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岡っ引どぶ
柴田錬三郎
目 次
第三話 大凶祈願
迷信時代
怪異
からくり
賭祈祷《かけきとう》
職人たち
江戸の春
人間蒸発
木馬
姫と泉水
五つの位牌
祈願成る
[#改ページ]
第三話 大凶祈願
迷信時代
白い浴衣《ゆかた》に洗い髪
土手の柳が夜風にゆれて
まねくその手の
やれおそろしや
と見りゃ、どっこい
河うそ、うそうそ、うその皮
剥《は》いで、蹴とばしゃ
どぶんと落ちる神田川
あと白波と、去《う》せにけり
いい調子で、口から出まかせを唄いながら、≪どぶ≫が、ひょいと、首を突っ込んだのは、浅草花川戸の戸沢長屋の木戸口にある質屋であった。
秋風の立った宵の口で、長屋からは雑多な煮もの焼きものの匂いが、流れ出て来ていた。
「おかみ、いねえか?」
小声で呼んだが、返辞がないので、すっと入り込み、首をのばして、
「結界の銭函をそのままにしておいたら、無用心じゃねえか。おい、いねえか」
と、云いつつ、上って行き、
「結界、どこかい、二階かい。それとも、お上《かみ》が、下《しも》とは、こりゃ、どうかい。へへ、尿《いばり》散らすも、下の中、と来た」
奥の四畳半の唐紙を、がらっとひきあげたとたん、
「おっ!」
と、≪どぶ≫は、目をひき剥いた。
山伏ていの、総髪切り下げ、白衣の男が、この質屋のお内儀を、仰臥《ぎょうが》させ、あられもなく、下肢を大の字にひろげさせて、途方もなく大きな珠数《じゅず》で、その恥部を撫でながら、なにやら、ぶつぶつと、呪文めいたことを、となえている最中であった。
お内儀は、恍惚《こうこつ》の境をさまようているような表情であった。
「この野郎!」
≪どぶ≫は、山伏の腰を蹴とばして、つんのめらせた。
「な、なにをいたす!」
山伏は、真っ赤になって、≪どぶ≫を睨みつけた。
「いたす、はそっちだろう、このド助平め! さっさと去《う》せろ。ぐずぐずしてやがると、ふんじばって、番屋へしょっぴくぞ!」
≪どぶ≫は、懐中の十手をひき抜くと、山伏の鼻さきへ、突きつけた。
ぎょっとなった山伏は、あわてふためいて、おもてへ逃げ出した。
≪どぶ≫は、みだれた衣類をつくろうお内儀を、冷やかに見下して、
「丁稚を使いに出したチョンの間に、山伏をひきずり込んで、ご開帳とは、おそれ入りやした」
と、あびせた。
そういう≪どぶ≫自身、この質屋の後家を半年前に、手ごめ同様に≪もの≫にして、月に二度か三度、やって来て、弄《もてあそ》んでいたのである。
大きな口がきけた立場ではなかった。
「あたしゃ、なにも、悪いことなんかしていないさ」
お内儀は、ふくれ面で、云った。
「あられもねえざまをさらけ出して、なにも悪いことは、していねえと仰せられるのか」
≪どぶ≫は、首をふった。
「そうさ。あたしゃ、ご祈祷《きとう》してもらっていただけじゃないか。お前さんが、見た通りさ」
「成程な。ご祈祷というやつも、いろいろあるものだな。女の大切なところを、珠数でなでまわされるご祈祷があるのけえ?」
「あたしのからだの中に、犬神様が忍び込んだ、というのさ。それを追い出してしまわないと、商売はあがったり、男も――お前さんのことだよ――逃げる、というんで、あたしゃ、はずかしいのを、じっとがまんして、ご祈祷してもらってたのじゃないか」
「ちょっ!」
≪どぶ≫は、舌打ちした。
「犬神だと――、わらわせるねえ。そんなものが、この世にいてたまるけえ。どいつも、こいつも、近頃は、箸の上げ下げまで、縁起かつぎをしやがって……江戸中、迷信だらけになりやがった」
≪どぶ≫は、いまいましく、吐き出した。
まさに、その通りであった。
けものや鳥を、神にしたり主にしたりする俗習は、ふるくからあった。弁財天の蛇、八幡社の鳩、大黒天の鼠、稲荷社の狐、昆沙門天の百足《むかで》、天照大神の蟻、日吉山王の猿など――。
神や主にして、ただ拝んでいるあいだは無難だったが、そのうちに、勝手に崇《たた》りやら罰やらを、日常生活の中へつくりあげて、自分自身をしばるようになってから、だんだん、しまつに負えなくなった。
この時代――。
霊怪幽魂、化身|魍魎《もうりょう》の存在を信じて疑わぬ者が、九割九分であった。
人は死ぬと、霊魂は四十九日をすぎるまで、わが家の棟を去らず、とか。墓場で燃える燐火は、亡霊だとか。永く不住となって、荒廃した屋敷は、必ず幽霊が出現するとか。
絵師は、せいぜい人をこわがらせるために、顔色蒼ざめ、目がくぼみ、痩せさらばえて、髪をふりみだし、脚を糢糊《もこ》の中に没した悄然たる姿を描いた。
そして、そのもの凄い幽霊の存在を、人々は、信じたのである。
おかげで、崇《たた》りやら罰やらのおそろしさを口走る祈祷師、巫女《いちこ》、口寄せのたぐいから、筮竹《ぜいちく》をひねくる易者などが、大はやりであった。
江戸では、一町毎に一人、辻という辻に、易者が出ていて、男女の相性、縁談の吉凶、遺失物の所在、逃亡人の行方、転任の方向、一代の禍福などを、まことしやかな面《つら》つきで、述べたてていた。
こうなると、日常のありとあらゆることが、吉凶につながって来る。
鴉《からす》が啼《な》く、犬が長吠えするのは凶事のきざし、朝のうち≪くも≫が室内に入って来るのは吉事のしるし、などはご愛敬だが、頭痛腹痛を止めるために、護符を呑んで、かえって、悶絶したり、嫉妬に狂う女が、丑《うし》の刻詣《こくもう》でをして、のろう対手の藁《わら》人形へ五寸釘を打ち込むなどというのは、陰惨であった。
「いいか、こん畜生!」
≪どぶ≫は、質屋の後家を、前にひき据えて、どなった。
「犬神なんてえしろものは、四国西国の山の中の、天照大神《あまてらすおおみかみ》時代からくらしっぷりが寸分かわっていねえ土《ど》ン百姓どもが、つくりあげた、屁みてえな迷信だぞ。それが、花のお江戸へ、乗り込んで来やがったとは、お笑い草だが、まともに信じ込むてめえの頭は、どうかしてやしねえか」
「だって、――」
「だっても、くそもあるけえ。犬神をおそれたあまりに、裾をおっぴろげて、かくしどころを、山伏におがませやがるとは、あきれて、ものが云えねえ」
「かんにんして――。だって、あたしゃ、お前さんに逃げられたら、どうしよう、と思ってつい……」
お内儀は、≪どぶ≫に、すがりついた。
しかたなく――でもなかったが、≪どぶ≫は、熟《う》れた三十女のからだを抱くと、牀の上へ倒れ込んだ。
やがて――。
ひと汗かいて、起き上った≪どぶ≫は、またあらためて、
「いってえ、どういうんだろうな」
と、首をひねった。
お内儀は、あらわになった下肢を、掩《おお》いもせずに、死んだように、陶酔の余韻に身をひたしていたが、
「なにがさ?」
と、ものうげに、きいた。
「まるで、日本中の雄も雌も、なにかの崇《たた》りをおそれているあんばいだってことよ」
「疫病《えやみ》のせいだよ。去年から今年にかけて、何万人も、死んじまったろう。あたしゃ、そのせいだと思うよ」
「ふうん」
「夏になってから、急に、質入れが多くなったと思ったら、わけは、家や庭を直すのだとさ」
お内儀は、起きあがって、≪どぶ≫にしなだれかかりながら、
「鬼門がおそろしゅうて、そっちをこわして、こっちへ建て増ししたり、庭の松の石燈籠を移してみたり、みんな血眼になっているのも、家相を観《み》てもらったのだねえ。うちも、どうやら、厠の位置がいけないらしい」
「そういえば、近頃、やたらに、引越しがふえていやがる。……ばかくせえ。鬼門なんざ、くそくらえだ」
「お前さんみたいに、家を持たないひとは、かまわないだろうけどさ。……ね、お前さん、いっそ、思いきって、この家へ、入婿になっておくれな」
「金輪際、女房は持たねえ主義だ、おれは――」
「それは、前からきいているけど……、そろそろ、腰をおちつけてもいいんじゃないか。……お前さん、あたしのからだを、一万人に一人、と云ったじゃないか」
「つまらねえ殺し文句を云ったものだ」
「なんだって?」
「こっちのことだ」
≪どぶ≫は、さっさと立ち上っていた。
次の日の朝――。
≪どぶ≫は、久しくごぶさたしていた町小路左門邸の裏門をくぐった。
花壇に美しく咲いた白菊を、剪《き》りとっている小間使いの小夜をみとめると、≪どぶ≫は、そっと、足音をしのばせて、背後へ寄り、
「うらめしやあ――」
せいぜいおそろしげなつくり声をかけた。
しかし、小夜は、すこしもびっくりせず、ふりかえって、
「どうかしたのですか、親分?」
と、見まもった。
「はりあいがねえことおびただしいや。おぼこなら、うそでも、仰天してもらいたいね」
「だって、ちゃんと、影法師がさしたのですもの」
「影で、あっしということが、判りやすかね?」
「ここが、どなたのお屋敷か、忘れたのですか、親分?」
「おそれ入りやした。ご主人様が闇の世界にいなさると、召使いまでが、目は不要になっている。……惚れているんだねえ、お小夜さん」
「はい、惚れて居ります」
「これだ! ところでお小夜さんは、犬神なんてえしろものは、信じちゃいませんね?」
「犬神って、なんですか?」
「有難てえ。ご存じないのなら、それで、結構なんだ。せめて、このお屋敷内だけでも、阿呆くせえ迷信は、入り込んでもらいたくねえやな」
「あら、あたしだって、縁起ぐらいかつぎますよ」
「どんな縁起を――?」
「茶柱が立てばうれしいし、お正月には、宝船の絵を枕の下に置いてやすみます」
「それぐらいは、乙女心のいじらしさだ。……目の色変えて、家相、手相、人相に夢中になってやがる奴らの、あさましい料簡とは、ちがわあ」
「親分も、あたしを、うらめしや、とおどかしたのですから、幽霊を信じているのでしょう?」
「てへんだ。はばかりながら、雪隠《せっちん》ながら、この≪どぶ≫親分は、死んだらそれきり、きれいに無くなる、とかたく信じておりやすね」
「あの世なんか、ない、と仰言るの?」
「あってたまるものけえ。地獄極楽は、坊主がつくった大嘘のこんこんちきだ」
「そうかしら――」
「お小夜さんは、あると思っていなさるのか?」
「あるのかないのか、まだ、考えたことがありません」
「そのまま、死ぬまで、考えねえでもらいたいね」
「でも、年をとったら、後生を願うのは、しかたがないでしょう」
「女が、皺《しわ》くちゃ婆あになったら――」
云いかけて、≪どぶ≫は、あわてて、口をつぐみ、そこをはなれた。
「親分、お殿様は、お庭です」
小夜は、告げた。
盲目の与力は、泉水のむこうの築山の岩へ、腰を下していた。
その手には、長い竹竿があった。さきに、鳥黐《とりもち》がついている。
≪どぶ≫は、泉水のこちら側で、興味をもって、眺めた。
この季節になると、このあたりには、さまざまの小鳥が、飛んで来て、しきりに啼きたてながら、梢を移る。目白、ひめ、あとり、ひわなど……。
小鳥狩、という言葉もあった。
小鳥狩は、もっぱら、旗本御家人の子弟に許された遊びであった。武術修練、という名目であったろう。したがって、卑怯な≪わな≫にかけては、捕えず、小鳥のすばやさに対して、こちらもすばやく襲う、といういくつかの方法があったが、長い竹竿で、鳥黐《とりもち》で捕える方法が主であった。貧しい御家人の家では、鶯《うぐいす》、うずら、駒鳥などを捕えて、啼音を仕込んで、売るという内職にもなっていた。町家の子らには、小鳥狩は許されていなかった。
幼い頃に盲目になった左門は、この小鳥狩を、武術修業のひとつにしたに相違ない。
そして、それを思い出して、秋の陽ざしの中で、こころみようとしているのであった。
≪どぶ≫が、興味をもって、見まもるうちに、左門は、やおら、竹竿を、直立させ、すこしずつ、挙げた。
一瞬――。
さっと、竹竿は、突き上げられた。
バタバタと羽音をたてて、一羽の小鳥が、もがくのが、≪どぶ≫の目に映った。
いそいで、近づいた≪どぶ≫は、みごとに、鳥黐に刺された目白を、そっと取りはなして、
「どうなさいます?」
と、左門に問うた。
「放してやれ」
左門は、岩から立ち上ると、ゆっくりと、築山を降りた。
遠目では、盲目とは見えぬ足どりであった。
左門は、書院の縁側に腰を下してから、
「市中に、妙なものが、流行《はや》りはじめたな」
と、云った。
「犬神様、というやつでございましょう?」
「うむ」
「いってえ、どういうのでございましょうね、これア――」
「天下泰平のせい、といえば、それまでだが、こういう現象は、ほめたものではない」
「全くで――」
「先日、小松九郎兵衛が参って、なげいて居った」
小松九郎兵衛というのは、町方同心の一人で、もう五十すぎの腕利きであった。
「小松の話では、どうやら、犬神は、五代様までさかのぼるようだ」
「へえ?」
「元禄の頃の、大さわぎは、お前も、きいて居ろう。正気の沙汰ではなかったようだ」
五代――将軍綱吉の生類憐愍令《しょうるいあわれみのれい》は、江戸市民を、塗炭《とたん》の苦しみに陥れたものであった。
犬が人間よりも威張っていたのであった。お犬様が駕籠に乗り、さむらいが、それの供をして、歩いた。
将軍綱吉は、戌《いぬ》年であった。右馬頭《うまのかみ》ともいった。
綱吉の母桂昌院の帰依僧《きえそう》隆光から、
「上様は、天理を以て、天下の主とお成りあそばしましたが、善根をほどこしたまわぬと、御寿命が短い、と八卦《はっけ》に出て居ります。戌の年のお生れで、しかも、御治世の元和二年は、戌年でありましたゆえ、これよりは、狗《いぬ》を愛され、無益の殺生を禁じ、天下に、生類|憐愍《あわれみ》の令を布《し》きたまわれば、御寿命も永かろうと存じます」
と、すすめられたのをきっかけに、綱吉のきちがいじみた悪政が、はじまったのである。
尤も、当時は、赤犬などは、平気でぶち殺して、煮たり焼いたりして、食ってしまう風習があったのである。
それにしても、この生類憐愍令の施行は、ひどいものであった。
悲惨な例は、かぞえきれないくらいであった。
秋田淡路守下屋敷の家臣は、わが子が喘息に苦しんでいるのを見かねて、小児喘息に燕《つばめ》を喰べさせるとよく効く、ときいて、吹矢でこれを落としたことが発覚して、五歳の息子とともに、小塚原で、斬罪に処せられた。
大八車を、犬に曳かせて、びっこにさせた科《とが》で、遠島に処せられた人足も出た。
病馬をすてた農夫も、流罪に処せられた。
犬猫、牛馬はもとより、鶏も、亀も、うなぎもどじょうも、食用として飼うことを禁じられた。
宝永二年には、
「牛馬は、重荷、あるいは≪かさ高≫のものを負わしむべからず。使うときは、なるべきほどにいたわり、疲労せざるように、愛畜すべし」
という法令も発布されている。
小鳥とか蛇とか、白鼠とかに、技芸を教えて見世物にすることも、かたく禁じられた。
生類のうちで、犬が、特別に庇護されたことは、もちろんである。
狂犬であっても、これを杖打つことは、許されなかった。犬を殺傷して、死刑に処せられた者が、三百余人の多きにのぼった。
まことに、滅茶滅茶な時代であった。
犬を傷つけたために、罰せられるのをおそれて自殺した者もあったくらいである。犬が子を生めば、ただちに役所に届け出なければならなかった。犬が病めば、近所隣りの者たちが、これを看まもって、犬医者に高い診察料を支払った。犬がのうのうと往来に寝そべっていれば、通行人の方が、これを避けて、遠まわりした。
都西の中野村には、方一里の犬小屋が設けられ、五千匹が集められた。その食料は、江戸市民に提供させた。犬一匹に対して、人間一日の食の半分であった。
そのキャンキャンワンワンの吠声は、数里の彼方まで、きこえた、という。
今日《こんにち》から顧《かえりみ》れば、まるで悪夢のような出来事であった。
ところが――。
時代が下って、十二代将軍の治政下の今日、またぞろ、犬をあがめる風潮が起ったのである。
こんどは、上からの命令ではなく、庶民の間から起った。
犬が神になって崇《たた》る、というのである。
誰が云い出したものか――おそらく、怪しげな祈祷師が口から出まかせにしゃべったものに相違なかろうが――この犬神は、遠くさかのぼって、五代将軍綱吉の、あの凄まじい生類憐愍《しょうるいれんびん》時代に生れたものだ、という。
将軍綱吉の愛妾の一人に、お由良の方という美貌の女性がいた。
これが、途方もない犬きちがいであった。
宝永六年正月、将軍綱吉は、六十四歳で逝《い》ったが、それを待ちかまえていた閣老たちは、生類|憐愍令《あわれみのれい》を解き、日本中にあふれていた犬を、片っぱしから、殺させた。
正月から三月までの三月間に、殺された犬は、七万匹の多きに達した。
まことに、てのひらをかえすような、容赦のないやりかたであった。
将軍綱吉の愛妾たちは、それぞれに位牌を与えられて、外桜田の御用屋敷へ移されていたが、このあまりな閣老の態度の急変ぶりに、ただもう、あきれ、おののいた。
愛妾たちは、それぞれ、一匹ずつ愛犬をつれて、大奥から御用屋敷にひき移ったのであったが、その愛犬さえも、いつの間にか、役人の手で何処かへつれ去られて、殺されてしまったのである。
愛妾たちのうち、最も犬好きであったお由良の方は、自分の愛犬が拉致《らち》されると、半狂乱になった。
そして、ついに、食を断って、自殺同様の死にかたをしたのであったが、毎日口走ったのは、
「日本全土で殺されたお犬様の亡霊を、集めて、わたしは犬神となって、七代の後までも、崇《たた》りつづけてくれようぞ!」
との呪いの言葉であった。
それから七代を経て、お由良の方は、犬神となって、めざましい崇りをしはじめた、という次第であった。
もし、崇るなら、お由良の方は、六代将軍家宣の治世から、早速に、行動を開始すべきであったろうが、どういうものか、十二代将軍の今日まで、鳴りをひそめていて、急に、崇りはじめた、という次第であった。
どうも、そこらあたり、理窟が合わないが、一般庶民は、そういう不合理など、どうでもよく、ただもう、ひたすら祟られぬように、護符を貼ったり、祈祷師の許へ足をはこんだり、家を建てかえたりし、大わらわのていである。
そのむかし、虐殺された七万余の犬の亡霊をひきつれたお由良の方は、いまでは、
「お犬の方さま」
と称《よ》ばれて、庶民の間で、知らぬ者はないように有名になっている。
火事も疫病も、家庭内の不幸も、すべて、「お犬の方さま」の崇りというわけであった。
「ばかげたことだが、いったん流行《はや》りはじめると、これを、阻止することは、不可能だ」
左門は、云った。
「へえ」
≪どぶ≫は、うなずいた。
「庶民は弱いもの、お上の命令に絶対服従するもの――という考えは、まちがって居る。一人一人は弱いものだが、これが集団となると、洪水のような暴威を発揮する。識者からみれば、たわけきった迷妄《めいもう》であっても、これを目覚めさせるてだては、ない。ただ、拱手《きょうしゅ》して傍観しているよりほかはないのだ」
「たしかに、その通りでございます」
「ただ、この迷妄が、思いがけない犯罪を生むことになるのが、おそろしい。小松が申していたが、近頃は、大名旗本の中にも、お犬の方さまの崇りを信じて居る者がいる、という」
「ほんとうでございますか?」
≪どぶ≫は、あきれて、左門を、見つめた。
「土井|但馬守《たじまのかみ》光貞なども、その一人のようだ」
土井但馬守光貞といえば、つい数年前まで、若年寄をつとめた大名であった。
茨城の、鹿島灘に面する治領三万石は、さしてゆたかではないが、若年寄時代に、海運の事に大いに力をそそぎ、そのおかげで、莫大な私利を得た、といわれている。
「いま、吉原の廓《くるわ》と日本堤でへだてる田圃のまん中に、お犬の方の霊廟《たまや》が建てられているときく」
「へい。あっしも、きいて居ります。なんでも、日本中から、犬好きの寄附をつのって、大層な建物をおっ建てようとしているらしゅうございます」
「その土地の提供者が、土井但馬守だ」
「へえ、そうでございますか。土井様も、よほどの犬好きなんで――?」
「お由良の方が、茨城の出で、あるいは、但馬守と、先祖は縁戚の関係で、あったかも知れぬ」
「成程――」
「わたしが、想像するに、土井但馬守は、必ずしも、お犬の方の崇りを信じては居るまい。また、格別の犬好きとも思われぬ。……但馬守は、大名に似合わぬ利殖の道に長《た》けている人物らしい。霊廟を建てることにして、寄附金を募《つの》れば、おそらく、十万両や十五万両の巨額が集まるであろう。その金を、商人どもに浮貸しをして、それから生ずる金利をふところに入れる。まず、そんなところではあるまいか」
いつもながらの、左門の鋭い観察であった。
「しかし、殿様――霊廟を建てるのを、止めることはできますまい。もし、止めようとすれば、大騒動になります」
≪どぶ≫は云った。
「わたしは、建ったものを、つぶしてやろう、と考えて居る」
「つぶす? ……そんなことが、できるものでございますか?」
「人間の手がつくりあげたものを、人間の手でつぶすのだ。できぬ相談ではない」
≪どぶ≫に、また、ひとつ、大仕事が、与えられた。
前若年寄土井但馬守光貞が、自身の地所を提供し、日本全土から寄附を募って、建立している「お犬の方さま」の霊廟を、ぶちこわすことであった。
とりあえず――。
「お犬の方さま」とは、どういうしろものか、実地に当ってみることにした。
時ノ鐘にほど近い十軒店町の茶舗|駿河屋《するがや》が、庭に祠《ほこら》を建て、白髪鬼女面の巫女《みこ》を寄宿させて、さかんに、祈祷させている。という噂をきき込み、一日、≪どぶ≫は、駿河屋へ乗り込んだ。
祠は、母屋と土蔵とのあいだの中庭に、稲荷の祠と同じ構えで、つくられていた。ただ、稲荷は赤いのに対して、こっちは、無数にならべられた小さな鳥居が、白塗りであった。「お犬の方さま」が愛した犬が、白だった、と解釈したものに相違ない。
いましも――。
祠の前では、白装の巫女が、憑霊《かみがかり》状態になって、なにやら口伝らしい呪文《じゅもん》をとなえつつ、単純でかんたんな舞踊を示していた。
五十年配の、噂通り、眼窩《がんか》がおちくぼみ、鷲鼻《わしばな》、反《そ》っ歯の異様な形相の女であった。
店のあるじはじめ、近所かいわいから集った町人たちは、鳥居のてまえの地べたに坐り込んで、一心に合掌している。
――埒《らち》もねえ、とはこのことだ。
≪どぶ≫は、信者たちのあいだを、ずかずかと通りぬけると、鳥居の中の敷石を進んだ。
駿河屋のあるじが、びっくりして、
「あ――もし!」
と、あわてて、ひきとめようとすると、≪どぶ≫は、いきなり、懐中から例の仕込み十手をひきぬいて、
「ご用筋だ。黙って、見ていてもらおうぜ」
と、脅《おど》した。
「な、なにをなされます?」
「なにをするか、見ていりゃ、判らあ」
≪どぶ≫は、にやりとすると、仕込んだ双刃《もろは》の直刀を、きらりと抜くや、目にもとまらぬ迅業《はやわざ》で、鳥居の柱を、両断した。
あっという間に、五柱ばかりが、切られて、音たてて倒れた。
巫女が、その形相をさらに凄じいものにして、≪どぶ≫を睨みつけた。
「無礼者! 狼籍《ろうぜき》をはたらくと、犬罰の崇りが、おのれの一家を滅すぞ!」
「へっ! 犬罰だと――。わらわせるねえ。元禄の時世じゃあるめえし、人間の上に犬を置かれてたまるけえ」
≪どぶ≫は、巫女を突きのけると、祠の扉をひきあけた。
埴輪《はにわ》めいた犬が、祭壇に置かれてあった。
≪どぶ≫は、そいつを、手づかみにした。
「な、なにをするのじゃ!」
むしゃぶりついて来た巫女を、足払いで、ひっくりかえしておいて、
「おい、信者衆――。崇るか崇らねえか、よく見ていろ」
云いざま、敷石へ、たたきつけた。
粘土でこねあげて、白塗りにした犬は、粉みじんに砕け散った。
駿河屋のあるじはじめ、老若男女十余人は、仰天して、口もきけなかった。
巫女は、その場へ、べったりと平伏して、物狂おしく、呪文《じゅもん》を喚《わめ》きたてている。
≪どぶ≫は、そばにしゃがみ込むと、
「おい、婆さん――、どこから流れて来やがったか知らねえが、そろそろ江戸を退散しちゃどうだ?」
と、云った。
巫女は、≪どぶ≫を睨みつけると、
「お犬の方さまの崇りのおそろしさを、思い知るぞ!」
と、叫んだ。
「どういうあんばいに、崇られるか、ひとつ、きかせてもらおうじゃねえか」
「おう、きかせてやろうず。おのれの体内に、赤犬、駒犬、ぶち犬、黒犬、白犬が、ぞろぞろとはいり込んで、狂いまわるのじゃ。おのれは、高い熱にとりつかれて、うなされ、のたうち、痩せおとろえて、もだえ死ぬ」
「ふん、その犬どもを追いはらうのは、おめえの祈祷が効験があると云やがるのか」
「そうじゃ。お犬の方さまに、お許しを乞えば、口から耳から足さきから、犬は、ぞろぞろとはい出して、どこかへ行ってしまうならいぞ」
「はっはっは……、お笑い草も、こうなっちゃ、すてておけねえ。おい! 婆さん、そういうおめえのからだの中に、赤、駒、ぶち、黒、白が入り込んでいやがるのじゃねえのか」
「なにを、たわけなことを――」
「いるか、いねえか、調べてくれるか」
≪どぶ≫は、いきなり、双刃の直刀を、ひと振りした。
巫女の袴《はかま》の紐が、切られた。
悲鳴をあげて、遁《に》げようとするのへ、≪どぶ≫の十手刀は、容赦なく、あびせかけられた。
袴が落ちた。上着が背中から真二つに截《き》られた。襦袢も剥ぎとられた。
みるみるうちに、痩せこけた裸身が、陽ざしにあてられ、巫女は、もう、生きた心地もなく、あちらへよろけ、こちらへ泳いだ。
しなびた乳房も、あさ黒い腹部も、たるんだ臀《しり》も、すべてあらわにされて、とうとう、巫女は、泣き声をあげて、≪どぶ≫に、両手を合せた。
「ヘヘヘ……、このうすぎたねえからだの中に、犬どもが入り込んでいやがるのか。よし、腹をかっさばいてくれらあ!」
「ゆ、ゆるして!」
「おや、とうとう、人間らしい声を出しやがったな。犬どもは、その臍から、逃げ出しやがったな」
「ああ! も、もう、江戸から、出て行きます。だから、ゆるして!」
素裸の初老女は、両手で顔を掩《おお》うと、わっと、泣き出した。
「おい、駿河屋!」
≪どぶ≫は、颯爽として、云った。
「お犬の方さまの正体は、これだぜ。わかったか。わかったら、この祠《ほこら》を、たったいま、ぶっこわせ!」
怪異
数日後、≪どぶ≫が、市井の「お犬の方さま」騒ぎの報告に、町小路家を訪れると、左門の前には、町方同心の小松九郎兵衛が、坐っていた。
人類の先祖は猿であったとみとめたくなるような、皺だらけの風貌で、痩せこけた小柄な姿は、とうてい町奉行所きっての腕利きとは見えなかった。
どうやら、その報告は終った模様で、小松九郎兵衛は、小夜がたてた抹茶を、さもうまそうに飲んでいた。
≪どぶ≫は、縁側にかしこまった。
左門が、
「きこう」
と、うながした。
≪どぶ≫は、自分が見聞したことを、手短かに、要領よく、報告した。
ききおわった左門は、九郎兵衛に向って、
「この男を、にわか同心にしてもらおうか」
と、云った。
「は――」
九郎兵衛は、≪どぶ≫をふりかえると、
「日本堤わきの土井家の地所から、木乃伊《みいら》が、発見された」
と、云った。
「へえ? 木乃伊!」
「御霊廟建立にあてられたその地所は、土井家累代の墓地であった」
「へえ、あそこが……」
≪どぶ≫も、三日ばかり前、そこを見て来ていた。
見わたすかぎりの田圃《たんぼ》の中に、離れ小島のあんばいに、こんもりと森がのこっていた。
お由良の方の霊廟は、その森の中をひらいて、建立されることになっていた。
≪どぶ≫が、出かけて行った時も、十数人の人足が、しきりに立働いていた。
「地層の関係でありましょうな、あの森を中心とした一帯は、湿気がすくなく、地を掘ると、瓦斯《ガス》が立ち昇ります」
九郎兵衛は、左門に、云った。
「棺《ひつぎ》の中の死骸が、木乃伊になったのは、そのせいかと存じられます」
昨日、人足たちが、掘りかえしているうちに、朽ちた棺を発見し、そっと地上へはこびあげると、棺がばらばらに崩れて、木乃伊が現われたのであった。
そのことが、土井家に通報されると、当主但馬守は、
「せっかくの貴重な木乃伊《みいら》であるから、学者、医師に立合わせて、調べてみることにいたそう」
と、云ったのである。
その一体だけではなく、ほかにも、幾体かの木乃伊が埋められてあるに相違ない、と判断された。
町奉行所からも、何人かが出張《でば》ることになった。
小松九郎兵衛は、左門にも出向いて頂けないか、とすすめに来たのであった。
左門は、自分の代りに、≪どぶ≫を同心にしたてて、九郎兵衛にしたがわせることにしたのである。
いつの頃からか、そこは、五重《いつえ》の杜《もり》、と称《よ》ばれるようになっていた。
物識りげな故老に述べさせると、そのむかし、京の都から奥羽の任地におもむく、さる公卿《くげ》が、この土地で客死し、従うていた官女が、これをなげいて、五重の唐衣《からぎぬ》を木枝にかけて、あとを追うて自殺したので、この名称が起ったそうである。
この一帯が土井家の所有に帰したのは、さしてふるいことではないが、むかしから、森は、墓地として、立木も伐られず、そのままにされていたので、狐狸《こり》のたぐいがひそんでいるという噂があった。
墓地といっても、土井家代々の殿様及び奥方の正式の墓地は、国許の菩提寺にあり、むしろ、ここは、定府の家臣その他、傭い人を葬るところといえた。ただ、土井家の墓地ときこえている以上、形式的に、殿様及び奥方の墓碑が建てられ、家臣と傭い人たちの墓が、それにかしずくあんばいになっていた。
このたび――。
当主但馬守が、この五重の杜を「お犬の方さま」の霊廟に提供するために、墓地をとりはらうことにしたのも、先祖の遺骨は、ここにはない、という気楽さがあったためである。
家臣及び傭い人の遺骸だけを、移せばよかったのである。
木乃伊《みいら》は、その中にあった。
小松九郎兵衛の供をして、同心姿になった≪どぶ≫が、その翌日、五重の杜へ出かけて行ってみると、ものものしい竹矢来《たけやらい》がめぐらされていた。
矢来の外には、噂をきいて、百人以上の野次馬が集っていたが、もとより、距離が遠くて、掘り出される木乃伊を、見物できるはずもなかった。
ただ、集って、がやがやとさわいでいるばかりであった。
現場に立会っているのは、十数名で、土井家の重役らしい人物、公儀目付、町奉行所の与力、名のある学者、医師など、いずれも、年配者ばかりであった。
小松九郎兵衛と≪どぶ≫が、到着した時、すでに、棺が四つあまり、地上へはこびあげられていた。
「へえ! まだ、腐っていねえ棺もございますねえ」
≪どぶ≫は、九郎兵衛に、ささやいた。
「三、四年前に葬ったのもあるな」
九郎兵衛は、うなずいた。
「死んで、木乃伊になってまで、人目にさらされるのは、かなわねえ」
≪どぶ≫は、首を振った。
やがて、また、ひとつ、掘り出された棺が、人足たちの手で、はこびあげられた。
その棺も、まだ腐蝕してはいなかった。
「これア、何年くらい経って居りましょうね?」
≪どぶ≫は、九郎兵衛に、たずねた。
「さあ? ……よくは、判らんが、二十年以上は経過しているのではないか」
ふと――。
≪どぶ≫は、立会い人の中に、若い女が一人、まじっているのに気がついた。
それまで、木立の中に、かくれるようにして佇《たたず》んでいて、急に、出て来て、その棺が、はこびあげられるのへ、なぜか異常に緊張した面持《おももち》で、必死なまでの視線をあてたのである。
武家の娘ではなかった。ただの町家の者にしては、仇っぽいが、さりとて、料亭や水茶屋のようなところで働いているとも見えなかった。
ちょっと、えたいの知れぬ、という印象だった。
人足の手で、蓋が開かれた。
人々の眼眸《まなこ》が、その中へ、注がれた。
九郎兵衛も≪どぶ≫も、のぞき込んだ。
その一体も、やはり木乃伊《みいら》になっていた。
眼窩がおちくぼんでいるほかは、眉も鼻梁《びりょう》も唇も、そのまま残っていた。
これは、女であった。しかも、若い、と看てとれた。
胸で組みあわされた両手に、皮も肉もついている。
死んでのち、どれくらい経ったか知らぬが、ちゃんと、人間のかたちをとどめているということは、なんとも無気味な眺めであった。
のみならず――。
九郎兵衛が、思わず、
「これは、病気じゃないな」
と、つぶやき、≪どぶ≫も、それをみとめた。
額、頤《おとがい》、頸根に、あきらかに、刀痕をとどめていたのである。
「お手討ちか」
≪どぶ≫は、外気にふれて、一瞬裡に風化しはじめた死体を、眺めながら、わざと、はっきりと云った。
とたんに、むかい側から覗いていた若い女が、その言葉に、反応を示した。
きらり、と眸子《ひとみ》を光らせて、≪どぶ≫を視た。
どうやら、この女は、この死体を見とどける目的で、立会っているのだ、と≪どぶ≫は、察知した。
と同時に――。
――はてな?
と、直感がひらめいて、木乃伊の貌《かお》と、女の貌を、すばやく、観くらべた。
しかし、もう次の瞬間には、木乃伊の貌は、みるみるうちに崩れて、その急速な崩れかたに、≪どぶ≫は、息をのまねばならなかった。
外気にふれて、たちまち変色し、音もなく、崩れるさまは、凄絶《せいせつ》の二字につきた。
≪どぶ≫が、はっとわれにかえって、顔をあげた時、もう、むかい側に、若い女の姿はなかった。
見物をおわって、竹矢来の外へ出て行きつつ、≪どぶ≫は、九郎兵衛に、云った。
「若い女が、居りましたね」
「うむ」
「あの女の顔は、木乃伊の骨相に似かよっては居りませんでしたか?」
「お前も、気づいたか」
九郎兵衛も、すでに、それをみとめていたのである。
≪どぶ≫は、木乃伊《ミイラ》見物の逐一を、左門に報せた。
立会い人の中に交っていた若い女の貌《かお》と、女木乃伊の貌が、どこやら似かよっていた、ときいた左門は、
「面白いな」
と、云った。
「へえ。つまり、お手討ちをくらった女の娘が、見物に来たのじゃねえか――そんな想像を、してみやしたが……」
「そこへ入れてもらったからには、土井家と、かかわりのある女であろうが、お前は、玄人《くろうと》じみて居った、と申していたな?」
「へい。水商売をやっているのが、かたぎにみせかけた――そんな女でございました」
「ふむ」
左門は、べつに、その女が、どこの者か、調べてみよ、とは命じなかった。
しばらく、無言でいてから、ふと、思い出したように、
「土井家には、これから、怪異が起るかも知れぬ」
と云った。
「墓をあばいた崇りが起る、と仰言るので――?」
「崇りか。そうだな、崇りと云えそうな怪異が、起るであろうな」
「どうして、それが、おわかりなさいますんで?」
「げんに、起って居る」
「へえ――?」
「小松九郎兵衛が、今朝がた、報せに参った。――土井家には、東照神君(家康)から拝領したという実物大の木馬がある。それが、この春以来、ときどき、夜更けて、かたかたと、邸内を歩きまわるそうな」
「そ、そんな――ばかくせえ!」
「小松が、昨日、お前とわかれて、土井邸を訪ねて行くと、側用人《そばようにん》から、そっと打明けられて、どうしたものか、と相談受けた」
「じゃ、その側用人も、木馬が動くのを、目撃した、というんで――?」
「そうだ。この目で見とどけた、と申していた由」
「あきれた話でございますね。とても、信じられねえ」
≪どぶ≫は、かぶりを振った。
「こう泰平がうちつづくと、木の葉が沈んで、石が浮く矛盾した現象も起る」
「殿様――」
≪どぶ≫は、いささか、ひらきなおったかたちで、
「貴方様も、幽霊とか化物とか――あり得ねえような怪異ってえしろものが、この世に存在する、とお信じなさいますのか?」
「信じては居らぬ」
「じゃ、生命のねえ木馬が、動くなんてえ、阿呆らしい話を、本当だと……」
「怪異は信じて居らぬが、木馬が歩くことは、ないことはあるまい、と思う」
「どうも、仰言ることが、よくのみこめかねます」
「どうして、木馬が歩くか、それを調べるのが、お前の役目だ」
左門は、うすい笑みを、口辺に刷《は》きながら、云った。
≪どぶ≫が、土井邸へ、もぐり込んだのは、それから三日ほど経ってからであった。
ちょうど、土井邸では、庭の茶亭の修築をしていたので、≪どぶ≫は、その棟梁《とうりょう》にたのんで、下働きの職人に化けたのであった。
もぐり込む前に、≪どぶ≫は、あらかじめ、土井家に就いての知識を仕入れていた。
前若年寄、土井但馬守光貞が、海運によって、しこたま私腹をこやした、という事実の有無は、これから調べることになるが、その私生活のゆたかさは、きいてまわった限りでは、十万石二十万石の大名も及ばぬくらいであった。
近年、吉原の廓へ、忍びでかよう大名など、一人もいない、と思っていた≪どぶ≫は、土井但馬守が、江戸町の大籬《おおまがき》で、
「寝かた様」
と呼ばれて、大層な歓迎を受けている、ということを、つきとめた。
土井但馬守は、「お犬の方さま」を信仰する大名として有名であり、「寝《い》ぬ」の語呂合せで、「寝かた様」と呼ばれるようになった模様であった。
その遊興ぶりは、富有な大商人どもも及ばぬほどの派手さであった。
もとより、廓の連中は、口がかたく、土井但馬守が、月のうちどれほどかよって来るか、また、散財の内容も決してしゃべろうとはしなかったが、≪どぶ≫が、幾人かに当ってみたかぎりでは、あきれるほどの費消ぶりと受けとれた。
大名の内証が、どれほど逼迫《ひっぱく》しているか、≪どぶ≫も、よく知っている。
吉原の廓で、大金を使うなどということは、重役たちが、絶対にみとめるところではない。
家臣の俸給を借りあげていない大名は、一家もない、といっても過言ではないのであった。
大名の台所は火の車である、というのが、庶民の間では、常識となっている時世であった。
そういう時世に、平然として、遊里で大金を湯水のごとく使っている、ということは、家中がそれをみとめるくらい、裕福である証拠であった。つまり、土井但馬守自身が、藩の財政にあてる分とは、別のたくわえを持っていることを意味した。
三万石といえば、二千坪の藩邸であるが、これが、絶えず修築されているのであった。女中の数も、他家に比べて、多い、という。その奥向きのぜいたくさも、出入商人の足のはこびの多さで、およそ、想像がついた。
但馬守には、四人の子がいるが、その子らも、まことに、気ままに遊びくらしている模様であった。
長男  縫之助
次男  万之助
むすめ 菊
三男  真之助
この四人が使う金だけでも、月に百両は下るまい、という出入商人の噂であった。
土井邸へもぐり込んで、三日目――。
午飯刻《ひるめしどき》のひまをみて、≪どぶ≫は、広い庭園を、ぶらぶら歩いた。
廻遊式の庭園は、およそ、見事なものであった。
敷砂や蘇苔《そだい》にかこまれた飛石の苑路をたどると、つくばい、井筒を添えた石組みの美しさ、泉水に沿うて行けば、滝があり、汀《なぎさ》がつくられ、石橋を渡って、築山を越えれば、一転して、枯山水の情景となるあんばいであった。
苔《こけ》をのせた石灯籠や、下木、下草を配した真木など、すべて、吟味に吟味をかさねたものと思われた。
しかし――。
庭園に就いての知識など、一向に持ち合せていない≪どぶ≫が、途中で、
――はてな?
と、首をかしげた。
大層な金を投じてつくられたには相違ないが、どうも、あまりにも、人工的すぎるような、ある安っぽさを、≪どぶ≫は、感じたのである。
――庭園てえしろものは、金をかければ、かけるほど、佗《わ》びとか寂《さ》びとかのおもむきが、出て来るものじゃねえのかな。
幽玄とか閑寂とか、そういう境地に、人を置かせるのが、最もすぐれた庭園のはずであった。
ところが、この庭園は、たとえば、松の枝ぶりなど、一見すると、まことによく手入れされて、立派なのだが、立ちどまって、じっと眺めているうちに、それが、人工によってひどく不自然にゆがめられている、いやみの印象を受けるのだ。
≪どぶ≫は、町小路家の庭と比べてみた。
町小路家の庭は、べつに庭師を入れてはいない。老いた用人が、ひまをみて、手入れをするだけである。だから、樹木はしげるにまかせてあるし、苑路には、いつも落葉がちらばっている。下草ものび放題であったし、袖垣も中門も四阿《あずまや》も、ふるびて、ところどころこわれている。
しかし、≪どぶ≫のような無趣味な男でも、その庭に入ると、なんとなく、おちついた気分になるのであった。
荒れているとみえて、実は、深山幽谷に在る観を抱かせるように、自然なたたずまいなのであった。
これは、どうやら、左門の父が、茶道の奥旨に達した人で、露地という様式に、造詣《ぞうけい》が深かったためであろう。老用人が、主人の指示によって、いつとなく、庭師以上の心得を持つようになったに相違ない。
夏などは、草ぼうぼうと生い茂るにまかせているのだが、もとより人手のないせいではあっても、かえって、静けさ寂しさの妙味をあらわす効果があるのかも知れなかった。
≪どぶ≫は、この土井邸の、あまりにも吟味されすぎた、すみずみまでに手をかけた庭園を眺めて、はじめて、町小路家のそれの方が、はるかに雅趣があることに、気がついた。
――そうか。
≪どぶ≫は、合点した。
――この庭は、いじくりまわしすぎて、木も石も草も水も、なにもかも、妙てけれんの変てこらいになりやがったんだ。だから、歩いているうちに、イライラして来るんだ。
神経のにぶい者なら、その見事な造りに、ただ、感嘆するに相違ないであろうが、生死の境をいくたびかくぐり抜けて来た≪どぶ≫のような男は、世間の塵労垢染《じんろうこうせん》の中にくらしているだけに、かえって、まことの美しさ、清らかさが、判るのであった。
宿直《とのい》の士が二人、見まわりに来たのに出会った≪どぶ≫は、卑屈な身振りで、
「お庭を拝見させて頂いて居ります」
と、頭を下げた。
「どうだ、職人――、これほどの立派な庭園は、江戸にも見当るまい」
「へい、仰言る通り、ご立派でございます」
――立派だということは、名園ということにはならねえや。
そう胸のうちで、つぶやきながら、
「さぞかし、一流の庭師が、手入れに余念がないのでございましょうな?」
と、たずねた。
「うむ。おそらく、猫の島兵衛は、日本一の庭師であろうな。……それ、あそこにうずくまって居る」
指差されて、≪どぶ≫が見やると、段違い刈込みの寄植まがきで、剪定鋏《せんていばさみ》の音をひびかせている後姿があった。
半白のあたまで、腰も曲りかけている。
≪どぶ≫は、そこへ、近づいた。
「親方、精が出るね」
声をかけたが、耳が遠いのか、ふり向きもしなかった。
≪どぶ≫は、しかし、この老爺《ろうや》に対して、一言皮肉をあびせたい気分になっていた。
日本一の庭師なら、こんなあまりにもいやみな、イライラする庭をつくるはずがない、と思われる。
殿様の命令で、やむなく、造りすぎているのであれば、心中に、不平不満があふれているに相違ない。
もし、おのが手にまかせられているのであれば、その得意の鼻柱を、へし折ってやりたかった。
「親方!」
≪どぶ≫は、大声で、呼びかけた。
すると、
「耳はある」
冷たい返辞が、かえって来た。
「そうか。偏屈だ、というわけだな。とかく、名人てえのは、偏屈だが、ひとつ、下っ端職人に、親方が、どうして、こんな庭を造りなすったか、うかがいてえ」
≪どぶ≫は、云った。
猫の島兵衛と呼ばれる老いた庭師は、はじめて、≪どぶ≫を見かえした。
「どうして、造った、とはなんだね?」
「あっしは、庭のことはよく判らねえ。判らねえが、このお庭を拝見しているうちに、どうにも、ちイとばかり首をかしげたくなったんでさ」
「ふん――」
老庭師は、じいっと、≪どぶ≫を見据えた。
「なにが、気に食わないのかね?」
「こっちが思ったままを、云わせてもらっても、かまわねえかね?」
「かまわないとも」
「このお庭は、立派だ。立派すぎる。金が、かかっている。しかし、どうも、あっしゃ、面白くねえね」
「どう面白くないかね?」
「おちつかねえんだ。眺めりゃ眺めるほど、イライラして来るんだ。松の枝ぶりひとつ眺めても、なんだか、キザったらしくて、いやみで、人の気持を寄せつけねえような恰好をしているんだ」
「…………」
「べつに、親方に対してこんたんがあって、ケチをつけるんじゃありませんぜ。あっしにゃ、親方が、わざと、枝をひん曲げたように思われてならねえんだ。どうですかい?」
そう云われても、猫の島兵衛は、べつに、慍《おこ》らなかった。
ひくいこもり声で、
「わしの性根が曲っているせいかも知れぬ」
と、云った。
「そう返辞されると、こっちがこまるんだが……、親方は、このお庭を、お殿様から、まかせられて居るんですかい?」
「ああ、まかせられている。ちょうど、三十年になる」
「ふうん、三十年かかって、こんな庭をつくりあげたのか。で――お殿様は、お気に召しているんですかい?」
「べつに、お叱りをこうむったことはない」
「親方は、このお庭が、自慢ですかい?」
「自慢するに足りる、と思うている」
島兵衛は、はっきりとこたえた。
「木や石や草は、自然なかたちにみせかけるところに、庭師の腕があるのじゃねえのかな。いかにも、人の手をかけましてござい、というかたちを、むき出しちゃ、風情《ふぜい》がねえ、と思うんだが……」
「それぞれの庭師によって、つくりかたが、ちがうであろうて」
「親方は、これまで、このお庭に、ケチをつけられたことが、一度も、ねえんですかい?」
「ある、幾度もな」
「しかし、自分の考えを押し通した――というわけか」
島兵衛は、ちょっとの間、返辞をしなかった。
ふたたび、まがきを刈込みにかかりながら、つぶやくように、云ったのは、
「もし、大地震でも起って、このお庭がめちゃめちゃになったら、こんどは、お前さんが、感服してくれるような、まったく趣きのちがったやつを、つくるだろうな。わずか数歩あるいただけで、天地人三方の幽玄美をあじわわせるような、野趣そのままの露地をな」
その言葉であった。
老庭師は、この庭園が、≪どぶ≫の指摘する通り、人工的すぎるいやみをたたえていることを、ちゃんと知っているのであった。
猫の島兵衛は、≪どぶ≫の質問にこたえて、この庭園を自慢に思っている、と云ったが、それは、草木石水を、かくも人工的に造りあげることができる、ということを誇っている、という意味なのか?
そうとすれば、この老庭師は、よほどのひねくれ者である。
「成程な」
≪どぶ≫は、いった。
「こういうお庭なら、ほんものの馬より、人間が造った木馬が、歩いた方が、ふさわしいやね」
しかし、島兵衛は、もう、全くのつんぼになったように、仕事にうち込んで、≪どぶ≫を見かえろうとはしなかった。
その宵――。
元のよれよれの岡っ引姿にもどった≪どぶ≫が、ふらりと現れたのは、浅草広小路を、茶屋町へすこし入った横丁にある小料理屋|万喜《まき》であった。
「おや、いらっしゃいまし」
小股の切れあがった色年増のおかみに、にっこりと迎えられて、≪どぶ≫は、親指を示した。
「主《ぬし》は、どこかい、二階かい?」
色年増は、お数寄屋坊主、河内山宗俊の情婦であった。
「吉原《なか》で遊びくたびれて、ここで、ぐうぐう高いびき。あたしゃ、いい加減、不満だよ」
「どうでげす、坊主を岡っ引に乗りかえちゃ」
「坊主には、まだお布施が入るけど、御用聞きには、ねえ――」
「醜《ぶ》男には、情がありやすぜ。天女に仕える漁師の心構えってえやつだ。舟をあやつる棹《さお》かげん――、その棹が、ただの太さじゃねえ。いっぺん、見せようか」
「坊主は、耳がよくきこえるよ。二階へ上って、ひっぱたかれないように、要心おし」
≪どぶ≫は、やぞうをきめて、袂をひらひらさせながら、階段をのぼって行った。
河内山宗俊は寝そべって、枕草紙を読んでいたが、
「くだらねえ。ひとつ、おれが、書いてやろうか。後家専用と銘うって――」
と、大あくびして、ほうり出した。
それから、≪どぶ≫へ視線をあてると、
「どうだえ、景気は?」
「あいかわらず――懐中わずか二十文」
「そろそろ、犬稼業の足を洗うか。同じ犬でも、お犬の方さまは、大繁盛だぜ。尤も、お前の面《つら》は、祈祷師には向かねえな」
「そこで、癪《しゃく》だから、お犬の方の亡霊を、この江戸市中から、追っぱらってくれようと決心した次第でさあ」
「大それた料簡を起さねえ方がいいぜ。この河内山も、そろそろ宗旨がえをして、狐に対抗するお犬大明神でも、おっ建ててくれようか、と思案中だ」
「坊主と稲荷じゃ、犬と狐――、そのそばへ、あっしゃ、猿を祀る庚申塚をつくって、ワンワン、コンコン、キッキッと、派手に客寄せすりゃ、とんだ、奥山の見世物ですぜ」
「ははは……、つまらねえ。ところで、なにか用かえ? お前の方からたずねて来るとは、珍しい」
からくり
「ひとつ、おうかがいしてえことがありましてね」
≪どぶ≫は、真面目な顔つきになって、云った。
「なんでえ?」
「当節、吉原で、粋人通客が、遊び興ずるのに、どんな品ものを使うか、それをお教え頂きてえんで――」
「紀伊国屋文左衛門が、大門を閉めさせ、大夫をのこらず集めて、大広間で松茸狩りをやらせたり、奈良茂が、同じく、畳へ雪を降らせて小判をまいたり、百人分の大まんじゅうをつくらせて、玄関をぶちこわして、かつぎこんだりしたのは、むかしの夢だ。……いまは、遊びかたは、みみっちいやな」
「しかし、粋の、通の、ずんと江戸前ぶった客は、乙な遊びかたをしているんじゃござんせんか?」
「せいぜい、からくり細工の亀に、盃をはこばせる趣向ぐれえなものよ」
「それだ!」
≪どぶ≫は、大声を出した。
「びっくりさせるな。なんだというんだ?」
河内山は、≪どぶ≫をけげんに見かえした。
「その、からくり細工でさ。亀が歩くんですかい?」
「そうだ。亀のせなかへ盃をのせて、酒を注いでやると、ヨチヨチと、畳を歩いて、むこう側に坐っている客の膝の前まで、行く。客が、盃を把《と》り上げると、ぴたりと止まる、という巧妙な仕掛をしてあるんだ。亀を≪ベっこう≫で製《つく》ってあるのも、ミソだね」
「その亀を、どこの細工師が、つくりましたかい? ご存じありませんかね」
「からくり唐次だよ」
「からくり唐次!」
「長崎へ長らく修業に行っていた、という野郎だ。まだ、二十五、六の若い細工師だが、途方もねえ見事な腕前を持っていやがる。オランダ商館で、むこうの手妻師《てづまし》の弟子になっていた、というが、まんざらでたらめを云っているのじゃないらしいな。なにしろ、その亀をはじめ、人をびっくり仰天させる仕掛の細工物を、つぎつぎとつくってみせる。まあ、百聞は一見にしかずだ。一度、からくり唐次の家へ行ってみねえ」
「合点――」
≪どぶ≫は、立ち上った。
「おいおい、足元から鳥が飛び立つように、なにをあわてている。べつに、今日じゃなくてもいいだろう。一杯やんな」
「そうはしていられねえんで――、ごめん」
≪どぶ≫は、小料理屋を、とび出した。
からくり唐次の家は、鳥越橋を渡った天王町の新道にあった。
広小路から、まっすぐに、急いで来た≪どぶ≫は、橋を渡りかかって、馴染の女すりのはなれ島のお仙に出会ったが、
「おう――」
と、うなずいただけで、さっさとすれちがった。
「なんだい? 人殺しでもあったのかい、あわをくってさ」
「人殺しは、これからはじまるんだ」
なにげなく云いかえして、≪どぶ≫は、一瞬、不吉な予感をおぼえた。
こんどは、べつに、むごたらしい人殺しが起ったという次第ではなかった。
妙な迷信が流行して、五代将軍時代の犬きちがいの上臈《じょうろう》の崇りをおそれて、一人の大名が、霊廟を建てようとしているだけの話である。
べつに、岡っ引が走りまわらねばならぬ事変ではないのだ。
にも拘《かかわ》らず、≪どぶ≫は、はなれ島のお仙の問いに、なにげなく、こたえて、これから人殺しが起る、と口走ったとたん、ぞくっ、と悪寒《おかん》が、背すじをつたった。
――あの土井屋敷内で、きっと、おそろしい凶事が起るに相違ねえ。
≪どぶ≫は、おのが予感があたる、と思った。
からくり唐次の家は、常磐津《ときわず》の女師匠でも住んでいそうな、小ぎれいなたたずまいであった。
「ごめんよ――」
格子戸をがらりと開けた――とたん、≪どぶ≫は、目を見はった。
上り框《かまち》に、きちんと坐った福助が、ていねいに、おじぎをしてみせたのである。
「成程、これア、みごとなからくりだ」
≪どぶ≫は、感服した。
格子戸が開くと、おじぎをする仕掛が施してあるのだ。
「親方は、いなさるかい?」
≪どぶ≫は、福助を人間扱いにして、声をかけた。
「どうぞ、おあがり!」
不意に、頭上で、奇妙な発声で、応じたものがある。
仰ぐと、天井近くにさし渡された横木に、黒い鳥が、とまっていた。
九官鳥であった。
「びっくりさせるねえ」
≪どぶ≫は、首を振って、草履をぬいだ。
上り框にあがったとたん、障子が、すらっと開いた。
「なにから、なにまで、からくりだ」
≪どぶ≫が、入ったのは、十坪あまりの広い板敷きの仕事場であった。
普通の細工師のそれのように、雑多な道具が、とりちらかされているという次第ではなかった。
まるで、剣道場のように、床板が美しくみがかれて、道具らしいものは何ひとつ、見当らぬ。
上段に、祭壇らしいものが設けられ、銀色に光るかなり大きな玉が、ひとつ、置かれてあるだけであった。
なんとなく、かしこまらなければならぬ気分で、≪どぶ≫は、膝をそろえると、その玉を眺めた。
すると――。
玉が、ころりと、いかにも、しぜんに、ころげた。
「お!」
≪どぶ≫は、玉が生きもののような気がした。
玉は、右へころり、左へころり、とゆっくりと、ころがりつづけるのだ。
どう眺めても、なんの仕掛もないようであった。
「お待たせしました」
その声があって、≪どぶ≫は、われにかえった。
筒袖に≪たっつけ≫をはいた、かなりにがみ走った佳い男であった。
≪どぶ≫の前に坐ると、からくり唐次は、祭壇でころがりつづける玉に向って、
「これ、止めないか」
と、声をかけた。
玉は、ぴたりと停止した。
「あきれた!」
≪どぶ≫は、うなった。
「いったい、どういう仕掛になっているんですかい、親方?」
しかし、からくり唐次は、ただ、微笑しただけで、こたえなかった。
からくりというものは、細工師にとって、秘中の秘であり、ひとつのからくりを完成するのに五年も十年も費すのであってみれば、肉親にさえも教えないくらいであった。
「挨拶がおくれて、申しわけねえ。おれは、≪どぶ≫と呼ばれている、ごらんの通り、乞食同然の御用聞きでさ。お前さんに、ききてえことが、ひとつあって、参上したわけなんで――」
「親分の名は、前からうかがって居ります。親方が手をつけた事件で、未解決のものは、ひとつもないという大層な評判ですね」
「うれしがらせないでおくんなさい。おれに就いては、悪い噂の方が高けえはずだ。当人自身も、ときどき、これで十手を返上すりゃ、次の日には、小伝馬町へ、ぶち込まれる男だ、と思っている。飲む、打つ、買うために生れて来たような野郎だからね」
「ご自身の口から、正直に云いなさるのは、悪人でない証拠ですよ。本当の悪人は、決して、正直なことは申しませんし、自分をさげすんでは居りますまい」
――この細工師は、若いが、性根がすわっている。
≪どぶ≫は、みとめた。
「ところで、用件というのは、怪異ばなしでね。さきの若年寄の土井但馬守というお大名の上屋敷に起っていることなんだが……、東照大権現様から、ご先祖が拝領した木馬がある。こいつが、夜な夜な、屋敷内を歩きまわる、というんだ。ただの木馬に、なにかのたましいがのりうつる、なんてえ迷信は、あっしは、信じねえ。なにか、まやかしがあるんだろうが、どうだろう、お前さんの考えをきかせてもらいてえ。木馬は、そっくり実物大だというから、人間が中へもぐり込めるのかも知れねえ」
「左様ですね。人間が、中に入って、動かすこともできましょうし、また、そうしなくても、歩きまわらせるぐらいの仕掛は、そうむつかしいものではありません」
「ふうん。おれもね、この家をたずねて来てみて、人形にしゃべらせることもできそうな気がしている。……おれは、その木馬が、どういう仕掛になっているのか、調べてみてえ、と思うんだが、お前さん、力をかしてはくれまいか?」
≪どぶ≫は、たのんだ。
からくり唐次は、ちょっと、考えていたが、
「まさか、その木馬を、お借りするわけにも参りますまい」
「なにしろ、徳川家康公から拝領した家宝だからな。こちらから参上して、拝見することになるね」
「許可が頂けるでしょうか?」
「なに、忍び込んで、無断拝見といくのさ」
「お大名のお屋敷へ、忍び込むとなると、これア、容易なわざじゃありますまい」
そう云いながら、唐次は、べつにしりごみの気色も示してはいない。
いや、むしろ、そうすることに興味ありげな表情さえみせていた。
「大名屋敷の方が、大きな商家へ忍び込むよりは、よっぽど、らくなんだ。規則ずくめで、箸の上げ下《おろ》しまでに、作法をきめていやがるくせに、屋敷内の警戒なんぞは、ひどく間抜けているんだ。これア、忍び込んでみりゃ、よく判らあ。その点は、心配いらねえ。よしんば見つかっても、いくらでもごまかしはきくし、いざとなったら、このおれが、危ねえことは一手に引受けて、お前さんを、遁《にが》してやる。……お前さんも、二百年もむかしに造られた木馬のからくりを調べる興味はあるだろう?」
「それアもう――」
唐次は、うなずいた。
「これできまった。今夜のうちにも、忍び込むとするか」
≪どぶ≫は、気早やに、立ち上った。
「その前に、ちょっと、うかがっておきますが、木馬が歩くのを、どなたにおききなすったので――?」
「土井家の側用人が、この目で見とどけた、と云って、小松九郎兵衛ってえ懇意の町方同心に、相談したんだ。……どうも、土井但馬守というのは、ただの大名じゃねえらしい」
「ただの大名ではない、と申しますと?」
「どうやって、ため込んだか、うなるほど金を持っているし、お犬の方さまの崇りなどというものを信じ込んで、わざわざ、てめえの墓地を提供して、霊廟を建てようとしているし、木馬は歩くし……、それに、おれが調べてみたところじゃ、息子も娘も、出来がひどくわるいらしい」
「ほう……、そういうお屋敷なのですか」
「だから、遠慮することはねえんだ。たたけばいくらでも、ほこりの出る屋敷らしいぜ」
≪どぶ≫は、にやりとしてみせた。
「それにしても――」
唐次は、けげんな面持で、
「町方の御仁がたが、お大名をお調べなさるのは、あまり例のないことですね」
「皮肉は、云っこなしだ。好き好んで、お門ちがいへ、首をつッ込むわけじゃねえんだ。これも、世のため、人の為――と云えば、キザにきこえるが、江戸市中、どいつもこいつも、血眼《ちまなこ》になって、犬の亡霊を拝んでいやがるのを、黙って見のがしていられねえじゃねえか。土井但馬守が建てる霊廟を、ぶっこわそうというのが、眼目よ。……さ、行こう」
「親分は、忍び込みには、馴れていなさるようだ」
闇の中で、唐次は、云った。
宵のうちに、この広大な土井但馬守邸へ忍び込んで、深い木立の中で一刻をすごしてから、母屋へ侵入したのであった。
長い廊下が、鉤《かぎ》の手になったところに、三畳ばかりの小部屋があり、そこへ、≪どぶ≫と唐次は、身をひそめたのである。
この屋敷に住んでいる者でも、こんなところにかくし部屋が設けられていることなど、気がついていない。一見して、ただの壁と見せかけてあるのであった。
大事の場合、討手を埋伏させておく部屋に相違なかった。
「お前さんこそ、はじめて忍び込んだにしては、おちつきすぎてらあ。まるで、以前は夜働きでもやらかしていたようだぜ」
「ご冗談を――。ところで、木馬は、どこにありますか? 土蔵の中など、押し入るのが、面倒ですが……」
「たしか、長男の縫之助が、自分の部屋へはこんでいる、ときいたぜ」
「それじゃ、拝見するのは、むつかしゅうはござんすまいが……。尤も、そのご長男が、腕の立つお方なら、これは、厄介ですね」
「なアに……、のらくらの遊冶郎《ゆうやろう》ということだ。重いものは、三味線ぐらいしか持ったことはねえだろう」
やがて、
「火の用心!」
と呼ばわる足軽の声が、行きすぎて、≪どぶ≫は、唐次をうながして、部屋を出た。
廊下のところどころに、金網|行燈《あんどん》が、ほのぐらいあかりを、闇ににじませている。
≪どぶ≫は、すでに、この屋敷の構造には、くわしかった。
「ここだ!」
廊下を幾曲りかして、≪どぶ≫は、唐次に告げた。
腰に用意した小|瓢箪《ひょうたん》の水を、そっと、敷居へ流して、音をたてぬように、杉戸をひらいて、控え部屋へ、すり足で入った。
とたん――。
「まだ、起きていやがる」
≪どぶ≫は、いまいましく、首を振った。
そうっと、襖へ近づいて、その居間の様子をうかがおうとして、≪どぶ≫の鋭敏な神経に、なにかが、ピリリッとふれた。
縫之助は、ただ起きているのではなかった。
――殺気がみなぎっている!
≪どぶ≫は、自分につぶやいた。
その敷居にも、水を流して、襖を三分ばかりひらいて、覗いてみた。
瞬間――。
≪どぶ≫の全身が、びくっと、戦慄した。
「どうなすったので?」
背後から、唐次が、ささやいた。
「下から、のぞいてみねえ」
≪どぶ≫は、目をはなさずに、云った。
唐次は、畳に匐《は》って、顔を、襖の隙間へ押しつけた。
なんとも、奇怪な光景が、そこに起っていた。
床の間に、≪緋《ひ》おどし≫の甲冑が据えられていた。白い八字髭をつけた面頬《めんぼお》をつけていたし、背中には指物を負うて居り、陣太刀も横たえているので、まるで、生きているようであった。
いや、まさに、生きていた。
采配をつかんだ右手を、挙げているのだ。のみならず、それを、ゆっくりと、動かしている。
あたかも、さしまねいているがごとくであった。
それに向って、夜具の上に仁王立ちになって、大刀をひっつかんでいるのは、但馬守光貞の嫡男《ちゃくなん》縫之助にまぎれもない。
年配は三十を出たばかりだが、武芸の修業をおろそかにした、いかにも骨の柔かそうな、腰のすわらぬ立姿であった。
大刀を抜こうと、身構えながら、隙だらけのなさけなさである。
顔面は、恐怖と驚愕の色にあふれている。
それは、そうであろう。
甲冑を居間に据えるのは、元服した時、父から贈られるならわしだから、これは、十余年間も、その床の間に据えられていたことになる。
それが、今夜、突如として、魂を入れられたように動き出したのである。
腰を抜かさなかったのが、ふしぎなくらいである。
縫之助は、枕もとの大刀をつかんで、立ち上ったものの、脳裡が混乱して、悪夢の中にいるような状態に相違ない。
甲冑はゆっくりと、右手を動かしつづける。
采配で、縫之助を、さしまねくあんばいであった。
「く、くそっ!」
縫之助は、うめきつつ、白刃を抜きはなった。
しかし、ふりかぶったものの、兵法を知らぬあわれさ、刀身の重さに、上半身がゆれ、腰がふらついた。
甲冑は、それをあざけるように、采配を、すうっと、高く挙げた。
「お、おのれがっ!」
縫之助は、わめきたてて、甲冑へ、斬りつけた。
にぶい金属音がひびいて、縫之助は、手がしびれた模様で、よたよたと、よろめき、がくっと膝を折った。
白刃は、甲《かぶと》の上に当ったはずであるが、かすり傷もついてはいなかったし、傾いてもいなかった。
しかし、その右手は、しずかに下げられた。
それきり、ピクとも動かなくなった。
覗いている≪どぶ≫と唐次は、ただもう、息をのんで、茫然としているばかりであった。
まことに信じがたい光景であった。
「あ、あ、あ、あ……」
ようやく、われにかえった縫之助は、悲鳴をあげて、白刃をほうり出すと、宙を泳ぐようにして、居間を逃げ出して行った。
廊下を駆ける音が、遠くに消えてから、≪どぶ≫と唐次は、甲冑へ、走り寄った。
≪どぶ≫は、すばやく、甲《かぶと》を持ちあげてみた。
「空《から》だ。なんにも、入っちゃいねえ」
「てまえが、調べましょう」
唐次は、≪どぶ≫を退かせておいて、よろいの中を、しきりに、手さぐっていた。
しかし、失望の表情で、
「何も、ありませんな」
と、云った。
「仕掛がなくて、どうして、この手が動いたんだ?」
≪どぶ≫は、首をかしげた。
唐次は、その右手を、あげたり、おろしたりしてみて、
「わからない」
と、云った。
「お前さんのようなからくり細工の名人が、わからねえとすると――」
≪どぶ≫は、首をすくめた。
「お化けとか、幽霊とかいうしろものを信じなけりゃならねえ」
「そういうことになりますね」
「やけにおちついているが、からくりのねえ甲冑が、動くことを、お前さんは、どう考えてるんだい?」
「こういうことは、いま、あわてても、判りませんよ。おちついて考えれば、あ、そうか、と合点がいくものです」
「そんな悠長にかまえては、いられねえ」
≪どぶ≫は、舌打ちした。
――化物屋敷だ。木馬も、からくりなしで、歩きまわっていやがるかも知れねえ。
科学の未発達な時代であった。迷信などをあたまからはねのけている≪どぶ≫も、さすがに、薄気味わるい思いであった。
足音が、廊下を近づいて来たので、≪どぶ≫と唐次は、すばやく、控え部屋へしりぞいた。
縫之助が、つれて来たのは、宿直の士ではなく、庭師の島兵衛であった。
「島兵衛、よく、調べてくれ」
縫之助は、おのが居間へ入ろうとせず、廊下から、首だけ突っ込んで、ふるえ声で、云った。
「わしは、もう、この部屋は、まっぴらだ。居間をかえる」
そう云いのこすと、あたふたと、去ってしまった。
島兵衛は、無表情で、のっそりと甲冑へ寄ったが、ベつに、調べようともせず、ただ、眺めやっただけで、頭をまわすと、
「そこに、誰かいるかね?」
と、問うた。
控え部屋に人のひそむ気配を、敏感に察知したのである。
≪どぶ≫は、対手が、一度会った島兵衛なので、かくれている必要もないと思って、
「いるぜ」
と、こたえて、襖《ふすま》をひらいた。
「ああ、お前さんか――」
島兵衛は、≪どぶ≫を見出しても、さしておどろきもせず、
「昼間は、職人に化けて、屋敷内を見ておいて、夜働きかね?」
と、云った。
「あいにくだが、盗っ人じゃねえ」
≪どぶ≫は、にやりとして、懐中から、十手を抜き出すと、
「おれは、これだ」
「はあ、そうか。……そっちの、若いのが、手先というわけか」
「ちがうね。これは、からくり唐次という仕掛細工の名人よ」
「じゃ、お前さんが、この甲冑をいたずらして動かして、若殿をおどろかした、というのかね?」
「そうじゃねえんだ。忍び込んでみたら、もう、そいつが、右手をひらひらさせて、若殿を脅《おど》していやがったんだ。……おやじさん、おれが、このからくり唐次をつれて、忍び込んだのは、木馬が歩くというのを、たしかめに来たのよ。木馬に、どんな仕掛があるか、この名人に調べてもらおうと思ってね」
島兵衛は、そう云う≪どぶ≫を、じっと見すえていたが、いかにも、ばかくさそうに、
「お上の御用をつとめるお前さんが、あらぬ噂におどらされちゃ、その十手が、泣くのじゃないかね」
「なんだと!」
「そうムキになることはない。木馬が歩いたり、甲冑が手を動かしたり――そんな阿呆らしい話が、あるものか」
「げんに、おれたちが、見たのだぜ。そいつが右手を挙げるのを――」
「夜中になると、小心な臆病者は、目が狂うものさ」
「信じねえだろうが、手を動かしたのは本当なんだ。なあ、おい」
≪どぶ≫は、唐次に証明させようとした。
唐次は、
「まちがいありませんでした」
と、こたえた。
「じゃ、お前さんは、この中に、からくりがあると見たんだね」
「調べたんだが、何も仕掛はないのですよ」
「ははは……」
島兵衛は、かわいた笑い声をたてた。
「からくり細工師が、仕掛のねえ甲冑が動いた、と云いなさるのか。これア、とんだ茶番だ」
「おやじさんだって、そのさまを見りゃ、びっくり仰天したろうが……」
「わしは、まやかしというものが、この世で、最もきらいなのだ。どんな不思議でも、よく調べてみりゃ、原因理由がある。ただ、わけもなく、不思議が起るものじゃねえ。人間がつくった世界だ。人間が、解決できねえはずはねえ」
きっぱりと、老庭師は、云った。
その眼光の鋭さは、尋常のものではなかった。≪どぶ≫は、この老爺が、ただ者ではないような気がした。
賭祈祷《かけきとう》
前若年寄、土井但馬守光貞は、眉間にたて皺を寄せ、口をへの字にひきむすんでいた。
江戸家老・桂木頼母と側用人・毛谷三郎次が、その前で、顔を伏せていた。
重苦しい沈黙が、座敷を占めていた。
但馬守が口をひらかなければ、江戸家老と側用人は、永久に口をひらきそうもなかった。
家臣二人の沈黙は、反抗に似ていた。
土井但馬守は、傲慢《ごうまん》な気象であった。若い頃から、たとえ目上の者からでも、指図されることが、大きらいであった。
まして、家来から、とやかく諫言《かんげん》、忠告されると、血が頭にのぼって、見さかいがつかなくなるくらい逆上した。
ただ、傲慢な気象なだけに、人後に落ちるのをきらい、努力もした。
おかげで、若年寄にもなったし、かくし金も莫大《ばくだい》にたくわえた。敵は多かったが、その敵に尻尾をつかませぬだけの知能も働かせて来た。
これまで、但馬守自身、どうにも意のままにならないでいるのは、息子たちの出来のわるさだけであった。しかし、息子たちといえども、自分には、みじんも反抗させはしなかった。
いま――。
但馬守が、当惑しているのは、思いがけぬ、多勢の使傭人《しようにん》の暇とりであった。
定府、勤番が致仕して、浪人することは決してないが、屋敷を維持する上では、これらの家来たちは、べつに役に立たぬのだ。
必要なのは、中間《ちゅうげん》とか女中とか、年期奉公の連中であった。
それらが、ごっそり、暇をとって出て行ってしまったのである。
藩士たちは、やっきになってひきとめたが、いずれも首を横に振って、去ってしまったのである。
この時代になると、草履《ぞうり》取りや篤籠《かご》かきは、渡り奉公の中間ばかりであった。先祖代々から仕えている者はなかった。
こういう連中が、いなくなると、藩主は外出もできなくなる。
かれらが出て行った理由は――。
「このお屋敷には、お犬の方さまの崇りがある」
それであった。
お犬の方の霊廟を建てようとしている土井但馬守自身が、崇られている、ということになったのである。
こんな不快な、腹立たしい話はなかった。
但馬守は、ようやく、口をひらいた。
「たわけて居る! このわしが、犬の怨霊ごときに崇られるなどとは!」
江戸家老と側用人は、小さく、
「御意」
と、うなずいた。
「わしが、直接、下男下女どもに、申しきかせてくれよう」
しかし、もうおそいのだ。
大半が、いなくなってしまったのだ。
「殿――」
江戸家老桂木頼母が、おそるおそる、顔をあげて、云った。
「下屋敷を、ご改築になって、装いを新しく、明るくあそばして、お引き移りなさいますれば……」
「うむ」
但馬守は、意外に、すなおに、うなずいた。
一喝《いっかつ》をくらうものとばかりおそれていた桂木、毛谷の両名は、ほっとした。
「この儀、われら両名に、おまかせ下さいましょうか?」
「うむ――」
「世間の取沙汰もはばからねばなりませぬゆえ、内密に、すすめたく存じまする」
「世間にも、すでに、わが邸内の怪異の噂がきこえている、と申すのか?」
「いえ、まだ、そこまでは――。ただ、暇をとりました者どもが、あちらこちらで、しゃべることを、ふせぎかねますので……」
但馬守は、舌打ちした。
「よしなに、はからえ」
いら立たしげに、云いすてると、但馬守は、立ち上って、座敷を出た。
児小姓《こごしょう》が走って、沓石《くついし》にそろえた下駄をつっかけた但馬守は、
「一人にさせい」
と云いすてておいて、歩き出した。
心字の池泉のほとりを歩いているうちに、築山の臥竜《がりゅう》松を手入れしている島兵衛の姿が目にとまり、但馬守は、石橋を渡って、そちらへ近づいて行った。
島兵衛は、但馬守をみとめると、ひざまずいた。
「島兵衛、せっかく庭をつくりあげてもろうたが、放棄しなければならなくなったぞ」
「は――?」
島兵衛は、いぶかしげに、但馬守を仰いだ。
「下屋敷に移る。この家は、すてる」
「なにか、不都合がございましたので?」
「お前は、奉公人どもが、つぎからつぎと去ることを知って居らぬのか?」
「てまえは、お庭にばかり居りますので、一向に……」
「木や石や水を対手《あいて》にくらして居るのは、俗世間のわずらわしさを知らずに、すんで、よいのう」
「御意――」
「お前は、しかし、邸内で起る奇妙な出来事を、ひとつも、見知らぬのか?」
「桔尾花を幽霊と見るたぐいでございます」
島兵衛は、こともなげに、こたえた。
「お前のような奴ばかり奉公してくれていると、気楽だが……。木馬が歩きまわるなど――たわけきった話だ」
「…………」
島兵衛は、俯向《うつむ》いて、黙っていた。
「そうだ、お前も、この庭で働いてから、三十年以上になるの」
「はい。おかげさまにて――」
島兵衛は、ひくく頭を下げた。
但馬守の姿が、遠ざかった時、島兵衛は、臥竜松のむこうの大岩の蔭に、人の気配があるのに、気がついた。
「誰だね、そこにいるのは?」
声をかけると、のそりと現われたのは、≪どぶ≫であった。
今朝は、職人姿であった。
「まだ、お前さん、うろついていなさるのかえ」
島兵衛は、冷やかに云った。
「茶亭の建てなおしは中止になるよ。こんどは、渡り中間にでも化けることだね」
「いま、殿様の仰せられることを、きいたよ。おやじさん、せっかく丹精したこの庭をすてるのは、さぞ、くやしかろうな」
「なに、こんどは、お前さんが、仙人になったような気分になるお庭を、つくるさ」
「その年じゃ、もうむりだろう」
「九十まで生きるとすりゃ、あと三十五年あるね」
「大した自信だ」
≪どぶ≫は、感服してみせてから、
「ところで、おやじさんに、ちょいと、ききてえことがあるんだ。ひとつ、正直にこたえてもらいてえ」
「事柄によっちゃ、口をひらかねえ」
「三十年――いや、それ以上も前のことかも知れねえが、このお屋敷で、お手討ちになった腰元は、いなかったかね?」
「…………」
島兵衛は、こたえず、剪定鋏《せんていばさみ》を動かしつづける。
「どうだろうね? おやじさん、おぼえていなさるだろう?」
「…………」
「忘れているのなら、思い出しちゃくれまいか?」
「わしは――」
島兵衛は、こたえた。
「忘れたことは、思い出さねえことにしている」
「意地のわるいことを云わねえで、思い出してくれねえか?」
「お前さん、どうして、そんなことを、知りたがるのだ?」
「浅草田圃のどまん中に、なんとかの森、というこの土井家の墓地があるだろう」
「あるよ」
「そこを、お犬の方さまの霊廟にするために、墓を移していると、木乃伊《みいら》が出て来たことは、きいているはずだ。おれは、このあいだ、見物に行った。その一体に、女がいたが、これは、斬り殺されたやつだった」
「…………」
「これは、お手討ちになった腰元にちげえねえ、とおれは、にらんだんだ」
「…………」
「殿様は、若気のあやまちで、お手討ちにしたものの、後悔して、土井家の墓地に、葬ってやった。……そうじゃなかったか?」
「…………」
「おやじさん、三十年も、それ以上、庭師として、ここで働いているのなら、その出来事を知っているはずだぜ」
≪どぶ≫は、じっと島兵衛を、見つめた。
しかし、島兵衛は、牡蠣《かき》のように口をつぐんだきり、表情も動かさぬ。
「おやじさん、殿様から、厳重に口止めされているのじゃねえのか?」
「…………」
「たのむから、腰元が斬り殺されたことを、思い出してもらいてえ」
島兵衛は、じろりと、しつっこく食いさがる≪どぶ≫を見やった。
「わしに、思い出させて……、それで、どうする、というのだ?」
「その女|木乃伊《ミイラ》が、ひきあげられた時、見物衆の中に、若い女がまじっていた、と思いねえ。若い女の顔と、木乃伊の顔が、おれには、なんとなく似ている――そんな気がしたのよ。いや、たしかに、似ていた。木乃伊を、じっと見る女の目つきも、ただごとじゃなかった。女と木乃伊は、なにか、ふかいつながりがある。とすりゃ、木乃伊の素姓を、調べあげたくなるじゃねえか」
「…………」
「おやじさん、ここまで打明けたんだ。なんとか、こっちの相談に乗ってくんねえな」
しかし、島兵衛は、なにやら、口のうちで、ぶつぶつとつぶやいていたが、首を振って、
「わしは、知らねえ。なんにも知らねえ」
と、こたえた。
「そうかえ。これほどたのんでも、かぶりを振るところをみりゃ、本当に、なんにも知らねえのだろう」
失望して、≪どぶ≫は、そこをはなれようとした。
と――。
「親分」
島兵衛が、呼びとめた。
「なんでえ?」
「このお屋敷の出来事を、大小もらさず、くわしく、日記に書いたお女中がいなさるようだ」
「そ、そうか! ひきあわせてくれるか?」
「そのお女中は、去年、亡くなったが、日記は、たぶん、お姫様のお手もとに、のこっているはずだ。そのお女中は、お姫様付きだったからな」
「有難てえ」
「お姫様は、それ――あのむこうの、楓林《かえでばやし》の中に建物が見えるじゃろう。あの離れに、お一人で、くらしていなさる」
「恩にきるぜ、親方――」
≪どぶ≫は、にやっとして、いそいで、楓林に向った。
その離れからは、琴の音が流れ出ていた。
調べているのは、「乱れ」であった。名手といえる。冴えた音に、哀しさが湛《たた》えられているのだ。
――面とむかって、お願い申し奉っても、日記を見せちゃくれねえだろうな。
そう思いながら、ともかくも、内部をうかがうべく、楓林の中へ、そっと、入っていった。
とたん――≪どぶ≫は、ぎょっとなった。
≪どぶ≫は、楓の木から、するすると匍《は》いおりて来る白い細い蛇を、見たのである。
それも、一匹ではなかった。
あちらの幹、こちらの幹から、幾匹も、匍いおりて来るのだ。
そして、そいつらは、地べたに降りるや、琴の音の流れ出る離れへ向って、非常なはやさで、すべって行く。
「ど、どういうんだ、これア?」
≪どぶ≫は、目を剥《む》いた。
白蛇どもは、琴の調べを慕って、殺到して行くように思われる。
≪どぶ≫も、いそいで、そのあとを追った。
およそ十匹あまりの白蛇は、見る間に、縁側にはねあがり、二尺ばかり開かれた障子のあいだから、室内へ、匍い込んで行った。
瞬間――。
魂消《たまげ》る悲鳴が、つらぬいた。
≪どぶ≫が、とび込んでみると、失神した菊姫の裳裾《もすそ》へ、腰へ、肩へ、白蛇どもは、うねうねと匍いあがって、鎌首をもちあげている。
さすがの≪どぶ≫も、あまりの気味わるさに、立往生した。元来、あまり、蛇というしろものは、好きではなかった。
「こん畜生っ!」
裳裾《もすそ》の一匹を、蹴とばしたが、そいつは、宙をひとうねりして落ちて来るや、たちまち乱れた裳裾の蔭へ、白い脛《すね》をつたって、奥へもぐりこもうとした。
肩にはい上っているやつは、胸もとへ、もぐろうとしていた。
「手に負えねえ!」
≪どぶ≫は、とっさに、庭師でなけりゃ、片づけられぬ、と思うて、表へとび出した。
「親方! 白蛇だ! お姫さんを、なぶってやがる。なんとかしてくれっ!」
≪どぶ≫に叫ばれて、島兵衛は、眉宇《びう》をひそめたが、黙って、離れへ向って、走り出した。
「なるほど……、このお屋敷は、奇々怪々だあ――」
≪どぶ≫は、ならんで、走りながら、云った。
楓林へ達した≪どぶ≫は、
――はてな?
あっけにとられた。
離れの中からは、また、琴の音が、流れ出て来るではないか。
菊姫は、白蛇にまぶれつかれて、琴のかたわらで、失神して倒れているはずであった。
それが、また急に起き上って、琴をひく、などということは、考えられぬ。
「なんだ? これア、なんてえこったい!」
≪どぶ≫は、あっけにとられて、足を停めた。
島兵衛も、けげんの面持で、≪どぶ≫をかえり見た。
≪どぶ≫は、
「と、ともかく、のぞいてくれ」
島兵衛の半纒《はんてん》の袖をひっぱった。
そこへ、別の方角から、
「悲鳴がきこえたぞ!」
と云って、走って来たのは、長男の縫之助であった。
若い女中がうしろに従っているところをみると、庭で、なにやらみだらな行為に耽《ふけ》っていたに相違ない。
縫之助と島兵衛と≪どぶ≫が、離れの中へ、ふみ込んでみると――。
いつの間にやら、十匹の白蛇は、かげもかたちもなく、消え失せていた。
菊姫は、床柱によりかかって、死人のように蒼ざめて、茫然自失のていであった。
二十歳過ぎたばかりのこの姫は、大層な美貌であった。肌の白さは、たぐいがないくらいである。いかにも、白蛇が吸いつきそうな甘肌といえる。
「菊!」
縫之助が、かたわらへ寄って、肩へ手をかけた。
「どうしたのだ? え? 何が起ったのだ? ……しっかりせぬか?」
ゆさぶられて、菊姫は、われにかえると、みるみる恐怖の色をあふらせた。
「こ、こわい!」
「なにが、こわいのだ? この職人が申すには、白蛇が出たというが、まことか?」
「ああ! こわい! 十匹も、わたくしを、襲うて来て……、ああっ!」
菊姫は、全身のふるえがとまらぬ烈しい恐怖で、兄にとりすがった。
「島兵衛!」
縫之助は、老庭師をふりかえった。
「この楓林には、白蛇が棲《す》みついて居るのか? 知っていて、知らぬふりをしていたのなら、許さんぞ!」
「いえ、とんでもございませぬ。白蛇など、これまで、ただの一匹も、見かけたことはございませぬ」
「面妖《おか》しいではないか。この職人も見とどけて居るし、菊もおびえて居る。白蛇が棲んでいるとしか思われぬぞ」
「…………」
島兵衛は、困惑のていで、目を伏せた。
「化物屋敷だ!」
縫之助は、不意に、呶号《どごう》した。
「こんな化物屋敷は、ぶちこわしてしまえ!」
「若様――」
島兵衛が、云った。
「さきほど、お殿様よりうかがいましたが、下屋敷の方へ、お移りあそばす由にございます」
「ふん――」
縫之助は、口を歪めてわらった。
「下屋敷へ移れば、移ったで、そっちが、化物屋敷になるだけだ。……土井家は、のろわれて居るのだ! 何者かにのろわれて居るのだ! そうに、きまって居る!」
甲冑におどかされた縫之助であった。怪異というものを、みとめざるを得ないのだ。
縁さきにうずくまった≪どぶ≫は、縫之助の絶叫をききながら、
――どうも、わけがわからねえ。
と、首をかしげていた。
――気をうしなった姫が、どうして、起き上って、琴をひいたのか?
――いったい、白蛇が襲ったのは、何者かのしわざなのか? なんとも、わけがわからねえ。
その日の夕食後――。
土井但馬守は、長男縫之助から、菊姫が白蛇に襲われたことを報告されると、
「島兵衛を呼べ」
と、命じた。
島兵衛が、宵闇の中で、縁さきにうずくまると、但馬守は、いら立たしげに、
「どういうのだ、島兵衛?」
と、問うた。
「はい――」
「毛谷は、木馬が歩くのを見たと申すし、縫之助は、甲冑が動くのに逆上して斬りつけたと申すし……、その方は、まこと、白蛇が姫を襲うのを見たのか?」
「お茶亭で働いて居ります職人が、それを目撃して、てまえが、かけつけました時には、すでにもう、白蛇は、逃げ去って居りましたが、お姫様は、大層おびえあそばされて居りました」
「なんという不快な話だ。きいて居るだけで、むかむかして来るわ!」
「仰せの通りでございますが……、実を申せば、てまえは、若様が、甲冑が動いた、と申されて、てまえをお呼びになりました時は、そのようなばかげたことはない、と内心、信じては居りませなんだ。ところが、今日ばかりは、なにやら、薄気味わるう……、いまだ、おちつきませぬ」
但馬守は、島兵衛に、そう云われると、舌打ちした。
「その方までが、怯《おび》えるか!」
但馬守は、いつの頃からか、江戸家老桂木頼母、側用人毛谷三郎次、その他主だった定府の家臣らよりも、この一介の庭師の方を、信頼するようになっていた。
どうやら、それが気まぐれでない証拠には、その信頼は、十年もつづいているのであった。
「どうせよ、と申すのだ、島兵衛?」
「はい、それが……」
「それが、なんだ? 申せ」
「まことに申しあげにくいことでございまする」
「かまわぬ、申せ」
「お殿様が、最もおきらいになることを、おすすめいたしとうございます。さぞかし、お怒りあそばすとは存じまするが……」
「はやく、申せ! 怒らぬぞ!」
「青山の長者ヶ丸に、お犬の方さま祈祷所がございます」
「うむ」
「一度、お足をおはこびなさいましては、いかがかと存じます」
「島兵衛! その方までが、お犬の方の怨霊《おんりょう》を、信じるのか?」
「いえ、信じているわけではございませぬが……、これは、ひとつの賭《かけ》でございます」
「賭だと?」
「祈祷所の巫女が、なんと申しますか、それを、おきき下さいませ」
「きいてどうする?」
「もし、お屋敷に、怪異が起っていることが、崇りと申しますれば、これは、信じなければなりませぬ」
翌日――。
土井但馬守は、ほんのわずかの供をつれただけで、忍びの行列を、青山長者ヶ丸の「お犬の方さま祈祷所」へ進めた。
≪どぶ≫が、そのあとを、尾行した。
長者ヶ丸は、まだ、ひろびろとした野であった。
ところどころには、まだ武蔵野のおもかげをとどめる森が、視界をさえぎっていた。
「お犬の方さま祈祷所」は、かなり大きな構えの郷士の家を、改造したものであった。
庶民たちの寄進であろう、その家の門に入る一筋道の大石には、石を刻んだ狛犬《こまいぬ》が、ずらりとならんでいた。そして、そのうしろに、白い幟《のぼり》が林立していた。
但馬守は、駕籠を降りて、その道を歩きながら、
「流行《はや》って居るわ」
と、吐き出した。
お犬の方の怨霊《おんりょう》の崇りを、金もうけの手段にしようとした但馬守は、ちょっとおかしな比喩だが、飼犬に手をかまれたかたちになった、と云わねばならぬ。
それだけに、かえって面白くなかった。
島兵衛にすすめられなければ、こんなばかげた祈祷所へなど、足をはこんで来るものではなかった。
但馬守自身、お犬の方の怨霊などというものが、当節、うろついているなどとは、全く信じてはいなかったのだ。
ただ――。
島兵衛から、真剣な面持で忠告されてみると、なにやら、背すじが、うそさむくなったのは事実である。
お下げ髪の若い巫女が、数人、玄関で平伏して、但馬守を迎えた。
座敷に通った但馬守は、ものものしい祭壇を、一瞥《いちべつ》して、
――ふん! 何者が、庶民をたぶらかしたものか!
と、口をへの字にまげた。
実は、但馬守は、浅草の墓地を、「霊廟建立講中」という集団から、一万両を受けとって、払い下げたのである。
世間では、但馬守自身が、お犬の方さまを信仰しているように、受けとっているが、とんだ思いちがいなのであった。
霊廟建立講中というのは、蔵前の札差《ふださし》、日本橋あたりの大きな問屋なども加った数千人の集りの模様であった。
これほど「お犬」というしろものを、流行《はや》らせたのは、相当の曲者といわねばならぬ。
但馬守が眺めたところ、その祭壇は、いかにもまやかし、といったところはすこしもなく、荘厳ささえそなえていた。
但馬守は、床几《しょうぎ》でもないか、と見まわしたが、用意してなさそうなので、しかたなく、畳の上へ、じかに端座した。
簫《しょう》やら≪ひちりき≫やらが、ものものしく鳴らされつづけていたが、肝心の祈祷がたの巫女は、なかなか現れなかった。
――はやくせぬか!
但馬守は、いらいらした。
ところで――。
行列を尾行して来た≪どぶ≫は、すばやく裏手へまわって、どうやってもぐり込んだか、祭壇わきの几帳《きちょう》の蔭へ、ひそんでいた。
≪どぶ≫もまた、但馬守と同じく、
――はやくやってもらいてえ。
と、いらいらしていた。
やがて、しずしずと現れた巫女《みこ》は、白髪の老婆であった。
鼻梁《びりょう》が高く、あごがしゃくれ、窪《くぼ》んだ双眼は、異様な光を発していた。
こういうおそろしげな面つきの老婆を、見つけたのも、才能といえる。
巫女は、犬の毛ででもつくったのか、純白の采配のようなものを持っていた。
祭壇に向って、幾度も拝礼してから、やけに鋭く、カン高い声音で、呪文めいた文句をとなえはじめた。
これは、この前、≪どぶ≫が、お犬|祠《ほこら》をぶち毀《こわ》した時にきいた文句と似ていた。そういえば、あの時の巫女と、この老婆は、面つきに似たところがある。
――まさか、姉妹ってえわけでもあるめえが……。
几帳からのぞく≪どぶ≫は、小首をかしげた。
祈祷の方は、高くなりひくくなり、それは、おそろしく長いあいだ、つづいた。
但馬守も、いい加減退屈した模様であった。
やがて――。
老巫女は、バッタリと倒れて、しばらく、失神のていであった。
と――不意に、ぱっと、はねあがるや、
「ああ! お、おそろしや!」
と、金切り声をあげた。
さすがに、但馬守も、緊張のていであった。
巫女は、叫んだ。
「木乃伊《みいら》! ……木乃伊の祟《たた》りじゃ! ……お、おそろしや! ……木乃伊の崇りじゃ!」
但馬守は、そのうわ言をきいて、渋面をつくった。
巫女は、また、バタッと前へのめり伏してしまった。
若い巫女が二人、走り寄って、その老婆を、かかえおこした。
老婆は、しばらく、放心のていであったが、若い巫女から、祭壇の聖水らしいものを、飲まされて、ようやくわれにかえった様子で、但馬守に向きなおると、平伏した。
「その方《ほう》……、木乃伊の崇りと申したな?」
「は、はい……いえ、お祈りのさなかに、口走りましたことは、すこしも、おぼえがございませぬ」
「おぼえがない?」
「はい。お犬の方が、のりうつられて、申されることでございまするゆえ――」
「まことか?」
「嘘いつわりを申して、なんといたしましょう。わたくしは、お犬の方さまに身心を捧げた者でございます」
「――と、いう次第なんで、へい」
その祈祷所から、まっすぐに、町小路家へやって来た≪どぶ≫は、見聞するところ、のこらず左門に報告した。
左門は珍しく、坊主枕に頭をのせて、仰臥《ぎょうが》していた。
「だんだん、面白くなる」
左門は、云った。
「こっちは、だんだん、生命がけでさあ」
≪どぶ≫は、鼻の下をこすった。
左門は、しばらく、何か考えていたが、
「お前の報告を、もう一度、くりかえす。……庭師島兵衛が造りあげた土井邸の庭園は、なんとも不快な印象を与えた。長男縫之助の居間に飾ってあった甲冑が、右手をあげて、縫之助をさしまねいた。縫之助は、これに斬りつけておいて、島兵衛を呼んで来た」
「へい」
「次に、こんどは、お前自身が、菊姫の住む離れに近づいたら、白蛇が十匹ばかり、ぞろぞろと匍《は》って、菊姫を襲った。お前が、あわてて、島兵衛を呼んで来ると、失神しているはずの菊姫が、また、琴をひいている音がきこえた。ふみ込んだらば、白蛇は消え失せていた」
「こいつには、あっしも、びっくり仰天しました。なんてえ助平な蛇《くちなわ》もいやがるんだろうってね」
「そこで、ついに島兵衛が、但馬守に、祈祷所へ行くことをすすめた。すると、巫女が、木乃伊の祟りと、口走った。但馬守も、ここに至って、どうやら、恐怖心が生じたらしい」
「その通りなんで――」
「…………」
左門は、そこでまた、沈黙をまもりはじめた。
「殿様――」
≪どぶ≫は、首を突き出して、
「なにか、そのう……、これまで起ったことで、お判りになったことがありましたら、仰言って頂きてえんで――」
「べつに、何もない」
「へえ?」
「何もないが……、ひとつだけ、考えられることがあるな」
「なんでござんしょう?」
「但馬守が、いまの屋敷以上に、凝った屋敷をつくるであろう、ということだ」
「へえ?」
「これは、まちがいなかろう」
左門は、そう明言して、やおら身を起した。
そこへ、小夜が、お茶をはこんで来た。
≪どぶ≫にも、すすめておいて、小夜は、
「近頃、なにやら、怪しげな人間が、ときどき、お屋敷をのぞこうとして居ります」
と、告げた。
「そいつは、どんな奴だい、お小夜さん?」
≪どぶ≫が、目を光らせた。
「虚無僧《こむそう》だったり、乞食だったり、また、やくざみたいだったり……」
小夜は、そう云って、首をすくめてみせた。
十一
すると――。
「そろそろ、お犬の方の亡霊は、わが屋敷にも、崇ろうと、近づいて参ったか」
左門が、笑った。
「まあ、気味のわるい!」
小夜が、顔色を変えた。
「≪どぶ≫――」
「へい!」
「いまも、庭に、祟りの使いが、忍び込んでいるかも知れぬぞ」
「なんですって!」
≪どぶ≫が、庭の方へ頭をまわすのと、左門の右手から、小柄《こづか》が、庭の一隅めがけて投げられるのが、同時であった。
高麗塔の蔭から、一個の影が、ぱっと、とび出した。
「野郎っ!」
≪どぶ≫は、縁側から、すっとんだ。
曲者は、ふつうの職人ていであった。左手くびに、小柄を刺されて、血汐をしたたらせながら、非常な速力で、遁《のが》れようとした。
しかし――。
≪どぶ≫の脚力が、まさった。
塀ぎわへ来て、向きなおった曲者は、ふところから、匕首《あいくち》を抜きはなった。
≪どぶ≫は、ゆっくりと、腰から十手刀を抜き持った。
「じたばたしても、もう、のがれられっこはねえ。町小路左門様の屋敷へ、図々しく、侵入して来たのが、運のつきよ」
≪どぶ≫は、せせら笑った。
「なにをっ! くたばれっ!」
曲者は、猛然と、匕首を突き出して来た。
これは、習練した業《わざ》をそなえた突きであった。
≪どぶ≫は、あやうく、胸いたをつらぬかれそうになって、あわてて、とび退《すさ》った。
「てめえ、出来るな?」
「…………」
曲者は、窮鼠《きゅうそ》、猫《ねこ》を噛《か》む凄《すさ》まじさで、狙って来る。
――こいつは、生捕りできそうもねえ。
≪どぶ≫は、思った。
「やっ!」
気合もろとも、次の突きを放って来た。
これも紙一重で、とびかわした≪どぶ≫は、
「左門の殿様を狙って来やがったか、それとも、このおれをか?」
と、どなった。
もとより、対手は、こたえはせぬ。
「へっ、こん畜生め! てめえは、何者かの手先だな。もしかすりゃ、土井家のまわし者かい?」
そうあびせるや、猛然と第三撃をしかけて来た。
≪どぶ≫は、思わず十手刀を、横|薙《な》ぎにした。
曲者ののどから、ぱあっと、血飛沫《ちしぶき》が、散った。
――殺しちゃいけねえ!
≪どぶ≫が、思わずそう思って、隙をみせた。それをとらえて、曲者は、塀へとびあがった。
十二
「しまった!」
≪どぶ≫が、舌打ちした時には、もう曲者の姿は、塀外へ消えていた。
「野郎っ、手負ったくせに、すばしっこく、風をくらいやがった」
≪どぶ≫は、いまいましく、舌打ちしてから、ひきかえして来た。
「申しわけござんせん。捕りそこないやした」
≪どぶ≫は、左門に、詫びた。
「どんな装《なり》をいたして居った?」
「職人ていでございました」
「腕前は?」
「相当な野郎でございましたね」
「よかろう」
「へえ――?」
「これからは、ちょくちょく、襲って参るであろう」
「お殿様を、でございますか?」
小夜が、不安な面持で、たずねた。
「いや、≪どぶ≫の方をさきに片づけようとするであろうな」
「するってえと、あの曲者は、土井家から放たれて来た野郎でござんしょうかね?」
「さあ――、まだ、よく判らぬ。いずれにしても、曲者になる方が、曲者につけ狙われるのだ。要心するに越したことはあるまい」
「なアに、馴れて居ります。ところで、これから、あっしが、眼をつけなけりゃならねえことを、指示して頂きてえもので――」
「但馬守が、ひどく凝った屋敷をつくる、ということだな」
「へえ――?」
≪どぶ≫は、首をかしげた。
どうして、そのことが重大なのか、≪どぶ≫には、ちょっと見当がつかなかった。
左門は、その疑問に応えるように、
「その凝った屋敷で、われわれをおどろかせる何かが……、起るような気がする。これは、かなり漠然とした予感だが――」
「成程――完成したあかつきに、ぱあっと、こう、燃えてしまうとか……」
「…………」
例によって、左門は、心中には、何か鋭い推理をはたらかせているに相違ないのだが、口には出さぬ。
「それにしても、敵は、あっしを狙うとともに、殿様を狙うことも考えられるとすりゃ、これア、ご用人とお小夜さんの二人だけじゃ、物騒でございます。あっしの知っている、目と鼻の利く男を、寄越すことにいたしましょうか?」
「無用だ」
左門は、にべもなくことわった。
たしかに、左門は、尋常一様の盲人ではない。二人や三人、襲いかかって来ても、ビクともするものではあるまい。しかし、敵が、盲目であることの弱点を衝《つ》いて来たならば、あるいは、防ぎきれぬかも知れぬ。
≪どぶ≫は、不安をおぼえずにはいられなかった。
左門が、無用としりぞけるので、しいてはすすめなかったが、≪どぶ≫は、小夜の不安な面持が、気にかかった。
職人たち
≪どぶ≫は、家というものを、持っていなかった。
その日その日の風まかせで、各処に泊りあるく。
町小路家の中間《ちゅうげん》部屋で、膝小僧をかかえて寝ていたかと思うと、次の夜は、花川戸の質屋の奥の間で、後家を抱いて、寝ている。
大名屋敷の渡り奉公人の部屋で、一昼夜ぶっ通しで、博奕《ばくち》に血眼になっていたかと思うと、一文なしのオケラの身を、仲間の岡っ引の家へころがり込ませる。
夜鷹の小屋ですごすこともあるし、木賃宿でごろごろしていることもある。
気楽といえば気楽だが、時には、
――ええい、くそ、生きているのが面倒くせえ。
やけっぱちになって、両国橋の欄干へ、頬杖ついて、ぼんやりと、いつまでも、川の流れを、眺めていることがある。
今日も、それだった。
尤も、今日の気抜け状態は、原因がある。
左門に命じられて、但馬守がどのような新しい屋敷を建設するか、けんめいになって、さぐったものの、出来上ったものを調べるのとは勝手がちがって、どうにも見当つかぬままに、しばらく待つことにした。
そのひまが、≪どぶ≫に、賭場へ足をはこばせた。
妙なもので、気がかりを心にのこしていると、賽目《さいのめ》のツキもなく、たちまち、すってんてんになり、あっちから借り、こっちからせしめて、つぎ込んでも、全く目が出ず、ついにあきらめて、今朝がた、ふらふらと、その大名屋敷の賭場から、ぬけ出て来たのであった。
「へっ、浮世は、さまざまだってえのに、川だけは、同じに流れてやがら」
≪どぶ≫は、首を振って、小声でうたい出した。
川竹に、浮名を流す鳥さえも
つがいはなれぬおしどりの
中にさす月、すごすごと
別れのつらさに、袖しぼる
ほんに、しんきなことかいな
うしろに、人が立った。
「オケラかね、親分――」
云いあてられて、振りかえると、夜働きの次郎吉の小肥りの姿が、立っていた。
どう見ても、これが、大名屋敷をあらしまわっている盗賊とは受けとれない。律義な商人そのものである。
「オケラもオケラ、穴があれば、もぐり込んで、半年も冬眠してえや」
「ははは、そんなにのんびりかまえているひまはないはずだ」
「ふん。お前さん、目下のおれの仕事を、知っているのかい?」
「十軒店町の駿河屋のお犬|祠《ほこら》をぶっこわしたり、下職に化けて、土井様のお屋敷へもぐり込んでみたり、ひどくいそがしがっていたようだね」
「まるで、おれのあとをつけまわしているように、知ってやがる」
二人は、肩をならべて、両国橋を渡った。
広小路から横丁へ入った小料理屋へ、≪どぶ≫をさそった次郎吉は、
「うめえ!」
ありついた酒の味に、舌つづみをうつ≪どぶ≫を見まもりながら、
「町小路左門てえ殿様は、あんたに、途方もない大任を押しつけるんだね」
と、云った。
「なアに、大したことじゃねえさ」
「一介の岡っ引に、三万石の、先の若年寄をむこうにまわさせることが、大したことじゃないのかね?」
「なにも、三万石をぶっつぶそう、というんじゃねえ」
「左門の殿様の肚《はら》は、そうなのかも知れない」
次郎吉から、そう云われて、≪どぶ≫は、はっとした。
――そうか! 但馬守がしこたま貯め込んだ莫大な金銀を、そっくりまきあげて、江戸城の御金蔵へ入れちまおう、という肚《はら》かも知れねえ。
「ふむ!」
考え込む≪どぶ≫を、微笑で見まもりながら、次郎吉は、云った。
「そろそろ、わしが、手助けする時機だね」
「たのまあ」
≪どぶ≫は、正直に、ぺこりと頭を下げた。
「実は、あんたが、博奕にうつつをぬかしているあいだに、わしはわしで、すこし、調べておいた」
「調べておいた、ってえ――何を?」
「土井但馬守様は、また新しく屋敷を構えるのだろう。そのことさ」
「お前さんは、千里眼かい」
≪どぶ≫は、あきれて、次郎吉を、まじまじと見なおした。
「なに、あんたが、しきりに職人衆をたずねあるいているのを知ったからね。たぶん、土井家の新しいお屋敷を、どこの職人がやるのか、調べているのだろう、と思ってね」
「その通りだ」
「土井家では、浅草田圃のどまん中の五重《いつえ》の杜《もり》を提供して、お犬の方さまの霊廟をつくらせるそうだね」
「それも、知っているのか」
「同じ顔ぶれさ、新邸造りの職人は――」
「あ――そうか」
≪どぶ≫は、ちょっと間抜けた表情で、合点した。
「主だった職人は、四人」
次郎吉は、その名を挙げた。
庭師 島兵衛
大工 上野黒門町の若い棟梁《とうりょう》・小源太
指物師 からくり唐次
かざり職 多三郎
「へえ、からくり唐次が、えらばれやがったか」
≪どぶ≫は、うなった。
「島兵衛をのぞけば、あとの三人は、若い。棟梁の小原太でさえも、まだ三十にもなっていない。ところが、三人とも、その腕前は、名人といっていい」
次郎吉は、説明した。
「ところがだ」
次郎吉は、手をたたいて、女中を呼び、肴《さかな》を注文しておいて、
「面白いことに、島兵衛、小源太、唐次、多三郎が、顔を合せるやいなや、犬と猿の敵意をむき出したのだな」
「…………」
≪どぶ≫は、熱心に、耳を傾ける。
「四人が、土井家の座敷に集められた――その光景を、わしは、天井裏から、見下していたのさ」
「…………」
「いえね、その光景を見下すために、わしは、忍び込んだのじゃない。土井家の蔵には、千両箱が山と積まれているそうなので、そのひとつを、なんとかして頂戴しようと、実は、二年ばかり前から、考えていたのだ。さすが、ほかの大名衆とちがって、金持ともなると、蔵もただの蔵じゃない。小盗《こぬす》っ人《と》一人の力なんぞでは、とても破れねえように、厳重をきわめている。だからこそ、こっちも、鼠小僧――いや、大名屋敷専門の夜働きの面目、といっちゃおかしいが、腕だめしを、したくもなろうというもの」
「…………」
「破ったか破らなかったか、それは、さておき、その座敷の光景だったがね、それゃもう、てんやわんや」
「ふむ――?」
「江戸家老と側用人が、絵図面をひろげて、だいたいの構造を説明しておいて、ひきあげたあとのことだが……、職人四人が、たちまち、牙《きば》をむき出して、いがみあい出したという次第さ」
つまり――。
おのおのが、絵図面にケチをつけ、こんな仕事は、おかしくってやれねえ、と云い出し、それが、互いに、他の三人の仕事をばかにした傲慢な態度に転じ、はては、大工と指物師が、つかみあい、かざり職が庭師の胸ぐらをつかむ、という事態にまで及んだ。
側用人の毛谷三郎次が、さわぎをききつけて、かけつけて来たために、どうやらおさまったが、このぶんでは、とても協力などしそうにも思われなかった。
あらためて、江戸家老の桂木頼母が現れて、
「その方《ほう》たちが、力を合せてくれなければ、お屋敷も、また、霊廟も、建たぬのだ。どうか、いさかいを止めて、智慧を合せて、見事なものをつくりあげて欲しい」
と、頭を下げた、という。
そこで、ようやく、四人も、座を蹴って立つことを思いなおした。
「しかし、なにしろ、睨みあいの凄《すさま》じさは、天井裏から見下していても、空おそろしいばかりだったから、あれで、力を合せるなんてえことは、考えられぬ」
次郎吉は、云った。
「ふうん! このことを、左門の殿様に、早くきかせてえ」
≪どぶ≫は、なんとなく、ほくそ笑んだ。
「ところで、もうひとつ、あんたにきかせておかねばならぬことがある」
次郎吉は、云った。
「きかせてもらおう」
≪どぶ≫は、もう酒を飲むのも、止めていた。
「土井家の四人のお子衆のことさ」
「それだ! 長男縫之助、次男万之助、三男真之助。一人娘の菊姫はさておき、三人とも、息子たちは、出来がわるいらしいな」
「うむ、その通りだな。……わしは、土井家には、二年前から、幾度も忍び込んでいるので、だいたい、その出来加減がわかっている。……長男の縫之助は、文字通りの長男の甚六《じんろく》だ。頭もわるいし、武芸の才もなければ、書物もひらいたことがない。どうやら、浅草奥山の見世物芸人の娘に、夢中になっている模様だね」
「見世物芸人?」
「そうだ。どの見世物小屋かは知れんが、せっせと、かよって居るらしい。家来をつかまえて、さかんに、剣道場にかようよりは、軽業師や手妻師に習った方が、役に立つぞ、などと途方もないことを云っているのを、きいた。大名旗本の子弟で、奥山の手裏剣《しゅりけん》打ちの娘の業《わざ》に、敵《かな》う者は一人も居らぬだろう、などとな」
「ふん、埒《らち》もねえ。次男の万之助は、どうだ?」
「これは、もう、博奕《ばくち》きちがいだ、あんたと同様――」
「おれと一緒にされちゃ、たまらねえ」
「あんたも、どこかの賭場で出会ってはいないかね。鉄火な姐御《あねご》にたぶらかされて、大名屋敷の奉公部屋の賭場を、夜な夜なわたりあるいているようだよ」
「面を見りゃ、すぐ、あれかと判るだろうな」
「博奕好きだけあって、度胸はあるらしい。剣術の方も、多少はやっているのじゃないかね」
「ふん、一人ぐれえは、ヤア、トウを習っていてもいいだろう」
「さて、三男の真之助という十八歳の若者だが、これは、大層もない早熟でな。文庫にとじこもって、笑い草紙、笑い絵を、無我夢中で、読み耽《ふけ》っている。どうやら十三、四の頃から、そうらしい。そういうたぐいの本を、家来に命じて、山と集めている。読書癖も、その方面だけに集中している、というわけだ。天井裏からのぞいていても、これは珍書だ、というような本を、手に入れているのだな」
まさに、なんとも、手のつけられぬ不良兄弟というべきであった。
「あきれたものだな」
「奥方が、早く亡くなられて、但馬守は、金もうけにいそがしく、つまり、ほうりっぱなしにされて育ったおもむきさ」
「血統がよくねえんだ」
「それは、もちろんそうだろうが、まず、わしが眺めたお大名衆の子息のうち、土井家が最低ということになるな」
≪どぶ≫は、次郎吉に、なおよく調べてくれるように、たのんでおいて、土井家新邸を引き受けた職人衆にあたってみるべく、その小料理屋をとび出した。
まず、訪れたのは、上《あが》り框《がまち》に福助が坐っていて、格子戸が開くと、おじぎをする、からくり唐次の家であった。
九官鳥の「どうぞ、おあがり」という声に迎えられて、気早やに、
「あがらせてもらうぜ」
と、さっさと草履をぬいでいた。
広い仕事場へ、一歩入ってみて、そこに、先客がいるのを知って、
「へえ、ごめんなさいよ」
と、声をかけた。
先客は、娘であったが、≪どぶ≫の声に、ちらっと、ふりかえった。
とたんに、
「おっ!」
と、≪どぶ≫は、目をみはった。
それは、先日、五重の杜へ、木乃伊見物に行った時見かけた、女木乃伊の貌と、どこやら似かよっていた娘に、まぎれもなかった。
「お、お前さん――」
≪どぶ≫は、思わず、指さして、
「こないだの、木乃伊の……」
と、云いかけた。
すると、娘は、
「へんなことを云わないで下さいよ」
かなり伝法な口調で、云った。
「いや、その……、五重《いつえ》の杜《もり》で、お手討ちになった女中の、木乃伊の――」
そこまで云いかけると、娘は、さっと立って、バタバタと走って玄関へ出た。
「お、おい、待ちねえ。……ききてえことがある」
あわてて、呼びとめようとしたが、もうおそかった。
「どうなすったので?」
背後に、からくり唐次から、声をかけられて、≪どぶ≫は、
「いま出て行った娘――、どこのだれだえ?」
と、たずねた。
「さあ――?」
唐次は、首をかしげた。
「さあ、って……、客じゃねえか」
「そうですよ。はじめてのお客です」
「しまった!」
「どうなすった?」
「どうもこうもねえやな。お前さんが、知っていると思うから、にげるにまかせたんだ。知らなかったのなら、とっつかまえるんだったぜ」
「どうして、つかまえるのです?」
「五重の杜の、それ――お前さんがたが霊廟を建てる仕事を引きうけているところよ。木乃伊が出たって話を、きいているだろう?」
「きいて居りますよ」
「このあいだ、おれは、町方の旦那と見物に行ったのよ。そうしたら、女の木乃伊が出て来やがった。それも、お手討ちのあと歴然たる屍《かばね》だ。その木乃伊と、あの娘が、骨相が同じなんだ」
からくり唐次の双眼が、≪どぶ≫の話をきいた瞬間、妙に鋭く光った。
「あの娘御が、発掘場所にいたので――?」
「そうよ。……だから、おれは、ひょっとしたら、あの木乃伊の娘じゃねえか、と感ぐってもみたんだ」
「まさか――」
唐次は、笑った。
「お屋敷奉公の女中には、子供は居りませんぜ」
「出戻りが、子供を置いて、奉公に上ることもあらあ」
「親分は、なんでも、人を疑いなさるのが、つらいつとめだ」
「冗談じゃねえ。似ているものは似ている、と云っているだけだ。……それにしても、どうして、あの娘は、この家をたずねて来たのかな! からくり細工をつくってもらいに来たのか?」
「さあ、どうでしょうかね。近頃、どうも頭の変なのがいて、自分を振った男とそっくりの人形をつくってくれ、と云って来たり、お大名の奥向きから、男のしろものを、本物と寸分ちがわぬように、と命じられたり……」
「おれでも、女のしろものと全く同じやつができりゃ、無理して買うぜ」
≪どぶ≫は、さしむかって坐ると、
「さてと――、お前さんは、土井但馬守の新しい屋敷づくりに、指物師として一役買ったそうじゃねえか?」
「たしかに――」
「どういう料簡かね? 指物師なら、江戸にごまんといるが、からくり細工師は、日本中ひろしといえども、お前さんが第一人者だろう。わざわざ、指物師になることはねえだろう。それとも、新邸の道具をすべて、からくり仕掛にせよ、という注文でも受けたのか?」
「親分――」
「親分は止してくれ。くすぐったくていけねえ。≪どぶ≫と呼びすててもらっていい」
「いや、親分と呼ばせてもらいましょう。先夜、親分と、土井家のお屋敷へ忍び込んで、歩く木馬には、お目にかからなかったが、動く甲冑は、拝見しましたね」
「うむ」
「あたしは、そのからくりを、知りたくなった。指物師になって、お屋敷で仕事をしているうちに、木馬や甲冑を、とっくりと拝見し、調べる機会があるだろうと思ったのです。そのほかにも、土井家には、かなり面白い珍しいからくり細工物が、あるに相違ない、とにらんで居ります」
「しかし、あの時、お前さんは、甲冑の中を調べたぜ。なんの仕掛もねえ、と云いなすった」
「そこですよ、面白いのは――」
「てえと?」
「なんの仕掛もないとみせかけて、実は、あっとおどろくからくりになっている――というわけじゃありますまいか」
「成程な」
≪どぶ≫は、うなずいてから、
「ところで、もうひとつ、ききてえことがある」
と、唐次を見据えた。
「土井家新邸は、庭師は勿論、あの猫の島兵衛、大工の棟梁として、黒門町の小源太、かざり職として多三郎、そして指物師として、お前さん――この四人が、まずえらばれたそうだね?」
「よくご存じですね」
「ところが、この四人が、ひとつ座敷に集められたら、たちまち、歯をむき出して、犬と猿のいがみあいを、おっぱじめた、というじゃねえか。どういうわけかね?」
「あたしもふくめて、どうにも、一刻者《いっこくもの》ぞろいと来ているので、仲よくやろうというのは、むずかしいようですね」
「他人ごとのように云うが、喧嘩をやりながらの仕事じゃ、気が乗るめえ」
「なに、喧嘩をしている方が、やり甲斐がある場合もありますよ」
「ふうん、そんなものかねえ」
≪どぶ≫は、小首をかしげた。
「親分は、職人の本性というものを、よくご存じないらしい」
唐次は、薄ら笑いながら、云った。
「どういうんだい?」
「職人というものは、自分の打込む仕事に、ケチをつけられると、それが親であろうと女房であろうと、承知しないものですよ。親なら義絶するし、女房なら三|下《くだ》り半をつきつける――それほど、自信を持っているから、いい仕事ができるんじゃありませんか。それが、お互いによく判っているから、職人同士、喧嘩しながら、ちゃんと仕上げてみせるのです」
「しかし、面《つら》をつきあわせている時は、殺してやりてえぐれえ、憎みあうのじゃねえか」
「それアもう……。棟梁の小源太の小憎らしさと来たら、一言一言に、むかつきましたね。鑿《のみ》で、横っ腹をえぐってやりてえと思ったぐらいでね」
「それで、力を合せて仕事を仕上げることが、できるとは、変てこらいなものだな」
「まアみていて下さい。土井様の新屋敷は、それアもう、日本一の立派なものができあがりますよ」
その言葉をきいて、≪どぶ≫は、おもてへ出た。
――名人かたぎ、というやつかもしれねえが、なんとも物騒なうぬぼれだな。
≪どぶ≫は、その足で、黒門町の棟梁小源太をたずねた。
棟梁という概念は、五十六十の爺さんだが、小源太は、あきれるほどの若さであった。
≪どぶ≫が入った時、小源太は、おそろしい勢いで、弟子の一人をなぐりつけていた。
≪どぶ≫が、用件をきり出すと、小源太の最初のせりふが、
「なんでえ、あの庭師の島兵衛ってえ、くそ爺は――」
それであった。
「島兵衛さんが、どうかしたかね?」
「どうもこうもねえや。てめえは日本一の庭師だってえ、面《つら》つきをしてやがるが、いまのあの土井屋敷の庭は、ありゃなんでえ!」
そう云って、べっと土間へ唾を吐きすてた。
「あの庭が、気に入らんかね?」
≪どぶ≫は、わざと、にやにやしてたずねた。
「気に入るも入らねえも、ありゃ、庭じゃねえ。あんなもの、三十年もかかってつくりあげた、と自慢たらしくぬかしやがったが、ばかばかしくて、話にならねえ。松の枝をひン曲げたり、真木をまんじゅうをくっつけたみてえに刈り込んだりするのが、庭つくりだと思っていやがるんだ。わらわせやがる。あっしゃ、あの爺がやったことは、何ひとつ、気に入らねえ。木戸もつくばいも灯籠《とうろう》も、井戸も、細流れも、飛石も、たたきも、待合の化粧も――なにからなにまで、気に入らねえ。あの庭は、ちょいと歩いただけで、胸がむかむかすらあ。……そもそも、庭ってえものは、気分をよくするためにつくるものだろう。そうだろう、親分?」
「そうだな」
「それが、どうだ。歩いていればいるほど、気分がわるくなって来るんだ。あの爺の根性が、ひン曲っていやがる証拠よ」
「それほど腹を立てながら、どうして、こんどの仕事をひき受けたんだ」
「面白えじゃねえか」
「面白え?」
「そうよ。あの爺の首根っこを押えつけて、こっちの思うような庭をつくらせてやるのよ。あっしがつくる塀と茶亭に、どうでも合わさせてやるんだ。爺の一人考えは、金輪際許さねえ。これア、面白いぜ」
なんとも、当るべからざる意気であった。
≪どぶ≫は、小源太にまくしたてさせておいて、別れたが、往来へ出た時、ふっと、妙なことに気がついた。
――あいつ、どこやら、島兵衛に、貌つきが似てやがるぜ。他人の空似《そらに》か、それとも、一刻者という奴は、顔が同じになるのかな?
≪どぶ≫は、首を振った。
――実は、二十数年前に、島兵衛がすてた女房が、いつの間にか、孕《はら》んでいて、それが、小源太だった、という筋書は、とんだ因果もので、面白えんだが……。
≪どぶ≫は、こんどは、かざり職の多三郎を、たずねた。
仕事最中の多三郎は、ふりかえりもせず、
「その話なら、したくねえ」
と、こたえた。
「じゃ、お前さん、仕事を降りるのか?」
「いや、降りねえ」
「しかし、まだひどう、腹を立てている様子じゃねえか」
「腹を立てているのは、こっちの勝手だ。仕事はひき受けたからには、やる」
それだけこたえたきり、あとは、何をたずねても、返辞をしなかった。
おもてへ出た≪どぶ≫は、思わず、溜息をついた。
「職人てえ野郎の料簡は、さっぱり判らねえ」
≪どぶ≫は、いまいましさに、一杯やりたくなった。
「きちげえと紙一重だぜ、どいつもこいつも――」
江戸の春
年があらたまり、行事たくさんの正月も過ぎ、初午《はつうま》の幟《のぼり》が、梅の林間に立つ頃になると、世間はなんとなく、のんびりする。
士農工商ともに、手すきになるからである。
彼岸詣でとか、涅槃会《ねはんえ》の供養とか、野外のつみ草とか……。
市中でも、庶民たちは、なんとなくなまけて、湯屋の二階、髪結い床にとぐろをまく。
両国広小路に近い「こぶし床」も、朝から、ひまつぶしの連中が、ごろごろしていた。
暖簾《のれん》には、虎髯もものすごい「三国志」の翼徳張飛が描いてあり、襖には、名馬|赤兎馬《せきとめ》にうちまたがった関羽雲長が、その長髯《ちょうぜん》を、風になびかせている。
店の中は、顔を洗う金だらいや水甕《みずがめ》を置いた台の前で、三人の剃出《そりだ》し(弟子)が、せっせと、床几の客の顔を剃ったり、櫛《くし》を頭髪に入れている。
この時代は、頭髪を洗うことはしなかった。目のこまかな櫛で、せっせと垢《あか》をおこし、糸なわで≪ふけ≫をしぼりあげ、さらに、髪の根を爪でかいて、かゆみを取った。これは、気持のいいものであった。
そして、手拭いを頭へまきつけて、てっぺんへ水をかけ、水もれをふせぎつつ、こすりあげる。
ここまでを、初櫛といって、弟子の仕事であった。
それがおわるのを待って、煙草を吸っている親方が、やおら立ち上って来る。
まず、顔の剃りかげんをみて、弟子に、
「もっとていねいにやんな」
と、小言を云いながら、清剃りをやる。
それから、頭髪に≪びんつけ≫をつけて、さらに目のこまかい櫛で、梳《す》きなおす。
それがすむと、こんどは、荒い目の櫛で、髪をひとまとめにして、仮糸でくる。そうしてまた、はじめの櫛で梳きつつ、もとゆいで、しっかとくくって、座をつくる。
その座を、器用に、いちど前へ押しやって、ぐいとうしろへ出す。これが、まげである。銀杏《いちょう》、子まげ、丸まげ、≪なよし≫など。まげは、本田とも、≪たばね≫ともいう。
まげを見事につくるには、十年の修業が必要だ、といわれている。
ところで――。
うしろの八畳ばかりの畳敷きには、順番を待つ客やら、仕事をなまけた連中が、居ねむりしたり、草本を読んだり、役者や女郎の品さだめをやったり、将棋をさしたり、近所となりの噂話をしたり、一人こっそり、岡場所の女からもらった手紙を読んだりしているのであった。
「うふっ!」
草本を読んでいた一人が、笑って、
「うめえことをつくりやがるのう、どどいつ、ってえのは――」
「なんでえ?」
となりの男が、ふりかえった。
「人目しのんで、蛇目《じゃのめ》にかくれ、濡れぬようにと、濡れに行く――とはどうだ」
「ヘヘ……、おれも、知っているぜ。身をば蹴《け》らるるそれよりつらい、帰る足音、ひびく胸――おととい、おれを送り出しやがった相模屋の後家のうらめしそうなやつれ姿が、目にうかばあ」
「へっ、あの後家が、やつれたら、どんどろのお化けだ」
「おきやがれ。情がちがうぞ、情が――。ヘヘヘ、同じお化けでもな、来ぬと知らねば待つ夜の長さ、ろくろ首にもなる想い、ってんだ」
「てめえを送り出したあと、どういう面《つら》になっているか。つらい別れにあとふり向けば、ひとつまなこで舌を出す、というやつさ」
「この野郎、ケチつけるひまがあったら、後家でも人の嬶《かかあ》でも、くどいてみろ」
「てめえ知らねえだろう。おれア、当節流行のお犬の方さまの巫女《みこ》を、くどいているのよ。巫女ったって、人三化七の婆じゃねえや。こう、ぽっちゃりと餅肌が、白衣がよく似合う十八のおぼこよ」
「抱いたら、ワンと泣くかえ」
「ワンは、≪えげれす語≫で、一だ。二はツウで、こっちは、カアだ。へへ……そねめ、そねめ」
「なにをぬかしやがる。おぼこなんざ、抱いたって、くそ面白くもねえ。
おぼこのうちなら
面《つら》みて惚れよが
三十過ぎれば
閨《ねや》のよし悪し
後家がいいぞ、後家が――」
がやがやとさわぐ一方、こちらの片隅では、いかにも尾羽打ち枯らした浪人者が、せっせと、料紙へ筆を走らせていたが、
「できたぞ」
と、云った。
隠居が、のぞいて、
「ほう、なかなかの達文で――」
「うむ。これで、もう、十通も書いたが……さっぱり、反応がない」
それは、仕官歎願書であった。
浪人者は、それを、声をあげて読みはじめた。
「某頓首、再拝、謹《つつし》んで書を執事の左右に奉る。夫《そ》れ人の旧を思うは、情|也《なり》。理也。賢も愚も、たれか此に眷恋《けんれん》せざることを得んや。禽鳥《きんちょう》の知無きも、その帰るや、なお旧巣を尋ぬ。人にして旧を忘るは、情に非《あらざ》る也。理に非る也。深山幽谷に生れて、水石|糜鹿《びろく》と居りて遊ぶ者、一日、都会の繁昌をきき、興《た》って曰《いわ》く、なんぞ適《ゆ》かざると。その来ること数年にして、わずかに大都会の風味をなむれば、便《すなわち》ち謂《い》う、故国は陋《いや》し、丈夫の業を開き、術を弘《ひろ》め、身を出し、名を顕《あらわ》すには、これをすてて何処《いずこ》にか之《ゆ》かんと。遂に、終焉《しゅうえん》の志を定めざるも、けだし、少し。然《しか》り而《しこう》して……」
その時――。
奥の衝立《ついたて》の蔭から、騒々しさに目をさまして、起き上ったのは、≪どぶ≫であった。
大あくびをしてから、
「うるせえな」
と、云った。
≪どぶ≫は、この「こぶし床」に、昨夜酔っぱらって泊ってしまったのである。
≪どぶ≫は、暮からずっと、遊んでいた。左門に、「遊んでいるがよい」と云われて、大っぴらに、ぶらぶらしていた。
四人の職人が、かしらに立って、いよいよ、土井家の新邸と五重《いつえ》の杜《もり》の霊廟が建てられる、と≪どぶ≫が、報告に行くと、左門は、
「新邸がなるまで、異変は、起るまい」
と、独語したものであった。
「で――それまで、あっしは、どうすれば、よろしいので?」
「遊んでいるがよい」
左門は、こたえた。
「遊んでいろ、と仰言って……、よろしいんでございますかね?」
「わたしのカンでは、それまで、異変は起らぬ」
「へえ?」
「そのあいだに、お手討ち木乃伊と骨相が似ている娘でも、さがしあてて、素姓を調べておくとよかろう」
左門は、そう云っただけで、あとは沈黙した。
で――。
≪どぶ≫は、土井家の方はすてておいて、もっぱら、江戸市中を、ぶらぶら歩きまわって、例の娘を、さがした。
冬を迎え、年があらたまり、そして春が来たが、娘は、たずね当らなかった。
ただの町娘ではない、と看《み》てとったのだが、さて、どういう家に住んでいるのか、そのにおいをかぎわけることができなかったのである。
結局、今日まで、ただ、遊びくらしていたことになる。
「おい、≪どぶ≫――」
顔見知りの酒屋のおやじが、
「おめえ、もう五人も順番を抜かれているぜ。この次、やんな」
と、云った。
「おれは、やるために、ここにいたんじゃねえ」
「だってよう、頭はぼうぼう、面は無精髯《ぶしょうひげ》だらけじゃねえか」
「うっちゃっといてくれ。これが、このよれよれの素袷《すあわせ》には、似合っているだろう。業平《なりひら》なら、三日明けずに、やらあ」
「なに、どうして――おめえ、味のある顔だあな。頤《おとがい》がこう張っているところなんざ」
「この将棋の駒の角にそっくり」
と、将棋をさしている若い衆が、半畳入れた。
「角なりはつるも、身の因果」
「十手ならぬ香車《やり》を、こう、ピタリと鼻っ先へ、突きつけて、どうだ?」
「おい、こりゃ、いけねえ、一手、待て」
「一手も十手も、くそもあるもんけえ。さあ、参ったか」
「待てといったら、待て。……昨夜はおめえ、深川の櫓《やぐら》下で、おめえが女の部屋から、出て来るのを、半刻も待ってやったじゃねえかよ」
「うるせえや。ありゃ、おれの、おごりだったんだぞ」
≪どぶ≫は、また、大あくびしてから、
「おう――、おめえら、岡っ引を≪こけ≫にしてやがるところをみると、御世泰平で、面白え話もねえらしいな」
と、云った。
「ないねえ。向う両国のならび茶屋のおつたが、駆落ちしたぐれえのものだろうぜ」
「おめえの妹が、吉原の女郎になったのは、さっぱり噂にならなかったのう。あの鼻ぺちゃじゃ、家にいても、懸想《けそう》してくれる男がいねえからの」
「おきやがれ。知っているんだぞ。てめえの嬶《かかあ》が、間男をしているのを――。知らぬふりをしていてやったから、噂にゃならなかったんだ」
「へっ。間男しているか、していねえか、亭主のおれが、一番よく知ってら。おれに、毎晩、可愛がられているのに、どうして、ほかの男をくわえ込む余地があるけえ」
「あわれやな、知らぬは亭主ばかりなり」
「じゃ、云ってみろ。男はどこのどいつだ?」
「なにをかくそう、このおれだあ」
「へっ――。おれの嬶が、あまり器量よしなものだから、てめえ、夜な夜な、妄想をたくましくしやがって、≪へんずり≫をかいてやがる。……一分も出しゃ、貸してやらあ」
がやがやわや、とさわぎたてるのに、≪どぶ≫は、三度目の大あくびをして、腰をあげかけた。
その時、
「ある! もっぱらの評判が、ひとつだけ、ある!」
叫んだ者がいた。
「なんでえ、そりゃ!」
「奥山の手妻《てづま》小屋の、玉乗りお玉が、三万石のお大名の総領息子の情婦《いろ》になっている、というもっぱらの評判だぞ」
それをきいて、≪どぶ≫の小さな目が光った。
「おい、その三万石てえのは、なんという大名だい?」
「さあ、そこまでは……。道楽息子も、てめえの家が判っちゃ、恥になることぐれえ知っているんだろうぜ。お留守居が、小屋へのり込んで来て、ああ、おなさけなや若君様、と泪《なみだ》をこぼして諫《いさ》めていたというから、まちげえねえらしい」
≪どぶ≫は、「こぶし床」を出ると、急ぎ足に、浅草へ向った。
――縫之助に相違ねえ。
≪どぶ≫は、直感した。
縫之助が、どんな娘芸人にうつつをぬかしているのか、べつに興味もないままに、すてておいたのだが、急に調べてみる気になったのは、≪どぶ≫独特のカンが働いたからであったろう。
――ひとつ、縫之助をつかまえて、あのお手討ち木乃伊の素姓をきいてみる、という手もある。
≪どぶ≫は、考えた。
木乃伊と、土井家の怪異は、べつになんの関連もないかのようである。
しかし、青山長者ヶ丸の祈祷所の巫女が、木乃伊の崇り、と云うのをきいたとたん、≪どぶ≫は、ピンと来たのである。
浅草は、江戸随一の繁華境である。
一年中、参詣人の行列が絶えたことがない。一日に、雷神門をくぐる人数は、三万といわれている。
十二の末寺が東西にならび、その廂下に、雑多な店が、櫛の歯のようにならんでいた。珠数、太鼓、仮面、錦絵、餅、銘茶……。
ならび茶屋がつづき、それがきれたところに濡れ仏が安置されている。濡れ仏のとなりの石像が、久米平内。
二王門の宏麗が、雷神門とあい映《は》え、広い境内の≪かなめ≫になっていた。
境内には、絵馬堂、浄水所、輪堂、五重塔、神厩、山王祠などが、それぞれ、参詣人を招き寄せ、その参詣人に、物売りがより添うて、あやしげな土産物を、しつっこく売りつける。
一寸八分の観音勢至を安置する本堂は、焼けるたびに、巨大になり、五彩の帷《とばり》の奥の荘厳さが、賽銭《さいせん》をはずませる。
線香の煙りと賽銭を投げる音が、夜明けから、日の暮れるまで、絶えることはないのであった。
本堂の左が、鐘楼と随身門、右が、淡島神社の三社十社の両殿、念仏堂、涅槃堂、その他――。
奥山というのは、淡島神社の奥の一帯を総称する。
矢場が、最も多い。手妻、軽業、曲芸、居合、小人、蛇娘、生人形、籠細工《かございく》、貝細工、猿芝居、ろくろ首、餅の曲|搗《つ》き、オランダ一流水からくり、女角力、ビイドロ細工……ありとあらゆる見世物が、ここには集っていた。
「おや、親分、おめずらしい」
皺だらけの顔へ、まっ白に塗りたくって、緋の長襦袢一枚で、生人形の呼び込みをやっている婆さんが、声をかけた。
むかしは、≪すり≫であったという。遠島から赦免になって帰って来て、この奥山で、あちらの見世物、こちらの小屋に、臨時にやとわれて、呼び込みをやっている。
「へえ、今日はやけに、若がえってやがるな」
≪どぶ≫は、うす気味わるそうに、眺めた。
「ほほほ……、奥山ずまいに過ぎたる姿、誰が手折るかこのつつじ、ってね。これでまだ、男にくどかれたくって、赤いものをまとって居ります」
「婆さん、手裏剣打ちで玉乗りの、お玉という娘の出ているのは、どの小屋だい?」
「おや、お玉ちゃんに、親分も惚れたのかえ。ほんに、あの水際立った器量は、あたしの二十前とそっくりだねえ」
「はやく、教えろ」
「ほら、あそこさ。松井源水が独楽《こま》をまわしているむこう――」
「よし、わかった」
≪どぶ≫が歩き出すと、婆さんは、
「親分、当ったって、むだ骨だよ。お玉ちゃんには、三万石の若殿様が、ついているんだよ」
「その若殿に用があるんだ」
≪どぶ≫は、なげかえした。
その小屋の裏手へまわり、垂《た》れむしろをはねて、一歩入った≪どぶ≫は、股火鉢をしている爺さんに、十手をチラと見せて、
「お玉に会いてえんだが――」
と、云った。
「へえ。お玉は馬道のご別宅の方へ行って居りやす」
「ご別宅?」
≪どぶ≫が、眉宇をひそめると、爺さんは、
「へへへ……」
と、いやしい笑いかたをした。
「そうか、三万石の大名の若殿様のお住居かい」
「へい。そうなんで――」
あの土井家上屋敷は、とり毀《こわ》されたために、当主但馬守は、中屋敷に移っているが、その子たちは、それぞれ、分散して、住んでいるときいた。
縫之助、万之助は、一戸を構え、菊姫は箱根へ湯治に行き、三男真之助は親戚の屋敷へ身を寄せた、という。
縫之助は、その別宅を、この奥山に隣接した馬道に構えたのだ。
「どのあたりだ?」
「門前ばらいをくらいますぜ」
「いいから、教えろ」
≪どぶ≫は、小屋を出ると、その別宅へ向った。
――おれの親分は、ぶらぶら遊んでいろ、と云ったが、遊んじゃいられなかったんだ。
なんとなく、うしろからせきたてられるような気分は、これまでの経験では、なにか手がかりをつかむ直前に起るものなのであった。
――おあつらえ向きに、別宅ずまいをしてくれていた、ということになるぜ。
その家は、馬道の広い往還に面してはいたが、門も庭もない≪しもたや≫であった。
「野暮な屋敷の大小すてて、腰も身軽な町ずまい、ってえやつだ。しかし、こんな町ぐらしが、お上に知れりゃ、これだけで、廃嫡処分だ」
≪どぶ≫は、つぶやきながら、格子戸をがらっと開けた。
「ごめんよ」
応じて出て来たのは、装《なり》こそかえているが、一見して大名屋敷の老女であった。
目の光らせかたと物腰で、はっきりと、それと判った。
≪どぶ≫は、とっさに、
「土井様の若殿様に、お目にかからせて頂きとう存じます」
と、云った。
「そ、そのような御仁は……」
老女は、狼狽を示した。
「存じ上げているのでございます、てまえは――」
≪どぶ≫は、そう云って、にやっとしてみせた。
「どのような御用向きで――?」
「お目にかかって、申し上げます。へい、どうぞ、お取次ぎを――。てまえ、動く甲冑《かっちゅう》を知っている男、と申し上げて下さいまし」
奥へ入った老女は、やがて出て来ると、きわめてうさんくさげな面持をつくりながら、
「どうぞ、お上りなされ」
と、云った。
「ごめん蒙《こうむ》ります」
≪どぶ≫が、上った時、格子戸が開けられ、
「ただいま」
きれいな声音がひびいた。
――お玉だな。
≪どぶ≫は、振りかえった――瞬間、あっ、となった。
ぬか袋を口から携げた湯上りの艶な立姿は、思わず、見惚れるほどの美しさであったが、≪どぶ≫をおどろかせたのは、その美しさではなかった。
お手討ち木乃伊と骨相の似かよった――その娘だったのである。
からくり唐次の家で、出会っているので、見まちがえるはずもなかった。
お玉の方も、≪どぶ≫を見出して、大きく目をみはって、息をのんだ。
「お玉さん、というのは、お前さんのことか!」
≪どぶ≫は、じっと見据えた。
「…………」
お玉は、こんどは、逃げ出そうとせず、つんとして、上って来ると、すす……と奥へ入ろうとした。
「おっと、お玉さん、お前さんにも、あとでききてえことがある。姿をくらまさないでもらいてえ」
≪どぶ≫が、云うと、お玉は、頭をまわして、冷たい眸子《ひとみ》をかえした。
≪どぶ≫は、十手を示しておいて、にやっとしてみせた。
お玉は、奥へ消えた。
「ごめん下さいまし」
≪どぶ≫は、襖を開けた。
縫之助は、畳の上へひっくりかえって、小猫を腹にのせていた。
――同じ寝姿でも、おれの親分とは、雲泥の相違だ。だらしがなさすぎるのだ。
≪どぶ≫が坐っても、縫之助は、一瞥もくれようとせず、小猫をからかっていたが、それがすぎて、手の甲に爪をたてられた。
「あっ、痛っ!」
悲鳴をあげて、はね起るや、小猫を、縁側へぶんなげた。
それから、やっと、≪どぶ≫を見た。
「甲冑が動くのを知っている、と申したな。どうして、知って居る?」
縫之助は、妹の菊姫が白蛇に襲われた時、≪どぶ≫には会っているのだが、忘れている様子であった。
「島兵衛さんと懇意にして頂いて居りますんで、へい」
「島兵衛が、しゃべったと申すのか。島兵衛は、口のかたい爺だが――」
縫之助は、ちょっと、不審な表情になったが、
「それで、用向きはなんだ?」
「妙なことを、おうかがいいたしとうございます」
縫之助は、小猫にひっかかれた手の甲を、舌でなめてから、
「はよう申せ」
と、せかした。
「申し上げます。……てまえは、五重《いつえ》の杜《もり》で発掘された木乃伊の中に、お女中を、しかも、お手討ちになったお女中を、拝見いたしました」
「それが、どうかしたのか?」
「ところで、昨年秋に、お殿様は、青山長者ヶ丸のお犬の方さま祈祷所へお出ましなさいました。その時、巫女が、祈祷の挙句、口走りましたのは、土井家には木乃伊の崇りがある、と――」
「ふうん」
「若殿様には、思い当ることはございませんか?」
「知らん――」
縫之助は、にべもなく、かぶりを振った。
「そのむかし――二、三十年前に、お手討ちになったお女中のことは?」
「知らんぞ。わしが生れない頃のことを、知る道理があるまい。……それより、島兵衛は、あの甲冑には、からくり仕掛などしてなかった、と申して居ったが、お前には、なんと申していたか?」
「へえ。……なんとなく、崇りを信じたい、という口ぶりでございました」
「木乃伊の崇りなどと、ばかくさい。父上までが、おそれられて居るのが、腹が立つ。……といっても、もうあの上屋敷には、わしも住む気がせぬ。とりこわしたおかげで、わしは、こうして、のんびりと町ぐらしができる、というものだ」
「若殿様――」
「なんだ?」
「貴方様が可愛がっておいでのお玉でございますがね……」
と云いかけた時、襖が開けられ、そのお玉が入って来た。
「若様、そろそろ三味線の稽古のお時刻でござんすよ」
――じゃまをしやがった。
≪どぶ≫は、どうせ、お玉が割り込んで来るであろうことは、予想していた。
「おお、そうだ。……町人、お前は、もう帰ってよいぞ」
縫之助は、立ち上った。
「へえ――」
≪どぶ≫は、お玉へ一瞥をくれておいて、
「いずれまた、お目にかからせて頂きとう存じます」
と、頭を下げた。
≪どぶ≫が、おもてへ出るやいなや、格子戸の隙間から、ぱっと、塩がふりまかれた。
――いずれ、しょっぱい思いをしやがるのは、そっちの方だぜ。
≪どぶ≫は、胸のうちで、つぶやきすてて、歩き出した。
――あの娘が、縫之助の情婦だったとは、これは、とんだ辻占《つじうら》だったぜ。
≪どぶ≫は、一種のよろこびに似たものをおぼえていた。
「きさらぎの空うららかにして、雪とけの、草みどりの色を発し――梅は咲いたか、桜はまだかいな」
口から出まかせを、つぶやきながら、町小路邸の裏門をくぐった≪どぶ≫は、そこで、洗濯物を干している小夜を見出して、
「お小夜さん、いい日和《ひより》だぜ。亀井戸の臥竜梅《がりゅうばい》でも、見物に行っちゃどうだい?」
「つれて行って下さる人が居りません」
小夜は、ちょっと不機嫌な面持でこたえた。
「そうだな。用人の爺様に杖を曳かせたんじゃ、とんだ親孝行に見られて、あじけねえし、と申して、この≪どぶ≫じゃ、釣合がとれねえな。……いっそ、殿様をくどいちゃ、どうだい?」
「殿様は、ご不在です」
「へえ、そりゃ珍しいな。何処へ?」
「わかりません」
「いつから?」
「四日前からです」
「それで、お小夜さんのご機嫌ななめか。……それにしても、どこへ行ったんだろうな?」
「親分も、心あたりはありませんか?」
「ねえな。……出かける時は、お小夜さんに、何処へ参る、とちゃんと云いおくのじゃねえのかい?」
「いいえ、いつも駕籠を、と一言だけ仰言って……。でも、こんなに三日も四日も他出したままお戻りにならないことは、ありません」
「心配で、心配で――いよいよ、自分が、殿様に惚れていることが、はっきり判った、ってわけだ」
「冗談ごとではありません。ほんとに、心配しているんです」
「お小夜さん。天下の名与力、旗本随一の智慧者、町小路左門だぜ。ただのめくらが行方知れずになったのとは、わけがちがう。……今日にも、≪べっこう≫の櫛《くし》でも土産に、ふらりと、ご帰還だ」
≪どぶ≫は、宿酔いでいささか、ふらふらしていたので、小夜に、茶漬をたのんだ。
三杯目をかきこんでいる時、老用人が顔をのぞけて、
「小夜殿、殿のおかえりじゃ」
と、告げた。
小夜の顔が、ぱっとかがやいた。
「ヘヘ……、ぬがす草鞋のひもよりさきに、胸のとけゆく旅もどり、というやつさ」
≪どぶ≫にからかわれながら、小夜は、いそいそと、お茶を持って行った。
しばらくして、≪どぶ≫が、挨拶に行くと、左門は、机の上へ、妙なものを、置いていた。
「なんでございます、それ?」
≪どぶ≫は、首をのばした。
円形の硝子函《ガラスばこ》の中で、きれいな金の玉が、ゆっくりとまわっている。
「時計だ」
「へえ?」
「半刻毎に、音楽をかなでる」
左門が、そう云った時、すずやかな音が鳴りはじめた。
「珍しいものでございますね」
≪どぶ≫は、なにかの調べらしい音をききおわって、云った。
「いぎりす製という」
「この時計を手に入れに、お出かけなさいましたので?」
「いや、これは、どうやら、賄賂《わいろ》らしい」
「賄賂? 殿様に≪まいない≫を使う奴が居りますので?」
「わたしは、ただ、ちょっと、話をききに行っただけであったが、警戒されたようだ……。大坂の松田屋、知って居るであろう」
「へえ、きいて居ります。鴻池《こうのいけ》や平野屋を押えて、大層なもうけかたをして居る近江商人でございましょう」
「神奈川台に、豪壮な別宅を構えた、ときいたので、そこへ出かけて行って、三日間、馳走になって来た。帰りぎわに、これを、土産にくれた」
「どうして、松田屋なんぞを、たずねてお行きなさいましたので?」
「金というものは、どういう方法で、大もうけをするものか、ききに行ったのだ」
「どんな方法か、申しましたか?」
「松田屋の口からきいたかぎりの仕事では、五万両ともうからぬ」
「へえ――」
「ところが、松田屋は、この二十年ばかりの間に、すくなくとも、三十万両はもうけている。……抜荷だな」
「あ――そうなんで!」
「その黒幕が、土井但馬守光貞であったようだ」
「おっ! それで!」
「松田屋は、しっぽをつかませぬ男であったが、盲人用に、この置時計をくれたのが、失敗であったようだ」
「と申しますと?」
「江戸城|帝鑑間《ていかんのま》に、但馬守が献上したいぎりす製の置時計が、据えてある。これと同じ調べで、時刻を告げる」
「なある!」
≪どぶ≫は、膝を打った。
「松田屋が江戸をさけて、神奈川台に別宅をもうけたのも、倉の中に珍奇の品をかくしておくためであろう。あるいは、土井家の財産を預っているのかも知れぬ。……叩けば、ほこりが、舞い立ちそうなにおいがした」
左門が、四日間留守にしたのは、土井但馬守の豊かさの原因をさぐるためであったのだ。
「お前は、どうだな? そろそろ、遊びつかれたか」
「へえ、だんだん、五体が≪やわ≫になって参りました」
≪どぶ≫は、但馬守長男縫之助が、つれ込んでいる女芸人お玉が、実は、五重の杜で見かけた、お手討ち女中の木乃伊と骨相の似かよった娘であった偶然を、報告した。
左門はそれをきくと、珍しく興味を示して、
「お前は、そのお玉とやらの芸を見て来たか?」
と、たずねた。
「へい、見とどけて参りやした」
十一
「お玉の芸は、そりゃ、ちょいとしたものでございましてね。玉乗り、綱渡りは申すに及ばず、手裏剣打ちは、自分と同じ年頃の娘を、戸板の前に立たせておいて、二間はなれて、耳朶《じだ》へ紙一重で打ち込んでみせます。あっしが見たのは、それだけでございますが、そのほかに、蛇まで使ってみせるそうでございます」
「蛇をか」
「なんでも、十数匹を、からだ中にまきつける由でございます」
「その蛇は、白蛇ではないのかな」
「え――?」
≪どぶ≫は、左門に、そう云われて、はっとなった。
菊姫を襲った白蛇のことが、連想されたのである。
「うっかりして居りやした。白蛇かどうか、ききのがしましたが……、きっと、白蛇にちげえねえ!」
≪どぶ≫は、云ったものの、菊姫を襲った白蛇が、お玉の使っているやつかどうか、これは、つきとめなければ、なんとも云えぬことであった。
もし、あれが、お玉の白蛇であったとしたら、どういうこんたんで、そうしたのか、このこともまた、つきとめなければならぬ。
ともあれ――。
縫之助の情婦が、お玉であったことは、これは、どうも偶然ではないように思われてならぬ。
「殿様。あっしは、そろそろ、遊びを返上いたしとうございます。どうか、お命じになって下さいまし」
「土井家の新邸披露は、今月末あたりであろうか」
「あっしが、このあいだ、からくり唐次に、あたってみたところじゃ、そうらしゅうございます」
左門は、そこで、しばらく沈黙をまもった。
≪どぶ≫は、神妙に、かしこまっている。
左門が、口をひらいた。
「新邸披露の際に、何かが起る、と思われる」
「へえ?」
「どんなことが、起るか、それは、わたしにも、予想はできぬ。……しかし、起るであろうな」
「あっしが、もぐり込んで、見とどけやす」
「≪どぶ≫――」
「へい」
「何かが起っても、お前は、手出しをするな」
「いけませんか?」
「ただ、見とどけておくだけだ。その方がよい」
――どうやら、殿様の心の中じゃ、およその見当がついているに相違ない。
≪どぶ≫は、思った。
これから起る何か――奇妙な出来事を、その内容は予想がつかぬとしても、左門は、口にした。
これは、鋭い直感力といわねばならぬ。
≪どぶ≫は、こういう左門に、一も二もなく、頭を下げざるを得ない。
人間蒸発
渋谷宮益町にある土井但馬守光貞の下屋敷が、よそおいあらたに披露されたのは、弥生《やよい》雛祭りの佳日であった。
当時――。
上巳雛祭りのにぎわいは、上は、江戸城大奥から、下は裏長屋のその日ぐらしの家にいたるまで、のこらず競《きそ》うた。
士農工商どの家でも、平常世話になっている目上のところへ、進物をとどけるため、往来は、その使いの武家奉公の女や商家の使いで織るようになるといっても、過言ではなかった。
武家屋敷では、花見の宴が盛大に催されたし、商家では、お得意方へ、白酒、蛤《はまぐり》、さざえなど、あるいは重箱詰めの料理を贈り、貧しい家では、向う三軒両隣りへ、煎《い》り豆のやりとりをした。
大名屋敷の奥方、姫君、そして勤め一途の女中がたは、墓参のほかに、屋敷外へ出たこともないために、この雛祭りの桜狩りは、一年最大の愉しみであった。
この日は、大名屋敷へ、諸芸人を招くことも黙認されていたので、夜明けから日暮れまで、歌舞の声、三弦太鼓笛の音が、絶えることはなかった。
この日を、新装披露にえらんだのであるから、土井邸のにぎわいは、いちだんとはなやかであった。
≪どぶ≫が、べつに変装せずに、のこのこ入り込んでも、見|咎《とが》められるおそれは、さらになかった。
建物の中、庭園上、武家と町人、老若男女が入りみだれて、にぎわった。
書院には、老中も若年寄も坐っていたし、庭園をそぞろ歩く武家の婦人がたの中には、十万石、百万石の大名の奥方や姫君も、交っていた。
≪どぶ≫は、屋敷内をひと巡りしたところで、からくり唐次と出会った。
「まったく豪勢な景色だぜ」
≪どぶ≫が、云うと、唐次は、妙にむっつりした表情で、うなずいただけであった。
「この庭園は、あの上屋敷の庭とは、まるっきりちがっていらあ。どこを見まわしても、ケチのつけようがねえ。松の枝ぶり、石の置きかた、苑路の草のさまざま、小石ひとつまでが吟味されていて、どうして、同じ人間が、つくったとは思われねえ」
≪どぶ≫は、わざと、最大の讃辞を呈した。
「島兵衛さんは、わしらに、文句を云わせまいと、けんめいになったようですよ」
「お前さんは、ほめねえのかね?」
≪どぶ≫は、問うた。
「腕を誇る庭師なら、これぐらいの庭をつくるのは、あたりまえじゃありませんかね」
唐次は、やはり、島兵衛に対して、好感を抱いてはいないようであった。
仕上げるまでの半年間、島兵衛、小源太、唐次、多三郎の四人が、いかに反目し、罵《ののし》りあいつつ、お互いの腕を競うたか、目に見えるようであった。
「建物の中へ、案内できぬので、わしの仕事ぶりが見てもらえぬのは、ざんねんですよ」
「お前さんが、最も力こぶを入れたのは、やっぱり、書院かね?」
≪どぶ≫は、たずねてみた。
「いや――」
唐次は、かぶりを振った。
「わしが、心をこめて作ったのは、あの松林の中にある建物ですよ」
唐次は、指さした。
「ああ、あれは、さっき、おれも見たが、妙な建物だな。庫《くら》とも隠居所とも、なんとも見当がつかねえようなしろものじゃねえか」
「三男真之助様の住居ですがね、書庫を兼ねているのです」
「ふうん。書庫ってえと、野郎どもが、随喜《ずいき》の涙を流す、例の草紙やら絵やらを、積んでおく――?」
「そうですよ。わしは指物《さしもの》の都合上、拝見させて頂きましたが、それアもう大変なものです。日本中から集めた、という盛観ですよ」
そういう建物に、最も腕をふるい、精魂こめたとは、やはり、からくりの異名をとるだけあって、唐次は、相当のひねくれ者とわかる。
「そいじゃ、また――」
唐次がはなれて行くと、≪どぶ≫は、なんとなく、その艶笑庫に向って、近づいた。
その時、近くの寺院から、正午を告げる梵鐘の音がひびくのを、≪どぶ≫は、耳にのこした。
松林に入ろうとして、≪どぶ≫は、脇道から姿をあらわした人影をみとめた。
まだ十六、七の、前髪をつけているのがふさわしいような稚《おさな》さをとどめた貌《かお》であった。本を、二、三冊、小脇にかかえている。
――真之助だな。
≪どぶ≫は、立ちどまって、見送った。
いかにも、書物に――しかも、人に見せられぬような淫靡《いんび》な書物に、淫しているだけあって、若者らしいはつらつとした生気はどこにもなく、顔色は蒼白く、肩のあたりに、湿った陰気さがただようていた。
錆朱《さびしゅ》の色を浮かせた壁にかこまれた建物は、土|廂《びさし》をふかく突き出し、門にあたるところが、乳鋲《ちびょう》を打った厚い扉になっている。
その前へ近づいた真之助が、錠前をはずす音を、ここまで、ひびかせた。
わが秘密の城には、誰人も入れぬように、厳重に鍵をかけているのだ。
――ひとつ、そっと、あとから忍び込んで、歌麿、北斎の真筆などを、無断拝見に及んでやろうか。
≪どぶ≫は、ふっと、その気になった。
その時、うしろから、
「おう――≪どぶ≫の親分じゃねえか」
声をかけて来た者があった。
振りかえると、棟梁の小源太が、にやにやして、立っていた。
「ああ、棟梁かい。おれは、棟上《むねあ》げするまでに、お前さんが、庭師の島兵衛さんをなぐり殺すのじゃねえか、とおそれていたぜ」
「なぐり殺してえことは、十ぺんぐれえあったかな。爺さん、あっしの威勢におそれをなしたか、こっちの注文通りの露地をつくってくれたので、三途《さんず》の川を渡らずに、すんだんだ。あっしの自慢は、むこうの茶亭さ。ひとつ、見てくれ」
≪どぶ≫は、茶亭など、さっぱり興味はなかった。
「おれみてえな、茶の湯なんぞ見たこともねえ野暮天が、茶亭の良し悪《あ》しが、わかろう道理がねえ」
「まあ、そう云わねえで……。いま、茶亭には、どこかのお大名のお姫様が三人、坐っているんだ。目の栄養になるぜ」
「目の毒になるだけだ」
「≪どぶ≫親分は、相当な助平ときいたがね」
「手のとどく花なら、折るのにためらうものじゃねえが、高嶺の花は、見るだけ、目の毒よ。分を知っているんだ、分を――」
「そうかい。……そう遠慮されたんじゃ、しいてはすすめねえや。気が変ったら茶亭をのぞいてみな」
小源太は、足早やに、遠ざかって行った。
――へん! いまんところ、生きている娘の盛装姿よりは、歌麿、北斎が描くところの女の裾をおっぴろげた百態が、拝見してえのよ。
≪どぶ≫は、胸の中で、云いすてておいて、松林の中へ、入って行った。
その建物の前へ近づいてみて、≪どぶ≫は、
――おや?
と、目を疑った。
扉の錠前が、おもてから、がっちりと、かかっているではないか。
――はてね?
≪どぶ≫は、念のために、錠前へ手をかけてみた。
たしかに、かかっている。
真之助は、これをはずして、内へ入った。
≪どぶ≫が、小源太と話を交しているあいだに、真之助は、出て来た気配はなかった。
≪どぶ≫は、小源太としゃべっている間、べつに、こちらを眺めていたわけではないが、錠前をはずす音が、あれほど高く、ここまでひびいたからには、また、かける音も、ひびかないはずはないのだ。
――どういうんだい、これア?
≪どぶ≫は、あっけにとられた。
――出て行く時は、幽霊みてえに、音をたてなかった、というのか?
≪どぶ≫としては、小源太と話していても、真之助が出て来たのであれば、視野の片隅に、確実に、とらえたはずである。
――わからねえ!
狐につままれたような気分であった。
そこから、ひきかえしながら、≪どぶ≫は、左門の予言を思い出した。
――新邸披露当日に、何か、異変が起る、と仰言っていたが、もしかすれば、これかも知れねえ。真之助が入ったあと、おもてから、錠前がかかっていた。奇妙なことだが、大したことではない、と思われる。しかし、実は、これが大変なことかも知れねえのだぞ!
≪どぶ≫は、自分に云いきかせた。
午後になり、招かれた客が、しだいに、辞去して行き、庭園上にも、人影がまばらになって来た。
≪どぶ≫は、真之助の消えたことが気がかりなままに、屋敷内をあちらこちら、ぶらぶらしつづけた。
陽がすっかりかげった時刻――。
≪どぶ≫は、偶然、今日の招待客の中に、町方同心の小松九郎兵衛がいるのを、見つけた。
「旦那がおいでとは、すこしも気がつかなかったもので……」
と、挨拶した。
「こっちは、気がついていたが、知らぬふりをして居った」
九郎兵衛は、笑って、
「なにか、起りそうかな?」
と、きいた。
「それが……、もう、とっくに、起っているのかも知れませんぜ」
「起っている、とは?」
≪どぶ≫は、真之助が、自分の城へ消えて、出て来た気配もないのに、表扉に錠前がかけられていたことを、告げた。
「そうか」
九郎兵衛は、うなずいて、
「ひとつ、ひと騒ぎさせるかな」
と、つぶやいた。
それから――。
現代の時間でかぞえて、ものの十分も経たないうちに、土井家の家臣たちが、大声で、
「真之助様っ!」
と呼びたてて、さがしまわりはじめた。
実は、但馬守は、長男縫之助、次男万之助を、あまり好まず、三男真之助だけを、溺愛していたのである。
そのために、真之助の願いを入れて、大層立派な艶笑庫《えんしょうぐら》を建ててやったのである。
家臣たちが、さがしまわりはじめた頃、≪どぶ≫は、松林の中にひそんでいた。
側用人毛谷三郎次が、指物師・唐次、かざり職・多三郎の二人を連れて、急ぎ足に、その艶笑庫へ、近づいて来た。
「なるほどの。錠前がおろしてある。……が、念のために、中に入ってみよう」
毛谷三郎次が、小首をかしげつつ、多三郎に、合鍵で、はずすように命じた。
扉は、開かれた。
三人は、庫の中へ入って行った。
それを見送りつつ、≪どぶ≫は、
――たぶん、中にこもっているに相違ねえ。
そう思った。
つまり――。
≪どぶ≫は、自分が小源太と話しているあいだに、誰かが来て、はずれた錠前を、そっと、かけて去ったのだ、という結論を出していた。
それ以外の考え様はなかったからである。
ところが――。
庫の中で、真之助を呼んでいた三人は、やがて、出て来た。
姿は、見当らなかったのである。
――ふうん! するってえと、真之助は、おれが気がつかぬうちに、出て来たのか?
≪どぶ≫は、自分の結論を、また、ひっくりかえされた。
毛谷三郎次は、
「どこへ、参られたのであろうの」
しきりに、首をひねりつつ、≪どぶ≫の前を通りすぎた。
松林の中の一方の脇道を、ゆっくりとした足どりで島兵衛がやって来たのは、その時であった。
その姿をみとめて、側用人が、
「島兵衛――」
と、呼んだ。
「へい」
「お前は、真之助様のお姿を、見かけなかったか?」
「御用人様、それが……どうも――」
思い当るようなそぶりを示す島兵衛に、毛谷三郎次は、
「見かけたと申すか?」
「はい、ちょうど、正午……、裏門から出てお行きなされたのが、たしか、真之助様のお姿、とお見かけいたしましたが――」
「真之助様が、おもてヘ? ……門番は、そんなことは申して居らぬぞ。真之助様から、口止めされたとも思えぬ。第一、真之助様は、これまで、お一人で、外出をなされたことはない」
「てまえは、たしかに、あれは、真之助様だった、と思いましたが……」
「妙だな。よし、もう一度、門番に、ただしてみよう」
側用人が、遠ざかるのを、見送っておいて、島兵衛は、歩き出そうとした。
その行手を、≪どぶ≫が、ちょいと、ふさいだ。
「親方、真之助様が、裏門から出て行くのを、本当に見たのかね?」
「ああ、お見かけしたよ」
「正午だ、と云ったな」
「そうだ、お寺の鐘が、鳴っていたからのう」
「その鐘の鳴りおわらぬうちだったか?」
じっと見据える≪どぶ≫の視線を、島兵衛は、眉宇をひそめて、受けとめた。
「岡っ引は、大名屋敷内の出来事には、やたらに、首を突っ込まねえものだ」
「鐘が鳴りおわらぬうちだったかどうか、きいているんだ」
≪どぶ≫は、語気を鋭いものにした。
「そうだよ、鐘が鳴りおわらぬうちだ。だから、わしは、はっきりと、おぼえている」
「妙だぜ」
≪どぶ≫は、にやっとした。
「なにが、妙なんだ?」
「鐘がちょうど鳴りおわった時、真之助様は、自分の庫の表扉の錠前をはずして、中へ入って行きなすったぜ」
「…………」
「これは、どういうことかね? 同じ人間が、裏門から出て行ったり、庫に入ったりしたってえのは――」
「…………」
「おかしいじゃねえか」
「そうだな。どっちかが、見まちがえたのだろうよ」
島兵衛は、こたえた。
「そうだ、どっちかが、見まちがえたんだ。どっちが、見まちげえたか――それが、問題だぜ」
≪どぶ≫は皮肉な云いかたをした。
十日が過ぎた。
町小路左門は、≪どぶ≫がやって来るや、
「真之助の行方は不明のままだな」
と、云いあてた。
土井家新邸披露の模様は、小松九郎兵衛から、すでに、くわしくきいていた。
「へい、全くもって――」
「それで――?」
左門は、うながした。
「あっしは、どうも、島兵衛がくせえ、とからくり唐次に、云ってやりました。あの爺さんは、一徹なところがあって、きらいじゃなかったが、あんまり見えすいた嘘を吐きやがったのが、気に食わねえ、と云ってやりますと、唐次は、腕を組んで、しばらく、考えて居りましたが、二、三日、待ってくれ、となにやら、肚《はら》をきめた様子でございました」
「待ってやってから、どうした?」
「あっしが、唐次の家をたずねて行きますと、一緒に行ってくれ、と申して、家を出ましてね」
唐次が、≪どぶ≫をともなったのは、室町二丁目にある、絵草紙屋であった。
唐次は、絵草紙屋のあるじに、歌麿の秘戯図「裸女百態」は、誰に売れた、とたずねた。
すると、あるじは、
「あれには、ほとほと、当惑いたしました。なにせ、京の御所から、てまえどもに下げ渡しになる、という噂だけで、百人ものお客様が殺到なさいましたのでね」
「その中でも、一番熱心だったのは、黒門町の棟梁の小源太じゃありませんでしたかね」
唐次は、意外なことを口にして、≪どぶ≫をおどろかせた。
「そうでございますよ。棟梁は、なにせ、職人には珍しく、歌麿、北斎、清長などの逸品を集めておいででございますからね。それアもう、熱心で、三日明けずに、まだ来ねえか、と店へおみえでございました」
棟梁の小源太が、秘戯図の蒐集家であったとは、≪どぶ≫の目をみはらせるに充分であった。
「なにせ、歌麿の裸女百態は、版になって居らぬ、日本中でたったひとつしかない肉筆でございますからね、この道の好事家にとっては、垂涎《すいぜん》の品でございます」
「で――結局、手に入れなすったのは?」
「それが、小源太棟梁ではございませんで、土井但馬守様のご三男の真之助と申される若君でございました」
「その若君が、横あいから、さらった、というわけですね?」
「はい。なにせ、さきの若年寄様の若君でございますし、お若いにもかかわらず、お集めなさっている品の見事さに、てまえも、感服いたして居りましたので……」
「小源太は、目の色変えて、怒ったのじゃありませんかね?」
「ええ、そりゃもう、まるできちがいみたいに、この店でどなりたて、あばれて、町方のお役人をお呼びしたくらいでございましたよ」
あるじの言葉に、うなずいて、唐次は、≪どぶ≫へ、目くばせしてみせた。
唐次が、このいきさつをきいたのは、島兵衛の口からであった。
唐次は、≪どぶ≫から、島兵衛がくさい、と云われて、早速、島兵衛に、ただしたのである。
すると島兵衛は、
「実は、わしは、小源太をかばったのだ」
と、こたえたのであった。
島兵衛は、小源太が、浮世絵の中の秘戯図をもっぱら集めていることを知っていた。そして、歌麿の「裸女百態」を手に入れたいと躍起《やっき》になっていたところ、土井真之助にさらわれて、心底から憎んでいる、ということも、耳に入れていたのである。
新邸工事の最中は、まるで仇敵同士のように罵《ののし》りあっていたが、そこは名人気質というやつで、島兵衛は、いつか、小源太に、ひそかな好意を持っていた。
披露の日、真之助の姿が見えなくなった時、島兵衛は、
――もしや、小源太が、「裸女百態」を手に入れたいあまりに、真之助を……?
という疑惑を抱いたのであった。
そのために、小源太をかばう気持から、つい、真之助が裏門から出て行った、と嘘をついてしまった、という次第であった。
絵草紙屋を出て、往還をひろいながら、唐次は、≪どぶ≫に云った。
「蒐集狂、といいますが、たしかに、これは、きちがいですよ。たとえ、女房子供をたたき売っても、手に入れたい、と必死になる。この気持は、わしにもよく判ります。ふつうの人は、たかが絵一枚と思われるかも知れないが、当人にすれば、それが欲しくなると、もう、寝ても覚めても、そのことだけを思いつめるものです。ほかのことは一切考えずに、一途《いちず》に、どうしてもそれを手に入れようと――妄執の鬼になってしまう。そのためには、人を一人殺しても、悔いはしない。……これは当人でなければ、判らない執念と申すものです」
「ふむ!」
≪どぶ≫は、真之助を、邸内から消したのが、小源太のしわざではあるまいか、と疑う島兵衛と唐次の意見を、まだ、なんとも、うなずきかねた。しかし、きいてみれば、一応の理がある。
棟梁として、その艶笑庫をつくった小源太である。はじめから、そのこんたんがあれば、どこかに仕掛をしておいて、真之助を殺して、死体をかくすことは、造作もない。
――そういえば、真之助が、庫に入ろうとする時、小源太が、おれをつかまえて、しきりに、茶亭を見てくれ、とさそっていたな。あの態度が、くせえといえば、いえる。
≪どぶ≫は、ひとつ、小源太に当ってみてやろう、と思った。
「で――あっしは、唐次と別れると、小源太の家へ、乗り込みやした」
≪どぶ≫は、左門に、云った。
「裸女百態が、あったのだな」
「へい。ありました。そこで、あっしは、小源太を、とっつかまえて、土井家へ、しょっぴいたのでございます。それが、昨日のことなんで――」
「小源太は、いま頃、但馬守から、じきじきに、しめあげられている、という次第か」
左門が、云った。
「そういうわけで……。拷問でも、くらっているのじゃございますまいか。……殿様は、どうお考えでございます? 小源太が、真之助|君《ぎみ》を殺した下手人、とお考えで――?」
「裸女百態が、小源太の家にあったのであれば、盗んだことは、まぎれもない。……しかし、はたして、殺して奪ったかどうか、断定はできまい」
「あっしが、土井家へ、小源太をしょっぴいたのは、早まった、と仰言いますか?」
「いや、当然の処置だな。……ただ」
「へえ?」
≪どぶ≫は、双眼を閉じた左門の顔を、見つめた。
「これは、わたしのカンだが、すこし、つじつまが合いすぎている」
「つじつまがねえ」
「男女の仲とか、犯罪とか――そういったものは、解決のつかぬあいだは、一見つじつまが合わぬものだ」
「そう仰言られると、たしかに、そうでございます」
「つじつまが合いすぎていることは、まだその奥に、何かがかくされている、と考えてよい」
左門が、そう云った時、老用人が、小松九郎兵衛の来訪を、告げた。
九郎兵衛は、入って来て、≪どぶ≫が、そこにいるのを見出すと、
「棟梁の小源太を、土井屋敷へ、しょっぴいたの」
と、云った。
「いまそのことを、殿様に申し上げて居ります」
「たぶん、小源太は、殺されるだろうな」
九郎兵衛は、無表情で、いかにもこともなげな口調で、云った。
「殺されやすかねえ」
「但馬守という殿様は、途方もない癇癪《かんしゃく》持ちだからのう。それに、三男坊を、溺愛《できあい》されとったからな」
「殺されたんじゃ、しょっぴいた意味がねえ。小源太に、泥を吐かせてもらいてえんだが……」
「泥は吐くまい。……わしは、小源太が、真之助君を殺して、かくしたとは思わん」
「じゃ、真之助君は、一人で、かくれた、という解釈なんですかい、旦那は?」
「そこまでは、考えて居らん。まだ、五里霧中に在る」
九郎兵衛は、そう云ってから、左門に向って、
「松田屋善右衛門を、ひっとらえて、しめあげましょうか?」
と、問うた。
「まだ、早かろう」
左門は、こたえた。
「しかし、すてておきますと、神奈川台の倉にある南蛮の品々を、また、どこかへ移すおそれがあります」
「移したら、また、そこへ出かける」
左門は、そうこたえて、微笑した。
美しく掃ききよめられた白砂上に、むざんな光景があった。
後手にしばられた小源太の顔面は、撃ち傷だらけになって、血汐を流していた。
その前に立って、木太刀を携げているのは、土井但馬守自身であった。
「強情な奴だの」
但馬守のこめかみには、太い青筋がいくつも、浮きあがっていた。
小源太は、はだけた胸もまた、血を流しながら、≪ふいご≫のようにあえがせていた。
苦痛に堪えつつも、なお、強い意志力をうしなってはいないようである。
但馬守の左右には、家臣が数人。そして、小源太の後方には、庭師の島兵衛が、うずくまっていた。
「小源太! ありていに白状いたさぬと、撃ち殺すぞ!」
但馬守は、呶《ど》鳴りつけた。
「おれア……知らねえものは、知らねえ、と……申し上げて、居りやす」
小源太は、あえぎあえぎ、こたえた。
「おのれが! 生命《いのち》が惜しゅうはないのか!」
「お、お殿様。……あっしが、真之助様を殺して、どこかへ埋めた、とでも白状したら、あっしの生命を、たすけて下さるんでございますかね?」
「とうとう、白状いたしたな?」
「冗談じゃねえ。……やりも、しねえことを、白状できる、わけが、ねえ」
「うぬがっ!」
但馬守は、木太刀を振りあげるや、渾身の力をこめて、振り下した。
脳天に、にぶい、いやな音がして、小源太は、二、三度、ぐらぐらと上半身をゆらめかせたが、そのまま、仰向けに仆《たお》れた。
「水をかけて、息を吹きかえさせい。どうしても、白状させてくれるぞ!」
但馬守は、家臣たちへ命じた。
その時、島兵衛が、
「お殿様――」
と、呼んでおいて、小源太のそばへ寄った。
閉じた目蓋《まぶた》をひらいてみ、また、脈をさぐった島兵衛は、
「事切れて居りまする」
「そうか」
但馬守は、木太刀をほうり出した。
「こやつ、真之助を殺したと白状いたしたとみとめよう。……島兵衛、死体をとりかたづけい」
「かしこまりました」
但馬守は、屋内へ去った。
島兵衛は、家臣たちへ、
「てまえ一人で、片づけます」
と、云った。
「島兵衛、ことわるまでもあるまいが、この儀、他言無用だぞ」
「わかって居ります。小源太の家の方へも、てまえから、とりつくろいます」
「たのむぞ」
家臣らに見送られて、死骸を背負って、歩き出した島兵衛は、小声で、一言、
「すまねえ!」
と、わびた。
木馬
「≪どぶ≫っ! 覚悟しろ」
白昼、往来で、いきなり、長脇差をひき抜いて、立ちはだかった男があった。
≪どぶ≫は、昨夜、ひさしぶりに、吉原の小格子女郎を買って、さっぱりした気分で、日本堤を歩いて来ていたのである。
朝酒をひっかけていて、いい日和《ひより》だし、なにやら、今日はいいことでもありそうに思っていた矢先であった。
「なんでえ、てめえは――?」
見受けたところ、≪やくざ≫でもないようであった。
「≪どぶ≫犬め、たたっ斬ってやる!」
「だから、斬る理由をぬかせ、と云っているんだ」
「てめえ、先月、おれの嬶《かかあ》を、鎌倉の東慶寺へ、送り込んだろう、どうだ?」
「ははあん、おめえが、木場の三吉か」
「やっぱり、てめえ、おれの嬶を――畜生っ!」
三吉という男は、狂ったように、滅茶滅茶に、白刃をふりまわして来た。
≪どぶ≫は、先月はじめ、大川へ身投げしようとした女を救った。亭主が酒ぐせも女ぐせもわるく、ついには、酌婦をわが家へつれ込んで、とんでもない夜を営もうとするので、生きている気がしなくなった、と泣きくずれるのを眺めて、≪どぶ≫は、
「鎌倉の東慶寺へ駆け込むと、どんな悪党でも、ここへは踏み込めねえ。三年経ったら、離縁できる」
と、教えてやったのである。
どうやら、その女房は、本当に、東慶寺へ駆け込んだらしい。
「やい! ≪どぶ≫っ! ようも、ようも、おれの嬶を、尼にしやがって!」
いくら斬りつけても、かるがるとかわされてしまうので、三吉は、ふうふう喘《あえ》ぎながら、にらみつけた。
「東慶寺に駆け込んだからといって、尼になるわけじゃねえ。三年経ったら、晴れて離縁して、出て来らあ。……おめえ、大家からきかされたろう。もういくら、じたばたしても、女房は、おめえの許へは、かえって来ねえ。未練たらしく、見当ちげえな逆うらみをしやがるな」
「な、なにをっ! お、おれは、嬶に、惚れていたんだぞっ!」
「惚れていたなら、情婦をひきずり込んで、女房の前で、いちゃつくようなまねを、どうしてしやがる」
「うるせえ! てめえが、出しゃばりやがるから……くそっ!」
「出しゃばらなかったら、おめえの女房は、土左衛門になっていたんだ」
三吉は、云いまかされると、また、白刃をふりまわしはじめた。
適当にあしらっていた≪どぶ≫は、
「ええ、めんどうくせえ!」
呶鳴るや、十手をひき抜きざま、三吉の脳天へ、一発くらわせた。
三吉は、きりきり舞いして、ぶっ倒れた。
「いよう、千両役者! そこで、大見得をきる!」
声がかかった。
河内山宗俊が、笑いながら、近づいて来た。
「いつもながらの、鮮やかなお手の内!」
「いくら、おだててもらっても、昨夜吉原でつかいはたして――二分はおろか、そば代ものこっちゃいませんや。おけらでさ」
「なに、今日は、こっちが、ふところがあたたけえ。どうだ、精気をとりもどさせてやろう」
河内山は、姥《うば》ヶ池ぎわにあるうなぎ屋へ、さそった。
焼きあがるまで、銚子を一本取って、ちびちびやりながら、河内山は、
「黒門町の棟梁の小源太が、土井但馬守に、木刀で、なぐり殺されたそうだな」
と、云った。
「よくご存じで――」
「蛇《じゃ》の道は、蛇《へび》――というほどのこともねえ。土井家に女中奉公していたわしの知りあいの鳶《とび》の娘が、どうやら、小源太に惚れていたらしい。暇をとって家へもどって来ている。……わしのところへ駆け込んで来て、敵を討ってくれ、と訴えたが、対手が、土井但馬守じゃ、太刀打ちできねえやな。なにせ、大奥を――御台所をはじめ、年寄、中臈ことごとくを、南蛮の珍宝で、まるめ込んでしまっている。下手に楯《たて》つくと、こっちの笠の台がとぶ。そうでなくてさえ、こっちは、そろそろ、かさなる悪事のかずかずに、身辺少々怪しい雲行きになっている」
「その鳶の娘は、小源太が、真之助殺しの下手人じゃねえ、と云っているんですかい?」
「真之助が、勝手に、雲がくれしたのだ、と云っていたな」
「その娘の家を教えておくんなさい」
「ここへ、ひとつ、呼んでやろうか」
「そいつは、有難え」
うなぎが焼きあがって、はこばれて来た時、使いに呼ばれたおさわという娘も、階段をあがって来た。
「おさわ、これが日本一の岡っ引、≪どぶ≫親分だ」
と河内山から、ひきあわされて、おさわは、急に柳眉《りゅうび》をたてると、
「小源太さんを捕えたのは、お前さんだね!」
と、にらみつけた。
「まて、話をきこうじゃねえか」
「お前さんなんかに!」
「待ちな。こっちは、証拠があって、小源太を挙げたんだ。まちがっていりゃ、あやまる」
「あやまったって、もう手おくれだよ。小源太さんは、殺されちまったじゃないか」
「その仇討《あだうち》を、おめえ、してえのだろう」
「…………」
「仇討をしたけりゃ、話してみな」
おさわは、うつ向いて、ぽろりと、泪を一滴、膝へ落した。
「あたしは、小源太さんに、惚れていたんだ」
「そいつは、河内山の旦那に、きいた。小源太が普請に入ってから、知りあって、惚れたわけだな?」
おさわは、うなずいて、袖で泪をふいた。
「おめえ、真之助は、一人で勝手に雲がくれしたんだ、と河内山の旦那に、云ったそうだが、その証拠があるのか?」
≪どぶ≫は、おさわを見据えて、たずねた。
「あの日は――」
おさわは、話しはじめた。
「無礼講だから、あたしは、どうしても、小源太さんを、くどきたかった」
さすがは、鳶《とび》の娘であった。自分の方から、すすんで、男をわがものにしようと決心したのだ。
「だから、あたしゃ、小源太さんから、目をはなさなかった。いえ、小源太さんのあとばかり追いかけて、二人きりになる機会を、ねらっていたんだ。……真之助様が、雲がくれなすったのは、正午だ、というけど、その時、小源太さんは、茶亭にいたよ。あたしが、ちゃんと見とどけている。茶亭には、どこかのお大名のお姫様がたが三人いらしたよ。小源太さんは、そのお姫様がたと口をききたくて、入って行って、自分の仕事っぷりを自慢していたんだ。あたしゃ、ものかげから、ちゃんと見ていたんだ」
「ふむ!」
≪どぶ≫は、腕を組んで、うなった。
「ちょうど、その時だろ、真之助様が、ご自分の書庫に入って、消えちまったのは――」
「そうだ。それは、このおれも知っている」
「小源太さんは、茶亭に小半刻も、いたんだよ。……どうして、真之助様を、殺せるものかね。……ワナだよ、誰かが、小源太さんを下手人にするワナだよ」
「…………」
「親分! 真之助様の書庫は西、茶亭は東――まるで、反対のところに、建っているんだよ! 鳥じゃあるまいし、小源太さんが、飛んで行って殺して、また飛びかえることなんか、どうしてできるものかね」
「おめえ、小源太のあとを、ずっと、つけまわしていた、と云ったな?」
「あい――」
「書庫のある松林の入口で、小源太は、誰かと――つまり、実は、このおれだが――話をしているのを、おめえは、遠くから見ていたか?」
「あい、見ていました」
「小源太は、そのまま、まっすぐに、茶亭へ歩いて行ったか?」
「まちがいありません」
「ふむ!」
≪どぶ≫は、首をひねった。
すると、小源太は、あの日より以前に、書庫から、歌麿の「裸女百態」を盗んでいたことになるのか?
「親分、どうやら、形勢不利だな」
河内山が、笑いながら、云った。
「全く!」
≪どぶ≫は、みとめた。
「どうするね?」
「どうするも、こうするも、やりなおしでさ」
≪どぶ≫は、立ち上った。
「島兵衛の野郎! とっちめてくれる。いや、その前に、唐次の野郎を――」
≪どぶ≫は、うなぎ屋を出ると、からくり唐次の家へ、とんだ。
唐次は、仕事場に、等身大の蝋人形を据えて、じっと眺めていた。
一歩入った≪どぶ≫は、生きているそのままの美しさを湛《たた》えた人形に、一瞬、目をうばわれた。
吉原芸妓を、そっくり写したものだったが、こんな艶冶《えんや》な実物は一人もいない。
「ふうん!」
≪どぶ≫は、ひと唸《うな》りした。
「こういう別品に、魂を入れるてだてはねえものかねえ」
そう云いながら、近づいて、のぞき込む≪どぶ≫に、唐次は笑いながら、
「魂を入れることができたら、男を狂わせるだけでしょうよ。人形だからいいのですよ」
「なに、こっちは、いっぺん狂ってみてえやな」
≪どぶ≫は、舌なめずりして、ちょっと頬へ手をふれてみて、
「やっぱり、つめてえ。人三化七でも、肌のあたたけえ方がいいか」
と、首をふっておいて、
「親方――。真之助を殺したのは、小源太じゃねえぜ」
と、云った。
「そうですかね」
唐次は、平然としている。
「小源太は、但馬守に、ぶち殺されたんだろう?」
「そうらしいですね」
「そうらしい――といって、これア、おれたちの罪だぜ。小源太は、とんだ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきせられて、殺されたことになるぜ」
≪どぶ≫は、おさわという娘の話をきかせた。
唐次は、しかし、べつに、うろたえもせず、
「小源太が、裸女百態を盗んだのが、いけなかったのじゃありませんか。島兵衛が、それをかばった。島兵衛とすりゃ、好意からついた嘘だった。親分が、小源太をしばったのも、裸女百態が家の中から見つかったから、これは、あたりまえのこと。……土井の殿様が、小源太を白状させようとしたのも、むりはない話だし、これア、どうも、やむを得なかった、と考えるよりほかはないでしょう」
「しかし、殺してもいねえ男をぶち殺させた寝ざめのわるさは、やりきれねえじゃねえか。……おれは、本当の下手人を、必ず挙げてみせる」
「親分――」
唐次は、ちょっとあわむれような表情で、
「失礼ですが、お大名屋敷内で起ったことに、町方が、首を突っ込むのは、どういうものでしょうね」
「どうもこうもねえ。乗りかかった船だ」
「本当の下手人を挙げてみたところで、お奉行所へひっぱれるわけでなし……、親分の手柄にはなりませんよ」
「手柄をたてようと思って、やっているんじゃねえや」
「親分が、覚悟をきめていなさるなら、わしも、及ばずながら、お役に立つことがあれば、なんでもいたします」
からくり唐次の言葉をきいて、その家を出た≪どぶ≫は、歩き出しながら、
――どこか、肝心《かんじん》かなめのところが、狂っていやがるんだ。
と、胸のうちで、つぶやいた。
その狂っているところを、ひっぺがしてみなければ、こんどの奇怪な出来事の真相は、全く判りそうもない、と思われる。
殺された屍体が、出た。その下手人を追いかける。
そんな単純な事件ではないのであった。
≪どぶ≫が、左門から命じられた時は、何も起ってはいなかった。世間に、「お犬の方」という怨霊《おんりょう》の崇りをおそれる迷信が、ひろがっているだけであった。
ところが、≪どぶ≫が、首を突っ込んでみると、なんとも奇怪な現象が、つぎつぎと、目の前で起りはじめたのである。
まるで、こっちを、とまどわせるために、誰かが、途方もないいたずらをやっているようなあんばいである。
≪どぶ≫の足は、やっぱり、町小路家へ向かわずにはいられなかった。
左門は、閉めきった座敷で、例の小猿に小さな木刀を持たせて、一羽の雀を追いかけまわさせていた。
小猿は、素手で雀をつかむのは得手《えて》であろうが、木刀をふりまわすのは苦手らしく、ぶざまな恰好で追いかけて、失敗するたびに、歯をむき出していた。
――残酷趣味というやつだ。
≪どぶ≫は、胸のうちで、
――こんなひまがあったら、お小夜さんでも抱いてやりゃいいのに……。
そう思わずにいられなかった。
「どうも、こんどというこんどは、五里霧中というていたらくでございます」
報告を了えてから、≪どぶ≫が、溜息をつくと、左門は、
「霧が濃いならば、あともどりしてみることだ」
と、云った。
「あともどりを――へえ?」
「まず、最初に土井家に起った怪異は、木馬が歩くことであったな」
「――という噂で」
「その怪異から、ずうっと尾を引いて、次つぎに、妙な出来事が起っている」
「全く――」
「その木馬は、東照神君よりの拝領物なので、葵《あおい》の御紋がついているため、怪異を起しても、遠慮して、誰も手をふれようとせぬのであろう。たまたま、その木馬を調べに、お前が、からくり唐次をともなって、忍び入ると、長男縫之助の居間の甲冑が動くという、第二の怪異が起った。つまり、人々の注意が、木馬から甲冑へ横すべりした」
「その通りで……」
「そこへ、さらに、第三の怪異――三男真之助が、煙のごとく消えるという出来事が起った。木馬も甲冑も、一時、忘れられた。……≪どぶ≫、もう一度、振り出しへ、もどるがよい」
振り出しへもどれ、という左門の言葉が、≪どぶ≫に、次の夜、土井家へ忍び込む決意をさせた。
連れは、からくり唐次であった。
「忍び込んで、どうしなさる?」
唐次は、≪どぶ≫からさそわれて、たずねた。
「木馬のカラクリを突きとめてやるんだ」
「それで――?」
「それでも、これでもねえやな。まず、振り出しへもどって、木馬からはじめるんだ」
今夜にも、と気負い立つ≪どぶ≫へ、唐次は、おちついた視線を当てていたが、
「今夜のうちに、仕事を片づけますから、明晩にして頂きましょう」
と、云った。
さて、その夜――。
≪どぶ≫と唐次が、土井家の新邸へ、忍び込んだのは、三更(午前零時)をまわっていた。
ところが、それより一刻ばかり前、木馬のおさめられている土蔵内では、意外な異変が起っていたのである。
≪どぶ≫たちより一足さきに、その土蔵へ、忍び込んだ曲者がいた。
かざり職の多三郎であった。
この新邸の錠前と鍵を作った男である。忍び込むのに、なんの造作もないのであった。
多三郎が、そっと近づいたのは、奥の一段高くなった板敷に安置された木馬であった。
夜歩きする木馬は、座敷牢のような太い格子の中へ、とじこめられていた。
その格子内へ入った多三郎は、なんのおそれ気もなく、百目蝋燭《ひゃくめろうそく》で照らしながら、木馬を調べていたが、苦もなく、胴の一箇処を、はずして、大きな孔《あな》をあけた。
その孔へ、多三郎は、蝋燭とともに、首を突っ込んだ。
木馬の胴の中には、やはり、巧妙な仕掛がほどこしてあったのである。
多三郎は、それを、はずしはじめた。何が目的で、そうしようとしているのか?
しかし、多三郎は、この仕事を、すぐに中止しなければならなかった。
急に、人声がひびいたからである。
それは、もつれ合う男女の声であった。
「……あたしゃ、こわくなった!」
「なにを申すか! わしに、木馬へ乗れ、とそそのかしたのは、お前だぞ」
「だって、なんだか、急に、こわくなっちまって……」
「黙って、ついて来い!」
明りがつけられた。
浮きあがったのは、但馬守光貞の次男万之助と、一瞥《いちべつ》して莫連《ばくれん》と判る大年増《おおどしま》であった。
生来の博奕好きの万之助は、大名屋敷の奉公部屋の賭場を、夜な夜なわたりあるいているうちに、この莫連と深い仲になった模様である。
今宵、どこかの賭場で、一文無しになり、しかたなく、この莫連の家へころがり込み、酔うほどに、いさかいを起した。
近頃、万之助が、男として役立たなくなったのを、莫連が、あざけったのである。
元来小心者の万之助は、今日でいうノイローゼに罹《かか》っていた。
鉄火な莫連にとって、不能者になった若い男など、たとえ大名の子息であっても、なんのねうちもない。
いさかいの挙句、
「お屋敷には、お化《ばけ》木馬がいるってえ噂じゃないか。度胸があるなら、そいつに乗って、ひとっ走りしてごらんな。そうすりゃ、萎《な》えたものも、ピンとするだろうよ」
「よし! 庭へ引き出して、乗りまわしてくれる」
という次第になったのである。
万之助も女も、したたかに酔った勢いで、土蔵へ入って来たのであった。
しかし、女の方は、一足ふみ込んだとたん、胴ぶるいして、にわかに、酔いもさめはてた気色であった。
「おたき、見ろ。こいつだぞ」
よろつきながら、格子へ近づいた万之助は、べろりと舌なめずりした。
そこに、かざり職の多三郎の姿は、なかった。
木馬の胴は、もとのままに蓋《ふた》をされていた。多三郎は、とっさに、その胴の中へ、もぐり込んだのである。
万之助は、格子内へ入って来ると、木馬の口をとって、
「さあ、来い」
と、ひと曳《ひ》きした。
木馬は、四肢をふるわせると、カタカタと歩きはじめた。
女は、大きく目を見はって、息をのんだ。
格子の外へ、木馬をひき出した万之助は、にやりとすると、
「おい、馬上の営みという手があるぞ」
と、云った。
「なんだって?」
「こいつを歩きまわらせながら、わしとお前が、馬上で、睦みあう。わるくない趣向だ。どうだ?」
「あたしゃ、ごめんだ」
「否やは云わせぬ! わしの不能をさげすみ居ったお前に、またとない面白い愉しみをあじわわせてくれよう、というのだ。……おい、乗れ!」
「だって……」
しりごみする莫連を、万之助は、そこは若い男の腕力で、無理矢理に、馬上へ押しあげ、膝もあらわに、またがらせた。
「ははは……、面白いぞ!」
万之助は、女と向い合せに乗ると、抱き寄せ、
「この趣向なら、不能も直ろうと申すものだ。こら、木馬、歩けい!」
命じられるまでもなく、木馬は、口をとって曳かれるか、または人を乗せると、歩く仕掛になっていた。
木馬は、土蔵を出た。
そのあいだ、馬上では、男女が、ひとつになろうと、うごめきあったが……。
「だめじゃないか」
「うっ! 畜生め!」
けんめいになればなるほど、万之助は、不能者の惨めさを思い知らされ、いたずらに、苛立った。
絶望が、若者を、狂暴化した。
「くそっ! こんな木馬は、火をつけて、焼きすててくれるぞ!」
女を突き落しておいて、地上へとび降りた万之助は、狂ったように、どこかへ奔《はし》った。
おたきという莫連は、流石に、月光をあびて立つ木馬の黒い姿に、おびえた目を向けて、肩をすくめた。
すぐに、馳せもどって来た万之助の手には、油桶が携げられていた。
ぱっと油をぶちかけておいて、
「このくそ木馬め!」
罵《ののし》りつつ、燧《ひうち》を鳴らした。
「お止しよ!」
おたきが、止めようとした。
「黙って見ておれ!」
炎は、そのたてがみからあがった。
とみるや、めらめらと、背を這って、たちまち、胴をなめた。
その瞬間であった。
木馬は、その熱さに堪えられないごとく、烈しい動きを示すや、ぐるっと一廻りして、馬首を、万之助に向けた。
万之助が、思わず、二、三歩退くと、木馬は、おのれに火を放った男に、襲いかかるがごとく、前進して来た。
「ああっ!」
万之助は、悲鳴をあげて、あとずさった。
燃える木馬は、まっすぐに迫って来る。
「ああっ!」
万之助は、両手をさしのべて、ふせぐ恰好になりながら、あとへあとへと遁《のが》れようとした。
恐怖のために膝から力が抜けて、へたへたと崩れ込みそうになるのを辛うじてこらえて、よたよたと遁れようとするのであった。一目散に奔れば、木馬も追い迫ることは、かなわなかったであろう。
木馬の歩行速度は、右へよろめき、左へふらつく万之助に、肉薄するのに、充分であった。
ついに――。
万之助は、泉水の畔《あぜ》まで、追いつめられた。そこの置石につまずいて、ころぶや、なんともあわれな悲鳴をほとばしらせて、万之助は、匐《は》いずった。
すでに、その時、木馬は、火だるまになっていたが、なお執念ぶかく、匐いずる万之助に、のしかかりかけた。
遠くに、立ちすくんでいるおたきは、万之助が、必死の力で立ち上るのを視た。
そして、大きくのけぞって、泉水へ落ち込むのを見とどけてから、その場へ、へたへたと坐り込んでしまった。
≪どぶ≫と唐次が、邸内へ忍び入ったのは、恰度《ちょうど》この折であった。
築山へ立って、この異様な光景を目撃し、
「おっ! あれは、木馬だっ!」
「燃えているとはっ!」
二人は、夢中で、馳《は》せ降りた。
そこへ至るのと、木馬が、人間の声で絶鳴をあげて倒れるのが、同時だった。
「――という次第で、あっしらが、馳せつけた時は、もう間に合わず、木馬の中にひそんでいた多三郎は、焼け死んで居りました」
≪どぶ≫は、左門の前にかしこまって、報告した。
「多三郎が、どうして、木馬の中へもぐり込んだか、こいつもわけのわからねえことでござんすが、それよりも、もっとわけのわからねえことが、その時、起りやがったので――へい」
「…………」
左門は、黙然としている。
その膝の上には、小猿が、ちょこんとうずくまっていた。
「泉水へ落ち込んだ万之助が、それっきり――鯉《こい》にでも化けたように、姿を消しちまったのでございます。土井家のさむれえたちが、十人も、泉水へとび込んで、さがしまわったにも拘らず……、消え失せてぞおわりけり」
「…………」
左門は、依然として、口をつぐんだままである。
「泉水は、たかだか、胸までの深さでしかありやせんから、溺れ死ぬ気づかいはねえし、どこかへ匍《は》いあがったのなら、あっしらの目にとまらなかったはずがねえ。となりゃ、魚に化けたか、それとも水に溶けちまったか……」
「多三郎の死体は、いかがいたした?」
ふいに、左門が、≪どぶ≫のおしゃべりをさえぎって、たずねた。
「へえ、黒こげの方は、島兵衛が申し出まして、こっそり、下谷の妙法寺ってえ古寺へ、埋葬いたしやした。土井の殿様は、家柄に傷がつくのをおそれて、木馬の中に多三郎がもぐり込んでいたことは、他言無用と申し渡して、島兵衛に、こっそり≪むくろ≫をしまつさせた――という次第で、へい」
左門は、小猿を、膝からはらい落した。
「あの新邸をつくったのは、島兵衛と小源太と唐次と多三郎であった」
「その通りで――」
「そのうち、小源太は、但馬守に責め殺され、多三郎は焼け死んだ。次は、島兵衛か唐次が、横死する番であろうか」
「え? そ、それは、どういうわけなんで?」
目を見はる≪どぶ≫に対して、左門は、例によって、おのが推理の根拠となることは口にせず、
「先程、小松九郎兵衛が参って、菊姫が、箱根の湯治をきりあげて、土井邸へ帰って参った由、告げた」
「へえ――」
「ところが、箱根の湯治も効験なく、どうやら、菊姫は、気鬱《きうつ》が昂《こう》じて、ほとんど、狂うている由」
菊姫が、十匹にもあまる白蛇に襲撃された光景は、≪どぶ≫自身が、目撃しているところであった。
その衝撃で、気が狂うのも、当然であろう。
「≪どぶ≫――。お前は、その奇怪な泉水を、もう一度調べるとともに、菊姫の身辺を見張るがよい」
姫と泉水
≪どぶ≫は、こんどは、職人に化けて、土井家新邸へ入らなかった。
町の岡っ引として訪ねて行き、江戸家老桂木頼母へ、左門の添書《そえがき》をさし出した。
桂木頼母は、側用人毛谷三郎次と相談して、≪どぶ≫が、しばらく、屋敷内に起居することを許可した。
新邸へひき移ってからも、つづけさまに、奇怪な異変が起ったのである。
三男真之助が、行方不明になる。次男万之助が、また、消え去った。
大工棟梁の小源太を拷問死させ、かざり職多三郎が、木馬の中で黒こげになった。
こうなれば、いかに傲慢な気象の当主但馬守光貞も、憂鬱にならざるを得ない、というものであった。
この次は、どんな異変が起るか、というおそれが、夜もねむらせないようにしているのであった。
町方の不浄者が、乗り込んで来て調査に当るなど、本来ならば、一喝《いっかつ》のもとにしりぞけるのであったが、奉行所随一の名与力・町小路左門が、助力を申し入れて来たのであってみれば、いまは、これにすがってみる気持にもなろう、というものであった。
異変が、また、起るに相違ない、という不安は、家中一同の心にあったのである。
≪どぶ≫は、こんどは、堂々と屋敷の中を、どこでも歩きまわることを許された。
その日のたそがれどき――。
≪どぶ≫は、苑路を、ただ一人、歩いて来る華やかな衣裳の女性をみとめて、
「おっ!」
と、緊張した。
菊姫であった。
その歩きかたは、たしかに、神経がそこなわれていることを、示している。
おそらく、女中の目をかすめて、庭へふらふらと出て来たに相違ない。
≪どぶ≫は、とっさに、臍《へそ》の下へ力をこめると、菊姫の行手へ立ち、
「お姫様、お一人でお歩きになるのは、いかがなものでございましょう」
と、云いかけてみた。
すると、菊姫は、対手が何者であるか、知らぬままに、にこりとしてみせた。
「かまいませぬ。……鯉が、あたくしを、待ちくたびれているのですもの」
と、こたえた。
「鯉が――?」
≪どぶ≫は、眉宇《びう》をひそめた。
「はい。ついておいでなさい。……見せてあげます」
ひらひらと、振袖をひるがえして、菊姫は、先に立った。
そこへ、あわてて、女中が追いかけて来たが、≪どぶ≫は、
「警護の役目を、あっしにおまかせ頂きとう存じます」
と、申し出て、女中たちをさがらせた。
何かが、起るような予感が、≪どぶ≫の心を掠《かす》めたのである。
菊姫は、泉水のほとりに立った。
≪どぶ≫は、菊姫が、白い手を、ぱんぱんぱん、三つ叩くのを、見た。
鯉を呼んだのだ。
前の屋敷の泉水に、菊姫が手なずけた十両のねうちの錦鯉《にしきごい》が、十尾もいて、これらは当然、この泉水に移されているはずであった。
菊姫が、手をたたけば、錦鯉たちは、一斉に浮きあがって来るのが、見ものであった。
ところが――。
泉水の水面には、なんの反応もない。
菊姫は、悲しそうに首をかしげ、救いをもとめるように、≪どぶ≫をふりかえった。
この時、≪どぶ≫の眼眸《まなこ》は、異様に鋭いものになって、水面へはなたれていた。
陽がかげり、ようやく昏れなずむ水面には、あるふしぎな変化が起っていた。
この泉水は、庭師島兵衛の最も苦心したところで、夜になると、その一郭が、ぽうっと、光るようにつくられていた。
すなわち、水ぎわの岩に、≪ひかり苔《ごけ》≫を植え、そこからつづいて、水中に、≪ひかり藻《も》≫を配して、妖しい景色を浮きあげるように工夫されていたのである。
いま――。
そこへ、視線をつけた≪どぶ≫が、発見したのは、ふしぎな現象であった。
水ぎわの岩から、ひきつづいて水面まで、浮きあがった光のひろがりに、どうしたことか、中間に黒い一尺ほどの縞が入っているのであった。
これは、ひかり苔とひかり藻のあいだが、中断されていることを示している。つまり、水深が、一尺あまりさがっているのだ!
――はてな?
≪どぶ≫は、その岩へ近づいた。
――水深が、さがっていることは、ここに、なにか、からくりがある証拠だぞ!
それをたしかめようとして、首をのばして、岩の下をのぞきかかった――その瞬間であった。
≪どぶ≫は、背すじに、なにか冷たいものを感じて、はっと、首をまわした。
「おっ!」
≪どぶ≫は、目を見はった。
たったいままで、その赤松の巨樹のかたわらに、たたずんでいた菊姫の姿が、忽然《こつぜん》と、かき消えているのだ。
「なんだ? どうしたんだ?」
≪どぶ≫は、ぐるっと見まわした。
宵闇が降りて来た庭上に、その姿は、なかった。
菊姫のたたずんでいた老松のわきと、≪どぶ≫との距離は、ものの三間もはなれてはいないのだ。
≪どぶ≫が、ちょっと、目をはなしている隙に、菊姫は、消え失せた。
「畜生っ!」
≪どぶ≫は、狼狽しつつも、腹を立てた。
「こんなチョボ一があるもんけえ」
さらに、眸子《ひとみ》をこらして、見まわしたが、その美しい姿は、どこにも見当らなかった。
と――。
あわをくらった≪どぶ≫を、あざわらうように、どこからともなく、
「ほほほ……」
菊姫の笑い声が、ひびいて来た。
≪どぶ≫は、思わず、その赤松の巨樹を、ふり仰いだ。
奇怪なことであった。
高処《たかみ》の枝に、ふわりとかかっているのは、菊姫の衣裳に、まぎれもないようであった。
「な、なんだ!」
≪どぶ≫は、ぞっとなった。
その折、夕風が吹きつけて、衣裳は、ぱっとあおられ、≪どぶ≫の頭上へ、ふわふわと落ちて来た。衣裳がはなつ香は、まさしく、菊姫がただよわせていたものであった。
それを受けとめて、≪どぶ≫は、しばし、茫然となった。
しかし、≪どぶ≫を驚愕させる出来事は、それだけではすまなかった。
不意に――。
その巨松の梢《こずえ》から、白いものがうごめいたとみるや、ふんわりと、空中へ、舞い出たのであった。
天女!
まさしく、それであった。
白羽二重の下着いちまいを、ひらひらと夕風にひるがえしながら、宙を舞って行くのだ。
流石《さすが》の≪どぶ≫も、この世にあり得ない光景に、肝《きも》も魂も奪われて、口をあけて、見送るばかりで、なすすべを知らなかった。
闇は、急速に濃くなっていたし、これを、何かのからくりと看破する目は、≪どぶ≫には、なかった。
天女は、闇に溶け、遠く塀の方へ消え失せた。
こうして、また一人、土井但馬守の実子が、文字通り、蒸発してしまった。
もとより――。
≪どぶ≫は、ただちに、奔《はし》って、家臣一同を呼ぶために、絶叫した。
屋敷中、すみずみまで、高張提灯がかかげられ、必死の捜索がなされたが、菊姫の姿は、ついに、見当らなかった。
≪どぶ≫は、菊姫が、空中へ消えた、とは誰にも報せはしなかった。報せたところで、信じてもらえるものでもなかったし、これは、自分で謎を解かねばならぬ、とほぞをきめたのである。
但馬守光貞は、菊姫消失の報告を受けるや、
「わしに対して、のろいをかけて居るのは、お犬の方ではない。そこいらにひそんで居る人間に相違あるまい」
そう云って、口をへの字に歪《ゆが》め、自分に怨恨《えんこん》を抱く者を思い出そうと、つとめた。
しかし、あまりに多くの敵を持つ但馬守としては、
――あいつか!
と、一人の人間に、きめかねるようであった。
その翌朝――。
≪どぶ≫は、菊姫の捜索は家臣たちにまかせておいて、泉水のほとりに立った。
昨夕見とどけた一尺の水深の差は、嘘のように、なくなっていた。
「べらぼうめ。海辺じゃあるめえし、水が高くなったり、低くなったりしてたまるものけえ!」
≪どぶ≫は、ひとつ、自分のからだで、ためしてみることにした。
万之助は、この岩から落ち込んで、行方不明になったのである。
≪どぶ≫は、万之助になったつもりで、たじたじと、泉水へ向って、後ずさりをして、どぶん、と仰向けに落ちてみた。
但し――。
≪どぶ≫が、万之助とちがっていたのは、万一の要心に、赤松の幹へ、綱《つな》を巻きつけて、その一端を、自分の腰に、しっかとくくりつけておくのを忘れなかったことである。
≪どぶ≫は、何回も、仰向けに落ち込む行為を、くりかえした。
しかし、あかるい朝陽の中では、なんの怪異も起りそうもなかった。
「はてな?」
≪どぶ≫は、亀の甲《こう》ら乾し用の岩に、両手をついて、水面を凝視しながら、首をひねった。
――万之助は、水中をもぐって、向う岸へはいあがったか?
そうとしか考えられなかった。
――よし、ひとつ、もぐってくれる。
≪どぶ≫は、立ち上ると、岩をひと蹴りして、水中へ跳ぼうとした。
瞬間――。
その岩が、ぐらっと傾いた。
≪どぶ≫の足許には、奈落の口が、開いた。
凄じい勢いで、それへ落ち込む水流に、≪どぶ≫は、巻き込まれた。
亀の甲ら乾しの岩の下には、人間一人吸い込むだけの強い吸引力をもった孔が、設けられていたのである。
≪どぶ≫の裸身は、落下しつつ、きりきり舞いした。
さいわいであった。
腰に巻きつけた綱が、≪どぶ≫を救った。
宙吊りになった≪どぶ≫は、岸壁を蹴りながら、綱をたぐって、するすると、はいあがった。
赤松の岸辺へしがみついて、視線をやれば、水面は、何事もなかったかのように、おだやかにひろがっていた。
しかし、まさしく、そこに、水深は一尺ばかり下っているのであった。
――そうか! 判ったぜ!
≪どぶ≫は、ぶるっと胴ぶるいしてから、小さな目を光らせた。
――この屋敷中が、仕掛をほどこされていやがるのだ! この庭も、四方八方、からくりだらけなんだ。庭師の島兵衛とからくり唐次が、共謀《ぐる》になって、つくりやがったに相違ねえのだ。
――これで、何もかも、はっきりするぞ!
≪どぶ≫は、土井邸をとび出すと、まず、いっさんに、町小路家へ、つッ走った。
――島兵衛と唐次の野郎っ、よくも、おれを、まんまとだましやがったな。いまに、見ておれ! ひと泡、噴かせてくれる!
≪どぶ≫は、町小路家の裏門から、馳せ入って、庭へまわってみて、
「おっ!」
と、目を見はった。
なんという早手まわしのことか。
からくり唐次が、後手にしばりあげられて、そこへひき据えられているではないか。
その繩をとっているのは、同心の小松九郎兵衛であった。
縁側には、左門が、端座していた。
「殿様! ど、どうしてこいつを、しょっぴかれましたか? ……あっしゃ、たったいま、こいつが、土井邸に、からくりを仕掛けやがって、若殿や姫君を、かどわかしやがった下手人と知ったばかりでござんすぜ」
≪どぶ≫は、興奮して云った。
「小松が、お前とは別に、探索をつづけていき、どうやら、この男が、新邸のあちらこちらに妙な仕掛を施したらしい、と見当をつけた」
「成程――。たしかに、下手人は、こいつにちげえありませんや」
≪どぶ≫は、唐次の髷《まげ》をつかむと、ぐいと仰向かせて、
「てめえ、しらじらしく、よくも、おれに、一杯食わせやがったな。何もかも、泥を吐いちまえ。……甲冑や木馬の中にからくりを仕掛けやがったのも、真之助が書庫から消えたのも、万之助が、池の中へ消えたのも、菊姫が、空中へ消えたのも――みんな、てめえのしわざだろう! 島兵衛と共謀《ぐる》になりやがって、土井家の子らを、次つぎに、さらって行きやがったんだ。どうだっ?」
と、あびせかけた。
唐次は、口を一文字にひきむすんで、こたえようとせぬ。
「口を割らねえか! 割らなきゃ、割らせる方法は、百もあるぜ。……てめえ、何のこんたんがあって、真之助、万之助、菊姫を、消した?」
「…………」
「消した、といっても、殺しちゃいめえ。……どこかに生かして、とじこめていやがるんだろう? おいっ! ぬかせ! 泥を吐け!」
「…………」
≪どぶ≫は、唐次が容易なことでは口を割らぬ、と見てとるや、小松九郎兵衛に目くばせして、許しを受けると、近くの置石を、かかえあげて、はこんで来て、
「よいしょ!」
と、唐次の膝の上へ、のせた。
「うっ! む……」
唐次は、歯をくいしばった。
「ま――ゆっくりと、責めてやる。何食わぬ面《つら》をしやがって、おれをたぶらかしやがった小憎たらしさは、許しちゃおけねえ。いいか、唐次――石を抱かせるのなんざ、序の口だぞ。海老責め、火責め、水責め、逆さ吊り、それに、絶食責めだあ!」
≪どぶ≫がならべたさまざまの責めかたは、しかし、必要なかった。
ものの四半刻も、石を抱かされると、唐次は、油汗を流して苦痛をこらえていることに、堪えられなくなり、
「ゆ、ゆるして、くれ!」
と、悲鳴をあげた。
≪どぶ≫が、石をのぞいてやると、
「水を――」
と、もとめて、ぐったりとうなだれた。
「さあ、泥を吐け! これっぽっちでも嘘をほざきやがったら、これを末期《まつご》の水にしてくれるぞ!」
唐次は、あえぎあえぎ、茶碗の水をむさぼってから、
「わ、わる気はなかった」
と、呟《つぶや》くように云った。
「悪気はなかった、と――。なにを、しらばくれやがる」
「い、いや、本当です。……あっしは、ただ、腕を競うた、だけの、ことなのでございます」
唐次は、白状した。
土井家の新邸を建てるにあたって、島兵衛、小源太、多三郎、それに自分がえらばれると、たがいに、自論を云いはって、大変な喧嘩になった。
喧嘩の挙句《あげく》、島兵衛が、
「お互いに、腕を競いあおうじゃないか」
と、云い、「よし!」ということになった。
その時、唐次は、自分の腕前は、人を驚倒《きょうとう》させるからくりをつくることにあるから、新邸の各処に、それを仕掛けさせてもらおう、と申し出た。
小源太と多三郎は、あとで露見したら罪になる、としぶったが、島兵衛が、やるならやってみな、とみとめてくれたのであった。
唐次は、しかし、どこへ、どんな仕掛を施すかは、三人に打明けなかった。
三人は、しつっこく、迫ったが、唐次は、頑として、首を横に振った。
そして、新邸は、成った。
ところが、その新邸披露の当日、たちまちにして、三男真之助が、そのからくりにひっかかってしまった。
「ひっかかった? おい、てめえ、あの書庫の中に、どんなからくりを仕掛けやがったんだ?」
「ひと口には云えません」
「なにをほぎきやがる。ぬかせ!」
「…………」
「野郎、この期《ご》に及んで、まだ、ごまかそうとしやがるか!」
≪どぶ≫は、かっとなって、唐次の横っ面を、なぐりつけた。
「唐次!」
左門が、縁側から、声をかけた。
「お前のつくったからくりは、いずれ、これから、小松と≪どぶ≫に調べさせるが……、その前に、きいておこう。真之助、万之助、菊姫は、生存いたして居るのか?」
「はい、たしかに――」
「どこに、とじこめてある?」
唐次は、すぐには、こたえず、俯向《うつむ》いていたが、
「とじこめた場所は、存じませぬ」
「知らぬ? それは、どういうことだ?」
「島兵衛に、たのんで、どこかへ、とじこめてもらいましてございます」
「ふむ、たしかだな?」
「相違ございませぬ。……実は、真之助様が書庫から、行方不明となった、とききました時、てまえは、はじめて、自分のやったことが、おそろしくなりました。そこで、やむなく、島兵衛に、すべてのからくりを打明けて、この仕掛にひっかかった者を救って、どこかへつれて行ってくれるように、たのみました。からくりにひっかかれば、大怪我をいたします。怪我をしないまでも、あまりの恐ろしさに、しばらくは、気が狂うおそれもございます。げんに、真之助様も万之助様も、菊姫様も、怪我をされたり、気が狂っておいででございます。このことが露見すれば、てまえは打首でございますし、からくりを仕掛けるのをみとめた島兵衛も、手討ちをくらうのはまちがいございません。……そこで、島兵衛に、たのんだのでございます」
この申しひらきをきいた左門は、ふっと、うすら笑って、
「お前の申すことには、納得しがたいところがあるが、ま――よかろう。三人が生存している、として、お前は、これから、おのれが仕掛けたからくりを、小松と≪どぶ≫に披露せねばなるまい」
「は、はい」
唐次は、うなだれた。
「殿――」
小松九郎兵衛が、云った。
「唐次に、からくりを示させるのは、≪どぶ≫一人でよろしいか、と存じます。てまえは、別に調べなければならぬことがあります」
「そうだな」
左門は、うなずいた。
小松九郎兵衛も、唐次の白状を信じてはいなかった。
真之助、万之助、菊姫の兄妹が、はたして生存するかどうか?
小松九郎兵衛は、至急に、調べてみなければならなかった。
「≪どぶ≫、唐次を、土井邸へ連れて行くがよい」
「へい、かしこまりやした」
≪どぶ≫は、唐次を、ひっ立てた。
そのあとで、小松九郎兵衛は、左門に云った。
「唐次は、なにか、肝心のことを、かたく、かくして居るように、うかがわれます」
「わしも、そう思う。……あるいは、元凶は、唐次ではないかも知れぬ」
「は――」
「島兵衛と申す老人かも知れぬの」
「御意!」
「とすれば、ひと筋繩では、いくまい。しばらく、様子を見る必要もあろう。ぬかるまい」
「承知いたしました」
五つの位牌
「さあ、やってもらおうぜ」
≪どぶ≫は、土井邸の三男、真之助のために建てられた例の艶笑庫《えんしょうぐら》の前に来ると、ひきつれて来た唐次に、云った。
「まず、この扉の錠前を……誰が、かけたかだ」
新邸披露の日、真之助が、この艶笑庫の中ヘ――扉の錠前をはずして入るのを、≪どぶ≫は、見とどけている。
真之助は、出て来はしなかった。
ところが、≪どぶ≫が小源太と、ちょっと話を交しているすきに、いつの間にか、錠前は、がっちりと、かかってしまったのである。
誰かが、扉へ近づけば、≪どぶ≫の目にとまらぬはずはなかった。≪どぶ≫は、ごく近い距離の松林の中にいたのである。だから、誰も近づかなかったことを証明できるのだ。
「どうなんだ、おい?」
≪どぶ≫に、睨《にら》みつけられて、唐次は、薄ら笑った。
「なんの造作もないからくりですよ。入ってみれば、わかります」
「よし」
≪どぶ≫は、唐次をさきに入らせておいて、内側から、扉を閉めた。
とたんに、おもて側で、がちゃりという音がひびいた。≪どぶ≫は、こころみに押してみたが、ビクともするものではなかった。
内側から閉めれば、おもて側の錠前が、かかる仕掛けになっているのだ。
「へん! きいたふうな細工をしてやがる」
≪どぶ≫は、感心した。
「それで――真之助を、どこから、かどわかした?」
「かどわかしたのじゃありませんよ。勝手に、からくりにひっかかったのですよ」
「鼠取りに鼠が、ひっかかるようにか。……そこへ、案内しろい!」
二人は、艶笑庫の中へ入った。
いや、おどろくべき艶笑本、笑い絵の蒐集であった。
およそ三十坪あまりの庫《くら》の四方が、天井まで書棚になっていて、ぎっしりと積みかさねてある。
≪どぶ≫は、注意ぶかく見渡したが、どこにからくりが仕掛けてあるのか、見当もつかなかった。
唐次は、ゆっくりと、北側の書棚に近づきながら、
「この朱色の棚にある品が、最も珍奇で高価な品ばかりです。もちろん、歌麿の裸女百態も、ここに置いてありました。……左様、小源太からとりかえして、ここへ、もどしてありますよ。この朱色棚の品を、どれでも、ひとそろい、とり出す、としますね。そうすると、棚からその重みが減じたために、足もとの床板が、くるりとひっくりかえって、からだが奈落へ落ちる――という仕掛になって居ります。ごらんに入れましょう」
「待て! てめえ、そのどんでん返しで、遁《に》げようというこんたんじゃあるめえな」
「教えておいて、遁げるバカも居りますまい。もうちゃんと、観念して居りますよ」
唐次は、その朱色の棚の前に立つと、とんと床板を踏み鳴らして、
「これが、どんでん返しになります。だから、こうして、大きく股をひらいて……」
と、その通りにしながら、
「ここにのせられた、裸女百態を、とりおろしますよ」
と云って、両手で、それを持ちあげた。
とたん――。
大きく踏みひらいた両足の中の床板が、くるっとまわって、孔《あな》をあけた。
「ふむ!」
それへ、視線を落して、≪どぶ≫が、うなずいた――その瞬間。
「ぎゃっ!」
唐次は、凄じい悲鳴をあげて、のけぞった。
「おっ!」
≪どぶ≫は、倒れかかる唐次へ、とびついて、うしろから、ささえた。
唐次の胸には、槍の穂先が、ふかぶかと突き刺さっていた。
つまり――。
唐次が、「裸女百態」を棚から取りおろすと同時に、棚の奥から、ぴゅっと槍がとび出して来て、唐次の胸をつらぬいたのである。
「唐次っ!」
≪どぶ≫は、たちまち血の気をうしないはじめたからくり師を、ささえながら、
「この槍が、とび出すのも、てめえの、仕掛か?」
と、問うた。
唐次は、苦痛に喘《あえ》ぎつつ、
「ち、ちがう!」
と、かぶりを振った。
「じゃ、誰のしわざだ?」
「……た、たぶん、小源太が……、やった、ことだと……思います」
「本当だな?」
「……親分、もう、あたしは、だ、だめだ」
唐次は、かすかに、首を上下させると、目蓋を閉じた。
その折、≪どぶ≫は、棚の奥から突き出した槍が、すうっと、ごく自然に、ひっ込むのを、視《み》た。
そして、何事もなかったかのように、棚の奥の板壁は、閉じられてしまった。
≪どぶ≫は、唐次を床の上へ寝かせておいて、要心しつつつ棚に近づき、その奥の板壁をしらべてみた。
なんの変ったところもないのだ。まことに、巧妙な仕掛であった。
≪どぶ≫が、必死になって、調べつづけているうちに、不意に、ぎぎぎっと薄気味わるい音がひびいた。
はっとなって、頭をまわすと――。
唐次を横たえさせた床板が、ゆっくりと、回転しはじめたではないか。
「ああっ!」
≪どぶ≫が、驚愕の叫びをあげるあいだに、唐次の死体は、傾斜した床板をすべって、消え去ってしまった。
茫然として自失した瞬間がすぎると、≪どぶ≫は、無性に腹が立って来た。
「こん畜生っ! おれを、ばかにしやがって!」
実際、嘲弄《ちょうろう》されているとしか思えない出来事であった。
しかし、すぐに、≪どぶ≫は、自分をいましめた。
「おちつけ! いまが、肝心のところだぞ。ここで、カンが狂ったら、それこそ、アブハチとらずになる」
≪どぶ≫は、考えはじめた。
――唐次の白状には、嘘があった!
≪どぶ≫は、まず、そうきめてみた。
なるほど、唐次は、この新邸の各処に、からくりを設けたであろう。そのために、真之助は、行方不明になった。しかし、この艶笑庫の中へ仕掛れば、当然、真之助は、それにひっかかる。唐次は、真之助をひっかける目的で、からくりをつくったとしか思われぬ。すなわち、真之助を、かどわかすという目的で、つくったに相違ない。
また、泉水のからくりは、とうてい、唐次一人がつくったものではない。庭は、島兵衛の権限なのだ。島兵衛が拒否すれば、唐次は、つくれなかったろう。つまり、島兵衛が、共謀だと考えられる。
また――。
多三郎は、どうして、木馬の中に、もぐり込んでいたか? 自分が唐次をさそって、木馬をしらべようと忍び込んだ時、多三郎が、ひと足さきに、木馬の中にもぐり込んでいたのは、偶然とは考えられぬ。
それからまた。
菊姫が、空中へ舞いあがって、消え去った件であるが、これは、唐次のからくりとは、とうてい考えられぬ。
――もしかすれば?
≪どぶ≫の脳裡に、ひらめくものがあった。
「そうだっ!」
≪どぶ≫は、はねあがった。
庭へとび出した≪どぶ≫は、島兵衛の住む北隅の小屋へ奔《はし》った。
すると――。
いつの間にやって来たのか、小松九郎兵衛が、戸口に立っていた。
「旦那! またあっしより一足さきにお手柄ですかい?」
「なに、お前がとんで来るのを、こうして待っていてやったのだ」
「やっぱり、旦那のガンも、島兵衛へつけられた、ってえわけで――」
「まあ、そうだ」
≪どぶ≫は、板戸をひき開けた。
「島兵衛!」
≪どぶ≫は、呶《ど》鳴った。
「ネタは割れたぜ! 神妙にしろ!」
島兵衛は、古びた経几《きょうぎ》に向って坐っていた。
几上《きじょう》には、経文がひらかれていた。
「…………」
黙って、≪どぶ≫と九郎兵衛を見かえると、いんぎんに、頭を下げた。
≪どぶ≫と九郎兵衛は、島兵衛の前に立った。
「おい、爺さん――。われわれが、ここへ、やって来たわけは、もう、おめえには、わかっているんじゃねえか?」
≪どぶ≫は、鋭く見据えて、云った。
「…………」
島兵衛は、膝へ目を落して、沈黙をまもっている。
「島兵衛! 艶笑庫で、いま、唐次が死んだぜ。いや、殺された。てめえがつくったからくりに、てめえ自身が、ひっかかる≪こけ≫は、あるめえ。それとも、もうのがれられぬ罪とさとって、てめえでてめえの胸へ、槍を突き刺したのか。……いずれにしても、この屋敷をつくった四人の職人のうち、小源太、多三郎、唐次――三人が、死んだ。のこったのは、爺さん、おめえ一人だ。これは、どういうわけだ?」
「…………」
「おいっ! くそ爺いっ! 返答しろい!」
≪どぶ≫は、島兵衛の胸ぐらを、つかんだ。
島兵衛は、ようやく、顔をあげて、≪どぶ≫を視た。
その双眼は、冷たく光っていた。
「小源太も多三郎も、それから唐次も、いずれ殺されることは、判って居りました」
「どうして、判っていた?」
「それは、いまは、申し上げられません」
「なんだと!」
「親分、このことについては、十日の猶予を頂ければ、なにもかも、判って頂けます」
「十日も待てるか!」
「おねがいでございます! 実は、てまえには、まだひとつ、やりとげなければならぬ仕事がのこって居ります」
「そうだな。長男の縫之助という若殿が、まだ一人、行方知れずになっていねえな。それを、かどわかす仕事がのこっている、というわけか」
すると、九郎兵衛が、
「≪どぶ≫、縫之助は、もう、行方知れずになった。馬道のお玉の家から、姿を消して、どこへ行ったか、不明だ」
と、云った。
「野郎っ! 爺いっ、それじゃ、ほかに、なんの仕事がのこっていると、ぬかしやがるんだ?」
「のこっている仕事と申すのは、五重《いつえ》の杜《もり》のお犬の方さまの霊廟建立でございます。もう九分通り、仕上って居ります。あと、十日あれば、立派に……」
「莫迦野郎っ! おれたちはな、世間をたぶらかしてやがるお犬の方の怨霊《おんりょう》ってえしろものを、この地上から払いのけてくれようと、苦労しているんだぞ。霊廟なんざ、今日にも、火をつけて、燃やしてやりてえくれえだ」
「親分!」
「親分と呼ぶのは、止しやがれ。柄じゃねえんだ。……おめえに、最後の仕上げをさせねえのは、もっけの幸い、というものだ」
「ちがうのだ!」
島兵衛の顔面が、一変して、凄い形相になった。
「あっしも、お犬の方の怨霊なんぞ、信じてはいねえ。ただ、あっしが、霊廟づくりを引きうけたのは、ほかの目的があったからなのだ!」
≪どぶ≫は、そう云う老庭師の凄じい形相を、見まもりながら、
――何をしでかしやがるつもりか?
と、興味をわかせた。
「おねがいでございます。町方様!」
島兵衛は、九郎兵衛に向って、両手を合せた。
「十日の猶予を下さいまし。あっしは、もう、にげもかくれも、いたしませぬ。ただ、霊廟を仕上げなければならぬ、深い仔細《わけ》があるのでございます」
「もし、許してくれなければ、真之助も万之助も菊姫も縫之助も、返さぬ、というのだな!」
「やむを得んことでございます。……御霊屋《みたまや》が開帳される日に、何もかもおわかりになります。……もう、これ以上、このお屋敷で、怪異は起りはいたしませぬ。……どうか、十日のご猶予を!」
島兵衛の双眼に、涙がにじみ出た。
「よし!」
九郎兵衛は、うなずいた。
「待ってやろう」
「旦那!」
≪どぶ≫が、あきれて、
「冗談じゃねえ! この爺いが、陰謀の張本人と判って居りながら、看《み》のがすなんて――」
「看のがすのではない。ただ、十日の猶予をくれるだけだ」
「風をくらって、高とびしやがったら、どうします」
「≪どぶ≫――、わし一人の考えで、看のがすのではない。町小路の殿様が、もし島兵衛が、猶予を乞うようであったら、待ってやれ、と仰言《おっしゃ》ったのだ」
「へえ! 殿様は、この爺いが猶予を乞うことまで、お見通しだったのですかい?」
「そうだ。……どうやら、殿様には、謎をお解きになっているらしい」
「殿様は、人がわるいや。……おい、爺い、いいな、こっちの好意を、きっと裏切らねえな?」
「神仏に誓って!」
島兵衛は、平伏した。その肩は、小きざみにふるえていた。
九郎兵衛と≪どぶ≫は、小屋を出た。
≪どぶ≫は、どうもまだ不安で、首をまわしてみた。
「≪どぶ≫、わしらには、ほかにまだ調べることがあるぞ」
九郎兵衛が、云った。
「小源太、多三郎の死骸を、こっそり、葬ったのは、島兵衛だ」
「知って居りますよ。下谷の妙法寺でさ」
「これから、そこへ行って、調べてみなければならん」
「何を?」
「墓をあばいてみるのだ」
あきれたことだった。
人夫六人をともなって、下谷妙法寺の墓地に入って、小源太、多三郎の新墓を、掘りかえしてみると――。
棺桶の中は、からっぽであった。
「あん畜生っ!」
≪どぶ≫は、島兵衛に対して、烈火の憤りにかられた。
「小松の旦那! これでも、あのくそ爺いに、十日の猶予をくれてやるんですかい!」
「こっちの予想通りだったまでのことだ。小源太も多三郎も、生きて居る。したがって、唐次も生きて居るはずだ。殺された、とみせかけただけだ。……四人は、共謀だ。だから、町小路の殿様は、わざと、島兵衛を捕えずに、最後に、何をやるか、見とどけようと仰言ったのだ」
「ふうん! 殿様は、島兵衛らが何をやらかそうとしているか、もう見当つけていなさるんで――?」
「たぶんな」
九郎兵衛は、≪どぶ≫をうながして、方丈に立寄り、住職の法然に、面談をもとめた。
すると、納所を通して、
「本堂でお待ちいただきたい」
という返辞があった。
≪どぶ≫は、いぶかって、
「住職に会って、どうするんですかい?」
と、問うた。
「島兵衛が、月はじめに、必ず、この寺を訪れていることを、つきとめたのだ」
「へえ、じゃ何かの因縁があるわけだな」
「それも、よほど深い因縁とみえる」
二人は、本堂にあがった。
しばらく、手持無沙汰で、待っているうちに、≪どぶ≫は、なんとなく、須弥壇《しゅみだん》へ近づいてみた。
とたんに――。
「おっ!」
≪どぶ≫は、蓮華座《れんげざ》の下の段に、視線を釘づけにした。
そこに、真新しい五基の位牌が、ならんでいた。
「旦那! これは、なんだと思いやす?」
≪どぶ≫に指さされて、九郎兵衛は、のぞき込んでみて、
「ほう!」
と、声をあげた。
それらの位牌には、戒名ではなく、俗名が記されてあった。
小源太
多三郎
唐次
島兵衛
「これは、妙なしろものだ」
九郎兵衛は、手をのばして、それらの位牌を、つぎつぎに、取ってみた。
奇怪なことには、その裏側の死亡年月日は、全く同じ日にされていた。
のみならず――。
ちょうど、十日さきになっていた。
十日さき――すなわち、五重の杜の霊廟が完成して、開帳する日であった。
「成程――」
九郎兵衛は、≪どぶ≫と顔を見合せると、
「十日の猶予をくれ、と島兵衛が、ねがったはずだ。島兵衛は、その日に、死ぬ覚悟だ」
と、云った。
「それにしても、小源太、多三郎、唐次に、長男縫之助の情婦になっていたお玉まで、位牌にしてやがるとは、どういうんですかねえ」
「この五人、ただの間柄ではないらしいな」
九郎兵衛は、島兵衛の位牌の蔭に、もう一基、これだけは、ひどく古びた位牌が置かれてあるのをみとめて、手にしてみた。
これには、戒名があった。
裏がえすと、俗名お蝶、死亡しているのは、二十数年前であった。
「これア、なんだろうな?」
首をかしげているところへ、住職が、入って来た。
もうすでに古稀をこえたとおぼしい、みごとな白髭をたくわえた、見るからの善知識であった。
「お待たせ申した」
座に就いてから、二人の用向きを、たずねた。
「おうかがいしたいことは、小源太、多三郎の墓を掘ってみたところ、棺の中は空であったこと。これがひとつ。また、ここに、五基の位牌がならんでいるが、島兵衛は現存しているにもかかわらず、なぜ、生きたままでおのれの位牌をつくったか。これがふたつ。……ご住持は、おそらく、この五基の位牌に関するかくされた因縁をご存じであろう。ついでに、おきかせ下さるまいか」
九郎兵衛は、申し入れた。
住職は、べつにためらいもせずに、こたえた。
「小源太、多三郎殿を葬ったのは、島兵衛殿が、ただ一人でされたことゆえ、棺の中の遺体の有無については、愚僧の存じ申さぬところです。……この五基の位牌がならべてあるのは、べつに、ふしぎはなく、小源太、多三郎、唐次、玉の四人は、兄妹でござる」
「兄妹!」
≪どぶ≫は、目をひきむいた。
「左様――。島兵衛殿の子たちでござる」
「ふむ!」
≪どぶ≫は、うなった。
「そうか! そうだったのか!」
目の前に降りていた黒い幕が、さっとひきあげられた思いであった。
「先日、島兵衛殿が見えられて、この五基の位牌に、かの古い位牌――それは、島兵衛殿のつれあいで、つまり四人の兄妹の母親でござるが――、ひとまとめに、回向《えこう》をしてくれ、と申されるので、してさしあげた次第でござる」
「生きているわが身を、回向する?」
「名人にありがちな変った御仁でござるゆえ、生きているうちに回向してもらって満足することにしたのでござろうな」
「ご住持!」
九郎兵衛が、鋭く見据えて、
「島兵衛が、ただ、こんな妙な回向を、おのれの満足のためにだけ、したとお考えか?」
「人には、それぞれ、人にかくさねばならぬ秘密がござろう」
「ご住持が、われわれに語ってもかまわぬ、と思われるだけのことを、おきかせ頂けまいか!」
住職は、しばらく考えていたが、やがて、口をひらいた。
「島兵衛と愚僧は、四十年来の知己でござる。二十四年前――つまり、このお蝶さんが亡くなられてほどなく、島兵衛殿が、小源太、多三郎、唐次、お玉の四人の子供たちを連れて来て、この子たちの身の振りかたをたのみたい、と依頼されたのでござる。……
愚僧は、お引受けして、小源太を大工に、多三郎をかざり職に、唐次を細工師に、それぞれ、内弟子に遣《や》ったのでござる。三人とも、父親の血をひいて、職人になれば、名人と称される腕前になるであろう、と予想いたしたが、予想たがわず、小源太は、二十歳ですでに棟梁になり申した。尤も、親方に見込まれて、婿養子になったのでござるが、二十歳で、深川の魚清――あの大料亭を建ててみせたのだから、これが、評判にならぬはずはなかった。
また、多三郎は、親方の急死によって、その家を継ぎ申したが、これが、大名旗本屋敷に出入りする家であり申したため、若くて、苦心しながら、各お屋敷を立派にかざったことでござる。唐次だけは、どういうものか、親方と≪そり≫があわず、その家を出奔《しゅっぽん》して、長崎ヘ行き、和蘭《オランダ》語を勉強して、奇想天外のからくり細工を、身につけ申した。まことに、あっぱれな伜《せがれ》たちと申すことができます。
なお、お玉は、浅草馬道の常磐津の女師匠の許へ、奉公に出し申したが、これは、いつの間にやら、奥山の軽業小屋に入り、たちまち、人気者になったのでござる。……
この四人の兄妹の身許引受人が、愚僧であったことは、申し上げるまでもないことでござるが、島兵衛殿が実の父親であることは、世間に知る人は、一人もなかったのでござる。それと申すのも、島兵衛が、愚僧に、子たちを預けるにあたって、自分が父親であることは、かたく内緒にしてほしい、とくれぐれも頼まれたからでござる。どのような事情があって、そうしなければならぬのか――これは、島兵衛殿が口をつぐまれている以上は、こちらからは訊きただす筋合ではござらなんだ。
……愚僧が、申し上げられるのは、これだけでござる」
住職の方から、これ以上は、何も語らぬ、という態度を示したのである。
九郎兵衛と≪どぶ≫は、引きあげざるを得なかった。
「さあ、面白いことになりやがった!」
山門を出て行きながら、≪どぶ≫は、舌なめずりした。
「≪どぶ≫――」
九郎兵衛が、云った。
「島兵衛は、せっかく、死亡日をきめたのだ。待ってやろうではないか」
≪どぶ≫は、左門に報告にゆく九郎兵衛と、途中で別れて、なんとなく、足を浅草の方へ向けた。
むっつりと、口をへの字に曲げて、道をひろいながら、≪どぶ≫は、あきらかになった意外の事実を、つなぎ合せてみようとして、あたりの景色も人も目に入れぬ。
島兵衛は、小源太、多三郎、唐次の三人の息子が、それぞれ、名のある職人になるや、かれらと組んで、土井但馬守光貞の新邸をつくりあげた。
これは、ずっと以前から――そうだ、四人の子を妙法寺住職に預ける時から、計画していたことではないのか。
自分が庭師、長男が大工、次男がかざり職、三男が指物師――こうみれば、ひとつの屋敷をつくりあげる目的があった、と考えてよいことだ。
土井家新邸建築にあたって、四人が偶然えらばれたようにみせかけて、実は、島兵衛のひそかな計画が実現したのだ。わざと、四人が仲がわるいように、絶え間なく喧嘩をしてみせたのも、肉親の間がらであることを、人に知られまい、とする苦肉の策であった。
四人が協力して、つくりあげた新邸には、巧妙なからくりが仕掛けてあった。
まず三男の真之助を、何処かへ拉致《らち》した。次男の万之助も行方不明にした。次いで、菊姫をかどわかした。
それから、お玉は、縫之助の情婦になって、これを骨ぬきにした。
すなわち――。
島兵衛は、土井家に対して、なにか深い遺恨を抱いて、報復せんとしているのだ。
その報復をなしとげる日が、十日後――五重の杜の霊廟が、ひらかれる日なのだ。
――いってえ、どんな恨みのはらしかたをしようとしやがるのか?
≪どぶ≫にとって、こんな≪興味しんしん≫はなかった。
おそらく、島兵衛の狙うところは、土井但馬守光貞の生命であろう。二十数年にわたって、計画を抱きつづけるほど、島兵衛の怨恨は凄じいものだったのだ。
土井邸で、庭師として、その生涯のなかばをすごしたのも、復讐のためだったとすれば、これは、なんともおそるべき人間の執念といわねばならぬ。
――島兵衛は、土井但馬守からどんなひどい目に遭ったというんだ?
――もしかすれば、島兵衛は、但馬守にとりつぶされたどこかの藩の遺臣じゃねえのかな?
≪どぶ≫は、そう想像して、ふうんと深い息をした時、むこうからいそぎ足に来た男が、
「おっ! 親分――」
と、呼んだ。
≪どぶ≫が手先につかっている夜明し蕎麦《そば》屋の辰という男であった。
「なんだ?」
「お玉が、小屋へもどって来て、曲芸をやって居りますぜ」
「よし!」
≪どぶ≫は、小さな目をかがやかした。
「お玉の口を割らせてやる!」
四人兄妹のうち、小源太、多三郎、唐次の三人は、死んだ。生きのこっているのは、お玉一人である。
これを、捕えて、白状させるのが、さしずめ、いま≪どぶ≫にできる唯一の仕事のようであった。
≪どぶ≫は、奥山へ向って、急いだ。
ちょうど、≪どぶ≫が、小屋に入った時、お玉は、新趣向による「春がすみ天女の舞」の曲技の最中であった。
舞台いちめんに、黒幕を引き、その前で、純白の薄衣をまとったお玉が、ふわりふわりと、空中に、舞っている。
つまり、強靭で極細の針金を、宙に張り渡して、お玉は、その上で、自在に舞ってみせているのであった。
当然――。
≪どぶ≫の脳裡には、土井邸の庭の空中に消え去った菊姫の姿が、思いうかんだ。
――そうか!
≪どぶ≫は、合点した。
――あれは、これなんだ! 菊姫をどこかへかくしておいて、お玉がすばやく身代りになって、宙を舞って、逃げやがったのだ! まんまと、一杯くわせやがった。
≪どぶ≫が、ゆっくりと舞台へ、近づきかけた時――。
お玉は、空中で、ひとつ、見事な≪とんぼ≫をきると、ささあっと、落下した。
舞台の上には、大きな≪つづら≫が置かれてあった。
お玉の白いからだが、その中へ、消えた。
とみるや――。
手槍をつかんだ男二人が、左右から、そのつづらを、ぶすっぶすっと、突き刺した。
見物人の中には、思わず、悲鳴をあげる者も出た。
≪どぶ≫は、お玉が、つづらの底から奈落へ降りた、とみてとって、
――よし! 奈落で、とっつかまえてくれる!
と、奔《はし》り出そうとした。
その瞬間であった。
つづらの中から凄じい男の悲鳴が、ほとばしった。
槍で突いた男たちの驚愕ぶりが、それは思いもかけぬ出来事であることを、示した。
つづらの中は、空であるべきだったのだ。ところが、その中に、人間がいたのだ。
そいつを、二本の槍が、容赦なく、突き刺してしまった。
≪どぶ≫は、ぱっと、舞台へとびあがった。
つづらの蓋《ふた》をひっぱずして、のぞき込んでみると――。
その中で、血まみれになって、呻《うめ》いているのは、土井但馬守の長男縫之助であった。
高手小手にしばりあげられたむざんな姿であった。
≪どぶ≫は、身をひるがえして、奈落へ奔った。
十一
お玉は、うすぐらい奈落で、ふだんの着物にきかえていた。
それに向って、≪どぶ≫は、近づいた。
「おい、お玉!」
「…………」
ふりかえったお玉は、≪どぶ≫をみとめても、おちつきはらって、にげる様子もみせない。
「おめえら親子のからくり芝居も、どうやら、大詰《おおづめ》に来たようだな」
「そういうことでござんすねえ」
「土井縫之助を殺《や》ったのも、親爺の島兵衛の指金《さしがね》か?」
「あたしが、からだをまかせた時から、若様は、くたばることが、きまっていたのさ」
「そういうおめえは、どうなんだ?」
「どうとは?」
「兄貴の小源太も唐次も、生きたか死んだか――雲がくれだ。おめえも、そうするつもりだろう?」
「あいな」
お玉は、薄闇の中で、にっこりしてみせた。
その妖しい美しさを、みとめた瞬間、≪どぶ≫は、はっとなった。
「おい! 五重の杜で、掘り出された木乃伊の骨相は、おめえに似ていたぞ! あの木乃伊は、もしかすれば、おめえのお袋――お蝶じゃなかったのか?」
「…………」
「そうだ! そうにちげえねえ。すると、おめえのお袋――すなわち、島兵衛の女房は、土井家の女中だった!」
≪どぶ≫が、そう云いあてた瞬間、お玉は、ひらっと身をひるがえして、逃げ出した。
「待てっ!」
≪どぶ≫は、必死で、追った。
しかし、お玉の身軽さは、文字通り≪ましら≫であった。
楽屋へかけあがるや、おもてへ逃げるかわりに、衣裳箱の上へとびあがった。
こういう小屋に、天井はない。屋根裏がむき出している。
お玉は、その梁《はり》に、かるがるとのぼるや、ツツ……とつたって行った。
「勝手にしやがれ!」
≪どぶ≫は、あきらめた。
とうてい、捕えられるものではなかった。
小屋を出た≪どぶ≫は、
「さて、と――」
口をとがらせて、肩をすくめた。
「島兵衛の奴、どんな残忍な趣向を考えていやがるか、だ」
想像もつかぬ執念をもって、その日の来るのを待ちうけていた島兵衛である。三人の息子と、一人の娘を、その日のために、おのれの思うがままの職人、芸人にしたてあげて、手足のように動かして来たのである。
ただの趣向を用意しているはずはないのだ。
≪どぶ≫は、小松九郎兵衛が十日の猶予をやると島兵衛に約束した以上、自分も腕をこまねいて、待つよりほかはなかった。
祈願成る
五重《いつえ》の杜《もり》の霊廟の成った――その日。
土井但馬守光貞の行列が、そこへ到着したのは、辰刻《たつのこく》(午前八時)であった。
森に向って、まっすぐに、二町ばかり参詣道がつくられていた。これには、無数の白い鳥居がならべられてあった。
但馬守は、その参詣道で、乗物をすてた。
その脇にひかえていた裃《かみしも》姿の島兵衛が、
「ご案内つかまつります」
と、いざなった。
侍臣が三人ばかり、但馬守のあとに従おうとすると、島兵衛は、但馬守に、
「おそれながら、お一人にてお願いつかまつります」
と、云った。
「うむ」
但馬守は、侍臣たちに、ひかえて居れ、と命じておいて、島兵衛を先に立たせると、鳥居をくぐって行った。
森はそのままにのこされ、かなりの勾配の石段をのぼると、突如、目の前に、柱も扉も白一色のすがすがしい廟宇《びょうう》が、出現した。
但馬守は、朝陽をあびて、美しい金色に輝く鴟尾《しび》を仰ぎ、
「よう出来たの」
と、云った。
「江戸中の信者が、詣でることになりますゆえ……」
「ははは……、お犬の方信仰が、永つづきするとも思われぬが、その時、白を赤く塗りかえて、狐の方に変えるか」
島兵衛は、但馬守を、木の香のこもった拝殿にみちびき入れて、苦心したところを説明した。
それから、
「奥殿を、ごらん下さいますよう――」
と、すすめた。
但馬守と島兵衛は、拝殿とをつなぐ渡廊へ出た。
「てまえは、ここで、お待ち申し上げます」
島兵衛は、渡廊に、うずくまった。
但馬守は、ゆっくりと渡廊を渡り、奥殿の階をのぼった。
何気なく、扉を左右にひらいた――瞬間。
但馬守は、
「あっ!」
悲鳴をあげて、棒立ちになった。
奇怪な光景が、そこに、在った。
左右へ、対座のかたちにわかれて、四人ずつ――八人の人間が、竝《なら》んでいた。
その左側に竝んでいる人間は、すでに、生命のない屍《しかばね》であった。
但馬守の子ら――長男縫之助、次男万之助、三男真之助、そして菊姫であった。
息は絶えているが、腐敗をふせぐ工夫がされていて、ねむっているような状態を保って、白木の台に支えられていた。
そして――。
右側に居竝んでいるのは、死んだはずの、小源太、多三郎、唐次、それに、お玉が加わって、冷たくひきしまった表情を示していた。
「こ、これは!」
但馬守は、眼球がとび出さんばかりの形相で、歯を鳴らした。
「お殿様――」
背後から、島兵衛の声が、かかった。
「祭壇をごらん頂きましょう」
そこには、お犬の方の霊を象徴する埴輪《はにわ》めいた犬が、まつられてあるはずであった。
ところが、犬の代りに、一基の位牌が、置いてあった。
「その位牌は、お蝶――てまえの女房、この四人の子の母親のものでございますよ」
「……?」
但馬守は、食い入るように、その位牌を凝視したまま、石になったかと思われる。
「お殿様! よもや、お忘れではございますまいが、ここで、あらためて、思い出して頂きましょう。三十余年前のことだ。貴方様は、若年寄になられたばかりであった。その地位を利用して、私腹をこやさんとして、さまざまの奸計《かんけい》を用いて、小大名を改易《かいえき》にし、その蓄えるところの金品を奪いあげられた。
備前二万三千石、小沼主殿頭正則も、その犠牲者の一人であった。貴方様は、小沼家をとりつぶすにあたり、主殿頭息女蝶姫の美貌に目をつけ、これをいったん町家に下げて、おのれの側妾《そばめ》にさし出すならば、二千石ばかりの家に再興させよう、と好餌《こうじ》を投げた。……蝶姫は、これを拒んで、馬廻り百石・黒田島兵衛を、護衛として、江戸市中にかくれひそんだ。きびしい探索の目をのがれて、裏店《うらだな》を転々としているうちに、黒田島兵衛と蝶姫は、いつとなく、夫婦のちぎりをむすび、四人の子を――小源太、多三郎、唐次、玉をもうけた。しかし、この隠れ夫婦の胸中には、若年寄・土井但馬守光貞に対する復讐の念が、燃えつづけた。……
十年を経て、末子の玉が物心つくのを待って、夫婦は、ついに、復讐を遂げる≪ほぞ≫をかためた。島兵衛は庭師となり、蝶は女中となって、土井家へ奉公した。四人の子をなしながら、三十歳の蝶は、なお、みずみずしい美貌を持っていたため、やがて、但馬守光貞が目をつけるところとなった。蝶は、これを好機として、その閨《ねや》へ呼ばれるままに、入った。不運は、蝶が、但馬守に操を与えて、油断させることをせず、からだを閉ざして、生命を狙ったことであった。あせったあまり、但馬守に隙がないにもかかわらず、短剣を突きかけ、苦もなく、ねじ伏せられた。かねて、うちあわせていた島兵衛が、寝室へ忍び寄った時には、すでに、時おそく、蝶は縛りあげられていた。島兵衛は、おのが妻が、縛りあげられたまま、但馬守光貞に、犯されるのを、目撃しなければならなかった。……
左様、蝶が、犯されている最中に、舌を噛んで相果てた光景が、昨日のことのように、まざまざと、甦《よみがえ》って参る。黒田島兵衛は、この時、わが生命あるかぎり、十年二十年、たとえ三十年かかろうとも、必ず、土井光貞に、復讐せん、とおのれに誓うた。その復讐は、土井家をして、この世から根絶やしにすることであった。そのためには、土井家の子息らが生長するのを待って、これを一挙に、屠《ほふ》ることによって、但馬守光貞に、復讐の鬼となった者の執念のおそろしさを、骨髄にまで思い知らせてくれる、と覚悟した」
島兵衛ののろいの言葉は、つづく。
「黒田島兵衛は、幼い四人の子らに、主家の悲運、その母親の非業の最期を告げて、土井但馬守光貞に対する復讐のために、生命をすてよ、と誓わせた。……こうして、二十余年の歳月は、流れた。……黒田島兵衛が、一念こめて企てた復讐は、見よ、かくの通りに、成った。土井但馬守光貞! 茨城三万石土井家は、今日を以て、滅びるのだ!」
「ああっ!」
但馬守は、呻《うめ》きを発して、遁《のが》れようとした。
島兵衛は、老人とも思われぬ敏捷な身ごなしで、但馬守を、奥殿の中へ突き込んだ。
とたんに、その扉は、自然に、さっと閉じられた。
「ああっ! ゆ、ゆるせっ!」
但馬守は、絶叫して、扉に、しがみついた。
島兵衛は、厳然として、
「小源太! 多三郎! 唐次! お玉! ……よいか、いま、お前らは、滅んだ主家と母のために、うらみをはらすがよい! 断じて、容赦をするな!」
と、命じた。
そして、ゆっくりと、渡廊をわたって、拝殿へ、ひきかえして来た。
そこに――。
小松九郎兵衛と≪どぶ≫が、異様な緊張をみせて、待っていた。
島兵衛は、庭師ではなく、小沼主殿頭家臣黒田島兵衛に還った態度で、一礼して、
「いま、おききとどけ下されたごとく、それがしが、生涯をかけた復讐は、いま、成り申した。十日間の猶予をお与え下され、そのまま、わが復讐を、看《み》のがして下されたご厚情、なんとおん礼を申し上げてよいか、言葉もござらぬ」
と、感謝した。
小松九郎兵衛は、≪どぶ≫に、目くばせしておいて、島兵衛に向い、
「われら町方は、お犬の方の怨霊が、地上より消えはてるのを、のぞんで居り申す。したがって、この霊廟が、烏有《うゆう》に帰すことは、大いにねがうところでござる」
と、云った。
二人は、島兵衛をそこにのこして、参詣道とは、反対方角の裏手の野道へ、ぬけ出した。
森から二町もはなれた時であった。
轟然たる音響とともに、森の中から、火柱が噴いて出た。
「これで、≪けり≫がついたな」
九郎兵衛は、深い感慨をこめて、つぶやいた。
≪どぶ≫は、ただ、口をへの字にひきむすんで、みるみる燃えあがる霊廟を、見まもるばかりであった。
土井家の家臣一同が、参詣道を奔《はし》ったが、凄じい火勢の前に、石段をのぼることさえも、かなわなかった。
見まもる≪どぶ≫は、一時に疲労をおぼえて、そこへすわり込みたくなっていた。