柴田錬三郎
決闘者 宮本武蔵(中)
柳生宗矩《やぎゆうむねのり》
一
武蔵《むさし》は、ゆっくりと、石段を、五段まで登った。
宍戸梅軒《ししどばいけん》が、鉄球を宙に溶かせて、無気味な唸《うな》りを生ぜしめているところまでは、あと十段あまり登らねばならぬ。
「ふっふっふ……、いい度胸だぞ、青二才! 上って来い。上って来い」
梅軒の顔面には、隠しようのない歓喜の色が、あふれている。
この忍者にとって、手ごたえのある生贄《いけにえ》を見つけたのは、おそらく、久しぶりのことに相違なかった。
武蔵の方は、全くの無表情であった。
昨日、宝蔵院衆の九本の槍《やり》に包囲される絶体絶命の死地に置かれたばかりの武蔵であった。その経験は、決闘者としてのこの青年に、精神上の大きな糧《かて》となっていた。
目にも、口にも、その巨躯《きよく》のすみずみまで、驕傲《きようごう》の気色をみなぎらせている梅軒を、仰ぎ視《み》るうちに、武蔵の心は、かえって、冷たく冴《さ》えたものになっていた。
生まれてはじめて接する鎖鎌《くさりがま》に対して、いかなる剣の業《わざ》を使うべきか、石段を登り乍《なが》ら思案する余裕が、武蔵にはあったのである。
敵の攻撃を受けた刹那《せつな》、おのれ自身も測らざる業を発揮して、死地を脱すべく、無想のままに、登りかかった次第ではなかった。
武蔵は、梅軒のうそぶきの下で、足を停《と》めた。
そして、次に示した動作は、梅軒の双眼を剥《む》かせた。
抜き携《さ》げていた白刃を、また、しずかに鞘《さや》に納めて、双手《もろて》を空けたのである。
鎖鎌のおそるべき業に対して、こちらには、これを防いで、反撃する用意がある、とその動作は示した。
「……うむっ!」
眦《まなじり》を裂いた梅軒は、生贄を得た歓喜の表情を、闘志の形相へ、一変させた。
宍戸|八重垣流《やえがきりゆう》を、天下無敵と誇るだけあって、梅軒は、ただの驕傲な殺戮者《さつりくしや》ではなかった。
双手を空けてみせた武蔵の姿に、あなどりがたい強敵を、看《み》て取ったのである。
――こやつ、ただの兵法者ではなかったぞ!
そう看て取ったとたん、梅軒は、闘志の鬼となった。
生贄が、強ければ強いほど、梅軒としては、討ち取り甲斐《がい》があるというものであった。
「来いっ! 宮本武蔵っ!」
梅軒は、咆哮《ほうこう》した。
武蔵は、再び、登りはじめた。一段を登るのに、これ以上のろくはできぬほどの時間を費して――。
梅軒がまわす分銅鎖の音は、さらに凄《すさま》じくなった。
武蔵は、あと三段をのこす地点で、停止した。
一瞬の睨《にら》みあいがあった。
次の瞬間――。
梅軒が、さっと一段を降りた。
分銅鎖の唸りが止まった。巻きついたのである。巻きついたのは、しかし、武蔵の五体のどの部分でもなかった。
武蔵が目にもとまらぬ迅《はや》さで、鞘ごと抜いた差料《さしりよう》の、鐺《こじり》から三寸ばかりのところを、キリキリと巻いていた。
武蔵は、その差料を胸前へ水平に置き、左手で鞘の栗形《くりがた》を、右手で柄《つか》を、つかみしめていた。
「うむっ! 小癪《こしやく》っ!」
梅軒は、|こめかみ《ヽヽヽヽ》に青筋を膨れあがらせた。
鎖鎌の戦法は、対手《あいて》の白刃に分銅鎖を巻きつけて、これをひきしぼっておいて、鎌で頸《くび》をかき斬《き》ることにある。
梅軒は、武蔵がいったん白刃を鞘に納めたのは、抜きつけの業前によって、分銅鎖に巻きつかれるよりも間髪の差の早さで、斬りつけようとするのだな、と推測したものであった。
いわば、分銅鎖が巻きつく迅業を知らぬ若い兵法者が思いきめた無謀な先手撃ち、と看破したつもりであった。
鎖鎌の秘術が、いかに、おそるべきものか、武蔵の肝に銘じさせてくれようと、梅軒は、自身から先に襲いかかったのであった。
分銅鎖は、見事に、巻きついた。しかし、それは、白刃ではなく、鞘の方であった。
梅軒は、武蔵が、刀を鞘ごと抜いて、これに巻きつかせる策をとるとは、考え及ばなかった。梅軒の不覚というよりほかはなかった。
但《ただ》し――。
勝負は、これからであった。
武蔵は、分銅鎖を鞘に巻きつかせることによって、梅軒に対して、五分の足場を得たのである。
梅軒が、鎌を振り込んで来る刹那、武蔵は、白刃を鞘から放っているであろう。
その時、いずれが対手の生命を奪うことになるか――はじめて、業の優劣が明らかになる。
梅軒と武蔵は、その眼光を宙で火花と化した。
二
降るような油蝉《あぶらぜみ》の音に彩《いろど》られた炎暑の午《ひる》さがり、両者の不動の対峙《たいじ》が、つづいた。
武蔵は、抜かぬ。
梅軒に、鎖をしぼるだけひきしぼらせておくことによって、その利器を、鎌だけにするためであった。
武蔵が、抜いて鞘をすてれば、梅軒は、分銅鎖を再び唸らせ、鎌と交互に、撃ち込んで来るに相違なかった。
鎌が襲って来る時が、武蔵の抜く時であった。
両者が、容易に動けないのは、当然であった。
と――。
梅軒が、にやりと薄ら笑いを、片頬《かたほお》に刷《は》いた。
あきらかに膂力《りよりよく》に於《お》いて、おのれがまさっている、と気がついた梅軒は、渾身《こんしん》の力をこめたならば、水平に置いた武蔵の差料を、ひとたぐりに、引き寄せることができる、と合点したのである。
武蔵は、必死に、白刃を抜くまい、とするであろう。
その瞬間に、梅軒が鎖をゆるめれば、鉄球は、鞘からはなれる。
五分の立場は崩れ、再び、梅軒は、圧倒的な有利の地歩を占めることになる。
「武蔵っ!」
梅軒は、叫んだ。
「この勝負、みえたぞ!」
「…………」
武蔵の無表情は、しかし、変らぬ。
梅軒の双肩《そうけん》が、力をこめるべく、ぐぐっと盛りあがった――とたん。
「梅軒! 立合い、それまでにせい」
石段の下から、その声が、かかった。
梅軒は、視線をそちらへ向ける余裕はなく、
「邪魔だて無用だっ!」
と、呶鳴《どな》りかえした。
しかし、声をかけた者は、すたすたと石段を登って来て、
「この柳生又《やぎゆうまた》右衛門宗矩《えもんむねのり》が、止めるのだぞ、梅軒」
と、云《い》った。
その一言で、梅軒の巨躯から、闘志が失《う》せた。
武蔵は、鞘から分銅鎖を払って、頭をまわした。
広い額にも、切長の双眸《そうぼう》にも、ひきしまった口元にも、叡知《えいち》のにおいをただよわせた武士が、そこにいた。年齢は、三十前後とみえる。
――これが、徳川家康《とくがわいえやす》の武芸師範となった柳生宗矩か!
兵法者として、望むべき最高の地位を得た人物を、武蔵は、目のあたりにして、異常な興味をそそられた。
柳生又右衛門宗矩。
石舟斎《せきしゆうさい》柳生|宗厳《むねよし》の次男として生まれ、文禄《ぶんろく》三年に、徳川家康に召出されて、随身し、関ケ原役後、旧領柳生|庄《しよう》を賜り、いまは、一万石の大名である。従五位下但馬守《じゆごいげたじまのかみ》に叙せられ、兵法者として、贈位を蒙《こうむ》った唯一《ゆいいつ》の人物であった。
石段下には、伊賀衆《いがしゆう》の姿は消えて、宗矩が連れて来た、いずれ秀《すぐ》れた手練者《てだれ》とおぼしい家臣が七、八人、ひかえていた。
宗矩は、武蔵の鋭い眼眸《まなざし》を受けとめて、
「兵法者らしいが、そちらから望んで、この宍戸梅軒と立ち合ったのではあるまい」
と、云った。
武蔵は、この伊賀谷を通り抜けたくば、腰の|おんもの《ヽヽヽヽ》を置いてゆけ、と云われて、やむなく、試合をしたまででござるとこたえた。
宗矩は、うなずいて、
「すみやかに、立ち去るがよい」
と、すすめた。
武蔵は、一礼して、石段を降りて行こうとした。
すると、梅軒が、その背中へ、
「おい、宮本武蔵、いずれ、他日、勝負をつけるぞ!」
と、あびせた。
武蔵は、ちらと振りかえったが、なんともこたえずに、降りて行った。
柳生谷には、次のような伝説がある。
そのむかし|、天照大神《あまてらすおおみかみ》が、天岩戸をひらいて出現した際、天香久山の岩戸が、ま二つに割れてしまった。そのひとつは、碧落《おおぞら》へ飛び去り、もうひとつは、大和国にのこった。
その地名を、神戸《ごうど》といった。
神戸岩の附近に、四箇庄があった。大柳生庄、坂原庄、邑馳《むらち》庄、小柳生庄である。
この神代以来の霊地を、藤原基経《ふじわらのもとつね》が所有していた。六世の孫大師・藤原|頼通《よりみち》は、この四箇庄を春日《かすが》神社に寄進して、春日の神料地とした。その時、岩が鳴動したので、地下《じげ》の者たちは、これは神慮が満たされた吉祥だ、と語り合った。長暦二年のことである。
爾来《じらい》、この神戸岩は、朝廷によろこびごとがあるたびに、鳴動した。
後年――。
春日の神職領がさだめられ、大柳生庄は右京利平が、坂原庄は左京基経が、邑馳庄は修理包平が、そして、小柳生庄は大膳永家が、これを治めた。
大膳永家――これが、柳生家の先祖である。
大膳永家は、菅原《すがわら》の末裔《まつえい》であった。永家以後、代々相続して、小柳生庄を治めていたが、後醍醐帝《ごだいごてい》の時、事情があって、当主は、小柳生庄をすてて、他国へ往《い》ってしまった。
その一族の庶子が、仏門に帰依《きえ》して、大和国|笠置寺《かさぎでら》に入って、衆徒に列した。中坊といった。
元弘《げんこう》元年、後醍醐帝は、北条高時《ほうじようたかとき》に追われて、笠置寺に潜幸した。
その時、中坊が、後醍醐帝より、援助をたのむべき者が、近辺にないか、と下問されて、河内《かわち》国金剛山の麓《ふもと》に、楠《くすのき》| 多門兵衛正成《たもんのひようえまさしげ》という利《き》け者が居《お》ります、と言上した。
北条高時が亡《ほろ》びたのち、中坊は、後醍醐帝に召されて、柳生の旧領をたまわった。
中坊は、僧職にある身なので、その兄永珍を呼んで、小柳生庄をゆずった。
永珍は、播磨守《はりまのかみ》となって、百歳の長寿を全うし、その子家重は備前守《びぜんのかみ》となり、これまた八十歳まで生きた。
家重の子道永は、三河守《みかわのかみ》となり七十歳で逝《い》き、その子家宗は、人となり勇略|豪毅《ごうき》、比類ない立派な人物で、戦うて勇誉を顕《あら》わさぬことがなかった。家宗の子光家も武勇をもって、世に知られ、細川高国《ほそかわたかくに》に仕え、高国が没落したのち、小柳生庄に還《かえ》ったが、伊賀の地侍の徒党との闘いにあけくれ、七十歳の時に、ついに討死した。
光家の子重家は、因幡守《いなばのかみ》となり、これもまた七十九歳まで長生きした。その子家厳は、美作守《みまさかのかみ》となり、三好長慶《みよしながよし》に属して、勇猛の武人として高名を売った。渠《かれ》もまた長寿で、天正《てんしよう》十二年に逝った時は、八十九歳であった。
柳生家は、このように、勇武と長寿の家系であった。
三
石舟斎柳生但馬守宗厳は、家厳の嫡男《ちやくなん》であった。
宗厳は、勇武の家を継ぐにふさわしい、巨躯と膂力を有《も》って、十歳|頃《ごろ》には刀槍《とうそう》をふるって、二十歳の屈強の若者に、一歩もひけをとらなかった。
父にすすめられたわけではなかったが、刀槍の修業は、凄じいばかりであった。
青年となって、三好長慶、松永弾正《まつながだんじよう》に属し、無数の戦場を往来し、総身に創傷を負わぬ部分はなかった。
のちに、織田信長《おだのぶなが》に仕えたが、その頃から、宗厳は、政権争奪の渦《うず》にまき込まれるのを、うとましく思うようになった。
小柳生庄は、大和国の一小区である。戦乱の世のならいとして、時の興廃運気を、鋭く看て、利のあるところに附随しなければ、領地を保つことが困難なところであった。
織田信長が足利義昭《あしかがよしあき》を擁して、破竹の勢いで上洛《じようらく》した頃、柳生宗厳としては、その歓心を買うことを余儀なくされた。
そのおかげで、京に召されて、大和|戡定《かんてい》の案内人を命じられ、筒井順慶《つついじゆんけい》の麾下《きか》となった。
この働きぶりは群を抜き、いずれ、その功労には、多大の恩賞があるべきもの、と柳生一族は、期待していた。
ところが――。
小柳生庄の住人で、ある咎《とが》があって、宗厳から追放された松田某が、
「小柳生庄には隠田があって、上を詐《いつわ》り、私慾《しよく》をほしいままにして居ります」
と、筒井順慶に、密訴した。
このことが、信長の耳に入った。
恰度《ちようど》、虫の居どころのわるかった信長は、たちまち、宗厳から、小柳生庄を没収して、隠居を命じた。
かねてから、信長は、兵法者の面目を持した宗厳の毅然たる態度が気に食わなかったのである。
政権争奪のためには、いかなる残忍な行為も辞せぬ信長に対して、宗厳が、批判的な立場をみじんも崩さなかったことが、次第に、主従の間に、溝《みぞ》を掘った模様である。
宗厳は、蟄居《ちつきよ》して、僧体となって石舟斎と号した。
宗厳には、四子があった。
嫡男新二郎|厳勝《としかつ》は、父から小柳生庄をゆずられていたが、信長から没収されたのち、放浪の旅に出て、旅先で逝った。
次男の又右衛門宗矩は、家を出て、三河に往き、徳川家康に随身した。
三男の五郎右衛門は、伯耆《ほうき》の中村一忠《なかむらかずただ》の老臣|横田内膳《よこたないぜん》の食客となった。
四男の十左衛門宗章だけが、まだ少年で、父のもとにいた。
小柳生庄が、再び柳生家にもどったことは、すでに述べた。
しかし――。
石舟斎は、信長から所領没収されても、依然として、柳生谷に住みつづけ、住民たちは柳生家を主人と仰いでいたので、信長が消え、秀吉《ひでよし》が天下人になり、そして秀吉が世を去っても、柳生谷のくらしは、すこしの変化もなかったのである。
関ケ原の役後、再び旧領を回復した柳生宗矩が、時折り老父の館《やかた》へ、帰って来るようになったのが、変化といえば変化だったのである。
この伊賀谷は、いまは、柳生家の所領となっていた。すなわち、宗矩は、宍戸梅軒《ししどばいけん》とその徒党の主人なのであった。
醜女《しこめ》化粧
一
「あの若者は、どうやら、只者《ただもの》ではなかったようだな」
柳生宗矩は、館の奥の一室で、梅軒と対座すると、そう云《い》った。
「曲者《くせもの》と看《み》て取り申したゆえ、討ち取ってくれようといたしたのでござる。どうして、おとどめなされた?」
梅軒は、宗矩を、睨《にら》むように見据《みす》えた。
「お主が、危くみえたのでな」
「危く――?!」
梅軒は、かっと、双眼を剥《む》いた。|こめかみ《ヽヽヽヽ》が、痙攣《けいれん》した。
「莫迦《ばか》なっ! それがしが、彼奴《きやつ》に、負けるなどと――莫迦なっ! ……黙って、ごらんなされていたならば、彼奴のそっ首を、掻《か》き落してくれたものを、要らざる邪魔だてをなされたばかりに……くそ!」
「はたして、そうであったかな。その反対に、お主の首が、刎《は》ねられていたかも知れぬ」
宗矩は、微笑し乍《なが》ら、云った。
「貴方《あなた》様は、宍戸|八重垣流《やえがきりゆう》を、かろんじられるか!」
梅軒は、場合によっては、主人である宗矩に、試合を挑《いど》む気色を示した。
「お主は、鎖鎌《くさりがま》では、たしかに、日本随一の腕を具備して居ろう。しかし、剣の業《わざ》で、お主にまさる兵法者が一人も居らぬ、とは云えぬ」
「では、ひとつ、柳生流が勝つか、宍戸八重垣流がまさるか、ためされては如何《いかが》でござる? ……あの青二才と貴方様が、立ち合われて、よもや、おくれを取られる筈《はず》もござるまい。とすれば、貴方様がそれがしの業を封ずるのに、なんの造作もござるまい。……試合の儀、所望つかまつる」
梅軒は、座を立とうとした。
その時、宗矩の態度が、きびしいものに変った。
「梅軒! 見境もなく感情を狂わせるのは、見苦しいぞ。おちつけ!」
「…………」
梅軒は、宗矩の威厳に圧《お》されて、しぶしぶ腰をおろした。
但馬守となった宗矩が、わざわざ、自身からこの伊賀谷に足をはこんで来たのは、なにか重大な用件があってのことに相違ないのであった。そのことに、梅軒は、ようやく、気がついたのである。
宗矩は、もとの穏やかな表情にもどると、きり出した。
「わし個人の手足となって働ける伊賀衆を、二十人ばかり欲しい」
「なににお使いなさる?」
「徳川家のお役に立てる」
「しかし、すでに、江戸には、服部半蔵《はつとりはんぞう》が、伊賀組同心を率いて居りますが……」
「あれは、江戸城の守備方として、お役目がきまって居る。わしの欲しいのは敵中へ忍び込ませる忍びだ」
「敵中へ――?」
「うむ」
「敵と申すと?」
「東の江戸城に対して、西にはなお難攻不落の大坂城がある」
宗矩は、そう云った。
「ほう――、大坂城へ、伊賀衆を送り込もうとされるのか」
梅軒は、にやっとした。
「大坂城のみとは限らぬ。……天下は治まったとはいえ、大坂城が在る限り、第二、第三の石田治部少輔《いしだじぶしようゆう》が、現れるおそれがあるゆえ、諸大名の動静をつぶさに探っておく必要がある。お主の手飼いの伊賀衆が、いまこそ、大いに役に立つ」
「但馬守になられて、お上の武芸師範をつとめられるだけのご奉公ではなかったのでござるか。隠密《おんみつ》|がしら《ヽヽヽ》の役職に就かれて居るとは――」
「梅軒、この儀、口外無用だ」
「承知つかまつる。……早速に、二十人をえらんで、貴方様の手足にいたしましょう」
「粒ぞろいでなくてはならぬぞ」
「申されるまでもござらぬ。それがしの手飼いには、忍者の死に様を、教えてござる」
梅軒は、うそぶくようにこたえた。
敵方に露見して、生捕られようとした場合、忍者は、刀を逆手《さかて》に持って、おのれの顔面を、滅多|斬《ぎ》りして相果てるとか、火を放って焼け死ぬとか、悽愴《せいそう》をきわめた自決方法をえらぶ。
しかし、この面目は、伊賀衆、甲賀衆から、しだいに失われつつあることを、宗矩は知っていた。
曾《かつ》ては、敵城へ忍び込んで、地下の窖《あなぐら》に一月もひそみ、飢えるや、おのが片腕を切断して、これをくらって生きのびた者や、密書をかくした竹筒を胃袋へ嚥《の》み下して、敵方に首を刎ねられ、死体となって、味方の到着を待った者など、そうした働きを当然としていたのである。
それが、いつの間にか、時代が下るとともに、父祖の代にあったむかし話になろうとしていた。
梅軒が、手飼いの者どもに、忍者の死に様を教えてある、と昂然《こうぜん》と胸を張ってみせたのは、伊賀谷の中でも、この南谷にだけは、いまもなお、まことの忍者の面目が受け継がれているのだ、という意味であった。
「では、たのむ。……小柳生城で、二十人を待って居る」
宗矩は、座を立った。
二
一日を置いて――。
伊賀谷へ降りる杉の密林の中を、武蔵が辿《たど》ったように、三つの人影が、歩いていた。
先頭に立ったのは、伊賀の妻六。市女笠《いちめがさ》の夕姫がつづき、しんがりを少年|伊織《いおり》が行く。
「小父《おじ》さん、もうあと、どれくらい歩けば、里へ出られるのじゃ?」
木漏れさえも、頭上の枝葉にさえぎられる昏《くら》さの中を、歩きつづけて、いい加減うんざりした伊織の声に、
「あと半刻《はんとき》の辛抱だわい」
と、こたえた伊賀の妻六は、
「降りたところが、南谷。ここを無事に通り過ぎることができれば、ひと安堵《あんど》というわけだが……」
と、独語した。
妻六は、猟犬の嗅覚《きゆうかく》にも似た正確さで、武蔵が往《い》ったあとを、追って来たのである。
それが、自身の故郷である伊賀谷への道、と知って、多少のためらいがあった。
妻六は、忍者たることをすてて、盗賊となった男である。このことは、伊賀衆に知れわたっている。
ひと時代前ならば、個人の意志で盗賊となった者を、伊賀谷の地侍たちは、決して許さなかったに相違ない。盗賊となることが許されないのではなく、個人の意志でそうなったことが許されなかったのである。
忍者が、自身で勝手に、処世の道をえらぶことは、厳禁されていた。
伊賀には、いわゆる上忍《じようにん》の家が十一家あった。野村の大炊孫《おおいまご》太夫《だゆう》、新堂の小太郎、楯岡《たておか》の道順、下柘植《しもつげ》の大猿《おおざる》、同小猿、上野の佐《すけ》、山田の八右衛門、神戸の小南、音羽の城戸、甲山の太郎四郎、同太郎左衛門。
これら十一家から、さらに、二十数家の上忍が分れて、互いに、術を競うて来た。
各家には、それぞれ百人以上の下忍《げにん》がいて、上忍(主人)の命令によって、諸方へおもむき、忍びの術を売ったのである。
妻六は、音羽の城戸家の分家の上忍であった。
音羽の城戸は、天正九年に、織田信長が、伊賀平定の後、伊賀一ノ宮に詣《もう》でて、小休息しているところを、その生命《いのち》を狙《ねら》い、放った鉄砲玉で、信長の左肩を貫いた強者《つわもの》であった。
音羽の城戸は、どこの大名にたのまれたわけでもなく、信長に、伊賀国を奪われたのを怒ったのである。
単身で、信長を殺そうとした働きのおかげで、音羽の城戸は、伊賀の上忍の首座に就いた。
妻六は、その孫であった。
音羽の城戸家には、妻六が命令を受けなければならぬ当主(伯父)が健在であった。
妻六は、故郷をすてて、もう十数年になるが、伯父が憤《いきどお》っていることを、幾度か風の便りできいているのであった。
――時世が変ったのだ。怒鳴る程度で、許してくれよう。
妻六は、高を括《くく》っている。
ただ、妻六にとって、伯父よりも、おそれなければならぬ上忍が、伊賀谷に一人いたのである。
南谷の頭領宍戸梅軒であった。
妻六と梅軒は、宿敵として、運命づけられた間柄《あいだがら》であった。
十二歳の秋、妻六は、山中で、一頭の鹿《しか》を追っていた。その時、一矢が放たれて、鹿を仕止めた。それが梅軒であった。妻六より二つか三つ、年上であった。
こちらが追っているけものを、横あいから仕止めるのは、伊賀衆の掟《おきて》に反する、と抗議する妻六に向って、梅軒は、いきなり、忍び刀を抜いて、斬りつけて来た。
妻六は、その争いで、右脚に傷を蒙《こうむ》って、断崖《だんがい》から落ちた。
青年になってから、どうした因縁か、妻六がやとわれた大名の敵方に、梅軒はやとわれた。そして、二人は、幾度《いくたび》となく、一命を賭《か》けて、闘った。
最も凄《すさま》じい死闘をくりひろげたのは、天正《てんしよう》十二年春、羽柴《はしば》秀吉と徳川家康が、戦った際であった。妻六は、羽柴軍にやとわれ、梅軒は、徳川勢にやとわれていた。
秀吉と家康の戦いは、虚々実々であった。当然、双方は忍者の活躍を必要とした。
家康が小牧山に拠《よ》ると、秀吉は、これに対して諸塁を築き、尾張《おわり》田楽の古塁を修築してこれを本営にした。家康が、長久手で、池田信輝《いけだのぶてる》等を破ると、秀吉は、来援して、竜泉寺《りゆうせんじ》に布陣した。すると、家康は、秀吉を避けて小幡《おばた》城に入り、次いで小牧山に還《かえ》った。秀吉は、小幡城を攻めようとして、すでに、家康がそこから去った、ときいて、田楽へひきかえした。
家康がどう動き、秀吉がいかに作戦を樹《た》てるか――双方は、対手《あいて》の肚《はら》をはかり、戦機の熟すのを待った。
一方が、城を攻め落そうとする戦いではなかった。放った忍者のもたらす情報が、作戦上最も重要となった。
情報を味方へ持ちかえろうとする忍者と、そうさせまいとする忍者と、人知れぬ場所で、死闘がくりひろげられた。
妻六と梅軒は、そうした宿敵だったのである。
あれから二十年近くを経て――。
伊賀谷へ帰って来た妻六を、梅軒が、黙って、看のがすかどうか。
三
「お!」
妻六の神経が、鋭くひきしまった。
武蔵が、蝮《まむし》の栖息地《せいそくち》に踏み込むのをあきらめて、ひきかえし、けもの径《みち》をさがした――恰度《ちようど》、その地点であった。
そこを辿れば、宍戸梅軒の館の前へ出ることを、妻六は、知っていた。
南谷を通り抜けるのは、この隠れ径しかないのである。
妻六の神経が、緊張したのは、隠れ径の彼方《かなた》に、人の気配があり、こちらの姿をみとめて、すばやく姿をかくした、と直感したからである。
――梅軒に、報《しら》せに奔《はし》ったな。……どうやら、無事に通り抜けることは、むつかしいようだわい。
妻六は、|ほぞ《ヽヽ》をかためた。
「伊織――」
「うん」
「なにかが起ったなら、お主は、姫様をおつれ申して、北へ向って、まっすぐに、死にもの狂いに、つッ走るのだぞ。よいな」
そう命じておいて、妻六は、鹿皮の袋を、伊織に、手渡した。
「なんじゃな。これ?」
「焔硝玉《えんしようだま》だ。……追いかけられたら、機を狙って、これを、つづけざまに、三つ四つ、投げつけるがよい。そういう事態にならぬように、わしが、努めてみようが、万が一の場合があるのでな」
「よっしゃ。山野辺伊織が、たしかに、姫様の守護を引き受けた」
伊織は、胸を張ってみせた。
次いで――。
妻六は、二人をそこに待たせておいて、密林の中へ踏み込んで行ったが、ほどなく戻って来た。
「姫様、まことにおそれ乍ら、用心のために、お顔を、よごさせて下さいませ」
「よいように――」
夕姫は、うなずいた。
妻六は、採って来た木の実を、両掌《りようて》で押しつぶすと、
「ごめん――」
と、ことわって、夕姫の顔へ、塗りつけはじめた。
絖《ぬめ》のようになめらかな白い皮膚が、みるみる鉛色に変じた。
さらに――。
妻六は、腰に携《さ》げた印籠《いんろう》から小豆大の黒い玉を把《と》り出して、親指と人差指で、丹念に練って、のばしておいて、夕姫のまぶたと下唇《したくちびる》へ、こすりつけた。
夕姫は、皮膚がひきつる痛さに、小さな悲鳴をあげた。
まぶたはたれさがり、下唇は歪《ゆが》んだ。
「これでよし!」
妻六は、醜女《しこめ》に化けさせた夕姫の容貌《ようぼう》に、にやりとした。
「この南谷を通り抜けるまでのご辛抱でござる」
「そこには、おそろしい山賊でも巣食って居《お》るのか?」
「山賊よりも、もっと兇暴《きようぼう》な鎖鎌《くさりがま》使いが、待ちかまえて居るのでござる」
やがて、密林から抜け出た三人は、まぶしい真夏のあかるさの中で、ひっそりとねむっている谷間の景色を、見出した。
夕姫の眸子《ひとみ》には、ただの美しい、静かな隠れ里としか映らなかった。
妻六の視線は、鋭く、広い桑畑のむこうの館《やかた》へ、そそがれた。
――梅軒《ばいけん》は、小柳生城に属したときいたが、留守であったならば、物怪《もつけ》のさいわいだが……。
そう祈らずには、いられなかった。
祈りは、しかし、むなしかった。
桑畑まで辿った時であった。
不意に、桑の木の間を縫って、一矢が飛来した。
妻六は、抜く手もみせずに、これを両断した。
「妻六!」
姿のない声が、かかった。
「泥棒《どろぼう》に堕《お》ちても、腕は、にぶっては居らぬのう」
――梅軒め! やはり、行手をはばみ居ったか!
妻六は、吐息した。
「伊織、よいな。逃げるのは、北の方角だぞ!」
くりかえして、教えておいて、妻六は、大声をあげた。
「宍戸《ししど》梅軒、たのみがある」
「なんのたのみだ?」
梅軒は、姿を現そうとはせぬ。
「黙って、われら一行を、通り抜けさせてくれるならば、貴重な珍宝を贈ることにいたす」
泣き虜《とりこ》
一
宍戸梅軒は、地から湧《わ》くがごとく、幻夢術で、妻六の面前に、出現した。
「貴重な珍宝を、くれると――?」
猜疑《さいぎ》深い視線を、じろじろと、妻六に当てた。
「左様、この世に二つとない珍宝をな」
妻六は、つとめてあかるく、こたえた。
「なんだ、それは?」
「日蓮上人《にちれんしようにん》の金無垢《きんむく》の御像だ」
「どこから盗み出した?」
「宝蔵院の宝蔵から――」
「嗤《わら》わせる」
梅軒は、鼻を鳴らした。
「神明に誓って、いつわりは申さぬ。……この妻六が、嘘《うそ》を吐《つ》かぬ男であることは、お主も、よく知って居ろう」
「どこに隠匿《いんとく》して居る?」
「奈良の油坂の中途にある松林の中だ」
「ふっふっふ……」
梅軒は、あざけりの笑い声をたてた。
「妻六、その連れは、お主の女房か?」
「そ、そうだ」
「まだ、二十歳ぐらいらしいが、若い女房を持つと、性根が弱るとみえるのう」
「お主とは、数知れず、術を競うて、互いに手負うたことも一度や二度ではないが、むかしのことだ。……この南谷を、無事に通らせてもらうことを、こうしてお願いする」
妻六は、頭を下げた。
それに対して、梅軒は、咳《せき》ばらいをした。
とたんに――。
木立の中から、十数名の伊賀衆が、音もなく現れて、夕姫と伊織を包囲した。
「梅軒!」
妻六は、顔を歪めた。
「わしは、こうして、乞《こ》うて居るのだぞ! 日蓮上人の金無垢の御像も、贈ると申して居るのだぞ!」
「妻六ともあろう者が、血迷うたものよ。……宝蔵院の宝像とひきかえにしたい女子《おなご》が、なんで、お主の女房であるものか。笑止!」
「……う!」
しまった、と妻六は、|ほぞ《ヽヽ》を噛《か》んだ。
伊賀衆の一人が、槍《やり》の穂先を仕込んだ棒で、夕姫の市女笠《いちめがさ》をはねた。
梅軒は、女の貌《かお》の醜さに、一瞬、眉宇《びう》をひそめたが、たちまち、
「ふん――、化けさせたものよ」
と、看破してしまった。
「梅軒っ!」
妻六は、いまはやむなし、と覚悟をきめると、
「一騎討ちしてくれる! わしが勝てば、通り抜けるのに、文句はあるまい」
「伊賀谷を見すてて、盗賊になり下った|うぬ《ヽヽ》と、一騎討ちか。ことわるのう」
「なんと」
「その女子を置いて行けば、黙って、看《み》のがしてやろう。いやだ、と申すならば、生捕るまでだ」
「生捕る? わしをか?」
妻六は、かっとなった。
「妻六、女子を殺されたくなければ、得物をすてて、土下座しろ。生命《いのち》まで奪《と》ろうとは云《い》わぬ」
梅軒からあびせられて、妻六は、はらわたが煮えくりかえった。
おのれの考えが甘かったことも、堪えがたい悔いとなって、|ほぞ《ヽヽ》を噛んだ。
対手は余人ならぬ宍戸梅軒なのである。
談合の余地はなかった。
しかし、妻六としては、最後の条件を持ち出さざるを得なかった。
「梅軒、わしが、日蓮上人の金無垢の御像を贈る、と申し出たのは、神明に誓って、いつわりではない。……お主が、受けとるというのなら、奈良へひきかえして、持って来る。それまで、この婦人を大切に預ってもらおう。御像とひきかえに、このおかたを受け取って、去る。どうだ、この儀は?」
「ふん――」
梅軒は、ちょっと思案するふりをしていたが、
「よかろう」
と、承諾した。
「約束、守ってくれるな! この婦人に、一指もふれてはならぬぞ」
「わかって居る」
「しかとだぞ!」
「くどい!」
妻六は、夕姫のそばへ、寄ると、地べたへ坐《すわ》り、
「姫様、おききなされたごとく、進退|谷《きわ》まった挙句、斯様《かよう》のしまつに相成りました。何卒《なにとぞ》、ご諒恕《りようじよ》のほど、願い上げまする」
と、平伏した。
これまで、危機らしい危機というものに襲われたことのない夕姫は、さして恐怖の気色もみせず、
「この者の家で、そなたの戻るのを待って居ればよいのじゃな」
と、合点してみせた。
「小父《おじ》さん――」
伊織が、云った。
「姫様の守護は、おいらにまかせておけ」
「たのむぞ」
わずか九歳の少年が、なんの役に立つでもあるまいが、妻六は、伊織の勇気に、胸を熱くせざるを得なかった。
二
梅軒は、夕姫と伊織をつれて来ると、
「顔のよごれを落してもらおう」
と、命じた。
館《やかた》には、数人の女がいて、すぐに、裏庭に、湯浴《ゆあ》みの用意をした。
伊織は、盥《たらい》のわきに立って、もし近づく不埒者《ふらちもの》がいたら、呶鳴《どな》ってやろうと、目を光らせた。
やがて――。
奥の一室へ入って来た夕姫を迎えた梅軒は、その美貌《びぼう》を眺《なが》めて、正直な唸《うな》り声を発した。
「天女だのう、この美しさは――」
腕を組んで、食い入るように凝視する梅軒へ、すずやかな眼眸《まなざし》をかえした夕姫は、心の裡《うち》に、みじんの恐怖も抱いてはいなかった。
稀世《きせい》の美貌と、頭を下げることを知らぬ驕慢《きようまん》な気象を備えたこの娘には、すべての男が、自分に魂を奪われるのが、あたりまえのことという意識があった。
魂を奪われた男が、けだものとなって、襲いかかって来るなどとは、考えられなかった。
宮本武蔵のような、決闘者になるために生まれて来たような青年ですら、背中を流せ、という命令に、あまんじてしたがったではないか。
のみならず、昌山庵《しようざんあん》で、二夜も同室し乍《なが》ら、武蔵は、息をひそめて、挑《いど》みかかって来なかったのである。
わが臈《ろう》たけた美しさの前には、いかなる粗暴な血気の男といえども、手も足も出なくなる――その自信が、武蔵の態度によって、夕姫には、生まれていた。
このおそろしげな髭面《ひげづら》の巨漢も、わが美しさに接して、「天女だ」と感動したのである。
夕姫は、故関白|秀次《ひでつぐ》の息女としての誇りを、ぞんぶんに示すべく振舞うことにした。
「その方、わらわの素性を知りとうはないか?」
「きかせられい」
「わが父は、故関白|豊臣《とよとみ》秀次、わが母は、一御台菊亭晴季《いちのみだいきくていはるすえ》が女《むすめ》」
「ふうん!」
夕姫は、梅軒が、ひくく呻《うめ》いただけで、頭を下げようとせぬのが、いささか気に食わなかった。
「わらわを育ててくれたのは、その方と同じ忍びじゃ」
「ほう――伊賀か、それとも甲賀の?」
「ちがう。真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》が手の者にて、猿飛《さるとび》佐助と申す忍びじゃ、同じ忍びならば、存じ寄りであろう」
「その名は、きいたことがある。……それほどの高貴の姫君が、なんでまた、妻六のような盗賊ずれを供にして、旅をして居るのか?」
「良人《おつと》ときめた男子のあとを追うて居るのじゃ」
「何者でござるな?」
「宮本武蔵という兵法者じゃ」
「宮本武蔵!」
梅軒の双眼が、光った。
「妻六は、武蔵が、この伊賀谷を越えて行った、と見さだめたようじゃ。その方、武蔵が通るのを、見かけはせなんだか?」
梅軒の顔に、薄ら笑いが刷《は》かれた。
「宮本武蔵は、この宍戸梅軒の鎖鎌《くさりがま》にかかって、相果て申した」
「な、なに?!」
夕姫は、柳眉《りゆうび》をつりあげた。
「う、うそであろう!」
その叫びに合せて、伊織が、
「うそにきまっているわい! 宮本武蔵は、宝蔵院の坊主《ぼうず》らとたたかっても、負けなかった御仁《おひと》じゃぞ!」
と、声をはりあげた。
梅軒は、冷然として、
「わっぱ、嘘《うそ》だと思うなら、裏山へ登ってみろ。わしが討ち果した兵法者どもの墓がずらりと竝《なら》んで居る。その端の真新しい土まんじゅうが、宮本武蔵のものだ。字が読めるなら、墓標を読んで来い」
「よし! たしかめて来てやるぞ!」
伊織は、ぴょんととび起《た》つと、縁側から庭へ跳んだ。
夕姫は、動悸《どうき》の激しさに堪えかねて、両掌《りようて》で胸をおさえ乍ら、梅軒を睨《にら》みつけ、
「まことであれば……、もはや、わたくしの生甲斐《いきがい》は、ない!」
と、口走った。
「姫君は、すでに、武蔵と契《ちぎ》った、といわれるか?」
「無礼な! まだ、夫婦になって居らぬのに、どうして契ろうぞ!」
三
不意に――。
梅軒の口から、哄笑《こうしよう》がほとばしった。
「なにがおかしい! 慮外者めが!」
夕姫は、われを忘れて、脇息《きようそく》を、梅軒へ投げつけた。
梅軒は、苦もなくそれを受けとめて、
「女子の生甲斐を、この梅軒が、お教えつかまつろう」
と、うそぶいた。
「なにを申す!」
夕姫は、立ち上った。全身が、憤怒でふるえた。
梅軒の方は、薄ら笑いをつづけ乍ら、
「宍戸梅軒、生まれてはじめて、そもじのような美女に出会うた。男として、黙って、指をくわえて眺めているわけには参らぬ」
と、云った。
「妻六との約束を破るのか、卑劣者!」
「妻六めが、間抜けだったというだけの話よ。……金像を持って来れば、奪って、殺すまでだ」
「なんという人非人!」
夕姫は、梅軒の顔へ、唾《つば》を吐きかけた。
次の刹那《せつな》――。
躍りかかって来た梅軒に、抵抗するいとまもなく、夕姫は、当て落されて、その場へ崩れた。
「ふふふ……、妻六の奴《やつ》、途方もない贈物をはこんで来てくれおったぞ」
仰臥《ぎようが》させた夕姫の寐顔《ねがお》を、しげしげと見まもって、梅軒は、われ乍らあさましいと思うほど、胸が高鳴った。
まず――。
猿臂《えんぴ》をのばして、裳裾《もすそ》をつまみ、薄紗《はくさ》もろともに、ゆっくりと、捲《まく》った。
白い脛《はぎ》が、膝《ひざ》が、腿《もも》が、あらわになるにつれて、梅軒は、生唾を、ごくっ、ごくっと嚥《の》み下した。
ゆたかに肉が盈《み》ちて居り乍ら、その嫩《やわらか》さ、艶《つや》やかさに、繊細な稚《おさな》さをたたえているのは、まさに、処女の証左であった。
「……む!」
梅軒は、薄紗の蔭《かげ》にひそまった秘部へ、顔を近づけた。
黒い茂みの下に、そっと玉筍《ぎよくじゆん》の芽がのぞいていた。
梅軒は、夢中で、それへ口を押しつけ、舌をうごめかしはじめた。
伊織《いおり》の方は、裏山の中腹で、不意に、二人の伊賀衆に襲われていた。
「畜生っ! なにをしやがる!」
死にもの狂いにあばれようとしたが、あっという間に、手足をしばりあげられてしまった。
松の幹へ、くくりつけられた伊織は、声がかれるばかりに叫びたてたが、徒労だった。
くくりつけた二人は、さっさと去ってしまい、伊織は、救い手もなく、そこへとりのこされた。
泪《なみだ》が、あふれて来た。
一匹けもののような生きかたをして来たこの少年は、泣いた記憶がないくらい、辛《つら》さや悲しさや淋《さび》しさに負けたことがなかった。
いまはじめて、あとからあとから、泪があふれて、とまらなくなった。
「どうしたな、わっぱ?」
横あいから、声をかけられて、ようやく、嗚咽《おえつ》を怺《こら》えて、唇《くちびる》を噛《か》み乍ら、泪をふりはらった。
「なんぞ、いたずらをしたか?」
問いかけたのは、白髪を肩に散らした老爺《ろうや》であった。
竹籠《たけかご》を携《さ》げて居《お》り、その中に、駒鳥《こまどり》が三羽飛びまわっていた。
「どうも、しねえや、畜生!」
「見かけぬわっぱじゃが、連れにはぐれて、この谷へ、迷い込んで来たかな?」
「迷い込んで来たんじゃねえや。……爺《じい》さん、はよう、この縄《なわ》を解いてくれ」
「理由もなく、くくりつけられはせんじゃろう」
「だまされたんだ、おいら!」
「だまされた? 誰にじゃな?」
「麓《ふもと》にある館のあるじの野郎に、だまされたんだ。……畜生! 畜生!」
伊織は、身もだえるにつれて、また、泪があふれて来た。
「宍戸梅軒《ししどばいけん》ともあろう者が、お前のような小わっぱを、だまして、こんな目に遭わせるとは、考えられぬことじゃが……」
「だましたんだから、だましたんだい! はよう、解いてくれ!」
「お前が、わるさをしたのでなければ、解いてやるが……、理由を云うてみい」
「そ、そんな、ひまがあるかい! 姫様が、あぶないんだ。あいつに、きっと、めちゃめちゃにされているんだ。おいら、たすけに行かなけりゃならねえんだ」
「姫様?」
「そうだよ、姫様が、つかまっているんだぞ、あいつに――」
「お前は、その姫様とやらと、一緒に、この谷にやって来たのか?」
「つべこべ、のんびり、きいていねえで、はよう、解いてくれっ! いそぐんだあっ!」
伊織は、絶叫した。
女の宿
一
下腹部から、四肢《しし》のはしばしにまでつらぬく激しい痛みと、のしかかられた重みで、夕姫は、はっと、意識をとりもどした。
針髭《はりひげ》に掩《おお》われた魁偉《かいい》の面貌《めんぼう》が、夕姫の視野いっぱいにひろがっていた。
「ああっ!」
夕姫は、はじめて、娘らしい恐怖と屈辱と絶望の悲鳴を、ほとばしらせた。
ひき剥《む》かれた下肢が、左右へ、裂けるばかりに、男の力で、押しひろげられているのであった。
夕姫は、男女が契る、という行為に就いては、誰にも教えられて居らず、こうであろうか、と想像していただけであった。
その想像は、きわめて、稚いものであった。
秘部に、男の固い強い重いものが、押し入って来ることとは、知らなかった。
その痛みは堪えがたいものではなかったが、填《はま》ったものの巨《おお》きさは、夕姫を恐怖させずにはおかなかった。
そして――。
これが男女の契りというものだ、という意識が、脳裡《のうり》を掠《かす》めた刹那、わが身を奪ったのが、武蔵ではなく、自分を人質にした忍者であることが、夕姫を絶望させた。
夕姫は、二度、三度、悲鳴をあげて、必死にもがこうとしたが、わずかに、双手《もろて》の指が動かせるだけであった。男の巨躯《きよく》をはねのけることなど、不可能であった。
夕姫の双眸《そうぼう》から、泪が、噴いて出た。
「ふふふ……、未通女《むすめ》が、はじめて、男のものになった時は、こうして、泣くものよ。……しかし、三年も経《た》つと、その泣きかたが、べつのものになる。そもじは、今日より、この宍戸梅軒の妻だぞ」
梅軒は、うそぶくや、抱く腕に、ぐっと力をこめた。
人一倍気丈夫に生まれた夕姫も、いまは、哭《な》くよりほかにすべはなかった。罵《ののし》る力も失《う》せて、暴漢のなすままに、まかせている。
庭さきから、小さな人影が、跳びあがって来て、梅軒めがけて、小刀を突きかけて来たのは、その時であった。
「ちっ!」
肩さきに薄傷《うすで》を受けた梅軒は、小刀をつかみしめた少年の細い手くびを、ひとねじりに折ろうとした。
とたん――。
「梅軒、不覚!」
鋭い叱咤《しつた》が、庭さきから、あびせられた。
梅軒は、少年を突きはなすと、夕姫の上から起き上った。
夕姫は、目蓋《まぶた》を閉じ、前をかくそうともせず、死んだように動かぬ。
梅軒は、庭さきに立ったのが、下柘植《しもつげ》の大猿五代目頭領であるのをみとめた。
伊賀|上忍《じようにん》十一家のうち、下柘植の大猿は、長老として、その意見に絶大な権力を有《も》っている。
服部半蔵《はつとりはんぞう》が、徳川家に随身する旨《むね》を、申し出た時、大半の上忍は、不服としたが、この下柘植の大猿が、思慮の挙句、許したので、実現したのであった。
大猿は、ゆっくりと上って来ると、夕姫の前をかくしてやっておいて、
「わっぱに、斬《き》られるようでは、宍戸梅軒の血迷いぶりも、相当なものだの」
と、冷やかに云《い》った。
梅軒といえども、この下柘植の大猿に対しては、一籌《いつちゆう》を輸《ゆ》すことになる。
「…………」
梅軒は、そっぽを向いて、口をへの字に曲げた。
「梅軒、お主、この女性《によしよう》が、故関白秀次殿のご息女と知って、犯したか?」
「…………」
沈黙が、肯定を意味した。
「近頃《ちかごろ》のお主の思い上りかたは、目にあまるものがあったが……、これほどまでに思い上って居るとは、沙汰《さた》の限りじゃ」
「…………」
「女性の素性を知っていて、手ごめにするとは、狂った性根は、もはや、もとにもどるまい」
「下柘植殿、この娘の父親が、関白であったとしても、いまは、ただのさすらい者ではござらぬか。……旅の女子《おなご》を犯してはならぬ、という掟《おきて》は伊賀にはない」
「梅軒!」
下柘植の大猿は、威儀を正した。
「豊臣秀次殿が、関白として、時めいていた時、その姫君を掠奪《りやくだつ》して来て、犯したのであれば、わしは、何も云わぬ。太閤《たいこう》が、秀次殿を高野山に自決せしめた際、その夫人をはじめ眷族《けんぞく》三十余人を、洛中《らくちゆう》ひきまわしの上、三条河原で、みなごろしにしたことを、お主は、知って居ろう。……この姫君は、その惨殺《ざんさつ》をまぬがれた唯《ただ》一人の遺孤ではないか。素性を知れば、あわれを催すのが、人の情と申すもの。忍びといえども、人の情を解さぬのは、けものにひとしい。ましてや、頭領の座に就いて居る者に於《お》いて、斯様《かよう》なむざんな振舞いは、断じて許せぬ」
大猿が、そこまで云った時、夕姫が、突如はね起きて、伊織のとり落した小刀をひろい取りざま、のどを突こうとした。
すばやく、大猿がそれをさえぎって、小刀を伊織に手渡しておいて、
「梅軒、南谷頭領の座は無用じゃ」
と、云った。
「なに?!」
「即刻、この館《やかた》をあけ渡して、出て行くがよい」
「ば、ばかなっ!」
梅軒は呶号《どごう》した。
「この館は、父祖より受け継いだのだ」
「いやだと申すなら、円座語りをすることになろうが、覚悟するか?」
円座語りとは、十一家の上忍が一堂に集って、協議することであった。
その協議の結果、梅軒が切腹を命じられることは、火を見るより明白であった。
流石《さすが》に、梅軒はおもてを伏せた。
伊賀の妻六が、宝蔵院の宝蔵から盗んだ日蓮上人《にちれんしようにん》の金無垢《きんむく》像を背負うて、宍戸館へひきかえして来たのは、その日の宵《よい》であった。
梅軒の姿は、すでに、そこになかった。
二
その時刻、武蔵は、近江《おうみ》へ抜けて、琵琶湖《びわこ》の渚《なぎさ》へ出ていた。
「……漁火《いさりび》も見えぬ」
武蔵は、不審の独語をもらした。
十五夜であったが、雲が厚く、湖は、武蔵の視界から消えていた。
湖上を渡って来る風が、涼しい、というよりうすら寒いくらいであった。
武蔵は、まっ暗闇《くらやみ》の松林の中で、野宿することにした。
松の根かたに横たわって、四半刻《しはんとき》も経たないうちに、風が強くなって来た。
「漁師は、よく知っている」
舟を出さぬのは、今夜は、時化《しけ》になると看《み》て取っているに相違ない。
武蔵が、むくっと起き上った時、もう風は雨をともなっていた。
宿をさがさなければならなかった。
漁師小屋らしい灯《ひ》のあるところを発見して、それへ向って、駆ける武蔵は、すでにずぶ濡《ぬ》れていた。
「ごめん――」
あおられている板戸をひき開けた武蔵は、風雨とともに、土間に入った。
土間は、がらんとして、漁の道具らしいものは、見当らなかった。
奥の間と仕切る杉戸を開けて、十三、四の小娘が、姿をみせた。
「たのむ。この雨で、野宿が叶《かな》わぬ。一夜の宿をお願いしたい」
「…………」
小娘は、うさんくさげに、土間に立った旅人を、すかし視《み》ていたが、黙って、奥へひっ込んだ。
「うるさいから、ことわるのじゃ」
嶮《けん》のある女の声が、つつ抜けにきこえて来た。
小娘が、再び現れて、黙って、かぶりを振ってみせた。
武蔵は、
「礼はする。この土間の片隅《かたすみ》でもよいのだ」
と、たのんだ。
小娘は、しかし、かぶりを振りつづけた。
武蔵は、声を高くして、奥の間の、母親らしい女へ、
「それがしは、武者修行中の兵法者で、怪しい者ではない。べつに、喰《た》べ物を所望するわけでもないし、夜具も要らぬ。ただ、風雨をしのがせてもらえればよいのだ」
と、云いかけた。
かなりの間《ま》を置いて、小娘に代って、母親らしい女が、出て来た。
漁師の女房らしからぬ、派手な模様の寐衣《ねい》をまとい、短檠《たんけい》の明りを背にし乍《なが》らも、その顔がぽおっと白く浮き立っているのは、化粧でもしているのであろうか。
じっと、見据《みす》えていたが、
「あがりなされ」
と、許した。
「造作に相成る」
奥の間に招じられた武蔵は、みだらな匂《にお》いを嗅《か》がされて、ちょっと、入るのをためらった。
寐みだれた夜具の枕《まくら》もとに、酒肴《しゆこう》の膳部《ぜんぶ》が置いてあった。
女は、寐そべり乍ら、飲んでいたに相違ない。
女が、夜具の上に横坐《よこずわ》りになると、小娘の方は、そこが自分の居場所らしく、唐櫃《からびつ》の据えてある壁ぎわに坐った。そこに、作りかけの雛《ひな》が三体ばかり置かれてあった。
小娘は、そのひとつを膝《ひざ》にのせると、小さな刷毛《はけ》で、雛の貌《かお》へ、胡粉《ごふん》を塗る作業をはじめた。
武蔵は、その手つきを、興味をもって眺《なが》めやった。
十三、四の小娘が、つれづれのままに、雛を作っている手つきではなかった。
年季を入れた刷毛さばきであった。
「兵法者と申されたが、たくましい五体をそなえておいでなさる」
女に云われて、武蔵は、視線を移した。
――武士の後家か。
整った容貌《ようぼう》と、頸《くび》すじから肩にかけての品のよさなどから、武蔵の目には、そう映った。
それにしても、小娘に働かせておいて、寐酒を愉《たの》しんでいる光景は、あまりほめた眺めではない。
三十なかばになっているらしいが、その化粧も、かなり濃いのである。
「ひとつ、どうかえ?」
女は、盃《さかずき》をさし出した。
「いや、酒はたしなまぬ。……あちらで、やすませて頂こう」
武蔵が、起《た》とうとすると、女は、ふふ……と笑って、
「泊めて欲しい、と乞《こ》うのであれば、あるじのすすめる盃を受けぬのは、無礼ではあるまいかえ」
と、云った。
三
風雨は、いよいよ激しさを増している。
武蔵は、その中へ出て行くのは億劫《おつくう》なので、やむなく、女の盃を受けることにした。
「頂戴《ちようだい》いたす」
武蔵は、すすめられるままに、数杯飲んだ。
「お前様は、関ケ原の落人《おちうど》のように、お見受けするが……」
女は、訊《たず》ねた。
「関ケ原の合戦にまでは加わらなかったが、石田|治部少輔《じぶしようゆう》側へついたのは、事実です」
「どこのお生まれかえ?」
「播州《ばんしゆう》。……新免伊賀守《しんめんいがのかみ》の血族にて、宮本武蔵と申す」
「宮本武蔵。よい姓名をお持ちじゃ」
女は、あでやかな笑い声をたてた。
「お内儀こそ、落人武家のご妻女ではあるまいか?」
「武家は武家でも、公卿《くげ》ざむらいを良人《おつと》に持ったために、このようにおちぶれ果ててしもうたわえ」
「…………」
「刀を抜くすべも知らぬくせに、博奕《ばくち》にあけくれ、女子をだまして、売りとばし、挙句の果てに、湖賊の手びきをして、近江長者の館の土蔵を破らせ……」
女は、盃をひと息にかたむけると、
「その湖賊の頭領の女に手を出した罰で、石を抱かされて、湖底へ沈められ居《お》ったわえ」
そう語っておいて、狂的な笑い声をほとばしらせた。
その笑い声のおわらぬうちに、武蔵は、四肢《しし》がしびれるのをおぼえた。
いったん起ち上ったが、腰がくだけて、膝を折った。
――これは毒酒であった!
武蔵は、匍《は》うまいとして、差料《さしりよう》を杖《つえ》にしたが、急速に襲って来た眩暈《めまい》に、重心を喪《うしな》った。
――不覚!
どたっと仰臥《ぎようが》して、|ふいご《ヽヽヽ》のように胸をせわしく上下させた。
冷やかに、武蔵を見下した女は、
「兵法者といっていたが、このように、女子にかんたんに毒を盛られるようでは、一流を樹《た》てられまい。宮本武蔵、か。ろくでもない姓名じゃわえ。……これ、武蔵――」
人差指で、額をこんこんとたたいた。
――おれを殺して、たかの知れた路銀を奪おうというのか。
四肢は完全にしびれてしまっていたが、意識は、はっきりしていた。
意識が混濁するまでには、かなり時間がかかりそうであった。
「……これ、武蔵、金が欲しゅうて毒を盛ったのではないぞえ。……わたしは、男が憎い。わたしが出会うた男は、どれもこれも、性悪な悪党ばかりであったのじゃ。わたしが、このように、途方もない飲んだくれのあばずれになったのも、悪党どもにさんざ食いあらされたためなのじゃ。……わたしは、男が憎い! だから、男を、もてあそんでくれるのじゃ。もてあそんだ挙句、手足をしばったままで、湖《うみ》へ投げてやる。運がよければ、たすかろう。運がなければ、魚の餌《えさ》になろうて。……さ、おとなしゅうなぶられるがよい」
女は、武蔵の頬《ほお》を、双掌《もろて》ではさむと、口を近づけた。
武蔵は、首を動かすことはおろか、唇《くちびる》を顫《ふる》わせることも叶わなかったが、眸子《ひとみ》だけは動かせた。
女は、武蔵の視線が、片隅の小娘に移されているのをみとめると、
「ほほほ……、このむすめのことが、気にかかるのかえ。これは、唖で、聾のあわれな子。それに、わたしが生んだむすめでもなんでもない。気にすることはすこしもないぞえ」
と云いおいて、口へ唇をかさねた。
武蔵は、憤怒が総身をかけめぐり乍ら、どうすることもできず、女が狂おしく吸うにまかせていた。
やがて、顔をはなした女は、
「若い男の精気が、わたしに、いつまでも、若さを保たせてくれるぞえ」
と、云った。
女の顔が、おのれの股間《こかん》へうずめられるや、武蔵の憤怒は、絶頂に達した。しかし、指一本動かす力も、のこされてはいなかった。
湖賊
一
並の体力ではなかった。五歳の時から、立木を搏《う》ちまくるのを日課にし、十歳|頃《ごろ》からは、おのれを蓑虫《みのむし》にして立木の高枝から逆吊《さかさづ》りになる独習によって鍛えあげた体躯《たいく》であった。
武蔵が、意識をよみがえらせ、四肢の自由をとりもどすのに、一刻もかからなかった。
その時、女は、なお、武蔵の股間へ、顔をうずめて、萎《な》え萎えとした男根を、むさぼることに倦《あ》かぬ有様であった。
武蔵は、四肢に自由がもどったと知りつつ、しばらくの間、意識を喪《うしな》った|てい《ヽヽ》をよそおった。
そのうちに……。
女のくわえた男根に、力がこもりはじめた。
にわかに起ったその変化が、どうやら、おのが執拗《しつよう》な愛撫《あいぶ》のためと、女は思ったらしく、喜悦の呻《うめ》きをたてた。
忽《たちま》ちにして、男根は、喬木《きようぼく》の根そのままの固い逞《たくま》しいものに脹《ふくら》んだ。
「おう……おう……、いとしやの!」
顔をはなした女は、うわ言のように口走り乍ら、おのが前を捲《まく》って、その上へ、またがろうとした。
とたん――。
武蔵は、女をはねのけるや、身を起しざま、片膝で胸を、もう一方の膝で股《また》のつけ根を押えつけた。
女は、もがくかわりに、官能の波にただよう恍惚《こうこつ》の面持《おももち》で、
「どうなと……、してたもれ」
と、呟《つぶや》いた。
武蔵は、黙って脇差《わきざし》をひろい把《と》った。
目蓋《まぶた》を閉じている女は、何をされるか気づかぬまま、下肢を大きく拡《ひろ》げて誘うた。
武蔵は、脇差を鞘《さや》ごと、鐺《こじり》から、ゆっくりと、女の秘部へ、押し入れた。
「ああっ!」
女が、何をされているのか、気づいた時には、一尺八寸の鞘は、すでに半ばまで、挿入《そうにゆう》されていた。
「……ゆ、ゆるして!」
女が、疼痛《とうつう》であげた悲鳴は、武蔵の面上に、冷笑を呼んだ。
一気に――鍔《つば》もとまで、女の体内へ鞘を突き入れて、悶絶《もんぜつ》するさまを、凝視した武蔵は、ふと、片隅からあてられる視線を感じた。
大きく眸子をひらいた聾唖《ろうあ》の小娘は、完成しかけた雛を、ひしと胸にかかえていた。
――このむすめのために、女を殺すのがいいか?
武蔵は、迷った挙句、脇差を抜きはなって、切先を、女ののどもとへ擬した。
そして、小娘へ、
「どうする? 殺そうか?」
きこえぬと知りつつ、訊ねた。
小娘は、かぶりを振った。
武蔵は、白刃を鞘にもどすと、女の胴から帯を解いて、それで、手足を縛りあげて、表の間へころがしておいて、寐牀《ねどこ》へあらためて横たわった。
四肢から毒は消えているわけではなく、けだるかった。
睡魔は、すぐに襲って来た。
どのくらい睡《ねむ》ったろう。
肩をゆさぶられて、武蔵は、目覚めた。起したのは、小娘であった。
短檠《たんけい》の灯《ひ》は消えていたが、部屋には、夜明けのあかるさがあった。
蔀《しとみ》があげられていて、靄《もや》が流れ込んでいる。
風雨はすっかりおさまって、いい日和《ひより》の模様であった。
小娘は、蔀の外を指さし、しきりに首を振っている。
はやく出て行くようにと、手振りが示した。
「誰か、戻って来るのか?」
武蔵は、起き上ると、空腹であることを告げて、何か喰《た》べ物はないか、と求めた。
小娘は、そんなひまはない、と当惑の表情になったが、武蔵が動こうとせぬので、いそいで台所へ立った。
木椀《きまり》に盛られて、はこばれたのは、昨日の残りらしい粟粥《あわがゆ》であった。
武蔵がそれをきれいにすすり了《お》えた時、人声と跫音《あしおと》が近づいた。数人、とききわけられた。
小娘は、顔に恐怖の色を滲《にじ》ませて、蔀から抜け出るように、武蔵をせかした。
武蔵は、微笑して、かぶりを振った。
「わしは、兵法者だ。こそこそ逃げるわけにはいかぬ」
小娘は、どうか逃げて欲しい、と掌《て》を合せた。
武蔵は、肯《き》き入れなかった。
二
近づいて来る笑い声、話し声で、武蔵は、それがどんな種類の人間どもか、およそ見当がついた。
板戸が、ひき開けられた。
「おっ! どうした?」
一人が、土間から大声を発した。
「おちょう、なんのざまだ、それは――?」
かかえ起されて、女は、ようやく蘇生《そせい》し、激しい呻きをあげた。
「こいつ、股ぐらが血まみれになり居って、いったい、どこのどいつに、何をされたというのだ?」
「……く、くやしい!」
「云《い》え! どこのどいつに、どうされたというのだ?」
女がこたえる代りに、杉戸をへだてて、武蔵がこたえた。
「下手人は、ここに居る」
「なにっ?!」
杉戸が、ぱっとひき開けられた。
武蔵は、一瞥《いちべつ》して、
――湖賊だな。
と、看《み》て取った。
「うぬは、何者だ?」
丸坊主《まるぼうず》の、胸毛も逞しく、羚羊《かもしか》の腰皮をつけただけの裸躯で、野太刀を帯びた、四十年配の男であった。右腕に、南無帰命頂礼《なむきみようちようらい》、と入墨していた。頭《かしら》らしい。
うしろの男どもも、同じいでたちであったが、乾分《こぶん》らしく、いずれも武蔵と差のない若年であった。
「旅修業の兵法者だ」
「おのれ、おちょうを犯し居ったな!」
「毒酒を飲まされて、嘲弄《ちようろう》されたので、仕返したまでだ」
「嘲弄されたと?」
男は、女を振りかえった。
「本当か。おちょう?」
「嘘《うそ》じゃ。いきなり押し入って来て、わたしを手ごめにし居ったのじゃ!」
女は、叫んだ。
「青二才め、きいたか! おちょうは、毎日、この琵琶左衛門《びわざえもん》の腕の中で、男に堪能《たんのう》している女子《おなご》だぞ。うぬらのような青二才を嘲弄する気持など起す筈《はず》があるか!」
「このむすめが、ちゃんと、見とどけて居る」
武蔵は、云った。
「片端の小娘を味方にして、いままで、居坐《いすわ》って居ったとは、いい度胸だ」
琵琶左衛門と名のる湖賊は、せせら嗤《わら》うや、次の瞬間、凄《すさま》じい形相になり、
「おもてへ出ろ、青二才! おれの女を犯したむくいの程、思い知らせてくれる!」
と、呶号《どごう》した。
武蔵は、琵琶左衛門とその乾分どもに包囲され乍《なが》ら、土間へ降りた。
その時、おちょうが、よろよろと立って、上框《あがりかまち》ぎわへ来た。
「むさし……宮本武蔵!」
「…………」
頭をまわした武蔵の顔へ、おちょうは、べっ、と唾《つば》を吐きかけ、
「死ねっ!」
と、ののしった。
武蔵は、袖《そで》で、頬にかかったその唾を、拭《ふ》いた。
「死ねっ、青小僧め!」
おちょうは、しつっこく、もう一度、唾を吐きかけようとした。
刹那《せつな》――。
武蔵の腰から、白い閃光《せんこう》が噴き、おちょうの顔面をま二つにした。
琵琶左衛門はじめ湖賊どもは、血の雨をあびて、それぞれ、跳びはねつつ、叫びたてた。
武蔵は、衄《ちぬ》れた白刃を携《さ》げて、ゆっくりと、戸口を出た。
人を殺すことを日常茶飯の事としているに相違ない湖賊どもも、目にもとまらぬ迅業《はやわざ》を発揮し乍ら、眉毛《まゆげ》一本動かさぬ無表情を保った武蔵の姿を、薄気味わるいものに眺《なが》めて、包囲の陣形に必死の殺気をみなぎりわたらせた。
武蔵は、べつに身構えもせず、刀をだらりと下げたなりで、冷たい眼眸《まなざし》を、薄靄のただよう宙へ置いた。
狙《ねら》っている湖賊どもの得物は、柄《え》を短く切った薙刀《なぎなた》や槍《やり》で、野太刀を青眼《せいがん》につけたのは琵琶左衛門一人だけであった。
当然――。
武蔵は、一番腕の立つであろう琵琶左衛門と正対した。
正対し乍らも、琵琶左衛門が、まっ先に攻撃しては来ぬことを、看通していた。
はたして――。
背後から、槍がくり出されて来た。同時に、左脇から、薙刀が、足払いをかけて来た。
武蔵のからだが、地面をはなれ、湖賊どもの頭のある高さで、縮んだ。
湖賊どもの目には、槍で突き薙刀で払うより一瞬早く、武蔵が宙に跳びあがった、と映った。
渠《かれ》らに、合点できなかったのは、武蔵が、右脇の者の頭上をかるがると躍り越えた時には、もう初攻撃の二人の首が刎《は》ねとばされていたことである。
武蔵の跳躍は、槍と薙刀を躱《かわ》すためだけではなかったのである。
首を刎ねるための跳躍であった。
槍が背中を突き、薙刀が足を払った刹那には、武蔵は、まだ地上にいたのである。
槍をはずし、薙刀をかわしておいて、地面を蹴《け》って、身を宙に躍らせつつ、二つの首を胴から斬《き》りはなしたのであった。
あまりに素早い武蔵の動きが、湖賊どもの目に錯覚を起させた、といえる。
頭上を翔《か》けられた者が、あわてて、向きなおったところを、武蔵は、無造作ともみえる片手斬りで、袈裟《けさ》がけに斃《たお》しておいて、
「おい、かしら――」
と、琵琶左衛門に呼びかけた。
「おれは、兵法者だ。お主に、一騎討ちの自信がなければ、止《や》めてもよいのだ」
三
たしかに――。
琵琶左衛門は、武蔵の迅業に、息をのまされて、顔面をこわばらせていた。
しかし、武蔵からそう云いかけられると、くわっと、双眼をひき剥《む》いた。
「ほざくなっ! うぬは、兵法者と称するが、実は、幻妖《めくらまし》の術を使う甲賀の忍び、というところが正体だろう。……身共の正体も教えておいてやる。伊賀の南谷の頭領|宍戸梅軒《ししどばいけん》舎弟――宍戸早雲」
因縁というものであったろう。
武蔵は、しかし、そのことは、口には出さず、
――これが、あの鎖鎌《くさりがま》使いの弟か。
と、氷の眼光を据《す》えつけた。
「来いっ! この宍戸早雲には、うぬの幻妖の術を封じる手はあるぞ」
云いざま、すすっと、三歩あまり、肉薄して来た。
青眼である。べつにその形に変ったところはなく、威圧して来る妖気《ようき》もこめられてはいなかった。
武蔵も、青眼に構えた。
宍戸早雲は、さらに、二歩肉薄して来た。
間合は、見切られた。
武蔵は、待つ。宍戸早雲の「うぬの幻妖の術を封じる手はある」という言葉は、語るに落ちるであった。すなわち、早雲の方に、意外の秘技があることを、こちらに、その言葉が教えてくれたのである。
やがて――。
汐合《しおあい》は、きわまった。
朝陽《あさひ》が昇って来て、それを背に受けた武蔵の方に、地歩の利があり、早雲としては動かざるを得なくなったのである。
早雲は、徐々に、刀身を挙げて来た。
「…………」
「…………」
双眼と双眼が、まばたきもせず、宙で刺し合っている。
野太刀は、早雲の頭上で、直立した。
と――一瞬。
その白刃が、わずかにまわされるや、異常な光芒《こうぼう》が、鎬《しのぎ》から、きらっきらっと閃《ひらめ》き出た。
それを瞳孔《どうこう》へ射込まれた武蔵が、盲《めくら》になった狼狽《ろうばい》をみじんもみせなかったのは、意外の秘技があることを予期していたおかげであった。
「ええいっ!」
早雲の懸声には、すでに勝ったという満々たる自負が、こめられていた。
武蔵は、闇《やみ》の中で、身を沈めた。
早雲の迅業は、突きであった。のみならず、突いた刹那、三尺の刀身は、鍔もとからはなれて、蛇《へび》のごとく飛んだのである。
もし、武蔵が、後方へ跳び退っていたならば、その胸もとを、刺されていたに相違ない。
刀身は、武蔵の頭上をすれすれに、飛び去った。
どぶっ!
早雲の胴で、異常な音が鳴った。
身を沈めざまに、武蔵が、薙ぎ斬ったのである。
武蔵は、歩き出そうとして、戸口に小娘が立つのをみとめた。
その胸には、雛《ひな》があった。
武蔵は、近づくと、路銀のうちのいくばくかをとり出して、小娘に与えて、
「これを、買おう」
と、雛を受けとった。
武蔵は、彼女が、雛の貌《かお》へ胡粉《ごふん》を塗る作業を思い出したのである。その手つきは、冴《さ》えていた。
松林を抜けて、渚《なぎさ》へ出た武蔵は、釣《つ》りに出ようとしている漁舟を、見出して、大股《おおまた》に寄って行った。
大津へ渡りたい、とたのんで、料貨をこちらから口にすると、漁師は、承知した。
舳に腰を下した武蔵は、ふと、彼方《かなた》の砂地に、小娘が佇《たたず》んでいるのを、みとめた。
「ちょっと、待て」
武蔵は、漁師をとどめた。
小娘は、小走りに駆けて来た。
「乗せてやってくれ」
「へえ――」
漁師は、小娘へ、手をのばした。
舳に来た小娘を、眺めて、武蔵は、乗せたことを、すこし悔いた。
独歩をおのれに誓っている兵法者として、えらぶにことかいて聾唖の小娘を、連れにすることを、感傷ではないか、と自身に問うたからである。
しかし、小娘が、はじめて、にことうれしげに微笑するのを見て、武蔵は、
――京都までだ。
と、自分に云いきかせた。
京都まで連れて行けば、ひろってくれる人もあろう、と思われた。
哭《な》く
一
東山の稜線《りようせん》が、淡々《あわあわ》とした夜明けの空に、浮きあがった時刻、東寺《とうじ》に近い九条大宮にある小さな廓《くるわ》へ、二人の若い武士が、いそぎ足に入って来た。
「今日もまた、暑くなるのう」
一人が、手の甲で、額の汗をぬぐい乍ら、云った。
渠らは、吉岡《よしおか》道場の門弟であった。道場から、ここまで、大急ぎでやって来たのだが、夜明けの涼気の中で、もうぐっしょりと濡《ぬ》れていた。
京の都は、夏は狂人をつくるほど暑く、冬は必ず幾人かを凍死させる寒さである。この厳しい気候が、一種独特の京都人気質をつくる一因になっているのかも知れない。他国者《よそもの》に対してはもとよりのこと、隣人にも親戚《しんせき》にも、滅多に心を許さず、じっと孤独に堪えて生き抜く意志の強さは、寒暑の厳しさの中で、つちかわれている。
夫婦ですら――吉岡清十郎と音羽の場合のごとく、十年をひとつ屋根の下でくらし乍ら、ついに互いに、心を許し合わぬままで、生きることができるのであった。
そのかわり――。
世間体をはばかり、どんな些細《ささい》な事柄《ことがら》にも異常なまでの細心を配って、恥をかかぬように努めることに於《お》いては、上は公卿《くげ》から下は商家の手代にいたるまで、しみわたっていた。
道義とか倫理とか、儒学者の几上《きじよう》から教えられたものではなく、暑気に堪え寒気に耐えることによって知った処世の観念は、岩に根を匍《は》わせる松のようなしぶとさがある。
吉岡道場からやって来たこの二人の若い武士は、ごく席次の末の者たちに相違あるまいが、ともに必死の様子をみせている。
今朝、新当主伝七郎が、宮本武蔵と試合をするのである。
渠らにとって、これは、道場の面目を保つか否《いな》かの重大事であり、もし伝七郎が敗れた時には、吉岡家の門弟として、白昼往還を歩けぬほどの恥辱、と思い知っているのであった。
「ここだ」
とある青楼の暖簾《のれん》を、二人は、くぐった。
伝七郎は、五日ばかり前から、この青楼に流連《いつづけ》していた。
夕加茂《ゆうかも》という遊女が気に入って、片刻《かたとき》もはなさずに、すごしているのであった。
門弟たちは、その離れの前に案内された。
「若先生――」
杉戸越しに、呼びかけた。
「もはや、時刻にございます。道場へお戻り下さいますよう――」
むむっ、と目覚めるひくい呻《うめ》きがして、
「いま、なん刻《どき》だ?」
不機嫌《ふきげん》な声音が、問うた。
「卯刻《うのこく》(午前六時)すこし前であります」
「武蔵との約束は、辰《たつ》の下刻(午前九時)だ。まだ、一刻半もある」
「しかし、道場へお戻りなされて、お仕度をなさると……」
「おれは、ここから、まっすぐに、果し合い場へ行く。……ねむい! さしでがましゅう、迎えに来おって、一刻も早く起すとは、うろたえ者どもが――。おれは、あと一刻ねむる。道場へ戻っておれ」
門弟たちは、しかし、容易に、その場を動こうとしなかった。
その気配に、
「莫迦《ばか》っ!」
伝七郎の呶号《どごう》が、杉戸をつらぬいて来た。
「宮本武蔵ごときが、なんだ! おれは、兄者とは、ちがうぞ! 性格も腕も、ちがう。それに、おれの差料《さしりよう》は、灰屋紹由《はいやじようゆう》が鑑定した名刀|正宗《まさむね》だ。お主らに、この正宗で、武蔵をま二つに斬るところを、見せてくれる。わかったか! わかったら、戻れ」
主《あるじ》の自信に満ちた言葉が、二人の門弟に、腰をあげさせた。
伝七郎は、廊下を遠ざかる跫音《あしおと》をきいて、
「ふん、奴《やつ》ら、おれが、兄者より腕が劣っているとでも、懸念《けねん》しておるのか、莫迦めらが……」
ののしりすてて、ぐらりと、寐返《ねがえ》った。
そのまま、再び睡入《ねい》る様子を、かたわらに寐ている遊女が、息を詰めて、うかがっていた。
遊女は、自分を五日間買い占めた吉岡伝七郎が、宮本武蔵と果し合いをする約束をしているのを、いま、はじめて知らされたのであった。
武蔵と故郷を同じくし、|きち《ヽヽ》といった少女の日のなつかしい思い出を持つこの遊女は、からだは千人以上の男によってよごされていたが、心の裡《うち》には武蔵ただ一人しか男を容《い》れてはいなかった。
夕加茂は、闇に眸子《ひとみ》をひらいて、この廓で再会した夜のことを、思い泛《うか》べた。
武蔵は、抱き乍《なが》ら、云《い》った。
「わしは、そなたのはじめての男に、なってやればよかった」
しかし、あの時、そなたは、男を知るにはまだ稚《おさな》すぎた、と云ってから、武蔵は、
「たのみがある」
と、声音をあらためた。
胸をおどらせて、どんなたのみであろう、と耳をすましていると、
「わしが、死んだら、骨をひろって、故郷へ持ちかえり、あの渓流《けいりゆう》へ、投げ込んでくれ。たのんだぞ」
その言葉に、夕加茂は、泪《なみだ》があふれ出そうになり、武蔵の胸へ顔をうずめたものであった。
二
――武蔵様を殺させてはならぬ!
胸の裡で、必死の叫びをあげた夕加茂は、とっさに、このあわれな遊女の身にも、武蔵に味方できることが、ひとつあるのを思いついた。
胸の動悸《どうき》を、早鐘のように鳴らし乍ら、夕加茂は、むこうむきに寐返ったなり微動もせぬ伝七郎の寐息を、うかがった。
そっと身を起してから、またしばらく、うかがっていて、そろりと、褥《しとね》を抜け出した。
床の間へ寄って、刀架から、その差料を――名刀正宗を、把《と》りあげた夕加茂は、もう一度、伝七郎の寐息をうかがった。
音をたてぬように杉戸を開けて、廊下へ忍び出て、またそろそろと杉戸を閉めた瞬間、
――これで、武蔵様の勝が、きまった!
と、夕加茂は、自分に云いきかせた。
小走りに、ものの五、六歩も行った時、杉戸があらあらしくひき開けられ、
「おれの刀を、どこへ持って行く?」
あびせかけられたその呶声に、夕加茂は、夢中で、庭へ身を躍らせた。
「ばいた!」
したたか、腰を蹴《け》られて、苔《こけ》のある地面をころがったが、胸に抱いた刀をはなそうとはしなかった。
後髪をつかまれて、ねじ伏せられ、
「おい! おれの刀を盗むとは、なんのまねだ? 何者かの差し金で、やったことだな? 云えっ! 白状しろ!」
頸《くび》がちぎれんばかりに、まげられつつも、夕加茂は、かたく口をひきむすんで、目蓋《まぶた》を閉じた。
「そやつの名を白状いたすなら、許してやる。それとも血祭にされたいか?」
「…………」
「ばいた! 股ぐらへ、白刃を突き込まれたいか!」
伝七郎の呶号が、青楼内を騒然とさせた。
「待った!」
廊下に群れた客や遊女をかきわけて、庭へ跳び降りて来た者があった。
「御辺《ごへん》の差料をぬすませたのは、拙僧の差し金でござる」
伝七郎は、白羽二重の五条袈裟《ごじようげさ》で、目ばかりに顔を包んだ叡山《えいざん》の荒法師を、睨《にら》みあげた。
「おのれは、宮本武蔵に、たのまれたか?」
「いや、たのまれはせぬが、武蔵とは胸襟《きようきん》をひらいた仲でござってな。……なにさま、吉岡伝七郎殿と申せば、海内無双の使い手ゆえ、せめて、鬼から金棒を奪って、武蔵にいささかでも分を与えてくれようと存じた次第。……その女に、罪はござらぬ。おはなし下され」
荒法師は、頭を下げた。
伝七郎は、夕加茂の双手《もろて》から、差料をもぎ取って、立つと、
「ばいたの代りに、坊主《ぼうず》が、血祭の贄《にえ》になろうと申し出るとは、殊勝の心掛けだ。得物を取って来い」
と、云った。
火焔坊《かえんぼう》は、ほう、と首をかしげた。
「一刻後に、武蔵と試合をする、というのに、拙僧と果し合おうと申されるのか」
「血祭だと申して居《お》る!」
「比叡|颪《おろし》できたえられたこの火焔坊、薙刀《なぎなた》を把っては、天下無敵の自信がござるぞ」
「つべこべほざくひまがあったら、さっさと、薙刀を取って来い! 時間がない!」
「では、やむを得ぬ」
火焔坊は、夕加茂に目くばせして、そばへまねくと、
「どこか、怪我《けが》はせなんだか? かわいそうに――、ゆるせよ。拙僧が、軽率であった」
と、優しく肩を抱いて、廊下へ連れあげた。
「はやくしろ、糞《くそ》坊主!」
伝七郎は、呶鳴っておいて、正宗を抜きはなつや、片手で素振りをくれた。
夕加茂は、火焔坊の部屋へ入ると、わっと哭いて、崩れ伏した。
「これっ! 泣いている場合ではない!」
火焔坊は、叱咤《しつた》した。
「は、はい」
「遁《に》げるのだ」
「でも、貴方《あなた》様が……」
「ははは……、おれも遁げる」
「え?」
「伝七郎を斬るのは、武蔵の仕事だ。おれが、先に仕止めては、武蔵が、手持ち無沙汰《ぶさた》になって、困るだろう。というのは、口実で、実は、おれは、あいつに勝つ自信はない。……さ、はよう――三十六計、雲を霞《かすみ》じゃ」
火焔坊は、青楼の者が、顔をのぞけると、
「この女、一時、拙僧があずかる。……伝七郎を、なんとか、なだめて、追い出してくれい」
と、たのんだ。
「そ、そんなことを、申されても、もう刀を抜いて、待ちかまえて居《お》られまするがな」
「稼業柄《かぎようがら》、口車にのせたり、まるめ込んだりするのは、得意の筈《はず》ではないか」
火焔坊は、夕加茂の手を把るや、
「あとは、野となれ、山となれじゃ」
云いすてて、裏庭へ、抜け出て行った。
三
同じ頃合《ころあい》――。
宇治の「昌山庵《しようざんあん》」では沢庵《たくあん》と城之助が、朝食の膳《ぜん》に就いていた。
沢庵は、もう勤行《ごんぎよう》をすませていたし、城之助は、そのあいだに、この芋粥《いもがゆ》をつくったのである。
「和尚《おしよう》様、今朝、ちょっとおひまをいただきます」
城之助が、云った。
「どこへ行って来る?」
「は……」
城之助は、返辞を口ごもった。
「どうしたな?」
「は――いえ……」
俯《うつむ》いた城之助は、しきりに、膝《ひざ》がしらをこすった。
「お――わかったぞ」
沢庵が、云った。
「…………」
「武蔵と吉岡伝七郎との試合は、今朝であったな。城之助、その試合が、見物したいのであろう?」
「はい」
「悪鬼と悪鬼の殺しあいを眺《なが》めて、血を沸かせても、詮《せん》ないことじゃが……、どうしても見物したいのであれば、行って来るがよかろう」
「わたくしは、このからだゆえ、兵法者になるのぞみはすてましたが、武蔵殿のたたかいぶりは、ぜひ見たいのです」
「うむ。……兵法試合をするために生まれて来たようなあの男、このたびの試合にも、多分勝つであろうが……、勝てば勝ったで、また、次の試合をやらねばなるまい。因果な話だ」
城之助が、よろこび勇んで、「行って参ります」と、出て行った戸口に、訪問者の影がさしたのは、それから半刻ばかり後であった。
音もなく立って、動かぬその影に、沢庵は、しばらく、気がつかなかった。
野の花でも採って来ようと、立ちあがった時、はじめて、そこに人がいるのに気がついて、
「お!」
沢庵は、おどろきの声をあげた。
訪問者が夕姫であるのにおどろいたのではなく、別人のように、顔から血の気を失って、うちしおれたさまに、眉宇《びう》をひそめた。
「どうなされたな?」
座敷にあげて、対座してみて、あらためて、その憔悴《しようすい》ぶりに、
――どんな、変事に遭うたというのか?
と、想像もつかず、首をかしげた。
「……武蔵は、ここか、と思うて――」
夕姫は、視線を膝へ重ねた手へ落し乍ら、ひくい声音で、云った。
「武蔵が、京都へひきかえして参ったのは、たしかですが、ここへは、立ち寄って居りませんな」
「…………」
「貴女《あなた》は、武蔵に、九度《くど》山まで送られて、そこで、お別れなされた?」
「いったん、別れましたが、……すぐ、あとを追うて、奈良へ行きました」
「それで――?」
「…………」
沢庵は、蒼《あお》ざめた頬《ほお》を、ほろほろと泪がつたい落ちるのを、視《み》た。
――身心を変えてしまうほどの苦難、といえば……?
沢庵は、ようやく、想像がついた。
「武蔵は、いずれ、今日にも、ここへ参ると存ずる。お待ちなさるがよい」
「いえ――」
急に、夕姫は、顔をあげて、かぶりを振った。
「やはり、逢《あ》わずに……、わたくしは、尼になります」
「尼に?」
「はい。わたくしは、尼になる決意をして居ります」
「一時のお気替りならば、もう一度思慮が必要と存ずるが……」
「いえ! この決意は、かわりませぬ。わたくしは、どうしても、尼にならねばなりませぬ!」
夕姫は、叫ぶように、云った。
「あたまをまるめたあとで、しもうた、尼になぞなるのではなかった、とくやんでも、還俗《げんぞく》はむつかしゅうござる。……第一、お見受けしたところ、貴女は、迷うておいでらしい」
「いえ、そんな……」
「武蔵に、もう一度逢いたい、と思うておいでなのが、迷うておられる証拠でござるて」
沢庵は、微笑して、云った。
夕姫は、不意に、俯《うつぶ》すと、わっと慟哭《どうこく》しはじめた。
――泣くがよい。女子《おなご》は、泣くことで、救われる。
沢庵は、胸の裡で、呟《つぶや》いた。
豊国廟《とよくにびよう》
一
阿弥陀《あみだ》ケ峰《みね》は、東山の一峰である。平地を抜くこと、約四百尺。小松谷の南に在る。
その頂上に、五輪の大石塔が、半天にそびえていた。すなわち、太閤豊臣秀吉《たいこうとよとみひでよし》の墳墓であった。
五輪塔は、高さ三丈一尺八寸の花崗岩《かこうがん》造りで、その前に、高さ六尺の石造|花瓶一対《かびんいつつい》と、同じ高さの大香炉一基が据《す》えられていた。
周囲は、石造の瑞垣《みずがき》をめぐらし、その雄壮さ、重々しさは、まことに、秀吉の気象と位階の高さを標《あら》わしていた。
秀吉は、慶長三年八月十八日に逝《い》ったが、当時、なお征韓の兵が海外に在ったので、その喪を秘し、この阿弥陀ケ峰に密葬しておき、翌年に至って荘厳《そうごん》をきわめた葬儀をとりおこなったのであった。
そして、全土の諸侯が協力して、山麓《さんろく》に大社殿を造営し、豊国廟を建立《こんりゆう》した。
いまだ曾《かつ》てない大規模なもので、東山七条東端から、参道を起し、登ること一町余で、一の鳥居(石造)に達し、つづいて、二の鳥居が建てられ、ここをすぎて、勾配《こうばい》の急になった坂をのぼると、太閤|坦《だいら》がひらけた。太閤坦をつくるだけで、延三万人の人夫が、一箇月、必死に働いた、という。
拝殿は、ここに設けられていた。
拝殿の背後から、一直線に、天に冲《ちゆう》する石の階段をのぼること四百八十九級で、白木造り檜皮葺《ひわだぶ》きの唐門にいたり、さらに、百七十余級の石段をのぼって、墳墓に達するのであった。
しかし――。
関ケ原役後、この阿弥陀ケ峰の豊国廟に、行列をつらねて、堂々と参詣《さんけい》する大名は、絶えた。
わずかに、その祥月命日に、大坂城から、秀頼《ひでより》の代参として、大野治長《おおのはるなが》が、詣《もう》でるばかりであった。
それでもまだ、去年までは、加藤清正《かとうきよまさ》、浅野幸長《あさのよしなが》、福島正則《ふくしままさのり》ら、秀吉恩顧の大名たちが、家康《いえやす》の目をはばかり乍《なが》ら、ごく少人数の供連れで、隠密《おんみつ》に、詣でるのが、見受けられた。
今年二月、家康が、征夷大将軍《せいいたいしようぐん》に任じてからは、その忍び詣ですら、あとを断ってしまったのである。
去る者、日々に疎《うと》しであった。
天下が家康の手中に帰した当今、秀吉恩顧の大名たちは、自らを守るためには、あらたな覇者《はしや》の前に、尾を振らざるを得なかった。戦場往来の荒武者たちも、一様に、老いていたのである。
吉岡《よしおか》伝七郎が、宮本武蔵に指定した試合場は、この豊国廟の唐門前の広場であった。
関ケ原役前ならば、決闘によって、太閤の廟墓の前を血でけがすなど、とうてい考えられぬことであった。
いまは、人影もない絶好の決闘場所、といえた。
朝陽《あさひ》が、まぶしく照りつけて来た頃合、杖《つえ》にすがった小さな影が、参道をのぼって来た。
城之助であった。
右脚がひとにぎりの細さに萎《な》えている身では、一の鳥居に辿《たど》りついただけで、息切れがして、増して来た疼痛《とうつう》に堪えがたくなっていた。
うらめしげに、二の鳥居を仰いで、城之助は、吐息した。
太閤坦までも、登り着くことさえ、おぼつかぬようであった。
唐門までは、太閤坦から、急勾配の石段を、四百八十九級も登らねばならぬ、ときいている城之助は、
――止《よ》そうかな。
と、なかば絶望した。
「いいや! のぼるんだ! どうしても、のぼってやる!」
城之助は、くじけたおのが心を、口に出して叱咤《しつた》した。
その時――。
急ぎ足にのぼって来て、一の鳥居へ達した者が、城之助をみとめて、
「ほう、これは――昌山庵の居候《いそうろう》殿ではないか」
と、声をかけた。
淡路の七助《ななすけ》であった。
七助は、いくどか昌山庵へ武蔵に逢いに来ていて、城之助とも顔見知りになっていたのである。
「お主も、武蔵殿の試合を、見物しようというのかな?」
「はい」
「しかし、その足では、チトむりであろうな」
「いえ、のぼります!」
城之助は、頭をあげて、必死の面持《おももち》をかえした。
「どれ、わしが、背を貸そう。――さ」
七助は、気軽に、城之助の前に、しゃがんだ。
「わたくしは、男なれば……」
決闘を見物しに行くのに、背負うてもらうのは、いかにも、腑甲斐《ふがい》なく思われた。
「ははは……、遠慮は無用。わしは、鳴門流《なるとりゆう》兵法の芸者《げいしや》じゃ。蜻蛉《とんぼ》がとまったほどの感じで、のぼれるわさ」
七助は、しぶる城之助を背中にのせると、歩き出し乍ら、
「実は、昨夜、武蔵殿が、聾で唖の小娘を、わしの舟に連れて来て、あずかってくれ、と云《い》いのこして行っての。……その時、今朝の試合のことを、きいたのじゃが、見物はことわる、と云われたものの、どうにも気がかりになって、やって来た次第。お主に出逢ったのがさいわいじゃ。あとで、武蔵殿に、云いわけがたつ」
と、云った。
二
太閤坦には、吉岡道場の門弟が十人あまりいたが、少年を背負うた七助を、べつに見とがめなかった。
七助は、拝殿前で、いったん城之助をおろして、祈願するふりをさせた。
吉岡道場の門弟たちは、しきりに、麓《ふもと》の方を気にしている様子であった。
「ははあん、あやつら、夜明け前から、ここに来て、武蔵殿の姿を見とどけておこうとしているらしいな。まだ、見とどけられずに、いらいらして居るのだて」
約束の辰《たつ》の下刻は、あと四半刻《しはんとき》に迫っている。
「武蔵殿は、おくれて来るのでしょうか?」
「さての? ……吉岡清十郎との試合には、武蔵殿は、前夜のうちに、蓮台野《れんだいの》へおもむいて、林の中で寐《ね》たらしいが、さて、今朝は、どうであろうかな?」
七助は、門弟たちの視線が、麓の方へ向けられているのをさいわいに、さっさと、城之助を背負うて、拝殿のうしろへまわった。
並の者ならば、手ぶらでも、その急勾配の石段を、一気に登ることは、できないであろう。
七助は、城之助を背負い乍ら、なんの造作もなく、ひょいひょいと、登って行った。
「栄枯盛衰だのう。太閤が亡《な》くなってまだ五年だというのに、もう、豊国廟を掃除する者もいなくなって居る」
石段には、石の継ぎ目から雑草がのびて居り、つもった落葉は、去年のものであった。
ひと息入れようともせずに、苦もなく、四百八十九級を登りきろうとすると、石段上に、吉岡道場の門弟が二人、仁王立って、
「おい!」
と、険しい目つきで、見下して来た。
「なんだ、お主は?」
「太閤殿下の廟墓に詣でる者でござる」
「参詣ならば、拝殿から、ひきかえせばよかろう」
「ごらんの通り、足萎えの伜《せがれ》を、連れて居り申す。つたえきくところでは、太閤殿下には、日吉丸といわれた少年の頃、萎病に罹《かか》られて、足が不自由であったとか……。伜の足をなおしてやりたい親心から、こうして毎月、祈願をこめて居るのでござる」
七助は、思いつくまま、いかにも真実らしく、述べた。
門弟たちは、それをきくと、|むげ《ヽヽ》に追いかえすこともならず、
「ここに、しばらく、ひかえていてもらいたい」
と、命じた。
「なにか、ござるのか?」
七助は、とぼけて、問いかけ乍ら、唐門前の石だたみの中央に、腕組みしてぬっと立っている者へ、視線を投げた。
それは、吉岡伝七郎にまぎれもない。
「なんでもよい。ひかえて居れば、いまにわかる」
「左様でござるか」
七助は殊勝げな物腰で、おろした城之助に目くばせすると、竝《なら》んだ石燈籠《いしどうろう》のうしろを、伝七郎に、なるべく近づくようにした。
伝七郎の面上には、苛立《いらだ》ちの色が刷《は》かれていた。
約束の刻限が来ていたが、武蔵の姿は、ここにないのであった。
「おいっ! まだ見えぬのか?」
石段を見下している門弟たちへ、あらあらしい声をかけて、
「は――まだ」
当惑した返辞に、伝七郎は、
「えい、くそ! 彼奴《きやつ》、わざと、おくれて来るつもりだな」
と、吐き出した。
焦躁《しようそう》をしずめるために、腰の正宗を抜いて、三、四度、素振りをくれてみて、また鞘《さや》に納めたりした。
さらに、四半刻が経《た》つと、伝七郎は、もう我慢がならぬ様子で、
「酒っ!」
と、呶鳴《どな》った。
勝利を得た時、その場で祝杯をあげるべく、伝七郎は、用意させていたのである。
朱樽《しゆだる》と盃《さかずき》が、はこばれて来た。
伝七郎は、盃につがせもせず、朱樽をひったくるや、ごくごくと口飲みはじめた。
その時であった。
何気なく、唐門の屋根を見やった門弟の一人が、
「あっ!」
と、叫び声を発した。
「いたぞ、武蔵が――あ、あそこに!」
三
いつの間にか――。
武蔵は、唐門の屋根の、三尺の厚さに葺かれた檜皮の破風《はふ》の上に、天から舞い降りたごとく、佇立《ちよりつ》していた。
これは、向《むこう》唐門であり、正面から仰げば、破風は、ゆるやかな丘陵のかたちになり、その頂きに獅子口《ししぐち》がある。
獅子口の降《くだり》棟に、身をひそめていれば、地上からは、完全に姿をかくすことが可能であった。
おそらく、武蔵は、前日のうちに、豊国廟へ登って来て、この唐門の屋根で、悠々《ゆうゆう》と夜あかしをしたに相違ない。
「いかに、吉岡伝七郎」
凛乎《りんこ》たる一声を、伝七郎にあびせた。
その左手に、差料《さしりよう》を、携《さ》げていた。
伝七郎は、とっさに、朱樽を石だたみに投げつけておいて、
「うぬがっ!」
と、衝撃を抑えるすべもないまま、かっと双眼を、ひき剥《む》いた。
「吉岡伝七郎、御辺《ごへん》の負だ!」
叫びざま、武蔵は、獅子口を躍り越えて、五体を宙のものにした。
目に見えぬ翼をはばたかせるごとく、その降下ぶりは、獲物《えもの》を狙《ねら》う鷹《たか》に似た。
「おっりゃっ!」
伝七郎は、翔《か》け降りて来た武蔵に対して、抜きつけに、無銘正宗を、腰から、きえーっと、送り出した。
同時に――。
武蔵も、伝七郎の頭上まで降下した刹那《せつな》、両手に掴《つか》んで、逆に直立させていた差料を、きらっ、と朝陽に煌《きらめ》かした。
地上から薙《な》ぐ伝七郎の迅業《はやわざ》と、降下して来て、まっすぐに斬《き》りおろす武蔵の迅業と――いずれがおそく、いずれがはやいとも、見まもる者たちの目には、判じ難かった。
次の瞬間――。
血《ち》飛沫《しぶき》が、宙にぱあっと散り撒《ま》かれた。
「おっ!」
「ああっ!」
門弟たち、それから、七助、城之助すべての見物人の口から、叫びが噴いた。
かれらは、視《み》た。
伝七郎の左腕が肩のつけ根から両断されて、その五指は、鞘を掴みしめたなり、だらんと、ぶらさがるのを。
しかし、伝七郎は、呻《うめ》きも叫びもせず、くるっと踵《きびす》をまわして、片手|青眼《せいがん》につけるや、ツツ……と二歩ばかり、進んだ。
一間余のむこうに、武蔵は降り立って、刀尖《とうせん》を地摺《じず》りに構えていた。
刀身をつたって、血汐《ちしお》が、ぽとりと地面に落ちた。
それなり……。
ゆっくりと五つばかりかぞえるほどの、無言の、微動だにせぬ対峙《たいじ》の秒刻が移った。
と――。
伝七郎が、なぜか、大きく口を、いっぱいにひらいた。
それから、ぴくぴくっと右肩を顫《ふる》わせた。
「やああっ!」
異様な奇声が、こだまを呼んだ。
とみるや、伝七郎は、地を蹴《け》って、武蔵めがけて、斬りつけた。
おそらく、その動きは、もはや、意志によって生んだものではなかったろう。すでに、意識の半ばは喪《うしな》われていたに相違ない。
ただ――。
死の一瞬前に、残った体力と気力を、その動きにこめたものであったろう。
武蔵は、一歩も動かず、地獄の鬼のような形相になって斬りつけて来た血まみれの伝七郎を、無言|裡《り》に、真っ向上段から、唐竹割《からたけわ》りにした。
伝七郎の顔面からほとばしった血汐は、噴水の凄《すさま》じさであった。
その地ひびきをきくまで、門弟たちも七助も城之助も、石燈籠と化したように、ただもう固唾《かたず》をのみ、目も口も四肢《しし》もこわばらせていた。
武蔵は、刀身を懐紙でぬぐうと、腰に納めて、ゆっくりと唐門をくぐって行った。
門弟たちが、われにかえって、唐門へ殺到した時には、武蔵の姿は、かき消すごとく、そこにはなかった。
「……あっぱれ!」
七助が、ようやく呪縛《じゆばく》から解かれたごとく、呟《つぶや》いた。
「…………」
城之助は、空気の稀薄《きはく》に喘《あえ》ぐように、肩を上下させた。
「見たであろう、武蔵殿の強さを――」
「は、はい」
「強い! なんという強さだ。あれこそ、まことの、兵法者だわい」
七助は、城之助の手を曳《ひ》いて、石段を降りて行き乍ら、くりかえして、云った。
「鬼神――まさしく、鬼神の強さだ。わしの鳴門流兵法など、どこかへ、けしとんでしもうた」
「…………」
城之助は、眼眸《まなざし》を宙に置いて、足もとのおぼつかなささえ忘れていた。
城之助の生涯《しようがい》に於《お》いて、おそらく、これほど強烈な印象は、またとないであろう。
兵法者になれないという悲哀さえも、この決闘を目撃したおかげで、どこかへ消えさり、城之助は、この後、世間の片隅《かたすみ》で、黙々として生きてゆけそうであった。
名目人
一
その夜――。
西洞院《にしのとういん》の室町兵法所は、息苦しいまでの沈黙の底に在った。道場にも、いくつかの座敷にも、憲法染めの仕事場にも、門弟たちが詰めていて、総数三百数十人にものぼっていたが、咳《せき》ひとつするのさえはばかる陰鬱《いんうつ》きわまる空気が、一万二千坪の屋敷内にこもっていた。
誰か一人、叫びたてれば、忽《たちま》ち、収拾すべからざる騒擾《そうじよう》状態が起りそうであった。かえって、そのおそれゆえに、口をひらこうとする者はいなかった。
仏間には、伝七郎の遺骸《いがい》が、横たわっていた。
その枕辺《まくらべ》に、坐《すわ》っている者はいなかった。
そこに坐るべき者のいないことが、この異常な沈黙を招いていた。
扶桑《ふそう》第一を誇った兵法所が、わずか一月あまりで、そのあるじを失ってしまったのである。
名も知れぬ流浪《るろう》の若い兵法者のために、まず、当主清十郎が敗れ、その敗北が原因となって、清十郎は妻の音羽と、憎しみ合いの果ての心中を遂げてしまった。
次いで――。
あらたに当主となった伝七郎が、今朝、ま二つに斬られたのである。
吉岡家の血統は、ここに絶えた。
門弟のうち、ごくわずかの者は、清十郎が別宅をつくり、愛する女を置いて、嬰児《えいじ》をもうけたことを知っていたが、その行方を知る者は一人もいなかった。
かりに、吉岡家を継ぐ資格のあるその嬰児を、見つけ出したとしても、まだ匍《は》うことさえも叶《かな》わぬ子を、主人と仰ぐのは、納得しがたいことであった。
たった一人の、ようやく二十歳を越えたばかりの無名の兵法者によって、あっという間に、足利《あしかが》将軍家指南という由緒《ゆいしよ》を有《も》つ名家が、つぶされたのである。
門弟たちは、悪夢でもみているような気分に陥《お》ちていた。
主人を喪ったからには、道場を閉じなければならなかった。
――あり得ることなのか?
どの顔にも、どうしても信じられぬ表情が、刻まれていた。
高弟のうちには、
――もし、自分が継ぐことができれば!
と、想《おも》う者も、二、三はいたろう。
しかし、
「それがしが――」
と、名のりをあげて、門弟一同が、これをみとめる――それだけの群を抜いた天才は、いなかった。
一代や二代で築かれた家ではなかった。吉岡家は、兵法所として、他道場に比肩《ひけん》を許さぬ重みがあった。その重みを双肩にになうのは、道場内はもとより、世間もみとめる天才でなければならなかった。
そのような天才は、門下に一人もいないのであった。
――御当主は、宮本武蔵と試合をしてはならなかったのだ。
由緒と伝統と権威を、一朝にして無にしたいまとなっては、それも愚痴というものであるが、「名流は勝負を競わず」という鉄則を破ったむくいを、門下全員が、胸中にひしひしと感じていた。
――やむを得ぬ。野辺の送り後、門は閉じられる。
ようやく、あきらめの色が、おのおのの顔に刷《は》かれた――その頃合《ころあい》。
二|挺《ちよう》の駕籠《かご》が、玄関さきに、到着した。
駕籠から、降りたのは、六十四、五歳の老人と十歳あまりの少年であった。
老人は、中風をわずらっているとみえて、杖《つえ》にすがって、片脚をひきずっていた。
老人は、少年を促して、仏間に入り、伝七郎の死顔を視ると、
「虫が知らせたのう。お主が逝《い》った今日、わしが、この子をつれて参ったとは……」
と、云《い》った。
老人は、吉岡清十郎の母方の伯父――佐野|又左衛門《またざえもん》であった。そして、少年は、又左衛門の孫又一郎であった。
佐野又左衛門は、土佐の豪族であった。長曾我部《ちようそかべ》宮内少輔《くないのしようゆう》元親《もとちか》に属し、元親が豊臣秀吉《とよとみひでよし》に帰服し、その子|盛親《もりちか》を質子《ちし》として、大坂城へ送った際、その護衛役をつとめた。盛親が、父元親の卒去後、その官名を襲《つ》いで宮内少輔となるや、又左衛門は、五千石の知行を給されて、老臣の座に就いた。
長曾我部盛親は、関ケ原役では、石田|三成《みつなり》に組した。
西軍の敗北に遭うて、盛親は、いったん兵をおさめて、土佐に還《かえ》った。井伊直政《いいなおまさ》の調停によって、本領|安堵《あんど》とみえたので、盛親は、領内の仕置をして、京都へ上って来た。
すると、家康は、その仕置の不当を口実にして、盛親から、封土を奪い取った。
盛親は、やむなく、剃髪《ていはつ》して、法体となり、いまは、上京《かみぎよう》柳ノ辻に隠れ棲《す》んでいた。
又左衛門は、盛親が牢人《ろうにん》となるや、再び、野にもどっていた。
二
盛親が、上京中に、家康から封土を奪われた時、その治城である土佐の浦戸城では、凄じい抵抗がなされた。
すなわち――。
井伊直政が、その家臣鈴木重好、松井武太夫を遣して、城を受け取ろうとすると、盛親の家来一統は、憤激して、これを拒絶したのであった。
「君国のおん為《ため》を思う者は、一領の具足をひっかついで、集れ」
その檄《げき》に応じて、急遽《きゆうきよ》集ったのが、二千六百五十余人。一領具足組と号し、竹内総左衛門を推して頭領とし、城にたてこもるや、
「ご先約の通りに、本領安堵を允《ゆる》されぬ、との御議ならば、せめて半地だけでも拝領して、長曾我部家|累代《るいだい》の祀《まつり》をつづけたく存じ奉《たてまつ》る」
と、強願した。
もとより、許されるはずもなかった。
一領具足組は、しだいに増して、一万余人にいたり、城を嬰守《えいしゆ》すること五十余日に及んだ。
その間、恭順派と相戦うこと五度、さいごに城を失い、城外に撃って出て死闘し、二百七十余人の討死を出して、ついに力つきて、屈服した。
その反逆戦で、佐野又左衛門の嫡子《ちやくし》又十郎は壮烈な斬死を遂げている。もし又左衛門が、中風をわずらっていなければ、一領具足組の頭領になっていたに相違ない。
又一郎少年は、又十郎の息子であった。
又左衛門は、洛中《らくちゆう》に隠れ棲む旧主盛親に、久し振りに逢《あ》うべく、孫をともなって、上京して来たのであった。
すでに、甥《おい》の吉岡清十郎が、宮本武蔵という兵法者と試合して、相果てた報に接していた又左衛門は、
――又一郎を、吉岡道場へあずけよう。
その目的もあったのである。
到着してみれば、新当主の伝七郎もまた、同じ敵に、討たれていた。
又左衛門は、道場に、門弟一同を集合させ、又一郎をかたわらに据《す》えると、
「室町兵法所、唯一《ゆいいつ》の縁戚《えんせき》として、御辺《ごへん》らに申し渡す」
と、きり出した。
半身不随|乍《なが》ら、老人の眼光、語気は、三百数十人の門弟に、固唾《かたず》をのませる威厳があった。
「吉岡家ともあろう名流が、ただ一人の無名の兵法者によって、滅亡させられるなどとは、あり得べき次第ではない。御辺らも、そう思うであろう。……されば、これにある少童を名目人として、吉岡一門総がかりで、宮本武蔵なる者を、討ち取ってもらいたい。武蔵を討ち取ったあかつき、この少童に、吉岡家の跡目相続をさせる。不服をとなえる者は、即刻申し出られよ」
一人も、不服をとなえる者はなかった。
いやむしろ――。
わずか十一歳の少年を仇討名目人にすることで、士気がふるい立つのを、互いにおぼえたことだった。
「宮本武蔵は何処に在るのか? 当方より、日時と場所をきめて、牒状《ちようじよう》を送りつけることにいたそう」
又左衛門は、云った。
「武蔵は、試合の刻限まで、姿をひそませて居《お》ります」
高弟の一人が、こたえた。
「これだけの頭数があって、いずれに潜伏しているか、つきとめられぬ、というのか?」
又左衛門は、不快げに眉宇《びう》をひそめた。
「山野に起き伏しているけもののごとき奴《やつ》でありますれば……」
「さがすのだ! 一両日中に、是非ともさがし出して、牒状を突きつけい!」
又左衛門は、叫んだ。
三
「あっ、ああ、あ……」
思いきり、双手《もろて》をさしあげて、口をいっぱいにひらいて、大あくびをしてから、
「――つまらねえや」
と、独語したのは、放浪の少年|伊織《いおり》であった。
帷子之辻《かたびらのつじ》の小松の林の中にある風雅な古びた屋敷内であった。
伊賀の妻六が、夕姫を、彼女の希望で昌山庵《しようざんあん》へ送りとどけておいて、伊織をここにともなったのは、一昨日であった。
「何様のお館《やかた》じゃ?」
伊織が、訊《たず》ねると、妻六は、
「むかしは、近衛《このえ》家の別邸であったそうな。秀次《ひでつぐ》公が関白になられて、一時、ここを憩《いこ》いの場所にされて居った。その頃、わしは、やとわれて、秀次公からじかにお言葉をたまわったこともある。秀次公は、美丈夫で、物腰の優しい立派なおかたであったわい。……お気の毒に、あのようなむざんな最期《さいご》をとげられたが、いまこの世に在《おわ》さば、天下は徳川のものにはならなかったろうな。……いまは、母屋《おもや》は、喪家の犬が占拠して居り、庭は狐狸《こり》のすみかになって居る。盗賊と浮浪児が身を寄せるには、ふさわしいところじゃて」
と、説明した。
妻六と伊織が、一時のねぐらにきめたのは、庭の南隅に建つ茶亭であった。
茶亭といっても、戸は破れ、壁は剥《は》げ、天井は落ちて、蜘蛛《くも》の巣だらけであった。
伊織は、この三日間、何もすることのないままに、禅|坊主《ぼうず》をまねて、結跏趺坐《けつかふざ》すると、目蓋《まぶた》を閉じて、無念無想の修行をやった。
限度は、せいぜい一刻《いつとき》であった。
蠅《はえ》がうるさかったし、藪蚊《やぶか》に食われたし、腹も空《へ》った。
無念無想の境地を、わずらわしたのは、もっぱら、食べ物であった。たわわにみのった野生の果実や、川の流れを掠《かす》める魚影や、鍋《なべ》の中でぐつぐつ煮えている猪肉《ししにく》のいい匂《にお》いなど、ふりはらってもふりはらっても、伊織の坐禅を邪魔した。
で――。
とうとう、「つまらねえや」という独語になってしまった。
妻六の方は、この三日の間に、たった一度戻って来て、二刻あまりぐっすり睡《ねむ》っただけで、また出かけてしまったのである。
「姫様のために、宮本武蔵をさがさねばならん」
忍者の嗅覚《きゆうかく》を働かせて、洛中洛外を、駆けまわっているに相違なかった。
妻六と伊織は、夕姫が尼になる決意をしたのを、知らされていた。
宍戸梅軒《ししどばいけん》に犯されたのを慙《は》じて、尼になろうと思いつめた夕姫の気持も、わからぬではなかったが、
――世にもたぐいまれな美しいおひとが、頭をまるめて、仏陀《ぶつだ》のしもべになるなんて、もったいない。
と、妻六は、武蔵をさがしあてて、夕姫を逢わせようと、躍起になっているのであった。
伊織は、「つまらねえや」と呟《つぶや》いたものの、また、目蓋を閉じて、動かなくなった。
一流の兵法者になるためには、こういう努力をしなければならぬ、と自分に云いきかせていた。
跫音《あしおと》が、近づいた。
「おい――」
庭さきから、呼びかけられたが、伊織は、返辞をしなかった。
「おい、わっぱ、なにをして居る?」
「見た通りじゃ。邪魔するな」
伊織は、目蓋を閉じたまま、そっけなくこたえた。
「小わっぱのくせに、坐禅の猿真似《さるまね》とは、わらわせる」
「うるさいっ! あっちへ、行け!」
叫んだとたん、伊織は、大した衝撃も受けぬのに、あっけなく、ひっくりかえされた。
庭さきに立った者の手には、折れ弓があった。
それで、膝《ひざ》を小突かれただけで、伊織は、ひっくりかえったのであった。
「なにをするんだ!」
はね起きた伊織は、邪魔者を、睨《にら》みつけた。
睨みつけたものの、対手《あいて》の異様な風貌《ふうぼう》と巨躯《きよく》に、ぴくっと肩をすくめていた。
伊織は知らなかったが、それは、佐々木小次郎であった。
「わっぱ、こたえろ。母屋は、空《から》になって居るが、牢人者どもは、どうした?」
「知らん」
伊織は、かぶりを振った。
事実、この三日間、母屋はひっそりとして、物音はなかった。
二人や三人が、出入りしたとしても、この茶亭からは、距離があって、気がつかぬことだった。
「知らんとは云わせぬぞ」
「知らんものは、知らん」
伊織は、胸を張った。
「わっぱ、首を刎《は》ねられるのが、おそろしゅうないのか?」
「首を刎ねられる理由《わけ》なんか、あるかい」
「ふん――、どこで、その胆玉《きもつたま》をひろって来た?」
「おいら、さむらいの子だ。一流の兵法者になるんだ。お前なんか、ちっとも、怕《こわ》くなんぞ、ねえや」
一寸の虫にも五分の魂があることを誇示してみせる伊織の態度に、小次郎は、ふっと微笑した。
「きたえれば、一流の兵法者になるかも知れぬ」
「…………」
「本当に母屋のことは、知らぬのだな?」
小次郎は、念を押した。
「くどいや!」
伊織は、まともに、小次郎の眼光を受けとめて、もう一度、胸を張った。
小次郎は、踵《きびす》をまわした。
伊織は、遠ざかる跫音をきき乍ら、全身から汗が噴くのをおぼえた。
「あいつ、強そうじゃった!」
思わず、その言葉をもらした。
「宮本武蔵と、どっちが強いじゃろ?」
ふうっと、熱い息を吐いてから、伊織は、胸のうちで、自分に云いきかせた。
――よし! 十年|経《た》ったら、おいらも、あんなに強い男になってやる!
忍者討ち
一
佐々木小次郎は、元近衛家別邸を出ると、鹿《しし》ケ谷《たに》へ向って、歩き出した。
小次郎は、夕姫の美しさを忘れられなかったのである。
猿飛佐助という猿面忍者に、まんまと一杯食わされて、夕姫が住む鹿ケ谷奥のその屋敷で、佐助を手負わせただけに、とどまった小次郎は、その日から、夕姫をわがものにしようという執念の鬼になった。
その屋敷で、小次郎は、佐助から、夕姫の美しい姿を、かい間視《まみ》せられていた。
その美しさは、われを忘れさせられるばかりの、まさに天女の姿であった。
網膜に灼《や》きつけたその俤《おもかげ》は、爾後《じご》、片刻も消えてはいなかった。
夕姫を抱くべく、寝所に入った時には、われ乍らあさましく、胸の動悸《どうき》を早鳴らせていた。はじめての経験であった。それまで、幾多の女人を犯し乍ら、小次郎は、ただの一度も、対手の色香に迷ったり、溺《おぼ》れたりはしなかった。
ただ、犯す快感のみがあった。その瞬間に、われを忘れて血をさわがせるなどということは、全くなかったのである。
いわば――。
佐々木小次郎は、夕姫によって、女人を恋うことを知った。
いま、その夜のことを思い泛《うか》べると、はらわたが煮え立つくらいに、憤怒がこみあげて来る。
その褥《しとね》には、夕姫の代りに、猿飛佐助が身を横たえて居り、こちらが入ろうとした刹那《せつな》、電光の一撃をあびせて来たのであった。
――おれでなければ、あの迅業《はやわざ》をかわせなかった。
そう思う。
鴨居《かもい》へ跳んだ佐助へ、小次郎は、凄《すさま》じい抜きつけの反撃をはなって、物干竿《ものほしざお》に、ぞんぶんに血汐《ちしお》を吸わせたものであった。
しかし――。
佐助は、手負いつつも、音もなく、天井裏へ遁《のが》れて、それきり、姿をくらましてしまった。
もとより、夕姫は、すでにその時、屋敷内からいなくなっていた。
あれから……。
小次郎は、文字通り血眼になって、夕姫の行方を、さがしもとめた。
そして、今日も、さがしもとめているのであった。
鹿ケ谷奥のその屋敷には、毎夜のように、踏み込んでいる。
今夜も、小次郎は、足を向けていた。
――このおれが、女の色香に、血迷うとは!
その自嘲《じちよう》も、起らぬではなかったが、網膜に灼きついてはなれぬ夕姫の美しさは、おのれを必死にならせる価値があった。
南禅寺道を辿《たど》りはじめた時、小次郎は、尾行者があるのに、気がついた。
自分の一命を狙《ねら》う者は、すくなくないのである。
そういう敵の不意の襲撃を受けるのは、小次郎の生甲斐《いきがい》のひとつになっていた。
――尾《つ》けて来い。
小次郎は、悠々《ゆうゆう》と、鹿ケ谷の聚落《しゆうらく》を抜けて、竹藪沿いの細径《ほそみち》を歩いて行った。
やがて――。
竹藪にかこまれたその家の前に立ったとたん、小次郎の胸が、躍った。
灯《ひ》がもれ出ているではないか。
――夕姫は、もどって来たな!
小次郎は、尾行者があることなど忘れて、裏手へまわった。
音を消して、屋内へ忍び入り、廊下を進んで行くと、微《かす》かに、伽羅《きやら》の香が、ただようて来た。
――もどって来たに相違ない!
寝所の前で、小次郎は、匂う夜気をふかく胸奥へ吸い込んだ。
杉戸を一寸ばかり、開けて、そっと窺《うかが》うと、青|蚊帳《かや》の中で、几《つくえ》に向って、習字をしているなよやかな後姿が、あった。
――いたぞ!
小次郎は、生唾《なまつば》をのみ下した。
音をたてぬように杉戸を開けて、一歩踏み込んだ小次郎は、
「姫君――」
と、呼びかけた。
筆を止めて、こちらをふりかえった――その顔が、鬼女の面をかぶっているのを視た――瞬間、その手から筆が放たれた。
筆は、青蚊帳をつらぬいて、小次郎の顔面へ飛来した。
手裏剣であった。
二
小次郎は、かわすいとまもなく、耳朶《じだ》を刺されて、
「うぬがっ!」
呶号《どごう》とともに、背中の物干竿を抜きざま、蚊帳の四つ手のふたつを、一閃《いつせん》の裡《うち》に両断した。
その時、廊下を、けものの早さで、数個の黒影が、殺到して来た。
小次郎は、忍者どもとさとると、ひと跳びに、雨戸へ体当りをくれて、庭上に、地歩をえらんだ。
それまで下界を照らしていた十三夜の月が、雲にかくれて、庭はしんの闇《やみ》になっていた。
暗闇の世界で、小次郎と忍者団との血闘が、しばらく、くりひろげられた。
対手は、忍者であった。前後左右、どの方角から、いかなる得物で、襲ってくるか測りがたかった。
しかし、小次郎の物干竿は、冴《さ》えていた。
矢つぎ早に飛来した手裏剣を、半数を搏《う》ち落したし、半数を宙にかわした。そして、こちらから、反撃に出て、三人まで、充分手ごたえある迅業をふるった。
敵勢の攻撃が止《や》んでから、なおしばらく、小次郎は、樟《くす》らしい巨樹の幹に、身を添わせて、動かなかった。
生血の匂いが、地面を匍《は》っていた。
油断なく、八方へ神経を配りつつ、小次郎は、庭を横切って、屋内にあがった。
寝所は、灯が消えていた。
ここには、まだ、伽羅の香が、こもっている。
「佐助――猿飛《さるとび》佐助!」
小次郎は、呼んだ。
「まだ、いるのだろう、うぬは――」
「左様、ここにいる」
その返辞から、方角を察知することは、小次郎には、できかねた。
部屋の片隅《かたすみ》からとも、天井裏からとも、床の間からとも――どこからともなく、きこえた。
「おれを襲う意趣は、なんだ? 云《い》え」
「お主は、わしの朋輩《ほうばい》の筧十蔵《かけいじゆうぞう》が、斑鳩《いかるが》の里で、しずかにくらしているのを、しつっこく挑戦《ちようせん》して、十蔵の左腕を斬《き》り落した。……それは、よい。試合だから、十蔵が敗れたのは、致し方がない。許せぬのは、お主は、勝利の報酬として当然の仕儀だ、とうそぶいて、十蔵の妹を拉致《らち》して、これを、犯した。……妹は、それを慙《は》じて、自害して相果てたのだ」
「ふん――。佐助、おのれは、その妹に、惚《ほ》れていたな」
「そのようなこと、お主の知ったことか」
「猿面忍者でも、恋をするとみえるな」
手裏剣が、襲って来た。
小次郎は、苦もなく打ち落しておいて、
「貴様でも、恋をしたくらいならば、この佐々木小次郎が、女人に心を奪われたとしても、ふしぎはない」
「…………」
「あの夕姫というむすめ、貴様が、おれにくれたのだぞ」
「くれはせぬ」
「くれると約束したではないか。約束したから、あの夜、おれは、貴様の案内で、ここへ来たのだ」
「お主を討ちとる手段であったのだ、あれは――」
「手段であろうと、策謀であろうと、貴様が、くれると約束したことは、まぎれもない事実だ。……おれは、夕姫を、かい間視せられてから、恋の|とりこ《ヽヽヽ》になった。嘘《うそ》はつかぬぞ」
「お主が、姫様の行方をさがしまわっていたことは、滑稽《こつけい》な図であったぞ」
「なんと云われようと、おれは、心から惚れたのだ。……おれは、夕姫を、屹度《きつと》わがものにしてみせるぞ」
「その前に、この猿飛佐助が、お主の首を取ってやる」
「仇討ちはあきらめろ。この佐々木小次郎は、忍びずれに、生命を奪《と》られるような兵法者ではない。おれの剣は、天下無敵だ、おれの物干竿の前には、柳生宗矩《やぎゆうむねのり》といえども、血煙をあげて仆《たお》れるだろう」
「天道は、お主の横行を、いつまでも許してはおかぬ」
「ははは……。佐助、貴様は、今夜こうして、仲間をかたらって、おれを襲撃し乍《なが》ら、ついに、討ちとれぬではないか。貴様一人、居残って、闇の中で、目を光らせて居《お》っても、手も足も出ぬではないか」
「これは、試合ではないのだ。今夜、討つのを仕損じた上は、次の機会を待つ。次の機会を失えば、またその次の機会を待つ。これが、われら忍びのやりかただ」
「虚仮《こけ》が――。この佐々木小次郎が、天下無敵の兵法者であることを、いくどきかせれば、判《わか》るのだ。……どうだ、猿飛佐助、私怨《しえん》など忘れろ。もし、夕姫をおれにくれるならば、おれは、真田左衛門佐《さなださえもんのすけ》の味方になってもよいのだぞ。……毛利勝永は、徳川|家康《いえやす》打倒の烽火をあげる、とうそぶいて居ったな。貴様のあるじの左衛門佐も、同じ志だろう。挙兵の際、おれを味方につければ、どれほど心強いか知れぬぞ。おれが、先陣をうけたまわれば、十万の軍勢でも、そのまっただ中を、突破してみせる。どうだ、佐助、条件をのまぬか。夕姫を、おれに、渡せ」
喋《しやべ》りたてているうちに、小次郎は、はっと気づいた。
――佐助め、退散しおったな。
そう直感した。
「莫迦《ばか》な猿面忍者め! おれが討てると、本気で誓いをたてていやがるのか――」
三
小次郎が、竹藪を抜け出た折、月は、再び雲間から、顔をのぞかせて、下界をあかるくした。
道は、廃寺の崩れかかった土塀《どべい》に沿うて、長い坂になっていた。
小次郎は、ものの一町も下って行き、誰かが、こちらへ向って来る気配をさとった。
もう夜が更《ふ》けていた。
普通の者は、よほど重要な用事のない限り、こんなさびしいところを、いまの時刻には、歩かぬ。
小次郎は、近づいて来る者の歩行ぶりを、尋常のものでない、と察知した。
跫音《あしおと》を消してはいないが、あきらかに、忍び歩きである。
――猿飛の仲間だな。すれちがいざまに、襲って来るに相違ない。
そう看《み》て取った。
――よし、先手を打ってくれる。
小次郎は、わざと歩度をゆるめた。
距離が、せばまった。
すかし視ると、商人ていの男である。
――忍者め!
殺気が、小次郎の五体内で、ふくれあがった。
対手は、いかにも何気ない様子で、近づいて来た。
三歩の距離になって、対手は、こちらを視、武士に対する礼儀を示して、道わきに寄った。
小次郎は、ゆっくりと、通り過ぎようとして、一瞬、背中の物干竿を、抜く手もみせず、対手の頭上へ、鋭い刃風にして、送った。
充分の自信を持って、撃ちかけた一の太刀であった。
にも拘《かかわ》らず、手ごたえはなかった。
小次郎は、手ごたえのなさを、いぶかった。
獲物《えもの》めがけて、あびせた迅業は、みじんの狂いもなく、抜き討つ刹那には、右腕から全身に、一種の爽快味《そうかいみ》さえ、つたわっていたのである。
手ごたえが、当然なければならなかった。なければ、おかしいのであった。
それが……なかった。
遁れた対手の迅影は、力点の正確を誇った小次郎の斬りつけかたよりも、間一髪の差で、迅かったのである。
「なにをなさる、無法な!」
とがめる声は、五歩のむこうから、発しられた。
「合力ならば、そう云われるがよかろうに……、いきなり斬りつけるとは! 暑気で、いささか狂って居るのか」
「おのれは、忍者だろう?」
「忍者なら、どうだと云われる?」
「おれを襲う前に、おれの方から、挨拶《あいさつ》してくれたのだ」
「てまえが、お手前様を襲う? なんの理由で?」
男は、伊賀《いが》の妻六であった。
今日の昏《く》れがた、昌山庵《しようざんあん》に立ち寄ったところ、夕姫から、わが家へ行って、衣類を少々取って来て欲しい、とたのまれて、その屋敷へおもむくところだったのである。
小次郎も、ようやく、人ちがいと判った。
「忍者という奴《やつ》は、いつどこで、斬り殺されても、文句はあるまい。失《う》せろ」
小次郎は、物干竿を背中に納めると、歩き出そうとした。
「待たれい。……勝手に斬りつけておいて、人ちがいであったと知っても、あやまりもせず、行こうというのか」
「ならば、やるか。おれは、貴様のような業《わざ》の秀《ひい》でた術者と勝負するのを生甲斐としている兵法者だ」
「兵法者! ほう、左様か。姓名をうかがいたい」
「巌流《がんりゆう》佐々木小次郎」
「しかと、きき置き申した。てまえは、伊賀者にて、妻六と申す。但《ただ》し、目下は、忍者を廃業して、盗賊をなりわいといたして居り申す」
「盗賊か――ふん」
「佐々木小次郎殿は、どこかの忍びに、生命を狙《ねら》われて居られるのでござるか?」
「真田左衛門佐|幸村《ゆきむら》の家来で、猿飛佐助という忍者が居ることを、お主、知って居るか」
「知って居りますとも――。猿飛佐助に、してまたどうして、生命を狙われておいでなので?」
「お主に説明したところで、はじまらぬ」
小次郎は、歩き出した。
妻六は、その後姿を見送って、
「世にも高慢な剣術使いよのう。……武蔵殿も、高慢じゃったが、あの男とは、質がちがうようだわい」
と、呟《つぶや》いた。
それから、右肩を撫《な》でて、
「ほう、まだしびれて居るわい。まさに、紙一重であった。あの剣をかわすことができたのは、奇蹟《きせき》であったのう。……やれやれ、京都は物騒なところだて」
忍者崩れの盗賊らしからぬ言葉をもらした。
かたわ小屋
一
東寺《とうじ》の塔を、西方に仰ぐ九条大路から、三町あまり北に入った一廓《いつかく》に、奇妙な聚落《しゆうらく》があった。
一棟二十間の細長い建物が、泥溝をへだてて、幾筋も、並んでいた。
建物の中は、まん中が一間幅の通路になり、左右に、九尺間口の板敷きが、ずらりと設けられ、板壁で間仕切りされてあった。
砦《とりで》の長屋よりは、間仕切りがされているだけが|まし《ヽヽ》な程度の建物であった。
世間では、この聚落を、かたわ小屋と呼んでいた。
すなわち――。
豊臣秀吉《とよとみひでよし》が、太閤の位に昇った頃《ころ》、これを建てて、戦場で盲目になったり、隻手《せきしゆ》隻脚になったり、あるいは矢弾《やだま》を頭部に受けて痴呆《ちほう》になったり、または、背骨を傷ついて躄《いざり》になったりして、足軽として役立たなくなった雑兵たちを収容して、永久飼いごろしにすることにしたのである。
関ケ原役前までは、この聚落に住んだのは、たしかに、不具になった雑兵ばかりであった。
ところが――。
関ケ原役後、徳川家康は、この聚落に、米塩の支給を断った。それから二年も経《た》たぬうちに、住民の種類が一変してしまったのである。
まだ働ける不具の雑兵は、つぎつぎと出て行き、代って、河原者、乞食《こじき》が入り込んで来、次いで、罪を犯した小悪党が逃げ込んで来、食いつめた牢人者《ろうにんもの》もここで雨露をしのぐことにし、それらの者が、淫売婦《いんばいふ》を連れ込んで来るに及んで、様相が全く変ってしまったのである。それまで、雑兵たちが、互いに不具の身をかばい合って、保っていた生活の秩序は破壊されてしまい、|こそ泥《ヽヽどろ》は盗品のかくし場所にし、淫売婦は昼も夜も放恣《ほうし》な裸体の上に、男を入れ替らせ、病みおとろえた牢人者が、血を喀《は》いている隣りでは、賭博《とばく》の騒擾《そうじよう》がつづけられている、といった光景を呈した。
猥雑《わいざつ》な喧噪《けんそう》と、不潔な臭気のないまざったかたわ小屋は、いずれ、京都所司代の処断によって、とりはらわれる運命にあろうが、いまは、明日に希望を持たぬ人間どものすみかとして、なまぐさいにぎわいをみせていたのである。
今日も――。
堪えがたい暑気に、その獣性をあおられた光景が、いたるところにくりひろげられていた。
突然、一人の巨漢が、通路の中央に、仁王立った。
「うるさいぞ、おのれら!」
呶号《どごう》をあげて、睨《にら》みまわした。
下帯ひとつの裸躯《らく》は、筋骨|逞《たくま》しく、汗と脂《あぶら》で光っていた。
下帯には、三尺余の長剣を佩《お》びていた。
「どいつもこいつも、蛆虫《うじむし》同様の、けがらわしい奴ばらだ。おのれら、人間であることを忘れたかっ!」
その叫びに応じて、賭博の座から、
「おう、忘れたわい。十年前にな。戦さで、女房も娘も手ごめにされて、しめ殺されたんだぞ」
という声があがった。
「黙れっ! 女房と娘を殺されたからというて、おのれまでが蛆虫になり下ることはないぞ!」
「うるせえや。蛆虫の方が、人間よりは、気楽だぞ」
その声に合せて、
「蛆虫がいやなら、さっさと出て行け」
とか、
「うどの大木野郎、つべこべほざきやがるな。誰が好きこのんで、蛆虫になっているかってんだ、こん畜生!」
とか、
「ここは、かたわ小屋だぞ。てめえ一人、まっとうな人間|面《づら》をしようなんて、わらわせるぜ」
とか、矢つぎ早やな罵詈《ばり》があびせられた。
巨漢の顔面が、まっ赤になった。
「黙れ! 黙れっ! 黙れっ! おれを誰だと思うか。……おれは、宮本武蔵だぞ! 宮本武蔵!」
あらん限りの声をはりあげた。
とたん――。
長屋の中は、しいんとなった。
二
巨漢は、ざまをみろ、とばかり、衆目を集めて、ぐっと胸を張った。
「この宮本武蔵に、さからう奴は、名乗り出ろ。一刀両断にしてくれる!」
そう云《い》いはなって、賭博の座にいる者を、指さし、
「うぬは、蛆虫らしい死にざまをさらしたいか」
と、云った。
その者は、あわてて、首をすくめ、かぶりを振った。
巨漢は、次いで、淫売婦を抱いていた男を指さし、
「おいっ! この宮本武蔵を追い出したければ、勝負せい!」
と、睨みつけた。
「い、いや、そのう……、貴方《あなた》様を、宮本武蔵様とは、ちっとも、知らなかったもので――」
男は、ぺこぺこと頭を下げた。
室町兵法所吉岡道場の当主清十郎ならびにその舎弟伝七郎を撃ち負かした宮本武蔵の名は、この小屋の住人どもの耳にも、鳴りひびいていたのである。
「おれと一騎討ちする奴は、一人も居《お》らんのだな」
睨みまわすその眼光が、自分の顔へあたるや、誰もかれも、俯《うつむ》いてしまった。
「よし! では、ただいまより、おれの命令にしたがえ」
巨漢は、おのが寐場所《ねばしよ》へもどって、大《おお》胡座《あぐら》をかいた。
蛆虫ときめつけられた住人どもは、きわめて単純|素朴《そぼく》な反応を示した。
博奕《ばくち》をやっていた者が、酒を持って来た。
「へい、どうぞ、お召上りを――」
つづいて、人買いが、まだ土くさい十五、六の娘を連れて来て、酌《しやく》をさせる、と申し出て、
「へへへ……、貴方様のような日本一の強い武芸者に、この娘を女にして頂けりゃ、この上の、果報はございません」
と、もみ手をしてみせた。
「酌は、あたしにさせておくれよ」
淫売婦が、いそいそと寄って来た。
|こそ《ヽヽ》泥らしい男が、三振りばかり刀をかかえて来て、
「宮本武蔵様に、ひとつ、試し斬《ぎ》りをして頂けりゃ、百貫の高値がつきます。ぜひ、お願え申します。その代り、お似合いの小袖《こそで》をさしあげとう存じます」
と、たのんだ。
巨漢は、大いに満足気であった。
淫売婦と小娘を、左右にはべらせて、盃《さかずき》を口にはこび乍《なが》ら、吉岡兄弟との試合の模様を、問われるままに、語りはじめた。
そのありさまを、北の端の板敷きから、黙って、見物している者がいた。
まことの武蔵であった。
武蔵が、この小屋を仮住居にえらんだのは、べつに理由があってのことではなかった。雨露がしのげるなら、どこでもよかったのである。
ここをえらんだ理由を、しいてあげれば、吉岡一門の目にふれない場所としては、一番よさそうだからであった。
すでに、三日が過ぎていた。
自分の姓名を騙《かた》る者が現れようなどとは、夢にも考えなかった武蔵である。
吉岡兄弟に勝ったことが、これほど評判になり、宮本武蔵という姓名が庶民の間にひろまっていることを、いま、はじめて、知らされたものの、武蔵は、べつに、快感をおぼえはしなかった。
天下に名を売ろうとして、室町兵法所に、挑戦《ちようせん》したわけではなかった。吉岡道場が、扶桑《ふそう》第一を誇っている兵法所だから、兵法者として、これを破砕する闘志を燃やした、と世間は受けとった模様であるが、武蔵自身としては、少年の日、清十郎に撃ち負かされて、失神し、門前へ、|ぼろきれ《ヽヽヽヽ》のようにほうりすてられた無念を霽《はら》す――いわば、これは復讐《ふくしゆう》だったのである。
結果として、おのが姓名を世間にひろめることになっただけである。
わが姓名を騙る者が現れても、武蔵は、ただ、無感動に、他人事《ひとごと》のように眺《なが》めているだけで、すこしの腹立ちもおぼえなかった。
――勝手に、名乗るがいい。
そんな気持でしかなかった。
武蔵の膝《ひざ》には、鑿《のみ》で八分がた彫りあげられた五寸あまりの仏像があった。
三
五人の武士が、小屋に踏み込んで来たのは、次の日の午後であった。
「宮本武蔵が、当所にいる、ときいたが……」
その質問は、隣りの長屋の出入口で、なされた。
「へい。あちらの小屋に、おいでなさいます」
「よし!」
大股《おおまた》に、そちらへ向う武士たちを見送って、忽《たちま》ち、住人どもは騒ぎたてた。
武士たちは、その長屋の出入口に立つと、互いに顔を見合せて、決意の色をたしかめ合った。
「宮本武蔵は、どこに居る?」
一人が高声をあげると、板敷きから、一斉《いつせい》に、首がのぞいた。
「われらは、吉岡道場の高弟一統だ。……武蔵、どこだ?」
佐野又左衛門の上洛《じようらく》によって、その孫又一郎を名目人として、一門総がかりで、宮本武蔵を討ち取ることが決定していたが、どうやら、ここへやって来た高弟たちは、抜け駆けの功を肚裡《とり》にしているようであった。
宮本武蔵が、小屋にひそむ、という報《しら》せを受けた一人が、ひそかに四人をかたらって、やって来たに相違ない。
この時、贋《にせ》武蔵は、朝からしたたか酒をくらって、人買いに連れて来られた百姓娘を抱いて、寐ていた。
「先生、吉岡の門弟衆が、乗り込んで来ましたぜ!」
|こそ《ヽヽ》泥に、云われて、贋武蔵は、
「なにっ!」
と、はね起きた。
酔いは一瞬にふきとび、血相を変えた。
「五人ですぜ、五人! ……ばっさ、ばっさとやっつけてみせておくんなせえ。たのみますぜ」
「お、おれは……」
贋武蔵は、眦《まなじり》が裂けんばかりに、双眼をみひらいて、声をどもらせた。
そこへ、五人の吉岡門下が、近づいて来た。
贋武蔵にとって不運だったのは、五人のうち、一人も、武蔵の風貌《ふうぼう》を知らなかったことである。渠《かれ》らは、清十郎が蓮台野《れんだいの》で試合した時も、伝七郎が阿弥陀《あみだ》ケ峰《みね》で闘った際も、道場の留守を預っていて、武蔵を視《み》ていなかった。
「お主が、宮本武蔵か」
五人の睥睨《へいげい》をあびて、贋武蔵は、「……うっ!」と、咽喉《のど》奥を鳴らした。
贋武蔵は、小屋の住人どもをだまして、威圧するだけの面貌と体躯《たいく》を具備していた。
吉岡道場の高弟たちも、対手《あいて》が否定せぬ限り、これを本物と信じる険しい表情になっていた。
「吉岡道場・島田三十郎」
「同じく河辺総吾」
「同じく横溝新之丞」
「同じく龍造寺嘉門」
「同じく町屋五左衛門」
名乗りをあげてから、島田三十郎が、
「今日ただ今、尋常の試合の儀、申し入れ申す」
と、云った。
「いや――、試合というものは、日時と場所を、指定して、それまで、双方が、充分に、たたかいの心得を……」
贋武蔵が、云いかけるや、五人は、無言で、さっと散って、抜刀した。
贋武蔵は、住人どもが固唾《かたず》をのんで見まもっている以上、いまさら、自分は贋ものだ、と白状するわけにいかなかった。
のそりと立ち上った贋武蔵は、加勢でもたのみたいような目つきで、うす穢《ぎたな》い住人どもを見まわした。
住人どもは、ふしぎに、一人のこらず、押し黙って、なりゆきを見まもっているばかりであった。
白刃を前後にさしつけられ乍ら、贋武蔵は、見た目には、悠々《ゆうゆう》と歩いた。
長屋の外は、夏草のしげったかなり広い空地になっていた。
吉岡門下五人は、空地に出るや、すばやく奔《はし》って、それぞれ、贋武蔵から数歩の距離に円陣をととのえた。
その後方に、ぞろぞろと長屋から出て来た住人どもが、人垣《ひとがき》をつくった。
炎天下に立った住人たちは、息苦しさから解放されたらしく、さかんに、贋武蔵に声援しはじめた。
贋武蔵は、容易に、抜刀しなかった。
「いざっ! 勝負!」
正面の敵から、叫びかけられても、刀の柄《つか》に手をかけようとせず、しきりに生唾《なまつば》をのみ込んでいた。
「武蔵様っ! たのみますぜ」
「おれたちがついているぜ」
「そうだ、そうだ! 石でもなんでも、投げつけてやるからよう、一人のこらず、たたき斬ってくれえ!」
「片づけたら、小屋の大明神にまつり奉《たてまつ》って、三百六十五日|御神酒《おみき》をそなえますぜ」
「はよう、ひっこ抜いて、いいところを見せてくれえや」
「やれやれっ! やっつけろ! 吉岡の門弟なんぞ、五人が十人でも、屁《へ》の河童《かつぱ》だあ――」
一人対五人の対峙《たいじ》が、群衆を興奮させていた。
なにしろ、洛中洛外に剣名をとどろかせた宮本武蔵が、自分たちの巣窟《そうくつ》に同居していたのである。
そして、いま、どんなに強いか、それを見物することができるのである。
千人ちかい蛆虫《うじむし》どもは、われを忘れた。
しかし――。
贋武蔵は、抜刀するかわりに、
「お、おい。誰か、襷《たすき》と鉢巻《はちまき》を――」
と、たのんだ。
すぐに、これに応ずる声があった。
贋武蔵は、そこへ、歩み寄った。
とみた――とたん。
贋武蔵は、いきなり人垣を突き崩しておいて、逃げようとした。
「卑怯《ひきよう》っ!」
とっさに、頭領格の島田三十郎が、小柄《こづか》を抜いて、投げた。
小柄は、贋武蔵の背中へ突き立った。
悲鳴をあげつつ、贋武蔵は、はじめて抜刀した。
殺到した五人は、あっという間に、贋武蔵を、|なます《ヽヽヽ》のように、滅多斬った。
血まみれの屍体《したい》が、夏草と土を血汐《ちしお》にそめて、仆《たお》れ臥《ふ》した時、五人は、こちらを一人も薄傷《うすで》さえ負わせることも叶《かな》わずに死んでしまった対手の弱さに、
――どうしたことだ?
と、怪訝《けげん》の面持《おももち》になっていた。
見物する住人どもも、あまりのあっけなさに、当惑の沈黙を守った。
仏像
一
「今日は、風が涼しいこと」
昌山庵《しようざんあん》の茶室の外には、松籟《しようらい》があった。
ほんの一日だけの気まぐれであろうが、昨夜から暑気が落ちているのであった。
茶室に吹き込むさわやかな風の中で、夕姫は、点前《てまえ》をしていた。
客の座に就かされているのは、城之助であった。
先程から、城之助は、夕姫の横顔の美しさに見とれて、病んだ右脚の痛みも忘れていた。十五歳になった城之助の胸中には、男の情念がうごいていた。
「さ――どうぞ」
黒茶碗《くろぢやわん》が、城之助の膝の前に置かれた。
細く長く白い指の美しさと、袖口《そでぐち》からこぼれる|とき《ヽヽ》色のなまめかしさに、城之助は、微《かす》かな動悸《どうき》をおぼえた。
あさましい欲情が、顔にあらわれるのをおそれた城之助は、あわてて、声を張って、
「いただきます」
と、黒茶碗を把《と》りあげた。
夕姫は、城之助が、喫するあいだ、花頭窓《かとうまど》の外へ眸子《ひとみ》を送っていたが、
「そなた、両親《ふたおや》は、どうしました?」
と、訊《たず》ねた。
「母は、わたくしが物心つかぬうちにみまかり、父は、三年前、兵法試合で、相果てました」
そのこたえに、夕姫は、視線を城之助の顔へ移した。
「わたくしと、同じですね」
「はい――」
「さびしゅうはありませぬか?」
「ありませぬ」
城之助は、自分は立派な青年なのだ、と云《い》いたげに、きっぱりとこたえた。
「男子は、いいですね。……女子《おなご》は、いくら気丈夫でも、やはり、もろい」
あとの言葉は、自分に云いきかせるように、語気をしめらせた。
「姫様――」
城之助が、急に必死の面持になった。
「なんですか?」
「どうしても、尼におなりでございますか?」
「…………」
夕姫は、返辞をする代りに、再び、視線を庭へ向けた。
その横顔に刷《は》かれた寂寥《せきりよう》の色は、城之助の胸をしめつけた。
はじめて、この昌山庵を訪れた時の、驕慢《きようまん》な態度は、どこへすてて来たのか。
どんな苦難に遭ったのか知らぬが、若い女人というものは、こうも人が変ってしまうものか。城之助は、ただただ、おどろくばかりであった。
「姫様、おねがい申します。尼におなりになるのだけは、お止《や》め下さい」
城之助は、両手をついて、頭を下げた。
夕姫は、沈黙したままであった。
ふと――。
城之助が、顔をあげてみると、その頬《ほお》は泪《なみだ》でぬれていた。
若い美しい女性が泣くのに、生まれてはじめて接した城之助は、どきっとなって、見てはならぬものを見せられた思いで、あわてて、目を伏せた。
その折、地ひびきたてるような跫音《あしおと》が、近づいた。
「沢庵《たくあん》殿は、不在かな?」
火焔坊《かえんぼう》であった。
城之助は、いそいで、夕姫の姿をかくすように、縁側へ出ると、
「はい、托鉢《たくはつ》にお出かけでござる」
「困ったのう。沢庵殿なら、武蔵のひそんでいるところを、ご存じだと思うが……」
云い乍《なが》ら、火焔坊は、茶室に坐《すわ》っている夕姫を、のぞき視《み》た。そして、その美しさに、きわめて率直な感動の唸《うな》り声を発した。
「なんぞ、武蔵殿に急用でもござるので――?」
「う……いや――」
火焔坊は、露骨な眼眸《まなざし》を、夕姫に当て乍ら、
「吉岡伝七郎が相果てたあと、室町兵法所がどうなるか、野次馬根性で、のぞきに行ったところ、大変なことに相成って居《お》るのでな、それを、武蔵に報《しら》せとうて、やって来たのじゃが――」
と、云った。
それをきいて、夕姫のおもてに、きびしい色がうかんだ。
「大変なこととは――?」
「ほう――、そもじは、武蔵を存じ寄りの婦人かな?」
「慕うて居ります」
夕姫は、こたえた。
「やれやれ、武蔵は、朴念仁面《ぼくねんじんづら》をして居るくせに、女子には、もてるのう」
「大変なこととは、何であろう。きかせてたもれ」
「室町兵法所では、たった十一歳の少童を名目人にしたてて、一門総がかりで、武蔵を討ち取ろうと、躍起になって居り申すわい」
「そんな、卑怯な振舞いは、許せませぬ!」
激しく、叫ぶように云う夕姫に、火焔坊は、目を見張った。
二
「卑怯であろうと、なんであろうと、吉岡道場では、そうきめてしまって居る。武蔵としては、清十郎、伝七郎と、つづけざまに当主を殺してしまった上からは、この挑戦《ちようせん》を受けて立たざるを得まいのう」
「逃げればよいのです。武蔵は、逃げればよいのじゃ!」
夕姫は、叫ぶように云った。
「それは、なるまい。宮本武蔵は、兵法者である限り、挑戦されて、逃げるわけには参らぬ。……ところで、そもじは、いずれのご息女か?」
「そんなことは、どうでもよい。すぐに、武蔵をたずねあてて、逃げるように、すすめてたもれ」
火焔坊は、しきりに首を振ってから、城之助に、この美女の素性を訊ねた。
城之助が、ちょっとためらってから、こたえると、火焔坊は、大きく目をみはって、
「ほう! 成程! これは、殺生《せつしよう》関白殿のご息女でござったか」
あらためて、挨拶《あいさつ》してから、
「武蔵の奴《やつ》、果報者よ。天女と見まがう姫君に、惚《ほ》れられ居って! ……遊女は遊女で、千人の男と枕《まくら》を交し乍ら、心に抱いた男は武蔵ただ一人、ときめて居るし――」
「それは、なんのことであろう?」
夕姫は、美しい眉宇《びう》をひそめて、問うた。
「いや、こちらのことでござる。……さて、姫君の申されることでもあるし、至急に武蔵をさがしあてて、吉岡方に逃げたと思わせずに逃げる方策をたてねばなるまいて」
火焔坊は、いったん立ち上ってから、ちょっと思案して、城之助に、目くばせしておいて、庭へ降りた。
城之助が庭をまわって、門口に出ると、火焔坊は、
「なんとも、びっくり仰天させられたわい。この世に、あんな美女が存在しようとは! いや、全く以《もつ》て、おどろいた」
と、云い、その匂《にお》いがここまでただようて来ているように、鼻翼をひくつかせて、深呼吸した。
城之助は、その露骨さに、いささか不快をおぼえつつ、
「姫様は、尼になろうとされて居ります」
と、告げた。
「なに!」
火焔坊は、おそろしい大声をあげた。
「莫迦《ばか》なっ! そんなもったいない話があるか! 尼になる女子は、鼻べちゃの、眇目《すがめ》の、あばた面で、男に対手《あいて》にされぬしろものでよいのだ。どうだ、お主も、そう思うであろう?」
「はい」
「いったい、なんの理由で、尼になどなろうというのだ?」
「わかりませぬ」
「武蔵を慕うて居る、と云うたが、あれは本音か?」
「…………」
「お主のようなわっぱでは、わかるまいな」
「わたくしは、十五歳です。子供ではござらぬ!」
城之助は、屹《きつ》となって、云った。
「ふん! お主も、あの美女に、ふらふらとなって居るとみえる。当然であろうな」
「そんなことを申されているひまがあったら、はよう、武蔵殿をおさがし下され」
「のう、お主――。武蔵は、よもや、あの姫君を、抱いては居るまいな?」
「…………」
城之助は、踵《きびす》をまわした。
「おい、待て待て――。これは、肝心のことだぞ。もし、武蔵が、あの姫君を抱いて居るとすれば、あいつ、どうして溺《おぼ》れなんだか。これこそ、まさに、鬼神の意志力と申すものだぞ」
城之助は、頭をまわして、火焔坊を睨《にら》みつけるようにして、
「武蔵殿は、申される通り、鬼神の意志力をお持ちでござる」
と、こたえた。
「つまり、抱いては居らんというのだな?」
「姫様が、はじめて、当庵へ身を寄せられた時、座敷で湯浴《ゆあ》みをなされました」
「ふむ、湯浴みをしたのであれば、素裸になったわけじゃな。腰にまとった二布《こしまき》もはずしてだろうな」
「一糸もまとわず、盥《たらい》にお入りなされました。わたくしが、湯と水をはこびました」
「ほう――それで?」
「姫様は、武蔵殿に、背中を流して欲しい、と所望されました」
「なんと!」
「武蔵殿は、姫様のお背中を、流してさしあげられました」
「それから、どうした?」
「わたくしには、武蔵殿が、なんとなく、阿呆《あほう》にみえました」
「お主の気持など、どうでもよい。武蔵は、どうした?」
「それだけです」
「それだけとは?」
「それだけだから、それだけだと申して居ります」
「つまり、その……、武蔵は、あの絶世の美女の全裸を見せられても、欲情を抑えきった、というのだな?」
「はい。……姫様と武蔵殿は、座敷で、二夜をすごされましたが、何事もなく、うち過ぎたのでござる」
「あきれたのう!」
「武蔵殿は、お手前様とは、人間の出来が、ちがって居ります」
そう云いすてておいて、城之助は、さっさと遠ざかって行った。
火焔坊は、苦笑して、
「わっぱめが、小憎らしゅう、武蔵とおれを、比較し居るわ」
かぶりを振って、
「しかし、おれなら、一夜どころか、ものの半刻《はんとき》も我慢できぬわい」
三
武蔵は、まだ、かたわ小屋にいた。
見事に彫りあげた仏像を、わきに置いて、武蔵は、いつも、肱枕《ひじまくら》で横になっていた。
そっと、そばへ近づいて来る気配がしたが、武蔵は、目蓋《まぶた》もひらかなかった。
かなりの時間が経《た》ったが、かたわらに坐った者が、動こうとしないので、武蔵は、薄目をひらいてみた。
それは、人買いに連れて来られた土くさい十五、六の百姓娘であった。
仏像へ向って、合掌し、一心に、祈りをこめていたのである。
「わしが、彫ったしろものなど、おがんだところで、ご利益《りやく》はないぞ」
武蔵は、云った。
娘は、ようやく、祈るのを止めて、武蔵を視た。
「いいえ、この観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》様は、尊いお顔をして居られます。無限のお慈悲をお持ちに相違ございません」
「お前が、そう思い込むのは、勝手だが……」
珍しく、武蔵は、微笑した。
「わしは、見た通り、仏に帰依《きえ》した者ではない。深山にこもって修行した優婆塞《うばそく》というわけでもない。……人を多く斬《き》った兵法者だ」
「お前様がどのような御仁でござりましょうとも、この菩薩様は、尊いお顔をしておいでです」
娘は、云いはった。
「そうか。本気でそう思って居るのか?」
「はい。思うて居ります」
「お前は、これから、どこかの廓《くるわ》へ、売られる身か?」
「はい」
武蔵は、こくりとうなずく娘を眺《なが》めて、当然、夕加茂《ゆうかも》の俤《おもかげ》を、よみがえらせた。
「お前が欲しければ、この仏像、くれてやろう」
「い、いえ……、わたしになんぞ、もったいなさすぎます」
「遊女にされたら、自身の部屋へまつってくれ。仏像も、よろこぶだろう」
「ほ、ほんとうに、わたしに下さるのでございますか」
「やろう」
「忝《かたじけ》のうございます」
娘は、平伏した。
「ついては、使いをたのまれてくれぬか?」
「はい。……でも、わたしは――」
「人買いには、わしから、ことわってやる」
武蔵は、娘に人買いを呼ばせると、いくばくかの金子《きんす》を渡し、
「半日、借りたい」
と、申し入れた。
礼金が過分だったので、人買いは、
「へえ。半日が一日でも、お使いなさいまし。……へへ、なにしろ、京都の水で、しばらく洗って、垢《あか》を落してやらねえと、このまんまじゃ、高う売れませんのでね。ささ、どうぞ――」
と、云った。
娘の売買が、べつに悲劇ではない時世であった。売られた娘にも、逃亡しようなどという気持はすこしもなかった。
武蔵は、矢立てから、筆を抜き出すと、料紙に、短い一文をものした。
「これを持って、西洞院《にしのとういん》というところにある室町兵法所へ行ってくれ」
「はあ――」
「返辞をもらって来るのだ」
「はい」
「しかし、わしが、ここにいることは、訊ねられても、云ってはならぬ」
「はい」
「尾《つ》けられてはならぬぞ。尾けられているかどうか、よくたしかめて、もどって参れ」
「はい」
娘は、出て行った。
武蔵は、再び横になった。
こちらから、試合の日時と場所を問い合せてやったのである。
――おれは、三たび、勝つ!
たとえ、吉岡方が、何者を名目人にし、何百人でかかって来ようとも、絶対に勝ってみせる、と自身に云いきかせた。
一乗寺|下《さが》り松
一
|ちか《ヽヽ》というその娘が、息せき切って、小屋へ馳《は》せもどって来たのは、それから約一刻のちであった。
武蔵の問いに対する吉岡方の果し合いの牒状《ちようじよう》は、左のようなものであった。
日時 明後日|卯刻《うのこく》(午前六時)
場所 洛北《らくほく》一乗寺村 藪之郷《やぶのごう》下り松
名目人 佐野 又一郎
後見人 佐野又左衛門
武蔵は、その牒状を、黙って、燃やしておいて、立ち上った。
――この小屋へ、二度と再び、ねぐらをもとめることはないだろう。
そう思いつつも、べつに、馴染《なじみ》になった誰一人にも、別れを告げようとせず、まっすぐに通路を歩いて、おもてへ出た。
「あ、あのう――」
|ちか《ヽヽ》が、出入口に追って出て来て、呼びとめた。
武蔵が振りかえると、|ちか《ヽヽ》は、けんめいに眸子《ひとみ》を張って、
「貴方《あなた》様が、ほんとうの宮本武蔵様でございましたのですね」
と、云《い》った。
「うむ」
|ちか《ヽヽ》は、なにか、云い継ごうとしたが、あまりの感動で、言葉が、つづかないようであった。
武蔵は、歩き出した。
|ちか《ヽヽ》が、あとを跟《つ》いて来る跫音《あしおと》が、きこえた。
武蔵は、二十歩も歩いてから、振り向きもせずに、
「わしに跟いて来ても、どうにもならぬぞ」
と、云った。
「……お世話を――」
|ちか《ヽヽ》は、口ごもり乍《なが》ら、やっと、そう云った。
「腹が空《す》けば、山に入って木の実を採り、川に入って魚をつかみ、どこでも野宿のできるくらしをして来た男だ、わしは――。女子《おなご》などに世話をしてもろうたおぼえもない」
「武蔵様、どうぞ、お願いでござりまする。わたしを、どこへなりとも、お連れ下さいませ」
武蔵は、ふりかえってみて、|ちか《ヽヽ》が、こちらがくれた仏像を、胸に抱いているのを視《み》た。
「お前は、売られて来た娘ではないか。わしは、買いもどしてやる金子《きんす》など所持せぬ」
「わたしを因幡《いなば》から連れて来たあの男は、明日まで、ここへ戻って来ないのでございます」
「その隙《すき》に、逃げる、というのか?」
「…………」
|ちか《ヽヽ》は、俯《うつむ》いた。
大粒の泪《なみだ》を、したたらせて、はげしく肩を顫《ふる》わせた。
「|ちか《ヽヽ》――」
「はいっ!」
「わしが、看《み》たところ、あの人買いは、あまり性悪の悪党ではなさそうだ。わしが、お前を半日借りたい、とたのむと、こころよく承知してくれた。……あの男を、わしは、裏切るわけには参らぬ。また、そなたを、供にしても、連れて行く処《ところ》を持たぬのだ」
「武蔵様、わたしは、どんなことでも、いといませぬ。一生懸命、おつかえします。……お願い申しますでございます」
|ちか《ヽヽ》は、その場へ、土下座すると、額を地面にすりつけた。
武蔵は、じっと見下し乍ら、
――淡路の七助《ななすけ》に、もう一人、娘を預ってくれ、とたのむわけにもいかぬ。
と、思った。
琵琶《びわ》湖畔の湖賊小屋にいた聾唖《ろうあ》の娘を、この京都へともなった武蔵は、七助に身柄《みがら》をゆだねている。
その娘は、まだ、鴨川《かもがわ》の岸辺につないだ七助夫婦の舟で、くらしているはずである。
|ちか《ヽヽ》に、いかに冷酷な男とうらまれようとも、いまは、ふりすてるよりほかはなかった。
「|ちか《ヽヽ》――」
「はいっ!」
「わしは、明後日、そなたが使いに行った室町兵法所の面々と兵法試合をするのだ。……道場では、おそらく、総がかりで、わしを討ち取ろうとするに相違あるまい。五十人、百人……いや、二百人かも知れぬ。わしは、この多勢をむこうにまわして、たたかわねばならぬ。……明後日の朝までに、わしは、その決戦のために、心の用意をせねばならぬのだ。そなたのような娘を、身のそばに置く余裕はない」
「…………」
|ちか《ヽヽ》は、きかされた事の重大さに、眦《まなじり》が切れるほど瞠目《どうもく》して、武蔵を仰いだなり、言葉も出ぬ様子を示した。
「わかったな?」
「は、はい――」
「さらばだ」
こんどこそ、武蔵は、大股《おおまた》に足のはこびをはやめて、二度とふりかえらなかった。
二
一乗寺村は、洛北の瓜生《うりゆう》山の麓《ふもと》にある。
瓜生山は、比叡山《ひえいざん》を北に仰ぎ、如意《によい》ケ岳《たけ》を南にのぞむ、山というよりも高地であった。
その麓は、藪《やぶ》と野が交互にちらばり、わずかの人家は、藪かげにひそんで、聚落《しゆうらく》にはなっていなかった。
藪が多いので、藪之郷と謂《い》う。
そのむかし、この土地に、一乗寺という古刹《こさつ》があり、これが兵火のために烏有《うゆう》に帰してから、その趾《あと》が三叉路《さんさろ》の辻《つじ》になっていた。
この辻に、巨大な樹冠をひろげた老松があった。
樹冠は、遠望すれば、松茸《まつたけ》が|かさ《ヽヽ》をひろげたかたちに見えた。根あがりの、爬虫《はちゆう》のように三方へ地面を匍《は》った太い根は、千年の樹齢を示していた。
下り松、という呼称は、瓜生山から、裾野《すその》がゆるやかに傾いて、このあたりもなお、平地ではなかったからである。
三叉路のうち、比叡山の雲母《きらら》坂から下って来たいわゆる叡山道が、街道らしい広さであった。
高野川方面から田畠《たはた》の中を通じる道は、細い田舎道である。
もうひとつ、瓜生山の麓から薬師堂を抜ける道は、白い石塊が、歩行をはばむ険路であった。
白河から、修学院にかけての一帯は、花崗岩《かこうがん》の産地であり、一乗寺趾からすこし山寄りの地域(のち――江戸初期、石川丈山《いしかわじようざん》が詩仙堂《しせんどう》を建てたあたり)は、藪と野を区切って、大きな石が、重なりあっていた。
この日――。
武蔵は、鴨川から高野川へ――下流から上流へ沿うて、足をはやめて行き、やがて通行人に道を問うて、右折した。
一乗寺村の地勢を検分しておくためであった。
巨大な樹冠を、夏空にひろげた下り松に至ると、武蔵は、ゆっくりと、四方を見渡した。
人家は、遠く二軒ばかりが、藪|蔭《かげ》にのぞいているだけである。
辻のまわりは広く、白い石が無数にちらばっている。その中には、猪《いのしし》が蹲《うずくま》っているほどの大きさのも、いくつか、かぞえられた。
北と東は、深い藪が山腹をかくして居《お》り、田畠は西にひらけていた。南は、夏草のしげる原野が、小さな藪と雑木林を配して、道筋を掩《おお》うていた。
――成程!
武蔵は、合点した。
吉岡方が、果し合いの場所として、ここをえらんだのは、布陣の利を知っているからであった。
名目人は、この下り松の根かたに、床几《しようぎ》を据《す》えて、腰かけるに相違ない。
松の高処《たかみ》には、弓矢または鉄砲を持った者をのぼらせるであろう。
北東の藪と南の原野は、伏兵をひそませるに恰好《かつこう》であり、奔《はし》って遁《に》げ込むことをはばんでいる。血路をひらくとすれば、西の田畠だけである。
まず、常識では、そうなる。
そして、辻のまわりの空地は、ちらばった石が、討手勢の姿をかくしてくれる役割をはたすであろう。
孤身をもって、斬《き》り込んで、九死に一生をひろうことができるとすれば、西の田畠を、旋風《つむじ》のはやさで奔駆する一手のみである。
しかし、田畠には、十重二十重《とえはたえ》の剣陣が布《し》かれるに相違ない。これを突破することは、鬼神の働きの自信がなければ、とうてい、おぼつかぬ。
武蔵は、敵の頭数を百人と想定して、その配置ぶりを、
――そこに何人。
――あそこに幾人。
と、かぞえてみた。
その挙句、
――生きのびることはおろか、この下り松の根かたまで達することも叶《かな》うまい。
という結論が出た。
しかし、武蔵は、この試合をすてて、逃亡する気持は、みじんもなかった。
明後日、この場所で、吉岡方の名目人を斬るまでは、死闘をくりひろげることになる。
こちらに、助太刀をたのむべき人物は、一人もいないのである。
この腰に帯びた一振りの剣だけで、闘わねばならぬのだ。
武蔵は、大きく、
「ふうっ!」
と、熱い息を吐いた。
三
「どうしたな、若い衆」
不意に、声がかかった。
武蔵が、屹《きつ》となって、視線を投げると、最も大きな石の蔭から、のそりと、立ち上ったのは、白い頭髪を、手一束に切り下げた老人であった。
染帷子《そめかたびら》に、葛袴《くずばかま》をはき、手に、桜の杖《つえ》を携えていた。
前に立たれた時、武蔵は、対手《あいて》がべつに魁偉《かいい》の容貌《ようぼう》でもなく、温和な眼眸《まなざし》をほそめているにも拘《かかわ》らず、微《かす》かな畏怖《いふ》をおぼえた。
武蔵が、人から畏怖心を生じせしめられたのは、弁之助《べんのすけ》であった頃《ころ》、無二斎から眼光を射込まれた時であった。無二斎が逝《い》った後、武蔵は、曾《かつ》て一度も、人に会って、怯《お》じ気を意識したことはなかった。
――何者だ?
武蔵は、畏怖をはじきかえすために、胸を張った。
老人は、微笑して、
「お主、大層気負い立って居る模様だが、ここで、親の敵でも討とうというのかな?」
と、訊《たず》ねた。
「いや――」
武蔵は、かぶりを振って、
「明後日、早朝、この場所にて、兵法試合をいたす」
と、こたえた。
「ほう……兵法試合をな」
老人は、うなずいたが、その時は、それにふれず、
「夕餉《ゆうげ》でも馳走《ちそう》いたそうかな。ござれ」
と云って、歩き出した。
右足を、かなり苦しげに、ひきずっていた。
老人の住居は、ふかい藪の中をくぐって、瓜生山の中腹まで登ったところにあった。
文字通りの草庵《そうあん》であった。
すでに、宵闇《よいやみ》がしのび寄って居り、藪を鳴らす風は、涼しかった。
老人がふるまってくれたのは、味噌煮《みそに》の猪肉《ししにく》であった。美味《うま》かった。
馳走になる前に、武蔵は、わが姓名を名のったが、老人は、べつに、表情も動かさなかった。
しかし、老人は、宮本武蔵が何者か、すでに知っていた。
武蔵が、箸《はし》を置いて、頭を下げると、老人は、
「対手がたは、吉岡の門弟衆じゃの」
と、云いあてた。
「左様です」
「吉岡憲法は、わしの長年の友達であった。お主は、その伜《せがれ》を、二人までも、殺した。……門弟衆をむこうにまわすのも、やむを得まいのう」
「…………」
「お主の助勢は、どれくらい居るかな?」
「それがし一人です」
「一人? たった一人で闘うというのか?」
「吉岡方は、何人ぐらい、とご老人は、推定なされるか?」
「そうさの。……一応、剣の使える者が三百人、として、そのうち、意気地を通そうと肚《はら》をきめるのが、三分の一――いや、四分の一であろうかな」
「すると、ざっと、七十余人ということになります」
「決して、すくなくはない人数だのう」
老人は、武蔵を見まもって、微笑した。
「死地であることは、誰が考えても、まちがいはないのう」
「兵法者である以上は、逃亡は許されぬところ。敢《あ》えて、死地に踏み込み申す」
「死ぬ覚悟ではなく、勝つ覚悟でかな?」
「もとよりのこと!」
「あっぱれな兵法魂だのう」
「兵法者たる身の冥加《みょうが》でござろう」
老人は、台所へ立って行き、濁酒を持って来た。
武蔵が、飲まぬと知ると、老人は、自分でついで飲みはじめた。
しばらく、沈黙があった。
やがて――。
老人は、呟《つぶや》くように云った。
「試合に勝つには、勝つようにして勝たねばなるまい」
「…………」
「お主は、あの下り松で、地勢を検分していたが、どうたたかえば、百に一もの生きのこる道がある、と看《み》て取ったかな」
「いや、百に一も、生き残る道はない、と思い申した」
「それにも拘らず、お主は、勝って、なお且《かつ》生き残る意志を、蔵して居る」
「…………」
「笑止の沙汰《さた》だの」
「とうてい勝つのぞみはない、と申されるのであろう」
「百に一も生き残る道のない死地へ、生き残る意志を蔵しつつ、斬り込む。これほど、おかしい振舞いがあろうか」
「では、ご老人は、それがしに、逃亡せよ、とすすめられるのか?」
「いや、すすめては居らぬよ」
「どうせよ、と云われるのだ?」
「勝つようにして勝ち、生き残るようにして生き残る。それだけのことじゃな」
「…………」
武蔵は、老人の淡々とした謎《なぞ》めいた言葉を、胸に受けとめ乍ら、心の一隅《いちぐう》では、
――さげすまれているのではあるまいか?
その疑いをわかせていた。
富田勢源《とだせいげん》
一
「あっ! 巌流館《がんりゅうやかた》の赤鬼っ!」
激しい驚愕《きようがく》の叫び声が、憎悪《ぞうお》と怨恨《えんこん》のひびきをこめて、あげられたのは、八坂五重塔の東から清水寺に至る三年坂の途中に於《お》いてであった。
三年坂という名称は、傍に清水寺の泰産堂があったため、産寧坂《さんねいざか》と呼ばれ、これが三年と呼びかえられた、といい、また平城帝《へいぜいてい》の大同三年にはじめて坂路をひらいたために名付けられた、ともいう。
世俗では、この坂でころぶと、三年間のうちに生命を落す、という迷信があって、人々はいましめあっていた。
そのせいか、この坂は、真昼でも、人影がまれであった。六尺を二、三寸も越えた巨躯《きよく》の所有者が、根来塗《ねごろぬり》の朱漆のような総髪を肩に散らし、背中には四尺余の長剣を負うて、闊歩《かつぽ》して来たのである。
どんな遠くからでも、目立つ。
驚愕の叫びをあげたのは、旅姿の初老の婦人であった。
連れがいて、これは、三十前後の逞《たくま》しい武士であった。
「おっ! あれが、一乗谷の佐々木小次郎でござるか」
「外記殿、たのみまするぞ。わたくしは、逆縁|乍《なが》ら、伜《せがれ》の敵《かたき》を討たねばなりませぬ!」
「承知いたした。やす江殿の中条流小太刀に、この中河外記の念流を合せれば、いかにあやつが鬼神の使い手であろうとも、討ちとることは、むつかしゅうはござらぬ」
連れが、そう云《い》った時、小次郎は、十歩の距離に近づいていた。
初老の婦人は、北陸道に剣名をほしいままにする富田一族の一人であった。
富田家。
この兵法の名家は、本邦の剣道史上に特記されねばならぬ。
そのむかし、鎌倉《かまくら》地福寺に、慈音《じおん》という僧侶《そうりよ》がいた。渠《かれ》は、奥州相馬《おうしゆうそうま》の人で、相馬|四郎義元《しろうよしもと》という武辺であった。その父は四郎|左衛門忠重《ざえもんただしげ》といい、新田義貞《につたよしさだ》の麾下《きか》に属し、弓の達人で、戦場に於いてもかずかずの武勲を樹《た》てたが、奸人《かんじん》にはかられて、毒殺された。
その時、四郎義元は、わずか五歳であったが、乳母に背負われて、相馬をのがれて、武蔵《むさし》国にひそんだ。
七歳の時、乳母にともなわれて、亡父追善|供養《くよう》のために、相州|藤沢《ふじさわ》の遊行寺《ゆぎようじ》に行った。乳母は、義元を、遊行|上人《しようにん》の弟子に、と願ったのである。
念阿弥《ねんあみ》となった義元は、しかし、稚《おさな》い胸から、復讐《ふくしゆう》の念を片時も消さなかった。
十歳になると、遊行寺を脱走して、京の都へ上った。鞍馬寺《くらまでら》の宿坊に、兄弟子をたずねたのがさいわいして、そこに寄宿していた唐人を識《し》って、剣法の精妙をさずかった。
のち、十六歳で、鎌倉へ入って、地福寺へ身を寄せ、あらためて僧体となり、念阿弥にもどったが、剣の奥旨の念願はすてず、十八歳の時、鵜戸《うど》岩室の安楽寺におもむき、鵜戸|大権現《だいごんげん》に祈願して、ついに、念流を開創した。長慶帝《ちようけいてい》正平二十三年五月のことである。
数年後、念阿弥は、潜行して故郷へ帰り、自ら元服して、相馬四郎義元と名のって、首尾よく父の仇敵《きゆうてき》を討った。その首級を、墓前に供えておいて、鎌倉へひきかえし、再び、剃髪《ていはつ》して慈音と名のった。
慈音となってからも、諸国を経巡《へめぐ》って、天稟《てんぴん》を持つ者に、兵法をさずけた。
以上は、しかし、その正統を継いだと称する馬庭念流樋口《まにわねんりゆうひぐち》家の伝書に記してあることで、はたして、正しい伝記かどうか、不明である。
慈音が開創した念流の末流である富田家では、
「神僧慈音」
と記して、その存在を神秘化している。
あきらかなことは、慈音の念流を、地福寺の檀家《だんか》の一人である|中 《ちゆう》|条 兵庫助《じようひようごのすけ》が、継いだことである。
中条兵庫助は、念流の奥旨を究《きわ》めたのち、これを甲斐豊前守《かいぶぜんのかみ》につたえ、豊前守は、大橋|勘解由左衛門《かげゆざえもん》に伝え、勘解由左衛門は、富田九郎右衛門に伝えた。
富田九郎右衛門は、越前《えちぜん》朝倉家の家臣で、その国の名族であった。
九郎右衛門は、研鑽《けんさん》の挙句、中条流を改めて、「富田流」と称した。
この富田流を、天下にとどろかせたのが、その孫勢源であった。
富田勢源は、上泉伊勢守《かみいずみいせのかみ》と同時代であった。
その剣名が、一時に天下に鳴りひびいたのは、永禄《えいろく》三年七月二十三日、美濃《みの》に於いて、国主|斎藤山城守義龍《さいとうやましろのかみよしたつ》の命によって、鹿島神道流《かしましんとうりゆう》の達人梅津|長羽《ちようう》との試合によってであった。
二
室町から戦国にかけて、関東に於ける剣道の大本山というべきものは、鹿島神宮であった。
鹿島神宮の祠官《しかん》の間には、国摩真人以来、相伝えて、兵法修業を積み、名手達人をつぎつぎに輩出させた。塚原卜伝《つかはらぼくでん》が、そうであり、五|畿《き》七道にわたって、真剣勝負をすること十九|度《たび》、戦場を踏むこと三十七度、木太刀の試合はかぞえきれなかった。しかも、五体には、矢傷が数箇所あるだけで、刀疵《かたなきず》はひとつもなかった。卜伝は、生涯《しようがい》で、二百十二人を斬《き》った、と伝えられている。
その塚原卜伝が、遁世《とんせい》して二十余年を経て、鹿島神道流の代表者として、その名を関東、東海道に売ったのが、梅津長羽であった。
慈音の念流を継いだ中条流・富田勢源と、鹿島太刀の第一人者である梅津長羽が、同じ美濃の国に、入って来たのである。
国主斎藤義龍が、これをきいて、そのままにうちすてておくはずがなかった。
義龍は、さきに美濃に来て、城中にとどまっていた梅津長羽に、
「富田勢源と立ち合って、中条流の小太刀を、撃ち落してみよ」
と、命じた。
梅津は、ただちに、使者を遣して、
「身共は、天下に知られたる中条流小太刀を未《いま》だ知り申さず、何卒《なにとぞ》見せられるべく候《そうろう》」
と、所望した。
勢源は、しかし、口頭でことわった。
「それがしは、ごらんのごとく、剃髪して法体と相成って居《お》り、また、兵法未熟でござれば、とても、梅津長羽殿の敵ではござらぬ。申し添えるならば、中条流は、他流との試合を、未だ曾《かつ》ていたして居らぬのでござる」
この返辞をきいて、梅津は、城内で、高笑いをはなった。
「身共の鹿島神道流は、関東に於いて無敵であったが、東海道はもとより、北陸道に於いても無敵ということに相成り申した。……そもそも、身共には、相弟子が三十六名居り申したが、いずれも、身共の太刀先に及ばず、ことごとく身共の門下に相成って居り申す。先年、当国に参った際も、美濃の達人ときこえた吹原大書記、三橋貴伝の両氏を、撃ち負かして居り申す。……富田勢源と申す兵法者、越前に於いては、第一人者か存ぜぬが、どうやら、この梅津長羽の足もとにも及ばぬ、と看《み》てとり申した」
次いで、梅津は、云わでもの高言を口にした。
「たとい、当国の頭領殿であろうとも、身共は、試合と相成らば、容赦なく、撃ち据《す》えて、生命を奪うことも辞せぬ兵法魂を備え申す」
斎藤義龍は、身丈《みのたけ》六尺五寸、体重三十余貫、膂力《りよりよく》二十人力と称された偉丈夫だったのである。
義龍は、梅津の高言を、侍臣からきかされると、
「是が非でも、富田勢源と試合をさせてくれる」
と、正式の使者として武藤淡路守《むとうあわじのかみ》、吉原伊豆守《よしわらいずのかみ》の両名を、勢源の旅宿へ、遣した。
美濃の斎藤家と、越前の朝倉《あさくら》家は、同盟をむすんだ間柄《あいだがら》であった。
勢源が宿舎にしているのは、朝倉家一族の朝倉成就の家であった。斎藤家が武威|熾《さか》んなために、朝倉家では、人質のかたちで、朝倉成就を美濃へ詰めさせていたのである。
勢源は、正式の使者がやって来ても、なお、試合しがたし、と固辞した。
義龍は、あきらめず、三度、使者を遣して来た。
「この上は、やむなし」
ついに、勢源も承知した。
試合場は、武藤淡路守宅と、きめられた。
日時は、七月二十三日|辰刻《たつのこく》。
勢源が、検使を希望したので、吉原伊豆守が、その役をひき受けた。
梅津長羽は、城を出て、斎藤家一族の大原家を、支度所とした。
試合の前夜、梅津は、湯|がかり《ヽヽヽ》をして、信心を為《な》した。
湯|がかり《ヽヽヽ》というのは、入浴ではなく、白衣白袴姿で、湯殿で冷水をかぶって、祝詞《のりと》をあげることであった。
それをきいた勢源が、うすら笑って、
「心がまえができて居れば、神に利を祈る必要もあるまいに――」
と、もらした。
その朝――。
勢源は、二、三人の供をつれて、朝倉成就宅を出ると、途中で、売りものの薪物の山があるのをみとめて、その中から、一尺二、三寸の黒い割木をひき出して、素振りしてみて、
「これでよかろう」
と、きめた。
梅津の方は、門弟数十人を行列させて、支度所の大原家の主人も帯同して、試合場へやって来た。
その得物は、三尺四、五寸もの長さの、八角に削った大木太刀であった。それを錦《にしき》の袋に入れて、門弟の一人に持たせていた。
試合場へ入ったのは、二人同時であった。
見物人の誰の目にも、勢源は梅津に敵《かな》わぬ、と映った。
梅津は、身丈六尺を超えていたし、勢源は五尺そこそこの小兵だったからである。風貌《ふうぼう》も対蹠《たいしよ》的であった。梅津の眼光は槍《やり》の穂先のように鋭く、勢源はいっそねむそうに双眸《そうぼう》をほそめていた。
一方が、烈風に嘯《うそぶ》く虎《とら》とみれば、一方は牡丹花《ぼたんばな》の下の睡猫であった。
三
梅津は、空色の小袖《こそで》に、木綿袴をつけ、勢源は、柳色の小袖に、半袴をつけていた。
二十歩の距離を置いて対峙《たいじ》した時、梅津は、何を考えたか、吉原伊豆守に向って、
「ご検使、願わくは、白刃にて、勝負つかまつりたく存ずる」
と、申し入れた。
伊豆守は、勢源に、
「この儀、如何《いか》に」
と、訊《たず》ねた。
勢源は、もの静かに、
「むこう様が、木太刀を白刃に変えられようとも、いささかも苦しゅうはござらぬ。但《ただ》し、それがしは、この木太刀にて、つかまつる」
と、こたえた。
梅津の太い眉《まゆ》が、つりあがった。
――小癪《こしやく》っ!
面上にありありと、憤《いきどお》りの色を刷《は》いた。
さきに、するすると進みはじめたのは、勢源であった。
それに対して、梅津は、三尺数寸の大木太刀を、大上段に振りかぶった。
間合を見切った勢源は、
「参る!」
と、声をかけた。さして、大きな声音ではなかったが、遠巻きにした見物人の耳にも、ひびいた。
「お――りゃっ!」
梅津は、みじんになれと、木太刀を、勢源の脳天めがけて、振りおろした。
勢源が、これを一尺二、三寸の割木で受ける音が、高くひびいた。
とみた――次の刹那《せつな》。
勢源の小兵の身が、斜横に跳んだ。
梅津の小鬢《こびん》から頬《ほお》へ、血汐《ちしお》がしたたった。同時に、渠は、右腕をだらりと下げた。
勢源は、小鬢と二の腕を、つづけざまに搏《う》ったのである。
顔面を朱に染めつつ、梅津は、野獣の咆哮《ほうこう》に似た懸声を噴かせて、攻撃した。
勢源は、その大木太刀を、刎《は》ねかえしざま、敵の額を、丁と撃って、再び跳びかわした。
梅津の形相は、さらに物凄《ものすご》いものになった。
それでも屈せず、梅津は、襲いかかった。
勢源は、かんまんともみえる動作で、梅津の右手くびを一撃した。
梅津は、がくっと膝《ひざ》を折ったが、しかもなお死力をふりしぼって、左手で、大木太刀を横薙《よこな》ぎに勢源の脚を払おうとした。
勢源は、その得物を、ぱっと踏みつけた。三尺数寸の木太刀は、ま二つに折れた。
梅津は、よろよろと起《た》つと、殆《ほとん》ど意識を喪《うしな》ったままで、脇差《わきざし》を抜いて、勢源に突きかかった。
勢源は、その白刃を無造作に、地面へ叩《たた》き落した。
試合は、終った。
勢源は、ただの一太刀で、梅津を絶息させることができたはずであった。それをせず、対手《あいて》が不具にならぬ程度に搏ちとどめて、闘う力を失わしめたのである。
門下一万余を擁する名門富田家の当主だけあって、試合をして人を殺すのを、避けたのである。
佐々木小次郎は、この富田勢源の孫弟子にあたる。
越前国宇坂荘一乗谷浄教寺村に巌流館というのがあったが、これは、むかしは、修験道の修行場であった。
修験道の一人佐々木巌流という者が、膂力|凄《すさま》じい狂的な人物で、修行場をおのが屋敷に建てかえてしまったのである。
そして、どこかの海辺から、嬰児《えいじ》をひろって来て、それを養子として育てたのであった。それが、小次郎であった。
面貌の示す通り、小次郎は、あきらかに異邦の血を享《う》けていた。漂流して来て難破した南蛮船から、救われたに相違なかった。
小次郎は、十歳の折に、富田道場に入ったが、たちまち、その天稟の腕前を発揮した。しかし、少年にしてすでに、傲慢《ごうまん》の気風をむき出し、手がつけられなかった。
十五歳の頃《ころ》には、すでに、当主の打太刀をつとめるようになったが、小太刀を使うのをきらい、三尺余の木太刀をえらんでいた。
勢源は、すでに、七十余の老人になっていて、めったに道場に出られなくなっていて、勢源の養子山崎|六左衛門《ろくざえもん》が、富田家を継いでいた。
六左衛門は、富田|越後守《えちごのかみ》と改めて、前田家に仕え、采邑《さいゆう》一万三千五百石を領していた。
柳生但馬守宗矩《やぎゆうたじまのかみむねのり》が、一万石を得た以前のことであり、兵法者として、一万石の領邑を得たのは、富田越後守を以《もつ》て嚆矢《こうし》とする。
名人越後、と称されたのは、この人物である。
小次郎は、越後守の弟子であった。
越後守の実弟に山崎治部左衛門という達人がいたが、小次郎は、その治部左衛門の嫡男《ちやくなん》新五郎という同年の若者と、試合をして、これを撃ち殺して、越前国を退去した。
三年坂で、小次郎を見つけて、仇討の|ほぞ《ヽヽ》をきめたのは、山崎治部左衛門の妻、すなわち、新五郎の母親であった。
婦女小太刀
一
山崎治部左衛門の妻やす江は、関東に剣名随一を誇る樋口《ひぐち》家から、嫁いで来た女性であった。
念阿弥慈音《ねんあみじおん》から、二流が岐《わか》れたことは、すでに述べた。
中条流・富田《とだ》家と念流・樋口家と。
ここで、樋口家に就いて、すこし、述べておかねばなるまい。
慈音は、晩年、信州|伊那《いな》郡波合に移り、そこに一浄舎を建立《こんりゆう》して、長福寺と名づけて、摩利支尊天《まりしそんてん》を安置し、晴耕雨読のしずかな日をすごした、という。
その頃――応永十五年頃、門下の一人|赤松三首座慈三《あかまつさんしゆざじさん》に、その剣の秘奥《ひおう》をさずけた。
赤松三首座は、これを小笠原東泉坊甲明《おがさわらとうせんぼうこうめい》につたえ、小笠原家では、氏綱、氏景、氏重と三代にわたって、伝承した。
小笠原氏重から、その業《わざ》を継いだのは、友松清三氏宗《ともまつせいさんうじむね》(偽庵《ぎあん》)であった。
友松偽庵は、二十歳の頃、期するところあって、ひそかに、倭寇《わこう》となって、中国に渡り、数年をすごして、帰国して来た。
偽庵が、中国で学んだのは、張良の戈《ほこ》の術と医術であった。医術は、特に眼科を学んだ。天正《てんしよう》年間のことである。
偽庵は、念流の奥旨を会得《えとく》し、さらにこれに張良の戈の術を加えたため、試合をするたびに、一撃で対手の生命を奪うことになるので、諸国を周遊するのに、眼《め》医師として、患者を診療することに努めて、剣の術者たることを、かくした。
たまたま、上州西平井村に至り、上州にはあまりに眼病になやむ者が多いのを知って、村はずれの無住寺に、長逗留《ながとうりゆう》をすることになった。
たまたま、樋口又七郎という兵法者が、眼の治療にやって来て、偽庵がただの眼医師ではないことを、知り、立合いをもとめた。
樋口又七郎は、三尺五寸の木太刀で向い、偽庵は素手で、これを、苦もなく奪ってみせた。
又七郎の祖先には、慈音から剣を学んだ兼重という人物がいた。
又七郎は、偽庵の剣法が、夢寐《むび》にも忘れぬ兼重以来の念流であることを知って、即座に、乞《こ》うて、門下となった。
偽庵は、それより前に、上州に於《お》いては、小串清兵衛という兵法者に、念流を伝授していた。
偽庵は、又七郎から、乞われると、
「当流は、一国一人のみに伝授する掟《おきて》であるゆえ、この上州に於いては、為《な》せぬ」
と、ことわった。
そこで、又七郎は、偽庵が、上州を去るにあたって、その旅に同行した。
又七郎が、偽庵から、念流を伝授されたのは、木曾《きそ》山中に於いてであった。
樋口家には、その印可書が、のこされている。
印可書
[#ここから2字下げ]
夫当流用剣術法者、猥《みだ》りに之《これ》を伝えずと雖《いえど》も、爰《ここ》に源朝臣《みなもとのあそん》定次、諸方の剣術を伝うと雖も、心地末隠深深来宅、労功に励まれるの条、残らず当流の秘法、之に伝えしめるところ也《なり》。
於于虚誓者、則《すなわ》ち天の御罰を蒙《こうむ》る可《べ》く、当家第八世の知識と為す可く、依状如件。
[#ここで字下げ終わり]
天正十九年二月末日
[#地付き] 友松清三入道偽庵氏宗
樋口又七郎定次伝之
二
山崎治部左衛門の妻やす江は、又七郎の妹であった。
その供をしている中河外記は、樋口道場の高弟筆頭であった。
中河外記は、師の命令によって、前田家に仕えて加賀にいる「名人越後」に一手の教授を受けに、上州からやって来て、半年をすごし、いよいよ帰国するにあたって、
「いちど、故郷をおとずれてみたい」
と希望するやす江と、連れ立ったのである。
京都、奈良を見物して、東海道を下るつもりであった。
はからずも――。
清水寺へ参詣《さんけい》しようとして、三年坂で、やす江は、わが子新五郎の脳天を、|ざくろ《ヽヽヽ》のように砕いた、佐々木小次郎に、出逢《でお》うたのである。
やす江も、女子|乍《なが》ら、樋口家に生まれて、幼い頃から、小太刀の修業を積み、尋常ならぬ業前《わざまえ》をそなえていた。
わが子の仇敵《きゆうてき》を看《み》のがすわけにはいかなかった。
「佐々木小次郎!」
三年坂のまん中に佇立《ちよりつ》して、数歩の距離まで近づいて来た異相の巨漢に、鋭い叫びをあびせた。
小次郎は、やす江を視《み》やったが、べつに、見おぼえのある顔ではないので、眉宇《びう》をひそめて、
「なんだ、そもじは――?」
「二年前、越前崎に於いて、御辺《ごへん》に討たれた山崎新五郎の母じゃ」
「それがどうした?」
「逆縁乍ら、この母が、わが子の敵《かたき》を討とうぞ!」
やす江は、云《い》いはなった。
「くだらん!」
小次郎は、冷やかにこたえた。
「くだらぬとは!」
やす江は、柳眉《りゆうび》をひきつらせた。
「女子を斬《き》るなど、こんなくだらぬことがあるか、若い美しい女子なら、操《みさお》を賭《か》けさせておいて、あしらうという思案もあるが……、そもじのような、五十に手のとどくような女子を対手にして、立ち合うなどと、ばかばかしい。時間の無駄《むだ》だ」
「だ、だまれ! 雑言許さぬ! 中条流小太刀が、おのれの傲慢な太刀筋に劣るかどうか、とくとみるがよい!」
やす江の叫びに合せて、中河外記が、
「樋口又七郎が直伝の馬庭念流の業をもって、中河外記、助太刀いたす」
と、云った。
小次郎は、じろりと外記を視やった。
「お主、出来そうだな」
小次郎は、にやりとした。
小次郎は、いわば、剣の鬼であった。
絶えず、背負うた物干竿《ものほしざお》の生贄《いけにえ》を求めている男であった。たとえ、対手が、あきらかに、業が劣って居《お》ろうとも、立ち向って来れば、容赦なく、斬る。斬ることに、無上の快感をおぼえるのであった。
まして、こちらと優劣を争うだけの手練者《てだれ》とみれば、対手が拒絶しようとも、敢《あ》えて挑戦《ちようせん》せずにはすまさぬ剣鬼なのである。
小次郎は、中河外記を、そこいらには見当らぬ兵法者と、看てとった。
「おもしろい!」
小次郎は、云った。
「この佐々木小次郎の虎切刀を、見事破ってみせるか」
自ら虎切刀と名づけたのは、燕斬《つばめぎ》りの迅業《はやわざ》をいう。
宙を掠《かす》める飛燕《ひえん》を、抜きつけに斬る、ということは、ただの修業では、とうてい為し得ない至難の業であった。
小次郎は、これを、越前の渓谷《けいこく》で、修練して、一月ばかりで、百羽を狙《ねら》って、百羽を斬る完璧《かんぺき》の迅業を会得した。
もともと、富田家の中条流は、太刀行きの迅さ、を以て極意としている。
敵の五体に向って、放つ白刃の、振り込むか、突くか、いずれをも、いかに凄じい速度を以てするか――それが、中条流の極意であった。それは、中条流が、小太刀を得物にしているからであった。
長剣をふるうよりも、小太刀を使う方が、敵の太刀さばきよりも、より迅速である、という理《ことわり》から生まれたものである。
小次郎は、富田道場に於いて、頭角を現してのち、師の仕太刀《したち》に対して、打太刀をつとめるようになってから、
――はたして、小太刀は、長剣に勝るものか?
と、疑問を抱くようになった。
師の仕太刀は、一尺数寸の短かさであり、これに対して、打太刀の小次郎は、二尺七、八寸から三尺余の長い木太刀を持った。
打太刀をつとめるうちに、小次郎は、ついに、
――剣は、長ければ長いほどよい!
という結論を出し、それを口にすることをはばからず、態度もまた、傲慢|不遜《ふそん》をむき出して、ついに、破門されたのであった。
破門されたのち、小次郎は、諸方を流浪《るろう》し乍ら、使う太刀を、次第に長いものにした。
小次郎が、編み出したのは、三尺余の剣を、大上段に振りかざして、拝み撃ちの形に構えると、第一歩はゆるやかに、次第に速度をつけて、敵に向って、突進し、間合を見切るや、まっ向から斬り下げる。
この斬り下げかたに、独特の動きがあった。
すなわち、きえーっと、斬り下げつつ、両膝《りようひざ》を曲げて、身を沈めるのである。敵を両断した瞬間には、小次郎は、完全にしゃがんだ姿勢になっていた。
小次郎は、これを一心一刀虎切刀と名づけて、これまでに、十七度の試合をし、一人のこらず、一撃で敵を斃《たお》しているのであった。
いまでは――。
小次郎は、背負うた四尺の物干竿を、抜きつけに、飛来した燕を両断し、その迅業を継続させて、次に身をひるがえす第二の燕を斬りざま、さらに、横薙《よこな》ぎに、もう一羽をも地上へ落すというおそるべき魔神の迅業を、具備しているのであった。
三
「笑止!」
中河外記は、ひきしまった面貌《めんぼう》へ、侮蔑《ぶべつ》の冷笑を刷《は》いた。
「お主は、その背中の長太刀をふりまわして、燕返しなどと、うそぶいて居るそうなが、飛ぶ燕を是非にも落したければ、弓矢を用いればよろしかろう。放った矢は、振る太刀よりも、早いが理窟《りくつ》。……長太刀の我流を誇示する迅業など、わが馬庭念流はなんのおそるるには足りぬ」
「ふふふ……、あの世へ行ってから、その高言を、もう一度|噛《か》みしめてみるがよかろう」
小次郎は、せせら嗤《わら》っておいて、やす江を正視した。
「後家殿。そもじが、どれほど中条流小太刀を使うか、知らぬが、……おれは、婦女子を斬る太刀は持って居らぬ」
「云うな! 尋常の勝負をせよ!」
「のぞみとあれば、勝負はする。そして、そもじの連れは、斬る。しかし、そもじは斬らぬ」
「云うな! 云うな! わたくしも、樋口家に生まれて、山崎治部左衛門の妻になった者、なんぞ今更、生命を惜しもうぞ」
「ははは……、思いちがいをするな。佐々木小次郎、婦女子を斬っては、世間のきこえをはばかるのだ。そもじを斬るのは、大根を切るぐらいにしか思っては居らぬ。憐憫《れんびん》を催して、斬らぬ、と申して居るのではない。……婦女子は、斬るものではない。抱くものだ」
と小次郎は、うそぶいた。
やす江の顔面から、血の気が引いた。
若い頃は、美貌の評判の高かった女性であった。
いま、昂奮《こうふん》のために、蒼白《そうはく》になった貌《かお》が、ふっと、小次郎に、女を感じさせた。四十七、八歳であろうが、まだ、美しさを、とどめているやす江であった。
小次郎は、双眼をほそめた。酷薄な思念が、脳裡《のうり》を掠めた。
「後家殿。勝負に負けたら、そもじ、この小次郎に抱かれることになるぞ」
「無礼っ!」
中河外記が、抜刀した。
「さわぐな! ここは、三年坂だ。……場所をえらぶゆえ、じたばたせずに、待て」
小次郎は、悠々《ゆうゆう》と踵《きびす》をまわした。
小次郎がえらんだ決闘場所は、鳥部山であった。
鳥部野ともいい、清水坂と小松谷との中にある丘であった。
ここは、平安のむかしからの墓地で、藤原良経《ふじわらのよしつね》など、公卿衆《くげしゆう》の墓があった。
したがって、故人の命日か、彼岸のほかには、絶えて人影はなかった。
小次郎は、やす江と中河外記を、この丘陵にともなうと、中腹をえらんで、対峙《たいじ》した。
「さあ、参ろうか」
なにか面白い遊興でもやるように、云った。
「それがしが、まず――」
中河外記が、やす江をあとへ退《さが》らせようとした。しかし、やす江は、反対に一歩進んで、桜杖《さくらづえ》に仕込んだ一尺五寸の小太刀を抜いた。
外記は、やむなく、やす江と肩をならべて進むことにした。
小次郎は、冷然として、待つ。
距離は、しだいにせばまったが、小次郎は、背負うた物干竿へ、手をかけようともせぬ。
やす江は、間合を見切ると、
「やああ!」
と、鋭い懸声を、ほとばしらせた。
小次郎は、なおまだ、物干竿の柄をつかもうともせず、
「後家殿。そもじは、この場所で犯されることに相成るのだ。……退《ひ》くなら、いまのうちだ」
そう云いはなちつつも、眼光は、中河外記の胸を刺していた。
やす江よりも、外記の方が、小次郎のうそぶきを許せぬ、と憤怒を面上にみなぎらせた。
外記が大上段に振りかざした白刃は、居つかぬように、絶えず、ゆるやかにゆれていた。
馬庭念流は、大上段からまっ向に斬りおろして、ただの一太刀で勝負を決するのを極意としている。
したがって、外記は、容易に攻撃しなかった。
ただ、歯をくいしばり、双眼をみひらいて、汐合《しおあい》のきわまるのを待った。
小次郎は、しかし、両手をダラリと下げてただの静止相を保っているばかりであった。
汐合がきわまるには、白刃と白刃が構えられていなければならぬ。
このままでは、外記が撃ち込まぬ限り、どれだけの時間が、流れ去るか測れぬようであった。
外記は、その長い時間に堪えるつもりであったが、心配であったのは、やす江が、あせって、小太刀で斬りつけて行くことであった。
外記は、やす江が動かぬことを、祈った。娘時代は、小太刀乙女と称された使い手であり、小次郎としても、決してあなどれぬ筈《はず》であった。
およそ、四半刻《しはんとき》が、経過した。
外記の祈りはむなしく、ついに、やす江が、二度目の懸声もろとも、からだごとぶちつけるように、小次郎めがけて、突きかかった。
鳥部野試合
一
――いかん!
中河外記が、胸の裡《うち》で叫ぶのと、やす江の手から、小太刀がはじきとばされるのが、同時だった。
次の瞬間であった。
外記は、おのが顔面めがけて、無数の黒い針が殺到して来るのをみとめて、思わず、身を沈めた。
それが、小次郎によって両断されたやす江の頭の髪毛であるのを、見分ける余裕のなかったのは、外記の不覚であった。
身を沈めては、馬庭念流の極意太刀を使えなかった。
外記は、結果として、自らえらんで、小次郎の生贄《いけにえ》となってしまった。
小次郎は、大きく踏み込みざま、物干竿《ものほしざお》を一閃《いつせん》させて、外記の首を刎《は》ねた。
真紅の尾をひいて、宙を飛ぶ首に、折から、しきりに飛び交していた燕《つばめ》が、おどろいて、身をひるがえそうとした。
刹那《せつな》――。
小次郎が、
「こやつもか」
叫びざまに、その飛燕《ひえん》を、斬《き》った。
小太刀を奪われたやす江は、全く無視されて、ひとり、とりのこされたあんばいであった。
しかし、やす江は、樋口《ひぐち》家を生家とし、山崎|治部左衛門《じぶざえもん》の妻となった女性であった。
佐々木小次郎に敗れた上からは、いさぎよく生きのびる存念をすてて、わが子新五郎のあとを追うことにして、すばやく懐剣を抜いた。
小次郎は、それを視《み》て、にやりとした。
「後家殿。死にいそぎをすまいぞ」
「…………」
「身共との約束をはたした上で、ゆるりと、伜《せがれ》のあとを追われるがよろしかろう」
やす江は、絶望と屈辱で、応ずる言葉もなく、夢中で、おのがのどを、突こうとした。
物干竿は、容赦なく、その懐剣をもはじきとばしてしまった。
やす江は、小次郎を視かえした。
その双眸《そうぼう》には、痴呆《ちほう》になったように、うつろな色がひろがった。
まばたくことも忘れて、迫って来る小次郎の鋭い眼光を、射込まれるにまかせ乍《なが》ら、身じろぎもせずに立っていた。
「約束だぞ、後家殿」
小次郎は、そう云《い》って、やす江を抱くと、その場へ――夏草の上へ、倒した。
やす江のうつろな双眸は、動かなかった。
自害をはばまれた瞬間に、やす江が、思考の力を喪失したことは、あきらかであった。
常人ならずとも、その惨《みじ》めなあわれな表情を一瞥《いちべつ》したならば、たじろぐはずであった。
小次郎という男には、そのような情《じよう》の動く心など、みじんも持ちあわせがないようであった。
冷然と、やす江の血の色をなくした顔を見まもり乍ら、その片手は、なんのためらうところもなく、裳裾《もすそ》をはぐっていた。
茜色《あかねいろ》の二布《こしまき》が剥《む》かれて、五十女とは思われぬほっそりとした下肢《かし》がしろじろと、眩《まぶ》しい日照りの夏草の中に、浮きあがった。
そして、それが、思いきり大きく押し拡《ひろ》げられた時であった。
人の気配が、後方に起った。
「御辺《ごへん》、精神が狂った女子《おなご》を、犯してもはじまるまい。止《よ》すのじゃな」
「なにっ」
小次郎は、非常な敏捷《びんしよう》さで、やす江の上からはね起きると、邪魔者に、向い立った。
染帷子《そめかたびら》に、葛袴《くずばかま》をはき、手に桜の杖を携えた白髪の老人が、苔《こけ》むした墓碑のわきにいた。
武蔵が、一乗寺村の下《さが》り松で出会うた老人と、同一人物であった。
その時、武蔵は、顔を見合せると、この老人に対して、微《かす》かな畏怖《いふ》をおぼえている。
小次郎は、しかし、いささかも、畏怖などおぼえはしなかった。
「邪魔だてすると、老いぼれといえども、容赦なく斬るぞ!」
咆《ほ》えるように、あびせた。
「斬られては、かなわん。これで、静かにくらしているぶんには、あと十年は生きられるはずじゃからな」
「ならば、さっさと、去《う》せろ!」
「あいにくじゃが、そのあわれな狂女を、見すててはおけぬ」
老人は、平然として、云った。
二
小次郎は、鋭く睨《にら》みかえしていたが、
「老いぼれ、この果し合いを、はじめから目撃して居《お》ったな」
と、云った。
「そのむかし、高慢な青二才であったわしに、目をかけて下されたお公卿の墓に、詣《もう》でて、偶然にな」
「つまり、おのれは、この佐々木小次郎の強さを充分に見とどけて居る。にも拘《かかわ》らず、身共のやろうとすることを、邪魔だてする……。おのれは、兵法者だな?」
「うむ。十年ばかり前までは、兵法者|面《づら》をして、諸方を経巡《へめぐ》って居ったな」
「今もなお、業前《わざまえ》はおとろえて居らぬ、とうぬぼれて居るのか」
「いや、見らるる通り、骨は枯れ、肉は落ち、皮膚は皺《しわ》だらけに相成って居る。とても、御辺のような若くて逞《たくま》しい兵法者の敵ではない」
「ふん。どうであろうかな。おのれは、どうやら、ただの兵法者ではあるまい。名乗れ!」
「兵法者であることを止めた時、名前もすてたのう」
老人は、微笑してみせた。
「黙れ! 兵法者として生涯《しようがい》をすごした者は、その最期《さいご》も、兵法者らしい死にざまをえらべ!」
小次郎は、いったん納めた物干竿を、抜きはなつと、ぴたりと青眼《せいがん》につけた。
「さあ、老いぼれ、その杖は、仕込みであろう。抜け!」
「これは、ただの桜じゃよ」
老人は、片手で、杖を挙げてみせた。とたん――。
小次郎は、凄《すさま》じい懸声もろとも、地を蹴《け》って、老人を襲った。
老人は、両断される前に、杖を空高くほうりあげた。それから、ゆっくりと数歩後退して、落下して来た杖を、ひょい、と受けとめた。
「年寄を、おびやかすものではない」
そう云われて、はじめて、小次郎は、
――これは、尋常一様の手練者《てだれ》ではない。
と、さとって、背筋に冷たいものが流れるのをおぼえた。
――だが、おれは、負けぬぞ!
小次郎は、猛然たる闘志をわきたたせると、
「参るぞ!」
大上段にふりかぶった。
老人の方は、わずかに皺|目蓋《まぶた》を眩しげにまばたかせただけであった。
小次郎は、ゆるやかに第一歩を踏み出した。
「虎切刀とやらを、見せてくれるのかな」
老人は、小次郎が、次第に速度をつけて、迫って来るのに合せて、後退し乍ら、云った。
「見せてやる!」
小次郎の肉薄の速度は、疾走に近いまでに増した。
どういう修業によるものか、後退する老人は、小次郎に、決して間隔を縮めさせなかった。
小次郎は意識しなかったことだが、大きく円を描いて、草地を駆けて、再び元の地点へもどって来た。
一瞬――。
老人の背後に、墓碑が建つのをみとめた小次郎は、
――いまぞ!
と、疾風を起した。
「ええいっ!」
振りかざした四尺の物干竿を、拝み撃ちに、きえーっと斬り下げた。
はじめて、小次郎は、おのが虎切刀が、なんの手ごたえもなく、むなしく宙を截《き》ったのを知った。
膝《ひざ》を折り、完全にしゃがんだ姿勢で、小次郎は、無念の眼眸《まなざし》を仰がせた。
老人は、墓碑の上に、かるがると、とまっていた。
「見事な業じゃの。老いのからだが、氷のように冷えた」
その言葉を、あざけりともきいて、小次郎は、
「うぬがっ!」
薙《な》ぎ上げの閃光を放った。
老人は、一間余を跳んで、となりの墓碑のいただきへ移った。
近くで、鋭い絶鳴がほとばしったのは、その折であった。
老人と小次郎は、やす江が、懐剣をひろい把《と》って、おのがのどを刺し貫くのを、目撃した。
われにかえったやす江が、当然えらんだ行為であった。
小次郎は、老人に云った。
「老いぼれ。試合は後日だ。……名乗っておけ!」
「御辺とは、二度と再び逢《あ》いとうはないのう」
老人は、墓碑から降りると、やす江の遺体へ近づいて、
「どうでも死なねばならぬわけでもなかったろうに……」
と云い乍ら、仰臥《ぎようが》させ、のどから懐剣を抜きとり、胸で合掌させた。
「名乗れ!」
小次郎が、叫んだ。
「名乗ったら、墓穴を掘るのを手つだってやる、というのかな?」
老人は、じろりと小次郎を視やった。
「よし、手つだってくれる。名乗れ!」
「やれやれ、たすかる。……わしのむかしの名は、松山《まつやま》主水《もんど》というた」
「なにっ?! 松山主水」
小次郎の双眼が、かっとみひらかれた。
三
松山主水。
この武名は、いまでは、伝説中のものになっている。
松山主水の素性は、さだかではない。一説には、竹中半兵衛重治《たけなかはんべえしげはる》の母方の従弟といわれている。
竹中半兵衛をたすけて、幾多の戦場を往来し、無数の武辺を斬ったのは、事実である。
竹中半兵衛は、遠江守《とおとうみのかみ》重元の嫡男《ちやくなん》で、美濃《みの》国池田に生まれ、大御堂に住んだ。永禄《えいろく》五年、半兵衛は、まだ十九歳であったが、弟久作重隆とともに、わずか十六人の士卒を率いて、斎藤龍興《さいとうたつおき》の居城稲葉山城を奪取している。その時、十六人のうちに、松山主水は、加わっていた。
半兵衛は、織田《おだ》信長に仕え、のち羽柴秀吉《はしばひでよし》に乞《こ》われて、その軍師となった。軍師となってからは、半兵衛は、作戦の評定の座にも姿を現さず、全くの蔭《かげ》の人となり、すべての功を秀吉のものにした。
半兵衛は、天正《てんしよう》七年、秀吉が中国を伐《う》った際、播州《ばんしゆう》三木で陣歿《じんぼつ》した。肺を患《わずら》っていたのである。行年三十六歳であった。
松山主水は、半兵衛が逝《い》ったのち、木村常陸介隼人《きむらひたちのすけはやと》(木村|重成《しげなり》の父)の客分となった。山崎合戦に於《お》いては、明智光秀《あけちみつひで》の母衣頭《ほろがしら》稲次万五郎と、壮烈な一騎討ちをくりひろげて、敵味方をどよめかせた。
稲次万五郎は、膂力《りよりよく》三十人力と称される怪物じみた巨漢で、しかも、俊敏さは無類であり、実戦鍛えの刀槍《とうそう》の業は無敵を誇っていた。
本能寺に攻め入った時、稲次万五郎は、信長の旗本三十余人を、斬り仆《たお》していた。
松山主水は、稲次万五郎が振りたてる三尺五寸の長剣に、斬り立てられ、全身に薄傷《うすで》を蒙《こうむ》り、血まみれになった。あと一太刀で、ま二つにされる、とみえた瞬間、主水は、地面を二|廻転《かいてん》しざま、万五郎の腹部めがけて、一突きして、ようやく九死に一生を得た。
主水は、それまで、正しい兵法の修業をしていなかったのである。
稲次万五郎を仕止めて以来、主水はしきりに、兵法修業を思うようになったが、木村常陸介は、去ることを許さなかった。
某年、主水は無断で、木村家をはなれて、流浪《るろう》の旅に出て、やがて、加賀に至って、前田利家《まえだとしいえ》の食客になった。
これをつたえきいた木村常陸介が、利家に対して、
「奉公構え」
を、申し入れた。
奉公構え、というのは、前の主人が、新しい主人に対して、「その者は、当方から不法退去した不埒者《ふらちもの》ゆえ、貴家に於いて召抱えるのは止めて頂きたい」と申し込むことをいう。
松山主水が、永久|牢人《ろうにん》になったのは、それからであった。
山野をすまいとした主水の兵法修業は、その頃《ころ》から、本格的にはじめられた。
主水の剣が、諸方にきこえはじめたのは、秀吉が小田原攻めをした頃からであった。
その業は、幻妙をきわめ、立ち合った敵は、人間ばなれした主水の迅速な動きに、まどわされ、絶望感にとらわれた。
世人、主水を称して、「飯綱《いづな》使い」といった。
飯綱使い、とは、荼枳尼天《だきにてん》の法、摩利支天《まりしてん》の法を行なう妖術者《ようじゆつしや》を指していう。兵法者で、飯綱使い、と称されたのは、さきに、塚原卜伝《つかはらぼくでん》がいる。卜伝があまりにも強すぎたからである。
しかし、卜伝の剣は、妖《あや》しい不可解な魔剣ではなかった。
主水のそれは、たしかに、魔法的な一面を具備していた。
対峙《たいじ》すると、しだいに対手《あいて》に、催眠術をかけて、金縛りにするようなところがあった。
主水は、のち、加藤清正《かとうきよまさ》に乞われて、朝鮮役に従軍し、明《みん》軍に対して、通り魔のような働きぶりを示したが、世間にその強さをつたえたのは、その時限りであった。
帰国した主水は、それきり、何処かに、姿をかくして、杳《よう》として行方を断った。
兵法を志す者にとって、松山主水という存在は、謎《なぞ》となり、その妖魔の剣をみるのぞみはなかった。
いま――。
佐々木小次郎の面前に在る老人は、その松山主水の名を口にした。
「老人! まこと、松山主水殿か?」
小次郎は、胸をとどろかせて、念を押した。
「十年前にすてた名を、云うてしもうた。……忘れてもらおうか」
「い、いや、まこと、松山主水殿なら、もう一手――」
「ばかげて居る」
「なんと――?」
「虎切刀という、それだけの絶妙の業を会得《えとく》し乍《なが》ら、なお、新たな工夫をのぞむのは、欲深すぎる。……それよりも、むこうの寺院へ行って、墓穴を掘る鍬《くわ》を、借りて来さっしゃい」
老人は、云った。
隠遁者《いんとんしや》
一
瓜生《うりゆう》山の中腹にある草庵《そうあん》で――。
武蔵は、またもや、黙々として、五寸あまりの木材を膝に置いて、鑿《のみ》を動かしていた。
しかし、無心に彫っているわけではなかった。
この草庵のあるじが云《い》った言葉が、脳裡《のうり》にまとわりついて、はなれずにいる。
一乗寺|下《さが》り松で、吉岡方七十余人をむこうにまわして果し合いをするにあたって、その地勢を下検分した結果、遁走不可能な死地と看《み》ざるを得なかった。
百に一も生き残る道はない、と思った、という武蔵に対して、草庵のあるじは、微笑し乍ら、云ったことであった。
「それにも拘《かかわ》らず、お主は、勝って、なお且《かつ》生き残る意志を、蔵して居る。……百に一も生き残る道のない死地へ、生き残る意志を蔵しつつ、斬《き》り込む。これほど、おかしい振舞いがあろうか」
武蔵が、「では、ご老人は、それがしに、逃亡せよ、とすすめられるのか?」と訊《たず》ねた。
すると、老人は、こたえた。
「勝つようにして勝ち、生き残るようにして生き残る。それだけのことじゃな」
武蔵にとっては、その言葉は、まるで禅問答のように、きわめて漠然《ばくぜん》としていて、合点するには、ほど遠い警句であった。
あれから、武蔵は、流浪のあいだ熟読した「孫子」の兵法をいくつか、思い泛《うか》べた。
『彼を知り己《おのれ》を知れば、百戦して殆《あやう》からず』
すでに、武蔵は、吉岡方の人数と決闘の場所を知り、そして、その攻撃方法も、ほぼ推測している。
こちらは、たった一人である。
孫子の教えに順《したが》うならば、逃走するにしかず、である。
しかし、武蔵には、逃走する気持は、みじんもなかった。
この死地を生きて脱出するには、孫子の兵法の中からひろうとすれば、
『疾《はや》く戦えば則《すなわ》ち存し、疾く戦わざれば則ち亡《ほろ》ぶる者を、死地と為《な》す』
これであろうか。
疾風のごとき敏捷《びんしよう》さで、敵線を突破する――これあるのみである。
関ケ原役では、四方を敵勢に包囲され、全くの死地に陥った島津義弘《しまづよしひろ》は、文字通り決死の覚悟をきめて、前面の敵陣を、まっしぐらに突破し、伊勢《いせ》に遁《のが》れて、ようやく、一命をひろった、ときく。
しかし、死中に活を求める、ということは、云うは易《やす》く、行なうは難《かた》い。
もとより、こちらには、巨大な石をも押し流す凄《すさま》じい激水の疾い勢いと、狙《ねら》った獲物《えもの》を一撃する猛禽《もうきん》の飛翔《ひしよう》に似た、狙いをあやまたぬ節度をそなえなければならぬと、自らに云いきかせている。
そのためには、
『その必ず趨《おもむ》く所に出《い》で、その意《おも》わざる所に趨く』
この手段をえらばねばなるまい。
敵を攻撃するにあたっては、絶対にまず、その急所弱点を撃つことである。敵が、そのために惑乱すれば、思いもよらぬ不備の点を衝《つ》くことができて、血路をひらくことも可能である。
――その急所弱点とは?
武蔵は、考え乍ら、黙々として、鑿を動かしている。
「やれやれ、この枯木同様の痩《や》せ身からも、この暑さでは、汗が出るのう」
そう云い乍ら、老人が、戻って来た。
老人は、朝餉《あさげ》を摂《と》ると、すぐに出て行き、西陽《にしび》をあびて戻って来たのであった。
「ほう、お主には、そのような器用な手すさびがあったのか」
老人――松山主水は、囲炉裏をへだてて、坐《すわ》ると、武蔵の手もとを眺《なが》めた。
「お主が、まだ、神仏に信心を抱いて居るとは思えぬが……」
「申される通りの、つれづれの手すさびにすぎません」
「無念無想になるための手段のひとつかな」
「左様です」
「剣の奥旨《おうし》をきわめるためには、いろいろの手段があるのう。武神の社殿に参籠《さんろう》する者、深山にわけ入る者、岬《みさき》の洞窟《どうくつ》に坐って波濤《はとう》を睨《にら》む者。あるいは、お主のように仏像を彫ってみたり、または、ある者は、せっせと飛ぶ燕《つばめ》を斬ってみたり……」
「飛ぶ燕を?!」
武蔵は、眉宇《びう》をひそめた。
「今日、鳥部野で、そういう男に、出会うたな。果し合いをして、対手の首を刎《は》ねた直後、さもおのが迅業《はやわざ》を誇るように、飛燕《ひえん》を両断してみせた。たしかに、見事な腕前ではあった」
「何者ですか、その兵法者?」
「佐々木小次郎と申したな。四尺あまりの長剣を使うた。眼光もからだつきも、只者《ただもの》ではなかったが、それよりも、その性根の非情ぶりは、なんともはや、身の毛がよだつほど凄じかったな」
二
「それがし、その兵法者とは、顔見知りです」
「ほう、存じ寄りか」
「なんとなく、佐々木小次郎とは、いずれ、試合をすることになるのではあるまいか、と思うて居ります」
「どうじゃな、お主には、飛燕を両断できるかな」
「たぶん――」
「………?」
「できますまい」
「佐々木小次郎の剣には、一籌《いつちゆう》を輸《ゆ》す、と思うて居るのかな?」
「いえ――」
武蔵は、かぶりを振った。
「佐々木小次郎は、富田勢源《とだせいげん》の道場にて、中条流を学び、小太刀を軽んじて、長剣を得物にしたために、破門を蒙《こうむ》った、という噂《うわさ》をきき及びました。中条流は、小太刀を使うゆえ、太刀行きの迅さを以《もつ》て極意として居ります。佐々木小次郎は、わざと長い太刀を使って、太刀行きの迅さを揮《ふる》うために、飛燕を斬る修業を積んだに相違ありますまい。……小太刀では、飛燕に、とどかぬ。長剣ならば、これを仕止められる。その修業が成った時、あの男は、おのが剣は無敵と思いきめたに相違ござるまいが――」
「お主は、それは、ちがう、とかぶりを振るかの?」
松山主水は、微笑して、訊ねた。
武蔵は、すぐにこたえる代りに、じっと主水を瞶《みつ》めて、
「ご老人は、佐々木小次郎の飛燕斬りの迅業を、ためされたのではござらぬか?」
と、問うた。
「うむ。ためした」
「拝見いたしとうござった」
「わしは、墓石から墓石へ、跳んで遁《に》げた」
「お手前様が、跳び遁げるのよりも、小次郎が斬りつける太刀行きの迅さが、劣った、ということはありますまい」
「まさしくの」
主水は、うなずいてみせた。
「失礼乍ら、お手前様が、飯綱《いづな》使いと称《よ》ばれる稀代《きたい》の達人であっても、その年齢では、飛燕よりも迅く宙を翔《か》けることは、不可能かと存じられます」
「うむ」
「それがしは、飛燕を斬ったおぼえはありませぬが、飛燕が身をひるがえすのは、決して、変化自在ではなく、一定の軌道があろうかと思われます。どう身をひるがえし、どう翔けるか――その軌道を看きわめれば、これを狙って、斬るのは、べつに、太刀行きの迅さを必要とはいたしますまい。むしろ、充分の余裕を持って、間合を見切るならば、緩やかに白刃を走らせても、これを両断することは、さまで、むつかしゅうはない、と存じられます」
「ふむ、ふむ」
「お手前様が、跳び遁げられたのは、小次郎の太刀行きの迅さを測って、それより間一髪さきに、地を蹴《け》られたからではありますまいか」
「その通り――」
主水はみとめた。
「但《ただ》し、それがしはまだ未熟にて、佐々木小次郎の鬼神のごとき天稟《てんぴん》の業前に、立ち向って、はたして勝てるかどうか、おぼつかぬ、と考えては居《お》りますが……」
いつになく、多言になった武蔵を、主水は、見まもっていたが、別のことを告げた。
「わしは、鳥部野の墓詣《はかまい》りの帰途、ついでに、吉岡道場へまわってみたが、名目人の佐野又一郎というのは、子供であったな。わずか、十一歳であったわ。そうして、後見人の佐野又左衛門は、もはや六十五歳で、しかも、中風をわずらい、片脚をひきずって居る」
「…………」
「この二人を守って、陣を布《し》くのは、やはり七十余人の多勢。……どうじゃな?」
黙然としてきく武蔵の心中に、再び、孫子の教えが、呟《つぶや》かれた。
『疾く戦えば則ち存し、疾く戦わざれば則ち亡ぶる者を、死地と為す。……その必ず趨く所に出で、その意わざる所に趨く』
三
上京《かみぎよう》柳ノ辻。
小松の林がつづき、清らかな小川が往還に沿うて、流れている。
それに面して、風雅な草庵が、ふたつ三つ。
灼《い》りつける盛夏の陽ざしの中を、いま、一騎、非常な迅さでとばして来て、ひらりと降り立った草庵のひとつは、青竹を組輪違いにした凝った垣根《かきね》をめぐらし、いかにも風流隠士の住居とみえた。
到着した若い逞《たくま》しい眉目|凛々《りり》しい武辺は、毛利|豊前守《ぶぜんのかみ》勝永であった。
供一人ともなわず、単騎で、訪れたこの草庵のあるじは、曾《かつ》て土佐二十二万二千石、実提《じつてい》五十万石の国主であった長曾我部盛親《ちようそかべもりちか》の隠遁所であった。
この年、盛親は、まだ三十歳の若さであった。いまは、盛親という名をすてて、幽夢と号し、読書|三昧《ざんまい》の日々をすごしていた。
毛利勝永が訪れた時、幽夢は、灰屋紹由《はいやじようゆう》から贈られた連歌一巻を、几上《きじよう》にひらいていた。
花々に根ふかさとしる園の菊(時能)
霧のまかきの霜しろき色(文閑)
時雨《しぐれ》つる跡冷しき夜は明けて(能舜)
月を名残のかりふしの夢(慶純)
ひと声は枕《まくら》のいづこ郭公《ほととぎす》(紹由)
袖《そで》にうつりてかほるたちはな(昌琢《しようたく》)
明くるやこすの外雨の風ならん(紹与)
くるるまに/\つもる淡雪(友務)
「たのもう」
玄関からの声で、幽夢は、われにかえって、連歌から顔をあげた。庭から小者がまわって行き、座敷へもどって来て、勝永の来訪を告げた。
幽夢は、勝永が上洛《じようらく》していることは、すでにきき及んでいた。
幽夢は、自ら立って玄関に迎え、座敷にみちびくと、一別以来の挨拶《あいさつ》を交してから、
「ごらんの通りの、茅屋《ぼうおく》の世捨て人、ようたずねて下された」
と、微笑した。
「宮内《くないの》| 少 輔《しようゆう》殿。もうすぐ、天下は動き申すぞ」
勝永は、若者らしい気ぜわしさで、きり出した。
「…………」
「大坂城のおひろい様は、徳川家二代の息女千姫を娶《めと》られて、いかにも、天下はこれで、治政さだまった、とみえ申すが、なんの、内府が、大坂城を滅亡せしめようという|こんたん《ヽヽヽヽ》は、火をみるよりも明白でござる」
「…………」
「身共が調べたところ、大坂城には、徳川幕府|隠密《おんみつ》の頭領となった柳生但馬守宗矩《やぎゆうたじまのかみむねのり》が、多数の伊賀衆《いがしゆう》を送り込み申した。このことは、高野|山麓《さんろく》に隠棲《いんせい》する真田左衛門佐《さなださえもんのすけ》殿手飼いの真田六連銭の面々が、しかと、つきとめ申した」
勝永は、猿飛《さるとび》佐助から、そのことを告げられたのであった。
幽夢は、黙然として、こたえぬ。
幽夢の脳裡には、先日訪ねて来た佐野又左衛門からきかされたことが、思い泛んでいた。
このたび、土佐の国主となった山《やま》|内 一豊《のうちかずとよ》が大高坂山に新城を完成して、これを高知城とあらためた、という。
長曾我部家の武名は、完全に、土佐の国から払拭《ふつしよく》されたのである。
幽夢は、又左衛門からきかされた時、太閤《たいこう》秀吉の威光は、日本全土から、あますところなく、消え去ったのを、感じたものであった。
――天下は動いている、というが、いったい、太閤恩顧の大名のうちで、誰が、征夷《せいい》大将軍となった家康《いえやす》に対抗できるというのか? 加藤清正か。清正は、熊本《くまもと》城を築いて、その領土の安堵《あんど》を願っているばかり、という噂ではないか。大坂城のおひろいを守る武将は、もはや、一人も居らぬのだ。
幽夢は、勝永が述べたてているあいだ、そんな独語を、胸中でつづけていた。
「宮内少輔殿!」
勝永が、苛立《いらだ》って、声をあげた。
「決意をして頂きたい! ……腕を拱《こまね》いて、大坂城が滅亡するのを、むざと看過しては居れませぬぞ!」
「…………」
「宮内少輔殿! それとも、こうして、世捨て人となったまま、老齢を迎えるご存念か?」
「いや――」
幽夢は、じっと勝永を視《み》かえして、云った。
「起《た》つべき秋《とき》が参ったら、起ち申すよ」
「いまは、その秋ではない、と申されるのか?」
「左様――。この京都の片隅《かたすみ》から眺めやっただけで、いまは、諸大名は、将軍家康のご機嫌《きげん》うかがいに専心している模様。その意味では、起つべき秋とは存ぜぬ」
「しかし!」
「待って頂こう。長曾我部盛親も、武魂を忘れて居るわけではござらぬ。将軍家康の首級を狙う存念は、御辺《ごへん》と同様、この胸中にあり申す」
幽夢は、きっぱりと云った。
「判《わか》り申した。待ち申す。その時機到来までは、身共も、忍耐つかまつる」
勝永が、去ったあと、幽夢は、しばらく沈思していたが、小者を呼んだ。
「吉岡道場へ、この手紙をとどけて参れ」
「かしこまりました」
小者とはいえ、|ねごろ《ヽヽヽ》忍び衆の一人であった。
小半刻《こはんとき》も経《た》たないうちに、小者は、又左衛門の返書をもらって、帰って来た。
『吉岡道場の面目を保つために、孫又一郎を名目人として、清十郎、伝七郎の宿敵宮本武蔵を討ち果すまで、お待ち下され』
返書の内容は、その意味のことが、述べられてあった。
「あの中風の老人が、果し合いをするとは!」
幽夢は、暗然として、呟いた。
小石助勢
一
今日も、暑い。
灼りつける正午の陽《ひ》ざしをきらって、街道上に、人影はまれであった。
たまに、さきをいそぐ旅人の姿が見受けられたが、並木の松の蔭《かげ》をえらんでいる。
しかし、伏見のあたりは、人家が、土手の下になり、街道には、並木はなく、いやでも、全身に、炎熱の光をあびて、膝栗毛《ひざくりげ》をつづけることになる。
三個の人影が、往《い》く。
先頭に立ったのは、伊賀の妻六。すぐあとを、伊織《いおり》。そして、四、五歩おくれて、市女笠《いちめがさ》の若い女性が、杖《つえ》をついていた。
「ああ、あーっ!」
伊織が、思いきり、大あくびをしてから、
「小父《おじ》さん」
と、妻六を呼んだ。
「なんだ?」
「どこへ行くんだよう」
「奈良だ」
「また、奈良へ行くのか?」
「やむを得ぬの、姫様のお覚悟が、かわらぬ以上は――」
妻六は、こたえた。
伊織は、夕姫をふりかえって、
「姫様――、どうしても、尼になられるのか?」
「なります」
夕姫の市女笠の蔭からのぞく頬《ほお》から下の半面は、芙蓉《ふよう》のように白かった。
沢庵が、夕姫の決意がついにかわらぬ、と看《み》てとって、奈良にある比丘尼寺《びくにでら》を教え、門跡に添状をしたためてくれたのであった。
「やれやれ、もったいない!」
伊織が、きいたふうなしたり顔で、首を振った。
「こうなるのが、わらわの運命《さだめ》であろう。……関白|秀次《ひでつぐ》の女《むすめ》として生まれた時から、わらわは、業《ごう》を背負わされた、と思います」
妻六は、その言葉を、耳にしてはいなかった。
むこうから、やって来る普化僧《ふけそう》に対して、妻六の神経は、ひきしまっていた。
六尺ゆたかの巨躯《きよく》を持った普化僧であったが、べつに、このあたりで、|ぼろんじ《ヽヽヽヽ》に出会うのは、珍しいことではなかった。
にも拘《かかわ》らず、妻六の忍者独特の直感力が、近づいて来るその普化僧を、要心すべきものと、おのれに警告したのである。
はたして――。
距離が十歩にせばまった時、普化僧は、立ちどまった。
――やはり、そうか。
妻六は、合点し、
「宍戸梅軒《ししどばいけん》」
その名を、口にした。
とたん、夕姫のたおやかな肩が、烈《はげ》しく顫《ふる》えた。
伊織も、目をひき剥《む》いた。
梅軒は、わるびれずに、天蓋《てんがい》をあげて、髭《ひげ》だらけの面貌《めんぼう》を、陽ざしに照らした。
「妻六か。今日もまた、姫とわっぱを連れて居るのう」
あざけるような声音に、妻六は、総身の血汐《ちしお》が逆流するような憤怒にかられた。
――この野獣めに犯されたために、姫君は尼になられるのだ。
「梅軒! おのれは、ようもわしとの約束を破って、姫様に毒牙《どくが》をかけたな!」
伊賀の南谷に於《お》いて、妻六は、梅軒に向って、夕姫の身の安全を保障してくれるなら、日蓮《にちれん》| 上人《しようにん》の金無垢《きんむく》の御像を渡す、と申し出て、急遽《きゆうきよ》、奈良へひきかえしたのであった。風の迅《はや》さで、御像を背負うて、戻って来てみると、夕姫は無慚《むざん》にも犯され、梅軒は、下柘植《しもつげ》の大猿《おおざる》によって、南谷から追放されたあとであった。
「なりゆきであったな、妻六。その姫が天女の美しさを持っていたのが、罪であったのう」
梅軒は、うそぶいた。
「許せぬっ!」
妻六が、はらわたからしぼり出すように叫んだ。
「どうする?」
「うぬを討つ! 討たずにはおかぬぞ!」
「討てるかな、お主の腕で、この梅軒が――」
梅軒は、せせら嗤《わら》った。
「討つとも!」
「妻六、おのれは、忍者をすてて泥棒《どろぼう》に堕《お》ちた男だぞ。この宍戸梅軒は、南谷頭領として、昼夜、宍戸|八重垣《やえがき》|流 鎖鎌《りゆうくさりがま》の修練にはげみ、天下無敵に仕上げて居るのだぞ。勝敗は、掌《たなごころ》をさすがごとく、火を見るよりあきらかだぞ」
「人|常《つね》を棄《す》てれば妖興《ようおこ》る。邪曲は、ついに、正義には勝てぬと知れ!」
「泥棒|風情《ふぜい》が、小ざかしゅう、ほえるものぞ。……来いっ、妻六!」
梅軒は、袈裟《けさ》の蔭にかくしていた鎖鎌を抜き出すや、漆黒の棒に巻いた鎖を、ひと振りにくるくるっと解き放って、鉄の円球を、ぶうん、と宙に唸《うな》らせた。
二
妻六は、梅軒が、棒から刃渡り一尺あまりの鎌をはね出させるのを視《み》やり乍《なが》ら、ゆっくりと、忍び刀を抜いた。
すでに、妻六は、梅軒の鎖鎌がいかにおそるべき武器か、熟知していた。
のみならず――。
忍者たることを放棄して以来、妻六は、強敵と闘う機会を避け、ただもっぱら、城や豪族の館《やかた》や寺院などに忍び入って、物品を盗み取る習練を積んだだけである。
梅軒の宍戸八重垣流鎖鎌の前に、おのが忍びの術があきらかに劣勢であることを、みとめざるを得なかった。
――姫君の面前で、この伊賀の妻六が、敗れてなろうか!
妻六は、おのれに云《い》いきかせた。
梅軒は、じりっじりっと、距離を縮めて来る。
その唸りだけをのこして、鉄の円球は、宙に溶けていた。
「妻六、土下座するなら、いまのうちだぞ。……もしくは、日蓮上人の金無垢像とやらを、どこにかくしたか、白状するか。……生命《いのち》を惜しめ、妻六!」
梅軒は、薄ら笑い乍ら、うそぶいた。
妻六は、沈黙を守って、すこしずつ後退した。
距離が、五歩の近さにせばまった。
一瞬。
妻六の左手から、八方手裏剣が放たれた。
梅軒は予期していたとみえて、苦もなく、鎌で搏《う》ち落した。
「妻六、これは、兵法試合ではないのだぞ。敵《かな》わぬと知れば、いさぎよく降参しろ。……その姫を、もう一度、抱こう、などとは申して居らぬ」
「…………」
「お主が降参するにあたって、ひとつだけ、条件をつけてくれる」
「…………」
「宮本武蔵という兵法者を、さがし出して、おれの前へつれて来い。それとも、武蔵の住処《すみか》を知って居るなら、行って、おれと試合するように、告げろ」
「…………」
「武蔵とは、南谷で、試合を中止した。それに、彼奴《きやつ》、おれの舎弟早雲を斬《き》って居る。おれは、武蔵を殺さねば、腹の虫がおさまらぬのだ」
「…………」
「その姫が、武蔵を良人《おつと》と思いきめたのも、気に食わぬ。生かしておけぬのだ、宮本武蔵という青二才!」
「…………」
「どうだ、武蔵をおれの面前へ手びきする条件をのんで、降参しろ!」
「…………」
妻六は、あくまで、口を真一文字にひきむすんで、返辞を拒否した。
「そうか。ここで、くたばってもかまわぬ、というのだな。……お主を斃《たお》したならば、おれは、もう一度、姫を抱くぞ。それでもいいのだな?」
梅軒のうそぶきがおわらぬうちに、小石がびゅんびゅん、飛んで来た。
伊織が、無我夢中で、左右の手から放ちはじめたのである。
そこいらの餓鬼が投げるのではなかった。小石には威力があった。伊織は、山中で、しばしば、兎《うさぎ》や雉子《きじ》を仕止め、時には、山犬や熊《くま》をひるませて退散させていた。
梅軒は、小うるさげに二個をかわしたが、三個めが小鬢《こびん》にあたるや、その威力をさとって、ぱっと跳び退った。
「くらえ、こん畜生!」
伊織は、勢いに乗って、妻六の脇《わき》まで奔《はし》り出るや、つづけざまに、四個を投げつけておいて、
「小父さん、手裏剣をくれ。おいらが、仕止めてやる!」
と、叫んだ。
その折――。
京都の方角から、騎馬の一隊が、土煙をあげて、疾駆して来るのが、見受けられた。
梅軒は、その先頭に、葵《あおい》の紋の幟《のぼり》がひるがえっているのをみとめると、にわかに、うろたえて、さっと天蓋をひろい取り、顔をかくして、土手を奔り降りて行った。
「遁《に》げやがるな、卑怯者《ひきようもの》!」
追おうとする伊織を、妻六が、とどめた。
――はてな?
妻六は、梅軒が徳川家の旗本一隊のやって来るのをみとめて、あわてて姿を消したことを、いぶかった。
――伊賀谷は、いまは、小柳生城の所領に帰している。
つまり、梅軒は、徳川家に随身した柳生又右衛門宗矩の家来なのだ。その梅軒が、どうして、葵の紋を見て、遁走《とんそう》したのか?
およそ百騎あまりが、大坂方面へ駆け去るのを、土煙をあび乍ら見送って、妻六は、首をかしげていたが、
「そうか!」
と、一人合点した。
「梅軒の奴《やつ》、柳生の走狗《そうく》となって、豊臣《とよとみ》家とそれに味方する大名の動静をさぐる任務を命じられたな」
つまり、その重大な任務を負い乍ら、身勝手な私闘をしているところを、徳川家の旗本たちに目撃されるのは、梅軒としては、まずかったのである。
「やれやれ、たすかったわい」
妻六は、伊織の肩をたたいた。
「お主の加勢で、危機をまぬがれようとは、夢にも思わなんだて。恩にきるぞ、山野辺伊織殿」
「止《よ》せやい」
伊織は、照れて、乱髪をごしごしひっかいた。
夕姫は、しかし、ひとりとりのこされたように、遠くへ眼眸《まなざし》を置いて、放心のていであった。
三
街道上にひるがえって行く葵の紋は、文字通り眩《まぶ》しい威光をはなっていた。
数人の牢人者《ろうにんもの》が、腰掛茶屋にいて、颯爽《さつそう》たる徳川家旗本騎馬隊の通過に会うて、
「天下は、完全に、内府の手ににぎられたのう」
「左様さの、豊臣家が、ただの六十五万石の大名に蹴落《けおと》されるなどとは、太閤在世の頃《ころ》は、夢想だにできなかったな」
「五奉行は、滅び去り、毛利輝元《もうりてるもと》は、防長二州へ押し込められたし、上杉景勝《うえすぎかげかつ》は米沢三十万石に削られてしもうたし、宇喜多秀家《うきたひでいえ》は、八丈島へ遠島の身になったというし……」
「福島正則《ふくしままさのり》、加藤清正、浅野幸長《あさのよしなが》――いずれも、武辺の面目は色あせて、沈黙しているのみ、か」
「いったい、関ケ原役で、どれだけの大名が滅びたかのう」
「拙者が、きいたところでは、西軍に加わったのが、八十七名。そのうち、八十一名が討死したり、処刑されたり、追放された。……島津や鍋島《なべしま》のように、封禄《ほうろく》を元のままに維持できたのは、たったの六名。……召し上げた八十一名の領地が、すべて、徳川家一族、その譜代のものになったのだからのう、天下の形勢はもはや、むかしを今にかえすよしもがなだのう」
「石田|三成《みつなり》の計算が大狂いしたわけだのう。治部少輔《じぶしようゆう》が、あのまま、動かなければ、こうもやすやすと、将軍の座を、内府に与えずにすんだものを――」
「もはや、一領具足、槍《やり》一筋で、城を取る世は、来ぬか」
「来ぬ来ぬ! 大合戦など、夢のまた夢だ。……わしは、これからは、商人の世になるような気がしてならぬ」
「なんじゃと?」
「刀や槍の代りに、金がものを云う世の中になるのじゃな」
「ばかな!」
一人が、いまいましげに、べっと唾《つば》を吐き出した。
「戦さのなくなった時世に、武士の存在が無用となるのは、自明の理ではないか。まして、禄をはなれたわれわれ牢人の存在など、虫けら以下だ」
「おいっ! なんということを申すのだ! 武士はあくまで武士! たとえ餓死しても、士道を守るのが、われわれの……」
「まあ、そう、目くじらたてるな。腹が空《へ》っては、戦さはできぬ。その戦さがなくなって、いたずらに腹を空らして、餓死したところで、はじまらん」
「うるさいっ! 今日ただ今限り、お主らは拙者と、無縁の徒輩だ!」
眦《まなじり》をひき裂いて、睨《にら》みつけておいて、その牢人者は、出て行ってしまった。
居残った牢人者たちは、苦笑して、顔を見合せ、
「やっぱり、大坂城へ行くか」
「内府が、このまま、太閤遺孤を、すてておくわけがあるまい。いずれ滅そうとするに相違あるまいから、その攻防のどさくさに――」
「お主は、いかにも自信ありげだが、はたして、大坂城内には、それほど莫大《ばくだい》な軍資金が、のこされて居るのかのう」
「のこされて居るとも! おれは、一千万両以上とみるのう」
「一千万両とは、誇張がすぎる」
「いや、決して――。太閤がのこした軍資金だぞ。一千万両以下ということは断じてあり得ない」
牢人たちの会話を、葦簀《よしず》をへだてて、きいている者がいた。
いつの間にか、この腰掛茶屋へかくれていた宍戸梅軒《ししどばいけん》であった。
――一千万両!
梅軒は、ごくりと生唾をのみ下した。
話半分としても、五百万両である。
――そうだ。さぐるべきは、その軍資金がどれくらい、秘蔵されているか、ということだ。
梅軒は、柳生宗矩《やぎゆうむねのり》の命令によって、二十人の伊賀衆を大坂城へ送り込んでいた。
――十人が五千両ずつ、盗み出しても、五万両か。
梅軒は、その大金が面前に積まれた光景を想像して、思わず、ぶるっと身ぶるいした。
夜明け前
一
武蔵は、闇《やみ》の中で目覚めると、蔀《しとみ》の隙間《すきま》から洩《も》れ入る微《かす》かな月光へ、視線を向けた。
――夜明けまで、一刻《いつとき》ある。
太陽と月がつくる光と影を、一瞥《いちべつ》しただけで正確に時刻を知るのが、武蔵のような兵法者のつとめのひとつといえた。
その光と影は、決闘の場合、じかに、生死につながるからであった。
武蔵ほどになると、文目《あやめ》も分かぬ真暗闇の中に置かれても、だいたいの時刻が測れるようになっていた。
武蔵は、杉戸をへだてた奥の部屋に臥牀《がしよう》する老人の気配をうかがってから、そっと起き上った。
あと一刻の後、武蔵は、一乗寺村|下《さが》り松の死地に置かれている。
武蔵は、全裸になって裏口から抜け出ると、単調な水音をひびかせている懸樋《かけひ》のそばへ、寄った。決闘に臨んで、はじめて、水垢離《みずごり》をとることにしたのである。
桶《おけ》で、頭から三度かぶったが、べつに、垢離の行《ぎよう》を為《な》そうとするつもりはなかったので、合掌などはせず、すたすたと屋内へ、もどって来た。
枕元《まくらもと》には、昨夕、老人が、決闘用にと与えてくれた品物が、置いてあった。
武蔵は、真新しい膚着《はだぎ》をつけ、草摺《くさずり》を細分した腹巻を締め、華粧袴《けしようばかま》をはいた。白綾《しらあや》の一重|鉢巻《はちまき》を、花結びにして背中へ垂らし、籠手《こて》を左手だけにはめ、革襷《かわだすき》をかけ、大小を帯び、革緒の草鞋《わらじ》をはくと、仕度は成った。
奥の間へ、一礼しておいて、二度と再び訪れることはあるまい草庵《そうあん》を出た。
この瓜生《うりゆう》山からまっすぐに降りて行けば、一乗寺村である。
麓《ふもと》は、藪之郷《やぶのごう》と呼ばれている。武蔵は、その藪の中に、身をひそめて、夜明けを待つつもりであった。
草庵は、瓜生山の中腹にあり、麓まで、深い樹林の中を辿《たど》ることになる。
西の空にかかっている月かげは、足もとまで光を落してはくれぬ。
暁闇《ぎようあん》を踏んで降りて行く武蔵は、無心であった。
急に――。
樹林が切れて、斜面に空地がひらけた。
暗黒に馴《な》れた武蔵の双眼に、小さな鳥居と石垣《いしがき》と石段が、はっきりと映った。
――あの神社の境内から、下り松周辺が、俯瞰《ふかん》できる。
武蔵は、ゆっくりと、石段を登った。
登りきったところで、麓を、じっとすかし視《み》たが、
――はて?
巨大な樹冠をひろげている筈《はず》の老松のすがたは、そこになかった。
そこまで、視線をさえぎるものはなかったし、月光は、くまなく下界を照らしているにもかかわらず、老松は闇に溶けていた。
「霧だ」
武蔵は、呟《つぶや》きをもらした。
――霧は、しかし、こちらに味方してくれる。
おのれに云《い》いきかせておいて、武蔵は、なんとなく、社殿へ進んだ。
何神社か知らぬまま、垂れている鰐口《わにぐち》の緒へ、手をかけた。
そこまでは、ほとんど無意識|裡《り》に、そうした。
緒に手をかけて、鰐口をまさに鳴らそうとした瞬間、武蔵は、はっと、おのが無意識の行為が、なんであるか、気づいた。
――おれは、神に恃《たの》もうとしている!
――うつけ者が!
武蔵は、おのれを叱咤《しつた》して、鰐口の緒から、手を引いた。
三歩ばかり退って、武蔵は、社殿の奥を、睨んだ。
今日まで、ただの一度も、神仏の力を恃んだり、その加護を願ったことのない武蔵であった。
神仏の存在などみじんも信ぜず、独歩行こそ、兵法者の道たることを、おのれに誓って来たのである。
――おれは、なぜ、鰐口を鳴らそうとしたのか? おれの胸中には、いつの間にか、神明にすがる心が生まれていたのか?
おのが躯《からだ》の中に、その弱さがあったことに、武蔵は、慄然《りつぜん》となった。
「ばかなっ!」
武蔵は、声に出して、叫んだ。
「神社など、人間が、つくったものではないか。こんなものを、恃もうとしたおれの弱さは、許せぬ!」
二
踵《きびす》をまわして、石段を降りかけようとした刹那《せつな》、武蔵は、総身をつらぬく戦慄で、足を釘《くぎ》づけた。
社殿の奥に、神の気配があるのを、背中に感じたのである。
神の存在を否定した直後、その気配をあびせられた武蔵は、その戦慄を、次の一瞬には、猛然たる闘志にかえた。
とたん――、
「まだ若いの。そのように、ビリビリ張りつめて居《お》っては、今朝の試合には、勝てぬぞ」
その声音が、あびせられた。
武蔵は、はっとなって、振りかえった。
社殿から、姿を現したのは、松山|主水《もんど》であった。
「ご老人!」
「ははは……、お主に代って、吉岡《よしおか》方の布陣ぶりを、ちょっと眺《なが》めておいてやろう、と思ってな。……吉岡方は、すでに、前夜のうちに、二十人あまりを、下り松のまわりに、配置して居る。……お主が、ここから、まっすぐに、麓へ降りて行けば、下り松まで三町の地点で、まちがいなく発見されるの」
「…………」
「お主が、肚《はら》に据《す》えた戦いの方法は、どうやら、わしには、およそ想像がついて居る。しかし、名目人が立つであろう下り松まで、三町の距離を置いて、発見されてしまっては、とうてい、勝利はおぼつかぬ」
老人は、冷酷なまでの明言をしてみせた。
下り松のまわりでは――。
「卯刻《うのこく》までに、霽《は》れてくれぬかのう」
霧の中で、月の空を仰いだ者が、云った。
霧のせいか、冷気があった。
四方は、白い闇に包まれて居り、下り松も梢《こずえ》は消えている。人影も、二間もはなれると、跫音《あしおと》だけになった。
「佐野|又左衛門《またざえもん》殿は、一刻おくらせて、辰刻《たつのこく》(午前八時)にすべきではなかったのかな」
「辰刻では、通行人が多く、騒ぎになるので、夜明けにされたのだ」
「この霧が霽れぬと、武蔵に潜行の利を与えるぞ。彼奴《きやつ》、意外の現れ様をするからのう。清十郎様の時には、武蔵は、どうやら蓮台野《れんだいの》の雑木林の中に、前夜からひそんでいて、不意に目の前に現れたし、伝七郎様の場合は、いつの間にか、豊国廟《とよくにびよう》の唐門の屋根にいた。……まず、突如として出現して、こちらに衝撃を与える。それが、武蔵のやりかただ」
「すると……、もう、武蔵は、昨夜のうちに、ここに来て、そこいらに、ひそんでいる、との公算が大きい、というわけか」
当然、武蔵がひそむとすれば、藪《やぶ》の中、と推測できた。
門下の面々は、にわかに、霧の濃さを無気味なものにおぼえた。
吉岡道場の面目を保とうとする志気は、ふるっているし、一門総がかりの数を恃む心強さもある。しかし、武蔵が鬼神にひとしい凄《すさま》じい迅業《はやわざ》使いであることも、知っている渠《かれ》らであった。
武蔵を袋の鼠《ねずみ》に追い込んで、滅多|斬《ぎ》りにする完璧《かんぺき》の布陣が成らぬ限りは討ち取れぬ、という不安が、どの脳裡の片隅《かたすみ》にもあったのである。
「藪の中をさがそうではないか」
一人が、云い出した。
「この人数では、足らぬ」
「よしっ! では、煙で、いぶして、追い出せ」
「それがいい」
三人ばかりが、下り松の幹をよじのぼり、太枝を切り落した。
それぞれ手わけして、藪ぎわへ寄ると、風向きを測って、松葉をいぶしはじめた。
やがて――。
武蔵の姿は現れなかったが、煙に追われるように、霧が散りはじめた。
まず、瓜生山の嶺《みね》が、くろぐろと浮きあがり、その背後に、淡く比叡山《ひえいざん》が、暁闇の空に刷《は》かれた。
「霧が霽れるぞ!」
「まだ、あと半刻がある。……武蔵め、どこからでも来い!」
其処《そこ》にひと群《むれ》、此処《ここ》にひと群、とかたまっている味方の黒い影を、見出して、にわかに闘志が四肢《しし》のはしばしまでみなぎって来た。
佐野又左衛門が、名目人又一郎を乗せて、馬で到着したのは、その時であった。
うしろに、五十余人の門弟を、従えていた。渠らの手には、槍《やり》のみならず、弓や鉄砲まで携えられていた。
三
佐野又左衛門は、門弟の一人の手をかりて、馬から降りると、大声で、
「刻限までに、水ももらさぬ陣を布《し》かねばならぬぞ」
と、申し渡した。
「まず、名目人の位置じゃが」
又左衛門は、又一郎をつれて、下り松の根かたへ、寄った。
「又一郎、お前は、ここに立って、動かずにいるがよい。総大将は、何もせぬものぞ」
「はい」
「室町兵法所の栄誉にかけて、狂暴な野獣いっぴきを討ち取ってくれるのじゃ。よいか、門下一統がいかに目ざましく働くか、とくと見とどけるがよい」
「はい」
いかにもひ弱そうな、青年に育っても、とうてい一流兵法者になることなどおぼつかなさそうな少年は、けなげに、うなずいた。
又左衛門は、島田三十郎、河辺総吾、横溝新之丞、龍造寺嘉門、町屋五左衛門ら高弟に円陣をつくらせると、
「昨日打合せた手筈通りに、一同を配備に就かせてもらうが、武蔵が、どの道筋から出現するか、その際の臨機応変の攻めを、あらためて、こまかく、きめておく」
と、相談しはじめた。
辻《つじ》は、三叉《みつまた》に岐《わか》れて居り、そのうちの、どの道筋をえらんで、武蔵が出現するか?
比叡山の雲母《きらら》坂から下って来る叡山道と、高野川方面から田畠《たはた》の中を通じている細い田舎道と、瓜生山の麓から薬師堂を抜けて来る白い石塊《いしくれ》の多い険路と――。
「おそらく、武蔵は、見はらしのきく高野川方面からの田畠の中の道は、避けると思われます」
龍造寺嘉門が、云った。
「もしかすると、武蔵は、昨夜のうちに、叡山道を辿って来て、藪の中にひそんで居るかも知れ申さぬ」
島田三十郎が云うと、ここで一夜をすごした河辺総吾は、
「いや――」とかぶりを振り、
「近くの藪の中は、いぶし申した。ひそんで居る気配はござらぬ。……ひそんで居るとしても、数町むこうの藪でござろう。それならば、べつに、不意の出現ということにはなり申さぬ」
と、云った。
「やはり、瓜生山から、まっすぐに駆け降りて参るか」
町屋五左衛門がかねて予想していることを、口にした。
「その公算が、一番大きかろう」
横溝新之丞が、同意した。
「では、薬師堂から、ここまでの間に、三十人を配備いたそう。のこりを二手にわけて、ふた筋の道に置く」
又左衛門は、決定した。
武蔵が出現した合図は、笛。藪ぎわや、石塊の蔭《かげ》には、半弓や鉄砲の者が、伏せる。
武蔵が出現したならば、笛を吹き鳴らすとともに、そこに配備されていた門弟が、包囲して、必死に攻めかかる。そこへ、他の持ち場から、一斉《いつせい》に、殺到する。
いずれにしても、名目人は佐野又一郎であり、武蔵はこれを斬らぬ限り、勝ったとはいえぬのである。
又一郎が立つこの下り松に、武蔵が駆け寄るまでには、三道のうち、どの方角からも、三町|乃至《ないし》四町の距離があり、その距離を突破することは、とうてい不可能に思われる。
刀が、槍が、矢が、鉄砲が、襲いかかるのである。
たとえ、斃《たお》れずに、下り松まで至ったとしても、すでに、総身に傷を負うているに相違あるまい。
名目人を守って、下り松のまわりには、島田三十郎ら十人の高弟が、陣形をとることになっていた。
この十人を対手《あいて》として闘うだけでも、武蔵は、死にもの狂いにならざるを得まい。
「……いずれにせよ」
又左衛門が、いちだんと声を張りあげて、云った。
「遮二無二《しやにむに》、武蔵を討ち取ればよいのじゃ。彼奴を斃せば、それでよい。……世間が、後日、吉岡方は、手段をえらばず、なぶり殺しにした、と噂《うわさ》をいたそうが、一向にかまわぬ。又一郎が成人すれば、道場は、再びさかえようぞ」
その折――。
薬師堂の方角から、鋭い叫びがあがった。
「来たかっ?」
一同は、どっとどよめき立った。
叫びは、ひと声だけであった。
「ちがったらしい」
一人が、ほっとして呟いた。
「早々に、陣を布け」
又左衛門が、下知した。
そこへ――。
ゆっくりと、歩んで来た人影があった。
「おう!」
又左衛門は、すかし視て、
「松山殿か」
と、云った。
松山主水は、又左衛門の面前に立つと、
「佐野殿――。わしは、考えたのじゃが、名目人がわずか十一歳のわっぱ、というのは、やはりどうしても、第三者として、気にかかる」
と、云った。
松山主水と佐野又左衛門は、朝鮮役で、ともに、明《みん》軍と戦った懇意の間柄《あいだがら》であった。
主水は、吉岡道場を訪れて、又左衛門と久闊《きゆうかつ》を叙してから、名目人を十一歳の少年にした、ときくと、小首をかしげたものだった。
「松山殿、又一郎に助勢するために、参られたのではないのか!」
又左衛門は、皮肉をあびせた。
「世すて人の年寄は、ただ、十一歳のわっぱの身を案ずるばかりでござる。……なろうことなら、今朝の試合は、中止されて、あらためて、別に、ちゃんとした名目人を立てて、試合をなされては、と存じてのう」
「置かれい! ――当方の志気をくじくようなたわ言を申されに参ったのであれば、たとえ、御辺《ごへん》が、飯綱《いづな》使いの松山主水殿であっても、容赦はいたさぬ」
又左衛門は、呶鳴《どな》りつけた。
阿修羅《あしゆら》
一
明け六つ――卯刻を報《しら》せる梵鐘《ぼんしよう》の音が、遠く、比叡山から、ひびいて来た。
巨大な樹冠をひろげた老松を中心とする決闘場には、重苦しい静寂が占めていた。
三道に配備された血気の面々は、時鐘が鳴り出すや、一斉《いつせい》に、全神経をひきしめて、視線をその道筋にそそぎ乍《なが》ら、固唾《かたず》をのんだのである。
前衛となった者たちの脳裡《のうり》には、相反する心理が綯《な》い交ざっていた。
武蔵が、その道筋へ出現するのを望む気持と、他の道筋に出現してくれることを祈る気持と――。
誰もが、最初に出会った瞬間に、たちまち武蔵を討ち取れる、という自信などなかった。これは、闘志とは別の心理であった。
おのれが最初の犠牲者にはなりたくない、とのぞむのは、人情といえた。
なろうことなら、最初の犠牲者になるのは避けたい、と思いつつも、一方では、武蔵の姿をおのが発見したいというねがいも強いのであった。
その矛盾したふたつの気持が、渠《かれ》らに、重苦しい沈黙を守らせたのである。
……皮肉にも。
武蔵の姿を、第一番に発見したのは、下《さが》り松の根かたに、小さな肩をすくませていた名目人の少年であった。
十数歩のさきの猪大《いのししだい》の石塊の蔭から、湧《わ》くがごとくすっと人影が立つのを、みとめた。少年には、それが敵であると、判別する眼力はなかった。
そこに潜んでいる味方の伏勢の一人、と思った。
又左衛門はじめ、下り松のまわりをかためている十人の高弟たちは、それぞれ、三道の方角へ、視線を送っていて、意外な出現のしかたをした武蔵の姿に、一瞬、全く気づかなかった。
武蔵は、地下道を抜けて来たのである。
数十年前まで、この下り松は、足利《あしかが》将軍家の別邸の庭の中に在った。無数にちらばっている石塊も、庭苑《ていえん》の美景をかたちづくっていたのである。その石塊のひとつの蔭から、抜け穴が、瓜生山中腹に通じていた。脱出口は、松山主水が出て来た社殿であった。
足利将軍家別邸は、戦火に遭うて、烏有《うゆう》に帰し、辻となったが、下り松と石塊と、そして地下道だけは、いまもなお、残っていた。
武蔵は、老人に教えられて、その地下道をくぐり抜けて来たのである。
「おっ、武蔵っ!」
高弟の一人が、わが目を疑いつつ驚愕《きようがく》の叫びをあげた時には、武蔵は、名目人に向って、もう五歩の距離に近づいていた。
武蔵は、少年を凝視して、
「名目人佐野又一郎殿、約定によって、宮本武蔵、試合のため、罷《まか》り越し申した。いかに!」
と、云《い》った。
抑揚のない、ひくい、しかし、よく通る声音であった。
少年は、全身を顫《ふる》わせると、松の幹へ背中をこすりつけた。
「こやつが、武蔵かっ!」
「おのれ、武蔵っ!」
「武蔵が出たぞっ!」
高弟たちは、口々に叫びたてつつ、抜刀したが、その瞬間に至っても、まだ、武蔵が、稚《おさな》い名目人を襲って来ようなどとは、考えていなかった。
渠ら十人に、とっさに、名目人をかばう陣形をとる思慮が働かなかったのは、不覚というほかはなかった。
少年の傍に立っていた又左衛門一人だけが、これをかばって、一歩踏み出した――その刹那《せつな》。
武蔵は、影のごとく馳《は》せ寄り、又左衛門が、「おっ、りゃっ!」とくり出して来た槍《やり》の柄《え》を両断しざま、その迅業《はやわざ》を少年めがけてあびせる迅業へ継続させた。
横薙《よこな》ぎの閃光《せんこう》の、その線上に、少年の頸《くび》があった。
悲鳴をほとばしらせるいとまもなく、稚い首は、幹に沿うて刎《は》ね飛んだ。
又左衛門の方は、槍の柄を両断された衝撃をくらって、しりもちをついたが、孫が斬《き》られるのを視《み》て、名状しがたい絶叫を噴かせて、大刀を抜いた。
しかし、起《た》つことも叶《かな》わぬままに、武蔵の一撃をくらって、
「うっ!」
とのけぞり、孫の首なき屍骸《むくろ》へ折り重なった。
二
たとえ十一歳の少年とはいえ、名目人であった。武蔵が、まず、その生命《いのち》を狙《ねら》ったとしても、ふしぎはなかった。
しかし、高弟たちは、又一郎の首を刎ねられるまで、
――よもや?
という迂闊《うかつ》の中で、闘志を燃えたたせていたのである。
武蔵がみじんの情容赦もない一撃をふるうのを目撃して、高弟たちは、はじめて、
「おのれっ!」
「夜叉《やしや》か、鬼かっ!」
「ようも斬ったな!」
燃やした闘志を、憤怒でもの狂わせた。
包囲の陣形をとるのも忘れた十人に対して、武蔵の巨躯《きよく》が、旋風《つむじ》となって跳躍した。
顔面から、咽喉《のど》から、胸から血汐《ちしお》が噴き、片腕が飛び、片脚がころがった。
あっという間に、七人が、そこで、地面に匍《は》った。
もし、高弟たちが、幼い名目人を殺されても、冷静を持して、予《あらかじ》め樹《た》てた作戦通りに、水ももらさぬ陣形をととのえて、襲いかかっていたならば、こうもあっけなく、過半数を討たれはしなかったであろう。
三人の敵を、そこに残して、武蔵が奔《はし》り出した時、ようやく、三道に配られていた門弟たちが、下り松めがけて、殺到して来た。
高い梢《こずえ》から、鉄砲の音が鳴った。
弾丸は、武蔵の耳朶《じだ》を掠《かす》めた。
つづけざまに、矢が飛来した。しかし、それは、わずかに一矢が武蔵の華粧袴《けしようばかま》を縫っただけで、奇蹟《きせき》のように、頭や肩をすれすれに翔《か》け去った。
武蔵がえらんだ血路は、高野川方面へ通じる田畠《たはた》の中の細道であった。
ひろびろとして、身をかくすべきものは、何もなかった。
密林や藪《やぶ》の中へ身をひそめる方法をすてて、見通しのきく野のまっただ中を疾駆することにしたのも、武蔵らしい不敵な思案であった。
密林や藪は、姿を包み込んでくれるが、同時に疾駆をはばむ。躍起となった敵勢に包囲の利を与えることになる。
それにひきかえて、四方さえぎるもののない野では、一筋道を、鳥の速影に似た迅さで奔ることができた。
山野を住居として生きてきた武蔵には、脚力に絶対の自信があった。道を追跡して来る敵をふりきることは、さまで困難ではなかった。
また、稲がのびている田や、野菜のみのった畠からまわり込んで来る者が、追いつける筈《はず》もないのであった。
行手に配られている敵の頭数を、かぞえてみれば、最も手薄なその野道を、血路にえらんだのは、武蔵としては当然の仕儀であった。
そこまでの思案は、たしかに、正しかった。
意外な策が、吉岡方には、あった。
武蔵が、一町余を、まっしぐらに奔った時、突如として、その野道上に、藁巻《わらま》きの竹束が立てられたのであった。
総指揮をとった佐野又左衛門は、戦場往来の侍大将であった。戦術に長《た》けていた。
竹束は、元来鉄砲の弾丸を防ぐために使用される楯《たて》であったが、又左衛門は、これを、武蔵の遁走《とんそう》をはばむために、三道に伏せたのであった。
これが、いま、役に立った。
吉岡方は、車仕懸の竹束の楯で、路面をふさぐと同時に、稲田から、五人あまりが、武蔵めがけて、矢を射放って来た。
飛鳥のごとく疾駆してこそ、矢もはずせるが、竹束の楯によって、足ぶみさせられては、飛道具に敵《かな》わぬ。
これをかわすために、武蔵は、くるっと身を翻《ひるがえ》すや、そこへ――津波のように追って来た敵勢の中へ、斬り込んだ。
人間の血汐とは、斯《か》くもおびただしい撒布《さんぷ》をみせるものかと、思わせる光景を、そこに呈した。
路面は、一瞬にして真紅の池と化し、左右の田畠の稲も野菜も、たちまち、朱に染められた。
肉と骨が断たれる無気味な音と絶鳴があがるたびに、真紅の霧が舞い散った。
もとより、吉岡方は、なすすべもなく、斬られた次第ではなかった。
十一歳の名目人を、無慚《むざん》にも斬りすてた武蔵という剣鬼に対して、すべての者が、憤怒と憎悪《ぞうお》を総身にみなぎらせていた。業前を誇る者は、己《おのれ》が仕止めてくれると、ふるい立っていたし、技の未熟な者も、その未熟さを忘れていた。
怯者は一人もいなかった。
名目人も後見人も、高弟の大半も斃《たお》れた、という悲惨は、門弟たちを、異常な極限状況下の勇者にしていた、といえる。
ただ――。
刀を振りおろし、槍を突き出し乍らも、武蔵の方に、その狙いをはずす、目にもとまらぬ変化自在の五体の動きがそなわっていたのである。
決闘者としての武蔵は、道場に於《お》いて、その剣を修業したのではなかった。
少童の時には、おのが身を蓑虫《みのむし》にして、立木の高い枝から逆吊《さかさづ》りになって、振り子にし乍ら、幹にたたきつけられるのを躱《かわ》す修業をやり、さらに、両足をくくった縄《なわ》を、高枝へむすびつけておいて、立木の梢のてっぺんからとび降りつつ、枝を何本両断できるか、という凄《すさま》じい迅業を習練した武蔵であった。
青年になってからは、強敵をえらんで、真剣の勝負しかしなかった武蔵である。
尋常一様の身の動きではなかった。
振り込んで来る刀や、突いて来る槍を、躱す敏捷《びんしよう》さは、意識せぬ、本能の働きといえた。
とともに、武蔵が閃《ひらめ》かせる剣光は、兵法者がそれぞれの流派によって編んだ法形の流れとは、異った走りかたをした。
たとえば――。
正面の敵に斬りつけさせておいて、跳び退りざまに、背後の敵を、振り向きもせずに、片手斬りにしておいて、さらに、真紅の尾をひく弧線を描いて、脇《わき》の敵の顔面を逆斬りにする、といったあんばいであった。
武蔵の剣は、まさしく、決闘のための剣であった。
三
野道は、土手状になり、田畠から数尺高かった。
その地形が、たった一人の武蔵に、存分の働きをさせた。
前後をふさぐ敵は、せいぜい二人が肩を竝《なら》べられるだけであったし、左右の稲や野菜の中に立つ者たちは、胸から上をのぞかせていたのである。
胴をはなれた首が、稲の中へ沈んだり、虚空《こくう》をつかんだ片手が、肩をはなれて、野菜の中へ落ちたり、肋《あばら》から臍《へそ》のあたりまで斬り下げられた者や、顔面を斜めに両断された者が、血の池と化した路面で、惨《みじ》めにもがいたりするうちに――。
吉岡方は、ようやく、人間ばなれした、妖怪《ようかい》じみた武蔵の強さを、いたずらに多勢で攻めかかっても、くじくことはできぬ、という意識を、各人にわかせた。
「あせるな!」
「躍らせて、疲れさせろ!」
「仕止める功をあせるな!」
各処から、叫びがあがった。
それに応じて、攻撃の波が、一時引いた。
吉岡方としては、包囲の輪をひろげておいて、鉄砲や弓で、武蔵を狙う考えも、生まれたのである。
武蔵は、その狙撃《そげき》をまぬがれるためには、常に敵中にいなければならなかった。
武蔵が、突進すると、前面の敵の集団は、どっと後退した。
再び――。
武蔵は、下り松の方へ、近づくことになった。
――まずい!
武蔵は、くるっと踵《きびす》をまわした。
その時、武蔵の血路をさえぎった藁巻きの竹束には、火がつけられて、めらめらと燃えあがっていた。のみならず、車仕懸になっているそれは、非常な速度で、押されて来た。
もはや、武蔵は、下《さが》り松まで奔って、新しい血路をひらくよりすべはなかった。
猛然と――。
刀と槍の人垣《ひとがき》めがけて、武蔵は、まっしぐらに疾駆した。
わっ、と敵の群は、遁《に》げ出した。
それに向って、躍りかかった武蔵は、まさに悪鬼であった。
返り血をあび、おのが五体からも薄傷《うすで》の血汐を流している姿は、婦女子や子供なら、一瞥《いちべつ》しただけで、気絶するに相違なかった。
いったん、武蔵に背を向けた者たちは、斬られる恐怖で、無我夢中になり、宙を飛ぶような速度で、遁げ出した。
武蔵は、そのうちのいくつかの背中へ、衄《ちぬ》れた切っ先をあびせておいて、再び下り松の空地へ立つと、散らばった石塊《いしくれ》を、楯として、姿をかくした。
石塊から石塊へ、身を移す動作は、風に似ていた。
「ここか!」
と、とび込むと、もはや、そこにはなく、二間むこうの石塊の蔭《かげ》からぱっと躍り出て、またたく間に、二人を斬って、また姿をかくした。と思うや、次の瞬間には、別の石塊を楯にして、次の生贄《いけにえ》をうかがっていた。
捕捉《ほそく》すべからざるその素早い移動ぶりに、吉岡方は、苛立《いらだ》ち、呶号《どごう》し、無駄《むだ》に奔りまわるばかりであった。
冷静をとりもどした者が幾人かいて、
「包囲の陣を布《し》け!」
「あせるなっ! あせってはならぬ!」
と警告に声をからしたが、過半数は、目を剥《む》き歯を剥き、われをわすれて、狂おしい形相となっていた。
ここで討ちとらねば、遁《のが》してしまう、という焦躁感《しようそうかん》は、警告する者の脳裡にもあった。武蔵という兵法者を、もはや、人間とは受けとりがたかった。
手負うた野獣よりも、もっとおそろしい怪物のように思われた。
鉄砲や弓矢を持った者が、迫ったが、放った弾丸や矢は、いたずらに、石塊からはねかえったし、味方を二、三人、傷つけてしまった。
そのうち――。
修羅場にも、ほんのわずかな休止の時間が来た。
武蔵は、どの石塊かの蔭に、ひそんで、動かぬ。
死の闇《やみ》
一
もう時刻は、叡山の連峰を朝陽《あさひ》が染めている頃合《ころあい》であったが、この朝は、厚い雲が天を掩《おお》うていて、林や藪《やぶ》にはまだ闇が残っていた。
石塊の蔭《かげ》にひそんだ武蔵は、その闇の中にかくれることを、案じたに相違ない。
「出たっ!」
一人が、絶叫し、その余韻が宙から消えぬうちに、血煙を宙へ撒《ま》いた。
武蔵の速影は、もうその時、二間むこうに在った。
数人が、その行手をはばんだ。いずれの顔からも、眼球がとび出さんばかりになっていた。
疾風に乗った鷹《たか》に似た凄じい勢いで、ぶっつかった武蔵が、その剣の壁を突破した時、その左手にも白刃があった。
奔流が一挙に、武蔵めがけて、躍りかかるがごとく、一門は殺到した。
たった一人の武蔵のために、まだ四半刻《しはんとき》も経《た》たぬうちに、二十人以上、いや三十人に及ぶ同門の人々が殺され、不具になってしまったのである。許せなかった。断じて許せなかった。
武蔵が人間ばなれした決闘者であればあるだけ、この場で、討ち取らなければならなかった。
戦場ならいざ知らず、武蔵を討ち取ったところで、手柄《てがら》になる次第ではなかった。わずかに吉岡道場の面目を保つにすぎなかった。いささかの理性でも働けば、これは、ばかげた死闘であった。にも拘《かかわ》らず、入門してまだ一年にも満たぬ未熟者でさえ、もはや、死をおそれてはいなかった。
城を死守するために、総力を挙げて防戦した場合は別として、一族一門が、このように、血汐《ちしお》の一滴まで闘争にかりたてた例は、前代未聞《ぜんだいみもん》といえた。
一人が斬《き》られれば、別の一人が、その場所にとって代った。渠《かれ》は、武蔵に遠く及ばぬ腕の未熟を忘れさっていた。
武蔵にとっては、血に飢えた餓狼《がろう》の集団に襲いかかられたと同様であった。
武蔵が、身をかくそうとめざす密林までは、三町余の距離であったが、そこに達するには、どれだけの人数を地に匍《は》わさなければならぬであろうか。
殺到して来た敵の頭数が、武蔵には、数千人にも感じられた。
しかし、恐怖心はみじんも脳裡《のうり》にはなかった。死を懼《おそ》れる気持は、死地に入るまでのことであった。死地のまっただ中に置かれると、かえって、死はおのれとかかわりのない世界のものとなっていた。
武蔵の心は、その形相、肢体《したい》のごとく、一個の|けもの《ヽヽヽ》と化していた、といえる。
正常の意識は喪《うしな》われ、本能の敏捷さのみが、反射神経の働きとして、武蔵に、二刀を使わせていた。
前後左右から、あるいは振り込み、あるいは突きかけて来る太刀の切尖《きつさき》や、槍《やり》の穂先を、躱すというよりも、敵の一人を斬る素早い動きの中で、はずしていた。
密林まで遁げ込むための闘いであった。
したがって――。
容易に斬れる未熟者の守る一角を見すてて、鉄壁の構えをつくった熟練者の陣形へ、猛然と突進して行って、そこに血路をつくる、といった端倪《たんげい》すべからざる跳躍をみせた。
一人、また一人、と犠牲の数が増すにつれて、武蔵は、徐々に、密林へ距離を縮めた。
その間、武蔵の思念が働いたとすれば、鉄砲と弓で狙《ねら》われるのを避けるべく、絶えず、包囲の渦《うず》の中におのが五体を容《い》れて、目まぐるしく移動することであった。
密林まですこしずつ近づきつつも、のこされた距離は、なお無限であった。
三道に配られていた一門は、ことごとく、武蔵めがけて、馳《は》せ集まって来ていた。
二
もし、密林までの斜面が、さえぎるもののないひろがりであったならば、武蔵は、ついに、そこに達し得なかったであろう。
ひと筋の小川が、斜面を割って、田へ落ちていた。
幅が一間余あり、流れの音がせわしかった。
包囲の輪をひろげたりせばめたりし乍《なが》ら、武蔵の進むのを許していた吉岡方は、その小川まで移動するや、水を背負うた者数人を、思わずひるませる隙《すき》をつくった。
武蔵は、その隙をのがさなかった。
二刀を閃《ひらめ》かせて、地を蹴《け》るや、そこに、三個の屍骸《むくろ》をつくっておいて、飛燕《ひえん》が水面を掠《かす》めるに似た迅速な跳躍とともに、小川を越えた。
むこう岸から密林までの空地には、一門の影は、まばらであった。
「やるな!」
「逃げるか、武蔵っ!」
「卑怯《ひきよう》っ!」
喚《わめ》きたてる人々を、小川の縁に置き去りにして、武蔵は、まっしぐらに、密林の中へ、姿を消した。
吉岡方は、幾人かが跳び越えるのに失敗して水音を立てたが、多くは蝗《いなご》のように、小川を越えて、密林めがけて、疾駆した。
武蔵は、密林の中で、一本の立木に凭《よ》りかかると、はじめて、数秒間の休息を得た。
肩は、|※[#「韋+備のつくり」]《ふいご》のように、大きく上下していた。
白綾《しらあや》の一重|鉢巻《はちまき》は、なかば切れて、血汐と汗でよごれていた。右頬《みぎほお》から唇《くちびる》にかけての傷から噴く血汐が、喘《あえ》ぐ口に流れ込んで、歯は真紅になっていた。
小袖《こそで》も、華粧袴《けしようばかま》も、いたるところ破れていた。剥き出した肩は、傷口がぱっくりと口をひらいて、白い骨を露呈していた。
まばたきを忘れた双眸《そうぼう》は、血走って、炬《きよ》となって燃えていた。
その足もとには、みるみる血汐が、溜《たま》った。
「ここだっ!」
「いたぞっ!」
灌木《かんぼく》を鳴らして踏み込んで来た敵勢が、叫びたてるのをきき乍ら、武蔵は、なお、しばらく、動かなかった。
※[#「韋+備のつくり」]《ふいご》のように乱れた呼吸を、整えるために、一秒といえども、千金の価値があった。
ひと呼吸、ひと息に、武蔵は、おのれが生きている証《あかし》をみていた。
「やああっ!」
左右から、二本の槍が、くり出されて来た刹那《せつな》、武蔵は、くるっと幹をまわって、灌木を跳んだ。
そこへまわり込んで来た一人が、突きを放って来るのを、武蔵は、真っ向から、斬り下げておいて、いったん奥へ遁《のが》れるとみせて、突如、踵をまわした。
吉岡方は、当然、武蔵が、そうするものと判断して、大半が二手にわかれて、遮二無二《しやにむに》、突き進もうとしていた。
その虚を衝《つ》いて、武蔵は、再び、密林の外へ向って、非常な迅《はや》さで木立を縫った。
ゆるやかに傾いた原には、いくつかの死体や手負いをちらばらせただけで、敵影はなかった。
武蔵は、西の方角めざして、奔《はし》り出した。
吉岡方全員を、密林中へ誘い込んでおいて、逆に、そこから脱出した戦法は、武蔵に、余裕を与えた。
もとより――。
遁《にが》さじ、と迫って来る敵勢は、傷つかぬ健脚に、闘志をみなぎりわたらせていて、みるみる、迫った。
武蔵が、下り松の辻《つじ》を横切った時には、もう十人あまりが、一間余の背後で、喊声《かんせい》をあげていた。
武蔵が、えらんだのは、薬師堂へ至る険路であった。
無数に横たわる白い石塊を、跳び越えたり、すり抜けたりしつつ、およそ一町余を疾駆してから、武蔵は、不意に、何を思ったか、身を翻《ひるがえ》しざま、凄《すさま》じい反撃に出た。
追手は、そこで、あらためて、真紅にそまった妖怪《ようかい》変化のような武蔵の太刀行きの神速ぶりを、目撃し、それをおのれにあびるや、悲鳴をあげるいとまもなく、強い衝撃の下に、仆《たお》れなければならなかった。
左手の小刀が、一人の胸を貫いた瞬間には、右手の大刀が、もう一人の首を刎《は》ねる――といったあんばいに、武蔵の二刀は、全く同時に、予測すべからざる働きを発揮した。
小刀で、振り込んで来た白刃を受けとめておいて、大刀で胴を薙《な》ぐ、といった理と技を練った法形の実践太刀など、武蔵には、無縁であった。
斬ればよいのであった。殺せば勝であった。
法形もくそもなかった。
実戦とは、そういうものであることを、武蔵は、証明しているようであった。
吉岡方は、武蔵の二刀に対して、まるで、黄泉《よみ》の世界へ急ぐように、武蔵の切尖におのが身を吸い込ませる無謀の闘いかたをした。道場に於《お》いては、決して、そんなぶざまな撃ち込みをしないであろう動きを、渠らは、無我夢中でやってのけ、いたずらに、斃《たお》れた朋輩《ほうばい》を追うて死出の道に連れ立ったのである。
武蔵は、しばらく前、奈良の街はずれの月ケ瀬街道上で、神子上典膳《みこがみてんぜん》が、新免新九郎ら四人の牢人者《ろうにんもの》を対手《あいて》として果し合う光景を目撃して、
――決闘の神髄とは、これか!
と、合点したものであった。
その時、神子上典膳は、新免新九郎ただ一人を斬っただけであった。新免新九郎が、他の三人と比較にならぬ業前《わざまえ》の持主と看《み》て取って、新九郎を斬ることによって、あとの三人に戦意を喪わしめたのである。
兵法者とは、かくあるべきもの、と無言裡に、武蔵に教えたのであった。
もし、下り松の決闘で、典膳が、武蔵の立場にいたならば、おのずから、その闘いぶりは、変ったものになっていたろう。
典膳ならば、決して、全能力を挙げて、敵の一人一人を、首を刎ねたり、唐竹割《からたけわ》りにして、その生命《いのち》を奪うことはしないに相違ない。
目を突くとか、手くびを刎ねるとか、足を薙ぐとか、こちらの心身の消耗を最小限にとどめる余裕のある動きをして、常に、心気を冴《さ》えさせ、脳裡を覚めたものに保っているであろう。
武蔵は、そうではなかった。
まず最初に、幼い名目人と老いた後見人を一太刀ずつで、斬り殺しておいて、つづけざまに、おのれ自身かぞえきれぬくらい、多くの生命を奪いさっていた。
決闘とは、対手を殺すことである、と思いきめて、それを実践しているのであった。
対手を手負わせて戦闘力を殺《そ》ぐ、という思念は、武蔵にはなかった。
したがって、おのれ自身も、身躯《しんく》に無数の刀傷槍傷を負い乍ら、いまなお、敵勢の一人一人を、殺戮《さつりく》しつづけているのであった。
三
松山|主水《もんど》は、はるか遠く――下《さが》り松から南方に位置するとある雨乞《あまご》いの阿弥陀堂《あみだどう》の屋根に佇立《ちよりつ》して、この酸鼻をきわめた修羅場《しゆらば》を、見物していた。
――狂人の強さ、というよりほかはない。
胸の裡《うち》で、そう呟《つぶや》いていた。
自身が、飯綱《いづな》使いと称された、魔法的な一面を具備した兵法者であり乍ら、武蔵の闘いぶりを、目の辺りにして、微《かす》かな戦慄《せんりつ》をおぼえていたのである。
稀有《けう》の天稟《てんぴん》を持って生まれ、修業を積んだ兵法者といえども、七十余人を敵として、一刀一撃に、渾身《こんしん》の殺気をこめて、次つぎと斬り殺しているうちには、いずれは、その動きに、破綻《はたん》を生じ、疲労をともなう隙につけ込まれて、斃れるのは、目に見えた悲劇であった。
武蔵は、斃れないのであった。
奇蹟《きせき》としか云いようのない武運が、武蔵にはある、としか考えようがなかった。
吉岡方が、末席の未熟者にいたるまで、悪鬼のように闘志を燃え狂わせているさまが、主水には、手にとるごとく判《わか》るのである。
武蔵は、その敵勢を対手として、その闘志を殺ぐかわりに、まるで血に酔わせてあおるように、そこで斬り殺し、ここで生命を奪っている。
「あきれたことだ!」
老人が、溜息《ためいき》をもらした時、わあっと、どよめきが噴いた。
武蔵が、反撃を止《や》めて、薬師堂めざして、斜面を滑るように奔駆しはじめたのである。
老人は、ほっとなった。
「手負うていて、あれだけの走力をのこして居るとは!」
武蔵の速影は、木立の蔭《かげ》に、かくれた。
いくばくかの後――。
武蔵は、暗黒の地下に、身を横たえていた。
瓜生《うりゆう》山中腹と下り松をつなぐ地下道は、途中、薬師堂の床下にも、出入口を設けてあったのである。
武蔵は、薬師堂に遁げ込むと、その抜け穴にもぐったのであった。
もぐったとたん、精根尽きはてて、ぶっ倒れた。
思考の能力は、いまだよみがえらず、ただせわしい荒い喘ぎをつづけるばかりであった。
双手《もろて》には、まだ、刃こぼれの大刀と小刀を掴《つか》んでいた。はなそうにも、十指は、曲ったなり、延ばすことができなかった。
地上の物音は、ここには、通じない。
暗黒の中に、おそろしいまでの静寂があった。
やがて、ふっと意識が動いたのは、胸から腹の上を、一匹の鼠《ねずみ》が、走り抜けるのを感じたからであった。
――おれは生きている!
武蔵は、自分に云《い》いきかせてみた。
云いきかせるだけでは、気がすまず、すこし身じろぎしてみた。
すると、にわかに、総身のいたるところから、疼痛《とうつう》がどっとわきあがって来た。
起き上ることも叶《かな》わないようであった。
――よくぞ、勝った!
おのれをたたえる悦《よろこ》びが、その疼痛の底から滲《にじ》んだ。
遠くから、跫音《あしおと》が、近づいて来るような気がして、起き上ろうとしたが全く力が抜けはてていた。
幾匹かの鼠が、血の匂《にお》いをかいで寄って来て、しきりに、走りまわりはじめた。
「武蔵――」
老人の声が、岩壁に反響した。
「……ここに」
武蔵は、こたえた。
傍に立った老人は、
「ようたたかったの」
と、云った。
「生きのび申した」
「うむ、あっぱれ!」
老人は、携《さ》げて来た燭台《しよくだい》に、あかりをともした。
「五体ぼろぼろに相成って居るな」
「…………」
「しかし、致命傷は蒙《こうむ》って居らぬとみえる」
「不死身に、生まれつき申した」
「結構――」
老人は、すばやく手当をしてくれた。
「この抜け穴が、百人にまさる味方になってくれ申した。ご老人、忝《かたじけ》ない」
「業力は、神力にまさる、じゃの」
老人は、武蔵の呼吸の正しさに、今更乍ら感服した。
地下道のひえびえとした空気は、武蔵に気力を恢復《かいふく》させるに役立つようであった。
生死の客
一
「松の音が、秋を告げて居《お》るな」
朝粥《あさがゆ》を摂《と》り乍《なが》ら、沢庵《たくあん》が、云《い》った。
朝と夕に、涼気をおぼえるようになったのは、ここ数日来のことであった。
向い合った城之助は俯《うつむ》いて、箸《はし》を動かしていたが、
「武蔵殿は、生きて居る、と和尚《おしよう》様は、お思いですか?」
と、訊《たず》ねた。
「たぶん……」
城之助は、顔をあげて、沢庵の顔を瞶《みつ》めた。
「生きのびたであろうな」
「本当にそうお思いですか、和尚様?」
「後漢書に、良医も命無きを救う能《あた》わず、彊梁《きようりよう》も天と争う能わず、という言葉がある。彊梁とは、多力にして強い男、という意味じゃが、まさしく、武蔵は、彊梁じゃて。武蔵は、いかにも天と争うているようにみえる。たった一人で、吉岡《よしおか》一門を敵にまわして、闘うなど、常人の為《な》すべからざる無謀の挙だ。……ところが、あの男には、おそろしいばかりの強い運があるように思われる。つまり、武蔵は、天と争うたのではなく、おのが運をためしてみたのじゃな。業力が熾《さか》んであれば神力もこれを避ける、というが、武蔵には、その業力があるらしい。……いまは、百人いや二百人、三百人を敵にまわしても、武蔵の生命は、落ちまい」
「…………」
「但《ただ》し、業力が熾んなままに、あのような死闘をつづけていれば、いずれは、生命を喪《うしな》うであろうな。……武蔵が、いつ、決闘のむなしさを知るか、わしは、その日を見とどけてやりたい。もしかすれば、死ぬまで、決闘のむなしさを知らぬかも知れぬが……」
「名目人なら、十一歳の子供を斬《き》っても、かまわないものでしょうか?」
城之助は、その噂《うわさ》を耳にして、武蔵に対して、なにやら深い失望をおぼえていた。
「いまは、武蔵は、少年を殺したことを、いささかも悔いては居るまいのう」
「和尚様は、許せぬ振舞いだとお考えになりますか?」
「人間は、死を眼前にすると、どんな残忍な行為でもやってのけられる、ということを、武蔵は、示してくれたな。……死生命あり、とさとって、下り松へ斬り込んで行ったわけではない。野獣となって、躍り込んで行ったのじゃて。第三者からみれば、狂気の沙汰《さた》だが、野獣には正気も狂気もない。敵を斃さねば、おのれが死ぬのだ。それだけのことだ。……幾万年も遠いむかし、わしらの先祖が、生存するためにやった原始の闘いを、武蔵は、今日、再現したわけだ。……男というものには、こうした闘争本能が、そなわって居るのじゃな。お前にも、わしにも――」
|たんたん《ヽヽヽヽ》として語る沢庵を、城之助は、じっと瞶め乍ら、
――自分なら、どうするであろう?
と、考えていた。
――自分なら、十一歳の子供を、斬ったりはしないだろう。
城之助は、膳部《ぜんぶ》を台所にはこんで、食器を水で洗い乍らも、そのことにこだわっていた。
玄関に、人の訪れる声音がしたのは、その時であった。
城之助が出てみると、中年の武家女房が、立っていた。旅装していた。
「宮本武蔵殿が、こちらにご逗留《とうりゆう》ならば、お目にかかりたく存じます」
こわばった固い面持《おももち》で、云った。
「武蔵殿は、当庵《とうあん》には居られませぬ」
「どちらに居られるか、存じ寄りならば、教えてたもれ」
「存じませぬ」
「あるじは、沢庵と申される仏家の由《よし》。お目にかかって、武蔵殿の行方を教えて頂きたい故《ゆえ》、取次いでたもれ」
「和尚様も、ご存じではありませぬ」
「そなたにことわられただけでは、納得が参らぬ。取次いでたもれ!」
異常な決意をかためているらしく、双眸《そうぼう》を狂的に光らせていた。
城之助は、やむなく、
「いずれのおひとですか?」
と、問うた。
「一乗寺村下り松にて、武蔵殿に討たれた佐野又一郎の母です」
沢庵は、城之助から取次がれると、座敷へ通すように、命じた。
佐野又一郎の母静重は、沢庵の前に坐《すわ》ると、鄭重《ていちよう》に挨拶《あいさつ》してから、武蔵の行方を尋ねた。
「きいて、どうなさるおつもりか?」
「わたくしは、良人《おつと》の父とわが子の仇を討たねばなりませぬ」
静重は、きっぱりと云った。
二
沢庵は、ちょっとあっけにとられて、静重の顔を見まもっていたが、
「武蔵は、吉岡家の一門七十余人をむこうにまわして、阿修羅《あしゆら》となって闘い、二十二人を斬り、三十余人を手負わせた兵法者でござるよ」
「存じて居ります」
「それを承知の上で、その腕で、復讐《ふくしゆう》をする、と申される?」
「はい」
静重は、うなずいた。
「どういうものでござろうかな、それは――」
「宮本武蔵とて、鬼神ではありますまい。人間でござりましょう。人間ならば、討ちとれぬはずはござりますまい」
「さて――」
沢庵は、かぶりを振って、
「いまも、あの居候《いそうろう》に申していたところでござったが、血気盛りに神|咎《とが》めなしで、武蔵は、いわば、不死身の業力をふるって、攻めては必ず取り、戦いては必ず勝つ――人生の山の六合目か七合目あたりを馳《は》せのぼっている男でござる……。自らのぞんで生贄《いけにえ》になることは避けられたがよい、と存ずるが――」
「まだ十一歳の児童を、情容赦もなく斬った鬼畜の所業は、断じて許すことはできませぬ。……たとえ、返り討ちに遭おうとも、わたくしは、座して祈るだけでは、心がおさまりませぬ」
「お気持を汲《く》むに、やぶさかではござらぬが……、また、武蔵に荷担するわけではないが、ご妻女、貴女《あなた》のお子を名目人にしたのは、祖父の佐野|又左衛門《またざえもん》殿でござったな?」
「はい」
「合戦とか兵法試合の場合、敵の大将を討ち取ることをもって、勝といたす。たとえ、十一歳の少年であろうとも、これが名目人であれば、武蔵が、その首級を狙《ねら》うのは、当然の理ではござるまいか」
「たしかに、理窟《りくつ》ではそうなりましょう。しかれども、稚《おさな》い生命までも奪う残忍は、許せませぬ。そうではありませぬか! 貴方様も、三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)を説かれる能化《のうげ》ならば、許しがたい所業、とお思いでござりましょう」
静重は、柳眉《りゆうび》をひきつらせ、血の気のない頬《ほお》をぴくぴくと痙攣《けいれん》させた。
「武蔵は、修羅場に臨むにあたり、おのれを一匹の野獣と化したに相違ござらぬ」
「御坊が、なんと弁護なさろうとも、わたくしの決意は動きませぬ。武蔵殿の行先を、お教え下さりませ」
「武蔵は、吉岡伝七郎殿との試合を十日の後にひかえて、当庵を立ち出たきり、それきり、戻っては参らぬ。まことでござるよ。……あの男、山野を住居とするのが性分に合った流浪人《るろうにん》でござれば、いつの日、当庵にふらりと立ち寄るか、見当もつき申さぬ。……拙僧に、はっきりと判《わか》るのは、武蔵の姿は、この京洛《けいらく》では、さがしあてられまい、ということでござる」
「武蔵殿は、かなりの手負いになっている、ときき及びまする。されば、京のいずれかにひそんで、傷の手当をして居るのではありますまいか」
「いいや、もはや武蔵は野獣から人間にたち還《かえ》って居り申す。人間に還った武蔵は、きわめて身を処するに慎重な男。……吉岡方の生き残りの面々が、血眼《ちまなこ》になって、さがしまわって居る、と知る武蔵が、洛中洛外にとどまって居るとは、とうてい考えられませんな。遠方へ身をかわしたに相違ござらぬ」
「その行先に、見当がおつきになれば、おもらしの程を――」
静重は、食いさがった。
「貴女には、助太刀をする手練者《てだれ》でも、おいででござろうかな?」
「わたくしただ一人でございます」
沢庵は、やれやれと、首を振った。
「気丈夫な女性《によしよう》でござるのう、貴女は――」
「お願い申しまする」
静重は、頭を下げた。
一瞬、沢庵の表情が、厳しいものに一変した。
「佐野家のご妻女――」
「はい?」
「武蔵ほどの兵法者を、女の身で、討とうとするのに、武蔵が身を寄せた者に乞《こ》うて、行方をつきとめようとされるとは、すでに、武蔵に負けておる!」
静重は、はっと息をのんだ。
「そのような甘えの心で、何条もって、武蔵が討てようか! 貴女には、乞食《こじき》になっても、躄《いざり》になろうと、武蔵の足跡を追うて行く必死の覚悟ができて居らぬのではないか。他人をたよらず、おのが目と手足で、敵の在処《ありか》をつきとめてこそ、浮ぶ瀬もあろうに、やはり、女子《おなご》の性《さが》は、つい、甘えを起す。そのような性根では、討つことはおろか、十年を費しても、さがしあてられまい」
「わかりました」
頭を下げる静重の顔面は、死人のように蒼《あお》ざめていた。
静重が立ち去っても、沢庵は、なおしばらく、その座を立たずに、宙へ眼眸《まなざし》を置いていた。
城之助は、その気色の厳しさに、声がかけられなかった。
やがて、沢庵の方が、われにかえって、
「城之助」
と、呼んだ。
「はい、御用ですか?」
「お前は萎病《なえびよう》(小児|麻痺《まひ》)に罹《かか》ったのを――禍《わざわい》を転じて福とせよ」
「………?」
「お前が五体満足であれば、必ず、武蔵の弟子になり、兵法者になっていたであろう」
「…………」
「人を斬り、敵とつけ狙われ、ついに、定住の処《ところ》を得ず、生涯《しようがい》を、流浪人としてすごす。……ばかげて居る」
「…………」
「城之助は、今日より学問に精魂をこめて、ひとかどの学者になり、書物を後世にのこせ。……お前が、逝《い》ってのち、百年、二百年、三百年の後まで、その書物はのこる」
三
その日、「昌山庵《しようざんあん》」には、午後になって、もう一人の客を迎えた。
柳生但馬守宗矩《やぎゆうたじまのかみむねのり》であった。
沢庵と宗矩は、旧知であった。沢庵は、数年前、小柳生庄に行き、その城中に、一月ばかり滞在したことがあった。
そのあいだに、宗矩は沢庵に深く私淑するところがあった。
宗矩は、ひきつれた家臣団を、巨椋池《おぐらいけ》の畔《ほとり》に待たせておいて、単身で、訪れた。
江戸へ帰還する途次であった。
宗矩は、その旨《むね》を告げて、
「いかがであろう。御坊も、江戸へ参られぬか?」
と、誘った。
「又《また》右衛門《えもん》殿は――」
沢庵は、そう呼んで、
「この沢庵を、徳川家お抱えにしたい下心がおありらしいが、ははは……、坊主《ぼうず》の仕えるのは、|みほとけ《ヽヽヽヽ》だけで、たくさんでござるよ」
と、ことわった。
「いや、この宗矩が、まだまだ、御坊に、多くを学びたく存ずる」
「又右衛門殿は、もはや兵法者ではなく、一万石の大名になられた。さすれば、坊主から学ぼうとするのは、筋ちがい。政事に就いて、心を配られるがよろしかろうな」
「御坊――、それがしは、兵法者たることをすてたわけではござらぬ。徳川家剣術師範というお役目で、随身いたして居る」
「柳生流を、徳川家兵法の本流とせよ、と将軍家から申しつけられたかな。……されば、又右衛門殿が為《な》すことは、ただひとつ。柳生流を、神秘《くしび》の流儀とすること」
「と申されると?」
「他流とは、試合をせず、柳生流をして、精神修養の為《ため》のものに、浄化すること」
「成程――」
「剣は、人を斬るためではなく、おのが魂をきたえる為にある――ということにいたせば、将軍家お流儀として、神秘なものに相成り申そうな」
「たしかに!」
「その代り、柳生流は、人を斬る業《わざ》に於《お》いては、しだいに、衰えて、ついには、役立たずになり申そう」
沢庵は、冷たく云いすてた。
宗矩は、じっと、沢庵の言葉に耳を傾けている。
「武田《たけだ》家滅亡の際、甲斐《かい》恵林寺の快川《かいせん》和尚は、織田《おだ》信長によって寺院を焼かれるや、心頭を滅却すれば火もまた涼し、とうそぶいて、紅蓮舌《ぐれんぜつ》になめられつつ、従容《しようよう》として示寂《じじやく》したそうなが、すべて、人間がその道を進んで、行きつくところは、空寂の会得《えとく》らしゅう思われ申すな。生身というものは、必ず果てる、という動かすべからざる理《ことわり》がある以上は、虚無といい、無常という、空寂の世界に入らざるを得ぬのが、人間の行きつくところでござろうて」
「…………」
「剣を修業し、剣に生きる兵法者が、行きつくところは、剣をすてる――すなわち、無刀の境地でござろうな。又右衛門殿、そう思われぬか!」
「申される通りと存ずる」
「将軍家お流儀として、他流との試合を断ち、人を斬る業を排するには、こういう屁理窟《へりくつ》が、もっともふさわしく、柳生流を神秘めかせる、と存ずる」
いささかの皮肉をこめて、沢庵は、云《い》った。
それから、
「拙僧が、江戸へ帯同するのは、おことわりじゃが、御辺《ごへん》が、徳川家に仕えられた、ときき及び、いずれ、お目にかけようと思って、つれづれに記しておいたつまらぬ反故《ほご》がござるゆえ、道中の退屈をまぎらわして頂きたい」
「拝見つかまつる」
沢庵は、奥の居間から、ひと綴《つづ》りの帖を持って来た。
表紙には、
『不動智』
と、記されてあった。
宗矩は、披《ひら》いてみた。
まず、はじめに、
[#2字下げ]一、無明住地|煩悩《ぼんのう》
[#2字下げ]一、諸仏不動智
という書出しで述べられた長い文章であった。
宗矩は、厚く礼をのべた。
後年、宗矩は、沢庵から与えられたこの『不動智』に拠《よ》って、術法を心法に進ませて『無刀之巻』を記した。
会者定離《えしやじようり》
一
――柿《かき》がみのって居る。
門口に立って、仰ぐ武蔵の頭上に、秋の薄ら陽《び》を受けて、紅《あか》く色づいた甘い実が、たわわに、空を彩《いろど》っていた。
十年前に、弁之助《べんのすけ》と名のっていた十一歳の少年が、|むさし《ヽヽヽ》となって、捨てた家であった。
庭にも母屋《おもや》の藁《わら》屋根にも、草がぼうぼうと生い茂っている。
門口をくぐって、庭に入った武蔵は、荒廃したそのさまを眺《なが》めやって、あの凄《すさま》じい狂気の果てに逝《い》った無二斎の霊魂がさまようにふさわしいと感じた。
柿だけが、幼い日の記憶を、よみがえらせてくれる。
あるいは、地下《じげ》の人々は、無二斎の霊魂に祟《たた》られるのをおそれて、近寄らず、柿の実が熟しても、落ちるにまかせているのかも知れなかった。
武蔵は、珍しく湿った感慨を胸に抱いて、裏手へまわり、段畠《だんばたけ》のあいだの切通しの小径《こみち》を登って行った。
苔《こけ》むした墓碑のちらばる廃寺や、桑畑や、そして、赤松の疎林《そりん》も、十年前とすこしも変ってはいなかった。
しかし、その疎林を抜けてみると、姥棄《うばすて》小屋は、あとかたもなく消えうせていた。
十年前――。
無二斎は、十数本の赤松の立木を、一太刀ずつで両断しつつ、ここまで、弁之助に追い迫って来たのであった。
その時の光景を、脳裡《のうり》によみがえらせつつ、武蔵は、小屋のあったとおぼしい雑草の茂る空地に、どっかと居すわった巨《おお》きな岩を視《み》た。
この岩は、後方の急勾配《きゆうこうばい》の斜面の中ほどに在ったものである。
無二斎との闘いで、後退しつづけた弁之助が、この岩の上に立ち、これを蹴《け》るや、そのわずかな衝撃で、斜面をころがり落ちて行き、一人の稀世《きせい》の兵法者の五体を押しつぶしたのであった。
岩は、そのまま、ここにのこっている。
「…………」
かなり長い時間、その場に立って、岩を眺めていた武蔵は、やがて、何を考えたか、両手をかけるや、渾身《こんしん》の力をこめて、ひと押しした。
岩は動き、たちまちもの凄《すご》い地響きを起して、赤松の疎林わきの斜面を、ころがり出した。
桑畑の中で、いったん停《とま》ったのを、降りて来た武蔵は、押しころがした。
廃寺の墓地を横切らせ、切通しの小径《こみち》を、ごろごろと落下させて、およそ半刻《はんとき》も費して、武蔵が、岩を運んだのは、平田家の庭であった。
総身汗に浸り乍《なが》ら、武蔵が、岩を廻転《かいてん》させつつ、移して行ったさきに、土|まんじゅう《ヽヽヽヽヽ》が、雑草にうもれていた。
無二斎の遺骸《いがい》が埋められた場所であった。
弁之助は、遺骸をそこに葬《ほうむ》った時、
――一流の兵法者になった時、還《かえ》って来て、お前様を殺した岩を、ここまではこんで来て、墓にします。
と、誓ったのであった。
吉岡一門を絶滅せしめたいま、武蔵は、ここへ戻って来て、その誓いをはたすことにしたのである。
土|まんじゅう《ヽヽヽヽヽ》を、たいらにしておいて、その上に、巨岩を据《す》えると、武蔵は、ひと息入れてから、持参した鑿《のみ》で、岩肌《いわはだ》へ、文字を刻みはじめた。
ようやく、陽が西に傾いた頃合《ころあい》、岩には、
天下第一兵法者
平田無二斎之墓
という十四文字が、刻みあげられていた。
「――無二斎殿」
武蔵は、呼びかけた。
「もし、魂魄《こんぱく》が、中有《ちゆうう》にさまよっているのなら、今日から、この墓石の下に入って、成仏《じようぶつ》なされ」
そう云った時、門口から、
「やっぱり、そうじゃった。わしのカンが当ったぞ!」
大声をあげて、駆け込んで来た者があった。
武蔵は、それが、曾《かつ》てこの家を立ち去った頃の自分と同じくらいの年頃の少年であるのを、みとめて、眉宇《びう》をひそめた。
「お初にお目もじつかまつる。拙者は、山野辺|伊織《いおり》でござる」
二
武蔵が歩き出すと、伊織は、そばにくっついて、
「小父《おじ》さん、わしは、奈良から、小父さんをさがしまわっていたのじゃ。そんなに、つれない顔をしなさるな」
と、云った。
「奈良から? どうして、おれをさがしていたのだ?」
「夕姫様にたのまれたのじゃ。……あの時から、わしは、伊賀の妻六殿と一緒に、ずうっと、姫様のお供をして、宮本武蔵殿をさがして居《お》ったのじゃ」
「…………」
「ほんとじゃ、わしらは、ずっとお前様を、さがしつづけて居ったのじゃ」
「姫君は、どうした?」
「うん――」
伊織は、ちょっとまどわしげに、がしがしと頭をひっかいた。
「姫様は、奈良の尼寺に入ってしまわれた」
「尼寺に? 比丘尼《びくに》になったというのか?」
「そうじゃ」
「どうしてまた、比丘尼になどなったのだ?」
「うん……、それは――」
伊織は、口ごもったが、思いきって、
「武蔵様、女子《おなご》は、操《みさお》ちゅうものを、けんめいに、守らねばならんのじゃろ?」
「女子にとって、操は、生命《いのち》の次に大切なものらしい」
「姫様は、その操を、破られたのでござる」
「なに?!」
「伊賀谷の宍戸梅軒《ししどばいけん》という忍者に、操を破られてしもうたのじゃ」
「まことか?」
武蔵は、かっと双眼をひき剥《む》いた。
伊賀谷に於《お》いて、梅軒からあびせられたおそるべき鎖鎌《くさりがま》の戦法と、その凄味をおびた形相を、思い出した。
「姫様は、恥じて、死のうとされた。その場に、下柘植《しもつげ》の大猿《おおざる》という爺様が、居合わせて、姫様を死なせなかったのじゃが、……姫様は、その時から、尼になる決心をされたのでござる」
「…………」
「武蔵様、お前様が、姫様に逢《あ》われていたら、あのおかたは、尼にならずにすんだのじゃ。そうにちがいないのじゃ」
「…………」
「姫様は、お前様に逢うことができなかったので、決心した通りに、尼寺に行かれてしもうた」
「…………」
「あんな美しい姫様を、尼にしてしもうて、もったいない。……そう思うじゃろ、小父さんも――」
「…………」
武蔵は、昌山庵《しようざんあん》の同じ座敷ですごした二夜のことを、思い浮べた。夕姫に一指もふれなかった異常な忍耐は、武蔵にとって、決闘よりも辛《つら》いことであった。
――あの時、抱くべきであったのか。
微《かす》かな悔いが、わきかけたが、武蔵は、すぐにふりはらうと、
「お前は、どうして、ここへ来た?」
と、訊《たず》ねた。
「お前様の故郷を、沢庵和尚《たくあんおしよう》からきいたのじゃ。……わしは、妻六殿に別れて、宮本村へやって来て、お前様が育ったこの家のことを、きかされて、見に来たのじゃ。来てよかった。……お前様は、やっぱり、戻って来られた」
「なぜ、たずねて参った?」
「わしは、一乗寺村の下《さが》り松で、お前様が、たった一人で、吉岡《よしおか》道場の門弟たちを百人も敵にまわして、果し合いをしたのを、きいたのじゃ。それで、弟子にしてもらおうと思うて」
「…………」
「武蔵様、わしを弟子にして下され。お願いします」
伊織は、野道を歩いて行く武蔵の背中に向って、ぺこんと頭を下げた。
返辞はなかった。
「弟子にしてやらぬ、と云われても、わしは、勝手に弟子になってやる。よいかな、武蔵様――?」
伊織は、武蔵の横をすり抜けて、前方へ馳《は》せ出ると、
「わあい! 山野辺伊織は、いまから、宮本武蔵の弟子だぞーっ!」
と、両手をさしあげて、叫んだ。
三
「|きち《ヽヽ》さん――」
座敷に、病臥《びようが》している者に呼ばれて、台所で水仕事をしていた|きち《ヽヽ》は、
「はい」
と、返辞をして、いそいで、手を拭《ふ》いた。
|きち《ヽヽ》――京の廓《くるわ》へ売られて、夕加茂《ゆうかも》という源氏名を与えられていたこの女は、つい近頃、故郷へ帰って来て、この新免家に、身を寄せていた。
武蔵の姉の於幸が、胸を患《わずら》って、牀《とこ》に臥《ふ》しているのを知って、|きち《ヽヽ》は、その世話をすることにしたのであった。
「ご用でございますか?」
|きち《ヽヽ》が、座敷に入ると、於幸は、
「伊織の姿が見えませんが、どこへ参ったのでしょう?」
昨日、ここへ訪れて、そのまま、泊り込んだ少年のことを、訊ねた。
「武蔵様がお育ちなされた石海村の平田家を、たずねて行きました」
「どうして、平田家などに……。あそこは、武蔵が出て来て以来、空家になってしもうて居るのに――」
「武蔵様が、兵法修業をはじめられたところを、ぜひ見たい、と云うて、とび出して行ったのでございます」
「あの子は、武蔵の弟子にしてもらうのじゃ、と云うていましたな」
「はい」
「兵法者になって、とどのつまりは、果し合いで、生命を落してしまうものを……」
於幸は、ほっと溜息《ためいき》をもらした。
弟の武蔵が、京の吉岡道場に挑戦《ちようせん》して、その当主清十郎を斃《たお》し、つづいて、舎弟伝七郎を殺したところまでは、風の便りに、この宮本村にも、きこえて来ていた。
於幸も健康であれば、弟の強さを誇りとして、天下にその剣名のとどろくのを、悦《よろこ》んだであろう。
病臥して、一年余をすごす於幸は、そんなことを悦ぶよりも、
――武蔵の身に、もし万一のことがあれば、新免家は、絶えてしまう。
その不安の方が大きかった。
――せめて、わたしが死ぬまで、家へ戻って来て、看取《みと》ってくれぬものか?
その願いが、つよかった。
京に売られていた|きち《ヽヽ》が、帰って来て、看護をひきうけて、武蔵のことを話し合ってくれるのが、せめてものなぐさめになっている於幸であった。
「|きち《ヽヽ》さんは、心までよごさずに、ようもどってくれました」
「武蔵様のおかげでございます」
|きち《ヽヽ》は、こたえた。
「|きち《ヽヽ》さんは、幼い頃から、武蔵が好きだったのですね」
「はい、好きでございました」
「武蔵は、この家のあるじになって、そなたを妻にして、平穏に、くらせばよかったのに……」
「…………」
「兵法者になって、日本一の名乗りをあげたところで、人の幸せとはなるまいに……」
於幸がそう云った時、遠くから口笛がひびいて来た。
「あ――伊織さんが、もどって参りました」
|きち《ヽヽ》が、戸口に出迎えると、伊織が門口から、
「あるじ様のお帰りだぞ!」
と、叫び乍ら、駆け込んで来た。
|きち《ヽヽ》は、そのうしろから、入って来た武蔵の影を見分けて、にわかに、はげしく胸を動悸《どうき》打たせた。
武蔵は、戸口に近づいたが、とっさに、|きち《ヽヽ》であることに気がつかなかった。
姉の看護をしている女子がいると、伊織からきいていたが、それが、よもや夕加茂とは、夢にも知らなかった。
「おもどりなさりませ」
頭を下げる|きち《ヽヽ》に、かるく会釈《えしやく》をしておいて、武蔵は、広土間に入った。
「武蔵かえ」
一間置いた座敷から、於幸が、呼んだ。
「只今《ただいま》、戻り申した」
武蔵は、上って行くと、病みやつれた姉を眺めて、
「加減がわるいとは知らなんだ」
と云って、枕辺《まくらべ》に坐《すわ》った。
「よう、生きて……もどられた」
於幸は、みるみる、泪《なみだ》をわきあがらせた。
武蔵は、この三年間、帰郷していなかったのである。
「しばらく、家でからだをやすめられるがよい」
於幸は、願いをこめて、云った。
「いえ、今宵《こよい》のうちに、また、出発いたす」
「えっ! ど、どうして――?」
於幸は、思わず、起き上ろうとした。
「路銀が尽きたので、受けとりに舞い戻ったのだ」
「そ、そんな……、|きち《ヽヽ》さんも、待っていたのですよ」
「|きち《ヽヽ》?!」
武蔵は、はじめて、その存在に気づいて、頭をまわした。
「|きち《ヽヽ》か、そなた――」
「は、はい」
|きち《ヽヽ》は、両手をつかえた。
「火焔坊《かえんぼう》様に、お救い頂いて、帰って来ることができました」
「武蔵、|きち《ヽヽ》もいることだし、せめて、二、三日、いてたもらぬかえ?」
武蔵は、ちょっとためらっていたが、
「いや、やはり、今宵、出発いたす」
と、こたえた。
夕餉《ゆうげ》を摂《と》り終えると、武蔵は、言葉通りになんの未練気もなく、座を立った。
「では――」
姉と|きち《ヽヽ》へ、一揖《いちゆう》しておいて、大股《おおまた》に、広土間へ降りた。
於幸は、牀の上に坐って、
「あいかわらずの無情者よ」
と、小さく呟《つぶや》いた。
於幸に代って、|きち《ヽヽ》が、門口まで、見送った。
武蔵は、伊織を連れて、月明りの桑畑の中へ入って行った。
その後姿へ、必死の眼眸《まなざし》をあてているうちに、|きち《ヽヽ》は、泪で、夜景がうるんだ。
なにか声をあげたかった。しかし、出なかった。
いま別れたならば、生きて再び逢えないような気がした。
――ごぶじで……。
|きち《ヽヽ》は、ふかく頭を下げた。泪が、ほろほろと、したたった。
慶長八年九月下旬のことであった。
岩不動
一
澄みきった秋空に、力強い、鋭い音が、連続して、ひびき渡っている。
海に向って突出した山腹の巨大な岩が、あげる悲鳴であった。
岩の上から、臥竜《がりよう》のかたちに老松が、うねり出て居《お》り、その幹に太綱が、かけられて、十数尺下の横木を吊《つ》るしていた。
鞦韆《ぶらんこ》に腰かけている者が、鑿《のみ》と鎚《つち》で、岩を刻んでいるのであった。
彫られているのは、どうやら不動明王のようであった。剣の大きさだけでも、十尺を越えている。
もう八分通り出来あがっていて、背の迦楼羅炎《かるらえん》も、ほぼ完成している。
それにしても、これは、危険な作業であった。
足下は、絶壁がえぐり取られたように内側へ彎弓《わんきゆう》して、赤土の山肌《やまはだ》をむき出し、疎林《そりん》を配した渚《なぎさ》は、数丈もの下方にひろがっている。
ひとつまちがえば、五体は、渚にちらばる岩へたたきつけられて、砕けるであろう。
彫っているのは、蓬髪《ほうはつ》、髯《ひげ》だらけの、ほとんど乞食《こじき》同然の身装《みなり》をした男であったが、双眸《そうぼう》から放つ光は、兵法者のものにまぎれもない。
この危険な作業は、半年前からはじめられていた。
この海辺から、村里までは、二里の距離があったが、毎朝、さだめた時刻に現れて、終日、鑿を打ち込み、昏《くれ》がた戻って行く日課を、ただの一日も欠かさずに、つづけているのであった。
左様――雨風の強い日も、休もうとしなかったのである。
ここは、ふかい入江になって居り、沖は、いくつかの島で、遠望をさえぎられていたが、わざわざ、舳先《へさき》をまわして、この危険な作業を、見物に来る船も、あった。
「なんの発心《ほつしん》かのう?」
仰ぎ視《み》る人は、一様に、首をかしげた。
渚まで船を寄せて、口に手をあてて、問う者もいたが、彫り手は、応《こた》えようとはしなかった。
その手は、憩《いこ》うということを知らぬようであった。
仰ぐ人々は、なにかの執念にとり憑《つ》かれているに相違ない、と考えざるを得なかった。
洛北《らくほく》瓜生山麓《うりゆうさんろく》・一乗寺村|下《さが》り松に於《お》いて、吉岡《よしおか》道場の面々七十余人と死闘してから三年、杳《よう》として行方を絶っていた宮本武蔵は、この瀬戸内海に面した備前国|邑久《おく》郡虫明にいた。
頭上の松の密林に、人の気配がした。
「武蔵様――」
呼んで、岩蔭《いわかげ》から、顔をのぞけたのは、十六、七の娘であった。
眉目《びもく》は整っているが、色が黒く、いかにも野性味に富んで、表情がいきいきしていた。
「お客人ですがな。今日は、仕事は中止なされ」
「誰だ、客とは――?」
「長船《おさふね》の刀工さんじゃがな」
「うむ!」
武蔵は、うなずいた。
この虫明から数里のむこうに、長船村があった。古代から、この地に、剣匠刀工が累世《るいせい》その秘伝を相承《あいう》けて、声名は天下にきこえていた。
長船の鍛冶《かじ》は、近忠を元祖とする、という。その子を光忠《みつただ》、光忠の子を長光《ながみつ》、という。
ある時、隣村福岡の宝厳院から、出火した。宝蔵が、扉《とびら》に鉄鎖をまきつけていたので、開きかねた。馳《は》せつけた長光が、この鎖を、両断して、その斬《き》れ味の冴《さ》えを、四方に鳴りひびかせた。このことが、宮廷にきこえて、その刀が召上げられて、御物となった。
大永の頃《ころ》、大洪水《だいこうずい》があって、長船鍛冶の家は、ことごとく濁水に呑《の》まれて、断絶したが、わずかに、祐定《すけさだ》の家が残った。
長船鍛冶の盛んであったのは、鎌倉《かまくら》幕府の中頃より天正《てんしよう》年間までであった。その間、輩出した名工は、千を以《もつ》て数えられた。
祐定という名は、文明年間より、その父子子弟が相継いで、この慶長年間までも、残している。
武蔵が、当代祐定を、長船村に訪《おとの》うたのは、「飯綱《いづな》使い」松山|主水《もんど》から、
「兵法者は、名刀を持たねばなるまい」
と、添状をもらったからである。
二年前のことであった。
祐定は、添状を読んでから、
「打ちあげるまで、しばらくの猶予《ゆうよ》を下され」
と、云った。
その|しばらく《ヽヽヽヽ》が、二年という歳月であった。武蔵は、待ったのである。
二
武蔵は、太綱をつたって、岩の上へ、よじのぼった。
待っていたのは、赤音《あかね》という娘であった。虫明村の娘ではなかった。
山中に、修験者の道場があり、入山していた修験者の一人が、船が難破して浜辺に流れついた船頭の女房を、拉致《らち》して、産ませた娘だ、と武蔵はきいた。
赤音は、十歳頃から、修験者から見すてられた道場に、一人で住んでいた。
道場と一町ばかりへだてて、裳掛《もかけ》寺という無住となった山寺があり、武蔵の方は、そこへ、勝手に入り込んで、寝泊りしていた。
村里までは、勾配《こうばい》の険しい杣道《そまみち》を、赤音の足で、半刻《はんとき》をついやす。
いわば――。
漂泊の兵法者と修験道の落し子とが、地下人《じげにん》の白い眼《め》の中で、肩を寄せ合って、山賤《やまがつ》同様のくらしをつづけているのであった。
「武蔵様――」
先に立っている赤音が、振り向いた。
「うむ」
「不動様ができあがるのは、もう間近でしょうがな」
「うむ」
「できあがったら、武蔵様は、どこかへ行ってしまわれるのじゃろ?」
「うむ」
「……うちらは、また、一人になる」
赤音は、自分に云《い》いきかせるように、呟いた。
赤音は、武蔵がたのんだわけでもないのに、食事をつくってくれていた。
「武蔵様、お前様が立ち去る時に、うちらを供にするわけには、いかぬのじゃろうか?」
「…………」
武蔵は、返辞をしなかった。
と――赤音は、その場へ、土下座した。
「おたのみ申します」
必死の面持《おももち》で、合掌した。
武蔵は、その脇《わき》を、黙って、通り過ぎた。
「やっぱり、駄目《だめ》なのじゃな」
赤音は、しおしおと、起《た》って、あとに従った。
武蔵は、崩れかかった山門を入った。
黒井山裳掛寺は、慶長五年の関ケ原役で、石田|三成《みつなり》に味方して、敗走した宇喜多秀家《うきたひでいえ》が、故郷へ遁《に》げ帰って、三月ばかり、かくれた古刹《こさつ》であった。
もともと、宇喜多家は、この邑久郡から興っていて、裳掛寺は、秀家の父|直家《なおいえ》によって再建されている因縁を持っていた。
秀家が捕えられて八丈島へ流罪《るざい》となった時、裳掛寺住職も、秀家とともに流された。爾来《じらい》、無住のまま、狐狸《こり》のすみかとなっていたのである。
武蔵は、荒れはてた本堂に寝起きしていた。
本堂で待っていたのは、長船刀匠祐定であった。六十過ぎの、鶴《つる》のように痩《や》せた老人であった。
膝《ひざ》の前に、色褪《いろあ》せた布で包んだ刀一振を置いた。
武蔵が、前に坐《すわ》ると、祐定は、挨拶《あいさつ》もせず、
「打ち上げ申した」
と云って、布を解いて、白鞘《しらさや》のそれを、さし出した。
「忝《かたじけ》ない」
押しいただいた武蔵は、すらりと抜きはなつと、直立させた。
鋩子《ぼうし》から、ゆっくりと、食いつくように視線を下げてゆく武蔵の眼光は、人間ばなれしたものであった。
鵜首《うのくび》造りの鋩子、青い地鉄《じがね》、浮きやかに白い刃、匂《にお》いふかい刃境、錵《にえ》はすくなく、八重桜の散ったような華やかな丁子みだれ、ふかい反《そり》、厚い|重…《かさね》…。
武蔵の凝視は、長い時刻を移し乍《なが》ら、われを忘れたかのようであった。
祐定は、身じろぎもせず、その武蔵の顔を、見まもっていた。
ようやく――。
白刃を鞘に納めた武蔵は、
「みごとな出来ばえ、あつくお礼申し上げます」
と、頭を下げた。
祐定は、偏窟者《へんくつもの》らしく、無表情を保ったまま、
「気に入られたのであれば、これは進呈いたすが、その代り、ひとつだけ、条件をつけさせて頂く」
「なんなりとも――」
「向後、お手前が、真剣で試合をされる時、対手《あいて》の所持の刀を、お調べ頂きたく存ずる。天国か、三池鍛冶か、千手院か、来一類か、粟田口《あわたぐち》か、福岡一文字か――。必ず、お調べ下されて、それが、もし折れたり曲ったり、刃こぼれしたりなどしたならば、いちいち、わしが許《もと》まで、お報《しら》せ下さるまいか。……もし万一、この祐定の作った品によって、お手前が負けられた際には、見とどけの人に、その旨《むね》を、くわしく、したためさせて下さることを、お願いつかまつる」
「承知つかまつりました」
「では……、ご武運のほどを、お祈りいたしますぞ」
祐定は、赤音がさし出した茶も、口にせずに、さっさと立ち上っていた。
境内に降り立った祐定は、ふと、思い出した様子で、送って出た武蔵を、振りかえった。
「お手前は、海へ突き出た岩を彫って、不動尊をつくって居られる由《よし》じゃが……」
「あと一月あまりで、完成いたす」
「一月! それは、ちと、日数が、かかり過ぎる」
「それがしは、すでに、半年も、日数をついやして居り申す。あと一月ぐらい――」
「いや、池田家で、お手前が不動尊を完成させるまで、待ってくれるか、どうか、ということでござるよ」
「それは、どういうことです?」
「わしと前後して、池田家家中が数人、この虫明へ参ったが、どうやら、大がかりな宝さがしをやるそうな」
「宝さがし?」
「おっつけ、当寺へも、役人が参ろう」
祐定は、それだけ云いのこした。
三
「武蔵様っ! 武蔵様っ!」
夜明けの静寂を破る赤音のけたたましい叫びが、武蔵のねむりを、さました。
本堂へ駆け込んで来た赤音は、息をはずませ乍ら、
「武蔵様、お役人が参ります。……逃げて下され! おねがいじゃ。はよう、逃げて下され!」
「おれが? ……どうして、役人が来たら、逃げねばならぬのだ?」
「だって、武蔵様は、……そのう、|ざんげ《ヽヽヽ》のために、不動様を、彫っておいでじゃろうから……」
「べつに、懺悔《ざんげ》滅罪のために、不動明王をつくって居るのではない」
「ほんまですかな?」
赤音の顔は、不安の色をみなぎらせていた。
「おれは、罪人ではない。多勢の人をあの世へ送ったが、試合で、斬《き》った。後めたいことなど、ひとつも犯しては居らぬ」
「ほんまじゃな?」
「くどい!」
武蔵は、渡廊下から庫裏《くり》を抜けて、台所に行き、懸樋《かけひ》から落ちる冷たい水を、双掌《もろて》に受けた。
庫裏は、住むに堪えないくらい荒れはてていて、屋根も天井も破れ、床も抜けていた。
台所だけは、赤音が、使えるように、ととのえてあった。
赤音は、竈《へつつい》へ薪《たきぎ》を焚《た》きつけ乍ら、なお不安そうに、板敷きで、鑿を研ぎはじめた武蔵を、視やった。
境内に、話し声がきこえた。
屋内は吹きさらしなので、境内に立った者たちの姿が、台所からも、眺《なが》められた。
陣笠《じんがさ》をかぶった武士が、四人であった。
本堂を覗《のぞ》いてから、庫裏へ近づいて来た。
「そこの牢人《ろうにん》に、申し渡す」
縁さきから、一人が、声をかけた。
「本日限り、当寺を立ち退《の》いてもらおう。いや、この黒井山から、退去してもらいたい」
その命令をきいて、武蔵は、はじめて、手を止めて、視線を向けた。
「それがしは、岬《みさき》の岩を刻んで、不動明王をつくって居り申す」
「それは、村民から、きいた」
備前二十八万石池田家の目付《めつけ》は、こたえた。
「完成までには、あと一月あまり要すると存ずる。それまで、お待ち下され」
「待てぬ! 即刻、立ち退け」
「御辺《ごへん》がたが、なにをされるのか存ぜぬが、べつに、邪魔だてするわけではない。お見すておき下され」
「黙れ! ……わが池田家領地に、勝手に入り込んだばかりか、無断で、岬の景観をよごすことさえも、不埒《ふらち》なのだぞ。が、その罪は、看《み》のがしてくれよう。……つべこべ申さずに、早々に、何処へなりと、去《い》ね!」
「…………」
武蔵は、返辞をしなかった。
目付たちは、武蔵が承知したものと、きめたらしく、ほかへ廻《まわ》って行った。
赤音が、粥《かゆ》を椀《わん》によそって、さし出し乍ら、
「どうなされるのですか?」
と、問うた。
「どうもせぬ」
武蔵は、粥をすすった。
「どうもせぬ、というて、……立ち退かれますのか? うちらも、ここには、住めなくなったので、お供をしても、よろしいかな?」
「…………」
武蔵は、いつもの通り五杯食べると、立ち上った。
赤音は、武蔵が、鑿と鎚を容《い》れた革袋を、腰に携《さ》げるのをみとめて、眉宇《びう》をひそめた。
武蔵は、岬へ向って、歩き出した。
「武蔵様!」
「…………」
「武蔵様! お役人衆は、まだ、そこいらに居られますぞな。……さかろうたら、大事になるがな」
武蔵は、耳などないように、ずんずん、径《みち》を進んで行った。
月下|二閃《にせん》
一
池田家の目付四人は、しきりに、黒井山の彼処此処《かしこここ》を調査し乍ら、しだいに、岬へ近づいていた。
と――。
岩へ鑿《のみ》を打ち込む音が、起った。
「なんだ?」
「お――、彼奴《きやつ》、申しつけにさからって、不動尊を刻みはじめたな」
「許せぬ!」
血相変えた目付たちは、突端へ向って、奔《はし》った。
そこには、赤音が、立っていて、
「ああっ!」
と、悲鳴をあげた。
「武蔵様っ! ……お役人衆が、来たがな! ……ど、どうしよう?」
武蔵は、宙に吊《つ》るされた横木へ、腰かけて、平然と、作業をつづけている。
馳《は》せつけた目付たちは、赤音をはねのけておいて、一斉《いつせい》に、武蔵を、のぞきおろした。
「おいっ、牢人! 申しつけにさからう存念は、なんだ? 申せ?」
一人が、呶鳴《どな》った。
「ごらんの通り、八分通り成った不動明王を、このまま、うちすてるのは、心のこりなれば、つづけさせて頂く。それだけのことと、お思い下され」
「黙れっ! ただちに中止して、上って来い。さもないと――」
目付たちは、目くばせし合った。
「綱を切るぞ!」
それをきいて、赤音が、悲鳴をあげた。
武蔵は、なんの怖《おそ》れ気もなく、目付たちを見上げているだけである。
「よいか! 綱を切る、と申して居《お》るのだぞ。……中止して、上って参れ」
武蔵は、しかし、返辞をする代りに、鑿を岩へあてがうと、鎚《つち》をふるった。
「おのれっ! 牢人、綱を切られてもよいのかっ!」
「…………」
対手が呶号するにまかせておいて、武蔵は、石屑《いしくず》と火花を散らして、彫りつづける。
「切るぞっ! 自業《じごう》自得だぞ!」
赤音の再度の悲鳴の中で、白刃が、幹にかけられた太綱めがけて、振りおろされた。
次の刹那《せつな》――。
武蔵の五体は、剣を直立させた不動明王の右手に、ぶらさがっていた。
とみた瞬間、その五体は、まるで重量のない軽さで、はねあがった。
あっけにとられた目付たちの前に立った武蔵は、
「貴殿がたが、いくど綱を切ろうとも、それがしは、完成するまでは、止《や》めぬ」
と、云《い》った。
赤音が、武蔵に、とびついて、慟哭《どうこく》した。
目付たちは、なにかの化身にでも、出会ったような表情になっていた。
ようやく、一人が、生唾《なまつば》をのみ込んでから、
「お主は、兵法者か?」
と、訊《たず》ねた。
「左様――」
「名はなんと申される?」
「宮本武蔵と申す」
「宮本武蔵!」
四人は、一斉に、目をみはった。
室町兵法所吉岡道場を、たった一人で滅亡せしめた若い兵法者の名は、日本全土につたわっていたのである。
二
「貴方《あなた》様は、日本一の剣の芸者《げいしや》でございましたのじゃな」
夕餉《ゆうげ》の膳《ぜん》に就いた武蔵に、赤音は、麦七分の御飯をさし出し乍ら、云った。
「おれは、日本一ではない」
「でも、村へ降りたお目付様が、名主様に、そう語られているのを、ききました」
武蔵は、馳走《ちそう》しようと目付たちが招くのをことわって、代りに、赤音を遣《や》って、その料理を、もらって来させたのである。
膳部には、この山寺へ来てはじめての料理数品が、ならべてあった。
「うちらは、貴方様が、そんな偉い御仁《おひと》とは知らずに、お世話していたのじゃ。……はずかしい」
「赤音、お前、この馳走を、食べろ」
武蔵は、云った。
「え――? どうしてでございますか?」
「兵法者は、口がおごってはならぬのだ。おれは、お前のつくってくれた味噌汁《みそしる》だけでよい」
「でも……」
赤音は、もじもじした。
「お前も、このような馳走は、はじめて喰《た》べるのだろう。遠慮なく、平《たいら》げろ」
「はい」
こくっと、うなずいたものの、赤音は、
「ほんまに、よろしいのでございますか?」
と、すぐに箸を把《と》ろうとしなかった。
「おれは、口にせぬのだ。……すてて、腐らせるよりは、お前が喰べた方がよい」
「はい」
黒鯛《ちぬ》もあった。鶏の卵も肉もあった。
箸をつけると、赤音は、夢中になって、喰べはじめた。
「うまいか?」
「はい。おいしゅうございます」
赤音は、夢中になって平げる自分のはしたなさに、途中でふっと気づいて、
「武蔵様は、いつも粗食をなさって、どうしてあのように――天狗《てんぐ》みたいなはなれ業《わざ》が、おできになるのでございますか?」
と、訊ねた。
「物心ついた頃《ころ》から、鍛えて居る」
武蔵は、平田無二斎に育てられた幼時を、思い泛《うか》べた。
味噌を入れた芋粥《いもがゆ》が、三度の主食で、十日に一度ぐらいの割で、無二斎が獲《と》って来た狐《きつね》や狸《たぬき》や鹿《しか》の肉を、塩づけにして、焼いて喰べていたものであった。尤《もつと》も、けものの方は、皮を剥《は》いで、米や粟《あわ》や塩や燈油《とうゆ》や小袖《こそで》や杉原紙など、日常の品に交換するので、皮剥ぎの役目を受け持った武蔵は、その肉を喰べる気がしなかった。
かえりみれば、今日まで、武蔵は、馳走らしい料理を、まともに、喰べたことがなかった。
腹を満たせばよい。そういう流浪《るろう》の半生をすごして来たのである。
「ああ、おいしかった。ご馳走さまでございました」
赤音もまた、武蔵に劣らぬ粗食で、育って来た娘であった。
武蔵は、赤音が膳部を持って、台所へしりぞくと、紙をひろげて、硯《すずり》で墨をすりはじめた。
武蔵は、この山寺に入ってから、岬の岩に不動明王を彫るとともに、破墨画《はぼくが》に、筆を把るようになっていた。
武蔵が、絵心をそそられたのは、一乗寺村の決闘ののち、近江《おうみ》へ遁《のが》れてほどなく、琵琶《びわ》湖畔の旅籠《はたご》で、海北友松《かいほうゆうしよう》と知己になったおかげであった。
海北友松は、姓は源《みなもと》、名は紹益《しようえき》、如切斎または友景斎とも号した。もとは、浅井|長政《ながまさ》の麾下《きか》に属し、重臣六人衆の一人であった。武芸は一流を樹《た》てるに足り、禅に参じ、気魄《きはく》満ちて、ただの画人ではなかった。
若年の頃から絵を好み、京都東福寺の住職の世話で、古法眼《こほうげん》狩野元信《かのうもとのぶ》に師事した。
元信は、少年の絵を見せられて、
「この児《こ》は、自ら梁楷《りようかい》の妙を伝承している」
と、激賞した、という。
武蔵が、知己になった時は、友松は、すでに古稀《こき》を越えていた。
武蔵は、その破墨画を、一瞥《いちべつ》した時、脱俗の雅韻を湛《たた》え乍《なが》らも、なお和様の柔軟を排して、人に迫る遒勁《しゆうけい》沈着の気魄をひそめているのに、魅せられたものであった。
友松は、武蔵が、吉岡《よしおか》一門を滅亡させた兵法者と知って、乞《こ》われるままに、絵筆を走らせるすべを授けた。
いま――。
武蔵が、描いているのは、枯葦《かれあし》の湖畔にいる浮鴨《うきかも》二羽であった。
この図柄《ずがら》は、もう数枚描いていて、ことごとく破りすてている。
どうやら、今日の出来は、気に入った。
右上に、
『寒風帯月澄如鏡』
という句を、入れた――その折であった。
台所で、激しい物音が、起った。
「赤音――、どうした?」
訊ねると、呻《うめ》き声が、かえって来た。
いそいで、台所へ出てみると、赤音は、土間に臥伏《がふく》していた。
抱き起してみると、すでに、その顔面には、死相があらわれて居り、唇《くちびる》のはしから、血汐《ちしお》をひとすじ、たらしていた。
「赤音っ!」
ゆさぶったが、意識のよみがえるけはいはなかった。
本堂へはこんで来た時、赤音の心音はとだえていた。
「あいつら!」
武蔵は、宙を睨《にら》み据《す》えて、四人の池田家目付の顔を、思い泛べた。
かれらは、こちらを宮本武蔵と知ると、その武名に敬意を表して、虫明村の庄屋《しようや》屋敷へ招じたのではなかったのである。
まともに立ち合っては、とうてい敵《かな》わぬと知って、毒殺することにしたのであった。
武蔵の代りに、赤音が、犠牲となった。武蔵が、すすめたからである。
「赤音、許せ!」
武蔵は、両手をつかんで、目蓋《まぶた》を閉じた。
亡《な》くなられてみて、いまさらに、この半年間、赤音が尽してくれたかずかずの行為が、ひしひしと、胸にこたえた。孤児で育ったひねくれたところはみじんもなく、快活で純情で、ひたむきな恋慕を寄せてくれた娘であった。
鍬《くわ》を携《さ》げて、武蔵は、菜園へ出た。赤音がつくった菜園であった。
この裳掛《もかけ》寺には、墓地がなかった。赤音が自分で野菜をつくった場所に、葬《ほうむ》ってやるのが、せめてもの慈悲のように、思えたのである。
ひと鍬|毎《ごと》に、武蔵は、胸の裡《うち》で、
「許せ」
と、詫《わ》びた。
三
子刻《ねのこく》(午前零時)をまわった頃合、武蔵は、虫明村へ降りていた。
海へ向って、細長く延びた村落であった。
空に、十三夜の月があり、人家や田畑や林を、薄墨で描いたように、浮きあげていた。
武蔵の左手には、長船祐定《おさふねすけさだ》から贈呈された新刀が、携えられていた。はからずも、打ちあげられたばかりの利剣を試す時が、日を置かずに、訪れたのである。
庄屋の屋敷は、村の中央の阿弥陀堂《あみだどう》の建つ辻《つじ》から、右折して、入江へそそぐ小川の土橋を渡ると、ひときわ目立つ大きな構えを、どっしりとわだかまらせている。
門はなく、前面に田をひろげて、その中をゆるやかな傾斜の通路が、石垣《いしがき》上の庭へのびていた。
庭に入った武蔵は、母屋《おもや》のわきの別棟へ、視線を投げた。
檜皮葺《ひわだぶき》の中門が設けてあり、こちらのだだ広い籾干《もみほ》しの平庭とちがって、樹木が配してある。
岡山城下から出張して来た役人がたを泊めるために、建てられてある別棟に相違なかった。
中門をくぐると、小規模乍ら、刈込みの植樹、細井筒、織部|燈籠《どうろう》などが配されてあった。
武蔵は、ゆっくりと、雨戸に近づいて、その一枚を、音もなくはずした。
月影のさし込んだ室内から、いびきがきこえた。
「目付《めつけ》がた――」
武蔵は、殺気を抑えたしずかな声音で、呼びかけた。
「宮本武蔵が、罷《まか》り越した。起きてもらおう」
四人が、夜具をはねて、とび起きた。
「それがしの身代りとなって、赤音というあの娘が、死んだ」
武蔵は、云った。
「お主がたは、役目上、やむを得ぬ手段であったかも知れぬが、娘を殺されては、引きさがるわけには参らぬ。仇討に罷り越した。……尋常の立合いをいたす」
武蔵は、踏み込まずに、中庭で、待ち受けた。
目付たちは、素早く、身仕度した。
西国の将軍とうたわれた池田|輝政《てるまさ》の手飼いの目付衆ともなれば、兵法者をおそれて、逃げ出すわけにはいかなかった。
隠密裡《おんみつり》に、武蔵を片づけるのに失敗した以上、身をすてて、撃ちかからざるを得なかった。
縁側から、跳んで、織部燈籠を背負うて立つ武蔵に向って、一斉に、抜きつれた。
いずれも、戦場を馳《は》せ巡った経験者らしく、構えに攻撃一途の迫力をみなぎらせた。
じりじりと、肉薄されるにまかせて、武蔵は、ゆるやかな動作で、祐定を鞘《さや》からすべり出すと、左拳《ひだりこぶし》を額にあてる上段に構えた。
刀身は、やや右ななめに傾けられ、上半身をもまた、目に見えぬ程度に、すこしずつ、前のめりに動かした。
かなりの猫背《ねこぜ》の姿勢になった時、左側の敵が、武蔵の空けた胴めがけて、
「たあっ!」
と、薙《な》ぎつけて来た。
対手が武蔵であると意識したあまり、その踏み込みが足らず、刃線は、その帯を紙一重で掠《かす》めた。
次の一瞬――。
武蔵は、きえーっ、と宙を截《き》って、その敵の首を刎《は》ね、その弧線を、そのままに、五体を廻転させて、左半身よりやや後方で青眼《せいがん》につけている者へ、びゅんと送りつけ、顔面を割りつけた。
一閃裡《いつせんり》に、二人を斬《き》ったのである。
右方――正面近くに構えていた敵が、
「やああっ!」
と、大上段に、ふりかぶった時には、もう、武蔵は、中段の位置につけていた。
もう一人は、じりっじりっと、背後へまわったが、燈籠を背負うている武蔵に、躍りかかる隙《すき》をとらえることは、容易ではなかった。
と――。
武蔵は、「突け!」と誘うように、一歩、左へ、すっと身を移した。
「えいっ!」
背後の敵が、猛然と突くのと、正面の敵が、満身の気合を噴かせて、一撃をあびせかけるのが、同時であった。
すくなくとも、正面の攻撃者は、身をすててかかっていた。
刹那《せつな》――武蔵は、身を沈めた。
沈めざま、背後からの突きを頭上に流し、正面の敵には、燈籠の笠《かさ》を搏《う》たせておいて、かんまんとも思われるほどの横薙ぎで、胴を両断するや、その手ごたえを、背後から突きかけて来た敵の咽喉《のど》を突き刺す迅業《はやわざ》へ継続させた。
再び、武蔵は、一閃裡に、二人を仆《たお》したのである。
母屋から、懸声をききつけて、庄屋はじめ数人の使傭人《しようにん》が、中庭へ駆け込んで来た時には、もう、武蔵の姿は、そこになかった。
金剛杖《こんごうづえ》
一
単調な艪音《ろおと》が、湖水のように凪《な》いだ海面に、ひびいている。
舳先《へさき》にうずくまる者も、漕《こ》ぎ手も、沈黙を守っている。
舟は、虫明村を外海からさえぎる東西に長くのびた長島と称《よ》ばれる島嶼《とうしよ》をまわって、いま、瀬戸を抜け出ようとしていた。
舳先にうずくまる武蔵は、行手にのびた月光の道へ、じっと、視線を置いていた。
漕ぎ手は、かなりの年寄であった。それだけが、武蔵には、判《わか》っているだけで、風貌《ふうぼう》は見さだめていなかった。
庄屋の屋敷で、池田家目付四人を斬って、海へ去るべく、浜辺へ出て、舟を物色していると、不意に、声をかけて来たのが、この老爺《ろうや》であった。
「お送り申しましょう」
すでに惨事を知っていて味方しようとする態度であった。
「忝《かたじけ》ない」
それきり、両者の間には、会話は交されなかった。
ひろびろとひらけた外海を彩《いろど》る月光の道を眺《なが》めやり乍《なが》ら、武蔵は、六年前のことを、脳裡に思い泛《うか》べていた。
六年前――。
武蔵は、伊予《いよ》国の沖あいにちらばる島のひとつに、流れついたかたちで、そこの鎮守神の社殿に寐起《ねお》きしているうちに、娘を人身御供《ひとみごくう》として受けとりにやって来た海賊七十余人を、島民の協力で、一挙に海の藻屑《もくず》にしたことであった。
人身御供にされようとした娘は、|さき《ヽヽ》といった。
次の夜、大時化《おおしけ》が襲って来た。島長《しまおさ》はじめ漁夫たちは、海賊を海に沈めた祟《たた》りだ、とおそれて、|さき《ヽヽ》を、竜神《りゆうじん》に捧《ささ》げる生贄《いけにえ》にしようとした。
武蔵は、その時、おのが業力《ごうりき》をためすべく、|さき《ヽヽ》に代って、島の鬼門にあたる小さな岬《みさき》の天狗岩《てんぐいわ》の突端から、荒れ狂う波浪の中へ、落下したものであった。
武蔵は、襤褸《ぼろ》のようになって、生きて還《かえ》って来、十日の静養をとって、その島をはなれた。
島をはなれる前夜、武蔵は、|さき《ヽヽ》を抱いていた。
小舟で去る武蔵を、|さき《ヽヽ》は、岬の天狗岩の上から、見送ったが、互いの姿が、小さな点になった時、|さき《ヽヽ》のからだは、海へ落ちたのであった。
その一瞬裡の光景は、のちのち、いくたびとなく、悔いの想《おも》い出として、武蔵の脳裡に、よみがえっている。
武蔵が、この備前の浜辺へ来て、海に向って突出した山腹の巨岩に、不動明王を彫ったのは、べつに、|さき《ヽヽ》の霊を弔う気持があった次第ではないが、意識の外で、供養心《くようしん》が働いていたのかも知れなかった。
いずれにしても――。
いままた、武蔵は、六年前と同じように、一人の素朴《そぼく》で純粋な心情を持った娘を、犠牲にして、仮の栖《すみか》を去ろうとしていた。
漕ぎ手が、咳《せき》ばらいした。
「不動尊を、未完成のままにしておいて、往《い》かれるのは、さぞ、心のこりでござろうな」
そう云われて、武蔵は、われにかえって、頭《こうべ》をまわした。
その言葉遣いから、ただの漁夫でないことを、知った。
「しかし、ま――、考えてみれば、天寿をまっとうして逝《い》く名僧善智識ならいざ知らず、人そのものが、そのほとんどが、未完成のまま、死んでゆくのでござるからな」
「ご老人――、御辺《ごへん》は、もしかしたら、宇喜多《うきた》家の家人《けにん》ではないのか?」
武蔵は、訊《たず》ねた。
「過ぎたことじゃ。いまは、ただの漁師にすぎ申さぬ」
――この年寄は、ひょっとすると、主君がかくしておいた軍用金の守《もり》をしているのかも知れぬ。
武蔵は、ふと、そんな気がした。
池田家では、宇喜多秀家が莫大《ばくだい》な軍用金を何処かに隠匿《いんとく》した事実を知り、そのため、関ケ原役で敗走した秀家が、故郷へ遁《に》げ帰り、一時身をかくしていた黒井山|裳掛《もかけ》寺とその周辺を、大がかりにさがすことにしたのであろう。
武蔵には、しかし、そんなことに、別に興味はなかった。
ただ、その軍用金の守が、この老爺であれば、おそらく、池田家では、ついに、さがしあてられまい、という気がした。
どこへ送り着けてくれるのか、それは漕ぎ手にまかせて、武蔵は、ひとねむりすることにして、身を横たえた。
二
艪音が、止《や》んだ。
「着き申したぞ」
声をかけられて、武蔵は、目蓋《まぶた》をひらいた。
淡々《あわあわ》とした夜明けの薄雲が、ひろがっていた。
起き上ってみると、浜辺に、かなりの人家がならんで、まだ、ひっそりとねむっていた。
「ここは――?」
「方上《かたがみ》浦と申す。東へ山越えすれば、和気《わけ》へ出て、作州へでも、播磨《はりま》へでも、自由に、道をえらぶことができ申すよ」
武蔵は、老爺の相貌があきらかに武士のものであるのをみとめ乍ら、礼をのべた。
武蔵が、岸へあがると、老爺は、べつになごりを惜しむ態度も示さず、舳先をまわした。
「ご老人――」
武蔵は、呼んだ。
「御辺は、長船《おさふね》の刀匠|祐定《すけさだ》殿を、ご存じではあるまいか?」
「顔見知りでござるよ」
「もし、お会いなさる機会があれば、それがしが、池田家の目付衆を討った模様を、語って下さるまいか」
「………?」
「用いたのは、祐定殿が打ち上げたばかりの新刀だったのです。まことに見事な斬れ味であった、とこの武蔵が申していた、とおつたえ下され」
老爺は、うなずき、
「今年うちにも、長船村へ参って、そう伝え申そう」
と、こたえた。
こたえてから、ちょっと、思案している風であったが、
「ここから西北二里ばかりのところに、備後三郎《びんごさぶろう》(児島高徳《こじまたかのり》)が兵を挙げた熊山《くまやま》が、ござるよ。ちょっと、比叡山《ひえいざん》に似て居《お》り申してな、麓《ふもと》が嶮《けわ》しく、峰が平《たいら》で、往昔は唐招提寺《とうしようだいじ》の別院などが、ござった。……いまは、中腹に、修験道の道場がござる。……お許《こと》の懐中に、赤音《あかね》の遺髪があるのなら、その道場の主に、渡してやりなされ」
と、云《い》いのこした。
「道場の主は、赤音の縁者といわれるのか?」
武蔵は、訊ねた。
老爺は、しかし、なぜか、返辞をせずに、遠ざかって行った。
陽《ひ》が昇った頃合《ころあい》、武蔵は、熊山の麓に立っていた。
ふり仰いで、
――成程、比叡山に似ている。
と、思った。
山勢が数里も横に亘《わた》っている高嶺《たかね》で、人跡未踏の密林に掩《おお》われているために、麓に達してみると、その漆黒の姿は見えず、すでにもう山ふところに入った観があった。
途中で、地下《じげ》の者を呼びとめて、熊山はどれかと訊ねると、
「魔所に入られるのかな」
と、不安な面持《おももち》をかえされたが、たしかに、魔所と称ばれるにふさわしい山岳であった。
『太平記』によれば――。
児島備後三郎高徳が、この熊山に挙兵した際、わずかの兵しか率いていなかった。熊山には、四方に七つの道があり、いずれも、麓が嶮しく、峰に至って平になっていたので、高徳は、その七つの道に兵を分けて、防いだ。
寄手の中に、熊山の案内人|石戸彦三郎《いわとひこさぶろう》という者があり、思いも寄らぬ方角から、抜け入って、頂上にある唐招提寺別院・霊仙寺《れいせんじ》の本堂裏手の峰にのぼり、鬨《とき》をあげた。
深山の木隠れで、闘うため、敵味方の撃ち太刀も分明に見えず、高徳自身も、甲《かぶと》を突かれて、馬から落ちた、という。
いま、武蔵が登ろうとする熊山は、『太平記』以来、人跡を断って、七つの道もふさがれ、|けものみち《ヽヽヽヽヽ》をさがすよりほかにすべはないように思われた。
道を尋ねるには、あたりに人家は見当らなかった。
武蔵が、城下や里の道場育ちの兵法者であったならば、分け入るのをあきらめたかも知れなかった。十歳の時から、武蔵の道場は、山であった。
けものの本能が、山によってきたえられるように、武蔵の六感もまた、そこで、鋭く練磨されていた。
いくばくかの後、武蔵は、|けものみち《ヽヽヽヽヽ》と化している往昔の修行道を、さがしあてていた。
三
嶮難《けんなん》な高峰上に、このようにひろびろとした平坦《へいたん》な台地があるのは、珍しいことであった。
その台地の中央から、さかんに、煙が噴きあがっていた。
地面に炉が掘られ、乱乳木《みだれちぎ》の大きいのを、身丈《みのたけ》以上の高さに積みかさね、柴《しば》で覆《おお》うて、焚《た》いているのであった。
修験道で謂《い》う土壇がこれであり、柴燈護摩《さいとうごま》の修法であった。
行者自身を炉とし、煩悩《ぼんのう》を薪とし、智慧《ちえ》の火を以《もつ》て、煩悩を焼きつくすのを、護摩修法という。
修法を行なっている行者は、ただ一人であった。
六尺ゆたかの巨躯《きよく》の持主で、相貌も魁偉《かいい》といえた。
黒の折頭襟《おりときん》をかぶり、純白の浄衣《じようえ》(鈴掛)をまとい、百八玉の念珠を頸《くび》にかけ、ひしと目蓋を閉じて、錫杖《しやくじよう》をうち振りつつ、なにやら呪咀《じゆそ》めいた文句を、となえている。
声音は、高くなり低くなり、語調は、あるいはせわしく、またゆるやかに変化し、錫杖の振りかたが、それにつれて激しくなったり、優しくなったりしていた。
山伏の錫杖は、法界の総体、衆生覚道の智杖である、という。したがって、その振りかたに、意味があった。
一度に三振すれば、三界群類の長眠をおどろかし、二度に六振すれば、六道衆生の長眠をおどろかし、三度に九振すれば、九界の迷情の長眠をおどろかす。
修験道の修法とは、こうして、邪魔|外道《げどう》から魍魎《もうりよう》鬼神やら毒獣毒虫のたぐいを、追いはらうのであるから、声音も身振りも、狂気じみて凄《すさま》じい。
その凄じさが、最高潮に達した――次の瞬間。
行者は、錫杖を天へ抛《なげう》ちざま、足許《あしもと》に置いた金剛杖をつかみ取るや、ぱっと、向きかえった。
くわっと双眸《そうぼう》をひん剥《む》いた行者の眼光を、十歩あまりへだてて、あびたのは、武蔵であった。
「うぬは、何者ぞ! 妄執《もうしゆう》の地獄よりはい上って来た外道か! 修羅瞋恚《しゆらしんい》の炎に焼かれた畜生か! 飢念に血迷うた餓鬼か!」
そう喚《わめ》きつつ、じりじりと、迫り寄った。
自らを、業悩|熾烈《しれつ》の火焔《かえん》を背負うて、人間一切の悩みと迷いを摧破《さいは》し、すべての艱難《かんなん》を克服せずんば止まぬ不動明王の化身となったと、思い込んでいるような身構えであった。
形相も、悪魔|降伏《ごうぶく》の大忿怒《だいふんぬ》の相をつくって、眉《まゆ》をひきつらせ、皓《しろ》い歯をひき剥いている。
武蔵は、いささか当惑をおぼえ乍ら、
「それがしは、流浪《るろう》の兵法者にすぎ申さぬ」
と、告げた。
「黙れっ! それ、当峯は、釈尊常在説法の霊地、大日覚王三世常住の勝地なるぞ。おのれごとき、不浄の外道が、踏み込むところにあらず。……法罰のおそろしさを、思い知れっ!」
行者は、地を蹴《け》るや、猛然と、襲いかかった。
金剛杖は、仏法を護《まも》る法具であり、魔軍を破る目的を持っている。
したがって、金剛杖をうち振るのも、修験道の修行のひとつであった。
悪魔を敵として闘うために、きたえあげた業前《わざまえ》は、狂気が加わっているために、文字通り人間ばなれがしていた。
武蔵は、とびかわし、駆け抜け、身を沈め、はね躍って、唸《うな》って来る金剛杖を、にげつづけていたが、そのうちに、闘志がわいて来た。
「参る!」
一間余を、跳び退った時、武蔵の手には、祐定刀があった。
「悪魔め! 正体を現し居ったな!」
行者は、さらにものすごい形相をつくった。
武蔵は、行者が正常の神経をうしなっている、とみとめつつも、この勝負を、おのれの生涯《しようがい》の試合のひとつにかぞえることにした。
「や、や、や、やあっ!」
行者は、金剛杖を振りかぶるや、とうてい人間の咽喉《のど》から発する叫びとは思われぬ、奇怪なひびきを山頂にまいて、突進して来た。
青眼《せいがん》につけた武蔵は、頭上に来た唸りに合せて、腰を落しざま、白刃を、びゅんとはねあげた。
金剛杖は、その半ばを両断されて、剣形をした上端の方は、空高く飛んだ。
行者は、あり得ぬことが起ったように、茫然《ぼうぜん》と、棒立ちになった。
発心《ほつしん》、修行、菩提《ぼだい》、涅槃《ねはん》の四転を、その四角の各面に表した金剛杖が、両断されるなど、夢にだに予想していなかったのである。
「……う、う、うっ!」
行者は、呻《うめ》きをもらすと、その場へ、土下座した。
その双眸から、泪《なみだ》がわきあがった。
呻きは、慟哭《どうこく》にかわった。
しかし、行者は、顔を両手で掩うたりなどしなかった。
武蔵を見上げたままで、哭《な》き叫んだ。
武蔵は、うそ寒いものを、背すじにおぼえつつ、懐中から、赤音の遺髪をとり出すと、
「お主が、虫明村にのこした娘御は、亡《な》くなり申した」
と云って、行者の前に置いた。
この行者がはたして赤音の実父かどうか、たしかめるのは、むだなように思われて、こちらで、勝手に判断したのである。
行者にとって、そんなことは、どうでもよかった。金剛杖が両断されたことの方が、恐怖であり、悲嘆であった。
武蔵は、台地をすてて、下山して行き乍《なが》ら、
――あの老爺《ろうや》は、おれを、狂った山伏の金剛杖と立ち合わせようと思いついて、登らせたのだ。
と、合点していた。
南蛮武士
一
「これは、まるで、趣きを異にした町だな」
四尺の長剣を背負うて、根来塗《ねごろぬり》の朱漆《しゆうるし》のような頭髪を、晩秋の風に吹き流し乍ら、人の往来のせわしい堀川《ほりかわ》沿いを、歩いて来た若い兵法者は、いましも、着いたばかりの南蛮|戎克《ジヤンク》から、数人の耶蘇教師《バテレン》が、岸へ上って来るのを眺《なが》めて、呟《つぶや》いた。
ここは、大坂でも、最も殷賑《いんしん》をきわめる天満《てんま》堀川であった。
佐々木小次郎は、浪華《なにわ》の町へ、はじめて、足を踏み入れたのである。
歩いているうちに、その活気のあふれた様子が、他の城下町とは、全くちがっている印象を、しだいにつよくしていた。
大坂は、まぎれもなく、豊臣秀吉《とよとみひでよし》が築いた日本一の城郭の城下町であった。
今日も、八層の天守閣は、澄んだ碧空《あおぞら》を截《き》りぬいて、そびえている。
しかし――。
往還や川筋の盛況は、まさしく、町人の商いによってつくり出されていた。
京の都は別としても、これまで、小次郎が通って来た城下は、城を中心として、武家屋敷がならび、それに付属して、町家がひっそりとかたまり、人影はすくなかった。
この大坂の町だけは、ちがっていた。
往還に、武士の姿は、まれであった。武家屋敷も、すくなかった。
この天満堀川に沿うて、大名屋敷が構えられているのを見かけたのは、わずか二家だけであった。一家は、黒田家であるのを、小次郎は、みとめた。
そのかわり、蔵物《くらもの》や納屋物《なやもの》を納《い》れる土蔵が、いたるところに棟をならべていた。
武家屋敷の代りに、青物問屋や魚市場が、橋詰に軒をつらねて、売り声が、かまびすしかった。
魚市場があるのを、靭《やす》町という。
秀吉が、市中を巡行した際、魚市場の商人たちが、声をはりあげて、
「やす! やす!」
と、呼び込んでいるのをきき、
「矢栖《やす》とは、太平の称じゃ。向後、このあたりの町名を、靭というがよかろう」
と、命じたからである。
天正《てんしよう》十一年五月より、昼夜三万の人夫を使役して、三年がかりで大坂城を築きあげた秀吉は、この城が、誰人かによって攻撃されることなど、夢想だにしてはいなかった。
内郭外郭の規模の大きさは、難攻不落の構えに留意するよりも、天下人にふさわしい住居としての示威であった。
したがって、外郭の四方に、警衛の目的で大名連に築地《ついじ》を構えさせたりはせず、天満、船場、天王寺、住吉、堺《さかい》の津など三里四方の間に、町家、店舗を、勝手に建てさせ、辻小路《つじこうじ》づくりも、町人たちの手にまかせた。
大坂城の城下が、他の城下と、趣きを異にした所以《ゆえん》である。
近畿《きんき》、中国、四国、九州の大名たちが、大坂に倉廩《くら》を設けて、領地の米穀を輸送して来て、ここで、売るしくみは、すでに、秀吉在世の頃《ころ》から、できていた。また、堺の湊《みなと》を、海外交易の場として、末吉船《すえよしぶね》、角倉船《すみのくらせん》が、遠く南方におもむいて、東京《トンキン》、安南《アンナン》、交趾《コーチ》、呂宋《ルソン》、柬埔寨《カンボジヤ》、暹羅《シヤム》などから、珍しい品を持ち帰って来ていた。
さらに――。
大坂城に在る秀頼《ひでより》の母|淀君《よどぎみ》は、神仏の加護|冥助《みようじよ》をたのんで、畿内附近のあらゆる神社仏閣、または|橋 《きよう》|梁 《りよう》の建立《こんりゆう》、再建、修理、築営をつづけていた。
秀吉が遺《のこ》した千枚法馬(黄金千枚を融《と》いた分銅)は、文字通り、大坂城内に山と積んであったのである。
大坂の町が、活況を呈さぬ道理がなかった。
海外交易も自由、耶蘇《ヤソ》教の布教も自由、という町であってみれば、紅毛|碧眼《へきがん》の異邦人の姿も、珍しくはなかった。
いま、南蛮戎克から上って来た耶蘇教師たちも、この町を歩き馴《な》れた足どりであった。
小次郎は、かれらのうしろを、護衛役らしい剣を腰に吊《つる》した南蛮武士が、通辞と肩をならべて行くのへ、鋭い視線をあてていたが、
「待たれい!」
と、呼びかけた。
振りかえった通辞に、小次郎は、
「その御仁《おひと》、南蛮の兵法者と、見かけ申した」
と、云《い》った。
「…………」
通辞は、眉宇《びう》をひそめたが、返辞をしなかった。
「ごらんの通り、身共も、兵法者。……是非とも南蛮剣と立ち合いたく、申し入れる」
小次郎の眼光の鋭さに、通辞は、怯《お》じ気を示した。
南蛮武士が、ただならぬ小次郎の態度を視《み》て、通辞に、なにか訊《たず》ねた。
通辞が、こたえると、南蛮武士は、微笑して、なにやらつたえた。
通辞は、ちょっとためらっていたが、小次郎に、
「|ようろっぱ《ヽヽヽヽヽ》のさむらいは、対手《あいて》から侮辱を蒙《こうむ》らぬ限り、試合は、いたさぬ、と申して居《お》られるが……」
と、云った。
二
その言葉をきくと、小次郎は、にやりとした。
「侮辱を与えれば、挑戦《ちようせん》に応ずる、といわれるのだな?」
「い、いや、別に、左様な意味ではござらぬ。……教師父《ぱあどれ》殿の護衛の役に任ずる御仁でござれば、試合など……」
小次郎は、通辞の言葉を、ききおわらぬうちに、すっと、二歩進み寄ると、いきなり、南蛮武士の面ていめがけて、べっと生唾《なまつば》を吐きかけた。
南蛮武士は、しかし、別に表情も変えず、手巾をとり出して、しずかに、顔を拭《ふ》くと、通辞に、なにか云った。
通辞は、当惑の面持《おももち》で、うなずき、小次郎に向って、
「明日、辰《たつ》の上刻《じようこく》(午前八時)、大坂城三の丸の玉造口に参られたい。手前が、試合場まで、案内いたす」
と、告げた。
「しかとだな?」
小次郎は、念を押した。
「南蛮のさむらいは、本邦の武士同様、面目を重んじ申すものでござれば、約束をやぶるようなことは決していたさぬ」
「よし。……身共は、巌流《がんりゆう》佐々木小次郎。そっちの名を、きこう」
「|ぐすたふ《ヽヽヽヽ》・|ばりにやに《ヽヽヽヽヽ》、と申される」
南蛮武士と通辞は、耶蘇教師たちのあとを追って、遠ざかっていった。
小次郎は、その後姿を見送って、
「ふん。面白いことになって来たぞ」
と、肩をひとゆすりした。
おのが剣名を天下にひろく售《う》ることを、生甲斐《いきがい》としているこの兵法者は、豊臣家が、名だたる牢人者《ろうにんもの》をつぎつぎと召抱えている、という噂《うわさ》をきいて、大坂へやって来たのである。
耶蘇教師を護衛して、船から上って来た南蛮武士を一瞥《いちべつ》して、その物腰の隙《すき》のなさに、ふっと闘志をそそられた小次郎は、おのが挑戦が時機を得たものであった、とさとった。
耶蘇教師たちは、大坂城へ招かれた者たちに相違なかった。
――城内で試合がやれるとは、この上の好機はないぞ。もしかすれば、右大臣(秀頼)の御前で試合することにもなるかも知れぬ。
小次郎は、高い声をたてて笑いたい衝動を抑えかねた。
「佐々木小次郎氏――」
その笑い声を抑えるように、横あいから、声をかけた者があった。
十歩あまりへだてて、筒袖《つつそで》に葛袴《くずばかま》をはいた、猿猴《えんこう》そっくりの面相をした小柄《こがら》な男が、立っていた。
「猿面《さるめん》忍者か。おのれは、まだ、おれを討とうと、尾《つ》け狙《ねら》って居るのか?」
「復讐《ふくしゆう》の念は、すてて居らぬ。しかし、いまは、私怨《しえん》のために一命をなげ出すことは、主《あるじ》より禁じられて居る。……お主は、あの南蛮ざむらいに、試合を挑《いど》んだが、あれが、何者か、存じては居るまい」
「強い、というのか?」
「去年、わしは、あの男が、堺の浜辺で、根来《ねごろ》| 行人衆《ぎようにんしゆう》の槍《やり》ぶすまに包囲されるのを、目撃したが、まさに、鬼神であった。十とかぞえぬうちに、八人の行人を、いずれも、ただのひと突きで、仆《たお》した。わしの手裏剣《しゆりけん》よりも、速かった、とみた。……お主は、途方もない強敵に挑戦したのだ」
根来行人衆、というのは、紀州|那賀《なが》郡|葛城《かつらぎ》山中にある根来寺に拠《よ》る戦闘僧を指している。
根来寺は、平安朝の末に、高野山の覚鑁上人《かくばんしようにん》によって創立され、天正年間には、諸国に数十万石の領地を所有していた、といわれ、一大勢力を誇っていた。
山中に二百余の僧院があり、それらの僧院に住む行人は、二万を越えていた。かれらは、僧侶《そうりよ》であり乍ら、長髪をたくわえ、刀槍《とうそう》弓矢及び火縄銃《ひなわじゆう》の術に長《た》けていた。
鉄砲が、はじめて日本に――種子島《たねがしま》に輸入されたのは、天文十二年であったが、その年すでに、根来寺から、種子島に鉄砲を求めに行っている。
根来行人衆は、それほど、激しい戦闘僧であった。
秀吉が、根来征伐をしたのは、天正十三年であったが、小当りに当ってみて、その抵抗力の強さを知って、戦わずして降伏せしめるべく、次の条件を出した。
根来寺の旧領地と、その後、行人衆が侵略して得た土地を合せた七十万石を、還納させて、新しく二万石の領地を与える、という条件であった。
行人衆は、この条件を蹴《け》った。
そこで、秀吉は、十万の大軍を率いて、根来征伐を敢行した。
根来行人衆は、雑賀《さいが》荘の一向宗門徒と盟をむすび、二万の防禦《ぼうぎよ》軍を編んで、豊臣勢を迎撃した。
秀吉の生涯《しようがい》に於《お》いても、最も凄《すさま》じい攻防戦であった。
先手の大将|大和中納言秀長《やまとちゆうなごんひでなが》の軍が、雨と降らせた火箭《ひや》が、幸運にも、千国城の火薬蔵に命中し、大爆発を起さしめ、城内にたて籠《こも》る兵千六百余名を四散させたおかげで、旗色は明らかになった。
しかもなお、根来寺が陥落するまでには、豊臣勢は、八千余の犠牲者を出さなければならなかった。根来寺にたて籠ったのは、千五百の精鋭と四千余の老人、女子、小児であったが、その殆《ほとん》どが、討死して果てた。
その後――。
生き残って、高野山や雑賀に遁《のが》れた行人衆は、ひそかに、諸方へ散って、あるいは合戦買いの牢人となり、あるいは野伏《のぶせり》夜盗の群に投じ、あるいは雲水となって流浪《るろう》した。
南蛮武士と闘ったのは、堺の大商人七人衆にやとわれた行人衆であったろう。堺の町は、いずれの大名にも属せぬ自治制をとっていたので、防衛のために、常時千人以上の牢人や悪僧兵をやしなっていたのである。
三
「はっはっはっ……」
小次郎は、対手の言葉をきくと哄笑《こうしよう》した。
「この佐々木小次郎が、天下無敵の兵法者であることは、猿飛佐助、おのれこそ、一番よく知って居ろうが――。あの南蛮の兵法者が、途方もなく強い、とみたならば、それこそ、おれの物干竿《ものほしざお》に立ち向って来るにふさわしい敵と思え」
「わしは、お主を、南蛮剣の贄《にえ》にはしとうないのだ。お主の生命《いのち》は、わしの手で奪ってやりたいのだ」
「案ずるな、猿面忍者。おれは、百|度《たび》闘って百度勝つ兵法者ぞ。……ものはついでだ。いま、ここに立ち合って、おれの強さを見とどけて、それを土産にあの世へ行くか、おい!」
小次郎は、佐助を、睨《にら》み据《す》えた。
佐助は、すうっと、退《さが》った。
「なかなか……。わしの手で討てぬのは、口惜しいが、やむを得ぬ。明朝、お主が南蛮剣で仆れるのを、しかと、見分してくれる」
云いのこして、すばやく、人ごみの中に、姿を消した。
「莫迦《ばか》めっ!」
小次郎は、遠くの通行人までが、びくっとなるほどの大声を発した。
「おれを、誰だと思う! 巌流佐々木小次郎! 天下無敵の兵法者だぞっ!」
その叫びを、ちょうどいま、船着場に着いたばかりの乗合船の中で、きいて、
「ちぇっ!」
と、舌打ちした者があった。
「なにが、天下無敵だい! 天下無敵の兵法者は、わが師匠の宮本武蔵だけじゃ」
いまいましげに吐き出したのは、まだ十二、三歳の少年であった。
武蔵から唯一《ゆいいつ》の弟子にしてもらった山野辺|伊織《いおり》は、三年前、武蔵の故郷宮本村から供をして、旅に出たが、備前岡山の城下の旅籠《はたご》で、武蔵に置き去りにされて、また、あてどない流浪ぐらしをしているのであった。
「……あいつ、どこかで、会ったことがあるぞ」
伊織は、思い出そうと、しきりに首をひねったが、すぐに、記憶の中によみがえって来そうもなかった。
「そなた」
岸へ上ろうとする伊織の肩に手をかけたのは、乗合客の一人――中年の武家女房であった。
「なんだえ?」
伊織は、けげんの眸子《ひとみ》をかえした。
「そなたは、いま、わが師匠の宮本武蔵、と云いましたね?」
「ああ、云うた。それが、どうしたのじゃ?」
「では、そなたは、武蔵殿の行方を存じて居ろう。教えてたもれ」
「誰じゃ、あんたは?」
「武蔵殿に、是非とも会わねばならぬ用事を持った者なのです。……どうぞ、教えてたもれ」
「じゃから、あんたは誰じゃ、ときいて居るんじゃがな」
伊織は、河岸《かし》道を歩き出し乍《なが》ら、
――怪しいぞ、この女子《おなご》?
と、警戒した。
「わたくしの素性を打明ければ、行方を教えてくれますか?」
「…………」
「わたくしは、一乗寺村|下《さが》り松に於いて、武蔵殿に討たれた吉岡《よしおか》道場の名目人佐野又一郎の母です」
「ふん?!」
伊織は、ちらと、ふり仰いだ。
吉岡道場の名目人佐野又一郎が、わずか十一歳の少年であったことは、伊織も、きき知っていた。
「素性は打明けましたぞ。さ――教えてたもれ」
又一郎の母静重は、もとめた。
とたんに、伊織は、脱兎《だつと》のごとく奔《はし》って、二十歩もひきはなすと、くるっと向きなおった。
「小母《おば》さん、実はな、おいらも、お師匠様の行方をさがして居るのじゃ。本当じゃ。わるう思わんで下され」
犯す
一
その夜、佐々木小次郎が、一夜の宿をかりたのは、天王寺のとある小路《こうじ》にある、つつましい武家の住居《すまい》であった。
「ここか」
さがしあてるのに、かなりの時間を費した小次郎は、想像していた家よりも、ずっと小さな構えに、「ふん――」と冷たく、鼻を鳴らした。
木村藤太夫。
この家のあるじは、越前《えちぜん》国宇坂荘一乗谷浄教寺村・巌流館《がんりゆうやかた》の佐々木巌流の実弟であった。
巌流・藤太夫兄弟は、近江《おうみ》蒲生《がもう》郡の佐々木源氏の流れを酌《く》む豪族の末裔《まつえい》であった。
蒲生郡の木村家といえば、四方にきこえた名門であった。佐々木源氏の一党木村|左衛門尉《さえもんのじよう》行定が、はじめて、この地に住んでから、称《とな》え出したのである。寿永のむかし、|源 《みなもとの》頼朝《よりとも》に属し、平通盛《たいらのみちもり》を討取った木村源五重章、同源三成綱、同三郎俊綱など、みなこの一族である。
巌流・藤太夫兄弟の父は、木村弥一右衛門といった。
ちなみに、いま、大坂城内で随一の美少年と評判をとっている秀頼《ひでより》の小姓木村|重成《しげなり》は、木村弥一右衛門の妹の子であった。
木村家では、嫡男《ちやくなん》巌流が、狂的なまでに奔放な性情の持主で、実父弥一右衛門も、もてあまして、十五歳の正月に、出奔したのを、さいわいとしたくらいであった。
巌流は、修験道の群に投じ、やがて、越前に入って、修験道の修行場を、乗っ取り、おのが屋敷に建てかえてしまい、兵法道場にした。
小次郎は、その巌流にひろわれた捨児であった。その面貌《めんぼう》が示す通り、漂流難破した南蛮船から、船頭に救い出された、異邦の血を享《う》けた嬰児《えいじ》であり、巌流が、その船頭からもらい受けたのである。
巌流の弟藤太夫は、木村家を継ぎ、いまは、大坂城に随身出仕している、と風の便りに、小次郎は、きいて、その家を、さがしあてたのであった。
血はつながらぬが、小次郎にとって、木村藤太夫は、叔父にあたっていた。
案内を乞《こ》うと、出て来たのは、四十あまりの、細面《ほそおもて》の、かなり美しい女人であった。
「越前一乗谷・巌流館の小次郎と申す。叔父上に、お目にかかりたく存ずる」
「はあ――?」
藤太夫の妻女|つま《ヽヽ》は、小次郎の異相を仰いで、ちょっと当惑の面持《おももち》になった。
「あるじは、あいにく、当月は、お城で宿直《とのい》をいたして居りまするが……」
「逗留《とうりゆう》の儀をお願いはいたさぬ。一夜の宿をおかりいたしたい」
「はあ……、でも、なにぶん、あるじの留守でありますれば」
「藤太夫殿にとって、この佐々木小次郎は、甥《おい》にあたり申す。泊めても、べつだん、さしつかえはないはず。ごめん――」
小次郎は、さっさと、草履をぬいだ。
せいぜい二、三百石取りであろう。質素の二字につきるたたずまいであった。
|つま《ヽヽ》は、不意の来訪者に強引に上り込まれて、恰度夕餉《ちようどゆうげ》どきではあるし、当惑しきった。しかし、眼光、体躯《たいく》、態度――すべてが、こちらを慴怖《しようふ》させるものがあった。
――一夜だけ宿をすれば……。
|つま《ヽヽ》は、自分に云《い》いきかせて、小者に命じて、城内に在る良夫《おつと》に、報《しら》せに趨《はし》らせておいて、夕餉のしたくをした。
小次郎は、膳《ぜん》をはこんで来て、給仕の座に就いた|つま《ヽヽ》に、
「叔父上の知行は――?」
と、訊《たず》ねた。
二百五十石、ときくと、小次郎は、
「佐々木源氏の嫡流が、たったそれだけの知行にあまんじるとは……」
と、語気に侮蔑《ぶべつ》のひびきをこめた。
|つま《ヽヽ》は、俯《うつむ》いて、言葉をかえさなかった。
「叔父上は、よほど、覇気《はき》の乏しい御仁とみえる」
|つま《ヽヽ》も、その言葉をみとめざるを得なかった。
木村藤太夫は、出世欲などみじんもない男であった。膂力《りよりよく》もなく、軍略兵法の道にくらく、取柄《とりえ》といえば、人の悪口を決して云わぬくらいのもので、凡夫の典型といえた。
豊臣《とよとみ》家に随身したのも、木村重成の母――豊臣秀頼のご乳母|宮内卿《くないきよう》の推挙によるものであったが、その召出しにさえ、藤太夫は、しぶったくらいであった。
ただ、|つま《ヽヽ》にとっては、優しい良人であり、|つま《ヽヽ》はそれで満足していた。似合いの夫婦で、|つま《ヽヽ》も、内気で、飼い猫《ねこ》が死ぬと三日も泣いているような女であった。
二
亥刻《いのこく》(午後十時)――。
小次郎は、闇《やみ》にまなこをひらいて、牀《とこ》の中に在った。
「南蛮剣か」
小次郎は、耶蘇教師《バテレン》たちに従っていた南蛮武士の腰に携《さ》げられていた真剣を、思い泛《うか》べ乍ら、呟《つぶや》いた。
「おれが乗せられていたおらんだ船が、難破しなければ、いま頃《ごろ》は、おのれの母国で、あの南蛮剣の使い手になっていたはずだ」
南蛮剣に対する小次郎の知識は、突きの一手らしい、という程度でしかなかった。
本邦に於《お》いては、織田《おだ》信長の所望によって、ポルトガルの船長《カピタン》が、五人の水夫|対手《あいて》に、その剣さばきを披露《ひろう》したことがある、とつたえられているだけであった。おそらく、兵法者で、まともに、南蛮剣と、白刃を交えた者は、一人もいないに相違なかった。
――おれが、はじめて、試合をするのだ!
おのれに云ったとたん、小次郎は、五体が燠火《おきび》に油がそそがれたように、燃えるのをおぼえた。
試合は、明朝|辰《たつ》の刻《こく》である。
それまでの長い時間を、無為にすごすのは、この男としては、堪えられなかった。
燃えあがった五体を、牀に仰臥《ぎようが》させて、闇を睨《にら》んでいるかぎり、ついに、睡魔もおそれて近づかぬ。
小次郎は、我破《がば》とはね起きた。
この場合、小次郎が、猛気をしずめるのは、ただひとつの方法しかなかった。
白刃を素振りしたり、水垢離《みずごり》をとったりするような尋常の手段では、とうてい、巨躯を無想|裡《り》にかえすことは不可能であった。
小次郎は、燭台《しよくだい》を把《と》って、廊下へ出た。
べつに、跫音《あしおと》を消さなかった。
その部屋の前に来たとたん、それまで、障子に映っていたあかりが、ふっと消された。
小次郎は、しかし、なんの逡巡《ためらい》もみせず、すっと、障子戸を開けた。
燭台の仄《ほの》かな灯《ひ》が、ふたたび、暗黒になっていた室内の文目《あやめ》を分けた。
|つま《ヽヽ》は、恐怖の目をみはって、侵入者を仰ぐと、息がつまって、咎《とが》める言葉さえ出せなかった。
小次郎は、枕《まくら》もとへ進んで、坐《すわ》ると、まず、
「身共は、明朝、伴天連《バテレン》の護衛をつとめる南蛮武士と、試合をいたす」
と、云った。
「…………」
|つま《ヽヽ》は、石になったように身じろぎもせず、ただ眦《まなじり》が裂けるばかりに、恐怖の眼眸《まなざし》を、小次郎に送っているばかりである。
「身共が看《み》たところ、その南蛮武士は、相当な手練者《てだれ》であれば、当方もまた完備の体調を以《もつ》て、試合に臨まねば相成らぬ。……つまり、充分の睡眠をとらねば相成らぬ。そのためには、五体に躍る生気をしずめたく存ずる。……おん身の肌《はだ》をかりて、しずめたく存ずれば、許されい」
小次郎は、鋭い眼光をあびせ乍ら、もとめた。
「……そ、そのような、むたいな……」
|つま《ヽヽ》は、辛うじて、それだけ云うと、神助でも乞うように、|ひし《ヽヽ》と目蓋《まぶた》を閉じた。
「ごめん!」
小次郎は、容赦なく、掛具を、はねた。
瞬間、|つま《ヽヽ》は悲鳴をあげようとしたが、小次郎の大きな掌《て》で口をふさがれた。
口をふさぎつつ、小次郎は、|つま《ヽヽ》の上にのしかかった。
|つま《ヽヽ》は、ようやく、死にもの狂いに、もがこうとしたが、女を犯すことに馴《な》れた小次郎にかかっては、いたずらに、双の手をばたつかせるだけであった。
小次郎の膝《ひざ》は、苦もなく、|つま《ヽヽ》の下肢《かし》を大きく拡《ひろ》げさせた。
小次郎は、下腹部と下腹部が、密着すると、|つま《ヽヽ》の口から、手をはなした。
もはや、|つま《ヽヽ》には、叫ぶ気力が、尽きていた。
ただ、喘《あえ》ぎ乍ら、かすれ声で、
「……ゆ、ゆるして――」
と、乞うばかりであった。
「女子《おなご》は、秘密を守る|ほぞ《ヽヽ》をきめたならば、墓穴まで、その秘密を持って行くことができる」
小次郎は、にやりとした。
平凡な郷士の家に生まれ、平凡に育ち、平凡な良人に嫁いで、その平凡なくらしに満足して来た|つま《ヽヽ》にとって、この兇悪《きようあく》な暴力に遭ったことは、この瞬間に及んでも、まだ、現実とは受けとれなかった。
男の強い力が、体内に押し入って来た刹那《せつな》、|つま《ヽヽ》の脳裡をかすめたのは、亡母の祥月命日が今日であったことだけであった。
|つま《ヽヽ》は、具足の虫喰《むしく》った箇処をつくろうのが忙しく、百万遍の回数を、明日まわしにしたのであった。
このような災禍に襲われる罪があるとすれば、思いあたるのは、それだけであった。
|つま《ヽヽ》の双眸《そうぼう》から、どっと泪《なみだ》があふれた。
小次郎は、その泪を見下し乍ら、したたかに、精気をほとばしらせた。
三
その時――。
廊下の闇の中には、人間が一人、佇立《ちよりつ》していた。
この家の主人木村藤太夫であった。
藤太夫は、今日、大坂城へやって来た耶蘇教師たちの護衛役グスタフ・バリニヤニという阿蘭陀《オランダ》剣士に、市中で、試合を挑《いど》んだ者がある、と通辞が話しているのを、何気なくきき、その兵法者が、
「巌流佐々木小次郎」
と名のったと知って、愕然《がくぜん》となったのである。
藤太夫は、その時は、兵法者は兄だ、と思った。
ところが、それから一刻《いつとき》ばかり過ぎて、家から、小者が使いに来て、
「佐々木小次郎と申される甥御殿が、お泊りでございます」
と、報せたのである。
藤太夫としては、会ったこともない甥であったが、主君秀頼が招いた耶蘇教師の随行人である阿蘭陀剣士に試合を挑む、などという無謀な振舞いは、中止させねばならぬ、と思いきめて、わが家へ戻って来たのであった。
使傭人《しようにん》たちは、すでにねむっていたし、もともと、物静かな立居挙措の藤太夫は、庭から、そっと、居間に入ったのであった。
一人で着換えをしていると、一間をへだてた妻の部屋から、異様な喘ぎが、つたわって来たので、藤太夫は、
――風邪でもひいて、臥《ふ》せているのか?
と、思い乍《なが》ら、廊下へ出たのであった。
障子戸の隙間《すきま》から目撃した光景は、藤太夫を、動顛《どうてん》させるに足りた。
掛具がはねのけられた牀の上で、妻は下肢を大きく押し拡げさせられ、その足くびを、若い巨漢につかまれていた。
藤太夫にとって、わずかな救いは、燭台のまたたく灯の中で、妻の頬《ほお》が、泪で濡《ぬ》れていたことであった。
甥と名乗るこの若い巨漢が、妻を襲って、犯している。この事実に、藤太夫は、憤怒するよりも、ただ困惑するばかりであった。
兄巌流が、狂暴きわまる性情の持主であったことは、骨身にしみて知っている藤太夫であった。
その伜《せがれ》が、突如として出現して、兄巌流以上の兇悪な行状に及んでいるのであった。
藤太夫は、わななく足どりで、居間へとってかえすと、長押《なげし》の槍《やり》を、把った。
しかし、藤太夫は、まだ戦場へ出たことのない男であった。槍の稽古《けいこ》も、十代に、すこしやっただけである。
わが家に押し入って来て、妻を犯している者を、許すわけにはいかぬ、と槍をつかんだものの、いたずらに胸の動悸《どうき》がせわしいばかりで、憤怒も闘志もわきたたなかった。
――あり得たことか?
悪夢であって欲しいとねがう困惑が、躯内を駆けめぐっているばかりである。
ようやく、気持をとりなおして、廊下へ出た藤太夫は、妻の部屋の前に立つと、肩でひと呼吸してから、
「不埒《ふらち》の狼藉《ろうぜき》、ゆ、ゆるせぬぞ!」
と、云った。
その折、小次郎は、二回目の精気を、したたかに、|つま《ヽヽ》の体内へ放射していた。
藤太夫の声をきいても、べつにあわてもせず、小次郎は、やおら、|つま《ヽヽ》の上から身を起した。
平然として、障子戸を開けた小次郎は、槍を構えた藤太夫へ、燭台をさしのべた。
「叔父上か。小次郎でござる」
何事もなかったかのような態度で、挨拶《あいさつ》する小次郎に対して、藤太夫は、なにか叫ぼうとしたが、咽喉《のど》がひきつれて、声が出なかった。
言葉も見つからなかった。
小次郎は、薄ら笑い乍ら、
「身共は、明朝、南蛮武士と試合をいたす。ついては、心気を整えて、試合に臨むべく、叔母御の肌を借り申した」
ぬけぬけと、云った。
「…………」
藤太夫は、口をひらいた。しかし、出たのは、悲鳴にも似た奇妙な叫びであった。
「叔母御を抱いて、なぐさめられるがよろしかろう」
小次郎は、そう云いのこして、藤太夫のわきを通り抜けて行った。
その後姿を見て、はじめて、藤太夫は、猛然たる憤怒にかられた。
「小、小次郎っ!」
呼びたてて、穂先を狙《ねら》いつけた。
小次郎は、頭だけまわして、じろっと、見かえったが、藤太夫に突きかかる勇気も業《わざ》もない、と看て取っている横柄《おうへい》な様子であった。
藤太夫は、
――おのれっ!
血汐《ちしお》一滴までも、憤怒でわきたて乍ら、ついに、突きかかることは、叶《かな》わなかった。
小次郎の姿が、闇に消えると、藤太夫は、おのれの意気地なさに、死にたくなるほどの絶望感に陥《お》ちた。
|つま《ヽヽ》は、部屋の壁ぎわに坐って、消え入りたげに、うなだれていた。
夫婦の悲惨をあざけるかのごとく、むこうの部屋から、小次郎の謡《うた》う声が、朗々とひびいて来た。
[#1字下げ]実《げ》にや死出の山、浮世の旅に来る人は、越えでかなわぬ道とかや……
巨城出頭人
一
大坂城の出頭人|片桐市正且元《かたぎりいちのかみかつもと》が、淀君《よどぎみ》の招聘《しようへい》した耶蘇会《ゼスイツト》の宣教師の護衛剣士と佐々木小次郎という兵法者との試合が行なわれる旨《むね》を、耳にしたのは、その日の朝、登城してからであった。
且元は、すぐに、三の丸守備の責任者である大野主馬頭治房《おおのしゆめのかみはるふさ》を、呼んだ。
大野治房は、大坂城随一の権勢者大野|修理大夫治長《しゆりのだいぶはるなが》の弟であった。
後世、大坂城の純忠の臣は片桐且元、それに比べて、大野治長は佞人《ねいじん》の標本と、批判され、また、治長が淀君の情夫であったのは、公然の秘密であった、と伝えられたが、事実ではなかった。
片桐且元は、保身を考えた小心な人物であり、大野治長は、徳川家康《とくがわいえやす》をすこしもおそれぬ勇気の持主であった。
したがって、且元と治長は、氷炭|相容《あいい》れぬ間柄《あいだがら》であった。
且元が、豊家の社稷《しやしよく》を保つのに心をくだき、ついに、それがために、治長一派に追われた、という説はあやまりである。且元は、ひたすら、一身を保持しようとして、治長に、軽侮されたのである。
尤《もつと》も――。
且元が、豊臣秀頼《とよとみひでより》の安泰をいかに巧みに計り、また、治長がそれに協力して、家康をおそれたとしても、結果は同じであったろう。
家康が、豊臣家を滅亡せしめる肚《はら》は、きまっていたのである。
その決意の前には、大坂城の首班者のいかなる努力も、無駄《むだ》であった。
しかし――。
慶長十一年秋の、この頃《ころ》はまだ、大坂城内には、家康の肚の裡《うち》を看破した者は、一人もいなかった。
この年、家康は六十五歳、将軍職を秀忠《ひでただ》(二十九歳)にゆずっていた。大坂城の秀頼は、まだ十四歳であったが、右大臣に陞《のぼ》っていた。
秀頼は、千姫《せんひめ》を妻として、家康の孫聟《まごむこ》となっている。
いずれ、秀頼が、二十歳にもなれば、将軍職は、徳川家から、渡されるであろう、というのんきな考えかたをしている者が、大坂城内では、大半であった。
ただ、徳川秀忠が、将軍職を襲うために、江戸から京都へ上って来た今夏、それを機会に、秀頼も上洛《じようらく》するように、と家康がすすめて来るや、淀君は、柳眉《りゆうび》をつりあげて、
「無礼な!」
と、怒って、拒絶したものであった。
秀頼に代って、徳川家の使者に、
「秀忠殿が、上洛されるのであれば、ついでに、この大坂まで足をのばされて、内大臣|征夷大将軍《せいいたいしようぐん》に昇進されたことを、故|太閤《たいこう》殿下の御仏前に、ご報告あるべきと存ずる」
と、こたえたのは、大野治長であった。
家康が、将軍職になり、それを秀忠にゆずったとしても、あくまでも、徳川家は豊臣家の臣である、という意味であった。
豊臣家恩顧の大名たちは、まだ健在であった。加藤清正、浅野|長政《ながまさ》、堀尾吉晴《ほりおよしはる》、池田|輝政《てるまさ》、前田|利長《としなが》――。
就中《なかんずく》、加藤清正と浅野長政が健在である限り、家康は豊臣家に敬意を表さざるを得まい、と大坂城の諸将は、考えていた。
日本随一の巨城内でくらしているために、かれらが、盲目になっていた、という後世の人々のあざけりは、苛酷《かこく》にすぎよう。
滅びる運命に置かれた者は、その秋《とき》を予知しない方が、幸せというものであった。
「主馬殿、阿蘭陀《オランダ》剣士が、佐々木なにがしと申す兵法者と、試合をいたすそうなが……?」
片桐且元は、眉宇をひそめ乍ら、大野治房を視《み》た。
「ほどなく、三の丸紅葉広場に於《お》いて――」
治房は、こたえた。
大蔵《おおくら》| 卿《きようの》| 局 《つぼね》を母に、修理大夫治長を兄に持ち乍ら、この二十一歳の青年は、権勢を求めず、一個の武弁として身を立てようとしている生真面目《きまじめ》な性情の持主であった。
治房は、異邦の剣士が、本邦の兵法者を対手《あいて》として、どのような秘技を揮《ふる》うか、期待に胸をふくらませている様子をみせていた。
且元の方は、そんなことに興味をそそられた治房を、うとましげに、眺《なが》めやって、
「主馬殿、世間では、関ケ原役で滅んだ大名の旧家臣どもを、大坂城がつぎつぎと召し抱えているのは、不穏の企てがあるためだ、と取沙汰《とりざた》して居《お》るのを承知か? ……今朝の試合の儀も、あやまって、どのような噂《うわさ》となってひろまるやも知れぬ。御許《おこと》の一言で、中止させられよう。そうされたい」
と、忠告した。
「市正殿は、ずいぶんと取越苦労をなされますな」
治房は、笑った。
「あらぬ噂は、なるべくたてぬ方がよかろう。中止を申しつけられい」
「阿蘭陀剣士は、昨日、その佐々木小次郎なる者に、面ていに生唾《なまつば》を吐きかけられて居ります。……わが国の武士と同様、南蛮のさむらいもまた、恥辱を与えられて、ひきさがるものではありませぬぞ。身共とても、淀様がおまねきになった|ぱあどれ《ヽヽヽヽ》の随行人を、はずかしめた者を許すわけには、参りませぬ」
治房は、きっぱりと且元の申し入れをはねつけた。
二
且元は、大坂城の出頭人として、断乎《だんこ》として、試合を中止せよ、と治房に迫る気概に欠けていた。
いたずらに、くどくどと、世間にあらぬ取沙汰をされたくない、という意味の言葉を、くりかえした。
且元は、群を抜いて立派な風貌《ふうぼう》と体躯《たいく》を有《も》ち、一見その偉容があたりを払っているので、一般の人々からは敬意を抱かれ、また、淀君からも信頼されていた。しかし、大野治長、治房兄弟からは、その小心ぶりを、疾《と》くに、看破されていた。
治房は、且元の言葉半ばにして、さっと座を立った。
治房が、まっすぐに行ったのは、兄治長のいる唐獅子《からじし》の間であった。
大坂城内で、大名が詰める部屋は、その襖《ふすま》に描かれた絵によって、唐獅子の間とか、麒麟《きりん》の間とか、虎嘯《こしよう》の間とか、名づけられていた。
治長は、几上《きじよう》に、一綴《ひとつづり》の帳簿をひらいて、目を通していた。
それは、慶長五年から、今日まで、秀頼の名に於いて、神社仏閣を造営修築した、おびただしい記録であった。
[#2字下げ]慶長五年――大坂四天王寺及び醍醐《だいご》三宝院金堂造営。
[#2字下げ]同 七年――石山寺及び東寺《とうじ》金堂造営。
[#2字下げ]同 八年――河内叡福《かわちえいふく》寺に寺領寄附、河内|誉田八幡宮《ほんだはちまんぐう》再興。
[#2字下げ]同 九年――東寺南大門、横川《よかわ》中堂、三条|曇華院《どんげいん》、摂津勝尾寺造営。
今年になってからも、三宝院の仁王門、多田院の本堂、中堂、御影堂及び相国寺の法堂の造営が、つづけられている。
いささか大袈裟《おおげさ》にいえば、畿内《きない》のあらゆる神社仏閣の寄進帳に、秀頼の名がのせられているのであった。
すべて、淀君の秀頼幸運祈願であった。
――出費が、かさなりすぎる。
治長が、ひとつの疑いを抱いたのは、昨日、片桐且元から、
「将軍家より、方広寺大仏を再建されてはいかがであろう、とおすすめがあった」
と、きかされた瞬間であった。
京都東山の方広寺は、天正《てんしよう》十四年に、秀吉によって、建立《こんりゆう》されたものであった。
およそ、秀吉ぐらい、信仰心の稀薄《きはく》な人物はいなかった。方広寺を建立したのは、
「ひとつ、奈良の東大寺に比肩《ひけん》する大仏を、京都に建ててくれようか」
それだけの思いつきであった。
奈良の大仏鋳造が、二十年かかった、ときくや、秀吉は、
「五年でやれ」
と、命じている。
しかし、十六丈の高さの大仏を、鋳造することは、当時の技術では、五年間では無理であった。主任となった前田|玄以《げんい》は、秀吉に乞《こ》うて、木像にかえた。
木像といっても、木質に厳重な吟味をされなければならず、これに塗る漆喰《しつくい》は、蠣殻《かきがら》を一万俵も必要とし、彩色を施す顔料も明《みん》国から輸入しなければならなかった。
さらに、この大仏を安置する大仏殿を建てるためには、地盤づくり、周囲にめぐらす石垣《いしがき》の巨石の運搬、棟木とする巨樹の切り出しなど、途方もない努力をはらわなければならなかった。
たとえば――。
石垣の見事さを示すために、巨石が用いられたが、細川藤孝《ほそかわふじたか》が、三日月山より切り出し、運搬した巨石は、長さ二間、横一間、厚さ一間で、四千人の人夫を必要とした、という。
また、棟木は、日本中をさがした挙句、富士山中で発見し、家康が宰領となり、これを伐《き》って、熊野灘《くまのなだ》へ廻《まわ》し、海上を大坂へ運んだが、この樹《き》一本に、五万人の人夫と黄金千両を費した、といわれる。
方広寺が完成したのは、秀吉が命令を下してから三年後の天正十七年であった。大仏殿の規模は、堂の高さ二十丈、面積は東西百三十間、南北百三十七間、その地盤は南北五十五間、東西三十七間、堂に用いた柱は大小九十二本であった。西門の仁王門だけでも、高さ十一間の構えであったし、金剛力士の高さは二丈六尺であった。
高野山|木食上人《もくじきしようにん》を総監督にして、延べ人数一千万人が、工事に従事したのであった。
大仏殿に安置された十六丈の盧遮那《るしやな》坐像は、太閤秀吉の勢威を象徴する偉容を誇って、永遠に、後世にのこされるか、とみえた。
ところが、それからわずか七年後に、京畿《けいき》を襲った大地震で、大仏はむざんに崩壊してしまったのである。
秀吉は、再建を計ったが、病いのために、はたせず、それから二年後に、逝《い》った。
三
大仏が再建されようとしたのは、秀吉の死後四年目――慶長七年であった。
家康が、片桐且元を呼んで、太閤の遺志を奉じて、方広寺を再建したら如何《いかが》だ、とすすめたのである。
且元は、その旨《むね》を淀君に告げた。もとより淀君に、否《いな》やはなかった。且元が総指揮をとって、その年夏、工事に着手した。
ところが、盧遮那坐像が、七分通り成った時、原因不明の火災が起って、大仏殿もろとも、烏有《うゆう》に帰したのであった。
当時、
「あれは、放火だ」
という風説が立ったものであった。
あれから三年の歳月が過ぎている。
徳川家は、将軍秀忠の名をもって、大仏再建をすすめて来た。
淀君は、もちろん、よろこんで、起工を承知するに相違ない。
――徳川は、この大坂城にたくわえてある金銀を、つかいはたさせようというこんたんなのだ。
大野治長は、ようやく、家康の肚の裡を、読んだのである。
――あれは、放火に相違ない。家康が放った隠密《おんみつ》のしわざであったのだ。
淀君が、神仏の加護|冥助《みようじよ》を頼む信仰心の深さを、家康は、巧みに利用しようとしているのである。
――家康め!
治長は、あのふくよかな童顔をそなえた老人が、何を考えているか、いま、はじめて、はっきりとさとって、慄然《りつぜん》となった。
「兄上――」
背後で、治房の呼ぶ声がした。
「なんだ?」
「今朝、三の丸紅葉広場に於いて、伴天連《バテレン》随従の阿蘭陀剣士と、佐々木小次郎なる兵法者を、試合させますが、ご見分なされますか?」
「莫迦《ばか》っ!」
治長は、振り向きもせず、呶鳴《どな》った。
「そのようなひまなど、わしにあるか!」
「は――しかし……」
「なんだと申すのだ?」
「市正殿が、あらぬ噂を世間にひろめてはならぬゆえ、中止せよ、と命じられましたが、身共は、拒絶いたしました。兄上がご見分下されば、市正殿も、やむを得ぬとあきらめて下さろうかと……」
「市正は、徳川の顔色だけをうかがって居る腰抜けだ。遠慮無用ぞ。試合させい」
「はい」
治房は、去った。
治長は、しばらく思案したのち、白駒の間へ、且元をたずねた。
「おうかがいいたすが、多田院及び相国寺の造営が成ってからは、次に、どことどこを造営修築されるのか、おうかがいいたしたい」
且元は、治長のあらたまった態度を、不審げに視かえした。
これまでの主な神社仏閣の築営、修理にあたり、且元がすべて奉行をつとめたのである。
「左様――、南禅寺法堂、北野経堂、石清水《いわしみず》八幡宮、生国魂《いくたま》神社、それから上醍醐御影堂、五大堂、如意輪堂《によいりんどう》、楼門などだが……、それが、どうかされたか?」
「市正殿は、この六年間、どれだけの金子《きんす》が費消されたか、もとより、ご存じでござろうな?」
「知らんでどうしよう。……出費の控を、お見せ申そうか」
「拝見いたしたところで、無駄でござろう。費消した金子は、もどっては参らぬ」
「修理殿、御辺《ごへん》は、妙な疑いでも、わしにかけられて居るのではないのか」
且元は、双眼に怒りの色を滲《にじ》ませた。
「…………」
治長は、黙って、且元の眼光を受けとめている。
「この且元が、出費の何分かを、着服したとでも、疑うて居るのなら、ゆ、ゆるせぬ!」
且元は、われを忘れて、大声をあげた。
治長の方は、そんな疑惑などすこしもわかせてはいなかったので、その激怒ぶりを眺めて、
――小人め!
と、いよいよ、軽蔑《けいべつ》の念をふかめた。
「市正殿、それがしは、方広寺再建には、どれだけの莫大《ばくだい》な金子を要するか――それを、承知の上で、江戸のすすめを、受諾されたかどうか、そのことを、うかがいに参上いたしたのでござる」
「どれだけの金子を費そうとも、方広寺再建は、太閤《たいこう》殿下のご遺志であるゆえ、わしは、承知いたしたのだ」
「大坂城の出頭人たる者が、それほど徳川家をおそれられるのか?」
治長は、冷笑した。
巨城をあずかる二人の間に、険悪な空気がみなぎった頃《ころ》、三の丸玉造口に、物干竿《ものほしざお》を背負った佐々木小次郎が、その巨躯を現していた。
赤《あか》蜻蛉《とんぼ》
一
大坂城三の丸紅葉広場は、その名称の通り、二千坪の地域に、数百本の楓《かえで》が、植えられ、平凡な形容だが、ちょうど燃えるように色づいて、みごとな眺《なが》めであった。
北隅《ほくぐう》が鬼門にあたっていて、そこだけ、二百坪あまり空けられ、桂垣《かつらがき》でかこまれていた。
阿蘭陀《オランダ》剣士グスタフ・バリニヤニは、定刻より半刻《はんとき》前に、すでに、その桂垣内に入っていた。
三十歳の男盛りのこの剣士は、その剣の業《わざ》が冴《さ》えているために、欧羅巴《ヨーロツパ》をすてて、はるばる東洋の果ての、この国まで、やって来た人物であった。
生まれは、巴里《パリ》で、ドゥ・ポルト街に、剣術道場をひらいていたピエール・ペルシュという、当時、無双と称された達人の嫡男《ちやくなん》として生まれている。その本名は、アベル・ド・ペルシュであった。
当時――。
欧羅巴は、剣客の花盛りというべき状況であった。
欧羅巴の国境いたるところで、戦いがくりかえされ、また、華やかな都会に於《お》いては、毎日のように、決闘が演じられていた。
アベル・ド・ペルシュは、剣術道場に生まれたおかげで、物心ついた頃から、剣さばきを習練し、やがて、二十歳で、近衛青年隊《レ・カデエ》に入り、たちまち、頭角をあらわした。
渠《かれ》の剣の業に比肩《ひけん》する隊士は、一人もいなかった。
当然、腕自慢の貴族との、さしたる理由もない決闘を、渠が一手にひき受け、闘って敗れたことは一度もなかった。
無双の手練者《てだれ》ともなれば、闇討《やみう》ちの危険に身をさらされる比率も高くなる。
ある宵《よい》、ペルシュは、ネール門前で、数十人の刺客に、待伏せられ、獅子奮迅の働きをしたが、その修羅場《しゆらば》へ、馬車で通りかかった聖《きよ》い尼僧《にそう》の胸に、ペルシュが両断した敵の剣さきが、突き刺さった。
尼僧が、国王の従妹《いとこ》にあたるラ・クロア派尼僧院の副院長であったことが、ペルシュの地位と剣名を、仏蘭西《フランス》から消した。
ペルシュは、阿蘭陀へ、遁《のが》れて、グスタフ・バリニヤニと名を変えて、海辺の小さな町に身をひそめた。
しかし、ルイ王朝の近衛《このえ》銃騎兵の探索の手は、そこまでのびて来た。
やむなく、出帆する船へ、潜伏したが、その船こそ、はるかなる東洋の国々と交易するために、阿蘭陀をあとにした船であった。
さまざまの交易品とともに、必死の布教を命じられた基督《キリスト》教の教師父《ぱあどれ》たちも幾人か、乗り込んでいた。
やがて、水夫に発見されたペルシュは、事情を聴取した教師父たちに、許されて、護衛役をつとめることになったのである。
しかし――。
ペルシュは、東洋へやって来てから二年の間に、まだ一度も、剣を抜いてはいなかった。
教師父たちが、生命の危機にさらされる時が、なかったからである。
皮肉にも――。
ペルシュ自身が、理由なくして、決闘の申し込みを受けたのであった。
教師父たちは、顔面に生唾《なまつば》を吐きかけられたペルシュに、
「堪えよ」
とは、忠告しなかった。
剣士が、侮辱を蒙《こうむ》って、闘うことは、教師父たちも、みとめるところであった。
ペルシュは、平庭の中央に立った。
袖無《そでな》しの外套《マント》をはおり、長剣《レピアー》をその蔭《かげ》にかくしていた。
巴里生まれの、無数の決闘を為《な》して来た剣士は、巴里を脱出して以来、はじめて、剣を使う機会を得て、すこしばかり練習《トレーニング》の必要をおぼえたのであろう。
ぱっと、外套を脱ぎざま、前方へ投げておいて、剣を抜いた。
まず――。
躯《からだ》の重みを左足にかけて、やや反り身になり、右足をまっすぐに踏み出し、剣を中段にさしのべる|構え《ガード》をとった。
しばらく、宙を睨《にら》んでいたが、一瞬、電光の|突き《ランジ》を、つづけさまに、放った。
もし、その宙に、蜘蛛《くも》でも、糸で吊《つ》り下っていたならば、剣尖《けんさき》は、みじんの狂いもなく、突き刺しつづけたに相違ない。
二
いつの間にか――。
佐々木小次郎は、桂垣の中門のすこし開いた桟唐戸《さんからど》の外側から、ペルシュの練習を、じっと見まもっていた。
――出来る!
いくたび射放っても、的の中点を矢が貫くような、目に見えぬ軌道を走るに似た正確無比なその突きぶりは、小次郎の闘志を、猛然とわきたてた。
小次郎が、桟唐戸を押し開けて、一歩踏み入ると、ペルシュは、振り向き、かるく一揖《いちゆう》してから、剣を鞘《さや》に納め、外套をひろいあげて、身にまとった。
小次郎は、眉宇《びう》をひそめた。
決闘にあたっては、羽織をつけていれば、これを脱ぎすてるべきである。ところが、この異邦の剣士が、逆に、外套をまとったのは、どうしたわけなのか?
約二十歩の距離を置いて、両者は対峙《たいじ》した。
「お主――」
小次郎は、呼びかけた。
「本邦の言葉は、話せるか?」
「…………」
ペルシュの返辞はなかった。
二年も、この国に在り乍《なが》ら、言葉などおぼえる気持は、いささかもない、とみえた。
「よかろう。真剣の勝負に、問答は無用!」
小次郎は、やおら、背負うた四尺の物干竿を、抜きはなった。
その物干竿が放つ一心一刀虎切刀と名づける迅業《はやわざ》は、すでに述べたところであるが、その要点をくりかえすならば……。
小次郎は、越前《えちぜん》の渓谷《けいこく》で、宙を掠《かす》める飛燕《ひえん》を、狙《ねら》って、斬《き》り落す修練を為した挙句、太刀行きの迅さを極意とする中条流小太刀をすてて、諸国|流浪《るろう》中に、しだいに、使う刀を、長いものにしたのであった。
そして、その長剣の業は、次のような次第であった。
大上段に振りかざして、拝み撃ちの形に構えると、第一歩はゆるやかに、徐々に速度をつけて、敵に向って進み、間合を見切るや、まっ向から斬り下げる。この斬り下げかたに、独特の工夫があった。
きえーっ、と斬り下げつつ、両膝《りようひざ》を曲げて、身を沈め、敵を両断した刹那《せつな》には、その身は、完全にしゃがんだ姿勢になっている。
この虎切刀で、小次郎は、これまでの幾多の試合に、常に一撃で、敵を真二つにしていた。
小次郎の虎切刀を、かわし得たのは、ただ一人、「飯綱《いづな》使い」の松山|主水《もんど》だけであった。
この異邦の剣士が、いかなる業を使うか、全く測り知れぬまま、小次郎は、やおら物干竿を抜きはなつと、大上段に構えた。
ゆっくりと、第一歩を踏み出した小次郎に対して、ペルシュは、静止の立姿を変えようとはしなかった。外套は、靴《くつ》までかくしていた。
小次郎は、二十歩の距離のうち、はじめの十歩は、きわめてゆるやかに前進した。そして、突如として、奔馳《ほんち》した。
ペルシュの方は、立像のごとく、不動を保って、その肉薄を待ったばかりである。
「ええいっ!」
疾風と化しざま、小次郎が、物干竿を、拝み撃ちに斬り下すのと、ペルシュが、外套を抛《ほう》りつけるのが、全く同時であった。
外套で、小次郎の視界をふさいだ刹那、電光の|突き《ランジ》を放つのが、欧羅巴の剣の定法のひとつであった。
ペルシュが、外套を投げざま、突きを放った迅業に、みじんの狂いもなかった。
しかし、なんの手ごたえもなく、ペルシュの目に映ったのは、外套が真二つに截《き》られて、左右へ飛ぶさまであった。
小次郎は、外套という妨碍物《ぼうがいぶつ》によって、ペルシュを斬ることが叶《かな》わず、ペルシュの剣の尖端《せんたん》も、また、小次郎にとどいていなかった。
しかし――。
次の瞬間の利は、ペルシュの方にあった。
小次郎の残心の構えは、完全にしゃがんだ姿勢だったからである。
ペルシュは、小次郎の顔面めがけて、目にもとまらぬ速さで、突きかけた。
もし、小次郎に、燕斬《つばめぎ》りの修練が為されていなかったならば、その顔は、斜めに頸根《くびね》まで貫かれていたに相違ない。
小次郎が、おのれ自身、はっとなった時には、その右手は、腰から脇差《わきざし》を抜いて、敵の剣を、払っていた。
ペルシュが、その細身の剣で突いて来る速度よりも、四尺の物干竿で払う速度の方が、おとることを、とっさにさとって、脇差を抜いた次第ではなかった。
本能の働きであった。中条流小太刀の太刀行きの極意を会得《えとく》し、抜きつけに飛燕を斬る修練をした小次郎にして、はじめて、為し得た本能の働きであった。
辛うじて、小次郎は、中条流小太刀で、おのが一命を救われたわけであった。
しかし、その時には、すでに、ペルシュは、地上二尺の空間へ一直線にさしのばされた物干竿の刀身を、股間《こかん》にはさむかたちで、三尺の間近さに迫っていた。
すなわち、小次郎は、物干竿を使うことを、完全に封じられたのである。
ただ、ペルシュの方も、剣を払われた衝撃で、右手がいささかしびれていた。
しびれたまま、再度の突きを放つのを、小次郎は、脇差の鍔《つば》もとで受け止めた。
睨みおろすペルシュと、睨みあげる小次郎と――宙で、四つの眸子《ひとみ》が、火花を散らす数秒間があった。
三
大野|治房《はるふさ》が、七、八名の家臣をともなって、桂垣《かつらがき》内に入って来たのは、小次郎が物干竿を大上段にふりかぶって、前進を開始した時であった。
小次郎が外套を両断し、ペルシュが突きを放つ一瞬に、固唾《かたず》をのんだ治房らが、次に起った光景を、あきらかに、小次郎の負と看《み》たのは、当然であった。
まさに、ペルシュは、小次郎を圧倒していた。
これで、ペルシュが、矢つぎ早やに、突きを継続させれば、小次郎は、顔面か咽喉《のど》か胸か、いずれかを刺し通されることは、目に見えたことと、思われた。
不逞《ふてい》の兵法者の最期《さいご》のさまは、いまは、時間の問題でしかないようであった。
ところが――。
数秒間を置いて、ペルシュが、ぱっと小次郎の首を足蹴《あしげ》にしておいて、三度《みたび》目の突きを放つのが、見えた刹那、勝負は、決した。
仰向けに地面に倒れるやいなや、小次郎は、手もとに引いたその物干竿を、びゅんと、直立させたのである。
物干竿の切先は、ペルシュの頤《おとがい》から、ふかぶかと、脳髄のあたりまで、貫いた。
欧羅巴の剣には、|突き《ランジ》、|受け《パリー》、ディスエンゲージ(敵の刀身をおのが剣尖で巻き込むこと)、薙《な》ぎつけの反撃《カウンターパス》など、千変万化の目まぐるしい業があるが、不運にして、小次郎の虎切刀の前には、ペルシュは、その働きを発揮することが、できなかった。
小次郎がおもむろに身を起した時、頤から直線に貫かれたペルシュは、直立したまま、事切れていた。
「強いの、お主――」
近づいた治房は、顔を紅潮させていた。
「この佐々木小次郎、これまで、試合をしたこと二十数度、いまだ一度も、敗れたことはござらぬ」
小次郎は、物干竿を背負い乍ら、昂然《こうぜん》とこたえた。
「お主の流儀は――?」
「一心一刀虎切刀」
「どうであろう。お主の業前を、右大臣様(秀頼《ひでより》)の御前にて、披露《ひろう》してもらえまいか」
「随身せよ、とのおさそいか」
「のぞみによっては――」
「のぞみは、千石」
「なに? 千石?」
治房は、あきれて、小次郎の異相を、視《み》かえした。
「身共の虎切刀は、充分千石のねうちがあり申す」
「いささか高慢にすぎはせぬか。まだ無名のぶんざいをわきまえるがよい」
流石《さすが》に、治房も、すこしばかり腹を立てた。
と――。
小次郎は、なにを思ったか、顔をあげて、空へ視線をめぐらした。
澄んだ空を、赤《あか》蜻蛉《とんぼ》が、すいすいと飛んでいた。
晩秋の陽《ひ》ざしを愉《たの》しむように、ちょっと停《とま》ったり、また、すいと掠めたり、ひらりとはねあがったり、いかにも、のどかな眺めであった。
一瞬――。
小次郎の右手が、物干竿の柄《つか》にかけられた、とみるや、きらっきらっと光芒《こうぼう》を、宙に送った。
「………!」
治房は、大きく目をみはって、足もとを見下した。
そこに、三びきの蜻蛉が、落ちていた。いずれも、首を刎《は》ねられて――。
治房はじめ、家来どもは、唖然《あぜん》となって、声もなかった。
「大坂城ひろしといえども、これだけの業をそなえた御仁がいたら、お目にかかりたい。千石でも安い、と存ずるが、いかに?」
「う、うむ!」
治房は、うなずいた。
「右大臣家の御機嫌《ごきげん》うかがいまでに、まだまだ、意外の迅業を、ごらんに入れ申す。……千石、ご承諾下さるか?」
「よし! わしが、引き受けた」
治房が、約束した折であった。
一人の家臣が、あわただしく、桂垣内へ、駆け込んで来た。
「主馬頭《しゆめのかみ》様、これを――」
一通の封書を、手渡した。
「なんだこれは?」
「木村藤太夫の遺書にございます。藤太夫は、今朝、夫婦もろとも、自害して相果てました」
「なに!」
治房は、いそいで、遺書を披《ひら》いた。
――叔父貴め! おろか者が!
小次郎は、いまいましさに、舌打ちした。
読み了《お》えて、小次郎を睨みつけた治房は、憤怒に身をふるわせて、
「外道《げどう》の所業をいたした者に、千石を与えるなど、もってのほか! 早々に去れ!」
と、呶鳴《どな》った。
小次郎は、冷然として、
「愚直者の叔父を持ったのが、身共の不運でござった」
ぬけぬけと云《い》いすてておいて、大股《おおまた》に歩き出した。
廃屋惨状
一
奇妙な旅宿であった。
武庫郡の和田崎に、堂々たる母屋《おもや》にいくつかの別棟をはべらせた、一種の豪族館ともみえる構えであったが、その荒廃ぶりは、化物屋敷といえた。
いくたびかの暴風雨に遭うて、屋根は破れ、戸障子は吹きとばされ、無人のままに放置されて、数年が過ぎているのであった。
地下《じげ》の者の伝えるところでは、足利《あしかが》期には、はるか遠洋を渡って、明《みん》国はじめ南方諸国の沿岸を襲うた「倭寇《わこう》」の頭領の住居であった、という。
太閤秀吉《たいこうひでよし》が、朝鮮を討つべく、九州へおもむく途次、この屋敷に休息したが、そのために、構えをいちだんと大きな規模に再築したといわれている。
そして――。
石田|治部少輔三成《じぶしようゆうみつなり》が、徳川|家康《いえやす》と天下を分ける|ほぞ《ヽヽ》をかためた時、万が一敗北したならば、再起をはかるべく、長州あるいは薩摩《さつま》へ退くために、兵庫|湊《みなと》に、十数|艘《そう》の軍船を用意し、この和田崎の屋敷に、股肱《ここう》の一人小田|甚左衛門忠政《じんざえもんただまさ》を、軍船宰領役として、詰めさせておいたのであった。
三成は、敗走したものの、兵庫湊へ遁《のが》れて来るいとまもなく、徳川方に捕えられ、無念の最期をとげた。兵庫湊に集結させてあった軍船団は、井伊直政《いいなおまさ》の指揮によって、ことごとく焼きはらわれてしまった。
その際、この和田崎の屋敷も、烏有《うゆう》に帰す運命にあったが、直政は、
「すて置こう」
と、火を放つのを止《や》めた。
直政の胸中には、古蹟《こせき》を重んじる気持が働いたものであったろう。
和田崎には、平清盛《たいらのきよもり》が福原に都を遷《うつ》した時、燈炉堂《とうろどう》を設けた歴史を有《も》ち、また、足利|尊氏《たかうじ》が水陸合せて数十万の軍勢で攻め寄せるや、新田義貞《につたよしさだ》の部将らが、水軍二万五千余で、ここで応戦した史実も残っている。
本間孫四郎重氏が、足利勢の軍船めがけて、強弓をひきしぼって、射術の名誉を取ったのも、この崎の端《はな》である。
……関ケ原役が終って以来、廃家となったこの屋敷は、いつの間にか、得体の知れぬ人間の巣窟《そうくつ》と化していた。
改易となった大名の旧家臣もいたし、瀬戸内海を荒した海賊が老残の身をはこんで来ていたし、悪業の果てに遁れ込んだ破戒僧や女郎崩れの老婆《ろうば》や片脚失って戦場働きのできなくなった足軽や、はては、癩を患《わずら》った盲目の修験者など――一人として、まともな人間は、いなかった。いわば、戦国の世を不幸にも生き残った連中の、憂世《うきよ》の吹きだまりであった。
ただ一人――。
数日前から、この無銭旅宿に、身を寄せた男がいた。そのうすよごれた身装《みなり》や蓬髪《ほうはつ》は、他の連中と大同小異であったが、ただよわせる生気は、かれらがすでに過去にすてたものであった。武蔵であった。
ふらりと姿を現すと、その日から、黙々として、直径一尺、長さ三尺あまりの松の木を、鑿《のみ》で削りはじめた。
母屋は、十数室あり、まだ住むに堪える別棟もいくつかあった。武蔵が、起居をさだめたのは、北隅《ほくぐう》の、最も荒れた別棟であった。屋根はいたるところ穴があいて、月光がそそぎ込んでいたし、壁も破れて、そこから海原が望まれた。武蔵が、入った時には、無人であった。
一月あまり前、骨と皮に痩《や》せさらばえた陣場女郎のなれの果てが、縊死《いし》して、梁《はり》からぶらさがったなり、五日も、誰からも気づかれなかった小屋であった。
片目のつぶれた跛の野伏《のぶせり》が、その旨《むね》を告げて、
「お主、兵法者らしいが、化けて出る幽霊が、皺《しわ》だらけの婆さんでは、ぞっとすまい」
と、忠告したが、武蔵は、薄ら笑いを返しただけであった。
三日目には、彫りものは、かなり形を成していた。
武蔵が、作ろうとしているのは、舟に乗った像であった。像は、どうやら、四臂《しひ》の如意輪観音《によいりんかんのん》らしく、坐像であった。
右手のひとつは、頬《ほお》へ掌《て》をあて、もうひとつは、念珠を持ち、左手のひとつは蓮《はす》の花を持ち、もうひとつは掌に食物らしいものをのせていた。
その貌《かお》から彫りはじめたので、ほぼ完成していたが、きわめて優しく柔和な表情をたたえていた。
二
「武蔵殿!」
突然、破れた壁穴から、ひとつの顔がのぞいて、はずんだ声で、呼びかけた。
顔をあげた武蔵は――武蔵も、なつかしげに、
「おう、妻六か!」
と、微笑した。
「いやあ、もう、さがして、さがして、さがしあきたことでござる」
伊賀《いが》の妻六は、戸口へまわって来た。
武蔵は、妻六が前に坐《すわ》っても、別れて以来の話をもとめるでもなく、再び鑿を動かした。
妻六は、その彫りものを眺《なが》めて、
「舟に乗った、観音様とは、珍しいことでござるが、どうなさるので?」
と、訊《たず》ねた。
「海へ流す」
武蔵は、ぼそっとした口調で、こたえた。
「ほう、海へな――。供養《くよう》でござるか?」
「うむ」
「吉岡《よしおか》道場の面々の供養で?」
「いや。あれは、果し合いだ。供養の必要はない」
「…………」
「これまでに、おれのために、若い女子《おなご》が、二人、死んだ。……おれは、これまで、斬《き》った敵の霊に、詫《わ》びたり、哀悼を表したことはない。しかし、その二人の娘には、心で、許してくれ、とあやまった。……|さき《ヽヽ》も、赤音《あかね》も、おれを世話する役目をしなければ、死なずに、すんだのだ」
|さき《ヽヽ》という娘は、伊予国の沖あいの島で、武蔵と別離の悲しみに堪え得ず、岬《みさき》から身を投げたのである。
赤音は、備前国の邑久《おく》郡虫明村の山中で、武蔵の身代りとなって、池田家|目付《めつけ》によって毒殺されたのである。
この二人の娘を供養するために、武蔵は、如意輪観音が坐した舟を作って、瀬戸の海へ流すことにしたのであった。
――ふうむ!
伊賀の妻六は、武蔵の面貌《めんぼう》を見まもって、胸の裡《うち》で、うなった。
常に孤独を好み、寡黙《かもく》で、決して本心を語ろうとせず、決闘者として生涯《しようがい》をつらぬくためには、対手《あいて》がたとえ十一歳の少年であろうと、名目人となったからには、みじんの容赦もせず、真二つに斬ったこの青年が、意外な慈悲の一面を備えていることを、知らされたのである。
「一別以来のことを、いろいろ、お話し申し上げなくてはなりませぬが……」
「うむ」
「まず、夕姫様のことでござるが……、奈良の法華寺《ほつけじ》に、入られました」
「法華寺に、か」
武蔵は、うなずき、
「尼になったことは、伊織《いおり》から、きいた」
「お――では、伊織は、いまも、お供をして居《お》りますかな?」
「いや、わしが、故郷へ立ち寄ると、そこで待っていて、勝手に、弟子になる、ときめたが……、面倒なので、途中で、すてた。いま、どこをうろついて居るか、知らぬ」
「夕姫様が、どうして尼になられたか、その仔細《しさい》を、伊織は、お話しいたしましたかな?」
「伊賀谷の宍戸梅軒《ししどばいけん》に、肌身《はだみ》をけがされた、と申していた」
「武蔵殿、おねがいでござる。姫君の敵《かたき》を討って下されい。宍戸梅軒を討って下されい!」
妻六は、両手をつかえて、額を破れ畳へすりつけた。
夕姫が犯された時のいきさつを、妻六から、くわしくきかされた武蔵は、しかし、返辞はしなかった。
こういう時の武蔵は、全く無表情であった。
妻六は、それから、つぎつぎと、武蔵が知る人々の消息を語った。
沢庵《たくあん》は、城之助をともなって、出府したこと。吉岡道場は、あとを継ぐ者がなく、ついに『室町兵法所』の大看板をおろし、その宏壮《こうそう》な屋敷は、いまは、京都所司代の私邸となっていること。
「お手前様が斬られた名目人佐野又一郎の母御で、静重と申される婦人が、伜《せがれ》の仇を討とうと、お手前様の行方を、さがして居ることも、心得ておいて下されい」
「…………」
「さて、もう一人、お手前様を生涯|唯一《ゆいいつ》最大の試合対手として、さがして居る男が、ござる」
「…………」
武蔵は、ちらと、妻六を視《み》かえした。
「巌流《がんりゆう》佐々木小次郎でござるわい」
「…………」
「お手前様には、宍戸梅軒を討って下さったあとで、必ず佐々木小次郎も、討ち果して頂かねばなり申さぬ」
「…………」
「お手前様が、一乗寺|下《さが》り松で、吉岡一門と決闘された時、瓜生《うりゆう》山中に隠棲《いんせい》している松山|主水《もんど》殿のお力添えがあった、ときき及びましたが……」
「うむ、たしかに――。あのご老人に、瓜生山中腹と下り松をつなぐ地下道を、教えて頂いて居らなんだならば、この身は、あの時、相果てていたろう」
「その松山主水殿を、佐々木小次郎は、殺し申したのでござる」
「えっ!」
武蔵の面貌が、はじめて、色を変えた。
「まことか、それは?」
「まことでござる」
「しかし、あのご老人が、よもや、尋常の立合いで、おめおめと討たれるようなことは、あるまいが……」
「松山主水殿は、あれから一年あまり経《た》って、中風にかかられ、半身が不随になられたのでござる。佐々木小次郎は、主水殿が、中風と知りつつ、試合を挑《いど》んで、斬り殺してしまったのでござる」
三
武蔵の宙へ据《す》えた双眸《そうぼう》から、火花を散らすような光が、放たれた。
武蔵が、主水の草庵に身を寄せたのは、吉岡一門との試合の三日前であった。
そのあいだに、主水は、偶然、鳥部野で、佐々木小次郎が物干竿《ものほしざお》で飛燕《ひえん》を両断するさまを目撃し、次いで、主水自身も、襲撃されていた。
主水は、佐々木小次郎の虎切刀の凄《すさま》じさを、武蔵に告げて、
「お主には、飛燕を両断できるかな?」
と、訊ねたものであった。
武蔵は、たぶんできますまい、とこたえたことだった。
――あの隠遁者《いんとんしや》を、佐々木小次郎は、中風と知りつつ、斬ったか!
憤怒が、五体の骨をきしませるように、たぎり立った。
その時であった。
彼方《かなた》が、さわがしくなり、かなりの人群が、屋敷に近づいて来た。
この屋敷に吹きだまる者たちは、いずれも孤独を守り、出入りするのも、ひそやかな気配を保っていた。
追われる身であったり、四肢《しし》が不自由であったり、生きるのぞみが稀薄《きはく》になっていたりする者たちだったからである。
集団行動をとったりすることなど、一度もなかった。
妻六が、破れ壁の穴から、外へ首を突き出してみて、
「ほう……、牢人者《ろうにんもの》が十数人、参りましたぞ」
と、告げた。
武蔵は、目下のところ、自分を探索する敵を持ってはいなかったので、気にもとめず、憤怒をしずめるべく、作業にとりかかった。
牢人集団は、まず、母屋《おもや》へ、どやどやと、押し入って来た。
襖《ふすま》も板戸も破れ放題なので、屋内は、ずうっと、見通すことができた。
頭領ていの牢人者が、鋭い視線を配ったが、舌打ちして、
「うわさ通り、老いぼれと片端者ばかりだな」
と、云《い》った。
「たしかに――。仲間に加えてくれるような奴《やつ》は、一人も居らぬ」
「追い出すとするか」
「いや、なまじ追い出すと、噂《うわさ》が立つ。どうせ、老いぼれと片端者だ。斬り殺してやった方が、慈悲だぞ」
「その通りだ。片づけてしまえ」
住人たちは、その険悪な気色に、大半が怯《おび》えの様子を示した。
元はしかるべき大名の家臣だったらしい老人が、代表したかたちで、三間ばかりむこうから、近づいて来た。
「おのおのがた、なんぞご用でござるか?」
「当屋敷を、われわれの住居とするために参った」
頭領が、こたえた。
「それならば、あちらの広間が、ちょうど、おのおのがたの人数には、手頃《てごろ》と存ずるが……」
「いや、お主らと同居する気は、ない」
「と申されると?」
「われら一党だけの住居にする」
「それは、むたいなお申し入れだ」
「仲間に加わる力がある、という自信があれば、とどまるがよかろう」
「ごらんの通り、いずれも、あとわずかの生命《いのち》を、ここで、そっとやすめている者ばかりでござれば――」
「つまり、生きているのは、無駄《むだ》なごくつぶしぞろい、というわけだな」
「見のがしておいて下され」
「必要があるから、占拠するのだ」
その言葉がおわらぬうちに、抜きつけの一閃《いつせん》が、老人へ送られた。
次の瞬間――。
牢人者たちは、一斉《いつせい》に、抜刀して、奔《はし》った。
ふしぎに――。
住人たちのうち、悲鳴をあげて遁《に》げようとしたのは、女郎崩れの老婆だけであった。
反抗しても徒労だ、と知っているあきらめの色が、どの顔にもあった。
牢人者たちは、据物斬《すえものぎ》りのあんばいで、片はしから、かれらへ、白刃をあびせた。
たちまち、荒廃した屋内は、惨たる血海となった。
「た、たすけてっ!」
老婆一人が、おもてへまろび出て、別棟へ向って、救いをもとめた。
伊賀の妻六は、すでに、物蔭《ものかげ》から、母屋の中の地獄図絵を、目撃して、武蔵の許《もと》へ、報《しら》せに、馳《は》せ戻っていた。
復讐団《ふくしゆうだん》
一
「武蔵殿っ! あの牢人者どもが、この屋敷の住人らを、みな殺しにして居り申すぞ!」
血相変えた妻六の叫びは、しかし、武蔵の鑿《のみ》を使う手を、止めさせはしなかった。
自分にはかかわりのないことだ、という態度に、妻六は、苛立《いらだ》って、
「牢人者どもは、何かの存念があって、この屋敷を占拠するらしゅうござる。……ここへも、押しかけて参り申すぞ!」
「うむ」
武蔵は、軽くうなずいただけで、如意輪観音《によいりんかんのん》を乗せた舟を、膝《ひざ》から持ちあげて、じっと見まもった。
優しく柔和な表情をたたえた仏像の貌《かお》は、どうやら、われ乍《なが》ら会心の出来ばえのようであった。
「武蔵殿っ! 彼奴《きやつ》ら、どうやら、只者《ただもの》ではござらぬぞ!」
老爺《ろうや》や不具者や病人など、反抗もせぬ者たちを、片はしから、斬り殺した残忍さもさること乍ら、妻六が、かい間視た牢人連の刀槍《とうそう》の使いぶりは、戦場を馳《は》せ巡った者のみが発揮する凄じさがあったのである。
吉岡一門七十余人を敵として、ただ一人で阿修羅《あしゆら》の働きをした、おそらく、空前絶後の経験が、この兵法者に、底知れぬ自信を植えつけているに相違ない、と思われるものの、妻六は、自分までおちついてはいられなかった。
跫音《あしおと》が、ずかずかと、こちらへ近づいて来た。
「武蔵殿、どうなされる? 参りましたぞ!」
妻六が、外をのぞいて、叫ぶと、武蔵は、薄ら笑って、
「伊賀の妻六ともあろう者が、どうして、そうおそれるのだ」
と、云った。
「い、いや、べつに、おそれているわけではござらぬが……、彼奴ら、合戦買いや野伏《のぶせり》のたぐいとはちがっている者どもらしゅうござれば――」
妻六が、そこまで云った時、戸口から、
「いたぞ、ここに二人」
牢人者の一人が、呶鳴《どな》った。
武蔵はふり向きもしなかったが、妻六の方は、板敷きへ跳んで、
「お主ら、手向いもせぬ者を、みな殺しにするとは、なんの|こんたん《ヽヽヽヽ》があっての残酷だ?」
と、土間へ踏み込んで来た数人の牢人者を、睨《にら》みつけた。
「ほう、この屋敷には、老いぼれや片脚や盲や女郎婆ばかりが、巣食っている、と思っていたが、ちと歯ごたえのある奴も、ひそんでいたのだな」
そこへ、頭領が、入って来て、奥の武蔵を呼んだ。
「お主、関ケ原西軍の落人《おちうど》か。それならば、看《み》のがしてくれる。早々に立ち退《の》け」
そう云われて、はじめて、武蔵は、頭《こうべ》をまわした。
「それがしは、ただの兵法者だ」
「兵法者だと? ……名をきこう」
「名のってもしかたがあるまい」
「なに!」
「関ケ原の落人でなければ、生かさぬ、というのだろう。それがしとお主らとの斬り合いは、試合ではない。回向《えこう》をされぬ無縁仏になる身ならば、互いに、名を知らぬ方がよかろう」
きき様によっては、これ以上の不遜《ふそん》な言葉はなかった。
「ほざいたのう。その面《つら》だましい、相当なものだ。殺すのは、惜しい。お主の料簡《りようけん》次第では、仲間に加えてやってもよいぞ」
「…………」
武蔵は、冷笑を返辞に代えた。
武蔵の背後の板壁を貫いて、槍《やり》が襲いかかったのは、次の瞬間であった。
いつの間にか、小屋は、牢人団に包囲されていたのである。
武蔵は、胡座《あぐら》の姿勢をみじんも変えず、ただ、右手にした鑿で、槍の穂先を払った。
板壁を貫く音に、反射本能を働かせての迅業《はやわざ》ではなく、板壁の外で、槍を構えた――その殺気を、すでに察知していたのである。
穂先は、|けら《ヽヽ》首から真二つに折れた。武蔵は、ただ、鑿で、穂先の先端を払っただけであった。にもかかわらず、|けら《ヽヽ》首が、ぽきりと折れて、穂先は、武蔵の膝の前へ落ちたのである。
「うむ!」
頭領は、うめいた。
二
「お主、黙って当屋敷を引きはらってもらおう」
おそるべき手練者《てだれ》と看た頭領は、闘えば、味方を多勢|喪《うしな》うことになると思ったに相違ない。
口調をおだやかなものにして、申し入れた。
それに対して、武蔵の返辞は、
「この仏像を、彫りあげるまでは、ここを動かぬ」
それだった。
「他処でも、作れるだろう。金はめぐもう」
「ここで彫りはじめたからには、ここで完成する」
対手《あいて》がたにとっては、合点しがたい言葉であったが、武蔵には、それなりの理由があった。
この和田崎に立って、海原を眺《なが》めやった時、ふっと、|さき《ヽヽ》と赤音の供養《くよう》に、舟に乗った如意輪観音を作って、海へ流してやろう、と思いついたのである。
「おい、われら一統が、当屋敷を占拠しようとするのは、仔細《しさい》がある。きいてもらおう」
頭領は、板敷きへ上って来た。
妻六は、片隅《かたすみ》へ、しりぞいた。
「…………」
武蔵は、無言で、再び、供養の作業をはじめた。
「われらは、小西摂津守行長《こにしせつつのかみゆきなが》の旧家臣。身共は、小西与五郎。……関ケ原役後、われらは、瀬戸の内海に遁《のが》れて、海賊として生きている」
武蔵の知らぬことであったが、小西行長の旧家臣が、瀬戸内海へ遁れて、海賊になったのは、うなずける理由があった。
曾《かつ》て、小西行長は、水軍の将帥《しようすい》として、その才能を、秀吉に高く買われ、瀬戸内海の制海権を与えられていた。行長の率いる軍船が拠《よ》ったのは、小豆《しようど》島ならびに塩飽《しわく》諸島であった。
小豆島は、瀬戸内海の入口に位置し、西及び南の入口をふさいでいるから、源平の権争時代から、要衝となっていた。塩飽諸島は、小豆島から西方、西《にし》讃岐《さぬき》の海上に点在して、いわゆる備前と讃岐の瀬戸に位置する本島、与島、広島、佐柳島、高見島、粟島《あわしま》などを総称した。
行長は、この小豆島ならびに塩飽諸島を領有していた。
(当時、渡来した宣教師クラッセは、その記述の中で、『……羽柴秀吉《はしばひでよし》は、日本国宰相となるや、実子の如《ごと》く愛した若き大名ドン・オギュスタン〔行長の教名〕を、水師提督として云々《うんぬん》』とふれている)
したがって、行長が、関ケ原役で敗走し、伊吹《いぶき》山の東北にある粕川《かすがわ》谷で捕えられて、刑死するや、その残党が、瀬戸内海に遁れて、小豆島か塩飽諸島の中に、身をひそめ、海賊となっても、べつにふしぎはないのであった。
「お主は、関ケ原役に於《お》いて、西軍が敗北した真の原因を知らぬであろう。世間では、あの決戦に於いて、石田|治部少輔《じぶしようゆう》殿と盟を誓った金吾中納言秀秋《きんごちゆうなごんひであき》が、裏切ったために、西軍は総崩れになった、と取沙汰《とりざた》して居る。たしかに、小早川《こばやかわ》の裏切りは、西軍にとって、痛恨のきわみであった。……だが、まことの敗因は、関ケ原役以前にあった」
小西与五郎は、語った。
おのれらの主人小西行長は、最も熱烈な吉利支丹《キリシタン》信徒であった。泉州|堺《さかい》の薬種屋に生まれた行長は、幼い頃《ころ》から、湊《みなと》に入って来る外国船の異邦人と接する機会があり、布教のために渡来した宣教師にも可愛《かわい》がられたので、おそらく、十代にして、すでに、信徒であったに相違ない。
秀吉|麾下《きか》の大名たちが、つぎつぎと改宗したのは、行長の説く力が大きかったからである。
吉利支丹信徒たる大名――高山右近《たかやまうこん》、小西行長、黒田孝高《くろだよしたか》らの親交は、兄弟以上のものがあった。
高山右近と行長は、細川忠興《ほそかわただおき》も改宗させた。しかし、忠興は、生来、神仏を信仰できるような性情の持主ではなかった。
忠興は、その父|藤孝《ふじたか》(幽斎《ゆうさい》)と仲たがいし、弟興元とは義絶し、長子|忠隆《ただたか》を追放し、次男興秋を殺した人物である。
右近と行長は、忠興の残忍剛暴な気象を直すべく、熱心に吉利支丹信徒になるようにすすめたのであった。
忠興は、いったん表面では応じたものの、異邦の神など心から信ずる努力をしようとは、しなかった。その代り、妻(明智光秀《あけちみつひで》の女《むすめ》)に、
「耶蘇《ヤソ》教は、不幸不運に遭うた際、それに堪える力を与えてくれるものらしいぞ」
と、つたえた。
忠興の妻は、本能寺の変が起るや、良人《おつと》から一度離別されて、三戸野の山奥にとじこめられる不幸に遭っていた。山崎合戦の後に、秀吉の寛大なはからいで、良人の許《もと》に帰るのを許されたが、天下の謀叛人《むほんにん》の娘であることの辛《つら》さは、良人の立身出世とはかかわりなく、常に、彼女の魂の重荷になっていたに相違ない。
忠興の妻は、耶蘇教に帰依《きえ》し、最も熱心な信徒となった。
ガラシヤという教名を得た彼女の熱心な信仰ぶりを知って、小西行長は、その良人忠興が、耶蘇教をきらう秀吉をはばかり乍らも、妻とともに、毎日、ゼズス・キリストを拝んでいるに相違ない、と確信した。
やがて――。
石田|三成《みつなり》が、家康《いえやす》打倒の|ほぞ《ヽヽ》をかためて、ひそかに、諸将を味方にひき入れはじめた時、小西行長も、耶蘇教の布教の自由を条件に、その企計に賛成した。
そして、細川忠興に、密書を送り、味方に加わるように、ともとめた。忠興の返書は、受諾であった。
実は、忠興は、行長の密書を、家康にさし出し、行長を裏切ったのである。
したがって、家康は、上杉景勝《うえすぎかげかつ》征伐の軍を起した時、自分の留守中、石田三成が挙兵するであろうことを、すでに知っていた。
細川忠興は、この上杉征伐軍に、すすんで乞《こ》うて参加した。
小西行長は、西軍が挙兵すれば、細川忠興が、必ず、家康を裏切って、上杉景勝とともに、東軍に襲いかかるであろう、と確信した。
ところが――。
忠興の方は、出征に際して、留守居の老臣を呼んで、
「石田治部少輔は、徳川内府打倒の挙兵をする。小西行長が、これに味方する。わしは、行長に、味方すると約束したが、嘘《うそ》だ。行長は、嘘と知れば、激怒するであろうし、三成は、妻を人質にしようとするに相違あるまい。その時は、そちは、容赦なく、室を斬れ」
と、命じておいたのである。
三
「……申さば、細川忠興は、われらがあるじ小西摂津守行長が、敵《かたき》である。われら旧家臣は、海賊となって、細川忠興に、復讐《ふくしゆう》を誓って居るのだ。……なお、当屋敷は、曾て、瀬戸の内海の船大将であった摂津守行長が別館であったのだ。われら一統は、旧主の館《やかた》にたてこもって、細川忠興に、ひと泡《あわ》噴かせてくれる計画を樹《た》てて居る。それゆえに、仲間にあらざる者は、当屋敷に住まわせておくことは、できぬのだ。……わかったか? わかったならば、早々に退散せい。それとも、仲間に加わるか?」
小西与五郎は、武蔵を説いた。
どのような手段で、細川忠興に復讐をするのか――それは、教えなかった。
細川忠興は、天正《てんしよう》の頃は、父藤孝とともに、丹後宮津十二万石の領主となり、秀吉の没後、豊後《ぶんご》国(大分県)杵築《きつき》に六万石の増封を受け、さらに、関ケ原役の後は、豊前《ぶぜん》小倉三十九万九千石の太守となっている。
小倉城には、嫡子忠利《ちやくしただとし》を置き、忠興自身は、杵築城に住んでいた。
おそらく――。
細川忠興父子が、江戸城あるいは駿府《すんぷ》城へ、ご機嫌《きげん》うかがいにやって来る際は、陸路ではなく海路をえらぶもの、と小西与五郎らは、にらんで、海上で襲う計画を樹てている、と思われる。
小西与五郎は、語りおわって、武蔵の返辞を、待っている。他の牢人《ろうにん》連も――小屋を包囲した面々も、息をつめて、一語も発しないでいる。
武蔵の方は、終始黙々と、作業をつづけていた。
与五郎が、ついに、かっとなって、
「返辞をせぬかっ!」
と、呶号をあびせた。
ようやく、武蔵は、口をひらいた。
「お主らは、勝手に復讐するが、よかろう。それがしのかかわり知らぬことだ。それがしは、この仏像が、完成したら、出て行く」
「莫迦《ばか》なっ! それでは、返答にならぬ。……よほど、腕に自信があるのであろうが、当方は、十六名。あとから、さらに、十三名が参るのだぞ。生きて、この岬《みさき》から去ることはかなわぬぞ!」
「…………」
与五郎は、ここで、もうひとつ、妥協の条件を出してみることにした。
「仲間に入るなら、大判二十枚出そう。どうだ?」
それをきいた妻六が、内心、
――わるくはない。
と、思った。
大判二十枚あれば、三年は寐《ね》てくらせる。居住不定の兵法者ともなると、これだけの大金があれば、十年ぐらい、悠々《ゆうゆう》と流浪《るろう》できる。
妻六は、武蔵がなんと返辞をするか、興味をわかせて、見まもった。
武蔵は、鑿を動かす手を止めた。
小西与五郎へ、冷たい眼眸《まなざし》をかえすと、
「それがしは、金子《きんす》を得るために、剣の修業をしたのではない」
と、こたえた。
「それは、判《わか》る。はじめて出会っただけで、お主が、只《ただ》の兵法者ではない、と判る。だからこそ、大判二十枚を出そうと申して居るのだ」
与五郎は、云《い》った。
「ことわる」
「どうしてもか?」
「くどいな」
「十六名に十三名、合せて二十九名を敵にまわして、闘って、生きのびることができるか?」
「できるかできぬかは、やってみなければ、わからぬ」
「不敵な度胸よのう。あの世へ送るのは、惜しい」
与五郎は、舌打ちした。
味方を幾人か犠牲にするのは、やむを得まい、と肚《はら》をきめたようであった。
殺せ!
与五郎は、左右の者へ、目くばせした。合図は、すばやく、外の者たちへも、送られた。
武蔵は、
「妻六、あずかってくれ」
と、舟に乗った如意輪観音《によいりんかんのん》を、投げて、受けとらせた。
矢文
一
ゆっくりと立ち上った武蔵の左手には、長船祐定《おさふねすけさだ》があった。
小西家残党は、頭領の小西与五郎を、土間に残して、八人が、広い板敷きへ上って来た。
残り七人は、小屋を包囲しているのであった。
牢人たちは、いずれも、武蔵と同年配の若さであった。一人、頭領だけが、四十前後であった。
如意輪観音をあずかった妻六は、武蔵の背後を守るように、後退して、息をのんでいた。
八本の白刃が、半円陣をとって、じりじりと、距離を縮めて来る。
まだ柄《つか》へも手をかけぬ武蔵の顔面には、表情はなかった。
もともと表情の乏しい武蔵であったが、吉岡一門との決闘の後は、さらに、無表情になり、仏像を彫っている時と、敵に肉薄されたいまと、その目つきは、ほとんど変っていなかった。
五体内に、闘志をひそめて、一瞥《いちべつ》平然とした態度をとっているのは、意識してそうしているのではなく、いまの武蔵にとって、闘うことは、仏像を作ることや魚を獲《と》ることや高処《たかみ》の木の実を叩《たた》き落すこととさして変らぬ行為だったからである。
いわば――。
吉岡兄弟を仆《たお》し、その一門を全滅せしめた時より、決闘者として、武蔵は、ひとまわり大きくなっていた。それは、しかし、人間ばなれした無気味な雰囲気《ふんいき》を、その長身からただよわせることになり、どうやら、武蔵には、しだいに、養父平田無二斎の孤独な姿が投影しつつあるようであった。
「死ねっ!」
呶号《どごう》とともに、正面の敵が、風を起して、斬《き》りつけて来るのを待って、武蔵の凄《すさま》じい業《わざ》が、発揮された。
見まもる伊賀《いが》の妻六さえも、躱《かわ》し、斬り、跳び、突く武蔵の速影を、しかと目で追うことは不可能であった。
生き残った者三人が、土間へ逃げた時、板敷きには、首のない屍体《したい》や、片脚を喪《うしな》って匍《は》う者や、咽喉《のど》から血汐《ちしお》を噴かせ乍《なが》ら、かっと天井を睨《にら》んだまま事切れている者や、袈裟《けさ》がけに斬られて、板壁に凭《よ》りかかり、がっくりとうなだれている者や、刀をつかんだ双手《もろて》とも、手くびから両断されて、ひいひいと呻《うめ》いている者が、血海の中にさらされていた。
小西与五郎は、両脇《りようわき》へ逃げて来た配下たちの、恐怖をかくしようのなくなった荒い息づかいをきき乍ら、武蔵を睨みあげて、
――とうてい人間とは思われぬ!
と、胸裡《きようり》で、呟《つぶや》いた。
主人小西行長にしたがって、朝鮮役にも、関ケ原役にも、矢玉の飛び交う戦場を馳《は》せまわって、十人以上も、おのが槍《やり》さきの贄《にえ》にした荒武者の与五郎であったが、文字通りあっという間に五人を斬りすてて、息遣いにみじんの乱れもみせぬ敵には、はじめて出会ったのである。
「お主――」
与五郎は、衄《ちぬ》れた白刃を携《さ》げて、うっそりと佇立《ちよりつ》する武蔵に、訊《たず》ねた。
「きっと名のある兵法者に相違ない。……きこう」
「播州《ばんしゆう》・新免伊賀守《しんめんいがのかみ》血族・宮本武蔵」
武蔵は、名のった。
「なに?!」
与五郎も配下たちも、愕然《がくぜん》となって、武蔵の顔を、見なおした。
室町兵法所吉岡道場を、孤剣によって、滅亡せしめた兵法者の名は、武辺ならば知らぬ者はいなかった。
小西家残党は、最もおそるべき強敵に、闘いを挑《いど》んだのである。
そして、一瞬裡に、五人を斬られたのである。
「お主が、宮本武蔵か!」
小西与五郎は、呻くように云った。
武蔵は、黙って、与五郎の視線を、受けとめている。
「……お主が、宮本武蔵ならば……、やむを得ぬ、仏像を彫りあげるまで、ここに逗留《とうりゆう》するのをみとめよう。但《ただ》し、われら一統が、何事を為《な》そうとも、知らぬ顔をしていてもらおう」
与五郎は、妥協してみせた。
武蔵は、無言をつづけている。
「よろしいな。われら一統が、何事を為そうと、お主には、一切かかわり知らぬことだぞ」
与五郎は、念を押した。
武蔵は、返辞をするかわりに、背を向けると、妻六から、如意輪観音を受けとった。
二
死傷者たちは、はこび去られたが、生血のにおいは、小屋中にたちこめていた。
壁にも天井にも、鮮紅が塗られていた。
武蔵は、しかし、平然として、血汐の彩《いろど》りと臭気の中に、胡座《あぐら》をかいて、作業を再開していた。
妻六は、母屋《おもや》へ入った小西家残党の様子をうかがいに、そっと忍び出て行ったが、ほどなく、戻って来た。
「武蔵殿、となりの棟に移りましょうぞ」
妻六は、顔をしかめ乍ら、すすめた。
「ここで、よい」
武蔵は、肯《き》かなかった。
「ここでは、居心地がわるうござろうに――」
「べつに、わるくはない」
――あきれたものだ。
妻六は、大急ぎで、畳や板敷きや壁の血汐を、拭《ふ》きとることにした。
武蔵が、ここに居坐《いすわ》らなければならぬ理由など、何ひとつないのであった。どうして、悽惨《せいさん》をきわめたこの小屋に、とどまるのか、妻六には、全く理解できなかった。
――こうときめたら、絶対に変更はせぬ、というところが、この兵法者の偉さかな。
妻六は、せっせと畳を拭き乍ら、口のうちで、呟いた。
たしかに、忍者崩れの盗賊である自分などが持ち合せぬ、一徹無比のしたたかな性根であった。
黄昏《たそがれ》を迎えて、妻六は、台所で、夕餉《ゆうげ》のしたくをはじめたが、生血のにおいは当分消えそうもなく、
――こんな室内で、飯を食うても、まずかろうに……。
と、思わざるを得なかった。
武蔵は、しかし、膳部《ぜんぶ》がはこばれると、
「馳走《ちそう》だな」
と云って、箸を把《と》り、またたくうちに、焼魚も味噌汁《みそしる》も、大椀山盛りの麦飯も、平らげた。
妻六は、膳部を台所に下げると、そのまま、外へ忍び出て行った。
武蔵は、黙々として、鑿《のみ》を動かしつづけた。
ものの一刻《いつとき》も過ぎ――戌刻《いぬのこく》(午後八時)頃《ごろ》、妻六が、影のように、戻って来た。
「武蔵殿、母屋には、あらたに十三名が、加わり申した」
「…………」
「後続の牢人どもは、お前様に五名が斬られたときくと、たとえ対手《あいて》が宮本武蔵であろうと、黙って看《み》のがすわけに参らぬ、と一時はさわぎたて申したが、頭領の説得で、ようやく、しずまり申した」
妻六は、おそらく、母屋の天井裏に忍んだに相違ない。
「ところで……、後続の牢人どもは、乗物をひとつ、かつぎ込み申したが――、その中には、人質が押し込めてござった」
「…………」
「その人質というのが、可哀《かわい》そうに、まだ十三、四歳の乙女でござる」
「…………」
武蔵は、鑿を使う手を止めて、妻六へ、視線を向けた。
「つまり、あれは、細川家の姫君に相違ござらぬ。……あやつらの話の様子では、江戸表へ、海路を往《い》く途中を、小舟で襲って、姫君を掠奪《りやくだつ》しておいて、船は供人もろとも焼いて、海底へ沈めた模様でござる」
「…………」
「小西家残党は、姫君を人質にして、細川侯をおどかす、という企てでござろうな。卑劣な手段でござるわい。……細川侯が、たぶん、目に入れても痛くないほど可愛がって居《お》られる姫君でござろうて。なにしろ、天女のように見目麗《みめうるわ》しゅうござる」
「…………」
武蔵も、曾《かつ》て、細川|忠興《ただおき》夫人は、大坂城の淀君よりも美しい、という噂《うわさ》を、耳にしたことがある。
その少女が、妻六をおどろかせる美貌《びぼう》をそなえているとすれば、ガラシヤという吉利支丹《キリシタン》教名を持った細川夫人の女《むすめ》に相違あるまい。
武蔵は、しばらく、完成した如意輪観音像を、じっと、見まもっていたが、
「妻六――」
と、呼んだ。
「はい」
「お主、その乙女を、小西家残党の手から、奪い取ることはできぬか?」
「武蔵殿!」
妻六は、ちょっと戸惑った面持《おももち》で、
「あの頭領は、自分らが何事を為そうと、一切かかわり知らぬことにしてくれ、とくどく念を押して居り申したが……」
「わしは、お主が、その乙女を、奪い取ることが、できるかできぬか、問うて居る」
「姫君を救うて、細川家へかえしてやろう、と申されるので――?」
「できるか、できぬのか?」
「それは……むつかしゅうござるが、やってやれぬことはない、と存ずるものの……」
「では、奪《と》ってくれ」
「お前様は、細川家になんぞ、恩誼《おんぎ》でも蒙《こうむ》って居られますのか?」
「いや、なにも、恩誼など、蒙っては居らぬ」
「それならば、むこうの申入れ通り、知らぬ顔をされて居られたならば……」
母屋にたてこもった小西家残党は、二十四名である。五名を斬られ乍らも、おのれらの復讐《ふくしゆう》のために、これ以上、頭数を減らしたくないので、宮本武蔵がここに居坐っているのを、黙許しているのである。
少女を奪う困難もさること乍ら、それはすぐに、こちらのしわざと知れる。武蔵は、二十四人を敵として闘わねばならぬ。仲間を斬られた憤怒に、復讐を邪魔された激怒を加えて、小西家残党は、悪鬼のごとく、襲撃して来るに相違ない。
「妻六、わしは、この如意輪観音の坐った舟を、その乙女の手で、海へ流してもらいとうなった」
武蔵は、云った。
「たったそれだけの理由で、生命《いのち》がけの危険を冒そうと申されるのか?」
妻六は、あきれて、武蔵を見かえした。
「うむ」
武蔵は、うなずいた。
三
妻六は、武蔵が、舟に乗ったこの如意輪観音を彫っているのは、武蔵のために死んだ二人の若い女子《おなご》の供養《くよう》のためだ、ときかされていた。
人質が、天女のように美しい少女ときいて、ふっと、その手で、海に流してもらおう、と思いついた武蔵の気持が、妻六にも、汲《く》みとれないわけではなかった。
しかし、なんとしても、これは、文字通り必死の冒険である。
少女を奪うのは、絶対に失敗してはならぬし、成功したところで、武蔵は闘わねばならぬ。
少女を奪って、気づかれぬうちに、闘わずして、ぶじに、この和田崎から、逃走することは、不可能事である。
――報告せなんだらよかった。
妻六は、悔いた。
「たのむ、妻六――」
武蔵は、頭を下げた。
頭を下げられると、妻六も、いまさら、いやとは云えなかった。
「承知つかまつった」
そうこたえざるを得なかった。
同時刻――。
細川家大坂屋敷には、国家老|長岡佐渡守《ながおかさどのかみ》興長が逗留していた。
今年度の収穫米を、大坂商人にいくらの価額で買わせるか、交渉をすませ、その報告に出府する予定であった。
ついでに、あとから、国許《くにもと》より海路を来ている姫君を、大坂屋敷に迎えて、江戸まで同道する手筈《てはず》になっていた。
去年、江戸城の大増築がはじめられてより、諸大名も、江戸屋敷を構え、妻子をそこに置くようになっていた。|てい《ヽヽ》のいい人質であった。
すでに、江戸幕府の礎《いしずえ》は不動のものとなって居り、諸大名は、あらそって、家康の機嫌《きげん》とりをしていた。
徳川家に対して、みじんの叛意《はんい》はない、という証拠を示すには、その妻子を江戸に置くのが、最も手取り早い方法であった。殊《こと》に、西国大名たちには、その必要があった。
細川家も、例外ではなかった。
忠興は、ガラシヤ死去後、正室を持たなかったので、最も寵愛《ちようあい》する末娘の千恵を、江戸屋敷に置くことにしたのである。
その千恵は、今日、大坂屋敷に到着するはずであったが、まだ、舟が湊《みなと》に入ったという報《しら》せはなかった。
――時化《しけ》にでも遭うて、おくれて居るのであろう。
長岡佐渡は、さして気にもせず、大坂商人との交渉を予算通りにすませたゆとりを、茶室の点前《てまえ》に示していた。
そこへ――。
あわただしく、家臣の一人が、血相変えて、走って来て、
「斯様《かよう》な矢文が、射込まれました」
と、さし出した。
披《ひら》いた佐渡の顔色も、さっと一変した。
[#1字下げ] 小西|摂津守行長《せつつのかみゆきなが》旧臣口上
[#1字下げ]君父の仇は、倶《とも》に天を戴《いただ》かず。関ケ原役に於《お》ける細川忠興が、われらの主人に対する裏切りは、許すべからざるものあり。生き残った旧臣一統、苫《とま》に寐《い》ね、干《たて》を枕《まくら》にしても、他家に仕えず、必ずや、細川忠興に報復せんと誓い合い、ついに、今日、その機会をとらえたり。忠興がむすめ千恵の身柄《みがら》は、わが一統の手中にあり。われらは、すでに、忠興が、むすめ千恵を、将軍|秀忠《ひでただ》に、養女としてさし出さんという意嚮《いこう》を抱くことを知れり。忠興が是非にも千恵をとりもどさんと欲するならば、われら小西摂津守旧臣の要求するところを、無条件に容《い》れるべし。その要求するところは、明日、再び、矢文を以《もつ》て、明かにいたさん。
「なんということだ!」
長岡佐渡は、小西行長が瀬戸内海の船大将であったことを思いうかべ、千恵姫をあとから船で大坂へ来させたおのれの不明を、責めた。
しかし、悔いは先に立たなかった。急遽《きゆうきよ》、対策をたてて、姫をとりかえさなければならなかった。
供養舟
一
その宵《よい》は、篠《しの》を突く、という形容のふさわしい激しい雨が降っていた。
戌刻《いぬのこく》(午後八時)過ぎた頃《ころ》からは、烈風が加わり、季節はずれの颱風《たいふう》が襲いかかった模様であった。
武蔵が居坐《いすわ》っている小屋は、破れた屋根から、瀑布《ばくふ》のように、なだれ落ちて来たし、はずれかかった戸や板壁が、ひきめくられて、吹きとばされた。
武蔵は、押入れに身を避けていた。
「この風雨は、天佑《てんゆう》でござる」
伊賀の妻六が、にやっとして、出て行ってから、そろそろ一刻《いつとき》が経《た》っていた。
彼処此処《かしこここ》で、何かが吹きとばされる凄《すさま》じい音が、起っていた。この小屋すらも、そのうち、吹きとばされるのではあるまいか、と思われるくらい、風雨の勢いは増していた。
武蔵は、腕組みして、目蓋《まぶた》を閉じていた。
妻六が、この荒天を利用して、どのような方法で、細川忠興の息女を救い出して来るか、武蔵は、興味があった。
少女は、乗物に押しこめられたまま、母屋《おもや》の中央に、据《す》えられている、という。
その乗物のまわりに、小西家残党二十四人が、詰めている、という。
尋常の手段では、救い出せるものではあるまい。
母屋の屋根は、あまり破損していないので、雨漏りはすくないであろうが、雨戸などは吹きとばされる危険があるので、牢人《ろうにん》連は、せわしくその手当をしたりしているに相違ないであろう。妻六は、その隙《すき》をうかがって、救出の思案をめぐらしているのであろうが、それにしても、武蔵の推測の範囲内では、牢人連の目につかぬように、その乗物の中から、少女を、こっそり連れ出すのは、不可能に近いことだった。
しかし、妻六は、伊賀の忍者である。すでに、ここから出て行く時に、ある程度の救出方法を思いついていたに相違ない。
……さらに、半刻あまりが過ぎた。
武蔵は、急に、きき耳をたてた。
――戻って来た!
風雨の音の中から、人の奔《はし》って来るのを、察知する直感力を、この兵法者は、そなえていた。
はたして――。
土間へ跳び込んで来た黒影が、稲妻の閃光《せんこう》に、浮きあがった。
妻六は、少女を背負っていた。
武蔵は、如意輪観音《によいりんかんのん》を包んで、背負うと、押入れから出た。
「よくやった」
「ひと苦労でござった」
「どうやって、救い出した?」
「床下へもぐって、床板と乗物の底を、破り申した。その前に、睡《ねむ》りを催す烟《けむり》を、乗物に送り込んでおいたので、この姫君は、明日の午《ひる》あたりまでは、正体はなくなって居りますわい」
「よし、行こう」
「このぶんでは、面々は、朝までは気がつき申すまい。この風雨、まさに天佑でござるて」
武蔵は、仏像を背負い、妻六は、少女を背負うて、烈風の吹きまくる雨中へ出た。
その小屋は、北隅《ほくぐう》にあり、だらだら坂を下って母屋へ突きあたり、高い内仕切の築地塀《ついじべい》に沿うて、まわって行かなければ、木戸へ達しないのであった。
木戸を抜けると、恰度《ちようど》城郭の枡形《ますがた》構造になって居《お》り、空濠《からぼり》に橋が架けられ、方形の広場のむこうが高麗門《こうらいもん》である。
広場の左方は、石垣《いしがき》で塞《ふさ》がれ、右方は櫓《やぐら》になっている。
高麗門を出ると、また橋である。
むかしは、「倭寇《わこう》」の頭領の住居であり、また、太閤秀吉《たいこうひでよし》の休息所にもなったので、こういう、防禦《ぼうぎよ》の上で完全な枡形門が、設けられたに相違ない。
それゆえにこそ、小西家残党は、ここを砦《とりで》として拠《よ》ることにしたのであろう。
武蔵は、妻六を先に立てて、内仕切の築地塀に沿うて、急いだ。
稲妻が、閃《ひらめ》く一瞬の外《ほか》は、|しん《ヽヽ》の暗闇《くらやみ》であった。
不測の偶然が起らぬ限り、屋敷から脱出できるはずであった。
母屋では、その不測の偶然が、起っていた。
突然、屋根が破れて、乗物の上に、ざあっと、滝になって、降りそそいで来たのである。
牢人者たちは、あわてて、乗物を移そうとして、中から人質が消えているのに気がついた。
「あいつだ! 宮本武蔵めのしわざだぞ!」
二
母屋内が、騒然となったのを、武蔵が察知したのは、木戸を抜けようとした時であった。
「妻六、彼奴《きやつ》ら、気づいたぞ!」
「しゃっ! 気づくのが、ちと、早すぎたわい!」
「わしが、ここで、くいとめる。お前は、趨《はし》れ! 武庫川が海に入る際《きわ》に、松林がある。そこで、待て――」
「承知つかまつった」
武蔵は、妻六が駆け出て行くと、稲妻の閃光で、空濠の深さをはかった。
とび込んで、すぐに、よじのぼることは、困難であった。
――この橋で、一応、くいとめられる。
そして、次に、方形の広場で、闘い、残った敵は、高麗門の狭い入口で、片づける。
とっさに、そう思いきめた武蔵は、枡形内の橋の上に、立った。
母屋から、どっと、小西家残党が、奔り出て来た。
折から、雷鳴がすぐ頭上で天を裂いて、橋上の武蔵の姿を、ぱっと、浮きあげた。
「いたぞっ!」
どっと、殺到して来たものの、暗闇にかえると、渠《かれ》らの視力は、完全に喪《うしな》われた。
けもの同様な山中ぐらしをして来て、闇に利《き》く目と直感力をそなえた武蔵に、橋を占められては、手も足も出ないかたちであった。
「矢と槍《やり》を、飛ばせ!」
流石《さすが》、頭領の小西与五郎の智能は、すばやく働いた。
十数本の矢と五本の槍が、橋上めがけて、放たれた。
稲妻が、そこを真昼にかえした瞬間、もはや、武蔵の姿は、そこから、かき消えていた。
その時、数人が、松明《たいまつ》をかかげて、母屋から、駆け出て来た。
烈風に吹きまくられる松明の火焔《かえん》が、方形の広場まで、照らした。
「居らぬぞ! 逃げたなっ!」
まず、松明をかかげた者が、橋を駆け渡った。
その刹那《せつな》であった。
橋袂《はしたもと》の、濠の石垣に吸いつくように身を伏せていた武蔵が、鳥が飛び立つがごとく、躍りあがった。
あっ、という間に――。
四本の松明が、刎《は》ねとばされて、空濠の底へ、落ちた。空濠といっても、この豪雨で泥水《どろみず》が溜《たま》って居り、炎は細くなり、そして消えた。
次の瞬間から、雨と風のなぐりつけて来る暗闇の中で、武蔵のふるう祐定《すけさだ》の、肉と骨を断つ働きが、開始された。
「あっ!」
「う、うっ!」
「ぎゃっ!」
「ひっ、ひいっ!」
斬《き》られ、突かれて、ほとばしらせる絶鳴や呻《うめ》きが、烈風の唸《うな》りにないまざった。
稲妻に照らされたそこには、すでに、六、七人が、仆《たお》れていた。
武蔵は、枡形の広場を掠《かす》めて、高麗門の内に、身を移していた。
どうやら、あらたな松明の用意がない模様であった。
その代り、高麗門めがけて、次つぎと火矢が、飛ばされて来た。
武蔵は、左方の石垣に、背をつけていた。
火矢は、武蔵を狙《ねら》っているのではなく、右方の櫓を焼いて、そこを、照らそうとしている目的を持っていた。
――おれが、遁走《とんそう》せずに、ここに踏みとどまって、闘うと看《み》て取ったか。
武蔵は、小西与五郎の読みの深さに、敬意をおぼえた。
櫓を燃えあがらせば、この和田崎から、かなり遠くまで照らせるのである。屋敷から、なだらかな坂道はまっすぐに、彼方《かなた》の西国街道へ通じている。左右は、野がひろがっていた。
雨がおとろえる代りに風が凄じく、海原から吹きまくって来ているのであるから、櫓が燃えれば、火の粉は、坂道へ向って、飛んで行く。
少女を背負った妻六の姿が、見分けられるおそれがあった。
武蔵は、櫓へ奔った。
外の壁に突き刺さった火矢は、すてておいても消えるが、内部へ射込まれた火矢は、消さねばならなかった。
「櫓へ入ったぞ!」
その叫びをききつつ、武蔵は、階段を馳《は》せのぼると、数本の火矢を、片はしからたたき消し、踏みにじった。
敵は、階下へなだれ込んで来た。
武蔵は、櫓の窓から、高麗門の屋根へ、跳躍し、そこから、門外の刎ね橋へ、とび降りた。
すでに、二手に分れて、その刎ね橋を駆け渡って、妻六のあとを追跡しようとしている牢人者が、七、八人いた。
武蔵は、背後から、無言で、襲いかかった。
牢人者たちは、よもや、武蔵が、頭上から襲って来るとは、予想していなかったので、疾駆の跫音《あしおと》をきいたが、味方と思って、振りかえらなかった。
瞬時に、二人は斬られて、その悲鳴で、武蔵と知った牢人者たちは、
「おっ!」
「くそっ!」
と、向き直った。
武蔵は、終始無言で、一人また一人と、祐定の贄《にえ》にした。
やがて、闘いの場が、坂道の中ほどに移った時、ようやく、櫓が、炎々と燃えあがり、高麗門から、どっとひと群が、奔り出て来た。
そして、渠らが、そこに至った時、先手の追跡者連は、一人残らず、地上に横たわっていた。
武蔵は、逃げようとはしなかった。
「小西与五郎殿、すでに、半数以上が斃《たお》れた。細川家息女は、遠くへはこび申した。追っても、無駄《むだ》と知られい。……この上は、お手前とこの武蔵との一騎討ちにて、決着をつけ申そう」
三
夜が明けると、嵐《あらし》は嘘《うそ》であったかのように、雲片をとどめぬ空が、ひろがっていた。
海原のうねりは大きく、潮騒《しおさい》の音は高かったが、松の疎林《そりん》にさし込む陽《ひ》ざしは、明るく静かであった。
「あっ、あーあっ!」
幹に凭《よ》りかかっていた妻六は、睡気を押えた大あくびをした。
その膝《ひざ》には、少女が、首をのせて、昏睡《こんすい》状態をつづけていた。
陽ざしが、その顔にあたり、白磁のような滑らかな肌理《きめ》の美しさを浮きあげた。
見下した妻六は、
「よくもまあ、こんなかたちのいい貌《かお》つくりができたものよの」
と、呟《つぶや》いた。
かすかにひらいた唇《くちびる》のあどけなさが、乙女の清純な麗《うるわ》しさを匂《にお》わせて、妻六の目を奪っている。妻六は、無類の子供好きであった。
こんな美しい乙女なら、家来になって、一生仕えてもいい気持になる。
――可哀《かわい》そうに、この姫の母君は、たしか、関ケ原役の直前に、大坂で殺された、ガラシヤという夫人だったな。
こうやって、救い出してみると、武蔵の決意が、今更に、有難いものに、思われる。
「はて、もう、そろそろ、参られてもよいはずじゃが……?」
妻六は、木立をすかし視《み》た。
と――。
武庫川の磧《かわら》を、ゆっくりとひろって来る武蔵の首が、土手越しに、のぞいているのが、望見された。
「おーい!」
妻六が、呼んだ。
「ここでござるぞ!」
武蔵は、土手をあがって来た。
「いやあ、なんとも、上首尾でござった。……薄傷《うすで》も負うて居られぬとは、やはり、天下無双の兵法者でござる」
武蔵は、冷たい眼眸《まなざし》を、細川|忠興《ただおき》の息女千恵の寐顔《ねがお》へ、落した。
「…………」
口はひらかなかったが、その清浄な美しさには、心惹《こころひ》かれたようであった。
「あの二十四名を、ことごとく斬られ申したかな?」
「いや、頭領と一騎討ちして、決着をつけて来た」
武蔵は、こたえた。
小西与五郎の左腕を、刎ねたのであった。
午を迎えて、千恵は、ようやく、目覚めた。
起き上った千恵に、妻六は、自分たちが救い手であることを説明し、
「船で、どちらまでお行きなされることになって居りましたかな?」
と、訊《たず》ねた。
「大坂屋敷へ参るところでした。家老の長岡佐渡《ながおかさど》が待っていてくれます。佐渡と一緒に、江戸表へ参るのです」
千恵は、はきはきと、こたえた。
あのようなおそろしい目に遭い乍《なが》ら、その恐怖を忘れているかのように、眸子《ひとみ》は澄んでいた。
武蔵は、少女の頸《くび》にかけられている十字架を、眺《なが》めた。
――母に教えられて、吉利支丹《キリシタン》信者になって居るのか。
吉利支丹信徒が、天国《はらいそ》とやらへ行けると信じて、どんなおそろしい責苦にも堪えて、よろこんで死んでゆく、という話を、武蔵も、耳にしたことがあった。
「では、姫様、われらが、大坂のお屋敷まで、お送りつかまつる。……その前に、貴女《あなた》様に、して頂きたいことがござる」
そう云《い》って、妻六は、武蔵を見上げた。
武蔵は、舟に乗った如意輪観音を、さし出した。
「………?」
不審げに仰ぐ千恵に、武蔵は、たのんだ。
「この舟を、そなたの手で、海へ流して頂きたい」
「はい」
千恵は、すなおにうなずくと、舟を受けとって、起《た》ち上った。
三人は、浜辺へ出た。
千恵は、裾《すそ》を膝までたくしあげて、遠浅の渚《なぎさ》へ、入って行った。
遠くから幾段にも起って、ざざっと打ち寄せる波は、白い淡い泡沫《ほうまつ》をのこして、砂地を、滑らかに撫《な》で乍ら、すうっと引き去る――その動きを、あくことなく、つづけていた。
千恵が、妻六につき添われて、足がさらわれるほどの距離まで出て行って、そっと、仏像舟を、波にのせるのを、武蔵は、見まもっていた。
べつだんの感動もおぼえてもいない無表情であった。
山犬
一
「うっ、寒い!」
髭《ひげ》むくじゃらの猟師が、雑木林を抜けて来た。鉄砲をかつぎ、手に雉《きじ》を携《さ》げていた。
「今年は、冬が、早う来そうじゃ」
なだらかな丘陵の斜面にさしかかって、胴ぶるいし乍ら、呟いた。
ここは、丘陵というよりも、荒丘といった方がふさわしい。
立木はすべて、枯れて、斜面はほとんど赤土の肌《はだ》をむき出していたし、幾重にも濠《ほり》が麓《ふもと》をとり巻いているが、涸《か》れてしまっていた。
兵火に遭うて、焼きはらわれた荒寥《こうりよう》たる景色が、寒空の下にひろがっているのであった。
伊丹城址《いたみじようし》であった。
濠と塁《とりで》が、曾《かつ》てここに城砦《じようさい》があったことを示している。
永正十六年、伊丹兵庫助という豪族が、ここに城砦を築き、天正《てんしよう》のはじめ、織田信長《おだのぶなが》に滅された。天正六年十月に、荒木村重《あらきむらしげ》が、この城に拠《よ》って、信長に叛《そむ》いた。荒木村重は、信長|股肱《ここう》の驍将《ぎようしよう》であり、忠節にはげんだ武将であった。
村重の謀叛《むほん》は、信長にとって、信じがたいことであった。その説は、明智光秀《あけちみつひで》が讒言《ざんげん》したとか、村重の家臣が、米を大坂本願寺にひそかに売ったのが露顕して、その罪をおそれて、毛利《もうり》側についたとか、いろいろあるが、真相は、ついに判《わか》らなかった。
荒木村重は、きわめて軽い武士であったのを、信長によって、とりたてられ、異数の立身出世をした武将であった。
この点、明智光秀と似ている。
信長は、二人の股肱に、裏切られ、その一人に殺されたことになる。
信長は、村重が自分に叛いて、毛利側についたと知るや、まず、武力の代りに、さまざまの手段をつくして、懐柔しようとした。それが徒労におわるや、信長は、猛然たる攻撃にうって出た。
荒木村重の勢力は、摂津から播磨《はりま》にまたがっていた。村重の両翼は、高槻《たかつき》城主高山|右近《うこん》と茨木《いばらき》城代|中川清秀《なかがわきよひで》であった。
天正六年十一月、信長は自ら出陣して、山崎に本陣をさだめ、高山右近の高槻城に向っては、信忠《のぶただ》・信雄《のぶかつ》・信孝《のぶたか》の三子に、不破、前田、佐々原、金森、日根野兄弟を従わせて、向わせ、中川清秀の茨木城に対しては、滝川《たきがわ》、明智、丹羽《にわ》、蜂屋《はちや》、氏家、伊賀、稲葉らの諸将を向わしめた。
信長は、高山右近に対しては、渠《かれ》が熱烈な吉利支丹信徒であるのを逆に利用して、
「城を明け渡さざる上は、伴天連《バテレン》という伴天連をことごとく捕えて、殺戮《さつりく》し、耶蘇《ヤソ》教を日本全土から払うが、それでもよいか」
と、威嚇《いかく》した。
右近は、師父オルガンチノに、密書を送って、教えを乞《こ》うた。右近は、妻と子二人を、荒木村重の伊丹城に質子《ちし》として送っていたので、非常に苦悩したのである。
師父オルガンチノは、信長の許可を得て、高槻城に入り、右近を説いた。
説得は、効を奏し、右近は、高槻城を出て、郡山《こおりやま》に本陣を進めて来た信長の許《もと》に伺候して、平伏した。一方、右近の父|飛騨守《ひだのかみ》は、伊丹城に入って、右近の苦衷を伝えて、質子の命乞いをした。村重は、それを諒《りよう》として、右近の妻子を、飛騨守に返した。
茨木城に拠っていた中川清秀の方は、もともと荒木村重の謀叛に賛成ではなかった。ゆきがかり上、石田伊予、渡辺勘太夫とともに、茨木城に、たてこもったのである。したがって、戦意がなく、機をつかんで、石田、渡辺の両名を追い出して、城門をひらいた。
高槻、茨木の両翼を殺《そ》いだ信長は、
「村重の治める領土は、家屋はすべて焼きはらい、住民を容赦なく殺し、見せしめにせよ」
と、残忍酷薄の命令を下した。
――ご領主が叛いたので、自分らは、このような生地獄に遭うのだ。
と、領民一同に、怨嗟《えんさ》の声をあげさせる。これが、信長のやりかたであった。
摂州に於《お》いては、これがため、甲山《かぶとやま》から須磨《すま》、一谷まで、民家には火が放たれ、僧俗老幼男女のきらいなく斬《き》り殺され、神社も仏閣も烏有《うゆう》に帰してしまった。
そして――。
織田勢は、十二月八日、南北三町東西二町の有応山にある伊丹城を、総攻撃した。しかし荒木勢の抵抗は、頑強《がんきよう》であった。
信長は、持久対策をとらざるを得なかった。
伊丹城は、翌年――天正七年十月まで、もちこたえた。凄《すさま》じい忍耐力といえた。
ところで――。
城主荒木村重自身は、天正七年九月二日に、ひそかに伊丹城を忍び出て、尼崎《あまがさき》城へ身を移している。もはや、籠城《ろうじよう》不可能と知って、再起をはかるべく、本城をすてた次第ではなかった。すなわち、毛利|輝元《てるもと》の率いる水軍が、一挙に援《たす》けに来て、西宮附近に上陸する報に接したからであった。
それは、虚報であった。あるいは、滝川|一益《かずます》の巧妙な計略にひっかかったのかも知れぬ。
二
主人のいなくなった伊丹城は、それから一月後に、陥落した。
主人村重が遁走《とんそう》したのではないことは、充分承知してい乍らも、やはり、籠城将士の士気の衰えは如何《いかん》ともしがたく、留守居筆頭荒木久左衛門は、忍耐力が尽きて、城をひらき、妻子を人質として、織田|信澄《のぶずみ》に渡しておいて、尼崎へ趨《はし》った。
村重の方は、なお、毛利輝元の救援を、かたく信じて疑わず、尼崎城に拠って、その水軍の到着を待っていたので、伊丹城を織田勢に明け渡して来た荒木久左衛門に激怒して、城へ入れるのを拒否した。久左衛門は、伊丹城へ還《かえ》ることも許されず、それなり逃亡してしまった。
信長は、村重が、尼崎城に拠って、降伏する気色をみせぬと知ると、
「よし、それならば、見せしめのため、一族男女のこらず処刑してくれる」
と、残忍無比な手段をとった。
すなわち。
尼崎附近の七松に於いて、まず、伊丹城から曳《ひ》き出した百二十二人の婦女子を、磔刑《はりつけ》に処した。
次いで、召使いの女三百八十八人、歴々の女房に仕えていた若党百二十四人、合計五百十二人を、四軒の家に押し込め、四方に乾草《ほしくさ》を積み、火を放って、焼き殺した。
さらに――。
伊丹城人質のうち、重臣の妻及び息子たちを、車一|輛《りよう》に二人宛乗せて、洛中《らくちゆう》をひきまわし、すべて、六条河原で斬首《ざんしゆ》した。
荒木久左衛門の息子十四歳、伊丹安太夫の息子八歳は、六条河原にひき据《す》えられるや、自若として、みじんの恐怖の色をみせず、敷皮の上で、まっすぐに頭を立てて、首を刎《は》ねられたが、数千の見物人は、そのあっぱれな最期《さいご》ぶりに、泪《なみだ》を催さずにはいられなかった、という。
張本人の荒木村重は、毛利輝元の救援ののぞみがない、と知るや、尼崎から花隈《はなくま》城に移り、さらに、兵庫|湊《みなと》から、海上を備後《びんご》尾道に遁《のが》れ、毛利家の食客となった。
天正十年六月一日、信長が本能寺で果てるや、村重は、羽柴秀吉《はしばひでよし》と毛利輝元との間をとりなし、おかげで、摂州|菟原《うばら》に所領をもらって、茶道|三昧《ざんまい》の余生を送り、天正十四年に逝《い》った。
このような悲惨な歴史を持つ伊丹城址は、怨《うら》みをのんで死んで行った人々の迷魂が、さまようと、噂《うわさ》されて、地下人《じげにん》でも近づく者はなかった。
供養《くよう》のために、城址の傍に、墨染寺が建立《こんりゆう》され、荒木家将卒の墓がたててあったが、詣《もう》でる人は稀《まれ》であった。
この荒城の址《あと》に、一人の猟師が、住みついたのは、つい数年前からであった。
この男は、大手門のあった広い空地に、人の身丈《みのたけ》の二倍はあろう高い木柵《もくさく》をめぐらして、その囲い内に、獲《と》って来たけものを、飼いはじめたのである。
けものは、狐狸《こり》や鹿《しか》や猪《いのしし》ではなく山犬であった。狐狸も獲ったが、これは、殺して、皮を剥《は》ぎ、鹿や猪は、肉を乾《ほ》して、金にかえた。
山犬だけは、罠《わな》を仕掛けて、生捕ると、囲い内で、飼った。
墨染寺の老いた住職は、猟師に、いったいどうするつもりか、と訊ねた。
猟師は、笑って、
「飼い馴《な》らして、芸など仕込み申そうかと存じて居りますよ」
と、こたえたことだった。
猟師は、六十年配で、顔面に刀槍創《とうそうきず》の痕《あと》があり、元は武士であったことは明白であった。
山犬は、決して飼い馴らせるものではない、と判っていたが、猟師自身がそうこたえる以上、墨染寺の住職は、薄気味わるく思い乍らも、その吠《ほ》え声をきいているよりほかはなかった。
生捕られた山犬は、いまでは、二十数匹いた。
一匹が吠えはじめると、他がすべて、これに合し、墨染寺の住職は、ねむれぬ夜が多かった。
また、春情の季節に、雌を争う雄どもの喧嘩《けんか》の凄じさは、住職に、一匹のこらず毒殺してやりたい衝動を起させた。
木柵の隣に建てた小屋に住む猟師が、よくも平気でいられるものだ、とあきれないわけにいかなかった。
三
元武士の老いた猟師は、雉を携げて、小屋へ戻りついた。
と――。
不意に、鋭い懸声が、囲い内から、ひびいて来て、猟師は、はっとなった。
いそいで、小屋を出た猟師は、木柵に梯子《はしご》がたてかけられているのを、みとめた。梯子は、いつもは、小屋の裏手に置いてあるのであった。
「なんとしたぞ?」
猟師は、梯子をのぼって、囲い内を、見下して、目をみはった。
まだ十二、三歳の少年が、小刀を抜きはなって、むらがって来る山犬どもに、必死の構えをみせているのであった。
「これっ! わっぱ、いったい、なんのまねをして居《お》る?」
猟師は、おどろきあきれて、咎《とが》めた。
「見た通りじゃ。こいつらを、何匹斬れるか、ためして居るんだ!」
少年は、こたえた。
宮本武蔵の唯一《ゆいいつ》の弟子|伊織《いおり》であった。
「ばかなまねは、止《や》めにせい。食い殺されてしまうぞ」
「おいらは、天下一の兵法者になるんじゃ。そのための修業じゃ! ……黙って、眺《なが》めて居れ、おっさん――」
「あきれたわっぱだ。一つしかない生命《いのち》を大切にせい。……山犬|対手《あいて》の兵法修業なんぞ、きいたことも見たこともないぞ」
「見とれ、ちゅうんだ。……やるぞ!」
伊織は、叫びざま、跳躍した。
ぎゃん!
一匹の片脚が、高く刎ね飛んだ。
「いかん!」
老猟師は、叫んだ。血を見た山犬どもが、どれほど狂暴になるか、あまりにもよく知っていたからである。
血汐《ちしお》のしたたる野兎《のうさぎ》を投げ込んだ時の、山犬どもの悽惨《せいさん》な食い争いの光景が、老猟師に思い出された。
「わっぱ! 止めろ!」
老猟師は、絶叫した。
伊織の耳には、その絶叫は入らなかった。
天下一の兵法者になってみせる、と志を抱いているだけに、武蔵に置き去りにされてからも、山野や海辺や河原で、一人、修業をつづけていたとみえる。
その敏捷《びんしよう》な動きは、決して滅茶滅茶《めちやめちや》なものではなかった。
斬るのも、突くのも、薙《な》ぐのも、払うのも、一動作から一動作への継続に、隙《すき》がなかった。
たちまちのうちに――。
数匹を、地面へ斃《たお》れさせた。
そこは、畜生であった。仲間が血まみれになるや、その屍《しかばね》へ、二、三匹ずつ、くらいついた。
尤《もつと》も、跳ね躍る伊織に向って、間断なく襲いかかる山犬の数は、十匹以下に減ることはなかった。
ついに――。
背後から、襲った一匹に、頸根《くびね》を噛《か》まれて、だだっとつンのめって、伊織の動きは、止った。
「い、いたいっ!」
伊織は、自分自身の叫びで、意識をとりもどした。
屋内に寐《ね》かされ、頭にも頸にも、胸にも腕にも、布が巻きつけられていた。
疼痛《とうつう》に、顔をしかめ乍ら、視線を移すと、炉端に、老猟師の姿があった。
伊織の目を感じて、見かえすと、
「お前のように無謀なわっぱには、はじめて出会うたぞ」
と、云《い》った。
「おいら、まだ、修業が、足りねえや。……あと五年|経《た》ったら、あの山犬ども、一匹のこらず、斬ってみせる」
伊織は、云った。
「お前は、どうして、天下一の兵法者になる志を抱いたのじゃな?」
「おいらの父上は、むかし、ここにあった伊丹城を守っていた荒木久左衛門じゃった。……荒木久左衛門は、伊丹城をすてた卑怯者《ひきようもの》にされて、あっちやこっちへ、身をひそめて、罪人のように、くらさなければならなかったのじゃ。……おいらは、父上が、紀州の山奥でくらしている時、樵夫《きこり》の娘に生ませた子じゃそうな。……おいらは、父上から、今際《いまわ》の際《きわ》に、わしは決して卑怯なさむらいではなかった、ときかされたんだ。……荒木久左衛門の伜《せがれ》として、天下に名を挙げて、父が卑怯者でなかったことを、世間に知らせよ、と遺言されたんだ。……ほんとだぜ。おっさんは、ここに住んでいるからには、荒木久左衛門のことも、きいて居るのじゃろ?」
「うむ」
「おいらの父上は、決して、卑怯者ではなかったんだぞ。……荒木久左衛門の伜のおいらが、こんなに度胸があるのが、その証拠じゃないかよう。卑怯者から、おいらのような伜は、生まれるものかい!」
「うむ」
老猟師は、ふかくうなずいた。
「おっさん、信じてくれるんじゃな?」
「信じるとも! ……わっぱ。実は、このわしも、むかし、この伊丹城のさむらいであったのじゃよ」
「ほんとかい?」
「時雨源十郎、というのが、むかしの名前だ。……わしの父母も妻も、わずか二歳であったわが子も、ことごとく、織田信長のために、殺された。焼き殺されたのじゃよ」
「…………」
「この伊丹城が滅びたのも、原因をさぐれば、わが主君荒木|摂津守《せつつのかみ》が、毛利輝元にたぶらかされた故《ゆえ》だ。わが主君は、輝元にうらみをはらさんとして、わざと、毛利家の食客となられたが、ついに、その機会をつかみ得ず、逝かれた。……毛利輝元という大名こそ、ともに天をいただかざる仇敵《きゆうてき》なのだ。……関ケ原役に於いては、西軍総大将にされ乍《なが》ら、石田|治部少輔《じぶしようゆう》が敗れたときくや、倉皇として、大坂城西の丸を徳川家に明け渡して、木津へ逃げて、坊主頭《ぼうずあたま》になって、降伏し居った。……あの卑怯者を、わしは、討ってくれようと、志を立てて居るのだ。山犬を飼って居るのも、その目的ゆえなのじゃよ」
修羅賭場《しゆらかけば》
一
ところで――。
伊丹城址《いたみじようし》から二里ばかりはなれたところに鴻池《こうのいけ》村という小村があった。
二十年あまり前までは、山中信直という郷士が、閑居して、他には、百姓家が三、四軒ちらばっているだけであった。
山中信直は、山中鹿之介幸盛《やまなかしかのすけゆきもり》の叔父にあたり、弱冠にして、家を出て、諸国を遍歴した挙句、茨木の城代中川|清秀《きよひで》の食客となり、清秀の推挙によって、伊丹城主荒木|村重《むらしげ》に仕えて、股肱《ここう》の臣となった。
しかし――。
荒木村重が、主君|織田《おだ》信長を裏切って、毛利家につく肚《はら》をきめたのをさとって、激しく諫《いさ》めたが、肯《き》き入れられず、山中信直は、致仕して、喜楽と号し、この鴻池村に、閑居したのであった。
旧主村重が、伊丹城を忍び出て、尼崎城へ身を移した頃《ころ》、信直は、しずかに、他界していた。
その養嗣子《ようしし》に、甥《おい》の子の山中|新六幸元《しんろくゆきもと》がいた。すなわち、山中鹿之介幸盛の子であった。
新六は、九歳の時、偶然、伊丹城から曳《ひ》き出された百二十二人の婦女子が、織田信長の命令により、磔刑《はりつけ》に処せられるのを目撃し、幼童乍ら、武辺の残忍に、憤怒をおぼえた。
その記憶が、やがて、新六をして、十五歳の元服にあたって、両刀をすてさせた。
商賈《しようこ》として身を立てる|ほぞ《ヽヽ》をきめると、幸元の名を新《しん》右衛門《えもん》とあらためた。
若年にして、商人となった新右衛門は、さまざまな商いに、必死になったが、いずれも失敗した。
重い荷をかついで、戦乱の諸国を経巡《へめぐ》った挙句、故郷へ帰って来た時、新右衛門は、嚢中《のうちゆう》に、|びた《ヽヽ》銭しかなかった。
武庫川の磧《かわら》に腰を下して、茫然《ぼうぜん》と、流れを眺めやっているうちに、ふっと、ひとつの直感が脳裡《のうり》に、ひらめいた。
武庫川の水は、清く澄んでいた。
――そうだ。この水で、酒をつくろう。
そう思いついたのである。
鴻池村は、南に開けた高台にあり、北に満願寺、中山寺など山を背負い、西に武庫川が南流し、その対岸は、武庫山の東の裾《すそ》に通じていた。
東はややはなれて猪名《いな》川が流れ、その彼方《かなた》に千里丘陵がつらなり、大坂城下の北端に迫っていた。
高台からゆるやかに下った地点を、西国街道がのびて、古くから、京師より山陽道へ至る要所であった。
つまり、大変地の利を得ていた。
――酒を造って、大坂へはこんで、もうけよう。
新右衛門は、わが家に戻ると、養父が遺《のこ》した武具を売りはらって、それを元手にして、酒造りをはじめた。
しかし、その生業《なりわい》も、決して、順調にのびはしなかった。素人《しろうと》のかなしさで、醸造技術の修得が、はかどらなかった。
すでに、酒屋は、京都にも、伏見にも、大坂にも、たくさんあり、いずれも富裕で、その量産を競うていた。
当時の酒屋は、富裕ゆえに、土倉《どそう》と称して、質屋及び金貸業を兼ねていた。足利《あしかが》幕府は、これを援助して、独占的な地位を許可するとともに、酒屋役を課して、御用金を納めさせ、財政の窮乏をおぎなっていたのである。
足利幕府が滅亡し、信長が天下の覇道《はどう》を進み、その覇道を秀吉が受け継ぎ、そして徳川|家康《いえやす》が、そのあとを襲ったが、京畿《けいき》の酒屋は、独占的地位を失ったものの、依然として、富裕を誇っていた。
新右衛門が、伏見あたりの酒屋に、比肩《ひけん》せぬまでも、せめて、その膝下《しつか》ぐらいまで、身を起すには、よほどの才覚がなければならなかった。
身を粉《こ》にして、必死に働きつづけたが、新右衛門は、十年あまりで、やっと店を倍の大きさにできたにすぎなかった。
鴻池屋という酒屋が、その名を天下にひろめるようになったのは、全く突然の僥倖《ぎようこう》からであった。
慶長五年、関ケ原役で、石田|三成《みつなり》が敗北して、天下が徳川家康のものとなった――その年の冬のことであった。
ある日、鴻池屋では、召使いの下男が、なにかの落度があって、主人の新右衛門に激しく叱《しか》られた。下男は、奉公を止《や》めて、逃げ出すことにしたが、腹癒《はらい》せに、裏口の灰桶《はいおけ》を、そっと土蔵へかかえ込んで、その灰を、酒桶に投げ込んでおいて、行方をくらました。
次の日、新右衛門は、酒桶から柄杓《ひしやく》で汲《く》み出してみると、あきれたことに、昨日までの白く濁ったのが、清く澄んでいた。ひと口飲んでみると、まるで味がちがって、香もよかった。
どうしたわけかと、不審なままに、覗《のぞ》いてみると、桶底に、なにか溜《たま》った物があった。
それが灰であることは、逃亡した下男の仕業《しわざ》と判《わか》った。
その時代までの酒は、すべて濁酒であった。清酒はなかったのである。
二
濁酒に、灰を入れて、清酒を造ることを発見した鴻池屋が、一年も経たぬうちに、その名を天下に鳴らしたのは、いうまでもない。
あれから、六年――。
摂津国伊丹在鴻池村、鴻池屋の構えは、土蔵二十数棟をならべる、文字通りの日本一の酒屋になっていた。
村の戸数は、百余にも増していたし、西国街道、武庫川の水陸運送は、ひきもきらぬ繁昌《はんじよう》ぶりであった。
今日も――。
武庫川には、酒荷積み待ちの舟が、無数にならんでいた。
そして、待っているあいだ、彼処此処《かしこここ》で、番頭や人足たちが、磧に、茣蓙《ござ》をひろげて、博奕《ばくち》に熱中していた。
いずれも、骰子《さいころ》博奕であった。
後世の博徒の盆茣蓙と同様、二個の骰子を竹筒に入れて、からからと振って、ぱっと伏せるやりかたであった。
しかし、後世のそれとちがっているのは、丁半いずれかの勝負ではなく、四下という数できめる、親と客との勝負であった。
四下というのは、一・二・三・四の数字へ、客たちが、それぞれ、金を張る。四以上の数字の場合は、四を引いた残りの数字で、勝負する。
親は一人、客は幾人でもかまわなかった。
すなわち。
例えば、二に賭けた客は、一と一、二と四、三と三の目が出れば、勝であった。賭金は十倍になって、もどって来る。
そして、勝った者が親となり、親は張れぬ代りに、四以上の数字(例えば、四と五、五と五、五と六、六と六)が出た場合は、親は、総取りができる。
あちらでもこちらでも、歓声やら無念の叫びやらが、絶え間なくあがっていた。
そこへ――。
土手の斜面を、ゆっくりと降りて来た男があった。
人間ばなれした、といっても誇張ではない。六尺を二、三寸も超えた、顔面のなかばを、針のように太く濃い髭《ひげ》で掩《おお》うた巨漢――宍戸梅軒《ししどばいけん》にまぎれもなかった。
ずうっと見渡してから、一番多勢集って、どうやら賭金も最も多額らしい賭場へ、近づいた。
他の賭場から、見物に来て、人垣《ひとがき》がつくられていた。
梅軒が、後方から覗いてみると――。
でっぷりと肥えた、小袖《こそで》も上物の、いかにもたんまり金を持っているらしい五十年配の商人ていの男が、どうやら、ずうっと勝ちつづけている模様であった。
瓢《ひさご》の諸白《もろはく》を、銀の大盃《たいはい》へついで、口にはこび乍ら、十数人の客たちが、一・二・三・四と記した板の上へ、銭を張るのを、微笑して、眺めやっていて、
「よろしいかな、よろしいかな。……では、振り申すぞ」
と、竹筒を把《と》り、客の一人に、
「さ、抛《ほう》り込まれい」
と、さし出した。
二個の骰子が、投げ入れられると、わざと、頭上高く竹筒をさしあげて、からからと振り鳴らした。
二十幾つの目玉は、血走り、ぎらつき、なかば狂っているようであった。
男は、ぱっと茣蓙の上へ、竹筒を伏せると、
「さて、今度も、五かな六かな、それとも九か十か」
からかうように、云《い》った。
「はやく、あけろい、畜生め!」
「こんどこそ、四下だあ!」
「これで、七回目だぞ。こんど五つ上が出やがったら、おらア、嬶《かかあ》を女郎にたたき売らなけりゃならねえんだあ」
男は、
「それっ!」
と、竹筒を、あげた。
六と三――五であった。
「どうも、相すまんのう」
男は、愛嬌《あいきよう》たっぷりに、両手をついて、頭を下げた。
呶声《どせい》と悲鳴と呻《うめ》きと溜息《ためいき》が、ないまざった。
八回目も、そして、九回目も、四下は出なかった。
十回目になると、客たちの顔は、なにかにとり憑《つ》かれたような形相になっていた。
男は、ますますおちつきはらって、
「皆の衆、わたしは、これ一回で降りさせてもらいますからね、|いち《ヽヽ》か|ばち《ヽヽ》か、大きく、どおんと張って下さいよ」
と、あおった。
「野郎っ! 十回も五つ上が出るなんて、武庫川の水が、さかさに流れたって、あるわけがねえや」
「よおし、おれア、三だ」
「おれは、いっちょう、ぴたり一とゆくか」
胴巻きから、なけなしの銭を、出して、ばあんと張る者も出た。
一・二・三・四いずれの板の上にも、金が山と積まれた。
「では――」
男は、悠然《ゆうぜん》として、盃《さかずき》の一杯を飲み干すと、竹筒を把りあげた。
「よいかな、皆の衆、これぞ、千番に一番の兼ね合い、わしがすってんてんになるか、お前さんがたが素っ裸になるか――やってこまそ」
客の一人が、「おれが、投げ込んでくれる」と、ぱんぱんと柏手《かしわで》を打って、「八幡《はちまん》――大菩薩《だいぼさつ》!」と、拝んでおいて、二個の骰子を、ひとつずつ、竹筒の中へ、真上から、ぽんぽんと、落した。
男は、例によって、竹筒を頭上高くさしあげて、くるくるとまわすと、
「よいしょ!」
懸声もろとも、茣蓙の上へ伏せた。
三
息詰まる沈黙が来た。
口中をからからにかわかせた者もいたろう。有金を投じて、眼球がとび出さんばかりに、この一瞬に、全生命を賭けた者もあったろう。
「南無《なむ》!」
思わず、そうとなえる者もあった。
男は、集中して来た十余人の気魄《きはく》に、流石《さすが》に、からかいの言葉も出さず、ぱっと、竹筒をあげようとした。
刹那《せつな》――。
飛矢の迅《はや》さで、なにか黒いものが、竹筒をつかんだ手の甲に、ぐさっと突き刺さった。
それは、菱形《ひしがた》の忍び手裏剣《しゆりけん》であった。
「うっ!」
と、呻いた男は、童顔を一変させて、兇暴《きようぼう》な面相を、ふり仰がせると、
「な、なにをしやがる! どいつだ?」
と、呶鳴った。
「おれだ」
人垣のうしろから、宍戸梅軒は、応《こた》えた。
「て、てめえ、なんの、まねをしやがる?」
「おのれの胸にきけ、小悪党め!」
「な、なんだと?!」
「その竹筒の中の目は、五つ上だ。からくり骰子を使って居ろう。賭けて居る奴《やつ》らが、盲目であるだけの話だ」
「ほ、ほざきやがって……」
「竹筒をあげてみろ。たぶん、六と五の目だろう」
それをきいて、客の一人が、矢庭に、手裏剣を貫かれた男の手を、つかんで、竹筒をあげさせた。
まさしく、六と五の目が出ていた。
その瞬間――。
男は、肥満した躯《からだ》に似合わぬ敏捷《びんしよう》さで、はねあがると、後方へ跳び退った。
「野郎どもっ! 殺《や》れっ!」
その叫びに応えて、そこいらにごろごろしていた風態《ふうてい》の怪しい連中が、七、八人、一斉《いつせい》に立ち上ると、仕込杖《しこみづえ》から白刃を抜きはなった。
梅軒は、にやにやし乍ら、
「ひさしぶりで、宍戸|八重垣流《やえがきりゆう》を使えるのう。……よいか、塵屑《ちりくず》ども、あの世へ行ったら、閻魔《えんま》の前に、何者に殺されたか、報告せねばならんだろうから、拙者の名をきかせておいてくれる。……伊賀谷の頭領、宍戸梅軒だ。しかと、おぼえておけ」
と、云った。
破落戸《ごろつき》どもは、口々に喚《わめ》きたてつつ、包囲し、肉薄して来た。
梅軒は、ゆっくりと腰の黒い鉄棒を、抜きとった。
びゅんと、ひと振りするや、先端の環から、蛇《へび》のように鎖が延びて、そのさきの鉄の円球が、黒光りした。
梅軒は、鎖をつかんで、びゅんびゅんと、円球に弧を描かせて宙に溶きつつ、鉄棒を直立させた。
その鉄棒から、刃渡り一尺あまりの鎌《かま》が、はね出るや、遠巻きにした見物人は、どっと、どよめいた。
「どいつも、逃げるいとまはないと、覚悟せい。悲鳴をあげるいとまもないくらい早いところ、片づけてくれる。……ついでに、あの世への土産話に教えておいてやるが、この鎖鎌には、三年前、京都の室町兵法所|吉岡《よしおか》道場の当主はじめ、一門ことごとく討ち果した宮本武蔵といえども、屈服したのだ」
このうそぶきが、破落戸どもを、ひるませた。あきらかに、逃げ腰になった者もいた。
しかし――。
うそぶいたとみるや、もう次の一瞬には、梅軒は、身を躍らせて、かれらに逃走路を与えなかった。
それは、さながら、悪鬼か羅刹《らせつ》のあばれる修羅場であった。
円球で頭蓋《ずがい》を砕かれる者、鎌で首を刎《は》ねられる者。
梅軒のうそぶいた通り、悲鳴をあげるいとまさえもなく、七人の破落戸どもは、あっという間に、磧を朱に染めて、みにくい無慚《むざん》な屍骸《しがい》を、横たえていた。
重傷《ふかで》を負った者さえもなかった。ことごとく即死であった。
百人あまりの見物人は、声さえも立てず、あまりの凄《すさま》じい光景に、不動しばりに遭ったように、しいんとなっていた。
梅軒は、平然として、
「では、この賭金は、死んだ親玉に代って、供養料《くようりよう》として、わしが、もらって行くぞ」
と、かきあつめると、懐中にし、大股《おおまた》に、そこをはなれ、土手へのぼって行った。
意馬心猿《いばしんえん》鬼
一
「源十郎――」
遠くから、旧名を呼ぶ声が、つたわって来て、伊丹|城址《じようし》の小屋の炉端で、雉《きじ》の料理をしていた老いた猟師は、はっとなった。
荒木村重の近習であった時雨源十郎が、ここに小屋をつくって、猟師としてすごしていることは、誰人も知らぬはずであった。
伊丹城が陥落したのち、源十郎は、尼崎城に移って、主君村重に奉公をつづけた。
村重が、兵庫|湊《みなと》から海上を備後《びんご》尾道に遁《のが》れた際も、源十郎は、つきしたがっていた。
源十郎には、村重の真意が判《わか》っていたからである。おのれを裏切った毛利|輝元《てるもと》に、復讐《ふくしゆう》する|ほぞ《ヽヽ》をかため、その機会をとらえるために、わざと、毛利家の食客になったのである。
しかし、その機会は、ついに得られず、村重は、天正《てんしよう》十四年に、摂州|菟原《うばら》で、逝《い》った。
その臨終の枕辺《まくらべ》に、源十郎は、いた。
「源十郎、わしの生涯《しようがい》は、ばかげたものであったな」
村重の最後の言葉は、自嘲《じちよう》をこめたものであった。
その言葉は、源十郎の肺腑《はいふ》をえぐった。
村重は、きわめて軽い武士からとりたてられて、異数の出世をした武将であった。しかし、出世をするにつれて、村重は、主君信長について行けぬ自身を知るようになった。
信長の性情の酷薄残忍な一面に、村重は、嫌悪《けんお》せざるを得なかった。村重は、当時の武将としては、珍しく、書物に親しむ時間を多く取る人物であった。
すなわち、『君子の道』について、真剣に考えた人物であった。
『論語』にある。『君子の過《あやま》ちは、日月の蝕《しよく》の如《ごと》し』――君子というものは、決して、過ちを過ちとしてごまかさぬ。
子貢《しこう》は云っている。『君子は下流に居るを悪《にく》む。天下の悪、みな帰すればなり』――下流に居れば、世の中の悪事は、みなその一身に集って来る故《ゆえ》、君子は上流に立たねばならぬ。云いかえせば、上流に立つ者は、必ず君子でなければならぬ。
老子《ろうし》の言葉として、『史記』に記してある。『君子は、盛徳あるも、容貌《ようぼう》愚なる如し』――君子というものは、一見愚人のようである。
挙げれば、きりがないが、信長という大将の進む道は、その『君子の道』から、ことごとくはずれていた。
次第につのって来た嫌悪感が、ついに、村重をして、主君信長を裏切らせ、毛利輝元に味方せしめたのであった。
しかし、毛利輝元も、村重が恃《たの》むに足りる武将ではなかった。
祖父の元就《もとなり》、そして叔父の吉川元春《きつかわもとはる》、小早川隆景《こばやかわたかかげ》が偉すぎたせいもあり、輝元には、自主独往の強い精神力が欠けていた。
それゆえに、関ケ原役に於《お》いても、徳川家康から一杯食わされ、旧領中国八箇国を召上げられてしまったのであった。事実は、減封ではなく、改易であった。毛利家は、ようやく防・長二国を、輝元の嫡男秀就《ちやくなんひでなり》に与えられて、生き残ったが、島津や前田のような外様《とざま》とちがい、輝元自身は、祖父元就から受け継いだ中国八箇国を、完全に失ってしまったのである。
ともあれ――。
荒木村重は、憎むべき輝元を、討つ機会もなく、逝った。
時雨源十郎は、主人の最後の言葉をきいて、
――自分が、主《あるじ》に代って、輝元に復讐してくれる!
と、かたく誓いをたてたのであった。
そして――。
諸国|流浪《るろう》の果てに、この伊丹城址に小屋をつくり、猟師となって、毛利輝元が、参府行列を進めるのを待ちかまえているのであった。
――わしが、時雨源十郎と知っている者が、たずねて来たとは?!
源十郎は、すばやく、立って、板壁に見えぬようにかくしてあった槍《やり》を、つかみ取った。
片隅《かたすみ》に寐《ね》かされている伊織が、源十郎のただならぬ形相と振舞いへ、けげんな視線を送った。
二
「時雨源十郎は、ここか?」
戸口に近づいて来た者が、問うた。
「何者だ?」
「宍戸梅軒《ししどばいけん》だ」
「…………」
板戸をひき開けて、土間に入って来た梅軒は、
「久し振りだのう、源十郎」
と、にやりとした。
「お主!」
源十郎は、まだ槍をつかんだなり、警戒の目つきを変えなかった。
「ははは……、猟師は猟師らしい態度をせい。……その老齢で、武者ぶりの気色をみせてもはじまるまい」
梅軒は、板敷きに上って来ると、炉端に、どっかと胡座《あぐら》をかいた。
時雨源十郎が、梅軒と知り合ったのは、関ケ原役以後のことであった。
梅軒は、柳生宗矩《やぎゆうむねのり》に命じられて、豊臣《とよとみ》家恩顧の大名の動静をさぐるために、諸国を経巡《へめぐ》っていたのである。源十郎が、梅軒とはじめて、出会ったのは、長門国萩《ながとのくにはぎ》であった。慶長九年夏のことであった。
毛利輝元は、息子の藩主秀就が、まだ十歳であったので、隠居の身ではあったが、萩城を築いて、ここを中心として、防・長二国の体制をつくろうとしていた。
源十郎が、ほぼ完成した萩城を、濠《ほり》をへだてて、じっと眺《なが》めやっている時、不意に、背後から、声をかけて来た者があった。それが、宍戸梅軒であった。
梅軒は、伊賀《いが》の忍者であった。商人ていに身をかえている源十郎を、一瞥《いちべつ》して、武士だと看破《みやぶ》ったのである。
「お主も、間者か?」
梅軒から、いきなり、そう云《い》われて、源十郎は、とっさに、ごまかすことができなかった。
荒木村重の近習であり、毛利輝元に怨《うら》みを抱く者であることを、城下の旅籠《はたご》に泊ってから、源十郎は、打明けた。いや、梅軒の追及をかわしきれず、打明けざるを得なかったのである。
それから、一年後に、源十郎は梅軒と、江戸で再会している。
源十郎は、関ケ原役後は、この伊丹城址に小屋をつくって、住みつき、年に一度か二度、長州へおもむいたり、江戸へ出たり、復讐の機会をうかがっていたのである。しかし、梅軒には、ここに住みついていることは、教えてはいなかった。
「お主、どうして、わしが、ここに住んでいると知った?」
囲炉裏をへだてて、さしむかうと、源十郎は、訊《たず》ねた。
「おれが、伊賀の南谷の頭領であると教えたのを忘れたか、源十郎。……お主のかくれ家ぐらいつきとめるのに、なんの造作もない」
梅軒は、粗朶火《そだび》であぶられている串刺《くしざ》しの雉肉を、把《と》って、むしゃむしゃと喰《た》べはじめた。
「なんの用件があって、訪れて来たのだ?」
源十郎は、なお、警戒心を怠らぬ眼光を、梅軒に当てた。
「お主に、助太刀しようと思ってな」
「助太刀?」
「ははは……、お主は、まだ、毛利輝元を討とうという覚悟をすてては居《お》るまい。……おれが、助太刀しよう」
「…………」
「毛利は、将軍家にとって、やはり、邪魔な存在だ。とりつぶした方がいい。……輝元は知命(五十歳)を越えて居るし、せがれの秀就はまだ十二、三歳だ。この父子を、片づけると、あとには、長府で三万六千石をもらって居る秀元《ひでもと》(輝元の従弟)と、岩国で三万石をもらって居る広家《ひろいえ》(吉川元春の子)がのこる。……秀元と広家は、仲がわるい。秀元は、関ケ原役では、石田三成に味方して、輝元の名代格として、関ケ原へおもむいた男だ。これにひきかえて、広家は、はじめから石田三成に加担するのを反対した男だ。……秀元は、輝元に実子が生まれるまで、その養子になって居った。広家は、よくいえば思慮遠謀に富み、わるくいえば狡智《こうち》、小早川隆景の亡《な》き後は、小早川、吉川|両川《りようせん》の主流をもって任じて居る。そこでだ、輝元、秀就を、われわれが討ちとったら、そのあとは、ただでさえ仲のわるい秀元と広家が、対立して、毛利家のお家騒動が、はじまるは、必定。そこが、つけ目だ。幕府は、その騒動を名目として、毛利家をとりつぶす。……お主とこの宍戸梅軒の手柄《てがら》になる。……ははは、どうだ、お主とおれは、徳川家の旗本にとりたてられるぞ」
梅軒は、一気に、述べたてた。
黙って、粗朶火を見まもっていた源十郎は、
「あいにくだが……、この時雨源十郎、すでに老いぼれた。旧主の怨みを雪《そそ》ぐ気力も体力も失せて居る」
「嘘《うそ》をつけ! かくすな!」
「いや、まことだ。ここに小屋を建てたのも、織田信長に惨殺《ざんさつ》されて、迷魂をさまよわせて居る諸精霊を、弔うためだ。いまのわしには、供養《くよう》の気持だけしかない」
「ごまかそうとしても、この宍戸梅軒には、通用せぬぞ。おれが、お主の本名を呼んだら、槍をつかんで、殺気を放って来たのは、どうしたわけだ。報復の念を、燃やしている証拠ではないか。……それに、小屋に入る前に、木柵《もくさく》で囲った内をのぞいたら、山犬どもが飼われて居った。あの山犬どもを、けしかけて、毛利の行列を襲わせる存念とみたぞ」
三
片隅に寐ていた伊織《いおり》が、云いたてる梅軒の横顔を、憎悪をこめて、睨《にら》みつけていた。
――こいつが、夕姫様をなぶって、尼にさせた悪党なんだ!
妻六と伊織が供をして、伊賀の南谷を抜けようとした時、この宍戸梅軒が出現して、二人をだまし、夕姫を犯したのであった。
梅軒は、妻六には、宝蔵院の宝蔵から盗んだ| 日蓮《にちれん》|上人 《しょうにん》の金無垢像《きんむくぞう》を取って来るなら、夕姫に、手もふれぬ、と約束したし、伊織には、自分が討ち果した宮本武蔵の墓が、裏山にあるから、たしかめて来い、とだまして、そこへ趨《はし》らせておいて、夕姫を犯したのであった。
伊織は、その裏山で、伊賀者二人に捕まって、松の幹へくくりつけられたものであった。下柘植《しもつげ》の大猿《おおざる》に救われて、その館《やかた》へ馳《は》せもどって来た時は、もう手おくれであった。
その後――。
奈良の尼寺へ行く夕姫につきしたがった妻六と伊織は、伏見街道上で、梅軒と出逢《であ》っている。
その時は、梅軒の方が、葵《あおい》の紋の幟《のぼり》をひるがえした騎馬隊が、やって来るのをみとめて、遁走《とんそう》したことであった。
伊織は、最も憎むべき敵に、三度《みたび》出逢ったのである。
――畜生っ!
憤怒は、小躯《しようく》を馳せめぐっていた。
如何《いかん》せん、山犬に噛《か》まれた全身の傷が、疼《うず》いて、起き上ることも叶《かな》わぬのであった。
――畜生っ! 畜生っ! 畜生っ!
いたずらに胸の裡《うち》で、ののしりわめくよりほかにすべはなかった。
「源十郎、お主が、あくまでそらとぼけるなら、場合によっては、毛利輝元父子を、この宍戸梅軒が、討ちとってくれようか」
梅軒は、うそぶいた。
「随意にするがいい」
源十郎は、粗朶を加えて、焔《ほのお》をつよくした。
「よし! ならば、お主には、絶対に討たせんぞ」
「…………」
梅軒は、さっと起《た》つと、土間へ降りて、松明《たいまつ》を三、四本、つかみ取った。
「なにをする?」
源十郎が、とがめた。
「お主が飼うて居る山犬どもを、一匹のこらず、片づけてくれる」
「ばかな! あれは、番犬として飼い馴《な》らして、大坂の商家へ売るために……」
「嘘をつくのもいい加減にせい。刀槍《とうそう》に向って、歯をひきむいて襲いかかるように、訓練して居るのであろう。番犬にするためではない。……伊賀の南谷の頭領であったこの梅軒も、一度は、山犬を生捕って番犬に飼い馴らしてくれようとしたことがあったが、失敗したわ。狂暴な性《さが》は、あおることはできても、従順にすることは不可能だ。……見ておれ!」
梅軒は、松明に、火をつけると、小屋を出て行った。
源十郎は、炉端を動かなかった。
「おっさん!」
伊織が、激痛を忘れて、起き上った。
「あいつ! おいらの敵なんだ! ……おっさん、あいつを、山犬に、食い殺させてくれ! あいつに、けものの血をぶっかけてやったら、きっと、食い殺されちまうんだ。……やってくれっ!」
わめきたてる伊織を源十郎は、ややあきれて見まもっていたが、
「あの宍戸梅軒という男、ただの人間ではない。鬼――とでも申そうか。……為《な》すがままに、すてておくよりほかはない」
と、云った。
「畜生っ! ……あいつ、山犬に食い殺されろ!」
伊織は、絶叫した。
ほどなく――。
囲い内で、どっと山犬の群の吠《ほ》えたてる声が、ひびいて来た。
源十郎と伊織は、息をのんで、耳をすました。
次の瞬間から、吠えたてる声よりも、ぎゃん、とか、ひっ、とか――悲鳴の叫びの方が、つづけさまに、きこえはじめた。
鎖鎌《くさりがま》と円球の躍るところ、山犬が、片はしから、殺されてゆく――。
対手《あいて》が、人間であれ、けものであれ、梅軒にとっては、闘志を燃えたたせて、宍戸|八重垣流《やえがきりゆう》を使う機会さえあれば、それが、生甲斐《いきがい》の模様であった。
まさしく、理性も感情も一切排除し、嗜欲《しよく》を抑制することを知らぬ、殺戮《さつりく》の権化《ごんげ》といえた。
『安楽集』に、
[#1字下げ]『心は野馬の如く、識《しき》は猿猴《えんこう》より劇《はげ》しく、六鹿に馳騁《ちてい》して、何ぞ曾《かつ》て停息せん』
という言葉があり、これから、意馬心猿、という言葉が生まれているが、宍戸梅軒という忍者は、その意馬心猿を、実行するために、諸方を経巡っているような男であった。
山犬の群の吠え声や悲鳴が、消えて、闇《やみ》の寂寞《せきばく》が還《かえ》るまでには、さしたる時間を要しなかった。
「……ぜんぶ、殺しやがった!」
伊織が、呟《つぶや》いて、溜息《ためいき》をもらした。
じっと、粗朶火を瞶《みつ》めていた源十郎は、宙へ視線をあげると、
「わしも、老いた」
と、ひくくもらした。
敵討街道
一
京都と奈良をむすぶ街道は、当然のこと乍《なが》ら、往《ゆ》き来の旅客に、僧侶《そうりよ》の数が多い。
名刹《めいさつ》の住職が、寺僧たちをひきつれて、輿《こし》で往くのも、さほど珍しい風景ではなかった。
まして、使いの点家はじめ、鉢坊主《はちぼうず》や行脚僧《あんぎやそう》などの姿は、普通の旅客よりも多かった。
今日も――。
一人の遊行聖《ゆぎようひじり》が、まんじゅう笠《がさ》に顔をかくして、ゆっくりとした足どりで、木津を越えて行こうとしていた。
なだらかな山麓《さんろく》の切通しを降りた地点で、四条畷《しじようなわて》方面から笠置《かさぎ》へ抜ける道と交叉《こうさ》する。
三、四軒の休み茶屋が、四つ辻《つじ》をかこむあんばいで、ちらばっていた。
雲水は、憩《いこ》おうともせず、行き過ぎようとして、ふと、一軒の茶屋の床几《しようぎ》に、腰かけている中年の武家女房へ、目をとめた。
しずかに、その前に近づくと、
「静重ではないか」
と、声をかけた。
「………?」
雲水のまんじゅう笠の下の顔を、のぞき視《み》た佐野又一郎の母静重は、一瞬、小さな叫び声をたてて、あわてて、地べたへ跪《ひざまず》こうとした。
「これ、いかん! わしは、ただの鉢もらいの幽夢じゃ」
「は、はい」
静重も、まわりの視線をはばかって、床几へ身をもどした。
雲水は、静重と並んで腰を下した。
関ケ原役までは、土佐二十二万二千石の国主であった宮内少輔長曾我部盛親《くないのしようゆうちようそかべもりちか》が、この雲水の正体であった。
徳川家康に、封土を奪われ、やむなく剃髪《ていはつ》して法体となり、幽夢と号して、上京《かみぎよう》柳ノ辻に隠れ棲《す》んでから、すでに、六年の歳月が流れ過ぎていた。
しかし、まんじゅう笠の下の顔は、凛乎《りんこ》として若い。三十を越えたばかりであった。
「そなたのせがれが、まだ十一歳の少年であり乍ら、吉岡道場の名目人になったばかりに、不運な最期《さいご》をとげたことは、きき知って居る」
幽夢は、前方へ眼眸《まなざし》を据《す》え乍ら、云《い》った。
「又左衛門《またざえもん》が――あの頑固《がんこ》な中風の老人が、吉岡道場の面目を保とうと、あせったのが、まちがいであった」
「…………」
静重は、膝《ひざ》でかさねた手へ、視線を落して、石のように身をかたくしていた。
静重は、盛親の乳母《めのと》をつとめた者の娘であった。
佐野又左衛門の嫡子《ちやくし》又十郎と静重が、夫婦になったのは、盛親の父|元親《もとちか》のはからいであった。
盛親にとって、自分の乳母の娘である静重は、家臣の妻、というより、肉親に近い女性であった。
長曾我部家の家臣らは、土佐が徳川家康に奪われるや、その治城である浦戸城にたてこもり、受け取りにやって来た井伊直政《いいなおまさ》の家臣団の入城を拒否し、一領具足組と称して、五十余日間も、恭順派と相戦い、さいごに城を奪われ、城外に撃って出て死闘し、二百七十余人の討死を出して、ついに力つきて屈服したが、静重の良人《おつと》佐野又十郎も、斬《き》り死した一人であった。
後家となった静重は、さいわい、又一郎という子がいたので、その成育を、生甲斐として、土佐の豪族として名をはせた佐野家を守ろうとしたのであった。
ところが――。
中風をわずらっていた舅《しゆうと》の又左衛門が、
「又一郎を、吉岡道場へあずけ、一流兵法者にしてやろう」
と、云い出したのであった。
長曾我部家が改易になり、山内対馬守一豊《やまのうちつしまのかみかずとよ》が新たに領主となったが、又左衛門は、成り上りの山内一豊などに、孫の又一郎を将来随身させる気持など、毛頭みじんもなかった。といって、昔日《せきじつ》の豪族としての土地も館《やかた》も喪《うしな》ってしまって居り、貧しい郷士として、又一郎をすごさせるのは、あまりにも口惜しかった。
佐野又左衛門は、室町兵法所の当主吉岡清十郎の母方の伯父にあたっていた。
清十郎が、宮本武蔵という名もない兵法者と試合をして、相果てた報に接した時、
――そうだ。又一郎を、一流の兵法者にしたてあげ、佐野家の名を、後世までも、のこしてくれよう。
と、肚《はら》をきめたのであった。
その決意が、一乗寺|下《さが》り松に於《お》ける、あの悲惨事をまねいてしまったのである。
静重は、良人もわが子も殺されて、生きる方途を見失った不幸な女性であった。
二
幽夢入道盛親は、視線を静重にもどして、あらためて、旅塵《りよじん》によごれた身装《みなり》を眺《なが》めた。
「そなたは、もしや、わが子の仇を討とうとして、宮本武蔵と申す兵法者を、さがしもとめて、諸方を流浪《るろう》しているのではないのか?」
「はい。わたくしには、そうする以外に、生きる道はございませぬ」
静重は、きっぱりとした語気で、こたえた。
「一乗寺村での決闘で、武蔵は、ただ一人で、吉岡一門七十余人を敵として、鬼神か夜叉《やしや》にひとしい働きをみせた、ときいたぞ。……女子《おなご》のそなたの細腕で、とうてい、討てるのぞみはあるまい」
「返り討になろうとも、おめおめと生きながらえているよりは、ましでござりまする」
「亡《な》き良人やせがれの供養《くよう》をするすごしかたもあろうが……」
「舅も良人も、又一郎も、わたくしが、仇討をするのを、泉下で、のぞんで居りましょう」
「のぞんでは居らぬかも知れぬ」
「いえ!」
静重は、つよくかぶりを振った。
「きっと、のぞんで居りまする。佐野家の武辺ぶりは、お殿様ご自身が、最もよくご存じのはずではございませぬか。……宮本武蔵も人間なれば、女子のわたくしに、絶対に討てぬ、という道理はござりませぬ!」
「女性《によしよう》には女性としての生きかたがあろう。尼となって、亡き者たちの菩提《ぼだい》を弔うのも、ひとつの生きかたではないか。……わしが懇意の尼寺が、奈良にある。そなた、その気にはなれぬか?」
「たとえ、お殿様のお言葉でも、この儀ばかりは、わたくしの覚悟通りにさせて下さりませ」
「そうか。……では、やむを得ぬな。そなたの思いのままに、するがよい」
「はい。……お殿様のおぼしめしのほど、片刻《かたとき》も忘れませぬ。……ここで、お殿様にお目もじ叶《かの》うたことは、この上のよろこびはござりませぬ」
この三年余、静重は、親しく語る人とてもなく、孤独な旅をつづけて来たのである。幾度となく、故郷へ帰ろうと思ったに相違ない。孤独の辛《つら》さは、名状しがたいものであったろう。
旧主に巡り逢《あ》ったことは、静重に、あらたなはげみを生じせしめた。
「わしは、行先があるゆえ、このまま、奈良を通り抜けて参るが、もしそなたに異存がなければ、途中まで同道してもよい」
「お殿様のお供をして、奈良に入れば、もしかすると、仇討の決意が、崩れるかも存じませぬ。……これにて、お別れいたしまする」
「うむ。……では」
幽夢は、さきに、床几から腰を上げた。
数十歩行って、振りかえると、静重は、茶屋の前に立っていて、ふかく頭を下げた。
――女子の執念は、男子のそれよりも強いのかも知れぬ。
幽夢は、おのれに、呟《つぶや》いた。
雲水となって、幽夢が、これからたずねて行こうとしているのは、高野|山麓《さんろく》にある北谷の九度《くど》山――真田《さなだ》左衛門佐幸村《さえもんのすけゆきむら》の隠栖所伝心月叟庵《いんせいじよでんしんげつそうあん》であった。
幽夢が、真田幸村から密書をもらったのは、三月あまり前であった。
その内容は、重大な決意を告げていた。
自分は、伝心月叟として、打紐製《うちひもつく》りのまま、老醜を迎えて、朽ち果てるつもりはない。武辺の家に生まれた者として、その最期は、やはり、華々しく、武辺として散りたいものである。もとより、天下はすでに、徳川家のものとなり、着々として治政はさだまりつつあり、江戸幕府の礎《いしずえ》は、不動となって居り、これをくつがえすことは不可能と思われる。しかし、いまなお、大坂城には故|太閤《たいこう》の遺児が健在であり、かぞえきれぬほど莫大《ばくだい》な判金、法馬(大分銅、小分銅)が天守閣の庫中にたくわえられている上に、城は名に負う難攻不落の名城である事実を、われら配流の武辺は、忘れてはならぬ、と考える。秀頼《ひでより》公がひとたび起《た》って、旗を揚げ、その軍資に藉《よ》って、この名城にたてこもるならば、われらは、馳《は》せ参じて、ここに、華々しき武辺の最期をかざることができると存ずる。察するに、宮内少輔たりし御身もまた、浪々のまま、近辺の子供らに手習いを教え乍らの幽《かす》かなその日ぐらしをして、老い果てられる遁世《とんせい》気分ではあるまい。必ずや、長曾我部盛親としての武名を、後世にのこす存念を、胸底ふかく蔵して居られるに相違ない。一度、拝眉《はいび》の上で、胸襟《きようきん》をひらいて、談合いたしたく、是非ともその機会をつくって頂きとう存ずる。
この密書を、受けとってから、幽夢が、ついに腰を上げるまで、三月の月日を要している。
嘗《かつ》て――三年前。
毛利勝永が、草庵を訪れて、大坂城に拠《よ》って、徳川|家康《いえやす》と決戦しよう、と説いた時、幽夢は、「起つべき秋《とき》が参ったら起ち申す」とこたえたものであった。
その秋が、そろそろ近づいて来たかどうか、幽夢には、まだ判《わか》らなかった。
判っているのは、もはや、江戸幕府を倒すことは絶望であるということだけであった。このことは、真田幸村も、さとっている。太閤|秀吉《ひでよし》の威光は、日本全土から、あますところなく消されてしまっているのである。
范文公《はんぶんこう》は、『旧を忘れざるは信なり。信を失えば立たず』と記しているが、目下、太閤恩顧のうちで、徳川家に反抗する勇気を持った大名が、一人でもいるであろうか。見渡したところ、すべて、故《ふる》きを棄《す》てて新しきに就いている現状であった。
――勝利ののぞみのない戦さを起して、いたずらに、敵味方を討死させ、人心をおののかせたところで、いったい、なにになろうか?
その気持が、幽夢に、容易に、腰を上げさせなかった。
しかし――。
武辺の家に生まれた者は、やはり、その最期を、武辺として飾るべきではあるまいか、という幸村のさそいは、非常な魅力があった。
――世捨て人幽夢として、老朽の身を陋巷《ろうこう》に窮死させるよりは、やはり、宮内少輔盛親として、戦場で花と散るべきであろう。
幽夢は、おのれに云いきかせて、幸村をたずねることにしたのであった。
三
同じ道を、半刻ばかりおくれて、われわれになじみの者が、歩いていた。
伊織《いおり》であった。
杖《つえ》をつき、左足をすこしひきずっていた。山犬に噛《か》まれた傷は、まだ癒《い》えてはいなかった。
右肩にも、左膝にも、疼痛《とうつう》があった。
しかし、伊織は、老人のとめるのもきかず、伊丹|城址《じようし》の小屋から出て来たのである。
怨敵宍戸梅軒《おんてきししどばいけん》のあとを追ったのである。
梅軒は、二十数匹の山犬を、一匹残らず、鎖鎌《くさりがま》で、片づけたが、流石《さすが》に、自身も、無傷ですませるわけにはいかなかった。
小屋へ戻って来た時、顔面こそ、薄傷《うすで》ひとつつけず、平然としていたが、頸根《くびね》や腕や腿《もも》などに、かなりの深傷《ふかで》を負うていた。
黙って、手当をすると、炉端に横になって、朝までねむった梅軒は、立ち去ろうとして、
「源十郎、おれは、紀州山中の竜神《りゆうじん》という温泉で、しばらく、湯治して来る。山犬が一匹もいなくなったいま、お主が、たった一人で、毛利|輝元《てるもと》に復讐《ふくしゆう》することは叶わぬ。おれの助太刀が、絶対に必要だ。おれは、また、ここへ来るぞ。……もし、おれが竜神に逗留《とうりゆう》しているあいだに、毛利家の行列が通る、と知れたならば、大至急に、飛脚を寄越すがいい」
そう云いのこしたのであった。
梅軒が出て行くと、伊織は、はね起きて、
「畜生! あいつを、追ってやる。姫様のかたきを取ってやるんだ!」
と、叫んで、大いそぎで、身仕度をした。
「ばかなまねは、やめることだ」
老人は、云いきかせようとしたが、伊織の耳には入らなかった。
宍戸梅軒は、紀州山中の竜神という温泉で湯治する、と云いのこした。その竜神へ行って、梅軒が湯につかっているところを狙《ねら》えば、きっと、討ち取る隙《すき》があるにちがいない。
伊織は、不敵にも、
――おいら、天下の兵法者宮本武蔵の弟子なんだぞ。宍戸梅軒ぐらい、おいらの手で、討ち取ってやらなくちゃ、面目が立たねえや。
と、自分に云いきかせたことだった。
それにしても、紀州山中まで、杖をついて、疼《うず》く脚をひきずり乍ら、旅をするのは、十三歳の少年としては、相当な忍耐力である。
「もし――」
伊織は、前を往《い》く白髪の老爺《ろうや》を、呼んだ。
郷士|てい《ヽヽ》であったが、無腰で、筒袖《つつそで》に|たっつけ《ヽヽヽヽ》をはいていた。
振りかえった顔にも、白髯《はくぜん》が、胸までたれていた。
もう古稀《こき》(七十歳)は、とっくに越えていよう。
「お爺《じい》さん、紀州の山奥に、竜神という温泉があるのを、知ってるかい?」
「遠いの」
老人は、云った。
「奈良を通って行けば、いいんだろ?」
「お前は、高野山へのぼったことがあるかな?」
「坊主《ぼうず》のいるところなんぞに、用はねえから、のぼったことはないや」
「竜神は、高野山を越えて、さらに、いくつかの険しい峠を越え、日高川に沿うて、幾里も下って行かねばならぬ。遠いの」
「いくら遠くたって、おいら行くんだ」
「屈強の者でも、うんざりする山また山の中を辿《たど》らねばならぬのだぞ。高野山から、日高川に沿うて下るのは、猟師か、さもなければ行脚僧《あんぎやそう》ぐらいのものかのう。……そなたのような子供が、しかも、どうやら手負うている身で、行けるところではない。どこかで、怪我《けが》をなおして、それから、めざして行くがよい」
「路銀がないから、ちゃんとした旅籠《はたご》には、泊れねえや。おいら、まっすぐ、歩いて行くんだ」
「わしの家に泊めてやってもよいぞ」
「お爺さん、この近所かい」
「うむ。柳生庄じゃ。そなたの足でも、夕方までには、着ける」
老人は、柳生|石舟斎宗厳《せきしゆうさいむねよし》であった。
後藤又兵衛《ごとうまたべえ》
一
武蔵は、妻六とともに、細川家大坂屋敷に、ここしばらく、滞在していた。
小西与五郎を頭領とする小西|行長《ゆきなが》の旧家臣団の手から、細川|忠興《ただおき》の息女千恵を救って、大坂へともなった時、出府途中を逗留していた国家老の長岡佐渡《ながおかさど》は、苦悩の最中であったので、夢かとよろこび、
「是非、当家の客分となって欲しい」
と、武蔵に、頭を下げたものであった。
武蔵は、
「修業途中の身でありますれば――」
と、客分になることは、ことわったが、すすめられるままに、しばらく屋敷内の長屋の一軒ですごすことにしたのであった。
関ケ原役後、各大名の大坂屋敷は、自領の収穫米をはこんで来て、大坂商人に売る取引所になっていた。
したがって、大大名ともなると、数十棟の米蔵を屋敷内に建てつらねていた。
米の運搬の便利なように、屋敷は堀《ほり》に沿うて居り、自家の舟を多数、所有していた。
この季節ともなると、蔵屋敷は、蔵奉行の総指揮の下に、蔵方から足軽、人足まで、一年のうちで、最もあわただしい働きをする。
当時――。
大名の領地からの収税は、表高《おもてだか》の五つ(五割)であった。すなわち、細川家を例にとれば、豊前《ぶぜん》三十六万石であったが、これは草高《くさだか》で、細川家に納められる石数は、十八万石であった。
国許《くにもと》の蔵奉行は、この十八万石の中から、家臣一同へ、知行に応じて飯米を渡した。雑兵一人につき一日の扶持《ふち》(玄米)二合五|勺《しやく》、というのが、定めであった。
そして、蔵米の分を、大坂へ、海上運送して来たのである。細川家ほどの大大名ともなると、その石数は、大変なものであった。
大坂屋敷の蔵奉行は、運ばれて来た蔵米を、国許からとどけられた通帳とてらしあわせて、蔵に積み、御用達《ごようたし》商人に、買い上げさせるのであった。
米の価額は、その年によって、ちがっていた。豊作の年と、飢饉《ききん》の年とでは、非常な差があった。
この年は、さいわい、豊年であったし、出府の途中を立ち寄った国家老長岡佐渡が、じかに、御用達商人と交渉し、まとめてくれたので、蔵奉行は、ひと安堵《あんど》というところであった。
長岡佐渡は、姫君千恵を同道して、江戸表へ発《た》って行った。
大坂屋敷内で、家中のあわただしい働きを、何もせずに眺《なが》めているのは、食客となった武蔵だけであった。妻六が炊事方をひき受けていた。
妻六は、武蔵が、いつまでも、この屋敷に滞在していることには、不満であった。
長屋の一軒を与えられてから、武蔵は、全く無為にすごしているのであった。
一日の大半を、壁に向って、結跏趺坐《けつかふざ》して、すごしているのであった。
――禅坊主《ぜんぼうず》のまねなどして、なにになるのであろう?
妻六は、それも、兵法者として、無念無想になる修業であろう、と一応合点しつつも、なにやら無駄《むだ》な日をすごしているように受けとれたのである。
妻六は、片刻《かたとき》も、何もせずにぼんやりとすごしていることのできぬ男であった。
朝餉《あさげ》を摂《と》り了《お》えたその日、妻六は、
「今日は、ひとつ、大坂城を見物して参りたく存ずる」
と、告げた。
妻六の「見物」という意味は、武蔵に、判っていた。忍び込んで、大坂城の天守閣の秘庫に、どれくらいの金銀が所蔵されているか――それを、ぬすみ視《み》て来よう、という次第であった。
故太閤秀吉は、在世中、
「朝鮮はおろか、明国を制覇《せいは》するだけの軍用金を、わしは、たくわえた」
と、うそぶいていた、と巷間《こうかん》にまで、つたえられている。
秀吉は、蓄積した黄金を、いわゆる法馬に鋳立《いた》てて、天守閣内の秘庫に、山と積みかさねた、といわれている。
目下――。
その金塊が、つぎつぎと大判、小判に|ふき《ヽヽ》かえられて、秀頼の名に於《お》いて、京畿《けいき》一円の神社仏閣の造営修築に、湯水のごとく費消されていることは、子供でさえも知っている。
盗賊である伊賀《いが》の妻六が、大坂城の天守閣へ忍び込んで、秘庫をのぞいてみたい興味をそそられるのは、当然であろう。
武蔵は、出て行こうとする妻六に、
「盗み出すのは、やめておけ」
一言だけ、忠告した。
「いや、ただ、見物するだけでござる」
にやっと、妻六は、笑顔をのこした。
二
武蔵は、午《ひる》すぎまで、面壁の坐像を崩さなかった。
「物申す」
戸口で、二度くりかえされて、武蔵は、やおら、首をまわした。
小者の住む長屋なので、一間きりであり、首をまわしただけで、戸口に立つ者と、まともに視線が合った。
「………?」
武蔵は、大きく双眸《そうぼう》をひらいた。
武辺――この言葉は、この人物のためにつくられたか、とおぼしい武士が、そこに立っていた。
躯幹《くかん》壮大、相貌魁偉《そうぼうかいい》、膂力《りよりよく》衆を超え、気宇|闊達《かつたつ》にして、打物《うちもの》を執《と》っては万夫不当の勇を示す――これを、武辺と謂《い》う。
まさしく、武蔵を訪ねて来たのは、そういう武辺そのものの人物であった。
「京の室町兵法所|吉岡《よしおか》道場を滅した宮本武蔵というのは、御辺《ごへん》か?」
「それがしですが、お手前様は?」
「身共は、後藤|基次《もとつぐ》」
武辺は、名のった。
後藤又兵衛基次の武名は、海内に鳴っていた。
「お手前様が、後藤基次殿――」
武蔵は、あらためて、武辺そのものの人物を、見なおした。
かりに、この人物が、なんの武功も樹《た》てていなくても、容姿だけで、接する者を畏怖《いふ》させ、高禄《こうろく》のねうちがあった。
「上らせてもろうてよいかな?」
「は――どうぞ」
武蔵が、下座に移ろうとすると、後藤基次は、
「よいよい。この又兵衛、いまは乞食《こじき》ざむらいに相成った」
と、云《い》った。
「………?」
武蔵は、まだ知らなかった。
後藤基次は、今夏、一万六千石、小隈《おぐま》城の城主の地位を、弊履《へいり》のごとく棄《す》てて、黒田家から退散し、牢人者《ろうにんもの》になったのである。
後藤基次は、黒田長政《くろだながまさ》と、ただの主従関係ではなかった。
基次の父は、後藤新左衛門基国といい、播州《ばんしゆう》の別所《べつしよ》家の重臣であった。
のちに、小寺官兵衛孝高《おでらかんべえよしたか》(黒田|如水《じよすい》)とともに、小寺|政職《まさもと》に属した。
新左衛門基国が逝《い》った時、その子又兵衛基次は、まだ幼童であった。
小寺官兵衛は、これを引き取って、わが子松寿(長政)と同様に育てた。
いわば、基次は、黒田長政とは、義理の兄弟のような間柄《あいだがら》であった。
天下人たらんと野望を抱くほどの官兵衛孝高は、少年にしてすでに武辺の面目をみせる基次を、わが子長政よりも、愛した。長政も、決して、ただの少年ではなく、充分に将帥《しようすい》たる器量をそなえていたが、基次と比べると、しぜんに、見劣りがした。
基次は、官兵衛の期待によく応《こた》えて、十四歳の頃《ころ》から、合戦に従い、闘う毎《ごと》に殊勲をたてた。
当然――。
黒田家|嫡男《ちやくなん》たる長政は、又兵衛基次に対して、非常な対抗意識を燃やした。
秀吉が九州平定ののち、黒田孝高は、豊前十八万石に封ぜられ、中津に城を持った。しかし、平定されたとはいえ、百余年の久しい乱離が、すぐにおさまるものではなく、土豪は各処に拠《よ》って、なかなか、帰服しなかった。
中でも、宇都宮《うつのみや》| 中務《なかつかさの》| 少輔《しようゆう》 鎮房《しげふさ》という豪族は、城井《きい》谷の天険に城砦《じようさい》を構えて、猛威をふるっていた。
孝高は、しばらくは、すてておこうと考えていたが、嫡男長政は、肯《き》かずに、基次をさそって、一挙に攻め落そうと、襲いかかった。
しかし、逆に、凄《すさま》じい反撃をくらって、敗退のやむなきにいたった。
長政は、父孝高にあわせる面目がない、と髪を切り落してしまった。従軍した諸士は、主君にならって、われもわれも、と髻《もとどり》を払って、坊主あたまになった。
又兵衛基次だけは、一人、平然として、あたまを剃《そ》ろうとはしなかった。
同僚の黒田|惣兵衛《そうべえ》が、見かねて、
「このたびの敗退に、若殿をはじめとして、一統が謹慎を表して居《お》るにもかかわらず、お主だけ、そうやっているのは、なんの意見か?」
と、咎《とが》めた。
基次は、笑って、
「一勝一敗は兵家の常。べつに、なんのふしぎがおわそう。今日、負けたならば、明日、勝つように分別することこそ、肝要ではござるまいか。……たった一度だけ負けて、このように気を屈するようでは、武将たる資格がござらぬ。第一、負ける毎に、あたまを剃っては、髪が長くなる日はござるまいよ」
と、云いはなったことだった。
この言葉が、長政のカンにさわったことは、いうまでもない。
長政は、基次の前に仁王立って、
「わしをさげすむか、基次!」
と、睨《にら》みつけた。
基次は、こたえた。
「漢の高祖《こうそ》も、足利尊氏《あしかがたかうじ》も、勝ち戦より、負け戦の方が多い武将でござったが、いささかも英気がくじけなかったではござらぬか。鴻業《こうぎよう》を成した所以《ゆえん》でござる」
と、こたえた。
両者の確執は、この頃から、目に見えるものとなった。
三
天正《てんしよう》十七年、黒田孝高は、長政に世をゆずって、隠居し、如水と号した。
又兵衛基次は、いやでも、長政の家来たらざるを得なかった。
長政が、基次に憎悪《ぞうお》と怨恨《えんこん》を抱くようになった一事が、やがて、起った。
秀吉によって、征韓の軍がおこされ、黒田長政は、先鋒《せんぽう》となって、朝鮮に押し渡った。
これにしたがった後藤基次は、晋州城攻略にあたっては、寄手の全軍に先立って、一番乗りした。
加藤清正をして、
「黒田家に、後藤基次がある限り、他家は、先陣の功を奪《と》ることはできまい」
と、云わしめた。
嘉山の戦いの折であった。
一日、敵軍は、大河を渉《わた》って、黒田長政、小西行長の両陣営へ、総攻撃をしかけて来た。
彼我の兵力に、差があった。
敵勢は、長政の本陣まで、突入して来た。
大将の長政は、自ら手を砕いて阿修羅《あしゆら》の闘いをし、敵将李応理と、一騎討ちした。
相搏《あいう》って、組み合ったまま水中に落ち、長政のつけた有名な水牛の兜《かぶと》の前立が、水面に見えかくれするのを、たまたま、小西勢の部将の一人がみとめた。
ちょうど、各処に敵を追い撃って、ひと息入れている後藤基次のところへ、その部将が、馬をとばして来て、そのことを告げ、
「はよう、お助けなされ」
と、せかした。
しかし、基次は、日の丸の扇を、悠々《ゆうゆう》と使い乍《なが》ら、
「身共のあるじは、朝鮮の武将ごときに、おくれをとる大将ではござらぬ」
と、こたえて、動こうともしなかった。
そのうちに、水面に、血汐《ちしお》がひろがり、見かねた渡辺|平吾《へいご》という武士が、具足をすてて身軽になって、水中に飛び込んだ。
長政は李応理を刺し殺したものの、自身も、疲労しはてていたし、手負うてもいた。
基次が、日の丸の扇を使い乍ら、救おうともしなかった、ときいた長政は、
――又兵衛め!
と、心中憤怒した。
基次が、自分の殺されるのをのぞんでいる。自分が死ねば、父如水は、基次に、黒田家を継がせるのではあるまいか。
そんな猜疑心《さいぎしん》も起ったに相違ない。
慶長五年の関ケ原役には、徳川家に味方した長政は、大いに奮戦し、筑前《ちくぜん》五十二万三千石の国守に封じられた。
しかし、この戦いには、後藤基次を、ともなわなかった。長政は、おのれ自身の力で、西軍と戦い、武名を高めたかったのである。
又兵衛基次が、長政を扶《たす》けて、関ケ原の合戦に、殊勲をたてた、とつたえられているが、これは、嘘《うそ》である。
長政は、基次に、これ以上の武功をたてさせたくなかったのである。
筑前五十二万三千石をもらった長政は、基次に、一万六千石を与えて、小隈の城主とした。基次は、三万石以上を与えられるべき身であったが、べつに不服をとなえなかった。
隠居した如水も、心中では、長政のやりかたを、けちくさいと思ったに相違ない。しかし、隠居した以上、口出しは無用、と知らぬふりをした。
長政と基次の確執は、家中一統はもとより、他家にまで、知られるようになっていた。
ただ、隠居しているとはいえ、如水が健在しているので、両者が、まっ向から対立する場面は、みられなかった。
しかし、長政は、関ケ原役後は、ただの一度も、基次と言葉を交さなくなっていた。
基次の方も、小隈城から出ることは、ほとんどなくなり、年に二、三度、如水を隠居所に訪ねて、半日あまり雑談して、立ち去った。その時も、基次は、長政には、きわめて、形式的に挨拶《あいさつ》に罷《まか》り出ただけで、さっさと退出した。
一昨年――慶長九年三月二十日、如水が、世を去るや、長政と基次の間を、緩和する者はいなくなった。
長政は、家臣が、他家の士と交際するのを、極端にきらった。それを知る家中一統は、いずれも、さしひかえたが、ひとり基次だけは、そんなことには頓着《とんちやく》せずに、他家の士が、小隈城を訪れて来るのを歓迎したし、相識の諸侯とも、しばしば、文書を往復させていた。
そのことが、長政の癇癪《かんしやく》にふれていて、
――いつかは、叱咤《しつた》してくれよう。
と思っていたが、如水の葬儀の後は、一度も、基次《もとつぐ》が挨拶にやって来ないので、その機会がなかった。
基次がついに、長政に、愛想をつかして、小隈城をすてる決意をなさしめる事件が、起ったのは、今夏であった。
武辺と兵法者
一
当時のならわしとして、城をあずかる陪臣は、主君の城内へ、息子の一人を、小姓としてさし出していた。
後藤基次も、次男の左門基則(十五歳)を、福岡城へさし出していた。
左門基則は、父に似て、姿容が衆にすぐれていた上に、小鼓《こつづみ》の妙手であったので、家中の人気を一身にあつめていた。
今夏、長政は、京都から、金剛大夫を呼んで、能楽を催した。
家中一統が列座したところで、長政は、
「基則、そちに、小鼓の囃《はや》し方を命ずる」
と、申しつけた。
別に含むところはなかったのか、それとも、故意《わざ》とであったか、長政は、いかにも上機嫌《じようきげん》であった。
「殿――、この儀ばかりは、ごめん下されませ」
左門は、両手をつかえて、ことわった。
後藤|又兵衛《またべえ》基次の息子たる身が、能役者のために、囃し方をつとめることなど、武辺として断じてできなかった。左門が、小鼓を習ったのは、陣営に於《お》いて、士気を鼓舞するためであった。能役者のひきたて役など、死んでもつとめられぬ左門であった。
長政は、左門にことわられると、たちまち、激怒し、
「隠岐《おき》(基次)の強情を、伜《せがれ》が猿《さる》まねして、我《が》を張るかっ! 辞退は許さぬ! 是非に、小鼓を打て!」
と、厳命した。
左門は、主命もだしがたい|てい《ヽヽ》で、頭を下げたが、小鼓を取りに行くふりをして、そのまま、城を出ると、まっしぐらに、馬をとばして、小隈城へ逃げかえった。
基次は、左門から、愬《うつた》えられるや、
「左門、ようやったぞ。いかに主従とはいえ、一城をあずかる者の子をとらえて、猿楽の徒輩に伍《ご》せられるとは、この基次を侮辱してくれよう、とのこんたんとみえた。……士は、おのれを知る者のために死す。おのれを知らざるあるじに仕えるのは、もはや、今日までだ」
と云《い》い、一族郎党を集め、退散の意志をつたえた。
反対する者は、一人もいなかった。
基次は、隣国豊前小倉城主細川|忠興《ただおき》に、至急の書状を送り、黒田家より退去する旨《むね》を告げ、しばらくの間の庇護《ひご》をもとめた。
承諾の返辞は、すぐ、もたらされた。
「さらば――」
基次は、主君長政に対して、永の暇乞《いとまご》いの手紙を書きのこしておいて、一族郎党をひきつれて、塵《ちり》ひとつとどめぬまでにきれいに掃除した小隈城から、立退《たちの》いた。金蔵の軍用金も、武庫の兵具も、そのままにして、わずか三人だけ留守居を残した。
細川忠興は、ちょうど、出府の準備があわただしい最中であったが、後藤基次からの書状を受けとると、万が一の変をおもんばかり、鉄砲隊三百、槍隊《やりたい》五百、騎馬隊一千を、国境まで、出迎えさせた。
忠興は、後藤基次が小倉城に入るより二日前に、出府して行ったが、留守を守る国家老|長岡佐渡《ながおかさど》に、
「後藤基次には、当座の合力米として五千石を給し、客分としてあつかうように――」
と、云いのこした。
基次は、無事に、小倉城に入り、細川忠興の厚情に感謝した。
これが、六月のはじめのことであった。
黒田家からは、早速に、使者が、やって来た。
[#2字下げ]『後藤|隠岐《おき》儀、当家に不都合あって、退去いたせし不届者ゆえ、早々に御放逐のほどをお願いつかまつる』
筑前守《ちくぜんのかみ》長政の署名をもって、申し入れた。
細川家では、
「召抱えたるわけではなく、ただ、その境遇を気の毒と存じ、客分にいたしたまででござる」
と、鄭重《ていちよう》に、しかし、断乎《だんこ》として、はねつけた。
長政は、かさねて、使者を送って来て、世間に於いては、細川家が後藤隠岐を召抱えられたと取沙汰《とりざた》いたして居り申す上は、この筑前守の一分が相立ち申さぬ、何卒《なにとぞ》御放逐下されたい、と申し入れた。
長岡佐渡は、
「あるじが帰国の上で、ご返答つかまつる」
と、巧みに、にげた。
長政が、それまで待つはずがなかった。
数度の交渉が徒労に帰すや、長政自身、具足に身がためして、小倉城へ乗り込んで行きかねまじい雲行きを示した。
このことが、駿府《すんぷ》の家康《いえやす》の耳にとどいた。
家康は、江戸城へ使いを遣《や》り、
「この紛争は、公儀扱いにいたすように――」
と、閣老へつたえた。
江戸からは赤井五郎作、駿府からは山口|主水《もんど》が、使者として、小倉城へやって来た。後藤基次の身柄《みがら》は、幕府であずかる、という名目のもとに、黒田、細川両家は和解するように、という口上であった。
基次は、やむなく、小倉城から去らなければならなかった。
二
あれから、半年――。
後藤又兵衛基次は、いまは、山科《やましな》に、下僕一人だけを使う身軽な隠栖《いんせい》をしていた。
細川家大坂屋敷に、ふらりと現れたのは、小倉城で世話になった国家老長岡佐渡が逗留《とうりゆう》中ときいて、その折の礼を述べに来たのであった。
又兵衛基次は、一日ちがいで、長岡佐渡には逢《あ》えなかったが、小者長屋に、宮本武蔵という兵法者が食客となっている、ときいて、
「室町兵法所の吉岡道場を、ただ一人の力で滅亡せしめた武芸者は、どんな顔をして居《お》るのか、ひとつ、眺《なが》めてみようか」
と、自身で、足をはこんで来たのであった。
流石《さすが》に――。
武蔵は、武辺そのものの高名な又兵衛基次の前では、身をかたくして、かしこまった。
年齢も、ちょうど倍のひらきがあった。
「御辺《ごへん》は、一人の師にもつかず、独り修業によって、剣の極意を会得《えとく》した、ときいたが、まことかな?」
「けもの同様に生きて参りました」
「けものの牙《きば》に、室町兵法所の一門が、ことごとく食い殺されてしまったとは、面白いの」
又兵衛は、笑った。
武蔵は、又兵衛を、じっと正視して、
「お手前様は、けものの剣は、所詮《しよせん》けものの剣にすぎぬ、と申されますか?」
と、問うた。
「そうは思わぬ。……何事であれ、奥旨《おうし》というものは、おのれ一人で会得せねばならぬ。第一、御辺は、けものではない。人間にまぎれもない。けものは、一念を持たぬ。御辺は、兵法者として生涯《しようがい》をつらぬこうとする一念をそなえて居ろう」
「はい」
「その一念の剣を、身共に、みせてもらえるかな?」
又兵衛は、もとめた。
「おのぞみならば……」
「是非、みたい」
そのつもりでやって来たのであろう、戸口わきに、大身の槍が、たてかけてあった。
小者長屋の東南は、広い菜園になって居り、赤松の林につづいていた。
林をくぐると、米蔵を建て増す予定の空地があった。そこは、人目につかぬ場所であった。
武蔵が、そこをえらんで、又兵衛を、案内した。
二間をへだてて、天下一の牢人者《ろうにんもの》と決闘するために生まれて来た若い兵法者は、対峙《たいじ》した。
又兵衛が、りゅうとしごいた長槍は、十四歳の頃《ころ》から三十余年間、無数の戦場に於いて、有名無名の敵の血汐《ちしお》で、衄《ちぬ》られた品であった。
ひとたび構えれば、おのが腕と同じように働く、といっても、誇張ではない。
武蔵は、長船祐定《おさふねすけさだ》を、青眼《せいがん》にとった。
すでに、この祐定は、備前の海辺では、池田家|目付《めつけ》四人を斬《き》り、熊山《くまやま》の山頂では、狂気の修験者の金剛杖《こんごうづえ》を両断し、そして、武庫郡和田崎では、小西行長の遺臣多数を、あの世へ送っている。
凄《すさま》じい切味を示す利剣であった。
又兵衛は、やや双眸《そうぼう》をほそめて、武蔵の構えを、凝視した。
――なるほど、けもの同様に生きて、会得したというだけの猛気が、総身に、みなぎって居る。
三十余年の豊富な経験が、又兵衛に、教えた。
永い――まことに、永い時間が、空地に流れ過ぎた。
睨《にら》み合った両者にとっては、対峙した瞬間から、時間は停止していた。
くもり空であったために、影は移らず、偶然にこの空地をのぞく人もいなかった。
二個の塑像《そぞう》が、そこに据《す》えられているごとく、もの静かな風景であった、といえる。
それが、証拠に、数羽の雀《すずめ》が、両者の間の地面で、しきりに、餌《えさ》をあさっていた。
さきに動いたのは、武蔵であった。
ただの試合ではなく、こちらの剣をみようとする偉大な武辺に対する作法であった。
雀の群が、敏感に、ぱっと地面から飛び散った。
はじめて、武蔵が、刀身から、凄じい鋭気をほとばしらせたのである。
又兵衛は、べつに、その鋭気に応ずる気色を示さず、微動もせぬ。
武蔵は、さらに、間隔を縮めた。ゆるやかに、滑るような足はこびであった。
刀尖《とうせん》が、穂先にふれ合う地点まで進んで、武蔵は、足を停《と》めた。
と――。
どうしたのか、又兵衛は、大地を踏みしめた姿勢はそのままにして、穂先を、すっと、一尺あまり、手もとに引いた。
「…………」
「…………」
無言|裡《り》に、両者の双眸が、一瞬、宙で目に見えぬ火花を散らしたようであった。
三
――ちがう!
武蔵は、胸中で呟《つぶや》いた。
又兵衛の槍は、これまで武蔵が対手《あいて》にした者の槍とは、明らかに一線を劃《かく》するちがいがあった。
曾《かつ》て、武蔵は、奈良で宝蔵院の荒法師十一人を敵として、凄じい修羅場《しゆらば》をくりひろげた経験を持っている。
かれら荒法師たちは、日頃道場で、鍛練に鍛練を重ねた業前《わざまえ》を、いまこそ発揮すべく、必殺の陣形をとって、襲いかかって来たものであった。
その時、荒法師たちは、樟《くす》の巨樹の幹を背負うた武蔵を、包囲し、完全な円陣をつくり、ぐるぐるとまわりつつ、一挙に、武蔵を仕止めようという戦法に出た。一槍は頭部を狙《ねら》い、一槍は腹部を狙い、一槍は脚を狙い――といったあんばいに、武蔵の総身のすべての部分を狙ったものであった。
たしかに、武蔵は、全くの死地に置かれたことであった。
武蔵が、その死地から遁《のが》れることができたのは、樟の高処《たかみ》にひそんでいた妻六が、焔硝玉《えんしようだま》を投げて、白煙で姿を包んでくれたおかげであった。
一乗寺|下《さが》り松でも、吉岡道場の門弟たちから、無数に、槍を突きかけられている。
道場修業によって、きたえあげられた槍には、幾度《いくたび》も死地に追い込まれて来た武蔵は、いまはじめて、異質の槍に立ち向ったのである。
又兵衛の槍には、一言でいえば、構えがあって、構えがなかった。それが、宝蔵院流の手練者《てだれ》などと、全くちがっていた。
その構えは、生まれてはじめて槍を把《と》った者のそれと、すこしも変ったところはなかった。隙《すき》だらけなものともいえた。
こちらが、間合を見切ると、わざと、一尺も手もとに引いて、武蔵を当惑させた。
当然――。
武蔵は、さらに、進まざるを得なかった。
すると、又兵衛は、すっと、武蔵が進んだ距離だけ、後退した。
進む。退く。
この動作が、くりかえされはじめた。
ところで――。
又兵衛は、ただまっすぐに退いたのではなかった。大きく円を描く退きかたをしたのである。
――戦場槍に、このような後退の戦法があるのか?
武蔵の脳裡には、その疑問がわいていた。
一瞬――、武蔵は、わざと非常な敏速さで、滑走してみた。すると、又兵衛は、同じ速度で、跳びさがった。
「……む!」
武蔵は、突如として、構えを変えた。
大上段にふりかぶったのである。
すると、又兵衛は、同じく、穂先を、上げた。
そして、はじめて、又兵衛は、逆に、ゆっくりと、足を踏み出した。
武蔵の眼光は、又兵衛の空けられた胴を、射ていた。隙だらけであった。
飛鳥の迅《はや》さで、とび込んで、その胴を薙《な》ぐ自信は、充分にあった。又兵衛が、穂先を撃ちおろして来るよりも、間一髪の差で、とび込めるのだ。
しかし――。
なぜか、武蔵は、それができなかった。
その時――、又兵衛は、きわめて、静かに、穂先をおろして来た。そして、すうっと、武蔵の顔面とふりあげた腕の間へ穂先をさし入れると、|けら《ヽヽ》首を、その右肩にのせた。
「……?」
武蔵は唖然《あぜん》として、又兵衛を、視《み》かえした。
「引分けだのう」
又兵衛は、笑って、槍を引いて、立てた。
「判《わか》りませぬ」
武蔵は、正直に、云った。
「なにが、判らぬ?」
「どうして、一度も、突きをみせられなんだのか、判りませぬ」
「突けば、御辺は、わしのこの大切な槍の柄《え》を両断したであろう」
「…………」
「だから、退った。それだけのことだ。……御辺が、上段にふりかぶると、わしも穂先を上げた。御辺がとび込んで参れば、わしの胴は、真二つになったであろう。御辺は、それをしなかった。……御辺は、みじんの隙もない者に対しては、途方もない強さを発揮するようだが、隙だらけの者に対しては、ひどう弱いのう」
「おそれ入りました」
武蔵は、頭を下げた。
又兵衛が、電光のような迅さで突きかかれば、武蔵は、その柄を両断したに相違なかった。
又兵衛が、突く気もないように、ゆっくりと、さしのべると、|けら《ヽヽ》首を肩にのせられるままに、まかせてしまったのである。
武蔵は、いまはじめて、この武辺の融通|無礙《むげ》な戦法に、敗北のみじめさをおぼえさせられたことだった。
慟哭《どうこく》
一
陽《ひ》ざしは、杉の木立の上に満ちていたが、木漏れ陽がまだらに染めた坂道は、濡《ぬ》れて冷たく、薄黒い石だたみを踏む足を、草履を通して、凍《い》てつかせる。
この坂道は、滝坂道といい、奈良から、柳生《やぎゆう》の里へ通じている。柳生の里の住民たちは、「奈良みち」と称《よ》んでいた。
滝坂とは、雨が降ると、山から流れ落ちる水が、滝になって、この道を流れるためであった。
今朝がた、ほんの一刻《いつとき》あまり、雪が舞ったが、それだけで、石だたみを縫って、ちょろちょろと、水が流れている。
石だたみといっても、敷きつめてあるわけではなく、跳び石のように置かれてある。
この滝坂道は、春日《かすが》奥山に籠《こも》って修行した中世の僧たちが、踏みしめた道であった。その僧たちが、雨が降れば滝となる道を、歩きやすいように、それぞれ任意に石を置いたものであろう。
路傍に、そして岩壁に、多くの石仏がならんでいるのも、これが聖地へ通じている道であることを示している。
杉木立の下に、渓流《けいりゆう》の音が、高い。
一人、杖《つえ》をついて、登って行くのは、女人であった。
佐野又一郎の母静重であった。
奈良の旅籠《はたご》で、数日|逗留《とうりゆう》して、宮本武蔵の行方を尋ねまわった挙句、ふと思いついて、柳生の里をたずねることにしたのであった。
道を登って行くにつれて、路傍の石仏の数が、増した。
曾て――。
春日奥山は、東大寺再建の時の石切場であった。礎《いしずえ》を運びおろす際には、二万人が奉仕した、という。石切峠という名称も、それから起っている。
静重は、ほっとひと息ついて、何気なく、ふり仰いだ。
岩壁に刻まれた幾体かの地蔵尊が、陽ざしを受けて、素朴《そぼく》な姿を、浮きあげていた。
じっと眺《なが》めやり乍《なが》ら、静重は、五日前、巡り逢《あ》った幽夢入道|盛親《もりちか》の言葉を、思い出した。
「女性《によしよう》には女性としての生きかたがあろう。尼となって、亡《な》き者たちの菩提《ぼだい》を弔うのも、ひとつの生きかたではないか」
旧主は、優しく、そう云《い》ってくれたものであった。
土佐の故郷へ還《かえ》り、舅《しゆうと》や良人《おつと》やわが子のために、このような地蔵尊をつくって、静かに、その冥福《めいふく》を祈りたい気持が、一瞬、ふっと、胸中を横切った。
――いや!
次の刹那《せつな》、静重は、はげしく、その想《おも》いをふりはらった。
――尼となるのは、武蔵を討ったあとのことだ!
静重は、もはや、石仏の群には、目をくれようとせずに、道をいそいだ。
やがて――。
静重は、忍辱山《にんにくせん》円成寺を左方にみる地点を過ぎた。
この忍辱山の麓《ふもと》は、そのむかし――天文十三年七月、柳生家厳が、まだ十八歳であった宗厳《むねよし》(石舟斎《せきしゆうさい》)をしたがえて、筒井順昭《つついじゆんしよう》と戦い、惨敗《ざんぱい》したところであった。そのために、柳生家は、小柳生城を、筒井家に渡さなければならなかった。
歳月は移り、いまは、山ふところにたたえられているのは、ひっそりとした平和な風景であった。
石仏も古刹《こさつ》も神社も、自然のたたずまいの中に溶け込んでいた。
柳生の里は、野仏が路傍に並ぶ阪原の山道を越えると、ひらける。
盆地ともいえぬほどの、ごく狭く細長い山間地に、田畠《たはた》がひろがり、聚落《しゆうらく》があった。
静重は、水車がゆっくりと廻《まわ》る川沿いに立って、彼方《かなた》の丘陵上にある柳生陣屋を、眺めやった。
山砦《さんさい》というには、野までの距離が近く、濠《ほり》もめぐらさず、一条の石段を、急勾配《きゆうこうばい》で、白く浮きあげて、きわめて平和なくらしぶりを示している構えであった。
冬の野に、人影はなく、秘境というにふさわしい景色は、静寂の寒気につつまれていた。
静重は、館《やかた》に至る石段を、登って行った。見とがめる者は、いなかった。
二
表玄関に立って、案内を乞《こ》うたが、しばらく、人の気配がなかった。
「おたのみ申します」
静重は、声を高いものにした。
と――。
石段を駆けのぼって来る跫音《あしおと》がした。
静重は、頭《こうべ》をまわした。
木太刀を携《さ》げた少年が、そこに現れた。
――どこかで、この子供には、逢《お》うたようだ?
静重は、思い出そうとしたが、すぐには、記憶によみがえって来なかった。
対手《あいて》は――伊織《いおり》の方は、すぐ思い出した。
大坂の天満堀川《てんまほりかわ》の船着場で、伊織は、この中年の武家女房に出会っている。
その時、武家女房は、一乗寺村|下《さが》り松に於《お》いて、武蔵に討たれた吉岡《よしおか》道場の名目人佐野又一郎の母、と名のったのである。
――なんの目的があって、こんなところへ来たのじゃろ?
伊織は、険しい表情になって、静重を視た。
伊織は、この柳生庄へ連れて来てくれたのが、柳生石舟斎宗厳と知って、そのまま、しばらく、竜神《りゆうじん》へ行くのをのばして、稀世《きせい》の老剣客から、手ほどきを受けようと、とどまっていたのである。
尤《もつと》も――。
伊織が、いくらたのんでも、石舟斎は、一向に、手ほどきなどしてくれる様子はなかったが……。
「石舟斎先生に、お目もじいたしたく存じます。取次いでたもれ」
静重は、たのんだ。
「なんの用じゃ?」
「そなたには、ただ、取次いでもらえばよい」
「お館は、見知らぬ人がたずねて来ても、めったにお会いなさらぬわい」
「そこを、曲げて、なんとか、会って頂けまいか、そなたからも、どうぞ、とりなしてたもれ。……わたくしは――」
「吉岡道場の名目人佐野又一郎の母御じゃろ」
「どうして、そなた、わたくしの素性を――?」
「大坂で、会うたわ」
「あ――」
静重は、ようやく思い出した。
「宮本武蔵を、わが師匠と呼んでいた――あの時の……」
「そうじゃ。お互いに、宮本武蔵の行方をさがして居るわけじゃ。小母《おば》さんは、わが子の敵《かたき》として、おいらは、お師匠様として――。その二人が、この柳生の里で、巡り逢うたのも、なにかの因縁じゃろ」
「よもや、武蔵が、ここにいるのではないでしょうね?」
静重は、伊織を睨《にら》み据《す》えた。
「もし、いたら、小母さんは、仇を討とうというのか?」
「わたくしの一念、神仏もみそなわされましょうぞ」
「冗談じゃねえや。|かまきり《ヽヽヽヽ》が斧《おの》にむかってとびかかる、ということわざがあるじゃねえか。阿呆《あほ》らしい」
「武蔵は、ここにいるのですね? ……母なる女子《おなご》の一念が、どれほどの力を出すか、みせてくれますぞ!」
「小母さん、血迷ってはいけねえや。見受けたところ、小母さんは、弟子のおいらと立ち合ったところで、勝てやしねえや」
「申すな、わっぱ!」
「それじゃ、立ち合ってみるか」
伊織は、木太刀を青眼《せいがん》にかまえた。
「来い! 女子じゃとても、容赦はせぬぞ!」
「武蔵に会わせよ」
「お師匠様の代りに、おいらが、受けてやるのだ。来い!」
「小ざかしゅう、立ち向って参って……、怪我《けが》をしても知らぬぞ」
「来いといったら来い!」
伊織は、じりじりと間隔を縮めて来た。
やむなく、静重は、突いていた仕込みの杖を、片手持ちで、まっすぐに、さしのべた。
ただの武家女房ではなかった。
宮本武蔵を討たずば止《や》まぬ、と|ほぞ《ヽヽ》をきめている女人だけあって、きたえた業前《わざまえ》をそなえていた。
伊織には、もちろん、静重がどれほどの手練者か、看《み》てとる目はなかった。
「やああっ!」
小躯《しようく》からいっぱいに懸声を噴かせて、静重めがけて、撃ちかかった。
「えいっ!」
静重は、半身《はんみ》になるとともに、伊織の木太刀を払った。
伊織は、木太刀をはねとばされるのをまぬがれる代りに、もんどり打って、地面へころがった。
「畜生っ!」
はね起きた伊織は、ぶるんとひとつ武者ぶるいして、大上段にふりかぶった。
その時、
「伊織、止さぬか」
声が、かかった。
東山つづきの松林の中から、筒袖《つつそで》に|たっつけ《ヽヽヽヽ》をはいた、白髪|白髯《はくぜん》の老人が、いつの間にか、姿を現していた。
手には、山橘《やぶこうじ》を一枝、持っていた。
正月が、二日後に迫っていた。新年の床の間に飾るために、採って来たものであろう。
「伊織、お前の敵《かな》う対手ではない。むだなまねは止すがよい」
石舟斎は、笑い乍ら、とどめた。
「畜生っ! 女子なんぞに、負けてたまるかっ!」
伊織は、石舟斎のとどめるのもきかず、けもののように、はね躍って、静重めがけて、再度の攻撃をしかけた。
こんどは、木太刀が、宙へはじきとばされた。
伊織は、両手が、じいんとしびれて、その場へ、棒立った。
「く、くそっ!」
口惜しさに、双眸《そうぼう》に、泪《なみだ》がにじんだ。
「ははは……、伊織、ぞんぶんにくやしがるがよいぞ。泣いたあとで、おのれがまだ、十二歳にしかならぬ子供であることを、考えるのじゃな」
三
静重は、招じられた座敷に坐《すわ》って、老人が、床の間の花瓶《かびん》へ、無造作に、紅《あか》い小さな実をつけた山橘を、投げ入れるのを、眺めた。
やおら、対座した石舟斎は、
「女子として、ご苦労じゃな」
と、云った。
静重から、その素性と目的をきいて、この座敷に招じたのである。
「おねがいでございます。……わたくし一人の力で、宮本武蔵を討つことができる一手を、お教え下さいませ」
静重は、平伏した。
「わしは、武蔵という若い兵法者に、出会うたことがないゆえ、どれだけの使い手か知らぬが、噂《うわさ》にきいたところでは、野獣にまさる敏捷《びんしよう》を、天性の業力《ごうりき》に加えて居《お》るそうな。……そなたが、かなりの腕前の持主であることは、さっきの杖さばきで、看たが、まず、武蔵という男を討つことは、できまいのう」
「わたくしは、以前、石舟斎先生が、敵討をしようとする士に、刀盤《つば》の法、という一夜秘伝をさずけられた、とうかがったことがございます」
静重は、云った。
「そういうこともあったな」
二十年ばかりむかしのことになる。
ある日、一人の若い士が、宗厳をたずねて来て、自分には、不倶戴天《ふぐたいてん》の父の敵があり、数年間、諸方をさがし歩いて、ようやく、居処《いどころ》をつきとめたが、幼少の頃《ころ》からからだが弱く、敵討の念願を起した時には、武芸の修業ができて居らず、敵をさがし歩き乍ら、修業をしたものの、全く腕に自信がなく、せっかく敵と巡り逢っても、返り討に遭い、親の恥を増すおそれがあり、さすれば、なんのためにこの数年辛酸をなめたか、意味のないものとなるので、
「おのれ自身、敵を討って後、生きながらえようとは、露ほども思いませぬが、せめて、おのれも死ぬ代り、敵をも討ち果したく、それのみ一期《いちご》の望みといたします。ねがわくば、ただ一言、敵を討ち取る術を、ご教示たまわりますよう、懇願つかまつります」
と、平伏した。
宗厳は、兵法というものは一朝一夕で学ぶことは叶《かな》わぬが、事がすでに明日に迫っている上は、技を会得《えとく》するいとまはないゆえ、一手だけ、お教えしよう、と云い、
「それ刀鋒《きつさき》を以《もつ》て人を斬《き》らんとする者は敗れ、刀盤を以て人を殺さんとする者が勝つ」
この言葉を、しかと肚《はら》におさめるがよい、と教えた。
すなわち。
技倆《ぎりよう》未熟な者は、刀鋒で敵を斬ろうとすると、刀がとどかず、かえって、わが身が斬られてしまう。そこで、刀盤を以て、敵を突く心得で、おのが五体をたたきつけるがごとく、突進すれば、勝つことができる。
いわば、敵を殺すが、おのれもまた敵の刃に斃《たお》れる覚悟で、突き込む一手である。
「わたくしにも、必殺の一手を、ご教示たまわりたく存じます」
「ないの」
石舟斎の返辞は、冷やかであった。
その若い士は、刀盤の法を教えられて、みごとに、本懐をとげたが、それは、敵が、べつに一流の使い手ではなかったからである。
仇討をされるのをおそれて、逃げかくれしていた、しごく尋常の牢人者《ろうにんもの》でしかなかった。それゆえに、刀盤の法が、利《き》いたのであった。
「そもじのむかう敵は、わずか十一歳の少年をも、名目人であれば、平然として容赦なく斬った男だ。されば、討たれたくないと、にげかくれするような者ではない。十一歳の少年を斬ったことにも、いささかの心の痛みなど、おぼえて居るまい。そういう兵法者に対して、刀盤の法など、なんの役にも立たぬ。……気の毒乍ら、そもじは、討ちかかれば、必ず、返り討たれよう」
「…………」
静重は、まばたきもせずに、石舟斎を瞶《みつ》めて、無言であった。
「わしの言葉は、まことに冷酷だが……、そもじは、あきらめぬかぎり、武蔵の刀によって、子息のあとを追うことに相成ろう。尤も、武蔵という男、そのうち、年齢を加えて、人の情というものを知れば、あるいは、そもじを返り討たずに、去るかも知れぬが……」
「…………」
「そもじの舅、良人、そして子息は、もし、返り討たれたそもじを、あの世で迎えたならば、なんというであろうかな」
石舟斎のその言葉があって、しばらくすると、静重の上半身は、畳へ倒れ、慟哭《どうこく》が、そこからあがった。
網
一
年があらたまって、二十日あまり過ぎたある日の午後――。
河内《かわち》国と大和国をむすぶ竹の内街道を、二つの人影が、二上山の南にあたる峠越えをして来た。
武蔵と伊賀《いが》の妻六であった。
細川家大坂屋敷を、年が明けたのを|しお《ヽヽ》に辞去した二人は、堺《さかい》へ出て、河内の野を過ぎ、飛鳥《あすか》へ入ろうとしていた。
竹の内街道は、そのむかし――推古帝《すいこてい》の時(六一三年頃)ひらかれた。
丘陵にはさまれ、深い樹林の中を抜けているこの峠路《とうげみち》は、ひらかれて、都が平城京に移されるまでのおよそ一世紀の間、海の彼方《かなた》の国へ遣される僧侶《そうりよ》や留学生たちが、死を覚悟して通って行き、そして、さいわいに生きて再び帰国し、経典や仏画や、衣裳《いしよう》や陶磁器などを土産にして、胸おどらせ乍《なが》ら、踏みしめた街道であった。あるいは、遣唐使に連れられて、はるばるやって来た異邦の工人も、通ったに相違ない。
かれらは、北方にそびえる雄岳、雌岳に分れる二上山を仰いだ時、
「ああ! 大和へ帰って来たのだ!」
と、声をあげたであろう。
尤《もつと》も――。
いまでこそ、優雅で静寂な姿にかえっているが、二上山の雄岳の山頂には、女帝|持統《じとう》天皇によって、殺された継子の大津皇子《おおつのみこ》の墓があり、血族同士の血なまぐさい争闘の地獄図絵が、くりひろげられた地域であった。
[#1字下げ] 百伝《ももづた》ふ 磐余《いはれ》の池に 鳴く鴨《かも》を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
と、歌って死んでいった大津皇子や、その死を哭《な》いて、
[#1字下げ] 現《うつ》そみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世《いろせ》とわが見む
と、その姉の大伯皇女《おおくのひめみこ》が歌った――そうした悲劇も、すでに、遠いむかしの物語となり、飛鳥は、国取り城取りの戦国の時世には、忘れられた土地となっていた。
まして、古代史など、興味も知識もない兵法者と忍者にとっては、ただの冷たい、雪どけの細く長い街道でしかなかった。
「さて、と――」
峠を降りた地点で、妻六が、頤《あご》の無精髯《ぶしようひげ》をなでた。
「このあたりが、当麻《たいま》の里でござるわい」
「当麻の里が、どうしたというのだ?」
「当麻寺が、ござる」
「なんだ、その寺は――?」
「夕姫様が、尼になられた寺でござる」
「…………」
「これは、奈良へ参る途中、姫様からうかがったのでござるが……、当麻寺は、|中 将 姫《ちゅうじようひめ》結縁《けちえん》の寺の由《よし》でござる」
「中将姫というのは――?」
「右大臣|藤原豊成《ふじわらのとよなり》の息女で、幼い頃から、継母《ままはは》にいじめられ、十六歳の年に、尼にされて、|ひばり《ヽヽヽ》山にすてられ申したが、阿弥陀如来《あみだによらい》のおたすけによって、たった一夜で、蓮《はす》の糸をつむいで、曼陀羅《まんだら》を織りあげたという、美しい伝説がのこされて居るのだそうでござる。夕姫様は、その伝説に惹《ひ》かれて、まず、当麻寺に入られて、剃髪《ていはつ》され、それから、法華寺《ほつけじ》に入られ申した」
「…………」
「ついででござれば、当麻寺に詣《もう》でては、いかがでござる?」
「おれには、無縁の寺だ」
「武蔵殿は、奈良に入っても、夕姫様に逢《あ》う気持など、すこしも、起らぬと申されるか?」
「逢ってどうなるものでもない女性《によしよう》なら、逢わぬ方がよかろう」
「武蔵殿! この妻六は、こう考えて居るのでござる。当麻寺に立ち寄って、姫様がおろされた黒髪の一部をゆずり受け、それを、お手前様がふところにされて、宍戸梅軒《ししどばいけん》を、討って頂きたいものだ、と――」
「…………」
「いかがでござる? 尼になられた姫様には逢いとうない、といわれるのであれば、せめて、そうして下さるまいか?」
「お前が、そうしてくれ、というのなら……」
「是非、そうして頂きとうござる」
「その髪毛を、お前が、もらって来るがいい」
「承知つかまつった」
武蔵は、当麻寺の入口にあたる、左右の木立の中に東塔と西塔をのぞむ地点で、妻六を待つことにした。
雪を屋根にのこした東西二基の三層塔が、毀《こわ》れずに、そのまま、そろって、残されているのは、大和路では、ここだけしかない、という知識など、もとより、武蔵には、あるべくもなかった。
堂や塔や、石仏や塚《つか》などを眺《なが》めても、武蔵は、いまだ、なんの感慨も催したおぼえがないのであった。
彼方《かなた》の金堂から、誦《しよう》されている般若心経《はんにやしんぎよう》が、きこえて来るのを、きくともなく耳にし乍ら、武蔵は、感情のない冷たくかわいた双眼を、北方にそびえた二上山へ、投げていた。
山がある。
武蔵にとっては、ただそれだけの眺めであった。
二
妻六が、血相変えて、境内から奔《はし》り出て来て、
「武蔵殿っ! 宍戸梅軒の行方が、判《わか》り申した!」
と、叫んだ。
「…………」
「梅軒は、あろうことか、法華寺に押し入り、まだ十七歳の尼を一人、拉致《らち》して、紀州山中の竜神《りゆうじん》という温泉へ、行った由でござる」
「どうして判った?」
「去年の初冬、法華寺に押し入った梅軒は、二十数匹の山犬を殺したために、かなりの深傷《ふかで》を全身に負うて居るので、紀州山中の竜神という温泉で、湯治することにしたが、そのためには、看護役として、尼を一人、借り受けたい、と申し入れたそうでござる。勿論《もちろん》、門跡がことわったところ、梅軒は、いきなり、若い尼をひっとらえて、遁走《とんそう》した由。……夕姫様が尼として住んで居られる法華寺に、押し入って、その行先を告げたのも、因縁でござる。……若い尼を拉致したこの兇暴《きようぼう》な一埒《いちらつ》は、大和で評判になって居り申すそうな。当麻寺住持は、お手前様のことを、夕姫様からきいて居られ申した。是非とも、梅軒を討って、夕姫様のうらみをはらし、若い尼をとりかえして下さるよう、頭を下げられましたぞ」
妻六は、梅軒の行先が判ったので、極度に興奮していた。
武蔵は、べつに、表情も変えなかった。
「竜神というのは、どのあたりか、お前は、知って居るか?」
「高野山を越えて、日高川に沿うて下ったところにござる」
「雪道だな」
「左様――、いまは、修行僧も通っては居り申すまい。……ちと遠まわりになり申すが、和歌山城下を通り抜けて、御坊へ出て、そこから、日高川に沿うて登る道をえらんでは、いかがでござろう」
「いや、まっすぐに行く。九度《くど》山の伝心月叟庵《でんしんげつそうあん》に立ち寄って、真田左衛門佐《さなださえもんのすけ》殿に、挨拶《あいさつ》して参ろう」
関白|秀次《ひでつぐ》の息女である夕姫を、武蔵は、四年前に、九度山までともなって、幸村《ゆきむら》にあずけている。
その時、武蔵は、幸村がただの武将ではない、と看《み》たことであった。
後藤|又兵衛基次《またべえもとつぐ》が、武辺中の武辺ならば、真田左衛門佐幸村は、また別の意味で、武将中の武将と思われて、その風貌《ふうぼう》、挙措《きよそ》、言辞は、いまも、武蔵の脳裡《のうり》に、あざやかに残っている。
再び相目見《あいまみ》えてみたい人物であった。
あの折、幸村は、武蔵に好意を示し、もしよければ、柳生庄の柳生|石舟斎《せきしゆうさい》に添状を書いてやってもよい、と云《い》ってくれたものであった。
武蔵は、添状をもらわずに、立ち去ったが、あずけた夕姫が、自分を慕うて、伝心月叟庵を、出奔して、あとを追って来たために、ついに、尼になる不幸に遭うたことは、武蔵にとっても、責任の一半はないとは、云えぬ。
武蔵は、幸村に一度は挨拶してゆくべきだ、と考えた。
武蔵は、歩き出した。
妻六は、一歩おくれて、ついて来乍ら、
「夕姫様には、どうしても、お逢いなさらぬか?」
「逢わぬ」
武蔵の返辞は、|にべ《ヽヽ》もなかった。
三
慶長十一年から十二年にかけては、天下は、表面上は、いかにも、平穏無事であった。
豊臣秀頼《とよとみひでより》は、生母|淀君《よどぎみ》のすすめるままに、せっせと、各地の神社仏閣を建立《こんりゆう》再建修築していたし――。
徳川|家康《いえやす》は、江戸城、駿府《すんぷ》城の修築に、大いに気を入れている様子であったし、また、学問の奨励に力をそそいで、百年の兵火で焼けのこった古い書籍を集めたりしていたし――。
このままの状態で、天下の平和は、つづくものと思われた。
諸侯は、幕府の要請するままに、江戸城はじめ各地の城の修築をやったり、河川工事を手伝ったり、五街道を整備することに人夫を出したり、伊豆《いず》の国の金鉱の課役を引受けたり、蓄えた軍用金を使わせられていた。
すくなくとも――。
大坂城を滅す、という一大事業は、家康とその側近の肚《はら》の裡《うち》にのみ、おさめられて、世間の不安をさそうことはなかった。
しかし――。
その蔭《かげ》に於《お》いて、家康の密命を帯びた柳生但馬守宗矩《やぎゆうたじまのかみむねのり》はじめ、隠密《おんみつ》たちは、着々として、豊臣家滅亡の目的のために、目に見えぬ活躍を怠ってはいなかった。
外様《とざま》大名の妻子を、江戸に人質として留置するようにしたのも、そのひとつであったし、また、関ケ原で西軍に味方して領地没収された武将たちの監視も、厳重に実行されていた。西国大名の領地内には、柳生道場が放った隠密が、商人職人などに姿をかえて、忍び入っていた。
高野|山麓《さんろく》の九度山北谷へ入ろうとして、二里ばかりの地点で、武蔵と妻六が、数人の牢人《ろうにん》姿の男たちに、行手をさえぎられたのも、それは、幕府の放った隠密が張った網であった。
「武蔵殿、どうも妙でござる」
妻六が、ひくい声音で告げた。
前方を二人、後方を三人――牢人ていの男たちが、つかずはなれず、一定の距離を置いて、歩いているのであった。
「うむ」
武蔵は――武蔵も、すでに、気がついていた。
ただの牢人者の歩行ぶりではないのであった。これは、武蔵や妻六のような、幾度となく、不意の襲撃を受けた経験ゆたかな者には、すぐに、看破できるのであった。
地下《じげ》の者たちから、「高野道」と称《よ》ばれている広い街道で、左右は、松並木であった。
金剛山地から葛城《かつらぎ》山脈につらなる高峰の起伏を右方にのぞむ街道なので、ゆるやかに一上一下して、山から落ちる川を、無数に越えて行く道筋であった。
つい先刻までは、雲間から薄陽《うすび》が落ちていたのだが、いまは、厚い灰色の雲が、厚く空をふさいで、いまにも、ちらちらと白いものが舞い落ちそうであった。
寒気は、肌身《はだみ》を刺すきびしさであった。
かなりの長さの土橋の袂《たもと》にさしかかった時、急に、武蔵は、足を停《と》めた。
「妻六、お前は、身を避けていろ」
「一人か二人は、引き受けてもかまい申さぬが……」
「よい。おれだけで、やる」
武蔵の声音は、決闘者に生まれついた者独特の底力のあるものだった。
妻六は、橋袂にならんだ十数基の野仏ぎわへ、しりぞいた。
武蔵は、無言で、佇立《ちよりつ》して、待った。
前方を往《い》く二人は向きなおったし、後方を来た三人は、距離を縮めて来た。
五人は、ほとんど同時に、編笠《あみがさ》をすてた。
前方の一人が、
「宮本武蔵と見受けた。われらは、曾《かつ》て吉岡道場にて、修業した者。……亡《な》き師吉岡清十郎の無念をはらしたく存ずる。但《ただ》し、御辺《ごへん》が、所用あって、この道を通って居るのであれば、それが済むのを待って、あらためて、日時を約束して、果し合ってもよい」
と、云った。
武蔵は、無表情で、
「面妖《おか》しな話だ」
「なに?」
「吉岡一門ならば、それがしを見受けた時に、ただちに、試合を申し込んで来るはずだ。お主らは、そ知らぬふりをして、われらの前後をはさみ乍ら、黙って、一里あまりをやって来た。……吉岡一門といつわって、それがしの行先を突きとめようとして居るのであろう。……兵法者の歩きかたと、隠密の歩きかたは、おのずから、ちがう」
武蔵から、明確に云いあてられるや、五人は、一斉《いつせい》に、抜刀した。
狭い土橋の上である。
武蔵を包囲して、襲いかかることは不可能であった。
前後から、一人ずつ、攻撃して来ることになる。
武蔵は、欄干ぎわへ寄って、川を背にして、大小二刀を抜くと、ダラリと下げた。
この五人の刺客が、柳生道場から放たれて来た手練者《てだれ》であることは、その構えを一瞥《いちべつ》しただけで、武蔵には、判った。
柳生流正統の使い手たちと決闘するのは、武蔵は、はじめてであった。
それにしても――。
こちらが、宮本武蔵という兵法者と見受けただけで、討ちとろうとするのは、
――九度山の真田|館《やかた》を訪ねて行こうとしている。
と、看破したからに相違ない。
これは、徳川幕府の隠密が、どれほど多勢、日本全土に散らばされて、網を張っているかという証左である。
おそらく、真田館は、絶えず、何者が訪れるか、監視されているのであろう。
ただ、なんとなく、挨拶に行こうとしている武蔵にとっては、迷惑なことであった。
但し――。
決闘者たる武蔵は、こういう機会こそ、望むところである。
柳生流には、多勢を以《もつ》て襲撃するには、虎乱《こらん》という秘法がある、ときいたことがある。
その虎乱の攻撃|業《わざ》を受けることに、武蔵の若い闘志が、たぎった。
正面の欄干に、一人が、跳びあがって、大上段にふりかぶった。
左右から二人ずつ、目に見えぬゆるやかさで、肉薄して来た。
武蔵は、なお、ダラリと大小の白刃を地摺《じず》りに落しているだけであった。
――どうなる?
野仏の中で、妻六は、固唾《かたず》をのんで見まもっている。
折から、ひくくたれこめた雲から、粉雪が舞い落ちはじめた。
[#地付き](下巻につづく)
本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、底本どおりとしました。
[#地付き]〈編集部〉