柴門ふみ
ぶつぞう入門(下)
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目 次
第10章
快慶がこん平で、ドーモスイマセン
醍醐寺 浄土寺 東大寺
第11章
おとなの京都、隠れた名品を味わう
泉涌寺 永観堂 願徳寺 神護寺
第12章
空海さんの伝説と愛の喜び
東寺 六波羅蜜寺 西明寺
第13章
高野山の底冷えと心に蛇を飼う女
金剛峯寺 道成寺
第14章
ビバあいづで行こう! 東北仏像悦楽紀行
勝常寺 恵隆寺 中尊寺 黒石寺 成島毘沙門堂
第15章
ワールドカップより 東大寺のすべて、なのだ
東大寺 法華寺 蟹満寺
第16章
ぶつぞう最後の旅は、近江の十一面観音なのだ
壽寶寺 一休寺 観音寺 向源寺(渡岸寺観音堂) 東大寺
第17章
遂に発表! サイモン心のベストテン
お寺案内
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第10章
快慶がこん平で、ドーモスイマセン
[#(img\p105.jpg、横434×縦283、下寄せ)]
さて、運慶と言えば快慶、である。
中学校の教科書でも必ずこの二者は並んで記述されている。で、この二人は兄弟か、ひょっとしたら双生児か、仏像彫刻界のきんさんぎんさんかと、誤って認識している人も多いのではないだろうか。
運慶・快慶に血縁関係は、無い。
慶派の祖である康慶の長男が運慶で、快慶は運慶とは血のつながりのない一番弟子なのだ。つまり、林家三平の息子であるこぶ平(運慶)と、三平の弟子であるこん平(快慶)の位置関係にあるのだ。
で、やっぱり直系の方がもてはやされるのだ。まあ運慶の方が上手《うま》いことは上手い。第一、円成寺《えんじようじ》の大日如来に恋して以来、私にとって運慶以上の仏師はいないのである。そんな私であるのだが、
「でも、やっぱり、快慶は押さえといた方がいいですよ」
というY氏の助言に従い、今回は快慶を訪ねることとなった。
まずは、醍醐寺《だいごじ》。ここには快慶作の弥勒菩薩像があるのだ。
寺の門をくぐり、思わず私達はうなった。
「うむむ……。見事だ」
時まさに紅葉シーズン。三宝院の庭は、絵に描いたような手入れの行き届いた見事な日本庭園であった。苔に岩に池にもみじ。
この庭目当ての観光客で三宝院の縁側はごった返していた。が、我々の目的は庭ではなく快慶なのだ。廊下を伝って院の奥へ奥へと進む。
弥勒菩薩の置かれている部屋は入口に立入禁止の札が立っていて中まで入ることができなかったため遠くから拝むことにした。それでも美しく整った像であることは見てとれた。金ぴかだが、品がある。衣のひだも優美に流れている。が、快慶の特徴である骨太さは感じられない。いわゆる快慶様式の現れる以前の作品なのであろう。けれど顔の四角さは、すでに快慶っぽい。
私にとっての快慶は、
〈骨太い・平板・顔が四角い〉
なのである。
超敬愛する運慶の作品に及ばないのは、この平板で劇画チックな作風のためかもしれない。
[#(img\p106.jpg、横258×縦413)]
歴史度………★★
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★☆
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1192年に完成した、快慶若き日の代表作。端正な面差し、整理された流麗な衣文の彫りに、快慶の特徴が見られる。像の表面に濃淡をつけた金泥を施す点、左右対称に造る所は、仏画からの影響が考えられる。
■像高………112・0cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「どうですか、やっぱり快慶はダメですか」
と聞くY氏に、
「だって顔が四角いんだもん」
と答える私。
「快慶の傑作、国宝阿弥陀三尊像が、兵庫県小野市の浄土寺にあるんですが」
「小野市ってどこよ」
「神戸から電車で一時間ちょっと。さらにそこから車で十分……」
「阿弥陀以外に何かあるの?」
「いや、何にも無いっス」
それでも私達は、小野を目指して神戸電鉄に乗り込んだ。ここで行かねば一生行かぬ、を合言葉に。
本当に、浄土寺以外何にも無い町だった。
「不便なとこでっしゃろ。誰も観光に来いしませんわ」
浄土寺まで案内してくれたタクシーの運転手さんもあきらめ顔だった。
はたして、畑の真ん中に浄土寺があった。私達以外には誰も参拝客はなかった。お目当ての阿弥陀堂は鍵をかけられ閉じたままだ。隣接する宝持院の住職に鍵を開けてもらい、ようやく我々はお堂の中に足を踏み入れることができたのだった。
「おお!」
私達は声を上げた。
五メートルもの阿弥陀本尊。それをすっぽり納める高い天井の朱の梁。屋根を支える太い円柱も朱色である。西側から入る夕陽を背に受ける時刻には、まさに光輝く極楽浄土と化するらしい。
阿弥陀如来が五メートル三十。両脇の観音・勢至両菩薩が三メートル七十一である。大迫力なのだ。しかも金ぴか。柱は真っ赤。ここは異空間かと錯覚しそうだ。
これがもし京都か奈良の交通至便の場所にあったならば観光スポットとしてさぞかしもてはやされたことであろう。〈生きて体感・極楽浄土気分〉。ディズニーシーのテーマパーク以上の臨場感を味わうことができるかも。
お堂こみの総合点で高得点の浄土寺阿弥陀三尊ではあったが、やはり顔が四角い。三像ともめっちゃ四角い。四角い平面にとってつけたような目鼻立ち。快慶が絵画的と称されるゆえんである。が、リアリズムを愛するサイモンには安っぽい劇画的な目鼻立ちに思えてしようがない。というか、サイモンの顔も平板なのでより立体的な顔に憧れてるだけなのか。
[#(img\p107.jpg、横261×縦386)]
歴史度………★★
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★★
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快慶が、中国・宋文化に傾倒していた東大寺僧・重源の依頼で制作した巨大な三尊像。爪を長く伸ばすなど、宋代仏画を手本に造られた木彫像だが、顔や衣の処理には、快慶の作風が表れている。1197年の作。
■像高………530・0cm(阿弥陀)、371・0cm(脇侍)
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再び一時間数十分かけて神戸まで戻る。これだけで日が暮れてしまった。やはり小野は遠すぎる。
ものの本によると、運慶と快慶は微妙な位置関係にあったらしい。師匠の跡取り息子の運慶とは年も同じくらい。しかも技量では決して劣らぬ快慶。この両者は、かなりぴりぴりした関係にあったのではないかと推測される。
その関係性を示唆するのが、東大寺|南大門《なんだいもん》の阿吽《あうん》像である。
一般に、様式の特徴から阿形が快慶作、吽形が運慶作と思われがちだが、発見された資料によるとかなりの大人数の協同作業で作られたものらしい。
大勢の分業であっという間(六十九日間)に八メートル四十もの巨像を二体作ったわけである。
手順としては、寄せ木を組み合わせて門に設置し、それから細かい彫り作業を進めていったらしい。にしても、二か月で八メートルの像(ジャイアント馬場を縦に四人積み重ねてそれ以上)を彫れるものだろうか。
運慶と快慶とその弟子十数名を引き率《つ》れてゆけば、サグラダファミリアなんてあっという間に完成してしまうのではないか。
実際には運慶が総合プロデューサーで、快慶や、運慶の息子達さらに弟子を加えて十数名で、運慶の指揮の下、制作したらしい(副島弘道著「運慶 その人と芸術」)。
で、本来は運慶色に染まった阿吽の二体が出来るはずだったのが、快慶が、
「ふん。運慶の言うことばっかし聞いてられるかい。オイラの師匠は康慶であって、せがれの運慶じゃないんだい」
とばかりに、独走して快慶様式の阿形を弟子に彫らせたという説がある。
こぶ平がこん平を統制下に置けないように、運慶もまた快慶の独走を阻止することができなかったのであろう。
などと考えながら阿吽の像を見上げると、面白い。
確かに口を、
「あ」
と開いた阿形は荒々しく劇画チックであるのに対し、
「うん」
と口を閉じた吽形は迫力はあるが静謐な感じがする。
けれどいつ訪ねても南大門の阿吽像は鳩よけの金網の向こうで、よく見えない。いつも足元ばかり見つめては、
「足でかーい」
と驚いて通り過ぎるのだ。足の爪や甲の血管のリアルさに目を見張る。
「足は、足担当《あしたんとう》のアシスタントーがいたのね」
と、毎回同じ駄ジャレを言う私。だって大きすぎて八メートルも頭上にあるお顔まで拝見できないんだもの。
[#(img\p110.jpg、横426×縦640)]
歴史度………★★
技巧度………★★★★
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★★
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解体修理時に銘文が発見され、運慶・快慶のほか定覚・湛慶が大仏師として関わり、2体が同時進行で造像されたことが確認された。大仏殿と同じ山口県産の材を使い、1203年に完成。阿吽2体が向かい合って安置されている仁王像は、日本ではここだけ。
■像高………836・3cm(阿形)、842・3cm(吽形)
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この「ぶつぞう入門」を始めて以来、私達は何度東大寺を訪ねたことであろう。
「ぶつぞうは東大寺で始まり、東大寺で終わる」
が、私とY氏の合言葉なのだ。
法隆寺も興福寺も東寺もいいけどね。
やはり、阿吽が居て、奈良の大仏が鎮座し、さらに戒壇院《かいだんいん》、法華《ほつけ》堂まで兼ね備えた東大寺こそ、ぶつぞうのメッカなのだ。聖地なのだ。なんでイスラム教用語なのか。仏様が怒るぞ。一つの文に二つの宗教は俳句でも禁じられているではないか。なんてウソ。柄にもなく資料を読み込んだためどうも頭がヨレてきている。ていうか、単なる正月ボケ。
紙数も残り少ない。急ごう。
せっかく東大寺までたどり着いたのだ。やはり大仏殿の盧舎那《るしやな》仏に触れないわけにはいかない。
誰でも知ってる奈良の大仏様。その大きさにびっくりであるが、像の前の供え物の花まで巨大なので圧倒される。
大仏殿内はいつも修学旅行生でごった返している。撮影禁止の他のお堂内とは異なり、大仏殿では写真撮り放題なのである。従ってあちらこちらでフラッシュが焚かれる。
仏像自体は江戸時代に大規模修復されたものである。前々回の復習として、一一八〇年の南都炎上でこの東大寺の大仏も焼けたことを思い出して欲しい。そしてこの東大寺の復興に尽力したのが慶派なのだ。
[#(img\p108.jpg、横267×縦403)]
歴史度………★★★★
技巧度………★★★
芸術度………★★★
サイモン度…★★★☆
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鎮護国家のシンボルとして制作され、752年に開眼供養が営まれた。2度の兵火で損傷を受け、頭部は江戸期のものとなっているが、美しい「蓮華蔵世界」が線刻された台座蓮弁に、天平の面影をとどめている。
■像高………14・73m
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東大寺は、とにかく広い。鹿も多い。修学旅行の子供も多い。
鹿と子供をよけて、戒壇院に上る。ここには奴らの叫声は届かない。静寂の中で、四天王と向き合う。マリナーズの佐々木顔が二体、多聞《たもん》天と、広目《こうもく》天である。ギョロメの花紀京顔が、増長《ぞうちよう》天と持国《じこく》天だ。
この、佐々木顔の二体のガンの飛ばしっぷりが凄い。顔の迫力に比べ、胴体はスマートである。法華堂にも四天王がいるが、戒壇院のものの方がリアルだ。私はもちろん、戒壇院の方が好きである。天平のミケランジェロと呼ばれる|国中 連公麻呂《くになかのむらじきみまろ》作なのだ。
[#(img\p109.jpg、横215×縦396)]
歴史度………★★★★
技巧度………★★★★★
芸術度………★★★★★
サイモン度…★★★★
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かつては極彩色が施されていた塑像。整ったプロポーションの4体が、抑制のきいた肉体表現のもと、静と動の絶妙なバランスで一具をなす。天平仏師の造形力、写実表現の到達点がうかがえる天平彫刻の傑作。
■像高………169・9cm
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新薬師寺の十二神将の伐折羅《ばさら》、法華堂の日光・月光菩薩も公麻呂作と言われている。
公麻呂、好きかも。
運慶の次に公麻呂好きかも、私。
仏師ベスト3を挙げるなら、@運慶A公麻呂B定慶ってとこかしら。
今回の旅では快慶は〈サイモンお気に入り仏師ベスト3〉に入らなかったけれど、次回は上位を目指して頑張って下さい(でも、定朝よりはランキング上ですから)。
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第11章
おとなの京都、隠れた名品を味わう
[#(img\p116.jpg、横437×縦301、下寄せ)]
冬の京都、である。
「京都で鴨鍋をつつきつつ、仏像見て歩くのってよくない?」
という私の提案に、Y氏が用意したのは軍鶏《しやも》料理だった。
軍鶏づくし。軍鶏刺しに軍鶏の塩焼き、軍鶏すき焼き。そして何やら捌《さば》かれた内臓と思しき一品が小鉢に……。
「これは、何ですか?」
と、私はお店の人に尋ねた。
「キンゾウでございます」
金造? 桜? 小山ゆうえんち? と、とぼける私に、
「サイモンさん、四十過ぎてカマトトぶるのもアレなんじゃないすか──」
と、Y氏が水を差した。
そこで私は、予め表面に付けられた金ゾウの切れ目にそって歯を立ててサクッと噛み切り、口の中いっぱいに広がるオスの匂いを愉しむかのようにうっとりと瞳を閉じるのであった。どうでしょう。おとなの京都。官能編。でも、軍鶏の金ゾウ相手でもなあ。
さて、金ゾウでスタミナをつけた私達は、それから冬の京都の町へくり出したのだった。
とにかく日本中の運慶をこの目に焼き付けたいという私の野望がある。その野望への第一歩として、泉涌寺《せんにゆうじ》の三尊仏をまず訪ねることにした。
もっともこの三尊(釈迦・阿弥陀・弥勒)像は、伝《ヽ》運慶作なのでどうも怪しい。
仏像の納められている仏殿は、応仁の乱で焼失した後、江戸時代に将軍家綱によって再建されたものであるが、それでも国の重要文化財に指定されている。全体に黒っぽく、それに窓の格子の白が映える。まるでお菓子のオレオのようだ。
それにしても、釈迦と阿弥陀と弥勒が横一列に配置されるのは珍しい。しかも、顔も微妙に違う。運慶と言われれば、運慶風ではあるが。でも円成寺の大日如来には及ばない。当たり障りのない顔をした三尊であった。
[#(img\p118.jpg、横239×縦375)]
歴史度………★
技巧度………★★☆
芸術度………★★☆
サイモン度…★★
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
釈迦を中央に、釈迦亡きあとの未来に現れて衆生を救済する弥勒、来世を救う阿弥陀の三尊仏。運慶作と伝えられるが、17世紀の仏殿再建にともない、創建当初の鎌倉時代の作風を取り入れて造られた江戸期の作。
■像高………各88・0cm
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泉涌寺の大門をくぐってすぐ左には楊貴妃観音堂がある。
「なぜ、楊貴妃が仏像なの!?」
と、驚くむきも多かろうが、楊貴妃の顔に似せた聖観音像が奉られているだけなのだ。唐の玄宗皇帝が楊貴妃亡きあと、彼女を偲んで妃の面影に似せて刻んだと言われる観音像。それを、湛海律師という人が泉涌寺に持ち込んだらしい。でも、言い伝えが真実だとして、そんな大切なものをよく中国が手放したと思わない? と、疑り深い私は怪しむのであった。本当に楊貴妃ってこんな顔をしていたの? まあ、美人は美人だが。近藤サトに少し似てる。尚、口の周りのモニョモニョは髭ではなく、口の動きを表わす記号なのだそうだ。漫画的発想だ。
[#(img\p119.jpg、横257×縦416)]
歴史度………★★
技巧度………★★☆
芸術度………★★☆
サイモン度…★★★☆
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13世紀半ばに宋からもたらされた像。白檀の寄木造で、豪華な宝冠、表面の極彩色と装飾性に富む。楊貴妃伝説は、像のもつ生々しさから後世に生まれたものらしい。かつては、100年ごと開扉の秘仏だった。
■像高………113・6cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
泉涌寺は、そもそもは弘法大師がここに庵を結んだことに始まり、そののち天皇家の菩提所となり、明治の神仏分離までずっと続いていたらしい。天皇が仏に手を合わせていたのか。そのへんの歴史の辻褄を合わせるのに明治維新の頃の人々は大変だったろうなと思う。私達が訪ねた日はちょうど特別拝観日で、ふだん見られない奥の御座所や本坊も見学できた。まあ、いかにもという感じ。天皇家所蔵の仏像は見せてもらえなかった。
次に、永観堂《えいかんどう》へ向かう。この寺の正式名称は聖衆来迎山無量寿院禅林寺という。元々は弘法大師の弟子の一人が開いた寺だが、平安時代後期に入寺した永観《ようかん》律師が立派な人だったので、彼を慕って「永観堂」という名が知れ渡った。
さらにこの寺を有名にしたのが、JR東海の「そうだ、京都、行こう」キャンペーンの、みかえり阿弥陀の紹介である。ある日永観が熱心に念仏を唱えながら歩いていると、本尊の阿弥陀仏が壇上から降りてきて、すたすたと永観の前を歩いてゆくではないか。あれれー、驚いて永観が立ちすくむと、阿弥陀はくるりと振り返り、
「永観、遅し」
と、声をかけたという。
その尊いお姿を、リアルに再現したのが永観堂の「みかえり阿弥陀」なのだ。
でも、それって絶対、永観が見た夢だと思うな。創り話だと、「永観遅し」なんてキツイ言葉を仏に言わせないと思う。「永観、はやくおいで」と温かな言葉をかけた話にするはずだ。きっと居眠り中の永観の潜在意識が「居眠りしてるの仏に見つかったら叱られる」というネガティブなイメージを引き寄せ、ちょっと怒ったふうな「永観遅し」に結びついたのだと思う。この解釈、多分間違ってると思うけど。
さて、そのみかえり阿弥陀であるが、冬の平日ということもあって、人気《ひとけ》の無いがらんとしたお堂の中にあった。私達以外、拝観者はいない。カメラ撮影禁止とあるが、撮りまくったって、多分誰にも気づかれまい。もちろん我々はそんなことなどしないが。
「有名な像だけどあまり期待しない方がいい」と、何人かから釘を刺されていたのだが、そんなことはなかった。像高七十七センチの小ぶりな像であるが、はだけた胸元が何とも色っぽくて、いい。何の前知識もなくこの仏をお参りに来た者は、そっぽ向かれてて気が抜けてしまうかもしれない。その代わり、大きく開かれた胸に目が釘づけになるはずだ。この、しどけない着こなしがエロティックでよいと、私は気に入りました。
[#(img\p120.jpg、横255×縦415)]
歴史度………★★
技巧度………★★★
芸術度………★★★
サイモン度…★★★★
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鎌倉時代の制作。類例の少ない見返り阿弥陀像の最古例。頭部は三道下で、寄木造の体部に差し込まれているという。頭だけを真横に向けて体躯をひねらないなど、思い切ったポーズながら静的な像となっている。
■像高………77・0cm
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「楊貴妃観音といい、みかえり阿弥陀といい、教科書に載るほどではないけど、味わい深い隠れた名品でしたね」
「それじゃあ、もう一か所、知る人ぞ知る国宝の如意輪観音を見に行きましょうか」
と、Y氏が提案したのが、洛西にある願徳寺《がんとくじ》(宝菩提院《ほうぼだいいん》)である。京都の中心地から車で西へ抜け、洛西ニュータウンと呼ばれる新興住宅地のさらに西のタケノコ山の中腹に、この寺はあった。季節が早かったので、タケノコ山はまだ、ただの竹林であった。
やはりシーズンオフのせいか、訪れる人も無く寺はひっそりとしていた。
住職の奥さんと思しき女性に声をかけ、抹茶付き拝観コースを申し込むと、コンクリート造りの収蔵庫を開けて下さった。
堂内は、暗い。それでも本尊を前に我々が正座すると、奥さまによる寺の説明が始まった。が、今となっては何の記憶も無い。誰がいつ始めた寺なのやら。するといきなり、壇上のライトが灯った。
「おおっ」
ライトアップされた壇の上には、それまで暗くてさっぱり見えなかった如意輪観音のお姿が煌々と輝いているではないか。
心憎い演出。
すっかり奥さまの意図にはまった私達は、
「さあ、目を閉じて一分間お祈りを捧げましょう」
という号令にも、素直に従った。思うツボである。
一通りの演出が終わったのち、
「では、ごゆっくりとご拝観下さい」
と言って、奥さまは収蔵庫から出て行った。かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえた。育児とお寺の仕事の両立は大変だろうな。しかもこれから抹茶まで点《た》てるのかと、私は彼女の苦労をしのんだ。
さて、その国宝如意輪観音であるが、確かに美しく整った像であった。でも私には、観音というより〈男〉にしか見えない。しかも、身体重そう。ちょっと小太りの男ね。桧の一木彫りというから、作者の技量は相当なものである。整ってるし、うまいんだけど。でもね。その「でもね」が何なのか、今ひとつうまく説明できないが。
[#(img\p122.jpg、横423×縦640)]
宝菩提院(願徳寺)
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★★☆
芸術度………★★★★
サイモン度…★★
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一材からほぼ全体を彫成し、素地仕上げとした檀像で、瞳に黒い珠をはめた異国的風貌と冴えた彫技が特徴。粘りつくような衣文の動きには、装飾性を超えた生動性がある。
制作は8世紀末。伝来・尊名は不明で、中国請来説もある。
■像高………124・5cm
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拝観の後、座敷の方でお抹茶をいただく。縁側から外を見ると、庭の先から急にすとんと崖が落ち、眼下に京都の町が広がっている。眺めのいい寺だった。
「京都って、弘法大師ゆかりの寺が多いですねえ」
「京都に限らず、日本中のいたるところに弘法大師伝説が残っているでしょう」
「弘法大師って何なのよ」
「それは、今後の勉強の課題、だな」
以上は、私とY氏の会話ではなく、私一人の心の中での自分との対話である。弘法大師については、次回までに勉強しておくこととして、とりあえず弘法大師ゆかりの寺、神護寺《じんごじ》へと足を運んだ。
高雄《たかお》山神護寺。といっても、八王子の先の高尾《たかお》ではない。秋には紅葉で有名な京の高雄山である。
中国で勉強を重ねた空海が、いきなり京に行くのも何なので、とりあえず帰朝後まず落ち着いたのが神護寺である。
奈良の室生寺に似たたたずまいの寺であった。石段があり、山に沿って伽藍が建ち並ぶ。それだけで身の引き締まる気がする。山の冷気のせいか。掃除の行き届いた寺の境内は、すがすがしい。そうか、私が寺を好きな理由は、余計な物が無く掃除が行き届いているせいかもしれない。掃除をサボり、モノのあふれた部屋で暮らす我が身としては。
国宝・本尊薬師如来像は金堂の中にあった。一木造であるが、像高百七十センチの堂々たる体躯である。
圧倒的迫力だ。相手を威嚇する強面《こわもて》顔だ。安岡力也くらいの威圧感だ。
そのどっしりとした存在感で、この本尊は広い金堂内を支配している。
心に残る良い仏像だったと思う。
先程の願徳寺の如意輪観音の方が美しく整っていたし、技術的にも優れていたと思う。
でも、ハートに響く指数は、神護寺の薬師の方が圧倒的に高い。
[#(img\p121.jpg、横247×縦392)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★★☆
芸術度………★★★★★
サイモン度…★★★☆
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木の霊力を像にとりこんだ一木丸彫像。体はねじまがり、太腿は異様な盛り上がりを見せる。均衡や写実とは無縁の造形を生み出すのは、深く荒い彫り。病を払う薬師如来の、ある極致の表現を示す平安初期彫刻。
■像高………169・7cm
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仏像は、ハートよオーラよ魂なのよ、技術や表面的な端正さでは計れない所に、その魅力があるのよ。
金堂の薬師の脇には、日光、月光両菩薩と四天王、十二神将が置かれていたが、やはり御本尊の大迫力の前には引き立て役でしかなかった。
さらにその横っちょの隅の方に昭和十年に寄進された金ぴかの大黒天や弁才天が奉られていたが、金ぴかすぎて玩具か商店のディスプレイのように見えたのだった。
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第12章
空海さんの伝説と愛の喜び
[#(img\p127.jpg、横415×縦298、下寄せ)]
前回で予告したとおり、本章はまず空海について語ります。
世に空海伝説は多い。本の前半で取り上げた観心寺《かんしんじ》の如意輪観音も弘法大師作と言われている。なわけないでしょ、と、寺のお坊さん自らが突っ込んでいたけど。
広隆寺《こうりゆうじ》の境内にひっそり祀られている腹帯地蔵も弘法大師作としるされている。なわけないでしょ。
如意輪観音も腹帯地蔵も全然作風が違う。それに、東寺《とうじ》を建立したり満濃池《まんのういけ》を修築したり高野山に金剛峯寺《こんごうぶじ》を開いたりと大忙しの空海さんにそんなヒマあるわけない。
もっとも「弘法も筆のあやまり」と言われるくらいだから、書の達人であったことは間違いない。手先は確かに器用だったのだろう。『高野大師行状図画』によると、空海は旅の途中でちょいちょいと仏像を彫ったりしている。にしても、腹帯地蔵は違うと思う。
さて空海と言えば、密教である。
密教と聞けば何やら怪し気だが、経典に文字として顕わされてない深い真理が〈密教〉なのだ。そして体系的な密教を初めて日本に伝えたのが空海なのだ。
その頃、都では風の便りに、
「大陸では何やら『密教』という新しい仏教宗派が流行ってるらしい。それってどんなものかしら」
と、噂になっていたらしい。そこへ遣唐使だった空海が密教をお土産に持ち帰ったのである。
密教(真言宗)の、他の宗派との違いは人間の食欲、性欲を肯定している点だ。「愛の喜び、それは実に菩薩の境地である」。エッチは菩薩なのよ。そんな物わかりの良い教えって無い。それが受けたのかどうか、平安の世に空海の教え(=真言宗)は、どんどん広まって行ったのである。
さてその密教の教えを三次元で立体的に表現したのが東寺の講堂内部の諸像であることは、この連載でもかつて述べた。でもあの時は勉強不足で、
「帝釈天ってハンサム」
くらいの感想しか書けなかった。
「東寺の講堂はやっぱスゴいっスよー。もうちょっと踏み込んで書いてもいいんじゃないすかー」
と、国宝マニアのY氏に再三促されたこともあり、今回もう一度取り上げてみる。
講堂の中心には、大日如来がある。密教によると大日如来は宇宙の中心であり、一方で自分自身という小宇宙(=密《みつ》)の中にも大日如来は居るのだ。だから多分、ミミズだってオケラだってアメンボだって、その中には大日如来が住んでいるのだ友達なんだ。
そうやって考えると、誰かと争うのは馬鹿げてる。だって世界はみんな大日如来なんだもの友達なんだもの自分自身なんだものという調和の思想が密教なのだ。
でも、人間は愚かだから悩み苦しむ。人が持ってるものを羨み欲しがり手に入れるために力を振るい、注意する人の意見を聞かない。迷いの道にみんなはまっている。だって人間なんだもの。いい暮らししてチヤホヤされてモテまくりたいもの。
ただそうやって迷ってる分には、
「人間味のあるキャラクターだ」
と大目に見てもらえるが、欲望が肥大してその欲望に執着し始めるとかなり傍《はた》迷惑だ。
強欲政治家とか脱税実業家とか。
そういう人々を、講堂内の不動明王をはじめとする明王達がまず恫喝してくれる。不動明王の恐ろしい形相と背中で燃えさかる炎にびびって己れの欲望を反省した者は、
「仏の話をよく聞いて、もうちょっと賢くなりなさいよ、反省すれば救ってもらえるんだから」
と、優しく諭す菩薩達に導かれ、ついに悟りの境地の如来にたどりつくのである。
ということを像を配置してわかり易く表現してあるのが講堂の立体曼荼羅であるのだが、
「ちっともわかり易くねーよ」
という突っ込みを、私も最初は入れました。
「帝釈天はいい男。梵天はエリツィン似」
ということばかりに心を奪われ、宇宙全体を見てなかったのね。
よい映画はDVDで何度も見返すように、よいお寺も何度も訪れるべきなのだ。そのたびに必ず新しい発見がある。
要するに、東寺の講堂はアメとムチなのだ。キリスト教には恫喝してくれる明王ポジションの神様がいない(悪魔はいるけど)。でもやっぱり人間は弱い存在だから、叱ってくれる恐い神様がいないとなまけるし、つけ上がるという仏教思想の方が、私はキリスト教より好きだな。これだけ仏像見ておいて今さら何だけど。
さてそのムチ部門の不動明王については前に取り上げたので、今回はアメ部門の金剛法菩薩について、である。
講堂内には、金剛|波羅蜜多《はらみつた》菩薩、金剛宝菩薩、金剛|薩※[#「土+垂」、unicode57f5]《さつた》菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩の五大菩薩がある。金剛《ヽヽ》とはダイヤモンドのように固くゆるぎない意思を示している。
同じ堂内の五智如来は金ぴかしていて、顔もいまひとつ(江戸時代に再興されたものらしい)。
それに比べ、五大菩薩は私好みの端整なお顔立ちである。中でも金剛法菩薩はベスト・オブ・ファイブ・ボサツズだ。宝冠をかぶり、左手の人差し指が折り曲げられている。ちなみに法菩薩は迷いの世界から目覚めようとしている人々を悟りへと導こうとする菩薩である。お仲間の薩※[#「土+垂」、unicode57f5]菩薩は人々の煩悩を打ち砕き目覚めさせるお役目で、目覚めさせるためか五鈷鈴《ごこれい》を左手に握りしめている。
[#(img\p128.jpg、横268×縦413)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★☆
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
空海在世時の像で、839年の開眼。一木造のうえに乾漆を薄く盛って仕上げた堅固な構造が幸いし、15世紀の火災の折も主要部分は無事だった。ゆったりと構えた両腕が意外に逞しいのは、平安初期密教像の特徴。
■像高………95・8cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
しかし、空海の壮大な夢だった東寺も、たび重なる戦火のため多くは焼失してしまうのである。東寺の南大門には運慶作の仁王像もあったのだ。ああ、もったいない。今はもちろん焼失して、無い。
運慶マニアの私としては、もしタイムマシンがあったなら、鎌倉時代に戻って運慶全作品を目に納めたいと思っている。
ああ、運慶。
と思っていたら、
「運慶、いるじゃないすか」
と、Y氏が声をかけてきた。
運慶の息子|康勝《こうしよう》作の空也上人《くうやしようにん》像を見ようと私達が六波羅蜜寺《ろくはらみつじ》を訪ねていた時のことだ。
「ほら、運慶さん」
宝蔵庫でY氏が指差す先には今にも語り出しそうな高座の老落語家が、じゃなく、運慶その人の坐像が展示されていたのである。
「えっ、運慶ってこんな顔だったの」
長屋噺の得意な名人落語家のような風貌である。
「息子の湛慶が彫ったとありますから、かなり実物に近いんじゃないですか」
運慶って、……噺家顔だったのね。
[#(img\p129.jpg、横263×縦392)]
歴史度………★★
技巧度………★★★
芸術度………★★☆
サイモン度…★★★
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六波羅蜜寺境内に、近世まであった十輪院に安置されていた13世紀の木彫像。やや形式化が進んでいるが、がっしりとした上半身や骨太の手などに名仏師の雰囲気もうかがえ、運慶晩年の肖像である可能性は高い。
■像高………77・5cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「それよりもやっぱりこっちですよ、空也上人像」
Y氏はその像を絶讃する。
像高百十七センチだから、微妙に小さい。リアルだけれど実物の人間より微妙にミニチュアなところが、奇妙な気分を引き起こす。ミニモニより三十センチくらい小さいか。けれど血管の浮き出た足の甲や爪先、わらじにいたるまで超リアルに再現されている。頭蓋骨のいびつさも、こけた頬にわずかに盛り上がる顔の筋肉も、人体を正確に再現している。
これぞ慶派のリアリズムなのだが、微妙な小ささと口から吐き出されている小さな仏像が非リアルな世界を構築している。連れて帰ってリビングに飾りたい。毎日見てもきっと見飽きない。空也上人は、野にうち捨てられたシャレコウベを集めては燃やしていたという伝説がある。ぞくぞくしちゃう。
[#(img\p130.jpg、横227×縦391)]
歴史度………★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★★☆
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13世紀初め、運慶の4男とされる康勝が制作した。唱えた念仏が、阿弥陀仏となってあらわれたという伝承を造形化。写実への執拗なこだわりが、痩躯をひきずり遊行を続けた「市の聖」の面影を的確に伝えている。
■像高………117・6cm
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その空也上人像の並びに、地蔵菩薩坐像がある。これは運慶作だ。いかにも運慶っぽい上手さが光る。リアルなのだがバランスが非常に良く、この地蔵菩薩に関しては衣のひだの流れがとても美しい。お顔もハンサム。その横に定朝作の地蔵菩薩立像もあるが、私はやはり定朝には心があまり動かない。顔がどうにもやる気がないとしか思えないのだ。
[#(img\p131.jpg、横252×縦377)]
歴史度………★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★★
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理知的な表情、がっしりした上半身、大きく張った両膝と、若々しい雰囲気を漂わせる地蔵菩薩像。運慶が建立した地蔵十輪院の像だった可能性があり、作風的にも12世紀末の運慶作品と考えてほぼ間違いない。
■像高………89・5cm
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ともかくも六波羅蜜寺は宝の山であった。でも御本尊の十一面観音立像(国宝)は、十二年に一度しか御開帳されないという。じつは、私達は一昨年の秋、そのチャンスに恵まれていたのだ。でも、
「六波羅蜜寺よりも錦小路の漬け物屋に行ってお土産を買いましょう」
と言って、寺の横をタクシーで通り抜けて行ってしまったのだ。
「惜しい。最後のチャンスだったかもしれないのに」
「漬け物買おうと言ったのはサイモンさんですよ」
「国宝開帳の日くらいYさん調べておいて下さいよ。編集者なんでしょ」
と、我々は今でも折にふれ、罪のなすり合いをするのだった。でも私より十歳若いY氏、あなたの方がまだチャンスの度合いは高いのよ。
今回は必要に迫られ空海や東寺に関する資料をばーっと読んだのだが、空海さんて伝説だらけで本当に面白い。怨霊を退治したり、龍を封じ込めたり、八面六|臂《ぴ》の大活躍なのだ。
[#(img\p132.jpg、横424×縦640)]
前回|神護寺《じんごじ》を訪ねた時、ついでに山のすぐ下にあった西明寺《さいみようじ》も参った。そこにも弘法大師作(と言われる)仏像があった。
「なわけないでしょう」
と、やはりその寺の説明係のおばちゃんが解説してくれた。
西明寺には運慶作の小さな仏像があったが、清凉寺《せいりようじ》式のあまり運慶らしくない像だった。
あともうひとつ。西明寺には|おたま《ヽヽヽ》さんが祀られている。八百屋の娘だったのだが将軍の側室になったのち、五代将軍となる男の子(綱吉)を産んだため、大出世をとげる。これが、「玉の輿」の語源となったらしい。
西明寺豆知識でした。
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第13章
高野山の底冷えと心に蛇を飼う女
[#(img\p138.jpg、横437×縦308、下寄せ)]
三月二十四日、空海を求めて高野山に入る。
地球温暖化のせいか東京では例年より二週間も早く桜が満開になっていた。
なのに、ここ高野山は厳冬であった。気温四度。軽快な春の装いで訪れた私は、山の底冷えに身を凍らせる。
「昨日は雪が舞いました」
という寺のお坊さんの説明に、私の体は一層縮み上る。
真言宗総本山|金剛峯寺《こんごうぶじ》。真言密教を修行する弟子達の道場として、また、国を護り世を救う祈りを捧げる場として、空海がこの高野山の山奥に築いた寺である。
が、なにせ広い。寺の入口である大門から奥の院の入口まで二・五キロ。さらにそこから弘法大師御廟までが二キロ。一日で全部回ろうとしても無理である。
というか、ハナから回る気は、無い。我々の目的は仏像なのだ。修行ではない。
この心根がいかんかったのか、高野山の旅では、とことん期待を裏切られたのだった。
運慶作の八大童子像も、快慶作の孔雀明王《くじやくみようおう》像も、見せてもらえなかった。国宝二十三件、重文百七十四件、その他文化財五万点といわれる「宝の山」の多くは霊宝館の倉庫に収蔵されているらしく、気温四度の三月の飛び込み客に見せてくれるほど懐の深い金剛峯寺ではなかった。
最澄があれほど、
「見せて」
と頼んだ密教の経典を、
「ダメ」
と言って拒んだ空海ゆかりの寺だけのことはある。
まあ、密教にそれほど深く帰依していない私が拒まれても、いたしかたないことなのだけれど。
それでも二時間弱の高野山滞在時間(それだけかいっと突っ込まれそうだが寒くて冷たくてこれ以上居たら死んでいた)内に、見ることのできるものだけ見て回った。
朱色に輝く高さ約五十メートルの塔をいただく根本大塔の内部には、本尊の大日如来と、金剛界の四仏が置かれているが、金ぴかの新しいものだ。周囲の十六本の柱に描かれた十六大菩薩も一九九六年に修復したばかりでぴかぴか極彩色であった。
金ぴかの御本尊に、まっ赤な朱の柱。その柱に金、朱、緑で鮮やかに描かれた菩薩像。ああこれが密教なのね、という気持ちになってくる。曼荼羅図に用いられているのと同じ色調だ。東寺と同じくここもまた立体曼荼羅なのね。
仏像を見始めた頃は、金ぴかの新しいものはそれだけで敬遠したものだが、たとえ金ぴかでもお堂の中でバランスよく配置され一つの宇宙を構成していれば、それはそれでよいのではないかと、最近になって私は思い直している。
そういう意味では、大塔内陣は私はマルなのだ。
伽藍内には、この大塔の他に国宝不動堂や御影堂、金堂などがある。それぞれに御本尊が祀られているが、どうも身代わり(レプリカ)らしい。御影堂の正面に三鈷《さんこ》の松がある。空海さんが遣唐使時代に唐の海辺から投げた三鈷がひっかかっていたという松である。
空海さん伝説によると、帰朝した彼は、修行できる場所を探して今で言う五條市あたりをうろうろしていた。すると、黒と白の犬二匹を連れた猟人に出会った。その猟人が放った犬の後をついてどんどん山奥に分け入っていくと高野山にたどりつき、そこの松の木に唐で投げた三鈷がひっかかっていたのを見つけ、これは何かの縁とばかりに金剛峯寺を開いたのだ。
「これが三鈷の松かあ」
私は感慨にふけった。周りを取り囲む杉の大木の方に絶対ひっかかったと思うのだが。
それにしても寒かった。境内もお堂内も寒い、寒い。
そこで暖を求め、伽藍と道を隔てて向かい側にある霊宝館に飛び込む。
霊宝館も寒かった。でも戸外よりはマシ。私とY氏以外、館内に入場者はいなかった。展示されている仏像も少なかった。ますます心も冷え冷えとしてくる。
新収蔵庫内の不動明王坐像は、重文の指定を受けた平安時代のもの。東寺の講堂でも不動明王が威張っていたが、やはり密教において不動明王は重要な仏なのだろう。ここの不動明王の顔は確かに目を見開き歯をむいているが、身体全体は丸味を帯びて静的である。歌舞伎でミエを切ってそのままフリーズしてしまった感じ。
[#(img\p141.jpg、横270×縦406)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★
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9世紀末ごろの像で、高野山に現存する木彫像のなかでは最も古い。桧の一木造で、頭頂に乗せた蓮華の巨大さと、かっと見開いた丸い眼が特徴。筋骨たくましい体躯には朱彩が残り、赤不動だったことがわかる。
■像高………94・8cm
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期待していた快慶の孔雀明王像は展示されていなかったが、快慶の手による四天王像は霊宝館本館の放光閣内部に置かれていた。彫りの立った感じとか、細部まで行き届いた神経がいかにも快慶である。中でも広目天の衣の袖部分の躍動感はさすがだ。でも、いつも感じるのだが、快慶は劇画的、絵画的すぎて宗教的ありがたみに欠ける気がする。
[#(img\p142.jpg、横241×縦395)]
歴史度………★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★
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快慶が無位時代に制作した四天王像の1体。作風が完成する前の作で、快慶らしい神経質な彫りは見られないが、天平や平安彫刻に範をとった堂々たる像に仕上がっている。快慶の天部像は数が少ないため貴重。
■像高………135・2cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
本館の入口には、千手院の僧が一万日の精進をして制作したといわれる弘法大師像がある。右手のつき方が何だか変だ。
[#(img\p140.jpg、横289×縦366)]
歴史度………★
技巧度………★★
芸術度………★★
サイモン度…★★
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肉付き豊かな丸顔など、平安時代に確立された弘法大師像の図像学的な形相を踏襲して造られてはいるが、重厚さに欠ける室町時代の像。僧が1万日の精進をしていた折、現れた大師の姿を写したとの伝承がある。
■像高………83・5cm
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同じ高野山の三宝院には北面大師と呼ばれる、顔をやや右に向けた(北にある都をお守りする姿をした)弘法大師像があり、ガイドブックの写真を見ると、霊宝館のものより良さそうなのだが、今回は寒かったので三宝院には行かなかった。
奥の院の入口付近にある|清 浄心院《しようじようしんいん》に運慶作の阿弥陀如来立像があると聞き、訪ねる。お寺の人はとても親切で自由にごらんくださいと言ってくれたものの、お堂の中は電気もつかず、庫裏《くり》も閉まり、寒くて、何が何やらわけのわからぬまま私達はそそくさと立ち去る。
「もう、いいですよね」
「いいですよ、ガイドブックにも載ってない阿弥陀如来なんて、本当に運慶作かどうかもわからないし」
Y氏も私も寒さの余り気持ちが荒れていた。
修行なんか、絶対、できないね。
明治まで女人禁制の高野山。ああよかった私、女で。
私達は逃げるようにケーブルカー乗り場へと急ぐ。
急斜面をケーブルカーがすべり落ちてゆく。かなりの勾配だ。空海さんはこの山をどうやって登って行ったのだろう。犬に先導されて何昼夜も山の崖をよじ登ったのか。筋肉バトルだ。SASUKEだ。そそり立つ壁だ。
ケーブルカーの終点から南海高野線に乗り換え、橋本駅へ。その橋本からJRに乗り換えて和歌山市内へ。高野山のてっぺんから和歌山まで三時間はゆうにかかった。
高野山は遠かった。そして寒かった。
遊び気分で訪れる場所ではない。でも、寺の関係者は誰もがとても親切で心優しかった。空海さんもきっと本音はとても親切で優しい人なのだろう。でも、己れを律して厳しく仏の道を求める信者以外には冷たいのだわ、きっと。
空海さんは九世紀の初めに活躍した人だが、〈栄達を競う朝廷での仕官《みやづかえ》の生活にも、利益を追い求める市場での駆引の生活に|も《*1》〉イヤになってしまって、野山を目指すのである。
何だかこのところの日本の政治、日本の経済事情に相通じてはいませんか。十世紀以上隔てても人の心はまだ、出世と金儲けの欲から逃げ出せてはいないのだ。空海さんもさぞかし御廟の中でため息をついておられることだろう。
暖を求めて私達は白浜温泉を目指そうかとも思ったのだが、今日中に東京に戻らなくてはいけないので、和歌山から南へ特急で一時間ばかりの場所にある道成寺《どうじようじ》へ国宝千手観音菩薩を拝みに行くことにした。
道成寺といえば、あなた、安珍清姫ですよ。超美形の僧、安珍が熊野権現へ参る途中、熊野街道の宿場で宿をとった。その宿の娘清姫が安珍に惚れて、
「今宵一夜の契りを下さい」
と、申し出る。けれど安珍は、ゴメンナサイ権現様へお参りする身ではそんなことできませんと断わる。清姫、ムッとする。安珍びびり、
「お参りがすんだら帰りに必ず立ち寄るから」
と、清姫をなだめる。
二、三日したら必ず戻るからと手を振る安珍の約束を楽しみに、清姫はその日以来〈僧の外《ほか》は思わず、日数を算えて種々の物を調え|て《*2》〉浮き浮きと日を過ごす。
ところが安珍は、清姫と約束したものの今女と関係を持てば今までの修行が水の泡じゃんと気づき、姫との約束をすっぽかすのだ。
これって、妻とは別れると愛人と約束しておきながら離婚すると出世に響くから愛人との約束はなかったことにしようとする男と同じなんじゃない。
ここから後は皆様御存知の話。恋する男に裏切られた清姫は怒りと恨みで気が動転し身悶えし、六十キロもの道のりを裸足で一気にかけ抜ける。途中蛇に変身し、川を渡り、道成寺の鐘の中に逃げ込んだ安珍をぐるぐるのとぐろ巻きにし、挙げ句、口から吐く炎で鐘もろとも安珍を焼き殺すのだ。
で、縁起のマトメとしては、安珍は前世に悪い事をしてその因縁でひどい目に遭ったのだよという仏教的オチになっているが、私がこの物語を読みとくと、清姫と恋の歌の応酬までして、きっときっと戻ってくるよなんて約束しておいてそれを破ったのだから、安珍は自業自得。女との約束を破ったら焼き殺されても文句は言えないという教訓話なのである。
桜が満開の道成寺の境内をぐるりと廻りながら、ああ私も清姫だったわ心に蛇を飼っていたわと若き日の激情をしばし反省する。
[#(img\p144.jpg、横424×縦640)]
今はもう、ほら、仏像巡りだから、抜けたわね。Y氏は、
「安珍は清姫を一見してアブナい女だと察知して、元々宿に戻る気なんてなかったんじゃないすかねえ」
と、のんびりと桜を見上げながら言った。男には男の解釈があるらしい。
そんな安珍清姫伝説とは全く無関係な道成寺の御本尊。像高三メートル弱の堂々たる一木造。千手は、手と胴体のバランスが難しいのだが、ここの千手観音はとてもよく整っている。顔も素朴な中に威厳と慈悲が感じられる。よいのではないでしょうか。脇侍の日光・月光もちゃんと腰をひねっているし。
[#(img\p143.jpg、横256×縦401)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★★
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
通常より2本多い、44の腕をもつ道成寺の本尊。平安初期の作だが、端正な趣と粘りのある衣の表現は、天平期の乾漆像を思わせる。榧の一木造ながら、首は体部材で別に造って差し込むなど、構造的に謎が多い。
■像高………291・0cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
境内の桜も堪能したし、ぽかぽかと午後の陽差しは暖かかったし。高野山での冷えを、道成寺でやっと取り払ったのだった。
*1『三教指帰』加藤純隆口語訳
*2『道成寺縁起』
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第14章
ビバあいづで行こう! 東北仏像悦楽紀行
[#(img\p149.jpg、横353×縦309、下寄せ)]
今回は、東北仏像の旅である。
ゴールデンウィークまっさかりのみどりの日に我々は東北新幹線で郡山へ向かった。田植え前の水を張っただけの水田はまるで鏡のようだ。豊かな緑と空の光を反射している。
車窓に広がる田園風景を眺めながら私の心も浮き立ってきた。何かステキな事が起こりそう。
郡山から磐越西線に乗り換え、会津若松を目指す、ホリデービバあいづ号に乗って。
ビバ!あいづ。
勝常寺《しようじようじ》は会津若松駅からタクシーで二十分ばかり行ったところにある。入口の中門に巨大なわらじがかかっている。門の柵にも小さなわらじが何十足もひっかけられていた。こういうのを私は初めて見た。関西の寺にはこんな風習は無い。さすが東北だ。ビバ!あいづ。
平安時代の初め、磐梯山に棲みついていた魔物が会津地方に様々な災いをもたらしていた。それを退治したのが空海(!)さん。
さらに空海さんは将来も会津が平和であるようにと薬師如来の仏像を造って祀ろうと考えた。しかし、空海さんはご存知のとおり忙しい。後の事を徳一《とくいつ》上人にまかせて、都に帰ってしまったのだ。その徳一上人が八〇七年に開いたのが、勝常寺だと伝えられている。
空海さんはともかく、徳一上人は本当に居たらしく、自刻と言われる徳一上人像がこの寺に残っている。非常に素朴で頭が大きく、自刻と言われれば納得の作品だ。
薬師堂には、国宝薬師如来像が祀られている。古い畳敷のお堂の片隅には四角くて大きな囲炉裏《いろり》が置かれていた。寒さの厳しい東北地方ならではだ。中央の祭壇には緞帳のような幕が下がっている。住職の奥様がひもを引っ張ると幕がするすると上がり、お薬師様のお姿が現れた。
「ハンサムでしょう。目が奥二重なんですよ」という奥様の説明どおり、端整な美男子である。組んだ左足のつま先が衣の中にもぐっているのは珍しい。何でも、このポーズは魔物退治のご利益があり武将に好まれたのだとか。威厳と温かみの両方を兼ね備えた像である。指先も繊細で美しい。気に入りました。
[#(img\p150.jpg、横266×縦399)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★★
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★★
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突き出した唇や小さな下顎のくくりなど、平安初期木彫像の特徴を見せるが、うねるような衣文や丸い頬、張りのある体躯には天平の塑像的な柔らかさが。地方にあって、中央の直接的影響がうかがえる貴重な作例。
■像高………141・8cm
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勝常寺から西へ五キロメートルほど行ったところに恵隆寺《えりゆうじ》がある。ここには立像七・四二メートルの日本最大の千手観音がある。この観音はケヤキの一木彫りで、その根っこはまだ床下の地中に伸びているらしい。しかも、この、通称立木一本から観音を彫り出したのは、またしても空海さんなのだ。
寺のパンフレットにも、
──さすが弘法大師(|徳一大師ではないか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》)傑作の一と伝えられる尊像──〔傍点サイモン〕と、ある。
ちょっと怪しいけど空海さん作ということにしましょうよ、とする、東北人の大らかさと温もりの伝わってくる文面である。
お堂自体はそれほど大きくない。そこに天をつくほど巨大な千手があり、その両脇に組まれた段の上に二十八部衆と風神・雷神の三十体がびっしり収納されている。この組み合わせの仏像集団は、京都の三十三間堂とここだけらしい。三十三間堂では横一列に並べられていたが、恵隆寺では狭い階段にすき間なく並べられている。まるで近藤典子の収納マジックのようだ。この収納ワザを私も見習いたい。
千手観音もまた、ふだんは巨大カーテンの後ろに隠れている。拝観料を払うと、お坊さんがカーテンを少し開けてくれる。でも像の背が高すぎて、とてもお顔までは拝めない。二十八部衆は愛敬があった。色も鮮やかだ。
[#(img\p151.jpg、横259×縦395)]
歴史度………★★★
技巧度………★★★
芸術度………★★☆
サイモン度…★★★
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根のついた立木から直接彫り出した仏像で、霊木信仰を背景とする立木仏としては日本最大。彫りは浅いが、表面に漆箔を施し、裳を2段に折り返して長い下半身に変化をつけるなどの工夫が。鎌倉時代の制作。
■像高………742・0cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
恵隆寺の門にもやはり多数のわらじがかけられていた。わらじとカーテンと空海さん。これが会津の寺のキーワード。
さて、私とY氏は再び郡山に戻り、そこから新幹線で岩手県入りをする。奥州平泉の中尊寺《ちゆうそんじ》こそ、今回の旅の目玉なのだ。
日本史で必ず習うのが、奥州藤原三代と中尊寺|金色堂《こんじきどう》である。プラス、ミイラ。金ぴかとミイラの組み合わせは何やらエジプトっぽい。
「東北の成り金がつくった金ぴかのミイラ館」というのが子供時代、私が中尊寺に抱いたイメージである。
ところが今回、生まれて初めて奥州入りした私は、その先入観が全くの誤りであったことに気づくのである。
杉がすっくと立ち並ぶ参道を上りつめると中尊寺の入口に立つ。坂の途中の展望台からは、とうとうと流れる北上川と、その流域に広がる田園風景が目に入った。みちのくは恵まれた豊かな土地なのだ。しかも金も採れる。漆も紙も絹もあり、駿馬も育った。中世日本において、陸奥国は富める国だったのだ。
その豊かな陸奥国を含む奥羽を、お家騒動のすったもんだののちに支配する立場になったのが、藤原清衡(一〇五六〜一一二八)である。彼こそが中尊寺造営の主なのだ。
京都の藤原氏と、東北の地方豪族安倍氏の両氏の血を引き、さらに出羽の清原氏を義父に持つ清衡。前九年、後三年の役に関わった清衡は、源義経をかくまった秀衡の祖父である。日本史上とても重要な一族なので、より詳しく知りたい方は、平泉の「夢館・奥州藤原歴史物語」というロウ人形館を訪ねてみて下さい。毛穴や睫毛の一本一本まで細工した超リアルなロウ人形達が立体絵物語として清衡の生涯を再現しています。弁慶人形も矢が突き刺さったまま立往生してるし。
さて、金色堂にはその清衡と二代基衡、三代秀衡の遺体が納められた壇が三基ある。三代秀衡の壇には四代泰衡の首も一緒に入っていたらしい。この壇の中の遺体であるが、
〈「皆金色《かいこんじき》」という漆と金箔の特殊な堂内環境が、常識ではかんがえられないことを、自然防腐を可能にしたわけで〉(佐々木邦世「平泉中尊寺 金色堂と経の世界」)
従って、ミイラとなっていたのだ。
金色堂は、巨大ガラスケースの中にすっぽり収まっていた。あれれ、というくらい小さい。もっと大きなものを想像していた。お堂は修復されて金色《こんじき》にまばゆく輝やいていたが、壇上の仏像達はところどころ金が剥げ落ち、いい味わいに枯れていた。
中央清衡の祭壇には、本尊の阿弥陀如来を囲んで十一体の諸仏(観音・勢至の二菩薩や六地蔵、持国天、増長天など)があり、どれも丸顔で可愛らしい。像自体が小ぶりなこともあるが、丸味を帯びていて、眺めていると何だか微笑みたくなってくる。お堂は壁も柱も床も金ぴかで、祭壇には螺鈿《らでん》細工も施されている。一歩間違うと、本当に成り金趣味なのだが、素朴な丸顔の仏像たちがそれを救っている。
清衡もきっといい人だったに違いない。阿弥陀の丸顔を眺めていると、何だかそんな気分になってきた。
基衡壇、秀衡壇も、まあ同じようなもの。微妙に阿弥陀の顔が違う。天部の迫力は、秀衡のものが抜きん出ている。
みちのくに仏国土を築きたかった秀衡だが、奥州藤原氏はわずか四代で滅亡してしまう。四代目なんか家臣に首を切られてしまうし。四代泰衡の首が入っていた首桶も、金色堂の横の讃衡蔵《さんこうぞう》に展示されている。少し気味悪い。
[#(img\p154.jpg、横427×縦640)]
歴史度………★★★
技巧度………★★★
芸術度………★★★
サイモン度…★★★★★
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
3基の須弥壇それぞれに、阿弥陀三尊・二天・六地蔵を安置する。最も早く造立されたのが中央・清衡壇の像で、11体はいずれも70センチ前後の小像だが、そのすべてに金箔が押され、定朝様の穏やかで優美な作風を見せている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ちょっとした日本史通になった気分で、私達は平泉を後にする。タクシーで北上して水沢にある黒石寺《こくせきじ》へと向かう。
あいにく、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。平泉の売店で買った透明ビニール傘をさして黒石寺の石段を上る。寒い。一気に東北気分だ。
黒石寺は蘇民祭でも有名だ。旧暦正月七日の夜に裸の男が褌姿で川に飛び込み、それから小間木の入った蘇民袋を本堂内で奪い合うのだ。通称裸祭り。
勝常寺と同様、この寺も住職の奥様が案内してくれる。
「村の男達が裸になるのですか」
「いいやあ、東京から新幹線に乗って男達がやって来るんだよ。物好きだよねえ」
と、奥様は明るく笑った。
東北の人達はみんな気さくで親切だ。お寺の人も、タクシーの運転手さんも、JRの駅員さんまでも。
黒石寺は七二九年、行基によって開かれた寺とされている。御本尊薬師如来は今から約千二百年も昔のものだ。この薬師は収蔵庫の方に置かれているが、脇侍の日光・月光菩薩、四天王像らは本堂に納められている。古い畳に四角い囲炉裏。天井から下りているカーテンは、やはり東北様式だ。
[#(img\p152.jpg、横262×縦401)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
まなじりを極端につり上げ、強いカーブをもつ厚い唇をくっきりと刻む。独特な風貌が際立った個性を放ち、平安初期彫刻のなかでも異質の存在。在銘木彫像としては日本最古の862年の銘をもつ。カツラの一木造。
■像高………126・0cm
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増長天は明らかに肩と腕のつき方が変なのだが、素朴で力強い。小顔で今風なプロポーションである、などと見とれていたら、私は火鉢につまずき、鉢の中に落ちて灰まみれになる。Y氏に笑われる。一生の不覚。
日光・月光も愛らしい像だった。指先が美人。
けれど私は、お堂内に張られた「蘇民まつり」のポスターに目が行ってしまう。褌姿の男達。やはり一度はこの祭りをこの目で確かめなくてはと、灰まみれの私は心に誓うのであった。
次に水沢から花巻へと向かう。わんこそばを食べるためだ。ではなく、成島毘沙門堂《なるしまびしやもんどう》を訪ねるためだ。
花巻駅から車を飛ばして、十五分。ここには日本一大きな毘沙門天像があるのだ。加えて、赤ん坊による全国泣き相撲大会が開催される。
私達が到着した時、寺はちょうど昨日終わったばかりの泣き相撲大会の後片付けの最中だった。雨が激しくなってきた。片付けに手を取られているのか、受付に人がいない。仕方なく私達は傘をさし、毘沙門堂を目指して石段を上る。目的の兜跋毘沙門天《とばつびしやもんてん》はお堂ではなく、コンクリート造りの収蔵庫の中にあった。
「おおっ」
私達は、声を上げた。で、でかい……。
ケヤキの一木造で三・五九メートル。毘沙門天を支える地天女も、これまたでかい。毘沙門天の顔は力を入れて一生懸命彫ってあるのだが、下半身に向けて力尽きてゆく感じ。腰から下は木材が四角いままで、仏像というより土俗の守り神風である。衣も重たくて質感が表現されていないが、とにかくでかさに圧倒されて、小さな欠点は気にならない。だって地天女とあわせて、高さ五メートル弱ですよ。
[#(img\p153.jpg、横239×縦396)]
歴史度………★★★
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★☆
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足下の地天女とも一木造で、総高は5m近くある兜跋像としては日本一の大きさ。巨像にもかかわらずバランスがよく、鎧が体躯を引き締める様や風格ある地天女の表情など、手抜きや破綻のない造形が特筆される。
■像高………359・0cm
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巨大、カーテン、祭り好き。これが東北の人達の嗜好なのだ。町中色んな場所に祭りのポスターを見かけた。「藤原まつり」「蘇民まつり」「毘沙門まつり(泣き相撲)」「宮澤賢治まつり」そしてちょっと疎開した事があるという縁だけで「高村光太郎まつり」。
う〜ん。ビバ!東北。
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第15章
ワールドカップより 東大寺のすべて、なのだ
[#(img\p160.jpg、横445×縦301、下寄せ)]
今回は又しても、奈良である。
「仏は奈良に始まり、奈良に終わる」
と言われているかどうか知らないが、六月のこの時期は奈良の各寺で特別公開があり、それに今年は大仏開眼千二百五十年の記念行事として、奈良国立博物館で「東大寺のすべて」展が開催されているのだ。
東大寺。この連載が始まってから、もっとも多く訪れた寺である。四回は行ってる。春、夏、秋と、真冬以外すべてのシーズンを経験している。
けれど今回の東大寺は、いつにも増して寺内にお子達が多かった。大仏殿はともかく、ふだんはまず姿を見ない法華堂の中でもお子達(修学旅行か遠足の小学生達)がうごめいていた。
私とY氏が法華堂を訪ねた時、ふだん閉まっている北側の扉が開いていた。その日ちょうど、「東大寺のすべて」展に展示されていた日光・月光両菩薩が堂内に戻されてくるからだ。
不空羂索《ふくうけんさく》観音も冠をはずしている。冠だけ博物館内で展示されているからだ。
「あなた達は運がいいよ。宝冠をはずすのは三十年か五十年に一回なんだから。そんなお姿が拝めるなんてめったにないことです」
と、お坊さんが説明に現れるが、お子達には何のことやらわかるはずも無し。ドヤドヤと堂の外へ出て行った。
「あの両手の隙をごらんなさい」
残った御婦人団体に向かって、お坊さんが声をかける。懐中電灯を持ち、不空羂索の合掌する手にライトを当てる。すると、何やら光る球体が両手の隙に。
「水晶玉ですよ。ピンポン球くらいの。こんなこと本にも載ってまへん」
ほーとか、へーとか、御婦人団体はどこでも合いの手を入れるのが上手だ。
その合いの手に気をよくしたのか、お坊様の説明は続く。
「この不空羂索の宝冠は、世界三大宝冠の一つだと言われております」
残りの二つは、ツタンカーメンとルイ十四世だそうだ。そ、そうだったのか。
今回の旅は文春出版部のクマリンも同行している。
「顔の黒いホトケ様ですねえ」
「しっ。Y氏はこの不空羂索がことのほかお気に入りなんですよ」
クマリンが先輩Y氏の気分を害さないよう、私はそっと耳打ちをした。それでもクマリンは、こりない。
「おまけに、顔の左の方がふくらんでいます」
クマリンは仏像初心者なのである。この連載のアドバイザーである石井師匠も、この不空羂索を高く評価されているのだと、私は再び念を押す。
でも、私が見てもやっぱり黒い顔の左半分がふくらんでいる仏像だった。手のバランスや放射状に広がる光背は見事だと思うが。法華堂内では、やはり私は日光・月光両菩薩像が好きだ。
[#(img\p162.jpg、横263×縦401)]
歴史度………★★★★
技巧度………★★★★★
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★
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8世紀半ばの脱活乾漆像。三目八臂の異形ながら違和感がないのは、抑制のきいた写実表現がベースにあるため。バランスのいい体躯、細部まで丁寧な造形志向、光背の意匠など、彫刻としての完成度は極めて高い。
■像高………362・0cm
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戒壇院の四天王立像は展覧会場に移されているというので、我々は東大寺を抜けて博物館を目指す。再び、お子達の団体に遭遇。東大寺の敷地内だけは少子化と無縁のようだ。うじゃうじゃ子供がいる。みんな暑くて退屈そうだ。
国立博物館内は空調がきいていて、私達はほっとする。後で知るのだが、この日は六月なのに今年最高の三十度越えの気温を記録したらしい。
入るなり、四天王が横一列に並んでいる姿が目に入る。トルシエもびっくりのフラット4。ふだんは戒壇院の四隅に置かれているので、このフォーメイションは珍しい。おまけにとてもセンスの良いライティングで、像の良さをさらに引き出していたように思う。
館内は、
「東大寺は、まだこんなに宝物を隠しもっていたのか」
と、あきれかえるくらいの、おびただしい数の所蔵品が陳列されていた。
ひとつひとつ見てゆくと、とても時間が足りないので、私達は仏像だけをひろってゆく。
「おおおっ」
と、私が声を上げたのは、第一会場である新館二階のガラスケースの中に納められている重源《ちようげん》上人坐像を見た時である。
もしもしそこのご老人、と声をかけたくなるほどの超リアリズムで表現された高僧の姿がそこにあったのだ。頬骨の下の肉のこけ方、結んだ口の突き出た下唇。猫背で首だけひょいと前に伸ばしている。アンドリュー・ワイエスの絵画に匹敵する、スーパーリアリズムである。
解説を読むと、この像は鎌倉時代のもので作者は快慶または運慶とある。快慶では、ないでしょう。運慶マニアの私としては、これは絶対運慶作だと思う。
[#(img\p163.jpg、横256×縦389)]
歴史度………★★☆
技巧度………★★★★☆
芸術度………★★★★★
サイモン度…★★★★★
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1206年に没した重源の肖像。彫刻的把握の簡潔さ、深い皺や窪んだ眼などの執拗な写実のなかに、東大寺の鎌倉復興を推進した高僧の意思と気迫、精神性が立ち現れてくる造形力と作風に、運慶の影が見え隠れする。
■像高………81・8cm
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「東大寺のすべて」展では、あの寒い高野山の霊宝館で出会った快慶作の広目天像とも再会した。神戸から電車で二時間もかけて行った小野市・浄土寺の快慶作阿弥陀如来立像も展示されていた。おそるべし東大寺。この「ぶつぞう入門」で私が遠路・悪路を踏みわけてたどりついた仏像たちが、〈東大寺〉という線で結びついていたのだ。
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それと、どこにでもある空海像。今回も、もちろんありました。相変わらず変な手つきで三鈷を胸にあてている。
調べてみると、私の実家の宗派は真言宗だった。やはりというか。いや、調べるまで気づかなかったというのもうかつな話だ。私は空海さんのお導きで、東大寺を訪ね、運慶・快慶に出会ったのだろう。
書や絵画や伎楽のお面までじっくり見ていては一日かかってしまう。
「昔の人は字が上手だったのねえ」
という感想だけにして、私達は東大寺展を後にして法華寺《ほつけじ》で特別公開されている十一面観音を拝みにゆく。
法華寺は光明皇后ゆかりの寺で、ここのお寺の浴室で皇后は病人の身体を洗われたのだという。十一面観音自体、光明皇后のお姿を写したものといわれている。
お寺の尼さんが像の説明に現れた。
「右足の親指を軽く浮かせ、蓮の池に足を踏み出したその瞬間をとらえた像なのです」
写真で見慣れた十一面観音よりは、色が黒い。写真では木目も鮮やかな若い木肌の印象なのだが、実物はややすすけた感じ。それでも唇の紅は残っている。手は、とても長い。それは慈悲をさしのべるために伸びたからだという。光背の蓮葉と蕾が横に延び、そのため長すぎる腕も気にならない。
[#(img\p164.jpg、横250×縦390)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★★★
芸術度………★★★★★
サイモン度…★★★☆
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香木の代用にカヤを用いた檀像で、鋭く柔軟な彫技は平安初期彫刻を代表する。風を受けたように翻る髪や天衣、捻った腰と踏み出す足が躍動感を演出。森厳な法情とあいまって、像に精気と緊張感を与えている。
■像高………100・0cm
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法華寺には、東京の女子高生達が修学旅行で訪れていた。校則の厳しい私立らしく、茶髪もルーズソックスも一人もいなかった。みんなお行儀よくお堂の中で正座して尼さんの説明を聞いていた。
東大寺はお子達と鹿の寺だったが、法華寺は光明皇后ゆかりらしく、尼さんと女子高生の寺でした。
次に、蟹満寺《かにまんじ》へ行く。国宝の釈迦如来坐像があるが、まあ何てことはない(サイモンにとっては)。蟹満寺は、カニマンジという寺の名前のインパクトと、ここに伝わる縁起が心に残る。
太古、このあたりに善良で慈悲深い夫婦と一人の娘が住んでおりました。娘は幼い頃からとても観音さまを信仰していました。
ある日のこと、村人が蟹をたくさん捕えて食べようとしているのを見て、娘は蟹を買い求めて草むらへ逃がしてやります。
また、娘の父は父で、蛇が蛙を呑もうとする場面に遭遇します。そしてこともあろうに、
「もしおまえがその蛙を放してやってくれたら娘のムコにしよう」
と、蛇に言ってしまうのです。
おまえは娘より蛙が可愛いんかいッと突っ込みたいところですが、案の定、蛇は蛙を放して、花嫁を迎える準備をするのです。
やっぱり娘はやれないと父が断ると、蛇はこの家族の家の前で荒れ狂うのです。雨戸を閉じた家の中で娘が、ひたすら観音経を唱えると、観音さまが現れ、
「この信心深い娘の祈りにより、危難は去るでしょう」
と、告げるのです。
すると、雨戸の外の暴れ狂う音は止み、戸を開けるとそこには、ハサミで寸々《すんすん》に切られた大蛇と無数の蟹の死骸があったとさ。
蟹が娘さんの身代わりとなってくれたのです。
でも、話の筋からいくと、蛙が身代わりになった方が理屈が通るのではないか。いやしかしそれでは蟹満寺ではなくなってしまう。蛙満寺か。蟹のハサミで蛇をチヨッキンチヨッキン、がこの話のツボであろう。
それと、西洋ならばこれで蟹と娘さんは結婚してめでたしめでたし(もちろん蟹はハンサムな王子に変身する)となるのだが、さすが仏教説話は違いますね。
これ、すべて、娘が日々観音様を信仰したおかげ。
お堂内にはこの縁起の絵物語が額に収められて壁にかけられていた。でも、御本尊の釈迦如来像は、この蛇蟹合戦とまったく関係が無い。
[#(img\p165.jpg、横245×縦363)]
歴史度………★★★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★☆
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量感ある丈六の金銅仏。童顔を脱した、引き締まった大きな顔をもつ。張りのある体躯を覆うのは、流麗な襞の薄い衣。しなやかな指も、繊細で美しい。的確な写実表現の現れた、7世紀後半〜8世紀初めの作。
■像高………240・3cm
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次に、すぐそばにある壽寶寺《じゆほうじ》に向かう。ここは二年前、私が週刊誌のお寺巡り企画で訪ねたことのある寺だ。
本当に手が千本ある千手観音は、ここと、|葛井寺《ふじいでら》と、唐招提寺だけなのである。当時まだ仏像初心者であった私は、翼のように広げられた千本の手にいたく感動したのであったが、目の肥えて(?)しまった今のサイモンには、はたしてどのように映るのかしら。
若い住職さんが一人で護っている小さなお寺だったけど、あの住職さんはまだいらっしゃるのかしら。
などと、期待に胸を膨らませながら、お寺の門をくぐる。受付と書かれたインタホンを押す。
無言。
誰もいないのかっ……。
と、ここで紙数も尽きた。
奈良・東大寺から京田辺へ初夏の仏像の旅は、次章驚愕の展開を迎える。
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第16章
ぶつぞう最後の旅は、近江の十一面観音なのだ
[#(img\p171.jpg、横390×縦270、下寄せ)]
「もしもーし、どなたかおられませんか」
私達は壽寶寺《じゆほうじ》のインタホンを押し続けた。このお寺は近年真新しく再建されたものなので、住職の住居も兼ねた受付は、インタホンなのだ。
ガララッ。
ようやく、玄関の扉が開いた。
「千手観音を拝観したいのですが……」
「すみません、今からわたし出かけなければいけないもので……」と、住職。
「ほんの十分でも拝ませてもらえませんか」
「そういうあなたは、サイモンさんじゃありませんかっ[#「そういうあなたは、サイモンさんじゃありませんかっ」に波線]」
という展開になる予定だったのだが、どうやらご住職はサイモンを忘れていたらしく、傍線部分は無く、それでも短い時間でよろしければどうぞと言って、収蔵庫の扉を開けてくれたのだった。
十一面|千手千眼《せんじゆせんげん》観世音菩薩立像である。千眼というのは、千本の掌の中央部に目が描かれているからだ。その千本の手はまるで広げられた鳥の翼のようだ。ばたばたと今にもその手をはばたかせて空に飛んで行ってしまいそうである。持物を持つ手の動きもとても美しい。
|葛井寺《ふじいでら》の千手、唐招提寺の千手と並び、ここ壽寶寺の千手は「三大千手」と称されているらしいが、葛井寺では柱の陰で手が見えなかったし、唐招提寺は改築中で拝観できなかったし、というわけで私にとっては壽寶寺が日本一の千手観音なのである。
[#(img\p172.jpg、横235×縦393)]
歴史度………★★★
技巧度………★★★
芸術度………★★★
サイモン度…★★★☆
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略式でなく、実際に1000本の脇手を備えた古制の像。彩色を施さない素地仕上げが、丁寧な彫りと、滑らかな仕上げを際立たせている。切れ長の目をもつ整った面相と、彫りの浅い衣文は、平安時代後期の特徴。
■像高………169・1cm
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この京都田辺の一帯には名刹がそろっている。先の蟹満寺《かにまんじ》もそうだ。そして、壽寶寺からもう少し北の方に上ってゆくと酬恩庵《しゆうおんあん》一休寺(妙勝寺)がある。
一休寺はその名のとおり、一休禅師ゆかりのお寺だ。元々は臨済宗の道場であったらしいのだが、一休禅師が十五世紀半ばに再興し晩年を過ごしたためその名がついたらしい。
方丈に入ると、まず壁一面に貼られたアニメ「一休さん」のセル画が目に飛び込んでくる。
「お子様ファンを目論んでの呼び込み作戦でしょうか。それにしても禅寺にはそぐわないなあ」
と、私。
「今のお子様はアニメの一休さんなんか知りませんよ」
と、四歳の娘を持つクマリン。
アニメの一休さんが終了してもう何年たつのかなあと思いつつ方丈の廊下を渡ると、その庭の美しさに足が停まった。そよそよと初夏の風も心地よい。ということで、縁側でしばしの休憩。と、腰を下ろしたとたん、
「これより一休寺のご説明を始めます」
と、スピーカーからテープ音が流れ始めた。
一休さんは変わり者のお坊さんではあった(腰に竹光を差して歩き回った)らしいが、決して、とんちをきかせた子供なんかではなかった。とんち話はすべて、江戸期に創作されたものであることなどが、えんえんとテープで説明されたが、Y氏は縁側でごろりと転がり、ぐーぐーと寝入っていた。
ここには重要文化財の一休禅師木像が奉られている。等身の像で、八十八歳で亡くなった年に遺された頭髪と鬚を植え付けてつくったという。アデランスか。リーブ21か。すごい植毛技術だ。一休禅師自体は、忌野清志郎に似ている。
[#(img\p173.jpg、横253×縦350)]
歴史度………★
技巧度………★★★
芸術度………★★★
サイモン度…★★☆
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15世紀、室町時代を代表する肖像彫刻。檜の寄木造で、玉眼をはめる。頭髪や眉毛、鬚などに、一休の遺髪を植えたと推定される特殊な像で、生身のような姿に、鎌倉期の頂相彫刻の流れを見ることができる。
■像高………82・7cm
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一休寺を出て再び南に下り、観音寺を目指す。日本中やたらと多い観音寺。しようがない。観音様を奉ってあるんだもの。
京田辺の観音寺は良弁《ろうべん》僧正ゆかりの寺で、千三百年の歴史を持つ。山が後ろにせまった緑濃い林の中にあって、風格と威厳を漂わせている。拝観を申し込むと、今祈祷中なので本堂に入るのはしばらくお待ち下さいと受付の女性に言われる。
私とY氏とクマリンは、しばし庭にある池のほとりで時を過ごす。
〈木漏れ日の なかを薫風 吹きわたる〉
三人合作の句であるが、三人ともまるっきり素養が無いので出来がいいのか悪いのかもわからない。
そうこうしてるうちに、祈祷(交通安全の祈祷だったらしい)が終わり、お堂の障子が開いた。
あなたたちどちらから来なさった、今日はどこを回られた、これからどこに行きなさると、御住職から矢継早に質問を受けた。八十歳はゆうに越しておられると思われるが、なかなかにお達者である。
「聖林寺《しようりんじ》の観音様も見はった?」
ここの十一面観音は、同時代作の聖林寺十一面観音像とよく比較されるのである。ともに木心乾漆像である。木の芯の上に何重にも漆を塗り重ねて目鼻や衣のひだをつくり上げたものらしい。気の遠くなりそうな作業だ。
「聖林寺はんのは大きすぎまっしゃろ。うちのが、大きさも人間に近うて、ええでっしゃろ」
と、御住職。かなり聖林寺にライバル心を燃やしている。
聖林寺の十一面観音は確かに長身(二〇九センチ)で威厳があった。そして中性的雰囲気が漂っていた。男にも女にもとれる。天海祐希タイプ。一方、観音寺の十一面観音は女性的である。官能的といってもよい。腰のくびれもお顔立ちも柔かく色っぽい。黒木瞳タイプ。像高も一七二・七センチと等身大に近い。
どちらが好きかと言えば、これはもう好みとしか言えない。天海祐希か黒木瞳なんだもの。ちなみに、共に国宝である。
[#(img\p174.jpg、横247×縦396)]
歴史度………★★★★
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★★
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乾漆特有の柔かな肌合い、豊かな胸と引き締まった腰は、天平の理想の姿を表すもの。聖林寺像と同じ木心乾漆像で、像容も酷似するが、小ぶりの口や張りのある頬がつくる表情は若々しく、まったく異なる印象。
■像高………172・7cm
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「十一面観音といえば、琵琶湖のほとりにも国宝がひとつありますよ」
と、国宝マニアのY氏。
そこで我々は、日を改めて滋賀県高月町にある向源寺《こうげんじ》(渡岸寺《とがんじ》観音堂)の国宝十一面観音を訪ねることにした。
日が改まった。
私達同じメンバーは、新幹線米原駅で下り、長浜町を抜けタクシーで高月町を目指している。
「長浜といえばラーメンですよねえ」
というY氏のとんまな言葉に、それは九州のナガハマ、と、運転手さんが答える。車は琵琶湖に沿って走る。琵琶湖といえば「鳥人間コンテスト」だ。私は失速して頭からまっさかさまに湖に突っ込むグライダーの姿を何機も思い浮かべた。「欽ちゃんの仮装大賞」の空中バージョン狙いか。清水圭、いたな。(ナンシー関さんを偲んで、彼女風に書いてみました)
八世紀に奈良の都で疱瘡が広がり多数の死者が出たため、その疱瘡退治の祈願のために聖武天皇の命により刻まれたのがここ向源寺の十一面観音であるらしい。
そののち、延暦九(七九〇)年に最澄が桓武天皇の勅により寺を整えたらしい。この仏像の旅ではやたら空海さんゆかりの寺にばかり出くわしたが、ここにきてようやく最澄さんゆかりの寺である。
「高月の観音さま」として親しまれている十一面観音である。この像には、耳の後ろに二面顔がついている(通常は頭の上に十一面ついているものなのだ)。さらに頭部の八面の顔のうち、頭部真後ろにある顔は口を大きく開けて、
「ワッハッハ」
と、笑っている暴悪大笑面《ぼうあくだいしようめん》である。このお寺では像の後ろにまわってこのワッハッハ顔を拝むことができる。悪をあばいて笑い飛ばし良心に目覚めさせる意味合いがあるのだそうだ。
一五七〇年、織田信長と浅井長政の戦さでこの向源寺も火災に見舞われたのだが、その時村人たちが十一面観音を運び出し地中深く埋めて焼失から守ったという謂《いわ》れも、心に響く。
百七十七センチの像を持ち出し埋めるというのは大変な作業であったことだろう。そこまでして村人たちに愛され慕われていた観音様なのだ。
聖林寺、観音寺のものと比較しても見劣りのしない十一面観音である。後ろから見る立ち姿もとても美しい。十一面どのお顔も端整だし、優美な像である。ヒノキの一木造ということで、漆にちょっと負けているけど。
[#(img\p175.jpg、横231×縦394)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★★★
芸術度………★★★★★
サイモン度…★★★★
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頭上と耳脇の大きな10面が、異彩を放つ。深く鋭い彫りで、頭頂から蓮肉までを桧の一材から彫出。高い髻をはじめインド風が濃厚で、体躯の量感は官能的でさえある。制作は9世紀。その姿に破綻は微塵もない。
■像高………177・3cm
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聖林寺、観音寺、向源寺と三つの十一面観音を比較してみると、芸術性では聖林寺がナンバーワンで、古美術的美しさでは観音寺、みんなから愛されたで賞が向源寺という風に私は感じた。
さて、そろそろ私の「ぶつぞう入門」の旅も終わりに近づいてきた。国宝も重文も見尽くしたと言ってもいいくらいに、見た。
〈京都ならば、東寺と三十三間堂。
奈良ならば、東大寺〉
意見の一致することの少ない私とY氏であるが、珍しく合意に達したのが、この結論である。
「仏像見るなら、東寺、三十三間堂、東大寺」
来日した外国人を案内するなら、こう答えるというのが、私達の考えなのである。
「前回見逃がした国宝|執金剛神《しつこんごうしん》立像の特別公開が、今日なら見られますよ」
というY氏の言葉に従って、琵琶湖をあとにした我々は梅雨空の下、奈良へと向かう。
東大寺法華堂の北面に置かれた厨子内に、ふだんは人目にさらされることなくひっそりしまわれている秘仏の執金剛神。人目にも陽の光にもさらされていないので、衣の文様が色彩やかに残されているというのがウリだ。
毎年十二月十六日のみ開扉されるのだが、今年は大仏開眼千二百五十年を記念して、四月二十日から五月十二日、六月二十二日から七月七日までの二期にわたって公開されているのだ。
衣の文様もさることながら、口を開け、目を大きく見開いて金剛杵《こんごうしよ》を振り上げる迫力ある造形に、私は大きな期待を抱いたのだが、人が多過ぎ。おまけにライト強過ぎ。ガラスケース前の通路の幅がせますぎて引いて見ることもできず、全体像がよくつかめなかった。少しがっかり。
[#(img\p176.jpg、横430×縦640)]
奈良国立博物館へも再び足を伸ばし、やはり前回は展示されていなかった快慶作の|僧 形八幡神《そうぎようはちまんしん》坐像を見る。こんなに色彩やかに保存されている像は珍しい。快慶らしく、顔が四角い。でもやはり私は運慶作の重源《ちようげん》上人像の方が好きだな。
何だか尻すぼみの「ぶつぞう入門」最後の旅となってしまった。
やっと仏像を見る目が育ってきたところで、日本中の名仏像を見尽くしてしまっていたとは皮肉だ。私の目は仏像を求めている。
というと、次は海外か!?
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第17章
遂に発表! サイモン心のベストテン
[#(img\p182.jpg、横411×縦287、下寄せ)]
さて、「ぶつぞう入門」も最終章を迎えることとなりました。
というわけで、今回はサイモンが選ぶ「マイ仏像ベストテン」である。この二年余で何百体、いや何千体(三十三間堂だけで千以上)もの仏像を拝んできたが、それで信心深くなったわけでも、美に対して奥行きが深くなったわけでもない。阿弥陀と、辞書を見ずに書けるようになったが、弥勒菩薩となると少しあやしい。人間とは進歩しないものらしい。
けれど、この仏像を訪ねる旅で、ひとつ学んだ。人の好みとは変わらないものであるということ。好きは、好き。嫌いは、嫌い。仏像において私は慶派をとことん好み、貴族趣味の定朝様は避けるという性向に気づいた。
この連載を立ち上げる直前、石井師匠に、
「よい仏像とは」
と、お伺いした。師、曰く、
「@バランスがとれている。
A彫りが立っている(技術的にノミづかいが上手だということ)。
Bありがたい」
ところがどうやら私の仏像の鑑賞にはこの師の助言が全く役立っていないことに、最終章近くなってようやく気づいたのである。それは、イラストの下方にある星取り表で、師匠の意見とサイモン度が全く一致していないことでもよくわかる。
それと、国宝という基準もよくわからない。古ければヘタクソでも、国宝。ありがたみがなくても鋳造の技術が素晴らしければ、国宝。地方へ行くと、戦前は国宝であったのに戦後格下げされて国宝でなくなってしまった名品がいっぱいあった。それも謎だ。
だから、国宝でもなく重文でもなく、師匠が、
「エーッ!?」
と声を上げようが、好きなものは好きさ、人様から鑑識眼を疑われようがかまわないさ。ということで、サイモン心の仏像ベストテンである。
一位、円成寺《えんじようじ》大日如来。
私が好きな運慶の中でも最高の作である。なぜ、ここまで私の琴線に触れたかというと、像が少年だからなのだ。凛々しく若さの息吹きが伝わってきて、そこから生意気な自信までも感じられる仏像なんて、他にはない。仏というよりは〈少年〉の像。でも、こうごうしいまでのありがたみもある。とにかく私の生涯ベストワンであることは間違いない。
二位、聖林寺《しようりんじ》十一面観音。
十一面観音には名品が多いが、私はあえて聖林寺のものを推す。向源寺や観音寺のものにもそれぞれファンがついているが、私は女っぽいものや装飾過剰なものより、シンプルで中性っぽいものが好きなのだ。そういった意味で、聖林寺。他の二体よりもでかいところも気に入っている(二メートル九センチ)。顔が十一面なんてどう考えてもグロテスクなはずなのだが、それを美に昇華する仏教美術のすばらしさよ。
三位、東大寺戒壇院四天王広目天像。
仏師の中で、私が運慶の次に好きなのが、天平のミケランジェロこと|国中 連公麻呂《くになかのむらじきみまろ》。彼の作である東大寺戒壇院の四天王は、佐々木主浩顔とギョロ目顔の二対二に分れるが、私は佐々木顔が好き。これほどまでに凄みのあるガンを飛ばしている像は他にない。ウエストは細すぎるが、顔面は超リアルである。顔面ではミケランジェロに勝ってると思う。
四位、興福寺阿修羅像(八部衆)。
本文中では阿修羅とその仲間達として取り上げている。阿修羅像はあまりにポピュラーで日本中に知られているが、その仲間達(八部衆と十大弟子)も、なかなかに味がある。将軍万福作。リアリズムとは言い難い骨格の像であるが、少年ぽい顔立ちが私好み。この作者の作る乾漆像はみな眉根を寄せて苦し気な悲し気な表情を浮かべている。そこが私のサディズムを刺激する。全員連れて帰ってオウチに飾りたい。
五位、三十三間堂千手観音と二十八部衆。
現存する三十三間堂の千体の千手像は、慶派、円派、院派が入り乱れているらしい。私はもちろん慶派。五五〇号湛慶作のきりっとしたハンサム顔を一位に推す。千手の前に並ぶ二十八部衆は慶派のものなので、どれも遜色無い。が、武将系よりも生《なま》人間系を好む私は、別名「雨に濡れた富田靖子」こと摩和羅女像と、超リアル老人の婆薮《ばすう》仙人像がお気に入りなのだ。
六位、観心寺如意輪観音。
膝を崩して目をとろんとさせたぽっちゃり美人の如意輪である。観音《かんのん》様の中には、官能《かんのう》様と呼びたくなる色っぽい像が時々残っている。鎌倉東慶寺の水月観音も、泉涌寺《せんにゆうじ》の楊貴妃観音も色っぽかった。この三体の観音をセクシー3と名づけよう。浄瑠璃寺の吉祥天女は天部であるが、色白ぽっちゃり切れ長の細い目が妖し気な色気を放っていた。
七位、東大寺月光菩薩像。
これも再び国中連公麻呂の作である。東大寺法華堂は国宝の山で、御本尊の不空羂索《ふくうけんさく》観音は石井師匠とY氏の高い評価を得る。が、私はやはり月光の方が好きである。ずしりとした重量感と慈愛の母性が感じられるから。白くてシンプルなのもいい。東大寺には何度も足を運んだ。この連載中五回も訪れた。いつも鹿と子供達に囲まれた。大仏殿と大仏様も私は大好きだ。
八位、興福寺北円堂|無著世親《むじやくせせん》像。
運慶作。運慶の肖像彫刻の中では、この二体がやはり最高でしょう。東大寺展で見た重源上人像も見事であったが、水晶のはめこまれた無著の小さな目が、怖いほどの精神の高みを表現している。北円堂の御本尊弥勒如来も運慶の手によるものだが、それよりもやはり無著と世親。東大寺といえば南大門の阿吽も運慶作(厳密には運慶、快慶とその一派作)である。その大きさと技術の上手さに目を見張るが、等身に近く生身の人間に近い像にこそ私は運慶の本領を見るのだが。
九位、空也上人像。
又しても慶派。六波羅蜜寺にある運慶の息子康勝の手によるもの。空也上人の苦し気な表情が私のサディズムを刺激する。またかよ。本当に私は苦し気、悲し気な像が好きなのだ。
十位、浄土寺阿弥陀三尊像。
浄土寺は遠かった。兵庫県小野市。神戸から電車で片道一時間半。往復で三時間。途中でコーヒーを飲んだりしたら半日仕事だ。しかも小野市には他に見るもの何にも無し。この苦労で快慶作の阿弥陀三尊をより尊いものに格上げしたのか。快慶の像は顔が四角いので私はあまり好きではない。リアルというよりは劇画チック。どうだ、うまいでしょう、きれいでしょうというこれ見よがしな華麗な像が多く、私としては戦力外なのだが、小野市浄土寺で西陽を浴びて輝く身の丈五メートルの阿弥陀像にはひれ伏します。
以上がサイモン心の仏像ベストテンである。なんだ慶派に偏向してるじゃないか、無著のどこが仏像なんじゃいっと突っ込まれるのも覚悟のマニアックな選択でした。
広隆寺の弥勒、法隆寺の百済観音、中宮寺の菩薩半跏像といった世界からも絶讃された(ヤスパースからも讃辞を送られた)仏像が一体も入っていないところもサイモンらしい。サイモンはシンプルは好きだが、あまりに抽象化された美には臆してしまうのだ。少し人間ぽさを残しておかなければね、仏像は。何だか訳のわからぬ文だ。つまり、どこか感情移入できる、あるあるそういうところってという部分を残しておかねば、とっかかりのきっかけもつかめぬということなのだ。ヤスパースの絶讃する完璧な美にはそれが無いでしょう。
じつはこれは私の性格によるもので、私の描く漫画も完璧な空想社会を舞台にすることはどうしてもできないのだ。人類滅亡後の百光年彼方の惑星での出来事? そんな話、どこをどうとっかかりに話を進めてゆけばいいのさ。私には、無理だ。
それよりも、小さな嫉妬やなまけ心といった誰でもあるあるそういうところ、といった人間共通の感情をとっかかりにドラマを作ってゆくのが私は得意なのだ。
私が仏像を好む理由も、そこにある。
「人間て弱いものなのだよ。なまけものなのだよ」
という場所から出発しているからだ。
悪は外に存在するのでは無く、人間の心の弱い部分が悪を産む。
仏教にまつわる説法や説話を読み進めると、そこには人間の弱さ愚かさが、千年二千年前から変わらないということを教えられる。私が仏教と仏像を求めたのは、自分の心の弱さを何とかしたいという動機もあったのだが、結局人間は苦しむために生まれてきたのだという仏教真理にたどりついてしまった。たどりついたらいつもどしゃ降りという、まるで吉田拓郎の歌ではないか。
人間は悩み苦しむ弱き存在。そういう存在から一生逃れられない。でも現世で苦しんだ分極楽浄土で極楽気分が味わえるのだよ。その極楽がいかにステキなところか、仏像の並ぶお堂で擬似体験しましょうよ。ほうらすごいでしょう。──これが長年培われた日本人と仏像の関係ではなかったのだろうか。
極楽を信じない私は、現世での苦しみ損じゃんと一瞬目まいがしたが、それならそれで気の持ち様である。お堂で仏像達を前に坐り、
「ここで極楽浄土」
と、瞑想トリップするのだ。すると、何となくいやされた気分になる。
それで充分、充分。
ということで、うまくまとまりました。
仏像探しは自分探しの旅でした。
最後に、東京にもある仏像の名品、ということで深大寺《じんだいじ》を訪ねました。深大寺という地名はよく耳にするものの、訪れるのは今回が初めて。じつは、天平時代、今から千三百年も前に建てられた寺だというから驚きだ。江戸なんかまだ海の中だったはずだ。清純な微笑を浮かべる白鳳仏は境内の釈迦堂に奉られている。椅子に坐った珍しいお姿だ。近代的なコンクリート造りのお堂の中で微笑んでいる姿はどことなく現代アートっぽく、
「いかにも東京の仏だ」
と何だか納得したのだった。
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お 寺 案 内
京都
広隆寺
京都市右京区太秦蜂岡町32
075−861−1461
京福嵐山線太秦駅下車。または市バスで、右京区総合庁舎前か太秦広隆寺前下車。
真言宗御室派、蜂岡山。渡来系豪族の秦河勝が、聖徳太子より仏像を賜り、603年(推古11)に創建したとされる京都最古の寺院で、古くは蜂岡寺、葛野寺(かどのでら)などと呼ばれていた。創建時の諸堂はすべて失われたが、飛鳥〜鎌倉時代の国宝6件・重文28件を含む多数の仏像を有している。著名な宝冠弥勒・泣き弥勒の2体の弥勒菩薩半跏像をはじめ、巨大な不空羂索観音立像と千手観音立像、長勢作の十二神将立像(いずれも国宝)など、新霊宝殿には約50体の像が安置されている。珍しい天部形の薬師如来立像(重文)は平安前期の作で、11月22日のみ開扉される秘仏。講堂には、9世紀後半の阿弥陀如来坐像(国宝)がまつられている。
清凉寺
京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
075−861−0343
JR嵯峨嵐山駅より徒歩13分、京福嵐山駅より徒歩17分。または、市バス・京都バスで嵯峨釈迦堂前下車。
浄土宗、五台山。源融の別荘に建てられた棲霞寺の境内に、東大寺の僧「然(ちょうねん)が中国・宋から請来した釈迦如来立像をまつる釈迦堂を、11世紀初めに建立したことに始まる。嵯峨の釈迦堂と通称される。インド伝来の像を模刻した本尊・釈迦如来立像(国宝)は、本堂に安置され、毎月8日の開扉。旧棲霞寺の本尊であった9世紀の阿弥陀三尊像(国宝)、平安後期の兜跋毘沙門天立像(重文)などは、霊宝館で拝観できる。霊宝館の公開は、4〜5月・10〜11月の年2回で、年によって日にちが異なるので確認が必要。
東寺(教王護国寺)
京都市南区九条町1
075−691−3325
近鉄京都線東寺駅下車、徒歩5分。京都駅より市バスで、東寺南門前・東寺東門前・九条大宮下車。
東寺真言宗総本山、八幡山。正式名称は、教王護国寺。796年(延暦15)に、羅生門の東西に建立された官寺の一つで、西寺とともに創建された。823年(弘仁14)、嵯峨天皇が唐から帰国した空海に下賜。以後、真言密教の根本道場となった。立体曼荼羅の世界が展開する講堂ほか、兜跋毘沙門天立像(国宝)、9世紀の僧形八幡神坐像(国宝)や千手観音菩薩立像(重文)などの仏像ほか多くの寺宝は、宝物館で見ることができる。宝物館の公開は、3月20日〜5月25日・9月20日〜11月25日の年2回。なお、御影堂の不動明王坐像(国宝)は、絶対の秘仏。京都のシンボルとなっている五重塔をはじめ、国宝5件・重文9件を数える建築も見どころ。毎月21日は弘法市で、境内は早朝から賑わう。
六波羅蜜寺
京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町81−1
075−561−6980
JR京都駅より市バスで清水道下車、徒歩5分。
真言宗智山派、普陀落山。市聖として人々に慕われた空也が、京都に流行した疫病退散のため十一面観音像を刻み、仏堂を建立して西光寺と称したのが始まりと伝えられる。開創は963年(応和3)で、空也没後の977年(貞元2)に弟子の中信が再興し、名を六波羅蜜寺と改めた。その当時は天台別院だったが、16世紀に智積院の末寺となり真言宗に改宗した。平安時代の本尊十一面観音立像(重文)は12年に1度の開扉で、次回は2012年の予定。伝運慶作の地蔵菩薩坐像(重文)、空也上人立像(重文)ほか数多くの平安・鎌倉仏を有しており、宝物館で拝観できる。
妙法院蓮華王院(三十三間堂)
京都市東山区三十三間堂廻り町657
075−561−0467
JR京都駅より市バスで、三十三間堂前下車。
天台宗。1164年(長寛2)、後白河上皇の勅願により建立された蓮華王院が、三十三間堂のこと。1001体の千手観音像をまつったお堂は、1249年(建長1)の大火で焼失。現在の三十三間堂(国宝)は1266年(文永3)の再建で、火災の際に救出された156体の千手観音像と二十八部衆像(国宝)、湛慶らが総力をあげて復興した千手観音像を安置している。中央の丈六千手観音坐像が国宝で、他の観音像は重文。一時期は方広寺の山内寺院だったが、江戸時代に妙法院の管理となり、今日に至っている。
醍醐寺
京都市伏見区醍醐東大路町22
075−571−0002
三条京阪駅より市バスで、醍醐三宝院下車。または、地下鉄東西線醍醐駅下車、徒歩15分。
真言宗醍醐派総本山、醍醐山(深雪山)。豊臣秀吉の醍醐の花見で知られる広大な寺で、伽藍は笠取山山上の上醍醐と、山麓の下醍醐に分かれて建っている。874年(貞観16)に聖宝が草庵を結んだのが始まりと伝えられ、907年(延喜7)に醍醐天皇の御願寺となって栄えた。2001年(平成13)に霊宝館がリニューアルし、上醍醐薬師堂の本尊、907年造立の薬師三尊像(国宝)も霊宝館の安置となった。霊宝館の開館は、3月第3日曜〜5月第2日曜・10月1日〜12月第1日曜までの年2回。快慶作の不動明王坐像(重文)、10世紀の五大明王像(重文)などの仏像や、俵屋宗達筆「舞楽図」(重文)などの寺宝は、ここで随時公開されている。最大の塔頭である三宝院には、弥勒菩薩坐像(重文)が安置され、表書院(国宝)など10数棟の建物が、庭園(特別名勝・史跡)とともに桃山時代の遺構を誇っている。
泉涌寺
京都市東山区泉涌寺山内町27
075−561−1551
JR京都駅より市バスで泉涌寺道下車。
真言宗泉涌寺派総本山、泉山・東山。9世紀前半に、空海が草庵を結んだのが始まりと伝えられる。その後衰退するが、13世紀に後鳥羽上皇らの援助で伽藍を建立。その時、境内から清泉が湧き出したことから、最初は法輪寺、続いて仙遊寺と称していた寺名を泉涌寺と改めた。この時から律・天台・真言・禅の4宗兼学となった。1242年(仁治3)に四条天皇が没し、当寺に埋葬されて以降、歴代天皇の香華院(菩提所)となり、皇室の御寺(みてら)とも呼ばれる。応仁の乱で焼失後は再建が進まず、仏殿(重文)など現在のほとんどの堂宇は、徳川家綱が再建・修復したものとなっている。明治期に、4宗兼学を廃して真言宗に。本尊は、江戸期の釈迦・阿弥陀・弥勒三尊像。宋代の楊貴妃観音坐像(重文)は、楊貴妃観音堂に安置されている。塔頭の即成院では、平安時代後期の阿弥陀如来及び二十五菩薩坐像(重文)が拝観できる。
神護寺
京都市右京区梅ケ畑高雄町5
075−861−1769
JRバス山城高雄・市バス高雄下車、徒歩20分。
高野山真言宗別格本山、高雄山。高雄山中腹に建ち、紅葉の名所として知られる古刹。和気清麻呂の建てた神願寺と、空海が真言密教を広める拠点として高雄山寺が、824年(天長1)に合併して創建された。金堂に安置される本尊・薬師如来立像(国宝)は、平安時代初期を代表する木彫像。多宝塔には、乾漆併用の木彫像である五大虚空蔵菩薩坐像(国宝)が安置され、秘仏であるが往復葉書で申し込めば拝観することができる。なお、伝源頼朝像(国宝)などの絵画・書跡は、毎年5月1〜5日に本坊で公開されている。
禅林寺(永観堂)
京都市左京区永観堂町48
075−761−0007
京都駅より市バスで永観堂道下車、徒歩10分。
浄土宗西山禅林寺派大本山、聖衆来迎山。853年(仁寿3)、空海の弟子・真紹が建立した無量寿院を始まりとする。863年(貞観5)に禅林寺と寺名が改められ、密教寺院として栄えた。11世紀後半に、永観が入寺。浄土宗をもたらし中興したことから、永観堂の名で呼ばれるようになった。見返り阿弥陀と呼ばれる、阿弥陀如来立像(重文)が著名。国宝の山越阿弥陀図をはじめ、浄土教絵画を数多く有しているが、博物館などの寄託となっており、寺では拝観することはできない。各堂宇は回廊で結ばれ、桜と紅葉の時期には、美しい景観を見せる。
願徳寺(宝菩提院)
京都市西京区大原野南春日町1223−2
075−331−3823
JR・阪急向日町駅よりバスで南春日町下車、徒歩15分。
天台宗、仏華林山。7世紀に天武天皇の皇后(のちの持統天皇)の発願により、向日市寺戸に創建されたと伝える。宝菩提院の忠快が中興し、のちに願徳寺に移ったことから、「宝菩提院願徳寺」と名のっている。平安から鎌倉時代にかけて天台密教寺院として栄えたが、応仁の乱などで荒廃をたどった。本尊をはじめとする諸仏は、1962年(昭和37)に向日市寺戸から勝持寺に移動。1973年(昭和48)に現在地に本堂が再建され、1996年(平成8)になって本尊の如意輪観音と伝えられる平安時代初期の菩薩半跏像(国宝)ほか諸仏は願徳寺に帰座した。毎年2月の拝観は、事前に申し込みが必要。
蟹満寺
京都府相楽郡山城町綺田小字浜36
0774−86−2577
JR奈良線棚倉駅下車、徒歩20分。
真言宗智山派、普門山。7世紀後半〜8世紀初めの本尊としているが、創建年代などは不詳。蟹にまつわる縁起を伝えている。南山城周辺に住んでいた秦氏などの渡来人が、創建に関わったとの説もある。本尊の釈迦如来坐像(国宝)は他の寺院から移されたと考えられていたが、境内から白鳳時代の大規模な基壇の一部が発掘され、金堂の存在が確認されたことから、当初からまつられていた可能性が増してきた。1711年(正徳1)に京都・智積院の亮範が再興して以後、真言宗智山派に属している。
観音寺
京都府京田辺市普賢寺下大門13
0774−62−0668
近鉄京都線三山木駅よりバスで普賢寺下車、徒歩5分。
真言宗智山派、息長山。天武天皇の勅願により義淵が創建し、天平時代後期に、東大寺の初代別当・良弁と高弟の実忠が伽藍を整えた普賢寺を前身とする。興福寺の末寺として藤原氏の庇護を受けて栄えたが、その後衰退。本尊の十一面観音立像のみが、天平の面影を伝えている。拝観には、事前に連絡をしておくことが望ましい。
浄瑠璃寺
京都府相楽郡加茂町西小札場40
0774−76−2390
JR・近鉄奈良駅よりバスで浄瑠璃寺前下車。または、JR関西本線加茂駅よりバス。バスの本数が少ないので、タクシーの場合は奈良駅より約20分。
真言律宗、小田原山。当尾の里にある、浄土式庭園(特別名勝・史跡)の広がる美しい寺。1047年(永承2)、義明が創建した西小田原寺を前身とする。平安時代の阿弥陀如来坐像(国宝)9体が横一列に並ぶお堂は、現存唯一の九体阿弥陀堂(国宝)で、1107年(嘉承2)の建立。同堂内の秘仏・吉祥天立像(重文)は、1月1日〜15日・3月21日〜5月20日・10月1日〜11月30日に開扉される。華麗な彩色を残す平安時代後期の四天王立像(国宝)、鎌倉時代の不動明王二童子立像(重文)も安置されている。阿弥陀堂の対岸に、池を挟んで建つ三重塔(国宝)には、平安時代の旧本尊・薬師如来坐像(重文)を安置。毎月8日・1月1〜3日・春秋彼岸の中日の晴れた日に限り、拝観できる。馬酔木など、四季折々の花が楽しめる寺としても有名。
酬恩庵(一休寺)
京都府京田辺市薪里ノ内102
0774−62−0193
近鉄片町線新田辺駅より徒歩20分。新田辺から京阪宇治交通バスで一休寺道下車、徒歩5分。
臨済宗大徳寺派、霊瑞山。一休がその後半生を送り、生涯を終えた寺であることから、一休寺と通称される。1267年(文永4)、大應が創建。荒廃していた寺を、一休が1456年(康正2)に再興し、酬恩庵と名づけた。室町時代の一休禅師坐像(重文)と、大應国師坐像を安置している。室町時代の本堂は重文、江戸時代初期に造営された枯山水の方丈庭園は、名勝に指定されている。
壽寶寺
京都府京田辺市田辺町三木山
0774−65−3422
近鉄京都線三木山駅より、徒歩4分。
高野山真言宗、開運山。704年(慶雲1)の創建と伝えるが、開基などの詳しい寺歴は詳らかでない。本尊の千手観音立像(重文)は、明治期に近隣の廃寺から移されたと伝えられる。不在の場合があるので、拝観には事前連絡が必要。
奈良
法隆寺
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1−1
0745−75−2555
JR法隆寺駅より徒歩20分。またはバスで法隆寺門前下車。聖徳宗総本山。聖徳太子が、父・用命天皇の病気平癒の遺願を継いで、607年(推古15)に創建。斑鳩寺とも呼ばれた。『日本書紀』によると、670年(天智9)に伽藍が全焼。その後、現在の法隆寺式と呼ばれる伽藍が建立されたと考えられている。世界に誇る木造建築の金堂(国宝)をはじめ、建造物のほとんどは指定文化財。所蔵する仏像・絵画・工芸品も、極めて多い。各宗派を兼学する学問寺だったが、明治期に法相宗として独立。1950年(昭和25)に聖徳宗を開き、現在に至っている。金堂には、飛鳥時代の釈迦三尊像や四天王立像、見えにくいが平安時代の毘沙門天立像と吉祥天立像(いずれも国宝)をまつる。五重塔(国宝)の4面には、奈良時代の塔本塑像(国宝)があり、仏教説話の場面がパノラマのように構成されている。奈良時代の夢違観音や百済観音立像、唐時代の九面観音(いずれも国宝)などの仏像は、大宝蔵殿の安置。夢殿に安置されている救世観音立像(国宝)は、毎年春と秋に開扉される。その他の諸堂にも仏像が安置されるが通常は非公開で、日を限って公開されている。
中宮寺
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1−1−2
0745−75−2106
JR法隆寺駅よりバスで中宮寺下車、徒歩5分。
聖徳宗、法興山。聖徳太子の母である穴穂部間人皇后の没後、その宮を寺に改めたと伝えられる。斑鳩尼寺、中宮尼寺などとも呼ばれた聖徳太子建立の七大寺の一つで、四天王寺式の伽藍をもつ寺であったことが発掘調査で判明した。古拙の微笑みが著名な菩薩半跏像(国宝)を、本堂に安置。聖徳太子の没後まもなく制作された天寿国繍帳(国宝)を有することでも知られている。
東大寺
奈良県雑司町406−1
0742−22−5511
奈良駅よりバスで大仏殿春日大社前下車。
華厳宗総本山。741年(天平13)に国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられ、大和国金光明寺に昇格した金鐘寺を前身とする。743年(天平15)、聖武天皇が大仏造立の詔を発し、2年後に大仏の造営地が平城京の東に変更。現在地に、大仏を中心とする大規模な伽藍の造営が開始され、東大寺成立の契機となった。盛大な大仏開眼会が営まれたのは、752年(天平勝宝4)。その後、堂塔が相次ぎ建立され七堂伽藍が整った。1180年(治承4)の南都焼き討ち、16世紀に兵火で大打撃を受けたが、苦難のなかで復興され、現在に至っている。国分寺であったことから、天下泰平などを祈願する道場で、同時に仏教教理を研究する役割も担っており、最初は6宗、平安以降は8宗兼学の学問寺だった。華厳宗を名乗る現在も、その伝統は健在。お水取りなどの仏教儀礼を伝える寺としても知られている。仏像は、大仏殿と南大門、法華堂(三月堂)、三昧堂(四月堂)、戒壇堂で拝観できる。
法華堂(三月堂)は、不空羂索観音立像をはじめとする天平仏の宝庫で、伝日光・月光菩薩立像、執金剛神立像などいずれも国宝。執金剛神立像は秘仏で、毎年12月16日のみ開扉される。戒壇堂の四天王立像(国宝)も、天平塑像の代表作。四月堂では、平安時代の千手観音立像(重文)などが拝観できる。その他、初代別当を務めた良弁僧正坐像(国宝、12月16日開扉)、鎌倉復興に尽力した重源上人坐像(国宝、7月5日・12月16日開扉)などは、安置される各堂で日にちを限って開扉されている。
興福寺
奈良市登大路町48
0742−22−7755
近鉄奈良駅より徒歩10分。
法相宗大本山。藤原鎌足のために建てられた、山階寺を前身とする藤原氏の氏寺。同寺は飛鳥に移されて厩坂寺(うまやさかでら)となり、710年(和銅3)の平城遷都とともに藤原不比等が現在地に移し、寺名を興福寺と改めた。平安時代にかけて隆盛を極めたが、1180年(治承4)の南都焼き討ちで伽藍をほぼ全焼。復興はすみやかに進み、三重塔(国宝)などが再建され、仏像造立には運慶一門が力を振るった。国宝館には、戦火を免れた奈良時代の八部衆立像や十大弟子立像、山田寺から移された白鳳時代の仏頭(いずれも国宝)、鎌倉時代に復興された諸像が立ち並ぶ。弥勒仏坐像と無著・世親菩薩立像(いずれも国宝)は北円堂(国宝)に安置され、毎年春と秋に公開される。
新薬師寺
奈良市高畑福井町1352
0742−22−3736
近鉄奈良駅よりバスで新薬師寺道口(破石(わりいし))下車、徒歩12分。
華厳宗。747年(天平19)、聖武天皇の病気平癒を祈願するために、光明皇后が建立したと伝えられる。官大寺として栄えたが、伽藍の焼失・復興を繰り返し、天平の遺構は現本堂(国宝)のみとなっている。本尊の薬師如来坐像(国宝)は、切れ味鋭い彫りが見られる8世紀の木彫像。その周囲を、近くの岩淵寺から移されたという塑像の十二神将像(国宝)が取り囲む。
法華寺
奈良市法華寺町882
0742−33−2261
近鉄奈良駅よりバスで法華寺前下車。
真言律宗。745年(天平17)に光明皇后により創建され、まもなく総国分尼寺として、諸国の国分尼寺を統括した。国の直轄寺院として天平の大伽藍を誇っていたが、南都焼き討ちで荒廃。西大寺の叡尊により復興され、真言律宗に属することとなった。火災や地震で諸堂を失い、建造物のほとんどは桃山時代のものに変わっているが、天平時代の仏頭や、木心乾漆造の維摩居士坐像(いずれも重文)などを伝えている。本尊の十一面観音立像(国宝)は、平安初期を代表する木彫像で、秘仏。3月20日〜4月7日・6月5日〜8日・10月25日〜11月11日に開扉される(日程は変更になる場合があるので、事前に確認することが望ましい)。
室生寺
奈良県宇陀郡室生村室生
0745−93−2003
近鉄大阪線室生口大野駅よりバスで室生寺前下車。
真言宗室生寺派大本山、宀一山(べんいちさん)。2000年に修復が終わったばかりの優美な五重塔、平安初期の金堂、鎌倉期の灌頂堂(いずれも国宝)などが立ち並ぶ山岳寺院。8世紀末に、興福寺僧の賢m(けんきょう)が創建した。7世紀に、役小角が創建したとも伝えられる。空海によって真言密教の三大道場の一つとして再興され、女人禁制の高野山に対し、早くから女性に開放されて「女人高野」と呼ばれた。長く興福寺の支配下にあり法相宗だったが、江戸期に興福寺から独立。真言宗豊山派に属していたが、1964年(昭和39)に真言宗室生寺派を立宗した。平安初期木彫像の宝庫で、金堂には伝釈迦如来立像、十一面観音立像などがひしめきあっている。弥勒堂には奈良〜平安時代の弥勒菩薩立像(重文)と翻波式衣文の美しい釈迦如来坐像(国宝)、灌頂堂には如意輪観音坐像(重文)と、多くの古仏を有している。
聖林寺
奈良県桜井市大字下692
0744−43−0005
近鉄大阪線桜井駅よりバスで聖林寺前下車、徒歩5分。
真言宗室生寺派? 藤原鎌足の子・定慧が、8世紀に創建したと伝えられる。本尊は、石造の地蔵菩薩像で、江戸元禄期の造立。安産と子育てに霊験あらたかとされ、多くの参拝者を集めている。8世紀後半の木心乾漆造、十一面観音立像(国宝)は、明治の神仏分離の際に、大神神社の神宮寺だった大御輪寺から移されたもので、収蔵庫に安置されている。
円成寺
奈良市忍辱山町1273
0742−93−0353
近鉄奈良駅よりバスで忍辱山円成寺前下車。
真言宗御室派、忍辱山(にんにくせん)。756年(天平勝宝8)の開創と伝えられる古刹で、12世紀に真言宗寺院として隆盛した。15世紀に兵火で焼失したが復興され、江戸時代には大寺として知られた。明治以後は衰退を余儀なくされたが、室町時代の本堂(重文)や楼門(重文)浄土式庭園(名勝)など、閑静な境内に歴史を伝える建造物を残している。本尊は、平安時代後期の阿弥陀如来坐像(重文)。運慶作の大日如来坐像は、1990年(平成2)に新たに建立された多宝塔にまつられている。鎮守社の春日堂・白山堂は、鎌倉時代の建立。現存する日本最古の春日造社殿で、国宝に指定されている。
大阪
葛井寺
大阪府藤井寺市藤井町1−16−21
0729−38−0005
近鉄南大阪線藤井寺駅下車、徒歩5分。
真言宗御室派、紫雲山。聖武天皇の勅願寺として725年(神亀2)に開創と伝えられるが、百済系渡来人の葛井氏が8世紀中期に創建との説もある。天平時代後期の本尊・十一面千手観音坐像(国宝)は、毎月18日の開扉。両脇には、10〜11世紀の聖観音菩薩立像と地蔵菩薩立像がまつられている。平安時代後期、西国三十三所第5番札所となって栄え、多くの参詣者を集めるようになった。
観心寺
大阪府河内長野市寺元475
0721−62−2134
南海高野線・近鉄長野線の河内長野駅よりバスで、観心寺下車。
高野山真言宗、檜尾山。701年(大宝1)に役小角が開き、初めは雲心寺と呼ばれていたという。808年(大同3)に空海が訪れ、境内に北斗七星を勧請。その後まもなく、観心寺と寺名が改められた。国宝の金堂内にまつられる秘仏本尊の如意輪観音坐像(国宝)は、毎年4月17・18日に開扉される。ほかに、本尊の前立ちとして造立された如意輪観音坐像、地蔵菩薩立像や十一面観音立像(いずれも重文)など、平安初期の木彫像などを数多く有しており、それらは霊宝館で拝観できる。霊宝館はいつでも拝観できるが、12月15日〜2月15日のみ予約が必要。
兵庫
浄土寺
兵庫県小野市浄谷町1951
0794−62−4318
神戸電鉄小野駅よりバスで、浄土寺前下車。
高野山真言宗、極楽山。東大寺の僧侶・重源が、鎌倉時代の東大寺復興の拠点として各地に建てた7別所のうちの一つで、1192年(建久3)の創建。ダイナミックな大仏様(天竺様)で建てられた浄土堂(国宝)内に、快慶作の巨大な阿弥陀三尊像(重文)を安置する。春分の日・秋分の日には、三尊の真後ろに日が沈み、極楽浄土の光に包まれたかのような様相を呈する。プロデューサー重源とアーティスト快慶のコラボレーションを、時を超えて見ることができる。
滋賀
向源寺
滋賀県伊香郡高月町渡岸寺88
0749−85−2904
北陸本線高月駅より徒歩10分。
真宗大谷派、慈雲山。渡岸寺とも称される。8世紀に、聖武天皇の勅願により泰澄が十一面観音像を刻み、観音堂を建てたのを始まりとする。その後、最澄により七堂伽藍が整えられたが、浅井・朝倉と織田の合戦で伽藍は焼失。その時、十一面観音像は村人によって運び出され、土中に埋めて護られたと伝えられている。現在、観音堂には定朝様の阿弥陀如来坐像、観音堂に付属する収蔵庫に十一面観音立像(国宝)をはじめ、平安時代後期の胎蔵界大日如来坐像(重文)などがまつられている。
和歌山
金剛峯寺
和歌山県伊都郡高野町高野山132
0736−56−2011
南海鉄道高野線極楽橋下車、ケーブルで高野山駅下車、バス利用。
高野山真言宗総本山、高野山。816年(弘仁7)、空海が朝廷に願い出て、八葉の峰に囲まれた山上に創建した。かつては金剛峯寺は高野山の総称だったが、現在は高野山の本坊を金剛峯寺と呼ぶ。山内の文化財は、霊宝館が管理し、随時公開している。常陳以外に年に数回の企画展と、夏期に特別展が開かれ、空海が唐より請来した諸尊仏龕(国宝)、運慶作の八大童子立像(国宝)などが公開される場合がある。
霊宝館の入館は、午前8時30分〜午後4時。12月28日〜1月4日は休館。その他、各院の拝観は事前申し込みが必要。
道成寺
和歌山県日高郡川辺町鐘巻1738
0738−22−0543
JR紀勢本線道成寺駅下車、徒歩7分。または、御坊駅よりタクシーで5分。天台宗、天音山(てんのんざん)。正式名称は、千手院道成寺。701年(大宝1)、文武天皇の勅願により創建された古刹。もとは、義淵僧正が開いた法相宗の寺だったが、江戸時代に天台宗となった。本尊の千手観音立像は、脇侍の伝日光・月光菩薩立像とともに国宝に指定されている。その他、平安時代の四天王立像(重文)や兜跋毘沙門天立像(重文)などを安置する。
鎌倉
東慶寺
神奈川県鎌倉市扇ケ谷2−12−1
0467−22−1359
JR横須賀線鎌倉駅より徒歩15分
臨済宗円覚寺派、松岡山。駆け込み寺、縁切り寺として知られる円覚寺の門外塔頭。1285年(弘安8)に、北条貞時により創建された。開山は、貞時の母・覚山尼。以降は代々名門出身の息女が住職を務め、室町時代には尼寺五山の一つに数えられる格式の高い寺院で、明治期までは尼寺だった。鎌倉時代後期の聖観音立像(重文)、室町時代の水月観音坐像を有する。水月観音像の拝観には、事前に申し込みが必要だが、4月の鎌倉まつりの期間中は、聖観音立像を安置する松岡宝蔵で公開される。(鎌倉まつり情報は要確認)
東北
勝常寺
福島県河沼郡湯川村大字勝常字代舞1764
0241−27−4566
JR磐越西線会津若松駅よりバスで佐野下車、徒歩17分。タクシーなら約20分。
真言宗豊山派、瑠璃光山。9世紀初めに、興福寺僧の徳一が開いたと伝えられる。徳一が会津に開いた五薬師の一つで、七堂伽藍が立ち並ぶ大寺だったとされるが、平安時代中期より衰退。京都・仁和寺の玄海が再興し、真言宗となった。薬師三尊像は、東北唯一の国宝。薬師如来坐像のみ室町時代の薬師堂(重文)にまつられ、脇侍の日光・月光菩薩立像は収蔵庫に安置されている。その他、四天王立像、地蔵菩薩立像、聖観音立像(いずれも重文)など、収蔵庫には一木造の平安初期像が立ち並び、栄えた往時を彷彿とさせる。
恵隆寺
福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原2944
0242−83−3171
JR只見線塔寺駅より徒歩15分。
真言宗豊山派、金塔山。寺伝によると、6世紀半ばに高寺山に結ばれた庵が、12世紀に現在地に移され、恵隆寺となったという。9世紀初めに徳一が再建した、空海が開いたとの説もあり、その歴史は詳らかではない。立木仏の千手観音立像(重文)を本尊とし、ほぼ等身の二十八部衆立像と風神・雷神像をまつる。塔寺観音堂ともよばれる観音堂は、鎌倉時代の建築で重文。
黒石寺
岩手県水沢市黒石町字山内17
0197−26−4168
JR東北本線水沢駅よりバスで黒石寺前下車。
天台宗、妙見山。729年(天平1)に行基が開創し、9世紀初めに坂上田村麻呂が再興。849年(嘉祥2)に、慈覚大師円仁が中興したと寺伝は伝える。本尊の薬師如来坐像(重文)をはじめ、平安時代初期の四天王立像(重文)、慈覚大師像と伝えられる11世紀の僧形坐像(重文)など、平安仏を有する東北を代表する寺の一つ。旧正月7日から翌朝にかけて行われる蘇民祭は、国の無形民俗文化財に指定されている。
成島毘沙門堂
岩手県和賀郡東和町北成島5区1
0198−42−3921
JR釜石線土沢駅よりバスで毘沙門下車、徒歩10分。
単立。蝦夷征伐で活躍した坂上田村麻呂が創建し、9世紀半ばに円仁が開いたと伝えられる。室町時代には、熊野山成島寺と称して隆盛。同寺は廃絶したが、毘沙門堂だけが残り、今日に至っている。収蔵庫に安置されている巨大な兜跋毘沙門天立像(重文)は、かつての毘沙門堂の本尊。平安木彫仏の多い北上川流域を代表する像となっている。毘沙門天像の影に隠れているが、頭上に2頭の象をのせる伝吉祥天立像(重文)は、他に類例のない平安初期木彫像。
中尊寺
岩手県水沢市黒石町字山内17
0197−26−4168
JR東北本線平泉駅よりバスで中尊寺下車。
天台宗東北大本山、関山。850年(嘉祥3)、慈覚大師円仁が開創し、清和天皇から中尊寺の号を賜ったと伝えられる。1105年(長治2)に、藤原清衡が伽藍を整備。金色堂(国宝)をはじめ、40余りの堂宇を誇る大寺となった。1337年(建武4)の大火で、諸堂は焼失。かろうじて罹災を免れた金色堂も荒廃し、明治になってようやく本格的な修理の手が入った。金色堂安置の仏像は平安時代後期の作で、すべて重文。仏像は、ほかに讃衡蔵(宝物館)で見ることができる。「人肌の大日」の名で親しまれている一字金輪大日如来坐像(重文)は秘仏で、特別な記念の年のみに開扉される。
〈底 本〉文藝春秋 平成十四年九月三十日刊