまうというストーリーだったと思う。
ストーリーの細かい点はともかく、その挿絵《さしえ》は今も鮮烈に私の脳に焼きついている――水と戯《たわむ》れる全裸の少年――。
それ以来、私は、泳ぐ少年が好きである。
ツルン、テカテカ、とした水泳選手の身体《からだ》が好きなのだ。
水泳選手には、ウエイトリフティングの選手のような毛むくじゃらの男が少ない。あれは、やはり水圧で毛が擦《す》り切れてしまうからだろうか。あるいは、お手入れで処理しているのかしら。
いずれにせよ、ツルンとした男の裸体が好きな私にとって、水泳選手は実に好ましい。
また、私は、近眼の男が好きである。
目を眩《まぶ》しそうに細めて遠くを見る、あの近視の人独特の表情がすごく好きなのだ。
私が過去つきあった男はみんな近眼である。というか、日本人の成人の半数近くはメガネをかけているので、確率的にも当たりやすいのだ。
という訳で、ソウル五輪百メートル背泳ぎで金メダルを取った鈴木大地くんが、ゴール直後、水面から顔を上げて、遠くの電光掲示板を目を細めて眺めたその瞬間、私は惚れたのであった。
「近眼なので、なかなか自分の記録が読みとれなかった」
ため、一位でゴールした後も、しばらく水の中で戸惑っていたらしい。
十六年振りに日本に水泳の金メダルをもたらしたのは、弱冠二十一歳の大地少年だった。その偉業に対して、しゃちこばることなく、堂々とふてぶてしくも、尚、さわやか、という強烈な個性は、それまでのオリンピック選手には見られないものだった。
マラソンの瀬古選手のような、悲壮な修行僧じみたオリンピック選手が多い日本選手団の中で、初めて現われた〈新人類〉のようで実にすがすがしかった。
「練習は嫌い」
と公言し、スポーツ馬鹿を馬鹿にするような態度もほの見えたりした。
それでも憎めない、なぜか得なキャラクターだった。
それはあるいは〈大地〉という名前と、一重の若武者のような切れ上がった目のせいかもしれない。
あ、いいな――、鈴木大地っていいな――、とずっと思っていたら、急に姿が見えなくなった。
外国に留学していたらしい。その後、時折スポーツニュースで、鈴木大地不振、いや鈴木大地復活等々の話題が流れたが、バルセロナ・オリンピックが近づくにつれ、テレビCMに再び彼の顔が映るようになり、
「あ、まだ頑張ってる」
と、秋のオリンピック開催を心待ちにしていたのだ。
ところが、突然の、オリンピック不出場宣言。――それは、事実上の選手引退表明なのだそうだ。
「このコンディションでオリンピックに出てもメダルは取れないから」
というのが彼のコメントだった。
その記者会見の席で鈴木大地は目を真っ赤に充血させていた。
かつてのふてぶてしい、自信に満ちあふれた、若者らしい傲慢《ごうまん》さ(これ、私、好き)は姿を消していた。
本当に水泳が好きだったのだろう。
本当に水泳を愛していた人間だったからこそ、そのふてぶてしささえも、好ましく人には映ったのだろう、と、私は解釈している。
別にボクシングなんか愛してないが、生まれつき腕力が強く、ケンカすれば敵なし、といった男のふてぶてしさとは、だから、全然違うふてぶてしさなのだ。
やっぱり愛がなきゃあね、と、私は思う。
メダルが取れないならキッパリ選手をやめるという潔さは、絶頂期の愛が失われてもう取り返せないなら、もう恋人関係を解消しましょう、というのと似ている。
本当の愛を知ってるからこそ、潔く捨てることもできるのだ。
私個人としては、鈴木大地くんの裸体が見れなくなって残念であるが、その心意気にはおおいに賛同した。
オリンピック選手に選んでちょうだいよ――なんで選んでくれなかったのよ――とジタバタした女子マラソン選手のニュースの後の報道だっただけに、よけいにそのさわやかさが印象づけられたのかもしれない。
大地君、テレビタレントやクイズ解答者にだけはならないでね。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※その後、あっという間に結婚して、またたく間に離婚して、しかもその元妻に「マザコン」とまで言われた大地くん。[#「※その後、あっという間に結婚して、またたく間に離婚して、しかもその元妻に「マザコン」とまで言われた大地くん。」はゴシック体]オリンピックの時期になると、解説者として姿を見ることができる。[#「オリンピックの時期になると、解説者として姿を見ることができる。」はゴシック体]
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[#小見出し] 私が武士道に憧《あこが》れるのは、[#「私が武士道に憧れるのは、」はゴシック体]
[#小見出し] そこに理想の父親像を[#「そこに理想の父親像を」はゴシック体]
[#小見出し] 求めているからかもしれない。[#「求めているからかもしれない。」はゴシック体]
武士道、というものが結構好きである。
その禁欲的な生き方に憧れているのかもしれない。だから、武士と言ってもノンキな暴れん坊将軍や眉間《みけん》の傷の旗本退屈男なんかには興味がない(ストイシズムが感じられないから)。
漢詩を読んで、竹刀《しない》で汗を流し、床に就いてもキリッと背筋をのばしている感じがうるわしい、と思うのだ。
こういうキリッとした武士には、やはりキリッとした奥方がいて、さらにキリッとした子息がいるものだ。
キリッとしてて禁欲的なのって、いい。それは自分からかけ離れたものであるからなのかもしれない。
でも、こういうものはテレビ、映画の時代劇のイメージに過ぎないので、現実の武士がどうであったのかはよくわからない。
私がテレビの時代劇をよく見ていたのは昭和四十年代だったので、当時のファッションを反映して武士の奥方役の女優さんはツケマツゲのメーキャップで出演していた。
日本髪にツケマツゲ。これで長刀《なぎなた》などを振り回すのだ。西欧人の日本文化に対する誤解を笑える立場に私はない。私にとって、時代劇の奥方は丸髷《まるまげ》、ツケマツゲ、なのであるから。
さて、その頃私の一番のお気に入りの時代劇は『子連れ狼』であった。
「ちゃん」
と大五郎が乳母車で叫ぶアレである。萬屋錦之介主演で、提供は大塚製薬であった。
主人公|拝一刀《おがみいつとう》は、剣の一流の使い手でありながらお家のゴタゴタで流れ浪人にと身を落とすのである。
なんで息子を乳母車に連れて歩くのかは、よく覚えてないが、その乳母車が合体メカみたいに突然刀剣を突き出したりして武器となる。
さすが原作が劇画だけに、今この年になって振り返ると、
「おい、おい――」
と思うところだが、当時子供だった私は、時代劇の合体メカも結構納得して感動していた。
この拝一刀はすこぶる禁欲的で、笑顔もほとんど見せない。何やら女御《おなご》が色仕掛けで迫ってきても、大五郎の手前、はねのけたシーンがあったように思う。
強い父親が姿を消しつつある今日《こんにち》、やっぱり拝一刀はいいなーと、思うのである。
おとうさんって、やっぱり、子供の前ではやせ我慢をして欲しい。
満員電車での通勤で疲れ果てているのはわかるが、家でジャージー姿でオナラでは、淋《さび》しすぎる。
私が武士に憧れるのは、そこに理想の父親像を求めているからかもしれない。
そういった点でも、大五郎を優しく暖かく、そして時にはきびしく見つめ続ける拝一刀は、理想的である。
大五郎が赤ん坊の頃、父は、刀とガラガラを子供の手前に置いて、
「さあ、おまえの好きなモノを選べ」
と選択を迫る。すると、大五郎はハイハイをして、刀の方へ寄ってゆくのだ。
「おお、おまえも冥府魔道《めいふまどう》の道を選ぶか」
と、父拝一刀は感動するくだりである。
メイフマドー。地獄の修羅《しゆら》の道のことらしい。
私にとって拝一刀イコール、冥府魔道、である。子供だった当時は、意味もわからず、でも、なんとなくおっかなそうだな、おとうさんって大変だな、と感じ入っていた記憶がある。
メイフマドーといっても、マーボドーフとは違うのだ。
冥府魔道を禁欲的に生きてゆく。
こういう男って、ほんとに最近見かけない。
冥府魔道のサラリーマン生活を送ってるお父さんの多くは、
「男は大変なんだよ。キャバレーでも行って気分晴らさなきゃやってらんないよ」
と、ちっとも禁欲的ではないのだ。あるいは女子大生を愛人に囲ったり。
さて、一刀のような父を見て育った大五郎は、その後どうなったのであろう。
確かストーリーは、見事宿敵を倒し、武士に返り咲く拝一刀で終わったと思う。
父の跡を継いで、禁欲的ないい武士になったのだろうか。
あるいは父を乗り越えられないコンプレックスで、頼りないジュニアになってしまったのだろうか。
芸能界のジュニアを見ても、偉大な父を持ったジュニアはやっぱりつらいのだ。
実際に禁欲的で立派すぎる夫を持つと、妻もつらいだろうな、と思う。
子連れ狼は父子二人旅で良かった。これに母も加わっていたら、しょっちゅう夫婦ゲンカになって大変だったことだろう。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※立派すぎる父のジュニアは駄目だけど(一茂、カツノリ)イマイチな父の息子はすごいと、ドラゴン・アッシュのフルヤ君を見て思った。[#「※立派すぎる父のジュニアは駄目だけど(一茂、カツノリ)イマイチな父の息子はすごいと、ドラゴン・アッシュのフルヤ君を見て思った。」はゴシック体]父、フルヤの不倫愛人記者会見を、私は今でも覚えているのだ。[#「父、フルヤの不倫愛人記者会見を、私は今でも覚えているのだ。」はゴシック体]
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[#小見出し] 漫才ブームに受けた[#「漫才ブームに受けた」はゴシック体]
[#小見出し] 逆説的本音ギャグのルーツは、[#「逆説的本音ギャグのルーツは、」はゴシック体]
[#小見出し] つかこうへいにある。[#「つかこうへいにある。」はゴシック体]
私が一番最初につかこうへいの芝居を見たのは、今から十六年も前、私が女子大生だった時のことだ。
紀伊國屋《きのくにや》の小さなホールで催されるつか芝居は当時からすでに圧倒的人気を誇り、チケットぴあなど存在しない時代であったから、その切符を手に入れるのは大変なことであった。
私はその『熱海殺人事件』のチケットを、当時のボーイフレンドからゆずり受けた。
「なんとか一枚だけ手に入れたから、きみ一人でも見て来て欲しい」
という、涙の出るようなありがたいお言葉だった。
かくして私はたった一人で三浦洋一主演の『熱海殺人事件』を鑑賞することになったのだ。
見終わったあと、一人でこの芝居を見てしまったことをすごく後悔した。誰かとその幕後の興奮をしゃべりたくてたまらなかったのだ。そのくらい衝撃的な演劇だった。
「噂《うわさ》には聞いていたが、これがつか芝居かあ」
と、打ちのめされたのだ。
今から十六年前の一九七六年当時、東京にはまだ全共闘の最後の残党がキャンパスのサークル小屋の陰に潜んでいた。〈文学青年〉や〈アングラ〉といった言葉もまだ生きていた。八○年代の軽チャー・バブル的な文化はまだ見当たらない。どちらかといえば、深刻で暗い若者の方がカッコいいと見なされる風潮があった。
唐十郎(大鶴義丹のパパ)の難解で重苦しい演劇を、
「ウームム……」
と、唸《うな》りながらわかったようなふりをするのがその頃の大学生の先端だったのだ。
暗く、理屈っぽいことが価値観の上位を占めていた時代に、つかこうへいの芝居はまっこうから対立していた。
まくしたてるとりとめのない台詞《せりふ》。筋に一貫性などまるでない。その、どれもが毒を含んだ逆説で、それまでの私たちの固定観念をくつがえすものだった。
「ブス一人殺すのに理由なんかいらない」
『熱海殺人事件』におけるこの名セリフは、それまでの生《き》マジメな日本人が信じていた、
「美人じゃなくても心が美しければきっと幸せになれるのよ」
といった甘い幻想をたたきのめすに充分すぎる一言だった。
若い読者に解説を加えるならば、八○年代の漫才ブームに受けた逆説的本音ギャグ(ツービートやコント赤信号、シティボーイズらが好んで用いた)のすべてのルーツはつかこうへいにあるのだ。
つかこうへい著『腹黒日記』のQ&Aコーナーに次のような質問があった。
Q「今のお笑いブームのコントはみんなつかさんのパクリじゃありませんか。そういうことにつかさんは腹を立てないんですか?」
それを受けての彼の答えは明快だ。
A「安心しろ。俺《おれ》も色んなとこからパクってる」
この『腹黒日記』はとにかく傑作で、読みながら私は何度も笑い転げた。私がエッセイを書き始めた当初は、この本をよく手本にしたものだ。
つかさんとは妙に因縁があって、その後つか劇団の女優根岸季衣さんが私の夫のファンということで交流が始まり、私たち夫婦とつか劇団の風間杜夫、平田満、長谷川康夫(のちに演出家に転ず)といった人々ともつきあいが広がっていった。
そしてある日、夫がその日ゴルフを一緒にしたというつかさんを連れて突然自宅に戻って来たのだ。
「わ、私は、十数年前紀伊國屋ホールで『熱海――』を……」
と、完全に舞い上がってしまった私に対し、
「ご家族で夕食の最中突然お邪魔して申し訳ない」
と、すごく礼儀正しいつかさんであった。リビング横の台所で私は子供たちにかぼちゃの煮付けを食べさせていたのだ。憧《あこが》れていた人との初対面で、粗末なかぼちゃの煮付けを見られてしまったことは今でも悔やまれる。
そして一昨年は半年間ある雑誌でつかさんと連載対談の仕事をした。一回、三時間ほどの対談は、つかこうへいの独演会をたった一人で味わうような贅沢《ぜいたく》なひと時であった。
半年かけてわかったことは、つかこうへいという人は、まるっきり正反対な言動を突然とり、それを誰も予測できないということだった。例えば賭《か》け事につかさんを誘ったとする。すると――、
A「凡人どもがよ、金に目がくらみやがって浅ましいこと企んだものだ。人間、地道に働くのが一番だってのに」
B「え? 賭け金十万? みみっちいこと言うなよ、百万、二百万張らなきゃ、勝負じゃねえよ」
この全く正反対なA反応B反応のどちらを、つかさんがとるかは全く誰も予想できないのである。Aもあり得る。Bもつかさんらしい。
つまり、つかこうへいとはこういう男なのである。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※「ロマンス」でのおカマのタンカには落涙した。つか節ってやはりいい。[#「※「ロマンス」でのおカマのタンカには落涙した。つか節ってやはりいい。」はゴシック体]
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[#小見出し] 一度裸になった人間には、[#「一度裸になった人間には、」はゴシック体]
[#小見出し] もう怖いものは[#「もう怖いものは」はゴシック体]
[#小見出し] ないはずだ。[#「ないはずだ。」はゴシック体]
文学のテーマは、その時代、時代に応じて変化してきている。
貧富の差が激しかった帝政ロシアでは革命がテーマになり得たし、身分制度のきびしかった日本の江戸時代では許されぬ愛=心中も大きなテーマだった。
ところで、現代は最も文学的テーマの見つけ出しにくい時代と言われている。貧富の差も少なくなり、中流意識に満ちあふれたニッポンにおいては特に。
が、近年、欧米では新たな文学的テーマが発掘され、それについての小説がいくつも発表されている。その新しいテーマとは、
「エイズ」
である。
日本人はまだノホホンとしているが、欧米では著名なアーティストがバタバタとエイズに倒れ、深刻な文化的危機を迎えようとしている。
〈エイズ〉の周辺には、人間の愛と死と生の深い問題が隠されている。まさに文学のかっこうのテーマと言えるのだろう。
『ぼくが彼と幸せだった頃』(クリストファー・ディヴィス著、福田廣司訳、早川書房刊)は、まさに、典型的エイズ小説である。
アメリカのインテリ白人ゲイ青年が、恋人の男性と恋の歓喜を味わったのち、エイズに感染し死んでゆく話である。
こう書くと、悲惨な話のようであるが、エイズ感染の具体的症状は話の後半に簡略に著されているだけで、話の大半は主にゲイの純愛物語と、同性愛の息子を持った両親の、それでも我が子を愛する家族愛から構成されている。
私が素晴らしいと思ったのは、エリート白人青年である〈ぼく〉が、自分がゲイであることを何ら恥ずかしがったり卑下《ひげ》したりせず生きてゆくその正直さである。
男同士の愛の行為の快楽や、男同士の三角関係に生ずる嫉妬《しつと》心もキチンと正直につづられていて、なかなか興味深い。
そこに描かれているゲイたちの姿は、少女が勝手に妄想するロマンチックな美少年たちの恋物語より、かなりハードである。
それでも全編に流れるユーモアと、愛の一途《いちず》さが読む者にすがすがしさと感動を与えるのである。
ゲイの話もエイズの話も、あたしには関係ないわと思っている若い女の子の方が多いかもしれない。
けれど、自分自身に正直であること、自分自身を隠したりごまかしたりしない態度は、絶対学ぶべき点がある。
不特定多数の異性と交際するのが大好きな女の子は、
「実は私は、SEXが大好きなのよ」
と、正直に両親に言ってみてはどうだろう。
あるいは、男の子のことがちっとも好きになれない女の子は、
「私は、一生、男性とつきあう気はないの」
と、親友に打ち明けてみては。
自分自身を正直に見つめることは、すごく勇気がいることだけれど、一度それをやってしまうと、無駄な寄り道をずいぶん省けると思うのだが。
ホントは色んな人と楽しくSEXしたいのだけど、親が勧めるから真面目《まじめ》なだけが取柄《とりえ》の安定した男と見合い結婚をするとか。
友達みんながボーイフレンドを持ってるから、会話も貧しい退屈な男の子とデートして日曜日をつぶすとか。
そして、自分自身で結論を出し、寄り道を羨《うらや》んだりしない態度を持てば、充足した人生が送れるはずである。
などと、エラそうなことを書いてしまったが、実は私自身なかなか自分に正直になれなくて苦しんでいる情けない人間なのだ。その分、自分の漫画に思いっきり大胆なキャラクターを登場させて発散しているところがある。
そんな私が最近、
「この人は正直だ」
と、心から感心している人物がいる。
直木賞作家の志茂田景樹先生こそ、その人だ。
社会的地位も、作家としての才能もある彼が、なんの必要があって、ラメ入りのショートパンツに紫色のストッキング姿にならなくてはいけないのだろうか。
そのいでたちと発言にギョッとしながらも、
「あそこまでできたら気持ちいいだろうな」
と、心底|憧《あこが》れる部分も私にはある。
一度裸になった人間にはもう怖いものはないはずだ。
志茂田先生や大屋政子さんといった、潔く自分のライフスタイルをアピールする人物に、妙に心|魅《ひ》かれる昨今の私なのである。
同様に、ゲイであると公言するゲイにも好感を抱くのである。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※ナチ占領下のドイツで「ホモ狩り」に遭い、強制収容所に送られたゲイ二人組の純愛を描いた映画『ベント』は、近来|稀《まれ》に見る愛の傑作であった。[#「※ナチ占領下のドイツで「ホモ狩り」に遭い、強制収容所に送られたゲイ二人組の純愛を描いた映画『ベント』は、近来稀に見る愛の傑作であった。」はゴシック体]
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[#小見出し] 私にとって、男性の身体《からだ》のパーツで、[#「私にとって、男性の身体《からだ》のパーツで、」はゴシック体]
[#小見出し] お尻《しり》はかなり重要な[#「お尻はかなり重要な」はゴシック体]
[#小見出し] 位置を占めている。[#「位置を占めている。」はゴシック体]
先日、たまたま浅草のあたりを歩いていたら、ちょうど三社祭りとぶつかった。
褌《ふんどし》、はっぴ、ねじり鉢巻《はちまき》のいなせなお兄さんたちが、せいやせいやと神輿《みこし》を担《かつ》ぐ姿を見て、
「喧嘩《けんか》と祭りは江戸の花だなぁ」
と思った。
私の故郷、徳島では、あまりに「阿波踊り」が偉大すぎて、その他の祭りはかすんでしまっている。一応、秋祭りが近くの神社で催され、神輿が繰り出されるのだが、非常にこぢんまりとしたものだった。褌の若者も記憶にない。秋で涼しいこともあり、ももひき姿の近所の若い衆が担いでいたのか。
「阿波踊り」にも、褌はない。
男踊りは腹にさらしを巻き、短パンツの上に浴衣《ゆかた》を羽織って踊る。
そういう人生を過ごしてきた私にとって、東京の路上でいきなり出くわした〈若者の褌姿〉は、カルチャーショックだった。
目の前に男の裸の尻があるなんて。生まれて初めての経験だった。
以前おかまバーで、おかまの裸踊りを見たことはあるが、素人の男の子の剥《む》き出しのお尻を目前三十センチしかも公道で見るのは初体験だったのだ。
私にとって、男性の身体のパーツで、お尻はかなり重要な位置を占めている。
胸板とお尻。
これらのパーツが美しい男の裸体が好みである。好みといっても撫《な》でまわす訳ではなく、ただ単に鑑賞用である、私の場合。
数年前は田原俊彦のヒップが日本で一番美しいと思っていた。
ダンスで鍛えられた、キュッと持ち上がった形が理想に近い、と思ったのだ。
さらにもっと以前は、郷ひろみのヒップがいいなあと思っていた。
運動選手のそれは、あまり好みではない。筋肉がつきすぎているのだ。特に野球選手は、
「ケツがでかいほど一流選手」
と言われているぐらいだから、鑑賞用美からはかけ離れている。
サッカー選手は、ヒップから続く太い二本の足が気にくわない。
そんな中で、例外的に美しい運動選手のヒップを最近発見した。
貴花田、である。
実は先場所の七日目の取組みを私は両国国技館で観戦したのである。私の座ったマス席は、ちょうど西の力士のお尻のま後ろに位置し、そのおかげで貴花田の後ろ姿をじっくり観察することができた。
実際に見る貴花田は、他の力士より圧倒的に足が長く、その長い足の上にちょうどいい形のヒップがのっかっていた。
やっぱり貴花田はスターだなあ、と、改めて感心した。
去年、モックンのヌード写真集を見た時、意外と足が太いので驚いた。ヒップはなかなかいい形であったのだが、それに続くももが太すぎるように感じられ、マイナスポイントとなってしまった。ヒップと足は、やはりワンセットで美を形成しているのだろう。
それにしても、どうして女は男の裸体にあまり欲情しないのであろう。
男のヌードはもっぱら同性愛の情欲刺激に役立つらしいが。
パーツの形態としての美は認めるが、それによって興奮することは少ない。
男のお尻がわいせつならば、相撲《すもう》の公開は差し止められるであろうし、褌姿で神輿を担ぐのも取り締まられてしまうだろう。
つまり、土俵や祭りの場での男のお尻は、
「いたずらに公衆の情欲を刺激する」
規範から外れていることになる。
力士の、まげにまわしというスタイルがある種の|完成された美《・・・・・・》であることから、褌には、日本髪、あるいは短髪が似合うことがわかる。
褌に江口洋介ヘアは合わない。まるで湯上がりの由井正雪《ゆいしようせつ》のようになってしまうからだ。
ロック風金髪の長髪にもきっと褌は合わない。そして、合わないという部分にきっとわいせつさが漂ってくるはずだ。
以前、X JAPANのヨシキのヌード写真を週刊誌で見たが、なかなかにエロティシズムがあふれていた。あの、なまめかしい長髪が男の裸体にはアンバランスで、そこにエロスが生じたのであろう。
バランスを崩すところにエロティシズムは存在する。
完成された(バランスのとれた)肉体にはエロティシズムは宿りにくい。
というのが、今回の結論である。
だから、祭りのお兄さんが、短髪で褌姿である限り、完成されたスタイルがそこに存在し、女性も安心して鑑賞することができるのだ。
長髪で、生っ白《ちろ》くやせた男が褌姿で現われたら、やっぱり困ってしまうだろうな。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※雑誌「アンアン」では、毎年恒例のように有名男性のお尻ヌードが表紙を飾っている。[#「※雑誌「アンアン」では、毎年恒例のように有名男性のお尻ヌードが表紙を飾っている。」はゴシック体]男の尻は、市民権を得たのだろうか。[#「男の尻は、市民権を得たのだろうか。」はゴシック体]
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[#小見出し] 繊細な人にとっては、心優しさと真面目《まじめ》さが、[#「繊細な人にとっては、心優しさと真面目さが、」はゴシック体]
[#小見出し] 逆に突拍子もない表現に[#「逆に突拍子もない表現に」はゴシック体]
[#小見出し] 結びついてしまうのだろうか。[#「結びついてしまうのだろうか。」はゴシック体]
夏といえば、サザンの音楽。そして、桑田佳祐、である。
桑田佳祐と私はほぼ同じ年である。そしてハラボーと私は全く同い年なのだ。
サザンのデビューと、私の漫画家デビューは同時期である(時代でいえば、その年度はトシちゃんが『哀愁でいと』でデビューした時期)。
そんなこんなで桑田佳祐にはかなりな思い入れがある。
私は大学生時分、現夫のところで漫画のアシスタントアルバイトをしていた。当時貧しかった弘兼憲史はアシスタントに学生バイトしか雇えなかったのである。彼の仕事場には、私以外にも数名の大学生バイトが出入りしていた。
O君は、私と同い年で、当時R大生だった。彼は漫画研究会に属しながらも、傍《かたわ》らでバンド活動も行っていた。いつも汚らしいトレンチコートをひきずって、ワークパンツにドタ靴だった。仕事場に来る編集者の中には、
「ヒロカネプロには浮浪者がまじってる」
と言った者までいた。
顔も泉谷しげる風で、おまけに冬は長髪、夏は丸坊主という極端なヘアスタイルを好んでいた。一見、とても女子大生が近寄れる相手には思えなかった。
口数も少なく、ぶっきらぼうで、さらに、男のアシスタントたちは集まるとワイ談ばかりしていたので、私はいつも彼を敬遠しがちだった。
そんなある日、彼が私に一枚のシングルレコードを差し出した。
『勝手にシンドバッド』
フザケたタイトルである。タイトルイメージとしては『日本全国酒飲み音頭』に近い。
「これ、今度青学のバンドが出すシングルなんだけど、ちょっとおもしろいよ」
と、O君は私に説明し、仕事場のプレーヤーにさっそく乗せた。
歌詞はさっぱり訳がわからない。デタラメだ。けれど、やけにノリのいいミュージックではあった。
「学生仲間じゃちょっとすごい奴《やつ》らだって評判なんだけど……。うん、でも、このくらいならボクらだって……」
というO君の言葉に、私は思わず顔を上げて彼の表情を確かめた。
今まで見たこともないような真剣で、挑発的なO君の瞳《ひとみ》に私はハッとした思い出がある。「青春」の目だったのだ。
R大生の彼は、青学大生のサザンにかなりライバル意識を持っていたのだろう。
『勝手にシンドバッド』をきっかけに、O君と私は少しずつ親しくなっていった。
話してみると、彼は風ボウとは裏腹に、実に礼儀正しく繊細で真面目な人物であることがわかった。そして、誰よりも心優しかった。決して人の悪口や皮肉を口にしなかった。
それは一見真面目そうでありながら、いつもシニカルな態度で人を傷つけてばかりいた学生時代の私とは対照的であった。
O君の漫研仲間から、彼が埼玉の方のお金持ちの息子で、小学校からのR学育ちというお坊ちゃまであると知らされた時、私は、彼の汚らしい服装はすべて、彼のシャイさの裏返しであることに気づいたのだ。
そののちO君は、漫画家にもミュージシャンにもならず、一時期コメディアンの弟子になったものの、結局は普通のサラリーマンに落ち着いていた。
O君が二十五歳の若さで急逝《きゆうせい》したと知らされた時、私はすでに結婚して長女をみごもっていた。
「ある朝、家人が起こそうとしたら、フトンの中で死んでたんだって」
と、かつてのアシスタント仲間が報告してくれた。
桑田佳祐を見るたびに、私はこのO君を思い出す。
何度かサザンのコンサートに足を運んだ私は、ステージ上で何かに取りつかれたように全身で歌い上げる桑田に、薄汚いトレンチコートをまとったO君を見るのだった。
心優しさと真面目さが、繊細な人間にとっては逆に、あのような突拍子《とつぴようし》もない表現に結びついてしまうのだろう。その根底は、青春の限りないパワーにあるのだろうか。
十年ほど前、私は雑誌の仕事で桑田にインタビューしたことがある。思ってたとおりの、シャイで真面目な人だった。伏し目がちにボソボソしゃべる。けれど、私が『いとしのエリー』のメロディーはビートルズに近いですね、と言ったとたん顔を上げ私に向かって、
「ビートルズ、好きなの?」
と、目を輝かせた。
その目の光は、あの、ヒロカネプロのプレーヤーの前でO君が見せた目の輝きと同じものだった。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※「エロティカ・セブン」の歌詞に「魚眼レンズで君をのぞいて」という一節がある。[#「※「エロティカ・セブン」の歌詞に「魚眼レンズで君をのぞいて」という一節がある。」はゴシック体]これが、ホテルのドアののぞき穴越しに女の顔を確かめている、という状況をさすということに最近やっと気づいた。[#「これが、ホテルのドアののぞき穴越しに女の顔を確かめている、という状況をさすということに最近やっと気づいた。」はゴシック体]男が先にホテルに来て女を待っていたというストーリーをたった一言「魚眼レンズで君をのぞいて」で表現する桑田佳祐のセンスの良さに改めて感心した。[#「男が先にホテルに来て女を待っていたというストーリーをたった一言「魚眼レンズで君をのぞいて」で表現する桑田佳祐のセンスの良さに改めて感心した。」はゴシック体]
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[#小見出し] 外人でカーテン越し、[#「外人でカーテン越し、」はゴシック体]
[#小見出し] このくらいのベッドシーンが[#「このくらいのベッドシーンが」はゴシック体]
[#小見出し] 少女には適当なのだ。[#「少女には適当なのだ。」はゴシック体]
日本人にあって、西洋人に絶対ない顔のパーツは一重マブタ、である。細い切れ長の一重目の西洋人に私はいまだかつて一人も出会ったことがない。
逆に西洋人によく見られて、日本人にあまり見られないものに〈顎《あご》のくぼみ〉がある。下唇から顎にかけて一本スッと線を引いたようにくぼみを刻んだ外人顔に、洋画のスクリーンでよく出会う。
古くは、ロバート・ボーン(今もいるのかもしれないが、二十数年前テレビドラマ0011ナポレオン・ソロで有名だった)、そして、今は、マイケル・ダグラスである。
彼は、典型的ガイジン、だと思う。肉食って育ったなあ、という雰囲気が全身にみなぎっており、草食人種の日本人としてはたじたじとなってしまう。
『危険な情事』『氷の微笑』はともに、大胆なエッチシーンが話題を呼んだダグラス主演映画である。
女の子にとって映画のベッドシーンは、外人主演の方が安心して見られる。かなり激しくきわどい場面も、
「あれは、ガイジンだから」
と、ワンクッション置けるからだ。
金髪の美女や顎にくぼみの胸毛男がからみ合っていても、どこか絵空事のような空気が漂い女の子の救いとなるのだ。
日本人同士があらわにからみ合ってると、
「あらら――っ」
と、目を伏せてしまう。その生活臭に嫌気がさしてしまうのだ。
だから、同じ日本人同士でもチョンマゲ侍と日本髪の遊女ならば、まだ笑って見られるような気がする。「これ、ごむたいな」の世界であるから。様式美としてのエロティシズムとして浮世絵《うきよえ》の春画だって鑑賞できる。
私が少女時代、一番感動を受けた映画のベッドシーンは『ロミオとジュリエット』である。
当時十五、六歳のオリビア・ハッシーがヌードでベッドに横たわり、当時十三歳の私は、心から憧《あこが》れたものだ。中世の外国が舞台で、ベッドの周りに白い薄く透き通るカーテンがかけられていたのも魅力だった。やはり外人でカーテン越し、このくらいのベッドシーンが少女には適当なのである。
けれど、少女時代にあまりに白いカーテンに覆われたベッドシーンばかり見すぎると、現実に自分が体験する段になって、あれれ、と驚くことが多すぎて戸惑ってしまうことがあるので用心した方がいい。
テレビドラマのベッドシーンでは女優さんが必ず胸のあたりをシーツで隠しているのでそういうものだと信じて育った少女が、現実に自分の番になった時、相手の男がガバッとシーツをひっぱがしたので思わず、
「違う」
と、叫んでしまったという話を聞いたことがある。
私もおとなになって、シーツやカーテンを通さないベッドシーンでもちゃんと鑑賞できる年頃になったが、それでも『危険な情事』と『氷の微笑』はエッチであった。
この二本が強烈なので、私にとってマイケル・ダグラス、イコール、ベッドシーンの男 となってしまった。
けれどマイケル・ダグラスは、ただの「それしか頭にない」男とは、違う。
インテリに隠された哀《かな》しい獣性。
これが、彼の魅力のような気がする。
「ふだんは優しくて紳士でいい人なのに……やっぱり、彼も男だったのね」
というタイプである。
こういう人は、ふだん優しくてずーっと優しいばかりの男よりも、深みがある分、女も魅力を感じるものだ。
だけど、夫に持つと、ちょっと厄介《やつかい》だ。
ふだん優しくて物の分別もある夫が、こと女に誘惑されるととたんに獣になってしまう。――ふだんいい夫だけに許せない。人間だからね、わかるわよ、そういうことあるのよね。でも、やっぱり夫がそういうことするのって、許せないッ。――『危険な情事』の妻はまさにその立場だった。
『危険な情事』では、浮気相手の女が、とんでもない奴《やつ》だったので、夫婦仲直りして一家を守る結末となっていたが、あの映画で浮気相手が気のいい女で、男の家庭を思って、そっと身を引くようなタイプだったとしたら、夫は一生ニヤニヤ顔のゆるみっぱなしで、反省の一カケラも見せなかったと思う。
根がそんな悪い奴でもないだけに、こういう夫を持つと、妻は不幸である。
不幸だけど、結局は泣き寝入り、である。
若い読者のみなさんは、将来マイケル・ダグラスのような夫と結婚すると、苦労しますよ、と、だけ忠言しておきます。
ともかく、洋画のベッドシーンを見ると、やっぱり外人は男も女も激しいなあ(情緒には欠けるけど)と、改めて感心させられる。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※政界のマイケル・ダグラスは、ビル・クリントンである(顎、割れてよし)。[#「※政界のマイケル・ダグラスは、ビル・クリントンである(顎、割れてよし)。」はゴシック体]ハウィンスキーは、グレニ・ローズより恐かった。[#「ハウィンスキーは、グレニ・ローズより恐かった。」はゴシック体]
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[#小見出し] 女は恋に走るが、男の大抵は[#「女は恋に走るが、男の大抵は」はゴシック体]
[#小見出し] 恋より男同士の友情や[#「恋より男同士の友情や」はゴシック体]
[#小見出し] 仕事の方を選ぶ。[#「仕事の方を選ぶ。」はゴシック体]
よく言われることだが、男は恋より友情を選び、女は恋人ができると友情を壊す。
中学・高校と女の子同士群れていたのが、ハタチを過ぎて恋人ができるや、女友達を捨ててさっさと男に走るケースを、私はいくつ目にしてきたことか。
それにひきかえ、仕事や友情を捨てて女に走った男を、三十五年の人生で私は唯《ただ》一人しか知らない。実は十年ほど前、
「女は恋に走るが、男は決して恋に溺《おぼ》れない」
とエッセイで発表したところ、当時の担当編集者の男性が仕事をすっぽかし、女の子と恋の逃避行に走ったと聞かされ、急いで前言を取り消したのだ。
「女は恋に走るが、男の大抵《ヽヽ》は恋より男同士の友情や仕事の方を選ぶ」
と。
とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンと、男二人コンビのお笑いが今受けているのは、そこに〈男同士の学生時代の友情〉を見つけるからだ。
古くは夢路いとし・喜味こいし、横山やすし・西川きよし、といったふうに男二人コンビはお笑いの伝統であった。
〈ぼけとつっこみ〉
という基本パターンで笑いを誘うという点では、漫才ブーム時のツービートや紳助竜助もそうであった。
けれど、とんねるずの出現は、それまでの既成のお笑いコンビのパターンを打ち破るものであった。
まず、どっちがぼけで、どっちがつっこみかよくわからない。時と場合によってぼけと、つっこみの役割が交代するのだ。
それは、ダウンタウンやウンナンにも言える。外見的にはウッチャンが二の線でつっこみで、ナンチャンが三の線のぼけと見えながらも、最近の『やるならやらねば』などを見ると、その役割分担がすでにグチャグチャに崩れ去っていることがよくわかる。
ウッチャンは〈槇原敬之〉の形態模写で一皮むけましたね。彼はもう二の線は捨てたのだろうか。
とんねるず、ダウンタウン、ウンナンを見ていると、学生時代クラスに必ずいた悪フザケをする二人組を思い出す。
同じクラスの二人ということで、そこに上下関係はない。それまでの〈ぼけ・つっこみ〉漫才とは、そこが大きく違うのだ。
お互いこきおろし、時には足を引っぱり合い、小さく裏切り合ったりしながらも、根底には、
〈同じクラスの友達じゃないか〉
という意識がある。
その安心感が、若者には受けるのだと思う。
友情を基盤にしたお笑いコンビの先駆者であるとんねるずに、テビュー当時から世間の風当たりは強かった。
今、ここに、七年前の週刊誌がある。街頭インタビューで、とんねるずについてどう思うか、と道行く人に聞いている。七年前といえば、オールナイトフジで、とんねるずが馬鹿当たりしていた頃であろうか。
――今、だけよね。来年は消えてる――
それが当時の世間のおおむねの見方であった。若者ですら、そう答えているのだ。
けれど実際のところ、彼らはパワーダウンするどころか、より一層活力を増している。
やはりその七年前当時のことである。私はテレビを見ていた。画面では、大勢の若者を前に、とんねるずがステージ上に立っている。観客の若者から何か怒号が石橋貴明にとんだ。それに対して、石橋が猛然と怒り始めた。まさに相手に殴りかからんとするその時、後ろから木梨が取り押さえた。
「すみませんねえ、こいつ、時々、ここが切れるんですよ」
そういって木梨は自分のこめかみのへんを指差した。
〈プッツンする〉(注)
という流行語は、実はここから生まれたのだと私は確信している。
それまで、こめかみのあたりの血管が切れるというギャグは一切見たことがなかった。
そのように時々プッツンする石橋をいつも木梨はまあまあと、取り押さえた。
逆も又、しかり。
怒り狂う木梨をなだめる石橋という図式も時に目にする。
このへんのフォローのし合いがいいなあ、と思うのだ。
例えば、太平シローがプッツンしても太平サブローは、少し距離を置いて冷ややかに見ているだけだと思う。
とんねるず、ダウンタウン、ウンナンが、友情を見失わずコンビを続ける限り、若いファンはついてゆくのではないか、と思う。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※とんねるずとダウンタウンには、もはや友情は失われているように思えるが、ウンナンは変わらず仲良さそうだ。[#「※とんねるずとダウンタウンには、もはや友情は失われているように思えるが、ウンナンは変わらず仲良さそうだ。」はゴシック体]それよりも爆笑問題のSとMを連想させる関係に興味シンシン。[#「それよりも爆笑問題のSとMを連想させる関係に興味シンシン。」はゴシック体](注)「プッツン」は死語になってしまったが、「キレる」は社会現象にまで発展。[#「(注)「プッツン」は死語になってしまったが、「キレる」は社会現象にまで発展。」はゴシック体]
[#改ページ]
[#小見出し] ガイジン=美形という図式は、[#「ガイジン=美形という図式は、」はゴシック体]
[#小見出し] アメリカの田舎町を旅すれば、[#「アメリカの田舎町を旅すれば、」はゴシック体]
[#小見出し] すぐ崩れ落ちる。[#「すぐ崩れ落ちる。」はゴシック体]
一時期、西洋っぽい顔がもてはやされた。
雑誌のグラビアでもテレビCMでも、バタ臭い外人顔があふれていたものだ。ハーフっぽい顔立ちであれば、それだけで美形とみなされていた。それは日本人の根強い西洋コンプレックスとも関わりがあるように思える。
確かに映画館で西洋人スターのデコボコした顔を見た後、洗面所の鏡で自分の顔と対面すると、
「なんと扁《へん》ペイな――」
と、落胆し、劣等感にさいなまれるものだ。
けれど、洋画のスクリーンに登場するのは外人の中でも特に選《え》りすぐりの美男美女なのである。ガイジン=美形、という図式は、実際アメリカの田舎町を旅すればすぐ崩れ落ちる。たいていのアメリカ人はデブかシワくちゃだ。アメリカ人の美形率は人口のせいぜい二割――それもティーンに集中しており、中年以降の一般ピープルは、肌も荒れ、尻《しり》もでかい。腹が出て、禿《は》げが多い。
ガイジン恐るるに足らず。
近年、若い人を中心にこの考えが広まったのは、手軽に外国旅行ができるようになった日本人が〈スクリーン以外の一般西洋人〉を直接目にし、
「なんだ、こんなものか」
と自信を持ち始めた結果ではないか。
永瀬正敏。
私は、彼を〈第三のニッポンジン〉と呼びたい。
第一のニッポンジンは、いわゆる文明開化以前の原ニッポンジン。のら仕事や、あるいはチョンマゲの似合いそうな伝統的日本人をこう呼ぼう。
そして第二のニッポンジンとは、明治以降、絶えず西洋を意識し、第二次世界大戦の大敗でますます外人コンプレックスを強め、アメリカ、イコール、偉い、と心の隅で思い続けている日本人である。私の周りはこの第二のタイプが圧倒的に多い。子供時代はキャロライン洋子に憧《あこが》れ、中学時代はヒッピーに刺激を受け、高校でウッドストックにかぶれ、大学でサーファーの洗礼を受けるといった、絶えずアメリカを意識し続けた人生を送っている。
そして、第三のニッポンジンとは、
「アメリカ、なんぼのもんじゃい」
という新しい若い日本人のことである。
私が初めて永瀬君を見たのは映画『ミステリー・トレイン』でのことだ。ジム・ジャームッシュというアメリカで最も先鋭で才能ある監督に起用された彼は、そこで全く新しい日本人の若者像を表現していた。
それまで外国作品に登場する日本人俳優といえば、ミフネトシロウに代表される熱き侍魂《さむらいだましい》の固まりのような役柄ばかり当てはめられていたように思える。
ところが『ミステリー・トレイン』で、プレスリーの故郷を見学に来たひょうひょうとしたニッポンジン若者=永瀬くんは、アメリカに対する熱い気負いもコンプレックスもみじんも感じさせない〈新しい〉日本人だった。
永瀬くんについて言えば、顔がまずいい。
あの、圧倒的一重まぶたの目。そして頬骨《ほおぼね》の張った輪郭は、明らかに原ニッポンジンのそれである。吉田栄作とも加勢大周とも全く異なる顔立ちである。たとえば、吉田栄作が地下鉄の改札係であったなら、
「改札係はやめて芸能人になりなさい」
と、切符を渡す人百人中九十九人がそう声をかけると思う。
けれど、永瀬くんが改札口に立っていたら、
「若くて遊びたい盛りに地道な仕事を選んで偉いね」
と思いはしても、決して誰もテレビ出演を勧めたりはしないであろう。
映画『息子』を見て、永瀬くんに対するこの思いはますます深まった。
東北地方から出てきて、3K仕事に従事する勤労青年永瀬くんは、決して一昔前の生真面目《きまじめ》一本やりの熱血青年ではない。相変わらずひょうひょうとしているし、おとなから見れば、
「何、考えてんだか――」
と舌打ちしたくなるようなところも多々ある。
けれど、彼を見ていると、なぜか懐かしさと親しみがわき上がり、
「頑張れよ」
と、声をかけたくなってしまう。なぜか、そのへんの軽いだけの若い男の子とは違う、と思ってしまうのだ。
あの原ニッポンジン的|面立《おもだ》ちが安心と懐かしさを呼び、無駄な肉など一片もない、しなやかな肉体が若さの軽やかさを表現している。その軽やかさとは、何物にも屈せず、劣等感も抱かず、さりとて思い上がりも感じさせないといった、まさに今の新しい若者の魅力そのものなのである。
今後、彼がどういった役者に成長していくのか、実に楽しみである。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※キョンキョンと結婚して以降、やけにアート志向になってしまった永瀬クン。[#「※キョンキョンと結婚して以降、やけにアート志向になってしまった永瀬クン。」はゴシック体]永瀬というと、今やTOKIOの智也の方がメジャーになってしまった。[#「永瀬というと、今やTOKIOの智也の方がメジャーになってしまった。」はゴシック体]大衆的なドラマにも出て欲しいと思う。[#「大衆的なドラマにも出て欲しいと思う。」はゴシック体]
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[#小見出し] 若者たちがクイズという[#「若者たちがクイズという」はゴシック体]
[#小見出し] 無駄なものに真剣な汗を流す[#「無駄なものに真剣な汗を流す」はゴシック体]
[#小見出し] 姿が良かった。[#「姿が良かった。」はゴシック体]
私のアシスタントのS子ちゃんは、ふだん大学生で〈クイズ研究会〉というサークルに属している。
その大学のクイズ研は、世間にも知られた存在で、数多くのクイズ番組で優勝者を出している。学業そっちのけでクイズに打ち込み、留年を重ねる者さえいるらしい。
「クイズの何がそんなに楽しいのかな?」
と、私がS子ちゃんに聞いたところ、
「みんなが知らない問題を解答した時、会場から漏れる『おお〜っ』という感嘆の声が快感で、それが病みつきになるのでしょう」
という答えであった。
観客の、
「おお〜っ」
という声が病みつきになるという話は、舞台演劇人やステージ歌手、スポーツ選手から聞かされたことがある。が、まさか、クイズマニアまでそうだとは思いつきもしなかった。
かくいう私はクイズ番組が大好きで、レギュラーも特番もクイズ物には必ずチェックを入れている。
そこで気づいたのだが、クイズ王と呼ばれる人は、そのほとんどが男性だということだ。
あの『日本大食漢コンテスト』ですら女性優勝者が出たのに、歴代の『アメリカ横断ウルトラクイズ』『FNS一億二千万人のクイズ王決定戦』『ギミア・ぶれいく 史上最強のクイズ王決定戦』の優勝者に女性はいないのである(と、この時点では思っていたのだが、実際には何人かいたらしい。すみません。チェック不足でした)。最終予選通過者も女性の数は格段に少ない。
それは、なぜか。なぜ、クイズに熱中するのは圧倒的に男性が多いのか。
女性は役に立たない知識のために努力するのは馬鹿馬鹿しいと考えるからだ、と、私は思う。
特に、二十歳過ぎたおとなの女は、実用一本になりやすい。OL時代は、ファッション着回しスケジュールで頭が一杯だし、主婦になれば使いやすいキッチン収納や安い肉のおかずを考えることで一日が終わってしまう。
だから、世界一長い国の名前が〈セント・ヴィンセントおよびグレナディン諸島〉であることなど、覚えようとも思わない。
数多くあるクイズ番組の中で、唯一主婦向けと思われるもの(月〜金、午前十時からやっている)の、問題には驚かされる。
「午前十時と午後三時に食べるお菓子のことを何と言いますか?」
――「答え、おやつ」
幼稚園の入試だってもっと難度が高いと思うのだが。きっとあのワクはクイズ番組じゃなくて、早押し景品ぶったくりゲーム番組なのであろう。
女性が年とともに、実用だけのつまんない人生に落ち込んでゆくのに対し、男性の中には、一向に何の役にも立たないことにのめり込んでゆくクイズマニアが存在する。
今年の『高校生ウルトラクイズ』を見て、ますますその念を強めた私である。
最終予選で、女の子のグループはほとんど落ち、男子高校生たちのクイズマニアグループが残った。
高校生とは思えない知識の豊富さ。
勝負に賭《か》ける真剣なまなざし。
正誤に一喜一憂する素直さ。
これらが私の心を捉《とら》えた。
さらにも増して、解答者の男子高校生たちのルックスの良さ。みんな今風のスラリとした身体《からだ》に、今風の面長《おもなが》な顔立ちなのである。極端な丸顔やエラ張りがいないのは、時代、なのであろうか。
若者といえば、ナイフをちらつかして渋谷で徒党を組んでケンカしているもの――とばかり思っていたおとなたちは、この『高校生クイズ』を見て、びっくりしたはずだ。
今の若いモンは馬鹿ばかりと、タカをくくっていた老人たちも腰を抜かしたはずだ。
『高校生クイズ』の若者たちが示してくれたのは、グレもせず白けもせず、ちゃんとまともに、けれどいきいきと生きる可愛《かわい》い男の子たちがいるということだ。
私は、これが嬉《うれ》しかった。
クイズという無駄なものに真剣な汗を流す姿が良かった。
プロを目指して甲子園で球を投げるのでもなく、一流大学を目指して模擬試験を受けるのでもなく、女の子にモテたいためにギターを弾くのでもなく、無駄な知識を記憶する姿が良い、と、私は思うのだ。
ちなみに私は、釣りとかプラモデル作りとか鳩の飼育とか、実用性の全くない趣味に打ち込む男の子が好きである。なぜなら、そういう無駄な遊びの時間こそ〈少年の時間〉だと、少年を語らせれば一家言《いつかげん》アリの私は考えているから。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
※ちょっと前、お昼の十二時から「おサイフクイズ」という、おそらく史上最易のクイズ番組があった。[#「※ちょっと前、お昼の十二時から「おサイフクイズ」という、おそらく史上最易のクイズ番組があった。」はゴシック体]
問「『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞をとった作家は」[#「問「『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞をとった作家は」」はゴシック体]
答「芥川龍之介」[#「答「芥川龍之介」」はゴシック体]
こんなレベルの出場者ばかりで、あっという間に打ち切られた。[#「こんなレベルの出場者ばかりで、あっという間に打ち切られた。」はゴシック体]
[#ここで字下げ終わり]
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[#小見出し] 本当に価値ある人間は、[#「本当に価値ある人間は、」はゴシック体]
[#小見出し] 普通の顔をして目立たず、はしゃがず、[#「普通の顔をして目立たず、はしゃがず、」はゴシック体]
[#小見出し] 普通に生きているものだ。[#「普通に生きているものだ。」はゴシック体]
私事で恐縮ですが、私は、今年三十五歳である。この年になると、かつての級友たちが、偉くなった人と、あまり偉くならなかった人に分かれてくる。
聞くところによると、ファイナル・ファンタジーというファミコンソフトを開発・販売している会社の社長が、私の中学時代の同級生M君であるらしいのだ。
「ファイナル・ファンタジーは、すごいッスよ。今、一番売れてるソフトで、その会社の社長なら大金持ちッスよ」
と、ファミコンに詳しい知人が教えてくれた。
へー、あのM君が、と、私は驚いた。そして、M君の顔を思い出そうとしたが、ちっとも思い出せない。
格別なハンサムと格別なおもしろい顔は思い出せるのだが、中途半端に普通な顔というものは、どうも印象に残らないらしい。
顔はともかく、では、M君はどんな性格の子であったのかと思い出そうとしたが、これも行き詰まってしまった。
格別な特徴のある子ではなかったのだ。
中学時代には、もっと個性的でもっと目立つ子がいっぱいいた。けれど、出世|頭《がしら》は何といってもM君であろう。人の才能とは、中学高校くらいで目立たないものなのだ。
とかく、若い頃は、派手で目立つ者に気がゆくものである。
けれど、本当に価値ある人間は、普通の顔をして目立たずはしゃがず普通に生きてるものなのである。
良いおとなの男とは、どういう人であろうか。お金持ちで地位もある成功者が良いおとな、と、若い人は考えることだろう。
この考えは、あながち間違っていない。
現実のおとなの社会では、人望のある人しか地位と成功を勝ち取ることができない。
テレビドラマや映画では、腹黒くて悪徳を働く成功者が登場するが、そんな他人がついてゆく気にならない人間が現実で成功するはずがない。
良い人が必ずしも成功して人望を得るとは限らないが、成功して人望のある人は間違いなく良い人である。
では、人望があるとは、どういうことか。
それは、バランスがとれている、ということである。一部分だけ突出している人間も魅力的ではあるが、大勢の人の支持を得るには、バランスのとれた穏やかな人格が必要である。
つまり、周囲が緊張するほど神経が鋭すぎる人も困るし、自分の頭の良さをこれみよがしに吹聴《ふいちよう》する知性でも嫌がられる。
周囲を見まわし、ほどよい感情表現、ほどよい頭の良さをさり気なくアピールできる人が、バランスの良い人間といえる。
それがあんまりさり気ないものなので、周囲の人は、
「なんだ、普通の人なんだ」
と、安心してしまう。
これこそが、本当に|良いおとな《ヽヽヽヽヽ》なのである。
毛利衛さん。
日本人として初めてスペースシャトルに乗り込み、宇宙から地球の子供たちにわかりやすい理科の授業を講義してくれたおじさんである。
毛利さんこそ、先に述べた〈良いおとな〉の代表と言えるであろう。
顔もスタイルも普通である(もっとも、個人的にはかなり私好みの容姿ではある)。
宇宙に飛び出しても、慌《あわ》てずはしゃがず、さりとて冷淡という訳でもなく、少し頬《ほお》を上気させながら、喜々《きき》として任務を遂行し続ける毛利さんに、私は、
「日本の男も捨てたもんじゃない」
と、大拍手を送り続けていた。
ある新聞の投書欄に、
「SF好きの私は、長い間宇宙旅行に夢をはせていましたが、現実に半ズボンの中年男が宇宙船に乗っている姿を目のあたりにして、ガッカリしました」
という意味のものが取り上げられていた。
私は、この意見に真っ向から立ち向かう。ストライプのポロシャツに半ズボン姿の中年男たちの姿こそ、
「美しい」
と、私は感動したのである。
六年間もNASAで訓練に訓練を重ね、知力、気力、体力の極限まで達したはずである。けれど、そんな気負いや悲愴《ひそう》感をみじんも感じさせずに、質の高いユーモアで、さり気なく宇宙旅行の素晴らしさを伝えてくれた毛利さんは、間違いなく本物のおとなである。
そういうおとなの日本人男性が存在してくれるだけでも、ありがたい、と、私は思ってしまう。
でも、彼もきっと、中学・高校時代は、クラスで女の子にもてはやされるタイプではなかった、と思う(もてはやされてたら、ゴメンナサイ)。
若い女の子たち、こういう本物の男を見抜く目を養ってね。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※昨年、機会があって毛利衛さんにお会いすることができた。[#「※昨年、機会があって毛利衛さんにお会いすることができた。」はゴシック体]イメージどおりの頭の良い、さわやかな、人格もすぐれた方だった。[#「イメージどおりの頭の良い、さわやかな、人格もすぐれた方だった。」はゴシック体]頭が良すぎて、彼の宇宙に関する説明に、私はついてゆけなかった。彼の趣味がエアロビクスと聞いた時だけ、驚いた。[#「頭が良すぎて、彼の宇宙に関する説明に、私はついてゆけなかった。彼の趣味がエアロビクスと聞いた時だけ、驚いた。」はゴシック体]あの笑顔で、レオタード姿で、エアロビクスに励んでいるのだそうだ。[#「あの笑顔で、レオタード姿で、エアロビクスに励んでいるのだそうだ。」はゴシック体]
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[#小見出し] ハンサムで長身で金持ちでも、[#「ハンサムで長身で金持ちでも、」はゴシック体]
[#小見出し] モテない奴は、[#「モテない奴は、」はゴシック体]
[#小見出し] とことんモテない。[#「とことんモテない。」はゴシック体]
いい男とは、モテる男のことである。
モテる男は、必ず人を引きつける魅力を持っている。
これが、私の持論である。
「どういうのがいい男か、わかんない」
という若い女性は、とりあえず、モテるという評判の男を見学に行ってみるとよい。
そうしてじかにその目で確かめ、じかにその匂《にお》いをかぎとり、じかに魅力を感じとることだ。
そうすれば、金持ちであるとか背が高いとか美男であるとかいった条件が、実は、
〈モテる〉
ということとほとんど無関係であることがわかる。
ハンサムで長身で金持ちでもモテない奴は、とことんモテない。
そして、その逆も又、しかり、なのである。
さて、私はこの数年間、各界の様々な男性と対談する機会を得た。それこそ、
〈モテる〉ということでは日本屈指の男性何人もとお目にかかったのだ。
その中での王者が、藤井フミヤさんと伊集院静氏であった。
何の王者かというと、女を引きつける|フェロモン度合い《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の王者であったのだ。
フミヤさんについては後で語るとして、で、伊集院静氏である。
前妻が夏目雅子さん。現妻が篠ひろ子さん。その他、噂《うわさ》にのぼった美女、数知れず。
なぜ、彼はこのようにモテるのであろうか。
私の結論は、伊集院氏はモテることの天才である、ということだ。
カール・ルイスが陸上の天才で三度もオリンピックに出たのと同じように、伊集院氏はモテる天才で何度も美女と結婚したのである。
だから、凡人が伊集院氏を嫉《ねた》むのは、凡人がカール・ルイスを嫉むのと同じくらい馬鹿げたことなのである。
では、天才とは何か。
天才とは、生来の素質、プラス、努力の人のことである。
伊集院氏の生来の素質は、あの背格好にある。
少し猫背で、少し女が見上げる程度の身長。これが、いい。胸張ってバカでかい男は、思ったほど女にモテないものである。つまり、伊集院氏の背格好は、抱きしめられたいと思うちょうどいいサイズなのである。
そして、努力を怠らない。
伊集院氏の努力は、その気配りと情の深さにある。
とにかく周囲に気を配る人である。
少し前、伊集院夫妻と私たち夫婦で六本木のカラオケバーに行った。その席で何気なく私は、
「あっ、今日はウチの主人の誕生日だった」
ともらした。
いやー、あなたもついに四十五歳だ、オジサンだわねえと、私が夫を茶化《ちやか》してる間に、店の隅で伊集院夫人の篠さんと店のマスターが何かヒソヒソと話をしている。そこは、伊集院夫妻の行きつけの店だったので、きっとなじみ同士の内輪話だろうと、私はその場で解釈をした。
そして何時間か歌いまくったあと(篠さんの『女港町』がすごかった)、さて帰ろうかという段になって、いきなり私たちのテーブルにシャンペングラスが配られた。
そして〈誕生日おめでとう〉と書かれたバースデイ・ケーキが。
ウチの主人の誕生日だわ、の、たった一言で、伊集院さんは夫人の篠さんに、シャンペンとケーキを店の人に用意するよう耳打ちしていたのである。
さすが気配りの伊集院、なのだ。
私なんかもう何年も、夫に誕生日プレゼントを贈ったこともない(それはそれでひどすぎる妻なのであるが)。
このこまめな気配りと、情の厚さが、伊集院氏の大きな魅力なのである。
さて、現在私は伊集院氏原作の漫画の仕事を持っている。伊集院氏の作品の男性は、私の描くオリジナル男性キャラクターより数倍男っぽい。
そして、私など思いもつかないセリフをしゃべる主人公なので、驚かされつつ、とても楽しい。
〈俺《おれ》は、女々《めめ》しい女は嫌いなんだ〉
女の私にはとても思いもつかないセリフである。
そういえば篠さんもとてもサッパリした、少年のような気持ち良さを感じさせる女性だった。
女々しい女が嫌い、――それだけでも、ずいぶんいい男である。
まあ、モテても当然、なのである。篠さんと、どうぞお幸せに。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※ゆえあって、京都で佳つ乃さんに会った。[#「※ゆえあって、京都で佳つ乃さんに会った。」はゴシック体]きゃしゃで美しい方であったが、意外に気丈夫でシャキシャキしていた。やはり女々しい女ではなかった。[#「きゃしゃで美しい方であったが、意外に気丈夫でシャキシャキしていた。やはり女々しい女ではなかった。」はゴシック体]
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[#小見出し] 女性を頂点に置いた[#「女性を頂点に置いた」はゴシック体]
[#小見出し] 二等辺三角関係は、すがすがしく、[#「二等辺三角関係は、すがすがしく、」はゴシック体]
[#小見出し] 人々に好まれる。[#「人々に好まれる。」はゴシック体]
男二人が友人で、その二人ともが憧《あこが》れる女性がいるとする。
男性二人を底辺の両端の二点とすると、憧れの女性は二等辺三角形の頂点となる。この二等辺三角形はとても安定がよく、調和がとれていて、美しい。
そういう訳で、この男二人対女一人の二等辺三角関係は古くから恋愛のパターンの一つとして深く浸透している。
『明日に向って撃て』のブッチ・キャシディとサンダンス・キッドが、まずその典型として挙げられる。
『愛の狩人』という映画も、ジャック・ニコルソンとアート・ガーファンクルがキャンディス・バーゲンを頂点にした二等辺三角関係になってしまう。
手前|味噌《みそ》で申し訳ないが『東京ラブストーリー』も、そもそもの発端は三上とカンチの、関口さとみをめぐっての三角関係にある。
これらの場合、男たちは互いに牽制《けんせい》球を投げ合い、時にはだし抜き、時にはだし抜かれ、最終的には頂点がどちらかに傾いてしまう。
男同士も友人であるので、自分の方の分が悪いと、
「あいつなら、仕方ないか」
と、割とアッサリ身を引くケースが多い。そして、一度割り切って手を引くと、親友と憧れの女性の仲|睦《むつ》まじい姿に拍手を送ってやることができるのだ。
グジュグジュの怨恨《えんこん》や、怒りの決闘シーンは、あまりない。それは、根底に〈男同士の友情〉があるからだ。
だから、女性を頂点に置いた二等辺三角関係はすがすがしく、人々に好まれる。
それとは逆の、男を頂点とした女二人の二等辺三角関係は、まず、あり得ない。
親友の女の子二人の間に、男が割り込んできたら、十中八、九、女の友情は壊れる。間違いない。三十五歳の私の人生を賭《か》けてもいい。もし、男より女の友情を選ぶとしたら、その人は女ではない。
それゆえ、女二人に男一人のさわやかな話というのは、皆無といっていい。
という訳で、さわやかな三角関係は、古今東西、女一人対男二人と相場が決まっている。
この三角関係は、女にとってもこの上もなく気持ちいい。
少女Aと、少年B、少年C、がいたとしよう。少年BとCは友人同士で、ともに少女Aが好き。
少女Aにとっては、自分のことを好いてくれる男の子が二人もいるのだから、とてもいい気分である。
少女Aは少年Bも少年Cも好きである。だから、少年Bが友人である少年Cのことを好きだということが、少女Aを、ますますいい気持ちにさせる。なぜなら、BとCが仲が悪いと、AがBをほめるとCが不機嫌になったりして、Cも好きなAとしては悲しい気分になってしまうから。自分が好きな人間を、仲のいい別の友人がけなしたりすると、人はとてもつらい気持ちになるものだ。
この、少女Aを頂点としてB、C、を底辺の二つの頂点とする二等辺三角関係には、人を不快にさせるマイナス要因が全くないのだ。そのくせ、張りつめた緊張感はある。
女の子にとって、この三角関係が、類のない快楽であるのは、以上の理由によってである。
さて、男二人対女一人によって構成される人間関係は、以上のような二等辺三角関係、とばかり思っていたのだが、最近、それをくつがえすような現象が起きているらしい。
ドリームズ・カム・トゥルー。
通称、ドリカム。作詞、作曲、ヴォーカルを担当する吉田美和ちゃんを頂点に、中村正人くんと西川隆宏くんが底辺を支えている。
美和ちゃんのボーイッシュな魅力がより一層このグループの人気を盛り上げていると言っていい。
男性と恋愛感情ではなく、連帯感とも言える絆《きずな》で結ばれた仲間同士としての正三角関係。その感覚が若い人たちに支持され「ドリカム編成」の交友がキャンパスで大流行だという。
もう、憧れの女性を二人の同等の男が恋のさや当てをする形態は古いのかもしれない。
最後に、美しき二等辺三角関係の好例を挙げておこう。
映画『恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』
ジェフ・ブリッジスとボー・ブリッジスの兄弟グループに、美しき女性ヴォーカリスト、ミシェル・ファイファーが加わるところから物語が始まる。構成としては、ドリカムと同じグループだが、こっちは情緒たっぷりのおとなのお話である。苦労人ボー・ブリッジスが泣かせてくれる。私なら絶対、ジェフよりボー兄貴の方を選ぶ。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※ドリカムは正三角形というより吉田美和バンドになりつつある。特に、西川くん。ガンバレ。[#「※ドリカムは正三角形というより吉田美和バンドになりつつある。特に、西川くん。ガンバレ。」はゴシック体]
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[#小見出し] 「僕が一生、全力で[#「「僕が一生、全力で」はゴシック体]
[#小見出し] お守りします」[#「お守りします」」はゴシック体]
[#小見出し] まさに、名言である。[#「まさに、名言である。」はゴシック体]
皇太子殿下と私は同世代である。もっとも私は殿下より三歳年上なので、幼い頃より、
「私の方が三つも年上だから、殿下に見染められてお妃《きさき》になることはあり得ないのね」
と、勝手にガッカリしていた。想像力は誰にも縛ることはできない。
それにしても、庶民中の庶民である私にして、このお妃様願望の強さには笑ってしまう。女の子は誰でも、一度は王子様に見染められる幸運を夢見るものなのであろう。
さて、皇太子と同年代である私は、殿下が、
「ナルちゃん」
と呼ばれた、オカッパ頭の半ズボン少年の頃から知っている。
知っているといっても、皇室ニュースの映像で、一方的にこちらから存じあげていただけなのだが。
そんな私が、直接殿下にお目にかかれたのは、四年前の一月十五日のことである。
成人の日にNHKで放映される若者の弁論大会の審査員に私が選ばれたのだ。
今はその番組は『青春メッセージ』というタイトルに変更になったが、長い間国民には『青年の主張』というタイトルで知られていた。
そして、その番組には、文部大臣と皇太子が御臨席されることが恒例となっていた。
さらに、番組収録後、発表者、審査員をまじえて皇太子が御歓談されることも又、恒例だったのだ。
NHKホールの貴賓《きひん》室で、皇太子を囲んでのティーパーティが催され、私はそれを体験することができたのだ。
二十畳ほどの小部屋に、発表者、審査員、番組関係者が集められる。そこへ、殿下が登場された。
殿下はゆっくりと、その日の出場者である若者たち一人一人に声をかけられる。そして、何と、審査員一人一人にも声をかけて下さったのだ。
「サイモンさん、『同・級・生』という漫画を描かれたそうですね」
四年前は、フジテレビで『同・級・生』がドラマ化された時期である。
ぎゃっ、殿下に声をかけられた、と舞い上がってしまった私はつい正直に、
「でも、殿下は漫画なんか読まれませんでしょう」
と、答えてしまった。
咄嗟《とつさ》の場合に、あまりに正直になりすぎるのが私の欠点である。
しかし、この私の不しつけな返事にも、殿下は、照れたような困ったような笑顔でただニコニコとされていた。なんと、できたお方だ、と、その瞬間、私は殿下の大ファンになってしまった。
「殿下は、どのようなスポーツをなされますか?」
私の傍《かたわ》らにいた審査員の一人が質問申し上げた。
「そうですね。登山、テニス、あと、ジョギングですか、……」
殿下はニコニコと答えられる。
「ジョギングですか。では、紀子様と競走されてはいかがですか?」
と、質問者が言葉を続ける。ちょうど、秋篠宮御婚約の時期であった。そして、紀子様のジョギング姿がブラウン管を賑《にぎ》わしていた。
「負けちゃったりして」
マケチャッタリシテ。紀子様と競走されたらという問いに、マケチャッタリシテ、と、確かに殿下は答えられたのだ。
殿下が場をなごませるユーモアと機転を兼ね備えた素晴らしい皇族であることが、このエピソードでもう充分|伺《うかが》い知れたのであった。
私はその後も三年続けて審査員として『青春メッセージ』に参加した。
そのたびに、殿下にお声をかけていただいた。
「サイモンさん、去年も審査員をされてましたね」
「殿下、紀子様とはジョギングされましたか?」
「ええ、彼女はなかなか手ごわいですよ」
「秋篠宮殿下も御一緒に走られたのですか?」
「いえ、彼は自転車でついてきました」
私が、ますます殿下のファンになったことは言うまでもない。
そうしてついに、今年の一月十九日、皇太子御婚約の正式発表となった。
「僕が一生、全力でお守りします」
まさに、名言である。
普通の肝《きも》っ玉の小さな男は、大勢の人の前でこんなプロポーズの言葉を婚約者から暴露されたら、バカヤロウ、言うんじゃねえっ恥ずかしいじゃねえかっ、と怒るところである。
それをニコニコと、気負いもてらいもなくすがすがしく公言された殿下の、人間としての大きさに、私は強く強く心を打たれたのであった。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※殿下、コウノトリはまだご機嫌が悪いのでしょうか。[#「※殿下、コウノトリはまだご機嫌が悪いのでしょうか。」はゴシック体]秋篠宮殿下もめっきり白髪が増えられ、年月の流れの早さを痛感します。[#「秋篠宮殿下もめっきり白髪が増えられ、年月の流れの早さを痛感します。」はゴシック体]
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[#小見出し] 慣れぬ異国で努力を重ね[#「慣れぬ異国で努力を重ね精進した」はゴシック体]
[#小見出し] 精進したチャド。[#「精進したチャド。」はゴシック体]
[#小見出し] 強い横綱になって下さい。[#「強い横綱になって下さい。」はゴシック体]
私が初めて相撲を見たのは、去年の五月のことである。
いやあ、驚いた。
肉を打つ音がバシンバシンと国技館に響き渡るのである。
張り手で頬《ほお》をたたかれた力士の顔は上気し、うっすら涙さえ浮かべている。
「あ、殴られて泣いてる」
と、マス席で声を上げる私に、
「バカ、子供じゃあるまいし、痛くて泣いてんじゃないんだ。目のとこ殴られりゃ涙が出るだろ」
と、同席の夫がたしなめの言葉を吐いた。
それにしても間近でおとなの男同士のケンカを見たのが生まれて初めての私は、興奮してしまった。
それまで、相撲に対する知識など皆無に近い私であったが、取組みが進むに従って、思わず、
「やれ、やれえ」
と大声を上げる始末であった。
マス席には、お茶屋さんから配られた弁当や、なとりの珍味や、ビールや日本酒や甘栗が置かれている。
状況としては、花見の宴会に近い。花の代わりに、力士のケンカを眺めるのである。
飲食禁止の外タレコンサートとは、趣きが全く異なる。
私たちは焼き鳥を頬ばり、日本酒をあおり、すっかりいい気分で歓声を上げる。
テレビの大相撲中継ではわからないが、国技館のマス席は、ほとんど酔っ払いの大宴会なのである。
これを国技とする日本国の、なんとおおらかなことか。
酔いは時間とともに進行し、幕内の大勝負あたりの取組みの頃になると、もう、へべれけで訳がわからなくなってしまっている。
応援する力士が勝っても負けても、もう酔っ払いには、意味がなくなってしまっている。力士が転んでも、投げ飛ばされても、ただゲラゲラと笑い転げるのだ。
確か、私が見学した日は、小錦が横綱を賭《か》けての場所でありながら三敗を喫し、綱《つな》を断念した時であった。
が、そんなことも翌朝の新聞で初めて知ったことで、完全に酔っ払ってしまった私は、取組みの途中から何が何だかさっぱり記憶を失ってしまっていた。
貴ノ花はお尻《しり》がキレイだ、とか、そんな印象しか覚えていない。
かように、力士とはつらい職業なのだ。
酔っ払いの前で、裸で、頬をはられて涙を流す職業なのだ。
力士の品性という言葉が昨今マスコミで使われているが、国技館の酔っ払いには、とてもそんなことを口にする資格がない。
それでも力士は耐えて、勝負に賭ける。酔っ払いのざわめきの中で神経を集中する、その精神力たるや、ものすごいものである。
特に、外人力士は。
異国に来てまで、酔っ払いの前で、品性を保ちながら勝負をするのだ。
さて、いよいよが初の外人横綱となった。親方は、あの、ジェシー高見山である。
昭和三十年代生まれの私にとっては、よりジェシーの方がなじみが深い。「マルハチふとん」のジェシーである。
それにしてもハワイ出身の力士は陽気で良い。
昨夏、ハワイ旅行でホノルル空港に降り立った私は、歓迎のレイをかけてくれる女性を見て思わず、
「あ、のママ」
と叫びそうになった。
ハワイにはのママ風女性が大勢いた。
つまり、のママは、ハワイ人女性の最大公約数といえるのだ。
体格が良くて、人なつっこい笑顔、そして陽気な性格。――悪い人など一人もいないのではないかと思われる。
の親孝行ぶりは、つとに有名である。
ママ思いのは、それだけですでに日本人の心情に訴えるものがある。
まるで、「一本刀土俵入り」と「瞼《まぶた》の母」のドッキングであるのだから、日本人がを嫌いな訳がない。
そして、日本に来てまだ五年しかたっていないというのに、あの流ちょうな日本語。難解な相撲用語も、師匠に対する敬語も、ちゃんとこなしている。私の知人は、
「ジミー大西よりの方が、日本語がうまい」
と、断言していた。
慣れぬ異国で、そのしきたりを踏まえ、努力を重ね、精進《しようじん》し、ママにお家を買ってあげたチャド。
「強い横綱になって下さい」
別に私はの別れた恋人でも何でもないが、心からこの言葉を送ります。
強い横綱になって下さい。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※その後は、相原勇と破局し、ハーフ美人と結婚した。怪我を理由に休場所続きである。[#「※その後は、相原勇と破局し、ハーフ美人と結婚した。怪我を理由に休場所続きである。」はゴシック体]芸能人と浮名を流した力士は必ず駄目になるのは何故だろう(高田みづえと結婚した若島津はのぞいて)。[#「芸能人と浮名を流した力士は必ず駄目になるのは何故だろう(高田みづえと結婚した若島津はのぞいて)。」はゴシック体]
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[#小見出し] 「君が大好きだよ、ミドリ」[#「「君が大好きだよ、ミドリ」」はゴシック体]
[#小見出し] 「どのくらい好き?」[#「「どのくらい好き?」」はゴシック体]
[#小見出し] 「春の熊くらい好きだよ」[#「「春の熊くらい好きだよ」」はゴシック体]
私が唯一、その全作品を読んでいる作家が村上春樹である。
デビュー作『風の歌を聴け』は鮮烈だった。アメリカン・ポップスの歌詩をそのまま翻訳したような短いセンテンス。乾いたユーモア。そして孤独。
ああ日本にもついにこのような作家が出現したのか、と、私は感動した。
それは桑田佳祐の出現にも似ている。
つまり、日本の若者がアメリカ文化に慣れ親しんだ土壌に、それをうまく日本風にアレンジした文化が、出現したということなのだ。
背伸びしながらアメリカ文化を追っかけてきた日本の若者たちの前に、よりわかりやすく日本人向きに日本人の手によってアレンジされたアメリカもどきカルチャーが現われた、ということになる。
村上春樹も桑田佳祐も昭和五十〜五十五年の間にそのデビューを飾っている。
その後しばらく村上春樹の作品は、難解すぎる、アメリカナイズされすぎている、という点で一部マニアにしか支持されていなかった。
村上春樹が国民的作家になったのは、やはり『ノルウェイの森』からであろう。
『ノルウェイの森』の前作、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が、あまりに重厚で複雑な話だったため、その反動で、こんなあっさりした簡単な話を書いたのか、と、当時私は思っていた。
『ノルウェイの森』は、それまでの村上春樹作品と一線を画している。無機質っぽく乾いていて、情緒をわざと排除しているように見えたのがそれまでの作品群であった。
が、『ノルウェイの森』には、有機的な匂《にお》いがたち込めていた。こんなにウェットになっていいのか、というくらい、感傷に満ち満ちていたのだ。
そして、男性によってこれほどまで女性に対する愛が言葉で語られたのは、日本文学史上初めてではなかったろうか。
「君が大好きだよ、ミドリ」
「どのくらい好き?」
「春の熊くらい好きだよ」
――中略――
「春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみたいな毛なみの目のくりっとした可愛《かわい》い子熊がやってくるんだ。
そして君にこう言うんだよ。
『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。
そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」
「すごく素敵」
「それくらい君のことが好きだ」(『ノルウェイの森』講談社文庫)
総じて、女の子はこういう恋の言葉が大好きなのである。
『ノルウェイの森』のワタナベ君から、私はいつもイラストレーターの安西水丸さんを思い出す。実は、水丸さんは春樹さんのお友達でもあるのだが。
水丸さんも不思議な人で、いつまでもはにかみ屋の少年のまま時間が止まってしまったような男性だ。
先日、対談で水丸さんと御一緒した。
彼とは、実は十五年来の旧知の間柄なのだが、会ったのは七年ぶりだった。
『ノルウェイの森』を読んで以後、彼に会うのは初めてだった。
水丸さんと話してるうちに、何だか私は『ノルウェイの森』のワタナベ君と話をしてるような気分になってしまった。
そのくらい安西水丸さんは村上春樹の小説世界の人物に近い。
強すぎる感受性と、完璧《かんぺき》に構築された自分の世界を内面に持つ少年。
――これが村上春樹の小説世界の主人公である。
最新作『国境の南、太陽の西』の主人公も、おとなになれない中年男である。
こういう男とつきあうには、女には相当の覚悟が必要である。
彼が機嫌がいい時は、前述の「春の熊さん」くらいの甘ったるい愛の言葉で気持ち良くさせてくれるが、一度ソッポを向くと、自分の内側に閉じこもり、少しもこちらを振り返ってくれなくなる。
それは、甘やかされて育ったわがままで頭の良い坊やの気まぐれにも似ている。
こういう男とつきあうには、女は、我慢強く物わかりの良い母親になるしかない。
やれやれ。
でも、私は、好きだ。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※『アンダーグラウンド』以降は、坐折《ざせつ》して読んでいない。[#「※『アンダーグラウンド』以降は、坐折《ざせつ》して読んでいない。」はゴシック体]
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[#小見出し] すけべだけど、でも悪戯《いたずら》小僧の[#「すけべだけど、でも悪戯小僧の」はゴシック体]
[#小見出し] 雰囲気を漂わせている男がいたら、[#「雰囲気を漂わせている男がいたら、」はゴシック体]
[#小見出し] それは私の好みである。[#「それは私の好みである。」はゴシック体]
アラン・ドロンとジャック・ニコルソンは顔が似ている、という説がある。
釣り上がった眉《まゆ》、上を向いた短い鼻、薄い唇、というのが両者の共通点である。が、決定的違いはその輪郭にある。
ドロンが理想的な美男子輪郭であるのに対し、ニコルソンは、丸顔、おまけに禿《は》げ、なのである。
せっかくのセクシーな形態をした目鼻を授かりながら、丸クシャな輪郭と薄い頭部のおかげで、典型的な二枚目役とは縁遠い役者である。
ニコルソンが『バットマン』の悪役ジョーカーを演ずると聞いても、誰も驚かなかった。ニコルソンが『風と共に去りぬ』のアシュレイを演ずると聞かされれば仰天《ぎようてん》したであろうが。
ハリウッドには、この世のものとは思えぬ超美形ハンサム男優と、顔はほどほどだがズバ抜けた演技力の実力男優の二種類がいる。
チャーリー・シーンやトム・クルーズはもちろんハンサム型である。
片や、個性派実力俳優として、ロバート・デ・ニーロやアル・パチーノ、そしてジャック・ニコルソンが挙げられる。
実力俳優の条件としてはまず、どんな役でもこなせることである。
そして彼らも又、難しい役に挑むことで、芸のうまさを世間にアピールするのだ。たとえば、アルコール依存症、浮浪者、異常者。
ニコルソンの場合、きわめつけは『シャイニング』の異常な別荘管理人であろう。斧《おの》を振り上げ、逃げまどう彼の妻子を追いまわす狂気の男を完璧に演じ抜いたのである。
この映画の印象があまりに強烈だったので、のちにどんな映画でニコルソンを見ても、
「いつおかしくなって斧を振り回すかわからない男」
と思うようになってしまった。
どんな善良な役でも、
「いやいや、腹の底では何かを企んでいるに違いない」
と勘ぐってしまうのだ。
それはちょうど、あまりにも『あなただけ見えない』が強烈すぎたため、三上博史さんを見ると、
「じつは突然化粧してスカートはいて、オッホッホッとやるかもしれない」と勘ぐってしまうのと同じように。
これら芸達者の役者たちにとって、最も難しいのは、
〈普通の人〉
を演ずることではないのだろうか。
演技しすぎては、普通の人に見えない。といって、素のままではプロのプライドが許さないというものだろう。
一クセも二クセもある個性派俳優が肩の力を抜いて〈普通の人〉を演じる作品が、私は結構好きである。
しょぼくれた恋する中年男をデ・ニーロが演じた『恋におちて』。これが、あの『ゴッド・ファーザー』でマフィアの親分を演じた男かと思うほどの、力のうまく抜けた自然体であった。
ニコルソンがすけべったらしい元宇宙飛行士役で出た『愛と追憶の日々』も、名優がうまく力《りき》みを抜いて普通人を演じた好例である。
すけべったらしくて嫌味なんだけど、でも憎めない、――それは、あの、とぼけた禿げ頭のせいかもしれない。
ニコルソンには、とにかくすけべったらしい役が多い。それは、彼の顔がやっぱりエッチだからなんだろう、と、思う。
が、同じ系統の顔をしたドロンがそれほどすけべ役を演じないのは、スキのない二枚目がすけべだと、本当に限りなく嫌味になってしまうからだ。
それに比べ、顔がいくらエッチでも、人なつっこい丸顔と、今にも吹き飛んでしまいそうなまばらな頭髪のおかげで、ニコルソンのすけべには、愛敬《あいきよう》が加わるのだ。
お茶目で、すけべな中年男は、私は好きである。どこか、憎めない。悪戯を見つかっては舌をペロリと出すやんちゃ坊主の面影をそこに見るからかもしれない。
ギラギラした、ただのスケベ親父はごめん、である。
全くスケベ心のない品行方正の中年紳士もおもしろ味がない。
すけべだけど、でも、悪戯小僧の雰囲気を漂わせている中年男がいれば、それは、私の好みである。
さて、日本でジャック・ニコルソンに相当する役者さんがいるだろうかと頭をめぐらせてみた結果、思いついたのは、勝新太郎さんである。
セクシーだし、演技のうまさは天才だし、いつまでたっても悪戯がバレて頭をかいてる少年のような人だし、私は勝新こそ和風ニコルソンだと思うのだ。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※『恋愛小説家』では、六十歳にして、フェロモンムンムンだった。現役なのだ、ニコルソン。[#「※『恋愛小説家』では、六十歳にして、フェロモンムンムンだった。現役なのだ、ニコルソン。」はゴシック体]
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[#小見出し] フミヤさんの周りの[#「フミヤさんの周りの」はゴシック体]
[#小見出し] 空中に漂う色香――[#「空中に漂う色香――」はゴシック体]
[#小見出し] それがフェロモンなのだ。[#「それがフェロモンなのだ。」はゴシック体]
なんとなくチェッカーズはデビュー当時から好きだった。元気が良くて可愛《かわい》いな、程度のものである。
私が俄然《がぜん》、フミヤさんに注目を始めたのは『NANA』や『I Love you, SAYONARA』あたりからである。彼の歌い踊る姿に、
「彼は、アーティストに違いない」
と、私は確信した。
アーティストとは、つまり、天才のことである。天から与えられた才を持つ人は、凡人がいくら全力で追っかけてもかなわないのである。フミヤさんに関して言えば、彼が周囲にまき散らす空気そのものも天才である。彼の周りの空中に漂う色香――それがフェロモンなのだ。
そもそもは二年前のことである。私はある雑誌で秋元康さんと対談をした。彼と意見が一致したのは、
「モテる奴《やつ》は、どうしてもモテる。モテない奴は、どうしてもモテない。どうしてもモテる奴っていうのは男も女もジャコウのような色香を空中にまき散らして異性を引き寄せるらしい」
という点である。
「芸能界きってのジャコウ男は……」
と、秋元さんが教えてくれた。
「フミヤ、ですよ」
とにかくサイモンさん、一度フミヤに会ってみなさい、という秋元さんの言葉を胸に、あらゆる|つて《ヽヽ》を頼って、
「フミヤに会いたい、フミヤに会いたい」
を連発していた私に、ある日、幸運はやって来た。
「もしもし、〇〇出版ですがサイモンさんにお仕事をお願いしたいんですが」
電話で仕事の依頼が舞い込んだのだ。
「あー、すみません。今、忙しいんです。本当に忙しいんです。目が回るくらい忙しいんです。新しいお仕事はお引き受けできません」
といつものように冷淡に答える私に、受話器の向こうで落胆の声が響いた。
「そうですか……。藤井フミヤさんとの対談のお仕事だったんですが……」
「やります」私は、即座に前言を翻《ひるがえ》した。
「えっ、お忙しいんじゃ……」
「やります。いつでもOKです」
「目が回るくらいお忙しいんじゃ……」
「やるったら、やります 断ったら承知しないから」
こうやって私は出版界の信用を失《な》くしてゆくのだろう。
ともかくも、私はフミヤさんとの対談にありつけたのである。漫画家になって心から良かった、と思ったことは過去二回ある。一回は講談社漫画賞を受賞した時で、もう一回はこのフミヤさんとの対談の時のことである。
「サイモンさんの漫画、いつも読んでます」
フミヤさんにこう言われた時、本当に本当に、つらい締切りに泣きながら耐えて忍んで描き続けてて良かった、と、心から思ったのだ。
実際にお会いしたフミヤさんは、本当に自然体で、何ひとつカッコつけたり、コケおどし的なところのない人だった。
私はここ数年、何人もの芸能界の人と会ったけれど、芸能人独特のナルシスティックな雰囲気にどうしてもなじめないものを感じていた。
が、フミヤさんはそれが全くないのである。
「ねえ、ねえ、カッコイイ僕を見て、見て」
という芸能人ナルシシズムが、私はちょっと苦手である。
フミヤさんには、それがない。なぜなら、彼自身が語ってくれたようにチェッカーズは、
「ちょっと芸能界をのぞきに来た、九州の若者たち」
なのだから。
芸能界で遊んでやるぞ、という彼の考えが私は好きである。
芸能界でカッコつけて肩ひじ張って生きてゆく、のではなく、芸能界を遊びの場と考えて軽やかに泳いでゆく彼の姿勢が、好きだ。
フミヤさんが九州時代の恋人との愛を成就させて結婚したことにも、彼の理想がよく表われていると思う。
「芸能界は、芸能界。でも、俺《おれ》はやっぱり俺自身じゃん」
という考えが伝わってくるのだ。
アーティスティックな感性については、天才である。
フェロモン度合いも、もちろん天才である。
もうこんな男、日本中探したって他にどこにもいやしない、という、偏差値八十三はいってると思われる最高レベルのいい男なのである。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※その後、私は藤井フミヤとデートをした。[#「※その後、私は藤井フミヤとデートをした。」はゴシック体]その詳細については別のエッセイで触れているので、参照して欲しい。[#「その詳細については別のエッセイで触れているので、参照して欲しい。」はゴシック体]
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[#小見出し] 全然カッコよくない状況を[#「全然カッコよくない状況を」はゴシック体]
[#小見出し] 愛敬や切なさにすり替える、[#「愛敬や切なさにすり替える、」はゴシック体]
[#小見出し] マッキー・ワールド。[#「マッキー・ワールド。」はゴシック体]
マッキーと言えば、今や日本一繊細なラブソングを歌うアーティスト、と、断言してもいい。
「SPY」の最初の一小節、
おあずけになったデートにがっかりしていたけど
には、シビれた。
この短い一行には何と多くの情報が盛り込まれていることか。
女「ゴッメーン。今日のデート、都合悪くなっちゃったの。また、今度ねーっ」
男「あっ、そう……。残念だけど、ま、いっかあ。しょうがないもんね」
たぶん、こんなふうな会話が、カップルの間で交わされたに違いない。それも、電話で。デートの当日に。それをおあずけになったデート≠ニいうたった一言で表現してしまう槇原敬之の詩人としての才能には唸《うな》らざるを得ない。
ちょっと弱気で投げやりで切なくて、どこか可愛《かわい》いマッキー・ワールドは、
今ぼくを笑う奴《やつ》はきっとケガをする
願い事は必ず一つしか叶《かな》わない
雑誌の星占いにそう書いてあった
等々の歌詞によく表われている。
全然カッコよくない状況なんだけど、それを愛敬や切なさにすり替えて表現するワザを知ってる人なんだと思う。
というわけで、昨今、熱狂的槇原ファンである私は、同じく槇原シングルCDコレクターである私の娘(中一)を引きつれて、二月十二日、東京厚生年金ホールの槇原敬之 CONCERT TOUR '94〜'95「WELCOME TO MY "PHARMACY"」に乗り込んだのである。
会場の観客を見渡すと、予想外に男性客が多い。高校生らしい男の子の三人連れや、大学体育会系のお兄さんの団体もいる。もっとも、圧倒的多数を占めるのは、二十代後半のOLさんとおぼしき女性たち。みな、きちんとしたみなりで、奇をてらったコスプレは、少なくとも私の視界の範囲には見当たらなかった。
観客席一階中央のミキシングマシーンのすぐ後ろの席に私たちはついた。否が応にもコンサートへの期待が高まってくる。まるで、ディズニーランドのアトラクションの順番待ちの長い列が少しずつ進むように、幕開きの時間が刻々と迫ってくる。
館内のライトが落ち、いよいよステージの始まりだ。
「LONESOME COWBOY」
マッキーの澄んだ声が会場に響き渡った。
改めて、歌のうまい人なんだと納得する。低音から高音へ、なめらかに歌いあげてゆく。
一曲歌い終えたマッキーは深々と頭を下げ、コンサート開始の挨拶《あいさつ》をする。
黒いスポーツウェアに身を包み、足元はバスケットシューズ。
会場のあちこちから、
「マッキー」
の声がかかる。さすがに十三歳の娘を連れた三十八歳の私に、声を出す勇気はない。
コンサートの前半は、「HOME WORK」「DARLING」「OCTAVERS」「2つの願い」と、テンポのよい曲が続く。
もちろん会場は総立ちで、リズムをとって右へ左へと頭が揺れ動く。
娘も、まわりにつられるようにして立ち上がり、手拍子をとるが、まだ少しテレがある。なにせ彼女にとって生まれて初めてのナマのコンサートであるのだから。
三十八歳の母は、それよりさらにテレて、立ち上がったものの、腰を椅子《いす》の背に乗せて小さな手拍手だけを送る。
こう言っちゃなんだけど、舞台上のマッキーは、思ったよりリズムのノリがいい。振りがきまっているのだ。腰を低く落としても、グラつくことなく、うまくはまってる。
時折、身体《からだ》の重心が定まらず、ステージ上でフラフラ、クネクネ、右往左往するアーティストの姿を見かけるが、あれはあまりみっともいいものではない。
その点、マッキーのステージは、安心して楽しめる。そう、
――安心して、楽しめる――
マッキーのコンサートは、まさにこの一言に尽きる。それは、彼のプロに徹したショーマンシップによるものであろう。
「あの曲のあの高音部をきちんと歌えるかしら」
と、観客がハラハラしながらアーティストを見守るコンサートも、それはそれで味のあるものだが、歌も踊りも演奏も安心して楽しめるコンサートというもののほうが、三十八歳にはやはり有難い。
「キミノテノヒラ」のあと、MCに入る。
ちょうど阪神大震災の直後だったので、関西生まれのマッキーが、それに関連した話をする。会場も神妙に彼の話に耳を傾ける。
ここから弾き語りに入り、じっくりと聴かせる。
曲の合い間に飲み物を口に運ぶマッキーに、
「何を飲んでるのー」
と、会場から声がかかる。
「あ、これ、スポーツ飲料です」
と、マッキーも気さくに応答する。
非常にアットホームな雰囲気で、そんな温かさがコンサート全般を通じて流れていた。
弾き語りで二曲歌い終えたあと、
「ギターは従兄《いとこ》のローリーにまかせちゃって楽器はキーボードしかできないんですけど、それもなんなんで、ひとつ新しい楽器をマスターしました」
と言って彼が取り出したのは、クロマチック・ハーモニカ。それで「ムーン・リバー」を、とうとうとかなであげる。
そこから、コンサートは後半へ突入する。「花水木」「もう恋なんてしない」「SPY」「彼女の恋人」と、まさにヒット・パレードである。
「僕の彼女はウェイトレス」「恋はめんどくさい?」「ANSWER」で本編を終了したのち、「どんなときも。」「東京DAYS」のアンコールで幕を閉じたマッキー・コンサートであった。
終了後、事務所の人の案内で、私は楽屋を訪れることができた。
「歌詞が、いいですよねえ」
と、私が挨拶すると、
「ま、てきとーに書いてんスけどねえ」
と、マッキーにさらりとかわされてしまった。
さらりとかわすというのは、よほどの自信の裏打ちがあるに違いないと、私が深読みしてもいいですね?
今後ますます、マッキー・ワールドが発展することを楽しみにしています。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※やせたマッキーは、巨人の松井に似てる……?[#「※やせたマッキーは、巨人の松井に似てる……?」はゴシック体]
[#改ページ]
[#小見出し] 狂気とハードさと礼儀正しさと。[#「狂気とハードさと礼儀正しさと。」はゴシック体]
[#小見出し] 平成の中原中也、宮本浩次。[#「平成の中原中也、宮本浩次。」はゴシック体]
「悲しみの果て」を歌う宮本浩次の狂気を帯びた瞳《ひとみ》と、しぼり上げるようなしゃがれ声にしびれて以来、エレカシを追っかけている私。
けれど、宮本サンて何だか恐そう。恐い人なのかしら。会ってみたいけど、でも恐い。
とずっと逡巡《しゆんじゆん》をしていた私なのだが、私の娘の同級生が偶然街で宮本サンを見かけ、
「写真撮らせて下さい」
と声をかけたら、気安く応じてくれたという。
「とてもいい人でした」
という娘の友人(当時中三)の証言を得て、あら、案外いい人なのかもしれないと、勇気を出して四月二十八日、渋谷公会堂までエレカシ・ライヴコンサートに出かけたのだった。
雨、である。四月六日のスピッツのNHKホールも雨だった。私が渋谷に出かけると、必ず雨が降る。
傘のしずくを払ってホールに入ると、タバコの煙が立ちこめている。エレカシファンの喫煙率はかなり高い。何だか一昔前のアングラ気分が蘇《よみがえ》ってくる。
会場は、思ったより年配の客が目立った。中に、和服姿のおばあさんが居たが、あれはメンバーの御親戚《ごしんせき》か? 客席は、女七で男三くらいの割合。もっと男性客ばかりかと思っていたが、やはり宮本浩次ファンの女性が台頭しつつあるらしい。
十分遅れで開演。アルバム『ココロに花を』からの「ドビッシャー男」がオープニング。大音響である。久々に生で聞くハードなロック音。観客が一斉に立ち上がる。音に合わせて踊りまくるのかと思えば、ただ立ち上がったまま、わずかに身体をゆするのみ。つっ立っているといった表現の方が正しいだろう。「あれ?」と、私は思う。「どうも普通のライヴとはノリが違う」けれど、これがエレカシのライヴのスタイルらしい。翌朝のスポーツ紙に「立ってじっくり聞くファンが多いエレカシ・ライヴ」と書かれていた。じっくり聞くのなら坐《すわ》っててもいいと思うのだが。表敬の起立なのだろうか。
「夢をみようぜ」「明日に向かって走れ」と続いて、宮本浩次のMCが入る。
「みなさん、五月ですねえ、いい季節ですねえ〜」
と、いきなり季節のあいさつ。
彼は、不良ではない。不良は季節のあいさつなどしない。なんて礼儀正しい人なんだ。やっぱりいい人なのかもしれない。
そして、季節を感じさせる「四月の風」。これは、「悲しみの果て」最初のシングルCD発売の際のカップリング曲。いい曲だ。続いて「孤独な旅人」。こどく〜な♪たびびとお〜♪という緩やかなフレーズが切なさを誘う名曲。私はどちらかと言えば「ドビッシャー男」のような激しい曲よりも、こういった曲の方が好みである。
わりと静かで叙情的な二曲が続いたあと、再びMCが入る。
「みなさ〜ん、楽しんでいただいてますかあ〜」
と、あくまで礼儀正しい宮本浩次。会場も、イエーイ、と答えるものの、まだ気をつけ状態。礼儀に礼儀で答える折目正しさ。ハードで礼儀正しい。これがエレカシのライヴなのだろう。
宮本の身辺よもやま話(雪が降ったの降らなかったの)のMCのあと続けて三曲、愛の歌が流れる。「ふたりの冬」(新曲)「遠い浜辺」「愛の日々」。
このあと、じゃあじっくり聞いて下さいと、宮本浩次が椅子《いす》に腰を下ろし、ギターで弾き語りの前奏に取りかかる。
「……♪目を閉じて何も言わず〜」
ギャグである。それも谷村新司の「昴《すばる》」。
やっぱり宮本サンていい人なんだ。
ギャグのあと、「おまえと突っ走る」「かけだす男」「Baby自転車」「うれしけりゃとんでいけよ」と、ノリのいいテンポの早い曲が続く。とにかく、駆けて走って飛んでゆくのだ。しかも徒歩か自転車で。この庶民性がいいね。
アルバムタイトル曲「OH YEAH!(ココロに花を)」を歌い上げて、ビールのCMタイアップ曲「戦う男」で、ひとまずのエンド。
ここまで全部で十五曲なのだが、本当にアッという間に駆け抜けた、という感じ。
シャツをはだけ、汗を飛び散らせ、アンプに駆け上り飛び下り、舞台狭しと暴れまわる宮本浩次なのだが、いくら暴れても、礼儀正しさがどこか漂う、と感じてしまうのは私だけだろうか。
アンコール一曲目は「珍奇男」、そしてデビュー曲「男餓鬼道空っ風」。まるで本宮ひろ志の漫画のタイトルのようであるが、この一曲で、それまで礼儀正しかった観客も、たてにヨコにノリまくり、これぞライヴ! と盛り上がる。
「すばらしい! この一体感!」
と、舞台上の宮本浩次も声を上げる。
「星の降るような夜に」「ファイティングマン」では、ついに彼はシャツを引きちぎり、ギターを投げつけてしまった。会場も、もう興奮の絶好調。ふと私は、あの和服の老女を思い出した。卒倒してなければいいのだが。
「イエーイ。みんな今日はありがとう。楽しんでくれたかい。又、会おう」
素晴らしいショーの盛り上がりだった。
そうして、最後の最後に「悲しみの果て」も聞くことができたし、私は大満足のコンサートであった。
「悲しみの果て」を聞くと、私は中原中也を思い出す。「悲しみの果てに何があるかなんて/俺は知らない」というフレーズは、中也の「汚れっちまった悲しみに…」に匹敵する男のリリシズムが漂う(中也も一部、恐い人というイメージでとらえられているし)。
そうだ、宮本浩次は、平成の中原中也なのだ。狂気とハードさと礼儀正しさを兼ね備えたナイス・ガイなのだ。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※宮本さんは中原中也より岡本太郎に近いかもしれない。[#「※宮本さんは中原中也より岡本太郎に近いかもしれない。」はゴシック体]
[#改ページ]
[#小見出し] もう一度「愛のことば」を生で聴きたい。[#「もう一度「愛のことば」を生で聴きたい。」はゴシック体]
[#小見出し] スピッツへの便り――。[#「スピッツへの便り――。」はゴシック体]
二月のNHKホールでのコンサートは素晴らしかったですね。一月の渋谷公会堂の時よりもほんのちょっぴりヨソユキのスピッツの感じがしてそれも又、よかったです。
一つのグループのコンサートを二度続けて聴きにゆくなんて、私の人生において初めてのことです。けれど、渋谷公会堂でマサムネさんが歌い上げた「愛のことば」がどうしても耳を離れず、入手困難といわれたNHKホールのチケットを何とか手に入れようと私は画策したのでした。
もう一度、「愛のことば」を生で聴きたい。もちろん、CDではすでに手に入れてますが、コンサート会場の空気を震わせるマサムネさんの、あの澄んで響き渡る音のくねりを、肌に直に感じたいと私は切望したのです。
マサムネさんの声は、オーボエのようだ、と評した人がいます。電子音のような高音の早口の歌がヒットチャートの上位を占める昨今、マサムネさんの木管楽器の温もりを感じさせる歌声は、それだけで官能です。木の筒の中で共鳴する響きは、古代から人間の大脳に官能のエンドルフィンを抽《ひ》き出すものなのでしょう。
新曲の「チェリー」も、いいですね。
私は、かつてより、スピッツは〈春〉ないし〈初夏〉のグループだと思っていました。それも、萩原朔太郎の表現する毒と官能を含んだ〈春〉です。朝露に湿った草の青い匂《にお》いや、黒い土の下で蠢《うごめ》く昆虫の息づかいが伝わってくるような〈春〉なのです。
「チェリー」は、まさにそんな〈春〉を歌い上げるスピッツの真骨頂、という曲ですね。とても哀しい愛の歌なんだけれど、それを明るい春の陽射しを感じさせるようなテンポで歌い上げることによって、より切なさが増しています。けれど哀しみに閉じこもっているのではなく、強く生きてゆくんだといったポジティブな姿勢が、非常に私好みなのです。歌詞に出てくる「想像した以上に騒がしい未来」とは、ここ一年ばかりのスピッツブームのことなのかな、と深読みしたりしています。
「歩き出せ、クローバー」は、石神井公園を歌った曲だと聞いています。現在石神井公園に住む私は、スピッツとは石神井公園友達ですね。三宝寺池の枯れた水草もやがて春の光の中で背筋を伸ばす季節です。騒がしい未来にうんざりしたら、石神井公園の水面を渡る風に会いに来て下さい。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※このあと、スピッツの追っかけとして、境港のコンサートにまで出向いた。[#「※このあと、スピッツの追っかけとして、境港のコンサートにまで出向いた。」はゴシック体]東京でのコンサートはもちろん必ず行く。[#「東京でのコンサートはもちろん必ず行く。」はゴシック体]でも、私の姿を見かけると|必ず《ヽヽ》マサムネさんの身体が|引く《ヽヽ》のはなぜ?[#「でも、私の姿を見かけると必ずマサムネさんの身体が引くのはなぜ?」はゴシック体]
[#改ページ]
[#小見出し] 〈太田光、超セクシー説〉は、[#「〈太田光、超セクシー説〉は、」はゴシック体]
[#小見出し] 誰にも支持されていない。[#「誰にも支持されていない。」はゴシック体]
お笑いが結構好きである。
四国生まれで、吉本新喜劇をテレビで見て育った私は、ボケとツッコミとダジャレに関しては多少心得がある。小学六年の時に、関西のラジオ局にダジャレを投稿して採用され、景品にウエスタン・ハットを送ってもらったことがある。パーソナリティは確か、笑福亭鶴光だった。
同じ年頃の少女達がラジオのパーソナリティに宛《あ》てて、ポエムや青春の悩みをつづっていたのに対し、私は迷わずダジャレネタ、であった。
――日本一黄緑色の服が似合う人は誰だ?
五月みどり。(シャツ・キミドリ)
このぐらいは、朝飯前なのだ。
そんな私であるからして、水曜夜十時の「ボキャ天」は、かかさずチェックを入れている。
爆笑問題が、ついにザブトンを五枚獲得したではないか。ついにやってくれたか、爆笑問題。じつは私はずうっと爆笑問題の太田光のファンだったのだ。
十年程前、私は爆笑問題に会ったことがある。明治学院大学の学園祭で、ミス明学コンテストの審査員として招かれたのだ。そしてその時の司会が爆笑問題だったのだ。太田光は、今よりもっと過激だった。
太田「どうせ、みんなヤル気ねえんだよ。見ろよ、サイモンさん、思いっきり普段着で来てるぜ」
田中「よしなさいって」
ほとんどリアクションの無い屋外のイベント会場で、爆笑問題は、そんな観客を無視するがごとく過激ネタで突っ走っていた。(とても活字にはできない)
当時の太田光は、凶暴なぐらいに毒づいていた。世間すべては馬鹿だし敵だ、と言わんばかりに。危険だけど魅力的だった。ちょうど出だしのビートたけしのように。
ところが、最近「ボキャ天」で見かける太田光には、かつての挑むような荒々しさが無い。むしろ、ひょうひょうと、どこか達観したふうにさえ見える。
「爆笑王座決定戦」で初代チャンピオンとなりながらも、そして何度も何度も、
「今年こそ爆笑だ」
と言われながらも、誰もがその実力を認めておりながらも、今ひとつ大ブレイクに結びつかなかった爆笑問題であるが、私は今予言する。
今年こそ、まさしく爆笑だ
太田光が野獣の狂気を捨てて、ちょっと危ない笠智衆風芸に移行したのをきっかけに、子供から若い女性にまで幅広く受け入れられる下地は整った。
それより何より、太田光ってセクシーだと思う。
私の中では、太田光はピエール・クレマンティ(『昼顔』という映画に出ていたフランス男優)と同じくらいセクシー、なのだ。私は、眼光が鋭くて口元がワイルドな男に色気を感じてしまう性癖があるのだ。
けれど、かつてこれまで、私のこの〈太田光、超セクシー説〉は、誰にも支持されていない。
「爆笑は面白いけど、セクシー、ですかあ?」と、アシスタント達にもあきれられた。
ところで、もう一人の爆笑問題、田中。彼の身長が実際何センチなのか、ずっと疑問だったが、『爆笑問題の日本原論』(宝島社刊)の奥付けを見ると、身長154pと明記されていた。「爆笑問題の小さい方の田中は、太田が子どもの頃、森の中で見つけたコロボックルです」この本の冒頭のこの言葉には、声を上げて笑ってしまった。
でも、田中もよく見ると可愛い顔をしている。
「テレビに生きる人間は、見かけがすべて、顔が命」
という持論の私は、セクシー太田と童顔田中のコンビである爆笑問題は、間違いなくテレビのスターになれると思っている。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※私の予言通り、爆笑問題はこの年大ブレイクした。[#「※私の予言通り、爆笑問題はこの年大ブレイクした。」はゴシック体]爆笑のライヴは一分半に一回は笑えるくらい密度の濃いものだ。[#「爆笑のライヴは一分半に一回は笑えるくらい密度の濃いものだ。」はゴシック体]
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[#小見出し] 男は顎《あご》。[#「男は顎。」はゴシック体]
[#小見出し] ブラッド・ピットは、[#「ブラッド・ピットは、」はゴシック体]
[#小見出し] まさにフェロモン顎男なのだ。[#「まさにフェロモン顎男なのだ。」はゴシック体]
来そうな予感はあったが、ついにその通りになってしまった。
ブラッド・ピットの大ブレイクである。もちろん、私の心の内での。
『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の試写会の案内状が来ていた。主演俳優と監督の舞台|挨拶《あいさつ》もあるとそこに書いてあるではないか。
「生ブラピが見れるかも」
私の胸は高鳴った。
「けど、寒いなあ」
齢とともに持病の冷え症がひどくなっている私なのだ。試写は夜の時間帯である。
で、結局、生ブラピと冷え症を天秤《てんびん》にかけ、身体《からだ》の大事の方をとったのだ。じつは、その時まではそれほどブラピに熱中はしていなかった。
その翌日、案の定、ワイドショーでは試写会場に現われたブラピを大々的に取り上げていた。笑顔で、日本のファンに挨拶するブラピ。その瞬間、私は激しい後悔に襲われた。なぜ、なぜ私は試写に行かなかったのか。あの、とろけるようなブラピの笑顔をこの目で見ることができたのに。
こうして、ブラピ大ブレイクが始まったのである。
新聞の四コマ漫画の下に、その漫画のコマくらいの大きさに、ブラピのエドウィンの広告写真が載っているのを見るだけでドキドキしてしまう。
なんて美しい男なのだろう。
三十四歳の外人にしては、珍しく少年ぽさが現存している(白人はとかく老け易いというのに)。特に、笑った時の可愛らしさといったら。おすぎが、ブラッド・ピットちゃんステキ、ステキとはしゃぐ気持ちがよくわかる。
私、気づいたんですが、ブラピの顎の線の角度が、藤井フミヤにそっくり。つまり、私がもっともフェロモンを感じる顎なのである。
「男は、顎」
が、私の持論である。あと少しでエラ男になるその一歩手前の顎を持った男が、私にとってのセクシーなの。桑田真澄とT.M.Revolutionはエラ男だけど、藤井フミヤ、筒井道隆、ブラピは、フェロモン顎男となるのだ。この微妙な差異は、私にしかわからない。顎フェチなのだ。
キムタクやカミセンの三宅健は、きれいな顔をしていると思うが、顎が細すぎて私はイマイチである。もっとも、このおふた方にとって、私なんぞに好かれようがどうしようが全くどうでもいいことだろうけど。
顎だけじゃなく、ブラピの短くて上を向いた鼻も好き。角度によっては、鼻の穴が気になる時もあるが、基本的にはOKである。
私は、たいていの外人が苦手である。特に、鼻の高すぎる白人は、駄目。最近、私が最も駄目だと思ったのは、Mr.ビーンである。あの腹話術の人形みたいなギョロ目に、高すぎる鼻。ぐにょぐにょと動く顔面筋肉。ごめんなさいと言って逃げ出したくなる。
外人が不得手な私なので、私の心のベストテンには、なかなか洋モノがランク・インしない。
けれど、ブラピは久々のスマッシュ・ヒットであった。私にとっては、リバー・フェニックス以来の高チャートである。ちょうど一九九七年の日本のヒットチャート上位にいきなりエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウインド1997」が登場したかのように。
じつは私、ブラピの映画は『セブン』一本しか見ていない。『テルマ&ルイーズ』は見たが、あまりに端役で私の記憶に残っていない。ようし、これからブラピの主演映画をビデオで全制覇してやろうと思ったとたん、ケーブルテレビでブラピ主演の映画を見つけた。
『ブラッド・ピットのヒミツのお願い』
これって、あんまりなタイトルじゃありません。内容も、タイトルから予想された通りのものだった。野暮ったいスーツにネクタイ。銀ブチ眼鏡に七三分け(?)のブラピは、まるで「恋の片道切符」の吾郎ちゃんのようだったが、でも、いいの。ブラピだから。こういうミーハーファンが、映画を駄目にするのだろうな。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※ブラピの「ごーまるしゃん」のCMは許せても、ディカプリオの「オリコ・カード」のCMは許せない私なのである。[#「※ブラピの「ごーまるしゃん」のCMは許せても、ディカプリオの「オリコ・カード」のCMは許せない私なのである。」はゴシック体]
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[#小見出し] 女はやっぱり、[#「女はやっぱり、」はゴシック体]
[#小見出し] キザ男(ミッチー)が好き。[#「キザ男(ミッチー)が好き。」はゴシック体]
「ボク、子供の頃のあだ名がキザ男ですもん」
この一言で、すっかり私は及川光博のファンになったのであった。
今年の春から夏に向け、大ブレイク間違いなしと言われているミッチーこと及川光博。一般には、マツモトキヨシのCMあたりから知られるようになったが、彼|曰《いわ》く、
「マツキヨのCMは関東圏でしか放映されてないから、あんまりその話はしないでよ。関東以外の日本中のボクのベイベーが気の毒じゃないか」
なのだそうだ。
このキザっぷりは、「ちびまる子ちゃん」の花輪くん以来だ。しかも、ミッチーは花輪くんより美形。おそろしく整った目鼻立ちなのである。江戸川乱歩の耽美《たんび》探偵小説の挿絵に出てきそうな美青年と言おうか。着物と袴《はかま》がすごく似合いそうだ。
じつは私は、昨年から、マツキヨのCMよりずっと以前からミッチーに注目していた。
「悲しみロケット2号」あたりから。というのはその時期、ケーブルチャンネルのスペースシャワーTVでミッチー大プッシュをしていたのである。
「ミッチー、アワー」という十五分番組があって、
「やあ、ボクはミチロリン星からやって来た王子、ミッチーだよ」
などと、宇宙船を模したスタジオからカメラ目線で語りかけてくれていたのだ。洗脳されるなと言う方が無理だ。
その番組は様々なコーナーに分かれていて、ミッチーのダンス講座や、ミッチーのものまねタイム(確かJ・ブラウンやっていたと思う)があって、シビれたね。なぜあれをビデオに録《と》っておかなかったのか、今となっては心から悔やまれる。
その頃は、岡村靖之とT.M.Revolutionの中間を狙《ねら》っているように思えたのだが、今や独自のキザ男路線を切り拓いて、大|驀進《ばくしん》中のミッチーなのだ。
私がミッチーは必ず夏までに大ブレイクすると予言する根拠は、
〈女はやっぱりキザ男が好き〉という法則に基づいている。
オリンピックのフィギュアだって、やっぱりキザ男のキャンデローロが一番人気だったではないか。
「キザなことばっかり言って、やーねー」
と言ってはみたものの、キザなセリフで口説かれるとやはり嬉《うれ》しいのが女、なのである。
キザ男は、女にモテる。ネプチューンの原田演ずる|アキラ《・・・》だって、そのキザっぷりが人気なのだ。
一方、男は、キザ男が嫌いだ。キザ男が何人も女を囲っているため、非キザ男には女が回ってこないので、嫉妬《しつと》するのだ。嫉妬するくらいなら、自分もキザ男になって、キザなセリフ吐きまくって女を喜ばせればすぐモテるようになると思うのだが、日本の男の多くは、
「そんなキザなこと、死んでも言えない」
と、頑《かたく》なを守るのだ。
キザ男は口がうまくて、人とコミュニケーションをとるのが上手だ。キザ男が女にモテるのは、コミュニケーションをとるのが上手な遺伝子を残して(増やして)いきたいと神様が考えているからだという説がある。地球上で増え続ける人口を考えると、やはり協調性のない奴、話しても面白くもなんともない奴は、淘汰《とうた》されていくのだろうか。
T.M.Revolutionやミッチーのように、キザをお笑いにできる美形が、今年の主流になると思う。本気のキザ、本気の二枚目、というのは、すでにもうダサいのではないか。
話は代わるが、「竜馬におまかせ」の再放送を見ていて、私はようやく反町隆史の魅力に気づいた。彼こそ本気《マジ》のキザ男なのだが、時代劇でちょっとウブな人斬《ひとき》り以蔵を演ずると、フェロモンがむんむんたちこめていて、「反町なんて」とずっと思っていた私もあっけなく陥落しました。
ウブなふりをするキザ男も、笑いでつかむキザ男と同じくらい女にとって手強《てごわ》いと、私は発見したのだった。
ともかくも、キザ男がどんどん増殖して、日本中にあふれ返って、女を幸せな気分にしてくれたらいいな、と思うのだ。
[#この行改行天付き、折り返して1字下げ]※ミッチーはこのエッセイを読んでいてくれて、その後、対談することができた。[#「※ミッチーはこのエッセイを読んでいてくれて、その後、対談することができた。」はゴシック体]ミッチー、かなり厚化粧だった。[#「ミッチー、かなり厚化粧だった。」はゴシック体]
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[#小見出し] 単行本あとがき[#「単行本あとがき」はゴシック体]
私は〈少年〉が好きである。
私が十代の本物の少女であった頃から現在に至るまで、四半世紀の時を経て、やっぱり〈少年〉が好きなのだ。
それはなぜかと聞かれれば、
「好きなものは、好き」
としか答えられない。
それではあんまりなので、もう少し分析めいたことを言えば、私は富や名誉や権力といったものが好きじゃないので、そういったものの対極にいる、孤独でよるべきものもない〈少年〉が好きなんだろうな、と思う。
したがって、本書で私が、
「良い、良い」
と誉《ほ》めているものは、みなその根底のどこかに〈少年〉というキーワードを秘めている。
だから〈少年〉が嫌いな人は、きっとこの本はおもしろくないだろうな、と思う。
中年でもガイジンでもフィクションの人物でも、そのどこかに少年っぽさがあれば、私は充分なのである。
〈少年〉のポイントは、照れと孤独と純粋さであると、付記しておこう。
ノンノ連載当時は、月二回の締切りが本当に苦しかった。当初、一年連載ということで引き受けた仕事だった。
「でも、一年間、二十四人も取り上げるほど〈いい男〉がいますかねえ」
という私の心配も、
「大丈夫ですよ、それだけ男性が好きなサイモンさんですもの。後から後からネタはつきることないと思います」
という、担当者の岸田さんの暖かい励ましで打ち消されたカタチとなってしまった。
その一年の約束が一年半と延びたものの、不思議と岸田さんの予言どおり、私の気になる〈いい男〉は、次から次に現われてくれたのだった。
連載が終わったのちも、いい男に出会うと、身体《からだ》に滲《し》みついた「ノンノの締切り」が条件反射を起こし、書かなくちゃ、書かなくちゃと、ついいきり立ってしまって困っている。
ノンノ本誌連載中にはいつも素敵な写真を添えて下さったカメラマンの中本徳豊さんの御尽力にとても感謝しています。
担当の岸田さん、単行本化に協力頂いた田川さんを始めノンノ編集部の皆様にも心からお礼申し上げます。
何より、勝手にマナイタの鯉《こい》とさせて頂いた男性たちに、愛をこめて。
一九九三年七月
[#地付き]柴 門 ふ み
底本 角川文庫『男性論』平成11年7月25日初版刊行