新潮文庫
江戸群盗伝
[#地から2字上げ]柴田錬三郎
川の月
静かな深夜であった。十六夜の月は、|暈《かさ》をかぶって、おぼろであった。
三十間堀をのぼる|猪《ちょ》|牙《き》船の、|櫓《ろ》のきしりと、水をきる音だけが、単調に、この深夜の静けさをみだしていた。
|梅《うめ》|津《づ》|長《なが》|門《と》は、船から三間あまりはなれた水面で、砕けてはまた円をとりもどす月影を、茫然とながめて、|舷《ふなべり》へよりかかっていた。宗十郎頭巾をかぶり、黒羽二重の着流しであった。
吉原での|流《いつ》|連《づけ》七日の疲労が、梅津の四肢にしみわたっていた。酔いのさめはてた後のうらわびしいむなしさに、胸の中は|乾《かわ》いていた。
しかしわかれてきた江戸町二丁目の大阪屋の女郎花鳥の匂いが、まだ濃く、長門の|鼻《び》|孔《こう》にとどまっていた。
長門には、その匂いが、はげしい毒素を含んでいるように思われた。
――たしかに、毒婦だ、あいつは。蛇身……というが、それだ。
|空虚《うつろ》な|脳《のう》|裏《り》の片隅に、そんな呟きがあった。その蛇身にうつつをぬかしているおのれが、なんともいえぬやりきれなさでさげすまれる。
「旦那。どこへ着けます?」
船頭が、きいた。
「うん――」
|生《なま》|返《へん》|辞《じ》をする長門の暗い眼眸は、大きくふたつに割れて散る月影へ注いだまま、
むらぎもの心もそらにうかぶかな 月のうえこぐ棚なし小舟
そんな歌が、ふっと思い泛んでいた。
十年前、梅津長門は、旗本の軽輩の中では、文武ともに群を抜いた秀才であった。
「新橋際へ着けますか。……|信楽《しがらき》|茶《ぢゃ》|屋《や》で口直しをなすっちゃいかがです?」
「もうこの時刻じゃ、寝てしまったろう」
長門は、そう云って、はじめて彼方の|河岸《かし》を振りかえった。明りは消えて、どの家も、くろぐろとひそまっていた。
「なアに、たたき起こしまさア」
「いや、いい、そこの|土《ど》|堤《て》へあげてくれ」
「銀座にお泊りになるところがござんすので?」
長門があがるといった場所は、草の露が光っている淋しい野原であった。
銀座――といっても、天保年間のことである。船宿を除けば、遊人を泊めるような家は一軒もなかった。船頭が、不審に思ったのも当然である。尤も、乗り際に長門の無造作に呉れた二分銀が、船頭に心をつかわせていたのである。
「これから辻斬をやるのだ」
長門は、ぼそりと云った。
「ご冗談を――」
船頭は、笑った。
しかし、長門は、べつに思ってもいなかったその冗談を口にしたとたん、ふっと全身の神経が動くのをおぼえた。
――そうだ、ひとつやるか!
すでに、二度ばかり、その経験のある長門であった。船頭にくれてやった二分で、彼は完全に無一文になっていた。
美少年
河岸をそれて、ほどなく、ひくい軒並の町中をゆっくりとたどる梅津長門には、いつか鯉口をきる心の準備ができていた。また、跫音を消して歩く訓練のできた男であった。
――来たな?
よほど遠くから近づいてくる人の気配も、彼のひきしまった神経にすぐつたわっていた。
長門は、とある路地へ、すっと身をひそめた。
距離が、かなりせまってから、長門は、そっと顔だけのぞけて、前方をすかし見た。
――なんだ、|丁《でっ》|稚《ち》か。
あきないを終えての戻りであろう、それは|天《てん》|秤《びん》|棒《ぼう》で|御《ご》|膳《ぜん》|籠《かご》をかついで急ぐ前髪をつけた少年であった。
長門は、がっかりして、路地から出ようとした。
その時、丁稚の背後から、黒い影が、非常なすばやさで跳びかかるのを、長門は見た。
丁稚が声もあげずに横倒しになったのは襲撃者の手練といってよかった。
天秤棒が飛んで、銅張りの天水桶にぶっつかるひびきだけが、大きく夜空にひろがった。
襲撃者は、木場へんの|川《かわ》|並《なみ》の職人といった、大紋付の半纏に|盲目《めくら》|縞《じま》の股引腹掛、三尺帯に豆しぼりをはさんだ風態であった。
――丁稚を襲うとは、よほどしけた野郎だな。
苦笑しつつも、長門は、それにしてもその強盗の手際のあざやかさを|訝《いぶか》りつつ、じっと見まもっていた。
すばやく丁稚の衣類を剥取り、半纏を脱ぎすててきかえ、帯をしめおわると、そのあたりにちらばった小銭をひろいあつめる落着きぶりも、|小《こ》|憎《にく》らしかった。
のみならず、御膳籠の中から、縄で括った備前徳利を四五本ぬき出して、片手に携げ、すたすたとあるき出した。
「おい!」
路地の前を過ぎようとしたその男にむかって、長門は、思わず、鋭い声をかけた。
ぱっと向き直った身構えの隙のなさに、長門の不審は、さらにふかまった。しかも、意外であったのは、月光をあびたその顔が、まだ少年のものだったことである。ほれぼれするような美しいつくりではないか。
「貴様、それだけの腕をそなえ乍ら、なぜ丁稚ふぜいの着物を剥ぐのだ?」
返辞はなかった。
長門が、|放火盗賊検《ひつけとうぞくあらた》めの|加《か》|役《やく》と称する役人ではなかったのが、相手を、ほっとさせた様子であったが、抜打ちを警戒する身構えだけは一分も崩さなかった。
「返答しろ!」
長門が、一歩出ると、少年は一歩さがった。
一瞬、長門の長身に殺気が走った。
「待った!」
と、少年は手をあげた。
「旦那。……じつは、おいらは、川にはまって、ずぶ濡れだったんで――」
「着がえにかえる家がないむく鳥[#「むく鳥」に傍点]だというのか?」
「へい」
「なぜ、川にはまった?」
「なぜって――そりゃ……」
「酔って足をすべらせる年ではないらしいぞ。貴様まだ|二十歳《は た ち》前だな?」
「へい。十八なんで――」
とこたえて、不敵に、白い歯をみせた。
「云え! なぜ、川にはまった?」
「旦那!」
少年は、急に|語調《ごちょう》を|鋭《するど》くかえた。月光の中ででも、その表情が、一瞬毎によくうごくのがわかった。それによって、目から鼻へ抜ける俊敏な性格であることがうかがわれた。
「云いにくいことを、|阿《あ》|漕《こぎ》にきかねえでもらいてえ」
「よかろう。きくまい」
長門は、あっさり折れた。
「そのかわり、小僧、どうだ、おれにつきあうか?」
わかれ唄
「旦那――」
庄吉と名のったその少年は、長門と肩をならべてあるき出し乍ら、云った。
「旦那は、できますね」
「おれができるのがわかる貴様の方こそ、その目ききをどこで修業した?」
「ふゝゝゝゝゝ……」
庄吉は、ふくみ笑いをもらして、こたえなかった。
長門は、さっきから気づいていたのを、もう一度たしかめるために、庄吉の頸へ、ちらっと一瞥をくれた。
その頸に、一筋すり傷の痕がついていた。長い間、捕縛されていた証拠である。
いつか、二人は、|木挽町《こびきちょう》の|市菴《まちどおり》をぬけて、武家屋敷の白壁塀に沿うてあるいていた。風が出てきたか、塀の上にのびた樹枝が、かすかにざわめき、地に這わせた影をゆれさせていた。
「おい、庄吉。貴様、まさか、|鉄《てっ》|砲《ぽう》|洲《ず》のむこうから泳いで来たんじゃあるまいな?」
長門は、なにげない口調で尋ねた。
鉄砲洲のむこうは|佃島《つくだじま》である。囚人の苦役の場所である。
「旦那、きかねえ約束でしたぜ」
「知ってかばってやるのと、知らずにかばってやるのとは、こっちの|了簡《りょうけん》がおのずからちがってくるというものだろう。……いいか、むこうから来たのは、加役だぞ」
長門は、すでに、はるか彼方からやってくる|跫《あし》|音《おと》を、|小吏《しょうり》|独《どく》|特《とく》のあるきかた、と察していたのである。
「いけねえ!」
庄吉は、小声で、云った。
「旦那、図星でさ。おいらは、島を破って来たんです。たすけておくんなせえ」
「うしろへさがっておれ」
やがて――。
二人の前へあゆみ寄ったのは、加役庭場重左衛門であった。加役は、およそ十月に就職し、翌年三月に解職する規則である。庭場は、今夜が、その最後の日であった。
庭場が、立ちどまると、長門と庄吉も足をとどめた。
「この夜ふけに、どちらへ行かれる?」
「帰宅の途中です。|小《こ》|普《ぶ》|請《しん》|組《ぐみ》、梅津長門」
「お|住宅《すまい》は?」
「すぐそこです」
と、ぼかしてから、
「女房が嫁に来た折、こっそり鏡の裏にかくしておった小判六枚を、ひょんなことで発見いたしてな、とんだ|山内一豊《やまのうちかずとよ》の女房――。江戸町の|格《こう》|子《し》|女《じょ》|郎《ろう》相手に七日|流《いつ》|連《づけ》、とうとう足を出して、こうしてつけ馬をひきつれて帰るところです。はははは」
「左様ですか、……では、どうぞ、お気をつけられて――」
すれちがって、数歩行かぬうちに、長門は、ひくく唄いはじめた。
[#ここから2字下げ]
忍ぶ恋路は、さてはかなさよ
今度逢うのが命がけ
よごす涙のおしろいも
その顔かくす無理な酒
[#ここで字下げ終わり]
しぶい、いい声の本調子であった。
|無頼《やくざ》の宿
木挽町の海辺ちかく、中津藩邸の裏側に、たった一軒だけ、とりのこされたような居酒屋が建っていた。
このあたりは大小名の藩邸地帯で、あちらこちらの中間部屋では、夜毎|賭《と》|場《ば》が開帳されていたが、それに集まる連中を、この居酒屋は、客としていた。いわば、世間から掃き出された、いずれどいつもこいつも、心身に傷を負った悪党たちの、吹き|溜《だま》りで、ここはあった。
路地を吹きぬける風がやや強くなり「つや」と紺に白く染めぬいた|暖簾《のれん》を、あおって、ぴったりととじられた表戸をかすかにたたいていた。
夜が更けるにしたがって、|寂《せき》|寞《ばく》は、いっそ、じいんと底鳴りするまでに冴えていた。それというのも、三坪ほどの店の中には、ずうっと長い間、ふかい沈黙が占めていたからである。
客がいなかったわけではない。
奥のはめ板に|凭《よ》りかかった二十七八歳の男が、思い出したように|猪《ちょ》|口《こ》を口にはこんでいた。博徒と一瞥でわかる|刷《は》|毛《け》|先《さき》を曲げたはすかけ[#「はすかけ」に傍点]本多、着崩した|唐《とう》|桟《ざん》|留《どめ》、|焦《こげ》|茶《ちゃ》博多に落した長脇差は、|鍔《つば》・|目《め》|貫《ぬき》に金の|象《ぞう》|眼《がん》をほどこして、たぶん中身もわざものに相違ない。
猪口をはこぶたびに、袖口から朱桜の|文《ほり》|身《もの》がのぞいた。
苦味走った面貌にただよう虚無的な冷たさが、この男の生きている世界の血なまぐささを暗示していた。
縄のれんのむこう側では、熱く燃えた炭火にこごみかかったかみさんが、|色《いろ》|褪《あ》せた肩掛へ顎をうずめて、俯向いていた。
平和なねむりをむさぼる大江戸の寒夜と、まったく無関係にきりはなされた|寂寥《せきりょう》の底に思い沈んで、じいっとこの一瞬の孤独に堪えている二人の姿は、このままいつまでもつづくかと思われた。
と、隙間風で、かすかにゆれていた行燈の明りが、二三度すうっと|仄《ほの》|暗《ぐら》くまたたいた。客は、それへなんとなく視線をなげて、ぶるっと|胴《どう》|顫《ぶる》いした。それから、やっと、このふかい沈黙をやぶった。
「うう、寒くなってきやがった。かみさん、熱いやつを一本つけてくれ」
その声で、おかみさんは、多分二年前に行方不明になった娘のことでもじっと|想《おも》い|耽《ふけ》っていたのであろう。茫然とした遠い|眸子《ひとみ》を、ほっとわれにかえったようにあげていた。
「なんだか、今夜は、|底《そこ》|冷《び》えするようでござんすねえ」
「それに……妙に、客のねえ晩だな」
「月に一二度、こういう淋しい晩があるんでござんすよ」
「こんな夜……店で一人寝るのはやりきれなかろう。かみさん、亭主はねえのか?」
「娘をつれてお伊勢詣りに出かけてそれっきり……箱根の山で、強盗に遭って殺されたんじゃないかと思います。床に入って、寝そびれると、生きているのがつくづくイヤになりますよ」
男は、かみさんへ、ちらっと視線を走らせて、すぐそらした。不吉な話は、この男の心の傷口にふれた様子であった。
梅津長門が、庄吉をつれて、この店へ入って来たのは、その時であった。
長門には、この店は数年来の馴染であった。
仇討
「庄吉と言ったな」
長門は、庄吉の猪口へ酒をついでやり乍ら、あらためて|訊《き》いた。
「へい」
「ふたつ名は、なんだ?」
庄吉は、隅の|博《ばく》|徒《と》の存在をはばかる目つきになると、返辞をする代りに酒をぱっと口へなげこんだ。
「あるだろう。……心配するな。ここはなにをしゃべっても、戸口から外へ洩れる気づかいのない処だ。そうだろう、客人?」
と、長門は、博徒をかえり見て笑った。
「へい、左様で――」
と、博徒も、笑って頷いてみせた。勿論長門と博徒は初対面であった。
「どうせ、この客人も、この夜ふけに、こんな処で、もっそりと酒を飲んでいるからには、ろくな|渡《と》|世《せい》はやっておるまい。このおれもご同様だ。……かみさんは、客の話には、つんぼになるのが、礼儀だと心得ておる」
長門は、そう言ってから、じろりと庄吉を見据えた。
「先刻、貴様が奪ったのが、その着物ではなくて、小判であったら……貴様は、おれに斬られていた筈だ」
「じゃ、旦那は――」
「そのこんたんで、あそこに立っていたと思うがいい」
「それなら……話がしやすいというもんだ。おいらは、三日月小僧という|巾着切《きんちゃくきり》なんで――」
庄吉は、右手を、ついとさし出してみせた。
甲のまん中に、ひきつれたひどい|瑕《きず》がついていた。てのひらをかえすと、瑕はそこまでつき抜けていた。
「|角力《すもう》取の玉垣額之助――旦那ご存じでしょうが、あいつが出入屋敷から拝領した刀についている小柄を、両国橋ですりとろうとしてドジをふみ、とっつかまって、この手を欄杆へ押しあてられて、その小柄でぐっさり……その時から、この三日月形のおかげで、そう呼ばれております」
「貴様は、孤児か。巾着切の頭株は、弟子を育てるのに、孤児を捜すときいておるが――」
「いえ、面目ねえが、ちゃんと父親がおりました。その父親が……旦那、おれが島へ送られたのは、巾着切の現場をおさえられたからじゃねえんで……。親爺が、中気になって、右手右足がきかなくなっているのに、無理して、湯島へお詣りに行くといってきかねえものだから、しかたなくおいらがつき添って行きました。ところが、切通しを降りたところで、親爺め、よろけやがって立派なさむれえにぶっつかったんでさ。さむれえが、親爺を巾着切とまちげえたのも、考えてみりゃ、おいらの日頃の罪を背負ったようなもので……抜打ちにあびせられて、親爺は死にました」
その時の光景が、脳裏に|甦《よみがえ》ったのであろう、庄吉は暗然とした思い入れで、親指の爪を噛んだ。
「それから、どうした?」
「おいらも、かっとなって、ふところの九寸五分をひっこぬいて、斬りかかりました。それをさむれえについていた中間がさえぎりゃがったんで……夢中でそいつの脇腹をえぐっちゃった。で、つかまって、島送りでさ」
「ふむ。貴様が、巾着切でなけりゃ、伝馬町だけですんだろうがな」
「旦那。おいらは、親爺の仇を討つために、島を破ったんですぜ」
きらきら双眸をかがやかせてそう言いはなった庄吉を見やった長門は、少年の一途に燃やす執念をいっそううらやましいものに感じた。自分がすでにうしなった情熱である。
隅の博徒も、きかぬふりをしていたが、話の異常さに無表情ではいられなかった。
「武士が何処の何者か、判明しておるのか?」
「へい。神田の松枝町に住んでいる旗本の大身なんです。たしか、須貝――なんとかいったっけ」
「須貝?」
と、長門は、|鸚《おう》|鵡《む》|返《がえ》しに呟いた。
「旦那、ご存じですか?」
「いや、べつに――」
と、こたえ乍らも、|肚《はら》の|裡《うち》では、
――もしか、あの須貝では?
と強い疑いが起っていた。
長門が知っている須貝という旗本は、吉原の通客であった。ほんの|些《さ》|細《さい》な原因であったが、長門は、その旗本と、果し合いの一歩前までいったことがある。大門の外であったなら、当然、長門は、相手を仆していたであろう。
「旗本の大身じゃ、仇討も|聊《いささ》か骨が折れるな。それに……貴様が武士なら、首尾よくやっつければ、増禄という褒美もあろうし、家老が娘をもらってくれ、などと、ちやほやされるだろうから、討ち甲斐もあるが……巾着切では、どっちへころがっても、打首だ」
「旦那! おいらは、|屹《きっ》|度《と》やっつけてみますぜ」
庄吉は、反抗的に肩をそびやかした。
「旦那を前にしてなんだが、おいらは、父親のうらみをはらしてやろうというだけの了簡じゃありませんぜ。おいら、さむれえが憎いんだ。……おたがいさまに人間じゃねえか。さむれえなら、町人を無礼打ちにしても罪にならねえ、という法があるもんか! それが癪にさわるんだ。おいら、あのさむれえをたたっ斬って、江戸中をあっといわせてやるんだ」
「うむ」
大きく合点した長門は、
「それならどうだ、これから、ひとつ、仇討に出かけるか」
「えっ! 旦那が――」
庄吉は、|瞠《どう》|目《もく》した。
「有難てえ。おねげえします」
二人が、腰をあげた時である。
ふいに、片隅の博徒が声をかけた。
「あっしもひとつ、つれて行ってもらえませんかね?」
夜の仲間
博徒の言葉が、梅津長門と庄吉をびっくりさせたのは、いうまでもないことだった。
「つれて行ってくれ、だと――」
長門は、|怪《け》|訝《げん》そうに、まじまじと博徒を見やった。
「おねげえ申します。……耳に蓋をするわけにもいかねえんで、つい、そちらさんの話をきいちまったら、急に、あっしも、片棒を――いや、なんていうのか、助太刀できる腕じゃねえが、その……まア、あっしの気性でござんして――見張り番ぐらいはつとまるつもりでござんす」
微笑を浮べてそう云う博徒の態度には、どこか精悍な野性がひそんでいて、長門はふと身近な親身をおぼえた。
理屈や利害を|顧《かえりみ》ずに、己の気分のままに生命をなげ出す、こういう種類の男の人生を、長門は、うらやましいと思う。吉原女郎にうつつをぬかそうと、賭博にふけろうと、梅津長門の人生は旗本小普請組七十俵十人扶持という世界からのがれることは出来ないのだ。
幕府の|典《てん》|礼《れい》が定まって百年、ようやく紀綱は弛み、弊害は百出している時世であったが、それ故に、かえって、泰平に慣れ無事に安んじ惰弱已に風を為した社会にあって、攻伐戦争のために禄を食む武士は、もはや無意味な存在になりかかっていた。|就中《なかんずく》、梅津のような下級旗本は、性俊敏であればあるだけ、一切の希望を放棄するような仕組になった階級制度の|檻《おり》の中で、日毎に虚無的な|沈《ちん》|湎《めん》を余儀なくされていた。
しかも、旗本の士たる者に課せられた体面と格式だけは、依然として強いられていた。|出処進退《しゅっしょしんたい》は、礼儀三千威儀三百によってがんじがらめにしばられていた。
|放《ほう》|蕩《とう》、賭博は、檻の中でのはかない反逆でしかなかった。したがって、梅津長門は女を抱いた瞬間も、あぶく銭をつかんだ刹那も、われを忘れてその中に溺れるということはなかった。まして、その一瞬が過ぎれば、泥を呑んだような孤独感にひしひしと締めつけられていたのである。
ところが、目の前のこのやくざは、行きずりの巾着切のために、生命をなげ出そうとして、そのおもてをかがやかせている。
「お前さんは凶状持ちか?」
居酒屋を出て、庄吉を先にたててあるき出してから、長門は、喜三郎と名のった博徒にぽつりと尋ねた。
「へい。国を売った風来坊でござんして――」
「国は?」
「|下総《しもうさ》の佐原でござんす」
「親分はいるのか?」
「居ります。|常陸《ひたち》の土浦の仙次という親分で、銚子の五郎蔵や飯岡の助五郎と肩をならべる勢力をもって居ります」
――その親分が、このやくざの理想の人物なのだろう。
と、長門は、ひそかに心の中で苦笑したが、すぐに、そんなささやかな偶像さえも持たぬ自分のむなしさに、苦笑は|自嘲《じちょう》にすりかわっていた。
「さしずめ、親分の敵を、お前さんが斬って立退いたというところだな」
「まア、そういうわけで……べつに後悔しちゃいませんが、こうした江戸のまん中で、一人ぽっちでくらしてみますと、妙に、国が想われます」
「女でもつくってみたらどうだ?」
「捜している娘は、一人ございます」
「|幼馴染《おさななじみ》か?」
「いえ、そうじゃござんせんが、ちょいとへんな因縁がござんして……へへへ、一度寝たことがありますんで――」
「別れて、何年になる?」
「四年……になります」
「人の女房になっているのか、でなければ、もうお前さんが想っているような女ではなくなっているかも知れん。江戸は、男を知った女を、すぐに変えてしまうところだ」
長門は、冷酷なことを言った。博徒輩と寝た娘を、信用できなかったからである。
「旦那、あっしは、あの娘を、そう思いたくねえんでござんす。あっしと一緒になるまでは、石に齧りついても一人で待っていると、かたい約束をして居ります」
「お前さんは、そう思いこんで……そうだな、一生めぐり会わねえ方がいいんだな。ははは」
長門の|乾《かわ》いた笑い声が、夜風に乗って、異様に高く、遠くひろがった。
脱走
三日月小僧の庄吉は、二人より数歩前を、全身の血を沸かせ乍ら、自然ふみ出す足に力をこめて、露をふくんだ草道を辿っていた。
――巾着切が、旗本の大身に仇を討つんだ! 江戸中が、わっと大さわぎをしやがるだろう。ざまアみやがれ、だ。
思いもかけず、強そうな男が二人も助太刀を買って出てくれたのである。島破りの興奮のさめぬ若い五体に、したたかめぐらせた酒気は、この不良少年の単純な野望をいやが上にもふくらませていた。
仇討――この行為は、父親の無念をはらし、その霊魂を鎮めんという一途な孝心だけでは、決してなかった。それは、庄吉が、長門に告白した通りである。
佃島を脱走するには、この|敏捷《びんしょう》な若い体力をふるいたたせるなみなみならぬ決意を必要とした。
――仇討をやるんだ! そのための島破りだ。
巾着切としては、望外の大義名分をもって、庄吉は、昨夜、それを敢行したのである。
昨夜は、嵐であった。
日暮れて、海鳴りが、地底をつたって佃島全体をゆるがせはじめるや、庄吉は、
――ようし、今夜だ!
と決意をかためたのであった。
脱走のことは、|寄《よせ》|場《ば》の|苦《く》|役《えき》のはじまった日から庄吉の胸の中に芽生えていたが、その手段を見さだめるのに半年かかった。はじめ、鉄砲洲の五軒町へ泳ぎつく計画をたてた時、庄吉より一足先に二人の囚人がこれをやってのけ、漁師町の見張に発見され、斬倒されたのであった。この一方をのぞけばいずれも海路は遥かであり、浪は荒く、泳ぎにも自信がなかった。
十日あまり前、紀州の蜜柑船が、島の西方からのぞむ新地の端と称する瀬で、|暗礁《あんしょう》に乗りあげる事件が起った。
これが、庄吉に、|天《てん》|啓《けい》のごとく、脱走路を思いつかせたのである。暗礁でひと休みすれば、泳ぎきることができないものでもないと――。
嵐は、夜が更けるにつれて烈しくなり、掘建小屋はいまにも吹きとばされそうに、気味わるくゆれたが、庄吉は床の中で――もっと烈しくなりゃがれと祈ったものだった。
丑三つに近い頃合、庄吉は、そっと|鎌《かま》|首《くび》をもたげて、同囚たちを窺った。嵐に眠りをさまたげられるような細い神経の持主は一人も見あたらず、どいつもこいつも前後不覚のていと見てとった庄吉は、雪隠に立つふりで起きあがった。
雪隠の掃除口から這い出る方法は、幾人かの脱走者たちの前例にならった。
築地は二重になって居り、外面には、日夜監視の目が光っているのだが、東方から吹きつけるこの夜の烈風は、|流石《さすが》に番士を、断崖上に立たせておかなかった。
第二の築地の|柵《さく》|矢《や》|来《らい》を乗りこえた庄吉は、ここがどの断崖上にあたるか、見当もつかなかった。|漆《しっ》|黒《こく》の闇の奥から、すさまじい唸りをあげて襲いかかる烈風は、這いつくばって岩にしがみつく庄吉の身体をもぎとろうとした。それにさからって、しかも、一寸きざみに|匍《ほ》|匐《ふく》して行く庄吉は、生れてはじめて、生命を賭すことの孤独感をきもに銘じてあじわったのであった。荒れ狂う天地のまなかに、たよるものがおのれの四肢だけだとされる試練が、この生来放胆な少年をして、この夜、飛躍的にさらに恐るべき度胸の持主にしたのは疑うべくもない。
断崖のはしに這い出た庄吉は、闇に呑まれた海上へ、見えぬ目を落して、ぶるっと身ぶるいした。
下が、|岩礁《がんしょう》なら、骨が砕けるであろう。
――ままよ!
雨にずぶぬれた|襤《ぼ》|褸《ろ》きれのような庄吉のからだは、もんどり打って、海面へ落ちた。
そのからだをうけとめたのは、岩でもなく水でもなかった。干潮のあとの泥であった。
俯伏せに泥中へはまった庄吉は、胸をしたたか打ったショックで、しばらくは顔を泥にうずめたまま、うちあげられた流木のように動かなかった。
ようやく首を|擡《もた》げた庄吉は、ずぶずぶと泥の中へのめり込む両腕両脚をひき抜く力をうしなって、ごろりと反転すると、顔の泥が雨で流されるのを待って、大きく胸を喘がせた。そして、また、そのまま、長い間、庄吉は、じっとしていた。
そのうちに、すこしずつ沈んでいた自分のからだが、泥の中へ完全にうずまったとさとるや、はじめて恐怖が来た。
庄吉は、夢中でもがいて、上半身をまっすぐに突立てた。脚は、|太《ふと》|腿《もも》まで泥に突込んでいた。
「だ、だめだっ!」
思わず声に出して叫ぶや、庄吉は、狂ったように両手で、めちゃめちゃに泥をひっかいた。その指が、|浪《なみ》|除《よけ》|杭《ぐい》にふれた刹那のよろこびを、庄吉は、生涯忘れないであろう。
庄吉は、そうして杭にすがりついたまま、夜明けをむかえた。
風もおさまり、雨もやんだ。
はるか彼方の、永代橋の輪郭とそれにつらなる灰色の白壁が、おぼろに浮き出した。その頃、灰屋の職人はもう起き出たか、海のおもてへかすかに灯火が差した。
しらんできた灰色の空を、群鳥が、啼いて舞いはじめた頃、下総の沖から目に見えぬ速さでおしよせた潮が、ひたひたと遠浅の泥をひたしてきた。
庄吉は、こうして刻々と明けそめる世界を、微動もせず見まもっていた。
潮が杭までとどかなければ泳げなかった。しかし、その時は、海面は明けはなたれている――。
庄吉の両眼に、絶望の泪が|滲《にじ》んだ。
囚人たちの起床時刻は、もうすぐそこに迫ったのである。
「畜生!」
呻き泣く一声をもらした時であった。
波間にただよう一個の古びた虎子(おまる)を一間ばかりむこうに発見したのは――。
波は、すでに庄吉の胸もとをあらっていた。
――しめた!
庄吉は、杭をはなして、はじめて、からだを浮かせるや、|虎子《おまる》にむかって、水をかいた。
虎子を頭にすっぽとかぶって、さしてくる潮にさからって泳ぐのも、決してなまやさしいわざではなかった。
新地の端までは、約五町。そのほぼ中間に、暗礁が波間に沈んでいた。暗礁が足にさわった一瞬、庄吉は、虎子の中で、けだものじみた歓喜の唸りをあげたものだった。
新地の端へ泳ぎついた時に、もう陽は、無数の箭となって、ゆるやかに流れる|薄《うす》|霧《ぎり》をつらぬき、ななめに、岸辺をてらしていた。
一刻のち、裸体の庄吉は、洲崎の土橋までにげのびていた。そこで、通りかかった木場の川並の小僧を襲って、半纏と股引腹掛をうばったのであった。
夜に入って、空腹をかかえて築地の門跡の裏で露宿をした。夜半に降った雨に濡れて目をさました庄吉は、さらにもう一人を襲撃してやろうと思いたつと、銀座の小路に入って、待ちかまえたのであった。
あきない帰りの丁稚の身ぐるみ|剥《は》いだことが、梅津長門と近づかせ、そしてこの因縁が、のちのちまで庄吉の運命に大きく糸を引こうとは、もとより神よりほかに知る由もないことであった。
眠る美女
「旦那、そこです」
長い土塀に沿うて、大きな構えの屋敷町のはずれに出た時、庄吉が、立ちどまって、|欅《けやき》の大樹が門の上を掩っている家を指さした。
立派な屋敷であった。紋をうった二|間《けん》|梁《ばり》の長屋、白線の入った|塗《ぬり》|塀《べい》、鉄板をはめこんだ門扉。
「拝領屋敷か――」
と、長門はひくく呟いた。
だが、よく目をこらせば、大門の屋根には草がはえ、塀の石灰は剥げ落ち、長屋の窓格子は折れ、扉はかたむいていた。
表札もない。
「庄吉、ここにまちがいないか?」
「へい。仲間がつきとめてくれましたんで――、たしかに、この欅の大木のつき出た屋敷だと――」
長門は、|潜門《くぐりもん》に近づくと、かるく押してみた。
ぎいっ、といやな軋り音とともに、|潜戸《くぐりど》はひらいた。
旗本の|貧窮《ひんきゅう》が、目を掩わしむる時世となっているのは事実だが、拝領屋敷とも受けとれるこの広壮な構えが、この様に荒廃し、夜の用心も忘れられているのは、なんとしても不審なことであった。
五千石――いや、それ以上の禄をとっている大身が、門前に草を繁らせておく筈がない。
「|改《かい》|易《えき》になった旗本ではあるまいな。……ともかく、入ろう」
庄吉、長門、喜三郎とつづいて、潜門を通り抜けた。
長門は、夜目にも荒れた廃園を見わたして、やはり拝領屋敷にちがいない、とたしかめた。
|数《す》|寄《き》|屋《や》風のおもむきは、すぐ右手の|春日《かすが》|燈《どう》|籠《ろう》のわきに敷かれた飛石、飾井戸をひかえた茶室のたたずまいなどで、その風雅さをしのぶことができた。
泉水のかなたに、月光をあびてどっしりとわだかまった邸宅は、一万石の下屋敷といってもよい。
「このざまでは、使用人もおるまい。……庄吉、あの広さでは、敵を見つけるのは、ちょっと骨が折れるぞ」
「なアに、おいら、カンがききまさア」
「あの表座敷から入るとしようか。この様子なら、盗賊じみた振舞いをせずともよかろう。せいぜい住人がいても、四人か五人」
泉水をまわって、飛石づたいに近づいた長門は、小柄を抜いて、無造作に、雨戸をこじあけた。
「喜三郎、お前さんには、ここで見張っていてもらおうか」
「かしこまりやした」
「逃げ出すやつもおるまいが、もし誰かが逃げ出して来ても、なるべく斬るな」
そう云いのこしておいて、長門は、庄吉とともに、廊下にあがった。
空屋敷とも思われる静寂の夜気は、いっそ不気味なまでに、長門の鋭く張った神経をおしつつんだ。
――こんな屋敷に、小人数で住むには、なにかふかい仔細がありそうだ。それとも、本当の空屋敷かも知れぬ。
と思い乍ら、
「庄吉、二階をひとわたり、さがしてこい。見つけたら、おれを呼べ」
「合点」
庄吉は、跫音たてぬ馴れた足どりで、つつつつつと廊下の奥の暗闇へ消えていった。
長門もまた、この静寂をみださぬだけの用心をしつつ、庄吉とは反対側へすすんで、つきあたりのまいら[#「まいら」に傍点]戸を、そっとひらいた。
と――。
ある部屋から、ほんのりと明りが洩れ出ていた。
――やはり、空屋敷ではなかったか。
その明りへ近づき乍ら、長門は、遠く寺で撞く鐘の音をかぞえた。
もう夜明けであった。
長門は、ためらいもなく、その障子戸をひらいた。
ひろい奥座敷であった。角行燈の灯が廊下から入る風で、かすかにまたたいた。
長門は、ゆっくりと大股に、ふみ込んだ。
破れた備後畳が、みしりみしりと長門の重みで鳴ったが、|屏風棚《びょうぶだな》近くに敷かれた夜具は、こそともうごかなかった。
寝ているのは、女であった。
長門は、自分の巨大な影法師を、夜具の上へ這わせて、そっと、その寝顔をのぞいた。そして、そのやや横向きの顔を、一瞥した瞬間、ふっと息をつめた。
うら若い女。それもおそらくは、恋人にもまだ程遠い処女の、柔かな夜の色に染められた美しい容貌が、そこにあったのである。ひたいから鼻にかけての|臈《ろう》たけた細い線、とじられた瞼のかたちのよさ、頬におとしたまつ毛の微妙な|翳《かげ》、|彫《ほ》られたような唇の魅力――そして、それらをつつんだ輪郭は、たとえ様もなく|巧《こう》|緻《ち》な優美な気品を湛えていた。
――美しい!
長門は、胸の裡で、感嘆のうめきをあげた。
それから――彼はふっと、いつか、ずっと以前から、こうした異常な状況のもとで、見知らぬ美しい娘の寝顔を見下すことを、空想したような気がした。
ひさしぶりに、長門は、純粋な美しさに惹き込まれたおのれに、なにかほのぼのとした安らぎさえおぼえた。左様、長門は、どうやら、孤独な憩いを、いま、ここに見出したようである。たとえば、俗界を遠くはなれた、けがれを知らぬ深山の景色に、心をうばわれた旅人のように――。
長門は、視線を移して、仄暗い部屋のさまを眺めやった。
旗本の娘の居間にしては、殆ど何ひとつあでやかな色彩の品は見あたらなかった。床には、画幅も懸けてなかった。棚の下に片よせた櫛箱、鏡台も、塗りの剥げた古色蒼然とした品であった。枕元にたたまれた|市《いち》|松《まつ》|染《ぞめ》の振袖も、|縮《ちり》|緬《めん》|綾《あや》|織《おり》の上物ではない。|繻《しゅ》|子《す》の帯も、母親の代からのものか、すりきれている。
毛ひとすじもみだれない島田髷には、あわれ、|緋《ひ》|鹿《が》の|子《こ》すらも結んではいなかった。
ふたたび、寝顔へ目を落した長門は、いつの間にか、そのふたつの美しい切長の眼が、パッチリひらかれているのに、あっとなった。
だが、どうしたというのであったろう。娘の瞳は、じっと、長門の宗十郎頭巾へ据えつけたまま、まばたきもしなかったのである。無心といってもいい程|冴《さえ》|々《ざえ》と澄んだ色を湛えて、わずかに、|訝《いぶか》しげに|柳眉《りゅうび》がひそめられているだけであった。
長門は、咄嗟に、なにか言おうとした。しかし、唇が動いただけで、声は出なかった。相手が驚愕と恐怖の叫びをあげようとすれば、その口をふさぐ素早い動作はいつでもとれる用意があったが、無言のままで凝視されようとは予期していなかったことである。
そのために、長門は、柄にもなく、かすかな狼狽をおぼえたのであった。
すると、まるで嘘のように、娘の瞳は、ふっとふさがってしまった。瞼だけが、その様にしかけられた人形のごとく――。
このおりであった。突如、二階で、すさまじい物音が起ったのは――。
夜明けの顔
梅津長門が、さっと廊下へとび出した時、
「曲者っ!」
と、気合のこもった叫びが、二階からここまでつらぬいた。
――できるな!
その叫びの鋭さだけで、長門はそう直感すると、まいら[#「まいら」に傍点]戸を蹴って、廊下を走った。
階段の下へ達した長門は、だだだっところがり落ちて来る黒い影と、それを追って、刀をひらめかせた人物を仰ぎ、殆ど反射的に、小柄を抜いて、投げあげた。
その小柄を、無言で、刀で払ったあざやかな手練を、長門は、感嘆して見とどけると、足もとへ落ちて来た庄吉に、身をひらいてやり、
「逃げろ!」
と、しったした。
「旦那! と、とんだドジだ! 人ちげえだ!」
庄吉は、はね起きるや、呼吸をはげしくはずませて、長門へ手をふった。
「旦那の方こそ、逃げておくんねえ!」
しかし、長門にとって、もはや、頭上の人物が庄吉の仇であろうとなかろうと、それはどうでもよかった。その秀れた腕前に対抗するこちらの力が、異常なまでに、四肢にみなぎったのである。
相手もまた、長門の投じた小柄の冴えに、容易ならぬ敵とさとって、一段々々と降りる構えを、一分の隙もないものにした。
「庄吉、うしろの雨戸を開けろ!」
長門は、降りて来る相手を睨んだまま、ひくく命じた。
庄吉が、雨戸を持上げて外へ倒すと、夜明けのほの白いあかりが、長門の足もとから、階段の中途まで差した。
長門が、庭へ飛び出るや、階段の人物は、一気にかけ降りて来た。
すでに、庭木は、黒い翳をはらって、柏、山茶花、南天、樅、とそれぞれの枝ぶりを、澄んだ空気の中に浮きあがらせていた。はるか彼方の鈎樟垣までも、はっきりとみとめられるまでに、夜はすっかり明けていたのである。
足場をはかって飛石のひとつに立った長門は、廊下から、
「貴様ら、盗賊か?」
と、怒声をあびせる相手の顔を、まともに一瞥するや、あっ、と胸の中で、驚愕の唸りを発した。
――室戸兵馬ではないか。
同じ小普請入りの同輩であった。禄高五百石で、身分こそ兵馬が上席であったが、幼馴染の、二十歳代に、剣道を競った仲である。
兵馬は|新陰流《しんかげりゅう》、長門は一刀流、と道場はちがったが、旗本の青年たちの間では、ともに|抜《ばつ》|群《ぐん》の腕前を持ち、幾度かの公けの試合では、この二人をたたかわせる例は一度も変えられたことがなかったのである。自然、二人の念頭に、常に、相手の上達に対する警戒心がつきまとい、なにげない席でも、座をはなして坐るよそよそしさをまぬかれなかった。
性格も、まったく異質であった。兵馬は、|謹直《きんちょく》で、融通のきかない、遊里などとはおよそ縁の遠い、いわば旗本の|嫡男《ちゃくなん》にうってつけの男であった。長門は、兵馬が努力型なら、天才肌の太刀筋を、少年にしてしめし、その行動も|放《ほう》|埒《らつ》の気配をその時代からのぞかせていた。そして、青年期に達して、この性格の相違は、二人を、遠くへだててしまった。
長門は、この三年あまり、兵馬とは顔を合せていなかった。しかも、三年間が、互いの境遇を、さらに遠くひきはなしている証拠を――いま、長門は、あらためて知らされたのであった。
――まずいことになった。
長門は、心でうめいた。
宗十郎頭巾のおかげで、兵馬は、こちらを同輩とはまだ気づかない。しかし刀を合せれば、幾度びかの試合の瞬間が、兵馬の|脳《のう》|裏《り》に甦る筈である。
――名乗ってあやまることだ。
兵馬が、ぱっと庭へ飛んだ刹那、長門は、そう決心した。
「抜け! 盗賊!」
兵馬は、|青《せい》|眼《がん》に構えて、叫んだ。
「兵馬!」
長門は、静かな声音で、呼びかけた。
「なにっ? わしを室戸兵馬と知って、押し入ったのか、うぬは――」
|憤《ふん》|怒《ぬ》が、そのおもてを走った。
「おれだ。梅津長門だ」
「梅津!」
兵馬は、かっと目をむいた。憤怒が愕きの色に変った。
「おおっ、たしかに、長門――。貴様、わしになんの|怨《えん》|恨《こん》がある! それとも、貴様は、あさましくも盗賊になり下ったか?」
「ちがう! 貴公がこの屋敷に住んでいようとは、夢にも知らなかったのだ。須貝嘉兵衛という武士が目当なのだ。ここは須貝嘉兵衛の屋敷ではないのか?」
「一月前まではな。須貝は不届の廉があって、目下は井伊家に身柄お預けになっておる。その須貝に、なんの用がある? 夜中、盗賊の真似をしなければならぬ理由をきこう」
兵馬は、青眼の構えを崩さずに問い詰めた。
長門はぐっと返答につまった。
うしろで|固《かた》|唾《ず》をのんでいる庄吉のいでたちは、町家の丁稚姿である。この丁稚の仇討の助太刀とは到底告げられるものではなかった。旗本たる身が、町人に荷担して、同じ旗本を討つ、などということは、信じられぬ|愚《ぐ》|蒙《もう》のしわざである。法としても許されぬし、その様な例外はいまだなかった。まして、庄吉は島破りの巾着切である。相手が兵馬でなくとも、これを|納《なっ》|得《とく》する者は恐らくいないであろう。兵馬がきけば、盗賊になり下ったことよりも、もっと|軽《けい》|蔑《べつ》するに相違ない。
その一瞬
「弁明ができぬのか、長門! 須貝を斬るこんたんで押し入ったのだろう。その腕前で、暗殺をくわだてる|卑《ひ》|劣《れつ》さは、いかなる理由があるにしろ、許せんぞ」
「暗殺ではない。正当な理由がある。須貝がいたら、堂々と名乗って刀を交えた筈だ。しかし、その理由を、貴公にきかせても、諒解してもらえぬとわかっているから、こたえないまでだ。……拝領屋敷の管理者が、貴公であったのは、皮肉なめぐりあわせだった。見のがしてもらえれば、恩にきるが――」
長門は、つとめて穏かに、たのんだ。
「云うな! けがらわしい! 弁解せぬとあれば、盗賊と|看《み》|做《な》す。この屋敷を老中から預ったわしとして、盗賊をむざむざ見のがすことはできぬぞ!」
そう云いはなつ兵馬のひきつった形相から、長門は、|憎《ぞう》|悪《お》の色を読んだ。
――おれが梅津長門だから、許さぬのか。ほかの、ぼんくらどもなら、こうもたけり立つまい。こうとさとった長門の心は、ひややかな沈着をとりもどした。
「貴公とおれとは、一度は、真剣を交える運命だったのだな」
長門は、口もとへ、うすら笑いを刷いた。
「長門、貴様の腕前が、|邪《じゃ》|剣《けん》であることを、わしは、ずうっと前から見ぬいていたのだぞ! |市《し》|井《せい》|無《ぶ》|頼《らい》の徒に交って、|由《ゆい》|緒《しょ》ある梅津の家門をけがしている噂は、きいていたが、よもや盗賊の真似まで振舞うように墜ちておろうとは――見さげはてたりというもおろかだ。|縄《なわ》|目《め》の|汚辱《おじょく》をうけるに相違ない将来を断ち切ってやるのが、せめてもの同輩の|誼《よし》みと申すものだ」
長門は、その嘲罵にわざとことばをかえさず、
「庄吉」
と、呼んだ。
「へい」
自分の|迂《う》|濶《かつ》さのために、意外な事態をまねいた責苦で、血の気をうしなっている庄吉は、思わず、返辞とともに、長門のそばへ飛び出すと、兵馬を睨みつけ乍ら、
「旦那! おいらが、代りに斬られりゃいいんだ! 逃げておくんねえ!」
と、上ずった声で叫んだ。
「|莫《ば》|迦《か》を云え! お前は、人が出はじめたら、往来をあるきにくい筈だ。さっさと、どこかへ消えるがいい。……喜三郎は、いるか?」
「ここに、おりやす」
喜三郎は、かなり距離をおいた|雪《ゆき》|見《み》|燈《どう》|籠《ろう》のかたわらで、石を掴んで、目を光らせていた。
「庄吉と一緒に行け!」
「しかし、旦那――」
「いいから、早く行け! どうやら、この狂言は、お前たちにひっ込んでもらったほうが芝居がやりいい舞台にかわったようだ。縁があったら、あの居酒屋で会おう」
「黙れ!」
兵馬が、噛みつくように怒鳴った。
「汝等も|成《せい》|敗《ばい》せずにはおかぬぞ! 逃げるな!」
「その心配があるから、早く消えろというのだ。喜三郎と庄吉」
長門は冗談めかして、二人を|促《うなが》したが、彼らをまきぞえにしたくない気持は真面目であった。
兵馬は、たしかに、おそるべき敵である。長門の冷静な判断力は、勝負を五分五分とみた。もし自分が敗れたら、喜三郎と庄吉が如何に捨身になろうとも、兵馬に一太刀さえもあびせることはおぼつかない。
「行けというのだ! 喜三郎! 庄吉! ぐずぐずするな!」
長門は、はじめて、爆発的に|怒《ど》|号《ごう》するや、同時に、刀をぬきはなっていた。
喜三郎と庄吉は、ともに弾かれたように走り出した。
「うぬっ!」
兵馬は、流波の型をとると、すっと、一歩踏み出した。
竹刀の試合では、兵馬の技巧がやや秀れていると評されていた。しかも、今日まで、兵馬は、稽古を一日もおこたっていない。
酒と女と賭博にうつつをぬかす長門のわざが、|昔《せき》|日《じつ》の冴えをもっていようとは考えられぬ兵馬は、その闘志ですでに長門を圧倒している自信に満ちていた。
事実、刀を下段に落した長門の姿勢は、すこしも殺気をおびていなかった。
兵馬は、ふと、長門の不気味なまでに冷然と沈んでいる双眸が、自分の頭上を越えて、うしろの空を|凝視《ぎょうし》しているのをみとめると、ぶるっと身顫いした。目をはずしているのは、すなわち、兵馬の技術をはかろうとしないことである。これは、竹刀試合の呼吸とはまったくちがう。
こちらからは絶対にしかけぬが、敵の一撃を受けて、間髪を入れず勝負を決する一刀必殺の法である。
――長門め、居合をならったな!
居合は、|鞘《さや》の中で勝つ術である。抜くのと斬るのが同時でなければならぬ。抜いてしまっては、居合にならぬ。長門が、居合で斬る有利をすてて、刀を抜いたのは、喜三郎と庄吉を去らしめるためでもあったが、兵馬に対する礼儀でもあった。
「やあっ!」
|怪鳥《けちょう》の啼き声にも似た掛声とともに、兵馬の五体が、|跳躍《ちょうやく》した。
だが――。
長門の刀は、その一瞬、きえーっ、と空気を切って鳴らすと、兵馬の胴を|薙《な》いでいたのである。
長門のからだは、兵馬が立っていた地点へ飛び、兵馬のからだは、長門の立っていた場所へのめった。
美しい瞳
刀を鞘におさめて、ゆっくりとあるき出そうとした途端であった。
背後に人の気配がうごいた。
振りかえった長門は、紫藤がつぼみをひらきかけた柵の下に、ぱっとあでやかな|緋《ひ》|縮《ぢり》|緬《めん》の下着ひとつで、薙刀をかまえた娘をみた。
たすきがけでたくしあげられた袖からあらわになった二の腕のすんなりとした線と、|白《しろ》|綸《りん》|子《ず》の半襟がすこしだけのぞいた胸の柔かな肌色が、咄嗟に、長門の息をとめた。
その美しい顔は、長門が、奥の座敷で|偸《ぬす》み見たものであった。
不思議なのは、その澄んだ眸子が、なんの感情もしめさず、ただ|玻璃鏡《はりかがみ》のように美しくかがやいていることだった。
|臥《ふし》|床《ど》の中で、長門を見あげた時もそうであった。
「兵馬の妹御か!」
長門が、静かな口調で訊いた瞬間、娘は返答のかわりに、朱唇から、|裂《れっ》|帛《ぱく》の気合をほとばしらせて、薙刀を長門の頭上へ見舞った。
長門は、身軽くうしろへとびのいた。
第二撃は、胴をねらって下からびゅっとすくいあげてきた。
その|刹《せつ》|那《な》、長門の刀は、目にもとまらぬすばやさで薙刀のけら[#「けら」に傍点]首を切りはなし、ぴたりと鞘におさまっていた。
「あんたのような美人に討たれるのは、|男冥利《おとこみょうり》につきるというものだが、まだ当分死ぬつもりはない」
長門は、自嘲に似た冷笑を泛べると、のそりと倒れ伏した兵馬に近づいて、|跼《しゃが》みかかった。
すでにこと切れていた。
長門は、屍骸をかかえあげると、
「安置する部屋へご案内ねがおう」
と、言った。
娘は、無言で、たすきをはずすと、先に立った。
折から、東の空の雲を割って、朝日が、幾条もの光の|箭《や》を、樹々の梢を縫って、庭へ降りそそいだ。そして、そのひとすじは、娘の素足を射た。生れてはじめて土を踏んだであろうその白いくるぶしを眺めて長門は、われにもあらず|妖《あや》しい胸のときめきをおぼえた。|深《しん》|窓《そう》の育ちであることは、緋の下着ひとつであり乍ら、その挙措にみじんのはじらいも気おくれもみせなかったので明らかであった。
――不思議な娘だ。
そのあとをついて、屍骸をかかえて階段をのぼりながら、長門は、心で呟いた。
娘が、案内したのは、先刻まで兵馬がやすんでいた二階の奥座敷であった。
曲者とさとってはね起きた時のままになっている寝床へ、屍骸を、そっと横たえた長門は、あらためてその死顔をじっと見まもった。
なろうことなら、生かせておきたい人物であった。|惰弱《だじゃく》|無《む》|節《せっ》|操《そう》な徒輩が大半を占める旗本の子弟の中にあって、兵馬は、座臥寝食の間にも武士たる心得を忘れぬ数尠ない一人であったのだ。
――斬りすててやりたい連中は、かぞえきれぬくらいあったのに……、不運だったな、兵馬!
|合掌《がっしょう》してから、長門は、腰をあげた。
夜具の裾のところに、娘は、|端《たん》|然《ぜん》として坐していた。膝で両手をくみ、首をまっすぐに立てたその姿勢には、きびしい躾をまもる非情な風情を湛えていた。
――妹のくせに、泪ひとつこぼさぬ。これだから武家の女はごめんだ。
廊下へ出て、長門が、あるき出すと、何思ったか娘は、立って、そのあとを追ってきた。
階下へ降りると、長門は、振りかえって、
「拙者は、旗本|小《こ》|普《ぶ》|請《しん》|組《ぐみ》梅津長門。……公儀に願い出て、仇とねらって下さっても一向にさしつかえない。べつに、逃げかくれはしないつもりだ」
と、静かに告げた。
すると、娘は、依然とした無表情で、
「わたくしは、兵馬殿の妹ではありませぬ」
とこたえた。すずやかな美しい声であった。
「妹でないとすると、|掛人《かかりうど》か? 須貝嘉兵衛の身内の者か?」
「いいえ。須貝殿はわたくしの目付役でした。兵馬殿は、須貝殿にかわって、あたらしく、わたくしの目付役になったのです」
「目付役? では、あんたは、いったい何者だ? 改易大名の息女とでもいうのか?」
「|公《く》|方《ぼう》の娘です」
娘は、平然として、おどろくべきことを口にした。
「なに?」
長門は、わが耳を疑った。
「たわけたことを――」
「嘘ではありませぬ。が……信じられなければ、信じなくてもかまいませぬ。雪姫というのが、わたしの名です」
長門は食い入るように、そう名のる娘のろう[#「ろう」に傍点]たけた顔を見入った。
将軍家斉は、二十一妾をたくわえ、公けに発表した子供だけでも五十三人もつくったほどの|内寵《ないちょう》多い人物であった。秘密の落胤が、市井にかくれていたところで、さして奇怪とはいえない。
だが――眼の前にする娘が、それであるとは、証拠のないかぎり、長門には信じられなかった。
それにしても、この気品、この美しさは、公方の娘と名のるに、なんとふさわしいことか。
一瞬――。
長門の胸中に自分でもわけのわからぬ狂暴な情熱が音をたてて噴きあがってきた。
――まこと、公方の娘なら……。
長門の双眼が、かっと妖しく燃えた。
二人の距離は、三歩あった。
長門は、一歩ふみ出した。
しかし、雪姫は、|彫像《ちょうぞう》のごとく動かず、長門が駆られた衝動にも気づかぬ静かな姿勢をたもったなりだった。
長門は、矢庭に、そのしなやかなからだを抱きすくめたが、この時、雪姫が湛えた不審そうな、いっそあどけない表情を、この後ながく忘れないであろう。
一刻のち。
長門は、雪姫の居間から、よろめくようにぬけ出ると、庭へ降り、明るい陽ざしをあびるや、さらに一層|苦渋《くじゅう》の|皺《しわ》を|眉《び》|宇《う》にきざんで、どんどんおもてへ立ち去って行ったのであった。
しかし、その頭の中を掩っているのは、いま起きて出て来た床に横たわっているなまめかしい緋縮緬につつまれた白い|肢《し》|体《たい》であった。
運命
お玉ケ池通りの、柳原土手に接する、とある橋袂の家で、同心庭場重左衛門は、お茶をのんでいた。
この家は、この辺の締めくくりをしている御用聞皆次の住居であった。
上り|框《がまち》に腰をおろした重左衛門にむかってかしこまっている五十年配の、痩せぎすな、鋭い目の持主が、皆次であった。
重左衛門は、湯呑みをゆっくりと口へはこび乍ら、開けはなった戸口から、まっすぐむこうにひらけた堤を、目を細めて見やっていた。
新芽のふいたしだれ柳のつらなりが、うららかな陽ざしをあびて、微風にゆれている風景は、今朝で解職になる重左衛門にとっては、この上もなくこのもしい眺めであった。
「楊柳堤辺楊柳の春、千枝交影紅塵を払う、か――。いつ眺めても、のどかだな」
重左衛門は、微笑して呟いた。
「庭場様――」
皆次は、思い出した面持で、
「あなた様は、この期かぎりでお役御免を願い出られますとか、うかがって居りますが、左様ですか?」
「うむ。そのつもりだ。わしも、もう年だ。夜歩きはつらい。伜が十日ばかりまえに前髪を落したのでな、役をゆずろうと思うんだ」
「ほう……じゃ、重七様が、本元服をなさいましたか。早いものでございますな」
「なアに、月代が野郎頭になっただけのこと、からっきし子供なんだが……どうせ、この役は、上役に手をとって教えられるというたぐいのつとめじゃないので、若い時に苦労させておくのが身の為と思ってな。いずれ、お前さんたちに厄介をかけるが、よろしくたのむ」
「いえ、こちらこそ、よろしくおねげえ申します。で、あなた様は、|隠《いん》|居《きょ》なさいまして、どうなさるおつもりなんで? まだまだ充分おはたらきになれるおからだでございます」
「はははは。陸にあがった|河童《かっぱ》の出来ることは、せいぜい、そこのお玉ケ池稲荷のお札書きか、丸薬つくりの内職よ。……なにしろ、米が一升二百文の|高《こう》|直《じき》じゃ、おちおち隠居もしていられまいて――」
ふっと吐いた溜息は、日頃、皆次などの目下に見せたことのない正直な心懐であった。
この時――。
あわただしい跫音とともに、戸口へあらわれたのは、黒の看板、|土器《かわらけ》|色《いろ》の小倉帯、木刀腰に、あらわな毛脛をふるわせ、顔面から血の気をうしなった中間であった。
「おねがい申します!」
|喘《あえ》ぐ息をのみくだし、片手で格子戸を掴んで、
「私は、松枝町の、須貝嘉兵衛殿のお屋敷預り旗本室戸兵馬の中間でございますが……主人が、ただ今、殺害され――」
「なに?」
すっくと立ち上った重左衛門は、別人のように険しい緊張をみせて、
「相手は?」
「武士を一名交えた夜盗三名で、ございました」
「案内せい」
重左衛門が、出ようとすると、皆次があわててとびおりた。
「庭場様! あなた様は、今朝でお役はおわったのでござんすから、あっしが、参ります」
「いや。|上司《じょうし》への報告は、まだすませておらぬ。夜盗ならば、わしの責任の時刻のうちだ」
重左衛門は、役人独得のきびしい表情になると、中間をさきにたてて、走り出した。勿論、皆次も、そのあとを追った。
人間の運命というものは、ほんの一瞬の差が、決定的となる場合がある。今の重左衛門の場合が、それだった。
娘ごころ
雪姫は、四方たてきった座敷の中で、ひっそりと坐りつづけていた。
髪のみだれも、燃える|緋《ひ》|色《いろ》の下着姿も、そのままであった。
長い時間、彼女は、そのまま|虚《きょ》|脱《だつ》状態にあったのである。
庭先から、おそるおそる中間が呼びかけてきた声で、はじめて、雪姫は、われにかえり、その|蒼《あお》ざめた唇を、かすかにわななかせつつ、
「役人を――」
と、命じたのであった。
「すぐ呼んで参ります」
中間は、主人が斬られたのを、遠くから目撃しつつも、おそろしさで、いままで身をひそめていたのである。その|卑怯《ひきょう》をとがめられなかったことに小おどりして、駆け去って行ったのである。
――わたくしの生涯は……やはり、平穏ではすまされない様につくられていたのだ。
雪姫は、身を切られるような堪えがたい|孤《こ》|独《どく》の淋しさから、心を守るために、自分にそう言いきかせた。
物心がついた頃から、雪姫は、孤独であった。あまりにも美しく、あまりにも気品高く生れついたが故に、彼女は、周囲の養育者たちから、親しみを持たれなかった。
養育者は、預った高価な品物を|粗略《そりゃく》に取扱えぬ責任感だけしか持てなかった。こうした、ひとかけらの愛情もない手によって育てられた雪姫が、|喜《き》|怒《ど》|哀《あい》|楽《らく》の表現のすべてを知らぬひややかな娘になったのは、当然すぎることであった。
性格が異常に勝気であったのも、不幸であった。
そして、
純白の肌身を傷つけて去った男の暴力が、雪姫にとって、生れてはじめて知らされる愛情の表現であったとは、まことに皮肉といわなければならなかった。
いま――。
雪姫に、はっきりとわかっているのは、あの宗十郎頭巾の姿が、これから一生、自分の心に刻みついてはなれぬであろう、ということだけであった。
庭をつたって来る|跫《あし》|音《おと》が、近づいた。
「姫さま、お役人をおつれしました」
中間の声であった。
「二階へあがって、遺骸の検分をしてもろうがよい」
「姫さま」
中間は、雪姫が出てくるのを期待する呼びかたをした。
雪姫は、こたえなかった。
中間は、重左衛門に小声でささやいて、二階へ案内して行った。
やがて、降りて来た重左衛門は、雪姫のいる座敷の廊下へ立つと、
「お目にかかりたいと存ずるが――」
と申し入れた。
「開けてはなりませぬ!」
雪姫は、りんとした|声《こわ》|音《ね》でこばんだ。
「では……やむを得ません。ここからおたずねいたそう。下手人は、何者です?」
「盗賊です」
「この小者は、下手人は名乗ったと申しておりますが――」
雪姫は、|宙《ちゅう》に|据《す》えた眸子を、きらっと光らせた。
不思議な心理が、一瞬、炎がぱっと燃えたつように、雪姫のなかで、起った。
――あの男を、この世からなくしてしまいたい!
その|衝動《しょうどう》にかられたのである。
憎しみではなかった。ことばであらわせぬ感情であった。強いて言えば、この後、自分の心に刻みつけられて消え去らぬであろう男の姿を――その実在の姿を二度と見たくない、娘心の微妙な冷酷さであったろう。
「旗本、小普請組、梅津長門という男です」
「なんですと?」
重左衛門は、愕然となった。
昨夜、木挽町ですれちがった武士が、その名を告げたではないか。
「まちがいありませんな?」
「この耳でききとどけました」
そうきっぱりとこたえた途端、雪姫は、自分がとんでもないことを言ってしまったのに気づいた。はげしい後悔が、ずきりと胸を|疼《うず》かせた。
自分という娘は、世に名をひろめてはならぬ身の上なのだ。あの男は、|逮《たい》|捕《ほ》されたならば、得意げに、将軍の娘を犯した、と高言しないとはかぎらぬ。その時は、公方の恥を|糊《こ》|塗《と》するために、老中は、自分をひそかに殺すかも知れない。いや、きっと殺してしまうであろう。
「念のために、貴女さまのお名をうかがいたい」
重左衛門がそう訊くや、雪姫の柳眉は、苦痛のために、かすかにひきつった。
「なんといわれるのです?」
「雪――」
「|御苗字《ごみょうじ》は?」
「…………」
「二階に寝かされて居るお方の身寄りの方ですな?」
「そうです」
「妹御ですか?」
「いえ――」
「では、どんな御関係です?」
重左衛門は、この時、もし外で、岡っ引の皆次の叫びが起らなければ、この|追求《ついきゅう》をゆるめなかったであろう。
「御用だっ!」
と叫ぶ皆次の声に、重左衛門は、すわっとばかり身をひるがえして、庭へ降りていた。
|友《ゆう》|禅《ぜん》狐
皆次は、|楓《かえで》、|蝋《ろう》|梅《ばい》、|百日紅《さるすべり》などが枝をさしのべた泉水のほとりで、岩に片足かけて、投縄をぴーんとひきしぼっていた。
|羅《ら》|漢《かん》|柏《はく》にしがみついて、手首を噛んだ投縄にひきずられまいと必死に抵抗しているのは、三日月小僧の庄吉であった。
それにむかって、飛石を蹴って走りよる重左衛門は、泉水のうしろの築山から、抜刀しておどり出るもう一人の男をみとめた。それは、佐原の喜三郎であった。
庄吉と喜三郎は、梅津長門の命令で、いったんは屋敷を出たものの、決闘の結果を気づかって、そっとまた忍び入ったのである。
「野郎っ!」
喜三郎は、|怒《ど》|号《ごう》しつつ、ひきしぼられた投縄を切りはなした。
皆次は、たたらを踏んだが、泉水のふちであやうく身をささえると、十手を抜いて突進した。
「これを、くらえっ!」
庄吉は、すばやくひろった手ごろの石を、渾身の力をこめて投げつけた。
石が皆次の|眉《み》|間《けん》へ、真向からあたるにぶい音がして……皆次のからだは、仰むけざまに泉水の中へ、高い水煙りをあげて、落ちた。
「曲者! 神妙にせい!」
重左衛門は、十手を構えて、じりじりとつめよった。
「兄貴、逃げようぜ」
と、庄吉が血走った目つきでささやいたが、喜三郎は、幾度びも白刃の下をくぐった経験によるカンで、この相手は斬り倒すよりほかに逃げられない老練家であることをさとった。
「こいつは、おれがやっつけるから、おめえ一人で逃げろ!」
「そうはいかねえ」
庄吉は、ふたたび、石をひろった。
重左衛門は、庄吉の右手が宙におどる瞬間、青年のように敏捷な攻撃に出た。
石は、重左衛門の頭上をかすめ、喜三郎が大上段に斬りおろした刀は、むなしく重左衛門の肩さきを流れた。
「うっ!」
と、十手で|鳩尾《みぞおち》を突かれた喜三郎が、呻いて、がくっと首をのけぞらす。
それへ、容赦なく、重左衛門は、第二撃を――朱房をひらめかせて、喜三郎の頸根をうちすえた。
もとより、横あいから、庄吉が襲ってくるであろうことも計算に入れた重左衛門であった。
|匕首《あいくち》をひきぬいた庄吉が、からだごとぶつかってくるのを、余裕をもってひっぱずそうとした――その刹那、不覚にも、重左衛門の足袋が、苔ですべった。
匕首は、重左衛門の|脾《ひ》|腹《ばら》を、えぐった。
庄吉と重左衛門は、そのままひとつになって、ころがった。
はね起き、とび退いた庄吉の形相は、目をむき、歯をむき、凄まじい恐怖と|興《こう》|奮《ふん》をむき出していた。
喜三郎は、よろめき立つと、重左衛門が死力をふりしぼって、上半身を起し、片膝を立てるのを眺めて、
「くそっ!」
と刀をふりかぶった。
この時、重左衛門の右手が、腰の刀へかかるやいなや、下から、|一《いっ》|閃《せん》鋭くなぎはらったのは、殆ど無意識のうちの手練であったろう。
「あっ!」
喜三郎は、|向臑《むこうずね》を割られて、だだだっとよろめいた。
刀を杖に立とうとした重左衛門は、それがかなわず、地べたへ俯伏し、それっきり動かなくなった。
「やりゃがったな!」
庄吉は、この一瞬の目撃で恐怖からさめると、手拭いをふところからとり出して、手早く、喜三郎の傷口をしばってやり、
「あるけるか、兄貴」
「だ、だいじょうぶだ」
「急ごうぜ。……岡っ引め、這いあがって来やがった」
庄吉は、喜三郎の片腕を自分の頭へまわすと、皆次が、泉水の中から、額から血を噴かせ乍ら、喘ぎ喘ぎさしのべた楓の枝へすがりつくのを見のこして、夢中で築山を越えて行った。
庄吉と喜三郎が、|塗《ぬり》|籠《ごめ》作りの土蔵をまわって、長屋門わきまで逃げて来た時であった。
不意に、近い場所から、
「お待ち!」
と、澄んだ鋭い声がかかった。
反射的に血で濡れた匕首へ手をかけた庄吉がきっとなって振り向くと、飾井戸のそばの梅軒門に、友禅染の|被衣《かつぎ》をかぶった美女が、目をあざむく花のむれさながらに彳んでいた。被衣の下は、真紅の下着いちまいだったのである。
――狐が化けやがったか!
咄嗟に、庄吉は、そう疑わずにはいられなかった。
廃園にひとしい荒れた広壮な庭に、燃えたつ緋色の乱れ姿を惜しげもなくさらした雪姫の、透けるような面立は、庄吉や喜三郎が、生れてまだ一度も見たこともないろう[#「ろう」に傍点]たけた妖しい美しさであった。化身と見られたのもむりはなかった。
「ちょっ! 消えうせやがれ!」
と、庄吉は、思わず、舌打ちして、噛みつくように怒鳴った。
「そなた達は梅津長門殿の仲間の者か」
「なんでえ、それなら、どうしようといやがるんだ?」
「長門殿に、早く、身をかくすようにつたえて欲しい」
「化け狐なんぞに|指《さし》|図《ず》されるまでもねえ。とっとと消えてなくなりゃがれ、化けてやがるとわかっていても、目の毒だ」
逆上している庄吉は、目を据えて雪姫を見さだめる余裕もなく、喜三郎をひきずるようにして、潜門を抜けて行った。
ひとつの死
皆次は、泉水から這いあがると、しばらく、額をおさえて、はげしい|眩暈《めまい》に堪えていた。したたか呑んだ水で、胸が圧迫され、呼吸が浅かった。
――畜生っ! せっかくの手柄を、みすみすとりにがして……ざまアねえ。
捕物の鬼と呼ばれた皆次であった。からだの苦しさよりも、くやしさのほうがまさっていた。
ようやく、顔を擡げた皆次は、はじめて視線を、岩かげに|俯《うつ》|伏《ぶ》している重左衛門の姿へ、いたましげに投じた。
――やられなすった! おれの家へちょっと寄りなすったばかりに……。
皆次は、ずるずると這い寄ると重左衛門の肩へ手をかけて、
「庭場様!」
と、呼んだ。それにこたえるように、かすかな呻きが洩れるのをきいた皆次は、あわてて、重左衛門の顔を、仰向けた。
死相が、|色《いろ》|濃《こ》く|滲《にじ》んでいた。
「庭場様! しっかりなせえ」
と、耳もとで叫んだ皆次は、はっと気づくと、自分のずぶ濡れの袖をしぼって、重左衛門の口へたらした。
すると、重左衛門の土色の唇は、もっと水をもとめるようにかすかに|痙《けい》|攣《れん》した。
「庭場様っ!」
絶叫が、やっと耳底にとどき、重左衛門のまぶたが、かすかにひらいた。
「皆次でござんす。……遺言は? え? 遺言は?」
「不覚――」
「いえ、そんな……それより遺言を――重七様への遺言を――」
「う、梅……」
ぜいぜいと鳴る咽喉の音で、語調がみだれて、皆次にはききとりにくかった。
「え? なんですって?」
「梅津……」
「梅津――でござんすね? 梅津、なんです?」
「梅津……長門を……」
「梅津長門? 梅津長門てえのは?」
「重七に……とらえろと……父に……かわって……」
それが、さいごの言葉であった。|瞳《どう》|孔《こう》から、光が消えた。
「わかりやした! たしかに、重七様におつたえしますぜ。……あっしも、力を添えやす、梅津長門ってえさむれえを、きっとつかまえて、お墓へおしらせいたしやすぜ――」
皆次のこの声を、築山のむこうで、雪姫が、凝然としてきいていた。
皆次が、やっと立ってあるけるまでに力をとりもどしたところへ、どこに身をひそめていたか、中間が、|怯《おず》|々《おず》と近づいて来た。
「おい、殺されなすったお方のほかに、このお屋敷には、どなたが住んでいらっしゃるんだ?」
その問に、うちつづく事件で心を動転させてしまった中間は、舌がもつれてすぐにはこたえられなかった。
「どなたがお住みだときいているんだ、さっさとこたえろい! 丸たん棒め!」
「ひ、姫さまが、お、お一人――」
「なに? 姫さまだと? なんでえ、そりゃ――」
「じ、じつは、わたくしも、どういう|貴《とうと》い素姓のお方かよくぞんじあげませぬが……たしかに、姫さまが――」
「つれて行け」
しかし、皆次が、中間とともに、屋敷中をさがしはじめた頃、すでに雪姫は何処かへ去ったあとであった。
三日月流し
本所松坂町のうすぎたない|裏《うら》|店《だな》を、三日月小僧の庄吉は、俯向いて、足早に抜けて、表通りへ出ようとしていた。
須貝嘉兵衛邸から逃走して、三日後の|黄昏《たそがれ》どきだった。
肌が汗ばむほどの狂った陽気のせいか、夕靄が流れる明るい空気の中に、いつにも増して街の騒音がたてこめているようだ。赤ン坊の|哭《なき》|声《ごえ》、それを叱る母親の声、豆腐屋の笛、荷車の軋り、牛の啼き声、遊ぶ子らののどかな歌声、しもたやからきこえる三味線の音、それにまじって、白酒売りの声が、明日が雛祭りであることを教えていた。
だが、庄吉は、陽気にうかれて、かくれ家を忍び出てきたわけではない。かくれ家では、喜三郎が高熱を出して臥せていた。その|薬餌《くすり》|代《だい》を、庄吉は、かせがなければならなかった。久しぶりの仕事だが、腕はにぶっていないつもりである。
横丁の出口で、つと足をとめた庄吉は、ちょっと要心ぶかい視線を往来へ走らせ、
――このあたりじゃ、木櫛にびた銭しか抜けやしねえ。おいらの腕が泣かア。いっそ、浅草まで足をのばしてやろうか。
と、考えた。
そのとたんに、庄吉は、むこうからやって来る男をみとめて、
――いけねえ、|師匠《ししょう》のやつ、戻って来やがった。
と、あわてて、右手のきんつば焼屋の屋台見世へ、つと首を突っ込んだ。
庄吉が避けたその男は、きんつば焼屋の五六歩まえまで来ると、急に歩調をゆるめて、大声で唄い出した。
三日月の、
ひかり出ぬまに、
ちょとかけ出すは
恋のならいか、人目が邪魔か、
まがる横町の
やなぎかげ
「やなぎのかげにあらずして、|屋《や》|台《たい》のかげにひそんでも、頭かくして尻かくさず、尻がよう似た、出っ尻が――三日月様に似たりけり」
と、言いざま、男は、庄吉の尻を、ぴしゃりとたたいた。
庄吉は、舌打ちして向き直った。
「どこへ行く、庄吉? |瓦版《かわらばん》が出ているぞ、瓦版が――」
と、笑い乍ら脅したのは、いずれ舌耕のたぐいと見てとれるが、太鼓持にしては品のある男であった。上田の小袖に竜文の合着、|清《きよ》|元《もと》|銀《いち》|杏《よう》の|髷《まげ》もきれいになでつけた、どことなく愛嬌のある五十男。
「うるせえ爺さんだ」
庄吉は、首をふると、あるき出した。
「なにを申す、巾着切。尻をたたいて、これケツの人、と意見をしてくれるのは、天が下、この風流軒|貞《てい》|宝《ほう》しかないのだぞ。有難いと思え。有難いと……このあかるいうちに、のそのそと出あるき居って、また捕ったらなんとする。もういっぺん、佃島へ送られたいか」
と、貞宝がきめつけた時、かたわらを通りかかった顔見知りの町人が、ききとがめて、
「おう、師匠、佃島へ送られるって、いったい、誰が送られるんだ?」
「しゃっ! 南無三! 声が高い。面目ないが、この拙がね、こんどひとつ高座で色物をやろうと思いたってな、参考までに|私娼《ししょう》の|巣《そう》|窟《くつ》を覗かんと志せしぞけなげなる……石場にゃ佃けころばし、立とうと寝ようと銭次第。舟まんじゅうに|餡《あん》もなく、夜鷹に羽はなけれど、皆それぞれのなりわいを、鳶とんで天に至り、魚は淵におどり子の、気色まで残方なく――いやはや、らちもない次第でな」
と、貞宝はごまかしてしまった。
町人が笑って追い抜いて行ってしまうと、貞宝は、首をすくめて、
「さ、庄吉、戻れ、戻れ――」
と、促した。
庄吉は、しかたなく、貞宝について行った。
三日前、庄吉は、傷ついた喜三郎をかついで、この講釈師風流軒貞宝の家へころがり込んだのであった。
貞宝は、前年、幕府の失政を皮肉った|滑《こっ》|稽《けい》|本《ぼん》を出版して、あやうく入牢されかかったくらい戯文の達人で、気骨もあり、また和漢の史籍に通じていた。
寄席で、|演《えん》|史《し》|軍《ぐん》|談《だん》を語らせておくにはおしい人物であったが、当人はむしろ自分の仕事を面白がって、張扇とともに、時代|諷《ふう》|刺《し》の雄弁をふるって、客をよろこばせることに満足していた。
「師匠」
路地を入りかけて、庄吉は、足を停めると、女に欲しいような柳眉をひそめて、呼んだ。
「おいら、やっぱり――」
「よせ、よせ、庄吉。おめえ、コレをやりに行こうってんだろう」
と、貞宝は、ふりかえって、左手の人差指を曲げてみせた。
「だって、師匠、からっけつなんだろう?」
「誰が、いつ、|米《こめ》|櫃《びつ》を覗けといった。おめえら三下の二口や三口、餌が与えられねえ貞宝先生とでも思っていやがるのか。その小ざかしい気のまわしっぷりが、おめえを、一生うだつがあがらねえ巾着切にさせておくんだぞ。……黙っておれの臀にくっついて来い、いいか、庄公。いっぺんぐらい、おれの説法でも拝聴しておけ、屁一発でけしとぶような説法とは説法がちがう」
貞宝は、ゆっくりと足をはこび乍ら、しゃべりはじめた。
「人、師無く法無くして知なれば、即ち必ず盗を為し、勇なればすなわち必ず賊をなし、能なればすなわち乱を為し、察なればすなわち怪を為す。……などというてもおめえにゃ、チンプンカンプンだアな。いいか、庄吉、この文句をかみくだいて言えばだ、人間てえやつは、知恵ばかりすぐれて教育がないと、きっとコソ泥になる。勇気だけあって教育がないと、きまって人殺しをやる。才能のみあって、教育がないとかならず乱を起す。物の道理ばかり知っていて教育がないと、いとあやしげなふるまいをして人を|惑《まどわ》すな。……これすべて、おめえのことを指して居る」
貞宝は、むこうから来た|老《とし》|寄《より》の挨拶へ、かるく会釈をかえし乍ら、つづけた。
「おめえは、まさに教育がない。無学野育ち、放埓無頼、おれは、五つ六つの頃おめえの人一倍の利発を見て、こいつをこのまま野ばなしにすれば、末は必ず遠島か|磔《はりつけ》、かるくても久離御帳外(江戸追放)とにらんで居ったが、果して――みろ! 十九になるやならずで島送りの、このざまだ」
「先生……なにをぶつぶつひとりごとを言ってなさる」
と、八百屋の店さきから、内儀が声をかけた。
貞宝は、ふりかえって、いつの間にか庄吉の姿が消えうせているのを知ると、自分の額をぱちりとたたいていた。
「ほい、しまった。逃がしたか、三日月さまかや、みそかの銭か、宵にちらりと見たばかり――戻って来たなら、庄公め、手足をへし折って、薪の代りに、|竈突《く ど》へぶち込んで、それでおまんまをたいてくれるわい」
やくざ誕生
喜三郎は、暗い|納《なん》|戸《ど》で、|煎《せん》|餅《べい》|蒲《ぶ》|団《とん》にくるまり乍ら、うつらうつらとしていた。
夢とも|現《うつつ》ともつかぬ世界で、喜三郎がしきりに追いもとめている娘の姿があった。おとよ、という名が、高熱の為にひび割れたくちびるから、いくども洩れ出ていた。
喜三郎は、その娘にめぐり会いたさに、江戸へ出て来たのである。
おとよ――この名が、喜三郎の心に刻まれたのは四年前である。
|下総《しもうさの》|国《くに》佐原川口の、米雑穀屋の長男であった喜三郎が、松岸、銚子、成田あたりをうかれあるくようになったのは、十八歳頃であった。この放蕩は、三年あまりつづいた。喜三郎は、|連《つれ》|子《こ》であった。それを知らされて、急に身を持崩したのである。
やがて、勘当された喜三郎は、|常陸《ひたち》の土浦へ出て、博徒と|目《め》|明《あか》しの長を兼ねた、親分仙次の許をたよった。
土浦仙次は、肚の出来た人物であった。
やくざになりたいという申出に一度はきびしくその不心得をさとした。|黙《もく》|念《ねん》と、頭を垂れていた喜三郎は、しかし、断られることは予期していたので、それに対する言訳はちゃんと用意していたのである。
「……たとえ、お前さんが、銚子の五郎蔵や飯岡の助五郎のところへ行っても、勘当を受けたのを幸いに博奕打ちになりたいと言えば、悪い了簡だ、と同じような意見をされるのは目に見えている。まア、帰って勘当のとけるまで辛抱するよりほかはあるまい」
と、仙次が穏かに言葉を結ぶのを待って喜三郎は、顔を擡げると、
「親分、あっしが放蕩したのも勘当されたのも、みんな母親と相談ずくでやったことでござんす」
と、こたえた。
「なに? それア、どういうわけだ?」
「あっしの母親は、もとは穀屋へ、奉公したこぶつきの下婢でござんした。一年経って、おかみさんが亡くなるおり、あっしの母親の気質を見込んで、後妻にするならぜひあの女を、と遺言してくれたのがまもられて――母親が後妻に直るとあっしも、家に子が無いところから、いっぺんに|跡《あと》|目《め》にされたんでござんす。間もなく、弟の吉次郎が生れましたが、父親は、むかしかたぎの義理がたい男で、|胤《たね》が変っても兄の喜三郎に世を譲るのが当然、と言ってきき入れません。母親は、この義理だてが辛くて、いよいよ|跡《あと》|目《め》|披《ひ》|露《ろう》の段取りになった時、こっそりあっしを呼んでお前が身を持崩して勘当受けてくれるなら、弟へ身代譲ることの出来るものを、と打明けたんでござんす」
「ふむ。すると、勘当は、お前さんとおっ母さんが|諜合《しめしあわ》せた芝居――、ついでに博奕打ちに成下ってしまえば、左巻きに散った|刷《は》|毛《け》|先《さき》はもうまっすぐには戻るまいと、親爺さんが愛想つかそう――こういう寸法なんだな」
「へい」
「わかった。博奕打ちを、成下りと見る了簡が、ちょっとばかり不服だが、義理に五体を張る心意気を買おう。引受けたぜ、喜三郎さん――」
義心に強いのを誇る博徒の快感は、こういう瞬間にあるといった仙次の気色であった。
喜三郎が、内心|北《ほく》|叟《そ》|笑《え》んだのは言うまでもない。はたして、その|放《ほう》|蕩《とう》|無《ぶ》|頼《らい》は、彼の義心が招いたものかどうか、疑わしいものであったが、博徒親分をよろこばせる格好の土産としては充分意義があった。
|尚武《しょうぶ》強勇の風が、武士から去った時、|任侠《にんきょう》の志が庶民の中から生れる。いわば博徒は、この時代の華であったといっていい。義に勇み、節を尚び、隻語の然諾を重んじて、一旦の|知《ち》|遇《ぐう》を感じて水火を辞さぬ心意気は、百年馴致の因習にしばられた武士階級の惰弱を尻目に、非常な勢いで、市井の匹夫の間に魅力となっていた。
所詮は、頭を武士の前へ下げさせられた庶民が刷毛先を左巻きに散らし長脇差をぶち込む風態に階級上の鬱をはらし、博奕の一瞬の運に、十年汗して蓄えられぬ金額を夢見る――はかない猿真似と小ずるい盗心を抱き合せたすがたにほかならなかった。それを偽装する任侠の意気が、気質的にぴったりと合った庶民階級の若者たちにとっては、たしかに、愉快な世界ではあったろう。
喜三郎はその一人であった。
土浦仙次の子分になった喜三郎は、魚が水を得たように、数年ならずして、博徒間にその名を売ったのであった。
喜三郎が、おとよと知合ったのは、佐原の向洲で、仙次弟分として一応七八人の子分を抱えて得意になった――その頃であった。
おとよは、成田の駅の料亭「|海老《え び》|屋《や》」の娘であった。
波紋
その日――。
不動尊に|参《さん》|詣《けい》しての帰りがけ、大門前へ来かかると、喜三郎の後方で、急に、ざわめきが起った。人垣のうしろからのびあがって、中をのぞいた喜三郎の目に顔見知りのおとよが、肩を怒らせた博徒風の男の横面を思いきりひっぱたく光景が映った。
「なぐったな、このあまっ!」
「なぐったがどうしたい、兵六玉!」
と、|甲《かん》|高《だか》い声で叫びかえすや、おとよはぺっとつばをはきかけた。
勝気で知られた十七歳の一人娘であった。
「くそっ!」
|憤《ふん》|怒《ぬ》と|屈辱《くつじょく》で真っ青になった男は、おとよの肩を掴むや足をかけて、地べたへひき倒そうとした。おとよの白い下肢を衆人の目にさらすこんたんであったろう。
おとよは、本能的に身をかわすと、|袖《そで》がべりっとひき|裂《さ》かれるにまかせて、前髪へのびた男の片手へ、夢中で噛みついた。
「ち、ち、ちっ……」
と、歯をくいしばって|疼《とう》|痛《つう》を|怺《こら》えつつ、男が、片足を、おとよの膝の間へ割りこませて、なおも娘の恥をさらさせようとしたとたん、喜三郎が、ありったけの大声で、
「この野郎ッ!」
と、怒鳴りざま、背後からおどりかかった。
喜三郎が、ひきずり倒し、したたか|足《あし》|蹴《げ》にかけた男は、芝山の仁三郎という親分の子分であった。
芝山の仁三郎は、土浦仙次とは犬猿の間柄である。
男が、血の吹く唇を歪めて、自分が芝山の子分だとおぼえて覚悟していやがれ、と喚き乍ら逃げ去るや、喜三郎の心身は、|遽《にわか》に異常にひきしまった。
たったこれだけの出来事が、幾人かの生命をすてさせるまでに、大きな|波《は》|紋《もん》をひろげる博徒の世界のおそろしさを、喜三郎はこの時はじめて、ちらと意識したのであった。
――よし! おれ一人で、この決着はつけてやる。
ふっと生じた恐怖をはねかえす為に、喜三郎は、かえって悲壮な決意をしたのであった。
おとよが、月明りの夜道は危険だから今夜だけは是非|海老《え び》|屋《や》へ泊って欲しいと嘆願するのをふりきって、芝山道へくっきりと影法師を這わせて、ただ一人、東へさしてすたすた急いだのも、この決意の故であった。
喜三郎は、危機は針ケ崎の松原あたりと|踏《ふ》んだ。喜三郎は、あるき乍ら、右手をさしのべて、幾度も、月光にすかし見た。殴り込みの時、いつか、この妙な習慣ができていた。五本の指をいっぱいにひらき、また、ぎゅっとこぶしにかためてみる。わが生命をたしかめる素朴なしぐさであった。握りしめた力に、生命の充実を感じるのである。
そして、喜三郎は、不動経を口のうちで、ぶつぶつととなえていた。
「不動明王は、相もなき法のからだ故、|虚《こ》|空《くう》と同体なれば、その住居なし。但し|衆生《しゅじょう》の心想いの中に住し給う……」
いつか、土浦仙次へしばらく|食客《しょっかく》となった浪人から、この意味をきかされて以来喜三郎は、不動経を絶えずとなえるようになっていた。
天文年間に、一僧が、成田に参詣し、法器の不満を嘆いて、尊像に祈請すること百日、満願の夜、不動明王の|利《り》|剣《けん》を呑んで、口から血をふく夢を見て、覚めてのち知識大いにすすみ、道徳あらわれ、世に名誉の高僧(小弓大寺巌山道誉上人)となった――という。
博徒たちは、この話を、自分たちに都合のいいように|解釈《かいしゃく》して、利根の河原で乱闘をくりひろげる前夜は、必ず祈願をこめて、|利《り》|剣《けん》を呑む夢を欲した。
今、危機にむかって足をはこぶ喜三郎が思わず知らず、不動経をとなえたのも、利剣を希う必死のけなげさであった。
危機は――はたして、まばらな松の並木があかるく影を這わせた針ケ崎の白い河原にひそんでいた。もとより、喜三郎は、鯉口をきり、一歩一歩に全神経を|罩《こ》めて、樹立の陰へ、鋭く視線をくばって進んで行ったのであったが……。
敵の|卑《ひ》|劣《れつ》なわなは、喜三郎の意表を衝いた。
不意に――。
頭上から、怪鳥の羽音に似た風が流れ、はっとふり仰いだ喜三郎は、月光をさえぎって大きく|円《えん》|錐《すい》|形《けい》に拡がった投網に、反射的に、刀をぬきはなった。
しかし、風をはらんだ投網を切断する腕は、喜三郎にはなかった。
「かかったぞ!」
たちまち樹陰からおどり出た七八名は、いずれも六尺棒を掴んでいた。文字通り袋の鼠となった喜三郎は、四方からふりくだる六尺棒の下で、けだもののように|吠《ほ》え、のたうち、血まみれになった。
やがて、ぐったりと動かなくなった喜三郎にむかって、
「へっへっへっ……おい喜三郎、網にかかったからにゃ、家へひっかついで行って、ゆっくり料理してやるぜ」
とあざけったのは、昼間逃げた男であった。
この待伏せが、親分仁三郎の指図であることはいうまでもなかった。かつて、銚子の五郎蔵の賭場で、土浦仙次と争い、手込めに会って汐水を飲ませられた仁三郎は、かねて挑戦のきっかけをねらっていたのである。
喜三郎の脳裏を、自分が死体となって、仙次のところへ送りかえされるであろう光景がちらっと|掠《かす》めた。言葉にならぬ唸りを発してもがいたが、投網は、ますます四肢に食い入るばかりであった。
仁三郎の子分たちが、|野《や》|卑《ひ》な掛声とともに喜三郎のからだを担ぎあげるのを、後方の樹陰からじっと見まもる影がひとつあった。その影は、成田から、ずうっと喜三郎のあとをつけていたのである。
喜三郎が、抛り込まれたのは、仁三郎の家の物置であった。
亥刻近く――。
物置の引戸が、一寸きざみに開けられた。
|沢《たく》|庵《あん》|樽《だる》の側に、炭俵に|凭《よ》りかかって倒れていた喜三郎は、しのび入る者の気配を感じても、動く力をうしなっていた。
「喜三さん!」
耳もとで呼ぶ声が、意外にもおとよのものであるのに気がつくには、しばし間があった。
「こんどは、わたしが、たすける番よ」
と、ささやくおとよの息づかいは、生れてはじめて燃えた恋心で、火のように熱かった。四年前の夜のことである。
遊里
遊里の白昼は、生気に|乏《とぼ》しい明るさと静けさにつつまれて、忘れられたように味けない。
江戸町二丁目の大阪屋の二階で梅津長門は、|床柱《とこばしら》に凭りかかって、三味線のつまびきをしていた。
片隅では、|奴島田《やっこしまだ》がばらばらに崩れかかった十五六の|禿《かむろ》と、病身らしい青白い皮膚の|新《しん》|造《ぞ》が、長門の存在も忘れたように、小声でむつまじく|喋《しゃべ》りあっていた。お正月にたべた竹村伊勢の|蒸《せい》|籠《ろう》|菓《が》|子《し》がおいしかったこと、|双《すご》|六《ろく》は、なんとかいう番頭新造が滅法強いこと、松の内の花魁道中で、傾城下駄の三ツ歯の黒塗が剥げていたのはみっともないこと、今年は桜が五十本ふえたからさぞかし綺麗であろうこと、くるわの芸妓の配り蝋燭という余興がたのしみであること、等々……。
この世界の生活しか知らぬ少女たちの愉しげな話をきくともなくきき乍ら、長門は、口のうちで、「いつしかに」を機械的にくりかえしつつ、ぽつんぽつんとつまびいていた。
いつしかに、縁は深川、なれそめて、
せけば逢いたし、あえばまた、
浮名立つかや|遣《やる》|瀬《せ》なや……
文句の艶っぽさにひきかえて、長門の沈んだ面持は、陰鬱な虚無の色を刷いていた。
やがて、三味線をすてた長門は、ふらりと立って、廊下へ出ると、窓辺へ寄った。
「すしや……すう……しい……」
のどかな|鮨《すし》|売《う》りの声が、遠くから流れてくる。
桜の並木の下を、白襟紋付を着崩した茶屋芸妓の、どうやら宿酔いの足どりで帰って行く姿も、うら佗しげであった。
|檐《のき》|提燈《ぢょうちん》、|花《はな》|暖簾《のれん》のつらなりも、白昼の無人の明るさの中では、しらじらしいばかりであった。
長門は、不意に、こうして茫然と立っているおのれの姿に、堪えがたい絶望をおぼえると、座敷へひきかえそうとして、ふと目をやれば、廊下の隅には、よごれた茶台杯盤が積みかさねてあった。咋夜三枚肩の駕で掛声勇ましく乗りこんで来た富有な町人たちの、さんざん遊びつくした名残りであった。口の欠けた銚子が、茶台の下にころがっていた。長門は、その銚子が、自分のような気がした。
ふたたび、もとの場所へ戻って、どさりと仰向けに倒れた長門は、かつて他人に見せたことのない苦渋の表情を刻むと、腐ったはらわた[#「はらわた」に傍点]の|臭気《しゅうき》を吐き出すような吐息をもらした。
少女たちのお喋りは、はてしなくつづくようだ。おととい呉服屋が持って来た振袖は、やはりともむく[#「ともむく」に傍点]にすればよかったとか、何屋の何という禿は、十五になるのにまだ歯を染めていないとか、となりの茶屋の振袖新造の背中は|艾《もぐさ》のあとだらけだとか――そんなつがもない話を耳にしているうちに、長門は、いきなり絶叫したい衝動に駆られた。
長門の脳裏には、この五日間、寝ても覚めても、臈たけた雪姫の姿がつきまとっていたのである。
あのひややかなまなざしが、あの透明な肌が、あの|真《しん》|紅《く》の下着が、そして、「わたくしは公方の娘です」と言ったすずやかな声が、長門を、なやましつづけていた。
「……信じられなければ、信じなくてもかまいませぬ。雪姫というのが、わたくしの名です」
あの娘は、そう言った。何故、そのような重大なわが身の秘密を、自分の目付役を斬りすてた|不《ふ》|逞《てい》の徒にうちあけたのであろう。いや、それよりも、何故、抱きすくめられた時、すこしも抵抗しなかったのであろう。
長門には、すべてが、不可解であった。不可解であることは、雪姫を神秘にした。
長門が、習慣的に、この大阪屋へまた登楼したのは、花魁花鳥の|蛇《じゃ》|身《しん》をもとめるこれまでの自棄な気持とは異っていた。雪姫を忘れるためであった。
しかし、それは不可能であった。花鳥の蛇身は、もはや長門にとっては、なんの毒素も含んでいなかった。
不意に――。
長門は、むっくり起きると、唐突に、少女たちに向って言った。
「おい、お前たち、淋病の薬をこしらえる方法を知って居るか?」
|禿《かむろ》と|新《しん》|造《ぞ》は、呆れて長門を見まもり、そして互に顔を見あわせて、くすりと笑った。
「まアそう、やぼな顔をするな。よいか、おぼえておけ。|黄《おう》|蓮《れん》、|甘《かん》|艸《ぞう》、|丁字《ちょうじ》、|山梔子《くちなし》、|隈《くま》|篠《ざさ》、燈心、梅干の黒焼、松の実、それからお前たちのある個所の毛三本、これをいっしょに煎じてのむとな、たちどころに癒る」
「ほんとうでありんすか?」
新造が、笑い乍らきいた。
「ほんとうだ。玄宗貴妃が|驪《り》|山《ざん》のむつごと、呉王西施が姑蘇台の|耽《たん》|溺《でき》も、淋病にかかるとたちまち地獄となる。翠帳紅閨は化して針の山、熱湯の池となる。烏髪抜けおち丸坊主、|蛾《が》|眉《び》は飛び去り、美目はつぶれ、鼻はほら穴をうがち、朱唇は褪せて土の如し。あなおそろしや――三十年後のお前たちの面は、羅生門の鬼もおぞけをふるって逃げ出すのう。回眸一笑、百怪を生ず」
「まアいやだ!」
禿は、両手で耳をふさいだ。
|花魁《おいらん》くどき
「ぬしは、なんでもご存じでありんすなア」
新造が、微熱でもあるのか|潤《うる》んだひとみで、長門を見つめた。
「先ず、|和《わ》|漢《か》|蘭《らん》ことひとつもないぞ」
長門は、心の空虚をまぎらわす笑顔で下手なしゃれを言った。
「では……」
禿は、ちょっと考える風であったが、「では、高尾太夫が、どんなくらしをなされたか、ご存じかえ?」
と、まがおで尋ねた。
長門は、ふむ、と|頷《うなず》いた。
この世界しか知らぬ少女たちにとっては、高尾太夫が、公家大名の息女よりも、なおあこがれの夢の女王であるのは当然であろう。
吉原五丁町は、もはや元禄の|盛《せい》|観《かん》に比すべくもなく衰えている。
なるほど、江戸町、揚屋町、角町、京町に軒を接した|妓《ぎ》|楼《ろう》の構えは、大籬、半籬、大町、小見世、小格子、切見世とそれぞれの格式をととのえ、女郎風俗もむかしにくらべてけんらんとして、身分に応じての制限はますます複雑になって来ている。しかし、見てくれの派手さは、江戸的な|清《せい》|爽《そう》の気を払ってしまっていた。女郎に、気品がうせ、客に、|風《ふう》|韻《いん》を味わう能力が少なくなったのである。
元禄の|韻《いん》|致《ち》と享保の豪興は、この里にも、ふたたびこれを見難くなっていた。
それ故に、かえって、女郎たちにとって、そのむかしの高尾太夫は、いよいよ神格化してしまっていた。
「諸芸太平記」には、高砂の松の位と称し、「俗つれづれ」には、「この人の|耳《じ》|垢《こう》この道の女守袋に入れ置くべし」と説かれてある高尾太夫であった。
「高尾太夫か――」
長門は、あごをなでた。
「高尾というても、いろいろとおってな。子持ち高尾もおれば、君は|今《いま》|駒《こま》|形《がた》あたりほととぎす、という句で仙台侯をくどき落した高尾もおる。蒔絵師の女房になった高尾、神田の|紺《こん》|屋《や》で駄染を発案した高尾――といろいろおるが、いずれも才色兼備の代物であったのう。眉は翠羽の如く、肌は白雪の如く、|明《めい》|眸《ぼう》清光を発し、秋波をうごかす。桜桃の丹唇ほころびて|皓《こう》|歯《し》あざかに、嫣然媚を含めば、陽城を惑わし、下蔡を迷わす――というところだ。こんな女と寝る床は、蜀錦の夜具、呉綾のふとん、|八《はっ》|朔《さく》の白小袖のねまきで、国府のすいつけ莨をついと出されてみい、|折花攀柳《せっかはんりゅう》の弄みここにきわまって、ウヘエーとおがみたくなる」
「梅津さんなら、おがむかえ」
禿が、両手をあわせてみせた。新造が、くつくつ笑った。
「おがむのう、男冥利につきる――」
長門も、笑った。
「第一、高尾は、お前たちなどのように、べちゃくちゃとおしゃべりをせぬぞ。|伽《きゃ》|羅《ら》の香木を焚いて、|王《おう》|羲《ぎ》|之《し》の墨帖をならい、万葉集を読んだからのう。紀文や奈良茂を手玉にとった女だ――、今の花魁とは、どだい気位がちがうぞ」
と言った時、廊下から、
「女郎に気位をもたせるのも、すてさせるのも、みんな客のふところ次第――」
と、高くよく通る声があびせられた。
花鳥であった。ややつり気味のまなじりに険があったが、きわだった|美《び》|貌《ぼう》であった。
櫛あとも美しい立兵庫の髷、きらきらと金色にひかる前さし後さしのかんざし、緋縮緬の総しぼり、白綸子の襟もとを崩して、胸もとまでのぞかせた白い肌、だらりと垂らした鹿の子のしごき、厚綿をたっぷり入れたふき[#「ふき」に傍点]の裾をながくひいて、すらりと立上ったあですがたは、さすがに、長門を物狂わせた妖艶さを湛えていた。
ゆらりと入って来た花鳥は、長門のそばへ、べったりと坐ると、
「紀文や奈良茂のような|大《だい》|尽《じん》が、いなくなれば、太夫や格子も消えてしまうのはあたりまえ。たかが五両の櫛を贈ってくれる客もない当節、|散《さん》|茶《ちゃ》|女《じょ》|郎《ろう》になにが気位――のぞむほうが、むりというものじゃありませんか」
と、言って、ふん、とせせら笑った。
花鳥は、くるわ言葉をつかわない女であった。勝気で、カンが鋭く、|花《おい》|魁《らん》にふさわしくない鉄火な意気があった。|辰《たつ》|巳《み》|芸《げい》|者《しゃ》になって、無地小紋の裾をひき、下げ帯を大川の風になびかせる筈だったのをまちがって、吉原へ入ったと、自分でもはっきり言っているだけあって、この大阪屋でも、ややもてあまし気味である。
禿と新造は、花鳥が入ってくるや、そそくさと立って出て行ってしまった。
長門は、急に|憮《ぶ》|然《ぜん》とした面持になると、ふたたび、長く寝そべって、目蓋をとじてしまった。
「梅津さん……おまえさん、こんどは、なんだか、ひとが変っておしまいだねえ」
花鳥は、長門の手をにぎると、じっとその横顔を見すえた。
長門は、女の視線を、痛い程感じた。
「どこかに、いい人でもできたのかえ?」
それに対する返答を長門がするまで、ややしばらく妙に気まずい沈黙があった。
「花鳥――」
「あい」
「お前は、恋をしたことがあるか」
「ありますさ」
花鳥は、即座にこたえた。
「まさか、相手はこのおれだ、などとはぐらかすのではあるまいな」
「ほほほほ、|自《うぬ》|惚《ぼ》れて――。おまえさんは女に惚れられたら、煩しくなるおひとじゃないか。そんな薄情者に惚れるのは、わたしの気性がゆるしませんさ。――四年前、わたしをおんなにして、風のように消えて行った男が、いまだにわたしの胸にのこっています」
「ふむ。初恋か――」
「初恋だかなんだかもわからないような妙な縁で、たった一度むすびついたのが身の|因《いん》|果《が》、とどのつまり、わたしを狂わせて、こんな泥の花にしちまったんです。相手が、やくざだったのがいけなかった」
これをきくと、長門の脳裏に、ふっとある予感が掠めた。
「なんという名だ、そのやくざは?」
「佐原の喜三郎」
長門は、目をひらくと、じろりと花鳥を見あげた。
「おお、|怖《こわ》い顔。……おまえさんこそ、白状おしな。どこの女に惚れたのだえ?」
「喜三郎という男には、この間おれは、会ったぞ」
「えっ?」
花鳥の顔色が変った。
「ど、どこで?」
「教えたところではじまるまい。行きずりに出会って、わかれただけのことだ。二度と会えもすまいが……どうやら、お前のことは忘れかねている様子だった。但し、お前が、まだ|生娘《きむすめ》のままで石に齧りついても一人で待っていると信じてな」
長門が、ひややかに告げると、花鳥は、つと身をずらして、遠い目の色になった。
花鳥は、成田の駅の「海老屋」の一人娘おとよであった。
あの夜――
おとよは、喜三郎を仁三郎の家の納屋から、そっとかつぎ出すと、裏手の林の中にひそませておいていた|竹《たけ》|輿《こし》にのせ、一散に八日市場まで走らせたのである。
おとよと喜三郎が身をかくしたのは、おとよの乳母の家であった。たった五日間、ひとつの部屋で起臥ししたことが、おとよの運命を大きく変えたのである。
喜三郎は、四日目の夜、はじめておとよと床をひとつにしたのであったが、翌朝、おとよが目ざめた時、その姿を|忽《こつ》|然《ぜん》と消していた。
喜三郎が、単身、芝山へしのび入って、仁三郎を斬り殺した事件は、もうその日の午頃には、八日市場へもつたわった。
その日以来――おとよは、喜三郎をもとめて、憑かれたように、一人旅をつづけた。やがて、江戸へまよい込み――幾人かの男の暴力を経て、この吉原へ売られたのは、長門が喜三郎に云った通り、男を知った娘をたちまち変えてしまう江戸という街の|魔術《まじゅつ》におとよがひっかかったからであったろう。
花鳥が、ふと気がつくと、長門はのっそりと立っていた。
「帰るぞ」
「…………」
花鳥のまなざしは、すがりつくようにせつなげであった。
「こんど、喜三郎に出会ったら、ここにお前がいることを、教えてやるのは――ちと|残《ざん》|酷《こく》だろうな」
「梅津さん!」
花鳥の朱唇が、かすかにわなないた。
「わたしが、げんざい、いのちがけで惚れているのは、おまえさんですよ! ……まさか、もう二度と来ないというのではあるまいねえ?」
「来ないと申したら、どうする?」
「殺して――やるには、おまえさんは強すぎるし……」
花鳥は、眉をひらいて、ふっと|自嘲《じちょう》のうすら笑いを浮べた。
「来るまで待っているよりほかにすべがないのが、わたしたちのさだめさ」
浅草奥山
おででこ芝居、松井|源《げん》|水《すい》、|鶏娘《とりむすめ》、丹波の怪獣、オランダ眼鏡、講釈場、蛇つかい、楊弓などの小屋掛けから、耳を|聳《ろう》する鳴物囃し、呼び声が、わき立っている。
浅草奥山の盛り場は今日も雑踏をきわめていた。
小屋掛けにならんで、饅頭、浅草餅、おかめ団子、甘酒、おでん、|蕎麦《そ ば》の屋台が、ひしめきあう。そのむこうに、本堂の方二十間の金朱が、煙のような白雲の中に、まぶしく照り映えていた。
三日月小僧の庄吉は、奇怪な化物を極彩色で描いた小屋の看板を見あげるふりをして、すこしはなれた餅屋で買物をしている黒八丈の羽織に茶の綿頭巾を襟巻にした、いずれ大店の旦那とおぼしい町人に、鋭い神経をはなっていた。
――あの野郎め、屹度、吉原帰りにちげえねえ、|印《いん》|伝《でん》の紙入にゃ、まだたっぷりと残っていやがるだろう。
と、目をつけた庄吉は、ずうっと先程から、そのチャンスをねらっていた。
折包みをぶらさげて、町人があるき出すや、庄吉も、俯向き加減の姿勢でそのあとを追った。
ほどなく――。その町人が、仁王門をくぐって、向島の方向へ足を向けた時、いつの間に先まわりをしていたか、庄吉が、正面から、わざとなにかに気をとられているふりをして、うしろをふりかえりふりかえり、近づいた。
三尺、四尺――せまるや、庄吉の左手は頭をかくしぐさであげられ――とたんに、どしんとぶつかった。
「あ――ごめんなせえ」
かるくよろけて、ペコンと頭をさげた庄吉は、みごと|掏《す》った紙入の重みに、満足していた。町人は、気がつかずにすれちがって行った。
――へっ! こいつはごうぎだ。十両はあるぜ。
逃げ足は、自然と速くなる。
横町へとびこむと、狭い路地をふたつみつ抜けて、奥山と反対側の、しもたやのならんだ通りへ出た。
この時、庄吉は、本能的に、一瞬、ぴたりと足を停めて、ぐっと腹へ力をこめた。
庄吉は、目を向けないまでも、左右に立っている男が敵と|察《さっ》|知《ち》したのである。
庄吉が、俯向いて、ゆっくりと右手へ一歩ふみ出すや、
「三日月!」
と、|背《はい》|後《ご》から鋭い声が飛んだ。――畜生!
背後の敵の存在は、不覚にも気がつかなかった庄吉であった。
首をまわした庄吉は、数間むこうに、投縄をつかんで睨んでいる岡っ引を見出して、あっとなった。
――あいつだ!
|須《す》|貝《がい》|邸《てい》で|泉《せん》|水《すい》へたたき込んだ皆次であった。
「三日月! このあいだのお礼をいうために、おれは、今日まで家へは一歩も戻っちゃいねえぜ。……てめえが三日月小僧たア知らなかった。知ったのは、たった今、てめえのあざやかな仕事ぶりを見とどけた仲間の口からだ。……島を破って、五日もたたねえうちに、のこのこ奥山へあらわれるたア、まったくいい|度胸《どきょう》だ。……てめえをつかまえりゃ、室戸様を殺したさむらいが、どこへ姿をくらましたか、泥をはかせることが出来るというもの――一石二鳥とあっちゃ、めったに逃がされねえ」
皆次が、そう云う間にも、左右の|捕《ほ》|吏《り》は、じりじりと距離をちぢめて来た。
――逃げられねえ!
庄吉は、絶望のあまり、目さきがくらくらっとなった。
皆次の投縄の|手《しゅ》|練《れん》ぶりは、経験ずみである。ちょっとでも身をうごかせば、縄は、毒蛇のように飛んでくるであろう。
外へ出るな、といましめた風流軒貞宝の声が、今更耳に痛いひびきをよみがえらせた。
「神妙にしろ、三日月!」
皆次が、二三歩の距離へせまるまで、庄吉は、石のように|微《び》|動《どう》だもしなかった。
「両手をうしろへまわせ!」
その命令通りにするとみせかけた刹那、庄吉のからだは、さっと地を這うようにふたつに折れるや、「野郎っ!」と、怒号する皆次の|股《こ》|間《かん》めがけて、その頭を突入させていた。
庄吉の戦法は、|意表《いひょう》をついて、皆次に投縄をつかうすきをあたえなかった。
皆次が、呻いて、両手を地べたへついた時、庄吉は、もう三間ばかりうしろを脱兎のごとくすっとんでいった。
走る堤
庄吉は、浅草寺の森を走りぬけて、吉原田圃の細道をつッ走っていた。
庄吉のめざしているのは、日本堤の|砂《じゃ》|利《り》|場《ば》のむこうの非人村であった。堤と|待《まつ》|乳《ち》|山《やま》をつなぐ川ぶちに並んだ非人村こそ、無宿の徒の格好のかくれ場所である。
捕吏たちは、犯罪者にいったん非人小屋へ逃げ込まれたら、あきらめるよりほかはなかった。下手に踏み入ると、ふくろ叩きにされる危険があった。
だから、庄吉を追う目明し二人も、この三町あまりの距離で捕えようと、必死であった。
陽が傾き、水のたまった田面に、あかね雲が映っていた。あたりに人影はなく、庄吉と目明し二人の飛ぶ姿が、|黄昏《たそがれ》のほんのひととき明るい景色の中で、あざやかに描き出されていた。
――畜生っ! こんなところで、捕ってたまるかっ!
庄吉は、視野いっぱいにひろがった夕焼空の、その赤い色にむかって突進する|猛《たけ》った牛のように、すさまじい速力で、しだいに目明したちをひきはなしつつあった。
だが――
一気に堤へかけのぼろうとした刹那、ふかい凹地が、庄吉の片足をさらった。
重心をうしなった庄吉のからだが、大きく反りかえったとみるや、一転して、草へ這った。
目明したちは、|喚《かん》|声《せい》をあげて、みるみる距離をせばめた。
はね起きた庄吉は、思わず、
「うっ!」
と、呻いて、前へのめった。くるぶしから、背骨にかけて、すさまじい疼痛が走ったのである。
「く、くそっ!」
草を掴んで這いのぼろうとする庄吉のすがたは、断末魔の蛙のもがきに似て、|悲《ひ》|惨《さん》だった。
「野郎っ!」
怒号が、すぐ背後であがるや、庄吉の焦燥する形相は、子供が泣く瞬間のあわれな歪みをきざんだ。
目明しの一人が、庄吉の傷ついた方の足首を、ぐっと掴んだ。
「じたばたしやがるなっ!」
ぐいとひっぱられた庄吉は、疼痛を越えた無我夢中の勢いで、意味をなさぬ絶叫とともに、片足で相手の顎を蹴りあげた。
「あっ!」
と、のけぞって、うしろの一人にぶっつかり、ともによろめくすきに、庄吉はどうやってのぼったか、堤の上へすっくと立っていた。
もう疼痛は感じなかった。しかし、一歩踏み出そうとすると、|枯《かれ》|木《き》のごとく、かくっと膝が折れた。
「野郎っ! にがすかっ!」
目明したちは、先をあらそって、かけのぼって来た。
――もう、いけねえ!
四ン這いになった庄吉は、両眼にどっと泪をあふらせた。
死んだ父親の顔が……佃島の囚人小屋が……床に臥せている佐原の喜三郎の姿が……一瞬のうちに、庄吉の頭の中を横切った。
目明しの手が、肩を掴むや、庄吉は観念して目蓋をとじた。
「立て!」
顎を土まみれにした方が、庄吉の腰を蹴った。
「やい! 立たんか!」
「立てるぐれえなら……てめえらに、つ、つかまっちゃ、いねえや」
「ほざくな」
十手が、庄吉の額へふりおろされた。
くらくらっと眩暈がして、庄吉は、そのまま、地べたに俯伏してしまいたかった。しかし、かっと突きあげる|憤《ふん》|怒《ぬ》が辛うじて、気絶から身をささえた。
ひっぱりあげられるなりに、ようやく片足で立った庄吉は、その憤怒を抑えて、悲しげに、川原のむこうにたむろした非人村を眺めやった。
「ちえっ、非人村へもぐり込もうたって、そうは、問屋がおろさねえんだ。……どだい、きょう日の非人どもは、仲間をかくまってやるだけの度胸のある奴らは一人だっていやしねえんだぞ。二分もくれてやりゃ、こっちが一服やっている間にひっくくってくれるんだ。わかったか、小僧」
庄吉は、|唇《くちびる》を噛んで、何とも|返《へん》|辞《じ》をかえさなかった。
「にせ怪我を装って、隙を見て逃げ出そうって手にゃ乗らねえ。さっさとあるけ」
囚人小屋
目明したちが、無理やりに庄吉をあるかせようとした時であった。
数間むこうの|斜《しゃ》|面《めん》にむら立つ草の中からふいに、音もなく身を起した男があった。
宗十郎頭巾に、黒羽二重の着流し――梅津長門にまぎれもなかった。
長門は、大門を出てから、ぶらぶらと堤を戻ってくる途中、なんとなく腰をおろすと、仰向けにながながと寝そべり――そうだ、もう一刻近くも、|茫《ぼう》|然《ぜん》と、暮れゆく空を仰いでいたのである。空に描いていたのは、雪姫のおもかげであった。
――もう一度、会いたい!
そのはげしいねがいが、そうやって|微《び》|動《どう》もせずに倒れた長門の全身を|灼《や》いていたのである。
堤のむこう側で起った地ひびき立てる必死の争いを耳にしても、長門は、首を擡げるだけの興味すらなかった。
――おや?
と、意識をそちらへ向けたのは、とらえられた者の無念の声をきいたとたんであった。
――庄吉ではないか!
草の隙間からちらと見やった長門は、この偶然に、ふと不吉なものをおぼえた。
しかし、
――見すててはおけない。
と、自分に|呟《つぶや》いた長門は、もう日頃の氷のように冷静な人間にかえっていた。
「あっ! 旦那!」
庄吉は、長門が、堤の上へ立つや、われを忘れて叫ぶと、猛然と抵抗しはじめた。
「な、なんだ、この野郎っ!」
一人が庄吉をねじ伏せようとし、もう一人が、十手をかまえて、長門を睨んだ。
長門は、|斜《しゃ》|陽《よう》を背にして、ゆっくりと近よった。
「おう、おさむらい、こいつが三日月小僧という島破りだってことはご存じだろうね。たすけようなんてよけいな了簡はおこしなさんな!」
噛みつくようにあびせるのへ、長門は、無言だった。無言は、鬼気をはらんだ。
「ど、どうしようと、いいやがるんだ」
三歩の距離にせまった長門にむかって、目明しは、恐怖と憎悪の目をむいた。
その刹那、長門は、上半身を、ついとななめにかまえ――文字通り、抜く手も見せなかった。
ぴうっ、ぴうっ、と白刃が、もんしろ蝶のように宙にきらめいたとみると、二人の目明しは、|峰《みね》|打《う》ちをくらって、ぐらぐらと身を崩していた。
「旦那! ま、まるで、夢みてえだ」
と|喘《あえ》ぎ乍ら言う庄吉へ、うすい微笑を落した長門は、もう刀を鞘におさめて、手をさしのべていた。
「いてて……こん畜生っ! たまらねえや!」
「どうした?」
「へい。ここんところが――」
庄吉が、くるぶしをしめすと、長門は、
「筋がねじれたな。……まっすぐにのばせ」
と、命じて、左手で足首を掴み、右手でくるぶしを、えいっとひねった。
庄吉は、もの凄い|悲《ひ》|鳴《めい》をあげて、びくびくんと全身を痙攣させた。
「どうだ、立てるか」
「お、おや? こいつは……嘘みたいだ」
庄吉は、爪先立ちしてみて、目をくりくりさせた。
と――、長門が、急に、|眉《び》|宇《う》をひそめた。
「庄吉、お前を追って来たのはこの二人だけか?」
「いえ、もう一人……股ぐらを突きとばしてやった岡っ引が――」
「じゃ、そいつが|加《か》|勢《せい》をたのんだな?」
「え?」
「人が来る!」
浅草寺のほうから、馬と人の駆けて来る音が、かすかにひびくのを、長門はききわけていたのである。
「旦那! 逃げなくちゃ――」
「逃げるには、場所がわるいな。八方見通しだ」
「いえ、あそこの|非《ひ》|人《にん》|村《むら》の中の|溜《たまり》へ、おいら知っているおやじがいるんでさ」
「そうか。それは、都合がいい」
長門は、庄吉の片腕を肩にまわすと、すばやく斜面をかけ下って行った。
非人村の中にある「溜」というのは、病気の囚人を収容する長屋である。一の溜、二の溜、と二棟がならび、格子がめぐらしてあるが、牢屋とはちがって、畳も敷き|竈《かまど》もあり、湯茶たばこも自由、吹きぬきになっているので空気もきれいで、囲の中には庭もあった。
長門は、その長屋まで、一息に走った。
庄吉に殆ど足を使わせない巧みな|走《そう》|法《ほう》で、停った時も、呼吸のみだれはなかった。
――すごいや、この旦那は!
庄吉は、今更ながら、ひそかに舌をまいた。
さそり五郎兵衛というのが、庄吉の知っているおやじの名であった。
二の溜のいちばん端がすまいだと、牢番がわりの囚人が教えてくれた。
五郎兵衛は、奥のはめ板へよりかかって、番傘の骨をけずっていたが、庄吉が声をかけると、おどろいて目を|瞠《みは》った。
「庄吉! おめえ、島を破ったのか!」
両足が|萎《な》えているらしく、いざり乍ら、格子まで寄った。
「たのむ、おやじさん、追われているんだ」
庄吉が片手おがみにすると、五郎兵衛は、頷いてから、ちらと長門を見やり、
「このおさむらいさんも――」
「いや――」
長門は、手をあげてさえぎった。
「おれは、帰る」
「だって、旦那――」
庄吉が、不安そうに振り仰ぐと、長門は笑った。
「腐っても鯛だ。旗本が、非人にすくいを乞うたとあっては、犬も|嗤《わら》って砂をひっかけるだろう」
「ごもっともでござんす。……庄吉、おめえ一人だけで、早く、非人頭のところへ行け。五郎兵衛の子分だといえば、かくまってくれる」
と、五郎兵衛が、その方角を指した。
「旦那――大丈夫ですかい? 旦那がつかまるぐれえなら、おいらが――」
「ばかをいえ。こっちがつかまる危険があるなら、お前をたすけはせぬ。おれは、|慈《じ》|善《ぜん》|家《か》ではない。――ところで、喜三郎はどうした?」
「本所の風流軒貞宝って講釈師のところで寝ています。……夜があけてから、あの屋敷へ忍び込んだら、旦那の姿はもう見えなくて、役人と岡っ引がいやがって――役人の方を、はずみで|殺《や》っちまったんです。その時、兄貴が怪我したんで――」
「そうか――」
美しい娘を見なかったか、と|咽喉《の ど》まで出たのを、ぐっとのみ下して長門は、きらと目を光らせると、早く行け、と目で急がせた。
彼方の堤に、人馬が近づいたからであった。
皆次が、四五人の目明しをしたがえて、「溜」へかけつけた時は、勿論、長門と庄吉の姿は消えうせていた。
ひとわたり、一室々々を調べてまわった皆次が、
――こうなりゃ、あの非人小屋をかたっぱしから洗うよりほかはねえ!
と決心したおりであった。
|突《とつ》|如《じょ》、堤で、悲鳴があがった。
はっとなって、皆次たちが囲の外へ走り出てみると、手下を打ち倒して馬をうばった梅津長門は、すでに|薄《うす》|闇《やみ》の降りた堤上を、通り魔のように駆け去ろうとしていた。
「あっ……あいつが梅津だ! 梅津長門だ」
皆次は、|猟犬《りょうけん》のような直感で絶叫した。
辻強盗
それから二日すぎた夜――。
梅津長門は、|東《とう》|叡《えい》|山《ざん》の麓を、坂本通りの方角へむかって歩いていた。
左右は|鬱《うつ》|然《ぜん》たる立木が多く、高い梢にかかった鎌月の明りは、長門のまわりまではとどかなかった。
しーんと鎮まりかえった夜の世界だけが、長門の鬱結した心をのびのびと解放してくれる――そうした昼と夜をとりちがえた生活が、もう数年つづいているのであった。
暗い。この暗さが、長門の四肢をめぐる血を活発にするのだ。
と――、急に、全神経が異常なまでにひきしまり、闇を瞶める眼光が、しだいに鋭くなっていた。
背後にあって、跫音がきこえてきたのであった。
――よし!
長門のからだは、吸い込まれるように、おおきな|欅《けやき》の幹のうしろへひそんだ。
跫音は、そこまで近づいた。二人づれである。
一人がさし出している|提灯《ちょうちん》の明りが、闇の中に赤く滲んで、立木の巨大な影を、ゆっくりと移動させていた。
「ねえ、旦那、あっしはやっぱり買うなら、深川でござんすね。どうも花魁てえ代物は、昼三や付回しのような位のやつでもめったに油断がなりません。|錦《きん》|襴《らん》|緞《どん》|子《す》の|俎帯《まないた》を解いて人形のようにじいっと寝たっきりで五両ふんだくりゃがる。それにくらべりゃ、水髪崩して仕掛の櫛もぬけ落ちるすさまじさで泣いてわめく深川の二枚証文一両のほうが、なんぼかねうちがあるか知れやせんや。……第一、花魁が出てくる時に弾くあの清掻(すががき)の音のやぼったさは、話にならねえ。
……そこにゆくと、深川は――たまにうれしき、首尾してそっと、障子細目におぼろ月、見れば吹きくる夜あらしに、にくらしいほど|薫《かお》る梅、なんてえ風情は、吉原にゃありゃせん」
「ははは、おまいさん、近頃たいそう深川びいきだが、さしずめどこの茶屋の伏せ玉の|情夫《ま ぶ》になった?」
「とんでもねえ。あっしがいいたいのは――、長鬢羽織に黒ちりめん|襟《えり》|巻《まき》で、吉原がよいはもう時代おくれ、|晒《さら》しの手拭を肩にかけて、こう|姐《ねえ》さんいるか、と気安く上れる呼吸でさ、呼吸――これが江戸ッ子の意気にぴったりじゃげせんか」
どうやら、これから、|廓《くるわ》へ行く大店の旦那と取巻の|幇《ほう》|間《かん》と見てとれた。
長門は、行きすぎた二つの影を見送って、にやりとした。
|跟《つ》けはじめた長門は、相手に気どらせぬあるきかたをした。
坂本をすぎて、右へ曲ると大恩寺前である。
|戌刻《いつつ》の鐘が鳴った。
「あいや――」
ひくいが鋭い声がかかると、商人と幇間はぎくっとなって足を停めて、顔見あわせ、おそるおそるふりかえった。
「たのみがある」
長門は、ゆっくりとすすみ寄った。
幇間の手がふるえ、提灯がゆれた。
「今夜の廓がよいを、わしに代理をつとめさせてもらえぬか」
「へ、へえ――」
「つまり……そちの遊興費を、そっくりこちらに頂戴したい」
「ご、ご冗談を――」
「まじめな相談だ。その懐中の金が、店になくてならぬ資金だというなら借りようとはいわぬ。すてようとしている金だから、呼びとめたのだ」
「しかし、そりゃ……おさむらいさん――」
と、幇間は、さぐるように提灯を高くかかげようとした。
「提灯をさげろ。……おい、いやか?」
「そ、そりゃ……べつに――」
「いやだというなら、斬る!」
「ひえっ!」
商人は、幇間の袖をつかんで、ひっぱった。
百両ちかくはあろう、ずしりと重い|胴《どう》|巻《まき》を受けとった長門は、
「お気の毒だが、ひきかえしてもらおう」
と、ひややかに命じた。
提灯の赤い火が寺の塀をまがるまで見おさめてから、長門は、何事もなかったかのような足どりで歩き出した。
商人と幇間は、恐怖でこわばった無言のまま、ものの二町も今来た道を戻って行ったが――。
突然、幇間が、ひくく、
「あっ、あいつ――」
と、叫んだ。
「旦那、あいつは、お|尋《たず》ね者ですぜ」
「知っているのか?」
「やっと思い出しやした。……どうも見おぼえのあるさむらいだと思っていたんだが……ありゃ、旗本の梅津なんとかって野郎にちげえねえ。……おととい、あっしが入っていた|湯《ゆ》|島《しま》の茶屋へ、御用ききが来やしてね、梅津が上ったら知らせろ、と――。ようし、野郎、あっしに見られたのが運のつき、今に見てやがれ」
「だ、だけど、かかりあいになって、あとで、もし仕返しをされたら――」
「なアに、野郎、吉原へくり込みゃがったんだから、袋の鼠でさ。旦那、あっしゃ、これから、大門口の会所へかけつけやす……」
幇間は、商人をそこへのこすと、あわよくば先まわりして、長門が大門を入るのを見とどけてやろうと、近道を考え考え走り出した。
|衣《え》|紋《もん》|坂《ざか》を下って、御高札場の駒寄へ、幇間が身を跼めてから、ほんのしばらくして、宗十郎頭巾が、すうっと大門をくぐった。
――しめた!
幇間は、いっさんに、会所へ走った。
会所には、夜詰の手先が七八人将棋をかこんでいたが、すわ、と一斉に立ちあがった。
先日、日本堤で、三日月小僧を救い、馬を奪って逃げたのが、室戸兵馬を殺害した梅津長門であることを、皆次が|断《だん》|定《てい》し、長門が吉原へ入るのを手ぐすねひいていた会所であった。
妓楼のうち大見世に登るには、まず引手茶屋を通さなければならない。長門が、|揚《あげ》|屋《や》町の若松という茶屋に入って、提灯をつけさせ、二丁目の大阪屋へ送りこまれたことは、ただちに判明した。
登楼する時は、どんな身分の高い武士も、大刀を茶屋に預けるしきたりであった。
捕吏たちが、長門をおそれずに、|捕《ほ》|縛《ばく》の自信をもって、大阪屋へむかったのは、相手が無腰という安心があったからである。
吉原しばり
宵の廓のばか遊びの騒音がすぎた時刻――。
花魁花鳥は、あるじの喜兵衛に呼ばれて浜縮緬の長襦袢の上へ黄八丈のはんてんを羽織って、とんとんと階段をおりて行った。
下からのぼって来た顔なじみの客が、
「よう――花魁見ちげえたぜ。どこの鉄火芸者が迷い込んだかってえ、たいそう小意気ななりをしてるじゃねえか」
と、|狎《なれ》|々《なれ》しげに、手を握ろうとした。
それをついとふりはらって、
「花魁が、はんてんを着てはいけないって、おふれが出たわけじゃあるまいし――」
「いや、長襦袢の青み張に描いた|墨《すみ》|絵《え》は、どこの絵師の筆なんだということさ」
と、裾の紅を交ぜた朱の|花《か》|押《おう》をのぞくとみせて、腰を抱こうとした。
「おっと、若旦那、抱く相手がちがやしませんか」
花鳥が、とんと突くと、男は、わざとよろけて、
「こいつは、たんと手きびしいや。さては|情夫《ま ぶ》にすねたとばっちりか、宵の|口《く》|舌《ぜつ》に白けたあとを、啼いて通るやほととぎす、とくらア、へっへっへっ……」
花鳥は、もう見向きもせずに、足早におり乍ら、内心、
――へん! こんにゃく野郎!
と、|罵《ののし》りすてていた。
気性の激しい花鳥には、こういうたぐいのでれでれした大家の商家息子が、|嘔吐《はきけ》を催すくらいきらいだった。
粋といい、通と称し、野暮を|郤《しりぞ》け、不粋を|譏《そし》る。社会百般のものが、みな形式に縛られ、一寸の活用の余地を剰さず、一挙手一投足すべて|虚《きょ》|礼《れい》に律せられる時代にあっては、当然、その容姿風俗にはなはだしいもったいをつけるものだ。
しかも、経済力が、完全に町人の手に移った当世にあっては、旗本の次男三男気随の輩は屋敷風を自ら野暮と罵って、好んで町人風俗を真似、役付、高持の身分のある武士までが黒羽二重の紋付をそぞろぬぎたくなる。したがって、色町がよいの――今、花鳥をからかった若旦那あたりが、わが世の春を|謳《おう》|歌《か》している。ぞろりとした|縞《しま》|縮《ちり》|緬《めん》の上着に、花色唐こはくの帯を猫じゃらしに結び、金唐草のりゅうきん金物の前提、花色羅紗の文魚形の鼻紙袋、といったいでたちである。
こんな|遊《ゆう》|野《や》|郎《ろう》の、黄色がかった鼻声に、笑顔で相槌うたねばならぬ女郎ぐらしが、花鳥にとって、最近イヤでイヤでたまらなくなっていた。
餌にあつまる金魚のように通って来るあまたの客の中からわざわざ貧乏旗本の梅津長門を特にえらんで情夫にしたのも、時代に面をそむけた虚無的なその態度に|惹《ひ》かれたからであった。
「御用は、なんです?」
花鳥が襖をひらいて、敷居に片膝をつくと、如意輪貝の長火鉢のむこうに、あるじ喜兵衛と引手茶屋若松の亭主の、ひどく緊張した表情があった。
「まア、こっちに入んねえ」
手まねきされて、腰をうかせた花鳥は、喜兵衛のうしろの障子戸の|隙《すき》|間《ま》に、ちらっと、目明しらしい|風《ふう》|態《てい》がのぞいたので、はっとなった。
「おい、花鳥、是非おめえに、片肌ぬいでもらわなけりゃならねえことが起ったぜ」
「片肌どころか、毎夜、もろ肌ぬいですっぱだかじゃござんせんか」
「ざれごとじゃねえんだ。……おめえの客は、ありゃ、|公《こう》|儀《ぎ》のお尋ね者なんだぜ」
花鳥は、胸の裡をどきりとさせつつも、さりげなく、
「よしておくんなさい、梅津さんは、れっきとした旗本小普請組でござんす」
「ところが、四五日前、同じ小普請組の同輩を殺っちまったんだそうだ」
「武士の意気地の果し合いなら見あげたもの……当節、あっぱれなおさむらいじゃありませんか。刀が重くてびっこをひいているような腰ぬけばかりいるんだから――」
「冗談いってる場合じゃねえ。……会所から、捕手方が、八名も見えているんだぜ。……大阪屋から縄つきは出したくねえが、腕が出来るから、刀を持たねえうちにとりおさえたい、といわれてみりゃ、さからうわけにもいくめえ。……せめて、|穏《おん》|便《びん》にとりおさえてもらうには、おめえにたのんで酔いつぶさせるよりほかに方法がねえのだ……いいか、花鳥、たのんだぜ」
喜兵衛がそう言った時、うしろの障子戸がすっとひらいて、御用聞皆次が、|険《けん》を|含《ふく》んだ顔をのぞかせた。
「花魁、もしかばうのなら、おめえも、暗い所へ入るのは覚悟してもらおう」
その|脅《おど》しに対して、花鳥は、美しい笑顔を返した。
「その覚悟をきめて、いとしいお方をにがしたなら、中村座の|絵《え》|看《かん》|板《ばん》になるかも知れないねえ。さしずめ、わたしの役は、菊之丞。鼠木戸まで客があふれりゃ、女郎冥利につきるというもの――」
「おきゃがれ。……廓の内外には、小猫一匹のがさねえ|手《て》|筈《はず》はおわったんだ。あとはおめえの手管ひとつよ。まきぞえくいたくねえのなら、客をとろけさせる日頃の腕によりをかけろというんだ」
「刀がなけりゃ、いくら梅津さんが強くても、|怪《け》|我《が》|人《にん》出すような大捕物にもならないだろうに――ずいぶん、親分は、用心ぶかいんでござんすね。吉原でしばるのは、岡っ引の手柄にならないときいてますよ」
「四の五のぬかすな。あまりなめた口をききゃがると――」
「ちょいと、親分、わたしが、二階へ戻って行かなけりゃ、梅津さんは、朝まで起きてますよ」
花鳥は、かっとなって立った皆次の出足を、ひややかな語気で封じた。
皆次は、長門のおそるべき腕前をきいているだけに、なんとしても花鳥のたすけを借りる必要があった。
「よし! おれが、頭を下げりゃいいんだな――」
皆次は、いまいましげに舌うちすると、膝を折り、
「たのむ」
と、両手を畳についた。
廊下に立って、この様子を、|蒼《そう》|白《はく》な面持でじっと見つめていたのは、庭場重左衛門の息子重七であった。本元服をしたばかりの少年である。
皆次は、死にいく重左衛門に、重七の手で梅津長門を捕えさせると約束したのである。女郎に頭を下げる屈辱も、この約束のためにはしのばなければならなかった。
花鳥は、眉毛一本動かさずに、皆次を見おろしていたが、
「わたしが、合図するまで、静かにしていておくんなさい。三合や四合の酒で酔いつぶれるような梅津さんではありませんから……たぶん、合図は、夜明けになると思います」
仇なさけ
なかびけ(亥刻)の拍子木が、ひっそりと鎮まった家のすみずみまでひびきわたった。
長門は、ひとり、臥房の中で、うつらうつらしていた。
廊下にしのびやかな草履の跫音がした。ずいぶん長い花鳥に待たされた長門であったが、もうそれに焦燥をおぼえる|欲情《よくじょう》のとりこではなかった。
ひとりのこされて、朝をむかえるのならそれでもよかった。わが家をすてた男にとって、他人の屋敷に泊めてもらうよりも、ここの方が、まだ寝心地がよい。それだけの話にすぎない。花鳥は、もはや蛇身ではなかった。
花鳥の白い手が胸をゆすったが、長門は、目蓋をひらかなかった。
「にくいねえ……人を殺しても、そぶりにも見せずに――」
その言葉に、長門の眉がぴくっとうごいた。
「お前さんは、後を跟けられたのに気がつかなかったのかえ?」
長門は、目蓋をひらいて、じろりと花鳥を見あげた。
「下に……目明しが、手先を八人もつれて来てます」
「そうか」
長門は、花鳥から視線をはずして、じっと天井の一点を仰いだ。
このことを全く|念《ねん》|頭《とう》におかなかったのが不思議なくらいである。告げられてみれば大門をくぐる時、当然それを覚悟すべきであったろうとかすかな自嘲があった。ただそれだけで、こんなに、平静であるのは、いったいどうしたことか。恐怖もなければ殺気も湧かない。
「しかし……まだ、死にたくはない」
長門は、むっくりと身を起した。
「死にたくないが……鳥でもない限り、大門から外へ出る手段はあるまい」
ひくく|呟《つぶや》く長門を、花鳥は、食い入るように瞶めていたが、
「手段は、ないことはありません」
と、いった。
この声音を思いつめた真剣なものにきいた長門は、|訝《いぶか》しげに、
「お前は、おれを捕える手だすけをしろと命じられたのではないか!」
と、尋ねた。
「あい――」
花鳥は、頷いた。
「だのに……なぜ、おれを逃がそうとする?」
「惚れてます。このまえ、そういった筈です」
「おれは、お前に、喜三郎の|居処《いどころ》を教えにやって来たのだ。その用件がなければ、二度とやって来なかった筈だ。あと六日で年が明ける身ではないか。お前が心に抱いている男は、喜三郎一人だろう。ほかの客はだまされても、おれはだまされんぞ」
長門は、はじめて、相手の心の中をつかもうとするきびしい表情になった。
「喜三郎さんは……たしかに、わたしが、生きているうちに、一目めぐりあいたい男です。わたしを女にしてくれた男なんだから――。でも、お前さんが、捕手にかこまれている今、わたしは、喜三郎さんに会えるのぞみなんか|塵《ちり》っけも持ちゃしません。女心って、お前さんにはわからない」
「いかにも、わからん。六日たったら、お前は喜三郎に会えるのだぞ。喜三郎は、本所松坂町の裏店に、風流軒貞宝という講釈師の家にいる。怪我をして寝ているから当分どこへも去るまい。……会いに行け。お前が、まともな女房になるたった一度の機会だと思え」
「よしておくんなさい。女心は、そんなものじゃないんです。わたしは、わたしのしたいことをします。それとも、女郎のたすけで逃げたといわれては、武士の面目にかかわるとでもおいいなら――」
「|莫《ば》|迦《か》をいえ。上は大名から下は乞食まで、いっさい恩を蒙るのはごめんだが、女郎のたすけなら……惚れてかよった甲斐があるというものだ。……おれを逃がす手段をきこう」
長門の肚がきまった。
「この家に火をつけます」
おどろくべきことを、花鳥は、平然といってのけた。
暁の火焔
キナくさいにおいが、どこからともなくただよったと思うと、突然烈しく火薬の爆ぜる音が起った。
弁天山の|鐘《かね》が、丑刻を告げた直後である。
「おや?」
内所で待機していた皆次は、はっとなって廊下へ走った。
ほのぐらい灯の中を、天井から、ゆらゆらともれ出す煙を一瞥するや、あっと仰天して、
「火事だっ!」
と、絶叫した。
同時に銃声の撥ぜ散るような不気味な音が、いちだんと烈しくなるや、天井板が一枚ばりっと焼けおち、もうっと黒煙りが舞いおりて来た。
「火事だっ! 火事だぞっ!」
皆次は、|咄《とっ》|嗟《さ》に、玄関をかためて、長門が避難して来るのを待とうと思った。
火事と長門の逃走とをむすびつけて考える余裕をうしなっていたのである。
「おいっ! おもてだ! おもてをかためろ!」
皆次は、手下へ手をふっておいて、自分一人階段へ走った。
しかし、すでに、階段にも、黒煙は、渦をまいて這っていた。
「おっ! 畜生っ!」
どっと顔におそいかかられて、ひどくむせた瞬間、皆次の脳裏をちらっと花鳥の顔が掠めた。
「あっ! あいつ裏切りゃがったな!」
憤怒よりも、|狼《ろう》|狽《ばい》の方が大きかった。
花鳥が火をつけたのなら、長門が玄関へ避難して来るわけがない。
客と女郎があられもない格好で、悲鳴をあげ乍ら各部屋からなだれ出るや、それを追って、黒煙もまた八方から吹き出た。
一個所だけに、火薬をしかけたのではないことは、もはやあきらかだった。
皆次は、逃げまどう人々を突きとばし、はねのけて、玄関へとび出すと、狂気のごとく|手《て》|下《した》たちを呼んだ。
「重七様っ! 二階へ! 二階へ!」
廊下の端に茫然と立っている少年へ怒鳴った皆次は、|濛《もう》|々《もう》たる黒煙の中から真紅の火焔がぱっと一時に迸るのに、一瞬、たじたじとなったが、
「くそっ!」
と呻いて、一気に、階段をかけのぼった。重七も手下たちも、無我夢中で、そのあとにつづいた。
幾人かの、客や女郎や禿が、階段をころげ落ちて来た。
上下の|阿鼻叫喚《あびきょうかん》は、絶頂に達した。
二階の人々は、大半、屋根へのがれていた。
部屋の内には――梅津長門がただ一人、花鳥の居室にのこっていた。花鳥は、すでに、人々とともにのがれて、姿を消していた。
長門は、彫像のごとく微動もせず立っていた。右手に、二つに割った盃洗を掴んで――。
こうした場合、人々は本能的に一団となって、逃げ途をきめる。
捕吏が、その群に長門の姿をもとめて追うのはあきらかだ。敵の裏をかいて、わざと花鳥の居室にとどまり、焼死の一歩前で逃げるのが、長門の予定の行動であった。
勿論、二人や三人の捕吏がとび込んで来るのは知れている。それにそなえて、武器として盃洗をえらんだのだ。
――来たな!
長門は、すうっと床わきの襖へ身をよせた。
「そこが、花鳥の……念のために、捜せ」
と叫ぶ声がした。
次の間から走り入った手下の一人は、流れる煙の奥に、ちらっと人影を認めて、何か叫ぼうとした。が、それより速く、長門のからだは、飛ぶ鹿のようにしなやかに手下におどりかかっていた。
|欠《かけ》|目《め》鋭い瀬戸物は、手下の顔をずばっと切りさいた。
と――。
もう一人が廊下から、一歩踏み込んでこの光景を発見して、
「いたぞっ!」
と、喚いた。
――しまった!
長門の盃洗は、第二の獲物の|眉《み》|間《けん》をねらって、|発《はっ》|矢《し》と打ちおろされた。
声もなく俯伏した上を飛び越えて、廊下へ出た長門の眼前に、十手をかまえた重七の必死の形相があった。
「御用っ!」
恐怖をあらわにした隙だらけの姿勢をちらっと見やった長門は、無造作にずいとあゆみ出た。
「御用だっ! 梅津長門、神妙にしろ」
背後であがる皆次の怒号をきき流して、長門は、重七のつき出す十手をかるく身をひらいてかわした。そして、その瞬間重七の刀は、もう長門の右手に奪われていた。
「野郎っ!」
殺到する皆次にむかって、くるりと向き直った長門は、刀をさしのべてにやりとした。
「これがおれの手にあると、七人や八人では、捕れぬぞ!」
「な、なにおっ!」
じりじりと距離をつめられた皆次は、
――斬られる!
と、感じた。
御用聞きとして、二十余年をすごした皆次は、身の危険におそわれた経験は決してすくなくない。
しかし、こんな不気味な死の予感で、全身を|圧《あっ》|迫《ぱく》されたのは、はじめてのことであった。
このおり、炎の色をちらつかせた黒煙が風に|煽《あお》られて、廊下を走ったのが、皆次の生命をすくった。
大きくうねって、宙をひと|靡《なび》きして、長門をおしつつんだ黒煙が、その流れの方向を転じた時、長門の姿は、もうそこにはなかった。
しかも、家ぜんたいが、凄まじい唸りをたてて、ゆらぎはじめたのである。
もはや、捕物よりも、皆次たちは、火焔から身を守らねばならぬ危機に立たされていた。
部屋々々から立ち昇る火焔は、窓から吹き入る風に煽られるたびに、そのいろを烈々と加えて、火の粉を雨のように散らせていた。
「逃げろ! あぶねえ! 家が火でつつまれるぞっ!」
皆次は、手下たちへ、声をはりあげ、すぐに、「重七様っ! 屋根へおにげなせえ――」と、指示した。
長門を追跡するのは、もはや無駄であった。
屋根へのがれ出て、はじめて、ほっとわれにかえると、八方からあがる群集の叫喚が、わーんと暁闇の宙を掩っていた。
大阪屋ぜんたいが、火の玉と化して、その暁闇を、一瞬白昼の明るさにかえしたのは、それからほんのわずか後であった。
その空をいろどる|紅《ぐ》|蓮《れん》を、長門は、はるか、日本堤の草むらから、ふりかえっていた。
――花鳥は、捕えられて、|火刑《ひあぶり》になるだろう。
胸にこみあげる名状しがたい感動で、長門はわれにもあらず、目蓋がうるむのをおぼえた。
――女心か……。おれにはわからん。
追手の危険も忘れて、長門は、俯向き加減にゆっくりと足をはこんで行った。
|張扇《はりおうぎ》
「ようっ! 貞宝っ!」
「待ってました!」
掛声に迎えられて、風流軒貞宝は、高座へあがると、革包みの張扇を、槻の見台へのせて、ひとつ|咳《せき》|払《ばら》いをした。
ここは浅草寺内の寄席「|楊柳亭《ようりゅうてい》」であった。
手技、落語、娘義太夫、八人芸、影絵、浮世節、そして中入前が貞宝であった。
今日は、おもての|檐《のき》|角《かど》籠格子に、
一世一代、風流軒貞宝、入牢遠島覚悟の長講相勤候
題して「三日月小僧|義《ぎ》|心《しん》|譚《だん》」
と、天地紅のびらを貼ったのである。
これと同じびらは、近辺の髪結床の壁や湯屋の水函の上の羽目板に貼られた。
貞宝が、前年、幕府失政を皮肉った滑稽本を出版して、あやうく入牢されかかった一件は、すでに世人に有名である。
また三日月小僧庄吉の|佃島《つくだじま》破りも、口から口へと評判になっていた。
だから、貞宝の痛快な世相|諷《ふう》|刺《し》の毒舌に喝采している人々は、
――さては、今夜こそ、あの胸のすくような|啖《たん》|呵《か》がたっぷりきかれるぞ。
と、よろこんでつめかけて来た。
近頃のトピックにこと寄せて、時世を|嘲罵《ちょうば》する講釈師は、江戸ひろしといえども貞宝唯一人であった。
「貞宝っ! たっぷりたのむぞ!」
それにこたえて、貞宝は、小袖をたくしあげて、痩腕をたたいて見栄をきってみせた。
「ようっ! 団十郎はだし!」
「有難や、お世辞とは申せ、団十郎に、比せられるとは、貞宝一代の光栄。おだてに乗って、入牢遠島覚悟の大熱弁を相勤めて、四十八文とは安いね」
と、貞宝がしかめ面をすると、どっと笑い声が湧いた。
「全くの話、講釈師が四十八文で、娘義太夫が八十八文とは、誰がきめたさだめぞや。むこうは|上《かみ》|下《しも》を着ているから四十文高いというのなら、拙も明日から上下を着て、男っぷりをあげて、四十文だけ深川の|馴《な》|染《じみ》に入れあげよう。あんま上下で四十文――拙の情婦は、あんまが得意でな」
と、ひとしきり笑わせておいて、貞宝は|厳粛《げんしゅく》に姿勢を正し、
「そも……つらつらと、人のつらやら浮世のさまを、小手をかざして、|御《ご》|陣《じん》|原《ばら》――三尺の剣ひっさげて、名のり出でたる武将こそ、これぞ上杉謙信公――には、これあらで、煙波ひょうびょう、海の彼方、高祖となん申す偉いやつ、土ン百姓から身を起し、|漢朝《かんちょう》四百年の|基《もとい》をひらく。まった、|和朝《わちょう》においては、今諸国の大名小名、旗本藩士を見わたせば、いずれも豊臣徳川の|驥《き》|尾《び》について、|匹《ひっ》|夫《ぷ》よりして家名を起す。わが風流軒貞宝は、女房の尻をつついて寝たのを起す――」
貞宝は読み台をぴしゃりと叩いた。
「寝たのを起して、夜は夜もすがら、朝は朝寝で、昼は昼寝、晩に起きたが、すぐ寝たくなり、義理も世間もあらばこそ、人眼厭わず軒づたい、のぼりつめたる三毛と白、命かけての契りさえ、ええ、いつしか秋の風立てば、あか[#「あか」に傍点]の他人の知らぬ顔、ああ羨やましや、思いきる時、猫の恋――と申してな、御一同に忠告しておくが、とかく猫とか女というやつは、最初の取扱い方がかんじんであるな。野暮なお方の情あるよりも、意気で|邪《じゃ》|慳《けん》でわしゃ可愛い、といってな、最初にひどい目に遭わせておくに限る。
[#ここから2字下げ]
ぶたれる覚悟のわしゃ結び髪、色で逢うときゃこうじゃない
逢えばいつでもふんだり蹴たり、島田の|蹴《け》|鞠《まり》じゃありゃしまい
ものもいわずにふんだり蹴たり、|壬《み》|生《ぶ》の踊じゃあるまいし
[#ここで字下げ終わり]
と、相成って、つぎに、
[#ここから2字下げ]
|鬢《びん》のそそ毛をかきあげて、膝にもたれて眼に涙、そうしたお前のかんしゃくは、いつもの事とは言い乍ら、訳も言わずに腹立てて、せかずに訳を言わしゃんせ
[#ここで字下げ終わり]
と来れば、情味がこたえられねえというものだ。貞宝、色道講義|件《くだん》の如し、おっとこれは脇道へそれた。さて、本題へ戻りまして」
と、ちょっと頭を下げ、
「さわさり乍ら、天下泰平、|嚊《かかあ》天下の今日、匹夫に生れ、治世に育ち――出世はしたいが、|門《もん》|閥《ばつ》財力さらになく、公方さまに差出す美人の娘も持たないし、というて、剣戟を起さんには天下に逆う大罪、由井正雪の二の舞いの、舞いを舞いつつ、あれ天人が――てんてんてれつく天一坊、ほどの度胸もありやせん。そこで、ひとつ、芸を持って家を起さんと決意したるぞあわれなる。芸道と申しても、およそ十八、番茶も出花、そこで茶の湯はどうじゃろう。古茶碗と竹べらに、千金をつかって、四畳半、しんねこ[#「しんねこ」に傍点]ならぬしんづまり、にじり込みの|草《ぞう》|履《り》をつかむなんざ、太閤秀吉草履取りの時代じゃあるまいし、大丈夫の|業《わざ》じゃねえ。にがい茶のんで、しびれをきらし、こっそりまんじゅうを袂にしのばせ、出かけに食ったら、のどにつかえて目玉を白黒……白黒ついでに、碁なんぞ如何。黒と白とならべて崩して――こんな野郎は、死んだら、|賽《さい》の|河《か》|原《わら》へ行って、一目打っては、父恋し、二目打っては母恋し、|地《じ》|蔵《ぞう》|菩《ぼ》|薩《さつ》の袖にすがって、めそめそ泣きのていたらく、されば、いっそおもむきをかえて、尺八はどうじゃろう。げにも女郎の屁の音に似たりけり。親の仇討に出るための|虚《こ》|無《む》|僧《そう》修業以外には、歯の抜けるだけが、損なしろもの。と申して、学問詩歌をひねくるのは、ちと縁遠い了簡となると、さアて、身を立つるには、何が一番格好か――ここが思案のしどころなり」
貞宝は、湯を飲んで、羽織をぬぎすてた。
「上下太平の代を誇る当節、どこの大名屋敷を覗いてみても、にょご、にょご、にょごの|女《にょ》|護《ご》ガ|島《しま》。賢者忠臣しりぞけられ、よだれたらした殿様は、左右の|俗《ぞく》|士《し》|侫《ねい》|臣《しん》にとりまかれ、朝から晩まで、ドンチャカ、スッチャカ、紅白粉のくせえ匂いで、鼻毛も三本抜け落ちた。あわれや御金蔵はからっけつ、けつをまくるにゃ袴と大小が邪魔をして、内証々々で、ご家老用人、興も明日もさめるに早く、|薬《や》|罐《かん》あたまをふりふりふって、三人寄ったら|文《もん》|珠《じゅ》の知恵、女三人なら姦しい、その姦しいのが|後宮《こうきゅう》三千と集ったんだから、さア事だ。白粉代だけでも、城が傾く。つっかい棒をどうしょうか、ひそひそ話をしてみても、あたまはふれてもない袖はふれぬ」
ずういと客席を見わたして、貞宝は、にやにやし乍ら、
「当時流行るものは、坊主に|落《らく》|首《しゅ》に柳腰、講談|浄瑠璃《じょうるり》ストリップ。それにひきかえ、大名武士は、礼法三千威儀三百、参覲交替登城出仕、殿中でプッと屁をひっても御切腹とはなさけなや。……そこでや、そこで皆の衆、ここに一人の好い男、|業《なり》|平《ひら》|朝臣《あそん》か光源氏か、それとも風流軒貞宝か、というような色男、その名も三日月小僧と呼びなせる、神出鬼没の盗っ人稼業、庄吉となん申す|鼠《そ》|賊《ぞく》ありける。一夜吉原にぞ乗りこんで、花魁の膝を枕にうたたねしてたが、突如、むっくり起きあがり、はすかけ本多をうむとふり――どうせ末は三尺高けえ木の上で、槍のさびになるならば、槍はさびても名はさびぬ、遠いむかしじゃ石川五右衛門、近いところじゃ日本駄右衛門、神道徳治郎のむこうをはる、日本一の――きびだんご、|犬《いぬ》|猿《さる》|雉《き》|子《じ》の身軽さを、そなえているのを、さいわいに、鬼ガ島ならぬ女護ガ島へ、しのび入ってぞ働かん、と決意したるはあっぱれなり――」
貞宝は、張扇を鳴らし、ぐっとそり身になった。
庄吉決意
勿論――。
貞宝は、庄吉の履歴を語るつもりではさらになかった。腐敗した大名屋敷の内状を面白おかしく諷刺するのが目的であった。
およそ一刻、貞宝は、一気|呵《か》|成《せい》に喋りまくり、三日月小僧が、さる大名屋敷の天井裏へしのび入って、さてこれからどんなあさましい光景を目撃するか、というくだりは、また明晩――ときりあげた。
貞宝が、見台へ額をつけるや、出窓寄りの柱のわきにずーとうずくまって身動きもしなかった若者が、ちらと顔をあげて、すぐ俯向き、中腰で人をかきわけてすばやく外へ出て行った。庄吉であった。
|非《ひ》|人《にん》部落へ逃げ込んで以来、庄吉は、まだ一度も貞宝の家へ戻っていなかった。金だけは、使いをやってとどけていた。今日浅草寺へおもらいに出た非人の一人が、戻って来て、
「貞宝が三日月小僧義心譚てえ一席をやるとびらが出てたぜ」
と、告げたので、庄吉は、思いきって出かけて来たのである。
――師匠のやつ、おいらの名を売って……おいらが仇討をやった時の人気をあおろうと思いつきゃがったんだな。
きいている間、庄吉はからだ中がくすぐったかった。貞宝のこんたんが、そうだとしたら、その効果は充分あった。
こっそり出て行く庄吉が、その三日月小僧とは誰一人気がつかず、
「貞宝っ! 三日月小僧に会ったら、おいらがついていると伝えてくれろっ!」
「ついでにおいらのとこへ遊びに来るように言ってくれ」
「|唐《とう》|変《へん》|木《ぼく》め、盗っ人からめぐんで貰いてえさもしい了簡おこしゃがって、てめえそれでも江戸っ子か。てめえなんざ、女房のへそでもなめてろ。三日月小僧は、おいらがちゃんとかくまってやるんだ」
「何ぬかしゃがる。六畳一間のどこへかくまうってんだ。大方、三日月小僧の|爪《つめ》の|垢《あか》でも貰って|煎《せん》じて飲みてえんだろう」
「おうおう、飲みてえのは、そっちだろう。このあいだ、扇屋の娘のかんざしを盗みそこなって、番所へつき出されかけやがったのは、いってえ、どこのどいつだい」
「べらぼうめ、ありゃ、髷から落ちたのをひろってやったんだ。あの娘は、おれに気があるもんだから、赤くなってもじもじして、ろくに口もきけねえでいるのをよ、焼きゃがった新道の女師匠が、おいらが盗ったと訴えやがってよ、色男のつらさを、おらアしみじみと――」
「ぬけぬけとほざきゃがったな。あの娘が、このおれに惚れてるってことは、公方さまのお耳にまで達しているんだぞ」
「うるせえぞ、てめえたち。三日月小僧はどうした?」
「おっ――三日月小僧なら、あの娘をゆずってもいいぞ」
「貞宝っ! 明晩たのむぞ! 三日月小僧、大名屋敷忍び込みの|術会得《じゅつえとく》の巻を、よ」
「それをきいて、てめえおれの嬶のところへ忍び込むつもりか、こん畜生っ!」
「よしゃがれ。けえって、てめえの嬶の面を見ろ、面を――ロンドン・パリのやぶにらみ、まがりっ鼻はワシントン、頭はローマで、飯を食わせりゃ八杯ベルリン、あるく姿はブタペスト、顔の|造《ぞう》|作《さく》がモスコーしどうにかなったら頂ける、なんていう代物じゃねえや、てめえの嬶は――」
このさわぎを笑って眺めていた貞宝は、
「これほどまでの三日月小僧ご|贔屓《ひいき》の段、厚く御礼申上げまする。てまえ、ひそかに三日月小僧と|懇《こん》|意《い》に致して居ります故、演史軍談の空読みとはことちがい、事実そのままを皆様におつたえして、泰平に慣れた世道人心への警鐘ともなりますれば、貞宝一代の幸せ、されば明晩と――」と、高座を下りて行った。
一方、庄吉は、裏路をえらんであるいているうちに、
――おや?
と、わが心に|芽《め》|生《ば》えたひとつの大それた思いに、自分ですこしびっくりした。
庄吉は、いつか、大名屋敷に忍び入って、悠々と大金奪って逃走する自分の姿を思い描いていたのである。
なんだか、将来の自分の冒険を、貞宝がさきにさっさと披露してくれたような|錯《さっ》|覚《かく》が起きそうであった。
――そうだ!
庄吉は、|遽《にわか》に、胸が躍った。
――須貝嘉兵衛の野郎は、井伊家に身柄お預けになっている、と梅津の旦那に斬られたさむらいが言っていたじゃないか。……ひとつ、井伊のお屋敷へ忍び込んでやろうか。うまくいけば、仇討ができるぞ!
|無《む》|謀《ぼう》を|反《はん》|省《せい》するには、庄吉は、あまりにも若かった。
――ようし! やってやるぞ!
つながる糸
貞宝が、楽屋で、お茶をのんでいると、席亭の主人が寄って来た。
「師匠、ちょっと、顔を貸してもらいたいんだが――。会いに来た人があるんだ」
「おいきた、色っぽい|後《ご》|家《け》さんが、一席設けて、しんみりと、おいらのしぶいのどをききたい――なんて御招待は、まだいっぺんも受けたことはねえが……」
貞宝が立って廊下へ出ると、主人は、声をひそめて、
「師匠、やっぱり、いけねえや、ありゃ――私があれ程とめたのに、やっつけるから、来たぜ」
「ふむ」
貞宝も、おもてをこわばらせた。
「神田の岡っ引だ。皆次って――名が通っている腕っこきだぜ」
「目明しが怕くて、高座で|張扇《はりおうぎ》がたたけるけえ――といいたいが、まむしの|鎌《かま》|首《くび》と朱房の十手は、あんまりぞっとしねえやな」
「三日月小僧と懇意だなんて、出まかせをいうもんだから――」
「迷惑はかけねえから、安心さっしゃれ」
貞宝は肚に力を入れて、のれんをはねた。
皆次は、上り|框《がまち》に腰を下して、煙管をくわえていたが、ゆっくりと立った。
「貞宝でござんすが、御用むきは?」
と、膝をつくと、皆次は、親しげな微笑を泛べて、
「手下のやつが、お前さんの講釈をきいてうめえもんだ、と感心したが――」
「これは、|恐《おそ》れ|入《いり》|谷《や》の|鬼《き》|子《し》|母《ぼ》|神《じん》に、なにとぞ名人になりますようにと願をかけた――その満願が丁度今日にあたるんで、いやどうも……。さぞかし、お腹立ちで御座んしょうが、|駄《だ》|講《こう》のたわ言とおぼしめして、ひとつお見のがし下さいまし」
「なアに、お前さんの気っぷは、日頃からおれも大いに買っているんだ。奉行所づとめでなけりゃ、いの一番にお前さんを贔屓にするんだがね。まア、商売柄、いやなことも訊かなくちゃならねえが、気にもとめないでおくんなさい。お前さんは、本当に三日月小僧をご存じですかい?」
口調はつとめて|穏《おだや》かであったが、眼光は鋭かった。
「知っておりやす」
貞宝は、平然として頷いた。
「じゃ、島を破ってから、お会いになったんだね?」
「会いました」
「どこで――」
「この境内で――」
「まさか、お前さん、かくまったんじゃ御座んすまいね?」
「かくまってやろうか、と歯の裏まで出かかって、いやまてしばし――」
「師匠、|真面目《ま じ め》にきいてるんだぜ」
「こっちこそ、天地神明に誓って、正直に――」
「こたえているにしては、どうも落着かねえな」
皆次は、声音の端に地金をちらっと見せた。
「拙は、その、さっきから|厠《かわや》に行きたいので……どうも、年のせいでな」
貞宝は、客席に、庄吉が坐っていたのを見ていた。
ひょっこり、楽屋へ顔を出さないともかぎらない。
その懸念をかくすために、貞宝はその態度を、殊更にわざとらしいものにしたのだ。
「師匠、お前さんは、このあいだの吉原の火事場騒ぎで、花魁がいっぴき捕ったのをきいてなさるだろう?」
と、皆次は、突然話題を転じた。
「きいておりやすな。なんでも、水をしたたらせて油で揚げたような絶世の美人ということでげすな」
「そいつがなぜ火つけしたかてえと、|情夫《ま ぶ》の旗本をにがす為だったんだ。その旗本てえのが、三日月小僧の親分なんだ」
「へえ、それは、まことに、初耳で、講釈のネタがひとつふえました」
「梅津長門、それが旗本の姓名だ。師匠、お前さん懇意の筈だぜ」
皆次は、またたきもせず、貞宝を睨み据えた。
貞宝は、一瞬、はらわたまで|凍《こお》るような戦慄をおぼえた。
梅津長門とは、たしかに、かなりむかしからのつきあいである。貞宝は、長門の材幹を知って尊敬するとともに、その不遇に深く同情していた。餓死せよというにひとしい七十俵十人扶持で、退職非役扱いの小普請組では、いかに大きな材幹も、所詮宝のもち腐れである。長門が|布《ほ》|衣《い》以上(五千石相当)の地位にすわったならば、どんなに堂々たる行為をしめすだろう、と貞宝はいつも考えないではいられなかったのである。現在、|武《ぶ》|鑑《かん》にずらりと名をつらねた旗本衆のうち、長門ほどの材幹をもった人物が、五指を屈するに足るだろうか、とかぞえてみれば、貞宝は、他人事乍ら、直参制度のおそるべき|矛盾《むじゅん》に、義憤をおぼえずにはいられなかったのである。
――あの人が、いったい何をしでかしたというのだ?
「梅津長門の懇意で、三日月小僧と出会ったというのなら、こいつは、くさい、どうやら糸をひいてるな、とかけ出しの三下でもピンとくるだろうじゃねえか。師匠! お前さんも、そうは思わねえか」
「全く――」
「全く、どうした? おい!」
「いや、全くそう思ってみると、事は重大で――」
「そらとぼけやがると、ためにならねえぞ! 貞宝っ! その舌三寸ひっこ抜くのが、おれの役目だと承知しやがれ!」
語気、|身《み》|構《がま》えに、二十年きたえた殺気をこめて、皆次がせまった時――。
入口の格子戸があいて、ひょいとのぞいたのは、佐原の喜三郎の病み上りの蒼ざめた顔であった。
振りかえった皆次の視線と、喜三郎の視線が、まともにぶっつかった。
同時に、二人の口から、おどろきのひくい声が発しられた。
孤独地獄
黄昏のこぼれ陽が、壁の上にたったひとつ開かれた太格子の窓から、土間の片隅にほの白く落ちていた。
花魁花鳥は、俯向いて化石したように動かない。洗い髪がみだれ、唐桟の|乱竪《やたら》|縞《じま》が|着《き》|崩《くず》れ、|袱《ふく》|紗《さ》|帯《おび》も、とけかかってだらりと尾をひいている。
この|陰《いん》|鬱《うつ》な、四方壁の部屋に入れられてから、三日すぎた。三度々々の食事の差入のほかは、なんの音沙汰もない。花鳥は、どこからか、ちょろちょろと現われては、また消えて行く一匹の|守宮《やもり》を、相手に、ずうっと坐りつづけてきたのである。
送り込まれた最初は、中間部屋のようなうす|穢《ぎたな》い三畳の小部屋へとじこめられた。火つけ殺人などの大罪は、捕えられるとただちに、たとえ深夜でも、|白《しら》|洲《す》を開いて、奉行が取調べる規則になっていた。罪状を明白にしてから、奉行が、入牢を申し付けると言渡さなければ、罪人を、牢に入れることは出来なかった。
あいにく、この数日多忙であった奉行には、白洲をひらくひまがなかった。
花鳥は、そのため、孤独地獄に押しこめられていたのである。
与力の予審さえも、まだ行われていなかった。
二日あまりは、江戸町二丁目を焼きはらって、梅津長門をにがした興奮が、まださめず、どうでもしやがれ、と心でうそぶく余裕があった。
しかし、急に、小部屋をひき出され、二名の捕卒にまもられて、所謂「|鞘《さや》」という細い小路をぬけて、土蔵のような暗いこの仮牢に移されて、板の間に坐ってから、二日、三日とすぎるうちに、ようやく、自分の運命が|奈《な》|落《らく》に立ったのを、ひしひしと悟らないではいられなかった。
成田駅第一の料亭「海老屋」の一人娘と生れ乍ら、しがない博徒喜三郎に心を傾けたばかりに、家を出奔するはめになり、|流《る》|転《てん》の旅で、いつか身も心もよごれはてた挙句、吉原へ――。そして、|情夫《ま ぶ》とした梅津長門へのたてひき、咄嗟の間に、われを忘れた大罪を生んだのである。いわば、もって生れた強烈な性格が、破滅を承知で、わが身をなげ出させたのである。
|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》の招いた|果《か》|報《ほう》を、孤独のなかで反省させられることは、花鳥にとっては、死よりも苦痛であった。猛く、|脆《もろ》い多血の気質は、じっと堪える忍従の強さをもたなかった。
わずかに、気の狂いそうな苦痛をすくったのは、
――わたしは、やっぱり、本当に、梅津さんを好きだったんだ。
と、いくども自分にいいきかせ――その哀しさに心をひたすことができたからだ。
いつの間にか、花鳥の面前の壁へ、また|守宮《やもり》が降りてきた。
二寸ばかりちょろちょろと走っては、停り、また走っていたが、とある個所で、吸いついたように動かなくなった。
花鳥は|倦《う》み|疲《つか》れたまなざしで、じーっと瞶めつづけた。
ほんのしばらくして……、花鳥が、ほっとふかい溜息をもらすと、守宮は、するするとすべり降りて、板の間へ這い出た。
窓が灰色にかわって、濃い闇が澱みはじめた部屋の隅へ、守宮が消えるまで、花鳥は、うつろな視線を送っていた。
「花鳥、出ませい」
不意にだみ声がかかって、厚い扉がぎぎいっと軋るまで、花鳥は、まったく虚脱していた。
花鳥は、のろくさと立ちあがり乍ら、
――やれやれ、やっとお調べか。|煮《に》るなと焼くなとかってにしておくれ、だ。
孤独地獄からすくわれることは、|拷《ごう》|問《もん》よりも有難いと思える花鳥であった。
獣心
花鳥が、連れて来られたのは、もとのじめじめした三畳の小部屋であった。まんなかに燭台が据えられたきり、何もなかった。
待つ間もなく、無言でぬっと入って来たのは、吟味方支配与力谷村正蔵であった。
眼光は、|鷹《たか》を思わせる鋭さで、黒|七《なな》|子《こ》の小紋の肩が、ぐっと張り――この職掌に満々たる自負をもって、罪人を虫けらとしか見ない|傲《ごう》|慢《まん》さを、全身にしめしていた。
奉行所には、およそ与力二十余名、同心百余名がいた。与力の中で、筆頭五人が、同心支配役をつとめ、一組二十余名を指揮していた。そして、筆頭五人のうち、吟味方が、最高の権力を有していた。
谷村正蔵は、三十なかばの若さで、この北町奉行所の、実際上の支配者となっていたのである。表高二百石ときめられた与力がその権力ゆえに、千石以上のくらしをしているのも、当時としては、当然のこととされていた。したがって、その身なりは――|印《いん》|籠《ろう》、|鍔《つば》にいたるまで|精《せい》|巧《こう》をつくしていた。懐中には、どうやら香箱時計も入っている様子。
谷村は、ついて来た同心に、さがっておれと目くばせしておいて、ずいと、花鳥の前へ立った。
花鳥は、ちらりと、谷村を見あげると、わざと不貞腐れて、膝を崩し、右肩を落した放俗な姿勢をとった。
裾がみだれて、赤しった[#「しった」に傍点]鹿の子の長襦袢が、燃え出るようにあらわになった。
「花鳥、お奉行に代って、おれが|吟《ぎん》|味《み》する」
そのつめたい声に、花鳥は、申訳のけだるげな動作で、頭を下げ、両手を板の間へつかえた。
谷村は、吟味だと言い乍らも、
「ほう……、|蒔《まき》|絵《え》の|櫛《くし》か、二十両を越えた逸品だの」
と、花鳥の洗い髪へ、首をのばした。
花鳥は、内心、――なにをいっていやがる、とせせらわらった。
当時、与力でさえも、弁当箱を質に入れたといわれる程、役人のくらしは|惨《みじ》めであった。花魁などを買う余裕をもった役人は、皆無といってよかったのである。
「お前は、大阪屋で、三|分《ぶ》の女郎だったそうだが、そんな全盛をなげうつくらい、梅津長門に、ぞっこん惚れたのか?」
花鳥の細面は、ゆらめく燈をうけて、ひややかに、青く冴えていた。
「一分二朱のはした女郎ならいざ知らず、|総籬《そうまがき》の看板をはったお前が、その日の糧にもこと欠く|御《ご》|家《け》|人《にん》ふぜいにたてひくとは、考えられんの」
そう言って、谷村は、つと、花鳥のあごへ手をかけて、ぐいと仰向かせた。
花鳥は、それをはらいもせず、じっと、谷村の鋭い眼光をうけとめ――その光のなかに、みだらな色がふくまれているのを読んだ。
花鳥の片頬に、皮肉なうす笑いが刻まれた。
「旦那……こういう唄をごぞんじ? かねて|手《て》|管《くだ》と、わしゃ知りながら、くどき上手につい乗せられて、だまされて咲く|室《むろ》の梅、って――ほほほほ、梅津さんは、くどき上手でござんした」
しかし、からかわれていると知って、谷村は、すこしも憤りの気配をみせなかった。
「ふん、くどき上手か――。そいつに乗せられて、かっと心が燃えあがったために、江戸町二丁目がまる焼けだ」
「旦那、わたしが火をつけました、とは、まだ申しあげていませんよ」
「それをこれから、白状させようというのだが……吟味のやりかたも、いろいろあってな」
と言いざま、谷村の白足袋が、いきなり、花鳥の膝のあいだへぐいと割りこんだ。長襦袢のどこかが、びりりっと裂ける音がした。
花鳥の|柳眉《りゅうび》が、きりっとひきつった。しかし、くちびるは、かたくひきしめたままであった。
白足袋は、ざんにんな触手になって、じわじわと、花鳥のむっちり柔かい、あたたかい内股をさぐって、めり込んだ。
そうし乍ら、谷村の|面《めん》|貌《ぼう》は、しだいに、|獣心《じゅうしん》をあらわした。
花鳥は、無言で、その攻撃を怺えていたが、一瞬、片手をあげて、櫛をぬきとると、そのするどい尖端を、谷村の足首へ、ぶすっと刺した。力あまって、櫛は、ふたつにぽきりと折れた。
「うっ!」
と呻いた谷村は、かっとなって、花鳥の顔へ、したたか、鉄拳をふりおろした。
板の間へ倒れ伏した花鳥の姿態は、おのずからなる仇なまめかしい風情を映した。
この時、廊下に跫音が近づき、小部屋の前にうずくまる気配があった。
「御支配様」
御用聞皆次の声であった。
「なんだ?」
「梅津長門の一味、庭場重左衛門を殺害いたしました佐原喜三郎なる無宿者を捕えました」
その報告が、花鳥に、わが耳をはっと疑わせた。
――あ、あのひとが!
花鳥は、みるみる顔色の変るのが、自分でもわかった。
長門が、喜三郎に会え、とすすめてくれたことが、脳裏によみがえった。
――喜三さんは、梅津さんと、悪事仲間だったのか。ああ、|因《いん》|果《が》な!
処女を与えた初恋の男が同じ牢獄に曳かれて来たということは、流石に花鳥の心中を、はげしく|惑《わく》|乱《らん》させずにはおかなかった。
「一組のたまりへひきすえてございますが、お調べ下さりますか?」
と、皆次が促した。
「うむ。……皆次、この女郎には、ただいま引導を渡した。五番牢へぶち込んでおけ」
「かしこまりました」
谷村は出て行きがけに、じろりと花鳥を見おろし、
「火あぶりのかわりに、からだをぬらしておいて――来月の日光の|御《ご》|法《ほう》|要《よう》の将軍家御|宣《せん》|下《げ》に|赦《しゃ》|免《めん》をねがう、あたら好機をのがしたのう」
と、にやりとした。
花鳥は、ゆっくり身をおこして、折れた櫛で、みだれ髪をかきあげた。
谷村が廊下へ出ると、皆次は、
「佐原喜三郎を捕えましたのは、庭場重左衛門御子息、このたび|定回《じょうまわ》り見習いになりました重七様でございます」
と、告げた。
谷村が遠ざかると、皆次は、小部屋にのっそり入って、花鳥の前に|跼《しゃが》み込むと、腰の煙草入を抜きとった。
「花魁、ちょいと見ねえうちに、大層|窶《やつ》れたね」
岡っ引独特の、ひくい抑揚のない声音だった。
花鳥は、顔をそむけて、宙の一点へ、心のみだれを必死にかくした眸子を据えていた。
「支配与力が、どんな引導わたしたか知らねえが……おれは、まだ、おめえがたしかに火をつけたとは報告しちゃいねえんだ。そこんところに、ふくみをもたせていることを、おめえにわかってもらいてえ……いいか、花魁、おめえが、梅津長門の逃げて行った先を、そっとおれに耳うちしてくれるなら、あれはよく調べたらどうも失火らしゅうござんす、と報告しなおしてやる|慈《じ》|悲《ひ》|心《しん》は、ちゃんと用意しているんだぜ」
皆次は、そう言って、花鳥の顔を覗き込むようにした。
花鳥は、そんなおためごかしのことばを、遠い風のようにきき流して、胸のうちでは、べつの独語を呟いていた。
――わたしは火あぶりで、喜三さんは|打《うち》|首《くび》か……。ふたりをむすびつけた成田さんの御利益が、もともと血なまぐさいんだから、しかたがないやね……。
このおり、板戸が、がらりとひきあけられ、白髪の交った本多髷の、服装も粗末な同心が、顔をのぞけた。
「おい、皆次……。三日月小僧は、ほんとに、日本堤の非人村にかくれていやがるのか?」
「へい、たぶん――」
「やれやれ、厄介なことになったぞ。支配与力の命令でな、|穢《え》|多《た》頭の弾左衛門から|車善七《くるまぜんしち》に申付けて、三日月小僧をしょっぴかせろ、というんだが――」
弾左衛門というのは、関東八カ国の非人支配をまかせられている者であった。車善七は、江戸の|非人頭《ひにんがしら》である。しかし、勢力としては、善七の方が強力であり、弾左衛門とは、犬猿の間柄である。
町方取締が、いちばん手こずるのは非人のあいだに起る闘争であった。その数もおびただしく、闘争は、|残虐《ざんぎゃく》で|執《しつ》|拗《よう》きわまる性質のものであったから、奉行所でも、たいがいの事件は、見て見ぬふりであった。
「まさか、このわしが、命じられようとは思わなかったて――。弱った」
同心は、しかめ|面《つら》で、|頸《くび》すじをたたいた。
「三日月小僧を捕えりゃ、旦那、こんどこそ|目《め》|安《やす》|方《かた》(同心の上役)に御出世ですぜ。召捕方から、証文方におかわりになって、ずっと気楽になるんじゃござんせんか。思いきって、お手入なせえまし」
「相手が非人村じゃ、ぶるぶる、七里けっぱい、たくさんだ。いや、うまくいって、三日月小僧を捕えて、目安方になったところで、たかが十石の加増、丸薬つくりの内職がやめられるわけじゃねえ。……君子、危うきに近寄らずでな、どうだな皆次、お互えに寄る年波だ、若い|威《い》|勢《せい》のいいのにゃかなわねえ、いっそ、十手を売りとばして、共同出資で、湯島に蕎麦屋でもひらくか――」
そうずけずけ言い乍らも、一向に棘立ったひびきをもたない、人の好さそうな、長年の貧乏が、垢くさく身についた老同心だった。
「置いてもらいやしょう」
ぐっと|癇《かん》にさわったらしい鋭い反撥に、同心は、ちょっととまどった表情になり、ちらと花鳥に目をとめた。
「花魁か……美い女だな」
と、|窪《くぼ》んだ目尻に小皺を寄せたが、そのままきびすをかえして去った。
「ふん! 庭場様がいなくなったあと、|土性骨《どしょうぼね》のある野郎は、一人もいねえ。くそ面白くもねえ! あの齢をしやがって、本郷の|大根畑《だいこんばたけ》(淫売窟)にしゃがみこんだり、舟饅頭の尻をなめたりしやがるんだから、世話はねえ。あんな野郎が、町ん中をうろちょろしやがるから、乞食同心|高《こう》|野《や》へのぼれ、なんていわれるんだ」
皆次は、口ぎたなくののしりすてると、どっかと|胡坐《あぐら》をかいて、叫んだ。
「こら、花鳥! 泥を吐かねえつもりなら、ちいっとばかり痛い目を見るが、いいか、覚悟しろっ!」
大名屋敷
ちょうど、この頃――。
三日月小僧庄吉は、どこからどうやって忍び込んだか、赤坂見付の|弁《べん》|慶《けい》|橋《ばし》を渡った奥、紀州邸、尾州邸とならんだ、すなわち紀尾井坂にある井伊邸の、|広《こう》|壮《そう》きわまる奥間の天井裏にひそんでいた。
|市《し》|井《せい》の一盗賊が、大名屋敷にまんまと忍び入るとは、到底、現代の常識では考えられぬであろう。
しかし、それは、まぎれもない事実であったことを、ちょうどその時代――数年前に、浜町の松平宮内少輔邸に入ったところを捕えられ、品川において獄門に処せられた鼠小僧次郎吉が証明している。
その判決文に、
[#ここから2字下げ]
「其方儀十カ年以前、|未年《ひつじどし》(文政六年)以来、処々武家屋敷二十八カ所、度数三十二度、塀を乗越え又は通用門より|紛《まぎ》れ入り、|長局《ながつぼね》奥間等へ忍び入り、錠前をこじあけ、あるいは土蔵の戸を鋸で挽切り、金七百五十一両一分、銭七貫六百文程盗み取り、云々」
[#ここで字下げ終わり]
と、記されてある。
|鼠《そ》|賊《ぞく》の足跡を、大名邸内に印せしめたのは、すなわち、大名の後庭なるものの放漫さかげん、不取締りぶりを暴露したことにほかならない。門や邸の構えは、いかめしくとも、その中は、空虚であった。また、奥間、長局等は、警固の侍も遠慮して立入らぬから、万一女どもに見咎められても、逃げる便宜が多かったのである。
だから、三日月小僧が、鼠小僧に|倣《なら》って、井伊邸に忍び込んだのは、さしたる難事ではなかったと知れよう。
井伊邸は、加藤清正が家康から賜ったもので、千畳敷を有する、けだし江戸最大の豪邸であった。
いま――。
庄吉が、息を殺して、ずらせた天井板の隙間から覗きおろす奥間の一室も、|雁《かり》の間とでも称すのか、数百羽の雁のむれとぶ障屏の|金《こん》|碧《ぺき》が、さんらんとして|眩《まぶ》しく、燭台の灯にうかびあがっていた。|欄《らん》|間《ま》の|巧《こう》|緻《ち》な|彫刻《ちょうこく》も、雁である。黒漆の欄柱には、銀の|芒《すすき》が|鏤《ちりば》めてあった。
床の間の銅炉からくすぶり出る|蘭《らん》|麝《じゃ》の名香が、庄吉の鼻孔までただようてきていた。
と――。
次の間をへだてる襖が、音もなくひきあけられ、すっと入って来たのは、まだ十六七歳の、水もしたたる美しい小姓であった。
だが、小姓の目は、その美しさに似ず、怪しく光っていた。
小姓が、つつつ、とすすみ寄ったのは、西楼棚であった。そこに置かれた青海波漆の|文《ふ》|筐《ばこ》にむかって、小姓の手がのびた。
庄吉は、小姓が、油断なくあたりに気をくばり乍ら、文筐の中から、幾枚かの小判をぬきとるのを目撃した。
――ちょっ! あん畜生、あんな虫も殺さぬつらしやがって、へん、おいらと同様、盗っ人じゃねえか。
と、いまいましげに胸のうちで呟いた庄吉は、そのとたん、ひとりの老女が、羽織った|綸《りん》|子《ず》の|襠《うちかけ》の、金糸銀糸で山水をぬいとった長裾を、さささっとひいて、走り入ってくるのを発見して、ひとごと乍ら、
――いけねえ!
と、舌うちした。もとより、小姓は、蒼白になって立ちすくんだ。
きびしく咎める老女の|形相《ぎょうそう》は、|寸《すん》|毫《ごう》も|容《よう》|赦《しゃ》せぬ気色であった。
――あいつ、打首だぜ。
庄吉は、つい、あわれまずにはいられなかった。
だが――、そのつぎの瞬間に展開された光景は、庄吉を唖然とさせずにはおかなかった。
四十七八とも見てとれる老女の顔は、急にいやらしく崩れると、「このたびだけは見のがしましょうぞえ……。そのかわり」と、ささやくやいなや、小姓の|華《きゃ》|奢《しゃ》なからだを矢庭に抱きすくめた。
老女の皺くちびるは、小姓のあかい口をふさいだのである。
みだら図
――なんてこったい! 大名屋敷だって、おいらの育った|泥溝《ど ぶ》|長《なが》|屋《や》と、ちっともちがってやしねえじゃねえか。小姓は盗ッ人で、奥女中は、色きちがい婆アと来やがらア……。
三日月小僧は、天井から、声のない|嘲罵《ちょうば》を、眼下へなげつけた。
まさか、頭上に|偸《ぬす》み見する者がいようとは夢にも気がつかない老女は、しっかととらえた元服お小姓の眉毛を落し、|鉄漿《おはぐろ》を含んだ薄化粧の美貌を、うっとりと見入って、
「そなたは、わたしが……好きかえ?」
と、尋ねかけた。
「はい白藤さま。……もったいないことではございまするが……お慕い申し上げまする」
と、こたえるか細い声音も、しなやかな身の崩しかたも、まったく女のものであった。
「嘘とわかっても、うれしいぞえ」
老女は、ふたたび、小姓の唇をもとめた。
|執《しつ》|拗《よう》な|抱《ほう》|擁《よう》が、またしばらく、沈黙を呼んだが……その二人の姿態は、天井裏から見おろすと、あられもないというよりは、いっそ|醜悪《しゅうあく》であった。
老女は、口をはなすと、そのまま、小姓をしっかと抱きしめたなりで、
「そなたは、もう……わたしのものじゃ。……誰にもやらぬ」
「…………」
小姓は、老女の厚化粧の頬へ頬をぴったりと押しつけられ、|鬢付油《びんつけあぶら》の匂いをたっぷりかがされる無理な姿勢をがまんしなければならないために、青い眉跡をしかめていたが、ふとひややかな笑を浮べると、ぺろりと赤い舌を出した。
――こいつはいいや、へっ! 空怖ろしい小わっぱだぜ!
と、庄吉は、呆れて、首をふったものだ。
「わたしはの……そなたの美しい顔が、女中どもに、わいわいさわがれているのを、かねてから、いたたまれぬ思いで眺めていたのじゃ。わたしは、そなたが、十三歳で茶小姓にあがった時から、そなたを見るたびに、心のときめくのをどうしようもなかったのじゃ。……わたしは、わるい女よの。そなたにふさわしい若いきれいな女中どもを出し抜いて、こんな皺ぶかいばばの一人占めにして――さぞかしいやであろうの?」
「いいえ、なんでいやなことが――」
「いやでもよい。どんなにいやでも……わたしは、はなしはせぬぞえ。ばばの|執念《しゅうねん》はおそろしいのじゃ。……こうしている時だけでよいから、わたしをよろこばせてたもれ」
「白藤さま。……もう、あちらへまいられませぬと、人が、怪しみはしませぬか」
「なんの。御一同は、幸四郎の|所《しょ》|作《さ》に酔うて、一人二人欠けていることなど、なんで気がつくものぞ」
そういえば、庄吉も、天井裏にひそんだ時から、奥の方から中村座などでききおぼえのある|大《おお》|切《ぎり》の常磐津がひびいてくるのを、ずうっと小耳にはさんでいた。
「それよりも……この月の十七日は東照宮祭ゆえ、わたしは、紅葉山に参詣しようぞ。そなたも、なんとか理由をつけて宿下りを――おお、そうじゃ、十七日は、芝の増上寺の黒本尊の開帳でもあったな。そなたは、そちらへ詣でることにするがよい。……戻りに、こっそり落合って、ゆっくりと|逢《おう》|瀬《せ》をたのしみたい。どうじゃ、いやかえ」
「いや、決して――。ただ、わたしは、昨日とどいた手紙によると、母の重病が気がかりで――貧しい御家人のかなしさに、よいお医者に|診《み》て|頂《いただ》くことが叶わぬと、姉がなげいてまいりましたので、つい、悪心を起した次第でございまする」
「よいよい、心配しやるな。そなたの欲しいだけの金子はとらせるぞえ」
老女は、小姓の白い手をとって、わが胸へ差入れ、白羽二重の上着から太い肢があらわになるのもかまわずに膝をはさもうとのしかかった。
小姓は、老女の肥満したからだをささえきれずに、どうと仰向けに倒れた。
「白藤さま。も、もし、人が――」
「かまわぬ。……たとえ、入って来る者があっても、わたしの召使いだけじゃ」
火のついた|情欲《じょうよく》は、老女を狂おしく身もだえさせた。
小姓の華奢な|肢《し》|体《たい》は、その重みにおしつぶされるかと思われた。
「白藤さま!」
|喘《あえ》ぎ乍ら、小姓は、必死に、しかし無駄な、抵抗ともみえぬ抵抗をしめした。その抵抗が、ますます、老女の情欲を燃えたたせた。
「白藤と呼びすててくりゃれ、白藤と――」
「あ……ああ……」
「さ、呼ぶのじゃ。呼びすてて――」
「白藤……」
「あい……わたしの旦那さま……可愛い……」
この時、不意に――。
「あっはははは……」
と、笑い声が、二人の上へ降った。
|弾《はじ》かれたようにとびはなれるのへ、ひと声するどく、
「|莫《ば》|迦《か》|野《や》|郎《ろう》っ!」
と怒鳴ったのが、どうにも我慢のならなくなった庄吉であったのはいうまでもない。
雪姫恥辱
老女と小姓の抱き合った部屋から五部屋ばかりへだてて、|勾欄《てすり》の廊下で三方かこまれたお茶屋に、ひっそりと坐っているのは、意外、須貝嘉兵衛邸から姿を消した雪姫であった。
地赤の|絹縮《きぬちぢみ》に、金銀の糸と色糸で、けんらんたる波と磯なれ松と小舟の辻模様を縫いとった|上臈《じょうろう》の正装は、まさに、雪姫が、公方の|落《らく》|胤《いん》であることを疑う余地のない高貴な気品の持主にかえさせていた。
雪姫自身は、こうした豪華なくらしを嫌悪して、のぞんで市井の中に身を置き、旗本の中流家庭の娘以下のくらしにあまんじて、その孤独を何人にもかきみだされないことに心を安んじて来たのであったが……。
養家である井伊家へ戻ってみれば、姫君を遇する、一挙手一投足に目のゆきとどいたくらしが待っていた。しかし、その中には、雪姫を|憩《いこ》わせるあたたかさは爪のカケラもなかったのである。
須貝邸では――すくなくとも、雪姫の行動は、屋敷内にあっては、自由気ままであった。どんな衣服をまとっていようが、庭園をいつ散歩しようが、夜ふけまで源氏物語をひもといていようが、拘束する者はなかったのである。
だが、大名屋敷にあっては――。
|故例旧慣《これいきゅうかん》を|尚《たっと》び、新規例外を許さぬ幕府の方針は、いまや、文字通り、箸のあげおろしにまで|滲《しん》|透《とう》していたのである。小笠原流の礼式は、武家の制裁として、まったく行動の自由をしばりつけていた。公私ともに、|座《ざ》|法《ほう》応対寸分律に違ってはならなかった。本門を入れる者、小門しかくぐれない者、敷石の中央を歩める者、敷石の傍を腰をかがめてすすまねばならぬ者、足袋の紐の長ささえも、二寸五分ときめられ、これを五分のばすにも目付衆の許可を仰がなければならなかった。|衣《え》|紋《もん》のみだれは、時に、切腹の非礼となり、鼻紙入を懐に忘れたために閉門になることもあった。
まして、その名の公表をはばかる身であっても、井伊家における雪姫が、目ざめてから就寝するまで、ほんのいっときの自分の時間を持つことをゆるされなかったのは、当然であろう。
髷は、しいたけたぼ[#「しいたけたぼ」に傍点](片はずし)でなければならなかった。客の前では、必ず朝日染のおかいどりをまとわなければならなかった。草履は三枚重ね、ビロード、市松形ときめられ、帯の幅は六寸五分、帯止には必ずお守札をつけること。扇子をつかってはいけない、食事箸は柳の白い丸箸でなければならない。|煙草《たばこ》は二服のみ、|燭台《しょくだい》には、どんなに暗くなっても六つ(六時)でなければあかりをつけない、爪をきるのは辰の日に限る、等々かぞえたてれば、無数にあり、がんじがらめであった。
いま――。
ほっと|溜《ため》|息《いき》をもらした雪姫は、うつろな眸子で、なんとなしに、あたりを見まわした。
柱の下には、大奉書六つ折の上の小香炉から、練香の香りがゆらゆらと匂い出していた。三幅の掛物、梨子地御紋付の机、緋どんすの座蒲団、|黒《くろ》|塗《ぬり》|蒔《まき》|絵《え》の鉢、桐の|糸《いと》|柾《まさ》の装束箱にたたまれた大紋|綸《りん》|子《ず》のおかいどり……すべて、みごとな調度品が、しんとして、雪姫をとりまいていた。
須貝邸の一室とくらべれば、雲泥のへだたりがある。が、――雪姫には、この立派な居間の方が、牢獄のように思われた。
――のがれ出たい!
このねがいは、戻って来たその日にもう雪姫をいらだたせたのであった。
このお茶室に座して十数日がすぎたが、雪姫の心の奥に灼きつけられたひとつの映像は、濃くなりこそすれ、うすれはしなかった。それゆえに、のがれ出たい焦燥は、時に、火のごとく烈しく起った。
あの日、あの時、あの宗十郎頭巾の男の姿が、一生、自分の心に刻みついてはなれぬであろう、と直感したのは、まちがいではなかったのである。
「姫さま」
廊下から、召使の呼ぶ声に、雪姫は、われにかえった。
「評定所|留《とめ》|役《やく》御目付|小《お》|俣《また》堂十郎さまがお見えになりました」
雪姫は、かすかに眉をひそめた。
評定所留役御目付といえば、当時、大名旗本から百姓町人にいたるあらゆる階級の人々から怖れられた存在であった。寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三者と別個に独立して、千石以上の旗本のうち、最も|器量《きりょう》秀れた人物が選ばれて、若年寄直属の絶対的な権力をふるい得る役柄であった。諸国へはなたれる隠密は、この御目付から命じられた御小人目付であった。
御目付は、文字通り|滅《めっ》|私《し》の生活であった。交際さえも、兄弟親子にかぎられていた。いかなる宴席へも出ることはできず、自分の行動は一切他言を禁じられた。だから、よほど意志のつよい、非情な性格の武士でなければならなかった。
「御免――」
と、声をかけて、|襖《ふすま》をひらいて、すっと入って来た小俣堂十郎は、御目付二十名のうちでも、最も、諸大名から|忌《き》|避《ひ》されている男であった。
一見、平凡な目だたない風貌で、小柄であったし、物腰も柔かく、声音も穏かであったので……内に隠された底知れぬ不気味なものを容易に見透す者は殆ど稀れであり、その意味でも、彼は、御目付として最適任者であった。
堂十郎は、|丁重《ていちょう》な一礼をしたのち、いかにもさりげない調子できり出した。
「姫さまは、須貝の屋敷に、幾年ほど御滞在でございましたか?」
雪姫は、それはむしろそちらの方がおくわしかろう、と皮肉をなげてやりたかったが、訪問の意図が分らぬ不安さで、素直に、
「二年と……四月でありました」
と、こたえた。
「その間、姫さまの、まことの|素姓《すじょう》を知っていたのは?」
「だれも居りませぬ」
「その筈でしたな。須貝嘉兵衛も、また梅津長門に殺された室戸兵馬も、あなたさまが、何処かの外様大名の御息女だぐらいにしか思っていなかった筈でございましたな」
梅津長門という名が出るや、雪姫の胸は、ひそかにおののいた。
堂十郎のおもてには、ほのかな微笑が、絶えずただようていた。
雪姫は、自分の素姓を秘すことを、|公《こう》|儀《ぎ》からかたく誓約させられていた。そのかわり、養家の井伊邸から、町中へ出て住むことをゆるされていたのである。
「ところで、あなたさまは、評定所の門前に|訴状入《そじょういれ》の箱がそなえつけてあるのをごぞんじですか?」
「ぞんじませぬ」
かぶりをふりつつ、雪姫は、|遽《にわか》に烈しく|動《どう》|悸《き》をうちはじめた胸のうちを、相手にさとられはしまいかとおそれた。
「|箱《はこ》|訴《そ》と申しましてな、何人が訴状をなげ入れてもよいことになって居ります」
そう言って、ふと口をつぐんだ堂十郎は、あきらかに必死の力がこめられた雪姫の膝の白い手へ、なにげない視線をくれた。
「一咋日、なげ入れてあった一通の訴状に、意外なことがしたためてございました。……あなたさまが、ご自分の素姓を、梅津長門におうちあけあそばされた、というのです」
「そ、それは――」
「たわけたことを、といったんは、笑いすてましたが……」
依然として穏かな微笑を浮べたままで、堂十郎は、雪姫を正視していた。
「あなたさまが、まさか、そんなかるはずみなふるまいをなさろうとは、考えられませぬ。が……役目上、お伺い申上げなければなりませぬ。梅津長門は、室戸兵馬を斬りすてたあとで、あなたさまのお部屋へふみ込みましたか?」
と、じわりと矛先をつきつけた。
雪姫は、|惑《わく》|乱《らん》した。
あの夜明け、梅津長門にむかって、「わたしは|公《く》|方《ぼう》の娘です」と言った折、たしかに、傍できいた者は、誰一人いなかった筈だ。いないと知ったからこそ、名のったのだ。では、梅津長門自身が、そんな訴状をなげ入れたのであろうか? 信じられないことだった。だが、梅津以外に、誰が、そんな訴状の書き手があろう?
堂十郎は、かくすすべもなく顔色をかえた雪姫の苦悶の様子を見まもると、もはや遠回しの策をとる必要もないとさとったのであろう。
「あなたさまが、梅津長門に、おうちあけになったのを、ぬすみぎきして居りましたのは、室戸兵馬につかえていた小者でございました」
と、ずばりと言ってのけた。
雪姫は、あっとなった。
「訴状をしたためたのは、勿論、その小者でした。……小者の言をそのまま信用いたすわけにはまいりませぬが、しかし――」
「わかりました」
雪姫は、|咄《とっ》|嗟《さ》に、きびしい覚悟をきめる自分に、いっそかすかな快感さえおぼえつつ、相手のことばをさえぎると、
「わたしを、裁いて下さい」
「いや、姫さま、早合点をあそばさぬように――」
堂十郎は、あかるい笑顔で、手をあげると、
「梅津長門が、姫さまの素姓を知って居るならば、町奉行所で捕えるのは、甚だまずい、ということなのです。捕えられた時、どんな莫迦なことを口走るかも知れませぬゆえ――」
雪姫にも、堂十郎の言おうとする意味がわかった。
「では、あのさむらいを、あなたは、|隠《おん》|密《みつ》の手で、暗殺しようというのですか?」
「姫さま!」
ここで、はじめて、堂十郎は、ほんのわずかな身じろぎによって、|粛然《しゅくぜん》たる威儀をととのえた。
「梅津長門という人物には、お会いにならなかった……と、きれいさっぱりとお忘れになることです。……主の娘を|犯《おか》した家来が、手討ちになるのは、当然のむくいであります。白洲の裁きにかけるまでもありませぬ」
恥辱のためにまっ赤になった雪姫を、ひややかに見ながして、堂十郎は、しずかに立ちあがっていた。
湯殿
それから、いっとき後――。
三日月小僧は、跫音を消して、影法師さながらに、すっすっと、くらい長廊下をすべって行き、とある曲り角で、むこうから人声がきこえてくるや、右手の杉戸を音もなくひらいて、身をかくした。
ぷん、とあたたかな湯の香をかいだ庄吉は、――おや、と奥をすかして見た。
そこは、|高《こう》|麗《らい》|縁《べり》の八畳敷で、|玻《は》|璃《り》|戸《ど》のむこうが、ほの白くけぶっていた。
――湯殿か、ここは……えらいところへもぐり込んじゃったぜ。
自分に弁解するように呟いた庄吉は、そっと、戸へ顔を近よせた。
湯気のこめた板敷は、ずいぶんひろいものであった。大名の屋敷の湯殿は、浴槽の下を|焚《た》いて湯を|沸《わか》すのではなかった。湯と水を、大きな|玄《げん》|蕃《ば》(桶)ではこんで、加減をととのえるのであった。だから、湯殿のつくりはずいぶん凝って居り|欅板《けやきいた》の浴槽は板敷の上へすえつけてあった。庄吉は、覗いた途端、思わず、ごくと|生《なま》|唾《つば》をのんだ。
若い女が、浴槽から、すっと立ったからである。白い|柔《やわ》|肌《はだ》から水滴がしたたり散じ、玉を展べた、という形容そのままの、まぶしいばかりの裸形であった。
それは、雪姫であった。
入浴も、彼女の意志ではなかった。さだめられた日課であった。
苦悩をつつんだ裸形の|物《もの》|倦《う》げな所作は、何も知らぬ庄吉の目にも、一種妖しい気配をもったものに映じた。
板敷に横坐りになった雪姫は、|竹《たけ》|籠《かご》の手桶にのせられた白い|真岡《もうか》の|糠袋《ぬかぶくろ》をとろうともせず、ただ、うなだれて、浴槽の一個所へ、哀しげな|眼《まな》|眸《ざし》をあげたなり、ぐったりと微動もしなかった。
――すげえべっぴんじゃねえか!
庄吉は、心がわくわくした。
そのなめらかな|肌膚《は だ》は、|凝脂《ぎょうし》さながらに、ふくいくとして香気をはなっているようだった。肉の|盈《み》ちた両の素腕に抱かれるようにしてのぞいている胸のふたつの隆起は、かすかな紅をふくんで、朝霞に映じた桃顆とも思われた。肩から腹、そして腰から太腿へかけての、なだらかな円みをえがいた曲線は、初雪に掩われた丘陵のように、美しく滑らかな眺めであった。
――生娘だぜ!
庄吉は、ひとかどの|蕩《とう》|児《じ》のように、自分に言いきかせてみた。
たしかに……その白い艶やかな裸形は、羞恥に息づかいつつ、なまめかしい緋の下着につつまれてすごした二十年間、ただの一度も、異性の目にさらされたことのない清浄な美しさをたたえていたのである。
十八歳の庄吉も、その尊さが、本能的に直感されたのであった。
梅津長門に傷つけられた|悪《あく》|魔《ま》の|爪《つめ》|跡《あと》は、その肉体にはみじんもとどめず、その心の中でだけなまなましく、血を噴かせていたのである。
|化《け》|身《しん》再会
「いけねえ!」
背後の杉戸の|軋《きし》る音に、庄吉は、|玻《は》|璃《り》|戸《ど》から、ぱっととび退くと、|咄《とっ》|嗟《さ》に、片隅の|衝立障子《ついたてしょうじ》の陰へ、身をひそめた。
そこは黒塗御紋付の|剃刀《かみそり》箱やら、髪洗い|盥《たらい》やら、糸瓜の水や花の露(白粉の名)やフロヤ紙や|紅《べに》|猪《ちょ》|口《く》などを置いた鏡台が、整然と用意された場所であった。
庄吉は、鏡台に映るおのれの顔をふりかえって、ぺろっと舌を出してみた。
湯殿に入って来たのは、侍女であった。
「姫さま」
玻璃戸越しに、侍女は、雪姫へ呼びかけた。
「お召換えを持参いたしました」
それに、|返《へん》|辞《じ》はなかった。
「あの……お流しいたしましょうか?」
「いえ、さがってよい」
「はい」
侍女が、去ってから、玻璃戸がしずかに開けられたのは、かなりの後のことであった。
湯の香が、いっそうつよく、庄吉の鼻孔をおそった。
自分と|咫《し》|尺《せき》の間に、全裸の美女が立っていることは、十八歳の少年にとって、名状しがたい誘惑であった。
――こん畜生ッ!
庄吉は胸で呻いて、力いっぱい、われとわが|太《ふと》|腿《もも》をつねりあげて、その誘惑をしりぞけなければならなかった。
かすかな衣ずれの音がおわった時、庄吉は、額の汗を、手の甲でぬぐった。
だが、その安堵は、一瞬であった。
衝立障子にむかって、相手が近づく気配に、庄吉は、あっとうろたえ、さらに鏡台のうしろへ身をかくそうとした途端、かさねられた髪洗い盥に、蹴つまずいた。
がらがらっと崩れる音は、庄吉にとって、目前に落下する雷鳴よりもさらに高いものにひびいた。
むこうの相手も、ぴたりと静止し、そのまま|固《かた》|唾《ず》をのんだようである。この時もし悲鳴をあげられていたら、庄吉の身は、どうなっていたかわからぬ。
庄吉も、また、息を殺して、ふところの|匕首《あいくち》へ手をかけていた。
異常な沈黙が、しばらく、つづいた。
この沈黙を、さきにやぶったのは、雪姫の方であった。
「何者じゃ?」
それは、あたりをはばかるひくい声音で問われた。
「わたくしを刺そうとねらう者か?」
雪姫の脳裏には、咄嗟に、自分を暗殺すべく、御目付小俣堂十郎からいいふくめられた刺客が、想像されたのであった。
「出てまいるがよい。とがめませぬ」
自分の運命をあきらめた静かな口調であった。それにつられて、庄吉は、腰をあげた。
勿論、いざという場合はおどりかかる殺意を四|肢《し》にこめて、庄吉は、ぬっと、衝立障子から、黒ずくめの姿をあらわしたのであった。
雪姫は、武士のかわりに、あまりに意外の者の出現に、澄んだ眸子を大きくひらいて、思わず身をひいた。
だが、同時に、庄吉の口からも、抑えきれぬはげしいおどろきの声がもれた。
庄吉は、この|臈《ろう》たけた妖しい美しさを、一度見かけた記憶があるのだ。
須貝嘉兵衛邸から、傷ついた喜三郎を肩にして逃げ出そうとした時、突然、飾井戸のそばの梅軒門から、|友《ゆう》|禅《ぜん》|染《ぞめ》の|被衣《かつぎ》をかぶって、あらわれた美女は、まさしく、この姫君ではないか。
あのおりは――。
逆上した庄吉は、狐の化身と疑い、目を据えて見さだめる余裕もなかったのだが……。
いま、まじまじと、四つの瞳を合せたなり、動きのとれなくなった二人の間には、あのおり以上の奇妙な雰囲気が流れた。
たじろぐのは、こんどは、雪姫の番であった。
庄吉は、ごくっと生唾をのみ下し、
「化かされているのか、おいらは――」
と、口走った。
信じられない事実に対した庄吉の|稚《おさな》い理性は、あくまで、相手を化身と断定するよりほかはなかった。
しかし、そう断定しつつも、庄吉は、相手のかがやく気品に圧倒され、なんともいい様のないはげしい困惑をおぼえずにはいられなかった。
一方、雪姫が、すぐさま、この男を、須貝邸で出会った賊の一人と見わけられなかったのは、豆しぼりで顔をかくしていたからである。
「そなたは……わたしを殺そうとする者ではないのですか?」
「とんでもねえ――」
庄吉は、|匕首《あいくち》から手をはなした。
想う人
それは、まったく微妙な変化であった。
二人の間を流れていた奇妙な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が、ふっと、なごんだのである。
「狐じゃねえのか? おめえさん、ほんとに、ここのお姫さまなのか?」
庄吉が、そう|尋《たず》ねたのも、敵意の去った証拠であった。
「狐?」
雪姫は、訝しげに小首をかしげた。
「おいら、おめえさんに、この前、会ったじゃねえか」
庄吉は、急に気楽そうに言った。というのも、あのおり、このお姫さまが、
「梅津長門殿に、早く、身をかくすようにつたえて欲しい」
と、忠告してくれたのを、思い出したからである。
「わたくしが、そなたに会った?」
「そうよ」
庄吉は、頬かむりを解いた。
「おお……」
雪姫の目が、ぱっとかがやいた。
「そなたは、あのおりの――」
「へい。三日月小僧庄吉でさア。と名乗ったからにゃ、おめえさんが、狐でねえ|証拠《しょうこ》を見せてもらいてえや」
雪姫は、微笑した。庄吉のあかるい美貌は、こうした場合、相手を安心させるのに役立った。
「わたくしは、あの朝、あそこを出て、この井伊家へもどりました」
「わからねえ、さっぱり――。お姫さまのくせに、なんであんなお化屋敷に住んでいたんだか――」
「そういうそなたは、どうして、この屋敷へ忍び入りました?」
と尋ねた雪姫は、この時、廊下を行きすぎる跫音がきこえると、すっと杉戸に身を寄せた。
そっと細目にひらいて、|薄《うす》|暗《ぐら》く続く廊下の様子をうかがった雪姫は、振りかえって、庄吉に、ついてくるように目くばせした。
湯殿から、雪姫の居間まで、決して近い距離ではなかった。
しかし、雪姫は、大胆であった。
見とがめられたならば、
「これは、|伊《い》|賀《が》|者《もの》です」
とこたえる用意があったからである。伊賀者ならば、誰も顔を見知らぬし、変装していることも当然であった。
また、公方の娘たる雪姫の身辺を、伊賀者が護衛していたとてふしぎはない。井伊の当主か、支配の江戸家老か、小俣堂十郎でもなければ、これに疑惑を抱く者はあるまい。
そうとは知らぬ庄吉は、文字通り、一歩一歩が、虎の尾をまたぐ心地であった。
雪姫は、すでに|緋《ひ》|緞《どん》|子《す》の夜具の敷かれた寝所に、庄吉をみちびくと、念のために、障子の際の|有《あり》|明《あけ》の灯を消し、|網《あみ》|行《あん》|燈《どん》のほのぐらいあかりひとつにすると、
「そこへ――」
と、|縁《ふち》が金襴の|絹縮《きぬちぢみ》の座蒲団へ、庄吉を招いた。
庄吉は、とても、こんなごうせいな品へのっかる気持にはなれず、片隅へ神妙にかしこまってしまった。
ほんのりと白く浮き出た雪姫の浴衣姿が、庄吉には、観音菩薩のように神々しいものに思われた。
湯殿で覗いた裸形が、この姫さまであると思うだけでも、ひどい罪を犯したような恐縮ぶりであった。
寝所のつめたく|冴《さ》えた空気と、雪姫にそなわる高貴な|威《い》|厳《げん》との|融《ゆう》|合《ごう》が、感じ易い庄吉の心を、すっかり圧迫してしまったのである。
「なんの目的で、忍び入りました?」
あらためて、雪姫が、尋ねた。
「ただの盗みが目的ですか?」
「い、いえ、そうじゃねえんで――」
庄吉は、顔をあげて、ちらっと雪姫を|一《いち》|瞥《べつ》してから、すぐまぶしそうに目を伏せると、
「たしか、このお屋敷に……おいらのおやじを殺したさむらいが、お預けになったとききましたんで――」
「誰です?」
「おめえさ――いや、お姫さまが、おいでになったあの家のさむらいなんで――」
「須貝嘉兵衛が、そなたの父を殺したというのですか?」
「へい」
「仇を討つ積りで忍び入ったのですね?」
「そうなんです。お姫さま、あのさむらいは、この屋敷に、おりやすか?」
「おります」
雪姫は、あまりにも身の程を知らぬ|無《む》|謀《ぼう》な少年を、なかばあきれ、なかば感動しつつ、じっと見まもった。
「お姫さま。……あいつの寝ているところを教えちゃもらえませんか?」
庄吉の|双《そう》|眸《ぼう》が、きらっと光った。
「そなたは、自分一人の力で、仇が討てると思っているのですか?」
「やってみねえことにゃ……こっちも死ぬ気でやりゃア――」
「むだなことだと思います。須貝嘉兵衛は、そなたなどの歯の立つ相手ではありませぬ。|旗《はた》|本《もと》|屈《くっ》|指《し》の達人です」
雪姫は、ひややかにこたえた。
「し、しかし、おいらは――」
「返り討ちにされることがわかっていながら、ふみ込むのは、おろかです。そなたが、もし、助太刀を――」
と、言いかけて、ふいに、雪姫の胸が、熱くなった。
助太刀を――あの|絶妙《ぜつみょう》の剣の使い手、梅津長門に――と、雪姫は言おうとしたのである。
「だめか。やっぱり、おいら一人じゃ……」
庄吉は、くやしげに、親爪を噛んだ。
雪姫は、速くなる鼓動をかぞえているうちに、一種の|陶《とう》|酔《すい》が、からだのすみずみにまでしみわたるのを感じた。
「それじゃ、お姫さま――須貝嘉兵衛は、梅津長門の旦那よりも、強いんですか?」
雪姫はこたえなかった。しかし、心の中では、
――あのお方なら、きっと、斬り伏せるに相違ない。
と、呟いた。
「梅津の旦那ならおいら、大丈夫やっつけると思うんだ」
庄吉の独語が、自分の呟きと同じであるのをきいた瞬間、雪姫は、われを忘れた。
「長門殿は、どこにいます?」
「旦那は、奉行所に追われているんです」
「知っております。そなたは、かくれ家を知りませぬか?」
「いまは知らねえけど……会おうと思えば――」
「わたくしを会わせてくれませぬか?」
この声の必死さに、庄吉は、いささかあっけにとられて、雪姫を見かえした。
「だって――あなたさまは、このお屋敷に――」
「いいえ! わたくしは、もう、こんなところに一日も、一刻も、いたくはないのです!」
須貝嘉兵衛
この時刻――。
雪姫たちの住む本屋から遠くはなれ、御金蔵と|蓮《はす》|池《いけ》にはさまれた小人小屋の一室で、庄吉がねらう仇敵須貝嘉兵衛は、冷酒を飲みつづけていた。
四十がらみの、顴骨の異常に突出た、|鷲《わし》|鼻《ばな》の男である。窪んだ眼窩の奥の黒瞳が、にぶくにごっているのと、口もとが絶えず、ぴくっぴくっとひきつれているのは、おそらく酒のせいであろう。四六時、酒がなくては生きられぬ男であった。
この小屋に、身柄をお預けになって、禁足の一月がすぎている。夜半の無断脱出は、大目に見られているのだが、一度も禁を破らないのは、酒の給与が切れたことがないからであった。
|漆《うるし》のような黒い髯が顔の半面を掩っている。はだけた胸にも、毛がむらがっている。肩幅の広さ、腕の逞しさ、――すべてが、この柔弱の時代にふさわしくなかった。一刀をもって家名を興す世にめぐまれない不満が、酒に|惑《わく》|溺《でき》するのを余儀なくさせたとも受取れた。
嘉兵衛は、ふたつめの|朱《しゅ》|塗《ぬ》りの角樽が空になるや、ふっと息を吐いて背をのばすと、ごろりと仰向けに倒れた。
その刹那――。
書院窓をつき破って、一本の槍が、嘉兵衛の首めがけて、ひょうっとくり出された。
嘉兵衛が、それをどう避けたか、次の瞬間、彼は、ぐさっと槍が突き立った角樽の手掛けを掴んで、ぴたりと正座していた。
それと同時に、一方の障子戸が、さっと開けられ、抜刀した覆面の者が、二人、手練の腕前と一瞥で知れる構えでつめ寄って来た。嘉兵衛は、もうこの時、床の間の|刀架《かたなか》けにあった自身の大小がいつのまにか消えうせていることに気がついていた。
前から計画されていた|襲撃《しゅうげき》である。
しかし、嘉兵衛は、無言ですっくと立つと、こんにゃく豆腐のちらばった田楽筥を、ぱっと蹴とばしておいて、じりっとしりぞくと床柱を背にした。
「やあっ!」
一人が、青眼につけて、すさまじい気合をほとばしらせた。もう一人は、下段で迫って来た。
ともに、嘉兵衛の|秀《すぐ》れた力を知って、隙の生ずるのを待つ型であった。
嘉兵衛は、両手をだらりと垂らしたまま、微動もしなかった。影さながらの構えは、無手にも拘らず、敵にとっては、おそろしい殺気をふくんでいた。
一瞬の差によって、刀を奪われるおそれを、二人とも感じた。
「やあっ!」
もう一度、一人が、|掛《かけ》|声《ごえ》をはなつと、青眼を上段にかえた。
次の瞬間、
「おおっ!」
と白刃の圧力をはねかえすような嘉兵衛の声がはなたれたと思うや、その足が、大きく一歩ふみ出された。
「ええいっ!」
誘いに乗った一刀が、ゆらめく行燈の灯をきって、白く|円《えん》|弧《こ》を描いて、嘉兵衛の頭上へ落ちた。その円弧の下をかいくぐった嘉兵衛の五体は、下段にかまえた右側の敵の手もとにとびこんでいた。
一足ひいて、一|閃《せん》、下から|宙《ちゅう》へひらめかせた刀は、わずかに、嘉兵衛の|小《こ》|鬢《びん》をかすめただけであった。
嘉兵衛の右の拳が、宙に躍り、敵は、呻きとともに、のけぞった。そして、その刹那、刀は、嘉兵衛の左手にあった。
「とうっ!」
正面の敵が、もはや一撃で討つよりほかはない捨身の戦法をとって、斬りこんで来た。
身をひねった嘉兵衛は、その必殺の剣を、すくいあげるように、ばあんと、はねとばした。刀は、敵の手をはなれて、天井へとんで、ぐさっと突き立った。形勢は、逆転した。
敵二人が無手になり、嘉兵衛は刀を持った。はじめて、嘉兵衛の片頬に、不気味の微笑が、にたりと刷かれた。突然、
「待て! 勝負あった!」
と、廊下から、鋭い声がかかった。
入って来たのは、小俣堂十郎であった。
「見事! 酒は、貴公の腕を、|聊《いささ》かもにぶらせてはいないようだ」
と笑いかける堂十郎へ、嘉兵衛は、まだ殺気をこめた眼光をすえて、
「拙者を、ためしたその理由をきこう」
「まア、坐ってもらおうか」
堂十郎が、坐ると、覆面の者たちは、一礼して、音もなく外へ去った。
一人の若侍が、嘉兵衛の大小を持って入ってくると床の間の刀架けへもどし、「ご無礼いたしました」と詫びて出て行った。
「貴公をためしたのは……ある男を斬ってもらいたいからじゃ」
「|大仰《おおぎょう》な――」
「いや、おそるべき使い手なのだ。貴公でなければ斬れぬ、|小《こ》|普《ぶ》|請《しん》|組《ぐみ》、梅津長門――貴公は知らぬか?」
「きいたことはある。会ったことはない」
「梅津は、貴公の代りに雪姫の目付役となった室戸兵馬を斬って、奉行所手配となったのだ」
「では――奉行所にまかせればいい。拙者が斬るまでもなかろう」
「いや、それが……梅津を捕縛することは避けねばならぬ理由があるのだ。斬るよりほかはないのだ」
「何故?」
「梅津は、雪姫を|犯《おか》したのだ」
「なにっ?」
嘉兵衛は、かっと目をむいた。彼の生涯にあってこれ程の衝撃はなかったであろう。
嘉兵衛は、雪姫の目付料として、かなり多額の金をもらっていたが、それをことごとく飲みはたし、それ故にお役御免になったのだが、しかし、雪姫は彼にとって|偶《ぐう》|像《ぞう》であった。
雪姫が、召使いもいらぬし、行動も自由でありたいとのぞむと、嘉兵衛は、彼女の身辺には、自分をもふくめて、何者も一切近づけないで来た。二年間に、顔を合せたのは、ほんのかぞえるくらいである。
それでいて、嘉兵衛は、片時も、雪姫を忘れたことはなかった。他人には説明しようのない|異《い》|質《しつ》の|憧憬《あこがれ》であり愛情であった。
雪姫の目付役として、嘉兵衛ほどふさわしい人物はなかった。
|拝領《はいりょう》屋敷を|荒《こう》|廃《はい》させ、雪姫に御家人の娘なみの貧乏ぐらしをさせたのは、酒の罪であり、雪姫自身にとってはすこしも迷惑なことではなかったのだ。
この世で唯一の偶像を犯されたときかされた嘉兵衛が、そいつを八ツ裂きにしても足りない凄まじい憤怒を|湧《わ》きあがらせたのはあまりにも当然である。
「よし! おれが斬る!」
立役者
夜ふけて、井伊家の裏門から二十余名の群がぞろぞろとしのび出た。
今夜、井伊侯にまねかれた堺町の中村座の一行であった。
道を照らす提灯に、四つ|花《はな》|菱《びし》の紋どころが浮いているところを見ると、|頭《かしら》は、五代目松本幸四郎に相違ない。
先頭の駕籠にゆられているのが、その人であろう。駕籠にも、四つ花菱の紋がうってあった。
当時、四つ花菱の紋どころは、屋敷方にも町方にも、|風《ふう》|靡《び》していた。世に鼻高幸四郎といわれたこの役者は、高麗蔵といったはじめよりすでに江戸中の贔屓を身に負うていた。
|濡《ぬれ》|事《ごと》に身を起したが、のちには立役、|実《じつ》|悪《あく》を兼ねて、また世話物に巧みで、江戸趣味の技とよろこばれ、底知れぬ芸の持主と見られていた。|先《せん》|代《だい》|萩《はぎ》の仁木、千本桜の権太の如きは、今につたえて典型とされている。
こうした一代の人気を背負う幸四郎は、当然のことながら、諸大名はじめ富豪の|擁《よう》|護《ご》をうけて、すごい|栄《えい》|耀《よう》をきわめたくらしぶりであった。河原乞食と卑しめられ乍らも、王侯貴人にひとしい驕奢贅沢さであった。
水野越前の天保改革の前のこととて、幸四郎ともなれば、米一石一両の世に、一カ年の雑費三千両の生活であった。
しかも、今が得意の絶頂――。
駕籠にゆられ乍ら、幸四郎は井伊侯が、自ら立って来て、
「つまらぬ品じゃが――」
と、与えてくれた|珊《さん》|瑚《ご》|珠《じゅ》|根《ね》|付《つけ》の|緒《お》|締《じめ》付けた高蒔絵の|印《いん》|籠《ろう》を、膝に置いていた。
坂をくだって、堀ばたへ出たおりであった。
この駕籠わきに、跫音もなく――いや、その影さえも、ふっと地から湧きでたごとく、すっとしのび寄った者があった。
うしろにしたがっていた一人の役者が、あっとなって声をたてようとすると、
「しっ! さわぎゃがるな! これだぞ!」
と、おし殺した声音でおどしつけて、短刀をきらっときらめかせると、駕籠へぴたりとつきつけてみせた。
さわげば、中の幸四郎を、ひと刺しにする殺意は、くらがりを透して、前後の者へ、ぴりりっとつたわった。
あいにく、ほかの連中は、七八間おくれてひとかたまりとなって、まだこのことにすこしも気がつかない。
「|駕《か》|籠《ご》|屋《や》、いままで通りの足ぶみでかついで行け。立停まると、てめえから、ぐっさりゆくぜ」
「へ、へい」
怪漢は、自分を有利な状態においてから、さて静かに、駕籠の中へ、ひくく呼びかけた。
「おい、大夫、おめえさん、松本幸四郎だろう――」
「…………」
「返辞が、なくても、おいら、そう睨んだぜ。おめえさんが、井伊の千畳敷のどまん中で、幡随院の見栄をきっているところをおいらは、天井裏から見物してたんだぜ。といえば、おいらが、盗っ人であることを白状したことになる」
「…………」
「おめえさんが、天下の松本幸四郎と睨んだから、おいらも、ざっくばらんにぶちまけるぜ。おいら三日月小僧庄吉という島渡りのお尋ね者よ。お笑い|種《ぐさ》に父親の仇討やらかそうと決心して、今夜、井伊の屋敷へ忍び込んだが、|敵《かたき》のかわりに、天人みてえな娘をひろったと思いねえ」
「…………」
「お姫さまよ、雪姫とおっしゃるんだ。おかわいそうに、おめえさんの芸も見物出来ねえ日かげ者さ。そのお姫さまに、おいらが、ぱったりぶっつかったが|因《いん》|縁《ねん》だ。屋敷をぬけ出たいから、手びきをしてくれろとたのまれた」
庄吉は、すばやく、前後へ、鋭い目をくばった。自分の有利に変化はない。おくれた一団は、黒くぼやけて大声あげなければとどくまい。
「お姫さまは、おいらのようなはした|奴《やっこ》に秘密の事情をうちあけては下さらなかったが、忍び込んだ盗っ人を、信用するとおっしゃったんだ。江戸っ子なら、引受けざあなるめえじゃねえか」
「ちょっと、お待ち下さい」
駕籠の中から、はじめて、落着きはらった声が発しられた。
「あなたは、たしか、三日月小僧庄吉と仰言いましたな」
「云ったぜ、それが、気にくわねえか?」
「いえ気に入りました」
「なんだと? からかうつもりか?」
「とんでもない。私は、近頃、風流軒貞宝さんと親しくお近づきねがって居る者でございますよ。……庄吉さんが、旗本のご大身を仇討とうとなさっていらっしゃることは、きいて居りました。江戸っ子の心意気を――この私が買うのは、春に桜が咲き、秋に月が|冴《さ》えるのと同じ、あたりまえのことと申上げましょうか」
「じゃ、大夫は――」
「お姫さまは、私どもの一行に、まぎれ込まれたと仰言いますので?」
「なに……うしろで、かついでいる芝居の衣装を入れた長持の底へ、こっそりかくしてあるんだ」
それをきくや、幸四郎は、
「駕籠をとめなさい」
と命じた。
深夜の誓い
駕籠から出で立った幸四郎は、提灯の赤い明りを横顔にあびて|彳《たたず》む庄吉を、じっと見てから、
「姫さまを、われらの衣装長持へおかくしなさったのは、お手柄でございましたな」
と、微笑した。
|稀《き》|代《だい》の|秀麗《しゅうれい》な|風《ふう》|貌《ぼう》に、庄吉は、思わず、身をひきしめ乍ら、
「ご迷惑をかけて、面目ねえ」
と、ぺこりと頭を下げた。
幸四郎は、幸四郎で、内心庄吉の美貌におどろいていた。当今の花形女形――菊之丞も半四郎も、とうていおよばぬ、と見てとった。
――惜しいものだ。鏡山のお初、助六の|揚《あげ》|巻《まき》、白井権八……この若者の顔こそ、うってつけ、ああ、盗っ人にしておくのはほんとに惜しい!
そこへ、うしろの一行が、ようやく近づいて来た。
手をあげて一行の出足をとどめた幸四郎は、
「皆に、ひと言たのんでおく。私が、これからみせる手品を他言するのは無用。もし、|喋《しゃべ》った者があったら、この幸四郎の首がとぶと心得ておいてもらいたい」
舞台できたえた張りのあるさび声は、威厳があって鋭かった。
ひくいざわめきが、小波のように流れてまたひそとしずまると、幸四郎は、
「長持をこれへ――」
と命じた。
幸四郎が、この深夜の淋しい暗い路上でいったい、何をしでかそうというのか――事情を知らぬ一行は、|固《かた》|唾《ず》をのんだ。
ひきすえられた長持の前に立って、幸四郎は、庄吉に、
「庄吉さん、私が、蓋をあけます以上、責任は私が負うつもりでございます。その前に、ひとつだけお尋ねしたいことがございます」
「おいらにわかっていることなら――」
「おひそみになっていらっしゃるお姫さまは、井伊さまのお屋敷からお逃げなされてどこへお行きになります?」
庄吉は、ちょっとこたえなかったが、思いきって、
「お会いになりたい方があるんだ」
「お会いになりたい方――」
幸四郎は、|鸚《おう》|鵡《む》がえしにした。
「千両役者なら、そう云えば……意味はわかるだろうぜ」
庄吉は、いっぱしの|遊冶郎《や く ざ》のようなふくみ笑いをもらした。
「いかにも――わかりました」
幸四郎は、蓋をひらいた。
「姫さま。お出ましなせえやし。おいらが大夫に話をつけました」
庄吉が、覗いて、ささやいた。
|提灯《ちょうちん》は、|遠《えん》|慮《りょ》して、遠ざけられた。
衣装をはねて、静かに起き上った雪姫は夜目にも白い顔をあげて、
「御恩は忘れませぬ、大夫」
と、云って、まっすぐに、幸四郎を|瞶《みつ》めた。
べつに頭をさげようともせぬ|鷹《おう》|揚《よう》な|挙《きょ》|措《そ》から、一瞬の呼吸に技の妙を表現する千両役者が、なみなみならぬけだかさをくみとらぬ筈はなかった。
幸四郎は、ぴたりと、地べたへ膝をついて、ふかく面を伏せた。一同もまた、それにならった。
雪姫は、そのあいだに、庄吉の手をかりて、外へ出た。
「松本幸四郎、|性根《しょうね》のございますかぎり、今夜のことは、断じて他言つかまつりませぬ。皆の者にも、そう申しつけてございます故、何卒御休心あそばします様――」
「お礼をいいます。……庄吉とそなたたちのおかげで、わたしは、自分の道をあゆむことができます」
「姫さま、私めは、|卑《いや》しい|河《か》|原《わら》|乞《こ》|食《じき》の身分ではございますが……いえ、そうでございますからこそ、おそれ乍ら、姫さまのおかくごが、胸にこたえました。……この幸四郎の力を欲しいとおぼしめされた時は、いつなりとお申しつけ下されませ」
「有難う、大夫。……武家の世界では、そのような志が、絶えました。だから、わたしは、こうして、町へ出てきたのです。……裏店のおかみさんになったら、そなたの舞台を見物するのを、唯一のたのしみにしようと思います」
姫君たる身分をすて去ることに、さわやかなよろこびをもった美しい声音であった。
やがて――。
雪姫は、幸四郎の駕籠へ乗った。
庄吉は、四つ花菱の紋入の提灯をさげてそのかたわらにつき添った。
わかれを告げて、遠ざかるこの異様なひと組の男女を、幸四郎の一行は、無言で、見送ったのち、何事もなかったかのように静かにあるき出したのであった。
女囚の群
|潜《くぐ》り戸が|軋《きし》って、獄役人に、どんとつきのめされた花鳥は、再び背後に戸がぎいっと軋ってがちゃりと|錠《じょう》が下されるのをきくや心のうちで、呻いた。
ついに恐ろしい女囚牢へ入れられたのだ。
明るい陽の下から、急に暗いところへ入った花鳥の目には、内部にうごめく灰色のいきものたちが、まさに地獄図の光景に映った。幾多の白い卑しい眼光だけが、わが身にぶすぶすとつき|刺《さ》さる恐ろしさに、四肢がちぢまり、心臓が凍った。
うす闇の中に、幾十の目だけが、ふくろうのそれのように生きていた。
なんという不気味な沈黙であったろう。
ひくいしわぶきがした。
「前へおいで――」
幾枚も畳を重ねた上で、立膝した女が、陰鬱な口調で命じた。
花鳥は、立ち上りかけて、すこしよろけた。御用聞皆次の|折《せっ》|檻《かん》で、からだのいたるところが、ずきずきと疼いていたのである。
どん、と一人の女囚に邪険にはらわれてまた、ぱったり両手をついた。
「……お前は、どんな罪を犯したんだ?」
花鳥は、|怯《おず》|々《おず》と顔を|擡《もた》げた。
四十代か、五十代かも判別しがたい、肉の|殺《そ》げ落ちた、額にむごたらしい|焼《やけ》|痕《あと》をもった牢名主であった。その眸子は、宙に浮いた鬼火のように、ざんにんなひかりをはなっていた。
「みんなこたえるんだ! ここでかくしたって無駄だからね――」
名主の畳の真下に坐っている女が、早口であびせた。
「はい」
花鳥は、頭を下げた。しかし、白状するつもりはさらになかった。この中に密告者がないとは限らないからである。
「わたしは……べつに――」
「なんにもしない、と白らばくれるのさ、新入は必ず――。安心するがいい、この中でどんなことを喋ったって、|格《こう》|子《し》の外へ洩れる気遣いはないんだ。囚人には囚人の仁義があらあね。さむらいの|金打《きんちょう》よりも、かたく守られるのが、自慢さ」
名主代理が説明してきかせた。
「はい――」
花鳥は胸のうちで、――成程、と思った。ここは、世界が別なのだ。
「お前は、花魁だね」
牢名主が、ずばりといいあてた。
「はい――」
「わかった。この間の江戸町二丁目の大火事は、お前のしわざだろう」
「…………」
こんな|隔《かく》|絶《ぜつ》されたところでも、世間の噂は、ちゃんと流れこんでいたのである。
「恋しい男が、お尋ね者で……捕手の手からにがしてやるためのけなげなふるまいさ。いい度胸だ」
と、牢名主は、そう言ってから、女囚たちへ、|顎《あご》をしゃくった。たちまち、女囚たちは、一斉に立ちあがると、無理矢理、花鳥の衣類を剥ぎとり、|刺青《ほりもの》があるかないか、かくし金の有無を調べた。
「いいからだをしてやがる」
名主代理が花鳥のむっちりと盛りあがった乳房を、指先で弾いた。
花鳥のつけていたちりめんの|肌《はだ》|襦《じゅ》|袢《ばん》、腰巻は、牢名主の前へさし出され、かわりに色も柄も洗い失せたつぎはぎだらけの品が与えられた。
牢名主はほんのりと白く透けた花鳥の肌を眺めた瞬間、ゆくりなくも、三十年前の自分の姿を、脳裏に甦らせていた。
|立兵庫《たてひょうご》の頭には、|玳《たい》|瑁《まい》|珊《さん》|瑚《ご》の|櫛笄《くしこうがい》十二本を飾り、白綸子の三枚重に、友禅染の長小袖二領、金銀五彩の色糸をかけた仕掛を被い、素足に穿いた塗り下駄を八文字にふんで、江戸町、揚屋町、角町、京町から仲の町へと、ねりあるいた大まがき[#「まがき」に傍点]の呼出し花魁であった自分の姿が、|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》のように、ほうふつと牢名主の目の前に浮かびあがった。
鳶の者がうち鳴らす金棒の威勢のいい音、自分の定紋のついた箱提灯、頭上にかざされた長柄の傘、左右につきしたがう|禿《かむろ》、新振り、番新……そして、左右で波のようにゆれてどよめく|素見連《ぞ め き》――。
ああ、あの栄華歓楽が、この自分にもあった。
幾多の女郎、禿、やりて、|幇《ほう》|間《かん》末社にかしずかれ、無数の遊冶郎を意のままにあやつり、|伽《きゃ》|羅《ら》を|焚《た》き、常磐津、富本、清元に身をうちこんだ――あの全盛うたわれたけんらん[#「けんらん」に傍点]たる日々の記憶を、さみしくとじたまぶたのうらで、ひとつひとつ消していった牢名主は、ふたたび、花鳥へ投じた視線を、なごんだものにしていた。
だが――。
他の女囚たちは、幾年ぶりかで接する花鳥の美しい肌をひどく憎んだ。
殊に、先立って衣類を脱がせたいちばん大柄の女は、もと大奥の女中をしていて、|鋲打《びょうう》ちの乗物に乗った、というのが唯一の自慢であっただけに、同性の若い肉体を|虐《いじ》める方法は十二分に心得ていた。
「およし。吟味で疲れているんだから、寝かせておやり――」
いつになく、牢名主は、なだめたばかりか、
「畳をおやり」
と命じた。
|怪《け》|訝《げん》そうにふり仰ぐ女囚たちから顔をそむけた牢名主は、煙管をとりあげた。あのむかし、くゆらせた長煙管を思い泛べながら――。
肌襦袢のうちにかくしていた五両は、すぐに発見された。
「ほ、ごうぎだね。ひさしぶりだよ。|山《やま》|吹《ぶき》|色《いろ》をおがむのは――」
名主代理が、小判をちゃらつかせると、女囚たちはぞろぞろとまわりへ寄って、うれしげに声をたてた。
片隅へ解放された花鳥は、ぐったりと、つめたい壁へ|凭《よ》りかかって、まぶたをとじた。
――ああ、いやだ! 死んでしまいたい!
とじたまぶたのあいだから、絶望の|泪《なみだ》がじんわりと滲み出た。
幾刻すぎたか――。
花鳥は、ぼんやりと、佐原の喜三郎のことを考えていた。
喜三郎も、自分と同じように、この牢獄につながれているのだ。
喜三郎も、きっと同囚から|虐《いじ》められたにちがいない。そして……そうだ、もしかすれば、いま、わたしが想っているように、喜三郎さんもわたしのことを考えているのではないだろうか?
花鳥は、生地獄になげこまれて、はじめて、純情で生一本な乙女であった日の思い出をたぐって、胸の痛みをおぼえた。
四年前――。
八日市場の乳母の家で、生れてはじめてむせるような男の|体臭《たいしゅう》につつまれて、気も遠くなる|恍《こう》|惚《こつ》を味わった夜が、なんというなつかしさで思い出されることだろう。
「おとよ! きっと、夫婦になろうぜ」
と、喜三郎は、まごころこめてささやいてくれたのだ。
「あい、きっと――」
羞恥を忘れて、ひしと四肢をからみつかせ、男の強い|髭《ひげ》へ頬をすりつけた――あの|陶《とう》|酔《すい》|感《かん》が、ありありと、肌に甦える。
同時に、一方では、
――どうしたんだろう、わたしは、どうして、急に、喜三郎さんの|愛《あい》|撫《ぶ》をなつかしんでいるのだろう?
という疑惑も、脳裏の片隅で、起っていたのである。
想うのなら、梅津長門の身であるべきであった。
しかし、長門の姿は、どうつとめても、花鳥の心に映らなかった。
「お前が心に抱いている男は、喜三郎一人だろう。ほかの客は、だまされても、おれはだまされんぞ」
と、長門が言ったことばが、いまにしてしみじみと、花鳥の耳にひびいているようであった。
闇の声
鼻をつままれてもわからぬ、しんの闇であった。
かすかな呻き、歯のきしり、寝がえりをうつ音が、時おりきこえてきた。
「花魁」
そうっと、二度三度、肩を小突かれて、花鳥はふっと目ざめた。
「なにかね、おまいさん……ほんとに、恋しい男を逃がす為に、火つけをやったのかね?」
耳もとで|囁《ささや》くひくい声は、しゃがれた老いの色だった。花鳥は、その声が、どんな顔をしていたか、見おぼえていなかった。
「…………」
「火つけとは大した度胸だよ。惚れた一念は見あげたものだ」
「…………」
「だけど、|吟《ぎん》|味《み》は、おそろしいよ」
呟くような、ひそやかな声は、つづいた。
「おまいさん、名主代理に、小判をみんなとりあげられちまったのは、ほんとうに可哀そうだったよ。こういうところへぶちこまれるあばずれたちはね、みんな、|蔓《つる》といってね、小判を、女のあそこにかくしているんだよ。……それというのも、おそろしい吟味を手加減してもらうためさ。牢屋の口伝をきいておけばよかったんだ。吟味をされる時には、小判を口の中に含んで引出されて泣柱へ縛りつけられた時、まず一枚口から出してみせると、石を膝へ乗せる|獄《ごく》|卒《そつ》がさ、お役人の方へ自分の|臂《ひじ》を向けて、金をとるのさ。もちろん、お役人は、ちゃんとそれを承知で石を三枚のせるところを二枚でかんべんしてくれるというわけさ。口から小判を二枚出せば石は一枚、小判を三枚出せば石を抱かされずにすむのさ」
「…………」
「もう、くやんでも、あとの祭さ。……おまいさん叩かれたかね、青竹で……|痛《いた》いやね、あれは。だけど叩き責めなど|拷《ごう》|問《もん》の中でいちばんやさしい方なんだよ。……責め道具はおそろしいよ。石を抱かせるにも、にょきにょき|尖《とが》った板の上に坐らせるのさ。そいからね、手と足をひっくくって、つかまった狸みたいに、天井へつるされるんだよ。車が、|轆《ろく》|轤《ろ》仕掛になっていて、きりきりと、縄で手足を、逆にひきのばす……」
その時の苦しさが、なまなましく身にこたえたか、声は、ふっと黙り込んだ。
「そいから、|逆《さか》さ|責《ぜ》め、眠り責め、くすぐり責め、……なんにもしていなくてもね、白状したくなるんだよ。嘘だろうが、|出《で》|鱈《たら》|目《め》だろうが、みんな喋っちまって、はやくらくになりたくなるんだよ。けれどもね、そりゃいけないよ。そうするとね……わたしのように首を斬られる。……」
花鳥はぎょっとなった。
「ふふふふ、|首《くび》|枷《かせ》を|嵌《はめ》られて、日本橋で三日間も|晒《さら》されてね。そりゃ辛いよ、晒しはね。山のような見物人のうちには知った顔もあらアね。……ひと思いに首を斬られるのが、待遠しくて仕様がなくなるよ。あんな辛いことは、この世にあるものかね。惚れた同士が心中するのが、どこがわるいのかね。勝手じゃないかね、おまいさん。おまいさんも、惚れた男が悪党だったので、とどのつまりここに入れられたんだろうけれど、しんそこ惚れた気持は、今でも変りはないだろうよ。その男の為なら、死んでもいいと思いつめて、やったことなんだろう。……惚れぬいた|挙《あげ》|句《く》が、八方ふさがり、切羽つまって心中しようという約束になったって、二人は、うれしいんだよ。ね、勝手にさせておけば、いいじゃないか」
ひそひそと、くりごとは、いつまでもつづけられた。
翌朝、花鳥は、声の主を、そっと見た。
四十前後の|不器量《ぶきりょう》な女だった。浅草馬道の呉服屋の|後《ご》|家《け》で、若い|燕《つばめ》との情死の片われであった。
いよいよ引出される際、牢名主が、重ね畳の上から「あばよ」と、わかれの挨拶を与えると、後家は、丁寧に頭を下げて、今まで世話になった礼をくどくどとのべた。
「いい気なもんだね。死ぬと、|情夫《い ろ》のところへ行けると思っているんだ。……地獄では亭主の野郎が、手ぐすねひいて待っていらアね」
名主は、後家を送り出してから、青い唇を|歪《ゆが》めて、冷笑した。
二十余名の女囚たちは、仰向けに寝ころんで|仮《かり》|睡《ね》の夢をむさぼっていたり、腹ばって口ずさんでいたり、顔をつき合せてひそひそ話を交していたり――壁にいっしんに日付を書きこんでいたり――勝手気儘な格好で、ごろごろしていた。彼女たちは、何よりも、退屈しきっていた。それは、また彼女たちを、|生《なま》|半《はん》|可《か》なことでは|刺《し》|激《げき》をうけつけない虚無的なふてぶてしい了簡の持主にしていた。彼女たちは、何よりも、ただ、食いものに飢えていた。
花鳥の持っていた金は、牢名主から番人へのたのみで、酒に変った。無論、|娑《しゃ》|婆《ば》とちがって、一滴に値がつくほどの高価なものではあったが、そのおかげで、花鳥は、新入りに対するむごい虐待をまぬがれることが出来たのである。
長い牢生活がはじまった。
志士
佐原の喜三郎は、御用聞皆次に牢からひき出され、前後を捕卒にまもられて「|鞘《さや》」小路をぬけると、広い白砂の庭を横切り、取調べ小屋の戸口に立たされた。
「ここで、待っていろ」
内部から顔をのぞけた同心が、皆次を制した。
喜三郎が、そうっと、首をのばしてうす暗い内部を覗いたとたん、肉に食い入る青竹の音が、ぴしりと鳴った。
土間にひき据えられたのは、五十年配の人品ととのった武士であった。|藁《わら》で|括《くく》った総髪は、ぼうぼうにみだれかかり、衣服は裂けて、肩や膝頭がのぞき、血をしたたらせていた。
その前の牀机に腰をおろして、とらえた|獲《え》|物《もの》をじっと睨む眼光を、またたきもさせず口を真一文字にひきむすんでいるのは、吟味方支配与力谷村正蔵であった。
「申しあげぬか! これでもか!」
責め方の同心は、叱咤とともに、打々と青竹をふりおろした。
武士は俯向いたまま、石地蔵のように動かない。しかし、その蒼白のおもてから、|徐《じょ》|々《じょ》に、意識が去ろうとしている証拠には膝へ落した眼眸の色が、うつろなものになりかかっていた。
ひと息ついた同心が、ちらっと谷村を見やった。
谷村は、なぜ打ちつづけないか、と咎めるように、同心の視線をはねかえした。
さらに烈しい|打擲《ちょうちゃく》が、頸へ、肩へ、腕へ、背へ、|仮借《かしゃく》なくくわえられた。
と――。
|疼《とう》|痛《つう》を感じなくなったわが身を、|昏《こん》|迷《めい》から、すくうために、武士は、きっと首を擡げるや、|目《ま》|蓋《ぶた》をとじ、ひくいが、肚の奥底から搾り出す声で、悲痛な朗吟をはじめた。
[#ここから2字下げ]
洛陽三月、胡沙を飛ばす
洛陽城中、人、|怨《えん》|嗟《さ》す
天津の流水、赤血波だち
白骨、相ささえて乱麻の如し
我も亦、東奔して呉国に向わんとす
浮雲四方に塞って道路はるかなり
東方日出でて|早《そう》|鴉《あ》啼き
城内人開いて落花を|掃《はら》う
|梧桐楊柳《ごとうようりゅう》、|金《きん》|井《せい》を払い
来って酔う|扶《ふ》|風《ふう》豪士の家
扶風の豪士、天下の奇
意気相傾けて山移すべし
………………
………………
[#ここで字下げ終わり]
もとより、|朗《ろう》|吟《ぎん》は、|打擲《ちょうちゃく》につれて、高くひくく、とぎれとぎれに、波のように、風のようにゆれた。
そのすさまじい光景を目撃して、喜三郎は知らず知らず、全身にじっくりと汗をかいていた。
――えれえものだ! とても、おれなどにやれるわざじゃねえ。
そう思った折、二人の捕卒もまた、
「やっぱり、大した人物だぜ」
「大塩平八郎の先生だけあるわい」
と、囁きあっていた。
武士は毛利春斎という、著名な漢学者であり、|篆《てん》|刻《こく》|師《し》であった。
今春、突如、|窮民救済《きゅうみんきゅうさい》のために、蔵書を六百二十両に売って施行し、兵を挙げて即日破れた大坂天満与力大塩平八郎が、この毛利春斎を、若き日から|私淑《ししゅく》していたことは、平八郎の自殺とともに公儀の知るところとなったのである。平八郎の著作「古本大学|刮《かつ》|目《もく》」七冊、「増補孝経|彙注《いちゅう》」三冊などは、春斎の教えに負うところが、大であった。
春斎が、連座して|縲《るい》|紲《せつ》の|恥《はずか》しめをうけたのも、やむを得なかった。
しかし、春斎は、捕えられても、平八郎の志に荷担したことも、あるいは無関係だとも、一言半句の弁明もせずに、白洲吟味からこの|拷《ごう》|問《もん》にひきつづいて、沈黙をまもりつづけていた。
春斎は、渡辺崋山、高野長英らとも親交があり、かねて、尊王思想を抱く危険人物として、偵吏の探索をうけていたのは事実である。
朗吟がおわった時、谷村は、なに思ったか手をあげて、打擲をとめた。
春斎は、かっと両眼を|瞠《みひら》いた。
谷村の口もとに、ひややかな微笑が刻まれた。春斎が、口をひらくのを期待する微笑であった。谷村は、春斎が朗吟をはじめるや、その心理を読んだのである。
はたして、春斎は、口をひらいた。
「拙者は、大塩平八郎を|使《し》|嗾《そう》したおぼえはない。しかし、大塩が、拙者の志を|服《ふく》|膺《よう》したことは、このたびの義挙にあきらかだ……。拙者は、今こそはっきりと断言する。徳川幕府は、すみやかに|崩《ほう》|壊《かい》すべきであろう、と」
「うむ! よくぞ白状した」
谷村の顔には、|残《ざん》|忍《にん》な満足の色があふれた。
「その理由をきこう」
「幕府司法の権化たる貴公に、国家改革の|高《こう》|遠《えん》の理念を説いてもしかたがあるまいが……、天下の|綱《こう》|紀《き》がことごとに乱れている今日の惨状を、よもや貴公と雖も否定はすまい、もちろん、この両三年の|大《だい》|飢《き》|饉《きん》の故でもある。日本全土にあふれた、窮民の数は、どれくらいあろうか貴公はそれに思いをいたしたことがあるか。数万をかぞえた餓死人のむごたらしさ、おのれの娘を売って|粟《あわ》|稗《ひえ》の類に代えている百姓の哀れさを、貴公は、心に痛めたことがあるか。お救い小屋の十や二十を建てて、公儀が、責任をのがれようとする笑うべき政治の貧困――。千万の窮民を尻目に、江戸と大坂の|富《ふ》|有《ゆう》の徒は、米を蔵に充ちあふれさせて、まだ高値になるぞと|北《ほく》|叟《そ》笑み、政治をあずかる上司どもは、袖の下に富を増して、大名どもは、この惨状を見ず聞かず、日夜、女色に|耽《ふけ》るありさま――。天下の政道は、今や、救うすべなき|堕《だ》|落《らく》の極に達しているのだ。無数の窮民は、飢饉のために、|奸吏奸商《かんりかんしょう》をさらにこやしてやるにすぎない。たとえ、来年が豊作になろうとも、窮民のくらしがすこしでもよくなるとは考えられぬ。もはや、幕府には、天下の人民を救い、その財政を、たてなおすべき大策はひとつもないのだ。……幕府の威厳は、ただ、わずかに、貴公如き冷血残忍の|走《そう》|狗《く》の暴力によって支えられているのみ――。だが、その暴力が、どれだけ、つづくか……|大《たい》|廈《か》のくつがえるは――」
と、そこまで、一息に言いきった春斎はいきなり、谷村の片足で、胸を蹴あげられて、のけぞり、そのまま、がっくりと気絶してしまった。すぐに、用意の桶の水が、春斎の死相とも見える顔へ、ぶっかけられた。
手荒くひき起された春斎は、もはや|木偶《で く》同然に、たった今までの|気《き》|魄《はく》をあとかたもなくすてさっていた。ただ、死神の迎えを待つ哀れさが、うなだれた姿に滲んでいた。
喜三郎が、その前へひき出されたのは、その直後であった。同心が、春斎のもとどりをつかんで、ぐいっと顔を仰向けさせた。
「おい、|博《ばく》|徒《と》、貴様は、この浪人者の家へ幾度かよったか?」
谷村の尋問に、喜三郎は、
「へえ?」
と、|怪《け》|訝《げん》そうに、両者を見くらべた。
「あっしは、こんなお方は……一向に――」
「白ばくれるな、野郎っ!」
皆次が、したたか、腰を蹴った。
よろっとよろめいて、片膝つき乍らも、
「な、なんのおまちげえかわかりませんが……まったく、あっしゃ、このお方は、たった今、お目にかかったばかりで――」
「黙れ! 拷問が恐ろしければ、素直に、泥を吐け! 梅津長門が、この毛利春斎の門弟であることぐらい調べのつかぬ奉行所だと思うか。……長門の子分である貴様が春斎邸へ出入しないわけがあるまい」
と、きめつけられて、喜三郎も、おぼろげ乍ら、自分に対する吟味が、庭場重左衛門を殺害した罪を問うだけでないことがわかった。そして、それが、自分に関する限り、とんでもない|誤《ご》|解《かい》であるだけに、白状のすべもないとなると、――こりゃ、自分も|擲《なぐ》り|殺《ころ》される! と直感した。
「さ、ありていに申せ! 春斎邸に、梅津長門の外に、どんな武士どもが参集して居ったか? それから、長門が、貴様らをひきつれて須貝嘉兵衛邸へ忍び入ったのは、いかなる目的があったか? すべて、将軍家を|覆《ふく》|滅《めつ》せんとする大陰謀につながって居るに相違ないのだ!」
谷村は、そう|嘯《うそぶ》いた瞬間、――そうだ! このおれの想像は的中している!
と、わが心に強く言いきかせていたのであった。
ふたつの宗十郎頭巾
見わたすかぎりの、麦畑に、たそがれの色が落ちて、青色は灰色に変っていた。彼方にこんもりわだかまった|藪《やぶ》や、頭上はるかにそびえた幾百年を経た|楠《くすのき》の梢の|頂《いただ》きが、暮れのこって、かすかにざわめいていた。
|微《び》|風《ふう》は、もう初夏の匂いである。
石くれの多い道を、ゆっくりと辿っているのは、宗十郎頭巾の梅津長門であった。
楠を、何気なしにふり仰いだ長門は、かすかな胸の痛みをおぼえた。
すて去ったわが家の庭を思い出したのである。わが家の庭にも、これぐらいの年経た楠の大木があった。たった一人留守をまもっている忠実な老いた下僕が、どんなにふかいなげきを抱いて、あの庭を掃除していることだろう。
……ふと、|湧《わ》いた|未《み》|練《れん》を、急いでふりはらうために、長門は、歩みをはやめた。
やがて、長門が入っていったのは、毛利春斎の屋敷であった。大きな構えであったが、|藁《わら》|屋《や》|根《ね》に草がのび土塀は崩れていた。
長門は、春斎に、一切を語って、指示を仰ぐ心であった。|割《かっ》|腹《ぷく》して果てるがよい、と言われたならば、|逡巡《ためら》うことなく、そうするつもりであった。吉原をのがれ出て、身をひそめた短い日々のうちに、この心境の変化が生れていた。
胸中ふかく宿って消えぬ美しい|俤《おもかげ》を、そっと抱いたまま、死んでゆくのも、またわるくない、と長門は、考えていた。
長門は、|森《しん》|閑《かん》として、明りひとつ洩れ出ない古びた家屋を、半年ぶりで眺め乍ら、なんとなく、胸のうちに、すがすがしいものが吹きぬけるのをおぼえ、来てよかったと思った。傾きかかった|建《けん》|仁《にん》|寺《じ》|垣《がき》をまわって、萱門をくぐった。二度三度、案内を乞うてから、ややしばらくして、影のようにあらわれたのは、春斎の妻女であった。
「長らく御無沙汰申上げて居りました。……先生は、御在宅でございましょうか」
いんぎんに問いつつ、長門の直感力は、ふと、この静けさを怪しんだ。
思いなしか、妻女の物腰が、門弟を迎える柔かさを欠いている。しとやかな、表情のすくない婦人であったが、心のあたたかさを他人に感じさせるひとであった。
「先生に、是非ひと目お会いしたいと存じまして――」
妻女が、頭を擡げて、小声で、
「主人は、捕えられまして――」
と、言い乍ら、何事かをすばやく目くばせしたのと、奥の襖の開く音が同時であった。その襖の開けかたのしのびやかさが、長門に、危険を察知させた。春斎が捕えられた、という事実は、夢にも考えなかった長門である。
――なんのために、先生が? ……。
脳裏を烈しく働かせつつも、四肢は、闘いのために|微《み》|塵《じん》の|隙《すき》なくひきしまった。襖を開けた者は、庭へとびおりた様子である。
――はりこみの目明しが……おれが来たのを注進に行こうというのか――。
それならば、追う必要をみとめなかった。長門は、逃げる気持がなかった。
それよりも、春斎がどんな理由で捕えられたのか――そのことの方が重大だった。
「おきかせ下さい。先生は、どうして、そんなことに――もしや、拙者のことから?――」
と、身をのり出した長門の表情は必死であった。もし、自分のために、師がその辱かしめをうけたとすれば、なお更のこと、逃げてはならなかった。
「いえ、主人が捕えられましたのは、決して梅津さまのことでは――」
と、妻女が、こたえかけたおり――。
|突《とつ》|如《じょ》――。
鋭い|断《だん》|末《まつ》|魔《ま》の絶叫が、垣外であがった。
長門は、反射的に戸口から飛び出した。
萱門いっぱいに、ぬっと立って、白刃をさげているのは、長門と同じ宗十郎頭巾の武士であった。闇は、その顔を、さだかでないものにしていた。
長門は、足もとに倒れた男の右手に十手が握られているのを見わけた。
「梅津長門か?」
|底力《そこぢから》のある口調で尋ねた。
「左様。貴殿は――?」
「…………」
「拙者のために、その捕吏を斬りすてられたのか?」
「ちがう! |邪《じゃ》|魔《ま》だからだ」
相手は、ほの白く歯をみせて、にやりとした。
「貴公とわれらの真剣勝負にな」
雌雄
「拙者と真剣勝負を?」
長門は、相手の意外なことばに、あらためて、|瞳《ひとみ》をこらした。
「室戸兵馬に縁ある者か、貴殿は?」
「あいにくだが、仇討ではない」
ひややかにこたえた相手は、冷笑するかのように、かすかに口もとを歪めた。しかし、その双眼は、射るように鋭く、まばたきもしなかった。
長門は、自分が、おそろしい憎悪をあびているのを感じた。
「理由をきこう」
急に、月の光が、冴えて、つい今まで周囲を|掩《おお》っていた暗さを払うのを意識し乍ら、長門は、静かに、相手をうながした。
「理由は、申せぬ!」
たたきつけるようなきびしい|拒《きょ》|否《ひ》であった。
「口外出来ぬというのは、拙者を|闇《やみ》に|葬《ほうむ》らねばならぬ|卑《ひ》|劣《れつ》な命令をうけた、と解釈してもいいわけだな」
「……」
相手は、それに反撥しようとして、さっと怒気を面上に走らせたが、激情のために声がつかえた様子であった。
――この見知らぬ男が、なぜ、このようにおれを憎んでいるのか?
何者かの命をうけて討とうとする|刺《し》|客《かく》の態度とはあきらかにちがったこの敵意は、長門が、これまでまだ一度も感じたことのない不気味なものであった。
「では、理由はきくまい。……だが、拙者は、斬る敵の名ぐらいはおぼえておいてもいい筈だな」
長門は、はぐらかすように笑ってみせた。
「おれを斬る? 貴様の方が、勝つ積りでいるのか? これは面白い!」
「|討《うっ》|手《て》の方が、必ずしも勝つとはきまって居まい」
「その|自《じ》|負《ふ》は、気に入ったぜ。よし、名乗ってやろう。おれは直参の須貝嘉兵衛」
「なに?」
長門の脳裏を、咄嗟に、ちらっと雪姫の俤が掠めた。この男が討手となったことは雪姫の存在とふかいつながりをもつものではないか、と長門が直感したのは、この場合、さほど不自然ではなかったろう。
「おれの屋敷に忍び入った貴様に殺意がなかったとは考えられぬ。とすれば、おれの方からわざわざこうして出向いて来たからには、理由をきかずとも、|剣《けん》を|交《まじ》えるのに不服はあるまい」
「成程、それも|理《り》|屈《くつ》が通る。……が、あの時、拙者は、助太刀の立場であった。貴殿をねらったのは、十八歳の巾着切だった。いつか、貴殿は、湯島の切通しで、中風の町人を無礼討したおぼえがあろう。その伜が、|天《あっ》|晴《ぱ》れ、仇討の志をたてたのだ」
「ふん。旗本屈指の剣士が、巾着切の仇討の助太刀とな――。これは、いい。|前《ぜん》|代《だい》|未《み》|聞《もん》のお笑い|種《ぐさ》だ」
「やりとげていたら、江戸市中が沸いていたろう。泥を塗られるのは旗本八万騎だ。お笑い種ではすまされるか!」
「それを承知で旗本のくせに、なぜ助太刀を買った?」
「さアなぜかな? 拙者にもわからぬ。その日の風まかせで、どうにでも動く人間だ、拙者は――」
平然と言いすてる長門の、|自嘲《じちょう》の姿に須貝嘉兵衛は、堪えがたい嫉妬をおぼえた。
――こいつが、雪姫を|犯《おか》したのだ!
嘉兵術が無言で、身構えると、長門は、すうっと一歩さがった。
嘉兵衛は、いったん青眼にかまえ、それから、刀尖を、地にさげた。
――|示現流《じげんりゅう》か?
長門は、その型を|凝視《ぎょうし》しつつ、容易ならぬ強敵と見てとった。
示現流のこの型は、斬るか斬られるか、一挙に勝負を決しようとする手段であった。
嘉兵衛は、長門が|居《い》|合《あい》を使う、ときいたに相違ない。
居合を封じるには、示現流にかぎるのであった。
また、いまの、長門の立っている位置は不利であった。十六夜の月は嘉兵衛の後方で光っていた。
地上に濡れたように這った嘉兵衛の長い影法師は、ちょうど、長門の足もとにとどいていた。
嘉兵衛は、自分の影法師の動きによって長門を誘うに相違ない。居合は、こちらからしかけることが出来ないからだ。
長門は、嘉兵衛の|構《かま》えから、影法師と刀尖の動きが必ずしも一致しないおそろしい腕前をさとった。
長門が、横へ身を移す危険を充分承知で自分の方から誘いをかけるほかに、この|一《いち》|撃《げき》|必《ひっ》|殺《さつ》の型からのがれられぬ、とほぞをきめたのは、賢明であった。
身を移すとみせて動かず、動かずとみせて身を移す――この呼吸をはかるのに、ほんのしばしの間があった。
嘉兵衛もまた、長門の刀も抜かず、殺気も受けて見せず、木か草のように自然に彳んだ姿勢に、
――成程! こいつ、|稀《け》|有《う》の使い手だな!
と、瞬時、わが身も石像のごとく微動だにできないのを感じていたのである。
と――。
長門のからだが、風にそよぐ|葦《あし》のようにすうっと、右へ移った。
間髪を入れず、
「やっ! やあっ!」
|凄《すさま》じい気合を、つづけざまに発して、嘉兵衛は刀尖を地にすべらせ、ぱっと大上段にふりかぶると、長門へ斬りこんだ。
それは、|獰《どう》|猛《もう》きわまる攻撃であった。
なみの敵なら、長門は受けていたろう。しかし、この悪魔的な強剣は、受けたならば刀が折れるか、受け損じて斬られるか、どちらかであった。
長門は、さらに、もう五尺、横へ飛びすさって、刀を抜きはなったのが、やっとであった。そうせざるを得なかったのは、本能的に、からだの方が自然にそうさせたといってよかった。
嘉兵衛は、次の|刹《せつ》|那《な》、斬りこんだ姿勢のままで、
「ええいっ!」
と、目の高さを横へ|薙《な》いだ。
瞬間、長門は、片膝をつき、太刀風を頭上にかわして、諸手突をこころみた。
長門が立った時、嘉兵衛は、一間うしろにしりぞいていた。
長門の突きは、たしか、手ごたえがあった筈である。
しかし、嘉兵衛は、攻撃をおさめて、次のねらいをさだめる構えに、みじんの隙もみせてはいなかった。
残った者
長門が、須貝嘉兵衛の負傷の程度を見やぶる余裕がなかったのは、この時、突然、|往《おう》|還《かん》を、こちらへ走ってくる数人の足音をきいたからであった。
――捕吏だ!
長門は、その揃った足ぶみと速さで、それと知るや、逃げる覚悟をきめた。
嘉兵衛が斬り倒した捕吏のほかに、もう一人がどこかにひそんでいて、注進に走ったに相違なかった。
長門は、師の春斎が捕えられた理由をはっきりとつきとめないかぎり、ここで死ぬことは出来なかった。自分が捕えられて、春斎がゆるされるのなら、勿論、甘んじてわれから縄目を受けもしようが、先程、春斎の妻女はそうではないとかぶりを横にふったではないか。
逃げる覚悟をきめるや、長門は、まず、須貝嘉兵衛を圧倒しなければならなかった。
「えいっ!」
長門は、猛然と、嘉兵衛に躍りかかった。
「とうっ!」
八双に構えていた嘉兵衛は、一条の白光の流れる如くおそいかかった長門の一撃をかわすとみせて、上段から、たたきつけるように、はらいおとそうと、ぴゅうっと|弧《こ》|線《せん》をきったが……その弧線が地をかすめて、青眼へ変化した一瞬、
「ええいっ!」
と、ふたたび鋭い気合とともに、長門の刀は下から上へ、宙へひらめいた。
嘉兵衛が、反射的に身をそらして、紙一重でさけるや、その隙を、長門は、わがものにして、ぱっと走り出した。
「うぬ! |卑怯《ひきょう》っ!」
追わんとしたとたん、嘉兵衛の膝が、崩れた。
「うっ!」
と、呻いた嘉兵衛は、刀をだらりと下げると、|蝙蝠《こうもり》のように月光を|跳《は》ねて、垣根のむこうへ消えて行く長門の後姿を視野におさめた。
長門は、縁側へとびあがり、座敷をかけぬけて、一気に、裏庭へ出た。
「梅津どの!」
春斎の妻女の声が、土塀と離れ家のあわいから、招いた。
長門がそこへ走りよると、
「裏門を出て、右へそれますと、墓地が……そこに、わたくし、馬を用意しておきました」
「かたじけない。……|御《ご》|厚《こう》|恩《おん》の程は……先生のおん身のことを――」
「|委《い》|細《さい》は後日――早く、早く」
せきたてられて駆け出した長門は、胸に熱いものがこみあげるのを|怺《こら》えきれなかった。
突然の斬り合いにも、妻女は、聊かも動転せず、そおっと厩からひき出した馬を、後方の墓地へつないでおいてくれたのである。
墓地は、松や|樅《もみ》の林にかこまれた山麓の一角にあり、右手に朽ちかかった廃寺が、黒くうずくまっていた。いつの世かの兵火に焼けのこった|巨《きょ》|刹《さつ》の名残りとみえた。
馬は、とある地蔵尊につながれていた。|鞍《くら》には、|鞭《むち》もつけてあった。
長門は、身軽くうちまたがると、地べたにちらばった素焼の|炮《ほう》|烙《ろく》をけちらして、離々たる断草をひとなびきさせるや、西方にむかって、馬蹄をひびかせた。
この時――。
須貝嘉兵衛の方は、捕吏たちにとりかこまれていた。
長門と同じ宗十郎頭巾であり、抜身をさげているので、捕吏たちは、疑う余裕もなく、たちまち、
「梅津長門、御用だっ!」
「神妙にしろ!」
と、十手をかまえて、陣形をつくったのであった。
嘉兵衛の心は、しかし、「おれはちがう」とかぶりをふるのさえも忘れていた。
――やられた! 須貝嘉兵衛、はじめて、敗れた! 不覚!
無念の|眼《まな》|眸《ざし》は、長門の消えた垣根のむこうへ据えつけられたままであった。
|灼《や》けつくような膝の|疼《うず》きが、とりも直さず、敗れた苦痛であった。
――強い! あいつは、たしかに強い!
胸で呟きすて乍ら、刀を鞘におさめ、膝をしばるために頭巾をぬぐ嘉兵衛の挙措はとりまいた捕吏たちを全く無視したものであったが、それが捕縛を受ける神妙な態度とまちがえられたのは、無理もなかった。
指揮の同心が用心しつつ、近よって来た。
「梅津長門、縄をかけるぞ」
嘉兵衛は、はじめて、じろりと、同心を見やった。
「たわけ!」
一言吐き出すと、頭巾を、びりっとひき|裂《さ》いた。
一人の捕吏がひどく|慌《あわ》てて、同心にかけよって耳うちした。
同心は、あっとなって、
「貴殿は梅津長門ではないのか?」
「貴様ら木ッ葉に、梅津長門が、捕るとでも思っているのか」
「なにっ?」
嘉兵衛は裾をめくりあげた。
「おい、そこの提灯をもっている奴、前へ出ろ!」
あかりをうけた膝は、血汐にまみれ足首まで、どっぷりつかったように真赤であった。
嘉兵衛が裂いた頭巾で、傷口をしばりおわったおり、彼方から、|馬《ば》|蹄《てい》のひびきがつたわって来た。
「ふふふ……、梅津長門が、馬で逃げるわ」
嘉兵衛の嘲笑に、同心は、じりじりと燃えていた憤怒をついに爆発させて、
「何者だ、貴様は?」
と、噛みつくように怒鳴った。
「梅津長門と試合にやって来た者だ」
「なんの|遺《い》|恨《こん》によってだ?」
「それをきいてなんとする?」
「梅津長門は、奉行所御手配の重罪人だ。みだりに、|私《し》|闘《とう》を|挑《いど》むことはゆるされんぞ!」
嘉兵衛はふふんとせせら笑うと、びっこをひいてあるき出そうとした。
「待て!」
同心が|猿《えん》|臂《ぴ》をのばした。
だが、その指さきが、嘉兵衛の左の袖口へふれたかふれぬうちに、嘉兵衛の右手がおどった。同心はあっけなくうしろへのけぞり、どさっと|臀《しり》|餅《もち》をついた。
捕吏の一人が、逆上して、
「畜生っ! 五郎七を斬りゃがったのは、こ、こいつなんだ! お、おれは、ちゃんと見ていたんだ!」
と、わめいた。
はね起きた同心は、すっかり頭が混乱してしまって、
「こ、こやつはやっぱり……梅津長門にまちがいないぞ! 召捕れっ!」
と絶叫した。
「おい、木ッ葉役人。おれは、梅津を斬りそこねて、腕がむずむずしているのだ。これ以上、おれの|苛《いら》|立《だ》った神経をくすぐると、うぬの首は、胴を離れるぞ!」
憤怒
ここは、本所松坂町の裏道にあたる風流軒貞宝の家であった。
およそ、乱雑きわまる書斎で、貞宝は、|縞紬《しまつむぎ》の小袖の胸をはだけて、さも|物《もの》|倦《う》げに、二月堂に凭りかかっていた。
その周囲、床の間などには|夥《おびただ》しい漢籍のほか、|読《よみ》|本《ほん》(馬琴「八犬伝」京伝「稲妻草紙」ほかに「|水《すい》|滸《こ》|伝《でん》」やら「|漢《かん》|楚《そ》軍談」など)や滑稽本、こんにゃく本、草双紙などが、積みかさねてあった。
貞宝の前で「田舎源氏」の新版第何編かをめくって、しきりにひろい読みしているのは、四谷塩町の貸本屋住吉屋であった。
貸本屋といっても当時の商売としては、ずいぶん派手な方に属していた。貸本屋が得意場として回るのは、丸の内その他の諸大名の勤番長屋、旗本御家人の富家、町家の楽隠居、柳橋の芸妓屋、吉原や四宿の遊女屋などであった。いわば、有閑読者を一手にひきうけたジャーナリストといってよかった。したがって、板元や作者に対するかなりの意見をもち、またその意見を通す力があった。
二百六十大名という多くの上中下の屋敷に出入りしているのであったから、読者の批判や希望をとりまとめるのは容易であったので、板元も作者も、貸本屋の意見を重要視したのは当然であったろう。
江戸|爛熟期《らんじゅくき》の今日、貸本の|鬧《いそ》がしいことは、文字通り羽根が生えて飛ぶようであった。見たいと思う本は、一月も前から口を掛けておかないと、かんたんには手に入らなかった。
住吉屋は、貸本屋の中でも|屈《くっ》|指《し》の大店であった。
「どうも、田舎源氏も、そろそろ鼻についてきやしたな。……あっしは、もっと、大奥を諷刺してもらいてえと期待して居りやしたが、種彦も、年齢のせいで、しだいに砂まじりのざらざら文字になって、こうもおべっかがひどくなっちゃ、頂けませんや」
「わたしは、初編が出た時から、田舎源氏とはよくぞつけたりと、笑ったね。わたしがこの本をとるのはそれだけさ。将軍の栄華が、こんなに|肥《こえ》くせえのも、|御愛嬌《ごあいきょう》さね。どうせ、大奥は、|陰《いん》|険《けん》と|嫉《しっ》|妬《と》の|肥《こえ》|溜《だめ》なんだから。……だれだかが、程朱学を無学の町人たちに教えるのに、こんないい本はねえ、などといっていたが、笑わせるぜ。義理の|詮《せん》|議《ぎ》は、もう大名旗本からは地を払っているんだ。町人百姓のあいだにこそ、義理と人情がまもられているんじゃねえか。教えてやりてえのは、あちらさまよ」
貞宝は、|憮《ぶ》|然《ぜん》たる表情で、日頃の洒落まじりの調子とうってかわったののしりかたをした。
――虫のいどころが、今日はわるいな。
と、住吉屋は、田舎源氏をもとの場所へかえして、かしこまった。
田舎源氏の主人公足利光氏は、大御所家斉がモデルであった。
勿論、完全なる貴人と見立てられていたのであったが、貞宝には、|軽《けい》|蔑《べつ》すべき人物としか思えなかったのである。その性格がいかにも小細工で、陰険で、|磊《らい》|々《らい》|落《らく》|々《らく》たるところはみじんもなく、|光《こう》|風《ふう》|霽《せい》|月《げつ》の気象、遠大な活気、鬱勃たる興国の気宇を全く欠いていた。
貞宝は、むしろ、その区々たる小義に拘った主人公のケチ臭さを、読者が見ぬいて、ひそかに|嘲《あざ》けるのを期待していたのだが、どうやら盲千人、どいつもこいつも豪華けんらんたる大奥の栄華の情景に目をうばわれ、登場する絶世の美人たちに胸をときめかせ……おかげで、田舎源氏は、どうやら、柳亭種彦が死ぬまで書きつづけられそうな模様である。
「……ところで、師匠、去年焼けた西丸に、公方の隠居所を造営するそうですがね。なんでも、百七十万四千三百両とかって……ざっと坪千両の普請だという噂でさ。日本中が、飢饉で、何万人もがのたれ死しているこの御時世に、こいつは、いったいどういうことになりますかね」
「あと十人も、大塩平八郎があらわれりゃ幕府も、ひっくりかえるさ。……まアちょっと、勘定してみねえ、住吉屋さん。御殿女中は、九百人いるんだぜ。しかも、これにくっついている召使いが、この三倍はいるだろうよ。おらア、あまり|癪《しゃく》にさわるから、将軍誕生日に大奥が買いあげた佐賀町の船橋屋の菓子をしらべたんだ。どうだ、おい、びっくりしなさんなよ」
貞宝は、手をのばして、|手《て》|筥《ばこ》の中から、ひとつづりの半紙を把ると、ぱらぱらとめくって、読みあげはじめた。
「|大饅頭《おおまんじゅう》が九十六膳で五百八十組、大鶉焼が二百八膳で千四百十組、黄黒金飩が二百八膳で三千百二十組、黄白寄水が二百八膳で六千二百四十組、ざっとこんなあんばいだ。百匁の饅頭が五千六百五十六。羊羹ときたら七十六|枠《わく》(一枠|方《ほう》一尺二寸五分、厚二寸二分)だぜ。……べらぼうなんてえものじゃねえや。将軍がオギャァと生れやがった日だといやがるだけで、これだけの大散財よ。この費用は、いったい誰がひきうけるんだ。|粟《あわ》もひえ[#「ひえ」に傍点]も食いかねている百姓の、血と汗を流した働きがありゃあこそじゃねえか」
貞宝は、興奮で、ぎらぎら両眼を血走らせた。
釣竿
貞宝は、その|慷《こう》|慨《がい》|悲《ひ》|憤《ふん》を、さらにぶちまけようとして、ふと、貸本屋住吉屋の、当惑げな面持に気づいて、急に高笑いした。
「ははははは、こいつは、とんだ坂田の|金《きん》|平《ぴら》――|柄《がら》でもねえ力瘤が入りすぎやした。よそうよそう。金平まっぴら、おまんまは|行《ゆき》|平《ひら》、焚く米もねえ|駄《だ》|講《こう》のぶんざいが、どう吠えたところで天下はビクともするもんじゃねえやな。それよりは、高座の工夫でも案じた方がよかろうぜ、と住吉屋さん、言いたそうな顔をしているぜ」
「いえ、とんでもない」
「名人になれなれ|茄子《な す》と思えども、とかくに|下手《へ た》をはなれざりけり、さ」
「そういえば、師匠、このごろ、月並の御会へはあまりお出かけになりませんな?」
「俳句をひねっているどころじゃないんだ、このところ――」
「しかし、師匠が出席されないことには、ろくでもねえ句が抜けやがるもんでね。……そのうち、|舟《ふな》|俳《はい》|諧《かい》でも如何でしょう?」
「ぬかるみ芸妓をつれて向島か――わるくはないが、目下、貞宝、奉行所から禁足くらっているんだ」
「へえ? そりゃ、初耳だ。どうなさったんで?」
「三日月小僧――ご存じだろう、佃島を破った巾着切さ。あれの相棒をかくまったことがさ。八笑人気どりで、あぶれ野郎を居候に置いたとばっちりでな」
「そいつは、いけねえ」
住吉屋は、急に青くなった。
住吉屋は、近く、また、なんとかして、貞宝に、読み本を書かせようと、考えていたのである。内金として、五両渡してある。
当時、作者の作料といえば、一編五冊物が五両程度であった。だから、作者の前借は、せいぜい一両か二両であった。最高の作料は、馬琴であったが、それでも「|弓《ゆみ》|張《はり》|月《づき》」三十冊で、三十両、うんと売れたので、板元平林堂が、特別に十両を|贈《おく》っている。京伝などは、二両二分しかもらっていない。だから、住吉屋が、貞宝に渡した内金五両は、破格といってよかったのである。
貞宝が、奉行所から禁足されたとなると、出版はおぼつかない。貞宝には、前科があるからである。もし、今度やってのければ、作者、板元ともに、五十日か百日の|手鎖《てぐさり》に処せられるのは目に見えている。
「弱ったな、師匠。なんとか、あやまっちまうわけにはいきませんかねえ」
「お玉ケ池の皆次という御用聞がね、いちどねらった女郎に音をあげさせるまでは腰のべら棒をおさめねえ|上総《かずさ》|木綿《もめん》よろしく、わっしを一歩も外へ出さねえのさ。……こうしている今も、皆次の手下が、外で見はってやがるかも知れないぜ」
「おどかしっこなし。つるかめつるかめ」
住吉屋は、あわてて腰を浮かせた。
貞宝は、住吉屋を送り出すと、釣道具をとり出して、手入をはじめた。
釣は、貞宝唯一の道楽であった。深川の木場釣りは、当時盛んで――貯材池の材木の上に|蒲《ふ》|団《とん》をしいて、|菅《すが》の根の長い春の日のひねもすをくらす心地は、浮世のうさを忘れるには、最上の極楽であった。つれるのは、たなごであった。
金、銀、|烏《う》|銅《どう》のついた斑竹の竿を、十余本もならべ、釣糸のぐあいをしらべ乍ら、貞宝は、無心の表情になった。この釣糸は人間の|生《いき》|毛《げ》である。それも、柳橋の芸妓にたのんで、その美しい髪の毛をもらったものである。
貞宝にとって、昨日今日の|憂《ゆう》|悶《もん》をまぎらわすには、この釣道具の手入よりほかに方法がなかった。竿の一本一本を手にとれば、釣りあげたかずかずの魚の手ごたえが、大きさが、はっきりとよみがえってくる。
――そうだ、梅津の旦那と、たなご釣りの競争をやったっけ。
去年の春の思い出が、脳裏を横切った。
――旦那は、たった一尾、こっちは十三尾。釣りにさえも無心になれねえのは、まだ人間が出来てねえ証拠だと、えらそうな説法を、旦那は、苦笑し乍ら、黙ってきいていたっけ。次の日、ふらっと訪ねてお出でになって、師匠の説法のお礼だと、この|魚籃《び く》を下すった。
貞宝が、とりあげた魚籃は、立派な品であった。弓張提灯のような形の、魚籃の網を下からつッぱって、魚がちょっとでもそのふちにさわると、たちまちその中へ落ち込んでしまう仕掛けが工夫してあった。七宝編という|凝《こ》った網である。
――いやだ、いやだ!
貞宝は、首をふった。
この折、ふと、裏口にしのびよった人の気配を、貞宝は、感じた。
――岡っ引か?
貞宝は、わざと、きこえよがしに、うたいはじめた。
柳やなぎで世を面白う
受けて暮らすがいのちのくすり
梅に|従《したが》い柳になびく
その日その日の風次第
嘘も誠も義理もない
鳥追姿
「師匠……師匠……」
しのびやかに呼ぶ声に、貞宝は、はっと口をつぐんだ。
「師匠……いねえのか?」
――庄吉だ!
遽に、貞宝の胸が、|動《どう》|悸《き》をうちはじめた。
おもてをうかがって、誰もいないのをたしかめてから、貞宝は、いそいで、裏戸をあけた。
「やいっ! 庄吉、庄公、庄的――てめえ、いま頃のこのこと――たわけというか、阿呆というか――ここが地獄の一丁目に早変りしてやがるのも知らねえで、よくも戻って来やがったな」
声を殺してののしり乍ら、貞宝は、庄吉の胸ぐらをとってひきよせ、
「おめえ、あとをつけられやしねえだろうな?」
と、ささやいた。
「大丈夫だ」
庄吉は、にやりとした。
|風《ふう》|態《てい》は、すっかり変っていた。どこで都合をしたのか、屋敷町の軒下を売りあるく小はだの|鮨《すし》|売《うり》の格好であった。頭をすっぽりと吉原冠にし、|桟《さん》|留《どめ》|縞《じま》の尻端折、黒八丈をつけた|半《はん》|纏《てん》をまとい、木綿の股引に白足袋、麻裏草履。もちろん、白木の三重かさねの重箱を肩にかついでいる。
「ふん。うまく化けやがったな。……だが、化けたつもりでも、お玉ケ池の皆次の目をくらますのは、容易じゃねえ。喜三郎がつかまったぞ、喜三郎が――」
「えっ?」
「この家のまわりを、一日に三度や五度は目明しが、ぐるりと|御《ご》|警《けい》|固《ご》――貞宝、実は水戸|黄《こう》|門《もん》おしのびの図に相成っとるんだぞ! まごまごしていねえで、すぐ飛んでしまえ」
「そうか。そんな予感がしたんだが……どうしよう?」
「どうしようもこうしようも、いまさら、しようがあるめえ。つかまった者はつかまり損だ。|喜《き》|三《さ》こらさっさ、と逃げ出すわけにいくものか」
「いや……喜三郎兄貴のことじゃねえ。……おいら、師匠にかくまってもらいてえひとをつれてるんだ」
「誰だ?」
「それが……ひとくちには、言えねえんだ。狐が化けたのよりも、もっとべっぴんのお姫さまなんだ」
「野郎、こっちが黄門になったり|閉《へい》|門《もん》になったりしているのに、どこの蹴ころばしをひっぱって来やがった。巾着切のひめごとたア笑わせやがる」
「ちがう、井伊のお屋敷の」
「井伊は、赤門だあな、こっちは黄門――」
「おいら、すぐ、つれてくる!」
庄吉は、とび出して行くと、すぐ、戻って来て、入るのをためらっている者へ、
「さ、こっちへお入んなせえ」
と、うながした。
框から首をのばした貞宝は、
「なるほど、|鮨《すし》|屋《や》に女太夫か、こいつア、いなせの|対《つい》だ」
と、呟いた。
それは、鳥追い姿の女であった。|褄《つま》|折《おれ》|笠《がさ》をふかくかぶって俯向いているので、顔は見えなかったが、緋の鹿の子絞りの紐でむすんだ|腮《あご》の白さが、抜けるように美しく、松坂木綿の着物をぴっちりと着けた姿勢は歌麿えがく佳さが匂っていた。
「師匠……このおかたでさ――ほんとのお姫さまなんだ」
「くどいぜ、庄吉……なにこの風流軒貞宝の眼光ひとたび射れば、その正体を――」
と、言いかけて、貞宝は、うっと口をつぐんだ。
褄折笠が、すっとあげられ、澄んだ|双《そう》|眸《ぼう》が、まっすぐに、貞宝を凝視したからである。
「こ、こりゃ――」
「師匠、おねげえだ、この姫さまを、しばらくあずかっておくんねえ」
「たのみます」
雪姫は、ほのかな微笑とともに、ほんのわずかな身振で|会釈《えしゃく》した。その優雅な気品をふりこぼす作法に、貞宝は、
――こいつはほんものだ!
と、思った。
その母あわれ
書斎の座についてから、庄吉は、雪姫をつれ出したいきさつを、口早に語った。
貞宝は、腕をこまぬいて無言のうちに耳をかたむけた。その黙然たる態度は|洒落《しゃれ》のめす講釈師の日頃と一変した厳しい品格をそなえ、書物にうずまった部屋の主としてふさわしいものだった。
雪姫が、井伊家を出る目的のひとつが、梅津長門に会いたい為であることを、きいた貞宝は、はっと視線を雪姫に向けて、
「あなたさまが、梅津さんと――」
と言いかけて、その白い顔に朱が散るのを認めると、また声をのんだのであった。
庄吉は、語りおわると、もう腰をあげていた。
「師匠、たのみます」
「うむ」
貞宝は、ふかく頷いた。
「おいら、師匠を、親とも主人とも思っている、とお姫さまに言ってあるんだ」
「おめえは、これからどこへ行くんだ」
「日本堤の非人村さ」
「そうか、あそこなら|滅《めっ》|多《た》に目明しはふみこめねえ。武士に道義がすたって、非人が一番人間らしい|情《なさけ》をわきまえているんだから世の中は皮肉なものだ」
「じゃあ、姫さま、ご|免《めん》を|蒙《こうむ》ります」
庄吉は、畳へ両手をついて、ぎごちないお辞儀をした。
「お世話になりました」
「梅津の旦那の行方は、おいらが屹度つきとめて……ここへおつれ致しやす」
「おねがいします」
ふたたび|鮨《すし》|箱《ばこ》をかついで、庄吉は、音もたてずに外へ出て行った。
対座の沈黙がほんのしばらくつづいた。
「雪姫さま……と仰言いましたな」
「はい」
「栄華のおくらしを、未練もなくおすてになるわけを、ひとつ、うかがわせては頂けませぬか。……梅津さんにお会いになりたいお気持のほかに、その高貴の地位をおきらいになるには、なにかふかい|仔《し》|細《さい》がおありになろうと存じます」
雪姫は、返辞をためらった。
「わたくしめは、しがない講釈師でございますが、梅津さんを尊敬している点では、誰よりも信頼して頂ける男でございます。あれだけの秀れた|才《さい》|知《ち》、腕前をもち乍ら、空しく|市《し》|井《せい》に|沈《ちん》|湎《めん》しなければならぬ世の矛盾に、わたくしは、心の底から憤りをおぼえて居りまする。しかし……失礼乍ら、あなたさまのようなお美しいお姫さまを、梅津さんが生涯の|伴《はん》|侶《りょ》となさるなら、――あるいは、司政の高位について活躍なさるよりも、この方が幸せではないかと、今ふっと思った次第でございます。その幸せを得られるなら、わたくしごとき者の生命のひとつやふたつすてるのはなんの造作もございませぬ」
雪姫は、庄吉の必死の尽力、幸四郎の厚意、そしてこの貞宝のまごころを受けて、自分のねがう幸せが、一歩一歩近づきつつあるような気がした。
感動は、胸にあふれ、熱い|泪《なみだ》が、長いまつげを濡らした。その泪をぬぐうすべも知らず、端然と膝で両手を組んだ姿勢から、貞宝は、あまりに気品高く、あまりにも美しく生れた貴族の哀しい孤独の育ちを読んだ。
「うちあけます」
雪姫は、そう言ってまぶたを伏せると静かに語るべきことを、胸のうちで|整《ととの》える様子であった。ふたたび顔を擡げて、雪姫が口にしたことは、勿論、貞宝を|驚愕《きょうがく》させずにはおかなかった。
「わたくしは、家斉将軍の娘です」
「えっ! そ、それは……」
雪姫のまなざしは、貞宝の頭上をこえて宙の一点をじっと見据えていた。
「わたくしの母は、芸州侯の江戸家老の娘でした。美しいひとであったときいて居ります。千石とりの旗本に、|許嫁《いいなずけ》がいたと申します。ところが、ある年の|雛《ひな》の日に、将軍が芸州侯の|小《こ》|直衣《のうし》|雛《びな》を上覧になるために、浅野家へおよりになりました。その折、わたくしの母も、父にしたがって、拝見に参上したのです。……母のすがたが、将軍のお目にとまったのが不運でした。将軍は、小直衣雛を|所《しょ》|望《もう》になるとともに、その取扱い女中として、母も一緒に大奥へ上るようにお命じになりました。……わたくしは、大きくなって、この小直衣雛をいちど大奥の御対面所で拝見したことがあります。|金《きん》|襴《らん》の鏡蒲団にすわった雛は、それはみごとな美しさでした。けれども、わたくしにとっては、憎い憎いかたきでした。そのとりすましたふたつの顔を、わたくしは、心の底からにらみつけてやりました。いえ、そればかりか、われ知らず、花桶の桃の花をひきぬいて、ぶつけようとして、女中にとどめられたものでした。母は、その小直衣雛とともに大奥に上り……やがて、|御中臈《ごちゅうろう》になりました。その間、母は、いくども将軍においとまをたまわるようにねがい出たそうです。母は、おそらく、許嫁の旗本を慕っていたのであろうと思いますが、ひとつには、一日も早く大奥からさがりたかったのは、同輩のおそろしいにくしみを買ったからだと想像されます。母の出世があまりにも早すぎたからなのです。……母が出番の時には、お廊下に、|蝋《ろう》を|塗《ぬ》ってすべるようにしてあったり、草履の中に針がしのばせてあったり……いえ、もっともっと、ひどい仕掛が、母を、日夜苦しめ恐怖させたにちがいありませぬ。……わたくしが、大きくなってから、あるお|伽《とぎ》坊主が、そっと教えてくれましたが、わたくしを懐妊したおりのこと、御産所のお部屋にひきうつると、お祝いの赤飯の中に、毒が入れてあったと申します。……母が、わたくしを、無事に生みおとしたのが、ふしぎなくらいだと、そのお伽坊主は申して居りました。もし、わたくしが男子であったなら、おそらく今日まで育つ筈はなかったのです。……母は、わたくしが誕生をむかえた日に、自ら懐剣でのどを突いて果てました」
大奥
貞宝は、|固《かた》|唾《ず》をのんで、雪姫の告白をききおわった。
住吉屋を相手にして、田舎源氏を|罵《ば》|倒《とう》した矢先、この大奥の秘められた事実を知らされて、今更に、貞宝は、|暗《あん》|然《ぜん》となった。
江戸時代の庶民の虚栄心を充たすものは大名の生活であった。その|模《も》|擬《ぎ》は、彼らにとって無上の|贅《ぜい》|沢《たく》であった。そして、それを真似することだけで|驕奢罪《きょうしゃざい》に問われる制度は、庶民をして、ますますその栄耀栄華を|羨《せん》|望《ぼう》せしめたのである。
しかも――際立った資本の傾斜――貨幣の改鋳の度毎に、その財力をふくれさせていった民間|財《ざい》|閥《ばつ》は、その潜在勢力を次第に露出させて、結構ずくめの貴族生活を模することに専念した。それにつれて、御殿奉公をする若い女の数も殖えた。
この三、四十年こそ、その黄金時代であった。しかも、皮肉なことに、大名の奥間――|就中《なかんずく》、江戸城の大奥は、庶民の耳目から完全に|遮《しゃ》|蔽《へい》されていたのである。
女中方の警備にあたる御玄関のつぎの|御《お》|広《ひろ》|敷《しき》|添《そい》|番《ばん》の武士でも、奥間の模様は、全くわからなかった。奥間は、男子禁制で、医者を除く外、何人も進入することは出来ない。身分の高下に拘らず、幕臣ですらも、それをさぐることはゆるされなかった。
女中たちは、御杉戸より内の事は、一切口外しない誓詞を書いた上で勤めるのである。|長局《ながつぼね》の部屋部屋の話は、親子夫婦の間でも、漏らすことは出来なかった。
だからこそ、田舎源氏が、飛ぶように売れていたのだが、この小説とて甚だ|胡《う》|乱《ろん》な想像にすぎない。たかが幕府の小十人であった柳亭種彦が、なんの典拠もなく、妄想にまかせて描いた大奥風景が、出鱈目な絵そらごとにとどまり、秘められた残忍な陰惨な人間の|裸《ら》|群《ぐん》|図《ず》の影もとらえられなかったのは当然すぎる程、当然である。意匠のけんらんは、所詮、猿若町の舞台にもおよばなかった。貞宝は、田舎源氏に対する自分の評価が正しかったのをさとったのである。
公方の娘である雪姫が、自らすすんで、市井の巷へのがれ出ようとする反逆は、大奥の生地獄の中から燃えあがったひとすじの純粋な情熱であったのだ。
「雪姫さま、ようく、わかりました。……あなたこそ、ご自分のいのちを正しく守ろうとなすっていらっしゃるお方でございまする。貞宝、このような感動を受けましたのは、生れてはじめてと申しても過言ではございませぬ」
「わたくしに、町人のくらしができるでしょうか?」
「できますとも!」
「わたくしは、家事のことは、なにも出来ませぬ。炊事も|裁《さい》|縫《ほう》も……いえ、お金を使うすべも知りませぬ」
「なんの……そんなことは、|瑣《さ》|末《まつ》も瑣末、お気になさるにおよびませぬて――」
「でも――」
「お姫さま、この風流軒貞宝がおそばにいるかぎり、借金とりをしりぞける四十八手はもとより、長持ちさせる箒の使いかた、うなぎの裂きかた、大根の切りかた。――かたかた障子の九尺二間の|棟《むね》|割《わり》長屋で、笑ってくらす百科百般、ピンからキリまで、――ノミをひねりつぶす方法にいたるまで御伝授申上げましょうわい」
隠密回
|常盤《ときわ》|橋《ばし》内にある北町奉行所の隠密回の控部屋に、ぬっと入った与力谷村正蔵は、町人姿の同心を見出すと、ひくく、
「わかったか?」
と、尋ねた。
この隠密回の同心は、北町奉行でも屈指の腕ききであった。一見なんの取柄もない平凡な町人に化けているが、このほかに、女にも乞食にも役者風にもやくざにも化けてみせる変幻を充分心得た河合十郎次という男であった。
「このたびだけは、ひどく苦労いたしました」
「そうだろう。……で、雪姫の正体は?」
「それが……おどろくべきことには――将軍家の御|落《らく》|胤《いん》でございました」
「うむ」
谷村の眼光が怪しく光った。
この腕ききの同心を使って、須貝邸から消えた雪姫の素姓を調べることを思いたったのは、毛利春斎を責めた直後であった。
谷村は、春斎を首領とする幕府覆滅の陰謀計画をあばいて、自分の一世一代の大手柄にしたかったのである。梅津長門が、須貝邸へ忍び入り、室戸兵馬を斬った一件を、この陰謀計画にむすびつけた谷村は、当然、そこに住んでいた雪姫の存在へ疑惑の目を向けたのである。
|公《く》|方《ぼう》の落胤とは、|流石《さすが》に、夢にも考えなかったが、そうとわかってみれば、驚愕するよりさきに、
――そうか、わかった! 梅津長門は、春斎の指示により、雪姫を奪うために侵入したのだな。陰謀計画に、公方の落胤は、重大なるおとりになるからだ。……己の想像は、いよいよ確信をもっていい。
と、思いめぐらし、その自信で|北《ほく》|叟《そ》|笑《え》んだのである。
「雪姫は、いま、どこにいる?」
「いったん、井伊家へ戻り、しばらく、|謹《きん》|慎《しん》されて居りましたが、一昨夜、不意に、お屋敷を抜け出て、何処かへ、姿をかくされました」
「|誘《ゆう》|拐《かい》された気配はないか」
「それが、判然といたしません。……姫お一人で、抜け出られたとは到底考えられませんが、当夜は、松本幸四郎が招かれて居り、下婢にいたるまで見物をゆるされたと申しますから、そのすきに――手助けがあれば、抜け出ることは、さして困難ではなかったろうと察しられます」
「雪姫の行方をつきとめる。一刻も早いがよい」
「は、必ず――」
河合は、一礼して腰を浮かせかけたが、ふと、思い出して、
「須貝嘉兵衛も、井伊家から脱走いたしました」
「わかって居る」
「は?」
不審そうな視線へ、谷村は、険しい表情をかえして、
「須貝め、なんの目的があってか、春斎の家で、梅津長門を待伏せて居った。梅津は逃げ、須貝は、脚に負傷――その報告が、さっきとどいたばかりだ」
「奇怪なことですな。梅津の行先がどうして須貝に予測されましたか――」
「そのことだ。須貝は、誰かに命を受けたに相違ない。それも、調べなければなるまい。捕吏が一人、須貝に斬られたらしい。どうやら、須貝も、われわれの敵側に立って居ると|看《み》|做《な》してもいいぞ」
「そのつもりで働きましょう」
音もたてずに、河合が出て行くと、谷村は、腕を組んで樹木一本もない白砂を敷きのべた庭園へ鋭いまなざしを投げて、
「御落胤か――」
と、独言した。
この時、彼方の|吟《ぎん》|味《み》|場《ば》へ通ずる路から、一人の武士が、小者をしたがえて、帰って行くのを認めた谷村は、おや、と眸子を凝らした。
それは、評定所留役御目付小俣堂十郎にまぎれもなかった。
――御目付が、どうしてここに?――
奉行と会うのなら、殿中で、いつでもその機会がある筈である。わざわざ、小俣ともあろう者が、奉行所へ出向いて来たのは、容易ならぬ用件が起ったからに相違ない。
「谷村様――」
廊下をすべって来た小姓が、膝をついて、
「お奉行様がお呼びで御座います」
谷村は、頷いて、奥へあるいて行き乍ら、
――そうだ、奉行に、春斎一味のことをきかせておいた方がいいかも知れぬ。
と、考えた。
当時――。
北町奉行は、大草能登守高好であった。
谷村は、書院に入るや、高好の|沈《ちん》|鬱《うつ》な面持を一瞥して、
――小俣の来訪は、凶だな。
と、読んだ。
北町奉行
「谷村、……梅津長門を捕えるのは中止だ」
高好は、谷村から視線をそらしたまま、ひくく言いつけた。
谷村は、わざと|返《へん》|事《じ》をしなかった。
――小俣め! そんな勧告を持って来おったのか!
|憤《ふん》|怒《ぬ》が、|肚《はら》の底で、渦巻いた。
「やむを得ぬ。評定所の評議だからのう。梅津家は、禄こそひくいが、門地|系《けい》|譜《ふ》|優《すぐ》れ、罪人として断絶させるのは惜しい。ひとつには、五千余人の|御《ご》|家《け》|人《にん》が、梅津を捕えた時、どういう批判を加えるか、不穏なものも予知される。それが評定所の意嚮だ。材幹ある梅津が、|市《し》|井《せい》に|堕《お》ちたのも、遠因は、幕府の弊政と、古格を打破する英断のなさにあるのではないか、――そのような不満を旗本の若い連中が起す危険があるというのだ」
高好は、熱のない口調で言った。
「そうではありますまい」
谷村は、急に、|傲《ごう》|然《ぜん》と頭を立てて、反撥した。
「小俣堂十郎殿が、貧乏御家人たちの不満などを、歯牙にかける人物か人物でないか、拙者にわからぬとでもお思いですか?」
「い、いや――わしは、ただ評定所の――」
「評議を伝達された、と仰言るのですな。では、小俣殿は、室戸兵馬斬殺事件を不問に付する伺書を、はたして、起草され、正式に若年寄へ差出されましたか?」
「それは、きかぬ」
「左様でしょう、伺書は起草された筈がありません。……御目付は、その職百僚の|軌《き》|範《はん》たるべき地位にあります。挙止|偏《ひとえ》に|準縄《じゅんじょう》にしたがい、みだりに、この奉行所へなど、来訪されるわけがありません。それを、あえて来訪されたのは、必ずや、目付部屋にて評議されざる機密の指令をしなければならなかったにほかなりますまい。伺書が回覧され、御目付御一同異議なく下札を付して若年寄の裁下を仰ぐような事柄ならば、なにも、ここへ足をはこぶ必要はないのです」
「谷村! ことばが過ぎるぞ」
「勿論、お叱りを覚悟で申上げて居るのです。……梅津長門を捕えてはならぬ理由を、小俣殿は、説明なさらなかったでしょう?」
「む――」
高好は、内心、
――困った奴だ。
と、苦虫をつぶした顔になった。
「捕えるのを禁ずる理由を、拙者の方から申上げましょうか。梅津長門は、毛利春斎が企てた討幕運動に荷担したからであります」
「なんと?」
高好は、|愕《がく》|然《ぜん》となった。
「毛利春斎は、大塩平八郎の狂気の暴動を|使《し》|嗾《そう》しただけではないか」
「ちがいます! 春斎は、勤王の志を抱き、幕府の崩壊を期して居ります。吟味によって、白状させました」
「…………」
高好は、息をのんだ。
もともと彼は奉行の器でない人物であった。
事なかれ主義の、囲碁で日を送る|凡《ぼん》|庸《よう》な高好にとって、この報告は、目さきの暗くなるような衝撃であった。
「梅津長門は、春斎の直弟子であります。梅津が室戸兵馬を斬ったのは、この恐るべき大陰謀の一端のあらわれでありましょう」
「だ、だからこそ、目付部屋では、このことが世に公けになるのを、極力防ごうとしているのではないか。隠密裏に処理したいと――」
「それは、よくわかります。さればといって奉行所の今日までの必死の働きを水泡に帰せしめよという命令には、したがうわけにはまいりません。多分、小俣殿は、刺客をはなって、梅津を|暗《あん》|殺《さつ》し……それで、この事件を糊塗する積りでしょうが、これこそ、大黒柱から這い出たいっぴきの白蟻をつぶして、柱の中にうごめく白蟻の群からは目をそむける|因循姑息《いんじゅんこそく》の手段にすぎません。事態は、こんな手段では防ぎとめられないところにまで悪化して居るのです」
――須貝嘉兵衛を、討手としてはなったのは、小俣堂十郎であったか!
と、さとった谷村は、猛然たる|敵《てき》|愾《がい》|心《しん》をふるい起したのであった。
「谷村! 梅津を捕えるな、というのは、命令だぞ!」
高好は、苛立って、叫んだ。
谷村は、びくともしなかった。
「捕えるかわりに暗殺すればいいわけですな。小俣殿の刺客よりさきに拙者の輩下が梅津を倒せばいいわけですな」
「いかん! 手を出してはならぬ。……もし、討幕の陰謀があるなら、別の方面から|極《ごく》|秘《ひ》のうちに|探《たん》|索《さく》するがよい。梅津長門にかかわる事件からは、いっさい手をひくのだ!」
脇息をつかんだ高好の手が、ぶるぶる顫えているのを見おさめてから、谷村は、一礼して書院を去った。
――梅津は必ず、おれが捕える! 奉行の命令であろうが、御目付の指図であろうが、かまうものか! 梅津長門としてでなく、一介の|凶徒《きょうと》として捕えるのだ。その方法を膳立ててやるぞ!
御目付が文句のつけようのない巧妙な手段によって、梅津に縄をかけ、|囚獄《しゅうごく》にとじこめ、折を見はからって、幕府覆滅の陰謀を暴露し、老中を驚愕狼狽せしめる闘志は谷村の心中で、さらに|熾《し》|烈《れつ》となったのである。
――そうだ。ついでに、雪姫を捕えてやる。雪姫の素姓を知らぬふりして、挙動怪しい町の娘として捕えるのだ。……小俣はきっと、雪姫の素姓を知って居るに相違ない。井伊家から姿を消されて、|周章《あ わ》てていない筈がない。その裏をかいて、雪姫もまた、小伝馬町へぶちこんでやる。
破戒寺
湯島切通し坂上の北側に、根生院という古びた寺院がある。金剛宝山根生密院延寿寺と号し、|真《しん》|言《ごん》|新《しん》|義《ぎ》の宗派であった。江戸四カ寺の第一位である。
|春日《かすが》の|局《つぼね》の猶子である栄誉法印の創立した寺院で、本尊|薬《やく》|師《し》|如《にょ》|来《らい》の像は、仏工春日の作であった。家光が、ここを祈願所に命じたので、伝燈はますますかがやき、爾来、法脈ついで、高僧が出、済度がひろかった。
梅津長門のかくれ家は、ここであった。
梅津が、ここにひそんだのは、この寺院も、当時の幾多の寺院同様、すでに霊顕地を払い、|破《は》|戒《かい》|僧《そう》のすみかになっていたからであった。
あの日――江戸町二丁目の空をいろどる|紅《ぐ》|蓮《れん》をあとにして、あてもなくのがれのがれて、いつか池の端へ抜け出た折であった。
重そうな俵を、天秤棒でかついだ二人の僧にすれちがった。
その僧たちの、出会った瞬間の挙動の怪しさに気づく程、長門は落着きをとり戻していたし、俵から、ぽたりとしたたったのが血であることも見わける余裕があった。
長門は、咄嗟に、悪党らしいこいつらのすみかを、ねぐらに借りてやろうと思いついたのであった。
「坊主たち、墓場なら、方角がちがうぜ」
長門が、彼らをやりすごしておいて、声をかけると、四本の脚が、ぴたっと釘づけになった。
俵がにぶい音をたてて地べたへなげすてられた次の|刹《せつ》|那《な》、若い方の僧が、天秤棒を横なぐりにふりこんで来たのであった。
勝負は、もとよりあっけなかった。
若い方を膝の下へ組み敷いた長門は、夜目にも見苦しくわなないている老いた方を仰いで、
「お前さんが住職で、こいつが|納《なっ》|所《しょ》か。師弟ぐるになって、引導渡し、死骸をいったいどこへはこぼうというのだ?」
と、ずばりときめつけた。
ところが――。
腕が折られそうになって呻いていた納所の方が、
「旦那、……旦那は、も、もしや、梅津、さ、さまでは、ござんせんか?」
と尋ねた途端、梅津は声もなく笑って、すっと立っていた。
「おれの名を知っている奴なら、どうせ、人殺しぐらいはやりかねまい。貴様は、誰だ?」
「へ、へい。……以前、中津藩邸の中間部屋の|賭《と》|場《ば》で、お目にかかったことがございます根生院の納所で、立若と申します」
「面を見せろ」
月あかりに、その顔が見おぼえがあるのをたしかめた梅津は、
「そこに竹藪がある。死骸をその中にすてろ。すててもかまわん悪党の死骸だろう?」
と、|指《し》|示《じ》した。
「へい。こいつは本郷のごろつきで手塚の太吉という野郎でございますので――仰言る通り、野良犬のえじきに格好のしろものでございます」
長門は、二人が死骸を片づけるのを待ってから、根生院に身をかくまって欲しいと申出たのであった。
「旦那が、また、どうして追われなすっているんで」
「お前さんたちと同様、人を殺した」
こともなげに言いすてた長門は、ふと、耳をすました。
吉原で鳴りひびいていた半鐘はすでにやんでいた。火事はおさまったのであろう。
「おまけに、今夜、江戸町を火の海にして逃げる途中で、お前さんたちと出会ったというわけだ」
住職と納所は、梅津のあまりに静かな口調にからかわれているのではないか、と疑ったくらいであった。
「ところで、お前さんたちは、坊主のくせに、何故人を殺したのだ」
と問いつつも、長門は、そんなことに全く興味も沸かない、|空《くう》|虚《きょ》な|侘《わび》しい孤独感を抱いていたのであった。
この老僧――住職全念は、色好みであった。下谷広小路の桜屋という料理屋の娘を十日に一夜、根生院にしのばせていた。偶然、これを手塚の太吉という|破落戸《ごろつき》がかぎつけて、今夜娘のあとをつけて寺へ忍び入り、いきなり、|庫《く》|裏《り》へ飛び込んで、尻をまくった。
全念が、仰天して、十両さし出すと、
「止しゃがれ」と投げ返し、
「やい、色坊主、檀家がいいので種々と、噂は湯島の台より高い、この大寺の|御住持《おじゅうじ》さんが、あろうことかあるめえことか、女を引入れ寺を汚すてめえの罪を訴え出たら傘一本持ったきりで、ここを開くのは知れたこと、|女《にょ》|犯《ぼん》の|科《とが》で|晒者《さらしもの》だぞ。そうなるのも、またのがれるのもおれの口ひとつ。その口止めに十両ばかりの|目腐金《めくされがね》ですまそうたア、しゃらくせえ」
と大見栄きった。
そこへ、納所の立若が立入って、一応なだめ、太吉の要求百両をのみこんで、全念を奥へ招くと、
「野郎にくれてやるとおぼしめして、てめえにその百両下さるのなら――」
と、耳うちした。
全念は、百両でも二百両でも、それで事がすむなら、すこしも惜しくはなかった。根生院住職は、女犯と雖も、|晒者《さらしもの》になるだけの|追《つい》|放《ほう》でゆるされない重い地位にあったからである。
立若が、突如、おどりかかって、短刀をその胸に刺し通したのは、太吉が娘に強いた酌で、ほろ酔いになった時であった。
そして、上野の鐘が嫋々と丑三つを告げるのを待って、全念と立若は、太吉の死骸をかついで、寺内をぬけ出て、切通しを下ったのであった。
破戒僧の悪行に出会ったおかげで、長門が、わが身をかくす場所を見出したのは、三世諸仏の陰鬱な呪文にあやつられる儚ない因果にも似ていた。
ともあれ――。
この根生院の奥に身をひそめた短い日々のうちに、長門の心境は次第に澄んだのである。
師毛利春斎に会って、その指示を仰ぐ決意をしたのも、寺院の|静寂《せいじゃく》がもたらしたものであったろう。
破戒僧によってまもられる寺院でも、その静寂は、|煩《ぼん》|悩《のう》をはらい、無常のわが身を悟らせる霊気を含んでいたのである。
しかし――。
春斎の屋敷で、須貝嘉兵衛に傷を負わせて、ふたたび、根生院に舞いもどった長門は、もはや、この静寂の中に身をひたす心境ではなかった。
何か、荒々しい力が、四肢をいつでも烈しく活動させることが出来る切迫した生気を長門に与えたのである。闘志、ともいえた。では、なんの闘志か。師春斎をすくうための闘志か。それとも、須貝嘉兵衛という恐るべき強敵が出現したおかげであろうか――。
いずれにしても、長門は、すでに虚無の人ではなかった。
今宵――。
長門は、月光の降る一隅に|彳《たたず》んで、自分のいのちの充実を、じっとはかっていた。
鬱然とこもった欅の樹木の隙間を通してうろこ雲の切れめから、冴え冴えと降りくだる月光をあび、土色の|葉《は》|翳《かげ》をくまどらせた長門の顔は、たしかに、人知れず、強い意志の力を、はっきりと湛えていた。
――おれは、これから、なにをやるべきなのだ? やらねばならぬことがあるのだ……。それを待ってはいられぬ。おれの心の中に、火がついている。燃えあがろうとしている。……おれは、やらねばならぬ!
わが身にせまる強権の暴力に対する本能的な敏感な心のはたらきともいえたであろう。長門は、生れてはじめて、自分の力をためす意志を、しっかりとつかんだようであった。
|啖《たん》|呵《か》図
|茹《ゆだ》るようなむし暑さに、室内の十数人の女囚たちは、思いきりだらしなく、きままな格好で、ごろごろしていた。仰向き、横むき、腹這い、|海老《え び》のように曲ったの、膝をかかえて丸まっているの、頭をかかえて俯伏したの――十人十色の寝かたであった。物倦そうにあくびをつづけている者もあり、ぼそぼそ喋っている者もいたし、小声で小唄を口ずさんでいる者もあった。
一人は、肌ぬぎになって、背中を、壁へべったりと吸いつけていた。一人は、からだをふたつに折って、|膝頭《ひざがしら》へ|肱《ひじ》をたて、頬杖ついて、とりとめない想いに耽る様子。秘密ありげに、片隅で、額をつき合せている二人もいた。およそ、二十歳から五十すぎまで、それぞれ、ひと癖もふた癖もある|貌《かお》の女囚たちの、こうした光景は、この世の行きどまりの、あくどい|醜《みにく》さをむき出していた。
ともかく――暑いのだ。ただでさえ退屈し、神経が尖っているこの牢獄の雰囲気が、暑気に蒸れて、つぶれかかった|腫《はれ》|物《もの》のように、今にも、臭い|膿《うみ》を、どろどろと流しそうに|溷《こん》|濁《だく》し、絶望的に、狂的になっているのであった。
健康な肉体の所有者たちは、|疎通《は け》|口《ぐち》のない欲望を、いよいよたかぶらせ、もてあましていたし、|痼《こ》|疾《しつ》をもっていた幾人かは、目に見えて、弱りはてていた。花鳥は、その一人であった。
厳しい吟味の途中、花鳥は、突然、喀血したのであった。おかげで、吟味はまぬがれたが、急に、くわわった暑さに、立ってあるくのさえ、大儀な昨日今日であった。いや、立ち上る力さえ失せていた……睡りたかった。何も考えずに、ただ死んだように睡っていたかった。
ここ十日間あまり、お呼出しがないが、それは、花鳥の肉体が、これ以上、|残虐《ざんぎゃく》な拷問に堪えられなくなっているのが、わかったからであった。人一倍勝気な女であったが、肉体は、世の風雪にきたえられていない、華奢なつくりであった。烈しい胸の痛みと、いたるところに受けた、|生《なま》|傷《きず》の|熟《う》んだ|疼《うず》きで、夜は殆ど睡眠のとれなくなった肉体は、酷薄な吟味役人たちの目にも、あまりにいたいたしいものに映ったのである。
……じっと、横になっている。これは、花鳥にとって、苦痛を堪える意味にすぎなくなっていた。
その傍で、片肌ぬぎになって、壁によりかかった女の、ひくく口ずさむ|流行《はやり》|唄《うた》が、花鳥の耳に、遠いものにひびいていた。
粋か不粋か知らないが
髪は結いたて、刷毛いがめ
|博《はか》|多《た》の帯の|貝《かい》の口
横っちょにむすんで、尻ばしょり
パッチはぴっちり江戸仕立
|鬢《びん》の毛にさす爪楊枝
ほんに――いなせじゃないかいな
この女も、もとは、吉原の|振《ふり》|新《しん》だった。自分では、妹女郎を五人も突出して、二十一枚の上草履をはいた全盛の花魁だった、と自慢していたが、それは、多少怪しいとしても、むかしは、渋皮のむけた佳い女であったろうなごりは、まだとどめていた。
「……ねえ、花鳥、ほんとに、吉原はよかったねえ。……わたしのところへかよった客の中でもさ、堀留の殿村屋の番頭さんは通人中の通人だったねえ。泊ったあした、半桶と|嗽《うが》い茶碗にぬるま湯をさし出すとさ、その湯で、嗽いをして、のこりでさっと顔を洗う、それを、一滴もこぼさずにやってのけたのは、あの人だけさ。忘れられないねえ」
「…………」
花鳥は、|目《ま》|蓋《ぶた》をとじて、微動もしない。
脳裏を、ちらっと、梅津長門の|俤《おもかげ》が|掠《かす》めたが、それは泡のようにはかなく一瞬にして消えはてた。
「……それよりもさ、わたしの全盛の頃、今吉って、小いきな、佳い男前の|鮨《すし》うりがいてさ、そりゃもう、ふるいつきたいほどいい声だったよ。あのぴっちり食い込んだ坐りも出来ないような紺のパッチ、白桟留に、黒八丈の襟の半纏かけてさ、帯は平ぐけ、白足袋、麻裏草履……こうして目をとじても、はっきりとうかんでくるよ。ちょいとやぞう[#「やぞう」に傍点]をきめこんで、白木の三重箱をななめにかついで、……すしや、すうしい……小はだのすうしい――」
「おお、いやだ! へんな声出すない」
と、むこうから、とげ立った声がとんだ。
「寒気がして、いいあんばいだ」
「ちょっ! てめえたちに、吉原のいなせがわかってたまるかい」
「なんだと!」
むっくり起きあがって、大あぐらをかいたのは、四十前後の|白粉《おしろい》|皺《じわ》が、いちめんに寄った女であった。赤いものがはだけ、|太《ふと》|腿《もも》の奥まであらわだった。
「いなせな、新内語りだい! 鮨うりじゃねえや、ああらっちもねえ!」
|突《つっ》|慳《けん》|貪《どん》に、弥次りかえした。
「先刻ご承知だい! |去《い》なせともなきその心……ってんだ。新内が、三味線すてて、重箱かついだのを知らねえか。坊主|欺《だま》して|還《げん》|俗《ぞく》させて、小はだの|鮨《すし》でも売らせたい――って、てめえなんざ、|辰《たつ》|巳《み》のバラガキが、きいたこともねえだろう」
「ふふん。きいたが自慢かい、笑わせるね。二朱女郎の|銅盥《かなだらい》づらしやがって、ちゃらっぽこのひょうたくれ[#「ひょうたくれ」に傍点]にさんざなめたりしゃぶったりされた挙句、腹がへったらいくさはできねえとかなんとかほざいて、金切声で鮨うりを呼び込んだんだろう。へっ大方、パッチに見惚れて、小はだがのどへひっかかって、目玉を白黒させやがったんだろう。うぬなんざ、火事か地震でもありゃ、湯文字も忘れ逃げ出す組だろう」
|伝《でん》|法《ぽう》で、|鉄《てっ》|火《か》を誇る|辰《たつ》|巳《み》|芸《げい》|妓《しゃ》の、なれの果てであった。小気味よく|啖《たん》|呵《か》がとび出した。
「ちょっ、笑わせるのはこっちだい。舟虫をつくだににして、しょっぱく育ちゃがって、河岸の棒杭をさんざ突っこまれた十二匁の|伏《ふせ》|玉《だま》たア、こっちは、身柄がちいとばかりちがわアな。どんなお大名でも、駕籠で、|大《おお》|門《もん》はくぐれないんだ。野暮な大小は、茶屋へ預けなけりゃ、登楼出来ないんだ。日本国中、殿中よりほかに、こんな御禁制の世界が、またとあろうかい、といいたいね」
「ふふん。てめえ自身が、大門からひと足も出られねえ籠の鳥だ、と気づかなかったんだから、お目出度いやね。夜桜や|俄踊《にわかおど》りの|馬《ば》|鹿《か》|囃《ばや》しや、たかが二三町のねりあるきで、上総木綿や、とんちき野郎を呼びよせて、欲にからんだ|偽《にせ》|達《たて》|引《ひき》と、客の身分で色の|諸《しょ》|分《わけ》をやるような、野暮くせえ不人情は、はばかり乍ら、辰巳芸者は、もちあわせていないんだよ。みやがれ、吉原田圃に孔雀がおりたつもりでいやがって、実は、からすのどじょうあさりじゃねえかよ。|語《ご》|呂《ろ》あわせにもあらア、壁は孔雀を塗った壁、|打《うち》|掛《かけ》きたは女郎ども、金は女房を売った金、打取ったるは舅どのってね。そんな無理した金を、歯の浮くような嘘っぱちの殺し文句でまきあげるような、あくどい|真《ま》|似《ね》は、辰巳の芸妓衆は、舌が抜けてもやらねえよ。刀を取上げなけりゃ、嘘でかためた女郎にゃおっかなくて相手が出来ねえんだろう。佐野の次郎左衛門が、さぞかし地獄でにが笑いをしているこったろうよ。ざまアみやがれ!」
冥土
吉原と深川――北里と辰巳。このきっこう対立は、当時、最もはげしかった。吉原は、元禄・享保の全盛を過ぎて、見てくれの華美だけのこして、遊女の気品を失ってひさしい。それにひきかえて、文化・文政にいたって、深川岡場所は、急速に発展した。江戸から東北の船が、米柴をめぐらし、魚塩を漕し、|舳《じく》|艫《ろ》あいふくんで、深川に達したからである。
吉原は、いわば、紅にして濃い。深川は緑にして淡い。
|紅緑濃淡《こうりょくのうたん》の利は、客の|嗜《し》|好《こう》|心《しん》に染みて、深川であそぶ者は吉原を蔑し、吉原客は深川を侮った。この対立は、こんな陰惨な牢獄にまでおよんでいたのである。
「畜生っ!」
女郎あがりは、悲鳴に近い呻きをあげて矢庭に、芸妓崩れへつかみかかろうとした。
「うるさいっ!」
つみあげた畳の上から、牢名主の、鶴の一声が落ちた。
「この暑いのに、この上いらいらさせられて、たまるかい! いい加減にしな」
と、きめつけられて、女たちは|不《ふ》|貞《て》|腐《くさ》れると、もとの姿勢にもどった。
「おしのもおしのじゃないか。たかがむかしののろけに、大人気もない半畳を入れて、喧嘩を売ってさ、そいで辰巳芸妓でございの、鉄火でございの、きいてあきれらアね。埒もねえ」
吉原を|罵《ののし》られて、名主も、心がおだやかでなかったが、相手に見すかされるのをおそれて、それ以上、くどくは言えなかった。
ふたたび、むし暑い静けさが、おとずれた。
花鳥は、高い窓へ、遠い|眼《まな》|眸《ざし》を投げていた。
透明に熔けた炎天を、|旱《ひで》り雲が、目に見えない程の速さで移って行く。今年は、新緑から、いきなり夏に入る、狂った気候であった。雨のない年の暑さは、おそらく、数十年ぶりであろう。
――あの空の下に、ひろい野や山がある……自由な人々が働いている……あの空の下にいる人たちは、みんな幸せそうだ……。
花鳥は、ふかい溜息をついた。
――長門さんはどうしたろう?
入牢した当初は、想い出そうとしても想い出せない長門の俤であった。
喜三郎が、自分と同じく、この小伝馬町にとらわれていると知ってから、急に、四年前の烈しい純情の行為が甦って、なつかしさに胸をしめつけられたものであったが……。
日の経つにしたがって、花鳥の心中にはふたたび、長門を恋うせつなさが|疼《うず》いていたのである。
と――。突然、花鳥と反対側の隅から、けたたましい悲鳴があがった。
「な、なんだい、こいつ! 暑さに負けて気が変になりゃがった」
側の女囚に|邪《じゃ》|険《けん》に小突かれ乍ら、真青になって、むやみに首を横に振ったのは、部屋でもいちばん人のいい「おぼこ」だった。彼女は、最年少だったので「おぼこ」と呼ばれていたが、|舟饅頭《ふなまんじゅう》で、枕さがしの常習犯だった。
「し、死んでるんだよ、婆さんが――」
「な、なんだって――」
皆の視線が、一斉に、「おぼこ」の横に、膝を折って、拝むような格好に俯伏した老女囚へ注がれた。
「手、手へ、さわったら、ひやっとしたんだ。と、とっくのむかしに死んでるんだよ」
ぞろぞろと|這《は》い寄って来た連中に、「おぼこ」は、驚愕のさめぬ面持で、|甲《かん》|高《だか》い声で言った。
だが、誰一人、手をふれて、仰向かせようとする者はいなかった。名主が、下りて来て、静かに抱き起した。
頭髪は、殆どまっ白で、額や口の両脇には、ふかいふかい苦労皺が刻まれていた。
それにしても、不思議に、安らかな死顔だった。誰も気づかぬうちに、こっそり魂をあの世へ旅立たせた|儚《はかな》い穏かさを、ほんのりと湛えていたのである。
名主は、じいっとその顔を瞶めていたが、やがて、そっと仰向けに寝かせると、
「牢番にゃ、あしたの朝まで、黙っているんだよ」
と、ひくく告げた。
「可哀そうな婆さんさ。一生苦労のしつづけで、放蕩息子のおかげで、こんなところへ入れられたんだ。ここの仲間じゃ、|極《ごく》|楽《らく》へ行けるのは、この婆さんだけだろうが……せめて、通夜をして、|成仏《じょうぶつ》を祈ってやろうよ」
|沁《しみ》|々《じみ》とした名主の口調に、流石に、皆は|黙《もく》|念《ねん》とした殊勝な表情であった。
死――これだけが、この女たちにとっては、最後にのこされた厳粛な現実のようであった。
「おぼこ」が、急に、すすり泣いた。他に誰も泣く者はいなかった。
「ここで、死んだら、どうなるんです」
花鳥は、そっと、となりの年配の女囚にきいた。
「死んだら……|非《ひ》|人《にん》部落へさげ渡しさ。きれいな若い女のしかばねなら、なぶりものにされるとさ」
|冷《れい》|淡《たん》なそのこたえに、花鳥は、かすかに身顫いした。
――わたしも、いずれ、ここで死んでしまうだろう……。
遠い悲しみが、ひっそりと、胸の奥で、よどんでいた。
虚無僧姿
木挽町の、中津藩邸の裏にある小さな居酒屋「つや」は、月に一二度、まったく客のない、淋しい晩があるというが……今夜が、それだった。ここで、はじめて、梅津長門と三日月小僧庄吉と佐原の喜三郎が、枯葉が吹き|溜《だま》りに落合うように、寄りあって、須貝嘉兵衛邸へむかって出て行った夜から、もう半年がすぎていた。
汐香をふくんだつめたい夜風が吹き込んでくる晩秋の宵――。ぼんやりと、|頬《ほお》|杖《づえ》ついていたおかみは、ふと、遠くから、尺八の音がひびいてくるのをきいた。
「こんなところを流して……商売になるまいに――」
尺八の音は、次第に近づいて、おもてでぴたりと、とまった。
おかみは、|物《もの》|倦《う》げな視線を、敷居の外に立った|虚《こ》|無《む》|僧《そう》の下半身へなげて、
「不景気だよ。ごらんの通りさ」
と、言った。しかし、虚無僧は、ぬっと足を踏み入れた。
「なんだい、お客さんかい――」
おかみさんが、腰を浮かせると、虚無僧は、天蓋をぬいだ。
「どうだ、似合うか、おかみ――」
「ま、まあ……梅津の旦那さま!」
おかみは、|瞠《どう》|目《もく》して、また、ぺたりと腰をついた。
「ど、どこに、か、かくれていらっしゃったのです」
「破戒坊主の寺にな。……おかげで、こっちも、このような|袖《そで》|乞《ごい》のていたらく――」
長門は、笑って、なつかしげに、店の中を見やった。
おかみは、不安な目を、外へなげてから、
「旦那さま、大丈夫でございますか?」
と、声をおとしてきいた。
「五尺の身の置きどころに困る程、世間が狭くなると、いっそ妙な落着きが出来る……誰かが|跟《つ》けている気配は、いつでもあるぞ」
長門の澄んだ|双《そう》|眸《ぼう》を、おかみは、ふしぎなものに見た。このさむらいが、こんなに気品のある|清《せい》|雅《が》な表情をもっていようとは、思わなかった。暗い、険しい印象だけが、頭にこびりついていたのである。
「旦那さま。……庄吉さんが、もう十ぺんも、見えましたよ」
おかみは、さらに声をひくめて、
「今夜も、みえるかもわかりません」
「うむ」
「なんですか……どうしても、旦那さまにお会いしなければならない用件があるとか――そりゃ、もう、やっきになっているんでございますよ」
この時、裏戸が、こつこつこつと、三つ合図らしいたたきかたをされた。おかみは目をかがやかせた。
「|噂《うわさ》をすれば、|影《かげ》――。旦那さま、庄吉さんでございます」
長門は、それよりも、急に、神経を、鋭くおもてにくばる様子をしめした。たしかに、おもてに、何者かが迫る気配があった。そのために、おかみにきいて、裏口から庄吉が、|歓《かん》|喜《き》の面持でとびこんで来て、何か言いかけようとするのを、長門は、すばやく、手をあげて制した。
「旦那……跟けられたんですかい?」
顔すれすれに寄って、庄吉が、ささやくのへ、長門は、頷いてみせた。
「用件を云え!」
「旦那、雪姫さまが――」
「なに?」
長門の顔を、さっと|驚愕《きょうがく》の色が走った。敵に迫られ乍らも、悠然と落着きはらっている態度が立派であっただけに、その驚愕の色は、かえって庄吉をまごつかせた。
「雪姫が、どうした?」
「井伊さまのお屋敷から、あっしがおつれ出しいたしやして……いま、貞宝師匠の家に、いらっしゃいます」
「…………」
信じられないくらい意外なしらせであった。ふたたび生きて会えるのぞみをすてていた長門である。
――あの娘が……貞宝の家にいる。行けば、すぐ会える!
長門は、こんなことがあり得るだろうかと、もう一度自分をうたがった。
「姫さまは、旦那に、ぜひ、ぜひ、会いたいとおっしゃるんでさ。……姫さまは、それを、たったひとつの希望にして、生きていらっしゃいますぜ」
「そうか――」
長門は、目を伏せ、なにかに訴えるように、じっと動かなかった。たった今まで、姫が自分に会いたいと考えていようなどとは、夢にも思わなかったにも拘らず、庄吉からそう告げられてみると、長門は、自分もそれをまえから期待していたような、胸のはずむよろこびをおぼえた。
「庄吉」
「へい――」
「会いに行くには、まず、今夜を生きのびねばならん!」
そう言って、長門は、きらりと、おもてを|一《いち》|瞥《べつ》した。
暗い往来を、音もなく、黒く影が三つ、四つふさいでいたのである。殺気は、店の中まで、ひしひしとこもっていた。
雨の中
「庄吉!」
「へい――」
「これから、お前は、|日本堤《にほんづつみ》へ逃げるか」
「なんの――、松坂町へ|韋《い》|駄《だ》|天《てん》走りでさ。あっしはお姫さまに、梅津の旦那を、きっとさがし出しておつれいたしましょう、とお約束したんですから……一刻も早く、お知らせしなけりゃならねえんだ」
「そうか……だが、今夜は危険だぞ」
「明日のわかっている生命じゃありませんや。今夜のことは、今夜のうちに片づけてえ」
「では……お前は、八丁堀を抜けたなら、すこし遠まわりだが、新大橋へ出ろ。|御《お》|舟《ふな》|蔵《ぐら》をさけて、まっすぐつッ走って、|御《お》|籾《もみ》|蔵《ぐら》をまわり、二ツ目の橋から松坂町へ抜けろ」
「合点! しかし、旦那は、屹度来て下さるでしょうね?」
「うむ、行く。道順は、あの連中を片づけてから考えよう。舟なら、一番安全のようだな――」
これだけの会話が、敵影を前にして、すばやく、ささやきかわされた。
「じゃ、お先に行きやす」
「気をつけろ」
庄吉が、音もなく裏口へ出て行くや、長門は、やおら腰をあげて、
「おかみ、今夜は、戸閉りをして寝た方がよさそうだぞ」
と、うすく笑いかけた。
おかみも、すでに、|殺《さっ》|気《き》におびえていて、声をのんで、頷いた。
この時、かすかな雨の音が、屋根をたたくのを長門はきいた。外の暗さでは、それと見わけられなかったが、すこし前から音もなく降っていたのであろう。長門はついと戸口に寄って呼吸をはかった。
|往《おう》|還《かん》をふさいだ三つの黒影が、すっと動いた。
抜きつれた刀身のひとつが、店の明りを、きらっと反射させた。
一歩――外へ踏み出した刹那、はめ板へかくれていた一人が、無言のまま、横から、抜き打ちに斬りつけた。
ぱっと体をひらいて|躱《かわ》した長門の右手には、脇差があり、その敵は、呻いて、濡れた地べたへうずくまっていた。
長門は、|天《てん》|水《すい》|桶《おけ》を背に、下段に構えて、
「奉行所をだし抜いて、おれを斬ろうとするお主らも、やはり|公《こう》|儀《ぎ》の手先か」
と、静かな口調で尋ねた。
もとより、返辞がきけるものとは考えていなかったのだが――
「左様」
と、一人がこたえたのは意外であった。
「その理由は?」
「知らぬ!」
「知らぬ? それは、おかしいな」
長門は、余裕のある口調でいったが、全身を、|微《み》|塵《じん》も|隙《すき》のないものにしていた。三人の敵は、いずれも、選ばれた使い手と見てとれたからである。
「須貝嘉兵衛は、理由は知っていて、申せぬと拒絶したが……お主たちも、須貝と同類であろう。理由を知らずに、生命を賭すのか?」
ほんのすこしずつ、位置を移しはじめる敵たちに油断なく目をくばりつつ、長門は、なおも、いった。
「命令を|拒《きょ》|絶《ぜつ》出来ぬ|暗《あん》|殺《さつ》か――。すると命じた者は、御目付あたりと推察しても、狂いはなさそうだ。……それは、それでいい。ただ、こっちが知りたいのは、その理由だ!」
「問答無用!」
と、叫んだ右の敵が、猛然と襲いかかった。
その刀を、どう避けたか、だだだっと前をおよがせておいて、長門は、気合すさまじく、攻撃にうって出た。
「やあっ!」
「おうっ!」
|誘《さそ》いの掛声につられて、上段から斬りつける敵を、一足ひいて、長門は、
「ええいっ!」
と、|袈《け》|裟《さ》がけに斬り伏せた。
|血《ち》|汐《しお》の|飛沫《しぶき》が、顔にかかり、断末魔の叫びが闇をつらぬいた。
「とうっ!」
左の敵の刀が、かすかな一条の白光を閃かせた瞬間、長門は、倒れた者を飛びこえて、有利な位置をとっていた。
敵は、一瞬にして味方三人を斬られた憤怒で、
「や、や、やあっ!」
と、けだものじみた|唸《うな》りを|迸《ほとばし》らせて、殺到して来た。
八双の豪剣が、きえーっと風を切る音たてて、長門の頭上へ落ちた。
次の刹那、長門のからだは、敵の左わきにより添うように、ぴたっと直立していた。
|胸《むな》|板《いた》へ、ぐさっと|切《きっ》|尖《さき》を突き立てられた敵は、だらりと刀をさげて、うなだれた。
長門は、のめりこんでくるからだを、ぐうんと押しかえした。
ぐらっとのけぞる胸から、ぐいっと刀を抜きとった長門は、はじめて全身が、ぐっしょりと濡れているのをさとった。
雨は、かなり強く降って来たのである。殆ど音のないのが、奇妙なほどであった。
長門は、刀身をぬぐい、鞘におさめて、ゆっくりとあるき出した。
しかし、ものの十間も歩かぬうちに、長門の耳は、かすかな雨音のほかに、むこうの|暗《くら》|闇《やみ》の中にべつの|気《け》|配《はい》をききとっていた。
――まだ、人が伏せている。
暗殺の手段は、実に|周到《しゅうとう》に|計《はか》られていたのである。
四人の味方が倒されるのを、黙って見のがしておいて、すぐにあらわれぬところをみると、この暗殺の命令者は、なみなみの人物ではないとわかった。
――多いぞ! 五六人はいる!
長門は、背筋に、かすかな|戦《せん》|慄《りつ》をおぼえた。もし、以前の長門であったならば、捨鉢に、自分から、斬り込んで行ったであろう。
その|愚《ぐ》を|避《さ》けるだけの、生きる目的を、長門は、今、抱いていた。
不意に、長門は、ぱっと身をひるがえして走り出した。
芸妓船
一艘の屋根船が、ゆっくりと、大川をのぼっていた。
右の河岸の、佐賀町の家並から、ほんのりと明りが洩れているほか、ひっそりとした夜である。きこえるものといっては、|櫓《ろ》の|軋《きし》りと、時おり舞い立つ|鴎《かもめ》の|翅《は》|音《おと》ばかり。
雨は、あがり、雲行は速かった。その雲がきれて、月がさせば、眺めは変ろうが、この暗さは、妙に陰鬱であった。
汐がさして来たので、舟足は軽いのだが岸の杭をうつ波の音が、いつになく高い。
屋根の下で、むかいあっているのが、|評定所《ひょうじょうじょ》御目付小俣堂十郎と、深川芸妓尾花屋|美《み》|代《よ》|吉《きち》であった。
堂十郎は、今日、美代吉をつれて、木挽町の芝居茶屋梅林から、河原崎座を見物に行ったのである。
狂言は「隅田川花御所染」で、松本幸四郎が、上方へ登るなごりとあって、芝居は評判をとっていた。
|閉場《は ね》てから、堂十郎は、何を考えたか、神田花房町の船宿から、この屋根船をまわさせ、大川をのぼることにしたのである。
芸妓をつれて芝居を見物するというようなことは、小俣堂十郎として、かつてないふるまいであった。
物腰柔かく、|声《こわ》|音《ね》も|穏《おだや》かな、一見平凡なこの武士は、客としては好ましいに相違ないのだが、美代吉は、なぜか、|馴《な》|染《じ》めないものをおぼえていた。内に隠された底知れぬ不気味なものを、本能的におそれたのかも知れぬ。
「どちらへ、いらっしゃるんです、旦那」
「うむ」
頷いただけで、堂十郎の眸子は、なにか別のことを考えている色だった。
美代吉は、ふっと、なんとなく、背筋に寒いものをおぼえた。
それは、木挽町の華かな明るい舞台と騒しい見物の群から、急に遠ざかって、こんなまっくらな大川の上へ来た淋しさとは、また別種な性質のものであった。
さっきから、堂十郎は、|盞《さかずき》へは手もつけず、|銀《ぎん》|煙管《ぎせる》を|手焙《てあぶり》で吸いつけては、雲井の煙りを、ゆるやかに舞わせているきりでひと言も口をきこうとしないのだ。
――やっぱり、あたしゃ……このさむらいは、好きになれない。
つきはなすように胸の裡で呟いた美代吉は、心と反対に、ごうふく[#「ごうふく」に傍点]へ色糸でおらんだ模様を刺繍した帯から、すっと右手をぬきとって、
「なにか、唄いましょうか」
「うむ」
美代吉は、三味線をとりあげた。
堂十郎は、はじめて、ちらりと、その美しい姿へ、一瞥をくれた。
|艶《つや》やかな髪を、水の垂れるような好みの島田にむすんで、ふちなし甲の|笄《こうがい》の野代へ丁貝を|象《ぞう》|眼《がん》した政子形の櫛をみせ、糸織の藍三筋の一つ小袖の、膝をすこし崩した仇姿は、年より地味過ぎた着付けをかえってなまめかせ、ふっくりとした軟かさを含んだ官能的な美しさである。
宵にまち
夜中にこがれ
明くる頃
せめて夢にとひじ枕
アレ 耳やかましい鳥のこえ
ほんにしんきな
ことじゃいな
船は、大きく、黒々と横たわった新大橋へ来た。
|艫《とも》が、すうっと吸いこまれるように、橋の下へ入ろうとした途端――。
ひとつの黒影が、欄杆の下から、こうもり[#「こうもり」に傍点]のように、音もなく艫へ落ちた。
|幽《ゆう》|鬼《き》が|掠《かす》めた、といっても、その黒影の巧みな飛び降りぶりでは、過言ではなかった。
屋根の下の堂十郎も美代吉も、ほんのわずかな動揺を感じただけで、船頭が|杭《くい》でもさけた|櫓《ろ》|加《か》|減《げん》としか思わなかった。
橋上にも、ほかに人はいなかった。
左右の河岸は、大小名の屋敷ばかり。これから先は御舟蔵で、さらにさびしくなる。
船が、橋をくぐりぬけるや、|遽《にわか》に、河面があかるくなった。
「あら、月が出ましたよ、旦那」
美代吉が、あかるい声で、夜空を仰いだ。
この時、すでに艫へ飛び降りた男は、船頭にあて身をくらわせその半纏をうばって、なにくわぬ様子で、櫓をこいでいたのである。
「おい、船頭――」
ふいに、堂十郎が、顔をひきしめて、声をかけた。
「船をむこうの岸へつけろ」
「へい」
と、|返《へん》|辞《じ》はあったが|舳《へ》|先《さき》は、すぐに、その方角へ向けられなかった。
その河岸の――大きな屋敷の塀に沿うて、五つ六つの提燈が、|狐火《きつねび》のように、あわただしく走っていた。
堂十郎は、それを発見して、船頭に命じたのであった。
「はやく、せぬか!」
堂十郎は、|苛《いら》|立《だ》って、叫んだ。
|偽《にせ》|船《せん》|頭《どう》は、肚をきめたらしく、舳先を、ぐうっとまわした。
船が、波に洗われている段々の石をこすって、とまると同時に、それにむかって先頭の提燈がかけよった。
提燈をかかげているのは、覆面の身軽な装束の武士であった。
「どうした!」
堂十郎は、ひくく、しかし|鋭《するど》く尋ねた。
「は――。きゃつめ、さる者、第一陣四名ことごとく斬り伏せ、われわれ伏兵に気づくと|脱《だっ》|兎《と》の如く――。申しわけございませぬ」
「こっちへ、逃げたか」
「そこの新大橋までは、たしかに、その影を追いつめたのでありますが――」
「川へ飛び込んだ音は、きかぬぞ!」
堂十郎は、相手のごまかしをゆるさぬ|威《い》|圧《あつ》の口調だった。
「しかし、たしかに――」
「空へ舞い立って、雲にかくれたか」
堂十郎は、吐き出すように言ってから、振り向いて、
「美代吉、一人でかえれ」
と、言いすてると、河岸へあがっていた。
おくり狼
「ちえっ! なんだい――」
いまいましげに|呟《つぶや》いた美代吉は、堂十郎のすてた銀煙管を|把《と》りあげると、一服つけた。
「女なんて、鈴虫ぐらいにしか思っていやがらないんだ、あいつ。|退《たい》|屈《くつ》しのぎに鳴かせておいて、都合がわるけりゃ、ぽいと川へすてちまうんだ……ああ、いやだいやだ。芸妓なんて、つくづくいやになっちまったよ」
|放《ほう》|俗《ぞく》な|立《たて》|膝《ひざ》となると、美代吉は、首をのばして、艫をすかし見た。
「吉つぁん――」
それにこたえず、偽船頭は、河岸からすこしでも遠ざかろうと、腕に力をこめていた。
「吉つぁん――」
美代吉は、ゆらりと立って、上半身をのぞかせて、
「月が出たんだしさ……どう、もういっぺんひきかえしてさ、石川島のむこうで、月見の宵としゃれようか。おまいさん釣竿を持っているんだろう。いつか、おいらは得意だと自慢してたじゃないか」
だが、それにも、声はかえされなかった。
船はぐんぐん、|御《お》|舟《ふな》|蔵《ぐら》|側《がわ》へむかって、こぎすすめられてゆく。
「ちょいと、おまいさん、いつから|唖《おし》になったんだい」
と、とがめた途端であった。
美代吉は、あっとなった。
――ちがう! 吉つぁんじゃない!
頭のてっぺんから、足さきまで、おそろしい|戦《せん》|慄《りつ》がつらぬいた。
こんな奇怪なことがあり得るだろうか。信じられないことだった。
ごくっと|生《なま》|唾《つば》をのみこんだ美代吉は、全身のわななきを必死に怺えて、もういちど相手をたしかめようとした。
それにこたえるように、偽船頭は、顔をこちらに向けた。
「静かにしてもらいたい」
「お、おまいさんは、い、いったい、誰だい?」
「あの提燈に追われていた者だ。……成程指揮をした者が、この船にいたとは、偶然だったな」
あとの言葉は、|独言《ひとりごと》だった。
「おまいさんは、ど、どこで、吉つぁんと入れかわったんだい?」
「新大橋から、飛び降りた」
「まア!」
「船頭は、このむしろの下でねむっている」
「まるで……仙人みたいな早わざじゃないか。ちっとも気がつかなかった。おまいさん忍術つかいかえ?」
「人間、いのちがけになると、なんとか、やれるものだな」
月光をあびて、頬かむりの中の顔が、微笑した。
「ところで、聞きたいが……あの武士は、誰だ?」
「え? おまいさん、ご自分を斬ろうとする相手をごぞんじないのかえ?」
「知らないのだ。おかしな話だ」
「教えてあげましょう。|評定所《ひょうじょうじょ》のおえらい方でさ、小俣堂十郎さま」
「小俣堂十郎か――そうか」
長門は、|呻《うめ》くように言った。
「あの男なら……あれだけ周到な手法をとるのはふしぎはないな」
おそるべき人物にねらわれたものである。しかし、はっきりと相手がわかってみれば長門は、あたらしい闘志が、熱湯のように四肢にあふれるのを感じた。
――よし! 小俣ともあろう男が、おれを斬らねばならぬ理由を、つきとめてやる。そして、たたかってやる!
その決意を、肚におさめた長門は、静かな声音で、
「姐さん、どこへ、船をつけるんだ? ひきかえすのか」
「家は、|蛤町《はまぐりちょう》だけど……おまいさん、大丈夫なの? あいつら、新大橋を渡って来たじゃないか」
「おまえにひとつかくまってもらおうか」
「わけと次第によっては、ね」
「おれは、以前、おまえの|手《て》|古《こ》|舞《まい》を見たことがある」
去年の夏――八月十五日の深川の祭礼に――。
長門は、仲町から出た|羽《は》|織《おり》|芸《げい》|妓《しゃ》の手古舞を人に押され乍ら黒江町で見物していた。
目もさめるような華やかに着飾った行列の中に、ひときわ目立った女が長門を、|惹《ひ》きつけた。
|豊《とよ》|国《くに》の絵で見るような、きりりっとしまった顔だちの、|男髷《おとこまげ》に結った伊達姿。友禅に錦糸で縫いとった|縮《ちり》|緬《めん》の襦袢を、片肌ぬいだ下に見せて、紺の腹掛の上へ掛守の|銀鎖《ぎんぐさり》、花笠を背負って、黒骨の扇で陽をよけ乍ら、鉄棒の音をひびかせて行った芸妓が――この美代吉であった。
はっきりと脳裏に焼きついた俤を、ゆくりなくも、この異常な立場で見出した長門は、因縁めいた感慨にとらわれていたのである。
「おまいさんは、浪人者かえ?」
「いや、旗本だ」
「お名まえは?」
「梅津長門」
「あたしは、蛤町の尾花屋の美代吉といいます」
「船をかえすぜ」
「あい――」
長門は、今夜のうちに、松坂町の貞宝の家へ行くことをあきらめた。
敵が、小俣堂十郎である以上、追跡をあきらめる筈がない。
すでに、八方に指令をとばしたに相違ない。たちまちにして、このあたり一帯へ、警戒の網をはる力をもっている男なのだ。むしろ、奉行所の捕吏陣よりも、逃げ途をふさぐ方法は|巧妙《こうみょう》であるに相違ない。秘密の|輩《はい》|下《か》の数は、江戸市中、どこででも、揃えられる組織ができている、と長門も、かねてきいていた。
「美代吉。すまないが、おくり|狼《おおかみ》だ。今夜は、はなれないぞ」
おんなの家
梅津長門は、芸妓美代吉のさしずのままに、上ノ橋をくぐって、仙台堀を、しずかに、舟をすすめた。
「|蛤町《はまぐりちょう》といえば、寺院のならんだ裏手だったな」
「あい。……八幡さまのむこうにもござんすが、あっちは、もう物騒なところです」
「しかし……なぜ、おまえは、そんなところに住んでいるのだ? |土《ど》|橋《ばし》とか|仲町《なかちょう》とかにいるのが普通ではないか?」
「ほほほほほ――」
美代吉は、急に可笑しそうに笑った。
「旦那は、遊んだお人では、ないんですか?」
「おれは、深川は知らぬ」
「|羽《は》|織《おり》と呼出しと一緒にされちゃ、わたしたちが可哀そうでござんす」
「どうちがうのだ?」
のんきな客と芸妓の会話であった。
事実、長門は、追われる|緊張《きんちょう》を解いて、櫓をこぐわが振舞に、一種の愉しささえおぼえていた。
雨雲が散り、月光が、あたりに美しく降っている夜の川の上の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が、長門の心をなごませていたのであろう。
「仲町土橋の呼出し芸者は、吉原の昼三じゃござんせんか。わたしたちは、二枚証文じゃないんですよ、旦那」
「ふむ。芸だけを売っているというわけか」
「あい」
「おれは、おまえも、子供屋の抱えかと思っていた」
当時、深川遊所は、七場所。土橋、仲町、新地、石場、|櫓下《やぐらした》、裾継、あひる等であった。そして、女に、呼出しと伏玉の二種類があった。
呼出し芸妓を抱えているのは「子供屋」といい、寄場(見番)に札をさげて、女たちを、それぞれの茶屋へ送り込んだ。伏玉というのは、酒楼にかかえられた女郎であった。
長門は、この区別さえ知らなかった。
|辰《たつ》|巳《み》の侠妓羽織は、純然たる芸者で、見番は別にあった。美代吉は、自分の家を一軒もった自前だったのである。
「そうか。……それで、おまえは、おれが送り狼になっても、一向おどろかんのだな」
「いいえ、内心びくびくしています。ただ……旦那は、いってみれば、とびこんで来た|窮鳥《きゅうちょう》、つい羽織のかげへかくしてあげたくなるのが、人情というものじゃござんせんか」
「おまえは、小俣堂十郎の|囲《かこ》い者ではないのか」
「とんでもない」
正覚寺橋をくぐったところで、美代吉は、長門に合図した。舟を、舟宿へ着けるわけにはいかなかった。長門の足もとには、船頭が、気を失って倒れているのである。
正覚寺の土塀が、ひっそりとつらなった河岸の杭へ舟をつないで、長門と美代吉は、こっそり上った。
それから、いっときのち――。
蛤町の小路にある、小綺麗なしもたやの奥の部屋で、|唐桟姿《とうざんすがた》になった長門は、ぼんやりと煙管をくわえていた。
三味線、鏡台、神棚、総|銅《どう》|壺《こ》を入れた如輪目の長火鉢――いずれも、|凝《こ》った調度に場所をあたえた四畳半のたたずまいは、妓一人ぐらしのなまめかしい匂いを、しっとりとただよわせていた。縁側にたらした、鶴の一文字を鏤した竹簾のかげの鉢では、音もなく金魚が動いていた。
こうした世界から遠ざかって、もう幾月ぶりであろう。
「お待ちどおさま――」
あかるい声にふりかえると、美代吉は、盛装を変えて、|利休《りきゅう》|小《こ》|紋《もん》の浴衣に|媚《こび》|茶《ちゃ》|七《なな》|子《こ》の帯をきりりっとしめた粋な姿で、酒膳を手にしていた。
くの字に坐って、銚子を把りあげた美代吉は、いたずらっぽく、目を細めて、
「旦那が、こんな佳い男とは知りませんでした。……送って頂いて、よかった」
「死神が、肩にしがみついている人間だぜ、おれは――」
長門は、美代吉の笑顔へ、微笑をかえしかけて、ふっと、不吉な予感をおぼえた。
「そうだ。おれは、おまえに迷惑をかけるのではないか。あの船頭が、息をふきかえしたら、すぐ、番所へかけこむだろう……。おまえが、無事に帰宅していることは、当然、疑われるぞ」
「かまわないじゃありませんか。……わたしは、船頭がいつの間に|替《かえ》|玉《だま》になったか、すこしも知らなかったことにすればいいんです」
「そのいいわけは通るまい。このことは、すぐ、小俣堂十郎の耳に入る筈だ。……あの人物は、|怕《こわ》いぞ。ただの役人ではないのだ」
「かまわないじゃありませんか」
美代吉の眸子には、|媚《こび》があった。
自分を|贔屓《ひいき》にしてくれる男のうちには、通人粋客もすくなくはなかった。意気な遊び、金放れのよさ、女を|悦《よろこ》ばせるさっぱりした人柄――等、つい惹かされて帯を解く気になった客も、幾人かをかぞえることができる。
しかし、今夜、こうして異様なことから知合ったこの梅津長門というさむらいに対して、ふと動いた心は、ほかの客をあつかう気持とは、まったく異っていた。
自分でもわからなかった。家に入れて、唐桟をさし出した時、そのひきしまった横顔を眺めた瞬間、なぜとはなしに、はっとなった。その微妙な衝撃が、そのまま、美代吉の胸のうちに、かすかなときめきをのこしたのであった。美代吉がなげた媚は、長門を、思わずうろたえさせた。
長門は、それを防ぐように、|破《は》|顔《がん》して、
「どうだ。ひとつ、おれに、ひっくくられては――。それなら、いいわけがたつぞ」
「わたしをひっくくっておいて、旦那は、お逃げになるんですか?」
「左様。迷惑はかけたくない。おまえは知らぬことだが、おれは、奉行所と小俣堂十郎と、二手から追われている男だ。おれの首には、おそらく、多額の金がかけてあるに相違ない。それ程|憎《にく》まれている模様だ。……おれをかくまったことが知れたら、おまえも、生命がないぞ」
「面白いじゃありませんか」
ふいに、美代吉は、首をたてて、きっぱりと言った。
「面白い? おまえは、本当に|怕《こわ》くないのか?」
「親もなければ、きょうだいもない身でござんす。自分のしたいことをして、死ぬのなら、本望です。旦那をかくまってさしあげるのに、わたしは、急に|生《いき》|甲《が》|斐《い》をおぼえました」
長門は、美代吉へ、ふしぎなものを見まもるように、視線を据えた。
ただ一度の抱擁
「ここです」
美代吉の家を、そっと指さしたのは、長門に当身で落された船頭であった。黙って頷いて、船頭に戸をたたけと顎をしゃくったのは、須貝嘉兵衛にまぎれもなかった。
舟の|艫《とも》でわれにかえった船頭が、あわをくらって上ノ橋の番所へかけ込んだ時、偶然、そこに須貝嘉兵衛がいたのであった。いや、偶然とはいえなかったろう。小俣の指令によって、その|輩《はい》|下《か》とともに、大川をのぼって来たばかりの嘉兵衛であった。
長門が、腕ききぞろいの暗殺組を見事斬りはらった報せは、嘉兵衛を、内心よろこばせていた。
――長門を斬るのは、このおれをおいてほかにない。
|自《じ》|負《ふ》というよりも、信念となって、嘉兵衛の中で燃えていたのである。
最初の攻撃の失敗について、小俣が、何事も言わなかったことに、嘉兵衛は、はげしい|屈辱《くつじょく》をおぼえていた。船頭の訴えを、自分がききとったことに、嘉兵衛は、にやりとする快感があった。
長門は、皮肉にも、小俣の舟に飛び降りて、危難をまぬがれたのだ。小俣ともあろう人物が、それに気がつかなかったとは、|嗤《わら》うべき|迂《う》|闊《かつ》というほかはない。
――長門め、その芸妓を脅して、ひそんだな。
この推察を、血眼になって、永代橋から新大橋にかけての一帯を捜している小俣の輩下に告げる気は、毛頭なかった。
あくまで、自分の腕で、長門を|仆《たお》さなければならなかった。
「|姐《ねえ》さん! 姐さん!」
船頭は、つよく格子戸をたたいた。
「姐さん、あっしです。……船頭の、吉太でさア……ちょっと、起きておくんなさい」
それにこたえて、奥に灯が入るのを、嘉兵衛は、すかし見た。
美代吉は、床の上に起き直って、片眉をひらいて、唇を噛んでいた。
「姐さん……姐さん……」
「…………」
「おねげえします。起きておくんなさい」
美代吉が、膝をたてて、ふりかえった時、すでに、次の間とのさかいに、長門が、|唐《とう》|桟《ざん》の尻を端折り、手拭いで顔を包んで、立っていた。
「来たな」
「あい」
「船頭のほかに、もう一人いる!」
「旦那!」
「やっぱり……おまえは、しばられたほうがいい」
長門は、すばやく、|衣《い》|桁《こう》のしごきをとって、美代吉の腕へかけようとした。
すると、美代吉は、身をねじって、長門にすがりついた。
「旦那。……わたしを、一度、抱いて!」
「なに?」
「一度だけ、ぎゅっと抱いて――」
必死の面持に、ちかぢかと迫られて、長門は、たじろいだ。
「わたし、旦那が、好きになったんです。……ですから、一度だけ――おねがい!」
格子戸をうち破ろうとする音が、長門に、ためらうことをゆるさなかった。
長門は、|浴衣《ゆかた》ひとえにつつんだ女盛りのむっちりとした柔かな肌を、しっかりと抱きしめた。腰に巾広くまきつけた|緋《ひ》のしごきが、かすかに鳴った。
――死んでもいい。
美代吉は、気の遠くなるような|陶《とう》|酔《すい》にひたって、めりめりと破れる格子戸の音も、はるか遠いものにきいた。
われにかえった時、美代吉は、手足をしばられて、床にころがっていた。長門は、|灼《や》けつくような強い想いをこめた美代吉の|眼眸《まなざし》を、名状しがたい感動で受けとめた。
「達者でくらせ!」
「旦那……もし、生きて、生きていらっしゃったら……もう一度――」
格子戸が、|三和土《た た き》へ倒された。
「野郎っ! ふざけやがって――」
おどりこんだ船頭が、居間の襖をひらくのと、長門の姿が、風のごとく消えるのと、殆ど同時だった。
「な、なんだ! おめえ――」
床でもがく、なまめかしい美代吉の|姿《し》|態《たい》に、船頭は、|仰天《ぎょうてん》して、棒立ちになった。
そのうしろから、ぬっと足を入れた嘉兵衛は、しかし、じろりと見おろしただけで、奥の座敷の竹簾のゆれる音を、鋭くききわけた。次の瞬間、嘉兵衛は、身をひるがえして、外へとび出していた。長門は、塀をのりこえて、往還に立っていた。
「梅津!」
嘉兵衛は、絶叫《ぜっきょう》するとともに、|小《こ》|柄《づか》を抜いて、月光を縫わせた。
長門は、呻きを口のうちでとどめると、走り出した。
小柄は、肩にささっていた。
「おのれ、また逃げるか! |卑怯者《ひきょうもの》っ!」
嘉兵衛は、地を蹴って追った。
流れる月
長門は、西平野町をかけぬけると、牧野|備前守《びぜんのかみ》の屋敷の土塀をまわって、法苑山浄心寺の境内へ、にげ込んだ。
本堂の左にならぶ|祖《そ》|師《し》|堂《どう》のわきで、はじめて、よろめき、立ちどまった。肩から抜きとった小柄は、右手に掴んでいた。
――須貝嘉兵衛だったな、あの男は――。
|喘《あえ》ぎ乍ら、あの絶叫のすさまじさを思い出していた。
嘉兵衛の膝の傷は、まだ完全に|癒《い》えてはいなかった。もし、そうでなかったならば、勿論、長門は、距離をひきはなすわけにはいかなかったであろう。
長門は、どさりと、くさむらに|崩《くず》|折《お》れた。中天たかくそびえた|銀杏《いちょう》のいただきに、月は、青く冴えてかかっていた。
長門は、ぱっくりと|痴《ち》|呆《ほう》のように瞳をひらいて、月影と相対した。
まわりの生茂った|灌《かん》|木《ぼく》のあちこちに、かすかな虫の音があるきり、湿った落葉の匂いが、ひっそりとただようていた。
――あの芸妓は、おれを好きになったといった……。
長門は、自分に言いきかせてみた。
抱きしめた美代吉のしなやかな重みは、まだ、両腕にのこっていた。肩の|疼《うず》きとともに、長門は、胸の痛みを感じた。
――おれは、だんだん、人間の愛情というものがわかってきたようだ! おれのひび割れた魂を、いたわってくれる人々が、そうだ、すくなくとも、数人はいるのだ!
長門は、まぶたをとじて、その人々の顔を思い出そうとした。
そして、そのうち――。
夢とも、|幻《げん》|覚《かく》ともつかぬ、なつかしい景色が、長門の脳裏に、ひらかれた。
……幾百年を経た楠が、黄ばんだ|嫩《ふた》|葉《ば》をさわさわと鳴らせている。築山の下をめぐる泉水で、時折、鯉がばさっとはねかえる。少年の長門が最も愛した|烏鯉《からすごい》が、悠々と、水面へ|背《せ》|鰭《びれ》を浮かせておよいでいる。まばらに咲いた白山吹。楚々としげった|紫陽花《あじさい》などが、苔岩のまわりをかこんでいる。
……夜来の雨で|水《みず》|嵩《かさ》の増した神田川からまよいこんだ小魚が、群をなして、見えかくれつつ、右往左往する。頭上を舞うとんびの青空へ吸い込ませる啼き声が、春日遅々たるのどけさをつげる。
長門は、背後に、縁側へ出て来た母を意識する。静かに、端座して、膝で手を組み、穏かな春の陽光を、ひとりたのしむもののように、黙して語らない。柔和なまなざしは、そそがれるともなく、きらきらと陽光をはねる泉面へ投じられたまま、うごかない。
……長門は、なぜか、母に声がかけられず、その場も動けない。自分の佇んでいる場所も、|瞭然《りょうぜん》としない。庭のとある片隅にいるには相違ないのだが……。うすまぶたをひらいた長門は、こめかみに泪がつたっているのに、気がついた。無心であった。
ただ、茫然と、銀杏のいただきから去って、広い灰色の碧落のまんなかを、ゆるやかに流れる月を、見あげていた。
限りなく遠い夜空の色と白銀の光は、いつの世も、人をはかない孤独に追い込む。
――夜が明ける前に、ここを去らねばならぬ。
と、考え乍らも、今見た夢の中のように、手ひとつ動かすのも、大儀なひとときであった。
梅津長門の父、六郎右衛門通兼は、二千五百石どりの旗本であった。三千石未満五百石以上の旗本総数千三百七十余家のうち、|武《ぶ》|鑑《かん》には、三十七番目に記された名家であった。大目付の下にあった。|鉄砲改《てっぽうあらため》の重要な役についていた。
鉄砲というものは、織豊時代から、きびしいおきてが設けられ、|庶《しょ》|民《みん》はみだりにこれを所有することをゆるされなかった。徳川に入ってからは、関八州の地で鉄砲の検査は、殊にやかましかった。所謂「十里四方鉄砲改」である。十里四方とは、江戸日本橋を起点として、東西南北各々五里内の地域をいい、この中では、鉄砲方、鉄砲頭等の有司の外は猟夫といえども、いっさい発砲をゆるされなかった。もし、ひそかに銃を蔵する者があれば、これを捕えると、賞銀三百枚をもらえたくらいである。
六郎右衛門は、しかし、庶民の鉄砲所持に対しては、かなり寛大な処置をとり、むしろ鉄砲師と称する用達商人に対して、その不正をゆるさなかった。これが、のちにわざわいしたのである。
六郎右衛門の親友で、|黒《くろ》|鍬《くわ》|組《ぐみ》の藤波某という旗本は、織田信長が愛用していた鉄砲を秘蔵していたが、これは、もし公儀に届出れば、将軍家へ贈呈を強要されるおそれがあったので、登録してなかった。
某日、藤波の伜で十歳になる少年が、狂犬に噛まれて、死んだことがあった。藤波は、この狂犬を、屋敷の裏の|弥《み》|勒《ろく》|寺《じ》の庭へ追いつめて、撃ち殺した。六郎右衛門が、これを不問にふしたことが、はからずも、日頃うらみを買っていた用達商人によって密告されたのであった。
藤波は、切腹。六郎右衛門は、二千五百石から、七十俵十人扶持の小身へ落された。三年余、六郎右衛門は、屋敷から一歩も出ず、妻が逝き、四十九日の法要をすませると、切腹して果てたのである。
この父の不運を、長門は、少年の目で、つぶさに眺めて来たのである。
切腹する前日、父は、なにげない様子で、長門を呼び、
「武士はいやなものだ。もし、お前が、その積りなら、禄を売って、町人になってもよいぞ」
と、言ったことであった。
その折は、長門は、|憤《ふん》|然《ぜん》となって、
「何を申されます!」
と、肩を怒らせたものだったが……。
父の口惜しげな表情、口調は、今も、長門のまぶたのうちに、ありありとのこっている。
――息子が、ついに、公儀のお|尋《たず》ね|者《もの》となって、追われ追われて、こうして、見知らぬ寺院の庭かげで、野宿をしているのを、父は、どんな思いで眺めているのだろう?
ゆくりなくも、わが家の庭園の夢を見た長門は、そのことを考えないではいられなかった。
|市《し》|井《せい》の隅で
雪姫は、台所で、湯をわかし乍ら、ひとり、微笑をうかべていた。
この貞宝宅に住んでから、雪姫の顔は、目に見えてあかるくなっていた。|結《ゆい》|綿《わた》に、|木綿縮《もめんちぢみ》をまとい、ひわ[#「ひわ」に傍点]茶びろうどの腰帯をしめた姿は、すっかり地味な町娘に変っていたが、その美貌は、あの井伊邸の奥でくらしていた頃の冷たさとうってかわって、いきいきとした娘らしさを加えているようであった。
|裏《うら》|店《だな》の生活は、すべてが、雪姫にとって珍しかった。
御飯をたくことも、|松魚《かつお》|節《ぶし》をけずることも、洗濯をすることも――どんな|些《さ》|細《さい》な仕事にも、雪姫は、生甲斐をおぼえた。
失敗をくりかえして、ひとつひとつおぼえ込み、それが一人前にやれた時のうれしさは、他人の想像もおよばない程大きかった。貞宝はもちろん、近所の人々の親切さも、雪姫の孤独な心を、どんなにあたためてくれたろう。
雪姫が、失敗する毎に、貞宝は、笑って、手をとって教えたが、それは、むしろ貞宝自身|愉《たの》しそうであった。
「琴やめて、薪の大くべ引給う――っとね、お姫さまが、こんなことをなさるのは、おいたわしい筈なんだが、お雪さまを見て居りますと、いっそ、うれしくなって参りますな」
貞宝は、額をぴっしゃりたたいておどけてみせたが、雪姫にすれば、どの仕事も真剣だった。
――貧しい人々が、どうしてこんなに親切なのだろう。
ふと、それをいぶかって、この人情こまやかな世界に入った幸福感で、胸が熱くなる雪姫だった。いわば市井の|貧《ひん》|困《こん》の中に入って、貧困とは如何なる苦しみかを全く教えられない幸福であった。
まわりの人々は、心からの親切で、雪姫を、おしつつみ、それぞれのなりわいののどかな一面しか見せなかったのである。
貞宝の住む一角は、殆ど職人であった。大工、左官、石工、|木《こ》|舞《まい》|掻《がき》、板屋根葺、瓦師、建具師、桶職、指物師、|錺職《かざりしょく》、彫物師、蝋燭職、|轡《くつわ》師、仕立職等々。
職人たちの、からりとした気っぷは、雪姫の存在を文字通り、はき溜に降りた鶴として、あがめたのである。
「さる大家のお嬢さまでな、意地悪なまま母と|放《ほう》|蕩《とう》|者《もの》の兄の争いにまきこまれるのがお気の毒で、その町内の顔役が、おいらに預けたんだ」
という貞宝の弁解も、疑う者はなかった。
自分たちとは身分のちがうお嬢さまが、けなげにも裏店のくらしに馴れようとしていらっしゃる――その同情は、あかるく|素《そ》|朴《ぼく》なものであった。
はすむかいの|革《かわ》|細《ざい》|工《く》|師《し》のおかみさんは、|精進落《しょうじんおと》しのぼた餅を、雪姫が、おいしいといって食べてくれたのに感激して、夢中で近辺へふれまわった。
表通りの足袋屋は、夏になると、店先へ、冷水を入れた|瓶《かめ》をすえ、|柄杓《ひしゃく》と茶碗を添えて、通行人に飲ませるならわしであった。雪姫がそれをきいて、町人たちの人情の厚さに感動して、自分の|袱《ふく》|紗《さ》を寄付した。足袋屋は、あわてて、|刺《さし》|鯖《さば》をどっさりお礼に持参したものであった。こうしたごくありふれた日常事が、雪姫の顔を、明るくしたのである。
居間では――。
貞宝が、|懇《こん》|意《い》の指物師の隠居と、釣の話に夢中になっている。
「たなごは、やっぱり、普通の竹じゃいけねえやな。斑竹を根元に、穂先には、鯨のひげをつけてね……」
「師匠。柳橋のおさんの髪の毛をもらったって、もっぱらの評判じゃねえか」
「そうさ。……生毛はね、引き抜いたんじゃ、|質《たち》が弱くなる。根元へ鋏を入れて、ぷつんと……その時、おさんの髪の匂いが、こう……ぷーんと鼻にきてさ、抜けるような襟すじを、横目で見乍ら――はははははは……」
「いやだぜ、その髪の毛にひっかかったたなごは、大方、|助《すけ》|平《べい》な雄野郎ばかりだろうぜ」
「道理で、このあいだは、たなごのかわりに、キスばかりが食いつきゃがった」
雪姫が、お茶のしたくをととのえて、はこびかけた時――。
子供たちが、べい|独楽《ご ま》あそびをしている裏道から、音もなく、すっと身を入れた者があった。
「あ――」
雪姫は、振り向いて、目を輝かせた。
庄吉であった。松坂木綿のひとえに無地小倉の帯、青縞の前垂の下からチグサの|股《もも》|引《ひき》をのぞかせ――すっかり、商家の手代に化けていた。
「お雪さま。……梅津の旦那は?」
首をつき出してささやくのへ、雪姫は、かすかにかぶりをふった。
「いえ、まだ――」
「来ませんか? どうしたんだろうな? 旦那のやつ、どこで、油を売ってるんだ!」
雪姫に見せまいとつとめつつ、庄吉は、不安の翳が顔に出るのを防ぎきれなかった。
昨夜、庄吉は、宙をとぶようにして、梅津長門に会った報告を、もたらしたのであった。しかし、長門が、暗殺者に|襲撃《しゅうげき》されたことは秘しておいたのだ。
――もしや、旦那は?
あの素晴しい腕前の持主が、まさかとは思うものの、今まで姿をみせない理由が、庄吉には、ほかに考えられなかった。
雪姫も、庄吉の表情の変化に、急に胸がさわいだ。
庄吉は、澄んだ眸子で、またたきもせずに、|瞶《みつ》められると、どうにも、いても立ってもいられなくなった。
「ちょっ! のんきだな、旦那は――。こっちが、こんなに気をもんでいるのに、どこをうろついているんだ……お雪さま、あっしは、もういっぺん、|木挽町《こびきちょう》へ飛んで行って来まさア――」
「でも……もう、そこにおいでになるかどうか……」
「なに、用事が出来たのなら、ことづてぐらいはしてある筈でさ。……じゃ――」
庄吉は、ちょっと外の様子をうかがってから、雪姫へ、人なつこい微笑をのこして、風のように消え去った。
捕縛
雪姫は、ぼんやりとその場に坐った。
――あの方は、やっぱり、おいでにならないのではなかろうか?
咋夜、庄吉から告げられた瞬間から、幸福はもう、自分の掌の中に入ったようなよろこびで、睡りすらも惜しかったし、たった今まで、胸のうちは、長門と顔を合せた|刹《せつ》|那《な》のことを想像して、絶えず、|動《どう》|悸《き》をうっていたのに――。
青天を、一瞬にして、黒雲が|掩《おお》うように雪姫の心は、暗くふさがれたのである。
自身の生涯が、|陰《いん》|惨《さん》な灰色の幕でとざされたまま終るであろうことを、幾年も考えつづけて来た雪姫である。そうした諦念を、必死の力でおし破り、ようやく掴みかけた幸福を、はたしてうのみに信じていいのかどうか――そのおそれが、よろこびのうしろにひそんでいる意識は常にあった。
|喜《き》|怒《ど》|哀《あい》|楽《らく》の表現のすべてを知らなかっただけに、今、かえって、普通の娘よりも、よろこびの大きさをさとった雪姫は、また、悲しみの深さをもはかる力を持ったのである。恋する心の異常に|敏《びん》|感《かん》なはたらきは、雪姫を、たちまち、もとの哀れな運命論者へひきもどしたようであった。
――庄吉は、なにか、わたくしに、かくしている。……あの方にお会い出来ると有頂天になったわたくしが、おろかであったのではなかろうか?
「お雪さま」
客を送り出した貞宝が、背後から声をかけた。
「いま、来たのは、庄吉でございましたな」
「はい」
「梅津の旦那のことで、なにか?」
貞宝もまた、客と|談笑《だんしょう》している間も、長門が、いつあらわれるか、と神経をくばるのを寸時も忘れてはいなかった。
「もう一度、さがして参るとか――」
「さがしてくるって、庄公め、ゆうべ、梅津の旦那を、なにがなんでも、しょっぴいてくればよかったんですよ。まったく、じれってえ|巾着切《きんちゃくきり》め――」
貞宝は、雪姫の顔を見て見ぬふりをして、舌うちをした。
このおり――。
「|師匠《ししょう》――」
裏の戸口で、呼ぶ声がした。
「おい、只今」
格子戸の外に立っているのは、町名主であった。
「ちょっと、顔を貸してもらいたいんだが――」
「なんです? |禁《きん》|足《そく》を|解《と》くおたっしでもござんしたかい?」
「なに、くだらねえことなんだが――」
町名主は、如何にも何気ない振りで、さっさと歩き出した。
つられて、貞宝も、格子戸を開けて、跟いて行った。
長屋の入口まで来た時、貞宝は、角から、ぬっと出た一人の若い同心を眺めて、ぎくっとなった。庭場重七であった。
「其方、風流軒貞宝か?」
「へえ、何か、御用でございますか?」
重七は、こたえるかわりに、左右の|捕《ほ》|吏《り》へ目くばせした。捕吏|達《たち》は、素早く貞宝の両手を掴んだ。
「な、なにをなさる?」
「静かにしておれ! 騒ぐと、其方も捕えるぞ!」
「其方も?」
ききとがめた貞宝は、はっとなり、
――しまった!
と、胸で叫んだ。
いつの間にひそんでいたのか、軒下、家の中から、四五人の捕吏がとび出して、我が家へ迫ったではないか。
|指《し》|揮《き》をとっているのは、お玉ケ池の皆次にまぎれもない。
――雪さまを、なんのために? 梅津の旦那は、捕ったのか? それにしても、将軍の娘を、どうしようというのだ?
貞宝は、|膝頭《ひざがしら》が|顫《ふる》え、自分で自分の顔から、さあっと血の気の引くのを意識した。
雪姫の抵抗を想像すると、かなわぬまでもあばれまわって、かばいたかった。
――梅津の旦那は、どうしたんだ? ああ、まったく、どうしたんだ?
皆次を先頭に、捕吏たちが、わが家へおどり込むのを、ちらっと見やってから、貞宝は、|目《ま》|蓋《ぶた》をとじた。心臓は、すさまじい速さで高鳴った。
貞宝が戻ったと思って、襖をひらいた雪姫は、皆次のつき出した十手に、一瞬、立ちすくんだ。が、唇はかたくむすんだまま、眸子は、けがらわしいものをとがめる強い色を光らせた。
「神妙にしろ! 下手な|振《ふる》|舞《まい》をするな!」
皆次は、飛び上って、十手で、雪姫の肩をおさえた。もとより、皆次は、雪姫の素姓を知らなかった。谷村正蔵の命令によって、捕えに来たのである。
貞宝の|監《かん》|視《し》はおこたっていなかったので、美しい娘が居候したことは、とっくに知っていたが、まともに顔を合わせたのは、今がはじめてであった。その臈たけた|美《び》|貌《ぼう》は、この場合、皆次をおどろかせるよりも、その探偵意識をはげしく働かせるのに役立った。
――成程。こりゃ、曰くのある素姓の娘にちげえねえ。
雪姫は、土間の人数、裏の気配をさとると、幸福が背をむけた絶望に落ちた。
逃亡の罪に問われることは覚悟していたことであったが、よもや|捕《ほ》|吏《り》をさし向けられようとは、夢にも考えなかった。しかし、こうした処置をとる|公《こう》|儀《ぎ》に、怒りは湧かなかった。
「手向いはいたしませぬ」
「神妙のいたりだ」
皆次は、手先へ、縄をうて、と合図した。
「それは、ゆるしてほしい」
雪姫が、こばんだところへ、
「|放《はな》せっ! わかれの挨拶をかわすぐれえ――人情があるなら――」
と、叫び乍ら、貞宝が、|格《こう》|子《し》|戸《ど》を押し入ろうとした。
「こやつ!」
「放せっ! お雪さまっ!」
貞宝が、のびあがって、次の言葉を言おうとすると、雪姫は、何も言うな、とかぶりをふった。
「お、お雪さまっ! ……こ、これはむごすぎる! あ、あんまりな――」
「いいえ。……貞宝どの、わたくしは、なにごとも、あきらめることができます故、どうぞ、すてておいて下さい。いろいろ、お世話になりました。恩がえしはできませぬが、死ぬまで、忘れませぬ……わたくしの生涯で……ただ一度の……いちばん、たのしかったくらしでした」
「お雪さまっ!」
貞宝の両眼から、どっと|泪《なみだ》があふれた。
「では、……おわかれいたします」
雪姫は、左右の袖を捕吏にとられて、土間におりた。
貞宝は肩を荒々しく|喘《あえ》がせた。
――不浄役人ども、このかたは、将軍家の御息女だぞっ!
絶叫が、咽喉からほとばしろうとするのを、懸命に抑えなければならなかった。
|駕籠《か ご》が、長屋をぬけ出た時、うしろにつき添っていた皆次は、群集の中に交っている|藍《あい》|微《み》|塵《じん》に|一《いっ》|本《ぽん》|独《どっ》|鈷《こ》の|無頼《やくざ》めいた男へ、じろりと視線を流した。
男は、無言で、頷いてみせた。
この男こそ、雪姫のかくれ家をつきとめた、隠密回の同心河合十郎次であった。
千両箱
深夜――。
浅草材木町の、吾妻橋寄りの、とある|小《こ》|粋《いき》な|寮《りょう》の奥座敷に、梅津長門は、もとの武士姿で、立っていた。
|朱《しゅ》|塗《ぬ》りの|絹《きぬ》|行《あん》|燈《どん》に、|仄《ほの》|暗《ぐら》く照らし出された部屋は、金と粋とにあかしてつくられてあった。黒檀の床の間、唐わたりの墨絵の掛物、|銀《ぎん》|縁《ぶち》の火桶、春信、歌麿らの浮世絵を散らした金屏風、銀のしぎ[#「しぎ」に傍点]をあしらった|欄《らん》|間《ま》、高いあじろ天井――。箪笥、櫛筥、鏡台、いずれも、金銀づくしの|蒔《まき》|絵《え》が、ほどこしてある。
枕屏風をかこって敷かれた藤の花模様の京羽二重の蒲団が、なまめかしくはねられ、見るからに柔弱そうな白縮緬の襦袢いちまいの武士と、一枚絵からぬけ出たような燃える緋縮緬の胸も膝もはだけた美女が、ともにうしろ手にくくられて、恐怖におののき乍ら、背中を合せていた。
長門は、ぬぎ散らされたお召や博多帯を、雪駄でふまえて、憮然として、まわりの|華《か》|美《び》|豪《ごう》|奢《しゃ》な調度を見まわし、
「ごうぎな妾宅だな。……おい、阿部、評定所御留役勘定組頭は、よっぽど儲かる商売だとみえるな」
と、皮肉な冷笑を、口もとに刻んだ。
武士は、|怯《おび》えきった|眼《まな》|眸《ざし》を、あげた。
「わしを、いったい、どうしようというのだ? 金なら……あるだけ、持って行け」
「ふん」
長門は、腰を落すと、遽に、殺気をこめた眼光を据えた。
「おれの問うことに、返答しろ。ごまかせば、斬るぞ!」
武士は、ぴくんと肩をすくめた。
阿部忠兵衛は、長門と幼友達であった。
顔を合わすのは、十数年ぶりである。
文武ともに劣等の忠兵衛が、その家柄禄高故に、寺社・町・勘定三奉行合議裁判の局たる評定所の重職に就いていることは、日頃、長門の|反逆《はんぎゃく》精神を苛立たせたものだったが、浄心寺の庭で倒れている時、ふと思い出したのがこの男であった。
――そうだ、彼奴の首根を押えて、泥を吐かせてやる!
雪姫に会うのを延した長門は、今日一日、忠兵衛の行動をさぐり、この妾宅に入ったのをつきとめて、侵入したのであった。
「貴様の同役で小俣堂十郎は、何故、おれを暗殺しようとするのだ? 先ず、それをきこう!」
「し、しらぬ!」
忠兵衛が、かぶりをふった瞬間、長門の刀は、目にもとまらず、|鞘《さや》|走《ばし》り、その咽喉もとへ、切先をぴたりとつけていた。
妾が、悲鳴をあげて、身をねじった。
「言え!」
忠兵衛は乾ききった唇をわななかせた。
「小俣は、おれを斬るためにすくなからぬ人員を使っている、その費用を、貴様が、秘密裏に出しているに相違ない、と睨んだ目に狂いはないぞ! ……奉行、目付の審議を避け、おれを|闇《やみ》から闇に|葬《ほうむ》ろうとする理由は、なんだ? 言え! 言えっ!」
忠兵衛は、顔を伏せた。
白状するには、ほんのしばしの間があった。将軍の娘を|犯《おか》した為である、ときかされるや、長門の表情はさっとこわばった。
苦痛を堪える無言ののち、長門は、次の質問をなげた。
「毛利春斎先生の処置は、なんとするのだ? 死罪か?」
「多分――」
「いつだ?」
「まだ、町奉行から、吟味の報告が、内座(三奉行の溜)へ出されて居らぬ」
「貴様の、これまでの経験で、推量しろ」
「梅津、貴公は、毛利春斎が、大塩平八郎の|暴《ぼう》|挙《きょ》に荷担したのみではなく、幕府|覆《ふく》|滅《めつ》の陰謀を計ったことを知っているのか?」
「たわけ! 春斎先生の人となりを知らぬ町奉行のうろたえぶりが笑止だぞ! 処刑はいつだ? それを言え!」
「多分……十日と出まい」
「よし!」
長門は、すっくと立った。
「貴様は、たんまり|収《まい》|賄《ない》を|蓄《たくわ》えて、この妾宅に隠匿して居ろう。千両箱をひとつ頂戴する。立て!」
|鵺《ぬえ》
立派な屋敷であった。
|広《こう》|大《だい》な庭園に面した座敷は、三十畳もあろうか。松葉|模《も》|様《よう》をうすく散らした襖を、三方たてきったここには、|石《いし》|刷《ずり》を貼り|金《きん》|泥《でい》を散らした二|双屏風《そうびょうぶ》が、奥にひとつ据えられたきり、がらんとしていた。
古びた庭園の中央――苔と石との大きな築山に、臥竜松が、悠然と這っていた。かなたの紅楓も、八手も、そよともしない澄んだ秋空を、ひくくゆるやかに舞う鳶の影が、ところどころ|山茶花《さざんか》の植えられたひろい砂利の上を、すうっすうっとかすめ去った。
ここは、青山百人町、教学院に背中あわせた、小俣堂十郎の屋敷であった。
前方は、一望の田であり、朝夕、近くの梅窓院観音の鐘の音がきこえるほかは、四六時中、ひっそりと静寂をたもっている地帯である。
長い縁側を、ゆっくりとあるいて来た堂十郎は、沓石の下駄をつっかけると、砂利をふんで、築山の方へ出て行った。
茫乎として、とりとめない表情である。両手をうしろで組み、ふと視線をあげて、鳶の行方を追う姿は、閑日月ののどけさを|愉《たの》しんでいるようにも、見てとれる。
が――実は、そうではなかった。
堂十郎が、築山へのぼった時、臥竜松の根かたには、一人の男が、ひそとうずくまっていたのである。堂十郎を見あげたその顔は、意外、河合十郎次であった。やはり、町人姿であった。
「急用か――」
堂十郎は、いかにも、わが庭園に心をうばわれているような様子で|彳《たたず》んだまま、背後の河合へ、ひくく尋ねた。
なにか、人知れぬ合図をうけたので、堂十郎は、ここへやって来たのだ。
「是非、お報らせいたさねばならぬ出来事が、起りました」
「きこう!」
「雪姫さまが、北町奉行所の手にとらわれました」
「なに?」
堂十郎の顔面が、ぴくりと|痙《けい》|攣《れん》した。細めた目の先は、遠くの白砂の一点へ投げられて、ぎらっと燃えたようだ。
「雪姫は、何処にかくれて居った?」
「本所松坂町の|裏《うら》|店《だな》でございます」
「谷村正蔵のやったことだな――」
「と、思われます」
奇怪なのは、この河合の返辞である。雪姫のありかをさがすように谷村から命じられたのは、この男自身であり、そして、雪姫を捕える指揮を、陰でとったのも彼ではないか。
勿論、河合が、谷村正蔵と小俣堂十郎との|反《はん》|目《もく》を知らぬ筈がない。しかるに、何故に、谷村の腹心であり乍ら、また堂十郎の秘密の|輩《はい》|下《か》の一人に加わっているのか。
それが、堂十郎という御目付のおそろしい政治力といえよう。しかし、そればかりではない。一生おのれ自身の公私生活を犠牲にしなければならぬ隠密者の中には、往々にして、こうした|偏《へん》|執《しつ》|的《てき》なサディストがいる。敵を偽って味方と思い込ませると同時に、味方をも|騙《だま》して敵に通じ、両者をたくみにあやつって、その噛み合いを、ひそかに眺めてにたりとする、といった、あまりにも|残虐酷薄《ざんぎゃくこくはく》な片端者が生れたのも、いわば、隠密制度のおそるべき非人間化に対する、神の嘲笑であったろう。
「で――、雪姫は、どこに監禁された?」
「女囚牢に――」
「なんだと?――」
堂十郎の肩が、ぐっと反るのを、河合は、冷やかな|眼《まな》|眸《ざし》で仰いだ。
「雪姫を、けだもの同然の女囚の群の中へなげ込んだか、谷村め!」
北町奉行大草能登守にむかって、高圧的に、梅津長門の|捕《ほ》|縛《ばく》を禁じたことを、谷村がきかされて、反逆の決意をしたに相違ない、とは、すぐ堂十郎にわかった。
――彼奴め、雪姫が将軍家の息女であることをさぐったか? あるいは、梅津が、雪姫を犯したことも……。
雪姫が、将軍家斉の第何女かである事実は、絶対に秘密なのだ。この秘密が、世間に洩れたならば、老中は、堂十郎にむかって、責任を問うであろう。当然、堂十郎は、腹を切らねばならぬ。この恐怖は、氷のように非情な堂十郎の肚裏をも、顫わせずにはおかなかった。
――そんな筈はない! 谷村が、あの秘密をさとる筈がない。さとる手がかりがないではないか。
ひとたびは、強くうち消した。背後にうずくまった河合に踊らされていようとは、まさか、神ならぬ身の、知る由もない。
――しかし……それでは、何故、谷村が、雪姫を捕えたか?
「河合――」
「は――」
「谷村は、雪姫を、梅津長門が|須《す》|貝《がい》の屋敷で|室《むろ》|戸《と》兵馬を斬った折に居合せた証拠人として捕えたのか?」
「御目付様! そうでは、ありませぬぞ!」
河合は、急に、鋭く、語気をかえた。
「では――なんの理由だ?」
「谷村様は、いずこからきき出されましたか、雪姫さまが、上様の|御《ご》|落《らく》|胤《いん》であることを――」
みなまできかず、堂十郎は、|悸《ぎょ》っとなって、思わず河合を振り向いた。
「たしかに、そうだと、拙者めに、申されましたぞ!」
「…………」
堂十郎は、なにか言おうとしたが、唇をぎゅっと歪めただけで、言葉に出さなかった。
ほんのしばしの沈黙があった。
「河合、雪姫を、殺せ!」
堂十郎は、ずばりと命令した。
「は――」
流石に、はっと息をのんだ。
「殺して……|遺《い》|骸《がい》が、はこび出されたら、こちらで、|奪《うば》いとる!」
老中へは、雪姫急死、と届ける肚をきめた堂十郎であった。
「手段は、そちにまかせる!」
抱く|俤《おもかげ》
ぎぎぎぎっ、と|潜《くぐ》り戸が、いやな|軋《きし》りをひびかせて、開かれた。
「新入りだよ」
うす暗い牢の内部で、女囚たちは、ひさしぶりに退屈をしのげる陰惨なよろこびで、囁きあった。
どん、と突きのめされて、よろよろっとよろけ込んだのは、女囚たちを、思わず、はっとさせる程きれいな町娘であった。
|錠《じょう》が下され、役人は、去った。
「なんだい、こいつ――」
のそのそと這い寄った大年増の女囚が、怪訝そうに、町娘の俯向いた顔をのぞき込んだ。たしかに、女囚たちの不審を起させる新入りの態度だった。
この恐ろしい地獄へ、はじめて入れられた若い女は、恐怖をあおらせた眸子で、暗い内部を――うごめく灰色の生きものたちを、見まわし、その幾多のぎらぎらした凄まじい眼光に射たれるや、かすかに悲鳴をあげるか、失心するか、そうでないまでも、うち|顫《ふる》えて、すすり泣き出すのが常なのだ。
ところが――。
この町娘は、よろけ込んで、片手をついたが、すぐに、|端《たん》|然《ぜん》と姿勢を|整《ととの》えて、両手を膝に揃えると、顔を伏せて、内部を、ちらとも眺めようとはしなかったのである。
その正しい姿勢が、ただよわせた気品は、女囚たちの|餓《う》えた感覚に、鋭くかぎわけられた。
「へん、こ、こりゃ、おどろいた」
大年増が、|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に首をふった。
「まるで、お姫さまじゃないかよ、この面――」
すると、いきなり、一人が立って、その髪をつかんで、ぐい、とひきあげた。
|擡《もた》げられた顔は、かたく、まぶたをとじていた。
雪姫であった。女囚たちの口々から、その美しさに対する感嘆の声が発しられた。
「さア、立ちな! 名主さまに御挨拶するんだ」
積み重ねた畳の上に、寝そべっているのは、花鳥であった。
前の|牢《ろう》|名《な》|主《ぬし》が、三宅島へ流されることになり、去るにあたって、何を考えたか、後任を、花鳥と指名したのである。同じ吉原の|花《おい》|魁《らん》であった|誼《よし》みだったのであろう。
この申しおくりは、絶対であった。役人が、これを認め、もし、服さぬ女囚がいたら、外へひき出されて石を抱かされた。
花鳥としては、望まぬ地位ではあったが……。
「さア、両手をついて、よろしくお願い申します、と、名主さまに御挨拶しな」
ひき立てられ、畳の下へ据えられた雪姫は、はじめて、双眸をひらいて、花鳥を仰いだ。
その瞬間、花鳥は、はっと身を起した。そして、そのまま、食い入るように、|凝然《ぎょうぜん》と、雪姫を見据えた。なんと清純なけだかい美しさだろう。
「やい、こいつ、なめやがって――」
と、矢庭に、|蹴《け》|倒《たお》そうとする女囚へ、花鳥は、手をふって、とめた。
雪姫は、静かに顔を伏せると、
「わたくしを、そっとしておいてくれませぬか」
と、たのんだ。|好《こう》|奇《き》と|残《ざん》|忍《にん》なまなこを光らせていた女囚たちが、どっと笑った。しかし、花鳥ひとりだけは、笑わなかった。
「お前さんは……お武家の娘かえ?」
「もとは――」
「もとは? じゃ、父親が死んだかどうかして、町人になったんだね」
雪姫は、こたえなかった。
「で――、お前さんは、どんな悪いことをしたんだ?」
「なにもいたしませぬ」
これをきいた名主代理が、ちえっと舌打ちして、
「莫迦野郎! なにも悪いことをしねえで、こんなところへぶち込まれるかよっ!」
「お待ち――」
花鳥が、制した。
牢名主になってから、花鳥は、新入りの|虐待《ぎゃくたい》をかたく禁じていた。からだあらためもしなければ、持込んだ金子もとりあげなかった。といって、努力して、この|陰《いん》|惨《さん》な空気を、すこしでもあかるくしようとしたわけではなかった。ただ、虐待や争いが、煩しかったのである。また、自由をうばわれたこの十坪たらずの|狭《せま》い世界で、さらに自分で自分の自由をうばうためにつくりあげたしきたりも、莫迦らしく、すべて破ってしまったのであった。
おのおの、勝手きままに、過去を|想《おも》い|耽《ふけ》るがいいし、小布をといて豆草鞋をつくるがいいし、同性愛に熱中するがいいし、役人をまるめ込んで酒なり煙草なりを密かに手に入れるがいいのだ。その方針を、花鳥はとり、きわめて目だたない牢名主になっていた。|尤《もっと》も、自分の一言が、絶対的な権力をもっていたからこそ、この消極的な態度を、誰からも見くびられなかったのだが――。
「お前さんの身の上には、何か、ふかいわけがあるんだね」
花鳥は、やさしく、言った。
「はい。……でも、それは、どうぞ、きかないでおいてくれませぬか」
「ききますまいよ。……ただね、お前さんは、こんなところへ入ってくるには、上品すぎるのさ。おそらく、お前さんくらい上品な娘さんが入って来たのは、この牢屋敷ができてから、はじめてだろうよ。だから、つい、ききたくなるんだよ。……もし、話していい気持になるんだったら、きかしておくれな。……おます、畳をおやり」
花鳥は、また横になった。
新入りの場所を与えられた雪姫は、きちんと正座して、膝のわが手へ、目を落し、|微《び》|動《どう》もしなくなった。そのすがたへ、花鳥は、ちらりと、つめたい|一《いち》|瞥《べつ》を与えた。
――世の中がいけないんだ。あの娘のせいじゃない。罪を犯すような娘か娘でないか、だれにだってわかるじゃないか。……だけど、しかたがないさ、人間の運命なんて、どんなにでも、ひっくりかえっちまうんだ……。
そう|呟《つぶや》きすてた花鳥であったが、もし、この時、ひっそりと坐った雪姫の心の奥で抱きしめられているものを、見破ることが出来たならば、事態は、決して、このままではすまなかったであろう。雪姫は、梅津長門の|俤《おもかげ》を、しっかと抱きしめていたのだから――。
深夜の訪客
「おい……貞宝……」
しんの闇の中で、ひくい声が呼んだ刹那、貞宝よりも、横に臥せっていた庄吉が、ぱっと夜具をはねた。
「だ、だれだ?」
庄吉は、腹に巻きつけた|晒《さらし》へ手を突っ込んで、匕首の柄を握りしめた。
「庄吉か――」
「えっ?」
「おれだ」
「あっ――旦那!」
庄吉の思わず高くした声で、貞宝も、むっくり起き上った。
灯が入れられると、夜具の裾に立っている長門の覆面黒衣の姿が、浮かびあがった。
「旦那! お、おそかった!」
庄吉の双眼に、みるみるあふれる泪を見て、長門は、はっと胸を衝かれた。
「梅津様。なぜ、おとといの夜、すぐ来て下さらなかった!」
貞宝の口調も表情も、つよく、長門をなじっていた。長門は、二人の視線をじっと受けとめて、口を真一文字にひきむすんだ。
――雪姫は、いない! いなくなった!
全身から、音たてて崩れ落ちる|虚《きょ》|脱《だつ》|感《かん》があった。
「旦那! 雪姫さまは……つ、つかまったんですぜ」
庄吉は、喘ぐように言った。
「なにっ? つかまった? 何者に?」
「十手にでさ」
「|莫《ば》|迦《か》な――。井伊家へ、つれ戻されたのではないか?」
「ちがいます! 貴方様を追っているお玉ケ池の皆次という岡っ引が、手下をつれてのりこんで参ったのです」
と教える貞宝の表情も、|悲《ひ》|痛《つう》に|歪《ゆが》んだ。
長門は、|惑《わく》|乱《らん》を|抑《おさ》えるために、大刀を腰から抜いて静かに坐った。
その脇に、千両箱が置いてあるのに、貞宝も庄吉も、はじめて気がついた。
固唾をのんで、貞宝と庄吉が見まもる中で、長門は、じっと考えていたが、やがて、一言、
「わからぬ!」
と、呟いた。
「わかりませんや、この貞宝も――。|不忍《しのばず》の|池《いけ》の|弁《べん》|財《ざい》|天《てん》をひっくくったよりも、もっとわかりませんや。奉行め、切腹したって、詫びのきかねえ大騒動になりゃがるだろう」
「いや、雪姫の素性を知って、やったしわざに相違あるまい」
「な、なんですって? 冗談じゃねえ。そ、そんな、大それたことが、あの腰抜けの大草能登に、出来るわけがねえ。……梅津様、こりゃ、屹度、あの皆次の奴が、とんでもねえ勘ちげえをしやがって、貴方様の行方を、姫さまが知っているとでも――」
「そうではない。……おれには、直感でわかる。これには、なにか、奉行所の腹黒いこんたんがある!」
そう言いきった長門は、自分の不安を救うように、うすい笑顔をつくった。
「雪姫を、まさか、|粗略《そりゃく》に扱いはすまい。素性を知って、捕えたとすれば、だ。……おれは、そう考えたい」
長門は、阿部忠兵衛が吐いた言葉を、思い|泛《うか》べていたのである。
小俣堂十郎が、自分を暗殺しようとしている理由があきらかになった今、長門に容易に想像し得るのは、奉行所側も、この秘密をかぎつけたのではないか、ということであった。そうだとすれば、堂十郎の計画の裏をかいて、奉行所の面目を持したいと決意する与力の一人や二人は、いる筈である。
――雪姫を捕えて、小俣を|脅迫《きょうはく》しようというのではあるまいか?
いずれにせよ、自分と雪姫は、ついにめぐり会えぬ宿命にあった、と長門は自分に言いきかせた。
「庄吉」
「へい」
「お前の、せっかくの好意を無にしてすまなかった」
「そんな……、あっしは、ただ、雪姫さまが、お可哀そうで――」
「なアに、生きていれば、また、機会もめぐってくる。それよりも、庄吉、お前に、たのみがある」
「へい」
「|日本堤《にほんづつみ》の|非《ひ》|人《にん》のことなんだが――」
「やつらに、なにか――?」
「うむ。お前の力で、非人たちに、暴動を起させてもらいたいのだ」
「へえ?」
庄吉は、|怪《け》|訝《げん》そうに、まばたきした。
「その資金として、おれは、ある家から、この千両箱を奪いとって来たのだ」
「じゃ、そいつを、ばらまくんですかい?」
「そうだ。やってくれぬか?」
「ようし、ひとつ、さそりの五郎兵衛にたのんでみます。……けど、いったい、どんな|暴《ぼう》|動《どう》を起させるんです?」
「それは、あとで説明する。ともかく、非人たちを、指揮のままに動くようにさせておくのだ。これで足りなくば、もう一箱奪いとって来てもよい」
「いえ、それだけでも、おつりが来まさア。小判なんざ、生れてまだ一度もおがんだことのない奴らですから、一両くれてやれば、女房でも、平気でしめ殺してみせます」
「では、たのむぞ!」
もはや、長門の面上には、雪姫の姿を脳裏から、はらいすてた、烈々たる|闘《とう》|魂《こん》を燃えあがらせている|気《き》|魄《はく》がみなぎっていた。
忍ぶ部屋
|霧《きり》のふかい夜であった。
不意に、女囚牢から呼び出された花鳥は|獄《ごく》|吏《り》から、無言で、顎で、ついてくるように指図されると、ふっと不吉な予感に打たれた。
名主となった今、吟味はない筈である。|流《る》|罪《ざい》の|宣《せん》|告《こく》が、この夜ふけに申渡されるとは考えられない。流罪は、普通、発送の前日、囚人を|糺問所《きゅうもんじょ》の庭へひき出し、きれいに頭髪を洗わせ、時服を一領、紙薬のほか金子も二分与えるならわしである。
「旦那――」
あとをついて行き乍ら、花鳥は、|浅《あさ》|葱《ぎ》の袷の襟をかきあわせた。
「いやなことでお呼び出しになるんじゃないでしょうね?」
獄吏は、こたえず、|揚屋《あがりや》の白壁の脇を進んで行く。
「まさか、|試斬《ためしぎ》りにされるんじゃないでしょうね?」
「女は、試斬りにはせん」
「だって……こんな夜ふけに――あたしゃ、なんだか、気味がわるい」
「黙って、ついて参れ」
獄吏が立ちどまったのは、病監の後方にある小屋であった。ぷうんと匂う薬の香に、花鳥は、すぐ、ここが、薬部屋であることをさとった。
――何故、こんなところにひっぱって来たんだろう?
獄吏が、自分を牢から呼び出す時も、あたりをはばかる小声であったし、この小屋の戸をたたく合図のしかたも、秘密ありげであった。
戸は、すぐに、しかし、そっとひきあけられた。
「つれて参りました」
「御苦労――」
獄吏は、花鳥を入れると、戸を閉めたが、外で見張る気配であった。
花鳥を待っていたのは、町人姿の河合十郎次であった。
六畳の部屋は、|薬《やく》|剤《ざい》つくりの道具がごたごたと置かれ、こもった匂いは、むせる程であった。
河合は、べつに花鳥を凝視しようとせず、今までのんでいたらしい煙草に一服つけて、ごく穏やかな声音で、
「雪という娘が、お前の牢に入ったろう?」
と、訊いた。
「はい」
「どうだ、様子は?」
「|音《おと》|無《な》しゅうござんすが……気位のある娘で、まア、揚座敷向きでござんすね」
揚座敷は、|拝《はい》|謁《えつ》以上の家柄の者が|禁《きん》|錮《こ》されるところであった。
「そうだろう。今までは、大名屋敷お預けだったのだからな」
「え?」
ききとがめた花鳥へ、河合は、はじめて、じろっと鋭い視線をくれた。
「あの娘が、将軍家の御落胤ときいたら、お前は信じるか?」
|語《ご》|気《き》はもとのままであったが、そのからだ全体からはなたれる|緊《きん》|迫《ぱく》の気配は、花鳥にも、ぴんと感じられた。
息をのんだ花鳥は、かすかな|戦《せん》|慄《りつ》を散らした眸子を、河合からそらすことは出来なかった。
「信じられんだろう?」
「は、はい……でも――」
「でも?」
「そういえば――」
「あの気品は、ただの気品ではない、と思いあたるか」
河合は、皮肉な|薄《うす》ら|笑《わら》いを、口もとへ刻んだ。
「その将軍家の御息女を、お前の手で、こっそり、亡いものにしてもらいたい為に、ここへ呼んだのだ」
「えっ?」
仰天する花鳥を、「静かに――」と制した河合は、さらに、
「お前も、まんざら、あの雪姫とは、縁がないわけではない」
と、おどろくべきことを口にした。
「わ、わたしが――」
「|花《おい》|魁《らん》とお姫様とでは、天地|雲《うん》|泥《でい》のへだたりがあるが……生憎、恋に上下のへだてはないのでな」
「なんと仰言いました?」
「恋だよ。恋――。お前の|情夫《ま ぶ》に、あの雪姫が惚れたのだ。こいつは、信じてもらってもいい証拠がある」
「わたしの|情夫《ま ぶ》に――?」
「そうよ、梅津長門だ」
瞬間、花鳥の血が凍った。
「そ、それは……」
「ききたいか?」
花鳥が、わななきつつ頷くのを、河合は、冷やかに見据えていた。隠密でなければ味わえぬ快感が、いま、河合の胸中でめらめらと妖しい焔を燃やしているのだった。
毒薬
ふたたび、獄吏にみちびかれて女囚牢へ戻って行く花鳥の姿は、|幽《ゆう》|鬼《き》にも似て、夜霧の中で影が薄かった。
惑乱が一応おさまり、脳裏の一点が、頭上の星のように冷たく冴えたいま、花鳥は、懐中にひそめた(河合に渡された)一服の毒薬に対して、ある烈しい憎しみを感じていた。
毒薬――すなわち死である。のみ下すだけで、ひとつの生命が、簡単にこの世界から消えてゆく。
牢獄内の幾月かの生活が、花鳥に、生命というものの|儚《はか》なさと貴さを教えていたのである。人間は、どんな|悲《ひ》|惨《さん》な世界へつき落されても、必死になって、生にしがみついている――そのあまりにもいたましい素裸の姿をいくた見せつけられた花鳥は、自分の病める身をも、生きながらえられるだけ、未来へはこんでみようと、いつかきめていた。牢内のしきたりを破って囚人おのおのに気ままな昼夜をすごさせようとしているのも、その為なのだ。生きるということは、孤独をまもることだ、とさとったからである。
だから、いま、花鳥は、自分に強要された残忍な行為を、|呪《のろ》うている――。
あの美しい気品のある娘が、公方のかくし子であることや、意外にも梅津長門を|慕《した》うていることは、花鳥にとって、一時の|衝撃《しょうげき》が去れば、いっそ、現在の心境には遠い事柄であった。その限りでは、河合が、この秘密を暴露して、花鳥の嫉妬をあおろうとしたのは、失敗であったといわねばなるまい。
花鳥は、――そうだったのか、と自分に頷く余裕をもった瞬間から、河合の命令とは反対に、雪姫の言った言葉を|甦《よみがえ》らせて、なにか、熱いものが心に湧くのをおぼえたのであった。
雪姫は、
「わたくしを、そっとしておいてくれませぬか」
とねがった。
雪姫は、孤独の中で、梅津長門の俤を想いつづけていたかったのだ。
――そうだったのか。
花鳥は、歩き乍ら、もう一度、自分に頷いていた。
――あの娘を、殺すなんて、とても、わたしにできるものか。……そうだ、これが、もし、|裟《しゃ》|婆《ば》で、梅津さんを取られた、というんなら、わたしも、もしかすれば、飛びかかって締め殺すかも知れない。……ここは、ちがう! わたしもあの娘も、いくら、じたばたしたって、梅津さんに会えやしないんだ。……一人ぼっちなんだ!
牢内に入った花鳥は、しばらく、自分の座に坐って、じっと何事かを、闇の一点に見据えていた。
やがて――。
花鳥は、そっと雪姫の横たわった場所へ、しのび寄った。
女囚たちの、規則正しい寝息、きれぎれのいびき、ひくい寝言、寝がえりをうつ音――なまぐさい人間のいとなみが、暗黒の中で、それらのかすかな音だけに|圧縮《あっしゅく》された世界は、いつも花鳥の夜半の寝ざめにいっそいじらしい|感《かん》|慨《がい》を|催《もよお》させていたものであったが――。
いまは、ちがう。花鳥の全神経は、刃のように鋭くとがっていた。
雪姫は、まだ睡らずにいたのであろう、花鳥の片手が、その肩にふれるかふれぬうちに、すっと身を起していた。
|瞳《ひとみ》を|凝《こ》らせば、どうやら、互いの顔の|輪《りん》|郭《かく》が見きわめられる暗さであった。ふたつの視線は、かなり長い間、その暗さを透して、じっと相手へ据えられていた。
不意に、花鳥の口から、ひくく、
「おひいさま!」
と洩れた。
「…………」
雪姫は、はっと息をのんだらしく、身を引いた。
「|公《く》|方《ぼう》さまのおひいさまですね、貴女は――」
左右に|臥《ふ》せている女囚は、一間と離れていないが、それらにきこえぬ要心をこめた小声で、花鳥は、ささやいたのである。
雪姫は、こたえない。
「いえね、返事をして頂かなくても、よう御座んす。……貴女が、おひいさまであったってなくったって、あたしゃ、べつに、かまやしない」
「どなたに、ききました?」
「貴女のご存じないイヤな奴さ。……貴女を殺してくれ、って、あたしゃ、其奴にたのまれた」
花鳥は、その言葉の|反《はん》|応《のう》を見ようとしたのだが、雪姫は、もはや、身じろぎもしなかった。
「おそろしくないのかえ?」
「いえ……」
「ご自分の運命を、あきらめている、と仰言る?」
「|不《ふ》|可《か》|抗《こう》のことなら、しかたがありませぬ」
すると、花鳥は、すっと、身をすり寄せると、一層声をひそめて、しかし、つよく、
「あきらめてはいけません! 死神に胸ぐらをつかまれたって、あきらめちゃいけない! 貴女は、生きなくちゃいけない理由があるじゃないか――」
と、ささやいた。
雪姫の呼吸が、はじめて、ひそやかに乱れた。
「ね、おひいさま! 貴女は、会わなくちゃならない、お人がある筈じゃ御座んせんか」
「え? それを……ご存じなのですか?」
「|牢《ろう》|名《な》|主《ぬし》の耳には、どんな秘密も入って来るんです」
「わ、わたくしは――、その方に、ひと目だけ、お会い出来れば……もう、死んでも、かまいませぬ」
「その一言をきいておけば、わたしゃ、貴女のために力が貸してあげられます」
花鳥は、懐中から、河合に渡された毒薬の包みをとり出した。
一服全部のませると、|苦《く》|悶《もん》が烈しくて、まわりにさとられる。三分の二の分量が、睡ったままに死に至らしめ得る。あとの三分の一を花鳥自身がのむ。三分の一ならば一刻あまりねむるだけだ。そして、二人が夕食で魚で中毒したことにするのが、一番自然にみせかけられる、と河合は、花鳥に教えたのであった。
その時、花鳥は、
「もし、半分のませたら?」
と、訊いた。
「明日の午すぎには、息をふきかえすだろう」
と、いうこたえであった。
息をふきかえすまでは、死んだと同じ状態を保たせる|秘《ひ》|薬《やく》であった。
「くれぐれも分量をまちがえるな。三分の二だぞ」
と、河合は、幾度も念を押したものであったが……。
「この薬を、半分、のむのです。そうすれば、貴女は|睡《ねむ》ってしまいます。脈がとまり、血の色が失せて……どう見ても、死んだとしか思われません」
「そ、そうすると?」
「夜明けに、わたしが、叫んで、医者を呼んでもらいます。……この牢屋敷つきの医者は、|耄碌爺《もうろくじじい》だし、囚人なんて虫けらぐらいにしきゃ考えちゃいませんから、|検《けん》|屍《し》なんていい加減なもの――さっさと診断書を書いてしまうにちがいありません。それで、見回与力が、印を捺したら、貴女のからだは非人部落にさげ渡しになるんです。非人たちは、貴女が捕った時の着物や持っていたお金をもらえるのだから、仏様は大切にして、明日中に、部落の名主のところで、お経をあげて|弔《とむら》ってくれます。小塚原の刑場へ埋葬するのは、明後日のことです。貴女は、棺の中で息をふきかえしたら、隙をうかがって、逃げ出せばいいんです!」
花鳥は、雪姫の手を握ると、力をこめた。
――きっと、お会いになるんですよ、梅津さんに! 会ったら、死んでもはなれてはいけませんよ!
その叫びは、|胸《むね》の|裡《うち》であった。
自分は梅津長門の女であった、などと、舌が抜けても言う筈もない花鳥であった。お姫様の夢は、美しい。その夢をやぶる必要がどこにあったろう。けがれ果てた自分も、かつては、お姫様と同じ美しい夢を抱いて、佐原の喜三郎の|俤《おもかげ》を追いもとめたのだった。一夜の契りに、生命をかけたいじらしさは、自分もお姫様も、まったく同じではないか。そして、お姫様の慕う相手は、自分もまた心から愛した梅津長門である。
長門と雪姫のめぐり会う日をねがう花鳥の心には、みじんも|嫉《しっ》|妬《と》の影はさしていなかったのである。
馬場しぐれ
乳色の|朝《あさ》|霧《ぎり》のたちこめた、まだ陽の昇る一刻前――。
小伝馬町牢屋敷の|不浄門《ふじょうもん》から、四人の非人が、白布で掩った|棺《かん》を担いで、忍び出た。
内側で、見送ったのは、陰鬱な表情の谷村正蔵とその輩下数人であった。
雪姫の急死が、谷村を驚愕させたことはいうまでもない。
生かしておいてこそ、これを|囮《おとり》にして、小俣堂十郎の首を、じわじわと締めつけてやるひと芝居もうつことが出来たのだ。
じっと見送る険しい眼光は、一片の|憐《れん》|憫《びん》の色のかわりに、冷たい無念の色が湛えられていたのであった。
棺が、人影絶えた亀井町を通りぬけて、馬喰町に入った時、霧が散ったかわりに、雨が降って来た。
雨足は、商家の屋根に、時折ざあっと急に降り注いでは、中空へ遠退いた。
非人たちは、一語も交さず、ぴたぴたと|草鞋《わらじ》の音だけをひびかせて、先を急いだ。
程なく、|蕭条《しょうじょう》として灰色に拡がった馬場の脇へ出た。
右手は、裕福な町人の屋敷らしく、高い|海鼠壁《な ま こ》の塀がつらなり、さしのべた樹枝が、地面を薄暗くし、ぽたぽたと水滴を落していた。
と――。
うしろを担いでいた非人の一人が、ふっと、雨の冷たさよりも別種の|悪《お》|寒《かん》を背筋におぼえて、ふりかえり、二間の距離に、二人の覆面の武士が、|跫《あし》|音《おと》もなく迫ったのを見出した。
「あっ!」
仰天して棺をなげ出そうとした刹那、白刃が、雨を縫って、きらめいた。ぎゃっ、と|断《だん》|末《まつ》|魔《ま》の悲鳴をあげて、地べたにつくばう仲間を、あとの三人は、見のこす余裕もなく、夢中で駆け出そうとした。
しかし、その行手をふさいだのは、背後に迫った者と同じ覆面の武士二人であった。
三人の非人が、枕をならべて、泥道にのめり込んだのは、その一瞬後であった。
武士たちが、河合の報せを受けた小俣堂十郎の手飼いの隠密であったことは、いうまでもない。
一人が、すばやく、棺の|蓋《ふた》を、こじあけた。
囚衣のまま|仰臥《ぎょうが》された雪姫は、顔を、綿でつつまれていた。
「どうする? ここで、息をふきかえさせるか?」
「たしかに、死んではおらんのだな?」
「河合は、牢名主に命じて、|致死量《ちしりょう》の二倍をのませたらしいから、必ず、生きかえると申していた」
「多くても少なくても、死なんとは、奇妙なものだな」
「ともかく、ここは、まずい。早くひきあげた方がいい」
四人は、雪姫をかつぎあげると、急いで馬場の中へ入って行った。
実は、河合は、花鳥に、|偽《いつわ》りの分量を教えたのであった。はじめから、雪姫を殺す積りではなかった。三分の一の分量が、致死量であったのだ。ある種の毒薬というものは、量が多ければ、かえって、失敗する。
事実、雪姫は、棺にゆられているうちに、腹の中の毒薬を吐いていたのである。意識が甦るのは、もうすぐ先にせまっていた。
しかし、牢内の花鳥は、致死量とは知らず、その三分の一をのんだのではなかろうか。身心の疲労を忘れて、泥のようにねむりたいために――。
馬場の一隅には、四頭の馬がつながれていた。
その一頭の背へ、雪姫は、どさりとなげかけられた。
その折――。
すぐかたわらの欅の樹陰から、のそりと姿をあらわした者があった。
「御苦労――」
|嗄《しわが》れた声をなげたその人物は、常にも増して陰惨な面構えの須貝嘉兵衛であった。
「なんだ、貴公も来ていたのか。ここで待伏せたことが、よくわかったな」
一人が、笑いかけると、須貝は、それにこたえず、首をのばして、雨に濡れた雪姫の蒼白な横顔をのぞき、あらためて、四人に向き直ると、
「この娘を、おれがもらう」
と、ずばりと言いはなったのであった。
「なに? どういう意味だ、それは――」
覆面からのぞいた八つの目が、さっと気色ばんだ。
「もらいたいから、もらう、と言っているのだ」
「御目付に断りなしにか?」
「左様――」
それ以上、問答は無用であった。
五本の刀が、抜きはなたれ――雨は、凄まじい殺気の中へ、|遽《にわか》に、烈しく降りそそいだ。
秋空澄む
秋空が、一片の雲もとどめず、遠く澄みわたり、寒波の前ぶれを思わせる冷たい風が吹きわたる朝であった。
五つ時――。
牢屋敷裏門から、千住小塚原、獄門場にむかう引回しの一行が、しずしずと出た。先頭は、六尺棒を持った非人二人。次の非人は、|捨《すて》|札《ふだ》をかかげていた。
その捨札には、
「今春、大坂にて|反《はん》|乱《らん》を起した天満与力大塩平八郎の師であり、その|暴《ぼう》|挙《きょ》を|使《し》|嗾《そう》した|元凶《げんきょう》であり、|且《かつ》先年よりひそかに幕府転覆の陰謀を企てていた毛利春斎を、大逆罪として、引回しの上、磔刑に処すること。また、春斎の輩下として暗躍し、北町奉行所同心庭場重左衛門を殺害した無宿入墨喜三郎も、ともに磔刑に処すこと」
という意味が記されてあった。
捨札につづいて、白衣帯刀の矢の者(|穢多頭《えたがしら》弾左衛門の配下)が抜身の朱槍を二本担ぎ、そのうしろの痩せ馬二頭に、春斎と喜三郎が乗せられていた。馬口取と|介《かい》|添《ぞえ》二人、それぞれ三人が馬の前後をまもり、次に捕物道具をかまえた矢の者。つづいて、北町奉行与力支配谷村正蔵が、陣笠野羽織姿で、騎馬上にあった。うしろには、持槍、挟箱、口取を従えた侍二人、同心四人、組下棒突六人、非人頭車善七および手代など、いずれも白衣、|脚《きゃ》|絆《はん》、|尻端折《しりはしょり》の行装で、長くつらなっていた。
引回しというのは、普通、ふたたび牢屋敷に戻って、そこの切場で処刑するならわしであった。小塚原あるいは鈴ケ森で、処刑することはなかった。
しかし、今度の獄門は、前例にない処刑が行われることになったのである。
小塚原に、青竹の矢来をめぐらして、磔場を設けたのである。
衆人に、これを目撃せしめる目的は、ひそかに、野にかくれて|尊《そん》|王《のう》|思《し》|想《そう》を抱く者たちを|慴伏《しょうふく》せしめることにあった。谷村正蔵の主張が通ったのである。しかし、谷村の肚の裡には、別の意図が、かくされていた。
――春斎を磔刑にする光景を見ようとして、梅津長門が、必ず、小塚原にあらわれるに相違ない。それを捕えてやる!
|執《しつ》|拗《よう》きわまる意地であった。小俣堂十郎が、長門を暗殺しようという計画をすてない限り、谷村は、どんな非常手段をとっても、先手を打たずには置かぬ敵意に燃えていた。
前日、雪姫の遺骸を奪い去ったのも、小俣堂十郎輩下であることはあきらかであった。
いまや、小俣と谷村の対立は、どちらが仆れるかまで争われるであろう|熾《し》|烈《れつ》な実力行為の火花を散らそうとしていた。
――いまにみろ!
今日こそは、という決意を面上にみなぎらせた谷村は、すでに、往来をうずめた群集へ――その中に交っている梅津長門を見破ろうとする鋭い視線を投げていた。
変装した捕吏に、沿道いたるところ網をはらせてある。勿論、小塚原の竹矢来の外には、一間おきに配置して、呼子一声で、梅津長門めがけて殺到せしめる手筈はととのっている。殺気をひそめた列は、ゆっくりと、小伝馬町から小船町へむかって進んで行った。
馬上の囚人二人は――。
春斎の眼眸は、茫乎として、秋空へ向けられ、その心中を|窺《うかが》うことは出来なかった。一切を天命として、この一瞬の現世の|屈辱《くつじょく》をはらいすてるだけの素養を積んだ人物であった。荘子にある「死生は命なり。その夜|旦《たん》の常あるは天なり」という言葉を、春斎は、座右の|自《じ》|戒《かい》としていた。また、「真人は、生を悦ぶを知らず、死を悪むを知らず」の真理をも悟っていた。真人とは、何事も|天《てん》|然《ねん》のままにして、人欲をして天然に勝たしめざるをいう。まさに、春斎の心境は、この苦難に遭うて、頭上の秋空のように澄むことを欲し、その眼眸が、地上をはなれていたのであろう。
だが、後の馬上の喜三郎の表情は、悲惨にも、苦悩でひき歪んでいた。先刻、牢からひき出されて、外鞘から|改番所《あらためばんしょ》へつれて行かれる途中、たちならんだ牢前を過ぎたが――。
女囚牢の前にさしかかった時であった。
一人の女囚が、戸板にのせられて、はこび出されて来た。重病とみえて、獄吏のとり扱いが丁寧であった。
何気なく、二間あまりこちらから、その女囚の寝顔をのぞいた途端、喜三郎は、冷水を頭からあびせられたような|衝撃《しょうげき》を受けたのであった。
――あっ! あれは……おとよではないか!
あまりにもやつれ変りはててはいるが、むかしの面差が消え去ったわけではない。四年間想い描きつづけた喜三郎が、見まちがえる筈がなかった。われを忘れて、それへ一歩踏み出そうとするや、強く縄を引かれてたたっとよろめき、首をねじって、夢中で、
「おとよ!」
と、叫んだのも、あわれ無駄であった。|昏睡状態《こんすいじょうたい》に|陥《おち》|入《い》っているおとよ――花鳥は、そのまま、遠ざかって行ったのであった。
――おとよだった! まちげえねえ! ……畜生! なんて|因《いん》|果《が》なめぐりあわせだ! いつの間にか、この牢屋敷に二人ともぶち込まれていたんだ。そればかりか……おれが磔刑になる日に、あいつも、死にかかってやがる!
馬上で、がっくり|項《うな》|垂《だ》れた喜三郎の|双《そう》|眼《がん》は、いくども、熱い泪があふれかかっていた。そして、心中では、発作的に、何か声を限りに絶叫したい狂暴な激情が、くわっと渦巻いていたのであった。
春斎と喜三郎に共通していたのは、左右でざわめく群集の有様を、まったく見ようとしなかったことである。
刑場
|引《ひき》|回《まわ》しの行列は、|荒《あら》|布《め》橋、江戸橋を渡り、元四日市町、本材木町一丁目より海賊橋をこえ、坂本町河岸通、八丁堀、北紺屋町、岡崎町、南伝馬町、京橋をすぎて芝車町にいたり、行路を回らして、三田を経て赤羽橋を渡り、飯倉町、溜池端通、赤坂田町の順路を経て、四谷門外に出て、市谷門外堀端通を左に沿うて、牛込箪笥町、通油町を貫き、小石川門外へ参り、水戸家屋敷脇から右へ――|壱《い》|岐《き》|坂《ざか》を上って、本郷弓町、湯島|切通《きりどおし》、上野山下より下谷広徳寺前通り、浅草雷門前、今戸町にいたり、再び路程をかえして、まっすぐに小塚原へ――。
刑場に入ったのは、すでに、西方の空があかね色に染められた時刻であった。
中央には、罪木柱(長さ二間五寸角の柱に横木二本の構造)が、二柱横たえられてあった。
春斎と喜三郎は、その上へ|仰臥《ぎょうが》させられ、上下の両肢を柱にしばりつけられた。その着衣を左右袖脇下より腰まで破って、胸間へ左右より巻付け、しっかり縄でむすばれた。
そして、罪木柱は、ぐうっと、まっすぐに地上へ立てられた。竹矢来の外をとりまいた数千の群集が、どっとどよめいた。
|斜《しゃ》|陽《よう》は、春斎と喜三郎の顔へ、あかあかと照りそそいだ。十間あまり後方に、床几に腰かけた谷村は、息をつめて、両人を凝視して、微動もしない。
呼子の高く鳴るのを、今か今か、と待ちうけているのだ。
――必ず、梅津め、やって来ている!
この確信が、いまや、胸一杯の期待にふくれあがっているのだ。白衣、股引、脚絆、尻端折に、縄だすきをかけた突手の|非《ひ》|人《にん》四人が、谷村の方にむかって整列し、一礼した。
――まだか! 梅津はまだ発見出来んのか!
じりじりした谷村は、心中で、群集中にもぐり込ませた数十人の岡っ引どもの無能を、はげしく罵った。非人四人は、槍を把って、罪木柱へ進んだ。
春斎の前と、喜三郎の前と、それぞれ二人ずつ、左右にさっとわかれるや、眼前に|鋒《ほこ》を|交《こう》|差《さ》させた。
見せ槍という。
「えいっ!」
「えいっ!」
掛声をかけつつ、幾度か、素突を試みる。
これが、おわれば、春斎と喜三郎は、脇腹より肩先迄、ぐっさり貫かれ、血しぶきが散る。
――おのれ! 梅津め! なぜ、あらわれんのだ!
谷村は、全身が|痙《けい》|攣《れん》するほど苛立った。
梅津をひっ捕えて、ここへしょっぴいて来て、その師春斎が突き殺されるのを、|咫《し》|尺《せき》の間に見せつけてやりたいのだ。
ついに――。
突手が、身構えた。ぴたりと、脇腹をねらって静止した槍尖が、きらっと陽光を撥ねてきらめいた。
あわや――と見えたその一瞬、突如、矢来の外に、すさまじい|鬨《とき》の声があがった。
勿論、突手は、それにかまわず、突けば突けたであろう。だが、四人の突手は、それをしなかったばかりか、この鬨の声を待っていたかのように、互いに顔見合せて、にやりとしたものであった。
「なんだ!」
谷村は、愕然として、床几からつっ立った。
呼子の笛の音のかわりに、この鬨の声は、|夢《む》|想《そう》だにしなかった意外であったし、瞬間、谷村の脳裏を、ある不吉な予感が|掠《かす》めたのであった。それから後に起った光景を、谷村は、その目で眺め乍ら、信じられなかった。
あっという間に、竹矢来が倒されるや、数百人の、いずれも、ぼろぼろの身なりをした男たちが、手に手に棒や刀をふりかざして、土埃りを舞いたたせて、罪木柱へ殺到する有様を、谷村は、なにか別の世界の出来事のように、茫然と見やったのであった。
たちまち、刑場内は、暴徒の集団と役人捕吏たちともみあう、惨たる修羅場と化した。もうもうと立ちのぼる土埃りの中で、けだもののような|怒《ど》|号《ごう》や|悲《ひ》|鳴《めい》があがり、みるみるうちに、倒れる者が続出した。
谷村が、暴徒たちを非人の群だとさとった時、もう、罪木柱は彼らによってとりまかれていた。抜刀した谷村は、狂人のように|喚《わめ》いて、斬り込んでいった。
暴力というものの奇怪な|魅力《みりょく》に|憑《つ》かれたような非人たちは、凶悪な殺気で逆上しているというよりも、まるで、この|奪《だっ》|還《かん》|行《こう》|為《い》を愉しんでいるもののように、その叫喚にも動作にも活気を満たしていた。それにひきかえて、役人捕吏たちは、あまりにも意外な襲撃に狼狽した不統率ぶりをたてなおす余裕もなく、終始圧倒されつづけた。また、たしかに、暴徒の集団は、数において、はるかにまさっていたのである。
しかも、当然囚人を|防《ぼう》|禦《ぎょ》しなければならぬ役目の非人頭車善七以下の者たちが、抵抗するとみせかけて、実は、春斎と喜三郎を巧妙に襲撃側へ渡してしまったのであった。
「囚人を渡すなっ! 渡してはならんぞっ!」
谷村は、滅茶苦茶に刀をふりまわし乍ら、争闘の渦の中心に、罪木柱から解きはなたれた春斎と喜三郎が、まだとどまっているのを見て、それへ近づこうとあせった。
と――。
悪鬼のように、手向う敵を斬りはらう谷村の前に、横あいから、非常なすばやさでおどり出て、立ちふさがった者があった。谷村は、本能的に、一足、ぱっとさがった。
非人の群の中に、たった一人だけ交った宗十郎|頭《ず》|巾《きん》、黒羽二重の着流しの武士であった。
――梅津だ!
谷村は、直感すると、かあっと全身の血が逆流するような、すさまじい憤怒に駆られて、猛然と、斬りかかった。
次の刹那――。
|頸《くび》|筋《すじ》に、焼けつくような|衝撃《しょうげき》をうけた谷村は、だだっと前へのめり、膝をつき、そして、がくんと額を地べたへうちつけた。
――く、くそっ! 死んで……死ぬものか! ……このまま、死んでたまるか!
と、声のない呻きをほとばしらせつつ、次第に意識を喪っていった。
俯伏した谷村の上を、幾人かの土足が踏みこえ、土埃りをかぶせた。
もとの部屋
雪姫は、ふかいふかい谷底から、必死になって這いのぼり……ふっと、目をさました。
|周囲《しゅうい》は、|暗《くら》|闇《やみ》であり、まだ意識は、夢とつづきの世界で戸惑っていたので、しばらくは、身じろぎもせず、ぼんやりと、仰臥していた。
やがて、雪姫は、ここが、牢屋内でないことを、はっきりとさとった。たしかな証拠は、自分が寝かされている夜具の|柔《やわら》かさであった。
――どこだろう?
あの牢名主の|囁《ささや》きを、耳の底に甦らせるには、まだすこしの間を待たなければならなかった。
――あ! そうだ! わたくしは、棺の中にとじこめられて……。
咄嗟に、四肢を走った|戦《せん》|慄《りつ》で、雪姫は、夜具を動かした。ちがっていた。棺の中ではなかった。からだはのびのびと仰臥しているし、闇に馴れてきた瞳は、おぼろに、天井を映したのである。
――どこだろう?
もう一度、あたりの気配に神経を|鋭《するど》くしたおり――。
廊下を踏む忍びやかな跫音が近づき、こちらの睡りをはばかるように、雨戸を繰った。あかるくなった部屋を眺めた途端、雪姫は、わが目を疑った。
二年間、自分が住み馴れた、神田松枝町の|拝領屋敷《はいりょうやしき》の一室ではないか。
信じられないことだった。しかし、まさしく夢ではなかった。床脇の屏風棚の下に片よせた櫛箱も鏡台も、自分が去った時のままに、そこにそのままあるのだ。掛けている夜具も、なつかしいわがものである。
「御免――」
ひくい咳払いがして、障子戸が開かれた。雪姫は、顴骨の異常に突出た鷲鼻の顔を、見上げた刹那、自分が以前の生活にそっくりあと戻った気がした。
|須《す》|貝《がい》嘉兵衛は、雪姫を|一《いち》|瞥《べつ》しただけで、すぐ視線をそらし、
「御気分は、如何です?」
と、尋ねた。語気は穏かであったし、姿勢も正しかった。
「すこし、胸がむかむかするような気がするだけです。起きて、あるくことも出来そうに思います」
雪姫も、静かに、日常の会話を交す調子でこたえた。
「貴女様は、二昼夜、ぶっ通しで、|睡《ねむ》られたのだ」
「そなたが、わたくしを牢内から救い出してくれたのでしょうか?」
「いや、|逝《せい》|去《きょ》されたものと|看《み》|做《な》されて、小伝馬町から運び出され、浅草の非人部落へ担いで行かれる途中、こちらが貰いうけただけのこと――」
「なぜ、この屋敷へつれて来ました?」
嘉兵衛は、ちょっと返辞をためらって、ちらっと雪姫を見やった。雪姫は、まっすぐに、嘉兵衛を瞶めていた。
「井伊家よりも、ここの方が、貴女様には、住み心地がよかろうと存じてな――」
そう云って、嘉兵衛は、うすく笑ってみせた。そのにごった眸子の色は、意外にやさしかった。
「そなたは、井伊の屋敷で、|謹《きん》|慎《しん》の身ではありませぬか。……なぜ、わたくしを――」
「姫!」
嘉兵衛の面上に、急に、この男本来の一徹な|気《き》|魄《はく》があふれた。
「お尋ね申したき儀がある」
「…………」
「貴女様は……梅津長門に……辱しめを受けられたか?」
この質問を、嘉兵衛は、おそろしい苦痛の中からひきずり出すように、口にした。雪姫は、息をのみ、目蓋をとじると、夜具を目もとまでひきあげた。
嘉兵衛の双眼は、殺気にも似た鋭い光をはなった。口もとは、はげしくひきつれて、絶えずびくびくと痙攣していた。
「こたえていただこう!」
「そなたに、関係のないことです」
「いや、ある! あるのだ!」
「わたくしを救ったのは、それを尋くためですか?」
「そうです。拙者は、貴女様をまもらねばならぬ義務があるのです。貴女様に害を加える者は、たとえ|公《こう》|儀《ぎ》の上役と|雖《いえど》も、斬る!」
雪姫の眸子が、ぱっちりとひらいて、
――何故?
と、問うた。
「拙者は、貴女様の|素姓《すじょう》を知らぬふりをしていたが、実は、知って居った。知って居ったばかりか……拙者は、自分の娘以上に思うて居った。……いまこそ、明かそう。拙者は、貴女様の母と……許嫁であった男だ」
「えっ?」
雪姫は、|愕《がく》|然《ぜん》として、目を|瞠《みは》った。
「拙者は、許嫁を将軍家に奪られたのだ。……二十年前、拙者は、将軍家に一太刀あびせようかとまで、狂乱した。……拙者が、世をすねて、酒に身を|崩《くず》した原因は、それにあった。拙者は、以来、何ものをも信じなくなった。一切がくだらなく、|莫《ば》|迦《か》らしく、虚しく思えた。左様、偶然にも、貴女様を、小俣堂十郎から預ってくれ、と頼まれて、しぶしぶ承知した四年前までは、だ。……ところが、貴女様を一目見るや、拙者は、夢ではないかとおどろいたのだ。許嫁と生き写しの貴女様の出現が、拙者にどんな生甲斐を与えたか、誰にも想像がつかぬ筈だ。……貴女様なら思いあたって頂けるだろう。拙者は、貴女様が、自由に、気ままに暮せるように、陰にまわって、|心《しん》|胆《たん》を|砕《くだ》いて来た。如何なる者も、貴女様に近づけなかった。拙者自身も、近づかなかった……」
訥々として、|肺《はい》|腑《ふ》からしぼり出す嘉兵衛の言葉は、雪姫を感動させずにはおかなかった。同時に、この人物を敵にまわした梅津長門の危険をも、ひしひしとおぼえないではいられなかった。
非人世界
毛利春斎と、佐原の喜三郎の二人を、|磔刑《はりつけ》寸前において奪いとったのが、車善七輩下の|非《ひ》|人《にん》の集団であったことは、二日と経たないうちに、江戸中へひろがった。
いわば、町奉行所としては、|飼《かい》|猫《ねこ》に手を噛まれたようなもの――町人たちは、あからさまな|嘲罵《ちょうば》をはなった。
にも拘らず、町奉行所から、車善七に対して、何らの|御《お》|咎《とが》めの通告も、なかったのは、理由があった。
当時――。
非人総督たる|穢《え》|多《た》頭弾左衛門は、非人小屋頭車善七に対して、全く支配権力を失っていた。善七が穢多頭の隷下に属しているという法則は、空文化していたのである。事実、罪囚の取扱、引回しの護衛、死刑執行の雑役、獄舎の使役など、弾左衛門の指令を待たずに、善七は、勝手にやってのけていたし、浅草と品川の病囚の|溜《たまり》の支配も、完全に彼の手に入っていた。しかし、公儀からの入費金は、一応弾左衛門のもとへ下付されていた。善七は、これを不満として、|屡《しば》|々《しば》、名実ともに独立したい旨を、奉行所へ訴え出ていたのである。
もともと、穢多頭と非人小屋頭との|軋《あつ》|轢《れき》は、東照宮入国以来のことであった。
善七が、独立を願い出るや、この積年の軋轢が、火を吹いて燃えあがり、ここ数年間のうちに、十数回の乱闘がくりひろげられ、五百余の穢多非人が死傷していたのである。
善七が、|檄《げき》|文《ぶん》をとばし、本願寺を借切り、二千余の非人を集合させて血判をとったのは、つい一月あまり前のことであった。
この頃から、|市《し》|井《せい》の間では、非人の集団が、南北両奉行を襲撃して、なぶり殺しにする計画をたてている、というまことしやかな噂がひろまっていた。
こうした不穏の空気が、たまたま、爆発して、春斎と喜三郎を奪うという暴挙となった――と、公儀も市井も受取ったのは当然である。
梅津長門がばらまいた千両の黄金つぶての威力がものをいった事実など、誰一人知る由もなかった。勿論、非人部落が、公儀に対して聊かも憤懣を抱いていなかったならば、梅津長門が、たとえ千両はおろか二千両三千両をばらまいても、あの磔刑を妨害することは、到底成功しなかったであろう。
町奉行所の苦悩は、深刻であった。
穢多非人の御仕置は、すべて、弾左衛門に引渡す規則になっている。当然、このたびの暴徒は、捕えたならば、この規則に拠らなければならない。しかし、実際上、これは不可能である。車善七が承知する筈もないし、また弾左衛門としても、これ以上、争闘を大きくするのを好む筈がない。善七が、あらかじめ、これを見抜いて、暴挙を敢行したであろうことは、いうをまたない。
結局、町奉行所は、弾左衛門にむかって、善七輩下から、暴挙を指揮した者を出させるように、と形式的な指令を下したにとどまったのであった。
事件があってから、三日目の夕刻――。
日本堤の非人部落から、十余人の非人の一団が、東海道方面にむかって|流《る》|浪《ろう》の旅へ出た。その中に、毛利春斎と喜三郎が交っていた。いわば、ほかの非人たちは、両人の|護《ご》|衛《えい》であった。
見送る群の前には、長門と庄吉が立っていた。
ぼろをまとい、|筵《むしろ》を|背《せ》|負《お》い、汚れた手拭いで顔をつつんだ春斎は、長門の手を握ると、
「くれぐれも、身体を大切にしてもらいたい」
と、慈愛をこめて云った。
「先生も御壮健で――」
「死生、|命《めい》あり、だ」
|穏《おん》|和《わ》な微笑が口もとに泛んでいたが、双眼は潤んでいた。
「お手紙を善七宛に下さいますれば、身が自由である限り、如何なる御使命をも尽す所存で居ります故――」
「必ず、貴公を頼む機会があろう」
「お待ちして居ります」
春斎は、京へ上るのであった。討幕|実《じっ》|践《せん》運動の決意は、この三日間のうちに、はじめて春斎の肚裏に、かたくそなわったようであった。
春斎が、一礼して歩き出すと、代って喜三郎が、
「旦那。お別れいたしやす」
と、丁寧に頭を下げた。
「先生をたのむぞ」
「お役に立つか、立たねえかわかりませんが……この木ッ葉生命は、たった今からなげ出して居りやす」
「おれと知合ったために、とんだまきぞえをくわせて、すまなかった」
「なアに、|生《いき》|甲《が》|斐《い》も|死《しに》|甲《が》|斐《い》もこれからでさア……。江戸にゃ、もう未練もありやせん、おとよにも会えたし――」
「え?」
ききとがめて、長門が、眉宇をひそめると、喜三郎は、ちょっとはにかんだ苦笑で、
「因果なめぐりあわせでさ……四年間捜していた女に、あの小伝馬町の牢屋敷で、ばったり会ったんでござんす。といって、口をきいたわけではござんせんが、……なにしろ、死にかけていやがって、戸板で運ばれて居りやしたので――。これで、いっそ、さっぱりいたしやした」
――そうか、花鳥は、死んだか!
|暗《あん》|然《ぜん》と、胸の中で呟いた長門は、しかし、その表情にはあらわさなかった。
今更、自分と花鳥との因縁を、喜三郎にきかせたところで、何になろう。すべては、過ぎ去った悪夢である。
「じゃ、御免なすって――。庄吉、達者でいろよ」
「喜三郎兄貴もな――」
庄吉も、肉親を見送るような切ない別離の感動を、顔にも姿勢にもあふらせていた。
挑戦状
長門が、一人の非人によって持参された一通の手紙を読んだのは、その夜のことであった。
今日、昼すぎ、神田|界《かい》|隈《わい》をうろついていた非人は、とある通りで、深編笠の浪人体の人物に呼びとめられ、いきなり、
「貴様は、|日本堤《にほんづつみ》の非人部落に住んでいるのか?」
と、尋ねられたのであった。
「へい、左様で――」
「では、梅津長門に、この手紙を渡せ」
と、差出されて、非人が、ぎょっとなって逃げ腰になると、
「梅津がかくれていることは、きかないでもわかって居るのだ。この手紙は、梅津にとって、|公《こう》|儀《ぎ》の|赦免状《しゃめんじょう》よりも重大なものなのだぞ」
と、鋭く云いはなって、うむをいわさず、押しつけておいて、さっさと立去った――という。
長門は、裏をかえしてみ、須貝嘉兵衛と記されてあるのを一瞥するや、
――|果《はた》し|状《じょう》か。
と、身のひきしまるのをおぼえた。
はたして、そうであった。しかし、ただの果し状ではなかった。
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『一昨日、小塚原刑場における暴挙の一件を噂でききおよんだ際、支配与力谷村正蔵を一刀で斬倒した|鮮《あざや》かな手練の者が交っていた由、拙者は、下手人を貴公梅津長門に相違なし、と断定した。非人共を指揮したのも、恐らくは、貴公であろう、と想像する。
よって、この手紙を、日本堤の非人部落の住人に手渡せば、確実に、貴公の手に届けられるものと思い、一筆したためる次第である。
|簡《かん》|潔《けつ》に用件を云う。
拙者は、貴公をあくまで斬らねばならぬ。貴公は、拙者から、二度逃走した。三度目は、貴公の方から、拙者の指示する場所へ出向くべき義務があろう。
明正午、貴公がかつて拙者を斬るべく侵入した神田松枝町の屋敷において、待っている。
貴公が、もし万一、拙者に勝ったならば、拙者より贈呈するものがある。雪姫である』
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末尾の一句が、|長《なが》|門《と》を|愕《がく》|然《ぜん》とさせたのは、断るまでもない。
――雪姫が……どうして、嘉兵衛の手中にあるのだ?
「旦那――」
いつの間にか、庄吉が、長門の脇へ来ていた。長門のきびしい表情から、ただならぬものを読んで、胸をさわがせつつ、首をのばして、
「貞宝師匠からでも、何か悪い報せがあったんでござんすか?」
「いや、お前の仇からの|果《はた》し|状《じょう》だ」
「えっ? 須貝嘉兵衛の野郎から――」
「うむ。しかも、こっちが勝てば、雪姫を渡すという……」
「そ、そんな|莫《ば》|迦《か》な! 姫さまは牢屋敷にとじこめられているんじゃござんせんか」
「須貝は、|評定所《ひょうじょうじょ》の小俣堂十郎というすごい男につかわれているのだ。あるいは、小俣が、謀略をもちいて、雪姫を、奉行所から奪いとったのかも知れぬ」
「旦那、それじゃ、果し合いにお行きになるんですかい?」
「|挑戦《ちょうせん》されたからには、ひきさがるわけにいくまい。おれは、須貝から二度も逃げているのだからな。そのことを、手紙に書いて、念を押してある」
長門は、うすく笑ってみせた。
「だって、旦那――。敵は、また、このあいだの晩みてえに、多勢の腕ききを待ち伏せているかもわからねえ」
「おれには、どうも、そうは考えられぬ。あの須貝という人物は、そんな|卑怯者《ひきょうもの》ではないようだ」
長門は、果し状を、火鉢にくべ、めらめらと燃えあがる焔の色を、じっと鋭く瞶めていたが、庄吉へ視線を移した時は、もとの澄んだまなざしにもどっていた。
「場所は、お前が、はじめて案内してくれたあの拝領屋敷だ。……仇を討つ気がまだあるなら、どうだ、ついて来るか?」
廃園の人々
めずらしく暖かな日であった。ゆっくりと歩いて来たのだが、汗をおぼえる程だった。
その屋敷の門前に立ち、頭上を|掩《おお》う|欅《けやき》の大樹をふり仰いだ長門は、白鷺が数十羽、はげしい羽音をたてて舞い立ったさまを眺めて、この家が、あの日以来ずうっと無人のままにすておかれてあったのをさとった。
――そうか、やはり、須貝嘉兵衛は、雪姫を、何人にも秘密で、ここにかくまっているのだな。
雪姫と須貝の関係が、世を忍ぶ高貴の娘とその目付役、というだけの間柄ではないらしい、とは、長門の心中でいくども想像されたことだった。守護した娘を|辱《はずか》しめられた|憎《ぞう》|悪《お》|憤《ふん》|怒《ぬ》がなみなみでなかったにしても、常に、助勢をたのまず自身一個の力のみで仆そうとする執拗な挑戦ぶりは、秘密の匂いが濃かったし、また、おのれが敗れたなら、いさぎよく雪姫を渡すという条件も、尋常一様な考え方ではないようであった。
いずれにしても、長門には、屋敷内に、須貝のほかには、伏兵はいないと、|推《すい》|測《そく》し得た。
「庄吉、今日も……敵は一人だ。但し、この前の室戸兵馬よりも、腕は、数段優れているが――」
長門は、そう云ってから、先に、潜門の傾いた戸を押していた。
かつて、月下で眺めた印象とは、ずいぶんちがった、ひどく荒れはてた|廃《はい》|園《えん》の|風《ふう》|趣《しゅ》は、長門の目に、いたましいものに映った。
――将軍家の息女が、こんなひどい屋敷に住んでいたのか。
しかも、そのために、自分のような|無《ぶ》|頼《らい》の|御《ご》|家《け》|人《にん》の|暴力《ぼうりょく》を受け……ついには、生地獄の牢屋敷にまで引致された雪姫の宿命が、いまさらに、長門の胸を強く打った。
そのむかし、|丹《たん》|誠《せい》こめて|整《ととの》えられた樹木も石も建物も、荒れるにまかせ、歩をすすめるにつれて、それが目立った。
この前は、月光でつつまれていたおかげで、その|風《ふう》|雅《が》さもしのばれたが、白昼の陽ざしをあびた春日燈籠は傾き、飾井戸の屋根は崩れ、茶屋のまわりは、雑草でうずまっていた。
泉水のかなたの母屋は、雨戸がぴったり閉めたままである。
|此処《こ こ》|彼処《かしこ》ですだく虫の音のほかは、なんの気配もなく、|静寂《せいじゃく》は、深山の景色の中のもののように思われた。
泉面へさしのばされた紅葉の、血のような鮮かな色と、築山の裾で咲いている山茶花の純白の対照が、この廃園をいろどる唯一の美しい眺めであった。
梅軒門をくぐった途端、うしろの庄吉が、小声をはずませて、
「いますぜ、旦那!」
と、ささやいた。
勿論、長門は、庄吉に告げられるまでもなく、泉水のほとりに立っている須貝嘉兵衛の姿を認めていた。
むこうも、こちらへ、まっすぐに、視線をはなっていた。
長門は、落葉を踏んで、ゆっくりと近づいて行った。庄吉も、つづいた。
両者間の距離が、五間あまりにせばまった時、彼方の母屋の雨戸が、一枚開かれた。
「あっ! 姫さま!」
庄吉が、のびあがって、叫んだ。
しかし、雪姫の方では、その表情こそさだかでなかったが、静かな立姿に、なんの動揺もしめさなかったのは、長門の出現をあらかじめ知らされていたからに相違なかった。
長門は、足をとどめて、じいっと雪姫を見やった。
雪姫は、しとやかに、一礼した。
長門は、この|静寂《せいじゃく》の世界にふさわしい彼女の挙措に、咄嗟に波立ちかけた心が鎮まるのをおぼえた。
嘉兵衛は、|黙《もく》|念《ねん》と腕を組んで、長門から目を離さなかった。
――あいつだ! まちげえねえ! おいらの親爺をずばっと斬りすてやがった野郎だ!
庄吉は、長門の背後で、らんらんと目をかがやかせて、睨みつけていた。
長門が、視線を嘉兵衛に戻した時、嘉兵衛は、ふっと顔をそむけた。
不意に、嘉兵衛の右手が、ぱっと動いたと思うや、泉水の上を、きらっと、一条の白光が飛んで、築山の羅漢柏の根元へ吸い込まれた。
同時に、|断《だん》|末《まつ》|魔《ま》の絶叫《ぜっきょう》があがり、雑草の中から、一人の男が、宙をひと掻きして、ざざっとのめった。
「犬めが――」
嘉兵衛は、ひくく吐きすてた。
小柄を咽喉のまん中へ突きたてられて、かっと空を睨んだまま絶命したのは、あの|偏《へん》|執《しつ》|的《てき》な隠密回河合十郎次にまぎれもなかった。
嘉兵衛は、何事もなかったように冷然たる面持で、長門へ向きなおると、
「梅津! 勝負の前に、云っておきたいことがある」
「きこう」
「おれは、もはや、貴公に対して、一片の|憎《ぞう》|怨《えん》も抱いては居らぬ。|小《お》|俣《また》堂十郎の指令によって、貴公を斬ろうとするのではない」
「では、なんの理由だ?」
「勝負のための勝負だ!」
嘉兵衛は、きっぱりと云った。
「無意味な勝負なら、拙者は避けたいと思うが――」
「いや、断じて無意味ではない。勝負のための勝負にこそ、剣を学んだ者として生命を|賭《か》けて、|聊《いささ》かも|悔《く》ゆるところはなかろう。勝って、栄達があるわけでなく、負けて、怨恨がのこるわけでもない」
「それが、貴殿の|悟《さと》りなら、それはそれで結構なことだ。だが、拙者は、雪姫をこちらに申し受けたいからやって来たまでだ。負ければ、未練は永くこの世にとどまろう」
「安心せい。貴公が命を落せば、姫も生きては居るまい。その犠牲をはらってまでも、おれは、貴公を|仆《たお》してみたいのだ」
嘉兵衛は、云いおわると、ほんのわずか、姿勢を変えた。それだけで、殺気は、長門の神経へぴりっとつたわった。
嘉兵衛が、これまでのたたかいで想像した長門の強さは、嘉兵衛自身の強さから計ったものであった。ということは、長門が、もしかすれば、自分よりもはるかに想像以上の実力の持主かも知れない、という疑いをのこした。
剣にかけては、嘉兵衛は、一流を|究《きわ》めた自負があった。この自負を根こそぎ倒す相手に、いまだめぐり会ったことがなかった。だからこそ、嘉兵衛は、長門と決定的な勝負をつけなければならなかった。
雪姫を|犯《おか》された|怒《いか》りは、今は、消え去っていた。
それというのも、雪姫を問い詰めた挙句、嘉兵衛がきかされたのは、
「わたくしは、長門殿を、死ぬ程慕うて居ります」
という返答だったのである。
雪姫が、長門を憎んでいてこそ、自分の怒りも意味があったのだ。
雪姫の返答が、嘉兵衛を、しばし|茫《ぼう》|然《ぜん》たらしめたのは、無理もなかった。しかし、それは、やがて、嘉兵衛の心境を、邪心を去ったものにしたのであった。
長門を呼びよせて、果し合いの無心の境地に入って、|剣《けん》|理《り》の|妙《みょう》を|悟《さと》ろう、という欲望が湧いたのである。人生への絶望から、長年飲酒に|沈《ちん》|湎《めん》し果てていたとはいえ、優れた剣客としての嘉兵衛が、剣の精妙を|会《え》|得《とく》したい心をすててしまっている筈がなかった。
いま――。
刀を抜きはなって、上段に――|示現流《じげんりゅう》の型をすてて、完全なる無念無想の構えをとった嘉兵衛の境地は、寒夜の空気のように冷たく冴えわたっていた。
長門は、嘉兵衛の咽喉をねらって、刀をまっすぐに突出していた。これは、防ぎであると同時に|攻《こう》|撃《げき》であった。
嘉兵衛の一撃をかわす余地は、まったくないとさとった長門は、相手を斬って、自分も死ぬ覚悟をきめたのである。
こうして――二本の刀は、それっきり、絵の中に入ったように、|微《び》|動《どう》もしなかった。
|背《はい》|後《ご》で固唾をのんだ庄吉も、彼方の|母《おも》|屋《や》の縁に|彳《たたず》む雪姫も身じろぎもしなかった。
一瞬――。
「やあっ!」
天地を貫くような凄まじい掛声が、長門の口からほとばしるや、ふたつの白光が、ぱっぱっと閃いた。――次の刹那、嘉兵衛は、一間あまり飛び退いていた。
左手をふるわせ乍ら、静かにおろして、右手で青眼につけた。左肩から、みるみる血汐がふいた。
長門は、下段に構えて、|眦《まなじり》がさけんばかりにかっと双眼を瞠いていた。
と――。
嘉兵衛の姿勢が、|徐《じょ》|々《じょ》に崩れたと思うや、どさりと、|俯《うつ》|伏《ぶ》せに、地べたへ這ったのであった。
×
一刻のち――
一梃の|駕籠《かご》をまもった宗十郎|頭《ず》|巾《きん》の武士と手代風の若者が、神田川に沿うて、柳原土手をいそいでいた。
何処へ?
それは、彼らにもわかっていないようであった。
本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。
[#地から2字上げ]〈編集部〉
この作品は昭和三十五年一月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
江戸群盗伝
発行  2001年9月7日
著者  柴田 錬三郎
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861113-6 C0893
(C)Eiko Sait 1960, Coded in Japan