柴田錬三郎著
赤い影法師
目 次
誕生篇《たんじょうへん》
虎伏《こふく》の剣
因果坂
前夜行
無刀皆伝
紅葉狩り
剣相
無明縄《むみょうなわ》
火焔《かえん》問答
秘術
不吉鳥
匂う女体
贋村正《にせむらまさ》
赤猿検分
十字架
伊賀《いが》の水月
円明二刀流
常山《じょうざん》の蛇《へび》
牢鼠《ろうねずみ》
巨人征服
呪《のろ》い鏡
十文字|鎌《がま》
剣仙談《けんせんだん》
幻影行列
双頭記
解説
誕生篇《たんじょうへん》
一
――お?
檜《ひのき》の密林の中を、一上一下する杣道《そまみち》を辿《たど》って来て、急に明るい陽《ひ》ざしの中へ出た服部半蔵《はっとりはんぞう》は、不審の眼眸《まなざし》を、あたりに配った。
道は、そこで、ぽつんと断ち切れていたのである。
半蔵の前には、薄《すすき》と蓬《よもぎ》と、小花をつけた虎杖《いたどり》が、いちめんに生茂《おいしげ》って、爽《さわ》やかな秋風にそよいでいる。
半蔵が辿ってきた道は、杣道といえ、御岳《おんたけ》の麓《ふもと》から、黒沢へ下り、木曽《きそ》福島の手前を、左折して、上田へ抜け、鳥井峠に至る確実な道筋を、古い地図にしめしていたのである。のみならず、半蔵を迷わせる岐点は、どこにもなかった。
「ふむ!」
半蔵は、にやりとして、一歩退ると、かるがると跳躍して、背後から頭上十尺あまりの高処《たかみ》へ差しのばされた檜の太枝へ、とびついた。
その太枝が、ところどころ傷《いた》んでいるのを、みとめて、半蔵は、おのれの推測が正しかったのを知った。
道は、空中に移されていたのである。
すなわち、半蔵の次の敏捷《びんしょう》な動作が、それを示した。
太枝上を、苦もなく歩いて、充分にたわめておき、その反動を利用して、五体を、遠くへ飛ばせた。
降り立った地点から、杣道は、再びつづいていた。
そこから、山肌《やまはだ》の剥《む》き出された断崖の縁をうねって行く。瀬音が、密林の下から、ひびいて来た。
およそ、数町――まず普通の旅人の足では徒歩不可能な険路であった上に、半蔵は、岩陰《いわかげ》から躍ってきた蝮《まむし》を、十|疋《ぴき》余も、斬《き》りすてなければならなかった。
……それだけの、ふかい要心をもって、孤立した世界を守っている小さな峡間の聚落《しゅうらく》が、その平和なたたずまいを、やがて、半蔵の眼下に、あらわした。
渓流をはさんで、黄ばんだ陸田が、小さな蓆《むしろ》を並べたように、ゆるやかな斜面に、ひろがっている。厚い茅葺《かやぶ》きの切妻合掌造りの屋根が、いずれも、赤い実をたわわにつけた柿《かき》の木を添わせて、美しい傾斜と切角《きりかど》を見せている。
陽ざしは、いま、半蔵の立つ山腹から、その孤村へ移って、すべてのものが、人の手によって丹誠をこめられてあたたかく息づいているさまを、くまなく照らしているのであった。
「ここか?」
半蔵のいくすじか刀創の走っている貌《かお》に、感慨の色が刷《は》かれた。
陸田には、ちらほらと、刈入れの人影が見える。いずれも、下郎笠《げろうがさ》の下の顔を、黒い布でかくして、黙々として、おのれの作業に余念がない。
だが、この連中は、ひとたび、この里を出れば剽悍《ひょうかん》無比の忍者と化すのだ。
服部半蔵は、これら隠れ忍者六十余名を支配する頭領に、会いに来たのである。
二
半蔵が「影」と称《よ》ばれる稀代《きたい》の忍者を見たのは、十五年前――慶長五年十月――すなわち、徳川家康《とくがわいえやす》と関ヶ原で雌雄を決した石田三成《いしだみつなり》が、一敗地にまみれて、伊吹《いぶき》山中に潜んでいるところを捕えられて、三条河原で処刑されたその翌月のことであった。「影」は、石田三成に傭《やと》われていた忍者であった。
関ヶ原の合戦の時には、「影」は、本拠佐和山城にいた。ここは、一族はじめ二千八百余名の兵が守っていたが、小早川秀秋《こばやかわひであき》の率いる一万五千の 軍勢の猛攻をあびて、あえなく陥落した。
「太田牛一慶長記」にいう。
佐和山には、石田|隠岐守《おきのかみ》(三成の父)宇田|下野守《しもつけのかみ》(三成の外舅《がいきゅう》)石田|木工頭《もくのかみ》(三成の兄)子息右近太夫ら、楯《たて》こもり難《がた》く見および、上臈《じょうろう》、子供らを呼びならべ、これにて腹を切る可《べ》きなり、おもいさだめて恨みとも思うべからずとて、心強くもそれぞれの妻子を刺し殺し、算を乱すありさま、目も当てられぬ様体なり。
これよりさき、石田木工頭|正澄《まさずみ》は、家康の勧誘を容《い》れて、自ら一人責任を負って、城兵全員をたすけるべく、開城を約束したのであった。ところが、これを不服として、叛徒《はんと》が本丸に放火したので、やむなく、まず正澄が天守閣に上って、妻子を殺して、自刃《しじん》した。つづいて、重臣土田桃雲が、三成の妻を刺し、天守閣を炎上せしめて、殉死した。
焔煙《えんえん》、空を焼き掩《おお》い、城中の婦女は遁《に》げまどって、南端の懸崖《けんがい》から身を投ずるものが夥《おびただ》しかった。後に、この絶壁は、女郎|墜《お》ち、と名づけられた。
ところで、「影」は、落城の日、三成が最も寵愛《ちょうあい》していた十歳になる妾腹《しょうふく》の子秀也を、ひそかに、かくまっておいて、夜陰に乗じて、城外へ遁《のが》れ去ったのである。
そして、仲間の忍者たちの諜報《ちょうほう》をあつめて、たちまち、三成が伊吹山中――伊香郡《いかごおり》古橋村|法華寺《ほっけじ》三殊院裏の岩窟《がんくつ》に隠れていることを知って、秀也を、そこへともなった。
三成は、近臣を一人のこらず、諭《さと》して立ち去らせて、ただ一人、そこにいた。「影」は、入っていった時、別人ではないか、と愕《おどろ》いた。三成は泄《せつ》(下痢症)を患《わずら》って、変貌《へんぼう》し果てていたのである。
秀也は、父と判《わか》り乍《なが》らも、あまりに悽愴《せいそう》な形相《ぎょうそう》に、怯《おび》えて、泣いた。
三成は、そのさまを眺《なが》めて、
「育てるにおよばず」
冷然と宣告して、自ら脇差《わきざし》しを抜いて、わが子の胸を刺した。
それから三日後、三成は、田中|吉政《よしまさ》の臣田中長吉の手に捕えられた。三成は、「影」が、ほかへ身を移すようにすすめたのを、しりぞけて、幼少よりの親友田中吉政に、ここにいることを報《しら》せるように、命じたのであった。
吉政は、三成を駕籠《かご》にのせて、大津の家康の本陣へ至った。
家康は、三成を、本陣の門外の地べたへ座《すわ》らせた。下人の囚徒扱いであった。一夜が、明けた時、三成は、いつの間にか、畳の上に座り、狩衣《かりぎぬ》をまとうていた。篝火《かがりび》が燃え、警衛の士は二十余名もいた。にも拘《かかわ》らず、これが、なされたのである。「影」の仕業であった。
家康は、世人へのみせしめに、あくまで、三成を下人同然に扱って、成敗の場所を三条河原と指定した。
その朝――辰の上刻、裸馬に乗せられた三成が、堀川主水《ほりかわもんど》の邸《やしき》より一条の辻《つじ》に出て、ぐるりと洛中《らくちゅう》を引廻《ひきまわ》されて、三条河原の刑場に入れられたのは、午《ひる》すぎであった。どんよりとした曇り空で、冬が兪々《いよいよ》来たことをしめす底冷えのする日であった、という。
引廻しの途中、三成が、湯を乞《こ》い、警固の者が、湯は求め難いが、恰度《ちょうど》ここに甘乾《あまぼし》(干柿)を持参している、とさし出した。すると、三成は、それは痰《たん》の毒だから要らぬ、とことわった。警固の者が怪訝《けげん》そうに、半時《はんとき》のちに首を刎《は》ねられる人の毒絶ちは如何《いかが》なものか、というと、三成は、平然として、その方たちがそう思うのは尤《もっと》もだが、大儀を思う者は、首を刎ねられる一瞬前まで命を惜しむ、とこたえた。
「茗話記《めいわき》」に出ているこの逸話は、有名である。
三成は、従容《しょうよう》として、首を刎ねられた。
血飛沫《ちしぶき》が、高くあがった瞬間、一人の男が、鹿垣《ししがき》を踊り越えて、そこへ奔り寄りざま、首級をひろいとるや、介錯の士の一颯《いっさつ》をひらりと躱《かわ》し、検使の面々の狼狽《ろうばい》をしりめに、何処《いずこ》かへ消え去った。文字どおり、飛鳥のごとく、磧上《せきじょう》に影さえも映さぬ迅《はや》さであった、という。
三
「影」が、家康直属の伊賀党によって捕えられたのは、それから二十日あまり後であった。
立石街道の恩智川《おんちがわ》の堤で展開された争闘は、凄絶《せいぜつ》をきわめ、伊賀党は、十二名を喪《うしな》い、「影」もまた、左目をつぶされ、右脚を両断された。
本多|上野介正純《こうずけのすけまさずみ》は、自ら取り調べに当たってみて、噂《うわさ》に聞いた以上の不敵の面魂《つらだましい》に感服して帰順させようと努めたが、無駄であった。
「影」は、主人三成と同じく、三条河原で断首されることを希望し、正純はこれを容《い》れた。
服部半蔵が、高手小手に縛りあげられて裸馬上に乗せられた「影」を見たのは、一条の辻においてであった。
すでに「影」のうわさは、洛中に拡《ひろが》っていて、これを見物しようとして、引廻しの途上へ蝟集《いしゅう》した頭数は、夥《おびただ》しいものであった。
ひしめき合う群衆の中に交じって、馬上のその面貌を仰いだ時、半蔵は、しかし、かなりの失望をおぼえた。群衆の殆《ほとん》どが、興ざめたに相違ない、と思われた。
――これが、「影」か。
どの顔にも、何だという表情が泛《うか》べられ、現に、半蔵のかたわらでは、大声で、
「阿呆らしい。こやつ、肥溜《こえだめ》で洗うた面ではないか。田吾作め、なにが、天下の忍者ぞ!」
口ぎたなく罵《ののしる》る者もいたのである。
まことに、見ばえのせぬ、土くさい、凡庸をきわめた風采《ふうさい》であった。小柄《こがら》で、小肥《こぶと》りで、猫背《ねこぜ》を出して、垂れ目蓋《まぶた》をしょぼしょぼとまたたかせている様子は、小心者の虚脱状態とも受けとれた。
成程、左眼からは、なお、一縷《いちる》の血糸が、頬をつたい落ちていたし、右脚は膝から断たれて、襤褸《ぼろ》を瘤《こぶ》のように巻きつけていたが、それは、凄絶の争闘を物語るよりも、愈々その凡庸な姿を、悲惨な、あわれなものにしているにすぎなかった。
半蔵は、決して、みにくい風采を軽蔑《けいべつ》はしなかった。しかし、「影」という存在を、宛然《さながら》英傑のごとく偉大なものに感じていた一般庶民に対して、のめのめと、その矮小《わいしょう》貧寒な実体を曝《さら》した恥知らずに対して、半蔵は、腹が立った。
忍者なら、忍者らしく、なぜ敗れたとさとったなら、自らの貌を、自らの手で斬りきざんで、果てなかったのか。
曾《かつ》て、伏見城に忍び入って、家康を刺そうとした黒田某なる忍者は、柳生但馬守《やぎゅうたじまのかみ》に背中を斬られて、なお、屈せず、城外へ遁れたが、二里余りはなれた山中の杣《そま》小屋で発見された時、炉火の中へ顔を埋め、眉目《びもく》を焼き崩して、こと切れていた、という。これだけの気概があってこそ、一流の忍者と、自ら誇って、秘術を高く売ることもできようというものである。
主人三成に尽くした働きの目ざましさにひきかえて、この末路の、なんという醜態であろうか。
服部半蔵自身、えらばれた忍者の一人であった。
「野良犬めが!」
思わず、そう吐いた。ひくい声音であったが、「影」の耳にとどけと、腹からおし出す、鋭気を罩《こ》めていた。
このとき、偶然、半蔵のすぐ近くから、想像を裏切られた腹立ちまぎれに、
「これでも、くらえ!」
と、投じた石が、「影」の頭上を掠《かす》めた。
「影」は、俯向《うつむ》いていた顔を擡《もた》げて、残った一眼で、ちらと、こちらを睨《にら》みかえした。ほんの瞬間ではあったが、くぼんだ眼窩《がんか》の底で閃《ひらめ》いた光が、異常に鋭いものであったのを、半蔵は、見遁さなかった。はっとなった。
――こやつ、まだ充分の気力をかくしている!
その直後であった。
半蔵が、どよめきのなかから、微《かす》かな鶯《うぐいす》の声をききわけたのは――。
谷を渡り乍《なが》ら、樹枝や渓流や岩肌へ、その麗《うるわ》しい余韻をしみ込ませて行く――あの啼《な》き声であった。
――はてな?
風の音は、すでに木枯《こがら》しである。季節はずれに、この街中へ、鶯が迷い込んで来る筈《はず》がない。
視線をまわしかけた半蔵は、次の瞬間、おのれの不明を慙《は》じた。
つづいて、つたわって来た鶯の声は、疑いもなく、忍者が用う忍び笛だったのである。
忍者は、上下四本の親知らずを抜きとって、義歯をはめている。それらは、いずれも、笛であって、はずして吹けば、虫の音や風の音や鳥の啼き声や、思うがままの音色を出すのであった。のみならず。常人には、鶯の声ときかせておいて、仲間には、その意《こころ》を伝える言葉となっている。
「頼まれてくれるか?」
鶯の声は、その人語にまぎれもなかった。
半蔵は、さりげなく、人を押しわけて、前へ出ると、囚馬の行くのに添うて、ゆっくりと歩き出した。
「頼まれてくれるか?」
ふたたび、鶯は、そう啼いた。
半蔵は、左手を擡げて、額を撫《な》でた。忍者にのみ判る合図であった。
……行列が、三条河原に降り立つまでに、約一刻半を要した。
半蔵は、警固の士たちに気づかれないように、跟《つ》いて行き、「影」の依頼を、ききとったのであった。
固有の地名場所を教える依頼をききとるには、一刻半も短いと感じなければならぬ異常な神経の緊張を必要としたことであった。
「如意山の麓――南禅寺道から鹿《しし》ヶ|谷《たに》へはいる途中、崩れかかった三重塔がある。その屋根へ登れ。北に向かって首を擡《もた》げた獅子瓦《ししがわら》の中に、白い球が隠してある。刑場に来て、火口《ほぐち》に点火して、余の足下へ投げよ」
依頼は、それであった。
半蔵は、それに応《こた》えて、犬脅《いぬおど》しの口笛をのこしておき、身を翻《ひるがえ》して、如意山の麓へ奔《はし》った。秒刻を惜しまねばならぬ行動であった。
その日、三条河原には、三成が処刑された時と同様、二十間四方に堀がほられ、鹿垣がめぐらされ、具足に身をかためた河原者たちがものものしくまもっていた。
「影」は、処刑の座に就くと、辞世の一首をものする暫時《ざんじ》を与えられたいと申出て、ゆるされた。
瞑目《めいもく》して、微動もしなくなって、いくばくが過ぎたであろう。
検使役が、しびれをきらして、かたわらに控えていた介錯人へ、目くばせした時であった。
「影」は、くわっと隻眼《せきがん》を剥《む》くや、辞世の一首を口にするかわりに、
「もの申す。われに穏身遁形《おんしんとんぎょう》の術あり。かまえて、油断めさるな」
と、呼ばわった。
「おのれ!」
検使役は、憤怒して、床几から立った。
「討てい!」
下知とともに、介錯人が、業物《わざもの》へ浄水をくれて、つかつかと、「影」の背後へまわった。
刹那――「影」は、大きく上半身をゆさぶるや、すっくと、隻脚《せっきゃく》で立った。同時に、その五体を高手小手に縛っていた縄《なわ》が、蛇《へび》が刎《は》ねるように、幾条かに、ぶつんぶつんと切れ飛んだ。
「影」は、大きく両手を拡げて、胸を張った。
河原者たちが、槍をかまえて、八方から、そこへ殺到した。
鹿垣外へ到着した半蔵の手から、手鞠《てまり》に似た白糸かがりの球が、高く投じられたのは、その槍襖《やりぶすま》が、一間の距離に迫った瞬間であった。
球は、「影」の足下に落ちて、ぱっと白煙を噴いた。のみならず、雨曇りの鈍色《にびいろ》の中に、凄《すさま》じい光を発しつつ、八方へ流星のように飛散した。
硫黄、焔硝《えんしょう》などの火薬を爆発させたこの白煙は、尾を曳《ひ》いて飛ぶだけにとどまらず、落ちた地点から、さらに物狂おしくのたうち乍ら、磧上《せきじょう》を走りまわった。
この八条の煙の流れの、いずれへ、「影」が身をひそめて、遁れ去ったか、ついに、誰人《たれびと》の目も、とらえるいとまがなかった。
「影」が、半蔵の自宅を、深夜おとずれたのは、その夜のうちであった。
鄭重《ていちょう》に礼を述べてから、
「お主は、徳川の麾下《きか》にござれば、喪家の狗《いぬ》と相成ったそれがしを、ひとたびは、役立ててみようとのお考えでござろう。さらば、お主が、幾歳《いくとせ》かの後、それがしの一臂《いっぴ》を必要とされる秋《とき》が至れば、木曾谷へ尋ねてござれ。いかなるご依頼であろうとも、否《いな》やは申さぬ」
と、言いのこしたのであった。
それから、十五年の歳月が、流れている――。
四
半蔵が、急斜面の山峡を降りて、渓流のまえに立った時、すでに日輪は覆輪をとりはらって、真紅の輪郭をみせ、嶺々《みねみね》の稜線《りょうせん》を染めていた。
夕鴉《ゆうがらす》が焼けただれた笠雲《かさぐも》の下で、凄味のある啼き声をたてていた。
半蔵は、流れを、すばやく目測した。
大|蝦蟇《がま》に似た巨大な岩から、次に、虎嘯《こしょう》のかたちをした二重岩へ跳び、二間をへだてて、白い泡《あわ》を噛《か》んで、飛沫《ひまつ》に濡《ぬ》れている畳岩へ移り、さらに、そこから、そのまま増正の墓碑になりそうな桃形の岩へ渡れば、あとは、小さな飛石伝いに、対岸へ行き着ける。
視野の中に、人影はなかったが、物陰から、じっと、自分の動作を見戌《みまも》っている眸子《ひとみ》が、いくつかあることを、半蔵の鋭い感覚は、察知していた。
聊《いささ》かでも、この徒渉に、逡巡《しゅんじゅん》があってはならぬのである。
――よし!
半蔵は、断崖際《きりぎし》へふみ出した姿勢を、殆ど崩さずに、かるがると、大蝦蟇の背中へ降りた。とみた刹那には、ぱっと身を踊らせて、虎《とら》の頭へ、片足をかけたかかけぬ迅業《はやわざ》で、三番目の畳岩へ――二間を翔《かけ》ていた。
皮肉な羂《わな》は、最も安定しているかに見えたその畳岩に、仕掛けてあった。
半蔵が、すっくと立った。――一瞬、岩は、がくんと動揺した。
水苔《みずごけ》を置いた岩肌から、片足を、つると滑らせた半蔵の五体は、急湍《きゅうたん》へ向かって、大きく傾斜した。
咄嗟《とっさ》に、半蔵は、気合いを発して、岩に残った片足を蹴《け》って、あざやかな空中旋回をこころみるや、元の虎の頭へ、一転してはね戻《もど》った。それは、華麗な曲芸とも眺められた。
ひと息ついた半蔵の、上気した兵法面《ひょうほうづら》には、微《かす》かな不快な色が滲《にじ》んでいた。敵の仕掛けに腹を立てたのではなく、敵におのれの油断を見せてしまった忸怩たる意識を湧《わ》かせたからである。
半蔵は、この虎の頭から、畳岩へ跳ぶべきではなく、その横に、流れにほんの僅《わず》かのけぞっている岩の先端を踏んで、増正岩へ移る順序に、ようやく気がついたのであった。
対岸の絶壁を越えると、桑畑であった。暗渠《あんきょ》のように掘られた狭い畔道は、面倒に、曲がりくねっていた。
のみならず、曲がった地点で、しばしば、ふっと消えていた。そのたびに、半蔵は、苦笑して引き返さなければならなかった。
呂字《ろのじ》の迷路、という。築城上の用語で、すなわち、矢弾の直通を避けるための曲がり方をいう。
桑畑を抜け出ると、そこから、黄ばんだ陸田が広がっていたが、目を配れば、稲穂の蔭に、人の潜む気配がある。
半蔵は、声をあげた。
「服部半蔵、十五年前の約定《やくじょう》によって、頭領に依頼の儀があって罷《まか》り越した。取次がれたい!」
応えて、稲穂をそよがせて、一人が、姿をあらわした。なんの取得もなさそうな、平々凡々たる中年の百姓であった。
黙って、一礼して、先に立った。
館は、奥深く、檜《ひのき》の林の中にあった。
苔むした石垣《いしがき》の前には、深い濠《ほり》がめぐらされ、澄み切った水流が、その迅《はや》さを枯葉を舞わせるさまにしめしていた。
石垣の上は、塗籠《ぬりごめ》の築地塀《ついじべい》であった。濠に架けられた刎《は》ね橋のむこうの棟門《むなもん》は、鉄の延板を打った扉が、どっしりと閉められ、左右の壁には、武者窓と銃眼がひらいている。
昏《く》れかかる中に、わだかまった古色をおびたその構えは、半蔵に、威圧をもって迫った。
刎ね橋を渡り乍ら、半蔵は、ふと、剽悍《ひょうかん》の諜者《ちょうじゃ》にあるまじき、一種の不吉な予感をおぼえた。
この館に入ることは、おのれの人生に、なにか重大な、決定的とも言える新しい運命がもたらされる。言葉にすれば、そんな予感であった。
五
畳を敷けば、五十畳はあろう茶間《おえ》に、沈黙の時間が流れていた。
手斧《ちょうな》でけずった大黒柱、赤樫《あかがし》の木理《もくめ》細密な格天井《ごうてんじょう》、欄間の雷文に竜《りゅう》を組んだ透かし彫、渦懸魚《うずけんぎょ》の自在の鉤手《かぎて》、檜の一枚板の衝立《ついたて》の猛虎の彫刻――どれひとつとして、目を牽《ひ》きつけずには置かぬ古雅の趣があった。
炉で燃えている薪《まき》は、なんという木であろうか、紫の煙をたち昇らせて、臭気は微塵も含んでいないのであった。
炉をへだてて対座した服部半蔵と「影」のわきには、同じ食膳《しょくぜん》が据《す》えられていた。
木理、色目も美しい一位《あららぎ》の椀《わん》や皿《さら》には、豆腐、湯葉、蜂の子、薯蕷汁《とろろじる》、乾|狗背《ぜんまい》、そして、味噌づけのあなぐまと蝮蛇《まむし》の肉など……。
ちがっているのは「影」の膳には、地酒の瓶子《へいし》と盃《さかずき》が添えられてあることだった。半蔵が、辞退したのではなく、忍者は一滴もたしなまぬものだったからである。
「影」が、盃を口にはこぶのは、すでに、忍者たることを放棄している証拠であった。
半蔵は、失望していた。
十五年前の約束によって、半蔵は「影」に、非常の働きを需《もと》めて、やって来たのである。
「影」は、用件を聴くや、応《こた》えるかわりに、下僕《げぼく》に、夕餉《ゆうげ》を命じ、黙って、酒を飲みはじめたのである。当然、半蔵は、「影」に受諾の意志がない、と受けとらねばならなかった。
しかし、「影」は、いまだ、口頭では、拒絶していないのである。半蔵は、待っている。
……すでに、「影」は、十五年前の「影」ではなかった。
立居振舞に、隻眼《せきがん》隻脚の不自由をこそ見せなかったが、頭髪が一毛のこらず純白と化し、顔面を縦横に無数の皺《しわ》が走った容《さま》は、老醜をしめすというよりも、酷烈|無惨《むざん》な六無(無色・無形・無跡・無声・無息・無臭)の修業と実践のために、老坂にかかってたちまち化《ふ》け果てた、と見えた。未だ五十になるかならぬかの筈であった。
やがて――。
「影」は、咽喉《のど》奥で、痰《たん》を切る音を洩《も》らしてから、口をひらいた。
「今から恰度《ちょうど》二十年まえのことでござるよ。それがしは、治部《じぶ》様(石田三成)の密命を受けて、関白様(秀次《ひでつぐ》)が比叡山《ひえいざん》巻狩りを催されるにあたり、勢子《せこ》に化けて、一行にまぎれ込んだものじゃった……」
殺生《せっしょう》禁断、女人結界、葷酒《くんしゅ》不許入山門の内でも、日本一の霊山ときこえた比叡山に、関白秀次が、敢《あ》えて、狩猟したのは、これを葬《ほうむ》ろうとする石田三成の謀計に引っかかったからであった。
三成は、比叡山の一僧を破戒せしめて、味方につけ、関白が開いた聯句《れんく》 并《ならびに》 詩会の席上において、関白をそそのかしたのである。すなわち、いかなる高位高官と雖《いえど》も、比叡山の一下僧におよばないのは、女犯《にょぼん》の罪があるからである、とうそぶかせたのである。たとえ、関白の勢威をもってしても、こればかりは、叶《かな》うまいと挑戦《ちょうせん》するかのごとくよそおわせて、関白をして、
「よし! それならば、余が、叡山の衆徒どもの肉欲をおどらせてみせるぞ」
と、言いはなたせるべくしむけたのである。
比叡山巻狩りの布告が発せられると、洛中洛外が、わきたったのは、当然のことである。桓武《かんむ》天皇以来とつたえられる天台宗総本山を、畜生の血をもって汚《けが》そうというのであるから、当の山門衆はもとより、聚楽第《じゅらくだい》の侍|女房《にょうぼう》、下人にいたるまで、なんたるあさましさ、と眉《まゆ》をひそめた。
関白は、敢えて、この非難をしりぞけて、秋もなかば、紅葉の色の燃える頃《ころ》、狩を行った。狩であるから、弓矢鉄砲、槍薙刀《やりなぎなた》の武器をたずさえ、加えて、二十余人の局《つぼね》衆と百人の女房をしたがえた。
第一日の催しは、山の中腹で、多勢の勢子に鯨波《とき》をあげさせ、空銃をうちまくらせて、潜んだ獣も、狩り出した。もとより殺生禁断の聖地のことであるから、年日頃巣くった狐《きつね》、狸《たぬき》、鹿《しか》、猪《いのしし》の数は、夥《おびただ》しかった。
中堂に本陣を敷いた関白のところへ、座主の名代が役僧どもをつれて、厳重抗議にやって来たのは、いうまでもない。
これに対して、関白方は、
「いかなる名山|霊蹟《れいせき》であろうとも、関白が知行の内だ。山門の掟《おきて》は掟、関白の意志は意志――仏罰を受けるのは、当方であるから、放念されたい。信長公の所行に倣《なら》って、堂塔を焼き、門衆を討とうというのではない。たかが禽獣《きんじゅう》を殺し、女人に当山を見物させようというだけの話」
と、はねつけてしまった。
そして、その宵《よい》、中堂の大書院に、局と女房を居並ばせて、大蝋燭《だいろうそく》を真昼のあかるさに立てつらね、その日の獲物を肴《さかな》に、大饗宴《だいきょうえん》をはじめたのである。
宴なかばにして、関白は、
「当山の能化《のうげ》どもを呼び出して、酒と女にうち克《か》てるかどうか、その正体を見とどけてつかわす」
と、使者を立て、法師十余名を座につらねさせたのであった。
いかにおもてむきは、殺生禁断、葷酒を断つ、とみせかけて居《お》ろうとも、山法師どもが、法灯のかげにかくれて、人も無げな振舞をしていることを、関白は充分承知していたのである。
一|刻《とき》も経《た》たぬうちに――。
酒と肉と脂粉の香が、堂に蒸れ満ちて、席は、ようやく乱れた。
六
「影」は、往時を回想して、隻眼を細め、その無数の皺翳《しわかげ》を、ふとなごませた。
「関白様は、頃合いよしと見て、扇面《せんめん》を高くかかげられた。すると、三百本の蝋燭が、十本を残して、吹き消された。……たべ酔うて、妄語戒《もうごかい》を忘れはてた坊主《ぼうず》どもが、もうろうと酔眼を据《す》えている中へ、笛と鼓の音に合わせて、舞い出たのは、蝉《せみ》の羽のような薄絹を頭から被《かぶ》った人魚が十余体じゃった……」
半蔵は、頷《うなず》いた。
しばらく前、半蔵は、|ほるつがる《ヽヽヽヽヽ》の伴天連《ばてれん》が、その夜の光景を、面白《おもしろ》おかしく記しとめた日記を読んだ記憶があったのである。
その日誌には――
舞い出た十余人の人魚の、白いかんばせと烏羽玉《うばたま》の髪の流れが、薄絹を透かしてみえ、夕陽の光をとおしてのぞく水底の人魚の肌《はだ》もかくやとばかり、|ほぞ《ヽヽ》の下から脚にかけて、うろこ模様の綾絹《あやぎぬ》を、触れれば落ちんばかりに纏《まと》うて、尾のように、裳《も》を長く曳《ひ》いて居り申した。
足のさばきが狂えば、まとうたうろこをふみ脱いで、ただの女人の裸身とかわろうものを、げに、見る者の胸をおどらせる色おどりでなござった。
鼓と笛が、ものに断ちきられるように、ハタと歇《や》むと、人魚の群は、水に沈むように、ひたひたと蹲《うずくま》り申した。そのせつなは、深沼の底のようでござった。音もなく、動きもなく、夜陰の寂寞《せきばく》が、一時にせまって、十本の蝋燭の焔《ほのお》に、妖気が、ゆらゆらとたち昇るかとみえ申した。
満座は、ひそと固唾《かたず》をのんで、しわぶきひとつ立ち申さぬ。
と――中の一人が、ひらりと舞い立つや右手に黒髪の流れを捌《さば》き、左手に水色の薄絹をあしろうて、妙《たえ》なる声で、じょうじょうとうたいはじめたのでござった。
風早の須磨《すま》の浦曲《うらわ》に寄る波の、音さやける夕べかなし。
これは、わだつみ、竜王の宮に、年経て仕うる人魚に候《そうろう》。さても人界のさま見て参れとの宣旨を蒙《こうむ》り、ここな伴《つれ》と打ちつれて、八重の汐路《しおじ》をかいくぐり、須磨の浦曲《うらわ》に着き候。
ぱらりとはねた薄絹の下から、薄青く化粧して、いま傾けた酒の加減か、眼のふちばかり、ぽっと朱を染めて、黒くうるんだつぶらなまなこと映えあわせた、|えうろっぱ《ヽヽヽヽヽ》の南国に見る女さながらのかんばせが浮き出たのでござる。ふくよかな乳房の、その乳くびが、鳩の脚のように赤く、膝《ひざ》をまっすぐに、すっくと延べた太股《ふともも》は、希臘《ぎりしゃ》の彫像の女神もそのままと見申した。
黒髪が、ふさふさとなびき、ゆらぎ、白い脚、白い腕が、曲直あやな線を描いて、舞い狂うほどに、竜王殿秘曲と相成ったのでござる。
去るほどに、舞い舞うて、時は経ったり。今は竜王の咎《とが》めもあらむ。つれの人魚と連れ立ちて――
ひるがえる水色の綾羅《りょうら》が、仄《ほの》かに風を起して、蝋燭の灯影を、ゆらめき乱し、柔軟の肢体は、白黒の綾を織りなして、空に躍った。狂おしき旋律《りつも》の動きに、まこと夢のうち――右の脚が、腰のつがいから、白い長い鮮やかな線を伸ばして、さっと半円を描くや、ふわっと落ちこぼれた鱗《うろこ》模様の二枚の綾絹が、爪先《つまさき》に吸いとられて、脛《はぎ》をつとうて、腹にまつわって、乳の下まで、たぐりあげられたのでござる。
滑石《なめいし》でつくられたかとおぼしい太股、下腹、ふたつの隆起が、惜しげもなく、凝視する幾多の煩悩の火に燃える男どもの眼光を吸いとって、くねくねとうごめきつつ、仄明かりのなかに、妖しく舞うは、口にも筆にも、つくし申せぬ。
とたん――。
のこりの十余体の人魚も、一斉《いっせい》に、ひらっと舞い立って、同じく、綾絹を、胸までたくしあげ、裸形の色体を、隈《くま》なく曝《さら》すや、春の入江の寛《ひろ》やかな浪《なみ》のうねりに乗って、漂い寄せるように、四方へ散らばり申した。
腰の鰭絹《ひれぎぬ》、白浪に、翻《かえ》しなびかせ須磨の浦、沖の八汐路、かいわけて、濡羽の髪や玉肌や、浪にまぎれて失せにけり。
と、うたいおさめた――その刹那、のこり十本の蝋燭の灯《ひ》も、ふっと消されたのでござる。
あとには、異様な、みだらな、呻《うめ》きが、きれぎれに、堂内に流れて――ものの二十もかぞえ申したか。
関白殿の声なき御下知をはずさずに、三百本の蝋燭に、一時に、ぽっと火がつけられたお思いあれ。
煌《こう》として明けた大書院には、なんと、円頂白衣の坊主どもが、山門の堂塔|伽藍《がらん》が悉皆《しっかい》炎上しようとも、ものかはと、それぞれ、白い裸形をいっぴきずつかい抱いて、刹那の快楽に、われを忘れた様体をさらしていたのでござる。
とみるや――関白殿が、ゆらりとお立ちになって、小姓の捧《ささ》げた佩刀《はいとう》をひん掴《つか》み、
「能化ども! みろ! 破戒無慚は、太閤《たいこう》や関白ばかりではあるまいぞ!」
と、叫びつつ、よろよろと、坊主一人へ進み寄られまいた。
げっ、とのけぞる坊主と、はねのく人魚と、白刃《はくじん》をかざした関白殿のお姿が、三《み》つ巴《どもえ》になって、衆のまなこに映った――次の瞬間、びゅっ、真紅の飛沫《しぶき》が、刎《は》ね散り、
「ぎゃっ!」
と、絶叫もの凄く、坊主の五体は、畳へ一転つかまつったし、
「ひっ!」
と悲鳴かなしく、人魚は、虚空《こくう》をつかんで泳ぎ申した。
袖《そで》もろともに、右腕を、肩先から、ぞっくり削《そ》ぎ落された坊主のざまを、冷然と見下された関白殿の、凄《すさ》まじいばかりの蒼《あお》い顔色は、正視に堪えぬ孤独地獄のものでござった。
苦悶のうちに、半身起した坊主は、喘《あえ》ぎ喘ぎ、狂おしく叫んだことでござる。
「お、おのれ……出家を殺して、なんとするぞ! み、み仏の御座《みくら》を、出家の血で塗って、……仏罰のほど、思い知れ!」
「仏罰?」
関白殿は、せせら嗤《わら》われて、
「禁戒の酒に酔い、畜生の肉を喰《く》い、不浄の女にたわむれ――はははは、その仏罰が、これだぞ! 破戒坊主め、日頃は何食わぬ面《つら》をし居《お》って、こちらが馳走《ちそう》をふるまってやれば、たちまち餓鬼となって、くらいつく。なにが、日本一の霊山ぞ! なにが畜生禁断ぞ! なにが女人結界!」
「さては……、うぬが、当山に、仇《あだ》をしようとの結構であったかっ!」
「たわけ! おのれのふだんの心柄《こころがら》を、顧みて、ほざけ! 傾国の美女を抱いたむくいは地獄の苦患《くげん》も覚悟の上であろうが――殺生関白が引導渡してやるのじゃ。地獄行きにふさわしかろう」
きらっと白光|一閃《いっせん》するや、坊主の首は、血煙とともに、三尺高く跳んでいたのでござった。
七
「坊主とともに斬《き》られた女房を、それがしが、その夜のうちに、さらって、叡山を奔《は》せ下ったのは、後日の証人とする存念であった。鹿ヶ谷の隠れ家にかくまって、手当をくわえておき、太閤様の誓文聴取がなされた時、治部様へさし出す手筈と決めて居ったのじゃが……」
そこで、いったん語り声をおさめた「影」は、低く自嘲《じちょう》の笑いを洩らした。
「……この剽軽《ひょうげ》面が、生涯ただ一度、恋に狂うて、色情に歪《ゆが》んだ、と思われい。……女が、傷の癒《い》えた日、それがしは忍びの掟を破って、その白い体を抱いてしもうた」
半蔵は、何故《なにゆえ》に、この稀代《きだい》の忍者が、このような告白をするのか、不明なままに、まばたきもせず、その醜い皺顔《しわがお》を、瞶《み》つめつづけた。
「犯して、半|刻《とき》後には、それがしは、女を捨てて、去って居った。治部様には、女が死亡したと詐《いつわ》っておき、その白いからだを忘れるために、それがしの働きは、いちだんとせわしいものと相成った」
「……」
半蔵は、この時はじめて、おのが背中に、ぴったりと、より添うている者の気配をさとった。戦慄《せんりつ》した。
例えば、それは、炉火で生まれたおのれの影法師が、板敷から起き上がって、背中に貼りついた――そうとでも形容したい異常な戦慄だった。
殺気はなかった。
「……」
半蔵は、堪えることにした。
「影」は、回想にひたった様子をそのままにつづけて、
「一年が過ぎて……それがしが、鹿ヶ谷の隠れ家へ戻《もど》り、左様、三日ばかり後のことじゃった。夜半、夢もない眠《ねむ》りの中へ、赤子の泣き声が入って来て、牀《とこ》から起き出ることに相成った。戸を開けてみると、縫箔《ぬいはく》のある、小袖にくるまり、円座《わろうだ》の上へ寝かされて、赤子めは、折から空に冴《さ》えた十六夜《いざよい》の月影に照らされて泣きしきって居る。……それがしは、一瞥《いちべつ》しざま、背筋に、氷でもあてられたような悪寒をおぼえた――」
その言葉の終わらぬうちに、
「ごめん――」
半蔵は、遽《にわか》に気分が悪くなったように、ゆっくりと、上半身を倒した。
ながながと横臥《よこぶ》しになった――とみた刹那、腰骨を軸にして、おそろしい迅《はや》さで、五体を回転させた。
その片足で、手のとどかぬところへ置きすててあったおのが太刀を掴《つか》んで、引き寄せ、延べ抜きに抜き打つ――その動作が、一回転の間に、電光の迅さでなされた。
背中に貼りついた影法師を払うには、その手段以外には、なかったのである。
草薙《くさな》ぎ、というこの居合《いあい》の業は敵の脛《すね》を横に薙ぎ、引き外された間髪の間に、身を起して、片膝立てて、上段にふりかぶって、猛鳥が叢中《そうちゅう》から羽撃《はばたく》くに似て、躍り上がって行く――。
半蔵は、しかし、炉に背を向けて坐《すわ》った時、すでに刀を鞘《さや》に納めていた。斬るのが目的ではなく、追い払えばよかったからである。
敵は、遠く、二間むこうに、跳び退《しさ》っていた。全身を、指先までも、包んでいた。ただ、わずかに、覆面の蔭《かげ》から、切長な双眸《そうぼう》が、冷たく澄んで、光っていた。
半蔵の凄まじい睥睨《へいげい》をまばたきもせず受けとめて、その立姿は、まさしく影そのものであった。
半蔵は、
――若い!
と、見た。
「影」の方は、両者の闘いを、宛然《さながら》児戯に無関心な父親のように、目さえもくれず、炉の中へ、あらたな薪《まき》をくべ乍《なが》ら、かわらぬ語気で、述懐をつづける。――
「それがしは、赤子を抱きあげた時、こやつめを、ひとつ、自分が思うままの忍びに仕立ててみよう、と決意した。人間にして、人間にあらず――文字通りの影として育てる。その夜のうちから、顔を、布でつつんでしまい、布をとり払うてやるのは、闇《やみ》の中のみと定めた。……そうして二十年、この決意は、実行された。それがしが、育って行く貌《かお》を一度も見とどけなかったのは勿論《もちろん》じゃが、当人自身も、ついに、おのれの姿を眺《なが》めて居らぬ。食を摂《と》るのも水浴びも、すべての日常の行事は、暗闇がえらばれ、それがし以外の者との交わりは禁じられ、いや、それがしと口をきくことさえも許されずに、ひたすらに、忍びの術の修業にはげみ、今や、それがしすらも、到底およばぬ非情の影となり終《おお》せた」
「それが、この若者と申されるのか?」
半蔵は、なお、凝視をつづけ乍ら、たしかめた。
「左様。……服部殿、お主がそこに坐った時から、そやつは、おぬしにより添うたのでござる。おぬしの不覚と申すよりも、そうであるのが当然。お主に、ただちに、看破されるようであれば、お主の一撃をわずらわすまでもない、この父親が、この場を去らせずに、討ちはたしたでござろう」
「……」
「それがしは、すでに老いて、昔日《せきじつ》の体力も気力もござらぬ。代って、こやつめが、お主の御依頼を受けて、お供を仕ろうず。わが丹精の成果の程、とくと、お見とどけあるがよかろう」
八
時に――大坂城にあっては、中枢の地位に在った片桐且元《かたぎりかつもと》が退去した後、秀頼《ひでより》の名をもって、書を諸国に馳《は》せて、太閤旧恩の大名をはじめ、関ヶ原|役《えき》の残党、徳川家に殪《たお》された諸侯の旧家臣などを招いていた。
大坂城の旗揚は、すでに時間の問題となっていた。
徳川幕府を対手《あいて》として、万に一つの勝算があるべくもないことは、第三者の冷静に判断し得るところで、大坂城中で専権をふるう淀君《よどぎみ》自身は、往時の豪華が忘れられず、いま一度、豊臣家に天下の大権を掌握してみたい夢を抱きつづけていたし、大野治長《おおのはるなが》、同治房、渡辺糺《わたなべただす》、薄田兼相《すすきだかねすけ》、木村重成らが、これを支持していた。
秀吉恩顧の諸大名――加賀の前田、薩州《さっしゅう》の島津、奥州《おうしゅう》の伊達《だて》などの援助を期待もしていた。
闘志をあおるためには、徳川幕府の圧迫に堪え得ず、寧《むし》ろ坐して滅亡を俟《ま》たんよりも、成散を一挙に決せん、と激烈の空気をみなぎらせる必要もあった。
籠城《ろうじょう》に応じて、真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》、長曾我部盛親《ちょうそかべもりちか》、仙石豊前《せんごくぶぜん》、織田左門、京極備前、石川|玄蕃《げんば》、後藤又兵衛《ごとうまたべえ》、山川帯刀《やまかわたてわき》、北川次郎兵衛、塙団《ばんだん》右|衛門《えもん》ら、名ある武辺者がぞくぞくと参集して来るにつれて、戦わんかなの意気は、大いに上がっていた。
家康は、この籠城を、決して軽視はしなかった。家康の長技は、むしろ野戦にあって、攻城ではなかった。
天下の名城たる大坂城に対して、いかに天下の大兵を傾けても、これが容易に陥落するとは考えられなかった。
家康は、この戦いが永びくことをおそれた。したがって、戦闘よりも、策略に心を尽さねばならなかった。そのためには、家康自ら、駿府《すんぷ》を出馬して、首脳たるの行動を起す必要があった。
家康の右腕である本多上野介正純が、家康出馬にあたっておそれたのは、二条城に入るまでの途中、真田幸村が放って来るであろう「風盗《ふうとう》」なる忍びの集団の襲撃であった。
「風盗」は、真田幸村のやしなっている徒党ではなかったが、その頭領は、幸村の父|安房守昌幸《あわのかみまさゆき》から非常な恩顧を蒙《こうむ》っていたのである。 伊賀の忍び者は、すでに、徳川の麾下《きか》に入ってしまったが、「風盗」族と、この「影」の率いる木曾谷の隠れ忍者だけは、いずれへも属していなかった。
「風盗」族は、若狭《わかさ》より琵琶湖へ抜ける渓谷《けいこく》の一隅《いちぐう》に、その館《やかた》を据《す》えていて、この木曾谷の峽間の聚落《しゅうらく》がそうであるように、他郷の者を一歩も寄せつけぬ天嶮を利して、ひそかな孤立の世界を営んでいるのであった。
「風盗を剿滅《そうめつ》できぬか?」
本多正純が、服部半蔵を召して、奇策を思案せしめたのは、いわば、毒をもって毒を制す肚《はら》であった。
すなわち、半蔵をして、秀《すぐ》れた忍者を使わせ、同類を討たしめる戦法であった。
半蔵は、十五年前の「影」の誓言を思い出して、この命令を受諾したのであった。
服部半蔵は、「若い影」をつれて、木曾谷を出た。それから二日おくれて、隠れ忍者六十余名が発足《ほっそく》し、その里は、老いたる「影」唯一人がのこされた。
九
かりに「子影」と呼んでおく。
服部半蔵は、木曾谷を出て、琵琶湖を迂回《うかい》して、若狭街道にはいるまでの二日間、ついに、「子影」の声と音を聞かなかった。
会話は、正確な手真似《てまね》によってなされたし、道中は、常に十歩の間隔を置いてつづけられた。「子影」は、先に立ち、跫音《あしおと》を立てなかった。野宿するにあたっては、半蔵の前から煙のように消えた。そして、寅《とら》上刻――暁の五更《ごこう》には、湧《わ》くが如く、半蔵の前に、姿を現わしていた。
躰《からだ》のうち、唯ひとつ、外気に曝《さら》している双眸《そうぼう》は、常に、澄んで、光って、動かなかった。
半蔵は、「子影」が、人間であることを考えまいとした。そして、それからはかなり気楽に、「子影」の存在を無視することができた。いわば、おのれの影法師が、おのれの歩いているさきを進んでいる、と思い做《な》したのである。
半蔵と「子影」は、あとから木曾谷を出発してきた隠れ忍者六十余名を、遠敷《おにゅう》の宿《しゅく》にある若狭比売《わかさひめ》神社の境内で、待った。
忍者たちは、貧しい農奴の風貌《ふうぼう》といでたちをしていたので、数人が一群《ひとむれ》れになって、続々と到着しても、すこしも目立たなかった。
樟《くす》、椎《しい》、銀杏《いちょう》などの巨樹にかこまれて、昼なお昏《くら》い境内は、六十余名を容《い》れても、猶《なお》ひそとして、すこしも神域をみだされはしなかった。もとより、忍者たちである。落ち葉一葉の音すらも立てなかった。
「子影」は、ここで、はじめて、懐中から、一枚の絵図面をとり出して、地面へひろげた。「影」はすでに、去る年、同類「風盗」の本拠地を調べあげて、この絵地図にしていたのである。
六十余名の視線を、聚《あつ》めておいて、「子影」は、無言で彼らがこれからの行動を起すべき順序を、一本の枯枝の先端で、指令した。
半刻後、「子影」は、再び半蔵と二人だけになって、そこから十町余奥にある若狭比古神社に入った。一夜を、ここで明かしてから、彼らの目ざしたのは、鵜《う》の瀬《せ》であった。
渓流に沿うて東に入ると、狭間《はざま》は急にせばまり、杣道《そまみち》は山腹を巻いて、忠野《ちゅうの》を過ぎ、川の屈曲にせり出した一|叢《むら》の森に行き着く。鵜の瀬であった。
見たところ、遠敷《おにゅう》川の谷筋にある小さな淵《ふち》にすぎない。しかし、こここそ、奈良二月堂にある若狭井の源泉で、水は、奈良に通じていると謂《い》われる霊地であった。
孝謙《こうけん》天皇の天平勝宝《てんぴょうしょうほう》三年、東大寺の実忠|和尚《わじょう》が、六時の行法を修し、恰度《ちょうど》その二月の修中、初夜の終わりになって、神名帳を誦《ず》して諸神を勧請《かんじょう》した。その時、一人、遠敷明神のみが、漁のために遅れたので、その遅刻の代償として、堂前に閼伽井《あかい》を掘って、毎年若狭の水を送ることを約した。幾日かの後、黒白二羽の鴻《おおとり》が、盤石《ばんじゃく》を穿《うが》って地中から飛び出し、傍《かたわら》の樹《き》にとまった。その二つの孔《あな》から、たちまち、甘泉が湧き出て、香水はたちどころに満ちた、という。
若狭井の起源を記した「東大寺要録」によれば、鵜の瀬は、底知れぬ深淵なのであった。
半蔵と「子影」が向い立った淵は、一度大雨に見舞われたならば、その所在すら分からなくなるような見すぼらしい淵にすぎなかった。
淵を作っている巨大な岩壁には、雨乞いの注連縄《しめなわ》が張ってあった。その右にある小さな磧《かわら》は、垢離場《こりば》となるのであろう。
「風盗」の本拠地の入口としては、あまりにも、おだやかな、何処の山間にも見出《みいだ》される風景であった。
半蔵は、しかし、「子影」の眼眸《まなざし》が、じっと、淵にあてられたまま、その冷たい光を増すのを認めて、緊張した。
その澄んだ流れには、岩壁の上に立てられた一基の鳥居の影が、明るく落ちていた。「子影」は、それを瞶《み》つめていたのである。
と――。
「子影」は、かるがると跳んで、鳥居の影の中に立つと、それが正対した方角へ向かって目を挙げ、ゆっくりと、指さした。
半蔵は、合点した。時刻は恰度、卯の上刻になっていた。すなわち、鵜の瀬へ、卯の刻に、朝陽《あさひ》を受けて延びた鳥居の影が、「風盗」の棲《す》む城砦《じょうさい》へ通ずる間道を教えているのであった。
十
正午――。
半蔵と「子影」は、いくつかの峠を越えて、いちめんに白い芒《すすき》にうずまった台地に出た。この台地の行き着いたところから、別の山嶺《さんれい》がそびえ立ち、その頂上まで伝って行くに格好の尾根が、毛面尾《けづらお》を永く引いて、茶褐色の土坡を視界の中央に重ねていた。
半蔵は、「子影」が秋風にそよぐ穂波の中へ、つと、蹲《うずくま》って、地面を匍《は》っている鳴子縄《なるこなわ》を、切りすてるのを眺めて、ようやく、敵中に入ったのを知らされた。
月が昇るまで、二人は、その芒原の中に臥《ふ》していた。
夜明け――二人を彳《たたず》ませたのは、幾丈の下まで山脚を一直線に削《そ》ぎ落とされた、とある断崖縁《きりぎし》であった。
「子影」は、それまでずっと背負っていた包み荷を、背からおろすと、そこへひろげた。あらわれたのは、赤栗毛《あかくりげ》の馬の一枚皮であった。
それを小脇《こわき》にかかえた「子影」は、風のように奔《はし》って、右方の疎林《そりん》へ消えた。
疎林から、不可思議な房状の岩巣を並べた巨巌《きょがん》が、絶壁上へ突出していた。その一端の石筍《せきじゅん》のような岩の上に、忽然《こつぜん》として、一頭の駿馬《しゅんめ》が、姿を出現させるのを、半蔵は見た。
ゆっくりとした歩みかたで、「子影」は、半蔵の傍《そば》へ戻って来ると、腰から乾飯《ほしい》の袋をはずして、さし出した。自身は、疎林の中で摂《と》り了《おわ》ったものと思われた。
陽《ひ》が昇って、程なくの頃《ころ》あい、不意に、「子影」が、半蔵の注意を促した。
半蔵は、疎林の縁《ふち》をまわろうとする二個の影を発見した。弓を携えた山男たちであった。「子影」と半蔵は、音もなく、山男たちの後ろを追っていった。
疎林を抜けた山男たちが、構えを揃《そろ》えて、製馬《つくりうま》にむかって、弦《つる》をひきしぼった――刹那《せつな》、「子影」と半蔵は、樹蔭から、躍り出て、その背後を襲っていた。
刀は、用いられなかった。
当て落とされた男たちは楮綱《こうぞづな》で高手小手に縛りあげられた時、意識をとりもどして、狂ったように喚《わめ》いた。
「子影」は、それぞれの綱の端を、一本の松の幹に、結びつけておいて、男たちの布子へ、黄色な粉をふりかけた。男たちは、それが何を意味するのか判《わか》らぬために、ちょっとおとなしくなっていたが、「子影」が、燧石《ひうちいし》を切るのを眺めて、驚愕《きょうがく》して、蟻《あり》にたかられた青虫のように、のたうちはじめた。
附木《つけぎ》の火が、布子の裾《すそ》へ移されるや、硫黄はおそろしい迅さで、五体へ燃えひろがった。
半蔵は、焼ける男たちを見ないで、焼ける男たちを冷然と見下ろしている「子影」を、瞶めていた。
――人間ではない!
あらためて、そう呟《つぶや》かずにはいられなかった。
「子影」は、半蔵を振りかえって、絶壁の下を覗《のぞ》いてみよ、と手真似した。
半蔵は、何気なく断崖縁《きりぎし》へ寄って、慄然となった。
百匹を超える山犬の群が、眼下の草地をうずめて、石筍岩上の製馬へ、飢《う》えた眼光を挙げて、不気味な沈黙を保っていた。
しかし、その静けさは、ほんの一瞬であった。
首領らしい一匹の、鋭い咆哮《ほうこう》とともに、百匹は、一斉《いっせい》に、絶壁に添うて、走り出した。その動きは、黒い水流が草地を浸して行くように、半蔵の眸子《ひとみ》に映った。
飢えた山犬の耳に、灼《や》けただれる山男たちの断末魔の悲鳴がきこえ、その鼻孔が、生肉の焼ける匂《にお》いをかいだのである。
――いまだ!
「子影」と半蔵は、山犬の群が疾駆して行く方角とは逆の方角へ向かって、その速脚をとばした。
断崖の下に拡《ひろ》がった草原に、山犬の群を放って、飢えさせているのは、「風盗」が侵寇《しんこう》を防ぐ巧妙な仕業であった。
「影」がこれを知っていて、「子影」にさずけた突破手段は、まさに見事であった。
しかし――。
楮綱《こうぞづな》をつたって、絶壁を滑り降り、草原を、|けもの《ヽヽヽ》が掠《かす》めるように、横切って行き乍ら、半蔵と「子影」は、断崖縁からの目測よりも、そこが、はるかに宏大《こうだい》な地域であることに気づいた。そして、それは、名状し難《がた》い戦慄となった。
山犬の群が、二人の山男の躰《からだ》を喰《く》い尽くして、草原へ馳せ戻るまでに、能《よ》く遁《のが》れ得るには、草原上に、身を匿《かく》すべき叢林《そうりん》はなかったのである。
半刻の後、半蔵と「子影」は、数町四方の地域の中で、ただ一樹のみ矗々《ちょくちょく》として天に沖《ちゅう》している榧《かや》の巨木の高みに、のぼっていた。のぼり得たのが、奇跡にひとしかった。
二個の生身を喰い尽くした百匹の野獣は、新しい生血をもとめて、その根かたに殺到し、先刻、製馬を仰いでいた時のように、無気味な沈黙を守った。
――このまま、三日も、この樹上で過せば、気が狂うかも知れぬ。
半蔵は、そう思いつつ、向いの太枝に跨がった「子影」を、見やった。「子影」の眼眸は、草原の彼方へ置かれて、動かなかった。
陽が高く昇り、そして、傾いた。
草原から、光が一線を引きつつ退って行き、代って淡々《あわあわ》とした靄《もや》が夕風に乗って流れてきた頃あい、半蔵は、「子影」の口から、はじめて人間の声が、発せられるのをきいた。
「来た!」
短い一語に、半蔵は、はっとわれにかえって、「子影」の視線を追った。
靄の中に、点々と黒いものが沸きあがって、急速に、一団となって、こちらへ向かって来る――。
それが、別の山犬の群と見分けられた時、樹下の百匹は、いつの間にか、円陣を解いて、整然と一列横隊になっていた。
あらたな山犬の群は、約半数ぐらいであったが、すこしもおそれぬ疾駆ぶりで、大きく迂回《うかい》すると、反対側へ到着して、これもまた、一列横隊にひらいた。
半蔵と「子影」は、いくばくかの後、二匹の首領が、昏《く》れなずむ萩《はぎ》の花や鶏頭花《けいとう》を踏み散らして、目まぐるしく闘う、凄絶《せいぜつ》な光景を目撃させられた。
闘いに多くの時刻は費やされなかった。
百匹の首領が、五十匹の首領の下で、悲鳴の一声を発した瞬間、それまで、ひそとして微動もしなかった百匹が、算を乱した。
五十匹の首領は、逃げ散っていく百匹へ向かって高々と遠吠《とおぼ》えた。
半蔵と「子影」が、枝を蹴《け》って、地上へ飛んだのは、この刹那であった。
野獣にも、勝利に心|驕《おご》った不覚の一瞬があった。
半蔵が、真正面から突進して、跳躍して来る首領をして、頭上を越えさせるや、「子影」は、その後方に待ちかまえていて、首領が、足を地に着けるか着けぬうちに、一颯《いっさつ》の刃風《じんぷう》とともに、その首を刎《は》ねた。
首は、榧《かや》の幹につきあたって、はねかえると、血の尾を曳《ひ》きつつ、芒の中へ沈んだ。
五十匹の山犬もまた、首領を喪《うしな》って、算を乱した。
十一
「風盗」族の城砦《じょうさい》は、独立峰の頂上ならびに山腹に、数段の削平地を設け、自然の天険を経始《けいし》(縄張《なわばり》)とした、きわめてありふれた中世期の山塞《さんさい》であった。土塁の高さも一間余しかなく、敷幅《しきはば》もこれに准《じゅん》じて狭く、塁線にも屈曲がなかった。乾壕《からぼり》も浅かったし、虎口《ここう》(城の出入口)も枡形《ますがた》ではなく、柵《さく》を躍り越えれば、まっしぐらに、高櫓《たかやぐら》下まで突入することが可能であった。
ただ、変わっているといえば、所謂《いわゆる》「人呼びの丘」という小山は、城内に築かれるのが普通であったが、この城砦では、乾壕の前面に盛りあがっていることと、それを囲んで、一文字土居がめぐらされてあることであった。
この――一瞥《いちべつ》、なんの代わり栄えもしない城砦は、しかし、これを守る百余名の忍者の一人一人の卓抜した秘術によって、いかなる名城よりも、堅忍不抜であった。
木曾谷の忍者六十余名が|しゅっこつ《ヽヽヽヽヽ》として、黒影を浮きあがらせた時、「風盗」側では、すでに、それを幾刻か前に知って居《お》り乍《なが》ら、城砦を、冴えた月かげの下に、ひっそりと沈めて、なんの反応もしめさなかった。
引きつけておいて、一挙に殲滅《せんめつ》する自信が、その静寂をつづけさせた、といえる。
攻撃方にも、一人の生還も期してない覚悟があった。
六十余の速影が一文字土居を掠《かす》めて、「人呼びの丘」を目ざした瞬間から、不思議な闘いが、展開した。
土塁から、飛ばされる矢の唸《うな》りのほかは、なんの物音も立たなかった。矢を射込まれてのけぞる者さえも、声はおろか、倒れる音さえもひびかせなかった。
その半数を殪《たお》され乍ら、木曾谷の忍者隊が、「人呼びの丘」を奪いとった――刹那、そこから、轟然《ごうぜん》と火柱が、噴き上り、数名を木の葉のように、刎ねとばした。
一斉に、伏せて、生残った者の頭上へは、あらたな矢が、雨のようにあびせられた。
にも拘《かかわ》らず、炎の光に照らされつつ、虎口へ突入した者は、猶《なお》十余名をかぞえた。
このとき、半蔵と「子影」は、城砦の裏側の、目眩《めくら》むほど深い峡谷をへだてた丘陵の頂上にいた。
半蔵は立ち、「子影」は坐《すわ》っていた。
しかし、疲労し果てているのは半蔵であり、「子影」の双眸は、依然として、澄んで、冷たい光を湛《たた》えていた。
前夜のうちに、二人は、渓谷を徒渉し、城砦内に忍び入り、十余個の爆薬を仕掛けて置いて、半刻《はんとき》ばかり前に、ここへ引返していたのである。
半蔵は、「子影」に、おのれの疲労を知られて、蔑《さげす》まれるのをおそれて、腰を下さずにいるのである。
任務を終えたいま、半蔵の胸中にのこっているのは、この「子影」という忍者に対する好奇心だけであった。一切の行動を、沈黙|裡《り》に、正確に遂行し乍ら――そして、そのひとつひとつは、生まれてはじめての冒険であるにも拘らず、この若い忍者は、一瞬前の過去に対しては、風か雨のように、冷淡のようであった。少なくとも、半蔵の目には、そうとしか映らなかった。
「子影」が、人間的な感動をしめしたのは、草原の果てに、新しい山犬の群が出現した時だけであった。
それとても、「子影」は、すでに、そのことを予期し、待ちかまえていたにすぎない。思いがけぬ僥倖《ぎょうこう》に歓喜した次第ではなかった。
こうして、蹲《うずくま》って、自分たちの仕掛けた爆薬が、その時刻に、炸裂《さくれつ》するのを待ち乍ら、脳裡は、おそらく、なんの感慨も催していないに相違なかった。おそらく、飼いならされた猟犬の休息状態と同じであろう。
半蔵は、その無心さに、苛立《いらだ》ちをおぼえさせられていた。極度の疲労が生んだものと、自分でも判《わか》りつつ、抑え難《がた》かった。
倒れたならば、昏々《こんこん》と睡《ねむ》ってしまいそうな躰《からだ》を、依怙地《えこじ》に、地上に立てていることは、苛立ちをこれ以上激しいものにしないためでもあったのである。
突如、轟音とともに、城砦の前方に、火柱の立つ上るのを見て、半蔵は、われにかえった。
味方が斬り込んだのである。
火柱が、「人呼びの丘」から噴いたのは、明確であった。
すなわち、味方の攻撃に対する、敵の応戦であった。
「いかん!」
思わず口走って、半蔵は、「子影」を見た。
「手筈をあやまったぞ!」
半蔵は、味方が、攻撃の時刻をまちがえた、と思った。
「子影」は、かぶりをふった。
「まちがっていない? それは、どういうのだ?」
味方が、一文字土居を掠めて、「人呼びの丘」へ殺到するのと、城内に仕掛けた爆薬が炸裂するのは、同時でなければならぬ。
「人呼びの丘」に火柱が立ったのは、味方の半数以上が斃《たお》れたのを意味している。生残った者は、すでに虎口に到達していようが、爆薬が炸裂しない限り、そこで全滅するのは、目に見えている。
「どういうのだ、おいっ!」
半蔵は、激昂《げきこう》して、「子影」の肩をつかんだ。
「子影」は、動かなかった。
「みな殺しにされてもよい、というのかっ!」
そう叫んだ瞬間、半蔵は、愀然《しゅうぜん》となった。
――残らず死ぬことは、予《あらかじ》め決まっていたのだ!
忍者と忍者の凄絶《せいぜつ》の戦闘であった。
「風盗」側が、正面を衝《つ》いて堂々と、たたかいを挑《いど》んで来た同類を、そのまま、小面憎《こづらにく》しと受けとって、主力を傾注して応ずる筈はあるまい。これには、何かの計略があるに相違ない、と疑うのは当然である。
攻撃者たちが、全滅してこそ、城内に、油断が生ずる。
爆薬が炸裂するのは、その時である。
半蔵は、おのれの激昂を慙じた。「子影」に、何か弁解の言葉を吐こうとしかけて、半蔵は、片手を、まだ、その肩に置いているのに、気づいた。
はっ、となったのは、その瞬間であった。微《かす》かな匂《にお》いが、おのが掌《て》のぬくもりの下から、漂い出ている。
それは、半蔵を愕然《がくぜん》とさせるに足りる匂いであった。
おそらく、「子影」は、自分のからだに、他人の手をふれられたのは、生まれてはじめてであったに相違ない。そのために、不用意にも、おのれ自身意識せずして、肌膚《はだ》が微妙な反応をおこして、匂いを沸かせたものであったろう。
半蔵は、一歩退った。
次の瞬間、目にもとまらぬ迅業《はやわざ》で、腰から一刀を鞘走《さやばし》らせた。
同時に、「子影」は羽毛のように軽やかに、一間を飛んでいた。
しかし、そのおもてを包んでいた黒布は、半蔵のかざした白刃《はくじん》の上で、蝙蝠《こうもり》のように、ひらひらと宙を舞っていた。
折から昇った月光をあびて、その貌《かお》は、蒼《あお》く、彫《ほり》りぶかい翳《かげ》を刷《は》いて、半蔵の眼眸に、くまなく見とどけられた。
「女子《おなご》だったのか、そなたは――」
半蔵は、呻《うめ》くように言った。
十二
黙然として――老いたる「影」は、炉火を瞶《み》つめていた。
その化《ふ》け果てた老醜の貌《かお》は、この数日間で、さらに幾本かの皺《しわ》を刻み込んだようであった。
ふと……炉火から目を擡《もた》げて、右へまわした。
いつの間にか、そこへ、「子影」が、坐っていた。
「戻ったか――」
隻眼《せきがん》を据《す》えた「影」は、「お前、一人だけだな」とたしかめた。
「子影」は、頷《うなず》いた。
「影」は、視線を炉火へ戻すと、出《い》でて再び還《かえ》らなかった部下の、一人一人の俤《おもかげ》を偲《しの》ぶように、惘然《ぼうぜん》と、なかば虚脱の様子に陥っていたが、急に、眉宇《びう》をひそめた。
匂いを――「子影」のからだから漂い出る微かな匂いを、かいだのである。
「影」は、猶《なお》しばらく、そうしてじっとしていたが、やがて、やおら隻脚で立つと、
「参れ――」
と、「子影」を促した。
奥の座敷にはいると、「子影」に、坐る位置を示しておいて、床の間から、石田三成拝領の剣を把《と》った。
「お前は、服部半蔵に、犯されたであろう」
この言葉は、ひくい穏やかな語気で、口から押し出された。
「子影」は、眸子《ひとみ》を、膝《ひざ》へ落とした。
刹那――「影」は、抜き打ちに、白刃を、「子影」の頸根《くびね》へ、送った。
むなしく宙を截《き》った切先《きっさき》を、畳の上一寸あまりで、ぴたっと停《と》めた「影」は、心気が、陽足《ひあし》のように、躰の中から引いて行くのをおぼえた。
畳に膝を折って、徐々に、前へのめり込み乍ら、消えゆく意識の中で、「影」が呟《つぶや》いたのは、
―――子供が生まれるとしたら、どんな奴《やつ》であろう?
そのことであった。
この物語は、それから、さらに二十年を経て、あらたな構成をととのえる――。
虎伏《こふく》の剣
一
まず、剣道史の挙げる巷説《こうせつ》の随一といえば、
「寛永十一年九月二十二日、将軍家光、各流の剣士を徴し、江戸城吹上に試合を覧《み》る。世に寛永の御前試合と称し、人|之《これ》を伝う」
これである。
これは、あくまで、巷説であって、徳川の記録は、この日、家光に日光|参廟《さんびょう》の事があった、とのこして居《お》り、史家の否定の根拠をあたえている。
記録の方が、巷説よりも正しい、と思い做《な》すのは、常識であろう。
しかし、巷説の方が、記録よりも、事実を正しく伝えている場合があるのを、われわれは、太平洋戦争中に、痛いほど知らされた。
寛永御前試合は、公儀に於《お》いて、これを隠蔽《いんぺい》せざるを得ない、やむなき事情が起こり、巷間では、その事実を知りつつ、口伝え以外は遠慮した。明治に至って、講釈師が、これを公《おおやけ》にする時、試合内容に就いての多くの誤伝に誇張をくわえたのは、いたしかたがなかった。
寛永御前試合は、まさしく、催されたのである。
しかも、試合は、十一年九月二十二日のみに行なわれたのではなかった。その日から十四日間にわたって、十試合が覧られた。(十四日間に十試合というのは、あいだに、将軍家の出座のない日が四日間あったことを示す)
諸侯並びに旗本の列座はなかった。
覧たのは、家光|唯《ただ》一人であった。
審判が、柳生宗矩《やぎゅうむねのり》と小野忠常《おのただつね》の両名であったことは、巷説にあやまりはない。その時、但馬守《たじまのかみ》宗矩は六十四歳、次郎右衛門忠常は二十八歳であった。宗矩は、白扇を持って、上座にむかって右、忠常は、銅鑼《どら》を持って、左に位置を占めた。
時刻は、正午。
方二十間に、紅白の幔幕《まんまく》を張り、剣士は、幕を割って、一歩踏み入った瞬間から、闘いを開始する。将軍家に対する拝礼は、家光自身の口から、省かれた。
武器は、真剣、木太刀その他、いかなるものでも、各自勝手であり、幕を入るまで秘すことを許された。
すなわち――。
戦場を知らぬ家光は、江戸城吹上の禁苑《きんえん》に於いて、凄絶《せいぜつ》の血闘を覧ることを、のぞんだのである。
第一日。快晴。
試合は、神道流《しんとうりゅう》、妻片久太郎時直《つまがたきゅうたろうときなお》(後に謙寿齋と号す)と一伝流浅山|内蔵助重行《くらのすけしげゆき》とによって行なわれた。
神道流は、剣道中興の祖と謂《い》われる下総国《しもうさのくに》香取の郷士《ごうし》、飯篠山城守《いいざさやましろのかみ》家直の樹《た》てた、いわば剣道流派の濫觴《らんしょう》である。これを天真正伝神道流と命名したのは、山城守の師である鹿伏兎刑部《かぶとぎょうぶ》が河中に棲《す》む天真正という河童《かっぱ》より授けられた刀法の秘蘊《ひうん》であるがため、と伝えられている。河童は、すなわち香取大明神の応身、という意味であろう。
妻片久太郎は、香取にあって、神道流の正統を継いでいる剣客で、その技の精妙をうたわれているとともに、面貌《めんぼう》の怪異さにおいても有名であった。年齢はまだ二十六の若さであった。
一伝流は、丸目|主水正《もんどのしょう》を祖として、戦国の抜刀術から発している剣法であった。当流は、別に居合、小太刀、鎖鎌《くさりがま》、薙刀《なぎなた》、忍術、捕物、毒害の法まで備えているという、端倪《たんげい》すべからざる秘剣を組んで、世上に於いて難剣随一と称されている。したがって、当日、一伝齋と号する浅山内蔵助が、いかなる武器を把《と》って現われるかは、相手の妻片久太郎にも想像がつかないことであった。
内蔵助重行は、当年四十二歳、兵法者《ひょうほうしゃ》というよりも、儒者風の、きわめて穏健な風貌の持ち主であった。躰は小肥《こぶと》りの小柄《こがら》で、幼年時骨折して、左脚が短く、かなり歩行が醜かった。
本丸の時鐘がひびいて来るや、まず東方の幔幕を割って、妻片久太郎が、長剣を携《さ》げて現われると、するすると中央に進み出て、作法正しく、片膝《かたひざ》ついて、相手の出を待った。
噂《うわさ》にたがわず、白鉢巻から、角《つの》をのぞかせるにふさわしい奇面を備えていた。凄《すさま》じい疱瘡《ほうそう》の痕《あと》が、異常なまでに離れた双眼や巨大な鼻梁《びりょう》や、爛《ただ》れたように赤い厚い唇《くちびる》を包んで居《お》り、気弱な女子や小児ならば気遠くなるに相違ない。
……妻片久太郎が、その位置に就いてから、今日の時刻にして、およそ十数分の緊張した静寂が、流れた。西方の幔幕は、そよともせず、一伝流の秘法がその蔭《かげ》に、気配もなく、ひそめられつづけた。
この決闘場における唯《ただ》一人の観客である家光にとって、十数分は長かった。姿なき兵法者が、幔幕を透かして、放射してくる殺気を察知することは不可能だったからである。
家光は、三度、躰を動かした。そこから、白砂上を掠める鳥影に、ふと、顔を擡《あ》げた――途端、西方の幔幕が割られた。
一歩、するりと滑り出た浅山内蔵助は、すでに、手にした木太刀を、まっすぐに、妻片久太郎の双眸《そうぼう》に向けて、さしのべていた。
裃《かみしも》姿で、襷《たすき》もかけて居らず、股立《ももだち》ちを取ってもいなかった。
妻片久太郎は、片膝をついたままで、長剣を鞘《さや》ごと、左手いっぱいに、さしのべて、鯉口《こいぐち》を切った。間合いがきまるまで、立上がらぬとみえた。
内蔵助は、久太郎に向かって、ゆるやかな歩度で迫りはじめた。
距離は、約八間あった。
久太郎は、内蔵助が、五歩をふむまで、無表情であったが、六歩目をふむや、ほんの微《かす》かではあったが、眉宇《びう》をひそめて、眸子《ひとみ》を細めた。 久太郎には、内蔵助の差しのべた木太刀の先端しか見えず、その長さが測れなかったのである。
家光および審判両名の目には、内蔵助の木太刀が、およそ四尺三四寸はあろうか、と映っていた。久太郎の目には、それが一点としか映っていなかったのであった。
内蔵助は、かねて、久太郎が三尺二寸余の長剣を使うときいていたので、それよりさらに一尺あまりも長い木太刀を作り、抜刀術から出た居合の迅業《はやわざ》によって、一撃による勝利をおさめんとしているのであった。
そのために、異常なまでに左右に開いた久太郎の双眼を晦《くらま》して、そのおそるべき長さを一点にしか見せない企《たくら》みは、まさしく、久太郎を当惑させた、といえる。
さらに、内蔵助としては、木太刀と長剣との一尺の差の利を、一撃まで保続するためには、歩度に巧妙な計算を入れていた。
しずかに、ゆるやかに、五歩進んで、久太郎の面上に当惑の色が刷《は》かれるやいなや、六歩目からは、突如として速度を加えた。
風の迅《はや》さ、ともいえた。
しかも――上半身を傾斜させた跛行《はこう》にも拘《かかわ》らず、さしのべた木太刀は、先端で久太郎の双眼をとらえたなり、微塵《みじん》の浮沈もしめさなかった。久太郎は、完全に間合いを詰められるまで、その長さを目測し得なかった。
内蔵助は、肉薄しざま、声もなく、四尺三寸の木太刀を頭上高く振りかぶった。
その刹那まで、久太郎が、片膝つきの姿勢を変えようとしなかったことは、家光はもとより、審判者たちにも、いかにも不審なものに思われた。
のみならず――。
内蔵助が、木太刀を大上段に振りかぶると同時に、久太郎は、ぱっと両手を、勝鬨《かちどき》のかたちに、高く大きく拡げたのである。そのいずれの手にも、長剣はなかった。
奇怪であったのは、木太刀をかざした内蔵助が、それなり、樹木と化したように、動かなくなったことである。
「勝負あり!」
宗矩《むねのり》が白扇をあげるのと、忠常が、銅鑼を打つのが、同時であった。
二
「勝は、孰《いず》れじゃ?」
家光には、判《わか》らなかった。
「妻片時直にございます」
宗矩が、こたえた。
家光は、あらためて、両手を挙げている久太郎を見、そして、大上段に振りかぶっている内蔵助を見た。
この時、内蔵助の咽喉《のど》もとで、何かが、煌《きら》と光った。
眸子を凝らした家光は、それが白刃の切先であるのを認めて、あっとなった。
忠常が、黙って、床几《しょうぎ》から立つと、そこへ歩み寄り、内蔵助の袴《はかま》の下から、すうっと、白刃を抜きとって、久太郎へ返した。
神技ともいうべき久太郎の迅業《はやわざ》であった。内蔵助が、大上段に振りかぶる間髪の間に、久太郎は、居合い抜きに、長剣を投げて、内蔵助の袴の下から、腹部、胸部に添うて、まっすぐに、咽喉もとへ突き上げたのである。切先は、頤《あご》にふれて居り、もし内蔵助が、木太刀を振り下せば、ぐさと口腔をつらぬいていたであろう。内蔵助が、立往生せざるを得なかった所以《ゆえん》である。
久太郎は、長剣を腰に納めると、忠常に促されて、縁さきに進み、上覧を仰いだのは虎伏《こふく》の剣ともうしまする、と言上し、褒美《ほうび》として、将軍家秘蔵の無名太刀一振りを拝領して、退出した。
家康が、大坂城を陥落せしめた時、秀頼《ひでより》所蔵の無名太刀十振が、戦利品の中にあった。家康が、何よりも、これをよろこんだのは、曾《かつ》て太閤秀吉《たいこうひでよし》が、武勲の諸侯に与えるために、数百本の無名太刀を集めて、摩《す》りあげさせ、正宗の銘を打たせた際、十振りだけを無名のままに手元にのこして置いたのを、知っていたからである。(ちなみに、それまで殆《ほとん》ど名の知られていなかった正宗は、これによって、一躍、名工としての位置を占めたのである)
家光は、この十振りを、勝者たちへ分かつために、十試合ときめたのである。
久太郎は、青山にある寄宿先の、同じ神道流、奥山万兵衛の道場へ戻ると、勝利を告げて、次のようにその理由を説明した。
「一伝齋が現われた時、それがしは、木太刀であるのを見て、これは、間合いの勝を狙うもの――先年、宮本武蔵が、佐々木|厳流《がんりゅう》と闘った時の法をえらんだな、と察知した。武蔵は厳流の物干竿《ものほしざお》にまさる長剣を持たぬために、櫂《かい》を削って、四尺あまりの木太刀を造り、わざと時刻を遅らせて、舟島へ到着し、船から海中に降りるや、木太刀を水中に浸けて、長さを敵に知らしめなかった、ときいて居る。すなわち、一伝齋は、この武蔵の兵法にならった。それがしは、一伝齋が、迫り寄るまで、正面からまっすぐに突き出した木太刀の長さを、目測することを許されなかった。ただ、四尺以上ということだけが、想像できた。それがしは、咄嗟《とっさ》に、おのが剣と一尺の差を持った木太刀に対して、立ち上がって間合いをとる愚を考えた。さいわい、それがしには、虎伏の剣があった。お手前もご存じのように、虎伏の剣は、坐臥《ざが》から、立つと見せて、逆に身を伏せて、敵の腹中につけ入る術である。一伝齋は、それがしが、立たぬと見て、やむなく、自らの木太刀の長さに腕の長さを加えた五尺の間合いをもってした。これは、それがしが、居合抜きに、身を延《のば》しざま、三尺二寸の太刀を投ずるに足りる距離であった。それがしは、すでに、一伝齋が、裃姿になっているのは、下に、鎖帷子《くさりかたびら》を着用しているに相違ない、と見てとっていた。……太刀が、鎖帷子と着物の間を縫って、庭前に血を流すこともなく済んだのは、さいわいであった」
妻片久太郎が、「虎伏の剣」をさとったのは、十七歳の時であった。
下総香取の由緒《ゆいしょ》ある郷士の家に、長男として生まれた久太郎は、物心ついた時すでに、両親を知らなかった。それは、醜怪な容貌のせいであった。父母ともに尋常な顔だちであったにも拘らず、久太郎は、誕生の時から、取上げた老婆をして悸《ぎょ》っとさせる、世に謂《い》う鬼っ子であった。父は、一瞥《いちべつ》して、不吉な予感に襲われて、七夜《うぶたち》の宵《よい》、海辺へ棄《す》て、家来筋にあたる漁師にこれを拾わせるという手続きをとり、乳母をつき添わせて、菩提寺に預けた。
鬼面は、そのまま育っても、他人の正視に堪えぬところであったろう。不運にも、五歳の時、流行の疱瘡にかかって、鬼面は更に、名伏し難い醜悪さを加えたのであった。
斯《か》くて、久太郎は、少年期を、唯《ただ》一人の遊び友達もなく、育たなければならなかった。その孤独の疎通口《はけぐち》を、少年は、山野を駆けめぐって、木太刀で、野生の小動物を撃つことにもとめた。剣の天稟《てんびん》は、その頃から発揮され、ひとたび狙った獲物は、終日追跡してでも、仆《たお》さずにはおかなかった。
十四歳の時、この地方に、野鼠《のねずみ》がおそろしい勢いで繁殖《はんしょく》して、作物の被害甚大となったので、領主の名によって、各戸で猫を飼うことになった。
やがて、野鼠が滅んだあと、夥《おびただ》しい猫の中から、赤子の咽喉を噛《か》み切る怪猫《かいびょう》が現われて、恐怖の噂を撒《ま》いた。
一日、久太郎は、一尺八寸の脇差《わきざし》しを抜いて、その猫を、追った。久太郎の気魄《きはく》は、猫をして、とある辻《つじ》の庚申塚《こうしんづか》の裾《すそ》で、身動きできなくせしめた。
久太郎が、じりじりと迫るにつれて、猫は、その背を徐々に丸く、上げた。
よし、と汐合《しおあい》いをはかって、久太郎は、脇差を打ち下ろした。刹那、猫は、久太郎の手元に飛び込み、胸をかけのぼって、その醜怪な顔面に爪跡《つめあと》を残しておいて、頭上を躍り越え、何処かへ消え去ったのであった。
久太郎は、狂おしい屈辱に駆られ、幾夜も睡《ねむ》れなかった。おのれの慙じる鬼面を傷つけられたことは、畜生からもあなどられ、あざけられたように、心まで傷を負うことになったのである。
猫は、久太郎の復讐におそれをなしたものか、再び里に姿を現わさず、討ち取る念願はついに叶《かな》えられなかった。その後、剣技はいよいよ妙致の域に入って行ったものの、猫におくれを取った口惜しさは、一日も忘れられず、胸奥のしこりとなった。
十七歳の早春、摩利支天《まりしてん》の廟《びょう》にこもったところ、一夜、夢裡《むり》に、本尊が利剣を振りかざして、迫って来た。その剣気の凄まじさに、久太郎は、総身の毛を逆立て、自身一匹の虎と化して、背を高々と丸めて、これに対した。
刃風を唸《うな》らせて、利剣が、真っ向から打ち下ろされた瞬間、久太郎は、無我夢中で、その白刃の下をかいくぐって、摩利支天のふところへ、跳びついていた。
……目覚めて、久太郎は、豁然《かつぜん》として悟るところがあった。
おのれを負かした猫の位置に、自身を転換することによって、絶体絶命の窮地を脱し得たのである。
孫子の兵法《ひょうほう》にも、「囲師は必ず、闕《か》く。窮寇《きゅうこう》は迫る勿《なか》れ」とある。敵を包囲するにあたっては、必ず一方に生路を開いておいてやるべきであり、逃路《にげみち》を失った敵を窮迫してはならぬ。必死の力をふりしぼって、意外の反撃をこころみるに相違ないからである、という意味である。
久太郎は、後日、その悟るところを、日誌に記した。
「二者、剣を執って対峙《たいじ》す。勝敗なしということなし。されば、いかにして、その勝ちを得んか。敵を撃つということに非《あら》ず。敵に撃たれざるを心得るべし。撃たれざる位置は、おのずから定まる。勝に不思議の勝あるは、これ也。負に、不思議の負は無し」
撃たれざる位置を、咄嗟の間に判断する力を、久太郎は、平常心、と呼んだ。そして、聞く者に、鞘の中にある剣を指して、これが平常心だ、と教えた。剣が鞘をはなれる時は、すでに、勝つべき位置が定まっていなければならないのである。
久太郎は、悟って以来、おのれの鬼面を、慙じなくなり、闘志を内にかくして、いかなる場合でも、水のように冷静であるように努めて、礼節を尚《とうと》ぶ人物に成長して行ったのである。
三
勝利の夜は、妻片久太郎にとって、祝言《しゅうげん》の夜でもあった。
このたびの試合に召されて出府した久太郎は、先輩に当たる奥山万兵衛の道場に身を寄せたが、つぎの日には、万兵衛から、妹の千代(十九歳)を貰《もら》って欲しい、と申込まれたのである。
久太郎は、給仕に出た千代の、ういういしい面立《おもだ》ちに、心をとめていた。
「それがしのような、化生面《けしょうづら》が、妻帯など思いもよらぬこと。まして、千代殿が、到底承知される筈《はず》はあるまい」
と断わると、すでに、千代は承諾しているとのことであった。
兄から、相談されると、千代は、ためらわずに、
「お人柄を慕いまする」
と、こたえた、という。
久太郎は、感激し、もし勝利を得て戻《もど》って来たならば、その夜のうちに祝言いたしたい、と申出た。
久太郎は、生きて戻らぬ覚悟であった。千代のような可憐《かれん》な乙女を妻とする奇跡が、自分に起こるとは到底考えられなかったからである。
奇跡を信じなかった謙虚が、勝利をわが手にもたらしてくれた、と思ってもよいのではなかろうか。
離れの一室にしつらえられた新牀《にいどこ》で、はじらいつつ、そっと入って来た千代を、双腕に抱きとり乍《なが》ら、久太郎は、自身に、そう呟《つぶや》いた。
|ひそ《ヽヽ》と目蓋《まぶた》を閉《とざ》ざした千代の白い細いおもてへ、おのが鬼面を合わせようとしかけて、久太郎の磨《と》ぎすまされた感覚は、戸外に忍び寄る何者かの気配をさとった。
久太郎は、千代をそっと置くと、差料《さしりょう》を把《と》って、音もなく立ち上がり、跫音《あしおと》を消して、縁側へ出た。
数秒を置いて、さっと、雨戸を繰《く》った。
広い平庭の、塀沿《へいぞ》いにしげった木立の中に、狐火《きつねび》にも似た、赤い灯《ひ》が、ぼうっと滲《にじ》んでいるのを、久太郎は、見出した。
その微《かす》かなゆらぎかたは、明らかに、人の手によるもの、と認められた。
久太郎は、小柄《こづか》を抜いて、そこへ投じた。
灯は、数個に砕けて、火花のように、夜空へ散った。
久太郎が、背すじに、氷のように冷たい旋律をおぼえたのは、その瞬間であった。
異変が、寝室で、起こっている!
砕け散った灯が、あざわらうように、久太郎に、そう教えたのである
あざむかれて、久太郎は、縁側へ、おびき出されたのである。
ゆっくりと、踵《きびす》をまわした久太郎は、開かれた障子の間から、褥《しとね》の上に起こっている光景を見た。
起き上がった千代が、胸も裾《すそ》もひきはだけたばかりか、真白い太股《ふともも》を、左右に大きく拡《ひろ》げて、見せまじきものまで、くろぐろと、露《あら》わにしているのであった。
のみならず、その股間《こかん》には、一本の小太刀が、寝衣《ねまき》と褥とを刺して、直立していた。
「……」
久太郎は、一瞬、息をのみ、
――狂気か!
と、疑った。
目蓋を閉じたまま、顔を仰向《あおむ》けている千代の姿勢は、いかにも、眺めて欲しいといわんばかりの様子に見てとれた。
次の瞬間、久太郎は、千代の背後に蹲《うずくま》っている黒い影を、見分けた。
千代にも、兵法者の家に生まれた心得がある筈であった。にも拘《かかわら》らず、死ぬよりもはずかしい姿を曝《さら》され乍ら、身動きひとつできないでいるのは、その背に|ひた《ヽヽ》と吸い付いた黒い影に、絶妙の術がある証左であった。
黒い影は、千代を羽交締《はがいじ》めにしているのでもなければ、頸《くび》にも四肢《しし》にも、指一本掛けてはいないのであった。
久太郎が、すうっと、三尺あまり畳を滑って、迫ると、はじめて、千代の首のうしろから、その面貌《めんぼう》を、浮かびあがらせた。
眉《まゆ》も目も鼻梁《びりょう》も唇《くちびる》も、線をひいたように細く、輪郭にふしぎな柔らかな模糊《もこ》とした陰翳《いんえい》があって、これは後日に、印象をとどめぬように努力して造られたとさえ受けとれる忍者独特の風貌であった。
凝視すればする程、かえって印象は淡くなるようであった。
まだ、若い。二十歳を越えては居《お》るまい。
「何者だ?」
久太郎は、語気を抑えて、問うた。
「名は、与えられて居り申さぬ。影――とおぼえておいて頂きたい」
抑揚のない、住んだ声音で、こたえた。
「影?……何用あっての推参か?」
「本日の試合に勝って、将軍家より拝領された太刀を頂戴つかまつりたい」
「理由は?」
「申上げられぬ」
「太刀を欲《ほっ》するならば、それがしの妻となろうとしているその娘を、このように、はずかしめるまでもあるまい。床の間に飾ってあるではないか」
「手前は、盗賊ではない。御貴殿におことわりして、頂戴つかまつる」
「……」
久太郎は、差料をすてると、ゆっくりと、床の間へ、歩み寄った。それにつれて、千代の裸身は、人形のように、まわされた。
久太郎は、拝領の太刀を、手にするや、すらりと抜きはなった。抜きはなったからには、久太郎が、すでに、勝つべき位置に就いたことを意味した。
久太郎は、若い「影」との間合いをはかっていた。そのあいだに在る白い女体は、すでに、彼の眼中にはなかった。
久太郎は、切先を畳にふれんばかりに下げて、必勝の一撃を、対手《あいて》に予告した。
「おみごと!」
若い「影」の口から、その一語がはかれるとともに、千代の股間から、小太刀が消えた。
「退散つかまつる。後日、あらためて参上――」
そう言いのこして、千代自身の影法師ででもあるかのように、まうしろへ、すっと退って、壁に添った。
その時、千代が呪文《じゅもん》を解かれたように、褥のそばへすてられていた久太郎の差料をひろいとって、抜くがおそしと、わが胸へ突き立てようとした。
「はやまるな!」
叫びざま、久太郎は、拝領の太刀で、千代の逆に持った刀を打った。
にも拘らず――。
久太郎は、千代の胸から、血汐が迸《ほとば》しるのを見なければならなかった。千代は、あやまたず、おのが胸を刺したのである。
久太郎は、茫然《ぼうぜん》自失した。
久太郎が、携げている拝領の太刀の、切先三寸が、失われているのに、気づいたのは、それから、幾秒か後であった。久太郎が、千代の刀を打つよりも迅《は》く、若い「影」の小太刀が、それを鮮やかに切断していたのである。
因果坂
一
樋口十郎兵衛《ひぐちじゅうろべえ》は、天地を包んで舞い狂う雪片が、突如として、逆巻く波濤《はとう》の飛沫《ひまつ》と化し、さらにそれが、けんらんたる花吹雪に変わる夢魔にうなされて、目を覚ました。
闇《やみ》に大きく目を瞠《ひら》いて、しばし、動かずに、夢裡《むり》とはいえ不覚にも乱れたおのれの鼓動をきいていた十郎兵衛は、一瞬、|がば《ヽヽ》とはね起きて、寝衣《ねまき》をすてると、雨戸を繰って、庭へ出た。
暁の、淡々《あわあわ》とした清澄の世界は、薄霧を流れさせて、深沈たる風趣をみせていた。
十郎兵衛は、跣《はだし》で、大地をふんで、井戸端に寄ると、棕櫚縄《しゅろなわ》をたぐった。かたわらの百日紅《さるすべり》の枝にとまっている黒い鳥が、じっと自分を見戌《みまも》っているのを意識し乍《なが》ら――。
釣瓶水《つるべみず》が、十郎兵衛の頭から落ちて、八方へ飛沫をはね散らすや、鳥は、羽音高く、中空へ飛び立って行った。
七度び、脂汗《あぶらあせ》の滲《にじ》んだ裸身へ、冷水をかけた十郎兵衛は、ゆっくりと、闇《やみ》へ戻《もど》り乍ら、
――不覚!
おのれをあざけっていた。
本日の試合こそ、生涯の一大事とおのれに言いきかせ、丑三刻《うしみつどき》まで坐禅《ざぜん》を組み、心気を鎮めて熟睡の牀《とこ》に就いたのであったが……。
暁を迎えて、ふと、五体の熱するのをおぼえた時、豊満な白い女身が掩《おお》いかぶさって来て、絖《ぬめ》のような柔らかな肌を吸いつかせ、狂おしく蠢《うごめ》いたのである。
――南無!
と、祈り、
――三宝!
と、叫んだが、四肢は、おのが意志にさからって、烈《はげ》しく、女身を抱きしめていた。
欲情が、津波のようにうねりあげて来て、全身をおしつつみ、痺《しび》れさせて、急速に引き去るや、女身は、ぱっと砕けて、無数の雪片となって舞い散ってしまった。
目覚めてみれば、十郎兵衛は、満身の精気を放出して、下腹部を濡《ぬ》らしていたのである。
思えば――。
今夏、江戸城吹上の禁苑《きんえん》に於《お》ける御前試合の指名を受けて、兵法者《ひょうほうしゃ》無上の栄誉と感激し、直ちに、出府して、この小石川の伝通院に身を寄せ、精進に精進を重ねて、ようやく精気の盈《み》ちるのをおぼえつつ、最後の夜を迎えた十郎兵衛であった。
戒心の度を過したとは毛頭思わぬのに、一瞬の痴夢に破れさったとは、まさに取返しのつかない痛恨といわなければならなかった。
試合の対手《あいて》は、甲斐国《かいのくに》に中条流小太刀の秘術を伝える森田五兵衛実氏であった。手裏に刀刃をみせない、と称されるほど、石火を発する迅業《はやわざ》を使う達人であった。
この小太刀に対して、十郎兵衛定勝の馬庭念流の剛剣を配したのは、まさしく、絶好の組合わせといえた。
馬庭念流に、受太刀はない。ただ一念|罩《こ》めた壮絶の撃ち込みがあるばかりである。たとえ、相手に、これを受ける如何《いか》なる工夫があろうとも、その受けを微塵《みじん》に粉砕して、真っ向から斬《き》り下げる凄《すさま》じさを、「念」の一字は現わしている。
このためには、試合当日までに、おのが心身を、「念」そのものと化すべく、必死の精進を為《な》さねばならなかった。
十郎兵衛は、それを為したのである。
思わざる悪魔は、暁の臥牀《ふしど》にひそんで、その月余の精進を、水泡《すいほう》に帰せしめたのであった。
半刻後、十郎兵衛は、朝餉《あさげ》の席に就き、湯気の昇る白粥《しろがゆ》の椀《わん》と、柳の箸《はし》を把りあげ乍ら、俯向《うつむ》いて、
「開けがたに、痴夢を見て、不覚をとり申した」
と、率直に、向いの座の和尚《おしょう》へ、告白した。
すでに古稀《こき》を迎えて、枯木|寒鴉《かんがらす》の下に彳《たたず》ませるにふさわしい風格をそなえた和尚は、微笑して、
「竹は雪にさかわらず、水母《くらげ》は波にさかわらず、桜花は風に散ってこそ風情があるという次第じゃな」
「お坊――悟りとは?」
「お手前の流儀の極意は、なんじゃな?」
「撃ち一太刀に、念の一字でござる」
「ならば、その念の一字を放下《ほうげ》しなされ」
「念をすてては、虚しい空《から》太刀となりましょう」
「さあ。考えようによっては、何も無くなったら、斬られる心配もあるまいに――」
和尚は、こともなげに言って、音をたてて、粥をすすった。
「……」
十郎兵衛は、黙って、和尚の人間ばなれした枯淡の面貌《めんぼう》を瞶《みつ》めた。
和尚は言葉をつづけた。
「わしは、これまで、修羅道《しゅらどう》をあさましいものと、思いちがいをして来た。しかし、いまの其許《そこもと》を見ると、つくづく羨《うらや》ましいと存ずる。二十年来、嘗《かつ》て苦心す、幾度か君が為《ため》に、蒼竜窟《そうりゅうくつ》に下る。君の為とは、禅では、悟りのことを申すのじゃが、何によらず、蒼竜の窟に突入する覚悟がなくてはなるまい。勝敗は自《おのずか》ら別じゃ。ただ、ぎりぎりのせっぱつまった心境になるのは、これは望んだからとて容易に機会が到来するものではない。むしろ、これを、僥倖《ぎょうこう》、と考え直すのも、方便であろうかな。左伝にもござるな。少を用うるは、斉《ひと》しく死を致すに如《し》くは莫《な》し。斉しく死を致すは、備《そなえ》をさるに如くは莫し、と」
十郎兵衛は、しばらく、俯向いたままでいたが、やがて、顔を擡《あ》げて、言った。
「引導をお受けいたした」
二
当時、小石川の台地から、|市ヶ谷見附《いちがやみつけ》へ向かう途中に、因果坂という急坂があった。
伝通院の覚山|上人《じょうにん》が、京よりの帰途、この坂で、眉目秀麗の若僧と会った。名を沢蔵司《たくぞうす》といい、修法の目的を以《もっ》て、伝通院学寮に入る希望を抱いている若者であった。上人は、その言辞|挙措《きょそ》の温良を観《み》て、入寮を許した。沢蔵司は、ただの一度も法問に後《おく》れをとったことのないくらい才学非凡であったので、上人も稀有の存在と思い做《な》した。ところが、某夜、沢蔵司は、睡魔に負けて、不覚にも狐《きつね》の性《しょう》を現わし、同僚の先輩に、その正体を目撃された。いたく慙《は》じた沢蔵司は、上人の前に伺候《しこう》して、自白し、獣身乍ら仏果を得たことを謝して、何処へともなく逐電してしまった。上人は、その心事を憐《あわれ》んで、山内に祠《ほこら》を建ててやるとともに、はじめて出会うた坂に、柳を植えて、風に舞う柳枝のすがたに、下化衆生《げけしゅじょう》の相を写してやった。
柳は、年経て、いまは、巨樹となって、高くそびえていた。
樋口十郎兵衛は、まだ朝霧の霽《は》れやらぬ因果坂を下って、この柳の下へさしかかった時、なぜともなく、顔を擡げた。
枝垂葉《しだれは》の間に、其処だけ、霧が濃く聚《あつ》められて、散りやらずにたゆとうているとみえた。
刹那――十郎兵衛は、ぱっと、一間余り横へ跳び躱《かわ》した。
十郎兵衛は、枝垂葉に罩《こ》めた白烟《はくえん》の中に、煌《きら》と閃《ひらめ》くものを見たのである。跳び躱しつつ、左手で脇差《わきざし》を鞘走《さやばし》らせた十郎兵衛は、頭上へ横一文字に構えて、左足を軸として、じりじりと千鳥を踏んだ。右手は、太刀の鯉口《こいぐち》を切っていた。
何か重いもので、後頭を圧《お》しつけられている不快感があった。
そのままいくばくかの静寂が過ぎた。
と――。
坂上から、急に起こった一陣の風で、枝垂葉が、一斉《いっせい》に、東へなびいた。
十郎兵衛の眸子《ひとみ》には、その無数の針魚《さより》のような細葉の一枚一枚が、目に見えぬ敵の閃かす太刀の切先となって、迫って来るように映った。進退|谷《きわま》った当惑が来た。
次の瞬間、風に吹きはらわれて、白烟は薄れ、やわらかな陽ざしが、斜めに、そこへ落ちた。
白烟が散ってみれば、何の異状もなかった。柳が、風のままに、なよなよと、枝垂葉を、そよがせているだけのことである。
それでも、猶《なお》しばらく、十郎兵衛は、横一文字の構えをすてずに、全神経をあたりに配っていた。
ようやく、脇差しを腰に納めてから、十郎兵衛は、片手を、おのが頭に挙げた。後頭を圧《おさ》えつけているのが、髻《もとどり》を刺している何かであることは、枝垂葉を睨《にら》み上げているうちに、判った。
抜きとってみて、十郎兵衛は、唖然《あぜん》とした。それは、三寸あまりの長さに断たれている太刀の切先だったのである。
十郎兵衛は、烈《はげ》しい屈辱をおぼえた。
自分が、危機を察知して跳び躱した時、すでに、この切先は、白烟の中から放たれて、髻に突き刺さっていたのである。のみならず、目に見えぬ敵は、殺意を抱かず、ただ、こちらをおどろかせるために、髻を刺そうと狙《ねら》って、あやまたずに、刺したのである。
わずかに、十郎兵衛が、自分をなぐさめることができたのは、咄嗟に、右手で太刀を抜かずに、左手で脇差しを抜いたことであった。
敵は、必ず、第二、第三の攻撃手段を用意していたに相違ない。それを阻《はば》んだのは、左手で脇差しを頭上に横一文字に構えつつ、右手でいつでも太刀を居合抜く予告をしてみせたからである。
それにしても――。
――何故《なにゆえ》の試しか?
十郎兵衛には、判らなかった。
三
第二日。正午を迎えて、江戸城吹上の禁苑の空は、曇った。
時鐘とともに、樋口十郎兵衛は、西方の幔幕《まんまく》を、森田五兵衛は、東方の幔幕を割って出た。
十郎兵衛は、三十二歳、六尺を越える大兵《だいひょう》で、眉目尋常であった。それにひきかえて、五兵衛は、すでに五十路《いそじ》にさしかかって居り、傴僂《せむし》かと疑われる程|矮小《わいしょう》で、いたずらに面体《めんてい》が平たく大きくみえた。鋼造《はがねづく》りの網鉢巻《あみはちまき》を締めているのは、念流の初太刀が、必ず真っ向から襲って来るものと心得ての要心であったろう。
両者は、ゆっくりと、光のない白砂を踏んで、歩み寄り、八間余の距離をとって、いったん立ち停《ど》まった。
十郎兵衛は、大小を帯びていたが、五兵衛の腰には、小太刀一振りが差されているのみであった。
十郎兵衛は、念流独特の半眼に細めている。
念流の始祖は、奥州相馬《おうしゅうそうま》の産で、相馬四郎義元と名乗り、深く禅門に帰依《きえ》し、遂に入道して慈恩と号し、信州|伊那郡浪合郷《いなごおりなみあいごう》に一宇を建立《こんりゅう》し、摩利支天尊を安置して、自ら念大和尚となった、と伝えられている。あるいはまた一説に、臨済宗の僧なにがしが、還俗《げんぞく》して上坂半左衛門安久と名乗り、剣法に一流をひらいて、念流と称した、ともいう。いずれにしても、禅から出発した流儀であるために、つねに双眸《そうぼう》は半眼に細められて、構えをなす。汐合《しおあい》きわまり、満身の鋭気を、頂点に騰《のぼ》らせた刹那、かっと眦《まなじり》を裂いて瞠《みひら》き、火のような光をほとばしらせて、一撃に出ることになるのであった。
半眼のもとめるところは、敵の姿勢の総《すべ》てを、眼底に容れておき、その構えのどの部分かがしめす毛ほどの破綻であった。敵の刀身も、半眼には、部分としか映らないのである。
十郎兵衛は、五兵衛の自然に垂らした両手が、左右とも、手の甲を正面に向けているのを、半眼に映して、そろりと、一歩出た。五兵衛もまた、一歩を詰めた。
そうして、交互に、一歩ずつ、距離を詰めて行き五間に縮まった瞬間、
「とおっ!」
十郎兵衛は、五体に漲《みなぎ》った猛気を、一声に炸裂《さくれつ》させて、二間を奔《はし》った。
同時に、だらりと垂れていた五兵衛の両手が、ともに、はねあげられた。
その手中から噴いて出たのは、黒い光芒《こうぼう》ともいえる十本の手裏剣であった。五本ずつ、二本の線を曳《ひ》いて、宙をつらなって縫い、しかも、十郎兵衛の胸前三尺の空間で、意志のある生きもののごとく、上下左右へ散ったのであった。
だが、胸を、顔面を、腹を狙《ねら》って踊った凶器は、十郎兵衛が、いつ抜きはなって構えたか、胸前に横一文字に横たえた脇差しに当って、悉《ことごと》く、飛魚のように刎《は》ねあがって、十郎兵衛の頭上を越えて、その背後へ落下した。
あえなく地上へころがった手裏剣は、頭尾に三角の切先をもち、仏具の独鈷《とっこ》に似ていた。独鈷は、仏法具で、金剛杵《こんごうしょ》の原形であるが、あきらかに鋭利な刃をそなえていて、投剣の一種である。支那の|※[#金へん+票]《ひょう》より出ているものに相違ない。中条流は、その遠祖が、唐人の国術師に支持してその三不過《さんふか》の術を学んだ、と伝えられているのも、この手裏剣を見れば、納得できる。
ところで――。
十郎兵衛は、十本の手裏剣を、悉く、刎ねあげるやいなや、猛然と地を蹴《け》って、驀進《ばくしん》しつつ、左手を揮《ふる》って脇差を、投げ飛ばして、敵の飛び道具にむくいた。
中条流の居合は、その脇差を、造作《ぞうさ》なく、宙へ高く撥《はじ》きとばしていた。
途端に、小野忠常のかかげた銅鑼《どら》が、音高く、鳴りひびいた。
「勝負あり!」
柳生宗矩《やぎゅうむねのり》は、十郎兵衛に向かって白扇をさしのべた。
――はて?
上座の将軍家光は、訝《いぶか》った。
樋口十郎兵衛は、剛健を高々と大上段にふりかぶっているし、森田五兵衛は、小太刀を小霞にとっている。
念流と中条流の凄絶《せいぜつ》の試合は、これから始まるとしか、思えないではないか。
家光は、
「宗矩!」
と、呼んだ。
「戦場に於て、味方の武器が、あやまって、頭領の許《もと》へ飛来いたしても、咎《とが》めにはなるまい。試合をつづけさせい」
家光は、五兵衛がはらいのけた、十郎兵衛の脇差が、宙を飛んで、上座へ来たのを見ていた。
忠常が、咄嗟《とっさ》に、床几《しょうぎ》から立って、一間を跳んで、銅鑼で、これを受けとめたのである。宗矩もまた、忠常の後方へ、風のように身を移して、万一に備えたのであった。
すなわち、宗矩が、勝負ありの声を放つ前に、銅鑼が鳴ったのは、このためであった。 家光は、宗矩が、五兵衛のなした不敬の振舞いを、敗北ときめた、と思ったのである。
宗矩は、無表情で、
「もとより、戦場裡に、無礼の罪を問うものではございませぬが、森田五兵衛の負けは、あきらかにございます」
「おそれ乍ら――」
小太刀を小霞にとったままで、五兵衛が、声をあげた。
「前業《まえわざ》は互角なれば、試合はこれからと存じまする」
「黙れ!」
忠常が、叱咤《しった》した。
「勝負あったればこそ、銅鑼を鳴らしたではないか」
「銅鑼は、それがしが打ち払った脇差によって、鳴り申した!」
「脇差を打ち落とすだけならば、この右手の銅鑼打ちの棒で、こと足りる。銅鑼で受けたのは、勝負あったと見たからにほかならぬ」
そう言いはなった忠常は、つかつかと五兵衛に近寄ると、その右手に携《さ》げた棒で、ほんの軽く、小霞に横たえられた小太刀の刃を、ぽんと叩《たた》いた。
小太刀は、五兵衛の両手をはなれて、地面へ落ちた。
「脇差を払った時、その鋭さに、お手前の双手《もろて》は痺《しび》れた。小霞に構えてみせたが、せい一杯のところであろう」
念流の太刀筋は、その投じた脇差にさえ、受けを許さぬ「念」が罩《こ》められていて、冴《さ》えていたのである。
父忠明ゆずりの、率直で、阿諛《おもねり》を嫌《きら》い、花法虚容をしりぞける忠常の性格は、敗者の不服に対して、容赦ない言葉を吐かせた。このために、後日、一刀流は、中条流の恨みを買うこととなった。
栄誉の十郎兵衛は、召されて、「いまの太刀筋は」という下問に接した。かしこまって応《こた》えようとしたが、十郎兵衛としても、これは咄嗟の業《わざ》で、家伝の法形にはなかったために、ちょっと、口ごもった。
脳裡に、今朝がた、因果坂で襲われた光景が甦《よみがえ》り、
「柳枝の乱れ、と申しまする」
と、言上した。
宗矩が、頷《うなず》いて、即座に、その解説をつけた。
「柳の葉一枚一枚に目をとめますれば、めいめいが、勝手な向きに枝に生えて居りまするが、ひとたび、風が吹けば、枝にしたがって流れるのはひとしく同じ方角でございます。柳枝は乱れているとみえて、実は、風次第。十本の手裏剣が、襲い来って、胸前で岐《わか》れ散り、いずれの部分を狙おうとも、つまるところは、役者の心次第ゆえ、これを受けとめて、悉く、同じ方角に流すことが叶《かの》うその心得かと、存じまする」
十郎兵衛は、この解説をきき乍ら、率然として、知った。
――あの柳の高みにひそんでいた曲者は、森田五兵衛が、本日使う手裏剣の秘術を、予め看破して、このわしに、その受けを教えてくれたのだ!
敵ではなかった。わが危機をすくって栄誉をもたらしてくれた好意の者であったのである。
十郎兵衛は、無銘の業物《わざもの》を拝領して、江戸城を退出した。
馬庭念流が、この「柳枝の乱れ」から、矢留めの業にまで発達したのは、後年のことである。
四
各所へお礼まいりをすませた後、十郎兵衛が帰途についたのは、すでに雀色《たそがれ》時であった。かねて、勝利のあかつきには、と誓願していた市ヶ谷の八幡宮《はちまんぐう》へ、家伝の備前三郎国宗を奉納し、腰には、拝領太刀を帯びていた。
逢魔《おうま》が刻《とき》の、風もなく、明かりも薄れて、木立や建物の蔭から、もの静かに昏《く》れて来る世界を、ゆっくりと辿《たど》って来て、因果坂に来た十郎兵衛は、柳の下で、足を停《と》めた。
秋の澄んだ空中に、枝垂葉《しだれは》の中だけは妖《あや》しく白く烟《けむ》って、十郎兵衛の眸子《ひとみ》を牽《ひ》きつけた。
わが帰りを待ち受けての仕業と疑わず、十郎兵衛は、懐中から料紙に包んだ三寸の切先をとり出そうとした。正体が現われたら、朝の教えの返礼に、投げかえしてやろうという心算であった。
と――。
風も起こらぬのに、柳枝が一斉に、ゆれなびいて、白烟が、虚空《こくう》へ流れた。
まず――十郎兵衛の双眼を打ったのは、宵《よい》の薄闇《うすやみ》に、鮮やかに滲《にじ》んだ真紅の色であった。
凝然として、十郎兵衛は、息をのんだ。
真紅は、捲《まく》られた腰布《こしぎぬ》であった。その中に大きく拡《ひろ》げられた白い豊かな下肢《かし》が在った。冷たい蝋色《ろういろ》に沈んだ太股《ふともも》の肉《しし》のゆるやかな曲線が、燃える彩《いろどり》りに映えて、丸やかな臀部《でんぶ》で合うた――そこに、琥珀《こはく》色の綾目が、か黒く萌《も》えた茂みの下に、ふっくらと盛りあがっていた。
胴から上は黒一色に包まれ、まっすぐにさしのべて枝を掴《つか》んだ双手も、指さきまで掩《おお》うていた。膝から下もまた、脛巾《はばき》を穿《は》いている。
覆面の蔭から、じっと十郎兵衛を見下ろす切長な双眸は、冷たく冴えて、光っていた。
「……むっ!」
十郎兵衛は、一瞬の茫失から立ちなおると、勃然として嗔怒《しんぬ》に駆られた。
暁の閨《ねや》で見た痴夢は、おのが一人の消魂の耽《ふけ》りではなかった。まさしく、この柳の太枝に跨っている奇怪な女性《にょしょう》が、気配もなく忍び入って来て、熟睡中のわが躰《からだ》を弄《もてあそ》んだものであった、と知った。
不覚は、精気を放出したことではなく、白痴のごとく弄ばれたことであった。
「うぬっ! 邪視を需《もと》めて、何の存念かっ!」
十郎兵衛は、利生《りしょう》の輝きで、その眼を晦《くら》ますべく一歩退って、拝領太刀を抜きはなった。
刹那――。
「樋口十郎兵衛! 後れたりっ!」
冴え冴えとした一喝が、背後からあびせられた。
間髪を容れず、十郎兵衛は、左手で脇差を抜いて、柳上の股間へ投じざま、体を右にひねって、大地を千鳥に踏みつつ、拝領太刀を頭上へ横一文字にかざして、きえーっ、と刃風《じんぷう》凄まじく、後面を薙《な》いだ。
手ごたえあって、
「いかにっ!」
と、叫びつつ、十郎兵衛が、残心をとった時、後面の曲者《くせもの》は、すでに、二間の彼方《かなた》の築地《ついじ》上に立っていた。これもまた、全身を、黒衣で包んでいた。そして柳の高みから、飛び降りた女人が、そこへ駆け寄るや、二影はひとつに溶けて、風のように、闇の中へ消えうせた。
十郎兵衛は、肩で大きく吐息すると、拝領太刀を、鞘に納めようとして、愕然《がくぜん》となった。
その切先は、三寸あまり、見事に両断されていた。
――朝に、三寸の刃を投げ渡しておいて、夕に、三寸の刃を奪い去るとは?
疑念に堪えぬままに、十郎兵衛は、築地に近づいて、そこに、ひとすじの血汐《ちしお》が、糸をひいたように流れているのを、みとめた。
「念」の一太刀は、刃先を断たれ乍ら対手を手負わせたのである。しかし、それが、柳上の女人であったか、後面の曲者であったかは、十郎兵衛自身にも、判らなかった。
前夜行
一
そのむかし、忍岡《しのぶがおか》に、関小次郎|長耀《ながてる》という者あり、その子を感応丸、と曰《い》う。年十有五。向岡に、隅田治部大輔治方《すみだじぶたいふはるかた》という者あり。その女《むすめ》を、柳の前と曰う、これ亦《ま》た十五歳なり。この若きふたりの相思、不忍《しのばず》の水よりも深く、夜な夜な池に架せる橋を渡りて、相会う。
柳の前の継母、これをさとりて、一夜、密《ひそ》かに、その橋板を撤《はら》う。感応丸、之《これ》を知らず、橋を渡らんとして、水に陥りて歿《ぼっ》す。柳の前、大いに嘆き悲しみ、亦た水に入りて死す。
寛永寺天海僧正、この事を聞きて、その心を憐《あわれ》み、不忍池中に、弁財天の祠堂《しどう》成るに及び、ふたりの墓を、祠畔に築きて、これを弔《とむら》う。聖天の宮、是《これ》なり。
それは、若いふたりの霊をまつるにふさわしい、きわめて小さな祠《ほこら》であった。
夜二更――乙夜《いつや》の時刻に、祠の中に、微《かす》かな灯がともるようになったのに、最初に気がついたのは、寛永寺の寺侍《てらざむらい》たちであった。
山を下って、酒亭《しゅてい》に寄り、したたかくらった後、自宅へ戻《もど》るべく、池畔を蹣跚《まんさん》と辿《たど》りはじめて、ふと、その明かりを、酔眼に映した。
「ほう……感応丸と柳の前が睦《むつ》び合うて居《お》るわ。ひとつ、いとけなき交驩《こうかん》ぶりを、拝見つかまつろうか」
一人が、橋を渡りかけるのを、他の者たちが、あわてて止めた。
悲恋に果てた二人の迷魂をからかった後の祟《たた》りを怖《おそ》れたのである。
噂《うわさ》は、たちまちに、市中にひろまったが、誰一人、近づこうとする者はなかった。
今宵――もし、池畔に彳《たたず》む者がいたならば、ふたつの黒影がひとつに縺《もつれ》れ合うて、音もなく、祠の中へ消えるのをみとめたであろう。灯かげは、すぐに、その蔀《しとみ》の蔭から、闇《やみ》へ滲《にじ》み出た。
さらにもし、目撃者が、勇気を起して忍び寄れば、堂内に、奇怪《きっかい》な光景を眺《なが》めることになったであろう。但《ただ》し、生きて、再び橋を戻ることは許されないであろうが……。
若い逞《たくま》しい裸身が、板の間に仰臥《ぎょうが》し、かたわらに蹲《うずくま》った黒衣の者が、赤い鋺《まり》に湛《たた》えたねっとりした油を掌《てのひら》にすくって、その膚《はだ》へ塗っていた。
指先まで黒い布で掩《おお》うたその手の動きは、油を塗る、というよりも、膚を愛撫《あいぶ》する、というにふさわしかった。滑石《なめいし》のように白く、堅い裸躯《らく》を、くまなく丹念に、優しく、双の掌で摩擦しているのであったが、これは疑いもなく、永い月日のあいだ、毎夜くりかえされている所業とみえた。
その愛撫に身をまかせて、目蓋《まぶた》をとじている若い貌《かお》は、妻片久太郎《つまがたきゅうたろう》が、勝利の夜を祝言《しゅうげん》の夜として、奥山万兵衛《おくやままんべえ》の妹千代と同衾《どうきん》した離れへ忍び入って、拝領太刀の切先を両断した忍者ものにまぎれもなかった。その太股《ふともも》には、白い布が巻かれて、血を滲ませていた。今宵、因果坂に、樋口十郎兵衛《ひぐちじゅうろうべえ》を襲って、拝領太刀の切先を斬《き》った刹那《せつな》、その切先が突き刺さったのである。
そして、また――、
油を塗ってやっている黒衣の者の、覆面の蔭から、光っている、冷たく澄んで動かぬ双眸《そうぼう》は、これは、因果坂の柳の太枝に跨《また》がり、真紅の腰布《こしぎぬ》を捲《まく》って、股間《こかん》を宙に曝《さら》し、十郎兵衛の心気を擾《みだ》した女性《にょしょう》のものに、まぎれもなかったのである。
さらに、ここで明らかにしておくならば、この双眸の冷たい光は、二十年前、服部半蔵《はっとりはんぞう》をして、
――人間ではない!
と、心中で呟《つぶや》かせたそれであった。
飢えた山犬の群れをおびき寄せるために、ふたりの猟師を焼きつつ、冷然として見下ろしていた眸子《ひとみ》であり、部下の隠れ忍者六十余名が風盗の城砦《じょうさい》に突入して、一人のこらず殪《たお》れるのを待ち乍《なが》ら、じっと宙へ据《す》えていた眸子であり、また、老いたる「影」の、突如の一撃を躱《かわ》しざまに、これを斬って、その最期《さいご》を見とどけた眸子であった。
二十年の歳月を経て、その眸子は、依然として、冷たく冴《さ》えて動かなかった。
双の掌で、倦《う》むことを知らずに、愛撫している若い裸躰《らたい》は、服部半蔵にただ一度犯されて、生んだわが子であった。
「子影」は、「母影」となっていた。
彼女は、父が自分に為《な》したのにならって、わが子もまた、思うがままの忍びに仕立てあげたようであった。しかし、父親が、無情にも、女である自分を、女であることを無視して「影」に仕立てあげたばかりに、たまたま、服部半蔵に正体を看破《みやぶ》られ自分自身も本能の欲求を抑えきれずに、身をまかせた苦い経験は、彼女をして、わが子に、本能の欲求を満足させてやる手段を思いつかせているようであった。
蹠《あしうら》まで、くまなく油を塗り終えたのち、彼女の為した振舞いがそれであった。
聊《いささ》かの刀傷を蒙《こうむ》ったとはいえ、若い逞しい躰《からだ》は、一刻あまりの優しい愛撫を受けて、健康な本能の変化を、その股間に、示していた。「母影」は、それへ、顔を寄せて、すってやったのである。
「若影」は、一瞬、かっと双眼を瞠《みひら》き、差しのばした四肢《しし》を痙攣《けいれん》させた。
「母影」が、やおら、顔を擡《あ》げた時、「若影」は、瘧《おこり》が落ちたように、なかば茫然《ぼうぜん》として、天井を仰いでいたが、
「母者《ははじゃ》。御前試合の勝者が拝領する太刀を、何故《なにゆえ》に奪うのじゃ?」
と、訊《たず》ねた。
第一日の試合の勝利者妻片久太郎から、「若影」は、命じられた通りに、拝領太刀の切先三寸を奪って来た。
「母影」はその切先を、一瞥《いちべつ》しただけで、
「ちがう!」
と、言いすてたのであった。
もとめる品とちがっていたからこそ、その切先は、樋口十郎兵衛へ、投じられたのであった。
十郎兵衛から奪った切先もまた、一瞥のもとに、すてられていた。
「若影」は、返辞がないので、重ねて、訊ねた。
すると、
「そなたは、命じられた通りに、奪って参ればよい」
冷ややかに、拒絶された。
「若影」は、黙って、起き上がると、手早く、黒衣を身につけた。
「母者、明日の試合に、孰《いず》れが勝つ予測じゃ?」
「わからぬ」
「わからぬ?」
「若影」が、母親の口から、「わからぬ」という言葉をきいたのは、いまがはじめてであった。
「どうして、わからぬのじゃ?」
「戦うのは、ともに柳生流。一方にある秘術は、また対手《あいて》にもある。つまり、秘術は無きにひとしい。勝敗は、両者の心にかかって居《お》ろう。今夜のうちに、それぞれ胸裡《きょうり》を視《み》ておかねばなるまい」
二
子《ね》の刻の時鐘が、遠くにひびいたとき、柳生道場の、裏門の潜戸《くぐりど》から、一個の影が、忍び出た。
雲間をもれる月の光を受けた魁偉《かいい》の貌《かお》は、右眼がつぶれて、柳生十兵衛|三厳《みつよし》であることを示した。
十二歳の折、父|宗矩《むねのり》が、わが子の腕を試そうとして、不意につぶてを投げた。十兵衛は受け損じて右眼をつぶされたが、咄嗟《とっさ》に、つぶされた右眼を掩《おお》わずに、左目の方をかくして、第二のつぶてにそなえた逸話は、すでに、あまりにも世上で有名である。
父宗矩以上の腕前と称され乍ら、なお嫡男《ちゃくなん》であるにも拘《かかわ》らず、若隠居して、大和《やまと》の征木坂《まさきざか》に道場を開いていた。常に三千余の門弟を擁していたが、一年のうち、十兵衛が、道場にいるのは、わずか一月あまりであった。十兵衛は、家光の直命によって、表面は武者修行《むしゃしゅぎょう》と見せかけて、実は、諸侯の動静探索のために、諸国遍歴をしていたのである。将軍家師範役と領邑《りょうゆう》を弟宗冬にゆずったのは、そのためであった。
十年の歳月をついやして、熊本・鹿児島の精密な地図を製し、人情風俗を究《きわ》めて、このたび、出府して来るや、十兵衛を待っていたのは、吹上に於《お》ける御前試合であった。十兵衛は、大和の浪人|正木《まさき》市之丞《いちのじょう》という仮名で、明日の試合に臨む。
試合の対手は、尾張の柳生|兵庫介《ひょうごのすけ》利厳の一子新太郎|厳方《よしかた》であった。
江戸の柳生流と尾張の柳生流の立ち会いを所望したのは、将軍家光であった。
柳生但馬守|宗矩《むねのり》は、将軍家師範として「御流儀」を唱えられているが、実は、父宗厳より、印可を受けていなかった。印可は、宗厳の嫡子新二郎厳勝の子兵庫介|利厳《としよし》に授けられていた。
兵庫介利厳は、二十五歳のとき、加藤清正《かとうきよまさ》に懇望《こんもう》されて、その家臣になったが、その節、祖父宗厳は、清正に対して、「兵介(利厳幼名)儀、殊《こと》の外なる短気者なれば、たとい如何ようの儀があろうとも、三度びまで死罪をお許しありたい」
と、願った、という。
宗厳は、わが子たちよりも、孫の兵庫介を愛していたのである。兵庫介は、肥後に赴くにあたって、祖父より兵法奥旨《ひょうほうおうし》二巻を授けられ、三年後さらに、上泉信綱《こういずみのぶつな》から相伝する秘書|悉《ことごと》くを与えられ、新陰流正統第三世を継いだのであった。兵庫介は、後年加藤家を去り、回国九年を経て、尾張の藩祖|徳川義直《とくがわよしなお》に仕えた。
新陰流の正統が、江戸の柳生家になく、尾張の柳生家にあることは、両家の間をいつとなく疎遠《そえん》にしていた。
家光自身、このことは、面白《おもしろ》くなかった。本家の指南番に、正統が継がれて居らず、分家の師範役に、それが与えられているのであったから――。
両家を代表する剣客を立会わせることは、いわば、意気地でもあった。
十兵衛三厳は、「御流儀」の面目にかけて、尾張の柳生流に敗《ま》けられなかった。もとより、あいての新太朗厳方の方も、同じ覚悟があるべきであった。
十兵衛は、明日の試合をわがものとすべく、今夜、ひとつの目的をもって、道場を出た――。
人影の絶えたもの淋《さみ》しい大名|小路《こうじ》をゆっくりと辿《たど》って行く、十兵衛の姿には、心得のある者には、すぐ察知できる剣気があった。平常、剣客は、剣気をかくすのを作法とされているし、永年|隠密《おんみつ》の勤めをしてきた十兵衛のことであるから、決して、蓄えた力を他人にさとられるような軽率は示さない筈《はず》であるのに、今夜は、おのが腕前に驕《おご》ったように、六尺の長身に、それを漲《みなぎ》らせていた。
とある辻に来た時、十兵衛は、ふと立ち停《どま》って、しずかに頭をまわした。こちらの剣気に誘い寄せられるように、何者かが背後に迫って来るのをおぼえたのである。辿ってきた往環は、月かげの下に、しらじらと広く、なんの怪しい気配もなかった。十兵衛自身の影法師が、ながくうしろに延びているばかりである。
十兵衛は、しかしおのれの五感が錯覚を起したとは思いかえさなかった。
――何者かが、気配を消して、そこに潜んでいる。
再び十兵衛は、足をはこび出して、ものの十歩も行かぬうちに、果して、また背後に、その気配を感じた。
姿勢も足幅も歩速も、すこしも変えずに、全神経を、突如の襲撃に備えつつ、さらに、二十歩ばかり進んで、
――はて?
と疑った。その気配は執拗に迫って来乍ら、殺気を送っては来ないのである。
十兵衛は、不意に、おのが剣気へ、鋭い気合いを加えた。とたんに、背後の気配は消えた。
次の辻に来た。
十兵衛は、またしても、背後に気配を感じた。依然として、その気配には、殺気は含まれていない。
こんどは、こちらが、剣気を内に鎮《しず》めた。気配は、去った。
そこで、はじめて、十兵衛は、おのれを嗤《わら》った。
――自分の影法師に怯《おび》える臆病者《おくびょうもの》とかわりはない。
胸の裡《うち》で、吐きすてた時、前方に跫音《あしおと》がひびいた。
一瞬――十兵衛は、もとのごとく、全身に剣気を漲らせると、歩き出した。
月あかりに浮き出た影は、武士であった。大兵《たいひょう》であったし、歩きぶりにかなりの兵法修業ができていると見てとれた。
……すれちがう。
十兵衛は、こちらの剣気に対して、あいてが反応を起すのを期待していた。起きなかった。気づかずに行き過ぎた。兵法修業も、|たか《ヽヽ》がしれた者だ、と知る。
十兵衛は、失望して、五間ばかり離れた。
刹那――十兵衛は、総身が、じーんとなる程の、凄《すさま》じい殺気を、背後からあびせられた。
困惑ともいえた。反射的に身を翻《ひるがえ》すことを許さないくらい、それは、十兵衛ともあろう稀世《きせい》の使い手をおびやかした。
十兵衛は、頭をまわした。武士は、遠ざかって行く。その後ろ姿は、事もなげな、もの静かなものだった。
すれちがう折には、こちらの剣気を察知しつつも、反応を示さず、離れてから、あの凄まじい殺気をあびせておいて、こちらが睨みかえすや、もう平然としてそしらぬふりをする。
――此奴《こやつ》こそ!
十兵衛は、闘志を一声にこめて、
「待て!」
と、呼びとめた。
振りかえった武士は、そのまま、こちらを透《すか》し見ている。
十兵衛は、地を蹴《け》って、五間を三歩に跳んだ。
対手が、何か叫んで、抜刀したが、十兵衛は、構えるいとまも与えずに、袈裟がけに、斬って落とした。
脆《もろ》くも、地面へ俯《う》っ伏《ぷ》した姿を、冷然と見下ろした十兵衛は、懐紙で、刀身をぬぐい乍ら、
「よし!」
と、自身に頷いた。
十兵衛は、充満しすぎる気力を散じるために、辻斬りに出て来たのである。
ここまでの途中、背後に、何者かの気配が現われたり消えたりしたのも、おのれの気力の過剰故であったと、解釈できたし、斬ってみれば、あまりに弱い対手であった武士が、あの凄まじい殺気をあびせて来たのも、自身が勝手に錯覚したのだ、と納得できた。
十兵衛は、愛刀に血を吸わせることで、心気の平らに澄むのをおぼえた。
事実、帰途には、なんの異常もなかった。
十兵衛は、気づかなかった。
とある巨《おお》きな松の梢《こずえ》の蔭から、冴えた双眸が、じっと、自分を見送っているのを――。
十兵衛を慄然《りつぜん》とさせた殺気は、斬られた武士が発したものではなく、そこにひそむ「若影」の仕業であった。
だが――「若影」自身も、十兵衛の達人ぶりに、「流石は――」と、大きく合点していた。
ほんの微《わず》かな気配を送っても、立ち停まって頭をまわしたし、殺気を放てば、音が響くように、それを受けて、旋風のごとく飛来して、一颯《いっさつ》の下に仆《たお》していた。その冴えた技は、まさに、柳生流の面目であった。
――猿飛び、という秘剣が、あれか。
「若影」は、月かげに溶け込もうとする後姿から、なお目を離さずに、そう呟いた。
三
同じ夜、吉原の廓《くるわ》に入って、戸毎におとずれて、一枚の絵姿を示し、
「この貌《かお》に似た女は居らぬか?」
と、問うて歩く若い武士があった。
まだ二十歳を超えて程なくの年配であった。とりたてて特徴はない、平凡な面立《おもだ》ちであったが、陰鬱《いんうつ》な翳《かげ》が濃く、衣服も粗末で、遊里では敬遠される客であったので、どの家でも、すげなく扱われた。
絵姿は、気品のある、美しいが、どことなく淋しげな影薄い女性《にょしょう》であった。
若い武士は、柳生兵庫介の一子新太郎|厳方《よしかた》であった。
この日の朝、尾張から出府して来て、尾州家江戸屋敷に立寄り、夕刻に出て、まっすぐ吉原にやって来たのである。
大門口で、
「この廓に、女は幾人ぐらい居ろうか?」
と、訊ね、太夫《たゆう》が七十余人、格子女郎《こうしじょろう》百三十余人、端《はした》女郎は八百人以上、ときかされて、それならば似た女は一人ぐらいは居ろう、と呟いたことだった。
それから、およそ、二刻が過ぎていた。新太郎は、まだ、絵姿に似た女に会っていなかった。絵姿の女性は、新太郎の亡《な》き生母であった。
新太郎が幼年時、旅の絵師が画《か》きのこしていったその絵姿が、いまでは、若い兵法者の唯一《ゆいいつ》の貴重な宝となっていた。母は、柳生家の奥女中を勤めていて、兵庫介の情《なさけ》を受けて、新太郎を生むと、すぐ、実家へ戻されて、数年後に逝《い》っていた。
年に二度、新太郎は、その実家をおとずれていたが、物心つくにつれて、母こそ、この世で一番美しいと、思いこむようになっていた。
危篤《きとく》の報で、かけつけた時、すでに母は息をひきとっていたが、睡《ねむ》っているような死顔の美しさは、新太郎の心にふかくきざみ込まれたのであった。
柳生家に於て、正妻の子茂左衛門(後の如流斎)と兵助(後の連也斎)とは、劃然《かくぜん》たる区別をつけられ、質子《ちし》のような日蔭育ちの身であるだけに、余計に、新太郎は、母を恋うたのであった。
新太郎は、生れて、いまだ一度も、父兵庫介から、優しい言葉をかけられた記憶がなかった。父は、自分を悪《にく》んでいるのではないか、と屡々《しばしば》疑ったものであった。
道場に於ける父は、茂左衛門や兵助に対するよりも、いちだんと厳格な師範であった。打ち据《す》えられて悶絶《もんぜつ》する毎日が、十年間もつづいた。
どういう考えからであったか、父は、新太郎に、異母兄たちはもとより、他の門弟たちとも立合うことを許さなかった。したがって、新太郎は、二十二歳になった今日でも、いまだ、自分の技倆《ぎりょう》がどの程度であるか、わからずにいる。
最近では、父とも滅多に、立合わないが、たまに立合うと、父は、しばし、新太郎の構えを凝視しただけで、「よし――」と、木太刀を引いてしまうのであった。
今年に入って、新太郎は、思いきって、武者修行に出たい、と申出た。すると、父は、その時に、返辞をせず、数日後、突然、生母の実家へ帰って、孤独の時間を持て、と命じたのであった。
不審に堪えずに見かえす新太郎に向かって、兵庫介は、
「学ぶことは唯ひとつ。間合いの見切りだ」
そう言いすてて、書院へ去ってしまったのであった。
三日前、不意に呼び出されるまで、新太郎は、生母の実家の離れで、半年間、誰とも一言も交さぬ孤独なくらしをしてきた。
使いが来て、道場へ戻ると、出府して、御前試合に出よ、という命令が待ちうけていた。
そして、一振の太刀が、手渡された。
「これは、石舟斎様(宗厳)が、柳生荘に於て、自ら打ちあげられた剣だ。いわば新陰流の魂がこめられてある。これを持って、たたかうがよい。ただし、試合場に臨むまで抜いてはならぬ。魂を、その時まで、鞘のうちにひそめておけい」
新太郎は、かしこまって、旅立ったが、その際、父の口から、試合の対手が何者であるか、告げられなかった不審は、尾州家江戸屋敷に入ってみて、解けた。
試合の対手は、大和の浪人正木市之丞と届けられているが、実は、柳生十兵衛三厳であった。
尾州家の重臣は、それを打明けてから、さりげない口調で、つけ加えた。
「江戸の柳生と、当家の柳生との仲に就いて、兎角《とかく》の世評がある。このたびの試合が、その噂《うわさ》をさらに曲げるような結果を招いてはなるまい喃《のう》。柳生流の奥義は、相打ちときいて居る故、心して、立合ってもらいたい」
それをきいて、新太郎は、父の心が読めた、と思った。
勝ってはならぬ、しかし、負けてもならぬ、という、暗示であった。
武者修行を許さず、生母の実家へ蟄居《ちっきょ》させたのも、この秋《とき》の来るのを予測した父の遠慮であった。新太郎は、柳生を名のらず、生母の性である石川を名のっていた。
十兵衛を仆《たお》して、おのれも死ね!
新太郎の脳裡に浮かんだ兵庫介の冷たい貌《かお》が、そう命じていた。
新太郎は、おのれに与えられた運命にしたがう覚悟をきめた。
そして、せめて、ひとつだけ、おのれののぞみを、この世で為《な》しておこう、と思い立って、吉原へやって来たのであった。新太郎は、童貞であった。
……本町・京町・江戸町・伏見町・堺町・大阪町・角町・新町と、歩きつくして新太郎は、最後の傾城《けいせい》家を出た。
徒労であった。
――母上のような美しい女が、廓などにいる筈がなかった、もとめた自分の方が、あやまっていた。
思いかえして、新太郎は、大門を出た。
廓を取りまく堀《ほり》に架けられた橋を、しずかに渡りかけて、新太郎は、ふと、足を停めた。
橋のまん中に、黒い布で顔をつつんだ女が、すらりと彳《たたず》んでいた。
その優姿から漂い出る妖冶《ようや》な匂いが、新太郎を白烟のようにつつんで来た。
「貴方様は、お母上に似た人をお捜しになされていると、ききおよびまする」
「うむ――」
「おもかげと申すものは、歳月《としつき》を重ねるにつれて、しだいに美しくなりまさり、ついには、神秘なまでにたかまるもの。それと同じ姿をもとめるのは、おろかではありませぬか」
「では――どうせい、と申される?」
「……たとえば、わたくしのように、おもてを包んだ女を、抱いて、お母上のおもかげを偲《しの》ばれるのも、ひとつのてだてかと存じまするが……」
「そうか!」
新太郎は、|にこ《ヽヽ》として頷いた。
ふたつの影が並んで、傾いた月に照らされ乍ら、影法師を長く地に匍《は》わせて、何処かへ歩いて行くのと、柳生十兵衛が行き交うた武士を、一颯《いっさつ》で殪《たお》したのと、恰度《ちょうど》、同じ時刻であった。
翌二十四日正午、十兵衛三厳と新太郎厳方は、いまにも、ポツリと落ちてきそうな、雨雲のひくくたれ込めた空の下で、対峙《たいじ》した。
無刀皆伝
一
この日、闘いの場に漲《みなぎ》った緊張は、おのずから、前二試合とは、明らかに異なっていた。
大和の浪人|正木市之丞《まさきいちのじょう》と尾張の郷士石川新太郎とともに無名の剣士の立合い、と記帳されたのは、孰《いず》れかが仆《たお》れるのは必須と予測したからであった。
一方が、剣を取られるか、または手負うという結果は、全く考えられなかった。
尋常の試合とは、おもむきを異にして、堂流同士が、この勝敗によって、一派のみを残さんとする必死の面目をかけていた。十兵衛が敗《やぶ》れれば、当然、父|宗矩《むねのり》は、将軍家指南番を辞さなければならず、新太郎が敗れれば、父|兵庫介《ひょうごのすけ》は、柳生流の看板をはずさなければならないのであった。
勝か、然らずんば、死であった。
したがって、これを見る三者の心懐は、三様であった。将軍家光は十兵衛の勝を、宗矩は相討ちを、そして小野忠常は新太郎の勝を、それぞれのぞんでいた。
……五間の距離を置いて、両者は、対手《あいて》の姿を凝視していたが、一瞬、孰《いず》れを早し、孰れを遅し、ともせず、腰の太刀を抜きはなって、ぴたっと、相青眼に構えた。
「お――」
家光が、ひくく、驚きの声を洩《も》らした。宗矩も、忠常も、微《かす》かに眉宇《びう》をひそめた。
新太郎が構えた太刀は、恰度中程からポキリと断たれた破刀だったからである。
一派の存亡をかけたこの御前試合に、小太刀というならばともかく、破刀を抜いて立ち向かうとは、あるまじき奇怪《きっかい》であった。
その奇怪を、誰《だれ》よりも先《ま》ず、訝《いぶか》ったのは、破刀を構えた新太郎自身であった。新太郎は、破刀であることを知らなかったのである。
父兵庫介は、この一振りを手渡す時、柳生家の始祖石舟斎|宗厳《むねよし》が柳生荘に於《おい》て、自ら打ちあげたものであるから、新陰流の魂がこめられてある、と告げて、
「試合場に臨むまで抜いてはならぬ。魂を、その時まで、鞘《さや》のうちにひそめておけい」
と、命じたのであった。
新太郎は、それをまもったまでである。父の手によって、刀身が中程から両断されていようとは、夢にも知る由《よし》もなかった。重さによって、折れた刃先は、鞘の中に残っているのは明らかであったが、これを利用すべき余地は、もはやのこされていなかった。
闘いは、すでに開始されていた。
十兵衛の豪剣が、こちらの微塵《みじん》の隙《すき》をもゆるさぬ鋭気をほとばしらせて、空間にさしのべられている。
新太郎は、敵の隻眼《せきがん》から発する凄《すさま》じい光を、額に受けて、視線を、帯のあたりに据《す》えた。
新太郎は、抜刀する一瞬まで「肋《あばら》一寸」を胸中に置いていた。「肋一寸」とは、敵に肋一寸を斬《き》らせておいて、おのれは、敵の頭蓋《ずがい》を両断する――相打ちの極意であった。
この願いは、もはやむなしかった。相打ちに死のうにも、おのが太刀は、敵の頭蓋に届かないのであった。
絶体絶命の窮地から、脱《のが》れる隙を見つける可能は、十兵衛が、破刀の無礼に対して、怒気を発してくれることよりほかには考えられなかった。が、そのはかない期待も、一瞬にして、すて去らなければならなかった。看る者たちを驚かせた破刀も、十兵衛をして眉毛《まゆげ》一本動かせることは、叶《かな》わなかった。十兵衛は、十余年間の隠密《おんみつ》行を成した人物である。いかなる事態に出会っても、水のごとく冷静で、酷薄であった。
破刀が、新太郎自身の知らぬところであったのを、その微妙な表情の動きによって看破した十兵衛は、冷然として一撃を加えるべく、するすると、間合いを一間に縮めて来るや、切先を、双眼のあいだへ、ぴたりと、狙《ねら》いをつけた。
獲物を前にして、気息を整える猛虎《もうこ》にも似て、その身構えは、ひとまわり巨《おお》きくふくれあがったかと見えた。
新太郎は、対手の帯を瞶《みつ》め乍ら、この一間の距離が、生死の岐《わか》れだ、と思った。十兵衛の整えた気息を吸いとるように、おのが呼吸を引いた。新太郎は、間合いの見切りに、おのが生命《いのち》をゆだねるほかはなかったのである。
この刹那、白扇を膝《ひざ》に立てた宗矩は、その白扇で、強く膝を押した。
――兵庫め、計ったな!
宗矩は、兵庫介がわざと破刀を新太郎に持たせたことに、はじめてはっと気がついたのであった。
忠常の方は、新太郎の構えを眺《なが》めて、薄い微笑を、口辺に刷《は》いた。
――これは、「帯の矩《かね》」だな。
そう見てとったのである。
忠常は、曾《かつ》て、父忠明から、この秘法をきかされていた。
父忠明は、神子上典膳《みこがみてんぜん》であった若き日、恩師伊藤一刀斎の命令によって、兄弟子小野善鬼と闘って、これを斬った。典膳は、それまで、善鬼と立合って、一度も、勝っていなかった。その前夜、一刀斎は、ひそかに、典膳を呼んで、次のように教えた。
「善鬼の邪心は、その双眼より、火焔《かえん》のように迸《ほとばし》る。これを正視してはならぬ。お前は、これまで、これを受けとめていたために、敗れた。明日の真剣試合には、ただ、対手の帯を瞶《みつ》めて、間合いをとれ。帯は、人間のまとうたもののうちで、最も動かぬところである。他の動くところを見て、おのれの動きをつくることなく、敵の最も動かざるところに、基準を置いて、無念|裡《り》に、撃つ。これを、帯の矩《かね》、という」
太刀には、おのずから、順逆がある。道に遵《したが》って、術を守る時には、その心が勇まずと雖《いえど》も、勝を得る。勝った瞬間にも、勝ったことに気がつかぬくらい、これは不思議の勝である。
まさしく、典膳は、善鬼を幹竹割《からたけわり》に斬り仆《たお》した刹那は、茫然《ぼうぜん》として、自失の中に立っていたのであった。
小野次郎右衛門忠明となってから、この秘法を、「夢想剣」と名づけた。
もとより、柳生流の新太郎が、夢想剣を教えられているわけもない。絶体絶命の窮地に立たされた者が、咄嗟《とっさ》に、さとった応変の心得であった。
自ら、それを一刀流の「帯の矩《かね》」と知らずに、えらんだ工夫をもって、新太郎が、為《な》そうとするのは、間合いの見切りであった。
二
攻撃される心配のない絶対有利の立場を得た十兵衛は、殆《ほとん》ど無造作とも見える一撃を、新太郎の右肩に送った。
新太郎は、これを、一寸の見切りに遁《のが》れた。
二の太刀は、下段から斜めに、きえーッと刎《は》ねあがって来た。小手を搏《う》ってきたのである。これも、間髪の差で、躱《かわ》した新太郎に、はじめて、ゆとりが生じた。
対手の起す疾風に乗り、発する電光をあびつつ、ただ、無心に五体を踊らせているそれであった。防戦ではなかった。対手の動きが、即ちおのれの動きであった。十兵衛が一歩進めば、新太郎は一歩退いた。十兵衛が一歩退けば、新太郎は一歩進んだ。一進一退は、対手の影をおのれに写すごとく渋滞することがなければ、双者の帯と帯の間に、六尺の棒を差し入れているのと同然であった。
十兵衛の剣は、あと一寸の間合いを詰めることは不可能であった。
新太郎は、おのれをむなしくして、対手にしたがい、いつか、一瞬の隙がみえるのを待つだけであった。隙が見えない限り、この闘いは日が昏《く》れるまでつづくであろう。新太郎には、その持続力があった。
昨夜、十兵衛は、気力の過剰を納めるために、辻斬りを行ったものの、猶《なお》それは体内に漲っている。それにひきかえて、新太郎は、父が無言の命令にしたがって、生命をすてる覚悟をさだめ、黒布で顔を掩うた見知らぬ女を抱いて亡母の俤《おもかげ》を偲び、この世に何ひとつ思い残すことのない身となっていた。
十兵衛にとって、気力の過剰は、撃って撃って撃ちまくるために必要であり、新太郎にとってはまた、撃たれるにまかせておのれをむなしくしているために、その無心の心境こそ必要だったのである。
皮肉な神の摂理ともいえた。
……約|半刻《はんとき》が過ぎて、依然として、双者は、白砂上に、一間の距離を置いたまま、ともに、夥《おびただ》しく体力を消耗しているにも拘らず、外面には、みじんもそれを滲《にじ》ませてはいなかった。
上座の家光は、ようやく、緊張の中に、焦燥を覚えた。ゆるされるならば、大声で、十兵衛を叱咤《しった》したかった。
いや、げんに、口腔《こうこう》内まで、叫びがつきあげて来た。
と、一瞬、十兵衛が、家光の叫びを直感したごとく、さっと二歩退るや、猛然と二間を滑走して、片手|薙《な》ぎに、新太郎の横面へ――。
まさしく、家光の目には、一閃を飛ばしたと見せた。
十兵衛は、飛ばさんとして、逆に太刀を小脇に引くや、半身にひらきざま、中空を踊って元の地点へ跳び退《すさ》っていた。
片手薙ぎに出た刹那、新太郎が、突如、四尺の間を詰めていたからであった。これは、破刀をもって、充分に胴へ入れ得る距離であった。
石火の間に、この危機を脱した十兵衛は、
――いまぞ!
自ら間合いの見切りを放棄した新太郎に向かって、猿飛びの術を用うべく、姿勢をひくめた。
「それまで!」
宗矩の一声が、曇り空をつらぬいた。忠常が、銅鑼を打ったのは、それから数秒を置いてからであった。
忠常は、不服であった。十兵衛の猿飛びに対して、新太郎がいかなる秘術をもって応ずるか、見とどけたかったのである。
猛気の爆発を、無心の太刀が、どの様にさばくか――。
――たぶん、破刀は、ぞんぶんに同族の血を吸ったであろうに……。
忠常は、後日までも、その判断に自信をもったことであった。
宗矩は、
「無勝負!」
そう宣言してから、家光に向かって、
「御高覧に入れましたるは、柳生流の極意――無刀の業《わざ》にござりまする」
と言上した。
「無刀とは?」
「無刀とは、無手にして人の刀を取らずして叶わぬ、という儀にあらず、人に斬られざるより、いかなる道具をも用いて、敵の刀に勝つを申しまする。わが手もまた道具として、用うべく、敵の太刀は長く、わが手は短くとも、仕合う分別が、そこに生じなければなりませぬ、物事に体用《たいゆう》ということがございます。体があれば、用《ゆう》があるものでございまする。例えば、弓は体、射るは弓の用。灯《ひ》は体、光は灯の用。梅は体、匂いは用。刀は体、斬るは用にございます。しかれば、機は体にて、機から外へ現われて、さまざまの働きあるを用と申しまする。梅の体ある故に、体より花咲き、色があらわれ、匂いをこぼすごとく、機が内にあって、外にはたらき、表裏|懸待《けんたい》、さまざまの変化を示す。……座敷に坐すとも、上下左右を見ておき、上より自然落ちる物があらばと気をくばり、貴人高位の御座近く伺候の時は、突如として不慮の事が出来《しゅったい》せんか、と心がけ、門戸出入りにあたっても、前後を忘れず、常時、不慮の事柄に心をすてぬようにするのが機なれば、機熟すれば、いかなる急変にも処し得る用は、自然に現われる道理にございます。……無刀は、当流にて、専一の秘事――身構え、太刀構え、場の位《くらい》、遠近、うごき、働き、つけ、かけ、表裏|悉皆《しっかい》、無刀のつもりより出る故に、これは肝要の眼《まなこ》と申せまする。……ただいま立合いたる者ども、同じ柳生流なれば、所詮御高覧に入れまするは、無刀の業よりほかはなく、何卒《なにとぞ》御賢察たまわり度く存じまする」
弁口さわやかに、無勝負にしたおのれのはからいを、柳生流極意の型を示すものであったと、とりつくろったのは、宗矩の老獪《ろうかい》な咄嗟の機転であった。
十兵衛は紋服を、新太郎は無名太刀を拝領して、退出した。
三
新太郎は、江戸城から、迎えの駕籠《かご》で、まっすぐに、尾州屋敷へ戻った。
当主義直は、吉左右《きっそう》を待ちかねていて、直ちに新太郎を伺候させた。
新太郎は、無勝負であったとこたえてから、試合の模様を、言葉すくなに、つたえた。
闊達《かったつ》な気性の義直は、無勝負を納得しなかった。
「そちが、無刀の業を用いて、太刀を拝領したのであれば、事実上はそちの勝であろう」
「そうではありませぬ。但馬守《たじまのかみ》殿の声がなかったならば、正木市之丞の猿飛びによって、それがしは、敗れていたに相違ございませぬ」
「謙遜《けんそん》せずともよい。十兵衛に猿飛びがあれば、そちにも、それに備えての術はあったであろう。そちの勝じゃ。……ところで、無刀の業を、あらためて、このわしにも見せぬか」
所望されて、新太郎は、しばらく、俯向《うつむ》いていたが、やがて、顔を擡《あ》げて、近習《きんじゅう》のうちの最も肝太《きもふと》い人物を一名、借りたいと願った。
選ばれたのは、岡崎なにがしという、三十八歳になる、六尺ゆたかの壮漢であった。岡崎は奇行をもって、家中《かちゅう》に際立《きわだ》った存在であった。生きている青大将を、頭から囓《かじ》って、むしゃむしゃ喰《た》べ尽くしたり、朋輩《ほうはい》の母親である六十三歳の老婆《ろうば》を妻に娶《めと》って、盛大な祝言《しゅうげん》をあげたり、生涯湯に入らぬ誓いをたてて、寒中でも、水風呂《みずぶろ》につかったり、行動|悉《ことごと》く話題の種をふりまいていた。睨み合いをして、半刻以上も、瞬目《まばたき》しないでいられる特技を持っていた。剣は、一刀流を習って、相当の腕前であった。
新太郎は、岡崎を、無手のまま、庭の中央に直立させると、拝領太刀を抜き放って、その鼻先一寸のところへ、切先をつけておいて、しずかに刀身を引くと、青眼に構えた。
「お手前は、それがしの帯のあたりへ、目をつけられるよう――。この間合いは、打込んでも、鼻先一寸のところを通り申す故、必ず身じろぎめさるな。瞬目をせぬのは、お手前の得意となさる由《よし》、そのままに……」
岡崎は、心得て、それなり、無念不動の石仏と化した。
新太郎は、青眼に構えたまま、いつまで経《た》っても、打込む気配を示さなかった。
時刻が移ってようやく、岡崎の顔面が蒼褪《あおざ》めた。切先から放射する剣気が、岡崎の全身を犯したのである。
「ええいっ!」
突如、満身からの気合を、宙に炸裂《さくれつ》させて、新太郎は、太刀を、目にもとまらぬ迅《はや》さで振り下した。
岡崎は、必死の勇気を罩《こ》めて、能《よ》くふみこたえた。戦慄は四肢をつらぬいて、心臓へ集中し、視角は、一瞬、暗闇《くらやみ》と化した。
――おれは、まばたかなかったぞ!
かっと、双眼をひき剥《む》いて、声なく叫んだ。
次の瞬間、こんどは、気合いもなく、新太郎が、大きく一歩ふみ込みざま、まっ向から、斬りおろして来た。
岡崎は、はじかれたように、ぱっと跳び退《すさ》っていた。
新太郎は、しずかに、太刀を鞘《さや》に納めて、元の席にひきかえした。岡崎は、大きく肩を上下させて、猶《なお》しばし虚脱の|てい《ヽヽ》であった。
新太郎は、義直に、言った。
「岡崎殿は、一寸の見切りに、能くふみとどまりましたればこそ、二の太刀に対して、自然と、間合いよき後退がなし得たのでございます。これを、もし、初太刀を避けて、例え、半歩でも退いて居《お》りましたならば、姿勢は崩れて、二の太刀を躱《かわ》すいとまもなく、額に受けることに相成ります。これが、無刀の極意にて、間合いの見切りを見さだめてからは、ゆるがぬ心ひとつの法にございます。何卒、岡崎殿を、御賞美の程を――」
義直は、新太郎の若年に似合わぬ床しい心配りに感服し、わが名を一字与えて、直厳《なおよし》、と名のるように命じた。
後刻、新太郎は、重役から、五百石あたえられる旨《むね》を伝達されたが、固持して、父から渡されていた破刀を、さし出し、
「それがし、多年の念願により、諸国遍歴の修行旅に出たく存じますれば、この太刀、父の許《もと》へお届けいただきたく存じます」
と、依頼した。
鞘の中には、父が両断した刀身を、さらに根もとから折って、納めてあった。
家を出て、再び帰らず、新太郎はこの世に亡き者とお心得あるべし、との意《こころ》をこめたしわざであった。
孤独に育った新太郎は、運命にしたがって孤独に生き、そして、孤独に死んでいこうとするのであった。
四
見わたす限りの草の海を、薄い朝霧が、微風に追われて、散って行く。そのあとに、目覚めた鳥の羽音が立つ。
空は、光のない純白な、透明な、穏やかな、淡々《あわあわ》とした色をひろげている。
夜明けたばかりの武蔵野《むさしの》の一隅《いちぐう》を、新太郎は歩いていた。
草、樹、花、野路、小川の流れ――すべての色が、澄んだ朝空の下で、清らかに冴えている。地平の彼方《かなた》に、薄雲がたなびいているかとまごう連山がある。
当てもなく辿《たど》り乍《なが》ら、新太郎は、その連山あたりへ、心を置いていた。
無心を破られたのは、とある雑木林の脇《わき》へ来た時であった。樹蔭《こかげ》から、のそりと現われて、行く手をさえぎった大兵の武士を見て、編笠が払われるまでもなく、柳生十兵衛|三厳《みつよし》と知った。
新太郎は、微笑して、
「ここで、お待ち下さっていたのか」
と、言った。
十兵衛は、隻眼《せきがん》を据《す》えて、
「兵法者として、勝敗の決着を欲《ほっ》するのは当然であろう」
「御意のままに――」
新太郎は、背負うていた拝領太刀をおろすと、すらりと抜き放って、鞘を、草へすてた。
「厳方、おぬし、舟島における佐々木|巌流《がんりゅう》を、何故に見ならうぞ?」
十兵衛は、言った。
佐々木小次郎は、宮本武蔵を迎えて、物干竿《ものほしざお》の鞘を、渚《なぎさ》へ棄《す》てて、武蔵から、
「巌流、すでに敗れたり!」
と、叫ばれている。
新太郎は、微笑したまま、何ともこたえなかった。
同流の剣士は、再び、相青眼に構えて、二間の距離で、対峙《たいじ》した。
折から、朝陽《あさひ》が、そそいで、二個の影法師を、長く、草上へ延ばした。
それから、約半刻、動いたのは、その二個の影法師ばかりであった。
やがて、両者の耳に、遠くから疾駆してくる馬の蹄《ひづめ》の音が、聞こえた。
それは連銭葦毛《れんせんあしげ》の駿足《しゅんそく》であったが、奇妙なことに、人を乗せていなかった。にも拘《かかわ》らず、目的をもって疾駆してきた証拠には、この雑木林に到着するや、なんの逡巡《ためら》うこともなく、速脚をそのままに、馬首をまわして、矢の如《ごと》く、まっしぐらに、十兵衛と新太郎が対峙する其処《そこ》へ突入して来たとみるや、相青眼の中間を、疾風に似て掠《かす》め過ぎた。
瞬間――。
新太郎の躰《からだ》は、地上からはねて、馬上に在った。
「献上!」
一声とともに、拝領太刀を、十兵衛に投じた。
「……むっ!」
十兵衛もまた、おのが太刀を、馬上めがけて、打ち飛ばした。
二剣は、生きものの如く、光のある宙を、煌《きら》と閃《ひらめ》きつつ、交叉《こうさ》した。
次の刹那、対手の飛剣を手掴《てづか》んだ十兵衛は、おのが投じた太刀が新太郎にとどかずに、虚空《こくう》に浮いている奇怪な現象を見た。
「呀《あ》っ!」
わが目を疑った時には、もう駿足は、三間のかなたに在った。
宙に浮いた太刀だけが、眼前に残って、嘲罵《ちょうば》するように、切先をこちらに向けて、ゆれていた。
「……!」
十兵衛は、一呼吸してから、拝領太刀を、青眼にとった。
一瞬の錯覚が去れば、闘志は、総身に盈《み》ちていた。
馬腹に身をひそめて、突入して来た何者かは、十兵衛の投じた太刀を奪って、地上に降り立つや、たちまちに、身を、樹蔭にかくしたのである。
わずか直径三寸にも足らぬ楢《なら》の幹が、その姿を完全に匿《かく》しているのであった。
木漏《こも》れ陽《び》が、数十条の箭《や》になって、そこへ射《さ》し聚《あつ》められて、妖しい明暗の綾《あや》どりをつくり、十兵衛の隻眼を眩惑《げんわく》する……
一剣は、あたかも、楢の幹から、枝となって生えたごとく、さしのばされて、微風にそよぐように浮き沈みしているのであった。
十兵衛が、じりっ、と位置を移せば、その剣も、まわった。その構えに、微塵《みじん》の隙《すき》もなかった。
十兵衛は、珍しく、憤怒が胸もとでたぎるのをおぼえた。
「とおーっ!」
天地をつんざく猛喝《もうかつ》とともに、十兵衛は、大きくふみ込みざま、楢の幹もろとも、枝と化した剣を斬った。
立木は、隣の立木にぶっつかり、烈しくさわがせて、凄《すさま》じい音響とともに、地上へ崩れ落ちて来た。
手ごたえはあった。剣は、そこへころがっていた。
しかし、曲者の姿は、煙のように消えうせていた。
……ふっと、気づいた時、十兵衛は、おのれが携げている拝領太刀の切先が、三寸あまり切断されているのをみとめた。
紅葉狩り
一
夕陽《ゆうひ》が、あかあかとななめに落ちた国府路《こうじ》町(麹町《こうじまち》)の大通りを、一人の老人が、行く。
左足が不自由で、一歩|毎《ごと》に、大きく、上半身が傾斜して、目をあてるのも気の毒に思える歩行ぶりであった。
しかし、心得ある者が、よく注意して、見戌《みまも》るならば、それはただの歩行ではなかった。
短い左足は、ほんの一瞬、地にふれるかふれないくらいの迅《はや》さで、前へはこばれていたし、その歩幅をささえる右足は、宛然《さながら》氷上を滑るようになめらかであった。
夕陽に乗って進んでいるのかと思える程、その老躯《ろうく》は、軽かった。
やがて、大通りを抜けて、国府方口に出た老人は、前方にわだかまった御門へ、感慨深げに視線を送った。右に千鳥ヶ|淵《ふち》、左に弁慶堀《べんけいぼり》の深碧《ふかみどり》をひかえて、黒い御門は、雀色《たそがれ》時のつかの間の明るさの中に、美しく、鴟尾《しび》を刎《は》ねていた。
半蔵門――と、いまは、人々に呼びならされている。
伊賀組の頭領として、服部半蔵が、その門内に、五年前まで、屋敷を構えていたからである。
左様――五年ぶりに、老人は、御門の奥にある、住みなれたわが家のたたずまいを、これから見ようとするのであった。
「影」を木曾谷《きそだに》におとずれてから、二十年の星霜《せいそう》を経て、どうやら、半蔵自身、「影」に似かよった容貌《ようぼう》になっていた。頭髪は雪の白さになり、顔面には、刀傷のような深い皺《しわ》が、無数に刻まれていた。
忍者は、その宿命に殉じて、先ず、四十歳を生き越える者は、稀《まれ》である。さいわいに生きて越えれば、六無の修業と実践のために、一瞥《いちべつ》して、還暦かと思える程に化《ふ》け果ててしまっている。
服部半蔵は、すでに五十路《いそじ》も半ばに達していた。古稀《こき》の老爺《ろうや》の外貌となっているのも、当然であった。
半蔵が、御門内の屋敷をすてたのは、配下の伊賀組が、意見の相違から、二つに割れて、一夜、闇中《あんちゅう》に闘って、二十余名が殞《たお》れる不祥事を起したためであった。
組全体は離散を免《まぬ》かれて、四谷に移ったが、頭領たる半蔵は知行《ちぎょう》を返上して、江古田《えごた》の森の中に、草庵《そうあん》をむすんで、隠栖《いんせい》したのである。
昨夜、柳生宗矩よりの至急の使者が来て、半蔵は、五年ぶりに、江戸城をおとずれることになった。
御門は、乳鋲《ちびょう》を打った扉が閉められてあった。半蔵は、門番を呼ばず、地を蹴って、宙を躍るや、門内に姿を消した。
それから、四半刻ののち、半蔵は、紅葉山の築山蔭《つきやまかげ》にある四阿《あずまや》で、柳生宗矩と、対席していた。
宗矩は、去る二十二日から、吹上の禁苑において、御前試合が催されていることを、語ってから、
「剣士たちをえらぶにあたっては、お主の曾《かつ》ての配下たちを動員して、万全を期した」
万が一にも、将軍家に対して害心のある兵法者が登場することになっては、一大事であったからである。
宗矩は、剣士たちの身元ならびにこの数年間の行状について、くわしく調べあげるとともに、試合出場の下命を伝えてからも、その行動の監視を怠らなかった。
さいわいに、第三試合までは、剣士のうちに怪しむべき挙措《きょそ》をみせる者はいなかった。試合は、孰《いず》れも、純乎《じゅんこ》たる剣心の発揮をもって、行われ、勝敗を決したのである。
「されば、明日の第四試合に、問題があって、この老い身の骨を折らせようと申されるのか?」
半蔵が、いうと、宗矩は、かぶりをふった。
「いや、それがしの不覚は、試合を了《お》えた者たちに就いて、調べを怠っていたことだ。……太刀を拝領した勝者に、その夜のうちに、|あやかし《ヽヽヽヽ》がつきまとうて、太刀先三寸を切って、奪い去って居《お》る」
「……」
半蔵は、但馬守《たじまのかみ》程の人物が、|あやかし《ヽヽヽヽ》ということばを用いたので、皺蔭の双眸《そうぼう》を、冷たく光らせた。
「|あやかし《ヽヽヽヽ》と申すと?」
「襲撃の迅業《はやわざ》が、人間の使う者と思われぬ。魔神にひとしい」
「……?」
「|あやかし《ヽヽヽヽ》と見るにふさわしく、その名も与えられて居らぬようだ。第一試合の勝者|妻片時直《つまがたときなお》より、太刀先三寸を奪い去る時、影、とおぼえておけ、と言いのこした由《よし》――」
「影!」
瞬間、半蔵の面貌が、別の灯《ほ》かげを映したように、一変した。
宗矩は、それを、見遁《みのが》さずに、ずっと眸子《ひとみ》を据《す》えて、
「お主以外に、|あやかし《ヽヽヽヽ》を退治できる者は居らぬ」
と、言った。
二
翌朝、宗矩は西之丸《にしのまる》の桜の間で、小野忠常に会うと、挨拶《あいさつ》をすませるや、すぐに言った。
「本日の試合にあたり、お手前へ、白扇をお渡し申したいが……」
六十四歳の宗矩から見れば、二十八歳の忠常は、倅《せがれ》にもひとしかったが、長老に一歩もゆずらぬ気概を、暗々裡《あんあんり》にしめして、あつかいにくい対手《あいて》であった。
いわば、柳生流に対する一刀流の対抗意識を、このたびの試合にあたって、宗矩に、はっきりとさとらせたのである。もとより、忠明は、外面では、気ぶりにも現わしてはいなかった。
宗矩は、審判の位置に着席するやいなや、忠常の烈《はげ》しい気概を、痛い程に感じたのであった。
殊《こと》に、前々日の、十兵衛|三厳《みつよし》と新太郎|厳方《よしかた》の試合において、忠常が何を考え、どう判断したか、宗矩には、手に取るように察知できたのである。忠常は、わざと、銅鑼を鳴らすのを、一拍子遅らせたではないか。
忠常は、十兵衛の猿飛びに応ずる新太郎の変化《へんか》の業を見たかったに相違ないのである。
今日の第四試合にあたっては、忠常は、もしかすれば、異議を申し立てるかも知れぬおそれがあった。
何故《なぜ》ならば、宗矩が白扇を挙《あ》げるべき勝者は、すでに、きまっていたからである。宗矩は、そうせざるを得ない立場に置かれていた。
宗矩は、忠常が異議を申立てるのを、抑えておかなければならなかった。
さりげなく、主審の席をゆずろう、と申出れば、忠常としては、礼儀として、辞退するのは、目に見えていた。そこが、宗矩の老獪《ろうかい》な知恵の働かせどころであった。
はたして、忠常は、
「それがしごとき若輩が、柳生殿をさし置いて、何条《なんじょう》もちまして、白扇など!」
と謙遜した。忠常は、宗矩が、第三試合に下した判定に忸怩《じくじ》たるものをおぼえているので、わざと、主副を替えて、自分の機嫌をとろうとしているのだ、と解釈したので、謙遜は儀礼上のことで、すぐに白扇を把《と》る肚《はら》になっていた。
ところが、宗矩は、意外にも、かさねて、すすめるかわりに、
「左様か。では、正審の覧《み》るところを、おまかせあるよう――」
と、言って、袴《はかま》を鳴らして、立って行った。
忠常は、憤怒を抑える異常な努力をはらわなければならなかった。
――詭道《きどう》に、ひっかかったか!
宗矩に、正審の覧るところをまかせよ、と言われてしまった以上、副審の意見は封じられたのである。
第四試合は、鞍馬古流《くらまこりゅう》、鴨甚三郎利元《かもじんさぶろうとしもと》に対するに、宝山|巴《ともえ》流の薙刀《なぎなた》を使う遠藤由利なる妙齢の娘であった。
由利を推挙したのは、春日局《かすがのつぼね》であった。
一月ばかり前、春日局は、宗矩を招いて、
「大奥に、薙刀の稽古《けいこ》をつける女人をさがして居りましたところ、元|真田《さなだ》の家臣にて宝山流遠藤常右衛門が、娘由利を、いかがであろうか、と申出て参りました。見目も美しく、気質も爽《さわ》やかとおぼえましたれば、手の内の程、お見とどけ預けまするか。……手の内が格別に冴《さ》えて居りますならば、このたびの吹上の御前試合に、紅一点を添えられるのも、おもむきがあろうかと存じまする」
と、依頼した。
宗矩は、承知して、道場に、由利を呼んで、その構えと攻撃の型を覧た。
宝山流の剣法は、薙刀の術をも伝え、これを宝山巴流と称していたが、宗矩は、覧るのは、はじめてであった。
由利は、構えも攻撃も型も、ひとつとして、常識とされているものは示さなかった。
例えば、冠《かぶ》り入身の下段の構えをとり乍ら、脚を開かず、まっすぐに立っているだけであったし、天の構えでは、右手を空けてダラリと携《さ》げ、柄《つか》を軽く肩に置いたし、攻撃に於ては、冠り入身の下段から、ゆるやかに、刃光《じんこう》を宙に旋回させる山週《やまめぐ》りから、一瞬、目にもとまらぬ迅さで、袈裟《けさ》がけにきめる一手を見せただけであった。
翌日、宗矩は、春日局に会って、
「天稟《てんぴん》を完成させた腕前かと存ずる」
と、告げた。
春日局は、満足げに頷《うなず》いて、試合|対手《あいて》を、鞍馬古流の鴨利元にして欲しい、と指定した。
宗矩は、意外の思いをした。
その人に会ったことはないが、現在鞍馬の山中に棲《す》んで、俗界との交渉を全く断っている鴨利元の剣法は、尋常一様のものではない筈《はず》であった。戦国の世を誰《だれ》に仕えることもなく、栄誉の場所を避けてすごしていたが、ただ一度、聚楽第《じゅらくだい》へ、瓢乎《ひょうこ》として現われて、太閤秀吉の面前で、秘術を披露《ひろう》して、「大天狗《おおてんぐ》よ」と賞讃されたことがある。
立去った後、秀吉からじきじきにうけた大金盃《だいきんぱい》を、小姓が下げようとすると、真二つに割れていた。千余の人の目の前で、いつの間にか、両断していたのである。
また、秀吉が、居室に入って、着換えようとすると、懐中から、一紙が落ちた。それには、
「おんいのち、たしかに頂き申候《もうしそうろう》」
と、記してあった、という。
鴨利元が、秀吉にほろぼされた何処《どこ》かの大名の遺臣であることは、これで明白となった。
色めき立って、後を追おうとする近習《きんじゅう》たちを、秀吉は、笑って、
「すて置け」
と、とどめたが、褒美《ほうび》の品の衣服を、坊城はずれの小屋に住む乞食《こじき》が、もらって着ているという報告に、急に猿面をきびしいものにして、討ち取るように命じた。
しかし、その行方は、杳《よう》として、ついにわからなかった。
鴨利元が、姿を現わしたのは、大坂城が烏有《うゆう》に帰した日であった。英傑一代の栄華の夢が、黒煙となって夜空に消えて行く有様を、町民の群れに交ざって、冷やかに眺めている姿を、知り人に見つけられたのであった。
爾来《じらい》、鞍馬山中に、訊ねて行く兵法者は、数多かったが、一人として、立合いをゆるされた者はなかった。
いまは、すでに、古稀を迎えて、寒山の枯れ木と化していよう。もとめに応《こた》えて、江戸へ下って来るとは、到底考えられなかった。よしんば、承知したとしても、試合の結果は、火を見るよりも明らかであった。いかに天稟を完成しているとはいえ、二十歳ばかりの娘の薙刀がとどく兵法ではない。
宗矩が、その旨を口にすると、春日局は、微笑して、かぶりをふって、
「鴨利元は、必ず参って、由利と試合をいたしまする。この儀、但馬殿をわずらわしませぬ」
きっぱりと、こたえた。
将軍家光の乳母として、大奥に君臨し、当代比肩すべき者のない権勢を誇るこの小肥りの色白な老女と、世を拗ねた老剣客とが、どういう関係なのか――その不審を、宗矩は、べつに解く必要もなかった。春日局が、江戸城に呼ぶからには、将軍家に対して害心をいだく者でないことは、確実であった。宗矩にとって、そのほかのことは、さしたる問題ではなかった。
「鴨利元呼び出しの儀は、お局におまかせいたすとして、これが、はたして、試合と相成るかどうか、甚《はなは》だ疑問に存ずるが……」
宗矩が、言うと、春日局は、ふっと、皮肉な目つきになった。
「勝った者へ白扇を挙げるのは、但馬殿、お手前様ではありませぬか」
宗矩は、これをきいて、はっとなった。
春日局が、なにゆえに、由利を試合に出そうとするのか、その意中をさとったのであった。
鴨利元を、江戸城へ呼び寄せ、二十歳の娘と立合わせ、しかも、勝者を予め定めてしまっている。
どこまで底知れぬ才腕を持っているのか。宗矩は、舌をまかざるを得なかった。
三
雲の多い日であったが、薄絹のように淡く、陽を透かしていたし、風に乗って流れるのが早く、地上にその影をとどめなかった。
遠藤由利は、時鐘の前に、幔幕から現われて、上座へ向かって正座し、薙刀を背後に置いていた。
白装束をつけ、黒髪を肩に散らして、紅の鉢巻《はちまき》・襷《たすき》をしたその姿は、美少年と見まごう。
細く長く刎ねた眉の下で、大きく切れた眸子《ひとみ》が、黒くきらきらと輝いていた。わざと紅を塗らずに、白くかさかさした唇が、ふしぎな魅力をもって、面長《おもなが》な輪郭に調和していた。かたちのいい耳朶《みみたぶ》のみが、陽ざしを透かして、ほのかに色づいて、美しかった。
将軍家光は、由利が、現われたとたんから、率直に好奇心あふれる表情になって、食い入るように、眺めていた。
時鐘とともに、由利は、身ごなしかるく、薙刀を把って、対手の現われるであろう東方の幔幕に向かい立った。
数秒を置いて、幔幕が、ゆれた。
鴨甚三郎の出現は、幔幕を割る、というよりも、幔幕から幻影のように浮かび出る、というにふさわしかった。
六尺を越えていよう。濃紺の刺子《さしこ》の稽古着《けいこぎ》に、黒い袴を裾《すそ》高くかかげて、臑《すね》を長くあらわしていた。
その両腕両脚は、まさに立ち枯れた古木にひとしく、骨に皮をかぶせただけの細さであった。雀色によごれた蓬髪《ほうはつ》と長髯《ちょうぜん》の中に、無数の皺を刻んだ貌《かお》があったが、双眼は、その皺にかくれたように細く、由利のところまで、その光はとどかなかった。
左手に、自然木に仕込んだ太刀を、携《さ》げていた。
幔幕の前で、しばし、立ちどまって、由利を、じっと見戌《みまも》っていた鴨甚三郎は、一歩|毎《ごと》に骨が鳴るような、むしろおぼつかなげに見える歩みかたで、進みはじめた。
由利は、甚三郎が二間の距離に立つや、しずかに、右青眼に構えた。
甚三郎は、動かぬ。太刀は、鞘に置いたまま、杖《つえ》にした。
それなり……いくばくかの膠着状態があったのち、由利は、右足を大きく引き、左半身となりつつ、薙刀をまわして、背負い、石突きを左肩先から出して、切先を、地摺《じず》らせた。そして、左手をさしのべつつ、じりじりと、左方へ廻りはじめた。
この笹隠《ささがく》れ体剣の構えをえらんで、位置を移すのは、無礼とも受けとれる敵の姿勢に、不意の攻撃力が用意されていると見てとって、間髪の間に応ずるためであった。
奇妙であったのは、由利の動きに対して、甚三郎が、細目だけをまわして、微動もしなかったことである。
由利は、甚三郎の視線が、もうこれ以上はまわせない地点で、ぴたりと、立ち停まった。
突如、
「えいっ!」
裂帛《れっぱく》の懸声《かけごえ》もろとも、由利の白い姿が踊って、刃唸《はうな》り鋭く、明るい空間に、びゅーん、とひとつ巴《どもえ》の円弧を描いた。
巴流の極意が、それであった。笹隠れ体剣の構えから、身をひねりざま、対手の胴を狙って、横へ薙いだ勢いをそのままに、下から上へ、すくいあげに、刎ねあげる。
刹那――甚三郎の老体は、羽毛が風にあおられたように、宙のものとなっていた。
観る者の眼には、その老体から、両脚が消え失せたかと映った。
次の瞬間、甚三郎は、斜めうしろ二間の地点に飛び降りていた。
だが、その足が地に着いたか着かぬうちに、由利は、氷上を滑るごとく奔《はし》って、ふたつ巴の閃光を送りつけていた。
それは、六尺の痩身の右脇と左脇へ、同時とも思える迅さで、薙ぎ上げられた。
にも拘らず、血飛沫《ちしぶき》のあがるかわりに、老体は、忽然として、そこから消え去《う》せていた。地底に沈んだかとも、思えた。
甚三郎は、さらに、二間を遁《のが》れていた。
なお、それにむかって、容赦なく、地を蹴って肉薄した由利の白い姿もまた、化生《けしょう》かと見えた。
「ええいっ!」
三度、陽ざしの盈《み》ちた宙を、刀線が截《き》った。
三つ巴は、三つ乍らに、股間《こかん》を襲った。
その凄じい刃風になぶられるように、甚三郎の痩躯《そうく》は、胡蝶《こちょう》と化して、ひらっ、ひらっと、空中を舞いつつ、遠のいた。
そして――。
甚三郎が、すっと降り立った地点は、幔幕のまぎわであった。
由利は、ツツツ……と突進するや、薙刀を天の構えにふりかぶり、無言の気合いを発して、右足を大きく一歩踏み込みざま、左膝をつき、袈裟がけに、斬《き》り下ろした。
同時に、甚三郎の姿は、煙のように、幔幕の外へ、消え失せていた。
あとには――。
白砂上に、両断された自然木が、落ちていた。太刀を仕込んだとみせて、実は、やはりただの杖でしかなかったのである。
「勝負あり!」
白扇をかかげる宗矩のおもてには、微笑があった。
流石《さすが》は、生きて仙境《せんきょう》に入った老剣客の、鮮やかな出処進退ぶりであった。
春日局から、故意に由利に勝ちをゆずるように、たのまれていたに相違ない。勝敗の世界から程遠く、風懐に一片の俗念もにごらせていない境地に達している老剣客は、笑って、これを引き受けたことであろう。
宗矩は、老剣客に、感謝した。
一方、小野忠常の方は、銅鑼を鳴らすのも忘れて、凝然として、甚三郎の消えた幔幕を瞶《みつ》めていた。
――あれが、鞍馬古流の浮身の術か?
まさに、神技であった。
忠常は、見とどけたのである。甚三郎が、由利の刎ねあげる薙刀の刃先に、片足の親指をかけて、空中へ舞いあがるのを――。
甚三郎は、おのが老躯の力を、全く使わなかった。由利が渾身こめた薙ぎ上げの一閃に、かるやかに乗ってみせたにすぎない。
この神技を使うかぎり、対手が疲労困憊《ひろうこんぱい》するまで、幾たびでも、おのが身を、空中に遊ばせることが可能であった。
忠常にとって、もはや、勝敗に関する宗矩との、目に見えぬ確執《かくしつ》など、どうでもよかった。
ただ、甚三郎の神技に酔った気分がさめやらず、宗矩が、家光に言上している言葉など、上の空にききすてていた。
宗矩は、家光にむかって、由利の勝利を告げ、由利に代って、
「ただいまの巴流の一手は、紅葉狩りにございます」
と、説明していた。
「むかし、源氏の大将が、紅葉狩りに行きて、鬼女に遭《お》うて、劫《こう》を経たる魔身の、どの部分に斬りつけても、致命の傷を負わせるにいたらず、夢中にて、股間を、斬り上げて、ようやく殪《たお》し得た、と申します。甲冑《かっちゅう》の闘いの場合、下より突き上げる術は、必ず習得しておかなければならぬところ。また、花でも紅葉でも、その枝を剪《き》る時には、上よりせず下より断てば、花も葉も散らさぬものにございます。紅葉狩り、と名づける所以《ゆえん》かと存じられまする」
家光は、宗矩の説明に頷《うなず》き乍《なが》ら、由利から視線をはなさなかった。
そのひとみは、異常なまでに昂《たかぶ》った欲情を、露骨に漲らせて、光っていた。
家光の欠点のひとつは、極度な男色趣味であった。幾人かの美しい≪じょうろう≫が用意され乍ら、いまだ一人も、褥《しとね》に入れていなかった。
春日局は、ひそかに、それを憂《うれ》えて、苦肉の策として、武芸に天稟《てんびん》を有《も》つ美貌《びぼう》の由利をえらんで、これに男装をさせ、試合場で、家光の心を奪おうと計ったのであった。
奇策は、見事に功を奏した模様であった。
宗矩は、宵前《よいまえ》に、屋敷に戻ると、書院には、老いたる忍者が、ひっそりと待ちうけていた。
「今夜、遠藤由利は、大目附《おおめつけ》、内藤駿河守《ないとうするがのかみ》邸に泊る。お主の働きを期待いたそう」
そう告げられて、無言で頷き、音もなく立去っていった。
剣相
一
遠藤由利は、闇へ、大きく目をひらいて、じっと仰臥《ぎょうが》していた。
褥《しとね》に就いてから、ほぼ一刻が過ぎている。暗黒を瞶《みつ》める目は、愈々冴《いよいよさ》えるばかりであった。
抑え難いものが、白い躰《からだ》の中で、疼《うず》いていた。そして、それは、時刻が移るにつれて、狂おしい焦燥にかりたてるけはいをしめしていた。
このまま、あと半刻も過ぎれば、由利は、じぶんが、どんな凶暴な振舞いをするか――それが、わかっているだけに、懼《おそ》れなければならなかった。
白い躰のなかにひそんでいた魔性が、目を覚ましたのは、吹上の試合場で、鴨甚三郎が、忽然として幔幕の外へ消え去った瞬間であった。
あきらかに、敵は、自分に勝利を譲るために、跳び退《すさ》り跳び退り、小面憎《こづらにく》くも、おのが身代りに一本の杖《つえ》を両断させておいて、鮮やかに退場して行ったのである。
嘲罵《ちょうば》されるよりも、もっと烈《はげ》しい屈辱感で、由利は、全身を凍らせ、家光から太刀を拝領しつつも、まだ、意識は眩《くら》んでいた。
由利は、ただの女《むすめ》ではなかった。この七年間、異性に対する憎悪《ぞうお》を、瞬時も忘れずに、育って来た女であった。
十三歳の秋の夜、悪夢にうなされて、目を覚ました由利は、実の兄の忠也に抱き締められている自分を発見して、あやうく昏絶《こんぜつ》しようとした。悲鳴をあげることも、もがくことも、できなかった。おそろしい疼痛《とうつう》が、躰の一部分に起こった時、微《かす》かな呻《うめ》きを発したばかりであった。
忠也は、起き上がると、凄《すご》い形相《ぎょうそう》で、
「口外すな!」
と、言いのこした。
それから、十日あまり過ぎて、忠也は、再び、忍んで来た。
由利は、荒々しい愛撫《あいぶ》に、身をまかせ乍《なが》ら、ただ、哀《かな》しく、亡母を呼ぶばかりであった。
忠也は、重ねて、他言無用を命じておいて、音しのばせて、部屋を出て行った。
おのれの居室に戻った忠也は、そこに、父の常右衛門が、太刀をひきつけて、坐《すわ》っているのを見出《みいだ》して、愕然《がくぜん》となった。
忠也は、身を翻《ひるがえ》して、廊下へ遁《のが》れた。しかし、由利の部屋の前まで、三間を奔《はし》って、背中を袈裟《けさ》に斬られて、深夜の静寂《しじま》へ、絶鳴をつらぬかせた。
由利は、障子とともに倒れ込んだ兄の血まみれの姿を眺《なが》めた刹那《せつな》、冷たい快感が胸に沸くのをおぼえたことだった。
翌朝、父は、由利を呼んで、武芸の修業を命じた。それから、四年間、由利は、女ではなかった。
由利が、はじめて、白い躰のなかにひそんでいる魔性をはっきりとさとったのは、十八歳の春であった。
某日、父の高弟の一人である藤田|某《なにがし》が、おとずれて、唐突に、求婚して来た。父は、所用あって、出府して一月ばかり留守であった。
藤田は、高弟中随一の腕前であった。それよりも猶《なお》、稀に見る美貌で、評判であった。
「貴女《あなた》を、妻にもらい受けたい」
対座して、いくばくも経《た》たぬうちに、そうきり出された由利は、藤田の態度が、断わられることなど毛頭懸念していないのを感じた。
由利は俯向《うつむ》いたままで、ひくく抑えた声で訊ねた。
「わたくしを、なぜ妻になさろうとなさいます」
「貴女の美しさと腕前は、妻として天下に誇るに足りる」
藤田は、こたえた。
ややしばらく沈黙を置いてから、由利は言った。
「まことに、わたくしが、妻として誇るに足りる女かどうか、いちど、お試しなされませ」
藤田は、とっさに、それがどういう意味か、受けとりかねて、小首をかしげた。
由利は、無表情で言った。
「わたくしのからだと業《わざ》を、心おきなくごらんなさいませ」
「……」
「からだを先になさいますか、それとも、業を――?」
そう訊ねて、じっと瞶めた。
藤田の戸惑った表情は、醜かった。
「か、からだを――」
かすれ声で、言った。
由利は、頷《うなず》き、今夜|四更《しこう》に、忍び入って来るように、約束した。
藤田が、寝所にふみ込んでみると、由利は、燃えるような緋《ひ》の下裳《したも》いちまいを巻きつけただけで、褥《しとね》に仰臥していた。
藤田は、その裸身を抱くのに、ぶざまな所作をしめした。藤田は、まだ童貞だったのである。
藤田は、由利が、濡《ぬ》れたそこを懐紙で拭《ぬぐ》って起き上がり、しずかに、衣服をまとう間、なかば放心気味の惨《みじ》めな状態に陥っていた。
由利は、長押《なげし》から、薙刀を把って、鞘をはらうと、
「庭へお出でなさいませ」
と、促した。
藤田は、冷たく光る刃《やいば》を見て、
「真剣で――?」
と、眉宇《びう》をひそめた。
由利は、黙って、庭へ出た。
やむなく、藤田も、差料《さしりょう》を携《さ》げて、そのあとにしたがった。 勝負は、あっけなかった。
ひと薙《な》ぎに、咽喉《のど》を断たれた藤田は、血飛沫《ちしぶき》を、月あかりに黒く撒《ま》いて、のけぞった。
由利は、なおそれだけで容赦せず、衂《ちぬら》れた薙刀で、すくいあげて、藤田の股間《こかん》の物を刎《は》ねた。
二
いま――。
由利は、自分の裸身を凝視した藤田の面相と、柳生宗矩の説明をきき乍《なが》らじぶんへ目を据《す》えていた将軍家光の相貌《そうぼう》が、非常によく似ていたのを、思い泛《うか》べていた。
――将軍家の寵愛《ちょうあい》を蒙《こうむ》るのが、女子としての最高の栄誉なのか。
試合の後、直ちに招かれた大奥で、春日局から、その旨《むね》を告げられて、由利は、鴨甚三郎が勝ちを譲って去った理由が、判《わか》ったのである。
自分の出場は、宝山巴流を上覧に入れるためではなかったのである。目的は、ほかにあった。
自分という女《むすめ》を供するために、将軍家のお気に召すか召さぬか――いわば、狡猾《こうかつ》な趣向であった。
えらぶにことかいて、じぶんをえらんだ春日局に対して、由利は、冷笑をおぼえた。しかし、対手は、将軍家であった。拒絶するわけには、いかなかった。
由利は、つつましく、大奥へあがるについての春日局の教示をきいて、退出して来た。
宿舎に指定されたこの大目附けの屋敷では、盛大な祝宴が催された。由利は、終始、俯向いて、人形のように、その時間を過ごした。
寝室に入って、孤独になってから、由利の本来の心は、活《い》きかえったのである。
――あの男によって、わたくしの生涯は、しばられてしまうのか!
異常に眼をぎらぎらと光らせていた家光の顔貌に対して、由利は、烈《はげ》しい嫌悪《けんお》をおぼえた。
――女と生まれたのは、是非もない。……せめては、じぶんを取拉《とりひし》ぐ男子に、一度出会うて、それを思い出にできるものなら――。
思いがけずにおそって来た運命に、抗すべもないのなら、由利が、なし得る唯一《ゆいいつ》の謀叛《むほん》は、それであった。
由利は、はね起きて、何処《どこ》か、遥《はる》か地平の果てへ、風のように趨《はし》り去りたい衝動にかられた。
「わたくしを取拉ぐ男が、どこかにいる! 屹度《きっと》、いるにちがいない!」
由利は、思わず、声に出して、呟《つぶや》いた。
すると、不意に、闇《やみ》の中から、
「その言葉は、まことか?」
と、応じる声があった。
由利は、息を詰めた。
ひとつ、ふたつ、三つ、四つ……おのが脈搏《みゃくはく》に合わせて、十まで数えて、由利は、掛具をはねて、とび立とうとした。
気配もなく、闇にひそんでいた者は、決して、その刹那《せつな》をはずさなかった。
由利は、一動作の抵抗さえも許されずに、俯伏《うつぶ》せに押えつけられた。
「そなたののぞみ通り、取拉いだぞ」
闇の男は、言った。
由利は、まったく四肢の自由を奪われ乍ら、ふしぎに、憤《いきどお》りもくやしさもおぼえなかった。自分の弱さを思い知らされたことに、一種の自虐《じぎゃく》の快ささえ感じた。
裾《すそ》が捲《まく》られ、冷たい手が、内腿《うちもも》を滑って、奥をさぐって来るや、由利は、力を抜いた。
「抗《あらが》いませぬ。作法通りに、わがものにされるがよい」
「……」
男の圧力が去るや、由利は、仰向《あおむけ》けに寝返った。目蓋《まぶた》はとじていた。剥《む》き出された下肢が、ひえびえとしていた。
由利は、胸に手を置いて、待った。
どうしたのか、男は、動かなかった。
由利は、目蓋を開いて、見あげた。闇の中に、さらに濃く滲《し》み出させた黒装束の姿には、若々しいけはいがあった。
「……慈悲心を起したのなら、さげすみますぞ」
由利の方から、そう言った。
「いや――」
男は、かぶりをふった。
「その手には、乗らぬ」
「その手?」
「囮《おとり》になって、わしをからめ取ろうとして居《お》るな?」
「おぼえぬことを……」
「知らぬ、と言うのか?」
「知りませぬ」
由利は、あたりに神経を配った。なんの気配も感じなかった。
しばしの沈黙があってから、男は、口をひらいた。
「拝領の太刀を頂きに参上した者」
「貴方は、何者です?」
「名は与えられて居らぬ。影、とおぼえておいて頂こう」
「影?」
由利は、やおら、身を起して、床の間に寄って、刀架《かたなか》けから、その太刀を把《と》った。
刹那――由利は、床縁《とこべり》を蹴って、一間余を躍った。
抜き打ちに、闇を走らせた一撃は、間合いも呼吸も五体の力点の配分も、決してあやまっていなかった筈《はず》である。刀身は、狙《ねら》ったところを、正確に、斬《き》り下げた。
しかし、そこには、刃風の音が、立ったばかりで、対手は、夜気も擾《みだ》さずに、消え失せていた。
――おのれっ!
由利は、太刀を八双に構えて、闇を透かして見た。どこにも、その黒影は、見わけられなかった。
一瞬、由利は、腰をひねって、
――えいっ!
と、背後を薙いだ。
その一閃もむなしかった。
そればかりか、薙いだ姿勢をたてなおすいとまも与えられず、由利は、まっすぐに延ばした双手から、もぎ取られる感覚もなくて、太刀が無くなったのに、愕然《がくぜん》となった。
……茫然《ぼうぜん》と自失して、いくばくが過ぎたろう。
由利が、はっとわれにかえったのは、雨戸一枚倒されたそこから、吹きこんできた夜風のおかげであった。
のみならず、夜風は、庭に展開している無音の凄絶《せいぜつ》な争闘の殺気を、乗せて来た。
由利は、酔ったような足どりで、廊下へ出た。
由利は、見た。星明かりの庭上に、目にもとまらぬ程の迅《はや》さで、飛び交っている二個の影を。
三
秋風が、日がさしそめたばかりの武蔵野を渡っていた。
樹木と雑草と稲穂が、濃淡に染めわけられた、広漠《こうばく》たる平蕪《へいぶ》の中をうねる街道を、長く影法師を匍《は》わせて、一人の老人が、歩いて行く。
一歩|毎《ごと》に、大きく上半身を傾ける姿は、服部半蔵のものであった。
江戸開府の砌《みぎり》、はじめて徳川家康が、駒を進めた渋谷《しぶや》の丘陵を越える街道であった。
半蔵は、半蔵門を出てから、ここまで、ずうっと、地面へ目を落として、歩いて来た。忍者にもあるまじく、胸中には、湿った感慨が澱《よど》んでいたのである。
――わからぬ!
おのれに、いくたびとなく呟《つぶや》いているのは、その言葉であった。
昨夜、半蔵は、大目附、内藤駿河守邸の庭の立木にひそんで、曲者《くせもの》が、遠藤由利の寝所から、拝領太刀を奪って、出て来るのを待った。
半蔵は、一度、寝所の前まで、忍び寄って、予測通りに、くせものが、由利を襲っているのを知った。
ふみ込まなかったのは、その問答をきいたからである。
こちらが忍び寄ったのを、曲者は、早くも察知して、由利に向って、それを口にしていた。
由利が身を犠牲にして、犯されているところを、伏せてある者にふみ込ませて、捕まえようとしているに相違ない、と。
半蔵は、その声が、若い男のものであるのをきいて、
――あの「女影」ではない。
と判《わか》って、再び、木立の中へしりぞいたのであった。
庭へ出てきたその曲者に対して、半蔵は、ひさびさに、秘術の限りを尽くした。これに応じて、飛鳥のごとく跳躍した曲者は、半蔵の記憶のかぎりでは、「影」父娘《おやこ》に比肩《ひけん》するすぐれた忍者であった。
気力体力ともに、半蔵は、曲者に到底およぶべくもなかった。しかし、老いの身には無数の危機をくぐり抜けて来た豊富な経験が備えられていたし、曲者の漲《みなぎ》った若さは、破綻《はたん》を招く無謀を露呈した。
半蔵は、まず、鳥黐縄《もちなわ》を投じて、その手から、拝領太刀を奪い取るのに成功した。次いで、樹上へ遁れたのへ、鳥黐縄を再投して、その覆面を剥《は》いだ。
瞬間――半蔵は、思わず、
「おっ!」
と、驚愕《きょうがく》の叫びを発したものだった。
星明かりに浮かびあがった白い貌《かお》は、二十年前、「風盗」の城砦の裏側にある丘陵上で、見とどけた「子影」の貌に、生写しだったのである。
――わからぬ!
野猿《ましら》のように屋上へ飛び移って、そのまま消え去る速影を見送り乍ら、半蔵は、当惑のかぶりをふったことだった。
当惑――まさに、それが、いまなお、半蔵の胸中を占めている。
――もしや?
ひとつの予感に悩まされて、昨夜まんじりともできなかった半蔵である。
――わからぬ!
そう呟くことが、唯一のすくいになっているようであった。
街道が、のぼりになって、半蔵は、目をあげた。
楢《なら》や竹の林が、冬を待つ色に変りつつある。萩や旗薄《はたすすき》の、繊細な、しかも茫々たるひろがりが、いかにも、蕭条《しょうじょう》たる晩秋の彩《いろど》りであった。
木槿《むくげ》の花が、白い。
生命《いのち》短い、この花を見やり乍ら、
――わしも、老いた。
半蔵は、自分を嗤《わら》った。
やがて、半蔵が、彳《たたず》んだのは、丘陵と丘陵に挟《はさ》まれた低い窪地《くぼち》に、楓樹《ふうじゅ》にかこまれて、ひっそりと構えられた屋敷の門前であった。
竹格子《たけごうし》戸は、開かれてあった。
椎《しい》、樫《かし》、ゆずり葉、榊《さかき》、柏、槙《まき》、らかん樹など、ことごとくの種類をそろえたかとおぼしい植込みの奥に、柿葺《こけらぶ》きの入母屋《いりもや》の屋根が、のぞいていた。
それへ、当てた半蔵の眸子《ひとみ》は、微塵の油断もない厳しい忍者のものであった。
玄関に立って、案内を乞《こ》うと、箒《ほうき》を持った小男が、右手の木戸口から現われた。眇目《すがめ》の、醜い容貌をしていたし、痩《や》せこけて肩がとがり、いかにも貧寒な人《じん》ていであったが、半蔵は、
――こやつが、たぶん、赤猿《あかざる》であろうか。
と。看破した。
曾《かつ》て、しばしば、家康の首級を狙って、江戸に、駿府に、伏見に、出没して、徳川方の忍者十余名を殪《たお》して行った大坂方の忍者がいた。それが、真田幸村配下の「赤猿」佐助という男ただ一人の仕業と判明したのは、豊臣が滅びた後のことであった。
「服部半蔵が罷《まか》り越した、と御主人に取次がれたい」
そうたのむと、男は、怪訝《けげん》そうに、
「あるじと、お知りあいですかな?」
と、問いかえした。
「はじめて、御意を得たく、罷り越した」
「さ――それでは、お会いになさるかどうか……」
小首をかしげ乍ら、のこのこと、庭へまわって行く後姿は、なんの見ばえもせぬ、泥くさい下僕でしかなかった。
待たせるほどの時間をかけずに、「赤猿」は、玄関に現われて、
「お通り召され」
と、招じた。
書院ともいえぬ粗末な座敷で、半蔵が対坐《たいざ》したのは、六十年配の、白いあご髭《ひげ》をたくわえた、際立《きわだ》った人品骨柄《じんぴんこつがら》の人物であった。木賊《とくさ》色の木綿の筒袖《つつそで》に、軽衫《かるさん》をはいていた。
「早速乍ら、卒爾《そつじ》なお願いをつかまつる」
半蔵は、挨拶がすむと、すでに対手が何者であるか、承知している態度をしめして、持参した品の包みを解いた。
とり出したのは、昨夜、曲者から奪いとった拝領太刀であった。
主人の前へ置いて、
「これが何人《なんびと》の作か、また、現われている剣相について、ご教示たまわりたい」
「……」
主人は、じっと半蔵を見かえした。
「いや――」
半蔵は、笑って、老人らしく、一人合点に竪《たて》にかぶりをふってみせた。
「お手前様が、鑑定術と剣相術にかけて、稀《まれ》に見る目利《めき》きという噂《うわさ》は、二十年前から、うかがって居り申した。何卒――」
「おのぞみとあれば……」
主人は、太刀を、手に把った。
刀剣の鑑定について、非常に喧《かしま》しい時世となっていたが、それにつれて、剣相もうるさくなっていた。
剣相術は、鑑定術よりも、古かった。日や方角の吉凶を見ることが、行事上大切であったのであれば、刀剣についても吉凶が云々《うんぬん》されたのは、当然のことであろう。
室町初期応永三十年に書写された「観智院本銘尽《かんちいんほんめいづくし》」に、天国、安綱、月山などは主人を嫌い、菊作は不浄を消す、と記述されている。
室町末期に著された「新刊秘伝抄」にも、刀の祟《たた》りを鎮《しず》めるには、銘の周《まわ》りにボロンという梵字《ぼんじ》を、持ち主の年齢の数だけ書くのが良い、と説かれてある。
主人は、料紙を口にして、刀身を、まっすぐに立てて、長いあいだ、見入っていた。
ぴたりと、鞘に納めてから、
「千子村正《せんごむらまさ》と存ずる」
ためらわずに、断定した。
「ふむ!」
半蔵は、頷《うなず》いた。
半蔵も、そうではなかろうか、と考えていたのである。
「運宮の|やき《ヽヽ》出しは、|やき《ヽヽ》落しにて、大凶相。佩《お》ぶべき剣にあらず、と存ずる。乱雙《らんそう》と称する月があるのは、上作の刀に稀に見かけて、これは吉事|禎祥《ていしょう》を主《つかさど》るが、そのとなりに、黒星が三つ並んでいて、この富貴の相を殺し、横死を意味いたして居る。命宮の刃《やいば》は乱れて、これも大凶。星像があって、上へ、気の立ち昇るのは、陽気にして吉相と申せるが、ここにもまた、気の立ち昇ったところに矢じるしの疵《きず》があって、これは、怨敵《おんてき》のある象《かたち》。切先の飛び|やき《ヽヽ》は、君臣不和の相、災《わざわい》は、内にも外にもおよぶときく。……大凶と大吉が、入まじったこの太刀の剣相は、複雑にして奇怪、佩《お》びるのは遠慮されたがよい」
主人は、言いおわって、半蔵の前へ返した。
「忝《かたじ》けのうござった」
半蔵は、礼をのべてから、あらためて主人を正視した。
「ところで、この無銘太刀は、もとは、大坂城内の宝物でござった」
「……」
「そのむかし、太閤殿が、諸将へ贈るために聚《あつ》められた際、十振だけを、お手元にのこされた、とききおよび申す。大坂城が炎上した時、何者かが、持出して、家康《ごんげん》様へおとどけ申した。……その一振が、これでござるが、太閤殿が、なにゆえに、十振のみ、無銘のままで、残されたか、その理由を、お手前様は、ご存じでありましょうか?」
「存ぜぬ。それがしが、存じて居る筈がない」
「かくされるな、左衛門佐《さえもんのすけ》殿!」
不意に、半蔵は、はっきりと、対手の名を口にした。
左衛門佐――これは、真田幸村の称にまぎれもなかった。
真田幸村は、二十年前――元和《げんな》元年五月七日、赤旗備えの兵を率いて、茶臼《ちゃうす》山の家康の本陣へ突入し、その馬印を臥《ふ》さしめるまでに奮闘して、壮烈な最期《さいご》をとげ、兵また之《これ》にしたがって一人のこらず討死した筈であった。
しかし、半蔵は、確信にみちた口調で、その名を呼んだのであった。
それから、半刻後、半蔵は、辞し去った。
主人は、玄関に見送ってから、半蔵の姿が、門外へ消えると、
「赤猿」
と、呼んだ。
物蔭から、のこのこ現われて、前へ蹲《うずくま》った佐助へ、主人は、微笑し乍ら訊《たず》ねた。
「お前の腕で、あの老人が討取れるか?」
「なかなか――」
下僕は、かぶりをふった。
「佐助、お前も、老いたか」
主人は、しずかに踵《きびす》をまわして、奥へ入った。
無明縄《むみょうなわ》
一
今宵も――。
不忍池畔の聖天宮の小祠《しょうし》の中では、忍者母子の奇怪な営みが、つづけられていた。
「母影」は、仰臥《ぎょうが》した若い逞《たくま》しいわが子の裸身《らしん》へ、赤鋺《あかまり》の油をすくいとって、しずかにやさしく、塗りつけてゆく。
灯明の仄《ほの》ぐらい明かりに浮いた「若影」の寝顔には、微《かす》かな苦渋の翳《かげ》りが、刷《は》かれていた。
三度、「若影」は傷ついていた。
最初は、樋口十郎兵衛に、太股《ふともも》を刺され、二度目は、武蔵野の雑木林の中で、柳生十兵衛の豪剣で、立木もろとも、胸を薄手に斬《き》られ、三度目は、今宵、遠藤由利から拝領太刀を奪って、庭へ出たところを、われと同じ忍者に襲われて、法輪《ほうりん》をかたどった十字|手裏剣《しゅりけん》を十数本も打込まれて、その一本を眉間《みけん》に受けたのである。
創《きず》は浅かったが、噴いた血汐《ちしお》が、双眼に入って、闘いつづけることができなくなり、むなしく遁《のが》れ去らねばならなかった。
しかし、「若影」の面上の苦渋の翳りは、傷の痛みによるものではなかった。拝領太刀を、その忍者に奪われた無念のためであった。
対手《あいて》は、明らかに、老人であった。のみならず、跛《ちんぱ》で、高みへの跳躍は不可能であった。にも拘《かかわ》らず、「若影」は、不覚をとったのである。
「……あのおいぼれに、このわしが――くそ!」
思わず、呻《うめ》くように、そう吐き出した。
「母影」は、膝を立てさせて、臀部《でんぶ》から内股《うちまた》へ、ゆっくりと、油に濡《ぬ》れた掌《てのひら》で、撫《な》であげ撫であげし乍《ながら》ら、
「余儀《よぎ》ない不覚であったのじゃ」
となぐさめた。
「不覚は不覚だ! 死におくれた片端者に、このわしが、太刀をさらわれたばかりか、浅手まで負わされた。――母者らしゅうもない。なぜ、わしを、さげすまぬ?」
「そなたより、敵が、まさっていただけのことであろう」
「まさっていたとは思われぬ。わしの不覚だ!」
「そなた――」
油指で、そろりと、睾丸《ふぐり》の裏側を、かるく掻《か》き揚《あ》げ乍ら、
「遠藤由利の寝姿を、心にのこしていやったのではないか」
と、言った。
「若影」は、股間《こかん》から、全身にひろがる快い戦慄《せんりつ》に、微かに身顫《みぶる》いしつつも、母親の皮肉な振舞いに対して、嫌悪をおぼえた。
「わしは、あの娘を犯しはせなんだ」
「だからこそ、心に残していた、とも言える」
「いいや! わしの気力も体力も、いつもと同じに充《み》ちて居《お》った」
「ならば、対手が、つよすぎたまでじゃ」
「おいぼれ片端が、わしより、つよかったのか!」
「跛《びっこ》のおいぼれとあなどったものであろう」
「あなどりはせなんだ。あなどりはせなんだが……」
「それみるがよい。敵は、そなたの知らぬ意外の業《わざ》を備えていたまでのことじゃ」
「……」
「母影」は、蹠《あしうら》まで油を塗り終えた。今夜は、「若影」の股間には、健康な本能の変化は、示されていなかった。
「若影」が起き上がった時、「母影」は、何気ない口調で、言った。
「そなたが闘った対手は、服部半蔵ぞ」
「服部半蔵? ……先頃まで、伊賀組の頭領であった男だな?」
「服部半蔵ときけば、そなたも、不覚を慙《は》じずともよいであろ」
「いいや、服部半蔵であろうと、誰であろうと、おいぼれ片端に敗れた無念には、堪えられぬ。……そうか、服部半蔵であったか。よし! 必ず、彼奴《かやつ》を、仕止めてくれる!」
「……」
「母影」は、わが子の険しい横顔へ、冷たい眼眸《まなざし》を当てたが、何も言わずに、すっと立って、片隅にたたんである柿渋の紙子を把って、虎皮《こひ》の筵《むしろ》の上へひろげた。これが忍者の牀《とこ》であった。
「若は、明夜、大奥へ忍び入って、将軍家の夜伽《よとぎ》をすませた遠藤由利を襲うがよい。服部半蔵から返してもらった拝領太刀を、かたえに置いて居ろう」
しずかに、紙子の下へ身を横たえた「母影」は、
「こんどこそ、ぬかるまい。伊賀三十六人衆が詰めて居る大奥のことゆえ、声をたてられて、騒ぎになったならば、無事に脱出することは、おぼつかぬ。容赦なく、由利をわがものにして、口を封じねばならぬ。女身のあつかいを、この母を対手として、習うておくがよい」
そう言って、「母影」は、片手を挙げて、灯明の灯を消した。
二
その翌日、冬を呼ぶような冷たい秋雨の、しとしとと降る吹上の禁苑《きんえん》における第五試合は、大捨流《たいしゃりゅう》、菅沼新八郎《すがぬましんぱちろう》と羽黒山自念坊との間に行われた。
結果は、菅沼新八郎が、太刀を拝領することになった。
後刻、柳生宗矩《やぎゅうむねのり》は、西之丸《にしのまる》の桜の間に、新八郎を招いた。
「精妙の技、われら眼福を得たと申上げられる」
と、ほめてから、
「貴殿は、あの技を、如意輪《にょいりん》剣と申された。大捨流の極意か、それとも貴殿の御発明か?」
まだ、二十五歳になったばかりの、見るからに好もしい風貌《ふうぼう》を持った青年剣士は、畳に両手をつかえて、
「御賢察のごとく、あの技は、あの場に於いて咄嗟に思いつきたるもので、再び使うことは叶《かな》わず、とおぼえまする」
とこたえた。
大捨流とは、体捨流とも書く。伝書は、多く、片仮名を用いている。流祖は、肥後|球磨郡人吉《くまごおりひとよし》の産、丸目蔵人《まるめくらんど》である。相良壱岐守《さがらいきのかみ》に仕え、十七歳にして初陣《ういじん》功名して、のちに京に在って、しばらく北面守衛の士となっていた。その頃《ころ》、上泉伊勢守《かみいずみいせのかみ》が上京したときいて、たずねて行って、立合いを乞《こ》い、勝負三本と決めて、ことごとく、搏《う》ち倒された。蔵人は、慙《は》じて、そのまま、行方をくらまし、五年後、再び京にあらわれたが、すでに、その時、伊勢守は亡《な》かった。失望した蔵人は、清水寺に、大捨流の高札を立てて、試合に応ずる者を、のこらず破った。その数二十九名であった、という。
大捨流は、戦場の操剣を旨《むね》としたもので、頗《すこぶ》る豪快で、身躰《しんたい》を飛びちがえ、薙立《なぎた》て、手許へくり込んで、一挙に勝を制するのを面目とした。
丸目蔵人は、なおこの時世まで生きて、九十歳の高齢であった。菅沼新八郎は、十年前、蔵人が、唯《ただ》一人えらんで門に入れた、秘蔵弟子であった。
「では、咄嗟の応用にいたる――利を視るのは念は、いかにして起されたか?」
宗矩は、問うた。
新八郎は、伏目勝《ふしめが》ちに自慢ときこえるのをはばかる低い口調で、こたえた。
「それがし、時の鐘を合図に、幕内に入って、対手を見ましたところ、折|頭襟《ときん》、鈴掛、結袈裟《ゆいげさ》に、錫杖《しゃくじょう》を突いた応身(剃髪体)が、奇妙にも、大太刀を背負うて居ります。それがしは、山伏ならば、当然、金剛杖《こんごうづえ》を持って、立向って参るものと考えて居りましたので、なにゆえに、大太刀を背負うて居るのか、直ちに合点が参らず、しばし、当惑|仕《つかまつ》りました。対手が間合いを詰めて来て、菩薩《ぼさつ》錫杖の六輪を鳴らして、その先端を、地に摺《す》らせるや、はっと、これは、振り棒にあらずやと、思い浮かんだのでございます。すなわち、六波羅蜜《ろくはらみつ》を表わしたとみせたその先端から、鎖つきの分銅を噴き出させて、ひと振りに唸《うな》らせて、足を払い、足くびにからませて、曳き倒しざまに、背負うた太刀を、抜き討つ――これに相違ない。あるいは、分銅を、足ではなく、剣にからませて来るやも知れぬ。いずれにしても、振り棒を受けては、たちまち、身の自由を奪われるは、火を視るよりも明らかであり、と申して、先手に攻めようにも、振り杖がとった距離は遠く、撃ち込みは、とどきませぬ。不測の応用は、ついに、錫杖が、笠斫《かさはず》しの上段の構えから、唸りをたてて、弧線を描いて来るまで、それがしの念頭に泛《うか》ばず……。その先端から噴いて出た分銅に足を払われて、一躍に、宙へ飛んだ刹那、脳裡にひらめいたのが、おのれを、蹴鞠《けまり》と化すことでございました。……それがしは、御高覧のごとく、空中にもんどり打ち、一回転しざま、対手の胸へ体当たりをいたし、倶《とも》倒れに倒れ、立ち上がった時には、抜刀いたして居りました。その時、すでに、それがしの剣は、対手が背負うた大太刀の柄《つか》を断ちきって居りました」
「まさしく――お見事であった。念動ぜずして、気は霊明にしたがって闊達《かったつ》流行、心を載せて滞らず、その形を御すること無礙自在《むげじざい》――貴殿の不測の妙用こそ、剣の術の悟入と申そうか」
「過褒《かほう》にございます。あの技は、日ごろの修業によって発しましたるのでは、ございませぬ」
「と、申すと?」
「実は、それがし、今朝、奇妙な事に出会い、その折の不覚が、測らずも、転じて、あの技を使う幸運をもたらしてくれたのでございます」
新八郎は、夜明け前に起き出て、心気を鎮《しず》めるために、宿所のちかくの神社の境内を逍遥《しょうよう》していた。
すると、突然、木立の奥から、女の悲鳴が聞こえて来た。すてておけず、馳《は》せ入ってみると、暁暗《ぎょうあん》の中に、もつれ合っている男女の姿が見わけられた。
「痴《し》れ者《もの》ッ」
一喝《いっかつ》して、そこへ――二間|奔《はし》った瞬間、いかなる仕掛けであったか、その走路をさえぎって、一条の縄が、矢が飛ぶように、ぴいんと張られ、新八郎は、足をさらわれて、宙にもんどり打ったのであった。
転びざまに、一刀を鞘走《さやばし》らせて、はね起きてみると、奇怪にも、つい眼前で争っていた男女の姿は、忽然《こつぜん》として、かき消すように失《う》せていたし、振りかえると、足を払った縄も、見当たらなかった。
これは、現《うつつ》に覧《み》た夢というよりほかはない出来事であった。
どう考えても、合点のいかぬ不思議であった。
「いまにして思いますれば、まつった神が何神たるかもおぼえずに、拝殿の階《きざはし》にぬかずいて、祈ったそれがしを、実は、武運の神がみそなわしたのでございますまいか。このたびの栄誉は、神助けとしか、思われませぬ」
そう告げる新八郎を、宗矩は、微笑をもって眺めた。
「神助――あるいは、そうかとも受けとられてよろしかろう。……ところで、貴殿のような達人に、言わでもの御忠告乍ら、老婆心《ろうばしん》を以《も》って申上げておきたい。大切の試合が終わった夜などは、とかく、心に隙《すき》が生じやすきもの。拝領の太刀は、かまえて、お守り願いとう存ずる。と申すのも、今度《こた》びの試合の選びよりはずされた兵法者の中には妬心《としん》に駆られて、前後もわきまえぬ企てを起す者もあろうか、と案じられるのでござる」
新八郎は、つつしんで、忠告を承って、退出して行った。
宗矩が、常のごとく、宵前《よいまえ》に屋敷に戻《もど》ってみると、前日と同じく書院には、老いたる忍者がひっそりと待ち受けていた。
「お嗤《わら》い下され。服部半蔵も、老い申した」
無表情で、言った。
「一度で生捕れるような曲者《くせもの》ならば、お主を呼んで、たのみはせぬ」
宗矩は、かぶりをふってみせてから、
「いかがであった? お主が、二十年前、木曾谷に訪《と》うた影と、何かの縁《ゆかり》を持つ忍者と見て取れたかな?」
「そこまでは、未《いま》だ見とどけ申さなんだが、伊賀や甲賀の者でないことは、明らかでござる」
半蔵は、わざと、返答をにごした。
宗矩の眼光が、眩《まぶ》しかったので、
「影の名を称するだけの業前《わざまえ》では、ござった」
と、つけくわえた。
「歳の頃は?」
「左様、二十歳を超えてまだ間もないと、見申した」
「すると……もし、木曾谷の影に縁《えん》がありとするならば、さしずめ、孫に当ろうか」
この宗矩の何気ない言葉は、半蔵の胸を、鋭く刺した。
「ともあれ、お主のおかげで、拝領の太刀は、はじめて勝者の手許《てもと》に残った。遠藤由利は、それを携えて、大奥へ上った。影は、よもや、大奥までは、忍ぶまい」
「……」
半蔵は、しかし、忍者の執念のおそろしさを知っていたので、宗矩の安堵《あんど》に同意できなかった。
「ご苦労乍ら、今宵は、菅沼新八郎の身辺を見張っていてもらおう」
「もとより」
半蔵は、承知した。
なぜか、半蔵は、拝領太刀を、生きのびていて渋谷郊外に隠栖《いんせい》する真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》に観せに行ったことは、告げずに、腰を上げていた。
三
遠藤由利は、城中よりの迎えの駕籠《かご》に乗って、大目附《おおめつけ》、内藤駿河守邸から、まっすぐに、大奥へ入った。
先年、関白|鷹司家《たかつかさけ》より、御台所《みだいどころ》の入輿《じゆよ》があって、大奥は、ようやく、公家《くげ》風儀が取り入れられていたものの、後世のものものしい柳営模様からは想像もつかぬくらい、堅苦しい秩序は敷かれて居らず、御台所が直接|御表《みおもて》の玄関へ出て来るほど、のびやかであった。
男子禁制の大奥と、中奥(将軍官邸)との間にお鈴廊下が設けられ、御錠口の杉戸が厳然たる遮断をなしたのは、六代将軍|家宣《いえのぶ》が、関白近衛家の女《むすめ》を迎えてからである。
とはいえ、女中たちの容儀衣裳《ようぎいしょう》は、ようやく整って来ていた。
由利は、畳廊下を奥へ奥へと、みちびかれ、とある部屋に入れられると、すぐさま、衣服を脱がされ、一糸まとわぬ素裸にされて、湯殿へともなわれた。一人の老女が指図して、四人の女中が、由利の全身を、くまなく洗った。由利は、生贄《いけにえ》のからだに、いまわしい傷跡でもついていては、と綿密に点検されているような気がして、不快だった。由利の肌《はだ》は白く、艶《つや》やかで、一点の汚染《しみ》もなかった。
用意された衣裳をつけるのも、由利の手は不要であった。人形のように立って、伽羅《きゃら》の香のこぼれる白羽二重の腰巻きをまきつけられ乍ら、由利は、ふいに、狂おしく嗤い出したい衝動にかられたことだった。
入念な化粧が、ほどこされた。
乱菊の地模様の大紋|綸子《りんず》に、幸菱《さいわいびし》の裲襠《うちかけ》をはおった時、女中たちは、その美しさを、口々にほめそやした。
「これは、なにごとじゃ!」
突然、廊下から、鋭い声があびせられ、女中たちは、怯《おび》えあがった。
すっと入って来た春日局は、指図の老女を見据《みす》えて、
「このような装《なり》をさせよと、とは命じて居りませぬぞ。……ともなって参ったならば、なぜすぐに、わたしに伝えて来ぬのじゃ」
と、きびしく咎《とが》めた。
老女としては、由利を別人のように美しくしたてあげて、春日局の前につれようと、気をきかせたつもりであった。
春日局は、由利を素顔にかえし、裸にもどすように命じた。
さらに一刻《いっとき》を費やして、つくりあげられた由利の姿は、丸袖《まるそで》に、緞子の裃《かみしも》をつけ、脇差《わきざし》をおびた、前髪立ちの小姓であった。
由利としては、まだこのいでたちの方が、我慢できた。
将軍家光は、すでに、大奥へ入って来て、待ちうけていた。
由利が、春日局にともなわれて、伺候《しこう》すると、満足げに顔をかがやかせて、
「うむ!」
と、大きく頷《うなず》いた。
「参れ――」
寝所へ促して、立つ態度は、率直であった。
六人の女中が、寝所で待っていて、家光と由利を寝衣《ねまき》に召替えさせた。由利は、腰巻きの代りに、褌《ふんどし》を締めさせられていた。
緋緞子《ひどんす》の褥《しとね》に入ると、家光は、いきなり、由利を俯伏《うつぶ》させて、うしろから、かかえた。
もとより、痴愚《ちぐ》の行為に関しては無知であった由利は、生贄の覚悟をしてはいても、家光の思いもかけぬ挙措《きょそ》に愕《おどろ》いて、思わず、身に備えた術で、一時のがれに、五体をよじった。しかし、それは、かえって、思わぬ技巧となって、家光の欲情の火へ、油をそそいだ。
家光は、狂い乍ら、由利を背後から締めつけ締めつけた。
……半刻後、将軍の去った褥で、由利は、死んだように仰臥《ぎょうが》していた。
ひとすじ、泪《なみだ》の糸が、眦《まなじり》からこめかみをつたい落ちていた。
と――、由利の孤独な悲しみに応《こた》えるように、網行灯《あみあんどん》のあかりが、すうっとうすれて、ひとまたたきして、ふっと消えた。
墨を流したような闇《やみ》の中から、一つの声が、起った。
「会いに参った」
「……」
ふしぎなことに、由利は、すこしも驚かなかった。いや、かえって、この闇の男の出現を期待していたような気さえした。
「そなたは、わたしと約束した。……作法通りに、そなたをわがものにいたすために、会いに参った」
由利は、その声音《こわね》を、なつかしいものに、きいた。
「それとも、いま一度、拝領の太刀を把って、立合うか?」
「いえ――」
由利は、闇の中で、かぶりをふった。
「おそすぎました。わたくしは、もう、権勢で取拉《とりひし》がれた女です。わがものにするねうちはありますまい。拝領の太刀は、床の間にあります。持ち去られるがよい」
「……」
「生きたしかばねを抱いたとて、なんの快さもありますまい」
「……」
由利は、闇の中で気配がうごいて、床の間に寄り、拝領太刀を把りあげるのを、察知した。
気配は、褥のわきを通り過ぎようとした。
その瞬間、由利の身のうちに、何か押しあげられるような衝動が起った。
掛具をはねて、立ち上がった由利は、無言で双手をのばすと、闇の男の袖をとらえた。
「……」
「……」
どちらの口からも、声は出なかった。
……男のたくましい腕にかかえられて、褥の上へ倒された時、由利は、
――これで、死んでもよい。
と、思った。
四
同じ時刻。
菅沼新八郎は、奥|祐筆《ゆうひつ》を勤める叔父の旗本屋敷の一室で、異常な悪夢にうなされて、盗汗《ねあせ》に、ぐっしょりと濡《ぬ》れて、目覚めた。
どんな内容のものであったか、目覚めたとたんに、記憶から遠のいてしまった。
しばらく、茫乎《ぼうこ》として動かずにいた。
自分が、灯《ひ》の中に寝ていることに、はっとなったのは、それから、しばしの時刻を移してからであった。
たしか、行灯のあかりは、消した筈であった。
ぱっ、とはね起きた新八郎は、床の間を振り返った。
愕然となった。
柱から柱へ――一条の縄《なわ》が、二尺あまりの高さに、ぴんと張ってある。拝領の太刀は、その向こうに在った。
桜の間で、きかされた宗矩の忠告が、矢のごとく、脳裡《のうり》を掠《かす》めた。
――なんとしたのだ、おれは!
悪夢にうなされて、全く気づかなかったおのれをあざけりつつ、新八郎は、縄の上を跳び越えて、拝領太刀を掴《つか》んだ。
一閃。
縄を両断した。
「呀《あ》っ!」
新八郎は、かっと目を剥《む》いた。
信じられぬことが起った。縄を断つとともに、その切先三寸あまりが、ぽろりと折れ落ちたのである。
火焔《かえん》問答
一
一日、小やみなく降っていた秋雨が、ようやく、あがって、夜空には、無数の星が生まれていた。
見わたすかぎり、波うっている屋根が、黒く沈んで、江戸の街の眠りは深い。灯影は、もうどこにも見当たらぬ。
この暗い寂寞《せきばく》をみださぬ不思議な闘いが、とある屋敷の屋根で、展開されていた。
母屋《おもや》の屋根の隅《すみ》の稚児棟《ちごむね》に蹲《うずくま》った黒影と、二間余離れた土蔵の屋根の上棟に伏した黒影と――。
この二個の黒影は、もう四半刻《しはんとき》も、身じろぎせずに、互いに、対手の動きに応ずる迅業をとるべく、全神経を張って、息をひそめているのであった。
星明かりの中に放射しあう無言不動の鋭気は、夜気を蹴散《けち》らして白刃《はくじん》を噛《か》み合わせるよりも、もっと凄まじい生命力の燃焼を、それぞれの体内に強要していた。
母屋の屋根にいるのは、つい先刻、第五試合の勝者・菅沼新八郎を、その寝所に襲って、拝領太刀の切先三寸を両断して来た「母影」であった。
土蔵の屋根にいるのは、老いたる忍者服部半蔵であった。
半蔵は、「母影」が、新八郎の寝所から抜けて出て来たところを、突如として、攻撃して、目にもとまらぬ無音の争いを、地上から屋上へ移して、この対峙《たいじ》に持ち込んだのである。
半蔵は、地上の闘いに於て、早くも、これが、遠藤由利を襲った曲者とは、別人であることを、看破していた。
遠藤由利を襲った曲者は、若さの迸《ほとばし》るままに、無謀ともいえる剽悍《ひょうかん》な野性ぶりをしめした。それにひきかえて、今宵、出会った敵は、一瞬の動きにも、妖《あや》しい化生《けしょう》の魔気にも似た、完璧《かんぺき》な忍びの術を閃《ひらめ》かしたのである。
まさしく、半蔵は、二十年ぶりに、あの老いたる「影」の女《むすめ》に、出会うた。
おのれを悩ませていた予感が、適中したのを、半蔵は、知らされたのである。
――やはり、そうであったか!
母屋の屋根へ追い上げて、おのれもまた土蔵の屋根へ躍り上がり、|ひそ《ヽヽ》として、闇に利《き》く目を据《す》えた半蔵は、名伏しがたい烈しい昂奮《こうふん》で、枯れ身の内に遽《にわか》に血汐《ちしお》が沸きたぎるのをおぼえていた。
半蔵は、二十年間、一日たりとも、あの老いたる「影」と、不思議な生い立ちの女影《めかげ》を、脳裡《のうり》からすてたことはなかった。
半蔵をして、伊賀《いが》流忍びの業《わざ》を大成させたのは、「影」父娘《おやこ》であった、といえる。父娘の氷のように冷やかな眼眸《まなざし》が、常にどこからか、自分にそそがれていて、それが、半蔵に、異常の刻苦をなさしめたのである。
「影」が、おのが部下六十余名を悉《ことごと》く討死させることによって、「風盗」一族を剿滅《そうめつ》した非情極まる作戦は、半蔵の忍者たる自覚を決定せしめた。
もともと、半蔵は伊賀郷の忍びの家に生まれ、成年に達した時には、家を継いで、伊賀三十六人衆を率いている秀《すぐ》れた忍者であった。
近江国《おうみのくに》にある伊賀郷は、山谷《さんこく》中に、土着の武士が、掌《てのひら》大の田畑を各々領分とし、険隘《けんあい》をたのみ、いささかの身分乍ら、相峙してゆずらず、絶えず小ぜり合いをくりかえしていた地域であった。
甲賀国もまた、同じ状態にあった。
両地とも、文華の中心たる京の都に近いおかげで、人間もまた、疾《と》くにひらけて、油断のない神経の持主|揃《ぞろ》いであった。
小党分立の闘いは、むしろ強窃盗《ごうせっとう》の仕合いと称すべき謀略を必要とし、山谷|林藪《りんそう》の峻嶮《しゅんけん》を越えて、撃ち合う地侍たちが、おのずと、偵察の術に長じたのは、当然であった。
天正十年六月二日、織田信長が、本能寺に殪《たお》れた時、徳川家康は、穴山梅雪を伴って、泉州《せんしゅう》境の街に在った。
家康は、信長父子異変の急報があるや、即座に、本多忠勝、酒井忠次、榊原康政《さかきばらやすまさ》、井伊万千代《いいまんちよ》ら、三十余名をひきつれ、本国|岡崎《おかざき》へ帰る方途を測った。
街道はすでに、明智光秀《あけちみつひで》の軍勢によって占められ、間道は、異変をきいた土匪《どひ》が蜂起《ほうき》して、これを塞《ふさ》いでいた。
枚方《ひらかた》より河内《かわち》の内尊延寺を通り、草地の渡《わたし》をわたり、宇治田原口へ出て、ここから、近江国|信楽《しがらき》へ抜ける順路をえらんだものの、一揆《いっき》の主力が、甲賀の地侍の組んだ徒党ときいて、ハタと立往生した。名にし負う甲賀の忍びの集団に襲撃されては、突破はおろか、生命もおぼつかなかった。
この時、本多平八郎が、ふと、甲賀郡信楽|多羅尾《たらお》の領主多羅尾四郎右衛門光俊の四男で山口藤左衛門光広という旧知が、田原にいることを思い出した。山口光広は、宇治田原城主山口勘助長政の養子になっていたが、養父との折合いわるく、別の家に住んでいた。平八郎は、馬を駆って、光広をたずね、田原山中の嚮導《きょうどう》をたのんだ。
すると、光広は、その任務をはたすには、自分よりも、もっとふさわしい伊賀侍がいる故《ゆえ》、それを先導させようと応《こた》えた。
おかげで、家康たちは、勢多《せた》より信楽、伊賀の境の土岐峠を越えていったが、路次になんの危険もおぼえなかった。山口光広がつけてくれた護衛の伊賀侍が、甲賀衆一揆を追い払ってくれた証拠は、路傍に仆《たお》れている数多くの屍骸《しがい》がしめした。
家康たちが無事に、伊勢の白子浜に出た時、護衛者は、はじめて、その姿をあらわした。服部美濃平蔵《はっとりみのへいぞう》と名乗った。したがえている忍者は、わずか十二名であった。
服部半蔵の父であった。
美濃平蔵は、山口光広から、家康の護衛を依頼されるや、甲賀の忍者たちと雌雄を決すべき秋《とき》が至ったと決意して、その部下八十七名を率いて、その先導をなし、見事にその任務をはたしたのであるが、おのれもまた部下の大半を喪《うしな》ったのであった。
家康は、この働きを嘆賞して、後日必ず報いることを約した。
美濃平蔵は、それから半年後に、甲賀衆の一人に襲われて、逝《い》ったため、その子の半蔵が、徳川家に仕えることになったのである。
忍目附《しのびめつけ》として、服部半蔵が、破格の地位を与えられ、三十余年の長い間伊賀三十六人衆をもって、将軍家の身辺警備に就いていたのも、父美濃平蔵の働きのおかげであった、といえる。
したがって、半蔵が、木曾谷に、「影」を訪《と》うたときも、おのれがただの忍者ではないという誇りを持っていたのである。
ところが――。
「影」父娘の、惨烈無比の面目ぶりを見せられて、半蔵は、遠くおよぶべくもないおのれを慙《は》じたのであった。爾来《じらい》、半蔵は、公儀忍見附の頭領としての日常|座臥《ざが》の振舞いはなさず、常に、蔭に生きる忍者としての心掛けを忘れず、異常の刻苦をつづけて来たのであった。
二
いま、ゆくりなくもめぐり会うた女影を、三間の彼方《かなた》に凝視して、半蔵は、いわばおのが生涯の最大の好敵手に向かって、二十年間鍛えた秘術をかたむけつくす闘志を、枯れ木に似た痩身に漲《みなぎ》りわたらせたのである。
老いた身には、女影を捕え得る術があった。平蜘蛛《ひらぐも》の術であった。
五体を地に伏せて構える隠身遁形《いんしんとんぎょう》は、裏五遁《うらごとん》のうちの蝦蟇《がま》の術に似ているが、蝦蟇の術は、自らを一塊の土と化して隠忍する守勢であるのに対して、平蜘蛛の術は、逆に攻勢の形であった。
敵に向かって、音もなくするすると迫るのは、蛇行《だこう》の術という。そして、石の根に添い、樹《き》の元に寄り、あるいは土の凹《くぼ》みに伏し、全くそれらの物と同化して、脈搏《みゃくはく》さえも絶ったごとくに、凝然とおし鎮《しず》まって、たとえ、棒で打たれ、刃物を振り下ろされても、更にビクとも動かずに、我慢しつづけるのを、蝦蟇の術という。
しかし、平蜘蛛の術は、蛇行する際すでに、敵を襲う猛気をひそめて居《お》り、静止するや、すでに、敵の弱点を看破していて、これを捕える手段が成っているのである。
敵に、おのれの存在をみとめさせて、すこしもはばからなかった。ただ、こちらが動かぬのは、次にとるべきいかなる手段もないため、と敵をして安心させる時かせぎにすぎなかった。突如として、四肢《しし》を発条《ばね》として跳躍させる刹那《せつな》、数条の鳥黐縄《もちなわ》を、投網《とあみ》のごとく、投げ拡《ひろ》げることになる。
この平蜘蛛の術を使うために、半蔵は、背鎧《せよろい》を身につけていた。これは背面を守る革と鎖で作った具足であった。(野戦を目的とした忍びは、俯伏《うつぶせ》せに睡《ねむ》るのであった)
半蔵が、平蜘蛛の術を使うべく、甍《いらか》そのものと化して、土蔵の屋根の上棟に伏しているのに対して、母屋の稚児棟に在る「母影」は、浮身の姿勢をとっている。
浮身の姿勢とは、恰度《ちょうど》、水面へ首だけ覗《のぞ》けて、四肢を自由な形に遊ばせているのに似ている。これは、石火の攻撃を受けて、間髪を容《い》れずに、飛鳥のごとく、自在に身を躱《かわ》すための姿勢であった。
――女影め、わしを甘く見てとっている。
半蔵は、思った。
菅沼新八郎を泊めたこの旗本屋敷内には、柳生道場から選ばれた手練者《てだれ》が、四十余名も、詰めていた。半蔵が、宗矩《むねのり》にすすめて、そうさせたのである。
半蔵は、この多勢の使い手たちを、必ずや、「影」が、睡らせようと企てるに相違ない、と思ったのである。
はたして、新八郎をかこむ祝宴の席に、はこばれた酒には、睡り薬が混じられていた。
腕前たしかな柳生道場の高弟たちは、みるみるうちに、泥酔《でいすい》して、いぎたない格好《かっこう》で、枕をならべてしまった。
――女影め、その光景を、天井裏から、見下ろして、北叟笑《ほくそえ》んだ。その時、お前は、わしに敗れたのだ。
老いたる「影」が、おのが部下六十余名を玉砕せしめたからこそ、「風盗」族は、油断したのではなかったか。
睡り酒と知りつつ、柳生の面々が飲むにまかせて、すてておいたのは、こちらをあなどらせる巧妙な心理作戦にほかならなかったのである。
――お前の浮身の姿勢には、わしを軽蔑しているけはいがある。のめのめと、睡り酒を、柳生門下に飲まされたわしを、耄碌《もうろく》した、とあなどっている。
――女影よ、はたして、わしが、耄碌しているかどうか、見るがよい!
一瞬――。
半蔵は、身を起しざま、ぱっと、七本の鳥黐縄《もちなわ》を、手もとから放った。
目的は、女影に、行動を起させるためであった。縄に手ごたえがあるのを期待してはいなかった。
次の刹那――半蔵は、見た。
女影が、飛び躱すかわりに、右手を大きく旋回させるのを――。
「しまった!」
思わず、その声が、出た。
女影の右手から、唸《うな》って発した一本の鎖綱が、大きく開いた七条の鳥黐縄を、一瞬にして、巻き取ったのである。
たばねられた鳥黐縄は、強い力で曳《ひ》きしぼられて、半蔵は、ふかくにも、よろめいた。
「母影」は、決して、半蔵をあなどっていなかった。あなどったとみせて、半蔵の平蜘蛛の術に応ずる業《わざ》をかくしたのである。
半蔵は、夜空を翔《か》るに似て、稚児棟を蹴って宙のものとなった速影を見送りつつ、鋭く、歯摺《はず》りの口笛を鳴らした。
その口笛の鳴りおわらぬうちに、屋敷の内外に、およそ十数箇所から、一斉《いっせい》に、篝火《かがりび》が燃えあがった。半蔵の合図を待ちかねていた伊賀三十六人衆のしわざであった。
だが、地上へ降り立った筈の「母影」の姿は、どの篝火の明かりの中にも、浮かびあがらなかった。
「母影」の代わりに、あかあかと照らし出された庭上へ、一人つッ立ったのは、拝領太刀を両断された菅沼新八郎であった。
曲者が忍び入ることは、予知されていて、このような警備がなされていたのを、初めて知らされた新八郎は、拝領太刀を両断された無念の上へ、さらに言おう様もない屈辱をあびなければならなかった。
血走った眸子《ひとみ》を八方へめぐらして、もし、曲者の片影が、ちらとでも見えたならば、まっしぐらに突撃すべく、猛気で総身を顫《ふる》わせんばかりであった。
と――。
新八郎は、左手に携《さ》げた差料の鐺《こじり》に、ほんの微《かす》かな力が加えられるのを感じた。
「……!」
冷水をあびせられるような戦慄《せんりつ》が、背すじをつらぬいた。
いつの間にか、曲者は、気配もなく背後に忍び寄って、鐺を掴んだのである。
新八郎は、おのれに絶望した。不覚というもおろかであった。捕虜となったも同然の状態に置かれたのだ。
「母影」にすれば、これほど巧妙な隠身はなかった。伊賀三十六人衆の目がはずれている唯一《ゆいいつ》の場所が、新八郎の立つ地点だったのである。なぜなら、新八郎の周囲は、新八郎の剣にゆだねられていたからである。
新八郎は、鐺《こじり》に力が加わったと感じた刹那、反射的に右手を柄にかけていたが、それなり、抜くことも叶《かな》わず、金縛りに遭ったように、大地をふまえたまま、微動もせぬ状態を、しばし、つづけて、ついに汚辱にまみれた血汐の滾《たぎ》りが、極限に来たのを知った。
「……むっ!」
口腔《こうこう》一杯に渾身の気合いを含んで、新八郎は、猛禽が羽撃《はばた》くように、躍りあがった。
刀の鞘《さや》を曲者に与え乍ら、地上五尺の宙で、もんどり打ったのは、御前試合で示した咄嗟《とっさ》の極意、如意輪剣であった。
一回転しざま、背後の黒影へ、きえーっと、振り下ろした一撃は、足が地面に着くよりも迅《はや》かったかと、思われた。
|かっ《ヽヽ》と手ごたえあって、奇怪《きっかい》にも、黒影が、一握りの小さな黒い球と化すのを、新八郎は、みた。
球は、次の瞬間、微塵《みじん》に砕け散った。
そして、それは、ぱっと白煙を噴くや、篝火の赤い照明のただ中で、白銀の光芒《こうぼう》を、流星のように、八方に飛ばしたのであった。
のみならず――。
あまりに烈しい光に目晦《めくら》んだ新八郎が、
「おのれ!」
と、双眸《そうぼう》を剥《む》き直してみれば、光芒の流れおちた地点には、それぞれ、形も同じ黒影が湧《わ》き立って、跳梁《ちょうりょう》しはじめていた。
新八郎は、忍びの術のうちの火焔遁形《かえんとんぎょう》の幻惑と知りつつも、その孰《いず》れのひとつが実体であるか、見分けることができなかった。
三
凄じい火焔が、風を呼び、その風がさらに、火焔をあおって、夜空は、炎々と焦げていた。
ここ――湯島台の一隅の、神域の守り木にふさわしい樟《くす》の巨樹の根かたに蹲《うずくま》って、その鮮烈たる夜景へ、冷たく澄んだ眸子《ひとみ》を送っている「母影」の孤影は、一匹の女狼が、甲羅《こうら》を経た老狐と闘って、その眷属《けんぞく》の包囲から能《よ》く脱して、しずかに憩《いこ》うに似ていた。
老狐が、二十年前、自分を犯し、「若影」を生ませた人物であったことに、どのような感慨をおぼえているのか――冷たく澄んだ眸子に、それは、みじんも泛《うか》べられてはいない。
放心――それであったろう。疲労を、すみやかに癒《いや》すために、人間ならば当然起すであろう感慨も、この非情の女忍者の心は拒んでいるようであった。
やがて、火焔が沈み、余燼《よじん》から舞いあがる黒煙も、しだいに薄れはじめた。
「母影」は、立ち去るべく、身を起そうとした。
その時であった。
巨樹のうしろから、ひとつの声が、かけられたのは――。
「二十二年前を想い出す……」
穏やかな、ひくく抑えた語気であった。
「母影」は、闇の中に、大きく、かっと双眸を瞠《みひら》いた。
「そなたとわしは、風盗の砦を、谷をへだてた丘の上から、眺めていた。そなたは、坐っていた。わしは立っていた。……砦の前方では、火柱が立った」
「……」
「いまの状況と、似ているではないか」
半蔵は、まだ巨樹の蔭から出ようとせず、「母影」もまた、微動もしなかった。
「油尽きて灯火滅す、と申すが、因果はめぐるものと、知った。……あの時、わしは、そなたが、女《おなご》であることを看破した。そなたは、憤《おこ》って、わしを討って取る業《わざ》をそなえていたにも拘《かかわ》らず、反撃して来なかったばかりか、なんの抗《あらが》いも示さず、わしの意のままにしたがった。何故《なにゆえ》に、わしに、肌身《はだみ》をゆるしたのか、今日まで、解けぬ謎となって居る。あらためて、訊《き》くが、何故に、わしに、肌身をゆるしたぞ!」
「……」
半蔵は、待った。しかし、ついに、「母影」は、こたえなかった。
「よい。こたえたくなくば、きくまい。しかし、ただ一度の契り乍ら、そなたが、影の家の跡を継ぐ者を生んだのは、かくすすべはない。……そなたは、わが子を、影と名乗るにふさわしい忍者に、よう育てあげた」
「……」
「わが子と知らずに、襲うてみて、わしは、舌をまいた。あと十年も経《た》てば、母よりも、祖父よりも、秀《すぐ》れた忍者となろう。……そなたは、おそらく、この服部半蔵が父親であることを、わが子に教えては居るまい。そなたは、忍者の世界に、親子の情はないと、申したいのであろう。わしも、昨日までは、そう思うていた」
「……」
「嗤《わら》うであろうが、わが子と闘ったと知った時に、存念が変った。……そなたに、わが子をいとおしむ情がないとは言わせぬ。されば、このわしの胸にも、その情が目ざめたとしても、ふしぎはない。……御世《みよ》おさまったこの泰平の時に、忍者であるが故に、骨肉が相食《あいは》まねばならぬ宿運と、きめるのはおろかではあるまいか」
「……」
「そなたが、若を使って、拝領の太刀を次々と奪っている目的も、ほぼ想像は付いて居る。しかし、わずか二人の力で、この強大な公儀の権勢に挑《いど》むのは、あまりにも、無謀であろう。冷静に、はたから眺める者には、その結末は、火を見るよりも明らかなのだ」
「……」
「わしが、そなたに、望むのは、三代を継いだ者の、すぐれた忍びの業を、絶やすな、ということだ。徳川家に随身《ずいしん》せよ、とは申さぬ。無謀の挑戦を止《や》めて、木曾谷へ帰ってもらいたい」
半蔵が、そうさとして、巨樹の蔭から、歩み出るのと、「母影」が、すっと立って、向きなおるのと、同時であった。
しばし、両者は、闇を透かして、じっと、瞶《みつ》め合った。
「母影」が、口をひらいた。
「服部半蔵ともあろう忍者が、そのくりごとを言うために、ここまで尾《つ》けてやって来たのか?」
「くりごとであろうか。そなたが、ここへ現われると察したわたしが、ただ、くりごとだけを申すために、一人で、のこのこ参る筈があろうか。伊賀三十六人衆が、すでに、六組に分かれて、東西南北、天地の備えをかためて居る。伊賀流捕物の秘術を配るのに、ぬかりはない。のがれられぬところと知るがよい」
「なんの……」
「母影」は、冷やかに一蹴《いっしゅう》した。
「半蔵殿。お前が、若の父親であることは、まぎれもない。わたしは、影の家の忍びの術をつたえる者が欲しかったので、お前の意のままに、したがったまでじゃ。その直後に、わたしは、不用となったお前を殺してしまえばよかったのじゃ。ふと、慈悲をおぼえて、お前を去《い》なせてしまったことを、あとで、どんなに悔いたことか。おかげで、二十年後に、お前のくりごとをきくわずらわしさに堪えねばならなんだ。……若は、わたし一人の子じゃ! お前などに、今更、父親|面《づら》されてたまろうか! 忘れまいぞ! 影の家に、情《なさけ》というものはない。お前こそ、それを一番よく知っているものを、老いの侘《わび》しさにかこつけて、存念を変えたなどと、その小ずるい誑《たぶらか》しに、のめのめと乗る影と思うてか。……わしら母子《おやこ》とお前のあいだには、必死の術の競いがあるまでじゃ! 見事、わたしを生捕ってみよ!」
昂然《こうぜん》と言いのこすや、「母影」の黒影は、はや、翼を得たもののごとく、地を蹴って飛び立ち、あっという間に、巨樹の高みへ消えていた。
秘術
一
猿《ましら》に似て、しかも猿よりも迅《はや》く、天に沖《ちゅう》する樟《くす》の巨樹の、梢《こずえ》の中へ消える女影《めかげ》を、服部半蔵は、見送ってから、ひとつ、老人らしい溜息《ためいき》をもらした。
――やんぬる哉《かな》!
その眸子《ひとみ》は、しかし、闇《やみ》を透かして、梢の一点へ、鋭く当てられて、次に女影がとるであろう行動を待ちうけた。
数秒を置いて、|そよ《ヽヽ》ともせぬ梢の内から、翅音《はねおと》もたてずに飛び立つ鳥影|宛然《さながら》に、隣の杉の樹《き》へ向かって、二間余の宙を翔《かけ》る黒影を、半蔵は、見遁《みのが》さなかった。
次の瞬間――。
その黒影は、石のように、地上へ落下して来た。
跳躍をあやまったのではなかった。
「母影」が、つかんだ杉の枝は、疑似枝であった。
半蔵は、「母影」が、樟の巨樹をかけのぼって、隣りの杉へ、飛ぶことを、予《あらかじ》め期して、幾本かの枝を落として、かわりに疑似枝をくくりつけておいたのである。
「母影」が、この湯島台地に、しばしば憩《いこ》うことを、半蔵は、しらべあげていた。
忍者というものは、四方に敵に待伏せられる危険がある時は、必ず、巨樹の根かたを憩いの場所にえらぶ。頭上へ、身をのがれさせるためである。
木立から木立へ、空中を飛び移って、姿をくらます法は、忍者の最も得意とするところである。
一見して、樟と杉との空間の距離は、飛翔《ひしょう》不可能と目測される。だからこそ、「母影」は、わざと、樟の根かたに憩うのである。
ところが、半蔵の方では、さらに、その裏をかいて、杉の高みに、疑似枝を用意したのである。
「母影」の敗北とみえた。
風をきって、落下した「母影」は、地上一間あまりの宙で、くるっと|とんぼ《ヽヽヽ》返りを打つと、すっくと、地上に立った。
とみた刹那には、もう、後方にある社殿へ向かって、矢のように奔《はし》っていた。
半蔵が投じた鳥黐網《もちあみ》は、落下の地点で、正確に拡《ひろ》がったにも拘《かかわ》らず、どうくぐり抜けたものか、掠《かす》め去る黒影は、むしろ悠々《ゆうゆう》たるものにさえ眺《なが》められた。
「母影」が、社殿の葛石《かずらいし》から回廊の擬宝珠勾欄《ぎぼしこうらん》へ、そして、そこから宝鐸《ほうたく》の下った軒へ、二段飛びに躍りあがって、たちまち、鴟尾《しび》の上へ立ったのは、ひと呼吸の間といっても、誇張ではなかった。
だが――。
「母影」の、この逃路もまた、半蔵の予め期していたところであった。
たちまちに、春日造りの大屋根の背面から、三個の黒影が、棟上へ、ぬっと出現したかと思うや、一斉に、「母影」めがけて、飛礫《つぶて》を撃った。
その一個は、鴟尾にあたって、夜目にも、白く、煙のようにぱっと砕け散った。これは、蝋石《ろうせき》を微塵《みじん》にした粉末で、薄紙に包んだものであった。黒衣に当たれば、白い斑点《はんてん》がついて、忽《たちま》ち目印になる。石粉の中には、芥子《からし》を混《こん》じてあり、目つぶしの狙《ねらい》いでもあった。
「母影」は、ほんのしばし、鴟尾の蔭へ、身を伏せていたが、突如、半蔵が彳《たたず》む方角へ向かって五体を投じた。
だが――その五体には、一本の綱がむすびつけられてあり、半蔵の頭上まで飛んだ黒い躰は、一個の振子となって、反対側へ向かって、びゅーんと、半円の弧線を描いた。
のみならず、綱が、水平に張った刹那、錘《おもり》と化した黒い躰は、綱を切り離して、さらに、三間の遠くへ、飛んでいた。
「母影」は、安全な地点に、遁れ得たかと、思われた。
ところが、不運は、其処《そこ》にあった。
たちまちに、地を蹴《け》って奔《はし》ろうとした「母影」を、思わず、その場へ凝結したように立竦《たちすく》ませる者が、一間むこうに、地から湧《わ》いたように、立っていたのである。
立枯れの古木にもひとしい六尺の痩身《そうしん》、ぼうぼうと乱れた蓬髪《ほうはつ》、胸に垂れた長髯《ちょうぜん》――鞍馬古流《くらまこりゅう》・鴨甚三郎利元にまぎれもなく、自然木の杖《つえ》をついて、じっと、こちらを見据《みす》える静止相は、呼吸からも解放されてしまったような、どこにも生き身のけはいがないだけに、かえって、「母影」を、戦慄させた。
「母影」は、はじめて、腰から一刀を鞘走《さやばし》らせた。
数秒の対峙《たいじ》の間に、「母影」の心に絶望感が来た。
なんの構えもしめさずに、ただ、ひっそりと立つ老体が、背後の社殿よりも巨大な、おそろしいものに、眸子《ひとみ》に映っていた。
半蔵と伊賀三十六人衆が、ここへ殺到して来ずに、何処かヘ身をひそめてしまったのは、完全に退路を断ったことを、意味していた。
「……」
「……」
「母影」は、敵《かな》わぬ乍《なが》らも、死中に活を求める一撃を送るべく、じりりっと、半歩出た。
「待て!」
甚三郎が、制した。
「かかって参れば、この杖が、そなたの脳天を砕く。女性《にょしょう》と判《わか》ってみれば、それはなるまい」
そう言ってから、甚三郎は、ゆっくりと、おのれの前の地面へ、杖で、一本の線を引いた。不思議にも、その線は、白い光を発した。
「これを越えてはならぬ。越えれば、余儀なく、脳天を砕かねばならぬ。引きかえして、伊賀衆と再び争うて、捕えられるにせよ、果てるにせよ、それは、この年寄りの関《あずか》り知らぬところだ」
甚三郎としては、服部半蔵の依頼を受けて、この場所をまもっていたのである。自分に襲って来なければ、敢《あ》えて、こちらから、攻撃する意志はなかった。その約束であったし、女性と看破してみれば猶更《なおさら》のことであった。
ただ、この逃路をふさいだだけで、おのが役目はすむのであった。
甚三郎は、しずかに、「母影」へ背中を向けて、歩み去って行った。
「母影」は、微動だにしなかった。
甚三郎の後ろ姿が、木立の闇に溶けた時、「母影」は、ふと、水のにおいを、かいだ。
左方の杉木立の中に、大きな池があったことに、ようやく、気がついた。
――遁れられる!
「母影」は、大きく、斜横に跳躍するや、木立の中へ奔り込んだ。
一瞬、そこに伏せていた伊賀三十六人衆の手から、粉飛礫《こなつぶて》が、「母影」に集中した。
「母影」は、その二三個を胸に、背に受けつつ、杉の幹をかけのぼって、枝葉もゆらさずに、次々と飛び移っていった。
だが、粉飛礫には、黄燐《おうりん》が混じてあったとみえて、梢のあわいを掠《かす》める黒衣の姿は、妖《あや》しく光を撒《ま》いた。
地上の忍者達は、余裕をもって、「母影」の速影を追った。
この湯島台にある瓢箪池《ひょうたんいけ》は、かなり大きなもので、池中に、方三間あまりの島を浮かせていた。
島と行っても、一本の松が、由来ありげに、樹冠をひろげているばかりであった。
「母影」が、岸辺にそびえる杉の高みから、綱も用いずに、四間余の距離を、かるがると翔《か》けて、その松の梢へ移ったのは、流石《さすが》であった。
のみならず、「母影」は、半蔵が周到にも、そこに用意しておいた幾本かの疑似枝に騙《だま》されることなく、するすると幹をつたって、頂上に達した。そこにねむっていたであろう、小鳥が一羽、あわただしく、中空へ羽音をたてて行った。
「母影」は、さらに、その頂上から、反対側の杉の木立の中へ、飛ぶことを考えていたに相違ない。
その杉木立の下方は、断崖となって、町屋通りにつづいている。そこまで遁れれば、身を匿《かく》す場所に不自由はしないのであった。
二十年前の彼女であったならば、その頂上で、ひと息つく疲労はみせなかったであろう。
そこから、向いの岸までは、さらに五間の距離があり、その空間の広がりが、思わず、「母影」に、呼吸を整える数秒かを必要とさせた。
後方の岸辺の木下闇《このしたやみ》から、その光る黒衣めがけて、火筒《ほづつ》が、轟然と鳴ったのは、その瞬間であった。
火筒から発射されたのは、砲弾ではなく、数十条の鳥黐網《もちあみ》であった。
夜目にも鮮やかに、蜘蛛《くも》の巣のように拡がって、松の樹冠にかぶさった。
「捕《と》った!」
木下闇の中で、半蔵は、叫んだ。
しかし、そのよろこびは、早すぎた。
蜘蛛の巣にひっかかった黒い蝶《ちょう》のように、烈しいもがきをしめした「母影」は、不意に、光る黒衣の中から、するりと、白い女躰《にょたい》を滑り抜けさせるや、池の中へ、高い飛沫《しぶき》をあげて、とび込んでいた。
「おっ!」
半蔵は、二十年前に抱いた女躰を見せられて、思わず、呻《うめ》いた。
波紋が大きく拡がった水面は、それきり、なんの変化も起さず、油のように黒い闇夜の色を湛《たた》えて、一個の裸身を呑《の》んだのも、そ知らぬげに、静寂にかえった。
――池底が、川へ通じて居らぬ限り、脱出する方法《すべ》は、あり得ぬが……。
伊賀三十六人衆が、池畔《ちはん》の要処要処を占めて、水面を見戌《みまも》っているのである。
半蔵は池底へ消えた「母影」を、ふと、あわれんだ。
東の空がしらんで、仄明《ほのあか》りが、ようやく、この台地をおとずれた。
二
この日――九月二十八日の朝は、やや強風の兆《きざ》しがあった。空に一片の雲影もなく、遠く峙《そばだ》つ富士の峰が鮮やかに浮き立ちすぎていた。
第六試合にえらばれた関口弥太郎《せきぐちやたろう》と佐川蟠竜斎《さがわばんりゅうさい》は、それぞれ、門を出た時、富士山を望み見て、
「風か――」
と、同じ一語を呟《つぶや》いた、という。
富士山を見て、今日明日の天候気象の変化を予知するのは、当時の人々のならわしであった。
余談になるが――。
富士山を正面に望む吉原の松かげに住む老女で、明日の天候を予言するに、百発百中、神の如く正確な者がいた。或《あ》る西国の大名が、高禄《こうろく》を以《もつ》て、しいてこれを招き、おのが城下へともなって、天気予報を試みさせたが、こんどは、ふしぎな程さっぱり当らなかった。不審に思って、調べたところ、この老女は、自分の家の後ろに峙《そばだ》つ富士山に注目する経験を積み、朝、昼、夕、夜と、刻々に変るその色合、遠近濃淡の状態、雲のかかり具合などによって、四季に於ける天候の変化を卜《ぼく》するようになり、中年にいたると、富士山と気象との関係をのこりなく経験しつくして、天気の予言に全く完璧《かんぺき》になったのである。ところが、西国に移された老女は、富士山が眼前にないために、城下からあまり遠くないところに見える高い山をたよりに、富士山で得た経験を応用してみたものの、ことごとく失敗したのであった。
真剣試合において、天候は重大な作用をおよぼす。
――強風となれば?
関口弥太郎と佐川蟠竜斎は、おのおの、胸に、秘策をねりつつ、江戸城へ向かって、足をはこんで行った。
両者が、三之丸《さんのまる》の北門である平川門の前で、ばったりと行き会うたのは、通るべき通路と時刻を指定されていたのであってみれば、べつだん偶然ではなかった。
とはいえ、必死の試合の前に、両者が顔を合わせるのは、好ましいことではなかった。
肩を並べて歩くのも具合がわるく、また、対手《あいて》がたに道を譲るのというのも面白《おもしろ》くなかった。
双方、面識はなかったが、一瞥《いちべつ》して、今日の敵であることを認めた。
関口弥太郎|氏暁《うじあき》は、身の丈六尺三寸の偉丈夫で、三十歳を超えたばかりの男盛りであった。風貌も、造作が大きく、剽悍《ひょうかん》の気概を満たしていた。
それにひきかえて、佐川蟠竜斎は、五尺そこそこの小兵《こひょう》で、ずんぐりと肥えて、およそ兵法者の概念から遠い外見であった。面相も、鼻がひくく、どんぐり眼《まなこ》で、眉毛《まゆげ》が八の字に垂れて、いかにも下卑《げび》ていやしげだった。年齢も、五十路《いそじ》の坂にかかっていた。
両者の服装も、対蹠的《たいしょてき》であった。
弥太郎は、もみ上げの頬髭《ほほひげ》をたくわえ、黒紋附に裃《かみしも》をつけた尋常のいでたちであったが、蟠竜斎の方は、総髪のもとどりを真紅の紐《ひも》で、たかだかと結びあげ、猩々緋《しょうじょうひ》の蝙蝠《こうもり》羽織をまとった演劇操りの舞台衣裳のような|さま《ヽヽ》であった。
両者は、対手を視《み》て、足を停《と》めた。
この平川門内から二之丸に入る梅林門まで、梅林坂という路《みち》を二町余も辿《たど》らねばならない。そのむかし、太田道灌《おおたどうかん》が、霊夢に感じ、川越の三吉野天神を勧請《かんじょう》し、城内に斎《いつ》き祀《まつ》り、地名に因《よ》って平川天神と号し、梅樹数百株を植えたところである。
この二町余の坂路を、孰《いず》れが、さきに歩むか、である。
この気持は、当然、見送りの人々の間に伝わり、むしろ、そこから風波の立つ気配が生じた。
弥太郎は、紀州藩の師範であったので、藩邸の士を四名ひきつれていたし、蟠竜斎は、芝|高輪《たかなわ》に町道場を開いていたので、門弟を六名したがえていた。
一方は、御三家の威風を誇っていたし、他方は、旗本奴《はたもとやっこ》に対抗すべく起こった町奴たちであった。
一瞬にして、双方から放たれる殺気が、烈しくぶつかりあって、ただならぬ対峙《たいじ》となった。
弥太郎は、風格が大きかっただけに、
――これは、いかん!
と、思いかえして、藩士たちを振りかえり、
「ここで、お別れ致す」
と、告げた。
武家の挨拶《あいさつ》には形式があり、手間をとる。まして、生還が期し難《がた》い別れである。鄭重《ていちょう》に辞《ことば》を交していれば、その間に、蟠竜斎を、やり過ごして、梅林門まで行かせることができる。
弥太郎の配慮は、しかし、無駄《むだ》になった。
蟠竜斎側でも、別れの挨拶をはじめたのである。しかも、門弟のうち、ひときわ目立って無法者らしい男が、きこえよがしに、今宵《こよい》の祝宴の用意のことまでも、大声に言いちらしていた。
やむなく、弥太郎は、挨拶をきりあげて、先に平川門をくぐって行った。すると、蟠竜斎の方も、話をぴたりと止《や》めて、踵《きびす》をまわしていた。
弥太郎は右側を、蟠竜斎は左側を、三歩の差をもって梅林坂へさしかかった。
と――。
弥太郎の面貌を、さっとひきしめさせる殺気が、背後から放射して来た。
猶《なお》、弥太郎は、歩速も歩調も変えず、五歩を進んだ。
一陣の旋風《つむじかぜ》が吹き抜けるにも似て、弥太郎の左方の空中を、蟠竜斎の円い小躰《しょうく》が滑走したかとみるや、その前方一間の地点へ、とんと降り立って、すたすたと歩きはじめた。
弥太郎の目もとと口辺に、微かな苦笑が刻まれた。
弥太郎は、蟠竜斎が、先に立つためには、脇をすり抜けるかわりに、自分の頭上を跳躍して越えるであろう、と予測していたのである。その無礼は、許されなかった。
その場合の処置は、考えてあった。
識者がいて、弥太郎の歩みへ目を当てていたならば、蟠竜斎が跳躍した刹那、通路の砂上に、弥太郎の革草履の跡が、二歩だけ、かき消えたのを視てとったであろう。
もし、蟠竜斎が頭上を越えようとしたならば、弥太郎もまた、六尺三寸の長躯を撥《は》ねて、その無礼の振舞いに対して、凄じい足技の猛撃を送るべく、咄嗟に歩行のかたちを変えたのである。
蟠竜斎の示威は、鮮やかであった。
弥太郎の頭上を避けて、その左側の空中を飛び、しかも、弥太郎の真正面の地点へ降り立ってみせたのである。
弥太郎は、苦笑せざるを得なかった。
頭上を踊り越える業ならば、一流兵法者の誰でもがなし得る。前者の左側を回り乍ら、真正面に降り立つためには、空中に曲線を描かねばならぬ。尋常の修行でなし得る業ではなかった。鷹《たか》の紋かくし、という秘術であった。鷹の白い腹には、褐色《かっしょく》の紋がある。獲物を頭上から襲う時には、この紋を見せざるを得ないが、背後から横あいを翔《か》けて、鉤爪《かぎづめ》をひっかける時は、身を傾けて、脚で、紋をかくすかたちをとる。
蟠竜斎の跳躍の姿は、まさしく、猛禽の飛翔するに似ていた。
梅林門が、むこうに近づいた。
と――。
こんどは、蟠竜斎の醜い顔面が、ぴくっと痙攣《けいれん》した。
微かな鋭い音が、右側を掠め過ぎた。
蟠竜斎は、二間あまり前方の宙で、一羽の雀《すずめ》が、ばたばたと、羽ばたいて、地面へ落ちるのを見た。
近づいてみると、雀の両眼は、みごとに小柄《こづか》で刺し抜かれていた。
弥太郎は、蟠竜斎の背中から直線を引いたような真後ろを歩いていた筈である。にも拘らず、小柄な蟠竜斎から二尺あまり右側を円弧を描いて飛び、しかも、真正面の空間に於いて、雀をとらえたのであった。
これが、蟠竜斎の示威に対する弥太郎の報復であった。
三
西之丸に設けられた二つの剣士控えの間は、柳生宗矩の配慮によって、遠くへだてられていた。
弥太郎が与えられた控えの間の二間床には、沢庵《たくあん》の筆による雄渾《ゆうこん》の三文字、
「不動智《ふどうち》」
の軸が、かけてあった。
弥太郎は、それをしばらく、じっと眺《なが》めていてから、ごろりと横臥《おうが》して、目蓋《まぶた》を閉じてしまった。
蟠竜斎が与えられた控えの間の床壁には、豪快な一筆|描《が》きの昇天竜の図があった。
蟠竜斎は、それへ、一瞥をくれただけで、茶坊主がはこんで来たお茶にも手をつけず、西面の壁に向かって、結跏趺坐《けっかふざ》の姿相をとって、微動もしなくなった。
弥太郎は、柔術。
蟠竜斎は、拳法《けんぽう》。
その称《とな》えるところは異なっている、が、起るところは同じであった。
弥太郎の父関口柔心は、はじめ刀槍《とうそう》の技をもって、諸方武者修行を経て、長崎に遊び、一人の西洋人に会って、拳法を授かった、と「紀子雑談」は伝える。
拳法をもたらしたのは、支那人|陳元贇《ちんげんぴん》であったという説は、蟠竜斎がその直弟子に公言しているところから信じられている。
いずれにしても、父柔心からその至妙の芸をうけ継いだ弥太郎と、巷間《こうかん》に広くその技をしめした蟠竜斎によって、無刀術は、その体系を完備していた。
拳法というのは、達磨大師《だるまだいし》が、嵩山《すうざん》少林寺で、面壁座禅九年余、禅の奥義を極める余暇に編んだ印度風体操術から起った。これは、山奥に住むために、野獣の襲来に備える防衛術といえた。
柔心が、柔術を称えた頃は、まだ、武門の間では、一種の魔術のごとく受けとられていた。
上田候|真田信幸《さなだのぶゆき》が柔心の長子八郎右衛門|氏業《うじなり》を招いて、
「柔術の妙を極めた者は、壁の上を歩くときくが、やってみせてくれぬか?」
と、所望した。
氏業は、莫迦《ばか》莫迦しく思ったが、真面目《まじめ》な面持《おももち》で、
「旨《うま》いお菓子を頂戴《ちょうだい》できますならば、お目にかけましょう」
と、こたえた。
信幸には、その皮肉が通じなかったので、本当に、菓子を盛った三方をはこばせた。
氏業は、畳に横たわって、その一個をむしゃむしゃ頬張《ほおば》り乍ら、壁へ足をかけてみせた。
信幸が、憤怒するや、ぴたっと正座して、柔術のなんたるかを、とうとうと説ききかせた、という。
柔心には、三子があり、長子氏業、次子|氏英《うじひで》、そして、三男が弥太郎氏暁であった。
兄弟のうち、特に傑出した天稟をそなえていたのが、弥太郎である。
十六歳の時、紀州に召されて、師範の禄《ろく》を賜《たまわ》った程である。その時、紀州侯の面前で、弥太郎は、庭の中の池の畔《ほとり》に、木枕《きまくら》を置いて、その上に立たされた。当時、剛力《ごうりき》をもってきこえの高かった根来《ねごろ》法師・山本|丹生谷《にうだに》という者が数間を突進して、渾身の力をもって、弥太郎を、突きとばして、池中へ落とそうとこころみた。しかし、弥太郎は、三度び突かれても、ビクともせず、四度びめに、丹生谷の両手が胸に当たった間髪の間に、宙に跳んで、逆に対手を池中へ躍り込ませていた。
丹生谷の剛力は、戸板を胸にあてて、早瀬の渓流をさかのぼって、逆浪《さかなみ》を左右にわけた、といわれるくらいであったにも拘らず、弥太郎の胸を突きとばすことが不可能だったのである。
これに対する蟠竜斎は、すでに、弥太郎のうしろから、正面へ、二間の距離を、矩形《さしがた》に翔《か》け抜ける鷹の紋かくしの秘術をみせた程の手練者《てだれ》であった。
やがて、正午の刻《とき》を告げる鐘の音が、城内に鳴った。
不吉鳥
一
この日、将軍家光が、遠藤由利の褥から起き出て行ったのは、そろそろ巳刻《みのこく》(午前十時)になろうとする時刻であった。
ふだんならば、卯《う》刻(午前六時)には起きて、さっさと中奥へ戻るならわしであったが、家光は、起こしに来た≪ちゅうろう≫頭《がしら》に、
「風邪じゃ」
とこたえて、由利を背中から抱きかかえて、離そうとしなかったのである。
流石《さすが》に、二刻もおそく起きたのが面映《おもはゆ》かったのであろう、家光は、女中達の目を避けて、お小座敷を抜けて、そっと、中奥へ戻って行った。
そのために、女中たちは、まだ、上様は御寝中《ぎょしんちゅう》と思い込んでいた。
ひとりになって、なおしばらく、由利は、虚脱したように、うつろに眸子をひらいて、横臥していた。
やがて、由利が、考えたのは、
――湯を使おう。
そのことだった。
緋緞子《ひどんす》の掛具をはねて、のろのろと起き上がるまでには、さらに時間を置いた。
将軍家にけがされ、さらに、「影」と名のる闇の男に忍び入られるや、自ら挑《いど》んでからだを与え、そしてまた、夜に入って将軍家を迎えて放恣《ほうし》な痴愚の行為をくりかえさせられた由利は、一夜にして、生気が抜けはてて、老婆のように肌膚《はだ》がおとろえてしまったような気がしていた。
由利は、白羽二重の寝召姿のままで、跫音《あしおと》をしのばせて、寝所を出た。
さいわいに、年寄も中年寄も≪ちゅうろう≫もお伽坊主《とぎぼうず》も、遠くへ下っていて、気配はなかった。
御寝中と心得て、廊下を暗くしてあったのも好都合であった。由利は、影のように掠《かす》めて、湯殿に入った。
湯殿は、ごく近頃になって設けられた立派なものであった。(それまでは、将軍家も、御台所も、女中たちも、湯でからだを拭《ふ》いていただけであった)
高麗縁《こうらいべり》の八畳敷きにつづいて、杉戸で仕切られて、五坪程の板敷き(流し場)があり、中央に、竹|箍《たが》の白木の浴槽《よくそう》が据《す》えてあった。浴槽は下から焚《た》くのではなく、女中たちが、大きな玄蕃《げんば》(桶《おけ》)で、湯と水を運んで来て、加減を整えるのであった。
そして、いつ入ってもいいように、午前中は絶えず、湯は、槽中に満たされていたのである。
由利は、湯殿に入るや、すでに、誰かさきに湯を使っているのを知った。
襦袢、着物、掻取《かいどり》が、桐の装束箱に置かれてあり、手水盥《ちょうずだらい》や鏡台や桂《かつら》台や枠火鉢《わくひばち》などが用意されてあった。
――だれであろ?
この湯殿に、午前中に入れる資格をもっているのは、前夜に将軍家の寵愛《ちょうあい》を蒙《こうむ》った筆|上《うえ》の≪ちゅうろう≫に限られている筈であった。
すなわち、今朝、入ることができるのは、由利だけなのであった。
由利は、憤《いきどお》りをおぼえて、そっと、仕切りの杉戸へ近寄った。
この時代のことである。明かり取りの天窓が小さいために、昼間でも、灯《ひ》が入れてあった。四方に据えられたそれらが、こもった湯気に赤く滲《にじ》んで、微《かす》かにまたたいていた。
由利は、板敷きの上に、ながながと裸躯《らく》を横たえているのが、春日局であるのをみとめた。これが四十をすぎた老女とは、到底受けとれぬ、豊満な光沢をもった肌理《きめ》のこまやかさであった。
糠《ぬか》を遣《つか》いおわって、ほんのりと色づいているそれへ、裾《すそ》を高く執《と》り、手襷《てだすき》をかけた若い女中が、手桶で浴槽から湯を汲《く》んで、しずかに、かけていた。
……急に、由利は、胸の鼓動が高鳴るのをおぼえた。蝸牛《かたつむり》が移動するように、隙間《すきま》へあてた眸子《ひとみ》を、そろそろとうごかすじぶんを、あさましいと思いつつ、止めるわけにいかなかった。
「もう、よい。つぎを――」
もの憂《う》げに目蓋《まぶた》をとじたまま、春日局が、命ずると、女中は、心得て、繍巾《しゅうきん》を把《と》って、まず、太股《ふともも》へあてると、ゆっくりと、十指でもみはじめた。
太股から臑《はぎ》へ――両脚の前がわをもみおわると、こわれものでも扱うように、小肥《こぶと》りの裸形を俯伏《うつぶ》させて、臀部から下へ、もみ移り、やがて、ふたたび仰臥《ぎょうが》させた女中は、なんのためらいもなく、そおっと、口を寄せて、ふっくらと盛りあがった胸の桃顆《とうか》を含んだ。
由利の予感は、適中した。
老女は、微《かす》かに、恍惚《こうこつ》たる官能の呻《うめ》きを洩《も》らすと、なだらかな円みをえがいた腹から腰へかけての曲線を、なやましげにうねらせた。いつか、太股は、大きく左右に拡《ひろ》げられていた……。
そうして――どれほどかの時刻が移ったろうか。灯がゆらめくたびに、裸身を匍《は》う微妙な陰翳《いんえい》が、肌を愛撫する女中の細い指に追われるように変化して、たゆとうばかりであった。
と――一瞬。
風もないのに、なにごとか、四箇の燭台の焔が、ぱっと大きくまたたいたかと見る間に、すうっと、仄暗《ほのぐら》く光を薄めた。ちろちろと左右に揺れて、ついに、ふっと消えはてた。
すると、暗くかげった隅々《すみずみ》から、何やら薄気味わるい魍魎《もうりょう》が、音もなく這《は》い出て来るような、ぞっとする気配が、ひしひしと感じられた。
春日局も、一瞬にして湧《わ》いた陰々とした妖気《ようき》に、陶酔からさめて、目蓋をひらいた。とたんに、何とも名状し難《がた》い恐怖の叫びを、口から迸《ほとばし》らせて、小肥りの裸躯をはね起した。
はっとなって、由利が、天井を仰ぎ見ると、天井いっぱいに、巨《おお》きな影が、匍《は》っている。
それは、まぎれもなく、戦い敗れた落武者の、髪も|さんばら《ヽヽヽヽ》に乱れ、具足もずたずたに破れ、穂先の折れた槍を杖にした悽愴《せいそう》きわまる姿にほかならなかった。
春日局は、日頃の沈着はどこへやら、
「あ、あっ、あっ……あっ、あああ、あっ!」
と、絶叫しつつ、天井からむらむらと下りて来て、ひと掴みにしそうな異形の影を、必死にふせごうとする仕草をしめした。
しかし、この狂態は、ほんの膝をひと打ちする程の短い間であった。
春日局は、ばったり、俯伏せに倒れた。
由利は、この時、局が、微かに「ゆるして――たすけて……」と、呟《つぶや》いたように、耳にとめた。
ややあって、ふしぎにも、燭台の灯が、ふたたび、あかるく湯気の中に泛《うか》びあがって来た。
春日局は、すっと身を起した。その貌《かお》は、白蝋《はくろう》のように全くの無表情であった。
「かえで、懐剣を持て」
片隅にちぢこまって、顫《ふる》えている女中に、抑えた声音で命じた。
女中は、意外な言葉に、春日局を訝《いぶか》しげに見かえしたが、かしこまって、立った。
由利は、すばやく、身をひるがえして、道具を置いてある衝立《ついたて》の蔭《かげ》へかくれた。
女中が、装束箱から、懐剣を取って、流し場へ戻り、うやうやしくさし出すや、春日局は、しずかに受取って……鞘を払いざま、一閃《いっせん》、女中の胸を、一突きに刺していた。
悲鳴をつらぬかせて、仆《たお》れ伏す女中を、じっと見下ろす春日局の双眸《そうぼう》が、氷の如《ごと》くひややかに光っているのに、由利は、異様な快感をおぼえた。
春日局には、おそらく、その過去に、霊鬼に祟《たた》られてもやむ得ない冷酷な所業があったに相違ない。
女中を刺したのは、度をうしなって、恐怖の叫びを発したおのが不覚ぶりを、他言されるのを懼《おそ》れたからであった。
女中の屍《しかばね》は、乱心したという名目で、秘密|裡《り》に葬《ほうむ》られるであろう。
由利は、ひそかに冷笑した。
この時、天井裏を、何者かが、音もなく去っていく気配を察知していたからである。
異形《いぎょう》の影を天井に匍わせたのは、その者のしわざであり、由利には、その者が、なぜか、自分の寝所へ忍び入って来た「影」と名のる男と同一人であるような気がしてならなかった。
二
正午――。不思議にも、風は起らなかった。
関口弥太郎と佐川蟠竜斎は、同時に、東西の幔幕《まんまく》を割って出た。
孰《いず》れも期せずして、紺の刺子《さしこ》の稽古着、紺の袴《はかま》、そして紺の鉢巻《はちまき》を締めた、全く同じいでたちであった。
六尺三寸の巨躯と、五尺足らずのまるまると肥えた小躯が、ゆっくりと歩み寄る光景は、しかし、同じいでたちであるために、かえって、その対照を鮮やかなものにした。
弥太郎の魁偉《かいい》な面貌《めんぼう》が、登城の折と少しも変らぬ悠揚《ゆうよう》せまらぬ色を湛《たた》えているのにひきかえて、蟠竜斎の方は、なぜか、身の裡《うち》に疼痛《とうつう》でも生じているかのように、ひどく苦渋の形相と化していた。足の運びかたにも、不自然さがあった。
二間の距離を置いて、対峙《たいじ》するや、まず、弥太郎が、右手を前に置き、左手を水平にさしのべる「居」の構えをとった。
おのれより丈のひくい対手に対する「屈」の姿勢ともいえた。下半身へ突入されないための構えであった。
目附は、北斗の目附――即ち、敵の眉間《みけん》に置いた。
これに対して、蟠竜斎は、両足を揃《そろ》えて、直立し、双手《もろて》を、胸さきで合せた。
拳法の第一段「合掌」であった。剣で謂《い》う青眼であろうか。虚実千変万化の秘術をひそめた基本の構えである。
それなり――両者は、画裡に入ったように、微動だにせず、睨《にら》み合った。
弥太郎が、狙うところは、ただ一手であった。
「関口流組討秘事口伝」中に、次の言葉がある。
「蹴込《けこ》みの大事とあるは、敵に相対し、間合になると直ちに間を詰め、敵の臍《へそ》の下、ユルギの糸を目当てに、無念に蹴込むことなり」と。
弥太郎は、梅林坂上において蟠竜斎がしめした「鷹の紋かくし」の飛び業《わざ》が、関口流蹴込みを封ずるための示威であった、と知っているだけに、意気地の上からも、蹴込みによって、対手を倒したかった。
だが、その豪快な技を揮《ふる》う前に、どうしても、「鷹の紋かくし」を破らなければならなかった。
――よし!
念頭の造作に渉《わた》ることの愚をさとって、弥太郎は、居の形のまま、するすると進んだ。
「えいっ!」
一間の間合を、白砂に足跡をとどめずに滑って、弥太郎の手刀は、敵の胸部を搏《う》った。
間髪の差で、蟠竜斎は、五尺の躯幹を三尺に縮めて、宙のものとした。
蟠竜斎の方が、蹴込みの術をえらんで、これを空中から、弥太郎の顔面へくれようとしたのである。
刹那、弥太郎は、身を沈めざま、左手で、敵の足くびを、発止《はっし》と掴んで、逆ねじりに、その小躯を振りとばそうと試みた。
神技といえたのは、これに応じて、蟠竜斎が、五体を旋回させつつ、一拳を弥太郎の頬《ほお》へ襲わせたことだった。
両者は、ぱっと離れて、構えを変えた。
弥太郎が、次にとった構えは、左足を前に、左半身となって、腰を落とし、双手の指先を下腹のあたりに置いた「合《あい》」であった。
蟠竜斎には、四肢のどこを逆にとられても、関節を自由にはずして回転させる術があると知った弥太郎の、これは、双手突きの構えであった。
これに対する蟠竜斎は、鷺《さぎ》のように右脚一本で、地に立って、左の膝を水平に挙げる奇妙な型を見せた。これは、拳法の「盾《たて》」にあたる防ぎの備えであった。
と――。
弥太郎の巨躯が、一瞬、大きく右方に傾斜した。とみた刹那、右手を大地にささえて、その六尺三寸の長身を軸にしてびゅっと円弧を描いた。
左足で、敵の鷺脚を払うとともに、右脚で蹴込む迅業《はやわざ》であった。
蟠竜斎には、これにもまた応ずる飛鳥の敏捷《びんしょう》な動きが備えられていた。
刎《は》ねあがった次の瞬間、猛然と地上の弥太郎めがけて、落下した。
白砂を八方に散らすめまぐるしい組討ちが、そこに展開した。
組んでは、大兵の弥太郎に、歩《ぶ》があることは、慥《たしか》かと思われた。
蟠竜斎が、敢えて組討ちをえらんだことが、二人の審判者には、解せなかった。
三
不意に――。
正審・柳生宗矩の右手から、白扇が飛んだ。同時に、副審・小野忠常の左手から、銅鑼が地べたへ落ちて、にぶい音をたてた。
宗矩と忠常は、左右から、上座の正面へ奔《はし》って、鯉口を切った。
両審判に、咄嗟の構えをとらせたのは、蟠竜斎が、弥太郎を組み伏せるやいなや、上座に向かって、すっくと立ったからである。その片手には、白く光る獲物が掴まれていた。
――すわっ!
宗矩も忠常も、蟠竜斎が、正体を現わしたな、と直感したのであった。
その小躯から発する鋭気は、なみなみならぬものがあったのである。
息づまる一瞬の対峙が過ぎると、蟠竜斎は、身を跼《かが》めて、宗矩が自分を撃った白扇を土の上からひろいあげて、ぱらりとひらき、手にした白い獲物をのせた。
弥太郎は蟠竜斎の後方で、死んだように俯伏している。
蟠竜斎は、白扇を捧《ささ》げて、宗矩の前へ、歩みよると、
「御見聞の程を――」
と、さし出した。
一瞥《いちべつ》して、両審判は、愕然《がくぜん》となった。
白扇の上にのせられたのは、一本の肋骨《ろっこつ》だったのである。しかも、血痕《けっこん》すらもついてはいなかった。
蟠竜斎は、弥太郎の胸脇から、血も流さずに、それを抜きとっていた。(弥太郎は、一時的に失神しただけで、生命に別状もなく、苦痛も知らなかった)
これは、「猪骨《いこつ》の術」と謂《い》い、拳法修練の一手であった。修行に、大豚を稽古台として用いることから、この名称があった。技が神に入れば、筋肉の合わせ目から指先を突き入れて、肋骨を、するりと抜きとることができて、歩いている豚は、気がつかずに、そのまま行き過ぎて、一滴の血汐《ちしお》も、地面へしたたらせない、という。
無名太刀は、蟠竜斎の手に与えられた。
宗矩《むねのり》が、西之丸の桜の間に入ると、そこに、ぽつねんと、老いたる忍者が、坐っていた。
宗矩は、服部半蔵の面貌が、一昼夜のあいだに、さらに十年も化《ふ》けたように感じた。
「また、捕《と》り損じたか?」
「いかにも――」
半蔵は、つつみかくさなかった。
「影」と称する忍者は、母子二人連れであり、昨夜、第五試合の勝者菅沼新八郎を襲って、拝領太刀の切先三寸を両断したのは、「母影」の方であり、これを追い詰めたところ、湯島台にある瓢箪《ひょうたん》池に飛び込み、ふかく沈んだまま、ついにいまだ浮かんで来ない、と語った。
もとより伊賀三十六人衆が、池畔《ちはん》をかためて、水面へ視線をそそぎつづけているので、絶対にのがす筈《はず》はないのであった。
「ただ、懸念《けねん》されるのは、倅《せがれ》の方が、昨夜、何処《いずこ》へひそんだか――そのことでござる」
そう言って、半蔵は、じっと、宗矩を見戌《みまも》った。
「何処へ――? 何処へと申すと?」
宗矩は、眉宇《びう》をひそめて、訊《き》きかえした。
「遠藤由利殿は、それがしが取り返した太刀を携えて、大奥へ入った、と但馬殿は申されましたな?」
「申したが……」
「よもや、大奥まで、影は忍ぶまい、とも申されましたな?」
「お主! 影が、大奥へ忍び入ったと疑うのか?」
「そうでなければ、さいわいでござる」
「……」
宗矩は、口を一文字にひきむすんだ。
昨夜、大奥には、なんの騒ぎもなかった。しかし、それは、影が忍び入らなかった証明にはならぬ、といまはじめて、宗矩は、気がついた。
数秒を置いて、宗矩は、急に、異常に緊張した面持《おももち》になった。
宗矩は、関口弥太郎の控えの間付きの茶坊主から伝えられた弥太郎の言葉を、はっと思い出したのである。
弥太郎は、試合場で息を吹き返すと立ち上がり、一人で歩いて控えの間へ入ったが、衣服をととのえると、すぐに下城していった。
退出の際、茶坊主に、こう言いのこした、という。
「柳生殿に、つたえて頂きたい。本日の蟠竜斎の業《わざ》は、拳法にても、柔術にても非《あら》ず、忍法と心得ました、と――」
宗矩は、茶坊主から告げられた時にはただ、
――蟠竜斎の前身は、忍者ででもあったか。
と考えたにすぎなかったが……。
いまは、弥太郎の看破した事実が、非常に重大な意味があるような気がして来た。
宗矩は、すっと立つと、半蔵の視線に送られて、廊下へ出ると、足早に、蟠竜斎の控えの間に向かった。
宗矩が、襖《ふすま》を開くと、すでに、さきに、忠常が、そこにいた。
忠常の前で、蟠竜斎が、両手をつかえていた。その顔面は、蒼白《そうはく》であった。
――ちがう!
宗矩は、肚裡《とり》で、呻《うめ》いた。
試合場に現われた蟠竜斎と、この人物とは、酷似してはいるが、明らかに別人であった。
忠常は、宗矩をかえり見て、
「もはや、試合はおわったこと故《ゆえ》、この儀、内分にいたしてはいかがと存ずる」
と、言った。
忠常の方は、肋骨が白扇にのせてさし出された時、早くも、これは、蟠竜斎の贋者《にせもの》ではないかという疑惑を抱いたのであった。
そこで、この控えの間にふみ込んでみると、はたして当の蟠竜斎は、部屋の隅に立てられた屏風《びょうぶ》の蔭《かげ》で、悶絶《もんぜつ》していた。
活を入れられて、意識をとりもどした蟠竜斎が、慙《は》じ入りつつ語ったところによると――。
西面の壁に向かって、結跏趺坐《けっかふざ》の姿相をとっているうちに、ふと、背後に、わが影法師が動いたような錯覚をおぼえて、はっと頭をまわした――とたんに、当て身をくらって、それっきり、何もわからなくなってしまったのであった。
宗矩は、桜の間へ戻って来て、座に就くと、唐突に、半蔵に訊《たず》ねた。
「お主、血一滴こぼさずに、この但馬の肋骨を一本、奪い取れるか?」
「御所望によっては――」
半蔵は、ためらわずに、こたえた。
「そうか、やはり――」
宗矩は、頷いて、
「本日の試合で、関口弥太郎とたたかったのが、影であった」
「……?」
「佐川蟠竜斎に化けて、見ン事、太刀を拝領して、去り居った」
「……」
「おそらく、遠藤由利からも、太刀を奪ったであろう」
「……」
「この但馬守が生涯の不覚であったよ」
宗矩は、うつろな、かわいた声をたてて、自嗤《じし》した。
四
「若影」が、二振りの拝領太刀を背負うて、不忍池畔の聖天宮の小祠《しょうし》へ戻って来たのは、夜も二更をまわった頃合《ころあい》であった。
――母者は、まだか?
「若影」は、それをさいわいに、自身の手で、おのがからだに、油を塗るべく、黒衣を脱ぎすてた。
どういうものか、「若影」は、母から、油を塗られることが、わずらわしくなっていた。
まして――。
昨夜、遠藤由利と契《ちぎ》ったからだを、母から、くまなく愛撫されることは、やりきれなかった。
赤鋺《あかまり》の中から、油をすくいとった――その時。
チチチチ……。
かれんな啼《な》き声がして、蔀《しとみ》の隙間《すきま》から小さな生きものが、飛び込んで来ると、ひょいと、「若影」の肩に、とまった。
瞬間――。
「おっ!」
「若影」は、てのひらへ、小鳥を移した。
「どうした、母者は?」
人の子へ問うように、訊ねた。
供をして行ったこの小さな生きものが、主人よりさきに、飛び戻っているのは、主人の身の上に不吉な出来事が起ったことを、意味していたのである。
匂う女体
一
湯島天満宮の北方に、梵刹《ぼんせつ》がひとつ――天沢山|麟祥院《りんしょういん》という。
臨済宗、江戸四箇寺の一であった。もとは、報恩山天沢寺と称して、さびれた古寺であったが、寛永元年に、二代将軍の命によって、乳母人春日局《めのとかすがのつぼね》の菩提所《ぼだいしょ》に指定されて、にわかに殿閣を築いて、勢威を得た。
数年後、家光が重い病気にかかった時、春日局は、この本堂にとじこもって、二十一日間の祈祷《きとう》をした。
妾《わらわ》が身は不浄なりといえども、いやしくも乳味を奉《たてまつ》りて、乳母の称を汚《けが》し、歳月かしずき奉れり、且《かつ》将軍は万民の父母《ぶも》なり。もしいま大故《たいこ》あるときは、国家の安危にかかれり、よって願わくは、妾が身を以《もっ》て、これに替り奉らん。もし恢復《かいふく》あらしめば、忽《たちま》ちに、身に病苦を受けて、誓って医薬を用いずして死せん、と。
その衷誠《ちゅうせい》に感応があって、家光は間もなく、常のからだにかえった、という。爾来《じらい》、春日局は、鍼灸薬餌《しんきゅうやくじ》を用いていなかった。
本堂の左側に、禅堂があった。
その堂内の広い板敷きで、いま、二人の老人が、さし向かっていた。
鴨甚三郎利元《かもじんさぶろうとしもと》と服部半蔵《はっとりはんぞう》――と。
そして、両者のあいだには、この堂内にふさわしからぬものが、横たわっていた。白蝋のように冷たく沈んだ肌《はだ》を、燭台《しょくだい》にまたたく焔《ほのお》に照らされている、一糸まとわぬ裸女であった。
奇異な光景は、四肢《しし》を折り曲げて、大きな岩石を、しっかと抱きかかえていることであった。
これは、水苔《みずごけ》に掩《おお》われた石と交合している情景とも見てとれた。
濡髪《ぬれがみ》のまつわった寝顔は、息を絶って、無表情であった。
半蔵が、江戸城へおもむいて、柳生宗矩《やぎゅうむねのり》に報告しておいて、急いで、ひきかえして来てみると、全裸の女影は、池底からひきあげられて、この禅堂にはこばれていたのであった。
ひきあげたのは、鴨甚三郎であった。
いま、咫尺《しせき》の間に、まじまじと、その裸身を凝視し乍《なが》ら、半蔵の胸中は、重苦しかった。
ただのあわれな女としか、眺《なが》められないのであった。甚三郎の腕をもってしても、もぎはなせないくらい、しっかと石を抱いているのも、いじらしい、とさえ思える。
二十年前、木曾谷《きそだに》の館《やかた》の炉端で、老いたる「影」が語った言葉が、耳によみがえって来る。
「影」は、すてられてあった赤子をひろいあげた時、こやつをひとつ、自分が思うがままの忍びに仕立てあげてみよう、と決意したのであった。
「人間にして、人間にあらず――文字通りの影として育てる。その夜のうちから、顔を、布でつつんでしまい、布をとり払うてやるのは、闇の中のみと定めた。……そうして二十年、この決意は、実行された。それがしが、育っていく貌《かお》を一度も見とどけなかったのは勿論じゃが、当人自身も、ついに、おのれの姿を眺めて居《お》らぬ。食を摂《と》るのも水浴びも、すべて日常の行動は、暗闇がえらばれ、それがし以外の者との交わりは禁じられ、いや、それがしと口をきくことさえも許されずに、ひたすらに、忍びの術の修行にはげみ、いまや、それがしすらも、到底およばぬ非情の影となり終《おお》せた」
――その父も、当人さえも見たことのない貌を、はじめて見とどけたのが、このわしであった。
半蔵の感慨は、深い。
二十年後になって、ゆくりなくも、その貌のみか、全裸の姿を眺めるめぐりあわせとなったのである。
その貌には、年齢不明の若さが漂うていたが、女の美しさはなかった。皺こそ一本もなかったが、肉の薄い皮膚は、枯れた木葉のようにかわいた白色であった。額も鼻梁《びりょう》も唇も、みじんの優しさもなく、鋭い冷たい本能を現わしていた。
その裸躯《らく》もまた、女の豊かな円《まろ》やかさや艶《つや》やかな線はなかった。といって、べつに発達した筋肉の逞《たくま》しさをしめしているものでもなかった。むしろ肩や胸や腰はなめらかで、女性のものにまぎれもなかったが、しかし、それは、鉄か銅の上に塗られた漆のように冷たく、生き血の通っている柔らかさや温かさから程遠いものだった。事実、その五体は、鉄か銅でつくられたように、異常な強い力を備えているのであった。
ただ――。
ふしぎな妖《あや》しい美しさが、一箇処にだけあった。それは、かたちのいい薄い耳朶《みみたぶ》から項《うなじ》へかけての箇所であった。そこには、まぎれもなく、女の弱さや淋《さび》しさを象徴する繊細な微妙な翳《かげ》が落ちていた。
いかにも、哀《かな》しい女の性《さが》が、不用意に、そこにのみ、湛《たた》えられていた。
半蔵は、座に就いた時から、そこへ、視線をあてていた。
ふと――。
向いの老兵法者の眼眸《まなざし》も、自分と同じところへ注がれているのに気づいて、半蔵は、頭を擡《もた》げた。
その時、甚三郎が、やおら、双手《もろて》を、しっかと抱きかかえている石へ、さしのべた。
こんどは、どうしたのか、なんの苦もなく、石は、かるがると、甚三郎の双手へ、移った。
ごろりと、脇へころがしておいて、甚三郎は、半蔵を見やった。
「ひとつ、お前が、魂入《たまい》れ(人工呼吸)を施されては、いかがかな?」
「魂入れは造作ないが、蘇生《そせい》させて、どう処置いたすかが、問題でござる」
半蔵が、腕を組むと、甚三郎は、ふっと、薄ら笑った。
「囮《おとり》にされるが、よろしかろう」
「囮に――?」
「左様、もう一人の影をおびきよせる囮にな。お手前は、そのもう一人は、この女の伜だと申されたな?」
「いかにも、相違ござらぬ」
「わしは、この女が、杉木立《すぎこだち》から、瓢箪池《ひょうたんいけ》の中の島の松へ飛び移るのを眺めて居ったが、その折、小鳥が一羽、梢から飛び立って行き申した。あれは、たぶん、この女の救いをもとめる使いであったと思える」
「それは、気づかなんだ」
「伜が、小鳥に報《しら》されて、母親を救いに参ろう」
「ふむ――」
「生捕るに、この上の囮はござるまい」
二
同じ時刻――。
江戸城|黒鍬《くろくわ》(柳営の仕丁役)附《づ》きの陸尺《ろくしゃく》の一人――百助という男が、旗本奴白柄組《はたもとやっこしらつかぐみ》の頭領水野十郎左衛門の屋敷の広間で、勝負たけなわとなっている賭場《とば》を、壁ぎわから眺めていた。
賽子《さいころ》の目に、血走った眼を据《す》えているのは、各種雑多な連中であった。旗本も浪士も勤番侍も足軽も町人も中間小者も、いや、奉行所の同心らしい男まで、交っていた。
だいたい、旗本|大身《たいしん》が、屋敷の広間を開放して、賭場をひらかせることからして、異常な所業であった。
戦国の余風を承《う》けた時代であった。
暗夜、街巷《ちまた》に立つ行人を斬《き》って、刀の利鈍を検するの料となすことに、斬られる方さえなんの疑いも抱かなかった世潮であった。刃傷《にんじょう》・喧嘩《けんか》・争闘|沙汰《ざた》は、日常のことであった。堂々たる大名国主が、睚眥《がいさい》の怨《うら》みに、殿中で刀を閃《ひらめ》かして、おのれの領土を喪《うしな》い家名を断たれても、毫《ごう》も恐れなかったのである。まして、武を用いる役を与えられている旗本たちが、一言の行違いや、街上に袂《たもと》の触れただけのことで、果たし合いをして、なんのふしぎはなかった。
町人も、上に倣《なら》って、暴力を揮《ふる》うのを、勇気のある振舞いとしていた。
遊女買いと賭博《とばく》が、殺伐《さつばつ》の風が起す、最大の享楽《きょうらく》となっているのは、当然であった。
旗本のうちで、六方者《むほうもの》を代表するのが、水野十郎左衛門であった。
屋敷の広間を開放して、賭場をひらかせることぐらい、なんでもない所業であった。
十郎左衛門は、出雲守成貞《いずものかみなりさだ》の嫡子《ちゃくし》に生まれた。成貞は、備後《びんご》福山の城主(十万石)水野日向守勝成の三男に生まれ、三千石を賜《たまわ》って、幕府|麾下《きか》に加えられた。名門であった。
出雲守成貞は、生まれ乍《なが》ら猛気に富んだ、すこぶる闊達《かったつ》な武士であった。頭は、つねに、糸鬢奴《いとびんやっこ》に、伊達《だて》を見せていた。羽織と衣類は、鼠地《ねずみじ》に染めて、野晒《のざらし》模様を、派手に抜いていた。その背中あたりに来る髑髏《どくろ》を、定紋の代りに用いて、腰のあたりには、右に花切り鎌《がま》、左に輪ちがいを、大きく浮き出させた。
糸鬢奴の奴という字を「ぬ」に利《き》かせて、右からこれを、「鎌輪《かまわ》ぬ」と読ませた趣向であった。羽織と衣類とは、ほとんど同じくらいの丈に仕立てて、脛《すね》はかまわず五六寸も、あらわにしていた。着附着込みは残らず鎖帷子《くさりかたびら》、刀の柄は、棕櫚《しゅろ》で巻き、朱鞘《しゅざや》の大小の思いきって長いのを、腰に|かんぬき《ヽヽヽヽ》に帯びていた。
その成貞の歩きかたが、また特殊であり、舞台で謂《い》う「六方を踏む」に似ているところから、「六方者」と呼ばれた。六方を無法に合わせたのである。
次の逸話がある。
あるとき、成貞は、|きおい《ヽヽヽ》の風姿を、遺憾なく発揮して、蜂須賀《はちすか》候の屋敷の前を通りかかった。
たまたま、他出しようとしていた当主の姉にあたる故阿波守|至鎮《よししげ》の次女が、その六方姿を、垣間《ちら》と見た。元来、蜂須賀家は、華美好みの家風であったので、うら若い深窓の姫君は、成貞を、絵に描いたような颯爽《さっそう》たる武辺者と思った。
そばにはべっていた老女が、
「あれこそは、江戸中にかくれのない旗本奴の伊達者、水野出雲守成貞と申す武士にございます」
と、知らせた。
姫君は、その日から、成貞の姿を、ふかく想《おも》い煩《わずろ》うた。
さいわいに、 この恋は遂げられて、二十五万七千石の国持大名の姫君は、わずか三千石の旗本水野家へ、自ら好んで、輿《こし》入ったのである。
その子が、十郎左衛門|成之《なりゆき》であった。
両親ともに一風変わった性行の持ち主であったので、その子が長じて、奇抜な日常を送るようになったのは、想像に難《かた》くない。
父成貞は、なお戦国武士の面影《おもかげ》をとどめて、豪気豁達であったが、ぬくぬくと育った十郎左衛門は、気魄を鍛えることを忘れて、ひたすら、坐臥常住《ざがじょうじゅう》ことごとく、奇を衒《てら》うことに腐心する天邪鬼《あまのじゃく》となり終《おお》せた。
この日も――。
賭場の上座に大胡座《おおあぐら》をかいた十郎左衛門は、手一束に切り放った総髪に、白縮緬《しろちりめん》の綿入れに白い帯を三重に回した宛然《さながら》山賊のいでたちで、先日吉原から掠《かす》めて来た遊女を、かたえにひきつけて、勝負の様子を眺めていた。
さて――。
片隅の壁へ寄りかかった陸尺の百助は、やって来た時から取られっぱなしで、すってんてんになっていて、折をうかがって、勝ちつづけている者から、いくばくかのおめぐみを頂戴するこんたんでいた。誰かが、のそりと、かたわらへ来て坐ったので、ちょろっと横目を走らせた百助は、
――疫病神《やくびょうがみ》に、くっつかれちゃ、たまらねえ。
と、腰を上げようとした。
いかにも尾羽打ち枯らした髭《ひげ》だらけの浪人者であった。血の気のない顔をして、肩もとがっていた。
「おい――」
と、呼ばれて、百助は、じろっと見かえした。
「わしを、疫病神と思ったな?」
浪人者は、ずばりと言い当てた。
「い、いえ、べつに……」
「かくさんでもよい。福の神であったら、どうする?」
「福の神?」
百助は、あきれて、露骨に、蔑《さげす》んだ目つきになった。
浪人者は、袂《たもと》をさぐると、ぽんと一枚の慶長小判を抛《ほう》り出した。
「これで、勝負するがいい」
「……?」
百助は、息をのんだ。信じられなかった。
「わしの言う通りに賭《か》ければ、たちまちこの金子《きんす》が、十倍になろう」
「ほ、本当ですかい?」
「丁《ちょう》に四回、半に一回、丁に二回、半に三回――この順序で、賭けてみるがよい。まちがえてはならぬ」
浪人者は、くりかえして教えた。
百助は、血相を変えて、慶長小判を掴《つか》むと、賭人《かけにん》の間へ割込んだ。
三
浪人者は、壁に凭《よ》りかかって、勝負の成行きを、傍観していた。
口辺や頤《あご》に、無精髭をつけているが、大きく開いて、冷たい光を湛《たた》えている双眸《そうぼう》は、「若影」のものにまぎれもなかった。
百助のひざのまえに、次第に、金子が積まれて行くのを眺め乍ら、全くの無感動であった。いつの間にか、すりかえておいた骰《とり》が、百助に勝たせつづけることは、わかりきっていたからである。
百助は、あまりの幸運に、憑《つ》かれたような無我夢中の形相《ぎょうそう》になり、絶え間なく、流れる汗をぬぐったり、唸《うな》ったり、坐り直したり、舌なめずりしたり、膝をたたいたりしていた。
ついに――。
大きく賭けて、殆《ほとん》どの賭金をせしめて、両手で、手もとへかきよせた。
「おい、小者!」
不意に、上座から、十郎左衛門が、にくにくしげに、声をかけた。
「貴様、黒鍬の陸尺に化けて居るが、本職は賭師であろう?」
「冗談じゃありませんや、お殿様、あっしは、正真正銘の陸尺でございますぜ」
「いつわるなっ! 水野の屋敷に乗り込んで参って、素性《すじょう》が露見いたしたならば、いかなる仕儀に相成るか――とくと承知の上で、賭場を荒らしたな!」
「お、お殿様!」
百助は、ちぎれる程手を振った。
「め、めっそうもない! あっしは、ただ……運がついていただけのことなんで――」
「黙れっ!」
十郎左衛門は、朱鞘の太刀を掴んで、つッ立ち上るや、いきなり、ぎらっと抜きはなった。
「下郎っ! 合掌せい! 痛みを与えずに、首を刎ねてくれる!」
「ひ、ひえっ!」
百助は、匍《は》って、遁《のが》れようとした。
その時、壁ぎわから、「若影」が、音もなく立ち上がった。
――おや――?
目蓋をひらいた百助は、あっけにとられた。
視野いっぱいに、星空がひろがっていた。いつの間にか、路上へ仰臥させられているのであった。
あの賭場では、必死に匍って、一間ばかり逃げたところで、意識が、ふうっと遠のいて、それっきりわからなくなったのである。
むくむくと起き上がった百助は、すぐそばの石に腰をかけている浪人者を見出《みいだ》した。
「あ――旦那《だんな》」
百助は、懐中に、ずしりと重い金子が入っているのに気がついた。
「旦那が、たすけて下すったので?」
「そうだ」
「有難てえ! 旦那は、やっぱり福の神だあ――。旦那は、いってえ、どういうお方なんで?」
「人間ではない」
「へ――?」
「ということにしておこう。……勝たせて、救ってやったのは、お前に、ひとつ、仕事をさせるためだ」
「へえ」
「やるか?」
「危険な仕事でございますかい?」
「まず、な。やるな?」
かさねて、「若影」は、念を押した。
「やります!」
百助は、頷《うなず》いた。
「若影」は、懐中から、とり出した物を、地面へ抛《ほう》った。
それは、キラキラと光る二個の珠《たま》であった。
百助は、妙なものを転がすものだと、不審そうに、目を追った。
二個の珠は、仲よくならんで、百助の前を過ぎて、とある箇処へいったん停《とま》まってから、急に、くるくると烈しい勢いで回りはじめた。
とみるうちに、突然、それは、かがやく生きた目玉になって、かっと、百助を睨《にら》みつけた。
百助は、「呀《あ》っ!」と、目晦《めくら》んだ。
「若影」は、棒のようにつっ立って、焦点を失った視線を宙に送っている百助に、さして大きくない革袋を持たせた。
「百助、これから、城中まで、歩数《ほすう》を計《かぞ》え乍ら、走るのだ。よいな!」
鋭い語気で、命じた。百助は、こくりと首肯した。(催眠状態というのは、刺激に反応しやすい脳貧血症状をいう。何かの暗示を受けると、急に反応して、脳に血が昇るが、またもとの脳貧血状態にもどり、表面の意識は、その暗示を潜在させておいて、きわめて正常に働く。即ち、暗示者の命令通りに行動しつつ、それが異常に誘導されたものとは、自身で気づかぬ)
「百歩|毎《ごと》に、この袋の中から、珠を掴み出して、地べたにすてろ! それが轟音《ごうおん》を発そうとも、猛煙を噴き上げようとも、決して、振り返ってはならぬ。……お前は、御門で、御切手を示して、城中へ入れ。城中へ入っても、百歩毎に、珠をすてて行け。珠が無くなるまでつづけるのだ。たぶん、珠は、吹上の御苑《ぎょえん》で、無くなるだろう」
四
麟祥院の禅堂では、半蔵が、「母影」の裸身へ、仙賀流の百足《むかで》の油を、くまなく塗りおえていた。
呼吸もなく、体温もなく、死後の硬直とも思われる四肢であったが、さりとて、白蝋の肌膚《はだ》には屍斑《しはん》もない、奇怪な女体であった。
これは、池中に飛ぶ前に、ことさらに全身を硬直させ、呼吸を止めて、あらかじめ仮死状態をつくっておき、池底へ沈むや、無意識の所作で、石をさぐって、抱いた、としか解釈できなかった。天竺《てんじく》のヨギの秘法に、土中に埋葬された一僧が、百日を過して後、また蘇生してみせたとあるが、あるいは、女影は、親知らずの義歯の中にかくしていた秘薬を嚥《の》んで、ヨギの法を倣《なら》ったのかも知れなかった。
半蔵が、その推測を口にすると、甚三郎も合点して、
「むかし、それがしも、京の伴天連《ばてれん》寺で、そのような話をきいたおぼえがある。それにしても、並々ならぬ忍者よのう!」
と、感服したことであった。
半蔵は、
「ご免――」
と、甚三郎に断って、衣服を脱ぎすてて、全裸になると、意識なき女身をかかえて、仰向けに寝た。
普通の人工呼吸ならば、仮死者を仰臥させて、その上に跨《また》がるのであったが、忍者の法は、逆に、仮死者を、おのれの上に乗せるのであった。
胸と胸を合せ、おのが腹と、背中にまわした双手の操作によって、空気を、肺に送り込む。この場合、仮死者の舌が、裏返って、息が止るのを防ぐために、その舌をくわえ出して、強く吸っておかねばならぬ。
このかたちは、視る者が枯老の兵法者であったから良かったようなものの、甚だみだらな光景と、言わなければならなかった。
魂入れの動作は、一刻《いっとき》以上も、つづけられた。
じっと、女影の顔を瞶《みつ》めていた甚三郎が、ひくく、
「生きかえるようだな」
と、呟《つぶや》いた。
半蔵は、動作を止めて、女体を横へ、ころがした。
起き上がるや、蓬髪《ほうはつ》の中から、一本の長い針を抜きとって、女体の股《また》を、大きく八の字形に拡《ひろ》げておき、会陰《ありのとわたり》に、それをぷすりと刺した。
「……む、むっ!」
女影の色あせた唇を割って、微《かす》かな呻《うめ》きが、洩《も》れた。
その裸身から、むらむらと、女の匂《にお》いが漂い出たのは、それから、ほどなくのことであった。
贋村正《にせむらまさ》
一
宏壮《こうそう》な構えの武家屋敷が、高塀《たかべい》をつらね、その塀越しに路上へ枝をさしのべた樹木も、武蔵野の原生林を屋敷内に囲った巨《おお》きなもので、往還は、星明かりもさえぎられた、淋《さび》しい地域であった。
もとより、人影は絶えて、寂寞《せきばく》の夜気は、無気味なくらいであった。
やがて、二個の影が、彼方《かなた》の辻《つじ》にあらわれて、しずかに、進んで来た。
前の影は、高く、武将のみに見られる威儀整った歩きかたであった。後の影は、低く、跫音《あしおと》を立てない、滑るような歩きかたであった。
「佐助――」
前の影が、呼んだ。
「チト生きのびすぎたな。そうは思わぬか?」
長い道程を、もくもくとして歩いて来て、いかにも唐突な、この言葉であった。
「なかなか――。生命《いのち》は、大切なものでござる」
とぼけたような口調の返辞であった。
「いや、やはり、生命にも、棄《す》て秋《どき》があったようだ。お前が、お節介に、わしの影武者を五人も六人も、つくりすぎたおかげで、棄てそこねてしもうたぞ」
「そのお言葉は、もう百編もうかがい申した。愚痴《くりごと》と申すものでござる」
「ふふ……」
真田左衛門佐幸村は、ひくく、自嘲した。
「生きのびたおかげで、江戸城を見物できるか」
「ほ――」
赤猿佐助は、おどろきの声を出した。
「あるじ様、行先は、江戸城でございますか?」
「うむ」
「大事に相成りはいたしませぬかな」
「柳生但馬守の招きだ。心配は要らぬ」
そうこたえた幸村は、ふと、足を停《と》めた。佐助も、立ち停まって、頭をまわした。
遠く、火薬の炸裂《さくれつ》する音を、きいたのである。
佐助の小躯が、音もなく跳躍したかとみるや、高い樹枝へとびついて、空へ消えた。
炸裂音は、つづけざまに、夜気をふるわせた。そして、それは、こちらへ近づいて来るようであった。
ひらっ、と路面へ降り立った佐助が、
「烽火《のろし》とも見える白煙が、柱のように、左様、百歩あまりの間隔をもって、立ち昇って居《お》ります。一里の遠方のが流れ散るにつれて、三町の近くで、あらたなやつが立ち昇りますわい」
と、要領よく、告げた。
「故意の人為で、市民をおどろかそうというわけか」
主従は、次の辻へ来た。
その時、北へ走る道筋の、一丁あまりへだたった地点を、一個の人影が掠《かす》め過ぎるのがみとめられた。
「投げたな」
幸村が、言った。
「御意――」
赤猿が、応えた。
そこの路上から、轟音《ごうおん》とともに、白煙が噴き上がって、天に沖《ちゅう》した。
すでに、夢を破られた市中は、騒然となっていた。
「追うか、佐助」
「あの投げぶりは、ただの酔漢の悪戯《いたずら》とも見え申したが……」
「使われたにすぎまい。尾けて、その行先をたしかめておけい。途中で、とりおさえては徒労となるぞ」
佐助は、奔《はし》り出した。
幸村が、白煙の噴き立つ其処《そこ》へ近寄った時、路上には、のちの証拠となるべき何物も残ってはいなかった。即ち、火はなかったのである。
――人騒がせを目的とするもののようだが、何を狙《ねろ》うて居る仕業か?
幸村は、小首をかしげた。
二
幸村が、江戸城西之丸の桜の間に入って程なく、市中を騒擾の渦と化さしめた下手人は、吹上の御苑《ぎょえん》にも、数個の白球を炸裂させて、城内を色めきたたせた。
陸尺《ろくしゃく》・百助は、庭番たちに殺到されるや、のこりの白球を、袋ごと、抛《ほう》りつけておいて、盲《めくら》滅法に、木立の闇《やみ》へ遁《のが》れようとした。しかし、捕えられる時には、きわめてあっけなく、なんの抵抗もしめさず、茫然《ぼうぜん》と虚脱の|てい《ヽヽ》であった。
詰所に端坐《たんざ》した幸村は、
――佐助のやつ、後を追うて、ここまで忍び入って参ったろうが……。
と、思った。
家康の首級を狙って、いくたびか、この江戸城へ忍び入ったことのある赤猿であった。闇中《あんちゅう》、のぞむがままに、自由に城内を行動できる筈《はず》であった。
――あの曲者《くせもの》を、庭番たちの手から、横奪《よこど》りするであろう。
ひとり、微笑したところへ、但馬守|宗矩《むねのり》が、姿を現わした。
両者は、すでに昵懇《じっこん》の間柄《あいだがら》であった。家康が親藩・譜代・外様の大名たちを全土に配するに当り、その封土区分に就いて、幸村に、内密に意見を需《もと》めたことがあり、その時、宗矩が、使いをしたのである。幸村の頭脳は、徳川幕府の基礎をかためる上に、大いに役立った。武家諸法度も、ひそかに、幸村の手によって、草案が作られた事実を、知っているのは、家康と本田正純《ほんだまさずみ》を除けば、宗矩だけであった。また、柳生十兵衛はじめ、道場の高弟たちが、隠密となって、諸国へ潜入して行ったのも、幸村の考えより出たものであった。
ただ、大坂城陥落とともに、壮烈な討死をしたと信じられている幸村は、再び世に出ることをきらい、面貌も声音も変えてしまっているので、こうして、城中に在ろうとも、誰一人、それと気づく者はないのであった。
「夜陰に至急のご足労をお願いいたしたにも拘《かかわ》らず、お受け下されて、誠にお礼の申上げようもござらぬ」
宗矩は、鄭重《ていちょう》に、頭を下げた。
「御用向きは、剣相の鑑定ででもござろうか」
幸村は、何気ない口調で言った。
宗矩は、幸村の予感の鋭さに、舌をまいた。しかし、すぐに、
――知って居るな。
と、思った。
小姓たちが、五箇の刀函《とうかん》と、錦《にしき》の布をかけた三方《さんぽう》を四基、捧《ささ》げて入って来た。
「これらは、孰《いず》れも、曾《かつ》て、大坂城内の宝刀として、太閤倉《たいこうぐら》にしまわれてあった無銘剣でござる。すでにおききおよびでござろうが、このたびの御前試合の勝者に賜わる――」
そう告げて、宗矩は、三方の錦の布をとりはらった。三寸あまりに両断されている切先が、冴《さ》えた光を放って、並ぶ。
宗矩は、説明した。
本日で第六試合が終わった。第一、第二、第三、第五の試合の勝者たちが、「影」と称する忍者によって、両断された切先が、これらである。第四試合の勝者遠藤由利のみが、両断されず、いったん奪われたが、服部半蔵の働きで取りもどし、大奥へ持って入り、これは、さいわいに、奪われずに、こちらの刀函の方に納めてある。本日の第六試合に於《おい》て、佐川蟠竜斎を控えの間に当て落としておいて、替玉となった「影」が、関口弥太郎に勝って、一振りを持ち去ったほかは、揃《そろ》っている。
影なる忍者が、如何《いか》なる目的をもって、こうして、次々と切先三寸を両断いたすのか――御前試合の勝者を、ただ、嘲弄《ちょうろう》いたすためとは、到底考えられ申さず、これらの太刀が、曾て大坂城の宝刀であったことと、何か関連があるやも知れず、これらの切先が重大な秘事を有して居り、それを調べるためであるとすれば、第五試合までの太刀にはそれが認められない故《ゆえ》に、あるいは、投げ返し、または、持ち去ろうとしなかったのでござろう。されば、第六試合に蟠竜斎の替玉となって勝ち、持ち去った一振と、第七、第八、第九、第十の試合の勝者に賜る四振りのうちの孰《いず》れかが、秘事を有して居ると、考えられるのでござる。……お手前に、まず、これらの太刀が、何物の作なるかを、鑑定して頂ければ、謎もまた、おのずから、解け申そうかと存ずる次第でござる」
幸村は、しばらく沈黙していたが、やがて、
「遠藤由利なる女性《にょしょう》の拝領した太刀を、服部半蔵が、その忍者から取りもどしたと申されたな?」
「左様――」
「忍者は、大奥に入った遠藤由利から、再度奪い取ることは、叶《かな》わずと、あきらめたのでござろうかな?」
「……」
宗矩は、すでに、半蔵から、「影」は大奥に忍び入ったに相違あるまい、といわれて、後刻、由利に会うて、たしかめたのである。
由利は、無表情で、横にかぶりをふり、拝領太刀を宗矩に預けたのであった。(由利が、否定をした理由《わけ》は、読者の方が、すでに承知の筈である)
「試合の勝者に、決死の挑《いど》みをなす程の忍者が、大奥に忍び入るのを、ためらうものでござろうかな?」
「……」
宗矩は、無言で、刀函の一個を引き寄せて、蓋をはずして、その一振りを把《と》ると、幸村にさし出した。
「これでござる」
幸村は、受けとって、無造作に、鞘をはらった。
鍔《つば》もとから、切先へかけて、鋭い視線を、ずうっと移し了《お》えた幸村は、ぴたっと鞘におさめると、宗矩に返した。
「これは、その女性の拝領された太刀ではござらぬ」
「どうして、お判りか?」
「すでに、その太刀は、服部半蔵が、茅屋《ぼうおく》に持参いたし、それがしの鑑定済みでござる」
「……」
宗矩は、口を強くひきむすんだ、半蔵が、自分にそのことを告げなかったのが、非常に不快であった。
幸村は、宗矩の表情へ冷やかな眸子を据えて、
「それがしは、半蔵の問いに応《こた》えて、太刀は、村正の作と断定した。たしかに、太刀は、村正特有の箱乱れ、と見まごう焼刃でござった。しかし、能《よ》く視《み》れば、箱乱れではなく、村正の作にあらず――。それがしが、故意に、詐《いつわ》ったのは、半蔵の存念が奈辺《なへん》にあるか、読みとれなかったためでござる」
「……」
「ところで、ただいまの太刀こそは、正真、疑う余地もない箱乱れの焼刃でござった。村正と断定して、はばかり申さぬ」
「すると、これは、昨夜、影が忍び入って、すり替えたのではなく、予め、半蔵が、すり替えておいた、と考えられ申すな」
「まず――」
幸村は、頷《うなず》いてみせた。
遽《にわか》に――宗矩の胸中で、疑惑の念がさわいだ。
いまにして、自分と対坐した時の半蔵の態度に、怪しむべきふしぶしがあった、と思いかえされる。
木曾谷の「影」と何か縁故のある忍者であったか、という問いに対して、半蔵は、甚《はなは》だ曖昧《あいまい》な返答をしたではないか。
よもや、「影」母子《おやこ》と馴合《なれあ》って、公儀を裏切るこんたんを起したとは考えられぬが、何か肝心のことをかくしているに相違ない。
――忍者というものを、信頼したのが、こちらのあやまちであった!
宗矩は、勃然《ぼつぜん》として、半蔵を悪《にく》んだ。
「しかし乍ら――」
幸村は、言った。
「村正と断定されて、それを鵜《う》のみにいたし、正真の村正とすり替えるようでは、まだ、切先が秘めている謎を、半蔵は、解いては居りますまい」
「左衛門佐殿! 太閤が、何故《なにゆえ》に、十振りのみを手許《てもと》に残されたのか、その仔細《しさい》を、ご存じならば、是非ともおうかがいしたい。お願いつかまつる」
宗矩は、頭を下げた。
幸村は、同じ問いを、半蔵から、されていた。半蔵には、打明けていなかった。
幸村は、微笑して、
「その前に、太刀を拝見つかまつろう」
三
いつの間にやら――。
赤猿は、炎々と夜空を焦《こ》がす大|篝火《かがりび》のそばにひきすえられた百助を、数十士の監視の目を掠《かす》めて、ひょいと拉致《らち》してしまっていた。
しかも、大胆にも、西之丸庭番詰所の一室へさらい込んでいた。
「やれやれ、ただの陸尺かや」
赤猿は、頤《あご》の無精髭《ぶしょうひげ》を、ぷつんぷつんと抜きとり乍ら、うつろな眼眸《まなざし》を宙に据えている百助を、つまらなさそうに眺めた。
「おい、陸尺――しっかりせぬかい。事情によっては、わしのあるじ様が、生命を救うて下さるかも知れんぞ」
そう言って、ぽんと肩をたたいてやった。
にも拘らず、百助は、聾《つんぼ》のように、なんの反応もしめさなかった。
「はてな?」
急に、赤猿は、きらっと窪目《くぼめ》を光らせて、百助の顔を、のぞき込んだが、
「ふむそうかや――」
と、合点した。
「性根を睡《ねむ》らされとるわい。正気に戻《もど》してやろうず」
赤猿は、左手の人差指を、眼前二尺あまりのところへ水平に据えつけると、眉間の中点を、矢のような迅《はや》さで突いた。
百助が、はっと目を瞠《みひら》いたとたんを、思いきり、頬桁《ほほげた》へ、拳骨《げんこつ》をくれた。
あっけなく、ひっくりかえって、したたか、後頭を壁へぶちつけた百助は、しかめ面《つら》をし乍ら、きょろきょろと、あたりを見まわした。
「どうじゃ、正気に戻ったかや」
にやにやする赤猿を、怪訝《けげん》そうに見かえして、
「こ、ここは、ど、どこなんで――?」
と、訊《き》いた。
「江戸城内じゃ」
「えっ!」
背中へ棒を通されたように、びくっと上半身を立てると、
「ど、どうして……お、おれは――?」
と、困惑の形相になった。
「はははは、お前、どんな男に、性根を睡らされたのじゃ?」
「性根を――睡らされた?」
「そうじゃて。お前は、自分のしたことに、おぼえはあるまい」
「自分のしたことじゃと」
「性根を睡らされているあいだに、お前は、江戸中の人間に、目をさまさせて、家の外へとび出させたのじゃい。おまけに、この江戸城内を、わきかえらせて、生け捕られた、と思え」
百助は、痴呆《ちほう》のように、赤猿を見つめていたが、急に、ふらふらと、立ち上がった。
「お、おれは……」
夢遊病者のように、出て行こうとするのを、赤猿は、袖を掴んで、ひき戻した。
「さ、言え。どんな奴が、お前の性根を睡らしたぞ?」
「……」
「言わぬか! いわぬと、こんどは、このわしが、性根を睡らせるぞ!」
決めつけられて、百助は、なんとも名状しがたい慴怖《しょうふ》と困惑の色を、汗まみれの顔に滲《にじ》ませた。
「……水野十郎左衛門殿の屋敷で……若い浪人者が……、おれに、博奕《ばくち》を勝たせてくれて……外へつれ出すと、いきなり、光り珠《だま》を、地べたへ抛《ほう》って……そいつが、目玉に、化けて、おれを、睨《にら》みつけよった。……そ、それっきり、わ、わからなくなってしもうたんだ……」
そこまで語った百助は、廊下に、跫音《あしおと》をきいて、とび上がった。
「来、来た! ど、どうしよう!」
「どうしようもあるまい。遁《のが》れられぬところだ。観念するのだ」
赤猿は、けろりとしていた。
「あ、あんたは、おれを、たすけてくれるのではないのか? たのむ! た、たすけてくれ!」
「もう間に合わぬて――」
赤猿が言いすてるのと、杉戸が、ひき開けられるのが、同時であった。
「おっ! ここにいたっ!」
庭番の一人が、叫んだ。
百助は、窮鼠《きゅうそ》猫を噛《か》むたとえ通り、遁《に》げ路《みち》をそこしかない戸口へ、突進して、庭番へとびかかった。
「たわけ!」
庭番の一撃で、百助のからだは、他愛なく、崩れ落ちた。
あぐらをかいて、それを眺めていた赤猿は、
「貴様か、こやつをさらったのは――?」
と、呶鳴《どな》りつけられると、
「ああ――」
と、頷いて見せた。
「おのれ!」
目を剥《む》き、歯を剥いた庭番は、しかし、自分たちの目を掠めて奪い去った奇怪な業の持主に対して、軽率に向えない、と思いかえすと、鋭く、口笛を鳴らした。
赤猿は、悠々として、庭番たちが、どっと駆けつけてくるまで、そこを動かなかった。 ひさしぶりに――まことに、こういうあんばいに、敵地に身をさらすのは、幾年ぶりであろう。
赤猿は、からだの奥底にひそんでいた活力が、はつらつと、四肢のはしばしまであふれるのを、おぼえていた。これが、生甲斐《いきがい》というものである。
――あるじ様に、知れたら、ひどいお叱りを蒙ろうがな……。
そう思いつつも、どうにも、ここで、存分に身を踊らせてみなければ、この活力のおさまりがつかなかった。
「何物だ、貴様?」
庭番頭とおぼしい男が、油断なく身構え乍ら、じりじりと詰め寄って来た。
赤猿は、のこのこと立ち上がると、ずうっと、庭番の面々を見わたして、
「伊賀《いが》三十六人衆は居らぬが、どうしたかな?」
と訊ねた。
「黙れっ! 神妙にせい!」
「そうは参らぬ。あいにくだが、お主がたでは、このワシを討ち取るのは、チトむつかしい」
その言葉の終わらぬうちに、庭番頭が、居合抜きの一撃をあびせた。
瞬間――一颯《いっさつ》の刃風に吹きはらわれて、赤猿のむさい姿は、その場から、消え失せた。
「おのれっ!」
庭番頭が、狼狽しつつ、本能的に防禦《ぼうぎょ》構えをとった姿は、いかにも間抜けたものに見えた。
「ここだっ!」
一人が、頭上を指さすのと、
「えいっ!」
一人が、畳を蹴って跳びざまに、天井へ蝙蝠《こうもり》のように吸いついた赤猿へ、白刃を送るのが、殆ど同時だった。
どういう異常の修練によるものであったろう、赤猿の小躯は、くるっと一回転して、また、ぴたっと、天井に吸いついた。
次の一人が、切先を直立させて、ぴゅっと突き上げたが、結果は、再び、その秘技を目撃させられるにとどまった。
この時、おくれて廊下から、手槍《てやり》をかい込んで、走り入ってきた大兵《たいひょう》の男が、
「拙者にまかせろ!」
と、叫んで、きゅっと手を鳴らして、ひとしごきをくれるや、
「やっ!」
と、くり出した。
次の刹那――したたか、天井板をつらぬいて、うっとふみこたえた男の頭へ、ひょいと、乗った赤猿、
「ご免――」
一声のこして、その頭を蹴とばしておいて、宛然《さながら》、流れの中の石を渡るように、さっさと、頭から頭へ、飛び移って、あっという間もない迅さで、廊下へ出てしまっていた。
庭番たちは、憤怒と屈辱で、血眼になって、奔りまわったが、二度と、その姿を見つけることは叶《かな》わなかった。
伊賀三十六人衆が、湯島台より急遽《きゅうきょ》江戸城へひきかえして来たのは、それから、四半刻《しはんとき》の後であった。
赤猿検分
一
黙然として、柳生宗矩《やぎゅうむねのり》は、膝に手を置いて、不動の孤座をまもりつづけていた。「影」によって両断された三寸余の切先と、残りの試合に賜《たま》わるべき太刀とが、なお、鞘《さや》を払われたまま、宗矩の前に並べられ、秋霜《しゅうそう》の光を競うていた。左端の一振りのみが、すりかえられた千子村正《せんごむらまさ》であった。
真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》は、すでに、去っていた。
しかし、幸村が口にした言葉は、宗矩の耳に、一句もあまさず、残っていた。
幸村は、九振の無銘太刀は、残らず、備中《びっちゅう》青江|守次《もりつぐ》の長子|恒次《つねつぐ》の作と、鑑定したのであった。
幸村は、服部半蔵《はっとりはんぞう》が訪れて、その一振の鑑定と剣相を乞《こ》うた時、わざと千子村正と断定したが、実は、即座に、青江恒次と識ったのである。そして、おそらく、他の九振も、同人の作であろうか、と想像したのである。予断は適中した。
青江刀は、普通とは逆の方向へ焼刃が乱れる逆丁字の妖刀であるが、特に、これらの拝領太刀は、咒文剣《じゅもんけん》として鍛えられているとおぼしく、その咒文をあらわし、かつ隠すために箱乱れの相をなしているのであった。
焼刃に咒文をあらわす秘法は、すでに絶えているが、村正の生きた足利《あしかが》時代には、なお伝え残っていて、箱乱れを作ったものに相違ない。したがって、一瞥しただけでは、青江刀と村正は、容易に区別がつかぬのである。
太閤秀吉は、村正を愛好し、論功行賞として、これを、屡々《しばしば》諸侯に与えていた。秀吉が諸侯にわかつべき封土がなくなったので、代わりに聚《あつ》めたる名剣は、百六十六振であった、という。その中に、村正は、十数振りあった。堀内安房守氏善《ほりうちあわのかみうじよし》(紀州新宮城主)、赤松|上総介則房《かずさのすけのりふさ》(但馬領主)、加加江《かがえ》孫八郎|重望《しげもち》らが、拝領している。
秀吉が、特にえらんで、十振だけ手元にのこしたのは、これらが咒文剣であったからである。秀吉は、同じ箱乱れ乍《なが》ら、これらが村正の作ではなく、青江刀と知ったのである。
青江の咒文剣、とは――。
治承《じしょう》四年に、平氏が、福原へ遷都する際、再び京へ帰る日もあろうかと、運びきれぬ財宝を、地下へ埋めておき、その場所を示すために、青江恒次に命じて、謎語《めいご》を焼刃にあらわす剣をうたせたのである。おそらく、一振ではなく、同じものを幾振かうちあげて、将来頭領たるべき公達の腰に佩《お》びさせたものであろう。
平氏は、その財宝を、人足百名に背負わせて、京から運び出し、何処かに埋めたのである。そして、むかし神宮皇后が新羅を伐《う》って凱旋《がいせん》するや、奪って来た金銀財宝を千人の人夫を使って摂津の某山に埋めて、その千人を鏖《みなごろ》しにして秘密をまもったという故事にならい、運び人足たちを、淀の河原で、盗賊として斬殺《ざんさつ》してしまった。いまも、淀のほとりに、鬼塚《おにづか》という地名が残っている。
後年、京都へ乱入した木曾義仲《きそよしなか》は、この噂をききつけて、財宝を獲んとして、あらゆる手段をつくしたが、ついに判《わか》らなかった。一説に、その匿《かく》し場所は、京に居残った平氏の尼法師の背中に、烙《や》き印されている、ときいた義仲は、京中の尼法師を悉《ことごと》くとらえて来て、全裸にひき剥《む》いて、あらためた。これが、木曾源氏の悪名の原因の一になったのである。
また、源九郎義経《げんくろうよしつね》も、京に入るや、その財宝をわがものにすべく、苦心した。
咒文剣をうった青江恒次は、身に迫る災難から遁《のが》れようと、伊勢の国へ趨《はし》ったが、途中で殺された。
後鳥羽《ごとば》帝が、刀剣を愛好し、自ら菊の御作を鍛えたのは有名だが、その御番|鍛冶《かじ》の一人に青江恒次の弟貞次をえらんだのも、その縁故から財宝の匿し場所を知り、いつか、帝威を回復しようと考えたからだ、という。
また――。
長門《ながと》の海底を捜したのは、三種の神器の一つである草薙《くさなぎ》の剣《つるぎ》をひろいあげる目的のほかに、咒文剣を獲ようとする努力であった、とか。
ところで、咒文剣というものを、別の観点から調べると――。
例えば、青江の刀法を伝える村正には、咒文打ちの名残りとおぼしき臼字《きゅうじ》村正というものがある。鋩子《ぼうし》に近い箱形が、刃《やいば》を中にして開いてみれば、臼という字に読める。村正自身は、理由など知らずに、鍛えたものであろうが、これはあきらかに、咒文である。のみならず、村正の中心《なかご》(柄《つか》の中に入る部分)が、たなご腹《ばら》をしているのも、何かわけがありそうにも、思える。
幸村は、以上のように語ってから、
「それがしは、服部半蔵の持参した拝領太刀を熟視いたして、平家の財宝伝説は、架空に非《あら》ず、とさとり申した。焼刃に認められたのは、一見、文字とは読めぬようにうちあげてはあり申すが、まさしく、咒文――いや、謎語《めいご》と読みとった次第でござる」
と、言ったのである。
宗矩は、その謎語を訊《たず》ねた。
幸村は、眼前にそれを見る眼眸《まなざし》になり、
「刃を中にして、開いて読めば、車・中・侯の三文字が、浮かび出て居り申した」
「車中侯?」
「左様、相違ござらぬ。これは、あきらかに謎語。この謎を解くには、古い文献をあさらねばなり申さぬ」
ちなみに、ここに並べられた八振には、この謎語は、なかった。
すなわち――。
「影」が、平家財宝の伝説を信じ、その隠し場所を記した咒文剣をもとめているとすれば、それは、第六試合に勝って、持ち去った一振か、もしくは、遠藤由利の手から消えた一振でなければならなかった。たぶん、それは、後者の方に相違ない。「影」は、車中侯の三文字を読めば、直ちに、その意味を説く知識を有《も》っているのであろうか。
宗矩にすれば――。
服部半蔵が、「影」に与《くみ》したと疑惑を抱いたからには、幸村に、一刻も早く、その意味を解いてもらいたかった。
宗矩が、それを口にすると、幸村は、笑って、
「それがしは、あの太刀を村正と断定いたしました。されば、半蔵が、影より、平家財宝伝説を打明けられたとしても、時代が合わぬ故《ゆえ》、のこりの拝領太刀を狙うことに相成る筈《はず》。すなわち、十試合が終わるまでの日時が、こちらではかせげると申すもの。それまでに、この幸村が、車中侯の意味を解き申そう」
そう言い残したのであった。
――車・中・侯!
この三文字の謎解きは、しかし、幸村のみに、宗矩は、まかせてはおけなかった。
幸村という人物に対しても、油断をしてはならないからであった。
宗矩は、すりかえられた千子村正をとりあげて、あらためて、調べた。
鍔《つば》もとから一寸あまりのところに、微《かす》かな刃こぼれがあった。
――そうか。これは、加加江孫八郎の佩《お》びていた刀だな。
宗矩は、合点した。
太閤秀吉から村正を賜った一人加加江孫八郎は、これをふるって、斬り死にしているのであった。
慶長五年、関ヶ原の役《えき》を起す直前に、石田三成は、かねて親交のあった加加江孫八郎を、家康の許《もと》へ、刺客《せっかく》として送った。
孫八郎は、小山の陣営におもむいて、家康を刺そうと図ったが、ついに面会の気が得られず、むなしく帰途についた。
その途中、参州|池鯉鮒《ちりう》で、懇意の堀尾良晴《ほりおよしはる》に出会った。
良晴は、孫八郎が、三成に加担したとは気がつかず、
「近くの刈谷城主水野忠重が、当地まで出て来て、馳走《ちそう》すると申している故《ゆえ》、いっしょに参ろう」
と、誘った。
水野忠重は、家康の叔父に当たる人物であった。
孫八郎は、決意した。
――よし! 家康の首級の代わりに、その叔父と股肱《ここう》を、治部《じぶ》殿へ手みやげにしてくれよう!
何食わぬ顔で、吉晴にしたがって、孫八郎は、饗応の席に加わった。
宴たけなわになると、酒に弱い吉晴は、柱に凭《よ》りかかって、居眠りはじめた。
隙《すき》をうかがった孫八郎は、矢庭に、抜き打ちの一撃を、吉晴にくれた。
だが、百戦|練磨《れんま》の吉晴には、本能的に身を躱《かわ》す迅業《はやわざ》があった。右手の指三本を切り落とされつつ、脇差《わきざし》しを抜いて、渡りあい、焦って突進してきた孫八郎の咽喉をつらぬいて、仕止めた。
この血闘において、孫八郎のふるった村正は、刃こぼれしたのである。
吉晴は、遺骸《いがい》とともに、村正を、三成の許《もと》へ、送り返した筈であった。
この村正が、半蔵の手に渡っていたとすると?
遠藤由利に、半蔵がすりかえて、この刀をかえしたと疑う宗矩は、半蔵に対する|ほぞ《ヽヽ》を決めなければならなかった。
二
星明かりに、まっすぐのびた国府路《こうじ》町の大通りが、ほの白く浮きあがって、江戸城から退出してきた幸村の孤影を、迎えていた。
急ぐでもない足どりで、長身をはこんでいた幸村は、いつの間にか、背後を跟《つ》いて来る赤猿の存在に気づいた。
「佐助」
幸村は、前方へ視線を置いたまま、呼んだ。
「はい――」
「煙を撒《ま》いた下手人は、何者であったな?」
「ただの陸尺《ろくしゃく》でございました。水野十郎左右衛門邸の賭場《とば》で、若い浪人者に、目をつけられ、性根を睡らされて、おのれ自身も何をしでかしているか知らずにやった仕業でございましたぞ」
「そうか。……お前が、その男を横奪《よこど》ったときには、まだ、伊賀衆は、城内へ戻って居らなんだな?」
「左様でござる。伊賀衆がいたなら、ひさしぶりに、ひと泡《あわ》ふかせてくれようか、と楽しみにして居りましたがな。あいにくでございましたわい」
「いなくて、やれやれと思ったのではないか」
「なかなか――」
「たぶん――あの人騒がせは、伊賀衆を、城内へ呼び戻させる目的であろう」
「ほう……と申しますと?」
「伊賀衆全員は、湯島台におもむいて居った。服部半蔵の指揮によって、影という忍者を生捕りにするためにな――」
「影! 殿、木曾谷の影が、まだ生きて居るのでございまするか? 生きて居るとすれば、古稀《こき》を越えて居りまするぞ」
「あの影は、もはやこの世には在るまい。血を継いだ者であろう」
「影に、子がございましたかい」
赤猿は、唸《うな》った。
「影と名乗る者は、一人ではないようだ。一人が、湯島台で生捕られたと知ったもう一人が、市内城中を煙にまいて、伊賀衆をそちらへ趨《はし》らせておいて、救おうと図って居る――まず、そういうところであろうかな」
「生捕ったのが、半蔵ならば、むざとは、奪いかえされますまい」
「そのところを、お前に見とどけて来てもらおう。……よいか、佐助。もし半蔵が、いったん生捕ったものを、みすみす奪いかえされるようならば、半蔵と影たちはこんたんをひとつに組んでいると考えてよい。半蔵に叛心《はんしん》はなく、もう一人を生捕るために、囮《おとり》として、わざと、警備を手薄にして、待ちかまえて居るのかも知れぬ。これは、お前の目によって、判断しなければならぬ。……わしは、おそらく、半蔵に、叛心はない、と思うて居る」
幸村は、宗矩に言ったのとは、反対の本心を明らかにした。
宗矩をして、半蔵に対して疑惑を抱かせる。――これは、あらかじめの肚《はら》であったのである。
三
湯島の台地は、ずっと大昔は、海辺であったらしい。その頃《ころ》、南から漂着した幾本かの楠《くすのき》が、いつか、巨樹となって、神木と仰がれるにふさわしいすがたを、其処《そこ》に此処《ここ》に、天に沖《ちゅう》して、そびえさせているのであった。
就中《なかんずく》、瓢箪池《ひょうたんいけ》の畔《ほとり》に立つ樟《くす》は、ひときはみごとな巨《おお》きさであった。
その頂き近くに、いつの間にやら、赤猿は、一枝に化けきったように、ひそんでいた。
繁華な街なかに置くと、まことに泥《どろ》くさい人|てい《ヽヽ》だが、こうして原始の巨樹の上にのぼらせると、いかにもいきいきとしてみえるのは、この男の生い立ちを物語るものである。
別人のように鋭く冴《さ》えた眼光を、池中の小島へ投じ乍ら、口辺には、生甲斐《いきがい》のある微笑を泛《うか》べて、赤猿は、微動だにしない。
その小島の一本松の根かたには、異常な光景があった。
幸村の推測は正しく、赤猿が、ここに到着した時、伊賀三十六人衆は、警備を解いて、一人のこらず、立去っていた。江戸城をおびやかすことで、この台地の警備を解かせた「影」の智慧は、あっぱれ、といえた。すでに、「影」は、この台地の何処《どこ》かにひそんでいるに相違ない。現に、この赤猿自身が、神木の頂にのぼって、全景を俯瞰《ふかん》しているくらいだから……。
警備を解いた服部半蔵が、迫って来た敵に対して、いかなる処置をしめすか、これが傍観者の赤猿の興味であったが、神木上に身を置いて、夜明けを待って、島を見下ろした赤猿は、思わず、
――うむ!
と、声なく唸《うな》ったことだった。
松の根かたには――。
一個の首が、土の上へ置かれてあった。そして、それは、半眼にひらいて、生きていた。
実は、「女影《めかげ》」は、五体を土中に埋められていたのである。
奪い返さんと窺《うかが》う者に対して、囮の身を据《す》えつけておくのに、これ程万全の処置はないといってよい。
首から下を、土中に埋めたばかりか、左右と後ろは、ひと抱えもある大石を置いてあった。
如何《いか》なる神技をもってしても、石と土をはねて、五体を地上へ踊り立たせることは、不可能であった。
一間あまりはなれた地点に、半蔵が、彳《たたず》んでいた。そして、もう一人――枯れ木に似た老兵法者が、岸辺からゆるやかな弧線を架けている太鼓橋の欄干に、腰を下ろしているのであった。
――あれは、鞍馬の鴨甚三郎ではあるまいかや? いや、たしかに、相違ない!
赤猿は息をのんだ。
――お主《しゅう》の明察、てのひらを指すがごとしじゃ。服部半蔵は、是が非でも、もう一人を生捕ろうとの心得とみたぞ。叛心はない。
赤猿は、血のわきたつ昂奮《こうふん》にかられた。
――この万全の防備に対して、どういう手を打つかや?
赤猿自身、どう思いめぐらしても、首だけ除かせて、地中に埋めた人質を、生きて奪いかえす方法は、全くなかった。
「影よ――」
ながい沈黙ののちに、半蔵が、呼んだ。
「思いかえさぬか?」
「……」
「そなたは、敗れたのだ。しかし、余人ではなく、この半蔵に敗れたのだ。慙《は》じることはない。……二十年前の恩義が、わしにはある。また、わしは、そなたの父のごとくに、老い果てて居る。血|涸《か》れたこの生命が、べつに惜しゅうはない。そなたの心ひとつで、この争いは、おさまろう。どうだ、木曾谷へ帰る気持ちにならぬか?」
「……」
半眼に開いた土上の蒼《あお》い貌《かお》は、なんの反応もしめさずに、全くの無表情であった。
それを身戍《みまも》る半蔵の面《おもて》の方が、暗く、寂しい色を滲《にじ》ませていた。
「拝領の太刀を、何故に奪うのか――その執念の発するところを、打明けてくれい。たのもうぞ」
「……」
「もしも、それが、打明けたために、そなたら母子《おやこ》の生命にかかわる大事ならば、この半蔵一人の胸にたたんで置こう。……身の程知らずの暴挙ならば、あの若者の父親として、阻止せねばならぬ。そなたら母子を、無事に木曾谷に帰らせるものなら、いつでも、この老い身をすてる心に、みじんのいつわりもない。……な、打明けてくれぬか」
「……」
「若が、そなたを救うことは、もはや不可能じゃ。だが、若は、そなたを救うことをあきらめまい。襲うて来るであろう。わしらには生捕る用意と自信がある。……そなたら母子を、城中へ曳《ひ》いて行った上で、拝領太刀を奪う目的を知ったとて、もう間に合わぬ。わしには、どうしてやることもできぬ。その前に、知っておきたい。さすれば、わしが、そなたら母子に、誠意をつくしてやれる思案もうかぼうではないか」
「……」
「こたえぬか? そなたが、二十年前のそなたと、同じ非情の持主であろうとは思えぬ。人の子の母ではないか。おのれ自身の生命に対してきびしくとも、わが子の生命に対して、非情ではあり得まい。どうだ?」
半蔵は、「女影」の目蓋《まぶた》がとじられるのを見た。
――打明けてくれる!
そう期待した。
「ふふふ……」
ふいに、「女影」の唇が、冷やかに歪《ゆが》んだ。
「老いのくりごとは、いい加減で置くがよい。若は、わたしを救いに来る。そして、屹度《きっと》、救うてくれる。最後に敗れるのは、お前の方じゃ」
おわりの一句を、斬りつけるような鋭さで吐きすてた。
――やんぬるかな!
半蔵は、絶望した。それから、胸裡《きょうり》を革《あらた》めた。
忍者には、たとえ肉親の間柄であろうとも、闘いのみあって、和睦《わぼく》はない、と。
「若影」は、その時、まだ、湯島台へ到着していなかった。
「若影」は、陸尺《ろくしゃく》・百助を催眠状態に陥《おとしい》れておいて、おのれもまた、聖天宮の小祠《しょうし》へ戻って、結跏趺坐《けっかふざ》したのである。他人を催眠状態に陥らせたならば、自分自身もまた離魂状態に置かなければ、効目《ききめ》がないと信じられていた時代だったのである。
その仮眠状態の中で、「若影」は、いつか、遠藤由利を抱いていた。その衣裳《いしょう》をことごとく脱ぎすてさせ、おのれもまた一糸まとわぬ裸躯《らく》となって、四肢と四肢を、縄のようにからめ、捩《よじ》り合せて、褥《しとね》の中で、物狂おしく、もだえた。
歓喜の烈《はげ》しさは、おのれよりも、由利の方にあると思われた。
「若影」は、しばしば、由利の情熱の奔騰《ほんとう》に、圧倒されそうになった。
――もう、何も要らぬ。この娘だけが、おれには、あればよい!
「若影」が、心で叫ぶと、由利もまた、
「もう死んでもいい!」
と、声をあげて泣き叫んだ。
「おれのものだ!」
「貴方《あなた》のものです!」
「死んでも離さぬぞ!」
「離してくださるな!」
骨も砕けよと、抱き締めて、唇を吸おうとした「若影」は、とたんに、愕然《がくぜん》となった。
その貌は、由利ではなく、母のものであった。
総身が、氷の中に浸けられたように冷たくなった。
困惑と嫌悪《けんお》で、「若影」は、母の裸身から離れようとした。
しかし、母は、おそろしい強さで、「若影」にからみついて、はなさなかった。
「は、はなせっ!」
「若影」は、絶叫して、もがいた。
……悪夢は、そこで破れて、「若影」は、われに還《かえ》った。
茫乎《ぼうこ》として、猶《なお》しばし、「若影」は、宙へ、目を据えていた。
「若影」に、はっと正常の意識をとり戻させたのは、その肩にとまった小鳥の啼き声であった。
「おおっ!」
すでに、夜は、しらじら明けはなたれていた。
「しまった!」
「若影」は、風のように、祠前へ、とび出した。
小鳥が翔《か》ける――その方角へ向かって、「若影」は、疾駆した。
十字架
一
――うう……ああっ!
声こそ出さなかったが、顔中が口になったかと思われるくらいの大あくびであった。
瓢箪池畔の樟《くす》の巨樹の頂で、赤猿《あかざる》佐助は、待ちくたびれたのである。
――いったい、どうしたぞい、救い手は? 到底救い出せぬとあきらめて、退散したかや? さりとは、卑怯《ひきょう》な忍者よ。
尤《もっと》も、自分にやれと命じられても、容易に思案の泛《うか》ばぬ難事である。
赤猿は、兵食の用意をしてこなかったのを悔いた。このぶんでは、二日や三日は、この神木上で忍耐することを覚悟しなければならなかった。五十の板を越えてから、とみに、腹が空《す》くようになった。忍者として、甚だ困った仕儀といわねばならぬ。
――やれやれ、樟の葉は食えんでのう。
かぶりをふったとたん、
「お!」
と、赤猿は、首をのばした。
彼方《かなた》の天満宮を囲む林の中の小径《こみち》から、人影が現われた。それは、白衣に緋袴《ひばかま》をはいた神子《かんなぎ》であった。両手で、黒い鋺《まり》を捧《ささ》げて、しずしずと、進んで来た。
まだ、十三歳の美しい少女である。
まっすぐに、太鼓橋に近寄ると、欄干に腰を下ろしている老兵法者に、しとやかに一礼して、「禰宜《ねぎ》殿の寸志にございます。一服召しませ」
そう言って、鋺をさし出した。
「忝《かたじ》けない」
鴨甚三郎は、微笑して、それを受けた。
「貴方様もいかがでございますか?」
少女は、半蔵に、問うた。
「不要」
半蔵は、別の方角へ向いたまま、かぶりをふった。少女は、立去った。
甚三郎は、鋺を、胸の前へ持ったまま、口へはこぼうとはしなかった。毒が投入されている危険をおぼえたからであろうか。
甚三郎の視線は、じっと鋺の中へ落とされた。
この時――赤猿は、見た。
木立の奥にのぞいた社殿の大屋根の上棟へ、ちらと、黒布で包んだ首が出現するのを――。
――来おったわい。
赤猿は、にやっとした。
固唾《かたず》をのむうちに、そこから、朝陽が撥《は》ねる微《かす》かな光が、きらっきらっと、点滅しはじめた。
なんの合図か?
赤猿は、それが、土中の「女影」へ送られているものだと思ったが、「女影」の双眼は、とじられていた。半蔵は、そちらへは背《そびら》を向けて、彳《たたず》んでいる。
――ははあん!
赤猿は、合点した。
微光を点滅させている黒影と、鋺《まり》の中を見つめる鴨甚三郎と。
微光は、鋺に湛《たた》えられた水に、反射しているのであった。
――ざんねん至極!
赤猿は、かぶりをふった。鞍馬古流の光文字を、忍者の方から送っていると知りつつ、その解読法は、赤猿の知識のうちになかったのである。
鴨甚三郎が、枯木のごとく黙然としていたので、流石《さすが》の半蔵も、気がつかなかったことである。
甚三郎は、神子《かんなぎ》から、「一服召しませ」とすすめられ乍ら、受けとってみて、鋺の中に、ただの清水が湛えられているのを、一瞬、訝《いぶか》った。が、ただちに、これへ、光文字が、どこからか反射して来るものと、さとって、じっと、待っていたのである。
はたして、それは、水面へ映じて来た。
遠藤由利の肌につけた守護札は、卍《まんじ》に形どったキリシタンの十字架|也《なり》。この秘密をかくしたくば、手出しあるべからず。
光文字は、こう伝えた。
甚三郎は、半蔵の振りかえる気配に、なにげないしぐさで、鋺の清水を、池の中へすてた。その前に、すでに、大屋根の黒影は、微光とともに、消えうせていた。
――由利は、若い忍者に犯されたか!
甚三郎は、胸の内で、呟《つぶや》いた。
――あの異常に勝ち気な娘も、もしかすれば、これを契機として、女の慕情の悲しさを知るかも知れぬ。孰れ、大奥から、由利をさらって、江戸を立去ろうと、考えていた甚三郎であった。
由利は、実は、元真田家臣である宝山流・遠藤常右衛門の実子ではなく。鴨甚三郎の旧主の孫娘に当たっていた。
甚三郎利元の旧主は、荒木村重《あらきむらしげ》であった。
二
荒木村重は、悲劇の人であった。
天正六年十月、織田信長は、股肱《ここう》の驍将《ぎょうしょう》荒木|摂津守《せっつのかみ》村重|謀反《むほん》の報に接して、愕然《がくぜん》となった。
荒木村重は、信長と足利義昭《あしかがよしあき》との衝突の際、細川|藤孝《ふじたか》らと信長に心を寄せて、必死の忠節をつくした一人であった。
信長は、村重が用うべき器才と知って、摂津に封じ、中国経略にも、羽柴秀吉《はしばひでよし》の副将として参加せしめた。
村重謀反は、猜疑心《さいぎしん》の強い信長にとっても、寝耳に水で、全く信じ難かった。村重は、元来微族であった。それを、尋常一様以上の待遇で迎えてやったのである。謀反する理由など、毫《ごう》も見出《みいだ》されなかった。
その筈であった。これは、羽柴秀吉の狡猾な謀略によるものであった。
秀吉は、副将として村重をともなっているうちに、その器才のなみなみならぬことを観《み》て、ひそかに、おそれたのである。
村重は、松井友閑《まついゆうかん》、明智光秀らが、信長の命を奉じて、説諭《せつゆ》にやって来て、はじめて、おのれの謀反の虚報を知らされたのであった。
村重は、勃然《ぼつぜん》として、秀吉を憎んだ。
猜疑心の強い信長の性格を知る村重は、たとい一旦《いったん》は潔白を証明して、赦免されたとしても、後難穏便たるべからず、とさとり、こうなるからには、毛利と提携して、秀吉を伐《う》ってくれようと、決意した。
闘いの火ぶたは、きられた。
信長は、憤怒のあまり、自ら出馬した。
村重の勢力は、摂州より播州にわだかまっていた。その幕下に、高槻《たかつき》城主・高山右近と茨木《いばらき》城代・中川清秀がいた。
信長は、高山右近が、熱烈な耶蘇《やそ》教徒であるのを知って、使者を送り、高槻城を開かぬに於いては、宣教師をことごとく屠戮《とりく》し、耶蘇教を全滅せしむべし、と威嚇した。右近は、師父オルガンチノに書を寄せて、誨《おしえ》を乞い、ついに、城をすてた。
中川清秀は、当時の猛将としてきこえていたが、主君村重の謀反を賛成して居らず、行掛り上、茨木城に籠《こも》っていたので、信長の懐柔に会うと、かんたんに城を開けた。
十二月八日、信長は、村重のたて籠る伊丹《いたみ》城を、総攻撃した。城壁は、ビクともしなかった。村重の奇略は、さんざんに寄手をなやまし、夥《おびただ》しい損害を与えた。信長は、ところどころに附城を設けて、持久の策を講ずるよりほかはなかった。
伊丹城は、悠々《ゆうゆう》一年間を、もちこたえた。
翌年九月二日の夜、村重は、何故《なぜ》か、数名の侍臣だけをつれて、城を忍び出て、尼崎へ落ちて行った。
この時、村重は、一書を、信長へ送っている。
それには、ただ一行、
「武辺の身が、つくづく厭《いや》に相成申候《あいなりもうしそうろう》」
と、記されてあった。
武将として、城をすて、部下をすてたことは、前代未聞の卑劣といわなければならなかった。
信長は、その卑劣を懲《こ》らしめるために、伊丹城に対して、酷烈|無慚《むざん》な極刑を執行すると、申渡した。
まず、尼崎附近の松林で、城内に籠っていた婦女子のうち、百二十二人を、磔《はりつけ》にした。
次いで、召使いの女三百八十八人と、歴々の女房《にょうぼう》に附いていた若党百二十四人を、四軒の家にとじこめておいて、周囲に乾草を積み、火を放って、焼き殺した。
さらに、伊丹城の人質であった重臣の妻子二十数名を、車に乗せ洛中をひきまわし、六条河原で、斬首《ざんしゅ》した。
甚三郎は、この時、村重の長女にあたる幼児をまもって、大和路へ遁《のが》れたのであった。
その女《むすめ》は、成育して、熱烈な切支丹《きりしたん》信徒となり、禁廷に上って、幾年かすごしたが、某日、突然、甚三郎の許《もと》へ戻って来た。すでに、身ごもって八カ月であった。甚三郎は、対手《あいて》を問うたが、頑《かたく》なに返辞を拒まれた。
甚三郎は、問わぬことにして、女を京の南蛮寺へ預けた。伴天連《ばてれん》の医術をもっても、容易ならぬ難産であったが、女は、能《よ》く堪えて、女児を生み、自らは果てた。
その子が、由利だったのである。南蛮寺で生まれたので、肌まもりの札は、十字架であった。
由利自身が、切支丹信徒という次第ではなかった。
しかし、十字架を肌につけていたことが露見すれば、たとえ、将軍家の寵愛《ちょうあい》を得て居ろうとも――いや、それだからこそ、かえって、由利は、極刑に処される。
旧主の孫娘であり、もしかすれば、やんごとない雲上人の落胤《らくいん》であるかも知れぬ由利を邪教徒として、処刑されるのは、老いたる兵法者として、堪え難《がた》かった。
三
――さて、兪々《いよいよ》どうなるかや?
太鼓橋上に身じろぎせぬ老いたる兵法者へ、またたきせずに、視線を当てていた赤猿は、もはやあくびをするどころではなかった。
赤猿の判断では、鴨甚三郎は、「影」の要求を容《い》れたのである。
半蔵は、孤立した。
とはいえ、「女影」の死命は、半蔵が、その足下に制している。
救い手は、甚三郎をその場に封じておいて、兪々行動に移るであろうが、いったい、いかなる手段をとろうというのか?
地中に埋められた人質をとりかえすためには、半蔵に向かって刹那《せつな》の攻撃を加えなければならぬ。だが、はたして、半蔵に、その隙があるであろうか?
――まさに、興味津々《きょうみしんしん》じゃわい。
しかし、赤猿は、それから、およそ一刻以上も、津々たる興味を継続することを余儀なくさせられた。
陽が落ちて、さらに、半刻も過ぎると、流石の赤猿も、また、あくびをしたくなった。
――どうも、期待を急ぎすぎたようだわい。忍耐、忍耐。
と、自分をいましめた――瞬間。
赤猿の鋭敏な感覚が、目ざめたように、ひきしまった。
自分のつかまっているこの神木が、あきらかな振動を生んだのである。
赤猿は、眸子《ひとみ》を、じいっと、足下へ落とした。墨を流したように、闇《やみ》が罩《こ》めている。その闇の底に、何かの気配が動いている。
――「影」のやつ、この神木をえらんで、のぼって来るのかな?
赤猿は伝わって来る振動は、「影」がすでに途中までのぼって来たために生じたのだ、と思った。
――この頂きから、服部半蔵めがけて、飛ぶこんたんか。
しかし、これは、半蔵にとっては、当然考えられる攻撃方法である。それに対する防禦の用意はできていよう。聊《いささ》か智慧がない、というものである。
のぼって来居ったら、ひとつ、嗤《わろ》うてやろうか。
赤猿は、眸子をこらして、待ちもうけた。もとより、闇に利《き》く目をもっていた。
――はて?
のぼって来る気配は、さらに、なかった。ただ、地上から、樹幹を伝わって来る怪しい微動だけが、ひきつづいているのであった。
――どういうのだ?
ふっと、赤猿は、不安におそわれた。
――この、神木の顫《ふる》えは、なんであろうかや?
何かの予告と受けとれるものの、赤猿の思考は、そこから先へ進まなかった。
この時、赤猿は、べつの気配を、天満宮の方角に、察知した。
うごめく人数は、すくなくない。この瓢箪池へ向かって、音もなく迫り寄って来る。
――ほ! 伊賀三十六人衆だぞ!
赤猿は、大きく目をひらいた。
この気配は、島の中の半蔵にも、当然、察知された。半蔵の老躯が、はじめて、わずかに、向きをかえた。
味方を迎えた半蔵に、不用意にも、一瞬の油断が生じた――そこを、闇にひそんだ「若影」は、のがさなかった。
突如――。
耳をつんざく大音響と、目もくらむ閃光《せんこう》が、赤猿をのせた神木の根かたから、噴きあがった。
地軸を炸裂《さくれつ》させて、神木は、まるで怒る巨竜《きょりゅう》のように躍りあがるや、樹冠をはばたかせて、池へ向かって、ざざざっと傾いた。
赤猿の小躯は、羽毛のように、空中へはじきとばされてしまった。
ふわっ、と宙のものになった刹那、赤猿は、にやっとした。
――根かたに、火薬をしかけて、爆発させようとは!
樟の巨木は、池の水面を、烈《はげ》しく、枝葉で搏《う》って、高い飛沫と波を立てつつ、横倒しになった。
そして、その傾きで、島の中に立つ一本松をひと薙《な》ぎして、これをのけぞらした。
すなわち――。
一本松の根が、傾いて、ぐわっと、土を盛りあげるとともに、その根かたに埋められていた「母影」のからだも、土をはねかえし、地上へ躍りあがる自由を得た。
「若影」は、連鎖反動を利用して、母を救ったのである。
反射的に、小島の一端へ、飛び躱《かわ》した半蔵は、思わず、
「見事!」
と、口走った。
あまりにも、鮮やかな「若影」の攻撃ぶりであった。
半蔵は、おのれの敗北をみとめた。
――母を連れ去るがよい。
胸の内で、そう言った。
次の瞬間、はっと、目を瞠《みは》った。
「母影」が、土まみれの全裸を、よろよろと立たせたところへ、水面上へ架けられた樟の橋を、風のように奔り渡って来た者が、ひょいと、抱きとって、ひっかついだ。
それは、「若影」ではなかった。
「おっ! 赤猿佐助!」
木立を焼く炎の中に、はっきりと、その正体を見てとって、とっさに、手裏剣を抜きとりざま、ひょっ、と投げた。
しかし、手裏剣は、疾駆する赤猿にとどくかとどかないかの空中で、ひと刎《は》ねして、水中へ落下した。太鼓橋上から、鴨甚三郎が抛《ほう》った鋺《まり》で、はばまれたのである。
「若影」は、肉薄する伊賀三十六人衆を、一身に引受けて闘うべく、身がまえていたが、思いがけなく、何者とも知れぬ黒衣の男が、母の裸身をひっかついで、遁走《とんそう》しはじめたので、
「おのれっ!」
と、目をいからせて、猛然と、追跡して行った。
疾駆にかけては、赤猿は、得意中の得意であった。
暗夜の往還を、通り魔の迅《はや》さで掠《かす》めて行くのは、幾年ぶりのことであろう。愉《たの》しかった。
――あるじ様は、時どき、こういう働きを命じてくださらんといけんわい。
風を切る猿面《さるめん》に、微笑を泛《うか》べたとたん、イヤという程、もんどり打たされた。
ひっかついでいた「母影」から、後頭へ、したたかな一撃をくらったのである。
くるっと宙を舞って、地上へ立った赤猿は、後頭を撫《な》で乍《なが》ら、
「たすけてやって、この返礼は、どういうものであろう」
と、ぼやいた。
「母影」は、追いついた「若影」の腕の中へ、崩れた。
「お主、何者だ?」
きびしい語気で、咎《とが》める「若影」へ、赤猿は、
「べつに名乗るほどのものではない」
と、こたえた。
「何故《なにゆえ》に、拉致《らち》しようとした?」
「拉致? いいや、ちょっと、手助けしたまでだ。お手前様一人では、服部半蔵と、伊賀衆をむこうにまわしては、手にあまろうか、と思われたのでな」
「まことか?」
「疑いぶかい御仁だわい。げんにこうして、お手前様たちは、身の安全を得たではないか」
そう言ってから、赤猿は、ひとつ、大きなくしゃみをした。
「やれ――あるじ様が、たわけ者め、よけいなまねをいたし居って、とお叱《しか》りじゃ」
「あるじ様! あるじ様とは――?」
「ははは、世すて人でな、近頃は、とんと、愚痴ばかり申される。愚痴はいかんな、愚痴は――」
赤猿は、とぼけた。
「では、いずれ、また、縁あらば、お会いつかまつる。ごめん――」
一揖《いちゆう》して、踵《きびす》をまわした。
「待たれい!」
「若影」は、呼びとめたが、赤猿の足は、はやかった。
しかし――。
赤猿は、そのまま、立去るほど、のんきではなかった。
「若影」が、「母影」を背負うて行くあとを、いつの間にか、尾《つ》けていたのである。
ところで――。
伊賀三十六人衆は、一人として、「若影」を追跡しようとしなかった。
そのかわりに、瓢箪池の周囲を、ぐるっととりまいてしまったのである。
小島に立つ半蔵は、
「……?」
不審の眼眸《まなざし》を、めぐらした。
ちょっと、思案していたが、ゆっくりと太鼓橋へ歩み寄った。
鴨甚三郎は、なお、そこにいた。
「御貴殿に裏切られようとは、思いもよらぬことでござった」
半蔵は、常とかわらぬ口調で言った。
「まことに、申し訳ない仕儀と相成った。ゆるされい」
甚三郎は、詫《わ》びただけで、べつに、弁解しようとはしなかった。
「どうやら、今日は、それがしにとって、悪日でござる」
「伊賀衆もまた、お手前を裏切る模様らしいが……」
「左様――。服部半蔵の命数も、ここいらあたりで尽き申すか」
半蔵は、わるびれずに、橋を渡った。
その前方へ、数名が、陣形をつくった。
半蔵は、曾《かつ》ての配下たちを、眺《なが》めやって、
「このわしを捕えに参ったのか?」
と、訊《たず》ねた。
「上意でござる」
一人が、重い声音でこたえた。
「城内で、いかなる異変が起こったのか?」
「べつだん、異変は、起り申さぬ」
「あの爆煙は――?」
「酔い痴《し》れた小者《こもの》の悪戯《いたずら》でござった」
「お主たちを、城中へ引き上げさせるための仕業であったか。……わしを捕えよ、と命じたのは、柳生但馬殿であろう?」
「……」
「そうであろう?」
「左様でござる」
――但馬守は、わしを疑った。その疑いは、わしが、またもや影母子をとりにがしたことによって、さらにふかまるであろう。
半蔵は、暗然となった。
――だが……、これは、但馬守が一人で抱いた疑いであろうか?
半蔵は、「母影」をさらって遁走した赤猿を思い泛《うか》べた。
――真田左衛門佐が、但馬守と会ったのではあるまいか?
――そうだ。たしかに、会った。幸村は、わしがたずねて行ったことを但馬守に告げた。……それだ!
半蔵は、老躯をふるって、曾ての配下たちと闘って、遁れる自信はなかった。
「やむを得ぬ。縛られようか」
半蔵は、淋《さび》しく、言った。
伊賀《いが》の水月
一
その日の朝、荒木又右衛門保和《あらきまたえもんやすかず》は、厠《かわや》を出て、手水《ちょうず》を使おうとして、身を跼《かが》めたとたん、夥《おびただ》しい鼻血を、したたらせた。
又右衛門は、みるみる朱に染まる鉢水《はちみず》を見下ろして、しばし、憮然《ぶぜん》として、動かずにいた。
江戸城吹上に於《おい》て、宮本武蔵の養子八五郎|伊織《いおり》と立合う御前試合は、二日前に行われているべきであった。それが、いかなる理由か明かされず、延期されて、今日を迎えたのである。
武道上達は鍛錬《たんれん》第一と心得る一流|兵法者《ひょうほうしゃ》ならば、もとより一日たりとも、修業に懈怠《けたい》することはないが、このたびのような生涯二度とない大試合ともなれば、その日その刻限を期して、異常なまでの心身調整の努力をはらうことになる。
ところが、その前日になって、突然、二日間の延期を申渡されたのである。いかなる達人も、いや心身調整に心を配る一流兵法者だからこそ、これは、甚《はなは》だ苦痛であった。
特に、荒木又右衛門にとっては、二日間の延期が、せっかく調整した心身を大きく狂わせてしまうのを覚悟しなければならなかった。
はたして、おそれていたことは、こうして、容赦なく現実となってあらわれた。
又右衛門は、特異な体質であった。妻を、数日も抱かずにいると、必ず、夥しい鼻血を流すのであった。
試合にそなえて、又右衛門は、予定日前の三日間、妻と、褥《しとね》を別にしていた。ところが、さらに二日間を延期されたのである。
鼻血は、避けがたかった。
ただ、鼻血を流しただけでおさまらずに、その後に、名伏し難《がた》いほどの烈《はげ》しい欲情が体内に渦巻《うずま》いて、他の一切のことに心気が働かなくなる――それが、又右衛門にとって、恐怖すべきことなのであった。
荒木又右衛門が、先月、大和国郡山藩を致仕し、二人の子を摂州|丹生《にう》の山田へ預けて、妻のお市と義弟|渡辺数馬《わたなべかずま》をともなって、出府して来たのは、御前試合のためであるとともに、敵討《かたきうち》という目的もあった。
宮本伊織と御前試合をするように、柳生宗矩から命じられたのは、今春であったが、これは、又右衛門にとって、当惑すべき一大事であった。
敵討ちをなすべき身であることは、宗矩の方で十分承知の上で命じて来た試合であった。兵法者としても、最大の栄誉である。又右衛門は、断わるわけにいかなかった。
実は、宗矩が、又右衛門を御前試合の剣士の一人に加えたのは、理由があった。
宗矩の巧妙な策略であった。
又右衛門が、渡辺数馬を扶《たす》けて、敵討ちをしようとしているのは、すでに、個人の怨みをはらすというだけの事柄を越えて、備前藩主池田|宮内少輔《くないしょうゆう》と旗本一統との、双方引くに引かれぬ意気地の対立という問題となっていた。
その発端は、きわめて、些細《ささい》な理由による喧嘩沙汰《けんかざた》であった。
寛永七年七月二十一日の夜、岡山|烏城《うじょう》の大手で、踊の興業があった。家士のうち、渡辺数馬の家では、当主は妻の父津田|豊後《ぶんご》の許《もと》に赴き、家内は踊見物に出かけ、数馬の弟源太夫が、風邪で発熱して一人、床に臥《ふ》していた。そこへ、同藩中の河合又五郎が、酔って、入って来た。又五郎は、平常は、おとなしい人柄であったが、酒が入ると、別人のようになった。
源太夫は、池田家第一の美少年で、藩主宮内少輔忠雄のお気に入りであった。
又五郎は、その枕元《まくらもと》にあぐらをかいて、美少年が病臥している風情《ふぜい》を、からかいはじめた。初めは、黙って、きいていた源太夫も、又五郎のあまりの執拗なからみかたに、ついに、忍耐心を失って、枕を掴んでたたきつけた。
又五郎は、せせら笑って、
「色子《いろこ》とののしられて口惜しければ、立合ってみせい」
と、挑《いど》んだ。
又五郎は、源太夫を袈裟《けさ》がけに斬《き》り仆《たお》し、その返り血で、酔いもさめ、われにかえった。
椿事を急報されて、はせ戻った数馬は、まだ縡切《ことき》れぬ源太夫の口から、敵が又五郎と告げられるや、直ちに、河合家へ押し懸けて行った。しかし、その時、すでに又五郎の父半左衛門は、又五郎を、江戸へ向けて、逃がしていた。
藩主忠雄は、これをきいて、憤《いきどお》って、半左衛門を召捕らせて、重臣荒尾志摩邸へ、拘禁した。
又五郎は、江戸へ趨《はし》ると、旗本の安藤治右衛門家にかくまわれた。
池田家江戸屋敷より、又五郎を引渡してもらいたい、と交渉受けるや、安藤治右衛門は、半左衛門を当方へ連れて来てもらえるなら、又五郎を返そう、と返辞した。この事を重臣から告げられた忠雄は、最初は承知しなかったが、旗本|久世《くぜ》三四郎と阿部四郎五郎の両人から、違約せぬという起請文《きしょうもん》が届いたので、ようやく納得して、半左衛門を江戸に下ろした。
ところが旗本衆が寄合った席で、この件が語られているうちに、安藤治右衛門が、ひとたびは又五郎をかくまい乍ら、その父半左衛門と引替えに渡すというのは、天下の旗本の名折れになろう、という評議になった。
そこで、安藤治右衛門を呼んで、又五郎引渡しを取消す旨《むね》、一書を、池田家へ送らせた。
忠雄が、火のごとく憤激したのは、当然であった。一門一族、申合せ、武器をかかげ、具足を鳴らして、安藤の屋敷へ押寄せ、鯨波《とき》をあげて攻め入って、又五郎を奪いとってみせるぞ、と息巻いた。
公儀もすておけず、三家はじめ大々名たちを仲に入れて、事を纏《まと》めようと努めたが、双方|孰《いず》れも、一歩もあとへ退《ひ》かなかった。
そのうち、忠雄は、疱瘡《ほうそう》を病み、九年四月三日に、逝《い》った。忠雄は息を引取る枕辺に、実弟松平|岩見守輝澄《いわみのかみてるすみ》、同右近太夫|輝興《てるおき》をはじめ、重臣一同を聚《あつ》めて、
「このたびの出入の埒《らち》が明かぬままに、瞑目《めいもく》するのは、断じて叶《かな》わぬ。必ず、又五郎の首を、刎《は》ねて、わしを招魂させい」
と、遺言した。
池田家では、葬儀がおわると、家中《かちゅう》連判で、公儀へ、訴え出た。
公儀は、旗本一統へ、その旨を下達したが、肯《き》き入れさせることは不可能の模様であった。公儀では、やむなく、半左衛門だけでも、渡すように命じて、徳島城主|蜂須賀蓬庵《はちすかほうあん》(忠政)に、その処置をまかせた。
蓬庵は、池田忠雄の舅《しゅうと》に当る人物であった。
強引に、半左衛門を奪いとった蓬庵は、その身柄《みがら》を、阿波国《あわのくに》へ移すとみせかけて、大坂からの船中で、刺し殺してしまった。世間へは、途中病死と披露《ひろう》したが、この事が、さらに、旗本たちの態度を、硬化させた。
まかりまちがえば、池田藩士と旗本の血気の面々とが、府内の何処かで、凄惨《せいさん》な決闘を起す気配さえ起って来た。
柳生宗矩は、ここにいたって、将軍家上意として、河合又五郎を江戸より遠く離れた他国へ出させることにした。その途中を、荒木又右衛門と渡辺数馬におそわせて、討ちとらせる、という計略であった。
江戸を遠くはなれた他国で仇討《あだう》ちをさせておいて、池田藩およびこれに同情する各藩の気を鎮《しず》めさせ、大名の面目をたてさせるとともに、旗本たちの処置をも寛大に行おうとする思慮であった。
出府してきた又右衛門は、宗矩から、河合又五郎が何処へ落ちて行くか、隠密《おんみつ》によって、さぐらせておく、と約束されたのであった。したがって、又右衛門は、又五郎の動静に心を配る必要はなかった。
宗矩の指令によって、その場所へ趨《はし》ればよかった。
ただ、又右衛門は、その宗矩の配慮にむくいるために、宮本伊織と立合って、是非にも勝たなければならなかった。伊織に勝って、柳生流が、円明流をしのいでいることを明らかにしておいて、さらに又五郎を討ちとって、天下に、その名をとどろかせる。これこそ、柳生流の価値を末代まで不動のものとすることであった。
なぜならば、荒木又右衛門という存在は、この時まで、殆《ほとん》ど無名にひとしかったからである。
又右衛門の強さを知っているのは、柳生の人々だけに限られていたのである。又右衛門は、これまで、ただの一度も、他流試合をしていなかった。
二
又右衛門は、懐紙で鼻血をぬぐうと、跣足《はだし》で、庭へ降りて、義弟数馬を呼んだ。
これは、毎朝の行事であった。
数馬は、三尺五寸の黒樫《くろかし》の木太刀を持って、無手の又右衛門に対した。
木太刀は、常人では振れぬ重量があった。華奢《きゃしゃ》の骨組みの数馬の力にあまった。
しかし、稽古《けいこ》は、武芸修行のものではなかった。敵討ちという明白な目的をもっていた。数馬に、勝ちぐせをつけてやろうとする又右衛門のはからいであった。
「参れ!」
眼光|凄《すさま》まじく、睨《にら》みつけて、又右衛門が、叫ぶ。
「おーっ!」
数馬は、おめきあげて、打ち込む。
又右衛門は、躱《かわ》さずに、平然として、打たれるにまかせる。
打ち込めば、必ず対手《あいて》を斬《き》れる――その自信を、未熟者の数馬に、つけてやる稽古であった。真剣勝負の場合、腕に覚えがないと、どうしても、受け身となる。その受け身を、数馬に、すてさせなければならなかった。
十合、二十合と、数馬は、義兄の面ていへ打ち込む。
疲労とともに、木太刀の重さに、逆にふりまわされて、又右衛門の頭や肩の上で、紙一重に停めることは叶わなくなる。
又右衛門は、頭蓋や肩の骨が砕かれる危険にさらされ乍らも、なお、平然として、避けないでいる。
三十合をかぞえると、数馬の胸は、|ふいご《ヽヽヽ》のように荒く喘《あえ》ぎ出す。
「それまで――」
休息をゆるしておいて、又右衛門は、井戸端へ寄って、裸になると、水をあびた。汗が滲《にじ》むと、又右衛門の肌《はだ》は、いちだんと烈しい体臭を放つのであった。
次に――。
又右衛門は、愛刀伊賀守藤原金道を、腰に佩《お》び、神気を得て、居合抜きに抜き放って、青眼不動の構えをとった。
数馬は、砂上に正座して、又右衛門の姿を凝視している。
「ええいっ!」
早朝の清澄の空気をつんざいて、二尺七寸の白刃《はくじん》が、宙に白い弧線を描く。
ただの一太刀のみであった。
ぴたっと鞘へ納めた又右衛門は、数馬へ一顧もくれずに、縁側へ上がって、自室へ向かって歩き出した。
その時、またもや、又右衛門は、夥しい鼻血を、どっと流した。
又右衛門の剣法「水月」の極意とは、正真の「先の太刀」という。
これは、文字によって表現しようのない秘技であった。
又右衛門は、伊賀荒木村に生まれた。慶長四年――即ち関ヶ原役の前年である。初名|丑之助《うしのすけ》といったが、これは、九歳の時、狂った牡牛《おうし》が奔駆して来るや、その行手に立ちはだかって、睨みかえしたのが評判となって、通称にされたのである。その時、すでに、十五六歳の体躯《たいく》をそなえていた。
柳生石舟斎が、荒木村を通り過ぎる際、長い篠竹《しのだけ》を振って、蜻蛉《とんぼ》を打ち落としている少年を見かけた。その篠竹のさばきかたの軽妙さと、狙った蜻蛉を必ず落とす見事さに、石舟斎は、将来見込みありと思って、柳生|庄《しょう》へつれて来た。丑之助が十二歳のときであった。
まさしく、天稟《てんびん》とか、天賦《てんぶ》とかいう言葉は、この怪童に冠せられるためにつくられたかとみえた。
柳生道場に入門を乞《こ》う者は、まず最初に、道場に於て、奉書紙をまるめた得物を持たされて、石舟斎が寵愛《ちょうあい》の猿《さる》と立合わされる。おそるべき敏捷《びんしょう》さをそなえた猿に、一撃をくれることのできた者は、殆どなかった。逆に、とびつかれて、顔面をかきむしられる者の方が多かった。
丑之助は、猿を、はったと睨みつけて、居竦《いすく》ませておいて、悠々《ゆうゆう》と、奉書紙で、その首を包んでしまい、ぽんと、石舟斎の膝《ひざ》に投げた、という。大兵《たいひょう》にして怪力、放胆にして細心、しかも、すばらしい身軽さ――兵法者として完璧《かんぺき》の天性といえた。
その翌年、石舟斎は、雪深い柳生谷の晨《あした》、七十八歳の生涯を、しずかに閉じたが、その枕辺には、丑之助ただ一人が坐《すわ》っていた。
「よいか、丑之助、おのれの腕前は、つとめてかくして置けい。一挙して天下に名を知られるには、その時と場所をえらぶがよい」
その遺言を、丑之助は、まもったのである。
「水月」の極意をさとったのは、二十三歳の時であった。
たまたま、八歳下の十兵衛三厳《じゅうべえみつよし》が、江戸からやって来て、一日、野山を逍遥《しょうよう》したことがあった。
十兵衛は、又右衛門が、どれだけの腕前の持主か、試す下心を抱いていた。石舟斎の墓守りとして、柳生谷から一歩も外へ出ていない又右衛門の腕前については、誰人《だれびと》も知らなかった。
十兵衛は、逍遥のあいだに、又右衛門を、不意に撃ち据《す》えようと、隙《すき》をうかがったが、ついに、はたせなかった。
黄昏《たそがれ》が来て、とある川のほとりに出た時、十兵衛は、岸から二間もはなれた水中にのぞいている岩を指さした。
「又右衛門、あの岩へ跳び移って、また跳び戻って参れ」
「別に難事ではありませぬが……」
「いや、お主が跳び戻って来るところを、わしが撃つ。わしを撃ち返すか、それとも、躱《かわ》すか――それを見せろ」
川中の小岩から、二間の空中を躍って、岸へ跳び戻って来ることは、それだけで、常人のよくなし得る業《わざ》ではない。その刹那を、襲撃されて、反撃するにせよ、躱すにせよ、これは、神速の秘術を発揮しなければならぬ。十兵衛は、十五歳とはいえ、江戸の道場にあって、父宗矩と立合って、三本に一本は打込む麒麟児《きりんじ》である。
又右衛門は、しかし、別に表情も変えず、承知した。
身構えもせずに、無造作に、岸辺の草を蹴《け》って、水面上を翔《か》けた。
と同時に、十兵衛もまた、そのあとにつづいて、身を躍らせていた。これは、十兵衛の策謀であった。あたまの円い岩に、あらかじめ油を塗っておいたのである。
それとは知らずに、跳び移った又右衛門は、足をふみ滑らせて、水中に落ちる。こちらは、要心して、跳び移るから、落ちない。
落ちた又右衛門めがけて、十兵衛は、一刀を見舞うこんたんであった。
はたして、又右衛門は、高い飛沫《しぶき》をあげた。
十兵衛は、岩へ足をつけるやいなや、抜き打ちに、
「やっ!」
と、飛沫の下へ、白刃をあびせた。
次の刹那撃った十兵衛の方が、おそろしい戦慄《せんりつ》を、全身に走らせていた。
胸までつかった又右衛門は、両の掌《て》で、切先から二寸あまりのところを、ぴたっと押えていたのである。
十兵衛が、突けども、押せども、白刃は、ビクとも動かなかった。又右衛門は、にやりとして、手をはなした。とたん、十兵衛は、水中へ、ころげ落ちていた。
後刻、十兵衛は、「あれは、なんという極意か」と問うた。
又右衛門は、ちょっと考えていたが、
「それがし、落ち込む瞬間に、水面に映った新月を眺めましたが……かりに、水月と名づけて置きましょう」
と、こたえた。
水に映った三日月を眺めただけで、どうして、あんな凄《すさま》じい迅業《はやわざ》が会得《えとく》できたのか、十兵衛には、わからなかった。
又右衛門にも、説明のしようがなかった。
およそ、悟りとは、こうしたものであろう。釈尊の解悟も、暁の明星を視た一瞬であった、という。機縁熟した、というよりほかはない。
又右衛門がさとったのは、「先の太刀」であった。
立合う対手の、どこに隙が生じても、その隙が出た刹那、又右衛門の太刀は、そこを打込んでいるのであった。月が雲から出た、と同時に、水に映っている――それであった。
隙ありと見てとって、そこを撃つのではなかった。見てとるのと、撃つのが、全く同時なのであった。
もとより、一流兵法者ならば、容易に隙などを生ずるものではない。それまでには、全身全霊を傾注した幾刻かの経過がある。又右衛門には、その間を、みじんもゆるがぬ体力と気魄《きはく》があったのである。
三
又右衛門の不幸は、また、その異常に強い精気であった、といえる。
まず、強烈な体臭のために、日に五度も沐浴《もくよく》しなければならず、二度も下着をとり替えなければならなかった。そうしてなお、対する人に、臭気をかがれるのであった。又右衛門が、人と交わることを好まず、三十歳まで柳生谷から一歩も、出なかったのは、そのためであった。
縁あって、渡辺家の女《むすめ》を妻に迎えることになった時、又右衛門は、どれだけ、おのれの体臭をのろったろう。生涯無妻の誓いをたてていた又右衛門であった。それを破ったのは、みなぎる精気に、狂いそうになるのに耐え難《がた》くなったからである。
妻のお市は、よくできた女であった。良人《おっと》の体臭に、ただの一度もいやな顔をみせなかった。
又右衛門は、そのやさしさに感謝して、寝室を別にした。
営みを終えて、わが寝所へしりぞいたお市は、そっと音をしのばせて、盥湯《たらいゆ》で、からだを拭く様子であった。それが、又右衛門には、たまらなかった。さりとて、三夜も、お市の肌にふれずにいると、覿面《てきめん》に、鼻血を流すのであった。
又右衛門は、部屋に入ると、床の間に向かって、正座した。
床の間には、宮本武蔵が自筆の自画像が、かけてあった。
蓬髪《ほうはつ》を肩に散らし、袖《そで》なし羽織をまとい、二刀を両脇に携《さ》げて、炯々《けいけい》たる眼光を宙にはなっている図を、じっと、凝視し乍ら、又右衛門は、心気を鎮《しず》めようとした。
又右衛門は、画幅の中から、武蔵が、生きて、抜け出して来るのを、願った。
叶《かな》えられぬ願いであった。
むしろ、画像は、遠のき、薄れた。
又右衛門は、膝の拳《こぶし》を、砕けんばかりに握りしめて、画像を睨《にら》みつけた。
と――。
背後に、妻の入って来る気配があった。
又右衛門は、振りかえらずに、耐えぬこうとした。
しかし、その必死の努力も、
「お茶を――」
とすすめる優しい声音で、破れた。
「お市!」
「はい――」
「……」
「は、はやく、いたせ!」
又右衛門は、叱咤《しった》した。
「……もう、ほどなく、御登城なさるのではございませぬか?」
「ま、まだ、半刻《はんとき》ある!」
「でも――」
「たわけ!」
叫んだ又右衛門は、振りかえりざま、猿臂《えんび》をのばして、お市のほっそりとしたからだを、ぐっと引寄せた。
「旦那様!」
お市は、おどろいて、わずかな反抗をしめした。
その身のもだえが、又右衛門の荒れくるう欲情を、さらに烈《はげ》しく燃えたたせた。
又右衛門は、お市を畳の上へ押し倒すや、荒々しく、その裳裾《もすそ》を剥《は》いだ。
……思うさまに、精気を放射し了《お》えた又右衛門は、死んだような妻の上から、ふと、顔を擡《もた》げた。
画幅の中の武蔵が、急に、すっと抜け出して来るように、感じられたのである。
画像を凝視する又右衛門の双眸《そうぼう》は、氷の冷たさを湛《たた》えていた。
画像の携げた二刀が、ぴくっ、と動いたように、見てとれた――一瞬、又右衛門は、けもののように躍り上がって、差料《さしりょう》を把《と》るやおそしと、無声の気合いを発して、ひと跳びにその画像を、両断した。
円明二刀流
一
同じ日の朝――。
宮本伊織は、藩邸(豊前《ぶぜん》小倉藩・細川家)の北隅《きたすみ》にある表遣《おもてづか》い寺尾求馬之助の長屋の一室から、起き出ると、庭先の懸樋《かけひ》の水を、椀《わん》に受けて、その水面に映ったおのが貌《かお》を、じっと瞶《みつ》めていた。
小倉藩中随一の美容を称われている貌であった。澄んだ切長な眸子《ひとみ》、細く高く通った鼻梁《びりょう》、女子《おなご》に欲しい丹唇《たんしん》、美しくそろった皓歯《こうし》、そしてそれらをつつむ輪郭は、繊細で巧緻な仏像のそれを連想させる。
にも拘《かかわ》らず、こうした美貌《びぼう》が、当然たたえていなければならぬ優雅な気色は、みじんもなかった。その肌理《きめ》は、光沢がなく、蒼く沈んでいたし、黒い瞳《ひとみ》には、無気味なまでに冷たい光が宿っていたからである。
稀に見る美貌は、かえって、人を戦慄させる無情な虚無のおそろしさを、斯程《かほど》までに露骨にあらわすための天為かとさえ受けとれる。
慈悲の祈願を罩《こ》めた人為の仏像に似て、この凄《すさま》じいまでの冷たい面目は、あまりに皮肉と言えた。
稚児《ちご》趣味の汪溢《おういつ》する西国武士のうち、一人として、伊織を口説いた者はいなかったのである。
椀の水面に映ずるおのが貌を瞶めて、伊織は、魂のないごとく、無表情であった。
この三十三歳の若者は、養父宮本武蔵によって、完全なる無感動の兵法者にしたてあげられたのである。
あるとき、藩主が、武蔵に問うた。
「巌《いわお》の身とは、如何《いかん》?」
武蔵は、こたえて、
「事に臨まずしては、顕《あらわ》し難《がた》し。養子八五郎貞次(伊織)をお召し頂ければ、直ちにご覧に入れまする」
この時、伊織は、十八歳で、小姓をつとめていた。
奥から呼ばれて、御前に平伏した伊織に向かって、武蔵は、何気ない口調で、申附《もうしつ》けた。
「八五郎、思召《おぼしめ》しの筋あり、ただ今、そちは切腹|仰附《おおせつ》けられた。左様心得、直ちに支度いたせ」
伊織は、つつしんでお請《う》けして、起《た》って行ったが、その表情、挙措《きょそ》は、自若として常のごとくであった。
「巌の身ということ、兵法を会得して忽《たちま》ち盤石《ばんじゃく》のごとくに成りて、万事あたらざるところ、うごかざるところ」と、武蔵は、『五輪の書』に記しているが、伊織に対する教導は、そのように完璧であったのである。
しかし、今日まで、伊織の腕前は、小倉藩内にあっても、いかほどのものか、知られてはいなかった。武蔵が、ただの一度も、他流試合はもとより、家中の士との立合いさえも許さなかったのである。
今春、柳生宗矩より、武蔵に宛《あ》てて、御前試合に出場の儀を懇請して来るや、はじめて、おのれに代るに養子伊織をもってしたい、と返辞をしたのであった。
幾年か前、武蔵の兵法が、将軍家の上聞に達し、召し出さるべき旨、沙汰《さた》があった時も、
「柳生但馬殿御尊敬の上は、わが兵法上覧に備うるも無益なり」
と、応ぜず、代りに、原野に日の昇るところをいっぱいに描いた屏風《びょうぶ》を献上している。
理由は不明|乍《なが》ら、武蔵は、この日まで、江戸に雲集している各流の名家を対手《あいて》として、ただの一度も、技倆を試みていなかった。江戸へ出て、夢想権之助を伏さしめ、大瀬戸隼人《おおせとはやと》、辻風《つじかぜ》なにがしを斬殺《ざんさつ》したのは、若き日のことで、その後、絶えて出府していないのであった。
およそ道の修業に諸州を徘徊《はいかい》する者が、その土地第一と聞える人を訪れぬのは、業理《わざことわり》の上に於《お》いておのれを知るという計算を失っているものであり、宮本武蔵の円明流は、名人達人の純精なる太刀風を故意に避けた田舎兵法に過ぎぬ、という軽侮が、府内にはあった。
円明流は、驍望《ぎょうぼう》される一流とはされていなかったのである。所詮《しょせん》は、西国あたりでうそぶいている郷愿《きょうげん》にすぎぬ、という評価であった。
いま、はじめて円明流は、御前試合において、その真価を示すことになったのである。
武蔵は、その秘術を、伊織によって、天下に示さんとするのであった。伊織は、すでに、武蔵にまさっていたからである。
水鏡に映ったおのれの貌を、じっと瞶めている伊織の心懐を、正しく説明することはむつかしい。覇気、希望、精気――およそ、そういったものはみじんもなく、無明の煩悩も知らず、といって、剣の心が到達する諸仏不動智の無心という次第でもなく、あえていえば、むしろ、痴愚の凡夫の茫然自失に近いのであった。
武蔵の無惨《むざん》なまでに執拗《しつよう》な教導が、伊織を、こうした不可解な喪神者に仕立てあげたといえる。
十三歳で、武蔵の養嗣子《ようしし》となった時には、天下一流の兵法者にならんとする気概に胸をふくらませていたものだった。そして、天稟の才は明らかであり、沈着な気質も、大いに認められるところであった。
ところが、武蔵は、自身で、木太刀を把《と》って、伊織を仕込むことはせず、まずはじめに命じたのは、身を翻《ひるがえ》して、庭の泉水に飛び込むことであった。これは、暑中からはじめられたが、冬を迎えても、日課として、つづけさせられた。いったい、なんのために、池中にもんどり打たねばならぬのか、その理由を問うことは、許されず、伊織は、ただ、黙々として、実行して来た。
一年過ぎると、武蔵は、さらに、池中に落下する瞬間、水面に映ったおのれの貌を視《み》よ、と命じた。
もとより、映像を一刹那にとらえ視るのは、容易な業ではなかった。しかし、やがて、伊織は、宙を回転して、落下しつつ、おのれの貌を、はっきりと眺めるゆとりを得た。
六尺の高さの空中から見下す瞬間、おのが貌は、水鏡の中でさらに六尺の奥にあり、実体の落下とともに、水面上へ飛び上がって来るそれを、凝視しつつ、充分の時間をかぞえることができるようになった。
いわば、落下するのは一刹那であっても、おのが貌を認めることのたしかさにおいては、長い時間をかけると同じになったのである。
瞬間の動きを視てとるに、これ以上の修行はなかった。
おかげで伊織は、道場で、他人の立合いを見学させられていても、双方の木太刀の動きが、緩慢に思えるくらい、明瞭《めいりょう》に見えてきた。
さらに、一年を経て、伊織が命じられたのは、水鏡のおのが貌を、空中から、抜きつけに、両断する迅業《はやわざ》であった。
この修行には、二年を費やした。伊織は、羽毛のごとく、かるがると、宙に五体を浮かせておいて、水面上三尺のところまで落下しざま、白刃《はくじん》を、飛び上がって来るおのが貌へあびせるばかりか、飛沫《しぶき》をあげた時には、すでに鞘《さや》に納めているまでになった。のみならず、初めは、刃風の勢いで、貌を波紋で砕き散らしていたのを、やがては、ただ、紙を截《き》るように、すうっとま二つに断つことに成功した。それを見とどけておいて、伊織は、水中に落ちた。
一日、伊織は、道場における修行を欲して、養父の前に坐《すわ》り、
「もはや、軽捷《けいしょう》の業を心得ました。この上は、お父上の兵法の太刀筋を修得|仕《つかまつ》りとう存じます」
と、願った。
武蔵は、じろりと見かえって、
「お前が、水中のおのれを斬る時、水中のおのれは、いかがいたすか?」
と、問うた。
伊織は、愕然《がくぜん》となった。
自分が、水中の自分を斬るや、同時に、水中の自分もまた、空中の自分を斬っているではないか。
「よいか、伊織。わしの兵法の太刀筋を取ろうとしてはならぬ。お前は、お前自身の兵法を生むがよい」
そう言いきかせて、武蔵は、伊織をつれて、人里はなれた林の中に行って、はじめて、二刀を構えさせた。そして、伊織の自由な構えに応じて、自身もまた、それと全く同じ構えをとってみせた。
伊織は、無我夢中で、養父に撃ちかかった。それに対して、武蔵は、養子と寸分たがわぬ動きを示した。すなわち、伊織は、鏡に写ったおのれの姿と闘うのと同様の状態に置かれたのである。対手は、武蔵ではなく、おのれ自身であった。
おのれが、撃ち込みをあやまれば、対手も撃ち込みをあやまった。おのれが、見事に撃ちこめば、対手も、同時に、同じところを撃っていた。
武蔵には、間合を見切る神技があったので、悠々として、伊織の動きを、おのが五体に写し得たのである。
「円も明も、これは鏡の意だ。円明流とは、鏡に向かう剣法と心得るがよい。鏡の影よりも迅く、鏡の影を撃て」
それが、武蔵の教えであった。
鏡の影よりも迅く、鏡の影を撃つことは、不可能であった。
不可能と知りつつ、それを可能にしようと刻苦するところに、兵法の残酷な宿命があった。
伊織は、武蔵を撃とうと、物の怪《け》に憑《つ》かれたように、日を重ねた。しかし、武蔵は、常に、正確に、伊織の鏡であった。
幾月かを経て、伊織がさとったのは、兵法とは、勝負のないもの、ということであった。
武蔵は、伊織がさとったと読みとるや、ある日、突如として、凄じい攻撃に出た。
すると、伊織は、反射的に、対手と全く同じ動きをもって、闘った。
「できた!」
武蔵は、一言そう洩らすと、もはや、伊織と立合おうとはしなかった。
斯《か》くて――。
伊織の日常は、行住坐臥《ぎょうじゅうざが》、いついかなる場所にあっても、一瞬たりとも、おのれの前におのれがある意識をすてなかったのである。牀《とこ》に就いている時も、闇《やみ》の宙に、夜具をかぶったおのれが、じっと自分を見下ろしているのを、きびしい現実とした。
「その独りを慎む」
それを、十年間にわたって実行して来た伊織が、喜怒哀楽の表情を貌から喪《うしな》ってしまったのは、当然であろう。
いま、水鏡のおのれの貌を瞶め乍ら、伊織の胸底にたゆとうものがあるとすれば、それは、微かな自己|嫌悪《けんお》に相違なかった。
二
伊織は、椀の水を飲みほすと、ゆっくりとした足どりで、庭を横切った。
東の端の植込みの中で、秋深むにつれてその色を冴えさせる山茶花《さざんか》の花が、小春日和《こはるびより》にうららかに、しずかに咲いて、伊織を誘い寄せたのである。
葉がくれに咲き残りたる花のみぞ
昔の人に会う心地する
古歌一首を、脳裡《のうり》に掠《かす》めさせた伊織は、はじめて、その美しい貌を、人間らしいおだやかな気色にした。
手をふれれば、白い花は、かそけき音を心にのこして、はらはらと散りそうな――その清雅なすがたを眺める伊織は、いつの間にか、古歌の中の「昔の人」になりきったようである。
自己喪失の若い兵法者が、せめても、おのれをなぐさめる唯一《ゆいいつ》の|てだて《ヽヽヽ》は、故郷の山河を自由に歩きまわった幼い頃《ころ》の思い出にひたることであった。
山茶花は、生家の庭先に、毎秋、美しく咲いていたのである。
なつかしげに、微笑を泛《うか》べて、そこへ近づいた伊織は、朝のそよ風に、花がゆれて、ひと雫《しずく》の露が、ほろりと落ちるのを視た。
とたん――伊織は、ぱっと身を翻しざま、腰の利刀を、抜き放っていた。
二間の距離を置いて、朝日を背にした黒装束の人物が、うっそりと立っていた。その双手《もろて》には、同じ長さの白刃が携《さ》げられていた。
その立姿は、まさしく、円明流――二天一流の自然体であった。
即ち、伊織の眸子《ひとみ》には、父武蔵が、黒衣に身をつつんだ姿と映った。
「……」
「……」
十をかぞえる程の短い時間が、無言不動の対峙《たいじ》のうちに、流れた。
突如――
黒影は、地を蹴《け》って、跳躍した。
握られていた二刀は、同時に、双手をはなれて、伊織の胸もとめがけて、矢のごとく飛んだ。
体をひらくいとまはなかった。
とみた刹那に、伊織の手もとからも、太刀は、黒影めがけて、投じられていた。打てばひびくごとき、間髪を容《い》れぬ迅業であった。
黒影は、伊織の頭上を翔《か》けすぎて、背後の地上に降り立つや、そのまま、しげみの枝葉にそよぎも与えず、消え失《う》せてしまった。
伊織は、もとの姿勢に――白い花に対して、立っていた。
夢裡のできごとのように、一瞬にして過ぎ去って、世界は、何事もなく、明るく、静かであった。
ただ、前とちがっているのは、伊織の利刀が失われ、その代わり、敵が投げた二振の太刀が、その両手に握られていることであった。
そして、伊織の足もとには、白い花の一枝が、落ちていた。伊織が、敵の二刀を掴むやいなや、翻転して、一颯《いっさつ》をくれたなごりであった。
――何者であったのか?
その疑惑さえも、伊織の脳裡には、泛ばなかった。
父武蔵にひとしい影が、幻のごとく現われ、そして、音もなく消え失せただけのことであった。
伊織は、庭上に置きすてられた鞘をひろいあげて、二振の太刀を納めた。それから、自分が剪《き》り落とした一枝をひろいあげると、部屋へ戻った。
花を活けて、その前に坐った伊織は、ふっと、冷たくわらった。
――一振を失って、二振を得た。
伊織は、あらためて、二刀を抜きはなってみた。
寸尺も、作りも、そっくり同じの秋水であった。
粛然《しゅくぜん》として、心を正さしめる鮮烈な光芒《こうぼう》をはなっている。炯《やき》は雪のごとく、刃のさかいは薄氷に似て、匂《にお》いはふかく、鋩子《ぼうし》は峻険の峰のように返り浅かった。刃文は、桜花の散ったような丁字みだれであった。
――よし!
伊織は、頷《うなず》いた。
――この二振ともに、荒木又右衛門の生血を吸うだろう。
三
「母影」は、蔀《しとみ》から、注ぎ込む朝陽の縞《しま》に染められて、死んだように仰臥《ぎょうが》していた。
その枕元《まくらもと》には、一振の太刀が置かれてあった。
微かな気配とともに、「若影」が戻って来るや、「母影」は、口をひらいた。
「何処《いずこ》へ、行ってやった?」
「荒木又右衛門と宮本伊織を試して来た」
そうこたえてから、「若影」は、ひくい笑い声を洩らした。
「又右衛門は、精気を抑えきれずに、女房《にょうぼう》を犯し居《お》った。わしが、床の間の武蔵の自画像をゆさぶってやると、躍り上がって、斬りつけて参ったが、水月の冴《さ》えは流石《さすが》乍ら、わしの在ることに気づかなんだとは、不覚者。それにくらべると、伊織は、花から雫が落ちるのを見て、背後に立つわしを察知し居った。あれでは、伊織の勝利は、あきらかじゃ」
「若!」
鋭く呼んで、
「無用のいたずらは、止めにせぬか!」
「……」
むすっとした表情になった「若影」は、母のかたわらに仰臥した。
「もとめる太刀は、すでに、手に入ったのじゃ。あとの試合に、孰《いず》れが勝とうと、われらにかかわりはない」
「……」
「焼刃《やきば》に、謎語《めいご》が、読めた」
「……」
「車中侯――この意味を解くのが、そなたの次の仕事じゃ」
「どうして、解く?」
「京へ趨《はし》って、粟田口《あわたぐち》の陰陽師《おんようじ》・阿部明麿《あべあきまろ》を訪れて、問うのじゃ」
「その陰陽師が、必ず解いてくれるものなら、急ぐ必要もあるまい」
「いいや――。服部半蔵は、この太刀を、真田左衛門佐に見せた。……幸村は、謎語を読んだに相違ない。急がねばならぬ」
「母者、幸村ならば、味方として語らえぬのか?」
「何を言うぞ! われら母子《おやこ》に、味方はない!」
「母影」は、切りすてるように言った。
「若影」は、天井を、じっと見あげていたが、むっくり起き上がると、
「わしは、やはり、残りの試合の勝者から、太刀を奪うぞ!」
と、叫ぶように言った。
「若!」
「止めるな、母者! わしは、六つの試合の勝者どもを、ことごとく翻弄《ほんろう》してくれた。もはや、あとへ退《ひ》けぬ。のこりの四つの試合の勝者どもに対しても、わしは、勝負を挑むのだ! わしの術を試さなくては叶わぬ! 十試合の勝者に勝つことこそ、忍者たるわしの生甲斐《いきがい》なのだ。わしは、やってくれる!」
そう言いはなつ「若影」へ、「母影」は、冷たい一瞥《いちべつ》をくれた。
あるいは、こうなろうか、と懸念していたのである。
目的の太刀を手にしただけでは、到底、「若影」の血気はおさまらぬであろう、と思っていたが、はたして、修羅《しゅら》にとり憑《つ》かれていたのである。
「母影」は、とどめることの無駄《むだ》を、さとった。
「若影」は、立ち上がった。
「母者、城内へ忍び入って、荒木と宮本の試合を見て来る」
そう告げられた「母影」は、低く、咽喉奥《のどおく》で、痰《たん》をきった。
「忍び入るなら、去来の法を用いるがよい」
巳《み》の上刻、宮本伊織は、小倉藩士六名に見送られて、三之丸北門の平川門から入って行った。藩士たちは、藩邸へ引きあげて行った。
伊織が二之丸に入る梅林門に行き着いたころであろう頃あい、平川門へ、あわただしく、藩士が馳《は》せ戻《もど》って来て、大切の品を伊織に手渡すのを失念したと言って、手にした白絹の包みを、番士にさし出した。
「おあらため願いたい」
番士が、ひらいてみると、六寸ほどの観世音像であった。
「試合の前の半刻を、この御像の前で心気を整えるのが、宮本伊織のならわしでござる。しかと、お渡しねがいたい」
番士は、承知して、受けとった。
藩士は、また駆足で、去っていった。
文字で記せば、これだけのことであったが、後になって、番士たちは、取調べを受けた時、馳せ戻って来た藩士が、一人であったとこたえる者と、二人であったとこたえる者に、わかれた。
奇妙な話であったが、藩士が一人であったか二人であったか、特に注意したわけではなく、白昼であるために、かえって、気がゆるんでいた、といえる。
二人馳せ戻って来て、番士が、包みをあらためている隙《すき》に、一人が、影のごとく、前をすり抜けて、門内へ入ってしまったのである。番士たちは、藩士が一人で、立去るのを、すこしも疑わなかった。
恰度《ちょうど》、その時刻、ほかの幾名かの士が、出入りしていたし、巧みに番士たちの目をくらました。これは去来の法であった。
実は、藩士に化けたのは、「若影」と赤猿佐助だったのである。
「若影」が、城内へ忍びこむべく、聖天の宮の祠《ほこら》を出た時、赤猿が待ちかまえていて、
「去来の法を用いるなら、ひとつ、片棒をかつごうかな」
と、笑いかけたのであった。
「若影」は、「母影」ほど排他的ではなかった。
赤猿は、「若影」が、城内へ掠《かす》め入るのを見送っておいて、何食わぬ様子で、ひきかえして行ったのである。
常山《じょうざん》の蛇《へび》
一
午報を合図に――。
東方の幔幕《まんまく》を割って、大股《おおまた》に出た荒木又右衛門は、
――お!
と、大きく目をひらいた。
すでに、西方の幔幕の前には、宮本伊織が現われていたのである。
――これは、
又右衛門に、意外の思いをさせたのは、自分よりさきに、伊織が現われていたことと、もうひとつ、その養父武蔵は大事の試合には一度も用いたと聞かぬ二刀を、伊織が、双手に携《さ》げていることであった。
たしかに、武蔵は、二刀流をもって、巷間《こうかん》に名を売っている。自画像にも、二刀を持たせているし、「五輪の書」にも、二刀の利についてくわしく述べている。
「この一流二刀と名付ける事――二刀と言い出すわけは、武士は将卒共に、直に二刀を腰につける役である。むかしは、太刀|刀《がたな》といい、今は刀|脇差《わきざし》という。武士たる者がこの両腰を持つ事、こまかに書きあらわすには及ぶまい。わが朝《くに》に於て、知るも知らぬも、腰に帯ぶ事が武士の道である。この二つの利を知らしめんために二刀一流というのである。一流の道、初心の者に於ては、太刀刀を両手に持って道を仕習う事が、実のところである。一命をすてる時は、道具を残らず用に立てたいものである。道具を役にたてず、腰に納めて死する事、本意に有るべからず。しかし乍《なが》ら、両手に物を持つ事、左右共に自由には叶《かな》いがたい。したがって、両手を使うことは、太刀を片手ずつで取扱うように習わせるためである。槍《やり》や長刀《なぎなた》のような大道具は、片手で使うわけにいかないが、刀や脇差は、いずれも片手で持つ武器である。……まず、片手で太刀を振習うために二刀として、太刀を振りおぼえるのである。はじめて二刀を扱う時は、太刀が重くて振り廻《まわ》しにくいが、何事もはじめはそうであり、振りなれれば、道の力を得て、能《よ》くなる。太刀は広いところで振り、脇差は狭いところで振う事、まず道の本意である。この一流に於ては、長いのでも勝ち、短いのでも勝つ。時と場合に応じて、太刀でも脇差でも長短随意に用いて、どれでも勝つことができるようになるのがこの一流の道である」
すなわち、武蔵の兵法にあっては、二刀の術を工夫し乍ら、必ずしも、二刀を用いたわけではなかった。一刀を自由自在に使うために、二刀を振る修練が必要だとしているのであった。
武蔵は、稽古《けいこ》にあたっては、常に二刀を用い乍ら、大事の試合にあたっては――吉岡一門を鏖殺《みなごろ》しにした時も、佐々木|巌流《がんりゅう》を討ち仆《たお》した時も、常に一刀片手遣いである。
しかるに、養子伊織は、二刀を――しかも、左右全く同じ長さの剣を携げて、出場して来たのである。武蔵は、いよいよ、柳生流を対手《あいて》に、二刀一流の真価を、示す存念であろう、と見てとれた。
また――。
武蔵は、これまでの必死の果し合いに於ては、きまって、約束の刻限を甚だしくおくらせて、兵法者にあるまじき卑怯な謀略をつかったと、世評でなじられている。
ところが、伊織は、予想を裏切って、対手より先に、試合場に姿を現わしたのである。
なんの作為もなく、なるがままにまかせるように、二刀を携げて現われた伊織の姿は、そうするように武蔵から命じられたと受けとられ、これは、かえって、円明流のおそるべき自信を示すものと思えた。
又右衛門も、両審判役も、白面の剣士の背後に、世界を万里一空に容《い》れ、我もなく敵もなく天地をささげる見地を自負する新免武蔵の巨影を視る思いがした。
距離が五間にせばまるや、又右衛門は、立ちどまって、太刀を青眼にとった。
伊織の方は、足の運びを止めたと見せただけで、なお、二刀を両脇にたらした自然本体をそのままに、変えようとしなかった。
この日の伊織のいでたちは、白羽二重の下着に、若紫の小袖《こそで》、同じ色の袴《はかま》のももだちをとり、濃い茶褐色《ちゃかっしょく》のたすきを十字にあや取っていた。鉢巻《はちまき》は用いていなかった。
又右衛門の方は、柳生道場の者と一瞥《いちべつ》で判《わか》る草色の稽古着に、黒い革胴を着用し、白い鉢巻に、小柄《こづか》を二本はさんでいた。
五間の距離で、互いに、対手の様子を見戍《みまも》るかに思われたが、事実は、伊織の眸子《ひとみ》は、同じ光を湛《たた》えて、この地点で汐合《しおあい》をきわめようとする心はなかった。
それが証拠に、立ち停《どま》ったかと見えた、次の瞬間には、なんのためらいもなく、そろりと、千鳥の歩行をとりはじめていた。
それは、動くともない、身の運びであった。
双足《もろあし》の爪先が、白砂を滑り出るのは、そこをよく凝視していなければならないくらいしのびやかで、ゆっくりしていた。伊織が歩むのではなく、大地が動いて、伊織のからだを前へ進めているとさえ見えた。
いつの間にか、伊織のうしろの白砂上には、千鳥の足跡のような模様が、まっすぐに捺《お》されていた。それは、いかにも美貌の青年がつくるにふさわしい、美しい模様であった。
このゆるやかな前進は、面《めん》を曝《さら》した二刀遣いの自然体に、隙《すき》をつくらぬためであった。
いかにものろく、時間を費やしているかに見えて、伊織の歩みは、秒刻もとどこおることのない、ふしぎな動きであった。
一方、又右衛門は、同じ位置に、青眼に構えたまま、盤石《ばんじゃく》のように、不動を守って、待っていた。誘われて、おのれも前進することの不利を知っていたからである。
……間合いは、刻々とちぢめられた。
太陽は、両者の影法師を五寸も延びさせないくらい、まうえにあった。
二
――容易ならぬ!
又右衛門は、迫って来る伊織を、じっと正視し乍ら、この若い強敵に対しては、水月の迅業も役立たないか、と思った。
又右衛門が使う極意「水月」は、活人剣であった。おのれから、進んで、撃ち込む殺人刀ではなかった。
少年の頃、恩師石舟斎から、教えられた訓《さと》しが、又右衛門に、これを生ましめたのである。
初冬の一日、石舟斎は、丑之助といった又右衛門をつれて、裏山へのぼり、とある松の根かたに、憩《いこ》うた。風もない小春日和であったが、松の梢から松毬《まつふぐり》が、ふたつみつ、落ちて来た。
石舟斎は、わずかに体をうしろに傾けて、これを避けたが、丑之助は、持った扇子で、発止と払いのけた。
石舟斎は、
「丑之助、そちは、不都合な処置をするの」
と言った。
丑之助が、納得できぬ面持《おももち》でいると、石舟斎は、笑って、
「いま、背後に、そちの生命《いのち》を狙《ねら》う敵が、ひそんでいたとすれば、どうであろうな。松毬を、そちは、見事に払いのけたが、その刹那に、背後の敵は、たちどころに、そちを一刀両断いたしたであろう。……物事には、すべて軽重がある。わずかに体を避ければすむことを、大仰に扇子を揮《ふる》って、不用なところへ大事の力と気とを用うならば、そこに油断があり、隙が生ずる。敵に乗じられるのは、その刹那じゃ。体力と心気は、用うべきところに用うれば活人剣となって、武道の本意に叶う。いたずらに、得意を示せば、殺人刀となって、逆に、我が身を傷つける」
爾来《じらい》、又右衛門は、おのれを戒めるに、この上もなくきびしかった。
対手に隙があれば、同時にそこを撃つが、隙がない限り、又右衛門は、わが身を守ることに完璧であるばかりであった。
みじんの隙もない伊織に、迫られて、又右衛門は、どう闘えばよいのか。
今朝、床の間にかけた武蔵の自画像が、画幅から抜け出て来たと見た刹那、又右衛門は、抜きうちに、脳天から股下《またした》まで、一直線を引くがごとく、両断している。
画像なるが故に、これはなし得た。
生きて、動いて、迫って来る伊織の自然体に対して、又右衛門が、えらぶ一撃は、やはり、それであろう。
画像と同じく、伊織の自然体にも、頭から股間《こかん》にかけて、撃つべき目に見えぬひとすじの線があった。
又右衛門を、当惑させたのは、伊織のからだには、全く剣気がないことであった。
剣気をみなぎらせた自然体ならば、これを撃つ力が、こちらにも湧き立つであろう。
どう眺めても、二刀をダラリと携げた伊織の姿は、白痴の者がそうしたのと、どこも異なってはいないのであった。
そのまま、こちらがふみ込んで、ひとふりにふり下ろせば、なすところもなく、血煙あげて仆れそうにさえ思われる。
――常山の蛇か!
又右衛門は、胸中で、呟《つぶや》いた。
孫子《そんし》の兵法《ひょうほう》に、言う。
『善《よ》く兵を用うる者は、譬《たと》えば、率然の如《ごと》し。率然とは、常山の蛇なり。その首《しゅ》を撃てば、則《すなわ》ち尾《び》いたり、その尾を撃てば、すなわち首いたり、その中を撃てば、則ち、首尾ともにいたる。敢《あ》えて問う。兵を率然の如くならしむ可《べ》きか。曰《いわ》く、可なり。それ、呉人と越人とは、相|悪《にく》む。その舟を同じくして、済《わた》りて、風に遇うに当りては、その相救うや、左右の手の如し』と。
自然体の伊織の、右剣を撃てば、左剣が来るであろう。左剣を撃てば、右剣が来るであろう。
そして――。
その中央の垂直線を斬《き》り下ろせば、左右の剣が、ともに躍りかかって来るであろう。即ち、又右衛門が、襲うべき一線こそ、伊織にとっては、遺憾なく二刀をふるい得るために、示しているところと、いえた。
しかし、又右衛門は、伊織の右剣も左剣も撃つことは、叶わないと知っていた。なぜならば、伊織の片手遣いこそ、養父武蔵の得意とする秘技であり、あるいは養父にまさる迅業をそなえているに相違ないからであった。
又右衛門は、やはり、画像を両断したごとく、伊織を襲撃しなければならなかった。
すでに――。
伊織は、又右衛門の豪剣の間合まで、進んで来ていた。
当然、宗矩も、忠常も、家光も、伊織が、そこで、立ち停まるものと、思っていた。
伊織は、立ち停まらず、不敵にも、その間合を、滑るがごとく、越えた。
「とおーっ」
又右衛門の口から、凄《すさま》じい気合いがほとばしった。
見戍る目には、豪剣の煌《きらめ》きは映ったが、これに対する伊織の動きはとらえられなかった。のみならず、撃つと同時に、又右衛門は、一間を跳んで退《すさ》ったが、伊織はそこに、すらりと立っているだけであった。
将軍家光は、そのふしぎな闘いを見た刹那、なぜか心臓を何か鋭利なもので、ぐさと刺されたような衝撃を受けた。
審判席で身じろぎせぬ宗矩と忠常はともに、かっと、双眸《そうぼう》をひらいていた。
そのまま、しばし、不動の対峙を持つ両者の姿には、明らかに、闘いの結果があらわれていた。
伊織の小袖は、その胸を竪《たて》に一直線に截《き》られていたし、又右衛門の稽古着は、両脇を断たれて口をあけていた。
つと――伊織は、またもや、見えるともない前進を開始して、背後の砂上に、千鳥の足跡をのこしはじめた。
審判役は、白扇を挙げることも、銅鑼を鳴らすことも、叶わなかった。
勝負は続行している。そうとしか思わせぬ、確乎《かっこ》たる前進を、伊織は、行っていた。
宗矩も忠常も、伊織が一直線に截られたのは小袖だけではなく、白羽二重の下着に、薄く血汐が滲《にじ》むのを見てとっていた。
これは、又右衛門の勝を宣告しても良い証拠であった。しかし、凄絶《せいぜつ》の剣気は、庭上に満ちて、両審判の口を封じさせるに足りた。
伊織が、又右衛門の跳び退った一間の距離を、じりじりと、千鳥の足跡で詰めて行く姿は、あまりにも美しかった。将軍はもとより、審判役も、その美しさに、魅せられていたともいえる。
伊織の二刀が、はじめて、変化を起したのは、その一間の距離に於てであった。
徐々に……右剣を揚げ、左剣を伸ばしはじめていた。これは、天地の構えへの移行であった。
又右衛門は、この変化のあいだにも、隙を発見出来なかった。
だが、天地の構えが完全に成った時、又右衛門は、伊織の胸に横へひとすじに引かれた線を見た。又右衛門のみが見える横線があった。
ふたたび、おのが刀圏内へ、伊織が入って来るや、又右衛門もまた、ふたたび、凄じい気合とともに、撃った。そして、跳び退った。
伊織の胸は、横へ一直線に截られ、又右衛門の稽古着の両袖は破られていた。
それでも、なお、伊織は、前進を止めなかった。
横の線にも血を滲ませ、胸に真紅の十字を描きつつ、白面の兵法者は、聊《いささ》かの動揺もしめさずに、ゆるやかに、冷たい、音のない肉薄をつづける――。
構えは一変して、二刀をならべて、さしのべ、下段につける陰のかたちであった。
動揺は、宗矩と忠常の方にあった。
すでに二合の闘いで又右衛門は、二度とも、切先に、伊織の血を吸わせて、自らは無傷であった。宗矩は、白扇を高くかかげて、又右衛門の勝を宣告してもよかった。いや、又右衛門の勝を宣告しないまでも、試合をそれまでとして、引き分けておいて、言外に、又右衛門の勝を、将軍家に知らせてもよかった。
宗矩は、又右衛門が、門弟であるだけに、それができなかった。また第三撃において、又右衛門が、こんどこそ、伊織に血煙をあげさせるのであるまいか、という期待もあった。
忠常の方は、冷酷な審判者として、孰《いず》れかが倒れるのを、見届けたかった。忠常が、より多くの興味をかけているのは、伊織の二刀の方であった。一方の剣で又右衛門の豪剣を受けて、片方の剣で斬る――その秘技を、第三撃において、見せてもらいたかった。
三度、間合は詰められた。
「ええいっ!」
満身の剣気を爆発させて、又右衛門は、流星よりも迅く、伊織の咽喉《のど》めがけて、二尺七寸の白刃を、突き出した。躱《かわす》すいとまもなく、はねかえす余裕もなかった。凝視するどの目も、のけぞって血飛沫《ちしぶき》を刎《は》ねる伊織の無惨《むざん》な敗北を見ようと、光った。
前進して来た伊織と、撃っては跳び退る又右衛門とでは、体力の消耗にかなりの差があることは、明らかであった。そうでなくてさえ、伊織は、又右衛門に、体力が劣っているのである。
伊織は、華奢《きゃしゃ》なからだの力を、おしみなくすてつつ、あえて、前進しつづけて来たのであったし、又右衛門は、巨躯にありあまる力を惜しみつつ、跳び退りつづけたのである。
この第三撃にぶち罩《こ》めた又右衛門の体力と気力は、巌《いわお》をもつらぬく勢いであったのである。
伊織は、意識することなしに、二剣をぱっと交叉《こうさ》させて、飛び来たった白刃を受けた。体力の消耗から来た反射的なものが、自身の生命を守る防禦《ぼうぎょ》のみを行わしめた、といえる。
防禦の交叉剣をつかった伊織の五体に、次にあらわれるのは、必敗の破綻《はたん》であろう。又右衛門が、その破綻を見遁《みのが》す筈はない。
ところが――。
又右衛門は、奇怪にも、突いた構えを、それなり、画中にでも入ったように、固着させてしまったのである。
伊織の二刀に、ぴたっと吸いつけられて、引くことも、突くこともならなかったのである。
この瞬間をはずさず、
「勝負、それまで!」
宗矩の声が、発せられた。
と――同時に、伊織が、顔をしずかに仰向《あおむ》けた。その口から、どっと、鮮血が噴いた。
又右衛門の切先で、咽喉を突かれたためではなかった。病んでいた肺が、破れたのである。
一方――。
又右衛門は、審判の制止とともに、ぱっと跳び退ったが、そのまま、双眼をかたく閉ざして、俯向《うつむ》いてしまった。
宗矩も忠常も見てとっていた。
伊織が、交叉剣で、又右衛門の突きを受けとめた瞬間、その二刀の柄《つか》がしらから、さっと、霧がほとばしり出て、又右衛門の双眼を搏《う》ったのである。霧は、ただの霧ではなく、おそろしい痛みを、眼球に呉《く》れた。又右衛門は、しばし、盲目たらざる得なかった。
もしこれが、伊織自身の作為であったならば、一流兵法者の直感力で、又右衛門は、看破したかも知れなかった。
これは伊織の全く関知しない二刀の仕掛けであった。刀刃が強い衝撃を受けるや、その柄がしらから、目つぶしの毒霧がほとばしる卑劣な仕掛けであった。
その二刀は、伊織が、小倉から持参してきたものではなく、藩邸の庭で、不意に襲撃してきた黒衣の曲者《くせもの》が、投げのこしたものであることは、前に述べた。
三
伊織は、控えの間に敷かれた褥《しとね》に横たわって、目蓋《まぶた》を閉じていた。時刻は、宵《よい》を迎えていた。その貌《かお》は、奉書紙《ほうしょし》のように、白く、透《すきとお》っていた。
――敗れた!
長い間の、放心から、ふっと、われにかえった時、伊織は、自分に、そう呟いてみた。なんの感慨もなかった。
荒木又右衛門という柳生一門中の、無名の兵法者に敗れた――その事実だけが、他人事《ひとごと》のように、はっきりと判っているだけであった。
――おれは、敗れたのだ。
もう一度、呟いてみた。心は動かなかった。
次いで――、
いくばくかすぎて、伊織は、
――おのれの生命は、あまり長くはない。
と、思った。
その時、はじめて、伊織は、自分という人間の宿命らしいものに、心が動くのをおぼえた。
と――。
音もなく、一個の黒影が、控えの間に忍び入って来た。伊織は、それを察知しつつ、死んだように動かなかった。
ッッッ……と、黒影は、滑るように、床の間に近づいた。
そこには、試合に用いた二振の太刀が置かれてあった。
黒影が、それを小脇にかかえあげ、かわりに、持参した一振を、そこへ残した時、伊織は、目蓋を閉じたまま、呼んだ。
「おぬし――」
すると、黒影もまた、伊織に察知されていたのは承知している落ちついた態度で、ふりかえり、
「何か――?」
と、訊《たず》ねた。
「わたしに、何故《なにゆえ》に、その二刀を持たせた?」
「お手前の二刀遣いを試したかったまでのことだ」
「それだけか」
「それだけだ」
「太刀は、荒木の方が拝領したぞ」
「不運であったな。お手前の技倆《ぎりょう》が、荒木に劣っていたわけではない」
「ふふふふ……」
伊織は、微《かす》かにわらった。
「おさらば――」
黒影は、出て行こうとした。
「待て」
伊織は、とどめた。
「影と名のる忍者は、おぬしであろう」
「左様――」
「いつの日か機会があらば、おぬしと闘いたいものだが……」
「それは、こちらものぞむところ。では――」
再び、音もなく、「若影」は、控えの間から消え去った。
伊織は、もう一度、
――おれの命は、もう長くはあるまい。
と、呟いた。
牢鼠《ろうねずみ》
一
古人は、誌《しる》している。
草原、遠く長空に接して、涯際《がいさい》を見ず。月は、草より出でて草に入り、虹は、原より起りて、原に跨《またが》る。帰雲|空《むな》しく野に迷う。惓鳥《けんちょう》何処《いずこ》に翼を休む。……一望|蒼茫《そうぼう》の間、林樹茂れる小丘、彼処此処《かしこここ》に散って、まさしく陸上の孤島。林外鯨鐘の鳴るは、古寺の在るところ。梢上《しょうじょう》、華表の聳《そび》ゆるは荒廟《こうびょう》の坐《い》ますところ、夜陰|冥色《めいしょく》を破って、灯火の風にまたたくさま、自ら漁火《いさりび》の幽趣を帯ぶ。
まことに、武蔵野は、草の海であった。
しかも、今は蕭々《しょうしょう》たる晩秋の彩《いろど》りである。
家康の姪《めい》にあたる豊後岡《ぶんごおか》城主・中川久盛の夫人は、この秋の武蔵野を、次のように写している。
武蔵野の千種《ちぐさ》の花も見まほしゅう覚えて、秋の半ばの頃《ころ》おい、いまだ有明の月も残れるに、露とともに起き出て行きけり。秋のはてなしとききしもことわりしるく、はるばると野を分け行けば、桔梗《ききょう》、かるかや、女郎花《おみなえし》、りゅうたん、はな薄《すすき》、名もしらぬ草までも、花ならぬはなかりけり。
さて、その武蔵野の草の海をひとすじ、まっすぐに延びた街道を、長短二個の影が、進んでいた。
長身の方は、長髪を肩に散らし、口髭《くちひげ》を錨形《いかりがた》にはねあげた五十年配の、一瞥《いちべつ》して軍学者と判《わか》る。羽織の紋は、大きく、菊水であった。短躯《たんく》の方は、二十歳あまり、異常に大きな双眸《そうぼう》が特徴で、わずかに跛《びっこ》をひいていた。
黙々として、街道を過ぎ――緩い傾斜の、いつの間にか、丘陵を辿《たど》って、楓《かえで》の疎林《そりん》の前に出たとき、長身は、立ち停まって、前方を指さした。
「あれじゃ」
短躯は、伸び上がって、ひっそりとした屋敷を望んだ。
「先生。……まちがいはありますまいな? 真田左衛門佐《さなださえもんのすけ》の虚名を偸《ぬす》んだ騙《かた》り者ではありせぬな?」
その声音は、若さに似ぬ毒気を含んだ暗いひびきをもっていた。
「ははは、正雪《しょうせつ》よ、この楠不伝《くすのきふでん》が、楠氏の末裔《まつえい》と称する怪しさ比べれば、これから会う人物は、たとえ騙り者であっても、真田幸村と信ずるに足りる人物じゃ」
一巻の楠氏系図と、一|旒《りゅう》の菊水の旗を作って、唐櫃《からびつ》に納め、これを駿府《すんぷ》浅間山の根方に埋めて置き、後年、江戸牛込に出て、軍学の塾《じゅく》を開いてから、一夜の夢想に託して、これを発掘し、その霊奇をもって、他人を驚かし、にわかに門弟の数をふやした――楠不伝という人物が、その長身であった。
つき添う若者は、もとは、春日局《かすがのつぼね》の御用達《ごようたし》であった菓子舗・鶴屋|弥次右衛門《やじえもん》の養子であったが、商業をきらって、不伝の門に入って、由比《ゆい》正雪と名乗っている才子であった。
楠不伝は、どうやって、この武蔵野の一隅《いちぐう》に隠栖《いんせい》する老人を、生き残った真田|幸村《ゆきむら》と、知ったものか、秘蔵弟子の正雪にだけ、ひそかに耳うちして、正体を見とどけるべく、やってきたのである。
「見い、あの門構えを――。風雅な、つつましい、竹造りじゃが、まさしく、五万石の格式をあらわして居《お》るわ。二重の櫓門《やぐらもん》の雛形《ひながた》と申せる。門を入れば、必ず、三百品の植木があろう」
不伝が告げた通り、門を入ると、植込みに、同じ樹《き》は、一本もなかった。柿葺《こけらぶ》きの入母屋《いりもや》の建物に向かって進み乍《なが》ら、左右へ注意深く、目を配れば、疑いもなく、規模を小さくしただけで、格式の面目を示すのに、聊《いささ》かの遺漏《いろう》もなかった。
不伝は、書院造風の玄関に立って、大声で案内を乞《こ》うた。
それから、半刻《はんとき》ばかりの後、楠不伝と由比正雪は、屋敷を辞し去った。
幸村は、送っても出ず、座敷に坐《すわ》っていた。
あたたかみの薄い陽《ひ》ざしが、淡く落ちた庭へ、穏やかな眼眸《まなざし》を投じて、じっと動かずにいたが、やがて、ひくく、
「たわけども!」
と、呟《つぶや》きすてた。
――このわしが、天下|顛覆《てんぷく》の機を窺《うかが》っていると、思うて居る。愚かな、そそっかしい野盗どもよ!
滑稽《こっけい》であった。軍学者|面《づら》が笑止というものであった。
幸村が、望んでいるのは、平和であった。
槍先の功名で、一国一城の主《あるじ》となる可能の時代は去ったのである。階級制度は確立し、高材逸足の士も、殆《ほとん》どその力を展《の》ぶる余地はなくなった。
戦乱と改易《かいえき》によって、諸国にあふれた失業武士の群れは、もはや、永久に、士官の望みは断たれたといえる。
大坂役後、諸大名の改易されたものを、ちょっと、数えただけでも――。
元和《げんな》二年七月、家康第六子|松平忠輝《まつだいらただてる》・四十五万石。
元和五年六月、福島政則《ふくしままさのり》・四十九万八千二百十三石。
元和六年八月、田中忠政・三十二万五千石。
元和八年八月、最上義俊・五十七万石。
同年同月、本多上野介正純《ほんだこうずけのすけまさずみ》・十五万五千石。
元和九年三月、松平忠直・六十七万石。
寛永四年正月、蒲生忠郷《がもうたださと》・六十万石。
寛永九年六月、加藤忠広・五十二万石。
同年十月、駿河大納言忠長・五十五万石。
孰れも、あるいは罪科により、あるいは死亡によって、改易された。十万石以下の大名中にも、名家が多くほろぼされた。
これらの喪家から追われた幾十万の浪人たちを、救う方法は、すでになかった。
幸村は、大坂城の将校中、ただ一人生き残って、この時世の変遷《へんせん》を見戍《みまも》りつつ、自身が打つべき手は、打って来た。
すなわち――。
家康が、親藩・譜代・外様《とざま》の大名を全土に配するに当って、その封土区分に就いて、内密に意見を需《もと》めて来、また、武家諸法度の制定にあたっても、その草案を作ることを依頼して来た時、幸村は、その報酬として、五万石相当の年金を、要求したのであった。豊臣家のために、至純の忠誠をさざけて来て、幸か不幸か、大坂役で生き残った士たちを養うためであった。
家康は、これを応諾し、以来二十年間、幸村は、千余の人々を扶けて来たのである。
二
「えへん――」
二室をへだてて、赤猿《あかざる》の咳《せき》ばらいがきこえた。
われにかえった幸村が、炉の上でたぎっている湯をくんで、点前《てまえ》をはじめた時、赤猿は、するすると入って来た。
「あまり、人品《じんぴん》のかんばしからぬ牢人者《ろうにんもの》と、狭間途《はざまみち》ですれちがいましたが、殿の閑日月《かんにちげつ》も、そろそろ終わりを告げるのではございませぬかな?」
「君子は、三端《さんたん》(文士の筆端、武士の鋒端《ほうたん》、弁士の舌端)を避くじゃ」
かるく言いすてて、幸村は、赤猿に、赤茶碗を与えた。
野人も、いつしか馴《な》れて、作法を心得ていた。
「結構でございました」
茶碗をかえしてから、
「女影を、かついで参りましたぞい。ご引見の程を――」
と、告げた。
「……?」
怪訝《けげん》そうに見かえす幸村に、赤猿は、にやっとしてみせた。
幸村は、立って奥へ入った。
そこに、牀《とこ》がのべられ、白蝋宛然《はくろうさながら》の冷たい寝顔が、枕《まくら》の上に在った。
まくらもとに、正座した幸村は、しばらく、その寝顔を、瞶《みつ》めていた。
多くの忍者をやしなって来た幸村であったが、女の忍びには、はじめて接するのであった。
稀《まれ》に見る程整った貌《かお》の持主であり乍ら、女性の美しさ優しさをみじんも湛《たた》えていないのに、幸村は、あわれを催した。当て落されて、暗黒の中有《ちゅうう》をさまよい乍らも、表情は、鋭利な刃物のように緊《しま》っているのであった。
やがて、意識をとりもどす微妙な変化を刷《は》いた貌は、さらに妖《あや》しい冷たさを冴《さ》えさせた。
尤《もっと》も、幸村だからこそ、意識を取りもどしたなと看破できたのであって、常人の目には、依然として、ねむりつづけているとしか映らないであろう寝顔であった。
「わしは、真田左衛門佐だ」
幸村は、まず、名のっておいて、
「そなた、もしかすれば、木曾谷の影の女《むすめ》ではあるまいかな?」
と、問うた。もとより、返辞はなかった。
「そなたが、このたびの吹上の御前試合の勝者に賜《たまわ》る無銘太刀のうち、一振、青江恒次《あおえつねつぐ》の咒文剣《じゅもんけん》が交じっていることを、どうして知ったか、この幸村には、ほぼ推量がつく。そなたは、もうそれを手に入れたのであろう。謎語《めいご》は、車中侯、であったな」
「……」
「但し、謎語の意味を、そなたが、はたして、解き得るかどうか……。たぶん、そなたには、解けまい。解いてくれる者は、ほかに居るのであろう。が、その者の名をききたいとは思わぬ。その者の解くのと、この幸村が解くのと、どちらが早いか――これは、面白い競争となろう」
「……」
「わしが、そなたを、ここへ拉致《らち》したのは、秘剣の謎《なぞ》を、横奪《よこど》りしたいためではない。……車中侯の三文字は、おそらく、平家が京の都に匿した財宝の在処《ありか》を教えるものであろうが、かりに、解き得ても、わしは、そなたと争って、それを手中に収める所存はない。……わしが、懸念するのは、そなたに、財宝をさがし出せと命じた者の、身の程を知らぬ無謀の野心が、財宝をわがものにすることによって、まきおこすであろう騒擾《そうじょう》だ。……天下は、すでに、徳川家の治世となり、公儀の盤石《ばんじゃく》はゆるがぬ。全土三百藩は、孰《いず》れの藩も、その隣藩と連合する能《あた》わざるように、配置されおわった。甲藩に対して、乙藩は監視者となり、乙藩に対しては、丙藩が監視者となり――孰れの藩も、到底その力を展《の》べることは叶《かな》わぬ。譜代と親藩は、勢力をまとめて、外様に臨み、旗本八万騎と称する近衛《このえ》は、譜代と親藩を牽制する。しかも、旗本は、禄するところ乏しく、個々の力は弱い。すべての者は、幕府の仁恵の下に、首を垂れ尾を振って、その命に恭順するよう、すでに、法度の大網大目《たいこうたいもく》は成った。……ここに、一人、野心家があって、流浪の浪人者たちを糾合せんと企てても、法度の網がすみずみまではりめぐらせた全土中、何処《いずこ》に、その叛旗を、かかげ得る余地があろう」
ここで、いったん、言葉を切った幸村は、遠い眼眸を宙に据《す》えて、しばし、沈黙を置いた。
やがて、口をひらいた幸村は、意外な事実を、ふっと、洩《も》らした。
「たしかに……秀頼《ひでより》公は、薩摩《さつま》の領内に、生きておいであそばす」
これをきくや、はじめて、「母影」の寝顔が、あきらかに色を動かした。
「……あの日、炎上する大坂城の、蘆田曲輪《あしだぐるわ》の矢倉内から、秀頼公を、淀《よど》殿よりひきはなして、城外へお救い申したのは、この幸村のしわざであった。薩摩へお落し申上げるのは、なみなみの苦心ではなかった。……ははは、おろかなしわざであったよ。秀頼公に生きのびて頂くことが、いったい、何の意義があったのか。今にして、おのれのおろかさが嗤《わら》われてならぬ。……秀頼公は、申すもはばかるが、天資英明には程遠く、あれから二十年を辺境に生きのびられて、いよいよ、卑屈な小人となりおおせられた。癈人《はいじん》同様の御身となられたと申しても、誇張にはなるまい。わしは、柳生十兵衛を隠密《おんみつ》として、薩摩へ送って、秀頼公の御様子を見とどけさせた。蟷螂《とうろう》と化した秀頼公を、再び天下の頭領となさんとして、平家財宝の餌《えさ》をもって浪人たちを寄せようと企てる者があるとすれば、これは、寇《あだ》に兵を藉《か》し、盗に糧《かて》を齎《もたら》す、というにもひとしく愚挙ともうさねばならぬ。財宝は、武士たる望みをすてて、平和な職業に転じようとする浪人者たちに、平等に分配されてこそ、活《い》きる」
幸村は、「母影」の寝顔へ、ふたたび、視線を落として、
「そなたの、忍者たる使命をさまたげようとは言わぬ。ただ、財宝を発掘したあかつき、それを、依頼者に渡す前に、いまのわしの言葉をかみしめてもらいたい、とのぞんでおくのだ」
三
その時刻――。
老いたる忍者は、江戸城西之丸北部の紅葉山東端の地下につくられた石牢に、つながれていた。
伊賀三十六人衆に捕えられて、江戸城内へひきたてられたが、柳生宗矩《やぎゅうむねのり》の糾問《きゅうもん》はただの一度もなく、そのまま、この石牢へ入れたのであった。
すでに、二日間が、経過していた。
服部半蔵《はっとりはんぞう》には、宗矩の心懐が、次第に、はっきりと判って来ていた。
ひとたびは捕えた「母影」を、またにがしたことは、宗矩の疑惑を決定的なものにしたに相違ない。半蔵が、故意にそうしたとしか、考えないであろう。
半蔵としては、しかし、おのれの身がこうして虜囚《りょしゅう》とされる苦痛の方が、「母影」を殺す苦痛よりも、堪えられることであった。
影母子を、とらえて、宗矩の前に引据えられなかったのは、忍者としての敗北を意味するが、今は、代りにおのれが拘禁されたことに、何やら安堵《あんど》に似たおちつきをおぼえている半蔵であった。
ただ、心にかかるのは――。
宗矩は、おそらく、真田幸村に会うて、|ほぞ《ヽヽ》をかためたに相違ないのだが、意外なことに、「母影」を横あいから奪い去ったのは、幸村の忠僕《ちゅうぼく》赤猿佐助だったのである。
――左衛門佐め、何か企図しているのではあるまいか?
半蔵は、この懸念だけは、宗矩に、伝えておきたかった。
影母子に就いての弁明は、一切したくなかった。
服部半蔵という老忍者が、この石牢で果てるのも、宿運にしたがういさぎよさに思われる。なぜならば、この石牢こそ、半蔵自身の設計に成るものだったからである。
その構造は、大小の石を組合わせただけの、きわめてかんたんなものであったが、脱出を企てて、ひとつの石を取り外すと、その上から、他の石が落下して、たちまち、ふさいでしまう仕掛けであった。これは、掘っても掘っても、そのあとを埋められてしまう砂地獄に似ていた。石のひとつひとつは、強く押せば、ぐらぐらとゆらいだし、取り外すことはさほど困難ではなかったが、その努力がいかに徒労であるか――それを、設計者である半蔵が一番よく知っているのは、当然であろう。
脱出不可能な場所から、のがれ出ようとあせることの愚をさとって、しずかに、石壁に凭《よ》りかかって、闇中に身じろぎもせずに二日間過ごした半蔵は、ほんの四半刻あまり、うとうとしているあいだに、夢を見た。
それは、三十五年前の思い出であった。
稀《き》代の忍者「影」が家康直属の伊賀党によって生捕られ、三条河原で断首されるために、洛中《らくちゅう》を裸馬でひきまわされていた――あの光景であった。
高手小手にしばりあげられ、左眼はつぶされ、右脚は両断された惨たる姿を、馬上にさらし乍ら、「影」は、なお生きるのぞみをすてずに、忍び笛をふいたのである。
まざまざと甦《よみがえ》って来たその光景を、夢の中で眺めつつ、半蔵は、にわかに、老躯に生気の満ちるのをおぼえた。
――そうであった! 「影」は、あの絶体絶命の瞬間まで、遁《のが》れてみせる不屈の意志を抱いていた!
闇の中で、大きく、双眼を瞠《みひら》いた半蔵は、自分に言いきかせた。
――あの「影」に比べれば、わしの状態は、まだ絶体絶命とは言えぬ!
日に一度、出入り口にあたる頭上の大石をくり抜いて、手一本が通せるくらいの孔があけられてあり、そこから、握り飯と一|椀《わん》の水が、紐でつりさげられていたが、半蔵は、まだ口をつけていなかった。毒殺をおそれたからである。二日や三日、絶食しても、平然としていられるのが、忍者であった。
半蔵は、親知らずのあとへはめた義歯を舌で抜くと、忍び笛の鼠の啼き声を出してみた。
「頼まれてくれるか」
だれかが、この声をききわけてくれるというのぞみは、万に一もなかった。入口を見張っている番士に、ききわけられる筈もない。
これは、わずかな、おのれをなぐさめる遊びでしかなかった。
しかし、この遊びは、必死であった。
遁れ得る唯一の法として、くりかえしているうちに、やがて、必ず、頼まれてくれる者が現われるという確信が、肚裡《とり》で不動となる。食を断ち、闇中に坐《ざ》しつづける者が、生きるための遊びであった、といえる。
二刻あまりが過ぎた。
忍び笛にこたえてくれる者は、さらになかった。
そのかわりに、半蔵の脳裏に、ふっと、ひとつの直感が閃《ひらめ》いた。
窮すれば通ず、ということわざがあるが、万策つきて、全くの窮地に追いこまれた時、人間には、一瞬に精神が冴える場合がある。
それまで、かるく見過ごしていたことが、ふっと気がついてみれば、非常に重大な意味を持っている――こうした直感の働きは、窮地に陥って、はじめて経験するもののようである。
半蔵が、閃かした直感というのは――。
ある兵法者の、日常に起った、ほんのささいな行動ひとつにすぎなかった。
だが、いま鋭く冴えた神経で、想いかえしてみると、これは、非常に重大な事柄《ことがら》のようであった。
その兵法者は、第九試合に出場する一人なのであった。
半蔵は、たまたま、其処において、その兵法者の何気なさそうな振舞いを、見かけたのであった。その時は、ただ、それだけのこととして、見過ごしてしまっていたのだが……。
――あれは、ただの振舞いではなかった。
はっきりと、確信できた。
――但馬守《たじまのかみ》に報せなければならぬ。但馬守は、再び礼をもって、わしを遇さねばならぬ。
半蔵は、そう呟いた。
半蔵が、率然として察知したこの大事も、思えば、あの「影」が、京の如意《にょい》山麓の三重塔の屋根に匿《かく》した白球と、同じであった。誰かが、但馬守に半蔵の意中をつたえる役目を引受けてくれぬかぎり、むなしく、闇中に葬《ほうむ》られてしまうのであった。
殺されるべく地上へ引出される時まで待って、但馬守に、それを伝えてはもうおそい。
荒木又右衛門と宮本伊織の第七試合は、二日後――即ち、今日行われるときいていた。ならば、第九試合は、明後日行われる。猶予はならぬのだ。
……半蔵は、忍び笛を吹きつづけた。
と、不意に、小さな物音が、半蔵の耳につたわって来た。
目をあげて半蔵は、闇の中を透かして、
「ふむ!」
と、微笑した。
忍び笛は、思いもかけず、ひとつの反応を得たのである。
それは、食べ物をたぐりおろす孔から、いっぴきの鼠を、誘い入れたことであった。
鼠は、孔口《こうこう》で、ちょっと、停まっていたが、するすると、石壁をつたって、地面へ降りて来た。
そして、要心しつつ、走っては停まり、停まっては走りつつ、近づいたのは、半蔵が手をつけずにすてておいた握り飯であった。
くわえた次の瞬間、非常な迅さで、石壁をのぼって、孔から、消え去った。
――成程、窮すれば通ずだ。
半蔵は、声なく笑った。
いっぴきの鼠があらわれたことは、半蔵にとって、番士が味方についてくれたのも同様の有難さであった。
忍者には、禽獣《きんじゅう》爬虫いかなる生きものでも、味方として使う法があったのである。
巨人征服
一
巨人征服、というものは、いつの時代でも、人々の興味を呼ぶ話題である。
吹上における第八試合は、まさに、それであった。
それに登場する巨人とは、小西行長《こにしゆきなが》の家臣で、朝鮮役で、豪勇無双の働きを称された赤松|庄兵衛《しょうべえ》の一子|又兵衛《またべえ》重成であった。巷間、重石《おもし》の又兵衛、と呼ばれていた。
身長は六尺一寸あまり、当時の武辺者としては、さまで珍しくはなかったが、体重が五十貫あった。そして、その愛用する大鎧《おおよろい》が、体重と同じく、五十貫の重量があったのである。
漢の高祖は、その双腕をたらすと、指が膝頭《ひざがしら》にとどいたという異形《いぎょう》の人物であった、と伝えられているが、重石の又兵衛もまた、直立し乍《なが》ら、おのれの膝頭をたたいて、人々を唖然《あぜん》とさせた。この異常な双腕の長さは、組討ちの場合、最も有利であることは、言うを俟《ま》たぬ。
外見は、宛然《さながら》巨猿の姿であった。膂力《りょりよく》三十人力、と自ら誇っていたが、人はこれをあやしまなかった。
保元《ほうげん》の戦記によれば――。
源為朝《みなもとためとも》は、この国が生じたる最も巨大な体躯《たいく》の持主で、十八歳にして身長七尺、目かど二つに切れ、尋常人の着け得べき鎧は、その身に合わなかった、という。保元の乱の白河殿の戦いにおいて、為朝がただ一人で守備した西河原門は、はじめ平清盛《たいらのきよもり》が矢合せして破れ、嫡子《ちゃくし》重盛が十九歳の気鋭を以て自ら先陣となって突入せんとして果さず、清盛|麾下《きか》の猛将|山田伊行《やまだこれゆき》もまた、主将の退却を屑《いさぎよ》しとせず、驀地《まっしぐら》に馬を駆って襲いかかって射落とされ、ついで、鎌田正清が迫ったが力及ばずしてしりぞき、最後に敵方にまわった兄源義朝が立ち向かったが、為朝の大箭《おおや》に敵すべくもなかった。雑兵《ぞうひょう》たちは、為朝の巨姿を仰いだだけで四肢《しし》がすくんで動けなくなり、強弓《ごうきゅう》をひきしぼるさまに、そのまま気絶した者も少なくなかった。
そのまえ、為朝は、白河上皇から合戦の策を問われて、夜討ちに如《し》くはなし、とこたえ、
「されば唯今《ただいま》より高松殿(天皇方)に押寄せ、三方に火をかけ、一方より撃ち入れば、火を遁《のが》れんとすれば矢を免《まぬが》れず、矢を恐れる者は遁れず、兄義朝などが出て合わんとすれば忽《たちま》ち之《これ》を射落とすことを得べく、まして平清盛などの矢は何程の事があろう、鎧の袖《そで》にて打ち払うべし、他所へ行幸《みゆき》などの事あらば、供奉《ぐぶ》の者どもを追い払って、この御所へ行幸をなし奉《たてまつ》ることは、掌《てのひら》を返す如《ごと》くであろう。わが矢を二つ三つ放つばかりにて、天の明けぬ前に勝負を決すべきは、何の疑いもなし」
と、進言している。
藤原頼長は、これを荒儀《あらぎ》として、用いなかったが、もしとりあげていれば、保元の乱は、白河殿の勝利となっていたかも知れない。
白河殿を守備したのは、南側|大炊《おおい》御門表の東門を平忠正父子・多田頼憲《ただよりのり》ら二百余騎、西門を源為義父子百騎、北の春日表の門を平家弘百五十騎、そして西河原表門を為朝ただ一騎、という配りであった。いかに、為朝の豪勇ぶりが信頼されていたかが、これをみても、わかる。
まさに、赤松又兵衛重成は、為朝の再来かと思わしめる巨人であった。もし、一時代前に生まれていたならば、その武勇は当然、一国の主《あるじ》たるにあたいしたが、時世おさまり、主家は亡《ほろ》びて、又兵衛は、浪々の身であった。
この又兵衛と試合する対手方《あいてかた》は竹内流小具足の法を伝える竹内久長及び久明の兄弟であった。竹中兄弟は、毛利輝元《もうりてるもと》の幕下に属していた竹内|中務丞《なかつかさのじょう》久盛という竹内流腰廻りと称する組討ちの達人の孫にあたり、備前|邑久郡《おくごおり》国府で道場を持ち、門弟一千余を擁していた。体重は、兄が二十三貫、弟が二十二貫あり、ともに堂々たる偉丈夫であったが、両者合わせても、なお、重石の又兵衛より、五貫目も少なかった。
将軍家光が、戦国時代の実戦そのままの試合を所望するからには、どうしても、鎧試合を加えねばならず、えらぶとなれば、赤松又兵衛と竹内兄弟のほかにはいなかった。
というのも――。
これは、ただの試合ではなく、朝鮮役に因縁を遡《さかのぼ》らせて、異常な興味をかけることができるからであった。
当時――文禄《ぶんろく》の役において、小西行長の侍大将たる赤松庄兵衛と、加藤清正の家臣であった竹内兄弟の父竹内甚十郎とのあいだに競われた兜首《かぶとくび》の数は、太閤秀吉の耳にまで達した有名な逸話であった。
そもそも、小西行長と加藤清正が、宿命的ライバルであった。両者は、肥後国五十四万石を分けて、北半を清正が、緑川以南の南半を行長が封じて、目に見えた対抗を形成していたのである。秀吉が、両者を、辺境相隣して分封せしめたのも、深いこんたんあってのことであった。大明《だいみん》討入の際、ともに先鋒として、必死に功名を競わせるためであった。
主君たちの功名争いを、その家臣たちが、おのれらの功名争いにしたのは、当然であろう。
小西・加藤の両軍が、道を分かって北上し、同日同時刻に、京城《けいじょう》へ入り、京城から臨津《りんしん》まで、並んで同一方向に進み、そこから前者は平安道を、後者は咸鏡道《かんきょうどう》を行くことに決するまでの二十日あまり、赤松庄兵衛と竹内甚十郎は、常に、一番乗りで、敵将を仕止めつづけたのであった。
赤松庄兵衛は、大荒目|胴丸《どうまる》で、敵の矢をことごとくはじきかえし乍ら、武蔵太郎安国三尺四寸の大太刀を麻幹《おがら》のように振りまわして、敵首を刎ねとばした。八方を包囲されたときなど、片手で斬《き》りまくりつつ、空いた素手で搏《う》ち仆《たお》し、両脚を自在に躍らせて蹴殺《けころ》した、という。
竹内甚十郎の方は、駿馬《しゅんめ》を八字駆けに駆って疾風のごとく一気に敵本陣を衝《つ》き、馬上から敵将に跳びかかり、あっという間に、その首級を挙げて、また矢のように馳《は》せ戻《もど》って来ていた。
両者の挙げてゆく兜首の数が、五十を超えた頃から、両軍の間で、数争いが、賭けごとになっていた。両者は、戦場の場を異にしていたので、はじめのうちは、別に競争心を燃やしてはいなかったが、賭けごとになって来るや、のっびきならぬ意気地をかためざるを得なかった。時には単騎で、朝駆け夜討ちという冒険も敢《あ》えて行わなければならなかった。
赤松庄兵衛が、その首級百を挙げるや、主君の小西行長は、帰国を命じた。これ以上、数争いさせることの愚をさとったからである。庄兵衛は、大いに不服をとなえたが、行長は、強く叱《しか》って、ともに進むことを許さなかった。行長は、すでに、平壌《へいじょう》に遷《かえ》った王室に呼びかけて、和平を講ずべく、その使者を趨《はし》らせていたのである。
清正の方は、行長に出し抜かれて、敵地に深入りしすぎてしまった憤懣《ふんまん》を、敵にむかってたたきつけようと、朝鮮皇帝の二王子を生捕らずば再び本土に還《かえ》らず、と気負い立っていたので、竹内甚十郎にも、いよいよ、その奮戦をのぞんだ。そのために、甚十郎は、百一個目の兜首を挙げた時、自らも傷ついて隻腕《せきわん》隻脚となったのであった。
二
赤松庄兵衛の兵法は、力であった。竹内甚十郎の兵法は、術であった。
力か、術か、――この論議は、あまりにも兜首《かぶとくび》争いが有名であっただけに、後のちまで、各所でたたかわされ、当時、両者の子たちは、対手方を意識せざるを得ず、いつの日にか、雌雄を決しなければなるまい、とひそかに|ほぞ《ヽヽ》をきめていたのである。
そして、その宿運は、晴れの御前試合というまたとない絶好の機会にめぐまれたのである。
この日を孰《いず》れがより熱望していたかと比べれば、赤松又兵衛の方であった、といえる。
主君小西行長は、和平を講じようとして、明朝から派されて来た沈惟敬《しんいけい》の策略にひっかかり、明軍四万余に突如として襲撃され、惨たる敗北を喫し、本土に帰るや、侮蔑の目をあびせられたのである。それにひきかえて、加藤清正は、朝鮮皇帝の二王子を生捕っていたし、再度の遠征では、蔚山《うるさん》城での華々しい武功を土産にしていた。
小西家も加藤家も、すでに亡《ほろ》び去ったとはいえ、旧家臣としての武士道の吟味を天下にしめすには、その子が亡き父の意志を荷負《にな》って能《よ》く試合に勝つことのみである。
さいわいに、源為朝に比べられる巨躯をあたえられた赤松又兵衛は、将軍家の面前で、宿縁の競争対手を、蛙《かえる》のようにたたきつぶす闘志を燃えたたせた。対手が兄弟二人であることも、かえって、その闘志をあおるに役だったばかりであった。
又兵衛は、御前試合出場をもとめる使者の来訪があるや、それから二日後には、すでに、五十貫の大鎧を背負って、太宰府《だざいふ》天満宮近くのわが家を立出《たちいで》ていた。
山陽道をまっすぐに上って、又兵衛がおとずれたのは、備前|邑久郡《おくごおり》国府の竹内道場であった。
この日、久長・久明兄弟は、池田家に祝賀の儀があって、招かれて、岡山城下に行き、父甚十郎一人が、道場にのこっていた。
甚十郎は隻腕隻脚になった上に、中風を患《わずら》って、殆《ほとん》ど満足に口もきけない状態にあった。
又兵衛は、面接を断わる門弟をはねのけて、鎧を背負ったまま、甚十郎の寝所へ押し入った。
「このたび、吹上の禁苑において、赤松流の力と竹内流の術を競う栄誉を与えられ申したのは、同慶の極みに存する。されば、鎧試合の掟《おきて》にしたがい、鎧改めをしていただきとう存ずる。ご兄弟がご他出なれば、御貴殿が代ってお見とどけあり度い」
そううそぶいて、又兵衛は、鎧の蓋《ふた》をはらうと、五十貫の鎧を、ずるずるとひき出した。
このたびの試合は武装得物は各自勝手であり、試合場の幕を割って入るまで秘すことも許されるという通達があったのである。対手方に、武装改めなどしてもらう必要はなかった。
わざわざ、対手方の道場に乗込んで、それをやってのける又兵衛の傲慢《ごうまん》な振舞いは、おのが鎧が、いかなる秀《すぐ》れた小具足の術をもってしてもビクともせぬ自信に拠《よ》っていたからであった。
悠々《ゆうゆう》として着用しはじめた又兵衛を見戍《みまも》る甚十郎の眼眸《まなざし》が、しだいに、烈《はげ》しく、光を加えた。
まさしく、誇示するに足りる尋常ならぬ大鎧であった。
こて、臑当《すねあて》、喉輪《のどわ》、袖《そで》などの厳重なつくりもさること乍ら、その長大な胴をまもる腹巻鎧は、まずその下に逆おどしの下胴をつけるのである。
腹巻鎧というのは、着長鎧の馬手《めて》の脇楯《わいだて》を後のまん中に当たるように作り、さらに、屈伸のため一枚鉄の脇楯を小札《こざね》に作る。後閉の板は、早業に用いるようになっている。後閉板を締め、籠手《こて》をさし、乱髪になって、左右の手よりさし込み、|かずき《ヽヽヽ》上へ着し、腰の緒をしめる。これは早着自由であり、直番腹巻といって、むかしは、番を勤める者は装束の下に着していた。即ち、着込みのように、朝夕用いていたのである。
又兵衛の腹巻鎧は、厚い鉄板造りであり、その鉄板と鉄板との間に、鎧通しの匕首《あいくち》を刺そうとしても、下胴にさえぎられて、中まで突抜くことは不可能であった。兜《かぶと》もまた二重になり、それに、白髪が八時にはねた奇怪な形相の頬《ほお》(鉄面)をかぶる。どの部分にも、刃物を加える隙間はないのであった。
甚十郎の不自由な五体が、微《かす》かにわなないたのは、中風のせいばかりではなかった。
武之具《もののぐ》を着しおわった又兵衛は、さらに、大きく両脚をふみ開いて見せた。下散《げさん》の下、脛当《すねあて》ての上には、南蛮鎖の網を二重にして穿《は》いていた。股間を突き刺されない要心であった。
又兵衛は、愉快そうに大声をあげて笑い乍ら、下散の下の鎖網を解いた。
網のしたから、まがまがしく勃起《ぼっき》した巨大な陽根を、突き出されて、甚十郎の萎《な》えた五体は、ふたたび、顫《ふる》えた。
このおり、末娘の|つた《ヽヽ》が、茶菓子を運んで来たのは、不運であったというよりほかはなかった。
五十貫の巨人が、五十貫の武之具をつけて、臆面《おくめん》もなく、陽根を突き出した姿が、|つた《ヽヽ》をあっと仰天させて、茶菓子を畳にとり落とさせた。
「わっはっはっは……」
屋内をゆるがす笑い声が、気遠くなる|つた《ヽヽ》の耳にのこり、猿臂《えんび》の中へかかえ込まれた時には、もう意識は喪われていた。
|つた《ヽヽ》は、血にまみれ、腰が砕けた。
甚十郎は、ただひとつ自由な双眼を、かっと瞠《みひら》いて、わが娘が凌辱《りょうじょく》される光景を、まばたきせず見届けた。
急報によって、兄弟が、その夜のうちに、馬を駆って馳せ戻るや、甚十郎は、又兵衛を追跡することを厳しく禁じた。御前試合の前の私闘は許されなかったからである。
|つた《ヽヽ》が出血多量のために息をひきとった翌朝、又兵衛の方は、四里はなれた虫明村の海辺へ出て、漁夫の舟をやとって、瀬戸内海に出ていた。
第八試合は、こうして試合前に、その戦いを凄惨《せいさん》なものにする素地をつくったのである。
三
当日朝、西之丸に設けられた控えの間に入った又兵衛は、茶坊主《ちゃぼうず》の接待を受けているうちに、ふと、二間床に飾った大鎧の蔭《かげ》に、何者かがひそんでいるような気がした。
べつに気配を感じたわけではなかった。ただ、ふと、そんな気がしただけであった。
立って行って、たしかめるも大人気ないので、そのまま、ごろりと仰臥《ぎょうが》して、瞑目《めいもく》した。緊張した神経が、そんな錯覚を起したのだと思い、又兵衛は、おのれを嗤《わら》ったのである。
一方、別の控えの間においても、竹内兄弟が、同じような経験をしていた。
具足武器をあらためて点検して、床の間へならべおわった時、弟の久明が、はっとした様子で、背後を振りかえった。
「どうした?」
兄の久長から、怪訝《けげん》そうに問われて、
「いや、何者かが、そこにいるような気がして――」
と、久明は、こたえつつ、なお、ひきしまった面持《おももち》だった。
「おちつけ! 気の迷いだ」
たしなめた久長もまた、それから、いくばくも経《た》たないうちに、床の間に黒い影がさっと掠《かす》めすぎるような気がして、はっと、視線をまわしたものだった。
午報とともに、竹内兄弟が、兄は小桜縅《こざくらおどし》を、弟は沢瀉縅《おもだかおどし》をつけ、ともに三間柄の槍をたずさえて、西の幔幕《まんまく》から出た時、すでに、中央の白砂上には、黒一色の鉄がための巨人が、面頬《めんぼお》の八字髭《はちのじひげ》ばかりを、白く、陽光に浮きあげて、根生えたように佇立《ちょりつ》していた。その右手には、鉄疣《てついぼ》を打った一間余の六角棒が掴《つか》まれていた。
この日、将軍家光も華々しい出陣のいでたちになり、真紅の母衣《ほろ》羽織をまとい、采弊《さいへい》を持ち、牀几《しょうぎ》に腰かけていた。
両審判役もまた、具足で身をかため、宗矩は軍扇を、忠常は軍|団扇《うちわ》を、握っていた。
又兵衛は、竹内兄弟が四間の距離に進み寄るにまかせて、微動だにしなかったが、兄弟の足が停まるやいなや、白砂をにじるように、左足を|どす《ヽヽ》と踏み出して、身がまえた。
六角棒は、鳥居の構えに、かかげられた。鳥居とは、右手は柄《つか》を持ち、右肘《みぎひじ》を曲げ、前額の辺に、水平に捧《ささ》げて、左手で棒の先端ちかくを支えて、左肘は右肘より伸ばした形である。
当然、胸から下は、すべて空く。
そこを突いて来た槍を、片手振りに振り払うことになるのだが、これは絶対に刺し通されない鎧をつけているからこその不敵な構えに、ほかならなかった。
「突いて来い!」
そう示威されては、突撃せざるを得ない。
左右へ二間にひらいた兄弟は、ぴたっと、穂先を又兵衛の胸もとへつけて、じりっじりっと、間合を詰めた。
間合が詰められるにつれて、又兵衛は、徐々に、左手を挙げて、左半身を深いものにした。こうした場合、棒先を地摺《じず》りに下げる冠《かぶ》り入身が、守るにも攻めるにも適しているにも拘らず、又兵衛は、逆に、敵へ脾腹《ひばら》をさらす姿勢へ転じたのである。
「やああっ!」
肚底《とてい》から、火を噴かせるような凄《すさま》じい気合いもろとも、兄の久長が、目にもとまらぬ迅《はや》さで、三間柄をくり出した。
穂先に充分の手ごたえがあったが、それは腹巻鎧の鉄板をつらぬいただけで、その下の逆おどし胴を通すことはできなかった。
久長は、風車のように、おそろしい唸りをたてて旋回して来た六角棒に、柄を折られるのを辛うじてまぬかれて、鉄板から穂先をひきぬきざま、一間を跳び退った。
弟の久明は、又兵衛が棒を引揚げるいとまを与えず、面頬下を狙《ねら》って、
「ええいっ!」
と、猛撃した。
又兵衛は、これもまた、平然として喉輪の二重鎖の網へ噛ませておいて、ぱっと、棒をはねあげた。
久明の槍の柄は、二つに折れた。
同時に、久長の槍が、兜と面頬の蔭にのぞく眉間《みけん》を狙って、ひょーッ、と跳び来った。
この瞬間には、又兵衛は、すでに、左半身になり、棒を、頸根《くびね》から肩へ水平にのせて、左手を逆手に持ち、先端を敵の咽喉《のど》へつける笠斫《かさはず》しの構えになっていた。
「おーっ!」
躯幹を軸にして、回転する黒い速影は、とうてい五十貫の大鎧をつけたと思えない軽やかさであった。
その回転は、棒端で槍をはじきとばす迅業《はやわざ》を意味した。
のみならず――。
又兵衛は、槍をはじきとばしたひと振りを、さらに次の豪快な業に継続させた。すなわち、躯幹の回転の勢《はず》みをもって、片手振りに、おのが首を中心にして、ぶーん、と円弧を描いて、久長の胴めがけて、打ち下ろしたのである。
もし当たっていれば、久長のからだは、二つにへし折れていたに相違ない。
久長が、翼があるように地を蹴《け》って、数尺を飛び上がったのは、竹内流小具足の法の秘伝であったろう。
兄弟は、ともに、槍を失った、しかし、鎧試合にあっては、槍や太刀を失うのは、前業にすぎない。勝負あったことにはならぬのであった。
兄が、宙を斜横に翔《か》けて、又兵衛の右側へ降り立った時、弟の方は、太刀を抜くかわりに、腰に巻いていた鎖を解いて、身構えていた。これは、鎖造りの竹内流の捕《と》り縄《なわ》であった。長さは七尺五寸が定寸であった。
鉄の巨人を破るには、突き、あるいは斬《き》ることが叶《かな》わなければ、からめとって組伏せるよりほかはなかった。
もとより、捕り縄の襲って来ることは、又兵衛の方でも、予測していたところであり、その身構えに向かって、棒をさしのべつつ、六分の神経は、油断なく兄の方へ配った。
鎖は、蛇《へび》のように空《くう》を躍って来るや、棒の中程へ、きりりっと巻きついた。
「うむっ!」
又兵衛が、踏み怺《こら》えたのは、ほんの一瞬にすぎなかった。
鎖縄をひきしぼった久明は、次の刹那《せつな》、案山子《かかし》のように、ひと曳《ひ》きで、又兵衛の手もとへ、引き寄せられていた。
又兵衛は、抜き打ちに、陣太刀を腰から鞘走《さやばし》らせて、久明の頸根へ送った。
久明の兜首《かぶとくび》は、その胴をはなれて、血飛沫《ちしぶき》の中を、明るい陽光の盈《み》ちた宙を、翔るように高く、飛んだ。
この隙をうかがって、兄の久長が、小太刀をかざして又兵衛の巨躯へ、躍りかかった。 渾身《こんしん》の念力を罩《こ》めた一撃も、その大鎧の胴をつらぬくことは叶わなかった。
「おのれっ!」
狂気のごとく、第二撃を加えようとする久長は、又兵衛の罠にかかったけものにひとしかった。
又兵衛は、面頬の蔭から、哄笑をほとばしらせつつ、久長の頸へ、むんずと猿臂をかけた。
両審判者は、もはや、これ以上、身戍《みまも》るにしのびなかった。
「勝負、それまで!」
宗矩が、立ち上がって、叫んだ。
その時であった。
息を止められつつも、久長が無我夢中で衝《つ》いた小太刀の切先から、突如として、炎がほとばしり出た。
すると――。
その炎を待っていたごとく、腹巻鎧の下から、キナ臭い匂《にお》いとともに、黄烟《こうえん》が湧き出た。と見るうちに、それは、鉄板と鉄板の隙間から、下散や袖や喉輪の蔭から、濛《もう》っ、濛っと噴き出した。
「おっ……む、む、む、むっ、むっ!」
久長を突きはなして仁王立ち、舞いあがる黄烟の中に、くわっと眼球をひん剥《む》いて、歯をくいしばった又兵衛の形相は、まさしく阿修羅《あしゅら》であった。
いかなる部分にも刃物を通さぬように作られた大鎧は、その裏綿に火をつけられるや、こんどは、逆に、着用者を火だるまにする絶大な効力を発揮した。
それにしても、裏綿が、このように一瞬に火焔《かえん》と化することは、あり得ぬ奇怪であった。
それには、焔硝《えんしょう》がぬりつけてあったのである。
竹内兄弟の小太刀を炎太刀とすりかえたのも、鎧の裏綿に焔硝を塗りつけたのも、「若影」のしわざであったことは、言うを俟《ま》たぬであろう。
焼けこげる苦痛にのたうちまわっていた又兵衛は、不意に、翻転して茫然《ぼうぜん》と突っ立っている久長にとびかかって、その胴を、双脚で締め上げて、血反吐《ちへど》を吐かせた。
将軍家光は、惨たる地獄の光景に堪え得ず、思わず嘔吐《おうと》して、急いで、奥へ去った。
呪《のろ》い鏡
一
十月――菊香晩節、梅は小春に応ず、と言い、又、斗杓《とへい》北を指して日影南に回《めぐ》る。とも言う。
会式《えしき》桜が、林間に美しく咲いた内桜田門内の登城道を、この日、しずかに歩み入る各大名たちは、茶会のための装いをしていた。当月|朔日《ついたち》より、炉開き口切の催しがなされて、城中に於《おい》ては、この日が当てられていたのである。
風もなく、空は遠く澄んで、寂々《じゃくじゃく》たる茶室に坐《すわ》るには、申分のない日であった。
吹上の御前試合が、本日は、取止めと決定したのは、巳刻《みのこく》(午前十時)になってからであった。但《ただ》し、将軍家光が、殺伐《さつばつ》の気色を、茶室に持ち込んで、列座の大名たちに、ひそかに顰蹙《ひんしゅく》されるのを慮《おもんばか》ったためではなかった。
家光は、前日の第八試合の、あまりの悽愴《せいそう》をきわめた血みどろな光景に、嘔吐してから後、持病の喘息《ぜんそく》の発作に襲われて、まだ癒《なお》っていないのであった。
家光は、あくまで強気で、本日の第九試合も覧《み》ようとしたのであるが、春日局《かすがのつぼね》が、つよく諫《いさ》めたのである。但し、春日局が、決死の面持《おももち》で、みるのを止めたのは、家光の持病を心配しただけではなく、ほかに、重大な理由があったのである。
しかし、西之丸の剣士控えの間には、その旨《むね》は、正午まで、通達されなかった。
第九試合は――。
水戸藩士・梅津紋太夫《うめづもんだゆう》道行と、池上本門寺前で、町道場をひらいている松前三四郎純久とのあいだに行われる槍《やり》試合であった。
春日局から、柳生宗矩と小野忠常に、将軍家御不例の報《しら》せがあったのは、勿論、取り止め決定後すぐであったが、このとき、なぜか宗矩一人だけが、大奥へ呼ばれたのであった。
やむなく、試合者たちに、通達する役目は、忠常にまわった。
生涯二度とない大試合に出場するとなれば、一流の兵法者たるもの、その日その刻限を期して、心身を調整することは、すでに、荒木又右衛門を語る条において、述べた。
翌日に延期する旨を通達するのは、まことにいやな役目であった。これは、老巧な宗矩こそふさわしかった。
若い忠常は、やむなく、両者を、桜の間へ呼び寄せて、高圧的に申渡すほかに、方法《すべ》はない、と考えた。
忠常は、それまで、両者を視《み》ていなかった。
桜の間に入ってきた両者を眺《なが》めて、忠常は、孰《いず》れも尋常の士であるのに、安堵《あんど》した。
水戸の梅津紋太夫は、三十四歳、長身白面の、どことなく飄々《ひょうひょう》たる風格をもった、どちらかといえば、儒者などに多く見受けられる型の人物であった。筑波山中に育ったという自然児の大らかさが、御三家筆頭の物がたい家中《かちゅう》に入ってからも、消えずにのこっているとみえた。
一方、永年町道場をひらいている松前三四郎は、三十六歳、小ぶとりの、眉目《びもく》の丸い童顔の持ち主で、一瞥しただけで、落着いた温厚な人柄と受けとれた。この試合に勝てば、旗本の列に加えられるという大事の場に臨んでいる気魄《きはく》など、全く感じられなかった。巷《ちまた》の間でもまれて、苦労して、人間が練れたものと思われる。
互いに、初対面の挨拶《あいさつ》も、おだやかであった。
忠常が、試合は明日に延期された旨を申渡しても、両者は、べつだん顔色を動かさなかった。
ただ、松前三四郎の方から、せっかく城内へおまねきにあずかって、このまま退出するのはいかにも心残りゆえ、せめて本日は、御苑《ぎょえん》を拝見できぬものか、という願いがあった。忠常は、快く承知して、両者をともなって、建物を出た。
御苑拝観といっても、吹上|廓《ぐるわ》だけでその面積は十万三千余坪で、広袤《こうぼう》本城に伯仲している。西南は弁慶堀《べんけいぼり》で、西方は千鳥《ちどり》ヶ|淵《ふち》、この二|濠《ごう》を以《もつ》て、麹町《こうじまち》及び番町の高地を阻絶している。廓の南部に尾州、中部に水戸、北部に紀州の三親藩邸第が在った。
忠常は、わざと、試合場にあてられている平庭をさけて、西之丸南廓から、吹上門を抜けて、そこに置かれた振天府、懐遠府、建安府など、戦役の貴重な記念品を蔵したところへ、両者をみちびこうとした。
その折――。
あわただしげに、数名の士が苑路を走って来て、木立の中へふみ込み、しきりに梢《こずえ》を見まわしはじめた。その顔つきは、必死であった。大奥づきの添番《てんばん》たちであった。
すぐあとから、せかせかと歩いて来たのは、御広敷《おひろしき》御用人と見えた。
「何をぐずぐずいたして居る! はやく、とらえぬか!」
と添番たちを叱咤《しった》した。
忠常たちも、梢を仰いだ。
と――すぐに、梅津紋太夫が、
「かたがた、鶯《うぐいす》は、あそこでござる」
と、指さした。
この目ざとさは、紋太夫の経歴を示していた。
紋太夫は、筑波の山中に育った鳥刺しだったのである。十七歳の冬、小鳥を生捕っているところを、水戸の槍術《そうじゅつ》指南の梅津甚左衛門に目撃され、天稟ありと見込まれて、その養子になったのであった。養父が逝《い》った後、一時、御鷹匠《おたかじょう》を勤めたこともある。むしろ、これが、紋太夫にとっては、本業であったといえる。
梢に、逃げた鶯を発見することぐらい、紋太夫にとっては、掌《たなごころ》を指すようなものであった。
二
将軍家光には、美童を愛するほかに、小鳥を飼う趣味があった。鶯、鶉《うずら》、駒鳥などを仕立てて、その季節にいたると、林園に放って、その音色を愉《たの》しむことにしていた。
小鳥を飼う役目は、大奥の女中たちであった。
本日――茶会にあたって、特に、この小春日和に美しく啼《な》くように仕立てられた、家光|寵愛《ちょうあい》の名鳥「春光」が、その亭《ちん》の檐《のき》さきへ置かれることになっていた。小鳥乍ら、将軍家の一字を与えられ、葵《あおい》の紋散らしの籠《かご》に納《い》れられた鶯は、女中たちから、「春光さま」と呼ばれる格式をそなえていた。
その名鳥を、女中の一人が、あやまって、逃がしてしまったのである。
この粗相が、短気な家光に知れたならば、幾人かの犠牲者が出ることは、必定《ひつじょう》であった。
添番たちが、血相変えているのも、当然であった。
……名鳥は、吹上門上を飛びこえて、ひときわ高い杉《すぎ》の梢に、つばさをやすめていた。
添番たちは、大いそぎで、囮《おとり》笛で、呼びおろそうとした。
しかし、一向にききめはなかった。囮笛は、春から新緑にかけて用いるものであった。すでに、初冬を迎えた季節では、役立たなかった。
たとえ、小春日和に啼くように仕立てられた名鳥といえ、自由を得て、大空の下を飛んでみれば、たちまちに、本性をとりもどして、囮笛などにだまされないのであった。
「御用人――」
忠常が、声をかけた。
「それがしが、合気の術で、あの鶯を落として進ぜる。下で、受けとめられい。ただちに蘇生《そせい》させるとお約束できる」
そう申出た。
たとえ五間の高処《たかみ》の樹上にとまっているとはいえ、小野一刀流の気合いを放てば、落とせない筈《はず》はなかった。
御広敷《おひろしき》御用人は、
「忝《かたじけ》ない。なにぶんよろしくお願いつかまつる」
と、好意を感謝して、添番たちに網を張るように下知した。
この時、梅津紋太夫が、忠常に向かって、
「失礼な申分乍ら――」
いんぎんに、言いかけた。
「合気の術でお落しあると、いかなる名鳥も、啼くのを忘れるかと存じます。そっと、竿をお用いになって、裏羽根へ、鳥黐《もち》をかけるがよろしいかと心得ますが……」
忠常も、紋太夫の経歴はきかされていた。
その態度は、謙虚で、忠常の反感を買うものではなかった。
「そうであった。小鳥を生捕るは、お手前の仕事であったな」
忠常は、笑って、紋太夫に一任した。
紋太夫は、御広敷御用人にむかって、鳥刺しの継ぎ竿を、要求した。
それを、添番の一人が、取って来るまでに、小鳥が飛び去りはしないか、と一同は、気が気ではなかった。
一人、紋太夫だけが落ち着きはらっていた。籠に飼いならされた小鳥は、放たれると、はじめは面白さのあまり飛びまわるが、一度羽根をやすめると、追わないかぎり、滅多に飛び去るものではないことを、知っていたからである。
紋太夫は、持参された継ぎ竿を受けとると、無造作な足どりで、その老杉《ろうさん》のしたへ進んで行った。
試合|対手《あいて》の松前三四郎にとっても、また忠常にとっても、これは、見のがせない光景であった。
三四郎と忠常の鋭い眼光を、背に刺され乍ら、紋太夫の様子は、しかし、きわめて平然としていた。
とはいえ、その進みかたは、もし、見戍《みまも》る者が、目蓋を閉じれば、樹間を微風《そよかぜ》が渡っているとしか感じさせないくらい巧妙な忍び歩きだったのである。
紋太夫は、老杉の下に立つと、手ばやく、継ぎ竿を継いだ。それは、三間の長さに延びた。
紋太夫は、それを、幹に添わせて直立させた。次の瞬間、なんの気合いも発せずに、抛《ほう》りあげた。
竿は、枝と枝の隙間《すきま》を縫って、矢のように、宙を飛び上がった。そして、高い梢上の小鳥に、その先端をふれさせたかとみるや、五寸あまりの穂先の一本を羽根に吸いつけておいて、のこりの竿は、すうっと、落下して来た。
名鳥は、軽い竹竿の一本を羽根からぶら携《さ》げて、飛ぶや飛ばずのかたちで、その下へかけつけた添番たちの張る網の中へ、ふわっと入った。
だが――。
名人芸を示した当の紋太夫自身は、ふかく慙《は》じ入る気色で、俯向《うつむい》いていた。
忠常は、その紋太夫を見戍るかわりに、木立の一隅《いちぐう》へ、視線を送っていた。
自分たちの背後から、一個の黒い影が、通り魔のごとくそこへ消えて行ったのである。
紋太夫が、竿を、梢へ抛りあげた瞬間であった。全く同時に、忠常の横に立っていた松前三四郎が、脇差《わきざし》しの小柄《こづか》を抜きとりざま、さっと、後方へ、投じたのである。
怪しい者の気配が、そこにあった……。
すなわち。
紋太夫が、竿を抛りあげた瞬間、三四郎は、何者かが、背後にあって、梢上の小鳥に、忍び気合いをかけるのを察知し、間髪を容《い》れず、小柄を撃ったのであった。
紋太夫は、それを知らなかった。
紋太夫が慙じたのは、鶯の裏羽根を刺さずに、表羽根へ鳥黐《もち》をつけてしまった不覚なのであった。
竿が飛び上がって、小鳥を襲う刹那《せつな》、小鳥も気づいて、ぱっと羽搏《はばた》こうとする。その先端は、そこを狙ってあやまたず、ひろげた羽根の裏へ、鳥黐を吸いつかせる。表羽根を汚さぬための、これが至妙の芸であった。
ところが、名鳥は、竿が身に迫って来るや、逆に、かたく、羽根をすくめてしまったのである。
曲者から忍び気合いをかけられたからであった。
忠常は、曲者の消え失《う》せた地点へ、視線を送り乍ら、
――彼奴《かやつ》!
と、胸中で呟《つぶや》いていた。
――「影」め、まだ、城中を跳梁《ちょうりょう》して居るのか!
三
その時刻――。
柳生宗矩は、江戸城から遠く、武蔵野の曠野のまっただ中を、馬を疾駆させていた。
そのすぐうしろを、宛然《さながら》、宗矩の騎馬影のようにより添って、馬蹄の音さえもたてぬ隠れ扈従《こじゅう》をしている一騎があった。
雪の白さの蓬髪《ほうはつ》を風に巻かせつつ、古稀ともいえる皺貌《しわがお》を鋭くひきしめた服部半蔵であった。
半蔵は、一匹の鼠を使って、地下の石牢《いしろう》から出ることに能《よ》く成功したのである。
半蔵は、おのが忍び笛に誘われたように、いっぴきの鼠が、天井の小孔《こあな》から降りて来て、握り飯をくわえ去った時、ひとつの直感を脳裏にひらめかした。そして、その次に、たぐりおろされた握り飯を、把《と》りあげて、鼻孔を寄せて、ひと嗅ぎするや、はたして、おのれの直感が正しかったのを、知ったのである。
その握り飯には、雌鼠の尿がしみこませてあった。これは、忍法の秘事のひとつ――鼠通しの法であった。すなわち、どこかへ、雄鼠を集めようと企てる場合、そこに運ばれる食物へ、雌鼠の尿をしこんでおくのである。忍者のみがほどこす法であった。
この地下の石牢に、鼠が現れたのは、握り飯欲しさの偶然ではなかった。
――そうか。「若影」が鼠を送り込んで来たか。
城中に忍び入っている「若影」が、頼まれてくれるか、と吹き続けた半蔵の忍び笛の音《ね》を、ききとって、鼠を送り込んでくれたのであった。
曾《かつ》て、半蔵は、「影」のために、京の如意《にょい》山麓の三重塔の屋根に匿《かく》した白球を取って来て、三条河原に投じてやった。ゆくりなくも、今度は、おのれが、その様に、救いをもとめるめぐりあわせとなったのである。
半蔵は、着物の襟《えり》の中に縫い込めてあった紙片を取り出して、指を噛《か》んで、血汐《ちしお》で一文をしたためると、それを、とらえた雄鼠の尾へむすびつけて、放ったのであった。
祈りつつ、一夜を明かした半蔵は、柳生宗矩自ら、石牢へ降りて来るのを迎えて、胸に微《かす》かな痛みさえおぼえたことだった。
――わが子なればこそ、骨肉と知らない乍らも、父を救うてくれた!
胸の痛みは、その感動のためであった。
宗矩は、黙って半蔵を目顔で促して、石牢からつれ出し、西之丸桜の間で対坐《たいざ》すると、
「本日の試合に、謀叛《むほん》の企《たくら》みがある由《よし》、お主が、囚徒の恥辱からまぬがれたいあまりの虚言をつくろったのでなければ、これは、由々しき大事であるが……」
と、言った。
「二十日あまり前のことでござった。江古田《えごた》の野で、行きずりに、何気なく見とどけたある出来事が、牢中の浄座のうちに、ふと記憶に甦《よみがえ》り、あれは将軍家のおん生命《いのち》にかかる謀叛の企みではなかりしか、と感得つかまつった」
半蔵は、しずかに、そうこたえた。
宗矩は、昨夜、おのが屋敷に戻って、書屋に入ると、几上《きじょう》に、何者かの手で、半蔵の血書が置かれてあるのをみとめたのであった。
しかし、その時は、半蔵を、石牢からつれ出して、糺《ただ》す気持ちは起こらなかった。
ところが、今朝登城すると、将軍家御不例によって試合延期の旨《むね》の通達とともに、春日局から大奥へ呼ばれ、
「昨夜、大樹様(将軍のこと)に対し奉《たてまつ》り、異心をひそめた者が、御前試合に出場する悪夢にうなされました。これは、おそらく、豊家《ほうけ》の遺臣にあらず、亜相様(家光の弟・駿河大納言忠長《するがだいなごんただなが》のこと)の御不運をなげいて、遺恨を懐《いだ》く者か、と思われまする」
と、告げられたのであった。
駿河大納言忠長は、前々年十一月に、幕府から、改易され、その封土を奪われ、家士を離散、流竄《るざん》せしめられ、高崎へ幽閉されたのち、前年十二月六日夜、自害して果てていた。当年二十八歳であった。家光が、安藤重長に、忠長を自殺させるように命じ、阿部重次が、使者となって、高崎におもむいて、忠長につたえたのである。
家康が、幕府をひらいて以来、親藩・外様・譜代中、改易に処せられた者は、尠《すくな》くはない。しかし、そのために、生命までも喪《うしな》った者はないのである。福島正則も加藤忠広も、本多正純も徳川忠直も、孰れも天寿を全うして逝《い》っている。
独り、将軍家の実弟たる忠長のみは、自殺しなければならなかった。
家光・忠長兄弟の確執が、あまりに深かったからである。すなわち、実弟であったからこそ、その身の禍《わざわい》は、免《まぬか》れ難《がた》かった、といえる。
当然――忠長の悲惨な最期《さいご》を観《み》て、その復讐を誓う者があらわれたとしても、ふしぎはなかった。
春日局の夢枕に立ったのは、忠長の乳母|明石局《あかしのつぼね》であった。
おどろに髪をふりみだし、恨みの形相|凄《すさま》じく、必ず将軍家を槍先にかけて仆《たお》してみせる、と呪いの言葉を吐いたのであった。
宗矩は、このことをきいて、さすがに心中|恟然《きょうぜん》となって、急いで、半蔵を石牢におとずれて、糺《ただ》すことにしたのであった。
実は――。
春日局に、その悪夢を覧《み》させたのは、「若影」のしわざであった。背文字の法、という。
睡眠中の者のせなかに、指頭で文字を記すと、これが暗示となって、夢裡《むり》にあらわれるのである。しかも、本人は全く気づくことはないのであった。
斯《か》くして――。
宗矩は、半蔵が目撃した場所へ、馬を走らせることになったのである。
四
秋風の立ちはじめた、ある晴れた午後のことであった。江古田の草庵《そうあん》をぶらりと出て、野歩きをしていた半蔵は、ふと、疎林《そりん》の中に、鳥黐竿《もちざお》を携えた一人の武士の姿を見出した。
梢の小鳥を狙って、これをあやまたず生捕る手練の鮮やかさに、感服した半蔵は、その紋を視《み》て、水戸藩士・梅津紋太夫だな、と推察した。水戸藩の槍術指南役の前歴が、鳥刺しであることは、あまりにも有名であったし、このたびの御前試合にえらばれたという噂も耳にとどいていた。
御前試合出場のために出府して来て、心身の調整の目的もあって、山野をひとり歩きし乍ら、鳥を刺しているのだ、と見てとれた。
で――半蔵は、なんとなく、おのれの気配を消して、そのあとを尾《つ》けてみたのである。
やがて、人の背丈ほどにも延び繁《しげ》った一面の旗すすきの中へ、わけ入った紋太夫は、とある亭々《ていてい》たる樅《もみ》の喬木《きょうぼく》に近づいて、ふり仰いだ。
およそ、十尺あまりの高処に、煌《きら》と光る物が、幹へ架けられてあった。
紋太夫は、しばらく、それを見上げていたが、そのまま、幹をまわって、後方に立つ一軒の茅屋《ぼうおく》に入って行った。
半蔵は、その茅屋を覗《のぞ》くほどの興味も持たなかったので、途を引返したものだったが……。
石牢内に、孤坐しているうちに、何とはなしに、ふっと、その記憶が甦り、あの喬木の幹に架けられてあったのは、たしか、絵馬のかたちをした鏡であった、とおのれに呟いた――とたんに、ひとつの直感が閃《ひらめ》いたのである。
樅の喬木に絵馬のかたちをした鏡が架けてあるのは?
大樹は即ち将軍を意味し。
絵馬のかたちは即ち家と看做《みな》され。
鏡は即ち光り物である。
判読すれば、将軍家光となるのではないか。これは、呪詛のための仕掛けではあるまいか。あの茅屋の中では、将軍家|調伏《ちょうぶく》が行われていたのではなかろうか。
半蔵は、そう想像したのである。
宗矩と半蔵は、その茅屋の前で、駒《こま》から降りた。
まず半蔵が、閉ざされた戸へ手をかけて、急に眉宇《びう》をひそめると、宗矩をふりかえった。
「屍臭《ししゅう》がござる」
告げておいて、戸をこじ開けた。
はたして、半蔵の推測は、適中していた。
ただ一間しかない屋内には、護摩壇《ごまだん》が設けられてあった。三角の鈞召金剛炉は、阿毘遮魯迦《あびしゃろか》法によって、忿怒焔蔓徳迦《ふんぬえんまんとくか》明王を祭る人命調伏の護摩壇であった。
壇上には、人髪、人骨、人血、蛇皮、肝、鼠の毛、猪《いのしし》の糞《ふん》、牛頭、牛血、白檀《びゃくだん》、蘇合香《そごうこう》、毒薬など……。
壇の前には、蹲踞《そんきょ》座という坐りかたをした山伏が、左手に金剛杵《こんごうしょ》を、右手に炉中の灰を握りしめて、俯伏《うつぶ》していた。
半蔵は、抱き起こしてみて、その死顔から、昨夜のうちに事切れたものと、悟った。おのれの生命さえも、仏に捧げて、呪詛の修法を、二十一日間つづけたものであった。
「明日の試合は、中止せねばなるまい」
宗矩は、呟いた。
すると、半蔵は、かぶりをふった。
「調伏は終わって居《おり》り申す。試合を中止いたさば、呪詛は、この修験者《しゅげんしゃ》の魂魄《こんぱく》から発せられて、じかに、上様に祟《たた》る懸念がござる。試合を行わせしめて、上様を襲う凶刃《きょうじん》を打ち落とすことによって、呪詛を断つよりほかにすべはござらぬ」
十文字|鎌《がま》
一
この日も、空は一朶《いちだ》の雲影もとどめず、遠く澄みわたっていた。暑からず寒からず、秋光の盈《み》ちた江戸城の庭では、あちらこちらの台地上に、大奥の女中たちが佇《たたず》んで、遠く、芝生の彼方を流れる水影を眺《なが》めていた。
水影は、波光をゆらめかせて、さらさらと流れて、ふしぎな美しさであった。これは、実在のものではなかった。筑紫《つくし》の不知火《しらぬい》のような、また越中その他の土地で見える蜃気楼《しんきろう》のようなものであった。
武蔵野の逃水《にげみず》、という。人が若《も》し進んで、そこへ到《いた》ると、ただ、青草があるばかり、水は去って、更に遠くにあるのだった。一種の陽炎《かげろう》といえた。
逃水を眺めるために、人々は、多摩郡府中あたりまで出かけて行くならわしであった。武蔵野の面影をとどめる城内にあっては、居乍《いながら》らにして、逃水を見ることができるのであった。
ただ――。
吹上の白砂の平庭だけは、方二十間に張りめぐらした紅白の幔幕《まんまく》の蔭《かげ》に、伊賀三十六人衆をひそませて、異常な緊張した静寂を保っていた。
第九試合は、ただの御前試合ではなかった。立合う者の一人は、将軍家光の生命を狙っているのであった。
柳生宗矩も小野忠常も、死の決意をしていた。
家光自身も、宗矩から告げられて、覚悟の上で出座していた。
宗矩は、春日局と相談して、家光の影武者をそこに坐《すわ》らせようとしたのであったが、家光が肯《き》かなかったのである。春日局が差しだした守り鏡を、肌着の下にかけることさえ不承不承であった。
「余の生命を狙う者が現われてこそ、このたびの試合を催した意義があろうと申すものではないか」
強気に、そう言いはなったものだった。
上座は、いつもより、ずうっと奥へさげられてあったが、家光は、わざと、反対に前へ出させた。
両審判席は、家光をかばうために、その間隔をせばめて、設けられてあった。
家光は、これもまた、
「よく覧《み》えぬぞ。常のようにいたせ」
と、床几《しょうぎ》を左右へ戻させてしまった。
この日、梅津紋太夫と松前三四郎が登城を命じられた時刻は、これまでより一刻早かったし、身を浄《きよ》めるという名目で、風呂《ふろ》の用意がされていて、入浴しているあいだに、ひそかに衣服の検査が行われた。試合に用いる槍《やり》以外は、脇差《わきざし》を帯びることも禁じられた。
午報とともに、両者は、同時に、幔幕を割って、出た。
――こやつか、余の生命を狙う奴《やつ》は!
家光は、東方から姿を現わした梅津紋太夫を睨《にら》んだ。
紋太夫が、小脇にしているのは、三間|柄《つか》の細造りの長槍であった。
ゆっくりと距離を縮めて、間合がきまると、しごきもせずに、身構えたが、これは、奇妙な構えであった。左手は千段巻を掴《つか》んで、穂先をやや上段に向けたのである、柄は、おのが身の後方へ長く残され、石突きは、ほとんど地にふれんばかりであった。すなわち、普通の持ち方と逆であった。鳥刺しから会得《えとく》した、一気に三間の柄をくり出す刹法《せっぽう》であった。
刹法とは、構えの如何《いかん》に拘《かかわ》らず、直ちに敵に応じて勝身を行う極意である。刹とは刹那《せつな》の意味で、相討ち相突きの勝負に関しては、この秘術をこそ真髄とする。
いわば、敵から突かれた刹那において、穂先三寸をもって、身を転化して、石火の反撃に出るための、この鳥刺し法形は、刹法として完璧《かんぺき》といえた。
これに対峙《たいじ》する松前三四郎の槍は、八尺柄、十文字|鎌《がま》であった。宝蔵院流を学んだ三四郎は、印可を許されてのち工夫して、柄をしだいに縮めて、ついに、七尺柄にしたのである。のみならず十文字鎌槍は、始祖である南都興福寺宝蔵院住職・覚禅坊法印|胤栄《いんえい》は、剣九寸横手七寸のものを用いて居り、普通の槍術者《そうじゅつしゃ》は、それにしたがっているのだが、三四郎は剣三寸横手六寸と、長さが逆のものを得物としているのであった。
槍の柄というものは、持つ人の一|丈《たけ》半を良しとする。六尺の人には、九尺の柄となる。これを高量というが、五尺五寸の三四郎が、七尺柄を使うのは、この変形の十文字鎌をもって、飛乱を描くために最も便利であったからである。
飛乱は、始祖胤栄が目録の最初に説く極意であった。水鳥が、飛び立って行く瞬間を、「位《くらい》」とした秘伝である。
三四郎は、飛乱を学ぶうちに、水鳥の飛ぶかたちを、十文字鎌に写す直感を得たのであった。
頭から尾までの長さよりも、大きくひろげた双翼の長さの方が、倍するとすれば、飛乱を使うのに、剣よりも横手が長い方がいいということになる。
十文字鎌槍の得意は、敵の武器をからんで、刎ねあげることにある。三間柄の長槍によって構えられた鳥刺しの刹法に対するに、まことに、巧妙な短槍といえた。
ともあれ――。
共に構えて、じりじりと迫って、穂先と穂先がふれんばかりの地点で静止するや、長槍と短槍は、逆に、前者がわずか一尺をのぞかせ、後者が一間をくり出すかたちになって居り、これは、たしかに、異とする眺めであった。
位置は、梅津紋太夫が、上座に背を向け、松前三四郎が正対していた。
梅津紋太夫が白光の閃《ひらめ》くように三間の柄をくり出すのが迅《はや》いか、これをからんで、刎ねあげざま使う、松前三四郎の飛乱の術がまさるか――勝負は、一瞬にして決すると、思われた。
ただし、審判者たちは、その勝負に心を置いてはいなかった。どちらの眼眸《まなざし》も、鋭く、梅津紋太夫の長槍にのみ、そそがれていた。
鳥刺しの刹法は、また、投げ槍の秘技であることを、考慮しておかなければならなかった。紋太夫の立つところから、家光の座までは、五間の距離にすぎなかった。
……穂先と穂先が触れあう間合で、両者は静止するかとみえて、目にうつらぬゆるやかさで、位置を変えはじめたことも、宗矩と忠常をして、全神経をいやが上にも緊張させた。
互いに、あいての左の脇腹にねらいをつけているので、護身の上から、ともに右へ右へ、と移動せざるを得ないのであった。
すなわち、半円を描くならば、両者はその位置をとりかえて、紋太夫は、完全に、家光にむかって正対する地点に立つことになる。この瞬間に、危機は来るであろう。
やがて――。
その位置が、将軍の座から視《み》て、左右一線上へ移った――とみた刹那、紋太夫のからだが、ぱっと、一間を、滑って後退した。しかも長槍そのものは、同じ空間にぴたっと静止したままであった。
紋太夫は、三間柄の長槍を、空間に固着させたなり、おのが身を退かせたのである。
これは、対手《あいて》の間合を見切る感覚を狂わせるためであった。
実は、紋太夫の秘術というのは、おのれは一間を跳び退りつつ、長柄《ながえ》を逆に、二間びゅっとくり出す刹法であった。
これをなさずに、わが身だけを退かせたのは、十文字鎌槍が、これを待っていて、からんで、刎ねるおそれがあったからである。その前に、まず、対手の間合を見切る感覚を狂わせておかなければならなかった。
この紋太夫の動きに対して、三四郎は、なんの変化も示さなかった。
なお、つづけて、白砂上にゆるやかな円弧を描きつつ、紋太夫は、三度ばかり、前後へ、素迅い動きを、くりかえした。
そうして、ついに、両者の位置は、審判者たちが最もおそれている状態に、転移してしまった。
紋太夫の槍先は、家光の胸へ向かって、まっすぐに狙いつけられるかたちとなった。
二
だが、実は、将軍家の生命を奪わんと企てているのは、梅津紋太夫ではなく、松前三四郎の方であった。
徳川家康が、天正十八年八月、関東へ入国するや、駿《すん》・遠・参・甲・信五州に在った数万の家臣とともに、商人・百姓たちもまた続々と江戸へ移住してきたのであった。三四郎の祖父も、その商人の一人であった。江戸にかぞえきれぬくらいある「三河屋《みかわや》」のひとつであった。いわば、町人の譜代といえた。
酒・醤油《しょうゆ》をあきなう家業はさかえて、三四郎は、当然、それを継ぐべく育てられた。
ところが、夜盗に備える六尺棒の稽古《けいこ》から、三四郎の天稟《てんびん》は発揮され、父親もまた見込んで、道場へかようのをゆるし、ついに、店を弟にゆずって、遠く、奈良まで、宝蔵院流を学びに出かける運命となったのである。
江戸へ帰った時、三四郎は、二十一歳になっていたが、すでに、兵法者以外の何者でもなかった。父親は、息子のために、元津軽藩士から、松前姓を買いとって、待ちうけていた。
そして、町道場をひらいて、爾来、その名声は、上方まで鳴っていたのである。
この来歴は、どの角度から眺めても、徳川家に異心を抱く者とは、考えられなかった。
のみならず、このたび、試合に勝てば、旗本の列に取立てられることになっていたのである。もとより、三四郎自身も、千載一遇の好機をのがさじと、その日にそなえて精進していたのである。
突然、三四郎が、一通の封書を受けとったのは、今秋|重陽《ちょうよう》の祝日であった。
披《ひら》いてみると、それは、血書であった。内容は、三四郎をして、しばし茫然《ぼうぜん》自失たらしめるものであった。
|おのれ《ヽヽヽ》は、三河屋作兵衛の実子にあらず、実は、関ヶ原役に於て、石田三成とともに捕えられ、六条河原にて成敗されし小西行長が、侍女|於輝《おてる》に生ませたる双生児のかたわれなり。その双生児の一方たるこの大和金峯山《やまときんぶせん》の修験道《しゅげんどう》・阿含《あごん》が、証明するものなれば、夢疑うべからず、われら兄弟の母於輝は、後年、如何《いか》なる手蔓《てづる》がありしや、大御所(二代将軍秀忠のこと)の二子国松君の乳人《めのと》となり、明石局と称し、国松君が大納言に陞《のぼ》られるや、したがいて駿府に在りて、つぶさに、江戸幕府の奸策を覧《み》たり、昨年十二月、大納言忠長卿が、高崎の配所にして御自害なされるにあたりては、おそばにて、つぶさに見とどけたり。明石局は、忠長卿の遺髪を抱いて、はるばる、大和金峯山に来り、将軍家の御一命を縮める修法を、この阿含に嘆願したるのち、自ら咽喉《のど》を突いて果てたり。実母が最期を視《み》ては、役小角《えんのおづぬ》の験術を伝える金峯山修法の限りを尽して、将軍家|調伏《ちょうぶく》をなさざるべからず、と決意せり。たまたま、弟たる|おのれ《ヽヽヽ》が、御前試合の一人に選ばれたるを知り、好機これにまさるなし、と思い立ちて、出府し来れり。|おのれ《ヽヽヽ》は、わが呪術の応身《おうじん》となりて、怨敵家光公を討ちとるべし。
そういう内容だったのである。
自分が、徳川に滅ぼされた小西行長の実子であるばかりか、将軍家光に殺されたその弟忠長の乳母明石局が母であった、という事実は、しかし、われにかえってみれば、現在の身に、なんの関わりもないことであった。
三四郎は、その血書を、しずかに、火鉢《ひばち》の炭火にくべた。
すると、ゆらめき立つ烟《けむり》の中に、怪異な貌《かお》が、現われ出て、三四郎は、思わず顔をそむけた。
一人の山伏が、道場をおとずれたのは、それから数日後であった。
三四郎は、かたく、山伏の申出を拒絶した。
三四郎が、妄執《もうしゅう》に憑《つ》かれた山伏の呪術《じゅじゅつ》になやまされはじめたのは、その夜のうちからであった。
三四郎は、ついに、その執念に屈服した。そして、ひとたび、応諾するや、人間の奇妙な心理というものは、栄誉を受けて立身するよりも、誰人《たれびと》も能《よ》く成さざる天下人弑逆《てんかにんしいぎゃく》の壮挙の方が、兵法者の面目に叶《かな》うように思われてきたのであった。名も生命もすてて、おのが槍先ひとつで、将軍家を殪《たお》すことの悲壮はたしかに、魅入られた者の異常な情熱をわきたたせるものであった。
いわば、
「壮士ひとたび去って、またかえらず」
の意気であった。
兄の阿含が、江古田《えごた》の茅屋《ぼうおく》で将軍家調伏の護摩壇を設けて、呪詛の修法をつづけていることも、三四郎の悲壮感をいやが上にも昂《たかぶ》らせた。
とはいえ、柳生宗矩、小野忠常という当代抜群の達人が守護する家光を討ちとることは、殆ど不可能にちかい至難のわざであった。精魂を傾けて工夫してみたものの、なお、三四郎は、試合前夜になっても、これぞ、と膝を打つにいたらなかった。
深更、三四郎は、ひとり、道場の中央に黙坐をつづけて、苦悩していた。
と――。
それを投ずる者の気配もなしに、一本の小柄《こづか》が、闇《やみ》を縫って、飛んで来て、三四郎の膝の前に、突き立った
われにかえった三四郎に向かって、
「将軍家を討ちとる工夫、いまだ、成らずとお見受けする」
あざけるような声が、あびせられた。
三四郎はこの小柄が、昨日、吹上門近くの木立の中で、忍び寄った曲者《くせもの》に、自分が撃った品であることをみとめた。梅津紋太夫が生捕ろうとする名鳥へ忍び気合いをかけておいて、何方《いずかた》かへ消え去った曲者は、投げられた三四郎の小柄をひろって、不敵にも、返しにやって来たのである。
三四郎は、闇の中にくろぐろと滲み出た黒影を凝視して、
「何故《なにゆえ》の推参か?」
と、問うた。
「将軍家を討ち取る秘技を編む上に、一助となり度く――」
曲者は、すでに、三四郎の企てを知っていたのである。
「何者か?」
「影」
答えは、明快であった。
「拝領の太刀を、つぎつぎと奪う賊がある、ときいていたが、おのれか?」
「左様――」
「徳川家に遺恨を抱く者だな?」
「さあらず、天下の兵法者と、術を競う心|驕《おご》った振舞いと心得られたい。……それがしの看るところ、尋常の立合いでは、お主の腕前は、梅津紋太夫に、一籌《いっちゅう》を輸《ゆ》す。将軍家を討ちとることはおろか、紋太夫の槍先に斃《たお》れるおそれなしとせず。されば、それがしが、かりに、紋太夫の鳥刺し刹法を写し申す。お主は、おのが生命をすてて、これと闘いつつ、将軍家を討ち取る業《わざ》を工夫されたい」
斯《か》くて、深夜の道場において、三四郎は、「影」と称する若者を対手として必死の立合いをして、さとるところがあったのである。
ところで、服部半蔵が、謀叛人《むほんにん》を梅津紋太夫と思いちがえたのは、紋太夫の姿を江古田の調伏の場所に見出《みいだ》したためであった。
紋太夫が、そこにいたのは、全くの偶然にすぎなかった。小鳥をもとめて、山野を一人歩きしているうちに、いつとなく江古田へまで足をのばしていたのである。
武蔵野のうちでも、小鳥の多く棲《す》むところは、おのずからきまって居り、鳥竿《とりざお》携えて、毎日|倦《う》まずに歩きまわる紋太夫が、江古田の野に現れるのは、一向にふしぎはなかったのである。
三
ここで、くりかえして、紋太夫と三四郎の対峙《たいじ》の位置を述べておかねばならぬ。
両者は、ともに白砂上に半円を描いてその位置をとりかえたのである。上座と五間の距離を置いて、家光に対して、三四郎は、背中を向け、紋太夫が、槍先をまっすぐに狙いつけるかたちとなっていた。
紋太夫を謀叛人と思いこんでいる宗矩と忠常は、その長槍の穂先のみを見戍《みまも》って、短槍の十文字鎌の方へは、注意を怠っていた。
「……」
「……」
画裡《がり》に入ったような固着の時間が、息詰まる静寂のうちに、ゆっくりと流れすぎて、ついに、汐合《しおあい》が、きわまった。
「ええいっ!」
紋太夫が、一間跳び退《すさ》りつつ、長柄を二間、白光よりも迅く、びゅっと、くり出した。
同時に――。
宗矩も忠常も、床几から立ち上がって、太刀の鯉口《こいぐち》をきった。
次の瞬間の光景は、審判者たちのまなこを、はっと瞠《みは》らせずにおかなかった。
三四郎は、その穂先を、十文字鎌で刎ねのけるかわりに、両腕をたかだかと冠《かぶ》り入身に転じて、胸をひらいたのであった。
当然、槍の穂先は、三四郎の胸板を、ふかぶかと突き通した。
ぱっと迸《ほとばし》る血汐を見て、宗矩と忠常が咄嗟《とっさ》に、紋太夫の次の行動を警戒して、その備えを構えたのはむりではなかった。
ところが家光の生命を狙うのは、三四郎の方であった。
紋太夫に、わざと、おのが胸をつらぬかせつつ、三四郎は、仰《あお》のけざまに、その短槍を、一念こめて、背後へ振り投げた。
異形の十文字鎌は、怪しい生きもののように、宙を截《き》って、上座を襲った。
紋太夫に備えた宗矩と忠常には、思いもかけぬこの奇襲をさえぎるいとまがなかった。
「ああっ!」
家光が、恐怖の悲鳴をあげて、半身をのけぞらした。
その胸を、十文字鎌の穂先は、がっと噛《か》んだ。
白砂上へ倒れた三四郎は、さいごの気力をふりしぼって、半眼をひらき、狙いあやまたず、家光を仕止めたのを、見とどけ、何か言いたげに、唇を顫《ふる》わせたが、急に烈《はげ》しく四肢《しし》をして痙攣《けいれん》させると、ごぼっと、口から鮮血を噴かせて、目蓋《まぶた》を閉じた。
――南無三宝《なむさんぽう》っ!
宗矩と忠常は、血相をかえて、上座に跳び上がって左右から、家光を扶《たす》け起こして、短槍をその胸から、抜きとった。
「上様っ!」
「お気をたしかに!」
はげまされて、家光は、ぶるっと、ひとつ、かぶりをふってから、喘《あえ》ぎ声で、
「見事に、やり居った! ……し、したが宗矩、余を狙う奴《やつ》は、ちごうたぞ!」
と、言った。
「上様! お詫《わ》びの申上げようもございませぬ。宗矩、一生の不覚にございまする!」
宗矩の顔面は、血の気を失って、土色になっていた。
「よいわ! 生命は、ひろうた」
家光は、懐中をさぐると、春日局が無理やりかけさせた守り鏡を、掴み出した。
「これのおかげじゃ」
宗矩と忠常は、鏡の中点に、短槍のつらぬいた孔《あな》をみとめた。しかし、それは裏面まであけてはいなかった。
後刻、宗矩は、その守り鏡を持って、大奥に入ると、春日局に会った。
能くこれが将軍家の生命を守護したことを告げ、局の配慮を感謝してから、
「ところで、この裏面に――」
と、指してみせた。
春日局は、一瞥《いちべつ》して、眉《まゆ》をひそめた。
鏡の裏面には、墨くろぐろと、
影
と、記してあったのである。
「いつの間にか、このような文字を――?」
「思いあたるふしは、ありませぬか?」
「ありませぬ」
――そうか!
宗矩は、合点した。
――局の夢枕に、明石局を立たせたのも、上様にこの鏡をお持たせするように暗示を与えたのも、すべて、「影」の仕業であった!
今更乍ら、宗矩は、「影」の神出鬼没の忍びぶりに、舌をまかざるを得なかった。
――謀叛人を、梅津紋太夫と看過った服部半蔵に、その責任を負わせて、「影」と決闘させる! これが、第十試合となろう。
剣仙談《けんせんだん》
一
筆者は、この物語のはじめにおいて、寛永御前試合は、一日に一試合――将軍家の出座のない日を加えて、十四日間に十試合が覧《み》られた、と書いた。
しかし、その最終試合は、正しくは、表裏二試合であったと、ここに記し直しておかねばならない。
その表の第十試合は、巷談《こうだん》のごとく、備中《びっちゅう》の人・芳賀一心斎《はがいっしんさい》に対して遠州の産・難波不伝《なにわふでん》が立向って相打ち、と記録されている。だが、この試合は、吹上の庭上では、行われなかった。
まことの第十試合は、江戸城外において、「影」と服部半蔵《はっとりはんぞう》とのあいだに行われた凄惨《せいさん》無比の忍法試合であった。しかし、これは、千余の人々の目の前で行われたため、あくまで将軍家|御鷹狩《おたかが》りという名目で、処理されたのであった。裏試合であった、とする所以《ゆえん》である。
表試合が、庭上で行われなかったのは、第九試合における将軍家光|奇禍《きか》のためであった。春日局が、将軍家出座を、厳として、阻止したのである。正副の審判たる柳生宗矩と小野忠常の責任も軽からず、ことは極秘にされたために、両者は、表向きの処分にはならなかったものの、自ら謹慎せざるを得なかった。
で――当日朝、登城した芳賀、難波の両剣客を迎えたのは、将軍家師範に代って、大久保彦左衛門であった。
一徹剛情の奇行をもって鳴るこの老人に、審判役を依頼したのは、宗矩であった。
一切の事情を打明けられた大久保老人は、万事心得て、高名な両剣客を、紅葉山中の、太田道灌《おおたどうかん》を偲《しの》ぶために建てられた静勝軒という館《やかた》へ、案内したのであった。そこの白書院にすでに古稀《こき》を過ぎて仙格化した両名人を対坐させ、酒肴《しゅこう》をふるまって、剣談を交させ、御簾《みす》かげの将軍家にきかせる趣向をもって、第十試合に替えたのである。
上座の御簾かげに、たしかに、人影はあったが、はたして、それが家光かどうかは、取持つ大久保彦左衛門にも、判らなかった。
将軍家がきいていようがいまいが、大久保老人にとって、この役は、ひさしぶりに、おのが血を若やがせるに足りた。老人自身すでに、七十の坂を疾《と》くに越えて、ようやく無骨|褊狭《へんきょう》の面魂《つらだましい》もうすらいで、名聞をさほどのねうちと思わなくなった境地にいたっていた。
十年前、「三河物語」を記している頃《ころ》の、満身に不平不満を盈《み》たしていた人物とは、全く別人のようになっていた。
……ところで。
大久保老人が迎えた二人の老剣客は、老人をして、思わず、「ほう――これは!」と嘆息させたくらい、すでに兵法者の烈《はげ》しい気魄《きはく》などみじんもとどめぬ飄々乎《ひょうひょうこ》たる風姿であった。
古来、剣聖と称される人々の殆どは、その晩年を、山中に独居して、終えている。
芳賀一心斎も難波不伝も、いまは、仙人に近いくらしをしていたのである。
斯様《かよう》な剣聖たちには、なまじ木太刀をとらせて、庭上に技を競わせるよりも、無礼講のかたちで、酒肴を呈し、対談させる方が、よりふさわしかったと、いえる。
ところで、大久保彦左衛門は、この二人の老剣士を眺めて、山中独居が、こうも、風貌《ふうぼう》も挙措《きょそ》も言辞も、同一化すものか、と一驚したことだった。
白髪|白髯《はくぜん》、丈はあまり高からず、皮膚は木皮《もくひ》のように黝《くろず》んで堅く、それでいて、皺《しわ》は全く見当たらず、双眸《そうぼう》は澄んでいた。
両者とも、草色の木綿の筒袖《つつそで》に|たっつけ《ヽヽヽヽ》を穿《は》き、白扇一本を腰に帯びているだけであった。座に就いた姿は、矍鑠《かくしゃく》たる田夫子《でんぷうし》以外の何者でもなく、常人が想像する剣聖とは、およそ縁遠かった。
かえって、寒山拾得《かんざんじっとく》をさらに土くさくしたような姿が、大久保老人には、親しみが感じられた。
「当節の若い奴らは――」と、ふた言めには、そう切り出すのを得意とする老人にとって、隔意《かくい》なく話し合える対手《あいて》たちであった。
「本日は、全くの無礼講にて……」
幾度も念を押して、両者に、胡坐《あぐら》をもとめた。
「お手前がたが庵《いおり》の炉端と心得て頂きたい」
二人の老剣客は、遠慮しなかった。ともに、酒は好物であり、注《つ》がれるままに、大盃を幾杯も飲み重ねて、木皮顔をさらに上機嫌なものとした。
但《ただ》し、両者とも、その肴《さかな》だけは、山海の珍味を漆前《しつぜん》に並べられ乍ら、ひと箸《はし》もつけようとはしなかった。
やがて、話は、若年の頃の兵法修業に花が咲き、彦左衛門得意の「当節の若い奴らは……」がしきりに出はじめて、「血気いまだ定まらず、これを慎むは色にあり」というところへむすびついた。
だが、両剣客は、その話にいたると、一向に合槌《あいづち》を打っては来なかった。色道のことなど、疾《と》うに忘れた、という顔つきであった。
彦左衛門は、さらに、一歩進めて、伊藤一刀斎景久の逸話を持ち出した。
一刀斎が、京に在った頃、試合に負けて遺恨を抱く兵法者たちが党を結び、一刀斎の愛妾《あいしょう》を籠絡《ろうらく》して、まず大小を奪わせておき、夜半に忍び込み、蚊帳《かや》の四つ手を切って落して、襲いかかった。一刀斎は、ぱっと目覚めざま、枕元《まくらもと》をさぐったが、両刀が無い。愛妾に裏切られたことは、一刹那にさとったが、もはやおそかった。……心しずかに、かしこにくぐり、ここにひそんで、ようやく蚊帳を抜け出ると、酒肴の器を手当たり次第投げつけて、隙《すき》をうかがって、一人にとびついて、刀を奪いとるや、猛然と反撃に出て、悉く斬り伏せた。さいわいに、身に微傷だに負わなかったものの、女に心を許したことを深く慙《は》じて、その夜のうちに、家をすてて、東国に赴いた、という。
「戦国無双と称される伊藤景久さえも、若年においては、畜生心さかんにして、女色に溺れ申した。畜生心を離れ、一切の所作をすて、八面|玲瓏《れいろう》、物外独立の真妙を得るためには、お手前がたのように、七十年の月日を要するものでござろうかな。さても、ご苦労なことでござる」
彦左衛門が、聊《いささ》か皮肉を含めて言うと、難波不伝が、盃を置いて、じっと瞶《みつ》めかえした。
二
「おことば乍ら、色欲から蝉脱《せんだつ》するためには、一度色欲に溺れてみなければ、悟り得申さぬ、と存ずる。さらには、色欲そのものは迷妄《めいもう》にあらず、天理本然の性《さが》なれば、受用の中に、勝理も備わると自得することこそ……。すなわち、伊藤一刀斎は、女色に迷うたのを慙じるかわりに、豁然《かつぜん》と大悟いたしたのではござるまいかな」
「ほう、これは異説じゃ。おうかがい申そう」
彦左衛門は、首をつき出した。
「これは、われらが、勝手な解釈でござるが……」
難波不伝は、言った。
「その夜、一刀斎は、深酒を召された。そして、側女《そばめ》を抱いて、寝られた。だが、ことは不首尾であったに相違ござるまい。いかな鍛えた躰《からだ》とは申せ、あまりの深酒を食《くら》っては、おのが得手物が、思うにまかせぬことは、御貴殿もおぼえがおありかと存ずる。われらにもござる。これを、泥酔《でいすい》と申す。……一刀斎は、泥酔して、その宵《よい》は、側女の陰孔を用うるにいたらず、大いびきをかかれた。これぞ、色道上の不覚でござる。そこを、側女は、待ちうけて居《お》ったのじゃ。これまでも、しばしば、斯様な不覚を、一刀斎はとられて居ったからでござろう。女と交われぬほど、男は泥酔した、と側女は見てとり、その刀を奪って、刺客《せっかく》を誘い入れ申した。この側女の判断こそ、兵法上の重大な問題でござるわい。
剣を修行中の者にとり、事いかなる場合においても、不覚をとったことに対してこれをおろそかに忘れすてることは出来申さぬ。兵法者には、女人を抱く時は、得手物こそすなわち剣でござる。一刀斎は、その剣に不覚をとり申した。されば、酔夢の裡《うち》にあり乍らも、その精神は、不覚をとったことを決して忘れては居り申さなんだ。躰は睡《ねむ》り乍らも、精神は目覚めて居り申した。
大いびきをかきつつ、側女が大小をぬすむにまかせたのは、おのが不覚の故《ゆえ》、と心して、敢《あ》えて、剣をすて、敵を見ず、我を覚えず、所作をはなれ、身を自然に任せて、無為の位《くらい》の活路を得んためでござったろう。はたして、刺客は襲うて参った。
目覚めて居った精神は、五体を間髪にはね起させ申した。まさに、一刀斎にとって、無刀の極意をさとるに、願うてもない好機でござったのじゃな。勃然《ぼつぜん》と立って、敵の一刀を奪いとることぐらいは、兵法者の常の心得にすぎ申さぬ。……一旦、無刀の極意を悟り申したからには、もはや、世間の表にて、試合をいたすにもおよばず、一刀斎は、その夜以後、行方をくらましてしまったのでござろう」
彦左衛門は、これをきいて、
――勝手な理屈をほざき居る。
と、聊《いささ》かいまいましかった。
「左様さな、思えば、兵法と申すものは、これは、もともと畜生心を以《もっ》て工夫の種といたしており申すな。獅子奮迅《ししふんじん》とか飛蝶《ひちょう》とか虎乱《こらん》とか猿飛《さるとび》とか雷電とか蜘蛛《くも》とか――種々《かずかず》の畜生の働きを学んで、何じゃやら、秘術めかして居るようでござるわい」
すると、芳賀一心斎が、微笑して、頷《うなず》いた。
「お説ご尤《もっと》もでござる」
反駁《はんばく》させて、畜生心をおさえる苦心などを語らせてやろうと思っていた彦左衛門は、あっさりと首肯《しゅこう》されて、きょとんとなった。
一心斎は、語りはじめた。
「まことに、兵法などと申すものは、畜生に教えられるところが多々あり申す。それがしが、どうやら、兵法を悟り申したのは、六十を越えて、山中に籠《こも》り申して、三年も過ぎてからでござった。……春もたけなわとなったある宵《よい》のこと、山狗《やまいぬ》どもの遠吠《とおぼ》えをきき乍ら、炉辺に孤坐しており申すと、不意に、一匹の山狗めが、庵《いおり》の中へとび込んで来申した。これは、雌狗で、雄狗どもに追われて、逃げ込んで参ったのでござった。
たちまち、庵の周囲は、雄狗の群れでとりまかれ、狂おしい争闘の場と相成った。やがて、噛み勝ったいっぴきめが、悠々《ゆうゆう》と、庵の中へふみ込んで参ると、炉辺にうずくまる雌狗にしがみつき申したわ。
それがしは、終始、黙然として、交尾する畜生どもを、見戍《みまも》っており申した。……雄は東を、雌は西を向いて、交わり乍ら、少しも隙《すき》のない姿に、感服いたして居り申すと、そのうちに、雌のからだが波うちはじめ、その波動がたちまち雄につたわり、ともに、ひくい呻きをもらし申した。とみた瞬間、それがしは、脇差を、抜きつけに、一閃《いっせん》させて、雌雄の臀《しり》と臀が合ったところを、断ったのでござる。
ぎゃっ、と左右に跳び刎《は》ねた山狗どもの迅《はや》さは、たとえようもござらなんだ。それよりも、臀部《でんぶ》より血汐《ちしお》を噴かせつつ、宙高く踊った雄めが、床に落ちた時、その断末魔にあたって、耳まで口を裂いた貌《かお》に、限りない喜悦の情を浮かべているのをみとめたおどろきでござった。炉火をかきたてて、あらためて、眺めるに、その死貌《しにがお》は、笑みでもたたえているかと思われるほど静かなものでござった。
それにひきかえて、雌めの方は、雄の一物を、股間に残されたまま、それから、三日間も、身もだえしつつ、庵のまわりをうろつきまわって居り申したが、これは、正《まさ》しく、煩悩《ぼんのう》の姿でござったな」
真顔で訥々《とつとつ》として語られた色道話に、流石《さすが》の彦左衛門も、もはや、皮肉な言葉が、口から出なかった。
さて――。
およそ一刻《いっとき》あまり、三升を超える大酒を飲んで、みじんの乱れも示さず、老いたる両剣客が立ち去ったあと、茶坊主たちが、酒肴の器を片づけようとすると――。
芳賀一心斎が孤坐していた跡にも。
それから、難波不伝が就いていた席にも。
すでに初冬だというのに、畳の中まで浸《し》み通る程、濡《ぬ》れていた、という。
両剣客は、酒を酌《く》み、清談を交し乍らも、一瞬の油断もなく、互いの隙を窺《うかが》う緊張をつづけたあまり、全身の汗を、胡坐《あぐら》の下へしたたらせていたのである。
三
同じ日の同じ時刻。
渋谷の古街道のほとりにある真田隠宅にあっては、左衛門佐幸村が、几上《きじょう》に、虫食いの古絵図をひろげて、熱心に調べつづけていた。
幸村は、拝領太刀の一振――青江の咒文剣《じゅもんけん》刻まれた謎語《めいご》を、ついに、解いたのである。
車中侯。
この三文字の謎語を解くために、幸村は、五昼夜をついやした。そして、ついに、一冊の唐本の中から、発見したのである。
今、幸村のかたわらに置いてある一冊がそれであった。
唐の李公佐《りこうさ》が撰《せん》するところの小説「謝小娥伝《しゃしょうがでん》」であった。
その梗概《こうがい》は――。
昔、予章の估客《こきゃく》(商人)の女《むすめ》に小娥という少女がいた。八歳で母を喪《うしな》い、十四歳で、歴陽の人、段居貞に嫁《か》した。小娥の父は、居貞と合資して、江湖を往来し乍ら、手広く商売をして巨産をたくわえていた。小娥が、笄《こうがい》をあたまに飾る成年になった年、不幸にも、父と良人《おっと》は、盗賊に遇《あ》い兄弟|甥僮僕《おいどうぼく》数十人もろとも、江底に沈められてしまった。同行していた小娥もまた、胸を傷つけられ、足を折り、水中を漂流した。
ようやく、他船にたすけられて、後に流転《るてん》して、乞食にまでなりさがった。上元県に至って、妙果寺という尼寺に身を寄せているうちに、一夜、夢をみた。
夢枕《ゆめまくら》に立った父は、
「わしたちを殺した者は、車中猴――門東草である」
と、告げた。
目ざめて、小娥は、その意味を解こうとしたが、できなかった。
後年にいたって、小娥は、建業(南京のこと)という都の瓦官寺《がかんじ》をおとずれて、名僧として名高い斉物に、その謎語を解いて欲しいとたのんだ。
斉物は、欄干に凭《よ》りかかり乍ら、指先で、空中に、その六文字を書いてから、しばらく凝思黙慮していたが、やがて、合点した。
「そなたの父を殺したのは、申蘭《しんらん》という賊じゃ。車中猴の車の字は、上下おのおの一画を去れば、申の字になる。申《しん》は、猴《さる》。ゆえに、車中猴、という。また、門東草の意味は、草下に門があり、門の中に東がある故《ゆえ》に、乃《すなわ》ち蘭の字になる。車中猴と門東草を合わせて、これは、申蘭となる。この男をさがして、仇《あだ》を討つがよかろう」
小娥は、慟哭《どうこく》再拝して、申蘭の二文字を衣中に書して、去った。
爾後《じご》、小娥は、男装して、江湖の間に、傭保《ようほ》して(日傭取りとなって)敵をさがしもとめ、やがて、潯陽《じんよう》というところに至って、日傭取りを雇いたいという家があるときいて、出かけて行くと、主人が、申蘭と判《わか》った。
小娥は、天にものぼる心地がしたが、貌《かお》には出さず、申蘭の下僕となった。その働きぶりが、しだいに信用を得て、ついに、金帛《きんぱく》出入りのことまでゆだねられるようになった。
小娥は、その家にある金宝|錦繍《きんしゅう》衣物器具ことごとく、父と良人のものであったのを知った。
小娥は、申蘭が沈酔して内室に伏《ふ》しているところをうかがって、忍び入ると、佩刀《はいとう》を奪って、その首を刎《は》ねた。
父、良人の讐《しゅう》を復して故郷に帰った小娥は、あらそって聘《めと》ろうとする男たちをしりぞけて、髪を剪《き》って、ついに、嫁さなかった。
この小娥伝によって、車中侯の謎語は、「申」と解けたのである。
――申とは?
幸村は、これは、当然、方角を指すものと考えた。
そして、沈思ののち、京の古絵図をひらいたのであった。
むかし、京の都がつくられた時、都の周辺に、十二神将を祭って、それを守護神としたのであったが、幾たびかの兵燹《へいせん》に遭うて、つぎつぎと廃《すた》れて、いまは、一宇《いちう》すらも残っていなかった。
しかし、申《さる》の方角にあたる一社は(おそらく、その神将の面貌が赭《あか》く、鼻高のためであったろう)のちに、猿田彦《さるたひこ》を祭る社《やしろ》として再建され、里人の氏神《うじがみ》となった。
「ここだ!」
幸村はひとり、大きく頷《うなず》いて、古絵図の一点を、指さきでおさえた。
三方に断崖《だんがい》をもつ丘陵の頂上であった。わずかに、むかしの殿舎のなごりを、その土台石にとどめているばかり。その土台石は、いずれも中央に孔《あな》を穿《あ》けてあり、これは、石臼の形であった。
「まさしく、これである!」
幸村は、にこりとした。
京から申の方角にあたる猿田彦の社――これが、車中侯の意味であり、
臼型の土台石――これは、咒文剣の鋩子《ぼうし》近くに必ず浮いている臼字《きゅうじ》をもって示している。
平家が隠匿《いんとく》した財宝は、この丘陵上の殿舎の跡に在る!
「はたして、財宝は、いまもなお、ここに埋められてあるかどうか――それが、問題であろうが……」
古絵図をたたみ乍ら、そう呟《つぶや》いたとたん、幸村は、険しい表情になって、視線をまわした。
次の間に、気配があるような気がしたのである。
「猿か?」
問うてみたが、返辞はなかった。
急に、木村は、調べに熱中のあまり、忍び寄る気配の有無に、神経を配るのを怠っていたのを、不安に感じた。
奥には、「女影《めかげ》」が臥床《がしょう》しているのである。
その子の「若影」には、佐助から、母者はたしかにお預かり申している、と伝えさせてある。
「若影」は、目下、江戸城内にひそんでいる筈《はず》であった。しかし、いつ、この館へ、忍び入って来るかも知れなかった。
影母子に、謎語の意味をさとられてはならなかった。
幸村は、立って、「母影」のやすむ部屋へ入った。依然として、白蝋のように血の気の失《う》せた、鋭利な刃物のように緊《しま》った寝顔であった。
目蓋はとじられ、意識もないかのごとくであった。
幸村は、声をかけてみた、返辞はなかった。
鼻孔の上へ、てのひらを置いてみたが、息もかようて来なかった。
幸村は、やおら、掛具の下へ、片手をさし入れてみた。
「母影」のからだは、ここへかついで来られて以来、ずうっと、石のように冷たく、しかも、全く匂いを発していなかったのである。
いま、幸村が触った肌《はだ》も、死人同然であった。
「母影」は、全裸で横たえられていた。
幸村は、胸の隆起から腹部へ、そろそろと撫でおろして、ついに、恥毛にさわった。
そのとたん、「母影」は、目蓋をとじたまま、口をひらいた。
「謎語をお解きなされたな!」
こんどは、幸村のほうが無言であった。
ただ、五指だけは、恥毛をもてあそびつつ、じっと寝顔を瞶《みつ》めつづけた。
「母影」は、言った。
「お解きなされば、わたしの肌をさぐりに参られると思うていた」
「先日、わしが申しおいたことを、考えておいてくれたか?」
「……」
「徳川の天下に寇《あだな》うてはならぬ」
「……」
「生きのびられた秀頼公は、痴愚の廃人にすぎぬ。……そなたに命《めい》を、下した者は、おそらく、秀頼公の左右に詰める誰人《たれびと》かであろうが、愚挙もきわまる。わしは、本日、謎語を解いた。しかし、財宝を、そなたら母子に渡すわけには参らぬ」
そこまで言った時、幸村は、はっとなって、五指の蠢《うごめ》きをとめた。
「母影」が、薄目をひらいて、幸村を見上げた。それは、まさしく、媚《こび》をふくめた流眄《ながしめ》であった。
「お館どの。わたしを、妻になされる御所存はおありであろうか?」
「……うむ!」
一瞬、女体は、火を通されたように、熱くなった。
幸村が、手を引こうとするよりもはやく、「母影」は、はね起きざま、両手をひろげて、老いたる武将の痩躯を、|ひし《ヽヽ》とかかえ込んでいた。
幻影行列
一
その日は、雨雲がひくくたれこめて、いまにも、ポツリと落ちて来そうな、暗い日和《ひより》であった。風は落ちていたが、空気は冷たかった。
渋谷丘陵の蔭にわだかまる真田館《さなだやかた》は、深い樹木の中で、昏《くれ》がたにひとしい灰色の靄《もや》に沈んでいた。
常と、なんのかわりもない静寂が、屋敷内にはあるように、思われた。事実、朝がた、鍬《くわ》をかついだり、牛を曳《ひ》いたりして、門前を横切った土民たちは、屋敷内に、どのような異常な変化が起こっているか、その気配すらもきき咎《とが》めなかった。
正午――冠木門《かぶきもん》の扉は、もの静かに、左右に開かれた。
影絵|宛然《さながら》に、靄《もや》の中を、しずしずと歩み出て来たのは、意外にも、大名行列であった。
袴《はかま》のもも立ちをとった先払い徒士《かち》、つづいて、黒漆の先箱(対《つい》の挟箱《はさみばこ》)、鳥毛の槍、小十人《こじゅうにん》、目附《めつけ》、徒《かち》目附、小人《こびと》目附、虎皮《こひ》の鞍覆《くらおおい》を用いた牽馬《ひきうま》六騎、台弓、鉄砲|嚢《ぶくろ》、十文字鎗、直鎗、そして、乗物三|挺《ちょう》、小姓、小納戸《こなんど》、供馬、小人押え……等々。
これは、堂々たる五万石の格式を示す供揃《ともぞろ》いであった。鎗の鞘《さや》、箱には、六文銭の紋がうってあった。
すでに二十年前、大坂夏の陣をもって亡んだ真田左衛門佐幸村が、忽然《こつぜん》として、自らの存在を公示して、何処《いずこ》かへ帰国しようとするものであった。
何処かへ――左様、全土の如何《いか》なる辺境をさがしても、寸尺さえ地図に記されていない所領へ、幸村は、帰ろうとしているのであった。奇怪というほかはなかった。
その頭数《あたまかず》は、およそ百五十余名。孰《いず》れの風貌《ふうぼう》態度を視《み》ても、これは、俄《にわか》にかり集められた烏合《うごう》の雑卒ではなく、ことごとく、戦国往来の気概をとどめて毅然《きぜん》たる気色|顕《あきら》かな武者たちであった。
なお、一瞥《いちべつ》して判《わか》るのは、そのほとんどが、すでに五十路を越えていることであった。
そしてまた、他の大名行列と明らかにちがうところは、同じ静粛を保ち乍《なが》らも、まさに所領なき幽霊道中にふさわしい、一種|妖《あや》しい雰囲気をただよわせて、何も知らぬ里人たちの目に、なにやら不気味な光景として映じた。
行列がえらんだ道は、江戸市街へ飲み水を送る井之頭《いのかしら》池へむかって、武蔵野のまっただ中を通じている甲州裏街道であった。
丘陵の麓をまわって、ぼうぼうたる旗すすきの中を粛々として進んで行くさまは、滅び去った大名が、なお今世への未練絶ち難《がた》く、おのが所領をもとめてさまよう幻影かと、眺《なが》められた。
真田左衛門佐幸村が、江戸退転を決意したのは、昨夜であった。その間、数刻は、流石《さすが》の智謀《ちぼう》をもって鳴った器量人にも、苦悩はあった。
赤猿佐助が、ひょっこり戻って来たのは、幸村が、「女影」の寝所を出て、居室に入った時であった。
赤猿は、常とはどことなく様子のちがう主人を視て、
――はて、もう、わしが江戸城内でさぐって来た一大事を、さきに予知なされたか?
と思ったことだった。
幸村は、不覚にも「女影」を抱いてしまったことを、悔いていたのである。
火のように燃えた女体は、おそろしいまでに淫蕩《いんとう》であった。
褥《しとね》の中で、一刻を過ごした幸村は、さすがに、おのれの老齢を思い知らされた。
赤猿は、疲労の翳《かげ》の濃《こ》い主人を見据《みす》え乍ら、
「柳生但馬守殿には、将軍家におすすめして、井之頭池の駒場野《こまばの》において、お鷹狩《たかがり》りを催される由《よし》にございます」
「……」
「お鷹狩りは、名目にて、その実は、このたびの騒動に関《かかわ》り合うた者たちを、悉《ことごと》く討ちとるための催し、とみえましたぞい」
「……」
「あるじ様、猶予《ゆうよ》はなりませぬ。どうやら、但馬守殿は、この館に、あの女影を寝かせてあることも承知いたして居《お》りまするて。お鷹勢は、井之頭より一挙に、ここを襲うて参るのではございますまいかな」
幸村は、しばらく、宙へ、冷たい眼眸《まなざし》を置いて、沈黙していた。
褥を出ようとする時、「女影」が、独語するようにささやいた言葉を、思い出していたのである。
「貴方《あなた》様は、謎語を解いたとて、財宝を公儀にくれる存念はありますまい。豊家の遺臣たちを率いて、たてこもるところは、ただひとつ。木曾奥から北陸へつらなる山嶽《さんがく》の中に、いまだ斧鉞《ふえつ》の加わらぬ原始の渓谷があります。黒部谷と申します。真田五万石の隠れ所領にふさわしいところ――」
――この女も、すでに、柳生但馬守が、わしを生かさぬであろう、と考えて居った。
いずれは、暗殺の手が、自分の頭へのびてくるであろう、と予測していた幸村であった。
「女影」の口から、遁竄《とんざん》をすすめられて、いまさら身の処置を思案するまでもなかったのだが……。
「子影の悪戯《いたずら》が、チト過ぎたようだの」
幸村は、何気ない口調で、佐助に言った。
「御意――」
「子影は、城内から、退散いたしたかな?」
「退散いたすにはしましたが、血気にまかせて、小面憎《こづらにく》くも、女子をひとり、ひっかかえて行きましたぞい」
「遠藤由利と申す娘であろう」
「相違ございませぬ」
「猿、そちが、手扶《てだす》けしたのではないか」
幸村は、笑って言った。
佐助は、にやっとして、節くれ立った手で、泥《どろ》くさい髭面《ひげづら》をひと撫《な》でした。
二
宗矩の使者が、到着したのは、それから、小半刻《こはんとき》も経《た》たないうちであった。今日が、謎語を解く約束の日であった。催促されるまでもなく、こちらからおもむかねばならなかったのである。
――但馬守と刺し違えて果てるべきか。
一瞬、幸村は、そう考えた。
しかし、すぐに、苦笑してから、幸村は、佐助に、
「風邪|悪《あ》しく、いずれ、あらためて参上|仕《つかまつ》ると、断わるとよい」
と伝えさせた。
迎えを断わることは、とりもなおさず、そちらの策略は読みとった、討ちとる手筈《てはず》をさらに遺漏なきものにされるがよかろう、という口上を意味した。
幸村の肚《はら》は決まったのである。
その時、奥の寝所には、「若影」が、文字通り影のごとく気配もなく、忍び入っていた。
枕元《まくらもと》に坐《すわ》った、「若影」は、母親の寝顔を一瞥《いちべつ》して、眉宇《びう》をひそめた。
その皮膚は、健康な処女《むすめ》のそれのように、肌理《きめ》こまやかに活《い》きづいていて、桜桃色をおびていたのである。
しばらく、ふしぎな美しさをたたえた寝顔を凝視してから、「若影」は、鋭く、口をきった。
「母者《ははじゃ》、根毒《ねどく》を嚥《の》んだな!」
忍者の服薬には、三種類の場合がある。
幾日かにわたって、不眠不休の働きをしなければならない場合。
危機を脱出するために、仮死の状態となる場合。
そして、最後は、すでに死神の迎えを受けているものの、なお幾刻か生命《いのち》をのばそうとする場合。
最後の場合に用うるのが、根毒であった。
これらの薬は、忍び笛と同じく、奥歯の虚《うろ》の中に、かくしてあった。
根毒なる劇薬が、いかなる原料によって精製されたか、筆者も詳《つまびら》かにしないが、忍者が、消えんとする生命の灯《ひ》を、一瞬|凄《すさま》じい炎に燃えあがらせて、超人的な活躍をした記録を多く残している事実にてらして、いかにこれの効力が絶大であったか明白である。
「あすは、柳生但馬守が、武力を聚《あつ》めて襲うて来るであろう」
「母影」は、目蓋《まぶた》を閉じたままで、言った。
「どうして判る?」
「予感する。……私は、そなたを、遁《にが》さねばならぬ」
目蓋をひらいて、じっと見あげてくる母の眸子《ひとみ》が、名状しがたい強烈な光を放つのに、「若影」は、たじろいだ。
すっと、「母影」は、双腕をさしのべると、わが子の肩を掴《つか》んだ。
「若影」は、微《かす》かな嫌悪《けんお》で、身を反らそうとしたが、「母影」は、ゆるさなかった。
いきなり……双腕を、蛇のように、頸《くび》へ巻きつけると、
「この母を忘れまいぞ!」
熱い息とともに、そう囁《ささや》くや、狂おしく、唇を吸った。
……自然の所作で、胴を抱いた「若影」は、母のからだが、この上もなくしなやかで、柔軟であるのを知った。
「猿――」
長い沈思ののち、幸村は、言った。
「今夜のうちに、豊家の面々を集めてもらおうか」
「ほ!」
佐助は、醜面《しこづら》をかがやかせた。
「柳生但馬守殿と一戦を交えようと申されまするか、それは、それは――」
「江戸退転に当っては、五万石の格式をもって致そうと、かねて考えていたところであった」
「六文銭の旗じるしの行くところ、風を呼び、雲をまねき、虎《とら》も嘯《うそぶ》き、竜《りゅう》も躍りましょうわい。されば、直ちに――」
佐助は、一瞬にして、館から消え去った。
立ち枯れた古木にひとしい痩躯《そうく》の、蓬髪長髯《ほうはつちょうぜん》の老人が、自然木の杖《つえ》を携《さ》げて、門をくぐって来たのは、その直後であった。
玄関に立つと、きわめてもの静かな声音で案内を乞《こ》うたが、それは、はるかな奥の幸村の耳に、隣室から呼びかけるように、ひびいた。
幸村はすてておいた。
すると、やがて、廊下に跫音《あしおと》がして、障子をたてきった居室のまえでとまった。
「旧知――鴨甚三郎利元でござる」
そう名のった。
「入られい」
幸村は、あらかじめ報《しら》せを受けていたように、返辞をした。
入ってきた老人を視《み》て、幸村は、微笑した。二十余年前に、鞍馬山中に、訪れた時と、全く同じ姿であったからである。
「猿からきき申したが、お許《こと》は、湯島台の瓢箪《ひょうたん》池で、影母子を助けるために、一役買われたそうなが……」
「若い忍者めに、脅《おど》かされ申して、やむを得ぬ仕儀でござった。仔細をお聞かせ申そう」
甚三郎は、
遠藤由利が、おのが旧主荒木村重の孫娘にあたること――、
その肌に卍《まんじ》に形どったキリシタンの十字架をつけていること――、
将軍家光の愛妾《あいしょう》になり乍《なが》らも、「若影」にも身をまかせたこと――、
さらに、昨夜のうちに、大奥から、「若影」によって身柄《みがら》を拉致《らち》されたこと――
を語った。
甚三郎は、赤猿佐助が「母影」を、瓢箪池からさらって逃げたのを見とどけて居り、当然、これは、幸村の指令によるものと判断したので、病める「母影」はこの館に寝かされていると考えて、「若影」の帰ったところを推測してあやまらなかったのである。
いずれは、大奥から由利をさらっていこうという肚《はら》でいた甚三郎は、「若影」の出現で、考えを変えたのであった。
異常に勝気な由利も、「若影」に身をまかせたのを契機として、慕情の悲しさを知って、優しい女になるかも知れぬと。
「せがれは、まだ、ここへは戻って居らぬようだが……」
幸村が、言うと、甚三郎は、かぶりをふって、
「いや、もうすでに、奥の、母親の許《もと》に忍び入って居り申す。……睡《ねむ》り薬をかがされた由利の方も、お屋敷のどこかに寝かされて居るのではござるまいかな」
確信のある甚三郎の言葉であった。
幸村は、じっと、老いた兵法者の皺顔《しわがお》を見据《みす》えていたが、
「老人、失礼乍ら、お許に、死相を視る」
「……!」
「この幸村は、明日、江戸を退転いたすが、もとより公儀の軍勢と、一戦はさけられぬところ。その際、若い男女に、未来をつくってやる役目が、お許に与えられ申そう」
「死花を咲かせよ、と仰せられるか」
甚三郎は、破顔した。
「かしこまった。坐して朽ちるよりは、百倍の果報と申すもの」
三
その夜のうちに――。
隠れ五万石の扶持《ふち》によって生きのびてきた豊臣の残党たちは、それぞれ貧しい農奴のいでたちをして、三人、四人と連立って、続々と到着した。
しかし、屋敷内は、百五十余名を容《い》れても、猶《なお》その静寂は、すこしもかわらなかった。
とはいえ、この集合を、公儀では、夢にも気づかなかった、という次第ではなかった。
屋敷の周辺には、伊賀三十六人衆をはじめとして、公儀|隠密《おんみつ》たちが、木の葉一枚そよがせずに、伏していたのである。いつでも、襲撃し得る陣形がととのえられていたが、宗矩からその下知はなく、夜は明けたのである。
斯《こ》うして、正午を期して、門は開かれ、威風堂々と、五万石の格式を示す行列が、くり出していったのであった。
これは、公儀側として、全く意表を衝《つ》かれたことであった。
この屋敷内に、行列の道具が、万端整えられていたとは!
しかし、考えてみれば、知将《ちしょう》真田幸村に、この用意があったことは、べつだん奇異ではなかった。
隠れ扶持とはいえ、五万石を貰《もら》っている以上、いかなる場合に、その格式を公示しなければならなくなるかもわからなかった。
「流石《さすが》は、左衛門佐幸村よ!」
と、舌をまかせる準備を怠らなかったのも、なお、徳川幕府に対して、みじんも怯《お》じぬ気概であったろう。
行列が出つくしたあと、こんどこそ、館は、真の静寂にかえった。
屋敷内にふみ込んだ伊賀三十六人衆は、屋敷のあけ渡しの作法通りに、塵《ちり》ひとつとどめずに、すみずみまで潔《きよ》められてあるのを、みとめた。
幸村の居室であった部屋の床の間に、青磁の香炉から、白いけむりがひとすじ、立ち昇っているのが、印象的であった。
これよりさき――。
将軍家の御鷹野行列が、江戸城を出たのは、夜明けであった。そして、井之頭池の駒場野に到着したのが、ちょうど正午であった。
井之頭池――これは徳川家康が開府のみぎり、市街の飲水に指定したところであった。
武蔵野は、沼はあっても、清浄な水の乏しいところであった。殊《こと》に、万民をうるおす水をたたえた池は、全く見当たらなかった。
ただ、ここに、唯《ただ》ひとつ、七箇処から冷水を湧かせて、七井の池と呼ばれているのがあり、某日、鷹狩りに出た家康が、この水で茶をたてたところ、美味であったので、直ちに、江戸へひき入れるように命じたのであった。
大久保忠行が奉行となって、ここから小石川まで、五里二十六町十五間を掘り割って、市街へ配水した。神田上水が、これである。
井之頭、という名称は、家光がつけたのである。江戸の井戸の頭という意味である。
到着するや、将軍家とおぼしい、胴服に霰《あられ》対紋のくくり袴《ばかま》、黒ふくりんの背割羽織、白銀の端反《はぞ》り笠《がさ》に、白の采配《さいはい》をもった人物が、紅の緒総《おぶさ》つきの白斑《しらふ》の鷹を拳《こぶし》に据《す》えた鷹匠頭《たかじょうがしら》と数名の中小姓をつれて、猟場の中央の、小高い丘陵上にのぼった。そこには、高い吹貫《ふきぬ》きが立てられてあった。
随従してきたお目附、書院番、新御番、御小納戸《おこなんど》など、実は、いずれも、柳生・小野の両道場の兵法者たちと、旗本八万騎からえらばれた血気の若ざむらいたちであったが、――九百余名は、指令すみやかに、池を中心にして、四方へ散って、陣を敷いた。
猟場においては、供立ちの行列人数は、御座所を遠巻きにして、段々に留め置かれて、これを御場段切《ごばだんぎ》れ、と称す。
御行列段切れは、初段、二段、三段、四段に分かれるならわしであったが、これはとりもなおさず、戦場における陣形を写したものであった。
したがって、この日の布陣も、御場段切れそのままであり、何も知らぬ数寄屋坊主《すきやぼうず》や足軽や小姓たちは、なんの疑いも抱かなかった。
一方、武蔵野の原野を粛々《しゅくしゅく》としてひとすじに進む大名行列もまた、その六文銭の紋をふしぎとしなければ、まことに平和な眺めであった。
しかし、その左右を――一町あまりの距離をとって、雑木の蔭《かげ》を、旗すすきの下を、行列の歩みにあわせて、伊賀三十六人衆を主体とした忍びの面々が、ひそかに進んでいたのである。
虫の鳴く音も絶やさず、旗すすきの穂もそよがせず、六無(無色・無形・無跡・無声・無息・無臭)の歩行をつづけつつ、互いに、一糸みだれぬ緊密な脈絡をとっていることを、もとより、真田側が、気がつかぬはずはないのであった。
それにしても、行列の、いかにものどかな、無防備そのものの行進ぶりは、かえって、これを監視していく公儀側の目に、無気味なものに眺められた。
百五十余名、といっても、これを戦隊として見れば、まことに微々たる一群でしかなかった。
弓も鉄砲も、形式通り、前後四名がたずさえているのみであったし、騎馬はわずかに六騎にすぎず、どこに、前途に待伏せる十倍の敵陣を突破する武装がなされているのか、まったくうかがい得なかった。
掟《おきて》にしたがって、一里行く毎《ごと》に、小休止があって、やがて、道は、駒場野に入ろうとした。
その折、異変が起った。
行列の中から、数十羽の白鳩《しらはと》が、一斉《いっせい》に放たれたのである。
群をなして、鉛色の空へ舞い上がるや、大きく円弧を描いたのち、ふしぎな集散をはじめた。
行列の上を、二列になって、後から前へ翔《か》け過ぎるや、先払い徒士の頭上で、ぱっと八方へ散って、羽搏《はばた》きの音を撒《ま》きつつ、高みへ、まっしぐらに昇ったとみるや、そこで、また群になって、非常な迅さで舞い下って来て、再び、糸でつながったように、二列になって、行列の上を飛ぶのであった。
これは、忍法のひとつ「散気の法」とも思えた。
空中の、目の移りやすいところを、集散しつつ飛ぶ一群の鳥かげは、左右から監視して行く公儀側にとって、甚だ気になるものであり、神経がみだれやすいのであった。
また――。
行手に、味方の伏兵か、援軍がある場合は、本体の行進位置を報らせる方法ともなる。
幸村が、この二十年間、扶《たす》けてきた大坂役生き残りの士は、千余をかぞえる筈であった。
とすれば、この行列人数のいくばいかの豊臣の残党が、行手のどこかに伏兵となってひそんでいると思われなくはない。
監視していく忍者たちは、ひとしく、慄然《りつぜん》となった。
すでに、「散気の法」にかかった証拠であった。
猟場の中央の丘陵上に立っていた将軍家とおぼしい人物は、はるかに、この鳩の群れの飛翔《ひしょう》をみとめるや、かたわらの小姓へ、頤《あご》で合図した。
小姓は、一散に、斜面を駆け上って行った。
四半刻ののち、行列は、森の木立の中へ入り、井之頭池の畔《ほとり》に出た。
鳩の群れは、森の梢《こずえ》の上を飛んでいた。
将軍家とおぼしき人物は、さっと、白い采配《さいはい》をかかげた。
瞬間――鷹匠頭の拳《こぶし》から、猛禽《もうきん》が、羽搏きの風をそこにのこして、矢のように、鳩の群れをめざして、翔《か》けあがっていった。
これが、井之頭池の血戦のきっかけであった。
双頭記
一
将軍家御座所から、猛禽《もうきん》が、鳩の群れに向かって、翔けあがるのを合図に、森の彼処此処《かしこここ》からもまた、数羽の鷹《たか》が、鷹匠《たかじょう》の拳から放たれていた。
はるかな空の高みに、大きく円弧を描いていた鳩の群は、敵の襲来をさとるや、たちまち、一点へ集中した。
獲物を覘《ねら》う気合いのみちた瞬間を放たれた鷹たちの凄じい勢いに対して、鳩の群が、算を乱すかわりに、一点へ集中したのは、よほどの訓練を受けたものに相違なく、これを仰いで、後場段切《ごばだんぎ》れの面々のうち、なんの防備もしていないかに思われる真田の行列が、おそるべき戦術をひそめているのをさとった者も尠《すくな》くなかった。
数羽の鷹が間近まで迫った刹那《せつな》、鳩の群れは、紙吹雪のごとく、ぱっと八方に、飛び散った。
鷹は、その中点の空隙《くうげき》を翔けぬけて、雲外へ迯《そ》れた。鋭い爪《つめ》にかかって、落下した鳩は、わずかに二羽をかぞえるのみであった。
その二羽が、木立の中へ吸い込まれた時、地上にあっては、真田の行列が、突如として、八方へ、散開していた。それは、蜘蛛《くも》の子を散らす、という古い形容そのままの散開とみえた。
御場段切れの公儀勢の方が、かえって、あっけにとられた程の、意外な働きであった。
どう眺《なが》めても、烏合《うごう》の衆が、われ勝に遁《のが》れんとして、当てもなく、思い思いの方角に走り出した光景でしかなかった。そのあとには、三挺の駕籠《かご》が、置きすててあった。
一同は、森の奥へ向かって、奔《はし》った次第ではなかった。
その地域は、まだ、周囲はひろびろとしていて、丈《かけ》なす雑草が生い茂っているばかりで、御場段切れの公儀勢からは、くまなく見通しがきいたのである。
真田の人々が、森の奥に遁《にげ》げ込むには、なお、三町あまりを疾駆しなければならなかったのである。
公儀勢としては、行列が井之頭池の畔《ほとり》をまわって、ふかい木立の中へ入ったところを、襲って、一騎打ちの闘いによって、殲滅《せんめつ》しようと、計っていたのである。
その血戦のまっただ中を、幸村が影母子や遠藤由利を引き連れて、突破する如何《いか》なる手段をかくしているか――それを、おそれて、警戒していたのであったが……。
一矢も放たぬうちに、算を乱して逃走しはじめた真田側の作戦を、どう受け取ってよいのか、咄嗟《とっさ》に、総指揮の柳生宗矩も、戸惑《とまど》った。
将軍家御座所に、家光と見せかけて、白の采配《さいはい》を携《さ》げて立っていたのが、宗矩であった。
瞬間の迷いが、宗矩を動かさなかった。
御場段切れの面々は、下知がないために、そのまま、八方へ走り出した真田側を、黙って、見戍《みまも》るばかりであった。
立場を換《か》えて、言うならば、真田側にとって、こちらが突如として、不可解な散開をしめせば、当然、公儀勢が、それに応じて来るであろうという予測をたてていた。
御場段切れが、ひそとして動かぬのは、奔《はし》る方にも、無気味であったはずである。
宗矩は、命令を下すかわりに、かたわらの小姓から、遠眼鏡《とおめがね》を受けとって、片目にあてた。
宗矩は、視《み》た。
遁れんとする百数十余の速影《そくえい》のうちでも、ひときわ、目立って迅い二個の黒影を――。
そして、その二個の黒影が、躍り込んでいく雑草の中から、たちまち、血飛沫《ちしぶき》とともに、つぎつぎと、生首が、高く飛び刎《は》ねるのを――。
斬《き》って行くのは、「母影」と鴨甚三郎であった。
斬られているのは、伊賀三十六人衆であった。
宗矩の目には、しかし、その闘いのさまは映らなかった。
丈なす雑草が、旋風でゆれなびくように、ざわめくのが見えるばかりで、一拍子の間に刎ねあがる生首が、いずれも、伊賀三十六人衆であるのをみとめなければならなかった。
やがて、真田の人々が、一人のこらず、雑草の中へ、姿をひそめた時、宗矩は、思わず、
「おっ!」
と呻《うめ》きを発した。
幸村の策略が、ようやく、判《わか》ったのである。
……宗矩の判断は、あやまたず、次の瞬間、広い草原の八箇処から、蒙《もう》っと、白煙が、噴きあがった。
それが風にながされたあとに、純白の狩衣《かりぎぬ》をまとった人物が八名、孰れも折烏帽子《おれえぼうし》を頭に頂き、面を白絹で包んで、すっくと出現したのであった。
幸村が、幾人かの影武者を使うであろうことは、覚悟していた宗矩であったが、それは、奇怪な猿頬《さるぼお》をもって面をかくした具足《ぐそく》姿であろうという予想は、みごとに裏切られた。
四位《しい》の諸大夫《しょだいふ》が着す狩衣をもって、おのれを加えた八個の姿を出現させたのは、明らかに、将軍家に対する皮肉であった。
狩衣は、公家にとっては、日常の公服であったが、武家にあっては、将軍家に限って、純白のものを着用するならわしが、できていたのである。
のみならず、その狩衣につけられた紋は、真田家の六文銭ではなく、徳川家の葵《あおい》ではないか。
葵の紋にむかって、弓を引くのは、叶わないことであったが、宗矩自身、いまは家光に扮《ふん》している理由をもって、これを打つのを許す|ほぞ《ヽヽ》をきめた。
宗矩は、采配を、斜め十字にうち振った。
それに応《こた》えて、段切れのうち、初段陣の中から、どっと鯨波《ときのこえ》があがった。
初段陣は鶴寄堤《つるよせづつみ》の蔭《かげ》に待ちかまえていたが、鯨波の消えぬうちに、その堤を、武者十余騎が、猛然と、踊りこえた。
二
西脇十次郎氏広は、大身の槍《やり》を、馬の平首につけて、一番駆けに、馬腹をあおった。
宛然《さながら》、急湍《きゅうたん》に乗ったような、颯爽《さっそう》たる突撃ぶりは、その祖父十郎左衛門氏正が、姉川の合戦において、朝倉勢三万余騎のまっただ中へ、単騎をもって斬込んでいったさまを彷彿《ほうふつ》とせしめた。
草中に彳《たたず》む「幸村」の一人は、これを迎えて、微動だにしなかった。
十次郎は、その白装の孤影を、あわや馬蹄《ばてい》に駆けるかと思われる間近まで駆け寄りざま、
「ええいっ!」
と、三間柄を、くり出した。
瞬間――「幸村」の躰《からだ》が、草の蔭へ沈んだ、とみえて、もう次の刹那には、右へ跳びちがったその速影は、手中から白刃《はくじん》を煌《きらめ》き出して、大きく半弧を描いていた。
十次郎の左腕は、槍もろとも、宙へ飛んでいた。
つづく二番手は、酒井|讃岐守《さぬきのかみ》忠勝の寵臣|相馬右馬助《そうまうまのすけ》であった。六尺三寸の巨躯《きょたい》をそなえ、膂力《りょりょく》は、旗本随一を誇っていた。
十次郎より一馬身おくれて疾駆しつつ、はるか一番遠方に立つ「幸村」を真物《ほんもの》と睨《にら》んで、旗すすきを、一直線に割って行った。
五間に迫った一瞬、右馬助の右手から手槍はひょうっとはなたれた。胸もと寸前で、その穂先を、抜きつけに両断した「幸村」が、かまえをたてなおすいとまもなく、右馬助は、まっ向から、三尺三寸の豪剣を、振り下ろした。
のけぞった「幸村」めがけて、駿馬《しゅんめ》は、容赦なく、前脚を躍らせて、その胸を蹄《ひづめ》にかけた。
草の上に倒れた「幸村」は、それなり、永久に動かなくなった。馬からとび降りて、面を包んだ白絹を、ひきむしった右馬助は、いまいましげに、舌打ちをした。
それは、まだ二十歳になるやならずの若者の貌《かお》であった。
その時、左方十間あまり離れた地点に立つ「幸村」は、驀地《まっしぐら》に肉薄して来る御近習出頭人《おきんじゅうしゅっとうにん》中の俊髦神谷主殿頭《しゅんぼうかみやとのものかみ》の三男平三郎を、矢ごろに置いて、半弓をひきしぼっていた。
唸《うな》りをたてて飛んだ赤矢に、右眼を射ぬかれて、平三郎は、大きく、太刀をふりかぶったまま、地上へ顛落《てんらく》した。
柳生道場の高弟|庄田喜左衛門《しょうだきざえもん》は、鞍上に身を伏せて、二刀を、逆立つたてがみの上で、十文字に組み乍《なが》ら、突進して行き、飛んで来た矢を、二本とも左右へ切りすてておいて、「幸村」へ、
「いかにっ」
一喝《いっかつ》もろとも、一閃《いっせん》をあびせた。
心得て、跳び退こうとするのへ、刹那を与えず、左手の小刀を、投げて、その咽喉を刺した。そして、さっと馬首をかえすや、風のように、鴨寄堤へ駆け戻って来ていた。
弓矢を構えたのは、騎馬側にもいた。書院番頭《しょいんばんかしら》青山|因幡守《いなばのかみ》宗俊の甥《おい》で、将軍家|嫡子《ちゃくし》の傅《ふ》たるべく任命されている杜屋《もりや》籐七郎政名は、馬腹を両脚で締め乍ら、十五間の矢ごろから、「幸村」を狙い射ていた。
矢は、見事に、胸いたをつらぬいたが、「幸村」は、佇立《ちょりつ》の姿を、すんぶんも変えなかった。
馬を寄せてみれば、それは、藁《わら》人形であった。
三
「幸村」八名のうちに、仆《たお》れたのは、三名であった。ほかに、藁人形が二体。
のこり三名が、敵の馬を奪って、うちまたがるや、疾風を起して、西の方角めざして、奔馳《ほんち》した。
これを遁《のが》さじと、御場段切れの全軍が一斉に起《た》った。
もし、伊賀三十六人衆が、「母影」と鴨甚三郎に、その忍び陣をひっかきまわされていなければ、三騎の行手を、充分にはばむことは、可能であったろう。
三十六人衆は、すでに九名を喪《うしな》い、十余名が手負うていた。
その殆《ほとん》どを斬ったのは、鴨甚三郎であった。
枯木にも似た老兵法者の痩躯《そうく》の内に、蓄えられていた闘志と迅業《はやわざ》は、後世までの語り草であった。
鴨甚三郎も「母影」も、絶対に気合いを炸裂させず、丈なす雑草の中を、敏捷《びんしょう》きわまるけもののように、前後左右に翻転して、忍者たちの首を刎ねて行ったのである。
忍者たちも、切られても絶鳴を吐かず、切り込むのもまた無言裡《むごんり》に為《な》した。
草とともに、仲間の生命が、つぎつぎに薙《な》ぎ払われて行き乍ら、すこしも、たけり狂わず、秩序をすてぬように努めたのは、まことに見事な働きぶりであったが、何分にも、老兵法者と「母影」の鬼神に等しい迅業を受けては、遁走する三騎へむかって、その幾名かを分ける余裕など生まれなかった。
……雑草は、地震《ない》のように、ざわめきつづけていた。
ようやく――。
二百を超える弓組が、左方から奔って、遁走する三騎へ向かって、弓をひきしぼった時、雑草の下へ逃げ散っていた真田勢が、突如、踊り立って、その背後を衝《つ》いた。
しかも、その隊形は、三角鋭状であり、これは、真田百人隊独特の突撃方法であった。
その尖兵となった者たちは、一尺七八寸の剣を右手に、左手に牛革三枚張りの鏈盾《くさりだて》をささげていた。
鋭三角の先端を、鏈盾にまもり乍ら、短い剣をふるって敵中を突破する――これを「短兵急」という。
のみならず、この時――。
三挺の駕籠の扉が、さっとひき開けられるや、黒光りする大筒の口が、するすると突き出されたのであった。
御場段切れの陣形を、攻撃態勢に一転して、堤から、樹林から、往還から、凹地《おうち》から、竹藪《たけやぶ》から、喚声《かんせい》をあげて、どっと殺到しようとした公儀隊に、一瞬、波のような狼狽が拡がった。
曾《かつ》て、大坂落城の修羅場《しゅらじょう》にあって、一時は、関東勢を、完全にその陣地に釘《くぎ》づけしたのが、この真田の黒砲《くろづつ》だったのである。
黒い筒口を、公儀隊に向けて並べた無気味な演出は、六文銭の旗印の下にあってこそ、その効果を発揮する。もの凄《すご》い威力の程は、敵方に充分に知れわたっていたのである。
――左衛門佐は、黒砲《くろづつ》までも、用意していたのか!
丘陵上に立つ宗矩自身も、慄然《りつぜん》となったことである。
幸村は、家康に誓って、兵器一切をすてていたのである。
その館には、鉄砲一挺さえも置いていなかった筈である。
「真田め!」
思わず、宗矩が、目をいからせて、罵《ののし》った刹那、三|箇《こ》の黒砲は、轟然《ごうぜん》と、天地をゆるがせる大音響とともに、白煙を噴いた。
弾丸は、発しなかった。そのかわりに白煙の中から、燦爛《さんらん》として、無数の流星が躍り出て、八方へ飛散した。
黒砲は、まことの大砲ではなかった。ただ、敵のどぎもを抜くために、幸村は、花火を用意して、これを大砲と見せかけた紙張りの太い筒から打ちあげたのである。
動揺する公儀勢に、「短兵急」の真田隊は、まさに、疾風迅雷《しっぷうじんらい》という形容にふさわしい、急速な進撃ぶりを、展開した。
激突は、惨烈《さんれつ》をきわめた。
孫子が謂《い》う、
「勝つ者の戦うや、積水を千仞《せんじん》の谷に決するが如《ごと》きものは、形なり」
とは、この勢いであった。
百余名の寡勢《かぜい》が、千を越える敵を、押しまくったのである。
四
「但馬殿!」
不意に、宗矩の背後で、声があった。
ふりかえった宗矩は、服部半蔵の緊張した貌を、そこに見出すや、
「影を討ちとれい!」
平素の沈着を忘れた性急な語気で叫んだ。
「約束は果し申す。……それよりも、闘いは敗北ときまり申した」
「なに?」
「見られい!」
半蔵のしめさす北方へ視線を移した宗矩は、総身が粟立《あわだつ》つ戦慄を受けた。
野を掠《かす》めて、こちらへ殺到して来る褐色《かっしょく》の集団をみとめた。
それは、およそ百匹にもあまる山犬の群れであった。
その先頭に立って、疾駆して来るのは、黒装束の人間であった。
「若影」にまぎれもなかった。
血に飢えた野獣に遭《お》うて、これをふせぐ方法《すべ》は、さすがの宗矩も知らなかった。
その方法を問おうとして宗矩が、
「おいっ!」
と呼んだ時、すでに、半蔵の姿は、そこから消えていた。
いつか――。
鴨甚三郎は、敵の血汐《ちしお》とおのれの血汐で、総身を蘇芳《すおう》に染めて、草地を奔《はし》り抜け、丘陵の麓《ふもと》に立っていた。
御座所に立つのが、宗矩であることを看破して、一太刀をあびせる闘魂をのこしているものの、流石に、もはや、四肢の自由がきかなくなっていた。
なおも、攻撃してくる敵があれば、これを、斬り伏せる迅業をしめす余力はあったが、三騎の「幸村」を遁げのびさせる任務を果たし了《お》えたいま、これ以上、亡地で阿修羅《あしゅら》となる愚も、思いかえされていた。
ふしぎに、周囲は、ひっそりと静かであった。悽愴《せいそう》の妖気《ようき》をただよわせる衂《ちぬら》れた痩身を、伊賀三十六人衆がおそれる筈《はず》もあるまいに、なぜか、一人も姿を現さず、迫る気配もなかった。
丘陵の向こう側に於ては、人間と野獣との無惨《むざん》な戦闘が、荊棘《けいきょく》雑草を蹴散《けち》らしてくりひろげられていた。
怒号《どごう》と悲鳴と咆哮《ほうこう》が渦巻《うずまく》く修羅場は、しかし、この老兵法者にとって、無縁であった。
昨夜、甚三郎は、野獣の群れをもって奇襲することは、つよく、幸村に反対したのであったが、容《い》れられなかったのである。
甚三郎は、頂上へ向かって、ゆっくりとした足どりで、のぼって行こうとした。
とたんに、左右の草むらが、動いて、銃声がとどろいた。
一弾は肩へ、一弾は腹へ、撲《なぐ》るような衝撃をくれた。
にも拘《かかわ》らず、甚三郎は、仆れないばかりか、やおら、頭をまわして、一斉に、忍者の黒い影が、湧《わ》くがごとく、草蔭から立ち上がるのを見わたした。
おりからの秋風を受けて、旗すすきとともに、ゆらりとゆれたのみで、白刃を杖《つえ》にした立姿を、いささかも崩さなかった。
包囲の輪を、じりじりと縮めた忍者たちは、やがて、一間に肉薄して、その痩身から生命が去っているのを見とどけた。
双眸《そうぼう》は、なおひらかれて、光を喪《うしな》った視線を、雨曇りの鈍色《にびいろ》の空へ送っていた。
一方、「母影」は、井之頭|池畔《ちはん》を掠めて、森の外へ出ていた。
追跡者は、絶たれていた。立て針と足搦《あしがら》みと毒煙を撒《ま》きつつ、突破路をひらいたのである。
大きな葉冠を中天にひろげた松樹まで辿《たど》りついた「母影」は、その幹へ身を吸い込ませるように寄せてひと息入れた。
根毒の効目がきれる時刻が来たのを、「母影」は、知っていた。
死を自ら望んで、阿修羅となったこの女忍者は、綿のごとく疲労しつくした躰内に、氷のように冴《さ》えた気魄をとどめて、一種の充足感をあじわっていた。
遠く、人とけだものの争闘する騒擾《そうじょう》の音をきき乍ら、「母影」は、ふっと、微笑した。
あとは、この身を、屍骸《しがい》にすべく、絶対に人目のとどかぬ場所へ運ぶばかりである。
「母影」は、再び地を蹴って、奔り出そうとした。その足を、はっと、とどめさせたのは、
「女影《めかげ》!」
服部半蔵の一声であった。
反射的に、「母影」は、身を翻《ひるがえ》して、松樹の幹へとびついた。
猿《ましら》の迅さで、二間あまりを駆けのぼったが、唸りを発して飛んできた鏈鋼《くさり》に片足くびを食いつかれた。
渾身《こんしん》の力をふりしぼって、これをふりはなそうとした刹那、烈しい眩暈《めまい》が来た。
半蔵は、落下して来た「母影」に、猛然と躍りかかった。
尋常の目では、その動きをとらえることは叶《かな》わぬ凄《すさま》じい急回転の組打ちが開始された。
そして、それが、松樹をひとめぐりした時、長槍を小脇にかい込んだ小野忠常が、風のように、駆け寄って来た。
……ついに、半蔵は、「母影」を、幹へ押さえつけた。
「もろともに!」
半蔵は、背後の忠常へ叫んだ。
忠常は、りゅうと、長柄をひとしごきするや、ひくく、
「南無!」
と、となえて、突き出した。
穂先は、半蔵と「母影」の胸を刺しつらぬいて、二体を、幹へ縫いつけた。
次の瞬間、忠常は、槍をすてるや、居合抜きに、一颯《いっさつ》、刃音をほとばとらせた。
ふたつの首は、かたく密着し合ったまま、真紅の尾をひきつつ、空たかく舞いあがった。 忠常は、それが落ちたところへ、歩み寄ってみて、竦然《しょうぜん》となった。半蔵の口が、「母影」の舌を強く吸い込んで、死んでもなお、はなしていなかったのである。
その頃、遁れた三騎は、秩父の連山を近く眺める十里無人の荒野の中を、駆けていた。
面を包んでいた白絹は、とりはらわれていた。
先頭が左衛門佐幸村、次が、遠藤由利、そして殿《しんがり》を行くのは、赤猿佐助であった。
孰れの貌《かお》も、曇天の鈍色《にびいろ》を映したように、沈んでいた。
その年もくれて、寒気|凜冽《りんれつ》たる大晦日《おおみそか》の夜、京の都の西郊にある猿田彦《さるたひこ》を祭る丘陵の頂上で、およそ三十名あまりの黒影が、黙々として、鍬をふるうさまを、鉢植えの梅や南天や福寿草のあきないを終えて、家へ戻って行こうとする植木屋が、見つけた。
怕《こわ》さに、ふるえあがって、一目散に逃げ出した植木屋は、後日、むかしの殿舎跡の土台石が、ことごとく掘りかえされている、という噂をきいた。
誰も、それがなんの目的をもって、何者によってなされた作業か、ついに、わからなかった。
解説
伝奇小説は大衆文学の由緒《ゆいしょ》正しい伝承である。大衆文学が大衆をよろこばすために書かれるエンタテイメントだとすれば、おそらく伝奇小説にしくものはないだろう。西洋の大衆文学が騎士と美姫《びき》との冒険や恋愛をつづる中世の伝奇小説に発して、スコットや、ユゴーや、デュマを生んだとすれば、日本の大衆文学が中国の『水滸伝《すいこでん》』のような大小の群盗の冒険に発して、滝沢馬琴のような大小説家を生んでいる。坪内逍遙《つぼうちしょうよう》は馬琴やスコットを愛好しながら、近代小説の開祖となるために、胸中のこの愛を押しつぶしてしまった。そのために日本の近代小説がきわめて構想力の弱い、限定されたものになるとともに、たちまち村上浪六《むらかみなみろく》などが登場して、馬琴流の伝奇小説を復活させて、大衆の嗜好《しこう》に投じた。日本の大衆文学の歴史は、仮構にせよ、史実に依拠するところのおおい歴史小説の大衆版として栄えてきたけれども、これは荒唐無稽に生命を吹きこむ馬琴のような大伝記作家に乏しかったためである。しかし大正期には『富士に立つ影』を書いた白井喬二《しらいきょうじ》があり、今日、『赤い影法師』の柴田連三郎があって、大衆の渇《かつ》をいやしてくれていると思う。
伝奇小説は、大衆の尋常の空想力をはるかにひきはなした豊富で奇抜な空想を縦横にかけめぐらせるだけの想像力を前提とし、しかもそれが現実に可能であるかのように紙上に再現してみせるだけの芸をもっていなければならぬ。柴田はある感想のなかで「少年のころから、友達をつかまえてたちまち一遍の冒険小説を物語ってみせる空想力をそなえていたので、その空想力で飯が食えるようになったことは、大変幸福なのである」といった。つまり自他ともに許す天性の伝奇作家として生まれてきたといってもよい。「私は、少年のころから、『大衆作家』たる性情を持っていた」という言い分をこの意味で充分に肯定できる。しかも「文学を志してから、二十五年になる」という紆余曲折《うよきょくせつ》は大衆小説として『眠狂四郎無頼控《ねむりきょうしろうぶらいひかえ》』において、その途轍《とてつ》もない空想を紙上に現実化する才腕をもたらしたものだと、わたしは思う。
伝奇小説という点からいえば、『眠狂四郎無頼控』は剣豪小説のブームにのって現われ、その設定からして、かならずしも作者の想像力を思う存分にふるったものとはいいがたいように思われる。むしろ五味康祐《ごみやすすけ》らによって創《はじ》められた剣豪小説にたいして異をたてるに急なあまりに、大目付|松平主水正《まつだいらもんどのしょう》の娘と、ころび伴天連《ばてれん》ジュアン・ヘルナンドとの間の混血児、つまり「異相」の無頼のニヒリストを主人公にたてるという窮屈な思い付きに出発した。その剣法は尾崎秀樹《おざきほつき》に「催眠剣法」と名づけられた、敵手を幻惑する円月殺法をあみだし、目あたらしい「殺しの美学」をもって超人的性格をあたえられはしたけれども、変化《へんげ》自在というわけにはいかなかった。老中|水野越前守忠邦《みずのえちぜんのかみたたくに》の側頭《そばがしら》役|武部仙十郎《たけべせんじゅうろう》の殺し屋にやとわれ、忠邦の政敵と闘争する千変万化は、残念ながら構想の妙をおりこむ融通性にとぼしかった。もちろん、主人公の武器である円月殺法は大衆の期待を満足させる極めつけとなったし、ドライな軽業に等しいエロティズムの工夫は大衆の「願望夢」のひそかな娯《たの》しみになった。主人公の性格や状況の設定には現代の状況と通ずるところがあって、パロディとしての面白《おもしろ》さをもっていた。しかし狂四郎の登場しない場面の索漠《さくばく》さは否定することができず、作者の筋立てが自縄自縛《じじょうじばく》となったという趣はある。『無頼控』を読みすすめていく間に、何となく作者の息苦しい呼吸をきく思いがして、作者と同じく娯しめなくなるといってよかろう。眠狂四郎はまだよい。『主水血笑録』などのヴァリエイションになると、マナアリズムの危険さえ感じさせる。作者もおそらくこれに感づいていたにちがいない。
『赤い影法師』はこのマナアリズムを破るために、千思万考、構想をこらした快作で、起死回生をともなった力作である。ここには、第一に、伝奇小説として作者の空想力を自在に駈《か》りうごかせる東洋の忍術小説という趣向がものをいっている。石田三成に雇われていた木曾谷《きそだに》の忍者「影」三代――「母影」と「若影」とを主人公とするという複数をとっていることがよい。しかも名を与えられず、「影」という超人的忍者、すこし大げさにいうと、時空を超越できる秘術を体得した忍者を主人公に仕立てることで、作者の空想力はいわば時空を越えて駈けめぐることができるからである。もちろん、作者は「母影」「若影」の活動に石田方の忍者らしい豊臣《とよとみ》家の再興(豊臣|秀頼《ひでより》は薩摩に逃れて生きている!)、平家財宝の探索という伝奇小説の伝習的なサイクルをもちいている。しかしこの伝習のサイクルは物語の表面に姿を見せるのは後の方であり、サスペンスの役をする一種のルウズなサイクルとしてあるにすぎない。すなわち母子《おやこ》の「影」が秀頼所蔵の無名太刀十振の切先三寸を切り取るという離れ業をやってのける名目を説明するための用意であって、「影」の忍術そのものを一方に限定するものではない。
読者は、母子の「影」の生誕をしるす「誕生篇」から意表を衝《つ》く絢爛《けんらん》豪華な絵巻物が縦横の奇巧をこらして展開するのに、有無をいわずに興がるにちがいない。徳川方の忍者|服部半蔵《はっとりはんぞう》が木曾谷を訪れる冒頭から、のちの「母影」とともに「風盗」をその根拠地に襲って全滅させる冷酷|無惨《むざん》な戦闘は見事に読者を小説世界にひきこんでいる。ここに作者が全編の構想をじっくりとたて、しかも空想を思い存分にのばしても、それが構想を支えこそすれ、破綻とはならぬような巧妙さをそのうちに含める工夫ができている。これがまず伝奇小説らしい独自の興味をつくりだしている根拠だといえよう。
物語の展開としては寛永御前試合という講談種でおなじみの伝習のサイクルをもちいている。将軍家光の前で、柳生宗矩《やぎゅうむねのり》と小野忠常《おのただつね》とを審判として、十四日間に行われた十試合である。この御前試合は物語の展開に一つの連続性を持たせて、自然な運びをつくっている。しかも十試合は二十名の剣客の組み合わせで、十試合が十様の変化をみせるから、この決闘場面はそれぞれに作者の工夫によって読者をあかせることはない。十試合は物語の進行とともに当然眼前に展開されるものであり、読者の期待は次から次へ作者がどんな型破りの手をもちいるかと呼吸をつめさせるばかりに変化に富んでいる。ここにこそ『眠狂四郎無頼控』の場合とちがった各種各様の剣豪小説を一篇に集大成したような面白さをみせている。一つ一つの試合までの導入を異にしているばかりでなく、母子の影のからませ方もちがえて、興味を倍加するのだ。読者はおそらく作者の手口にのるまいとしても思わずのせられてしまう心憎いまでの豊富な奇想に存分に堪能するにちがいあるまい。
そればかりではない。第三試合が終わると、新たに伊賀組の頭領であった老服部半蔵を再登場させ、忍者同士の決闘によって、新たな波瀾をつくりだす。「母影」と半蔵との忍術の決闘は忍術小説の奔放な「美学」を構築するからである。しかもこれを追討ちするかのように、こんどは柔術の関口弥太郎《せきぐちやたろう》と拳法の佐川蟠流斎《さがわばんりゅうさい》との第六試合そのものに思いもかけぬ離れ業をやってのける。つまり蟠流斎は一滴の血も流さずに弥太郎の肋骨を一本抜きとって失神させる。ああら不思議やなといった立川文庫の再現である。子影が蟠流斎をたおし、その替え玉となって出場して、弥太郎の肋骨を抜くのである。
さらに、第四試合の後に顔を出す、ご存知|真田幸村《さなだゆきむら》と、例の猿飛佐助《さるとびさすけ》の後身と思われる赤猿佐助とが第六試合の後から、母子の影の脇に立った活動をみせはじめる。半蔵らの手に落ちた母影を、子影がいかなる奇策をもちいて救出するか、真田幸村と柳生宗矩との懸け引きをおりこみながら、瓢箪池《ひょうたんいけ》の決闘、この不可能を可能にする、冒頭の風盗の決闘と呼応する大がかりな筆の魔術が行われる。作者はにやにやしながら、あの手この手とおもしろげに新手をくりだして、読者の魂を奪っていく心憎いやり方に、読者は思わず拍手を送りたくなるだろう。とくに幸村の幻影行列のアイディアや井之頭池《いのかしらいけ》の血戦は、瓢箪池の決闘と趣を加えて、大団円にふさわしい大殺陣をくりひろげ、存分にご馳走してくれる。半蔵と母影とが、小野忠常の槍《やり》に幹へ縫いつけられるというアイディアは作者の独創ではないけれども、こんな一つ一つのシーンにも別の型を用意して、持札の全部をこの一篇に投げこんだかの豊富感がある。これで堪能しない読者はあるまい。
一言でいえば、伝習のサイクルに全体の構成をととのえながら、そのなかで、思う存分に空想をおどらせ、ハメをはずし、作者もたのしめば、読者もよろこばすといった伝奇小説のコツに徹した快作なのである。しかも絢爛豪華な饗宴《きょうえん》のなかには、作者の感傷らしいものが一つも混じっていない。同じ十番勝負といっても、川口松太郎の葵新吾《あおいしんご》になると、人情噺《にんじょうばなし》ふうな叙述があり、それが結構読者をたのしませるのだが、古風な趣が出てくることは避けがたい。ところが、この忍者物語は忍者というところに冷酷非情に徹して、人情の気はチリほどもない。これは眠狂四郎をつらぬく近代ニヒリズムの変形だといえば、この忍者物語が一昔以前の立川文庫ふうな講談小説とちがった近代感覚を説明している。その上、作者独自のドライなエロティズムは、もはやあぶな絵といった不健康な覗《のぞ》き趣味とはちがった現代的感覚を持っている。アワヤ落花狼藉《らっかろうぜき》といったような古風なくすぐりとは無縁なところに成立している。
わたしがひそかに思うに、中国文学を学生時代に学んだ作者は伝奇小説にもっとも適した才にめぐまれているのではないか。現代の羅貫中《らかんちゅう》とも馬琴ともなって、天地を駈けめぐる壮大雄偉の大伝奇小説を書いて読者とともに、わたしを娯しませてもらいたい。作者にとって『赤い影法師』はまだ小手調べだという位の怪気焔《かいきえん》はあるにちがいないからである。『赤い影法師』以後では『芝錬・立川文庫』がなかなかおもしろいが、大伝奇小説というには結構に不足がある。やはり今までのところでは『赤い影法師』が第一等の収穫であるといいたい。
(昭和三十八年二月、文芸評論家、瀬沼茂樹)
◆赤い影法師◆
柴田錬三郎著
二〇〇六年五月十五日