新潮文庫
続 江戸群盗伝
[#地から2字上げ]柴田錬三郎
|三《さ》|味《み》|線《せん》|加《か》|津《つ》|美《み》
「おうおう……きたぜ、ふるいつきてえ|櫛《くし》|巻《まき》よ」
一人の町人が、首をのばして、とん狂な声をあげた。
つれの男が、どんぶりをとりあげ、口で、杉の|角《つの》|箸《ばし》を割り|乍《なが》ら、
「おっ、すげえ。といいたいが、こん畜生、|錠前直《じょうまえなお》しの野郎め、早くどかねえか、のびあがり、見れども見えぬうしろかげ、ええ、ま、じれったい、と思わず噛み切る角の箸とくらア」
ここ、根津門前町にある|鰻《うなぎ》屋であった。
構えはきたなく、|万《よろず》川魚と記した|掛《かけ》|行《あん》|燈《どん》も破れている。ふつう百文のどんぶりを、八十文の安値で売るが、案外うまいと評判ではやっている店であった。
根津|権《ごん》|現《げん》祭もおわった十月初旬、すっきりと遠のいた青空に、ちぎれ雲がふたつみつ浮いた。あたたかい日和であった。
清水観音の森のいただきをむこうに眺める往来を、櫛巻の佳い女が、小物袋をさげて、通り乍ら、茶店を一軒一軒のぞいてあるいていた。
「あの|唐《とう》|桟《ざん》の着こなしは、ただものじゃねえの。柳橋からあがったか、それとも浅草の|茶《ちゃ》|汲《くみ》を追っぱらわれて、河岸をこっちへ変えようときょろついて、やがるのかな」
「おうおう、おっさん――」
横で、一杯やっていた|入《いれ》|墨《ずみ》の若者が、
「おめえ、三味線|加《か》|津《つ》|美《み》を知らねえたア、もぐりだの、御倹約令で、小唄の師匠を禁じられたからよ。泣く泣く浅草の『楊柳亭』で、地かたをやっているんだ」
「そいつは、初耳だ。あの器量で、陰びきたア、こいつはとんだ|佗《わび》しい日陰者よの、御倹約令はもったいねえことをしやがる」
加津美は、この鰻屋の前に来ると、ちょっと立ちどまって、内部をうかがった。
「おうっ、師匠、寄んな」
入墨の若者が、手まねきした。
にっこりした加津美が、のれんをはねて、ついと入ると、裾がみだれて、赤いものが散った。
「こいつは、御倹約令違反だ。ちかごろ、ちりめんなんざ、おめえ、婆アの皺だけしかおがまねえもんだから――」
「|莫《ば》|迦《か》|野《や》|郎《ろう》! 赤いものにおどろいて、あずきめしが食えるか、ほうそ[#「ほうそ」に傍点]の神に|達《だる》|磨《ま》さん、月に七日のお客なんざ、丹頂の鶴の頭より赤いんだ」
加津美は、入墨の若者にちょいと会釈しただけで、その脇をぬけて、奥の|衝《つい》|立《たて》へ寄った。
「ちょっ、なんだ」
若者が、舌うちすると、となりのおっさんが、笑って、
「ぬるい酒でもお前の手から、ついでもらえばあつくなる、てなこんたんで呼んだんだろうが、あいにくさまだったの、若いの」
「おきゃがれ――」
加津美は、
「庄さん――」
と、衝立のかげにうずくまった男へ呼びかけた。
「さがしたよ。ああくたびれた。一杯いただかして――」
加津美は、男のとりあげた|猪《ちょ》|口《こ》を、ひょいとうばいとって、くちびるにあてつつ、|媚《こび》を含んだ流し目をくれて、
「これが……お前さんを待たせて、あたしがかけつけて来たんだったら、うれしいんだけど――」
むこうの男が、
「よう、よう――」と、ひやかした。
それにかまわず、猪口をあけて、にじり膝で畳へあがった加津美は、
「どうしたの、庄さん。そんな|仏頂面《ぶっちょうづら》してさ」
と、のぞきこんだ。それを押しのけて、
「用事はなんだ? さっさと口上のべて、帰んな」
と、つっけんどんに言ったのは、三日月庄吉であった。
島破りのお尋ね者として追われていた――あれから、もう四年すぎていた。
美少年のふっくらとした|面《おも》|差《ざし》は、消えて、逞しい男っぷりになっていた。無謀な度胸はあいかわらずであろうが、どうやら、腕をみがいたらしく隙のないからだつきであった。
「|邪《じゃ》|険《けん》だねえ。……|野《や》|暮《ぼ》な用事にかこつけるのが女心じゃないか」
「小唄はならったが、べつに、惚れてくれとはたのまねえ。用事はなんだ?」
「貞宝師匠が、水戸まで|遠《とお》|出《で》で、張扇をたたいてくるから、五日ばかり留守すると、つたえてほしいってさ」
「よし、わかった。じゃ、また――」
「お前さん、ここで、だれかと|逢《あい》|曳《びき》でもしようというの?」
「うるせえな。逢曳しようとしまいと――たとえ、どこの女を待っていようと、おめえに焼かれる筋合はねえや」
口調は、にべ[#「にべ」に傍点]もないものだったが、こういう口喧嘩に馴れている仲らしく、庄吉の表情は、なんとなくあかるかった。
「焼いてわるかったね。焼かれるうれしさをまだ知りもしないくせに――あたしといっぺん世帯をもってから、大きな口をきいとくれ。……ね、いつ、来てくれるのさ」
「二、三日は、行かれねえ」
「待てないよ」
「大きな声を出すな」
「ちゃんと約束しなけりゃ、もっと大きな声を出すよ」
「地かたになってから、声までピンピンひびくようになりさがったな。……あさって、行く」
「ほんとだね。……じゃ、げんまん――」
「ふざけるな」
約束させると安心したか、加津美は、案外素直に、土間へおりると、客たちへ、こぼれるような笑顔で、
「おじゃまさま」
と、一礼して、出て行った。
「こてえられねえ、色気だの。……おじゃまさま」
「おうおう、だれの|声《こわ》|色《いろ》だ。火吹竹がつまったような声を出しゃがって――」
「あんな佳い女をふるなんて、あいつ、いってえ、どこの極道息子だい」
寺の町
庄吉は、これから、非常に危険な仕事をしなければならなかった。
ここで待ち合せている人間を、加津美が眺めたら、安心するついでにふき出したろう。やがて、飛び込むようにして入って来たのは、おでこに|反《そ》っ|歯《ぱ》の、ひょっとこ[#「ひょっとこ」に傍点]そっくりの若者であった。庄吉が巾着切の頃の仲間で、三次という――。
「兄貴、来たぜ」
小さな目をくるりとまわして、三次が耳うちするや、さっと緊張の色をみせた庄吉は、無言で、顎をしゃくって、三次を、衝立のかげにかくした。
待つほどもなく――。
ぬっと入って来た三人の浪人者たちが、三次の告げた連中であったことは、庄吉の緊張が、さらに鋭く姿勢にみなぎったのであきらかだった。
浪人者たちは、口数|寡《すく》なく、酒を飲んだ。その陰気さに、うす気味わるいものをおぼえたか、軽口たたいていた町人たちは、そそくさと、店を去った。
事実、この浪人者たちは、禄をはなれた貧しい生活の|垢《あか》が|滲《にじ》んだ人相ではなかった。というよりも、その日焼けた風貌は、江戸の武士の持っていないものであった。
彼らが、腰を下していたのは、ほんの短い時間であった。
のれんのむこうを、ゆっくりと、一人の肥った町人が通り過ぎるや、それを|合《あい》|図《ず》に、三人は、一斉に立って、おもてへ出て行ったのである。
「兄貴、いま、通ったろう、あいつ――いまどきはやらねえ五分|月代《さかやき》の|巻《まき》|鬢《びん》さ」
「うむ」
「あいつが、大将らしいんだぜ」
「よし――」
庄吉は、すばやく、裏口から飛び出すと、|細《ほそ》|路《ろ》|地《じ》を抜けて行った。三次も、そのあとにつづいた。
往来をのぞいてみると、その町人は、一間の間隔を置いて、浪人者たちをつれて、つきあたりの大鳥居をくぐりぬけようとしていた。
おそろしく|恰《かっ》|幅《ぷく》のいい後姿である。その悠揚たる歩きぶりを眺め乍ら、庄吉は、のれんごしにちらと見おさめたその町人の横顔を、あらためて思い出していた。
すべての造作のいかめしい赤銅色の風貌は、浪人者たちのそれよりも、さらにはっきりと、この江戸では到底見うけられぬ異質の人種のものであった。
もし、庄吉が、すこしでも海を相手に生きている人々について知識があったならば、その風貌が潮風によって鍛えられたものであることに気がついたであろう。
「三次、先回りしろ」
「合点――」
三次は、独特の速歩をとって、たちまち、四人を追いぬいていった。
彼らの行先は、わかっているのである。
左に折れて、まっすぐつきあたると天眼寺。北へならんで、本寿寺、瑞松寺、臨江寺と、小さな寺院の土塀がつらなる。
ここから、奥は、すべて、寺である。
南は、松平伊豆守の広壮な屋敷である。その高い白壁塀に沿うて、善光寺前町がつづいている。
抜け出たところは、谷中八軒町である。
町人と浪人者たちが、目ざしたのは、この谷中八軒町の一隅であった。
攻撃
立派な屋敷であった。
いずれは、名ある人物の所有であったろうが、今は、門札も出ていない。
しかし、手入れはゆきとどき、門前に、草一本も生えていない。|箒《ほうき》の跡のついた白砂が、獅子口のついた|唐《から》|破《は》|風《ふ》の影を這わせて、すがすがしい。
町人と浪人者たちは、この屋敷のはすむかいにある杉木立に、身をひそめた。
それを見とどけた庄吉は、屋敷につづいた高い石垣の|凹《くぼ》みへ、ぺったりと身を吸いつけた。
うしろは、上野山内である。石垣の上にそびえた太い樹木のおかげで、ここは、暗く、庄吉は、身の動きが、むかいの四人にさとられぬ安心があった。
陽ざしは、ちょうど、ひろい往還のまん中を、明暗ふたつに割っていたのである。
「兄貴」
三次の声が、頭上でした。
庄吉が、見あげると、三次は、石垣に腹這い、たれさがった灌木のかげにかくれていた。
「これを――」
そおっとおろしたのは木刀であった。庄吉が、朝はやく、そこにかくしておき、三次に知らせておいたのであった。
「兄貴一人で大丈夫か?」
「習った技をふるうのは、今がはじめてだ。やってみなけりゃわからねえ」
木刀をにぎりしめて、庄吉は、ふっと片頬をゆるめた。
自分に、二年間、みっちり剣術を教えこんでくれた|梅《うめ》|津《づ》|長《なが》|門《と》の木刀の、構えた瞬間の|眼《まな》|眸《ざし》を思い泛べたのである。
茫洋として、とらえどころのない眼眸であった。相手が何者であろうと、一切それを脳裏からはらいさった無念無想の静けさを湛えて、まばたきもしなかった。――あの澄んだ目こそ、極意であると、庄吉は知っていた。
――ようし! おれだって、あの半分ぐらいの平静さで、たたかってみせるぞ!
やがて――。
その屋敷の|潜門《くぐりもん》の戸が開いた。
出て来たのは、腰元風の地味なよそおいをした若い娘であった。
天王寺の|鐘《かね》が鳴って、しばらく経ったこの時刻、この娘が、使いに出るのが日課であった。庄吉も知っていたが、杉木立にかくれている四人も知っていた。
娘は、医者のところへ、薬を取りに行くのであった。
色の白い、頸すじの細い、見るからに腺病質らしい娘であった。庄吉は、彼女自身の薬をもらいに行くのではないか、と疑ったほどであった。しかし、そのすべてがほっそりした姿を、庄吉は、心から美しいと思っていたのである。
|俯《うつ》向いてあるき出した娘の顔には、たしかに、庄吉のような男を惹きつける淋しい|翳《かげ》があった。
娘が、杉木立にさしかかるのを、庄吉は、|固《かた》|唾《ず》をのんで、待った。
浪人者の一人が、ぱっとおどり出した刹那、庄吉もまた石垣から飛び出ていた。
浪人者の右手が、娘の口をふさいだ時、すでに、庄吉は、一間の近くに迫っていた。
「この野郎!」
|喚《わめ》きざま、木刀をふりおろしたが、距離がありすぎたので、それは浪人者に娘をはなさせる威嚇になり、浪人者の眼前三寸のところへ、ぴたっと停止した。
はたして、あわてて、娘をつきとばして、とびすさった浪人者が、抜刀するのと同時に、あとの二人も、庄吉にむかって殺到して来た。
庄吉は、娘の手を掴んで、背後へかばうと、ぴたっと青眼にかまえた。
正面の敵が、上段にかまえ、|爪《つま》|先《さき》で地面を噛んで、じりっと詰めよった。
左は、八双、右は下段。
いずれも、腕に自信は、ありそうであった。
|塑《そ》|像《ぞう》のようにつッ立った庄吉の背筋を、かすかな恐怖が掠めた。
その微妙な庄吉の表情のうごきを、正面の敵が、見のがさず、
「やあっ!」
と、すさまじい気合をかけた。
びくっと、木刀のさきがふるえた。
一瞬、右方の下段の刀が、斬り込もうとひらめいたが――まったく同時に、後方から飛んだ石ころが、その浪人者の額へ、にぶい音をたてて命中していた。
庄吉は、
「とおっ!」
と、正面の敵へ、木刀をふりおろし、この牽制と、左の八双にかまえた敵との間合をはかるのを同時にして、右へ一間ばかり、飛んでいた。
このおり――。
「引けっ! 引けっ!」
と、鋭い声が、杉木立の中からかけられなかったならば、あるいは庄吉は斬られていたかも知れぬ。
恋する者
やはり、庄吉の攻撃は、無謀であった。浪人者たちは意外な使い手であった。
首領の町人が、引かせたのは、新茶屋町の方角から人群が近づいたからであり、庄吉をおそれたのではなかった。
倒れた一人をのこして、浪人者たちの逃走は、あざやかであった。
庄吉は、倒れた浪人者を、刀の下げ緒で、後手にしばりあげると、
「三次、かつげ」
と、命じた。
「へっ! ざまみやがれ。おらあ、今日から、つぶての三次と、改名するぜ」
三次は、ぐったりと気を失った浪人者を、ひきおこして、肩へのせた。
「いそごうぜ、三次」
すでに、こちらの光景をみとめて、いそぎ足に近づいてくる弥次馬を避けるために、庄吉は、いきなり、娘の袖をとらえて、杉木立の中へふみこんだ。
恐怖のまだ去らぬ娘は、引かれるままに、ついて来た。
「お嬢さん、ごぞんじないでしょうが、あっしはすぐそこに住んでいる講釈師の風流軒貞宝という者の家に厄介になって居りやす男なんで――庄吉と申しやす」
「は、はい」
「ちょっと、お寄んなすっておくんなさい。おたずねしてえこともある」
「はい」
娘は、ぐんぐん引っぱられ乍ら、ただ、素直に頷くのみだった。
風流軒貞宝が、本所松坂町から、この谷中へ引越して来たのは、半年あまり前であった。そして三月ばかり前に、庄吉は、居候したのである。
居候した次の日に、庄吉は、もうこの娘に目をとめていた。のみならず、その夜、娘の|俤《おもかげ》は、庄吉をねむらせなかった。
――こいつは、いけねえや。
生れてはじめての経験に、庄吉は、狼狽した。
庄吉は、これまで、自分の美貌に想いを寄せる娘を、幾人かもてあましたが、ただの一度も、心を動かされたおぼえはなかった。それだけに、自分の方から、惹きつけられたのを、なさけない、と思ったのである。
しかし、娘の俤をふりはらおうとつとめたのは、ほんの数日だけであった。
娘が医者へかよう日課を知ると、その時刻になると、とてもじっとしておれず、そわそわして、貞宝から、
「おめえ、近頃、おかしいぞ。剣術習ったくせに、ちっとも落着かねえとは、見さげはてたやつだ。所詮、氏素姓のいやしさはあらそわれぬて」
と、ずけずけやっつけられたくらい、心は、その屋敷の門前へ飛んでいたのであった。
その娘と、いま、はじめて口をきく機会をもった庄吉である。
今日のことは、昨日すでにわかっていたことである。事前に知らせずに、娘が襲われるまで待っていたのは、腕だめしの決意とともに、恋する女におのれの英雄ぶりをみせたい下心があったからにほかならぬ。
もしかすれば殺されていたかも知れぬ危険をおかして、娘と知り会う機会をつくった庄吉は、しかし、それをいま別段、得意に思っている様子でもなかった。
三軒長屋
庄吉が、その娘を案内した、貞宝の宅は、小綺麗な三軒長屋のまん中であった。
右となりは、女髪結で、名うての髪結お仙という鉄火な女主人であった。迎えの三度は、|定《じょう》のことといわれるほど見識が高かった。
左となりは、ついこの年、猿若町と名づけられた浅草山の|宿《しゅく》で新築落成した中村座と市村座つきの作者瀬川三平であった。瀬川三平もまた、一癖も二癖もある通人であった。すでにおとろえかけた河東節の名人であり、また野呂松人形つかいで、『橋弁慶』で、|青頭《あ お》という人形をあやつらせれば、見物人を|恍《こう》|惚《こつ》とさせるといわれていた。もとは、札差で、放蕩がすぎて、おちぶれた、という。
まん中が、貞宝。先年、幕府の失政を皮肉った滑稽本を出版して、あやうく入牢させられかかったくらいの戯文の達人。
いわば、この三軒長屋は、江戸っ子の気骨と|粋《いき》の代表者をえらんだようなものであった。
「さ、おあがんなさい」
と、うながされて、|三和土《た た き》に入った娘は、おずおずと障子戸の隙間から、奥の一間を、ちらとのぞいてみた。
夥しい書籍がちらばっている有様が、娘を、多少、安堵させたようであった。
この若者も、自分をおびやかす存在ではないか、という危懼は、この家の前までつれてこられるまで、つきまとっていたらしい。それは、見知らぬ娘として当然であったろう。が、また、どうやら、この娘は、あの屋敷の中でも、不遇な身であることが察しられた。
「さ、どうぞ……どうぞ……」
庄吉が、ひどく緊張して、娘を|請《しょう》じあげるのを、うしろで浪人者をかついだひょっとこ三次が、少々おかしそうに眺めていたが、肩の重みをひとゆすりして、
「兄貴、この荷物をどうするんだ」と、尋ねた。
「おっ、そうだ」
庄吉は、娘に、浪人者を指さして、
「お嬢さん、こいつに、見おぼえは、ござんせんか?」
「いいえ、まるきり、見たことも――」
「ふうん、すると、あの町人にやとわれたごろん棒かな……三次、そいつに猿ぐつわをかまして、裏の物置に、たたきこんでおけ。ゆっくり、しらべてやろう」
「おい、きた」
三次が、浪人者をかついで、裏へまわってゆくと、庄吉は、自分で、さきに、居間に入って、待った。
しばらく、|逡巡《ためら》っていた娘は、やむを得ず上って来た態度で、敷居ぎわへ、そっと坐った。
庄吉は、座布団をすすめてから、
「お嬢さん、月江さまと|仰言《おっしゃ》るんで?」
「え?」
娘は、顔を|擡《もた》げて、まじまじと庄吉を見た。
この男が、どうして自分の名を知っているのか――咎める眼眸が、急に、かすかな狼狽の色をうかべた。まともに顔を合せてみて、はじめて、相手が、凄い程の美しい若者であることに気がついたからであった。
「なにね……はははは、あっしゃ、早耳なもんでござんすから――」
と、ごまかしたが、このあたりで、娘の住む屋敷の住人と、だれも口をきいたことはなかったのだから、いくら早耳でも、彼女の名をきき出せる筈はなかったのである。
むしろ、その屋敷は、薄気味わるいと敬遠されていた。
庄吉が、娘の名を知ったのは、実は、十日あまり前、こっそり、深夜、忍び入って、天井裏からのぞいた折であった。
住む者が、わずか三人――一見平凡な風貌の武士と老僕とこの娘と、それだけであることが判明したのも、その時であった。
武士は、娘の主人のようであった。
「月江、お茶を持て――」
と呼んだのを、庄吉は、天井裏できいたのであった。
「お嬢さんは、どうして、あいつらに襲われなすったか思いあたるふしがあるんでござんすか?」
「いいえ、すこしも、思いあたりませぬ」
「ふうん、そいつは、奇態だ」
庄吉は、腕をくんだ。
「貴方は――」
月江は、羞恥のために、まぶしげにまばたきして、
「なにか……ごぞんじで、たすけてくださったのでしょうか?」
「いや、それがね、なに、ほんの行きずりに、あいつらの悪だくみをききつけやしてね、義を見てせざるはなんとかってやつなんでさ」
そこへ三次が戻って来て、
「兄貴、野郎のからだをさぐったが、びた一文も――いや、その、なんにも持っていやがらねえから、何処の何兵衛とも、あたりのつけようがねえぜ。なにしろ、あんな面つきの野郎は、浅草でも両国でも、見かけたことがねえやね。なんなら、そこの裏長屋の連中にきいてみようか」
すぐ裏手にならんだ長屋は、これはひどい建物で、浅草や両国の土場や野天に出ている芸人、|香具師《や  し》、武鑑売、鼠取伝授屋、五蔵円、薄荷売、大道商人などのたまりであった。
「なに、きくこともねえだろう。息をふきかえしゃがったら、泥をはかせてやる」
第一の殺人
「お嬢さんを、あいつらが誘拐しようとたくらんでいやがるのを、はじめにかぎつけたのは、このひょっとこ三次なんです」
「ひょっとこ、だけは余計だぜ、兄貴。今からおらアつぶての三次だ」
「うるせえ、黙ってろ。きのうの夕方、三次が、根津門前町の鰻屋で、柄にもなく、気張りゃがって大蒲焼で一杯やっていると、どうもこのあたりに見かけねえ面つきの浪人者が三人――つまり、あいつらでさ――が衝立の陰で、妙にしいんとし乍ら飲んでいやした。そこは、蛇の道は蛇、うさん臭えとにらんだから、それとなく気をくばっていると、そこへ、のっそり入って来たのが、これもまた、へんにこっちの癇にさわるような親分面の町人だったんです。……ざっくばらんに申しやすが、ごらんの通り、あっしも三次も、堅気じゃござんせん。だから、似たり寄ったりの渡世をしている奴らの目ききはまア肥えて居りやす。……ところが、そいつらの素姓だけはどうもわからねえ。そのうちに、三次の耳に、――あの月江という娘を、どうとかして、というせりふが、耳にとび込んだので……」
いつか、庄吉は、三次と肩をならべて、ぶらぶらあるいている時に、遠目で月江の姿を見かけたことがあった。
「どうだ、佳い女だろう。惚れるなら、あんなお嬢さまよ。名まえも、月江って、十五夜の晩に、そおっと下界へ降りて来なすったような――」
と、囁き乍ら、月江が、その屋敷へ消えるのを見送ったのであった。
その屋敷は、白壁の塀に沿うて、数十本の檜が、亭々として空を掩っていたので、近隣から、『檜屋敷』と呼ばれていたのである。
「そうきいた三次のうさぎ耳が、ピンとおっ立ったのはこいつにしちゃア大出来でござんした。
――あの娘は、風雨にかかわらず、その時刻になると医者のところへ出かけて行く。都合のいいことに、あそこの往来は、たまにしか、人影がちらつかない。
と、親分の野郎が言ったものでござんした。
――しかし、その娘が、果して、|阿《あ》|古《こ》|父《ふ》|尉《い》の面のことを知っているかどうか疑問だな。
と、言ったのは浪人者の一人で。
お嬢さん、阿古父尉の面というのは、いったいなんでござんす?」
庄吉が、尋ねると、月江は、ちょっと小首をかしげたが、
「お能の面のひとつでございましょう」
と、こたえた。
庄吉は、月江のこたえの素直さから、阿古父尉の面とやらにまつわる秘密を、彼女が、なにも知らないことをさとった。
「つまり、ひとくちにいえば、あいつらは、その阿古父尉の面てえ代物が欲しかったんでさ。お嬢さまのいらっしゃるお屋敷のどこかに、それがかくされてあるらしい。あいつらは、その隠し場所を、お嬢さんの口からきき出そうとして、誘拐しようとたくらんだわけでござんす。……ごぞんじありませんね?」
「はい、そんなお面が、どこにあるのか……わたし、一切知りませぬ」
「知っているのは、あのお屋敷のご主人――お嬢さんの何にあたるお方かぞんじませんが、そのお方だけでござんすね?」
「さア……」
月江は、|迂《う》|闊《かつ》に返辞が出来ぬ困惑の色を、泛べてから、
「わたしは、召使いのようなものでございます」
と、言い、また、
「武家の娘とは申せませぬ」
とつけくわえた。
「と、おっしゃいますと?」
「物心ついた時から、主人の屋敷に――あの屋敷ではありませぬが――養われて居りましたけれど、世話をしてくれたのは、庭番の夫婦でした。そして、育ったのも、その小屋でありました」
「へえ、そいつは、どういうんでござんすかね? 失礼でござんすが、お嬢さんは、ご両親はまるっきりごぞんじないんで?」
「はい。誰も、わたしの|素姓《すじょう》を知らせてはくれませぬ。ただ、庭番夫婦は、あなたは、ご主人からお預りしているのだ、と申して居りました。夫婦は、言葉づかいも丁重でございましたし、わたしも、そのようにふるまいましたけれど……今から思えば、|腑《ふ》に落ちぬことばかりです」
「それで……今も、やっぱり、お嬢さんは、ご自身のお立場は、はっきりなさらないんでござんすか?」
「はい。こちらの屋敷へ移りましてから、わたし一人しか、主人の身のまわりの世話をする者がいなくなりましたので、自然に、召使いのようになりましたけど……自分がなぜ、主人の命令で、庭番の夫婦に育てられたのかききもいたしませず、また、きいても教えてくれる主人でもないと思います」
「ご主人は、お名前を、なんと|仰言《おっしゃ》るんで?」
月江は、ちょっとためらったのち、
「小俣堂十郎と申します」
「へえ?」
庄吉は、きいたような名だと思った。しかし、すぐには思い出せそうもなかった。
「あっしが、考えますのに、ご主人の小俣堂十郎さんとあいつら――あの親分と|乾《こ》|分《ぶん》の浪人者どもは、なにか、むかし、ひっかかりがござんしたね。それで、阿古父尉の面とやらが、たいそう大切な品で、どうしても小俣さんから奪いとってやろうという計画をたてた。それには先ずお嬢さん――まア、お嬢さんは、まきぞえをくったんでさ――」
「そうでしょうか――」
この時――。
いつの間にか座をはずしていた三次が、台所の戸を蹴破るような音たてて、
「兄貴、大変だっ!」
と、喚いたのであった。
「なんだ?」
庄吉が、腰を浮かして、唐紙を開くと、あわをくらった三次が、上りがまちにつかまって、泳ぐような格好になり、
「殺されてるんだ!」
「なに? 殺されてる?」
庄吉も、さっと顔色を変えた。
「そ、そうなんだ。物置へぶちこんで置いた野郎が、ぐっさりと――」
庄吉は、|撥《はじ》かれたように立って、裏口から飛び出した。
薪や炭俵や不用のがらくたを入れてある物置小屋は、猫額大の裏庭の隅に建てられてあった。
浪人者は、後手にしばられたまま、がくっとうなだれて、炭俵に|凭《よ》りかかっていた。その胸のまん中に短刀がつき立てられ、血汐は、まだ、じくじくと湧き出て、衣類を染め、滴一滴したたっていた。
もはや、手のほどこし様は、なかった。
|念《ねん》|珠《じゅ》
このおり――。
貞宝の家の前に立った者がある。月江の主人、小俣堂十郎であった。
かつて、評定所留役御目付として、大名旗本から百姓町人にいたるまであらゆる階級の人から怖れられた存在であり――若年寄直属の絶対的な権力をふるったこの人物も、老中水野|忠《ただ》|邦《くに》が、庶政大改革に着手した、天保九年四月に、その職を追われていた。如何なる理由で追放の|憂《うき》|目《め》に遭ったかは、誰人も|窺《き》|知《ち》し得なかった。
あれから四年――世の中も一変すれば、小俣堂十郎の境遇も変った。その職を追われ乍らも、小俣は、まだ、復活の希望をすてず、渡辺登と高野長英を捕縛するにあたって、陰で大いに尽力したといわれた。しかし、十一年三月、遠山|景《かげ》|元《もと》が、江戸町奉行となるにおよんで、小俣は、まったくその力をもぎとられ、急速に忘れられていったのであった。
だが、いま、ここに立つ彼は、その鼻下と|頤《あご》に、濃い鬚をたくわえているのを除けば、むかしとすこしも変らない風姿をたもっていた。
格子戸を開けて、案内を乞う声も、相変らず、穏かなものであった。
内では、
「畜生め! あの親分の野郎めが、こっそりひきかえして来て、殺しゃがったんだ。浪人者が白状するのを怖れやがったんだ。……ちえっ! とんだどじだ」
と、三次が、庄吉と月江を前にして、喚いていた。
裏庭には、反対側の路地を通って、いくらでもしのび込むことは可能だったのである。裏庭は、お茶の生垣を越えれば、うすぎたない長屋がつらなっていたが、昼間は子供までが稼ぎの手だすけをさせられて、案外な無人の静けさがあった。
庄吉は、月江に何か言おうとして、玄関の声に気がついた。
出てみた庄吉は、はっと固い表情になった。この人物が月江の主人であることは、その屋敷の天井裏から覗き見て知っている。
「わしは、そのむこうの屋敷に住む者だが――」
「へ、お嬢さんのことでござんすか?」
「うむ、つれに参った。かえしてもらいたい」
「いえ、かえすもかえさねえも……ただ、そのう――」
庄吉は、ふりかえって、
「お嬢さん」
と、呼んだ。
月江は、すぐ出て来て、堂十郎を見ると、おどおどして、降りて行った。
庄吉は、この人物に対して、何故か、皮膚的に、|嫌《けん》|悪《お》|感《かん》を意識した。
「お嬢さんが、あっしのところにいらっしゃるのを、よくおわかりでございましたね?」
わざと、冷やかな口調で尋いてみた。
「もの好きに、あんたがたのあとをつけた通行人が、教えてくれた。……この娘を曲者から救ってくれたそうでかたじけない。いずれ、あらためて、お礼に参る積りだが――」
――さきにその礼をのべるのが、挨拶というもんじゃねえか、|唐《とう》|変《へん》|木《ぼく》め。と、肚裡で呟いた庄吉は、
「お礼にはおよびませんや。……それよりも、誤解なさらねえで頂きてえのは、別にほかにこんたんがあって、お嬢さんをこのぼろ家へおつれしたんじゃございませんので――。野次馬がよって来ようとしましたんで、面倒だから、お屋敷へおかえしするよりも、林をもぐって、こっちへおつれするのが、手っとり早かっただけでござんすから」
「わかっている。では――」
会釈して、堂十郎は、外へ出た。
庄吉は、ちら、と月江を見やった。その視線を感じて、月江も、腰をかがめ乍ら眼眸を擡げた。
――浪人者が殺されたのは、なんにも仰言っちゃいけません。
と、庄吉は、無言で知らせた。
格子戸が閉まると、庄吉は、その場であぐらをかいて腕を組んだ。
「ちょっ! あの鬚ざむらいめ、横柄な野郎じゃねえか!」
三次が、いまいましげに、吐き出した。
――なにか秘密がある。あの小俣堂十郎は、なにかおそろしい秘密をもっていやがるに相違ねえ。……小俣堂十郎? どうも、どこかで、きいたことのある名だ。
「兄貴、死人をどうする?」
「うむ――」
「番所へとどけるか?」
「いや、いけねえ。夜中に、林の中へかついで行って、こっそり埋めちまおう」
「なぜだい?」
「おれに、ちょいと考えがあるんだ、公けにしちゃ、まずい」
立ちあがって居間へ戻った庄吉は、ふと、そこに落ちている小物袋に目をとめて、ひろいあげた。月江が忘れていったものであった。何気なく、中をひらいてみた庄吉は、とたんに、眉をひそめた。
つまみ出したのは、赤珊瑚の念珠であった。
「なんだ、あんな若けえ身そらで、婆アくせえものを持っているんだな」
と、三次が、のぞき込んで、感心した。しかし、庄吉の眉をひそめさせたのは、別の理由であった。
その念珠は、どうしたのか、八方ころびの真円ではなく、一個のこらず、半球であったのだ。
「おれのと、そっくりだ」
と、ひくく呟いた庄吉は、片手を懐中へつっ込んで、晒の腹巻の中へしまっていた小布でくるんだものをひき出した。
小布をひらくと、あらわれたのは、やはり同じ赤珊瑚の念珠であった。しかも、それもまた、一個のこらず半球であった。ふたつの念珠が、畳の上へ、ならべられた。
まさしく、そっくり同じであった。
「こいつアふしぎだ!」
三次が、頓狂な声をあげた。
庄吉は、凝然と、ふたつの念珠を|瞶《みつ》めていたが、念のために、それぞれの一番大きい母珠をつまんで、あわせてみた。ぴったりと、あった。
のみならず、念珠というものは、念仏宗では三十六個、禅宗では十八個あるのが普通であるにも拘らず、これは十四個である。十四は『仁王経』の十四忍にあたり、べつにまちがった数ではないが、まず、当時にあっては、十四個の念珠など、どこの仏具屋をさがしても売ってはいなかった。
「兄貴、こいつは、なんだぜ、ひとつの数珠を、まっぷたつにしたもんだぜ」
「そうらしい」
なんという奇怪なことであったろう。
訪問者
「やんれ……これこれ、りんしょく如来のたくみを聞いてもくんねえ、忠臣めかして、倹約沙汰の、なんのかのとて、天下の政事を、己が気儘に、引っかきまわして、何ぞというと寛政々々、倹約するにも程をば知らねえ、どんな目出度い旦那の祝儀も、献上はお金で納り、あまり賤しい汚い根性、御威光が薄いぞ、汐風くらったねじれた浜松(水野越前守の居城)広い世界を小さい心で、せっかんばかりじゃ、中々いけねえ、隠居(前将軍家斉)の死なれて、僅か半年、立つか立たぬに、堂寺つぶして、御朱印取上げ、両店こわして、路頭に迷わせ、芝居はおったて、素人つきあい、ちっともならねえ、千両役者も浄瑠璃太夫も、一つに集めて、ぬっぺらぽんのすっぺらぽんの、坊主にしようか、奴にしようか……」
ひろい往来のまん中で、チョボクレが、いかにも陽気にうたわれていた。
むかいは、武術指南道場であった。
武者窓が、がらっと開いて、
「こらっ、やめんか!」
と、怒鳴った。
しかし、群集にかこまれて、チョボクレは、平気でつづけられてゆく。
「……女のいやがる越前ちんぽこ、わるくしゃれるな寛政本尊、名代の越中ふんどしかつぎにゃ、よってもつけねえ、ぺいぺい角力の力も無いくせ、白川気どりで見下げた大馬鹿……」
「うぬっ! やめんなら、待っておれ、手足をへし折ってくれる!」
|稽《けい》|古《こ》|着《ぎ》の若侍が、木刀つかんで、おもてへ走り出た時、群集は、くもの子を散らすように逃げ、チョボクレをうたっていた町人の姿はいちはやく消えうせていた。
水野越前に対する|憤《ふん》|懣《まん》は、江戸中にあふれていた。|家《いえ》|斉《なり》が|薨《こう》じて、上に|凡《ぼん》|庸《よう》な将軍を戴くや、水野越前は、誰に|憚《はばか》るところなく、その所信を所信のままに断行して、ここに三年、|武技奨励《ぶぎしょうれい》、質素倹約の強制は、直下に実績を挙げようと功を急ぐあまりの、|狂《きょう》に近く、|暴《ぼう》に類していたのである。
この町道場も、水野越前の庇護のもとに最近開かれたので、改革政治|誹《ひ》|謗《ぼう》のチョボクレが、毎日、しつっこく、門前でうたわれていた。
「逃げ足の早いやつめ。この次は、|屹《きっ》|度《と》、とっつかまえてくれる」
いまいましげに吐きすてて、若侍が、門内へ入ろうとした時、
「もし……」
と呼びかけた者があった。
振り向くと、五分|月代《さかやき》の、一見して田舎者とわかるが、堅気とは受取れぬ風体の男が、夕陽に背をむけて、腰をかがめていた。
「佐々先生に、お目にかかりたいんでござんすが……お取次をお願え出来ましょうか」
若侍は、うさん臭げに、じろじろと見やっていたが、
「用件はなんだ!」
「それは……折入っての御相談をお願えしてえと存じますんで――お目にかかってから申上げます」
物腰に、どことなく凄味があり、眼眸も鋭かったので、気押された若侍は、男をつれて、入って行った。
道場の主人は佐々右膳といった。
|直心影流《じきしんかげりゅう》つかい、二尺五寸の規定をやぶって、三尺五寸の竹刀を振い、その長身|膂力《りょりょく》の技は、殆ど無敵の観があった。当時、府内諸方の道場を荒し回った久留米藩の加藤平八郎を破って、水野越前に認められ、この道場をひらく資金を下付されたのである。
男は、右膳の魁偉な体躯風貌に接すると、自分の想像と期待がはずれなかった表情をみせた。そして、人ばらいをねがった。
右膳が、最初に口にした言葉は、さらに、男を、満足させた。
「お前は、船乗だな」
「へい。仰言る通りで……二十年ばかり、汐風にさらした面でございます」
「船乗は、船乗でも、ただの船乗ではあるまい」
右膳は、冷やかな微笑をうかべて、ずばりと言った。
「こいつは、どうも……恐れ入りました」
男は秘密の素姓をあてられ乍らも、微笑をかえすことを忘れなかった。
「手前、筑前志摩郡唐泊浦の船頭丹兵衛と申します」
「拙者に何を頼もうというのだ?」
「へい」
丹兵衛は、ふところをさぐって、金包みをとり出すと、右膳の前へ置いた。百両あった。
「失礼でございますが、これを、先ず、お納め頂きとう存じます」
右膳は、黙って、丹兵衛を、凝視したなりであった。
漂流船
丹兵衛は、きり出した。
「先生に、ある人間から、奪いとって頂きたい品がございますので――」
「拙者にたのむからには、相手が手強いのだな」
「強い。到底、手前どもの力じゃ、歯が立ちません。相手の名前とその品を申しあげる前に、きいて頂きたい一条がございます」
丹兵衛の話というのは、次のような異常事であった。
六年前の十月、筑前国志摩郡唐泊浦から、千六百石積伊勢丸という船が、出帆した。
福岡の米を積んで大阪に運び、豊前国中津の港で新年を迎え、そこの米を積んで、江戸へ回した。そこまでは、御朱印船として、公明な任務をはたした。江戸で積んだのは船頭十右衛門しか知らない品物であった。
一路、長崎へくだり、そこから琉球の内の大島へ走って、南京船と出会って、品物を交換する手筈であった。
ところが江戸を去って、二日目の暮果て六つ半頃に、西方から墨のような雲がまき起って、風は西になり、北方に光り物凄まじく、船を戻さんと決心したおりには、もう間に合わなかった。忽ち、大風が吹きまくりはじめ、電光が前後をつらぬいて、帆を巻く間もなく柱は弓のようにたわんで、へし折れた。篠を飛ばした雨足は、あたったところが窪むばかり、|水夫《か こ》たちの手足は凍って動かず、烈風雷雨の中で、船は、天地も崩れるような暗黒世界で、もみにもまれた。
全員は髪を切払い、命のかわりに海へ投入れ、八大竜王下界の竜神、あまねく神仏に祈念をこめたが、無駄であった。
夜があけわたった時、伊勢丸は、帆柱は切捨てられ、|楫《かじ》も折れ、|碇綱《いかりづな》を二房おろしてうねり凄まじい波に行方をまかしてしまったのであった。
それから、二十日間――まさに、地獄の|業《ごう》|苦《く》に、せめさいなまれて頭数は減っていったのである。|地《じ》|方《かた》と思う雲もなく、つづく|日和《ひより》の|東風《こ ち》にまかせて、伊勢丸は、西と南の間である|未申《ひつじさる》へと走るばかりであった。そのうち水も切れ、|粮《ろう》|米《まい》も肉も尽き、手足は金釘のようにつかれおとろえ……つぎつぎと死んでいった者は、のこらず頭が狂っていたのである。
伊勢丸が、南天竺のある浜辺へ流れついた時生残っていたのは、船頭十右衛門と|水夫《か こ》助右衛門と丹兵衛のたった三人であった。
「六年間の天竺ぐらしを、くわしくお話申上げれば、夜が明けてしまいます。……それは、いずれおきかせ申上げるとして、肝心の事柄をお話し致します」
三人が、一年あまりすごしたのは、カラガニという戸数数千余の城下町であった。
このカラガニには、交易船の出入はさらに無かったので、三人が、ソウロクという港へ行く船に乗せてもらったのが、翌年の三月はじめ。その港から、更に、別の便船を得て、カイタニの国のバンジャラマアンという港へ到着したのは、それから五十日ばかり後のことであった。
ここは、諸国の唐船出入争い、おらんだ船も入津して、繁盛の湊であった。しかし、日本へ行く船は、四年の間、一艘も見つけることは出来なかった。
その間、三人が、職をもとめたのは、やはり、船乗り仕事であった。
三人の乗り込んだ船が、ソロバヤという土地へ商売に行った時のことである。
さかのぼった河に、汐の満ちるのを待っていると、その土地の黒人の役人が、小船を漕ぎよせて、銀の無心をした。それに対して、絹二疋を出して、婉曲に断った。それが、ひどく、役人の癇にさわった模様であったが、まさか、その夜、襲撃を受けようなどとは、乗組員百余名のうち、一人も予想しなかったことである。
月が上るのを待って、突如、十余艘の小舟が押寄せて来た。かねて、この国に入る唐人船は、鉄砲を持つことを制せられていたので、全員切歯しつつ、呉服の反物を縫い綴って幕として、敵の弾丸を防ぐのに忙殺され、反撃の手段は何ひとつ持たなかった。船へ乗り移って来ようとする者には、鎗と水竿で防ぎ、簀板をはずして楯とし、焼物皿をくだいて投げたり、煮湯をふりかけたりした。
このたたかいで、船頭十右衛門が、胸に貫通銃創をうけて、死んだのであった。
「その|今《いま》わの|際《きわ》に、助右衛門と手前に、言いのこしたことが、実は、なんとも、おどろくべき秘密だったのでございます」
丹兵衛は、そう言って、いったん口をつぐみ、その時を回顧する暗い面持になった。
右膳は、いつか、話の異常さに惹き込まれ、丹兵衛が次に吐いた十右衛門の秘密をきくや、さもありそうな話だ、と頷いたのであった。
「十右衛門は、二十年がかりの|抜《ぬけ》|荷《に》|買《がい》で、五十万両にもあたる財宝を、秩父の山奥に匿して居ったのでございます。それを打明けた十右衛門は、助右衛門と手前が、無事に日本へ帰ることが出来たら、相続するがいいと、遺言したのでございます」
「五十万両か……ちょっと、想像もつかぬな」
右膳は、わざと平然と笑ってみせようとしたが、それがかえって顔の筋肉を不自然にこわばらせた。
「手前にも、想像がつきません。しかし、まさか、あの様な遠い蛮地で死にのぞんで、出鱈目な遺言はしないだろう、と存じます」
「尤もだ。それで、十右衛門は、お前たちに、財宝の匿し場所を教えたわけだな」
「ところが……そのことでございます。十右衛門一人が、御公儀の目をくらまして、そんな大それた仕事が出来た次第じゃございません。身分のあるお役人が、十右衛門と|共謀《ぐ る》だったのでございます。なに、それも、お膝元の評定所の――」
「なに評定所の?」
右膳が、おどろいて、鸚鵡返しにすると、丹兵衛は、にやりとして、
「そうでございますよ。評定所留役御目付――飛ぶ鳥も落す権力をお持ちになっていた御仁が|共謀《ぐ る》だったからこそ、十右衛門も、尻尾を出さずに、せっせと、秩父の山奥へ、財宝を蓄めることが出来たわけでございます」
「誰だ、その御目付は?」
右膳の口調が、|急《せ》いた。
右膳は、かつて、書院番、千七百石の直参であった。ある年の正月、越中島にある大砲拝見に出かけた折、六貫五百匁玉ホーウィッスル御筒を、熱心に調べたあまり、うっかり火門栓を毀し、砲術師範役と口論になった。仲裁が入って、刀を抜くまでにいたらなかったが、それが表沙汰となって、評定所の裁判にかけられ|改《かい》|易《えき》となったのである。だから右膳は、評定所に対して、ふかいうらみを抱いていた。
「今は、もうおやめになりましたが、小俣堂十郎と仰言る御仁でございます」
「彼奴がか!」
思わず、右膳は、唸るように叫んだ。
おどろいたことであった。たかが火門栓を毀したというだけの過失で、右膳を改易にしたのは、その小俣堂十郎であったのだ。それ程、法規をまもるに峻烈であった小俣堂十郎が、海賊の共謀者であったとは――。
丹兵衛は、話をつづけた。
「つまり……十右衛門は、小俣堂十郎様に、財宝の|在《あり》|処《か》を記した地図入りの阿古父尉の面てえ代物をお渡ししといたから、それをしらべてもらえ、と遺言したのでございます」
「勿論、小俣も、阿古父尉の面に地図がかくされてあると知っているのだな」
「その筈なんで――。小俣様御自身が、その財宝を運ぶわけにいきませんから、助右衛門と手前が掘り出して、すこしずつ江戸へ持ち込んで、まア六分四分の割で、分配してもらう――とこう相談をいたしましたのも、それから一年後に、運よく、日本行のおらんだ船に乗せてもらえたからでございました」
しかし、その帰途にあって、早くも、助右衛門と丹兵衛は、仲間割れがしたのであった。物見が、遠眼鏡で、長崎の高鉾島が見えると叫んだその日――。
丹兵衛と助右衛門は、水夫頭の命令で、帆柱に登って、帆並を仕替えようとしていた。
その時、どうしたはずみか、丹兵衛のとりついた桁が、ぐうっと取りはずされ、櫓の上へ、まっさかさまに墜落したのであった。
幸い、左足首を折っただけで、生命に別状はなかったが、そのまま身動き出来ず、全員がおらんだ屋敷出島へ上るのへ、丹兵衛は、|跟《つ》いて行くことが出来なかった。
その際、丹兵衛は助右衛門も辛酸を嘗めた朋輩を看護するために、当然船へ残っていてくれるものとばかり思っていた。
ところが、自分を見すてて、助右衛門が、さっさと上陸して行ってしまった、と|舵《かじ》|取《とり》の黒人からきかされた丹兵衛は、かっとなってはね起きようとした。
憤怒を辛うじて抑えつけて、仰臥したまま、凝然と、天井を睨んでいるうちに、丹兵衛の脳裏に、はじめて、自分の怪我が、故意に負わされたものであることがわかって来たのであった。
――そうか! 助右衛門のやつ、桁を取りはずして、おれを殺そうとしやがったのだ! 日本に戻りついた歓喜の下から、十右衛門の秘密を、自分一人が握って、上陸したい野心が湧いて、助右衛門は、鬼になったのだ。
――よし! そうなら、こっちも鬼になってやる!
丹兵衛が、故郷唐泊浦へも寄らずに、まっすぐに江戸へやって来たのは、待ちわびる家族に会うよろこびをすてて、欲望と復讐心にとりつかれた、まさに鬼の決意の故であった。
「で――、お前は、小俣にあったのか?」
会って、すぐ追いはらわれたのであろう、と察しつつも、右膳は、|訊《き》いてみた。
「それが、やっとたずねあててみると、会ってもくれやがらねえのでございます」
「助右衛門は、どうしたのだ? 先に、小俣に会ったのではないか?」
「いいや、どうやら、助の奴も、門前払いをくらったらしゅうございます。奴は、長崎で、馴染の浪人者三、四人つれて、この江戸へやってきたときいて居りますが、どうやら、まだ小俣様とは会った様子はございません……。ただ、奴が、腕ずくで、小俣様から、阿古父尉の面を奪い取ろうというこんたんだけはあきらかでございます」
「そうか。そこで、お前も、腕ずくで――と考えたわけだな」
「へい。左様で――」
「面白い話だ」
右膳は、手をたたいて、女中に、酒を命じた。
「丹兵衛、まず、くつろげ。宿がきまっていなければ、ここへ泊ってよいぞ」
「有難う存じます」
酒を酌みかわしているうちに、二人の間は、目的をひとつにした仲間の意識が出来ていた。
「小俣が、どういう人間か、お前は、知らんだろう」
「へい。|凄《すご》|腕《うで》の御目付だった、とはきいて居りますが、なにしろ顔も見せてはくれませんので――」
「お前が鬼になった積りでいるのなら、小俣はせせら笑って豆撒きをする用意のある男だ。お前などが、どうあがいても、爪でひっかくことも出来ぬ恐ろしい相手だ。隠者のくらしはして居っても、まだまだ、頭の働きはおとろえてはいない筈だ。いや、かえって、冴えて居ろう……。助右衛門が、浪人者の三人や四人ひきつれて、おそいかかっても、阿古父尉の面を手に入れることは出来まい」
「左様でございましょうか。手前は、助の奴に、先を越されるのを、そればかりを心配して居るのでございますが――」
右膳は、肴をはこんで来た女中に、
「離れの客をここへ」
と命じた。
やがて――。
声も掛けずに、襖障子を開いて、のっそり入って来た男を、何気なく見あげた丹兵衛は、かすかな|悪《お》|感《かん》をおぼえた。
海の男の丹兵衛に、身顫いさせる程、その男の風貌は陰惨悽愴をきわめていた。突出た顴骨から顎へかけて、渋紙がひきつれたまま貼りついたようにげっそりと削り落ち、鷲鼻だけが異様に高く、窪んだ|眼《がん》|窩《か》の奥の双眸は、腐った魚の目のようにどんよりとにごっていた。灰色の唇は、絶え間なく痙攣していた。
|会釈《えしゃく》さえするのも|懶《ものう》げに、右膳の前に、どさりと坐ると、左袖が、ふわりとゆれた。左腕は、肩の付根から斬り落されていたのである。
須貝嘉兵衛は、片端になって生きていた――。
右膳は、別に、丹兵衛をひき合せようともせず、
「須貝さん、五十万両の儲け口があるのだが、あんた、その右腕を貸さんか」
と、言った。
嘉兵衛は、しかし、無言で、酒を飲み、右膳を見ようともしなかった。
「敵にまわすには不足のない相手なのだ。小俣堂十郎だ」
それをきくや、嘉兵衛の眉宇が、かすかにひそめられた。
しかし、猶も、沈黙を破ろうとはしなかった。
「小俣堂十郎が、阿古父尉の面を持っている。その面の中に秩父の山中に隠匿した五十万両にあたる財宝の地図がひそめられている、という話は、どうだな、須貝さん」
すると、嘉兵衛は、じろりと、丹兵衛へ一瞥をくれた。
「この男が持ち込んで来た儲け話だ。始終をきいて、拙者は、信じてもよさそうだと思ったのだ。どうせ、相手が小俣堂十郎だ。こちらへ頂戴しても、罰のあたる気づかいはなかろう」
そうさり気なく言いつつも、右膳の眼光は、鋭く、嘉兵衛の面上へ据えられていた。
嘉兵衛は、はじめて、ひくく、
「おれは、そんなことに興味はない」
と、こたえた。
「信じないのか?」
「興味があれば、信じるだろう。興味がないから、信じてみる気も起らんまでさ」
「五十万両の財宝に、興味を抱かんのは、日本中で、あんたぐらいのものだろう」
磊落めいて笑ってみせたが、右膳は、内心、嘉兵衛に対して不快を感じていた。
この時、嘉兵衛は、まるで右膳の胸中を見通してでもいるかのように、冷やかに、
「小俣を敵にまわすのは、まア止したがいい。直心影流の剣で片づけることの出来る一埒ではなかろう、これは――」
と、言いすてたのであった。
見取り図
「三次……おい、三次、起きろ……目をさませ」
烈しくゆり起されて、ねむい目蓋をひらいた三次は、隣りに寝ていた庄吉が、いつの間にか、黒ずくめのいでたちになっているのにおどろいた。
「なんだ、兄貴どうしたんだ?」
「着換えろ」
「どこへ行くんだ?」
「早く着換えろ」
三次が、指さされた枕元を見ると、庄吉のまとっているのと同じ黒い装束が、すでに用意されてあった。
急いで、三次がそれをつけている間に、庄吉の方は行燈へ顔を寄せて、じっと、一枚の紙を覗き込んでいた。
「なんだい、それア――」
「月江さんのいるあの屋敷の見取り図よ」
「へえ。どこで、手に入れたんだい?」
「うちの格子戸へはさんであった」
三次は、目をまるくした。
「暮れて間もなくだ。湯屋から戻って来たら、これが、ばたりと土間へ落ちた。拾いあげて、ひらいてみたら、……三次、みろ、ここに、月江居間、と書いてあるだろう」
「成程――」
「これア、茶室だ。おれがこの前、忍び込んだ時は、母屋の一階の奥に寝ていたんだが――」
「兄貴はあの檜屋敷に忍び込んだことがあるのか?」
「うん、まア……久しぶりに、ためしにな」
「貞宝師匠がきいたら、苦虫つぶすぜ。……やっぱり、あのお嬢さんと兄貴じゃ、釣合わねえ。どうも、おらア、へたにかかわり合うと、とんだ騒動にまきこまれるような気がしてならねえ、なア、兄貴、三味線加津美で、当分間に合せて――」
「うるせえ。てめえに意見される程、この庄吉は、焼きがまわっちゃいねえぞ。ついて来るのがいやなら止せ!」
「いやじゃねえ、いやじゃねえが……兄貴も、依怙地な人間だということなんだ。惚れて来た女はふり向きもしねえで、あんな陰気な――」
「陰気でわるかったな。てめえのようなひょっとこに、月江さんのよさが、わかってたまるか」
庄吉は、見取り図をしまって、立ちあがった。
外へ出ると、月光が冴えて、あたりのあかるさは、目に痛い程だった。濡れているようにあざやかな影法師を踏んであるき出した二人の若者にとっては、実際、夜の世界で呼吸するのがいちばんふさわしい様子であった。そういう生きかたに運命づけられていることへ、微塵も疑いを抱かぬ庄吉が、これからやる行動に、心を弾ませるのは当然である。
「兄貴、忍び入って――どうする積りだ」
「|怕《こわ》いか?」
「笑わせちゃいけねえ」
「味方を平気で殺すような悪党どもだ。今夜あたりは、屹度、あの屋敷へ踏み込んで、月江さんと、あの主人を縛りあげて、阿古父尉の面という代物を奪い取ろうとしやがるにちげえねえ。その予感があったから、月江さんが見取り図を、そっと、格子戸へはさんで――」
「たすけてくれ、という謎をかけたってえわけか」
「そうよ。きまっているじゃねえか」
林を抜け出た時、庄吉は、往還へ注意深く目をくばり、
「おれたちが、先に忍び込むことになるな」
と、呟いた。
「今夜、来なけりゃ?」
「あすの晩だ。でなきゃ、あさっての晩だ。野郎どもが襲って来やがる迄、こっちも寝ずっぱりで張込むんだ」
庄吉は、きっぱりと自分に言いきかせた。
猛犬
「犬がいるぞ。気をつけろ。三間はなれろ」
塀の内側へ飛び降りると、庄吉は、三次に注意した。
――あすこを曲って、植込みを抜けて……。
見取り図を脳裏に描いて、庄吉が、跫音消して進んで行くのを見おくって、三次は、距離をはかって、同じく忍び足になった。
深い植込みを抜けると、|萱《かや》|門《もん》があった。ここをくぐると、露地庭である。外待合をまわって、猿戸の中門に達する、四目垣をめぐらした内側が内露地になる。
庄吉が、猿戸へ手をかけた時であった。
外待合の陰から、突如、唸り声ひとつ立てずに、黒いいきものが、三次におどりかかっていた。
小牛程もある犬であった。吠えずに、曲者を襲撃するとは、よほどの訓練が積まれている証拠であり、この家の主人の要心ぶりが、これだけでおよそ想像がつく。
「く、くそっ!」
三次は、犬とひとつになって、どっと芝生へ倒れた。駆け戻った庄吉は、匕首を抜いて、目を凝らしたが、目まぐるしく転げまわる影は、月光を撥ねて、手を下す隙を与えなかった。
ひくい呻きを発すのは、三次の方であった。犬は、どこかに噛みついているのであろうか。――
「三次! 三次! 大丈夫か?」
匕首をふりおろす一瞬をねらって、庄吉は、おもわずかなりの声をあげて、呼んでいた。
返辞のかわりに、三次が、猛然と犬を組み伏せようと、動作を速くし、はずみで、半間ばかり、横へころげるとそこに石燈籠が立っていて、格闘の姿勢が、ほんのちょっと、静止した。
三次は、噛みつかれてはいなかった。両手で犬の口を、必死に掴み締めて、開かせないようにしているのである。だが、犬の前脚で、衣服をひき裂かれ、かなりの傷はうけている様子だった。
「こいつ!」
庄吉は、匕首を、思いきり、犬の咽喉へ突き立てた。
四肢が、烈しく痙攣し、そのままぐったりとなるまで押えつけてから、三次は、のろのろと起き上った。
「怪我はしねえか?」
「なに、かすり傷だ」
それだけ囁き合ってから、二人は、すばやく中門をくぐっていた。三次は、呼吸こそ荒かったが、休息をもとめる気など、みじんもなかった。動物的な活力だけがこうした若者の唯一の自慢なのだ。
「這うんだ」
内露地に入ってからは、歩くよりも、這った方が危険がすくなかった。
二人は、立木から立木へ、飛び石のわきをするするとつたわって行った。
それから、途中で、飛石道をさけて、砂雪隠のある植込みの方へまわった。
たしかに、見取り図を与えられたのは、便利であった。茶室の裏手へまわることが出来たのだ。
勝手にまで三間の距離に迫った時――。
月江の美しい寝顔を脳裏に描いていた庄吉の耳を、なにかおそろしい怒気をふくんだ声が打った。庄吉と三次のからだは、ぴたっと芝生へはりついた。しかし、茶室の中にこもった殺気は、庄吉と三次の敏感な神経に、ぴりぴりとつたわっていた。二人とも、月江が暴漢に縛りあげられている図を想像した。
「兄貴!」
「…………」
「やっつけようか?」
「うむ!」
二人は、すっと身を起した。
拷問
だが――。
二人が、決死の一歩を踏み出そうとしたとたんに、茶室から、ふたたび、怒声があがった。こんどは、その文句が、明瞭にききわけられた。
「……貴様が、娘のかわりに、この茶室に寝ていることぐらい、見破れないおれだと思うか!」
そう叫んだのである。
――そうか。主人の方が、ここで縛られてやがるんだ。
庄吉は、三次に伏せろと合図しておいて、そおっと、勝手口へ忍び寄った。庄吉は、この屋敷の主人に対しては、すこしも好意を持ってはいない。月江を助けてもらい乍らも、謝意をしめすのさえ、その挙措言辞をおしんだ男である。武士としての当然の傲慢とは、またどこかちがった陰険な態度が、庄吉を、むっとさせたのだ。
――どういうざまをさらしているのか、見物してやれ。
というひややかさで、庄吉は、勝手口の隙間へ、片目を寄せたのであった。
茶室の構造は半畳の炉を中心に、床前、道具畳、踏込み畳、客畳の四畳にわかれている。勝手口につづくのは、踏込み畳である。
この屋敷の主人小俣堂十郎が、後手に縛られて、坐っていたのは、踏込み畳で、庄吉の視線は、その後姿を見た。
堂十郎の前に立ちはだかっているのは、あの逞しい体格の町人であった。左右に、浪人者たち。
月江の姿が、そこになかったので、庄吉は、安堵した。町人は、|凄《すさま》じい殺意をこめた眼光を、堂十郎に注いで、その返辞を待っている様子であったが、到底期待した返辞をきくことは出来ないと読んだのであろう、浪人者たちへ、
「こいつの両足を、炉へ突っ込め」
と、命じた。
浪人者たちは、手にした縄で、堂十郎の足首を、しっかりとしばりあげると、仰向けに突き倒して、ずるずるひきずった。
炉には、炭が、赤く焼け、焔をゆらめかせていた。
「おい、小俣堂十郎! いいか、貴様の足首を焼いてやるぞ! じゅうじゅうと肉が焼ける匂いは、こっちにとってはなつかしいものだ。海のむこうの|呂《る》|宋《そん》や安南ではな、死人は野天で焼きすてるならわしなのだ。おれは、一緒に漂流して、病死した仲間を、つぎつぎと焼いてやったのでな、あの匂いはその頃を思い出すだろうぜ、尤も生きた奴を焼くのは、はじめてだ。死人の焼けるのよりは、もっといい匂いにちげえねえ」
にやりとして、町人は、|跼《かが》みかかると、わざと、堂十郎の足の裏をかるくたたいてみた。
「ふん、栄養は、よさそうだ。評定所のお偉ら方でおさまっていたのだからな、|跣足《はだし》で土など踏んだことはねえだろう。……え、おい、おめえさんがむかし|拷《ごう》|問《もん》にかけた者は、数知れねえだろう。その罰があたって、こんどはおめえさんが、拷問にかけられる番だ。ざまあみやがれ小俣堂十郎、と手をたたいている獄門の幽霊が多勢いるだろうぜ」
町人の罵倒が、庄吉に、あっと肚裏で、驚愕の叫びをあげさせたのも、無理はない。
――そうか、思い出したぞ、小俣堂十郎め! 忘れちゃならねえ名前だったんだ!
四年前――。
梅津長門が、将軍家ご落胤の雪姫を犯した秘密を、闇に葬ろうとして、執拗きわまりない計画で、刺客をはなった評定所目付が、この男なのだ。梅津長門が、その為にどんな危険にさらされたか、庄吉は、この目で見ている。
小俣が、ついには、雪姫を亡きものにしようとくわだてたことも、庄吉は、きいて知っている。
天涯孤独の庄吉にとって、長門と雪姫は、親よりも大切な存在である。この二人のためならば、文字通り水火も辞さない庄吉であり、現に、それをやってのけて来たのである。
――ふうん、こいつは、面白い! 小俣堂十郎が、こんなところに隠れていやがって、どうやら、ひどい仕返しをされようたア、上出来のめぐる因果話というものだ。
庄吉は、行われようとする残忍な拷問に、両のこぶしをかためて、目を皿にした。
「おい、小俣! どうでも、阿古父尉の面を、こっちへ渡さねえか?」
町人は、その要求をもういっぺん持出してみて、依然たる相手の沈黙に、急に、冷酷無比の無表情になると、
「やれ!」
と、言いはなった。
たちまち、堂十郎の両足は、燃える炭の上へ、かぶされた。そして、徐々に、指先から、まっ赤な火中へ、突き込まれて行った。
「う、う、う、うっ……」
おそろしい呻きとともに、堂十郎のからだが、畳の上で、尺取虫のように反った。
しかし、屈強の浪人者二人に、しっかとその両足をつかまれているので、いかにもがこうとも、火中からのがれることは出来なかった。
堂十郎の胴が、右に左に、よじれた。
庄吉の眼眸がとらえた堂十郎の逆さ顔は、およそ、生れてはじめて目撃する名状しがたい苦痛の形相をしめした。
「小俣! 苦しいか、苦しがれ! 自業自得だ!」
町人は、堂十郎ののたうつ腰を、蹴った。
一瞬の間
堂十郎が、|悶《もん》|絶《ぜつ》すると、町人は、その両足を、炉からひきあげさせた。
浪人者に活を入れられて、意識をとり戻した堂十郎は、|流石《さすが》に、抵抗力を出しきった弱りで、悲しげな溜息をもらして、胸を喘がせた。
町人は、|煙管《きせる》をとり出すと、一服すいつけて、うまそうに、ぷかりと煙を吐いた。それから、急におだやかな口調になって、
「なア、小俣の旦那、そんなに強情をはらずに、おれの相談に乗ったらどうだ。……|秩《ちち》|父《ぶ》の宝を、おれは、一人占めにしようというのじゃねえのだぜ。お前さんと山分けしようというのじゃねえか。十右衛門が生きて帰っていれば、山分けしていたんだろうじゃねえか。十右衛門の代りの乾分のおれと山分けしようというのは、べつにりくつが通らねえ話でもあるまい。……え、おい、旦那、いい加減で、ききわけたらどうだ。……お前さんは、おれの仲間を、小娘を横取しやがった若僧どもの長屋の物置で、殺したろう。それも、ちゃんと知っていて、ゆるしてやろう、といっているのじゃねえか」
これをきいて、庄吉はわが耳をうたがった。
――あの浪人者を殺したのは、この悪党どもじゃなくて、小俣堂十郎だったのか!
堂十郎は、物置に忍び寄って、浪人をひと刺ししておいて、何食わぬ顔つきで月江を迎えに入って来たのであった。
――しかし、どうして、小俣が殺したのだろう?
それは、庄吉には、頷けないことであった。
ただ、小俣が殺したのを町人が知っているのは、おそらく、浪人者の一人が、いずれ仲間を奪還すべく、自分たちのあとを跟けて来て、どこかの物陰から、様子をうかがっていたからに相違ない、と庄吉にもわかった。
「お前さんは、若僧たちが、おれたちの仲間を、番所へ突き出すのを心配したのだろう。あいつが、町奉行所で阿古父尉の面のことを――つまり秩父の宝のことを、あらいざらいぶちまけたら……つまり、お前さんが、十右衛門と|共謀《ぐ る》になって、抜荷買いをやった罪がばれるのをおそれた。そこで、こっそり、殺して、若僧どもには、このおれたちが殺したように見せかけたのだろう。……若僧どもに、あいつをむざむざ番所へつき出させるおれだと思うのかね。見くびってもらうまい。まわりをさわがせたくねえから、夜に入るのを待っていただけのことよ。朝になったら、若僧どもは、枕をならべて、おとなしく仏になっていたし、仲間は笑っておれたちと一杯やっていた――その段取りをつけていたんだ。あわてて、あいつを殺すところを見ると、小俣堂十郎も、耄碌したものだて――」
町人は、せせら笑った。
堂十郎は、あくまで、こたえようとはしなかった。
「血をすすりあった仲間を殺されても、阿古父尉の面をここへ出してくれりゃ、水に流そうといっているんだぜ、おれア――」
町人は、忍耐強い男のようであった。ゆっくり腰を据えて、堂十郎の強情と根くらべをする気色とみえた。
かなり長い息苦しい静けさの時が過ぎた。
やがて――。
はじめて、堂十郎の口がひらいた。
「二千両、出そう」
ひくい|嗄《しわが》れた声音であった。
「二千両?」
町人は、じろりと堂十郎を睨んだ。
「ふざけないでもらおう。秩父の山にかくした宝は、ざっと見つもっても、百万両はある筈だ。それを一人占めにして、この助右衛門をたった二千両で追っぱらおうというのは、少々虫がよすぎるぜ、旦那。……唖がはじめて口をきいたにしては芸のねえせりふだ」
堂十郎は、再び沈黙をまもりはじめた。
「ようし! しかたがねえ、両足の指が一本のこらず焼け落ちるまでやるよりほかはねえ」
その言葉をきいた瞬間、堂十郎は、いままでの彼の態度にふさわしからぬ、烈しい恐怖をあおらせて身もだえしてうしろへ逃げようとした。つまり、正確に言えば、踏込み畳から、道具畳へ、からだをずらしたのである。
もとより、とらえた鼠を弄ぶ猫の残酷さで、町人と浪人者たちは、にやにやし乍ら、堂十郎が、醜くもがきつつ壁を仕切った棚までしりぞくのを眺めていたのである。実は、堂十郎は、相手方の心理をたくみに利用して、あることをくわだてたのだ。
勝手口の隙間から、庄吉の片目が、堂十郎のそのくわだてをとらえた。
堂十郎の縛られた後手が、じりじりと、ほんのすこしずつ、移動しているのだった。
敵三名は、堂十郎が作ってみせた恐怖の表情を、どうやらそろそろ薬がきいてきたぞ、と眺めることに気をとられていた。
堂十郎の手は、棚に置かれた茶道具のうちの、ひとつの|筐《はこ》に、かかった。
筐の蓋が、かたりとはずれた次の瞬間、堂十郎は、何かを掴んで、ずるずると臀をずらせて仰向けに倒れた。
それとは知らず、町人は、
「小俣の旦那、そんなに焼かれるのが怕いのなら、もういつまでも強情をはるのは止しゃいいんだ。……お前さんの了簡は、まったくわからねえぜ」
と首をひねった。
堂十郎は、わざと、恐怖を誇張し、肩で呼吸して、全身をゆすってみせつつ、手につかんだものを徐々に、わき腹のところへのぞけて行った。
――あ! 短筒だ!
と、庄吉が、心で叫ぶのと、その筒口から、火を吹くのと同時だった。
町人の姿勢が、ぐらっと崩れたとみるや、前へのめった。
金の力
突如として起った変事に、咄嗟な沈着をしめして処置をあやまらないためには、よほど頭脳が冴え、肚が据っていなければならない。
首領を仆された浪人者二人が、そんな男でないことは、堂十郎のつけ目であった。
もし、浪人者のどちらかが、首領以上の冷静さを持っていると睨んだなら、堂十郎は、敢えて、短筒を撃たなかったであろう。
首領を殺されても、浪人者たちが、拷問の手をゆるめなかったならば、堂十郎は、いくばくもなくして敗北し、阿古父尉の面をさし出したに相違ない。
だが、浪人たちは、俯伏したなり動かなくなったかぴたん助右衛門を、茫と見おろしたまま、なすべきすべを知らなかった。
ゆっくりと起きあがった堂十郎は、ひややかに、虚脱のていの浪人者たちを見あげていたが、
「貴公たち、どうする?」
と、静かな口調で尋ねた。
「どうする、だと?」
一人が、目をむいたが、その姿勢に殺気はなかった。
「親分の仇を討つか、それとも、わしの相談にのるか、というのだ。わしが、脅迫されても、足を焼かれたぐらいで、降服する人間でないことは、貴公たちが、今見た通りだ。いやしくも、評定所御目付として、全国の大名をおそれさせたわしだ。なまじっかな拷問には音を上げぬ。……しかし、相談となれば、話はおのずからちがってこようというものだ」
浪人者たちは顔を見あわせた。
――どうする?
――殺すか?
ふたつの表情を読んだ堂十郎は、ひややかに笑うと、
「首領を殺され、またわしを殺すと……貴公たちは、あぶはち取らずではないか」
と、言った。
浪人者たちの表情が、その言葉に動かされるのが、外から覗く庄吉の目にも、はっきり映った。
――ちょっ! 間抜け野郎ども!
庄吉は、肚の裡で、吐きすてた。
立っている浪人者たちが、いかにも悄然として、捕えられている堂十郎の方が、傲然としているのだ。この茶室の空気は、一変してしまったのだ。支配権は、堂十郎に、あきらかに奪いとられたとみていい。
「どんな相談だ? それをきいてから、乗ってやろう!」
妥協の意志が、その声にふくまれていた。
「この綱を解いてもらおう」
「油断させておいて、われわれも、一撃で|仆《たお》そうというこんたんか?」
「短筒をそちらに渡しておく。もうほかに、貴公たちを仆す武器を、わしは持ってはいない」
堂十郎は、いかにも心安げに笑声をたててみせた。
所詮、堂十郎の方が役者が上であり、演技力は比較にもならなかった。ただ、かたちだけの有利な立場が、浪人者たちにあったにすぎない。
一人が、短筒を握り、一人が、堂十郎のいましめを解いた。
「さア言え! きこう――」
虚勢をみせて詰問する相手を、堂十郎は、殆ど無視した態度で、火傷の足指をしらべ、うしろの茶釜をひきよせると、中へ両足入れて水で冷した。
「おい、言わんか! 相談とはなんだ?」
|苛《いら》|立《だ》ってあびせるのへ、堂十郎は、相変らず、ひくい口調で、
「一人百両ずつで、手を打とうではないか」
と、言ったのであった。
「百両?」
「左様。わしは、かけひきはせぬ。二百両が、わしの出せる限度だ。……それで不服なら、もう一度しばって、足なり手なりを焼くがよい」
浪人者たちは、ふたたび顔を見合せた。
――どうする?
堂十郎は、掩いかぶせるように、言葉を継いだ。
「阿古父尉の面は、わしの手もとにはない。水野越前に、奪われたのだ。水野は、十右衛門が秩父に匿した財宝をかぎつけて、地図の入っている阿古父尉の面を、わしからとりあげた。わしが、職を追放された原因も、それにある。……信じたくなければ信じなくともよい。だが、この屋敷内に、阿古父尉の面がないことだけは、神明に誓って断言出来る」
「よし、わかった。一人二百両で、手を打ってやる」
「わしは、かけひきはせぬ、とことわった筈だ」
「金は、どこだ?」
「その中床の茶掛をはずすがよい」
一筆がきの墨絵に、「江の島も跡を出す気の汐干潟」という一句を入れた茶掛をはずすと、壁のまん中に、四角に区切った線が引かれていた。
その部分だけが、すっぽりと抜き出せたのである。
穴の中に、二百両かっきり入っていた。
二百両が、浪人たちにとって、非常に大金であることは、一瞥した瞬間のかくしきれない興奮の目色で、あきらかだった。
「持って行け。……但し、これに味をしめて、後日また、訪問されるのは御免蒙りたい」
「二度とはやってくるものか」
「約束してもらおう」
「承知した」
浪人者たちが、それでも、油断ない身構えで、潜り口へあとずさりすると、堂十郎は、
「おい、貴公たち、首領を、このまま、すてておくのか。こちらは、迷惑な話だ」と呼びかけた。
「庭へでも埋めてもらおう」
「それでは、親分もうかばれまい。冷淡な乾分をもったものだ」
似た顔
浪人者たちが去って、しばらくしてから、堂十郎は、勝手口から出て、母屋にむかって、火傷のために、ひどくのろのろとした足どりであるいて行った。
勿論、庄吉と三次の姿は、そこから消えていた。ふかい木立寄りの石燈籠の陰に身をひそめて、浪人者たちと堂十郎をやりすごしたのであった。
「兄貴、こりゃ、いったい、どういうことになるんだい?」
「おれにも、わからねえ。……とに角、小俣堂十郎の方が、あのでっぷり野郎より、一枚役者が上だったことにまちげえはねえや」
堂十郎の消え去った闇をにらみ乍ら、庄吉は、首を振った。
「そうか! あいつだったんだ! ……この屋敷に、あいつが隠居していることを、梅津の旦那に、知らせてもいいものかどうかな……」
「兄貴、どうする? このまま、ひきかえすのか?」
「いや――。三次おめえ、一足先にけえっていろ。月江さんに危害が加わらねえとわかったからには、もう生命がけになる必要はねえ。……ただ、おれは、ちょいと、天井裏から、あのさむらいの振舞を覗いてくらア」
「大丈夫かい? あいつに、つかまったら、それこそ――」
「心配するな。伊達に忍びの術を修業したんじゃねえ。こういう時につかわなけりゃ、つかう時があるものか」
やがて、庄吉は、母屋の屋根を、音もなくつたって、なんなく、一階の天井裏にしのび入っていた。
堂十郎が、書院に入って、一人で火傷の手当をする様を、庄吉は、次の間の天井板をはずして、薄鴨居へ手をかけ、|筬《おさ》欄間の隙間から、そっとうかがい見た。
孤独になった時の堂十郎の顔は、陰惨の二字につきた。人目を意識した時だけこの人物は、仮面をつくるのであった。
手当がおわると、堂十郎は、手をたたいた。すぐに、廊下をすり足で近づく音がして、襖が、開かれた。
両手をつかえたのは、月江であった。
顔を伏せて、主人の言葉を待つ姿勢が、内心のおののきを抑える不自然な硬直をみせていた。
「月江!」
「は、はい」
「そちは、気がついたな?」
月江が返辞をためらっていると、堂十郎は、おだやかに、
「気がついていれば、それでよい。ただ、今夜、暴漢どもが侵入したことを、決して口外してはならぬぞ」
「はい。いたしませぬ」
「わしは、あの茶室に、人を殺してすててある」
「え?」
ぎくっとなって、擡げた月江の顔を、庄吉は、胸をおどらせて眺めた。
庄吉にとって、こんな惹きつけられる美貌は、またとないのだ。のみならず、この時、はじめて、気がついたことだったが、庄吉は、ふと、
――誰かに似ている!
と、思った。
「死骸は、明朝、爺やに、とりかたづけよ、と申しておいてくれ」
「あ、あの――」
「庭の片隅へ埋めておくがいい。檜のこやしになろう」
冷然と言いすてて、堂十郎は、ちょっと思案する様子であったが、
「それから……、もしかすれば、わしは、当分この屋敷を留守にするかも知れぬ、そちは、勿論、ずうっと住んでいるがいい」
「どらちへお行きになるのでございますか?」
「旅に出る」
それだけこたえて、堂十郎は、立ち上ると、踏込床へ寄り、手をのばして、小壁へさわった。すると、どういう仕掛になっているのか秋色の山水の掛軸をかけた壁が、くるりとまわって、ぽっかりと空洞があいたのである。
堂十郎が、その奥へ、姿を消すと、壁は、元通りにしまった。
月江は、すでにこの仕掛を知っているとみえて、無表情のまま、襖をしめて、去って行く。
――あの奥は、なんだろう? 秘密の地下室でもつくってあるのかな? 阿古父尉の面も、そこにかくしているかも知れねえ。面にはめこんだ秩父の山奥の地図をひらけば、百万両の財宝のありかが、わかるたア、ごうぎだぜ、話半分にきいても、なんだか、こう、じっとしていられねえ。……むざむざ、小俣堂十郎のような悪党の一人占めにさせておいちゃア、三日月小僧の名が泣くというものだ。
と、自分に言いきかせた庄吉は、身軽く、畳へ、とんと、とびおりていた。
月江の居間は、そこから、三部屋ばかりへだたっていた。
音こそ立てなかったが、障子戸をひらくや、廊下からしのび入ったあるかないかの風が、行燈の灯をまたたかせた。
その気配で、振りかえった月江に、庄吉は「しっ!」と片手をあげてみせてから、微笑した。
「とんだ頃合に、お邪魔いたしやす」
月江は、あっけにとられて、言葉もなかった。
「いえね、せっかく、お嬢さんが、このお屋敷の見取図を、くだすったので、早速に、参上いたしてみたんでござんすが――」
「見取図を? わたしが?」
月江は、怪訝そうに、細い眉をひそめた。
「おや? この見取図は、お嬢さんが、あっしどもの家の、格子戸へはさんでくだすったのじゃないんで?」
と、さし出す見取図を、月江は、一瞥しただけで、かぶりをふった。
「わたしでは、ありませぬ」
「すると……いったい、どなたで?」
こんどは、庄吉の方が、首をひねる番だった。
「わたしには、わかりませぬが――」
「このお屋敷には、あの小俣堂十郎の旦那と、お嬢さんと、爺やさんと、たしか、お三人だけでござんしたね?」
「はい、そうですけど――」
「わからねえ。どうも、わからねえ」
庄吉はそろえた膝小僧へ、神妙に置いた手を、顎にかけて、しきりに、考え込んだ。しかし、考えたところで、判明する謎ではなかった。
ただ、この時、たったひとつだけ、電光のように、脳裏にひらめいた発見があった。
――あっ、そう!
庄吉は、ぱっと顔をかがやかせて、あらためて、月江の顔を瞶めた。
――似ているんだ! 雪姫さまに似ているんだ!
庄吉は、大きく頷いた。
ある想像が、陽光がさすように、庄吉の心を、ぱっとあかるくした。
実は、月江が、貞宝宅へおとして行った赤珊瑚の念珠と、庄吉の持っていたそれとが、まったく同じであった不思議が、庄吉には、この発見で、解けるような気がしたのだ。というのは、庄吉の持っていた念珠は、雪姫からもらった品だったのである。
しかし、つぎの瞬間――。
――こ、こいつは、うっかりしていられねえぞ!
庄吉は、自分の想像に、狼狽した。そして、月江に、念珠の件は、喋るまい、と利己的な知恵を働かせたのであった。
――万事は、たしかめてからだ!
「お嬢さん。ひとつ、おねがいがござんすが――」
「なんでしょうか?」
「小俣の旦那は、旅に出る、とか仰言いましたね。……いえ、つい、その、ちょっときいちまったんで……」
もし、その日時がわかったら、なんとかしてこちらへ知らせて欲しい、と庄吉は、たのんでみた。
月江は、承知した。
庄吉は、屋敷をぬけ出て、森閑とひそまった暗黒の大通りへ出ると、ひとつ大きな呼吸をした。
大変なことになりゃがった! 月江さんは、もしかすると、雪姫さまの血縁かも知れねえ。
そうだったら、自分の恋はどうなるのだろう? 浪人屋敷の小間使いだからこそ、成るか成らぬか、いずれはあたってくだける了簡にもなったのだ。
うかつにも、いまのままで、月江が雪姫と似ていると気がつかなかったのは、雪姫が将軍御落胤であるという、雲の上から降りて来たお人として、自分の恋する娘などと比較するさえもったいないという卑下が意識下で働いたからに相違ない。
また、月江の念珠と雪姫からもらった念珠を見くらべた折にも、その不思議さから、二人の身の上をむすびつけてみる気を起さなかったのは、やはり、御落胤と小間使いの差のあまりの遠さ故であったろう。庄吉は、その時は、ただ、偶然の一致に目を瞠っただけであったのだ。
しかし、いまとなってみれば――。
雪姫の御落胤生活を、かげから監視したのは小俣堂十郎であり、月江はその人物の小間使いであったのだ。この因縁にも、大きな疑惑をはさむことが出来る。
――こん畜生! 他人の空似ってことがあらア、小俣堂十郎が、面倒みていたからこそ、同じ念珠をどっちへもくれるってことがあるじゃねえか。庄吉、よけいな想像はやめにしようぜ。
庄吉は、自分をしかりつけると、すたすたと、わが家めざして、いそいだ。
朱桜の人
澄みきった日本晴れだった。
隅田川の流れは、その澄んだ空の色と、河岸の家並と上り下りの船の影を映して美しい。
石崖には、幾人かの釣人が、のんびりとうずくまっていた。
時折、うしろの道を、明るい下駄の音をたてて、近くの花街の女たちが行き過ぎるほかは、このあたりは、まったく静かな場所であった。だから、釣人たちは、ここをえらんでいるのであった。
その釣人の中に、梅津長門が、交っていた。相変らずの黒羽二重の着流しで、その秀麗な横顔も、四年前と変りはない。顔が、日焼けているのは、文字通り青天白日の身となって、釣を愉しんでいるからであろう。
「どうも、いかんな。今日は、あたたかすぎて、どうやら魚も昼寝をしているらしいな」
と、呟いたのは、隣りに腰を下している町人であった。いなせな身なりであった。しぶい|古渡胡麻柄《こわたりごまがら》の|唐《とう》|桟《ざん》に、博多帯をしめているのだが、その唐桟が、ふつうの品物ではない。唐桟は、お召や高貴織のように光耀がないのが特色だが、この男の着ているのは、つやを殺した色調が、なんともいえないほど、しっとりとして|粋《いき》だった。
豆しぼりの手拭いで盗っ人むすびにしているが、それはどうやら|陽《ひ》|除《よけ》のためではないらしく、知人の目をさける為であろう。
いずれ、名のある札差の主人が、茶屋遊びにもあきて、孤独を愉しんでいるとも受取れる。脇においている弓張提灯型|魚籃《び く》も、立派な品であった。
男は、長門の方を向いて、目で笑い乍ら、
「どうです、ひとつ、思いきって、海釣をおやりになりませんか」
実は、長門も、まだ一尾も釣りあげてはいなかった。
「そのうち、釣れるでしょう」
そっけなく返辞をしながら、長門は、男の腕に、朱桜の刺青が、ちらとのぞいたのをみとめた。
――かたぎではないのか、この男は――。
長門は、不審に思って、あらためて、相手の顔を観察しようとした。
すると、その双眸が、意外にも鋭く、こちらを凝視しているのだ。
長門は、はっとした。
――これは、町人の目ではない!
「船へおさそいするのは、せいご[#「せいご」に傍点]やはぜ[#「はぜ」に傍点]を釣るほかに、もっと大きな宝を釣りあげる御相談があるからです」
「…………」
長門は、口をひきむすんで、睨むように見かえしただけであった。
「梅津さん、あんたも、もう長い間、遊んでくらされている。せっかくの腕前が、夜泣きをしているのではありませんか」
意外にも、相手は、こちらの名まえまで知っていたのだ。
「お前さんは、どなただ?」
それにこたえず、男は、
「梅津さんでなければ、やれない危険な仕事を、ひとつ、おねがいしたいのですがね。もし、やりとげて下されば、あんたは、それこそ、一生、こうして釣をしていられる結構なご身分になれる。儲けは、折半ということで、あんたの手に入るのは、ざっと五十万両――」
「お前さんはどなただ?」
長門は、かさねて尋ねた。
ほんのしばしの沈黙ののち、男は、ひくい声で、名のった。
「わたしは、北町奉行遠山左衛門尉|景《かげ》|元《もと》」
訴状
ぎい……ぎい……ぎい……
艪を鳴らして、一艘の屋形舟が、|舳《へ》|先《さき》を川上にむけて、ゆっくりとのぼって行く。
浅草御米蔵を過ぎて、御廐河岸の渡しも越えたところ――。
諏訪町の、河岸にならんだ舟宿のむこうに、駒形堂がくっきりと、墨絵そのままの美しいたたずまいを浮きあがらせている。
「好い日だな」
|銀《ぎん》|煙管《ぎせる》をとりあげて、うまそうに、ぷかりと紫煙をはいて、川面へ投げた眼眸を細めたのは、遠山景元である。
梅津長門は、その前に、端然と座して、相手の横顔を眺めていた。
さそわれるままに、舟に乗って、もうかなり経ったのだが、まだ、景元は、話し出そうとしないのであった。
どこから見ても、これが町奉行とは思われない。放埒を尽した大店の通人というところ――。
剣をとっては無双、町奉行としての才腕は傑出し、しかも、尺八三弦等の遊芸の末技にいたるまで通暁している。殆ど三面六|臂《ぴ》とも称すべきこの景元は、いまや江戸っ子のあこがれの的になっている。
長門は、こうして対座してみて、その人気の程も、うなずけるような気がしていた。
黙っていても、なごやかな雰囲気をつくる人柄である。町奉行の威厳は、ちゃんとふところにしまってある、という|綽々《しゃくしゃく》たる余裕が、相手にあたたかさを感じさせるのだ。
やがて、景元は、長門を振りかえると、微笑し乍ら、
「世が世であれば、あんたは、二千五百石取りだ。もしかすれば、わしの代りに、町奉行職に就いていたかも知れぬ。それだけの英才であった、ときいて居る」
と言った。
「そういうお世辞は、拙者にとっては屈辱になります」
「いや、あんたが、かげから、わたしに協力してくれるに、最も、ふさわしい人だという意味で言うのさ。あんたに、現在の身を卑下する了簡があるとは考えられぬ。この景元輩を、|剃下奴《そりさげやっこ》にして|僕《しもべ》にも連れてやろうずの見識を持って欲しいと願って――ひとつ、相談があるわけだ」
「拙者は、別に公卿の子胤ではありません。いったん、身を持崩してしまえば、|市《し》|井《せい》|無《ぶ》|頼《らい》の|泥溝《ど ぶ》の臭気は、もう一生ぬけそうもないのです。……まア、せいぜい、お役に立つとすれば、まだこの腕が使い様では、かなりの強敵を引受けられるのではないか、という自惚れがあることだけでしょう」
「それさ、その腕が、こっちに借りたい。相手が小俣堂十郎では、この景元も見渡したところ、使える右腕も左腕も持合せていないのだ」
「なんと言われた?」
長門は、わが耳を疑った。
「小俣堂十郎なのだ。あんたに、敵にまわしてもらいたいのは――」
景元は、微笑を消して、長門の表情の動きを、じっと見まもった。
「小俣が、まだ、何か――水野殿の失脚でもくわだてているというのですか?」
「そうではない。小俣自身は、もう政治の中心から遠く離れているし、野望もすてている筈だ。……こっちが欲しいのは、小俣が持っている財宝さ、百万両の財宝――」
「小俣が、そんな財宝を?」
「海賊を手先にして、せしめた財宝だ。当然、こっちに頂戴しても、文句はない、と思う――」
「小俣が、そんな悪事を働いた、とどうしておわかりになったのです?」
「悪事というものは、仲間割れによって、必ずばれる。……これが、|箱《はこ》|訴《そ》された」
と言って、景元は、懐中から、一通の手紙をとり出して、長門に渡した。
評定所の門前に、訴状人の箱がそなえつけてあり、何人が訴状をなげ入れてもかまわないことになっている。かつては、長門も、この箱訴によって、小俣堂十郎のきびしい探索を受ける身となったのである。長門と雪姫との秘密は、斬った室戸兵馬の小者の訴状によってあばかれたのである。
運命は、皮肉にも一転した。
こんどは、逆に、小俣堂十郎が、箱訴によって、その罪状をあばかれる番となったのである。
長門は、訴状をひらいてみた。
『とり急ぎ、お報らせする。
先の評定所留役御目付小俣堂十郎は、在任当時、筑前国志摩郡唐泊浦の千六百石積伊勢丸の船頭十右衛門と共謀して抜荷買いをやり、百万両におよぶ財宝を、秩父山中に隠匿した事実がある。
船頭十右衛門は、すでに唐土に於て没し、その手下某が生きて還り着き、小俣堂十郎と、財宝分配の件を談判した際、これまた堂十郎の手によって打ち果された。今や、財宝は、堂十郎ただ一人の占めるところとなった。この上は、公儀の威力によって、財宝を堂十郎より召しあげ、貧窮の民に施与されんことをのぞむ』
景元は、長門の顔に大きなおどろきの色が散るのを眺め乍ら、はじめて奉行らしい口調で言った。
「この訴状一通だけなら、わたしも、首をひねったろう。小俣が、御目付の職掌を利用して、抜荷買いをやった事実は、わたしは、ちゃんと知っていたのだ。ただ、その証拠が掴めなかった。わたしに、このことをそっと知らせてくれたのは、評定所庭番(諸吏の失政私曲を隠密にさぐる探偵)の一人であった。小俣は、評定衆のうち。長崎奉行の変死も、小俣の魔手によるもの、と今では、わたしはにらんで居る。また、財宝を船から運び出すにあたって、川船改役を味方にしなければならなかったろう。長崎奉行と同様、三年前に、深川中洲の川船改役が一人変死して居る。その改役が、密輸船に極印打渡したことはあきらかだ。その挙句が、むざんにも小俣に暗殺された、という次第。以上の事実によって、わたしは、かねてから、小俣が、夥しい財宝を隠匿しているに相違ないと想像していた。そこへ、この訴状だ」
景元が、この訴状を書いた人間を、仲間の一人と睨んだのは、明察であった。
これを書いたのは、助右衛門にやとわれたあの浪人者たちのどちらかであったのだ。
|室《むろ》|戸《と》|藤《とう》|馬《ま》
船は、ゆっくりと、吾妻橋の下に来た。
この時、橋の欄杆に|凭《よ》りかかっていた二人の武士のうち、
「うっ!」
と、烈しい呻きに似た声を発して、ぐっと首をのばしたのは、須貝嘉兵衛にまぎれもなかった。
「どうしたんだ、須貝さん?」
連れの若い武士も、つられて視線を下へ落した。
屋形船のふなべりに肱をもたせて、端麗な横顔をのぞかせている――それを一瞥した連れの武士は、嘉兵衛よりもさらに大きな驚愕をあらわした。
「あ、あいつ――梅津長門!」
血相変えて、欄杆をおどりこえかねまじい勢いの連れを、嘉兵衛は、
「さわぐな! 藤馬!」と、鋭く制した。
連れの若い武士は、室戸藤馬と言う。長門に斬られた室戸兵馬の実弟だった。あの当時、藤馬は、備前の小さな藩の次席家老の家に養子に行っていた。腕は立つが短気で粗暴な男であった。ほんの些細な事から、同輩と果合いになり、傷つけて、江戸へ舞い戻って来たのは、つい半年ばかり前である。
「見のがすのか、須貝さん?」
藤馬は、片眉をつりあげて、なじるように言った。
嘉兵衛は、こたえなかった。
この四年間、嘉兵衛の脳裏から、長門と雪姫のことは、一日も離れたことはなかった。そのつもりになれば、二人の家をつきとめるのは、さして困難ではなかった筈だ。それをしなかったのは、剣客としての嘉兵衛の心懐に一片の邪念も含まれていなかったからであろうか。
嘉兵衛は、長門とのたたかいで、剣理の妙を会得したい剣客の境地に立ち、そして、敗れたのである。片腕を失って、生きのびたことに自嘲があったが、長門への憎悪は微塵も湧かなかった。もう一度たたかう闘志もすてて、今日まで、廃人のその日その日をすごして来た嘉兵衛である。
「兄の仇討をする柄ではあるまい」
嘉兵衛が、ひややかに言いすてると、藤馬は、かっとなって、
「あんたはどうだ、ときいているんだ! あんたは、もう梅津と決戦する勇気はないのか? 敗れるときめているのか?」
と、噛みつくような語気を吐きかけた。
それにこたえず、嘉兵衛は、首をまわして、舟が、橋をくぐって、松平越前守邸の塀のつらなる本所側の河岸へこぎよせられるのを眺めた。
「あの町人は……遠山らしい」
と、呟いたが、それは、藤馬にはきこえなかった。
嘉兵衛は、藤馬が、さっと舟を追おうとするのへ、
「藤馬! 止さんか! 貴様ごとき腕前で倒せる梅津だと思うか!」
と、叱咤して、|猿《えん》|臂《ぴ》をのばして、その背をつかんだ。
じろりと振りかえった藤馬の形相には、強い侮蔑の色が|刷《は》かれていた。
「須貝さん、おれは、まだ土性骨まで腐っちゃいねえぜ。おれの兄貴は、旗本の中でも、一番立派な人間だったんだ。女も知らず、酒も飲まず、学問と剣道にうちこんだ武士だったんだ。それを……あんな野郎に、むざむざ斬られて、死んでも死にきれるものか! 兄貴の無念を、弟のおれがはらしてやるのに、腕の相違などにひるんでおれるか! おれの太刀には、兄貴の魂が宿っていらア、そこいらの無頼の徒輩と喧嘩をするのとは、わけがちがうぜ」
嘉兵衛はそう言いはなつ藤馬をあわれむように瞶めていたが、
「よかろう。それ程仇討がやりたいなら、やるがよい。但し、卑怯な真似はするな!」
「余計な忠告だ!」
藤馬は、嘉兵衛をすてて、足早に橋を渡って行った。屋形舟は、源森橋をくぐって、掘割へすすみ入った。右は、瓦焼場で、左は、水戸の下屋敷である。藤馬は、どこまでもあとを跟けて行った。
ほどなく、舟は、|業《なり》|平《ひら》橋のたもとにある舟宿の石垣へ着けられた。
上ったのは、梅津長門一人だけであった。
舟にのこった景元へ、丁重に一礼して歩き出すのを、ずうっとうしろの物陰から覗いていた藤馬は、
「ようし! うめえぞ!」
と、呟いた。
長門の足の向いた方角は、押上村だった。もうそこは、一望ひろびろとひらけた田園であった。
両国狂い
当時――。
江戸の盛場は、浅草と両国であった。
両国は、東両国(本所側)と西両国(広小路)にわかれていた。芝居、|観《み》|世《せ》|物《もの》、寄席、楊弓店、水茶屋などは、広小路に|櫛《しっ》|比《ぴ》していた。それに、飲食店、小商人、煮売店、行商人、|香具師《や  し》、野天芸人など、道路を除くほかは空地はない。
東両国は、引っ張りの観世物に限られ、西両国は、高小屋――|軽《かる》|業《わざ》|師《し》、|曲独楽《きょくごま》のような種類が多かった。
広小路は、|垢《こ》|離《り》|場《ば》という。
当時、盆山といって、暑中を利用して、職人たちが、|大《おお》|山《やま》|阿《あ》|夫《ふ》|利《り》神社へ参詣したが、その初登山の際ここで水垢離をとったのである。
垢離場の芝居、寄席、講釈場は、勿論、かなり下品なものだが、それでも、名人と称せられる連中が、それぞれに、人気を集めていた。
今日も――。
盛場は、大変なにぎわいだった。
いたるところで、耳を聾する鳴物|囃《はや》|子《し》呼び声がわきたっている。鳥娘、蛇つかい、おらんだ眼鏡、ヤレツケソレツケ――|花《おい》|魁《らん》のような|裲《うち》|襠《かけ》姿の女が、両股をひらいて、陰毛までものぞかせて、にたにたしている。
ひょっとこ三次は、吉原冠り、やぞうをきめこんで、鼻唄まじりで、すれちがう若い女をひやかし乍ら、歩いていた。午すぎだというのに、かなりいい心持に酔っぱらっている。
「よおっ、美い年増だね。……あの横櫛がこたえられねえ。
――かねてより、とくらっ、
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くどき上手と知りながら、
この手がしめた黒繻子の、
いつしか解けてにくらしい、
かりてたぼ[#「たぼ」に傍点]かく|黄楊《つ げ》の櫛
[#ここで字下げ終わり]
おっと、こん畜生、気をつけろい、唐変木め!」
どしんとつきあたった町人にむかって、三次が肩をそびやかした時――。
「三次、よせ!」
と、背後からたしなめたのは、庄吉であった。
「へっ、どうも、あいつの、こうツンとした鼻格好が気に食わねえや」
「みっともねえのは、てめえの面だ。空っ腹にひっかけやがったから、すっかり酔いがまわってやがる。しゃんとしろい」
「なあに、兄貴。この両国は、おいらの屋敷うちみてえなものよ」
成程、三次にとって、|生《いき》|甲《が》|斐《い》は、こうした盛場の中で見出される。
籠の中へ刃物や蝋燭へ火を点して、さっとくぐりぬけてみせる蝋燭屋も、大道講釈のどじょう髭も、えびす大黒や松竹梅の文字絵の一刷毛書き屋も、山雀の曲芸師も……みんな、顔馴染である。
垢離場の引っ張り見世も、菰張りの高小屋物のどの興行も、木戸御免である。
並び茶屋の赤い前垂掛の女たちが、
「ちょいと、三次さん」
と、呼んでくれる。
勤番の田舎武士や江戸見物の三太郎婆などが、きょろきょろしているのを尻目に、顔を売った気勢のよさでねり歩く時こそ、ひょっとこ三次は、男の中の男一匹のような気分になる。
庄吉に、いくらたしなめられても、ひとたび酔いがまわると、もう三次は、両国は、自分の力でどうにでもなるような――すこしも怕いものはなくなるのだ。
「しようがねえな」
舌うちした庄吉は、
「おい、三次、おめえ、さきに、武蔵屋へ行って待っていろ。おれは、立花亭へ寄って、貞宝師匠が水戸から戻ったかどうかたしかめてくるからな」
「合点」
「師匠がいたら、ちょっとおそくなるぜ。いいか、武蔵屋であばれるな」
「なに、あそこの、お常は、おれに気がありゃがるんだ。大声たてりゃ、そばへ寄って来て、白魚のような手で、おれの口をふさいでくれてよ。――およしなさいな、三次さん……」
身振りが奇妙だったので、まわりの人々が、どっと笑った。
武蔵屋というのは、並びの茶屋のひとつである。
三次は、米沢町一丁目からぬけて、野天芸人たちにいちいち声をかけておいて、武蔵屋のよしず[#「よしず」に傍点]の間から首をつっ込んだ。
「お常はいねえか」
「あら、三次さん。あんたの匂いがするというので、お常ちゃんは、大急ぎで化粧直しに、奥へひっこんだわよ」
赤い前垂掛の女の一人が、からかった。
「うめえことを言やがって、この間、正蔵の寄席をのぞいたらよ、ちょうど累ケ淵の、どんどろどろの最中、きゃっ、と悲鳴をあげて、お常のやつ、どこかのでれっとした豚犬野郎にかじりつきゃがって――あいつがお常の|間《ま》|夫《ぶ》だろう?」
「お常ちゃんに、そんな間夫なんかいやしませんよ」
「そいつの真偽を、今日たしかめてやらア――」
三次は緋毛氈へあぐらをかくと、あごをなで乍ら、むこうから通りがかりの女をひやかしはじめた。
「こう……姉さん、そんなにいそいで何処へ行くんだ。ひとつ、そこらで、けっつまずいて、へそのあたりまで見せてくんねえ。……なにを、間夫にしか見せられねえ、と。きいた風な口をきくねえ。間夫のできる面かえ、面を――鼻べちゃ」
と、どなった、その途端である。
三次は、ふっと口をつぐんで、両手で頭をかかえこんだ。
すっと入って来たのは、三味線加津美であった。
「ちょいと、三の字、三公――」
「いけねえ。酔っぱらってやがる」
「酔っていてわるかったね。お前のようなひょっとこでも、男なら、まっ昼間っから酔ってもよろしい、あたしのような美人でも、女だから、おてんとさまの照ってる下じゃお酒はつつしめ、なんどというおふれが、いつ出たんだい。……やい、三公、もう、あたしゃ、水野越前なんぞに遠慮はしないんだよ。岡場所禁止だなんて、|歌妓《はおり》や二軒茶屋をぶっつぶしゃがって、あん畜生、石の股から生れやがったくそじじいだよ。あたしの小唄をいっぺんきいてみろってんだ。じいさん志を変えて、明日から倹約令はおとりやめってことになるんだ」
「|姐《あね》|御《ご》、声が高けえ」
「地声だよ」
加津美は、どさりと腰をかけると、身をねじって、三次をのぞき込む姿勢になった。
顔をそむけた三次の目に、加津美の膝が崩れて、白い内股がちらっとのぞいた。
三次は、ごくりと生唾のんで、目蓋をふさいだ。こっちの酔いは、ふっとんでしまった。
「やい、三公。……庄さんを、あたしんところへ来させないようにしたのは、お前だろう?」
「じょ、じょうだんじゃねえ」
「冗談じゃないのは、あたしの方だよ。お前が、ここらあたりの女をとりもったにちがいない」
「莫迦なことを言いなさんな。このお常は、あっしの|情婦《い ろ》で――」
「ふん。一と銚子足に恨みやこぼれ萩、ってえのを知っているかい。前垂掛は、けっころばし。お前なんぞが、分相応さ。滅多に、茶汲なんぞに、庄さんを寝とられてたまるかってんだ」
「弱ったな、姐御。もちっと、声をひくくして――」
まわりの女たちに気がねして、三次が、拝むような格好をすると、
「なんだい、前垂が怕くて、赤ン坊が生めるかい。ようっ……あたしゃ、庄さんの赤ン坊が生みたいんだよう」
「わかった、わかった」
加津美に抱きつかれて、すっかり当惑した三次のひょっとこ面を、女たちは、くすくす笑い乍ら、眺めていた。
「よう、庄さんに会わせておくれよう」
加津美は、泪をためて、あたりはばからぬ声で叫んだ。
釣人討たず
|業《なり》|平《ひら》|橋《ばし》を渡ると、つきあたりが、西尾隠岐守の広大な屋敷である。その門塀に沿うて掘割をくだると、小梅村である。
梅津長門は、釣道具をさげて、小梅村を過ぎ、本法寺裏の押上村へ戻って来た。
たそがれのもやが、|蕭々《しょうしょう》たる秋の田園を流れて、森や家をぼかし、舞い落ちるとんびの影も、立ちのぼるかまどの煙も、この景色になくてはならぬ美しい静かな動きであった。
長門は、彼方の林のかげの屋敷を眺めて、ふっと、この四年間の平和なくらしを想った。
そこは、師の毛利春斎の家であった。
長門は、春斎の妻女の好意によって、そこに四年間住んでいる。妻となった雪姫は、春斎の妻女に習って、貧しい浪人者の生活に馴れた。
長門は、今は、小説作者であった。
長門は、井伊家よりの援助をことわって、浪人者として適当な職をいろいろ思案した挙句、風流軒貞宝の仲介で、『|読《よみ》|本《ほん》』を、匿名で書いてみた。それが、四谷塩町の貸本屋住吉屋から発売されると、意外な好評であった。そこで、長門は、これで生活することにきめたのである。
爾来、長門は、読本、草双紙のたぐいを、数十冊も書いて来た。さすがに『春色』の二字の冠さった小本こそ書かなかったが、少年たちに錦絵摺の英雄伝から、膝栗毛や浮世床を真似た滑稽本も書いた。そのうちに、板元のたのみで、大名の御家騒動を書いたのが大当りに当ったのである。版行の規則がきびしい当時であるから、御家騒動ものは発売するとすぐ絶版させられる。だから、逆に、読者は、それをつよく要求した。したがって、写本で出すことになる。幕府は、写本だと黙認したのである。
長門が書く御家騒動ものを、春斎の妻女と雪姫は、日課として写した。そして、その写本は、いくら作っても、間にあわないくらいであったのだ。
長門の学識が、御家騒動ものを書く時に、大いに役立ち、他の作者たちの大名生活に対する甚しい無知識にくらべて、その正確な記述は、きわだって見事であった。また、武士という存在に対する長門の観察力は、その悲運の境遇によってきたえられ、他の作者たちの目とは比較にもならなかった。徳川氏治下にあって、如何にして武士という存在が、その質素を忘れ、その豪胆を喪い、その忠実をすてて、文武の道を磨滅させてしまったか――この歴史的観察が裏打ちとなった長門の実録騒動記が世間の喝采をあびたのは当然である。
もとより、長門は、小説作者として現在に満足しているわけではなかった。名を匿して、板元の企画に応じて書きつづる虚構の物語を、読みかえすのも億劫な、しらじらしい気持になることが、屡々あった。
――このまま、老い朽ちるのか!
憮然として、筆を投げすて、釣に出る長門であったが……。
しかし、その平和なくらしに、心からの幸福をおぼえている妻の姿を眺めると、長門も、おのれの虚無的な焦燥感をおもてにしめしてはならぬと、かたく自戒しなければならなかった。
夫婦のささやかな平和は、生命を賭してあがなったものであったのだから――。
今――。
わが家を眺める長門の|眸子《まなざし》は、いそいそと迎えてくれる妻の美しい姿を描いて、ふっと、深い沈んだ色を湛えた。
――どうやら、四年ぶりに、嵐が吹きそうだ。なるべく、女房をおどろかせたくない嵐だが……。
心で呟きすてた時、その嵐の先ぶれは、もう長門の背後まで吹きつけていたのである。
「梅津長門」
その大声に、振りかえった瞬間、夕陽をきらっと撥ねて、白刃は、長門の頭上へおどっていた。
身を沈めて、横の畦へ止んだ長門は、鯉口をきってはいたが、抜かずに第二撃にそなえた。
初太刀の失敗をあせらずに、ぴったりと青眼にかまえた敵の腕前は、かなりの実力と見てとれた。
「名乗れっ!」
長門が、叫ぶのと、第二撃が同時だった。
三尺二三寸はあろう大太刀が、風を唸らせて斬り込む。
長門が、さっと流す。斬る。流す。
三歩さがった刹那、長門の腰から、一閃、白光が走った。
「うっ!」
と、呻きとともに、敵は、とびすさった。
長門の刀は、峰を下にしてかまえられていた。
敵は、右の籠手へ、峰打ちを受けていた。
ほんの一瞬間の静止があって――敵の右手は、だらりとさがった。
しかし、左手で、青眼にかまえて、もはや、一歩も退く気配はない。敵わぬとさとって、生命をすてるかくごをきめた必死の気合が、
「やあーっ!」
と、ほとばしった。
長門は、その誘いをかすかな冷笑でうけた。
「引け! ……おれを斬るなら、もうすこし、修業が必要だ」
「うぬっ! くそっ!」
長門の言葉を嘲りとうけとった敵は、猛然と捨身の打込みに出た。
長門は、相手の正体を知りたいために、その右手も骨を折らない程度に峰打ちをくわせていたし、烈しい打込みも、わざと半間あまりしりぞいていた。
敵が、間合をはかる余裕もうしなって、さらに無謀にも袈裟掛けに斬込んで来た。長門は、身を|躱《かわ》しざまに、片手なぎに、敵の胴をはらった。
ばらっと帯がきりはらわれて、前はだけになった敵は、はじめて、かまえを崩して、茫然と、長門を眺めた。
下着一枚をのこして、帯と着物を切りはらった長門の手練に、敵も、殺意がくじけたらしい。
「見おぼえのある顔だな」
刀を鞘におさめた長門は、ひくく呟いた。
眉間に屈辱の立皺をよせて、唇をふるわせた相手は、不意に、狂気めいた声で、
「斬れ! 長門! お、おれは、武士の恥を知っているぞ!」
と、喚いた。
「出直してもらおう、背後からの不意打ちを、自分で卑怯とさとれば、それでいい」
長門は、おだやかに言った。
「斬れっ! 恩をきせるなっ!」
「恩を? なにを言う、……暗殺者にしては、その斬り込みぶりがけなげなので、勝負を後日にゆずってやるのだ」
「仇討に、後日はない。返り討は、定法だ。斬れっ!」
「仇討?」
長門は、眉をひそめた。
「お、おれは、室戸藤馬だぞっ!」
「おう――藤馬か!」
長門の表情に、はじめて、かるい動揺が浮いた。
長門は、少年の藤馬しか知らなかった。
名乗られてみると、二十年前の俤がその風貌のどこかにのこっていた。
「藤馬とわかれば、なおさらだ。……もう一度、出直せ。……幾年後であろうが、待っていてやる」
その兄を斬った折の状況を説明して、こちらの本意でなかったことを、藤馬に納得させるのは、長門としては、弁解めいていやだった。
「おれの家は、あそこだ。おぼえておいてもらおう」
そう言いのこして、長門は、釣道具をひろいあげると、あるき出した。
かたわらを悠然と過ぎる長門を、睨めつけ乍らも、藤馬は、ふたたび、刀をふりあげる気力をうしなっていた。
写本妻
春斎の妻女と雪姫――いや、いまは梅津の妻雪は、机をならべて、写本に余念がなかった。
あけはなった縁側から、庭さきの檜の梢を透して赤味をおびた幾条かの光の|箭《や》がそそぎ入り、雪の片頬を染めていた。その臈たけた美しさは、四年間の落着きをくわえて、しっとりした色っぽさを湛えていた。
この静かな田園のくらしに、すっかりとけ入った幸せな若妻の匂いが、そのからだのすみずみからただよい出ている。
二人の筆は、さらさらと、流れるように紙の上を走ってゆく。写本の文字は、つか[#「つか」に傍点]を取るために、長く、大きく、どちらも美しい手跡である。二人の写した本によって、手習の稽古がなされている、といつか板元の住吉屋が告げたのも、うなずける。
二人が写しているのは、『越後厳秘録』という騒動ものであった。
この本は、発売してまだ二十日も経たないが、非常な好評で、貸本屋では、三月さきまでの約束をしても、まだ応じきれない有様であった。殊に、諸大名勤番長屋からの催促は、矢のようにはげしかった。勤番侍は、女房子供を国元にのこして、独身の大勢雑居で、殆ど勤務がないから、食う飲む寝る以外の所在なさは、貸本でまぎらわすよりほかに方法がないのである。面白い本だ、ときけば、一日も早く読みたいのが人情である。まだか、まだか、の催促に、春斎の妻女と雪は、筆を走らせるのに一刻を惜しまなければならなかった。
「莫迦な話だ。……いい加減にことわればいい」
と、長門は、住吉屋の|忙《せわ》しい注文を苦笑していたが、雪は、うれしそうに、
「お金をためませぬと――」
と、こたえたものだった。
将軍の落胤として、二十歳まで金子などをもったこともない雪が、そんな心掛けになったかと思うと、くすぐったくもあり、あわれでもあった。
長門の一編の作料は、貞宝の交渉によって、五両であった。当時、千部も出れば、上の部とされていたが、お家騒動ものは写本であるから、五両のほかに、雪の写本料も、ばかにはならなかった。
定価は、普通、上下二冊で銭三百文程度であった。勿論、評判を見越して、一朱(六百文)とつけることもある。ところが、写本となると、|板《はん》|本《ぽん》の細かい字の一冊が、十冊ぐらいになる。貸本は、一冊何文という見料である。板本一冊四十八文で貸すよりも、写本十冊を一冊八文で貸した方が割がいい。写本の文字が大きいのは、そのためである。
雪は、こうした貸本屋の|狡《こう》|猾《かつ》さを知って、写本料をかなり大幅に値上げさせたのであった。これをきいて、長門は、いつの間に、こんなかけひきをおぼえたものであろうか、とひそかに|環境《かんきょう》に対する女の|順応《じゅんのう》性に舌をまいたものであった。
たしかに――。
雪は、この四年間にすっかり、浪人者の妻たる生活力を身につけてしまったようであった。
「金をためてどうするのだ?」
と、長門が訊きかえすと、雪は、ちょっと顔をあからめてから、
「子供が生れました時のことも考えまして――」
「生れたら、成年までは、おれが責任を持つ。|飢《う》えさせはせん」
「それは、わかって居りますけど……万一の場合を予想いたしますと、やはり、すこしでもたくわえがないと心細うございます」
後見の井伊家から、一文も貰う気持をもたないけなげさが、長門の心にしみた。自分の身分を、梅津長門の妻としてのみ考えているのであった。
「おれは、そなたよりは長生きをするつもりだ」
長門が笑うと、雪は、真剣な面持で、
「はい、わたくしも、それを祈っております。あなたのいらっしゃらぬこの世に、わたくし、生きとうはございませぬ……。もし万一のことがございますと、子供がなければ、わたくしもあとを追います。でも、子供がいたなら――」
「それみろ。そなたは、おれより長生きする予感をもって居るぞ。けしからんやつだ」
「いいえ、いいえ、そうではございませぬが……でも、お金だけは、ためておきませぬと――」
「よし、わかった。せいぜい、たくわえてくれ。おれは、気まぐれだから、いつ、こんな商売がいやになって、なまけてしまうかわからんからな」
「おいやになりましたら、お止しになっても結構でございます。わたくしほかの作者の写本をしても、当分は、あなたをやしなってさしあげられます」
「いやに自信があるな」
「ございますとも――」
雪は、にっこりしてみせた。
「さては、もう、かなり、へそくりをつくったのだろう?」
雪は、笑って、こたえなかった。以上は、つい数日前に、夕食後にとりかわした会話であった。
夜の決意
「おかえりなさいませ」
長門が、|萱《かや》|門《もん》をくぐった時は、雪は、写本にひとくぎりをつけて、庭の落葉を掃いているところだった。
「今日は、大漁でございますか?」
「いや、しけ[#「しけ」に傍点]だ」
「あら、一尾も――」
魚籃をのぞいた雪は、気の毒そうに、良人の横顔を見やった。長門は、いかにも、つまらない一日であったという表情で座敷に上った。すでに、春斎の妻女は、起居している離れ屋へ去っていた。
「お午すぎに、住吉屋が参りまして、このつぎの本をお考え頂きたい、と申して居りました」
お茶をはこんで来た雪が、つたえると、長門は、胸裏で、――明日から、その時間はなくなった、と、独語した。
しかし、雪にむかって、小俣堂十郎を敵にまわす大仕事を告げる気は、毛頭なかった。
「しばらく、この仕事を中止する。おれの筆名で、貞宝に書いてもらおう」
「はい」
長門は、ゆっくりとお茶をのむ間に、雪に不審を起させないための、明日からの自分の行動についての嘘を考えた。
「じつは、今日は、意外な人物と口をきいた。誰だと思う。江戸一番の人気男とだ」
「はあ?」
雪は、澄んだひとみをひらいて、無心に、長門を瞶めた。
「遠山景元だ」
「まあ――」
「町人姿で、おれの横で、釣をして居ったのだ。……こちらは、町奉行とは夢にも知らぬから、当節の御倹約令違反の取締りぶりに、つい、悪口をもらした」
「では、遠山さまは、ご立腹なさいましたでしょう?」
「ところが、さすがは刺青判官だ。こちらに名乗らせると、ひとつ相談がある、ときり出してきた」
「どのような?」
「幕府はじまって以来の禁令を調べ、その結果がどうであったか――その一覧を作成してもらえぬか、という頼みだ。……勿論、奉行所に、御仕置類例集や刑罪秘録や禁令考はあるのだが、いまだ、公儀をはばかって市井にかくされている数々の功罪は、記録されて居らぬ。つまり、おれが、素浪人であるのをさいわいに、市井をあるきまわって、禁令の歴史を庶民側から記録してほしい――こういうわけだ」
「おひきうけなさいましたか?」
「うむ」
「よろしゅうございました。今日は、ほんとうの大漁をお釣りになったではございませぬか」
雪は、疑うことを知らぬはれやかな笑顔で、よろこんだ。長門の胸が、かすかに痛んだ。
夫婦となって、はじめてついた嘘であった。
「遠山さまは、あなたの秀れた才能が、読本や草双紙をお書きになって、それなりにうもれてしまうのを、かねてから残念にお思いになっていたのですわ。きっと、そうにちがいございませぬ」
「いや……気まぐれの思いつきにすぎん、とは考えるのだが――」
「いいえ。いいお仕事でございます。あなたのおしらべになったことを参考にして、このたびのご禁令がすこしでも、町人や百姓たちの幸せになるように、変えられたりゆるめていただけるのでしたら、どんなにやり甲斐のあるお仕事かわかりませぬ。ぜひぜひ、おやりなさいませ」
熱心にすすめる妻のまなざしが、長門には、まぶしかった。夕餉の座でも、雪は、良人にやり甲斐のある仕事がおとずれたことを、うれしそうに口にしつづけた。それに、何気ない相槌をうたねばならぬ長門の心は、かなり重いものであった。庄吉が、ひょっこりおとずれたのは、夕食がおわって程なくであった。
「元気か、庄吉」
「へい。いつまでたっても、まっとうな職にもつけねえで、おはずかしゅうござんす」
かしこまって、ぺこり、頭をさげる庄吉の、なにかを思いつめた気色は、ただちに、長門にピンと感じられた。
「話は、重大なことか?」
「へ?」
「あるのだろう?」
「へい」
――やっぱり、旦那は、相変らず、鋭いや!
庄吉は、感服し乍ら、声を落すと、
「旦那、世間は狭いものでござんす。小俣堂十郎が――」
「待て――」
長門は、手をあげて制すると、隣室の気配へ、耳をすませた。幸い、雪は、庄吉をこの書斎へ案内しておいて、離れ屋の方へ行ったらしい。
「雪が戻ったら、その話はやめろ。……で――?」
長門は、庄吉が、喋る事柄を、ひとつひとつわが胸にたたみ込み乍ら、遠山景元の依頼をうけた今日、庄吉から同じ秘密をきく偶然に、小俣堂十郎と自分とのただならぬ因縁をおぼえないではいられなかった。
「……という次第で、どうやら、この一件は、あっしの手にゃ負えねえと思いまして、おうかがいしたのでござんすが――」
「小俣が、近く秩父へ出発するのは、まちがいないな」
「ぐずぐずしてはいられやせん。あっしは、今夜にも、野郎、あの屋敷から消えやがるんじゃねえかと――」
「そうか――」
長門は、明日、奉行所へ行って、堂十郎の隠れ家をきいて、隠密団に案内してもらう手筈であったのだ。
意外にも、庄吉が、自分の働きで、堂十郎の秘密をさぐり出していようとは、今夜のうちに、堂十郎と決戦せよ、という何処からか投げられた暗示かも知れぬ。
「奴のほかには、若い女と老僕だけだと申したな」
「へい。ほかに用心しなけりゃならねえのは、番犬が二匹ばかり」
「あれだけの多くの配下をもっていた小俣が、一人の護衛も屋敷に入れていないというのは、頷けないが……極端に人目を忍ぶ隠れ住いだな。その点から想像しても、秩父の財宝は、夢物語ではなさそうだ。秘密をまもるのは、たった一人にかぎる」
「旦那! ひと肌ぬいで下さいますか?」
「うむ。……行こう、今夜――」
と、言いきったとたん、長門の脳裏を、なぜか、先刻の室戸藤馬の無念の形相が、ちらっと横切った。
孤影
須貝嘉兵衛は、闇の中に彫像の如く、微動もせずに|彳《たたず》んでいた。
この庭に忍び入って、もう一刻ちかくも経ったであろう。さっき、|母《おも》|屋《や》から出て離れ屋へ行ったのは、たしかに雪姫であった。楠の大木の陰から、ちらっと一瞥した刹那、嘉兵衛の胸中は、怪しい動悸がもの狂おしく乱打した。走り出て、雪姫に襲いかかって当身を食わせ、そのままかかえ去りたい衝動が、火のように四肢を燃やしたのだが、それを|怺《こら》えたのは、理性ではなく、一種の怖れであった。この瞬間、嘉兵衛は、はじめて、この四年間のうちに、おのれの裡に、いつか、惨めな卑屈の根性が巣食っているのを意識したのである。
――どうしたというのだ。このおれが……。
皮肉にも、四年前、自分がはじめて梅津長門と対決し、そして敗れた場所が、ここなのだ。そのにがい記憶が、自分をこうも卑屈にしたのか、と嘲ってみたが……しかし、それならば、その卑屈を猛然と反撥する力が自分にない筈はないのだ。
それだのに、なぜ、自分はこんな惨めな気分に沈んだなり、縛られたように踏み出すことも、立去ることも出来ないでいるのであろう。
嘉兵衛は、自分で自分がわからなかった。
嘉兵衛は、室戸藤馬が長門襲撃に失敗する場面を、遠くの物陰から眺め、そして、憑かれたように、長門のあとを跟けて、この屋敷に忍び入ったのである。
藤馬がもし長門に斬られようとしたら助太刀をしてやろう、と思いついて、藤馬のあとを跟けたのだが、
「卑怯な真似をするな」と忠告したにも拘らず、背後から襲いかかるのを目撃して、その気持は消えた嘉兵衛であった。
――やはり、梅津の腕は、微塵もにぶっていなかった!
この感嘆を胸におさめて、ひきかえして行くべきであったろう。
――おれは、もう、梅津と果し合う闘志を完全に失なっている。
今こそ、嘉兵衛には、それだけが、はっきりしていた。
かつて、自分の偶像であった雪姫を長門に奪い取られた憎悪も憤怒も、嘉兵衛にはなかった。いや嘉兵衛にとって、雪姫は、今も、まぶたの偶像である。若き日の生命をかけて愛した許嫁と生き写しの雪姫の俤は、この四年間、一日も、嘉兵衛のまぶたの中から消えることはなかった。
雪姫が、何者の妻になろうが、もはや、そのことに関りなく、嘉兵衛の愛情は純粋に|昇華《しょうか》しているのであろうか――。
と――。
離れ屋から戻ってくる雪姫の姿が、嘉兵衛の闇に馴れた目に、はっきりと映った。
しかし、嘉兵衛は、動かなかった。
――発見されたら……その時こそ!
凶暴な期待が、衝きあげていた。自ら進んで襲うこんたんはないが、発見されて叫び声でも立てられたら、勿論、長門が飛び出してくるであろうから、当然、勝負を決しなければならぬ。嘉兵衛は、そうしたかった。それが、闘志を湧きたたす唯一の手段なのだ。
だが――。
雪姫は、嘉兵衛に、気づかずに母屋へ入って行った。
――姫っ!
心の中で絶叫した。
音なき絶叫は、星空へ散り去った。
やがて、悄然とあるき出した嘉兵衛の姿は、幽鬼が、この世にあるものなら、それであったろう。
萱門を抜けて、往還へ出た嘉兵衛は、建仁寺垣のとある根かたに、ひとつの影が、うずくまっているのに気がつかなかった。
それは室戸藤馬であった。
――なんだ、襲うかと思っていたら、すごすごひきかえして来やがった。ふん! 長門の腕前が、そんなに怕いのか。須貝嘉兵衛も、老いぼれやがったな。
この時、雲が割れて、月光が、降った。おちこちの林や人家が、急に、くろぐろと浮きあがり、それを縫う往還の、白い帯のようなうねりが、遠くまで見通せた。
蹌踉ともみえる嘉兵衛のあゆみは、ひょろ高い松の木が一本立っている辻で、停められた。
一瞬――。
月光を撥ねて、嘉兵衛のからだが、おどった。
松の木が、すうっとかたむき、どさっと路上へ倒れた時、嘉兵衛は、もう、一間むこうを、刀を鞘におさめて、振りかえりもせずに、蹌踉の足をはこんでいた。
×        ×
長門が、庄吉をつれて、その家を立出たのは、それから、半刻あまり後であった。
藤馬は、辛抱づよく、その時もまだ、そこにうずくまっていて、二人へ凄い視線を送ったのであった。
加津美酔態
「よう……先生っ、先生ったら、こっちお向きよ――」
長火鉢によりかかって、だらしなく崩した姿態で、三味線加津美は、さっきから、貞宝にからんでいた。
先刻、貞宝が、わが家に、数日ぶりで戻ってみると、酔っぱらった加津美が上り込んで、三次相手に、|啖《たん》|呵《か》をきったり、唄ったり、愚痴をこぼしたりしている最中であった。閉口していた三次は、貞宝の顔をみると、これ幸いと、にげ出してしまい、貞宝が代って相手をしなければならなかった。
「ようっ……先生ったら――」
「うるせえな。先ず、その膝小僧をかくせ。御所のお庭の、こぼれ松葉が、ちらちらしとるわい」
加津美のような商売の女は、前幅を狭く仕立てている。歩いたり、膝を崩すと、内股まで見える。だから、内股まで、化粧をしている。
「ふふふ、いいじゃないのさ。こぼれ松葉は、あやかりものよ、枯れておちてもヤンレめおとづれ、って唄にあるじゃないか。……ねえ、先生、ちょいと、あたしゃね、もうこうなったら、先生を|間夫《まおとこ》にしちゃうぞ」
加津美は、|紅《べに》|縮《ちり》|緬《めん》の裏をかえした胸へ、片手を入れて、乳房がのぞく程はだけて、ぐっと身をのり出した。
「御所のお庭に、松竹植えてか――」
「御所のお庭にはね、左近の桜に、右近の橘、って相場がきまっているんですよ。だからさ――」
「さしずめ、庄吉が右近で、おれが左近か――。植えてみたいが……どっこい、そうはいかねえ。土が悪くて、根が枯れそうだ」
「なに言ってやがるんだい。こう見えたって、加津美は、今日まで、伊達に、三味線鳴らして来たんじゃありませんよ、だ。芸は売っても、身は売らず――|権《けん》|柄《ぺい》ずくの旗本に凄まれたって、ビクともせずに啖呵をきって操をまもって来たんだ。はばかりながら――」
「|雪《せっ》|隠《ちん》ながら――」
「まぜっかえすない。やい、講釈師、そもそも、だ。そもそもとくらア――」
「そもそも、そも――なれそめのはじめとは、だ。三味線加津美は、深川育ち、|佃《つくだ》の沖の白魚と見まごう指に|撥《ばち》を|把《と》り、唄うその声隅田川、月見の舟をこぎ出して、仰ぐ空より、となりの舟の、三日月小僧にひと目惚れ、とんだ月見の宴(縁)かいな、縁は深川なれそめて、せけば逢いたし、逢えばまた、浮名立つかややるせなや、これが苦界じゃないかいな。とかく浮世は色と酒、飲んでくだまき、裾びらき、エロなこととはなりにけり」
「こん畜生。こっちの|科白《せりふ》をみんな|喋《しゃべ》っちまうない」
「加津美、あきらめな。庄公は、のぞみがないぜ。月にむら雲、まして三日月は、宵にちらりと見るばかり。つかまえようたって、どだい無理な話だの」
「いやだよ、あたしゃあきらめないよ。……ねえ先生、たったいっぺんでいいから、庄さんと、首尾させておくんなさいな」
「惚れた女は、はじめは、必ず、そう申すな。たったいっぺんでいいから、と――そのいっぺんが叶うと、もう金輪際、まむしの如くくらいついてはなれまいとする。むかしから、女は蛇性とか化猫とか言ってな、いっぺん味をおぼえると、夜な夜な、くらわないと気がすまなくなる。蛇は松茸をくらうし、猫は油をなめるし――」
「けがらわしい! あたしゃ、そんなことは絶対にないんだから――、ちゃんと約束をまもって……」
「まア、今のうちにあきらめて、抱くのは三味線だけにしておいた方が無難だな。恋なんてものは、胸にそっと秘めての、
[#ここから2字下げ]
心ひとつを二すじに――
三すじにかけし、三味線の――
糸もあやなす胸のうち、
声もしどろに、むら千鳥。
[#ここで字下げ終わり]
てな|風《ふ》|情《ぜい》がよろしいのでな。寝たあとのおどろ髪で、捨てられまい、としがみついて喚くざまなんぞ、もうこの世の地獄だて――相手は巾着切だ、袖すり合ったとたんに相手の胸の中を頂戴するのも早いが、縁を切るのも熟練していらアな」
「先生が、こんな唐変木とは思わなかったよ。もうたのまない。惚れたからこそ、愚痴も出るんじゃないか。惚れずに愚痴が言われよか、ってんだ。あたしゃ、こんど庄さんに会ったら、往来だろうがどこだろうが、しがみついて、もう死んだって離れてやるもんか」
加津美は、膝を立てて、反り身になった。内股の奥が、あらわになった。
ちらっとそれを眺めて、貞宝は、あわてて目蓋をとじた。
「君子は慎みて禍を避け、篤くして以ておおわれず、恭しくして以て恥に遠ざかる。くわばら、くわばら――」
この時――。
格子戸が開いた。
「さア、庄公、戻って来やがった。こうなりゃ、あたしゃ――」
加津美が、よろよろと立ちあがりかけると、庄吉でない声が案内を乞うた。
「ちょっ――なんだい」
どさっと坐った加津美は、つっけんどんに、
「どなた?」
と、訊いた。
「こちらに、庄吉さんは、おいでになりましょうか?」
「いないよ。三日月は、むら雲にかくれやがったんだい」
「加津美、うるさい」
貞宝が、立って行くと、下僕風の男が、どうしたのか、異常にこわばった面持で格子戸の外に彳んでいた。
「庄吉は、あいにく、まだ戻って参りませんが、どういうご用件で?」
「はい、それが……お目にかかりませんと――」
「どちらさんでござんしょうか、戻ったらおうかがいさせますが――」
「いえ、それは――」
男の握り合せた両手が、かすかに顫えているのを眺めて、貞宝は、不審に思ったが、相手が口を割らない以上は、強いて訊きだすわけにもいかなかった。
「では、また、のち程おうかがい申上げたいと存じます」
貞宝は、男の丁寧な一礼にこたえて、頭を下げ乍ら、余程ひきとめて事情を訊こうか、と心が動いた。もし、そうしていたならば、あるいは、ひとつの悲劇を、食いとめることが出来たかも知れない。後日になって、ひどく、悔まれたことだった。
庄吉だったら、男が、小俣堂十郎邸の下僕であることは、すぐにわかった筈であった。
第二の殺人
長門が、庄吉をつれて、小俣邸へ忍び入ったのは、その夜の真夜中近かった。
「思い出すなア、お前の仇討を助けてやろうとして、須貝嘉兵衛の屋敷へ乗り込んだ夜のことを――」
塀を越えて、植込みの中に立った時、長門は、ひくい声でそう言った。
「あんな強いさむらいとも知らねえで、仇討なんて、身の程も知らずでござんした」
庄吉も、先夜とちがい、長門と一緒なので、気持に余裕があった。
「おかげで、こっちは、女房をひろった」
笑い声を洩らしながら、長門は、植込みを抜けて、すたすたと露地庭へ向った。
庄吉のみせた見取図をのみこんでいたし、長門は、恐怖というものを知らぬ男だった。
目ざしたのは、茶室であった。そこで、待っていて、庄吉にそっと月江をつれてこさせる手筈であった。先ず、月江を問い詰める必要があった。堂十郎の日常生活をきき出して、事をはこぶ参考にしなければならぬ。堂十郎の居間の|踏《ふみ》|込《こみ》|床《どこ》の壁が回転する仕掛を、平気で眺めていた月江が、その奥の秘密について知識がない筈はない。
猿戸の中門に達した時、長門は、ふりかえって、
「おい」
と、四目垣のとある片隅を指さした。
「あ――」
首をのばして、庄吉は、ひくくおどろきの声を発した。そしてすぐ、くろぐろと地べたにうずくまったものに、近よって、しらべていたが、ひきかえして来ると、
「二匹とも、首を斬り落されて居りやす。大太刀でやったらしゅうござんす」
と、つたえた。
「先客があったかな――」
|遽《にわか》に、長門は、心身のひきしまるのをおぼえた。番犬を二匹とも仆しているのは、周到な計画をもって侵入した者のしわざに相違ない。
「殺された助右衛門という男についていた浪人者が、また忍び込んだのでござんしょうか?」
「多分そうではあるまい。二百両に目の色を変えたような連中だったというではないか。二度と小俣をねらう度胸はあるまい。別の客だな」
「じゃ、阿古父尉の面の一件を知っている者が、まだほかにも?」
「と、考えられる。もしかすれば、助右衛門という男と一緒に、海賊船で働いていた人間があと二人や三人はこの江戸にいるのかも知れぬ」
長門は、遠山景元へ訴状を出した者も、海賊船の生残りの一人に相違ない、と想像していたのである。
「ともかく、月江さんとやらを、つれて来てもらおうか――」
「へい」
頷いて、行きかけた庄吉は、ちょっと懐中をおさえて、首をかしげた。
懐中には、そっくり同じの二つの念珠がある。このことだけは、庄吉は、まだ長門に打明けていなかった。
長門が、月江をみれば、すぐさま、妻に似ているのに気づくだろう。その前に、念珠のことを打明けておくべきではないだろうか――。
「どうした、庄吉?」
「へへい。いや、なんでも、ありやせん」
庄吉は、跫音を消して、走り出した。
念珠が、雪姫と月江が、血縁であるという証拠の品だったら、という想像は、やっぱり、庄吉にはふりはらいたいおそれであった。
――旦那には、他人の空似だと思って頂くよりほかはねえ。
そう自分に言いきかせて、庄吉は塀に沿うて、母屋へ走って行った。
茶室へ近づいた長門は、ふっと、殺気に似た気配に、全神経が働いた。
月の庭を、ぐるりと見まわしたが、それと直感される何も受取れなかった。
――気のせいか。
しかし、次の不審を呼んだのは、茶室から、明りが洩れていたことである、裏手へまわると、勝手口の戸が、二寸ばかり開いている。
中を覗いた瞬間、長門は、むっとこもる悪臭に息をつまらせて瞠目した。一人の男が、中央の炉に、顔をつっこんで、俯伏しているのであった。
衣服によって、外から来た者でないことが、一目瞭然であった。
踏み込んだ長門は、その顔を、炉からひきあげた。むざん、目も鼻も口も焼けただれ、ふた目と見られぬ醜怪な肉塊と化していた。硬直した四肢は、どこも傷ついていなかった。顔だけを焼かれて、殺されたのである。
――ひどいことをする!
羽織を脱がせて、その上へかけようとして、長門は、その着物の紋を見た。重ね扇である。これは松平主殿頭の定紋である。小俣家はその一族である。
――この男が、小俣堂十郎か! むごたらしい最期は、小俣堂十郎にふさわしいとも思える。が、長門にはあまりにあっけなさすぎる死とも受取れた。
――この殺しかたでは、阿古父尉の面を奪うのに失敗したな。目ざす相手が死んでは、長門の役割はなかばうしなわれたといっていい。
しかし、念のために、母屋につくられた秘密の地下室をさぐってみることにして、長門が、出ようとした途端、戸口をふさいだ者があった。
覆面の武士であり、その身のかまえには、隙がなく、殺意がこもっていた。
一瞬の睨み合いをやぶったのは、長門の方であった。
「小俣堂十郎を殺害したのは、お手前か?」
「ちがう!」
きっぱりと否定する武士の背後に、幾人かの連れがひそんでいるのを、長門は、さとった。
「そこをどいて頂こう。小俣が死んでいるのなら、拙者は、もうここには用はないのだ」
「貴公が、この屋敷に忍び入った理由をきくまでは、ここをどくわけにはいかぬ」
「見知らぬお手前に、なぜ、その理由を言わねばならんのだ?」
「理由によっては、生かして置けぬからだ」
「こちらは、お手前が部下をひきつれて、侵入された理由は、別にきかないでも、およその見当はついているが……お互いさまに、この場合は、知らぬ顔ですれちがった方が、都合がよいのではないかな?」
「黙れっ!」武士は、一歩引いた。
「出い!」
「斬るというのか?」
「無論だ」
「お手前が斬られるのも勘定に入れて置いて貰いたい」
「おい、素浪人! 相手を見そこなうなよ。貴様は、小俣を殺した奴の一味だろう。どうだ? かぴたん助右衛門にたのまれて荷担し、中途で、欲に目がくらんで、助右衛門をだしぬいてやろう、と忍び込んでみたら、一足さき小俣が|殺《や》られていて仰天したというわけだろう。斬られたくなければ、白状しろ。場合によっては、こっちで使ってやってもよい」
「ご免を蒙ろう。こちらはこちらで、勝手にやりたい。小俣をこんな殺しかたをしてみせた強敵も、ほかにいることだし、滅多に手を打つわけにいかぬ。まアお互いに、せいぜい欲ばろうではないか。宝の山分けなどは、おれの性分に合わんからな――」
長門は、言いはなって、静かに一歩ふみだした。
月と白刃と
長門が、戸口に立った時、敵は、しりぞいて、円陣をつくっていた。七、八名はいる。先刻、この茶室の前に来て、ふっと直感した殺気は、この連中が、木陰にひそんでいた故なのだ。
こちらが手強いとみて、円陣をつくらせた首領分の武士だけが、刀を抜かずに、戸口とむすぶ前方の熊笹のわきに彳んでいた。
長門は、鯉口をきったままで、一歩、ふみ出した。
一瞬――。
壁に吸いついて、上段にかまえていた一人が、無言で、斬り込んだ。
それを、どうかわし、どう抜き打ったか、次の刹那、長門は、円陣のまん中に立ち、だらりと、白刃をさげていた。
背後の、その一人は、呻きを洩らして、地に伏した。
「まア、ゆっくりやろう。夜明けまでには、充分間がある」
長門は、月あかりに、ふっと微笑をうかべてみせた。
わざと、全身を、敵陣の中央にさらした不敵さは、敵方を、たしかに驚かせるに値した。ふつうならば、茶室の壁を背にして、かまえるのが、多勢にかこまれてとるべき地の利である。それをすてて、悠然と、からかうように言いすてる長門の姿勢は、油断のない身がまえとは、到底うけとれなかった。
敵方にとって、そうした長門が、かえって不気味に映ったのは、当然である。
一人を斬りすてた、文字通り目にもとまらぬ素早さは、瞬間、彼等を圧倒したのである。
「ひるむなっ! こやつは、やくざの剣法だ。呼吸をあわせて、斬り伏せろ!」
この首領分の声をきくと、長門は、
「そうか。どうやら、諸君の正体がわかって来たぞ! 道場修業にあきたらず、真剣試しというわけか。……相手がわるかったなア、諸君。あいにく、こっちは、場数を踏んでいる。諸君の試し斬りにされるような馬の骨ではなかった」
一人々々の身構えを、ずうっと見わたした長門は、いずれも、白刃の勝負に、はじめての緊張で心身をこりかためているのを読みとったのである。
「おい、先生。教えてやれ。こんなにこちこちにかたくなっては、真剣勝負は駄目だ、とな。枯木はどんな大樹でも、風をくらってひっくりかえるが、青草はなびいてゆれるだけだ」
そう言いすてて、長門は、ゆっくりと切先をあげて、正面の敵へむかって、つと、動かせた。
長門をおそるべき使い手とさとっていても、この誘いにつられるよりほかに、術を知らないその敵は、
「やあっ!」
と、|雄《お》|叫《たけ》びして、凄じい勢いで、斬りつけて来たかと思うと、どうっ、と地ひびきたてて地に匐わされた。
「この通りだ。わかったか、諸君!」
長門の冷やかな声は、味方を討たれ、血の匂いをかがされた彼らを、逆に、殺気立てた。
「とうっ!」
背後から、月光におどる白刃を、身を沈めて、空におよがせておいて、長門は、位置も変えなかった。
「三人目だぞ。これで、まだ、わからねば、諸君は、間抜け頓馬と改名するがいい」
「うぬっ!」
四番目が、刀身に風を唸らせて――その狂的な形相が、まっこうから、長門の切先へ突撃した。
鋭い刃音の中に、その四番目も、前へ泳いだ。
「莫迦者ども! これ程、貴様らの未熟さを知らせてやっても、ひきさがらぬなら、こちらから、行くぞ!」
猛然と――長門は、反撃に出た。
きらっ、きらっ、と白刃がみだれ合い、足音がとびちがった。
長門の身の動きは、月光も、これをとらえられぬ敏捷さだった。
またたくうちに、さらに、三人を斬り伏せた長門は、青眼にかまえた最後の敵――首領分に、むかった。
「ふむ。お手前は、さすがに大将だけあるな」
「えいっ!」
気合鋭く、長門が、ちらっとみせた下半身の隙にむかって、一閃、白蛇が飛んだ。
その刹那――長門のからだは、ふわりと宙に浮いて、半間横へ――。
よろめいた首領分の手から、刀が落ちた。右腕の付根を、割られていたのである。
「出なおせ、大将――」
長門は、そう言ってから、刀を鞘におさめていた。
「く、くそっ!」
首領分は、血だらけの手で、刀をひろいあげたが、痛みを怺えかね、がくっと膝をついた。
「無駄にあがかずに、手当をしろ。子分たちも、手当をするがいい。歩いて帰れる程度に傷つけてやってある筈だ」
この折、月が雲間にかくれて、急にあたりは闇になった。
ふたたび、月光が降りそそいだ時には、もう長門の姿は、そこにはなかった。その代り、ひとつの影が、石燈籠の陰から、走り出て来た。
「戸庭殿っ!」
と呼びかけられて、振りかえった首領分は、かっと目をむいた。
「加瀬っ! 貴様、卑怯だぞっ! 怯気がついて、逃げたなっ!」
「戸庭殿っ! あ、あの男は……到底、われわれが勝てる敵ではありません」
「誰だ、あいつは?」
「梅津長門です。拙者は、五年ばかり前に、小普請組の寄合で、会ったことがあるのです。だ、だから――刀を合せるのを、避けたのです。あの男と、まともにたたかえるのは、佐々先生だけです」
「そ、そうか……あいつが、梅津か――。くそっ……」
痛みの烈しさと無念さに歯がみし乍ら戸庭は、刀を杖にしてよろめき立った。
この連中が、佐々右膳の道場の面々であったことは、説明するまでもない。戸庭は、師範代であった。
戸庭は、それぞれ手当をしている部下たちを見まわして、今更に、梅津長門のおそるべき腕前に、慄然としたことだった。六人は、のこらず、その腕がきかぬ程度に肩を斬られていたのであった。
「この上は……佐々先生ご自身の出馬をお願いするよりほかはない! 梅津め、この復讐は、屹度やってくれるぞ!」
疑問
「旦那! お見事でござんした」
長門が、外待合のある露地庭へ出た時、庄吉は、露地門からかけて来て、咳込むように早口に声をかけた。自分が斬りはらったような興奮ぶりだった。
「月江さん、というのは、どうした?」
何事もなかったかのように静かな口調だった。
「へい。あの露地門の外に、待たせておきました。ちょうど、あっしが、月江さんをあそこへつれて来た時、茶室のむこうの植込みから、奴らが、忍び寄って来やがったんでさ」
「庄吉。ご苦労だが、あの連中のあとを跟けてくれぬか?」
「へい、かしこまりました」
「どこの道場へ帰って行くか、それだけをつきとめればよい」
「ついででござんすから、その道場へもぐり込みまさア」
「そうする必要もあるまいが――」
「だって、旦那、奴らが、どうして阿古父尉の面の秘密をかぎつけたか、そいつをさぐっておく必要はあるじゃござんせんか?」
「そうだな。……しかし、危険だぞ」
「なアに、馴れていまさア」
「いや、大名屋敷とはちがう。いやしくも、剣をつかうのを商売にしている家だ。物音をたてないまでも、気配をさとられる覚悟がいるぞ。第一、道場主は、家で待っている筈だ。おれが相手にした大将分は、多分、師範代だろう。あっけなさすぎたし、虚勢だけは勇しかったが傷を負うと、たちまち闘志をうしなった。あいつが、かりに道場主だとすると、物笑いだ。今どき、あんな弱い奴では、道場は開けぬ。首領は、ほかにいる、と睨んだ」
「それじゃ、|猶《なお》|更《さら》だ。あっしが、そいつの顔を見さだめて参りやしょう。あの手負い野郎たちの報告をうけて、どんなしかめっ面をしやがるか、それをとっくりと拝見しなくちゃ、寝つきがわるいや」
「くれぐれも気をつけろ、危険だと直感したら、ためらわずに逃げ出すことだ」
「|仰言《おっしゃ》るまでもござんせんや。じゃ、行って参りやす。尤も、相手が、血だらけのよいよい[#「よいよい」に傍点]ばかりじゃ、帰りつくまでに夜が明けるかも知れませんねえ」
庄吉は、茶室にむかって、つつっと近よって行った。
長門が露地門をくぐった途端、そこにしゃがんでいた娘が、つと立ちあがった。
月あかりに、その白いおもてを一瞥した瞬間、長門ははっとした。
――気のせいか。
もう一度、その顔だちをたしかめるために、一歩出た長門は、
――いや、やはり、似ている。
妻の雪に、似ている美貌だった。気品もある。
――おかしなことだ。
長門は、その不審を、微笑で消して、
「あちらへ、御案内ねがおうか」
と、母屋の方を、指さした。
「はい」
月江を先に立たせてあるき出し乍ら、長門は、
「小俣があそこの茶室で殺されているのを、そなたはごぞんじか?」
と、訊いてみた。
すると、月江は、打たれたように足を停めて振りかえった。非常な驚愕をあらわした表情だった。
「そ、それは……本当でございますか」
「うむ」
「まア……では、あの人たちの手にかかって?」
と、月江は、顫える息をひいた。
長門は、それにこたえるかわりに、
「そなたは、あの連中が、この屋敷に侵入したのは、ごぞんじだったろう?」
「いえ。睡って居りまして、そのこともぞんじませぬ」
「すると、あの連中は、母屋の方へは踏み込まなかったのか。あれだけの人数だから、いくら物音をたてぬように用心しても、そなたの目をさまさせないということは無理だったろうが――」
「わたしには、わかりませぬ。でも、多分、それならば目をさました筈でございます。最近は、睡りが浅うございますから――」
長門には、月江が嘘をついていないことはわかった。
――すると、あの連中は、母屋へ踏み込む前に、偶然あの茶室を覗いて、小俣の死骸を発見したのか? それにしても、おかしな話だ。
「ともかく、小俣の居間へご案内ねがおう」
長門は、月江にみちびかれて、その部屋に入ると、彼女の手にした灯をうけとって、
「これだな――」
と、踏込床へ近寄った。
しかし、小壁をさぐったが、手にふれるものは何もなかった。秋色の山水の掛軸をはずしてみたが、しらじらとひかった壁には、それとみとめられる仕掛のしるしはついていなかった。勿論、力を|罩《こ》めて押してみたが、びくともすることではなかった。
「奉行所の連中に、うち毀させるよりほかはないかな」
と、呟いた長門は、振り返って、
「あんたは、これが回転するのは、ごぞんじの筈だが――」
「はい、ぞんじて居ります」
「どうすれば、回転するか、それはごぞんじないか?」
「ぞんじませぬ」
「小俣は、夜は、この奥に消えるのですか?」
「はい」
「ふむ――」
長門は、首をかしげた。
「この奥に|匿《かく》れていれば、侵入者にむざむざとらえられることはないように考えられるが――」
「あの……」
月江が、思い当った表情で、
「もしや――この奥は地下道になっていて、茶室に通じるのではないでしょうか?」
と、言った。
「おお、そうかも知れぬ。それならば、わかる。……しかし、茶室にはあんたが寝ていたのではないか?」
「はい。でも、それは、使用人が、十数人も居りました頃のことでございます。一月ばかり前までは、わたくしが寝起きいたして居りました」
「成程。すると、小俣は、急に、使用人たちに暇を出したのですな?」
「はい」
「わかった。それまであんたを茶室に寝起きさせたのは、地下道が茶室に通じている秘密を、誰にもさとらせない用心のためだったのだ。あんたなら、信頼出来たからだ」
下僕
長門は、月江と向いあって坐ると、
「ほかに……あんたの知っている小俣の秘密について心あたりの事柄は、みんなきかせて頂きたいが――」
と、尋ねた。
月江は、俯向いて、しばらく、あれこれと思いめぐらしている様子であったが、
「べつに、これといって、申しあげるようなことは、思いあたりませぬが――」
と、こたえた。
「左様か――。しかし、小俣の身のまわりの世話は、あんた一人がしていたのではないか?」
「それは、いたして居りましたが……幾年たちましてもわたくしには、旦那さまは、近寄りにくいお人でございましたから――」
この時、長門は、ふと気がついて、懐中から、小物袋をとり出した。
それは、茶室の屍骸の懐中からひろいとった品であった。
中から、あらわれたのは、赤珊瑚の念珠であった。
「ほう……あの冷酷な人物が、菩提心を持っていたとは――」
と、長門が、苦笑すると、月江は、首をのばして、
「あ、――それは、わたくしのでございます」
と、言ったのであった。
「あんたの?」
「はい、相違ございませぬ」
ひと目見れば、自分のと断定出来る程、この念珠は、普通の品とはちがっていた。
一個のこらず半球であり、しかも、十四個しかない。
「すると、小俣が、あんたのものをひろって、大切に懐中にしていたというわけか」
「え? では、旦那さまが、お持ちだったのですか?」
「そうですよ」
「まア――」
月江は、妙な表情になった。
さして貴重な品ではないのだ。小俣堂十郎ともあろう人物が、こんなものをひろって、大切そうに持っているのは、可笑しな話であった。
もし、この場に、庄吉が居合せたならば、更に疑問はふかまったろう。
月江の落した念珠は、庄吉自身が、ちゃんと持っていたのだから――。
「あんたは、この念珠を、どこかの店でもとめられたのか?」
「いえ。物心ついた頃から、肌身につけて居りました」
「ちょっと変った念珠だが、これには、なにか意味があるのか、ごぞんじか?」
「いいえ、知りませぬ。……でも、加平が、大切な品だから、肌身からはなさぬように――と申したことがございます」
「加平?」
「はい、小俣家に、もう二十年も仕えている下僕でございます」
そうこたえた時、月江は、ふっと、何かを――記憶の中によびさました面持になった。
「どうなすった?」
「あの……加平は、実は、旦那さまの腹ちがいの兄さんだ、ということを、ずうっとむかし、きいたおぼえがございます。その時は、わたくしもまだ幼くて――からかわれているものとばかり思って、ききながしましたけれども……いま、思い出しました」
「腹ちがいの兄を、下僕にしている?」
奇怪なことだった。
遠山景元は、まだ堂十郎の生い立ちまではしらべていなかったので、長門には、
「小俣家は、松平主殿頭の一族で、名門といえる」
と告げていたのであった。
そうならば、たとえ兄が、妾腹の子であっても、下僕にする筈はないが……。
「加平は、いま、小者部屋にいるのですな?」
「はい、裏庭の端に、小屋がございます。そこにいる筈でございます」
「|訊《き》いてみよう」
長門は、立ちあがった。
広縁を過ぎて、鉤の手になった中廊下への曲り角をまがろうとした刹那――。
長門は、本能的に、身を沈めていた。
闇をつらぬいたものは、頭をこえて、背後の柱へつき立った。手裏剣であった。
長門は、第二の手裏剣にそなえつつ、中廊下の奥へ、眸子を凝らした。
墨を流したような闇の中を見わけるのは、不可能といえた。
――道場の一味か?
それにしては冴えたわざであった。長門でなければ避けられなかったろう。
――いずれにしても、敵は、幾組もいると看做してよさそうだ。
長門が、心でそう呟きつつ、わざと立って、全身を隙だらけにしてみせた。が、第二の手裏剣は飛んで来なかった。
――去ったな。
第二の手裏剣を投ずれば、当然、敵も、その位置を知らせることになるし、長門に追われるのを覚悟しなければならない。それを避けたのは、こちらの腕前を知悉しているからであろうし、正体を匿す必要があったに相違ない。
「わたしのうしろから離れぬように――」
長門は、月江に、命じてから、あるき出した。
月江は、この人物の強さ、大胆さに、すっかり魅せられていた。
生れてはじめて、月江は、男性というもののたのもしさを知らされた――と言っても、誇張ではなかったろう。
庭へ出た時、
「あんたも、一人ぼっちになってしまったわけですな」
と、振りかえって笑った長門の顔を、月光の中に、月江は、まぶしいものに見あげて、遽に、なぜか、烈しく動悸うつのをおぼえたことだった。
消えた敵
下僕加平の小屋は、檜の大樹の陰に、押しつぶされたかたちで、ひっそりと建っていた。
「ここで、ございます」
月江は前に出て、戸をたたいた。
「爺やさん……爺やさん……」
返辞はなかった。
「どうしたのかしら? この時刻には、必ずいる筈でございますけど――」
不吉な予感が、長門と月江と見合す顔に浮いた。
長門は代って、戸をあけようと一歩出た。その瞬間、本能的な素早さで、月江を突きとばし、自分自身も、身を沈めていた。
第二の手裏剣が、飛んで来て、戸をつらぬいたのであった。
長門にとって、これは、覚悟していたことであり、咄嗟に、どの方角から飛んで来たかを、はかっていた。
無言で、地を蹴って走り出した長門は、ならんだ檜の大樹から大樹へ駆け抜ける黒い影を、――こんどはのがさぬぞ! と、心で叫んでいた。
敵の目指しているのは、母屋の裏手に立っている文庫倉の細露地であった。その入口で、長門の足は三間の距離に追いつめていた。
「待てっ!」
わざと抜き打たずに、敵の肺腑をつらぬく気合をこめた一声をあびせたのは、あとで思えば、やはり、失敗であった。
敵は、追いつめられてから細路地へ逃げ込む不利をさとって、右か左へ、身をかわして反撃に出るものと、長門は判断したのだ。
曲者は、そうしなかったのである。斬れ、といわぬばかりの勢いで、細路地へ駆け込んでいた。
「うぬっ!」
判断をはずされた長門は、生かして捕える気持をすてて、猛然と速力を出した。
細路地は、白壁と白壁にはさまれて、幅は四尺となかった。
距離は、一間半とちぢまり、長門の右手が抜き打ちに動こうとした刹那である。敵の姿が右側の白壁へ、体当りをくれて、ぱっと消えた。
「しまった!」
この仕掛けがある為に、曲者はこの細路地へ駆け込んだのだ。
白壁が、叩けど押せど、びくともしなかったのは、勿論のことである。
「まさかと思うからくりが、方々にしかけてあるとみえる」
逃がした無念さよりも、手ごたえのある敵とたたかう闘志で、あらたに四肢の血を熱くした長門であった。
この調子なら、文庫倉の中にひそんだと見るのは、あさはかというものであろう。白壁が回転するのは、ここだけではないであろう。慌てて、中へ踏みこんだ時にはもうとっくに、どちら側かの白壁から抜け出ていると考えていい。
「まアゆっくりやろう。こちらが招いたわけではない。ねらって来るのはむこう様なのだ」
と独言をもらして、ひきかえそうとした時――。
倉の中で魂消る悲鳴があがり、つづいて、何かをたたきつける烈しい物音が起った。
「おどろかせるぜ、後手がつづきすぎる――」
長門は苦笑して文庫倉の正面へまわった。
意外、倉の戸は開いていたのであった。しかも、中から、呻き声が洩れ出ていた。不意の攻撃を要心しつつ、長門は、暗闇へ入って行った。
すぐに、長門が、かつぎ出したのは、小者風の男であった.両手で掩った顔から、血が流れていた。
「おい。お前さんは、誰だ?」
と、尋ねつつ、傷を見てやろうと、その手を顔からはなしてみると、額から鼻梁へかけて斬られていたが、浅いとわかった。
「呻く程のことはない」
長門は、素早く、男の片袖を裂いて、傷口へあててやり乍ら、重ねて訊いた。
「お前さんは、誰だ?」
男は、それにこたえず、片手で傷をおさえて、よろめき立つと、
「お、おそろしい……おそろしい……呪われている……」
と、口走りつつ、ふらふらと歩き出した。
長門は、眉宇をひそめて、それを見まもっていたが、黙って、そのあとをついて行った。
男が、下僕加平であったことは、彼が、月江の彳んでいる小屋にむかって行ったのでわかった。
月江が、おどろいて、
「爺やさん……ど、どうしたのです?」
と、声をかけたが、加平は、何かききとれぬくらいの小声でぶつぶつ呟き乍ら、月江を無視して、小屋の中へ入ってしまったのであった。
「乱心したのでございましょうか?」
不安げに月江が、長門を見あげた。
長門は、腕を組んで、別のことを考えていたが、
「今夜は、そっとしておこう。自分で手当のできる程度の傷だ」
と言って、踵をめぐらせた。
白菊黄菊
母屋の一室へ戻って、対座してからも、長門は長い間考え込んでいた。
やがてふと思いついて、立ちあがると、
「茶室を見て来るから、待っていてもらいたい」
と、言いのこして出て行った。
月江は、一人きりになると、俯向いて、畳の一点をじっと瞶めていた。
主人が殺された、ときかされていても、このことへの心の乱れがないのは、自分乍ら、ふしぎであった。姿のない敵が横行していることに対しても、一片の恐怖もなかった。
孤独で生きて来た娘の胸に、いま湧いているのは、――どういうお方なのだろう?
と、長門という人物について、当惑したおどろきの気持であった。月江の小さな想像力では、到底はかることの出来ぬ人物であった。
強い意志と秀でた腕前の持主であることはわかる。しかし、月江の心を惹きつけているのは、信頼すべき味方であるとわかった為ではない。はじめて、月光の中で顔見あわせた瞬間に、何故とも知れず、戦慄に似た印象を受け――それが、加平の小屋へ一緒に行くまでの一刻のうちに、月江の心で、陶酔ともいえる感情の波だちとなったのだ。
生れてはじめてのこの感情を、月江は、この上もない大切なものに意識せずにはいられなかった。
長門が、ほどなく、戻って来るや、月江は、顔を|擡《もた》げたとたん、頬が|火《ほ》|照《て》るのをおぼえた。
「おどろいたことだ」
長門の口から出たのは、そのことばだったが、表情は相変らず冷静であった。
「たしかに、この屋敷は、化物屋敷だな、あんたの主人の屍骸が、煙のように、茶室から消え去っているんだ」
「まあ!」
「生きかえって、手裏剣を投げて来た、というのなら、つじつまが合うが、たしかに死んでいたのだ。なにしろ顔の造作がわからぬまでに、むざんに焼けただれていたのだから――」
月江は固唾をのんで、まじまじと長門を見まもるばかりだった。
「屍骸をかくしたのは、拙者をねらったあの曲者に相違なかろうが、それなら、なんの必要があってかくしたか? どうも、わからん話だ」
長門は、笑って、大きく背のびをすると、
「考えても無駄なことは考える必要はなかろう。やがてわかる。拙者は、忍耐強い人間だから、わかるまであせらぬ主義だ……。ひとつ、今夜はこれで幕をおろして、やすませてもらおう。すまないが、床をのべて下さらんか」
「はい」
「この部屋へ二つ敷いて頂こう」
「え?」
「あんたも、一緒にやすんで頂きたい」
「あ、あの――」
月江は、みるみる狼狽した。
「はははは……、懸念におよばぬ。安心してやすんでもらっていい。拙者は、これで、礼儀正しい方だし、横になればすぐ睡る。曲者が忍び寄る気配で目をさます以外は子供のようにおとなしいものだと信頼して頂こう」
「は、はい」
長門の言葉は、まちがいなかった。
床に入ると、長門は、微動もせずに、すぐかすかな寝息をたてはじめた。
帯だけ解いて隣りの床に仰臥した月江は、しかし、その寝息をきき乍ら、冴えた眸子を、いつまでも、闇の中でひらいた。
ふっと、月江が目蓋をひらいた時は、もう陽が高く昇っていて、雨戸の隙間から注ぎ入った光の|箭《や》が、部屋の幾個所かで、明るい輪を描いていた。
急いで身を起した月江は、いつの間にか隣の床が空になっているのに、ひとり|赧《あか》くなった。長門に寝顔を見られた羞恥であった。
身じまいをととのえ、雨戸を開き、床をあげた時、長門が、ふらりと戻って来た。
「広いものだな。部屋数は、十二三あるが……。調度品が何もないので、余計にだだ広い。小俣は、この屋敷に移る際、調度品をどうしたのかあんたはご存じないか」
「秩父の方へ運んだようにきいて居ります」
「秩父?」
成程と頷いて、長門は、堂十郎の居間からでも持って来たらしい煙草道具を前に置いて、一服吸いつけた。
「あの、お食事を――」
と、月江が言って立ちかけると、
「いや。お茶だけで結構。あんたが摂りたいのなら、別だが――」
「いえ、わたくしは――」
さんさんと降りそそぐ陽光を、半身にあびて、静かにお茶をすすっていると、昨夜の出来事は夢であったように思われた。雀のさえずりのほかは、しーんと鎮まりかえった秋の朝である。縁先の芝生を縫って、彼方の泉水へ流れて行く小溝の流れが、光に映えて、この座敷の床の間の壁のあたりで、かげろうのようにゆれていた。
ふと、月江は、胸が、きりきりと痛むのをおぼえた。
こうした静かな、穏かなひとときを、生れてはじめてあじわう――その幸福感が、痛みとなったのだ。これは羞恥を押し伏せる強さをもっていた。
月江は、そっと、自分をこのたくましい人物に仕えている若妻に見たててみたのである。
「こんどは、庭を拝見しようか」
長門が立つと、月江も、ためわらずに、それにしたがった。
ひとめぐり、ゆっくりと見てまわって、やがて、加平の小屋のある裏庭へ出た時、長門の視線が、急に鋭く、ある場所へ投じられた。
「あれは――」
と月江に指さしたのは、菊の花壇であった。よほど丹精をこめなければ、こうも美しく咲かないであろう大輪の白菊、黄菊が、いまを盛りに清艶をきそっていた。
「加平が、つくって居ります。わたくしにも切りとらしませぬ」
「よほどの菊作りの名人とみえる」
と、呟いた長門は、眼光だけは、別のものを読んでいた。
白と黄が入りみだれて咲いているので、何気ない一瞥ではわからぬが、花はあきらかに、ふたつの二文字を描いていたのである。
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たしかに、この二文字がありありと浮き出ているのを認めた長門は、咄嗟に、脳裏に、わが妻を思い泛べていた。
この娘は、妻と似ている。そしてこの花壇には妻の名と、この娘の名が描かれている。これは、偶然とは考えられぬ。
下僕加平は、この秘密を知っているのだ。
長門は、遽に、第三者としてこの屋敷に匿された宝をさぐる冷静をうしなって、心の動揺を意識した。
思いがけなくも、将軍家|落《らく》|胤《いん》であった妻の存在が、この屋敷とふかいつながりを持っている発見は、長門を烈しく戸惑わさせずにおかなかった。
「月江さん」
長門は、菊の群を凝視したなりで、呼んだ。
「はい」
「加平は、あんたに親切だったか?」
「はい、それはもう親身になって――」
「あんたの素姓について、何か口をすべらせたことはないか?」
「いえ、それだけは、何もきかせてはくれませんでした」
「しかし、知っているらしいそぶりは、感じたのではないか?」
「べつに……わたくし、知りたいとも思いませんでしたので――」
このおり、花壇のむこうに、加平の姿があらわれた。頭と顔の半面を、布でつつみ、おぼつかなげな足どりで檜の下を辿って行く。
「爺やさん!」
月江が呼びかけたが、きこえぬ振りで、そのままの姿勢をたもって小屋へ向った。
長門は、先回りして小屋の前で待ちうけていて声をかけた。
しかし、加平は、のぞけた片目で、じろりと長門を、睨むように見あげたが、すぐに顔を伏せると、怕いものでも避けるように、じりじりと遠まわりして、戸口へ寄った。
「狂っている」
しきりに口のうちでぶつぶつと呟くのを眺め乍ら、長門は、いたましげに首を振った。月江は、悲しげに溜息をつくと、
「もう、直らないのでしょうか」
「わからんな。だが、ああやって、傷口をしばることは忘れておらぬのだから、もしかすれば、案外早く正気をとり戻すかも知れぬ」
いずれにしても、この下僕の口を割らせるのは、手間がかかると、長門は、自分に云いきかせたのであった。
源平試合
庄吉が手負いの連中の行く先を跟けて行った報告をもたらしたのは、それから間もなくであった。
「旦那、仰言ったように、どうも|剣《けん》|呑《のん》なところでござんした」
「何処だ?」
「お茶の水の、直心影流の道場でござんした。主人は、佐々右膳というんで――近所できいたら日本一だとぬかしゃがって、冗談云うねえ、日本一は、はばかり乍ら、おれの先生だ、と見栄をきりてえところでござんしたが、ともかく、評判の使い手らしゅうござんす」
「佐々右膳か、――そうか」
「旦那は手合せなすったことがござんすので?」
「むかしのことだ」
長門は、沈んだ面持で、宙の一点を見据えて、肚裏で、
――これも宿命か。
と、呟きすてていた。
佐々右膳こそ、梅津長門をして、放蕩無頼の世界へ追いやった直接の原因となった人物であった。
十五年前――十九歳であった長門はまだ文武に身をうちこんだ若侍であった。
その年の元旦、恒例の源平試合が、若年寄本多正意の屋敷で行われた。
旗本からえらばれた若侍三十人ずつが、源平にわかれてたたかうのだが、はじめて出場した長門は、十一人目に源氏の方から出て、すでに九人までも打破っていた。
広縁では本多正意自身は、上機嫌であったが、左右に居並んだ旗本の上役たちは、険しい視線を長門に投げていた。
長門が、三四人抜くまでは、広縁の人々も、「梅津といえば、先年切腹したあの梅津の伜か、|流石《さすが》は強いの」とか「父の汚名をそそぐ志をたてたとみえる」とか|称《ほ》めていたのであるが、その太刀筋の鋭さが、無類の強さを発揮して、ほんの二三合で、簡単に相手を打ちすえるにつれて、みな不快な顔になってしまったのであった。
長門は、日焼けて、目ばかり光らせ、ろくに、頭髪の手入れもしていなかったし、衣服はよれよれだったから、遠目にはずいぶん憎体に映じた。
また、長門は、身分のいい美しい顔立ちの若侍に対しては、それこそ敵意をむき出して、猛獣のように襲いかかって、容赦もなく無残に、突倒したから、桟敷の女たちから、礼儀知らずの無法者と、憎まれたのである。
十人目をも、打ち倒した長門は型正しく片膝つき乍ら、
――平家方をのこらず負かしてやるぞ!
と、考えていた。
敵の副将には、長門の強敵室戸兵馬がいた。兵馬を負かすことが、長門の念願であったのだ。
ところが、師範代が出て来て、十一人目の名を呼ぶや長門は肚で呻いた。
それが、佐々右膳だった。三尺五寸の竹刀を振い、その長身、膂力の技では殆ど無敵と称されている右膳が、こうした若侍たちの試合に出場するのは、意外といわねばならなかった。
「多神壮右衛門、急病につき、佐々右膳代理を勤める」
と、右膳が云うのをきくや、長門は、烈しい憤怒のこみあげるのをおぼえた。
多神壮右衛門は、たった今まで、自分の席に坐っていたのだ。これは、あきらかに、広縁の上役たちの指金である。
――わしが、七十石の軽輩だから、強いのが癪にさわるというのか! よし!
右膳の秀れた腕前は、かねてから知っていた長門は、必死の覚悟をきめた。
――右膳を負かせば、かえって、わしの強さに、上役たちは舌をまいて、感服するかも知れぬ。
そうした期待も心の隅にあった。
構えて立つと、長門は、
「やあっ!」
目上に対する礼儀として、自分から掛声をかけて、つつっと、進んだ。
「やあっ!」
右膳は、それを冷然と見据えて、三尺五寸の竹刀を青眼につけていた。
長門が、八双に構えた――その間髪の隙をねらって、
「ええいっ!」
と、右膳の竹刀が、胴へ一撃。
同時に、長門は右手一本、横面へ――ぴしりと打ち込んでいた。
面と胴から、冴えた音が、庭中へひびいた。
二人は、ぱっととびすさった。
審判が鉄扇をさしあげて、
「胴ありっ!」と、叫んだ。
すると、長門は、われを忘れて、
「相打ちでござるぞ」
と、怒鳴っていたのであった。
武士の世界
長門はたしかに相打ちを信じたのである。
げんに、自分の胴には、音だけは強く響いたが、腹にこたえる力はわずかだった。それにひきかえて、佐々右膳は、横面の一撃で、一瞬ではあるがよろめいたではないか。
「相打ちでござるぞ!」
もう一度、長門が絶叫するや、審判がつかつかと寄って来て、鉄扇で、肩を打ち据え、
「見苦しいぞ! 梅津、ひかえい!」
と叱咤した。
長門は、血走った眼眸で、あたりを見まわした。どの顔も、冷やかに、自分を嘲っているように思われた。
長門は、地べたへ竹刀をたたきつけると、一礼もせずに、庭を立去ったのであった。
それから数日して、長門は、小普請組の組頭に呼び出された。梅津家は、小普請組ではなく、父の切腹によって、長門がはじめて入ったのであったから、組頭にとっては、異端者としか考えられなかった。
もともと、小普請といっても、給禄の差が甚しく、二千九百石の高禄を食む者もあれば、二十石内外に過ぎない者もあった。しかも、小禄の者の中でも、拝謁の資格をもった家柄もあり、千差万別であった。したがって、高禄だから旗本、小禄だから御家人と二階級に種別するわけにいかなかったのである。給禄の多寡、地方の有無に関りなく、家柄がものをいった。
すなわち、梅津家の場合をみるに、父が幕府の法令を犯し、自身の不所存で一命を|殞《おと》したため、二千五百石の大身から、七十石の小身へ落され、その子の長門は、小普請に入れられたものの、家格は依然として変りはなかったのである。拝謁以上の名門として、武鑑の中位にその名をつらねていた。当時、旗本――すなわち拝謁以上は、五十人にたらず、御家人の総数は六万余であったから、梅津家の家格は、はるかな上位にあったわけである。
小普請の組頭は、三百石、拝謁以下であったから、余計に、梅津長門に対して冷たかった。
「梅津、もうすこし心得て、言動を慎んでもらいたい」
六十越えた組頭は、長門の顔を見ると、露骨に苦い表情で言った。
組頭は、小普請の素行を管監し、屋敷替、婚姻、隠居その他の願書の申達等百般の事務を担当していた。だから、呼びつけて、忠告する権利は持っていた。しかし、当時にあって、家格の差は、犯すべからざる牢固たる観念を、武士階級に植えつけていた。
組頭と長門の立場は、このふたつの相反した制約によって、溶け合わぬ敵意を抱くべく運命づけられていたのである。
「拙者は、別に、後指をさされるような言動をとったおぼえはありません」
十九歳の長門は、胸をはってこたえたものだった。
「梅津! 貴公は、先般の試合について、諸所に、不満を吹聴して居る、ときいているぞ!」
「拙者は、自分が正しいと信じたことを言ったまでです。あれは、たしかに、相打ちだったのです」
「黙らっしゃい! 若年寄御支配の紅白試合に、不正があったといえば、旗本一統の恥辱になると、思わぬか! 貴公は、かねてより、小普請に身を落した不満をつのらせて、事あれば、亡父を裁いた上司に一矢むくいる不逞の志を抱いているのではないか。試合にのぞんだ貴公の傲慢極まる態度こそ、いい証拠ではないか」
「ちがいます。拙者は日頃懸命に習った技を一心こめてふるったにすぎません」
「おのれの技倆を自慢するだけなら、あれだけの人数を打込んだので充分皆は認めている。それを、審判に対して、不満をしめして、竹刀をなげすて、若年寄に礼を失した態度は、家禄を下げられた怨恨を抱いているとしか思えぬではないか。組頭たるわしまでが、世話取扱として面目を失した」
「若年寄から、おとがめでもあったというのですか。それなら、拙者から、じきじきお詫びをいたしましょう」
「なにを申す! その傲慢さこそ反省さっしゃい。いくら由緒正しい家柄か知らぬが、今は、七十石の小普請ではないか。父の代とはちがうぞ。程を弁えるがよい」
「それでは……拙者が、せいぜい両三名を打込んだなら、引分けにでもして退ったらよかったのだ、と仰言るのですな」
「それが、心得のある武士の情と申すものじゃ」
「はっはっはっ……」
憤怒を抑えるために、長門は、声をあげて笑った。
「梅津!」
「わかりました。小禄の旗本は、試合も八百長をやって保身の心づかいをしなければいかんのです。よかろう。明日からはそのつもりで、梅津長門は生きて参りましょう」
座を立った長門は、その白髪首を一閃はね落したい衝動を制しつつ、足早に組頭邸を出て行ったのであった。
長門が、一切の希望を放棄して、市井無頼の世界に身を崩していったのは、その時からであった。
恋夜番
「そうか、佐々右膳だったのか――」
長門は、庄吉を前にして、ふかい感慨を、もう一度、溜息にした。といって、佐々右膳その人に対して、なんらの闘志もよみがえったわけではなかった。
「で――どうした、天井裏へもぐったか?」
と、尋ねる長門の顔は、冷静なおのれをとりもどしていた。
「へい。……旦那、佐々右膳は、やっぱり阿古父尉の面をねらう野郎からたのまれやがったんでさ。……小俣に殺された助右衛門と一緒に、南から帰って来た船頭で、丹兵衛という野郎が、道場に居りやした」
「ふむ」
「右膳は、小俣堂十郎が一筋縄じゃいかねえ人間てえことを知っていて、昨夜は、小手しらべのつもりで、師範代を頭にしてこの屋敷を襲わせてみたらしゅうござんす。一人のこらず、よいよいになって戻って来ても、別に叱りもせずに、滅法強かった旦那が梅津長門だときくと、目をむいてしばらく唖みてえに考え込んで居りやしたぜ」
「師範代は、小俣を殺したのは、自分たちでないことも報告したろうな?」
「へい。そのことも、奴らには、不思議らしゅうござんした。たぶん、助右衛門一味じゃねえだろうかなどと――」
「あの連中が、どうして茶室に小俣の屍骸があったのを発見したか、そのことはきかなかったか?」
「それがね、旦那、奴らが、屋敷にしのび込んだ時、庭をうろうろしていた下僕とぶつかったので、ねじ伏せて、小俣の寝室を教えろ、と脅したら、茶室だと言うので、母屋へ踏み込まずに、茶室へまわった、と申しやしたぜ」
「下僕が教えたというのか――」
長門の双眼が、一瞬、鋭く光った。
あの狂った下僕加平が、この事件では、非常に重大な役割を果している。
――もしや、加平が、小俣を殺したのでは?
この想像が、ちらと長門の脳裏を横切ったが、すぐ、打ち消した。
加平は、実は、堂十郎の実兄だった、というではないか。弟を憎む何かの理由はあったとしても、今まで秘密をまもって下僕の地位にあまんじて来たような人柄の男に、あの様にむごたらしい凶行が出来る筈がない。
自分を手裏剣で襲撃して来た黒衣の人物がやったと考える方が筋途が通る。それにしても、一体、あれは、何者なのか?
長門は、まだ、ほかに解かねばならぬ多くの謎を、一夜のうちに、心に抱かされてしまったのだ。
「ともかく、今日は、一応ひきあげることにしよう」
と言って、長門は、うしろにつつましくひかえている月江をふりかえった。
「月江さん、あんたはどうする?」
「はい」
月江は、顔を擡げて、何か言いたげな様子をしめしたが、それは口にせずに、
「わたくしは、ここにのこります」
と、こたえた。
「そ、そいつはいけねえ!」
あわてて、庄吉が、手を振った。
「一人ぼっちで、こんな化物屋敷に住むなんて……そんな――とんでもねえ話だ」
「でも……わたくし、どこへ行くあてもありませんもの――」
「なあに、あっしのとこ――いや、ねぐらなんざ、どこにでも見つけてさしあげまさ。ねえ旦那――」
長門は、じっと月江を見据えていたが、意外にも、
「いいだろう。世話する主人のいなくなった屋敷に、一人で、ひっそりと住んでみるのも、それで怕くなければ、気楽かも知れぬ」
「はい。わたくし、加平があの様になって居りますから、面倒をみてやらなければなりません――」
「そうだ、あの男を置き去りには出来ぬ」
庄吉は、長門の平然とした態度の裏にかくされた意図がわからぬ苛立たしさで、
「だって、旦那、いくらなんでも、このお嬢さんを、一人ぼっちで、こんな化物屋敷に住まわせるなんて、ひどうござんすぜ」
「夜は、お前が、泊ることさ」
長門は、笑った。
「へ――」
「それなら、話がわかるか?」
「そりゃ、もう――」
「しかし、危険なのは、お前の方だぜ。姿を見せぬ敵は、たしかにいることはいるが、そいつは、月江さんには危害を加えぬ、と、おれは見た。月江さんが邪魔なら、昨夜のうちに、どうにかした筈だ。すてて置いたのは、別に月江さんの存在が目ざわりではないからだろう。ところが、お前が泊ったとなると――これは、相手にとって、たしかに、余計な押かけ者だからな。夜中に、いつ、手裏剣が飛んで来るか知れないぜ」
「へっ、出て来い出て来い、池の鯉だ。とんだりはねたり、甘茶でかっぽれだ」
「おどかしではないぞ、庄吉。敵の手並は、おれでさえ、きもを冷やした」
「大丈夫、旦那。来たか待ったか夜鷹じゃねえが、昼寝て、夜起きて、朝までまんじりともしませんや。ご安心なすっておくんなさい」
正体
長門は、庄吉と月江を、母屋の一室にのこして、いったん、表門から出て行った。
しかし、数歩あゆまぬうちに、急に思いかえして、いそぎ足に、塀に沿うと、裏門へまわったのであった。
狂った下僕加平を、あのまますてて置くことが、何か大きな手落ちになるような直感が、長門をひきかえさせたのである。
長門は、裏門脇の塀を乗り越えて、加平の小屋へ近寄る間に、そうする自分の行動の中から、次の直感を生んでいた。
――はたして、加平は、狂っているのか?
この疑いを昨夜のうちに湧かせなかったのが、非常に迂闊に考えられたことだった。
あたりに気をくばりつつ、戸口へ立った長門は、手をかける前に中の気配をうかがう要心をした。
たてつけのわるいその戸を開いてみると、土間の庭道具も、ひと間きりの四畳半の片隅にたたまれた夜具も、きちんと整頓されてあった。
――狂った者が、はたしてこの様に身のまわりを綺麗に出来るものだろうか?
茶道具には、布巾がかけられてあったし、夜具の上の枕の置方も、日常起居の慎しみぶりをしめしている。
――これは、狂う以前のくらしぶりだ。昨夜は、ここで睡っていないのか?
長門は、加平の戻りを待つことにして、戸を閉め、上り框に腰をかけた。
偽狂人ではないか、とひとたび疑問が起ってみると、昨夜の加平の行為のすべてが、予定されたことであったと推定出来た。
佐々右膳の配下たちに小俣堂十郎が茶室に寝ていることを教えたのも、文庫倉の中に匿れていたことも――。
いや、それよりも、突然、もっと鋭い想像力が、長門の脳裏で働いたのである。
――そうだ、そうだったのか!
長門は、ひとり、口辺に、微笑を刻んで、頷いたのである。
――どうやら、おれは、遠山景元に見込まれる程の秀れた頭の持主ではないらしい。このことを、咋夜のうちに、気がつかぬとは、われながら血のめぐりが悪かったな。
そうと判明してみれば、もはや容赦する必要がない。とりおさえて、泥を吐かせてやるまでだ。
小俣堂十郎を殺したのは、疑いもなく、加平なのだ。
庄吉から、加平が茶室を教えたときいた時、咄嗟に掠めた想像はやはり正しかったのだ。犯人が、別に存在しているときめていたから、迷ったのだ。
長門には、そのほかに、加平から白状させねばならぬ重大な謎もあった。花壇の菊が描いている二タ字の謎を――。
長門は、昨夜から頭上にかぶさった黒雲が散って、明るい青空を仰いだような、爽快な力が、あらたに四肢にみなぎるのをおぼえた。
――来たな!
近づく跫音に、その四肢はひきしまった。
戸が、開いた。
長門が立ち上るのと、加平がとびすさるのと同時だった。
予期しない待ち人のはなっている殺気が、狂人を装う隙を与えなかったのである。本能的に、鍛えた素早い身の動きをしめして、しまった、と歯がみする相手に長門は、にやりとしてみせた。
「油断大敵とは、このことだな、下郎!」
長門に言われて、加平は、口のうちで唸った。
「こっちもつい先刻までだまされていたのだから、大きな口はたたけぬが……先ず、姿を見せずに投げた手裏剣の冴えは見事だったとほめておこう。文庫倉で、おのれ自身に傷をつけてみせたカラクリも、気がきいていた。昨夜はあれだけの用意周到ぶりをみせ乍ら、なぜ、この小屋の中を狂人らしいすまいにしておかなかったのだ! 貴様らしくないことだ。その顔の半面をかくした布をはずせ、片目ではたたかいにくかろう。それまで待ってやる」
長門は、敵の手が、懐中の手裏剣を掴む一瞬を与えぬように、身をななめにかまえて、居合抜きの凄味で圧迫しつつ、一歩踏み出した。距離は、わずか、一間半しかなかったのである。
この時、もし、彼方の母屋から、月江が、はげしい狼狽ぶりで走り出て来る姿が、長門の眸子に映じなかったならば、当然、勝はきまっていた。
はっとなった刹那、隙が生じた。
加平の右手がひらめいて、白閃は、長門の咽喉をねらって直線を描いた。
その手裏剣をかわしざま、長門が抜き打った一撃は、加平の小鬢をかすった。
次の瞬間、加平は、身をひるがえしていたが、その逃走ぶりは、その年齢にふさわしからぬおそろしい速さだった。
しかも、こちらを見て、あっと立ちすくんだ月江めがけて、加平は、走ったのである。
「危い!」
思わず口走った長門は、猛然と追いつつ、
「月江さん、逃げろ!」と、絶叫した。
月江をとらえて、防ぎの楯にしようというこんたんだ、と長門は、察したのであった。
加平の意図は、それよりも更に凶悪だった。月江に十間と迫るや、さっと、右手にかざした手裏剣が、きらっと陽光を撥ねた。
「待てっ! 加平!」
愕然となった長門は、立ちどまって叫ぶと、刀をぴたりと鞘へおさめた。
その鍔鳴りをきくや、加平の片頬が皮肉な冷笑で歪んだ。そして、手裏剣をふりあげたなりで、一歩一歩、横へ移った。
「たわけ、こちらが妥協したからには、さっさと去れ!」
長門は、不快を|罩《こ》めて叱咤した。
加平は、じろりと長門へ一瞥をくれて、無言で走り出し、またたくうちに、姿を消してしまった。
「どうした、月江さん――」
長門が、その前に寄ると、月江は、あまりの驚愕で、痴呆のごとく虚脱の表情で、母屋を指さした。
庄吉は、縁側に、胸へ手裏剣を刺されたまま、倒れていた。
長門は、手早く、手裏剣を抜きとり、その片袖をちぎって血をとめると、脈をはかり、口中にたまった血汐を吐かせてから、そっと部屋へはこんだ。
「生命はとりとめる」
しばらく様子を見まもっていた後、長門が言うと、月江は、ようやく表情を動かして、ほっと吐息した。
月江が、台所へ行って、午食の仕度にとりかかってから、ほんのわずかの間であった。
庄吉に、卵焼きが好きかきらいか、きくために、戻って来てみると、もう縁側へ倒れていたのであった。
「月江さん、あんたは、加平が、親切な男だったと言っていたな?」
「はい」
「とんだくわせ者だった」
「…………」月江は、身を顫わせると、がくりとうなだれた。
「信じられぬか?」
「は、はい――」
「しかし、あんたも、自分を殺そうとしたあの男の悪党ぶりを、げんに、たった今、見たばかりだ。長い年月、猫をかぶっていたと思うよりほかはあるまい。わたしも不覚だった。化の皮をひんめくるのがおそすぎた。庄吉のやつ、とんだとばっちりをうけた。が――これで、正体は判明したのだから、謎解きの糸の先は掴んだことになる。まアあせらずに、解いていこう。百万両の宝を、かんたんに手に入れようというのがどだい虫のいい話なんだから――」
「わ、わたくし……わたくしのために、庄吉さんが、こ、こんな目にお遭いになって――なんとお詫びしていいか……」
「看病してやって頂こう。なに、あんたに看病して頂けるのなら、庄吉のやつ、かえって、この怪我をうれしがるだろう」
「まア――」
月江は、顔を擡げて、長門を見やったが、うらめしげな色は、眸子の奥にかすかに湛えただけだった。
その白い顔を、見かえして、
――似ているな、雪に。
と、長門は、あらためて感じないではいられなかった。
薄幸な面差といわねばなるまい。雪も、かつては、このように、冷たく、淋しい翳をひいていた。この娘もまた、ひとかけらの愛情もない手によって育てられたのであろうか。喜怒哀楽の表現の術を知らぬようである。孤独で生きて来た者のみがもっている悲しい無表情が、こうした場合、よりふかくあわれをそそるのであった。
仇討手段
三日ぶりに、わが家へ戻って来た梅津長門は、毛利春斎の妻女から、
「雪どのの、行方が知れませぬぞ」
と告げられて、愕然となった。
長門と庄吉が出て行った夜のうちに、雪の姿もまた、忽然として消えた、というのである。
長門は、妻の寝床が敷きはなしにされたままになっていた、ときくや、
――|誘《かど》|拐《わか》された!
と、直感した。もし一人で出て行ったのなら、居間をキチンとして置いた筈である。あの身じまい正しい妻が、床をそのままにして行ったとは考えられぬことだった。
争った跡がないのは、曲者が、しのびの心得があり、雪が目覚めた時は、もう抵抗出来ぬ状態にされていたものだろう。
長門は、憤怒のあまり、経机の写本を掴んで、庭へたたきつけた。
その刹那、はっと脳裏を掠めたのは――。
自分を襲った室戸藤馬の顔であった。
「あいつだ!」
この直感を、長門は、正しいと信じた。
「生かすのではなかった! 斬るべきだった!」
長門は、澄みわたった秋空を、凝然と仰いで、はらわたがちぎれる程の悲痛な叫びを、肚裏で、ほとばしらせた。
――雪! 何処へつれ去られたのだ、雪!
×
その時刻――。
室戸藤馬は、佐々道場の奥間にいた。
右膳のいる書院であった。静かな西日の落ちた、金のかかった庭が見渡せた。泉水が、縁側の下までのびて来て居り、かえでの影を映した水面に、大きな緋鯉が、ゆっくりと浮きあがって来て、また沈んで行った。
右膳は、銀脚ぎやまんの洋燈の据えてある机に凭りかかっていた。
そうして、黙然としているだけで、魁偉な風貌と逞しい体躯は、相手を威圧するに足りた。尤も、右膳が、怪しい陰影を持った人物であることは、ひとたび失脚し乍らも、水野越前に取入って、この広壮な道場をひらくのに、どの様な方法をとったか、ひそかに噂されていることでもわかる。
性来、表面に立って働くよりも、陰にまわって糸をひいて、何事かをたくらむにふさわしい|質《たち》であることはまちがいなかった。水野越前の敵側に立った人々が、幾人か暗殺され、下手人はついにとらえられていなかったが……その暗殺団の頭目が、右膳ではないか、という陰口も、まことしやかにつたわっているくらいである。
藤馬は、今、ひどく緊張しつつも、右膳の盲点をつかんでやろうというこんたんで、ひと膝のり出していた。
「先生。……拙者は、女をいっぴき、さしあげたいのですが――」
奇妙な申出を、右膳は、殆ど無表情で受けた。
「生娘か?」
右膳が、女色を好むということは、弟子の間で、有名であった。右膳が、失脚したのは、越中島の大砲を毀したからではなく、美人として名高かった砲術師範役の妻を、暴力を以て無理矢理に、欲望のいけにえにしたという話もあった。たぶん、当時の争いを、さらに面白くするための作り話であったろうが、そんな作り話をひろめられても仕方がないくらい、右膳は斯道にかけての猛者であった。げんに、妾宅は三軒も蓄えているのである。
「生娘ではありません。人妻です」
「では、貴公、ひろったのではなく、奪って来たのか?」
右膳は、藤馬の肚裏を鋭く射抜くような眼光をはなった。
「ご明察――」
藤馬は、にやりとした。
「断ろう」
右膳は、水をあびせるように言った。
「わしは、他人の古女房などに興味は持たぬ」
「ところが、先生。人妻は、人妻でも、もとをただせば前将軍家斉公のご落胤だったら、どうなさる?」
「なに? ご落胤?」
「左様――」
「たばかるのか、室戸! このわしを――」
右膳は、机から肘をはなして、ぐっと胸をはった。
「とんでもない。事実を申しているのです」
「何者の女房だ?」
「それが……きかれたら、先生も、拙者に金一封を下さろうというものですな。いずれは、先生と一騎打ちしなければならぬ相手ですから」
「わかった!」
右膳は、大きく頷いた。
「おわかりですか?」
「きいて居る。ご落胤を女房にしたと――」
「左様、梅津長門です」
「貴公どうして、梅津の居所をつきとめた?」
「あとを跟けたのです。……先生、須貝嘉兵衛は、腰抜けになりましたな。昔日の面影はさらに無し、正直なところ、拙者一人では、兄の仇は討てぬと思い、嘉兵衛に助太刀をたのみましたところ、嘉兵衛め、逃げましたぞ。ご存じの筈でしょう、嘉兵衛の左腕を殺いだのは、梅津です。そればかりか、嘉兵衛が井伊家からあずかっていたご落胤の姫を奪ったのも、梅津です。嘉兵衛にとっては梅津こそ仆さねばならぬ不倶戴天の敵なのです。……にも拘らず、彼奴め、逃げうせた」
「そういう貴公にしたところで、仇討ちの代りに、その女房を奪って来たとは――世間にきこえると恥にこそなれ、名誉にはならぬ」
右膳は、ひややかに笑った。
「姫を、おとりにするのです。梅津をおびき寄せて、先生に、斬って頂きたい。拙者は、とどめを刺す役にまわりたい」
藤馬は、にやにやした。敵わぬ敵と知って、虚勢をはる程、武士の意地を持っている藤馬ではなかった。
右膳は、藤馬の肚を読みとった。手段はどんなに卑怯であろうとも、仇討を遂げればよいのだ。そして、表面では、おのれ一人の力で討ったことにする。それを土産にして、絶えた室戸家を復興して、五百石の旗本の身分になりたいのだ。
「よかろう」
右膳は、承諾した。
「有難い、お願い申します」
「で――梅津の妻は、どこにとじこめてあるのだ?」
しかし、藤馬は、それにこたえず、
「梅津をおびき寄せる手筈は、拙者が、万事はからいます」
と、言った。
藤馬は、要心深かった。右膳をも、信頼していなかった。ご落胤は、右膳に対しても、おとりなのだ。先に渡してしまえばこちらの利がうすくなる。梅津長門が斬られるのを、見とどけ、そして、わが手柄にして公儀にとどけるまでは、滅多に、せっかくのおとりを手離すわけにいかないのだ。
――ふん、野心達成までは、美人はおあずけか、小才子め!
右膳は胸の中で罵りすてた。
藤馬は、本所深川の無頼の徒と親しい。いずれ、そのあたりの手輩にたのんで、いけにえをとじこめていることだけは、右膳にも推察出来た。
「では、ついでに、こっちも、貴公に、ひとつ、たのむことがある」
深川がよい
晴れた夜空に、鎌月がかかっていた。
一艘の|猪《ちょ》|牙《き》が、深川を縦横につらぬいている掘割のひとつ――小名木川の黒い水の上を、にぶい軋りをひびかせながら、こぎすすめられて行く。
乗っているのは、藤馬と丹兵衛であった。
右膳のたのみで、藤馬は、丹兵衛を、富賀岡八幡の二軒茶屋へ案内することにして、出て来たのである。
|田舎《いなか》|者《もの》にとって、江戸深川の|狭斜《きょうしゃ》こそ、吉原とともにあこがれの世界であった。|所謂巽《いわゆるたつみ》七場所の|妓《ぎ》|院《いん》|酒《しゅ》|楼《ろう》にのぼって、羽織芸者の弦歌をきく――これこそ、男|冥利《みょうり》につきる夢の実現であった。
|結城紬《ゆうきつむぎ》の黒小袖、|八《はっ》|端《たん》がけの下着、|萌《もえ》|黄《ぎ》|羅《ら》|紗《しゃ》の長羽織を、ぞろりと着流して|猪《ちょ》|牙《き》にゆられて、深川がよい――これが、当時のダンディであった。
丹兵衛の心は、はずんでいた。江戸へ出て来たのは、一月ばかり前であるが、小俣堂十郎の隠居所を捜すのと、助右衛門の動勢をさぐるのに、血眼になっていたあまり、|脂《し》|粉《ふん》の香をかぐ余裕などはなかったのである。一切を右膳にゆだねた今、おさえていた欲情を、今夜こそ満たすことが出来るのだ。
しかし、丹兵衛は、知らなかった。二軒茶屋は、このたびの改革で|取《とり》|潰《つぶ》されたことを――。
のみならず、|猪《ちょ》|牙《き》のすべって行く方角が、富賀岡八幡とは反対の、東へむかっていることも、丹兵衛の夢にも気がつかぬことであった。
小名木川は、大名屋敷の高い門塀にはさまれて、左右に燈を見ない、淋しい掘割である。土屋|采女正《うねめのしょう》、秋元但馬守、本郷丹後守、松原伊賀守、岡部美濃守、とずらりとならび、民家はない。
新高橋を潜っても、なお、武家屋敷がつづき、寂寞たる夜気をみだすものは、櫓音と枯れ蘆のそよぎばかりである。
やがて――。
左が五本松、右が一望、淡墨の闇に浮きあがった八右衛門新田に出た。
「ここでよし」
藤馬は、猪牙を、岸につけさせると、先に、ひらりと飛んでいた。
「旦那、滅法暗うござんすね。あっしゃまた、|巷《ちまた》の岡場所には、船宿がならんで、目がくらむほど明るくって、さわがしいところと思って居りました」
つづいて上った丹兵衛は、|訝《いぶか》しげに言いかけた。
見わたすかぎり、模糊たる靄につつまれた田園の中にわずかに、三つ四つの燈が滲んでいるだけである。
藤馬は、無言で一丁ばかりあるいた。
と――。
足を停めて、くるりと向き直った藤馬は、ひくい咳ばらいをしてから、
「丹兵衛」
「へい」
「気の毒だが、二軒茶屋へ行くのは中止だ」
「なぜでござんす?」
「二軒茶屋は、とっくに取潰されて、あとかたもないのだ、行くにも行き様がねえやな」
「なんですって? 冗談じゃありませんぜ。それじゃなぜ、佐々先生は、そんなことを」
「おめえをつれ出す口実よ」
「えっ?」
「おめえに行ってもらいたいのは、地獄の一丁目だ」
「げっ!」
「おれが案内してやりたいが、あいにくおれも、道を知らんて、ふふふふ……。おい、丹兵衛、おめえも、とんだ御仁に、秘密を打明けて、たのんだものだな」
「ち、ちっ……畜生っ! おれを|殺《ばら》して――」
「そうよ、百万両の宝を、佐々右膳が、ごっそり頂戴しようという寸法さ」
と言いつつも、藤馬は、すでに鯉口を切り、逃さぬように、間合をはかっていた。
丹兵衛の荒い呼吸だけが、せわしくひびいている。
逃げよう、と隙をうかがうのだが、殺気にしばられて足がうごかなかった。
一歩うごけば、一太刀あびせられるという恐怖が、ついに、丹兵衛の膝を折った。
「旦那!」
べたっと、地べたへ両手をついて、
「た、たすけておくんなせい! 宝は、も、もう、いりません。さ、さしあげます!」
「丹兵衛、おめえも、外国をわたりあるいた船頭じゃねえか。こっちが裏切ったら、なぜ度胸をすえて、勝負をしねえんだ。おれが勝つとは、きまっちゃおらんぞ!」
「おねがいです! おねがいでござんす! 生命だけはたすけておくんなせえ!」
「丹兵衛、おれは実のところ、どっちだっていいんだ。ところが、たのまれた相手がわるいぜ。佐々右膳は、こうときめたら、絶対にやりとげずにはおかぬ人間だ。もし、おれがおめえをたすけたと知ったら、右膳は、おれを斬るぜ。それから、草の根をわけても、おめえをさがしだすに相違ねえ。そういう蛇みたいに執念深い男なんだ、あいつは――」
藤馬が、つい日頃のお|饒舌《しゃべり》の癖を出した――この隙を、実は、丹兵衛は歎願すると見せかけてねらっていたのだ。
「野郎っ!」
懐中から、匕首をひき抜くと、身を弾丸にして、藤馬へ突撃した。
反射的に、刀の鞘をはらったものの、藤馬は、身を|躱《かわ》すのが、辛うじてなし得ただけであった。
「うぬっ!」
相手の芝居と自分の油断に、かっと逆上した藤馬は、一太刀、二太刀斬りつけたが、どこかをかすっただけであった。
死にもの狂いの丹兵衛の動きは、むしろ、藤馬の方をたじたじとさせる程、す早やかったし、無謀でもあった。
藤馬は、それにつられて、やたらに刀をふり込んだがそれは、そうさせる丹兵衛の計略でもあった。
藤馬は、無意識のうちに丹兵衛を、岸へ追いつめていた。
「くらえっ!」
丹兵衛が、ぱっとなげつけた匕首を、藤馬は、あっとさけた――その瞬間、丹兵衛のからだは、掘割へうしろ向きに跳んでいたのであった。船頭にとって、水の中は土の上よりも逃れるに好都合である。
「しまった!」
丹兵衛は、いったんもぐってから、二間むこうに浮きあがると、
「ざまアみやがれ」
と、あざけりの声を投げつけておいて、しぶきをあげて、むこう岸へ泳ぎはじめた。
見わたしたところ、あのあたりに、橋はひとつもなかった。
藤馬は、小柄を抜いて、目を光らせて待った。
丹兵衛がむこう岸へはい上って、すっくと路上に立った瞬間――その黒影へむかって、藤馬は、気合もろとも小柄を飛ばした。
黒影は、いったん、地へ吸いこまれるように倒れたが、すぐにはね起きて、猿江町の方へむかって、走りはじめた。
「当った筈だが――」
藤馬は、唇を噛みしめて、むなしく、|靄《もや》の中へ没し去る黒影を見送るよりほかはなかった。
救いの主
丹兵衛は、深い深い谷底から、必死に、断崖をよじのぼる悪夢から、ふっと目覚めた。
ほの暗い、湿気の、臭いのする部屋である。|煤《すす》けた天井、破れた障子戸。
きせかけられている夜具も、綿のはみ出した、汚れた粗末なものだ。
ちょっと、動くと、背中が、ずきりと疼いた。
――そうだ。おれは、背中をやられたのだ。
そうっと首だけ曲げて、障子戸の隙間へ、視線をはなった。
暗いのは、外が雨のせいだった。朝のようである。
――たすかった!
どこかの裏店であろうが、兎も角、自分をすくって来てくれた者があったのだ。
遠くで、豆腐屋の呼売りの声がしている。
丹兵衛は、盲滅法につっ走って、路地中へ逃げ込んだまでは、おぼえている。
大きく両眼を|瞠《みひら》いて、天井を睨み乍ら、
――畜生! 佐々右膳の野郎、おぼえていやがれ!
と、あらたな憤怒を湧かせていると、|泥濘《ぬかるみ》道を踏んで、この前へとまった足音がした。
格子戸が開いた。
みしりと古畳が鳴って、人が上って来たのへ、丹兵衛は|眼《まな》|眸《ざし》を向けた――とたんに、あっとなった。
疼痛も忘れて起き上ろうとするのへ、この家の主は、
「寝ていろ」と、言いきかせた。
須貝嘉兵衛だったのである。
丹兵衛は、当然このさむらいも佐々右膳の一味だと見て、恐怖を鎮めることは出来ず、枕もとに坐られると、わなわなと唇をふるわせた。
「安心せい。おれが、すくってやったのだ。今朝がた、むこうの袋路地で、小柄を背中につき立てられて倒れている者がある。と騒いでいるから、行ってみたら、貴様だった。……貴様を裏切った船頭仲間の……なんと申したかな、助右衛門か、その男のしわざか?」
「い、いえ――」
「では、敵は何者だ?」
「旦那――」
「なんだ?」
「旦那は、あ、あの道場のお人じゃ、ないんですかい?」
「このあいだまで、居候していただけだ。イヤになったから、ここに引越した」
そうこたえてから、急に、嘉兵衛は、思いあたったように、きらりと濁った目を光らせた。
「貴様、佐々右膳に殺されようとしたのか?」
「へ、へい。……深川で、遊んでこい、というもんですから……真にうけて、室戸藤馬さんに、跟いて来ましたら……」
「ふむ。室戸藤馬が、貴様を斬る役だったのか。小柄で刺されたところをみると、いったんは逃げたのだな?」
「掘割へとび込んで……はい上ったところを――」
「藤馬め、船頭風情も斬れぬのか」
嘉兵衛は、吐きすてた。ぞっとするような暗い口調であった。
「旦那。……旦那だけは、あっしの言ったことを……信用なさらなかったんで?」
「秩父の山中に隠匿した宝の山とやらのことか?」
「へ、へい」
「信じたところで、どうなる? この片端者のおれが、五十万両も百万両もつかんだところで、どうなるというのだ?」
「へえ――」
「貴様も、欲に目がくらむから、このようなざまになるのだ。船頭は、船に乗っておればいいのだ」
「…………」
「と申して、人間から、欲をうばうことは出来ぬ相談だろう。貴様も、傷がなおれば、またこりずに、小俣の持っている、なんとかの能面とやらをねらうか?」
「…………」
「それもよかろう。……傷は、十日も経てば、ふさぐ。それまで、ここで寝て、考えるがいい」
嘉兵衛は、のっそりと立ちあがると、食事の仕度にでもとりかかるのか、台所へ行った。
笑顔泣顔
庄吉は、ふっと目をさました。
一尺ばかり開けたままになっている障子戸のあわいから、からっと拭ったように晴れ渡った空が見えた。
――おれは、生きている!
あかるい陽ざしは、朝のものである。
庄吉は、このさわやかな空気を、そっと吸い込んでみた。胸の傷が、ずきんと疼いた。
――おれは、生きている!
もう一度、庄吉は、自分に言いきかせた。
小俣邸で手裏剣を打ち込まれて、意識をうしなってからわれにかえったのは、長門によってこの貞宝宅に、かつぎ込まれた昨夜のことであったが、視力が乏しく、口をきく、力もなかった。
――ああ、旦那が助けて下すった。
それだけがわかり、再び、昏々と睡りに陥ちていったものだった。
だから、はっきりと、自分の生命があるのをさとったのは、今なのだ。
庄吉は、ひとり、微笑して、青空から目をはなさなかった。むかいの家の屋根から、かげろうのように、いきが昇っている。昨夜は雨だったらしい。
庄吉の耳には裏縁で交されている話声がひびいて来る。
「ほほほほ……」
つつましく、しかし、可笑しさをこらえきれないような笑い声は、月江のものだった。
――月江さんが、おれを看護してくれている。
庄吉の顔に、微笑がのぼったのは、このせいであった。
――怪我も、わるくねえ。
そんな負惜しみも、自然に、肚の裡で呟かれようというものだ。
そういえば、昨夜、高熱にうかされて、うつつに知っていたことだが、つめたい手拭で、顔をふいてくれたのは、月江であったのだ。手の白さだけが、ぼんやりとまぶたのうらに残っている。
月江の話し相手は、隣りの髪結お仙であった。話の工合では、どうやら、お仙が、月江の髪を結ってやっているらしい。
「いえ、ほんとですよ。……あたしが手がけたあたまで、こんな見事な黒髪は、仲ノ町の芸妓でね、|久喜卍《くきまんじ》の花奴という妓と――お嬢さまだけでござんすよ」
「吉原の芸妓さんのあたまは、どんな髪を結いますの?」
「島田でござんすけどね、吉原に限って、|鬢《びん》|挿《さし》というものを入れて、鬢を張出すんでござんすよ。髷のさきをふたつに割った上品なかたちでござんした。いえ、もうそんなあたまも、こんどのご倹約令で、おしまい。女髪結も、もうおおっぴらにやっちゃいけない、なんておふれが出てるんですからね」
「あら髪結までも――?」
「ええ、ええ、水野越前さまは、髪なんざ、麻縄でふんじばっておきゃいい、てんでしょう。ともかく、いまに島田も兵庫も丸髷も、なんにもいけない。洗い髪で、油もつけちゃいけないなんてことになりかねませんやね」
「いやアねえ」
「三度のご飯は香でよし、花嫁はだかでやればよし、婿さま晒の褌でよし、祝いに赤飯くばらんでよし、うなぎすっぽん食わんでよし、一切銭がいらんでよし――って寸法でござんすさ」
「ほほほほ……」
月江の笑い声は、ほんとに愉しそうだった。この不幸な娘は、今日まで、こんなにあかるく笑ったことなど一度もなかったのではなかろうか。
「ねえ、お嬢さま、あたしゃしがない髪結でござんすが、髪結ったって、ちゃんと長い歴史てえものをもっていることぐらい知っているんですよ。女が、ぐるぐる巻きにしてたのは、このお江戸がひらけた頃まででござんすよ。麻縄をやめて、元結紙で結い、美男かつらをつけ、それがやがて、伽羅油をつけるようになり……」
ひとくさり、お仙の髪結講釈がつづいた。それは、いつか、庄吉もきかされたことがある。
やがて――。すっきりと美しく島田に結いあげた月江が、部屋に入って来た時、庄吉は、まぶしいものを仰ぐように、ぱちぱちとまばたきした。
「あら……庄吉さん、目がさめていらっしゃいましたのね」
にっこりして、枕元に坐ると、鬢付の匂いが、庄吉の鼻に、つうんとしみた。
「とんだお世話を、おかけいたしやした」
「いいえ、そんなこと……わたくしのために、こんなひどい目にお遭いになって、お詫びのしようもありません」
「なに、これぐらいの傷は……それより、梅津の旦那は?」
「お家へお帰りになりました。すぐまた来ると仰言って居りましたけど」
「師匠は、もう出かけやしたか?」
「はい、それから、三次さんと申される方も、なんですか、牛込に、切傷によくきく薬を売っているお店があるとか――午までに戻るといってお出かけでした」
そう言ってから、月江は、ちょっとのぞき込むようにして、
「おかゆでも、召上りますか?」
と、きいた。
庄吉は、急に柄にもなく涙ぐみそうになり、あわてて、眉をしかめて、
「あっしをこんな目に遭わせやがった野郎は、何者だか――ごぞんじありませんか?」
「そんな詮議は、元気になってからと、――梅津さまもわたくしにそうお申しつけになってお帰りでした。おかゆを召上って下さいませ」
月江は、つとめて快活にすすめた。脳裏を掠める下僕加平の、あの手裏剣をふりかざした凶相を、はらいのけつつ――。
庄吉は、頷いた。
やがて、庄吉が、月江の手で、おかゆを食べはじめた時――。
この家の前に立ったのは、三味線加津美と三次であった。
三次は、途中で、加津美に会い、ついうっかり、庄吉の怪我について口をすべらしたのであったが、血相を変えて加津美があるき出すや、はじめて、はっと月江の存在に気がついて、あわてて止めたものの、もうおそかったのである。
加津美が、格子戸へ手をかけようとすると、三次は反射的に、その手をおさえた。
「ね、姐さん、やっぱり、今日は会わねえで、帰っておくんなさい。あ、あっしが、あとで、お医者に|慍《おこ》られてしまう」
「なに言ってんだい。|流行病《はやりやまい》じゃあるまいし、人に会わしちゃいけないなんて、どこの藪医者が言やがったんだ。あとで、その藪医者のところへ怒鳴り込んでやるから――」
「ほんとなんだ、姐さん、いまが、一番大切な瀬戸際で――そ、そのう、ちょっとでも気持が高ぶると、傷口から、血がふいて……」
「だから、そおっと、幽霊みたいに音たてずと見舞うって言ってるじゃないか。第一、張扇の親爺やひょっとこ面に、瀕死の病人の看護が出来て、この女のあたしに出来ないなんて、そんな阿呆な話、三千世界にきいたことがないよ」
加津美は、三次の手をふりはらうと、格子戸をそおっと開けた。
――弱ったなア。てめえでてめえの舌をチョン切りてえ。
三次は、頭をかかえて、加津美が上って行くのを、不安そうに見送った。
どうなることか、と固唾をのんで、土間に立っている三次の前に、すっとひきかえして来た加津美の顔は、別人のように青ざめ、こわばっていた。
無言で、下駄をつっかけた加津美は、不意に、三次の頬桁を、ぴしゃりとひっぱたいておいて、さっとおもてへ出て行った。
柳橋
加津美は、泣いて歩き乍ら、いつか柳橋に来ていた。途中、居酒屋へ寄って、茶碗酒で三杯ばかりあおっていたので、足もとはよろけていたが、脳裏の芯は冴えていた。
秋晴れの街には、人出が多かった。舟宿の並んだ河岸には、雨傘がひろげて乾かしてあったが、加津美は、よろけて、そのひとつを流れに落したが、振り返りもしなかった。見るもの聞くもの、みんな腹立たしく、悲しかった。
風もない静かな昼の明るさの中を、行き交う人々の姿は、みんな幸せそうにみえた。殊に、からころとかるやかな下駄の音をたてて過ぎる女たちが、どれもこれも憎らしい敵に思われた。
ご倹約令が出たとはいえ、この華やかな街から、三味線と唄が絶えはしない。諸藩のお留守居役は、平然として豪遊に|耽《ふけ》っているので、白昼から、陽気な騒ぎをひびかせている料亭もある。尤も、倹約令で、深川がつぶれ、葭町が芝居町の移転とともにさびれたので、ここが以前にまして繁盛しているともいえる。
――畜生っ! あたしの苦しみも知りゃがらないで……。
八つ当りをしたい加津美だった。
加津美は、見たのである。ういういしい娘が、庄吉に、おかゆをたべさせている、いかにもむつまじそうな光景を――。三次がとめたわけも、これでわかった。
娘の美しさを、|稀《まれ》なものだとみとめないわけにいかないだけに、加津美は、くやしかった。
黙ってひきさがったのは、庄吉が重病人であったからなのだ。
――あんな巾着切に惚れたばかりに、三味線加津美ともあろうあたしが、ああ、このざまなんだ。腹立ちの中に、自嘲が湧いていた。みじめさに反撥する気っぷも、いまは、崩折れて、胸の奥へ、トゲのようにささり込む。
加津美は、一年前までは、この柳橋の流行っ妓で、一二をあらそう名をもっていた。
当時、表向の芸妓といえば、江戸には、吉原(|山《さん》|谷《や》も含めて堀の芸者と呼ばれていた)と柳橋だけであり、その勢力はすさまじかった。例えば、諸侯のお留守居の派手な宴会などには、酌人が十五六人も出る。酌人というのは、仲居のほかは、常磐津や清元の師匠である。その中に、芸妓が一人交ると、酌人や幇間は、見えすいた追従をならべて、いわば鶏の群に降りた鶴のように、その芸妓をひきたたせるのである。そのかわり、彼女もまた、三、四度派手な衣装に着替えて、鶴の美しさをきわだたせることに努める。馴染客といえば、お留守居役のほかに、八丁堀の与力、金座銀座の役人などで、俄大尽などが、小判をいくら積んでも相手にしなかった。芸妓の情夫になるには、三年の間に四季の着物を貢いでやらねばならぬ、といわれていた。その着物にしたところで、粋の中の粋を選んで――せっせと貢いだ挙句に振られる客もすくなくなかった。
そうした世界で、|乱《やた》|竪《ら》|縞《じま》の唐桟に粋を誇り、小紋織のきらびやかを見せびらかした加津美が、芸妓をやめて、小唄の師匠になったのも、庄吉から、一言、
「おれは、芸妓は、虫が好かねえ」
と、言われたからではなかったか。
加津美は、絶望にうちひしがれて、向くともなくはこんだ足を、なつかしい世界の中でとめて、ぼんやりと、あたりを見やった。
白魚を高髷にさした若い妓が、花色絹の裾をかえし乍ら、三味線袋を提げた箱屋をしたがえて、過ぎて行く。深爪とって紅をさした素足がきれいであった。
――もう一度、返り咲いてやろうかしら。
小唄の師匠を禁じられて、寄席の下座弾きにまでなって、身を細くしている自分が、いじらしくなった。
庄吉を、ほかの娘に取られた以上、こんな佗しい貧乏ぐらしに堪えていなければならぬ理由はひとつもないのだ。
――いいえ、あたしゃ、あきらめない! あんな小娘に、庄さんを寝取られてたまるもんか!
と、烈しく自分に言いきかせた折、背後から、ぽんと背をたたいた者があった。
振りかえると、室戸藤馬が立っていた。加津美と藤馬は、半年前からの顔見知りであった。虫の好かぬ浪人者だと、内心では唾でもはきかけてやりたい嫌悪感があったが、本所深川から神田一帯にまでかけて、無頼の徒の中の顔ききらしいときいたので、表面は柳に風とうけながして来た加津美であった。
「どうした、加津美姐さん、――鉄火もたまには泣きっ面があるのか」
「おいておくんなさい」
つとあるき出そうとする加津美の肩へ、藤馬は、手をかけて、はなさなかった。
「そう邪険にするもんじゃねえ。……実は、この間うちから、お前に会いたいと思っていたんだ。ちょっとつきあってくれ」
「話なら、ここでうかがいましょうか」
「野暮を言いなさんな。室戸藤馬、いつもしけてばかりはいねえやな」
加津美が、ついふらふらと藤馬について行ったのも、心の|空虚《うつろ》のせいだった。
柳橋の橋手前(両国寄)の舟宿『大桝家』は、小さな構えであったが、名が通っていて、以前一二度、加津美もお客につれられて来たことがあった。
夕もやが、川面をぼかしてすこし出て来た風がうすら寒く、一人でぼんやり眺めるにふさわしい静かな眺めであった。
二階の六畳に入って、このたそがれの景色を眺めたとたん、加津美は、うかうかと、こんな|無頼《ならず》|者《もの》について来たことを後悔した。
――あたしは、一人っきりで、ここに上って、泣くんだった。
しかし、もう来てしまった以上、相手の話をきき了るまでは、逃げもならぬ。
酒が来ると加津美は藤馬に差し、自分も盃を重ねた。
ありきたりの、さりげない会話が、しばらくかわされるうちに、秋の陽は、もう落ちて、向う岸の旗亭や屋形船の燈が、もやの中に、赤く滲んでいた。
「話って、なんです?」
加津美は、物倦げな動作で坐り直すと、藤馬を見やった。燭台の光をうけた藤馬の顔が、一瞬、意味ありげな狡猾な表情をしめした。
――おお、いやだ! 加津美は、かすかな|悪《お》|寒《かん》を感じた。
「おれは、ちかぢか、帰参がかなうことになった」
「おや、旦那は、いつか、生れ乍らの素浪人だ、と仰言っていたじゃありませんか」
「いや、死んだ兄の跡を継ぐのだ。小普請組五百石――」
「ほんとなんですか?」
「打明けるのは、お前が最初だ。一度は袖にされた女に、こんなことを打明けるのは、気をひいてみる嘘で、恥の|上《うわ》|塗《ぬ》りをする了簡であろう筈がない」
「どうですかねえ――」
「信じないのか? いや、尤もだ、まだおれは、仇討をやりとげては居らんからな」
「仇討?」
「そうだ。つぶされた家を興すには、それ相当の土産を持参しなければならんだろう」
「それが仇討なんですか? いったい、どなたさんの?」
「おれの兄貴は、殺されたのだ」
隣りの客
この時、隣室の四畳に、一人の男がいた。誰あろう、小俣邸から姿を消した加平であった。顔のほうたいは、もうとりはらって、かたぎの町人姿であった。藤馬と加津美が上る前から、小鯛に、結びさより[#「さより」に傍点]の吸物、蛤焼きなどを卓に並べ手酌で飲んでいたのである。
舟宿というのは、元来安普請で、隣室の話声は、つつぬけである。仇討、という言葉が耳に入るや、加平は、きき耳をたてた。
「……じゃ、なぜ、お兄さまが殺されなすった時、旦那は、仇をお討ちにならなかったんです?」
「その時は、あいにく、西国にいたし、飛んで帰って来て、やっつけるには、相手が滅法強すぎた」
「なら、今だって滅法強い筈じゃござんせんか」
「ところがだ……今では、そいつよりもさらに強いのが、助太刀してくれる約束なのだ」
「だってさ――」
「まアきけ、助太刀してくれるのは、誰だと思う。お前も知っているぜ、佐々右膳だ」
「へえ、あの先生が、旦那の味方なんですか?」
「そうよ。それのみならず、だ」
「なんです、うす気味わるい、にやにやしてさ。……で、いったい、敵のおさむらいは、なんてんです?」
「梅津長門という奴さ」
その名をきいて、加津美は、口をつぐんだ。会ったことはないが、庄吉の師であることは、きいている。
加津美が、息をのんだばかりではない。加平もまた、さっと顔へ、険しい緊張の色を刷いた。
「先ず、当節、梅津長門と互角に剣を交えることが出来るのは、佐々右膳だけなんだ。それのみならず、梅津を討つ策は、ほかにも講じてある。ぬかりはないのだ」
「自信たっぷりで、ござんすこと――」
「そこでだ、相談というのは、ほかでもない。血のめぐりのいいお前のことだ、もうおよそ見当はついたろう」
「わかりませんねえ。あたしに、敵をおびき出すのに一役買えとでもいうのですか?」
「莫迦を言え。……首尾よく仇討をとげたら、おれも、直参五百石だ。お前、女房になっても、わるくはなかろう、ということだ」
「ご冗談仰言る」
「冗談ではない。座興で、こんな秘密を、やすやすと打明けられるか。本音だ」
「旦那、ほんとうに、梅津っておさむらいを討ち果す自信がおありなんですか?」
「ある!」この時、加平は、つと立ち上った。
隣室の会話は、洩れなくききとりつつも、視線は、川へ、鋭くはなっていたのであった。一艘の猪牙から、赤い燈が、大きく輪を描いたのだ。それを合図に、加平が音もなく降りて行って岸へ出るのと、猪牙が杭と杭の間へすべり入るのが同時だった。
猪牙に乗っていたのは、三人の男であった。いずれも、覆面の武士であった。
意外だったのは、三人にむかって、加平が、下僕にあるまじき横柄な口をきいたことであった。
「幾人集められるか?」
「二十人はくだりますまい」
「烏合の衆ではあるまいな、頭数を揃えただけでは何もならんぞ」
「いえ、いずれも、一騎当千の腕と肚を備えて居ります」
「よし――。ところで、手頃の鴨が、いっぴき、この二階に、女と酒をのんで居る」
「は――?」
「どこへ行くか、跟けてくれ、場合によっては、取押えてもよいが……暫くは、黙って眺めていた方がよさそうだ。佐原、お前がやってみてくれ」
「かしこまりました」
命を受けた武士が、岸に上ると入れかわりに、加平は、猪牙に移った。
汐の引く川面の流れは早いらしく、猪牙は、みるみるうちに、岸をはなれて、しもへくだって行った。
大川へ出るその猪牙を、二階の窓から、加津美は、見送り乍ら、相手を怒らせずに、うまくこの場をのがれる方法を考えていた。
追跡
藤馬と加津美は、一緒に『大桝屋』を出て、柳橋を渡り、広小路へ出た。
広小路は、昼とうってかわった光景で、にぎわっていた。並び茶屋の行燈が入る頃から、この盛場は一変するのである。興行物は、打出しの太鼓が忙しく、出店の野天商人は荷を片寄せて、|葭《よし》|簀《ず》がこいをして、各々家路へ急ぐ。そのあとへ、|蝙蝠《こうもり》と同じように、日没よりあらわれるのが、麦湯と甘酒屋で、さしもひろい広小路もその床几で狭くなる。行商も恋の辻占、深川名物甘い花林糖、豆腐、枝豆の類――。
ひょっとこ三次は、とある甘酒屋の床几に腰をおろして、仲間の「やらずの水出し」(|明礬《みょうばん》の汁で文字を書き乾かしてこれを水に浸して文字を当てる詐欺賭博の一種)の割前が意外に多かったので、
――さてと、滅法高えとはきいてはいるが、ひとつ、朝鮮人参を、日本橋まで買いに行ってくるか。どうも、兄貴の奴、あのぞっこん惚れているお嬢さんに給仕してもらっても、お粥を茶碗に半分しか食えねえんじゃ、いつまでたっても、起き上れねえや。
と考えていたとき、何気なく向けた視線のはしに、ちらっと、とらえたのは、見知らぬ浪人者と肩をならべた加津美の姿であった。
「おや?」
今朝がた、まるで狐にでも憑かれたような凄い形相で、三次の頬をなぐりつけておいて、貞宝宅をとび出して行った加津美である。
「いやに、むつまじそうにくっついて行きゃがる。……加津美のあま、くやしまぎれに、浮気をする積りかな? それにしちゃ、あんまりぞっとしねえ二本差だ」
三次が、小首をかしげていると、加津美は、つと立ちどまって、
「じゃ、あたしゃ、ここで――」
と、藤馬に、腰をかがめた。
「垢離場の寄席で、三味線なんぞひいているのも、あとしばらくの辛抱だ」
藤馬は、もう加津美が、自分の女房になることを承知したかのように、なぐさめ顔で言った。
藤馬が、はなれて三歩もあゆまぬうちに、加津美は、いまいましげな舌うちをして、「ふん、だ」とせせら笑った。
「姐さん」
声をかけられて、振り返ると、三次が、眉をしかめて立っていた。
「どうしたんだい、へへへ――いやに、姐さんらしくもねえ、しおらしくより添って。道行にしちゃ、方角はちいっとばかりちがっているんじゃねえかと……」
「莫迦野郎!」
三次は、またひっぱたかれては叶わねえ、と、慌てて身をひいた。
その途端、加津美は、はっと思いついて、
「三次さん! おねがい――」
「さんづけとは、気味がわるいぜ」
「あいつをつけとくれ。あの浪人者さ――」
「どうするんだ?」
「あいつ、室戸藤馬といってね、庄さんの先生梅津長門さまを、討とうとたくらんでやがるんだよ」
「な、なんだと?」
三次は、目をむいた。
「だからさ、先手をうって、あいつのところをつきとめて――さ、はやく!」
「合点!」
こういう役目をひきうけるために生れてきたような三次であった。
すでに七八間むこうを、急ぐでもなしに歩いて行く藤馬の後姿を睨んで、三次は、裾をからげた。
吉川町を過ぎて、神田川に沿い郡代屋敷と柳原堤にはさまれたさびしい往還にむかって、藤馬は、歩いて行く。
三次は、夜目で見わけられる程度の、かなりの距離をおいて、跟けていたが、ふと、自分より一間あまり先を自分と反対の側を歩いて行く、頭巾で顔をつつんだ一人の武士の存在に気がついた。
――はてな?
三次は、猟犬の嗅覚で、
――このさむらい、くせえぞ!
と、直感した。
どうやら、この武士も、自分と同じ相手を跟けているらしいのである。
はたして――。
藤馬が、和泉橋の手前を、左に折れて、富田|中務《なかつかさ》邸と横大工町代地の道筋へ入るや、その武士も、そちらをえらんだ。
三次は、もう間違いないとたしかめると、その武士の前へ出た。三次の経験は、その武士のあとを追うのが、かえって危険なことを知っていた。こういう場合、人を跟けている者は、神経が鋭くとぎすまされているので、自分もまた跟けられていることをさとりやすい。だから三次の立場としては、跟けられている者と跟けている者の中間に身を置くのが、いっそ安全なのだ。すでにこちらは、跟けている者を見ぬいてしまったのだから、ただの通行人のそぶりを装っていられるので、それと感づかれる心配は薄いのである。
元誓願寺通の辻へ出ると、急にあかるくなり、人通りも多くなった。
三次は、さりげなく首をめぐらせてみた。
その武士の頭巾からのぞいた目は、注意深く働いて、人の肩越しに行手の藤馬へ据えられている。
――へっ、面白くなって来やがった。
事情はわからぬ乍らも、室戸藤馬がほかの者からもねらわれているということは、三次の胸のうちを、おどらせたのである。
やがて、藤馬が入って行ったのは、松枝町の、とある屋敷角の一角、欅の大樹の、門の上を掩った邸宅であった。
立派な邸宅であった。紋をうった二間梁の長屋、白線の入った塗塀、鉄板をはめこんだ門扉。
しかも、夜目にも、むざんに荒れはてて、長年月空屋敷であることは、視線をとめたどの個所からでもわかった。
この屋敷こそ、四年前、雪姫が住んでいた須貝嘉兵衛の拝領屋敷だったのである。
この長い物語がはじまった最初の舞台が、ここであったのだ。
勿論、そんなことは夢にも知らぬ三次は、藤馬が、戸もない潜門から、中へ入るのを見とどけておいて、そのまま、すたすたと行き過ぎつつ、
――これア、化物の出そうな空屋敷じゃねえか。いよいよ、面白くなって来やがったぜ。
と、胸のうちで呟いた。
長い土塀を、つと、まがりかけて、三次は、ひょいと、ふりかえった。
「あれ?」
自分と同じく、藤馬を跟けていた頭巾の武士の姿は、忽然として消えていた。
「引返しゃがったかな? おかしいな?」
たしかに、この通りに入るまでは、三次は、背後の気配を、ちゃんとかぎつけていたのである。
三次は、小首をかしげて、しばらく、そこに、つっ立ったなりだった。
孤独の部屋
この屋敷内の一室に、雪は、両手を縛られ柱につながれて、坐っていた。
そこは、四年前に、雪が起居した部屋であった。
先夜、不意に、わが家に侵入した数名の無頼風の男たちに、猿ぐつわをかまされ、縛りあげられ、かつぎだされると駕籠におしこめられ、つれて来られたのが、この屋敷であったとは――それと気づいて、雪が、恐怖の中にも自分の運命の数奇を暗然と瞶める孤独感に陥ったのは、当然であった。
そして、雪は、指揮をとった覆面の武士が、室戸兵馬の弟藤馬と名乗り、
「あんたをここへしょっぴいて来て、とじこめて置くのは、おれが兄者の仇を討つために、梅津を呼び寄せる|囮《おとり》にするためなんだ」
と言いはなつのをきいた時、この四年間の平和なくらしが、泡沫の|儚《はか》なさであったように思われた。
決して、長門との静かな営みが泡沫の儚なさではないことを、自分に言いきかせたのは、一人とりのこされて、心が鎮まってからであった。
――わたくしは、いまは孤独ではない。梅津長門の妻なのだ。
かつて、雪は、将軍|家《いえ》|斉《なり》の落胤として、この屋敷にあった日は、身を切られるような堪えがたい孤独の淋しさから心を守るために、どんな変事にもおそれぬ冷たさを持していた。
だが、いまは、梅津長門の妻であるという自覚によって、この激変の事態に堪える強さを持たなければならない、とさとったのである。
誇りは高い雪であった。
あるいは、これっきり、ふたたび、良人との平穏な生活に戻れないとしても、その悲運を、最後の一瞬の一呼吸まで、誇りによってささえ得られる――と、雪は自分に誓った。
その誓いによって、翌日、藤馬が、白昼もかまわず、獣心をむき出して、つめ寄って来るや、雪は、眉宇をゆるがせずに、毅然として、
「一指でもふれたら、舌を噛みますよ」
と宣言することが出来たのであった。
雪の、その犯しがたい態度は、藤馬の足を釘づけにした。
藤馬も、由緒ある旗本の血をうけつぎ、ある時節には剣に身を打込んだ男である。雪の決心の程を読みとる能力はあったし、また、梅津長門を討った後のことを考える理性もとり戻した。
長門の妻が、ご落胤であることは、幕府上司の間には恐らく知れわたっているに相違ない。長門を討った後に室戸家復興を願い出た時、その妻に対して残虐行為を働いたと洩れたならば、逆に自らの破滅を招くこととなろう。
たける獣心を抑えると、藤馬は、急に、様子をあらためて、威厳を装い、
「おれが、梅津長門を討ったら、あんたはどうするつもりだ?」
と、尋ねたことであった。
雪は、さげすむように見やって、
「きくまでもありますまい」
と、こたえていた。
「よかろう。おれは、必ず、梅津を討ってみせるぞ。ついでに、あんたの白無垢も用意しておいてやろう。……その日まで、まア、おとなしくしてもらおう。こっちも、丁重にあつかうこととする」
事実、それから監視の無頼者たちも、藤馬に厳重に言いふくめられたか、雪に対して、牢役人なみの態度をとった。持って来る食事も普通であったし、必要とあらば、いつでもいましめを解いてくれたし、用事以外には絶対に部屋へ入って来なかった。
雪は、この三日間、ひっそりと、この部屋に坐りつづけたのであった。縛られているのを除けば、恰度、四年前と同じ孤独の静けさの中で――。
忍ぶ者たち
「ひとつ、庄吉兄貴のお株をうばって、しのびの術といくか――」
と決意した三次は、崩れた土塀をまたいで、そっと、荒廃した屋敷内にしのび入った。
庄吉ならば、さしずめ、すぐに、天井裏へもぐり込むことを考えるだろうが、三次には、その手段がわからなかった。
さてと?
塀の壁にぴたりと身を吸いつけて、三次は、目を光らせたものの、どうやって彼方の|母《おも》|屋《や》の中へしのび込んだらいいか、思いつかなかった。
――ままよ、床下へもぐるこった。
身の軽さには、絶対自信をもっている三次である。発見されても、床下を、猫のように駆けることが出来るのだ。
闇の中を、夜の鳥が掠めるように、三次は、木から木へ、その黒影を移した。そして、しだいに、母屋に近づいて行った。
築山を越え、楓や百日紅の裸木が枝をさしのべた泉水のほとりへ出て、太い|羅《ら》|漢《かん》|柏《はく》の陰へ潜伏した三次は、樹々越しにすかし見て、母屋の、とある一個所が、まだ雨戸が閉められず、破れ障子に燈の映っているのをみとめた。
――ふうん。あそこに、あの野郎……なんてったっけ、そう、室戸藤太だか、藤馬だか、いやがるんだな。
とても普通の神経では住めそうもない荒廃凄まじい屋敷をねぐらにしているぐらいだから、室戸藤馬が、いずれは、世間を狭くしている凶状持に相違ない、と三次流に判断し、そうなら、もち論、仲間がいても、せいぜい一人か二人、見つかったって大したことはない、と一歩踏み出そうとした途端であった。
かなり前方の、樹陰から、黒い影が、すうっとあらわれたのだ。
母屋から流れ出た明りの中に、それが、くっきりと浮きあがった。
「あっ!」
三次は、瞠目した。往還から煙のように消えたあの頭巾の武士が、いつの間にか、ひと足さきに、この庭へ、しのび込んでいたのだ。
――へん、あいつ、室戸を斬ろうってのかな?
そうだとすると、こっちは|高《たか》|処《み》の見物で弥次馬根性がたっぷり満足させてもらえるというものだ。
三次は、にやりとすると、頭巾の武士にさとられぬように、母屋へ近づこうとした。
その明りのある部屋では――。雪の前に坐っているのは、藤馬であった。腕を組んで、殊更に尊大にかまえて、
「いよいよ、両三日うちに、あんたの御亭主を討つ手筈がきまった」
と、脅していたのである。雪は、眼眸を別のところへ置いて返辞もせず、身じろぎもしなかった。
「嘘だという顔つきだな。嘘ではないぞ。あんたの目の前で、見事、仇討をとげてみせる」
「…………」
「ふん、あんたは、おれ如きに亭主が斬られてたまるものか、と内心せせら笑っているらしいな。どっこい、そこは、ぬかりはない」
それをきいて、はじめて、雪の顔が、かすかな動揺をしめした。
「成程、おれの腕では、あんたの御亭主に、一太刀もあびせることは、出来ぬかも知れん。おれは嘘はつかん。敵わんことは、正直に認めて居る。だからこそ、卑怯といわれようとなんだろうと、おれは、策を用いる。おれはどんな方法であろうとも、梅津長門を討てばいいのだ。……あんたは知らんだろうが、この江戸で、梅津と互角の勝負をし得る剣客が一人だけ居る。佐々右膳という人物だ。その佐々右膳が、おれの助太刀を買って出てくれたのだから、おれは、こうして確信をもって、討ってみせる、と言っているのだ」
藤馬は、うそぶきつつ、またしても、むらむらと湧きたってくる欲情を抑えがたくなった。この女は、あまりにも美しすぎるのだ。男として、これほどの美女をわがものにしてみたいと思わぬ者があろうか。
藤馬が、首尾よく仇を討つことが出来たら、佐々右膳に、この美女をくれようと約束したのだが――それは、ご落胤を犯した右膳の罪を公儀が抹殺するにはどういう手段をとるか、梅津長門の場合をきき知っていたので、見通した上での約束だった。梅津長門はご落胤を犯したために、評定所の隠密団がはった執拗きわまる暗殺の網の中でのたうたねばならなかったと、藤馬は、須貝嘉兵衛からきいたことがある。こんどは、佐々右膳を、その番にまわしてやろう、と藤馬は、思いたったのだ。
右膳を亡き者にすれば、藤馬は、わが腕ひとつで梅津長門を討ちとったと公言してはばかるところはないのだ。
この女も、良人を討たれ、身を犯されて、生きている筈はないであろう。
あるいは、右膳が犯そうと迫るや、舌を噛みきって果てるかも知れぬ。そうなれば、かえって好都合である。右膳の罪は、証拠をのこすことになる。こちらが右膳をそそのかしたことを、公儀に知らさぬように巧みに手くばりしておけばいいのである。
と、理性は計算しても、獣性は、獲物を前にして狂いたつ。なんとしても、美しすぎるのだ。
「だが、……ここに、梅津長門を生きのびさせる相談もなくはない。下世話にいう、魚心あれば水心だ」
藤馬は、にやりとした。
「直参五百石とあんたという美人を、おれは、天秤にかける」
「…………」
雪の冷やかに冴えた無表情は、相手の言葉が耳に入っている気ぶりをみじんもうかがわせなかった。
「おれが、仇討をやりたいのは、兄貴のうらみをはらしたいからではない。したがって、あんたの御亭主が憎いからでもない。直参五百石が欲しいだけの話なんだ。しかし、天秤にかけると、あんたという美人の方が、どうやら重いようだ」
雪は、静かに首をまわして、藤馬を見やった。
「どうぞ、あちらへ行って下さい」
藤馬の顔が歪んだ。
「見事舌を噛み切って、貞女の|鑑《かがみ》をみせるというのか」
ぬっと立って、藤馬が、一歩迫ろうとした刹那――。
突如、庭で、断末魔の悲鳴があがった。
「なんだ?」
藤馬は、刀をひろいとると、障子戸にとびついて、ひき開けた。抜刀して、繁みの脇に立っているのは、頭巾の武士であった。倒れているのは、藤馬の手下の、無頼者であった。
発見されて、うむをいわせず、斬り仆したのである。
「何奴だ、貴様っ――」
藤馬は、刀を抜くと、庭へとび降りた。
青眼と青眼の切先がじりじりと間隔をつめて行った。
できる敵だ、とさとったが、藤馬は、足場の有利に余裕をもっていた。
頭巾の武士は、ここで藤馬とたたかうのが本意ではなかった。彼――佐原某は、首領である加平の命をうけて藤馬の住所をつきとめるだけが目的だったのだ。
「やあっ!」
掛声をほとばしらせて、藤馬が、一撃を見舞うと、佐原はぱっと後へとび|退《すさ》った。
この時、藤馬の手下三人が、庭へ駆け出て来て、口々に叫び乍ら、こちらへ向って来た。
佐原はぱっと身をひるがえして、逃げ出した。
「野郎っ!」
「待てっ!」
藤馬と無頼者たちは、その後を追ったが、佐原の足は非常に速かった。
月が雲に入っていたのも、佐原に幸いした。
藤馬たちが、塀まで追いつめた、と思ったのは、錯覚であった。そこには、影もかたちもなかった。大急ぎで往還へ走ったが、その深い暗さでは、全く見わけがつかなかった。
不安
丁度、三次が、藤馬のあとを跟けて、松枝町の往還を、跫音しのばせている時刻――。
両国の立花亭で、陽気な囃子に送られて、風流軒貞宝が、高座を降りて来ると、楽屋に待っていたのは、梅津長門であった。
「話がある!」
いつになく緊張した長門の顔を見て、貞宝は、はっとした。よほどのことがなければ、顔色に見せぬ長門である。思いなしか、一昨日別れた時より頬が|殺《そ》げて、どことなく殺気めいた鋭いものが、全身をつつんでいる。
「どうぞ、こちらへ――」
日頃は女芸人たちの衣装の着替えなどにつかっている暗い納戸にみちびいた貞宝は、膝をつくと、
「何か……起りましたので?」
「うむ」
坐って腕を組んだ長門は、ちょっとの間、沈鬱に、眉宇をひそめていたが、
「雪が、行方不明になった」
と、ひくく言った。
「えっ?……お、お雪さまが――」
愕然となった貞宝は、何か言おうとしたが、言葉が見つからず、茫然と息をのんで、長門を凝視した。
「どうやら、かどわかされた模様だ。寝床が敷きっぱなしになって居った。自分の意志で出て行ったのなら、片づけておいた筈だし、あれが、おれに無断で、何処へ行く理由も考えられぬ」
「そ、そりゃ……しかし、いったい、何者が?」
「多分……あの男だと思うのだが……おれが斬った室戸兵馬の弟に、藤馬というのがいるが、丁度、その日、帰宅の途中で、突然、背後から、斬りつけて来た。むかしのおれなら、その場で返り討ちにしたかも知れぬが――つい、見のがしたのが不覚だった。――もち論、室戸藤馬が、雪をかどわかしたときめてしまうには、証拠がない。ただ、ほかには、考えられぬ」
「なんという卑怯なことを……あの、お雪さまを――」
四年前、自ら将軍家落胤の地位をふりすてて、井伊家から脱出した雪を迎えたのが、貞宝であった。貞宝は、雪に、市井の娘がなすべき仕事を、手をとって教えたのである。雪は、貞宝と、その周囲の親切な庶民たちによって、はじめて、生活の愉しさを知ったのである。貞宝もまた、雪が失敗をくりかえし乍ら、御飯をたくことをおぼえ、洗濯をおぼえ、|松魚《かつお》|節《ぶし》をけずることをおぼえ、近所の連中に挨拶することをおぼえていくのを、どんなに愉しく眺めたか知れなかった。
いわば、天涯孤独の貞宝には、雪こそ、わが娘同様であった。長門とのつつましい夫婦ぐらしが、末永く幸せであれと、心から祈ることにかけては、この世で自分が一番だ、と考えている貞宝であった。
衝撃は、大きかった。
「で――その室戸藤馬が、お雪さまをかどわかして、何処へ逃げたか、見当がつきませぬか?」
「つかん。昨日から、足を棒にして、捜してみたが、徒労だった。……が、ふっと思いついたのだが、あの藤馬は、たしか、備前の方へ養子に行っていた筈だが、先日の風体ではどうやら、禄をはなれた浪人ぐらしらしい。ああいう男が、手に汗をせずに生きるには、先ず、盛場の裏面を泳ぐか、それとも、博徒の用心棒にでもなるか――いずれかだろう。それで、もしや、このあたりの無頼者に、あの男のすみかを知っている者は、いないだろうか、と考えたのだ」
「梅津さま、あなたは、なぜ、早く、てまえに、そのことを言っては下さらなかったのです!」
貞宝は、うらめしそうに、首をふって、
「心配をかけまい、などと仰言るんなら、水臭せえ、こん後おつきあいはご免を蒙りますよ。……このあたりにゴロゴロしているやくざなら、どいつでもこいつでも、片っぱしからあたってみるのに、半日とかかりゃしません。こうなったら、まず、広小路一帯をおさえている倉辰ってえ親分に、あたってみるのが一番でございます。てまえは、すぐこれから――」
と、腰を浮かせた折、襖が開いて、顔をのぞけたのは、加津美であった。
「ご免下さいまし」
膝をにじって進むと、
「はじめてお目にかかります。加津美と申します。こちらにご厄介になっている三味線ひきでございます。楽屋の者から、梅津さまがおみえになっていると、ききまして――」
「おいおい、加津美、いま、大切な内密の話の最中なんだ」
貞宝は、加津美が、長門に、庄吉との間をとりもってくれとでも言い出すのか、と|苛《いら》|立《だ》って、邪険にその肩を小突いた。
「師匠、あたしが梅津さまに申し上げたいことも、大切な用件なんです」
「なにを、おめえなんぞの――」
「いいえ、あたくしごとじゃないんです。梅津さまのお命をねらっている――」
「なんだって?」
おどろく貞宝と、暗い面持の長門とを見くらべつつ、加津美は、「ええ、そうなんです。梅津さまのお生命をねらっているさむらいと、あたしゃ、いまそこで別れて来たんです」と、言った。
「どこのどいつだ。その野郎は?」
「室戸藤馬という浪人者です」
「ええっ?」
貞宝は、思わず、手にした張扇で、加津美の膝をたたいた。
「でかした。加津美! その藤馬のすみかを、いま、おれアさがしに行こうとしていたところなんだ。藤馬の野郎、梅津さまの奥さまを、かどわかしゃがったんだ」
こんどは、加津美の方が、あっとなった。
「そ、それでわかりました!」
「どういうんだ?」
「あいつ、梅津さまを討つのに、万端ぬかりのない計画が出来てるっていいました。そのことでござんしたね。なんて奴だろう。直参五百石がころげこむから、お前を女房にしてやる、なんてぬかしゃがって――」
この時、長門は、刀をつかんで、立ち上っていた。
「加津美さん、室戸のすみかへ、おれを案内してくれぬか」
加津美は、長門の沈痛な眼眸を受けとめると、くやしそうに、
「それが……梅津さま。あたしは、あいつの居所を知らないんでございます。でも、あいつと別れたところへ、折よく三次が声をかけたものでございますから、そっとあとを跟けるようにたのんではおきましたが――」
それをきくと、長門は、みるみる失望の色を泛べた。
貞宝は、そばで眺めて、なんとも、居たたまらない気持だった。
「梅津さま。三次のやつなら、屹度、つきとめて参るに相違ございますまい。もうしばらく、ここでお待ち下さいますれば、三次が、帰って参りましょうから――」
「胸さわぎがするのだ!」
長門は、ひくく、呟くように暗然と洩らすと、ふたたび、腰を下した。
長門は、加津美の話をきいた刹那、なぜか、異常な圧迫感を胸に感じたのであった。
いま一刻おくれたなら、妻は、永久に、自分のもとへ帰って来ないような――。
三次奮戦
深夜――。
雪は、闇の中で、目をひらいて、先刻この屋敷へ忍び入った者が、味方であったかどうか、を考えていた。
良人であったならば、逃げる筈がない。良人以外だとすると、自分をすくいに来てくれる者があるとすれば、庄吉ぐらいのものである。もしや庄吉ではなかったのかしら、と考えたかった。偶然、自分がこの屋敷内にとらえられているのを知って、そっとさぐりにきたのではなかったか。そして、良人に告げるべく逃げたのではなかろうか。そう考えたかった。
と――。
雪は、障子戸が、すこしずつ開けられる気配に、はっと全神経をひきしめた。
――敵?
――味方?
室戸藤馬が忍び入って来たのならば、雪は、いよいよ今夜限りの生命と覚悟しなければならなかった。
雪は、眸子を凝らして、闇の中に、あるかないかに見わけのつく影が、こちらへ手さぐって迫る間合いをはかりつつ、藤馬とさとったなら、きびしい叱咤をあびせるべく動悸を抑え呼吸をととのえた。
影は、雪の四五尺前で、つとうずくまると、
「お雪さま!」
と、ひくく呼びかけた。
蘇生の思い、とはこのことであった。
「あ、あなたは――?」
「へい。……あっしは、庄吉の弟分で、三次と申しやす。……この前、庄吉につれられて、おうかがいして、お目にかかったことが、ございます」
「あ――」
雪は、思い出した。
やっぱり、味方はやって来てくれたのだ。
「あ、ありがとう。……よく、ここが、わかりましたね?」
「そいつが……まさか、奥さまが、こんなところに、とじこめられていなさろうたア、夢にも知らなかったんでござんす」
先刻、藤馬と無頼者たちが、頭巾の武士佐原某を追っている隙に、三次は、いつの間にか、この部屋の外へ身を寄せていたのであった。
そして、意外、庄吉の先生である梅津長門の美しい奥さまが、縛られているのを発見して、仰天した三次であった。その時、すぐすくいの手をさしのべられなかったのは、まだ廊下に、二人の無頼者が、監視の目をひからせていたからであった。
藤馬以下七八人の男たちが睡り入るまで、三次は、床下で、辛抱強く待っていたのである。
手早く、雪のいましめをといた三次は、いったん、障子戸のところまで行って、耳をすませて、危険はないものとたしかめておいて、戻って来ると、
「大丈夫でござんす。奴ら、白河夜舟でさア。朝になって、あわをくらったって、もうあとの祭り――ざまアみやがれ、と、せせら笑いに、どうでも、もういっぺん見物に来なけりゃ、肚の虫がおさまりませんや」
三次は、世にも稀な臈たけた美しい奥さまをすくい出すことに、興奮していた。自分一人の働きでやってのけるのが、どんなに無謀かということを考慮するよりさきに、あとで得意になりたい功名心に駆られたのである。
貞宝師匠も庄吉兄貴も加津美も、あっとおどろくだろうぜ。梅津さまは、おいらに頭を下げてお礼を言いなさらア。
床下にもぐっている間、三次は、その時の自分の得意を思って、ようし、どうでもおれだけですくい出してみせるぞ、とふるいたったのであった。
雪は、ふしぶしのいたむ身を起すと、
「この屋敷内の地理は、わたくし、くわしく知って居ります」
「そいつは、ありがてえ。さいわい、月も落ちて居りやすから、地理がわかっていりゃ、もうわけはありやせん」
だが、月のない暗闇は、かえって、二人にとって不運であった。
かつて、雪が、春の日などに半日をすごした藤棚の下を、足早にくぐり抜けようとした途端であった。
雪の出足に、ぴんと張った一本の綱がからんだ。同時に、彼方で、からからんと、鳴子の音が鳴りわたった。
「いけねえっ!」
三次は、咄嗟に、懐中から、匕首を抜くと、張られたその綱を、切りはなし、
「つッ走りやしょう、お雪さま」
「はい」
三次は、先に立って、雪の指図をうけて、走り乍ら、二度、三度、足にからんだ綱を切った。藤馬たちは、敵の再び襲ってくるのを予期して、そのそなえをめぐらしたのだ。
荒廃した屋敷とはいえ、塀の崩れた個所が、多くある筈もなかった。表門と裏門は、避けねばならぬとすると、脱出口を捜すのは、かなりの時間を費さねばならなかった。三次一人ならば、たやすく、木にのぼって、塀をのり越え得たであろうが、雪をつれていては、それは不可能であった。
二人が、やっと、崩れた塀の隙間から、往還へのがれ出た時は、もう、追手は、こちらをみとめてまっしぐらに殺到して来つつあった。
往還を数歩走った瞬間、雪は、何かにつまずいてのめった。
それをたすけ起そうとした三次は、裏門から飛び出して先回りした一人が、
「野郎っ!」
と、わめきざま、脇差をふりかぶったのを、一間先に、ちらっと目にとめるや、
「くそっ!」
と、狂犬が跳びかかるように、体当りをくれて、匕首を、脾腹ふかく突き刺し、敵もろとも、地べたへころがった。
はね起きた時、三次は、肉に食い入った匕首を急いで抜きとると、
「お雪さまっ、早く――」
と、その片手をつかんで、走り出した。
覆面の武士たち
三次と雪が、浜松町から富山町の、入り込んだ小路をくぐりぬけて、柳原堤へのがれ出て、ほっとしたのも束の間、富田中務の高塀に沿うて、敵の群は、どっと躍り出ていた。
三次は、咄嗟に、堤をつたって逃げるよりも、和泉橋を一気につききる方が得策だと、カンを働かせた。
「こっちです、お雪さま」
橋のむこう側に、提燈の光が、三つ四つ、ぽつぽつと滲んでいるのをみとめて、それにすくいをもとめることを考えたのである。
星明りに馴れた敵の目が、橋を、はだしでかけ抜ける二人の姿をとらえた。
「あそこだっ!」
怒声があがり、われがちに追って来た。
二人が、橋を渡りきった時、背後の先頭の敵は、二間とせまっていた。
ところが、三次が、提燈の火にすくいをもとめるよりも早く、それを持った者たちが、さっと左右にわかれ、二人をつつむようにして、敵の群に立ちふさがってくれたのである。
提燈を持っていたのは、覆面の武士たちであった。五人以上とかぞえられた。
「な、なんだっ! うぬらっ!」
先頭の追手は、意外な助勢に、ぎくっと足をとめて、透し見つつ、唸った。
三次と雪も、こちらがすくいをもとめたでもないのに、まるであらかじめ打合せでもしてあったように巧妙にかばってくれた武士たちを、どういうのだろう、と気味わるく窺った。
「室戸藤馬に追われた者たちだな?」
一人の武士が、小声で、三次に尋ねた。
「へい、そうなんで――」
三次は、頷いて、
――たすかった!
と、内心叫んだ。
あとで考えれば、おかしな話だった。自分たちが、ここへ逃げて来ることを、ちゃんと予測していたということが奇怪であったし、予測出来る人間に対して当然不審を抱いてみるべきであったのだ。
危機をすくわれた安堵が、三次と雪に、そうした心の働きをおろそかにさせたのである。
室戸藤馬が出て来て、その二人を渡せ、と怒鳴ったが、武士たちは、沈黙をまもって、いつでもたたかう態勢をあきらかにした。おのおの、提燈のあかりで、わざと挑戦的な構えを、とってみせたのである。
そうして、藤馬たちを威嚇しておいて、一人が、三次と雪に、
「その下に、舟がある」
と、指示していた。
「ありがとうござんす」
三次は、雪の手をひいて、石段を、転げるようにかけ降りた。
「おのれっ、逃がすかっ!」
かっとなった藤馬は、抜刀した。乾分たちも、おめきたって、武器をかざした。
それを、三人の武士が、引受け、あとの者たちは、石段の上でそなえた。
守るとみせて、不意に、斬って出たのは、武士たちの側だった。
左手で提燈をかざし乍ら、一閃抜き打ちにあびせるや、無頼者の一人が、どうっとのけぞった。
藤馬の方は、正面の武士を遮二無二斬り伏せて、石段まで突進しようとしたが、受けて立った相手の太刀筋は、正統の冴えをもって、かえって圧倒して来た。
「くそっ!」
脇から、乾分が、盲滅法に斬り込んだ。その刀を、さっとたたき落した相手の、ほんのわずかの隙をねらって、藤馬は、
「えいっ!」
と、突きに出た。
「うっ!」
と、呻いて片膝ついたのへ、さらに一太刀あびせた藤馬は、獅子奮迅の勢いで、石段をふさいだ第二陣にむかって、殺到した。
すると、つと一歩ふみ出した武士が、刀を青眼につけつつ、
「先刻は、うしろをみせて、申訳なかった。こんどは、存分にたたかってやる!」
と、言ったのである。藤馬は、ぎょっとなった。
屋敷に忍び入って、仲間の一人を斬って逃げた武士だったのだ。
「名乗れっ! 何者だっ?」
その返答のかわりに、猛烈な一撃が来た。
辛うじて身を躱した藤馬は、はじめて、総身に粟立つ戦慄をおぼえた。到底、自分などが互角でたたかい得る敵ではない、と直感したのだ。
「逃げろっ!」
乾分たちへ絶叫して藤馬は、だだだっと橋板を踏み鳴らして、退いた。
三次と雪がとび乗った舟には、船頭が待っていて、ぐーっと竿でひと突きして、岸から離れた。
舳先は、川下にむかっていた。船頭は、万事心得ているらしく、黙って、舟足をはやめた。
「あのさむらいたちは、何者なのでしょう?」
雪が、はじめて、三次にささやいた。
「さア、わかりやせん。皆目、見当もつきやせん」
「ふしぎなこと……わたくしたちが逃げて来るのを、待っていたような……」
「追手が室戸藤馬って、ことまで知って居りやした」
「わたくしは、なんだか……まだ、安心がならない気がします」
「船頭に、きいてみやしょう。……おい、船頭さん、ちょいとたずねるが、おめえさんをやとった、あの頭巾のおさむらいたちは、いったい、どこのお人たちなのか、知らねえか?」
「さア……あっしも、よくぞんじませんねえ」
およそ無愛想な返辞であった。
夜半の思い
重苦しい沈黙が、小部屋の空気を動かぬものにしていた。
寄席がはねたのは、ずうっと先刻である。ここに泊っている下足の男のほかは、皆帰ってしまっていた。
垢離場の深夜は、かえって寂寥をきわめる。さっきまで放歌していた酔漢も何処かへ消えたらしく、外界はいっさいの音を絶っている。
やがて、時刻をつげる番太の声と|柝《たく》の音が、流れたきり……。
「四つ半か――」
貞宝が、ぽつりと呟いた。
長門は、腕を組み、目蓋をとじている。加津美は、俯伏したきりである。二人とも身じろぎもしない。
三次は、戻って来ないのである。
貞宝が、熱いお茶をかえようと立ちあがった時、ふいに、加津美が、顔を擡げて、
「あ――思い出しました。あたし、うっかりしてました」
と、口をきった。
長門は、目蓋をひらいた。
「梅津さま、佐々右膳という剣術の先生をごぞんじでございますか?」
長門の眸子が光った。
「知って居る」
「室戸藤馬は、仇討の助太刀を、佐々右膳に頼んであると申しました」
「なに?」
「ええ、そうなんです。たしかに、そう申しました。梅津長門と互角に剣を交えることが出来るのは、当節、佐々右膳だけだから、この助太刀があれば大丈夫だって――。あたしは、その時、なんといい加減なホラをふいてやがるんだ、と腹の中でせせら笑ってやったのでございますが……もしや、本当に、そうだとしたら」
「おい、加津美、お前さん、佐々右膳を知っているのか?」
と貞宝が、訊いた。
「ええ。いちど、柳橋で、呼ばれたことがござんす。人間ばなれのしたおそろしい顔つきだったので、一度会ったら金輪際忘れられやしませんよ」
「じゃ、もしかしたら、室戸藤馬の野郎、佐々右膳の家に居候してやがるんじゃありませんかね」
貞宝が、長門を見乍ら、言った。
長門は、別のことを考えていた。
室戸藤馬と佐々右膳が結びついているときくや、急に脳裏へ、ひとすじ光がさしたのを、長門は感じたのである。
――冷静になることだ。糸はつながって居る。たぐって行けば、すべてを白昼にひき出すことが出来る。
長門は、自分に言いきかせた。
解かなければならぬ謎は、多いのだが、どうやら、こちらの働きひとつで、凱歌をあげられそうな予感があった。
佐々右膳は、小俣堂十郎に殺された男と一緒に南から帰って来た船頭にたのまれて、阿古父尉の面を奪いとろうとした。ところが、小俣は、実兄である下僕の加平に殺された。小俣の侍女である月江と自分の妻とはいちじるしく似かよっている。加平が丹精こめてつくった花壇の菊の花は、月と雪の二字をかたどっていた。妻を誘拐した室戸藤馬は、佐々右膳と何かの関係があるらしい。これらのことは、すべてバラバラのように思えて、その実、ことごとく、なんらかのつながりをもっている。
ここで、はっきりしているのは、加平と右膳と自分が、三つ巴となって、たたかわねばならない運命にあり、最後に、一人だけが生残るであろうということなのだ。
「師匠、これア、ちょっと、簡単には、女房をとり戻せまい。女房をとり戻す時には、小俣堂十郎の宝もこっちのものになっている時だな」
長門は、この場の重苦しい空気をはらうように、他人事を噂しているような調子であった。
「なんですって? そんな悠長な――」
「いや、女房が奪われたことは、小俣の一件と脈絡があるということなのだ」
「へえ――」
貞宝に、すぐに意味がとれなかったのは無理もない。
「雪が、評定所重役であった小俣の後見で、陰の落胤として育ったということは、当人自身も知らぬ秘密を背負わされていたからではないか、と考えられるふしがあるのだ。小俣を殺した実兄の加平という男が、その秘密を握っているに相違ないのだ。つまり、雪と、あの月江という娘は、血縁ではないだろうか――師匠、お前さんはそう思わぬか?」
「へえ、そう仰言られると……成程、似ています」
「おれは、帰宅して、すぐ、雪から、その秘密の手がかりになる記憶をひき出そうとしたのだが……まるで、おれの謎解きを拒むように雪の姿が消えていた、というのも、なにか、因果なものをおぼえる。あの加平を捕えて、白状させれば、これはあきらかになることだが――」
「それにしても、その加平という男が、なぜ小俣堂十郎を殺したか、ご想像はおつきになりませんか?」
「つかぬ」
「てまえは、どうも不思議なんでございますがね。……あの夜、旦那と庄吉が、あの屋敷に乗り込んだ頃、てまえの家をたずねて来た下僕風の男が、今から考えると、加平だったのでございますよ。それが、ひどく落着かなく、とても、小俣を殺したり、旦那を襲ったりするような度胸や腕前を持っている人間とは、どうしても思えませんでしたな」
貞宝は、しきりに小首をかしげた。
「偽装だったのだろう」
長門は、何気なく、言いすてて、立ち上った。しかし、後になってわかったことだが、貞宝のこの不審は、非常に重大なことを暗示していたのだ。
「おれは、ためしに、これから、佐々右膳の道場へ忍び込んでみる」
「そ、そりゃ――しかし……」
貞宝も加津美も、不安そうに見あげて、出来ればとめたい様子だった。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、だろう。尤も、とんだ目算ちがいで、余計な汗をかくだけかも知れんが――」
「そいじゃ、もし三次が戻って参りましたら?」
「おれの方から、連絡をとる」
長門は、宗十郎頭巾で顔をつつむと、闇の中へ出て行った。
短筒の音
三次と雪を、室戸藤馬一味の追跡からのがれさせたのが、加平に使われている佐原某以下の武士たちであったということは、当然、二人の身が安全ではなかったことなのである。
そうとは夢にも気がつかぬ三次と雪をのせた猪牙は、黒い水の面を掻く櫓の音だけを、深夜の静寂の中へひびかせて、浅草御門をくぐり、柳橋を抜けた。
「おい、船頭さん、ここで着けてくれていいんだぜ」
柳橋をくぐった時、三次は、声をかけたが、船頭は、むうっと押し黙って、こぐ手を休めなかった。
「いやに、無愛想な野郎だな」
舌うちした三次は、こんどは大声で、
「それじゃ、両国橋へ着けてくれよ、おい――」
と、たのんだ。
それにも、返辞はなかった。
見わたす舟宿は、ひっそりと暗く、寝しずまっている。河岸道にも、人影はない。
星の光が冴え、こちらの目も冴えて、かなりの見通しはきいていたが、四方黒一色で、燈火はひとつも見あたらなかった。
ぎいっ、ぎいっ、ぎいっ、と櫓の音だけが、へんに不気味に、単調につづく。
大川へ出た時、ふっと、三次は、直観的に、危険をおぼえた。
すっと舳先から立ちあがって、船頭に近づこうとしかけた三次は、両河岸にひそんでいた二艘の舟が、非常なすばやさで、この猪牙をはさもうと、近づくのを、目に入れた。
「いけねえ!」
やっと今になって、三次は、自分たちをすくってくれた武士たちが、決して味方になる手合でなかったのをさとった。
二艘の舟は、二梃櫓である。
「畜生っ!」
もはや、待ち伏せされていたことに疑う余地はない。
「お雪さまっ!」
振りかえって、何か言おうとしたが、咄嗟の激怒で、言葉が出ない。
三次は、匕首をひき抜くと、
「やいっ、船頭っ! 一杯くわせやがったな!」
と、じりじりとつめ寄った。
とたんに、船頭は、水中へ身をおどらせていた。
「えい。くそっ!」
三次は、櫓をつかんで、死物狂いで、こぎはじめた。
しかし、追手は二梃櫓である。
十間も進まないうちに、猪牙は、左右を、ぴったりとはさまれてしまった。いずれへも、覆面の武士が三人ずつ乗っていた。
「おい、町人、じたばたせずに、こっちの命ずるところへ、こげ!」
「な、なんでえ、お、おめえさん方は?」
「余計なことをきかんでもよい」
三次は、右の舟の船尾に立っている武士の握っているのが、短筒であるのを、みとめて、ぎょっとなった。
「たすけてくれたとみせかけやがって……こん畜生っ!」
三次は、歯がみしつつも、こぐよりほかはなかった。
雪は、舳先にうずくまったきり、石像のように動かない。のがれられない運命とさとれば、死の覚悟は、すでにできている雪であったから、その姿にはなんの動揺もなかった。
黒く大きく横たわった両国橋が、頭上に来た。
――河岸へぶちつけて、とびあがれたら……。
と、三次は、苛立ったものの、左右をはさまれては、舳先の方向を変えることさえ不可能だった。
「町人、まっすぐに、こぐんだ!」
短筒の武士は、三次の肚の中を見抜いたように、鋭く命じた。
三次は、唇を噛みしめて、
「てやんでえ。飛道具が怕くていいなりになってやんじゃねえや。お雪さまをすてておけないからなんだ」
と、ひくく呟きすてた。
やがて、新大橋が、近づいて来た。
橋の下に入ろうとした時、三次は、心の底からくやしかった。
橋の下の暗さは、文字通り墨を流したようである。この下を利用して、水へもぐれば、絶対に見つからないであろう。
――ああ、お雪さまが泳ぎができればなア……。
三次は河童同様の身だったのである。
猪牙と二艘の船が、すうっと、暗黒の中へ入った瞬間、雪は、ぱっと立って、かけよると、
「にげなさい、三次さん! このことを、主人につたえて下さい!」
と、ささやいた。
「お雪さま、行先をつきとめてからでさ」
ささやきかえして、三次は、
――ようし!
と、心で叫んだ。
潜り抜けて、星空を映した水の上に出た時、雪は、もとの位置に戻っていて、橋を見あげた。こちら側の欄杆にもたれて、人がのぞいていた。町人か武士かわからなかった。
――ああ、あれが、良人であったなら!
むなしい希望が、掠めすぎた。
もとより、それが、良人である筈はなかった。しかし、雪の知っている人ではあったのだ。須貝嘉兵衛だったのである。
新大橋を渡ってすぐの松平肥後守の屋敷の中間部屋でひらかれた賭場をのぞいての戻りであった。ふるまわれた、たちのわるい地酒をぐいぐいあおったので、すこし気分がわるくなり、茫然と、欄杆に、もたれていたのである。嘉兵衛は、夜目がきいた。
三艘の舟が、舳先をならべて、つうーと橋下から進み出るのを、眺めるともなく眺め下していた嘉兵衛は、一瞬、はっとなって、眼光を鋭くした。
右端の船の船尾に、立っている覆面の武士が短筒を、まん中の猪牙をこぐ男に向けているではないか。
そのまん中の猪牙には、女が一人。左右の船には、覆面の武士三人ずつ。
これが、怪しまずにいられることではなかった。
もし、猪牙の女が何者か知ったなら、嘉兵衛の驚愕はどんなであったろう。
嘉兵衛は、好奇心に駆られて、見まもり、三つ俣から永久橋をめざすのをたしかめると、つと欄杆をはなれて、非常な速歩で、しかも跫音を消しつつ、河岸道へ出て、大小名の中屋敷の塀づたいに急いだ。
――永久橋をくぐって、箱崎に入ったなら、しめたものだ。どちらの側へ上っても、見のがすことはない。
嘉兵衛は、そう心ではかっていた。
だが、そうではなかった。
急に、右の舟が、先へ出て、左の舟がうしろへさがり、猪牙の前後をはさむと、方角を河岸へ向けた。
――あ、掘割へ入るつもりだな。
はたして――。
先頭の舟が、掘割の入口へかかった。小橋の下へ入った。
つづいて猪牙が入ろうとした瞬間であった。
不意に、猪牙をこいでいた男が、身をおどらせて、水中へ飛び込んだ。
同時に、闇に、ぱっと火花が散って、轟然と銃声がつらぬいた。
猪牙へは、武士の一人が、飛び移った。
消えた舟
嘉兵衛は、忍び返しを付けた高塀へ、ぴたりと吸いつくようにして、掘割へこぎ入った三艘の舟を見おくった。
嘉兵衛のいる側も、むこう側も、大名の大きな屋敷である。
この掘割は、こうした大名屋敷にはさまれて、難波町まで、ずうっとつづいているのである。
――どこまで、行きゃがるか?
嘉兵衛は、久しぶりに、まったく久しぶりに、四肢の力をみなぎらせていた。
と――。
ものの二十間もすすまないうちに、舟は、停止した。川面はもとより、嘉兵衛の立っている河岸道も、大変な暗さだった。
というのも、むこう側は、一丈余の石垣がつらなって、しかも、その上に高塀が立ち、星空をさえぎっていたのである。
すなわち、河岸道はつくられてなく、石垣を、水があらっているのであった。
その石垣に、三艘の舟が、寄って、停止したのである。
――なんだ? 怪しいぞ!
嘉兵衛は、必死に眸子をこらしたが、いかに夜目のきく彼も、この暗さでは、到底見わけがつかなかった。
――あの石垣へ梯子でもかけてのぼろうというのか?
その様子もない。
船の黒い影が、うごくのが、やっと見わけられるだけなのに焦燥した嘉兵衛は、危険を承知で身を移して、小橋の上へ出た。
そして、欄杆から顔だけのぞけて、じいっとすかし見た。
奇怪! たしか、三艘いたのに、猪牙だけが、消えているではないか。
嘉兵衛が、狼狽して、思わず身をのり出そうとした時、のこった二艘が、石垣からはなれた。
嘉兵衛は、橋の上へ、身を伏せた。
二捜は、ふたたび掘割から、三つ俣へ出た。
嘉兵衛は、橋から十間もはなれないところで、一艘が着けられ、三名の武士が河岸道へ上り、他の一艘が、ぐんぐんこぎのぼって行くのを見おくった。
――飛び込んだ男を捜しにひきかえしたのだな。
嘉兵衛は、ゆっくりと身を起した。
その姿は、すぐに、河岸道へあがった連中に発見された。
どっと駆け寄って来るのを、嘉兵衛は、一歩も動かずに待った。
相手方は、それが三次ではなく武士であるのをみとめると、失望の声をもらしたが、すぐに、一人が出て、
「貴公、そこで、なにをされていた?」
と、険しい口調で詰問した。
「なにをして居ろうと、おれの勝手だ」
「素浪人か――」
「素浪人でわるかったな。そっちは、この豪壮な屋敷の家来たちか」
「なにっ!」
一人が、「斬れっ!」と叫んだ。
さっと抜きつれた白刃の構えを凝視して、のっそりと立った嘉兵衛の姿は、星明りの下に、幽鬼にも似た不気味な気配をひそめていた。
「なかなか、出来るらしいな、貴公たち」
揶揄する冷やかな声音も、不気味なものだった。
たしかに、三本の白刃は、みごとな脈絡をとって、殺気を含んだ切尖をじりじりとつめ寄せるのに、完全な呼吸を合せていた。
「久しぶりだぜ、人を斬るのは――」
その一語が終らぬうちに、
「えいっ!」
と、凄じい気合をほとばしらせて、左端の武士が、斬りつけた。
嘉兵衛の痩身が、どう動いたか、目にもとまらず抜いた刀を、正面の二人へ、下段につけていた。
襲った武士は、たたらを踏んで、そのまま、欄杆を越えて、高い水音をたてていたのである。
「おい、貴公たち、片腕だと思ってあなどるなよ。この腕一本には、筋金が入って居るぞ。貴公たちぐらいの腕が、十本や二十本、たばになってかかって来ても、そうかんたんには折れはせん」
と、うそぶいて、ずいと一歩出るや、二人は、さっとさがった。
嘉兵衛の鮮やかな早業は、相手方を、あきらかに圧していた。
「さア、来ぬか! おい、どうした!」
一歩、一歩、嘉兵衛は、進んだ。
二人は、無造作に間合をつめる不敵さに、さらに浮足立った様子だった。
この斬合いが、かなたの川の上の武士たちにわからぬ筈はなかった。
急いでこぎ下って来る舟を、視野の中へ入れ乍ら、嘉兵衛は、
――そうだ、短筒を持っている奴がいたな。もう一人ぐらい仆しておいて、逃げるとするか。
と、考えた。
謎の屋敷
雪をのせた猪牙が、その大名屋敷の石垣で消えたのは、カラクリがあった。
どんな合図がされたものか、不意に、石垣の一角が、音もなく崩れて、水中に没し、ぽっかりと、まっ暗な口がひらいたのであった。そして、雪をのせた猪牙を呑み込むと、また音もなく、巨大な石が水中から盛りあがって、口をふさいだのである。
須貝嘉兵衛を、唖然とさせたのは当然である。その堅固な石垣に、こんな巧妙な仕掛がしてあろうなどと、何人が看破し得るものであろう。
掘割の水は、この秘密の水門によって、屋敷ふかくひき入れられていた。
石戸がおろされると、内部は、墨を流したような真暗闇であった。ただ、かなり広く掘ってあるとみえて、猪牙は、どこへぶつかるおそれもなしに、櫓の音をきしらせて、ゆっくりと進んで行く。
雪は、この深い不気味な水の通路をつれて行かれる自分を静かに考えていた。自分という女がなぜこの様に、波瀾の渦中にひき込まれなければならないのか――そうさるべく運命づけられた自分を、雪は、いっそ、他人ごとのように考えてみる余裕を抱いていた。
――わたしは、梅津長門の妻なのだ。落胤などというのは、遠いむかしのことなのだ。わたしは、浪人者の妻として、生き、そして死んで行けばいい。
たとえ、舌を噛み切って死んでも、ただ一人、良人から、おれの妻らしくよく死んだ、と思ってもらえばよかった。
たとえば――いま、かりに、長門からひきはなされて、百万石の大名の奥方にされるべくつれ込まれたのだとしても、それがのがれようのない幕府の権力によってなされたものならば、雪は、冷やかに笑いすてて、自害して果ててみせる勇気をそなえていた。まして、市井にかくれた悪党どものしわざならば、雪の心に、どんな手段をもってしても、恐怖や苦悩を湧かせることは不可能であった。
猪牙が、ものの七、八間もこぎすすめられたろうか。
急に、彼方が、ぼうっと明るくなった。
|龕《がん》|燈《どう》をかかげて、誰かが近づいて来たのである。
明りがひろがると、雪は、そっとまわりを見わたしてみた。天井も壁も石である。巨大な地下室とわかった。水面も、池のひろさをもち、ほかに、舟が三、四艘も石垣へつけられてある。
|彼方《かなた》に、石段が、地上へ通じている。龕燈を持った者は、そこから降りて来たのである。
覆面であったが、猪牙をこいで来た者へ、
「ご苦労――。町人のほうはどうした?」
ときいた声は、藤馬のかくれ家をつきとめた佐原某のものにまぎれもなかった。
「掘割へ入る際に、水中へ飛び込みまして――」
「逃がしたのか?」
不機嫌な口調になった。
「は――」
「ここをさとられはしまいな」
「橋の外側で逃げましたので……よもや、と存じますが――」
「捕えて片づけた方がいい」
「ほかの者たちは、すぐにひきかえして、捜しに参りました」
佐原は龕燈を雪へ向けた。が、意外に穏かな声で、
「貴女は前将軍家ご落胤雪姫様ですな?」
と、尋ねた。
「…………」
雪は、口をつぐんで、ただ、きらりと相手を仰いだだけだった。
「こちらは、ちゃんと調べてありますぞ」
「わたくしは、梅津長門と申す浪人の家内です」
「同じことだ。梅津長門の御家内は、雪姫殿ではないか」
「ちがいます。梅津の家内は梅津の家内でしかありませぬ。落胤かなどとただされても、こたえるわけには参りませぬ」
「気の強いことだ」
佐原は、笑って、
「兎も角、ここへつれて来られた以上、どうあがいても脱走は出来ぬ。おとなしくされている方が身の為ですぞ」
「わたくしは、はじめから、一度も、抵抗は致して居りませぬ。ただ、なぜ、この様なところへつれて来られたのか、その理由がわかりませぬが――」
「それは、もうすぐ、おわかりになる筈だ。拙者について来て頂こう」
と、促されて、雪は、猪牙から上った。
佐原は先に立って、石段をのぼって行った。石段は、鉤の手に曲り、かなりの数があった。
のぼりきったところに、鉄扉が閉められてあった。
そこをひらくと、やはり、石の廊下が、まっすぐに通じていた。およそ、二十間、佐原と雪の跫音だけが、天井にはねかえって、大きくひびいた。
廊下のつきあたりは、ただの白壁であったが、佐原の片手がかかると、途端に、ぎいっと|枢《とぼそ》の軋りとともに、その壁は、動きだしたのであった。
この屋敷の仕掛は、非常に大規模のもののようであった。
壁が一回転すると、そのむこうは明るい部屋であった。広間といってもよかった。絵入りの百目蝋燭の眩い燈が、数台も据えられ、大名屋敷の部屋を見馴れている雪の目にも、この部屋の豪奢なさまは、かなりのおどろきであった。
「ここで、お待ちねがう――」
と命じておいて、佐原は、入って来た壁とは、反対側の襖を開けて出て行った。
雪は、部屋の中央に坐った。
やがて――。
佐原の出て行ったところが、再び開いて、すっと入って来たのは、小俣邸の下僕加平その人であった。かたぎの町人姿で、柳橋の舟宿にいた時は、顔のほうたいをとりはらっていたのに、今はまた、いかにも重傷らしくまきつけているのは、奇妙なことだった。
無言で、雪と二間ばかりへだてて座を占めると、ややしばらく、加平は、凝っと、片目を据えつけた。
雪は、もとより、この男が、小俣邸の下僕であることは、夢にも知らなかった。
「久しぶりだ……まことに、久しぶりの対面だな」
加平が、わざと押し殺したような調子で口をきった。
「あなたは、どなたです?」
雪は、きっとなって、質問した。
「もはや、お忘れか?」
「顔の半面をかくされては、見当もつかないではありませんか」
「ふむ。……姫も、物腰態度言葉づかいが、すっかり市井の女になられたな。……だが、素浪人の女房には、もったいない美しさだ。むかしより、一段と美しくなられた」
「あなたは、どなたです?」
雪は、もう一度たずねた。
「まア、よろしい。思い出せなければ出せないでよい」
「なんのために、わたくしを、こんなところへつれて来たのです?」
「室戸藤馬から、すくってさしあげた」
「すくって下さったのなら、なにも、わざわざ、短筒でおどかして、こんなところまでつれてくる必要はないではありませんか」
「それが、ある! 貴女は、梅津長門の妻だからな」
「梅津の家内だから、どうするというのです!」
「どうもせぬ。当分、この屋敷にいて頂く。それだけのことだ。わしは、室戸藤馬のような、不埒な真似はせぬ」
忍び返し
遠くで、時の鐘が鳴った。六つ――夜明けである。
三つ俣の川面は、さして来る汐に乗って、魚が上って来たか、時折、はげしい音をたててはねていた。霧がふかいので、視界はきかない。一日のはじまる前の、ひとときの静寂な空気は、魚のはねる音にみだされるほかは、すべてをつつんで、しんとはりつめていた。
空には、都鳥が、雲から湧いたように、ゆるやかに舞っていた。
猪牙を呑んだ石垣も、しらじらと浮きあがって、増した水かさに、ぴちゃぴちゃと洗われていた。
上流から、櫓の音もひそかに、一艘の猪牙が下って来た。高砂町あたりから来た商家の買出し荷船であろうか。いや、そうではなかった。
こいでいるのは、誰あろう、ひょっとこ三次であった。顔面は蒼白、眼光は血走っていた。日頃の愛嬌のある表情とは一変して、別人のように凄まじい形相だった。
雪を、何処の何者とも知れぬ武士たちにうばわれた三次は、このままでは、到底、逃げ去るわけにはいかなかったのである。
いったんは、水中へ飛び込んで、姿をかくした三次は、どこをどうもぐって、はいあがり、雪を乗せた猪牙の行方を見さだめたか、夜明けを待って、ここへ戻って来たのだ。
その屋敷の石垣に沿うて、すうっと流れ寄り、とある個所にとまるや、三次は、じいっと頭上を見上げた。
丈余の石垣の上は、また高い塀である。
三次は、懐中から、細引をとり出すと、木片をくくりつけた端から、二尺ばかりのところをつかんで水車のようにまわしはじめた。そして、ねらいをつけて、ぴゅっとなげあげた。
――よし! うめえ!
塀の忍び返しに、きりきりとまきついた細引は、ひとすじ、ぴんと、三次の手もとまで張った。
さらに、よく、細引の具合をたしかめていた三次は、つとそれにすがって、舟べりを蹴った。いったん、ちぢめた足を、石垣へかけると、もうあとは日頃の熟練にものをいわせて、三次のからだは、すっすっすっ、とかるがると塀めざしてのぼっていった。
三次は、忍び返しに手をかけるまで、生命がけの緊張もあったろうが、ひと思いにやってのけた。
巧みに、からだをせりあげて、片足を忍び返しの隙間へ噛ませると、三次は、そっと、首をのばして、塀の内側を覗いた。
その瞬間、静寂を破って、鋭い銃声が鳴りひびいた。
はっと首をすくめた三次は、次の刹那には、もう綱をつたって、猿のように、すごい速力で、すべり降りていた。
――こん畜生っ! こんな夜明けまで見張り番がいやがる!
三次の敏感な耳は、塀の内側を、あわただしく駆ける足音をきいた。
――まごまごしちゃいられねえや。
とんと猪牙に降りるが早いか、櫓をつかんで、必死にこぎはじめた。
櫓のきしり、切られる水音が、ひどく高くひびいて、三次の恐怖を、さらにかきたてた。猪牙は、矢のようにすべって、小橋の下へ来た。
と――。不意に、橋の上から、声が、かけられた。
「おい、町人、もっとゆっくり逃げよ」
「なにっ!」
ぎょっとなって、ふり仰ぐと、幽鬼にも似た浪人者が一人、霧の中に彳んでいた。須貝嘉兵衛であった。嘉兵衛もまた、二、三人を斬り伏せておいて、いったんは逃げたが、またひきかえして来ていたのだ。
「あせるな、というのだ。追手は、おれがふせいでやる。追手がどこからあらわれるか、そいつをたしかめようではないか」
「へ、へい――」
三次は、昨夜、この浪人者が、いきなり出現して、武士たちとたたかったのを、物陰から目撃していたのだ。
必ずしも、こっちの味方になる人間とは思われないが、武士たちの敵となっていることはたしかだし、滅法強いことも事実だ。
三次は、ちょっと安堵して、猪牙を、橋の下に入れると、腰をかがめて、うしろを、うかがった。
しかし――。
追手は、それっきり、姿を見せようとはしなかった。もち論、見たところ、石垣も塀も、どこに仕掛があるともわからず、待っている嘉兵衛も三次も、なんとなく、自分たちが間抜けに思われもした。
「駄目か――。奴ら、要心ぶかくて――」
嘉兵衛は、吐き出すと、首をのばして、
「おい、町人、舟を外へ出せ」
と、声をかけた。
行きずりの縁
舳先があらわれるや、嘉兵衛は、身がるく、それへ、飛び降りていた。
「もうすこし、待ってみるか」
嘉兵衛は、うちとけた態度で、言った。
「へえ――」
三次は、もう一度、石垣の方を振り返ってみた。
「どうやら、追って来そうもござんせんねえ」
「こいでくれ。お互いに、睡って居らんのだから……どこか、そこらの舟宿で、一杯ひっかけて、横になろうではないか――」
「旦那――」
「なんだ?」
「旦那は、どうして――?」
三次は、不審そうに、この片腕の浪人者をじろり眺めやりながら、
「あのさむれえたちを相手になすったんでござんす?」
「こっちからしかけたわけじゃねえ。むこうから斬りかかって来たから、だ。お前は、どこで見物していたのだ?」
「まだ、水の中に居りやした」
嘉兵衛は、ねむそうに、欠伸をひとつすると、からだを横にした。
「お前がこいでいた舟には、女がいたようだが、あれは何者だ?」
「へえ、あっしの知りあいのお武家の奥さんなんで――」
「奥さん?」
「へ、左様で――」
三次は、素姓の知れぬこの浪人者に、本当のことをみんな打ち明ける気はなかった。
「どうしてつかまったのだ?」
「それが……どうも、さっぱり、わけがわからねえんで――。奥さんのおともをして、柳原土手をあるいて居りますと、いきなり襲いかかって来やがったので、あわてて奥さんを、浅草御門から猪牙にのせて、大川へ逃げ出したんでござんすが、両国橋の手前で、いつの間に追っかけて来やがったか、あの二艘が、両方からはさみうちしやがって、もう、どうにもならなくなりやしたので――」
「敵が何者か、それもわからんというわけではあるまい」
「いえ、そいつが、旦那、皆目見当がつきやせん。旦那こそ、あの屋敷に、何様が住んでいるのか、ご存じじゃございませんか?」
「知らんな」
嘉兵衛は、こたえてから、仰向けになった。
都鳥が、一羽、ひくく、舞い降りて来て、さっと舟の上をかすめた。
「鳥はいい」
ひくくぼそりと呟くのへ、
「え? 何か仰言いましたか?」
と、三次が、きいた。
「なんでもない。鳥は自由に飛んでいるといったのだ。生きていることが面倒臭いとも思わんだろうし……」
そう言う嘉兵衛を、三次は、腑に落ちない様子で、
「旦那は、ただ、あのあたりをぶらぶらなさっていただけでござんすか?」
「うむ」
「あの奥さんを乗せた猪牙が、石垣の中へ消えたのを、ごらんになりゃしませんか? どういう仕掛で、消えたか――」
「見ようとしたが、見えなかった。たしかに、石垣の中へ消えたな」
「そうでござんす。まったくふしぎだ。しかし、あの屋敷へつれ込まれたことは、まちげえねえんだ」
「お前にとっては、大切な婦人か?」
「そりゃ、もう――あっしの兄貴分の先生の奥さんでござんすから――」
「先生? なんの先生だ?」
「剣術でさ」
「なんという先生だ?」
三次は、ちょっと返事をためらっていたが、思いきって、
「梅津長門というお方なんです」
「なに?」
嘉兵衛は、ぱっと撥かれたように、身を起した。
「おい、あの女は、梅津長門の女房か?」
その異常にひきつれた表情を、三次は、ぎくとなって瞶めかえし、
「旦那、ご存じなんで?」
「知って居る。おい、お前、はじめから、くわしく話せ! 梅津長門の女房が、なぜ、夜ふけに、柳原土手などをあるいていたのだ? 梅津の家は、押上村ではないか。……先ず、それから、きこう」
三次は、急に、強い警戒心を起した。
相手の態度から、殺気にも似た鋭いものを、直観的に読みとったからである。
「旦那は、いったい、なんと仰言るお方なんです?」
「そんなことは、どうでもよい」
「いえ、うかがっておかなけりゃ、あとで梅津先生にきかれた時――いや、それよりも、あっしゃ、敵か味方か、はっきりさせておきてえ!」
三次は、昨夜、すくってくれたのが味方でなかったという苦い目に遭っているのだ。
「敵か味方か――それは、話をきいた上できめる」
「そいつはご免でさ。……あっしゃ、こんなにのんびり舟をこぎながら、話をしているひまはねえんだ。梅津先生に、このことを一刻も早く知らせなけりゃならねえんだ」
「あわてるな。梅津と雖も、あの屋敷にしのび込んで、女房をたすけ出すのは容易のわざではない。一刻や二刻をあらそう仕事ではなかろう」
「それなら、味方になって助けておくんなさい。その約束をして頂けりゃ、話しまさ」
ほんのしばし沈黙があってから、嘉兵衛は、言った。
「おれは、須貝嘉兵衛という者だ。実は、この片腕は、梅津に切り落された」
「ええっ!」
「いわば、おれと梅津とは、仇敵同士だ。……が、仇敵同士は、場合によっては、竹馬の友より以上に、なつかしいものだ。おれは、いまは、そういう気がしている。……おい、お前は、どうやら自分一人の力で、梅津の女房をすくい出そうとあせって居るらしいが、事情によっては、おれが力を貸してやる。断っておくが、味方になってやる、という意味ではないぞ。梅津に恩をきせたくはないのだ。ただ、お前のけなげさに、行きずりの縁で、力を貸してやるまでのことだ。話してみろ」
貞宝の憂鬱
|黄昏《たそがれ》の通りを、貞宝は、腕を組んで、俯向いて、わが家へ帰って行こうとしていた。
――どうして、あの姫さまは、こうも、ご不幸なんだろうな……。
暗い意識は、そのことにとらわれていた。
――これっきり、あの方と梅津さんとの世帯がおしまいになるようなら、神も仏もありゃしねえ。莫迦なこった。まったく、やりきれねえ程莫迦なこった。……室戸藤馬とかぬかす|泥溝鼠《ど ぶねずみ》め、|内《だい》|裏《り》|雛《びな》の片方をかっさらやがって、いったい、どうしようとしやがるんだ。おとりにして、梅津さんをおびき出して、仇討をやろうなどという見さげはてた了簡を起しゃがったのか。それとも……。
「それとも、血迷いやがって――」
思わず、小声で呟いて、貞宝が、ぞっとなった時、横あいから、肩をたたいた者があった。
左となりに住む芝居作者の瀬川三平であった。
「師匠、何を|慍《おこ》ってなさる? 往来で妙なことを口走っているのなんざ、ただごとじゃなさそうだ」
たしかに他人目にも、貞宝の蒼ざめた表情は、異様に映らずにはいなかった。
「なアにね、近頃の講釈師は、どいつもこいつも、から意気地のねえ野郎ばかりで、酷令苛法をへらへらと有難がったおべっかを、高座でぬかしゃがるんでね。公儀から一文も祝儀をもらうわけでもあるめえに、くそ面白くもねえ、と、小屋からの憤慨を、ここまで持ち越している次第さ」
と、ごまかした。
「しかたがないさ、五十軒の寄席が、十五軒にへらされて、神道講釈と軍談以外はまかりならん、とおいでなすっちゃ、気持もすくんじまって、余計なおべっかをつかいたくならアね。師匠のような骨のある仁が、どだい高座にのぼっているのが、不思議なくらいなものだ。……まったく、ひでえことに相成ったもんだ。歌舞伎浄瑠璃禁制、女義太夫はとっつかまえるは、岡場所はとりつぶすは、酌取女は吉原へぶちこめの、錦絵は破っちまえの、富くじは駄目、小屋の鳴物は駄目、女髪結もいかん……となっては、息がつまって、もうどうにもあがきがとれねえ」
「…………」
「だがね、あっしゃね、こんどのご倹約令で、町人てえものを見なおしたね。二本差なんざ、もう完全に無用の長物だが、丸腰の世界は、いよいよこれから天下をとる気配がみえた、とあっしは、睨みやしたよ。大名旗本はどうせ内証がからっけつなんだから、倹約令に、ほっとしたろうが、町人たちは、なにしろ金を持っているんだ。酷令苛法に頭を下げ乍ら、どうやって金を費ってみせようか――知恵を働かせるのは、この時とばかり、絹物禁制とくると、絹物より高い古渡り唐桟を着て木綿物だからいいだろうという口実だアね。弦歌を憚らねばいけねえのなら、鳴物なしのシンネコ遊びの手はいくらでも思いつく。法をくぐって、命を奉ぜず――これは、上をおそれないんじゃない。金が……あるからなんだ、金が……。町人のふところに、金があつまった、ということが、問題なのさ。もう、大名でござい、旗本でございとふんぞりかえった時世は過ぎた、とあっしゃ、睨んだが、どうですね、師匠」
一人べらべらと喋りつづけて、三平は、貞宝に返事を促した。
「いや、ご尤も――」
話に乗って行けない貞宝は、わが家の前に来たので、ほっとした。
近いうち一局かこもうと、別れの挨拶をかわして、格子戸をあけると、すぐに、月江が、迎えに出た。
「おかえりなさいませ」
と、しとやかに指をつく月江を、貞宝は、あらためて眺めやった。
雪と似ていることは、はじめて会った時から気がついていたが、長門から、雪と何かつながりのある娘らしいときかされて戻って来た今、その心で眺めてみると、成程、この似かたは、たしかに他人同士とは思われなかった。
「庄吉は、どうしました?」
「すっかり、元気におなりになりました」
「そいつは、よかった」
三つのもの
貞宝が、居間に入ると、床から、庄吉が、笑顔で、仰いだ。
「師匠、珍しく、どこかへくり込みましたね?」
断りなく家を空ける貞宝ではなかったので、昨夜戻らなかったのを、庄吉は、ひやかした。
「野暮用さ。はははは、ひやかされてみて、はじめて、成程、女房持ちは、辛かろうとわかるね」
軽くはぐらかしたつもりであったが調子が重かったし、顔色は沈んだなりだった。
「やけに、つかれた気色じゃありませんか」
「うむ。つかれたな。つくづく、年はとりたくねえやな」
「ところで、三次の野郎、寄りませんでしたか。薬を買ってくるって、一昨日、出て行ったきり、なしのつぶてなんですがね」
と、きかされて、貞宝は、思わず、眉をしかめて、
「じゃ、こっちへも戻って来ねえのか?」と、言った。
「こっちへもって? あっちでも、待っていたってことですかい? どういうんです、それア――」
「…………」
貞宝は、ぐっとつまった。
庄吉は、人一倍カンの鋭い男である。うっかり口をすべらした以上、もうごまかしはきかない。
庄吉は、すでに、貞宝の顔色を読んで、
――何かあったな?
と、感じていた。
ほんのしばし、沈黙があった。
月江が、お茶をはこんで来た。
貞宝は、ひと口飲んで、ついに、正直に、ふかい溜息をついた。
「どうしたんです、師匠」
「うむ」
「なんでえ、おれの傷を気づかっての遠慮なら、お笑い|種《ぐさ》ですぜ。おれは、起き上って、歩いてみせらア」
「そいつがいけねえやな。きかせたら、お前は、起きて歩いて、外へ駆け出すだろうと思うから、喋りたくなかったんだが、人をごまかす術は、借金取りにしかやったことがないので、不覚、風流軒ともあろう者が、庄吉如きに見破られようとは――」
相手の驚愕をすこしでも抑えるつもりで、この場の空気をやわらげておこうと、貞宝は、ぽんと膝をたたいて、
「さて、そもそも、そも事の起りとは――いや、月江さんもここにいて下さいよ。庄吉、おどろくなよ」
「おどろかねえ」
「三味線加津美が、深川の悪で、室戸藤馬という浪人者から、妙なことを打明けられたと思いねえ」
「室戸藤馬?」
「左様、室戸兵馬の実弟だ」
「そいつ、江戸にいやがったのか?」
「梅津長門を、仇とつけねらってな」
「こん畜生っ!」
「おい、まだ起きるのは早いぞ。で、加津美は室戸と別れたところで、三次に会ったので、三次に耳打ちして彼奴のあとを跟けさせた。ところが、三次は、跟けて行ったきり戻って来ねえ」
「間抜けひょっとこめ!」
と、罵りつつ、庄吉の胸に、不安な鼓動が起った。
「庄吉――」
貞宝は、言葉をあらためて、
「それは、実は、つけたりなんだ」
「え?」
「室戸藤馬はな、お雪さまを、かどわかしゃがった」
「な、なにっ!」
庄吉は、ぱっと起き上った。
「本当か、師匠っ! か、かつぐんじゃあるめえな」
「かついでやりたいが……梅津さんが、しらせに来たのだ。その折、加津美が、偶然、室戸のあとを三次に跟けさせた、というので、一夜明かして、待ってみたんだが……」
沈痛な面持の貞宝を、それがまるで室戸藤馬ででもあるかのように睨みつけ乍ら、庄吉は、荒い喘ぎを肩でしめしていたが、
「そ、それで……旦那は? 梅津の旦那は、どうなすったんだ?」
「落着け、庄吉」
「こ、これが、落着いていられるかっ!」
怒鳴ったとたん、傷が烈しく痛んだか、庄吉は、うっと顔を歪めて呻いた。
月江が、いざりよって、おろおろと、手をさしのべたが、再び擡げた庄吉の凄まじい形相に、たじろいだ。
貞宝は、いたましそうに庄吉を見まもっていたが、静かに、
「庄吉、寝たがいいぜ。そのからだで外へとび出したところで、十歩もあるけるものじゃねえ。……それより、梅津さんから、たのまれたことを、ここで、三人で考えなけりゃならん」
「なんだい、考えなけりゃならねえことって?」
「月江さんに、むかしのことを、もう一度思い出してもらうことだ」
庄吉の表情がさっとひきしまった。しかし、黙って、仰臥した。
「月江さん――」
貞宝は、態度をあらためた。
「はい」
「思い出して頂きたい。あなたは、ご両親について、誰かの口から、なにか――暗示でもよい。きいたことはありませんでしたかな?」
月江は、そう訊かれて、記憶力をそのことにあつめようと、じっと、膝のわが手を瞶めていたが、
「思い出せませぬ。……わたしも、幼い頃から、両親のことを知りたいと思って、育ててくれた庭番夫婦や、あの加平から、いくどとなくきき出そうと致しましたが……ただ、ご主人様から、お預りしている、とだけしか――」
「それじゃ、ほかにごきょうだいがあるようなことも――例えば、お姉上がおありだとか、そのようなことも?」
「一切、きかされたことはございませぬ。ただ……」
「ただ?」
貞宝は、身をのり出した。
「わたくしが、七歳のお節句に、庭番夫婦が、それは目のさめるような美しい着物をきせてくれて、やっぱりお前さまは、お姫さまだ、とほめてくれたことがございます。その時、このべべは、どこかの姫さまのおさがりだ、と申して居りました。……たしか、あとで、庭番夫婦は、旦那さまから、ひどくお叱りを蒙ったとか――それっきり、その着物を見ませぬ。たぶん、旦那さまにとりあげられたのではないかと思って居ります」
「ふうむ!」
貞宝は、腕をこまぬいて、首をひねった。
月江は、困惑と期待の入りまじった眼眸で、貞宝の言葉を待った。
「月江さん、梅津さんの奥さまは、あなたに似ておいでなのです」
「え?」
月江は、すでに、庄吉から、長門に妻があるときいて、ふかい失望をあじわい、それについてはあきらめを抱いていたのだが、意外な事実に、あらためて息をのんだ。
「しかも、お雪さまは、正真正銘のお姫さまでござんした」
「まア――」
「だから、今のあなたの話をきくと、いよいよ、お二人には、なにか切ってもきれないご縁があるような気がしてくる。あなたがいただいた着物は、もしや、お雪さまのものではなかったのか――」
「師匠!」
突然、庄吉が、口をはさんだ。覚悟をきめた蒼白な顔つきだった。
「これを、見て、もらいてえんだ」
庄吉は、いつの間にとり出したか、小物袋と小布にくるんだものを、さし出した。
貞宝が、訝しそうに、受取ったそれへ、何気なく視線をおいた月江は、小さな叫びをあげた。
「それは――」
「これが、なにか?」
「その、袋の方は、わたしのでございます。中に、念珠が入っている筈でございます。……でも、わたしは、ここに――」
疑惑の色をひろげ乍ら、月江は、いそいで、懐中から、ひとつの念珠をとり出した。
貞宝は、小物袋と小布から、それとそっくり同じの赤珊瑚の念珠をとり出した。
念珠は、こうして、三つになったのである。
「こ、こいつは奇態だ」
庄吉が、首をのばして、うなった。
「お嬢さん、おれは、たしかに、お嬢さんの落しなすったのを、ひろったんでござんすぜ。小布にくるんであったのは、おれのもの、実は、お雪さまから頂戴した品でござんす」
「なんだ、おい、庄吉、それを、お前は、今まで、なぜ匿していたんだ?」
「つ、つい、うっかり……忘れてたんだ」
庄吉は、苦しそうにこたえた。
「それでは……この小物袋に入っていた方が、わたしのものにまちがいありませぬ。……わたしは、梅津さまが、旦那さまの遺骸から出てきたと仰言って、お出しになったのを、わたしのだとばかり思って、頂いておいたのですけど――」
「小俣堂十郎の死体から、出て来たと?」
貞宝は、三つの念珠を、両のてのひらにのせて、仔細に眺めた。
「どれも、半球で、十四個だ。滅多にこんな念珠はあるものじゃないな。念仏宗なら三十六個、禅宗なら十八個と相場がきまって居るんだが……」
と、呟いた。
月江は小さな胸の動悸が、はげしくなった。貞宝が、前のふたつの念珠をつまんで、ぴったりとあわせたからである。すなわち、長門の妻雪と、自分のが、合わせて完全な円珠になるのだ。
「するとだ、梅津さんが、死体からひろいなすったこれには、もうひとつの片われ念珠がある、という理屈になる」
貞宝は、きっぱりと断言した。
突き槍
陽が落ちて程なくの時刻だった。
宗十郎頭巾の梅津長門は、佐々道場の中にしのび入って書院の次の間の、|暗《くら》|闇《やみ》の中に|彳《たたず》んでいた。
書院では、右膳が、門弟数人を前にして、真剣勝負の場合の、心理、呼吸、気合、六感などについてきかせていた。
「……真剣の度数を、多く踏んで、充分に場馴れして居っても、やはり緊張で、顫えはくるものだ。最初は、対手の刀の長さも判らぬし、刀尖の間隔なども計れぬがそのうちにそれらが、見えてくるようになるが……それでも、顫えは起る。……真剣勝負というものは、平常の修業だけではどうもならぬものなのだ。斬る、|躱《よ》ける、払う、受ける――それらの一刹那の動作は、意志を働かしてやるのではない。相手がどう動くか、それをあらかじめ計って、おのれの意志と判断を働かせる、などということは出来るものではない。無念無想、柳生流でいう西江水の極意だ。西海の水の如く、止まらず、流れず、変化自在、目も見えないでもよい、耳も聞えないでもよい、白刃がおどった瞬間に、おのれの身が、動いているのだ、四肢が呼吸と一致する――その頂点で、気合が、ほとばしる。これだ」
根太い、圧するような口調だった。
長門は、耳をすませ乍ら、
――成程。実戦を経なければ出来ぬ講義だ。右膳め、幾人斬ったか……。
十五年前、本多正意の屋敷の庭で、竹刀をかまえて向いあった時のことが、ありありと脳裏に泛んで来た。
あの時は、たしかに、右膳の方が、技倆も上ならば、心中も冷静であった。自分の方は、どうでも勝って、上役どもの舌をまかせたいという邪念に、たけり立っていた。相打ちであったのが、不思議なくらいであった。審判は、こっちの小ざかしい闘志をしりぞけて、右膳の方へ軍配をあげたのであったろう。
しかし、今ならば――。
長門は、この剣客を敵としたことに、一種の壮快なよろこびさえ感じた。
この剣客は、人間としても、怪しい陰翳を持って、陰にまわってたくらむ性格の持主ときいている。倒せば風通しがよくなり、ほっとする人々も多くいる筈である。
――よかろう。やるさ、今夜にでも!
長門が、自分に言いきかせた折だった。
「先生、室戸殿が参って、至急に――と申されて居りますが」
という取次の声がした。
長門は、さっと緊張した。
右膳が、門弟たちにさがるように命じたことが、何かある、と長門には直感された。
藤馬は、入ってくると、すぐに、
「お詫びしなければなりません」
と、咳込むように言った。
「どうしたのだ? 臭いではないか、かえり血が――」
冷やかな、刺すような右膳の言葉だった。
「わかりますか?」
「わからんでどうする? 相手は、何者だ?」
「それが、皆目、見当もつかないのですから、余計に業腹なのです。……頭立った武士が一人だけ、拙者のあとを跟けて来て、別の町人らしい男をつかって梅津の女房を逃がしておいて、途中で、一味徒党が待ち伏せていたのです」
「梅津の女房を、奪われたのか、貴公――」
「そうです」
これをきいて、長門は、闇の中で、かっと瞠目すると危険を承知で、すっと襖へ身を寄せた。
「ふふふ、……室戸――貴公、要心深すぎて、かえって、トンビに油揚をさらわれたな」
「先生に、さっさと預ければよかったのです」
「後悔先にたたずだ。……で、どうした?」
「いずれも、覆面の武士どもでした。神田川へ猪牙を用意しておいて、それに乗って、逃げ去ったのです」
「貴公、指をくわえて、見送っただけなのか?」
「しかし、何分、相手の防禦ぶりは、水ももらさぬばかりだったので――」
「たわけ! 貴公、なんのために、やくざ共を飼っているのだ。なぜ、あとを追わせぬ?」
と、吐きすてつつ、右膳は、音もなくすっと立つと、藤馬に目くばせしておいて、|長《なげ》|押《し》の槍を、把ったとみるや、
「えい!」
と、すさまじい気合をほとばしらせて、襖へ突き入れたのであった。
たたかわざる者
――しまった!
右膳は、肚裏で、うなった。
たしかに、襖をへだてたそこに、はっきりと何者かが身を寄せている気配をさとって、突き入れたのだが……さっと身をかわされたのも直感出来たのであった。
余程の手練の者である。
もとより、右膳は、すぐに、槍を引いて、襖を蹴倒す手段をとろうとした。
が――槍は、ビクとも動かなかった。
千段巻のところを掴まれていたのである。右膳が、掴まれたことが感じられなかったのを、不覚ととがめるにはあたるまい。相手は、槍が引かれる刹那をはずさず、呼吸をあわせてぐいと掴んでみせたのだ。
「うぬっ!」
右膳の顔面は、朱が注がれた。引く力をこめたのではなく、からかわれたとさとって、烈しい恥辱をおぼえたのである。
同時に、右膳は身の危険を感じた。
相手は、片手で槍を掴んでおいて、片手で、襖ごと抜き打ちに出ないとも限らぬからである。
右膳は、槍をはなしてぱっとさがると、
「何者だ、貴様っ?」
と、怒号した。
その背後から藤馬が、彼もまた相手が並の者でないと読んでいて、右膳の刀を、その手へすばやくわたした。
相手は、返辞のかわりに、襖にささった槍を、すっと抜きとっていた。
「名乗れっ、うぬは――」
藤馬が、叫んだ。
相手は、沈黙をまもったままである。
右膳は、今日まで、この様に不気味な強敵に圧迫された経験がなかった。
――こういう強い奴が、まだいたのか!
腰に剣を帯すのは、武士の資格を示す一つの装飾となっている時代である。武士は、おのれが当然の任務たるべき攻伐戦争の事は、書に読み講談に聴くのみになって、現世で遭遇すべきものとは、信じなくなっている当節である。水野越前が、こうした時世にあって、にわかに武技の奨励をしたところで不可思議の感を与える現状なのである。こうした折、秀れた剣客が多く存在していようとは到底信じられないことなのである。
すくなくとも、右膳は、自分を驚かせる剣客を知らなかった。
それだけに、いま、槍を奪われた無念さよりも、おどろきの方が大きかった。
右膳が、もう一度、大声で、
「何者だ?」
と、叫んだ時、すこしずつ、襖がひらいた。約一寸あまりひらいたと思うや、そのあわいから、氷のような槍の穂先がのぞいた。
目をこらしてみたが、次の間の闇は深く、その立姿を認めることは出来難かった。
「先生、他の者を呼びますか」
藤馬が、小声で、訊いた。
「いや、待て――」
目に見えぬ敵を睨み据えつつ右膳は、油断なくその正面からじりじりと身を移していたが、一瞬、抜く手もみせず、刀をおどらせていた。
槍のけら首が、畳へ落ちた。左右の襖も、なかば切り裂かれて、折れた。
しかし、次の間の静けさは、変らなかった。
「しまった!」
右膳は、切歯すると、折れた襖を蹴倒した。
明りのさした部屋には人影はなく、槍は、行燈の上へ、そっとのせてあっただけである。
まことに、見事な逃走ぶりであった。
庭に面した雨戸が、一枚はずしてあった。
右膳が、そこへ走って、外へ、鋭い視線をはなつと、泉水のむこうにくろぐろと、ひとつの影がたっていた。
「卑怯者! 逃げるか――」
「おのぞみとあれば、たたかってもよいが……」
相手の声は、静かなものであった。
「名乗れ!」
「梅津長門」
「なにっ!」
右膳の全身を、稲妻のような戦慄が走った。
「いずれは勝負を決しなければならぬ宿縁のあるお互いだが……拙者自身も、貴公の講義をきいていたときまではその積りだったが……勝負は後日にゆずりたい。尤も――」
長門は、ちょっと口をとじて、門弟たちが、聞きつけて走ってくる音はしないか、と耳をすませ、その気配がないとたしかめると、言葉をつづけた。
「貴公の友人だか弟子だか知らぬが、うしろにいる室戸藤馬に、拙者の妻をかどわかすように、|使《し》|嗾《そう》したのが、貴公なら、勝負はただいまでもいいが――」
「拙者は知らんぞ! そんな卑劣な真似をする拙者ではないっ!」
「それならば、こちらから願って、後日にゆずって頂こう。いずれ、こちらから、使いをやって、日時場所を指定して頂くことにしよう」
右膳は、じりじりした。声をあげて、門弟を呼び、この強敵をのがさぬようにすることは、もち論、考えていた。しかし、なぜか、それは出来なかった。
相手の態度が、立派だったからである。毅然として、しかも、いささかも、殺気を感じさせない静けさをたもっているのだ。それは、おそろしい自信をもっている証左でもあった。右膳が、門弟たちを呼ぶことも計算に入れて、落着きはらって、口をきいているのである。
「拙者は、もしや、妻が、この屋敷内につれ込まれているのではないか、と疑ってしのび入ったのだが……どうやら、室戸から妻を奪った人間が何者か、見当がついたので、先ず、その男と勝負を片づけねばならんのだ。……うしろにいる室戸に言っておくが、貴様が、妻をかどわかしてくれたおかげで、貴様の兄を斬った借は返したぞ。こんどは、出会い次第、容赦なく斬る」
そう宣告しておいて、長門は、あらためて、
「いかがだ、佐々氏?」
と、返辞を促した。
「よし! 待ってやる」
右膳は、こたえた。
長門は、ゆっくりと、泉水に沿うてあるき出しながら、
「門弟の諸君が、勝手に襲ってくることはご自由だ。佐々氏からとめて頂かなくともよい。門弟の諸君は、拙者にうらみがある筈だから――」
と、言った。
長門は、いつの問にか、数人の黒い影が、音もなく、迫って来たのを直感していたのである。それは、室戸藤馬が、こっそり、書院を抜けて、座敷にいる連中に耳うちして、そうさせたのであった。だから、藤馬は、長門から、借を返したぞ、と宣言されたのをきいてはいなかった。
右膳は、凝然と彳んで、長門の去るのを見送っていたが……瞬間、息をのんだ。
闇の中に、刀身が閃いた。
次の刹那、泉水の中へ、斬りつけた者が、のけぞって水をはねあげていた。
長門の跳躍した姿が、ちらっとみえた。
「たわけ者どもが……梅津に勝てるか!」
右膳は、ひくく吐き出した。
狂い大名
雪がつれ込まれた屋敷は、松平|主殿《とのもの》|頭《かみ》の下屋敷であった。
松平主殿頭といえば、三河譜代の大名で、のち、肥前島原七万石を領した名門であった。
その夜――。
まだ二十代半ばにならぬ主殿頭忠正は、この下屋敷の広間でみだらな酒宴をひらいていた。
陽が落ちてすぐひらかれてもう二刻あまり、広間の空気は殺気だった興奮がみなぎっていた。
四人あまりの、十三、四歳の小姓たちが、十余人の女中たちに追いまわされて、衣服を剥がれようとしていたのである。女たちは、いずれも、酒に制御をうしなって、嬌声と媚体を渦巻かせて、サディズムにわれを忘れていた。髪をふりみだし性的興奮と酒で、濃化粧の頬を染めながら、小姓たちに殺到する女たち、衣服をはがれまいと、必死に抵抗し、もがく可憐な面立の少年たち。
この光景を、主殿頭忠正は、異常に据った眼眸で眺めていた。たしかに、その目の色は酒乱の狂気をしめしていた。脇息にかけた右手の指は、絶えず、こまかく顫えている。
大名という特異な環境の中に、幾代か継がれた血が、時として、ある種のおそろしい精神的畸型児を作る例は珍しくない。忠正も、その一人だった。その残忍な放蕩は、少年の頃よりはじめられていた。
放恣、暴慢、冷酷、狂乱――そうした形容がことごとくあてはまる行状を、忠正は十年間つづけていた。
「いずれ、殿は、懐妊した女の腹を裂くだろう。そして名門も遠くない将来、取潰しになるだろう」
と、家臣のうちで噂されていた。
忠正は、一人の小姓が、無我夢中で反撃に出て、女の裾をひきめくって、その大股へ噛みつくさまに、にやりとした。
噛みつかれた女は、きゃっと悲鳴をあげて、小姓の頭髪をひっつかんだ。
そのわきでは、一番年少の小姓が、紫の振袖の片方をひきちぎられて、三、四人の女に押し伏せられ、たすけてくれと泣いていた。だが、女たちは、容赦せずに、袴をぬがし、帯を解こうとしていた。
これは、もう享楽ではなかった。けだものの闘争であった。
「ふふん……男と女というやつは、永遠に、こういう具合に、争うのじゃ。……どうじゃ?」
忠正は、脇の愛妾をふりかえって、微笑した。
愛妾は、迂闊に、なさけなさそうな微笑をかえした。
それが忠正のカンにさわった。
「なんだ、貴様――余をさげすんでおるのか!」
「い、いえ――」
愛妾は、はっと気がついて、顔色を変えた。
忠正は、すっくと立った。
「やめい! やめい!」
|甲《かん》|高《だか》い命令に、広間は、ぴたっとしずまった。
「余が手本をみせてやる」
そう言ってから、忠正は、じろりと愛妾を見下した。
「千代、出い!」
「お、おゆるしを――」
目も唇も手もふるわせて、愛妾は、忠正にすがろうとした。
忠正は、その手を、むずとつかむと、ずるずると、ひきずった。
「おゆるしを――と、とのさまっ!」
「喚くなっ!」
眉もまなじりもひきつらせた忠正の形相は悪霊にでもとり憑かれたような、凄まじさであった。まわりの者たちは、ただ、固唾をのんで見まもるばかりでとどめようとしなかった。忠正がおそろしかっただけではなく、寵を一身にあつめていた愛妾もまた、忠正の残忍な仕打からまぬがれる例外ではないことに対して、一種の快感をおぼえていたのである。日をもって夜に継ぐむざんな享楽の連続は人々の神経を、たしかに異常に歪めてしまっていた。
忠正は、愛妾を中央へひきずり出すと、金糸銀糸の惣縫模様のけんらんたる縮緬の掻取をうばいとって、びろうどの紋を浮かせた金華山の帯へ手をかけた。
「あっ、ああっ……」
愛妾は、解かれまいと、からだを海老のように曲げて抵抗した。が、それは、いたずらに、狂乱の忠正の残酷性へ油をそそぐに役立っただけであった。
忠正は、片足で、愛妾の頸を押えつけて、やの字結びを、ぐいぐいほどこうとした。しかし、それが面倒だとさとるや、いきなり、脇差をひきぬいて、すぱっと切りはなしてしまった。
「もがくなっ! もがくと、これで、下腹を裂くぞ!」
白刃の光に射られて愛妾は、ぐったりとなって、あとはもう、されるがままになった。
菊牡丹の|綸《りん》|子《ず》の|間《あい》|着《ぎ》が、めくりとられると、ぱっと燃えるような緋縮緬の襦袢が浮き立った。
忠正が、その襦袢の襟を掴んで、どこかをひき裂く鋭い音をたてつつ、はぎとろうとすると、流石に、これ以上の侮辱に堪えなくなったか、愛妾は、本能的に、両手をばたつかせると、忠正をふりはらって、立ち上った。
「こやつ、逃げるか――」
忠正は足をあげて、力まかせに、愛妾の腰を蹴った。
よろめいて、前へのめるのへ、どっと馬乗りになった忠正は、襦袢の裾と白羽二重の腰巻をわし掴みにして、ぱっとたくしあげた。
ふくらはぎから、ふと腿、そしてむきたての卵のような臀部まで、ゆたかな純白の曲線が、揺ぐ灯の焔をうけて、むき出された。
「はっはっはっ、どうじゃ、どうじゃ! つきたてのこの餅をくらう者はいないか。小姓っ――三之助、この餅をくらえっ!」
忠正は、その臀部をたたいてみせた。
宇治の間
忠正が、それ以上の虐待を止めて、よろよろと立ち上ったのは、愛妾が不意に、|慟《どう》|哭《こく》したからであった。
流石に、あまりの悲痛なその声に、気勢を殺がれて、忠正は、不快そうに、
「つれて行け」
と、女中たちに、愛妾を顎でしめした。
金網燈籠のぼんやりと明るい長廊下を、ふらふらと辿って、奥の一室に入った忠正は、そこに端座している男をみとめて、
「なんだ、お前か――いつ、舞い戻った!」
と、尋ねた。
それは、加平であった。
「ご機嫌よろしく――御無沙汰申上げました」
加平は、丁重に、両手を畳について、頭を下げた。しかし、家臣の平伏とはどことなくちがった威厳をもった挨拶ぶりだった。
「どうしたのだ、そのほうたいは? お前ともあろう者が、何者に斬られた?」
忠正の口吻は、長年の知己に対する親しさがこもっていた。
だが、加平は、それにこたえず、ぼそりと、
「ご乱行が過ぎまするな」
と、言った。かなり皮肉な調子だった。
「面白うないのだ。なにをやっても面白くない。お前のように、陰身になって、自由に生きている奴がうらやましいぞ」
苛立たしげな青筋が、こめかみに浮いているのを、加平の片目は冷やかに眺めた。
「ご自分のしたい放題のことが出来るご身分だから、何事も面白くないのでございましょう。ぜいたく過ぎるわがままというものです」
「では、お前は、どうだというのだ? わしがうらやましいのか? 陰身になったことが、くやしいのか?」
「別に――今では、気楽に思って居りますよ。この屋敷の片隅をお借りして、私は私で、勝手に、したいことをさせて貰って居りますからな」
かすかな笑い声をたてる加平へ、忠正は、不機嫌な視線をくれて、話題を変えた。
「おい、お前が世話していた娘は、まだ、わしにくれられぬのか? なんと申したかな」
「月江でございますか」
「そうだ、あの娘だ」
「すてて参りました」
加平は、こともなげに言いすてた。
「すてて参ったと――莫迦な!」
「いや、つれて参るのは、別になんでもありませぬが、あの娘だけは、私は、そっとしておいてやりたいと存じましてな。鬼の目にも泪、と申すものでしょうか……すてておいても、一人で生きて行けるように躾けておいてあります」
「わしは、幾度も、あの娘をくれと、たのんだ筈だぞ」
忠正の双眼が、狂暴な光をはなった。が、加平は、あくまで、冷やかだった。
「あれは、殿にさし上げる娘ではありませぬ」
「それ程大切な娘なら、なぜすてた?」
「すてたと申すのは、語弊がありますな。目に見えぬところから監視して居りますよ」
「もう、よいわ。……それにしても、お前は、なぜ、あの屋敷をすてて、その様な町人姿になって居るのだ」
「私の本意ではありませぬ。小うるさい奴らが、敵にまわりましたので――」
「お前から、しかけたのではないのか?」
「勿論――私が、なんで好んで、平地に波瀾を起しますものか」
「敵にまわったのは、何奴だ?」
「素浪人どもでございますが……双方とも腕が立ちます」
「双方? 一人ではないのか?」
「二組居ります」
「わしの家来をつかったらどうだ」
「はゝゝゝ――」
加平は、笑った。
「殿のご家来に、一人でも、腕が立つのが居りますか」
あざけられて、忠正は、歯をかみしめた。この暴慢な大名が、加平ごとき者にあざけられて、なぜ言葉が返せないのであろう。
忠正にとって、唯一の苦手が、この加平のようであった。
「飲むか――」
忠正は、壁のように泰然とした相手から受ける圧迫感にやりきれなくなって、また酒をもとめた。
几上の鈴が鳴らされると、すぐに女中が来た。
「私は、お茶を――。その方が、この部屋にふさわしいようですから」
と、加平は、言った。
この部屋は、そういえば、江戸城の宇治の間に、そっくり模して造られていた。|格天井《ごうてんじょう》も襖も張付も、みな、宇治の茶摘の画であった。江戸城の宇治の間は、柳沢騒動の時将軍が急逝したというつたえがあって、御台所の御座所であったのを、その事があって以来、不用にされ、閉じられたなりになっていた。そのために、この間にまつわる怪談が、いくつか出来ているという――。
「この男には、汁粉でも持って来てやれ」
忠正は、いまいましげに、女中に命じた。
女中が去ると、加平は、一種の感激をこめて、妙なことを言った。
「左様、御本丸で、御鏡開き(正月十一日)にお汁粉を頂戴したこともありましたな。御対面所にずらりと並んで、お汁粉を頂戴する諸大名を、ものかげから眺めて――今年は、どの大名を取潰してやろうか、とこんたんをめぐらせるのは、悪くない気分だったといえまするな。……お汁粉を|還城楽《げんじょうらく》のたもとかな、と、具足開きの吉日をうきうきと帰って行く大名どもが、阿呆に見えたのもいまとなっては、なつかしい思い出でございますて」
「お前は、心底からの悪党だの――」
忠正は、舌うちして、顔をそむけた。
庄吉立つ
――どうすりゃいいんだ? こうやって、ただ、待っていたって、どうにもなりゃしねえ! 畜生! この傷口さえふさいでくれりゃ……。
庄吉は、仰臥して、天井を睨みあげ乍ら、じりじりと胸裏を焼こがす焦燥感に堪えがたくなっていた。
何か事が起れば、一刻もじっとして居れずに、決意を直ちに行動に移す性格であった。生命を賭さねばならぬことならば、かえって、ふるい立って体当りする度胸を、ひそかに自負している男なのである。
ましてや、梅津長門夫妻の為ならば、十中八九、死に見舞われるとわかっていても、聊かも躊躇せずに、そのことにあたるであろう庄吉だった。
それが――動けぬのだ。
庄吉は、あの美しいお雪さまが、無頼の浪人に捕われて、どんなにむごい目に遭っているか、と想像すると、想像しただけで、気が狂いそうになった。
――旦那お一人じゃ、とても、敵の|在《あり》|処《か》をつきとめることは、無理なんだ。おれとか三次とかが手足になって、飛びまわって、つきとめなけりゃ……相手が、ごろん棒野郎なら余計そうなんだ。……ええ、くそっ、どうすりゃいいんだ!
庄吉が、疼痛を|怺《こら》えて、床の上へ起き上った時であった。
格子戸が開いた。
「ごめんなさい」
と、案内を乞う声を、庄吉は、経験から、かたぎのものでないとききわけた。
あいにく、月江は、使いに出て、留守だった。
「おい――だれだ?」
「へい。あっしゃ、堀留に住んで居りやす修吉って、三次兄貴に以前、面倒を見ていただいたことのある――」
「おい、上れ。上ってこい! おめえ、三次にたのまれたのか?」
庄吉は、われを忘れて、叫んだ。
「へい。三次兄貴に、今朝がた――」
「上ってこいというんだ。おれは、庄吉だ」
襖をあけて、顔をのぞけたのは、二十一、二の若者だった。
「はじめてお目にかかりやす。あっしは――」
「修吉という名は、いまきいた、そんなことはどうでもいいや。……おい、おめえ、三次から、なんて、たのまれた?」
「梅津長門という旦那に、お雪さまは、三ツ俣の松平主殿頭の下屋敷にとじこめられていなさる、とつたえて欲しいって――」
「なに、なんだ! お雪さまは、大名屋敷につれ込まれなすったのか?」
庄吉は、痩せてひとまわり大きくなった双眼をかっとむいた。
「なんでも、三次兄貴は、いったんは、お雪さまを、かどわかした浪人者の手からお救いしたんだそうでござんすが、不意に、覆面のさむれえたちが、あらわれて、二人をだまして、舟にのせ、三ツ俣へくると――」
「よし、わかった。三次は、途中で逃げたんだな。あの野郎、お雪さまを見すてておきゃがって、てめえ一人逃げ出しゃがるなんて――それがはずかしくて、ここへ戻って来られねえから、おめえに使いをたのんだんだな」
「いえ、そ、そうじゃねえんで――。三次兄貴は、今日でも、そのお屋敷へしのび込もうとたくらんでいるらしゅうござんす」
「頓馬め、あの野郎一人で、忍び込んでみやがれ、お雪さまを助けるどころか、てめえの生命がおさらばにならア。どこまで間抜けたオッチョコチョイ野郎に出来上ってやがる!」
蒼白な顔面に、不安と焦燥の色をあおらせ乍ら、庄吉は、よろよろと立ち上った。はだけた胸の晒布には、血が滲んでいて、その姿を悽惨なものにしていた。
修吉は、庄吉が、着換えはじめるのを眺めて、おどろいて、
「兄貴、そ、そのからだじゃ、とても、外へ行きなさるのは無理じゃござんせんか」
と、とめようとした。
「べらぼうめ、こんな吹けば飛ぶような生命のひとつやふたつどうなったって――。それより、おい、こっち隣りの女髪結を、呼んで来てくれ」
「へ、へい――」
お仙が、かけつけて来た時、庄吉は、すでに、玄関の上り|框《がまち》に、腰かけて、待っていた。
「庄さん、おまえ――いったい、どこへお行きなんだい?」
「大名屋敷へなぐり込みの一席を、あとで、たっぷりきかせてやらア」
「冗談じゃないよ、おまえ、そんなからだで、ものの一町もあるいたら、ぶっ倒れてしまうじゃないか。どんな大事が起ったか知らないが、およしよ。わるいことはいわないよ」
「お仙さん、おらア、おめえにとめてもらいたくて呼んだんじゃねえんだ。おめえに、ひとっ走り、立花亭へ行ってもらいてえんだ。貞宝師匠に、つたえてもらいてえのは――おい、修吉、口上をきかせろ」
「へい――」
修吉が、庄吉に告げたのと同じ伝言を、くりかえすや、お仙も、さっと顔をひきしめた。
お仙は、いつか、貞宝から、
「日本一の美人を、拝ませてやるから、ついて来い」
とさそわれて、長門の屋敷へ行き、雪の髪を結ったことがあるのだ。
「お仙さん、たのむぜ!」
「庄さん、引受けた。……おまえが、そのからだで飛び出して行こうとするのが、よくわかったよ。梅津さまの奥さまをたすけようというのなら、あたしゃ、止めやしないよ。行っといで――」
「江戸っ子だ、のみ込みが早えや……おい、修吉、駕籠を二梃呼んでくれ」
「承知しやした」
修吉が、かけ出して行くと、お仙は、庄吉をまっすぐに見据えて、
「遺言はいらないのかい――」
と、尋ねた。
「ふざけるな、なにもくたばるときまっちゃいねえや」
庄吉は、手をふった。しかし、その表情は、ふと曇った。
「成程ね、おまえのような佳い男は、滅多に生れて来やしないんだから……女房を持たせないで殺すのは惜しいやね。……おまえは、生きて戻ったら、どっちをえらぶおつもりだい?」
「どっちたアなんだ?」
「加津美さんか、月江さんか――」
「そ、そんなことは、まだ、考えちゃいねえや」
「あたしゃ、おまえが惚れてるのは月江さんだとにらんでるけど……女房にするのは、加津美さんにしておやりよ。分相応ってことがあるからね。もし、おまえが、旗本の次男坊か何かだったら、それこそ、月江さんと似合いの一対だろうけれどね、巾着切にはやっぱり浮川竹の――」
「つべこべとうるせえ婆アだ。それどころじゃねえや。おめえも、遺言はいらねえか、と訊いたばかりじゃねえか。死出の旅路に、女房をどっちにしようか、ときめておく頓馬があるか」
「それ、ごらん、おまえは、死ぬ覚悟だよ」
「死ぬ覚悟が出来ているから、生きて戻って見せてやるんだ。そこの理屈がわからねえたア、髪結お仙も、焼きが回ったぜ」
駕籠が来た。
庄吉は、からだの弱りをお仙にみせまいと、すっくと立って、すたすたと駕籠へ寄ると、
「おう、神田川の和泉橋を渡って、まっすぐに柳原をつッ走って、岩井町から馬喰町を抜けて、三ツ俣まで韋駄天でやってくれ。うしろの駕籠は、両国行きだ。そっちも、婆さんが目をまわす程飛ばしてくれ」
流れる水
いずれ柳橋あたりの料亭からこぎ出したとおぼしき贅沢な屋根つきの釣舟が、ゆっくりと、新大橋をくぐって、三ツ俣へ行った。
乗っているのは、須貝嘉兵衛とひょっとこ三次であった。
どちらも、釣竿と|魚籃《び く》をかたえにしているのだが、もち論、釣を愉しむ面持ではない。
「旦那――」
船頭が声をかけた。
「箱崎に入ったって、きす[#「きす」に傍点]もかいず[#「かいず」に傍点]も居りやせんぜ」
「そこの掘割の入口へつけろ」
嘉兵衛は、盃を口へはこび乍ら、命じた。
「そのあたりじゃ、せいぜい、たなご[#「たなご」に傍点]でござんすが……海へ出ると仰言るんで、竿の太いのしか持って来ませんでしたがね」
「かまわん」
嘉兵衛は、かたえの竿へ、一瞥をくれた。凝った竿である。みがきぬいた斑竹を根元に、穂先には鯨のひげをつけてある。金具は、刀の小柄の繊巧なものと同様、金、銀、|烏《う》|胴《どう》という豪奢なものである。
――くだらぬ贅沢だ。飢え死ぬ百姓や、妻の髪を売る御家人どもを尻目にかけて、町人どもは、たかが釣にさえも、こんな莫迦金をかける。水野の必死のあがきくらいで、もう時世は、大名武士の支配へ戻っては来ぬだろう。
そんな感慨が、嘉兵衛の胸中に湧いていた。
「来やしたぜ、旦那」
三次が、目を光らせて、そっと、障子戸を一寸ばかり開いて、外をのぞいた。この屋根舟をえらんだのは、障子戸をたてきって、こちらの姿を、かくす為であった。
「船頭、橋をくぐってくれ」
と嘉兵衛に命じられて、船頭は、妙な釣客もあるものだ、と不審に思いつつも、黙って、舳先をまわした。
「むこう岸の石崖に沿うて行ってくれ」
そびえたつ広壮な松平邸の石崖へ、舟は、すうっと寄って行った。石崖の長さは、一町余もあろうか――。
「三次、竿を出しておけ」
「合点」
二本の糸が、反対側の障子戸の隙間から水面へ垂らされた。
こちら側の隙間からは、嘉兵衛が、眼光鋭く、移り行く石崖の、水面と接する個所を見まもっていたが、
「よし、ここで――」
と、停止させた。
――このあたりだったっけ。
三次も、そっと覗き見て、胸のうちで呟いた。
嘉兵衛の視線は、水面から動かなかった。
小魚がいっぴき、非常なす早さで走ったきり、なんの変化もない、秋の青空と白雲を映しているおだやかな水面だった。
「おい――」
不意に、どこからか、声がした。
「へ――」
と、返辞したのは、煙管をくわえてしゃがみ込んでいた船頭である。
「そこで、釣をしてはならん。第一そんなところに、魚はおらんぞ」
「ご尤もさまで――」
「行け」
「へいへい……。旦那、おききになったように、こちらのお屋敷から、そう仰言って居りますんで――」
船頭が、言って、櫓をとった時、嘉兵衛は、何を発見したか、にやりとした。
三次の方は、目をあげて、声がどこからしたかさぐっていたが、
「畜生め、あの塀の、あんなところに、覗き窓をつくってやがる。|無《む》|双《そう》だから、閉めりゃわからねえや」
と、小声で吐き出した。
前夜、その塀を乗り越えようとして、たちまち発見されたのも、無双窓のところに、監視の人間が、終夜詰めているからなのであった。舟が、大川へ出ると、嘉兵衛は、ふたたび、酒を飲みはじめた。
「旦那、カラクリがわかりやしたか?」
三次が、期待でおもてをかがやかせ乍ら、尋ねると、嘉兵衛は、先ず、別のことを口にした。
「松平主殿頭は、肥前島原だったな。……つまり、密貿易をさかんにやったに相違ない。この江戸の下屋敷に、抜荷舟を入れる秘密の水門がつくられてあっても、不思議はないわけだ」
「旦那、じゃ、あそこの石垣の下に、水門があるんでござんすかい?」
「ある」
「どうしてわかりやす?」
「ちょっと見ただけではわからぬが、汐が満ちているので石垣の内側へ、水が流れ入っているのを見とどけた」
「そうですかい。じゃ、あそこの石垣は、開いたり閉ったりする仕掛になって居りやすね?」
「その通り――」
「やっつけやしょうか?」
「お前は、水練は達者か?」
「河童でさ」
三次は、自信ありげに微笑してみせたが、すぐ、嘉兵衛の、だらりと垂れた片袖に気がついて、
――いけねえや。この片端じゃ、水にもぐれねえ。ああ庄吉兄貴が丈夫でいてくれたらなア。
と、ひそかに嘆息した。
「旦那、あっしは、やっぱり、梅津さまのおいでを待った方がいいと存じます。あっしが出した使いが、もう今頃は梅津さまを案内しようとしているに相違ござんせん」
不用意に洩らした言葉が、嘉兵衛の顔色を急に険しいものにした。
「お前、梅津に知らせたのか?」
「へい、今朝がた上った舟宿の女中に頼んで、あっしの懇意にしている若い者を、走らせやした」
嘉兵衛は、荒げようとした声を、ぐっと呑んだ。三次にすれば、当然なすべきことをしたにすぎないのだ。慍る方が筋がちがっている。
しかし、嘉兵衛は、虚心に、梅津の味方に立っているわけではない。雪に対する愛情は変らぬものであっても、梅津の妻としての彼女を、救い出して、そのまま良人のもとへ送りとどけてやるかどうか、その時になってみなければ、自分の心がはかりがたいのであった。
たとえそうするとしても、嘉兵衛は、このことにあたって、長門と顔を合せたくはなかった。また長門の方としても、嘉兵衛の協力を、快く受けるかどうか。宿敵の意識を払いすてるには、お互いの過去の運命は、あまりに幾重にも、相争う条件をそなえすぎていたのである。
嘉兵衛は、自分の力で、雪をすくいたかった。雪の感謝を受けてみたかった。他人のはかり知れぬ異質の憧憬と愛情を抱いている嘉兵衛の、これは無垢のエゴイズムであったろう。
「おれは、梅津を待たぬ。お前が、ひと先ず、もぐって、さぐってくれ、場合によっては、おれも、もぐる」
嘉兵衛は、強い口調で言った。
――どうも変てこりんなことになりゃがった。梅津さまを憎んでいる浪人者に助勢をたのんでいるなんて。――庄吉兄貴にでもきかれたら、目から火が出る程はりとばされるぜ。
三次は、当惑げに、きょろりと嘉兵衛を見やって、顎をなでまわした。
自分の力
松島町で、駕籠をすてた庄吉は、ひっそりとした|蠣《かき》|殻《がら》町の大通りへ入って行った。
左右いずれも白壁の塀をめぐらし、長屋門をどっしりとかまえ、門梁に紋どころをうった国持大名の屋敷がつづいていた。それぞれ、潜門の脇に番所も設けてある。
通りに、殆ど人影はない。大きな乳鋲を打った門扉だけが、あかるい陽ざしの中に傲然と胸をはって、町人などの通行はゆるさぬといったいかめしさをみせているだけだった。
松葉一本もなく、掃き目の美しい朝夕の掃除の行きとどいた、こうした大名屋敷町に入るたびに、庄吉は、
――こん畜生っ! と、むらむらっと強い反感が湧くのだった。
――このごうせいな屋敷の中で、どんなことがおこなわれているか、おれア先刻御承知なんだぜ。
と、せせら笑いたくなる庄吉だった。
曾て、井伊邸の広壮な上屋敷に忍び入った時、庄吉は、天井裏から目撃したのである。虫も殺さぬ美しい顔立の小姓が、そっと忍び入って、文筺の中から、幾枚かの小判をぬきとるのを。そして、それを発見した五十年配の老女が、その弱味につけ込んで、小姓を抱きすくめて、唇をうばうのを。
――小姓は盗っ人で、奥女中が色きちがい婆アときやがる。大名屋敷も、本所割下水の長屋も、ちっともちがってやしねえや。
と、声のない嘲罵をなげつけたものだったが……。
その記憶が、こうした通りを歩むたびに、庄吉の脳裏に甦るのだった。
だが、今日は――。
流石の庄吉も、鼠小僧張りに、手頃の屋敷を物色する時の余裕など、微塵もあり得なかった。胸の疼きは激しくなっていたし、体力の衰弱は、絶えまない軽い|眩暈《めまい》となってあらわれていた。ただ、お雪さまをすくい出さなければならぬ、という燃えるような決意が、庄吉をして、外目には、ただのんびりとした通行人にみせかける努力を生ませていた。
若さと度胸であった。こうした時にこそ、自分の力ひとつで生きて来なければならなかった庄吉の、野性児としての若さと度胸が、ものをいうのであった。
いったん、河岸ぶちへ出た庄吉は、ぐるりとまわって、ついに、松平邸の前へ出た。
――ここか!
いちだんと立派な構えであった。
堂々たる三間梁の長屋。永年洗い出されて、渦巻く木目を浮かせた門扉。数町もつづくかと思われる海鼠壁の塀の上に、中天たかくそびえた欅、杉、椎など。
――この中に、お雪さまは、とじこめられていなさる!
庄吉は、井伊家からその人をすくい出した時のことを思い出した。
――おれア、そういう役目に生れついているんだ。やるぜ! と、自分に言いきかせた。
潜門から、一人の武士が、出て来て、じろっと、うさん臭げに、そこに彳む庄吉へ一瞥をくれて歩いて行った。
その武士も、敵に見えた。
庄吉は、俯向いて、ゆっくりと足をはこび乍ら、敏捷を欠いたいまの自分の四肢を、どう働かせてこの高塀を越えさせようかと思案した。
――やらなけりゃならねえんだ!
自分がやらなければ、誰がやるというのだ。梅津の旦那は、お仙から報せをうけたとしても、単身、この屋敷に乗り込む無謀はとらないだろう、と庄吉は、考えていた。
――おれが失敗して、殺されたら、その後は、梅津の旦那に、やってもらうよりほかはねえんだ! そういうことなんだ!
もう一度、庄吉は自分に、きっぱりと言いきかせた。
水の底
今夜も暗い。
難波橋ぎわにもやってある一艘の猪牙の上で、煙管をくわえた須貝嘉兵衛は、先刻から、ずうっとおし黙ったきりであった。けむりを吸い込むたびに、ほたる火のように、雁首がぽうっぽうっと赤く浮きあがって、その凄愴な顔の輪郭をみせる。
三次は、艫にうずくまっていた。
これから松平邸へ忍び込もうというのである。嘉兵衛は、秘密の水門のカラクリを見破って、その水底を、三次にくぐらせようと計画をたてたのである。はたして成功するかどうか、それは、嘉兵衛も甚だ心細い。三次がうまく忍び入ることが出来たとしても、雪をとじこめてある場所から、すくい出せるかどうか。すくい出せたとしても、発見されずに水門までみちびくことが出来るかどうか。雪を猪牙に乗せることは、十に一の可能性しかないと、嘉兵衛自身、考えているのである。
にも拘らず、やってのけようとするのは、久しぶりに、――まったく久しぶりに、嘉兵衛はおのれのなすべき生甲斐を見出したからである。
――死場所としても悪くはない。第一、おれが、あの雪姫のために生命をなげ出すのになんの不思議はない。
と、自身に納得させたのである。
「行こうか」
煙管の火を水に落して嘉兵衛は静かに言った。
「へい」
三次は立って、櫓をにぎった。もう四つであろうか。掘割に、舟の往来も絶え右手の難波町の町家の明りも消えて、ふかい静寂が、|靄《もや》とともに、猪牙をつつんでいた。
三次は、音をたてずに、巧みに漕いだ。猪牙は、暗い水面をなめらかにすべって、下流へ下って行った。
すぐに、左右とも大名屋敷の高塀になり、星空がさえぎられて、いっそう暗くなる。
やがて、
「よし――」
と、嘉兵衛がひくく声をかけた。
猪牙は、石崖とは反対側の河岸へ、ぴたりと吸いつくようにとまった。
「三次、気をつけてもぐれ。水底には、たぶん鳴子か網かを張ってあるぞ」
「へい、充分気をつけやす。敵にぬかりがなけりゃ、かえってその方が、こっちのもぐりは安全でさ」
三次は、くるりと着物を脱ぎすてると、そっと舷側を越えて、かすかな音をのこして、身を沈めて行った。
嘉兵衛は、眸子を凝らしてすうっすうっと向うの石崖めざして泳いで行く黒い首を見送っていたが、それは川の中程で闇に呑まれてしまった。
――おれに片腕があれば、あの男一人にまかせてはおかぬのだが……。
嘉兵衛は、自分がもぐって、忍び入り、雪の前へ出現したかった。そうすれば、たとえ発見されても、自分の捨身の剣で防げば、雪をのがす自信は充分ある。猪牙でこうして待っているのは、三次であるべきなのだ。
――役割が逆だ。
そうしなければならなくしたのは、自分を片端にした梅津長門ではないか。たすけようとしている女の亭主ではないか。
運命の皮肉に、嘉兵衛は、暗闇の中で、ひとり佗しい自嘲を、|殺《そ》げた頬に刷いた。
程なく、嘉兵衛の視野の中に、水面へ、黒い首がうかびあがった。そしてゆっくりとこちらへ近づいて来た。
「どうした?」
泳ぎついて舷側へ片手をかけた三次へ、嘉兵衛は、のぞき込んで尋ねた。
「いけませんや、旦那。水底はちょうど人間一人が立つぐらい空いて居りやすがね、仰言る通り、太い綱が幾本も張ってありまさ」
「ふむ。ひっかかったなら、内部で、鳴子が鳴る仕掛だな」
「まったく要心がいいや」
「それも、お前が、あの高塀をのりこえようとして発見されたせいだぜ。お前の|報《しら》せで、梅津がきっと水門をくぐってくるだろう、と敵は考えてやったのだろう」
「だがね、旦那。あっしは、なんとかしてくぐってみますぜ。しかし旦那は、無理ですぜ」
三次の偵察によって、嘉兵衛もくぐれそうならば、やってのける肚であったのだ。
「あきらめなすって、石崖の外で待っていて頂くことにいたしやしょう」
「やむを得ん。では、内側へくぐりぬけたら、先ずふさいだ石を開く仕掛をたしかめろ。いいか。……それから女をたすけ出したら、石を開け。お前の役目は石を開くまでだ。それまでやってくれたら、たとえ屋敷中の奴等が殺到して来ても、おれが、一人で引受けて、ぶじに逃がしてみせる」
やがて――。
猪牙が、石垣へすべりよせられた。
「じゃ、旦那、行きやすぜ」
「用心しろ」
ふたたび水に入った三次は、大きく息を吸い込んで、沈んで行った。
忍ぶ黒影
その頃合、庄吉は、松平邸の、とある渡廊下の下に潜んでいた。
頭上の広間では、先程まで、男女のすさまじい興奮の叫喚が、間断なくあがっていた。
もし庄吉が、常のからだならば、悠々と天井裏に忍んで、そのあさましい光景を見下したに相違ない。床下できいていると、広間では、殿様の命令によって、幾組かの男女が素裸にちかい格好で組み合っている様子だったのである。
――畜生っ! この大名も、色気ちがい野郎なんだな!
むかむかした庄吉は、同時に、ひとつの戦慄をおぼえないわけにはいかなかった。雪さまをさらったのは、その色気ちがいの馬鹿殿様の命令に相違ない、と想像したからである。
頭上の叫喚がやむと、すぐに、灯は消され、人々はしりぞいて行った。
明りをうけていた樹も芝生も庭石も、暗黒の中へ融けた。
庄吉は、猫のように、音を消して床下へ這入った。いつもの庄吉ならば、音を消すことは、さして困難ではないのである。訓練によって、三分以上も呼吸をとめることも出来たし、数刻も、身動きもせずに立っていられた。忍耐は異常に強い男である。無我無心になりきることが可能だった。
しかし、今は、庄吉にとって音を消すことは、おそろしい苦しみだった。胸の疼痛は堪えがたい程であったし四肢の神経を、ひとつに集中せしめる力に乏しかった。人間はほんのすこしでも、からだに故障があると、いかに訓練を積んでいても、同じ状態を半刻もつづけることは無理である。
こうした場合は、それでなくとも、人並すぐれた精神力と肉体の所有者でなければ、一瞬の油断もなく緊張しつづけることは到底不可能の業である。
庄吉が、傷ついた身で、よく二刻以上も、音を消して忍びの姿勢に堪えたのは、まさに超人的といわなければならなかったろう。
しかも、この一瞬の油断もない緊張は、お雪さまをすくい出すまでつづけなければならないのである。
ついに庄吉は、床下をつき切った。
別の庭が、星あかりの下で、芝生のひろがりをみせていた。
庄吉は、縁の下から這い出して、芝生の上へ、二間あまりすべるように出てから、ずうっと見まわした。
大名屋敷の構造というものは、ほぼきまっているものである。庄吉の経験が、こういう時には、役立つのである。
とはいうものの、床下へ潜るのと、天井裏に忍ぶのとでは、行動範囲に雲泥の差がある。たとい目的の部屋をさぐりあてたとしても、床下から床板を破り、畳をはねのけて入ることは非常に困難事である。
――こうなりゃ、仕様がねえ、女中を一匹ねじ伏せて白状させるよりほかはねえ。
そう決意した庄吉は、なお、しばらく、芝生にうずくまって動かずにいた。
そのうち――。
渡廊下に、煙のように黒い影が彳むのを庄吉は見た。
――しめた、女中だ! あいつを……。
庄吉は不敵にも身を起すと、二、三歩ふみ出した。
途端に――庄吉の六、七間右方を、ひとつの黒影がつつっと掠めた。
跫音をたてないその素早い動きに、庄吉は、ぎくっとなって立木と化した。
その黒影もまた、庄吉以上の忍びの術を習得しているところをみると、この屋敷に住む者ではないに相違ない。すくなくとも、見回の武士ではない筈である。
黒影は、渡廊下に彳む女中へ近よった。
……あいつら、しめし合せて会ってやがるんだな。
庄吉は、つと身を伏せると、うごくが如く、止まるが如く、音を消し、呼吸をひそめて、すうっと縁の下へ入ると、そろそろと這って二人の方へせまって行った。
二人は、声をひそめて、囁き交していた。
「……酒乱と女色だけでは、断罪理由として軽すぎる」
そう言ったのは、男の方であった。
「けれども、密貿易の証拠は、いまだに――」
とこたえたのは、女中の方であった。
庄吉には、会話の異常さは感じられたが、内容を理解するまでにはいかなかった。
この男女こそ、公儀隠密であった。
すでに、幕府大目付においては、松平主殿頭を、軽くて隠居にするか、重くて|永《なが》|蟄《ちっ》|居《きょ》にするか、と審議をすすめている。もし、密貿易のことが発覚すれば、当然、改易である。
はなたれた隠密は、より明白な罪状を挙げたい功名心から密貿易の証拠を掴もうとあせっているのであった。
「なんとかして、証拠をつかむ方法はないか?」
「あの……このお屋敷に、地下室があるのを、貴方さまは、ごぞんじでしょうか?」
「知らぬ。それは、迂闊であった。そなたは見たのか」
「いえ、まだ見たことはありませぬが……たしかに、ございます……」
「うむ、すると、掘割に通じて居るな。水門がつくってあるに相違ない。舟が自由に屋敷内に出入出来るようになって居るに相違ない。それは、しめた。そういう地下室は、届け出されて居らん。……で、地下室に出入いたして居る者は?」
「つきとめたわけではありませぬが……町人姿の、かなり年配の男が一人居るとか……ほかには、屋敷の人々のうちにはべつにいない模様でございますが……。地下室には七、八人、いえ、それ以上の浪人者たちが住んでいるのではないか、と想像されるふしがございます」
「町人姿の男? 何奴だろう? ……拙者がつきとめよう」
その一瞬
ようし! こいつら、どうやらこの屋敷をさぐりに入った間者だな。女中の方をつかまえて味方になってくれるようにたのめばうまく乗ってくるかも知れねえ。
庄吉は、わが胸に言いきかせた。
「ではまた――」
「お気をつけあそばせ」
二人は挨拶をかわして、はなれた。
女中の足音が、廊下をすべると、男の方は芝生へとびおりて、非常な速歩で、闇の中へ消えて行こうとした。
庄吉は、女中がすすんで行く方向へ平行して、廊下の横を這って行った。
廊下が、鉤の手にまがったところへ達した時、庄吉はぱっと出て、鼠走りに近よると、
「もし――」
と、声をかけた。
ぎょっとなって足を釘づけにして、こっちを睨んだ女中は、一瞬の間を置かずに、懐剣を抜いて芝生へとぶと、庄吉へ突きかかった。
反射的に、身をひらいた庄吉は、そのきき腕をとらえようとしたが、おとろえた体力に敏捷な動きは無理であった。ねじった上半身に隙が生じ、女の片肱が、痛む胸にあたって思わず、
「うっ!」
と、呻いた。
第二撃が襲ってくるや、庄吉は、膝を折って、匕首を右手にかざして防ぎのかまえをとっていた。
もはや、敵でないことを相手に納得させる余裕などまったくなかった。その、するどい攻撃を防ぐのがやっとであった。
さすが隠密にえらばれるだけあって女中は手練の者であった。
庄吉は、無我夢中で、芝生を転がり、はね起き、とび退いていたが、瞬間、本能的な手として、廊下へ跳躍していた。
女中も、無言で、廊下へ、さっと跳びあがった――その隙をのがさず、庄吉は片手突きに出た。
ひいっ! と悲鳴をあげて、どどっとよろめき、烈しく板戸へぶっつかって廊下へ倒れるのを見とどける間もなく、庄吉は芝生へ――。
庄吉の右手は、匕首が、着物を通して、胸の骨まで達したてごたえを感じていた。
――ちえっ! どじ[#「どじ」に傍点]だ!
「ああっ! だ、だれか――」
と叫び乍ら、板戸にすがって、もがく女中姿へ、ちらっと振りかえって、庄吉は、走り出した。
立ち去った男に、いまの叫びはきこえたに相違ない。
――戻って来るか? 見すてて去るか?
戻ってくれば、こっちの生命はない。
その恐怖で、はらわたまで白くなり乍ら、庄吉は走っては伏し、伏しては走った。
遠くから、駆けてくる足音が、あわただしく内廊下にひびいて、近づいて来た。灯影が、庭へさして、樹木の影が大きく動いた。
意外、その男は
「あっ、あそこに――」
「曲者っ!」
かけつけた女中どもの叫びをのこして、庄吉は、どれだけ走ったか、高くそびえた立木の間へ逃げ込むと、ほとんど最後の力をふるって、枝へとびついて、一回転して、跨った。
この時――。
突然、庄吉の拠った木から十間あまりへだてた地点でぱっと赤い光が生れた。
――しまった!
発見された、と思った庄吉は、いま血を吸った匕首を懐中からひき抜いた。
しかし、庄吉がそこに見たのは――|龕《がん》|燈《どう》をあびているのは、さっきの隠密にまぎれもなかった。
龕燈をつきつけているのは、町人姿の男であったが、光のうしろに浮いた顔は判然としなかった。
隠密は、じりじりとさがりつつも、まだ刀は抜いていなかった。
どちらも、沈黙をまもっている。
しかし、すさまじい殺気は、樹上の庄吉までも、びりびりとつたわった。
ついに、隠密が、とある杉に背をつけて、立ちどまるや、追いつめた男は、ひくいしゃがれ声で、
「須永正之介、久しぶりだのう」
と言った。
「貴様っ! 何者だ?」
さっと、刀を鞘走らせて、上段に構えた隠密は、呻くように叫んだ。隠密として、発見されたばかりか、本名まで呼ばれた以上、もはや相手を仆すか、こちらが斬られるか、どちらかをえらぶよりほかはなかった。
距離は、三間ある。これだけひらいて、上段に構えたのは、まっこうにふりかざしたまま、突進する捨身の戦法である。相手が、その突進に対してどう変化をとろうか、と考えた隙を、疾風の如く飛び込んで、斬り下す。さもなければ、相手に隙があろうとなかろうと突撃の勢いのままにうち込んで、自分も斬られるかわりに、相手のまっこうを、ふたつに割ってしまうのである。
「須永! その構えはわしにはつかえぬぞ。わしが教えてやった剣法だからのう」
「なにっ?」
「はははは……忘恩の徒め! かつての上役を忘れたか?」
そうきめつけられて、隠密は、ぎくっとなって、じいっとすかし見たが、
「あっ!」
と、非常な驚愕をおもてにあおらせた。
「貴方は……」
「左様、小俣堂十郎のなれの果てじゃ」
これをきいた樹上の庄吉も、あっとなった。
小俣堂十郎は、あの檜屋敷の茶室で殺された筈ではないか!
「はははは……おどろいたようだな。しかし、小俣堂十郎という人間は、この世にいないことになって居る。公儀へもそう届けられてある筈だ。梅津長門というお節介者が、わしの死体をたしかめて、遠山景元へ報告してくれた筈だ。……ところが、小俣堂十郎という姓名はすてたが、わしは、こうして生きて居る。今の名は、加平という。身分は、下郎だ」
――そうか! わかったぞ!
庄吉は、心で絶叫した。
長門が発見した死体は、その顔を、炉につっこんでいたのだ。ふた目と見られぬ程、目も鼻も口も焼けただれていたという。
それは、小俣堂十郎の身代りだったのだ。
「なんとか、返答したらどうだ、須永!」
「貴方だったのか、この屋敷の地下室にひそんでいる人間は――」
「その通り。わしにとって、一番安全なかくれ場所だ」
「密貿易をつづけていられたな?」
「きくまでもなかろう」
「恥を……恥を知れっ!」
「わしは、小俣堂十郎ではない、と断っている。加平という下郎だ。抜荷買いをやろうと、|女《ぜ》|衒《げん》をやろうと――」
「言うなっ!」
須永は、吼えるようにさえぎるや、猛然と走った。
殺鬼の目をむき、憤怒の口をひらき、圧倒された弱者の、文字通り窮鼠猫を噛む、最後の反撃だった。
斬られると知りつつ、死にもの狂いの剣法であった。
加平――いや小俣堂十郎は、龕燈をつき出したまま、石像の如く、不動であった。
庄吉は、わが身がいまどんな立場にあるかも忘れて、首をつき出して、この一刹那の決闘を見まもった。
地下の美女
その時刻――。
主殿頭忠正は、侍臣の一人に案内されて、ふらふらと暗い地下への階段を降りていた。
この侍臣のひそかな耳うちに、忠正は、興味をそそられて地下室へ行こうと思いたったのである。
侍臣は、へつらい顔で、
「殿、小俣堂十郎殿は、地下に、ひとり、絶世の美女をかくまっておりますぞ」
と告げたのであった。
「本当か? 彼奴は、女には目もくれぬ朴念仁だぞ」
「なかなかもって……隅におけませぬ。あれだけの絶世の美女ならば、どんな朴念仁も、心が動かずにはおりませぬ」
「よし、たしかめてやろう。案内せい」
「先ず、手前が、小俣殿の存否をたしかめて参ります」
侍臣は、加平に変装した小俣堂十郎の姿がいないのをたしかめてから、案内に立ったのである。
まことに、この松平邸には、さまざまの不思議な仕掛が設けられてあった。
地下への入口は、忠正の居間の隣りにある小部屋の床の間であった。
山水の軸のかかった壁が、|枢《くるる》の軋りとともに、中心で一回転し、ぽっかりと穴があく。
踏み込んだところは、かなりの広さの板の間になっていた。その板の間に装置がほどこしてあるとみえて、二人が立つと、自然に、床の間の壁はぎいっとまわって、ぴたりと閉じた。
侍臣は、龕燈に燈を入れて、奥にたてきった板戸へ手をかけた。
ひき開けたとたん、冷たい風が、しのびやかに地下から吹きあがって来た。そこから、階段になっていたのである。
忠正は、この地下へ降りるのは、はじめてであった。
この下屋敷に、地下室があるのを知らされたのは、二年前、小俣堂十郎からであった。遠山景元が北町奉行になった頃、幕府に対する陰の力さえもうばわれた堂十郎は、ある日、忠正をおとずれて、
「この屋敷の地下室を借用したい」
と申入れたのであった。
忠正は、曾て、前代が、密貿易をやって、財産を蓄わえ、それには小俣堂十郎の尽力があった、ときいていた。
「この屋敷に、地下室があるのか?」
と、尋ねると、堂十郎は、にやりとして、
「左様、海からの|幸《さち》を運び入れるために設けられたものです」
「お前は、また、密貿易をやろうというのか?」
「ご迷惑はおかけいたさぬ積りです。いや、殿のご散財には私のような人間も、やがて必要となろうと考えておりますよ」
忠正には、堂十郎の申出を、今更、断る理由はなかった。
あれから今日まで――忠正は、堂十郎が、どの様に地下室を使用して来たか、きく興味もなく、忘れすてにしていたのであった。
階段を降りきると、また板戸であった。
板戸をひらくと、広間であった。ここは、雪がはじめてつれて来られて、坐らされたところであった。昼夜そうしてあるのか、百目蝋燭が、眩く焔をゆらめかせていた。まっすぐ、つききって、白壁を動かせば、秘密の水門へ通ずる石の廊下へ出るのであるが、侍臣は、そちらではなく、右側の襖をひらいた。
そこからも、石の廊下が、奥へ長く走っていた。
「小暮、この地下室は、大きな規模だの?」
流石に、忠正は、あきれたようにいった。
「江戸広しと雖も、かかる地下室を設けてある屋敷は、ほかにございませぬ」
「ここを使用すれば、また、別に、面白い趣向が考えられるが……堂十郎めが承知致すまい。お前は、堂十郎が、密貿易をやっておるのを知って居ったか?」
「いえ、小俣殿は、お借りしたまま、久しく、使用致しておりませぬ。最近になって、何を思い立ちましたか、配下を集めたり、水門の上に見張りを立たせたり致しておる模様でございます。女をつれて参りましたのも、一昨日あたりかと存じます」
話しあい乍ら、ゆっくりと進む二人の影が、龕燈の燈のゆらぎとともに物の怪のように、大きく揺れつつ、壁を這い、床をのびた。
小暮は、とある板戸の前に立ち停まった。
「ここでございます」
「うむ――」
この地下の妖しい仕掛とたたずまいが、忠正の異常を好む心に、かなりの興奮を与えていたので、この板戸のむこうに、絶世の美女がいる、という想像は、急に烈しい刺激でふくれあがった。
「お入りなさいませ。一刻も経ちましたら、お迎えに参ります」
「よし――」
忠正は、すこし|痙《けい》|攣《れん》する手で、板戸を、すうっと開いた。
忠正は、かなり凝ったつくりの部屋の片隅の、経机にむかって、本を読んでいた女が、はっとこちらを向いた――その顔を見た。
まさに、絶世、というにふさわしい。|臈《ろう》たけた美しさであった。
同じ時刻
四つの瞳が、それぞれ別の意味をもって、強い光を放ち乍ら、しばし、ぶつかって動かなかった。
「月江――そうだな、月江と申したな?」
忠正は、二、三歩進むと、そう尋ねた。
雪は、こたえず、なお、忠正を凝視していた。
大名であることは、一瞥でわかった。大名が一人で、ここへやって来たことが、雪には、訝しかった。
雪は、自分の坐っているところが、地下であることは気がついていたが、この上が、大名の下屋敷であろうなどとは、夢にも知らなかった。
「貴方さまは?」
つめたく澄んだ|声《こわ》|音《ね》で訊きかえす雪を、忠正は、さらに一足出て、のぞき込むように首をのばした。
「余は、松平主殿頭だ」
「え?」
「そちは、月江だな? 小俣にやしなわれておった娘だな? 小俣め、そちを、すてて来たなどと、欺しおって――」
「人ちがいなされております」
雪は、静かにこたえた。
「わたくしは、梅津長門と申す浪人者の妻でございます」
「なに? 嘘を申せ。見つけられたなら、そういえ、と小俣に教えられておるのであろう。……余は、そちを、見たことがあるのだ。余は、一度この目で、記憶にのこした女子は、決して忘却せぬわ」
「わたくしは、絶対に、月江さまとやらでは、ございませぬ」
きっぱりと、雪は、忠正の|眸子《ひとみ》に燃える欲情の火へ、水をあびせるきびしさをこめて、いった。
「ふん、強情な女子め。月江でなければ、ないでもよいわ。……余は、松平主殿頭忠正だ。どうだ、余の部屋に参らぬか?」
「部屋?」
雪は、はじめて、はっとなった。
「この屋敷は……貴方さまのおすまいなのですか?」
「それを知らさずに、つれ込まれたとは、うつけな女子だの。……さ、参れ。ここは、どうも、居心地が悪い。カビ臭くて気分が出ぬわ。上へ参れ」
忠正は、猿臂をのばして、雪の手をとらえようとした。
雪は、それを、はらって、すっと立つと、二歩あまりしりぞいた。
「そちは、余にさからうのか?」
忠正のこめかみに、青筋が浮いた。
眼眸にみなぎる狂暴な色は、この大名がただならぬ性格の所有者であることを、雪にさとらせた。
思わず、かすかに身顫いを起した雪は、室戸藤馬などに対する態度をもって、拒否することが、この人物には通用しないのを、自分にいいきかせなければならなかった。
だが、やはり、雪は、忠正が迫るや、
「わたくしのからだに、おふれになると、舌を噛みますよ」
と、宣言せずにはいられなかった。
「舌を噛む? なんのために、舌を噛むのだ?」
はたして、この大名には、雪の決死が、通じなかった。
「わたくしは、人の妻です」
「かまわん――」
「人の妻であるわたくしは、はずかしめを受けるよりは死をえらぶと申しているのです!」
ついに、雪は、するどく切りつけるようにあびせた。
「面白いのう……余にさからって、みごとに、舌を噛むか? やって、みせろ」
忠正は、にたりとした。
――そうか、あの野郎っ! 小俣堂十郎だったのか! 生きていやがったのだ!
木からすべり降りた庄吉は、大きく息をはいて、呟いた。
二間さきの地上には、くろぐろと、堂十郎に斬り倒された隠密の死体が横たわっていた。堂十郎は、刀身をぬぐって、鞘におさめると、息絶えたかどうかをたしかめもせずに、さっさと立去った。
庄吉は、堂十郎の立去ったその方角を、にらんで、われを忘れていた。
あまりに意外のことだった。
――畜生め! まんまと一杯くわされていたんだ!
今にして、謎は、すべてあきらかとなるではないか。
ほんものの下僕加平は、月江に対して親切な老爺であったという。やさしい心根の持主であったという。
堂十郎は、その加平を――おのれの実兄を殺して、茶室の炉へ、その顔を突込んで、焼いてしまったのだ。加平をおのれの身代りとして、佐々右膳配下の連中と梅津長門を欺したのだ。
加平こそ、月江の味方であったのだ。
――そうなんだ! おれに檜屋敷の見取り図をみせたのも加平だったのだ。おれに、月江さんをまもってくれという謎をかけたんだ。殺される日の夕方、たずねて来て、おれが留守なんで、がっかりして戻って行ったのも、ほんものの加平だったんだ。あの時、おれがいたら加平は、殺されずともすんだのだ。
――堂十郎め! よくも、欺しゃがったな! おれが月江さんを襲った浪人者をとっつかまえて、物置へぶち込んでおいたのを、刺し殺しゃがったのも、堂十郎に相違ねえ。殺しておいて、何食わぬ面で、月江さんを迎えに来やがったんだ。……それから、おれの、この胸を手裏剣で、こんな目に遭わせやがったのも、あいつなんだ。
――ああ、このことを、一刻も早く、梅津の旦那に知らせてえ。
小俣堂十郎が、雪をとらえて、この屋敷へとじこめたと判明した今、庄吉は、自分一人で、忍び入ったのを、はじめて、ふかく後悔しなければならなかった。
小俣堂十郎を仆すことが出来るのは、梅津長門を措いてほかにはいない。
――くやしいなア、くそっ! 小俣堂十郎とわかっていながら、みすみす、見のがさなけりゃならなかったたア、こんなくやしいことが、またとあるかってんだ!
庄吉は、自分をののしりつつも、堂十郎の監視下にある雪をすくい出すことが、いかに困難なわざであるか、を思って慄然たらざるを得なかった。
――ままよ! 小俣堂十郎だって、魔物じゃねえや。……あたってくだけろ!
庄吉は、ふたたび、芝生を横切って、渡廊下の下へもぐり込んだ。
廊下に仆れた女中は、すでに、ほかの女中たちの手ではこび去られ、静寂は、あたりをふかくつつんでいた。
裸の救い主
忠正の両手が、雪の肩を鷲掴みにして、遮二無二、その場へ押し倒そうとし、雪は、もう駄目だ、と絶望して、自ら生命を絶つもののみがそうするように、走馬燈のような過去のいくつかの情景を、ちらっちらっと脳裏に掠めた。
この刹那であった。
雪の視野を、影絵のように、白い裸形が、さっと走った。
「うっ!」
呻いて、どどっと、うしろへよろめいた忠正は、自分を襲撃する者があろうなどとは夢にも考えていなかっただけに、それが、殺気をみなぎらせた素裸の男であるのを認めると、たちまち、恐怖をあおらせて壁ぎわへ、じりじりさがった。
「野郎っ! なんだ、てめえは――」
匕首を掴んで、忠正を睨みつけたのは、三次であった。
ひょっとこ面も、極度の緊張で、格段の男っぷりをあげていた。
水底をくぐって、この地下に忍び入った時から、三次は日頃の彼が自身想像し得ぬ程の勇気を出すことが出来ていた。あちらの片隅、こちらの物陰で、石像と化した如く、息を殺して、あたりの気配をうかがいつつ、奥へ奥へ、と進んで行くうちに、三次の精神力は急速に倍加したとみていい。
しずくをしたたらせて、仁王立ちになった濡れた裸身の隙のない構えは、颯爽としたものだった。
「やい、声をたてやがると、これで、ぐっさりとやるぜ、いいか――」
三次は、匕首を、突出した。
「ゆ、ゆるせ!」
「おとなしく、その着物を脱げ!」
「…………」
「脱がねえか!」
「ど、どうするのじゃ?」
「どうしようとこうしようと、こっちの勝手よ。罰あたりめ。……やい、脱がねえか!」
「そ、そちが、つ、つけるのか?」
「ええい、小うるせえ野郎だ」
三次が、一歩つめ寄ろうとすると、忠正は、あわてて、
「待て――」
と、両手を顔の前にかざして、
「脱ぐ……脱ぐから、待て――」
「早くしろい!」
忠正が、衣服を解きはじめるや、三次は、雪をふりかえって、
「お雪さま、申しわけござんせん。あっしが、逃げたのは、決して、生命が惜しかったからじゃなかったんでございます」
「いえ、そんな……それよりも、よく、ここへ、忍び込むことが出来ましたね?」
「お雪さまがつれ込まれなすった、あの水門の底をもぐってめえりました」
「有難う、ご恩は忘れませぬ」
見かけは、なんの取柄もなさそうなこの男が、生命を賭して、二度までもたすけに来てくれた、と思うと、雪は、感謝で、胸がいっぱいになった。
三次は、忠正にむかって、
「なにをぐずぐずしてやがる。おれと同じ格好になってみせろい」
と、せきたてた。
そして、裸になった忠正を、後手にしばりあげ、猿ぐつわをかまして、ころがすと、
「お雪さま、これをつけて下さいまし」
と、たのんでおいて、石の廊下へ出た。
危機一髪の瀬戸際で、雪をすくうことの出来た幸運は、さらに、三次の勇気を増していた。
――大丈夫だ! 屹度お雪さまをすくい出すことが出来る!
そう自分にいいきかせつつ三次は、微動もせず、入口の方を睨んだ。
しんとしずまりかえった闇の底に、どこかで人の話声がきこえるような気がする。
いま、発見されたら、万事窮すのである。神経が苛立ち心臓の鼓動が、あたりに反響でもよぶのではないか、と思われる程高鳴っている。
――大丈夫だ! 神さまはこっちの味方なんだ!
三次は、さらに強く自分にいいきかせる。
この部屋をつきとめ得たのも神のみちびきと考えられるし、雪にいどみかかっていた人物がひどい弱虫であったのも、こっちに神の力が与えられていたからだ、と思いたいところだ。
刃物におびえあがる武士がいようなどとは、今日まで三次の常識では考えられなかった。勿論、三次には、相手が、大名であることなど、見分ける目などなかったのである。
――もうよかろうな。
三次は、そっと戸を開いた。
雪は、忠正の衣服をつけ終り、髪をとき崩していた。
「これを――」
顔につつむようにと、三次は、腰にはさんでいた手拭を渡した。
「水門の外に、舟が待っております」
「では、庄吉さんでも――」
「いえ、それが……お雪さまもごぞんじのお侍で、須貝嘉兵衛と仰言る方なんで――」
「え? 須貝嘉兵衛が――」
雪は、ぎくっとなった。
「梅津長門とは仇敵同士だが、仇敵同士は、場合によると、幼友達以上になつかしい、と仰言って……味方になって下さっているんでさア。大丈夫でございます。あっしがついております」
意外な人物が味方についたことに、疑ったり、躊躇している場合ではなかった。
「行きやしょう」
二人は、そっと、廊下へ出ると、一歩一歩に、全神経をこめて、手さぐりで、入口へむかった。
三次は、入口の襖に、耳をあて、つぎに一寸ばかり開いて、じっと覗いてみて、広間が無人であるのをたしかめると、すばやく、ふみこんで、五本の百目蝋燭の燈をふき消した。
この時、地上へ通ずる階段に、足音がした。
どきっとなった三次は、雪の手を握ると、襖をつたって、身を移し、がらっと板戸が開くやいなや、ぴたっと停って、息を殺した。
「おや、まっ暗ではないか。蝋燭を誰が消したのだ?」
独言したその男は、踵をかえした。
龕燈をとりに引返したに相違ない。
――いまだ! いまをのがしては――。
三次は、雪の手を、強く引いた。
孤独な予感
小俣堂十郎が、この地下へ降りて来たのは、広間が闇になっているのにおどろいた彼の部下が、龕燈を取りに引返した時だった。
「どうしたのだ? 誰か舟で戻って来るのか?」
龕燈に燈を入れている部下を見て、堂十郎は、不審そうに尋ねた。
水門へ行くほかは、龕燈は、不要の筈であった。
「いえ、それが、|面妖《お か》しなことに、広間のろうそくが、ぜんぶ消えて居りましたので――」
「なに?」
さっと、鋭い緊張の色をみせた堂十郎は、先に立って急ぎ足になった。
明るくなった広間を、堂十郎は、油断なく、じろりと見まわしたが、ふと、どこからか、かすかな呻きがひびいて来たような気がした。
じっと耳をすましていた堂十郎は、不意に、眉間に深い皺を刻むと、部下の龕燈をひったくるようにして、雪をとじこめた部屋へむかって歩き出した。
部下は、やがて、堂十郎が女の衣類をつけた主殿頭忠正をつれて戻って来たのを見て、唖然となった。
「おつれしろ」
不快そうに、部下へ命じた堂十郎は、そのまま、水門へ通じる石の廊下へ出て行った。
「馬鹿殿が――」
いまいましげに吐きすて乍ら、堂十郎は、すでにこの地下室が非常に危険になったのをひしひしと感じていた。
先程、斬り仆した隠密のほかに、すでに幾人かの敵が、自分をとりまいている予感があった。
寂寞たる石廊下を辿り乍ら、堂十郎は、今夜のうちにひきはらうことを考えていた。
――所詮、たのむのは、おのれの力ただひとつだ。部下を集めたのが、かえって、おれを危険にしたようだ。
堂十郎は、とある地点に来た時、左手にかかげた龕燈を、さらに高く、頭上へさしあげて、石壁へ近づけたが素早く、一個所へ右手をふれた。
すると一尺四方ぐらいの石壁が、くるりとまわった。
堂十郎が、その穴の中から掴みとったのは、一個の面であった。それは、まさしく、|阿《あ》|古《こ》|父《ふ》|尉《い》の面にまぎれもなかった。
この時、三次と雪は、どうしていたか――。
三次は、逃げ口をまちがったのであった。
墨を流したような広間を、手さぐりに進むうちに、水門への出入口である白壁へさわったと思いこんだ三次はいそいで、忍び入る時にさがしあてて、やってのけた同じ方法で、|枢《くるる》をまわして、白壁を動かしたのであった。そして、白壁をもとへもどしておいて、
「お雪さま、もう大丈夫でございますよ」
と、囁いたとたん、ぎくとなった。
水門へ出るなら、石の廊下がつづいている筈であった。
なんとしたことであろう。二人の行手には、上へのぼる階段があったのである。
――しまった! まちがえた!
広間からは、おそらく、幾つかの出入口が、あるに相違なかった。
しかも、その直後――。
突然、階段の上に、かすかな、なにか軋る音がしたと思うと、あるかないかのあかるさがさしたのである。
あきらかに、戸をひらいて、誰かが、降りて来ようとしている。
眸子をこらしてみれば、闇の中に、人のかたちが、見わけられた。その人間もまた、なぜか、非常な注意ぶかさで、一歩一歩に全神経をこめつつ、降りて来るのだった。
――|殺《やつ》つけるよりほかはねえ!
咄嗟に、匕首を、抜きはなつと、雪をうしろにかばって身がまえた。まさに、絶体絶命であった。
退路を絶たれている以上、この怪しい相手を倒すよりほかに、逃がれ様はないのだ。三次は、音なく呼吸をととのえた。
一瞬――。
三次の四肢は、可能のかぎり、力をみなぎらせてのばされた。しかし、相手の方は、闇に目が利いていたとみえ、すでに、それを、予知していた。
さっとひっぱずすと匕首を掴んだ手をおさえ、じりじりと逆にねじあげようとした。
「く、くそっ!」
と、唸った三次は、無謀な体当りをくれて、自由をとりもどそうとした。
突如、相手は、押えた手をぱっと突きはなして、ひくく、
「お、おめえ、三次じゃねえか――」
と、尋ねた。
「えっ?」
「おれだ、庄吉だ」
「あ、あにき! あにきか?」
三次は、夢を見ているのではないか、とわが耳を疑った。
庄吉は、床下をもぐっているうちに、ふと妙なものを発見したのだった。それは、四尺四方ばかりの鉄板が、地面より二、三寸高く据えられてあったのだ。手さぐっているうちに、把手のような丸い鉄輪にふれ、何気なしに引っぱったところ、鉄板は、自然に持ちあがって、ぽっかりと穴が開いたのであった。
逃走路
「あ、あにき、からだは、だ、だいじょうぶなのか? 無理をして、あとで、さわったら――」
「莫迦野郎! 寝かせておきてえのなら、なぜ、修吉なんかを走らせやがった。……てめえ、一人の手柄にしようたって、そうは問屋がおろさねえんだ。……そいつは誰だ? どこでやとって来た浪人者だ?」
「ちがう。お雪さまなんだ」
「え?」
「さむらいの着物を剥いで、お着せしたんだ――」
庄吉は、歓喜のあまり、三次の頬を、ひとつなぐりつけて、
「てめえ、その時、目をしっかとふさいでいやがったろうな」
と言いすてておいて、階段を二、三歩降りると、
「お雪さま――」
「庄吉さん――」
「ごぶじで、な、なによりで、ござんした。お迎えに参りました」
「あ、ありがとう。……忘れませぬ! 一生、忘れませぬ!」
雪は、感動のあまり、庄吉の手をとって、しっかとにぎった。
――これで死んでもいい!
庄吉は、心で叫んだ。
「さ、逃げやしょう」
「兄貴、おれは、この地下室にある水門から、し、しのび込んだんだ。……掘割に、舟が、待っているんだ」
「そいつは、うめえ――」
だが、堂十郎とその部下が、広間へ降りて来たのは、この時だった。
三人は、広間の物音に、はっと息をつめた。
――水門からは、逃げられぬ!
やっぱり、地上へ出るよりほかはなかった。
庄吉は、三次の耳へ、口をつけた。
「三次、いのちをすてようぜ」
「合点――」
二人の呼吸は、ぴったりと合った。
二人がいのちをすてれば、なんとか、雪一人だけは、のがれさせることが出来よう。
やがて――。
三人は、庭へ――。
だが、庭には、堂十郎から命令を受けた十余人の猛者たちがいたのである。
三人が、芝生を走っては伏せ、伏せては走り、いま一間で、木立の中へかくれようとした瞬間、
「だれだっ?」
と、強く誰何の声があびせられた。
すると、三次は、いきなり、すっくと身を起すや、脱兎のように芝生を走った。
「待てっ!」
三次にむかって、三人あまりの武士が殺到して行った。
彼方にあたって、こちらの叫びをききつけて、龕燈の光が、五つ六つ、樹木越しにひらめいた。
――三次すまねえ!
片手で祈った庄吉は、雪へ、
「いまのうちに――」
と、囁いて、起き上ると、ひと息に木立の中へとび込んだ。
いったん、ひとかかえもある椎の大樹の陰へひそんだ二人は、期せずして、芝生へ視線をまわさずにはいられなかった。
龕燈の光の中に、三次は、幾本かの|切《きっ》|尖《さき》にとりかこまれていた。
雪は、堪らずに、両手で顔を掩った。
庄吉は、|眦《まなじり》が|裂《さ》けんばかりに、かっと瞠いて、三次が大きくのけぞって、倒れるのを見とどけた。
――三次を、むだ死にさせちゃならねえ!
不意に、庄吉は、無言で、雪の手をつかむと、全神経を働かせつつ、すすみはじめた。
ようやく――塀ぎわに逃げのびた二人は、あとは、これを越えるだけだと思って、ほっとした。そのほんの刹那の油断のために、敵のワナに気がつかなかった。
――このあたりを越えてやろう。
と庄吉は塀を見あげて、一歩踏み出した途端、地面すれすれに、ぴいんと張られた一本の綱をうっかり踏みつけた。
――あっ! 南無三!
と、唇を噛んだが、もうおそかった。鳴子がけたたましく、鳴りわたったのである。
敵の群は、たちまち、塀に沿うて、猛然と走り出した。
庄吉は、切歯しつつ、懐中からとり出した、先に鉤のついた細引を、塀へなげたが……もはや、雪をすがらせる間もなかった。
「いたぞっ!」
「そこだっ!」
「のがすなっ!」
あっという間に、幾個かの龕燈のまばゆい光が庄吉と雪の目をくらませた。
まことに、この龕燈という奴は、敵にまわされた者にとっては、どうにもしまつのわるいものであった。位置と動作を照らされるだけの目的ではない。まっこうにつきつけられると、一瞬、まぶしさに堪えられず盲目にされてしまう。しかも、その背後の相手の姿を、完全にかくしてしまうのだ。
「そやつ、殿の衣服をつけているではないか」
と、一人が叫んだ。
「女だ」
「あ――地下室におしこめて置いた女ではないか」
「この町人め、大胆な奴だ、まんまとぬすみ出して来おった」
庄吉の正面へ、龕燈のわきに、一人が、ずいと進み出ると、
「おい町人! 念仏をとなえろ!」
その手に、黒くうごいて、庄吉の胸もとをねらったのは、短筒だった。
――ああ! 三次も、おれも、犬死だっ!
庄吉は、くらくらっとなった。
だが――その刹那に、
「あっ!」
と、呻いた声は、短筒の持主の口からもれた。
庄吉は、相手の腕から、ひとすじ、血汐が流れるのを見て、あっとなった。
「庄吉っ!」
と、わが名を呼ぶ声が、頭上から降って来た。
すぐ、うしろの塀の上からであった。
「ご苦労だった! あとは、おれが、引受ける!」
黒い影が、かるがると跳んで、庄吉の脇に立った。
宗十郎頭巾の、颯爽たる梅津長門の姿だった。
「あっ! 貴方っ!」
と、雪は、思わず、両手をさしのべて、すがろうとして、敵に短筒があることに気がつくと、はっと身をすくませた。
手裏剣で傷ついた相手は、手を押えて、短筒をとりなおしていたのである。
筒音がひびきわたった。
しかし、次の瞬間、長門の手には白刃があり、短筒を持った相手は、前のめりに崩れ込んでいた。
「旦那っ! 旦那っ! こ、この中に、小俣堂十郎が、いやがったら、と、とつかまえておくんなさいよっ!」
と、庄吉が、叫んだ。
「なに? なんと言った?」
長門は、隙なく、刀をかまえ乍ら、ききかえした。
「小俣堂十郎でさ。野郎め、生きていやがったんです。加平に化けて、生きていやがったんです」
「おお、そうか! それで、わかった。……夜明けだぜ庄吉。見ろ、東の空は、白んで来た」
明るくこたえた長門は、ずっと見わたして、
「諸君! いずれ、諸君は、小俣堂十郎にやとわれた浪人者だろうが、生命が惜しければ、いまのうちに、ひきさがってもらおう。拙者は、梅津長門という、諸君と同じ素浪人だ。なんの恨みもない人間を斬るのは、もういい加減、あいている。が、退かぬというのなら、やむを得ぬ。斬る! ……拙者が、用事のあるのは、小俣堂十郎一人だけだ」
長門に対しては、龕燈の光も、なんの役にも立たなかった。
長門が片手青眼にかまえた刀身は、おそるべき嵐をひそめ、水をうった静けさに磐石の重味をみせて、十余人の武士を威圧した。
とはいえ、堂十郎に選ばれた程の猛者ぞろいである、退こうとする者は一人もなかった。
「やあっ!」
怪鳥の啼き声にも似た気合もろとも、一人が、斬り込んだことから、不気味な静けさは破られた。
かるく体を躱した長門は、泳ぐ敵を、左右へ送って、片手なぐりに、すぱっと胴をはらっていた。
第二撃を待つまでもなく、長門は、すっと円陣の中へ身を移した。しかし、こちらから、一人一人ねらって斬ろうとしなかった。一人一人が腕の立つこうした場合は、中点に立って、黙然として待つ。十余人が、一度にはかかれないからだ。
目に見えず、耳にきこえずに、一人一人の動きをすべてさとり、その差一瞬の紙一重で、さっと受けて、斬り伏せて行く――。
四人、五人、六人までを、鮮かに地に這わせた長門は突如、奮然と、すさまじい攻撃に転じた。奇策であった。
非凡の技をもつ者のみにゆるされた目にもとまらぬ身の動きで、相手方を眩惑しようとするのである。一分の隙が生じても、致命的な破綻となるこの危険な闘法は、もとより、長門の本意ではなかった。
すでに、夜は明けかかっている。時間の猶予がなくなったのである。
静かなる朝
一刻のち――。
静かな――まことに、静かな朝であった。
長門と雪と庄吉は、ゆっくりと、三ツ俣の川ふちを、あるいていた。
朝陽が、無数の光の|箭《や》を、澄みきった川面へ、彼らの足もとへ、左手の大名屋敷の高塀の白壁へ、ふりそそいでいた。
時折、朝の早い魚の買出しの商人が急ぐほかは、見わたしたところ、対岸の町家もひっそりと戸を閉じて、ひとときの余眠をむさぼっていた。
新大橋が、墨絵のように、大きな反りをうって、彼方に浮きあがっている。
「……そうか、三次は、死んだか」
長い無言のあゆみをつづけていた長門は、ふっと、ふかい溜息とともに、呟いた。
ついに、小俣堂十郎を発見し得なかった無念さよりも、あのひょうきんな顔をしたやくざの死をいたむ心の方が重かった。
雪と庄吉から、こもごも、三次がどんなにけなげな活躍をしてみせたか、をきかされた長門は、自分の来かたのおそかったのを、くやんでも、くやみきれない思いだった。
と――。
ひとつの小路から、ぶらりとあらわれた一人の男が、長い影を地に這わせて三人の前方に立った。
長門は、ふと顔をあげて、それが一瞥ぞっとするような異様な妖気を湛えた浪人者であるのをみとめ、ついでその片手の袖が、だらりと垂れているのを見て、はっとなった。
「あ――」
うしろの雪の口からも、おどろきの声音が洩れた。
「旦那! ありゃ、須貝嘉兵衛ですぜ」
庄吉も、早口に告げた。
長門は、黙って、距離をちぢめた。
二間を置いて、長門が、足を停めると、嘉兵衛は、口をきった。
「挨拶は抜かせて頂こう。……拙者は、雪どのに用事がある。それを簡単にすませたい」
「おうかがいしよう」
「拙者は、小俣堂十郎から、二つ用件をたのまれた!」
「…………」
長門も雪も庄吉も、声をのんで、目を光らせた。
「先程、小俣堂十郎は、あの松平屋敷の秘密の水門から、一人だけ、舟を掘割へこぎ出して来た。あいにく、拙者がその出口に待っていた。で――拙者の腕の方が、すこしばかり小俣よりまさっていたという次第。……流石は、小俣堂十郎、その最期は立派だったとおつたえしてもいい。……息をひきとる時に――」
嘉兵衛は、懐中から、一個の面をとり出して、
「この阿古父尉の面を、雪どのに渡してくれ、と拙者にたのんだのだ。……それから、こうつたえて欲しいと言った。雪どのには、実妹が居る。月江という。雪どのの母は、落胤というものがいかに哀れな立場に置かれるかを悲しんで、妹だけは、せめて、ふつうの町家の娘として育ててやりたくて、こっそり、小俣邸へ下って小俣の実兄加平の小屋で生み落したのだ。拙者も、今日まで、夢にも知らなかったことだ。証拠の品はどちらも所持している赤珊瑚の念珠だという……それから、この阿古父尉の面には、たいそうな宝のかくし場所の地図がひそめてあるそうだが、宝は、雪どのとその妹にやってもらいたい――これが、小俣の遺言であった」
そう語ってから、嘉兵衛は、ゆっくりと、あゆみ寄ると、長門の手へ、面を渡した。
「では、失礼する」
かるく一礼して去ろうとするのへ、長門は、手をあげて、
「もし――」
と、呼びかけた。
嘉兵衛は、ふりかえって、
「その面をねらう男に、丹兵衛という船頭が居ったが、拙者の茅屋で、室戸藤馬の奴に負わされた傷のために、息をひきとった。ほかには、佐々右膳が、面をねらって居るが、おそらく貴公の腕前なら、奪いとられる気づかいはなかろう。……さらば――」
長門は、幽鬼|宛《さな》|然《がら》の後姿を遠ざけて行く嘉兵衛を、いつまでも立ちどまって見送り乍ら、名状しがたい感慨にとらわれていた。
雪の心も、また、とうてい口ではあらわせなかったろう。
ただ、庄吉だけは、別のことを淋しく考えていた。
――そうか、やっぱり、月江さんは、お雪さまの妹だったんだ。……おれの相手は、とどのつまり、泥水くぐった加津美あたりが格好なんだ。
この作品は昭和三十五年二月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
続江戸群盗伝
発行  2003年1月10日
著者  柴田錬三郎
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861248-5 C0893
(C)Eiko Sait 1960, Coded in Japan