柴門ふみ
ぶつぞう入門(上)
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目 次
第1章
三十三年に一度! 京都に秘仏を見にゆくのだ
広隆寺 清凉寺 清水寺
第2章
三月二十二日──法隆寺で何かが起きるのだ
法隆寺(金堂 大宝蔵院 百済観音堂 伝法堂 律学院)中宮寺
第3章
十八日は、のぞみの始発で大阪の秘仏なのだ
葛井寺 野中寺 観心寺 道明寺 当麻寺
第4章
奈良駅から三分、興福寺に阿修羅を見にゆくのだ
興福寺 東寺
第5章
インド人もビックリ! 東寺、三十三間堂
東寺 三十三間堂
第6章
ここに日本のミケランジェロが! 仏像のエロスを極めるのだ
秋篠寺
第7章
奈良飛鳥の古寺を巡るのだ
宝生寺 長谷寺 聖林寺 飛鳥寺 岡寺
第8章
鎌倉大仏と晴れた秋の空
高徳院 浄光明寺 東慶寺 覚園寺
第9章
若き運慶の傑作に恋をしたのだ
平等院(鳳凰堂) 法界寺 浄瑠璃寺 円成寺
お寺案内
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第1章
三十三年に一度! 京都に秘仏を見にゆくのだ
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「仏像って、いいですよねー」
と、近年会う人毎に言いふらしている私である。
「ほう」
と、頷く人。
「ええっ、サイモンさんが」
と、意外な顔をする人。
「私には、さっぱりわかりませんわ」
と、あきれて席を立つ人。
とまあ、人それぞれ反応はさまざまである。
仏像の何がそんなにいいのですかと聞かれると、
「好きなものは、好き。恋と同じ。ある日突然、仏像と恋に落ちたのさ」
と、私は答える。
「仏教にお詳しいんで」
「いいえ、まったく」
「専門的な勉強をなさったので」
「入門書一冊、ロクに読んでおりません。ミロクと観音がどういう位置関係かもいまだあやふやです」
それで、いいのか。
それで、いいのだ。
と、答えてくれたのが『オール讀物』編集部。
「サイモンさん、仏像やりましょう。サイモンさん、あなたならできる」
自信たっぷりに太鼓判を押してくれた編集部。私がひそかに第二の白洲正子の座を狙っていることに気づいたのだろうか。
すると、
「サイモンさん、絵が描けるじゃないですか」
編集部は言うではないか。
「エッセイとイラストの描ける、女東海林さだおを目指して下さい」
光栄です。尊敬する東海林先生の下に名を連ねていただけるとは。
そんなこんなで、サイモン流ぶつぞう入門の旅が始まったのであった。
二〇〇〇年秋、私は、京都駅に降り立った。この時期に、広隆寺《こうりゆうじ》の御本尊と清水寺《きよみずでら》の御本尊が特別開帳されているからだ。特に、清水寺の御本尊は三十三年に一度しか御開帳されないので、この機会を逃がしたら後が無いかもしれない。
一泊二日の日程で、初日は広隆寺。二日目は清水寺。両日、空いた時間は片っ端から近所の寺を巡るという大まかなスケジュールを立てた。
寺によって、混む時は、混む。団体とぶつかってしまった時は最悪である。人気ラーメン店と同じくらい行列を待たなければならない。しかも、寺の営業時間は、短い。冬場は四時台に店じまいしたりする。となると、寺巡りにきっちりしたタイム・スケジュールは無理である。
「行くだけ行って、閉まっていたらあきらめましょう。並んでいたら、並びましょう」
このゆったりした心構えが仏像鑑賞の心得、その一である。
次に、同行の編集部Y氏は拝観料を払うたびに、
「仏像三体で五百円は高すぎる。あんなちゃちな寺に千円も払うのか」
と、いちいち文句を垂れる。仏像を鑑賞する者は、五百円千円にこだわってはいけない。これが、心得のその二である。
さて、広隆寺と言えば、弥勒菩薩|半跏《はんか》像である。広隆寺のミロクといえば、あのヤスパースも絶讃した日本の宝であるが、ヤスパースって誰なのよ。ドイツの偉い実存主義哲学者らしい。超越者としての神を研究していた人なので、広隆寺のミロクの不思議な笑みに神≠感じたのかもしれない。でも、私には完璧すぎて、抽象化しすぎていて、ちょっと「ゴメンナサイ」という気分になってしまう。とりつくシマのないスーパースター。それが、あなた。どうぞみんなに愛されてちょうだい。私なんかいいでしょ、いなくたってというのが、広隆寺ミロクに対する私の想いである。
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歴史度………★★★★★
技巧度………★★★
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★
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日本では他に例のない、アカマツの曲がった材を、うまく前かがみの姿勢に利用して造られている。制作当初は表面に乾漆が盛られ、もっと太っていた可能性が高い。朝鮮半島の様式を見せるが、半島製かは不詳。
■像高………84・2cm
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広隆寺には、じつはもう一体弥勒菩薩半跏像がある。ヤスパースに絶讃されなかった方のミロクと言おう。ともに、右足を左足の上に乗せ、右手を頬に寄せた半跏のポーズであるが、ヤスパース・ミロクは頭が宝冠であるのに対し、非ヤスパース・ミロクは髪を高く結っている。泣きそうな顔がどこか、いしだ壱成に似ているので、私はこの仏を「泣き弥勒・いしだ壱成」と名づけた。
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歴史度………★★★★☆[#底本では半分の星。以下すべて]
技巧度………★★★
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★★
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通称「泣き弥勒」。あるいは、宝冠をかぶる弥勒像と区別して「宝髷弥勒」と呼ばれる。飛鳥時代に多いクスノキ材だが、腹や両腕の肉付きのよさ、大きい髷、座にかかる衣の立体的な表現は、時代が下ることを示している。
■像高………66・3cm
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この壱成ミロクは、ヤスパース・ミロクに比べ、全体のバランスも悪いし装飾過多な印象もうけるが、バランスの悪い分人間味にあふれ、いしだ壱成がそうであるように妙に女心をくすぐる可愛げがある。だから、私としては、ヤスパースより壱成ミロクを高く評価するのだ。ただ単に好みの問題ね。
それにしても、広隆寺は宝の山だ。その宝の山が、山奥の分校の講堂といった感じの宝物殿にずらりと並べられている。こんなに無造作でいいのかしら。国宝でしょと、言いたくなる。
千手観音菩薩立像も迫力の一体である。なんせ、二メートル六十もあるし、手もいっぱい生えているのだから。
その千手の横に並ぶ不空羂索《ふくうけんさく》観音菩薩立像に、私は心を奪われた。三メートルを越えている。巨大だ。にもかかわらず繊細な美しさをかもし出しているのは、その八本の腕と指先の奏でる優雅なハーモニーのせいだ。まるでストップモーションのアニメーションを見るような、コマ送りの静止画像を重ね合わせたような、つまり、静止しているのに動いているような不思議な感覚に襲われるのだ。
私は、こんなに美しい指先を見たことが無い。節も皺も無いのだが充分にリアルであり、手の甲と指の長さのバランスも良く、指自体も長すぎも細すぎもせず、宗教的でありながらもエロティックな雰囲気を漂わせている。完璧。
[#(img\p010.jpg、横265×縦417)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★★☆
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強くくびれたウエスト、粘りのある衣の彫り口が特徴的な巨像。広隆寺火災(818年)以前に造られたことが明らかで、八世紀末の制作と考えられるが、スマートな肢体の表現や、足首を見せる所などに天平彫刻の名残が。
■像高………313・6cm
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というわけで、広隆寺の不空羂索が今回の旅におけるサイモン心のベストテン第一位に輝いたのであった。
広隆寺の宝物殿にはもちろん、年に一度の御開帳ということで御本尊の吉祥天も展示されていたのだが、あれれと言うくらい庶民的な大阪のオバチャン風でした。
広隆寺を見終わって、清凉寺《せいりようじ》に足を伸ばす。ここには「清凉寺スタイル」で有名な釈迦如来立像がある。
着衣がイッセイ・ミヤケのプリーツ・プリーズのように波打っているのがいわゆる「清凉寺式」である。釈迦三十七歳の生き姿を刻んだ像が本場インドから中国に渡り、それを中国で見た日本人僧侶が模倣して作らせて持ち帰ったものであると言われている。由緒正しいのだ。以後日本各地、清凉寺式を真似た波打つドレープ着衣のお釈迦様が作られる。
衣は、イッセイ・ミヤケだが、頭はパパイヤ鈴木である。丸顔なのに、スラリとプロポーションが良いところが、インド風といえばインド風である。そのせいか、日本人的には、あまり有難みを感じないかもしれない。
[#(img\p011.jpg、横253×縦417)]
歴史度………★★★
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★
サイモン度…★★☆
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中国北宋時代の兄弟仏師が造った、インド伝来像の模作。縄を巻きつけたような髪、首際までを覆う衣のスタイルなど、すべてが異国的である。絹製の五臓を胎内に納めるのは、生身の釈迦を表現しようという意識の現れか。
■像高………160・0cm
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清凉寺には、本堂の東に宝物殿があり、御本尊の体内から見つかった絹製の五臓六腑も展示されているというので見に行ったが、拝観料に見合う内容では無かったと同行のY氏が憤る。注釈がなければ、女子中学生の家庭科作品の手芸かと見間違っても不思議は無い。けれど私は、宝物殿内の釈迦十大弟子の像が可愛らしかったので、拝観料の元は取れたと思う。
と、ここで初日はタイム・アップ。翌日の清水寺参りは混雑が予想されるので、早朝出発を計画する。そのため早寝をしようとするが、ついついホテルのテレビで関西ローカル番組を見入ってしまう。
夜更かしにもかかわらず、しっかりとホテルの朝食も摂り、タクシーをチャーターし、今回の旅の目玉の清水寺を目指す。坂の途中で早くも渋滞に遭う。観光バスも続々とつめかける。
「まいったなあ。御本尊を拝むまでは相当の行列を覚悟しなきゃいけないでしょうね」
私達は、ため息をつく。
山門をくぐると、案の定、長蛇の列である。
「はいはい、並んで。脱いだ靴は自分で持って」
と、前方で係の人が声を上げている。お堂を目指し猛スピードで列が進んでゆく。何だかみんな凄いスピードで御本尊を見て過ぎてゆくのねと思っていると、私達の番が巡ってきて、百円の拝観料を払わされる。
「百円て安いじゃないすか」
「安いですねー」
吝嗇《りんしよく》家のY氏も御満悦である。
が、順路に従って階段を下りてゆくと、いきなりまっ暗闇の室内に到達する。転ばぬように、壁に沿って繋がれた鎖を頼りにおそるおそる歩く。まるで東京ディズニーランドのスペース・マウンテンの内部のようだ。
「この暗闇の中、何が起きるのかしら、何が起きるのかしら」
と、どきどきしていたら、何も起きなかった。鎖をたぐって歩き続けると、いつの間にか元来た場所に戻っていた。
清水寺名物〈胎内巡り〉のお堂を、私達は本堂と勘違いしていたのだ。ただまっ暗な闇の中を歩かされただけで、百円。これを知ったY氏は思った通り激怒した。
早トチリした私らがいけないのだと気を取り直し、今度こそ本物の本堂に到着する。
待ち時間二十分というところ。本堂の中は薄暗く、大小のろうそくの火がゆらゆらと堂内を照らしている。列をなしたまま、私達はゆっくりと狭い通路を歩く。すると、通路の半分も進んだところに、御本尊の姿が見えてきた。十一面千手観音だ。二本の腕を頭上高く掲げたポーズは、一般的な千手とは趣きが異なっている。水に飛び込む競泳選手のようだ。
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歴史度………★
技巧度………★★☆
芸術度………★★☆
サイモン度…★★★☆
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西国三十三所観音霊場第十六番札所、清水寺の秘仏本尊は、二本の腕を海老のように頭上高くに掲げる。珍しいスタイル。
■像高………174cm
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「ううむ。さすが三十三年に一度しか御開帳されないだけはある。有難いお姿だ」
と、私はうなった。その時、私はまだ、本当の本物の御本尊は通路のもっと先にあり、普段お姿を見せない御本尊に代わって身代わりとして祀られているダミー仏を拝んでいることに気づいていなかったのである。
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第2章
三月二十二日──法隆寺で何かが起きるのだ
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三月二十二日、私は奈良に居た。
法隆寺|伝法堂《でんぽうどう》が一般に公開されるのは一年でこの日しか無く、伝法堂内には仏像通が、
「おお!」
と唸る秘仏が山のようにあると、この連載の解説をお願いしている石井さんから聞かされ、とにかく何より三月二十二日は押さえねばと、私は息子の中学校の卒業式もキャンセルして駆けつけたのであった。
斑鳩《いかるが》の里はその日、初夏を思わせる上天気で、気候が良いと気持ちも浮き立ってくる。
法隆寺まで、と、私は明るい気分でタクシーの運転手さんに行き先を告げた。すると、
「今日は、法隆寺の縁日で、露店がいっぱい出て賑やかですよ。私も子供の頃はこの三月二十二日の縁日が楽しみで」
と、教えてくれた。
ふうん、伝法堂公開に合わせたお祭りなのかしらんと、無知な私は考えた。
「何で、縁日なんですか」
と、同行のY氏も運転手さんに聞く。
「さあ、何ででっしゃろなあ。とにかく昔っからです」
と、運転手さんも答える。
全員が無知であった。そしてこの事が、のちのち、我々を襲う悲劇の発端となるのだった。
「とりあえず、釈迦|三尊像《さんぞんぞう》でしょ」
「そうですよね、教科書にも必ず載ってる国宝ですからね」
Y氏は国宝にはちとうるさい。南大門《なんだいもん》をくぐった私達は、まっすぐに釈迦三尊の安置されている金堂《こんどう》を目指し、中に入る。
暗いし、金網越しでよくわからん。
外が晴天で明るければ明るいほど、お堂の中の暗闇に目が慣れるまで時間がかかる。
「で、どれが一体『釈迦三尊像』なんですか」
と、Y氏が私に聞く。
「布袋寅泰《ほていともやす》に似たやつ」
「だって布袋に似たの三体もあるじゃないですか」
「だったら、その三つ集めて『釈迦三尊』なのよ」
なわけなかった。中央の一番立派なのが国宝釈迦三尊像で、残り二体の布袋顔仏像は各々、薬師如来《やくしによらい》と阿弥陀《あみだ》如来であった。
シャカサンゾンゾウって、「シンシュン、シャンソンショー」くらい言いづらい。釈迦の両脇の薬王《やくおう》・薬上《やくじよう》菩薩を数に加えての釈迦三尊像である。堂々たる風格。ありがたさのオーラが十二分に伝わってくる。他を威圧するこの飛鳥様式の仏像は、巨大な顔面とどっしりした太い鼻が特徴だ。それだけだとただの「コワい人」なのだが、口元のアルカイック・スマイルが「コワい人」を「威厳のある人」に昇格させている。いや、御立派で。というのが私の感想である。国宝だしね。
金堂を出て、次に、大宝蔵院へと足を向ける。平成十年にリニューアルオープンしたピカピカの現代建築の宝蔵院である。空調も効いて、センスよくライティングされている。ガラスケース越しに陳列された仏像達は、宗教色が薄まり、デパートの美術コーナーに置かれた高級美術品のように見える。
「ほほう」
と、私達がまず足を止めたのが、「観音菩薩像(夢違《ゆめちがい》観音)」である。高さ九十センチ弱のブロンズ像であるが、
「可愛い、可愛い」
と、Y氏が連発する。確かに、他の飛鳥ブロンズ像に比べ圧倒的に人間臭い可愛らしさにあふれている。ふっくらした頬に、スッと通った鼻すじ。薄い唇に切れ長の目。日本人の好きな〈可愛い顔〉なのだ。誰かに似てる。
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歴史度………★★★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★
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不吉な夢を吉夢に変えるとの伝承から、通称を夢違観音。ゆったりとした雰囲気をもつ白鳳仏で、人間の肉体を意識した薄い衣の表現や、少年のような表情には、写実を獲得する一歩手前の初々しさが現れている。
■像高………87.0cm
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大宝蔵院の名物と言えば「玉虫厨子《たまむしのずし》」だが、それには目もくれず、私はその横の「地蔵菩薩像」に見入ってしまう。百七十センチだから、ほぼ実在の人間に近い大きさなのだが、坐像や小さなブロンズ像の多いこの宝蔵院の中では、圧倒的な存在感を示す一体である。一木造《いちぼくづくり》で、流れるような翻波《ほんば》式の衣も美しいが、切れ長の目に整った鼻、くっきりと輪郭の浮き出た唇と、どこをとっても美しいお顔に私はとても惹きつけられた。こんなに美しい、くりくり頭の地蔵菩薩を私は今まで見たことない。いや、しかし、
「反町隆史に似てる!!」
それで、ふと、気づいた。先ほどの夢違観音は松嶋菜々子似だったのだ。反町・松嶋は飛鳥、平安の時代から人気者になれる根拠があったのだ。時代を超えて日本人にアピールするルックスってあるのね。
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歴史度………★★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★★
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明治の廃仏毀釈で、大御輪寺から移されたという9世紀の像。顔も体も太く、圧倒的な量感があるのが特徴。肥満した体躯を、切れ味ある彫りが引き締める。ヒノキの一木造で内刳りもないため、実際に極めて重い。
■像高………173・0cm
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ほうら、やっぱり松嶋菜々子に似てるでしょと、私がY氏の袖を引っ張って夢違観音の入ったガラスケースの前に戻ると、そのガラスケースを磨いている職員のおばさんがいきなり、私達に話しかけてきた。
「今日は、お寺が賑やかでしょう」
「はい……」
「今日は、聖徳太子さんのお誕生日だからね」
「そうなんですかー。だから縁日で、伝法堂も公開されるんだー」
「お釈迦様と聖徳太子様だけは実在のお方だから誕生日がおありなさるんです。他の仏様にはお誕生日、ないでしょう」
なるほどねーっ。さすが法隆寺。清掃職員のおばさんまで博識だわと、私は感心する。
伝法堂に向かう前に、百済《くだら》観音堂で国宝「観音菩薩立像(百済観音)」を拝仏する。身長二百九センチの超スリムなお姿。少し猫背気味。水瓶《すいびよう》を持つ左手の指のリアルな美しさは、土門拳氏も絶讃したものだ。流れるような衣も抽象化されていて美しい。でも、顔が溶けかかっててコワい。この百済観音は、フランスでも公開されて好評を博したという。宗教的というよりも現代彫刻的なところ(リアルと抽象の混在)が、芸術大好きフランス人にウケるのだろう。と思っていたら、私の横をフランス人観光客が百済観音を一瞥しただけで通り過ぎて行った。
[#(img\p020.jpg、横217×縦427)]
歴史度………★★★★★
技巧度………★★★★
芸術度………★★★★☆
サイモン度…★★★☆
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天衣のゆるやかなカーブや繊細な手の表情は、斜めから見ても美しい。痩せてはいるが、肉体の微妙な起伏も感じられ、厳格さより優美を求めた仏師の造形感覚がほの見える。百済観音と呼ぶが、材は国産のクスノキ。
■像高………209・4cm
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すべての優れた芸術作品には、テーマとポイントがある。と、私は思う。この百済観音について言えば、やはりその長身スリムなプロポーションの良さと水瓶を持つ手であろう。だから、顔は溶けてても、むしろ溶けてるくらいの方が、全体としてバランスが良いのかもしれない。
大宝蔵院を終え、さあ、今回の旅の目的である伝法堂へと足を進める。参道にはすでに露店が立ち並び、およそ法隆寺には似つかわしくないハムスターやらモーニング娘。のポスターやらが売られている。聖徳太子様は、どう感じておられるのか。
伝法堂は、夢殿《ゆめどの》の裏にある。はずだった。はずである。なのに、無い。そんな馬鹿な。しかし、どこを探してもない。私達は、焦る。入場券切り係の職員の人に、聞く。
「伝法堂って、どこですか」
ああ、それはあそこね、と、職員の人が指を差す。扉の閉まった、ひっそりした古い建物だ。おまけに『立入禁止』の札が立っている。
「あそこは、お正月しか開いてないよ」
「えっ。でも、このガイドブックに『三月二十二日公開』って……」
「ああ、この本、間違ってるね」
私はクラクラと目まいがした。息子の卒業式をキャンセルしてまで、伝法堂を訪ねてきたというのに。
しかし、こんなことで落胆してるヒマは無い。予定ではこの日のうちに新薬師寺、興福寺まで回るのだ。
さっそく、伝法堂のすぐ裏手にある中宮寺に回る。予定をこなさねば。よく手入れの行き届いた庭をぐるりと回ると池があり、池の中にお堂がある。お堂には、国宝「菩薩|半跏《はんか》像(伝|如意輪《によいりん》観音)」が鎮座している。スフィンクス、モナリザと並び「世界の三微笑像」と言われる微笑スマイルの仏像らしいのだが、そんなの世界でどのくらいの人が知っているのだろうか。
一見、ブロンズ像と見まごう黒光りなのだが、クスノキ材に黒色の漆が塗られているのだそうだ。白鳳時代に、こんなリアルな表情の像がつくられていたとは。あどけなくて可愛い。
「白鳳なら、国宝でしょ」
と、この旅ですっかり国宝通となったY氏が胸を張って答える。丸っこい曲線の造型は、手塚治虫初期のキャラクターを髣髴とさせる。いや、それはただ単に頭上の二つの球が、アニメ・キャラを連想させるからだけかもしれない。
[#(img\p021.jpg、横293×縦426)]
歴史度………★★★★★
技巧度………★★★★
芸術度………★★★★☆
サイモン度…★★★
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もとは彩色が施されていた木彫像で、寺では如意輪観音と呼ぶ。クスノキ材を複雑に組み合わせた7世紀には異例の構造だが、造形的に破綻はない。表情にも肉体にも、人間に近い柔らかさを求めた仏師の志向がうかがえる。
■像高………87・0cm
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池を渡ってお堂の中に吹く風に、一服の涼を味わう。先ほどの伝法堂ショックも少しずつ癒え、今日一日で、こんなにも素晴らしい仏像にたくさん出会えたことを、聖徳太子様に感謝する。やっぱり今日は聖徳太子様のお誕生日だけあって、失敗もあったけど、いいことの方が多かったような気がする。
帰りの道すがら、聖徳太子馬上像が奉られているという律学院に寄ってみることにする。いやいや、そのお堂内の派手なこと。赤・黄・グリーンの鮮やかな垂れ布に、お供えの品々もこれまた極彩色である。お供えの餅がそら豆色と黄色と白の三段重ねなのである。おまけに、装飾を施された二本の円柱に、多数の鳥の模型が突き刺さっている。小鳥も歌うよ、ハッピ・バースデイ。
なんなんだ。この派手っぷりは。万葉の頃のお誕生会ってこんなに派手だったのね。日本人て本来、派手好みなのじゃん。いや、これは関西人ならではの色彩感覚なのかと、そのめくるめく色の洪水に私の思考は勝手に爆走した。
「やっぱり今日は聖徳太子様のお誕生日だから、こんなに派手にお祝いするのですね」
と、私はお堂の入り口に坐っていた作務衣姿のお坊さんに声をかけた。
「えっ。お誕生日?……今日は太子様の御命日でございますよ」
さっきまで、ハッピ・バースデイと小鳥がさえずっていた私の頭の中の映像がぴたりと止まった。
「あわわ……」
「毎年三月二十二日の太子様の御命日法要で、『お会式《えしき》』が営まれるんです」
[#(img\p022.jpg、横429×縦640)]
歴史度………★★★★★
技巧度………★★★★
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★★☆
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聖徳太子のために造られた像で、渡来系の高度な技術をもつ止利仏師が制作した。623年に完成をみた日本彫刻史のスタートを飾る記念碑的な仏像ながら、完成度は高い。写実からはかけ離れた、抽象的かつ観念的な表現を特徴とする。
■像高………86・4cm(中尊)
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さすが、法隆寺関係者。誕生日と命日を間違えるとんちんかんな拝観者にも、親切丁寧な説明を下さった。
伝法堂公開でも、聖徳太子の誕生日でもなかった三月二十二日。私はこの日を一生忘れないことだろう。
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第3章
十八日は、のぞみの始発で大阪の秘仏なのだ
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東京駅発「のぞみ」の始発って、何時だか知ってますか?
朝六時なんです。
ということは、五時には家を出なくてはいけなくて、つまり四時には起きて歯磨き洗顔UVケアの身じたくをしなければならないということなのだ。
なぜそんな強行軍となったかというと、関西方面の秘仏は、毎月十八日オンリー開扉というのが多く、それなら一日で全部見られるじゃんということで四月十八日の日帰り日程を組んだのである。
けれど、なぜ、十七日の夜のうちに関西入りしておかなかったのか。朝の五時台に東京駅にたどり着き、二時間ちょっと「のぞみ」に揺られ、九時から仏像巡りをするということは、ともすれば朦朧と意識の混濁に落ち入りそうになる自分と一日中格闘しなくてはいけないということなのだ。
「四時台の始発の私電に乗って来ました。四時台に電車って動いているものなんですね」
と、早朝にもかかわらず爽やかなのは石井亜矢子さん。今回は、この連載の御意見番である彼女も一緒なのだ。心強い。
朝の九時過ぎには、私達は大阪の|葛井寺《ふじいでら》に着いていた。場所はもちろん藤井寺市にある。境内には藤棚が見事な花をつけていた。毎月十八日に開扉される十一面千手観音は、日本最高の千手観音として、どの仏像ガイドブックにもその写真が載っている。千手マニアの私としては、どうしても押さえておきたい一体なのだ。
やはり開扉の日ということで、早朝にもかかわらず境内はお参りの人でごった返していた。が、どうも我々のような仏像目当ての観光客は少なく、多くは心から観音様を信仰している地元の善男善女らしい。
その参拝客を目当てなのか、境内には百円ショップの露店まで並んでいる。寺の境内の中の百円ショップというものを私は初めて目にした。
いいのか。と私は心の中で叫んだのだが、売られている商品が、ゴムひもやホック、鍋洗いなど庶民の生活に根づいたものなので許した。クリアーファイルが売られていたら怒ったと思う。やっぱり。
さて、高まる期待を胸にお堂に足を踏み入れ、厨子の開かれた扉の内側に座している千手観音を拝もうとしたのだが……。
「手が見えないっ」
千手観音とは、手が千本ある観音様である。けれど千本も手を彫るのは仏師も大変なので、省略して四十二本モデルが多い。ところがこの葛井寺の仏は、実際千四十二本の手が組み合わされており、それはまるで羽ばたき続ける翼のようにも見え、仏の慈悲の偉大さを圧倒的迫力で見せつけるものであったはずなのだ。
ところが、見えない。手前に高くそびえるお供え物と扉のせいで、千本のうち数本しか見えない。背伸びしたり、首を曲げたり、何とか手を確認しようとしたのだが、肩口までしか見えない。諦めた。おそらく、信心深い方々の心の中にははっきりと千本の手が浮かぶはずだと、寺の関係者は考えたのであろう。でなければ、あんな場所にお供え物を置くはずがない。不信心な私らが、いけないのね。どうせ。
[#(img\p030.jpg、横267×縦412)]
歴史度………★★★★
技巧度………★★★★☆
芸術度………★★★★
サイモン度…見えなかった
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実際に1000本ある手を、光背のように配置した造形感覚が見事な像。麻布を漆で張って作る脱活乾漆造で、制作費は高いが重量は軽い。肉体把握にも破綻のない手慣れた仕事は、天平後期の高い造像技術を物語る。
■像高………131・3cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
納得ゆかない気持ちを胸に、タクシーで野中寺《やちゆうじ》に移動。ここの弥勒菩薩半跏像も、毎月十八日開扉なのだ。こぢんまりとした、いい寺である。先ほどの葛井寺が庶民の信仰の寺だとすれば、こちらは書生・茶人の寺っぽい。静かで落ち着いたたたずまいである。弥勒もとてもこぢんまりとしている。十八・五センチしかなく、それにふさわしい小さな厨子に収められている。
[#(img\p031.jpg、横229×縦400)]
歴史度………★★★★☆
技巧度………★★★★
芸術度………★★★
サイモン度…★★★
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666年に弥勒像として制作された旨の銘がある貴重な金銅仏。アルカイック・スマイルの消えた自然な表情、大きな右足裏に微妙な肉付けをほどこすなど、小像ながら人体に近づこうとする表現が随所にみられる。
■像高………18・5cm
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私達はお堂ではなく、六畳ほどの畳の間でこの小さな仏様をぐるり取り囲んで鑑賞した。
私達の先客は、仏像趣味の会のおばさんの一団で、十数名が「ほーう」「まあーっ」と感嘆しながら熱心に見入っている。
はよう、どかんかいっと荒ぶる心はこのお寺には似つかわしくないと、私は深呼吸をして己れを諌めた。傍のY氏の拳も心なしか小刻みに震えているように見えたが、石井さんだけは穏やかに笑っていた。
「どうも、始発の『のぞみ』がいけませんね」
「そうそう、どうもいつもよりイラ立ち気味ですね。こんな気持ちで仏像巡りはよくないですよ」
私とY氏は、反省した。もっと鷹揚に行きましょうと決めたY氏、しかし野中寺名物「お染・久松の墓」を見に行って再び怒る。「お染・久松」の話に感動した油屋の豪商が、死んだふたりの十七回忌に勝手に建てたものらしい。本人達に断わりもなく、遺骨もない「墓」って……。
次に行く。「観心寺《かんしんじ》の如意輪《によいりん》観音はね、昔わたし見たんですけど、大丈夫、全部の手がちゃんと見えるし、境内に百円ショップもないはずよ」
石井さんが期待をあおって私達の気を引き立てようとしてくれる。
が、お昼近い時刻となり、寝不足の私は観心寺に向かう車中で何度も気を失いそうになった。
河内長野の山奥に、観心寺はある。タクシーは、山道をうねうねとカーブしながら、どんどん奥へと入り込んでゆく。空気が冷気を帯びてくる。冷気は霊気に通じるのか、観心寺本堂は山門とそれに続く石段の奥で、威厳と由緒を感じさせるたたずまいで私達を待っていた。
薄暗いお堂の中はすでに如意輪観音目当ての観光客で埋まっていた。けれど葛井寺の騒々しさに比べ、ここでは人々はしいんとおとなしく厨子《ずし》の前で腰を下ろしている。
声を失うほどの美しさだったのだ。と言っても過言ではない。一本の手をそっと頬に触れながら片膝を立ててもう一方の足を崩し、上体を少し後ろに反らしたポーズで、如意輪観音は色っぽく微笑んでいた。あらん、ちょっと酔っぱらっちゃったわぁと頬を染め目を潤ませているぽっちゃり系のお姉ちゃんを、うんと洗練させた感じ。
我々も魂を抜かれたように、口をぽかんと開け、その美しい像に見入った。始発の「のぞみ」のつらさも、手が見えなかった葛井寺の千手の悔やしさも、そんなの全部ふっ飛んだ気分を味わった。
寺の若い僧侶がマイク片手にこの像の解説を始める。
「この観音様は、弘法大師様がおつくりになられたと伝えられておりますが……」
ほーう、と、周りから声が上がる。が、
「なわけないでしょう」
と、僧侶は見事に落としてくれた。
それから、六本の手のそれぞれの意味を教えてくれたのだが、今となって私が覚えているのは、左奥の手が掲げる車輪の意味──車輪のように働け──だけである。
[#(img\p032.jpg、横281×縦415)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★★
芸術度………★★★★☆
サイモン度…★★★★★
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乾漆を併用した木彫像で、平安前期の密教彫刻を代表する。切れ長の目、朱色の唇。体は豊満で柔らかく、これほどの官能性を湛えた仏像も珍しい。6臂という異形を、それと感じさせない造形力も見過ごせない。
■像高………108・8cm
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仕事がつらくて救いを求めに行ったのに、そりゃないじゃん、と、その時私は心のなかで叫んだのだった。
河内長野の駅前で寿司を食べ、次に我々は近鉄電車で道明寺《どうみようじ》に向かう。この段階で我々はもうかなりヘトヘトである。
寺に着くや、何やら境内が賑わしい。見ると、野中寺で出会ったおばさんの一団ではないか。どうも彼女達も「大阪・十八日開扉の秘仏」めぐりを企てているらしい。この仏像めぐりツアー客に便宜をはかるために、隣近所の寺が、
「秘仏公開は、十八日にしよう」
と、申し合わせたのではないか。というのが、Y氏の説である。
道明寺の十八日開扉の十一面観音菩薩像は国宝である。確かにバランスのとれた美しい像ではあるが、その御本尊の写真が一枚二千円だというので、Y氏は憤る。
[#(img\p033.jpg、横200×縦393)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★★
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★☆
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檀木のかわりにカヤ材を用いた、いわゆる「代用檀像」。彫りを重視するため、彩色はほどこさない。けれんのない確実な彫りで、動きと粘りのある衣文に特徴がある。制作年代は、8世紀末か9世紀か微妙。
■像高………99・4cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
さて、午後の眠気の山場も越え、本日の最終目的地、当麻寺《たいまでら》を目指す。当麻寺は、もはや奈良県である。
後ろに山の迫った傾斜地に建つ当麻寺の敷地は、かなり広い。二つの美しい三重の塔があり、聞けば国宝とのこと。当麻寺は国宝の山で、曼荼羅堂《まんだらどう》の厨子も、金堂の弥勒如来坐像も国宝である。
が、我々のこの寺での目的は、重要文化財の四天王像である。石井師匠によると、
「おヒゲの生えた、とても珍しい四天王なの」
だ、そうだ。
で、まず我々は、曼荼羅堂の受付に向かう。
日も暮れかかり、我々以外参拝客はいない。Y氏が入場料を払うと、受付のおばさんがどこかからラジカセを持ち出し、カチッとスイッチを入れた。
「当麻寺は用明天皇第三皇子|麻呂子《まろこ》親王が……」
録音テープによる寺の説明が、しんとしたお堂内に響き渡る。このテープが終わるまでは我々は立ち去ることができない。曼荼羅堂|厨子《ずし》の扉絵も、防犯の金網に遮られてよく見えなかった。
次に我々は、四天王像の納められている金堂に足を踏み入れる。
すると、さっきの受付のおばさんが再びラジカセを抱えてタタッと走り寄って来た。金堂の入口にラジカセを置き、スイッチを入れる。
「この金堂は、鎌倉時代に修復されたもので……」
今度は金堂の説明が流れ始めた。
テープ音の響き渡る堂内は正面五間、奥行四間のこぢんまりとした建物だ。そこに、弥勒仏坐像を囲んで、四天王が立っている。確かにヒゲが生えている。乾漆造《かんしつづくり》の仏像で、ヒゲを表現するのは大変なことであったのだろう。ヒゲというよりは、もやしを顎に生やしているように見える。
「ヒゲつきの四天王は、日本ではここだけなんですよ」
と言いながら、石井師匠が身をぐっと乗り出して増長天の顎を下からのぞきこもうとした時、
「その中には、入れません。入らないで下さい。入らないで下さい」
と、テープの声が叫び出した。
見ると、像の足元に赤外線センサーがあるではないか。
ラジカセといい、赤外線センサーといい、ハイテク化の進んだ当麻寺であった。
[#(img\p034.jpg、横431×縦640)]
歴史度………★★★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★
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7世紀に制作された四天王像の1躯。顎髭があるのが珍しい。その異国的風貌の源流は中国唐代以前と古いが、顔の筋肉描写に見える写実の兆しは、次の天平時代へとつながってゆく。脱活乾漆造だが、下半身は木彫による後補作。
■像高………217・6cm(増長天)
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帰りの「のぞみ」では、当然のように爆睡。気がつくと、東京駅だった。日帰り仏像巡りは、できないことはないが、やめた方がいい。
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第4章
奈良駅から三分、興福寺に阿修羅を見にゆくのだ
[#(img\p039.jpg、横415×縦318、下寄せ)]
「これ、行きましょうよ」
と、Y氏が持ってきたチラシには、
〈興福寺《こうふくじ》国宝特別公開2001〉
とあった。拝観者限定・拝観日指定の特別公開であるらしい。
「前回行って閉まっていた北円堂《ほくえんどう》が見られるんですよ」
とY氏は語気を強める。今年の春先に、私達が奈良を訪ねた時は、法隆寺の伝法堂と興福寺の北円堂が閉まっていてガッカリだったのだ。
「しかも、拝観料が二千円。この値段はハンパじゃありません。相当すごいものが見られるんじゃないかなあ」
さらに、この特別公開、前もって往復はがきで拝観申込みをしなくてはいけないのだ。この勿体振り方の奥には、確かに何かありそうだ。
「行きましょう、興福寺。何だか、凄そう」
私達は二〇〇一年初夏、興福寺の特別公開を目指したのであった。
二〇〇一年五月二十五日、興福寺から送り返された返信はがきを手に、私達は奈良に立っていた。
今回の特別公開は、北円堂と三重塔と中金堂《ちゆうこんどう》発掘現場である。この三か所でしめて拝観料二千円なのかと思えば、おまけに国宝館・東金堂拝観もついている。まるで今ならお得のテレビショッピングのように、おまけの大盤振舞である。
興福寺は近鉄奈良駅から歩いて三分。鹿と五重塔が有名な修学旅行のメッカである。
しかし私は、三十五歳を過ぎるまで興福寺を訪れたことがなかった。徳島育ちの私は、修学旅行先が東京だったのだ。だから明石家さんまが、
「フン、フン、フン、フン、鹿のフン」
と歌っていた時期に、まだ私は鹿のフンを見たことがなかったのである。
三十五歳を過ぎ、雑誌の取材で奈良を訪れた時、生まれて初めてみる野放しの鹿に驚いたものである。
しかし、驚いたのはそれだけではなかった。国宝館で見た阿修羅《あしゆら》像の美しさに私は息を呑んだのだ。
それ以来四、五回興福寺を訪れている。そのつど国宝館に足を運ぶのだが、ある時期、阿修羅より、同じ館内に展示されている千手観音の方に心を奪われていたことがある。やっぱり、ガラスケース内の百五十三センチの阿修羅より、像高五メートルを超える千手の方が迫力でしょう。
と思っていたら、今回、二〇〇一年奈良の旅で改めて阿修羅に惚れ直しました。この取材で、メキメキと目利き力の上がった(と思ってるのは本人だけだが)興福寺ベストワンは、巨大千手観音よりも、可憐な個性で仏像史上燦然と輝く〈興福寺・阿修羅とその仲間達〉であると気づいたのだ。
興福寺国宝館の、入り口から一番奥まった場所に〈阿修羅とその仲間達〉がいる。正式には将軍万福の手による八部衆と十大弟子なのだが。中央に阿修羅がいて、その左側に竹野内豊似の畢婆迦羅《ひつぱから》像、顔が鳥の頭である迦楼羅《かるら》像、そしてとっても可愛い私好みの美少年の沙羯羅《さから》像と並んでいる。阿修羅の右側には、十大弟子の須菩提《すぼだい》像、迦旃延《かせんえん》が並ぶ。この配列は時期によって変わるみたいで、数年前は八部全部そろっていたのを確かに見たと記憶する。
将軍万福の手によるこれら乾漆像の魅力は、やはり整った顔とリアルな表情にあると思う。阿修羅、沙羯羅に共通する、ちょっと困ったような悲しそうな苦しそうな表情が、見る人の心をとらえて離さないのだ。
[#(img\p043.jpg、横226×縦407)]
歴史度………★★★★
技巧度………★★★
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★★☆
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阿修羅像と同じ八部衆という群像に属する、734年に制作された脱活乾漆像。頭部から肩にかけ、蛇を巻きつける。仏だが、やや顎を上げ眉を寄せて、語りかけるような眼差しを送る表情は、人間の少年そのもの。
■像高………153・6cm
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ライティングによっては、阿修羅はすごく怒っているようにも見える。故夏目雅子に似ているとか、貴乃花に似ているとか、諸説乱れ飛ぶが、私としては故沖田浩之である。右脇面は確かに貴乃花に似ている。
興福寺で阿修羅とその仲間に出会う度に、
「何がそんなに苦しいの」
と、私は彼らに問いかける。あの苦し気な眉根がどうしても気になるのだ。美少年の苦し気な顔というのは私の潜在的サディズムを刺激する。苦しむ美少年って、ある種私のリビドーを揺さぶるのだ。ニコラス・ケイジの苦し(悲し)気な眉毛が私にとってセクシーなのと同じくらいに。
[#(img\p040.jpg、横273×縦409)]
歴史度………★★★★
技巧度………★★★★
芸術度………★★★★☆
サイモン度…★★★★★
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麻布を漆で塗り固め、内部を空洞化した脱活乾漆像。凛々しい少年の澄んだ目の奥に、憂いの色が見える。若い皮膚感と微妙な心理の表現は、柔らかい質感をもつ乾漆ならでは。八部衆の1体で、制作は奈良時代。
■像高………153・0cm
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私の個人的仏像論を述べると、なぜに人々は仏像に魅かれ、拝み、千年以上も守り続けてきたかというと、それがエロティックだったからだ。理屈を越えてリビドーに訴えてきたから。しかも、ポルノもAVも無修整インターネットも無い時代である。
「お寺に行って仏像見ると、何かドキドキしていいんだよね」
と、民は語り合ったはずだ。
おそらく、いくたびもの戦火で膨大な数の仏像が焼け落ちたはずだ。釈迦や弥勒が残っているのはわかる。御本尊が焼けたらバチが当たるから必死で運び出すだろう。けれど、阿修羅や沙羯羅といった宗教上大して重要でない像を、なぜ、人々は必死で守り続けてきたのだろうか。像自体が魅力的であったからに違いない。マニアが守り続けてきたのだ(乾膝像で持ち運びが楽だったというのもあろうが)。
国宝館内には、鎌倉時代の慶派の仏師・定慶《じようけい》作の金剛力士像もある。浮き出た血管、隆々たる筋肉。この写実的肉体表現に、どれほど心をときめかせた男女がいたことだろう。
京都の東寺《とうじ》(教王護国寺《きようおうごこくじ》)に、帝釈天が残っている。この像なんかは〈顔がハンサム〉というだけで生き残っている気がする。この帝釈天のおかげで女性信者が増えたのは間違いない。数年前、S社の取材でS井さんという若い女性編集者と東寺を訪れた時、
「この帝釈天を見て、今初めて、仏像の魅力に気づきました。あたしも仏教の勉強しようかしらん」
とまで、彼女は言った。恐るべし帝釈天。というか、わかり易すぎS井嬢。
男性信者は観音に官能を見出し、女性信者は天部衆にひそかに恋する。こうやって日本人の心の奥深く仏教は浸透していったのである。というのが、サイモン説。以上。
さて、このサイモン説を覆す存在が、高僧像達である。色気も何もありません。ただただリアルなじいさま達の像であります。
以前、石井師匠に、いったいどこまでが仏像なのですか、聖徳太子像も空也上人像も仏像なのですかと、私は質問したことがある。
「非常な高僧の像は仏像といってよいでしょう」
というのが、師匠のお言葉であった。
話がようやく本題に戻る。興福寺の特別公開である。北円堂である。ここには運慶作の無著《むじやく》・世親《せしん》の超リアル高僧像があるのだ。おそらく鎌倉時代、慶派の最高傑作なのではないだろうか。
じつは私は、無著・世親に関しては数年前に一度、東京の特別展示を見ているのだ。嬉々として北円堂の特別公開を申し込んだY氏には黙っていたけれど。
初めて無著像を見た時、私の身体には衝撃が走った。玉をはめこまれた両目は、小さく鋭く射るような視線を放ち、その堂々たる体躯(百九十四センチ)といい、意志の強さがこめられた口元といい、
「ああ、この人は偉い人なんだ」
というオーラが、ひしひしと伝わってきた。
そこには、柔和な官能で人を包み込む天平仏像の理想化された美は、ない。
[#(img\p041.jpg、横243×縦411)]
歴史度………★★☆
技巧度………★★★★
芸術度………★★★★★
サイモン度…★★★★★
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運慶の構想のもと、1212年に造立された木彫像。無著と世親は、法相宗の祖師として尊ばれているインドの兄弟僧。声が聞こえてきそうな迫真の肖像彫刻で、うるんだような水晶の目が、高い精神性を伝えている。
■像高………193・0cm
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運慶、快慶を始めとする慶派の仏師達の鎌倉リアリズムは、写実という手法で人の心に突き刺さってくる。
北円堂の本尊は、同じく運慶の手による弥勒仏坐像である。が、約束事の多い如来像よりも、実在の人間をモデルにした像の方が慶派の写実は生きる。
私は慶派の作品を、純粋に芸術作品として鑑賞している自分に気づく。その優れた立体表現と写実の技に驚嘆するのだ。
北円堂はその名のとおり、興福寺敷地内の北の端にあり、周囲に敷きつめられた芝生もよく手入れされていて〈大切に守られてきたのだなあ〉というのが、よくわかる。
もう一つの特別公開、三重塔は今にも壊れそうで、はらはらしてしまった。人数制限される意味がわかった。この塔内に納められた弁才天坐像は、ぷっくりしてプリミティブな感じがとても可愛らしいと思ったのだが、江戸時代初期のものだということで、国宝も重文もいただいてない。弁才天の周囲に置かれた十五体の童の人形も私はとても気に入ったが、他の入場者達は、ふんてな感じで気にも留めてなかった。彼らは内陣の板扉に描かれた小さなお釈迦様の絵ばかり目で追っていた。
[#(img\p044.jpg、横420×縦640)]
中金堂発掘現場に関しては、ああそうですかといった感じ。遺跡発掘ね。
でもまあ、北円堂と国宝館で二千円の価値はあり、でしょう。
特別公開の良い点は、お寺の関係者が一つ一つ丁寧に解説してくれる点であろう。関係者といっても、茶髪の兄ちゃんで、なぜ彼らがハンドマイク片手に仏教の歴史の解説をという疑問は残ったが、寺の関係者というよりは、東京ディズニーランドのアトラクション案内係のようであった。
この日は東寺の御影堂も特別公開していたので、奈良からとんぼ返りで京都の東寺へ向かう。
注目すべきは、国宝|兜跋毘沙門天《とばつびしやもんてん》立像である。唐時代の作とあるので、おそらく中国から渡ってきたものなのだろう。なるほど、その他の国産の仏像に囲まれ、一体異彩を放っている。ウルトラマンに出てくる異星人のようにも見える。関根勤似という説(サイモン説)もある。すらっとしていてプロポーションがいい。身につけている装飾品も何やら凝っている。足元を支える鬼たちもユニークだ。
しかも、毘沙門天の股間真下から、にょっきり女人が顔を出しているではないか。よく見るとこの女人が手で毘沙門天を支えている。今回の旅でのユニーク賞は、この兜跋毘沙門天である。
[#(img\p042.jpg、横247×縦406)]
歴史度………★★★★
技巧度………★★★★
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★
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地天の両手に乗り、鬼を従える「兜跋」という形の像で、かつては平安京の羅城門に安置されていた。唐時代制作の中国では珍しい桜材の木彫像。鎖編みの甲冑、海老の甲羅に似た篭手をつける西域風の姿が特徴。
■像高………189・4cm
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このあとせっかく東寺まで来たので、S井嬢お気に入りの帝釈天も拝むことにする。東寺はじつは、帝釈天など序の口で、名仏像の宝庫なのであるが、紙数が尽きたので以下次章へ。
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第5章
インド人もビックリ! 東寺、三十三間堂
[#(img\p050.jpg、横471×縦279、下寄せ)]
「生まれは葛飾柴又で、帝釈天で産湯をつかい……」
姓は車、名は寅次郎とくれば、ご存じ「フーテンの寅さん」である。
私は長年「タイシャクテン」と言えば、寅さんが産湯をつかった場所という認識しか持っていなかった。
ところが、ここ京都の東寺《とうじ》(教王護国寺《きようおうごこくじ》)で見る帝釈天は、日本一ハンサムな仏像としてゾウにまたがっているではないか。
「ああら帝釈天て、仏像のひとつだったのね」
と、私は遅まきながら気づいた。
福徳の神様である大黒|天《ヽ》、弁財|天《ヽ》などと並び、帝釈|天《ヽ》も民衆に拝まれてきた。(だから庶民派寅さんは帝釈天なのだ)が、元々天部はインド人である。インド神話の神様達が改心して釈迦の守り神となったのが天部《ヽヽ》なのだから、大黒様も、弁天様も、帝釈天もみーんなインド人なのだ。びっくり。
だから東寺の帝釈天がゾウに乗っているのも納得がゆく。間違いなくインドゾウであろう。同様に帝釈天がハンサムなのも頷ける。インド人なんだもの。
[#(img\p052.jpg、横228×縦353)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★
芸術度………★★★
サイモン度…★★★★
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梵天と一対で講堂の隅に安置される乾漆併用の木彫像。頭部などは後補で、平安初期の面影はないが、額に目をもち、象に座す姿は空海請来の図像に基づく。修理時に像内から、焼けた菩薩頭が見つかっている。
■像高………105・4cm
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東寺の講堂にはインド密教をルーツとする仏像が数多く納められている。これは東寺が弘法大師ゆかりの寺で、彼はインドで成立した密教を、中国経由で日本に輸入したからだ……。これ以上の歴史的解説はやめよう。ボロが出る。
ともかくも、密教系仏像なら東寺がイチバン、ということなのだ。
帝釈天と対を成しているのが、四羽のガチョウに乗った梵天《ぼんてん》像。梵天は器量では帝釈天に負ける。エリツィン似だと、私は思う。
大日如来を中心に据え、講堂内には菩薩、明王、四天王、天部らが二十一体置かれている。これが弘法大師の説く「立体曼荼羅」なのだとか。つまり、ポップアップ絵本のようなもの。娯楽の乏しい平安時代の民衆は東寺を訪れ、
「おお、飛び出す絵本じゃ」
と思ったに違いない。今にも動き出しそうな四天王達──目をむき口を開き高くかざした右腕は今にも剣を振り下ろしそうだ──これって胸ワクワクする絵本みたいじゃありませんか。しかも立体。
こんな場所になら、何時間いたって飽きない。
東寺の「立体曼荼羅」の配置だが、全員正面を向いている。まるで舞台に勢ぞろいした役者のように。それが又一層、演劇性を強めているように私には思える。大見得切ってる四天王達って、まるで歌舞伎役者のようだもの。
講堂を訪ねた参拝者は、そこに「物語」を読み取り、空想の中で大活劇を堪能したのだ。平安の昔から、ファイナルファンタジーに熱狂する平成の現代まで、民衆は冒険活劇が大好きなのだ。ストーリーを喚起する明王、四天王、天部衆がいなければ、仏教は果たしてここまで民衆の心にくいこんだであろうか。
明王も又、相当な迫力である。
明王とは、じつは如来なのだ。如来が怒り狂って民を救おうとしてくれてる姿が明王だったのだ。不動明王ってキレちゃった大日如来が変身した姿だったのだ。これまた驚いた。
仏様がいきなり鬼に変身するシーンに、日本人は案外、慣れている。大魔神も怒る前の顔は埴輪だし。
平成十三年夏場所、優勝決定戦で横綱貴乃花が武蔵丸を投げ飛ばし、小泉首相をして、
「感動したッ」
と言わしめたあのシーン。貴乃花が夜叉の顔に変身したと話題になったものだ。普段は仏のように柔和な顔立ちの貴乃花が一転夜叉に変身した一番は、まさしく日本人好みの神話となり得るのだ。
怒りの明王オンパレードの東寺講堂の中で、一段と異彩を放っているのが不動明王であろう。眉を吊りあげ歯をむき、剣を顔の前で構えている像の後ろで炎が燃えさかっている。何という劇画的表現。ゴーゴーという怒りの炎の音が聞こえてきそうだ。質素な衣服と緊張感の無い髪型が、いっそう〈恐い人〉感を盛り上げている。風呂上がりでガウンを着たヤクザの親分が、スーツを着こんだ親分より不気味な迫力を醸し出すのと同じ論理である。
[#(img\p053.jpg、横253×縦374)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★★
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★
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日本に現存する最古で最大の五大明王像の中尊。乾漆併用の木彫像で、空海が請来した曼荼羅をもとに、839年に完成した。オールバックの髪を結んで耳前に垂らし、両目を開け、上の歯と牙で下唇を噛むのが特徴。
■像高………173・3cm
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東寺で天部・明王を堪能した後、私達は同じく京都の三十三間堂(妙法院蓮華王院《みようほういんれんげおういん》)を目指す。一千一体の千手観音像はあまりに有名であるが、この観音様をお守りする二十八部衆こそが、慶派仏師の手による鎌倉リアリズムの秀作なのだ。
三十三間堂は、いつ行っても修学旅行生でごった返している。
「千体の仏の中に必ずあなたに似た顔があります。それを探してみましょう」
とは、必ず教師が生徒に言う言葉らしい。そうでも言わなければ中学生は仏に興味なんか示さないのだろう。
「〇〇ちゃんにチョー似てるのがあったー」
と、あちこちから女子中学生のはしゃぐ声が響く。仏像に興味を持たせるのも一苦労なのである。
という私だって、本尊の左右にある千体すべての仏の顔を確かめたわけではない。宝塚のフィナーレの舞台のように、同じ顔した一団に整然と並ばれても、すべてに注意を払うことはできない。
「宝塚と同じで、顔のいいのが前に並んでるぞ。後ろの方はひどいなあ」
とは、数年前私と三十三間堂を訪れた夫の言葉である。
やっぱり顔のいいのが前に来るのかしら。私は三十三間堂を訪ねるたびにそれを確認しようと思うのだが、後ろの方ともなると、目鼻もよくわからない。ただ、前列の仏像には作者名や番号が書かれた札が添えられているケースが多い。
千体の千手観音のうち、創建時の平安時代のものは百二十四体だけで、残り八百七十六体は鎌倉期に慶派の仏師達によって復興されたものだ。そう言われれば、素朴でまん丸いのから超リアルまで、仏様の顔もさまざまである。
[#(img\p056.jpg、横434×縦640)]
歴史度………★★★
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★★★
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千手観音坐像の左右に立つ等身の観音像群。1000体のうち、火災時に救出された124体以外は、鎌倉期の復興像。湛慶らの慶派と円派や院派仏師が制作した復興像は、作風に微妙な違いがある。
■像高………165・0〜168・5cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「サイモンさんはどの千手が気に入りましたあ?」
と、同行のY氏が私に尋ねる。
「あれかなあ」
私はひときわ端正に整った顔の仏像を指差す。五五〇号尊と、脇の立て札には記されていた。
ぼくはこっちかな、いやあっちかなと無邪気に別の千手を示すY氏は、その後、私サイモンの鋭き眼力におののくこととなるのだ。
「サ、サイモンさん。サイモンさんが言った五五〇号が、パンフレットに載っているっ」
それは、拝観者にもれなく配る三十三間堂のパンフレットであった。「国宝三十三間堂」と表紙に銘打たれたこのパンフには、観音堂や通し矢の説明に加え、仏像達の写真が添えられていた。国宝・風神像、国宝・大弁功徳天《だいべんくどくてん》像(これもとても美しい像だ)、そして私の選んだ五五〇号尊の三体だけがアップ写真で紙面の大きな面積を占めていたのだった。
「恐ろしい……」
私の眼力はここまで肥えてしまったのだ。寺関係者が認めた千体の中での最高の一体。それを瞬時に私は見つけたのだ。まるで砂場でダイヤモンドを見つけ出すかのような能力。
「サイモンさん、すごいっすねー」
と、感嘆するY氏。
最前列に並んでいて、湛慶《たんけい》作とあればタダ者じゃないことくらいわかるでしょう。で、たまたま私の一番近くにあった五五〇号を指差しただけなのに。ま、要するに確率なわけ。ハッタリきかすには確率で勝負に出るのが一番ということを、私は麻雀漫画「哲也」で学んでいたのだった。
五五〇号もそうだが、やはり私は慶派のリアリズムに強く心を引かれる。
雷神像は、下から強く風にあおられて髪を逆立たせ目を大きくむいて口をカッと開いている。まるで下界に向かって何か叫んでいるようだ。雷神が乗っかっている雲は渦巻き、衣のひだも波打っている。今にも動き出しそうな迫真のリアリズムである。背中にしょった太鼓を血管の浮き出た両腕で打ち続ける姿は、日本人の郷愁を誘うあの「カミナリ様」だ。
[#(img\p054.jpg、横253×縦400)]
技巧度………★★★★
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★☆
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
風神と一対で、千体千手観音に従っている木彫像。儀軌などの制約がないため、仏師は想像たくましく手指3本、足は2趾と鬼似の自然神を造った。躍動感のある筋肉はリアルで、鎌倉彫刻の面目躍如たるところ。
■像高………100・0cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
風神の方は、風の詰まった袋を肩にかけている。この袋の口を下に向け、下界に風を送るのだ。この風神の顔は、ナインティナインの岡村隆史によく似ている。
二十八部衆を、見れば見るほど、
「うまいなあ」
と、私はため息をついてしまう。
笛を吹く迦楼羅《かるら》王も岡村隆史顔である。流し目の大梵天王像は、橋本龍太郎だ(東寺での梵天はエリツィンだったのに。政界からの進出ということでは一致するが)。大弁功徳天像は優雅さにおいて比類を見ない。あとの天部衆は四角い顔が多い。フランキー堺かグッチ裕三に似ている。
そんな中で、異様とも思える二体が、摩和羅女《まわらによ》像と婆薮《ばすう》仙人像である。
摩和羅女像は、内館牧子さんのドラマ「昔の男」の中で、雨に濡れながら不倫の夫の帰りを待つ富田靖子に似ていたので、〈雨に濡れた富田靖子〉という仇名を我々はつけた。裏切った夫を執念深く追い続ける富田靖子と、信仰深いこの摩和羅女と、内側に熱のこもった迫力という点で合致している。
一方、婆薮仙人は、ボロボロの衣服にやせ衰えた老体。顔のしわも深く、目も落ち窪み、疲れ切った小泉総理のようだ。鼻も顎ひげもとんがっている。ここまでとんがらせなくても良いだろうというくらい、とんがっている。歯の欠け具合といい、白内障気味の玉眼といい、これほど老人をリアルに再現した木彫りの像は無いだろう。巻き物を手に、私達に何か話しかけようとしている仙人。
[#(img\p055.jpg、横195×縦375)]
歴史度………★★☆
技巧度………★★★★
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★☆
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千手観音に付き従う二十八部衆像の1体で、インド七仙の1人。変化に富んだ群像のなかでも、ひときわ異彩を放つ。別製の着脱可能な頭巾を被るなど、鎌倉彫刻らしい発想が見え、慶派一門の制作と考えられる。
■像高………154・5cm
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仙人はカスミを食べて生きていると言われるくらいつかみどころの無い雲のようなお方かと思っていたが、この三十三間堂の仙人は、ああ本当に何日も何も食べてなくて弱ってるのねと、声をかけたくなるようなリアルな老人なのだった。これが、慶派の容赦の無いリアリズムなのだ。
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第6章
ここに日本のミケランジェロが! 仏像のエロスを極めるのだ
[#(img\p061.jpg、横446×縦299、下寄せ)]
ローマとパリに行ってきた。
今回「ぶつぞう入門」で取り上げる仏師・|国中 連公麻呂《くになかのむらじきみまろ》が「天平のミケランジェロ」と呼ばれ、仏像・伎芸天《ぎげいてん》が「日本のヴィーナス」と呼ばれるがため、本場のミケランジェロとミロのヴィーナスをこの目で検証してきたいと言ったところ、オール讀物が航空券を用意してくれたのである。というのは真っ赤なウソである。
私は家族三人(夫・娘・息子)を連れて夏休みヨーロッパ観光パック・ツアーに行っただけなのだ。
カンツォーネに浸り、エスカルゴにむしゃぶりつきながらも、私はこの本のことを忘れたわけではない。
「Y氏はきっと今頃、イライラしながら私の原稿を待っていることだろう」
「ただの遊びのヨーロッパ・ツアーでないことを何とかY氏と石井師匠に証明せねば」
というわけで今回は、西洋美術と日本の仏教美術の比較・検証である。
ローマに着いて第一日目、私達はバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂とシスティナ礼拝堂を訪ねた。まさにキリスト教の総本山である。イタリアの法隆寺みたいなものか。
「おかあさんはねえ、近頃うんとたくさんの仏像を見て……。日本の仏教美術は奥が深いのよ」
と、私は大学生の娘に自慢した。
「キリスト教美術、恐るるに足らず。日本の仏像の美しさと技は、世界に誇れるものなのよ。ミケランジェロにだって負けてないから」
が、大聖堂内に足を踏み入れるや、
「キャーッ。すてきい── 」
娘が声を上げたのでは、ない。私がすてきいーと叫んだのである。
大理石による巨大聖人像の数々。ううむ。日本はやはり負けてるかも。いや、運慶・快慶のリアリズムで戦えば、互角の勝負だ。
神話の人物に混じって、偉大な司教達の死に姿の彫像が棺に横たわり、眠ったように目を閉じている。リアルだ。でも、唐招提寺《とうしようだいじ》の鑑真和上《がんじんわじよう》像の方が勝ってると私は思う。
それにしても、キリスト教寺院の中の彫像は、なぜみんなこんなにもなまめかしいのか。男はほぼ全裸で筋肉美を誇っているし、女は腰をくねらせ恍惚の表情を浮かべている。
日本でも、仏像は裸に近い。それは仏教がインドが本流で、インドは暑いから薄着なだけなのか。
ローマもギリシアも暑いから(エルサレムも暑いわ)、だからキリスト教系も裸なのか。
いや、違う。
と、私は思う。裸ってやっぱりインパクトあるもの。見ちゃうもの。引きつけられるもの。人間の肉体こそが美しいからルネッサンス期に裸体を礼讃したという説も、私に言わせると後づけである。
読み書きもできない、文化も芸術もわからぬ民衆を引きつけるには、裸体である。裸体と巨大さね。この二つに、民衆はびっくり仰天しちゃうのだ。
サン・ピエトロ大聖堂の屋根を飾る彫像は一体十メートルだそうだ。堂内の天使の像だって優に二メートルはある。二メートルで三頭身のあどけない天使って恐いでしょう。そう、私は恐かった。
日本人だって巨大な大仏様にびっくりだ。巨大な裸体。そして、東西の宗教美術を結ぶもう一つの共通項が、〈エロティシズム〉なのである。
キリスト教美術における聖女達はみな恍惚の表情を浮かべている。受胎を告知されたわ、イエス様に優しくされたわ、イエス様が天に召されたわ。そのたびに女達は恍惚となるのだ。
仏教美術では、さすがにそこまで露骨に官能の表情は見せないが、細い目で微笑む観音様の中には異様に色っぽいものがある。
たとえば薬師寺金堂の薬師三尊像。本尊の薬師如来の右と左に立つ日光《につこう》菩薩と月光《がつこう》菩薩は、日本を代表するブロンズ・エロス菩薩なのだ。じつは私はブロンズ像はあまり好きではないのだが、この日光・月光には参りました。腰のひねりとウエストのくびれに何とも言えぬ色香が漂うのだ。おへそもいい。サザンの歌う「胸さわぎの腰つき」とは、このような腰回りを指すのか。衣もシースルーと言っていい。足の形がくっきり浮き上がっている。そこもまた、エロス。
[#(img\p062.jpg、横241×縦413)]
歴史度………★★★★☆
技巧度………★★★★★
芸術度………★★★★★
サイモン度…★★★☆
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薬師如来坐像の両脇で、左右対称に腰を捻って立つブロンズ像。頭部と上半身、下半身の傾きを変えた動的な姿は、インド彫刻に始まる人体の理想を造形化したもので美しい。7世紀後半または8世紀前半の制作。
■像高………317・3cm
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私が去年薬師寺を訪ねた時は、塔も門も復興を終えたばかりとかで、朱・金・緑色でぎんぎらぎんだった。
システィナ礼拝堂も修復したばかりで原色ぎんぎんだった。
この見事な原色っぷりというのも、東西宗教美術の共通項であろう。ルーブル美術館で見かけた中世テンペラ画も、原色でてかてかしていた。
日光・月光菩薩といえば、東大寺|三月堂《さんがつどう》(法華堂《ほつけどう》)のものも有名である。薬師寺のブロンズに対し、こちらは塑像である。そしてこの作者こそが、天平のミケランジェロ・国中連公麻呂なのだ……と言われれば、日光菩薩はダビデ像に似てる。かなあ。どうだろう。私にはわからない。ただ非常に存在感があり、肉付けがリアルだけど美しい。顔は端正で気品にあふれている。ただならぬ才能であることは確かだ。
でも三月堂の日光・月光はエロスという面ではどうだろう。静謐な美しさは漂うが、ミケランジェロの表現する躍動的エロスには負けてるかも。
[#(img\p063.jpg、横217×縦415)]
歴史度………★★★★
技巧度………★★★★★
芸術度………★★★★★
サイモン度…★★★★
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三月堂本尊の左右に立つ、天平時代を代表する塑像。調和のとれた写実が、高い精神性を醸している。伝来不明の像で、本来は梵天と帝釈天だった可能性が高い。造立当初は切金を使用した華麗な彩色像だった。
■像高………204・8cm
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そこで私は、西洋宗教美術に対抗するお気に入りの仏像を推奨しよう。千本釈迦堂大報恩寺《せんぼんしやかどうだいほうおんじ》の定慶《じようけい》作・六観音菩薩像一体、准胝観音《じゆんていかんのん》である。鎌倉時代の慶派の仏像は写実的すぎてエロスに欠けるという意見もあるが、この准胝観音の十八本の手の動きのなまめかしさといったら、ない。じっと眺めていると、それだけでおかしくなりそうだ。という私はおかしいですか。同行のY氏は、同行したくせに、
「まったく、記憶にない仏像だ」
と、冷たい。
いいのだ。それでいいのだ。准胝観音はマイ・ベスト・エロティック観音だけど、人それぞれ好みがあって、キムタクが好きな女もいればトヨエツにしか感じない女もいるのだ。そういうことなのだ。
[#(img\p064.jpg、横248×縦395)]
歴史度………★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★
サイモン度…★★★★★★
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六観音像の一体で、18本の腕をもつ。1224年に、肥後別当定慶が制作した。生々しい像容と衣文の装飾的な表現は、中国・宋の影響を受けたもの。素木仕上げとするため、鎌倉期の優れた彫技がより際立っている。
■像高………175・7cm
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そんなY氏が絶讃したのが、秋篠寺《あきしのでら》の伎芸天である。
「忘れられない。最高じゃないっすかー」
と、いつも手ばなしで誉める。
私はそれほどじゃないのだけれど。
ただ、今回ルーブルでミロのヴィーナスを見た時、
「この腰は、伎芸天だ」
と、私は思い当たった。どっしりとして丸みを帯びているのだが、全身で眺めると非常にバランスがとれていて、尻のでかい女という印象はない。腰を少しひねってはいるが、いやらしくはない。柔和な女らしさが漂う感じだ。腰のひねりでは、薬師寺の日光・月光の方がいやらしい。
伎芸天とは聞き慣れない名前だが、学問や芸術の願いを叶えてくれる天女なのだそうだ。四、五年前雑誌の取材で初めて秋篠寺を訪れた時、女性誌の編集者が教えてくれた。
「芸術に携わる人間は、お参りするといいんですよ」
そうですか、へへーっと、私は賽銭をはずんだ記憶がある。その時の印象は、それまで見たどの仏像にも似てない個性的なオリジナリティのある仏像だなといったものである。東洋というよりも西っぽい。妙に心に残る一体だった。
[#(img\p065.jpg、横203×縦388)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★☆
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頭部は、奈良時代末〜平安初頭の脱活乾漆造。体部は鎌倉時代に補われた木造だが、頭部とよくなじんで違和感がない。憂いを帯びた表情は造立当初のままと考えられるが、尊名不詳で、音声菩薩との説もある。
■像高………205・6cm
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今回、この本の取材で再び秋篠寺を訪れた私とY氏である。
「サイモンさんも平成の白洲正子を目指すのなら、この学術の神様にお願いしなきゃあ」とY氏に言われ、そうか芸術だけではなく私は学問も磨かねばならないのかと、真摯な気持ちになった。
その時ふと、伎芸天の横に並ぶ小さな十二神将が目に入った。
「ウッチャン・ナンチャンに似てる」
本当にウッチャンとナンチャンがいたのである。しかも、彼らは陽気に「はっぱ隊」のポーズを取っているではないか。
「ヤッター、ヤッター、
ヤッター、ヤッター」
と、私の頭の中ではっぱ隊の音楽が鳴り響く。
白洲正子になるのではなかったのか。そのための伎芸天参りではなかったのか。そんな私の意志とは裏はらに、おどけた顔したナンチャンが、
「ヤッター、ヤッター」
と、私の頭の中で踊りまくっていたのである。
十二神将に関して言えば、このはっぱ隊のポーズを取っているケースが多いことに私は気づいた。はっぱ隊があれほどのヒットを放ったのは、日本人の心に根づく十二神将のポーズだったからではないだろうか。(両手でガッツポーズを決め、片足を交互に浮かせてリズムをとる。静止するのは非常に難しい)
十二神将は戦いの神様だ。四天王も明王も戦《いく》さ人である。ヨーロッパの神話でも女神のまわりを戦いの神様が固めている。
エロスと戦い。
古代から人々の心を強く魅きつけるのはこの二つなのだ。古今東西、物語の要素はこの二つに集約される。宗教はそれをうまく利用している。
だから女神(観音)はあくまで薄衣で丸みを帯びた女性らしい身体つきでなくてはならない。それとは好対照に、戦士たちは筋肉隆々で男性性を誇示しなければならないのだ。
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さらに今回新たな発見として、私は手の動きにエロスを感じ、Y氏は腰のあたりにそれを感じているらしい。そういえば、Y氏の心をかすりもしなかった准胝観音の腰のあたりは味も素っ気もない。何だかY氏の女の趣味がわかり始めた。
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第7章
奈良飛鳥の古寺を巡るのだ
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世の中に十二神将ファンは、多い。
S学館のタカギ氏は、弱冠二十代にして自宅に十二神将の間をこしらえたという。新薬師寺で購入したレプリカをずらりテーブルの上に並べているらしいのだが。
じつは私も、新薬師寺の売店でレプリカを見つけた時、買い占めたい衝動にかられたものだ。それ程までに魅力的な像である。
新薬師寺の十二神将は、日本人の心に宿る十二神将の原型と言ってよい。切手にもなってるし。国宝だし。
「十二体のうち一体だけ国宝じゃないのってかわいそうだよなあ」
国宝通のY氏が言う。波夷羅《はいら》大将(伝)だけ後で作り直されたから仕方ないのだ。薄暗いお堂の中でぐるり円陣を組む巨大な土造りの大将達は堂々とした量感で、私達を圧倒する。目玉ギョロリで口をぐわっと開いた伐折羅《ばさら》大将は、十二体の中でも一番ポピュラーである。髪型は、スーパーサイヤ人に変身した悟空と同じだ。
[#(img\p074.jpg、横243×縦397)]
歴史度………★★★★
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★★
サイモン度…★★★
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近くの寺から新薬師寺に移され、薬師如来像を護っている十二神将像の一体。迷企羅と呼ばれることもある。極彩色がほどこされた天平時代中期の塑像。黒曜石あるいはガラス玉をはめた眼が、きらりと光る。
■像高………162・9cm
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十二神将は、薬師如来に仕え、それぞれが七千人の部下を従えた武将なのだ。となると、薬師には八万四千の家来がいるのか。すごいね。お薬師様にすがると、八万四千の兵が助けにやって来てくれるのだ。S学館のタカギ氏、二十代の若さで相当な悩みを抱えているのかしら。
で、そのタカギ氏を水先案内人として奈良飛鳥の古寺を巡ることになった。S学館の女性ファッション誌の旅の頁で、私にグラビアモデルになってくれというのである。川原亜矢子ちゃんのスケジュールが取れなかったので急きょ私に白羽の矢が立ったの、というのはウソである。イラストの描ける仏像好きの人間を探していたらしい。だから今回の旅にはもう一人のイラストレーター安西水丸画伯も加わった。それといつものY氏。けれど、この旅に参加したことでY氏は、タカギ氏と安西画伯の前で一生の不覚を悔やむこととなる。
旅の一行はまず、女人高野とも呼ばれる室生寺《むろうじ》を目指す。近鉄の大和八木駅からさらに車で山の奥へ入ってゆく。かなり辺ぴだ。けれど、山道を分け入った奥に洗練された門前町が突如現れた。古くから室生寺の参拝者相手に栄えた街道沿いの老舗旅館のひとつは、土門拳も泊った宿である。雪の室生寺を撮るために何泊も粘ったという。なんて話を、おかみさんがエンエンと語り続ける。大なわとびの輪っかをエイッとくぐり抜けるようにして、おかみさんの長話から逃げ出した私達は太鼓橋の向こうの室生寺を目指す。
山の上に向かって続く石段が、いかにも古寺って感じだ。長い長い石段で、石段の上に何があるのか、途中の樹々に遮られてさっぱり見えない。天国への階段(byレッド・ツェッペリン)のようだ。上りきったところで、弥勒堂、金堂が現れる。
この金堂内の仏像が、とにかく素晴らしかった。本尊である釈迦如来を中心に五体並ぶ仏像の光背はどれも鮮やかな色彩を残している。中でも向かって左端の十一面観音は、少女のふくよかな面影を残した若々しい像だ。光背の朱と緑は幾何学的な紋様を成して華やかである。口元に残った紅もなまめかしい。ぽっちゃり型が好きな人にはたまらないだろう。下半身はちと固そうだが。胸板の厚さは田島寧子か中村真衣かといったところ。
[#(img\p075.jpg、横259×縦423)]
歴史度………★★★☆
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★
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平安貴族の女性を連想させる、ふっくらとした顔だちが優美な印象を与えるが、肩幅は広く、体躯にもしっかり厚みがある平安仏。一木造で量感があるが、衣文の彫りは細く浅く、全体的に穏やかな印象がある。
■像高………196・2cm
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さらに、金堂内で目を引いたのが、十二神将である。神将マニアのタカギ氏は、
「おお!」
と、声を上げる。一メートル足らずの十二体の武将達が、音も無く静かにけれど激しく、仏達の前で踊り狂っていたのである。この十二神将は、私の中で最高の十二神将かもしれない。振り上げた拳を打ち下ろすその一瞬をフリーズして小さな像に閉じこめている。この仏師、かなりの腕だ。私の好きな鎌倉リアリズム。今にも動き出しそうな像というのではない。動いている、踊っている、その映像を網膜を通して小脳に運び続ける映写コマのひとつを抜きとり、立体として再現したのだ。バランスのとれた美しい躍動は舞踊の型に近づく。静寂の中で武将達は踊り続ける。
[#(img\p076.jpg、横259×縦384)]
歴史度………★★
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★★
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金堂の前列で、12体がおもいおもいのポーズをとる。表情も豊かで、服装のバリエーションも豊富。鎌倉仏らしい技巧をこらした群像である。桧で造られた木彫像で、それぞれ十二支のひとつを頭上に頂いている。
■像高………100・0cm
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売っていれば、この十二神将のレプリカが欲しかったのだが、無かったので諦めた。いつか私もこの手で十二神将を彫ってみたいとつぶやくと、
「ボク、聖観音彫ろうとチャレンジしたけど、光背がロケット型になって挫折しました」
と、タカギ氏が言うではないか。あなどれない。
数年前の台風で倒れた大木に押しつぶされた五重塔は、ぴかぴかに再建されていた。深みのある山のグリーンの中では、かえってそのぴかぴかさが映えていた。美しい塔だった。
さて、その日の宿で事件は起こった。夕食の席で、Y氏が焼き鮎用のたで酢をイッキ飲みしたのである。竹筒に入っていたので食前酒と間違えたのだと彼はあわてて弁明した。長いつき合いである私は、ああいつものY氏だなと思ったのだが、その日初対面だったタカギ氏と安西画伯には強烈な印象を残したらしい。その後会うたびに、「たで酢のY氏」という不名誉な名称で呼ばれるようになった。この汚名を払拭するには、天つゆイッキ飲みしかないだろうと私は思う。のちに仏像と関係のないエピソードは書かないで下さいとY氏にクギを刺される。
次の日、牡丹で有名な長谷寺《はせでら》へ行く。ここの屋根付きの登廊は、エンエン二百メートルも続き、異空間へ迷い込んだみたいだ。石段を踏みしめてる間中、長谷寺の案内テープの声が登廊内に響いていた。ここには、日本最大、十メートルの十一面観音がある。確かに、大きい。けれど長谷寺は、仏像を見るというよりはむしろたたずまいを味わう寺だろう。
次を急ぐ。
聖林寺《しようりんじ》には美しい十一面観音があるという。それを拝みにゆく。
聖林寺は山の中腹に小ぢんまりと建っていた。私達以外に参拝客もいない。ご住職とその奥さん、住職の母上とおぼしき婦人の三名でひっそりと寺を守っていた。
作務衣姿のご住職が、寺の由来と飛鳥の蛇姫伝説の話を聞かせて下さる。ここでもグラビア用の写真を撮るため、住職の許可を得ようとすると、
「えっ、撮影ですか」
と、彼は顔をこわばらせた。ああ撮影は無理なのかと一同落胆しかかったその時、
「私は撮らんで下さい。病気でやせてしまって……恥ずかしい」
と、頬を赤らめ作務衣の袖で顔を隠したのである。お茶目な住職であった。
さて、その住職に案内されて、いよいよ十一面観音の納められているお堂へと向かう。国宝は劣化破損を防ぐために空調の効いた頑丈な部屋に置くよう、 国から言われているのだそうだ。
「ああっ……」
私達は息を呑んだ。それはそれは美しい観音様であった。
二メートルを越える長身。肉付きはリアルだがバランスがとれている。背後から眺めると、間違いなく女性の背中である。女人の立ち姿だ。息をしてそこに立っているといっても良いくらい、人間の立ち姿を研究し尽くして再現している。背を少し丸め心もちお腹を突き出しているところもリアルだ。うまい。うますぎる。指の一本、爪の先まで緊張感を失わずに美を追究している。お顔は江夏豊似と言えなくもないが、 慈愛をこめて今目を細めた瞬間の表情である。
[#(img\p077.jpg、横210×縦402)]
歴史度………★★★★
技巧度………★★★★
芸術度………★★★★☆
サイモン度…★★★★★
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大神神社の神宮寺から、明治の廃仏毀釈の際に聖林寺に移された木心乾漆像。抑揚のある衣や柔らかい手の表現に、乾漆の持味が生かされている。優雅さと風格を兼ね備えた、天平時代後期を代表する像のひとつ。
■像高………209・0cm
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その美しさに私は言葉を失い、しばし像の前で坐りこんでしまったのだった。
日本一でしょう。今のところ、日本一美しい十一面観音である。私にとって。
安西画伯も「天上に流れてゆくように美しい」と感嘆する。タカギ氏はこの観音の巨大ポスターを購入して、十二神将のバックに張るのだと言う。私は絵葉書で我慢する。
観音を見終わって退散しようとする私達に、
「スイカでも食べてって」
と、住職一家が引き留める。娘さんも孫を連れて里帰りしている。
「ドラマ、見てますよ」
と、スイカを頬ばる私に住職の奥さんが声をかけてきた。
いえ、ドラマは私がつくってるわけではなく、ただ単に原作者という立場で、と私は弁明するのだが、
「色紙お願いします」
と、差し出された。スイカもごちそうになり、美しい観音様を拝ませてもらったので喜んで、私はマンガのキャラクターを色紙に描いた。
「困ったな。ぼく、キャラクターってないんだよね」
そう言って安西画伯は、スイカの絵を描いた。奥のお堂で、日本一美しい観音様はこの光景をどのようにご覧になっていたのだろう。
グラビア隊は、さらに飛鳥寺《あすかでら》、岡寺《おかでら》へと古寺を訪ねてゆく。Y氏は途中で東京に戻った。もう少し同行すれば、サイフを忘れたと大騒ぎして車をUターンさせ石段をかけ上って寺に戻りやっぱり無いと大慌てで車中に駆けこんだら座席の足元に落ちているのを発見して胸を撫で下ろすタカギ氏の姿を見ることができたのに。そうすれば、たで酢攻撃に応戦できたのに。
飛鳥寺の飛鳥大仏はナイスだった。なぜか飛鳥寺の門には大きく、
「日本最初飛鳥寺」
と書かれた表札がかかっていた。最古の方がぴんとくると思うのだが。
[#(img\p078.jpg、横427×縦640)]
歴史度………★★★★★
技巧度………★★
芸術度………★★
サイモン度…★★
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日本最初の本格的寺院、飛鳥寺の中金堂本尊として609年頃造られた。止利仏師作と伝えられるブロンズ像で、もとは釈迦三尊像だったと推定される。火災で大破したため、顔の上半分と右手の一部にだけ当初部分を残している。
■像高………275・2cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
飛鳥大仏も日本最初なのだ。日本で最初に作られた仏像なのだ。その頃、飛鳥寺の庭では、中大兄皇子と藤原鎌足が蹴鞠を蹴っていたという。本当に気の遠くなる程昔の話だ。この庭での出会いがなかったら、大化の改新もあったかどうだか。六四五年。|ムジコ《六四五》の日無し大化の改新。
日本最初の飛鳥大仏は、火事で焼けただれたものを、何とか再現しようとして継ぎはぎだらけになっている。その稚拙な細工が、かえって温かみのある大仏様の風情をかもし出している。水田と蓮池が広がる中に、のんびりと日本最初の飛鳥寺は建っていたのだった。
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第8章
鎌倉大仏と晴れた秋の空
[#(img\p083.jpg、横447×縦291、下寄せ)]
今回は、鎌倉である。
一一九二《イイクニ》つくろう、鎌倉幕府。鎌倉と言えば、鎌倉大仏に鳩サブレー。そして、私の大好きな慶派の仏師達が腕を競った時代である(はずだ)。
「でも、意外と少ないんですよねえ、鎌倉には慶派のいい仏像が」
と、いつものY氏。
「どうしてでしょうねえ。都に出稼ぎに行ってて、首都をお留守にしてたのかしら、慶派」
と答える無知な私。
じつは、この夏「慶派」という専門書を読破する予定だったのだが、案の定、夏休みの宿題をサボってしまった。で、急いで運慶に関する文献で豆知識を仕入れる。すると、わかった。慶派のボス運慶は元々奈良仏師の息子なのだ。そして、一一八〇年の南都炎上(東大寺や興福寺が焼けた、大仏も燃えた大事件。犯人は平重衡)に衝撃を受け、寺院と仏像復興のため、都で仏像をつくり続けたのである。幕府所在地は、慶派の活躍の場ではなかったのだ。
それでも、運慶は北条時政らの依頼を受け、三十代に二度東国へ来ている。でも、その程度。東国で運慶作と認められる仏像は本当に少ないのである。
それでも、今回たまたま鎌倉国宝館で「北条氏ゆかりの文化財──時頼・時宗から高時まで──」展を見ることができた。
いや、なかなかのものであった。中でも傑作は、北条時頼坐像である。玉をはめこまれた目といい確かな肉付きといい、顔面は超リアルであるにもかかわらず、首から下は大胆なまでに省略、デフォルメされている。これは、北条長時坐像にも言える特徴だが、そのため現代彫刻ともとれる斬新な印象を受けるのだ。時頼像の袴は風船のように膨んでいる。
もっともこういった武士俗体肖像彫刻は、厳密な意味での仏像では、ない。ただ、時頼像は建長寺の開基像として伝来してるそうなので、まあ大目に見て欲しい。
[#(img\p085.jpg、横261×縦398)]
歴史度………★★
技巧度………★★★
芸術度………★★★
サイモン度…★★★★
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
俗人の肖像彫刻の代表作で、建長寺を開いた鎌倉幕府第5代執権像とされている。制作は、13世紀後半。木彫ならではの、線を強調した強装束の幾何学的な表現とは対比的に、面相を極めて写実的に作るのが特徴。
■像高………68・9cm
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
この展示では、蘭渓道隆《らんけいどうりゆう》、無学祖元《むがくそげん》、夢窓疎石《むそうそせき》といった日本史でおなじみの高僧達の肖像彫刻がズラリ並び、圧巻であった。
仏像彫刻では西に負けるが、肖像彫刻は東も負けてはいない。リアルだ。うまい。美しい。
けれど仏像彫刻に関しては、
「やっぱり西に負けてるなあ」
という思いを深めた今回の鎌倉の旅であった。
日本三大仏の一つ、高徳院の鎌倉大仏を見ても、
「えっ。こんなものでしたっけ」
と、呆気無い感じ。
鼻がモーニング娘。のゴマキと同じだ。顎が短かすぎる。与謝野晶子は「美男におはす」と詠んだが、私は「顔丸すぎ」と思ってしまった。
二十円を払うと胎内に入ることができる。
「えっ。これでおわり」
と思ったが、何かを期待する方がバチ当たりというもの。ありがたさを味わえばよいのである。でも、がらんどうの内部を見せられると逆にありがたみが薄れはしないか?
それでも、大仏様はよく晴れた秋の青い空にとてもよく映えて、すがすがしい気分を味わえた。昔の武士達も大仏を見上げては、すがすがしく士気を高めたことであろう(本当か?)。
[#(img\p084.jpg、横277×縦374)]
歴史度………★★
技巧度………★★★
芸術度………★★★
サイモン度…★★★☆
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
力強い衣文は慶派風で、切れ長の目と太く長い鼻、極端な猫背は中国・宋代風。写実と宋の新様が融合されたブロンズの阿弥陀如来像で、13世紀に制作された。15世紀に大仏殿が倒壊して以来、露座となっている。
■像高………1138・7cm
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高徳院の売店でブロンズ製の大仏のレプリカを発見する。ちょっと心が動くが、七万円の値段に、諦める。それにあんな重いものどうやって持って帰るのか。
次に、浄光明寺《じようこうみようじ》へ向かう。鎌倉の駅から住宅街を奥へ奥へと分け入ってゆく。いかにも文豪が住んでそうな古い邸宅が並ぶ。和服姿のお妾さんが奥の座敷に坐ってそうな木造家屋が、うっそうとした木立ちの奥に見える。男のロマンでしょう、鎌倉の別邸に妾を住まわせるのって。女のロマンは美少年を白金台に住まわせる事なんだけどね。ムシが多そうで私は鎌倉には住みたくないわなどと勝手な思いを巡らせてるうちに、浄光明寺に到着する。
後ろに山がせまっていて、私達が訪れるとそれまで庭を掃いていた住職が本堂まで案内してくれた。私達が目指す本尊は本堂ではなくコンクリート製の収蔵庫にあった。この阿弥陀如来坐像は、宝冠をかぶっているのと土紋装飾が特徴である。土紋装飾とは文字通り、土で作った文様を衣部分に貼りつけたものである。創作時には金の泥で、それは金ぴかで美しかったであろうが今や剥げ落ち、何だかヘビの皮のようにも見える。
「ニコラス・ケイジの背広のようですね」
とY氏は言うが、ニコラス・ケイジだっていつもヘビ柄のスーツを着てるわけではない。まあ、世界一ヘビ柄スーツの似合う男だとは思うが。そして日本一ヘビ柄が似合うのが、ここ浄光明寺の阿弥陀如来であろう。
[#(img\p086.jpg、横250×縦410)]
歴史度………★★
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★
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着衣に、粘土を盛り上げて文様を表す土紋という鎌倉地方特有の技法が施された木彫像。端正な顔だちや長い爪に、宋代仏画の影響が見られる。阿弥陀三尊像の中尊で、制作は1299年。宝冠は本来のものではない。
■像高………141・4cm
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阿弥陀の両脇侍、観音菩薩坐像と勢至《せいし》菩薩坐像は、高く結い上げた髪やうつむき加減の首に、秋篠寺の伎芸天が重なる。これらはいわゆる宋風なのだそうだ。
次に、東慶寺《とうけいじ》を目指す。ここの水月観音は前日までに拝観予約しておかなければいけない。写真で見知っていた水月観音は、楊貴妃のようだったが、実物は思ったより小さく、
「えーっ、これが仏像?」
と、私の仏像観を揺さぶる一体であった。
わずか三十四センチの像高。足を崩してソファでくつろいでいるかのポーズ。装飾的な冠といい、何だか殿方の到着を心待ちにしてる御婦人のようだ。いいのか、こんなに色っぽくて。今にも人差し指を内側に曲げて、
「カモーン」
と言い出しそうである。
ありがたさよりも官能美の方が勝っている。私はこの像に「くつろぎすぎ大賞」をあげよう。
[#(img\p087.jpg、横255×縦411)]
歴史度………★★
技巧度………★★☆
芸術度………★★☆
サイモン度…★★★
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水に映った月を見ている観音の姿を表している。宋代の絵画を手本に鎌倉時代末期に制作された木彫像で、岩に寄り掛かり左足を下げてゆったりと座る姿は、仏像というより人間の女性に近い。三十三観音の一つ。
■像高………33・8cm
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東慶寺は古く駆け込み寺として知られている。寺には当時の資料も数多く残っていて、それらによると夫の不貞、深酒、暴力がせつせつと訴えられている。男のする悪さは、昔も今も変わらない。
寺の裏の墓地で、小林秀雄の墓を見つける。土まんじゅうのようなシャレた墓だった。さすが小林秀雄だ。文藝春秋元社長佐佐木茂索の墓もあるらしいのだが、Y氏は、
「まあ、いいでしょう」
と、手を合わせることなく立ち去る。
それにしても、とても美しいお寺だった。これぞ古都鎌倉って感じ。北鎌倉の別邸に妾を囲ったのち東慶寺の墓地に葬られるのが正しい鎌倉人という気がする。小林秀雄、文春社長の他、鈴木大拙、西田幾多郎、和辻哲郎といった文化人の墓がずらりそろっている。でも、あんな色っぽい観音様が境内にまつられていたら、死んでからも気がそぞろなんじゃないの。
さあ、ぼちぼち日も暮れかかる。ということで、本日の最終目的地|覚園寺《かくおんじ》に向かう。
覚園寺の拝観は時間指定制で、一日五回、住職が寺を案内してくれる。その定刻までは門が開かないので、希望者は蚊に刺されながら外で待っていなければならない。そう、異様に蚊が多かったのだ。季節のせいか。はたまた鎌倉という場所のせいか。またたく間に四、五か所刺されてしまう。
私達以外は、オバちゃんグループばかりである。三、四人ずつの数グループ。みんなキャッキャッはしゃいでいる。
このオバちゃんグループ、ひとたび住職の説明が始まるや、ウンウンうなずき集団となる。ホーウ、とか、マアッといった感嘆の合いの手も加わる。合いの手が入ると住職の話は一層熱を帯びる。話がのびると、ますます蚊に刺される時間も多くなる。といったわけで、オバちゃん軍団と蚊の軍団に悩まされた覚園寺でした。
薬師堂の中に、本尊の薬師如来坐像、その両脇に日光、月光両菩薩がある。本尊は巨大だ。衣の袖の垂れ下がりっぷりが宋風だ。日光菩薩は重要文化財らしいのだが、何かどうもしっくりこない。顔が劇画チックなのだ。川崎のぼる風美女。星飛雄馬の姉であり花形満の妻でもある明子さんに似ている。この時代の日本においては、異様にバタ臭い顔なのではないか。室町時代に、こんなバタ臭い顔の女性がいたのだろうか。造形的にも立体感に欠ける。私の好きな慶派とは大きく異なる作風だ。
月光菩薩の後背には、上半身人間で下半身鳥の天女(?)の像があった。住職に尋ねると、仏教説話に登場する伝説の生き物なのだそうだ。詳しい事は、忘れた。
[#(img\p088.jpg、横423×縦640)]
これら三体の両側に十二神将が並ぶ。が、暗くてよくわからない。
寺のパンフレットはないわ、土産の絵葉書もないわ、堂内は暗いわ、蚊は多いわ、商売っ気の全くない覚園寺である。
その分たっぷり、住職の話を聞くことができます。
中でも、三回忌、七回忌、三十三回忌の由来を聞いて納得した。もう忘れたけど。
でも、サイの川原の話は覚えている。なぜ、サイの川原で子供達は石を積むのか。死んだ子供は、親を悲しませるという大罪を犯したから。親が現世で嘆き悲しんでるうちは、子供が積み上げた石を鬼が壊しにやって来る。親が泣くのを止めた時、ようやく子供の霊は三途の川を渡ってあの世に行けるのだと。いい話ではないか。
ところが、Y氏はこの話を全く覚えてなかった。蚊に刺されながらも立ったまま眠っていたのではないか。
「その代わり、曼珠沙華の球根は昔の人の非常食だったという話は覚えてますよ」
とにかく内容充実、濃い密度の僧侶のお話だった。
そんなに広くもない境内を一周するのに一時間もかかってしまった。
ようやく終了し、帰ろうとするが、
「あのー、すみませんが写真撮って下さい」
と、オバちゃんの一人に声をかけられた。さては人気漫画家と私の正体がバレたかと思ったら、オバちゃんグループの記念写真のシャッター係として頼まれただけだった。
駅前で豊島屋の鳩サブレーを買い、私の日帰り鎌倉旅は無事終了したのだった。
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第9章
若き運慶の傑作に恋をしたのだ
[#(img\p094.jpg、横427×縦294、下寄せ)]
京都、奈良のお寺を訪ね歩くと、あることに気づく。
「なーんか、阿弥陀様って多くない?」
そう。やたら御本尊は阿弥陀様という寺が多いのだ。仏教といえば釈迦如来なはずなのに、御本尊がおシャカ様って、意外と少ない。
「どうしてでしょうねえ」
と私は、Y氏に尋ねた。
「えっ。阿弥陀と釈迦って、どちらが偉いんでしたっけ。で、ミロクとかって仏像もいたけど、どういう位置関係なの?」
「そんなこと……。私にもわからないッ」
思えば二〇〇〇年秋、清水寺の秘仏御開帳以来一年余、このY氏と日本全国仏像の旅を続けているのに、二人ともまだ仏教の基本の基本すらわかっていない。
そこで、今回はひとまず基礎知識をおさらいしておくことにしよう。
とりあえず、釈迦。紀元前六世紀にインドに生まれた王子が修行の後に仏陀となった。これが、釈迦。
その釈迦を出現させた宇宙の真理が毘盧舎那《びるしやな》仏。よって、釈迦は毘盧舎那の分身とされている。大日如来とも言う。
釈迦が亡くなって五十六億七千万年後に現れるのが弥勒《みろく》菩薩。
釈迦は過去仏(亡くなったから)、弥勒は未来仏(まだ現れてない)、それに加えて、現在仏がいるらしい。現在、我々は娑婆《しやば》世界に住んでる。が、娑婆以外に同時存在する世界があるのだと。その代表が西方極楽浄土であり、そこに阿弥陀如来がいるのだ(ちなみに東方の浄瑠璃世界には薬師如来がいる)。
と、大乗仏教の教えに基づき、ようやくここまでたどり着きました。
つまり、今私達の居るこの世界の西の空の彼方に阿弥陀様もじつは今現在いるらしい。そこはホントに極楽でね。生きてるうちにいいことしておくと、死んだら極楽浄土に連れてってもらえるのさ。──そう言えば確かに、私も亡くなった祖母からいつもこんな話を聞かされていた。
仏教に無関心な若者も、
「ナムアミダブツ」
くらいは知ってる。これって、南無阿弥陀仏であるわけで。
つまり、日本人の心に今もこんなに滲みついている阿弥陀様なのだ。この阿弥陀人気のルーツを探ると、平安時代の浄土教信仰にたどり着く。
「どんなに貧乏でも悪人でも南無阿弥陀仏と唱えれば、死んでから必ず極楽浄土に行ける」という教えに、貴人も庶民も飛びついたのである。
鎌倉時代に入って、法然(浄土宗)やら親鸞(浄土真宗)やらがさらに布教活動を広めたので、日本中に阿弥陀信仰が浸透していった。
以上のことをかいつまんで説明すると、
「サ、サイモンさん、すごいじゃないですか。よくそこまで勉強しましたね」
と、Y氏が感嘆した。
私は瓜生中氏著の「仏像がよくわかる本」(PHP文庫)の数頁を要約しただけなのだが。
「そこまで阿弥陀信仰を勉強したのなら、今回は阿弥陀仏を探る旅にしましょう」
と提案するや、Y氏はさっそくのぞみ号の切符を手配した。寺の朝は、早い。そして夕方の門じまいも早い。というわけで、夜のうちの関西入りである。
早朝、平等院|鳳凰堂《ほうおうどう》に到着する。鳳凰堂は元々は阿弥陀堂で、当然阿弥陀仏が奉られている。
十円硬貨でお馴染みのあの、鳥が羽を広げたような美しいお堂である。元は藤原道長の別荘であったという。なるほど、裳階《もこし》を支える柱が、
「あらら、ちょっと細すぎやしない」
と思えるくらい繊細な造りとなっている。貴族好みの優美さなのだろう。でも、あんな細さで屋根が支えられるのかしらと私は不安に思う。十円玉で見るより、きゃしゃだった。
一方、お堂の中の阿弥陀仏は、きゃしゃどころか、堂々たる威厳を放って、ゆったりと腰を下ろしていらっしゃった。
「サイモンさんの好きな慶派のルーツと言われる|定 朝《じようちよう》の作ですよ」
Y氏が私に声をかける。
[#(img\p096.jpg、横255×縦403)]
歴史度………★★★
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★★
サイモン度…★★
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1053年に完成をみた、現存唯一の定朝作丈六像。寄木技法の完成は、この像によって語られる。誇張のない肉体表現、穏やかな表情など、突出したところのない調和のとれた美は、定朝様式として一世を風靡した。
■像高………278・8cm
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Y氏はこの阿弥陀をとても気に入ったみたいだ。おそらく、日本人の多くがイメージする〈仏像〉って、この定朝作の阿弥陀像だろうと思う。私が、
「仏像が好きなんです」
というと、大体の人は、
「えっ」
と、驚く。驚きながら、この丸顔の定朝風阿弥陀が頭の中に浮かび、サイモンさんてあんな顔のどこが好きなのかしらと疑問のキャプションがついているに違いない。
違う。仏像イコール〈定朝阿弥陀〉ではないのだ。その度に私は心の中で叫ぶ。
私が鳳凰堂でつまらなさそうに阿弥陀を見上げているのに気づいたY氏が、
「あんまり良くないですか」
と、私に聞く。私が若乃花に似てると答えると、いやそれはちょっと違うと反駁された。
確かにバランスのとれた美しい像だとは思う。表情も穏やかで衣文の曲線もなめらかに流れている。けれども今ひとつ、サイモンの心に訴えてこない。それよりも私は仏の頭上の天蓋の見事な細工に心を奪われる。薄い桧の板に表と裏から沙羅の花を彫ってあるとガイドのお姉さんが説明してくれた。
阿弥陀の後背も凄い。雲に乗った仏様が楽器を奏でている。この雲に乗った菩薩達はお堂の壁面に五十二体も飾られていた。今は、これらの半数近くが鳳凰堂横の鳳翔館に移されている。鳳翔館は二〇〇一年三月にオープンしたばかりで、超近代的な現代アートのような建物だった。
雲中供養菩薩というのが正式な名称らしい。お堂の中では、頭上のはるか上の方を、下から見上げなければならなかったのが、鳳翔館ではガラスケースの中の雲に乗った菩薩像を、目の高さで間近に見ることができる。
四十センチほどの小さな像で、各々楽器や宝物を携え、あるいは踊っていたり、祈っていたり、で、じつに楽しそうである。ここが極楽浄土なのだろう。中でも有名なのが[北25号]と呼ばれる像である。上半身と下半身が、〈あり得ない〉ポーズをとっている(あったとしても相当無理だ)が、涼しい顔をしている。猪首だがウエストは細い。浮遊感はうまく表現されている。これらの雲中の像達は可愛らしいのだが、〈あり得ない〉腕の付き方や関節の折れ曲がり方が私は気になってしまう。[北26号]は太鼓をたたいているが、太鼓の置かれてる位置が腰よりうんと下の方で、それではたたけないだろうと思ってしまう。
[#(img\p097.jpg、横257×縦373)]
歴史度………★★★
技巧度………★★★
芸術度………★★★☆
サイモン度…★★★
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阿弥陀如来を讃える群像で、鳳凰堂内部の壁に本尊を囲むように懸けられていた。僧形5躯以外はすべて菩薩形で、丸彫りや浮彫り風など技法はさまざま。50躯以上が現存するが、数はまだ多かったと考えられる。
■像高………40・0〜87・0cm
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定朝つながりで、法界寺《ほうかいじ》の阿弥陀像も見にゆく。鳳凰堂のものとよく似ているが、こちらの方が顔は幼ない。口を開けて眠っている幼児の顔に見えた。
[#(img\p098.jpg、横267×縦414)]
歴史度………★★★
技巧度………★★★
芸術度………★★★
サイモン度…★
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5体の丈六阿弥陀像があったという法界寺に残る、定朝様の1体。平等院像を忠実に模しているが、目鼻は小ぶりで全体に繊細で柔らかく、寄木技法もさらに経済的となっている。制作は11世紀末〜12世紀初め。
■像高………227・0cm
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さらなる阿弥陀を求めて、我々は浄瑠璃寺《じようるりじ》を訪ねる。ここには、国宝「九体阿弥陀如来像」があるのだ。文字通り九体の黄金の阿弥陀仏がずらり並んでいて圧巻だ。でも良く見ると、顔の表情が一体一体異なっている。中にはやる気の無さそうな顔もある。
この浄瑠璃寺の本堂では、期間限定で吉祥天女像も公開される。私達が訪れた時はちょうど秋の限定期間中だった。まるでマックの月見バーガーのようだ。
私が吉祥天女を見るのは、これで二度目である。色白でふくよかなお顔だ。胴まわりも厚く丸みがある。その一方、指先は細く伸びていて、太った女の指ではない、美女の指先だった。それにしても白い。こんなに肌の白い仏像は他にいないんじゃないかと思う。秘仏として保存されてきたので、衣の色も鮮やかに残っている。官能的な美女であった。
[#(img\p099.jpg、横232×縦397)]
歴史度………★★☆
技巧度………★★★
芸術度………★★★
サイモン度…★★★☆
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唐の貴婦人のような盛装に包まれた体躯は、ふくよか。天平美人の面影と、藤原好みの絵画的な美、宋風彫刻の影響や写実性と、さまざまな要素をもった木彫像で、鎌倉時代初期、1212年の制作とされている。
■像高………90・0cm
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浄瑠璃寺から車で柳生方面へ向かう途中に円成寺《えんじようじ》がある。ここには、
「サイモンさんはきっと好みですよ」
と、石井師匠が私に勧めてくれた運慶作の大日如来像があるのだ。
「運慶若き日の傑作らしいッすよ」
と、円成寺へ向かう車中でY氏が私にガイドブックを差し出した。
剥げ落ちた金箔の下の黒漆が浮き出ていて、あまり有難みを感じない。金色の化粧を施した黒人少年のように見えた。が、それはそのガイドブックの写真がよくなかったからであった。
実物の大日如来を目にして、私は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
このように若々しく、はつらつと、生気に満ちた仏様を今まで見たことがあっただろうか。
写真では気になった金と黒のコントラストも、実物では全く気にならない。
野心に燃える、若者の自信に満ちたエネルギーが伝わってくるではないか。身体も美しい。リアルだけど、美しい。これぞ、慶派。さすが運慶、まさに私のツボ。恋に落ちたといってもいい。
[#(img\p100.jpg、横422×縦640)]
歴史度………★★★
技巧度………★★★☆
芸術度………★★★★☆
サイモン度…★★★★★
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運慶が二十代半ば頃に制作した木彫像。11カ月余をかけて1176年に完成した。穏やかな平安風だが、いきいきと引き締まった体躯の表現に鎌倉新様式の発露が見える。台座に仏師自身が銘を入れた初例。
■像高………98・8cm
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貴族好みの|定 朝様《じようちようよう》がもてはやされ、定朝の様式を受け継いだ院派・円派の仏師達は、おだやかでゆったりとした優しい仏像を作り続けた。それがニーズだったからだ。やる気の無さそうな、おっとりした阿弥陀像が大量生産されたのは、そういう時代背景があったからだ。
そんな中で、奈良仏師の一派だけが主流から取り残された。貴族好みのゆったりとした阿弥陀を彫り続けることに疑問を感じたのも、この奈良仏師達である。
その仏師の一人が、運慶の父康慶なのだ。
売れるからといって、定朝というお手本をなぞっただけの仏像を彫り続けることに異議を唱えたのが、慶派だ。そして運慶二十代の傑作「円成寺大日如来坐像」はその所信表明であったのだ。
なぜ私が定朝様の阿弥陀に心を動かされないのかよくわかった。運慶が好きだからなのだ。貴族趣味より、リアリズムを愛するからなのだ。
運慶の大日如来と出会い、この「ぶつぞう入門」もいよいよクライマックスかもしれない。
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お 寺 案 内
京都
清水寺
京都市東山区清水1丁目
075−551−1234
JR京都駅より市バスで五条坂(206番)か京都バス東山五条(18番)下車、徒歩15分程。
北法相宗総本山、音羽山。坂上田村麻呂が、798年(延暦17)に金色の十一面千手観音像を安置したことに始まる。平安時代には観音霊場として広い信仰を集め、奈良・興福寺に属す真言・法相の両宗を兼ねた寺だった。興福寺と比叡山延暦寺の争いの舞台となったことで、伽藍はたびたび焼失。現在の堂塔は、1629年(寛永6)の大火後に徳川家光が再建したものがほとんどで、仏像も室町〜江戸時代の作が多い。舞台造の本堂(国宝)に安置される本尊の十一面千手観音立像は、33年に1度開扉される秘仏で、2000年に開扉された。1965年(昭和40)に法相宗から独立。北法相宗を開き、現在に至っている。
広隆寺
京都市右京区太秦蜂岡町32
075−861−1461
京福嵐山線太秦駅下車。または市バスで、右京区総合庁舎前か太秦広隆寺前下車。
真言宗御室派、蜂岡山。渡来系豪族の秦河勝が、聖徳太子より仏像を賜り、603年(推古11)に創建したとされる京都最古の寺院で、古くは蜂岡寺、葛野寺(かどのでら)などと呼ばれていた。創建時の諸堂はすべて失われたが、飛鳥〜鎌倉時代の国宝6件・重文28件を含む多数の仏像を有している。著名な宝冠弥勒・泣き弥勒の2体の弥勒菩薩半跏像をはじめ、巨大な不空羂索観音立像と千手観音立像、長勢作の十二神将立像(いずれも国宝)など、新霊宝殿には約50体の像が安置されている。珍しい天部形の薬師如来立像(重文)は平安前期の作で、11月22日のみ開扉される秘仏。講堂には、9世紀後半の阿弥陀如来坐像(国宝)がまつられている。
清凉寺
京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
075−861−0343
JR嵯峨嵐山駅より徒歩13分、京福嵐山駅より徒歩17分。または、市バス・京都バスで嵯峨釈迦堂前下車。
浄土宗、五台山。源融の別荘に建てられた棲霞寺の境内に、東大寺の僧「然(ちょうねん)が中国・宋から請来した釈迦如来立像をまつる釈迦堂を、11世紀初めに建立したことに始まる。嵯峨の釈迦堂と通称される。インド伝来の像を模刻した本尊・釈迦如来立像(国宝)は、本堂に安置され、毎月8日の開扉。旧棲霞寺の本尊であった9世紀の阿弥陀三尊像(国宝)、平安後期の兜跋毘沙門天立像(重文)などは、霊宝館で拝観できる。霊宝館の公開は、4〜5月・10〜11月の年2回で、年によって日にちが異なるので確認が必要。
東寺(教王護国寺)
京都市南区九条町1
075−691−3325
近鉄京都線東寺駅下車、徒歩5分。京都駅より市バスで、東寺南門前・東寺東門前・九条大宮下車。
東寺真言宗総本山、八幡山。正式名称は、教王護国寺。796年(延暦15)に、羅生門の東西に建立された官寺の一つで、西寺とともに創建された。823年(弘仁14)、嵯峨天皇が唐から帰国した空海に下賜。以後、真言密教の根本道場となった。立体曼荼羅の世界が展開する講堂ほか、兜跋毘沙門天立像(国宝)、9世紀の僧形八幡神坐像(国宝)や千手観音菩薩立像(重文)などの仏像ほか多くの寺宝は、宝物館で見ることができる。宝物館の公開は、3月20日〜5月25日・9月20日〜11月25日の年2回。なお、御影堂の不動明王坐像(国宝)は、絶対の秘仏。京都のシンボルとなっている五重塔をはじめ、国宝5件・重文9件を数える建築も見どころ。毎月21日は弘法市で、境内は早朝から賑わう。
妙法院蓮華王院(三十三間堂)
京都市東山区三十三間堂廻り町657
075−561−0467
JR京都駅より市バスで、三十三間堂前下車。
天台宗。1164年(長寛2)、後白河上皇の勅願により建立された蓮華王院が、三十三間堂のこと。1001体の千手観音像をまつったお堂は、1249年(建長1)の大火で焼失。現在の三十三間堂(国宝)は1266年(文永3)の再建で、火災の際に救出された156体の千手観音像と二十八部衆像(国宝)、湛慶らが総力をあげて復興した千手観音像を安置している。中央の丈六千手観音坐像が国宝で、他の観音像は重文。一時期は方広寺の山内寺院だったが、江戸時代に妙法院の管理となり、今日に至っている。
大報恩寺(千本釈迦堂)
京都市上京区五辻通六軒町西入ル溝前町1305
075−461−5973
JR京都駅より市バスで上七軒か千本上立売下車、徒歩3分。
真言宗智山派、瑞応山。通称を千本釈迦堂。1221年(承久3)、義空が小堂を建てて釈迦如来像と十大弟子像を安置したのが始まりとされる。最初は倶舎・天台・真言の兼学だったが、のちに天台宗となり、江戸時代に真言宗に改宗した。1227年(安貞1)に建立された本堂(国宝)にまつられているのは、快慶の弟子・行快作の釈迦如来坐像(重文)。快慶作の十大弟子立像、定慶一門作の六観音菩薩立像、創建より古い平安時代後期の千手観音立像(いずれも重文)などは、霊宝殿に安置されている。
平等院
京都府宇治市宇治蓮華116
0774−21−2861
京阪宇治線宇治駅下車、徒歩7分。または、JR宇治駅より徒歩8分。
単立、朝日山。藤原道長の別荘を、その子頼道が1052年(永承7)に寺院に改め創建した。末法に入ったという1053年(天喜1)に建立された阿弥陀堂は、後世になり鳳凰堂(国宝)と呼ばれるようになった。阿字池に影を落とす鳳凰堂、本尊の定朝作阿弥陀如来坐像、堂内壁面を飾る雲中供養菩薩像、壁画・扉絵などはすべて国宝。浄土庭園は、史跡名勝に指定されている。かつての宝物館は、2001年(平成13)に平等院ミュージアム「鳳翔館」としてリニューアルし、雲中供養菩薩像や平安時代の十一面観音菩薩立像(重文)などは、ここで間近に見ることができるようになった。
法界寺
京都市伏見区日野西大道町19
075−571−0024
京阪六地蔵駅より京阪バスで日野薬師下車。
真言宗醍醐派、東光山。1051年(永承6)、日野資業が別荘に薬師堂を建立し、薬師如来像を安置したのが始まりと伝えられる。この像は、最澄作の胎内仏をおさめているという秘仏・薬師如来立像(重文)で、日野薬師として信仰を集めているが、秘仏で拝観できない。定朝様の阿弥陀如来坐像(国宝)をまつる阿弥陀堂は、鎌倉時代の建築で国宝。堂内内陣は、飛天を描いた壁画(重文)で荘厳され、極楽浄土の世界が現出されている。
浄瑠璃寺
京都府相楽郡加茂町西小札場40
0774−76−2390
JR・近鉄奈良駅よりバスで浄瑠璃寺前下車。または、JR関西本線加茂駅よりバス。バスの本数が少ないので、タクシーの場合は奈良駅より約20分。
真言律宗、小田原山。当尾の里にある、浄土式庭園(特別名勝・史跡)の広がる美しい寺。1047年(永承2)、義明が創建した西小田原寺を前身とする。平安時代の阿弥陀如来坐像(国宝)9体が横一列に並ぶお堂は、現存唯一の九体阿弥陀堂(国宝)で、1107年(嘉承2)の建立。同堂内の秘仏・吉祥天立像(重文)は、1月1日〜15日・3月21日〜5月20日・10月1日〜11月30日に開扉される。華麗な彩色を残す平安時代後期の四天王立像(国宝)、鎌倉時代の不動明王二童子立像(重文)も安置されている。阿弥陀堂の対岸に、池を挟んで建つ三重塔(国宝)には、平安時代の旧本尊・薬師如来坐像(重文)を安置。毎月8日・1月1〜3日・春秋彼岸の中日の晴れた日に限り、拝観できる。馬酔木など、四季折々の花が楽しめる寺としても有名。
奈良
法隆寺
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1−1
0745−75−2555
JR法隆寺駅より徒歩20分。またはバスで法隆寺門前下車。聖徳宗総本山。聖徳太子が、父・用命天皇の病気平癒の遺願を継いで、607年(推古15)に創建。斑鳩寺とも呼ばれた。『日本書紀』によると、670年(天智9)に伽藍が全焼。その後、現在の法隆寺式と呼ばれる伽藍が建立されたと考えられている。世界に誇る木造建築の金堂(国宝)をはじめ、建造物のほとんどは指定文化財。所蔵する仏像・絵画・工芸品も、極めて多い。各宗派を兼学する学問寺だったが、明治期に法相宗として独立。1950年(昭和25)に聖徳宗を開き、現在に至っている。金堂には、飛鳥時代の釈迦三尊像や四天王立像、見えにくいが平安時代の毘沙門天立像と吉祥天立像(いずれも国宝)をまつる。五重塔(国宝)の4面には、奈良時代の塔本塑像(国宝)があり、仏教説話の場面がパノラマのように構成されている。奈良時代の夢違観音や百済観音立像、唐時代の九面観音(いずれも国宝)などの仏像は、大宝蔵殿の安置。夢殿に安置されている救世観音立像(国宝)は、毎年春と秋に開扉される。その他の諸堂にも仏像が安置されるが通常は非公開で、日を限って公開されている。
中宮寺
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1−1−2
0745−75−2106
JR法隆寺駅よりバスで中宮寺下車、徒歩5分。
聖徳宗、法興山。聖徳太子の母である穴穂部間人皇后の没後、その宮を寺に改めたと伝えられる。斑鳩尼寺、中宮尼寺などとも呼ばれた聖徳太子建立の七大寺の一つで、四天王寺式の伽藍をもつ寺であったことが発掘調査で判明した。古拙の微笑みが著名な菩薩半跏像(国宝)を、本堂に安置。聖徳太子の没後まもなく制作された天寿国繍帳(国宝)を有することでも知られている。
東大寺
奈良県雑司町406−1
0742−22−5511
奈良駅よりバスで大仏殿春日大社前下車。
華厳宗総本山。741年(天平13)に国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられ、大和国金光明寺に昇格した金鐘寺を前身とする。743年(天平15)、聖武天皇が大仏造立の詔を発し、2年後に大仏の造営地が平城京の東に変更。現在地に、大仏を中心とする大規模な伽藍の造営が開始され、東大寺成立の契機となった。盛大な大仏開眼会が営まれたのは、752年(天平勝宝4)。その後、堂塔が相次ぎ建立され七堂伽藍が整った。1180年(治承4)の南都焼き討ち、16世紀に兵火で大打撃を受けたが、苦難のなかで復興され、現在に至っている。国分寺であったことから、天下泰平などを祈願する道場で、同時に仏教教理を研究する役割も担っており、最初は6宗、平安以降は8宗兼学の学問寺だった。華厳宗を名乗る現在も、その伝統は健在。お水取りなどの仏教儀礼を伝える寺としても知られている。仏像は、大仏殿と南大門、法華堂(三月堂)、三昧堂(四月堂)、戒壇堂で拝観できる。
法華堂(三月堂)は、不空羂索観音立像をはじめとする天平仏の宝庫で、伝日光・月光菩薩立像、執金剛神立像などいずれも国宝。執金剛神立像は秘仏で、毎年12月16日のみ開扉される。戒壇堂の四天王立像(国宝)も、天平塑像の代表作。四月堂では、平安時代の千手観音立像(重文)などが拝観できる。その他、初代別当を務めた良弁僧正坐像(国宝、12月16日開扉)、鎌倉復興に尽力した重源上人坐像(国宝、7月5日・12月16日開扉)などは、安置される各堂で日にちを限って開扉されている。
興福寺
奈良市登大路町48
0742−22−7755
近鉄奈良駅より徒歩10分。
法相宗大本山。藤原鎌足のために建てられた、山階寺を前身とする藤原氏の氏寺。同寺は飛鳥に移されて厩坂寺(うまやさかでら)となり、710年(和銅3)の平城遷都とともに藤原不比等が現在地に移し、寺名を興福寺と改めた。平安時代にかけて隆盛を極めたが、1180年(治承4)の南都焼き討ちで伽藍をほぼ全焼。復興はすみやかに進み、三重塔(国宝)などが再建され、仏像造立には運慶一門が力を振るった。国宝館には、戦火を免れた奈良時代の八部衆立像や十大弟子立像、山田寺から移された白鳳時代の仏頭(いずれも国宝)、鎌倉時代に復興された諸像が立ち並ぶ。弥勒仏坐像と無著・世親菩薩立像(いずれも国宝)は北円堂(国宝)に安置され、毎年春と秋に公開される。
新薬師寺
奈良市高畑福井町1352
0742−22−3736
近鉄奈良駅よりバスで新薬師寺道口(破石(わりいし))下車、徒歩12分。
華厳宗。747年(天平19)、聖武天皇の病気平癒を祈願するために、光明皇后が建立したと伝えられる。官大寺として栄えたが、伽藍の焼失・復興を繰り返し、天平の遺構は現本堂(国宝)のみとなっている。本尊の薬師如来坐像(国宝)は、切れ味鋭い彫りが見られる8世紀の木彫像。その周囲を、近くの岩淵寺から移されたという塑像の十二神将像(国宝)が取り囲む。
秋篠寺
奈良市秋篠町757
0742−45−4600
近鉄大和西大寺駅よりバスで秋篠寺下車。西大寺駅より徒歩20分。
単立。780年(宝亀11)、光仁天皇の勅願により創建。もとは法相宗だったが、のちに真言密教の道場として隆盛。現在は、法相・真言を兼学する単立寺院となっている。本尊は、鎌倉〜室町期の木彫薬師如来立像(重文)。伎芸天立像、梵天立像(いずれも重文)などもすべて、鎌倉時代建立の本堂(国宝)にまつられている。大元(たいげん)堂には、2メートルを超える鎌倉時代後期の木彫像、大元師明王立像が秘仏として安置され、毎年6月6日に開扉される。
薬師寺
奈良市西ノ京町457
0744−33−6001
近鉄西ノ京駅より徒歩3分。
法相宗大本山。天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願い、680年(天武9)に寺の建立を発願したのを創建とする。寺は天皇の没後に藤原京に建立され、平城遷都にともない、718年(養老2)に現在地に移された。東西2塔や金堂、講堂などを有する薬師寺式伽藍を誇っていたが、たび重なる火災で伽藍は焼失。往時の建造物は、東塔(国宝)を残すのみとなったが、昭和に入って金堂や西塔などが再建され、現在も白鳳伽藍復興事業が続けられている。金堂に薬師三尊像(国宝)、鎌倉時代に再建された東院堂(国宝)に聖観音立像(国宝)を安置。講堂には、興味深いもう一つの薬師三尊像(重文)をまつるが、現在講堂は復元工事中で、拝観できない。なお、奈良時代の吉祥天画像(国宝)は、正月と秋に特別公開される。
飛鳥寺(安居院)
奈良県高市郡明日香村飛鳥682
0744−54−2126
近鉄橿原神宮前駅よりバスで、飛鳥大仏前下車。
真言宗豊山派、鳥方(形?)山。仏教が日本に伝来した50年後の588年(崇峻1)、蘇我馬子によって創建された日本初の本格的寺院。百済からの渡来人によって建立された1塔3金堂という特異な伽藍で、法起寺、元興寺とも称された。平安遷都で、都に元興寺が建てられた後も本元興寺として栄えたが、中世以降は衰退。江戸期にできた安居院が法統を伝え、今日に至っている。飛鳥大仏と呼ばれる釈迦如来坐像(重文)は、止利仏師作とされ、609年(推古17)に造立された丈六の金銅仏にあたると推定されている。
当麻寺
奈良県北葛城郡当麻町当麻1263
0745−48−2001(中之坊)
近鉄南大阪線当麻駅より徒歩15分。
真言宗および浄土宗。正しくは、當麻寺と書く。二上山麓の竹之内街道沿いに建つ古刹。聖徳太子の弟である麻呂子親王が河内に建てた寺を、その孫当麻国見が681年(天武10)に現在地に移したと寺伝は伝える。弥勒仏を本尊とする大寺で、当地の豪族当麻氏の氏寺だったとされる。伽藍の東西には、奈良時代の塔(国宝)が建ち、古代の姿を残している。現在の本尊は当麻曼荼羅(国宝)で、平安時代の本堂(国宝)にまつられている。白鳳時代の弥勒仏坐像(国宝)と四天王立像(重文)は、金堂(重文)の安置。講堂(重文)では、12世紀後半の阿弥陀如来坐像(重文)など、平安〜鎌倉期の像が拝観できる。奥院は、14世紀に知恩院の誓阿が建立したもので、浄土宗の大和本山。真言宗に浄土宗寺院が加わり、現在に至っている。5月14日の練供養、桜と牡丹の美しい寺としても著名。
室生寺
奈良県宇陀郡室生村室生
0745−93−2003
近鉄大阪線室生口大野駅よりバスで室生寺前下車。
真言宗室生寺派大本山、宀一山(べんいちさん)。2000年に修復が終わったばかりの優美な五重塔、平安初期の金堂、鎌倉期の灌頂堂(いずれも国宝)などが立ち並ぶ山岳寺院。8世紀末に、興福寺僧の賢m(けんきょう)が創建した。7世紀に、役小角が創建したとも伝えられる。空海によって真言密教の三大道場の一つとして再興され、女人禁制の高野山に対し、早くから女性に開放されて「女人高野」と呼ばれた。長く興福寺の支配下にあり法相宗だったが、江戸期に興福寺から独立。真言宗豊山派に属していたが、1964年(昭和39)に真言宗室生寺派を立宗した。平安初期木彫像の宝庫で、金堂には伝釈迦如来立像、十一面観音立像などがひしめきあっている。弥勒堂には奈良〜平安時代の弥勒菩薩立像(重文)と翻波式衣文の美しい釈迦如来坐像(国宝)、灌頂堂には如意輪観音坐像(重文)と、多くの古仏を有している。
聖林寺
奈良県桜井市大字下692
0744−43−0005
近鉄大阪線桜井駅よりバスで聖林寺前下車、徒歩5分。
真言宗室生寺派? 藤原鎌足の子・定慧が、8世紀に創建したと伝えられる。本尊は、石造の地蔵菩薩像で、江戸元禄期の造立。安産と子育てに霊験あらたかとされ、多くの参拝者を集めている。8世紀後半の木心乾漆造、十一面観音立像(国宝)は、明治の神仏分離の際に、大神神社の神宮寺だった大御輪寺から移されたもので、収蔵庫に安置されている。
円成寺
奈良市忍辱山町1273
0742−93−0353
近鉄奈良駅よりバスで忍辱山円成寺前下車。
真言宗御室派、忍辱山(にんにくせん)。756年(天平勝宝8)の開創と伝えられる古刹で、12世紀に真言宗寺院として隆盛した。15世紀に兵火で焼失したが復興され、江戸時代には大寺として知られた。明治以後は衰退を余儀なくされたが、室町時代の本堂(重文)や楼門(重文)浄土式庭園(名勝)など、閑静な境内に歴史を伝える建造物を残している。本尊は、平安時代後期の阿弥陀如来坐像(重文)。運慶作の大日如来坐像は、1990年(平成2)に新たに建立された多宝塔にまつられている。鎮守社の春日堂・白山堂は、鎌倉時代の建立。現存する日本最古の春日造社殿で、国宝に指定されている。
大阪
葛井寺
大阪府藤井寺市藤井町1−16−21
0729−38−0005
近鉄南大阪線藤井寺駅下車、徒歩5分。
真言宗御室派、紫雲山。聖武天皇の勅願寺として725年(神亀2)に開創と伝えられるが、百済系渡来人の葛井氏が8世紀中期に創建との説もある。天平時代後期の本尊・十一面千手観音坐像(国宝)は、毎月18日の開扉。両脇には、10〜11世紀の聖観音菩薩立像と地蔵菩薩立像がまつられている。平安時代後期、西国三十三所第5番札所となって栄え、多くの参詣者を集めるようになった。
野中寺
大阪府羽曳野市野々上5−9−24
0729−53−2248
近鉄南大阪線藤井寺駅よりバスで、野々上下車。
高野山真言宗、青竜山。聖徳太子の命により、蘇我馬子が開いたと伝えられる古刹。太子ゆかりの河内三太子の3カ寺うちの一つで、「中の太子」とも呼ばれている。かつては大規模な寺院だったが、南北朝の争乱で伽藍は全焼。17世紀に入り、律宗の流れをくむ戒律道場として復興された。明治期に、高野山真言宗となり現在に至る。本尊の薬師如来像は、秘仏。666年(斉明5)銘の弥勒菩薩半跏像(重文)は庫裏に安置され、毎月18日に開扉されている。地蔵堂では、鎌倉時代初期の地蔵菩薩立像(重文)が拝観できる。
道明寺
大阪府藤井寺市道明寺1−14−31
0729−55−0133
近鉄南大阪線道明寺駅下車、徒歩5分。
真言宗御室派、蓮土山。推古天皇の代に、豪族の土師連八島(はじのむらじやしま)が創建したと伝えられる。四天王寺式の伽藍を誇っていた大寺で、土師寺と称していた。代々尼寺で、菅原道真の叔母・覚寿尼も住持。道真没後には天満宮が造営され、寺名も道真の号をとって道明寺と改称された。明治の神仏分離で天満宮と分かれ、現在地に移転。道明寺天満宮は、梅の名所として知られている。平安時代初期の本尊・十一面観音立像(国宝)、鎌倉時代の聖徳太子立像(重文)は、毎月18・25日に開扉される。
観心寺
大阪府河内長野市寺元475
0721−62−2134
南海高野線・近鉄長野線の河内長野駅よりバスで、観心寺下車。
高野山真言宗、檜尾山。701年(大宝1)に役小角が開き、初めは雲心寺と呼ばれていたという。808年(大同3)に空海が訪れ、境内に北斗七星を勧請。その後まもなく、観心寺と寺名が改められた。国宝の金堂内にまつられる秘仏本尊の如意輪観音坐像(国宝)は、毎年4月17・18日に開扉される。ほかに、本尊の前立ちとして造立された如意輪観音坐像、地蔵菩薩立像や十一面観音立像(いずれも重文)など、平安初期の木彫像などを数多く有しており、それらは霊宝館で拝観できる。霊宝館はいつでも拝観できるが、12月15日〜2月15日のみ予約が必要。
鎌倉
高徳院(鎌倉大仏)
神奈川県鎌倉市長谷4−2−28
0467−22−0703
浄土宗、大異山。正式名称は、大異山清浄泉寺。創建や開基については詳らかでなく、鎌倉大仏と称される阿弥陀如来坐像(国宝)造立の詳しい経緯も史料を欠いている。江戸時代に増上寺の祐天が中興し、浄土宗とした。大仏のある場所が、清浄泉寺という真言宗寺院の寺地だったため、その子院である高桐院が大仏の管理にあたっている。大仏殿は、室町時代に津波によって倒壊したと伝えられ、江戸期に復興が計画されるが再建されることはなく、露座のまま今日に至っている。
鎌倉国宝館
神奈川県鎌倉市雪ノ下2−1−1
0467−22−0753
JR横須賀線鎌倉駅より徒歩15分。
鶴岡八幡宮境内にあり、鎌倉周辺の社寺の文化財を収蔵・展示する施設。年に約4回の特別展を開催している。午前9時〜午後4時開館、毎週月曜・展示替え期間・年末年始は休館。
浄光明寺
神奈川県鎌倉市山ノ内1367
0467−22−1663
JR横須賀線北鎌倉駅より徒歩5分。
真言宗泉涌寺派、泉谷山。北条長時と時頼が、1251年(建長3)に創建。鎌倉御所の祈願所として栄えていたが、御所が廃されて以後は荒廃。江戸期に復興された堂宇も失われたが、1299年(正安1)造立の阿弥陀三尊像(重文)を伝えている。阿弥陀三尊像(重文)と、南北朝時代の地蔵菩薩立像は収蔵庫に安置され、木・土・日・祝日と、4月の鎌倉まつり期間に公開されている。雨天拝観不可。
東慶寺
神奈川県鎌倉市扇ケ谷2−12−1
0467−22−1359
JR横須賀線鎌倉駅より徒歩15分。
臨済宗円覚寺派、松岡山。駆け込み寺、縁切り寺として知られる円覚寺の門外塔頭。1285年(弘安8)に、北条貞時により創建された。開山は、貞時の母・覚山尼。以降は代々名門出身の息女が住職を務め、室町時代には尼寺五山の一つに数えられる格式の高い寺院で、明治期までは尼寺だった。鎌倉時代後期の聖観音立像(重文)、室町時代の水月観音坐像を有する。水月観音像の拝観には、事前に申し込みが必要だが、4月の鎌倉まつりの期間中は、聖観音立像を安置する松岡宝蔵で公開される。(鎌倉まつり情報は要確認)
覚園寺
神奈川県鎌倉市二階堂421
0467−22−1195
JR横須賀線鎌倉駅よりバスで大塔宮下車、徒歩10分。
真言宗泉涌寺派、鷲峰山(じゅぶざん)。1218年(建保6)に北条義時が建立した大倉薬師堂を、北条貞時が寺に改めた。薬師堂に、薬師三尊像(重文)、十二神将立像、不動明王坐像などが安置されている。いずれも鎌倉〜室町時代の作。黒地蔵と呼ばれる地蔵菩薩立像(重文)は、8月10日の縁日のみ拝観できる(要確認)。拝観は1日数回(要確認)の時間制で、案内人が付き添い説明をしながら境内を案内してくれる。他の時間、および雨天は拝観不可。
本書は「オール讀物」二〇〇一年五月号より二〇〇〇二年九月号まで連載された作品に加筆・再構成したものです。単行本のデジタル化にあたり、上下二巻としました。