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とっても、愛《アイ》ブーム
柴門ふみ
目 次
宝 塚
カラオケ
スピッツ&ウルフルズ
草ガメ
ダイエット
古き良き日本映画
不倫ドラマ
『バスキア』
イタリア料理
昼 寝
恐い物
「砂の城」
大富豪のプレイボーイ
北野 武
「浦安鉄筋家族」
『ベント』
ダンベル・ダイエツト
アイデア商品
「甘い結婚」
心理テスト
ボキャ天
ミスター・ビーン
『タイタニック』
男子高校生
家族ドラマ
山崎まさよし
『恋愛小説家』
夢の話
『ムトゥ 踊るマハラジャ』
「北の国から」
乗客ウォッチング
『スライディング・ドア』
ディズ二ーランド・LA
ユニヴァーサル・スタジオ LA
役所広司
CSチャンネル
マリス・ミゼル
クイック・マッサージ
ゆ ず
男性アナ
クイズ番組
香港物欲の旅
ホラー
お見合い番組
『フル・モンティ』
『リング2』『死国』
ニコラス・ケイジ
だんご3兄弟
旅に出てあれこれ考えてみる
スーパー歌舞伎《かぶき》
KinKi Kids
夢日記
あとがき
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宝 塚[#「宝 塚」はゴシック体]
私は仕事中テレビをつけっ放しにしている。絵を描く仕事は、音楽やテレビの音が流れていてもオッケーなのだ。というよりむしろ、これらがないと、つらい。一日何時間も細かい線を描き続ける根気というものは、デビュー直後数年で使いはたしてしまった。
毎日、午前十時から仕事にとりかかる私は、午後二時頃から集中力が切れ始める。この時間以降は、歌を歌ったり、アシスタントと雑談したりして気を取り直し、何とか終業の五時までを乗り切る。
お昼をとった後の、午後の気だるい魔の刻《とき》。ワイドショーが目のさめるようなニュースを取り上げてくれればよいのだが、似たような芸能人スキャンダルばかりでは、眠気に拍車がかかるだけだ。
そこで私は思い切って、ケーブルテレビを仕事場に引くことにした。加入料月々八千円程度なので思い切るほどでもないのだが。
効果は抜群だった。
幸いなことに、私がケーブルテレビを入れた週に、宝塚名作シリーズがNHK衛星で始まったのだ。しかも、毎日午後一時からの放映である。
眠気など吹っ飛びましたよ。
挙句に、舞台のジェンヌに合わせて、
「愛〜それはとおとくぅ〜〜」
と、私も歌い出すのだった。
林真理子さんがオペラにはまったという理由がよくわかった。なるほど、腹の底から声を張り上げるというのは、こんなに気持ちのいいことなのか。
宝塚の舞台の特徴は、素のセリフがほとんどなく、「あら〜何もこんな言葉までメロディにのせなくても」と思うようなものまで節を持っている。たとえば、
「その頃ヨーロッパでは、三つの大国が争っていた」
というト書きのようなものですら、
「そのころぉっ、ヨーロッパではぁっ、みーっつのたいこくが、たいこくが、あらそっていたあ〜〜っ」
といった風に歌われるのだ。
あまりにも宝塚中継を熱心に見すぎた私は、一時期、どんな会話にも節をつけずにはいられなくなった。そして、一度それにはまると、何とも気持ちいいのだ。歌(それも腹式呼吸で張り上げるやつ)は、人間の味わえる最も手軽で最も深い快楽かもしれない。
宝塚は、言わずとしれた、女性ばかりの歌劇団である。日本の古典から現代洋物まで幅広い題目をこなすのだが、「JFK」「ブラック・ジャック」のタイトルを発見した時は、さすがに驚いた。
「ブラック・ジャック」って主人公は男で、おまけに漫画ではないか。しかし、こんなことで驚くうちは、真の宝塚ファンとは言えない。実際、NHK衛星で見た宝塚版「ブラック・ジャック」は、その昔加山雄三が演じたテレビ版「ブラック・ジャック」より、ずっと「ブラック・ジャック」だった。
それより何より、宝塚を骨の髄まで堪能したいのなら、男役に恋することである。
たいていの舞台には、ふたつのタイプの男役が登場する。ひとつは、優等生的な二枚目。そしてもうひとつは、ちょっとヤクザな崩れた男。このふたつのタイプの対比が、宝塚鑑賞のポイントである。
私はもちろん、ヤクザ系の男役にぞっこんなのさ。宝塚が何十年も研究を重ねた結果の「ヤクザな男」の様式美は、歌舞伎の女形《おやま》に匹敵する、日本文化の頂点に立つものだと思う。
特に、久世星佳。彼女の、退廃的な、崩れかけの腐った果実のような色香は、くろうと好みの男役フェロモンと言える。そんな彼女がついに引退する。
私は、いよいよ明後日《あさつて》、久世星佳のサヨナラ公演を観に東京宝塚劇場へ行くのだ。私を宝塚への道に誘い込んだ張本人、久世星佳に、熱い熱い視線を客席から送ろう。
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カラオケ[#「カラオケ」はゴシック体]
今さら何を、と言われそうだが、私はカラオケが好きだ。もちろん下手である。けれど、下手こそがカラオケの真骨頂であり、上手は嫌味《いやみ》であり邪道だと私は考えている。上手《うま》い人はプロになればいいのだ。それにしてもいつの間に私はこんなに居直る人間になってしまったのだろう。
五、六年前までは、酒の席で勧められても、
「いえ、下手ですから」
と、顔を赤らめて断わっていた。
じつは、当時我が家に自宅用カラオケセットがあった。新築祝いに知人からもらったのだ。コンピューター採点方式で、音程やリズム感がチェックされ、百点満点で点がつけられるのだが、二十三点が出た時は、さすがに泣けた。
そう言えば、小学校中学校とずうっと音楽の時間(高校は美術を選択した)、
「音がズレてる」
と、言われ続けてきた。おかしいな。私はきちんと歌っているつもりなのにと言っても友達はきかない。
「でも、やっぱり音が違う」
要するに、私が頭でイメージして歌っているメロディと、私の口をついて出てくるメロディが違っているのだ。つまり、音痴とはそういうことなのだ。
音痴でもカラオケを歌ってもいいのだと気づいたのは、アシスタント達とカラオケボックスに行くようになってからだ。
誰も他人の歌を聞いていない。
そうなのだ。三、四人でボックスに行くと、他の人が歌っている間中、自分が次に歌う歌をファイルの頁を繰って探している。とても人の歌を聞いているヒマはない。
人間は、ただ自分一人気持ちよく歌いたいためだけにボックスに行くのだ。
けれど、全く一人でボックスに行くのは気がひける。お店の人に、何だか変な人と思われそうだから。
だから、気心の知れた音痴とばれても今さら恥ずかしくも何ともないやといった親しい人間数名とボックスに行くのである。
夜のボックスとなると、さらにみんな酔っ払っているので、もう何を歌おうが訳わかんなかろうが何でもOKである。
そうやって私は、ボックスでのカラオケにはまっていったのだった。
心ある人は、自分の持ち歌を何度もこっそり練習してから、人前でカラオケを披露するものらしいが、私はぶっつけ本番である。有線で何度か聞いただけの最新ヒットをいきなり歌い出したりする。私は人生において、練習とつくものは何でも嫌いだ。だから、テニスもピアノも下手である。書道だって、いきなり清書だ。もちろん全てにおいてうまくいくはずがない。
一方、私の夫は何事においてもぬかりがない。歌いたい歌を見つけたら、まずその歌のシングルCDを買う。そうしてその曲でエンドレステープを作成し、車を運転中ずっとそれを流し続けるのだ。そうやって私は、夫の車の中でチューブの「ああ夏休み」を二時間聞かされ続けたことがある。
ところで、昨年のことである。あるお固い出版社の真面目《まじめ》な女性編集者三名と、私は高級カラオケボックスに行った。
「はい、サイモンさんの持ち歌入れておきました」
真面目な彼女達は、その晩は接待に専念しようと、自分達は一切歌わず、私に好きなだけ歌わせようと考えたらしい。
「ウルフルズもスピッツも入れました。ドラマ化された作品の主題歌も入れました。さあ、先生、どうぞ」
しょうがなく、私も二時間たった一人で持ち歌歌いまくりましたよ。最後はのども嗄《か》れ、高音も低音もかすれて出なくなり、音痴に拍車がかかった状態になってしまった。それでも、
「サイモンさん、またカラオケ御一緒させて下さい」
と言う彼女達に、プロの編集者魂を見たのであった。
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スピッツ&ウルフルズ[#「スピッツ&ウルフルズ」はゴシック体]
ユーミンの対談記事を読んでいたら、
「この前スピッツのコンサートに行きました。今の音楽ではスピッツとウルフルズが好き」
という発言に出会った。
そうか、ユーミンもスピッツとウルフルズが好きなのか。
私もじつはスピッツとウルフルズのファンで、先日やはりNHKホールのスピッツのコンサートに出かけたところ、少女漫画家の小澤真理さんと席が隣り合わせた。
「サイモンさんて、スピッツとウルフルズ好きでしょ。私も、そうなの」
そう言えば、北川悦吏子さんと私が親しくなったきっかけも、スピッツ、ウルフルズのライブ会場で立て続けに顔を合わせたからである。
好きなグループは、スピッツとウルフルズ。特に三十代以上の女性に、こういう趣味が多いらしい。
なぜか、スピッツとウルフルズの組み合わせである。スピッツとシャ乱Q、ウルフルズと黒夢、といった組み合わせはほとんど見られない。
スピッツが好きな女の子は、大体ウルフルズも好きである。その逆もまた、しかり。
繊細で牧歌的な草野・スピッツに対し、こてこての大阪モンのトータス・ウルフルズ。一見、両極端に思えるのだが、世|馴《な》れてない少年ぽさ、という共通点が、スピッツの「ヒバリの心」やウルフルズの「ガッツだぜ」の隙間《すきま》からひょいひょいと顔をのぞかせる。
私の場合、三大好物が、スピッツ・ウルフルズ・筒井道隆である。こう並べるとラインが読めてくる。芸能人ぽくない純朴さ、カッコつけない正直さ、育ちの良さからくる誠実さ、などが私にとっての高得点なのだ。
三十過ぎると、女はこういう傾向の男に弱くなるらしい。三十過ぎて、ギラギラした悪《ワル》を感じさせる男が好き、という女は稀《まれ》である。周りに、くたびれて愚痴しかこぼさないような中年男しかいなくなった時、スピッツやウルフルズの曲を聞くと、
「こういう男のコを求めているのよ」
と、叫びたくなるのだ。
すがすがしく、ひねてなく、すれてなく、かつ、繊細。
だから、三十代以上のスピッツ&ウルフルズファンは、十代のファンとは少し違った角度からファンなのだと思う。三十、四十代の中年男が広末涼子を重宝がるのと、根っ子は同じなのかもしれない。
私の娘(十五歳・高校一年生)は、スピッツファンクラブの会員である。スピッツのアルバムもシングルも総《すべ》て揃《そろ》えている。
けれど私の娘は、
「スピッツはすれてなくていいよね」
といった意味でのファンではない。おそらくは、優しいアコースティックなサウンドと、繊細な歌詞と、官能的な草野マサムネのヴォーカルに魅かれているのだろうと思う。
ちょうど私が娘と同じ年頃に、サイモン&ガーファンクルに熱狂したように。
そう言えば、スピッツもサイモン&ガーファンクルも、フォークソング的ではある。そうして、いつの時代もこのテの音楽は軟弱な音楽と決めつけられる。私もかつて、
「えっ、サイモン&ガーファンクルなんか好きなの。軟弱だなあ」
と、ロックンロールな男から言われたものである。
おそらくスピッツも、一部ロックンロールな連中からそんな言葉を投げかけられたことであろう。しかし、そんな野蛮な声には耳を傾けないで欲しい。
二十年前にサイモン&ガーファンクルは軟弱だとなじった男が、四十歳を過ぎて、
「じつは、サイモン&ガーファンクルのファンだったんだ」
と告白したりするのだ。
ところで、ウルフルズ。圧倒的なトータス松本の魅力とパワーで引っぱってゆく大阪バンド。サザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」を引っ提げてデビューした時の雰囲気に似ている。が、何か少し違うと思ったら、ウルフルズには原坊がいないのである。けれどトータスのセンスは抜群なので、照れずにラブ・ソングを歌えば、女性ファンはついてゆきます。
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草ガメ[#「草ガメ」はゴシック体]
暮れから正月にかけてカメを飼っていた。
というのも、中学生の娘が生物部の部長で冬休みの間、学校で飼っているカメを預かってきたのだ。
「なんでカメなんか持って帰ったの」
と、私は激怒した。
とにかく私はペット類の飼育が苦手で、私の半生を振り返っても、ことごとくペットを死なせている。
犬・猫に始まり、親に泣いてねだったシマリスまで、物珍しさで可愛《かわい》がるのは最初の二、三週間であとは放ったらかし。結局、母が私の気まぐれの後始末をするハメになっていた。
「おかあさんは、ペットは嫌だと言ってるでしょう。二人の子供の世話だけで手一杯なのに。それに、カメなんか臭いじゃない」
私は、娘に説教をした。すると、
「草ガメだから、臭くないよ。それにもう持って帰ってきちゃったんだからしょうがないじゃない」
と言って、娘は洗面器に水を浅く入れ、そこに甲羅干し用の台を作り、底に小石を敷いて、簡易のカメ飼育水槽をこさえ、それを居間のこたつの上に置いたのだ。
「部屋中がカメ臭くなるっ」
と、私が叫んでも、
「熱帯の生き物だから、寒くすると死んじゃうよ」
と、娘はすましている。
家族がくつろぐ居間のこたつの上に置かれた洗面器の中で、カメが時折、カタカタと小石を蹴《け》る。体長五センチ程の小さなカメだ。けれど、いくら五センチ程度の生き物とはいえ、家の中で死なれては、気分のいいものではない。それも、居間のど真ん中のこたつの上で。
案の定、娘は、二、三日するとカメを放ったらかしにし始めた。
そこで私がカメの世話をするハメになった。ちょうど三十年前、私の母がそうしたように、娘の後始末をするのだ。
本来、草ガメは低温動物のため、寒い期間は冬眠をするのだ。ところが、暖房の効いた都会の学校で育てられているため、冬でも起きてしまっているらしい。そのため、冬でも夏の環境をカメのために整えてやらなければならない。
夜間は湯を張ったコップを洗面器に入れて湯たんぽ[#「湯たんぽ」に傍点]代わりにして水温を下げないよう工夫をする。
昼間はなるべく日光に当て、身体《からだ》を水面から引き上げてやる。そうしないと、手足に白カビが生えてしまうそうだ。これが、世に言うカメの甲羅干しなのだ。
そうして、狭い洗面器の中だけではストレスがたまるので、時折お散歩をさせてやる。フローリングの床の上を、よちよち歩かせるのだ。
渋々引き受けたカメの世話であったのだが、そうこうしているうちに、私はすっかりカメにはまってしまった。
とにかく、可愛いのだ。
動きがぎこちなく、おまけに、極度に臆病《おくびよう》である。ベランダで甲羅干しをさせてやると、気持ち良さそうに首を伸ばし、目を細める。けれど、ほんの少しの物音に、ひゅいっとすばやく首をひっ込める。そうして、ほとぼりが冷めたころ、またゆっくりと首を出す。
そんなカメの動きが面白《おもしろ》くて、愛《いと》おしくて、私は随分長い時間、ベランダで日なたぼっこしながらカメを見つめ続けたのだった。
「そうか、ペットにはまるとは、こういうことなのか」
私は、ようやく身をもって知った。
それまで、犬好き猫好きの人達を、何だか特殊な人間のように感じていたのだ。
「動物ごときに、なんでそこまで愛情を注ぐ」と。
けれど、カメを通して私も遅まきながらペット愛好人間の仲間入りをしたのである。
カメは、私のようにペット初心者に最適であった。うるさくないし、臭くないし、手間もそうかからないし。おまけに、不器用な動きと、小心者の性格が、私の母性本能に強く訴えてくる。
「私が、守ってあげる」
という気持ちが、腹の底からわいてくるのだ。
あっという間に冬休みが終わり、カメも我が家の居間から、中学校の水槽へと戻って行った。
本気でカメを飼おうかなあと思った時、たまごっちを二個手に入れ、その世話に追われてカメどころではなくなった私であった。
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ダイエット[#「ダイエット」はゴシック体]
定期的に、太ってはダイエットの繰り返しである。家系的には、デブの数が圧倒的に多いので(従兄弟《いとこ》の一人は百キロある)、油断するとアッという間に脂肪ダルマのようになってしまう体質なのだと思う。
雑誌のダイエット記事には、くまなく目を通すし、身近に激ヤセした人を見つけると、すぐさまそのダイエット法を聞きに駆けつける。
「水を大量に飲む」
「お風呂《ふろ》に半身浴で一時間つかる」
「食べない」
とまあ、人によって本当に色んなダイエット法を見つけるものだ。
私は運動が苦手で嫌いなものだから、身体《からだ》を動かしてやせる、というのはまず不可能である。
食事制限も、つらい。
先月、薬局で「一週間ダイエット・メニュー」というダイエット食品を買って試したのだが、空腹のあまり気を失いそうになった。一日の一食を粉末スープと小さなふすまパン三切れにするだけのこの簡単な食餌《しよくじ》療法ですら、私には命を削るような修行に思えたのだった。
杜仲茶《とちゆうちや》、酢大豆、ダンベル、サウナパンツ。その時|流行《はや》ったダイエットは、とりあえず全部試してみるのが私の性格である。
「これは、効くかもしれない」
と思って、一週間くらいはドキドキしながら試すのだが、二週目にはもう飽きて放り投げてしまう。
とっかえひっかえの方法でダイエットを試みては、一キロ増えたの減ったのと大騒ぎする(私は五キロやせれば夫からティファニーのダイヤモンド・クロス・ペンダントをごほうびに買ってもらうことになっているのだ)。
一キロ減っては二キロ増え、といったふうに全然効果の上がらない私なのだが、なぜか、神から恩恵を受けている。
年に二、三回、激しい下痢に襲われるのだ。短くて三日、長くて十日、水状の下痢が続き、これでたいてい二〜三キロは、やせる。
どうも私は胃腸が弱いらしく、家族と同じ物を食べても、私だけお腹をこわす。腸だけではなく、胃も一緒に荒れるらしく、誰かに胃をぎゅっと掴《つか》まれるような痛みに、一日何度も出会う。
「いたた…」
私は、胃の痛みにのたうちまわる。が、これでやせられると思うと、痛みにゆがんだ顔も口元だけはほころんでいたりする。
「病院に行ったら」
と、痛みにうめく私を見て、たまりかねて家族が声をかけてくれるが、
「いいや、あと一キロやせるまでは、下痢を止めないでおく」
と、私はやせ我慢をするのだ。
食餌療法も運動も向いてない人間には、それなりの防衛機構が備わっているらしい。
さらに、下痢より効果のあるダイエット法がある。
心労、である。
私は、子供のテストの成績を見るたびに、一食を抜いてもいいくらい落ち込む。抜いてもいい、ではなく、とても食べられないのだ。
若い頃は、失恋で食欲を失ったものであるが、恋とは程遠い年代になっても、食欲を落とす心労はついてまわってくるものだ。
お腹をこわすことも、心労で食欲をなくすことも、考えてみれば不幸な状況である。
不幸な状況に陥ったとしても、女性の多くは、
「でも、これでやせられる」
と、どこか心の底で喜んでいるはずだ。
しかし、これらのダイエットはやはり不健康である。とくに、三十歳を過ぎた人間には、心身共にハードなダメージを与える。
健康的なダイエットをしよう。
私は、決心した。そして、ただ今それを実行中である。今のところ、やせはしないが太りもしない。
その方法は、というと、簡単である。
「腹八分目」
満腹感の少し手前で、ハシを置くのだ。実際、これだけで、体重計のメーターが増えるのを防げる。
食欲だけでなく、すべての欲望を、満プクの一歩手前で止めるのが、健康な人生の秘けつかもしれない。
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古き良き日本映画[#「古き良き日本映画」はゴシック体]
チャンネルNECOという局がある。
ケーブルテレビで、古い日活映画ばかり放映している所なのだ。古いといっても、昭和二十〜三十年代がメインであり、私にとっては幼少の記憶を掘り起こしてくれる小道具や背景がたまらない。
先日、何気なくNECOにチャンネルを合わせたら、山内賢と和泉雅子の「東京ナイト」をやっていた(昭和四十二年作品。ちなみにこの年には五十三本の日活映画が公開されている。今の週一連ドラペースだ)。
山内賢|扮《ふん》するケンちゃん(芸名と役名が一致するのは日活映画の得意技)は、さわやかな大学生で、学生エレキバンドでコンテスト出場を狙《ねら》っている。そこへ、芸妓《げいぎ》になるのが嫌で京都から逃げてきた舞妓《まいこ》の和泉雅子が現われて、恋のてんやわんやというストーリー。ちょうどグループサウンズの全盛の頃らしくパープルシャドウズやワイルドワンズも友情出演している。
京都舞妓言葉を操る和泉雅子を、ケンちゃんが東京案内に連れて出る。出来たばかりと思われる首都高(車が少なくてガラガラ)をオープンカーでぶっ飛ばす。そして、銀座の服部時計店の下でいきなり、
「待っち合ーわせて♪歩ーく銀座ー」
と、ケンちゃんが歌い始める。つられて雅子もハモリ始める。
「若大将シリーズ」で、加山雄三が星由里子に、
「昨夜《ゆうべ》、きみのために作った歌を歌うよ」
と言って由里子に捧《ささ》げる歌を歌い始めたところ、二番からは由里子も一緒に歌ってしまう。昨夜作って初めて聞く曲の二番をいきなり歌えてしまえる星由里子の謎《なぞ》は、若大将ファンの中では有名なものである。
雅子もやはり、歌ってしまうのだ。
ずうっと京都で舞妓をやっていたわりには、銀座の地名に詳しい。
ケンちゃんのお部屋がまた素晴《すば》らしい。どうも母屋の庭に建てられたガレージハウスらしいのだが、そこを訪ねた雅子が、ガラクタやら何やらが所狭しと並べられた部屋を見て、
「あなたはどこに寝てるの?」
と聞く。すると、ケンちゃんは、押し入れのふすまをガラリと開け、その上段を指して、
「ここさ」
と、答える。
おまえはドラえもんか、と思わず突っ込まずにはいられない。
いや、ひょっとしたら、藤子・F・不二雄先生は、この「東京ナイト」を見て、ドラえもんのヒントを得たのかもしれない。「東京――」が先か、「ドラえもん」が先か。今となっては確かめようもない。
それにしても、昭和四十年前後の若者のファッションは、平成九年のそれと、じつによく似ている。ノースリーブのAラインワンピースやヒップボーンのパンタロン。花の刺しゅうがついたカーディガンとか。
もっとも、それは女性ファッションに関する限りのことで、エレキバンドのメンバー・ケンちゃんのタートルネックにスラックスといったファッションは、平成のどの若者も真似たくないであろう。今やMr.オクレか、「ちびまる子ちゃん」のヒロシにしか見られないスタイルである。
古い日本映画の持つ独特のテンションの高さは、一体何なのだろう。
女優も男優も見事にお肌テカテカであり、老いも若きもみな、カン高い声でキャンキャン早口でしゃべりまくる。この、テカテカ、キャンキャンが、見る者に高揚感を与えるのだろうか。
「東京ナイト」放映の少し後、テレビ東京「いい旅夢気分」のレポーターとして山内賢が出演していた。あのテカテカ、ピカピカのお肌は、細かい皺《しわ》の刻まれたカサカサ肌に変化していた。でも、きちんとした歯切れの良いしゃべりは、やはり往年の映画スターのそれであった。
ストーリーの辻褄《つじつま》や、いきなり歌い出す不合理性はさておいて、というのが古き良き日本娯楽映画なのだ。さておいて、ピカピカの美男美女の夢物語に酔いましょう、という明確なコンセプトが気持ちいい。
ケーブルテレビは、時としてとんでもない宝物に出会うことがある。松田聖子主演映画シリーズも突っ込みがいのある企画だった。「プルメリアの伝説」がいかに凄《すご》いストーリーであるかは、又、次の機会に。
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不倫ドラマ[#「不倫ドラマ」はゴシック体]
最近まで私が楽しみにしていたテレビドラマといえば、「ミセス シンデレラ」と「氷炎〜死んでもいい」である。
「ミセス シンデレラ」は、木曜十時のフジテレビであるのは知られていたが、「氷炎」が、月〜金のお昼一時半からのメロドラマであることはあまり知られてなかったと思う。
ともに、不倫のドラマである。しかも、夫ではなく妻の。この妻が二人とも、不倫をしていても、夫に対してちいっとも悪いと思っていない。だからこそ、ドラマとして弱い、とも言える。夫に対する後ろめたさが、心理的カセとなり、ドラマに緊張感をもたらすのだが、
「バレるとまずいが、悪い事をしているとは思わない」
としか、妻達は思っていない。これが、どうやらきょうびの不倫妻の共通心理らしい。
でも、罪悪感→人として間違っているという思い→不倫理感→不倫となるわけで、罪悪感の伴わない結婚外性交渉って、不倫[#「不倫」に傍点]とは言わないんじゃないのか。
なぜ、このようなことに思い至ったかというと、先日、たまたま一昔前の不倫映画「美徳のよろめき」を、衛星放送で見たからだ。
これは三島由紀夫原作で、昭和三十年代を舞台としている。この小説が発表された当時、浮気する人妻に対して「よろめき夫人」という愛称が広まったという。そのくらい、世間に衝撃を与えた作品らしいのだが、現在の不倫モノに比べれば、なんとも可愛《かわい》らしいものだ。
ストーリーは、鎌倉《かまくら》に住む上流階級夫人が、彼女に想いを寄せる青年と、恋に落ちる。この二人、キスまでは簡単に進むのだが、そこから先に進めない。それでも青年に押し切られ、人妻は彼との不倫旅行を決行する。
そうして、海辺のホテルの一室にたどり着いた二人であるが、二人きりになったとたん、
「ダメ。やっぱりできないわ」
と、人妻が泣きじゃくるのだ。
「きみが、そんなに言うなら、部屋をもう一つとるよ」
と、引き下がる青年も、なんとものどかである。
が、もう一つの部屋に戻った青年は、いきなり花びんを倒し、自分の頭をボカボカ殴り始める。
「そんなに、したかったのかい」と、思わず画面のこちらから声をかけてやりたい程だ。
ここで、ドラマに緊張感が走るのは、やっぱり、夫に悪いという妻の罪悪感に、青年の性欲が負けてしまう構図(枠組)が、しっかりと築かれるからだ。
夫に悪いとも何とも思わない人妻と、青年の性衝動が一致しただけの行動には、ドラマは生まれないのである。
反社会的であると世間に非難されることと、罪悪感が結びつかない世の中になっているのだろう。
ワイドショーで、芸能人の不倫会見をよく見かけるが、不倫を弁明する男はみんな、
「なんでオレばっかバレたんだろ」
と、バレた不運を嘆きはしても、妻に対して罪悪感を抱いてるような男は、一人もいないように見受けられる。
妻に対しては、罪悪感よりも、
「また女房にガミガミ言われそうで、やだなあ」
という嫌悪感の方が強いはずだ。テストで悪い点とって、又、母親にガミガミ言われるのがやだなあ、というのと同じ感情である。
「よくないことをして悪かった」
「愛する人を傷つけてしまって、申し訳ない」
少なくとも、こういった感情が存在しないことには、不倫は成り立たない。
だから、芸能人の不倫会見は、スケベ芸能人の結婚外性交渉告白会見、と、呼び方を変えるべきなのだ。
結婚外性交渉に罪悪感が失せている今の世でも、配偶者の浮気に対する生理的嫌悪感は健在である。「ミセス シンデレラ」も「氷炎」も、浮気された夫の嫉妬《しつと》と怒りたるや、すさまじいものである。
傷つけるのは平気でも、傷つけられるのは我慢ならないという、自分勝手な現代人の姿が、そこに反映している。
不倫すらもドラマにならない世の中では、おとなの恋愛ドラマはますます描きづらくなる。
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『バスキア』[#「『バスキア』」はゴシック体]
映画『バスキア』を見た。
バスキアとは、一九八〇年代のニューヨークのアート・シーンに実在した黒人画家である。アンディ・ウォーホルに認められ、二十一歳で天才と呼ばれ、有名人となり、しかしドラッグに溺《おぼ》れて二十七歳で薬物中毒で死んでいる。
私は、こういう天才伝説の映画が好きだ。真性ミーハーである私は、天才とかスターとか、もうそれだけで両手をあげて飛びついてしまう。
で、映画『バスキア』であるが、ストーリー自体にさほど目新しさはない。天才は富と名声を得る代わりに、恋人と友情と精神の安定を失ってゆく。よくある話だ。が、それはさておき、なかなかに楽しめる映画なのだ。
まず、バスキアを演じるジェフリー・ライトがいい。繊細で哀《かな》しくてセクシーなのだ。そんなに美形ではないが、時折見せる脅《おび》えた犬のような目がたまらない(実物のバスキアはもっとハンサムで、あのマドンナともつき合っていたらしい)。ジェフリー・ライトは「買い」である。
次に、音楽がいい。バスキア自身、DJであったくらいの音楽好きだった。仕事中も、ガンガン音楽をかけまくっていたという。この映画にも全編、ロックとジャズが流れまくりなのだ。ストーンズ、デビッド・ボウイ、トム・ウエイツ。渋くてシビれる選曲だぜ。私は、映画終了後、さっそく売店でサントラ版CDを買った。このCDをかけながら仕事をすると、気分はニューヨークのアーティストである。
さて、映画『バスキア』のへそ[#「へそ」に傍点]というべきものであり、これを観るためだけでも千五百円の価値があったと思わせるのが、アンディ・ウォーホルを演ずるデビッド・ボウイ。
実物は、似ても似つかぬお二人であると思うのだが、カツラをかぶって眼鏡をかけたボウイは、まさしくイケてるウォーホルなのだ。誰だってカツラと眼鏡をかければ大木凡人になれるようなもので、ズルいと言えばズルいのだが。
扮装《ふんそう》もさることながら、ボウイの物真似演技プランが又、凄《すご》い。腰をひねって、口元に指を当てるオカマポーズは、ウォーホルを心底おちょくってるとしか思えない。これではまるで、美川憲一を真似るコロッケではないか。美川憲一自体、キワモノであるのに、さらにそれをデフォルメして、2[#二乗](キワモノ)にしてしまっている。要するに、ボウイ演じるウォーホルとは、そういうものなのだ。
これだけ私を喜ばせてくれたのだから、『バスキア』は大した映画だ。他にもデニス・ホッパーや、クリストファー・ウォーケンといった名優が脇役《わきやく》として出演していて、
「おお!」
と、思わせる。
ストーリーは、冒頭でも述べた通り、平板なのだが、エピソードは秀逸なものがあった。
バスキアは成功して有名人になったものの、アメリカ社会ではやはり黒人差別が残っている。高級レストランに入ったバスキアに、白人エリート集団が冷たい視線を投げかける。すると、バスキアは店の者を呼んでこっそりこう言う。
「後ろのテーブルの支払いは、俺《おれ》が持つ。このことは、奴《やつ》らが店を出る時まで話すな」
と。
こういうエピソードは、うまいなあと思う。成功しても、天才であっても、尚《なお》かつ差別され続ける黒人の静かな悲しみが、ひたひたと伝わってくる。こういう場面でのジェフリー・ライトの表情がたまらなくいいのだ。
ウォーホルの死を聞いたあと、アヒルのぬいぐるみを抱いたまま街を呆然《ぼうぜん》とさまようバスキア。パジャマにガウンを羽織り、木のサボをつっかけたスタイルで街を歩くシーンも良かった。
ニューヨークの街《ストリート》と、悲しみの天才黒人アーティスト。このせつなさが、ストーリーのつまらなさを救っていた。
じつは、私はバスキアの絵を見たことがない。本当に天才なのかどうかも知らない。八月四日まで渋谷《しぶや》パルコで「バスキア展」が開催されているそうなので、ぜひ、足を運んでこの目で確かめてみようと思う。
絵がつまらなかったら、この映画って一体何だったのってことになってしまう。
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イタリア料理[#「イタリア料理」はゴシック体]
近所の人から、バジルの鉢をもらったので、べランダで育てている。水さえたっぷりやればどんどん育ち、毎週バジル・ソースを作っても余るくらいと言われたが、なにせまだいただいて三日目なので、そこまでは繁殖していない。
それにしても、ここ一、二年の、家庭へのイタリア料理の普及はすごい。ロザンナがワイドショーでイタリア家庭料理を教えていた頃とは、かなり違う(ヒデが亡くなった直後、ロザンナが朝のワイドショーでイタリア料理教室を始めたので、未亡人は大変なんだなと思ったことを覚えているが、あれははて何年前のことであったか)。
二年前イタリアに行った時、土産にとポルチーニやバジル・ソースのびん詰めをしこたま買い占めて戻ったものだが、近頃では大泉のスーパーでもこれらを売っている。ルッコラだろうがズッキーニだろうが、イタリア料理の食材は、何でも日本でそろうのだ。
ともかくも、その二年前のイタリア旅行で、私はイタリア料理に目覚めた。
それまでも東京のイタリア・レストランの名店を何度も訪れてはいたが、ミラノ、フィレンツェで本場の味を確かめて、私は開眼したのだ。
本場イタリアンは、シンプルである。
本場で吐くほど食べまくって、私はこの結論に至った。
野菜にオリーブ・オイルと塩、胡椒《こしよう》。これが、基本。野菜を魚に変えれば、あっという間にカルパッチョである。
イタリア旅行に随行した夫は、レストランで必ずカルパッチョとルッコラ・サラダを注文していた。カルパッチョ。名前だけ聞くとひょっこりひょうたん島の市長のようである(それはドン・ガバチョ、と一応突っ込んでおく)。あるいは、カルビーのスナック新製品のようでもある。が、実物はいかにもシンプル。日本の家庭でもすぐ作れる。
まず、スーパーに行って、パック入りのまぐろ赤身を買ってくる。それをスライスして皿に並べ、オリーブ・オイル、塩、胡椒、レモン汁をかけ、上にイタリア・パセリをパラパラ散らすと、一丁上がり、なのだ。材料費一人分三百円にも満たない。レストランだとオードブルでその五倍くらいの値段を取られる。
すずきのソテーは、もっと簡単である。丸正で三切れ一パック五百円くらいのすずきを買って来て、塩、胡椒してオリーブ・オイルをひいたフライパンで焼く。仕上げにレモンをかける。まわりにイタリア青野菜を散らす。これも一人前二百円くらいだ。レストランに行くと、十倍くらい取られる。
スーパーの買い物のコツは、本日の目玉商品を必ず買うことである。というのは、主婦は毎日スーパー数店のチラシを見比べて、その日足を運ぶスーパーを決める。もちろん、お目当ては〈本日の目玉商品〉である。だから、スーパー側も、目玉商品には手を抜かない。安くて新鮮な上物を必ず置くのだ。そうしないと、翌日から主婦は、そのスーパーに足を運ばなくなるからだ。あげくに近所の主婦仲間に、悪評を言いふらす。そこでスーパーも、命懸けで本日の目玉商品を並べるのだ。
そして、そんなスーパー(特に丸正チェーン)の目玉商品として、やたら出回るのがすずきなのだ。すずきは、和風に塩焼きするより、イタリア風にソテーする方が絶対おいしい、と、私は思う。そうして、丸正の本日の特売品ならば、そのへんのレストランのすずきより、ずっとおいしい。
イタリア、食の旅で私がたどりついた結論が、サラダはルッコラ、チーズはモッツァレラ、きのこはポルチーニ、である。
ただ、それらが当時まだ日本でそれほどポピュラーではない食材だったためかもしれない。私、大学一年の時生まれて初めてラザニアを食べて、世の中にこんなおいしい物があるのかと感激した記憶がある。今なんか見向きもしないくせに。
先日、大泉西友でイタリア・フェアが開催され、本場ルッコラ・モッツァレラ・ポルチーニが空輸されて山と積まれていた。何だか二年前の感動を返せ、といいたい気分だ。
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昼 寝[#「昼 寝」はゴシック体]
「恋する女は眠らないよ」
と、秋元康さんが私に言った。
これは、
「性欲とグルメは両立しませんよねえ」
と、私が話題を持ち出したことに始まる。女たらしは食通ではない、グルメは女よりも美食を愛するという法則を私は最近発見したからだ。うん、そうだよね。と、秋元さんが頷《うなず》いたあと、さらに言葉を続けた。
「それと、睡眠欲も、両立しないね」
つまり、人間は、生存に関わる生理的欲求――食欲・性欲・睡眠欲のどれか一つの欲が飛び抜けると、あとの二つの欲はひっこんでしまうものらしい。
恋多き男女は、やはり睡眠時間を削って逢瀬《おうせ》を重ねるだろうし、眠るのが好きな人間は遠くの町までおいしい物を食べに行こうとは思わない(身体《からだ》を休めるのが何より好きだからだ)。
そうやって考えると、私は、まさに第三のタイプである。
睡眠欲が、ズバ抜けて高い人間なのだ。
快適な眠りのためなら、あらゆる努力を惜しまない。晴天の日は必ずふとんを陽に干し、シーツと枕《まくら》カバーを洗濯し、完璧《かんぺき》な夜に備える。
その快適な寝具を、私より先に夫が荒らそうものなら、私の逆鱗《げきりん》に触れる。
とにかく、何よりも眠ることが好きなのだ。
美食も美青年も、さほど私にとって重要ではない。いかにして睡眠時間を確保するか、いかに快適な眠りにつくか、が、私の生活の最大テーマとなっている。
眠りの中で、最も贅沢《ぜいたく》なのが、〈昼寝〉である。しかも、暑い夏、戸外でまどろむ昼寝くらいリッチなものはない。
海の音を聞きながら、木陰のデッキ・チェアでとる昼寝。ザザーッ、ザザーッと打ち寄せる波のリズムが、心地良い眠りにいざなってくれる。すでに一泳ぎしているので、身体には軽い疲労感があり、濡《ぬ》れて乾いた肌はサラサラとして気持ちいい。遠くの方で、ラジオの声が小さく聞こえる。風が吹いている。
こういうのが、 私の理想の昼寝である。 場所としては、 ハワイかバリ。 日本の海辺は、 有線マイクから、けたたましく歌謡曲が鳴り響いて、ペケである。海水浴の子供もうるさいし。
けれど、私の夢見る〈理想の昼寝〉に出会えるのも、せいぜい二〜三年に一回である。家族でハワイに行っても、
「おかあさん、平泳ぎ教えて」
と、子供達がせがむので、昼寝どころではない。
ハワイのホテルのプールで、私が我が子にバタ足やら潜水を教えていると、プールサイドのデッキ・チェアでサングラスをしてのんびり昼寝を続ける白人達が目に入る。ああ、代わってくれよう、と、思わず声をかけたくなる。
恋もグルメもいらないから、どうか私に眠りを下さい、と、私は何度神に祈ったものか。
私は、一日最低八時間、ベストは十時間、睡眠時間が必要な人間なのである。それが、娘が中学生になって以来、弁当作りのために毎朝五時半起きの生活になり、平均六時間睡眠である。ここ数年間、ずっとイライラしっ放しなのは、睡眠欲が満たされない欲求不満のせいなのだろう。
夜眠れない分、昼寝に精が出る。
といって、ハワイやバリに出かけるわけにはいかず、もっぱら、仕事時間中に、仕事場で昼寝を楽しむ。
ベランダぎりぎりの窓際の床に寝そべり、窓を開け放ち、空の雲を見上げて風に吹かれ眠る。
からりと晴れた日はハワイを思い、少し湿っぽい日はバリを感じ、空を流れる雲を見ながらボンヤリしていると、やがて眠りに落ちてゆく。
波の音の代わりに、西武池袋線の電車の音が耳に響く。リズムが規則正しいという点では、波のザザーッも、電車のガタゴトも、変わりはない。そうして、規則正しいリズムが、気持ち良い眠りの必須《ひつす》条件なのだ。
開けた窓から、駅前の商店街の音が聞こえてくる。スーパーの呼び込みの声や、自転車のブレーキ音やらである。人々が働いている音を聞きながら眠るのが、昼寝の醍醐味《だいごみ》なのである。
暑い日中、人々が汗を流して働いている時間に、風に吹かれながら昼寝をする。この時、王侯貴族のような、贅沢な気分を味わうのである。
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恐い物[#「恐い物」はゴシック体]
UFO・心霊・宇宙人が、日本人の三大恐い物であり、夏になると必ずこのテの特集番組がテレビで組まれるものだ。
ところが、今年は例年に比べ、ミステリー特番が少ないように思われる。多分、神戸の事件やらジョンベネちゃんやら、人間が犯す犯罪の方がよっぽど恐ろしく、宇宙人のグレイちゃんなんか可愛《かわい》いもんだと、みんな思い始めているからかもしれない。
アメリカの当局も、UFOを正式に否定したし。火星から送られる映像も、寒々としてとても火星人が住むところじゃなさそうだし。
宇宙の恐い物が科学によってどんどん解明されてゆく一方、中学生の心の中はさっぱりわからない。やはり、今一番恐いのは、人間なのだろう。
それに、UFOにしろ宇宙人にしろ、地球に対して何かしたいのなら、とっくにどでかい事をしているはずだ。五十年も前から、目撃談やUFO内部に連れ込まれた体験談が語られているくせに、武器を使った大量破壊や殺人は行なわれていない。やるんなら、とっくにやってるんじゃないの。
稲川淳二や桜金造の出番も、例年に比べて少ないように思える。
「カラ〜ン、コロ〜ン、カラン」
と、下駄の音を響かせて幽霊が近付いてきたって(稲川淳二の得意話。カラ〜ン、コロ〜ンが段々大きくなってゆく)、自分の命さえ無事なら、かまいやしない。
霊の大群が目の前に現われたとしても、こちらの首を切り落としたり、自転車ですれ違いざまにバットで殴ったりしなければ、まあよいではないか。やはり恐いのは、生身の人間である。
けれど、生身の人間を恐がるばかりでは、心が殺伐としてくる。そこでお勧めなのが、上質なホラー&ミステリー小説である。
私が今一番気に入っているのが、小池真理子さんの「水無月の墓」(新潮社刊)である。この本には八つの短編ホラー話が収録されているが、どれも切なく哀《かな》しく美しくて、恐い。まさに若い女性向けのホラーである。生首が飛んだり血しぶきがあがる訳ではないが、しみじみと恐い。
なかでも「流山寺」は、純愛物語としても充分楽しめる。読みながら、私は号泣してしまった。すでに死んでしまっているくせに自分が死んでしまったことに気付いていない夫の亡霊との、切ない切ない愛の物語なのだ。そのへんの恋愛小説よりもずうっと愛が深い。愛に泣きたい人は、ぜひこの夏読んでみてはいかがかと思う。
人は、なぜ、恐い話が好きなのだろう。それは、人がなぜ、ジェットコースターが好きなのか、バンジー・ジャンプを楽しむのか、という問いと同じなのかもしれない。
「ああ、恐い、恐い」
と、最初は脅《おび》えるものの、その刺激にも段々慣れ、もっと恐い物へとエスカレートしてゆく。
近頃の絶叫マシーンは、落下の恐怖よりも、振り回される遠心力によって与えられる身体の痛みの方に気を取られる。もしくは、アップ、ダウンの激しさによって胃のぐあいがおかしくなってしまうか。絶叫マシーンというより、暴力マシーンである。運悪くデブの人の隣の席にでもなったものなら、外側に振り回される時に、そのデブの体重までこちらにかぶさってくる。体重七十九キロの夫の体重が私の身体にかぶさってきた時は、私、死ぬかと思いましたもん。
絶叫マシーンで、より恐怖を味わいたいなら、よりデブな人の隣に座るとよい。
UFOで思い出したが、用事で西武線特急レッド・アロー号に乗っていた時のことである。特急電車なので、新幹線の座席のように全席前向きのゆったりした車両で、隣の車両との扉の上に電光掲示板があり、そこにニュース速報や行き先が流れるようになっている。すると、
「……に、巨大UFO出現」
という電光文字が現われたではないか。私がレッド・アロー号で川越《かわごえ》に出かけている間にどこぞにUFOが現われたかと仰天したが、よく見ると、
「西武園ゆうえんちに、巨大UFO出現」
であった。
あの時ほど、恐怖と興奮に包まれた時はなかった。
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「砂の城」[#「「砂の城」」はゴシック体]
仕事で上田三根子さんに会ったら、いきなり、
「サイモンさん、あたしヒミコに会ったのよ。ヒ・ミ・コ」
と、言われた。
え? ヒミコ? 藤原栄子さんの漫画? と戸惑っていると、
「『氷炎』の氷見子よ。サイモンさん、エッセイに書いたでしょ、『氷炎』見てるって」
どうやら上田さんは、おウチのそばのお寿司《すし》屋さんのカウンターで、氷見子こと小川知子にバッタリ出会ったらしい。
そういえば、月〜金の午後一時半からフジTVで放映される「氷炎」を見ながら、私の仕事場でもアシスタント達と一緒に、
「氷見子、それを言っちゃあおしまいよ」
「氷見子、そんなこと早く気づけよ」
などと、画面に向かって叫んでいたのだった。そうして今や「ヒラフ!」なのである。
「氷炎」の後始まった昼の帯ドラマ「砂の城」の主人公ヒラフに向かって、私達は毎日叫んでいる。「砂の城」は、言わずと知れた一条ゆかり先生の漫画が原作である。原作は確か外国が舞台で、主人公もフランソワとナタリーだったはずだが、なぜか比羅夫《ヒラフ》と美百合《みゆり》に名が変わり、美百合は温泉旅館の跡とり娘である。
比羅夫と比羅夫の息子、杉彦(親子ともども変な名だ)を演ずるのは、元光GENJIの佐藤アックン。美百合は、若い頃は森下涼子で、今は大場久美子になっている。
比羅夫と美百合は血は繋《つな》がっていないが双子として育ち、比羅夫の死後、比羅夫が別の女性に産ませた杉彦を美百合が育てるという複雑なストーリーなのだ。兄妹として育ちながらも互いに魅《ひ》かれあう比羅夫と美百合なのだが、家族の反対に遭う。
「まさか、おまえたちセックスはしてないだろうね。汚らわしい。セックスだなんて」
「セックスだけはするんじゃないよ」と、婆《ばあ》ちゃんやら両親が口をはさむ。
ここで思い出すのが、昨年この枠で放映された「真夏の薔薇《ばら》」。この話も、兄と妹の近親|相姦《そうかん》がテーマだった。
「セックスだけは、するんじゃない」と止める父親を車のトランクに閉じこめ、
「さあ、今のうちだっ」
と、兄妹でセックスをしてしまった稲彦。
そう、じつは、「砂の城」と「真夏の薔薇」は同じ脚本家なのだ。杉彦に稲彦。この名前のセンスも、同一人物の手によるものだった。トバシ具合も、この二作品、よく似ている。お昼の帯ドラマでありながら、やたら、
「セックスをする」と、大声で登場人物達がわめく。「氷炎」はもう少しおとなしかった。
この時間帯、裏では、みのもんたが、
「そんな亭主、別れちゃいな」
と、相変わらず電話相談を受けている。茶の間の湿った息づかいが伝わってくるみの[#「みの」に傍点]に比べ、比羅夫達の何と突き抜けてトバシてくれることか。
NHKの朝の帯ドラ「あぐり」が、帯ドラの表とすれば、昼のフジは裏の帯ドラとも言える。片や太陽で、片や月。「あぐり」が善良な人ばかり出るのに対し、「砂の城」は身勝手でトバシ続ける人達ばかりだ。
大場久美子なんか怒鳴りっ放しなんだもの。それは怒鳴るセリフじゃないだろうというセリフまで、大きなキンキン声でまくしたてる。
「スプリンッグ、サンバ〜♪」の頃も、歌いっ放しのイメージが強かったが、そういう芸風なのだろう。一生懸命さは伝わるのだが。
けれど、大場久美子の怒鳴りっ放し演技が、このドラマに限っては妙にハマっている。ちょうど「真夏の薔薇」でヤスアキさんが、額に血管を浮き立たせて怒鳴りまくっていたように。
お昼御飯がすんで、眠気が襲ってくるこの時間帯に、こういったトバシ系帯ドラは、目をさますために絶好の気つけ薬となってくれる。
ところで、アシスタントの一人が、
「大場久美子と川島なお美って同じ人かと思っていた」
と言った。そう言われれば。
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大富豪のプレイボーイ[#「大富豪のプレイボーイ」はゴシック体]
ドディ・アルファイド氏。ここ数日間、私の頭の中をこの名前がぐるぐる渦巻いている。
ドディ。元英国皇太子妃と事故死した男。大富豪。プレイボーイ。
映画や小説の中にはよく登場する大富豪のプレイボーイだが、日本にはまずいない。まず、大富豪って誰? 小室哲哉かあ? 日本の金持ちの場合、資産家と表現されるケースが多い。ところが、ドディ氏の肩書き、いきなり〈大富豪〉である。とてつもなく金持ちなんだろう。大富豪って、カードゲームの中にしか存在しない階級かと思っていたが。
おまけにプレイボーイである。女優、スーパーモデル、元プリンセスらと浮き名を流した正真正銘のプレイボーイ。
自称プレイボーイの日本人男性なら、私も何人か知っているが、日本男性の場合、相手がクラブのホステスさんやら部下のOLやらで、なんかショボくれてる。それに彼ら、大富豪でも何でもないし。
ハーレクインロマンスに、あるいは、ハリウッド映画に出てくるような大富豪のプレイボーイに、一生のうち一回でも会ってみたいものだと私はずっと思っている。と言って、相手にしてもらいたいわけではない。観察して、漫画の登場人物として描きたいだけなのだ。
さて、『男と女 嘘《うそ》つきな関係』という映画にも、大富豪のプレイボーイが出てくる。彼は、女と二人きりで食事をしたいため、高級レストランの他の席すべてに偽の名で予約を入れる。店の主人は、嘆く。
「空席だけど、満席だなんて。すべての席に予約が入っているのに、誰も来ない」
こんなこと彼にとっては朝飯前なのだ。
さらに、自家用ヘリの操縦席に愛人の女を乗せ、いきなり操縦をさせる。古城すれすれに飛べ、と命令するのだ。
あるいは、チェックアウトの時刻をオーバーしてしまったために、二泊分の宿泊料を請求した高級ホテルに対し、ホームレスの大道芸人を呼び寄せ、二泊目の客として泊まらせてしまう。
とにかく、言うことやることすべて目茶苦茶《めちやくちや》な男なのだ。けれど、魅力的。だから[#「だから」に傍点]魅力的とも言える。日本にはいない、こんな男。
このプレイボーイ役のベルナール・タピがまたすごい。電気技師から大実業家になり、さらにテレビキャスターを経て、国会議員、大臣になったと思ったらスキャンダル追放、破産宣告という、まるで青島幸男プラスアントニオ猪木のような人生である。じつは、『男と女 嘘つきな関係』は、監督クロード・ルルーシュが、タピ自身のキャラクターと人生にインスピレーションを得て破茶目茶プレイボーイ物語を作ったらしい。
タピは、映画初出演とは思えないほど役にはまっている。まあ、地のままで充分という役なのだが。
破天荒のプレイボーイでありながら、時折見せる弱気な瞳《ひとみ》が、たまらない。女はこうして彼の手に落ちるんだろうな。はっとするほどの二枚目ではないが、セクシーさは十二分にある。ただのひょろんとしたハンサムより、野心と弱気を交互に目に浮かべる猪首《いくび》の中年男の方がずっとずっと色っぽいと、私は思っている。
そうして、ベルナール・タピと、ドディ・アルファイドが私の中では重なってしまうのだ。映画の中で、プレイボーイは女からまだ生涯の伴侶《はんりよ》は見つからないの? と聞かれる(彼にはもちろん妻がいる)。
男「あいにくまだだ。伴侶の候補者は大勢いたが。その時は最後の女性だと思うが、結局、続かない。心に残るのは四〜五人だ」
女「何年で?」
男「三十年だ」
女「少ないわね」
男「生涯の伴侶としては多い。結婚したいのは、いつも一緒にいたい女性だ」
女「私はその他大勢の中の一人? それとも選ばれた女になるかしら」
ドディも彼女とこんな会話を交わしていたのではないか。そして万一彼女[#「彼女」に傍点]とドディが結婚したとしても、数年後同じセリフで別の女を口説いているに違いない。大富豪のプレイボーイとは、そんなものなのだ。
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北野 武[#「北野 武」はゴシック体]
北野武監督がベネチア国際映画祭でグランプリを獲得したことに敬意を表して『あの夏、いちばん静かな海。』と『キッズ・リターン』をビデオで見た。以前WOWOWで放映されたのをテープに録ってあったのだ。
『ソナチネ』や『その男、凶暴につき』はちょっとハードそうなので、比較的優しそうな二本だけ選んでみた。
うまい。
はっきり言って、うまいです。映画的センス、間の取り方、登場人物の配置。こりゃまいったねえと言うくらいうまいっす。
特に、『キッズ・リターン』。不良高校生二人組が、一人はヤクザに一人はボクサーの道に進んでゆくストーリーだが、エピソードの一つ一つが秀逸である。
二人組の片割れ、安藤政信演ずるシンジが、ハンサムなくせに馬鹿なのがせつない。いい意味の馬鹿でもなんでもなく、文字通りの馬鹿。根はそんなにワルではないのだが、兄貴格のマーチャンに金魚のフンのようにくっついて悪さを繰り返す。生まれついての子分体質なのだ。おまけに意志が弱くて、強い奴《やつ》や甘い誘惑にすぐ負けてしまう。せっかくボクサーとして芽が出そうだったのに、先輩ワルボクサーに誘われるままに酒やクスリに手を出して自滅してしまう。
このシンジ、とびきりハンサムなだけに、その馬鹿ぶりがより一層|哀《かな》しい。
北野武は、男の作家なのだ、と思う。女の作家は、ハンサムな登場人物を絶対馬鹿には設定しない。勉強はできないけど、本当は頭のいい不良というふうに描いてしまう。でも人生ふと振り返ってみると、ハンサムな馬鹿不良って確かにいたなあ、と、しみじみ思い出してしまう。
シンジとマーチャンを取り囲む脇役《わきやく》達もすごくいい。特に、ボクシングジムの会長と、ヤクザの兄貴。ものすごくキャラクター設定がしっかりしてて、漫画用語で言う〈キャラが立ってる〉状態なのだ。だから、安心してドラマに入りこめる。下手なドラマほどキャラが立ってなくて、
「この登場人物、さっきと性格が変わってる」
と、観客が戸惑ってしまうものなのだ。
『キッズ・リターン』には、かっこ悪い情けない馬鹿な男ばかり出てくる。そんな男たちに注ぐ北野監督の優しい視線が、この映画のテーマだと思う。
音楽もいい。チャカポコ響く軽快なパーカッションが、ドラマをぐいぐい引っ張ってゆく。いいなあと思ったら、音楽は久石譲。なんだ『となりのトトロ』だ。悪いはずないではないか。
この映画の唯一の欠点は、高校を出て、社会に出てからの若者を演ずる役者が、やっぱり高校生にしか見えない点だ。ヤクザにもサラリーマンにも見えない。高校生の仮装大会のようなのだ。まあ、でもそんなこと些細《ささい》なことである。女が重要な役では一人も出てこない所も、逆に気持ちいい。
一方、『あの夏、いちばん静かな海。』であるが、ろうあ者カップルのサーフィンに懸《か》ける一夏の物語である。淀川長治先生は、
「詩ですねえ。ポエムですねえ」
と絶讃していたが、私はこの映画の詩情よりも、サーフィン大会のリアルな臨場感が気に入った。
「そうだろうな。本当のサーフィン大会ってこんな感じだろうな」
と、思わずうなってしまうくらい、淡々とした千葉のサーフィン大会なのだ。仲間うちのたわいない冗談や、大して盛り上がらないレース。作為的なシーンが一カットも無い。それだけに、私まで千葉の海の風や波の音を浴びているような気分になってしまう。逆に、カップルの愛情表現には作為が見えてしまって、あまり伝わってこない。けど、ここでもやたらガタイがいいくせに情けない真木蔵人がいい。
二作しか見てないが、北野武の映画には、張り切ってカッコいい男、頭のいい男がてんで出てこないことに気づいた。
だから、女性ファンがつきにくいのかもしれない(私はファンですが)。
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「浦安鉄筋家族」[#「「浦安鉄筋家族」」はゴシック体]
複雑な人間関係や仕事に疲れてしまったら、思いきり馬鹿馬鹿しい笑いに身をゆだねたくなる。
「もう、何も考えたくないっ」
という気分の時は、ヒネった会話や知的なくすぐりの笑いではなく、暴力的なまでに単純な笑いを身体《からだ》が求めている。
いわゆるベタなギャグ、というやつね。
バナナの皮を踏んづけてすべって転んだところに、建築作業場のペンキ缶が落ちてくる。
あるいは、先生が教室の扉を開けたとたん黒板消しが先生の頭上に落ちてくる。
「コラッ」
と先生が怒鳴ると、さらにバケツが、あるいは金ダライが頭上に落ちてくる。
すでに古典的とも言えるギャグ。
けれど、心身が疲れ切っていると、この程度のギャグで笑い転げてしまうのだ。ちょうど、徹夜|麻雀《マージヤン》で夜明け近くなって発せられた親父《おやじ》ダジャレで笑いが止まらなくなるように。
ベタなギャグコントを文字で書き表わすと馬鹿みたいだが、芸のある芸人が踊りのようにこなしてくれると、時として本当に気持ち良く笑える。
たとえば、志村けん。
彼の「変なおじさん」コントを、私は生涯で何百回見たことか。けど、まだ笑える。オチがわかっていても、笑える。
私は最近、志村けんを再評価しつつある。昭和を代表するコメディアンだったのではないか。日本中の子供を洗脳した影響値は、ドラえもんに匹敵するのではないか。
我が家の子供達が幼かった頃、私はしぶしぶ「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」や「志村けんのだいじょうぶだあ」につき合ったものだ。
加トちゃん、ケンちゃんを見て笑っている子供達に、
「いつまでもドリフ[#「ドリフ」に傍点]を見て笑ってるんじゃない」
と怒鳴り、自分の間違いに気づき、赤面したものだ。
ドリフが加トちゃんケンちゃんになり、やがて加トちゃんも消え、志村けんだけが残った。その志村けんも今はゴールデンからは姿を消してしまっている。
けれど、ゴールデンのお笑い番組のほとんどが、仲間内のゲーム大会やパロディに姿を変えてしまった今、志村けんのベタギャグが妙に恋しい。
日本国民は、子供のうちに、ドラえもんと志村けんを体験しておかなくてはいけないのではないか。それは、公文式やバイエルよりも大切なことだと思う。
じつは、私に志村けん・ドリフを再認識させたのは「浦安鉄筋家族」という漫画なのである。
浜岡賢次作のこのギャグ漫画は、現在少年チャンピオンに連載中のもので、すでにコミックスも15巻まで出ている。私は息子にこの作品を教えてもらうまで、こんな面白《おもしろ》いギャグ漫画があることをつい最近まで全く知らなかった。
「じゃりン子チエ」と「ちびまる子ちゃん」と「稲中卓球部」をミックスしたような作品と言おうか。一口に言ってしまうと浦安に住む小学生グループのドタバタギャグなのであるが、その乱暴なまでのドタバタさは、「トムとジェリー」くらい荒唐無稽《こうとうむけい》である(つまり、ネコがトラックにひかれて紙のように薄っぺらくなり風に飛んで行ったかと思うと、次の瞬間元通りにふくらんで、ダイナマイトを持ってネズミを狙《ねら》っているといったふうに)。
しかもギャグが、全盛期のドリフを思わせるくらいベタなのだ。引っ越しの際、なぜかタンスの引き出しの中にはまってしまった担任の春巻先生が、タンスの引き出しのままべランダから地面に落ちるシーンなど、思わず「懐かしい」と叫んでしまいたいほどドリフしているギャグである。
懐かしいけど、やはり面白い。笑ってしまう。ドリフはギャグの基本なのだと、その時私は膝《ひざ》をパシャリとたたいたのであった。
浜岡賢次は、加トちゃんとプロレスが好きなのだそうだ。確かにその心、作品を読むと伝わってくる。
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『ベント』[#「『ベント』」はゴシック体]
『ベント』。
ゲイの映画である。けれど、私がここ数年見た中で、最高のラブ・ストーリーである。恋愛に感動したなんて、何年ぶりだろう。しかも、ゲイ。
舞台は、第二次世界大戦下のベルリン。ヒトラーのユダヤ人狩りは歴史上有名だが、じつは、同性愛者達も狩られていたのである。そうして、強制収容所に送られた二人の男《ゲイ》の間に芽生えた恋愛が、悲しくも美しく凄絶《せいぜつ》に描かれるのだ。
多分、本物の同性愛者が書いた脚本なのだろう。そうでなければ、ここまで感動できるはずがない。
男と男でも、基本は男と女と同じである。相手に情欲し、独り占めしたくて嫉妬《しつと》する。浮気したといっては、相手を責めたてる。でも、ケンカした恋人が道路に飛び出したとたん、
「馬鹿、危ないじゃないか。道の真ん中を歩くな」
と、怒鳴りつける。愛が深くなくては、出ないセリフである。
主人公マックスの最初の恋人、メガネのダンサーは、私好み。多分、メガネ君が女役なのだろう。彼はマックスに甘えてまとわりつく。ナチスの手を逃れてこの二人が森のドラム缶(?)の中で愛を語り合うシーンは、とても幻想的で美しい。
けれど結局二人ともナチスに見つかり、メガネ君の方は殺されてしまう。彼を見殺しにしてしまったマックスは、罪の意識を背負いながらも、〈生き抜くぞ〉と、決意する。
マックスが強制収容所へ連行される列車の中で出会った男が、ホルスト。後半のマックスの恋人となる。
このホルストは、アタシ的には、メガネ君ほど可愛くない。でも、マックス的にはよかったのだろう。彼は、ホルストに恋をする。
収容所内で二人に課せられた労働は、ただ切り出された岩の山を、右から左へ運び移すだけである。そして、左へ運び終えたら、その山を再び右(元の位置)に戻すのだ。永遠に続く、苛酷《かこく》な単純労働。やつらは俺《おれ》たちを発狂させる気だ、と、マックスはホルストに囁《ささや》く。二人が言葉を交わせるのは、岩を抱えてすれ違うその一瞬と、たった三分間の休憩の間だけである。
けれど、考えてみると、我々の日常だって、似たようなものである。毎日同じようなことの繰り返し。岩を右から左に運んで、また右に戻すだけのようなものだ。その単調な日常を救うのが、〈愛〉なんだな、やっぱり。
「きみに、こうやって毎日会える」
それだけが生きる張りだ、と、マックスは言う。そうなのだ。愛って、結局、そういうことなんだ。
『ベント』が同性愛を扱った映画であるにもかかわらず、女性でも感動できるのは、こういった恋愛の真髄が随所随所で描かれているからに他ならない。
最大の見所は、このマックスとホルストの触れ合わないで達するラブ・シーンなのだが、敢《あ》えてここでは詳細を紹介しない。読者の皆様には実際映画を見て、じっくり味わって欲しいと思う。
考えてみると、男同士の愛の方が、結婚や妊娠に縛られない分恋愛の本質が見え易いのかもしれない。キュートだセクシーだと一目惚《ひとめぼ》れして、君が欲しいとダイレクトに告白し、セックスをする。学歴がいいだの、お金持ちだからなどと、余計な事が一切からんでこない。そのくせ、
「彼って、顔はいいけど、頭は馬鹿そうね」などと、結構手きびしかったりする。ゲイも奥が深い。
ベルリンの夜の歌姫としてミック・ジャガーが登場するのも、この映画の話題である。女装しても、やっぱりミックはセクシー。というか、猥《わい》せつ。あの唇は、何とかならないものか。
『ベント』は、元々は舞台劇だったそうで、ブロードウェイではあのリチャード・ギアが演じている。日本でもすでに、役所広司と高橋幸治のWコウジが(それはちゃうって)一九八六年に演じている。
ただ、収容所の上に広がる青い青い空は、映画でしか味わえないものだと思う。
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ダンベル・ダイエツト[#「ダンベル・ダイエツト」はゴシック体]
九月一日からダンベル体操を始めた。
なぜ九月一日かと言うと、八月の末、夏の家族旅行の写真ができたと夫が差し出したその中に、トドのように膨らんだ私の姿があったからだ。
「太ってるだろう」
夫が、馬鹿にしたように言い放つ。油断して水着写真を撮らせたのがまずかった。おまけに私はゴーグルをつけていたので、まるでサングラスをかけた林家こぶ平のようだった。
ダイエットを始めてもいつも三日坊主で終わってしまう私。だから、いつも「一」のつく日から始めることにしている。そうすると本当に三日で終わることがよくわかるからだ。二年前、元旦から始めてちゃんと三が日で終わってしまったことがある。
「せめて十日、いや二週間は続けたいものだ」。私は、決意した。
こうやって、私のダイエット新学期が始まったのだった。
NHK教育の「おしゃれ工房」で、何年か前ダンベル講座が紹介されていた。その時のテキストがまだ家に残っていたので、さっそくその手順に沿ってダンベル体操を始めた。
「一日十五分、人生を捨てるつもりでダンベルを続けよう。そうすれば三か月後、必ずあなたは変われる」というのが、このテキストのうたい文句である。
九月一日から始めたから、十二月一日までである。十二月には、必ず私は変われるのだ。
「十二月まで。十二月まで」
と、呪文《じゆもん》のようにつぶやきながら、入浴前の十五分をダンベルに充てることにした。
ところが、十五分ダンベルを続けることが、至難のワザなのである。初心者コースを、図解写真の通りこなしても、五分しかたっていない。そのくせ腕は充分疲れ切っていて、もう一順体操を繰り返す気にはとてもならない。もちろん、体重など減りもしない。
じつは、ダンベル開始とともに、タニタの体脂肪測定器も購入したのだ。年齢と身長を入力して、その測定器の上に乗っかると、電流が流れて身体の体脂肪率を測ってくれるというやつだ。
「体脂肪率31%」
と表示された時は、涙がこぼれそうになった(30以上は肥満なのだ)。しかも私は、低い値が出るようにわざと身長を高めに入力していたのだ。
「俺は、22%で、まあ標準だな」
と、腹回り九十センチの夫が笑う。彼は、身長は正直に申告したものの、測定器に乗る時は必ず服を脱いでパンツ一丁になり、少しでも有利な値が出るよう努力をはらう。このへんのセコさは、似た者夫婦である。
夫の知人で、体重百キロで体脂肪率50%の男性がいると言う。となると、五十キロの脂肪を身体につけているのか。十キロの米袋五袋分。それに比べると、31%の私などまだ可愛《かわい》い方だ。
私の周囲でも、タニタの測定器を持っている人間が多く、集まるとその話題で盛り上がる。
「朝は、体重は低く出るが体脂肪率は高く出る」
「くつ下をはいたままだと高く出るので、必ず素足で乗らなければならない」
などと、裏ワザを伝授し合うのだ。そのうち、「タニタ体脂肪率測定器完全攻略本」が出るかもしれない。
ダンベルのあと風呂《ふろ》に入り、タニタで測る。これが、ここ二か月余りの私の日課である。入浴後は、確かに体脂肪率が下がる。お湯に脂肪が流れ出るのか。まさか、油揚げの湯通しでもあるまいし。
続けるうちに、ダンベルのコツもわかってきた。ゆっくりと、休憩を入れながらやるのだ。すると何とか十数分こなせることになる。腹式呼吸をうまく組み合わせると、確かにお腹回りがすっきりしてきた。
ダイエット三日坊主の私が、今のところ二か月以上続けられているのも、ひとえに〈タニタの恐怖〉のおかげだ。おかげさまで、現在26〜27%まで値を下げることができた。体重も九月一日から四キロも落とせた。
「確かに、やせたね。でも、そんなに無理して体重を落とすこともないよ」
と夫が私に言うのは、親切心からか、はたまた体脂肪率で負けるのが悔しいからなのか。
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アイデア商品[#「アイデア商品」はゴシック体]
アイデア商品には、わりとすぐ手が出る方である。
近くの西友で定期的にアイデア市が開かれるので、必ず見にゆくことにしている。新聞のチラシで、
「おお、これはすごい」
と思っても、実際に現物を目にすると、あららーと落胆するものも多い。が、時々掘りだし物に出会えるのでやめられない。
大正解だったのが、アメリカ製の耐熱オーブン中敷きである。一見ただのビニールシートなのだが、高熱に耐え、しかもこびりつかない。お湯で洗えば何度でも使用できる。オーブントースターにも利用でき、これは重宝している。
アメリカ製のキッチンクリップも、とても便利。開封した小麦粉の袋の口や、食べかけのポテトチップの口を押さえるのに使っている。それまでは日本製の洗濯バサミを代用していたのだが、あまりに見た目が貧乏たらしい。さすがアメリカ製のキッチン小物は、色とデザインがとてもよい。
外国製のアイデア商品を生活にとり入れると、何だか暮らしがおシャレで豊かになった気分がするのだが、日本製のアイデア商品を使うと、なぜかどんどん生活感が増してくる。
たとえば、車の中に、ジュース缶ホルダーやティッシュ箱ホルダーを備えると、とたんに車内がお茶の間ぽくなってしまう。確かに便利は便利なのだが。
買って失敗だったのが、缶ビール用中栓。一〇〇〇ml缶だと飲み切れず、といって中身を捨ててしまうのも勿体《もつたい》ない。子供も三五〇ml缶のコーラが飲み切れずに残したりする。そこで、この炭酸飲料用中栓である。この栓でパッキングすれば、中の炭酸が抜けずに、翌日でもさわやかにビールやコーラを楽しめるはずであった。失敗だった。缶の口とこの中栓のサイズが合わず、それを無理矢理押し込んだために、今度は、中栓がはずれなくなってしまい、結局中栓をつけたままその缶を捨てた。
失敗商品を数え出したら、キリがない。
ライトつき耳かき。耳かきの柄のところに取りつけられたライトで、耳奥まで照らされて耳垢《みみあか》がよく見えるという仕組のはずなのだが、ライトが弱いのか、今イチよく見えない。大型懐中電灯で耳を照らしながら耳掃除をする方が、ずっといい。
そもそも、私がアイデア商品にハマったのは、夫の影響である。
テレビを見ていて、面白そうな(便利そうな)商品が、テレビショッピングで紹介されるや、その場ですぐさま電話で注文するのだ。
私は人生において、それまでテレビショッピングで買い物をする人を見たことがなかったので、随分びっくりした。テレビショッピングをする人間は、雑誌の通信販売で、〈これで君もぐんぐん背が伸びる〉といった類の商品をだまされて買う人間と同じ種類だと思っていたのだ。
私の考えは間違っていなかった。
先日、久し振りに夫の仕事場を訪ねたところ、見なれないマットが敷いてある。試しにその上に横になってみると、何やらゴツゴツしていて、寝心地のいいものではない。
「磁気マットレス。腰痛に効くというから通販で二十万円で買ったんだ」
と、夫が言う。
「に、二十万円。それで、治ったの」
と、私が聞くと、
「いや、かえって腰痛がひどくなった」
やっぱり、だまされているのだ。
私は、通販ではだまされないが、店頭で手にとってみて、尚《なお》かつだまされる。だまされるというのは、少し言いすぎだ。同じ品物を重宝している人もいるかもしれないから。アイデア商品は、通販でも店頭販売でも、かなり当たりはずれがある。
とはいうものの、じつは私は学生時代、アイデア商品の店頭販売の実演アルバイトをやったことがある。革に金糸の刺繍《ししゆう》が出来る不思議なペンが、その商品だった。私はデパートの一隅で、そのペンを使ってイラストを描くデモンストレーションを行なったのだ。
何個か売れたけど、あのペン、どうなったかなあ。一個私も買っておけばよかった。
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「甘い結婚」[#「「甘い結婚」」はゴシック体]
一月から新しいテレビドラマが始まった。いくつかを見て、一番ハマッてしまったのが、木梨憲武主演の「甘い結婚」。
木梨は出版社の営業マンで、妻である財前直見がその出版社公募の懸賞小説に応募して、見事栄冠を勝ちとる。
となると、これは日本ホラー小説大賞か。木梨は角川の営業マンか。と、急に親しみを覚えてしまった。
自分の関わっている業界がドラマに登場すると、ついつい興味深く見入ってしまう。
かつて、大竹しのぶ主演「ひとの不幸は蜜《みつ》の味」というドラマがあったが、しのぶの役がワガママな少女漫画の大家ということで、漫画界はこぞってこのドラマに注目したものだ。
「私は違うけど[#「私は違うけど」に傍点]、ああいう女の漫画家、確かにいるわね」
と、当時漫画家仲間で顔を合わすたびに、各々がこのように口にしたのである。私なんかが、絶対あの人がモデルだ、と思っていた人まで、
「ああいう嫌な漫画家いるわよね」
と、平然と口にしていたそうだ。
「甘い結婚」の九十九《つくも》書房は、筑摩《ちくま》書房のもじりか。木梨の配属された営業部は、やけに小ぢんまりとしている。私が知っている大出版社の編集フロアのだだっ広さに比べると、信じられないくらいショボい。
木梨の同僚で、編集マン役に生瀬勝久がいる。
「ああ、いる。こういう編集者」
と、思わず私は叫んだ。いとうせいこう顔といおうか。顔の骨格がゴツゴツしてるくせに前髪をオカッパ風に揃《そろ》え、おシャレなフレームのメガネをかけ、流行を意識したファッションできめている。S英社とK談社に結構、いる。
かつて私は、佐野史郎に関して、
「S潮社に三人はいる顔だ」
と、エッセイに書いて、S潮社に物議をかもした。
今回私は、生瀬勝久に関して、
「K談社に五人はいる顔だ」
と、断言しておく。
となると、私は佐野史郎と生瀬勝久を相手に、日々お仕事をしていることになる。この両者は、間違いなく編集者顔だ。
憲さんのサラリーマン姿もよく似合ってる。少なくとも、キムタクよりは百倍似合ってる。
火・水・木の夜九時〜十時台に、いつも必ず顔を出している財前直見。TBSの常盤貴子に対するフジの財前直見と言ってよいくらい、どのクールでもマメに顔を出す女優さん。その割に印象薄いなぁと私は思っていたのだが、「甘い結婚」に関しては、その存在感の薄さが、
「こういう主婦、いる」
と、リアル感を増す結果となっている。
PTAに出席すると、顔立ちは整って美人なのに、なぜか華の無い主婦がいるものだ。そこそこセンスのいい服を着て、髪も整えているのに、どこか寂し気でおとなしそうな感じ。PTAではいつも、ヤンママ風の茶髪主婦に負けている。それで、嫌と強く言えない性格なので、いつもクラス役員を押しつけられてしまう。財前直見は、PTAでクラスに一人は必ずいる主婦顔だと言っていい。
「甘い結婚」に私がハマる第二の理由は、このような俳優と役がマッチしたリアル感にある。
中尾彬とか川島なお美が出てくると、それだけでリアルがぶっ飛んでしまう。あと、浅野温子とか鈴木保奈美ね。
ぶっ飛んだ話なら、わざとらしさ全開の演技でもOKなのだが、身近な、主婦が共感を抱くような話の場合、リアルさが命だと思う。木梨憲武と財前直見の夫婦。ああ、いそう。ささいな事の積み重ねで、気持ちがズレて行ってしまう妻と夫。ああ、ありそう。
「いったい、俺のどこがいけないんだよ」
と、戸惑う木梨が切ない。悪い人じゃないけど、夫のそういう態度を妻は許せないのよというシーンの描写もうまい。主婦はおそらく、今期一番ハマるドラマでしょう。
と思っていたら、財前をバックアップする出版社のジュニアが、田辺誠一。
「やあ、またお会いしましたね」
と、二回目の終了間近に正体を現わしたジュニア。かっこ良すぎはしないか。少なくとも日本の出版界にこんなジュニアは一人もいない。
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心理テスト[#「心理テスト」はゴシック体]
「先生、いい腕時計してますねえ。それ、気に入ってます?」
と、ある日、アシスタントの一人に聞かれた。私は一張羅のローレックスを十年以上使っている。
「うん。どんな服にも合うし。時々飽きて違うのもはめるけど、結局これに戻るの。少し遅れるけど、困るほど遅れないし、修理に出すのも面倒《めんどう》だから、もういいや、って思ってる」
と、私は答えた。
彼女は、別のアシスタントに同じ質問をする。すると聞かれた女の子は、
「あんまり気に入ってないから、そろそろ別のに替えたいの」
と、答えた。
さらに、三人目に聞くと、
「今は腕時計はめてない。欲しいな、と思っているのはあるけど」
これでおわかりになったでしょう。腕時計とは、現在の恋人もしくは配偶者のことなのである。
私の知り合いの三十代の男性は、Gショックの新作を集めては、自慢気に人に見せびらかしている。いい齢《とし》して、と私は内心思っていた。彼は、モデルやスッチーとも浮き名を流す男だった。いい齢して、とやはり私は思ったものだ。腕時計イコール恋人説は当たっているかもしれない。
毎日身につけるものだし。本人の趣味が色濃く現われるものだし。
ピアジェとか金むくローレックスをつけている成金親父は、やはり、ケバい愛人を連れていそうだ。
金持ちなのに地味な時計をはめている男は、地味で堅実な奥さんが家に居るに違いない。
収入以上に高価なブランド品をローンで手に入れてる人は、ムリ目な恋人に貢ぐタイプなのだろう。
その日の気分や服に合わせて、いくつかの時計をとっかえひっかえする人は、複数の恋人がいるのかもしれない。
だから、この心理テストを自分の恋人に試す時は、ちょっとドキドキしてしまう。
「店で見た時はいいかなと思ったんだけど、見かけ倒しでさ、もう捨ててやろうと思ってるんだ」
などと答えられたら、じつは心理テストで、なんてとても言い出せなくなる。
心理テストのポイントは、それが心理テストだと相手にバレないことである。私に腕時計の質問をしたアシスタント嬢が、彼氏にこの質問をしたところ、
「うん、まあ気に入ってはいるんだけど、俺には最近ちょっと重すぎる気がするんだ」
と、近頃太り気味の彼女をジロジロ見ながら答えたそうだ。気づかれたらしい。
心理テストマニアは、大体テストのパターンを呑《の》みこんでいるので、あまりテストが役に立たない。
先日、心理テストの本を出版するので被験者になってくれと頼まれ、喜んで引き受けた。なんでも、アメリカで流行《はや》っているテストらしい。
「砂漠を思い浮かべて下さい。そこに、キューブとハシゴと、馬を置いてみて下さい」
と、質問された。
キューブは、簡単に思い浮かんだ。白い立方体。一般的である。ところが、馬が問題だった。
「馬あ?」
どうしても、私の頭の中にはみどりのマキバオーしか浮かばない。ウンコと鼻水たらしたマキバオー。ウンコもれるのねーと言いながら、駆け巡るマキバオー。
どうやら、キューブは本人で、馬は恋人か配偶者であるらしいのだが。まともな馬を思い出そうとするが、一度浮かんだ強烈なイメージは、そう消せるものではない。走れー走れーマキバオー♪と、歌まで流れ始めた。
アメリカでは、馬は日常的な動物らしいのだ。西部劇の国だもの。色んな種類の馬が、そのへんの牧場で見かけられるらしい。
お国が違うと、心理テストも役に立たないみたいだ。裸族に腕時計は? と質問しても無理だろうし。馬よりも犬くらいにしておいた方が、的確な答えが出そうである。
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ボキャ天[#「ボキャ天」はゴシック体]
ただの駄ジャレだ、あんなの芸ではない、日本のお笑いは死んだなどと、さんざん〈お笑い通〉にたたかれる「黄金ボキャブラ天国」だが、私は大好きである。「特命リサーチ200X!」と並んで、私が毎週放映を楽しみにしている数少ない番組の一つなのだ。
芸がないと言われるものの、限られた時間内で必ず駄ジャレ落ちをつけるというしばりの中で、いかにキャラクターを確立するか。これって、じつは、すごく大変なことだと思う。
だらだらと三十分漫談を聞かせる芸と、どちらが努力のいることだろうか。
対照的な番組に、NHKで土曜日夕方に放映される「笑いが一番」がある。中年にさしかかった私ですら、
「誰? これ」
と首をかしげる高齢者芸人が、歌謡漫談やら都々逸《どどいつ》の芸を見せてくれるのだが、どこをどう笑ってよいのか私にはさっぱりわからない。それでも公開スタジオの高齢者客は楽しそうにゲラゲラ笑っている。そうか。これはお笑い番組ではなく、高齢者の健康法としての「笑いが一番」という健康番組なのか。
高齢者の健康には、役に立たない「ボキャ天」だが、若者には人気だ。
思うに、あの一種「若者の集い」的雰囲気。わきあいあいとした学生コンパのような楽しさが、学園ドラマを見るような気分にさせるからではないか。審査員席とキャブラー達が二分されているのもいい。ちょうど審査員席が職員室で、教師達が生徒に、
「きみ、今日は今イチだね」
と、説教をする。先生に説教されたら生徒は聞くしかない。たとえ新米の教師にIQ180の天才が説教されても、生徒である限り、聞くしかない。山田まりやに爆笑問題が何を言われても、直立不動で聞くしかないのだ。
厳しい先生(大島カントク)もいれば、優しい先生(糸井重里)もいる。馬鹿先生(川合俊一)もいる。
中には生徒と張り合って、ギャグを連発する先生(清水圭)もいる。いたでしょう、そういう先生って。
今現在の「ボキャ天」は、このように完成された図式の安心して見られる番組だが、初期は違った。
一番最初の、タモリが司会で視聴者が葉書で聞き間違いネタを送る形式のやつは、見ているこっちがハラハラするほどノリの悪い白けた番組だった。それでも、心にひっかかる曲がいくつかあった。
「ああー日本のどこかに
私を待ってる
ヒキガエル(ヒトガイル)」
山口百恵の名曲をバックに、画面に大映しされるヒキガエル。心に残る。
今のキャブラーの水準からすると中玉レベルの内容だが、以来私は「いい日旅立ち」を、
「ヒキガエル――」
と、歌わずにはいられない。
そう。ボキャブラとは、単なる駄ジャレというよりは、聞き違えのおかしさを追求する番組なのだ。
人は、どういう状況でどういう言葉を何という言葉に聞き違え(言い間違え)するとおかしいか。
突きつめると、そういうことなのか。
どういう状況[#「どういう状況」に傍点]とはつまり、ネプチューンのホストクラブであったり、ジョーダンズの金八先生だったりする。
聞き違えられる言葉が、小動物とかラリアートとか、単語としてそれだけで笑いを含んでいる言葉であることも重要だ。
先日、爆笑問題のライブを見に行った。
「レオナルド・ディカプリオ。すごいですねえ。ディカプリオ。ディカプリオって、黒く尖《とが》った磨かれた鉱石って感じだもの」
ディカプリオという言葉から黒光りする鉱石をイメージする太田光の言語センスの良さに私は改めて感心した。九十秒に一回は笑わせてくれる爆笑ライブ(それを八十分続ける)は、まさに名人のパワーを見せつけるものだった。
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ミスター・ビーン[#「ミスター・ビーン」はゴシック体]
去年の夏あたりから、
「ミスター・ビーンって面白《おもしろ》いんだ」
という話を、あちこちで耳にしていた。どこが面白いのと私が聞くと、
「それがね、ヒヒッ、ビーンが教会に行くと、ヒャハハッ、カーッハッハッ、とにかく、おかしいんだ」
と、思い出しながら大笑いし始める人がほとんどだった。で、結局、何がどう面白いんだかさっぱりわからなかったので、自分で確かめることにした。
「とにかく、おかしいんだから」
と、目に涙をためて笑いながら、友人Aが私にビーンのビデオを三巻、貸してくれたのだ。
私の周囲は、
@ビーンは、とにかくおかしい
Aビーンの、どこが一体おかしいのか
の二派に、きっぱりと分かれている。
笑いとはとかく難しく、欽ちゃんを面白がる人、ドリフで笑う人、笑点の大喜利《おおぎり》で喜ぶ人、と、さまざまである。
ビーンの笑いは、おそらく志村けんの笑いに一番近い。
何本か私が見た感想は、ミスター・ビーンは、性格が悪い。バレなければ誤魔化《ごまか》そうとするし、気づかれなければいつまでも他人に悪戯《いたずら》をし続ける。駐車料金を踏み倒そうとするセコい奴《やつ》でもある。
ただそれが、人間誰もが持っている弱味であり、セコさであり、ずるさだから、笑ってしまうのだろう。
キャラクターとしては、クレヨンしんちゃんに似てる。傍《はた》迷惑野郎なのだ。
だから、フザケた人間や悪ガキが嫌いな人には、ビーンは面白くないはずだ。ビーンは、世界中の子供から老人まで楽しめる健康な笑いでは決してない。毒があるのだ。
ビーンの傑作の一つとして、車の屋根にソファを縛りつけ、そのソファに座ったビーンが、モップの柄でアクセルとブレーキを操作して、車を運転するというギャグがある。
アイデアとしては、非常に面白い。さらに、器用に車が動き回るので、感心する。計算し尽くされた理知的なギャグなのだ。
こういった、知性を感じさせるギャグは、往々にして鼻もちならないのだが、ビーンの強味は、彼自身のあの肉体である。
ひょろりと長すぎる手足に、ゴム人形のように表情自在の顔面。その顔がまた、強烈なインパクトの目鼻立ちなのだ。
「なんなんだ、この顔は」
と、平均的な日本人なら、間違いなくど肝を抜かれるはずだ。
ビーン自身の強烈な肉体が、計算し尽くされたギャグを、とんでもない方向に引っ張って行ってくれるのだ。日本において、ビーンが異様にウケる理由は、ここにあると思う。
チャップリンもマルクス兄弟もかなわないビーンの魅力は、あの変テコな顔にあるのだ。
かつて、秋元康さんが、
「どんなにすぐれたコメディアンも、ウド鈴木の容姿に負ける」
と、話してくれたことがある。
女優にとって美貌《びぼう》も実力のうちであるように、コメディアンにとってインパクトのある容姿は実力のうちなのだ。
もしビーンが、ブラッド・ピットの容姿だったら、こんなに人気が出るはずがない(別の意味で人気は出るだろうが)。
そう言えば爆笑問題も、
「どうしても客にウケなかったら、最後は面白い顔をして、笑いをとる」
と言っていた。ビートたけしが変テコな着ぐるみで登場するのも、自在に表情を作れない代償行為なのだろうか。
計算し尽くされたギャグに、計算を超えたものすごい容姿。そこに、磨き抜かれた動きのワザが加わる。
ビーンの、無駄のない肉体の動きは、歌舞伎《かぶき》の名演技のようだ。誇張と省略。そうすることによって、日常見られる何気ない動作が、笑いのネタとなるのだ。歌舞伎が誉めすぎなら、コロッケの物真似芸といおうか。
私がビーンで一番高く評価するのが、このカリカチュアされた体の動きである。ほほう、と、感心してしまう。もっともこれって、正当なお笑いの評価ではないのかもしれないが。
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『タイタニック』[#「『タイタニック』」はゴシック体]
やっと、観ました、『タイタニック』。北川悦吏子さんと一緒に。
じつは、今年のお正月からずっと、
「『タイタニック』観たいね」
と、北川さんと約束していたのだ。が、どうしてもお互いのスケジュールが折り合わず、四か月遅れでようやく映画館までたどり着いたのだった。
アカデミー賞を受賞した直後ということで、客席は相変わらず満パイ。渋谷の映画館ということで、おシャレなカップルが多かった。
私の隣席が、外人男性プラス日本人女性のカップルで、本篇《ほんぺん》の前に上映される次回予告フィルムにいちいち、ペラペラクチャクチャ英語でコメントするものだから、腹が立ってきた。その英語が私には聞きとれないものだから、ますますイライラする。
『タイタニック』が始まっても、その日本女が、
「オウゥ」
とか、
「アウゥ」
とか、大声で英語風にリアクションするものだから、独り言くらい日本語でしゃべらんかい、と、私のハラワタは煮えくり返った。
さすがに、映画が進むにつれ、その女もおとなしくなってきた。
〈私は外人とつきあってますのよ、まわりの日本人ごらん下さい〉光線をまき散らす傍迷惑女が、黙り込むほど、彼女の自意識を黙らせてしまうほど、つまりは『タイタニック』は面白かったということなのだ。
映画の後半になると、観客席のあちこちから鼻をすする音が聞こえ始めた。私は、人から、
「ディカプリオが凍え死ぬよ」
と、前もって教えられていたので、クライマックスの、ディカプリオが海に沈むシーンでは泣けなかった。それよりも、一度はボートに乗って脱出を図ったヒロインが、ディカプリオに会いたいがため、死を覚悟して再び船に飛び移るシーンに、泣けた。愛は死の恐怖より強いのだ。古典的だけど、死をも恐れぬ愛の姿って、やはり人を感動させるものなのだ。
映画を見終わって、北川さんと感想を言いあったところ、やっぱりディカプリオよね、という当たり前の結論になった。
『タイタニック』が全世界でヒットしているのは、ディカプリオが全世界で通用するフェロモンをまき散らしているからだ。
デイカプリオが、
「ぼくは何があってもきみを守る」
と言ってくれれば、嫌な女なんて世界中どこにもいやしない。
一方、ヒロインのローズは、お嬢さまのわりに肉太で、ディカプリオに守られなくてもたくましく一人で生きてゆけそうだと思うのだが。顔も二の腕もいい肉付きで、彼女の方がディカプリオを守ってやれそうだ。
でも、どんなに肉体がたくましくても、男に守られたい願望を持つのが、女というもの。そのへんの女心のツボをうまく押さえたよく出来た映画だ。
三時間余りの長時間大作なのに、少しも観客を飽きさせないのは、ラブ・ストーリーとパニック・ストーリーがうまく描き分けされていて、ちょうど、ラブ・ストーリーを一本、パニック物を一本、合わせて二本の映画を観たような気分にさせるからだろう。
タイタニックが氷山にぶつかってから後のシーンは、ホラーも加わってくる。水中に漂う、白いドレスをまとった女の死体や、凍え死んだまま波間に漂う遭難者達の光景は、夢に出そうである。
タイタニックが垂直に傾くと、デッキをまっさかさまに人が滑り落ちてゆく。何百人も滑り落ちるのだが、その内何名かは、手すりから海にこぼれ落ちてゆく。そのこぼれ落ち方が、私は生理的にダメなのだ。すごく、嫌な感じなのだ。
ラブ・ロマンス、パニック、ホラーと、さまざまな要素を含んだ『タイタニック』は、まさにこれぞ映画中の映画と言える。
隣席の外人かぶれ女も最後は鼻をすすってたし。
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男子高校生[#「男子高校生」はゴシック体]
取材で男子高校生と会った。
と言っても、「ASAYAN」や高校生雑誌に出るようなコ達ではない。
知り合いに頼んで、ごく普通の〈男子高校生〉を四人集めてもらったのだ。彼らは、東京近郊の私立進学男子校の生徒である。
「き、きみたち、ジャニーズJr.?」
と、待ち合わせ場所に現われた彼らを見て、思わず私は叫んでしまった。
実際に、テレビ局で本物のSMAPもKinKiも目にしたことのあるこの私が見まごうほど、彼らは高レベルのルックスだったのだ。しかも、スレてない。髪も短くて黒い。ズボンも腰ではなくウエストではいている。
「お、女の子にモテるでしょう」
私は、興奮した。
「いやあ…」
彼らはモジモジして、身体《からだ》を前後に揺する。緊張すると身体が揺れる落ち着きの無さは、私の中一の息子と同じだ。まだ子供なのだ。お肌もツルンツルンでぴっかぴかなのだ。年増《としま》の私は、生きているのも嫌になった。
「私は、キミたちのお母さんと同じくらいの年だと思うけど…」
それでも私は、精一杯気を取り直して言った。すると、
「いや、ウチの母の方が若いと思いますけど」
と、中の一人に言われ、さらに打ちのめされる。
なんだか、援助交際するおじさんの気持ちがわかってきた。カラオケ二時間つき合ってくれるだけの女子高生におこづかいあげてしまうオヤジの気持ちが、しみじみわかってしまったのだ。
若くて、スレてなくて、国の宝のようなセヴンティーンなのだ。
聞けば、校則が厳しくて、雑誌に載ることもテレビに出ることも、ピアスも茶髪もロン毛も許されないのだそうだ。マスコミの手の届かないところに、宝は埋もれているものなのだ。
「ぼくは、早くおとなになって、先生の描かれるような恋愛をするのが夢なんです」
と、その美少年軍団の一人に言われた時、私はこういうコ達のために死ぬまで漫画を描き続けようと心に誓ったのだった。
自分より若い人間に気を遣うようになったら、年をとった証拠だと言われる。私は、認める。今はもう、まぶしく目を細めて彼らを遠くから眺めるだけなのだ。
中の一人が、彼女と写っているプリクラを持っていると言い出した。
「見せろよ」
と、別の一人が言った。
「やだ」
「なんで」
「だって。オレはお前らと違うもん」
「お前らって?」
「お前らみたいに、見かけだけで、女の子を選んだりしないもん」
「いや、オレらだって…」
「お前ら、絶対、ブスって言うもん」
「言わねーよ」
私は、美少年達のこういうかけあいが大好きなのである。たわいない会話。青春の一コマ。きらめきの瞬間。
結局、渋々彼はプリクラを仲間に披露した。ぽっちゃりして愛嬌《あいきよう》のある女の子が、彼と仲良く頬《ほお》寄せ合っていた。
彼らの男女交際は、長くて半年。せいぜい一、二か月でその多くが終わってしまうらしい。
「だって、デートしても女の子とは何しゃべっていいかわかんなくて超キンチョーして、疲れちゃって、で、結局合わないんだな、って思って」
別れちゃうんだそうだ。
十七歳で、一瞬たりとも女の子の気をそらさない話術を持っている奴がいれば、そっちの方が怪しいと思う。いいんだよ十七歳の恋はそれで、と、私は心の中でつぶやいた。
宝物は、芸能界にはいない。十代から芸能界に入っている男の子は、みんな郷ひろみだと思って間違いない。
宝物は、校則の厳しい私立男子高校にあるのだ。
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家族ドラマ[#「家族ドラマ」はゴシック体]
『タイタニック』以降、ディカプリオ強化月間に入っている私である。池袋のロフトでレオのブロマイドを二枚も買ったし。
WOWOWで『マイ・ルーム』をやっていたので、さっそくビデオ録画した。驚いた。ディカプリオ抜きでも、これは結構なかなかの映画なのだ。
演技陣がまず凄《すご》い。ディカプリオの母がメリル・ストリープで、伯母《おば》がダイアン・キートン。キートンのかかりつけの医師がロバート・デ・ニーロなのだ。
日本でいえば、三田佳子と岩下志麻と高倉健が共演するようなものだ(ごめん。譬《たとえ》が悪かった。二十年前の正月日本映画みたいだ)。
ストーリーは、キートンが白血病にかかり、血縁者から骨髄提供者を探すために仲の悪かった妹のストリープを息子二人とともに数十年ぶりに我が家に呼び戻すというもの。その息子の一人が、ディカプリオなのだ。
ディカプリオは、母の離婚後グレて、矯正院に入っているものの根は繊細で傷つきやすいといった、まあありふれていると言えばありふれた役どころ。
でも、やっぱりキレイ。
どんなにスネた役でも、あのヤンチャな笑顔が浮かんだだけですべてを認めて許してあげたくなってしまう。それが、ディカプリオの魅力なのだ。
映画は、スネたディカプリオが、不治の病の伯母に、次第に心を開いていくといったもので、これまたありふれているといえばありふれているのではないかいと思っていたらとんでもなかった。
「ディカプリオの骨髄がキートンに移植されて、万々歳なんだろうな」
と予測していたら、見事に裏切られた。
結局、骨髄移植可能な血縁者なんてゼロだったのだ。キートンには、ただ、死あるのみ。この事実を知らされた時のキートンの演技が、絶品である。明るく振舞いながら、人の言うことなんか気もそぞろ、と思ったらふとしたはずみにワッと泣き出す。けれど、それも長引かせはしない。
「ああ多分、自分の将来が絶望と知らされたなら、人ってこういう風に振舞うだろうな」
と見る人誰もが思うであろう、圧倒的な説得力を持って訴えてくる。まさに、演技のお手本のような演技。
それは、ストリープにも、デ・ニーロにもいえる。この三者の達者すぎる演技だけでも、『マイ・ルーム』は見る価値がある。
キートンは、独身の中年女性。三十年以上、寝たきりの父の看護にだけ人生を費やしてきた。それでもって白血病である。いいとこ無しの人生なのだ。それでも、
「私はパパを愛して看病してきた。愛する対象を持てた私の人生は素晴《すば》らしかった」
と言って、泣かせるのである。かといって、ただのお涙頂だいドラマではない。全編にユーモアと暖かさが漂っているのだ。
派手なアクションも大恋愛もないけれど、登場人物全員が善良で、見ていてとても気分の良い映画だった。
さて、『マイ・ルーム』が家族の善意のドラマだとすれば、『スウィート・ヒアアフター』は、家族の奥にひっそりと潜む悪意のドラマである。
九七年度カンヌ映画祭グランプリ受賞作である『スウィート・ヒアアフター』。タイトルを直訳すると、「穏やかなその後」となる。
小さな町のスクールバスが、子供達二十数名を乗せたまま湖に転落し、たった一人の生き残りの少女ニコール以外全員死亡してしまう。その町に、バス会社に損害賠償させるための訴訟を起こすべく、有能な弁護士がやって来る。訴訟は成功するかのように思われたが、ニコールの、実の父に対する憎悪がすべてを逆転させてしまう。
恐いのは、その逆転の瞬間まで、父が我が娘の憎しみに気づかないという点である。娘も、その一瞬まで気配すら見せない。仲の良い父娘と思って見ていた観客もど肝を抜かれてしまう。
『スウィート・ヒアアフター』は、映像も凝っているし構成も難解である。が、単純に感動したいなら、『マイ・ルーム』の方がお勧めである。
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山崎まさよし[#「山崎まさよし」はゴシック体]
私の同年代の女性の間で、とみに人気の高いのが、山崎まさよし。
三十五歳過ぎてGLAYのファンはそうはいないが、山崎まさよしファンは結構、いる。なぜ、山崎まさよしが年増女を引きつけるかというと、彼には〈お姉さんがかまってあげたい光線〉が備わっているからなのだ。
クシャクシャの髪。
ヨレヨレのチェックのシャツ。
ボーッと半開きの口。
「ああ、もう、ちゃんとしなさいっ」
と、お姉さんはイライラしながら彼の髪をクシでとき、シャツにアイロンをかける。イラつきながら、でも、そうやって出来の悪い弟の世話をしているアタシって好き。そんな、女の心の奥に潜む姉性本能(こんな言葉あるのかしら)を刺激するのが、山崎まさよしなのだ。
逆に優秀すぎる弟くらい可愛《かわい》くないものはない。
ガリ勉君タイプで、やたら成績が良く博学でクール。
「お姉ちゃん、それ間違ってるよ。そんなことも知らないの」
などと言われた日にゃ、姉はグレるね。
我が家には四つ違いの姉弟がいるので、観察すると実に面白い。弟というものは、生まれたその日から姉のおもちゃである。
姉が機嫌のいい時は、お気に入りのお人形のように可愛がる。抱っこしたり、頭|撫《な》でたり、チュウをしたりと、まさに猫っかわいがりである。
けれど、虫の居所が悪くなると、わざと置き去りにしたり、部屋に閉じ込めたりして赤ん坊を泣かす。弟に非があるわけではない。姉の気分次第で、いじめ尽くすのだ。
もう少し大きくなると、おませな女の子は、言葉で弟をなぶる。
「ゲームばっかりやって、ばかじゃない。マリオがキノコ食べて、何が面白いの」
とまあ、趣味をけなされているうちはまだしも、
「ジュニアの滝沢くんに比べて、あんたは何てブサイクなの」
と、いちゃもんのような悪口まで浴びせかけられる。
それでも、弟は耐える。幼い時の四歳の年齢差は、絶対なのである。
気の強い、口の達者な女性にとって、ベスト・パートナーとなるのが、この弟タイプである。
幼い頃から傍若無人な姉に耐えて仕えてきた弟にとって、気が強くてワガママな女性とつき合うことは苦も無いことなのだ。
男兄弟の中で育った男と、姉を知っている男とでは、まるで女性の理解度が違う。男兄弟グループは、とかく女を美化しがちで、イメージの中の美少女を追い求める。一方、姉に虐げられて生きてきた弟グループは、女に夢を求めないぶん、現実の女性に優しい。
山崎まさよしの曲に、「セロリ」がある。育ってきた環境が違うから、好き嫌いは否めない。でも、きみが好きというならぼくも頑張ってセロリを食べてみるよ。という意味の歌詞は、まさに「弟」の歌。
ぼくは頑張って、きみに合わすよ。
これが、「弟」の基本パターンなのだ。
「セロリ」が、SMAPによって歌われた時、草薙剛がメイン・ボーカルだった。通常、メインはキムタクである。けれど、キムタクは絶対、女に合わせてセロリを食べたりはしない。そこで、SMAP内で一番、弟度の高い剛がメイン・ボーカルとなったのだろう(でも、実際は、剛は弟のいる長男。イメージだけの弟なのだろう)。
山崎まさよしに、姉が実在するのかどうかも知らない。けれど、現実の家族構成がどうであれ、生まれついての弟気質の人間もいるのではないだろうか。子供を持たなくても母性本能の強い女性が存在するように。
「One more time, One more chance」を聞くと、山崎まさよしが、いかに優れた詩人であるかよくわかる。
ボサーッとしてるけど、実は才能がある。こんな弟が、姉にとっては最高なのだ。
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『恋愛小説家』[#「『恋愛小説家』」はゴシック体]
『恋愛小説家』というタイトルから、甘い恋愛映画を期待すると大間違いである。これは、一人の偏屈な中年男が、徐々に人間性を回復し、人生って素晴らしいと実感する、再生のドラマなのだ。
異常なまでの潔癖症で、毒舌家の恋愛小説家を演ずるのが、ジャック・ニコルソン。なんであんなに女性をうまく書けるんですかっというファンの問いに、「最低の男を想像して書くのさ」と答えるような、シニカルな奴《やつ》である。
ゲイにむかってはオカマ野郎、黒人に対してはあの有色人種、ユダヤ人には鼻のデカいユダヤ、と、言いたい放題なのだ。日本のテレビドラマでは絶対放送禁止の差別用語連発である。
けれど、ニコルソンのそのひどい毒舌が、彼の繊細さゆえの病癖であることが、やがてわかる。彼は、憎まれ口でしか人と対話できないのだ。
記者会見で人を食ったような発言しかしない中田のようなものだ(ちょっと違うか)。
ニコルソンが、ただの無神経な悪人ではないことは、映画のちょっとしたシーンや、彼の微妙な表情の曇りで伝わってくる。このへんが、すごく上手である。
神経症的で、シニカルな男といえば、ウッディ・アレンを連想する。確かに、この『恋愛小説家』の役は、ウッディ・アレンでも良かったような気もする。いや、アレンだとはまりすぎて、逆に面白味に欠けたことだろう。
ニコルソンには、愛嬌《あいきよう》がある。
どんなに憎たらしい役でも、どこか憎めない可愛らしさを感じてしまうのだ。それはちょっとした戸惑いの表情であったり、無邪気な笑顔だったりするのだが。
世の中には、同じ行動をとったとしても、世間から許されるタイプと許されないタイプがある。たとえば、飲酒運転で捕まることや、ノーパンしゃぶしゃぶに行くことが許される男と、許されない男が、いる。
官僚は許されない(許したくない)が、ビートたけしや勝新太郎、あるいは長嶋茂雄は許されると思う。ちょっとしたルール外しは大目に見てもらえるこれらの男の共通点は〈茶目っ気〉である。茶目っ気があるとないとでは、男の人生は大きく異なる。茶目っ気さえあれば、そこそこのことは許してもらえるのだ。
そうして、アメリカ映画界の茶目っ気代表が、J・ニコルソンなのだ。
『シャイニング』は置いておくとして、『愛と追憶の日々』『イーストウィックの魔女たち』などで見せた演技は、まさに茶目っ気あふれるものだった。
『恋愛小説家』の中で、ニコルソンの恋するウエイトレス役のヘレン・ハントが劇中で「なんてハンサムな人なのかしらと思ったわ」と告白するくらい、そもそもはニコルソンはハンサムなのだ。
ハンサムでセクシー。けれど頭が薄い。ここに彼の茶目っ気の秘密があるのかもしれない。
さて、ニコルソンのオスカー演技が最大の見ものの『恋愛小説家』ではあるが、ラブ・ストーリーとしても心打つセリフが随所に光っている。
ハントが、ニコルソンの求愛に対して、
「でも、あなたはあたしのことは何にも知らないくせに」
と、突っぱねると、彼はこう答える。
「きみの息子に対する愛ある接し方を見れば、きみがどんなに素晴らしい女性であるかが、よくわかる。レストランの客は誰もきみが素敵《すてき》だということに気づいていないが、ぼくはきみが世界一素敵な女性だということに気づいている。そんな自分を誇らしく思う」
こんな風に口説かれたら、どんな女でもイチコロですよ。
こうして子持ち中年女と、偏屈な中年男のラブ・ストーリーはハッピー・エンドを迎えるのだが、ニコルソンことしで六十一歳である。子持ちの中年女って、還暦過ぎの男にしか見初められないってこと?
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夢の話[#「夢の話」はゴシック体]
私の仕事場では、よく夢の話が話題に上る。世の中には夢をまったく見ない人もいるらしいが、漫画関係者は、みんなよく夢を見る。それも起伏のあるストーリーで。
私のアシスタントのA子は、夢の中で記憶喪失になって道端に倒れていた光GENJIの山本くんを助け、二人は恋に落ち、でも記憶の戻った山本くんに、
「あなたはみんなの光GENJIよ。私のことは忘れて。ステージに戻って」
と告げたそうである。
私も、よく芸能人の夢を見る。
最近では、三浦カズが出てきた。ちょうどカズがW杯最終選考に落ち、監督に「帰れ」と言われた頃である。
私はそれまでは、アンチ・カズ派であった。サッカーのことは詳しくないが、あのイタリアン・ファッションと、一文節ごとに〈ネ〉をネ、入れるネ、(という感じの)トシちゃんしゃべりが気になっていたからだ。
だから、カズの代表落ちのニュースを聞いても同情もしなかった。
ところが、夢の中で、傷ついた瞳《ひとみ》のカズがぎゅっと私を抱きしめるではないか。基本的に私は、傷ついた瞳の男に弱い。自信満々の男には興味はないが、プライドを傷つけられた男の哀《かな》しい瞳にグラッとくるのだ。サドなのか。私は。
おそらく、空港で記者会見を開いた時のカズの涙目が、私の深層心理にインプットされ、夢となって現われたのであろう。
それ以来、私にとってカズとは、〈意外といい奴〉なのである。
東野幸治と「ときめき二泊三日」に行く夢も見た。
「私の場合、たまーに芸能人と対談したりするので、夢に芸能人が出てきてもそんなに違和感ない事に納得できるでしょう?」と、私はいつも仕事場で夢の話をしながら、アシスタント達に話しかける。
「でもね、あなた達は、芸能人が出てきた段階で夢と気づくべきだと思うけどな」
するとアシスタントに返された。
「先生だって、恐竜に襲われた段階で、夢と気づくべきだったんじゃないですか?」
そうなのだ。私は、巨大な怪獣に街を破壊され、ガレキの下に生き埋めになる夢もよく見る。
こういう夢の話ってつまんないですか?
「他人の見た夢の話くらいつまらないものはない。面白がってるのは、本人だけだ」
と、よくいわれる。
じつは私もずっとそう思っていた(そのわりには、アシスタントに夢の話を語って聞かせていたが)。
そんなある日、MTVをつけると、奇妙なアニメ、イラストレーションが流れていた。
「それでね、ドアを開けるとね、巨大な妹が立っていて、その妹がどんどん、どんどん膨らんじゃって、パアンと裂けたと思ったらワニがスポーツ新聞読んでるの…」
といった風な、つまり夢の状況が、淡々と素人っぽく語られ、それに合わせて、イラストレーター(カオルコとかの)の描く絵がアニメーション化されて動くのだ。
これが、すごく面白い。
プロの考えるアニメーションなど及びもつかない展開となっているのだ。
夢って、やはり面白いのだ。ただ、他人の話す夢の話がつまらないのは、それを話す人の話し方が下手だからに過ぎない。
巨大な妹が膨らんじゃって、と、いきなり話しかけられても、少しも面白くない。それが、うまく構成されたアニメーションとして表現されると、とても面白いのである。やはり、絵の力ってすごい。つまり、夢とは、映像なんだな。見る[#「見る」に傍点]といわれるくらいだし。まっ暗闇《くらやみ》で声だけ聞こえる夢というのもあまり聞かないし。
一時期、私は夢日記をつけていたが、すごく疲れるので、やめた。夢うつつというくらいだから、寝床の中で、さっきまで見ていた夢をぼんやり振り返るくらいの方がいいのだ。
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『ムトゥ 踊るマハラジャ』[#「『ムトゥ 踊るマハラジャ』」はゴシック体]
数年前、バリ島に旅行した時のことである。ホテルの部屋に据えつけられたテレビのチャンネルをパチパチ切り替えていると、なんとも奇妙な映像が目に飛び込んできた。
踊りまくるインド人、である。
寺院の庭や、畑のあぜ道で、突如、男も女も何かに憑《つ》かれたように激しく踊り出すのだ。
どうやらインド製の映画らしいのだが、もちろん言葉もわからないし、インパクトは強烈であったものの、そのまま他のチャンネルに切り替えてしまった。
そうして、ようやく私は『ムトゥ 踊るマハラジャ』に出会ったのだ。これは、劇場本邦初公開のインド製大娯楽映画である(と、思う)。
インドと聞くと、何やら暝想《めいそう》的な国を思い浮かべる。哲学的で、信仰厚くて、奥が深そう。神秘の国、というイメージを私は持っていた。
思いっ切り、ひっくり返りましたもんね。「ムトゥ」を見て。香港B級映画なんかぶっ飛んじゃいますもん。ルー大柴とジュディ・オングと大映ドラマをごっちゃまぜにしたかのような、濃くて熱くてなんじゃこりゃ、のトンデモ世界が、そこに繰り広げられていたのだった。
主役のムトゥ役のラジニカーントが、すごい。一説によると、インドの国民的大スターらしいのだが、私にはどう見ても吉幾三にしか見えない。これが、インドのハンサムなのか。いや、その辺のインドカレー専門店の厨房《ちゆうぼう》には、もっとハンサムなインド人がいっぱいいる。
その吉幾三が、歌い、踊り、アクションをこなし、ラブ・ストーリーまで演じるのだ。歌に合わせて、数十名のバックダンサーが、踊る、踊る。それもインド民謡などではない。マイケル・ジャクソンの「スリラー」ふうダンスなのだ。この踊り狂う数十名のインド人を見るだけでも、この映画は価値がある。
この映画の主題歌であるインド歌謡曲が、日本人の私の耳に妙になじむ。アジアンと欧風ポップスがうまく融合すると、こうなるのか。
映画のヒロインは、ミーナという、これもインドの国民的女優らしい。こちらは、間違いなく美人である。赤ん坊からお年寄りまで、誰の目にもはっきりとわかる美人=Bこの人は、映画のプロモーションで「笑っていいとも!」にも出ていた。
映画のストーリーは、大富豪の一使用人に過ぎないムトゥが、ご主人様が一目惚《ひとめぼ》れした女優ミーナと、いつしかいい仲になってしまうというたわいないものだが、こんなたわいない話なのに、やたら長い映画である。
ムトゥが馬車に乗って歌いまくるオープニングだけで、優に十分はある。それも同じフレーズの繰り返し。
車輪止めがはずれているのに気づかずに、ついに馬車がバラバラになってしまうというギャグに、五分以上かけている。
ムトゥとミーナが恋に落ちるや、村人総出で踊り始め、ここでも五分。
やはり、悠久の地インドなのか。この気の長さは。
ギャグのベタさ、編集の手際の悪さはあるにしても、何とも幸福感あふれる映画である。
満面の笑顔で乱舞する数十名の男女を見ていると、こちらまで幸せな気分になってくる。
「娯楽映画は、こうでなくっちゃ」と、心から思えてくる。
豪華|絢爛《けんらん》。抱腹絶倒。そして、パワー。ヨガや瞑想といった私のインドに対する先入観は、この一本の映画で見事に打ち砕かれたのだった。
一介の使用人が主人公というのも、すごい。カースト制度の残る国では、これが精一杯の庶民の夢なのか。
知られていないが、インドは映画大国で、年に八百本もの映画を製作しているという。一日に二本以上の割合だ。「ムトゥ」は、屋外ロケのロング・ショットを多用した大作で、かなりの人手と元手がかかっているはずだ。エキストラの数もハンパではない。こんなのが年八百本!?)。恐るべし、インド映画。
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「北の国から」[#「「北の国から」」はゴシック体]
毎年毎年、「絶対見るんだ」と心に決めているわけではないのに、ついつい見てしまうのが「北の国から」。
ほんの五、六分見てみようかと思ううちについつい引き込まれ、結局全部見てしまうのだ。決して速いテンポではないのに、先を見ずにはおられない、目が離せない、という気持ちにさせてしまうのは、さすが倉本聰の脚本である。
さて、今年の「北の国から'98」は、不倫の子を身ごもった蛍の結婚話がメインであった。
その身重の蛍を、丸ごと引き受けてやろうとする正吉が、とても良かった。子役の大多数は、子役時代にその栄光を使い尽くしてしまうものなのだが、正吉は成長してからの方が圧倒的にいい。
それにしても、ジュン。
どうしたんだ、ジュン。
最初のシリーズから、十数年間見続けている私にとって、ジュンはどうにもはがゆい。
五郎サンに連れられて富良野《ふらの》へやって来た頃のジュンは、都会的でナイーブで頭のいい少年だった。父に対する批評的な眼差《まなざ》しが、作品の核≠ニなっていたはずだ。
それが成長するに従って、田舎のつぶやき兄ちゃんになってしまった。
つきあう女が、これまた良くない。
横山めぐみは、典型的学生時代のアイドル。年とるにつれて輝きを失う、それでも昔の面影を男は追い続ける。いるのだ、こういう女って。年とってから努力で輝きを身につけた女から見て、一番腹が立つのがこのタイプ。
それでも、横山めぐみは、まだ良しとしよう。
問題は、裕木奈江と宮沢りえである。
何故、不幸を背中に貼《は》りつけたようなこの手の女とばかりジュンはつきあうのか。
不幸が貼りついているといえば、蛍も然《しか》りである。この三人、つまり、「北の国から」の若手女優陣は、同じ色をしている。ついてなさそうな色といおうか。対照的に「ボーイ・ハント」の観月ありさと瀬戸朝香は、めっちゃついてそうな運の強さを感じる。でも、ありさも朝香も絶対、「北の国から」には出ないだろうな。
ついてなさそうな人々に、次々と不運が訪れる。――これがつまり、「北の国から」なのである。
それなのに、なぜ、こんなに毎年多くの人々が、この番組を見てしまうのだろう。
結局、日本人て泣き≠ェ好きなのだ。
つけ加えるなら、田舎の自然≠熏Dきである。
七時〜八時台のバラエティの多くが、涙のご対面≠ゥ旅モノ≠ナある(旅といっても海外のゴージャスなものではなく近場の温泉巡り)。
バブルがはじけて、近頃ますます、日本人にこの傾向が強まっている。
田舎の美しい景色。真面目《まじめ》に生きているのに、不幸が次々襲うついてない人々。けれど、そこには都会では失われた人情≠ェ息づいている。
日本人の好きな話ですな。
「泣いてばかりいるなーっ」
と、テレビ画面に叫びながらも、やっぱり見てしまう「北の国から」。
去年の夏、家族で北海道旅行をした時、昼食をとった富良野のホテルのロビーで、「北の国から」パネル展が開催されていた。でも北海道の人々は、
「ワシらはこんなに暗くはなーい」
と、怒ってはいないのだろうか。
ところで、今回、宮沢りえのしゃべり方が、蛍のしゃべり方に瓜《うり》二つになっていたことに気づいた人も多いのではないだろうか。ささやくように、息を吐きながらゆっくりしゃべる、あの独特の「北の国」しゃべり。
そうだ、もう一人、あのしゃべり方をする女がいた。「冷たい月」の中森明菜である。明るく笑えば笑うほど痛々しくなってしまうあの演技。
不幸は、声の小さな女に訪れる。運をつかむにはとりあえず大声を出してみよう。
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乗客ウォッチング[#「乗客ウォッチング」はゴシック体]
近頃、対談や委員会の仕事で、外に出る機会が多い。そんな折は、必ず電車を利用して、乗客を観察することにしている。
夏休みに入って、顔黒《がんぐろ》高校生が一車両に二グループの割合でいる。そして、顔黒高校生が、乗車中に携帯で話す確率は八割以上と言っていい。
「携帯電話は他のお客様の迷惑になる場合がございますのでお控え下さい」などという丁寧なアナウンスなど、完全無視である。
西武鉄道、なんて弱気な警告なんだ。
「携帯、使うなっ」
と、怒鳴るアナウンスでもいいと思うのだが。
かつて、山手《やまのて》線のホームで電車を待っていた時のことである。
「まもなく列車が入りますので白線の後ろまで〜下がれっ。下がりなさいっ[#「下がりなさいっ」はゴシック体]」
と、語尾を絶叫するアナウンスを私は聞いた。
「携帯、やめなさいっ[#「やめなさいっ」はゴシック体]」
と、絶叫する車内放送があっても許されると思う。
駅のアナウンスで驚いたのは、丸ノ内線である。
「駆け込み乗車は危険です。
四分待てば、必ず座れる丸ノ内線。地下鉄で四分間隔で発車するのはこの丸ノ内線だけ。
四分待てば必ず座れる丸ノ内線を今後もご利用下さぁい」
と、浪曲語りのように節をつけて繰り返すのだ。このアナウンス担当者、有楽町線に異動になったらどうするのだろう。
「埼玉から、乗りかえなしでディズニーランド方面に行けるのは、この有楽町線だけ」
とでも自慢するのだろうか。
私が生まれ育った徳島には電車が走っていなかったので(JRは、ある。ただし二両編成)、上京して二十年以上たつ今でも、電車に乗るのが嬉《うれ》しくてしょうがない。
乗客同士の会話に耳を傾けると、人生が各々かいま見える。
主婦同士は、姑《しゆうとめ》や兄嫁の悪口を言い合ってるし、おタク若者二人連れはカン高い声でコンピューターの専門知識をひけらかし合っている。サラリーマンはスポーツ紙から目を上げず、大学生はウォークマンを聞きながら「少年マガジン」を読む。
まるで、人生のるつぼである。
サラリーマンと主婦とおタク若者の服装は何年も変わらないが、若い女の子は、毎年くるくると流行が変わる。
去年の夏は金時さんルックで、その一年前はヘソ出しミニスカートのアムラーが大勢いた。今、へそ出して白いブーツをはいている女の子がこの東京にいるだろうか。あの白いブーツはどこに行ってしまったのだろう。
そう言えば、ワンレン・ボディコンのお姉さんもバブル崩壊とともにすっかり姿を消した。今ボディコンのスーツを着ているのは、オカマのお姉さんだけである。
そんな流行の移り変わりをしみじみと味わいながら、電車に揺られるのが私は好きである。
電車内のカップルが、また一段とすごい。一時期ほど電車内|接吻《せつぷん》の馬鹿ップルは見なくなったが、それでもイチャつくカップルは跡を絶たない。
先日も、私の目の前で腰をすり合わせてウットリ見つめ合い、髪を撫《な》で頬《ほお》に触れてもうたまらんわのイチャつきカップルがいたのだが、夏休み真っ最中の昼間ということで、途中の駅からお子様軍団がワイワイと乗り込んできた。
小学校一、二年と思われるお子様軍団五、六名は、ぐるりイチャつきカップルを取り巻き、容赦なくジロジロと見つめ始めた。
「いいぞ、お子様軍団」
私は、心の中で拍手を送った。
「もっとジロジロ見つめて、少しは恥というものを味わわせてやれ」
けれど、私の心のエールは、お子様軍団の付き添いお母様にかき消された。
「さあさ、そんなところに固まってちゃいけません」
悪いモノを子供の目に触れさせないように、子供達を扉の方へ追いやったのだった。私は、自分の子供が小さい時、車内でイチャつくカップルがいれば必ずそちらに向かって解き放ったというのに。
とにかく電車内にはドラマがあるのだ。
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『スライディング・ドア』[#「『スライディング・ドア』」はゴシック体]
グウィネス・パルトロウと聞いて、まず思い出すのが、元ブラッド・ピットの婚約者。結婚直前とまでいわれていたのだが、突然の破局。胸を撫で下ろしたブラピファンも多かったのではないだろうか。
かくいう私も、その代表の一人。
映画『セブン』で、ブラピの妻役の彼女を見た人間の多くは、
「こんな地味な女が、なぜブラピ様の婚約者!?」
と、ど肝を抜かれたはずだ。
シャロン・ストーンやデミ・ムーアならともかく。ジュリエット・ルイスでも許そう。でも、なぜ、グウィネス。名前だって変だ。カエルの鳴き声みたいな名前だ。あるいは魔女か。グウィネス。変な響き。
ところが、今秋公開されるグウィネス主演の映画『スライディング・ドア』を見て、私の考えは一八〇度転回した。
チャーミングだ。
グウィネスは、無茶苦茶キュートで可愛《かわい》らしい。
「ブラピも、こんないい女を、惜しいことしたもんだ」
とまで、私は思うに至った。
映画そのものが、グウィネスの魅力を引き立てるためのストーリーとしか思えない。
目の前で扉が閉まったため、地下鉄に乗り遅れてしまったヒロイン、ヘレン。彼女がもし、地下鉄に間に合っていたら……。
このもしも[#「もしも」に傍点]話が、もう一つのストーリーとして同時進行していく凝った仕掛けになっている。こういうファンタジーは、ややもすると興醒《きようざ》めするケースが多いのだが、この映画は、構成のうまさで上手にカバーしている。
観客にわかりやすくするためか、一人のグウィネスは、髪をブロンドのショートにする。このヘア・スタイルが、とにかくかっこいい。小作りな彼女の顔を引き立てている。
そう、彼女の顔は、外人にしては小作りなのだ。だから、『セブン』で見た時も、
「地味な顔」
と、日本人の私達は感じたのだ。
ところが、外人にとって、小作りこそ美人の条件なのだ。彫りが深すぎ、鼻がデカすぎる西洋人にとって、小さく整った目鼻立ちこそ美人の条件であるらしい。日本とは全く逆なのだ。平板な顔の日本人にとって、くっきりした目鼻立ちは憧《あこが》れのマト。鼻は高く、目は大きくなければならない。
この辺の東西の差を理解しておかなければ、
「なぜ、あんな地味顔ー?」
という誤解を生み出すのだ。
『スライディング・ドア』でも、グウィネスの恋敵、リディア役の女優は、プレイボーイ誌のグラビアに出てきそうな大ぶりな美人。どこかジャクリーン・オナシスにも似ている。目の離れたコマ犬顔だ。私なんか彼女の方が華やかな美人と思うのだが、映画の中で、
「ヘレンは、美人ね」と、リディアが話すシーンがある。
グウィネス・パルトロウは美人なのだ。やはり。
そして多分、スチール写真ではわからないと思うが、彼女の表情が実にチャーミングなのである。多分、これからも、どんどん良くなる女優さんだろう。映画の中で、動きの中で、輝く女性なのだ。
それにしても、この映画で輝いているのは彼女だけである。
相手役の男が二人とも、いかにもサエない。グウィネスと同棲《どうせい》中で、リディアと浮気する作家志望のジェリーも、乗り合わせた地下鉄で偶然出会うジェームズも、両方ショボいのだ。
せっかくヒロインがこんなにチャーミングなのに、相手がこれでは、女性観客は納得できない。
いや、どちらか片方が魅力的すぎると、ラストが読めてしまうので、同じくらいショボ男にして、最後まで結末をわからなくするという演出にしたのかもしれない。だとしたら、すごい。
ラストのどんでん返しは、プロの話の創り手である私も、唸《うな》りました。うーむ、このテがあったのか。
皆様は劇場でお確かめ下さい。
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ディズ二ーランド・LA[#「ディズ二ーランド・LA」はゴシック体]
夏休みをとって、家族でロスのテーマパーク巡りをした。
ユニヴァーサル・スタジオと、ディズニーランドである。
「日本より広くて、でもすいてる」
という評判のロス・ディズニーランド。違いましたね。すいてるどころか、日本以上の混雑ぶり。二時間待ちもザラ。クマのプーさんの着ぐるみと記念写真を撮るためだけにも行列。
おまけに、九割は、日本と同じアトラクションなので、
「なんだかなー」
という感じであった。
日本とロスのディズニーランドの差異を挙げると、その第一は、開園時間の長さである。VIPパスポート(観光外国人は殆《ほとん》どもらえる)を持っていると、朝六時半から入園できるのだ。もちろん、アトラクションも営業している。正規入園開始時刻の八時半まで、VIPは並ばずに遊べるのだ。と思っていたら、七時半頃からもう混み出し、一番人気と言われる〈マッターホルン・ボブスレー〉に五十分の行列で待った。これは、日本には無いアトラクションだったので、大いに期待したのだが、ただの寝そべった〈ビッグサンダー・マウンテン〉であった。スリル度は、花やしきのジェットコースターレベル。今回の旅は、三泊五日という強行軍である。その貴重なロス滞在時間の、五十分もを、このあっ気ないアトラクションの時間待ちに費やしたかと思うと、何とも侮しい。
ロスにあって、日本には無いアトラクションは、この〈マッターホルン・ボブスレー〉の他に二、三個しか無い。〈インディ・ジョーンズの冒険〉と〈サブマリン〉、あと、子供向けのオートモービル。
〈インディ・ジョーンズ〉は、ジープで揺さぶられながら暗闇《くらやみ》の洞窟《どうくつ》を探険するのだが、これはまあ、期待に応《こた》えるものだった。ハリソン・フォードの人形が隅々に立ってて手を振ってくれるのもご愛嬌《あいきよう》であった。〈サブマリン〉は、ぜーんぜん期待しなかったのだが、意外と面白《おもしろ》かった。ま、要するに人工池の中を潜水艦がもぐるだけなのだが。
日本にもあるが、少し様相が違うのが〈スプラッシュ・マウンテン〉。日本のは、横に二人並びで座るのだが、ロスのそれは、縦一列の席しか無い。しかも安全ベルトが、無い。心無しか、日本の滝より急傾斜に思える。〈マッターホルン〉の方にも安全ベルトは無かった。いいのか、これで。
行列しながら見物すると、外人(彼らからすれば、私達こそガイジン)が、キャーキャー大声を上げながら滝を滑るのが面白かった。ホラー映画を見ても、外人のキャーは、日本人のキャーより数段|大袈裟《おおげさ》である。滝を滑る時の絶叫も、
「何も、そこまで」
と私達があきれる程のものであった。そのくせ、滝のしぶきにずぶ濡《ぬ》れになっても平気である。彼らの神経は、どうなっているのだろう。
安全ベルトが無いのも驚きなら、客がずぶ濡れになってもフォローが無いのがカリフォルニア式。日本の〈スプラッシュ・マウンテン〉は、落下しても、絶対客はずぶ濡れにはならない。日本のは、修学旅行の生徒の学ランが濡れないよう配慮してあるのだろうか。
その他、ロスと日本の差を挙げると、ロスでは圧倒的に家族連れの客が多い。日本のディズニーランドのカップルの多さに比べると、よくわかる。最も典型的なのは、オハイオのトラック運転手(多分)の父親に、昔は美人だったであろう太っちょママ。それに、二、三人のチビッ子たちといった家族連れである。どの家族も、パパは屈強で(腕に入れ墨率、高し)、ママは太っちょだ。両親共に太っちょで、子供も太っちょ家族というのも、多い。とにかく、太っちょだらけだった。私なんか、彼らに混じると、きゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]の部類に入る。
疲れたのでレモネードを頼むと、子供用バケツサイズの器にたっぷりのが出てきた。これでは、太っちょにもなるというものだ。
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ユニヴァーサル・スタジオ LA[#「ユニヴァーサル・スタジオ LA」はゴシック体]
前回のディズニーランドに続いて、ロス・シリーズ第二弾! 「ユニヴァーサル・スタジオ」である。
ここは、ユニヴァーサルという映画会社が使い古しの映画のセットを利用して、映画好きの皆さんに楽しんでもらおうというテーマパーク。いわゆる京都|太秦《うずまさ》撮影所のアメリカ版である。
と思ったら、とんでもない。
迫力が違うのだ。セットのスケールが違うのだ。さすがエンターテインメントの本場である。
たとえば、ジュラシック・パーク・ザ・ライド≠ナは、精巧に作られた恐竜のいるジャングルを抜けたボートが、地上八階の位置から、水面めがけてダイブする。ま、いわゆるスプラッシュ・マウンテン(ディズニーランド)なのだが、ボートの乗客全員が着水の瞬間に頭から水をかぶり、パンツまでずぶ濡れ状態になってしまうのだ。
それでも、外人はキャッキャ喜んでいる。売店で一応簡易レインコートを売っているのだが、そんなの買う人などほとんどいない。
けれど、私は困った。強いクセっ毛で、水に濡れたり湿気が多いと、くるんくるんとバクハツしてしまうのだ。
「頭から濡れネズミだけは嫌だ」そう考えた私は、日本から持参した手ぬぐいを頭にかぶることにした。まるで田吾作《たごさく》だ。誰も知ってる人はいないし、まあいいか。
「おかあさん、ダッサーイ」
と、高校生の娘に嫌がられたが、結局頭髪を水しぶきから死守できたのは、私だけだった。
私以外の家族全員ポタポタと頭から水滴をたらしながら、次のアトラクションウォーターワールド≠ヨ向かう。これは日本でもヒットした映画なので説明無用であろう。じつは私は見てないので、説明しろと言われても無理なのだが。
要はイルカショーのようなプールを客席が囲み、ウォーターワールド″ト現アクションショーを楽しむものなのだが、どうやら、ロスのユニヴァーサル・スタジオでも、人気の一、二を争うアトラクションなのだ。そのため、ショーの開始時刻まで、長い行列で待たなくてはならない。
ロスの気候は、カラリとしているものの、日中の陽射しは、かなり強い。先ほど、あんなにビショ濡れになったのに、Tシャツもジーンズももうパカパカに乾いている。その上にさらに、容赦無く太陽の光がじりじりと肌を焼く。
私は、再び手ぬぐいを取り出した。それを首に巻いて、うなじの陽焼けを防いだのだ。
ユニヴァーサル・スタジオの観光には必ず日本手ぬぐいを持参しよう。本当に、役に立つから。
ウォーターワールド<Vョーでは、再び水しぶきを浴び(水上バイクが観客席に水しぶきをわざとかけるのだ)、もう一度手ぬぐいで水をぬぐう。このショーでは、頭上から本物サイズの小型飛行機が降ってくるし、タンクは炎をあげて爆発するし、スタントマンは火だるまになって水に飛び込むし、日光江戸村とは迫力が違う。
とにかく、ユニヴァーサル・スタジオのアトラクションは、水攻め火攻めなのである。本物の水と炎が、観客を襲うのだ。これは、日本のテーマパークのどこにも見られない。しかも、その水の量、炎の量がハンパじゃないのだ。
近々、大阪にもユニヴァーサル・スタジオができるそうだが、日本でもあの水攻め火攻めが体験できるのだろうか。
湿気の多い日本じゃ無理ではなかろうか。
「水に濡れさしといて、なんやねん」
と、怒る大阪人が続出しそうだ。炎で火傷《やけど》したとインネンつける関西ヤクザも出そうだ。大阪、やめておいた方がいいかもしれない。
ロスのユニヴァーサル・スタジオは、ロスのディズニーランドに比べると小規模なので、一日で充分回れる。
会場内に、スパイダーマンやマリリン・モンローのコスプレイヤーがいて、結構楽しめる。
日本人観光客も多いので、日本語アナウンスもあって助かる。
誰にも会わないだろうと思ってたら、
「柴門ふみさんですね」
と、日本人の若い娘さん二人連れに声をかけられた。手ぬぐい姿も見られたのであろうか。
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役所広司[#「役所広司」はゴシック体]
テレビを見ていたら、今村昌平監督の『うなぎ』をやっていた。
主演、役所広司。かつて役所に勤めていたから、芸名が役所、なのだそうだ。いいのか、そんなもので。薬局に勤めていれば薬局広司なのか。マツモトキヨシに勤めていればマツモトキヨシ広司なのか。それはそれでいいかもしれない。
それはさておき、役所広司は不思議な役者だ。
『Shall we ダンス?』『失楽園』そしてこの『うなぎ』と、たて続けに話題作に出演している。
その役柄はショボくれた中年サラリーマンだったり、禁断の恋に溺《おぼ》れたり、過去に嫉妬《しつと》から妻を殺害した前科者だったりするのだが、どれも〈役所広司〉なのだ。
そんなに悪人ではなさそうだ。といって、聖人君子ではない(不倫もすれば人も殺す)。インテリじゃないけど馬鹿でもない。オレがオレがと前に出しゃばるタイプではないが、仕事は手堅い。――これらが、〈役所広司〉のイメージにある。
役所広司の対極にいる役者は誰だろうと考えてみた。「あぶない刑事」の舘ひろしなんかいいかもしれない。すべてのポーズが自意識過剰で、
「オレ様って、カッコいいじゃん。芸能人じゃん」
と、全身で物語っているような男。ゆくゆくは反町クンが跡目を継いでくれそうだ。
一方、役所広司の凄《すご》さは、その自意識の薄さにある。確かに二枚目なのだが、ボーッとしたスキだらけの表情をカメラにさらすので、二枚目に思えなくなってくる。いつもカメラを意識し過ぎてキメキメの舘・反町グループとは大きく違うのだ。
その茫洋《ぼうよう》さが、役所広司の不気味さにつながってゆく。
今回『うなぎ』を見て改めて思ったのだが、役所広司は、現代に生きる普通の人々の奥にひそむ暗い穴をリアルに体現できる日本で唯一の役者なのではないか。
『うなぎ』は、奥さん浮気してまっせという手紙の文句に踊らされて妻を殺し、その刑期を終えて出てきた主人公と、彼を取り巻く人々との間に起こるドラマである。
今村昌平という人は、汲《く》み取り便所のフタをわざわざ開けて、通りゆく人々に便所の壺《つぼ》の中を見せるような映画作りをする人だ。
私がかなり昔見た今村映画は、ドキュメンタリー・タッチで、ブスな女が一人の男を執ように追っかけ、まとわりつく内容だったように思う。
「確かに人間てそんなところあるけど、でもわざわざそんなもの見せなくたっていいじゃない」と、若かった私は思ったものだ。
『うなぎ』も、色と金に欲望丸出しの人間模様が描かれてはいるが、それでもかつての今村作品に比べたら、
「随分、丸くなったな」
と、私は感じずにはいられなかった。
役所広司と、清水美砂の間に、ちょっと心温まるいいエピソードもあるし、役所広司が経営する理髪店の常連客も人情味あふれる人々だ。
が、今村作品は、山田洋次のように甘くはない。映画の終わり近く、役所広司は独り言を語る。
「妻の浮気を告げ口するあの手紙は、本当に実在したのだろうか? 私が妄想ででっち上げた手紙ではないのだろうか? 妄想の嫉妬の果てに妻を殺したのではないか?」
いい人に思えた役所が、暗い闇を抱えた悪い役所に暗転する瞬間である。
何かのはずみで妻を殺してしまったが、今は改心しているし、悪人から清水美砂を救ったいい奴《やつ》じゃないか――役所広司に抱えていたイメージが、もう一度、揺さぶられるのだ。
蛭子さんがじつは悪い人(※[#「○にC」、unicode24b8]ナンシー関)かもしれないように、役所広司もじつは悪いのかもしれない。
この普通にひそむ不気味さこそ、役所広司の存在感なのだ。
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CSチャンネル[#「CSチャンネル」はゴシック体]
CS受信機を我が家のテレビに取り付けた。地上波に加え、ケーブルテレビまで引いているというのに、これ以上テレビを見てどうするというのだろう。
「こんなにチャンネルがあるのに、見たい番組が一つもない」という日が、一週間に一日や二日は必ずある。プロ野球中継が二チャンネルを占め、残りが涙の御対面と、警察24時スペシャルだったりする日だ。
そんな日はケーブルテレビに切り替えても、B級の映画しかやってないものなのだ。で、結局テレビを消して、風呂《ふろ》に入って早く寝るのだ。
で、今回スカイパーフェクTVというのに加入したのだが、このCSは、はっきり言って、テレビを雑誌化している。つまり、雑誌をめくる感覚でテレビのチャンネル操作ができるのだ。
〈新作映画を早くも放映〉
〈セリエAのサッカーも観られる〉
などなどの宣伝文句がCS放送に冠せられるが、私なら、
〈雑誌をめくるより簡単な暇つぶし〉
というキャッチをつくるね。
たとえば、カタログショッピングの代わりに、ショッピングチャンネルがある。外人がルビーやらダイヤやらのアクセサリーをぴかぴか光らせる画面にかぶさるよう、日本語訳のナレーションが、
「このゴージャスなペンダントが百五十ドル。日本円では約一万八千円です」
と、淡々と流れる。このナレーションが何とも無感情で、それがまたそそられるのだ。
「おおっ。このマナ板はすごいっ」(どお〜っ。←会場のどよめき)といった類の大ゲサな日本のテレビショッピングに比べ、
「……日本円にしておよそ〇〇円です」
と、機械的に読み上げるナレーションの方が、私の心に深く訴えてくる。
ショッピングの他に、料理やガーデニングの専門チャンネルもあり、まさに女性誌感覚である。
そんな中で、私が今一番気に入ってるのが「テレビじゃマ〜ル」。雑誌でおなじみの個人情報が、個人ビデオによって、テレビ画面で繰り広げられるのだ。
「森高千里、等身大のポスター一万円でゆずって下さい」
と語りかける男(三十歳)は、いかにも、って感じだし、
「カー用品の〇〇、ゆずって下さい」
という人は、まあそういった風な顔をしている。
この番組で驚いたのは、世の中にリカちゃんマニアがこんなにもいたのかというくらい、リカちゃんとその周辺グッズに関する要求が多いのだ。もちろん圧倒的に女性が多いのだが。
「世の中には、こんなディープな世界があったのか」
と、CSチャンネルを導入して改めて恐れ入った。
かつて、夫と二人で、
「CSったって、テレビのチャンネル増えたって、みんな忙しいんだし、見られるわけないよ」
と語っていたことがあるのだが、それは長時間の映画や、スポーツ観戦のことを考えていたからだ。
五分テレビショッピングを楽しみ、十分社交ダンス入門を見、十五分「テレビじゃマ〜ル」で巷《ちまた》のディープな世界をかいま見、二十分カラオケチャンネルで歌の練習をし、十分ガーデニングの知識を学んで、やっと一時間。
ヒマつぶしには、まさに絶好である。
だから、CSが普及すると、ますます独身男女が増えることだと思う。一人でも、テレビ見てるだけでも、何だかとっても楽しいんだもの。
私は一分くらいしか見ないのだが、グラビアアイドル情報チャンネルなんかもある。CS放送は、男性誌でもあるのだ。
社交ダンスチャンネルでは、「ウリナリ」で有名なあの先生が、真顔で朝から晩まで一日中レッスンをつけてくれる。これも見逃せない。
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マリス・ミゼル[#「マリス・ミゼル」はゴシック体]
お化粧バンドが花盛りの今日この頃。そんな中で、やけに気になるマリス・ミゼル。
最初はとんでもないキワモノかと思っていたのだが、慣れるに従って、「いいなあ」と感じるようになった。
まず、メイクの独創性。特にマナ様(ギター&リーダー)の卓抜したアイメイクにアートを感じる。
ヴォーカルのガクトもいい。歌番組のトークでは、ツボを心得た受け答えだ。
「どうして、そんな格好をするんですか?」
「エレガントだから」
「なんでツメがそんな色なんですか?」
「エレガントでしょ」
要するに彼らは、耽美《たんび》・エレガントの求道者として首尾一貫しているのだ。この強固なコンセプトを少しもゆるがそうとしないプロ根性に、私は脱帽したのだ。
耽美――美を求め、美に浸るのは女性の特権だと、世間一般の男性は思っている。けれど、真の耽美主義者・美をきわめんとする先端の人々の多くは男性である。
マリスにしろ、SHAZNAにしろ、メイクにあれほどまで気合いを入れられるのは、真の美の追求者に他ならない。女であれほどメイクに時間と手間暇かけるのは、南美希子サンくらいのものだろう。
あらゆるジャンルで、道をきわめた人物は男であることが多い。料理でも手芸でもヘアメイクでも。裾野《すその》は圧倒的に女性の数が多いと思われる分野でも、頂点には男性が立っていることが多いのだ。
「男の方が、バラつき多く生まれるので、ものすごく優秀な一群も男性が多いし、ものすごく凶悪な一群も男性が多い」
と、私に教えてくれたのは養老孟司先生である。
つまり、優秀を百、凶悪を〇とすると、男は百から〇まで均等にバラけるのに対し、女は平均の四十〜六十あたりにごそっといるらしいのだ。これはやはり、種を産み育てる性であるので、余りに突拍子《とつぴようし》も無い人格では困るからであろう。
そう言われれば、心の優しい男のコというのは、そのへんの優しい女のコの何十倍も繊細で心優しいものである。男と女、どちらが優しい? と聞かれれば、
「本当に心優しい人間は、男の中に含まれる。けれど、戦争反対を唱えるのは、圧倒的に女性が多い」
という答えになる。わかり易く当たり前の優しさは女の多くに備わっているが、究極の優しさは男の中にあると私は思っている。
話がそれてしまったが、耽美に関しても、きわめる人達はやはり男性なのだ、と私は言いたいのである。
お化粧バンドと一口に言っても、小さな目をはっきりくっきりさせるための目張り程度のものから、聖飢魔Uの仮装メイクまで様々である。一般の女のコ達に人気なのは、GLAYとかかつてのLUNA SEAとかの端整な男達がさらに美しくなるため化粧しました系だと思う。
SHAZNAの出現に、一同、ど胆を抜かれはしたものの、女装趣味の高じたナルシストとして分類すればわかり易い。
そして、マリス。マリスは一見、SHAZNAの流れのように見えながら、じつは全然違っていた。
女装趣味、などという安っぽい言葉では語り尽くせないほど、ディープな世界を感じるのだ。トーク番組に出ても一言もしゃべらないマナ様。他のメンバーが素で釣りの話をしても、マナ様は遠くに離れている。
マリス・ミゼルの扮装《ふんそう》は宝塚に近い。が、宝塚のメイクが五十年一日のごとく変化してないのに対し、マリスのメイクは変貌《へんぼう》を重ねる。オリジナルのアイデアにあふれている。あの発想はすごい、もはや芸術だと、私は感嘆するのだ。
マナ様の存在感は、美輪明宏以来のものではないだろうか。美輪明宏、坂東玉三郎、マナ様。この三人こそが現代における三大美の探究者であろう。
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クイック・マッサージ[#「クイック・マッサージ」はゴシック体]
自分で言うのもナンだが、私は相当の出不精である。
仕事の場合は仕方がないので都心まで出かけることもあるが、そんな用の無い時は、二か月でも三か月でも電車に乗ることなく、地元で地味に生きている。
スポーツクラブにも入ったが、半年で二回しか行ってない。
かつて、ひと月に二回は出かけていたエステも、二か月に一回の割になっている。漫画の連載が忙しいと、出不精がますますひどくなる。
そんな私が現在、唯一、頻繁に通っているのが、クイック・マッサージ≠ナある。
エステより肩凝りマッサージ。
そう、私はひどい肩凝り症なのだ。最近は、それに腰痛まで加わっている。家族に揉《も》んでもらったり、自己流ストレッチを試みるものの、肩がカチンコチンに固まって右手が持ち上がらず、それが頭痛にまでつながる頑固な凝りは、素人療法ではとても太刀打ちできない。
この何年かはマッサージマニアで、旅行に出るたびにマッサージさんを呼び出している。が、これの当たりはずれがひどい。
私は時々、家族と都心のシティホテルに泊まることがある。これは、私が、
「御飯をつくるのも、ベッドを片付けるのももう嫌っ」
と叫ぶと、夫がホテル休日を手配してくれるからだ。そして、こんな都心のホテルでも、必ず私はマッサージを頼む。ウ〇スティンホテルでも、パ〇クハイアットでも、フ〇ーシーズンズでも。で、どうも一流シティホテルのマッサージさんて、うーん、なのだ。
大体、おばさんのマッサージさんが多く、ベッドルームにつけっ放しのテレビを見ながらペチ、ペチと簡単に済ませてしまうケースが多い。私だけたまたまそうなのかもしれないが。
それでも、タイの浜辺でのオイル・マッサージよりはマシかもしれない。あれはひどいね。七、八人のタイ人女性が、浜に捨ててあったオイルを拾い集めてブレンドし、それを客の身体にペタペタ塗るだけなんだもの。中年日本人男性観光客ならそれでも満足だろうけど、私は、納得いかない。
「この肩の凝りを取ってくれたら、原稿料収入の五パーセントを払ってもいい」
というくらい、私はこの職業病に悩まされているのだ。
日本全国旅館マッサージ研究家の私(ウソ)が、
「これこそが生涯最高のマッサージ」
と唸《うな》ったのが、北海道、キロロリゾート ホテルピアノの敷地内にある浪越徳治郎指圧分院での施術である。
入り口には、あの浪越先生が両手の親指を突き立てた例のポーズで立ってらっしゃる(もちろん、銅像)。そして、浪越先生のお弟子さんがツボを押してくれるのだが、ツボを得るとはこのことかと思うくらい、本当にツボ的中率百パーセントと言ってよい。
東京に戻ったらぜひとも本家浪越指圧に通おうと思ったのだが、予約が必要でウチからも遠いということで、出不精の私は断念してしまった。
そうか、なぜ、旅先でのマッサージを私が好きかというと、外に出なくてもマッサージが受けられるからだ。出不精の私には願ったりかなったりのシステムなのだ。
それなら、東京でも出張サービスを呼べばいいと思われるだろうが、「出張マッサージ・サービス」のチラシのどれも怪しいこと。なんだかピンクの白衣を着たお姉さんが現われそうでコワい。
で、現在私が通い詰めているのが新宿のクイック・マッサージ。予約の必要が無く、店内も広くて清潔で、値段も相場。私はいつも四十分・三千四百円コースを頼んでいる。
初回は、温泉旅館のマッサージのおばちゃんみたいな人だったが、足繁く通ううちに、先生≠ニ呼ばれる人がキチンと施術してくれるようになった。これが、効く。浪越指圧より効くのだ。やはり常連にはなるものだ、などとフーゾクに通い詰めるオヤジのような気分の今日この頃である。
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ゆ ず[#「ゆ ず」はゴシック体]
男二人組というのは、どうしてこう胸をくすぐるのだろう。
朋友《パンヤオ》もそうだし、とんねるず、KinKi Kids。歌もバラエティも、女二人組より男二人組の方が圧倒的に活躍している。それはおそらく、男二人には微笑《ほほえ》ましい友情が存在するが、女二人の友情はどうもウサン臭いといったイメージが漂うからだろう(パフィーもパイレーツも戦略的に組まされた匂《にお》いが強い)。
そんなわけで、「ゆず」。和製サイモン&ガーファンクルと呼ばれる彼らに、私が黙っておられるはずがない。「ゆず」に対して、〈ポール・サイモンばりの才能〉と評したのは近田春夫氏だが、私の見方はちょっと違う。
「ゆず」は、男版広末涼子なのだ。
つまり、
「今ドキ、こんなスレてないコがいたのか」という、軽い驚き。多くの男性にとっての広末涼子がそうであるように、多くの女性にとっての「ゆず」が、まさしくそうなのだ。
町を歩く若い男はみんな、メッシュのロン毛に顔黒ピアス――ああ日本ももう終わりだな、ノストラダムスは奴らに対する天罰だ、それにしても私を巻き込むなよ空から降ってくる大魔王――などと思っていた今日この頃、一筋の光となって我々の目の前に現われた天使達、それが、「ゆず」なのだ。
こんなにスレてなくて爽《さわ》やかで才能あってどうしましょう。
彼らの出現によって、二十一世紀も生きてゆける気分になってきた。
特に、あの――、左っかわの北川クン、非常に私好みです。笑顔のなんと輝いていることか。
「ゆず」が全国的に知れ渡ったのは、今年の夏のシングル「夏色」のヒットによる頃だ。それまでヒットチャートは、アルファベットタイトルの楽曲をアルファベット名のアーティストが歌ったものが占めていた。そこにいきなり、平仮名アーティストが、漢字タイトルの楽曲で入ってきたのである。しかも彼らは化粧をしていない。髪も染めてない。声もひっくり返らない。
そこに、女の子達は飛びついたのだ。
かつて「スピッツ」が、
「ぼく達はお母さん方にも安心してもらえるバンドなんです」
といった旨の発言をしていたが、「ゆず」は「スピッツ」よりも、はるかにお母さん方に気に入られることだろう(「スピッツ」には、じつは、毒を含んだエロティシズムが隠されているのだ)。
事実、「ゆず」は、
「若い女の子より、オバサン達の方が話も合うし人気がある」
と言っていた。
「ゆず」は、お母さん達が青春していた頃、クラスに必ず一人は居たギター少年を思い出させるのだ。そう、吉田拓郎がフォーク界の王子様と呼ばれていた時代の。
けれど、第一期日本フォーク黄金期のアーティスト達と「ゆず」は何かが決定的に違う。それは、〈育ちの良さ〉である。やはり吉田拓郎世代は、何かに飢えて何かに反抗していたと思う。
「ゆず」には、それが無い。恐ろしいまでに屈託が無いのだ。北川クンの方の作る歌詞にそれを強く感じるのは私だけだろうか。
一方、岩沢クンの方には、その屈託の無さに対する不安のようなものを感じている「ボク」が感じられ、この北川VS岩沢というのは、なかなか興味深い関係にあるようだ。「からっぽ」は、岩沢クンの方の作である。岩沢クンの方が北川クンより少しおとな、かな。
[#1字下げ]この長い長い下り坂を
[#1字下げ]きみを自転車の後ろに乗せて
[#1字下げ]ブレーキいっぱい握りしめ
[#1字下げ]ゆっくり ゆっくり下ってく
この「夏色」のフレーズに、「ゆず」の才能が詰まっていると思う。このサビ、フレーズだけで、日本レコード大賞新人賞だと思う。いえ、別に私、審査員じゃありませんけど。少なくとも「一九九八年度柴門ふみ心のレコード大賞新人賞」は、「ゆず」で決まりです。
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男性アナ[#「男性アナ」はゴシック体]
男性週刊誌で毎週毎週異様な程取り上げられる女子アナ。
それにひきかえ、男性アナの陽の当たらなさといったら、である。
女子アナは一般に、才色兼備、上品、知性派といったイメージでとらえられているのに対し、男性は〈男のオシャベリ〉くらいにしか思われていない。中にはTBSの安東アナのような美男アナもいるのだが、〈ホストっぽい〉〈女癖悪そう〉と、美人アナに比べ、美ボウすらプラスポイントにならないのだ。
男性は女子アナがあんなに大好きなのに、なぜ女性は男性アナに熱狂しないのだろう。
じつは、私には熱狂している男性アナがいるのだ。日テレの後藤俊哉アナである。かつて「投稿!! 特ホウ王国」で、
「ゴト〜です。」
を流行《はや》らせた(流行ったのか?)あの後藤アナ。「特ホウ王国」のあと、「ザ・ワイド」の夕刊早読みコーナーで、TBSの凡ちゃんのライバルとして、夕刊誌ピックアップ係として登場したのだった。そして現在、朝の「ジパングあさ6」で、「後藤生活研究室」コーナーを担当している。主婦向け生活情報をお届けするのだ。
今や日テレアナ若手ナンバーワンは、「ズムサタ」のバード羽鳥と言われているが、私は「特ホウ王国」からずっと後藤ファンである。
低い声。薄い眉《まゆ》。張った額に三白眼《さんぱくがん》。どこかハ虫類を思わせるあの目つきの悪い顔が好きなのだ。
私は、私以外に後藤アナのファンだという女性に出会ったことが無い。私の趣味ってそんなにマニアックなのだろうか。武田祐子アナのファンのやくみつるも相当マニアックだと思うが、それに匹敵する程フリークなのだろうか。
後藤アナはどこか川津祐介にも似てる。川津祐介も私、好きなんです。ハ虫類系の、皮膚の薄そうな短髪の男が好き。ただ単にそれだけなのかもしれない。
さて、身近で、どの男性アナが好きかアンケートをとってみました。日テレの、うるさくない方の藤井アナが好きな者一名。
鈴木史朗アナ(フリー)のファン、若干名。これはもう、男性アナというよりキャラクターですね。私は鈴木史朗アナこそ、故逸見アナの跡を継ぐ逸材だと思っている。でも、言葉のキレがすごく良くて、正統派実力アナでもあるのだ。
徳光さんのファン、一名。ただ単に「バラ珍(嗚呼《ああ》! バラ色の珍生!!」が好きなだけかもしれない。
アナウンサーではないが、「ジパング」の中村キャスターが好きな者、二名。このおじさん、東北|訛《なま》りで芸能オンチで、でも政治をすごくわかりやすく語ってくれる。
「えっ、この人がマツダセイコっていうんだ」などと平気でコメントする天然ボケ。でも、出産直後の大東めぐみを指差して、
「うわあ、キレイな人だなあ〜」
それは、ないんじゃない。それと、パーティーを、必ずパーテ[#「テ」に傍点]ーと発音する。
こうやって見ると、キャラクター化したオジサン・アナには好感を抱くものの、美男だからセクシーだからと、若手男性アナに憧《あこが》れを抱く女性なんて、ほとんどいない。
バラエティに出てる若手男性アナを見ると、明らかにお笑い芸人より低い位置にいる。女子アナが女性タレントより高い位置にいるのに、なぜ。こうなると、位置関係は、女子アナ、男性お笑いタレント、女性タレント、男性アナ、の順になる。そうだよな。同じ局でも、男性と女性の同年代のアナが横一列に並んでいると、圧倒的に女性の方が偉そうにしている。
これが、年配女性アナと若手男性アナだと、サシミのツマ以下である。男性ベテランアナと若手女子アナでも、女子アナの方が威張ってるように見えるのは、
「実力は無くてもお茶の間の人気はあたしの方があるのよ」
という自信マンマンが伝わってくるからだろうか。
うーん。でも、頑張れ男性アナ。特にゴトー特派員。
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クイズ番組[#「クイズ番組」はゴシック体]
昨年十一月、六年ぶりとかで「アメリカ横断ウルトラクイズ」が復活した。
じつは私のアシスタントが六年前大学のクイズ研究会に所属していた時、彼女のサークル仲間がウルトラクイズの準決勝まで勝ち残っていたのである。結構カワイイ顔をしていたので、彼には全国の視聴者からファンレターが多数届いたという。
そう、あの頃は〈クイズ王〉はスターだったのだ。
日テレのウルトラクイズに対抗して、フジやTBSでも独自のクイズ王を輩出していた。巨大スライムのような、あの伝説のクイズ王西村さんを覚えている人はいるだろうか。
ところがその後パッタリとクイズ番組がテレビから消えた。
クイズ番組の楽しみは、茶の間で家族そろって答えを言い合いっこするところにある。
子「ほら、ぼく当てたよ」
親「うーん。こりゃ父さん一本とられたな」
こんなほのぼのした光景が、日本の正しい家族像であったはずだ。
けれどクイズ王全盛期には、クイズおたくのマニアックな問題に片よってしまったのだ。
「同じことを表わすことばの無用な繰り返し。又、論理学の命題論理で、定理となる命題は?」――(答え・トートロジー)
といった風な、問題の意味さえわからなければ、答えを知ったところで全く身にもつかない難問だらけになってしまったのである。
「ドレミファドン」や「百万円クイズハンター」といった老舗《しにせ》クイズ番組も姿を消し、今や残っているのは、日曜日の午後の「パネルクイズ・アタック25」くらいである。
と思っていたら、昨年秋からTBSにお昼のクイズ番組が出現した。「おサイフいっぱいクイズ! QQQのQ」というタイトルからして、怪しい。
おたくなマニアから一般人にクイズを取り戻そうとする試みなのだというこの番組で出題される問題って、クイズ史上最低レベルなんじゃないの、と思うのだが、それすら答えられない出場者ってどういう基準で選んでいるのだろう。
問「『限り無く透明に近いブルー』で芥川賞を受賞した作家は?」
解答者「芥川龍之介!」(正解・村上龍)
自分に賞をあげてどうするっと、日本中の茶の間から突っ込みが入ったはずである。
十問のクイズで、みなこの程度のレベルの問題なのに、三、四問しか答えられない解答者が殆《ほとん》どである。
中には音楽問題もあって、曲名、歌手名当て、何のヒネリも無いサービス問題なのだが、
問「※[#歌記号、unicode303d]あ〜、だから今夜だけは〜 君を抱いていたい〜♪ はい、この曲を歌っているグループは?」
解答者「……えーっと……アニキ!」(正解・チューリップ)
まったく、「ご長寿クイズ」まっ青である。私、テレビの前でひっくり返りましたもんね。
この番組のすごいところは他にもある。司会の上岡龍太郎と笑福亭笑瓶がズッコケながらも何とか番組を最後まで引っ張ろうとしているのに、問題読み係の斎藤陽子が、ニコリともクスッともせず、淡々とすました口調で問題を読み続けるところである。
チューリップと答えるところを〈アニキ〉と答えられたら普通笑うでしょう。
でも、斎藤陽子嬢はツンとおすまし顔で、お手本のようなアナウンサー口調で、淡々と読み続けるのだ。まるでこの世にはあたくししか存在しませんのよと言ってるかの如く。
とことん不思議な番組だ。「おサイフいっぱいクイズ! QQQのQ」は。
この不可思議な空間が妙に病みつきになって、毎日お昼が来るのを楽しみにしていたのだが、残念ながら昨年いっぱいで打ち切りになってしまった。
そうなると私の昼食タイムは「おもいッきりテレビ」に逆戻りだ。
昼食時に「笑っていいとも!」からみのもんたに選ぶチャンネルが変わったとたん人は老化が始まると思うのだが、「おサイフクイズ」で束の間若返っていた私であった。
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香港物欲の旅[#「香港物欲の旅」はゴシック体]
昨年のクリスマスを、じつは私は香港で迎えたのであった。
「香港のクリスマスは、そりゃあスゴいもんですよ。ぜひ一度見ておくべきですよ」
と、香港観光協会の人に勧められて、イブをあのペニンシュラのスイートで過ごすことになったのだ。
中国返還以降、日本人には今ひとつ人気薄の香港である。おまけに、アジアの経済不況。バブルの頃は週末になるとOLさんたちがこぞってお買い物に出かけたという、あの香港ブームはどこに行ってしまったのだろう。
「町角に人民服を着た兵隊さんが立っているに違いない」
という誤ったイメージが広まってしまったことも原因かもしれない。
今回、私が香港を訪ねたのは四年ぶりである。この四年の間に香港はどの程度中国化してしまったのだろう。
などという考えは新空港に着くなり覆ってしまった。近代的な新空港。以前のごちゃごちゃした天井の低い空港とは雲泥の差である。表示も漢字記述が多いので、成田の別館に着いた気分である。全体的に、以前より西欧化された感じだ。
空港付近には新築の高層マンションが建ち並び、近未来都市の様相である。そういえば、もうすぐ二〇〇〇年だ。私達が〈近未来〉と仮想していた時代にもう足を踏み入れているのだ。
九龍《クーロン》島のペニンシュラも、新館のタワーが増築されていた。私はそこの十四階に部屋をとった。目の前に海と、香港島が見える。香港島側のクリスマスイルミネーションが夜になると煌々《こうこう》と輝く。
さて、ペニンシュラと言えば、そのショッピングアーケードが観光客の垂涎《すいぜん》の的である。カルティエ、シャネル、グッチ、何でもござれなのだ。しかも、十二月といえばバーゲン期。日本では絶対にバーゲンを行わないプラダもグッチも、二割三割当たり前、驚きの七割引きまであるのだ。同行のMさん夫人など、グッチのカバンを四個も買っていた。
「フェ、フェラガモもオール三割引きですよ」と、M夫人が目を輝かす。
けれど、セールの札の付いた棚には、黄緑色やピンクのフェラガモしか並んでいない。いくら安くても、黄緑のフェラガモを東京で履く勇気は私には無い。
不等辺三角形のプラダの赤いバッグを持ちこなすセンスも、私には無い。
「その期の新作を在庫で残す気がないので、香港のブランドは一月末のピーク期には、たたき売り状態になりますよ」
と、案内の香港通の女性が教えてくれたが、一九九八年秋の新作を九九年の春に持ってもなあと、私は自分の物欲に言い聞かせた。
「でも、プラダよ、グッチよ、七割引きよ。品質はやはり最高。原宿《はらじゆく》の竹下通りのコピー製品とは違うって」
と、私の心の物欲が誘惑をかける。
「ダメよ、ダメ。四十過ぎて黄緑のピンヒールなんて。赤い三角形のバッグなんて」
私の良心が、その物欲と闘い続ける。
そんなこんなで、二時間余り、私はペニンシュラ地下のショッピングアーケードで、物欲と良心を闘わせ続けたのであった。
結局、三割引きのエトロのボストンバッグを一個買っただけである。オーソドックスな型なので、いつでも安心して使える。良心が物欲に勝ったのだ。
とはいえ、心の片隅で、
「一月末のバーゲンの頂点の時期にもう一度香港に来よう」
と誓っていたのだ。なんだ、やはり負けてる。
さて、今回の旅の目的、クリスマス・イブの香港は、ただただ何百万人もの香港人がイブの夜の町にくり出して、ただただ歩くだけ、というものだった。目抜き通りも歩行者天国にして、ただ人々が歩くのみ。歩いて徹夜する。屋台も何も出ていないただの通りを。ラッシュ時の山手線の車内並みの混雑の中を。
結論として、香港ってやっぱりわからない、ということか。
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ホラー[#「ホラー」はゴシック体]
一月から「リング」がテレビドラマでも始まった。
原作を読み、映画も見、それでもやはりテレビまでも見てしまった、――という人間が私の周りには多い。
ドラマは始まったばかりなのでまだ何とも言えないが、原作と映画とどちらがより恐かったかという議論が始まると、各々がそれぞれ語り出して止まらなくなってしまう。
貧乏自慢、病気自慢に並んで、恐怖自慢というのが酒の席では盛り上がる。私は何が一番恐いのか、というテーマで語り尽くすのだ。
私が最近、一番恐かったのは、去年のゴールデン・ウィークに八ヶ岳に行った時のこと。夜、温泉の大浴場にたった一人で入っていた。
シャワー口でうつむいて頭を洗っていたところ、カコーン、カコーンと、風呂桶《ふろおけ》が床をたたく音がして、続いてキャハハハッと子供の声が響いた。ああ、家族連れが入ってきたのだなと思って顔を上げると、誰もいない。相変わらず大浴場には私一人なのだ。おかしいなと思ってうつむくと、又、
カコーン、カッコーン、……キャキャキャッ。
無人の風呂場に、桶と子供の声がこだましたのだ。男湯は別の建物にあり、その女湯とは遠く離れていて声が聞こえるはずもない。私は、頭にシャンプーの泡を残したまま風呂場を飛び出したのだった。
子供の無邪気な声は、ある状況において非常にホラーになる。
映画でも小説でも、名作と呼べるホラーは子供をうまく使っている。『シャイニング』での子供の幽霊もそうだし、『オーメン』も『エクソシスト』も子供自体が悪魔だ。ジイサンバアサンの幽霊よりも、子供の幽霊の方がずっと恐いのは何故だろう。年寄りの幽霊って、もう枯れちゃっててパワーも無さそうだからかな。
人によって恐怖を感じるポイントは違うらしく、私の息子は〈黒目がちな瞳《ひとみ》〉が恐いという。魚を焼くと、
「黒いつぶらな目がボクを見つめてて恐い」
と言う。白目部分の少ない目に、何やら不気味なものを感じるらしい。試しに、グラビア写真のモデルの目をマジックで光の無い黒目がちな瞳にすると、確かにコワい。世間では、白目をむいた目が恐いと言われているが、白目の無い目の方が絶対恐い、と私は思う。
人間の身体の部分でどこが恐いかと言われたら@目A髪B爪《つめ》の順である。
この正月、家を新築した知人の家に遊びに行ったら、庭から髪の毛が生えてきていると言う。
見ると、確かに庭の土の中から、人毛とおぼしき黒い束が顔を出している。
「家を建てた時には確かになかったのに、毎日大きくなっているんです。明らかに髪の部分が増えている」
と、その家の人物は顔に恐怖を浮かべる。
建築中に大工さんがカツラを落としてそれを誤って埋めていったんじゃないの、掘って見れば、と私は言ったものの、正月以来晴天続きの東京で、雨に洗われて埋まっていたものが顔を出したという筋は通らない。
「うーん。やっぱり、コワいね」
「コワいでしょう。だから、掘れないんですよ」
私の今一番の関心事は、この庭に生えた髪の毛の正体は!? である。「特ホウ王国」がまだ放送されていたならば、絶対投稿して特派員を呼び寄せたのに。
そんな私の思惑をよそに、今日もあの家の髪の毛は伸び続けているのだろう。
髪というのが又、恐いのだ。同じ人間の部分でも、庭からヘソやオッパイが生えてきても恐くないだろうなと思う。
髪に続いて恐いのが爪であるが、これはやはり本人の意志とは無関係に伸び続けるという点が不気味なのだろう。自分でコントロールできない自分の身体の部分、というのはやはり不気味なのだ。
映画の『リング』が秀逸だと思うのは、目、髪、爪が実に効果的に使われ、〈生理的にいやあな感じ〉が観客に伝わってくる点である。さて、『リング2』を見に行こうとするか。
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お見合い番組[#「お見合い番組」はゴシック体]
近頃やたらと、モテない男のお見合い大作戦といった番組が増えている。
「嗚呼《ああ》! バラ色の珍生!!」略して「バラ珍」でのオチアイさんの嫁探しがその先鞭《せんべん》かもしれない。
オチアイさん。母一人子一人。このテの男性はなぜか母一人子一人のケースが多い。そして老母は、
「こんなに性格が優しくていい子なのに口下手なため嫁が来ない」
と嘆き、三十代後半の独身息子は、
「早く嫁をもらって、苦労をかけた母を楽させてやりたい」
と、望むのだ。
そして母が仏壇に手を合わせる回数、多し。お見合いの朝に手を合わせ、仲人さんからの電話連絡を待つ夜に手を合わせ、初デートの朝に再び手を合わせる。
オチアイさんに続いて「バラ珍」に登場した嫁探し四十男タカヒトさんの母親の場合、亡き父親の遺影までお見合いの席に持ち込んでいた。
信心深い母。どうもこれが息子の縁の無さのポイントであるようだ。
祈りゃあいいってもんじゃない。
かつて吉田戦車の『伝染《うつ》るんです。』で、滝に打たれながら若者が、どうか大学に合格させたま〜えと念じていると、そのヒマあったら勉強せんかいと、修行者に頭をこづかれるという四コマがあったが、お見合いも似たようなもの。祈って叶《かな》うようなジャンルじゃないのだ、男と女の仲なんて。
テレビお見合い大作戦といって思い出すのが、「沼島の春」。これは立地条件が悪い地方の独身男性群が、テレビ局の呼び掛けで全国から集まった独身女性と集団お見合いをするというやつ。
この番組は好評らしく、毎年春秋の番組改編期の特番として必ず顔を出す。そして面白《おもしろ》いことに、独身男女がそれぞれ回を重ねるごとに研究を重ね、カップル成立数が増えているのだ。
初期の頃は、男性の大多数が一番美人の女性に群がり、女性の大多数が一番ハンサムな男に殺到し、結果、一番美人と一番ハンサムだけがカップルとなり残りの大多数は相手を見つけられないという、まるで中学校のクラス恋愛事情みたいな話になっていたのだ。
ところが、「沼島の春」を何回も見て(中には何回も出場した女性もいる)学習した男女は、各々が、
〈自分に似合ったそこそこの異性〉で手を打とうと走るのだ。
でも、これって視聴者的にはつまらないのだ。
「うわーっ。あんな男が我が身を省みず、美人を追っかけるのか」
「おいおい、そんなケバい厚化粧で、純情好青年に好かれようと思っているのか」
という突っ込み甲斐《がい》のあるカップルが出てこそのバラエティなのではないか。
テレビを見ていても、そこそこの男女が互いに、
「そこそこだな」
と思って視線をかわす空気というものは、画面から伝わってくるのだ。
去年の秋の「沼島の春」で最高だったのが、IZAM風の厚化粧女と、イチゴ農家の純朴青年のカップルである。
青年とその両親は、イチゴ農家の嫁を欲しがっているのだ。そこにポックリサンダルにキャミソール姿の厚化粧女がいかにふさわしくないかは誰だってわかる。ポカンと口を開けたモデル上がりに横綱のおかみさんがそぐわないのと同じくらいに(いえ、別に悪意はないです。たとえです)。
その青年は、その回では一番人気のハンサムであったため、三、四人の女性が彼にアプローチしていた。堅実そうな女性。働き者タイプ。両親を大切にしてくれそうな女性もいた。なのに、その青年は見るからに、
「アッチャー」
な女を選んだのだ。両親の祈りも虚《むな》しく。決まった瞬間、お母さんの膝《ひざ》が崩れましたもんね。
かように、男と女の仲は祈りとは無関係なものなのだ。
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『フル・モンティ』[#「『フル・モンティ』」はゴシック体]
ホントにもう、あたしの回りにはロクな男がいない。この世に男なんか必要ないわ。女ばかりで楽しく暮らす方がどれだけマシか。と貴女《あなた》が思っているなら、是非『フル・モンティ』を見てもらいたい。
この映画を見れば、男達がいかに健気《けなげ》で哀れで可愛《かわい》らしい生物であるかがよくわかる。そして、ちょっとは優しくしてやるか、という気持ちになってくるはずだ。
舞台は、イギリス。かつては製鉄で栄えた町も、不況の嵐《あらし》のせいで失業者があふれている。なんとなく今の日本にも当てはまりそうな状況である。
この失業者達が、この映画の登場人物なのだ。離婚した妻に愛する息子の親権を奪われそうな男。肥満ゆえに妻に見離されそうなデブ。失業したことを妻に言い出せないまま半年も職安に通う元管理職。失業プラス、人生の重荷に、にっちもさっちもゆかない男達なのだ。
この失業者達が、起死回生、一挙|挽回《ばんかい》の賭《か》けに出る。
男性ストリップ・ショーで大金を手に入れようとするのだ。セクシーとは程遠い、そこらへんのオトウサンが、腹をゆすりながら、一枚一枚服を脱いでゆく。このシーンだけで映画としては成功していると言ってよい。
美男美女など一人も出てこない。ショボくれて情けない連中ばかりなのだが、それでも見ていて何とも爽快《そうかい》なのは、彼らがそれぞれ息子を、妻を、年老いた母を、心から愛し守ろうとしているからだ。だからこそ、男性ストリップなどという突拍子《とつぴようし》も無い行動に出るのだ。
主人公ギャズ役のロバート・カーライルはすましていればクールな二枚目なくせに、息子を元女房に奪われそうになるや、鼻水グシャグシャの泣き顔になる。こんなあられもない、弱味丸出し姿の男って、可愛い。と思うのは私一人だけかしら。
ギャズの息子も、健気で賢くてとてもいい子。自分の父親がストリップを練習するのを、(あきれながらも)応援して見続けるなんて。
それに対し、この町の女達はみんなエゲツない。巡業の男性ストリップ・ショーに列をなして並び、その小屋で自分達の性生活についてあけすけに話したと思ったら、景気づけに立ちションまでするのだ。
この映画の監督って女嫌いなのか。少なくとも女には何の幻想ももってなさそうである。もっとも女の私にしてみると、男が幻想でこさえた女性を見せられるよりはずっと気持ちいいが。
このイギリスの田舎町の女はみんな太っている。この中にモニカ・ルウィンスキーさんが混じっていても違和感はないだろう。白人女性って、よほど節制しないと、中年以降みんなデブになるみたいだ。
今回、『フル・モンティ』はCSのペイ・パー・ビューで見たのだが、操作を誤って私は同時刻に別チャンネルでやっていた『トゥモロー・ネバー・ダイ』にも料金を払い込んでしまった。『トゥモロー・ネバー・ダイ』。言わずと知れた007ジェームズ・ボンドである。いきなり真っ裸のベッド・シーンで、お決まりの金髪美女が、
「ああ、ああ、ジェームズ素敵《すてき》※[#ハート白、unicode2661] いいわん」とのたまわっていた。
頭痛がするよ、まったく。
男の身勝手な夢とロマンがさく裂する映画に、いくら機械オンチとはいえ、私は四百円もペイしてしまったのか。
まあでも、『フル・モンティ』は八百円払っても充分元が取れるほどの面白さだったから良しとしよう。
そう言えば、ケーブルテレビでイタリアの変テコなクイズ番組をやっていた。クイズに答える素人カップルが出場して、答えに失敗すると、音楽に合わせて一枚一枚服を脱いでゆくのだ。男も女も。しかも明らかに素人とは思えぬ腰のフリで。イタリア人も相当お馬鹿である。
ところで、女が男のストリップを見に行くのって笑いのため? それともマジで官能を味わうため?
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『リング2』『死国』[#「『リング2』『死国』」はゴシック体]
話題の『リング2』、『死国』見てきました。
平日の朝イチの上映なのに、新宿の映画館はほぼ満杯状態。人気の程がうかがわれる。
『死国』の恐怖は、古い日本家屋に一人で泊まる恐怖と言おうか。障子の薄明かり。材木のきしみ音に震え上がる真夜中。なんかそういった感じ。
久し振りに生まれ故郷の四国の山村に一人戻った夏川結衣ちゃんが主人公なのだが、よせばいいのに彼女は廃屋同然の古い日本家屋に一人でふとんを敷いて泊まる。さあさ、恐怖よいらっしゃいと言っているようなものだ。私なら家中の電気をつけて、テレビ・ラジオがんがん鳴らして眠るね。じつは私は、一人でホテルに泊まる時、絶対テレビをつけっ放しにして眠るのだ。近代的ホテルですら、そう。日本旅館では絶対蛍光灯を消さない。電球の黄色い光(お休み用の豆球)は、魔物をおびき寄せると信じているのだ。
『死国』では、死んだ同級生の家を夏川結衣ちゃんと筒井道隆くんが訪ねるのだが、やっぱり電気をつけない。なぜ、わざわざ薄明かりの中を探索する。電気をつけろ、電気を、と私は心の中で叫び続けた。
それと、白昼の畑にじいさんの幽霊が出るシーン(孫に目撃される)も恐かった。
日本土着の恐怖が骨身に滲《し》みる『死国』であった。でも、純愛でもあるのだ。上映が終わった直後、私の後ろの席の女の子が連れに、
「えーっ、筒井くんて、比奈子じゃなく莎代里の方が好きだったのーっ」
と話しかけていたのがおかしかった。筒井くんだけ、筒井くん[#「筒井くん」に傍点]なのだ。女の子二人は役名なのに、筒井くん。『死国』だろうが『ボーダー 犯罪心理捜査ファイル』だろうが、筒井くん。
さて、『リング2』である。『死国』でも相当グッタリしてしまったのに、〈貞子〉なんですもの。
恐怖によって壊れてしまった人の顔くらい恐いものは無いと教えてくれた前回の『リング』。原作では恐怖にひきつった驚愕《きようがく》の表情、のような記述だったと思うが、それをあれ程までの映像表現として成功させたのは、中田秀夫監督の技量というものであろう。
一歩間違うと、お笑いである。そこを、人間の生理的嫌悪感を呼びさます〈嫌ーなモノ〉にギリギリの所で線を引いている。
どんな美少女も、美男子も、
「うわっ。嫌なモノを見てしまった」
と人に思わせるひどい顔に崩させられるのだ、『リング2』において。深田恭子ちゃんも、頑張ってた。
中谷美紀ちゃんはずっと驚きっ放しだった。この人、「ハルモニア・この愛の涯《は》て」でもかなりホラーな演技をしていたと思うけど。大抵いつも目を見開いている。見ているこっちも目が乾いてくるほどだ。なぜ美紀ちゃんが目を開くと、こっちもつられて目を開いてしまうのだろう。
でも、貞子はあんまり恐くなかった。前作の方が恐さでは上だったと思う。粘土の顔のせいか。私は、大魔神を思い出した。横浜ベイスターズではない。古い日本映画の、土でできた大魔神様だ。
よく交番の前に、
「この人を知りませんか」
と、死体復元のポスターがある。あれは、恐い。頭蓋骨《ずがいこつ》にコンピューターで肉付けして、生前の顔を復元したやつだ。貞子も粘土ではなく、彩色まで施された復元顔だったらもっと恐かったであろうに。
もっとも、ラストで、井戸を軽い身のこなしではい上がってくる貞子は恐かった。腕の力こぶも恐かった。
今まで見た映画の中で、生理的にもっとも嫌な感じがしたのは『セブン』である。胃袋が裂ける程スパゲティを食べさせられ続けたデブ、とか。よくまあ思いつくものだ。
ホラー映画の場合、ストーリーの起承転結よりも、いかに恐いシーンが多くあったかが話題となる。しかも、人は恐怖にも慣れるので、絶えず新しいホラーを開拓してゆかねばならない。
ああ、ホラー漫画家でなくて良かった。
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ニコラス・ケイジ[#「ニコラス・ケイジ」はゴシック体]
一向に景気は良くならないみたいだし、世紀末だし、どうにもこうにも気が滅入ることばかり。テレビをつけると、男女がののしりあってそれを熟女が叱《しか》ったりといった殺伐とした番組ばかりが目につく。
こんな時は善意あふれる映画を見て、涙とともに心を洗い流すことにしている。
こちらの体調が良くてエネルギー全開の時に見れば「ウソっぽくて、つくり過ぎてて白々しい」と感じるであろう善意モノも、疲れて弱気な心にはハーブ茶のように身体《からだ》にしみ渡る。
出来過ぎの善意話は、アメリカ映画のオハコである。古くは『フィールド・オブ・ドリームス』。ケビン・コスナーも幽霊達も、みんないい奴《やつ》なのだ。
そして、アメリカの〈マン・オブ・善意〉といえばトム・ハンクス。この人、どの映画に出ても絶対いい人で、間違いなく泣かせてくれる。あの人なつっこい丸い目と丸い鼻が、善意をかもしだしているのだ。私はじつは、『フォレスト・ガンプ/一期一会』が大好きである。と言うと、
「えーっ。あんな偽善ぽいアメリカ映画の一体どこが」
と、自称映画通の人々に驚かれるのだが、私はトム・ハンクスが出てればそれで良しとしているのだ。何をしても許すぞ、トム。
さて、今までニコラス・ケイジを敬遠していた私なのだが、『あなたに降る夢』を見て、ケイジもハンクスに負けず劣らずの善意の人だと感心した。
『あなたに降る夢』は、宝クジで大金持ちになった警官と、その宝クジをチップ代わりに受け取ったため賞金をおすそわけしてもらえたウエイトレスのラブ・ロマンス話である。
それにしても、アメリカ映画は、ヒロインがウエイトレスという設定がやたら多い。
『恋愛小説家』もそうだった。『ショート・カッツ』にもくたびれた中年ウエイトレスが出ている。アメリカ男の心をくすぐるのか、ウエイトレス。日本でスナックのママが男心をくすぐるように。
ともかくも、ヒロイン達はゆえ[#「ゆえ」に傍点]あってウエイトレスになるのだ。ある者は子供を引き取って離婚したゆえに。ある者は亭主の借金ゆえに。そして『あなたに降る夢』では、女優の夢に挫折《ざせつ》したゆえに。
こういうワケありのヒロインに男は弱い。冴《さ》えないニューヨーク市警のおまわりさん、ニコラス・ケイジもこのヒロインにほだされる。が、彼には絵に描いたような嫌な女房がいる。見栄っ張りで欲が深く、自分が注目されてないと気が済まないという最高に嫌な女なのだ。でも、人のいいケイジは、嫌な妻に尽くしている。
「こんな嫌な女房とはさっさと別れて、早くワケありのウエイトレスと一緒になりなさい、ケイジよ」
と、見る者は誰でも願わずにはいられない。
せっかくの賞金を、球場を借り切って子供達に無料で野球をさせたり、地下鉄乗り放題サービスに使ったりするお人好しのケイジ。くさいと思いつつも、このいい人[#「いい人」に傍点]が何とか幸せになってもらいたい。でなきゃ、この世に神も仏もないのかいっ。せちがらい今の世だけに、意地でもハッピー・エンドが見たいのさ。というわけで、すっかり映画にはまりこんで、ラスト・シーンに涙した私なのであった。
ニコラス・ケイジはおまわりさん役が似合う。なにせニコラス・刑事《けいじ》だからなんて親父《おやじ》ギャグですみません。刑事《でか》プリオの次は、ニコラス刑事《デカ》だ、オリコ・カード。それはさておき、ちょっとモト冬樹似のニコラス・ケイジ。下がった眉《まゆ》の困り顔が、人の同情を誘うのか。そういえば、「柿沢こうじは、悲しそうな顔をしている分、同情を買って明石さんより票が多いんじゃないか」と言った政治評論家がいた(東京都知事選)。
悲しそうな眉毛の分、トム・ハンクスより善人度が高いぞ、ニコラス・ケイジ。二人とも演技力には定評のあるところだが、本当に力のある役者しか平凡な善人を自然に演じることができないのだろう。
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だんご3兄弟[#「だんご3兄弟」はゴシック体]
今やスーパーの菓子コーナーには必ずといっていいほど、
※[#歌記号、unicode303d]だんご だんご だんご3兄弟
のテープが流れ、モチ三つの串だんごがパックに入って積み上げられている。
素直なお子様は、
※[#歌記号、unicode303d]だんご だんご
と、自分もテープに合わせて口ずさみながら母親の買い物カゴに串だんごパックを入れる。私はここ一週間、何度となくその光景を目撃したのである。
「およげ! たいやきくん」といい、「アンパンマン」といい、ホントお子様は食べ物に弱い。そりゃそうだろう。色気に目覚める前段階なので、欲望といえば食欲しかないのだから。
それにしても「だんご3兄弟」は、おとなまで巻き込んでなぜこんなにブームになったのだろう。
一説には、ワイドショーが一斉に「ブームだ」と取り上げたからだという意見がある。が、ワイドショーで一斉に安室奈美恵の母親の手記本を取り上げたからといってその本が売れた訳でもないのだから、ワイドショーがあおっただけが原因ではないと思う。
やはり、楽曲として人を引きつけずにはおかない何かが「だんご3兄弟」にあるのだ。
その大きな吸引力の一つとして、おとなが大真面目《おおまじめ》に、
※[#歌記号、unicode303d]だんご
だんご
と、連呼するところに、えも言われぬおかしみが漂うからではないだろうか。
タンゴといえば、大真面目に男女がクイックイッとターンするダンスというイメージがある。エアロビクスのように満面の笑みで踊るのではない。無表情に近い真面目顔で踊るのが、タンゴだ。
その大真面目なダンスに、
〈だんご〉
という大間抜けな響きを持つ日本語がかぶさると、それだけでおかしいのだ。
少子化の昨今、三兄弟に対する憧《あこが》れから、この曲が大ヒットしたと分析する識者が多いが、私はもっと単純に、
〈だんご〉
という言葉がお間抜けだから、のような気がする。
よくラジオの交通情報で、
「ダンゴ坂パーキングエリア」という言葉を耳にするので、私はてっきり、坂を上ったところで、だんごとお茶で一服する峠の茶屋のようなパーキングエリアを想像していたのだが、あれは〈談合坂〉なのだと最近知った。そうとわかると、いきなり怪し気な坂に思えてくる。初老の親父たちがヒソヒソ密約を交わしているイメージがついてくるからだ。
タンゴ。
だんご。
談合。
似たような言葉でも、人のイメージはこんなにも違うものなのか。
さて、「およげ! たいやきくん」も「だんご3兄弟」も、やがて人に食べられてしまう悲しい運命が待っているのだ。その哀愁に、人はまた引きつけられるのかもしれない。
「どんなに仲の良い兄弟でも、食べられちゃうんだよー」
と、子供達は、子供心に気づいているはずだ。その残酷性を平気で享受してしまう子供の感性をきちんと理解しているおとなの作品なのだと、私は感心するのだ。
常識的なおとなは、
「せっかく子供達が感情移入しているキャラクターを食べてしまうなんて、教育上よくないんじゃありませんこと」
などと、余計なお世話の発言をするのだ。そうして、こういう人が新聞の投書欄に投稿するのだろうな。
けれど子供達って、お豆さん、お肉さんと敬語を使うくせに、それらの食べ物を躊躇《ちゆうちよ》なくパクッと食べちゃう生き物なのである。
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旅に出てあれこれ考えてみる[#「旅に出てあれこれ考えてみる」はゴシック体]
二週間の間に、香港と伊豆《いず》を旅行した。
香港と伊豆の旅に共通点はない。香港は漫画作品の取材のためで、伊豆は家族慰安の春休み温泉巡りである。ともに二泊三日であったという点では同じなのだが。
香港では、リージェントに泊まった。このホテルは世界のナンバーワン・ホテルに選ばれたこともある、高級ホテル中の高級ホテルなのだ。
確かに、私は人生これまで味わったこともないくらいの贅沢《ぜいたく》気分に浸れたのだった。窓の下はすぐ海で、その海に面した窓が壁一面十メートルくらい続いている。部屋も軽く百平米はある。風呂《ふろ》上がりに冷たい物を飲もうと、バスルームから冷蔵庫まで二部屋を横切って歩いてゆくと、それだけで疲れるくらい広いのだ。
ベッドルームの枕《まくら》の高さもシーツの糊《のり》の利き具合も、まさに完璧《かんぺき》と言っていい。
そして、リージェントの目玉はそのバスルームにある。三畳くらいはありそうな巨大バスタブはジャクジー付きで、マジックミラー効果のガラス窓からは、やはり海が眺められる。バスタブの脇《わき》には本物の胡蝶蘭《こちようらん》の花が置かれている。念のため私は鉢の土に触ってみた。苔《こけ》むしてじっとりとしたあの蘭栽培用の土だった。東京の高級レストランでも本物そっくりの胡蝶蘭を模した造花が堂々と飾られているこの御時勢に、風呂場に本物を飾るとは!!! さすが老舗《しにせ》のプライド。豪奢《ごうしや》なことである。
そんなリッチな気分を身体に余韻として残しつつ、その三日後スーパービュー踊り子号で私は伊豆の旅に出かけた。
河津《かわづ》温泉。
いかにもひなびた山あいの温泉宿である。玄関先にズラーッと並んだビニールのスリッパを見て、
「ああ、日本の宿だ」
と、私はため息をついた。
今回の香港の取材旅行で私は香港の一般家庭を訪問する機会に恵まれた。近年日本のマンションのインテリアもこじゃれてきているので、イギリス風の香港マンションと比較しても、住居の面においてはさほど差異は無かった。日本も西欧も住まいはそう変わらないのだ。ただ、靴を脱ぐのである。日本人は、靴を脱いでスリッパをはくのである。いくら西欧化が進んでも、日本人は、なぜか靴を脱ぐ。スリッパをはく。
玄関と下駄《げた》箱というものは、おそらく日本固有のものではないのだろうか。香港の住居の玄関に下駄箱がないことに私は驚いたのだった。
旅館のスリッパで困るのは、大浴場でスリッパを脱ぐと、風呂を出て再びスリッパをはく時必ず他人がはいてきたスリッパになってしまうことだ。ああいうのって、西欧人は絶対嫌だろうなと思う。他人がはいてきた靴下をはくようなものだし。便所のスリッパにいたってはもっと嫌だ。日本人てトイレの便座に腰をつけるのが嫌で使い捨てシートを考案するくせに、便所のスリッパには寛容である。男女兼用の便所だと、絶対男のしぶきがかかっていると思うのだが。
香港では、どんな高級ホテルでもレストランでも、温かい便座は無い。ウォシュレットも無い。
〈日本のお尻《しり》が世界で一番清潔な理由を述べよ〉
というCMがあるが、つまりそういうことなのだ。でも、日本の便所のスリッパは不潔だ。
さて、河津の温泉旅館の名物は、滝を眺めながらの露天風呂である。男女混浴の露天風呂。これこそ、ジャパニーズ文化。でも、
「どうぞ、水着を着用して下さい」
と、宿の人に勧められた。あいにく持ち合わせていないと言うと、フロントで水着を貸し出しますと説明された。
「俺《おれ》は、嫌だ」
と、同行の夫が声を上げた。学生時代、友人から借りた海パンでインキンをうつされたからだと言う。
「俺は、絶対、貸しパンツははかない」
あなたが学生時代の頃とは消毒技術も違うのだからと私が言っても断固説を曲げない夫は、結局MYトランクスで露天風呂に入った。
〈清潔〉に関する価値観は、国だけでなく、夫婦間でもこんなに違うのかと、新たな発見のあった旅であった。
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スーパー歌舞伎《かぶき》[#「スーパー歌舞伎《かぶき》」はゴシック体]
歌舞伎を見てきた。市川猿之助、主演・演出のスーパー歌舞伎「新・三国志」である。
ここ数年歌舞伎を見るようになっている。それまでは「難しそう、退屈かも」と敬遠していたのだが、中村勘九郎主演の「四谷怪談」を見て以来、その面白さにはまっている。
歌舞伎はドリフのコントのようである。いや、ドリフのコントが歌舞伎の様式を踏襲していると言った方がいいのか。ドリフの名作コントでは、二階からハシゴが崩れる、屋根が落ちる、人が池に落ちるといった大掛かりな身体を張った舞台仕掛けが見物なのだが、歌舞伎も似たようなものである。というか、歌舞伎の大仕掛けな舞台をドリフが真似ているのだろうか。
さらに、オチの無さ。ドリフも歌舞伎もオチが無く、ラストは出演者入り乱れのてんやわんやのチャンチャカチャンチャカで舞台に幕が下りるのだ。ドリフの場合、舞台が回転して、その日のゲストの歌に変わる。歌舞伎の場合、出演者総勢がズラリと(死んだ人も蘇《よみがえ》って)挨拶《あいさつ》に出てくる。このへんは宝塚と同じだ。というか、宝塚が真似しているのであろう、やはりこれも。
ま、要するに、ドリフも宝塚も日本の大衆にうけるツボを、歌舞伎から学んでいるのだ。歌舞伎を見ると、
「ああ、私は日本人なのだ」
と、しみじみ思いにふける程、私の〈日本人のツボ〉を押されるのだ。
西欧翻訳物のシャレた舞台劇だと、こうはいかない。西欧物はオチが確立している。シャレてはいるが、大衆は今ひとつ満足できないのだ。
日本の漫画もまた、歌舞伎の影響を受けている。格闘漫画では、闘うヒーローが闘いの前か後に必ず大ゴマのアップになる。これがいわゆる歌舞伎の〈見栄の切り方〉ですね。一瞬時間のタメを作り、
「これが見せ場だ」
を強調する。そんな暇あったら早く闘わんかい、とは誰も言わない。〈見栄《みえ》〉と〈タメ〉は、日本の大衆芸能(文化)の基本なのだ。
さて、「新・三国志」に話を戻すと、これはスーパー歌舞伎なのだから、歌舞伎よりさらにエンターテインメントに富んでいる。
三国志というから舞台は昔の中国。ギ・ゴ・ショクという三国の名は世界史を高校で学んだ者なら誰でも耳にしたことがあるだろう。しかし、魏《ぎ》・呉《ご》・蜀《しよく》が何時代で何という国につながったかを正確に言える人間は数少ないと思う。もちろん私も知らない。漫画「三国志」も読んだことがあるが、それでもわからない。
でも、まあ、今回のこの歌舞伎でこんな私もおぼろげながら中国史が理解できた気がする。横内謙介の脚本は、そのくらいわかり易くかみ砕かれていた。「三国志」って孫悟空が出るの? などと言いかねない人間にもわかるくらい易しく丁寧に説明されていて感心した。なにせ、舞台上に当時の中国の地図が下りてきて、ここが魏、大将は曹操《そうそう》、といった風に説明してくれるのだ。まるで社会の授業を受けているようだった。
「新・三国志」は、劉備《りゆうび》が実は女で、家臣の関羽《かんう》と恋仲であったという大胆な設定で話が展開する。まるで「ベルサイユのばら」のオスカルとアンドレのようだ。
劉備を演ずるのは、若手名|女形《おやま》の市川笑也。ステンレス流し台のCMで華麗に舞っているあの人だ。
いやもうその美しさったら。今回私は一階の前から六列目といういい位置で舞台を見ることができたのであるが、恋する女の哀《かな》しさを美しく妖艶《ようえん》に演じる笑也に思わずウットリしてしまった。
歌舞伎の女形は女より女らしいというのは本当だ。その立ち居振舞い、仕草、着物の足さばき。私が男だったら、そのへんの若い女より絶対女形の方を選ぶな。
今回の「新・三国志」には中国京劇俳優が立ち廻《まわ》りに参加している。これが又|素晴《すば》らしい。くるくるとバック転連続数十回など見せてくれる。ジャニーズも池谷幸雄も顔色無しである。猿之助はもちろん宙を飛ぶし、舞台に水が落ちてくるし、ロマンもサーカスも楽しめる、これぞまさしく大衆芸能なのだ。
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KinKi Kids[#「KinKi Kids」はゴシック体]
「P.S.元気です、俊平」が七月からTBSで連ドラ化されることになり、すでに収録が始まっている緑山スタジオヘ見学に行ってきた。
主演は、KinKi Kidsの堂本光一君である。片割れの剛君とは二年前対談で会っているので、これでKinKi完全制覇である(ま、要するに直に会って一緒に写真を撮ったという、ただそれだけのことであるが)。
世間は、剛が突っ込みで光一がボケと、そういう風にこのコンビを見ているが、直接二人に会ってみた私としては、コトはそんな単純なものではないとみた。
光一くんは、ボケというより、普通の男の子らしい男の子。外見から繊細で中性っぽいイメージで見られるが、なかなかに骨太で男っぽい部分もある。最初とっつきにくいところはあるが、慣れると素直に心を開いてくれて、なかなかの好青年であることを私は発見した。
「ねえねえ」
と、スタジオ脇《わき》にあるタバコの自動販売機を指さして光一君が私を呼び止めた。
「ハイライトってタバコあるでしょう」
「ハイ」
と、私。
「ハイライトの※[#「米」に似たマーク]マークって、お尻《しり》の穴みたいでしょ」
と、言ったのだ、光一君が。
「つまり、※[#「米」に似たマーク]hi―liteとは、コ〇モン・ヒライテって意味なんだって」
大丈夫かなあ。ジャニーズ検閲。この頁。
さらに光一君は、ラッキー・ストライクというタバコが何故ラッキー・ストライクなのかそのゆえんを語ってくれたのだが、これはチト長くなるし難しいので省きます。
そんな風にしてスタジオ脇の廊下の自販機の前でしゃべっていると、隣のスタジオでやはりTBS連ドラ収録中の剛君がやってきた。
おお[#「おお」に傍点]、て感じで二人が合図を送る。
このおお[#「おお」に傍点]の感じが実に良いのだ。本当に男の子同士のおお[#「おお」に傍点]。心を許した友達だけがかわせるおお[#「おお」に傍点]。ウソのないコンビなのだ、KinKi Kidsは。と、私はその時感じた。キンキの人気は、おそらくこんなところにあるんだろうな。
いいなあ。若く美しい男の子二人が廊下ですれ違いざまに〈おお[#「おお」に傍点]〉。女はたまんないっス。
さて、剛君に話を移そう。彼と雑誌で対談したのは二年前の冬。ちょうどキンキが目茶苦茶《めちやくちや》忙しかった頃で、かなりお疲れの様子だった。
けれど、言葉一つ一つを選びながら真剣にこちらの質問に答えてくれた。ちょっと理屈っぽいかなとこちらが感じる程、語ってくれた。生真面目《きまじめ》で神経質な若者、という印象を私は抱いた。
「いつも、胃薬飲んでるんスよ」
と、剛君は言った。まるで「釣りバカ日誌」の課長さんみたいだ。
光一君以外に、ジャニーズの中で誰と仲がいいの、と剛君に聞いてみたところ、中居君という答えが返ってきた。
「気の遣い方が(中居君に)似てるって言われるんです」
と、彼は説明した。
そうだなあ、中居君も目茶苦茶気を遣ってそうだものなあ。中居君も胃薬飲んでるのかなあ。SMAPの中で、動物から橋田壽賀子先生まで相手できるの中居君だけだしなあ。
KinKi Kidsは、気遣いの剛に大らかな光一の名コンビだと思う(大らかでなくては、その日初対面の人に対してコ〇モンなどとは言えないと思う)。
さて、「P.S.元気です、俊平」に話を戻すと、七月(正確には六月の最後の週)の木曜日夜十時からTBSで放映されます。原作ではひたすらダサくて情けなくてでも一直線で突っ走る青春少年である俊平を、大らかな光一君がどんなに演じてくれるのか楽しみであります。光一君とも話したのだが、俊平の性格を一言で言えば犬≠ネのだ。忠実なワンちゃんが欲しいと思っている貴女、木曜十時には光一君が貴女の犬≠ノなってくれましょう。
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夢日記[#「夢日記」はゴシック体]
さて、今回で最終回です。
色んなマイブームがあったけれど、ブームは必ず去ってしまう。飽きっぽい私は、お稽古《けいこ》ごともダイエットも日記も、ことごとく続かない。
「同じような献立が続かないように、毎日作ったおカズを記録しておいて」
と、家族に頼まれ、メモにつけ始めたのだが、やっぱり一か月半しか続かなかった。
毎日続ける、というのがとにかく私は苦手らしい。むしろ、やったりやらなかったり、時々、細々と、といったスタイルの方が案外長く続く。ダンベルも週に一、二回のペースで続いているし、マッサージとエステももう何年も通っている(お稽古ごとでも何でもないか)。
そうして、我ながら続いているのが「夢日記」なのである。
私は、毎日夢を見る。時々、奇想天外な夢も見るので、そんな時はノートに書き留めておく。それを定期的に始めたのは、河合隼雄と谷川俊太郎の対談集で、
「ユング派にとって夢こそが最大のカギ。夢日記をつけなさい」
と、河合先生が勧めていたのを読んだからだ。
そんなこんなで、もう二年くらい夢日記をつけている。深層心理や無意識のコンプレックスが夢には強く現われるというので、どきどきしながら読み返すのだが、何故か私の夢には三日に一回の割で芸能人が現われる。
たとえば、この半月をとっても、SMAP、華原朋美、アムロ&サムあたりが出ている。
夢の中で私は「SMAP×SMAP」のゲストとしてメンバーと談笑し、なぜかアムロにダンスを教えている。私とサムで、アムロに新曲の振りを教えているのだ。
「ダメ。もっと腰を振らなくちゃ」
と、私がアムロの腰に手を当てて振りを教える。だぁってぇ〜んと、アムロがサムに甘える。
「アムロは、お子チャマすぎる」
と、サムがアムロを叱《しか》る。男らしいサムに私はちょっと惚《ほ》れる。ユング派は、河合先生は、一体この夢をどう解釈してくれるというのだろうか。
華原朋美にいたっては、例の救急車で運ばれたニュースのその夜に現われた。なぜか私は仕事場でマスコミに追われる朋ちゃんをかくまっている。
「朋ちゃんは免疫が弱っているから」
と、私が説明する(その日の昼見た「おもいッきりテレビ」の『免疫力を高める』コーナーの影響らしい)。
「ふう〜ん」
と、朋ちゃんは気のない返事をする。
「朋ちゃん、こんな顔だから、彼氏のウチにも泊まりにいけないの」
と、朋ちゃんが髪を持ち上げると、彼女の鼻から下、顎《あご》にかけてびっしり小豆《あずき》がめりこんでいる。まるで豆大福のように。その皮膚を突き破って顔をのぞかせている小豆から毛根がニョロニョロと伸びていて…。
と、この話を仕事をしながらアシスタントに話したら、ギョエ〜〜ッとのけぞった。
昔、鈴木翁二という人の漫画に、やはり自分の夢をそのまんま絵にしたのがあった。両足をふとももで切断され、その切断面からニョロニョロと神経が伸びて垂れ下がる。その断面部分がかゆくてかゆくてたまらないという図が、劇画調にリアルに描かれていた。それに近いかな。
つげ義春にも夢日記の本があり、どうも漫画家は夢をよく見て、それを絵として残しておきたいという欲求にかられるものらしい。
しかし最近、夢は、昼間見た情報を整理|整頓《せいとん》して不必要なものを切り捨てるために見るもので、夢を覚えていることは脳に不健康だという説を聞いた。
近頃どうも、記憶力が衰えたり、言い間違え、聞き違えが多いのも、夢を思い出して日記につけているせいかもしれない。いや、ただ単に老化が始まってるだけなのか。でも面白くてやめられない。これはブームというより、私の気質なのだろう。
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あとがき[#「あとがき」はゴシック体]
シュシュに連載していた「とっても マイ・ブーム」が、「とっても、愛《アイ》ブーム」とタイトルを代えて一冊の本になりました。
〈マイ・ブーム〉は、みうらじゅんさんの造られた言葉で、奥の深さやマニアックな匂《にお》いを感じさせます。とりあえず、一、二年はそのブームに打ち込まないと〈マイ・ブーム〉を名乗ってはいけないのではないかと思うくらい重い権威を感じます。(ホントか?)
一方、〈愛ブーム〉は、一人勝手にのぼせて勝手に冷めてなのですから、三日、いや一日で終わってもOKなのです。
〈愛ブーム〉は、三つ四つのかけ持ちもOKです。
とはいうものの、年を経るにつれ、愛するモノも限られてきます。十代、二十代の頃は一日に三個くらい一目惚れをしたものですが、この年になると半年に一個くらいしか惚れ込む対象が現われません。
やっと現われたと思ったら翌週写真週刊誌にスキャンダルが暴露されて、期待に膨らんだ風船もまたたく間にしぼんだりするのだな、これが。
インターネットで、ハリウッドスターの全裸写真が出廻るこのご時勢。ミーハーな夢を見続けるのはとても大変なことなのかもしれません。
それでも、毎年一人二人、必ずや私をはっ[#「はっ」に傍点]とさせてくれる若い男の子が現われてくれて、日本もまだまだ捨てたもんじゃないなと思い返します。
ウルフルズのトータス松本。スピッツの草野マサムネ。ゆず。山崎まさよし。彼らは、いい。私の〈愛ブーム〉の定番であります。
〈愛ブーム〉の新ネタが現われ続けてくれる限り、私も人生を愛し続けて生きてゆける気がします。一九九九年も無事終わりそうだし、二〇〇〇年にはさらに偉大な〈愛ブーム〉が訪れるのでしょうか。
[#2字下げ]一九九九年八月
[#地付き]柴 門 ふ み
角川文庫『とっても、愛ブーム』平成14年2月25日 初版発行