[#表紙(表紙.jpg)]
岡っ引どぶ
柴田錬三郎
目 次
第四話 火焔小町
第一の死人
第二の死人
幼女あわれ
女恋
あぶり出し
土蔵の中
相馬大学
こより
壁の中
火焔決闘
第五話 御殿女中
春猿
大奥
新参打ち
お鈴廊下
黒髪部屋
≪ちゅうろう≫全滅
秘密の鍵
下手人
大団円
第六話 京洛殺人図絵
京の男
岡っ引、西へ
京童《きょうわらべ》
美女桜子
わらべ唄
友禅染め
惨死
五条家口伝
有馬右京
打掛
黄金餓鬼
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第四話 火焔小町
第一の死人
「うっ! さむい。骨の髄《ずい》まで、こたえやがる」
胴ぶるいして、どぶは、大声をあげた。
ここは、深川木場の材木置場。
つなぎあわせた筏《いかだ》の上へ、腰を下《おろ》して、夜釣りをやっているのであった。
師走に入《はい》って、もう十日――数日前には、小雪もちらついた。
べつに、酔興《すいきょう》に思いたって、夜釣りをしているわけではない。町小路家の正月の雑煮の≪だし≫用に、寒はぜを釣ってやる、とお小夜にうっかり約束したのが、運のつきであった。
今日午后、町小路家へ顔を出すと、お小夜は、まるで、どぶがやって来るのを見通していたように、夜釣り道具に、酒と肴《さかな》を添えて、
「はい、親分、お願い申します」
と、さし出したのである。
どぶが、
「吉原の朝がえりに、酔いざめのひと釣りとしゃれてえんだが……」と、ぐずると、お小夜は、笑いながら、
「夜釣りのために、殿様が、この南蛮《なんばん》渡りの燭台《しょくだい》を出して下さいました」
と、示した。黄銅でつくられた四角な照明具であった。
「カンデヤ、というのですって。はぜが、この灯を慕うて寄って参ります」
そう云われては、腰を上げざるを得なかった。
風のない、おだやかな宵であったが、陽《ひ》が落ちて、半|刻《とき》も経つと、しんしんと寒気が、おしつつんで来る。
酔いは、さっぱり、四|肢《し》にまでめぐらないのであった。
「これで、風邪《かぜ》をひき込んでも、看病してくれる女はいねえのだから、なさけねえ」
自分の家さえ持たぬ男であるから、寝込むことがいちばん禁物である。
「は、はっ、はっくしょい!」
大きなくしゃみをしてから、どぶは、またひとつ胴ぶるいした。
とたんに、ぞくっと、背すじを悪寒《おかん》が、匍《は》った。
ひろい材木置場に、他に釣人の影はなかった。
昏《く》れがた、どぶが現れた時には、数人いたのだが、いつの間にか、去ってしまっていた。
≪あたり≫が来て、また一尾、釣りあげたどぶは、
「これで、十尾か。十尾ありゃ、≪だし≫になるだろう」
自分に云いきかせて、なまぐさくなった手を洗おうと、身を跼《かが》めた。
と――。
その指さきに、藻《も》のようなものが、ひっかかった。
つかんで、ひきあげてみると、それは、人間の頭髪であった。
筏《いかだ》の下に、土左衛門がいたのだ。
「ちょっ! どうも、ただの悪寒じゃねえと思ったぜ」
どぶは、その黒髪を、ぐいとひっぱってみた。
しかし、水死体は、どこかに引っかかっているらしく、動かぬ。
「しょうがねえ」
どぶは、仕込み十手から、双刃《もろは》の刀を抜いて、筏の組縄を、切りはなした。
水死体は、丸太の裏側へ、吸いつくようにして、ただようていた。
男であった。
「よいしょ!」
どぶは、力をこめて、筏の上へ、ひきずりあげて、カンデヤの灯で、照らしてみた。
旅の薬売りのいでたちであった。
どぶは、肩や背中に数太刀《すうたち》の兇刃《きょうじん》をあびているのをしらべて、
「腕の立つ野郎が、斬《き》りやがったらしい。しかし、とどめの突きは、加えていねえな」
絶対に生かしておけぬ襲撃ならば、必ずとどめを刺しているはずであった。
どぶは、屍体《したい》をごろりと仰向かせてみて、
「おや?」
と眉宇《びう》をひそめた。口に、竹筒をくわえたまま、事切れているのであった。
「どういうんだえ、これア?」
竹筒をくわえていることは、追われて、逃げ道を失い、この筏の下へとび込んで、筒さきを水面にうかべて、呼吸をしていたと考えられる。
つまり、路上で、肩や背中を斬りつけられながらも、屈せずに、奔《はし》ったに相違ない。
そして、海中にかくれたのだが、汐水《しおみず》に重傷の身を漬《つ》けていれば、当然、血は流れ出つづけて、ついに、二度と、浮かびあがることはかなわなかったのである。
それにしても、これは、ただの薬売りにできるわざではない。
どぶは、その懐中をさぐってみた。
油紙に包んだものが、出て来た。披《ひら》いてみると、秋葉神社の本山の護符《ごふ》であった。それにもう一品、飛騨路の通行手形であった。利吉という名が記してあった。
「ふうん!」
どぶは、首をひねった。
「この手形は、ほんものらしいが……、どうも、くせえ」
そう呟《つぶや》いた時であった。
闇《やみ》の中から、鋭く宙を截《き》る手裏剣の音が、唸《うな》って来た。
反射的に、どぶは、筏の上に匍《は》いつくばって、そいつを、頭上に飛ばした。
第二の手裏剣が、飛来するのを警戒して、カンデヤを水中へ蹴落《けお》としたが、そのまま、闇は、静かであった。
「へっ! 追手が、まだ、このあたりを、うろついていやがることは、おれに手がかりをつかませてやろう、と親切に教えてくれているようなものだぜ。……待っていやがれ。いまに、とっつかまえて、白州へひき据《す》えてくれるぞ」
どぶは、むっくりと起き上った。二度と、目に見えぬ敵の襲撃はなかった。
「という次第でございまして、へい」
どぶは、町小路家書院の縁側の日だまりに端座する左門に、昨夜の一件を語って、指示を待った。
左門の膝《ひざ》には、一羽の小雀《こすずめ》がいた。飼《か》い馴《な》らされた雀は、左門のてのひらをつついたり、きいた風《ふう》に羽づくろいしたりしている。
左門は、口をひらいた。
「半年ばかり前に、奥州路へ旅立った公儀庭番がいた。薬売りになって、利吉という名を持って行ったが、消息を絶って、今日に及んで居る」
「そ、その隠密でございますぜ、あの土左衛門は!」
どぶは、小さな目を光らせた。
「奥州路へ行った者が、どうして、飛騨路通行の手形を、持っていたか?」
「奇妙な話でございますね」
「利吉――と称した庭番は、奥州路からの帰途、なにか重大な事柄を耳にして、自身一個の思案で、飛騨路へ、飛んだのかも知れぬ。そして、そこで、証拠をつかんだ。それが、敵に感づかれて、追われた。深川までもどって来たところを、襲われて、手負うた。手負うたが、公儀|隠密《おんみつ》ゆえ、倒れずに、遁《のが》れて、木場へ出て、海水へとび込んだ。筏の下に身をかくして、竹筒で呼吸していたが、ついに、力つきて、絶命した。そうであろうか」
「あっしが、その筏の上で、のんびりと、酒をくらいながら、寒《かん》はぜを釣っていた、ってえわけで――」
「死体にたわむれていたはぜをな」
「ぶるぶるっ! 冗談じゃありませんや。あのはぜを、お小夜さんに、目出度《めでて》え正月の雑煮の≪だし≫にさせるわけには、参りません」
「一向に、さしつかえない。死体が下にいることを報《しら》せてくれたはぜどもだ。けなげな魚《さかな》ゆえ、≪だし≫にふさわしかろう」
「お小夜さんに、きかせたら、ふるえあがって、ほうりすてますよ」
「黙っておればよかろう」
「へえ。……しかし、あっしも、年賀にうかがって、雑煮を頂戴する時、なんとなく、気持がわるくなるんじゃねえか、と……へい、思いやす」
「お前ほどの図々《ずうずう》しい男でも、正月には、縁起をかつぐのか。……非業《ひごう》の最期を遂げた者のうらみの方は、どうする? 雑煮をくらうまでに、うらみをはらしてやれ。そうすれば、はぜの≪だし≫は、さぞ、味がよかろう」
「へい、判《わか》りました。早速《さっそく》――といっても、ちょっと、どこへあたりをつけていいか……」
どぶは、腕を拱《こまね》いた。
左門が云った。
「その筏は、何屋の焼印が捺《お》されていたか、見とどけて来たであろう?」
「へい。あの一帯は、檜《ひのき》屋という材木問屋の筏が浮んで居ることは、知って居りますが……、それが、土左衛門と、どういうかかわりがある、とお考えなので?」
「隠密のことだ。ただ、どこの材木屋の筏とも知らずに、その下へひそんだのではなく、ちゃんと、かくれ場所に意味を持たせたのかも知れぬ」
檜《ひのき》屋政右衛門。
「檜政《ひのまさ》」と称《よ》ばれているその材木問屋は、近年、にわかにのしあがって来た商人であった。
材木問屋というのは、五代、六代とつづいているのが普通で、一代で築きあげたという店は、まず、最近では、「檜政」ぐらいのものであった。
その前身は不明である。当人もしゃべらぬし、番頭たちも知らぬ。
十年ばかり前、主人が中風で長年倒れて左前になっていた「木曾屋」という店を、そっくり買いとって、数年|経《た》たないうちに、木場で随一の取引きをするまでにのしあがった。
いまでは、川辺一番組問屋を牛耳《ぎゅうじ》っている。
しかもまだ、四十を出たばかりの働き盛りで、押し出しも立派だし、人柄も良い。
つまり、前身が不明、というだけで、商人としては、まず一流にかぞえられる男であった。
大いそぎで、それだけのことを聞き込みをやったどぶは、
「当ってくだけろだ」
と、その店へ足をはこんだ。
木場の問屋は、他の問屋とちがって、店がまえは大きいが、常時ひっそりとして、店に人影もない。
「おう――ごめんよ」
どぶが、どなって、しばらくしてから、奥から番頭が、出て来た。
「いらっしゃいまし」
どぶは、木場の匂《にお》いをもった初老の番頭を、じろじろと眺《なが》めて、
「おめえ、木曾屋から、店にくっついて、檜政に買われた番頭か?」
と、問うた。
番頭は、おそろしくうすぎたない装《なり》の岡っ引を、けげんそうに見かえして、
「それが、なにか、ご不審でも……?」
「ご不審か――ご不審は、買われた時、檜政が積んだ千両箱は、どこから運ばれて来たか、おめえ、きかなかったか?」
「一向に――」
番頭は、かぶりを振った。
「政右衛門は、大層な貫録だそうだが、おめえらに対しては、どうだ?」
「どうだ、と仰言《おっしゃ》ると?」
「気前がいいか、それともケチか?」
「それアもう――」
「日本一の旦那《だんな》だ、と云いてえのだろう。面《つら》にかいてあらあ」
「何を、いったい、おききになりたいので……?」
「会いてえのだ」
「あいにく、ちょっと、所用で出かけて居りますが――」
「よらせてもらうぜ」
どぶは、番頭がとどめるいとまを与えずに、さっさと、上って行くと、奥へ通った。
あわてた番頭が、客間へ案内しようとすると、
「かまってくれるな」
どぶは、図々《ずうずう》しく、あるじの居間をさがして、廊下を進んだ。
「ここかい?」
どぶは、見当をつけて、襖《ふすま》をがらっと開《あ》けた。
まさしく、そこは、あるじの居間であった。
いないはずのあるじが、そこに、いた。
緋毛氈《ひもうせん》を延べて、なにやら値うちものらしい壷《つぼ》やら皿《さら》やらをならべて、観賞の最中のようであった。
政右衛門は、頭をまわして、どぶを視《み》たが、べつに居留守を使ったことをわるびれもせず、
「ご用で――」
と、問うた。
「用がなけりゃ、岡っ引が、ふみ込んで来るわけがねえ」
どぶは、無遠慮に入ると、壷のひとつをとりあげてみて、
「これで、いくらぐらいだい?」
と、たずねた。
「五十両――というところでしょうかね」
「二両や三両のはした金では買えねえ品ばかり、というわけか」
「まあ、そういうところで……」
おちついたものであった。
べつに、どぶをさげすんでいる態度ではなかった。顔にはおだやかな微笑があったし、妙に人を惹《ひ》きつける雰囲気《ふんいき》をもった男であった。
「この店の筏《いかだ》の下に、土左衛門がいた」
どぶは、云った。
「そうだそうですね。はじめてのことですよ」
「どうして、この店の筏の下で、死んでいたかだ」
「というと?」
「この店の筏が、かくれやすかったのじゃねえだろうかね?」
そう云って、どぶは、政右衛門の反応をうかがった。
政右衛門の様子は、すこしも変らなかった。
「木場では、いちばん風の当らない場所なので、波はありませんがね」
――こいつ、相当な曲者《くせもの》だぜ。尻尾を出させるには、ちと手間が、かかる。
そう観《み》てとって、どぶは、腰を上げた。
「流石《さすが》は、木場一番の成金だ。家の中が、凝《こ》りに凝《こ》ってらあ。むこうに、庭もあるんだろ。石ひとつが百両もするんじゃねえのかな」
「どうぞ、ご随意に、見て頂きましょう」
「遠慮はしねえ」
どぶは、廊下へ出ると、ついて来ようとする番頭に、「おめえには、算盤《そろばん》でもはじいていてもらおう。岡っ引は、勝手に歩きまわるのに、馴《な》れているんだ」
と、しりぞけた。
不服げな番頭を、そこにのこしておいて、さっさと庭へ出たどぶは、意外にも、白砂に二つ三つの青石を配しただけの簡素なたたずまいに、
「ふん――」
と、鼻をならした。
庭のむこうに、土蔵が三|棟《むね》、白い壁を浮きあげていた。
「鬼が棲《す》むか、蛇《じゃ》が棲むか!」
どぶは、庭の白砂を横切って、土蔵へ近づいて行った。
と――。
「もし――、なんてことをしなさる!」
けわしい声で、とがめる者があった。
ふりかえると、母《おも》屋と別棟のあいだから、白髪の下男が、出て来て、
「冗談じゃないよ。その青海波に、足跡をつけられては――」と、どぶを睨《にら》みつけた。
たしかに、白砂は、きれいな波形に箒目《ほうきめ》をつけられていたのである。
ところどころに置いてある青石は、島とみたてているわけである。
それを承知で、どぶは、わざと、踏みあらしたのである。
「ケチなことを云うねえ。岡っ引に、風流っ気なんぞ、あってたまるけえ。……また、掃《は》きゃいいだろう」
「青海波をつけることが、どんなに大変だか、おわかりじゃないだろうよ。ご主人だって、この庭へ降りなさったことはないのだ」
「ふん。するてえと、この庭を白砂にしているのは、誰《だれ》も歩かせねえためか」
「眺《なが》める庭だよ。京の竜安寺のようにな」
それをきいて、どぶは、にやりとした。
この白砂だけの庭には、意味がある、と思ったのである。
檜政《ひのまさ》が、よもや、縁側に結跏趺坐《けっかふざ》して、禅境に入るために、つくったとも思われなかった。普通の商人ならば、庭に金をかけるとすれば、泉水を掘ったり、築山を設けたり、ごてごてと石組みしたりするところである。それをせずに、こうして一見簡素な風趣をつくったのは、主人に枯淡《こたん》の心境がない限り、ほかに目的があってのこと、と解釈してよいのだ。
「そうか。つまり、これア海だ。海なら、人間の足ではわたれねえ。だから、あのならび土蔵には、誰も近寄れねえわけだな」
そう云いすてると、どぶは、悠々《ゆうゆう》と、青海波を踏みつけて、進んで行った。
下男は、舌打ちして、そのうすよごれた後姿を見送った。
対手《あいて》は、岡っ引なので、一応とがめたものの、追いはらうわけにもいかなかった。
どぶは、まん中の土蔵が、重い鉄|扉《ぴ》を左右にひらいているのを見て、それへ、まっすぐに、近づいた。
金網戸が、閉められている。
どぶは、その金網へ額をくっつけて、のぞき込んだ。
白砂が陽《ひ》に映えたまぶしい明るさの中から、急に、土蔵の内部をのぞいたので、まっ暗に思われたが、目が馴《な》れると、がらんとした板敷きに、人が一人、うずくまっているのが、見わけられた。
浪人者である。
――そうか。こいつが、関根重蔵という野郎だな。
どぶは、聞き込みで、浪人者の食客がいることを、知っていたのである。
関根重蔵というその浪人者は、なんでも、槍《ひのき》屋政右衛門の義理の弟にあたるとかで、ただの用心棒ではないという。
手なぐさみに、花火をつくって、深川|界隈《かいわい》の玩具《おもちゃ》屋におろしているが、子供が遊ぶにはもったいないほどの巧緻《こうち》なものであるという。
噂《うわさ》をきいて、花火屋の筆頭である両国吉川町の玉屋が、訪れて、是非とも打上花火を作ってみて欲《ほ》しい、と懇望したものであった。しかし、関根重蔵は、にべもなくことわった。
べつに、金が欲しくて作っているのではなく、子供たちをよろこばせてやろうと思っているだけのことだ、というのがことわり文句であった。
しかし、花火つくりというのは、年期が入っていなければならぬし、殊《こと》に、割薬(炸《さく》薬)の調合は、素人《しろうと》ではとうていできないことなので、関根重蔵が、見事な煙火玉《はなびだま》を作るのは、どこかで、永年の修業をしたものに相違ないのであった。
それを、どうして、金もうけにしようとしないのか、近所の人々は、疑問にしている。
どぶは、それだけの聞き込みをやっていた。
「へい――ちょいと、ごめんなすって」
どぶは、土蔵の金網戸を、がらがらと開いた。
「なんだ?」
ふりかえった浪人者の顔を、一|瞥《べつ》したとたん、どぶは、ぞくっと悪寒《おかん》をおぼえた。
顔の半面が、べっとりと朱あざであった。
「旦那《だんな》は、ここで、花火づくりに精を出しておいでなんで――」
「お主《ぬし》、どうやって、この土蔵へ来た?」
「へい、海を渡って参りました」
「庭を踏みあらしたのか」
「ごらんの通り、人にいやがられる岡っ引|稼業《かぎょう》なんで――、あちこち見せてもらうには、迷惑をかけねえわけには、いきませんや」
「どんな御用筋だ?」
「なにね、土左衛門が一人、筏《いかだ》の下にいただけのことでござんすがね」
「それが、筏の持主と、なんのかかわりあいがあるのだ?」
「あるか、ねえか――それを、しらべに来てみたってえわけなんで、へい」
関根重蔵はどぶに背を向けると、また花火作りをつづけはじめた。
「うかがいやすが、旦那は、どこで、その仕事をおぼえなすったので?」
「火術を学んだ者は、こんな玩具をつくるのは、造作もない」
「へえ、旦那は、火術を修業なすったので?」
「わしに、大砲をつくらせれば、ただの一発で江戸城を燃えあがらせてみせる」
途方もないことを、平然と口にした。
――こいつもまた、相当な曲者《くせもの》だぜ。
これ以上、尋問しても、肝心なことは、絶対にしゃべるまい、と思って、
「どうも、お邪魔さまで――、ごめん下さいまし」
どぶは、ひとまず、ひきあげることにした。
土蔵と土蔵のあいだを抜けると、通路があることを、ちゃんとたしかめることは忘れなかった。
第二の死人
どぶが、町小路邸をおとずれて、檜政についての報告をしている時であった。
町方同心の小松九郎兵衛が、姿をみせた。
いつもは、きわめておちついているこの初老の同心が、今日《きょう》は、ひどくあわただしい足どりで、庭から、左門の居間へ、近づいて来た。
「妙な異変が、起りました」
そう告げて、縁側に上って来た。
「なんだな?」
「須田町から八辻原へ出るところに、秋葉神社がございます」
「うむ」
「火除《ひよ》けの御利益あらたかで、元禄の頃からここだけは、類焼をまぬがれて居ります。……ま、八辻原を前にして、ヌちらからの風をも、うまくかわす位置にあるゆえと存じますが、冬場のお賽銭《さいせん》は、神社では随一といわれて居ります。……今朝《けさ》がた、この境内の奉納堂に、浪人が三名、逆さに吊《つる》されて居りました」
どぶは、それをきくと、目を剥《む》いた。
「秋葉神社に、逆さ吊りとは、変てこらいなまねをしやがる。小松の旦那《だんな》、ごらんなすったので――?」
「うむ、見た。なんともうすぎたない風体の連中であった。――誰《だれ》が、どういう意趣でやったか――そこいらを、聞きまわってみましたが、見当もつかぬままに、お報《しら》せに参った次第でありますが……」
「死体には、どんな傷が、ついていたな?」
左門が、たずねた。
「無慙《むざん》な拷問《ごうもん》の痕《あと》が、四肢《しし》にのこって居りました。あるいは、何か、口を割らせようとして、責めたものか、と考えられました」
「斬《き》っては居らぬのだな?」
「はい。責めて責めて、責めぬくうちに、息が絶えた。そのように、見受けました」
左門は、しばらく、沈黙した。
九郎兵衛もどぶも、左門の次の言葉を、息をつめて、待った。
やがて、左門は、口をひらいた。
しかし、低くもらしたのは、ごく平凡な言葉でしかなかった。
「秋葉神社が、舞台か」
それだけで、また、沈黙した。
九郎兵衛は、もうあとは、左門の口からは、何も吐かれぬ、とみてとって、
「てまえは、今日中に、浪人たちの身許《みもと》を割りたく存じますゆえ、これにて――」
と、座を立とうとした。
すると――。
「待て。その仕事は、どぶに、まかせるとよい」
左門は、そう命じた。
「へい、合点《がってん》!」
どぶは、さっと、腰をあげた。
九郎兵衛は、あとにのこった。
左門が、九郎兵衛に、どのような指示を与えるのか、どぶは、わからぬままに、
「へっ! だんだん、忙しゅうなりやがった」
と、云いすてて、とっとと、裏門を出た。
出たとたん、どぶの脳裡《のうり》に、ひとつ直感が、ひらめいた。
――秋葉神社か! あの筏《いかだ》下の土左衛門も、秋葉神社の護符を持っていたぞ!
須田町の秋葉神社で、逆さ吊《づ》りされていた浪人三名の身許は、その日のうちに割れた。
どぶのすばやい働きによるものだった。
浪人たちは、いずれも、その死体を一|瞥《べつ》すれば、裏|店《だな》で、傘《かさ》張りや楊枝《ようじ》けずりなどをやって、ほそぼそとくらしている尋常の連中とはちがい、あちらこちらの博奕《ばくち》場でごろごろして、その日の風まかせに生きている手輩であることが、明らかであった。
ところが――。
こういう手輩の身許を割るのは、かえって、むつかしいのであった。
世間から疎外された者たちが、落葉が吹き溜《だま》るように集った世界では、かえって、互いに、妙な集団意識を持って、かばい合うのである。
何を尋問しても、
「知らねえ」と、かぶりを振って、絶対に口を割ろうとはしないのであった。それを、百も承知のどぶが、浪人三名の身許をつきとめるには、それだけの年期が入っていたことである。
どぶは、あぶれ者たちの溜り場を、片はしから歩きまわった。
そして、一風変った鉄火場が、薬研堀《やげんぼり》の近くにあるのを、知った。
そこは、定火消《じょうびけし》――ガエンばかりが集るところであった。
火消には、定火消、大名火消、そして町火消の三種類がある。
町火消は、いろは四十七組に、本所・深川十六組が加わり、町奉行の命によって、任に就《つ》く。頭取、かしら、まとい、梯子《はしご》、鳶《とび》及び人足の階級にわかれる。この連中は、平素は普請とび場の足代地固めなどをやっているので、仕事師と呼ばれている。
大名火消は、その名のごとく、各大名家が、それぞれ擁している隊で、その火事装束に華美を競うので、有名であった。就中《なかんずく》、前田家の加賀鳶は、百万石の威勢を示して、他を圧した。
定火消は、公儀直属で、火消屋敷に住み、四千石以上の旗本が、火消役に任じ、与力を置いて、いわば、ひとつの軍隊組織になっていた。
定火消を、ガエンと呼ぶのは、たとえ極寒の頃《ころ》でも、素|肌《はだ》に法被《はっぴ》一枚をまとって、男の意気を示しているからであった。満身の文身《いれずみ》を競い、白|足袋《たび》はだし、髪のゆいぶり、法被の着こなしに、江戸っ子たることを誇った。
しかし、それは、慶安の頃、定火消が設けられ、江戸の華《はな》である火事に大いに働きを示し、宝永、正徳の時代に、江戸っ子を代表するものとされていたために、理非をわきまえ、義侠《ぎきょう》心も強かったのであるが、時代が下るにつれて、しだいに、世間に無理が通るところから、悪事を為《な》す者も多くなって来た。
この時世では、その半ばは、博奕と酒色にふけって、金がつまると、小悪党と化す手輩であった。
江戸っ子の心意気は、むしろ、町火消の方に移っていた、といえる。
なぜなら、町火消は、万事|頭《かしら》の世話を受けて人となるので、親分子分の関係が色濃く、しぜん、情義が厚くなったからである。頭《かしら》――親方となっている者は、自らを男の中の男と任じて、一|諾《だく》千金を重しとして、世間の信用を受けていた。顔役というのは、この町火消の親方を称したもので、七十、八十の高齢になっても、数百の部下を威圧する貫録をそなえていた。その品位に於《おい》て、博徒の親分などは、問題にならなかった。
これに対して、定火消は、指揮者が武士であるために、親分子分の関係が生れず、かれらは、平常は、取り締ってくれる者を持たなかった。したがって、火事がない日は、遊興にふけるよりほかに、すごし様がなかったのである。
ガエンは、むしろ、市井にあっては、いささか迷惑な存在であった。
その溜《たま》り場ともなれば、しぜん、あぶれ者が多く出入りするようになる。
しかし、公儀直属である以上、公然と賭場《とば》をひらくのは許されず、その溜り場は、仲間うちだけしか知らない場所であった。
どぶは、そこを突きとめた。
それは、近年|改易《かいえき》になった旗本大身の屋敷であった。母屋《おもや》はとりはらわれていたが、倉が数|棟《むね》のこっていて、その中で、毎夜、博奕《ばくち》が開帳されていたのである。
夜半――。
どぶが、のそりとふみ込んだ時、十人あまりのガエンに、吉原あたりの地|廻《まわ》り、用心棒の日|傭《よう》取りをやっている浪人者、莫蓮《ばくれん》女などが加って、血走ったまなこを、賽《さい》の目へ集めていた。
どぶは、しばらく見物していてから、一人の浪人者が、ついにすってんてんになって、落伍するのを見てとってから、そばへ寄った。
「おめえさんの仲間が、逆さ吊《づ》りになったが、この次は、おめえさんにも、お鉢がまわってゆくんじゃありやせんかね」
そう云いかけた。
浪人者は、じろっと、どぶを見やって、
「おれと、杉江らとは、つきあいはなかったぞ」
と、こたえた。
――うまく、乗って来やがった。
どぶは、内心にやりとした。
あの三名と、この浪人者が、知りあいであったかどうかさえも、どぶは、知ってはいなかったのである。
ただ、いきなり、当ってみたにすぎぬ。
「へえ――。杉江さんたちのやったことに、おめえさんは、一度も加って居《お》らん、と云いなさる?」
「冗談ではない。おれは、いかに金に窮しても、押込み強盗などはやらぬ!」
「だが、誘われたことは、たしかに、誘われた、というわけで――?」
「誘われもせぬぞ!」
「誘われもしねえのに、どうして、杉江さんたちが、押込みをやった、と判《わか》りなさる?」
どぶに突っ込まれて、浪人者は、はっと、われにかえる表情になった。
――しまった! 口をすべらせた!
浪人者の面上には、その後悔の色が惨《にじ》んだ。
どぶは、冷やかに、その狼狽《ろうばい》ぶりを見まもっている。
「よけいなことを、きかんでくれ」
浪人者は、かぶりを振った。
「ちょいと、おもてへ出て頂けませんかね」
どぶは、さそった。
「おれは、何も知らん!」
浪人者は、蒼白になって、かぶりを振った。
ガエンの一人が、
「おい、なにを、因縁つけてやがるんだ、そこの岡っ引――。てめえの入って来る場所じゃねえぞ。とっとと出てうせやがれ!」
と、呶鳴《どな》った。
「御用筋だ。おめえらの知ったことじゃねえ」
「何をっ!」
血相変えて、突っ立つのへ、どぶは笑いながら、
「へたにさわぐと、かえって、おめえらの損になるのじゃねえのか。世間の目をはばかっているこの場所ではな」
と、きめつけた。
その通りであった。
ここは、秘密の溜《たま》り場であった。もし、町奉行所から、火消役の旗本の方へ、通告されたら、ここがとりつぶしになるばかりか、幾人かが、縄《なわ》をかけられる憂目に遭《あ》うことになろう。
「その浪人さんに用があるなら、おもてで話をつけろい」
年配のガエンが、云った。
どぶは、さきに倉を出て、浪人者を待った。
浪人者は、しぶしぶ出て来た。
「杉江さんたちは、昨夜、どこへ、押込みをやりましたかい?」
どぶは、月あかりに、浪人者を見すえながら、問うた。
「どこか、知らん――」
「知らんはずはねえ」
「知らんと申したら、知らん!」
烈《はげ》しく否定する浪人者へ、どぶは、すっと手をのばした。
「な、なにをする!」
あわてて、退《さが》ろうとした時には、もう、どぶの手に、対手《あいて》の腰の差科が、抜き取られていた。
どぶは、月にかざしてみて、
「ふん――、まだ、人を斬《き》ってはいねえらしい」
と、云った。
「か、かえせ!」
「かえすかわりに、ふたつ三つ、峰撃《みねう》ちなどを、くらわせるか」
「ば、ばかな――」
「おいっ、二本差し! ただの岡っ引と思ったら、とんでもねえぞ!」
どぶは、ぴたっと地|摺《す》り下段にかまえて、
「いいか、これは、一刀流極意のさざ波というやつだ。こうして徐々に切先をゆれさせつつ、刀身を挙《あ》げてゆく。上段に移った刹那《せつな》――」
えいっ、と凄《すさま》じい気合もろとも、まっ向から、撃った。
その一|閃《せん》は、浪人者の頭髪にふれる空間で、ぴたっと、停止した。
浪人者は、どぶの手練に、完全に≪きも≫をつぶした。
「さあ、教えてもらおうぜ。あの三人の≪ごろんぼ≫が、どこへ押込みをやらかしたか――」
「わ、わしは、たしかに、さそわれた」
「云わねえでも、わかっていらアな。で――どこだ?」
「それが……、杉江は、はっきりとは、申さなんだ」
「嘘《うそ》をつけ!」
「い、いや、嘘ではない。ただ、木場、とだけ申して居《お》った」
「木場だと?」
「左様――、木場ということは、はっきりと、申していた」
「檜政《ひのまさ》、とは云わなかったか?」
「い、いや、申さなんだ。ただ、木場、と――」
「わかった。あの三人は、借金で首がまわらなくなっていたんだな?」
「たしかに――」
「誰《だれ》から、借りていた?」
「ガエンの鶴吉から、借りて居った」
「鶴吉だな。まちげえねえんだろうな?」
「まちがいはない。小町の鶴吉だ」
「小町の――? やけに、しゃれた二つ名を持っていやがる」
どぶは、もう一度、倉の中へ入って行った。
とぐろをまくガエンたちを見まわして、
「ふん、この中には、小町と異名のつく野郎は、いねえようだな」
と、云った。
「てめえ、鶴吉をさがすのか?」
「どこにいる?」
「知らねえ」
「知らねえはずはねえだろう」
「知らねえったら、知らねえ」
どぶは、どっかと腰を据えた。
「ひとつ、ひまをつぶしてゆくか」
「鶴吉をさがすのなら、ひまはねえはずだぞ」
「つべこべぬかすな。それとも、岡《おか》っ引は入れねえ、というのか?」
「そんなことはねえ」
どぶは、博奕《ばくち》に加った。
はなっから、つきまくるということは、この男には、曾《かつ》てないことだった。ところが、この夜だけは、つきまくった。
一刻も経たないうちに、金の大半は、どぶの前に集った。
ガエンたちは、うんざりした顔つきになって、
「岡っ引に、有金をかっさらわれちゃ、やりきれねえ」
と、ぶつぶつぼやいた。
「べつに、持って行こうとは、云わねえ」
「どういうんだ?」
「鶴吉の居|処《どころ》を教えるなら、のこしておくぜ」
どぶは、ガエンの一人の口から、小町の鶴吉は守田座へ毎日かよっている、ときき出した。
なぜ、日参しているのか、その理由は、誰も知らなかった。
江戸の芝居の繁盛は、いまや、その頂点に達した観があった。
堺町に中村座、葺屋《ふきや》町に市村座。そして、遠くはなれて、木挽町の河岸《かし》通りに、守田座があった。
町木戸を一歩入ると、軒下に紋所を打った暖簾《のれん》と番|提灯《ちょうちん》をつるした茶屋と、よしずばりの見世さきに茶|釜《がま》をすえた小茶屋を、左右にしたがえて、十三間の間口をもった大建物が、どっしりと据っている。屋上には、黒幕をひきまわし、梵天《ぼんてん》をたてた櫓《やぐら》をあげている。檐《のき》上には、鳥居風の絵看板が、華《はな》やかに、客の目をひき寄せる。
次の日の午《ひる》すぎ――。
≪やぞう≫をきめたどぶが、首を振り振り、
白|鷺《さぎ》が、白鷺が
小首かたげて、二の足ふんで
やつれ姿に、水鏡
顔に似合わぬ良い声で唄いながら、守田座の前へ、やって来た。
「おうごめんよ」
「おや、親分、お珍しい」
当り役者の声色で客を呼び込んでいた木戸番が、首をのばした。
「ごめんよ、ごめん――木戸御免」
どぶは、鼠《ねずみ》木戸を通った。
舞台は、二番目の世話物で、三代目菊五郎が、気持よさそうに、法界坊を演じていた。
どぶは、花道沿いに、すいすいと身軽く歩きながら、小さな目を鋭く光らせていたが、
――あいつだな!
と、ひとつの顔を、つかまえた。
役者にしたい佳《よ》い男――という評判が、ガエンの鶴吉のものだったのである。
――なるほど、佳《い》い面をしてやがる。
眉《まゆ》が青く秀でて、切長《きれなが》の双眸《そうぼう》が冴《さ》えている。鼻梁《びりょう》のかたちのよさ、きりっとひきしまった口もと。すべての造りが完|璧《ぺき》なら、ただよわせる雰《ふん》囲気も妖《あや》しい、といっても誇張にはならぬ。
こんな色男は、そこいらにザラに、いるものではない。
そのまわりの女たちが、あきらかに、おちつかぬ様子を示しているのも、そのためと受けとれる。
容|貌《ぼう》に関する限り、どぶは、なんともみじめな劣等感を持っているだけに、こんな色男を見ると、本能的な敵意にかられる。
――あん畜生、あれだけの面を持って生れやがって、ガエンになっていやがるとは、そもそも、それが、怪しいぞ!
きくところでは、鶴吉の背中には、珍しい「雨乞い小町」の優雅なお白粉《しろい》彫りの刺青《いれずみ》がある、という。
お白粉彫りは、ふだんは目に見えぬが、当人が興奮して血をわきたたせたり、あるいはまた、火の熱気に肌が燃えたりすると、にわかに、浮かびあがって来る。
まして、それが、「雨乞い小町」と来ると、女たちが、一度だけでも見たいと、さわぐのはむりもないところである。
「雨乞い小町」が、ガエンの背中にあるのは、火にゲンがよい道理で、鶴吉が人気者になる条件はそろっているわけであった。
どぶは、ゆっくりと、「小町の鶴吉」のそばへ、近づいて行った。
鶴吉は、ちらりと、どぶへ一|瞥《べつ》をくれたが、切長の双|眸《ぼう》には、刺すような光があった。
「おめえに、ちょいと、ききてえことがある」
どぶは、懐中から、十手を、のぞかせてみせた。
鶴吉は、無言でうなずいて、立ち上がった。
すると、一斉に、周囲の女どもの視線が、舞台から鶴吉に移った。
いかに、鶴吉の存在が、女どもの関心の的《まと》になっているか、という証拠であった。
どぶは、むなくそがわるいので、遠くはなれて歩いた。
鶴吉の馴染《なじみ》らしい茶屋に入《はい》ると、にわかに、女中連が、がやがやとざわめきたった。
「おめえのように、女にまぶれつかれると、かえって、女がイヤにならねえか?」
どぶは、訊《たず》ねた。
「女は、いいものよ。きれえになるわけがねえ。……ただ、しんそこ、惚《ほ》れてくれる女は、生涯にたった一人じゃなかろうかね、親分?」
「まだその一人にも、ぶっつかっていねえおれには、なんとも返辞のしようがねえやな。……それにしても、おめえは、もてすぎらあ。見ていて、むかむかして来るぐれえだぜ」
「ふん――」
鶴吉は、自|嘲《ちょう》のわらいをもらした。どうやら、相当非情なひねくれ者らしい。そこのところが、また、女どもには、たまらない魅力に相違ない。
「女ってえのはな、親分――。てめえの方から惚れなけりゃ、百人抱いても、みな同じことさ。てめえの方で惚れてこそ、女の本当の味がわかる、と思うぜ」
「で――惚れたことがあるのか?」
「…………」
鶴吉は、なぜか、こたえず、はこばれて来た膳《ぜん》から、銚子《ちょうし》を把《と》りあげて、どぶの盃《さかずき》へ、ついだ。
「御用の筋というのは、なんだね、親分?」
「八辻原前の秋葉神社で、素浪人が三人、逆さ吊《づ》りになっていた」
「知っている」
「あの三人は、おめえから、金を借りて、首がまわらなくなっていたようだな」
「博奕《ばくち》の貸しだ。おれが、強えことを知っていながら、ムキになって、かかって来やがるから、雪だるまになっちまやがったんだ」
「三人は、その借金を返すために、木場へ押込みをしたそうだな」
「……?」
鶴吉は、眉宇《びう》をひそめた。
「どうなんだ、おい? おめえ、奴《やつ》らが、押込みをやったのを、知らねえとは、云わせねえぜ」
「…………」
鶴吉は、にがいものでも流し込むように、盃をかたむけた。
「おう――返辞をしろい!」
どぶは、うながした。
ややしばらく、間を置いてから、鶴吉が、吐き出すように云った。
「間抜け野郎どもよ! おれの冗談を、真《ま》に受けやがった」
「どういうんだ?」
「つまり……、奴らが、返すめどが立たねえ、と居直りやがったから、呶鳴《どな》りつけてくれたんだ。いまどき、てめえら痩《やせ》浪人が、三十両の大金をかせごうというのなら、押込み強盗でもやらかすよりほかはあるめえ、とな。どうせ、やるなら、木場の、檜政《ひのまさ》あたりへ、押込んでみやがれ。そう呶鳴《どな》りつけてやったんだ。もちろん、やらかす度胸なんぞあるはずもねえ、と思ったからよ」
「ふん――。押込んだ先は、檜政か!」
「奴ら、どう血迷いやがったか、本当に押込みやがった。そのむくいが、逆さ吊《づ》りさ。……親分、これは、そそのかした罪で、あっしは、お縄《なわ》ってえことになりやすかい?」
「そそのかした、という証拠はねえからな、ふん縛り様がねえ。おめえも、ふん縛られるはずがねえ、と思ったから、正直に吐いたんだろう」
「図星だ。親分は、話がわからあ」
「親分、親分と呼ぶねえ。柄じゃねえんだ。……ところで、ついでにきくが、おめえ、どうして、あの三人に、檜政を襲え、とそそのかしたんだ?」
「べつに、なんてえことはねえ。どこの馬の骨ともわからねえ野郎が、どの店も五代、六代とつづいた木場へ乗り込んで来やがって、あくどいやりかたで、しこたまもうけていやがるのが、むかっ腹が立っていたんだ。どだい、檜政の、いやに大|風《ふう》にかまえていやがる面《つら》つきが、虫が好かねえやな」
「それだけの理由で、檜政をそそのかしたのか!」
「ほかに、なんの理由がある、というんですかい。……冗談で云ったんだ。これは、神明に誓ってもいいぜ、親分――」
「押込んだのが、檜政なら、奴らを逆さ吊りにしたのは、檜政ということになるな」
「さあ、どうだろうかね。押込んだのはたしかだが、それから、どうなったか――誰も、知っちゃいねえんだ」
鶴吉は、妙に、ぼやかす云いかたをした。
檜政に反感を抱《いだ》いているなら、逆さ吊りの下手人に相違ない、と断言してもよさそうである。
――こいつ、どうして、あいまいな云いかたをしやがるのだ?
どぶは、疑惑をおぼえた。
――檜政について、こいつ、何かを知っていやがるな。
どぶは、筏《いかだ》の下に死んでいた公儀隠密のむざんな姿を想《おも》いうかべた。
――あの隠密を殺した奴と、ごろんぼ浪人どもを逆さ吊りにした奴とは、同一人にちげえねえ。
「鶴吉――」
どぶは、がしがしと頭髪をひっかいて、ふけを散らしながら、
「おめえは、もしかすると、檜政を敵にまわすことになるぜ。土左衛門に、逆さ吊りか、この次は、バラバラにされるかも知れねえな。それが、おめえかも知れねえ」
幼女あわれ
「だんだん、人間どもの足が、早くなって来やがる」
師走《しわす》の寒風が吹きぬける往還を、肩をすくめて、歩きながら、どぶは、つぶやいた。
大|晦日《みそか》が、二日後に迫っていた。
めでたい正月を迎えるために、江戸の人々は、それぞれの仕事を、この数日で片づけなければならないのであった。裕福な者も、貧しい者も、正月というものを生活の区切りにして、心をあらたにするように、さまざまの慣習できめられた時世であった。
腰の曲った年寄も、ようやく物心ついたばかりの子供も、それぞれの仕事を与えられて、いそがしそうであった。
師走に入って、中旬になると、あちらこちらの遊び場、物見の場所は、すべて休みになってしまい、庶民たちは、一斉に、正月を迎える準備に追いたてられるのであった。
まず、≪すす≫はらい。一年間つもった≪すす≫が、上は大名屋敷から下は裏長屋まで、はらわれる。
それがおわった頃、市中いたるところに、年の市が立った。
|〆《しめ》飾りのあきない小屋、餅《もち》つきの音も、師走の風景である。
このあわただしさをあおるように、どこから現れるのか、たくさんの乞食《こじき》が、割竹をやたらに叩《たた》いて、
「節季《せつき》ぞろ、節季ぞろ」
と、わめきたてながら、物乞いに歩く。
どぶは、この年の暮れというやつが、いちばん、きらいである。
さだまったねぐらというものを持たないこの男が、節季になって、することといえば、町小路家の正月雑煮の≪だし≫用に、寒はぜを釣るぐらいのものなのである。
どぶは、あまり手持ちぶさたなので、去年の暮、町小路家の老用人に、
「このお屋敷は、どうして、≪すす≫はらいをしなさらねえんだね。一丁、あっしにやらせてもらえませんかね」
と、申し出たものであった。
すると、用人は、
「ずっと以前、わしは、殿様におねがいしたことがある。殿様は、お笑いになって、お前の顔から、皺《しわ》をとりのぞくことはできまい、と仰言《おっしゃ》った。ひとつ年を取るからというて、あわてて、顔を洗っても拭《ふ》いても、皺はとれぬ、というわけじゃな」
つまり、町小路家は、正月を迎えるのに、格別に多忙にはならぬ。永《なが》年の出入りの鳶《とび》の者が、門松飾《かどまつかざ》りをするぐらいのものであった。
町小路邸が、平常とかわらず、ひっそりとしているのであってみれば、おのが家を持たぬどぶは、ほかにすることはひとつもないわけであった。
しかし、見わたすかぎり、人々がせわしげに動きまわっているのを眺《なが》めると、さすがに、どぶは、独身者のさびしさをおぼえずには、いられなかった。
――こん畜生め! 正月なんて、誰《だれ》がつくりやがったんだ。
思わず、そう叫びたくもなった。
感傷、というものが最もきらいな男なのである。
町小路邸の裏門をくぐったどぶは、物音ひとつきこえぬ静けさに、ほっとする。
――やっぱり、おれの親分は、人間の出来がちがってらあ。正月なんぞ、どこ吹く風と、そ知らぬくらしぶりだ。
ひろい台所をのぞいてみると、小夜が、板敷きに仏具をならべて、せっせと、拭《ふ》ききよめていた。
三河譜代の家であってみれば、仏壇にまつる精霊は多かった。小夜は、べつに、左門から命じられたわけではなかったが、孟蘭盆《うらぼん》と大|晦日《みそか》には、さまざまの仏具を、土蔵からとり出して来て、仏壇を飾ることにしていた。
「あねさんかぶりに、赤|襷《だすき》か――いいねえ」
どぶは、のそのそと近づいて、
「手つだおうか」
「親分!」
小夜は、いつにない、きついまなざしで、どぶを見すえた。
「あの寒はぜは、みんな、すてましたよ」
「いけねえ!」
どぶは、首を縮めた。
「ばれたか」
「冗談ではありません。水死人のまわりを泳いでいた魚《さかな》など、お正月のお雑煮の≪だし≫につかえますか。縁起でもない!」
「殿様、しゃべっちまったのか」
「ご用人とお話なされているのを、わたしは、きいてしまったのです。親分は、どうして、その場で、すてて来なかったのですか?」
「もったいねえじゃねえか。せっかく、水っ洟《ぱな》をすすりあげながら、釣りあげたんだ。土左衛門にくらいついたやつを、つかみあげたわけじゃねえ」
「岡っ引という稼業《かぎょう》をつとめていると、そんなに不信心になるものですか」
「お小夜さん、そんなきれいな顔をして、柳眉《りゅうび》をたてねえでもらいてえな。せっかくの器量が台なしだアな」
「もうこれからは、寒はぜ釣りは、親分にたのみません」
「まアそう云《い》わねえで、節季に、ひとつぐれえは、仕事をさせてもらいてえ。年の暮れが来て、何もすることがねえぐれえ、間抜けたものはねえやな」
「筏《いかだ》の下にいた仏様を、はやくうかばれるようにしてあげる大仕事が、あるじゃありませんか」
「たしかに、下手人を挙《あ》げるのは、盆暮もねえんだが……、どうも、世間があわただしくなりやがると、岡っ引の仕事なんぞ、妙に、ばかげているような気がするんだな」
「…………」
小夜は、けげんそうに、どぶを見まもった。
「人殺しの下手人を、とっつかまえる、という仕事は、やっぱり、こう、花見気分にうかれているとか、祭でワッショイワッショイと騒いでいやがる時などが、いちばん、いいようだな。大晦日とか正月とか――どうも、気分がのらねえやな」
たしかに、これは、本心であった。
どぶは、小夜のかたわらから立ち上ると、
「さて、殿様へご注進だ」
と、云って、廊下へ出ようとした。
「親分――」
小夜が、呼びとめた。
「なんだえ?」
「お殿様は、近頃、よく、夜分にお出かけになります。どちらへお出かけになるか、ご存じですか?」
「へえ、それア初耳だ。そんなに、たびたびかい?」
「ええ、三日に一度は――」
「ふうん。さては、黒板|塀《べい》に、見こしの松の家を、つくりなすったか?」
「なんですか、それは?」
小夜は、不安そうに、どぶを見上げた。
「猫《ねこ》に長|火鉢《ひばち》に、壁には三味線――ヘヘヘ、湯上りの、こう、ふるいつきてえような、すっきりと小|股《また》のきれあがったのが、膝《ひざ》を崩《くず》して、さ、おひとつ――」
と、酌をするまねをしてみせて、
「その流し目が、こてえられねえしかけになっていやがる――という次第に相成りやがったかな」
と云って、にやにやした。
「お殿様は、そんなみだらなお振舞いは、なさいません!」
小夜は、きつい表情になった。
「そうは云いながら、実は、内心、心配で心配で、というわけだろう、お小夜さん――」
「わたしは、ご不自由なおからだで、夜分に外出なさるのを、心配しているだけなんです」
「そのうち、おれがつきとめて、お小夜さんに、教えてやる。しかし、もし、おめかけがいたのだったら、どうする?」
「どうもしません。お殿様が、こうして、お一人で、すごされているのが、おかしいのですもの。おめかけがいても、すこしも、ふしぎじゃありません」
「へえ、大層ものわかりがいいんだな。やきもちを焼かねえのかい?」
「奥様をおもらいになるのより、ずっといいのです」
小夜は、つい、本心を口にしてしまって、はっとなった。
「はは……、ちげえねえ。奥様が、でんと、このお屋敷にすわっちまったら、こちとらも、こうは、気軽に出入りはできねえやな」
どぶは、云いすてて、廊下を歩いて行った。
どぶは、その部屋の前へ来ると、なにげなく顔を出したとたんに、左門から、危険な試練をくらわされたことがあるので、要心しつつ、障子の外から、中の気配をうかがって、
「どぶでございます」
と、声をかけた。
「入れ」
「へい――」
障子を、一寸きざみに開《あ》けてみると、左門は、およそ十振《とふり》も、短刀ばかりを、前にならべていた。
「殿様は、近頃、これがご趣味で――?」
どぶは、首をのばした。
ならべられているのは、いずれも、見事な造りの短刀であった。
「徳川家がはじまって以来、多くの忠臣が、それぞれの事情で、腹を切った。あるいは、敵をあざむくために、あるいは、殉死、また、落度あって、罪をつぐなうため――。これらの短刀が、その義血を吸うた」
「へえ、それを、お集めなすったので――?」
「なんとなく、手|許《もと》に寄って来た。よければ、一振《ひとふり》取るがよい」
「いえ、それには、及びません。ご遠慮申し上げます」
「お前ほどの男が、崇《たた》りをおそれるのか?」
「そ、そうじゃありませんが……、あっしには、殿様につくって頂いたこの十手があります」
「お前も、前身は、武士だ。場合によっては、腹を切るはめになることもないとは申せまい」
「武士道の吟味なんざ、もう、とっくに、すてて居ります」
「案外そうでないかも知れぬ。いざとなると、面目を失うまいと、見栄《みえ》をきるのではないか」
「どうも、いけねえ。殿様は、あっしを買いかぶっておいでなさる」
どぶは、報告に、話を移した。まず、小町の鶴吉というガエンがいたこと、その鶴吉にそそのかされて、三人の浪人者が、檜《ひのき》屋政右衛門の店へ押込み強盗を働いたことを語った。
「お前は、檜政に、そのことを、たしかめに行ったか?」
「もちろん、参りました」
「ところが、政右衛門は、押込みなどには、見舞われなかった、と否定したであろう」
「その通りで――」
どぶは、左門の明察ぶりに、いまさらながら、感服しつつ、
「押込みに襲われていれば、番所へとどけ出ている。また、店で、これをとりおさえていれば、まちがいなく、お役人に渡している。強盗を罰するのは、お上のお仕事だから、商人|風情《ふぜい》が、これを罰するはずもない。まして、手のこんだ逆さ吊りなど、どうしてするものであろうか。――と、首を横にふられてみると、それももっとも、とひきさがらざるを得なかったわけなんで、へい」
「お前は、どう解釈する?」
「それアもう、三人組は、檜政へ押込みを働いたにちげえねえ、と思います」
「政右衛門が、どうして否定いたしたか――それを、怪しんでいるわけだな?」
「へい。……どうも、あん畜生――ただの鼠《ねずみ》じゃございません」
「さきほど、小松九郎兵衛が参って、檜政に関して、面白いことを調べた、と報告いたした」
「へえ――。それア、なんでございます?」
「檜屋が、木場随一の大店《おおだな》にのしあがったのは、いくつかの理由があるようだな」
「へい。あっしが調べたところでは、左前になっていた木曾屋という店を、そっくり買いとって、これをたてなおしたと申しますが……」
「左前になった店を買いとったところで、急には、たてなおせまい。木場は、伝統を誇って居るところであるし、手腕があっても、尋常の努力では、他の店を圧倒することは、叶《かな》わぬ」
「その通りで――」
「小松が、調べたところでは――政右衛門が、木曾屋を買いとって、ほどなく、木場で一番の老舗《しにせ》の飛騨《ひだ》屋が、失火で、家屋敷もろとも、主人はじめ家族全員が、焼け死んだ由」
「へえ――」
「飛騨屋が消滅したのをきっかけに、檜《ひのき》屋は、にわかに、のし上った、という」
「そいつを、もう一度、洗いなおしやす」
「飛騨屋の失火だが、当時、世間では、放火の噂《うわさ》をし、また、町火消の、南一の組の消火の不手|際《ぎわ》から、全焼させてしまった、という非難があったそうだ」
「そいつは、面白え!」
「当時、お前のような、秀《すぐ》れた岡っ引が一人もいなかったので、噂はほどなくたち消えてしまって、それなりになった。……それから、檜政は、にわかに、のしあがった」
「殿様! あっしが、きっと、その時の実相を、洗い出してごらんに入れます」
どぶは、いきいきとして、云った。
「証拠は、なにも残っては居《お》るまいが……、洗い出せぬことはあるまい」
「そうでございますとも! 殿様に、おだてられ――いや、ほめて頂いたてまえ、こいつは、是非とも、手柄にいたしやす」
「どぶ――」
「へい」
「もう、年も暮れる。悪党どもも、正月ぐらいは、善人面をいたしたいであろう。七草明けまでは、すてておくがよい」
「お慈悲でございますか」
「いかなる極悪人も、心のどこかには、善良な性根がのこって居るはずだ、と思う。それが証拠に、獄門の直前は、囚徒はひとしくまことの善人に還《かえ》って居る。……正月ぐらいは、真人間になって居るであろう。それを、捕えるのは、無粋と申すものだ」
左門は、珍しく、多弁になっていた。
「それよりも、岡っ引も、時には善根をほどこしてみるがよい」
「と申しやすと?」
「逆さ吊《づ》りにされた三人の浪人者には、家族がいたのではないか?」
「住んでいた裏|店《だな》までは、まだ、調べて居りませんが……」
「行ってみるがよい」
左門は、机の上の手|函《ばこ》を開《あ》けると、いくばくかの金子をとり出して、どぶの膝《ひざ》の前へ、投げた。
「餅《もち》でも買って、とどけてやれ」
「かしこまりました」
どぶは、それを手にとると、座敷を出た。
出てから、
――おっと、しまった。殿様が、どうして、夜な夜な出かけなさるのか、きくのを忘れた。
と、思ったが、――まアこれはあとまわしだ、と廊下を歩き出した。
逆さ吊《づ》りされた三人組のうち、二人はさだまったねぐらを持たぬ浮浪の徒であったが、一人だけ、家族持ちがいたことを、どぶは、その日のうちに、つきとめた。
その住居は、本所の荒井町にあった。
荒井町のその一|廓《かく》は、古刹《こさつ》が多かったが、それらの寺院が台地を占め、貧しい人々の住む裏長屋は、日|蔭《かげ》の窪《くぼ》地に、ひしめいていた。
毎年、梅雨には必ず、二度三度と水びたしになる地域で、江戸中で最も家賃が安かったし、まともな職人など一人も住んではいなかった。
いわば、世間の冷たい風に吹きはらわれ、しぜんに、そこへ溜《たま》ったというあんばいの人間ばかりが住みついていたのである。
なかばこわれた木戸を入ったとたん、どぶは、なんとも名状《めいじょう》しがたい臭気で、鼻がへし曲りそうになった。
「人間も、ここまで落ち込むと、いっそ、気楽かも知れねえな」
あまりのうすぎたない光景に、どぶは、そう呟《つぶや》かざるを得なかった。
正月が来るというのに、松飾りなどしている家は一軒もない。
正月も、この地域だけは、避けて通ると思われる。
路上で、おはじきをして遊んでいる女の子は、生れてまだ一度も、頭髪をくしけずってもらったことはないとも見えるぼうぼうたる乱れかたで、無数のしらみがうごめいている。
こんな臭気の中で、平気で住んでいられるのは、無神経というよりも、動物に還元している、といってもよさそうである。
「おい、おめえたち――」
どぶは、子供たちに、声をかけた。
「この店《たな》に、杉江という浪人者が、住んでいたろう?」
「…………」
子供たちは、身知らぬ大人《おとな》を仰ぎ見たが、ただ、黙りこくっている。
「ああ、そうか」
どぶは、たもとをさぐって、一文銭をつまみ出すと、一人の子のてのひらへ、落してやった。
すると、たちまち、にやっとして、
「小父《おじ》ちゃん、岡《おか》っ引だろう。へへ、力になるぜ」
こまっちゃくれた口のききかたをした。
「杉江という浪人者の家は、どこだ?」
「浪人は三人もいるぜ」
「五日前に出て行ったきり、もどって来ねえ浪人者だ」
「みんな、出て行ったら、三日も四日も、かえっちゃ来ねえや」
どぶは、舌打ちして、歩き出そうとした。
すると、一人が、ちょこちょこと先に立って歩き出した。
「なんだ、おめえ?」
「もう一文、くんな」
どぶが、渡してやると、
「おひなちゃんの家さ」
と、云った。
「おひなちゃん? 娘だな、それは?」
「うん。あたいと同じ年さ。でもさ、可哀《かわい》そうなひねくれさ」
その家は、戸口がこわれて、格子《こうし》戸をひきあげようとすると、がたがたと倒れかかって来た。
土間に入ったどぶは、がらんとした、空屋《あきや》同様の屋内を見渡して、
「ふうん――」
と、首を振った。
ぼろぼろの畳、破れた荒壁、汚染《しみ》だらけの天井――。調度は何ひとつないのだ。箪笥《たんす》はおろか、ちゃぶ台も見当らぬ。
そのぼろ畳の上に、五、六歳の少女が一人、ぽつんと坐《すわ》っていた。
五、六歳にみえるが、実は、七歳か八歳になっているのかも知れぬ。栄養不足で、育ち足りないに相違ない。
乱れ髪が散ったうなじが、折れそうに細い。
どぶは、上って行くと、小さな肩に手を置いた。びくっと、全身がふるえた。
「おひなちゃんだね?」
「…………」
幼女は、黙って、古絵図らしいものを切り裂いた紙で、≪こより≫をつくっているばかりであった。
枯枝のような小さな細い指が、いたいたしい。
「おひなちゃんだろう?」
「…………」
幼女は、うるさげに、どぶの手をはらいのけた。
「唖《おし》かい、おめえ?」
どぶが、のぞき込むと、戸口からのぞいていた女の子が、
「≪おし≫じゃねえや。ひねくれているんだよ」
と、云った。
とたんに――。
おひなは、きっとなって、ふり向くと、
「あっちへ行け、バカ!」
と、叫んだ。
どぶは、押入れに寄って、唐紙《からかみ》を開いてみた。
下の段に、綿のはみ出た夜具がかさねてあり、上の段には、誰《だれ》がつくってやったのか、白木の位牌《いはい》が置かれ、その前に、御飯を盛った茶|碗《わん》と箸《はし》が供えてあった。
それから、なんの意味か、土で造った鳩《はと》笛が一|箇《こ》。
どぶが、その鳩笛をつまみあげると、おひなは、
「さわらないで!」
と、切りつけるように、叫んだ。
どぶは、おひなのそばへ、ひきかえして来ると、
「お父《とと》が亡《な》くなったことを、誰が知らせた……」
「…………」
おひなは、依然として、こたえぬ。
その膝《ひざ》には、すでに、≪こより≫が十数本ならんでいた。
――≪こより≫をつくるのが、この子の遊びか――
妙な遊びだな、とその時は、どぶは、ただそれだけ思った。
どぶは、用意して来た菓子を、ふところからとり出すと、
「喰《た》べな」
と、おひなの膝へ置いてやった。
おひなは、どぶを、けげんそうに見上げた。
「喰《た》べな、うめえぜ」
どぶにすすめられて、おひなは、うぐいす餅《もち》を、つまんだ。
しかし、すぐに、口にしようとせず、どうして、こんなものをくれるのか、無言|裡《り》に、その表情で、たずねた。
「喰べな。……おめえに、買って来てやったんだ」
「…………」
「お父《とと》が亡《な》くなって、一人ぼっちになったのを、可哀《かわい》そうに思って、持って来てやったんだぜ」
「…………」
おひなは、黙って、喰べはじめた。
空腹だったのであろう、たちまち、四個をたいらげてしまった。
「さて、おめえは、これから、どうする?」
「…………」
「小父《おじ》ちゃんと、一緒に行かねえか。小父ちゃんが、おめえを、やさしいおねえちゃんの世話してくれるところへ、つれて行ってやろうか?」
「…………」
腹が満ちたためか、おひなの表情が、やわらいだ。
「さ――行こうか」
「…………」
「な、行こう」
どぶが、かさねてうながすと、おひなは、ようやく、口をひらいた。
「小父ちゃんは、どこの人?」
「おれか――。おれは、案山子《かがし》みてえな、風に吹かれて、ふらふらしている男さ。しかしな、おめえの味方であることだけは、まちげえねえ。……おめえをつれて行く屋敷には、ほんとうに、やさしいおねえちゃんがいるんだぜ。な、一緒に行こうぜ」
おひなは、こっくりすると、膝の上の≪こより≫を、大切そうににぎって、立ち上り、柱にかけてある竹筒へ入れた。
それから、押入れの上段の位牌《いはい》を手にした。
ほかに持って行く品は、何ひとつなかった。
「いいか」
「あい」
どぶは、おひなをともなって、外へ出た。子供たちが、そこに集っていた。
「どこへ、行くの、おひなちゃん?」
一人が、たずねた。
おひなは、うつ向いて、こたえなかった。
「牢屋《ろうや》かい?」
また一人が、からかった。
おひなは、その子をにらみつけた。
とたんに、子供たちは、わあっと叫びたてた。
「おひな、おめえのおやじは、殺されて、逆さ吊《づ》りにされていたんだぞ。ざまみろ!」
「逆さ吊りの子だぞ、おめえは――」
冷酷な罵倒に、どぶは、さすがに、むかっ腹をたてて、
「うるぜえっ、餓鬼どもっ!」
と、呶鳴《どな》りつけた。
寺院の土|塀《べい》がつらなっているひろい往還に出てから、おひなは、
「小父《おじ》ちゃん、あたいの父《とと》様は、悪い人じゃないよ」
と、云った。
「そうかい。いい人だったのかえ?」
「はい。父様は、あたいを、一度も、叱《しか》ったことはないよ。いつも、やさしかったんだよ。おまえを、いつか、きっと、しあわせにしてやる、と云っていた……」
「お父は、いつも、貧乏だったのだろう」
「小父ちゃん、お金がないのは、つらいねえ」
子供らしからぬ口調で、どぶを見上げた。
「そうだ。こんなつらいものはねえやな……。そこで、おめえのお父は、なんとかして、金をつかもうと思った」
「…………」
「おめえに、お父は、どうやって、金をつかむか――、云ったことはねえかい?」
「ううん、云わなかった」
おひなは、急に、足のはこびをのろいものにした。
「おんぶしてやろう」
どぶは、おひなの前にしゃがんで、
「さ、乗りな」
と、さそった。
おひなは、すなおに、どぶの背中にすがった。
「軽いな。これからは、うんとごはんを喰《た》べて、重くならなけりゃいけねえ」
ゆすりあげて、歩き出すと、通行人の一人が、
「おう、岡《おか》っ引――、いつ、父親になったんだ?」と、からかった。
「今日《きょう》からだ」
「暮になって、女が夜逃げしたので、しかたがなく、ひき取ったてえわけかい」
「置きやがれ。てめえが、去年、女房に間男されて、駆落ちをくらったからといって、人までそうだとかんぐるねえ。これアな、さる大名のご落胤《らくいん》だあな」
「なるほど、お姫《ひめ》様か。道理で、気品もからだも、ぷんぷん匂《にお》うていらあ。おまけに、あたまに、出没している怪しげな曲者《くせもの》を、岡っ引が、しらみつぶしに退治しようってわけか」
「この野郎っ! いいかげんにへらず口をたたきやがれ! ぶっとばしてくれるぞ!」
どぶが、本気になって呶鳴《どな》ると、通行人は、あわてて逃げて行った。
おひなは、はじめて、おかしそうに、笑い声をたてた。
どぶが、おひなをつれて行ったのは、町小路邸であった。
小夜が、びっくりして、
「あら、どうしたのですか?」
と、うすよごれた少女を眺《なが》めた。
「とんだお歳暮で、申しわけねえんだが、しばらく、預ってもらえませんかね」
「どこのお子さんですか?」
「可哀《かわい》そうなみなし児《ご》で……、この子の親の敵《かたき》を、あっしが、討ってくれようとしている次第でね」
そう云って、どぶは、小夜に、目顔で知らせた。
左門は、小夜から、どぶが幼女をつれて来た旨を、とり告がれると、
「すぐ、ここへ、どぶを呼べ」
と、命じた。
どぶが、入《はい》って行くと、左門は、横顔をみせたままで、「お前がつれて来た子供は、逆さ吊《づ》りにされていた浪人者のむすめであろう」
「へい。みなし児《ご》になって、世話をする者もねえ有様なので……」
「お前は、いつから、慈悲ぶかい人間になったのだ」
「へえ……?」
「すこし考えが浅すぎはせぬか」
「と仰言《おっしゃ》いますと?」
「子供は、当分、その裏|店《だな》へ、一人で、くらさせるべきであろうな」
どぶは、とっさに、左門がどういう考えで、そう云うのか、読みとりかねた。
「その方が、よければ、そういたしやすが……、ただ、世話をする者が――」
「いるではないか」
「……?」
「そこにいる」
「あっしに、あの裏店に、一緒に住めと仰言るので?」
「いやか?」
「いやもなにも――、あの裏店のうすぎたなさと来たら、それアもう、言語道断《ごんごどうだん》なんで――」
「ものはためしに、しばらく、くらしてみるがよい」
左門に命じられては、どぶは、言葉を返すことは、できなかった。
台所へ、下って来てみると、小夜はおひなに、綾《あや》とりを教えていた。
そのけしきを眺めて、どぶは、
――殿様も、思いのほかに、非情だぜ。
と、首を振った。
小夜は、どぶを仰いで、
「おひなちゃんは、可愛《かわい》いお子ですね。わたくしが、たしかに、お世話をいたします」
と云った。
「それが……」
どぶは、頭をかいた。
「そうは、いかなくなったんだ」
「あら、どうしてですか?」
「つまり、そのう……、おひなは、もとの巣へ、逆もどりということになるんだ」
「え?」
「そうした方がいい、と仰言られちゃ、しかたがあるめえ」
「そんな薄情なことを、お殿様は、どうして仰言ったのでしょう」
小夜は、眉宇《びう》をひそめた。
「わからねえや。……子供は、きれえなんだろう」
「そんなはずはありませぬ。お殿様は、弱いものには、お慈悲をお持ちです。理由がなければ、こんな無情なあしらいはなさいません」
「理由がな」
どぶは、おうむがえしにしたとたん、はっと、なった。
――そうか、この子は、囮《おとり》になる、というわけだ。
十一
まさに、左門の明察であった。
どぶが、その裏|店《だな》へ、おひなをもどして、自身番の夜まわり爺《じい》さんに世話がたをたのんでおいて、大|晦日《みそか》の朝、様子を見に来てみると――。
おひなは、猿《さる》ぐつわをかまされ、細引でひっくくられて、畳にころがっていた。
どぶは、いそいで、猿ぐつわを解いてやってから、
「どんな野郎が、こんなことをした?」
と、問うた。
おひなは、ただ、怯《おび》えて、せわしく、胸をあえがせるばかりで、しばらくは、口がきけないようであった。
押入の唐紙《からかみ》は倒され、夜具はひき裂かれ、位牌《いはい》は真二つに割られ、鳩《はと》笛はみじんに砕かれていた。畳は三枚ばかり、ひっくりかえされ、天井板も二枚ばかり破られていた。
「ひでえことをしやがる」
どぶは、見まわしながら、
――杉江たちには、仲間がいたに相違ねえ。
と、判断した。
いったい、何をさがしに来たか、見当がつかぬが、杉江という男が殺されて、帰って来ないとわかっている家へ、さがしに来たことは、杉江が生きていた時から、それを持っていたことになるのか。
「おひな、さ、ひとつ、きかせてくれ。……押し入って来たのは、どんな野郎だった? 教えてくれ。小父《おじ》ちゃんが、仇《あだ》を討ってやるぞ」
「…………」
おひなは、しゃくりあげるばかりで、容易にこたえなかった。
ようやく、泥棒かぶりをした、黒い着物をきた男であった、ときき出したが、それだけでは、なんの手がかりにもならなかった。
「そいで、何かを、持って行ったか? おぼえているか?」
「ううん。知らない」
ただ、おそろしさに生きた心地もなく、ふるえていたばかりであろうと、どぶは思った。
このぼろ家には、丹念《たんねん》にさがさなければならぬような調度は、何ひとつないのだ。押入れと畳の下と天井裏をさがせば、それでおしまいなのである。
――はてな。畳の下をさがしているところをみると、かさばったしろものじゃねえぞ。紙っきれのようなものかな?
どぶは、考えた。
念のために、おひなに、父親が平常大切にしまっていたものがあるか、と問うてみたが、首を振られたばかりであった。
「何を、誰《だれ》が、さがしまわりやがったか?」
どぶは、腕を組んだ。
「小父ちゃん――」
「なんだ?」
「あの、おそろしい男は、また、来るかえ?」
「もう二度とは来ねえだろうが……、よし、今夜から、小父ちゃんが、泊ってやるぜ。正月も一緒に、餅《もち》を喰《た》べてやらあな」
どぶは、妙な縁で、この臭気の満ちた貧乏長屋で、年越しをすることになった。
江戸の正月は、きわめて、しずかなものであった。
街《まち》でうごいているものといえば、空にひるがえる凧《たこ》だけであった。正月元|旦《たん》に、店びらきをして、銭《ぜに》もうけをするのは、町毎の辻《つじ》にある紙鳶《たこ》商人だけだったのである。
すべての通りの店は、板戸を閉じ、人々は、目出度《めでた》い日のしきたりにしたがっていた。
元旦のしきたりは、まず、若水を汲《く》み上げることからはじまる。
若水で、雑煮をつくり、福茶をたてることは、上下貧富の別なく、ひとしく、なさねばならぬしきたりであった。その手桶《ておけ》も、新調して、輪かざりをかけ、今年《ことし》の恵方《えほう》にむかって、汲みあげるのであったが、その汲みかたも、家々によって、かたちがちがっていた。
屠蘇《とそ》を祝い、雑煮を摂《と》るのも、百年来の式法が、かたくまもられ、また、各家それぞれに、作法があった。
屠蘇は、平生出入りしている医師からくばられる。重詰の品は、数の子、てりごまめ、座禅豆の三種は欠かしてはならないものであった。雑煮に添えるのは、小松菜、大根、里芋。そして、箸《はし》は、雑煮箸といって、太い柳箸を白紙に包んで、紅白の水引でむすび、ごまめを二|箇《こ》水引へさす。
上は大名屋敷から、下は裏|店《だな》まで、こうしたしきたりは、きちんとまもられていた。
但《ただ》し――。
家を持たないどぶのような男は、こうしたしきたりとは、無縁であった。
せいぜい、初|風呂《ぶろ》に入《はい》ることぐらいが、人並の振舞いであった。
さいわい、湯屋には、油を売るための二階があった。湯屋の二階は、いわば年期奉公人の遊び場のような場所であった。独身者が、元日に、寝《ね》そべってひまつぶしをするには、もって来いであった。
それに、初風呂は混むが、さすがに、二階の方は、頭数がすくなかった。
炬燵《こたつ》が設けられてあり、七草までは、屠蘇もふるまわれる。
どぶが、深川八幡前の翁湯の二階に上った時、客はたった一人、手枕で、炬燵《こたつ》に寝そべっていた。
どぶは、そいつの手くびに、島帰りのいれずみが入っているのを、見た。
「おい、起きろ」
どぶは、呼んだ。
「一杯やろう」
どぶは、一升徳利を持参して来ていた。
うす目を開《あ》けて、どぶを見上げた無職《ぶしょく》者は、急に、警戒の色を顔面に、刷《は》いた。
どぶという男の身なりは、どう眺《なが》めたところで、御用ききとは受けとれなかったが、脛《すね》に傷を持つ者の目にはそれと、すぐわかる。
起き上ったが、すぐに出て行きたそうにそわそわするのを、
「おちつけ――」
どぶは、にやにやしながら、
「正月だぞ。たとえ、てめえが十人殺していても、今日《きょう》だけは、見のがしてやらあ」
と、云って、湯呑みを与えて、冷酒をついでやった。
無職《ぶしょく》者は、はじめのうちは、かたくなって、酒もうまくなさそうなけしきであったが、そのうち、酔いがまわると、
「へへへ……、初|風呂《ぶろ》のあとを、岡っ引の親分から、酒をふるまってもらえるとは、どうやら、今年《ことし》は、いい目が出そうな気がしやす」
と、云って、あぐらをかいた。
「そいつは、どうだか、わからねえぞ。正月に、おれから、おごられた野郎は、その年のうちに、必ず小伝馬町の牢《ろう》送りになる、という縁起のわるいかつぎかたをしている奴《やつ》らがいるぜ」
「冗談じゃありませんよ。……親分は、その……、なにか、あっしに――?」
「おめえなんざ、名も知らねえ。いまはじめて、おれのふるまい酒をくらってやがる野郎――それだけさ」
「ほ、ほんとですかい?」
「それとも、なにか、おめえは、御用ききの前で、びくびくしなけりゃならねえ、やましいことがあるのか? たたけば、ほこりが出るなら、たたいてやるぜ」
「親分!」
無職者は、あわてて、坐《すわ》りなおして、手を振った。
「滅相もねえ。あっしゃ、なにも、これっぽちも、やましいことなんか、やっちゃいませんよ。……あっしゃ、常吉という者で――」
「いつ、島から御赦免になって、帰って来た?」
「へ、夏のはじめでござんした」
「島には、どれくらい、いた?」
「三年と、ちょっとでさ」
「なんの罪で、送られた?」
「古傷には、ふれられたくねえんで……、かんべんしてやっておくんなさい」
「よし、きかねえ。……ま、飲め」
どぶは、一升徳利が空《から》になると、小女に命じて、もう一升買って来させた。
常吉という男は、酒に強かった。
飲むにつれ、酔うにつれ、岡っ引と無職者は、共鳴したかたちになって、とりとめないことをしゃべりあって、笑い声をたてた。
湯屋の方は、迷惑であったろうが、対手《あいて》がどぶなので、文句を云わずに、夜明しさせた。
いつの間にか、どぶと常吉は、炬燵《こたつ》でうたた寝してしまっていた。
急に、おもてで、威勢のいい懸声《かけごえ》がかかって、常吉が、はじかれたように、はね起きた。
「火事だ!」
寝ぼけて、血相変えた常吉を、どぶが横になったままで、
「莫迦《ばか》野郎! あわてるねえ。出|初《ぞ》めだ」
と、叱りつけた。
「そうか、出初めか」
正月二日は、江戸の町火消――いろは四十八組に、本所・深川の十六組が、明け六つの合図の半鐘でどっとくり出すのであった。
そろいの袢纏《はんてん》も、消防の道具も、真新しく、梯子《はしご》を立てた曲乗りは、娯楽のすくない江戸の市中に於《おい》ては、正月に欠かすことのできぬ見世物であった。
常吉は、出窓から、くり出した町火消の列を見|下《おろ》したが、舌打ちして、
「鶴《つる》が一羽、交っていると、いねえとじゃ、威勢がまるっきりちがってら」
と、云いすてた。
「おい――」
どぶは、その独語《ひとりごと》をききとがめた。
「その、鶴が一羽――というのは、どういうことだ?」
「べ、べつに、どうって……」
常吉は、どぶの鋭い眼光に射られて、首をすくめた。どぶは、出窓から首をのばして、駆け過ぎて行くのが、深川南一の組であるのをみとめた。
「常吉!」
「へえ――」
「あの南一の組ってえのは、あまり評判がよくねえ組らしいな」
「…………」
「木場で一番の老舗《しにせ》の飛騨屋が、全焼したことがあった。もう十年も前になるか。何者かが、つけ火をした、という噂《うわさ》がもっぱらだった。また、全焼したのは、風上へまわった南一の組の不手|際《ぎわ》だった、と世間では、大層非難したそうだ」
「へえ、そんなことが、ありましたので……」
「常さんよ」
どぶは、わざと、猫《ねこ》なで声で、常吉の肩をたたいた。
「お互いに、胸襟《きょうきん》てえやつをひらいたんだから、かくしだては止《よ》そうぜ。……当時、あの南一の組に、おめえは、いた。そうだろう?」
ずばりと云いあてられて、常吉は、顔を伏せてしまった。
「それからもう一人――おめえが云った鶴が一羽、組の人気を一身に背負っていたんだな?」
「へい。……親分、あっしが、鶴が一羽、と申しただけで、よく、そいつが、おわかりになりやしたね?」
「蛇《じゃ》の道は蛇《へび》だ。……いまは、ガエンになっている鶴吉は、南一の組の纏《まとい》持ちだったのだな?」
「そうなんで……。鶴吉も、まだ二十歳になったばかりで、それアもう、纏を持った姿と来たら、そのまま、錦絵《にしきえ》でござんした」
「その人気者が、飛騨屋の火事の時、とんでもねえドジを踏んだ、というわけだ」
「そうなんで――」
常吉は、当時の状況を説明した。
その朝、火の手は、飛騨屋の屋敷の南からあがって、北へ――風の吹きまわしで、延びた。
その時、一番乗りしたのは、南一の組であったが、鶴吉は、火許《ひもと》の南に、纏を立てた。
纏というものは、いわば、戦場の隊長旗のようなものである。それを中心にして、消火の陣形がさだまる。
幾組かが、火事場へ殺到し、それぞれ纏を中心にして働くのであるから、纏の立て場所がきわめて重大となる。
南一の組は、一番乗りしたのである。鶴吉は、その纏《まとい》を立てるべきところを、自由にえらび得たはずである。
鶴吉は、どうカンを狂わせたか、火|許《もと》の南に、纏を立てた。
火は、母《おも》屋の屋根の下をくぐって、渦を巻きつつ、北へのびていたのである。たとえ、火許の火勢がいかに強くとも、火ののびる方角を考えて、当然、鶴吉は風下の然《しか》るべき地点に、纏を立てるべきであったのだ。
鶴吉のカンが狂ったと知らず、町火消一同は、北寄りの母屋の一角に釘《くぎ》づけにされて、紅蓮舌《ぐれんじた》に追いまわされた飛騨屋の家族|使傭《しよう》人たちが、むざんにも、焼き殺されるのを、ただ、いたずらに、見殺しにしたばかりであった、という。
飛騨屋の家族で、生きのこったのは、たった一人だけであった。末娘のおまちが、母方の実家へ、重病の祖母を見舞いに行っていたおかげで、災いをまぬがれた。
「ふむ。……おめえは、その目で、鶴吉が、纏を風上へ立てるのを眺《なが》め、それから、飛騨屋の人々が、焼き殺されるさまを眺めたんだな」
どぶは、常吉を、見据えた。
「へえ、たしかに――」
常吉は、うなずいた。
「おめえは、そのあとで、鶴吉が、本当にカンが狂ったか、わざとまちがえたか――判《わか》ったか?」
「…………」
「おい、返辞をしろい!」
「あ、あの場合、カンが狂ったとは、とても思われねえ。鶴吉は、そんな間抜けな野郎じゃなかった」
「それじゃ、わざとまちがえた、とおめえは、考えたんだな」
「し、しかし――、纏持ちが、わざとまちがえる、なんてえことは、天地がひっくりけえったって――」
「その天地が、ひっくりかえったんだ」
「ど、どうして――?」
「それは、こっちが、ききてえや」
「まったくで――」
「つまりだ。鶴吉は、わざとまちがえた。それで、南一の組には、いられなくなった。そうだな?」
「なにしろ、まわりの目つきが、白くなりやしたからね。わざとまちがえたってえわけじゃなくても、居|辛《づら》くなりまさ。誰《だれ》にも挨拶《あいさつ》なしのドロンをしちまったんでさ」
「上方《かみがた》へ、≪ふけ≫たというわけか」
「そうなんで――」
「その頃《ころ》の鶴吉は、どんな野郎だった?」
「それアもう、吉原へも岡《おか》場所へも、いっぺんも足を踏み込んだことのねえ堅物でござんしたよ。第一、白無垢鉄火《しろむくてっか》は、野郎だけで、親分からすすめられても、親からもらったからだをけがしたくはねえ、と云ってね」
「そうかい。背中に刺青《いれずみ》もねえ、女も知らねえ、無垢な、気っぷのいい若僧だった、というわけか、あいつが!」
どぶは、虚無のにおいをただよわせた鶴吉の風|貌《ぼう》や挙措言辞《きょそげんじ》を思いうかべながら、首をかしげた。
湯屋の二階を降りたどぶは、ひっそりとしずまった正月の街《まち》を歩き出しながら、
――くせえ! 焼けくすぶりの臭気が、まだ、檜《ひのき》屋政右衛門にも、ガエンの鶴吉にも、のこっていやがるぜ。
と、胸のうちで、つぶやいていた。
飛騨屋が全焼した直後から、急速に、檜政はのし上った、という。
南一の組の纏《まとい》持ちの鶴吉が、纏の立てかたをわざとまちがえたことと、これは、なにかのつながりがある。
どぶは、そう結びつけてみたのであった。
――鶴吉の野郎、檜政からたのまれて、わざと、纏を逆の場所へ立てやがったに相違ねえ。……そうなんだ。飛騨屋を焼いたのは、檜政だ。おれの殿様が、ちゃんと看破したぜ。……鶴吉は、檜政から、たんまり金を貰《もら》って、上方へふけやがった。刺青《いれずみ》もしねえ、女も買わねえ。無垢《むく》な、気っぷのいい奴《やつ》だった、なんて、とんだ食わせ者だったのさ。……多勢の人を焼いて、懐中にした悪銭が、身を滅《ほろぼ》さねえはずがねえ。野郎、上方で、さんざ極道の限りをつくして、江戸へ舞い戻って来た時には、もう泥水に首までどっぷりつかったどぶ鼠《ねずみ》になってやがった。見せかけは、雨|乞《ご》い小町を彫りあげて、大層派手になっていやがったが、皮を一枚|剥《は》いだら、鼻がへし曲るような、どす黒い、くせえ血が流れていやがるんだ。見かけは、どぶでも、五体を流れる血が、岩清水のように澄みきっているこのおれ様とは、大反対よ。
独語《ひとりごと》は、そこで、つまずいて、どぶは、柄にもなく、首をすくめて、なんとなく、前後を見やった。
――どうでも、こいつは、一丁、本人の首根を締め上げて、泥を吐かしてやらざアなるめえ。
正月元|旦《たん》だからといって、殊勝に、火消屋敷で、屠蘇《とそ》を祝っている手輩ではない。
とぐろを巻いている場所は、きかずともあきらかであった。
どぶは、薬研堀《やげんぼり》へ向って、まっすぐに、急ぎはじめた。
近道をえらんで、とある横丁を抜けようとすると、紅殻《べんがら》格子の内から、
「ちょいと、どぶ旦那《だんな》――」
きき馴《な》れた声が、かかった。
女すりのはなれ島のお仙であった。
「お――。なんでえ、おめえのはなれ島は、ここか」
「お入《はい》りよ、一杯、祝おうよ」
「岡《おか》っ引と巾着切《きんちゃくきり》が、元旦早々、盃《さかずき》が交せるけえ」
云いつつも、派手な掛具の炬燵《こたつ》に長|火鉢《ひばち》、そして、小|股《また》のきれあがったお仙の仇《あだ》姿を眺めると、つい、格子戸を開けざるを得なかった。
――ま、いいや。鶴の野郎、どうせ、三が日は、賭《と》場でとぐろをまきっぱなしにちがえねえんだ。
どぶは、上って行くと、まず云った。
「ことわっとくぜ。お仙。岡っ引は、巾着切とは、どんなことがあったって、濡《ぬ》れ場は演じねえんだ。下手《へた》にしなだれかかりやがると、蹴《け》とばすぞ」
これは自戒であった。
夜も、かなり更《ふ》けて、どぶが、薬研堀の近くにあるその鉄火場へ、ふらりと入《はい》って行くと、予想たがわず、ガエンどもは、汗ばむほどの熱気をつくって、賽《さい》の目に、血|眼《まなこ》になっていた。
ところが、見まわしたところ、鶴吉の姿がなかった。当然、背中のお白粉《しろい》彫りを浮かびあがらせて、熱中しているものと思っていたどぶは、ちょっと、拍子ぬけした。
ガエンの一人に、
「おい、雨|乞《ご》い小町が、加っていねえのは、おかしいじゃねえか」
と、問いかけると、無言で、階上を、あごでしゃくった。
「そうか」
どぶは、うかつに、倉には上階があることを、忘れていた。
奥へふみ込むと、壁に梯子《はしご》段がとりつけてあった。
登って行くと、行燈《あんどん》の仄明《ほのあか》りの中で、四本の足がもつれ合っていた。
あきれたことに、あられもない濡《ぬ》れ場がくりひろげられている。
男は、鶴吉ではなく、かなり年配のガエンで、女も相当な年増《としま》であった。したがって、どぶが登って行っても、一向にあわてもしないのであった。
いや――。
見物人は、ちゃんと、いたのである。
それが、鶴吉であった。
片|隅《すみ》に、壁によりかかって、茶碗酒を飲みながら、平然と見物していたのである。
「なんでえ、これア――」
どぶが、眉宇《びう》をひそめると、鶴吉は、にやりとして、
「無断で上って来ると、高え見料をとるぜ」
と、云った。
「ふん、おめえが、やらかして、見物としゃれてやがるのか」
「二人ともオケラになりやがって、おれに貸せをたのむから、それなら、けだものになってみせろ、とからかったら、本気で番《つが》っちまやがった」
「あきれけえったぜ」
男も女も、みにくく、四|肢《し》を灯かげにさらして、喘《あえ》いでいる。
こちらの欲情をそそる光景ではなかった。あさましいうごめきを眺《なが》めていると、嘔吐《おうと》を催し、どぶは、二人とも、蹴《け》殺したくなった。
「いい加減で、止《や》めさせろ」
「行き着くところまで、やらなけりゃ、なぐっても蹴っても、はなれるものじゃねえやな」
鶴吉は、冷笑している。
「こんな酒の肴《さかな》があるけえ。こういうことは、人目にさらしちゃならねえのだ」
「親分らしくもなく、殊勝なことを、云いなさる」
「あたりめえだ。おれは、猫《ねこ》がそばにいやがっても、まっぴらの方だ。神経がまっとうに出来ているんだ」
「ま、いいやな、一杯、どうだね」
鶴吉は、酒をすすめた。
どぶは、さし出された茶碗酒を、うごめいている男女の首へ、ぶちまけた。
「な、なにをしやがる!」
男が、鎌《かま》首をもちあげて、喚《わめ》いた。
「さっさとはなれて、降りちまえ。まだ、ごそごそしやがると、一物を、股《また》ぐらから切りはなすぞ!」
どぶは、十手の仕込み直刀を、ぱっと抜きはなってみせた。
男女は、はじかれたように、はなれて、起き上った。
かれらが、駆け降りて行くと、鶴吉は、
「親分が、君子人であらせられたとは、人は見かけによらねえものだ」
「おい、鶴吉、妙にひねくれてみせるのは、止しな。これで、この小《ちい》せえ目玉は、相当見通しが利くのだ」
「糺明《きゅうめい》は、この前の芝居茶屋で、すんだのじゃねえんですかい?」
「肝心のことを、かくされていたんじゃ、二度が三度でも、足をはこばねえわけにいかねえだろう」
「…………」
「おめえ、南一の組の纏《まとい》持ちをしていたろう。飛騨屋の火事で、どじを踏んで、上方へふけた。そのことを、なぜ、黙っていやがった?」
「てめえの恥を、きかれもしねえのに、自分からべらべら、しゃべる頓馬《とんま》がいるものけえ」
「ごもっとも――。お上にお手数をかけさせるのも、肚《はら》のうちだったか。……おめえ、わざと、纏を立てるのをまちげえた。そのまちげえ料を、檜屋政右衛門から、いくら、せしめた?」
どぶは、ずばりと、問うた。
「一文も、もらっちゃいねえね」
「嘘《うそ》をつけ!」
「もらったという証拠でもあるかね?」
「ぬけぬけと、そらっとぼけるのが、その証拠だ」
「親分!」
「親分と呼ぶのは止しやがれと、この前、云ったぞ」
「呼ばしてもらいてえな。親分|面《づら》をしているのなら、呼びやしねえ。親分面をしていねえから、呼びたくなるんだ。……親分、どうも、お上の御用をつとめなさる人たちは、すぐ、つじつまを合わせたがる、わるいくせがありなさる。つじつまなんてえものは、物事をとことんまでつきつめてみてから、合わせるものだ」
「てめえに、教えられようとは、思わねえ」
「まアさ、話の次第が、おれに、こう云わせるのだ。……べつに、物の道理を説こうというのじゃねえやな。ただ、親分の調べが、どうも、足りなさすぎるようだ、と申し上げているだけさ」
鶴吉は、たくみに、ぬらりくらりと、逃げてみせた。
――思いのほかに、こいつ、悪党だぞ。
どぶは、思った。
「そうか。おめえが、そう云うのなら、元旦でもあるし、今日《きょう》は、ここまでで、止めてやる。……あとが、怕《こわ》いぞ。いいか」
「おや、くわばら、松原、梢《こずえ》越し、丸に十の字のアレ、帆が見えた、と来た」
女恋
どぶが、その荒廃屋敷跡を出て、五、六歩行かぬうちに、
「親分――」
鶴吉の声が、うしろから呼んだ。
どぶは、立ちどまって、鶴吉が寄って来るのを待った。
「失礼だが、親分も世帯を持たねえ一人ぼっちだったね」
「それが、どうしたい」
「お互いに、いつどこでくたばっても、泣いてくれる者のいねえ身だ。せめて、正月元|旦《たん》の夜ぐれえ、そんな者同士が、酒をくみかわすのも、わるくねえと思ってね」
「きいた風なことを云って、よろこばせるねえ」
「いや、本気なんだ。……ひとつ、これから吉原へくり込もうじゃねえか」
「おめえと吉原へくり込んだら、こっちは、赤っ面《つら》の唐変木《とうへんぼく》にされちまうのが落《おち》だ。まっぴらだ。おめえと一緒に、女を買うのなら、お互いに公平に、闇《やみ》の中で、夜|鷹《たか》を抱くよりほかに、手はねえや」
「それなら、それでも、いいぜ」
「冗談じゃねえや。おめえと、夜鷹を買ってもはじまるめえ」
「ま、そう云わねえで、つきあってくんねえ」
肩をならべて、馬道の広い往還に出た時であった。
大戸をおろした問屋の前に、夜あかし、という屋台が出ているのをみとめて、
「一杯ひっかけるか」
と、どぶが、さきに、近寄った。
と――。
首をのばして、二人の客をすかし見た親爺《おやじ》が、
「お――鶴さん」
と、呼んだ。
「なんだ?」
「ちょいと――」
親爺は、鶴吉の耳もとへ口を寄せると、なにかささやいた。
「なにっ!」
乏しい灯かげの中でも、鶴吉の顔色が一変するのが、わかった。
「おいくに――似ているというんだな、その女は!」
「たしかに――」
「よしっ!」
鶴吉は、われを忘れたていで、闇の中を奔《はし》り出した。どぶは、茶|碗《わん》酒を、ひと息にあおってから、
「親爺――、鶴吉は、女をさがしているのか?」
と、たずねた。
「へえ。……旦那《だんな》は、御用筋の御仁《おひと》で?」
「そんなことはどうでもいい。鶴吉は、どんな女をさがしているんだ?」
「へえ――。両国の水茶屋の清滝に、おいくという女が居《お》りましたがね、顔だちは、とび抜けて佳《い》い、というほどじゃござんせんでしたが、その立姿ときたら、これアもう、歌麿描く、というやつで、ふるいつきてえような……」
「それと、鶴吉が深い仲になったか?」
「幼馴染《おさななじみ》だったのでござんすねえ。いいおしどりだったが……」
鶴吉が、上方から舞いもどった時、おいくは、水茶屋清滝の茶|汲《く》みになっていて、めぐり会った、という次第であった。
お互いに、色恋|沙汰《ざた》には世間の目をはばからねばならぬ身であった。
鶴吉は、こっそり舞いもどって来た身であったし、おいくは借金でしばられた身であった。
それで、この夜あかし屋台の親爺《おやじ》の裏|店《だな》を、逢《あ》いびき場所にして、二人は、ひそかに、深い仲になった。
親爺は、はじめのうちは、火消し崩《くず》れと水茶屋女のみそかごとだ、どうせ、長つづきはしねえだろう、と思っていた。
ところが、眺《なが》めているうちに、鶴吉もおいくも、真剣であることが、みとめられた。互いに、対手《あいて》に、惚《ほ》れきっていて、逢瀬の宵の様子など、まるで、少年と少女のような夢中ぶりであった。
「それアもう、あっしも、この老齢《とし》になって、男と女がしんそこ惚れ合っているのが、こんなに美しいものだ、とはじめて、判《わか》ったような次第で、へい――」
「ふうん――。あいつに、そんな純情さがあったかい」
「へい。あれで、おいくが消えなけりゃ、鶴さんは、おいくと世帯を持って、≪ぼて≫振りでもなんでもやって、まじめに働いたに相違ござんすまい」
「どうして、おいくは、消えたんだ?」
「それが、どうも、合点《がてん》がいかねえんでさ。ある日、不意に、消えちまったんでさ。その宵も、鶴さんと逢う約束がしてあって、鶴さんはあっしの家で、待っていたのに、いつまで経っても、現われねえ。……おいくが、清滝を出たのは、昏《く》れがたであった、ということで、どこへどう消えちまったものか――誰《だれ》も見た者は、いねえんでさ」
「ふうん――」
「それから、鶴さんは、毎日、血|眼《まなこ》になって、さがしまわったが、手がかりさえもねえありさまで……、そのむなしさが、鶴さんを、だんだん自棄《やけ》にした、というわけなんで――」
「人間一人、そうかんたんに消えはしねえものだが……、悪どもに、かどわかされたってえわけかな」
「そう疑って、鶴さんは、悪どもの溜《たま》りを片っぱしから、当っていたようでしたがね。どうも、かどわかされたという形跡は、全くないようでしたね。――親分は、鶴さんの背中のほりものの評判は、きいていなさるだろう?」
「うむ」
「あれは、おいくを恋うあまり、品川の名人彫宇之にたのんで、彫ってもらったのでさ。だから、雨|乞《ご》い小町の顔は、おいくなんでさ。それほど、惚れていた、ということになります」
「じゃ、雨乞い小町を彫ってから、ガエンになった、というのだな」
「そうなんで――」
どぶは、もう一杯、所望した。
夜明けに近い空から、ちらちらと白いものが、舞って来た。
「あの野郎が、なにやら、暗い翳《かげ》をひいているのは、そういう理由があったのか」
その暗い翳が、一層男っぷりをひきたてて、女たちを魅するのだから、皮肉なものであった。
生命《いのち》がけで惚《ほ》れた女が、煙のように消えた衝撃で、鶴吉は、人が変った。
女の貌《かお》をそっくり写した雨|乞《ご》い小町を、背中に彫って、ガエンになり、女の俤《おもかげ》を忘れようとして、博奕《ばくち》におぼれたが、その自暴自棄の賭《か》けっぷりが、かえって、さいわいして、勝ちつづけた。また、火事場へとび込むや、どうせ死んでもかまわねえ、という捨て身の働きが、その名を挙《あ》げる結果になった。
「親分のことだから、もう、鶴さんが、守田座へしげしげと、かよっていることを、知っていなさるね。あれは、菊次郎という女形が、おいくに似ているからなんでさ」
夜あかしの親爺《おやじ》は、云った。
「そうかい、よっぽど、惚れていやがったんだな」
「それアもう……」
「しかし――」
どぶは、首をひねった。
「鶴吉は、どうして、番所へ、捜索方をねがい出なかったのかな」
「さあ? そこんところは、肚《はら》のうちをきいて居《お》りませんのでね」
どぶは、鶴吉が、白いものの舞う闇《やみ》の中から、ひょろりと、姿を現すのを、みとめた。
「戻って来た」
どぶは、ちがった目で、鶴吉を迎えた。
鶴吉は、親爺が黙ってさし出す茶碗酒を、ひと息に飲み干すと、
「親爺、もうろくしたぜ」
と、吐きすてた。
「だけど、似ていたろう?」
「口もとが、ほんのちょっぴりな。……まさか、おいくが、夜|鷹《たか》になり下るとは、思っちゃいなかった。おれにことわりもなく、江戸へこっそり舞いもどって、夜鷹になんぞ、なるわけがねえ」
「天に翔《か》けたか、地にもぐったか」
どぶが、からかうように云うと、鶴吉は、じろっと睨《にら》んで、
「人のことだ、うっちゃっといてくれ」
と、云った。
「岡っ引が稼業《かぎょう》だ。それほど、忘《わす》れられねえのなら、相談に乗ってもいいぜ」
「親爺にきいたのか」
「きいた。おめえが、見かけによらず、善《い》い奴《やつ》だということが判《わか》って、気持がいい」
「置きやがれ。誰《だれ》だって、惚れたら、血|眼《まなこ》にならあ」
「いや、おめえのような男前に生れついたら、おれは、女には惚れねえやな。片っぱしから、つまんでは、すて、かじっては、すて……」
「ふざけるねえ!」
鶴吉は、呶鳴《どな》ってから、また、一杯、飲み干した。
「親分、気分がわるくなったぜ。今夜は、ここで、あばよ、だ」
「親爺としんみり、消えた女の話でもするか」
どぶは、屋台をはなれた。
「さて――年のはじめのいとなみは、どこのねぐらにすればよい、か」
「は、は、はっくしょいっ!」
両国橋を渡りながら、どぶは、途方もなく大きなくしゃみをした。
「――ちょっ! おれの手で、獄門送りにしたのが、これまで、十三人。どうやら、成仏しきれずに、元旦の夜を、ふわふわ、そこいらを、うろついてやがるけはいがあらあ」
どぶが、わざと大声をあげた時、欄干によりかかっていた人影が、
「縁起でもないことを、お云いでないよ」
と、云った。
手|拭《ぬぐ》いを吹き流しにかぶった夜|鷹《たか》であった。
「へえ。てめえ、いま、浮世をはかなんで、どぶん、とやらかす料|簡《けん》になっていたのじゃねえのか」
「冗談じゃないよ。客を送って、ここで、別れたのさ。ちょいと、乙《おつ》だろう」
「なにが、乙だ。きぬぎぬの別れ、ってえのは、格子《こうし》ほそ目にひきあけて、うるんだ目で、そっと見送る風情《ふぜい》をいうんだ。夜明け前の川っ風に吹かれながら、水っ洟《ぱな》をすする別れなんざ、おめえ、絵にも歌にもならねえやな」
「ところが、絵になり、歌になるのさ」
「どういうんだ?」
「ききたけりゃ、あたしを買っとくれな。これで、あたしと馴染《なじみ》になった男は、出世するんだよ、ほんとさ、あたしで女を知った室町の豆腐屋の次男坊は、小田原の山分限者に養子に行ったし――」
「岡っ引が、おめえを買ったら、どういう運が向くんだ?」
「おや、おまいさん、御用ききかい。いま追っかけている下手人が、きっと、近いうちに、つかまるよ」
「よし、買った。……おめえ、ここまで客を送って来るところをみると、一軒持ってやがるな」
「あいよ。炬燵《こたつ》もあります、三味線もある、なんなら、踊りもごらんに入れまする」
「それで、十六文じゃ、ひきあうめえ」
「心意気さね」
どぶは、元旦に抱く女が、夜鷹では、あまりぞっとしなかったが、なんとなく面白そうな女なので、ついて行くことにした。
歩きながら、夜鷹は、気軽にしゃべりつづけた。
「あたしゃね、親分――、お正月の客は、ちゃんと、こういう男、ときめているのさ。……つまり、お店者《たなもん》で、やっと手代になったばかりの、女知らずさ」
「ふうん。おめえが、女を知らせてやる、というのか」
「そう――、まだ十七か八。可愛《かわい》いねえ。あたしを抱く時、こう、ぶるぶる、ふるえてさ。無我夢中で、のしかかって来るのは、本当に可愛いよ」
「功徳《くどく》だ、と云いてえのだろうが、どっこい、そういう≪うぶ≫からは、有金まきあげることができるからだろう。あこぎなまねは、止《や》めろい」
「とんでもない。あたしゃ、お正月の初客は、タダさ」
「タダだと――」
どぶは、首を振った。
「夜|鷹《たか》に、そんな立派な心がけの女がいたとは、知らなかったぜ」
「本当さ。せめて、お正月の初客ぐらい、こっちから、ご奉仕申し上げたいやね。気持がいいものだよ。但《ただ》し、まだ女を知らぬうぶでなけりゃ、まっぴらさ。……もう、これで、五年、そうしているのさ。お店者《たなもん》たちは、口伝えでね、つぎからつぎに、あたしを抱くのを待ちこがれていてくれるのさ」
「それじゃ一人だけじゃなく、三人も四人も、男にしてやるのか?」
「しようがないじゃないか。あたしのことが、評判になって、押すな押すなだからね。……今年《ことし》は、殊《こと》に多くてね。七人だった」
「おそれ入ったぜ。八人目が、岡っ引と来てやがる」
どぶは、自嘲《じちょう》した。
夜鷹のねぐらは、両国|垢離《こり》場の大道芸人たちが集っている裏店にあった。
意外に、小ぎれいなすまいであった。
長火|鉢《ばち》も据《す》えてあったし、神|棚《だな》も設けてあった。
「こんな夜ふけまで、悪い奴《やつ》をさがしまわって、御用ききもご苦労さまだね。……一本、つけようか」
「やけに、おめえは、親切な女だなあ。……酒は、もういい。それより、雑煮でもつくってくれろ」
「あいよ」
女は、気さくに応じた。
どぶは、寝|牀《どこ》へごろりと仰臥《ぎょうが》した。
夜具の中には、男と女のぬくもりが、のこっていた。
夜鷹は、もう四十に手がとどく年齢で、目も小さく鼻もひくい、不器量な容|貌《ぼう》であった。まだ女を知らぬ若いお店者に、元|旦《たん》、無料で奉仕してやる、ということを思いついたのも、永《なが》い夜鷹ぐらしで浮世の裏表を眺《なが》めているうちに、かえって、かたぎの女よりも、心の美しさを知ったことなのか。
「さ――おあがんなさいよ」
猫脚《ねこあし》の膳《ぜん》が、はこんで来られた。
どぶは、箸《はし》をとりあげながら、
「おめえ、両国を縄張《なわば》りにしているのなら、ならび茶屋の女どもの消息も、知っているだろう?」
と、たずねた。
「まアね」
「清滝に、おいく、という女がいて、不意に、煙のように消えちまったことを、知っているだろう?」
「ああ、きいているよ」
「どうして、消えたか――臆測《おくそく》でいいんだが、耳にしたことを、教えてくれ」
「さあ――、あれは、どういうんだろう?」
「とぼけているのか?」
「いいえ。あの消滅は、だれにも、さっぱり、わからないんですよ」
「かどわかされた、としか思えねえだろう、おめえの考えじゃ――?」
「そうだねえ。惚《ほ》れた男がいたら、女は、決して、生命《いのち》を粗末にはしないからねえ」
どうやら、夜鷹は、おいくに鶴吉がいたことを知っているようであった。
どぶが、その夜鷹《よたか》の家を出たのは、正月三日の午后《ごご》であった。
なんとなく、精気の抜けた呆《ほう》けた気分で、ふらふらと歩いているうちに、
「おっと、いけねえ」
どぶは、はっと思い出した。
荒井町の窪地《くぼち》の裏|店《だな》に、おひなという幼女に、たった一人で正月を迎えさせたことを、すっかり忘れていたのである。
「自身番の爺《じじい》のやつ、ちゃんと、おひなに、雑煮を食わせてくれたかな?」
急に、どぶは、心配になって来た。
飲んだくれのなまけ者が、大晦日《おおみそか》も正月も、家を忘れて、街《まち》をうろつきまわって、ふっとわれにかえって、うそさむい気分になった――そんなわびしさが、どぶに、わかった。
「どうも、いけねえ。とんだ荷物を背負い込んだ、という感じだぜ」
一人ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、両国広小路に出た。
三日ともなると、盛り場は、にぎやかである。
棟梁《とうりょう》親方の家で、したたかに、酔っぱらった弟子たちが、新調の染め袢天《ばんてん》、盲縞《めくらじま》の股引《ももひき》、腹掛に、麻裏のつっかけ草履《ぞうり》で、どっと出て来て、広場をうずめていた。
さまざまの見世物小屋が、鳴物と呼び込み声で、この職人たちをつめ込んでいたし、大道芸人たちも、いまがかせぎ時と、黒山にたからせていた。
水茶屋も屋台店も、手のまわらぬ忙しさであった。
「へっ、天下は泰平だ」
どぶは、このにぎわいに溶け込めぬ気分で、人波をぬけて行くうちに、
「お――あれだ」
と、水茶屋の一軒に近づいた。
鶴吉の女、おいくがつとめていた清滝であった。
正月にもかかわらず、よれよれの着たきり雀《すずめ》のどぶは、どう見ても、宿なしの浮浪者であった。
茶|汲《く》み女たちも、どぶのそばへは、寄ろうとせぬ。
生あくびを、ふたつみつ、やっていたどぶは、かたわらを、すっと通りすぎようとする茶汲みの一人へ、ひょいと足を出した。
それにつまずいた女は、険しい目つきになって、どぶをにらむと、
「いけすかないよ。……いま、いそがしいんだから――」
と、云いすてて行こうとしかけて、そのふところからのぞいている十手をみとめて、
「あら――」
と、あわてた。
「ちょいと、ききてえことがある」
どぶは、女が持っている朱塗り盆から、甘酒を把《と》ると、ひと口飲んで、
「おいくという女と、おめえ、親しかったろう?」
と、云った。
「べつに、あたしゃ、おいくさんとは……」
女は、しりごみした。
「おめえは、お人|好《よ》しの顔をしているぜ」
どぶは、笑いながら、云った。
「あら、そうですか」
「おめえのような女は、客ばかりじゃなく、朋輩《ほうばい》にも親切なものだ」
「それア、あたしは、情にほだされる方だから、つい、損ばかりするんだけど――」
「おいくは、おめえに、何か、打明けたろう?」
「いいえ。……おいくさんは、口がかたくて、小町の鶴さんのことだって、誰《だれ》にも、一言も云ったことはありゃしなかったんです。ただ……」
「ただ――? どうした?」
「ただ、おいくさんは、ほかに、なにか、なやみごとはあったようですよ。一人、沈み込んでいることが、ときどきありました。男に惚《ほ》れて、想《おも》っている時には、あんなさびしい様子は、しやしない」
「ふむ。おいくは、家を背負っていたのか?」
「それは知りませんけどねえ。自分じゃ、一人ぼっちだと云っていたけど……」
その時、
「姐《ねえ》さん、甘酒はどうしたね?」
むこうから、声がかかった。
どぶに、甘酒を横|奪《ど》りされながら、いままで、黙っていたとは、辛抱づよい客である。
どぶは、ふりかえってみた。
すると――。
福々しい小肥《ぶと》りの、年来の親しい童顔が、そこにあった。
次郎吉であった。
最近になって、この男は、和泉屋という小間物屋をひらいている。
これが、鼠《ねずみ》小僧という大名屋敷を狙《ねら》う夜働きとは、誰も気がつかぬ。
「なんだ、おめえさんかい」
どぶは、立って、そばへ寄った。
「おいくの行方をさがしていなさるのか?」
次郎吉は、微笑しながら、どぶを見た。
どぶは、これまで、次郎吉から、いくども、助力をかりている。
「心あたりがあったら、教えてもらいてえな」
「いや、べつに、なにもないがね。佳《い》い女だったので、煙のように消えた、ときいて、ちょいと、気にはなっていた」
「ガエンの鶴吉という色男の情婦《いろ》だったことは、知っているかね?」
「それは、きいていた。似合いだったね」
「鶴吉は、いまだに、血眼になって、さがしていやがる」
「女に、それほど、惚れることができるとは、幸せな男だ、ということだね」
次郎吉が、云った折、あまり遠くない火見|櫓《やぐら》で、半鐘が鳴り出した。
「また、火事だな。どうも、近|頃《ごろ》、火事が多すぎるようだ」
次郎吉が、云った。
火事と喧嘩《けんか》は、江戸の華《はな》である。一日に一度、半鐘が鳴っても、べつに、ふしぎはないのであったが、次郎吉に云われてみて、どぶも気がついた。
「そう云われると、そうだな」
「冗談じゃねえや!」
客の一人が、叫んだ。
「秋葉神杜の奉納堂に、ごろんぼ浪人が三人、逆《さか》さ吊《づ》りにされていたのは、あれアおめえ、火事が出ねえように、人柱にしたんだろう。それだのに、こう、やけに半鐘が鳴りやがるチョボ一があってたまるけえ。なんのために、三人も人柱にしたんだよう――」
それをきいて、どぶは、はっとなった。
「そうか、あれは、人柱、ということになるのか」
「人柱が立てられたのだから、もう火事の心配はない、と思って、油断したために、かえって、火事が多くなった、と考えられなくもないね」
次郎吉が、笑いながら、云った。
「それにしても、どうも、変てこらいな話だ」
どぶは、首をかしげた。
「なにが、妙なのだね?」
「三人を逆さ吊りしやがった下手人は、だいたい見当がついているんだ」
「ほう、そうかね」
「あの三人は、押込み強盗を働いていやがるんだ。たぶん、押込まれた家で、ひっとらえて、殺《ばら》して、秋葉神社の奉納堂に、逆さ吊りにしやがったに相違ねえ。……いま、深川の木場で、飛ぶ鳥を落している檜《ひのき》屋――知っているかね?」
「檜政の噂《うわさ》なら、ちょいちょい、耳に入っている。えたいの知れぬ男らしいね」
「檜政が、にわかにのし上りやがったきっかけが、怪しいのよ。木場一番の老舗《しにせ》の飛騨屋というのが、全焼した。檜政は、その直後から、ぐうんと、のし上っている。飛騨屋は、どうやら何者かに放火されたらしい、となると、筋書がちゃんとできているじゃねえか」
「なるほど――」
「その火つけ犯人めが、こんどは、火事|除《よ》けに、三人のごろんぼを、秋葉神社の奉納堂に、逆さ吊りした。というのは、どうも、変てこらいな話じゃねえか」
「他人の店を焼いたのだから、こんどは、自分の店が焼かれる心配があるので、厄除《やくよ》けのまじないをした、と考えられないかね」
「あの檜政が、縁起かつぎをするような殊勝な奴《やつ》とは、思えねえやな」
「あんたが、会った印象では、悪党だったかね?」
「一筋|縄《なわ》ではいかねえ大悪党とみたね」
「そうなると、たしかに、つじつまが合わなくなる。……ともかく、世間では、あの逆さ吊りのおかげで、江戸に大火事は、当分起らないだろう、と安心した模様だね」
「ところが、小さな火事は、やたらに起っていやがる」
どぶは、となりの緋毛氈《ひもうせん》に腰かけている隠居に、
「おい、爺《じい》さん、おめえ、ひまだから、最近起った小火事を、かぞえられるだろう?」
と、訊《たず》ねた。
「そうだな。ここのところ、火事は多いね」
隠居は、指を折って、かぞえはじめた。
隠居は、およそ十五件もかぞえあげてから、
「御用ききのお前さんなら、もうとっくにご存じだろうが、火事ばかりじゃなくて、妙なことも、ちょくちょく、起っているよ」
「なんでえ、それア?」
「たとえばさ、橋本町の袋物屋が焼けた時、は組の小|頭《がしら》が大|怪我《けが》をして、死んでいる。次の日には、となりの馬喰《ばくろう》町のうなぎ屋が、半焼しているが、この時も、ろ組の纏《まとい》持ちが、屋根からころがり落ちて死んでいる。浅草では、密教院が焼けたが、ここでは、小僧が黒こげになったし、田原町の自身番では、≪ぼや≫を出したが、みなが駆けつけた時には、爺《じい》さんが大やけどをして、倒れていて、そのまま、息をひきとっているよ。
もっと、奇妙なのは、本所だね。番場町の湯屋が燃えあがった時、町内の火見|櫓《やぐら》は、ひとつも鳴らなかった。誰のいたずらか、いつの間にか、半鐘が、三つとも盗まれていたんだね。深川の八幡様の境内では、夜番見|廻《まわ》りが、殺されたのか、心の臓《ぞう》の発作か、うつ伏して事切れていた。……これが、暮から正月にかけての、たった一月あまりの出来事だから、やりきれないよ。なにしろ、忙しいさなかのことだから、他人のことなど、かまっていられないので、誰も、いちいち、かぞえてはみなかったのだが、いま、こうやって、かぞえてみると、まるで、逆さ吊《づ》りされた浪人衆の亡霊が崇《たた》ったみたいだね」
「ふうむ!」
どぶは、唸《うな》った。
「年寄ってえのは、やはり、役に立つぜ。ただ、ひまをもてあましているだけじゃねえんだな。どうも有難うよ」
どぶは、礼を云って、次郎吉とともに、茶屋を出た。
五、六歩行ってから、どぶは、不意に、足を停《と》めると、
「おっ!」
と、声を発した。
「おどろかすね。なんだい?」
次郎吉が、けげんに、視線を向けた。
「判《わか》った! 逆さ吊りだ!」
「それが――?」
「逆さ吊り、というのは、つまり、逆目《さかめ》祈願じゃねえか。え、おい、次郎さん、そうだろう?」
「ふむ!」
次郎吉も、急に、ひきしまった表情になった。
「そう云われると、まさしく――」
「そうだろう。ただ、意味もなく、逆さ吊りにしたんじゃねえのだ。あれは、火|除《よ》けのまじないじゃなくて、火事が起るように、逆目祈願をしやがったのだ」
「すると、檜政《ひのまさ》が、その途方もない祈願をしたことになるのかね」
「そうとしか、考えられねえ。江戸に火事が頻発すりゃ、木場は、もうかるのだ!」
「もし、そうだとすれば、これは、たしかに、途方もない大悪党ということになる」
「そうだ。そうなんだ! 檜政のしわざにちげえねえぞ!」
どぶは、叫んだ。
あぶり出し
「下手人は、はっきりしてやがる。ところが、証拠がねえ。くそ! こんな腹の立つことがあるけえ!」
次郎吉と別れたどぶは、ぶつぶつと、独語《ひとりごと》をもらしつづけた。
三人の浪人を逆さ吊《づ》りにしたのは、逆目《さかめ》祈願――江戸に大火事が起るように祈願したことは、疑う余地はなかった。
そのしわざが、檜政《ひのまさ》であるとすれば、檜政は、江戸に大火事が起ることを祈っているのだ。
これは、断じて許しがたい悪魔の料簡《りょうけん》である。
ところが――。
檜政は、浪人どもが押込んで来たことを、否定しているのだ。
否定されては、岡っ引としては、どうしようもない。
押込んだという証拠は、何もないのだ。
押込んだという証拠をつかまなければ、浪人どもを逆さ吊りにした、という罪を問うことはできないのである。
どぶとしては、なんとも、苛立《いらだ》たしい限りであった。
「尻尾《しっぽ》を、ふんづかまえるには、さて、どうすりゃいいかだ」
どぶは、目下のところ、なんのあてもないのであった。
不快な気分のまま、どぶは、おひなの待つ裏|店《だな》へもどって来た。
意外にも、おひなは、きれいな晴着をまとって、愛想《あいそ》よく、どぶを迎えた。
「おかいんなさい」
どぶが、上ると、おひなは、いそいそと、屠蘇《とそ》道具を持って来た。
「へえ、こんなものを、どこから持って来たんだ」
「小父《おじ》ちゃん、おめでとうございます」
おひなは、畳に両手をついて、挨拶《あいさつ》した。
どぶは、ぐるっと見まわしてみた。どうも、家の中の様子が変であった。
「あ――そうか。箪笥《たんす》がふえている。そこに、火鉢もある。いったい、どういうんだ、これア? だれが、こんなものを持って来てくれたんだ? え、おひな、おめえに、こんなきれいなべべをきせてくれたのは、だれだえ?」
「このまえ、小父ちゃんがつれて行ってくれたお屋敷のおねえちゃん――」
「あ!」
どぶは、膝《ひざ》をたたいた。
「小夜さんか。なるほど、わかった。こまやかな心づかいというやつだ。やっぱり、子供の世話は、女でなけりゃいけねえな」
どぶは、屠蘇を祝ってから、火鉢の縁に頬杖《ほおづえ》をついて、ぼんやりしているうちに、ふと思いついて、さらしの腹巻のあいだに入れていた一枚の護符をとり出した。
それは、檜政所有の筏《いかだ》の下で死んでいた隠密が持っていた、秋葉神社の本山の護符であった。
「秋葉神社か」
どぶは、護符を、火鉢の上へかざして、眺《なが》めた。
「隠密が、どうして、このお守りを持っていたかだ」
どぶは、なんとなく、すてがたく、その護符を持ちつづけていたのである。
隠密たる者が、なんの意味もなく、護符を持っているわけはなかった。隠密は、決して、むだなものは身につけてはいないものなのだ。
「しかし、これは、ただの秋葉神社のお守りでしかねえやな」
呟《つぶや》いていると、おひなが、
「小父《おじ》ちゃん――」
と、呼んだ。
「なんだえ?」
「裏に、字が出たよ」
「字?」
どぶは、裏がえしてみた。
利吉
隠密の仮名が、浮かび出ていた。
「そうか!」
どぶは、いそいで、腹巻の中から、隠密が所持していたもうひとつの品――飛騨路の通行手形を、とり出した。
それを、炭火の上に、かざした。
みるみる、文字が現れた。
日向屋
河内屋
美濃屋
佐賀屋
小諸屋
備前屋
土佐屋
十指にあまる商家の店名が、羅列《られつ》されていた。
その屋号の下に、心覚えらしく、横一とか、豊二とか、記《しる》しとめられてあった。
「ふむ。横一、というのは、横山町一丁目だな。豊二は、豊島町二丁目に、ちげえねえ」
火であぶり出さなければならないように、秘密にしたためた十数店である。重大な意味があるに相違なかった。
「小父ちゃん、これ、なアに?」
「おひな、ありがとうよ。こいつが、事件解決の辻《つじ》うらだぜ」
どぶは、おひなの肩をたたくと、ごろりと横になった。
おひなは、いつも、亡《な》くなった父親にしてやったように、押入れから夜具をひき出すと、どぶの上へかけてやった。
どぶは、すぐに、いびきをかきはじめた。
自身番の爺《じい》さんが、顔をのぞけた。
「おや、親分は、かえって来なすったか」
「お爺ちゃん、もう、夜、泊ってくれなくてもいいよ」
「おひなは、すっかり、良い子になったな」
「だって、親切なおねえちゃんが、来てくれるもの」
「おう、そうだったな。あれは、おめえ、立派なお旗本のお屋敷の小間使いなんだぜ。……どうして、おめえに、親切にして下さるのか知らねえが、ありがたいことよ。おひなも、おかげで、良い子になった。浮世には、鬼ばかりはいねえ」
爺さんは、いくども、うなずいておいて、立ち去った。
おひなも、どぶのかたわらに横になった。
三日が、過ぎた。
どぶが、町小路邸へ現れたのは、小夜が、七草|粥《がゆ》を、左門の前へはこんだ夕|餉《げ》時であった。
どぶは、左門が、箸《はし》を置くまで待つことにして、端近《はしじか》にかしこまった。
「話してよい」
左門は、許した。
「ここに、筏《いかだ》の下で殺された隠密のふところにあった秋葉神社の護符と飛騨路の通行手形がございます。これに、あぶり出しの字が書かれてありました。護符には、利吉という仮名、手形には十二軒の店の屋号が、記《しる》してありました。ところが――」
この三日間、どぶは、その店をさがして、歩きまわってみたところ、なんということか、そんな店は一軒もなかったのである。
つまり、全く架空の店が、つらねてあったのである。
「どうして、架空の屋号を十二軒、書いたか。それぞれの屋号の下には、町名を、ちゃんと明記していたにもかかわらず、どこにも、一軒も実在していなかった、というのは、これアいったい、どういうことでございましょうかね。隠密であるからには、これには、重要な意味があって、書いたに相違ござんすまい」
「そうであろうな」
「全く、なんとも、見当もつかねえ、ということは、やりきれませんや」
「…………」
例によって、左門は、この疑問に対しては、一言もこたえなかった。
箸を置いた時、左門は、別のことを口にした。
「小松九郎兵衛が、調べたことを、お前に、つたえておこう」
「へい」
「お前は、槍屋《ひのきや》へ行った時、関根重蔵と申す浪人者に会うた。政右衛門の義理の弟にあたる男である由――」
「へい、たしかに」
「小松に命じて、その浪人の素姓を調べさせてみた。……関根重蔵は、奥羽棚倉藩の鉄砲奉行の下役であった」
「へえ!」
天下泰平のご時世であった。火術はすでに、兵法からはなれていた。諸大名の江戸屋敷では、町家の花火遊興に対抗して、花火づくりがさかんであった。
そして、両国の川開きで、華《はな》やかに花火が打ちあげられたのち、こんどは、上野不忍池の畔《ほとり》で、武家の花火打ちあげが催され、諸藩は、これを競うたのである。
これは、七月七日|七夕《たなばた》祭の宵の催しであった。
この日、武家では、上野東|叡《えい》山、芝増上寺の両御|廟《びょう》の宝前へ、切子|燈籠《どうろう》を奉納するならわしであった。
不忍池畔で花火を打ちあげるのは、いわば、その切子燈籠奉納に附随《ふずい》して、代々の将軍家の精霊をおなぐさめする、という名目であった。
実際は、花火の方が、主となっていたのである。
奥羽棚倉六万石・伊達藩は、この不忍池畔の花火打ちあげでは、毎年その新趣向で、名を挙《あ》げていた。
殊《こと》に、十二|提灯《ちょうちん》という花火の豪華さでは、他家の追随を許さなかった。
こうなると、棚倉藩は、意地でも、毎年新趣向の花火を打ちあげて、期待にこたえなければならなかった。
花火製造の責任者は、鉄砲奉行であったが、実際に、その仕事にうち込んだのは、関根重蔵であった。
関根重蔵は、十五歳でその職に就《つ》いてから、二十年間、花火づくりに専念した熟練者であった。
しかし、毎年、新趣向をもって、世人をあっとおどろかせるのは、なみなみの工夫《くふう》では、できがたいことであった。
その年――。
関根重蔵は、ある奇抜な趣向を思いついて、寝《しん》食を忘れた。
それが、不幸をもたらした。
試作品を打ちあげようとして、かたわらにいた妻と子に、その凄《すさま》じい火をあびせてしまって、生命を落させたのであった。自身も、顔の半面をはじめ、全身に大|火傷《やけど》を負うた。
関根重蔵は、それにも屈せず、ついに、十五段にわかれて空を彩《いろど》る花火を、つくりあげた。
ところが――。
七夕《たなばた》祭の宵、満々たる自信をもって、重蔵が打ちあげた花火は、十五段はおろか、三段にもわかれずに、奇妙な黒煙を空にまいて、すぼんでしまい、万余の見物人の失笑を買ってしまったのであった。
前宣伝が、かまびすしかっただけに、棚倉藩の面目は、まるつぶれであった。
関根重蔵は、その恥辱によって、追放された。
妻子を死にいたらしめてまで、必死に工夫して、つくりあげた花火が、失敗におわったために、関根重蔵は、おのが身の破滅を招いた。のこったのは、正視に耐えぬ化物|面《づら》だけであった。
焼け死んだその妻が、檜《ひのき》屋政右衛門の実妹であった。
「……まことに、関根は、不運な男と申せる」
左門は、云った。
「おそらくは、関根は、主君に怨《うら》みをのこして、主家を去ったものに相違ない」
「それア当然でございましょうな。女房子供まで殺したのだから、たとえ今年は失敗しても、次の年には成功せよ、と寛容を示してくれるのが、殿様というものじゃねえか、と恨んだに相違ねえ。……たしかに、あの浪人は、ぞっとするような陰気なところがありやしたが、そんな不運に遭うているんじゃ、世をすねるのは、むりもありませんや」
「関根は、しかし、まだ花火をつくって居《お》る、と申したな」
「へい。手なぐさみに、つくって、深川|界隈《かいわい》の玩具《おもちゃ》屋におろして、子供たちをよろこばしているようでございます」
「常識で考えれば、おのれを不幸におとした花火など、つくるのはおろか、見たくもないものであろうが……」
左門の云う通りであった。
花火のために、妻子を死なせ、自身も破滅したのである。関根重蔵は、花火をこそ、憎悪《ぞうお》すべきであろうに、なお、いまも、それを、つくっている。
これは、第三者としては、合点《がてん》しがたいところである。
いや、どうも、怪しい気配が、そのことに感じられる。
「どぶ――」
「へい」
「棚倉藩は、先年までは、桜田組の方角火消であったが、近年にいたって、猿江材木蔵の常備守衛の火消役を、命じられて居る」
「へえ?」
「もし、本所深川に、大火が起り、猿江材木蔵が焼けるようなことがあれば、伊達右京は、その落度を問われ、あるいは、失脚のおそれもなしとせぬ」
「ということは、関根重蔵には、旧主に対する復|讐《しゅう》の手段として、放火がある、ということになりやすね」
「もし、関根が、その決意を、なせばだ」
「あいつ、やるつもりかも知れません。……いよいよ、檜政《ひのまさ》からは、目がはなせなくなりやした」
どぶは、ぶるっと武者ぶるいした。
「これから、檜政へ乗り込んで――」
腰を上げかけるどぶを、左門は、
「待て」
と、とどめた。
「お前が、まともに当っても、容易に、尻尾《しっぽ》を出す対手《あいて》ではない。お前が、ここで、当ってみる対手は、鶴吉というガエンであろう」
「殿様は、鶴吉のことも、もうお調べなさいましたので……?」
「十年前、飛騨屋が全焼した時、纏《まとい》持ちの鶴吉が、わざと、反対方角に纏を立てたぐらいのことは、調べてある」
「それでございます。鶴吉は、どうやら、檜政に金をつかまされて、わざと、纏を風上へ立てた、と思われます。飛騨屋に放火したのは、檜政に相違ない、とあっしは、踏んで居ります」
「そのことを、鶴吉の口から、吐かせてみるとよい」
「かしこまりました」
どぶは、立ち上った。
出て行こうとして、ふと思い出して、
「小夜さん。おひなに、親切にしてくれて、有難うよ」
と、頭を下げた。
小夜は、左門に気がねして、無言で首を振ってみせた。
「どぶ――」
左門が、呼びとめた。
「子供をかかえた裏店《うらだな》ぐらしは、どうだな?」
「へい。どうも、勝手がちがって、まごついて居ります。世帯を持つのは、柄じゃございません」
「女房を持ってみれば、案外いい亭主になるかも知れぬ」
「ご、ご冗談を――」
どぶは、いそいで屋敷を出た。
うす陽《び》がななめに落ちたその荒廃屋敷へ、鶴吉が、微醺《びくん》をおびて、ふらりと入《はい》って来た。
倉の中では、すでに、元日からぶっ通しで片|刻《とき》の休みもなしに、賭場《とば》がひらかれているはずであった。
倉の扉《とびら》へ手をかけた時、
「待ちな」
背後から、声が、かかった。
鶴吉は、ふりかえって、そこに、どぶを見出すと、舌打ちして、
「しつっこいな、親分は――」と、云った。
「埒《らち》をあけたくて、おめえの現れるのを、待っていたんだ」
「埒を? どうあける、というんだ?」
「勝負したいのだ」
「勝負? おれは、ここンところ、ついているぜ、親分――」
「サイコロでやるんじゃねえ。おめえのふところにある匕首《あいくち》を抜いてもらおう」
「……?」
「但《ただ》し、こっちは、素手だ」
「なめたものだな」
「それで、ちょうど、この勝負は、釣合いがとれるんだ。いいか、遠慮容赦《えんりょようしゃ》なく、突きかかって来てもらおう。おれに、かすり傷でも負わせたら、もう、すっぱり、あきらめて、おめえの過去は、洗わねえ」
「ふん――」
「しかし、おれが、匕首を奪い取ったら、おめえは、かくしている過去の秘密を、あらいざらい、しゃべるんだ。……どうだ、この勝負は?」
鶴吉は、ちょっと黙って、考えていたが、
「よかろう。おれにとっては、有利な条件をつけてくれたんだ。ことわっちゃ、みっともねえやな。……しかし、親分、まかりまちがって、生命《いのち》を落すような大|怪我《けが》をしても、自業自得というものだぜ」
「だてに十手をあずかっているんじゃねえ。こっちは、自信満々だからこそ、素手で対手《あいて》になってやるんだ」
「よおし!」
どぶと鶴吉は、母屋《おもや》跡へ歩いて行った。
鶴吉の手に、匕首がひらめくのを見てから、どぶは、にやっとして、
「深手を負わせまい、などと手加減しやがったら、承知しねえぞ。心の臓をぶすりとやる勢いで、かかって来い」
「おう、いいとも!」
鶴吉は、身構えた。
どぶは、鶴吉の過去を、当人の口から吐かせるには、この手段しかない、と考えたのである。まことに危険なあぶり出しであったが、やむを得なかった。
鶴吉は、町火消の纏《まとい》持ちをつとめた男である。きわめて、敏|捷《しょう》な運動神経を持っているに相違なかった。
匕首をかざした身構えが、いかにも、鋭い。
どぶは、無造作に、つッ立っているばかりである。
「さあ、どこからでも、かかって来い」
「やるぜ!」
鶴吉は、猛然と、突きかけて来た。
どぶは、ひょいひょいと、身をかわしながら、退《さが》りつづけた。
切先は鋭かった――匕首の使いかたも心得ていたが、どぶから見れば、兵法を知らぬ者のめくら滅法な攻撃でしかなかった。
退りつづけながら、どぶは、隙《すき》をうかがった。
「野郎っ!」
鶴吉は、苛《いら》立った。
「どうした。しっかりしろい。そのへっぴり腰じゃ、かすり傷も負わせられめえ」
「なにをっ!」
鶴吉は、逆上した。
躍気《やっき》になって、襲いかかって来るのを、たっぷり余裕を持って、右へかわし、左へさけ、頭を沈めたり、跳《と》び退ったりしていたどぶは、一瞬、
「おっ!」
と、懸《かけ》声もろとも、鶴吉のむこう臑《ずね》を、蹴《け》とばした。
その痛さにうめいて、鶴吉が、しりもちをついたところを、どぶは、すばやく、右の手くびをつかんで、ひとひねりした。
匕首は、なんなく、どぶの手に移った。
「負けだぜ、鶴吉」
どぶは、笑った。
「た、たしかに、負けた。……おお、痛えっ――」
鶴吉は、疼《うず》くむこう臑を、さすった。
しばらくのち――。
どぶは、鶴吉をつれて、薬研堀のうなぎ屋の二階にいた。
うなぎが焼けるのを待つあいだ、酒がはこばれて来た。
鶴吉は、人が変ったように、膝《ひざ》をそろえて、かしこまった。
どぶがすすめても、盃《さかずき》を手にしようとしなかった。
どぶは、鶴吉が口をひらくのを、待った。
鶴吉は、宙の一点を見つめていたが、ようやく、
「おれは、檜政《ひのまさ》にあやつられていた木偶《でく》だった」
まず、その告白をした。
「そうだろうと思っていた」
「親分――」
どぶへ向けた鶴吉の双|眸《ぼう》は、異様にきらきらと光っていた。
「あらいざらい吐《は》いちまうからには、もう、犯した罪をのがれようとは、思わねえ」
「うむ」
「しかし、いま、おれに、縄《なわ》をかけるのは、待ってもらえねえか。おれは、さがし出さなけりゃならねえ女がいるんだ」
「清滝にいた、おいくだろう」
「そうだ。あの女をさがし出さなけりゃ、ならねえんだ。どうしてもだ! おれの生命《いのち》とひきかえにしてもだ」
「それほど、惚れているのか?」
「いや、惚れているだけじゃねえのだ。惚れているだけなら、あきらめもするが、それだけじゃねえんだ」
「十一年前のことだ」
鶴吉は、語りはじめた。
十八歳の鶴吉は、町火消になったばかりであった。真面目《まじめ》で、生一本な、親方や兄貴たちから可愛《かわい》がられる若者であった。
同じ町内に、留造という岡っ引がいたが、これが、鼻つまみの悪《わる》で、人の弱味につけ込んで、金をせびりとることしか、考えない男であった。
四月八日――灌仏会《かんぶつえ》の朝であった。
鶴吉は、本所回向院へ詣《もう》でて、牡丹《ぼたん》、芍薬《しゃくやく》、百合《ゆり》、紫藤《しとう》、燕子花《かきつばた》などで美しく飾られた灌仏堂の屋根を仰いでいる時、近くで、留造が、声を殺して、一人の娘をおどしつけているのを、見かけた。
娘は、なにかの事情で、おどされるままになっていなければならないらしかった。
鶴吉が様子をうかがっているうちに、留造は、娘を無理|強《じ》いにうながして、足早に、境内を出て行く。
鶴吉は、義憤にかられて、そのあとを尾行した。
留造は、娘をつれて、一つ目橋を渡って、水戸家の石揚《いしあげ》場前の弁才天へ入《はい》った。
そして、そこで、いきなり、娘を手ごめにしようとした。
これを目撃した鶴吉は、娘をにがしておいて、留造と、とっ組み合った。
気がついた時には、留造は、血だらけになって、ぐったりとなって居《お》り、鶴吉は、いつの間にか、右手に、大きな石ころをつかんでいた。
いかに留造が悪党でも、岡っ引である。これを殺せば、獄門は、まぬがれない。
――どうしよう?
と、ふるえている鶴吉のそばへ一人の男が、近づいて来た。
「この留造は、いずれ、こうして罰があたる野郎だったのだ。心配することはない。わしにまかせておけば、ちゃんとうまく処理してやる」
そう云ってから、自分は、最近木場で店びらきをした檜《ひのき》屋政右衛門という者だ、と名のった。
この男に、兇事《きょうじ》をかくしてもらうことが、後日どのようなたたりになるか、その時は、夢にも考えずに、鶴吉は、檜政に、頭を下げたのであった。
留造の死体は、それから三日ばかり過ぎて、大川の百本|杭《ぐい》にひっかかっていた。
毛虫のようにきらわれていた男が、土左衛門になっていたのである。人々は、ざまをみろ、天罰てきめんとはこのことだ、と話しあった。
町方役人も、他殺の疑いを抱《いだ》いたものの、世間の鼻つまみであった仏を浮かばせてやるつもりにはならなかったらしく、下手人を探索しようとはしなかった。
「おれは、ほっと胸をなでおろしたが、これで一生檜政には頭が上らなくなり、この恩がえしをしなければならねえ、と肚《はら》をきめたものだった。……檜政は一年ばかりは、知らん顔をしていたが、やがて、おれを木偶《でく》にして、自由自在にあやつることを、考えていやがったんだ」
「ちょっと、待った」
どぶは、鶴吉の告白をさえぎって、
「おめえが、留造と、とっ組み合った弁才天に、檜政《ひのまさ》は、偶然いたのかな」
「……?」
「もしかすれば、娘を一人、囮《おとり》につかって、留造を、おめえに殺させた。そういう≪からくり≫じゃなかったのかな」
「…………」
鶴吉の顔面が、ゆがんだ。
「檜政は、留造に、なにか、弱味をにぎられていた。これから、材木問屋として、のしあがるには、留造という岡っ引は、邪魔になる。そこで、消してやろうと≪ほぞ≫をきめた。しかし、直接に手を下さずに、おめえという町火消の若者を、えらんだ。おめえは、そのからくりにひっかかったと知らずに、留造を殺した。どうだ、これは?」
「畜生!」
鶴吉は、うめいた。
「そういえば、助けてやったあの娘は、あれっきり、どこかへ消えちまって、一度も会わなかった。……そうか! あれは、からくりだったのか! 檜政め!」
「で――檜政は、一石二鳥――留造を消して、おめえという木偶《でく》を、つくった。それから、どうなったい?」
「飛騨屋が、焼けた時のことは、もう、話すまでもあるめえ」
「やっぱり、火を放《つ》けたのは、檜政か」
「誰《だれ》も見た者はいねえが、火を放けたのは、居候《いそうろう》の関根重蔵という浪人だ、とおれはにらんでいる」
「おめえは、檜政から命じられて、わざと纏《まとい》を、風上に立てた」
「あの夜は、風が、くるくると、向きをかえていやがった。だから、おれが、わざとまちがえたとは、誰も考えやしなかった。しかし、おれは、たしかに、檜政に命じられていたんだ。……おれが、わざとまちげえたために、飛騨屋は、家族全員、焼け死んでしまったんだ」
鶴吉は、頭をかかえて、うなだれた。
思い出すだにおそろしい地獄図絵だったのだ。
「ところが――」
どぶは、冷たい声音で、云った。
「飛騨屋では、一人だけ、焼け死ぬのをまぬがれた者がいた」
「う、う……」
鶴吉は、異様なうめき声をもらした。
「次女のおまちという娘だった。まだ十二だった。その娘が、煙の中をのがれ出て来て、父や母をたすけてくれ、と泣きさけぶのを、お前は、きいたはずだ」
「そ、そうだ! おれは、きいた。あの娘の半狂乱の、あわれな姿を、この目で見たんだ」
顔をあげた鶴吉は、その双|眸《ぼう》から、泪《なみだ》をあふらせていた。
「おめえは、その直後、檜政から、百両もらったか、二百両もらったか、上方へ飛んだ。耳の底に、おまちの泣き叫ぶ声をのこしながら――」
「そうだ、その通りだ。おれは、上方をうろつきまわっているあいだ、毎夜、おまちの泣き叫ぶ声に、うなされていた」
鶴吉は、みとめた。
「江戸へ舞いもどって来たのは、おまちに会うためであった。そうだな?」
「ああ、おれは、おまちに会って、なにもかも打ち明けて、詫《わ》びるつもりだったのだ」
「おめえは、江戸へ舞いもどると、血眼《ちまなこ》になって、おまちをさがした。……べつに、血眼になって、さがしまわらなければならねえことはなかった。おまちは、すぐ、目のつくところにいた。両国の水茶屋清滝にな」
「ど、どうして、それが――」
「こっちは、岡っ引だぜ。それぐれえのことが、わからねえで、どうする。おまちは、美しく成長して、清滝の看板茶汲みになり、名も、おいくと変えていた」
「そ、そうなんだ」
「おめえは、みなし児《ご》のおいくに、かげになり、日向《ひなた》になって、親切につくしてやった。江戸一番の色男が、罪ほろぼしに、けんめいに親切してやったんだ。おいくが、その情にほだされて、首ったけになるのは、あたりめえよ。おいくは、おめえという男がいなけりゃ、生きてゆけねえ女になった。そうなると、おめえは、かえって、一家を焼き殺したことを、打ち明けられなくなった。そうだな?」
「見ていたように、あてるぜ。……おれは、今日は打ち明けよう、明日は、と毎日考えていたんだ。しかし、できなかった」
「打ち明けるよりさきに、他人じゃねえ仲になっちまえば、もう、口が≪にかわ≫づけになるのは、しかたがなかろう」
「おれは――おれも、芯《しん》そこ、おまちに惚れたんだ。これは、まちげえねえ」
「と、てめえの気持が判《わか》った時、おまちは、どうしたわけか、姿をくらました」
「ああ――」
鶴吉は、力なく、うなずいた。
「おめえは、おまちが消えた時、自分の犯した飛騨屋一家殺しの罪が、おまちに露見してしまったのだ、という懸念が起った。おまちは、惚れた男が、父母殺しの片棒をかついだ悪党と知って、世をはかなんで、姿をかくした――」
「止めてくれっ!」
鶴吉は、再び頭をかかえると、畳へ俯《うつ》伏してしまった。
「おまちが、その理由以外に、姿をかくすことは、考えられなかった。おめえは、そのために、きちがいのようになって、おまちの行方をさがしもとめた。おまちをさがしあてたら、こんどこそ、いさぎよく、自分から白状して、奉行所へ自首して出ようと、決心したのだ。そうだろう?」
「ああ、そ、その通りだ。……しかし、おまちは、どこへもいねえのだ。さがせるところは、ぜんぶ、さがした。心当りは、みな、当った。……おまちは、煙のように、消え失《う》せてしまったんだ。この苦しみは、誰《だれ》にも、判りゃしねえ。酒と博奕《ばくち》で、気持をまぎらわそうとしても、駄目なんだ。おれは、だんだん、自棄《やけ》になるんだ!」
十一
どぶは、鶴吉の感情がしずまるのを待って、次の尋問に、移った。
「ところで、江戸へ舞いもどってからの、おめえと檜政《ひのまさ》の間柄のことだ……檜政は、おめえを、黙って、看《み》のがしていたか、どうかだ」
「…………」
鶴吉は、ちょっと、返辞にまよう様子を示した。
どぶは、すかさず、
「檜政という悪党が、おめえが江戸へ舞い戻ったことを知って、黙って看《み》のがすはずはあるめえ。古証文がまだ、生きていることを、おめえに、通告したんじゃねえのか。どうだ?」
と、云った。
「親分の眼力には、かぶとを脱ぐぜ」
鶴吉は、なげ出すように、こたえた。
「おれが、飛騨屋の生き残り娘のおまちをさがしていることを、檜政に、感づかれたのが、運のつきだった。おまちが、おいくと名をかえて、両国の水茶屋の茶|汲《く》みになっていることを、知らせてくれたのは、実は、檜政だったのさ。そいつが、つまり、ワナだった。……おれが、おいくと他人でなくなるのを待ちかまえていて、檜政は、おれを、おどして来やがった。おれが、飛騨屋一家をわざと焼き殺したことを、おいくに、かくしてやるかわりに、こっちのたのみをきけ、と――」
「そうだと思ったぜ」
檜政が、鶴吉に命じたのは、奇妙な悪事であった。
まず、鶴吉が、町火消ではなく、ガエンになること。そして、もともと犬|猿《えん》の間である町火消とガエンを、絶えず喧嘩《けんか》させる工作をすること。その喧嘩で、双方の主《おも》だった腕ききを大|怪我《けが》させて、再び火消の役にたたぬ不具者にすること。
鶴吉は、どういうこんたんで、檜政が、そのようなことをしなければならぬのか、見当つかぬままに、ガエンになって、町火消に喧嘩を売りまくった。
おのが本意ではない喧嘩|沙汰《ざた》が、かえって、小町の鶴吉の名を市井に高くしてしまったのは、皮肉であった。
この二年あまりのあいだに、ガエンと町火消の小頭《こがしら》たちのうち、十数人が、血なまぐさい出入りで、負傷して、不具者になった。
そして、いまや、ガエンと町火消は、街《まち》中ですれちがっただけで、もう血の雨を降らしそうな殺気を投げ交《かわ》す険悪な状態になっていた。
この睨《にら》みあいのために、一軒だけですむ火事が、大きくなって、みすみす十数軒を焼いてしまう場合が、すくなくなかった。
「いまになって、おれは、自分のやったことが、空おそろしくなっている。しかし、もう、どうしようもねえ。ガエンと町火消は、どっちかが、とりつぶされない限り、ともに天を頂かねえ仇《きゅう》敵同士だ。お上の力で、仲なおりをさせようとしても、埒《らち》があかねえ状態になっちまった」
鶴古は、苦いものを、吐き出すように、告白した。
十二
どぶは、冷やかに、苦渋に満ちた鶴吉の顔を見まもりつつ、
「そして、その挙句《あげく》が、おいくの失踪、ということになった。これは、どうやら、ただの失踪じゃねえ、とわかるぜ」
「しかし、檜政《ひのまさ》が、おいくを消す理由がねえ。檜政にとって、おいくは、おれをおどす餌《え》なんだからな。……おいくは、おれが一家殺しの下手人と知って、この世をはかなんで、死んじまった――そう考えた方が」
「そう考えたら、おめえ自身が、やりきれなかろう」
「やりきれねえ。やりきれねえから、博奕《ばくち》と酒で、気をまぎらわそうとしているんだ。それにしても、おれを、このようなハメに追い込みやがった檜政は、どれだけ憎んでも、憎み足りねえ野郎だ。いつかは、思い知らせてくれよう、と≪ほぞ≫をかためているところへ、たまたま、杉江ら三人の≪ごろんぼ≫浪人が、切端《せっぱ》つまって、押込み強盗を働く相談をしてやがったから、どうせやるなら、対手《あいて》が悪党の方が、寝《ね》ざめがわるくなかろうと、そそのかして、檜政の名を云ってやったんだ」
「ふむ――」
「ところが、その結果は、秋葉神社に逆さ吊《づ》りだ。……所|詮《せん》、ごろんぼどもの歯の立つ対手じゃなかったんだ、檜政という悪党は――」
鶴吉は、溜《ため》息まじりに、云った。
どぶは、鋭く、
「おめえ、浪人たちを、ただ、そそのかしただけか?」
「なに?」
「いやさ、ただ、金を掠奪《りゃくだつ》しろ、とそそのかしただけだったのか、ということだ」
「…………」
「それだけじゃねえだろう」
「う、うん……」
鶴吉は、ひくく呻《うめ》いた。
「浪人たちに、押込んだならば、檜政の身辺から、金だけじゃなく、別の品ものも盗んで来い、と命じたのじゃなかったか?」
「…………」
「檜政は、何か大きな悪事を、たくらんでいる。そのことを、おめえは、察知した。そこで、その証拠をつかみたかった。つまり、こんどは、逆に、おめえが、檜政をおどす立場にまわりたかった。そうなりゃ、古証文をひき破った上に、おつりが来ることになる。おめえは、その目的で、三人のごろんぼを、そそのかしたのだ」
「…………」
「そうだろう。どうだ?」
「図星だ。その通りだった」
鶴吉は、正直に、みとめた。
「で――、おめえは、檜政が、どんな大それた悪事をたくらんでいるか、およその見当はつけているんだな?」
「それが……、わからねえ。これは、知っていてかくしているわけじゃねえ。檜政は、たしかに、何かをたくらんでいやがるんだ。しかし、おれには、まだ、見当もついていねえ」
土蔵の中
どぶは、鶴吉をさきに去らせておいて、しばらくの間、うなぎ屋の二階で、チビチビ飲みつづけた。
と――。
次の部屋との仕切りの唐《から》紙が、すっとひらいて、姿をみせたのは、意外にも、次郎吉であった。
「さすがに、かぎつけるのは早えな」
どぶが、笑って云うと、次郎吉は、渋いひきしまった面持で、
「檜政《ひのまさ》は、もしかすれば、途方もないことを企《くわだ》てているのじゃないかね」
と、云った。
「どういうことだ?」
「かるがるしく臆測《おくそく》はできぬが、どうも、あの男は、ただの商人じゃないような気がするね」
「おれも、いま、それを考えていた。もしかすると、あの野郎は、天下をひっくりかえすことを考えていやがる大|謀叛《むほん》人じゃねえかと――」
どぶは、そう云ったとたん、檜屋政右衛門が、本当にそういう大悪党のような気がして来た。
「証拠を、つかんでやりてえものだ」
「その証拠のことだが……」
次郎吉は、思慮ぶかい目つきで、云った。
「押込みをやった三人の浪人は、もしかすると、檜政のおそろしい企ての証拠になる何かの品を、発見して、奪いとろうとしたのじゃあるまいか」
「ふむ?」
「檜政は、そのために、火のように怒《おこ》って、三人を、秋葉神社に、逆さ吊《づ》りにした――とも、想像されるね」
「するてえと、大悪事を企てている証拠の品が、檜政の手|許《もと》に、たしかに、ある、ということになるんだな」
「そういうわけだな」
「おれはまた、檜政が、江戸に火事が、どんどん起れば、てめえがもうかるので、秋葉神社に逆さ祈願をしたのだ、と思っていたんだが、――そうか、浪人どもは、何か途方もない品を発見しやがったんだな。鶴吉の奴《やつ》は、ただ、そそのかしただけだ、と白らばくれていやがったが、鶴吉も、それがどんな品か、およその見当をつけていたにちげえねえ。浪人どもに、そいつを、盗んで来い、と命じたんだな」
どぶは、紙を一枚一枚めくるように、推理した。
「まずは、そんなところだろうね」
次郎吉は、うなずいて、
「鶴吉を、もう一度、責めてみる必要がありそうだが、まともに責めても、これ以上は、白状しないだろう」
「からめ手から、責めるか」
「そうだね。おいくという女が、なぜ、姿を消したか――そいつを明らかにするのも、責め手にはなる」
「そうだ。それだ! 当ってやろう。……次郎さん、この一件を片づけるにあたっても、おめえさんの力を、かりるぜ」
どぶは、云いおいて、立ち上った。
深更――。
八つの時鐘が鳴ってから、もうかなり経《た》った時刻であった。
闇《やみ》の中で、
「ね、もう一度、抱いておくれ」
女のあまえ声が、ささやいた。
すると、それに応《こた》えて、
「おかみさん、そんなに、あたくしのために、燃えなさるのかえ」
と、同様あまったるい、女のような声が、ささやきかえした。
「ああ、あたしゃ、からだ中が、火になっちまったよ。……おまえのためなら、どんなことでも――犬のまねだろうと、猫《ねこ》のまねだろうと……」
うわ言のように口走りつつ、起き上ると、行燈《あんどん》に灯を入れた。
女は、両国の水茶屋清滝の女将《おかみ》であった。四十に手がとどく上に、二十貫はあろう、みにくく肥満した大女であった。
対手《あいて》は、名もない下っ端《ぱ》女形《おやま》であった。まだ二十歳あまりの、骨の細い、糸目で、鼻も頤《おとがい》も長い、歌舞伎《かぶき》役者になるために生れて来たような、薄気味わるい≪ふたなり≫とみえる。
どたりと仰|臥《が》した水茶屋の女将は、羞恥《しゅうち》を持たぬ、ぶよぶよの裸形を、長|襦袢《じゅばん》からむき出して、女形の顔を、おのが胸へ押しつけた。
嬰児《えいじ》に乳を吸わせるあんばいに男の華奢《きゃしゃ》なからだをかかえ込み、
「果報だねえ、ほんとに――」
と、うわずったつぶやきをもらした。
女形は、ひとしきり、胸の隆起に、顔をうずめて、うごめかしていたが、やがて、その首を、そろそろと移して、下腹部を、むさぼりかかった。
とたん――。
「いいかげんにしろい。夜が明けらあ」
冷酷な声音が、ひきまわした屏風《びょうぶ》の蔭から、とんで来た。
女形は、はじかれたようにとび退《の》いたが、女将の方は、ふてくされた態度で、のろのろと、長襦袢の前を合せた。
屏風の蔭から、のそりと現れて、行燈のあかりを大きくしたのは、どぶであった。
「ワンと吠《ほ》えよか、じゃれつこか、いっそ毒|蛇《じゃ》で巻きつこか――へへへ、おたのしみのところを相すまねえが、現場を押えなけりゃ、相談に乗ってもらえねえんでね、不粋はご容赦――」
どぶは、そう云《い》って、その場へ坐《すわ》り込んだ。
「お前さんは、何者だい?」
「これだ」
どぶは、着物の前をはだけて、腹に巻いたさらしにさしている十手を、示した。
女将は、あわてて、
「あ――貴方《あなた》は、どぶと仰言《おっしゃ》る親分さんで……」
と、居ずまいをなおした。
「どぶと仰言る――とは、おそれ入りやした。左様、そのどぶが、清滝の女将に、物申してえ」
どぶは、枕《まくら》元に置いてあった寝《ね》酒を手にとると、銚子《ちょうし》をじかに口にあてた。
清滝の女将《おかみ》は、亭主持ちであった。もっとも、亭主は、三年あまり前から中風で、半身不随であった。
ともあれ、これは、亭主の目をぬすむ密通であることは、たしかである。どぶが、その気になれば、女将と女形《おやま》を、日本橋ぎわに、さらし者にして、非人におとすことができる。
「てめえは、さっさと消えろ」
どぶは、女形に命じた。
女形が、おののきながら、這《ほ》う這《ほ》うのていで出て行くのを待ってから、どぶは、女将を見すえた。
「これから、尋問することに、爪《つめ》の垢《あか》ほどでも嘘《うそ》をついたら、おめえさんは、日本橋に、さらされるぜ。いいな!」
まず、そうきめつけた。
「な、なんでも、きいて下さいな。あたしは、これで、正直|一途《いちず》で、通して来た女だから……」
「そう信じているのは、おめえさんの亭主ばかりだろう。……いいな、おれは、いっぺんしかことわらねえぜ」
「は、はい。どうぞ――」
「清滝で働いていて、ある日、突然、行方知れずになったおいくのことだ」
「…………」
「おいくの素姓を、まず、ききてえな」
「あ、あれは、十年ばかり前に、火事で一家みんな焼け死んだ木場の飛騨屋さんの、たった一人の生き残り娘でござんすよ」
女将は、これは、正直にこたえた。
「そうだ、その調子で、正直にこたえてもらいてえ」
「なんだ、親分はご存じだったのですか。人がわるいねえ」
「おいく――いや、おまち、が、どうして、突然、行方知れずになったか――その理由を、おめえさんは、知っているだろう?」
「親分――、おいくは、仰言《おっしゃ》る通りに、ある朝、起きてみたら、いなくなっていたんですよ。書きおきひとつ、のこさずにさ。……どうして、あたしたちに、その理由が、わかるものですかねえ」
「と、おめえが、返辞をするだろう、と予想はしていたぜ」
「だ、だって、ほ、ほんとなんですから……」
「声がふるえているぜ。正直にこたえているのに、どうして、声が、ふるえているんだ。おかしいぜ」
「だって、親分が、そんなすごい目つきで――」
「ふざけるねえ。おれの目は、象《ぞう》の目のように、小さくって、愛|敬《きょう》があらあ。おめえを、ふるえあがらせる威力なんざ、ありゃしねえや」
どぶは、懐中から、十手を抜き出すと、直刃をひらめかして、女将の長|襦袢《じゅばん》の前を、さっと両断した。
「日本橋にさらす手間をはぶいて、なんなら、この場で、仕置をしてくれようか。いい年をしやがって、濡《ぬ》れっぱなしのそこを、ひとえぐりしてやろうかな」
清滝の女将《おかみ》は、こんどこそ、しんそこから、ふるえあがった様子をみせた。
「親分、かんにんして下さいな。あたしゃ、しゃべっちまったら、こ、ころされてしまう!」
「誰に殺されるんだ?」
「…………」
女将は、両手を合せた。
「ぬかせ!」
どぶは、十手刀の、槍《やり》の穂先のように鋭い尖端を、女の内|股《また》のあいだへ、すっと、さし込んだ。
ひいっ、と悲鳴をあげた女将は、
「ひ、ひのきやに……」
と、ついに、泥を吐いた。
「檜《ひのき》屋だと! おいくをかどわかしたのは、檜政か? そうだな?」
「は、はい――」
「そうか! そんな気も、したことはしたんだが、かどわかす理由がねえ、と思いなおしたのは、こっちが甘かった。おいくを、かどわかして、いってえ、どうしやがるこんたんだったのか、だ」
どぶは、首をひねった。
その隙《すき》をうかがって、女将は、どたどたと逃げ出そうとした。
とたんに――。
どぶは、むき出した臀部《でんぶ》へ、一筋うす傷をつけた。
きゃっ、と死にそうな悲鳴をあげて、つンのめったのへ、目もくれずに、立ち上ったどぶは、
――もうこうなりゃ、遠慮をしちゃ、いられねえ!
と、ほぞをきめた。
翌朝――。
どぶは、左門に、鶴吉を白状させたこと、清滝の女将からおいく誘拐《ゆうかい》の下手人が檜政であったことを、報告して、
「あっしは、檜政の店へ、乗り込んで、首根を押えやす」
と、申し出た。
「次郎吉でも相棒にいたすか」
左門は、冷たい無表情で、云った。
「へ、へい――」
「正面から、乗り込むのは、おろかだな」
「と仰言《おっしゃ》いますと?」
「盗賊を相棒にやとうのだ、忍びの手でゆくがよかろう」
「へい」
「しかし、おいくという女は、たぶん、すでに、この世のものではないであろう」
「檜政に殺された、と仰言るので――?」
「さんざもてあそばれた挙句《あげく》に、生命《いのち》を落したであろう」
「どうして、殺された、とお考えになりますので――?」
「…………」
左門は、しかし、それにはこたえず、
「檜屋には、幾|棟《むね》も土蔵がならんでいる、と申していたな」
「へい」
「関根重蔵が、花火をつくっている土蔵へ、忍び込んでみるがよかろう。充分に要心して行くがよい」
もうそろそろ、寅刻《とらのこく》(午前四時)になる頃あいであったろう。
三十三間堂町に沿うた堀割を、一|艘《そう》の釣舟がゆっくりと、すすんでいた。
釣に行くのに、夜明け前に出るのは、あたりまえのことで、べつに怪しむには足りないが、灯をつけていないのであった。
舟は、汐見橋の下に来て、停《と》められた。
舳《へ》先にうずくまっていた者が、ぶるっと、胴ぶるいして、
「骨が鳴るほど、こたえるぜ。畜生め!」
と、つぶやいた。
どぶの声であった。
と――。
橋の上へ、人影があらわれた。
「おう――ご苦労さん」
下からどぶが、声をかけると、人影は欄干をこえて、ひらりと、とび降りて来た。
「今年《ことし》一番の冷え込みじゃないかね、今夜は――」
次郎吉であった。
「わしも、もう年だな。こう寒さがこたえるようになっては、小間物屋の方を本業にした方が、よさそうだ」
「どうも、すまねえ。かせぎにならねえ仕事をたのんじまって――」
「ははは……、お前さんにこんなに素直に頭を下げられたのは、はじめてだ。お前さんの手助けをするのは、こっちの趣味、というか、まア、一種の遊びさ。よろこんでやっているのだ」
「生命《いのち》がけの遊びか」
「飲む、打つ、買うに興味のない男なんでね。……他人の秘密を、そっとのぞいてみる、悪いくせだけがある。それが、取柄になっているのだから、妙なものさ」
舟は、入船町に沿うて、ゆっくりと、すすんだ。
石|垣《がき》の上には、大きな土蔵がならんで、渓流上から、そそり立つ巨巌《きょがん》を仰ぐようなあんばいである。
「あれだ!」
どぶが、指さした。
「三|棟《むね》あるが、どれだね?」
「まん中に、関根重蔵は、住んでいるらしい」
舟は、その土蔵の下の石垣へ、寄せられた。
「どちらにするね?」
次郎吉が、細引をとり出しながら、たずねた。
「どちらとは?」
「破りかただよ。高窓の鉄|格子《ごうし》を抜くのは、かんたんだが、どうしても、音を立てる。屋根を破るのは、面倒だし、時間がかかるが、まず、気づかれるおそれはない」
「高窓の鉄格子を抜いてくれ」
どぶは、云った。
「度胸があるね。見つかったら、お互い、生命がないかも知れぬが……」
「おれは、いつでも、運だめしをやるのだ」
「その覚悟なら――」
次郎吉は、無造作とも見える動作で、細引を投げあげた。
細引の輪は、土蔵の壁のはるか高処につけられた消火|梯子《はしご》掛けの鉤《かぎ》に、ひっかかった。
この小|肥《ぶと》りの四十男に、どうしてこんな身軽さがあるのか、とどぶをあきれさせる速度で、次郎吉は、するすると、土蔵の壁をのぼって行った。
「夜が明けるまで、かかりますかい?」
船頭が、おずおずとたずねた。
岡っ引の手先になって久しい船頭であったから、危険な仕事には馴《な》れていたし、おそれてもいなかったが、明るくなれば、往《ゆ》き交《か》う船から、怪しまれることを心配したのである。
「夜が明けた時には、消えているさ」
「そんなに、造作もなく、窓が破れるものですかい?」
「破り手が、あの鼠《ねずみ》――」
と、云いかけて、どぶは、あわてて口をつぐんだ。
岡っ引ともあろう者が、大名屋敷荒らしの盗賊と組んでいることを知られるのは、まずかった。
「ともかく、おめえには、迷惑はかけねえ」
どぶは、そう云いながら、土蔵の壁を仰いだ。
高窓にとりついた次郎吉は、音を立てまいとつとめているようであったが、やはり、さけられず、カツンカツンという音が、断続して、ひびいて来る。
――やはり、屋根を破った方が、よかったかな?
どぶの脳裡《のうり》に、不安がわいた。
四半|刻《とき》ばかり過ぎてから、次郎吉から、合図があった。
「爺《じい》さん、引きあげてもらっていいぜ」
どぶは、細引に、縄梯子《なわばしご》をくくりつけて、次郎吉にひきあげてもらうと、船頭に、云った。
「ご用心を――」
船頭は、どぶが縄梯子にとりつくと、棹《さお》で石垣を突いて、舟をはなした。
どぶが、いそいで、のぼって行くと、高窓の鉄格子は、見事に、はずされていた。
「うめえものだ」
次郎吉は、すでに、内部に入っていて、どぶがもぐり込むのを待っていた。
「この土蔵は、三階になっているね。ここが三階。どうやら、この菰《こも》包みは、火薬らしい。しかも、南蛮製だね」
次郎吉に云われて、どぶは、菰をひきやぶってみた。
なるほど、異国の文字が記してあった。
荷物は、おびただしい数であった。
「こんなに、多量の火薬を、いってえ、どうするこんたんだろうな?」
「いよいよ、檜政《ひのまさ》の企てているのは、おそろしいことだ、と想像できるね」
「場合によっては、この火薬に火をつけて、家もろとも、檜政をふっとばしてくれる」
「それよりも、玉屋や鍵屋に渡せば、両国の川開きには、前代未聞の大花火を打ちあげることができる、というものだがね」
次郎吉は、云った。
「夜働きのくせに、風流を解するとは、おめえさんも、妙な人間だ」
どぶと次郎吉は、菰包みのあいだを抜けて、足音をしのばせつつ、二階へ降りて行った。
「ほう、これは!」
携帯用の手|燭《しょく》のあかりで、二階を照らした次郎吉とどぶは、同時に声をあげた。
ところせましと置かれたさまざまの器具は、普通の庶民が、一見しただけでは、なんのために使用するのか、さっぱりわからないが、二人の目には、すぐに、それが、おそろしい拷問道具と、わかった。
「いったい、これは、どういうのだ?」
どぶは、海老責《えびぜ》めにする枷《かせ》にふれてみて、首をひねった。
「小伝馬町の牢屋敷にも、これほどの責め道具は、そろっていないね」
次郎吉は、天井からつるされている巨大な大|鎌《かま》を仰いで、云った。
どうやら、その大鎌は、振り子仕掛になっていて、徐々に下って来て、台上にしばりつけた人間を、斬《き》るらしい。
南蛮製の道具も、すくなくない。
奇怪な形相の蝋《ろう》づくりの亡霊もあった。さすがのどぶが、その前で、首をすくめた。
「檜政《ひのまさ》の野郎、実は、狂人かも知れねえ」
どぶは、つぶやいた。
「もしかすると、逆さ吊《づ》りされた浪人たちは、ここで、これらの責め道具で試《ため》されたのじゃないかね」
「お――そうだ。そうに、ちげえねえ」
どぶは、鉄鎖や金具に、責め殺された浪人たちの衣類の切れはしでも、ついていないか、と顔を近寄せてみた。
そのうち――。
片|隅《すみ》に置かれた奇妙な道具を、どういう使いかたをするのだろう、としきりにしらべていた次郎吉は、ふと気づいて、
「妙だな」
と、壁にさわってみた。
「この壁だけが、やけに厚いな。しかも、近頃、塗りかえている」
そう云われて、どぶは、近づいてみた。
「そうだな。これは、新しいや。なにか、これは、意味があるのかも知れねえ」
直感であった。
しかし、いま、壁を突き崩《くず》している余裕はなかった。
「こいつは、奉行所から、出張《でば》ってもらって、調べつくす必要があらあ」
次郎吉は、壁に沿うて身を移すうちに、大きな書|棚《だな》を、見つけた。
書棚には、びっしりと、書物が積まれていたが、何気なく、手にとってみると、兵学書であった。
「相馬大学述」とある。
「ふん――。相馬大学か。きいたことがあるぜ」
別の本をひき出してみると、これも、相馬大学述であった。
どうやら、書棚にあるのは、すべて、相馬大学の著述のようであった。
「材木問屋が、兵学書を持っていやがるとは、うなずけねえや」
どぶは、いよいよあやしみながら、その一冊を、参考までに懐中にした。
「どうだね。一階へ降りてみるかね?」
次郎吉が、問うた。
「降りようじゃねえか」
どぶは、応じた。
次郎吉は、手|燭《しょく》のあかりを消した。
足音をしのばせて、階段を、そっと降りはじめた時――。
一階に、人の起き上る気配があった。
――関根重蔵は、ここに寝《ね》ていたのか。
どぶと次郎吉は、階段の途中で、ぴたりと足を停《と》めた。
起き上った者が、行燈《あんどん》にあかりを入れるのを、二人は、じっと見|下《おろ》した。
関根重蔵にまぎれもなかった。
もう外は、夜が明けていたのである。
関根は、着物をつけると、そのまま、出て行った。
「こっちも、そろそろ退散するか」
一階へ降りて、ぐるりと見わたし、べつに目を惹くものが何もないのをたしかめると、次郎吉は、云った。
「檜政《ひのまさ》に会って、皮肉のひとつもあびせてやりてえところだが――」
「今日のところは、おとなしく、ひきあげるとしよう」
四半|刻《とき》のちには、どぶと次郎吉は、再び、舟の人になって、汐見橋をくぐっていた。
「もうすぐ、春だな」
次郎吉は、雲ひとつない空を仰いで、云った。
どぶの方は、その顔を眺《なが》めて、
――滋味があるぜ、この顔は。裏道ばかりを長年、歩きつづけていても、こんなに、良い顔になるとは、いってえ、どういうんだろう?
と、思った。
「次郎さん」
「なんだね?」
「おめえさんに、いっぺん、ききてえと思っていたんだが、大名屋敷から盗んだ金は、合せて、いくらぐらいになるんだ?」
「さあ……、どれくらいになろうか」
「一万両を上まわっているだろう」
「そうさな。一万四、五千両、というところか」
「おめえさんは、その金を、ひそかに、貧乏人にくばったのじゃねえか。まさか、土の中へかくしているわけでもねえだろう」
「想像にまかせるよ」
「水くせえことを、云いなさんな。正直に云ってもいいじゃねえか」
「盗人《ぬすっと》が、岡っ引に、正直に教える、というのも、おかしな話だが……、べつにほかに道楽があるわけではないし、人助けのまねをいろいろ、やってみた」
「たとえば――?」
「大尽面《だいじんづら》をして、吉原から、女郎を幾人かひかして、国|許《もと》へ帰してやったり、回向院へ寄進して、無縁仏の墓をたててみたり……」
次郎吉は、遠いところを見る表情で、云った。
「えれえもんだな」
「どうせ、ただで頂戴した金だからね」
「おれも、檜政の倉でうなっている千両箱をかっぱらって、江戸中の貧民救済と、しゃれてみてえや」
相馬大学
「ふむ――。檜《ひのき》屋の土蔵の中に、相馬大学の著作が積んであった、というのか」
どぶの報告を受けて、珍しく、左門の口もとに、薄ら笑いがうかんだ。
「相馬大学ってえのは、きいたことがありやすが、殿様は、ご存じでございますか?」
「青山久保町に、道場を構えて居る」
「じゃ、浪人者でござんすね?」
「出は、武家か百姓かは知らぬ。江戸へ現れたのは、五年ばかり前だが、その時はすでに、軍配者であった」
「軍配者と申しやすと?」
「軍配|団扇《うちわ》の軍配の謂《いい》で、兵法・軍学を教える男だ。正伝楠流を称して居る」
「へえ――」
「どうやら、慶安の頃、騒動を起した由比正雪気どりの模様だ。ひと時代前ならば、このような人物は、さっさと捕えて、打首にしたかも知れぬが、閣老以下すべて、事なかれ主義になった今日では、とがめる度胸さえもない」
「兵学とか軍法とかいうのは、いってえ、どんなものでござんしょう?」
「でたらめなものだな」
左門の返辞は、明快であった。
「へえ? でたらめで――」
「軍学などと申すものは、戦国時代が過ぎてから、現れたものだ。武田家の家来であった小幡景憲が、甲州流軍学の宗師ということになって居る。軍配に奥旨を悟ったとうそぶいて、門下に二千人を集めたそうだが、その著述を読んでみたが、でたらめなものだ。小幡景憲は、おそらく、いくさをやったことなどない男であろう。北条氏長の北条流、山鹿素行の山鹿流、沢崎主水の越後流、岡本半助の上泉流、栗田憲政の謙信三徳流……いずれも、畳の上の水練にすぎぬ。いざ鎌倉となった場合、なんの役にも立つまい。……ばかげた学問だ。武家の子弟は、これを学ぶ義務を課せられて居るが、教養にすらならぬ。孫子一冊を読めば足りよう」
どぶは、このような断定をしてみせる左門が、好きであった。
もし、左門が、戦国の世に在《あ》ったならば、諸葛亮孔明《しょかつりょうこうめい》のような胸のすく軍師ぶりを示したのではないか、と想像される。
「するてえと、相馬大学という軍配者も、まやかし者ということになりやすね?」
「たぶんな」
「由比正雪気どりとは、ふざけてやがる。……ひとつ、調べあげて、ふんじばってくれるか」
「要心するがよい。軍配者としては、まやかし者かも知れぬが、人間としては相当の悪党であろう。弟子も多いときいて居る。のみならず、相馬大学は、若い者を心酔させる妙な魅力をそなえて居るようだ」
一年のほとんどを、この屋敷にとじこもって居りながら、左門は、上は大名の内情から、下は非人の生態にいたるまで、くわしかった。
「ともかく、当ってみることにいたしやす」
どぶは、ほぞをきめた。
どぶは、まず、青山へ出かけて行って、相馬大学の弟子に、あたってみることにした。
青山は、百人町の広い往還をへだてて、旗本屋敷が、無数にならんでいる。
その旗本の子弟の中から、相馬大学の門下をさがすのは、造作もなかった。
どぶは、いつものうすぎたない風体を変えて、どこかの小藩の家中とみせかける身装《みなり》になっていた。
もともと、前身は、それであった男である。いたについているのは、ふしぎではなかった。
ちょうど、善光寺の縁日であったので、雑沓《ざっとう》する境内で、どぶは、相馬大学門下の旗本子弟をつかまえて、話しかけた。
あきれたことであった。
まるで、祖師に対する信者さながらに、相馬大学に心酔していたのである。左門の云った通りであった。
「相馬先生は、百年に一人、現れるか現れぬ天才と存ずる」
その言葉を吐く若い旗本の次男坊の顔を、どぶは、あきれて、見まもったことであった。
その日、どぶは、六人ばかりあたってみた。ことごとくが、相馬大学を神様あつかいであった。
――大かたり野郎も、いいところだぞ!
どぶは、武者ぶるいした。
次の日の朝――。
どぶは、久保町の、相馬大学の道場の前に立った。
堂々たる構えであった。表間口三十間はあろう。
「これアまるで、一万石の大名屋敷だ」
どぶは、思わず、つぶやいた。
門|扉《ぴ》は左右にひらかれて居《お》り、白砂が玄関まで、目に痛いくらいきれいに敷きつめられていた。
それを踏んで行くと、巨《おお》きな額が、かかげてあった。
『軍学兵法六芸十能医陰両道指南』
なんともおそれ入った看板であった。
まさしく、慶安のむかしの張孔堂由比正雪を気どっている。
どぶは、玄関に立つと、
「おたのみ申します」
と、案内を乞《こ》うた。
筒|袖《そで》に≪たっつけ≫をはいた若い男が、出て来た。
どぶは、でたらめを名のって、入門を乞うた。
すぐに、みちびかれたのは、壁に木|太刀《だち》のかかっている板敷きの道場であった。あまりひろくなく、武者窓ひとつきりの、うすぐらい道場であった。
――これが、ひとつだけじゃねえだろうな。まるで、拷問部屋のように陰気くせえ。
どぶは、見まわした。
大小は、玄関わきにあずけて、無腰であったが、この男の懐中には、仕込みの十手がある。
なにやら、鋭い眼光が、どこからか、自分を射《い》ているような気がして、どぶは、丹田《たんでん》に力をこめた。
どぶの予感は、適中した。
五人の門弟が入って来たが、これはいずれも浪人ていであった。目つきが鋭く、険しい面相ぞろいであった。すでに、襷《たすき》がけをして居《お》り、木|太刀《だち》を携《さ》げていた。
「入門希望者に対しては、当道場の掟《おきて》として、試練を加えるが、よろしいな?」
正面に立った者が、睨《にら》みつけるようにして、云った。
「心得ます」
どぶは、頭を下げた。
「壁から、木太刀をえらばれい」
命じられた通り、どぶは、その一本を手にした。
たちまち――。
五人の浪人が、包囲した。
――妙なことになったぞ!
どぶの脳裡《のうり》で、疑惑がひろがった。
入門を許すのに、こんな苛酷な試練をするなどというのは、面妖《おか》しいのである。
五人は、あきらかに、殺気をむき出している。容赦なく、撃ち倒すこんたんに相違ない。
しかも、いずれも、相当の腕前らしい。
――正体を看《み》破りやがったかな?
いずれにしても、もはや、たたかわざるを得ぬ。
どぶは、地|摺《ず》りの構えをとった。
腕はきたえてある。岡っ引になってからは、仕込み十手の工夫《くふう》をもっぱらにしたので、太刀使いからは遠ざかったが、気息が充実している限り、業《わざ》は変に応ずることができるはずであった。
包囲されたからには、こちらも必死にならざるを得ないのであった。
五人の方は、その地摺りの構えを視《み》て、ひとしく、
――これは!
と、気色をさらに鋭いものにした。
背後から、
「やあっ!」と、懸《かけ》声をあびせたが、そのさそいには、どぶは、ビクともせぬ。
対峙《たいじ》が、四半|刻《とき》もつづいた。
いら立った正面の者が、猛然と撃ち込んだ。
瞬間――。
その木太刀は、天井へはねとび、どぶのからだは、敏|捷《しょう》に、壁ぎわへ、すべっていた。
「くそっ!」
「こやつ!」
それへ向って、殺到する四人は、どぶの強さに、闘志をあおられていた。
どぶは、壁へぴたりと背をつけて、すこしずつ、移動した。
「えいっ!」
撃ち込んだ者は、一瞬裡に、木太刀をはねとばされた。
「とおっ!」
必殺の突きも、かるくかわされた。
ついに――。
一人だけが、どぶの前に残った。
どぶは、獲物を前にした猟師のように、にやりとした。
「試練は、このあたりで、お止《や》め下さっては、如何《いかが》でござろう」
どぶが云った時、別の場所から、
「試練は、これからだ」
冷やかな声が、あびせかけられた。
総髪、長|髯《ぜん》をたくわえた、六尺ゆたかな人物が、床の間に立っていた。
その右手には、短筒が、にぎられていた。
「こんどは、その短筒で、てまえを、試《ため》されるのでござろうか?」
「顔色も変えぬ度胸ぶりは、見上げたものだ。木|太刀《だち》をすてて、そこへ坐《すわ》るがよかろう」
どぶは、距離をはかって、おそらく、ぶっぱなされても、あたらぬであろう、と思ったが、
――虎《こ》穴に入《はい》った以上、ここで、逃げ出す手はあるまい。
と思って、命じられた通り、木太刀をほうり出すと、その場へ、坐った。
すぐに、門弟の一人が、どぶを、うしろ手に、しばりあげた。
大学は、前へ進んで来ると、
「うまく化けて居るが、お前は、公儀の犬であろう」
「…………」
「この相馬大学に就《つ》いて、いろいろと、かぎまわっていた模様だが、なんのこんたんがあってのことかな?」
「…………」
「責めなければ、口を開かぬのかな?」
「べつに、かくしはしませんや。……お察しの通り、あっしゃ、岡っ引でさ。……お前様のことを調べたわけは、ほかでもねえ。こんな大層な道場をかまえなすって、何百人の弟子をかかえていなさるが、入門しているのは、失礼だが、貧乏さむらいばかりでござんしょう。するてえと、どこから、これだけの大世帯をまかなう金が、出ているか――そいつを、しらべろ、という、上からの命令なんで、へい」
「よけいなお節介だの」
「まったく、よけいなお節介でござんすが、なにせ、ご公儀も目下、火の車なんで、市井であんまり景気よく、くらしている御仁を見かけると、少々気になるのは、人情というものでござんしょう」
「わしが、この道場を経営できるのは、すべて、寄附による。末世を憂う人々の、わしへの期待だな」
「へえ、なるほど……。つまり、貴方《あなた》様は、衆生済度《しゅじょうさいど》のお祖師様気どり――と申しちゃ失礼でござんすが、まア天下国家をたてなおそうという、大理想でも、お持ちなんですかね」
「まず、な」
相馬大学は、笑った。
「ところで、あっしを、どうなさるおつもりなんで――?」
「生かして、道場から、出してやろうか、それとも、死|骸《がい》にして、どこかへうちすてようか、――いま、思案中だ」
「そいつは、あさはかな料簡《りょうけん》だ」
どぶは、ひとり言のように、云った。
「なんと申した?」
「あっしも、莫迦《ばか》じゃねえ。この道場へのり込む以上、それだけの用意はしていまさ」
「なんの用意だ?」
「あっしが、明朝まで帰らなかったら、奉行所から、百人ばかり、出張《でば》ってもらって、この道場を、捜してもらう――と、条件づきでさ」
「と申せば、生命《いのち》だけはとりとめられる、と小ざかしく、いま、考えたのであろう。武技の心得はあるとみえるゆえ、どれだけ当方の仕置に、堪《た》えられるか――その覚悟をいたせ」
「無|駄《だ》なことをおやんなさる」
「黙れ! この相馬大学の身辺をかぎまわったむくいは、受けねばならぬ」
大学は、木|太刀《だち》をつかんだ門弟たちへ、やれ、と命じた。
たちまち――。
肩へ、腕へ、背中へ、木太刀がびしびしと、加えられはじめた。
どぶは、歯を食いしばって、堪えた。
少年の日、遊び友達をあやまって、小刀で傷つけた時、父親から、滅多打ちされて、失神したことがあったが、それ以来はじめて、こんな、無抵抗な身に仕置を受けることになった。
疼《とう》痛は、しかし、しばらくするうちに、感じなくなり、撃たれる衝撃だけをおぼえるようになった。そのたびに、ぐらぐらっと上半身を傾けていたが、そのうちに気遠くなって来た。
どぶは、小伝馬町の牢《ろう》屋敷で、囚徒が拷問を受ける光景を、いくども目撃しているが、ほとんどの者が、なんともなさけない悲鳴をあげて、あっという間に、意識を失ってしまうのであった。
――おれは、ちっとばかり異常体質かも知れねえぞ。
どぶは、思った。
たしかに、はじめのうちは、一打一打がおそろしく痛かったが、途中から、妙な快感が、わくのをおぼえはじめたのである。
そして、全身が、無感覚になって来ると、麻薬でも嚥《の》んだような、ぼうっとした、きわめて、いい心地になって来た。
こうなると、いくら、なぐられても、かえって、のぞむところといった気分である。
「強情だの。とうとう、悲鳴をあげなかったな」
相馬大学のそういう声をききながら、どぶは、ぐらりと上半身をひとゆれさせると、床板へのめった。
「それくらいでよかろう」
――なにを云ってやがる。やっぱり、殺すのは、心配なのじゃねえか。
どぶは、思った。
意識は、しだいに、遠のきはじめた。
その時――。
どぶは、視界の隅《すみ》に、見物する門弟たちの中に、ひとつ知った顔が交っているのを、みとめたような気がした。
それは、関根重蔵の顔であった。
――寒いな。
意識がもどって来ると、どぶは、痛みよりもさきに、そう感じた。
暗い板敷きに、うしろ手にしばられたまま、ころがされていた。
ぶるっと、身ぶるいすると、からだ中が痛んだ。
――やりやがったものだ。
痛みをこらえて、ゆっくりと起き上ったどぶは、ぐるりと見まわした。
四方が板壁になっている。身をかがめなければならない小さな出入口があり、この板戸に、見張り孔《あな》がついていた。
――当分、出られそうもねえかな。
どぶは、しかし、おちついていた。
相馬大学という人物が、曲《くせ》者であったことを、はっきりつきとめたのは、収穫であった。ただの軍学者であれば、こっちが、かぎまわったことに、気づくはずもなかったろうし、これほど警戒する必要もないわけである。何かがあるから、要心ぶかくなっているのだ。
――そうだ。おれが、失神する時、目撃していやがった門弟の中に、関根重蔵の顔があったぞ。
どぶは、思い出した。
――やっぱり、相馬大学と檜政は、なにかの因縁で、つながっていやがるのだ。
どぶは、よろよろと立ち上ると、戸口へ寄った。
「おいっ! 誰《だれ》か、いねえか!」
大声で、呶鳴《どな》って、戸を蹴《け》った。
骨が砕《くだ》けるような激痛が、肩にも、腕にも、背中にも、腰にも、脚《あし》にも、起った。
「騒々しいぞ!」
見張り孔から、門弟の一人らしい顔がのぞいて、呶鳴りかえした。
「冗談じゃねえや。おれは、岡っ引だぜ。ふんじばる方の人間だあ。囚人あつかいをされたんじゃ、間尺に合わねえや。出してくれ」
「先生が命じられたのだ」
「先生だろうとなんだろうと、おれを、虜《とりこ》にする権利はねえぞ」
「うるさいっ! 黙って、そこへ坐《すわ》っていろ」
「坐っていられるか。からだ中が痛てえ上に、こう寒くちゃ、我慢できねえ。……夜具と火|鉢《ばち》をはこんで来やがれ。ついでに、熱|燗《かん》を三、四本、持って来る親切さはねえか」
「ふざけるな!」
見張り孔は、ぴたりと閉じられた。
どぶは、まん中へもどって、坐り込むと、両手をしばった細引を、解きはじめた。
素人《しろうと》がしばったのを解くのは、よほど厳重にしばってあっても、そうむつかしいものではなかった。
「やれやれ――」
自由の身にもどると、どぶは、あちらこちらの打傷を、なでさすってみた。
やはり鍛えたからだは、抵抗力があって、どうやらどの骨も、ひびも入《はい》っていないようであった。
――相馬大学の野郎、この報復は、きっとしてくれるぞ。
天井板が、はずされて、そこから次郎吉が呼んだのは、夜に入って、かなり更《ふ》けた頃合であった。
どぶが、この道場へ乗り込むにあたって、あらかじめ報《しら》せておいた対手《あいて》は、奉行所の役人ではなく、次郎吉であった。
救い手としては、役人よりも、次郎吉の方が、信頼がおけたのである。
天井から、縄梯子《なわばしご》が、するすると、おろされた。
どぶは、それにつかまって、のぼりながら、いくども、痛みで歯をくいしばった。
「ひどい目に遭《あ》ったようだね」
次郎吉は、どぶに、小さなひょうたんを手渡しながら、云った。
ひょうたんの中には、酒が入っていた。
「うめえ! やっぱり、おめえさんだけあって、気がきくぜ」
「からだのどこかが、やられているのかね?」
「心配はいらねえ。不死身だ」
どぶは、次郎吉がつくっておいた逃げ口を、次郎吉の手もかりずに、ぶじに抜けた。
道場から数丁はなれたところにある小料理屋の二階には、ちゃんと夜具も延べてあった。
「ま――二、三日は、ゆっくり、ここでやすむんだな」
次郎吉が、すすめた。
「そうもしていられねえ。……ところで、おめえさんのことだ。ただ、おれを救い出しただけじゃねえだろう?」
「それア、商売だからね」
次郎吉は、にやにやした。
「相馬大学は、たんまり、かくし金を持っていたかね?」
「それが、思いのほか、すくなかったね。三千両も蓄《たくわ》えているかどうかだね。……とりあえず、座敷の床の間の、掛物のうしろにあけてあった≪うろ≫の中から、千両箱をひとつ、頂|戴《だい》した。お前さんを救い出さねばならないので、庭の片隅に埋めておいた。この次、参上して、はこび出すことにしよう」
こともなげな口調で、次郎吉は、云った。
「あの道場には、何か、怪しい≪しろもの≫はなかったかね?」
「何かとは?」
「たとえば、鉄砲が何十挺もならべられているとか――」
「べつに、気がつかなかったね。ただ――」
「ただ?」
「あの道場には、むだ飯をくわせている食客が、二人や三人ではないようだね。どれも一癖も二癖もあるのが、どの部屋にもいたね。……どういうつもりだろう?」
「由比正雪を気どってやがるのだ。いまに、江戸城を乗っ取って天下人になってくれよう――と夢想していやがるんだろうぜ」
「まさか――。このご時世に、それほどの度胸のある浪人衆がいるはずもなかろう」
「おれは、あの野郎の面《つら》を、よく観《み》て来たが、ただ者じゃねえ骨相をしてやがった
「人相も観るのかね、親分は――」
「時と場合によってはな、三世相にも通じていなけりゃならねえわさ」
さすがに――。
どぶは、次の日一日、起き上ることができなかった。その小料理屋の女中が、あかぬけした色白の娘だったので、これに看護してもらうことの愉《たの》しさもあって、どぶは、厠《かわや》へ行くほかは、牀《とこ》の中にいた。
世帯というものを、持ったことのないどぶは、たまさか、こうして、かゆいところに手のとどく世話をされると、ひどくなまけ者になりたくなった。
三日目に、牀からはなれたどぶは、女中に、
「世話になったな。おめえの親切は一生忘れねえ」
珍しく、殊勝に、頭を下げた。
「あら、いやですよ。和泉屋さんから云われたのですから、お世話するのはあたりまえなんです」
「和泉屋は、この店に、なにか、恩をきせているのかね?」
「あら、ご存じないんですか。うちのおかみさんは、むかし、和泉屋さんに、吉原から落籍《ひか》されたんです」
――次郎吉め、飲む打つ買うは、縁がねえ、と云ってやがったが、大名屋敷から盗んだ金で、吉原で豪遊しやがったこともあるんだな。
考えてみれば、次郎吉のような男は、いついかなる場合、生命の危機におそわれるか知れないので、江戸市中各処に、逃げ込む安全なかくれ場所を設けておく必要があるのだ。
きっと、こういう家が、あちらこちらにあるに相違ない。次郎吉のためなら、自分の身をすてて、かばう人間が、かなりいると思われる。
どぶは、ちょっと、うらやましかった。
――おれには、そんな女は、一人もいねえや。
駕籠《かご》を呼んでもらって、それにゆられながら、どぶは、しんそこ自分に惚《ほ》れてくれる女のいないわびしさを、おぼえていた。
やがて――。
町小路邸の裏門で、駕籠をすてたどぶは、
「殿様に、このざまではしばらく動けませんと報告するのは、なんとも癪《しゃく》だぜ」
と、呟《つぶや》きながら、潜《くぐ》り戸を入った。
台所から顔をのぞけると、食器にからぶきんをかけていた小夜が、
「あら!」
と、おどろきの声をあげた。
「どうかしたかい?」
「親分、その顔は――?」
「これか……」
どぶは、鏡にうつしていないので、自分の顔が、どう変っているか、知らなかった。
「化物|面《づら》になっているかね?」
「ひどい顔になっています」
小夜は、手鏡をとって来て、さし出した。
自分の面相を一|瞥《べつ》して、どぶは、あきれた。
「こいつは、ひでえや!」
「人ごとみたいに云って……、どうかしたのですか?」
「どうかしたから、こうなったんだ」
「さてと――、有難えことに、殿様には、この面《つら》が見られねえんだから、こういう場合は、楽だアな」
どぶは、そう云って、奥へ行くべく、腰を上げかけた。
すると、小夜が、
「あ――いま、ご来客中です」
と、とどめた。
この屋敷に、客が訪れる、ということは、一年のうち、かぞえるほどしかない。
「へえ、そいつは、珍しいね。どなただね?」
「相馬大学と申されるおかたです」
「なんだと!」
どぶは、愕然《がくぜん》となって、みにくくゆがんだ面相をさらに、ゆがめた。
「そ、それア、いってえ、ど、どういうことだ?」
「どういうこと、とは?」
小夜は、けげんそうに、見かえした。
「冗談じゃねえや、全く――。お小夜さん、おれが、こういうツラになったのは、相馬大学に仕置をされたためなんだぜ。……あん畜生、ぬけぬけ、しゃあしゃあと、ここへのり込んで来やがって、いってえ、どういうこんたんだ。面会をゆるした殿様も、殿様じゃねえか」
どぶが、いまいましく、吐き出した時、老用人が入って来て、
「相馬大学殿は、むかし、少年の頃《ころ》、殿様と、塙保己一殿の和学講談所で、机をならべられた間柄と、きいて居る」
と、云った。
塙保己一は、瞽者《こしゃ》である。したがって、左門が、その弟子になるのは、もっともである。群書類従《ぐんしょるいじゅう》をひもとくのは、当時いささかでも国学に関心を持つ者の、つとめになっていたくらいである。
「ふうん。同窓の友、ってえわけか。殿様は、そんなことは、おれには、おくびにも出されなかったぜ」
「いや、親しいお友達ではなかったようじゃ。ただ、机をならべたことがある、というだけの間柄らしい」
「殿様が、大学をお招きなすったのですかい?」
「いや、突然、前ぶれなしの来訪じゃ」
「そうか。それなら、話はわからあ」
どぶは、うなずいてから、
「どんな話をしているんだろうな。ひとつ、ぬすみぎき、としゃれるか」
「お止《よ》しなさい、親分――。もっと、ひどい目に遭《あ》いますよ」
小夜が、とどめた。
「へっ、とんでもねえ。こんどは、こっちが、あん畜生の面相を化物にしてやる番だ。……が、まア、ぬすみぎきは遠慮しておこう。……お小夜さん、そのかわり、一杯、めぐんでおくんなさい。やっぱり、あそこの女中よりは、お小夜さんの方が、品があって、ういういしくて……第一、言葉づかいが、ちがってら」
「なんですか、その女中さんとやらは――?」
「なに、こっちのことさ」
相馬大学が、町小路家の書院から、辞去したのは、それから半|刻《とき》ばかりのちであった。
どぶは、早速《さっそく》、書院に端座している左門の前へ、かしこまった。
「相馬大学が、わざわざ、やって来たとは、こいつは、偶然というわけじゃございまぜんね」
「うむ」
左門は、何かを思慮する様子を、示していた。
「いまご用人にききやしたが、殿様は、むかし、相馬大学と机をならべておいでだったそうで――?」
「半年ばかりな。その時は、駿河の太郎作、と申していた」
「じゃ、やっぱり、百姓のせがれだったのでございますね?」
「どうか、よくはわからぬ。二十歳前に、江戸を去って、この前申した通り、五年ばかり前に、再び江戸へ、軍学者として現れた」
「その相馬大学が、駿河の太郎作であった、とすぐお判《わか》りになりやしたので――?」
「いや、しばらくは、判らなかった。むこうから、手紙を寄越したので、判った」
「へえ――?」
「軍学者の看板をかかげたときいて、会うのを拒絶していたところ、本日、不意に、予告なしに、訪れて参った」
「…………」
「やはり、わたしの想像通りの男になっていた」
「…………」
「机をならべていた頃《ころ》、頭抜《ずぬ》けた秀才であったし、行動力もあったが、その才能が、あの男を、どうやら人間ばなれのした怪物に仕立てたらしい。……お前は、どう観《み》た?」
「へえ。あっしは――あっしも、やっぱり、ただ者じゃねえ、と感じました」
「あのような怪物は、ものごとをつくりあげるのを好まぬ。大きな破壊を好む。大きければ、大きいほど、快感をおぼえるようだ」
どぶは、左門の言葉を、息をのんで、きいた。
「二十年ぶりに現れて、わたしに向って申したことは、甚《はなは》だ抽象もきわまる言辞の羅列《られつ》であった。ところが、その論説には、妙に、なまなましい実感がこめられているのを、わたしは、感じた。……これは、危険だ、といくどか思ったのは、どうやら、わたしの錯覚ではないようだ」
「殿様、あっしも、あいつは、途方もないことを企てている予感がいたします」
どぶは、興奮して、相馬道場に於《お》ける始終を報告した。
それから、じっと、どぶは、左門の指令を待った。
左門は、ずいぶん長いあいだ、沈黙を守っていた。
やがて、かるいしわぶきをしてから、
「地上から一掃しなければなるまい」
と、独語するように、云った。
「やりやす!」
どぶは、止めていた息を一気に吐くようにこたえた。
こより
「は、は、はっくしょいっ!」
檜政《ひのまさ》の材木置場の筏の上に、うずくまっていたどぶは、思わず、大きなくしゃみをした。
あれから十日間、どぶは、毎夜、この材木置場へ、見張りに来ていたのである。
檜政が動き出すとすれば、当然、この材木置場に何か変ったことが起るにちがいない、と考えて、しばらく見張ることにしたのである。
梅見はすぎていたが、夜になると、海を渡って来る風は、肌《はだ》身を刺す。
ひどく無駄なことをしているような気にもなって来るというものであった。
と――。
河岸《かし》道を、バタバタと走って来る足音が、きこえて来た。
つづいて、悲鳴が起った。
どぶは、筏の上にしゃがんだままで、じっと、月|闇《やみ》をすかし見た。
二個の人影が、追って来て、路上へ倒れた者をかかえ起すや、水へ投げ込むのが、見わけられた。
――やりやがった。
どぶは、すばやく、筏を跳《と》んで、水中の人間をつかむと、ひき上げた。
「おい! しっかりしろい!」
手裏剣が、背中に突き立っていたが、手当をすれば、助かる傷であった。
どぶは、よいしょとひっかつぐと、河岸道へあがった。
程遠くないところに、どぶの知りあいの医者がいた。
どぶは、手当がおわるのを待って、その枕元へ坐った。
「おめえ、山者だな」
云いあてると、まだ二十五、六の男は、
「は、はい。飛騨の、山村総兵衛と申す山地主の、手代でございます」
と、こたえた。
「ふむ。やっぱり、見張っていた甲斐《かい》があったな」
「へ、え……?」
「おめえが殺《や》られるのを、ふせいでやるために、あそこで見張っていたんだ――と思ってもらおう。有難てえだろう」
「はい。お礼の申し上げようもございませぬ」
「どうして、あんな目に遭《あ》ったのか、その理由を、正直に、ありていに、云ってくれ」
医者が、顔をのぞけて、
「あまりしゃべらせると、癒《なお》るのがおくれるがね」
と、たしなめた。
「うるせえな。手当がおわったら、藪《やぶ》医者なんざ用はねえ。ひっ込んでいろい」
「やれやれ――怪我《けが》人をかつぎ込んで来た時は、死なせたら承知しねえ、とどなるし、こんどは、用がねえ、と追っぱらうとは、勝手な岡っ引だ」
医者は、居間へ去った。
「さあ、話せ」
どぶは、うながした。
「江戸は、おそろしいところでございます」
飛騨の山地主の手代は、まず、そう云った。
山村総兵衛というのは、飛騨で屈指の山地主であった。手代は、松助といった。
山村の山十五町歩の檜《ひのき》が、深川木場の材木問屋日向屋へ売られたのは、昨秋であった。
これは、協定を破った闇《やみ》売りであった。
材木問屋の、山の買いつけは、春の雪解けを待って、行われるのであった。前年のうちに買いつけるのは、それだけで、問屋仲間を裏切ったことになる。
のみならず――。
日向屋というその材木問屋は、山村総兵衛に、春の買つけ値の二倍を提示して、山地主同士の申し合せを、破らせたのであった。
「ふうん――」
どぶは、松助から、そこまできいて、首をひねった。
「二倍の高値を出しても、先手を打たねばならなかった理由が、どこにあったかだな」
「日向屋さんとは、はじめての取引でございましたが、なんとも気前のいいことだ、と主人は申して居りました」
「待てよ!」
どぶは、目を光らせた。
「日向屋といったな」
「はい」
「おい! 日向屋という材木問屋なんぞ、江戸には、ありゃしねえんだぞ」
殺された隠密が身につけていた飛騨路通行手形に、日向屋、河内屋、美濃屋、佐賀屋など、十指にあまる商家の店名が記されてあったが、その屋号の下に書いてあった心覚えらしい町名にしたがって辿《たど》ってみると、そんな店は、一軒もなかったことを、どぶは思い出したのである。
「そ、そうでございました」
松助は、うなずいてみせた。
山村家では、今年《ことし》に入って、やむを得ぬ出費が迫ったので、売り惜しんだ残りの一山も売ることにして、手代の松助を、江戸へ遣《つかわ》して来たのである。
ところが、なんとあきれたことには、日向屋という林木問屋など、何処《どこ》をさがしても、見当らなかったのである。
松助としては、あれほど気前よく、二倍の高値で、ポンと買ってくれた材木問屋が、存在しなかったなどとは、とうてい考えられず、何かの事情で、年がわりに、屋号を変えたのではないか、と考えて、深川木場を、丹《たん》念に一軒一軒聞いてまわっているうちに、怪しい男二人に尾行されて、あの災難に遭《あ》ったのであった。
「ほんとうに、これは、いったい、どういうことなのか――全く、狐《きつね》につままれたような、おそろしい話で……」
松助は、あらためて、恐怖の色を、顔にあらわした。
「べつに、狐にだまされたわけじゃねえやな。どこかの材木問屋が、架空の屋号をつくって、おめえンところの山を買い占めただけのことだあな」
「は、はい」
「どうだ、おめえンところだけじゃなく、ほかの山地主たちも、高値で、闇売りしているのじゃねえか?」
松助は、ちょっと返辞をためらっていたが、かくしてもはじまらぬ、と思いなおしたか、
「飛騨、信州の山は、昨年うちに、ほとんど買い占められて居《お》ります」
と、白状した。
「どの山も二倍の高値で、買い占められた、というんだな」
「は、はい」
「なんという江戸の材木問屋が、やって来たか、知っているか?」
「はあ……美濃屋さんとか、小諸屋さんとか、河内屋さんとか――」
それらの屋号は、殺された隠密の通行手形にあぶり出されたものだった。
――架空名儀で、飛騨、信州の山を、全部買い占めやがったとは!
医者の家を出たどぶは、腕組みしながら、歩き出した。
「檜《ひのき》屋だあ! あん畜生の仕業《しわざ》にちげえねえんだ。飛騨、信州の山を全部買い占めるには、いってえ、どれぐれえの金を用意しやがったろうな。……しかし、それだけの材木を江戸へはこんで来て、もし、はけなかったら、どうしやがる料簡だろうな?」
――隠密は、奥州路からの帰りに、飛騨、信州の山が買い占められているのを、耳にして、どうもくさいと、にらんだ。そこで、どうして、協定破りの闇《やみ》売りがされているのか、調べはじめた。……すると、だんだん、おそろしい事実が判《わか》って来た。しかし、調べ上げた時には、敵の方も感づいて、隠密の生命《いのち》を狙《ねら》いはじめた。隠密は、殺された。
――それにしても、面妖《おか》しいじゃねえか。山の買い占めが、内緒にされているのは、せいぜいあと二月――いや、一月もすりゃ、江戸の材木問屋は、番頭を買いつけに、遣《や》るだろう。そうすりゃ、昨年秋に、買い占められたことが、すぐ判る。しかも、買い占めた十数軒の問屋が、ぜんぶ、架空屋号であることが、露見する。木場は大騒ぎになる。どいつの仕業か、調べりゃ、檜屋であることは、忽《たちま》ち、ばれる。……檜政は、それを承知で、買い占めをやった。
――つまり、江戸の材木問屋に、そのことが露見する前に、檜政は、何かをやらかすことを、企てていやがるのだ。そうでなけりゃつぎつぎと人殺しをやらかすはずがねえ。
――そうだ! 鶴吉も、三人のごろんぼ浪人どもも、檜政の秘密の計画がどんなものか、およその見当をつけたにちげえねえ。だからこそ、檜政の方も、押し込んで来た浪人どもを殺して、逆さ祈願の贄《にえ》にしやがったんだ。……浪人者の一人の、おひなの家を、檜政の方で、さがしまわったのは、おひなの父親が、なにかを奪ったからだ。つまり、おひなの父親の杉江は、檜政へ押し込んで、何かを奪って、いったん逃げ出して、そいつを、どこかへかくした。そのあとで、つかまって、殺されて、逆さ吊《づ》りされたんだ。
――杉江が、檜政から、奪った何かが、こっちの手に入りゃ、しめたものだが……。
どぶは、おひなの家へ帰って来た。
おひなは、夜具にくるまって、ねむっていた。一人ぼっちのさびしさには、もうすっかり馴《な》れているようであった。
どぶが、台所で、水を一杯飲んで、もどって来ると、おひなが、ねむそうな顔で、起き上っていた。
「さびしくねえか、ひとりで留守番していて――?」
どぶが、笑いかけると、おひなは、かぶりを振って、
「お屋敷のおねえちゃんが来て、あたいが寝《ね》るまで、いてくれたよ」
「お小夜さんが、来てくれたのか。そいつは、よかったな。お小夜さんが来てくれた、ということは、殿様が、気をつかって下さる、ということだ。忝《かた》じけねえ」
「おねえちゃんは、お酒も持って来たよ」
おひなは、押入れをあけて、一升|樽《だる》をとり出した。
「こいつは、有難えや」
どぶが、引き寄せると、おひなが、大人《おとな》ぶって、
「あたい、お膳《ぜん》を持って来てあげる」
と、いそいそと台所へ立って行った。
「女子ってえのは、もう、ちゃんと世帯を持てるようにできてやがる」
どぶは、そう呟《つぶや》きつつ、人差指を耳の孔《あな》に入れて、ぐるぐるとまわした。
すると、急に、孔の中が、かゆみが増した。
なにか、ほじくるものはないか、と見まわしたどぶは、柱にかけてある竹筒を目にとめた。
竹筒には、おひながつくったこよりが二十数本さしてあった。
どぶが、はじめて、この家を訪れた時、おひなは、このこよりをせっせと、つくっていた。
どぶは、その一本を取って、耳の孔を、ちょこちょこと、かきはじめた。
おひなが、香物と干魚と湯|呑《のみ》をのせた膳を、はこんで来たが、突然、血相変えて、
「だめ!」
と、叫んだ。
「なんでえ、藪《やぶ》から棒に、びっくりさせるねえ。なにが、だめなんだ?」
「それ――かえして!」
おひなは、手をさし出した。
「それ?」
どぶは、とっさに、それがこよりのこととは判《わか》らなかった。
「そのこより、かえして!」
「なんだと? このこよりが、どうして、大切なんだ?」
「…………」
おひなは、血相変えたまま、口を一文字にひきむすんでいる。
どぶは、ピンと来た。
「おひな、おめえ、このこよりは、おめえがつくったものだったな?」
「…………」
「おめえは、ただの遊びで、つくったのじゃ、ねえだろう? そうだな?」
「…………」
「おひな――。小父ちゃんは、おめえの味方なんだぜ。おめえのお父ちゃんの敵《かたき》を討ってやろうとしている味方なんだぜ」
どぶは、わざと、柱から竹筒を取らずに、まず、おひなを説得することにした。
「小父《おじ》ちゃんが、ひとつ、当ててやろう。おめえが、どうして、このこよりを大切にしているのか、その理由をな」
「…………」
おひなは、眸子《ひとみ》をいっぱいにひらいて、どぶを見つめている。
「おめえは、お父《とう》ちゃんから、これは大切なものだから、誰《だれ》にも見せないように、かくしていろ、と云って、一枚の紙を渡されたろう。……おめえは、どうやって、かくそうか、と一生けんめいに考えた挙句《あげく》、うまいことを思いついた。いくつにも、細く切って、こよりにしておけば、誰も気がつかない。……そう考えた。どうだ、当ったろう?」
「…………」
おひなは、俯《うつ》向いた。そして、こくりと、うなずいた。
「さ、ひとつ、その日のことを、小父ちゃんに、話してくれ。……小父ちゃんは、きっと、おめえのお父ちゃんの敵《かたき》を討ってやる」
おひなは、再び顔をあげて、どぶを視《み》た。
「たのむ、さあ、話してくれ」
「あい」
おひなは、ようやく、決心した。
あの夜――。
おひなは、どうしてつれて行かれるのか、なにも知らずに、父親に手をひかれて、檜《ひのき》屋へ行ったのである。
父親は、檜屋の裏口近くの露路に、おひなを立たせると、鳩《はと》笛を渡して、
「よいか、ここへ、どこかの小父ちやんがやって来て、家へ入《はい》ろうとしたら、この鳩笛を吹くのだ。寝呆《ねぼ》けたふりをして、吹くのだぞ。わかったな」
と、命じた。
父親は、おひなを張り番にしたのである。おひなは、父親の申しつけならば、どんなことにも、さからわずに、きいたのである。
おひなは、怕《こわ》いのをがまんして、そこに、半|刻《とき》近くも、佇《たたず》んでいた。
突然、塀《へい》の上から、父親が、上半身をあらわして、おひなを呼んだ。
おひなが駆け寄ると、父親の手から、一枚の紙が落された。
「おひな。これは、大切な書きつけだぞ。この書きつけを持っていれば、一生、こんな大きな家に住めるのだぞ。人に取られてはならぬ。かくしているのだ。さ、はやく、家へもどれ」
父親の必死な声音が、おひなの全身を押し包んだ。
次の瞬間――。
塀内が、騒然となり、父親の姿は消えた。斬り合う音、悲鳴、駆けまわる足音、その他の音が入りまじった。
おひなは、無我夢中で、家へ逃げもどった。
父親は、ついに、家へは帰らなかった。
おひなは、翌日、父親が、秋葉神社に逆《さか》さ吊《づ》りになっていることを知らされた。もちろん、それを見にゆく勇気はなかった。
おひなは、父親に渡された紙を、かくさねばならぬ、と思った。
おひなは、けんめいに考えた挙句《あげく》、絵図面らしい紙を、いくつにも細長くさいて、こよりをつくることにしたのである。
いじらしい努力であった。
床柱には、一輪ざしの竹筒が、かけてあった。それに、なにげなく、ほうり込んでおけば、誰《だれ》も、それが、それほど大切なものだ、とは思うまい。そう考えた少女の智慧《ちえ》は、大人《おとな》のそれよりも、まさっていたといえる。
はたして――。
大|晦日《みそか》の前夜、二人の男が、ふみ込んで来て、やにわに、おひなをくくりあげておいて、狭い屋内を、めちやめちゃに、あらしまわって、去った。
おひなは、男たちが、きっと、父親が渡したあの紙を取りに来たのだ、と思った。
おひなの苦心は、効果があった。男たちは、竹筒の中のこよりが、まさか、それとは気がつかずに、
「この家には、かくして居らぬ」
と、云いあいながら、去って行ったのである。
「そうか、そうだったのか。それじゃ、鳩《はと》笛とこよりは、おめえには、いちばん大切なお父《とう》ちゃんの形見というわけだ。しかしな、このこよりにした紙を、しらべなけりゃ、お父ちゃんの敵《かたき》は、討てないのだぜ。いいかね、しらべても?」
「うん。小父《おじ》ちゃんなら、いいよ」
「そうか。じゃ――」
どぶは、柱から竹筒をとりおろすと、二十数本のこよりを、つかみ出した。
「なかなか、上手《じょうず》だな」
「お父ちゃんが、内職していたので、あたい、ならったの」
「そうか、感心だ」
どぶの胸が、はずんだ。
一本、一本、ていねいに、ほぐしはじめると、おひなも手伝った。
小半|刻《とき》も過ぎた頃《ころ》、ぜんぶほぐされたこよりはもとの一枚の絵に、復元されていた。
それに描かれているのは、江戸八百八町の見取り図であった。
「ふむ!」
どぶは、目を皿《さら》にして、見取り図を眺《なが》めやった。
あちらこちらの町筋の要《かなめ》と思える箇《か》処に、朱《しゅ》で×点、〇点が、点々として打たれてある。
「なんだろうな、この妙な符号は――」
どぶは、首をひねった。
「小父ちゃん、ねむい」
「おっと、すまなかったな。……さあ、寝《ね》な。お父ちゃんの夢をみるんだぜ」
どぶは、おひなを牀《とこ》に就《つ》かせてから、なお、しばらく、絵図の前に、坐《すわ》り込んでいた。
「こいつを、檜政《ひのまさ》から奪って来た、ということは、鶴吉も浪人らも、檜政の企てていることを知っていた、という証拠だぜ。……鶴吉の野郎、しらばくれていやがったが、莫迦《ばか》野郎め、こんど会ったら、首根をしめあげてくれるぞ」
どぶは、呟《つぶや》きつつも、背筋にうそ寒さをおぼえた。どうやら、夜気の底冷えだけではないようであった。
翌朝――。
その絵図面は、左門の前にひろげられ、どぶの説明が加えられていた。
左門は、黙念として腕を組み、どぶのしゃべるにまかせていた。
ふと――。
どぶが、視線を向けると、朝|陽《ひ》を片|頬《ほお》にあてた左門の顔が、心なしか、蒼《あお》ざめていた。
「殿様――。お加減でもわるいので?」
「いや――」
左門は、否定してから、
「そのほかに、朱点の入っているところを、当ててみせようか」
と、云った。
「へえ――?」
「柳橋と浅草御門の中間。それから、神田川をのぼって、和泉橋ぎわ。南へ行って、小伝馬町、鉄砲町、大伝馬町――すなわち、牢《ろう》屋敷を包囲する三|箇《か》処、西へ移って、十軒|店《だな》町と、本両替町に一箇処ずつ――」
「そ、その通りでございます」
どぶは左門の目が見えるのではないか、と疑ったくらい、ピタリと当っていた。
「殿様! これは、いってえ、どういうこんたんで、打たれた符号でございますかね?」
「うむ……」
「檜政《ひのまさ》のしわざでございましょうか?」
「ちがう。相馬大学が打ったのだ」
「相馬大学が――?」
「おそろしい奴《やつ》!」
左門が、ひくく、鋭く、吐きすてた。
「…………」
どぶは、息をのんで、左門の次の言葉を待った。
「どぶ――」
「へい」
「風の強い晩、その朱点の箇処から、一斉に、火の手があがったならば、どうなるか、想像してみよ」
「なんですって!」
「江戸中は、一夜にして、焼野原となる。江戸城も、烏有《うゆう》に帰す」
「な、なんというこった!」
どぶは、小さな目を二倍にして、叫んだ。
「と、とんでもねえや! 途方もねえ! 全く冗談じゃありませんぜ」
「左様、冗談ではない。……しかし、この絵図面は、天文地法の極限を千思万考してつくられた、江戸火攻めの計略を示している。強風が、北から吹く夜――当然、その風の強さも計算のうちにふくまれて居《お》ろう――、その朱点の箇処から一斉に、火が放たれるならば、往還と屋並みにしたがって、火は流れて、またたく間に、江戸市中を、紅蓮舌《ぐれんぜつ》で包むであろう。火消どもが、いかに躍起になって、食いとめようとしても、ふせぐことは叶《かな》わぬ。いわば、斧《おの》に立ち向う蟷螂《とうろう》のあわれな徒労にすぎぬ。火消どもは――大名火消も、ガエンも町火消も、ことごとく、火の海の中へ投げ込まれるであろう。……よいか、どぶ、江戸を焼野原にするには、わずか三十人あまりが居れば足りるのだ」
どぶは、あまりのおそろしさに、言葉もなかった。
「この火攻めを考えることができる者は、相馬大学ただ一人であろう」
左門は、云った。
「軍学そのものは、講述するだけにとどめている限りでは、畳の上の水練であるが、相馬大学という男は、軍学の中から、実現し得る計略を、目の前の江戸という町にあてはめて、千思万考したに相違ない。そして、わずか数十人の手で、江戸全市を焼野原にできる、という自信を持った」
「な、なんてえことを!」
「どぶ――」
「へい」
「そこで、思い当ることはないか」
「へ、へ、え?」
どぶは、ちょっと、首をかしげていたが、不意に、
「あっ!」
と、叫び声をたてた。
「殿様っ! わかりやした。飛騨・信州一帯の材木が、買い占められたわけが――。焼野原に早速必要なのは、再建のための木材。その値は、たちまち、三倍、五倍とはねあがる。しかも、飛騨・信州の山がおさえられているので、材木は手に入らねえ。となりゃ、十倍の高値を呼ぶことになる。……まったく、途方もねえ計画を起しやがったものだ。殿様、猶予はなりませんね」
「これは、まだ、推測の域にとどまって居《お》る。いま、檜政《ひのまさ》を捕えても、なんの証拠もない。罪状がないのだ。……かれらに、やらせなければならぬ。そして、その瞬間に、間髪を入れずに、片づける」
左門は、そう云ってから、しばらく、考えていたが、
「かれらが決行の日は、その日の朝が来れば、わかるであろう」
「おわかりになりますか?」
「いささか、天文の知識がある。かれらの決行は、夜であろうゆえ、その日の朝になれば、どれくらいの速さの北風が吹きつのるか、判断はできる」
「しかし、殿様――。その日になっては、彼奴《きやつ》らの暴挙をくいとめる配備をするのは、手おくれになるのじゃございますまいか?」
「どぶ――、やらせるのだ。待っているのではない。こちらが、かれらに、決行するように仕向けるのだ」
「なるほど!」
「容易なことではない。もしかすれば、お前は、生命《いのち》を落すかも知れぬ。しかし、江戸百万の人の犠牲になると思えば、べつだん、悔いはないであろう。どうだな?」
「へえ、そりゃもう、こんな芥《あくた》のような生命ひとつぐれえ……」
「内心では、いささか惜しいと、思うているであろうが、せっかく乗りかかった船だ。お前の手で解決するがよかろう」
「かしこまりました。やりやす。きっと、やりとげてごらんに入れます!」
「ほうびは何もないぞ」
「わかっていまさ。殿様に、一言ほめて頂きゃ、それで、満足するんでさ、この間抜けは」
壁の中
いつの世にも――。
時の政府に対して、不平不満を抱《いだ》く者は、すくなくない。思想上から、その仕組みを一転させたいと考える者、貧困のゆえに、なまじの頭脳のよさから、その貧困をすべて、政治の悪にしてしまう者、施政者に対して個人上の恨みを持つ者。
相馬大学は、そのような者たちを、ひそかに集めたのである。同時に、江戸おかまいになりながらこっそり舞い戻って来た無職者や、身心ともにもち崩《くず》した地まわりや、異常神経の変質者や、役人に追われる凶状持ちや、おちぶれたやくざの親分など――腕と度胸だけはたしかな者たちも、傘《さん》下に加えた。
そして――。
檜《ひのき》屋政右衛門が、いかなる極悪人であるか、その過去の行状を調べあげて、相馬大学は、この男を味方とした。いや、檜政には、日本随一の大金持にのしあがらせる、という好|餌《じ》をなげて、自分はただ、軍学者として、思いきった実験をしてみたいだけだ、と云い、いわば、檜政を日本随一の大金持にする軍師役をつとめるように、思わせたに相違ない。
相馬大学の肚裡《とり》は、徳川将軍家を倒して、江戸城の主《あるじ》になってくれよう、という野望があるのだ。由比正雪が企てて、はたさなかった野望を実現してみせる――それに相違ない。
もとより、江戸城の主になって、新しい幕府をつくる、などとは思ってはいまい。それほどの誇大|妄《もう》想狂ではあるまい。ただ、ほんの一時――たとえ三日でもいいから、江戸城を占拠し、将軍家を捕虜にしてくれよう。その野望であろう。
相馬大学と檜屋政右衛門をむすびつけたのは、おそらく、関根重蔵であろう。
関根重蔵は、旧主に対して、云いがたいまでの怨《えん》恨を抱いている。これは、やがて、封建の仕組みに対する憎|悪《お》となったろう。したがって、しぜんに、相馬大学に近づくことになった。
相馬大学は、関根重蔵を知ることによって、「火」というものが、百万の軍勢以上の力を発揮することに思い及んだに相違ない。
関根重蔵から、檜屋政右衛門をひきあわされ、親しく交際するうちに、大学の心中で、江戸火攻の計画が、成ったのだ。
そこで――。
相馬大学が、着手したのは、町火消、ガエンなどのうちの、熟練者連を、次つぎと殺し、あるいは二度と働けぬ不具者にすることであった。とともに、火見|櫓《やぐら》の半鐘を盗んだり、自身番の見|廻《まわ》りを大|怪我《けが》させたり、しだいに、江戸市民に、なにかおそろしいことが起る不安な予感を与えようとしたのだ。
そうしておけば、一夜にして、原因不明の火の手が、四方からあがって、江戸が焼野原となっても、迷信ぶかい庶民たちは、なにかのたたりのような錯覚を起すに相違ないであろう。
すくなくとも、計画的な犯行とは思わないであろう。
相馬大学の計略は、きわめて狡猾《こうかつ》だったのである。
「鶴!」
どぶが、相馬大学と檜政の野望計画を、鶴吉に語ってきかせて、鋭く見据えたのは、先般、鶴吉を白状させた薬研堀のうなぎ屋の、二階の同じ部屋であった。
「お前は、この大悪事を、およそ感づいていながら、おれに黙っていやがったな?」
「い、いや、あっしは、まだはっきりとは……」
「しらばくれても、もうおそいぞ! 杉江という浪人者に、江戸火攻めの絵図面を、盗ませやがったじゃねえか」
「…………」
「どうだ! この期《ご》に及んで、まだ、しらをきるか!」
「親分――すまねえ!」
鶴吉は、畳へ両手をついた。
「たしかに、あっしは、檜政が、江戸に大火事を起す計画を持っていやがることを知っていた。まさか、相馬大学という軍学者の方が、主謀人だとまでは、知らなかったが、たしかに、あっしは、感づいていたことは、まちげえねえ。……しかし、そいつを、親分に打ち明けたら、親分は、奉行所へ報《しら》せて、檜政を、矢庭《やにわ》に、ふんじばってしまうおそれがあったんだ」
「それが、どうして、いけねえ?」
「あっしゃ、飛騨屋生き残りのおまちの行方をさがしているんだ。おまちをかどわかして、どこかの宿場女郎にでも売りとばしやがったのは、檜政にちげえねえ、と見当をつけているんだ。もし、檜政が、牢《ろう》送りになっちまったら、おまちの行方は、それこそ、わからなくなる。また、檜政が、お白洲《しらす》で、おれの過去まで白状しちまったら、こっちもふん縛《じば》られる。あっしは、一目でもいい、おまちに会って、本当のことを打ち明けたら、その上は、獄門になろうと、思いのこすことはねえのだ。……その気持があったので、わざと、檜政の大悪事は、伏せておいたんだ。……すまねえ。なんとも、申しわけござんせん」
「よし、わかった」
どぶは、懐中から、江戸火攻めの絵図面をとり出して、
「よく、見ろい」
と、鶴吉の前に置いた。
「おめえは、火消しだ。北風が吹きまくる頃《ころ》に、この朱点の箇処《かしょ》から一斉に、火の手があがったら、いってえ、どういうことになるか、この絵図面を、見ただけで、およその見当がつくだろう」
「うむ!」
鶴吉は目を皿《さら》にしたが、急に、首をすくめて、ぶるっと身ぶるいした。
「こいつは、大変だ。江戸は、お城をふくめて、なんにも残らねえように焼けてしまう」
「死人|怪我《けが》人は、数知れずだ」
「そ、そうだ!」
「それが、わかったら、おめえの態度もきまるはずだ」
「…………」
「飛騨屋一家を、焼け死なせた罪のつぐないをする秋《とき》は、いまだぞ、鶴吉!」
三日が、過ぎた。
その日は、朝から風が強かったが、昏《く》れがたになっても、止《や》まないどころか、勢いを増して来た。
鶴吉が、どぶと連れ立って、木場へやって来たのは、暮六つ過ぎであった。
河岸《かし》道を、右へ曲れば、檜《ひのき》屋の店の前へ出る地点で、
「じゃ、ここで、ひとまず、別れるぜ」
と云って、どぶは、懐中から、短銃をとり出すと、鶴吉にさし出した。
「これを持って行きな」
奉行所の倉にあったのを、どぶが、こっそり持ち出したオランダ製であった。
「こんなものは、要《い》らねえ」
「莫迦《ばか》野郎――。匕首《あいくち》をひねくりまわしたぐれえで、ビクともする檜政じゃねえや。脅《おど》しには、こいつに限らあ」
「しかし、使ったこともないのに……」
「引金を引けば、ズドンと、弾丸がとび出さあ。六尺以内なら、どんな間抜けでも、当るじゃねえか。しかし、撃つまでもねえ。おめえは、脅し役だ。檜政は、江戸中をひきまわして、獄門にしてやらにゃ、虫のおさまらねえ悪党よ。……いいか、すくなくとも、半|刻《とき》は、その場を動かすな」
「わかった。……しかし、親分は、忍びの術の心得はあるのかね?」
「へへ……、こうみえても、伊賀衆がよろしく申してくれと挨拶《あいさつ》するぐれえの上手《じょうず》だ」
「しかし、あの土蔵は、ちっとやそっとでは、破れねえ」
「この前忍び込んだ時に、ちゃんと仕掛けをしておいたわさ。そこにぬかりはねえ。……いいか、鶴吉、一生一代の仕事だぞ。ぬかるな」
どぶは、はなれて行った。
やがて――。
鶴吉は、ひっそりとした店に入ると、
「上るぜ」
大声をかけておいて、さっさと、草履《ぞうり》をぬいだ。
番頭が、奥から顔をのぞけて、
「旦那《だんな》は、いま、お客さんだよ」
と、云った。
「待たせてもらわあ」
「出なおしては、どうだろうかね」
「急いでいるんだ」
鶴吉は、職人たちが溜《たま》る部屋に入ると、あぐらをかいた。
こんなに、緊張して、時間をすごすのは、はじめてのことだった。単身で、檜政を脅しあげて、動かせないようにしようというのである。
――えいくそ! しっかり、臍《へそ》の下に力を入れろい、鶴吉! 乗るかそるか、イチかバチかの度胸だめしだぞ!
鶴吉は、自分に云いきかせた。
ほどなく、辞去する客を送って出る檜政の声が、廊下から、きこえた。
あいかわらず、おちつきはらった、貫禄《かんろく》のある声音である。
それをきくや、鶴吉の全身が、かっと熱くなった。
――野郎! いざとなりゃ獄門へかけねえで、おれの手で、ぶち殺してくれるんだ!
檜《ひのき》屋政右衛門は、居間へもどった。
なにやら、うまい商談でも成立したらしい薄笑いを、口辺にうかべながら、政右衛門が、袋戸棚から、書類らしい包みを、とり出した時――。
ことわりもなく、襖《ふすま》を開けて、鶴吉が、入って来た。
じろりと、ふりかえった政右衛門は、別人のように険しい形相になった。
「なんだね、無断で、入って来て――?」
口調だけは、おだやかであったが、眼光は、射通すように凄《すさま》じかった。
鶴吉は、ぴたりと膝《ひざ》をそろえると、
「今日は、どうでも、きかせてもらいてえことがあって、うかがいやした」
と、云った。
「忙しいのでね、別の日にしてもらいたいね」
「別の日に参上すりゃ、また忙しい、とことわられるに相違ねえから、今日は、ここを動きませんぜ」
「いやに、度胸っぷりがいいね。誰か、お前さんの後押しをする者でも、現れたかね」
「現れたところで、旦那《だんな》の方は、ビクともしなさるめえ」
「べつに、こちらは、うしろめたいことをやっているわけじゃないからね」
「そいつは、どうだか――こちとらの知ったことじゃねえから、どうでもいいが、どうでもよくねえことが、ひとつ、ありまさ」
「なんだね!」
「おいく、いや、おまちが、どうして、両国の水茶屋から、消えちまったか、そのわけを知りてえんでさ」
「そんなことを、どうして、わたしが、知っているものかね」
「旦那が、手下を使って、かどわかしたのじゃねえんですかい?」
「冗談ではない。わたしが、どうして、かどわかさなければならんのだ?」
「だから、こっちも、そのわけをききてえんでさ」
「莫迦《ばか》な因縁をつけに来るものじゃない。お前さんは、おいくが行方知れずになったので、頭がどうかしたらしい」
「どうかもすらあ。あっしゃ、旦那のあやつり人形になって、へとへとになるまで踊らされた挙句《あげく》に、おまちまで、どこかへさらわれちまったんだ。頭がどうかならねえ方が、よっぽどおかしいや。……おまちを、どこへつれて行って、押し込めているのか、教えてもらいやしょう。生きていりゃ、いいんだ。生きてさえいてくれりゃ、それで、いいんだ」
「かどわかしていない者が、どうして、行方が判《わか》るのだ?」
政右衛門は、あくまで、おちつきはらっている。
「旦那!」
鶴吉は、睨《にら》みかえした。
「旦那は、あっしが、おまちに、何もかもぶちまける気配がある、と感じて、こいつは危険だ、とばかり、おまちを、どこかへさらっちまったのじゃねえんですかい?」
政右衛門は、鶴吉の必死な問いを、わざと、はぐらかして、
「鶴吉――、お前さんは、誰《だれ》にそそのかされて、わたしに、そうして、くってかかるんだね?」
と、じっと睨《にら》みすえた。
「誰にそそのかされたのでも、入|智慧《ちえ》されたのでもねえ。あっしゃ、思案の挙句《あげく》、こいつは、旦那《だんな》のしわざだ、と判断したんだ」
「かくさんでもよかろう。……お前さんの後|楯《だて》になったのは、町小路左門という与力じゃないのかね?」
「町小路なんてえ与力にゃ、会ったこともねえ。……おい、檜《ひのき》屋! おまちを、どこにかくしたんだ? ぬかせ!」
鶴吉は、凄《すご》んでみせた。
「後楯がないことには、お前が、そんな大きな態度をとれるはずがない」
政右衛門は、あくまで、おちつきはらっていた。
「檜屋! どうでも、泥を吐かねえのなら、こっちも、覚悟があるぜ。土性っ骨を据えて、やって来たんだ!」
鶴吉は、懐中から、短銃をつかみ出すと、筒口を、ぴたりと、政右衛門の胸もとへ狙《ねら》いつけた。
さすがに、政右衛門も、はっと顔色を変えた。
「鶴吉、妙なまねをすると、あとで、吠《ほ》え面《づら》をかくことになるぞ」
「こっちが云いてえせりふだ。……さ、泥を吐け! おまちは、どこだ?」
鶴吉は、じりじりと、膝《ひざ》をすべらせて、政右衛門に、迫った。
その時刻――。
どぶは、例の土蔵の中へ、忍び込んでいた。
三階の、異国の文字の記されたおびただしい荷物のあいだを、調べてまわっているうちに、新しく檜屋側で包んだらしい品を見つけた。
どぶは、手ばやく、その包み紙を破った。
打上げ花火であった。
「これは、合図のやつだ」
当然、放火用の仕掛花火が、つくられているに相違ない、とにらんで、忍び込んで来たどぶであった。
なお、しばらく、目を光らして、調べまわっているうちに、かなりの数の岡《おか》持ちが、一|箇《か》処にならべられているのを、見つけた。
――こいつだ!
蓋《ふた》をとって、中を覗《のぞ》くと、油紙に包んだものが入れてある。
それは、まぎれもなく、放火用の仕掛花火であった。
「考えやがったな。岡持ちに入れて、はこべば、誰にも疑われやしねえや。今夜あたり、この岡持ちが、朱点の箇処へはこばれるという寸法か。……そうは、どっこい、問屋がおろさねえ」
どぶは、そのひとつを携《さ》げて、二階へ向って、降りはじめた。
中段まで降りて、階下に人の気配がないことをたしかめようとしたとたん、どぶの足元がおろそかになった。
右足が、次の段へ下げられた瞬間、その板がくるっとまわった。
「おっ!」
五体の重心を保とうとしたが、間に合わず、ぐらっと前のめりになった。
そのために、右足に、蛇《へび》のように、鉄鎖が、からまるのを、ふりはらえなかった。
次の瞬間には――。
どぶのからだは、大きく廻《かい》転して、逆さに吊《つ》られていた。
梯子《はしご》段がはずれる仕掛になって居《お》り、鉄鎖が、どぶの右足くびを巻いていたのである。
ぶらんと、蝙蝠《こうもり》のように宙にぶらさがったどぶは、一階に、灯火が点けられ、そのあかりが、二階の闇《やみ》を隅々《すみずみ》に押しやるのを眺《なが》めながら、
――不覚!
と、つぶやいた。
ゆっくりと、二階へ上って来たのは、関根重蔵であった。
さかさに、灯火の明りに照らされた重蔵の火傷《やけど》の痕凄《あとすさま》じい顔面は、まさしく、化物であった。
「どぶ! お前らしくもなく、どじを踏んだのう」
「ちげえねえ。この前忍び込んだ時、梯子段はひっくりけえらなかったんでね、今夜も、足元に気を配らなかったのは、あやまちだった。こいつは、みとめるぜ」
「気の毒だが、もう二度と、娑婆《しゃば》へはもどれぬぞ」
「そうですかねえ」
「明朝、江戸は、火の海だ」
「へえ、なるほど――、火つけは、やっぱり、今夜か。左門の殿様は、お見通しだったぜ」
どぶは、今日午后、左門より指令を受けたのである。
もしかすれば、相馬大学の狂気の火攻めは、今夜の風を利用して行われるかも知れぬゆえ、檜《ひのき》屋の土蔵へ忍び込んで、調べてみよ。
左門の指令は、それであった。
まさしく、神のごとく、左門の予感は的中した。
「貴様っ! 町小路左門が、われわれの回天の義挙を、看破したというのか!」
関根重蔵が、吠《ほ》えるように、云った。
「あわてるねえ。いまさら、あわてたところで、もうおそいぜ。観念しやがれ!」
逆さ吊りになったどぶの方が、重蔵をきめつけた。
「こやつがっ!」
重蔵は、拳《こぶし》をあげて、どぶの顔面へ、一撃をくれた。
刹那《せつな》――。
「うわっ!」
悲鳴をあげて、重蔵はのけぞると、両手で顔を掩《おお》うた。
その指のあいだから、血|汐《しお》があふれ出た。
どぶの右手には、いつの間に抜きはなったか、十手刀が、にぎられている。
「ざまみろ! ついでに、その火傷痕を、きれいに、殺《そ》ぎ落してくれようか」
「くそっ!」
関根重蔵は、逆上した。
額から頬《ほお》へ、左眼をま二つに斬《き》られて、顔面血まみれになって、差料を抜きはなった。
鉄鎖で逆さ吊《づ》りになっているどぶめがけて、悪鬼のごとく、斬りかかろうとするのであったが、その十手刀の鋭い突きに、かえってたじたじとなった。
奇妙な闘《たたか》いであった。逆さ吊りになったどぶの方が、優勢なのである。関根重蔵が、躍起になればなるほど、どぶの方に余裕が、生じたかにみえる。
ただ、どぶには、五体を海老《えび》に曲げて、はねあがるだけの業《わざ》と隙《すき》が得られずにいるのであった。
重蔵は、ようやく、持久戦に入《はい》ることに気がついた。
ものの半|刻《とき》も、逆さ吊りにしておけば、いかに、どぶでも、血が下って、意識を失うに相違ない。
重蔵は、後退して、
「くそ! そのままで、ぶら下っておれ!」と、怒鳴った。
どぶとしては、この隙に、鉄鎖に手をかけたいところであった。
しかし、重蔵の蛇《へび》のような限光が、瞬時もはなれない以上、かるがるしく、五体を海老に曲げられなかった。
もし、そうすれば、重蔵は、得たりとばかり、斬りつけて来るに相違ない。
――畜生! とんでもねえどじを踏んだぞ!
どぶは、無念のつぶやきを、胸のうちでもらした。
重蔵は、いったんは後退しながらも、隙あらば襲いかかろうと、じりじりと右|廻《まわ》りをはじめた。
どぶも、それに応じて、わが身をまわした。
そのうち――。
どぶは、振子になって、宙を大きくゆれてみたらどうだろう、と思いついた。
――よし!
どぶは、わざと、もがくふりをしてみせた。
「こやつ!」
怒号とともに、重蔵が、斬りつけた。
その一撃を、苦もなく、十手刀ではじきかえしておいて、どぶは、ゆらりゆらりと、ゆれはじめた。
重蔵は、どぶの意図するところを読むと、再び躍起になった。
どぶは、充分の余裕をもって、応戦した。
そのうち――。
重蔵が、足もとの何かに、つまずいた。
「そらっ!」
宙をゆれるどぶの方から、懸《かけ》声が、かけられた。
「ああっ!」
不覚にも、重蔵は、右手くびから、血|汐《しお》を噴《ふ》かせてしまった。
顔を斬られた上に、右手を斬られては、さすがに、重蔵は、その場へ坐《すわ》り込まざるを得なかった。
どぶが、その隙《すき》をのがすはずはなかった。
五体を、海老《えび》に曲げるや、左手で、鉄鎖をつかんだ。
しかし――。
「じたばたするな!」
その一|喝《かつ》が、戸口からとんで来て、どぶのもがきは、停止した。
入《はい》って来たのは、檜政《ひのまさ》であった。
そのうしろに、後手にしばられた鶴吉が、一人の用心棒に附《つ》き添われて、従っていた。
鶴吉は、どぶの下に立つと、
「すまねえ」
と、頭を下げた。
鶴吉は、檜政に、短銃を突きつけたところまでは、颯爽《さっそう》としていたが、その直後、背後に忍びよった用心棒から、頸《くび》根へ手刀をくらって、あっけなく、ひっくりかえったのである。
「ふふふ……、親分、犬らしく、せっせと、この檜《ひのき》屋のまわりをかぎまわってくれたが、どうやら、ここらあたりで、お前さんの方が往生して、幕になるようだね」
政右衛門は、にやにやした。
「おれは、往生|際《ぎわ》は、わるい方でね。……ひとあばれさしてもらうぜ」
どぶは、屈せずに、云いかえした。
「お前さんが、その十手に仕込んだ刀を、能《よ》く使うことは、きいている。……さて、どうなるかな」
政右衛門は、用心棒に、鶴吉のいましめを解けと命じた。
自由になった鶴吉に、政右衛門は、短銃を渡すと、
「いいかね。わしを撃つ代りに、あのどぶ鼠《ねずみ》を撃つのだ。そうすれば、おまちの居|処《どころ》を、教えてやる」
と、云って、一歩退くと、自分も短銃をつかんで、鶴吉の背後にまわった。
「さ――やるのだ!」
鶴吉は、顔面をゆがめて、どぶを仰いだ。
「親分、ゆるしてくんな」
「おれを、撃つのか?」
「あっしは、おまちに、会いてえんだ」
鶴吉にとって、おまちが唯一の生き甲斐《がい》であった。おまちのいないこの世は、闇《やみ》であった。
おまちに行方不明になられてみて、鶴吉は、自分にとっておまちがかけがえのない大切な存在であったことを、さとったのである。
「おめえの気持はわかるぜ。しかし、鶴吉、おれを撃ち殺しても、そこの極悪商人は、おまちの行方を教えてくれはしねえぜ」
「そ、そんなはずねえ」
「おめえは、面《つら》と脳|味噌《みそ》が、つりあいがとれていねえ。甘すぎるんだ」
銃声が、とどろいた。
鉄鎖にぶら下ったどぶのからだが、きりきりとまわった。
「鶴! 撃て! 撃ち殺せ!」
よろよろと立ち上った重蔵が、喚《わめ》きたてた。
鶴吉は、つづけさまに、引金を引いた。
鶴吉は、べつに、どぶに狙《ねら》いをつけたわけではなかった。
めくら滅法に、引金を引いてみたばかりであった。
「鶴! ごまかすと、承知しないぞ!」
檜政《ひのまさ》が、きめつけた時であった。
不意に、はげしい炸裂《さくれつ》音とともに、火花が、いくつもの輪になって、宙を躍《おど》った。
鶴吉の撃った一発が、仕掛花火の函に、あたったのである。
「いかん!」
政右衛門が、狼狽《ろうばい》して、叫んだ。
「三階の火薬に散ったら、土蔵もろとも、ふっとぶぞ!」
それをきいて、重蔵が、あわてて一階へ遁《のが》れようとしたが、血|汐《しお》が目に入って、にわかめくらになっていて、梯子《はしご》段と反対側へ、よろついて行った。
そして、足もとの何かに蹴《け》つまずくと、壁へ、どしんとぶつかった。
その箇《か》処だけが、近頃になって塗りかえられ、ひどく厚かった。
したたかに、重蔵の五体が、ぶっつかるや、壁は、音たてて崩《くず》れた。
とたんに――。
「ああっ!」
重蔵が、絶鳴をほとばしらせてのめり伏した。
その背中には、ふかぶかと、銀のかんざしが、刺さっていた。
「鶴吉、壁を見ろ!」
天井から吊《つ》りさがっていたどぶが、叫んだ。
「おおっ!」
鶴吉が、視線を、そこへ当てて、驚|愕《がく》の声をあげた。
崩れた壁の中に、くろぐろと、ひとつの人影が浮きあがっていた。女の死体であった。
「お、おまちっ!」
殺して、壁の中へ、塗り込めたのだ。
鶴吉は、ぱっと政右衛門へ、向きなおった。
政右衛門は、一階へ駆けおりるべく、階段へ足をかけていたが、
「莫迦《ばか》者!」
どなりつけざま、鶴吉めがけて、一発ぶっぱなした。
鶴吉は、よろめきつつも、屈せずに、
「おまちを、こ、こんな目に遭《あ》わせやがって!」
おまち自身に代って、のろいの一念をこめると、政右衛門めがけて、引金をひいた。
「ああっ!」
政右衛門は、一階へころがり落ちて行った。
「鶴吉! しっかりしろい!」
どぶの方は、この隙《すき》に、天井にとびついて、鉄鎖を、足くびからはずしていた。
鶴吉は、床の上へ仰臥《ぎょうが》して、
「もう……いいんだ。これで、いいんだ」
と、つぶやいた。
「ここで、くたばることはねえぞ」
「いや……もう、いいんだ。……うっちゃっといてくれ」
鶴吉は、そう云うと、まぶたを閉じた。
火焔決闘
どおん!
どおん!
時ならぬ、冬の夜空に、凄《すさま》じい勢いで、無数の花火が打ちあげられて、寝《ね》入りばなの江戸市民を、はね起させた。
「なんだ、あれは?」
「どうしたんだろう?」
人々は、屋根の物干台へ、とび出た。
花火があがっているのは、深川の木場あたりであった。
ただの打ち上げではなく、一挙に、何百発もに、火をつけたものとみえる。
やぐら火見|櫓《やぐら》から、半鐘が鳴りはじめた。
この風の強い晩、火の手があがるのは、なんとも恐怖である。
ひとしきり、花火が夜空を彩《いりど》るや、つづいて、名状しがたい轟《ごう》音が、地軸をゆさぶった。
火柱が、天に向って噴《ふ》きあがり、一瞬、東の空は、昼のあかるさにかえった。
その時――。
青山久保町の相馬道場では、あるじの大学は、居室に於《おい》て、読書に余念がなかった。
あわただしく足音が、近づいて来て、
「先生! 深川の木場から、花火があがりました。合図かも知れませんぞ!」
と、門弟の一人が、叫んだ。
「今夜の約束ではなかったが――」
大学は、不審に思いつつ、いそいで二階へあがり、屋根の物干台へ出た。
そして――。
東の空をあかあかと照し出した火の手を、望見するや、
「おお!」
大学の顔面が、ゆがんだ。
「壮挙は、事前に、破れた!」
悲痛な呻《うめ》きをもらした。
どうして、檜屋《ひのや》政右衛門が失敗したのか、理由が判《わか》らぬまま、大学は、一階へ降りて来た。
と――。
門弟の一人が、待ち受けていて、
「道場に、町小路左門殿と申される盲目の御仁が、参られて、お待ちであります」
と、告げた。
「なに?!」
大学は、はじめて、さとった。
――そうか! 左門のしわざだ! 左門が、檜屋を滅《ほろぼ》した!
「一人か?」
「左様です」
――単身で、乗り込んで参ったとは!
大学は、大|股《また》に、道場へ歩いて行った。
左門は、ひろい道場の中央に、その孤影を端座させていた。かたわらに、差料を置いて――。
「左門! お主《ぬし》、わしの企てた壮挙を、看破《みやぶ》ったか?」
「いかにも――」
左門は、うなずいた。
「檜屋政右衛門を焼きすてたのは、お主のしわざであったのだな」
「左様――」
「当道場へ、単身で乗り込んで参ったとは?」
「一人で参ったのではない。屋敷のまわりは、二百余の捕方が、包囲いたして居《お》る」
「お主自身、どうして、そうやって、道場へ坐《すわ》っているかだ!」
「同窓の誼《よし》み、と申そうか。それとも、余人の企て及ばぬ大事を実現してみせようとした貴公に、敬意をはらうため、と申そうか。貴公も、相馬大学と名のって、あまたの門下に尊敬されている軍学者ならば、おめおめと、縄《なわ》目の恥辱を蒙《こうむ》りたくはなかろう。自裁をすべきであろう.が、旧友として、一騎討ちをして、あの世へ送ろうと存ずる」
「その盲目の身で、わしと、立合うというのか?」
「左様――」
「わしは、ただの軍学者ではないぞ。剣をとれば、一派を樹《た》てる腕前を持って居るぞ」
「さればこそ、一騎討ちを所望する」
「おもしろい!」
大学は、二間床の刀架から、そのむかし、源平時代に、名ある武将が佩《お》びたとおぼしい華《はな》やかな飾りの陣|太刀《だち》をつかみとるや、鞘《さや》をすてた。
ずかずかと、左門へ迫るや、
「参ろう!」
と、大声を発した。
左門は、すでに立って、左手に、差料を携《さ》げていたが、
「盲目ゆえ、ひとつ、条件をつけさせて頂こう」
「いかようにも――」
「抜きつけの一手を使わせて頂く」
すなわち、居合をもって応ずる、というのである。
「よかろう」
大学は、青眼に構えた。
左門は、右手を柄にもかけず、自然な立姿をみせ、待つ。
大学には、左門にどれだけの業《わざ》がそなわっているのか、判《わか》らなかった。
しかし、単身で乗り込んで来て、一騎討ちを所望するからには、よほどの自信がある、と看《み》てよいことだった。
いくばくかの、対|峙《じ》の時間が流れた。広い道場内を占めているのは、大学の放つ凄《すさま》じい殺気ばかりであった。
屋内は、ひそとしずまっている。門弟たちは、かなり多勢がいるはずであったが、彼処此処で、ひそと息をひそめているのであろう。
大学の陣太刀が、ようやく動きを示した。
上段へ……除々に、ふりかぶられたのである。
頭上たかだかと、大学がふりかぶった刹那《せつな》、左門が、すっと一歩退いた。
「えいっ!」
満身からの気合もろとも、大学が撃ち込んだ。
同時に――。
左門の痩《そう》身が、床板をすべった。
行きちがって、数秒を経た時、大学の五体が崩《くず》れて、大きくのめり、音たてて、伏した。
左門は、そのまま、抜きつけに放った白|刃《じん》を、まっすぐにさしのべて、動かなかった。
大学は、陣|太刀《だち》を杖《つえ》にして、いったん立ち上ろうとしたが、かなわずに、がくっとつンのめった。
左門は、しずかに、白刃を、鞘《さや》に納めた。
「左門――」
大学が、ふるえ声で、呼んだ。
左門は、足でさぐって、そこへ寄ると、膝《ひざ》をついた。
「わたしの勝だったな、大学!」
「わ、わしは、ついに、生涯、お主に対しては、負け犬であった」
「料|簡《けん》次第であった」
「いや……、お主という対《あい》手が、いる限り……、わしは、お主に勝つことを、終生の目的とした。……わしが、江戸を、焼土としようとしたのも、お主という、競《きそ》う敵が、いたからだ。……お主が、はたして、わしの企てをさとって、阻止するか、どうか――わしは、それに賭《か》けた、といえる。……お主は、見事に、わしの企てを、はばんだ。江戸を、焼土から、まぬがれさせた。……お主は、勝った」
その言葉を最後に、大学は、息をひきとり、永久に、動かなくなった。
門弟たちが、左門を包囲するように、忍びやかに、近づいて来た。
左門は、見えぬ眼|眸《ぼう》をまわして、
「お主がた――」
と、呼びかけた。
「お主らが尊敬する師は、こうして、横死した。すでに、そのさいごの言葉をきいたであろう。相馬大学は江戸を焼土と化さしめ、江戸城を乗っ取らんと企てる謀叛《むほん》人であった。お主らのうちには、この謀叛に加担を誓った者も、いるであろう。……しかし、公儀としては、天下に、このことを噂《うわさ》されるのを好まぬ。第二の相馬大学、第三の相馬大学の現われるのを、おそれるゆえ、隠密裡《おんみつり》に、事変を消す方針である。お前らは、今日を限りとして、過去を忘れ、家にもどるべきかと思う。敢《あ》えて、いま、師に殉ぜんと思うならば、道場をとりまく二百人の捕方を対手として、死闘しなければならぬ。若い身としては、犬死であろう。士たる者は、大義名分のもとに死なねばならぬ。犬死は、おろかだ。そのことを、考えて欲《ほ》しい」
じゅんじゅんとして説く左門の声音のさわやかさに打たれて、門弟一同は、頭をたれた。
左門は、しずかな足どりで、道場を出て行こうとした。
誰一人、これを襲おうとする気配を示す者はいなかった。
かれらの視線は、左門の後姿から、床の上の師の屍体へ移された。
それは、みじめな、みにくい、あわれな姿であった。
すべては、おわったのだ。
門弟一同は、声なく、吐息した。
夜はすでに深かった。
異変は、終った。
檜《ひのき》屋の店は、母屋《おもや》、土蔵もろとも、すべて、烏有《うゆう》に帰した。
土蔵の焼あとからは、四つの死体があらわれた。
三つの死体は、あるじの政右衛門、食客の関根重蔵、ガエンの鶴吉であることは、確認された。しかし、のこりの死体は、よくわからなかった。
どうやら、岡っ引のどぶらしい、と判断されたが、しかとは、断定できなかった。
岡っ引仲間は、
「どぶの野郎――妙な年貢《ねんぐ》のおさめかたをしやがったな」
と、話し合った。
真面目《まじめ》で、律義《りちぎ》な岡っ引たちからみれば、どぶのようなぐうたら男は、早く、くたばってくれた方がよかった。
どぶが、手柄をたてることが、そもそも、気に食わなかった。
本所回向院に、無縁仏として、その死体が葬られた日――
櫓《やぐら》下の岡場所で、どぶは、おそろしく出っ歯の白首を対手《あいて》に、酒を飲んでいた。
「おまいさん、ここが大層気に入ったようだね。まさか、あたしに惚《ほ》れたわけじゃないだろうね?」
「わらわせちゃいけねえ。おれは、死人だからな、しばらく、ここに、いるんだ」
「死人だって?」
「そうだ。焼けこげの死人よ。ははは……、この世から消えて、こうやって、のんびり、酒をくらっている気分は、わるくねえやな」
「どうして、そうなったのさ?」
「犬の仕事から、しばらく、解放されていてえということよ。それだけの話だアな」
どぶは、そう云いすてて、のうのうと寝《ね》そベった。
と――。
その折、破れ唐《から》紙が、すっと開かれた。
「お――」
どぶは、起き上った。
「お前さんか。せっかくの休養を、邪魔してもらいたくねえな」
どぶは、不|機嫌《きげん》な表情になった。
にこにこしながら、そこに坐《すわ》ったのは、次郎吉であった。
「邪魔したくはないが、大事な忘れものをしているので、そのことで、相談があって、やって来たのさ」
「忘れもの?」
「そうだ」
「おれが、いってえ、何を忘れたというんだ」
「生きものだ」
「生きもの?」
「おひな、というこどもさ」
「おっ、あの子!」
「ははは……、思い出したね。あの子のことだが、ひとつ、わしが、ひき受けようと思うんだが、どうだろう?」
「有難え。恩にきる」
どぶは、頭を下げた。
「ほほ……」
白首が、笑った。
「死人が、おじぎするなんて……」
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第五話 御殿女中
春猿
江戸は、春であった。
暖気が日々に催し、うららかに、空がうるむ季節になると、桃の花や、桜の花や、山吹の花などを、荷籠にはさんで、朝はやくから、
「花イ……花イ……」
と、呼び売る声が、花|鋏《ばさみ》の音とともに、市中にひびいて来る。
そうなると、江戸の庶民たちは、そわそわと、おちつかなくなる。
足腰立たぬ老人、病人や嬰児《えいじ》をのぞいて、のこらず、花見気分にうかれるのだ。
当時――。
花見の場所としては、上野東叡山、王子飛鳥山、向島墨堤、品川御殿山、日暮里道灌山などであった。
このうち、庶民の群でにぎわうのは、向島墨堤であった。
日暮里の道灌山は、場所に近いが、桜の樹《き》がすくなかった。品川御殿山は、最近、掘り崩されて人家が多くなり、名所とはいえなくなった。飛鳥山は、古樹が多く、風情《ふぜい》としては第一であったが、道|程《のり》がいささか遠すぎて、帰途は暮れて、婦女子がおそれる野道や寺院の前など、ものさびしいところを辿《たど》らねばならなかった。
上野は、霊地清浄、山内の掟《おきて》によって、禁酒、鳴物制限があって、思うさまに、さわぐことができなかった。したがって、杖《つえ》にたよる老人や礼儀正しい武家家族が多かった。
これにくらべると、隅田川に臨む堤の花見は、いやもう、大変なにぎわいをみせた。
堤いちめんに、桜花が咲きほこる三、四日のあいだは、江戸中の人々が、ここにあつまるかの観があった。
町内総出で、仮装を競う組もあれば、歌踊の師匠が、弟子たちにそろいの日|傘《がさ》、手|拭《ぬぐい》を持たせて、百人以上も袖《そで》をつらねてねりあるくのもあり、また、宿下りの御殿女中が家族と一日を愉《たの》しむのもあった。
堤の上下には、掛茶屋がならんで、甘酒や団子を売り、赤いちりめんの前掛、片だすきの茶|汲《く》み女も器量がそろっていて、酔客をたわむれかからせる趣向といえた。
川|面《も》にも、花見船がたくさん出ていた。
一|悼《さお》させば、むかいは、浅草寺。一文投げておいて、足をのばせば、吉原、三谷の粋地であるから、そのまま、家へ帰らぬ男も多かった。
へっへ……
春でおぼろで、ご縁日、
鐘は上野か、浅草か、
と来たね
ひょっとこ面をかぶり、尻《しり》からげして、珍妙な手ぶりうたで、屋形船から上って来ながら、唄《うた》っているその声は、どぶのものに、まぎれもない。
鐘が鳴ろうが鳴るまいが、小野の小町は穴がない、弁慶一生|嬶《かか》がない。アア、コリャ、おまえとわしの、その中にゃ、やれ、なさけなや、金がない、トコ、ドッコイ、スッチョイナ
唄いながら、往来の娘の、臀《しり》をちょいとなでて、睨《にら》みかえされたりしていた。
と――。
近くで、女の悲鳴が、あがった。
なに――その悲鳴は、大したことではなかった。
桜の枝に、どこからまぎれ込んで来たか、一匹の猿《さる》が、姿をあらわして、恰度《ちょうど》、その下で、おそろいの手|拭《ぬぐ》いを肩にかけて、手拍子合せて、流行《はやり》歌をうたいはじめていた踊りの弟子たちの一人の肩へ、ぴょんと、跳《とび》び降りたのである。
そやつ、相当ないたずら者とみえて、娘のあたまから簪《かんざし》を抜きとって、ポンと投げたり、いきなり、ふところへ手をさし込んで、乳房をにぎろうとしたりした。
「こいつ、いけすかないったら!」
夢中で、はらいのける娘から、猿は、となりの娘の前へ、ぴょんと跳ぶと、いやらしくも、その裾《すそ》を、ぱっとめくりあげようとした。
きゃっ、と悲鳴をあげて、ころがるのを、猿は、いよいよ面白がって、その頸《くび》にかじりついた。
そこへ走ったどぶは、ひょっとこの面をあげて、
「猿《えて》公も、うかれて、助平心を起したとは、御世泰平だアな」
と、云いつつ、とび込んで、
「この野郎っ、去《う》せろ!」
と、蹴《け》とばした。
こんどは、猿の方が悲鳴をあげる、と思いきや、みごとに、どぶの足蹴をかわして、別の娘に、とびついた。
娘は、恐怖の叫びをあげて、ひっくりかえった。
なんと――。
どんな訓練を受けていたものか、猿は、娘の晴着の前またを、さっとまくるや、首を、股《また》のあいだへ、突っ込んだ。
「なにをしやがる!」
どぶが、あわてて、とっ捕《つかま》えようと、双《もろ》手をさしのばした瞬間――。
猿は、おそろしいすばやさで、娘の股《こ》間をくぐり抜けて、タタタ……と地上を掠《かす》めて行った。
「野郎っ! 人間さまを、コケにしやがって!」
どぶは、本当に怒《おこ》った。
懐中の十手を、ひき抜くや、真剣で追いかけた。
猿は、なんのおそれ気もなく、あちらへ走り、こちらへ跳んでいたが、そのうち、また、一人の娘の胸へとびついて、悲鳴をあげさせた。
乳房を、つかんだのである。
なんとも、あきれた助平猿であった。
どぶは、躍起になって、追いまわした挙句《あげく》、はるか高い枝へ、にげられてしまった。
ぶざまなのは、こっちであった。
ふうっと、一息ついて、
「てめえの飼い主は、よっぽど、ひでえ色きちがいだぜ。あきれたものだ」
と、云った。
猿は、白い歯をひき剥《む》いて、どぶに反抗の気色を示したが、さっと、となりの樹《き》へ――桜花の蔭《かげ》へ、消えた。
これが、途方もない大事件のはじまりであった。
どぶが、その踊子の群から、はなれた時であった。
またもや、彼方《かなた》で、悲鳴があがった。
「猿《えて》公っ! こんどは、のがさねえ!」
どぶは、小さな目玉をかっとひき剥《む》いて、悲鳴のあがった方角を、にらんだ。
場所は、堤からすこしはなれて、小松がかたまったあたりであった。
そこへ向って、奔《はし》り寄ったのは、数人を追い抜いたどぶが、一番はやかった。
加害者は、猿《さる》ではなかった。
そこに押しつぶれたような小屋が建っていて、中をのぞいた刹那《せつな》、どぶは、
「こん畜生っ!」
思わず、怒《ど》号をほとばしらせた。
華《はな》やかに装った町娘が、むざんにも、莚《むしろ》の上へ、仰臥《ぎょうが》させられ、下肢をのこらず、あらわに剥《む》かれて、押しひろげられていたのである。
そして、その股間《こかん》へ、首を突っ込んでいるのは、見るもむさくるしい非人であった。
どぶは、とび込みざま、非人を蹴《け》とばし、頸根《くびね》をひっつかむと、ずるずると、ひきずり出して、滅茶滅茶に、拳《こぶし》をくらわした。
非人は、奇妙な悲鳴をあげつつ、許しを乞《こ》うて、両手を合せた。
「てめえ、唖《おし》だな」
どぶは、思いきりの一撃を、その顔面へくらわせた。
非人は、片目から血を流すと、地べたヘ、ベったりと坐《すわ》り込んで、ぺこぺこ、額を土にすりつけた。
「あ、あ、あ……」
わけのわからぬ声音は、あきらかに唖であった。
「唖で、白痴じゃ、しようがねえ」
どぶが呟《つぶや》いた時、あとから馳《は》せつけた番頭、手代風の男たちが、小屋をのぞいて、
「ああっ! お嬢様っ!」
と、絶叫した。
どぶは、いそいで、小屋に入ると、その前をかき合せてやって、抱き起してみた。
すでに、事切れていた。
どぶは、男たちを見やって、
「おめえさんがたの店の娘かい?」
と、問うた。
「は、はい。……日本橋の油問屋駿河屋でございます」
「駿河屋? すると、これは、錦絵《にしきえ》になっている姉妹の一人か」
「はい。姉のお志野と申します」
花の下で、店の者一同が、酒宴をひらいている時、いつの間にか、お志野の姿が、消えていて、番頭や手代たちは、さがしていたところであった、という。
「あの非人めが、ここへ、かっさらって来て、頸を締めて殺して、もてあそんでいた、という寸法か」
どぶは、どうも、ちょっと腑《ふ》に落ちない点を感じたが、そうとしか考えられなかった。外では、手代の一人がきちがいのようになって、非人を、なぐる、蹴る、踏みつけていた。
どぶは、あわれな屍《むくろ》を、そっと、莚《むしろ》へ横たえた。
とたんに、その頭髪から、仄《ほの》かにただよう香を、かいだ。
ふつうの≪びんつけ≫油とはちがっていた。なんともいえぬ良い匂《にお》いであった。いうならば、町家などの女が手に入れられない、高貴な身分の婦人だけが用いるような……。
その香だけで、女性自身が気品をそなえているようにさえ、思わせる。
――はてな?
どぶは、首をかしげた。
「お前さんがた――」
「はい」
「お嬢さんは、大層いい匂いの油を、あたまにつけていなさるが、これは、どこから仕入れたものだい?」
「存じませんが……」
非業の最期を遂げたさなか、そんなことをたずねる岡っ引に、駿河屋の連中は、いささか不快な思いをする様子を示した。
おもてでは――。
手代二人が、逆上のあまり、唖《おし》の非人を、なぐり殺してしまったらしい。
「しようがねえ」
どぶは、ひとまず、この殺しを、非人の犯行とみとめた。
「とんだ花見だ」
遺体が、駿河屋一同にまもられて、駕籠《かご》ではこばれて行くのを、見送ってから、どぶも、なんとなく、面白くなくなって、堤を足早やに、歩き出した。
「おうおう……、不景気な面《つら》をしているじゃねえか」
ある花の下から、声がかかった。
どぶが視線を向けると、お数寄屋坊主の河内山宗俊が、宗匠ていで、若い女を数人はべらせながら、盃《さかずき》を手にしていた。
「どうだい、縁起なおしに、一杯やらぬか」
どぶは、近寄って、盃を受けると、
「いまの事件を、おききなすったので?」
「日本橋の駿河屋の娘だそうだな。美人だったろう」
「へい」
「もったいねえ、と舌なめずりしたかい」
「皮一枚|剥《は》げば美人もされこうべ、というやつでさ」
「鼻べちゃでも、生きている方がいい、というわけだな。どうだな、この雌たちの中から、いっぴき、えらばせてやろうか」
「有難えおぼしめしでござんすが、あっしじゃ、そちらさんで、まっぴらだとことわられそうだから、遠慮いたしやす」
「なアに、愚僧が、すでに手をつけた女子ばかりだ。否やは云わせぬ」
「旦那《だんな》が手をつけなすったなら、ますます、遠慮申し上げやす」
「どうしてだ」
「ヘヘ……、その手のつけかたが、目に見えまさ」
「こいつ!」
河内山は、高笑いした。それから、ふと思い出したように、
「たしか、駿河屋の妹娘は、大奥へ奉公していたはずだな」
と、云った。
翌日――午《ひる》に、どぶは、町小路邸の裏門を、くぐった。
庭へまわると、ここでも、書院の前の桜が、満開であった。
あるじの左門は、その花の下に、床几《しょうぎ》に腰を下《おろ》していた。
どぶが、近づくと、花の中から、ぴょんとはね出た小猿《こざる》が、肩へとび降りて来た。
この小猿は、昨日《きのう》の助平猿とちがって、よく訓練されて居《お》り、しきりと、挨拶《あいさつ》のおじぎをしてみせる。
「猿ってえやつも、桜の花には、うかれるのでござんしょうか?」
どぶは、左門に、たずねた。
「春になれば、動物も植物も、うかれるであろう」
左門は、自分の膝《ひざ》へ移って来た小猿に、干菓子を呉《く》れながら、
「どうかしたか?」
「へい。昨日の花見で、妙な猿公《えて》が、うかれ出しやがって、そいつを、あっしが追いまわしている時、一人の別品が殺されたのでございます」
どぶは、墨堤での出来事を、くわしく、報告した。
左門は、いつもの通り、どぶが、しゃべるあいだ、黙然として、一言も云わなかった。
どぶは、最後に、殺された娘のあたまからただようた、えもいわれぬ髪油のにおいのことを告げて、
「町家の女が、あんないい香を、ふわふわ、まきちらしていやがるから、殺されたような気がいたしやした」
と、云った。
すると、はじめて、左門が、口をひらいた。
「近頃、大奥には、いい香が、こもっているという噂《うわさ》だな」
「へえ?」
どぶは、殺されたお志野の妹が、大奥女中になっている、と河内山宗俊が、云っていたのを、なんとなく、思い出した。
と――その時。
左門の足もとにいた小猿が、突然、
「キキキ……キッキッキ……」
と、白い歯をむき出して、頭上の桜花にむかって、はげしい興奮の様子を示した。
何気なく、仰ぎ見たどぶは、
「あれ!」と、叫《さけ》んだ。
高処《たかみ》の枝に、猿がいたのである。
「殿様――、もういっぴき、お飼いなすったので?」
「猿がいるのか」
「へい。大きな奴《やつ》で――、昨日、向島にいた奴とそっくりでございます」
「もしかすると、同じ奴かも、知れぬぞ」
左門に云われて、どぶは、目をこらしてみた。
「そういえば、どうも、同じ奴のような気がいたしやす」
「お前のあとを慕うて、やって来たのかも知れぬ」
「ご冗談を――」
「どぶ、捕えてみよ」
左門は、命じた。
「かしこまりました」
どぶは、まず、物干の竹竿《たけざお》を持って来て、高処の枝をつついた。
猿《さる》は、すばやく、さらに高処へとびにげた。
猿は、どうやら、書院の屋根から、桜樹へ移って来たらしい。にげるとすれば、その屋根しかない。
そこで、どぶは、屋根と桜樹との空間に、狙《ねら》いをつけておいて、竹竿で、しきりに、おどかした。
一瞬――。
猿が、屋根へ向って、飛んだ。
とみると同時に、どぶの右手から、小石が、投げられた。
猿は、くるくるっ、と三|廻《かい》転ばかりして、地上へ落ちた。
すばやく、そこへ跳んで、どぶは、その頸《くび》根を押えつけた。
猿は、どこかを打ったらしく、おとなしかった。「敵は、さるもの、ひっかく者、というが、こうおとなしくしてやがると、ふびんだぜ」
どぶは、左門の前へ、ひきずって来ると、
「こいつ、どうも、昨日《きのう》と同じ奴《やつ》のような気がして、なりません」
と、云《い》った。
「にげなければ、飼ってやってもよい」
左門は、用人を呼んで、腰|縄《なわ》を持って来させた。
噛《か》んでも、切れぬように、針金をまぜた麻縄を、左門は手ずから、猿の腰に巻きつけて、人間でも容易に解けぬ特殊な結びかたをすると、
「花が咲いているあいだは、この幹につないでおくことにするか」
と、云った。
お小夜が、酒と肴《さかな》を、はこんで来た。
どぶは、内心、
――こいつが、昨日の奴なら、若い女とみたら知らんふりをしちゃいめえが……。
と思った。
しかし、つながれた猿は、まだ打身がこたえているのか、両手で顔をかくすようにして、じっと動かなかった。
どぶは、なんとなく、空とぼけているような気もして、小憎らしく感じた。
「お小夜さん。こいつ、腹を空《す》かしていやがるのかも知れねえやな。なにか、くれておくんなさい」
どぶは、わざと、お小夜を近づけてみる算段をした。
お小夜は、すぐ承知して、小|皿《ざら》に煮|魚《ざかな》をのせて、
「はい。おたべ――」
と、虜猿《とりこ》の前へさし出した。
お小夜は、小猿の世話に馴《な》れているので、いささか気味わるいほどの大きな図体《ずうたい》をした猿を、べつだん、おそれていなかった。
猿は、しかし、そのいい匂《にお》いをかがされても、頑《かたく》なに、じっと動かなかった。
「ちょっ、ひねくれてやがるぜ」
どぶは、舌打ちした。
どぶは、花の下で、夕刻まで、飲みつづけて、したたかに、酔っぱらった。
左門は、陽《ひ》が傾くと、居間へひきあげたが、どぶは、老用人を対手《あいて》に、居|坐《すわ》って動かなかった。
腰縄をつけられた猿は、いつの間にか、幹をつたって、五尺ばかり高い枝に移って、そこで、うずくまって、おとなしい。
用人の方も、かなり盃《さかずき》をかさねて、おしゃべりになっていた。
用人のおしゃべりは、もっぱら、主人が、奥方をめとってくれぬことの愚痴であった。
由緒ある三河譜代の町小路家が、このまま、血統が絶えることの不安で、用人は、毎日頭が痛い、という次第であった。
「しかし、用人さんよ、そこが殿様らしいところよ。ああやって、毎日じっとしていなさりゃ、たまには、女の柔肌《やわはだ》も欲《ほ》しくなろうというものを、まるで善知識のように、悟りすまして、平然としていなさる。凡夫どものまねのできるわざじゃねえやな」
「わしは、そういうことを申して居《お》るのではない」
「わかってら。≪やや≫が欲しいってんだろ、≪やや≫が――」
「そうじゃ。わしも、もう今年《ことし》、六十三歳じゃ。先が短いので、あせるのじゃ。この目で、町小路家のお世|嗣《つぎ》を、見とどけておかんことにはのう」
「どうだろう、爺《じい》さん。お小夜さんを、ひとつ、夜伽《よとぎ》にして、ややを生ませちゃ……」
「わしも、それを、考えたが……、殿は、やはり、そういう振舞いは、なさらぬ」
「お小夜さんを、寝所へ行かせるのよ。そうすりゃ、木石じゃねえや、なんとかならあ。男女の仲なんてえものは、きっかけがありゃかんたんに出来あがっちまうんだ」
「お主ではあるまいし――」
お小夜が、近づいて来た。
「もう陽が落ちます。いいかげんにして下さい」
「ほい、こいつは、うっかり、時間の経《た》つのを忘れていたぜ。……用人さん、あっしは、泊めてもらうぜ」
「ことわるまでもあるまい」
「中間部屋が、どうもカビくさくて、じめじめしてやがるからよう、納戸《なんど》部屋の方をかりてえな」
「うむ」
「へへ……、ことわっておくぜ。あっしも、こうみえたって、物事のけじめは、ちゃんと心得ているぜ」
つまり――。
納戸部屋とお小夜の部屋とは、ごく近いのである。
「わかって居る。お主が不埒《ふらち》を働けば、手討ちじゃ」
用人は、立ち上った。腰がふらついていた。
どぶも、立ち上ったが、こっちは、一升酒をくらっていても、よろつきもしなかった。
その夜――四つ(十時)すぎ、どぶは、女の鋭い悲鳴で、目をさまして、がばとはね起きた。
悲鳴は、お小夜の部屋から、ひびいた。
どぶは、そこへ、駆けつけた。
夜具が大きく波浪のようにゆれているのが、ほそくした行燈《あんどん》の仄《ほの》あかりに、見わけられた。
「どうした?」
どぶが、叫ぶと、お小夜は、夜具の中で、必死に、もがきつつ、
「た、たすけてっ!」
と、救いをもとめた。
どぶは、ちょっとためらったが、思いきって、掛具をひっぺがした。
なんと!
花はずかしい処女の、寝衣《ねぎぬ》があらわにはだけた下|肢《し》に、黒い大きなけものが、くらいついている。
「この野郎!」
どぶは、夢中でとびつくと、そいつを、ひっつかんで、畳へたたきつけた。
そいつは、桜の幹へ、しっかとくくりつけておいた猿《さる》であった。
どぶは、
「ぶった斬《き》ってくれる!」
と、懐中の十手刀を、ひき抜いた。
瞬間――。
猿は、おそろしい敏捷《びんしょう》さで、天井へとびあがるや、ツツ……と、鴨居《かもい》をつたって、欄間の隙間《すきま》をかいくぐって、廊下へのがれた。
「のがすかっ!」
どぶは、廊下へとび出した。
しかし、なにぶんにも、その暗|闇《やみ》では、猿の音もない逃走を追いかけることは、困難であった。
やはり、ただの猿ではなかった。
どぶが、雨戸を蹴《け》倒して、庭へ跳《と》んだ時、すでに、猿は、母《おも》屋の屋根にいた。
もうどうにもならなかった。
猿の方は、ちゃんとそれを見てとって、悠々《ゆうゆう》とかまえて、どぶを眺《なが》め下《おろ》している風情《ふぜい》である。
「どうしてくれようか!」
どぶは、文字通りじだんだを踏んだ。
「どぶ――、すてておけ」
遠くから、左門の声が、かかった。
「殿様っ! こいつは、向島にいた奴《やつ》でござんすぜ。若い女を見ると、いたずらをしかけやがる、とんでもねえ助平猿だ。すてておくわけには参りませんぜ」
「だから、すてておけ、と申すのだ」
「ど、どうしてでござんす?」
猿が、屋根の斜面を、すばやく走りはじめた。
「いけねえっ!」
どぶは、庭を奔《はし》った。
それから半|刻《とき》あまり、どぶは、必死に、深夜の闇を逃げまわる猿を追いかけて、ついに、無駄骨を折った。
左門は、書院で、どぶを待っていた。
どぶが、前に坐《すわ》ると、
「麻縄《あさなわ》のむすびを、どうして、あの猿が解いたか……」
と、云った。
「へえ?」
どぶは、左門を見つめた。
左門は、猿《さる》に腰縄をかけるにあたって、解けないように、特殊なむすびかたをしたのであった。
これは、俗に、自害むすび、と称されている。
戦国時代に、城を枕《まくら》に全員が討死した際など、婦女子が自害するにあたって、膝《ひざ》をしばったが、死体になってから、敵兵にはずかしめられないように、容易に解けない特殊なむすびかたを工夫《くふう》したことから、この称が起っている。
奉行所が、囚徒にかける縄のむすびかたとは、またちがっていた。
尋常の工夫ではないので、並の者では、とうてい解《と》けないのであった。
猿が、自身で解いたとは、考えられなかった。
何者かが、侵入して来て、猿を解き放ってやったとしか、考えられなかった。
「殿様、猿の飼主めが、忍び込んで来た、とお考えなさいますか?」
「その気配は、なかったが……」
左門は、その時刻まで、ねむらずにいたのである。
左門の神経は、目あきとちがっている。庭に怪しい者が立てば、必ず、その気配をさとる。
「猿が、自分で、縄を解いたとすれば、これは、よほど、飼主の訓練がゆきとどいていることになるな」
「とても、そんなことは、考えられませんや。あっしだって、殿様のむすびなすったのを解くのは、容易じゃございません。まして、猿が、どうして――とんでもねえ話だ。やっぱり、飼主の野郎が、忍び込んだに相違ねえ」
「忍び込んで、猿を自由にしてやり、小夜にいたずらを、しかけさせた、というのか」
「へ、へえ?」
「小夜にいたずらをしかけたのは、猿自身の意志――というのも、妙だが、飼育によってつくられた習性であろう」
「ひでえ飼育をしやがったものだ」
「お前と似ているのではないか」
「冗談を仰言《おっしゃ》っちゃ、こまります。……殿様、あっしゃ、どうでも、猿の飼主を、とっ捕《つかま》えて、ぎゅうぎゅうに、とっちめてやらなけりゃ、腹の虫がおさまりません」
左門は、しばらく、何事かを考えていたが、
「どうやら、これは、関連がありそうだな」
と、咳《つぶや》いた。
「何が、でございます?」
「墨堤で、猿がとびまわっていたことと、駿河屋の娘が、殺されたことだ」
「駿河屋の娘は、あの非人に首をしめられた、と思いやすが……」
「うかつであったようだな、どぶ――」
「へえ?」
「非人は、その小屋で、娘が殺されているのを見て、いたずらをした、とも考えられるではないか」
「あ――なるほど!」
どぶは、うなずいた。
大奥
五日後――。
朝陽がさしそめた頃あい、どぶは、再び、町小路邸の裏門をくぐった。
「五日後に参るように――」
左門から、そう命じられていたのである。
どぶが、その前にかしこまると、左門は、無造作な口調で、
「今日、大奥に行ってもらおう」
と、云った。
「へえ?」
どぶは、あっけにとられて、左門を見まもった。
千代田城内の大奥は、十歳以上の男子が入ることは、禁じられている。
将軍家のほかは、せいぜい御殿医しか入るのを許されていない。
どぶが、とっさに、合点《がてん》しかねたのも、むりはなかった。
「お前のような女好きは、一度は、大奥をのぞいてみたかろう」
左門は、微笑しながら、云った。
「へえ、それアもう……、しかし、どうして、あっしが入れましょうか?」
「いかに男子禁制でも、手入れする職人を入れぬわけには参るまい。庭の樹木がのびれば、枝を落さねばならぬし、壁が落ちれば塗りかえなければならぬし、畳が古くなれば、とりかえねばならぬ」
「なるほど――」
「さしずめ、畳職人など、どうであろう」
「結構な役目でございます」
「その手筈《てはず》は、ととのえてある」
左門の打つ手は、早かった。
「で――大奥へもぐり込んで、何を調べろと仰言《おっしゃ》いますので?」
「奇妙な殺害事件が起った」
「へえ?」
「お前は、大奥に就《つ》いての知識は、多少持って居るか?」
「多少も、些《さ》少も――まるっきり持ち合せちゃ居りません」
「では、大奥のあらましを、教えておこう。大奥には、本丸に二百五十余人、西丸には百二、三十人の女中がいる」
左門は、説明しはじめた。
その三百人余の女中の職名序列は、次のようなものである。
≪じょうろう≫、御年寄、中年寄、御客|応待《あしらい》、御≪ちゅうろう≫――ここらあたりまでが、上位の女中である。
≪じょうろう≫は、御台所の側近にいて、何小路などという生家の苗字《みょうじ》を名のる。御台所が、京の御所から降嫁された時、多くの公卿《くげ》の娘がつき添うて来て、この職に就いたためである。
御年寄は、老女と称し、局《つぼね》ともいう。幕閣の老中に比敵する実力者で、大奥万端をきりまわす。中年寄は、その下にいて、いわば、若年寄の役である。
御客あしらいは、将軍家が大奥に入った場合、一切の用向きをつとめる。
御≪ちゅうろう≫は、若く美しい。将軍家つきと御台所つきとがいて、この中から、将軍家のお手つきが出る。
さて――その上位女中の下には、御錠口、表使い、御|右筆《ゆうひつ》、御|次頭《つぎがしら》、御右筆|助《すけ》、御|次《つぎ》、御切手、呉服之間頭、御広敷頭、御三之間頭、御|伽《とぎ》坊主、呉服之間、御広敷、御三之間、御末頭、御火之番頭、御使番頭、仲居、仲居助、御火之番、御茶之間、御使番、そして、御|半下《はした》という席次になっている。
このうち、御三之間までがお目見《めみえ》である。すなわち、将軍家に挨拶《あいさつ》することができ、じかに、口をきくことが許されている。
この職の中で、最も奇妙な存在が、御伽坊主であった。
坊主といっても、れっきとした女であって、頭髪を剃《そ》りおとして、≪尼てい≫になっている。年齢はたいてい五十前後なので、全く色気のない存在であった。そのおかげで、この御伽坊主だけは、表御殿まで出て行くことが許されていた。たとえば、将軍家が、大奥に入った際、なにか表御殿の方に忘れものをした場合、この坊主が出て行って、取って来る。
表御殿は、いわば、将軍家の官邸であって、一切女人を置かぬ。大奥は、将軍家の私宅である。
表と大奥とは、お鈴廊下でつながれている。
そこに、御錠口というのがある。御錠口の杉戸が境界で、表と奥は厳重に遮断されている。
大奥女中は、たとえ二十年三十年つとめていても、表御殿へは、一歩も足をふみ入れたことがない。
御台所でさえも、生涯、良人《おっと》の将軍家の官邸を、一度も見ないでおわっている。
戦国気分のあった二代将軍秀忠の頃までは、御台所も、表御殿へ出て来て、玄関で、良人を出迎え、送り出した模様であるが、三代家光の時、鷹司関白の女《むすめ》が嫁《とつ》いで来て、にわかに形式が重んじられ、表と奥が区別されるようになった。そして、四代、五代ともに、京都からの入輿《じゅよ》があり、また六代家宣も、近衛関白の女を迎えて、ここに、完全に、京の御所にならった生活様式が、確立してしまったのである。
表と奥を区切る御錠口の杉戸は、朝夕とも六つ(六時)で開閉される。それ以前以後は、いかなることがあっても――たとえ、火事が迫っても、開かれることはなかった。
表側には、番之頭添番、伊賀者が控え、奥側には、お使番が控えていて、杉戸には両側から、錠をかけるのであった。
いうならば、この杉戸を境にして、大奥は、世間の目を断って、絶対秘密の世界をつくっていた。
大奥に奉公する者たちは、役柄の上下にかかわらず、内の事は、事の重軽大小を問わず、肉親にも語ることを禁じられていた。奉公にあがる時、その誓詞を書いているので、もし、宿下りの時、べらべらとしゃべったことが露見すると、忽《たちま》ち、死罪になったのである。
それだけに、一般の人々は、大奥というものに対して、異常な興味を抱《いだ》いた、といえる。
当時――。
大奥へ女中奉公にあがる娘には、二種類あった。
旗本御家人の娘で、家が極端に窮乏して、やむなく給金をとる手段として奉公する者たちと、町人百姓の娘で、行儀作法を見習うために奉行する者たちと。
後者の場合、大奥奉公をしたことは、現代の大学の卒業証書を手にするのと同様の意味あいがあったのである。したがって、彼女たちは、出世したところで、せいぜい御火之番か御使番で、切米五石、合力金七両二分|扶持《ふち》であったが、それは問題ではなく、身に行儀作法をつける目的であった。
さて――。
大奥女中のうち、最も位の高い≪じょうろう≫は、京の公卿《くげ》の娘に限られていたので、ほとんど床の間の置物にちかい存在であった。
≪じょうろう≫の次の御年寄(老女)が、最も権力者であり、御用掛となって、外出する時は、十万石の大名の格式を持った。上使となって、紀州尾州水戸などの御三家へおもむいた時には、山のようにたくさんの貰《もら》いものをした。反物だけでも、十反以上の贈与があった、という。
大奥女中は、長局《ながつぼね》に住むが、御年寄のすまいともなると、十室もあり、湯殿も上下ふたつ、台所など完備していた。したがって、部屋方(使用人)の頭数も多く、十人以上いた。
一番下級の御使番でさえも、使用人一人をつかっているのであったから、大奥というところは、十五人以上の使用人をつかう≪じょうろう≫から、御使番まで、女を主人とする世帯が寄り集って、一大団地をつくっていたことになる。
当然、縦のつながり、横のつながりが、乱麻となって、複雑奇怪な個人関係をつくり、そこに女性特有の陰湿な欲情・怨恨《えんこん》・嫉妬《しっと》・憎悪《ぞうお》が、肌《はだ》の粟《あわ》立つような淫虐《いんぎゃく》な行為をまねくのも、またやむを得ないことだった。
なにしろ、千代田城は、広大であった。
本丸四万七千三百坪、二之丸一万千百坪、三之丸六千四百八十坪、西丸二万五千坪、紅葉山二万坪、吹上御苑十万八千八百坪――この厖大《ぼうだい》な地域の中に、世間の目から全くかくされた女ばかりの世界が、つくりあげられていたのである。
左門は、どぶに、大奥のしくみのあらましを説明しながら、説明しきれぬほど、面倒なものであるのを、いまさらに痛感した。
「これぐらいの知識を与えておけば、よいであろう」
左門が、いったん、うち切ろうとすると、どぶの方は、一時に脳裡《のうり》につめ込むことの不可能さに、うんざりしながらも、自分の方から、いくつかの質問をした。
部屋方には、どういう種類がいるのか、とか、その一日のくらしぶりはどうなのか、とか――。
左門も、そこまでは、くわしくは知らなかった。
「部屋部屋では、十代の部屋子を、小僧と呼び、それが大きくなると、相の間になって、名がつくようだ。それらが、朝から夜まで、どのような働きをしているか、わたしにも、よく判《わか》らぬ」
どぶとしては、畳職人になって入《はい》り込む以上、すこしでもくわしく、大奥の実情を知っておきたかった。
「しきたりが判ると、こっちも、動きやすいのでございますが……」
「その面倒さは、言語に絶しておるらしい。たとえば、御年寄という婆《ばあ》さんがたは、絶対に、廊下を歩かぬ、ときいて居《お》る」
御年寄は、縁側へ出て、奥へ出仕する。ただ、便所へ行く時だけ、それが廊下の向い側にあるので、廊下へ出る。その時は、部屋子が先に立って、
「お通りあそばす」
と、声をかける。
すなわち、御年寄は、いついかなる時でも、自分の部屋から出ると、出たことをあきらかにする、というあんばいであった。
「便所に入るのも、大≪いばり≫をするとは、こいつは、しゃれになりませんね」
どぶは、苦笑した。
左門は、自身の知っていることを、つづけて教えた。
御年寄の部屋では、局《つぼね》と称《よ》ばれる女中が、万事をとりはからっている。町家でいうならば、番頭といったところである。局の下に、局|脇《わき》というのがいて、いわば仲働きという役柄。それから、仲居、タモンなどという下働きがいる。
世話子とか部屋子とか称する少女とは、別である。
長局には、七つ口という番所がある。七つ(午後四時)になると、そこが閉鎖するので、そう呼ばれている。ここには、締戸番という役の者がいて、さまざまの検査をするのであった。たとえば、出入りの長持などを、秤《はかり》でしらべる。奥女中が、長持に入って忍《しの》び出て、男と逢曳《あいび》きに行くとか、また、役者がその中にかくれて忍び入る、などということが、曾《かつ》て、しばしば行われたからである。
もっとも、いまは、実際に、秤で長持をしらべるなどということは、滅多にない。
用達商人は、この七つ口まで入ることを、許されている。ここで、各部屋から注文をきく。また、持参した品物をならべて、見せるのだ。いわば、七つ口は、御広敷の関門なのである。
この七つ口の裏側に、ゴサイという男の僕《しもべ》の住む長屋がある。それぞれの部屋に仕えている。御年寄には、二人のゴサイが仕えている。武家の中間といったところである。
「まず、ざっと、そんなところか。あとは、お前が、その目で、たしかめることだ」
左門は、云った。
「わかりました。……ところで、大奥で起った殺しというのを、おきかせねがいたいもので?」
「それが、どうも、はっきりと判って居らぬ。御台所用人から、そっと、わたしにたのんで参ったのだが……。女中が一人、閉《し》めきった部屋の中で、独《ひと》りで、香合せを習っていた時、いつの間にやら、死んでいた――それだけのことらしい」
「へえ?」
「それだけのことだが、その変死の裏には、どうやら、大奥の陰惨な権勢争いがあるらしい」
左門は、つづけて云った。
「大奥には、三つの勢力が、しのぎをけずっている模様だ」
将軍家お手つき≪ちゅうろう≫のうち、
おみつの方
お節の方
お滝の方
この三人が、目下、勢力を分けて、火花を散らして睨《にら》みあっている。
表の老中に匹敵する役の御年寄たちも、この三人のお手つき≪ちゅうろう≫の凄《すさま》じい争いを、調停する力はない。
曾《かつ》ては、大奥も、老女(御年寄)の権勢が絶対のものであり、たとえ将軍家の手がついた≪ちゅうろう≫といえども、老女の意見にたてつくことは、できなかった。
制度が乱れた今日では、逆に、お手つき≪ちゅうろう≫の方が、老女を威圧するようになっていた。
さて――。
変死したのは、秀という、おみつの方の部屋方であった。
秀は、明日《あす》の「香合せ」にそなえて、独《ひと》り部屋にとじこもって、各種の香を、香炉からくゆらしながら、ききわけていた。
その部屋には、中から、錠をおろしてあった。
大奥では、どこの座敷にも、すべての柱の下に、大奉書六つ折を四角にした上に、小香炉を据えて、若草(煉香《ねりこう》)をたいているならわしであった。若草は、ただの三粒で、半日以上も、匂《にお》っている。
いわば、大奥はいたるところ、香の匂いがたちこめていたのである。
したがって、「香合せ」のために、その練習をするには、部屋を完全に密室にしなければならなかった。
秀が、誰《だれ》も入れないように、中から錠をおろしたのは、そのためであった。
廊下を通りかかった朋輩が、部屋の中から、苦しげな呻《うめ》き声をきいたのは、秀がとじこもって半日も過ぎてからであった。
ただぬらぬその呻きに、女中数人が必死に、襖《ふすま》をやぶって入《はい》ったところ、すでに秀は、凄じい苦悶《くもん》の形相になり、畳を生|爪《づめ》が、はがれるほどかきむしって、息絶えていた、という。
「香合せ、といえば、われわれは、つれづれの遊び、と受けとるが、大奥では、これもまた、真剣勝負のひとつなのだな」
左門は、冷やかに、うすらわらいつつ、云った。
おみつの方、お節の方、お滝の方――このお手つき≪ちゅうろう≫三人の香合せは、将軍家をわが褥《しとね》へ呼ぶ賭《かけ》であったようである。
したがって、この勝負には、是が非でも勝たねばならなかった。
おみつの方は、幾種類かの香を合せて、新しい香をつくり、誰にもきき当てられないようにせよ、と秀に命じたのである。
そのために秀が、その部屋にとじこもると、誰もそこへ近づくことを許されなかった。もちろん、そのまわりは、厳重に見張り役が立った。
もっとも、密室とはいえ、ひとつの香をききおわった時に、匂いを抜けさせる窓は、ひとつだけあけられていたが――。
「ひとつだけ、あけたその窓の外にも、見張り役は立って居《お》り、なんの異変もなかったそうな。……つまり、誰《だれ》一人近づかなかった部屋で、秀という女は、苦悶《くもん》して、死んだことになる」
左門は、そう語ってから、
「と申して、その死因をつきとめるだけが、目的ではないから、いささか、厄介だな」
「あっしじゃ、もてあます任務だ、と仰言《おしゃ》いますので――?」
「やり甲斐《がい》があると申して居る」
「皮肉でございますか?」
「いや、皮肉ではない。大奥にもぐり込むには、お前は、うってつけの面構えをして居る。油壷《あぶらつぼ》からぬけ出たような、のっぺりした色男なら、たのまぬ」
「へえ、この面《つら》が、女護ケ島向きだと仰言るので……」
どぶは、わが顔を、つるりとなでた。
「ところで、墨堤で殺された駿河屋の娘のことだが、その妹の方は、大奥に奉公いたしているそうだな」
「へえ。河内山の旦那《だんな》から、ききやした」
「志野というその娘のあたまに、いい香が匂《にお》っていた、と申していたが、たぶん、妹からもらったものであろう」
「大奥には、近頃、いい香がこもっている、と仰言っておいででございましたね」
「志野は、その香のために、殺されたのかも知れぬ」
「え? なんと仰言いました? あの髪油のために――?」
「ふと、そんな気がしたまでだ」
「殿様が、そう直感なさいましたのなら、あるいは、そうかも知れません。大奥へもぐり込みましたら、髪油のことも、しらべてみることにいたします」
「黒門町の備前屋という畳屋へ行くがよい。三日ばかり稽古《けいこ》をすれば、畳さしのまねごとはやれるであろう」
「かしこまりました」
どぶは、台所へ下って来ると、小夜に、
「へへ……、お小夜さん、あっしが、大奥へ、のんのんずいずい、乗り込んだら、女中たちは、どういう反応を示すか――ひとつ、想像してみてもらいてえんだが……」
「さあ?」
小夜は、微笑して、ちょっと、首をかしげてみせた。
「お小夜さんから眺《なが》めて、あっしは、女子衆にとって、全くなんの魅力もねえ醜男《ぶおとこ》でしかありませんかい?」
「いいえ、そんな……」
「お世辞は抜きだ。本当のことを、きかせて頂きてえな」
「親分は、まこと、大奥へお行きになるのですか?」
「命令でね。一生一代、度胸をきめて、このどぶが、どれくれえ女にもてるか、試《ため》してみる、ということに相成ったんでさ」
「まあ……」
小夜は、笑い声をたてた。
「やっぱり、いけねえか。女にもてる面じゃねえ、とその笑顔に書いてある」
五日後――。
畳職人に化けたどぶは、黒門町の畳屋備前屋一行の中に交って、大奥へ入った。
江戸城の建物、庭園の修築、改装は、公儀作事方の大|棟梁《とうりょう》が、とりしきっている。この大棟梁は、世襲で、甲良、平内、辻内、鶴の四家に限られていた。
左官とか建具師とか、職人たちは、この大棟梁の下に属していた。備前屋は、鶴組に入っていて、春と秋との大奥の畳がえを引受けていたのである。
うらうらと晴れた、いかにも春らしい日和《ひより》であった。
鶴組大棟梁に従った備前屋一行は、材料と道具を、長持に入れて、坂下御門を、しずしずと入った。
しんがりを歩くどぶは、生れてはじめて、江戸城内に入るのであった。
――へっ! 柄にもなく、心の臓が、どきついてやがる。
自分をわらった。
なにせ、生来の女好きが、日本随一の女だけの世界へ入り込むのである。心も身も、はずまざるを得ない、というものであった。
御裏御門を抜けて、御切手御門に達すると、どぶは、
――さあ、来たで! しっかりしろい!
と、自分をはげました。
左門から、云われていたことである。
「お前がもし、岡っ引であることが、露見したら、即刻打首になる。その覚悟をしておけい」
備前屋一行には、もとより、岡っ引であることは、云いふくめてあり、かたく口どめしてあった。
御切手御門を通って、一行は、下御広敷の関門である七つ口に到着した。
御用達町人は、この七つ口の脇《わき》の勾欄《てすり》に寄って、部屋部屋の御用をうけたまわる。
「畳がえに参上つかまつりましてございます」
鶴組の大棟梁が、云うと、
「通れ」
と、許可があった。
長|局《つぼね》の廊下は、おそろしく長い。
ところどころに、金網|燈籠《どうろう》が置いてあるその眺《なが》めは、気遠くなるほど、奥深いものだった。
屋内は、しんとして、まるで、人が住んでいないようであった。
職人たちが入ると、各部屋は、かたく閉ざされて、女中たちは、一切姿をみせてはならぬ掟《おきて》の模様であった。
案内して行く役は、頭をまるめた御坊主という女役人であった。
どぶは、いつの間にか、先頭に出て、その御坊主に、くっついていた。
五十年配の、おそろしく冷たい顔つきの女であった。
しかし、比丘尼《びくに》とちがって、ちゃんとした衣裳《いしょう》をつけているので、なんとなく、妙な倒錯的な色気を感じさせた。
どぶを除いた職人たちは、すでに、この大奥で幾度も仕事をしていたので、作法を心得ていた。互いに無|駄《だ》口をたたき合うことは、一切せず、物音をたてないように細心の注意をして、畳をあげて、七つ口わきの仕事場へ、はこんだ。
なにせ、無数の部屋があり、したがって、その畳ぜんぶを裏替えするとなると、三十人の職人が必死に働いて、二十日かかるのであった。
――将軍家ともなりゃ、これぐらいの規模の屋敷を構えるのは、あたりまえだろうが、それにしても、広すぎらあ。
どぶは、畳をかついで、長|局《つぼね》の廊下をはこびながら、心中で呟《つぶや》いた。
最初にとりかえることになった部屋は、どうやら≪ちゅうろう≫のものらしかったが、ざっとかぞえただけで、十部屋七十畳以上あった。これに附随して、御年寄に仕える女中たちの住む二の側も、その半分の部屋数で、三十畳以上あった。なんとも、途方もない広さである。
どぶは、午《ひる》までは、殊勝に、仕事をてつだいながら、大奥のくらしぶりを、鋭く観察した。
午《ひる》になると、御坊主が、五、六人の小僧に、お茶を持たせて、仕事場へやって来た。
「あれは、なんという御坊主ですか?」
どぶは、そっと、備前屋にきいた。
「円喜というおひとでね。この大奥の主《ぬし》みたいな存在さ。この婆さんに、ひとにらみされたら、若い女中は、生命が縮むらしい。御年寄も、なにかというと、この婆さんに相談して、事をはこぶらしいからね」
もう六十越えて、大奥出入りも十数年になる備前屋は、なんの目的で職人に化けているのか固く口をつぐんでいる岡っ引に、自分の知っている限りのことは、語ることにした。
「大奥には、いま、三人のお手つき≪ちゅうろう≫が、しのぎをけずっている、ときいて居りやすがね。あの御坊主は、そのうちの、どの≪ちゅうろう≫に、くっついて居るか、知りやせんかね?」
「さあ、そこまでは、あっしらのような者には、さっぱり、わからねえが……、あの御坊主に、ひとつ、当ってみちゃ、どうですかい? 見たところは、斬《き》っても血も出ねえような、冷たい顔をしているが、あれで、案外おしゃべりなんでさ。話の持ちかけようによっては、口にしちゃならねえことまで、教えてくれるかも知れませんぜ」
備前屋は、すすめた。
――よし、当ってくれるか。
どぶは、ほぞをかためた。
そこで、どぶは、円喜に話しかける用件を、いそいで、脳裡《のうり》で思案した。
――最初にとりかえるところをみると、あれはおみつの方の部屋で、この畳の上で、秀という女中が、悶《もん》死したのかも知れねえぞ。
どぶは、そう見当をつけると、鶴組の大|棟梁《とうりょう》となにか話している御坊主のそばへ、寄って行った。
「お役人に申し上げます」
どぶは、呼びかけた。
円喜は、ふり向いた。なんとも名状しがたいほど、冷たい表情である。
「まことに、妙なことを申し上げて、お怒りを蒙《こうむ》るかも存じませんが、職人の云うことだとお思い下さいまして、おきき流し下さいまし」
どぶは、殊勝げに、膝《ひざ》の前で両手を合せながら、御坊主円喜に、云いかけた。
「なんのことじゃ?」
「へい……それが、どうも、まことに申し上げにくいことでございますが、お部屋から、てまえが、畳をかついで参ります途中のことでございます。……その畳が、急に、倍もの重さに感じられまして――とたんに、足がすくんで、背すじが、ぞうっと、冷たくなったのでございます」
どぶは、いかにもおそろしげに、あたりをはばかる小声で、云った。
円喜は、眉宇《びう》をひそめて、きいている。
「なんだか……そのう――、畳に、誰《だれ》かが、のっているような気がいたしたのでございます。……ここへ、はこんで参りましてから、仔細《しさい》にながめましたが、別状はないので、表を剥《は》がしにかかりましたところ、こんどは、てまえの手が、動かなくなったのでございます。そればかりか、畳の上に、なにやら、お女中らしい影が、ぼうっと……」
「その畳は、どれじゃ?」
円喜の顔面は、蒼《あお》ざめていた。
「あの畳でございます」
どぶは、いいかげんに、指さした。
円喜は、そこへ歩み寄って、じっと、畳を凝視していたが、一瞬、こめかみをピクピクと痙攣《けいれん》させた。
それから、どぶを振りかえり、
「このこと、他言無用じゃ」
と、云った。
「へい、それはもう、心得て居ります。これは、表だけをお替えなさるのではなく、そっくり台までおとり替えなさいました方が――」
「そう、いたそう」
円喜は、うなずいて、備前屋を呼び、命じた。
――やっぱり、そうだ。秀は、この畳の上で悶死《もんし》したのだ。
どぶは、合点《がてん》した。
円喜は、いったん出て行きかけて、急に、思いついた模様で、
「そこの者――」
と、どぶを呼んだ。
「へい」
どぶが寄っていくと、円喜は、
「以前にも、そのような経験があるのかえ?」
と、訊《たず》ねた。
「へえ、三度ばかりございます」
「ちょっと、来て欲《ほ》しい」
円喜が、どぶをともなったのは、七つ口の勾欄《てすり》のむこうにある部屋であった。
そこは、ゴサイという下僕の詰所であった。
ちくさの股引《ももひき》、唐桟《とうざん》の着物、木刀を佩《お》びたゴサイが数人、詰めている部屋を、円喜は、一言のもとに空《あ》けさせた。
どぶを見据えるその眼光は、異常な鋭さであった。
「名は――?」
まず、円喜は、問うた。
「弥次郎、と申します」
「霊気を感ずるようになったのは、いつ頃からじゃ?」
「霊気――と申しますと?」
「亡霊の気配じゃ」
「へえ……」
どぶは、いかにも、当惑した様子を示した。
「お前は、これまで、三度も、今日《きょう》と同じような経験をした、と申したではないか」
「へい、そりゃ、たしかに、いたしましたが……、てまえは、べつに、はっきりと、それが、怨霊《おんりょう》だと見わけた次第じゃございませんので、へい――」
「しかし、ちゃんと、霊気を感じている。……亡霊の気を感じる者は、きわめて、すくないものじゃ。お前は、その、きわめてすくない者の一人であろう」
「感じない方が有難いのでございますが……。お役人にうかがいますが、あの畳の上で、どなたか、非業の最期でも、お遂《と》げになりましたので――?」
「お前が、それを感じたからには、やむを得ぬゆえ、きかせるが、決して口外してはなるまいぞ」
「心得て居ります」
「秀と申す女中が、亡《な》くなったのじゃ」
円喜は、語った。
その死は、左門からきかされた通りであった。
「……にわかの病いが発して、斃《たお》れたに相違ないと思うていたが、怨霊となるところをみると、あるいは、何者かに殺されたのかも知れぬ。……お前は、以前経験した時、その亡霊が、その夜、夢枕《ゆめまくら》に立ったことはあるまいか?」
「へい。一度ございます」
どぶは、ぬけぬけと、こたえた。
――美人なら、どんな怨霊だろうと、夢枕に立ってくれるのを、大歓迎だが……。
「亡霊は、なにか、お前に、訴えかけたであろうか?」
「へい。なにやら、しきりに、云いかけて来るようでございましたが、てまえは、もう、おそろしさで、ふるえあがって、悲鳴をあげてしまったものでございますから……」
「もしかすれば、今夜、秀の亡霊が、お前の夢枕に立つかも知れぬ」
「じょ、冗談じゃございません。てまえは、ま、まっぴらでございます」
どぶは、首をすくめて、合掌すると、
「なむあみだぶつ……なむあみだぶつ……」
と、となえた。
「そうじゃ、その通り、念仏をとなえて、秀の亡霊を、追いはらうがよい」
「そ、そう、いたします」
円喜は、口をつぐんでから、しばらく、何ごとかを考えめぐらしていた。
「お役人にうかがいますが、そのようなお女中の変死は、これまでいくども、あったのでございますか?」
十一
円喜は、こたえなかった。
どぶは、図々しくなった。
――一丁、おれの霊気を感ずる力を利用してこまそか。
「もし、お許し下さいますれば、てまえが、お部屋をまわってみれば、お亡くなりになったお女中が、怨霊《おんりょう》となって、そこでまようておいでになるかどうか、わかるかも知れませぬ」
「…………」
円喜は、じっと、どぶを見据えて、なお、口をつぐんでいた。
「以前、てまえは、あるお旗本のお屋敷にうかがいました時、上|厠《かわや》の畳をとりかえようとして、ぞうっとなりました。どうしても、手足が動かぬので、その旨を殿様に申し上げて、そこの畳替えだけは、かんべんして頂いたのでございます。その後、そのお屋敷では、上厠だけは、お建てなおしになった、とうかがいました」
それをきくと、円喜は、ようやく、口をひらいた。
「大奥には、大奥だけのさまざまの出来事がある。世間には、知れぬまでのこと」
「…………」
「お前を、つれてまわれば、その霊気を、いたるところで、感ずるであろう」
「へい――」
「しかし、それが、許されぬことは、お前も、判《わか》って居《お》るはずじゃ」
「へえ」
「けれど、お前が霊気を感ずる身であることは、貴重ゆえ、いずれ、役に立てたく存ずる」
「有難う存じます」
その時――。
あわただしく、ゴサイの一人が、部屋に入って来た。
「お部屋から、お呼びでございます」
つたえるゴサイの顔面が、異常にこわばっているのを見て、
「何事が起ったのか?」
円喜は、問うた。
ゴサイは、どぶをはばかって、口をもぐもぐさせた。
「かまわぬ。申してみよ」
「お節の方様の部屋子が、二の側の納戸《なんど》にて、自害をいたした由にございます」
「自害?」
「ご検分の儀を――、とお部屋で、願って居ります」
円喜は、ゆっくりと立ち上った。
外へ出ると、ついて来たどぶに、
「このことも、口外無用じゃ」
と、云った。
「かしこまりました」
円喜が、七つ口から奥へ消えるや、どぶは、すばやく、裏替えの成った一畳をひっかついで、奥をめざした。
――自害か、殺されたか、ひとつ、この目で、たしかめてやるぜ。
不敵にも、どぶは、そこへ忍び寄る肚《はら》をきめていた。
新参打ち
――へへ、大奥ってえところは、ここまで、女の匂《にお》いが、こもっていやがるぜ。
長|局《つぼね》の天井裏へ忍び込んだどぶは、くんくんと鼻を鳴らした。
なにしろ途方もなく広いので、見当をつけるのは、容易ではなかった。
さいわいに、女中がつづけてまた一人、変死したとなると、女中たちの騒ぎかたも、大きいので、そのあわただしい動きに、耳をすましつつ、移動して行けば、その部屋の上へ、到着できようというものであった。
そこは、岡《おか》っ引独特のカンが、ものを云う。
やがて、どぶは、その部屋を、張りじまいの天井板を、すこしずらして、そっと覗《のぞ》きおろしていた。
そこは、三つに勢力を分けた一人、お節の方というお手つき≪ちゅうろう≫に奉公する女中たちの住居である、二の側の階下の一室であった。
ものの四半|刻《とき》も覗きおろして、全神経を耳に集めて、出入する女中たちの話をきいているうちに、どぶは、その出来事のあらましを、つかんだ。
部屋の中央に安置された遺体は、お咲という部屋子であった。
花の季節は、御殿女中が、親許《おやもと》へ宿下りを許される。一年一度である。旗本御家人から、終身奉公に上る女性は、ほとんど宿下りしないが、町家から奉公した娘たちは、一年一度必ず、花の季節には、宿下りして来る。
宿下りは、実家にとっては、町内へ土産《みやげ》くばりをしなければならず、親戚《しんせき》一同を集めて宴を催したりして、物入りであるが、そこが親|馬鹿《ばか》なところで、せっせと迎えのしたくをして、待っている。
お咲は、本所元町のかなり大きな質屋の娘で、明日が宿下りで、十日の休暇をもらって、うきうきと胸をはずませていた、という。
その明日をひかえて、突然、自殺したのである。朋輩たちは、なんとも納得しがたい面持で、
「気でも狂って、発作で死んだとしか思われませぬ」
と、検視の円喜に、告げていた。
たしかに、天井裏のどぶも、首をかしげ、
――なにか、カラクリがあるぜ、
と、呟《つぶや》かざるを得なかった。
奇怪なのは、明日の宿下りにうきうきしていたお咲が、ちゃんと覚悟の自殺を遂げていたことである。
膝《ひざ》を、しっかと、しごきで結んで、死後見苦しい姿にならないようにしていた、という。
懐剣は使わず、剃刀《かみそり》で、頸《くび》の動脈を切って、俯伏《うっぷ》していた。
町娘なので、懐剣の使いかたを知らないので、剃刀をえらんだのであろうが、みごとに、頸の動脈を切って相果てたことは、覚悟をさだめたものと受けとれた。
円喜が、ひとわたり、お咲の朋輩たちの供述をききとったところへ、御年寄の代理として、中年寄が、入《はい》って来た。
遺体の頭から、円喜が、白布を取ってみせると、うなずいて、すっと出て行ってしまった。
どうやら、大奥では、女中が変死しても、べつに死因に疑いを持って詮議《せんぎ》したりはしないらしい。
お咲の自殺には、あきらかに、疑惑を抱くべき奇怪さがある。
しかし、はっきりと斬《き》られて死んでいるのであれば、話が別であろうが、かたちが自殺であることが明白であるので、このまま、取調べずに、親許へ、遺体を下げ渡す模様であった。
――畜生め! 明日の宿下りでうきうきしていた者が、突然心境の変化を来《きた》して、てめえの生命《いのち》をすてるチョボ一があるものけえ。冗談じゃねえや。
お咲は、たしかに、何者かに殺された、と断定できるのだ。
しかし――。天井裏で、いくらじだんだをふんでも、はじまらなかった。
どぶは、しばらく、天井裏を遊泳することにした。
四半|刻《とき》のちには、いつの間にやら、どぶは、御台所のすまいらしい上に、来ていた。
――ははあ、ここは、どうやら、催し物の広間らしいな。
舞台が、ちゃんと設けられていた。
しんとしずまった広間は、百畳敷きの見当である。
と――。
襖《ふすま》がすっと開いて、女中が一人、入って来た。
――おや?
どぶは、その顔に、見おぼえがあるような気がしたが、距離が遠すぎた。
女中は、すすす……と進んで、舞台へあがった。
そして、かなり見事な所作で、踊り出した。
この女中は、「御次《おつぎ》」という役であった。仏間とか台子とか御膳部《ごぜんぶ》、御道具の係りである。同時に、臨時に、催し物がある時は、御次が、演じるのであった。したがって、御次は、遊芸一般に通じていなければならない。
どぶは、天井裏を移行して、舞台の上に来て、隙《すき》間をつくつた。
踊りつづける御次の顔を、能《よ》く見下《みおろ》したとたん、
――おこのじゃねえか!
と、胸のうちで、叫んだ。
おこの。
これは、本所一帯を縄張《なわば》りとする岡っ引の総元締みたいな立場にある源十郎という親分の末娘であった。
源十郎は、御家人の次男であったので、ただのいやしい岡っ引ではなかった。
おこのが、大奥に奉公して「御次」まで出世できたのも、その家柄があったからであった。
どぶは、源十郎の家で、半年ばかり、ごろごろしていたことがある。
――こいつは、うめえ!
どぶは、にやりとした。
――おこのを、ひとつ、やってこまそ!
いきなり――。
天井裏から、人間が一人、跳《と》び降りて来た。
おこのは、岡っ引の娘だけに、悲鳴こそたてなかったが、息をのんで、石のように全身をこわばらせた。
どぶは、蜘蛛《くも》の巣|除《よ》けに顔を包んでいた手|拭《ぬぐ》いを、とりはらうと、
「へへ、ひさしぶりだね、おこのさん」
と、笑いかけた。
「まあ!」
おこのは、あっけにとられた。
「親分! なにゆえにまた、この大奥へ――?」
「近頃、浮世が騒々しくなると、岡っ引も、市《まち》なかばかりをうろついていたのじゃ、仕事にならなくなったのでね」
「無謀ですよ。露見すれば、打首ではありませんか」
「承知の上でさ。……おこのさんも、岡っ引の娘だから、あっしが、忍び込んだのは、よほどの肚《はら》をきめたことだと、わかるはずだ。ひとつ、助力をねげえます」
「わたしは、御次《おつぎ》です。御次としては、貴方《あなた》に助力することなど、できません。大奥内のことは、どんな出来事であろうと、城外の者に知らせてはならぬ掟《おきて》があります。……おことわりいたします」
おこのは、きっぱりと云《い》った。
当然のことだが、三年余の大奥ぐらしは、おこのを、どぶが知る娘ではなくしていた。
おつとめ大事の大奥女中として、城外の人間とは、別世界にいる態度を示した。
――いけねえ。こっちは、少々甘く見すぎた。
「おこのさん、お前さんは、終身奉公をしているわけじゃねえ。いずれは、家へもどるんじゃねえか」
「いまは、御次です。……さ、はよう、おひきとりなさい。大奥に忍び込むなど、誰《だれ》に命じられたか知りませんが、命じた御仁も、切腹の咎《とが》めを受けることに相成ります」
「どうしても、助力をことわると云いなさる?」
「ことわります」
源十郎親分の家に末娘としていた頃は、おこのは、おきゃんな、はねっかえりで、芝居小屋など、一人で遊びに出かけたくらいであった。
――本性まで変ったとは、思われねえ。
どぶは、そう思った。
「さ、はよう――、人目につかぬうちに、おひきとりなさい」
おこのは、せきたてた。
「おこのさん。お前さん、岡っ引が肚をきめて忍び込んだら、そうかんたんに、ひきさがらねえことを、ご存じだ」
「大奥内のことは、大奥内で、おとりしらべになります。……貴方のしているのは、途方もないことなのです。お上をおそれないことです。……はよう、去るがよい!」
きめつけられたとたん、どぶは、むかっとなった。
――しようがねえ!
目にとまらぬ早さで、どぶの拳《こぶし》が、おこのの鳩尾《みぞおち》に入った。
おこのは、声もなく、崩《くず》れた。
「すまねえ」
どぶは、詫《わ》びておいて、おこのをかかえあげると、
「非常の手段てえやつだ。かんべんしてくれ」
と、鋭く広間を見まわした。
おこのが入って来た襖《ふすま》を開けると、どうやら、そこは楽屋になる部屋のようであった。
「ここは、人の入ってくるおそれがあるぜ」
どぶは、その部屋を突ききって、そこを仕切っている檜戸《ひのきど》を、開けてみた。
「ここだ」
衣裳《いしょう》をしまってある納戸《なんど》であった。
片隅に、夜具も積んであった。
「おあつらえ向きだ」
夜具をひろげて、その上へ、おこのを横たえさせた。
――へへ……、岡っ引|冥利《みょうり》というやつさ。もっとも、あとで、このことが、この娘の親爺《おやじ》に知れたら、大目玉だ。
どぶは、いささか自分の行為を慙《は》じながら、容赦なく、おこのの衣裳を剥《は》いだ。
おこのが、意識をとりもどしたのは、自分の下|肢《し》が、包んでいたものをすべて剥がれてあらわにされ、押しひろげられているつめたさと、男にのしかかられた重さのためであった。
おこのは、わが身の置かれた、あられもない状態に、あっとなった。
「すまねえ。お前さんを味方にするには、こうするより、しかたがなかったんだ。ゆるしてくれ」
どぶは、両腕に、若い肢体をしっかとかかえながら、ぬけぬけと、云った。
「けだもの!」
おこのは、ののしった。
しかし、もはや、観念して、動こうともしなかった。
おこのは、生娘ではなかった。はじめての男は、守田座の女形《おやま》であったし、町内の若い鳶《とび》にも岡惚れて、からだをゆるしたことがあった。したがって、こうして犯されても、魂消《たまげ》はしなかった。
ただ、有無を云わせず、当て落されて、無理矢理けがされたことに、その勝気が堪《た》えられなかっただけである。
どぶの方は、おこのがじっとしているのを、許してくれたものと解釈して、せっせと愛|撫《ぶ》にとりかかった。
実は、おこのをあられもない姿態にして、のしかかっていたが、まだ、犯しては居《お》らず、意識がよみがえるのを、待っていたのである。
おこのとしては、必死に抵抗すれば、わが身を守り通すこともできたのである。
そこが、生娘でない所以《ゆえん》で、こうなった以上、抵抗する気もしなかった。
どぶという男を、毛ぎらいしていたわけではなかった。
おこのは、どぶの愛撫を、容《い》れた。
したたかに、全身が痙攣《けいれん》する瞬間が過ぎて、どぶは、のろのろと身を起すと、
「すまねえ」
もう一度、わびた。
勝手に犯しておいて、二度も三度も詫《わ》びるのも、おかしなものだったが、そこらあたりが、この男の愛|嬌《きょう》というものであった。
おこのは、なお、しばらく、袂《たもと》で顔をかくして、死んだように、じっとしていた。
「すまねえ。かんべんしておくんなさいよ。お前さんを、味方につけるには、こうするよりほかは、なかったんだ」
おこのは、押し黙って、起き上ると、身づくろいした。
「たのむ、おこのさん、あっしの味方になってくれ」
「……いけ図々しい!」
おこのは、吐き出した。
しかし、その語調には、決して憎悪《ぞうお》はこもっていなかった。
どぶは、にやりとした。
――女は、一度、操をゆるすと、こういうあんばいに、どうしても、男が憎めなくなるものよ。
「たのむ、おこのさん!」
どぶは、頭を下げた。
「くどいよ。いくど、あやまったり、たのんだりしたら、気がすむのさ」
おこのは、がらりと町娘の伝法な口調に変えて、云いかえした。
「じゃ、いいんだな?」
「くどいったら! あたしを、≪もの≫にしちまったじゃないか。さんづけなどしないで、命令すりゃ、いいじゃないか」
「有難てえ」
「また――」
おこのは、どぶの手を、ひっぱたいた。
「じゃ、命令するぜ。お前さん、御次《おつぎ》だから、影抜けはできるのだろう?」
「できますよ」
影抜け、というのは、病気ひきこもりと称して、こっそり、大奥を抜け出すのを、いう。
御次は、遊芸一般に精通していなければならぬから、影抜けして、江戸三座へ出かけて行って、狂言を見物して、おぼえたり、また、役者と茶屋で会って、芸の工夫《くふう》を相談する特権を与えられていたのである。
御次には、玄人《くろうと》はだしの芸達者がたくさんいたのは、そのためであった。
芝居小屋ばかりでなく、常磐津《ときわず》の師匠の許《もと》へ行ったり、中には、講釈師落語家にたのんで、面白い咄《はなし》を学んだりもしたのである。
「お前さん、あっしの代りに、男に化けて、畳屋一行が七つ口を出る時、員数を合せてくれねえか」
「じゃ、あんたは、この大奥に、居残るというんですか?」
「七つ(午後四時)で追い出されたんじゃ、仕事にならねえ。夜の大奥も見物させてもらいてえんでね」
「つかまったら――?」
「他人じゃなくなると、優しい声で、気づかってくれらあ」
まんまと、おこのをひっかけて、身代りにしたどぶは、大奥の天井裏で、ゆっくりと腰を据《す》えた。
――さて、どうなるか、代は、見てのお帰りだあ。
階下では、ちょうど、夕|餉《げ》のあわただしさがあり、その匂《にお》いが、天井裏にも、舞いあがって来ていた。
――一杯、ひっかけたいところだぜ。
どうせ、こっそり、降りて行って、台所に忍び入り、
「お犬」のまねをやらねば、これから一夜中天井裏にひそんでいるのは、堪《た》えられない。
「お犬」というのは、本当の犬のことではない。大奥には、お犬と称《よ》ばれる下級女中がいたのである。
茶所《ちゃどこ》といって、御年寄や≪ちゅうろう≫が、奥に出仕した時、これの着替えから手洗《ちょうず》まで手伝う役があったが、その下に、お犬子供という女中がいたのである。扶持《ふち》ももらわず、分限格式も持たず、員外の女中なので、ちゃんとした食事も与えられて居《お》らず、御年寄や≪ちゅうろう≫の喰《た》べのこした膳《ぜん》を摂《と》るので、お犬と称ばれているのであった。
いわば、その「お犬」になって、どぶは、しのごうというわけであった。
夕食が、おわった頃を見はからって、どぶは、動き出した。
やがて――。
どぶは、興味ある光景を、目撃することになった。
お目見《めみえ》女中の吟味であった。
とある中年寄の部屋で、それは、行われていた。
どぶは、張りじまいの天井板を、二分ばかりずらして、のぞきおろした時、
――おや?
と、小さな双眸《そうぼう》を光らせた。
中年寄の前に、両手をつかえているお目見女中の貌《かお》を、一瞥《いちべつ》した瞬間、どこかで見た、と思ったのである。
皮膚が透《とお》っているように白い、面長中高な美|貌《ぼう》は、ざらにはないものだった。
――はて、どこで見たか?
首をひねってから、あっとなった。
向島で、非人にもてあそばれていた変死の娘――日本橋の油問屋駿河屋の長女お志野と、酷似していたのだ。
――そうか! これは、妹のお園だ。
大奥へは、すでに、一月あまり前に奉公に上っていた、ときいた。
つまり、正式ではなく、この中年寄の部屋子として、預かられていたのだ。
身|許《もと》調べがおわって、いよいよ、この中年寄が願い親となって、お目見出仕することになったのである。
その美貌は、御数寄屋《おすきや》坊主の河内山宗俊の耳にまで達しているくらいだから、願い親となる中年寄には、これをお目見出仕させるについては、相当の野心があるに相違なかった。
あわよくば、お手つき≪ちゅうろう≫にしてやろう、というこんたんであろう。
――こいつは、絶好のめぐりあわせだぜ。
どぶは、舌なめずりしたいところであった。
「では、ただいまより、吟味をいたす」
中年寄は、おごそかな声音で、云った。
「日本橋油問屋駿河屋の次女園儀、明日より、お目見《めみえ》つかまつるにあたり、あらためて、御誓詞いたせ」
「はい」
お園は、両手をつかえたまま、その箇《か》条を、述べた。
ひとつ、ご奉公の儀、実義を第一につかまつり、すこしも、うしろぐらき儀いたすまじく候《そうろう》、よろず御法度《ごはっと》のおもむき堅く相守り申すべき事
ひとつ、お為に対し奉り悪心をもって申合せいたすまじき事
ひとつ、奥方の儀、何事によらず外様へ申すまじき事
ひとつ、女中がたの外、おもてむき願いがましき儀、一切取持ちいたすまじき事、つけたり、御威光をかり私のおごりいたすまじき事
ひとつ、諸|朋輩《ほうばい》中のかげことを申し、あるいは人の中を裂き侯様なる儀つかまつりまじき事
ひとつ、好色がましき儀は申すに及ばず、宿下りの時分も物見遊所へ参るまじき事
ひとつ、面々の心及び候ほどは、行跡をたしなみ申すべき事、つけたり、部屋部屋の火の元念入れ申しつくべき事
「以上の儀、かたくお誓い申し上げまする」
お園は、平伏した。
中年寄は、うなずいて、部屋子に、
「小奉書を――」
と、命じた。
部屋子が、小奉書に、筆硯《ひっけん》を添えて、お園の前に置いた。
お園は、小奉書を二つ折りにして、筆を把《と》った。
上々様|御機嫌能被為成御座《きげんよくござならせられ》御目出度有難候
江戸日本橋駿河屋喜兵衛   女《むすめ》 園
月 日 吉日
そう書いて、さし出した。
中年寄は、受けとって、目を通してから、語気をやわらかなものにすると、
「申しきかせておきまする」
と、云った。
「はい」
「お目見の今宵、新参吟味がありまする。これは、大層|苛酷《かこく》なものゆえ、そなた、必死に、こらえねばなりませぬ。大奥のしきたりゆえ、いたしかたがありませぬ。ふびんながら、その苦しみを受けましょう――」
どうやら、この中年寄は、人の好いところもあるようであった。
天井裏のどぶは、
――新参舞い、というのは、きいたことがあるが、新参打ち、というのもあるのか。
と、いよいよ興味にかられた。
巷間《こうかん》の噂《うわさ》では、大奥では、新参女中が、大|晦日《みそか》に、一糸まとわぬ素裸で、年越しの踊りをやるという。これを新参舞い、といった。
どうせ、世間から全く隔絶された女護ケ島のことである。
意外奇天烈なしきたりがあるに相違ない、とどぶは、想像していたところである。
――新参打ちか。拝見つかまつろうぜ。
中年寄が、お園をつれて行くところへ、どぶも、天井裏からお供をすることにした。
いつぞや、どぶは、大奥のお末をつとめていたことのある女に、
「大奥には、新参舞い、というのがあるそうじゃねえか。新規|召抱《めしかか》えのお末を、すっ裸にして、踊らせるという」
と、訊《たず》ねたことがあった。
すると、その女は、きっ、となって、
「風儀きびしい大奥で、そのようなふしだらな催しが、なされるはずがありません。それは、たぶん、年越しの夜、すこし羽目をはずして、女中衆がさわぐのを、誇大につたえられたのでしょう」
と、あたまから否定してみせたものであった。
大奥のことは、一切口外しないという誓詞をさし出した者としては、否定するのは、当然であったろう。
しかし、どぶは、女護ケ島の中には、市井《しせい》では想像もつかぬ陰惨な虐待が、行われているに相違ない、と思っていた。
女同士というものは、生れた時から、敵なのである。母と娘のあいだでさえも、時として、仇敵《きゅうてき》のごとき睨《にら》みあいが生ずるものである。
女は、男を獲て、自分の巣をつくる本能を与えられているのだ。その巣に於《お》けるかぎり、自分が主導の権をにぎらなければならない。とすれば、他の巣の者を、悪《にく》むのは自明の理である。
いわば、これは、女が神から与えられた業《ごう》というべきである。
その女が、何百人も、男気なしで、一年中くらしている世界で、むざんな虐待が行われていることは、ふしぎではない。むしろ、行われていない、と考える方が、おかしいのだ。
どぶは、中年寄が、お園をつれて、廊下へ出るや、天井裏を移動しはじめた。
長局《ながつぼね》の廊下は、おそろしく長い。
ところどころ一段高くなったり、また、ひくくなったりして、どこまでもつづいていた。
その廊下を、眺《なが》めおろしているのだけでも、市井者には、興味があった。
廊下といっても、御年寄や≪ちゅうろう≫が歩く出仕廊下は別で、これは、一年中ひっそりとして、ほとんど人影もない。
もうひとつ――いま、どぶがその上を移動している広い廊下は、いわば街《まち》の往還と同じであった。
御三の間が、煙草盆《たばこぼん》を持って歩いていたり、お末が玄蕃《げんば》で水をはこんでいたり、さまざまの女中たちが、絶え間なく往来しているのであった。
遠くから、
「お通りなさる」
という声がかかると、それは、御年寄か≪ちゅうろう≫がやって来る合図で、下級女中は、一斉に、ひざまずいた。
なにせ、長廊下は、暗いのであった。
ところどころに金網|燈籠《どうろう》が、ぼうっと、その周辺だけの闇《やみ》を、押しやっているだけであった。
したがって、女中たちは、往来するのに、よほど神径を配っていないと、目上にぶっつかって、挨拶《あいさつ》せずに行き過ぎて、とがめを受けることになる。
げんに、どぶは、移動して行く途中、廊下の隅《すみ》で、礼をしなかった、と怒《おこ》って、御三の間らしい女中が、大きな荷を持ったお末の頬《ほお》へ、容赦なく平手打ちをくらわしているのを、目撃した。
やがて――。
中年寄が、お園をつれて入ったのは、奥御|膳《ぜん》所という、中央に大きな囲炉裏《いろり》の切ってある部屋であった。
そこには、すでに、どうやら新規|召抱《めしかか》えらしい女中(お末)が、下座に十人ばかり、ならんでいた。
部屋子からお目見《めみえ》になるのは、お園一人だけの模様であった。
御膳所の役人である御仲居が、今宵の催しのために、数人ひかえていた。
「お入り――」
声がかかった。
――こいつは、ひょっとすると、三つの勢力を分けている親玉連中の顔が、いっぺんにおがめられるぞ。
天井裏のどぶは、にやりとした。
廊下から、つぎつぎと、その名が呼びあげられはじめたのは、どぶにとって、まことに好都合であった。
「御年寄真砂浦様、お入り」
五十四、五の、不器量な、痩《や》せこけた老女が入って来て、上段中央の座に就《つ》いた。
「御≪ちゅうろう≫おみつの方様、お入り」
はっとするほどの美|貌《ぼう》であるが、薄い唇《くちびる》に酷薄な気質をあらわしている女性《にょしょう》だった。
「御≪ちゅうろう≫お節の方様、お入り」
大柄で、豊満な、餅肌《もちはだ》の女性であった。鼻も唇も、肉が厚く、お手つき≪ちゅうろう≫の貫録充分である。
「御≪ちゅうろう≫お滝の方様、お入り」
――ふむ。これは逸品だぜ。吉原のお職にしたら、江戸中の遊冶郎が狂うぜ。こんな色香のぷんぷん匂っている女は、見たことがねえや。
どぶは、ごくっと、あさましく、生|唾《つば》をのみ込んだ。
お手つき≪ちゅうろう≫は、それぞれの上段に就いた。
いずれも、お互いに口をきこうともせぬ。
御仲居の一人が、すすみ出て、
「新規お召抱えの者どもの吟味、頂|戴《だい》つかまつりまする」
と、云った。
お末十人とお園は、平伏した。
「よい」
御年寄が、許した。
御仲居が、まず、お末たちに、
「脱ぎませ」
と、命じた。
何事も命じられるままにいたすように、と云いふくめられて、この奥御|膳《ぜん》所へ、つれて来られたお末たちであった。
しかし、突然、
「脱ぎませ」
と命じられて、お末たちは、顔色を変えた。いずれも、十七、八の娘たちなのであった。
「脱ぎませ!」
御仲居は、語気鋭く、云った。
お末たちは、やむなく、立ち上ると、帯を解いた。
「湯巻一枚になりませ」
御仲居の命令は、冷酷であった。
お末たちは、顫《ふる》えた。
「はよう、いたせ!」
――このようなことなら、御奉公にあがるのではなかった。
そう悔いた者もいたろう。
天井裏からのぞきおろすどぶにとっては、こんな男|冥利《みょうり》につきる目の栄養はなかった。
――やってもらおうぜ。やっぱり、新参舞いは、やっていやがるのだ。
どぶは、小さな目を皿《さら》にした。
お末たちにとっては、生れてはじめての拷問《ごうもん》であった。泪《なみだ》ぐむ者もあった。
……ついに。
娘たちは、上着も長|襦袢《じゅばん》も、肌|襦袢《じゅばん》も、脱ぎすてた。
鬱金《うこん》桃色の湯巻をまとっている者もいれば、白木綿を腰に巻きつけている者もいた。
ふっくらと肥えている者、乳房がぺたんこの者、浅黒い肌、ぽってりとした白い肌。
――へへ、どれも、まだ、男の手にさわられたことのねえ、生娘だぜ。
どぶは、思わず、舌なめずりした。
御仲居が、それぞれに、手|拭《ぬぐ》いを渡して、かぶらせると、
「そなたらが、習いおぼえた踊りを、気ままに踊ってみせるのじゃ」
と、命じた。
控えの御仲居たちが、手拍子をとりはじめた。
素裸のお末たちは、羞恥《しゅうち》と恐怖で、身をすくめて、なかなか動かぬ。
「さ――踊るのじゃ!」
御仲居の叱咤《しった》で、勝気な一人が、手振り足踏み、踊り出した。
「やあれ、新参舞いを、見しゃいなあ……、新参舞いを見しゃいなあ……」
御仲居たちは、はやしたてた。
一人が踊りはじめると、お末たちは、しかたなく、おのおの習いおぼえた踊りをやりはじめた。
湯巻いちまいで踊る光景は、まことに、みだらであるとともに、おかしくもあった。
三人の≪ちゅうろう≫は、手を口にあてて、笑った。
どぶは、眺《なが》めているうちに、生娘のはだかを、うれしがって見ているだけでは、すまされなくなった。
――こん畜生! 可哀《かわい》そうじゃねえか。
義憤をおぼえざるを得なくなった。
十一
お末たちが、やっと、拷《ごう》問から解放された時、どぶは、無性やたら腹が立って来ていた。
――こんなべらぼうな虐《いじ》めかたって、あるものけえ! 生娘じゃねえか。男を十人も知っているあばずれなら、湯巻までも取っちまうだろうが、男の手にさわられたこともねえ娘たちに、こんなはずかしめを与えて、畜生めが――これが、大奥か! 生地獄じゃねえか。
おもしろい趣向だ、とよろこんでいたどぶが、いつの間にやら、正義漢になっていた。
御仲居は、お末を去らせると、御年寄に向って、
「お目見《めみえ》の吟味を、お願いつかまつります」
と、申し出た。
「よい」
御年寄は、うなずいた。
「御|挨拶《あいさつ》を、いたしませ」
うながされて、お園は、両手をつかえると、
「上々さま、ごきげんよく、ござならせられ、おんめでたく、ありがたく存じまする」
と述べた。
「お脱ぎませ」
お園は、云われて、すでに覚悟ができている様子で、帯を解き、綸子《りんず》の上着を、肩からすべり落した。
白羽二重のかさねも、肌襦袢《はだじゅばん》とともに脱ぎすて、その場へ坐《すわ》った。
「さだめにより、湯巻も――」
御仲居が、云った。
「こ、これも……」
お園は、両手で胸の隆起を掩《おお》いながら、哀願のまなざしを、御年寄に向けた。
お園の肌は、白磁のように、肌理《きめ》こまかななめらかさで、やや冷たく、美しかった。
「さだめでありますれば――」
御仲居は、ひややかに、云った。
お園は、俯《うつ》向いた。
「はよう、しませ」
「…………」
「はよう、しませぬか!」
中年寄が、せきたてた。
お園は、あえいだ。しかし、この部屋に、救い手はいなかった。全員が、敵であった。
中年寄が、御仲居に、目くばせした。
御仲居は、お園の湯巻に、手をかけた。
「あ!」
お園は、こばもうとした。
――おれが、ここにいるんだが!
どぶは、天井裏で、じだんだ踏む焦躁《しょうそう》にかられていた。
このういういしい、花もはじらう生娘を、どうして、こう虐《いじ》めなければならないのか。
――たすけてやりてえ!
しかし、どうにもならなかった。
お園は、ついに、湯巻を剥《は》ぎとられ、一糸まとわぬ全裸にされた。
前をかくして、俯伏そうとするのを、
「さだめでありますぞ!」
と、中年寄が、叱咤《しった》した。
三人の御仲居が、お園に迫った。
十二
「お、おゆるしを!」
お園は、必死で、三人の御仲居が起き上らせようとするのを、こばんで、あらがった。
「さだめじゃ!」
突如、御年寄が、鋭く叫んだ。
その一言が、お園の抵抗を、止《や》めさせた。
ぐうっと、仰向かされたお園は、死んだように、目蓋《まぶた》を閉じた。
と――。
二人の御仲居の顔が、お園の胸へ、寄せられた。
――ああ! 止《よ》しやがれ!
どぶは、心の中で、怒鳴《どな》った。
「あっ! あっ!」
お園は、発作を起して、烈《はげ》しく、かぶりを振った。
ふたつの乳房が、御仲居たちの口に吸われたのである。
白い裸身が、死ぬほどの羞恥《しゅうち》をあふらせて、もがいた。
そのあわれなけしきを、一人の御年寄と三人のお手つき≪ちゅうろう≫は、きわめて、冷やかに、上段から、見下《みおろ》していた。
御仲居たちが、顔を、乳房からあげた時、お園は、なかば失神していた。
中年寄が、三本の≪こより≫を持って、上段に、進んだ。
おみつの方、お節の方、お滝の方が、順々に、その≪こより≫を引いて、その端を、ひらいてみた。
「ほほほ……。わたくしが、当りました」
お滝の方が、声をあげた。
つまり、これは、セリ市だったのである。
美しい娘であればあるほど、お手つき≪ちゅうろう≫たちは、欲《ほ》しがるのであった。
お手つき≪ちゅうろう≫たちは、いずれ、三十になれば、将軍家に御褥《おしとね》をおことわりしなければならぬ。そうなると、忽《たちま》ちにして、おのが権勢は、落ちてしまう。
そこで、自分の部屋に、美しい娘を飼っておき、やがて、折を見はからって、将軍家つきか御台所つきとして、さし出す。
将軍家の目にとまって、お手つきとなれば、これは、自分の強力な味方となってくれる。
美しい娘を、自分の後継者にするわけであった。
お滝の方としては、ねがってもない幸運の籤《くじ》を引きあてた、といえる。
おみつの方とお節の方は、露骨にイヤな顔をした。
「お立ち」
声がかかって、まず御年寄が、吟味を了えて、立ち上った。
三人の≪ちゅうろう≫も、つぎつぎと出て行った。
お園は、ようやく意識をとりもどしたが、あまりの悲しさで、わっと慟哭《どうこく》しはじめた。
中年寄も御仲居たちも、こうした場面には、馴《な》れきっていて、能面のように、冷たく、表情を動かさなかった。
中年寄が、お滝の方の下されものである金子を、三方から取って、ふところに入れた。
十三
「さ――もう、泣き止《や》めるがよい」
中年寄から云われて、お園は、のろのろと起き上り、湯巻をつけ、肌襦袢《はだじゅばん》をまとった。
お園が、衣裳《いしょう》をつけおわるのを待ってから、中年寄は、
「そなたも、誓詞をさし上げて、ご奉公いたした上からは、大奥のさだめ、しきたりに、従わねばなりませぬ。……よいな。もういやとは申せぬのじゃ」
「…………」
「これ――返辞をせぬか?」
「は、はい」
中年寄は、それから、くどくどと、そのしきたりについて、云いきかせはじめた。
天井裏で、きいているどぶは、あまりの面倒くさい日常作法に、うんざりしてしまった。
――あきれけえったものだぜ。糞《くそ》をしたあとのぬぐい紙の数まできめてやがるとは、全く以《もっ》て、正気の沙汰《さた》じゃねえや。
ともあれ、現実に、こういう世界が、存在していたのだ。
程なく――。
お滝の方の部屋から、お園の迎いが来た。
お園が、挨拶《あいさつ》して出て行こうとすると、中年寄は、
「お廊下を、よく注意いたすよう――。お滝の方のお部屋は、一番奥にありますゆえ、途中が、難所になります」
と、忠告した。
つまり、おみつの方、お節の方の部屋の前の廊下を、通らねばならぬ。
当然、いやがらせの仕打ちがあるものと、覚悟しなければならなかった。
はたして――。
お園は、とあるくらがりから、にょろにょろと匍《は》い出て来た蛇《へび》に、悲鳴をあげた。
蛇は、つくりものであった。部屋の中から、糸でひっぱっていたのである。
また、とある部屋の中から、突然、手裏剣が投じられて、お園の眼前を、掠《かす》めた。
さらに――。
おみつの方の部屋の前の廊下には、無数の縫針がちらばって居《お》り、それを、一人の部屋子が、わざと、ゆっくりゆっくり、ひろっていた。
お園は、縫針の上を、通るわけには、いかず、立往生した。
天井裏から、ついて行くどぶは、
――やれやれ! やっぱり、想像通りの女のあさましさ、冷酷さ、いやらしさが、渦をまいていやがる。
――流石《さすが》のおれも、女という生きものが、いやになったぜ。
どぶは、反吐《へど》を催しそうなくらい、女の性《さが》のおそろしさを、見せつけられた。
お園が、お滝の方の部屋に辿《たど》りついたのは、奥御|膳《ぜん》所を出て、半刻以上の時間がかかった。
どぶは、辛抱づよく、ついて行ったが、ついに、音《ね》をあげた。
――とてもじゃねえが、つきあいきれねえ。
お鈴廊下
お園は、お滝の方へ挨拶《あいさつ》に行ったが、その居間の次のふすま間にひかえさせられ、襖《ふすま》をひらくことは、ゆるされなかった。
「今宵は、やすむがよい」
お滝の方は、云ったが、これは、いたわりではなかった。
襖をひらかせない理由があった。
男をひきずり込んでいたのである。
どぶが、ちゃんと、天井裏から目撃していた。
――この女、全身から色香をこぼしてやがる淫《いん》乱だから、月に一、二度の将軍家との≪あれ≫じゃ、満足できやしねえのだ。
その男は、日本橋・大丸呉服店の二番番頭であった。
この日、表使いが、大丸呉服店へ出かけて行き、御台所の夏の衣類――羽二重、絽《ろ》、縮緬《ちりめん》、透綾《すきや》、越後|縮《ちぢみ》など、一式の誂《あつら》え品を受領して、帰って来ていた。
その長持の中に、伊助という二番番頭が、ひそんでいたのである。
御広敷玄関の七つ口には、綾戸番という役がいて、秤《はかり》を据えて、長持や葛籠《つづら》の目方を調べることは、さきに述べた。
目方が、十貫目以上になると蓋《ふた》をひらいて、中を改めるのが、さだめになっていた。
正徳年間に、御年寄の江島が、役者の生島新五郎を、長持にひそませて、長|局《つぼね》へひきずり込んだ事件があって以来、その掟《おきて》が設けられたのである。
ところが、時代が下って、文政頃からは、これは、ふたたび、形式だけになってしまった。貫目改めなど、することもなく、据えられた秤は、まるで飾りものになってしまったのである。
したがって、江島生島の密会にならう≪ちゅうろう≫たちは、あとを絶たないのであった。それにしても――。
月に一度や二度は、将軍家を迎え入れる寝《しん》所で、はばかりもなく、呉服店の番頭と、乳くり合うとは、お滝の方は、まことに大胆不敵な女性というべきであった。
緋縮緬《ひちりめん》いちまいになって、臥牀《ふしど》に仰臥したお滝の方は、まぶたを閉じて、待っている。
それに、にじり寄った番頭伊助が、いかにも貴《とうと》い品をとりあつかう仕草で、おそるおそる、その胸をはだけさせて、顔を近寄せる。
どぶは、そのあたりから、すでに、のぞきおろしたのである。
お滝の方は、男に乳首をくわえられるや、たちまち、官能に火のついた身もだえを、はじめたものであった。
のぞきおろすどぶも、こんな美しい肌《はだ》は、はじめてであった。
「ああ……、ああ……、あっ、あっ……」
次の間には、女中たちがひかえているにもかかわらず、お滝の方は、快楽の波にもみ込まれるままに、喘《あえ》ぎをはなって、四|肢《し》を、くねらせた。
緋縮緬が、肌をすべって、みるみる、下|肚《はら》は、むき出しになった。
つきたての餅《もち》のような、ふっくらとした、柔かな白さは、無類の美しさであった。
番頭伊助の片手が、その太|腿《もも》から、そろそろと、股《こ》間へ、匍《は》い入った。
どぶとしては、その半|刻《とき》あまりは、異常な忍耐力を必要とした。
人一倍好色な男が、のぞきおろすことだけで、じっと、うずくまりつづけなければならなかったのである。
全くやりきれなかった。
――こん畜生! いい加減で、幕にしやがれ!
どぶは、いくど胸の裡《うち》で、叫んだか知れなかった。
ようやく、情痴の光景は、おわった。
死んだようにじっと動かぬお滝の方の、あられもない裸身を、番頭伊助が、次の間から、湯|桶《おけ》を持参して、ていねいに、くまなく拭《ふ》くのを見|下《おろ》しながら、どぶは、
――あの野郎、いまに、頸《くび》を締めあげて、生きた心地もねえように、してくれるぞ!
と、無性に腹を立てていた。
やがて――。
「いま、なん刻であろう?」
お滝の方が、訊《たず》ねた。
「亥刻《いのこく》(午後九時)を過ぎた頃でございまする」
伊助が、こたえた。
「去《い》んでもらわねばならぬの」
お滝の方は、命じた。
「はい」
「いつものように、ゴサイの詰所へ下って、夜が明けてから、去《い》ぬがよい」
「はい。かしこまりましてございます」
御年寄、≪ちゅうろう≫に使われているゴサイという下僕は、大奥に於《お》ける最も身分のひくい、唯一の男どもであるが、使われている旦那《だんな》(女主人)の秘密は、いかなることでも、かたく守る。もっとも、その代り、市中へ買いものに出ると、必ずピンはねをするし、物を盗むのを仕事にしているといわれるぐらい、タチのわるい手輩であった。
――ゴサイの詰所まで、どうやって、この番頭を行かせるのだ?
どぶは、首をかしげた。
その詰所は、七つ口の勾欄《てすり》のむこうにある。
表と奥は、高い塀《へい》で仕切られていて、いくつも木戸はあるが、それは、海老錠《えびじょう》をかけられ、かたく封印されている。火事などの非常の場合のほかは、開かれることはない。この開閉は、添番、伊賀者の役目である。
いかに、権勢を持つお手つき≪ちゅうろう≫といえども、その木戸を開かせることは、許されぬ。
とすれば、七つ口を抜け出るよりほかに方法はないわけであった。
七つ口の締戸番を買収してあるとしても、長|局《つぼね》の長い廊下を、ひそかに、通りすぎさせることは、きわめてむつかしい、と思われる。
――-どうしやがるか?
どぶは、興味を抱《いだ》いた。
お滝の方は、手をたたいた。
すぐに、次の間から、部屋子が、衣裳函《いしょうばこ》を持参した。
――あっ! なるほど!
どぶは、合点《がてん》した。
お滝の方は、伊助を女装させて、長|局《つぼね》の長廊下を通りすぎさせようとしているのであった。
廊下は、ところどころに、金網|燈籠《どうろう》が据えてあるだけで、うす暗いのだ。
明るいところなら、たちまち露見する女装も、その暗さが守ってくれる。
――ひとつ、ばらして、大騒動を起させてやったら、こいつは、ちょいとした見ものだろうが……。
どぶは、なまっ白い呉服屋の番頭が、みるみる、女に化けるのを見|下《おろ》しながら、呟《つぶや》いたことだった。
鬘《かつら》も、ちゃんと用意されてあった。
――なるほど、これなら、夜目遠目じゃ、野郎とは、わからねえや。
「では――」
お滝の方は、伊助をともなって、長廊下へ出た。
もはや、この時刻では、長廊下に人影はなかった。
しかし、下級女中の往還である向う部屋をひかえた廊下を通るのは、避けなければならなかった。縁座敷の前面の廊下から、そっと、出仕廊下へ抜け出て、あたりに気をくばりつつ、進んだ。
やがて、お鈴廊下へ至った。
お鈴廊下とは、将軍家が表から奥へ入って通る廊下であった。
鈴のついた紐《ひも》を張っているので、この名称がある。この紐を、裏から引いて、鈴を鳴らし、将軍家が今宵|入《はい》ることを告げるのである。奥から引いて、鈴を鳴らせば、将軍家が表へ出ることを告げている。
この合図以外に、紐を引くことは、絶対に禁じられているのであった。
もし万が一にも、紐にふれて、鈴を鳴らしたならば、長局全員を起してしまうことになる。
いま――。
お滝の方が伊助をつれて、忍び歩いているのは、非常用の下のお鈴廊下であったが、将軍家が平常通る上のお鈴廊下とは、夜間なので、紐がつないであった。
紐の長さは、一町ほどにもなっていた。
「気をつけるがよい」
お滝の方は、いくども、伊助に注意した。
鈴の紐は、太い萌黄《もえぎ》の打紐で、かるくふれただけでも、鳴る仕掛になっていた。
伊助も、お滝の方に注意されるまでもなく、細心の注意をはらっていた。
ようやく、お鈴廊下がおわりに近づいた。
二人がほっとした――とたんであった。
突然、鈴が鳴りはじめたのである。
仰天した二人は、その場に、立ちすくんだ。お滝の方は、伊助が紐にふれたと思い、伊助の方は、お滝の方が、ふれたものと思った。
「伊助!」
「お、お方様っ!」
二人は、抱きあった。
夜の静寂《しじま》は、たちまち、破られた。
鳴るべからざる鈴が、鳴ったのである。
数十人の女中が、お鈴廊下へ走り出てみれば、そこに、あろうことか、女装の町人をつれたお手つき≪ちゅうろう≫お滝の方が、立ちすくんでいた。
――さあ、どうなるか?
どぶにとって、これほど興味|津々《しんしん》たる見世物は、またとなかった。
鈴が鳴って、二人が仰天したところへ第一番にかけつけたのは、例の御坊主円喜であった。
その時、奇怪であったのは、円喜の態度であった。
円喜は、お滝の方をみとめ、そして、そのつれている女中を視《み》た。すぐに、それが女装の町人であることを、看《み》て取ったに相違なかった。
しかし、円喜は、一言も口にせず、萌黄《もえぎ》の打|紐《ひも》のお鈴紐へ視線を移して、動かなかった。
当然、この二人が、お鈴紐へふれたことを、とがめるべきであろうが、円喜は、とがめようとはしなかった。
どぶは、お鈴紐を見まもる円喜の双|眸《ぼう》が、なぜか、異様に光っているのを、みとめた。心中には、なにか深い、複雑な感慨が、波立っているような表情であった。
しかし――。
女中の群が、そこへ殺到して来るや、円喜は、もとの冷たい無表情にもどった。
がやがやとさわぎたてる中で、お滝の方と番頭伊助は、痴呆《ちほう》のように、立ちすくんでいるばかりであった。
女中たちは、それが女装の町人であるのを見|出《いだ》して、驚くとともに、なんともいえぬ残忍な快感をおぼえた様子であった。
いやしくも、お手つき≪ちゅうろう≫ともあろう身が、あろうことか、男をひき入れて密会していたのである。
前代未聞の裏切り行為であった。
こういう場合の第三者の女は、まことに冷酷なものである。
この露見に、声をたてて、悦《よろこ》びたい衝動を抑《おさ》えがたい模様であった。
やがて――。
御年寄真砂浦が、しずしずと現れた。
「さわがしい。しずまらぬか!」
鶴《つる》の一声で、お鈴廊下は、しいんとなった。
真砂浦は、お滝の方の前へ進んだ。
御年寄は、表の老中格である。たとえ、相手がお手つき≪ちゅうろう≫であっても、態度は上であった。
「これは、なんの振舞いでありましょうか?」
鋭く、とがめた。
「わ、わたくしは……、ふ、ふれませぬ」
お滝の方は、かぶりを振った。
「ふれぬのに、どうして、お鈴が鳴りましたぞ?」
「し、しらぬことです! わたくしは、なにも、しらぬ! ……わたくしは、紐には、ふ、ふれませぬ!」
お滝の方は、悲痛な声をはりあげると、へたへたと、その場へ坐《すわ》り込んだ。
真砂浦は、つと、迫るや、お滝の方のうしろに、坐り込んだ番頭伊助に、
「おもてを上げい!」
と命じた。
伊助は、平伏したなり、動こうとせぬ。いや、恐怖のために、動こうにも、全身がこわばって、動けないのだ。
とたん――。
真砂浦は、すっと猿臂《えんぴ》をのばすや、その鬘《かつら》をひっつかんで、すぱっと、抜きとった。
「ああっ!」
伊助は、悲鳴をあげて、廊下へ、べたっとへばりついてしまった。
「お方《かた》!」
真砂浦は、お滝の方の膝《ひざ》の前へ、鬘を投げつけると、
「この申しひらきを、なんとなさる?」
と、きめつけた。
申しひらきも、なにも、あまたの女中衆の面前で、密通の証拠を、つかみ出されてしまったのである。
お滝の方は、この場合、わっと泣き出すよりほかに、手はなかった。
――情状酌量の余地なし、ってえ次第か。それにしても、老女ならば、この場をとりつくろってやって、あとで裁《さば》きをつけるのが、度量というものだろうが、いやはや、花も実もねえ非情ぶりだわい。
どぶは、あきれた。
「申しひらきは、できぬのじゃな?」
真砂浦は、しつっこく、念を押してから、うしろの女中たちに、
「ただいまより、≪ちゅうろう≫お滝の方を、罪人として取扱うゆえ、左様心得るがよい」
と、申し渡した。
女中たちは、平伏した。
「円喜――」
真砂浦は、御坊主に、
「お滝の方を引きたてい」
と、命じた。
円喜は黙って立つと、まず、お滝の方から、打掛を剥《は》ぎとった。
次に、懐剣を抜いて、その≪おすべらかし≫を、切り取った。
伊助には、縄《なわ》が打たれた。
円喜は、お滝の方をともなって、奥へ進んで行った。
格子《こうし》がこいの座敷|牢《ろう》が、長|局《つぼね》には設けてあった。気が狂った女中が、入れられる場合が多く、囚徒として、ここにとじこめられる者は、ほとんどいなかった。
円喜は、その座敷牢へ、お滝の方を入れると、
「ご運がわるかったと、おあきらめのほどを――」
と、云いのこした。
たしかに、運がわるかったのである。それにしても、紐《ひも》には、絶対にふれなかったにも拘《かかわ》らず、鈴は鳴ったのである。
何者かが、お滝の方をおとし入れるために、鈴を鳴らしたとしか、考えられなかった。
すくなくとも、どぶは、そう考えざるを得なかった。
どぶは、それから、なお、一昼夜、大奥にひそんで、お滝の方が裁《さば》きを受けるのを、見とどけておいて、城外へ脱出して来た。
お滝の方は、永の暇《いとま》をたまわって、実家――小普講組小村仙左衛門へ、下げられた。父親の仙左衛門の手で、討たせるためであった。
名目は、宿下りの際、乱心したため、やむなく、父親の手で討ちはたした、ということにしたのである。
すべて、事件は、世間に知られないように、巧妙に処理された次第である。
どぶは、影抜けしたおこのが、大奥へもどって来るのを待って、再び、舞台のある広間で密会すると、味方になってくれることをたしかめた。
おこのは、どぶが、大胆不敵にも、幾日も大奥にひそんでいるのに、あきれながらも、どうやら、その度胸ぶりに、惹《ひ》かれた模様で、納戸で自分からすすんで、からだをひらいた。
肚《はら》をきめると、流石《さすが》は岡っ引の娘であった。
どぶの愛撫に応《こた》えて、声までたてて身もだえた。
そのあとで、
「こんどは、いつ、この大奥へ忍び入るのかえ?」
と、訊《たず》ねたくらいであった。
「近いうちに、必ず、見参――。へへへ、おめえという情婦《いろ》が、待っていてくれる、と思えば、心も身も、はずむぜ。こんど会うまでに、いろいろと調べておいてもらいてえな。お鈴廊下の鈴を鳴らしたのは、お滝の方をおとし入れる≪わな≫だったに相違ねえ。その下手人をとっつかまえると、これまで、何人かの女中が、変死した理由も、はっきり判《わか》ると、あっしは、にらんでいるんだ」
「大奥というところは、まるで、もつれ糸のように、さまざまな憎しみや怨《うら》みが、からみあっていて、解くことはむつかしいのですよ。親分とわたしと、たった二人で、解決しようなんて、とても、できるものじゃありません」
「そいつを、ひとつ、解いてみるのが、岡っ引の腕というものじゃねえか」
「市井のことではないのですよ。親分自身が、大手を振って歩きまわれるわけでなし、御次《おつぎ》のわたしも、きいてみる範囲は、知れているじゃありませんか。とても、無理な相談です」
「おめえも、江戸一番とうたわれた源十郎親分の娘じゃねえか。そこいらの女中とは、見る目も、かぐ鼻もちがっているはずだ。……たのむ!」
どぶは、頭を下げた。
「しようがないねえ。女って、どうして肌《はだ》身を許した男には、弱いのかねえ」
おこのは、笑った。どうやら、女岡っ引になる決心をしたらしい。
どぶは、内心にやりとした。
次の日――。
どぶは、備前屋一行にまじって、江戸城を脱出した。
坂下御門をぬけ出ると、空気が甘く、うまかった。
黒髪部屋
身ひとつを、置きどころなき
胸のうち
一重の心、八重に解き、
と来た
≪やぞう≫をきめたどぶが、町小路家の裏門をくぐって来た。
指切り、髪切り、茶断ちに、
願かけ、
あっちこっちの神様へ、
お世話をかけて、ぬば玉の、
恋の闇《やみ》路じゃないかいな
若葉の匂《にお》う明るい裏庭で、洗濯物を物干竿に通していた小夜が、
「今朝は、陽気なんですね、親分――」
と、笑った。
「百鬼夜行の生地獄から、戻って来ると、お小夜さんのういういしさに、柏手《かしわで》を打ちたくならあ」
「どこへ行っていたんですか?」
「にょご、にょご、女護の、女護ケ島だあ。……女ってえ生きものは、男っ気のねえ世界にとじこめると、いやはや、さてはや、なんとも――しまつにおえねえ化け物になりやがるんだ。ろくろ首や三ツ目の方が、まだ愛敬《あいきょう》があらあ。御殿女中は、虫も殺さぬ面《つら》をして、性根が化けてやがるから、たまらねえ」
「親分!」
小夜は、目をみはって、
「大奥へ、忍び込んでいたのですか?」
「へへ、忍び込む時ゃ、胸をわくわくさせていたんだが、脱《ぬ》け出して来た時ゃ、町の空気が澄みきって、甘かったねえ。女の化けるのは、恋をした場合だけに限ってもらいてえや。≪かくす想《おも》いも人目について、愚痴を幽霊やせ姿≫、と来りゃ、いじらしいが、女同士が憎みあって、化けやがると、天井裏から見|下《おろ》しただけで、反吐《へど》が出る」
「女がきらいになりましたか、親分?」
「天井裏にひそんでいる間は、女なんて、もうまっぴらごめん、七里けっぱい、たくさんだ、と思ったんだが……、こうして、赤い襷《たすき》をかけたお小夜さんを眺めると、へへ……やっぱり、わるかアねえ」
どぶは、左門の居間の前へゆくと、障子ごしに、
「へい、只《ただ》今、下城つかまつりました」
と、告げた。
「入《はい》れ」
「へい」
左門は、珍しく、横臥していた。
「どうかなさいましたので――?」
「風邪《かぜ》をひいて居《お》る」
「殿様でも……?」
「人間だな」
左門は、やおら身を起した。
「長|局《つぼね》で、いろいろ、目撃したであろう?」
「へえ、それアもう……、大変なところでございますねえ」
どぶは、逐一報告しはじめた。
左門は、相変らず、相槌《あいづち》も打たずに、きいていたが、お滝の方がお鈴廊下を通りかかって、鈴が鳴って、女中たちに密会を見つけられたくだりで、
「第一番にかけつけたのは、何者であったな?」
と、訊《たず》ねた。
「円喜という御坊主が、馳《は》せつけやした」
「お前を、ゴサイの詰所へともなって、霊気のことを問うた女だな」
「大奥の主《ぬし》みてえな存在だそうで……。備前屋の話では、この婆《ばあ》さんに、ひと睨《にら》みされたら、若い女中は生命が縮むそうでございます」
「その際、円喜は、どのような態度を示したか?」
「お滝の方に、どうして鈴が鳴ったか、問おうともせずに、じいっと、紐《ひも》を見つめて居《お》りやした。どうも、ただの様子じゃなかった、と思えます」
左門は、しばらく沈黙を置いてから、
「これで、三つの勢力のうち、ひとつが消えたわけだな」
と、独語するように、云った。
「左様で――」
「二つの勢力がのこっている限り、まだ、異変は、起るであろうな?」
「と仰言《おっしゃ》いますと、おみつの方か、お節の方か、どっちかが、お滝の方をワナにかけた、とお考えになりますので――?」
「まだ、判《わか》らぬ。……最も調べにくい世界のことだ。お前には、また、忍び込んでもらわねばなるまい」
「乗りかかった船でございます」
「お前の好色が、すこしは減じるかも知れぬ……女ばかりの世界を見せつけられて、女がきらいになる、というのも皮肉な話だが――」
「実際、もう、少々女ぎらいになって居ります」
「女は、良人《おっと》を得て、子を産み、自分の巣をつくる本能を与えられて居る。大奥では、その巣をつくることを許されて居らぬ。巣づくりを禁じられた女どもが何百人もうごめいて居れば、当然、陰惨な空気になろう。女どもの罪ではない。大奥というものをつくった者の罪だな。むしろ御殿女中は、あわれな犠牲者と申せる」
「ヘえ……」
「新参打ち、などという光景を見せつけられて、流石《さすが》の、どぶも、あきれたであろうが、その老女や≪ちゅうろう≫にしても、ただの≪かみさん≫になっていれば、良人を愛し、子を愛する女子かも知れぬ。……奥向《おくむき》というしくみが、まちがっているのだ」
「全くその通りでございます」
「平等であるべきものが、平等でないしくみになると、想像もつかぬような残忍酷薄な事件も起ろう。……ま、せいぜい、目撃して参るがよい」
「かしこまりました」
どぶが、立ちかけると、左門は、思い出したように、
「申し忘れていたが、大奥には、おみつ、お節、お滝――三人のお手つきのほかに、この三人の陰謀と、ある騒動によって、勢力圏外に置かれたお手つき≪ちゅうろう≫が、一人いる。おえんの方、という。この存在も、おぼえておくがよい」
「へい」
どぶは、その名を、脳裡に刻んだ。
どぶは、再び、備前屋一行にまじって、大奥へ忍び込む前に、本所の源十郎親分をたずねた。
末娘のおこのを、手ごめにしたことを、正直に告げて、詫《わ》びておくためであった。
云いにくいことであったが、同じ岡っ引として、仁義をきっておかねばならぬ。
源十郎は、まだ隠居したわけではなかったが、もうほとんど十手を握らず、長女の婿《むこ》にまかせて、のんびりとくらしていた。
どぶが、挨拶《あいさつ》してから、
「実は、親分に火のように怒《おこ》られるのを覚悟で、今日は、やって来やした」
と、云い出すと、源十郎は笑って、
「きいたよ」
「え?」
「おこののことだろう」
「おこのさんが、影抜けして、この家へ寄りましたかい?」
どぶは、びっくりして、訊《たず》ねた。
「寄ったよ。……その時、来年奉公を終えたら、亭主を持ちたい、と云った」
「…………」
「わしにさがしてくれと、たのむのかと思っていたら、びっくりさせやがる。ちゃんと、きめてある、と云うのだ。それが、お前さんだった」
「…………」
「わしが、どうしてどぶを亭主にしてえのだ、とたずねると、おこのの奴《やつ》、お前さんが畳屋になって大奥へやって来た、とこたえたぜ。……お前さんが、畳屋になってもぐり込んだとなりゃ、これは、町小路左門様の命令に相違ねえ。そこで、お前さんは、手段をえらばず、女中の一人を味方にすることにした。となりゃ、およその想像が、つくというものじゃねえか」
源十郎は、笑った。
流石《さすが》は、名岡っ引とうたわれた総元締の親分であった。
「親分――すまねえ」
どぶは、頭を下げた。
「わしが、もし、お前さんでも、親しい知りあいが女中になっているのを知ったら、やっぱり、同じ手段をとったろうな。……おこのは≪あばずれ≫だが、こういう場合は、役に立つ。せいぜい、使ってくれ。岡っ引の親爺《おやじ》としては、こう云うよりほかはねえ」
「有難え。……親分に、そう云って頂くと、あっしも、気が楽になった。おこのさんを使わせてもらいます」
「ああ、遠慮することはねえ。……それにしても、町小路の殿様も、お前さんを、大奥へもぐり込ませるとは、思いきったことをなさるものだね」
「おかげで、こっちは、生命《いのち》がけでさあ」
「やり甲斐《がい》はあるだろう。岡っ引|冥利《みょうり》につきるというものだ」
どぶとしては、あたまから怒鳴《どな》りつけられるものと覚悟していたのである。それを、逆にはげまされて、いささか妙な気分であった。
おこのを女房にする、と約束することは、どうも気がすすまなかったが……。
どぶは、再び畳屋の職人に化けて、大奥へ入った。
しかし、こんどは、畳をひっかついで、長局をうろうろするわけには、いかなかった。
御台所の住む奥の畳替えを、備前屋に命じられたからである。
奥の何百畳という畳は、すでに、昨年十二月はじめに、とり替えられ、古い方は、梅林門内の通り道にならんだ畳蔵に、入れてあった。
つまり、畳屋は、春になって、畳蔵の古いのを、新しいのと、とり替えておくのであった。
したがって、備前屋一行は、畳蔵の裏手の仕事場で働くことになり、長局の方へは、入らなかったのである。
――こいつは、どうも、面白くねえな。
どぶは、午前中は、その仕事場におとなしくしていたが、午《ひる》近くなると、苛《いら》立って来た。
――こんども、ひとつ、円喜をつかまえてくれるか。
やがて、午になると、御坊主円喜が、五、六人の小僧に、御台所の下されもの、と称して、卵焼きを、お茶と一緒に持たせて、仕事場へ現れた。
御台所の坐《すわ》る畳は、特に吟味しておかなければならぬので、円喜は、一枚一枚を丹《たん》念に見てまわった。
どぶが、なるべく円喜の目にとまるような場所にいると、はたして、その前に来て、
「弥次郎と申しましたね?」
と、声をかけて来た。
「へえ」
「ちょっと、ついて参るがよい」
「へえ――」
円喜は、どぶを、畳蔵へともなった。
御年寄、≪ちゅうろう≫、中年寄など、それぞれの名が札に記されて、長局の畳が、無数に、整然とならんでいた。
「よく、見まわすがよい」
「へえ――」
「どの畳から、霊気を感じるか、それを、ききましょうぞ」
――おれを、ためしやがるんだな。
どぶは、内心にやりとした。
「てまえのカンなど、まことに、あてにはならぬものでございます」
「あたらずともよい。……ともかく、お前が、なにかを感ずる畳が、あるかどうか、まわってみよ」
「かしこまりました」
どぶは、殊勝な面持をつくって、畳の山へ寄って行った。
この前、大奥へやって来た時、お節の方の部屋子が、二の側の納《なん》戸で、自害をしているのだ。
その部屋子の倒れた畳が、新しいのと、とり替えられて、ここにあるはずである。
どぶは、お節の方の部屋の分に、近づいた。
「お役人様、この畳が、なんとなく、てまえには、どうも……」
云《い》いかけると、円喜は、冷やかに、
「それは、先日、お節の方様の部屋子で、自害した咲がお横たわっていた畳じゃ。お前も存じて居《お》ろう」
円喜は、どの部屋のでもない古い畳が積まれた一角を、指さした。
「あちらの畳は、どうじゃな?」
――そうか。この坊主め、ずっと以前の異変を、おれに、嗅《か》がせようとしてやがるんだ。
どぶは、その古畳の山へ、近づいた。
とたん――。
どぶは、ひくく呻《うめ》いて、首を肩へめり込ませると、その場へ、へたへたと坐《すわ》り込んだ。
ついでに、念仏でもとなえてやろうか、と思ったが、あまりわざとらしいので、そのまま、首をたれた。
「どうしましたぞ?」
円喜に、鋭く声をかけられて、どぶは、はっとおのれをとりもどしたように顔をあげ、そこで、はじめて、ふるえ声で、
「なむあみだぶ……なむあみだぶ……」
と、となえた。
われながら、うまい演技だと思った。
「これ、どのようなおそれをおぼえたのじゃ?」
円喜が、苛立《いらだ》たしげに、問うた。
「へ、へ、え……」
どぶは、両の掌《てのひら》で、顔を撫《な》でてから、
「やはり、怨霊《おんりょう》というものは、あるのでございますねえ」
「この畳から、その怨霊が、現れた、と申すのか?」
「目に見えたわけでは、ございませぬ。……ただ、これまでに感じたことのないような、からだ中をしめつけて来る、なんともおそろしい気配を、感じましてございます」
「そうか」
うなずく円喜の形相は、異常なものとなっていた。
そして、ゆっくりと、そこへ寄ると、一枚の畳のはしへ、手をふれた。
まるで、その畳に、なにか深い仔細《しさい》のある記憶があるように、そっと撫でた。
どぶは、つい、
「なにか、その畳の上で、おそろしい出来事が、起ったのでございますか?」
と、たずねた。
「お前の知ったことではない!」
円喜は、斬りすてるように、こたえた。
「おゆるし下さいまし。……てまえが、感じましたのが、あまりに、おそろしい力でございましたので……つい」
「もうよい」
円喜は、極度に不|機嫌《きげん》な態度で、畳蔵を出た。
「このこと、決して口外しては相成らぬ」
そう云ってから、円喜は、紙に包んだ金子《きんす》を、どぶに、手渡そうとした。
「とんでもございませぬ。頂戴いたすわけにはまいりませぬ」
どぶは、固辞した。
「受けとるのじゃ!」
円喜は、怒《おこ》ったように、命じた。
「へえ」
どぶは、しかたなく、押しいただいた。
――女子から金をもらったのは、生れてはじめてだぜ。
午后になって、どぶは、長|局《つぼね》へ忍び込む機会をうかがいに、御用達が詰めている七つ口へ、やって来た。
万《よろず》屋が、女中たちの注文をきいていた。
丸太の勾欄《こうらん》のむこうの役所で、締戸番が、退屈そうに、生あくびを噛《か》みころしているのが、見られた。
――ここから、もぐり込むわけには、いかねえや。
どぶは、いったんひきかえそうとした。
その時――。
奥医師が、入《はい》って来るのを、どぶは、みとめて、
――おっ!
胸のうちで、叫んだ。
その奥医師は、夜働きの次郎吉にまぎれもなかった。
――うまく、化けてやがる!
どぶは、あきれつつ、そばへ寄った。
「これは、先生、おひさしぶりでございます」
「おう、お前さんか。ちょっとお前さんに用事があるゆえ、わしは、番部屋(お使番詰所)で、二、三のお女中衆を診《み》るゆえ、ここで、待っていてもらおうかな」
「へい。かしこまりました」
どぶは、にやりとした。
半刻《はんとき》後――。
贋《にせ》奥医師は、どんな診察をして来たものか、しずしずと、七つ口へ出て来た。
どぶに目くばせしておいて、ゴサイの詰所わきの物|蔭《かげ》に入ると、
「やれやれ……、冷汗をかいたな」
次郎吉は、笑って、
「とんだ仕事を、申しつけられてしまった」
「申しつけられた? 誰《だれ》に?」
どぶは、眉宇《びう》をひそめた。
「お前さんの殿様にだ。……どぶ一人では、心もとないゆえ、お前も行け、と奥医師に化けさせられたのだ」
「有難え」
どぶは、頭を下げた。
「忍びの名人が、来てくれりゃ、もうしめたものだ。この前は、畳運びという手があったので、まんまと忍び込めたんだが、今日は、どうにも、思案投げ首のていたらくだったのさ」
どぶは、左門が、次郎吉に助力を命じてくれたのを、感謝した。こういう場合、次郎吉という男は、まことに、ねうちのある存在である。
二十年近くも、もっぱら大名屋敷に忍び込んで、金品を掠《かす》めて来た盗賊なのだ。
あるいは、この大奥にも、二度や三度は、忍び込んでいるに相違ない。
「さて――では、忍び込みの段どりにかかるか」
次郎吉は、かかえた風呂敷《ふろしき》包みの中から、遠目鏡《とおめがね》をとり出すと、
「お庭拝見だ」
と、云った。
「お庭拝見?」
「わしは、奥医師、お前さんは庭師になってもらう。そして、お庭に、毒の樹木があるかどうか調べる名目で、堂々と入って行くのさ」
考えたものであった。
次郎吉は、御広敷玄関の次にある添番の詰所に入ると、
「近頃、お女中衆のあいだに、烈《はげ》しい咳《せき》をなさるおひとが、多く相成り申した。あるいは、お庭に、毒の樹木が、はびこったためかとも存じられるので、庭師とともに、一応拝見いたしとう存ずる」
添番に、拒否する理由はなかった。
詰所を出て、禁苑《きんえん》に向って歩き出した時、どぶは、
「暮六つになったら、もどって来なけりゃ、伊賀者連中が、あやしんで、探《さが》しに来るぜ」
と、ささやいた。
「心配ないのさ。大奥の警備も、間抜けたところがあるのだ。あの詰所の添番たちの交替時刻は、七つ(午后四時)なのだ。だから、もどる必要はない」
「しかし、申し送りをするのじゃねえのか?」
「そこが、役人という奴《やつ》のずるいところでね。もし、わしらが暮六つまでに、もどって来ない時は、通した者が罪を問われる。だから、その万一の場合を考えて、申し送りをしないのさ。したがって、七つに交替した添番連中は、わしら二人が、お庭に入ったことを知らぬ」
――次郎吉の奴、この大奥へ忍び込んだのは、一度や二度じゃねえな。
どぶは、今更に、この見かけは平凡な、小|肥《ぶと》りの男の度胸ぶりに、舌を巻いた。
四半|刻《とき》ののち――。
次郎吉とどぶは、さまざまの常緑樹にとりかこまれた建物の前に、出ていた。
そこは、谷間といってもいいくらいの低地になって居り、そこから、およそ二丈もの石垣が積まれて、その上に、黒塗りの建物がそびえていた。
土蔵ともみえず、さりとて、望楼のつくりでもなかった。
しかし、高窓がついているばかりで、人の住むところとは、思われなかった。
「なんでえ、これア――?」
どぶは、けげんの視線を、仰がせた。
「まさか、こんなところに、牢《ろう》が設けてあるわけでもあるめえ」
「いまに、判《わか》る」
次郎吉は、意味ありげに、にやりとした。
石垣に添うて、まわって行き、とある箇処で、
「登るぜ」
次郎吉は、云った。
鬱蒼《うっそう》たる樹林の中なので、べつに、あたりに目を配る必要はなかった。
美しい庭園からは、はるかにはなれた場所なのである。
次郎吉とどぶは、石垣を、よじのぼった。
登りきったところに――建物の床下にあたるところに、鉄|格子《ごうし》をはめた窓が、切ってあった。
次郎吉は、その鉄格子を、はずした。
「この前、忍び込んだ時に、これをはずすのに、ひと苦労してね。……二度と、ここへもぐり込む料|簡《けん》はなかったが、なにが役に立つか、わからないね」
意外だったのは、その鉄格子《てつごうし》をはずした窓から、内部にもぐり込むと、そこは、床下ではなかった。
上も下も、がらんどうの、黒い空間だったのである。
「気をつけな」
次郎吉に、あらかじめ注意されていなければ、どぶは、闇《やみ》の底へ、まっさかさまに落下したかも知れぬ。
「な、なんでえ、これア?」
どぶは、窓枠《まどわく》にすがって、ふり仰いだ。
はるかな高処に、四角に切った穴口が、小さくみとめられた。
「わからんかね、親分?」
「わからねえ」
「便所さ」
「なに、便所?」
「御台所のな」
「へえ――!」
どぶは、思わず、声をあげた。
「これが、≪万年≫てえしろものか」
将軍家及び御台所が使用する便所は、一生に一|箇《か》所であったので、万年と称されている。
すなわち、永久に汲《く》み取ることがないのだ。
そのために、このような、おそろしく深いものをつくってあるのだった。
「なるほど、こいつは、おそれ入ったぜ。こちとらの長屋の共同便所のように、蛆《うじ》虫がはい上って来る心配はねえや」
「臭気がここまで、あがって来ないところをみると、石|垣《がき》よりも、さらに、何丈も下に、掘られているらしいな」
「それにしても、お前さんは、忍び込むのに、うめえところを見つけたものだ」
建物の高さは、三階相当であったが、壁に沿うて、一本の縄《なわ》が、たれ下っていた。
次郎吉が、この前忍び込んだ時に、たらしたに相違ない。
壁には、五、六尺間隔で、まっすぐに、楔《くさび》が打ち込んであった。もとより、次郎吉のしわざであった。
二人は、縄を足がかりとして、登って行った。
「次郎さん、いまもし、御台所が、この便所へ入って来て、またがったら、どうだい?」
「もし、御台所が、わしらを下に見つけても、べつに、びっくりはなさるまい」
「なんだって?」
「尻《しり》をまくって、しゃがんだところを見られたら、はずかしさで、死ぬ思いをするのは、町かたの女だけさ。貴《とうと》いおかたには、そんなはずかしさは、まるっきりないのだから、面白い。御台所をはじめ、お大名の奥方、姫君は、ちゃんと、尻|拭《ふ》き女中をつれて、便所にお入りになる」
「ほんとかい、おい――?」
「わしは、これまで、幾度も、便所の天井裏から、見物している。さんざ≪そこ≫を使って、もう羞恥《しゅうち》心のなくなった婆《ばあ》様なら、いざ知らず、ういういしいお姫様が、平気で、女中に、尻を拭かせているのだから、どうも、慣習てえやつは、おそろしいものだよ」
同じ時刻――。
大奥には、また新しい異変が、起ろうとしていた。
市井《しせい》の噂《うわさ》通り、大奥というところには、いくつかの開《あ》かずの間、というのがあった。
御台所のすまう奥にも、それはあった。御仏間のとなりの宇治の間、というのも、それであった。
襖《ふすま》や壁の張付けも、すべて宇治の茶|摘《つ》みの絵が描いてあったので、そう称されていた。
もとは、御台所の御産所であったが、いつの間にか、女中たちが入《はい》るのをおそれるような開かずの間になっていた。巷説《こうせつ》によれば、五代将軍綱吉が、夫人鷹司氏から、宇治の間で毒殺された、という。
長|局《つぼね》にもまた、いくつかの開かずの間があった。
そのひとつに、伊勢の間というのがあった。
幾代か前に、伊勢という四十に手のとどく御年寄が、若い奥医師を呼び入れて、三人の御次を素裸にならせ、彼女らをつぎつぎと犯させて、愉《たの》しんでいるところを発見された不祥事が起った。伊勢は、その部屋で、毒入りのお茶を飲まされて、相果てた。
爾《じ》来、夜半など、前の廊下を通る女中は、しばしば、部屋の中から、悲痛な呻《うめ》き声をきいたり、不意に、襖がひらいたりするのに出会って、魂消《たまげ》るようになった、という。
ひとたび、幽霊が出る噂が立つと、もうそこに、女中たちは、近寄ろうとせぬ。
そのような不吉の部屋は、早々にとりつぶしてしまえばいいのであろうが、先例旧格を尊重する大奥のこととて、開かずの間は開かずのままに、すてておかれ、また、再建の場合も、従前通りにつくるのであった。
伊勢の間には、自決させられた御年寄伊勢が、毒茶を喫《の》む前に、その髪を切って、床柱にぶら下げておいたのであるが、それが、いまでも、そのままになっているのであった。
怨霊《おんりょう》の存在を信じる時代であるだけに、その頭髪がぶら下っている部屋になど、女中たちは、ひきずられても、入るものではなかった。
ところが――。
誰《だれ》もおそれて近づかぬを、逆に利用して、伊勢の間で、大胆不敵な逢瀬《おうせ》を愉しんでいる女がいた。
お手つき≪ちゅうろう≫お節の方であった。
対手《あいて》は、役者|面《づら》をした赤沢了白という御台所つきの奥医師であった。
御年寄や≪ちゅうろう≫は、それぞれ御広敷見|廻《まわ》りの医師に診《み》て事もらうことになって居《お》り、特に容態のわるい場合、そのほかの医師を招くことができたが、しかし、御匙《おさじ》と称《よ》ばれる将軍家|附《つ》きや御台所附きに診てもらうことは、許されていなかった。
赤沢了白は、将軍家附きの御匙であった。それを、お手つき≪ちゅうろう≫が、逢瀬を愉しんでいるのであった。
なんとも、大胆不敵な振舞いといわざるを得ぬ。何者かが、二人の間を、とりもったに相違ない。
「あ、あ……、もう――、息が、くるしゅうて……」
緋毛氈《ひもうせん》の上に、あられもなく、衣裳《いしょう》いっさいを、下半身からめくられて、木枝から落された長虫のように、下|肢《し》をくねくねとうねらせるお節の方は、もう、そのみだら声を、はばかりもなく、高いものにしていた。
赤沢了白は、その股間《こかん》に顔をうずめて、野良猫《のらねこ》が、生肉にしゃぶりついたあんばいであった。
小半|刻《とき》近くも、お節の方をいじめつづける了白という男も、よほど、執拗《しつよう》な好色漢とみえた。
「あっ、もう……、ゆるして!……了白殿、は、はよう、抱いて!」
狂おしい身もだえをしたお節の方は、一瞬、はね起きざま、了白に、しがみついた。
「お方……、女のよろこびを、はじめて知られた模様でござるな」
了白は、悠《ゆう》々たる余裕をもって、お節の方を抱きながら、ささやいた。
「はい。……はじめて、知りましたぞえ。女のからだが、こんなに、燃えるものとは、のう……、はずかしい!」
お節の方は、ぞんぶんに、からだをひらいて、男を受け容《い》れつつ、喘《あえ》いだ。
ひとしきり、本能の虜《とりこ》となった男女のもの狂おしい営みが、緋毛氈の上に、くりひろげられた。
やがて、双方とも、ぐったりとなって、死んだように動かぬ時が来た。
遠くで、時刻を告げる柝《き》の音が、ひびいた。
とたん、お節の方が、はじかれたように、はね起きた。
「もう七つじゃ!」
「これは、うかうかと、時刻を忘れて居《お》り申した」
男と女は、いそいで身じまいして、立ち上った。
まず、お節の方が、さきに忍び出ようとして、襖戸《ふすま》へ手をかけた。
するりと開《あ》くはずの襖戸が、どうしたことか、ビクともせぬ。
「開かぬぞえ」
お節の方が、驚|愕《がく》して、了白に、救いをもとめた。
「いくら開かずの間でも、開かぬはずはございませぬが……」
了白は、檜戸《ひのきど》へ手をかけて、うん、と力をこめてみた。
みじんも動かぬ。
了白はうろたえた。
「なんということか!」
すべての檜戸を、ひっぱってみた。すべてが、ビクともしなかった。
「お、おそろしい!」
お節の方が、床柱にぶら下った頭髪を、恐怖のまなざしで見やって、
「た、たたりじや!」
と、悲鳴をあげた。
「そ、そんな……たたりだなどというものは、この世にござらぬ」
十一
赤沢了白は、医師だけに、怨霊《おんりょう》とか崇《たた》りなどというものを、信じてはいなかった。
とはいうものの、引けども突けども、微動だにしない襖戸《ふすま》が、自分たちの密会を、あざわらっているような恐怖が、こみあげて来た。
そのうち、部屋の片|隅《すみ》から、怨霊が湧《わ》き出て来るような気がして来た。
お節の方も、同じ恐怖にかられたとみえて、
「こ、こわい!」
と、叫んで、了白の背中へ、しがみついた。
そうなると、身勝手なもので、了白は、お節の方に嫌悪《けんお》をおぼえた。
「はなれていて下され」
了白は、お節の方を突きのけると、いきなり、襖戸へ、体当りをくれた。
とたん――、
「たすけてえっ!」
お節の方が、われを忘れて、絶叫した。
柝《き》を叩《たた》いて、長廊下をまわっていた火の番の女中二人が、この絶叫をききつけて、その場へ釘《くぎ》づけになった。
「…………」
「…………」
顔を見合せた二人は、その絶叫が伊勢の間からつらぬいて来たものであることを、知った。
次の瞬間――。
女中二人は、柝をすてて、走り出した。
やがて、伊勢の間めがけて、薙刀《なぎなた》をかかえた女中が十数人、馳《は》せつけた。
お節の方と了白は、廊下でさわぎたてる女中たちの声をきいて、愕《がく》然とわれにかえった。
怨霊よりもおそろしい処罰が、そこに待ちかまえていることに、はじめて気がついたのだ。
しかし、もはや、おそかった。
御年寄真砂浦が、急ぎ足に、近づいて来たのである。そのうしろには、御坊主円喜が、したがっていた。
「まこと、この部屋より、悲鳴がきこえたと申すのか?」
真砂浦は、火の番の一人に、問うた。
「は、はい。相違ございませぬ」
「開けるがよい」
真砂浦が、命じた。
三、四人が、おそるおそる襖戸を開ようとして、
「あ――釘《くぎ》が!」と、気がついた。
襖戸は、いつの間にか、錐《きり》で穴をあけられ、釘がさし込まれていたのである。
「これは、何者のしわざじゃ? あとで、きっと、詮議《せんぎ》せねばなるまい。……さ、開けるがよい」
襖戸は、左右へ、さっと開かれた。
その結果は、先日、お鈴廊下で発見されたお滝の方と番頭伊助が、罪に服するのと全く同じ光景が、そこに、くりかえされた。
そして、その光景を、どぶと次郎吉が、天井裏から、目撃した。
≪ちゅうろう≫全滅
赤沢了白は、ひきたてられて行き、お節の方は、ただ一人、伊勢の間に、とじこめられた。
お節の方の膝《ひざ》の前には、黒茶碗が置かれた。その抹《まっ》茶の中に、毒が混じられていることは、明白であった。
お節の方が、おののきつつも、ついに覚悟をきめて、黒茶碗へ両手をさしのべたところまで目撃してから、どぶと次郎吉は、伊勢の間の天井裏をはなれた。
人の気配から遠い場所へ、身を移してから、どぶは、腕を拱《こまね》いた。
「ふうむ! どういうことになるのかな、これア?」
「大奥の三つの勢力のうち、二つが、つぶれたというわけだね」
次郎吉は、すでに、そのことを知っていた。
「そういうわけだ。あとは、おみつの方だけが、残った」
「親分は、あの開《あ》かずの間を、釘《くぎ》づけしたのは、どうやら、おみつの方の手下のしわざ、とみたのかね?」
「じゃねえか、と考えるのは、あたりめえじゃねえか」
こたえてから、どぶは、はっとなった。
「いや、待てよ。……おみつの方の部屋子にも、一人、変死したのがいるんだ」
秀というその女中が、明日にせまった「香合せ」の習練をしようとして、一室にとじこもっているうちに、変死した。それがきっかけで、どぶは、この大奥へ忍び込む命令を受けたのである。
「香合せの女中は、殺されたにちげえねえのだ。そのために、おみつの方は、香合せの勝負に敗れた。おみつの方は、お滝の方、お節の方、どっちかが、秀を殺した、とうらんで、復讐《ふくしゅう》した、という寸法かな」
「香合せに敗れたぐらいで、こんなおそろしい復讐をするものだろうかね?」
次郎吉は、不審がった。
「そのほか、つもるうらみが、山ほどあるのだろうじゃねえか。……なにせ、この大奥ってえところは、たった一日ひそんで、見物しているだけで、いい加減、頭がどうかして来やがる。……女ってえ生きものは、なんてまア冷酷な、業《ごう》の深い化けものだろうと、身ぶるいするぜ。そう思わねえか、次郎さんも――?」
「わしは、とっくのむかし、女のおそろしさを、骨身にしみて知っているのでね。お前さんのような、無類の女好きでも、イヤになるところをみると、わしが女を断っているのは正しかった、ということになるね」
「おれも、女を断ちたくなった、と云いてえところだが……、まア大奥は、別の世界と考えておこうやな」
「次は、どんな異変が起るのかな?」
「これで、止まったら、おみつの方の復讐という次第だが……」
「これは、わしのカンだが、このままでは、すみそうもないね」
次郎吉は、云った。
「そう思うかね?」
「思うね」
次郎吉のカンは、正しかった。
二日置いて、異変は、起った。
ところで、この異変には、どぶ自身が、自身はそうと知らずに、一役買わされたのであるから、皮肉であった。
次郎吉が、ひとまず、江戸城から脱出してしまい、どぶ一人とりのこされると、流石《さすが》に、天井裏の沈黙ぐらしには、あきあきして来た。
そこで、こっそり、暮六つを過ぎると、天井裏から庭へ――夜行性動物のごとく、ぬけ出したのである。
なにしろ、江戸城は、べらぼうな広さであった。
さきにも述べたが、本丸だけで、四万七千三百坪ある。
どぶが、忍び出た吹上御苑は、十万八千八百坪という厖《ぼう》大な地所であった。
したがって――。
忍び出たどぶは、夜歩きは得意なだけに、
――見つかりっこは、ありゃしねえやな。
と、タカをくくって、歩きまわったのであった。
最初の夜は、無事に、御台所の便所へ舞いもどることが、できた。
ところが……。
二日目の夜、とある林――というより森の中へ入ってから、方角が全く判《わか》らなくなった。
――どうにかなるだろう。
はじめのうちは、のんきにかまえていたが、だんだん木立が深くなるにつれて、心細く、あせりが生じた。
そのために、あたりに、気をくばる余裕を失った。
それが、不覚であった。
いきなり、闇《やみ》の中から、
「おい! 誰《だれ》だ?」
と、誰何《すいか》された。
木立の中に、見まわりの者がいるとは、その気配を全く察知できなかったどぶは、思わず、反射的に逃げ出した。
「曲者《くせもの》っ!」
絶叫して、対手《あいて》は、追跡して来た。
無我夢中で、逃げまわり、ついに、広い泉水の畔《ほとり》へ出た。
もうその時は、追跡者が、伊賀衆であることが、どぶには、はっきりしていた。
――くそっ! イチかバチかだ!
忍びの術に長《た》けた対手《あいて》と、どぶは、敢《あ》えて、闘《たたか》うことにした。
さすがに、懐中にしのばせた十手刀を使いはしなかったが、どぶとしては、対手を殺してもやむを得ぬ、と≪ほぞ≫をかためた必死の闘いであった。
下弦《かげん》の鎌《かま》月の下で、忍びの者と岡っ引は、およそ四半|刻《とき》も、目まぐるしく、はねまわって、業《わざ》の限りをつくした。
伊賀衆は、白刃をふるい、どぶは、十手そのものを使った。
そして、紙一重の差で、どぶの業《わざ》が、まさった。
対手《あいて》が、その場へ、ずるずると崩《くず》れ込んだ時、どぶ自身も、へたへたと坐《すわ》り込みそうになった。
おのが十手が、対手の鳩尾《みぞおち》を突いた、というのは、むしろ、業《わざ》ではなく、偶然であったことに気づいたのは、しばらく、地面で動かぬ対手を見|下《おろ》していてからであった。
「しようがねえや。かんべんしな」
どぶは、ぐったりとなった伊賀者を、ずるずると引きずって、松の根かたへよりかからせておいて、その場を立ち去った。
これでケリはついた、とどぶは、かなりのんきに考えていたが、実は、それが、なんとも奇怪な騒動をひき起すきっかけになったのである。
その夜――。
将軍家は、大奥に入っていた。
ここで、ついでに、将軍家の日常生活を述べておけば――
将軍家は、平常は、お鈴廊下をへだてた中《なか》奥でくらしている。ここには、一切女性は置かず、小姓が仕えていた。
大奥に入るのは、せいぜい、月に七日か八日であった。中奥から大奥へは、四つ(午前十時)に入る。入る時は、あらかじめ知らせておく。すると、御台所が、御年寄、中年寄、≪ちゅうろう≫頭《がしら》、≪ちゅうろう≫などをひきつれて、お小座敷まで、出迎えた。
将軍家と御台所は、ともに、お清の間(位牌をまつった部屋)に入って、そこで、挨拶《あいさつ》を交《かわ》す。
御台所が、
「ご機嫌《きげん》よう――」
と、頭を下げると、将軍家は、
「うむ」
と、うなずくだけであった。
それから、お縁座敷に入って、着流しになって、くつろぐ。
将軍家が休息するお小座敷とかお縁座敷とか、それらは、おびただしい部屋数であって、御台所の居間とは、二町余もはなれているほどの規模の大きさであった。
寝《しん》所は無数の控え部屋を持ったのがあったが、将軍家は、たいがい、御上段というだだ広い座敷で、寝《ね》た。
昼食ののち、将軍家は、中奥へもどって、政務をとり、これに一|刻《とき》あまりついやして、あとは、謡曲とか乗馬とか相撲とか書画を愉《たの》しんだりした。
夕刻になって、入浴。世話をするのは、小姓であった。湯殿は、別の場所でわかした湯がはこばれ、広い板敷に、湯槽《ゆぶね》が据えられてあった。そのからだをあらうのは、白木綿の箇|袖《そで》をつけた小納戸役人であった。糠袋《ぬかぶくろ》をつかって、じっと動かぬ将軍家の全身すみずみまでを、こすった。
からだを拭《ふ》かず、小姓が、素裸へ白木綿の浴衣《ゆかた》をきせて水気を吸いとったが、一枚だけでは間に合わぬので、五、六枚を着せかえさせた。決して、手拭《てぬぐ》いを用いなかった。
夕|餉《げ》は六つ(午后六時)。大奥で摂《と》る時も、御台所とは別に、一人だけであった。
料理は、まずかった。鰻《うなぎ》の蒲《かば》焼にしても、すっかりあぶらが抜いてあったのである。
将軍家の就寝は、亥刻《いぬのこく》(午后十時)ときまっていた。
中奥では御休息之間上段、大奥では十六畳の御上段。几帳《きちょう》がかけてあった。パンヤの入った揚畳を敷き、その上に、かしらを南方にして、夜具を延べた。夜具は、お納戸《なんど》縮緬《ちりめん》で、お茶|羽二重《はぶたえ》の裏がついていた。夏ならば、部屋いっぱいに蚊帳を吊《つ》った。
将軍家の寝間着は、白羽二重であった。
大奥で寝る時は、まず一人だけということはなかった。もっとも、御台所と一緒に寝るのは、まれで、お手つき≪ちゅうろう≫が伽《とぎ》をした。
時として、将軍家は、かねて目をつけていた≪ちゅうろう≫を、指名した。
もっとも、伽《とぎ》を命じられた≪ちゅうろう≫は、否応なく、その意に従わなければならぬ、ということはなかった。お断りしても、不都合はなかった。とはいうものの、大奥奉公の女中は、お手つきになるのを名誉と心得、出世するのをのぞんでいるのであるから、拒否する者はいなかった。頑《がん》として拒《こば》めば、暇を出され、親元にかえされた。
その営みは、きわめて、あっさりしたものであった。
将軍家が、≪ちゅうろう≫の上に、掩《おお》いかぶさってからは、今日の時間で、わずか数分で終った。執|拗《よう》な愛撫《あいぶ》などは、一切なかった。御添寝の≪ちゅうろう≫が、そばに寝ていたし、次の間には御年寄が控えていたし、およそ、快楽をむさぼる雰《ふん》囲気ではなかったからである。
ばかげた性生活であった。
さて――。
その夜、将軍家は、
「みつを呼べ」
と、命じた。
三人の寵妾《ちょうしょう》のうち、おみつの方だけが、一人のこっていたわけである。
飛鳥井《あすかい》という≪じょうろう≫が、その旨をつたえに、おみつの方の部屋へ、おもむいた。
そして、その部屋に見|出《いだ》したのは、意外な光景であった。
素裸になったおみつの方が、名も知らぬ下級の伊賀者に抱きついて、褥《しとね》に横たわっていたのである。
掻巻《かいまき》をはねあげ、二布《こしまき》もまくれて、あらわになった下|肢《し》を、伊賀者の腰に巻きつけたあられもないていたらくで、こんこんとねむりこけていた。
伊賀者もまた高いびきをかいていた。
≪じょうろう≫は、あまりのことに、絶叫をほとばしらせた。
将軍家が大奥に入っていて、女中一同緊張している夜であったので、その絶叫が、たちまち、長|局《つぼね》を騒然とさせた。
天井裏で、のんびりと寝そべっていたどぶは、はじかれたように、はね起きた。
おみつの方に、眼《がん》をつけていたので、恰《ちょう》度その部屋の上にいた。
ただ、まさか、おみつの方が、そんな大それた密通を犯しているとは夢にも思わず、伊賀者との闘《たたか》いで、いい加減くたびれていたので、うとうととしていた矢先であった。
覗《のぞ》きおろしたどぶは、あっとなった。
おみつの方と抱き合っている伊賀者は、自分が当て落した奴に、まぎれもなかった。
――なんということだい、これア?
自分が当て落した伊賀者が、いつの間にやら、長|局《つぼね》へ忍び込んで、あろうことか、お手つき≪ちゅうろう≫おみつの方と抱き合って、ねむりこけているとは!
こんな、ばかげた、奇怪なことが、どうして起ったのか?
何者かのしわざに相違ない。
――おれと伊賀者が、闘《たたか》っているのを、どこかで、見ていやがった!
どぶは、背すじが、ぞくっとなった。
おみつの方の処分は、もうあきらかであった。
すなわち。
お滝の方、お節の方・おみつの方と――大奥の勢力を三等分していたお手つき≪ちゅうろう≫が、いずれも、ほろび去った次第であった。
お滝の方は、大丸呉服店の番頭伊助と密通して、それを忍び出させようとして、お鈴廊下にさしかかって、何者かにその鈴を鳴らされ、すべてが露見してしまった。
お節の方は、伊勢の間で、将軍家|附《つき》きの御匙《おさじ》・赤沢了白と密会していて、とじこめられ、悲鳴をあげたために、その秘密を発見されてしまった。
そして、おみつの方は、伊賀者を部屋にひき入れているところを、将軍家の伽《とぎ》を告げに来た≪じょうろう≫に、目撃された。
最も悲惨であったのは、おみつの方である。
おみつの方自身は、その申しひらきによれば、自身では、全くおぼえのないことであった。
夕食後、部屋子|対手《あいて》にかるた取りをしている時、急に、睡魔におそわれて、その場に俯《うつ》伏して、それきり、意識をうしなってしまった、という。
部屋子たちの手で、褥《しとね》に寝かされたのであったが、いつの間にか、素裸になり、伊賀者に抱きついていた次第であった。
伊賀者の方は、禁|苑《えん》に曲者を発見して、これを追い、闘っているうちに、不覚にも当て落されて、それきり、なんのおぼえもなかった、と弁解したのだが……。
両名から、事情聴取した御年寄真砂浦は、しかし、その言葉を、信じなかった。
信じないのが、当然であったろう。
かりに信じたとしても、もはや、どうなるものでもなかった。抱き合っていた事実は事実であった。
おみつの方は、お節の方と同じ裁きを受けた。
しかし、お節の方は、おとなしく、毒をあおいだが、おみつの方は、身におぼえのないこととて、哭《な》き叫んで、生命乞《いのちご》いをした。その挙句《あげく》、両手両足をしばられ、口をこじあけられて、毒をのどへ流し込まれる、というむざんな処置によって、片づけられた。伊賀者の方は、打首になった。
どぶは、縛りあげられたおみつの方が、なおも、もがき、のたうち、無罪を叫ぶ光景を、覗《のぞ》き下《おろ》しながら、どこかで何者かが、残忍な北叟笑《ほくそえ》みをもらしているのを、想像したことだった。
翌日の午后、どぶは、江戸城から抜け出て、思いきりバンザイして、深呼吸した。
広い往還を、さまざまの階級の人々が、自由に歩いている景色を眺《なが》めると、いまさらに、大奥という世界が、牢獄《ろうごく》であることが、感じられた。
「へっ! 大奥ってえ牢屋を、いってえ、誰《だれ》がつくりやがったのかねえ。たった一人の公方様に仕えるのに、数百人の女中が要《い》るわけはねえじゃねえか。おれみてえな助平野郎でも、ぜいぜい、二十人もいりゃ――」
ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、歩き出したところを、背後から、肩をたたかれた。
奥医師姿の次郎吉が、にこにこしていた。
「蕎麦《そば》、天ぷら、鮨《すし》に蒲焼《かばやき》――なにがいいかね、親分?」
それをきくと、どぶはごくりと生|唾《つば》をのみ込んだ。
「精をつけるのは、蒲焼にきまってらアな。正真正銘の江戸前をご馳走になろうか」
江戸前とは、江戸城の前――すなわち隅田川でとれた鰻《うなぎ》を、いう。
近頃では、隅田川でとれるのがすくなくなり、他処《よそ》の泥くさいのを、江戸前と称して売る店も少なくないのであった。
「精をつけるには、いっそ、上方風がいいのじゃないかね」
上方では、鰻を腹から裂いて、頭をつけたまま、カナ串《ぐし》に刺して、白焼《しらや》きにし、それにタレをつけて蒲焼にする。
江戸では、背の方から裂き、頭を取ってしまって、串に刺し、白焼きにしたものを、さらに蒸《む》して、タレをつけて、焼くのであった。
江戸のは、蒸すという手間が余計にかかっているわけであるが、これは味はよくなるであろうが、鰻の精気は抜けているかも知れぬ。
「それじゃ、上方風ってえしろものを、頂戴しようかな」
程《ほど》なく、「万川魚《よろずかわうお》」という掛|行燈《あんどん》の鰻屋に入って、衝《つい》立の蔭《かげ》の、あぶらじみた畳で向い合った二人は、焼きあがるまでの時間を、飲みはじめた。
「うめえ! 五|臓《ぞう》六|腑《ぷ》に、しみわたるぜ」
どぶは、盃《さかずき》をあけると、首を振った。
次郎吉は、笑いながら、
「便所から抜け出して来た空《す》きっ腹には、さぞ、しみわたることだろうな」
「全くの話、あきれた女護ケ島だぜ。あっしは、御台所の尻《しり》を、≪ちゅうろう≫がお拭《ふ》き申し上げるのを、ちゃんと見とどけて来たんだ」
「ばかげたならわしだが、お上のなさることだ。臭いものには蓋《ふた》をして、世間の取|沙汰《ざた》にならぬようにしてあるようだ」
「その通り――」
どぶは、次郎吉が脱出したあとで起った異変を語ってきかせて、
「これで、三人のお手つき≪ちゅうろう≫が、バタバタと片づけられたわけさね。何奴かのワナにひっかかったのだな」
「見当はついたかね、下手人の――?」
「さっぱりだ、五里霧中」
上方風|蒲焼《かばやき》が、焼きあがって来た。
「やっぱり、あっしにゃ、江戸前の方が舌に合うぜ」
箸《はし》をつけてみてから、どぶは、云った。
「精をつけるためには、こういう古い焼きかたの方がいいのさ」
「古い焼きかた?」
「江戸前の、蒸すのは、近頃のことさ。むかしは、江戸も、この上方風の焼きかただったのだ」
「ふうん、そうかねえ」
何気なく、きいていたどぶは、一瞬、はっとなった。
「そうか!」
にわかに、小さな目を、いきいきと光らせた。
「こいつは、古いところを食わなけりゃ、解決しねえんだ」
「どうしたね?」
「江戸前じゃなくて、上方風を食わなければ、精はつかねえ、とお前さんが云ったことさ。……へへ、これで、頭がはっきりして来たぜ」
半刻後――。
どぶは、町小路左門の前に、かしこまっていた。
左門は、すでにお手つき≪ちゅうろう≫が全滅したことを、きき知っていたが、どぶから、お節の方、おみつの方が、何者かがしかけた陥穽《かんせい》に落ちたさまを、くわしく聴取した。
「殿様、依《よ》って来るところの因果物語は、その発端から、知らなくちゃ、どうにもなりませんねえ」
「うむ」
左門は、うなずいた。
どぶは、左門がすでに、このたびの続出した異変が、いかなる原因を持っているか、およその見当をつけているのではあるまいか、と思っていた。
左門は、しばらく沈黙を置いてから、口をひらいた。
「大奥と申すところは、お前が数日間のぞき見ただけでも、奇妙な閉鎖社会だ。一年に一人や二人の女中が、毒をあおいだり、井戸へ身を投げたりいたすことは、一向に、ふしぎではない。そして、そのような不祥事は、食中毒とか、乱心ということで、かんたんに、処理されて来た。ところが、このたびの相次ぐ異変は、老女の才覚だけでは、どうにも手にあまることになった。老中、若年寄の耳にも、きこえた。昨日は、評定所に於《おい》て、これが、問題にされた模様だ。……そこで、評定所から、わたしの許《もと》へ、この十年間の大奥女中の鬼籍書類が送られて来た、と思うがよい」
幕閣随一の切れ者という評判の高い若年寄と、左門は、有無相通じる間柄であった。
左門は、その過去帳を、早速《さっそく》、腹心の小松九郎兵衛に、読ませてみた。
「……十年間に、百十三人の女中が、大奥で亡くなって居る。その八割は、自殺である。その百十三人のうち、わたしの興味をひいた女中がいた。まだ十八の娘であった」
左門は、云った。
「三輪というその女中の死にかたが、わたしの直感を呼んだ」
三年前――。
三輪というその女中は、お鈴廊下を通りかかった際、鈴の紐《ひも》にさわって、鈴を鳴らし、あわてて逃げようとしたところを、≪ちゅうろう≫の一人に発見され、逃げまどった挙句《あげく》、開《あ》かずの間――伊勢の間へとび込み、そこで、簪《かんざし》をのどに突き刺して、相果てた、という。
「大半の女中が、自殺したのは、上の者にいじめられ、気|欝《うつ》になって、発作的に生命を断ったものだが、その三輪という女中の場合だけは、いささか、ちがっているように思われる。……三輪の素姓を、お前に洗ってもらおうかな」
「かしこまりました。……へへ、闇《やみ》の海原で、岬《みさき》の灯台を見つけた、というあんばいで――」
どぶは、町小路邸を、とび出した。
まず、めざしたのは、三輪の墓のある浅草今戸の安昌寺という寺であった。
耳の遠い老僧|対手《あいて》に、声がかれるほど大声でどなりたてて、ようやく、どぶは、三輪の素姓を調べあげた。
三輪は、身分のひくい旗本の娘であった。父は、小名木川の入口にある、俗に中川の御関所といわれた見張番所の役人であったが、抜荷船を見のがした罪を問われてしくじり、小普請入りになって、貧苦のうちに逝《い》っていた。母には幼少の頃《ころ》に死なれていた。遠い親|戚《せき》を、女中同様に使われながら転々としていたが、やがて、器量を買われて、大奥奉公に上った。
碇屋という、部屋の整え物を弁じる御用達が、当時、大層な権勢を誇っていたお手つき≪ちゅうろう≫おえんの方のゴサイに口をきいて、三輪を、その部屋子にしてもらったのであった。
三輪は、器量佳しの上に、才覚もある娘だったので、旦那《だんな》様のおえんの方から目をかけられ、いずれは、御三之間から、御|目見《めみえ》にも出世するであろう、と朋輩《ほうばい》たちから、みられていた。
ところが――。
あやまって、お鈴廊下の紐に、手がふれたために、あたら十八の若い一命を落さなければならなかった。
どぶは、三輸の素姓を調べるには調べたものの、そこで、また、ハタと行きづまった。
――町小路の殿は、三輪の死から、なにかかぎ出せそうだ、とおれに調べさせたのだが、これだけじゃ、どうにもならねえ。町小路の殿に、これだけ報告したって埒《らち》はあかねえ。……こんど、訪《たず》ねていった時に、お手つき全滅の原因は、ここにありやした、と報告できるまでに、洗っていなけりゃ、このどぶの面目が立たねえや。張本人の見当ぐれえは、つけていなけりゃ、話にもなににも、なりゃしねえ。
どぶは、こんどは、自ら進んで、大奥へ忍び込む肚《はら》をきめた。
しかし、三度目ともなると、鼠《ねずみ》のように、こそこそと天井裏ばかり、うろついていないで、なんとか、大奥の現状を突っ込んで調べる方法はないものか、とどぶは、ひとつ、河内山宗俊に相談することにした。
河内山宗俊は、深川新地の茶屋で、とぐろをまいていた。
水髪に薄化粧、無地小紋の紋付きに下げ帯という小粋《こいき》な姿の伏せ玉を三人ばかりはべらせて、自身でつまびきながら、しぶいのどをきかせていた。
行くすえは
誰《た》が肌《はだ》ふれん紅《べに》の花
身じまい部屋の爪《つま》びきに
つとめのうさを、忘れ草
アレ
鈴が鳴る昼見世に
まがきへ出て来て、物あんじ
とんとんと階段をのぼって来たどぶは、
――奉行所に、にらまれて、明日《あす》にも手がうしろにまわろうというのに、いい度胸だ。戦国の時世なら、一国一城のあるじにもなれた器量人だが……。
と、思いつつ、
「ごめんなすって――」
と、声をかけた。
「どぶか」
「へい」
「入《はい》んな」
障子を開《あ》けたどぶは、
「お愉《たの》しみのところを、野暮用でお邪魔いたしやす」
と、挨拶《あいさつ》した。
河内山は、伏せ玉たちを、さがらせると、
「おめえ、とんだ覗《のぞ》きをやっているらしいな」
と、云った。
「ご存じでしたか」
「蛇《じゃ》の道は、蛇《へび》だアな。ご城内の出来事は、大小もらさず、このお数寄屋坊主の耳には、その日のうちに、入って来るぜ。……伊賀者が一人、吹上で、曲《くせ》者を見つけて追いかけたところ、逆に、当て落されちまった。その気絶しているからだが、いつの間にか、お手つき≪ちゅうろう≫の寝床《ねどこ》にはこばれて、その≪ちゅうろう≫と抱き合っていた。なんともはや、あきれけえった話だが、おれは、それをきいた時、おめえが一役買った、とピンと来たぜ」
「伊賀衆を当て落したのは、あっしにまちげえはねえんですがね」
「ははは……、流石《さすが》のどぶも、立往生のていたらくだのう。近|頃《ごろ》、大奥内で、女中が次つぎと自害するので、手にあまった老女が、御台所用人を介して、当代の明智《めいち》――町小路左門に、原因|糺明《きゅうめい》を依頼した。そこで、名与力の片腕が、大奥へ忍び込んだ、という次第だろうが、どっこい、途方もねえ伏魔殿をむこうにまわしちゃ、手も足も出ねえ。まず、そういうところかね」
「そこで、ひとつ、河内山の旦那《だんな》のお智慧《ちえ》拝借、と参上したわけなんで、へい」
「おれの智慧なんぞ、役には立たねえよ。どだい、大奥へ首を突っ込むのが、大まちがいのこんこんちきなのさ。町小路の殿に、そう云いな。岡っ引いっぴき、逆立ちしたって、どうにもなりませんと――」
「旦那、住んでいるのは、魔ものでも幽霊でもありやせんぜ。生きた女でさ。おそれて、ひきさがった、となりゃ、このどぶの面目がつぶれまさ」
どぶは、いよいよ、三度忍び込むことにしたが、天井裏をうろうろしているだけでは埒《らち》はあかないので、ぜひ智慧《ちえ》をお借りしたい、と頭を下げた。
「そうさな」
河内山は、ちょっと考えていたが、ふっと笑うと、
「対手《あいて》は女だ。しかも、男を断たれて、肌《はだ》が疼《うず》いている女どもだぜ。男がしてやることは、ひとつしかなかろうじゃねえか」
「なるほど――。あっしは、肝心の、そいつを忘れて居《お》りやした。なにしろ、女という生きものの業《ごう》の深さを見せつけられて、この女好きがうんざりしちまっていたものでござんすからね」
もっとも、どぶは、一人だけ――馴染《なじみ》の娘を見つけて、無理矢理手ごめにしてはいたが……。
「かりにだ、≪じょうろう≫が一人で部屋にいるところへ、おめえが忍び込んで、手を出してみな。決して、いやとは云わねえぜ。≪もの≫にするのは、いとたやすいわざだ。げんに、おめえは、お手つき≪ちゅうろう≫ともあろう身が、呉服屋の番頭や奥医師と密通しているところを、目撃しているだろう」
「たしかに――」
「五十過ぎた御年寄を口説いても、仕損じはしねえはずよ。まして、肌が熟《う》れた女中どもなら、おめえが、抱き寄せただけで、もう、しとどに濡《ぬ》れていらアな」
「わかりやした。こうなると、面《つら》がまずく生れたのが、くやしいや」
「なんの……、愛|敬《きょう》のある、いい面相だぜ。なまじ、油|壷《つぼ》から出たような、のっぺりした男前よりは、その面相の方が、気安くて、つまみ食いには恰好《かっこう》だ」
「からかわれているんだか、ほめられているんだか……」
「本当のことを云っているんだ。女好きのくせに、女心というものを、さっぱり知らねえ奴《やつ》だ、この親分は――」
「なにしろ、生れて一度も、もてたことがねえんでね」
「もててみろ。大奥には、四百人の女がいるんだ。選《よ》り取り見取りだ」
「やりやす!」
どぶは、ぽんと、わが胸をたたいてみせた。
「どうだ、前祝いに、伏せ玉を抱いてゆくか?」
「有難え――と申したいところでげすが、なにせ、お城の御切手御門をくぐるのは、吉原の大門をくぐるのとは、わけがちがって、それだけで、いいかげん、精気を消耗しますのでね。できるだけ、たくわえておかなけりゃ、あとが、ききませんや」
「殊勝なことを申すのう」
河内山は、高笑いしてから、手をたたいた。
伏せ玉たちが、ぞろぞろと入って来た。
入れかわりに、廊下へ出たどぶは、≪やぞう≫をきめて、
膝《ひざ》も今宵は相談あいて、
借りて寝《ね》る人来ぬゆえに、
ときた。
どぶは、三|度《た》び、大奥長|局《つぼね》の天井裏へ、忍び込んだ。
こんどは、イチかバチかの大勝負の≪ほぞ≫をかためたどぶは、ただあてもなく天井裏にひそんではいなかった。
まず、どぶがねらったのは、御年寄真砂浦であった。
真砂浦は、長局の総支配人といった地位にある女性であった。その地位にのぼるのを得たのは、彼女が、甚《はなは》だ不器量で、且《かつ》頭脳がきれていたせいに相違ない。
五十も半ばに達しているが、おそらく、男を知らぬままに、肌《はだ》がかわいたものとみえた。
――どうせ、当ってくだけるなら、一番上に立っている婆《ばあ》さんにしてくれるぞ。
決意したどぶは、その部屋の上に、ひそんだのである。
御年寄ともなると、就寝してから、三人の部屋子に、一|刻《とき》以上も、からだをすみずみまで、あんまさせるのであった。
部屋子たちは、真砂浦がうとうとしはじめるのを待って、そうっと音をしのばせて、寝室をしりぞいて行った。
使用人たちの住む二の側を別にして、御年寄のすまいは、七部屋以上もあり、縁座敷、化粧室《しまいどころ》、上ノ間、二ノ間、相ノ間など、それぞれ広い。したがって、寝室で、少々物音が起っても、二の側までは、きこえない。
どぶは、真砂浦がねむったのを見すまして、天井裏から、細引をたらして、するすると、降りた。
どぶのいでたちは、奥医師に従っている手代、といったところであった。
どぶは、枕辺《まくらべ》に寄ると、掛具をゆすって、
「おそれ入りますが、お目|覚《ざ》めのほどを――」
と、声をかけた。
真砂浦は、目蓋《まぶた》をひらいて、そこに見知らぬ男が坐っているのを見|出《いだ》して、あっとなるや、はね起きようとした。
「おしずかに! 夜中、おさわぎになりますと、貴女《あなた》様の不利でございます」
「な、何者じや?」
「上様御|匙《さじ》美濃部仙庵の手代にございます」
「おのれが、なにが目的で、この長局に忍び入ったぞ?」
「はばかりある儀ながら、一命を賭《と》して、実験をつかまつりたく――」
「実験?」
「はい。貴女様のおん身をお借りいたして、実験をつかまつりたく存じ、必死の振舞いに出ました」
「なんの実験じゃ!」
「まことに、失礼ながら、御年寄様は、いまだ、ただの一度も、男子に肌をお許しになっては、おいでになりませぬ、と拝察つかまつります」
「…………」
「お願いでございます。……このてまえに、ためしに、肌をお許し下さいますまいか?……なにとぞ、伏して、お願い申し上げます」
御年寄真砂浦は、一瞬、唖然《あぜん》となったらしい。
もはや、男と契《ちぎ》ることなど、夢想だにもしなくなっているに相違ない老女であった。
おのが不器量に悩み、悲しんだのは、すでに遠いむかしのことであろう。
いまは、長|局《つぼね》の総支配人として、満ち足りたくらしを送っているのであった。
その老女が、思いもかけず、一人の男から、くどかれたのである。
「そ、それが、実験と申すか!」
真砂浦は、じろじろと、どぶを眺《なが》めやった。
すこしも腹を立てていない様子を看《み》てとったどぶは、
――河内山ともなると、流石《さすが》に、眼《がん》が狂わねえな。大奥の女中で、男に飢《う》えていねえ女は一人もいねえ、と云《い》ったが、まさしく!
と、合点《がてん》しつつ、
「てまえは、医師でございます。てまえが、目下けんめいに研究いたして居《お》りますのは、人間にとって最も大切なこと――すなわち、男女交合の秘訣《ひけつ》でございます。てまえが考えましたのは、交合の本当の悦《よろこ》びと申すものは、本能の求めるがままに、けもののように抱き合う若年の時代ではなく、男女とも、五十歳を越えて、この世に生きるということは如何《いか》なることか、と悟って、おちついた時にこそ、あじわえるものではあるまいか。この考えにより、叱咤《しった》を覚悟して、老境に入《はい》られた方々にお願いして、そのご経験を語って頂き、また実行してみて頂いているのでございます。また、それだけではあきたらず、てまえ自身も、五十を越えられたご婦人がたに、肌《はだ》を許して頂いて、ためして居るのでございます。……てまえといたしましては、すでに、若い頃に、交合の愉《たの》しみをお知りなされたお方が、五十を越えて、再び燃える例は、すでに、多く拝見して参りましたが、いまだ一度も男に肌を与えたことのないお方だけは、どうしても、お願いすることができず、悩みつづけていたのでございます。そのお方に接しない限り、てまえの研究は、片手落ちに相成ります。そこで、ついに意を決し、死を覚悟して、今宵《こよい》、このお部屋に、忍び入った次第でございます」
「…………」
「御年寄様、お願いでございます。なにとぞ、おゆるしのほどを、伏して、お願い申し上げまする」
どぶは、平伏した。
いくばくかの沈黙があった。
ようやく、真砂浦が、口をひらいた。
「たわけたことを、願うものよ。埒《らち》もない」
独語するようなその云いかたが、どぶを、心中でにやりとさせた。
「てまえは、御年寄様が、すでに五十を越えられて居りましょうとも、いまだ清浄のお肌は、二十代のみずみずしい若さを保っておいでになることを、確信つかまつります。実験とは、そのことにございます」
どぶの口説きは、成功した。
沈黙する真砂浦が、そのまま、床《とこ》の中に横たわるや、どぶは、
「では、ご免を蒙《こうむ》ります」
と云って、するすると、そのかたわらへ入《はい》ったのである。
真砂浦は、こばまなかった。
どぶは、ゆっくり、時間をかけて、この老女を、愛|撫《ぶ》することにした。
薄闇の中で、抱きかかえ、掌《て》をうごめかしてみれば、その肌は、若い女のそれと、べつだん変りもなく、なめらかであった。
痩《や》せこけた軽さも、かえって、まだ熟しきらぬ生娘の躯《からだ》に似ていた。
どぶを、にやりとさせたのは、生れてはじめて、男に身をゆだねた老女が、羞恥《しゅうち》と好奇で、四|肢《し》をこわばらせ、早鐘のように胸を動|悸《き》うたせたことであった。
――へへ、とんだ、ひろいものだぜ。
どぶは、さんざんに、なぶることに快感をおぼえたものである。
やがて、どぶが、すっと、身を退《ど》けるや、ぐったりとなっていた真砂浦が、
「あ――これ!」
と、うわずった声音で、すがりついて来た。
「こ、これだけで――一度だけで、見すてるとは、むごい」
「いえ、とんでもありませぬ。おのぞみとあれば、明晩もまた、参上つかまつります。……ただ、なにぶんにも、この大奥は、忍び入ることが、むつかしゅうございまして、この点、てまえは、いのちがけの難渋をいたしますので――」
「そのことは、こちらで、いかようにも、てだてを工夫《くふう》いたしましょうぞ。……な、明晩も、ぜひ、参ってくれますよう――」
「御年寄様――」
どぶは、殊勝げに、もう一度、その躯を抱いてやり、
「てまえが、おそれますのは、近頃噂によりますれば、この大奥では、つぎつぎと、怪しい出来事が起って居《お》り、お女中衆は、生きた心地もない、とか……。そのさなかに、てまえが忍び入りますのは、まことに、無謀きわまることでございます。いったい、なにが原因で、不祥事が起って居るのでございましょうかな?」
「噂は、尾ひれをつけるもの。なんの、大したことではない」
流石《さすが》は、大奥総取締だけに、肝心のことは、口をつぐんで、語ろうとはしないのであった。
どぶは、しかし、それが目的なので、しつっこく、問いかけてみた。
真砂浦は、男が、二度と現れぬのをおそれるあまり、ついに、負けて、
「大奥と申すところは、女子ばかりがつくっている世界ゆえ、今日力ある者をねたんで、ひきおろそうとする計りごとがなされるのは、人情であろう。これを詮議《せんぎ》するよりも、目をつむって、時が過ぎるのを待つのが、賢明であるゆえ、わたしは、知らぬ顔をしているのじゃ」
と、こたえていた。
どぶとしては、暗示めいた言葉だけでは、ひきさがれなかった。
「たとえば、どのような計りごとが、なされて居りますかな?」
「なぜ、そのようなことを、しつっこく、たずねるのじゃ?」
どぶは、契りをすませた者のなれなれしさをみせて、にやにやしながら、
「男に飢えたお女中衆が、どのような嫉妬《しっと》の炎を燃やすか――これも、興味があることでございます」
「たとえば、じゃの」
真砂浦は、云いかけて、あわてて、
「大奥内のことは、やはり、語ることはかなわぬ」
「御年寄様――」
どぶは、わざと冷やかな態度をつくると、
「てまえは、貴女《あなた》様とはもう他人ではございませぬぞ。いわば、もう夫婦《めおと》の間柄でござる」
と、云った。
この言葉に、真砂浦は、弱かった。
「たとえば――、たとえばじゃぞえ、よいな。昨日《きのう》まで、お上の寵愛《ちょうあい》を受けていた者が、今日《きょう》は、その寵愛を他の女子らに奪われて、わびしい孤独なくらしに押し込められていた、とする。その者の心に燃える憎しみは、長|局《つぼね》を焼きつくすばかりに、烈《はげ》しいものになろう。……されば、今日お上の寵愛を受けている者らを、つぎつぎと、計りごとによって、追いはらうことに相成ろう、と申すもの」
「なるほど――。うかがうところによりますれば、お滝の方様、お節の方様、そして、おみつの方様――いずれも、上様ご寵愛のお手つき方が、つぎつぎと、この大奥を去られましたのは、つまり、その――今日の不遇をかこっておいでの、あるお方のしわざ――」
「しっ! かるがるしゅう、口にしてはなるまい。……のう、それよりも、明晩にも、また、参ってたもるかえ? てだては、工夫《くふう》いたします」
どぶは、必ずやって来る、と云いのこして、その部屋を抜け出した。
夜半でも、急患があれば、その部屋まで、奥医師が入《はい》ることは許されているので、見とがめられても、申しわけはできる。まして、御年寄真砂浦を手に入れたのである。
どぶは、相当大胆になっていた。
それから、小半刻のちには、どぶは、御台所附きの「御次」たちのやすむ部屋の天井裏に、いた。
部屋には、三人の御次が、やすんでいた。
まん中にやすんでいるのが、おこのの寝顔であるのをみとめたどぶは、その真上の天井板を、音をたてぬようにずらして、小さな分銅をつけた糸を、するすると、たらした。
分銅が、額にあたると、おこのは、ぱっとまぶたをひらいた。
この合図が、どぶであることをさとるのに、ひまはかからなかった。
おこのは、忍びやかに起き上った。
いくばくかの後――。
どぶは、おこのと、舞台のある部屋で密会していた。
おこのは、顔を合せるや、すぐに媚《こび》をふくんだ声音で、
「お前さんは、罪な人だよ」
と云《い》って、からだをすり寄せて来た。
どぶは、いっぱし色男になった気分で、
「なにせ、生命《いのち》がけだからな、この逢瀬《おうせ》は――」
と、抱きとめながら、
――わるくねえ。
にやっとしたことだった。
たったいま、五十すぎの老女に色の道を教えたばかりでありながら、若い女を抱くと、そこはまた、むらむらと五体が熱して来るから、妙であった。
声をたてて身もだえるおこのを、下に眺《なが》めやりつつ、どぶは、柄にもなく、なんとなく、岡っ引|冥利《みょうり》に、くすぐったい思いをした。
女体を責めたてる時間がかかっただけに、おこのは、どうやら、階段ならば四、五段を一気にとびあがるような、一瞬の気絶状態に襲われ、どぶの肩へ、必死な爪《つめ》を立てた。
大波が引いて、ぐったりとなったおこのからはなれた、どぶ自身も、流石《さすが》に、ふうっと吐息して、しばらく、物|倦《う》く、倒れていた。
やがて、のろのろと身を起したどぶは、
「どうだい、何者のしわざか、見当がついたかい?」
と、問うた。
「およそは、ね」
おこのは、こたえた。
「有難え。……三人のお手つきを蹴《け》落したのは、誰《だれ》様だい?」
「はっきりと、証拠をつかんだわけじゃ、ありませんよ」
おこのは、どぶの手を握って、
「その前に、ちょいと、きいておくけど、わたしが、ご奉公すませて、家へもどったら、お前さん、どうしてくれる?」
「どうして、くれるとは?」
「女房にしてやる、とか――、わたしをよろこばせることを、一言きかせてくれても、罰はあたるまいよ」
「そうさな」
「女房にする気なんぞ、毛頭みじん、ありゃしないんだね、親分は――」
「この面《つら》だ。いままで、世帯を持つ料簡《りょうけん》なんぞ、これっぽちも起したことがねえんでね。……女房にしてくれ、とせがまれる光景なんざ、夢想もしなかった。こいつは、とまどうぜ」
「いいよ、判《わか》ったよ。惚《ほ》れて、わたしをくどいたわけじゃないんだから、わたしの方も、肌身《はだみ》を許したからといって、あまえはしませんよ。源十郎の娘だもの、話はわかるつもりだよ」
「すまねえ」
どぶは、頭を下げた。
「さて――、わたしが、さぐってみたところでは……」
おこのが、云い出すや、どぶは、緊張した。
「この大奥には、お手つき様が、もう一人、残っておいでなのを、ご存じかえ?」
おこのが、云った。
「知っているぜ」
どぶは、すぐに、左門からきかされた女性の名を、思い出した。
おみつ、お節、お滝――三人のお手つきのほかに、この三人の陰謀と、ある騒動によって、勢力圏外に置かれたお手つき≪ちゅうろう≫が一人、ひっそりと、大奥にくらしている、という。
おえんの方、という。
「そうか。お手つき三人を、この大奥から追っぱらったのは、おえんの方だったのか。おめえのにらんだところは、そうなんだな?」
「まちがいありません」
「しかし、おえんの方が、やったとしても、直接手を下したわけじゃねえ。おえんの方には、誰《だれ》か、強い味方がいて、そいつが、ワナを仕掛けたに相違ねえ。そうだろう?」
「わたしも、そう思うけど……、おえんの方の片腕が、だれか、ということまでは、まだ、わからない」
「見当がつかねえか。おえんの方が、むかし可愛《かわい》がっていた女中で、いま出世して御|目見《めみえ》になって、大奥を自由に歩きまわれる者とか――」
「さあ?」
「実は、おれは、吹上をうろうろしているところを、伊賀者に発見されて、追いつめられ、こいつを、必死で、当て落したのだ。ところが、奇っ怪|奇天烈《きてれつ》なことには、おみつの方が素裸で抱き合っていたのが、その伊賀者だったのよ。……つまり、おれが、大立ちまわりをしているところを、物|蔭《かげ》から見ていやがって、伊賀者がぶっ倒れると、それを長|局《つぼね》へはこんで来て、ねむり薬を飲ませたおみつの方と、抱き合せた、ということだ。こんな手間をかけて、騒動を起させることのできるのは、そこいらの下っ端《ぱ》じゃねえ。この大奥の隅《すみ》々まで知りつくしている奴《やつ》だからこそ、やってのけられるしわざだアな。……おこのさん、ひとつ、見当つけてくれ。たのむ」
「そういわれても、わたしは、御次になりたての、それも、芸事でお役に立つだけの御次なので、なにかの用事にかこつけて、おえんの方に近づくことが、できないのでねえ。おえんの方が、だれを、内緒の味方につけて、敵《かたき》を討っているのか、とても、つきとめられやしない。……それに、もう、お手つき様三人を片づけてしまったので、満足なさっているだろうから、もうこの上は、異変は起らないのじゃなかろうかねえ」
「こうなりゃ、おえんの方の部屋の天井裏へ張り込んで、どんな奴が、そっと近づいて来やがるか、待っているよりほかにあるめえ」
どぶが、そう云った時、おこのが、
「あ――ちょうどいい機会があります」
と、云った。
「なんだえ?」
「明後日は、内緒狂言が催されます。おえんの方も、見物されるゆえ、その様子をよく観《み》ていれば、味方が誰か、わかるかも知れない」
その内緒狂言では、さいわい、おこのが抜擢《ばってき》されて、娘道成寺の白拍子花子を踊る、という。
成駒屋写しの所作と、能そのままに、「鐘入り」をやるので、前評判が高く、御台所もごらんになるはずであった。
大奥の娯楽といえば、吹上の花見、内緒狂言、長|唄《うた》、常磐津《ときわづ》、清元、義太夫、香合せ――せいぜい、そんなところであった。
このうちで、女中たちが愉《たの》しみにするのは、狂言であった。
当時、江戸市民の最大の娯楽といえば、芝居見物であり、御殿女中たちも、春の宿下りには、衣裳《いしょう》をかえて、こっそり中村座や市村座の鼠木戸《ねずみきど》をくぐっていた。
したがって、大奥にいても、今月は、市村座は、一番目が幸四郎の千本桜、二番目が菊五郎の法界坊、大切《おおぎり》は半四郎が踊る、などと噂《うわさ》して、その舞台が見られぬつらさが、かえって、女中たちを夢中にさせているあんばいであった。
そこで――。いつの頃からか、大奥内では、女中たち自身の手によって、狂言が演じられるようになった。
まさか、役者を呼ぶわけにいかぬので、遊芸に精通した御次たちによって、中村座や市村座や守田座の舞台が模倣され、女中たちは、≪ほんもの≫をしのんで、愉しむことにしたのである。
いわば、現代の宝塚歌劇である。
内緒狂言、というのは、将軍家が、遠御成(日光参拝とか、鷹狩《たかが》りとか、上野寛永寺参|詣《けい》とか――)の場合に限って、許されるからであった。
将軍家が、江戸城へ還《かえ》って来ると、内緒狂言は、ただちに中止された。歴代の将軍家で、芝居など観《み》た人は一人もいなかったのである。
内緒狂言は、年に三、四回催されるが、これが大変な物入りであった。
一回すくなくとも千両の費用を要した。
御次たちが、この年評判の狂言を三座で見物して来て、それをそのまま――大道具、小道具、衣裳、鬘《かつら》を新調して演じたからである。
千代田城内に入って、生涯一歩も市中へ出ることなく終る御台所はじめ、≪じょうろう≫、御年寄、≪ちゅうろう≫などの女性にとって、話のみにきく歌舞伎狂言を、せめて、役者ならぬ女中たちを代用として見物することは、たしかに、最大の愉しみになったろう。
場所は、御鳴物所と呼ばれている、この舞台のある広間であった。
この御鳴物所は、平常は、謡曲、長唄などが、しばしば催されるのであった。
はじめのうちは、三の間の畳をあげて、檜《ひのき》の板を敷きつめて、舞台にしていたが、近頃では、芝居小屋そのままの舞台が設けられ、紫と白との竪接《たては》ぎの縮緬《ちりめん》幕が、引かれていた。
出し物は、御台所の好みにしたがって決められるのであったが、実際は、こっそり芝居小屋にかよった≪ちゅうろう≫が、御台所につたえて、面白いのを決めた。もとより、下品な狂言は、除かれた。
「女というものは、身勝手なもの……」
おこのは、もう一度、どぶに抱いてくれることをせがみながら、云った。
「白拍子花子を踊るように、と命じられた時には、天にも昇《のぼ》る心地がしたくせに、親分とこうなってみると、踊りなど、もうどうでもよくなって、親分が忍んで来てくれる夜ばかりを待ちこがれるようになりましたぞえ」
「生れてはじめて、女に待ちこがれさせる身になったというわけか。有難え話だ。おれの方が、天にも昇る心地がするぜ」
「おねがい! わたしをすてないで――」
おこのは、急に、狂おしく身もだえして、どぶの口へ唇《くちびる》を吸いつけた。
こんどは、流石《さすが》に、どぶも、女体を愛撫することは、相当つらかった。
ようやく、おこのを満足させておいて、どぶは、
「狂言には、ひとつ、おれも、黒子をつとめることにするかね」
と、云った。
「あ、それは、いい思いつきだこと。黒子になって、顔をかくしていれば、わかりゃしませんよ」
どぶは、天井裏に、もどった。
――さて、と。
どぶは、闇《やみ》の中で、つるりと顔をなでた。
――内緒狂言までは、おえんの方の部屋をのぞきおろして、時間をつぶすか。
どぶは、のそのそと、移動しはじめた。
移動しながら、
――面白くなって来やがった。もうすぐ、下手人の化《ばけ》の皮を剥《は》いでくれる。
と、自分に云いきかせていた。
途中、灯のある部屋があったので、どぶは、のぞいてみた。
初老の女性が、二人、ひそやかに、額をつきあわせて、語っているのが、見えた。
その衣|裳《しょう》で、御年寄ということが、すぐ判《わか》った。
机の上には、おびただしい書類が積まれて居《お》り、老女たちのまわりにも、散らばっていた。
「……やはり、おえんの方を、もとへもどすことに――という御意見か?」
一人が、対手《あいて》の顔を見つめながら云うのを、どぶは、ききとった。
「それが、いちばん、無難に存ずるが……」
「お人柄を考えて下され。性がわるい」
「お前様は、どうしても、新しいお手つきをつくるご意見を、かえられぬか?」
「それが、上様のご安泰と申すもの」
二人の御年寄は、どうやら、将軍家の伽《とぎ》をする≪ちゅうろう≫の品《しな》さだめに夜|更《ふ》けまで、時間を費している模様であった。
一人は、おえんの方を再び将軍家に呼ばせようとし、もう一人は、女中たちの中から新しいお手つきを出そうとしている。
お手つき≪ちゅうろう≫三人がいなくなった大奥では、どうしても、そのいずれかをえらばざるを得ないのであった。
――なるほど。おえんの方は、これを待ちのぞんでいたわけだ。しかし、新しいお手つきがえらばれたとなれば、おえんの方が、黙ってひき下っているわけはねえ。
十一
辰刻《たつのこく》(午前八時)――。
御鳴物所の広間には、三百余の女中が、整然とならんで、紫と白の幕が、するすると引かれるのを、息をつめて見まもった。
御簾屏風《みすびょうぶ》の中には、御台所が出座していた。その左右に、≪じょうろう≫、≪ちゅうろう≫が、居ながれていた。
≪ちゅうろう≫の中には、おえんの方も、交っていた。
引き寄せられた幕の蔭《かげ》に、黒子が一人、目立たぬように、うずくまっていたが、これが、どぶであった。
――ははあ、あれがおえんの方か。
いかにも、影うすい、はかなげな容子《ようす》であった。
――虫も殺せぬ女子《おなご》に見えるがなあ。もし、あの女が、こんどの異変の下手人なら、内面如|夜叉《やしゃ》ってえのは、このことだ。女が、どんなにおそろしいか、この目で見とどけたことになるんだが、こいつは、信じたくねえぜ。
華《はな》やかな道成寺の舞台が、くりひろげられていたが、どぶは、おこのが踊る姿を、時折りちらりちらりと見やるほかに、終始おえんの方へ、鋭く注意をはらっていた。
おえんの方の様子は、すこしも変らなかった。
全くの無表情であった。
やがて――。
白拍子花子の姿が、鐘の中にかくれた。
その時、はじめて、おえんの方が、ちょっと、身をのり出すようにした。
べつに怪しむべき仕草でもなかった。
どぶは、観察しているうちに、おえんの方が、どうしても下手人とは思えなくなっていた。
――あんな優しそうな、女の美しさだけをそなえている女性《にょしょう》が、毒蛇《どくじゃ》のようなおそろしい復|讐《しゅう》を企《たくら》むものとは、どうしても思えねえ。おれは、とんでもねえカンちがいをしているのじゃねえのか。
自分に呟《つぶや》いた折であった。
突如、魂消《たまげ》る悲鳴が、舞台から起った。
はっとなって、どぶが、そちらへ視線を向けると、鐘が徐々につりあげられようとしていた。
その鐘の下をのぞいた黒子の一人が、悲鳴をあげたのである。
――あっ!
どぶも、胸のうちで、叫んだ。
鐘の下には、白拍子花子が、仆《たお》れていた。
どぶは、とっさに、幕をさあっと引いた。
そして、そこへ馳《は》せ寄ってみたが、すでに、おこのは死体となっていた。
かっと双|眸《ぼう》をみひらき、後《あと》ジテの蛇身になった長い黒髪を、おのが頸《くび》にまきつけていた。その死顔には、驚|愕《がく》と恐怖の色が、凍《い》てついていた。
――殺された!
舞台を右往左往する女中たちの中で、どぶは、勃然《ぼつぜん》たる憤怒《ふんぬ》に駆られつつも、せわしく、この意外な異変がどうして起ったか、判断しょうとした。
――そうだ! 鐘の中だ!
十二
しかし――、
その鐘の中には、人間はもちろんのこと、なんの怪しい仕掛も、かくされてはいなかった。
おこのが、鐘の中で殺されたことは、疑う余地はなかった。自分で自分の頸《くび》を、黒髪で締めたはずはないのだ。
しかし、いかなる手段で、殺されたのか、皆目《かいもく》見当もつかなかった。
この困惑が、どぶを、いら立たせた。
さいわい、黒子姿なので、あやしまれる心配がなく、舞台からいそいで去らねばならぬことはなかった。
どうかして、この可哀《かわい》そうな死体から、下手人の手がかりをつかもうと、どぶは必死になった。
と――。
どぶは、その頸に巻きついた黒髪から、仄《ほの》かにただよう香をかいで、
――はて?
と、小首をかしげた。
――この匂《にお》いは、以前に、かいだことがあるぞ!
しかし、その時は、とっさに、思い出しそうもなかった。
そこへ、御坊主円喜が、死体をとりかたづけるべく、御半下を数人ひきつれて、あわただしく、入《はい》って来た。
円喜の鋭い目には、この黒子が男であることを看破されそうな気がしたので、どぶは、さりげなく、衣裳《いしょう》部屋へのがれて、そこから、天井裏へもどった。
――あの匂いは?
どぶは、腕を拱《こまね》いて、考え込んだ。
――ただのびんつけ油じゃなかったが……?
「おっ!」
どぶは、思わず、声をあげた。
――思い出したぞ! あれは、向島の墨堤下の小屋で殺されていた、駿河屋の姉娘お志野のあたまから、匂っていたやつと、同じだぜ!
どぶは、胸が、おどった。
この香は、大奥女中のうち、誰《だれ》もそのあたまにつけていないことは、どぶは三度も忍び込んでいながら、一度もかいで居《お》らぬので、あきらかであった。
花見の町娘がつけているのをかいだあと、いま、おこののあたまから、かいだのである。
すなわち、殺された二人の若い女のあたまから匂っていたことは、この香に、なにか、重大な秘密がある証拠ではあるまいか。
――畜生! なんとも、じれってえや。どぶは、あたまを、かかえた。
その香が猛毒ならば、おこのは、踊っている最中に倒れたに相違あるまい。げんに、かいだどぶ自身、なんともない。ほんのすこしの頭痛もせぬ。
「わからねえ!」
思わず、うめいた――とたん、どぶは、はっと思い出した。――そうだ! お志野の妹のお園が、この大奥でお目見《めみえ》になっている!
秘密の鍵
どぶが、お園をつかまえるのに、三日かかった。
お園に、急病といつわらせて、お使番の詰所である番部屋へ来させ、どぶは、御広敷見廻りの医者の手代とみせかけて、入った。
「姉のお志野の仇討《あだうち》をしてやる」
その封じ文が、お園を、番部屋へ来させたのであった。
どぶは、診察するようなふりをしながら、お園に問うた。
「内緒狂言で、鐘の中で殺されていたおこのという女中は、実は、本所の岡っ引源十郎親分の娘でね、あっしの味方になっていた。つまり、あっしの味方になっていることが、敵に露見して、殺されたに相違ねえのだ。……ところで、あの時、おこののあたまにつけられていた髪油だが、あれは、お前さんの姉のお志野さんが殺された時、そのあたまから匂《にお》っていたやつと、同じだった。あれは、ただの髪油じゃねえ。お前さんは、油問屋だから、わかるだろう?」
「はい」
「思い当ることがあったら、かくさずに、教えてもらいてえ。仇を討つ手がかりになるのだ」
お園は、ちょっと考えていてから、
「あれは、安南から渡来した白檀《びゃくだん》香油でございます。長崎のオランダ商館から、わたくしの店にだけ、送られて来る品で、ほかの店にはありませぬ」
「そうか! それで、どことどこへ納めているんだ!」
「京の御所と、この大奥へ――」
「御台所にか?」
「いえ、おえんの方様にだけ、お納めして居ります」
お園は、語った。
あの日――向島墨堤での花見に、おえんの方も、女中衆を多勢ひきつれて、やって来ていた。
駿河屋の長女お志野は、そこへ、挨拶《あいさつ》に行くにあたって、いままで納めていた白檀香油よりも、もっと匂いのいい品が、長崎からとどいたので、それをあたまにつけて、おえんの方の前に罷《まか》り出たのであった。
そのあとで、お志野の姿が見えなくなり、いつの間にか、あの小屋で殺されていたのである。
「そうか! 大奥では、おえんの方だけが、あの髪油をつけているのか!」
どぶは、にやりとすると、
「これで、謎《なぞ》の扉《とびら》をひらく鍵《かぎ》が、手に入りやがったぜ」
と、云った。
「あの……姉を殺したのは、あの小屋にいた非人では、ないのでしょうか?」
「ちがうね。非人は、殺されているお志野さんを見つけて、むらむらとなって、いたずらをしかけていたのよ。殺した奴《やつ》は、べつにいた」
「…………」
お園は、息をのんだ。
「下手人は、すなわち、おえんの方――というわけだが、どうして殺したか、そいつが、まだ見当もつかねえ」
下手人は、おえんの方だ、と断定してみたものの、どぶは、すぐそのあとで、自信がぐらついた。
どう考えても、おえんの方に、お志野を殺す動機がないのだ。
――なにかの手ちがいで、お志野をあやまって殺した、とも考えられるが……?
いずれにしても、あの特殊な安南製の白檀《びゃくだん》香油が、うちつづく奇怪な異変の謎《なぞ》を解く鍵《かぎ》になっていることは、まちがいないように思われる。
――おえんの方を、とっつかまえて、しめあげることが、許されねえんだから、こいつは、待つよりほかは、ねえわさ。ひたすら、天井裏で待つ一手だ。なんともはや、こんな間抜けた話はねえが、どうしようもねえやな。
どぶは、念のために、三日|経《た》ったら、もう一度、ここへ来てくれ、とお園にたのんでおいた。
お志野が、何かの憎|悪《お》で、殺されたとすれば、その妹のお園もまた、生命《いのち》をねらわれるに相違ない、と想像されたのである。
それから、三昼夜――。
どぶは、まことに、根気よく、おえんの方を、天井裏から観察しつづけた。
しかし、なんの怪しむべき振舞いは、ひとつも、なかった。
どぶは、そのろうたけた美しい姿を、眺《なが》めれば眺めるだけ、この女性《にょしょう》を下手人だと断定したことが、とんでもないあやまりのような気がしてならなかった。
部屋子たちの扱いかたも、やさしかったし、また家来たちも、おえんの方に心服しているようにみえた。
挙措動作の美しさは、たぐいのないものに見えたし、声音のきれいさ、しとやかさは、心からのものと思われた。
――なにもかもが美しさにつきている、こんなとびきりの佳人が、性根だけが曲っているなんてえことが、いってえ、あるのかい。本当にそうなら、神様は、よっぽど、臍《へそ》まがりということになるぜ。それとも、神様でも、時には、失敗するということになるのか。うっかり、まちがって、毒婦に入れる性根を、こっちに入れちまったことになるぜ。
どぶは、首をかしげざるを得なかった。
部屋子が一人、粗相して、花|瓶《びん》をとりおとして、花と水を畳にまいてしまったのを目撃しても、おえんの方は、やさしく、
「大事ない」
と、とがめようとはしなかった。
その光景を、覗《のぞ》きおろした時、どぶは、
――どうでも、こりゃ、こっちの眼《がん》が、狂っている、としか考えられねえ。
と、腕を拱《こまね》いてしまった。
しかし――。
どぶは、町小路左門から信頼された岡っ引であった。自問自答は、くりかえしたが、さりとて、そのために、おえんの方は、下手人ではない、ときめて、ひきさがることはしなかった。
疑惑は、なお、そのまま、のこした。
三日後――。
どぶは、ふたたび、御鳴物所の衣裳納戸《いしょうなんど》で、お園と会った。
「この三日のあいだ、なにか、お前さんの身に、変ったことは、ありませんでしたかい? 生命《いのち》をおびやかされるようなことが――?」
そう問われて、お園は、
「いえ、べつに、ございませんでした」
と、かぶりを振った。
「なんでもいい。どんなつまらねえ小さな事柄でも――」
かさねて、どぶからきかれて、お園は、
「あ――そう申せば……」
「それ、なにかあったろう?」
「いえ、ほんのつまらないことなのですけど――」
「どんなことが、起ったね?」
「わたくしは、うっかりして、針を失《な》くしたのでございます」
お園は、お目見《めみえ》になってから、呉服の間詰めになっていた。
この呉服の間に於《おい》ては、針が一本失くなると、騒ぎになるのであった。
それが出ないうちは、白|洲《す》――庭の小|砂利《じゃり》まで、丹《たん》念にさがさなければならなかった。
そして、針を探《さが》しているあいだは、その日着ていた衣裳を脱ぐことは許されず、めいめいの部屋へも戻ることは禁じられた。もちろん、着ている衣裳は、すべてしらべられ、全員が一糸まとわぬ素裸になったのである。
呉服の間の針の数は、きちんとかぞえられていて、縫物がすむと、針|函《ばこ》へかえすのであったから、たった一本失くなっても、これが出て来るまでは、絶対に許されないのであった。
お園は、針を失くすということが、それほど大変なことだとは、知らなかったので、
「あら――一本、どこかへ、失くしました」
と、云って、見まわしたものだった。
朋輩たちは、たちまち、顔色を変えた。
大いそぎで、探しはじめたが、どこにも落ちて居《お》らず、お園は、ついに、自分から衣裳を脱いで、しらべるはめに陥《お》ちた。
お園が、当惑して、たちすくんでいると、呉服の間の頭《かしら》が、冷やかに、
「もし、針が見つからぬ時は、そなたは、どのような詫《わ》びをしなければならぬか、ご存じか?」
と、睨みつけた。
「いえ、存じませぬ」
「二布《こしまき》もはずした裸身で、お庭へ降りて、白洲の砂利を一粒一粒つまみとる探しかたを、朝から昏《く》れがたまで、しなければなりませぬぞ!」
お園は、そう云われて、あっとなり、気が遠くなった。
一|刻《とき》以上も探しつづけて、ついに、針は見当らなかつた。
お園は、観念しなければならなかった。
そこへ、入って来たのは、御坊主円喜であった。
円喜は、事情をきくと、自ら指揮して、あらためて、部屋中をさがさせた。
必死になって探《さが》しつづけているお園のそばへ、円喜が寄って来た。
円喜の手が、自分の手にふれたので、お園は、そっと身を引こうとした。とたん、円喜の手から、お園の手へおとされたのは、一本の針であった。
それが、失《な》くした針でないことは、明らかであった。
それは、円喜の心づかいであった。
このおそろしい顔つきをした、大奥の蔭《かげ》の実力者に、このような慈悲があろうとは――。
お園は、文字通り、地獄で仏に出会った蘇《そ》生の悦《よろこ》びを持った。
針紛失の件は、ぶじに解決し、円喜は、そ知らぬ顔で立ち去った。
お園は、そのあとで、円喜の部屋へ礼を述べに、おもむいた。
円喜は、にこりともせず、
「新参は、大事と知らずに、粗相をするもの。爾《じ》後、かまえて、落度をいたさぬよう、心掛けませい」
と、注意した。
お園が、幾重にも感謝して、辞去しようとすると、円喜は、ふと気がついたように、
「そなたの姉は、墨田の堤で、花見の折、非業の亡《な》くなりかたをした由、お気の毒でありましたな」
と、なぐさめた。
お園にとって、大奥にあがって、はじめて出会った親切な目上であった。
「ふむ!」
話をきいて、どぶは、うなった。
「あの御坊主がねえ、そんな親身のかばいかたをしてくれましたかい」
「はい」
「人は見かけによらねえものだ」
どぶは、円喜と霊気問答をした時のことを、思い出した。
あの時、どぶは、長|局《つぼね》には、怨霊《おんりょう》がいる、とにおわせた。すると、円喜も、どうやら、怨霊の存在を信じている様子で、わざわざ、どぶを畳蔵へともなって、その霊気の働きを試《ため》したものであった。
どぶは、まことしやかに動きまわって、見当つけた畳を、これが怪しい、と指さしたりした。
円喜は、どうやら、ずっと以前に、女中が殺された異変を、どぶに、かぎ出させようとするかに思われた。
どぶが、古畳の山の前で、へたへたと坐《すわ》り込んで、念仏をとなえる大芝居を打ってみせると、円喜は、その一枚をそっと撫《な》でて、なにやら、深い仔《し》細のある記憶をよみがえらせる態度を、示したことであった。
――円喜は、もしかすれば、自分の可愛《かわい》がっていた女中が、針一本失くしたために、いびり殺されたのを思い出して、お園の危急を救ったのかも知れねえ。
それにしても、あの鋭い眼光と冷たい表情を持った御坊主に、そんななさけぶかさがあろうとは、意外であった。
信じられないくらいであった。
それから、数日、何事もなく過ぎた。
その何事もなく過ぎるあいだに大奥では、重大な事柄が、決定した。
将軍家のお手つき≪ちゅうろう≫を、つくることであった。
≪じょうろう≫ならびに御年寄が、協議のすえ、五代将軍綱吉の時代になされた前例にしたがうことにした。
すなわち――。
将軍家が、吹上御苑を散策のついでに、いくつかの四阿《あずまや》に、えらび出した女中を接待に置き、将軍家に、気に入った娘がいれば、黙って扇子を渡して頂く、という趣向であった。
吹上には、まだ八重桜が咲きほこっていた。
うららかに晴れた午前のひととき、将軍家は、お附《つ》き≪じょうろう≫三人ばかりをつれて、そぞろ歩きに出た。
その結果――。
将軍家に、扇子を手渡されたのは、二人の女中であった。
御三之間のお幸。
呉服之間のお園。
この二人であった。
お幸、お園の願い親の中年寄は、有頂天になった。
願い親としては、大奥内で、自分の権力をつくる唯一絶好の機会が来たのである。
お手つきとなって、将軍家の寵愛《ちょうあい》を得れば、願い親の中年寄は、やがて、御年寄に出世できるのである。
それぞれの願い親たちは、お幸、お園に対して、言葉づかいまであらためて、
「吟味に叶《かな》いまするよう、心しませ」
と、こぼれんばかりの笑顔で、云ったことだった。
吟味――すなわち、将軍家附きの≪じょうろう≫と、御年寄たち、そして将軍家|御匙《おさじ》である大奥医師の立ちあいで厳重な身体検査がなされて、はじめて、将軍家の寝《しん》所へ送られることになるのであった。
吟味は、その日のうちに、とりおこなわれた。
どぶは、その光景を、天井裏から、眺《なが》めおろしたが、なんとも、吟味される娘にとっては、堪《た》えがたい侮辱行為であった。
一糸まとわぬ素裸にして、まず、褥《しとね》の上で、さまざまの肢《し》態をとらせた挙句《あげく》、犬のように四|匐《ばい》にさせ、医師が、うしろより、その秘部を、丹《たん》念に覗《のぞ》いて、不具でないことをたしかめた。
天井裏のどぶは、あまりの侮辱に、むかむかとなった。
――吉原の女郎だって、買われて来た時、こんな調べかたをされねえや。全く、冗談じゃねえ。こんな吟味をされた女子を、抱かされる上様自身、木偶《でく》にされたことにならあ。おれは、将軍家にしてやる、と云われても、まっ平ごめんだぜ。
心から、そう思わざるを得なかった。
御匙は、診察を終えると、
「不足なく、ととのわれ、祝着に存じます」
と、告げた。
どぶは、その言葉をきいて、あうやく、噴飯《ふきだ》すところであった。
お幸には、お滝の方が住んでいた部屋が与えられた。
お園には、お節の方が住んでいた部屋が与えられた。
「さあ、いそがしくなって来やがったぞ!」
どぶは、天井裏で、独語した。
どぶの予感としては、お幸、お園の二人が、将軍家の寝《しん》所に入《はい》って、ぶじにお手つきになるとは、考えられなかったのである。
――その前に、必ず、邪魔が入るぞ!
この予感は、的中するに相違ないと、どぶは自分に云《い》いきかせたのである。
お幸、お園は、いずれがさきに、お手つきになるか――それは、願い親の中年寄たちによって、籤《くじ》が引かれて、きめられた。
お幸が、さきになった。
さっそく、今宵、お幸は、将軍家の寝所に行くことになった。
そこで、どぶは、お幸を天井裏から、見守ることにした。
お手つき≪ちゅうろう≫が、将軍家の寝所にいくのは、将軍家が御寝《ぎょしん》になって、半|刻《とき》後ときめられていた。将軍家は、戌《いぬ》刻(午后八時)に褥《しとね》に入る。したがって、≪ちゅうろう≫は、戌下刻に、そこへおもむく。
それまでに、からだをきよめる。
その宵は、夕食を摂《と》らぬ。口臭を避けるためである。
一刻前に、入浴する。
ふつう、入浴は、朝であるが、その日に限って、陽《ひ》が落ちてから、もう一度、入るのであった。
湯殿は、御台所のそれに準じて、高麗|縁《へり》の八畳敷の脱衣所につづいて、五坪ばかりの板敷き(流し場)であった。
当時、江戸城はもとより、大名屋敷でも、浴|槽《そう》は、下から焚《た》いて沸かすのではなかった。
女中たちが、いくつもの大きな玄蕃《げんば》(桶《おけ》)で、熱湯と冷水をはこび、浴槽に入れて、加減をととのえるのであった。
したがって、板敷きの一方には、予備の熱湯桶が、ならべてあった。
お幸は、陽が落ちると、湯係りの部屋子の案内で、湯殿に入った。
その時、おえんの方の使いが、やって来て、
「お祝いのしるしに――」
と、云って、舶来のシャボンを、置いて行った。
これは、当時としては、貴重な品であった。ふつうは、白い真岡《もうか》の袋に糠《ぬか》を入れて、からだをこすったのである。
部屋子は、シャボンの包みをひらいて、
「いい匂《にお》いでございます」
と、さし出した。
もとよりお幸の知るところではなかったが、その匂いは、殺されたお志野、おこのがつけていた髪油のそれと、同じであった。
「ほんに、いい匂いですこと――」
お幸は、悦《よろこ》んだ。
衣|裳《しょう》をそこに脱いで、お幸は、裸身を、板敷きにはこんだ。
どぶは、浴|槽《そう》に沈んで、じっと俯向《うつむ》いているお幸を、天井裏から見おろしながら、
――やっはり、人身御供だな、これア。
と、思った。
将軍家のお手つきになる、ということは、たしかに光栄にはちがいないが、こういう手順を眺《なが》めていると、どうしても、あわれな犠牲者としか、受けとれぬのだ。
襷《たすき》をかけ、裾《すそ》をたくしあげた部屋子が、入《はい》って来た。
「おからだを、お洗いいたしまする」
「いえ、自分で洗いますゆえ……」
「さだめでございます」
女中は、前からこの部屋|附《つ》きなので、あたらしく主人になったお幸に対して、いささか反感を抱《いだ》いている様子であった。
お幸は、しかたなく、浴槽からあがって、板敷きに坐《すわ》った。
部屋子は、そのせなかを流しながら、
「これからは、ご自身でお洗いなさいませぬように、願い上げます。これは、わたくしのつとめでございます」
と、云った。
その時――。
――はてな?
天井裏のどぶが、はじめて、鼻翼をひくつかせた。部屋子が、お幸のからだを洗うのが、糠《ぬか》ではなく、別のものであり、その香が、ただの匂《にお》いではないのに、気がついたのである。
――こいつは、いけねえ
どぶは、狼狽した。
――あの匂いだ!
――どうしよう!
どうすべくもない、こっちは、天井裏の鼠《ねずみ》なのだ。姿を現わすことは、許されぬのだ。
――この匂いが、生命《いのち》取りなんだ。なんとか、知らせる方法はねえか?
こんなじれったいことはなかった。
その香は、にわかに、湯殿中にひろがった。
どぶの胸中には、不安がひろがった。
はたして――。
不意に、高窓の玻璃《はり》戸が、ばたんと音たててひらいた。
夜風が、吹き込むとともに、燭《しょく》台の百目|蝋燭《ろうそく》の焔《ほのお》が、ふっと消えた。
ただでさえ湯気がたちこめて、仄《ほの》暗い湯殿が、突如として、闇《やみ》になった。
「おっ!」
どぶは、思わず、小さな目を皿《さら》にした。
お幸か、部屋子か、どちらかが、ひいっと、鋭い悲鳴をほとばしらせた。
どぶは、なにか、黒いものが、高窓からとび込んで来たように思ったが、目の錯覚かも知れなかった。
一人が、ころびながら、脱衣所へ遁《のが》れたが、どうやら、部屋子のようであった。
どぶは、なにか、闇に光る冷たい刃もののようなものを、みとめたような気がした。
再び、悲鳴があがった。
黒いものが、高窓へ、とびあがった。こんどは、はっきりとみとめた。
魔物としか考えられなかった。
三度目の悲鳴が、闇《やみ》をつらぬいた。
どぶの耳には、それが、断末魔のもののようにきこえた。
裸身でのたうちまわるうちに、いくつかの湯|桶《おけ》をひっくりかえす音とともに、その悲鳴は、あがったのである。
部屋子が、叫びたてながら、手|燭《しょく》をかかげて、走り込んで来た時、その裸身は、死んだようにぐったりと俯《うつ》伏していた。
「ああっ!」
部屋子は、お幸の肌を一|瞥《べつ》して、へたへたと、その場へ、坐《すわ》り込んでしまった。
予備の玄蕃《げんば》には、指もつけられぬほどの熱湯がたたえられてあったので、それをひっくりかえして、全身にあびたお幸は、正視のできぬ火傷を負うてしまったのである。
天井裏からも、その肌が、みるみるうちに、水ぶくれになるのが、みとめられた。
なんとも、いたましい姿であった。
――やれやれ!
どぶは、吐息した。
――やっぱり、あの匂《にお》いは、ただの香料じゃなかったぜ。人殺しを呼ぶ匂いだったのだ。
――そうだ!
どぶは、合点《がてん》した。
高窓から、躍《おど》り込んで来たのは、魔物じゃなくて、狂暴な生きものだったのだ。
――ひどく小さかったが、もしかすれば、奥山や両国|垢離《こり》場の小屋に出ていやがる軽業《かるわざ》の小人だったかも知れねえ。そいつを使って、次々に、女中や≪ちゅうろう≫を殺しやがったのだ。
おそらく、智能のひくいその小人は、どんな遠くからでも、あの匂いをかぎわけて、そこへ近づいて来られるように訓練されているに相違ない。
小人は、躍り込むなり、短刀で突こうとした。
シャボンに濡《ぬ》れたお幸は、板敷きをこけつまろびつ逃げまわって、熱湯の玄蕃にぶりつかり、ひっくりかえしたのだ。
小人もまた、熱湯をあびて、あわてて、遁走したに相違ない。
敵の目的は、お幸を、将軍家の寝所へ行かせなければ、達せられるのだ。殺すのが、目的ではないのだから、これは、まことに上首尾であった、ということになる。
どぶが、そのように推理しているあいだに、願い親の中年寄が、駆け入って来て、この無惨なさまに、仰天していた。
「なんということを!」
顔も、胸も、背中も、臀《でん》部も、いたるところ水ぶくれになったお幸は、もはや、つかいものにならぬのだ。
中年寄の野望は、一瞬にして、ついえたのである。
お幸が、お褥《しとね》おことわりの身になった以上、どうしてこうなったのか、部屋子を訊《じん》問してもしかたがないと、冷酷さをむき出した中年寄は、
「宿下りじゃ!」
ヒステリックに、叫んだことだった。
どぶは、大急ぎで、お園に与えられた部屋へ、移行しなければならなかった。
お幸の火傷《やけど》で、急|遽《きょ》、今宵の伽《とぎ》をお園に代える、という融通は、長局《ながつぼね》には、なかった。
そこは、都合よく、徳川将軍家も十二代ともなれば、一年三百六十五日、さがせば、いくらでも、その日を忌《い》み日にする口実があった。
「今宵は、何代様の御命日にあたりますれば、お伽の儀は、遠慮申し上げまする」
そうことわられると、将軍家は、イヤとは云えなかった。
お園は、それから三日後に、将軍家の寝所へ入ることになった。
どぶは、お園が一人で部屋にいる時、そっと封じ文《ぶみ》を落した。
入浴の際、もしおえんの方から、例の安南製の白檀香油をまぜたシャボンを贈って来たら、絶対に用いないように、と注意したのである。
もっとも、敵は、二度と同じ手はつかわぬに相違ない。
――こんどは、どういう襲いかたをするか!
見当がつかなかった。
「よし! ひとつ、当ってくだけるか」
どぶは、一策を思いついた。
いったん、城をぬけ出したどぶは、次郎吉に、一役をたのんだ。
心得た次郎吉は、贋《にせ》奥医師に化けて、どぶを手代にして乗り込んだ。
番部屋(お使番詰所)に入ると、
「お坊主円喜殿に、お目にかかりとう存じます」
と、申し入れた。
ほどなく、円喜が、一人で入って来た。
どぶは、わざと、次郎吉の背後にかくれるようにして、平伏していた。
円喜は、座に就《つ》くと、
「べつに、診《み》てもらわなければならぬほど、加減はわるくはないが……」
と、冷やかに、云った。
「いえ、本日|罷《まか》り出ましたのは、診療の儀ではありませぬ。実は、これに控えまする者が、妙なことを申しますので、一応おたずねしてみようと存じまして――」
次郎吉は、将軍家御|匙《さじ》の丸山照庵の代診と称して、やって来たのである。
どぶは、円喜の視線を感じて、顔をあげた。
「お――そなたか!」
円喜は、眉宇《びう》をひそめた。
どぶは、この前は、畳屋職人として円喜に会っていた。したがって、畳替えがおわれば、長局に出入りすることが、できぬ。そこで、この奥医師にたのんで、つれて来てもらった、とみせかけたのである。
「なんの用じゃな?」
「へい。まことに、申すもはばかることでございますが、ちょっと、お耳に入れたき儀がございまして――」
どぶは、殊勝な表情をつくって、次郎吉の脇《わき》へ、進み出た。
「申してみよ」
円喜の眼光は、鋭かった。
どぶは、まことしやかに、述べはじめた。
「実は、先日、日本橋の油問屋駿河屋へ、畳替えに参りました際に、てまえ、そのう……貴女《あなた》様が申される霊気を、感じたのでございます。……すでにご存じのことと存じますが、駿河屋の姉娘は、先月、向島で花見の折、非業の最期を遂げて居《お》ります。その妹娘の方は、このたび、この大奥へご奉公に上り、お目見《めみえ》をすませ、うかがえば、いよいよ、上様にお召出しになる、とか――。畳替えは、姉妹の居間であった部屋でございましたが、畳を裏庭へかつぎ出そうといたしますと、例の霊気に、ふれたのでございます。足がすくんで、背すじが、ぞうっとなり……それは、もう、なんともいえぬおそろしさをおぼえて……」
「…………」
円喜は、黙って、口を一文字にひきむすんだままであった。
次郎吉が、これもまことしやかに、口を添えた。
「この男が、顔色を変えて、たずねて参り、是非とも照庵先生にお目にかかって、お話申し上げたい、とたのみますので、てまえが代って、会ってみますと、大奥へご奉公にあがった駿河屋の妹娘に、必ず異変が起るゆえ、宿下りをさせるように、照庵先生から、とりはからって頂けぬか、と必死に申すのでございました。なにをたわけた世迷言《よまよいごと》を申すものか、と笑いすてようといたしますと、この男は、御坊主の円喜様に会わせて頂ければ、きっと判《わか》っていただけるはずだ、と動こうといたしませぬ。そこで、お叱《しか》りを覚悟で、本日、罷《まか》り出た次第でございます。この男、きわめて正直な、律儀者でございますゆえ、おききとどけ下さいますれば、安心することと存じます。なにとぞ、ご寛容のほどを、願い上げまする」
円喜は、その口添えに対しても、なおしばらく、沈黙を守っていた。
――この婆《ばあ》さんが、反応を起さぬはずはねえ。
どぶは、自信をもって、待った。
やがて――。
円喜は、次郎吉に向って、
「この者と、二人きりで、話がしたいゆえ、座をはずしてもらえぬか?」
と、云った。
「かしこまりました」
次郎吉は、どぶに、
「失礼のないようにな――」
と、申しきかせながら、意味を持たせた微笑をのこした。
円喜は、どぶと対座すると、
「そなた、まことの、畳職人か?」
鋭く、問うた。
――看《み》破りやがったかな?
不安が、脳裡《のうり》を掠《かす》めたが、
「相違ございませぬ」
と、頭を下げた。
「では、そういうことにしておこう」
円喜は、疑惑をこめた云いかたをしてから、
「お園は、今宵、お手つきに相成る」
十一
「何事もなく、上様のおなさけをお受けなされば、この上の目出度《めでた》いことはございませぬが……」
どぶは、俯《うつ》向きながら、云った。
「左様じゃの。……二人えらばれて、さきに籤《くじ》のあたったお幸と申す御三之間は、一昨日、不慮の災難に遭《お》うて、実家へ下げられた」
「駿河屋の娘御の方にも、なにか、おそろしいことが起るのでは、ございますまいか」
「…………」
円喜は、しばらく、沈黙をまもった。
――さあ、どうする、御坊主殿?
どぶとしては、円喜の腹芸を観《み》ようとしている。
円喜は、針一本を失《な》くして、窮地に陥《お》ちたお園を、救っている。どういう存念で、この一見最も冷酷な性情の持主と思える御坊主が、なさけある振舞いを示したのであろう。もちろん、お園に対して好意を抱《いだ》いたからに相違あるまい。
とすれば――。
こちらが必死になって、災難の予感を申し出れば、必ず円喜は、防止の思案をするはずなのだ。
ようやく、円喜は、口をひらいた。
「お園に、ふりかかる災難としては、ひとつ、考えられることがある」
「なんでございましょう?」
「お園は、呉服之間つとめじゃ。したがって、お園を憎む者が、これを陥《おと》そうとする悪|智慧《ちえ》を働かせるとすれば……左様、針一本で足りるであろうな」
「…………」
「例《たと》えば、お伽《とぎ》に上る時、寝召《ねめし》姿になってから、もう一度、御年寄のお調べを受ける。すると、その寝召に、一本の針が、かくされていたとすれば、これは、騒動となる。上様を害し奉る邪念をひそめた不届者として、手討ちになる」
「…………」
「考えられるのは、この手段ひとつ――」
「御坊主様、なにとぞお園様を、お救い下さいませ」
「呉服之間で、針を失くしたのであれば、救い様はあるが……」
円喜は、あくまで無表情で、云った。
「お伽《とぎ》に上る時は、この御坊主も、近づくことは、叶《かな》わぬ」
「その寝召が、はこばれる前に、あらかじめ、貴女《あなた》様が、調べて頂くことは、できませぬか?」
「お園のお伽は、今宵じゃ。寝召は、すでに、御寝所となる御小座敷に、はこばれている。わたしが、今宵の当番ならば、お園の寝召を調べるのは造作もないが、別の御坊主が、つとめることに相成った」
「そこを、なんとか、貴女様のお力で……」
どぶは、食いさがった。
御坊主同士なら、そっと耳うちして、お園の寝召を調べてもらうこともできるのではあるまいか。
あるいは、御年寄にうち明けて、事前に、防ぐ方法もあると考えられる。寝召を、とりかえるといった方法が――。
十二
どぶの歎《たん》願に対して、円喜は、冷やかに、こたえた。
「大奥と申すところは、すべて、おつとめ大切じゃ。市井のくらしのように、人情こまやかに、義理を重んずるがごとき、互いの交際などは、皆無と思うがよい。わが身は常に、自分で守らねばならぬ。……やむを得ぬことじゃな。大奥のしきたりが、個を殺して、冷たい秩序をつくった」
たしかに、その通りであった。
将軍家が、新しい≪ちゅうろう≫を褥《しとね》に呼んで、契る際にも、そばには、添|寝《ね》の≪ちゅうろう≫や御坊主が、ちゃんと、控えているのである。
こんなばかげた習慣はない。
添寝の≪ちゅうろう≫の中には、すでに将軍家の手のついた女性もいるので、当然、心の裡《うち》では、嫉妬《しっと》の炎が渦巻くにちがいない。また、将軍家に抱かれている方の≪ちゅうろう≫も、気しがねをして、四|肢《し》はこわばっていることは、容易に想像されるところである。
閨房のいとなみというものは、第三者の目があってはならないものである。にもかかわらず、番人をそばにつけるというならわしは、将軍家や≪ちゅうろう≫の個人の自由を無視して、閨縁の力を殺《そ》ごうとする目的によるものであり、万事が、「お家大事」という大義名分によって、人道はふみにじられているのであった。
こうした苛酷《かこく》な制度の中で、こまやかな人情や友|誼《ぎ》が生れるべくもない。
女性本来の氷のように冷たい性情が、大奥にみなぎって居るのである。
円喜の言葉の正しさを、どぶは、みとめざるを得なかった。
円喜は、出て行くべく立ち上った。
平伏したどぶの頭上へ、円喜の言葉が、落ちた。
「お園が、救われるすべとしては、今宵、御|寝《しん》所へ入る直前に、急病に罹《かか》る――それよりほかはあるまいな」
きわめて意味ありげな言葉であった。
円喜が、出て行くのと入れちがいに、次郎吉が、入って来た。
「親分――、あの御坊主は、敵だか味方だか、ちょっと得体が知れないね」
「お園に対してだけは、好意を持っていることは、まちがいねえんだが……」
どぶは、腕を供《こまね》いた。
「下手《へた》に動くと、お前さんの命が、危《あぶな》いよ」
「そいつは、覚悟の上だ。……あの婆《ばあ》さん、ひょっとすると、あっしの正体を看《み》破っていやがるのかも知れねえ」
「ますます、危険だね」
「あのすてぜりふは、意味があった。こうなりゃ、あっしの力で、食いとめてくれるよりほかに、テはねえ」
「手つだおうかね?」
「たのむか」
どぶと次郎吉は、顔を見合せた。
どぶの考えていることを、次郎吉は、読みとった。
「岡っ引と泥棒が、どれだけの働きができるかだね。こいつは、話の種になる」
十三
お園は、ぶじに入浴をすませ、御|寝《しん》所入りの時刻を、迎えた。
湯殿から出て来てからは、肌《はだ》着も腰巻もつけず、白|綸子《りんず》の間着に、同じく白倫子の掻取《かいどり》をはおっていた。
この姿で、将軍家の寝所になる御小座敷の化粧の間に入《はい》って、掻取と間着をぬぎすてて、そこに、さきに持参された白羽二重の寝召にきかえるしくみになっていた。
中年寄が、入って来て、下座に就《つ》くと、
「お召出しの儀、祝着に存じまする」
と、言葉も改めて、挨拶《あいさつ》した。
いまからは、お園は、お手つき≪ちゅうろう≫となって、身分が上なのであった。
「この後ともに、よろしゅう……」
お園は、挨拶をかえした。
「では、お入りを――」
中年寄は、出仕廊下へ、お園をいざなった。
お園は、間着に帯を締めず、両手で前をおさえているだけなので、脚《あし》が見えぬようにするために、歩度をひどくおそくしなければならなかった。
ここで、大奥長|局《つぼね》の構造を、説明しておけば――。
長局というところは、一の側から四の側まで、それぞれ棟《むね》を別にして、建ちならんでいた。各棟を、長廊下でつらねて、さらに、将軍家、御台所の住居である御殿間に、出仕廊下でつながっていた。
一棟の廊下の長さが四十間。一番の長局から出仕廊下の奥までは、七十余間もあった。
お園は、もとお節の方の部屋を与えられていて、そこは、長局の一番奥にあったので、帯を締めぬ間着の前をおさえて、七十余間も、歩いて行かなければならなかった。
中年寄は、出仕廊下まで、お園をみちびくと、そこで、別れなければならなかった。
「これよりは、お一人にて、お通りあそばされますよう――」
そう告げて、鄭《てい》重に、頭を下げた。
出仕廊下の奥で、将軍家|附《つ》きの≪ちゅうろう≫が、待っているのであった。
そこまで、お園は、うすぐらい、長い廊下を、そろそろと進まなければならなかった。
三間あまり進んだ時、お園は、ふっと、怯《おび》えた表情になって、足を停《と》めた。
と――。
天井から、ひくいが、よく通る声音が、
「もう、すこし、進みなされ」
と、うながした。
どぶであった。
どぶは、お園が入浴直前に、封じ文を部屋へ落して、非常の手段を用いて、その危難を救う旨を、連絡しておいたのである。
お園が、そこから、十間あまりを進んだ時、天井の隙《すき》間から、ぱあっと、霧のような白い烟《けむり》が噴《ふ》いて、お園へ落ちた。
お園は、その烟《けむり》を吸うとともに、よろめき、膝《ひざ》を折った。
そして、仰向けに、倒れた。
十四
花もはじらう娘が、まことにあられもない姿になって、そこに仰向けに倒れたのである。
倒れるはずみに、帯を締めない間着が、左右にはだけて、お園の白い肌《はだ》は、のこらず、あらわになってしまったのであった。
失神しつつも、それは、生娘のこととて、下|肢《し》だけは、しかと合せたが、羞恥《しゅうち》を知って以来、人目にさらしたことのない肢体は、そこに、くまなく浮きあがった。
この異変は、出仕廊下の奥で待っていた、将軍家|附《つ》きの≪ちゅうろう≫の目に、しかとは映らなかったが、そこで何か起った、ということだけは、見わけられた。
いそいで、≪ちゅうろう≫は、衣《きぬ》ずれの音もせわしく、廊下を進んで来た。
また――。
願い親の中年寄も、こちらから、馳《は》せつけて来た。
そして、そこに、あられもない≪てい≫をさらしているお園を見|下《おろ》して、双方とも、あっとなった。
中年寄が、抱き起したが、お園は、死んだように、ぐったりとなって、指一本動かす力も失っていた。
「もし! もし! これ、しっかりなさらぬか!」
中年寄は、必死になって、ゆさぶったり、顔をたたいてみたりしたが、なんの反応もない。
困惑した中年寄は、≪ちゅうろう≫を仰いだ。
「なんということを!」
≪ちゅうろう≫は、冷やかに吐き出した。
「あさましい!」
「すぐに、気つけ薬をさしあげますれば、暫時《ざんじ》お待ち下さいますよう……」
「お黙りなされ! このような不浄のすがたになりはてた者を、お上のお伽《とぎ》に、さし出せましょうか。……下げませい!」
≪ちゅうろう≫は、きびしく命じた。
「あ、あの……、それは、せっかくのお召出しに、二人とも――ということになりますれば、上様にも、ご失望に相成るかと存じますゆえ――」
「ええい、黙らぬか! このような不浄のすがたになりはてた者を、どうして、さし出せようか。下げるのじゃ!」
≪ちゅうろう≫は、裳裾《もすそ》ををひるがえして、奥へ去った。
「ああ! こ、こんなことに、なろうとは!」
中年寄としては、せっかくの好機を一瞬にして失う無念さを、全身ににじませて、舌打ちした。
天井裏から、見下すどぶは、
――これで、どうやら、片づいたぜ。
と、にやりとした。
とたん、どぶの脳|裡《り》に、はっとひらめいたのは、
――これで、トクをするのは、誰《だれ》か?
そのことだった。
今夜もまた、伽なし、というわけには、いかぬであろう。将軍家としては、我慢ならぬに相違ない。
お園に代って、伽をするのは、誰かということである。
十五
――そうだ! お幸、お園が失格すれば、トクをするのは、ただ一人だ。
どぶは、自分に呟《つぶや》いた。
死んだように意識を失ったお園のからだが、はこび去られても、どぶは、出仕廊下の上から、動かなかった。
四半|刻《とき》も、過ぎた頃《ころ》あい――。
長|局《つぼね》から、そこへ、しずしずと現れたのは、おえんの方であった。
――やっぱり、そうだったな。
どぶは、見|下《おろ》して、合点《がてん》した。
――こういう筋書になっていやがったのだ。
おえんの方は、すでに、お園がお手つき失格となることを、あらかじめ知っていた。お園が駄《だ》目になれば、今夜のお伽《とぎ》は、当然自分にまわって来る、と計算していた。そうでなければ、わずか四半刻も過ぎないうちに、こうして、将軍家|寝《しん》所へ入《はい》ることができるはずがない。お伽がつとめられるように、入浴をすませ、美しく化粧して、この時を、待ちかまえていたのだ。
――今夜の伽を、つかむまでには、苦労したことだぜ。女というやつの執念のおそろしさを、あたまのてっぺんから足のさきまで、みなぎらせてやがる。
どぶは、しずしずと進むおえんの方の優雅な姿を見下しながら、首を振った。
いったん、寵《ちょう》愛が去って、伽の下命のなくなったお手つき≪ちゅうろう≫が、再び、こうして、将軍家寝所へ、身をはこんだ例は曾《かつ》てなかったことである。
おえんの方は、その前例を、自身の力で、破ってみせたのである。
まず、三人のお手つき――お滝の方、お節の方、おみつの方を、巧妙な奸《かん》策でつぎつぎと片づけた。次いで、将軍家自身がえらんだ女中二人――お幸とお園をも、失格させてしまった。
あとには、大奥には、お手つきとしては、ただ一人――この自分しかのこっていないとすれば、当然、これは、まわって来ることになる。
おえんの方は、おそるべき執念で、わが手に、この機会をつかみとったのだ。
――上様に抱かれた時、あの女子が、きちがいのように燃えてみせるのが、目に見えらあ。
どぶは、呟いた。
――女子が、どんなに燃え狂うものか、上様は、もしかすると、はじめて、あじわうのじゃねえかな。灯台|許《もと》暗しであったわい、と上様もご満足――というところで、目出度《めでた》しとなる。しかし、どっこい、天井裏には、おれがいるのに、気がつくめえ。
どぶは、すばやく、天井裏を移行しながら、
――しかし、芝居の幕をおろすのは、おれの役目じゃねえ。町小路左門という天下の名与力の役目だ。左門の殿様が、どんな裁《さば》きをつけるか、そいつが、見ものさ。
御台所の万年|厠《かわや》から、庭へ抜け出したどぶは、大きく背のびした。
「もう鼠《ねずみ》になるのは、まっぴらだぜ」
十六
どぶは、町小路邸へ、戻って来た。
二階せかれて哀《かな》しさつらさ
更《ふ》けて青田にこがるるほたる
れんじまで来て蚊帳《かや》のそと
なんでこんなに迷うやら
裏門をくぐると、小夜が裏庭で洗濯物を干していたが、
「殿様は、お留守ですよ、親分」
と、告げた。
「それじゃ、お小夜さんを手伝うか。何かありやすかね?」
どぶは、小夜の襷《たすき》がけの袖《そで》からのぞいた白い二の腕や、からげた裾《すそ》からのぞいた白|縮緬《ちりめん》の腰巻を、ぶしつけな目で、じろじろと眺《なが》めた。
――装いをこらした大奥女中よりは、こうした姿の方が、十倍もきれいだぜ。
「そうですね」
小夜は、ちょっと考えてから、
「太郎のからだを、湯であらって頂けますか」
「ほい来た、合点《がってん》――」
太郎というのは、左門が手飼いの小|猿《ざる》のことであった。
どぶは、庭から、座敷へ上った。
き、き、き、き……。
二間床わきの、違い棚《だな》の上から、小猿が、歓迎の声をあげた。
床柱が、赤松の自然木になって居《お》り、太枝もそのままのこされていて、小猿は、その太枝に、鎖でつながれていたが、おとなしく、飼い馴《な》らされていて、左門が外出している時は、違い棚にちょこんと坐《すわ》って、いつまでも動かずにいた。
「太郎――。湯あみをさせてやるぜ」
どぶは、床柱の太枝から、鎖をはずして、小猿を、肩にのせた。
台所の戸口に、小夜が、ぬるま湯を盥《たらい》に入れて、待っていた。
小猿は、それを見ると、どぶの肩から、ひと跳《と》びに、盥の中へ、じゃぶんと、とび込んだ。
それを眺めたとたん、
「おっ!」
どぶが、大声をあげた。
「どうしたのです?」
小夜がびっくりして、どぶを視《み》た。
「やっと判った!≪跳《と》んで、つかんだしめこの兎《うさぎ》≫というやつだ。お小夜さんに、太郎をあらってくれ、とたのまれたおかげで、目の前の霧が、ぱあっと、はれてくれやした」
「……?」
「下手人が、猿《えて》公であることが、いま、やっと、はっきりしやがったんでさ」
「大奥の女中がたを、殺《あや》めた下手人がですか?」
「まず手はじめに、殺したのは、花見のまっ最中、花もはじらう生娘に、とびついて、その頸《くび》を、締めやがったんでさ」
「まあ、おそろしい。ほんとうですか?」
「この眼《がん》は、みじんも狂っちゃいませんぜ。ピタリだ」
どぶは、小鼻をひくつかせてみせた。
下手人
半|刻《とき》ばかりして、左門が、帰宅した。
どぶは、気負い込んで、
「殿様! とうとう、下手人を、つきとめました」
と、云った。
「まず、長|局《つぼね》でお前が目撃したことから、きこう」
「へい」
どぶは、いささか、不服であった。
下手人が判《わか》った、と云えば、その名をきくのが当然であるにもかかわらず、左門は、その名をきこうとせぬのだ。
こういうところが、常人とちがっているところだろうが、その配下たる者にとっては、不服をおぼえざるを得ない。
どぶは、おこのが、娘道成寺の白拍子花子を踊って、鐘入りをするとともに殺されたこと、次いで、将軍家に新しくえらばれてお手つきになれるはずであったお幸お園の二人が、不慮の出来事で、宿下りをさせられたいきさつを、くわしく、報告した。
そして、ついに、再び、将軍家の寝《しん》所へ入ることができたおえんの方こそ、まさしく、このたびの騒動の元凶である、と熱をこめて指摘した。
左門は、しかし、なんとも返辞をせぬ。
いつものことだが、どぶは、その沈黙に、苛《いら》立った。
「殿様! しかも、あっしは、たったいま、女中たちを次つぎに殺した――つまり、直接手を下して、しめ殺した下手人を、さとったのでございまさあ」
「…………」
「そいつは、人間じゃございませんでした」
どぶが云うと、左門は、膝《ひざ》にちょこんと乗っている太郎のあたまを、なでて、
「こやつと、同類だと申すのか」
と、云いあててみせた。
「殿様!」
どぶは、はっとなって、
「下手人が、猿《さる》であることを、殿様は、すでに、ご存じだったので――?」
「お前がつぎつぎともたらす報告をきいているうちに、そうではなかろうか、と想像していた」
「お人が、悪い!」
どぶは、ふくれた。
「下手人を、わたしから教えられて、捕えるのと、お前が一人で、苦心して、つきとめて捕えるのとでは、快感に天地の差があろう」
「そ、そりゃ、まアそうでございますが……」
「お前は、今日《きょう》、ここへ戻って来て、この小猿を眺《なが》めて、はじめて、気がついたのであろう」
「その通りで……」
「目あきの不自由さだな。あちらこちらへ目移りして、肝心の一点が見えなくなる。……ちょっと、考えれば、判ることが、わからなくなってしまう。女中どもが殺された時の状況が、人間|業《わざ》では不可能、と考えられた。では、人間ではなく、別の生きものを使ったとすれば、どうであろうか、と想像を一歩進めてみればよい理|窟《くつ》であろう」
「なるほど――」
どぶは、今更ながら、この盲目の旗本の前に、頭を下げざるを得なかった。
「仰せの通りでございます。……大奥には、猿《さる》を飼っている者が、居るに相違ございません。そこは、おえんの方の部屋――ということに相成ります」
「さあ、それは、どうであろうかな。必ずしも、おえんの方の部屋で、飼われては居るまい」
「へえ――?」
どぶは、眉宇《びう》をひそめた。
「するてえと、おえんの方が、元凶じゃない、と仰言《おっしゃ》いますので……?」
「とは、云わぬ。おえんの方が猿を飼っているのであれば、おえんの方が、元凶であろう。しかし、飼っている者が、別にいる、ということも考えられる
「……?」
どぶとしては、いくら左門の言葉でも、これには、承服しかねた。
おえんの方以外に、誰が元凶であるというのか?
三人のお手つき≪ちゅうろう≫を、大奥から一掃したのは、おえんの方以外には、考えられぬではないか。三人を消せば、再び、自分に、将軍家の寵《ちょう》愛が、もどるのではあるまいか、と考えるのは、人情であり、その目的のために、冷酷非情な奸《かん》策を用いたに相違ないのだ。
――おえんの方が、元凶であることは、絶対にまちげえねえんだが……。
どぶは、左門が、どうして、その推定をさけようとするのか、判《わか》らなかった。
左門は、机の上の金の鈴を鳴らした。
小夜が、いそいでやって来た。
「お呼びでございますか?」
「うむ。登城する。仕度をしてくれ」
「はい」
小夜は、いそいで座敷へ入《はい》ると、登城衣服をととのえた。
「あっしを、お供をさせて頂けますので――?」
「こんどは、堂々と、入ることになるな」
左門は、微笑した。
やがて、玄関に、駕籠《かご》が来た。
どぶは、中間姿になって、そのうしろにひかえた。
裃《かみしも》をつけた左門は、男振りが冴《さ》えた。
――どう見ても、十万石のお殿様ってえところだ。
どぶは、わがあるじを盲目にした神様を、恨まずにはいられなかった。
――もっとも、これで、まなこまで冴えたら、まわりは敵だらけになるかも知れねえ。
駕籠が、門を出た時、どぶは、ふと気がついて、
「大奥へは、どうしてお入りなさいます?」
と、小声で、問うた。
「表門があれば、裏門がある理|窟《くつ》であろう」
左門は、こともなげに、こたえた。
その膝《ひざ》には、小猿が、のせてあった。どうやら、この太郎が、ひと働きしてくれるはずであった。
たしかに――。
表があれば、裏があるものであった。
十歳以上の男子が、入《はい》ることを厳禁されていた大奥へ、左門は、小猿《こざる》を肩にのせたどぶを供にして、堂々と、七つ口から入ったのである。
左門をみちびいたのは、御台所用人であった。
そもそも、長|局《つぼね》で起る異変の探索方を、左門にたのんだのは、この御台所用人であった。
「評定所吟味方、お通りあそぱす」
表使いが、大声で、布《ふ》れた。
――さあ、丁と出るか、半と出るか!
どぶは、左門の後で、なるべく顔を見られないように、首を縮めて歩きながら、胸をはずませていた。
女中たちは、ことごとく、部屋へ身をひそめて、息をころしている模様であった。
長い廊下を進みながら、物音ひとつ、耳にひびいては来なかった。長局が、全く無人になった観があった。
このように、表(政庁)から、役人が入って来たのは、前代未聞のことであり、女中たちが、ひたすらにおそれたのも、無理はなかった。
そのむかし――正徳年間、御年寄江島が、役者の生島新五郎を長持へ入れて、長局へひき込んだのが、露見した騒動があって、大目付が乗り込んで来たという例を、きいているだけに、役人が乗り込んで来ることは、ただですまぬという恐怖を生じせしめるのであった。
長廊下を、途中まで進んで、御台所用人が、左門に、
「どちらまで――?」
と、問うた。
「そのまま、歩いて頂きとう存じます」
左門は、こたえた。
やがて、出仕廊下に入って、かなり進んだ時であった。
急に、どぶの肩にとまっていた小猿が、何に気がついたのか、声をあげて、ぴょんぴょん、と二、三度、はねあがった。
「どぶ――、はなせ」
左門が、命じた。
「へい」
どぶが、その腰|縄《なわ》を解いてやると、小猿は、身がるく、杉戸の上の欄間へとびつき、格子《こうし》の間から、するりと、部屋へ入って行った。
「この部屋は――?」
左門が、御台所用人に訊《たず》ねた。
「これは、宇治の間でござる」
「ふむ――」
左門は、合点《がてん》した。
このあたりは、御台所のすまいであった。
御仏間のとなりに、宇治の間があり、もとは、御台所の御産所であったが、いつの間にか、女中たちが入るのをおそれる開《あ》かずの間になっていた。
五代将軍綱吉が、夫人鷹司氏によって、この部屋で毒殺された、という噂《うわさ》があったからである。
「どぶ――」
左門は、呼んで、
「この宇治の間を、見はって居るがよい」
と、命じた。
「かしこまりました」
どぶは、するりと忍び込んだ。
かびくさい湿った空気が、しんと静寂を保っている。
襖《ふすま》も壁の張付けも、すべて宇治の茶|摘《つ》みの絵である。
どぶは、それらの絵を観賞している余裕はなく、
「太郎――。太郎、どこへ行った?」
と、呼んだ。
小|猿《ざる》の姿が、どこにも見当らないのである。
「どこへ、かくれちまったんだろう?」
首をひねりながら、衝立《ついたて》や屏風《びょうぶ》の蔭《かげ》をのぞいているうちに、カリカリとものをひっかく音が、ひびいて来た。
「ははあ、そっちの≪武者がくし≫だな」
どぶは、合点《がてん》した。
脇《わき》床に沿うて、畳敷きの一間廊下があり、武者がくしは、その奥に設けられている。
おそらく、この床の間の壁は、≪がんどう返し≫になっているに相違ない。
どぶは、畳廊下へ出た。
はたして――。
小猿は、つきあたりの檜戸《ひのきど》を、カリカリとひっかいていた。
「なるほど――、武者がくしに、おめえの同類を、かくし飼いをしていやがったか。開《あ》かずの間の武者がくし、とは、考えやがったものだ」
どぶは、その檜《ひのき》戸を、開こうとした。
ビクともしない。
「これか――」
どぶは、敷居に、目立たぬように釘《くぎ》がさし込んであるのを見つけて、ひき抜いた。
武者がくしは、護衛者が幾人もひそんでいる隠し部屋なので、かなりひろい。
薄暗い片|隅《すみ》に、かなりの木箱が据えてあった。鉄|格子《ごうし》をはめた檻《おり》になっていた。
「いやがったぜ」
どぶは、にやりとして、近づいた。
小猿の方は、同類の存在をかぎつけて、ここへ入《はい》ろうと躍起となったにもかかわらず、いざ同類を目の前にすると、怯《おび》えて、どぶの肩へとびのってしまった。
檻をのぞき込んだどぶは、
「やっぱり、てめえだったか!」
と、睨《にら》みつけた。
檻の中で、目玉をきらきら光らせているのは、墨堤の桜花の下で、若い女にたわむれかかったり、また町小路邸へまよい込んで来て、捕《つかま》ったが、針金入りの麻|縄《なわ》を巧みに解いて、小夜の寝床《ねどこ》へもぐり込んだ、あの猿に、まぎれもなかった。
「てめえという奴《やつ》は、どういう飼われかたをしやがったか知らねえが、大層な罪を犯しやがったものよ。その罪の意識が、まるっきりねえのだから、気楽だアな……しかし、もう露見しちまった以上、処刑はまぬがれねえぜ」
それから、およそ、半|刻《とき》が過ぎた。
どぶは、宇治の間の六曲|屏風《びょうぶ》の蔭《かげ》に、坐《すわ》り込んで、待ちかまえていた。
――来たぞ!
出仕廊下に、衣《きぬ》ずれの音をきいて、どぶは緊張した。
檜《ひのき》戸がするすると開《あ》いた。
――どいつだ?
はたして、侵入者が、武者がくしの方に向って、ひそやかに進みはじめたので、どぶは、ごくりと生|唾《つば》をのみ込んだ。
どぶは、そっと、鎌《かま》首をのばして、屏風の蔭から、片目だけを、のぞけてみた。
――おっ!
どぶは、眦《まなじり》が裂けるほど、みひらいた。
侵入者は、御坊主円喜であった。
――こいつが、下手人か!
まんまと、一杯くわされていた、という憤怒が、どぶの血汐を熱くさせた。
いや、この御坊主に、疑惑を投げかけたことも、ないではない。
しかし、お園を救ってくれた円喜を見て、どぶは、疑惑をはらいのけたのであったが……。
――そうか、こいつだったのか!
どぶは、かぶりを振った。
円喜は、重箱らしいものを、袂《たもと》にかくすようにして、畳廊下をするすると進んで、武者がくしの戸を、開けた。
とたん――。
円喜は、
「お!」
と、小さな叫び声を発した。
檻《おり》の上に、ちょこんと、小|猿《ざる》がのっているのを、みとめたのである。
飼い猿の餌《えさ》をはこんで来た円喜は、同類がそこにいるのに、仰天せざるを得なかった。
この開かずの間の武者がくしに、猿を飼っていることは、長|局《つぼね》ひろしといえども、知っている者は一人もいないはずである。
どうして、同類がここへ、まぎれ込んだのであろう?
円喜は、にわかに、全身がしめつけられるような不安にかられた。
その不安を恐怖にかえる声が、背後から、かけられた。
「御坊主、百年目だぜ」
はねあがらんばかりに、衝撃をくらって、円喜は、向きなおった。
「おっ! お前は――」
どぶを、そこに見出して、円喜は目をうたがった。
「へへ……、おどろいたかね。あっしゃ、畳職人じゃねえ。実は岡っ引でさ。……霊気なんてえしろものは、持っちゃいませんや。そのかわり、下手人をかぎあてるカンを持って居りやすんでね」
「お、おのれが……、岡っ引であった、と――」
「お気の毒でござんしたね。さっき、南町奉行所・町小路左門殿が、評定所吟味を呼びたてて、この長局へ入って来た時、お前様は、どこに雲がくれしていなすったかね? たぶん臑《すね》に傷持つ身なので、不浄役人の前に顔を出すのをおそれて、かくれていなすった。それが、失敗だったなあ」
どぶは、にやにやしながら、つづけた。
「あっしゃね、町小路左門殿の乾分《こぶん》でね、親分のすぐうしろから、その小|猿《ざる》を肩にのせて、ひょこひょこ、歩いていたんでさあ。お前様が、見たら、あっとなったに相違ねえ。……つまり、あっしを見ていたら、それから、半|刻《とき》も経《た》たねえうちに、うかつに、この開かずの間に、お前様は、入って来やしなかったろうぜ。飛んで火に入る夏の虫――というやつだ。観念しなさることだね」
どぶの言葉のおわらぬうちに、凄《すざま》じい勢いで、懐剣のひと突が、襲って来た。
苦もなくかわしたどぶは、その懐剣を、たたきおとしておいて、
「さわぐかね。さわげば、損をするのは、どっちかね」
と、にやにやした。
円喜は、敵《かな》わぬとさとるや、その場へ、坐《すわ》った。
どぶは、円喜が口をひらくのを待った。
長い沈黙ののち、円喜は、大きく溜《ため》息をついた。
「この猿は、おえんの方様が飼うて居られる」
「お前様が、飼っているんじゃねえんですかい?」
「わたしは、おえんの方様から、おたのまれして、飼って居る」
「それで――?」
「すでに、調べて居ろうが……、おえんの方様は、一度は上様のお手つきになりながら、御|寵《ちょう》愛が深くもならずに、三人のお手つき≪ちゅうろう≫に、お褥《しとね》をうばわれ、あとは、もっぱら、お添|寝《ね》の役ばかりを仰せつけられた。女子として、一度は、そのお褥に入りながら、しりぞけられたあと、他の≪ちゅうろう≫が上様の御寵愛を蒙《こうむ》るさまを、じっと眺《なが》めさせられる立場にまわされれば、そのお手つきに対して、憎しみをかきたてられるのは、人情であろう。……おえんの方様は、いつか、この屈辱をはらし、お手つき三人を、大奥より追いはらわんものと、ひそかに≪ほぞ≫をきめて、狂暴な猿を一匹、手に入れて、これに訓育をほどこされた、と思うがよい」
「お前様は、その手伝いをした、というわけですかい?」
「わたしは、おえんの方様に、同情いたしました」
「おやさしいことで――」
「わたしにも、人の情《なさけ》はありまする。おえんの方様は、もともと、心の優しい方でありました。……女子と申すものは、いかに優しい性情の持主でも、環境次第で、夜叉《やしゃ》になりまする。やむなき儀でありましょう」
「ふん。……もしかすると、お前様も、その夜叉じゃありませんかね」
どぶは、じっと、円喜を睨《にら》みすえた。
「どぶ――」
座敷の上から、左門の冴《さ》えた声が、ひびいて来た。
「御坊主を、ここへ、つれて来るがよい」
いつの間にか、左門が入って来て、座に就《つ》いていたのである。
左門は、円喜と対座すると、
「猿《さる》を使った殺しのかずかず、ひとつ、逐条ご報告頂こう」
と、うながした。
「もはや、かくしだてはいたしませぬ」
円喜は、神妙に両手をつかえて、こたえた。
「まず、密室にて、ただ一人、香合せの稽《けい》古をしていた、おみつの方の部屋方の秀という女中を、どうやって殺したか、それから、うかがおうか」
「はい――」
秀という女中は、その部屋で、誰《だれ》も入《はい》れないように、内側から錠を下《おろ》して、各種の香を、香炉からくゆらしながら、きいているうちに、悶死《もんし》したのである。種を明かせば、かんたんであった。
下手人は、あらかじめ、香|函《ばこ》のひとつをすりかえておいたのである。その中の香には、猛毒がまぜてあった。(現代でいう毒|瓦斯《がす》であったろう)秀は、香炉に、その香を投じてきいているうちに、はげしい頭痛、めまいにに襲われて、救いをもとめるべく、畳の上を匐《は》って、襖《ふすま》へ寄ろうとした途中、もだえ死したのである。
下手人は、秀が絶命した頃《ころ》あいを見はからって、おえんの方手飼いの猿――桜丸と名づけられていたが――を、高窓から、しのび込ませて、件《くだん》の香函を取りかえさせたのである。その毒香函の金|蒔絵《まきえ》の模様は、桜丸の餌《えさ》函と全く同じ、菊散らしであった。桜丸は、おのれの餌函と思って、取りかえして来たのであった。
「では、次に――。お節の方部屋方の咲という女中を、殺した手だては何であったか、うかがおう」
「はい――」
咲は、明日《あす》宿下りで、十日の休暇をもらい、胸をはずませていたにもかかわらず、二の側の納戸《なんど》で、剃刀《かみそり》で頸《くび》の動脈を切って、自害して果てていた。
これをやったのも、猿の桜丸であった。桜丸は、実は、特殊な訓練を、ほどこされていたのである。
円喜は、違い棚《だな》の下の押入れにある長物から、等身大の人形を、とり出してみせた。御殿女中そのままの、精巧な人形であった。その人形の頭髪からは、例の白檀《びゃくだん》香油が匂《にお》った。
下手人は、桜丸に、この特別の香を、あたまからただよわせる女中に対しては、剃刀で、その頸をかき切る残忍なすべを、教え込んだのであった。
咲は、桜丸によって、その頸を切られて、相果てたのであった。
また――。
下手人は、桜丸に対して、もうひとつ、殺しの一手を教え込んでいた。桜丸に、剃刀を持たせたくない時は、髷《まげ》の元結を噛《か》み切らせ、ばっさり乱れ落ちた黒髪を、その咽喉《のど》に巻きつけて、力一杯締めあげる方法であった。
墨堤で、駿河屋の長女お志野が殺されたのは、この方法によってであった。すなわち、そうとは夢にも知らずに、お志野は、おえんの方に献上する白檀香油をあたまにつけていたのである。それが、不運であった。
おえんの方としては、自らの意志で殺したのではない、唯一の例外であった。
下手人は、黒髪で、咽喉《のど》を締めあげさせる一手を、桜丸に教え込むために、まず、紐《ひも》を編んだり、解いたりすることを、教えたのであった。
どぶが、町小路邸へ、侵入して来た桜丸を、いったんは、生|捕《ど》って、左門から麻|縄《なわ》でひっくくってもらいながら、のがしてしまったのは、そのためであった。左門は、俗に謂《い》う自害むすびをしたのである。並の者では、とうてい解けないむすびかたであったが、桜丸は、苦もなく解いてみせたのであった。
なお――。
桜丸は、若くて美しい女と見れば、たわむれかかる訓練も、ほどこされていた。それゆえに、小夜も、いたずらをされたのであった。
円喜は、左門に、云った。
「長|局《つぼね》の開かずの間のひとつに、伊勢の間というのがございます。四代ばかり前に、伊勢と申される御年寄が、不義密通の≪かど≫で、毒殺された部屋でございますが、そこには、伊勢様の黒髪が、床柱に下げてありまする。その黒髪は、お行きなされてごらんになれば、わかりまするが、一本の縄に編まれて居りまする。これは、桜丸のしわざでございます」
この言葉をきいて、どぶは、ぶるっと、胴ぶるいした。
因縁ものの怨霊《おんりょう》髪を、ひそかに、三つ組みに編んでいる鬼気迫る猿《さる》のすがたを想像できたからである。
「その儀は判《わか》った。……次に、お手つき≪ちゅうろう≫お滝の方が、ひそかにひき入れた大丸呉服店番頭伊助を、女装させて、脱出させようとして、お鈴廊下にさしかかった際、鈴が鳴った一件であるが……、鈴を鳴らしたのも、猿のしわざであったといわれるか?」
「相違ございまぜぬ。おえんの方様が、桜丸に命じられたことでございます」
「では、次に――。お節の方が、その怨霊髪のさがっている伊勢の間で、奥医師赤沢了白と密会中、檜《ひのき》戸が開かなくなったのは――?」
「おえんの方様が、廊下側から、釘《くぎ》どめをなされました。お節の方は、檜戸が開かなくなったのは、てっきり、伊勢殿の怨霊のせい、と思い込み、おそろしさに、悲鳴をあげるに相違ない、と予想した上での、企《たくら》みでございました」
「最後の一人、おみつの方が、自身も知らぬうちに、お庭警備の伊賀者と、裸になって、抱き合って、ねむっていた件について、うかがおうか?」
左門は、尋問した。
「あの伊賀衆が、気をうしなって、お庭に倒れているのを発見いたしましたのは、わたくしでございます」
「御坊主は、夜中散歩をする習慣をもっておいでかな?」
「長局というところは、人目からのがれる時が一瞬もありまぜぬ。息がつまりまする。わたくしは、それゆえ、深更、そっと、お庭へ抜け出て、夜気の中で、思いきり、深く呼吸をすることにいたして居ります。その折、偶然、伊賀衆が、倒れているのを発見いたし……」
「と、きいておこうか」
左門は、薄ら笑った。
円喜が、伊賀者を背負うて、もどって来た時、いつの間にか、おえんの方が、長|局《つぼね》から庭へ出て来ていて、
「この伊賀者を、おみつの方と抱き合せれば、さぞ面白かろう」
と、云い出し、円喜がおそれてとどめたが、ついに実行したのだ、という。
おみつの方の部屋方を一人、ひそかに、金で味方にひき入れていたので、おみつの方に、ねむり薬をのませるのは、造作もなかった。
「見事に、三人のお手つきを片づけたものでござるな」
左門は、薄ら笑ってから、
「さて、御鳴物所の舞台で、おこのが、鐘の中で変死していた件について、うかがおう」
「はい――」
円喜が、説明するまでもなく、鐘の中に、桜丸がひそんでいて、おこのが鐘入りするや、頸《くび》に黒髪をまきつけて、しめ殺したのである。
「三人のお手つきが、大奥から追われ、すでに、おえんの方の報復は成ったにもかかわらず、なぜ、おこのを殺さなければならなかったか――その理由をご存じかな?」
「存じて居《お》りまするが、これは、理由にならぬ理由でございます」
「どういう意味だな、それは?」
「おきき下さいませ」
三年ばかり前のことであった。
おえんの方は、嵐吉三郎という役者とねんごろになり、逢瀬《おうせ》をかさねるにつれて、ただの浮気ではなく、真剣になっていた。
そのむかし、絵島が、生島新五郎に血道をあげて、長局へひき入れたのと、全く同じ状態になった。
嵐吉三郎を手引きして、おえんの方の部屋へともない、また、そっと、長持へひそませて、七つ口から送り出す役をつとめていたのは、三輪という女中であった。
そのうちに――。
意外な事態が起った。嵐吉三郎は、おえんの方が熱情を燃やすにつれて、反対に、しだいに、心が冷たくなり、三輪の方に、惹《ひ》かれるようになったのである。
そして、おえんの方が入浴している隙《すき》をうかがって、吉三郎は、三輪をくどき、抱きしめようとした。
そこを、おえんの方に、発見されてしまったのである。すでに、吉三郎の心が冷たくなり、遠ざかっていることに気づいていたおえんの方は、
――もしや?
と、疑惑を抱《いだ》いていたが、予感は的中したのである。
三輪にすれば、吉三郎の方から、無理|強《じ》いにいどまれたことであったが、弁解は許されなかった。
おえんの方は、しかし、あからさまに、憎悪《ぞうお》を、三輪にぶちつけはしなかった。
それから、十日ばかり経《へ》て、三輪が、お鈴廊下を通りかかった時、突如として、鈴が鳴ったのである。
三輪は、鈴が鳴るや、狼狽《ろうばい》して、にげまどった挙句《あげく》、開《あ》かずの間の伊勢の間へ馳《は》せ入って、簪《かんざし》でのどを刺して、相果てた、ということになっている。
三輪が、にげまどって、伊勢の間にとび込んだ、というところまでは、まことであった。しかし、簪でのどを刺したのは、自分の手によってではなかった。
鈴の紐《ひも》をひっぱって鳴らした桜丸が、伊勢の間ににげ込んで、待ちかまえていて、三輪にとびかかり、小柄《こづか》でのどを突き刺したのであった。
三輪は、桜丸に抵抗しようとして、簪をあたまから抜きとって、ふりまわしただけであった。
「嵐吉三郎は、それから程なく、変死した、ときき申したが……」
左門が、追求した。
「はい、嵐吉三郎は、お鈴廊下にて、相果てました」
「やはり、猿の手で――?」
「いえ、長持にひそんで、抜け出ようとしたところを、伊賀者多門伝八にとがめられ、長持の上から、刀を刺し通され、絶命つかまつりました」
七つ口には、出入りの長持ちを、とりしらべる秤《はかり》があった。もっとも、近来は、秤が使われることなど、絶えてなかったのである。
ところが、嵐吉三郎がしのんだ長持が、かつぎ出されようとした時、不意に、締戸番であった伊賀者多門伝八が、その長持に不審がある、と云って、蓋《ふた》を開けようとしたのである。
おえんの方|附《つ》き女中が、それを拒否すると、多門伝八は、冷笑して、長持の上から、刀を突き刺して、吉三郎を殺したのであった。
「それが、なぜ、表沙汰にならなかったのか?」
「わたくしが、けんめいの工作をいたし、このことを、伏せました」
「その伊賀者には、大金を与えて、口を封じた、というわけか」
「はい――」
「伊賀者は、しかし、そのままには、ひきさがらなかったのではござらぬか?」
「ご明察の通り、多門伝八はおえんの方様をゆする証拠の品を、持って居《お》りました。おえんの方様が、吉三郎に与えた上様拝領の印籠《いんろう》と、数通の想《おも》い文《ぶみ》と――」
「御坊主が、伊賀者のゆすりを、見のがして居られたはずはあるまい。多門伝八を、片づけられたであろう」
「はい――」
「で――その事件と、おこのを殺したのと、なんの関係があったか?」
「おこのが、狂言方の花形として、自由にお城を出て、芝居小屋へ見物に参り、役者らと語らい合う自由を与えられているのが、おえんの方様には、なんとも、憎うてならなかったのでありまする」
「なるほど――、八つ当りで殺されては、殺される方こそ、いい面《つら》の皮だ」
左門は、笑い声をたてた。
大団円
おえんの方の顔面は、血の気をうしなって、紙のように白くなっていた。
円喜が、その前に、坐っていた。
「ま、まことなのじゃな、大目付の吟味がある、というのは――?」
おえんの方は、声音をふるわせて、ききなおした。
円喜から、「お方様は大目付の吟味を受けることになりました」と告げられて、おえんの方は、色をうしなったのであった。
「大目付には、上様のお許しを得られました」
「そ、それでも、わたくしが、口をつぐんで、こたえなければ、大目付も、ど、どうすることも、できまい。証拠がないぞえ」
「お方様――」
円喜は、冷やかに、おえんの方を、見つめて、云った。
「多門伝八は、すでに捕縛され、逐一白状いたした由にございます」
「ああ!」
おえんの方は、両手で、顔を掩《おお》うた。
三年前、嵐吉三郎と密会していたことは、将軍家の知らぬことであった。
将軍家が、これを知っていたら、もとより、おえんの方は、再び寵愛《ちょうあい》をとりもどすことはできなかったであろう。
おえんの方は、嵐吉三郎を伊賀者多門伝八に殺されたばかりか、多門に脅迫されて、肌《はだ》身をゆるしているのであった。
多門は、そのことまでも、大目付に白状した、というのである。
おえんの方としては、もはや、万に一つも、たすかるのぞみはなかった。
のこされているのは、毒殺されることだけであった。
「御坊主!」
おえんの方は、突如、狂ったように、いざって、円喜にすがりついた。
「たすけて下され! おねがいじゃ! た、たすけて――」
「…………」
「おねがいじゃ! 後生一生のおねがいじゃ! わたくしを、すくう手だてを!」
「…………」
「こ、この通り!」
おえんの方は、両手を合せた。
円喜は、しばらく思案していたが、ようやく口をひらいた。
「吹上の孔雀《くじゃく》池のそばに空井戸がありまする。四の井戸と称されて居ります」
「そ、それが、いかがした?」
「この千代田のお城が完成した寛永の頃《ころ》、空井戸が、七つ掘られました。つまり、城外への抜け穴でありまする。七つのうち、六つは、うずまってしまい、四の井戸だけが、のこって居りまする」
「わ、わかりました」
おえんの方は、うなずいた。
「わたくしは、そこから、抜け出します。城外へ出れば、わたくしをかくまってくれる者は、いるのじゃ」
おえんの方は、必死の形相となって、立ち上った。
円喜は、その様子を、冷やかに見まもった。
おえんの方が、長|局《つぼね》から抜け出ようとすると、円喜が寄って来て、何かを手渡した。
それは、三筋に編んだ黒髪であった。
円喜が、黒髪部屋から、怨《うら》みのこもったそれを、柱から取りおろして来たのである。
「これにすがって、井戸をお降りなさいませ」
「か、かたじけない!」
おえんの方は、黒髪縄を受けとると、闇《やみ》の中へ忍び出た。
孔雀《くじゃく》池は、さほど遠い距離ではなかった。
空に下弦の月があって、「四の井戸」は、すぐに見つかった。
百日紅《さるすべり》の老木が、その井戸に掩《おお》いかぶさるように、枝をひろげていた。
その枝へ、黒髪縄をむすびつけておいて、そろそろと降りる、おえんの方の姿は、まさに、生霊の凄愴《せいそう》さであった。
苔《こけ》むした岩の凹凸《おうとつ》を足がかりにして、ものの五尺も降りたろうか。
突如――。
上から、灯がさした。
おえんの方は、あっとなって、ふり仰いだ。龕灯《がんどう》が、さし入れられたのである。
それをかざした者の姿は、かくれていた。
おえんの方は、一瞬、発見された恐怖で、四|肢《し》をこわばらせたが、龕灯がそのまま動かず、あかあかと照らすのを仰ぐうちに、
――円喜が、照らしてくれているのだ。
とさとって、ほっとなった。
しかし、その安|堵《ど》は、束《つか》の間であった。
さらに、数尺降りて、こわごわ、井戸底を見|下《おろ》した刹那《せつな》、おえんの方の口から、戦慄《せんりつ》の悲鳴が、ほとばしった。
龕灯のあかりに照らされて、不気味な鱗《りん》光を発しながら、無数の蛇《へび》が、そこに、ぬめぬめと、うごめいていたのである。
闇の底で、ねむっていたのが、急に、光をさしつけられて、蛇の群は、うごめき出したとみえた。
「ああっ!」
おえんの方は、気絶して落下する前に、すでに、断末魔の絶叫をあげていた。
おえんの方が落下すると同時に、龕灯を照らした者が、顔をのぞけた。円喜であった。
龕灯を照らしたのは、好意ではなかった。
無数の蛇にからまれて、死んでゆくおえんの方の地獄図絵を、見とどけるためであった。
文字通り、これは、「死の井戸」であった。
みるみるうちに、うごめく毒蛇の下に、おえんの方の姿は、うずまった。
「おわった!」
円喜が、ひくく呟《つぶや》いて、龕灯をさしあげた時であった。
いつの間にか、背後に人の立っている気配があった。
振り向いた円喜は、そこに、町小路左門とどぶの姿を見出した。
「そなたの執念も、これではれたか」
左門の言葉に対して、円喜は、黙って頭を下げると、遠ざかって行った。
夜明けに、左門は、どぶをつれて、屋敷へもどって来た。
小夜の点前《てまえ》で、一服喫してから、左門は、
「ご苦労であったな、どぶ――」
と、ねぎらった。
「うかがいますが……」
どぶは、ひどく真剣な面持で、
「あの御坊主が、おえんの方を、毒蛇井戸へ落したのは、つまり、あいつが――」
「左様、大伴の黒主は、実は、円喜であった」
「ふうむ!」
どぶは、唸《うな》った。
「おえんの方の執念と欲望を、そのまま利用して、幾人もの女中を殺し、お手つき≪ちゅうろう≫三人を亡《な》きものに、そうして、おえんの方自身を、あの無慚《むざん》な破局に追い込むまでのお膳《ぜん》立てを、円喜は、おのが一人の力で、やってのけた」
「その理由は――?」
「わが子の仇討だ」
「へえ?」
「三年前、お鈴廊下の鈴が鳴って、三輪という女中が、開《あ》かずの間にとび込んで、自害して相果てた。おえんの方が密通していた嵐吉三郎が、三輪に懸想《けそう》して、手を出したのを知って、おえんの方は、嫉妬《しっと》に狂って、三輪を自害に追いやった。……この三輪という女中、実は、円喜の実子であった」
「あ!」
どぶは、口をあけて、間抜け面《づら》になった。
「お前が、三輪の素姓を調べた時は、まだ、その事実は判明しなかった。もう一度、小松九郎兵衛に調べなおさせてみて、つきとめた。……円喜は、菊乃という旗本の娘であった。二十歳の頃、中川関所の見張番所の小役人石垣某と、わりない仲になって、身ごもり、実家を追い出された。産んだ三輪は、父親の石垣某がひきとり、菊乃は、無理矢理大奥へあげられ、頭をまるめられて、お伽《とぎ》坊主となった。……歳月が流れて、円喜が大奥の主《ぬし》のような存在になった時、三輪が、奉公にあがって来た。偶然のことから、円喜は、三輪が、実子と知った。円喜は、三輪を、蔭《かげ》になり日向《ひなた》になって、目をかけて、いずれ三之間からお目見《めみえ》にして、あわよくば、お手つき≪ちゅうろう≫にも出世させようと、こんたんをめぐらした。おえんの方の部屋方にしたのも、いずれおえんの方が、御|褥《しとね》おことわりの時に、代りに、さし出すようにはからってもらうための、円喜の工作であったろう。それが、仇《あだ》となって、三輪は、おえんの方の嫉妬を買い、死に追いやられた。その時、円喜は、おえんの方に復|讐《しゅう》するほぞをかためたに相違ない。おえんの方をして、他の三人のお手つきに対して復讐させつつ、おのれはおのれで、おえんの方を破局にみちびいて行ったのだ。……大奥ならでは見られぬ、陰惨な二重復讐劇であった」
「…………」
どぶは、ふうっと、ふかい溜息《ためいき》をついた。
「申すならば、円喜は、この町小路左門が、吟味のために、大奥へ乗り込んで来るのを待ちかまえていた。われわれは、円喜に利用されたことになる」
「あの御坊主、仇討をおわって、いま頃は、どうして居りましょうか?」
「いま頃は、開かずの間で、毒薬をあおいで居ろう」
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第六話 京洛殺人図絵
京の男
雷が鳴って、梅雨《つゆ》が明け、江戸の町に夏が来る。
江戸の「絵本風俗往来」には、その風景を、次のように記《しる》している。
「夕立ち雷鳴が止《や》むと、均《ひと》しく、いままで軒下に佇《たたず》んで、雨やどりしていた人々が、ようやく、東西に散り、一時とだえていた通路にも、再び人と車の往来がしげく、夜になれば、一天雲吹き散じて、月色、雲の隙《すき》間より照り、家内の小庭、植込みの樹竹、水気したたり、岩石のあいだの下草は、地に伏し、飛石のおもては、清く洗われ、吹き送る風はすずしく、すでに苦熱を流し去って、心よく、白昼は林間の蝉《せみ》の声がさわがしいが、夜間に入《はい》ると、蝙蝠《こうもり》が飛び交《か》うもおかしく、このようなこと、夏の炎暑中、しばしば見られる光景である」
こうした季節になると、人間もまた、蝙蝠と同様、夜になって、いきいきとして、ねぐらをとび出して来る手輩が、多くなるのであった。
もとより、≪かたぎ≫ではない。
類は友を呼んで、屯《たむろ》するところが、大名や旗本大身の屋敷の渡り部屋であった。
大名旗本の中間《ちゅうげん》には、二種類がある。
ひとつは、領地から徴された一生奉公の中間。これらがいるのを、国部屋、という。
もうひとつは、転々として屋敷を渡りあるく浮浪の徒の年期奉公。これらがいるのを、渡り部屋、という。
前者は、律義者が多く、給金は、国許《くにもと》へ送り、飲みも打ちも買いもせぬ。
後者は、雲助と同様、酒と女と博奕《ばくち》しか考えていない手輩ばかりであった。そして、渡り部屋では、毎夜のごとく、賭場《とば》をひらいていた。江戸町奉行が手入れのできない武家屋敷であるため、なかば、公然とひらいて居《お》り、貸元も賽《さい》振りまで、ちゃんとそろっていた。
当然、街《まち》の無頼者たちも、灯火に寄る虫のように、渡り部屋へ集っていた。
岡っ引であるにもかかわらず、どぶもまた、その一人であった。
渡り部屋の賭場でもうけると、吉原の小格子《こごうし》女郎や、深川の岡場所の伏せ玉を買い、オケラになると、馴染《なじみ》の夜鷹《よたか》の小屋へころがり込む、というくりかえしが、ひまな時のどぶの生態であった。
さて、その夜は――。
赤坂氷川明神と往還をへだてた相馬大膳亮中屋敷の渡り部屋でひらかれた賭場に、どぶは、とぐろをまいていた。
つい数日前までは、大いにツキまくって、三十両ばかりもうけて、どぶとしては、幾年ぶりかで、吉原の大まがきで、大尽遊びにうつつをぬかしたものだったが、そこで、河内山宗俊と出会い、つれ立って、昨夜、この相馬邸へやって来ると、まことにむざんなまでに、ツキは落ちていた。
夜が明け、そしてまた、日が暮れた時、どぶは、完全にオケラになっていた。
「ちえっ!」
どぶは、最後にのこった駒札《こまふだ》一枚を、張って、負けると、舌打ちして、がっくり肩を落した。
反対に――。
向いの河内山宗俊の前には、大駒小駒が、山と積まれていた。
「親分、大層ふくれっ面《つら》だのう」
河内山に笑われて、どぶは、
「へっ! 待てど来ぬツキ、虫歯もおこる、ふくれっ面にもなりもする――というやつでさ」
「貸してやろうか」
「ご冗談を――」
どぶは、負けた時、絶対に、借をつくらなかった。
こういう時は、いさぎよくあきらめて、立ち去ることにする。というほど、あきらめは、よくなかった。
こういう時に、どぶが、えらぶのは、
「おうおう――、貸元、いぶし番になるぜ」
それであった。
つまり、蚊いぶしを焚《た》き、酒のお燗《かん》番になりさがるのである。
一|刻《とき》をつとめると、貸元が、一分を呉《く》れる。それを元手に、再び、座に加わる。
こうして、勝負をつないで、大もうけしたことも、一度や二度ではない。
そこは、岡っ引の面目というやつで、借金だけは、歯をくいしばって、やらぬことにしている。
たとえ、河内山であろうとも、どぶは、借りるのは、まっぴらであった。
「いいから、親分――」
貸元の部屋|頭《がしら》が、一分をポンと投げて寄こして、
「いぶしたことにして、やんなせえ」
と、云った。
「おい。おれは、乞食《こじき》じゃねえぞ。気安く、投げるねえ」
「好意を、まげてとられちゃ、間尺に合わねえが……」
「べらぼうめ。岡っ引が、あわれみをかけられて、どの面《つら》下げて往来が、歩けるけえ。明日《あす》は、もしかすりゃ、お前を、ひっくくるはめに立ちいたるかも、知れねえじゃねえか。その時、なさけをかけられていちゃ、縄《なわ》をかける手が、にぶらあ」
「えれえ! さすがは、親分、見上げたものだのう」
一人が云うと、他の者が、
「あの手この手と、十手はあれど、これを使わぬ心意気、か」
「いや、オケラになって、もともとだアな。ついに深みへはまった犬が、出るに出られぬどぶの中、というやつさ」
どうあざけられても、どぶは、我慢して、いぶし番を、黙々として、つとめるよりほかに、すべはなかった。
――いまに、みていやがれ。一分を元手に、てめえらの金を、まきあげてくれるぞ!
バタバタと渋団扇《しぶうちわ》を鳴らして、盆茣蓙《ぼんござ》へ、蚊いぶしの煙を送りはじめた時、新しい客が、入《はい》って来た。
その客の顔には、ひどく怯《おび》えた色があった。
正しく云えば、その客は、自身で進んで、入って来たのではなく、常連の破落戸《ごろつき》二人に、左右からひきたてられるようにして、つれ込まれたのであった。
どこかの屋敷の小者ていであったが、江戸の大名旗本の奉公者とは、どこかちがった服装をして居り、腰には刀を帯びていた。
どぶは、一|瞥《べつ》して、
――長旅をして来た奴《やつ》だな。
と、看《み》てとった。
「さあ、さあ――、ここへ坐《すわ》って頂きやしょう。江戸の名物は、伊勢屋、稲荷に、犬の糞《くそ》ってえのは、むかしのことでね。当今の名物は、大名屋敷の盆茣蓙《ぼんござ》よ。ここで、大もうけをして頂いて、吉原へくり込むのが、出府初日のしきたりになっているのさ。……さあ、張って頂きやしょう」
破落戸《ごろつき》たちは、男を、むりやりに、中盆わきの半座へ据えた。
男は、おろおろして、
「てまえは、博奕《ばくち》など、まだ一度も、やったことが、ござりませぬので……」
と、まわりを見渡しながら、云った。
その言葉には、京なまりがあった。
――ははあ、こいつ、京の公家の小者だな。
どぶは、合点《がてん》した。
「江戸へ一歩足を入れたからにゃ、飲んで、打って、買うのが、仁義というものさな。用事だけすませて、さっさとおさらばしようなどという料簡は、おめえ、江戸じゃ、通用しねえのよ。さ、十両も、ぽんと張ったり、張ったり!」
破落戸の一人が、そう云って、男の懐中へ手を突っ込もうとした。
男は、血相かえて、懐中をおさえると、
「な、なにを、しなさる!」
と、叫んだ。
破落戸たちは、どうやら、この男が、懐中を気にしながら、往還を歩いているのを見て、大金を所持しているのだ、とにらんで、カモにするべく、遮《しゃ》二無二、ひきずり込んで来たに相違ない。
男の方としては、つまらぬ争いをして、怪我《けが》でもしてはならぬ、と自分をいましめて、つれて来られたものであろう。
「それでは、半刻《はんとき》ばかり、おつきあいさせて、頂けば、よろしゅうございまするか?」
男は、貸元に、問うた。
「半刻でも、一刻でも、どうぞ、自由におやんなさい。土産《みやげ》話のひとつに、しなさるといい」
貸元は、鷹揚《おうよう》めかして、云った。
「そ、それでは……」
男は、財布をとり出すと、二両ばかり前に置いた。
「これで――」
「おうおう、お兄さん、二両ってこたアねえだろうぜ」
破落戸の一人が、からみかかった時、河内山の一|喝《かつ》が、とんだ。
「あこぎなまねは、止《よ》さねえか!」
「なんだと!」
破落戸どもには、対手《あいて》がお数寄屋坊主だろうと、屁《へ》でもなかった。
河内山は、殺気立った破落戸《ごろつき》どもを見わたして、
「てめえら、江戸の水を飲んでいるのなら、ちったア、腐ったはらわたも、きれいにしろい! 上州あたりの泥|田《た》ン圃《ぼ》からはいあがった小|博奕《ばくち》打ちが、間抜けた百姓をカモにするような、ぶざまなまねは、江戸のドまん中じゃ、許されねえぞ。この河内山宗俊の目の前で、てめえらのあこぎな振舞いをやられちゃ、こっちの名がすたる」
「へっ! 大層な口をたたくねえ。吉原の女郎をかどわかして、大阪の商人へ売りとばすような野郎を、こちとら、お数寄屋坊主とは思っちゃいねえんだ。……黙って、すっ込んでいやがらねえと、その坊主頭の鉢《はち》を、たたき割るぞ!」
「大層威勢がいいのう」
どぶが、笑いながら、口をはさんだ。
「うるせえっ! どぶ鼠《ねずみ》なんぞの出る幕じゃねえ!」
呶《ど》号のおわるか、おわらぬうちに、その破落戸の七分まわしの着物の前が、ぱらっと、はだけた。
どぶの仕込み十手の白刃が、目にもとまらぬ迅《はや》さで、帯を両断したのである。
「なにをしやがる!」
一人が、匕首《あいくち》を抜きはなった。
とみた瞬間、その手くびが、十手刀につらぬかれ、破落戸は、ぎゃっと悲鳴をあげた。
河内山が、にやにやして、
「親分、ここは、町奉行の手入れのできぬ別世界だ。ひとつ、存分に、その十手刀の迅業《はやわざ》を、披露してもらおうか。回向院へ、無縁仏として葬ってやるには、さいわい、この坊主頭が役に立つ。お経ぐらいは、あげられるのだ。……やってもらおう」
と、云った。
あわてて、貸元が、破落戸どもを制した。
京の男が、顔面蒼白になって、顫《ふる》えているのを見やったどぶは、
「ごらんの通り、おめえさんが長居をする場所じゃねえ。……さっさと、逃げ出すがいいぜ」
と、手を振った。
「あ、ありがとう存じまする」
京の男は、立とうとしたが、腰が抜けているのか、四《よつ》ン匍《ば》いになった。
やっと立ち上ると、河内山とどぶへ、幾度もお辞儀をしておいて、出て行った。
どぶは、破落戸たちへ、
「おめえらは、あの男が、大金をふところにしている、とガンをつけたらしいが、あのふところにあるのは、金じゃなかったぜ。主人の大切な書状――といったところだったろうぜ、懐中物はな」
と、云った。
破落戸どもは、げんなりした顔つきになって、その場へ、腰を下《おろ》してしまった。
どぶは、いぶし番も阿呆らしくなって、出て行くことにした。
板戸を開けて、廊下を踏んだとたん、なにやら、ぷうんと、いい匂《にお》いがした。
こんな場所でただよう香ではなかった。
――はてな?
小首をかしげて、薄暗い廊下を見わたしたが、人影はない。
――妙だな。
歩き出そうとして、どぶは、なにか、柔かいものを、踏みつけた。
「……?」
見下すと、それは、匂《にお》い袋であった。
ひろいあげて、
「これか!」
と、目を寄せてみて、
「これア、ただの匂い袋じゃねえ」
と、呟《つぶや》いた。
古金欄《こきんらん》の、そこいらの店では手に入らぬ袋であった――
――、ただよい出る匂いも、高貴な美しい女性を想像させる。
「あの男が、落したのだな」
どぶは、この持主が、あの男のあるじだと考えると、急に、おちつかなくなった。
おそらく、そのあるじは、京の堂上人の息女に相違ない、とどぶは、勝手に思いきめた。
えもいわれぬ香《にお》いをはなつ匂い袋の持主が、皺《しわ》だらけの婆《ばあ》さんであるはずがない。さぞかしろうたけた、一|瞥《べつ》しただけで、フラフラになるような絶世の美女に相違ない。
「こいつは、返してやらざアなるめえ」
どぶは、あわてて、裏門からとび出した。
往還に立ったどぶは、左右を見やって、
「どっちへ行きやがった?」
と、追う方角を、きめかねた。袂《たもと》をさぐると、一文銭があったので、
「表が出たら東だ」
とつぶやいて、空へほうり上げた。
もし、この時、表が出ていたら、どぶは、京都へ出かけることもなかったし、そこでまき起る奇怪な連続殺人事件の渦中に、とび込まずにすんだであろう。
地べたにころがった一文銭は、裏が出た。
どぶは、西へ向って、奔《はし》り出した。
左右は、武家屋敷がつづいていた。
辻《つじ》に出て、それをまっすぐに、つききると、左手は寺院の土塀《どべい》になり、右手は、馬場になった。
「おーい!」
どぶは、馬場わきを、逃げるように急ぐ京の男を、見つけて呼んだ。
「おーい、待ちな」
京の男は、振りかえった。
「おめえ、落しものをしたぜ」
どぶが、近づこうとした――その時。
馬場の土手を、ひらりと躍《おど》り越えた者が、京の男の脇《わき》を、駆け抜けた。
「ああっ!」
京の男が、両手を挙《あ》げてのけぞるのを見て、どぶは、
「やりやがった!」
と、地を蹴《け》った。
通り魔の迅《はや》さで駆け抜けたのは、浪人ていの者であったが、抜きつけの白刃を、宙にひらめかせて、あっという間に、寺院の土塀に跳《と》びついて、姿を消していた。
どぶが、抱き起すと、京の男は、喘《あえ》ぎながら、
「た、たのむ!」
「たのむ、とは――? おい、しっかりしろい!」
どぶは、袈裟《けさ》がけの一|太刀《たち》の冴《さ》えを、すばやく見てとりながら、京の男の耳もとで、問うた。
すでに、この深手では、とうてい助かりそうもなかった。
「竜の口の……伝奏、屋敷へ……」
男は、きれぎれに、喘《あえ》ぎの中から、そうたのんだ。
「伝奏屋敷へ――どうするんだ?」
「つ、つれて行って、下され……」
「この傷じゃ、むりだ。いま、動いたら、助からねえぞ」
「か、かまいませぬ。……どうか、伝奏屋敷へ――お、おねがい、申します」
「よし!」
どぶは、男を背負って、辻へひきかえすと、駕籠《かご》が来るのを待ち、
「竜の口だ。……いいか、途中で、客が息をひきとったら、てめえらのせいだぞ。ゆれねえように、いそいでやれ」
と、命じて、十手を示した。
「無理な注文だあ、親分」
「無理は、承知だ。やれ」
「もし、くたばったら――?」
「てめえらを、ひっくくって、佐渡送りだ」
「じょ、冗談じゃねえ。いっそ、親分が、そっと、おんぶしていきなすったら、どうでえ」
「つべこべぬかさずに、やらねえか」
竜の口の伝奏屋敷門に行き着いて、駕籠かきたちは、おそるおそる、たれをあげてみて、
「しめた! 生きてるぜ!」
と、歓喜の叫びをあげた。
どぶは、京の男を、そうっとかつぎ出して、
「おい、どうする? 着いたぜ」
と、云ってやった。
「あ、ありがとう、存じまする」
男は、わななく手を、懐中に入れると、油紙に包んだ品を、とり出した。
「こ、これを――」
「うむ」
どぶは、油紙をひらいてやった。
予想通り、それは、一通の書状であった。
『願いの儀』
そう表書きしてあった。
「これを、どうするんだ?」
「め、めやす箱へ……、お、おねがい……」
「入れりゃいいんだな」
「は、はい」
伝奏屋敷の門わきには、庶民が直接幕閣へ歎願することができる目安箱が、かかげられてあった。
どぶが、書状をその中へ入れるのを、京の男は、うすれゆく視力で、見とどけておいて、がっくりと落ち入った。
「おそろしく律儀な男だな。おれにたのんで、寝《ね》ていりゃいいものを、見とどけておいて、息が絶えるとは、誰《だれ》にでもできる芸当じゃねえや」
京の男と判《わか》っただけで、どこの公家屋敷に奉公しているのか、なんという名か、不明のままに、おわった。
岡っ引、西へ
どぶが、町小路左門に、呼ばれたのは、それから三日後であった。
樹木のしげみが、ふかくなった庭を横切ろうとすると、小夜が、朝顔の蔓《つる》をからませた竹|垣《がき》の手入れをしていた。
赤い襷《たすき》と、裾《すそ》をからげて白ちりめんをのぞかせた風情《ふぜい》に、どぶは、ごくりと生|唾《つば》をのみ込んだ。
――生娘のなまめかしさなんざ、こたえられねえ。
「いいねえ」
「なんですか、親分?」
「朝顔に、とられた釣瓶《つるべ》になりたい思い、乙《おつ》にからんで、水上げまでの、露のひぬ間の乙女《おとめ》咲き、と来た」
どぶは、首と腰を振りながら、座敷の縁側へまわって行った。
庭には、目くるめくようなまぶしい陽《ひ》ざしが満ちていたが、端座した左門の姿が、いかにも涼しげなので、その座敷自体が、ひんやりと感じられる。
どぶは、縁側にあがって、かしこまると、
「へい。お呼びでございますか」
と、双眼を閉じた左門の顔を、眺《なが》めやった。
厳寒であろうと、酷暑であろうと、左門の端然たる姿は、すこしも変らぬ。
それだけに、どぶは、この人物の前にかしこまるたびに、畏怖《いふ》心が起る。
左門が、入《はい》って来ることを許さぬのか、こちらが入って行けぬのか、どぶは、左門とのあいだに越えることのできない濠《ほり》がよこたわっているのを感じている。
「京都へ、行ってもらうことになった」
左門は云った。
「へえ? 御用筋でございますか?」
「うむ。京都に、なにやら、不穏な異変が起りつつある。……公家の若手が、原因も動機も不明な、謎《なぞ》の死を、つぎつぎと遂げて居る模様だ。五月に入ってから、すでに、三人が、相果てた由――」
「へえ――?」
「この調子では、公卿《くげ》衆が、みな殺しに遭《あ》うやも知れぬ」
「そういう予感がなさいますので?」
「いや、そういう予感がする者が、ひそかに、救いをもとめて参ったのだ」
「……?」
「一昨日、竜の口の伝奏屋敷の目安箱に、そう訴える手紙が、投げ込まれた」
それをきいて、どぶは、あっとなった。
「あいつが、投げ込んだ書状は、その訴えでございましたか?」
「どうして、知って居る?」
「へい。実は――」
どぶは、その日の出来事を、語った。
「ふむ――」
左門は、微笑して、
「因縁だな。目安箱へ、訴状を投げ込ませたお前が、その探索方を命じられるとは――」
と、云った。
「まったくで――」
どぶも、妙な気分であった。
その訴状は、水|茎《くき》の跡うるわしい女文字であった、という。
「そうでございましょうとも!」
どぶは、合点《がてん》してみせた。
「どうして判《わか》る?」
「これでございます」
殺された京の男が所持していた匂《にお》い袋を、どぶは、左門へ、さし出した。
左門は、しかし、匂い袋を掌にのせてから、薄ら笑いつつ、
「訴人がこれを所持して居り、訴えの手紙の文字が美しくとも、当人が若く美しいとは、限るまい。期待せぬが、よかろうな」
と、云った。
「発足前から、興ざめするようなことを、仰言《おっしゃ》らねえで頂きてえもので……」
どぶは、そう云って、顔をひとなでした。
胸の裡《うち》では、
――誰《だれ》か、東海道五十三次の宿場女郎の品さだめのできる野郎を、つかまえなけりゃ。
と、考えていた。
当時――。
百姓の次女、三女は、すこし器量がいいと、近くの宿駅の廓《くるわ》へ売られる者が多く、したがって、道中する男たちの愉《たの》しみといえば、顔よし肌《はだ》よし気立よしの女郎を、つぎつぎと買いあさることにあったし、江戸へ戻ると、次に旅へ出る町内の懇意に申し送るならわしであった。
実際、旅人を悦《よろこ》ばせる女郎が、決して、すくなくはなかったのである。
そのことを想像して、いささかうわの空になっているどぶに向って、またしても、冷やかな左門の言葉が、投げられた。
「どぶ――、東海道は、避けるがよい。中仙道《なかせんどう》を往《い》け。それも、なるべく、間道をえらぶがよい」
「そ、そんな……」
どぶは、思わず、血相変えた。
「殿様、そんな殺生な!」
「生命《いのち》は、ひとつしかあるまい。大切にするがよい」
「だって……、あっしゃ、べつに、生命なんぞ、誰にも狙《ねら》われちゃ居りません」
「訴人を、斬《き》った者の腕は、冴《さ》えていた、と申していたではないか。見事な田宮流|居合斬《いあいぎ》り、と看《み》てとった、とお前自身、舌を巻いたはずだ」
「しかし、それア、あいつは、あの男を斬ったら、役済みになったはずでございますよ」
「その斬り手が、実は、公卿《くげ》殺しの下手人かも知れぬではないか」
「…………」
「要心するに越したことはない。女郎を買う愉しみは、次の機会にゆずることだ」
「殿様にあっちゃ、かないませんや。こっちの肚《はら》の奥まで、お見通しなんだから――」
どぶは、あたまをかいた。
雲脂《ふけ》が、ばらばらと散った。
「しようがありませんや。中仙道の間道をひろうことにいたします。……ところで、あっし一人じゃ、手にあまることになるような気が、いたしますが……?」
「お前は、先発だ。……わたしも、おっつけ、あとを追うことになろう」
どぶは、その言葉をきいて、安心した。
どぶは、大臣家の一人の公卿《くげ》に宛《あ》てた左門の添状をもらって、町小路邸を出た。
≪やぞう≫をきめて、首をふりふり、
東《あずま》男に京女、あじなことから、つい惚《ほ》れすぎて、ほんに想《おも》えば昨日《きのう》今日《きょう》、月日立つのも上の空、うかうかすぎて三年目、東男の浮気さに、ええま、くやしい、腹も立田の水車、わたしゃ悋気《りんき》で、気がまわる、ほんにやる瀬がないわいな、てなこと、京で云われたい、か
と、うたいながら、夜道をひろって行くうちに――。
――はてな?
どぶの神経に、ピリッとふれて来るものがあった。
――尾《つ》けて来てやがるぜ。
それだった。
ふりかえって、たしかめずとも、数間へだてて歩いている人影を、まちがいないと、確信できた。
――尾けるのをあきないのひとつにしているこちとらを、尾けて来やがるとは!
どぶは、むかっ腹が立った。
次の瞬間、はっとなった。
――あいつ、もしかすると、京の男へ、ばっさりと一|太刀《たち》をあびせやがった野郎じゃねえのか?
そうだとすれば、対手《あいて》は、田宮流居合の達者ということになる。
生捕《いけど》る、などということは、のぞみ薄である。下手《へた》をすれば、こっちが殺《や》られるおそれがあった。
「さてと――」
どぶは、わざと、のんきめかして、
「どうする、こうする、思案の末に、ここは、一番、三十六計だあ」
と、云っておいて、ぱっと走り出した。
はたして、尾行者は、遁《のが》さじと追って来た。
疾駆《しっく》にかけては、どぶは、充分の自信があった。
寺院のならんだものさびしい往還へ出た時、すでに、尾行者の足音もきこえぬまでに、ひきはなしていた。
どぶは、高|塀《べい》にとびついて、瓦《かわら》の上へ、腹ばいになった。
――来やがれ!
十手刀を抜きはなって、尾行者が、そこへ来たのを狙《ねら》って、投ずる肚《はら》をきめた。
しかし――。
いくら待っても、尾行者は、姿をみせなかった。
「ちょっ! 早駆けが熟練しているのも、考えものだぜ。……どうしやがったろう、あん畜生――」
どのような風|貌《ぼう》の男であったか、せめて、それだけでも、たしかめておくべきだったのである。
――やっぱり、左門の殿が中仙道の間道をえらべ、と命じられたのは、正しかったな。
どぶは、その時は、不服だったのだが、あらためて、左門の思慮のゆきとどいていることに、敬服せざるを得なかった。
十日の後――。
どぶは、木曾路を抜けて、関ケ原から柏原、醒ケ井、馬場、そして湖辺に添うて、草津へ出ていた。
どうやら、木曾路でも、思いがけないひろいものをしたらしく、どぶは、うきうきした足どりになっていた。
お前とわたしは草津縁、ぽちゃぽちゃ、と、夜|毎《ごと》に
ついたる≪うば≫が餅《もち》 コチャ 矢走《やばせ》の大津で、都入り
陽気にうたって行くさまは、京都見物にでも行くようであった。
逢坂山から、京に入るのは、すべて山道である。
水光山色おのずから、そのおもむきをあらためる。
大谷、追分、横木、四の宮を通り、奴茶屋、藪の下、日の岡を過ぎて、京に入ると、蹴上げ、粟田口、白川橋を経て、三条大橋にいたるのである。
江戸からはるばる京に上った旅人は、たとえば、五条坂あたりに旅舎があっても、一応三条大橋まで歩き着いで、
――とうとう来た。
という感慨をもって、加茂川の流れを眺《なが》めるのを、ならわしとするのである。
どぶも、そのならわしに、したがった。
実は、どぶは、京都というところは、全くの地理不案内であった。二、三度、通り抜けたおぼえがあるだけであった。
おっとりとみせかけて、実は、他国者に対しては、氷のようにつめたい京の住人を、どぶは、直感でさとって、一度も、泊ったことがなかったのである。
たとえば、客が来て、午《ひる》になると、
「ぶぶ漬《づ》けでも、どうどすえ?」
と、すすめる。これは、礼儀というものである。
で――、客も、正直に、
「では、お言葉にあまえて、いただきます」
と云って、腰を据えようものなら、あとで、
「ほんに図々しい」
と、悪口をたたかれることになるのであった。
顔と肚裡《とり》は、雪と炭ほどちがっているのが、東山三十六峰にかこまれた狭い町の気質なのであった。
江戸ならば、午になると、客にすすめる前に、
「おい、嬶《かかあ》――はやくしろい」
と、催促している気早さで、客が遠慮すると、
「うちの飯はまずくて食えねえというのか」
と居直るあんばいであった。
備前の田舎《いなか》ざむらいであったどぶが、大小すてて出奔するにあたり、京大阪を通り抜けて、江戸をめざしたのも、気象がぴったり向いている、と予感があったのであろう。
たしかに――。
江戸の水は、どぶに合ったのである。
「他国者を、どう扱いやがるか、蓋《ふた》をあけてのおたのしみだ」
どぶは、ものしずかな往還をひろいながら、つぶやいていた。
三条大橋に行き着いて、加茂川の流れを眺《なが》めやったどぶの第一声は、
「暑いぜ、めっぽう!」
それだった。
蒸し風呂《ぶろ》さながらの、なんとも堪《た》えがたい熱気が、むうっとたちこめている京の町であった。
ただ、じっと立っているだけで、じわじわと汗が滲《にじ》み出て来る。
「こう暑くちゃ、きちがいが出て来て、人殺しもやらかそうというものだぜ。長逗留《ながとうりゅう》は、まっぴらだ」
どぶが、吐きすてた時であった。
橋|袂《たもと》の居酒屋から、若い男が一人出て来て、すたすたと近づいて来た。
商家の手代といった身なりであったが、目つきが鋭かった。
「失礼でござんすが、どぶの親分で――?」
歯切れのいい江戸前の口調で、呼びかけて来た。
「うむ。……おめえさんは――?」
「七助と申します。次郎吉親分から、早飛脚が寄越されて、どぶの親分が、京へ入《はい》るから、なにかとお役に立つように、と命じられましたので、お世話をさせて頂きます」
「じゃ、おめえさんも、コレかい?」
どぶは、人差指を曲げてみせた。
七助という男は、笑っただけで、それにはこたえず、
「親分は、この京都には、もう、何度も――?」
「おれは、暑さ寒さに弱いんでね。おまけに、名勝|史蹟《しせき》なんざ、まるっきり、興味がねえと来ている」
「これから、どちらへご案内いたしましょう? 旅籠《はたご》は、もう、きめて居《お》ります。ひと休みなさいますかい?」
「見ねえな、あの柳の葉ひとつ、そよともしねえじゃねえか。午睡《ひるね》のできる暑さじゃねえや。……手っとり早く、仕事を片づけてえ。綾小路ってえ、羽林家の一軒をたずねてえんだ」
「綾小路? ちょっと、待っていておくんなさい」
七助は、居酒屋とはす向いの番小屋へ行ったが、すぐ、ひきかえして来て、
「ご案内を――」
と、北の方角を指さした。
どぶは、肩をならべて歩きながら、
「七助さん、おめえ、江戸だろう?」
「へえ、まあ――」
「江戸払いになって、舞いもどれねえ、というわけか」
「へへへ……」
七助は、頭をかいた。
当ったらしい。江戸払いどころか、追放処分になった身で、実は、この京にも住むことを許されていないのかも知れなかった。ただ、もぐりで、住んでいるのであろう。
次郎吉の親しい男なら、夜働きに相違ないのである。それが、平気で、番小屋にも出入りしているところをみると、もしかすると、奉行所の取締りだけはゆるやかと思われる。
やがて――。
七助に案内されて、どぶは、綾小路三位の屋敷の前に来て、
「へえ。公卿《くげ》というやつは、赤貧洗うがごとしという噂《うわさ》通りだな」
と、呟《つぶや》いた。
「全くで――。親分、大きな声じゃ、云えねえんだが、公家屋敷が台所をまかなっているのは、下男部屋を、博奕《ばくち》打ちに、賭場《とば》貸ししているおかげですぜ」
「なんだと? そりゃ、ほんとうか?」
「あっしのような、実際出入りしている者が云うんだから、まちげえはねえんでさ。江戸じゃ、大名旗本屋敷が、渡り部屋で賭場をひらくのを、黙認しているのと同じで、京都じゃ、公家屋敷が、ちょうどいい賭場になっているんでさ。なにしろ、町奉行の手がつけられねえ場所ですからね。……五摂家が、そうだから、あきれたものですよ」
「五摂家というのは、近衛とか九条とか鷹司って――おめえ、関白になる公卿だろう?」
「そうでさ。その五摂家が、下男部屋を、賭場に貸してカスリを取っているんでさ」
「あいた口が、ふさがらねえな。こちとらは、関白なんてえのは、雲の上と思っていたぜ」
「雲の上だろうと、地獄だろうと、金次第で、のぞくことができまさあ。……親分、ふところは、あたたけえでしょうね?」
「う、うむ――」
「この綾小路三位だって、口を割らせるには、金次第だと思いますよ」
「よし――」
どぶは、邸内へ入って行った。
堂々と表玄関から、案内を乞《こ》うて、取次に出て来た七十あまりのよぼよぼの老いぼれ家臣に、左門の添状をさし出した。
やがて、
「庭へまわれ」
と、命じられた。
どぶは、庭を一|瞥《べつ》して、
――これアひでえや。
と、あきれた。
町小路邸の庭も、手入れをせぬまま荒れてはいるが、これほど、ひどくはなかった。
まるで狐狸《こり》のたぐいのすみかに恰好《かっこう》の景色であった。
夏草が、縁側を押しあげるように、生《お》いしげって、足の踏み込み場所もないくらいであった。
それをかきわけて、書院の縁側に近づくと、五十年配の公卿が、
「はてな? おかしいぞ?」
と、しきりに、あちらこちら、室内をうろつきまわっているのが、見えた。
「へい、ごめん下さいまし」
どぶが、挨拶《あいさつ》すると、じろりと頭をまわした綾小路三位は、
「その方、公儀の岡っ引と申したな?」
「左様でございます」
「岡っ引ならば、教えてもらおうかの。財布が、見当らぬ際は、どういたせばよい?」
どぶは、阿呆《あほ》らしくなりながら、
「財布を、お失《な》くしになりましたので?」
と、問うた。
「そうじゃ。どうすればよい?」
綾小路三位は、真剣な表情で、どぶを見据えた。
「てまえは、武家屋敷なら、存じ上げて居《お》りますが、公家屋敷は、どうなっているのか、一向に存じませんので……」
「下手人が、いずこの、何者とも知れぬのをつきとめるのが、岡っ引の職務であろう。財布ぐらい、さがし当てられないで、どうする?」
「ごもっとも様で――」
「さがせい」
「どこを――?」
「たわけ!」
綾小路三位は、おのがふところをたたいてみせ、
「わしは、常時、財布をここに入れて居る。それが、失くなったのじゃ。懐中から、失くなったということは……」
「ふんどしへ落ちたのかも知れませぬな」
「なに?」
三位は、片手を股《こ》間にあてた。それから、あわてて、前をまくって、手を突っ込んだ。
財布は、紐《ひも》つきで、そこにぶら下っていた。
「その方、どうして判《わか》ったのじゃ?」
「三位様は、大層ゆるやかに、帯をお締めなされて居りますので――」
「ふむ――」
三位は、甚《はなは》だ面白くない顔つきをした。
それから、また、唐突なことを口にした。
「その方、狆《ちん》の蚤《のみ》が、取れるかな?」
「へ――?」
「狆の蚤取りができるか、とたずねて居る」
「それアまア、蚤ぐらいは、取れますが……」
三位は、口笛を吹いた。
すると、廊下を一匹の狆が、ちょこちょこと走って来た。
「たのむぞ」
三位は、狆をつかみあげると、どぶへ、ぼんと投げておいて、さっさと奥へ消えてしまった。
「やれやれ――」
どぶは、あぐらをかいて、その中へ狆をうずくまらせると、毛をかきわけて、蚤をさがしはじめた。
見えつかくれつ、すばやく動く蚤を、けんめいに、指さきで追いかけながら、どぶは、
――公卿《くげ》といっても、まんざらじゃねえ、人間味のある爺《じい》さんもいるぜ。
と、にやにやした。
およそ、四半|刻《とき》も過ぎてから、綾小路三位が、現れた。
するめをかじりながら、どぶのそばへ寄ると、
「ご苦労――」
と、云った。
どぶは、指さきが痛くなっていた。
「町小路左門の手紙を読んだぞ」
「有難う存じます。なにとぞ、ご援助のほどを、お願い申し上げます」
「援助などは、せぬ。左門は、わしの甥《おい》じゃ。あれの母親が、わしの妹でな。美しく、優しい、たぐいまれな女性《にょしょう》であったが、その伜《せがれ》め、途方もない罰あたりになり居《お》った」
「…………」
「考えてもみい。三千石の旗本|布衣《ほい》の大身でありながら、その高|禄《ろく》を返上して、与力になり下るとは、何事であろうか!」
「それは、目が不自由におなりになったので……」
「目が不自由になったればこそ、三千石を大切にいたさねばならぬのが、あたりまえではないか。そういう不埒《ふらち》者に、援助などはせぬぞ。町奉行の下の与力になるなど、なんたる気ちがい沙汰《ざた》であろうか。まことにもって、許しがたい。わが甥ながら、あきれはてた奴《やつ》じゃ。……のう、岡っ引、三千石――惜しいと思わぬか?」
「惜しゅうございますな」
「この伯父《おじ》に、三千石、呉れてみい。京の公卿《くげ》衆が、どれだけ、たすかるか。三位《さんみ》などと、えらそうな顔をしているが、これで、三度に二度は、粥《かゆ》をすすって居るのだぞ。ああ三千石! もったいない!」
綾小路三位は、まったくもったいなさそうに、両手をさしのべると、三千石が空から降って来るのを受けとめるような恰好《かっこう》をした。
正直な老人であった。
「ところで、左門の殿様がお願いした件でございますが……」
「わかって居る」
「へえ――?」
「公卿たちが、つぎつぎと変死したことを、調べたいと申すのじゃな」
「左様でございます」
「所司代が無能じゃから、こういう異変が起るのじゃ」
「…………」
「わざわざ、江戸から、岡っ引が出張って参るなど、公卿の恥辱もきわまれり、と申すべきではあるまいか。そうではないか、岡っ引?」
「ごもっともで――」
「左門の手紙には、何者かが、目安箱に訴状を投じたとあるが、うろたえ者めが! 京都の異変は京都の公儀役人が、片づけるべきではないか。所司代も、町奉行も、京都へやって来ると、腑《ふ》抜けに相成るとみえる。……わしのような気骨のある公卿も居るのじゃ。なぜ、町奉行は、わしに相談せぬのか。腹が立つ」
「…………」
「ああ、腹も立つが、腹も空《す》くのう。その方、金を所持して居らぬか?」
「へえ、少々は持って居りますが……」
「呉れ」
三位は、ぬっと、手をさし出した。
「いかほど?」
「多いほどよい」
どぶは、しかたがないので、二分ばかり、渡した。
「ははは……、これで、ひさしぶりに飲めるのう」
京童《きょうわらべ》
一|刻《とき》ばかりのち、どぶは、綾小路三位卿の屋敷を出た。
陽《ひ》は落ち、月が昇《のぼ》っていたが、暑気は、じっとりとよどんでいた。
しかし、どぶは、その暑さも忘れたように、腕を組んで、歩いた。
綾小路三位が、話してくれた公卿《くげ》変死は、三件あった。
そのひとつ。
阿野実明は、茶会の帰り道に、腹痛を起し、なじみの紙園の茶屋にころがり込んで、悶死《もんし》していた。
そのふたつ。
五月五日の加茂競馬に、日頃馬術自慢で、公卿にはめずらしく兵法修業を積んでいた烏丸公久が、忍びで乗手を買って出て、ゴール寸前に落馬した。半刻ばかり生きていたが、ついに、息をひきとった。
その三つ。
甘露寺輝貴は、女たらしで、島原の芸妓《げいぎ》を連れて、三十三間堂の通し矢を見物に出かけたが、その最中、どこからともなく飛来した矢に、背中を刺され、それなり昏倒《こんとう》して、再び意識をふきかえさなかった。
これが、五月に入《はい》って、ばたばたと相次いで起ったのである。
きいただけでは、事件は、ばらばらで、なんの関連もなさそうに思えた。
どぶは、三位に
「三位様は、この下手人は、同一人だとお考えになりますか?」
と問うてみた。
「知らん」
三位は、にべもなくかぶりを振って、
「それを調べるために、お前は、わざわざ、江戸からやって参ったのではないか。しっかりせい」
と、きめつけたのである。
どぶは、江戸ならいざ知らず、勝手のわからぬ京の町で、このわけのわからぬ連続凶変に、どう首を突っ込んでいいか、さっぱり見当もつかなかった。
「犬も歩けば、棒にあたる、か。こん畜生、その棒が、どこに、ころがっていやがるかだ」
首を振った時、どうん、どうん、と音がひびいて、行手の空に、花火が明滅した。
どぶは、そこへでも、歩いて行くよりほかはなかった。
花火を打ちあげているのは、四条の磧《かわら》であった。
夕涼みがてらの人出は、かなりの頭数であった。
どぶは、空を仰ぐかわりに、匂《にお》うて来る甘い香に、小鼻をうごめかして、視線をきょろつかせた。
店から流れるあかりや、提灯《ちょうちん》の火に、浮かびあがった京女の美しさが、どぶの胸をおどらせた。
店の小女などが、はっとするほど美しいのをみとめて、どぶは、はじめて、京都のよさをみとめたことである。
「腹が減っては、いくさができぬ、だ。……今夜はひとつ、加茂川の水でみがいた餅肌《もちはだ》を、撫《な》でたり、なめたり、たっぷり、堪能《たんのう》してこまそ」
どぶは、廓《くるわ》の女郎を買うのは、芸がなさすぎるので、なんとかして路上で、素人女をひろってやろう、と物色しはじめた。
どっこい、浅草奥山や両国広小路で、女をひろうようなあんばいにはいかなかった。
こういう場合、愛敬《あいきょう》のある将棋の駒面《こまづら》も、京の都では、気味わるがられるばかりであった。
「おお、怕《こわ》や!」
と、悲鳴とともに、首をすくめられると、
「なにおっ!」
と、呶鳴《どな》りたくなった。
そのうち、背後から、袂《たもと》をつかんで引く者がいた。
ふりかえったどぶは、
「へえ――祭のいでたちかい?」
と、眉宇《びう》をひそめた。
十二、三歳の少年が、古風な下《さげ》髪に、水干《すいかん》、葛袴《くずばかま》の姿で、立っていた。
「小父《おじ》さん、女子が欲しゅうてか?」
「なんだと?」
「われが、案内をつとめましょうわえ」
「ほんとかい?」
「こう、ござれ」
どぶは、少年の顔を、のぞき込んでみた。
こんなあきないをしているにしては、品がありすぎる。眸子《ぼうし》が澄んで、いかにも利発そうである。
――公卿《くげ》のご落胤《らくいん》といったところかも知れねえな。
「坊や、とびきりの別品を用意しているのかい?」
「眉目《みめ》うるわしい女子が、お待ちして居《お》りまする」
少年がこたえた時、突如、数人の少年たちが、わっと喚声をあげて、包囲した。
十四、五から十七の年齢の連中で、これは、いかにも、チンピラやくざの顔つき身ぶりであった。
いちばん、年かさのが、
「やいっ! 餓鬼! うぬは、縄《なわ》張りあらしをさらすんかい!」
と、呶鳴った。
どぶは、苦笑した。
この少年たちも、客引きであった。
どぶは、水干《すいかん》少年がおちつきはらっているのを見て、わざと、助けてやらぬことにした。
「われは、なんにも、わるいことはして居らん」
「なにをぬかしてけつかる。縄張りをあらしやがったら、どないなことになるか、知っとるか!」
云いざま、なぐりかかった――その瞬間、
「わあっ!」
悲鳴をあげて、のけぞった。
水干少年が、目にもとまらぬすばやさで、びゅっと、独楽《こま》をとばして対手《あいて》の頤《あご》を、があんと打ったのである。
独楽《こま》には、紐《ひも》がくくりつけられており、生きもののように飛んで、水干少年の手もとに、かえったのである。
――これア、ただの手練じゃねえ。
どぶは、感服した。
少年たちのうち、二人ばかりが、匕首《あいくち》をひき抜いたが、水干少年は、ビクともせずに、独楽投げの秘技を発揮して、一人の手から匕首を、はねとばし、もう一人の額をぶち割っておいて、さっと、群衆の中へ、姿を消してしまった。
「ははは……、あっぱれな腕前じゃねえか。乾分《こぶん》にしてえぐれえのものだ」
どぶは、首を振って、参きだした。
あてもなく、往還をひろって行き、細路地を抜けて、別の道へ出た時、
「小父《おじ》さん、お待たせ申しました」
と、小さな人影が、前に立った。
水干少年であった。
「こいつは、おどろきだ。おれが、どうして、ここへ出て来ると、判《わか》ったい?」
「蛇《じゃ》の道は、蛇《へび》でござりまする」
「きいたふうな口をききやがる。それにしても、お前の腕前は、大層なものだぜ。ただの大道芸人じゃあるめえ」
「ただの大道芸人でござります」
「名は?」
「菊水独楽丸と申します」
「小粋《こいき》な名を持っているくせに、どうして、客を引く?」
「はい。わたくしは、客引きをあきないにしているのでは、ござりませぬ。空蝉《うつせみ》と仰せられるお≪じょうろう≫から、おたのまれして、旅の御仁を、おさそい申して居《お》ります」
「空蝉だと? 空蝉といやア、おめえ、源氏物語の中に出て来る別品じゃねえか」
「はい、左様でございます」
「江戸とちがって、京は、夜鷹《よたか》までが、みやびた名前をつけてやがるんだな。これが、ほんとの源氏名か。……それにしても、おめえ、どうして、おれをえらんだ? 色男でもなけりゃ、ふところがあたたけえとも、見えねえじゃねえか。第一、おれの風体は、どう眺《なが》めたって、食いつめた浮浪人だアな」
「お人柄をえらびましてございます」
「お人柄か――。泪《なみだ》がこぼれるようなありがてえお言葉を、きかせてくれるぜ。江戸で、そんなことを云ってくれた奴《やつ》は、一人もいねえや。……おれは、だんだん、京の都が、好きになって来たぜ」
口さきでは、そう云いながらも、どぶは、水干少年が、なぜ、自分を客にえらんだか、疑惑をのこしていた。
古びた土塀のつづく坂道を、のぼって行き、さらに、急|勾配《こうばい》の石段を降りたところで、水干少年は、古びた山門を指さし、
「ここでございます」
と、告げた。
「寺じやねえか、これア――」
「はい」
「比丘尼《びくに》寺かい?」
「いいえ、無住寺でございます」
どぶは、山門から、のぞいてみた。
月明りにも、そのたたずまいは、いかにも由緒ありげであった。
「ふうん。無住寺とは、思われねえが……」
どぶは、首をひねった。
「では、わたくしは、これで……」
水干少年は、はなれて行こうとした。
「おい、待ちな」
どぶは、あわてて、呼びとめたが、水干少年は、あっという間に、石段を駆けのぼって、闇《やみ》に消えてしまった。
どぶは、舌打ちしてから、山門をくぐった。
本堂前に立ってみて、
「冗談じゃねえ。こんな立派な寺が、無住であるわけがねえ」
どぶは、つぶやいた。
その時、方丈から、人影があらわれて、置石を踏んで来た。
どぶは、それが、商家の番頭らしい、とみて、声をかけた。
「お前さん、ここへ、種流しに来たのかい?」
町人は、どぶのむさくるしい風体を、怯《おび》えたように、すかし見た。
「いやさ、女を買いに来たのか、ときいているんだ」
「へ、へえ――」
「どんな淫売《いんばい》がいやがるんだ、ここには――?」
「へえ……、それはもう……」
「それはもう、なんだ?」
「まるで、夢でもみているような心地でございます」
「ぬかしやがったな」
「へえ――」
町人は、どぶの伝法な口調が耳なれないので、慍《おこ》られているとでも思ったらしく、首をすくめた。
「お前さん、まさか、寝《ね》て来たところは、墓場じゃあるめえな」
「いえ、そ、そんな……」
「抱いたのが、骸骨《がいこつ》で、お前さんが、髑髏《どくろ》の口を、ちゅっちゅっと吸った、というのなら、話がわかるんだがな」
町人は、小さな悲鳴をあげて、山門を走り出て行った。
どぶは、方丈の玄関に立つと、大声をあげた。
衝立《ついたて》の蔭《かげ》から、
「ここは、雲助人足などのやって来るところじゃないのだ。風流を心得た粋客のおみえなさるところだから、おひきとり頂きましょうわえ」
という声が、こたえた。
「粋客を呼ぶところにしちゃ、牛太郎の品がねえな」
どぶは、ずけずけと云った。
「顔を見せてはいないはずだが……」
「声でわかるぜ」
衝立の蔭から、姿を現したのは、なんと、岡っ引のいでたちをした男であった。
「へえ、これは、おどろいたぜ。御用ききが、牛太郎か」
京都の岡っ引は、にやりとして、
「隠れ売女《ばいた》の見張りを、岡っ引がつとめるのだから、こんな安全なことはなかろう。……江戸者だな、お前さんは――?」
「よく、おわかりで――」
「江戸者は、莫迦《ばか》正直を、面《つら》にむき出していらあ。目つきがな、食いつきそうや」
――てめえと同じ岡っ引だアな。目つきがわるいのは、あたりめえじゃねえか。
どぶは、内心苦笑しつつ、
「それで、空蝉《うつせみ》という≪じょうろう≫を、買わせて頂けるんで?」
「買うために来たんやろうが」
「へへへ……、なにしろ、京の女子を抱くのは、はじめてでござんしてね」
「こっちだ。……足もとに気イつけな」
まっ暗な廊下を、どぶは、案内された。
ひろい庭のひらけた縁側へ出ると、男は、
「そこや――」
と、座敷を指さしておいて、どぶの耳もとに口を寄せると、
「ええか。ほんまのお≪じょうろう≫のお遊びやで、橋下の淫《いん》売をあつかうようにしよったら、承知せんぜ」
と、云った。
「枕《まくら》代は、いくらですかい?」
「それは、あとや」
京の岡っ引は、ひきさがって行った。
座敷の障子は開《あ》けはなたれてあり、蚊帳《かや》が吊《つ》ってあった。
蚊帳のむこうに、王朝時代そのままの燭台《しょくだい》が、燈心《とうしん》の細いあかりを、闇《やみ》にまたたかせているばかりなので、蚊帳の中は、ほとんど見わけられなかった。
「ごめんなすって――」
どぶは、蚊帳の中に入った。
闇には馴《な》れた目を持っているどぶであったが、燈心のあかりがかえって邪魔になって、臥牀《ふしど》の上に横たわる女の姿が、はっきり見わけられなかった。
どうやら、打掛を羽織って、俯伏《うつぶせ》せになっているらしい。
どぶは、のそのそと匍《は》い寄った。
とたん――。
――はて?
どぶの小鼻が、うごめいた。
――この匂《にお》いは?
俯伏した女が。打掛の蔭《かげ》からただよわせるのは、まぎれもなく、どぶが、江戸でかいだものであった。
目安箱へ訴状を投げ込んで、死んだ京の男が所持していた匂い袋のそれと同じである。
しかし、いまは、冷静にかえって、その匂いを詮索《せんさく》する余裕などあるべくもないどぶであった。
「ひとつ、おねげえ申します」
そう云って、打掛をはぐと、双腕《もろうで》に抱き取るように、肢体を起してみた。
燈心のあかりが、ようやく、蚊帳の中へ通って来ていた。
どぶは、抱きあげた女の顔を、一|瞥《べつ》して、思わず、ごくりと生唾《なまつば》をのみ込んだ。
ぼうっと浮きあがったその白い貌《かお》の、なんというろうたけた美しさであったろう。
一瞬、どぶは、狐狸《こり》のたぐいに化かされているのではないか、と疑ったくらいであった。
燈《とう》心の細い光を、蚊帳《かや》に通しているために、その白い貌《かお》が、夢幻の中のもののように、美しく彩《いろど》られた、ともいえるであろうが、たしかに、これは、たぐいまれな美女であることにはまちがいなかった。
どうして、こんな美女が、春をひさぐのか? どうしても、信じがたいことだった。
――おれのような、やくざな醜男《ぶおとこ》が、こんな美人を、抱いてもいいのか?
どぶは、心中で、思わず、つぶやいたくらいであった。
もったいない、というひそかなおそれをさえおぼえた。
≪しかけ≫が、王朝風であるのも、薄気味わるいのであった。
空蝉《うつせみ》がまとうている衣裳《いしょう》も、臥牀《ふしど》も、そして、枕辺に置かれた調度品も、すべて、光源氏のかよって来るのを待っていた、という景色である。
「ありがてえ」
どぶは、思わず、口走ってから、
「化かされているのなら、≪こと≫が済むまで、化かしつづけておくんなさいよ」
と、云い添えた。
それから半|刻《とき》あまり――。
どぶは、いささか誇張していえば、元《げん》の順亭が、愛娘《あいき》を抱きながら曰《い》った、
「香風|錦屏《きんべい》をめぐり、華月玉座に入る、人間の愉《たの》しみ当《まさ》に天上より減ずることなからん」
の境地に、溺《おぼ》れたのである。
陶然として、なお、歓喜の戦慄《せんりつ》の余韻に、身をひたしている時、どぶの意識を、現実にひきもどしたのは、縁側をずかずかと歩いて来た足音であった。
「おい、江戸者――、いいかげんで、正気にかえったらどうだえ」
不粋な呼びかけに、どぶは、しかたなく、身を起した。
「どうも、有難う存じました。ごめん下さいまし」
どぶは、あまりのふしぎな経験に、われにもあらず、なにかご利益を蒙《こうむ》ったように、神妙に礼さえのべて、蚊帳を出た。
蚊帳を出る時、ふたたび、あの匂《どぶ》いが、どぶの鼻を衝《つ》いた。
――そうだ。おれは、岡っ引だ。そいつを忘れちゃいけねえや。
自分に云いきかせながらも、京の岡っ引のあとをついて、廊下をひきかえしつつ、
「極楽! 極楽! この法悦《ほうえつ》!」
と、つぶやいていた。
「なんと云うた?」
ふりかえられて、
「いや、こっちのことさ」
と、ごまかした。
玄関のわきの小部屋には行燈《あんどん》がつけられて、どぶは、そこへ入れられると、
「じゃ、極楽をみた料金三両、頂戴しよう」
と、請求された。
「三両?!」
どぶは、目を剥《む》いた。
「三両とは、いくらなんでも、法外な値じゃねえか」
すると、京の岡っ引は、腰から十手を抜きとると、
「河原の斑次《はんじ》、この十手に誓って、かけ値はやらんぜ」
と、うそぶいた。
どぶは、あやうく、懐中の十手を抜きとって、「おれも、江戸の岡っ引だ」と叫びたい衝動にかられた。
しかし、どうやら、この河原の斑次という男は、この先、使いかたがある、とにらんだどぶは、自分の素姓を伏せることにした。
「二両にしてもらいてえな」
「かけ値はせんと、云うたぞ」
「たのむ、親分――。旅さきで、ふところが心細いんだ。二両にまけてくれ」
河原の斑次は、舌打ちした。
しかし、二両でも法外であることは、斑次自身みとめているとみえて、黙って、片手を突き出した。
どぶは、そのてのひらへ金を落しておいて、境内へ出た。
――やれやれ。光源氏になるのは、高くつきやがる。しかし、わるくなかったな。やっぱり、京都には、佳《い》い女がいやがる。
鐘楼のかたわらを過ぎようとすると、そこから小さな影が立ち上った。
水干少年の菊水独楽丸であった。
「江戸のおかた、堪能《たんのう》なされましたか?」
きいた風な口をきいた。
「堪能したぜ、有難うよ、坊や」
ならんで、山門を出ると、どぶは、ふりかえってみて、
「明日の晩も、ここへ来たら、あの女が抱けるか。それとも、もっととびきりの≪じょうろう≫がいる場所が、ほかにあるのか?」
「わかりません。したれども、明日の晩、ここへおいでなされても、女子は居りません」
「どうしてだい?」
「毎晩、場所がかわります」
「ふうん。その場所が、その日の昼に、おめえに、知らされるんだな?」
「はい」
――どこかに、親玉がいて、上玉を何人か、かかえて、かせいでいやがるのだ。
……いや、もしかすれば、あれは、本当の≪じょうろう≫だったかも知れねえぞ。公卿《くげ》の娘が、貧乏ぐらしにやりきれなくなって、春をひさいでいやがるのかも知れねえ。
どぶは、公卿が屋敷の一部を、博奕《ばくち》打ちに賭場貸《とばが》しをしている、と七助という男が語っていたのを、思い出した。
賭場貸しするくらいだから、娘に春をひさがせるくらいは、しかねまい。
――こいつは、さぐってみる興味があるぜ。
どぶは、独楽丸の肩へ手を置いて、
「坊や、ついでだ、旅籠《はたご》を世話してくれ」
「はい。かしこまりました」
独楽丸は、いそいそと、さきに立った。
美女桜子
京都の名物として、当時、かぞえられたのは――。
水、水菜、女、染物、みすや針、寺と豆腐に黒木、松|茸《たけ》。
また二鐘亭半山は、天明年間に、京に多いものは、
「寺、女、雪踏みなおし、すくないものは、侍、酒屋、けんどん、願人、生酔、鳶《とび》、鴉《からす》、駈《かけ》出し」と書いている。駈出し、というのは、文字通り、往還をつっ走ることであり、そういう気ぜわしい空気は、すこしもなかった。家の外も内も、いつも、おっとりとして、争いの声などは、一切たてず、万事やさしい人気を保っていた。そのかわり、顔と心は、まったくうらはらな、おそるべき冷酷さも、ひそめていた、といえる。
ともあれ――。
京は、女の都であった。
洛中《らくちゅう》はなかば妓院《ぎいん》である、と称されたくらいで、洛西の島原をはじめとして、五条新地、北野、内野、祇園、二条、七条など、いたるところに色を売る場所があった。
横丁に入《はい》れば、必ずそこに、なまめかしい掛|行燈《あんどん》の火影と三味線の音が、客をまねく店があった。
どぶは、せっせと、京の市中を歩きまわってみて、
「なるほど――。女なくては夜の明けぬ都だ」
と、感服した。
たとえば――。
江戸に於《おい》ては、たとえ夫婦でも、連立って外出すると、決して、肩をならべたりなどはせぬのである。夫婦でない男女などは、男が左側を行けば、女は右側を歩く、というぐあいであった。
ところが、京都に来てみれば、男と女が、手をにぎり合って、平気で道を往《い》っているのである。
小間物屋は、公然と、御用物の貼《は》り紙をして、淫具を売っていたし、聖護院の森あたりでは、しばしば心中死体が横たわっている、という。
紫の絽《ろ》の帷子《かたびら》を胸のあたりまで高く左褄《ひだりづま》をとって、緋縮緬《ひぢりめん》の湯もじを、あざやかに浮きたてながら、細い小路を抜けて行く芸妓の風情《ふぜい》など、どぶにとっては、なんともこたえられないものであった。
――このままじゃ、骨抜きにされちまうぜ。
と、自分をいましめたものの、灯ともし頃《ごろ》になると、そわそわして来て、昨夜は島原、今夜は祇園、そして明夜は、先斗町《ぼんとちょう》の綿帽子を買う、という次第になった。
当然――。
懐中が心細くなったので、二条・七条の河原に、むしろ掛けの小屋をのぞいて、総嫁《そうか》を買ってみると、この最下等の淫売の中に、あんがい、掘り出しものがいるのに、舌なめずりするあんばいであった。
「名がいいやな。総嫁――男ぜんぶの嫁、とはしゃれてらあ。夜鷹《よたか》と呼ぶのにくらべると、やっぱり、京都は、淫売までが、みやびてやがる」
こうなると、どぶは、すっかり役目を忘れかけたが、やがて、その性根へ衝撃をくれる事件が起った。
それは、祇園祭のさなかに、起った。
祇園祭は、日本の祭礼の冠といわれるものであり、江戸の神田祭も山王祭も、これには及ばないほどであった。
六月七日にはじまって、十八日の神輿《みこし》洗いにおわる。その十日間、市の人口は、二倍にふくれあがる、といわれていた。
山鉾《やまぼこ》の壮観、練物《ねりもの》の美は、長い伝統がつくりあげたものであり、どぶは、そのさまを眺《なが》めて、
――江戸の山車《だし》は、足もとにも及ばねえ。
と、痛感せざるを得なかった。
なるほど、山王祭の山車は数六十、神田祭は三十六本を誇り、練物も大江山鬼退治とか、富士の巻狩とか思いきった作りものに金をかけ、街《まち》かどの踊屋台で娘を踊らせるためには、三年さきまで首がまわらぬ借金をして悔いないありさまであったが、祇園祭とくらべると、まるで品格がちがっていた。
伝統が生む品格は、江戸の祭礼には、なかったのである。
――どうやら、井戸の底の蛙《かわず》というところだ。
どぶは、率直にみとめた。
さて――その祇園祭の三日目、異変が起った。
その日の朝、岩戸山の山鉾を出そうとした町内の世話役が、仰天して、腰を抜かした。
山鉾の中に、死人がいた。
首を縊《くく》って、だらりとぶらさがっていたのである。
町人ではなく、一条建通――従四位近衛権少将が、そのむざんな姿にかわりはてていたのだから、大騒動になった。
どぶが、御旅所へ駆けつけた時、すでに、遺体は、一条家へはこび去られたあとであったが、蝟集《いしゅう》した群衆は、まだ去りやらずに、がやがやと、さわぎたてていた。
京へ来て、どぶの心身が、はじめて鋭くひきしまった。
その群衆の中を、右へ左へ、動きまわりながら、さまざまの話声を、ききのがすまいと、全神経を耳に集めた。
そのうちに――。
利休|頭巾《ずきん》をかぶった隠居ていの老人が、つれの若い男へ、
「罰《ばち》があたったのう。……お前も、せいぜい、気をつけるがいい」
と云っているのを、きいて、
――よし、この爺《じい》さんをつかまえて、口を割らせてくれる。
と、きめた。
やがて――。
老人と若い連れが、知恩院門前の腰掛茶屋の落間《おちま》に入《はい》って、床几《しょうぎ》の緋毛氈《ひもうせん》へ、腰を下《おろ》した時、どぶは、あとから、何気ないふりで、となりの床几へ、腰かけた。
「いったい、何者が、少将様を、殺したのですやろか?」
若い男が、老人にきいた。
「公卿《くげ》にもあるまじい下種《げす》の振舞いをしていれば、恨みを買おうというものじゃ」
老人は、吐きすてるようにこたえた。
「そういえば、この春から、つぎつぎと殺されたお公卿がたは、お仲間でござりましたなあ」
若い男が、おそろしげに、首をすくめながら、云った。
「やっと、気づいたか。祇園の茶屋で変死した阿野実明殿、加茂競馬で落馬した烏丸公久殿、三十三間堂で矢をくらった甘露寺輝貴殿、そして、今日の一条建通殿。年は若うて、遊び者で、飲む打つ買うの仕放題、めったやたらに、借金をつくって、ふみ倒して……、鼻つまみぞろいであったわ。……罰《ばち》があたった、としか思えぬ」
老人は、そう云ってから、抹茶茶碗をとりあげた。
どぶが、この時、声をかけた。
「ご隠居――。そんな極道公卿は、まだ、あと幾人か、いますかい?」
老人は、視線をまわして、どぶを眺めた。
うさんくさげに、眉宇《びう》をひそめて、
「それをきいて、どうしなさる?」
どぶは、黙って、懐中から、十手をのぞかせてみせた。
「町方が、なぜ、調べなさる?」
「あっしゃ、江戸の御用ききでね。いまのご隠居の話は、大層興味がある。土産《みやげ》話にしてみてえので、ちょいと、首を突っ込んでやろうと思うんでさ」
「無駄《むだ》だの。……公卿がたの世界に、町方が首を突っ込むのは、まず不可能じゃな。奉行所のお役人が、公卿屋敷へ踏み込むには、御所の許可をとらねばならず、その許可が下《お》りるのに、一月もかかる、といったぐあいでね。公卿がたの世界というものは、所詮《しょせん》、のぞくことは許されぬ」
「だから、むりに、のぞいてみてえのさ」
「…………」
老人は、じっとどぶを見かえした。
どぶは、にやりとしてみせた。
「たのみますぜ、ご隠居」
老人は、どぶに頭を下げられると、ようやく、
「島原、祇園などの遊里で、鼻つまみにされていた若手公卿衆は、五人いたがね、そのうち四人までが殺されたというわけだ」
「そいじゃ、もう一人残っている、ということだ。なんというお公卿かね、それは――?」
「五条嗣満殿。これが、一番の悪じゃな」
老人は、こたえた。
「ありがてえ。よく教えておくんなすった」
「それで、お前さんは、きいて、どうしようといいなさる?」
「どうなるか、一丁、あたってくだけることにすらあ」
「要心しなされ。江戸の御仁は、短気ゆえ――」
老人は、どうやら、どぶに好感を抱《いだ》いた様子であった。
「ははは……、安心してもらいやしょう、あっしゃ、備前の生れだ」
どぶは、そう云いのこして、茶店を出ると、
「さあ、いよいよ、とりかかるぜ」
その日の昏《く》れがた、どぶは、綾小路三位のぼろ屋敷を、おとずれた。
案内も乞《こ》わずに、庭へまわると、座敷には、つぎはぎだらけの蚊帳《かや》が吊《つ》られて、三位は、その中で、大|胡座《あぐら》をかいて、酒を飲んでいた。
「どぶでございます、へい」
庭さきから挨拶《あいさつ》すると、
「狐《きつね》や狸《たぬき》の尻尾《しっぽ》をつかまえることは、むつかしかろう」
三位は、そう云って、声をたてて笑った。
「三位様、京都ってえところは、男を、≪なまこ≫のように、骨なしにするところでございますな」
「ほほう、もっぱら、女を買いあさっていたとみえるの」
「ぼやぼやしているうちに、また、お公卿《くげ》が一人、殺されました。うっかりしていて、面目次第もありません」
「誰が、殺されたな?」
「一条建通様で――」
「ふむ。小悪党どもが、つぎつぎと、片づけられるわえ。この次は、さしずめ、五条嗣満か」
「三位様、その五条嗣満様に、ひとつ、添状をお願いいたしとう存じます」
「五条に会うて、なんとする?」
「四人を殺した下手人が、五条様を狙《ねら》うとすれば、その身辺に、目を光らせて居《い》れば、捕えられるのではなかろうか、と存じます」
「泥棒猫をつかまえるのとは、わけがちがうぞ」
「てまえは、下手人を逮捕するのが商売でございます」
「高言、ほざいたのう。……ここは江戸ではないぞ。勝手がちがう、勝手が――」
「なにとぞ、お力添えのほどを」
「左門から、礼金が、まだ、とどいて居らぬ」
貧乏公卿は、ぬけぬけと、云った。
「おっつけ、とどきましょう」
「腹が空《へ》っては、いくさはできぬでのう。……と申しても、無頼公卿めらが、次つぎと片づけられるのは、かえって、小気味がいいのでな、むしろ、下手人がつかまらん方が、よかろ」
「この連続凶変には、なにか、裏がある、とお考えにはなりませんか?」
「原因理由がなければ、人殺しは起るまい。もちろん、裏はあろうな」
「てまえは、その裏を、さぐってみたいので――へい」
「その方、女ばかり買うていて、財布はかるくなって居ろうな」
「まだ、少々なら、さしあげられます」
「呉《く》れ」
三位は、蚊帳から、片手だけ、ぬっとさし出した。
どぶは、また、二分取られた。
――やれやれ、しがねえ岡っ引から金をもらうほど、公卿は、おちぶれ果てていやがるのだ。あきれけえったものだ。
どぶは、うんざりしながら、
「なにとぞ、添状のほどを、おねげえ申します」
と、たのんだ。
「さて、紙があったかな」
三位は、なさけないことを、口にした。
翌朝――。
町方同心の装《なり》になったどぶは、五条嗣満を、雙《ならび》ヶ岡の屋敷に、訪問した。
京都の郊外では、この雙ヶ岡は、松樹のたたずまいに、いちだんと風趣があった。昔から、文人墨客に愛《め》でられている地域であった。
――どうせ、五条嗣満も、おんぼろ屋敷に住んでいやがるのだろう。
そう思いながら、道すじを尋ねて、やって来た。
雙ケ岡は、その名称通り、一ノ岡、二ノ岡、三ノ岡と、三つの丘陵がならんでいた。
五条家は、三ノ岡の麓《ふもと》にあった。
その前に来てみて、
「へえ、こいつは、おどろいた。綾小路三位邸と、雲泥じゃねえか」
どぶは、向島で、はっとするような風雅な寮を見かけたことがあるが、それが、こうした京都郊外にある公卿《くげ》の館《やかた》の猿真似《さるまね》であることが、ようやく、わかった。
冠木《かぶき》門の柱に、椎茸《しいたけ》がいっぱい生えているのも、板|塀《べい》のかわりに、さまざまの種類の竹が、風に鳴っているさまも、母屋《おもや》のまわりに小松がめぐらしてあるのも、すべて、これは、公卿の館のたたずまいであったのだ。
――公卿で、金があっちゃ、ちイと、あつかい方がむつかしかろうが……。
ともかく、当ってみることにした。
冠木門を入《はい》って、黒石を敷いた植込みの中の通路を歩いて行くうちに、
「はてな?」
どぶは、小首をかしげた。
風のそよぎに乗って、仄《ほの》かな香が、どぶの鼻孔をくすぐったのである。
――あの匂《にお》いだぞ。
どぶは、小松のあわいを、すかし視《み》た。
若い女人が、庭に立っていた。
「…………?」
どぶは、息をのんだ。
たしかに、息をのませるに足りる優美な立姿であった。
顔を見ようとして、どぶは、植込みを鳴らして、庭の一角へ、抜け出た。
女人が、頭をまわした。
とたん、
「おっ!」
どぶは、声をあげた。
「あ、あれは――空蝉《うつせみ》だ!」
あの夜は、燈《とう》心一本のあかりで、蚊帳《かや》の中で視た顔であったが、あの美しさは、生涯忘れられるものではなかった。
そこにたたずむ女人の顔は、まぎれもなく、あの夜、この腕に抱いた空蝉という名の総嫁《そうか》のものであった。
――空蝉が、公卿の娘なら、どんなに別品でも、ふしぎじゃなかったぜ。
――それにしても、どうして、公卿の娘が、春をひさいだんだ。
いかに、貧窮しているとはいえ、公卿の娘が、町人どもに、身を売るであろうか。
信じられないことだった。
「わからねえ!」
どぶは、立往生のていだった。
「どなたであろう?」
美女は、けげんのまなざしを、どぶに当てた。
――どなた、だって。しらばくれてやがる。それとも、こっちが、同心に化けているので、判《わか》らねえのか。
「おはようござる」
どぶは、近づいて、ぶしつけな視線を、美女のろうたけた顔へ、じろじろと当てながら、
「お手前様は、またの名を、空蝉《うつせみ》と申されますな」
と、云った。
美女は、眉宇《びう》もうごかさず、
「わたくしは、桜子と申します」
と、こたえた。
「おかくしなさるのは、むりもござらぬが……」
「わたくしが、なにをかくしていると、いわれる? わたくしは、桜子という名のほかには、持って居《お》りませぬ」
「はて、まことでござろうか」
「貴方《あなた》は、どなたであろう?」
「町奉行所町方同心、ど、土門……土左衛門と申す者でござる。お兄上様に、お目にかかりたく……」
「兄は、欝《うつ》気のため、居間にとじこもって、どなたにも会いませぬ」
「欝気になられた理由を、それがし、存じて居りますので、なにとぞお取次を――」
どぶは、綾小路三位の添状を、手渡した。
「取次ぐことは、いといませぬが、たぶん、会わぬと存じます」
桜子は、歩き出した。
その後姿の、またなんというたおやかさであったろう。
どぶは、ごくっと生唾《なまつば》をのみ下した。
あの夜の空蝉と同一人である、という確信は、ぐらついて来た。
多少似かよった貌《かお》にすぎなかったのではないのか。
蚊帳を通した燈心《とうしん》一本のあかりが、化粧した顔を、美しく化けさせたにすぎなかったのかも知れぬ。
――おのれの早|合点《がてん》かな?
どぶは、自信が崩《くず》れるのをおぼえた。
――しかし!
どぶは、あわてて、自分に云いきかせた。
――あの匂《にお》い袋の香は、全く同じじゃねえか!
ともかく、どぶは、待つことにした。
玄関へまわって来ると、そこに、一人の訪客が立つのを、みとめた。
すらりとした長身で、黒羽二重を着流し、短い夏羽織をまとっていた。
総髪である。
――こういういでたちをしているのは、いったい、なんだろう?
どぶが、不審をおぼえつつ、見守っていると、訪客は、その気配に、頭をまわした。
あっ、となるほどの凄《すご》い美男子であった。
眉目秀麗という風貌は、こういうのを示すに相違ない。
のみならず――。
右の半面に、藍《あい》を溶かしたような薄い青|痣《あざ》があった。それが、かえって、美貌をきわだたせているようであった。
青|痣《あざ》の侍は、どぶを冷やかに見て、
「町奉行所の同心が、なにゆえに、公卿《くげ》屋敷を訪れて居《お》るのか?」
と、問うた。
京都町奉行は、他の遠国奉行と比べもならぬくらい権力をそなえている役職であった。禁裏《きんり》の警固を第一名目とするが、まことの目的は、御所内の賄《まかな》い、物入りの増減を調査し、また公卿方の動静も監視して、目付の任務をつとめる。摂家、宮方、清華、その他堂上公卿の行跡を調べる権利を持っていたのである。
しかし、実際には、町奉行が部下を、公卿屋敷に踏み込ませることは、絶えてなかった。
公卿というものが、いかに狡猾《こうかつ》で、陰険で執念ぶかいか、ということを、町奉行は、よく知っていたからである。
「それがし、そのう……個人として、綾小路三位殿の添状を持参つかまつったのでござる」
「…………」
「お手前様は、どなた様で――?」
「検非違使《けびいし》、有馬右京」
「なるほど、検非違使殿で……」
どぶは、いかにもおそれ入ったていをみせた。
そのむかしの検非違使は、偉かったろうが、いまの検非違使は、せいぜい、春の賀茂祭の警衛に当ったり、年号改元にあたって、六角の牢《ろう》屋敷にとらえている罪人に赦免を申し渡したりするぐらいの、きわめて形式的な仕事しかしていなかった。
それにしても、検非違使といえば、大層きこえはいい。偉そうにひびく。
「お主《ぬし》は、この五条家が、どういう公卿か、存じて居るのであろうか?」
有馬右京は、たずねた。
「いえ、一向に――」
「五条家は、野見宿禰《のみのすくね》の末流といわれ居る。それゆえ、京相撲を支配する。但《ただ》し、江戸相撲は支配外だが、毎年、江戸からも、つけとどけがあるゆえ、他の公卿とちがって、貧しくはない」
「ははあ、左様で……」
「綾小路三位卿の添状を持参して、いったい、何を調べようというのかな?」
有馬右京は、じっと、どぶを、見すえた。
このたぐい稀《まれ》な、凄《すご》い美男子の双|眸《ぼう》は、冷たく冴《さ》えているが、じっと見据えられると、なんとも薄気味わるく、悪寒《おかん》をおぼえるのは、どうしたわけなのか。
「それは、つまり、……五条嗣満卿を、守護いたしたく――」
「どうして、町方同心が、公卿を守護せねばならぬ?」
「町奉行所としては、公卿がたが、つぎつぎと変死を遂げられるのを、腕を拱《こまね》いて、看過《みすご》しているわけにも参らぬのでござる。公儀の威信にかけても、もはや、これ以上、凶変を起してはならぬと……」
「この次は、五条嗣満が殺されるのではなかろうか、と見当をつけたとは、さすがは、町奉行所だな。……実は、身共《みども》も、そう思うて、守護のために参った」
やがて、よぼよぼの用人が、出て来て、ひどくききとりにくい声音で、あるじは牀《とこ》に臥せていて、会うことはできぬが、身辺を守護してくれることは、こばむものではない、と申されている、と告げた。
――公卿《くげ》というやつは、てめえを守護してくれる者に対しても、ご大層にもったいぶりやがる。
どぶは、いささか、むなくそがわるかった。
青痣《あおあざ》の検非違使の方は、こういう傲《ごう》慢な扱いにはなれているとみえて、
「では、一両日のあいだ、御当家に詰めさせて頂く」
と、用人にこたえて、どぶをうながすと、玄関から上った。
用人にみちびかれたのは、かなり立派な座敷であった。
用人は、二部屋置いて、主人の居間があることを告げておいて、出て行った。
どぶは、見まわしながら、
「いったい、こういうお屋敷には、どれくらいの家来がいるものでござろうか?」
と、右馬右京に、たずねた。
「六位侍の下に、用人二人、近習十人あまり、中小姓三人、ほかに、勘定方、青士、茶道、小|頭《がしら》、中番など、総勢五十人ばかり――というのは、むかしのことで、見うけた通り、用人といえば、あのよぼよぼ老人が一人だけで、近習の姿も見かけぬ。せいぜい、四、五人がどこかの片|隅《すみ》で、ごろごろいたして居ろう」
有馬右京の語気は、およそ冷やかなものであった。
「では、もし、曲《くせ》者が侵入しても、これをふせぐ力は、ないわけでござるな?」
「たとえ頭数が、そろっていても、腰を抜かすだけであろう」
「公卿|館《やかた》の士分は、刀の使いかたを習って居らぬ、と申されるので……?」
「女中をくどくことしか知らぬ、能なしどもである」
用人が、再び姿をみせて、
「姫君が、あちらの茶亭にて、おもてなしをつかまつる」
と、告げた。
どぶは、その瞬間、有馬右京の態度が、微妙な変化を示すのを、鋭く感じた。
――ははあん!
どぶは、合点《がてん》した。
――この青|痣《あざ》先生が、用心棒を買って出たのは、敵は本能寺、というわけだな。
もし桜子が、空蝉《うつせみ》と同一人であったならば、この検非違使に、教えてやりたい。五体を流れている血汐《ちしお》が米汁のように白そうなこの青痣先生は、さぞかし、あわてるだろう。
どぶは、右京のあとにしたがって、庭を横切りながら、にやにやした。
茶亭で待っていた桜子は、衣裳《いしょう》をとりかえていた。
それは、緋縮緬《ひちりめん》の透《す》けて見える透綾《すきや》であった。
どぶは、桜子を視《み》る右京の様子を、ひそかに観察する冷静さを失って、その美しさに吸い込まれそうになった。
二昼夜が、ぶじに過ぎた。
しかし――。
どぶにとっては、この二昼夜は、なんとも苦痛なものであった。
つまり、ひとつ部屋で、検非違使有馬右京と、一緒にすごすことであった。
右京は、酒を一滴も口にせず、およそ冗談口というものを、たたかない人物であった。べつに、無口な方ではなかったが、話すことは、どぶにとって全く興味のない内容であった。
どぶの方は、町方同心の装《なり》をしているので、さむらいらしく振舞わねばならなかった。
前身がさむらいであったおかげで、ぼろを出すことはなかったが、それにしても、市井《しせい》の無頼《ぶらい》の行状に馴《な》れてしまっているどぶにとって、さむらいの言辞挙措を保つことは、相当の苦痛であった。
しかし、それよりも、どぶは、右京という人物とは、永久に親しくなれない反撥《はんぱつ》をおぼえ、それが、なんともやりきれなかった。
いわば、水と油であった。
右京の話しぶりから、動作から、なにからなにまで、ひとつひとつ、どぶには、むなくそがわるかった。
これは、説明しようのない嫌悪《けんお》であった。
どぶとしても、これは、はじめての経験であった。
右京の方が、どぶに対して、軽蔑《けいべつ》や嫌悪を示すというのではなかったのである。いや、むしろ、右京は、好感をさえ抱《いだ》いた様子であった。
どぶの方が、勝手に、毛ぎらいしたのである。
――人間てえやつは、理由もなく、氷炭相|容《い》れぬ対手《あいて》をいやがるものだな。
どぶは、骨身にしみて、思い知らされたことだった。
三日目の朝、用人が入《はい》って来て、
「御所からのお召によって、参内《さんだい》あそばされる」
と告げるや、どぶは、
――やれやれ。
と、ほっとなった。
右京とどぶは、さきに玄関へ出て、待ちうけ、この朝、はじめて、五条嗣満という公卿《くげ》を視《み》た。
まだ二十四、五歳の、いかにも公卿らしい、おっとりとした風|貌《ぼう》の持主であったが、その切長の細い双|眸《ぼう》を、絶えずおちつかなくうごかしているところは、わがままなくせに小心で、高慢なくせに臆病《おくびょう》であることを示していた。
頭を下げる右京とどぶを眺《なが》めても、張り番をしてくれることに対する、ねぎらいの一言もかけようとしなかった。
もっとも、右京もどぶも、そんな公卿に腹を立てるよりも、送って出て来た妹の桜子の美しさに、つい心をうばわれがちであった。
見れば見るほど、ろうたけた美女であった。
――わからねえ! これが、あの空蝉《うつせみ》と同じ女か、どうか、いよいよ、わからなくなって来やがった。
どぶは、迷った。
わらべ唄
参内の乗物は、しずしずと、五条邸を出た。
供は、六位ざむらい一人、近習二人、それに番士が三人。
参内の行列としては、わびしいものであった。
右京とどぶは、半町ばかりおくれて、歩いた。
どぶはこうして、往還を肩をならべると、なんとなく、右京が、ちがった人間に思われて来た。
一室で、顔をつき合せていると、とびかかって締め殺したいほど、嫌悪《けんお》をおぼえる対手《あいて》なのだが、外の空気を吸っているうちに、あれほど毛ぎらいした人物に、妙な親しみをおぼえたのだから、妙である。
これは、どうやら、どぶの人の好《よ》さのようであった。
「検非違使殿は、ご家族は、おいででござるか?」
どぶは、少々間抜けた質問をした。
実際、この有馬右京には、こっちと同様、家族など一人もいないように思われた。
「病妻が一人、居《お》る」
右京は、こたえた。
「それは、お気の毒で……。永《なが》い患《わずら》いでござるかな?」
「娶《めと》って半年|経《た》たぬうちに、寝《ね》つかれて、もうそろそろ十年になる」
「では、胸の患いで――?」
「うむ」
――はてな。この検非違使、実は案外の善人ではないのかな?
どぶは、ふっと、そんな気がした。
京の夏としては、珍しくしのぎやすい日で、風も涼しかった。
行列は、いくつかの露路や小路を、まがったり、抜けたりして、禁裏《きんり》へ向って、しずしずと進んでいた。
どぶは、いったん、そう思うと、急に、右京を仲間に感じて、とりとめのないことを、隔意のない気分で、しゃべりたてた。
右京の方は、相|槌《づち》を打つ程度で、自身の方からは、話題を出そうとはしなかった。
と――。突然、右京が、
「怪しいぞ!」
と、叫んだ。
はっ、とわれにかえったどぶは、次の瞬間、地を蹴《け》った。
行列へ駆け寄ったどぶは、いきなり、乗物の扉《とびら》を、ひき開《あ》けた。
もぬけの殻だった。
「こん畜生っ!」
供の者どもを睨《にら》みつけてみると――。
六位ざむらいも近習も番士も、一斉に逃げ出した。
いつの間に、すりかわったか、そいつらは、五条邸の者ではなくなっていたのであった。
どぶは、替玉の一人を、とっつかまえると、地べたへねじ伏せた。
「てめえら、どこのどいつだ!」
なんとも、護衛者としては、これ以上の間抜けた話はない大失敗であった。
乗物と供の六位ざむらい、近習、番士が、そっくりそのまま、途中で、すりかわってしまったのである。
替玉を捕えてみると、羅城門跡と称《よ》ばれている界隈《かいわい》に、ごろごろしている日傭《ひよう》取りどもで、何処《どこ》の何者だか知れない人間から、たんまり金をもらって、引き受けた仕事だ、という。
「そいつは、どんな野郎だったんだ? 町人か、さむらいか?」
「へえ。さむらいみたいな……」
「みたいな、たアなんだ!」
どぶは、贋近習《にせきんじゅう》の横面《よこつら》を、なぐりつけた。
「そないに、乱暴せんかて……、わてらは、ただ、金を仰山《ぎょうさん》もろうたので、よろこんで、お祭気分でやっただけなのやから――」
「うるせえっ! そいつは、どんな面つきをしてやがったんだ?」
「頭巾《ずきん》をなあ、かぶっておられたさかい、顔はどうも……」
どう問い詰めても、埒《らち》があきそうもなかった。
右京が、
「お主は、ひと足さきに、五条家へもどって、姫に報《しら》せてもらおう。どこで消えたか、わしが調べる」
と、云った。
右京は、もちろん、京都の道にはくわしい。どの小路ですりかわったか、そして、ほんものの行列が、どちらへ拉致《らち》されたか、つきとめるのに、さほどの時間を要しないものと思われた。
どぶは、大急ぎで、五条邸へ、ひきかえして来た。
――もしや、留守中に、姫も、拉致されたのではあるまいか?
その不安もおぼえたのである。
桜子は、無事であった。
用人から、桜子が、茶亭でひとり、点前《てまえ》をしているときいて、どぶは、そちらへ走った。
「おお、これは、ごぶじでございましたか」
どぶは、その美しい姿に、ほっとした。
桜子は、微《かす》かに眉宇《びう》をひそめて、
「兄上のおん身に、なにか、変事でも起りましたか?」
「護衛の役をお引き受けいたしながら、まことに、面目次第もありませんが……、途中で、消えてしまわれたのでござる」
どぶは、その模様を語った。
桜子は、俯向《うつむ》いて、膝で、両手をひしとにぎり合せている。
「五条様が、このようなお目にお遭《あ》いなされるについて、姫君には、なにか、思い当られることがありますれば、是非おきかせ下さいますよう――」
どぶは、たのんだ。
桜子は、黙って、かぶりを振っただけであった。
どぶは、桜子が何かかくしているのかどうか、その様子から判断できなかった。
「こんな莫迦《ばか》げた話があるもんけえ!」
どぶが、心底から腹を立てたのは、その翌日であった。
有馬右京が、五条邸へもどって来て、
「天に翔《か》けたか、地にもぐったか、行方が知れぬ」
と、告げたのである。
京の小路、露地、横丁を、ことごとくそらんじているほど、くわしい右京が、必死に調査し、探索して、ついに、五条嗣満が、その家来ともども、どこへ拉致《らち》されたのか、杳《よう》として不明だ、というのである。
どぶは、あきれはて、次に、猛然と腹が立った。
右京までが、間抜けなお人好しに見えた。
「検非違使殿、こうなったら、いたしかたござらぬ。それがしは、それがしの流儀で、捜査をすすめたく存ずる」
どぶが、そう云うと、右京は、一瞬、猜疑《さいぎ》の視線を据えたが、
「よかろう」
と、諒解《りょうかい》した。
なにしろ、こんな奇怪な連続凶変は、どぶもはじめてぶっつかった。なんのために、次つぎと、四人もの若い公卿《くげ》が殺され、そして、その頭領格の五条嗣満も拉致されてしまったのか、全くその原因動機がつかめないのである。綾小路三位から、小悪党ども、とののしられているが、どうせ京育ちの堂上たちの行状であるから、タカは知れているのだ。どぶが、きいてまわってみても、江戸の極道旗本の行状とは、比べもならぬ他愛《たわい》のなさであった。怨恨《えんこん》を買うようなことは、何もしていないのだ。
実際、こんな莫迦げた話はないのであった。
どぶは、女どころではなくなった。
街《まち》へもどったどぶは、もとのうすぎたない風体になって、せっせと、嗅覚《きゅうかく》を鋭敏にして、うろつきまわりはじめた。
しかし、数日足を棒にして、徒労におわった。
他国《よそ》者であることを、どぶは、骨身にしみて思い知らされた。京の庶民たちは、他国者に対しては、牡蠣《かき》のごとく、口がかたかったのである。
――冗談じゃねえや。左門の殿様は、こういうことを、ちゃんと知っていて、おれを寄越したんだから、人がわるいや。
どいつもこいつも、唖《おし》になって、うさんくさげに、じろじろと見るばかりなのに、どぶは、うんざりした。
なかば、あきらめかけて、どぶは、宵の四条河原へ、ふらふらと足を踏み入れた。
さまざまの見世物が、小屋がけや野天で、人を集めていた。江戸の盛り場とちがって、ここでも、どことなくおっとりした、静けさが保たれている。
どぶは、見てまわっているうちに、
「おっ!」と、にわかに、小さな目を光らせた。
水干少年が、見事な曲|独楽《ごま》をまわして、投げ銭をあつめているのに、ぶっつかったのである。
水干少年の曲|独楽《ごま》は、まことに見事な芸というべきであった。
その名のごとく、独楽自身、いのちを吹き込まれて、独《ひと》り楽しんでいるかのように、自由自在に、思うがままに、宙をとび、客の肩や頭にとまり、そして、少年の手に、とびかえって来ていた。
……これだけの名人は、浅草の奥山にも、両国の広小路にも、いねえや。
どぶは、感服しているうちに、ふと、気がついた。
少年のうしろに、頭巾《ずきん》をかぶり、紗《しゃ》の十徳をまとい、軽袗《かるさん》をはいた老人が、立っていた。
白|髯《ぜん》をたくわえ、いかにも品がいい。大きな耳と、鼻が特徴であった。
……この老人が、独楽丸の師匠に相違ない。
いくつかの曲芸を見せおわって、菊水独楽丸が、地べたにちらばっている投げ銭をひろいおわるのを待って、どぶは、のそりと近づいた。
「おい――」
声をかけると、独楽丸は、すでに気がついていて、
「小父《おじ》さん、浮かぬ気色をしてござる」
例によって大人《おとな》びた口をきいた。
「大人をからかうものじゃねえや」
どぶは、苦笑してから、老人に、
「おめえさん、お師匠かね?」
と、たしかめた。
「菊水無二斎と申す者、お見知りおきを――」
老人は、にこやかに挨拶《あいさつ》した。
「あっしゃ、江戸の≪これ≫でね」
どぶは、懐中から、チラと十手の端をみせた。
すると、無二斎は、意外にも、
「存じて居りますよ。どぶ親分で――」
と、云った。
「へえ、どうして……、知っているんだえ?」
「諸国を流れ歩く大道芸人ですからね。江戸でも、しばらく、くらして居ります。親分の噂《うわさ》も耳にいたしましたし、そのお顔を拝見して居りますよ」
「どうせ、ろくな噂でも面《つら》でもねえさ」
「ところが、てまえの耳に入った噂は、江戸随一の腕きき、そして、そのお顔を拝見した時、まさしく、とうなずいたことで――」
「おいおい、面をほめられると、莫迦《ばか》にされたと腹を立てるぜ」
「あいにく、てまえは、人相手相、吉凶占いも、いたしますのでね」
「ふうん。おれの面が、福相だとでもいうのかい?」
「太閤秀吉というおかたは、こういうお顔ではなかったか、とてまえは、考えますよ」
無二斎は、真顔で云った。
「人をからかうのも、いい加減にしてもらいてえな」
口では慍ってみせながら、内心では、まんざらわるい気分ではなかった。
「ところで、おまえさんが、八卦《はっけ》をみるのなら、ひとつ、占ってもらいてえことがある」
菊水無二斎は、
「どうぞ、どんなことでも――」
と、どぶを、じっと見かえした。
どぶは、その眼光が、老人らしくもない鋭く、力のこもったものであるのを、感じた。
「実は、人をさがしているんだ。行方不明になって、もう五日になる。足を棒にして歩いたんだが、皆目見当さえもつかねえ。お前さんに、せめて、その方角だけでも、占ってもらいてえね」
それをきくと、無二斎は、
「それは、この独楽《こま》丸に、独楽占いをさせてみた方が、たしかと存じます」
と、こたえた。
「独楽占い?」
「はい――」
無二斎は、独楽丸に、
「きいたであろう。親分に、尋ね人の居所を、占ってあげるがよい」
と、命じた。
「承知じゃ」
独楽丸は、うなずくと、朱塗りの独楽に、紐《ひも》をくるくると巻きつけた。
「親分、動かずにいて下され」
「うむ」
独楽は、宙を唸《うな》って、大きく旋回するや、ひょいと、どぶの右肩に、とまった。
この時――。
――そうか、もしかすれば?
どぶの脳|裡《り》に、直感がひらめいた。
この水干少年が、先夜、客引きして、この自分に、空蝉《うつせみ》という美女を買わせたのは、ただの偶然ではなかったような気がする。師匠の無二斎が、命じたのではなかったのか?
その理由は、判《わか》らぬながら、どぶは、直感がまちがっていないように思われた。
これだけの名人芸を持っている少年が、小銭|欲《ほ》しさに、客引きなどするわけがない。
投げ銭だけで、充分くらしてゆけるではないか。
肩でまわる独楽の澄んだ音をききつつ、どぶは、この菊水無二斎と独楽丸とは、京都で出会うべき必然性を持っていた者どもだ、という気がして来た。
やがて――。
独楽は、廻転をゆるめ、ことりと停止した。
しかし、肩から落ちなかった。どぶの頸《くび》根の方へ傾いて、動かぬ。
独楽丸が、云った。
「尋ね人は、元の場所に戻ってござる」
「なんだって?」
とぶは、独楽丸を、見かえした。
「まちげえねえな!」
「元の場所へ、行ってみなされ」
「そうか! 信じるぜ。有難うよ」
どぶは、五条嗣満が、まちがいなく自邸へ帰って来ているような気がした。
「無二斎さん、いい弟子を持ちなすったね」
「小倉山の山中にすてられていたのを、ひろって、育ててやりましたのじゃ、これほど期待にこたえてくれようとは、思うて居りませなんだ」
「また会おうぜ」
どぶは、云いおいて、雙《ならび》ケ岡の五条邸へ、奔《はし》った。
偶然であったか、どうか――?
どぶが、冠木《かぶき》門をくぐって、足早やに黒石の道路を進んで行くと、玄関さきに据えられた乗物が、みとめられた。
五条嗣満が乗って出た出仕|駕籠《かご》にまぎれもなかった。
――そうか、やっぱり、帰って来たんだな。
どぶが、玄関に立って、大声で案内を乞《こ》うと、よぼよぼの用人が、出て来た。
「御主人様は、おもどりなさいましたので……?」
どぶが、問うと、どうしたのか、用人は、それにこたえずに、乗物を、いぶかしげに眺《なが》めている。
「どうなすったので――?」
「ど、どうして、お乗物だけが、ここに、置かれてあるのであろう?」
「え? ……じゃ、御主人様は、まだ、おもどりじゃねえんで――?」
どぶは、問いかえしたとたん、はっとなって、乗物のそばへ寄り、扉《とびら》を、ひき開けた。
「おっ!」
五条嗣満が、その中に、ぐったりとなって、乗っていたのである。
どぶは、その顔面を一|瞥《べつ》して、
「こりゃ、ひでえ!」
とうなった。
凄《すさま》じい傷がついている。これは、拷問《ごうもん》の痕《あと》であった。
そっと、かかえ出してみると、右肩から背中にかけて、衣服が、ひとすじ、切られているのをみとめた。
――こいつは、田宮流居合の一|太刀《たち》をあびせられているぜ。
そっと、衣服の前をはだけさせてみると、手当はしてある。ぐるぐる巻きつけた白い晒《さらし》が、血|汐《しお》を滲《にじ》ませているが、すでにかわいているところをみると、斬《き》られたのは、あの日と思われる。
――もう死相を呈しているぜ。
そう看《み》てとりつつ、どぶは、かかえあげると、奥へはこんだ。
用人が、おろおろしながら、座敷へみちびき、
「す、すぐ、医師を――」
と、云った。
どぶは、黙ってかぶりを振った。
「もう、いかぬ、と申すのか?」
「手負いの最期は、たくさん看《み》て来たのでね。……姫様に、おわかれをさせてあげておくんなさい」
どぶは、すすめた。
この前は、同心姿であったが、いまは、元のよれよれ姿にかえっているので、どぶは、素姓をかくす必要もなくなって、岡っ引の口調にもどっていた。
桜子が、いそいで、入って来た。
「お兄様!」
双眸《そうぼう》をいっぱいにみひらいて、その場に立ちつくした。
五条嗣満が、意識をなかばとりもどしたのは、それから四半|刻《とき》過ぎてからであった。
「おっ! 意識がもどりなすった!」
どぶが、首をのばした。
その折、廊下に足音がして、人が一人、すっと、座敷に入って来た。
どぶが、頭をまわしてみると、それは、有馬右京であった。
――どうして、戻って来ていることを、この検非違使が判《わか》ったのだろう?
ちらと、脳裡《のうり》を、その疑いが、かすめたが、すぐに、五条嗣満が、なにやら、しきりに、うすれた視力で、宙を見まわしているのに、どぶは、気をとられた。
「お兄様! ……桜子です。おわかりですか?」
桜子が、顔を寄せて、呼んだ。
嗣満が、なにやら、声にならぬ一言を、唇《くちびる》のうごきで示した。
「え? なに?」
桜子は、その口もとへ、耳を寄せた。
そして、すぐ、
「はい。わかりました」
と、うなずき、右京とどぶに、
「お手前がた、次の間へ、しりぞいていて下さるよう――」
と、命じた。
二人は、しかたなく、次の間に下った。しかし、手負うた公卿《くげ》が、死に臨んで、なにを遺言しようとするのか、襖《ふすま》を細目に開《あ》けておいて、きき耳をたてた。
現代の時間で、ものの二分も過ぎたであろうか。
右京とどぶは、嗣満の口から、遺言の代りに、妙な唄がもれるのをきいて、顔を見合せた。
――狂っているのかな?
一瞬、どぶは、そう思った。
それは、わらべ唄のようであった。いや、まさしく、児童が遊戯の間にうたう唄であった。
ただ、京のわらべ唄は、どぶには、意味が取れなかった。
嗣満は、もはや、はっきりと詞《ことば》を口にすることは、できないようであった。ただ、ほそぼそと、節だけを唄ってみせている。
――死に際《ぎわ》に、童心にかえって、幼い頃の思い出に耽《ふけ》っているのか?
その疑いも起ったが、それにしては、そのわらべ唄をうたうために、自分たち二人を次の間にしりぞかせたのは、面妖《あや》しい。
と――。
嗣満の片手が、わななきながら、文机を、指さした。
「これですか?」
桜子が、几上《きじょう》に置かれてあるオランダ渡りの孔雀《くじゃく》のペンを、把《と》りあげてみせた。
嗣満が、うなずいた。
桜子は、いそいで、ペンさきに、墨をつけて、それを、兄の手に持たせた。それから、料紙を近づけてやった。
「なにかを、書きのこすのですぜ」
どぶは、胸をはずませつつ、右京にささやいた。
しかし――。
嗣満にのこされた力は、孔雀《くじゃく》のペンを、料紙にふれさせるまでであった。
一文字も記すことなく、その手は、ばったりと畳へ落ちた。
五条嗣満は、息絶えた。
「お兄さま!」
桜子が、高く呼んで、ゆさぶったが、もはや永久に動かなかった。
右京とどぶは、いそいで、座敷へ入った。
右京が、脈を診《み》て
「お気の毒でした」
と、桜子に、告げた。
桜子は、しかし、慟哭《どうこく》はしなかった。ただ、泪《なみだ》をいっぱいためた眸子《ひとみ》を、その死顔に落して、しばらく、微動もしなかった。
しばらく、沈黙を守っていた右京が、
「お兄上様は、わらべ唄《うた》のようなものを、うたわれましたな?」
と、問うた。
「…………」
桜子は、こたえなかった。
「貴女《あなた》様は、その文句が、おわかりでしたか?」
桜子は、その問いに対して、横にかぶりを振った。
「なぜ、死に臨んで、わらべ唄をうたわれたか――その意味も、おわかりではありませんか?」
「わかりませぬ」
――そうかな? 本当は、わかっているのではないのか?
右京の鋭い視線は、その疑惑の色をこめていた。
どぶも、同じ気持であった。
桜子は、二人の視線に、反撥《はんぱつ》をおぼえた気色で、
「兄がみまかりました上は、守護して頂くことも無用と相成りました。どうぞ、おひきとり下さるよう――」
と、云った。
しっかりした語気であった。
冠木《かぶき》門を出た時、右京は、はじめて、どぶの風体に気がついたように、
「お主は、まことの町方同心か、それとも――?」
「実は、ただの江戸の岡っ引でござんす」
どぶは、こたえて、にやりとしてみせた。
一瞬――。
右京の顔の青|痣《あざ》が、心なしか、赤味をおびたようであった。
しかし、右京は、なにも云わなかった。
「ところで――」
こんどは、どぶが、質問する番にまわった。
「貴方様は、京でお生れになって、お育ちなすった。それなら、あのわらべ唄が、どんな文句か、おわかりになるはずだと存じますが……?」
「御所仕えの家の者は、庶民のくらしとは無縁だ。わらべ唄など、一度も口にしたおぼえがない」
右京の返辞は、にべもないものだった。
友禅染め
阿野実明。
烏丸公久。
甘露寺輝貴。
一条建通。
五条嗣満。
ついに、遊興五人組と称される公卿《くげ》が、ことごとく、死に絶えてしまったのである。
これは、いったい、どういうことなのか?
全く見当もつかぬ、五里霧中の中に、どぶは、置かれたのである。
五条邸を去った次の日の宵――。
どぶは、三条大橋の袂《たもと》にある茶屋の奥の衝立《ついたて》のかげで、水干少年とさし向っていた。
「……たのむ!」
この男が、珍しくも、殊勝な面持で、卓子へ額がつくほど、ふかぶかと頭を下げたことだった。
この京都で手下を持たぬ辛《つら》さを、骨の髄まで思い知らされたどぶは、ついに、独楽丸に、自分を助けてくれ、とたのんだのである。
「頭をあげなされ、親分――」
独楽丸は、例によって、大人《おとな》びた口調で、
「手助けの儀、ひき受けました」
「ありがてえ。百人力だ」
「そのかわり――」
独楽丸は、云った。
「親分の仕事がすんだなら、こんどは、われのたのみを、ききとどけて下さるか?」
「どんなたのみだ?」
「それは、いずれ申します」
「よし! 合点《がってん》承知だ。どんなことでもしてやるぜ」
「おねがい申します」
「さて、と――」
どぶは、顔をなでた。
「どれから、手をつけるか。……まず、阿野実明から、調べてくれようか。誰が、茶会をひらいたか、だ」
「そんなことは、造作もなく、わかります。われが、調べて参ります。ちょっと、待っていて下され」
独楽丸は走り出て行ったが、小半|刻《とき》も経《た》たぬうちに、もどって来た。
「あの日、紙園で、茶会を催したのは、大阪の大商人の浪花屋四郎兵衛さんだそうです」
「浪花屋、か。きいたことがあるぜ」
「大阪では、五本の指にかぞえられる大分限者だそうです。この京都にも、江戸にも、長崎にも、大きな家をかまえているとききました」
「どんな茶会を催したか、きいたかね?」
「それが……、裸踊りじゃそうです。芸妓《げいこ》を百人も集めて、湯もじひとつにして、踊らせたのじゃと、女中が云うて居りました」
「浪花屋が、招いたのは、阿野実明のほかには、誰がいたんだ?」
「一人だけじゃった、と云うとりました」
「ふむ――。阿野実明たった一人を招いて、芸妓百人を裸にしたか!」
阿野実明が、その宴席で毒を盛られたことは、まちがいない、と断定できる。
「浪花屋に会ってくれよう。独楽丸、浪花屋が、京都の家に、いま、いるかどうか、きいて来てくれ」
どぶは、その晩のうちに、浪花屋が京都にいることを、たしかめると、次の朝、独楽丸の案内で、堀川今出川のその家をたずねて行った。
どぶは、その堂々たる門構えを眺《なが》めて、
「へっ、こいつは豪勢なものだな。もし、商人が、江戸でこんな家を構えたら、たちまち、ぶっつぶされちまうぜ」
どぶは、十手を見せたおかげで、奥座敷に通された。
現れた浪花屋は、想像とちがって、ひどく貧相な、痩《や》せこけた初老の男であった。
しかし、愛想よく、いんぎんな態度で、どぶに対した。
「江戸の親分が、どんな御用で、こちらへおいでなさいましたな?」
「お前さんも、祇園で豪遊していなさるのなら、知らぬはずはないと思うが……、遊び好きな公卿《くげ》衆が、この三月あまりで、バタバタと、妙な死にかたをしている」
「ああ、そのことでございますか。しかし、公卿衆に起った凶変を、どうして江戸の町方がお調べなさるので――?」
「目安箱に、救いを乞《こ》う訴状が投げ込まれたので――。ところで、最初に変死した阿野実明少将のことなんだが……」
「あのお方は、まことにお気の毒でございました。てまえが、お招きした宵に、急に腹痛を起されて、とうとう、あのようなことになってしまいました。食中毒と存じますが、もし、そうでなかったのなら、これは一大事でございますので、名医といわれて居《お》る志賀玄庵先生におねがいして、少将様がお吐きになったものを、しらべて頂きました。やはり、食中毒でございましたな」
「ふむ――」
どぶは、小さな目を光らせて、浪花屋の顔をじっと見据えている。
べつに、こっちに疑惑を起させる様子は、みじんもなかった。
「それにしても、阿野様がお亡《な》くなりなされてから、それを待っていたように、つぎつぎと、お若い公卿衆が、お亡くなりになったのは、なんとも、解《げ》しかねるおそろしいことでございました。……親分が、わざわざ江戸からみえられて、お調べなさるのでしたら、てまえも、あのことがあって心苦しく存じて居りますので、協力させて頂きましょう。……費用にしろ、人手にしろ、おのぞみのままに、役立たせて頂きとう存じます」
「これアどうも、浪花屋さんが援《たす》けて下さる、というのは、こんな有難えことはねえんだが……」
大阪から、遊びにやって来るために、この家を構えて、所司代屋敷や町奉行所の役人を饗《きょう》応し、京都でなにか大きな仕事をたくらんでいるかにみえるこの町人は、どうやら、ただの商人とは、思えない。
――くらいつくには、歯ごたえがあるぜ。
どぶは、自分に云いきかせた。
次に――。
どぶは、二番手に死んだ烏丸公久が、加茂競馬で、なぜゴール寸前に落馬したか、独楽丸の助力で、調べた。
加茂競馬は、毎年初夏の加茂神社の大祭|葵《あおい》祭の余興として、催される。
葵祭は、社伝によると――。
欽明天皇の時世に、暴風雨の襲来が繁く、卜部《うらべ》の奏上で、これは加茂明神のおん崇《たた》りということになって、それをしずめるために、四月の吉日をえらんで、馬に鈴を懸《か》け、人に猪懸《いがけ》をかぶらせて、疾駆させたところ、たちやまち風雨が止《や》み、五穀が豊熟した。
そこで、この祭を毎年の恒例とし、のちに、祭日には、神前に葵を捧《ささ》げ、人々も葵の葉、桂《かつら》の枝を衣冠、車|簾《れん》にかけた。葵祭の名称は、こうして起った。
戦国の頃は、この祭は久しく中絶していた。元禄七年に再びはじめられ、それからは、年々盛んになっていた。
殊《こと》に、余興である競馬の方が人気を呼び、これに出場する駿《しゅん》馬と騎手の前評判は、葵祭が近づくにつれて、かまびすしかった。
庶民たちは、仲間同士で賭《かけ》をやっていたし、なかには、女の争奪にこの競馬を利用したのである。
しかし、この年は、はっきりと、勝者が予想され、賭の興味は、うすかった。公卿《くげ》には珍しく兵法修業を積んでいた烏丸公久が、騎手として名のり出たからである。
烏丸公久は、阿弥陀ケ峰の豊国廟の址《あと》から、四百八十九段の急|勾《こう》配の石階を、一気に馬で馳《は》せ降りる冒険をこころみ、成功してみせた名手だったのである。
まず、これに敵《かな》う乗り手はいないと思われた。
自薦他薦で、名のり出る者は多かったが、神社側では、烏丸公久に充分対抗し得る騎手をえらばなければならず、さんざん評議の挙句《あげく》、大阪城代に乞《こ》うて、大阪城に勤める幕府直参の士の中から、馬責めの達人を推薦してもらうことにしたのであった。
大阪城代が指名したのは、黒辺某という二十歳をすぎたばかりの若者であった。寒中に、淀川を乗りきった実績を買われたのである。
競馬は、神社のある糺《ただす》の森の中の馬場を一巡して、森へ駆け出、一の鳥居まで疾駆して、それからひきかえして、馬場へ帰着する走路になっていた。
見物人は、馬場と一の鳥居に蝟集《いしゅう》することを許されていた。走路の途中は、人の立つことを禁じられていた。
さて、当日――。
烏丸公久と黒辺某は、馬場を一巡して、森の中へ疾駆して行ったが、折り返しの一の鳥居では、予想たがわず、烏丸公久が、三馬身も差をつけていた。
馬場へ、馳せ帰って来た時には、その差は、縮められていたとはいえ、なお半馬身であった。
いずれの目も、公久の勝ちを疑わずに、見まもっていた。
ところが――。
紅白の注連縄《しめなわ》の張られたゴールに向っての直線走路上で、珍事が起った。
半馬身の差でせり合う烏丸公久と黒辺某は、当然、必死の鞭《むち》をふるった。
と――。
黒辺の鞭が、烏丸の背中へ向って、振られた。これに対して、公久もまた、黒辺に向って、鞭で応じた。
この光景は、大半の見物人には、はっきりとみとめられた。
そして、ゴール寸前で、烏丸公久は、一馬身の差をつけつつ、もんどり打って、地上にころがったのである。
「それだ!」
どぶは、独楽丸がつれてきた競馬きちがいのすっぽん料亭の主人から、くわしく、その光景をきき出して、膝《ひざ》をたたいた。
「その黒辺ってえ直参が、公卿《くげ》を突き落したに相違ねえ。お前さんも、そう思っているだろう?」
「へえ……、そうやろと思うていますが、なにせ、あっという間のことでおますさかい――」
「わかった」どぶは、こんどは、加茂神社の馬寮へ出かけて行った。
競うた二頭の馬は、その馬寮で飼われているのであった。
どぶは、烏丸公久と黒辺へ、籤《くじ》びきさせて、馬を与えた馬寮使代に会うと、まず、応分の礼金をさきにさし出しておいて、
「黒辺という直参に、なにか、怪しい様子がうかがわれた、ということはござんせんでしたかね?」
と、尋問した。
すると、馬寮使代は、鼻薬をきかされた効《きき》目で、
「実は――」
と、秘めていた真相を、打ち明けた。
使代が馬を渡した時の黒辺と、馬を競うて、勝った者は、あきらかに別人であった、という。
「ふむ! お前様が、馬を渡すのは、当日でござんすかね?」
「いえ、前の日でござる。乗り馴《な》らさねばならぬので、それが、しきたりとなって居ります。黒辺殿は、馬場で、しきりに、馬を責めて居られましたが、良い馬だ、とご満足げでありました。……ところが、当日、競われた御仁は、黒辺殿とは、別人のように思われて、手前は、首をかしげたのでござる。その時は、服装がちがい、陣笠《じんがさ》をかぶって居られるので、別人のように見えるのかな、と思いましたが、競走がおわって、馬を返して頂いた時、はっといたしたものでござった。まさしく、別人でござった」
「ふむ! 面白え話でござんすね」
「神社側といたしましては、黒辺殿が別人に代っても、べつに、不都合ではござらぬので、そのまま、賞金はその御仁にお渡しいたしましたが、その御仁は、賞金をそっくり、神社に寄附《きふ》して立ち去られたのでござる」
どぶは、その替玉が、どんな人相をしていたか、馬寮使代にたずねた。
「それが、どうも……、陣笠をまぶかにかぶり、太|紐《ひも》でくくっているので、顔だちのほどは、黒辺殿とは別人だということだけしか、判《わか》りませんでしたな」
どぶは、使代がかくしているのではない、と看《み》てとって、馬寮を辞去した。
早飛脚を、大阪城の黒辺|宛《あて》に出しておいて、どぶは、烏丸公久の遺骸《いがお》を検視した医師のところへおもむいた。
どぶは、鋭い直感で、
――≪そいつ≫の鞭《むち》のさきには、毒針がついていたに相違ねえ!
と、想像したのである。
鞭で、公久を打った瞬間に、毒針を刺したものと思われる。
どぶに問われた医師は、ちょっと首をかしげていたが、
「そういえば……、烏丸殿の二の腕には、針で突いたような痕《あと》があって、まわりが赤紫色にはれて居《お》り申したが、べつに、その時は、ただ、できものであろう、と思い、疑いを起さなんだが――」
と、こたえた。
どぶの想像は、的中した。
その日のうちに、早飛脚が、大阪から帰って来た。
黒辺からの返書には、前日たしかに、馬寮使代から馬を受けとって、一|刻《とき》ばかり責めてから、宿舎へもどったところ、にわかに腹痛が起り、それなり、翌日は臥牀《がしょう》してすごした旨が、したためてあった。
もちろん、神社側には、出場不能のことを、使いを出しておいた。
烏丸公久と競うたのは、神社側が急遽《きゅうきょ》さがした代理であろうと思い、自分の方は、べつに、疑わずに、大阪へ帰った。
黒辺の文面は、きわめて、あっさりしていて、競馬に出られなかったことなど、すこしも無念に思ってないようであった。
「しかけた≪わな≫に、烏丸|旦那《だんな》が、ひっかかった、というわけだな。……さて、三番目は、三十三間堂で、矢をぶち込まれた甘露寺輝貴だ。こいつも、まちがいなく、狙《ねら》われて、殺《や》られていやがるんだ」
どぶは、その日、甘露寺輝貴が、通し矢見物に連れて行った島原の芸|妓《ぎ》を、ここまでつれて来てくれ、と独楽丸にたのんだ。
独楽丸は、次の朝、島原へ出かけて行った。
どぶは、待っているあいだに、近所を歩きまわって、三十三間堂の通し矢見物に行った者をさがした。
居酒屋のおかみが、見物に行っていて、どぶの質問にこたえてくれた。
おかみが目撃したのは、甘露寺輝貴は、見物の群衆の中にまじっていて、どこからともなく飛来した矢にあたたおって仆《たお》れたのではなく、堂の中から、自分でころがり出て来て、矢路へ落ち、通し矢に射られたのであった。
つまり、甘露寺輝貴は、自分からわざわざ、矢に射られた、というあんばいであった。
午《ひる》近くになって、独楽丸が、島原の芸|妓《ぎ》をともなって、帰って来た。
かなり美しい女であったが、いかにもあばずれていた。
「ひとつ、お前さんに、正直にこたえてもらいてえ」
どぶは、十手をみせておいて、女を見据えた。
「なんのことどす?」
「ほかでもねえ。お前さんは、甘露寺少将につれられて、三十三間堂の通し矢見物に行ったろう」
「あい――」
「その時の模様を、かくさずに、教えてもらいてえのだ」
「ほんに、少将様は、お気の毒どしたなあ」
「全くだ」
「けど、あれは、やっぱり、少将様が、あまり助平やったさかい、あのようなことになったんどすえ」
「助平?」
「あい――。少将様は、通し矢を、ただ、竹矢来の外から見物してるのは、面白うない、と申されてな、矢うなりをききながら、睦《むつ》み合うのも、粋なものじゃと……」
「つまり、三十三間堂の中に、お前さんをつれ込んで、いとなんだ、というわけか」
どぶは、あきれながら、問うた。
「ほほほ……、ほんに、はずかしいことどした」
「それで、少将とお前さんが、かさなり合っている時、何者かが、襲って来たんだな?」
「よう、おわかりどすな」
「それぐらいのことが、判《わか》らねえで、岡っ引はつとまらねえ。……堂の中は、うすぐらかったかい?」
「あい。灯が欲しいぐらいの暗さで……、その中で、抱き合うている時――ちょうど、うちが、上にされていた時、いきなり、あたまを、ごつん、とぶたれて、そのまま、気を失うてしもうたのどす」
つまり、下手人は、芸妓を失神させておいて、甘露寺輝貴を、堂内から突き出した。
助平|公卿《くげ》は、広縁から、通し矢の矢路へ、ころがり落ちた。
矢を通している射手は、よもや、堂内から人がころがり出て来ようなどとは、夢にも思っていなかったから、文字通り矢つぎ早やに、射たのである。
甘露寺輝貴は、その矢を、背中に、ぐさと射立てられて、あえない最期をとげた。
「よし、判った」
どぶは、芸妓を去らせておいて、腕を組んだ。
その前にかしこまった水干少年は、
「親分、どういうことが、お判りになり申したか?」
と、じっと見あげた。
「判ったことは――阿野実明、烏丸公久、甘露寺輝貴、それから祇園祭の山|鉾《ぼこ》の中にぶらさげられていた一条建通も、最後に、どこかへ拉致《らち》されて拷問《ごうもん》を受けた五条嗣満も、同一人物に、殺されたに相違ねえ、ということだ」
どぶは、「そうよ、そうなんだ!」と、自分に大きくうなずいてみせて、
「五人の公卿《くげ》を殺した奴《やつ》は、一人だ。こいつは、絶対にまちげえねえ。……ただ、そいつが、何者か? なんの目的で? ――となると、皆目、見当もつかねえやな」
と、なげ出すように、云った。
「それは、追い追い調べなされば、判《わか》りましょうほどに、あぜらぬことじゃ」
「どうも、おめえは、大人《おとな》びた口をききすぎるぜ」
「そこいらの子供とちごうて、われは、大きな目的を持って居ります。したれば、気持は大人にならないわけに参りませぬ」
「ふむ。どんな目的だい?」
「母者の仇《あだ》を討つことでございます」
「仇討か」
「はい。母者を殺した敵を、さがして居ります」
独楽丸は、仔細《しさい》を語った。
独楽丸は、物心ついた頃《ころ》から、母親と二人ぐらしであった。父親は、嬰児《えいじ》の頃、病死した、と母からきかされた。貧しいながら、母親と水入らずのくらしは、平和であった。母親は、京扇の内職をしていたが、手が冴《さ》えていたので、その日の米を欠くようなことはなかった。
「しかし、おめえは、赤ン坊の折、小倉山の山中にすてられていた、とおめえの師匠の無二斎さんは、云っていたじゃねえか」
「あれは、いつわりで……、そうしておいた方が、人のなさけをひく、とお師匠は思うたからでありましょう」
「で――、どうしたい?」
独楽丸が、七歳になった早春の宵のことであった。
出来あがった京扇を、問屋にとどけるのは、独楽丸の役目であった。問屋から、金をもらって、わが家に帰って来てみると、おそろしい光景が、そこにあった。
母親のお衣《きぬ》が、胸も膝《ひざ》も、あらわにひきはだけたむざんな姿態で、部屋の片|隅《すみ》に、居すくんで居り、その前に、白刃を携《さ》げた覆面の男が、立っていた。
独楽丸が、悲鳴をあげ、同時に母親のお衣も、なにか絶叫をほとばしらせて、遁《のが》れようとした。
瞬間、白刃がひらめき、お衣の肩から、血|飛沫《しぶき》が噴《ふ》いた。
独楽丸は、稚《おさな》いながら、母親を斬《き》られた憤りで、無我夢中で、男へ、むしゃぶりついた。
もとより、あっけなく、突きとばされたが、その時、独楽丸は、なにかを、右手につかんでいた。
おそらく、男の懐中へ、夢中の右手がさし込まれて、容《い》れていたものをつかんだに相違なかった。
「その品というのが、これでございます」
独楽丸が、さし出したのは、意外にも、京|独楽《ごま》であった。
「ふうん! おっ母《か》さんを斬った野郎が、ふところに、これを持っていた、というのか」
どぶは、首をひねった。
敵が残したこの京|独楽《ごま》を持って、泣きじゃくりながら、京の街《まち》の辻《つじ》から辻へさまよっていた少年に、ふと目をとめたのが、菊水無二斎であった。
子供の遊び道具ではない、見事な金銀の象眼をほどこした京独楽を、どうして、少年が持っているのか、と不審に思って、事情をきいた無二斎は、
「わしが、お前の世話をしてやろう」
と、引き受けたのであった。
爾来《じらい》、無二斎の手|許《もと》で育って、曲独楽の習練にはげんだ独楽丸であったが、母を殺した敵のことは、ただの一日も、忘れてはいなかったのである。
「よし、判《わか》った。おめえが、おれの手先になっているからには、おれもおめえの仇討《あだうち》には、力をかしてやるぜ」
どぶは、胸をたたいてみせた。
「有難う存じます。親分が、きっと、助太刀《すけだち》をひき受けて下さることは、われの信じるところでありました」
「ところで、師匠の無二斎さんは、仇討については、なんと云っているんだい?」
どぶに問われると、独楽丸は、ふっと、暗い面持になって、俯向《うつむ》いた。
「師匠は、仇討を反対しているんだな?」
「はい。……血なまぐさい記憶は、はよう忘れて、日本一の曲独楽の名手になれ、と云うて居ります」
「ふうん。まア、そいつも、理窟《りくつ》だが……、おめえは、その目で、おっ母さんが殺されたところを見たんだからな。忘れろ、と云われても、忘れられるものじゃなかろうて。……おれは、仇討賛成だ。憎い敵は、やっつけなけりゃなるめえ。不倶戴天《ふぐたいてん》、というほどだからな。母親を殺した野郎が、そこいらを大手を振って歩いていやがる、と思えば、じっとはしていられめえ」
「親分は、われの百万の味方じゃ」
独楽丸は、顔をかがやかした。
実は、独楽丸は、無二斎から、仇討をあきらめるように云われて、先月、その家をとび出していたのである。大道芸を売る京の悪童であった。住むところは、こと欠かなかった。河原の総嫁小屋とか、寺院の縁の下とか、どこにでも、ねぐらはあった。
無二斎の方は、いずれ、家へ戻って来るものと思い、独楽丸が、河原で曲独楽を演じているのを見かけても、黙って、見物の中にまじって、見まもっているのであった。
「さて、と。こうなりゃ、こんな旅籠《はたご》にごろごろしてはいられねえ。ちゃんと、住むところをきめて、腰を据えざアなるめえな」
どぶが、云うと、独楽丸は、即座に、
「それなら、いいところがあります」
と、こたえた。
「あるかい?」
「はい、泉雅さんの離れなら、気分のいいところです」
「泉雅さん、たア何人だい?」
「友禅染めの名人です。北野の泉雅、といえば、誰知らぬ者は居りませぬ。わたくしも、ゆくゆくは、友禅染めを習おうと思うて居ります」
その家は、紙屋川の畔《ほとり》にあった。
古びた寺院と寺院にはさまれて、小ぢんまりとした構えをみせていたが、いかにも風流の人の住居を思わせた。
どぶをともなって、すたすたと、入って行った独楽丸は、庭へまわると、
「泉雅さん――」
と、呼びかけた。
このむし暑いのに、雨戸が閉《し》めきられていた。
「留守じゃねえのかい?」
どぶが、呟《つぶや》いていると、内から、
「独楽|兄哥《あにい》かえ。入って来るがええ」
その返辞があった。
「今日は、われ一人ではない。お客さんをつれて来た。離れをしばらく貸して下され」
「どんな人だえ?」
「江戸の岡っ引の親分じゃ」
「…………」
ちょっと、返辞がなかった。
「われのみるところ、ええおひとやさかい、ぜひ貸してあげて下され」
「独楽兄哥が、そう云うのなら、まちがいなかろ」
泉雅は、こたえた。
どぶが、
「そいじゃ、ひとつ、おねげえしやす」
と、云いかけると、
「どうぞ、気ままに、住んで下され」
と、返辞があった。
離れに入ってから、
「泉雅ってえは、変り者らしいな」
と、どぶが云うと、独楽丸は、
「われの知りあいは、みな変り者じゃ」
と、笑った。
「したれども、この暑さに、雨戸を締めているのは、変り者じゃからではありませぬ。陽《ひ》ざしの中では、友禅の手|描《が》きはできぬらしゅうござる」
「そういうものかね」
「この暑いのに、部屋の中では、火鉢に炭火をいっぱいに燃やして、汗だらけになって、美しい模様を描いたり、糊《のり》づけなど、してござる」
「ふうん。一度、見せてもらいてえものだ」
「仕事の最中は、人を入れてはくれませぬが、親分なら、親しくなれば見せてくれましょう」
どぶが、泉雅と顔を合せたのは、次の日の午《ひる》であった。
泉雅が、庭さきで、せっせと糊づくりをしているのを見かけて、どぶは、近づいて行き、口をきいたのである。
人間のつき合いというものは、妙なもので、十年顔を合せていても、溝《みぞ》を越えられぬ間柄もいれば、一|瞥《べつ》しただけで、親しみをおぼえる同士もいる。
どぶと泉雅は、後者であった。
それから半|刻《とき》後には、どぶは、部屋にともなわれて、友禅染めの仕上るまでの工程を説明されて、いかに、それが至芸であるか、感動していたのである。
友禅染めというのは、異常な執念がなければ、やれぬ仕事であった。
――こういう名人によって染めあげられた友禅を、着るのは、やっぱり、滅法界の美人でなくっちゃならねえというものだ。
どぶは、そう思わざるを得なかった。
さらに、その次の日には――。
泉雅の方から、わざわざ、離れへ足をはこんで来た。
「お前様を、江戸の親分と見込んで、たのまれて欲《ほ》しゅう存じます」
泉雅は、そう云って、頭を下げた。
「ほう――見込まれたとあっちゃ江戸っ子だ。たとえ、火の中、水の底へでも、飛び込まざアなるめえ。とは、ちと大|袈裟《げさ》だな。……なんですかい?」
どぶは、いささか冗談めかして云いながら、泉雅の表情が、なにやら必死なものであるのを、みとめた。
「親分は、口はかたい御仁でございましょうな?」
泉雅は、まず、念を押した。
「それア、稼業柄、云っちゃいけねえことは、死んでも、口を割りゃしませんぜ」
「それでは、申し上げます。てまえの仲間に、友泉、泉華という二人の友禅師が居ります。友泉は、縫師で、泉華は、てまえと同じ仕事をして居ります。どちらも、名人と申せます。……実は、てまえら三人は、世間には内密に、大急ぎで仕上げなければならぬ作に、目下、精魂を込めて居ります」
「それで、雨戸もたてきって、とじこもっている、というわけか」
「友禅染めは、さいわい、仕上げまでは、絶対に、人目にふれさせぬというならわしがございますのでね。……ところが、このたびの作については、手をつけた時から、なんとも、不安がつきまとうて居ります」
「不安?」
「左様です。雨戸の隙間《すきま》から、何者かが、じっと、のぞき視《み》ているような……、つまり、てまえらの仕上げを待ちかまえていて、三人の生命を奪って、奪《と》りあげてやろう、というこんたんを抱《いだ》いた者がいる――そんな不安でございます」
「つまり、それほど、こんどの大作が、一世一代のもの、というわけか。それア、お前さんたちの不安はわかるが、まさか、それが仕上ったら、世の中がひっくりけえるような騒動が起るというしろものじゃなかろう。たかだか、友禅染め――といっちゃ、失礼だが、美しい娘を、きかざらせる衣裳《いしょう》なんだぜ。……それとも、お前さんがたが、その作に、のろいでもこめて、それをまとうたら、その美女が、血|反吐《へど》をはいて、死んじまう、というのなら、話は別だが……」
「冗談は止《よ》して頂きましょう。てまえらは、ひたすら、日本一の友禅染めをつくることに、精魂をこめて居るのでございます」
「それなら、べつに、不安がることはあるめえ。あっしが、こうして、そばにいるんだ」
「そのことでございます。親分に、てまえらを、守って頂きたいのでございます。どうぞ、お願い申します」
泉雅のたのみというのは、きわめて漠然《ばくぜん》としたものであったが、泉雅がいくども頭を下げて、立ち去ったのち、どぶは、ふっと、
――泉雅の不安というのは、なにか、かくしている仔細《しさい》があるのじゃねえかな?
そんな気がしたことだった。
惨死
――ひとつ、有馬右京ってえ検非違使《けびいし》が、どんなくらしをしているか、のぞいてやろうか。
どぶが、思いたったのは、泉雅の家に身を寄せてから、数日|経《た》ってからであった。
不気味な青|痣《あざ》を顔面に浮かせた有馬右京の家は、五条通寺町を西に入った御影堂のすぐ裏手に、あった。
「へえ――これがねえ」
屋敷の門前に立って、どぶは、首をかしげた。
江戸の旗本御家人ならば、さしずめ二百石程度の貧しい構えであった。
「京の公家は、貧乏だとはきいていたが、検非違使という御大層な役名を持った者が、こんなちっぽけな住居にいるとは、あきれたぜ」
どぶは、玄関で、案内を乞《こ》うた。
当然、取次ぎが出て来ると思っていたところ、右京自身が、のそりと姿を現した。
「へえ、これアどうも、ご自身でお出まし下さいまして、おそれ入りました」
どぶが、ちょっとご相談があっておうかがいしました、と云うと、右京は、無表情で、
「上るがよい」
と、ゆるして、踵《きびす》をまわした。
空家《あきや》のように、人の気配がなかった。
それよりも、どぶが、
――はてな?
と、いぶかったのは、たしか右京は、家には十年越しに病み臥《ふ》した妻がいる、と云っていたにもかかわらず、それが感じられないことだった。
長|患《わずら》いの病人が、臥牀《ふしど》にいれば、必ず、家の中には、陰気な雰囲気がこもっているものである。
それがない。
座敷に通されてから、どぶは、まずその不審を、口にした。
「奥様は、暑気をさけて、どこかへ、転地療養でもしていなさるので――?」
「いや、この家にいる」
「へえ?」
「あちらの三畳の納戸に寝《ね》て居る。曾《かつ》て一度も、納戸から出て来たことがない」
板戸をたてきった納戸は、昼でも暗黒のはずであろう。
胸を患う病人ならば、風通しのいい明るい部屋を好むものだが……。
――似たもの夫婦で、どっちも変り者というわけか。
「五条嗣満を拷問《ごうもん》にかけた曲者《くせもの》の手がかりは、いまだ、つかめぬ。わしの未熟と申すよりも、曲者の方がおそるべき巧者ということになろう」
右京は、そう告げておいて、お前の話をきこう、とじっと見据えた。
蛇《へび》のように冷たい双眸《そうぼう》であった。
「てまえは、目下、友禅染めの名人といわれている北野の泉雅――おきき及びでございますか?」
「うむ」
「そこの離れを借りて居ります」
右京は、黙って、どぶの話をきいている。
「泉雅は、どうやら一世一代の大作にとり組んで居《お》ります。仲間の友泉という縫師がやって来て、いよいよ、ここ二、三日うちに、仕上げる模様でございます。おそらく、これまで、どんな≪じょうろう≫も、身につけたことのない豪華な打掛になるらしゅうございますな。……ついては、ちょっと、おうかがいしたいのは、禁裏でご注文になったのでございましょうか? 皇后様でもお召しになる、というような……」
「そんな話は、きかぬ」
「では、五摂家のうちの、どなたかが、ご注文なさった、という噂《うわさ》は?」
「近衛にしろ、鷹司にしろ、千両もするような打掛をつくらせるはずがない。大臣自身が、その衣服の新調をさしひかえているくらい、勝手元不如意だ」
「いったい、どなたが、ご注文なすったのでございますかね」
「泉雅のような名人ならば、注文がなくとも、おのが生命をうち込む衣裳《いしょう》を、後世にのこしておこう、という気持を起すであろう。……お前は、その友禅染めを、見たか?」
「ヘえ……」
「岡っ引ならば、好奇心を起して、必ず覗《のぞ》き見ているであろう」
「どうも、恐れ入りやした」
「どんな図柄だ?」
「それアもう、なんとも、目を奪われる豪華な手がき染めで――洛中洛外図《らくちゅうらくがいず》でございます」
「洛中洛外図?!」
右京の顔面が、一瞬、動いた。
「花鳥ではなく、洛中洛外を図柄にしたとは――珍しいの」
「へえ、まったくもって、珍しい図柄で――。なにしろ、京都の絵図面をひろげたあんばいに、微に入り細をうがって、それアもう、あますところなく、かきあげているのでございます」
「ふむ!」
「ところで――」
どぶは、咳《せき》ばらいをひとつしてから、
「この泉雅、友泉、泉華という三名人の友禅染めの大作を、ねらっている曲者《くせもの》がいるらしい、と当人たちが、不安がって居ります」
「…………」
「てまえは、一世一代の大作を仕上げようとするからには、そんな不安を起すのだろう、と云ってやりましたが……、ひどう不安がりますので、この秘密の仕事も、もしかすれば、すでに、御所などでは評判になっているのではないか、と思って、貴方《あなた》様に、おうかがいすることにいたした次第で――へい」
「そんな噂は、きかぬ」
「それなら、よろしいのでございますが、ま、念のためにおうかがいした次第で……、このことは、貴方様のお耳に入れただけでございますので、ひとつ、ご内聞に――」
「うむ」
右京は、うなずいた。
どぶは、辞去しがけに、廊下へ出て、納戸の方へ、耳をすました。人の気配はあるようであった。
――なんとなく、あの検非違使は、性分としては、おれとは、水と油だぜ。
どぶは、腕ぐみして、御影堂の前に出ると、五条の往還をひろいながら、有馬右京が自分にのこす不快感を、考えていた。
どちらかといえば、有馬右京は、どぶの頭領である町小路左門と、同じタイプであった。
ところが、接したあとの印象が、雲と泥ほどのちがいがあるのであった。
人柄のちがい、といえば、それまでだが、そればかりではなく、なにか、根本上異質であるような気がするのである。
――同じ、冷たさでも、こっちの手にふれる感じが、どうしてこうも、全くちがっていやがるんだろう。どうも、判《わか》らねえ。
どぶは、苛《いら》立たしささえおぼえた。
「もし――」
不意に、横あいから、声をかけられて、どぶは、われにかえった。
「なにを、ぶつぶつ、云わはっとるのどすえ?」
手|拭《ぬぐ》いを吹き流しにかぶった総嫁《そうか》であった。
「今夜は、肌《はだ》のひんやりとつめてえ女を抱きてえ、と考えていたところよ」
「うちでは、どうどす?」
片手をさし出されて、どぶは、その二の腕を、つかんでみた。
「つめてえや」
「では、どうぞ――」
どぶは、手拭いのかげの顔が、もう三十過ぎた大年増と見たが、
「よかろう」
と、うなずいた。
小屋で、ひと汗かいて、女にその汗を拭《ふ》かせながら、
「どうもいけねえや。こうからだが、だらんとしやがるのは、暑さばかりじゃなさそうだぜ。京都という街《まち》のなにもかもが、人間の神経を間のびさせるように、できていやがるらしいな」
「そうどすか。なにせ、江戸のおひとは、せわしいさかい――」
「あたりめえだ。百年も二百年も生きるわけじゃねえんだ。せいぜい五、六十年のあいだに、してえことをみんなやらかすには、忙しがらざるを得ねえやな」
「そのせいどすやろか。つい、このあいだうちから、この四条の賭場《とば》へ姿をみせはった江戸のおかたが、それやもう、つきについて、二百両も、もうけていやはる、というもっぱらの評判どす」
「へえ、どんな奴《やつ》だい、それア――?」
「ご直参のお坊主やそうどす」
「お坊主?」
「なんでも、江戸城内で一番えらいお数寄屋坊主というふれ込みで、その日勝ったおあしは、祇園で、その日のうちに、ぱあっと使《つこ》うてしまいはるとか……」
「ふむ! ひょっとすると、ひょっとするぜ、そのお坊主は!」
どぶは、急に、しゃんとなって、小屋をとび出した。
予感たがわず、賭場《とば》で大あぐらをかいていたのは、河内山宗俊であった。
河内山は、どぶをみとめるや、にやっとして、
「江戸を食いつめ、落人《おちうど》の、流れ流れて来た京の、賭場で会うたが百年目、かの」
と、笑った。
「どうやら、ぶっつかる場所は、きまっていまさあ」
「同じ浮世に同じ花、芝野初瀬の常夏《とこなつ》に、桜が咲くはずあるじゃなし、雪は白うて、十五夜は、いつでもまるいじゃないかいな。おめえとおれとは、ささ、同じ穴の≪むいな≫じゃわい。……どうした、噂《うわさ》はもう、この河内山の耳にも入《はい》っているぞ。若い極道公卿が、バタバタ死んだ原因を、躍起になって、かぎまわっているそうじゃねえか」
「江戸と京とでは、どうも、勝手がちがって、あっしのカンも働きませんや」
「そうさの、京ってえところは――昨日《きのう》ではなし、明日《あす》でなし、どぶの名に呼ぶそのおはぐろに仇《あだ》な昔をかくす今日《きょう》――か」
「まぜっかえさねえでおくんなさい。旦那《だんな》の智慧《ちえ》をお借りしてえところでさあ」
「せくなさわぐな、あわてるな、明日という日がないじゃなし――さあ、これから紙園へくり込もう」
河内山にさそわれて、つい、ふらふらと、あとにしたがったのが、どぶの不覚というべきであった。
三日|流連《いつづ》けて、宿酔《ふつかよ》いのガンガン痛む悩天を、炎熱の陽《ひ》ざしにさらしながら、ふらふらと、北野の泉雅の家へ、帰って来ると――。
「やられたあっ!」
どぶの宿酔いは、けしとんだ。
母屋《おもや》は、滅茶滅茶に荒らされ、泉雅の姿は、消えうせていた。
どぶが、出かける時、泉雅は、友泉と泉華と、三人必死になって、仕上げをいそいでいた。
――三人とも、どこかへ拉致《らち》されたというわけだな。
もちろん、かれらが畢生《ひっせい》の大作「洛中洛外図絵の打掛」も、奪い去られていた。
「不覚!」
どぶは、われとわが頭を、拳《こぶし》で打った。
「なんてえこったい! まるで、おれの留守をうかがって、三人と打掛を、かっさらって行きやがった」
この時、どぶは、重大なことに、気づくべきだったのでる。
やはり、三日流連の酒と女に酔い痴《し》れた頭脳は、生来の鋭いカンを、にぶらせてしまっていたらしい
どぶは、べったりと坐り込んで、腕組みして、茫《ぼう》然と、宙を睨《にら》んでいるばかりであった。
やっと、気をとりなおして、なにか、手がかりになるものは、のこっていないか、と屋内をさがしまわった。
しかし――。
なにひとつ、これは、と目をとめるものは、なかった。
泉雅、友泉、泉華の行方は、翌日、判った。
三人とも、死体になっていた。
まず、最初に発見されたのは、友泉であった。
夜明けがた、一人の乞食《こじき》が、三条河原をうろついていると、梟首《きゅうしゅ》台に、生首がひとつ、のせてあるのを見つけて、腰を抜かした。
三条河原にあるその梟首台には、ここ二十数年、絶えて、獄門首など、のせられたことはなかったのである。
獄門になった囚徒がいる、という噂《うわさ》もないのに、いつの間にか、夜のうちに、生首が、それに据えられていたわけである。
それが、友禅染めの縫師として名高い友泉の首であった。
次に――。
陽《ひ》が高く昇《のぼ》って、今日もまた炎暑がつづくと、人々がうんざりした頃《ころ》あい、聚楽第《じゅらくだい》の跡に、一人の男が、死んでいるのを、遊びに来た子供たちが見つけて、騒動になった。
男は、切腹のかたちで――つまり、短刀を腹に突き刺して、俯《うつ》伏していた。
それが泉華であった。
噂は、その日の午后《ごご》には、京の市中にひろがった。
どぶは、京都町奉行所の同心の一人から、二人の惨死を報《し》らされた。どぶの方から、三人の行方不明のことを、奉行所の町方見|廻《まわ》りにとどけて、協力をたのんでおいたからである。
もとより、どぶは、こうなる予感があった。
さて――最後の一人泉雅の死体は、どこにあるのか?
どぶは、発見されるのを待つよりほかに、すべはなかった。
実際、こんな苛立《いらだ》たしいことはなかった。足もとから火がついて、じりじりしている、といったていたらくであった。
自分が、全くの無能であることを、この時ほど、痛感させられたことはなかった。
どぶは、胸のむしゃくしゃを、すこしでも忘れるために、祇園の茶屋で、まだ流連《いつづ》けている河内山宗俊を、たずねた。
河内山は、友泉、泉華が殺されていたことは、すでに、幇間《ほうかん》から、きいていた。
「どぶ親分、どうする? こうしてこうなりゃ、ああしてああなる、といった筋合のものじゃなさそうだの」
「どうか、智慧《ちえ》を拝借してえもので……。こうして、腕を拱《こまね》いているのは、死ぬほど、やりきれませんや」
「愚禿《ぐとく》、つらつらおもんみるに……、泉雅の死体は、瑞泉寺にあるの」
「どうしてでござんす?」
「一人が三条河原で、もう一人が聚楽第跡で、殺されていたとなると、おのずから脳|裡《り》にうかぶのは、そのむかし、太閤秀吉の怒りにふれて、殺された殺生関白秀次のことであるわさ」
「へえ――?」
河内山は、つづけた。
「関白秀次は、聚楽第《じゅらくだい》に住んでいた。太閤の怒りにふれて高野送りになる時、その夫人、側室、子らが残らず、処刑されたのは三条河原。……となると、そのあわれな婦女子幼童の霊がねむっている瑞泉寺が、思いうかぶではないか」
「なアるほど!」
どぶは、合点《がてん》した。
合点したものの、関白秀次に因縁のある場所で、どうして、三人の友禅染めの職人が殺されたのか――その疑問に、首をかしげざるを得なかった。
とにもかくにも、どぶは、瑞泉寺にむかって、つっ走った。
河内山の推測は、的中していた。
泉雅は、瑞泉寺の墓地にある関白秀次の家族のために建てられた供養塔に、すがりつく恰好《かっこう》で、死んでいた。
どぶは、死体をしらべてみて、それが咽喉扼殺《いんこうやくさつ》であることを、たしかめた。
奉行所の町方へ通報して、死体を渡しておいて、どぶは、再び、祇園へひきかえして来た。
「わからねえ!」
どぶは、歩きながら、首をひねった。
「関白秀次ってえのは、三百年も前の人間じゃねえか。どうして、その人間が不幸に遭《あ》った場所で、あの職人どもが、殺されていたのか……まるで、こりゃ、判じものだぜ」
まことに、こんどの京都で起った異変は、どれもこれも、謎《なぞ》につつまれてしまっている。
麻糸がもつれたような事件ならば、丹《たん》念に解きほぐせばいいわけであったが、もつれているもなにも、はなから、なにがなんだか見当もつかぬ殺人事件が連続しているばかりなのである。
のみならず、殺された極道|公卿《くげ》五人と、三人の友禅染め職人とのあいだには、全く関連がないように思われる。
たまたま、偶然に、ひきつづいて殺されただけで、その目的も下手人も、無関係かも知れぬのである。
ただ、どぶのカンで、
――公卿殺しとこんどの職人殺しは、下手人が同じじやねえかな。
と、思っただけである。
しかし、考えているうちに、自分のカンが、あやしくなって来る。
「親分――」
うすぐらい小路を抜けようとした折、声が、かけられた。
独楽丸の水干《すいかん》姿が、そこにあった。
「ああ、おめえか――」
どぶは、視線をかえして
「泉雅は、瑞泉寺というお寺の墓地で、仏になっていたぜ」
と、告げた。
「お気の毒に――」
独楽丸は、ちょっと合掌してから、
「親分が行くさきざきで、人が殺されるとは、岡っ引という稼業も、因果なものでござる」
「なまをこきやがる」
どぶは、苦笑してから、独楽丸に、
「おめえ、あの立派な打掛を、泉雅が、誰《だれ》にたのまれて、作ったのか、耳にしちゃいねえか?」
と、たずねた。
「存じませぬな。あの打掛も、無《の》うなりましたか?」
「ああ、煙のように消え失《う》せやがった。下手人は、あの打掛|欲《ほ》しさに、泉雅ら三人を殺《ば》らしやがったのだ。……それにしても、どうして、殺生関白因縁の場所をえらんで、三つの死体をさらしやがったんだろう?」
「親分――」
独楽丸は、どぶを見上げて、澄《す》んだ眸子《ひとみ》を光らせた。
「関白秀次様のことを、よく識《し》っている学者に、おききなされ。なにか、手がかりがつかめるかも知れませぬ」
「そうだ。……さしあたり、河内山の旦那《だんな》に、きいてみるか。あのお数寄屋坊主殿は、あれで、なかなか、学があるときいているぜ」
どぶは、その茶屋にもどると、物倦《ものう》げに手枕《てまくら》で寝《ね》そべっている河内山宗俊の前に、かしこまった。
「あっしゃ、本を読むのが生れつき、大きれえで、むかしのことは、まるっきり、ちんぷんかんぷんでござんす。ひとつ、殺生関白が、どうして太閤さんに憎まれて、高野山で自害にまで追いやられたのか、ひとつ、きかせておくんなさい」
と、頭を下げた。
「きわめて、かんたん明白なことさ。淀君が、秀頼という世嗣《よつ》ぎを産んだからよ」
「へえ――。それで、太閤さんは、関白が邪魔になった、というわけなんで――」
「どこにでも、よくある話さ。……子種がないと思って、養子をもらったら、ひょっこり、子供が生れた。そこが、実の親の人情で、養子をなんとか片づけて、わが子に家を嗣がせたい。……むかしも今も、こういう騒動は、どこにでもころがっている。たまたま、天下人の家で起ったから、騒動が大きくなっちまった、という次第さ」
河内山は、起き上って、銀の煙管《きせる》で一服うまそうに吸いつけてから、
「どぶ親分が、当惑しているのは、友禅染めの職人どもが、どうして、殺生関白の由縁《ゆかり》の地で、死体をほうり出されていたか、ということだろう?」
「そうなんで――」
「そこで、この河内山の博学が、≪もの≫を云うというわけだ」
「おねげえ申しやす」
どぶは、真剣な面持だった。
「嘘《うそ》かまことか知らねえが、ひょっとするとひょっとするかも知れねえ、と思いつくことを、きかせてやるかな。……古文書の記録というやつは、あんまりアテにはならねえものだが、こんどの異変となにかひっかかりがありそうな伝説が、ふたつあるな」
「へえ――?」
「おれはその伝説を信じているわけじゃねえよ。それは、まず、ことわっておく」
河内山は、話しはじめた。
豊臣秀次が、殺生関白と世人から指弾されるまでに至った経緯を眺《なが》めると、たぶんに、淀君の腹心たちの悪|企《だく》みがあったこと。秀次自身は、きわめて正常な、多少気の小さいところはあったとしても、決して有害無益な人間ではなかったこと。
しかし、秀次は、淀君が秀頼を産んでから、有形無形に、自分に対して、悪辣《あくらつ》な企《たくら》みを仕掛けて、窮地に追い込んで来ようとするのをさとるや、わが身の将来に多大の不安をおぼえた。
秀次は、いざとなった場合、北陸の何処《どこ》かへ、わが身を遁《のが》れさせることを、思案した。そのむかし、平家の一族が、京都を遁れ出て、僻邑《へきゆう》に身をひそめたように――。
そのためには、ひそかに、金をかくしておく必要があった。
「関白秀次が、高野送りになった時には、軍用金として十万両ばかり、ひそかに、何処かに隠した、という噂が、立ったのだな。秀次は、そのことを追求されたが、もちろん、かぶりを振って、否定した。しかし、一部の者は――石田三成あたりは信じて、関ケ原の合戦の前あたりは、家来を総動員して、京洛内外を、捜させた事実は、のこっている」
河内山は、語った。
「へえ、そいつは、伝説としても、あっしのカンにピンと来る話でござんすね」
「そうだろう。十万両の軍用金が、どこかにかくされている、などという伝説は、たしかに、好奇心をそそるわさ。……次に、友禅染めの職人どもが殺されたことで、わしは、思い出したのだが、秀次の側妾《そばめ》たちの中で、最も寵愛《ちょうあい》を受けたお耀《よう》の方が、有名な衣裳《いしょう》道楽であったことだ。で――、三条河原の処刑場へひき出された時も、千両もするほど豪華けんらんたる打掛を、はおっていたそうな――」
「打掛?」
「うむ。その打掛は、お耀の方が、いちばん好きだった模様の、洛中洛外絵図を描き、縫いあげたしろものであった、という」
「…………」
どぶがごくりと生|唾《つば》をのみ込むのを、河内山は、眺めながら、
「その打掛は、なんでも、日本一と称された名人が、一年も費して作りあげたものだったそうだが……、こんど殺された泉雅らも、洛中洛外の図柄の打掛を、作っていたというじゃねえか」
「そ、それでさ。あっしゃ、この目で、見やしたが、それアもう、精巧な絵図で、京洛の名所という名所を、のこらず描き込んで居《お》りやした」
「もしかすれば、泉雅らは、お耀の方のはおっていた打掛をまねて、つくっていたのかも知れぬ」
「そ、そうにちげえありませんや。と、すると、この謎は、どうなりやすかね」
どぶは、腕を組んだ。
「その謎は、どぶ親分が、解くのさ」
河内山は、笑った。
その時、かたわらで、退屈した独楽丸が、わらべ唄《うた》を、口ずさんだ。
どぶは、独楽丸が口ずさむそのわらべ唄《うた》を、耳にするともなくきいているうちに、不意に、とびあがるほど、愕然《がくぜん》となった。
「そ、そいつだ!」
どぶに、いきなり、人差指をつきつけられて、独楽丸は、目をぱちくりさせた。
「そ、そのわらべ唄だ!」
どぶは、叫んだ。
「わらべ唄が、どうしたな?」
河内山が、けげんな面持で、たずねた。
「五条嗣満ってえ公卿《くげ》が、からだじゅう拷問《ごうもん》の痕《あと》だらけで、自分の屋敷へもどされた時に、妹に、そのわらべ唄を、うたってきかせたんでさ。……たしかに、いま、独楽丸がうたったやつだ。まちげえねえ。……独楽丸、おめえ、それを、どこでおぼえた?」
どぶは、首を突き出した。
独楽丸は、そんなことか、という表情で、
「このわらべ唄なら、京の者なら、誰《だれ》でも、ちいさい時から、唄うて居《お》ります。京の都の町づくしの唄やさかい――」
「もう一度、うたってみてくれ」
「おやすいご用――」
独楽丸は、手|鞠《まり》をつく仕草をしながら、唄った。
マルタケエビスニオシオイケ……
どぶは、耳をかたむけながら、五条嗣満が、自分と有馬右京を遠ざけておいて、妹の桜子に、きかせたのと同じ節であることを、確認した。
その時は、死に際《ぎわ》に童心にかえったのか、とも思ったものだったが、それにしても、自分と右京を次の間にしりぞけて、わざわざ、わらべ唄をうたってきかせたことは、なんとも奇怪というほかはなかったのである。
どぶは、独楽丸が、うたいおわるのを待って、
「町名をみんなうたい込んでいるんだな?」
「そうです」
「教えてくれ」
独楽丸は、うなずいて、紙と筆を持って来ると、さらさらと記してみせた。
丸(太町)竹(屋町)夷《えびす》(川)二(条)押(小路)御池・姉(小路)三(条)六角・蛸(薬師)錦(小路)四(条)綾(小路)仏(光寺)高(辻)松(原)万(寿寺)五条……
その紙を、手にとって、一読したどぶは、
「ふむ!」
と、うなった。
「こいつは、面白え!」
「どう面白いのだな、どぶ親分?」
「面白えじゃありませんか、旦那……。この町づくしは、つまり、洛中洛外図絵をうたったことになりますぜ」
「なるほど! うまいところに、むすびつけたな」
河内山は、笑って、うなずいた。
「ということは、あの五条嗣満が、妹の桜子に、つたえようとしたのは、洛中洛外図絵の打掛のことじゃなかったか――と推測できまさあ」
「ふむ!」
河内山は、その推理に、感服した。
「つまり……、公卿《くげ》殺しと職人殺しは、やはり、ふかいつながりがあったというわけか」
河内山が云うと、どぶは、にやりとして、
「そうでさ。……へっ、いよいよ、謎野郎の尻尾《しっぽ》をつかまえてくれたぞ」
と、おのが額を、ぴしゃりと叩《たた》いてみせ、
「どうも、有難う存じやした。河内山の旦那《だんな》でなけりゃ、こういう智慧《ちえ》は、かして頂けなかった、という次第でさ」
礼をのべて、祇園を、とび出した。
「マルタケエビスニオシオイケ、アネサンロッカクタコニシキ――か。へへ、なんとも、こたえられねえ、わらべ唄《うた》じゃねえか」
大声で、うたいながら、首を振って行くどぶを、通行人たちは、いぶかしげに、じろじろと眺《なが》めた。
「親分――」
独楽丸がはずかしそうに、袂《たもと》をひっぱった。
「京の町は、しずかで、夫婦喧嘩も、声をひそめてやるほどでありますゆえ、もうすこし、声をひくめて下され」
「いいってことよ。かまうこたアねえやな。うわっ面《つら》だけ、おっとりかまえていやがって、性根はどす黒く、邪悪の澱《おり》がよどんでやがる――なんてえ毒婦と、京の町は、似ているぜ。そのうわっ面の化の皮をひんむいてやろう、というんだ。声も高くなろう、というものじゃねえか」
四条の橋|袂《たもと》に来て、どぶは、急に、別の表情になると、小さな目を、ぱちくりさせた。
「はてな?」
「どうなされた、親分?」
「独楽丸、ここで、別れるぜ」
どぶは、云いのこすと、足をはやめた。
橋を渡って行く男女二人連れの後姿へ、どぶの視線は、据えられていた。
一人は、どぶから小金をせびった綾小路三位にまぎれもなかった。
そして、その連れの若い女が、どぶの胸をおどらせたのである。
「いやはや、さてはや、さてこは如何《いか》に――待った!」
どぶは、わざと、大声をあげた。
二人連れは、ふりかえった。
どぶは、大|袈裟《げさ》に、首を振ってみせ、
「ここが、日本橋とか両国橋なら、ばったり出会っても、ふしぎはねえが、あんまりびっくりさせるものじゃねえやな、お小夜さん」
と、云った。
江戸の町小路邸にいるものとばかり思っていた小夜が、京の町を歩いていたのである。
「おどかして、すみません、親分――」
小夜は、微笑しながら、あやまった。
すると、綾小路三位が、
「盲目《めくら》が旅するのには、杖《つえ》が必要じゃ。べつに、ふしぎはなかろう」
相変らず、憎らしげな口のききかたをした。
左門の伯父《おじ》である綾小路三位が、小夜を連れていたとしても、これは、たしかに、ふしぎではなかった。
「殿様は、お宅でございますか、三位様?」
どぶは、訊《たず》ねた。
十一
「わしの屋敷に、左門が居るなら、こんなところを、この娘と一緒に歩いて居るか」
綾小路三位は、云った。
「へえ、それじゃ、どこに――?」
「女子をつれて行けぬところじゃ。おかげで、わしは、この娘の不|機嫌《きげん》をなおしてやるために、どうしてなぐさめてやろうか、と目下思案中じゃ。そうじゃ、ひとつ、思いきり、京の最上等の料理を馳走《ちそう》してくれようか。それには、懐中がいささか、とぼしい。……呉《く》れ」
ぬっと、手をさし出されて、どぶは、
――またか。
と、うんざりしつつ、
「女子をつれて行けぬところ、ってえと、島原でございますか?」
「図星。蛇《じゃ》の道は蛇《へび》だのう。左門め、のうのうと、大夫相手に、手足をのばして居るわ」
「あの殿様が、そんな話がわかる御仁だったとは、知りませんでしたねえ。お小夜さん、あっしは、ひとっ走り――へへ、すこしも、はよう、おお、そうじゃ」
「こりゃ、岡っ引、金を忘れるな、金を――」
どぶは、綾小路三位に、二分渡しておいて、島原めざして、道を急いだ。
足もはやくなろうというものであった。
町小路左門が、遊里におもむく、などということは、夢にも考えたことのなかったどぶである。
しかし、これは、こっちが勝手にきめていたことで、左門も、木や石でできているのではなかった。若い血が五体に流れている、健康な独身者である。遊女を買ったとて、なんのふしぎはない。
どぶとしては、左門が、自分のところまで、降りて来てくれたような気がして、心も身も、はずまざるを得なかった。
どぶが、やがて、小|唄《うた》を口ずさみながら、二間幅の階段をのぼって行ったのは、島原第一の青楼「東山楼」であった。
左門は、三十畳はあろう広い座敷の床柱に、もたれて、片|膝《ひざ》たてながら、大夫の奏《かな》でる琴の調べに、耳をかたむけていた。
どぶは、その大夫の顔を一|瞥《べつ》して、ごくりと、生|唾《つば》をのみ込んだ。
こんな色っぽい、優しい顔を、まだ見たことはなかった。五条嗣満の妹桜子も、たぐい稀《まれ》な美貌《びぼう》であったが、あまりに気品がありすぎ、また冷たさがあって、近よりがたかった。
この大夫は、全身に色香をただよわせ、男に抱かれるために生れて来たような、なんとも一瞥しただけで身ぶるいの出るなよやかさをたたえている。
どぶは、茫然《ぼうぜん》となって、左門に挨拶するも忘れたていで、大夫に見|惚《ほ》れた。
大夫は、調べを終えると、どぶへかるく一|揖《ゆう》をのこし、
「お殿様、また、あとで参じまする」
左門にことわっておいて、打掛をひらりとひるがえして、次の間へ、消えた。
どぶは、ふうっと、吐息した。
十二
「どうした、どぶ?」
左門は、すでに、そこにかしこまっている者が何者か、さとっていた。
「今日ただ今ほど、貴方《あなた》様が、目をふさいでおいでなのが、おいたわしいと思ったことはありません」
どぶは、心から、そう云った。
「ははは……、あの御室大夫のすがたを、わたしが、見られぬことか」
「そ、そうでございますよ。もったいねえ! 殿様がお抱きになる女子が、どれほど美しいか、ごらんになれねえなんて……」
「お前に、はじめて、同情されたな。ははは……」
左門は、屈託なさそうな笑い声をたててから、
「あらましを、きこう。お前が、京都へ来てからも、公卿《くげ》や職人が、つぎつぎに惨死した模様だな?」
「その通りでございます。全く、こんどというこんどは、岡っ引の面目丸つぶれで、なんとも、申しわけのねえ次第で――。これほど、≪こけ≫にされちまっちゃ、かえって、敵を尊敬したてまつりたくなりまさあ」
「勝手のわからぬ土地では、いたしかたあるまい。特に、この京の街《まち》では――」
どぶは、京都へやって来てからの、奇怪な事件の連続を、要領よく報告した。
左門は、例によって、一切ききかえさず、黙然として、聴取しおわって、なお、しばらく、思慮をめぐらしていた。
どぶは、じれて、
「……つまり、その、あっしは、洛中洛外図絵の友禅染めの打掛に、この謎を解く鍵が、かくされてあるような気が、いたしやす。あの打掛を、こっちの手に入れれば、目の前にかかった霧が、ぱあっとはれるように思いやすが、いかがなもので――?」
と、云った。
しかし、左門は、その意見に対しても、口をつぐんでいた。
どぶは、しかたなく、待った。
やがて、左門が、まず、口にしたのは、
「京では、百年という歳月は、さして長くはなさそうだ。江戸の十年にもあたろうか」
その独語であった。
「……?」
「この島原の廓《くるわ》には、豊臣家の天下であった頃《ころ》のしきたりが、なお、のこされている」
「へえ――、そんなものでございますかね」
「つまり、こんどの事件も、三百年前の古い事実をさぐってみなければ、解決がつくまい」
「あっしも、河内山の旦那《だんな》から、教えて頂いた時、そんな気がいたしやした」
「関白秀次という人物が、亡霊となって、こんどの事件を起した、とも考えられる」
「…………」
「どぶ――。ひとつ、歴史をさかのぼってみるか」
「と仰言《おっしゃ》いますと?」
「お前が、禁裏《きんり》の古文書調書庫へ、忍び込んで、虫食い書類をひっくりかえしてみる、ということだな」
左門は、云った。
五条家口伝
どぶは、頭をかいた。
「あっしゃどうも、みみずののたくったような文字を読むのは、苦手でござんしてね」
「お前がやらなければ、誰がやる?」
「いえ、それア、ご命令とあれば、火の中へでも、水の中へでも、とび込みやすが……、天子様のお屋敷へ、忍び込むのは、恐れ多いような……」
「時と場合では、天子拝|謁《えつ》としゃれてもよかろう」
左門は、平然として云ってから、次のようなことを教えた。
左門が、むかし学んだ史実によれば、五条家は、慶長十六年、高瀬川をひらくに至るまで、この京の地に、多くの水路をつくった疎水づくりの名人・角倉了以《すみのくらりょうい》に、大いに協力している。なお、友禅染めの職人泉雅の死体が発見された瑞泉寺は、角倉了以が、関白秀次供養のために建立したものである。
「そこらあたりの五条家の記録を、とっくりと調べて来てもらおうか」
左門は、命じた。
「かしこまりました」
どぶは、ほぞをかためた。
どぶも、曾《かつ》ては、さむらいであった。苦手ではあったが、古文書ぐらいは読める。その点では、そこいらの岡っ引とは、質を異にしている。
ただ、天子の在《おわ》す禁裏の中へ、忍び込む、ということは、江戸城へ忍び込むよりも、はばかりがあって、どうも、あまりいい気持ではなかった。
どぶのような男にも、雲の上の貴人に対する畏怖の念はあった。
しかし、親分左門の命令である。
どぶは、島原の廓《くるわ》の大門を出ると、ひとつ、身ぶるいした。
「当ってくだけろだ! やらざアなるめえ」
そう独語すると、すっと、小さな影が、前に立った。
「なにに、当ってくだけられますか、親分?」
独楽丸が、見上げた。
いつの間にか、ここへ来て、待っていたのである。
「天子様の住みたまう御所へ、これから、のんのんずいずい、くり込もうという算段だ」
「それはそれは、大層なお覚悟で――」
「冗談じゃねえ。こっちは、真剣なんだぞ」
「われが、手びきつかまつる」
独楽丸が、こともなげな口調で、云った。
「なんだと?」
「われは、師匠につれられて、一度、御所へ、曲|独楽《ごま》をごらんに入れに、参ったことがございます」
「ほんとか、おい――。そいつは、有難え。そうだ、おめえ、もう一度、女官衆に、曲独楽をごらんに入れる、と申し入れてくんな。おれは、その附《つき》添いになって、行かあ」
どぶは、提案した。
独楽丸は、うなずいた。
このたくらみは、成功した。
それから三日後の午后――。
どぶは、宮廷図書寮内にある古文書調書庫の中に、もぐり込んでいた。
御所というところは、江戸城とか大名屋敷にくらべると、まるで、警衛はおろそかであった。児童でも、かんたんに忍び込めるほどであった。
どぶ自身、忍び込んでみて、あきれたくらいである。
図書寮にしても、史生という地下官人が二人、いるはずであったが、どこにも、影もかたちもなかった。
どぶは、ただ、仏画とか経文とかが置いてある庫《くら》と、古文書調書庫を、まちがえなければよかっただけである。
暑気と古紙の臭気がむうっとこもった書庫で、どぶは、およそ一|刻《とき》近く、公卿《くげ》衆の家系を綴《つづ》った書類をさがしまわった挙句《あげく》、ようやく、それを、発見した。
だらだらと汗を流しながら、どぶは、五条家に関する項をもとめて、頁《ページ》をめくった。
整然と区分されていない書類の山を、ひっくりかえして、調べてゆくのであったから、いい加減うんざりした。
ついに――。
とある一冊の表紙に、「菅家」という文字を見つけた。
菅家とは、高辻、五条、東坊城、唐橋、清岡、桑原の六公家をいうのである。
公家は、慣例によって、二十五に類別されていて、菅家は、そのひとつなのであった。
「よし! こいつだ」
どぶは、五条家の項をめくった。
ところが――。
「なんだ、妙だぜ」
お菅家の五条家は、野見宿禰《のみのすくね》の末流といわれて居《お》り、そのために、今日でも、相撲を支配している家であった。したがって、その家系は、野見宿禰から記述が起されていたが、ちょうど、豊臣時代にさしかかった箇所から、抜けてしまっていた。
つまり、左門が調べて来い、と命じた五条家と角倉了以との関係を記した箇所が、なくなっている。
「おかしいぞ!」
どぶは、窓ぎわへ寄って、それをかざしてみた。
数頁が、巧妙に、切り取られているのであった。
「なるほど――。こちとらよりさきに、誰《だれ》かが、忍び込んで、ちゃんと盗んで行っちまいやがったんだ」
どぶは、思わず、声を出して、つぶやいた。
「ここを切り取った野郎が、五条嗣満殺しの下手人てえわけだ」
なくなった数頁に、なにか、非常に重大な秘密の事実が、記されてあったのだ。
「こん畜生っ! 遅《おそ》かりし由良之助だあ」
そう云った時、
「なんの意味だな、それは――?」
不意に、声が、背後から、かかった。
ぎょっ、となって、どぶが、ふりかえると、そこに、まごうかたない雲の上の貴人と一|瞥《べつ》で判《わか》る人が、たたずんでいた。
縹《はなだ》の直衣《のうし》をまとい、素足に、厚い草履《ぞうり》をはいていた。
細い切長の双|眸《ぼう》と、おっとりと高く筋の通った鼻梁《びりょう》がよくつりあっていて、縹渺《ひょうびょう》とした気品がただようている。
「へ、へい……、これは、どうも――」
どぶは、ぺこぺこと頭を下げた。
「おそかりし……なんと、申したな?」
「へい、由良之助、と申しましたので……」
「由良之助とは――?」
「忠臣蔵の大星由良之助のことでございます」
「忠臣蔵とは?」
「芝居のことでございます」
「芝居というものは、まだ観《み》たことがない。忠臣蔵とは、どのような劇じゃな?」
「それは、つまり……その、元禄の頃《ころ》の、仇討《あだうち》を、つくりかえたものでございまして――」
「ああ、相判ったぞ。赤穂の浅野家の浪士らの復|讐《しゅう》のことであろう。……ははは、大星由良之助とは、大石良雄のことか。……で、その大星由良之助が、どうして、おそかりしじゃな?」
「へい。……大星が、駆けつけました時、御主人の浅野|内匠頭《たくみのかみ》――いや、芝居では、塩谷判官でございますが、もうすでに、ぶっつりと、短剣を腹へ突っ立てて居《お》りまして、由良之助を見て、――おそかりし由良之助、と、まアここが、見世場でございますわけで、へい」
「面白いな」
「それアもう……」
「この身では、芝居を観ることなど、とうてい叶《かな》わぬ。不自由なくらしじゃ……ちょうど、よい機会じゃ。碁の対手《あいて》でもしながら、市井の話など、きかせて欲《ほ》しい」
こっちが何者か、どうしてこんなところに忍び込んでいるのか――そんなことは、すこしも気にかけていない、気軽な態度であった。
貴人は、どぶをともなって、図書寮を出ると、長廊下づたいに、御殿へ入《はい》った。
幾人かの官人が、そのうしろにしたがっているどぶを眺《なが》めて、不審の表情になり、また、なかには、なぜおつれになっているのか、と伺う者もいたが、貴人は、
「よい」
と、一言でしりぞけただけであった。
はじめのうちは、どぶは、ビクビクしていたが、なにせ、御所で一番|貴《とうと》いおかたが味方になってくれているので、しだいに、おちついて来て、
――江戸城からくらべると、粗末な御殿だぜ。
と、見まわす余裕も生じた。
とある広間に、どぶをともなった貴人は、官人の一人に、碁の用意を命じた。
「碁はできるのであろうな?」
「へい、≪ざる≫でございますが……」
「ざるとは?」
「下手《へた》の横好き、というやつで、ろくに定石も知りませんので、へい――」
「そうか。こちらも、ざるじゃ」
貴人は、白石を持ってから、はじめて、
「そなたは、何処《どこ》の者じゃな?」
と、問うた。
「江戸でございます。町奉行所につとめて居ります岡っ引で――へい」
「岡っ引か、面白い称号じゃな。一番下級の役人というわけじゃな?」
「よくおわかりでございます」
「そのような面相をいたして居る」
「おそれ入りましてございます」
「京には、遊びに参ったのか?」
「いえ、御用の筋でございまして……、おきき及びかと存じますが、ここのところ、若いお公卿《くげ》がたが、つぎつぎと、殺されなすって居ります。あっし……いや、わたくしめは、その下手人を、捕えようとして苦労して居るのでございます。そのために、あの図書寮の古文書調書庫にも、入《はい》らせて頂いて居ったのでございます」
「そう申せば、烏丸公久や一条建通などが、不慮の死を遂げて居ったな」
「わたくしは、その下手人を挙《あ》げるご命令を受けて居るのでございます。……それで、ごく最近お亡《な》くなりになった五条嗣満様のご先祖のことを、調べたく存じまして、ご無礼かえりみず、この御所へ――」
「これ、その石は、墓穴を掘るものじゃ」
「へ、へい。……どうも、おそれ入りまするでございます」
どぶは、手の甲で、額の汗をぬぐいながら、
――江戸城で、岡っ引が、将軍家の碁の対手《あいて》をする、ということなんざ、夢にも考えられねえことだが、どうだ、京へ来たおかげで、将軍家よりも偉いおかたと、烏鷺《うろ》の争いがやれるんだぜ。江戸へもどって、人に話したって、誰《だれ》も信じやしめえ。
しだいに、得意になって来た。
「市井の話を、きかせてくれぬか?」
「へい。どんな話が、よろしゅうございますので……?」
「男女の話が、よい」
貴人は、はっきりと、口にした。
(作者|註《ちゅう》。仁孝帝は、ちょうど、この頃《ころ》、橋本経子典侍を愛されていた。やがて、お二人の間に、和宮という皇女がお生れになるのである)
どぶは、いささか、あわてながら、
「こ、この面《つら》……いえ、こんな醜い顔をしているわたくしめなど、男女の道など、一向に心得て居りませぬので――」
「岡っ引ならば、道ならぬ道に迷うた男女のあわれな話を、見聞して居るのではないのか?」
「それは、その……心中|沙汰《ざた》を起した男女のことは、二つや三つ、見とどけて居りますが――どうも、恋ってやつは、思案の外、曲者《くせもの》でございまして……」
「そうであろうな。播磨娘子も詠《よ》んで居る。君なくば何ぞ身|粧《よそ》わん匣《くしげ》なる黄楊《つげ》の小櫛《おぐし》も取らんとも思わず――」
「それが、わたくしども市井ではやる小|唄《うた》で申しますると、たとえこがれて死のうとも、ままよいずれ未来で添うつもり、となりやすのでございます」
一|刻《とき》ほど経《た》ってから、どぶは、御所からとび出していた。
流石《さすが》に、大路へ出ると、ふうっとひとつ深呼吸した。
「夢だぜ、こいつは、全く――」
呟《つぶや》いて、首を振ってから、
「人もあろうに、天子様に、色の道をしゃべっちまったんだ。あきれけえった話よ。……大層およろこび下さったのだから、こいつばかりは、上も下もねえやな。しかし、うっかり、桃|栗《くり》三年後家一年、と口をすべらして、それは、どういう意味か、ときかれた時には、あわてたぜ」
どぶとしては、他人のことばかりでは面白くないので、自分の経験を、ついしゃべりかけて、――しまった、と狼狽《ろうばい》したのだが、――えい、こうなりゃ、ありのままをさらけ出してしまえ、と度胸を据えたことだった。
それが、かえって、貴人にとって、大変面白かった様子である。
さて、どぶが、いよいよ、おいとまを乞うと、貴人は、ふと、思い出したように、
「たしか、五条家には、当主が死にのぞんだ時にのみ、家を継ぐ者に伝える口伝があった模様じゃ。その口伝は、なんでも、関白秀次の遺志である由……」
と、教えたのである。
まさに、これは、どぶにとって、鬼の首であった。
全身に汗をかいて、碁のお対《あい》手をしただけの甲斐《かい》はあった、というものである。
「えっへん、おっほん、だ。ざまアみろだ。どぶとさげすまれるこの一介の十手持ちが、おそれ多くも、かしこくも、一天万乗の大君の碁のお対手をして、よろこばせたてまつったのだからな」
大声で独語して歩いて行くどぶを、通行人が、薄気味わるげに、じろじろと眺《なが》めやった。
どぶは、その足で、綾小路三位の屋敷へまわった。
左門は、そこへ、帰って来ていた。
どぶから、その思いがけない光栄をきくと、左門は、微笑して、
「お前の面構《つらがま》えと態度も、とんだところで役に立つ」
と、云った。
「だんだん、あれア、夢だったのじゃねえか、と疑いたくなって来ます」
「人間と人間が出会って、互いに好感を抱《いだ》いたのだ。身分のへだたりはなくなろう。……聖上は、よいことを、お前にお教え頂いた。これで、どうやら、切り取られた部分の謎《なぞ》が解けかけた」
「へい――」
「これから、五条家へ行け」
「かしこまりました」
「その兄から桜子という娘が、口伝をききとっているはずだ。それを、お前が、きき出すのだ」
「合点《がつてん》で――」
「よいか。必ずきき出すのだ。遠慮は要《い》らぬ。腕ずくでも、吐かせい」
珍らしく、左門は、厳然として命じた。
どぶは、まっしぐらに、五条嗣満邸へ、奔《はし》った。
冠木《かぶき》門を入って、黒石を敷いた植込みの中の通路を、せかせかと歩くうちに、この男独特のカンが働いた。
なんとなく、屋内に異様な空気がみなぎっているような気がした。
どぶは、植込みをくぐって、庭へ抜け出ることにした。
とたん――。
庭の物蔭に、怪しい者がひそんでいるように思えて、どぶは、鋭く視線をまわした。
幾秒か、突っ立って、おのが神経にふれて来る気配を知ろうとしたが、どうやらむだであった。
――気のせいか。
思いかえして、どぶは、母屋《おもや》に近づいた。
勝手知った屋内であった。桜子の居間がどこにあるかも、わかっていた。
どぶは、廊下を進んで行くうちに、
――主人が横死しちまったので、使傭《しよう》人どもは、みんないなくなったかな。
と疑った。
まるで空家のように、しいんとなっているのであった。それが、かえって、うす気味わるかった。
「はて――?」
どぶは、首をひねった。
桜子の居間は、この暑いのに、障子戸がぴったりと、たてきられていた。
忍び足で、その前へ寄ろうとすると、話し声が、もれ出て来た。
検非違使・有馬右京の声にまぎれもなかった。
どぶは、とっさに、次の間へ、忍び込むことにした。
有馬右京は、人が変ったように、双眼に熱っぼい光をたたえて、桜子の方へ、身をのり出していた。
桜子は、俯向《うつむ》いて、石のようにかたい姿勢をとって、右京を寄せつけぬ様子を示している。
「……左様、身共は、ごらんの通り、みにくい痣《あざ》を持った男です。貴女《あなた》に嫌悪《けんお》されても、いたしかたがない。しかし、貴女ご自身も、もはや、ただの姫という次第ではない。身共は、すでに、存じて居《お》るのです。貴女は、家の窮迫をしのぐために、おのがからだを売って居られる」
右京は、ずばりと云ってのけた。
桜子は、しかし、無表情を変えようとせぬ。
「いかに貧乏しているとはいえ、五条三位の姫君が、春をひさぐ、ということは、あまりにも奇怪な所状ゆえ、身共は、ひそかに、調べてみました。去年まで、ご当家に奉公していた用人、女中に、つぎつぎと当ってみて、意外な秘密を知り申した。……貴女は、あろうことか、その美しさゆえに、実の兄である五条嗣満殿に、処女を犯された!」
「…………」
右京にあばかれて、はじめて、桜子の肩がふるえた。
右京は、容赦《ようしゃ》なく、つづけた。
「畜生道に堕《お》ちた貴女《あなた》は、絶望のため、三度ばかり、自害を企てられた。幸か不幸か、その都度、まわりの者に発見されて、はばまれた貴女は、死ぬことをあきらめたかわりに、おのがからだに、悪魔の鞭《むち》を加えることにされた。……女は、地獄の使い、外面は菩薩《ぼさつ》で内面は夜叉《やしゃ》、という。貴女は、それになろうと決意された。これは、ひとつは、兄上に対する復讐《ふくしゅう》でもあった。
……貴女は、夜陰にまぎれて、屋敷を出て行き、何処《どこ》の何者とも知れぬ、いやしい町人どもに、身をまかして、いくばくかの枕《まくら》代を得られた。桜子殿、いかがです? それに、相違ござるまい?」
「…………」
桜子は、黙って、こたえぬ。
と――。
右京は、すばやい身ごなしで膝行《しっこう》すると、桜子が膝で組んだ手を、つかんだ。
「桜子殿! 身共は、貴女がそのようなあさましい所状をされたのも、いささかも、気にはかけません。貴女を一瞥《いちべつ》した時から、恋をいたしたからです。……身共のものに、なって頂きたい! おねがいつかまつる!」
かきくどきつつ、矢庭に、その肩を抱こうとした。
「い、いけませぬ!」
桜子は、はじめて、声をあげて、烈《はげ》しく抵抗した。
右京は、もはや野獣であった。
多くの男にまかせた身を、いまさら、守ることもあるまい、とあびせつつ、畳の上へ押し倒そうとした。桜子は、もがきながら、
「き、きらいです! 貴方様は、大きらいな男子です!」
と、叫びかえした。
「きらわれて居《お》ろうと、なんであろうと……、もはや、こうなっては、わがものにするまでだ!」
右京の面上には、残忍な色がみなぎった。どぶが、次の間から、救い手として、おどり込む瞬間が来たようであった。
事実、どぶは、おどり込むべく、襖《ふすま》へ手をかけた。
その刹那《せつな》であった。
「あっ!」
右京が、悲鳴をあげて、桜子の上から、はね退《の》いた。
どぶは、襖の隙間《すきま》から、目をみはった。右京の右手くびから、血汐《ちしお》がしたたり落ちていた。
右京の視線は、畳の一|箇《か》処へ、据えられていた。
そこには、一個の独楽《こま》が、ブーンと廻《まわ》っていた。
どこからか――おそらく庭から――その独楽が、飛んで来て、右京の右手を傷つけたのだ。
奇怪だったのは、右京が、その独楽を凝視して、みるみる、恐怖そのものの表情になったことであった。
次の瞬間――。
右京は、ものも云わず、その場へ桜子をうちすてておいて、あわただしく、差料をひろいとると、廊下へ、遁《のが》れ出て行った。
――どういうことだ、これアいったい?
たかが独楽《こま》を一個、投げつけられて、有馬右京ほどの人物が、どうしてあのように恐怖して、遁走《とんそう》するのか――どぶにとっては、わけのわからぬことだった。
どぶは、独楽を投げつけた人物を、ちらと脳|裡《り》に想《おも》いうかべたが、その姿を見つけるいとまはなく、襖《ふすま》をひき開《あ》けて、入《はい》って行った。
桜子は、どぶをみとめると、
「ありがとう存じました」
と、両手をついて、頭を下げた。
独楽を投げたのは、どぶだと思ったのであった。
どぶは、ちょっと、とまどったが、
「い、いえ、なアに……」
と、にやっとしてから、
「お嬢様、実は、あっしの方も、貴女《あなた》様におねげえの筋があって、罷《まか》り出ました次第で――へい」
と、きり出した。
――といって、あっしの方は、その白いからだが所望じゃねえんで……、その白いからだは、先般、どこやらの無住寺で、抱かせて頂いてまさ。
と、これは、胸のうちで呟《つぶや》いてから、
「ご当家には、ご当主がご臨終の際、あとにのこるおかたに、のこす口伝が、ございますそうで――?」
「…………」
「なんでも、それは、関白秀次様のご遺志だとか――、ひとつ、その口伝を、おきかせ頂きとう存じます。そうしなければ、お兄上様の仇討《あだうち》ができないのでございます。その口伝を手がかりにして、下手人を捕えたいと存じますのでね。……どうぞおねげえいたします」
桜子は、そう申し出るどぶを、じっと見かえしていたが、
「もしや、貴方は、江戸から、公儀の命令によって、この京へ参られた御仁ではありませぬか?」
と、問うた。
「その通りなんで……、あっしは、江戸の岡っ引でございます」
「それでは、わたくしが、家僕に持たせた訴状が、評定所にとどいたのですね」
「あ! あの京の男は、やっぱり、貴女様の使いでございましたか。それで、匂《にお》い袋の謎《なぞ》が解けやした。……全く、あれは、えもいわれぬいい匂いで――」
どぶは、にやっとした。
桜子は、急に、血の気のない美しい貌《かお》を、こわばらせた。
桜子も、あの無住寺で、この醜い男に抱かれた記憶をよみがえらせたものに相違ない。
「当家の口伝の儀は、まぎれもないことです」
桜子は、云った。
「それを、おきかせねがいとう存じます」
どぶは、殊勝に、両手をつかえた。
「きかせましょう」
やはり、桜子は、他人ではなくなっている男に対する親しみを抱《いだ》いた様子であった。
「たしかに、この五条家には、代々受け継がれている口伝がありまする。そして、その口伝を知ろうとする曲者《くせもの》が、以前より、わが兄を狙《ねら》っていることを、わたくしは知って居《お》りました。……わが兄は、すでに、そちらも承知のごとく、世間の評判のかんばしからぬ行状をかさねて居りました。遊里あたりでは、鼻つまみ五人|公卿《くげ》などと噂《うわさ》をして居った由。その五人のうち、阿野様、烏丸様、甘露寺様が、つぎつぎと横死なされるのをきいた時、わたくしは、あやしい胸さわぎをおぼえました」
すなわち。
三人の公卿が、次つぎと殺されたのは、いわば、これは、木の葉を森の中にかくすように、偽装殺人ではあるまいか。曲者《くせもの》が、狙っているのは、自分の兄――五条嗣満ただ一人だけではないのか。
桜子は、そう考えて、屋敷につかう忠実な下僕に、訴状を持たせて、江戸表へ趨《はし》らせたのであった。
自分の処女を奪った憎い兄であったが、桜子としては、妹としてでなく、恋人として、心から自分を愛してくれている兄が、生命を狙われているのを、見すてておけなかったのである。
いや、桜子自身、意識せずして、いつの間にか、五条嗣満を、兄としてではなく、良人《おっと》という存在に近いものにしていたのかも知れなかった。
もとより、処女を犯されたのち、二度と、兄にからだをまかせず、その代り、見知らぬ町人に売る、というわれとわが身をさいなむ行為もしたが、やはり、桜子は、兄を憎むことはできなかったのである。
五条嗣満は、放蕩無頼《ほうとうぶらい》であったが、妹に対しては、奴隷《どれい》のごとく、へりくだり、顔色をうかがい、どんな奉仕でもしようと努めたのであった。
桜子は、自分の訴状が、評定所で披《ひら》かれて、やがて、救い手が現れることを、一日千秋の思いで、待っていた。
にもかかわらず、四人目の一条建通が殺され、つづいて、とうとう、兄が無慚《むざん》な最期を遂げるのに遭《あ》ったのである。
「で――その口伝の内容と申しますのは?」
どぶは、桜子を凝視した。
「関白秀次が、太閤に罪に問われた時、十万両の大判小判を隠された。その隠し場所が、五条家の口伝の中にあるのです。曲者が、口伝を知ろうと躍起になっているのは、その隠し金|欲《ほ》しさでありまする」
「ふむ! やっぱり!」
どぶは、河内山宗俊から教えられた伝説が、いまも、生きていることを知って、大きくうなずいた。
どぶの脳|裡《り》に、どこかの地中にねむっている十万両の大判小判を詰めた金|櫃《びつ》が、うかんだ。
しかし――。
五条嗣満は、死にのぞんで、ついに、その口伝を、妹に伝えることが、できなかった。
嗣満は、孔雀《くじゃく》のペンをにぎって、料紙になにか書こうとしたが、あれは、口伝を記そうとしたに相違なかったのだ。
その力がなく、嗣満は、息絶えた。
嗣満は、しかし、孔雀のペンをにぎる前に、わらべ唄《うた》を、桜子にきかせた。
それは、京都の町名をすべてよみ込んだわらべ唄であった。
嗣満が、そのわらべ唄をうたったのは、重大な意味があったのだ。
――十万両の埋蔵場所を、わらべ唄が教えているのじゃねえか?
どぶは、腕を組んだ。
――それともうひとつ。殺生関白の愛妾であったお耀の方が、好んで着ていたという洛中洛外図の打掛、というしろものが、重大だぜ。その図絵の中に、埋蔵場所が、示されているのじゃねえか?
推理は、ここまで、進められて、行きどまってしまった。
「ふうむ!」
どぶは、唸《うな》った。
桜子は、美しい眸子《ひとみ》を、この醜い岡っ引に当てて、坐《すわ》りつづけている。
「十万両が、どこにかくされてあるか――こいつは、血眼になるねうちがあるが……、わらべ唄と打掛だけの手がかりじゃ、曲者《くせもの》より先まわりするわけには、いかねえ」
呟《つぶや》いてから、どぶは、ふっと、思いついて、
「そうだ!……お姫様、曲者の野郎、まだ、十万両を手に入れていないことだけは、たしかでございます」
と、云った。
「どうして、判《わか》るのですか?」
「あっしには、いま、思いあたったのでございますが、友禅染めの泉雅の家へ押し入った曲者は、洛中洛外図絵の打掛を、手に入れちゃ居《お》りません」
どぶが、かい間見た限り、仕上った打掛は、特別あつらえの鍵のついた桐箱におさめられて、どこかへ届けられることになっていたのである。
どぶが、三日間留守にして、その家に帰った時、桐箱は、乱暴に蓋《ふた》がこじあけられていた。そして、その中から、なかばひきずり出されていたのは、なんの変てつもない打掛であった。
泉雅たちは、万一の場合を懸念して、わざと、桐箱の中には、別の打掛を入れておいたに相違ない。
母《おも》屋の中は、滅茶滅茶に荒らされていたが、これは、曲者が、必死になってさがしまわった証拠だが、実は、さがしまわった挙句《あげく》、ついに、打掛は、手に入《はい》らなかったのではあるまいか?
泉雅らは、その前に、すでに、打掛をどこかへ、おさめてしまっていた。そう考えることができるのだ。
「お姫様、あっしは、これから、泉雅の家を、もう一度、調べて参ります。……お兄上様の仇《あだ》は必ず討ってごらんに入れます」
有馬右京
どぶは、五条邸をとび出して、せかせかと一町も歩いた時、ふと、行手の曲り角《かど》へ消える人影をみとめた。
――おや?
どぶは、はっとなって、奔《はし》った。
その後姿を、独楽丸の師匠の無二斎と見てとったのである。
曲り角へ奔ってみたが、すでに、その姿は、どこかに消え失《う》せていた。
――まちげえねえ! あれは、無二斎だったぜ。
どぶは、自分に対して自信づけた。
――するてえと、有馬右京が桜子を犯そうとした時、独楽《こま》を投げつけて救ったのは、無二斎だったことになるぜ。
無二斎が、どうして、五条家の邸内へ忍び込んでいたのか。――これは、解《げ》せぬことである。そしてまた、有馬右京が、その独楽を眺《なが》めて、非常な恐怖の色をうかべたことも、謎《なぞ》のひとつである。
「よし! 有馬右京も、どうも、くせえ? 身許《みもと》を洗ってくれるぞ。……その前に、泉雅の家を、調べなおさにゃならねえ。へっ、忙しくなって来やがったぜ」
どぶは、いっさんに、紙屋川へ向って奔《はし》った。
泉雅の家の中は、荒らされたまま、放置してあった。
どぶは、丹《たん》念に、調べまわった。
およそ一|刻《とき》近くも、血眼になったが、これは、と思われるものは、発見できなかった。
ただ、泉雅という男には、ふさわしからぬ品が、茶|箪笥《だんす》の抽斗《ひきだし》から、出て来た。
それは、泉雅|宛《あて》の恋文であった。
「あの男に、色恋|沙汰《ざた》があったとは、奇妙だぜ」
どぶは、ながながしい文章を、ななめに走り読みしてみた。
べつに、ふかい意味のあるものではなく、ただ、一日もはやく会いに来て欲《ほ》しい、ということばが、くだくだしく書いてあった。しかし、差出した女の名は、記してなかった。
どぶが、その手紙をふところにねじ込んで、再び、調べはじめた折であった。
人の訪《おとな》う声がした。
「あるじは、もういねえぜ」
どぶは、首をのぞけてみた。
寺の小坊主が、立っていた。
「なんだい、なにか用かい?」
「はい。……昨日とどくはずの品が、まだとどきませぬゆえ、つかいに参りました」
「その品というのは?」
「供養打掛でござります」
「供養打掛?!」
どぶは、ピンと来るものがあって、小坊主の前に立った。
「おめえ、どこの寺だい?」
「はい。瑞泉寺でございます」
「瑞泉寺だと!」
どぶは、大声をあげた。
泉雅の死体があった寺ではないか!
「そ、その瑞泉寺で、いったい、誰の供養のために、打掛が要《い》るんだ?」
どぶは、うわずった声音で、小坊主に、訊《たず》ねた。
「はい。そのむかし、関白秀次様とともに、罪に問われて、処刑されましたお耀の方様をご供養する打掛でございます」
「そうか! それで、うまく、つながりやがった!」
「なにが、つながるのでございますか?」
「おめえなんぞの知ったことじゃねえ。……もどって、住職につたえろい。泉雅が、墓地で、殺生関白の家族のために建てられた供養塔に抱きついて死んでいたのを知らなかったとは、大間抜けの≪こんこんちき≫だとな」
「お住持様は、ここ数日、高野山へおのぼりなされて、今日《きょう》おもどりになったばかりでございます」
「うるせえ。それなら、納所が教えるはずだぞ」
「墓地で殺されていたおひとが、誰であったか、寺がたでは存じませなんだ」
「打掛は、消え失《う》せた。とんだ供養だぜ」
どぶは、云いすてておいて、泉雅の家をとび出した。
紙屋川沿いの往還をひろいながら、
「だんだん判《わか》って来たぞ――と云いてえところだが、だんだん判るにつれて、だんだん判らなくなって来やがるから、こいつは妙だぜ」
と、呟《つぶや》いていた。
やがて――。
どぶが入《はい》って行ったのは、五条通寺町を西に入った御影堂の裏手であった。
そこに、有馬右京の家があった。
玄関に立って、案内を乞《こ》うたが、返辞はなかった。
ままよ、とばかり、どぶは、上って行った。
「旦那《だんな》が留守なら、奥方にお目通りつかまつる。奥方、奥かい、こっちかい?」
どぶは、鋭く眼光を配りながら、進んだ。
右京の話では、長|患《わずら》いの妻女は、三畳の納戸部屋で寝《ね》ていて、曾《かつ》て一度も、そこから出て来たことはない、という。
その納戸の前に来て、どぶは、耳をすました――。
と――。
奇妙な音が、その中から、ひびいて来た。
ぶうん、ぶうん……と、空気を截《き》る音である。
――なんでえ、こりゃ?
人がいることには、まちがいはないのであった。
「へい、ちょいと、ごめん下さいまし」
どぶは、声をかけておいて、板戸をひき開けた。
とたん――。
どぶは、唖然として、口を半びらきにした。
独楽《こま》、独楽、独楽……。
三畳の部屋いっぱいに、無数の美しく彩色された京独楽が、ちらばっていた。
そのうちの数個が、ぶんぶん、まわっていたのである。
どぶは、驚きの一瞬が去ると、部屋のまん中に坐《すわ》っている女性《にょしょう》を、見なおした。
独楽《こま》作りに、夢中になっていて、こちらが、板戸を開けても、顔もあげようともしないのであった。
――狂っていやがる!
胸を患《わずら》った病人ではなく、狂人であったのだ。
――有馬右京って、途方もねえ大嘘つきじゃねえか。娶《めと》って半年経たぬうちに、寝つかれて、もうそろそろ十年になる。なあんて、まことしやかに、ぬけぬけと、ほざきやがって、へっ、実は、きちがいを背負っていやがったんじゃねえか。
しかし、右京の嘘《うそ》も、情状酌量の余地はありそうだった。
妻が、気が狂っている、というよりも、胸の患いで寝ついている、といった方が、ていさいはいい。
それにしても、こんなにおびただしい独楽をつくっているとは!
「独楽作りの気ちがい、なんてえのは、ちょいと乙《おつ》なものじゃあるな」
どぶは、独楽をつくりながら、つくりあげた独楽をまわしている狂女に、そぞろ、あわれをおぼえて、そっと板戸を閉《し》めた。
とたん――。
「なんや、おいっ?」
鋭い尋問の声が、あびせかけられた。
廊下に、一人の男が、立っていた。
「お!」
どぶは、この男に、見おぼえがあった。河原の斑次――京の岡っ引で、空蝉《うつせみ》という仮名をつかって春をひさいでいた桜子の牛太郎を勤めていた男であつた。
どぶは、すっと、斑次のそばに寄った。
「な、なんや、こ、こいつは?」
斑次は、とっさに、腰から十手をひき抜いた。
どぶは、にやっとして、
「河原の斑次――といったな、おめえは」
と、云いかけた。
「なんやと! わ、わしの名を、どうして知っているんだ?」
「思い出してもらおうじゃねえか。この面《つら》は、そんじょそこいらに、ザラにころがっている平々凡々たるしろものじゃねえぜ」
「……?」
「そんなに物おぼえがわるくて、よくお上の御用がつとまるな」
「あ――お、お前は……」
「やっと、思い出したか。……実は、おれも、おめえと同業さ」
どぶは、はだけた胸へ、さらしの腹巻にかくした十手をちらりと押しあげてみせた。
「江戸のか?」
「そうよ」
江戸の岡っ引と判《わか》ると、斑次は、急に、卑屈な追従《ついしょう》笑いをうかべた。
「へへ……、これは、どうも、お見それして、すみまへんでした」
やはり、劣等感があるようであった。
「おめえに、ちょいと、ききてえことがある。おもてへ出てくれ」
どぶは、促した。
すぐ近くの居酒屋に入って、衝立蔭《ついたてかげ》の畳敷きで、さしむかうと、どぶは、
「あの夜、おめえは、法外な枕《まくら》代を、ふんだくりやがったぜ」
と、云った。
「あ――それは、もう、云わんといておくれやす。えろうすみませんでした。その代り、今日《きょう》は、わしに、おごらせてもらいますわ」
斑次は、殊勝に膝《ひざ》小僧をそろえて、頭を下げた。
「おごってもらう代りに、おれの尋ねることに、正直にこたえてもらいてえ」
「どんなことで――?」
「あの家のあるじの有馬右京という検非違使の素姓よ。おめえ、のこのこ上り込んでいたところをみると、乾《こ》分だろう」
「とんでもない。ただの知りあいなんで……、つまり、右京さんが、町奉行所の用部屋手|附《つき》のどんじり同心をつとめていた頃のな」
「ふうん、あの有馬右京は、奉行所の下っ端《ぱ》役人だったか」
「そうどすがな。なにせ、あの青|痣《あざ》やし、うだつのあがらぬ、用部屋ぐらしで、一生すごす人やろ、と思うていたところが、三年前に、棚《たな》からぼた餅《もち》が、落ちて来よってな」
「どんなぼた餅だ」
「大阪一番の大商人の浪花屋四郎兵衛さんと知りあったのが、運のつきはじめでな」
浪花屋四郎兵衛という商人には、どぶは、一度会っている。阿野実明という公卿《くげ》が、浪花屋が主催した茶会の帰途、変死した一件について、どぶは、堀川今出川にあるその家をたずねている。
ひどく貧相な、痩《や》せこけた初老の男であったが、話しているうちに、どぶは、
――こいつは、相当な曲者《くせもの》だな。
と、にらんだ記憶をのこしている。
「浪花屋四郎兵衛が、有馬右京の金づるにでもなった、というのか?」
「浪花屋さんは、賄賂《わいろ》の使いかたの、そらもう、巧者でな。町奉行所にも、春夏秋冬、なにかの名目をつけて、つけとどけをして来よるのやが、ま、右京さんは、その手先に使われたのやな」
「ふん、それで――?」
「その挙句《あげく》、検非違使の有馬家へ、浪花屋さんの≪きも≫いりで、婿《むこ》養子に入った、というわけや」
「じゃ、あの気ちがいは、有馬家の娘なのか」
「へえ、そうなんで――」
検非違使などというのは、貧乏公家を代表するような役職だが、どうしたわけか、有馬家には、大層金があった。
右京は、その金につられて、狂女の婿になったのである
「ところがな――」
斑次は、ひょいと、首をつき出して、さも、重大な秘密を打明けるように、声をひそめると、
「右京さんが有馬家へ婿養子になったために、可哀《かわい》そうな母子がでけたのやな」
「……?」
「右京さんには、女がいたのや。その女に、子まで産ませていた。おれだけが知っていたことや」
斑次は、つづけた。
「右京さんは、親からの阿波浪人でな。二十四、五歳頃、同心の株を買うて、奉行所の用部屋に坐《すわ》ったのや。もちろん、頭がようきれることもあったのやろうが、株を買う金は、その女がつくったのやで。しかも、河原遊女になって、夜な夜な、客を取ってな、可哀《かわい》そうな話よ」
どぶは、黙って、きいている。
「お衣《きぬ》、というその女は、わしも、一度、買うたことがあるが、そらもう、心の優しい女で、操は売っても、心は右京さんに捧げて、泪《なみだ》ぐましいほど、ようつとめていたなあ。遊女になる前に、右京さんの子を産んで、育てて居《お》ったのやが……昼は、内職の京扇づくり、夜は春をひさいで、とうとう、右京さんに、同心の株を買うてやった」
「京扇づくりの内職をしていたと?」
どぶは、ききかえした。
「そうや。京扇というものは、素人《しろうと》が、昨日今日習うて、すぐつくれるというわけには、いかんのや。お衣《きぬ》さんは、京扇をつくらせたら、この京でその内職をしている者は、何人いるか知らんが、右に出る者はなかった。それだけに、倍の手間賃を取っていたな。もう、それだけで、充分くらしは立ったのやが、右京さんに同心の株を買うてやるために、夜は河原遊女になって、かせいだ。そればかりか、いよいよ、右京さんが奉行所勤めをすると、お衣さんは、自分がその女であることも、伜《せがれ》がその子であることも、近所にひたかくしにして、日かげの身にあまんじていたのやから、こらもう、貞女の鑑《かがみ》というわけやった」
「ちょっと、待った!」
どぶのまなこが走った。
「そのお衣という母親は、斬《き》り殺されたのじゃなかったか?」
「よく、ご存じで――」
「知ってらあ」
どぶは、胸のうちで、
――その伜の口から、きいたんだ。
と、呟《つぶや》いた。
独楽丸の母親を斬ったのは、有馬右京であったのだ。
有馬右京こそ、独楽丸の実父であり、独楽丸は、そのことを知らぬ。
おのが父親が、母親を斬り殺した下手人と知ったならば、独楽丸は、どんなに衝撃を受けることだろう。
――そうか。読めたぜ。
どぶの脳裡《のうり》は、鋭い推理力を働かせた。
――お衣といったその可哀そうな女の父親は、実は、菊水無二斎なんだ。あの爺《じい》さんは、独楽丸の祖父にあたるのだ。そうに、ちげえねえ!
実の祖父にあたるからこそ、小倉山の山中で、捨児にされていたのをひろった、などと、ごまかしたのだ。
――無二斎は、自分の娘を斬った下手人が何者か――有馬右京であることを、ちゃんと知っているのだ。知っているからこそ、独楽丸に、その真相を教えず、ただひたすら、日本一の独楽名人にしようとしているのだ。
――菊水無二斎は、娘の仇討《あだうち》を、逆縁ながら、自分で為《な》そうとして、有馬右京を、ずっと尾《つ》け狙《ねら》っていたに相違ねえ。
――だからこそ、あの五条家にも、忍び込んでいたのだ。右京が、桜子を犯そうとしているのを目撃して、とっさに、独楽《こま》を投げつけておいて、逃げ去った、という次第だ。
どぶは、確信を持った。
独楽丸の話では、母親を斬《き》り殺した曲者《くせもの》は、懐中に、独楽を所持していた、という。独楽丸は、無我夢中で、むしゃぶりついた時、その独楽を、つかみとっていた、という。
右京の狂った妻が、独楽つくりをやっていたことを目撃してみれば、曲者――右京の懐中に、独楽があっても、なんのふしぎもない。
狂った妻は、良人《おっと》が、自分のつくった独楽を、常時、肌《はだ》身につけてくれていることを、のぞんでいたに相違ない。
右京が、別れ話に、お衣を訪れた時、その独楽を所持していたのが、失敗だったのだ。
お衣が、別れ話を承知するはずもなく、烈《はげ》しい争いになった挙句《あげく》、右京は、子供が帰って来ていることに気がつかずに、お衣を斬った。その挙句、子供に、独楽を奪われたのだ。
わが子が、その独楽を胸にひそめて、これを敵を知る唯一の手がかりとして、復讐《ふくしゅう》の一念に燃えていることを、有馬右京は、夢にも知っては居るまい。
「そうだ! それに、金輪際、まちげえはねえのだ」
どぶが、力をこめて云うのを、河原の斑次は、けげんな視線で、見まもって、
「なにが、金輪際まちげえねえのかな、親分?」
「おい、斑次!」
どぶは、不意に、態度をひらきなおらせた。
「おめえは、独楽丸という水干姿の少年を、隠し売女《ばいた》の手さきに使ってやがるが、あの独楽丸が、誰の子か、ちゃんと知っての上だろう! どうだ?」
「へ、へえ――」
斑次は、どぶの鋭いカンの前に、ペコリと頭を下げざるを得なかった。
「知っていて、おめえは、しらばくれていやがった。ふてえ野郎だ!」
「そやけど、親分……、いくら、なんでも、あの秘密だけは、むごうて、よう教えられまへんがな」
「べらぼうめ! お衣母子が可哀《かわい》そうだと、しんから思っているのなら、おめえが、隠し売女の手先きになんぞ、独楽丸を使うもんけえ。おめえはおめえで、なにやら、こそこそ、甘い汁を吸ってやがるらしいな」
「じょ、冗談を云うてもろうては、こまる」
「なにが、冗談だ。おめえは、もしかすると、浪花屋と有馬右京のあいだの、なにか内緒事の、使い走りをしてやがるに相違ねえ……。どうだ泥を吐け! 江戸の岡っ引は、伊達《だて》に、この十手を持っちゃいねえぜ」
どぶは、十手の仕込み刀を、一寸ばかり抜いてみせた。
どぶが、さらに斑次からきき出した事実は、京の隠し売女《ばいた》をあやつっている黒幕は、浪花屋四郎兵衛ということであった。
隠し売女といっても、どぶ自身がその目で見とどけたように、堂上|公卿《くげ》の姫君までが加わっているのであった。いやしい、みにくい女ばかりではなかったのである。
京の隠し売女の総数は、およそ二千人にもなる、という。
「ふうん。するてえと、浪花屋のもうけは、途方もねえものになるというわけだな」
「その通りで――」
「おめえが、かすっている金も、相当だと想像できらあ」
「とんでもない。わしはただ、ほんのわずか、目こぼし料をもろうているだけで……」
「目こぼし料だと。おれから、枕《まくら》代二両をふんだくったのは、どこのどいつだ?」
「もう、それだけは、かんにんして下され。……罪ほろぼしに、親分の手だすけをしよう、という気になって居るのやさかい――」
「よし。それじゃ、もう一度、有馬家へ、ひきかえすことにしようぜ」
「どないしやはるので……?」
「有馬右京が、ただの鼠《ねずみ》じゃねえ、と判ったからには、家さがしをさせてもらうんだ。あっと、びっくり仰天するような、なにかが、ころがり出て来るかも知れねえやな」
どぶは、斑次を追いたてるようにして、有馬家へひきかえした。
その途中で、どぶは、ふっと、脳裡にひらめく直感があった。
「おい、斑次――」
「へえ」
「有馬右京は、ここ数日、家へもどって来ねえことを、おめえは、知っていたな?」
「いえ、べつに……。なんで、そんなことを、きくんで?」
「しらばくれるな。おめえも、有馬右京が、何やら大切なしろものを、かくし持っているのをかぎつけて、それを、こっそり、盗もうとして、忍び込んだのじゃねえのか?」
「そんなことは、ありまへん。わしは、ちょっと、検非違使さんに、浪花屋からたのまれごとがあって……」
斑次が、しどろもどろな弁解をしているうちに、その家の前に来た。
「さきに入れ」
「へえ――」
廊下に上ると、どぶは、語気を鋭いものにして、
「いいか、斑次。ことここにいたって、しらばくれるのは、おそいぜ。おめえの鼻で、かぐんだ。ごまかしたり、遁《に》げをはろうったって、そうは、問屋がおろさねえぞ」
と、きめつけた。
斑次は、どうやら観念したらしい。
かねて目をつけていたらしく、いちばん奥の部屋へ向って、進んだ。
どぶは、にやりとして、あとをついて行った。
ところが――。
思いがけない邪魔者が、その部屋には、ひそんでいたのである。
斑次が、墨絵の板戸を、すっとひきあけた――刹那《せつな》。
「わあっ!」
肩から、血|飛沫《しぶき》を噴《ふ》かせて、斑次は、のけぞった。
どぶは反射的に、一間を跳《と》び退《さが》りつつ、その袈裟《けさ》がけの迅業《はやわざ》を、
――田宮流だ!
と、看《み》てとった。
すっと部屋から現われた、血刀を携《さ》げた男を、一|瞥《べつ》して、どぶは、
――こいつだ!
と、直感した。
痩《や》せた長身の、黒羽二重着流しの浪人者であった。
「てめえを、知っているぜ!」
どぶは、対手《あいて》の迅業《はやわざ》にそなえた身構えになりつつ、云った。
「江戸で、五条家の姫君の使いを斬《き》りやがった。また、おれを尾《つ》け狙《ねら》いやがった。……そうだろう、どうだ?」
「ふむ。町小路左門の手下だけのことはあるな」
浪人者は、うすら笑った。
「ぬかせ、てめえは、いってえ何者だ? 有馬右京の仲間か?」
「ちがう」
「じゃ、どこで飼われた犬だ?」
「冥途《めいど》への土産《みやげ》にきかせておいてやってもよいな。それがしは、浪花屋四郎兵衛の用心棒をつとめる。この久世玄蕃の田宮流を、いまだ曾《かつ》て、かわして、一命をとりとめた者は、居《お》らぬ」
「へヘ……、ここに例外がいるぜ。てめえが、おれを仕止めそこねると、逆に、てめえが、ここで、生命《いのち》を落すことになるのじゃねえかな」
「えいっ!」
凄《すさま》じい懸声とともに、一|閃《せん》の白い刃光が、どぶの脳天をおそった。
これを紙一重の差で、右肩すれすれにかわして、跳び退《さが》ったどぶは、その右肩が、じいんとしびれるのをおぼえた。
まさしく、おそるべき使い手であった。
どぶは、ほとんど無意識に、左手に、十手刀を抜き持っていたが、
――もしかすると、殺《や》られるかも知れねえ!
不吉な予感が、脳裡をかすめた。
久世玄蕃は、右手にダラリと白刃を携げたなりで、じりっじりっと、つめ寄って来る。
どぶは、十手刀を胸前で、防ぎの構えにして、退りつづける。
きえーっ!
三|度《た》び、斬りつけられて、どぶは、バッタのごとく跳んで、横あいの板戸へ五体をぶちつけた。
板戸は、倒れた。
そこは、狂女の居間であった。
狂女は、べつに悲鳴もあげずに、きょとんと、見上げた。
久世玄蕃は、薄気味わるい笑みを、口辺に刷《は》いた。どぶが、無数の独楽《こま》のちらばるその居間へ、退るよりほかはなくなったからである。
久世玄蕃が、すっと白刃を挙《あ》げて、切っ先を、どぶに狙《ねら》いつけた。
どぶは、死地と知りつつ、狂女の居間に、退《さが》らざるを得なかった。
ちらばった独楽《こま》を踏みつけて、よろけたならば、それが、最後であった。
久世玄蕃の動きが、目に見えて早くなった。殺気も増した。
――来るぞ!
どぶは、小さな双眼を、ひき剥《む》いた。
突きが来た。
どぶは、けもののような早さで、壁ぎわを、すべって、遁《のが》れた。
もはや、玄蕃は、一撃と一撃の間に、時間を置かなかった。
凄《すさま》じい気合をこめた突きが、つづけざまに、どぶの顔を、咽喉《のど》もとを、胸を、襲った。
どぶは、もう無我夢中であった。
一瞬――。
どぶの片足が、独楽を踏みつけて、よろっと上半身がゆれた。
玄蕃が、もとよりこの隙《すき》を、看《み》のがすはずがなかった。
「えいっ!」横|薙《な》ぎの一|太刀《たち》を、放とうとした。
どぶにとって、幸運であったのは、この刹那《せつな》、なにを思ったのか、狂女が、絶叫とともに、玄蕃にとびかかったことであった。
「うぬっ! くそっ!」
玄蕃は、しがみついた狂女を、その頭髪をつかんで、ひきはなしざま、むざんにも、斬り下げた。
狂女が、崩《くず》れ込んだ――その時。
どぶは、玄蕃へ、体当りをくれていた。
十手刀は、ふかぶかと、玄蕃の脇《わき》腹を貫いていた。
死闘は、終った。
どぶは、仆《たお》れた玄蕃から、十手刀をひき抜くと、ふうっと、肩で吐息した。
狂女の犠牲で、あやうく、三途《さんず》の川を渡ることから、まぬがれたのである。
有馬家をよろめき出たどぶは、総身ぐっしょりと汗に濡《ぬ》れていることに、やっと気がついた。
「たすかったぜ、まったく――」
どぶは、あらためて、生きている有難さをおぼえた。
「それにしても……、とんだ秘密が、次から次に、ばれて来やがる」
まことに、あきれるばかりである。
浪花屋四郎兵衛の用心棒が、いつの間にか、有馬家に入り込んでいたことは、なにか重大なことを意味しているようだ。
――浪花屋のきもいりで、検非違使にしてもらった右京は、浪花屋の途方もねえ企《たくら》みを、知っているに相違ねえ。
――そうだ。浪花屋という商人《あきんど》めが、元凶だぞ。野郎が、関白秀次のかくし金十万両を狙っていやがるのだ。そう考えると、つじつまが合っているぜ。
――そこで、有馬右京が、どんな役割をはたしていやがるのか、これが、問題だ。……ようし! ここまで来りゃ、こっちの手の内だ。へへ、見ていやがれ! 首尾は上々ということにしてくれるわい。
打掛
それから二日後――。
どぶが、のそのそと入って行ったのは、島原の廓《くるわ》であった。
どぶは、二日間、泉雅の家から発見した恋文を持って、泉雅と親しかった男たちをたずねてまわった挙句《あげく》、染色の弟子の一人から、
「この恋文は、たぶん、島原の御室大夫から、送られて来たものに相違ございませぬ」
という返辞を得たのであった。
友禅染め一途《いちず》に、いのちをかけて、女などには目もくれなかった男、と勝手にこっちが思い込んでいたのは、とんでもないあやまりであった。
泉雅は、島原の廓で一、二をあらそう遊女と、深い仲だったのだ。
どぶは、島原へ出かけて行く前に、綾小路三位の屋敷へまわって、町小路左門に会い、その後の調査を報告した。
例によって、左門は、どぶに一方的にしゃべらせただけで、黙然としていた。
「で――、あっしゃ、浪花屋と有馬右京のあいだには、屹度《きっと》なにか、あっとおどろくような秘密の企みが、なされているに相違ねえ、とにらみやした。あっしが、有馬右京を、味方と思い込んだのが、そもそも、カンの狂ったつまずきでございました。どうも、こうなると、禁裏の尊いお方まで、疑いたくなります。……それはともかく、あっしは、これから、からめ手から、調べてあげてやろうと存じます。まず、打掛のことから、あたることにいたしやす」
どぶが、これから島原へ行って、泉雅と深い仲だった御室大夫という花魁《おいらん》に会う、と告げると、左門は、はじめて口をひらいた。
「御室大夫という女には、お前はすでに会って居る」
「へっ、じゃ、あの東山楼で、殿様の前で、琴をひいていたのが、御室大夫なんで!」
「そうだ。……わたしの座敷へ、あの花魁が、はじめて現れた時、どうやら、お前がさがしていた打掛を、はおっていたようだ。≪かむろ≫たちが、その打掛を、大層美しいとほめていた。ざんねんながら、このわたしに見ることはできなかったが、≪かむろ≫たちが、その打掛をほめた挙句《あげく》、京の町づくしのわらべ唄《うた》をうたったところをみると、その絵柄は、洛中洛外図であったろう、と察しられる」
「そ、それでさ!……へい、すぐ行って、たしかめて参ります」
「わたしも、あとから参る」
「殿様から、きき出して頂けますか。有難え」
どぶは、綾小路三位邸から、まっすぐに、島原の廓へやって来た。
御室大夫を、座敷へ呼ぶには、十日もさきから約束しておかねばならぬことであったが、どぶが、町小路左門の名を告げると、大夫は、すぐに、やって来た。
――左門の殿様に、惹《ひ》かれねえ女は、この世に一人もいねえやな。
どぶは、いい気分であった。
――なんともはや、身ぶるいするほど、きれいな肌をしてやがるぜ。
どぶが、うっとりと、御室大夫に見|惚《ほ》れているところへ、左門が、登楼してきた。
左門が、座に就《つ》くと、こんどは、御室大夫の方が、その姿に、見惚れた。
――はてな?
どぶは、首をかしげた。
――恋しい男が殺されたにもかかわらず、さっぱり悲しそうな様子もしねえで、左門の殿様にうつつを抜かしそうな気色をみせるとは、どういうんだい? いくら、女郎だからといって、こいつは、ちと薄情すぎらあ。
恋文には、ぜひぜひお目もじしたい、とくりかえして書いていたが、あれは、遊女の手くだであったのか?
左門が、問うた。
「そなたは、先日、わたしの座敷にやって来たが、新しい打掛をはおっていたな?」
「はい」
「あれは、北野泉雅がつくったものではなかったか?」
「…………」
「正直にこたえてもらおう。そなたの返答次第で、泉雅の霊が迷うかうかばれるか、きまる」
「はい」
「わたしは、江戸の町奉行所の与力だ。泉雅らの仇《かたき》を討ってやることになる」
「はい」
「泉雅とそなたは、いずれ、さきで夫婦《めおと》になる約束をした仲ではなかったか?」
「いえ、そんな仲では……、ただ、うちは、泉雅さんのつくられたあの打掛を、一度だけ、きてみとうて、願いを叶《かな》えてもろうたのでありまする」
「どういうことだな?」
「お話申し上げまする」
御室大夫は、語る前に、≪かむろ≫に命じて、例の洛中洛外図絵の打掛を持参させて、衣桁《えこう》へかけてみせた。
打掛は、御室大夫が持っていたのだ。
「この打掛については、むかしむかしのことから、お話し申し上げなければなりませぬ」
御室大夫は、語りはじめた。
聚楽第はなやかなりし豊臣家全盛の頃であった。
関白秀次の愛|妾《しょう》お耀の方は、大層打掛に趣味を持ち、月に一度ずつ、新調していた。
この製作を一手にひき受けていたのが、初代北野泉雅であった。
やがて、お耀の方が、むつかしい注文を出した。
その栄耀《えよう》栄華を象徴する京の町のさかんぶりを、そのまま絵柄にした打掛を、と初代泉雅に命じたのである。
初代泉雅は、一生一代の品を、精魂こめて、それをつくりあげて、お耀の方に納めた。
お耀の方は、秀次が高野に送られ、自分たち一族が、三条河原で処刑される時、その打掛をはおって、京の町を引きまわされた。
そのあでやかな洛中洛外図絵を浮き出した打掛は、のちの世までの語り草となった。
初代泉雅は、あわれにもあでやかなお耀の方の最後の姿を、群衆の中にまじって、眺《なが》めた感動から、次のような家法をのこした。
すなわち。これより代々、わが家が、友禅染めをつづける限り、代がわりには、必ず、お耀の方に納めた打掛と同じ絵柄、同じ染色、同じ縫いの打掛をつくって、瑞泉寺へ奉納すること。
そして、この申しつたえは、現在まで、受け継がれて実行され、決して、怠ることはなかったのである。
三年前に、先代泉雅が逝《い》ってから、当代泉雅になると、まず、その打掛が新しくつくられることになったのである。
このことは、徳川家に遠慮して、かたく秘密にされた仕事であったが、御室大夫に心をうばわれていた泉雅は、たまたま寝物語に、つい、口をすべらせたのであった。
御室大夫は、父にまさる名人と称せられる当代泉雅が、精魂こめてつくりあげるその打掛に、夢の中にまであらわれるほど、あこがれた。
そこで、泉雅に、もし仕上ったならば、瑞泉寺に奉納する前に、自分に一夜だけ、はおらせてもらえまいか、とたのんだのである。
因縁ある打掛を、身にまとう女の冥利《みょうり》を訴える、御室大夫に対して、泉雅は、首を横に振れなかった。
いよいよ、打掛が仕上ると、泉雅は、友泉、泉華に内緒で、桐箱に納めたそれを、べつのありふれた品とすりかえて、本物を御室大夫の許《もと》へ、とどけたのであった。
そして、泉雅は、その打掛をはおった御室大夫と、一夜をすごす手|筈《はず》であった。
泉雅は、不幸にして、その日のうちに、何者かに襲われて、一命を落し、打掛は御室大夫の手許にのこってしまったのである。
御室大夫としては、せっかくの絶品を、そのまま、かくしておくのは、あまりにも、もったいなく思い、盲目の客――すなわち町小路左門に呼ばれたのをさいわいに、はおって座敷に出た、というわけであった。
「よく、判《わか》った。……さがってくれてよい」
左門は、ききおわると、御室大夫に云った。
すげなくしりぞけられるつらさを、御室大夫は、顔色に示したが、そこは花魁《おいらん》のかなしさで、衣桁《いこう》にその打掛をのこしておいて、去った。
「これで、打掛の謎《なぞ》は、解《と》けた」
左門は、どぶに云った。
「へえ、しかし、わからねえことがございます」
「打掛を手に入れようとして、泉雅ら三人の職人を殺した曲者《くせもの》が、なぜ、わざわざ、関白秀次の悲運にゆかりのある三条河原や聚楽第《じゅらくだい》跡や瑞泉寺に、その死体をさらしたか、ということか?」
「その通りなんで……。十万両の埋蔵金の在処が、その打掛の絵図の中に示されている、とすりゃ、泉雅らを殺したことは、世間に知れないようにするのが、あたりまえじゃありませんか。それをわざわざ、死体をさらして、疑惑を抱《いだ》かせるようなしわざを見せつけたのは、どういうわけでござんしょうかね」
すると――。
左門の返辞は、明快であった。
「泉雅ら三人を殺した下手人と、それらの死体を、関白秀次悲運のゆかりの場所へさらした者とは、別人と考えれば、この謎は解けよう」
「へっ、こいつは――なあるほど!」
どぶは、右|拳《こぶし》で左の掌《てのひら》を打った。
左門は、つづけて云った。
「どぶ――。お前が、打掛の話を語ったのは、有馬右京だけであったな?」
「へい」
「その直後、泉雅たちは、殺された」
「するてえと、あいつらを殺した下手人は、有馬右京てえことになりやす!」
「右京は、お前とともに、五条嗣満の臨終を見とどけている。五条嗣満が、妹に向って、京の町づくしのわらべ唄《うた》を、うたってきかせたのを、きいて居る。お前は、そのあとで、右京に、京で生れたのなら、わらべ唄がどんな文句か知っているはずだ、と訊《たず》ねた。しかし、右京は、そらとぼけた。そうであったな?」
「たしかに――」
「右京は、わらべ唄の文句を、知っていた。知っていて、知らぬ、としらばくれながら、内心では、五条嗣満が、なぜ、死のまぎわに、そのわらべ唄を口ずさんだか、ふかい疑惑を抱《いだ》いた。……さて、お前が、洛中洛外図を描いた打掛の話をきかせるや、右京は、――さては、そうであったか、と鋭く連想を走らせた。……五条家口伝とは、わらべ唄であったのだ、とな」
「ふうむ!」
どぶは、いつもながらの左門の明察に、唸《うな》った。
「そいじゃ、護衛をたのまれたあっしが、逆に、泉雅たちを殺したことになりやす。ええい、こん畜生! 口はわざわいのもととは、このことだ」
「まさしくな」
「それで、ともかく、泉雅たちを殺した下手人は、有馬右京に相違ねえ、と判《わか》りやしたが、その三つの死体をはこんで、世間の目にさらしたのは、どこの何者でござんしよう?」
「有馬右京に、怨《うら》みを抱く者、ということになる」
「へえ――、有馬右京に怨《うら》みを抱く者、というと――?」
どぶは、ちょっと考えていたが、「あっ」と叫んだ。
「菊水無二斎! そうでさ、あの爺さんだ。自分の娘を殺した有馬右京を怨《うら》んで、いつか、仇討《あだうち》をしてくれようと、ねらっていたんだ。……まちげえありやせんや!」
「菊水無二斎なる独楽《こま》使いは、有馬右京のあとをつけ狙っているうちに、右京が、関白秀次が埋蔵した十万両を、必死にさがしていることを、知ったに相違あるまい。そこで、右京に、お前の企みを知っている者がいるのだぞ、とおどす目的で、三個の死体を、秀次悲運のゆかりの場所へ、さらしたということだ」
「へっへっ! もつれた糸が、ずるずると、とけて来やしたぜ」
どぶは、舌なめずりしてから、
「殿様――。あっしは、十万両の埋蔵金のことを、有馬右京に教えたのは、浪花屋四郎兵衛だ、と眼《がん》をつけやすが、いかがなもので――?」
と、首を突き出した。
「お前の推理通りであろう。この京都町奉行所の与力たちに調べさせたところ、浪花屋四郎兵衛は、京に家を構えて、もっぱら、公卿《くげ》がたから、骨董《こっとう》を買いあさっていた、という。浪花屋は、おそらく、関白秀次に関する古文書を入手し、その中から、十万両の軍用金のことを知ったに相違あるまい。そして、その在処《ありか》は、五条家口伝にあるということも、知った。これは、思うに、有馬右京を検非違使にして、禁|裏《り》に入《はい》り込ませ、調べさせた挙句《あげく》、そうと知ったことであろう。……ところが、五条家口伝は、当主が死にのぞんでのみ、遺言する家法であった。そこで、浪花屋は、五条嗣満を暗殺するほぞをかためた。しかし、いきなり五条嗣満を殺したのでは、目的が露見するおそれがある。……これは、妹の桜子がかしこくも推理した通りだ。浪花屋は、お前に斬《き》りかかって、逆に仕止められた用心棒の久世某らの手下をつかって、つぎつぎと、極道公卿たちを殺した。偽装殺人であったのだな」
「あっしゃ、有馬右京に、まんまと一杯くわされたわけでさあ。出仕する五条嗣満のあとから、右京の野郎めと、護衛役をつとめていたんだ。右京め、さぞかし、あっしが、間抜けに見えたことでござんしょうよ。五条嗣満をかっさらう手筈《てはず》をきめている、その御本人めと、あっしゃ肩をならべていたのでござんすからね。……浪花屋の奴《やつ》、五条嗣満をかっさらって、さんざ責めてみたが、その口伝については、ついに、口を割ろうとしねえ。そこで、しかたなく、瀕死《ひんし》の重傷を負わせておいて、屋敷へ、送りかえした。浪花屋の命令を受けた有馬右京は、何食わぬ面《つら》で、姿をあらわしやがって、五条嗣満が、どんな口伝を妹にきかせるか、耳をそばだてやがったんだ。……まったく、あん畜生、このどぶ親分を、いいように≪こけ≫にしやがったものだ」
「有馬右京は、たぶん、十万両をさがしあてたならば、六分四分で浪花屋とわける存念であろう。ところが、右京の夢をはばもうとする者が、一人いた。菊水無二斎――この独楽《こま》使いだ。右京は、無二斎に、つけねらわれているとは、気づいていなかった。まして、血をわけたわが子独楽丸が、仇討《あだうち》をすべく決意していることなど、夢にも知らぬ。……お前は、右京が桜子を犯そうとしている光景を目撃した、と申していたが、飛んで来た独楽に、右京が、愕然《がくぜん》となって、顔色を変えた由だが、その時はじめて、おそるべき敵が、自分にいることをさとったに相違ない。すなわち、泉雅ら職人たちの死体を、何者がどうして、三|箇《か》処にさらしたか、絶えず不安をおぼえていたであろうが、その者が、独楽を投げつけて来たのだ、とさとった。独楽を投げつけて来たということは、その素姓をあきらかにして来たことだ。おのれが殺した女の父親が、自分の敵にまわっている、と知って、右京は戦慄《せんりつ》した」
左門は、乱麻《らんま》を断つような頭脳の切れ味をみせてから、さらに、
「では、いよいよ、十万両の埋蔵場所を、さがしあてることになる」
と、云った。
「へ、へえ――」
どぶは、息をのんだ。
「その衣桁《いこう》の打掛に描かれた図絵を、つぎつぎと挙《あ》げてみよ」
「かしこまりやした」
どぶは、打掛いちめんに、丹《たん》念に描かれ、刺繍《ししゅう》された洛《らく》中洛外の風俗を、ひとつひとつ、左門に告げはじめた。
四条河原の見世物図……武家の点茶風景……寺町筋を歩くオランダ人……犬追物……内裏《だいり》に於《お》ける正月|節会《せちえ》……歌舞伎……町風呂……献上|孔雀《くじゃく》…
「待て!」
左門が、鋭くとどめた。
「孔雀と、申したな」
「へい。これアもう、一段と見事な刺繍で、孔雀が、御所の門前で、いっぱいに羽根をひろげて居りやす」
「それだ!」
「へ、へえ?」
どぶは、左門に、云われても、とっさに、頭脳が廻転しなかった。
「五条嗣満は、わらべ唄《うた》をうたったあと、文机の上に置かれた孔雀の筆を、妹に取ってくれるように命じた、と申して居ったな?」
「その通りで――」
「妹は、料紙を近づけて、何か書かせようとした。しかし、嗣満は、何も書かずに、息絶えた。……妹としては、兄が、孔雀の筆を取れ、と命じたからには、何か書くのであろう、と考えた。ちがっていた。嗣満は、書こうとしたのではなかった。孔雀の羽根――そのものを、妹に教えたかったのだ」
「なるほど――。まず、京の町づくしのわらべ唄をうたってみて、次に孔雀の羽根、と教えた。それが五条家の口伝だったのでござんすね」
「どぶ。打掛に描かれた孔雀は、さまで大きくないであろう」
「へい、まア、あっしのてのひらぐらいの大きさで――」
どぶは、いざって、打掛に寄ると、その孔雀に、てのひらをあててみた。恰度《ちょうど》同じくらいであった。
左門は、じっと思慮しはじめた。
その沈黙があまりに長びくので、どぶは、所在なさに、打掛にさわったり、裳裾《もすそ》をめくってみたりした。そのうちに、
「おや?」
どぶは、声をあげて、衣桁から、打掛を、ぱっとひきおろして、畳へひろげた。
「殿様! ありやした!」
どぶは、歓声をあげた。
打掛の裏の白絹には、一羽の孔雀が、華麗な羽根を、いっぱいにひろげていたのである。
「裏に描いてありやした! 実物とそっくり、同じ大きさでございますぜ!」
「判った!」
左門は、大きくうなずいた。
「どぶ、ひと走りして、五条家の座敷の文机の上に置かれてある孔雀《くじゃく》の羽根でつくった筆を、取って参れ」
「合点《がってん》!」
どぶは、島原の廓《くるわ》を、とび出して行った。
一|刻《とき》経ずして、戻って来たどぶのふところには、その孔雀の羽根があった。
「桜子は、おとなしく渡したか?」
「ヘヘ……、そこは、あっという間もねえあっしの早|業《わざ》でござんして――」
「打掛の裏に描いた孔雀の羽根に、そのほんものをあててみよ。ぴたりと合うのがあるはずだ」
「へいっ!」
どぶは、畳の上へひろげた打掛へ、跼《かが》みかかると、つまんだ孔雀の羽根を、注意ぶかく、描かれた羽根へ、かさねはじめた。
大きく円を描いてひろげられた美しい羽根の、ちょうど、まん中のひとつへ、かさねたとたん、
「これだ!」
どぶは、叫んだ。
「よし。その羽根さきの箇《か》処へ、その筆の尖端《せんたん》を刺せ」
左門は、命じた。
孔雀ペンは、ぶすりと、打掛をつらぬいた。
「で――どうなるんでございます?」
「おもてへかえしてみよ。筆の尖端が突き出た箇処に、十万両の埋蔵金が、ねむって居る」
「わかりやした」
どぶは、打掛を持ちあげて、ぱっと、おもてへかえし、孔雀ペンが突き出た一点へ、視線をそそいだ。
「ここか! うむ! ……殿様、突き出たところは、清水……松原坂の北側――ええと、これは、なんという寺かな?」
「珍皇《ちんこう》寺であろう。人呼んで、六道さん、の別名を持つ」
京の住民ならば、年に一度――孟蘭《うら》盆には必ず詣でるのが、この「六道さん」であった。
珍皇寺門前を、いつの頃から、そう称《よ》ぶようになったのか、「六道の辻」という。
六道――すなわち、迷界の有情が、業果として必ず到着する六種の境界がある。地獄と餓鬼と畜生と修羅《しゅら》と人間と天上と。
死者が三途《さんず》の川《かわ》を渡る時に支払う時の金を、六道銭という。
六道|輪廻《りんね》、といえば、罪障のある衆生が、六道の中に旋転して、ここに生れ、かしこに死に、めぐりめぐって、きわまりないことを意味する。
つまり、珍皇寺門前は、その六道を象徴しているのであった。
京の住民たちは、ここを冥土《めいど》への通り路として、親しい人々を鳥辺野のけむりとするために、ここを通り、そしてまた、孟蘭盆には、年に一度、精霊を迎えにやって来るのであった。
「どぶ、参ろうか」
左門は、六道の辻へおもむくべく、立ち上った。
黄金餓鬼
珍皇寺――「六道さん」の山門をくぐると、右方に、小野|篁《たかむら》の像を安置した御堂がある。
小野|篁《たかむら》が、冥府《めいふ》へ往還したところ、といわれている。
その御堂の前で、駕籠《かご》を降りた左門は、
「小野|篁《たかむら》がさまようた六道の世界を、さがしてもらおうか」
と、どぶに命じた。
「へえ?」
どぶは、ちょっと首をひねった。さがせ、と云われても、それがどんな世界か、信仰心の絶無の、この岡っ引には、見当もつかぬ。
左門は、云った。
「六道の世界ならば、御堂より北の方角にあろう。夏草の中をさがすがよい。わたしは、ここで待っている」
「かしこまりやした」
どぶは、境内をつききると、背|丈《たけ》ほどにも、ぼうぼうと生《お》い茂っている夏草の中へ、わけ入った。
むうっと全身を熱する草いきれに、
「畜生っ! とびきりの別品との逢曳《あいび》き場所にされたって、ご免をこうむるぜ、こんなところは――」
どぶは、ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、けんめいに、さがしまわった。
汗は容赦なく、流れつづけた。
「なんにもありゃしねえや」
どぶが、手拭いで、顔の汗をぬぐった時、一陣の風が吹きつけて来て、夏草をなびかせた。
「お!」
どぶは、草かげに、いくつかの石あたまがのぞくのをみとめた。いそいで、そこへ近づいてみると、そこに、六つの地蔵尊が、ならんでいた。
「あ! こいつか! 六道地蔵というやつだ」
どぶは、にやっとした。
「ええと――、六道てえと……天上、人間、修羅《しゅら》――」
どぶは、地蔵尊のひとつひとつを、かぞえた。
「――畜生、餓鬼、地獄だ」
夏草を踏みつけて、すこしはなれた地点に立ったどぶは、あらためて、六道地蔵を、見なおしたが、
「ふむ! この地獄地蔵の目つきが、怪しいぞ!」
あきらかに、そのまなざしは、他の地蔵とは、ちがっていて、斜横に投げられていた。
どぶは、地獄地蔵の視線を、追った。
視線の落ちた場所に、古井戸があった。
子供らが遊んでいて、落ちる危険があるので、そうしたのであろう、鉄の格子蓋《こうしぶた》が、かけてあった。
どぶは、のそのそ近づいて、格子蓋にかかった、朽《く》ち葉を、はらいのけてみた。
底から、ひんやりとした微風が、吹きあがって来て、どぶの頬《ほお》を打った。
「ここが地獄の入口かい! そうにちげえねえ」
どぶは、馳《は》せ戻って、左門に、この旨をつたえた。
左門は、古井戸の傍《かたわら》に立つと、じっと、耳をすました。
地底から、遠い声が、ひびいて来るようであった。
あるいは、幾人かの黄金餓鬼が、埋蔵金をもとめて、降りて行き、再び、地上へ還《かえ》らなかったのであろう。
どぶは、息せききって、馳《は》せて来た。手には、がんどう提灯《ちょうちん》を携《さ》げていた。
「殿様、ここで待っていて頂きやす。あっしが、ちょいと、調べて参ります」
「いや、わたしも降りることにする」
「大丈夫でございますか?」
「底は、闇《やみ》だ。お前よりも、わたしの方が、動く自由があろう」
鉄の格子蓋《こうしぶた》が、はずされた。
はたして、ただの古井戸ではなかった。
ものの数尺も、降りてみると、そこから、鉄鎖の梯子《はしご》が、石壁にさげられていた。
それをつたって、一丈あまりも降りて行くと、足が石にとどいた。
踊り場ふうの、ひろい石床であった。
そこから、横穴が、なだらかな傾斜になって、つづいていた。
どぶは、がんどう提灯に、火を点《つ》けた。
天井も壁も足下も、すべて石であった。
どぶは、それを告げると、左門は、
「造ったものだな。進もう」
と云った。
どぶが、がんどうをかざして、先に立った。
石壁を、ぽたっぽたっと、水滴が、したたっていた。
なにか、そのむこうで、音がひびいていた。
「川音らしいな」
左門が、呟《つぶや》いた。
「川の横を辿《たど》っているようでござんすねえ」
「そうらしい」
およそ二丁も、進んだであろうか。
「おっ!」
どぶが、石壁の一箇処を、照らし出した。
「ここに、孔雀《くじゃく》が、刻《ほ》ってあります」
目を近づけてみて、
「羽根の目のところに、大きいのや、小さいのや、髑髏《どくろ》が、はめ込んでありますぜ」
「それは、おそらく、三条河原で処刑された関白秀次の寵妾《ちょうしょう》や幼児たちのものであろう」
左門は、こたえた。
どぶは、ぶるるっと、武者|顫《ぶる》いした。
興奮で、口がかわき、生|唾《つば》をごくっと、のみ下した。
「殿様! こ、この中に、十万両が、か、かくしてあるので、ございますね?」
「たぶんな」
「十万両の大判小判! ふうっ! こ、こいつは、どうしたって、心の臓が、どきどき、わくわく、早鐘を打ちやがるのは、止めようがねえや」
どぶは、壁の石をはずそうとして、必死になった。
石をはずせば、大判小判が、ざあっ、となだれ落ちて来るような気がした。
「どぶ!」
左門が、鋭く呼んだ。
「がんどうのあかりを消せ!」
「へ、へえ?」
どぶは、命じられるままに、あたりを暗黒にして、
「ど、どうなすったので?」
「こちらの予想通りに、おあつらえ向きの人間が、降りてきたようだ」
「有馬右京で――?」
「とは、限らぬ」
「そいじゃ、浪花屋で――?」
「でもあるまい」
「へえ?」
「ともかく、われわれがここへ来るのを、尾行して来た奴《やつ》だ」
「殿様!」
どぶは、あきれた。
「尾《つ》けられていることを、ちゃんと、気づいていなすったのでございますかい?」
「そうだ」
「どうして、教えちゃ下さらなんだので――。教えて下さりゃ、ふん捕《づか》まえてくれたものを」
「尾けさせて、われわれがここへ来ることを知らせるのも、目的のひとつであった」
「どういうことでございます?」
どぶは、左門が何を云おうとしているのか、判りかねた。
「われわれは、すこし奥に入って、ひそんでいることにいたそう」
左門は告げて、自身でさきに、奥へ入った。
しんの闇《やみ》の中となると、どぶの方が、左門の手をかりたいほど、足もとがおぼつかなかった。
固唾《かたず》をのむうちに、彼方《かなた》から、小さな灯が、ちらちらと動いて、しだいに近づいて来た。
――野郎、何者だ?
どぶは、小さなまなこを、かっとひき剥《む》いた。
蝋燭《ろうそく》をかかげた者は、覆面をしていた。
――畜生っ! これじゃ、何者か、わからねえ!
どぶは、首を振った。
ついに――。
蝋燭のあかりが、壁に刻まれた孔雀《くじゃく》を照した。
侵入者は、じっと、それを眺《なが》めていたが、踵《きびす》をまわした。
遠ざかって行く者を、どぶは、とびついて、ひっ捕えたい衝動にかられたが、左門の下知がない以上、動くことはできなかった。
蝋燭のあかりが消えた時、どぶは、ふうっと、吐息して、
「殿様! ど、どうして、あいつを、わざと、逃《にが》してしまいなすったのです?」
「黄金餓鬼どもの芝居の幕を上げさせるためだ」
「へえ――?」
「どうやら、芝居は、うまく筋書き通りにはこびそうだ。ゆっくりと見物することにいたそう」
同じ日――。
有馬右京は、この男らしい動きかたをしていた。
五条家の仏間で、兄嗣満の位牌《いはい》に向って、ひっそりと合掌している桜子が、ふと、背後に人の気配を感じて、ふりかえると、そこに、右京が、佇立《ちょりつ》していた。
「なんのご用向でありましょう?」
桜子は、ひややかに、問うた。
右京は、別人になったように、おちつきのない表情で、
「貴女《あなた》は、菊水無二斎と、ど、どうして、知りあいなのか?」
と、睨《にら》んだ。
「そのような人は、存じませぬ」
「知らぬはずはない! ……身共に対して、独楽を、投げつけたではないか!」
「え? あの折、わたくしを救って下さったのは、あの江戸の御用聞きではなかったのですか?」
桜子は、けげんな面持になった。
「なに?」
右京は、愕然《がくぜん》となった。
「あの時、あの岡っ引めも、ここにいたと――」
「次の間に、いました」
桜子は、右京の狼狽《ろうばい》を、あざけるように、こたえた。
「すると、無二斎と彼奴《きやつ》は、同じ穴の≪むじな≫か!」
右京は、うめくように独語を、もらした。
桜子は、もはや、右京をすこしもおそれずに、珠数《じゅず》をにぎった両手を膝《ひざ》に置いて、
「貴方《あなた》様が、五条家口伝を知りたくて、わたくしを、手ごめにしようとなされたり、こうしてまた、無断でふみ込んで参られたりしているのでありますならば、もっと、おいそぎにならねばなりますまい」
「な、なに?」
右京は、狂的な光を、双眼から放った。
「それは、ど、どういう意味だ?」
「黄金亡者は、貴方様ばかりではない、と申し上げたのです」
「……む!」
「貴方様は、五条家口伝が、関白秀次の隠匿《いんとく》金十万両の在所《ありか》を教えるものだ、と知って、わたくしの口から、きき出そうとなされたのでありましょう。……ほほほ」
桜子は、さもおかしそうに、高笑いした。
右京は、いまは、虚栄の態度をすてて、喘《あえ》ぐように、
「貴女を、犯しても、また、刀にかけても、今日は、口伝をきき出すぞ!」
と、云った。
「兄は、わたくしに、口伝を申しのこさずに、逝《い》ってしまいました。それは、あの折、貴方様が、目撃されたではありませぬか」
「い、いや! 五条三位は、貴女に、わらべ唄《うた》をうたってきかせ、それから、孔雀《くじゃく》の羽根の筆を把《と》って、なにかを書きかけた。……何を書こうとしたか、貴女には、判断できたはずだ。……きこう! 兄上は、なんと書こうとした?」
桜子は、右京に迫られながら、みじんも怯《お》じ気もみせず、
「兄が、なにを書こうとしたか、それは、あの孔雀《くじゃく》の羽根の筆に、お問いなさるがよい」
「なんだと?」
「と申しても、あの孔雀の羽根の筆は、もう、この家には、ありませぬ」
「……?」
「どぶと称するあの江戸の御用ききが、貴方《あなた》様より一足さきに、ここへあらわれて、血相変えて、机の上から持って行きました。たぶん、あの筆から、口伝をきき出そうというのでありましょう」
それをきいて、はじめて、右京は、
「あっ!」
と、すべてをさとった。
「そうか! あの孔雀の羽根だ!」
その様子を、桜子は、ひややかに見上げて、
「どうやら、貴方様より、どぶ親分の方が、すこしばかり頭の働きが、すばやかったとみえまする」
「彼奴は、ど、どこへ参った?」
「島原の廓《くるわ》の東山楼とか申す青楼に、この孔雀の羽根を合せる打掛とやらがある、と申して居りました」
「左様か!」
右京は、ぱっと身をひるがえすと走り出て行った。
再び、兄の位牌《いはい》に向って合掌した桜子は、
「兄上――」
と、呼びかけた。
「黄金亡者どもが、狂って、おどりまわって居りまする。……金、金、金――黄金|欲《ほ》しさに、人間は、こうも、あさましゅうなるものか、とあきれはてまする。思えば、兄上は、わたくしに対してだけは、畜生道に堕《お》ちられたとはいえ、心からの愛をささげて下さいました。いまのわたくしには、兄上から愛された記憶だけが、この世で唯《ただ》ひとつの美しいものになって居りまする」
桜子の頬《ほお》を、泪《なみだ》がつたい落ちた。
不幸な貴族の娘が、はじめて、一人で、泣いたのである。
黄金亡者たちは、もう二度と、この五条家を襲っては来ないであろう。
桜子が、どぶの行先を右京に教えたのは、右京をして地獄への道を歩ませる復讐《ふくしゅう》心からであった。
どぶから、
「お兄上を殺したのは、有馬右京でございました」
と、告げられた桜子は、右京が現れるのを、待っていた、といえる。
亡《な》き兄が、右京をおびき寄せてくれた、とも考えられるのであった。
「兄上――」
桜子は、位牌を見つめながら、独語をつづけた。
「兄上は、悪いおひとでした。けれど、ご自分では、口伝によって、十万両の黄金をさがし出そうとは、なさいませんでした。黄金亡者には、おなりになりませんでした。わたくしは、その兄上が好きでございます」
半刻後――。
右京の姿は、島原の廓《くるわ》の「東山楼」の二階に、在った。
その座敷へ踏み込んだ右京の目に、ぱっと映ったのは、衣桁《いこう》にかけられた豪華けんらんたる打掛であった。
「これだ!」
右京は、うめいた。泉雅ら友禅染めの職人を三人も斬《き》り殺して、必死にさがしていた打掛が、いつの間にやら、この青楼の座敷に、はこばれていたのである。
背後から、
「おそれ入りまするが、ここは、町小路様と仰せられるおかたのお座敷でございますので、なにとぞ、ご遠慮のほどを――」
声をかけられたが、右京は、耳に入らぬごとく、打掛に近づき、それを、衣桁からひきずりおろした。
「ごむたいを――」
とがめる声に、ふりかえって、
「どぶと申す岡っ引は、どこへ参った?」
と、鋭く尋問した。
「一刻ばかり前に、町小路様とお連れ立ちで、お出かけでございます。……ともかく、別のお座敷の方へ、お入りを――」
「うるさい! この打掛は、詮議《せんぎ》の筋があるゆえ、持ってゆくぞ」
右京が、それをまるめて、ひっかかえた――その時であった。
次の間との仕切りの襖《ふすま》が開いて、のっそりと入って来たのは、浪花屋四郎兵衛であった。
「有馬さん、抜け駆けは、あきまへんな」
薄ら笑いながら、近づいて来ると、
「その打掛は、こっちへ渡してもらいましょう」
「…………」
「この仕事は、わしとあんたと、二人、力を合せて、やりとげる約束やった。ところが、どうも、近頃のあんたの行動をみていると、一人で抜けがけしようと、えろうあせって居る。あきまへんな。仲間を裏切って、お宝を一人占めしようなどと、欲深な魂胆《こんたん》をおこしては、かえって、墓穴を掘ることになるさかい、くれぐれも自分をいましめてもらわんとな。……渡してもらいまひょ」
浪花屋は、近づいて、両手をさし出した。
瞬間――。
右京は、抜きつけの一撃を――峰撃ちであったが、浪花屋の肩へ、あびせた。
わっと、悲鳴をあげて、よろめきつつも、浪花屋は、屈せずに、懐中から、短銃をつかみ出して、右京を狙《ねら》った。
「こやつ!」
逆上した右京は、一刀をつかみなおすや、猛然と奔《はし》って、浪花屋の脇《わき》を抜けた。
銃声がとどろいた。
しかし、弾丸は、天井をつらぬき、浪花屋は、ぞんぶんに胴を薙《な》ぎはらわれて、血飛沫《ちしぶき》の下で、たたらを踏んで、崩《くず》れ落ちた。
右京は、そのまま、馳《は》せ出ようとした。
とたん――、廊下で、前に立ちふさがった者があった。
菊水無二斎であった。
「貴様っ! 何|奴《やつ》だ?」
右京は、おのれの前に立ちはだかったのが、先般来自分を尾行しつづけている老人であるのをみとめるや、眼球がとび出さんばかりの凄《すさま》じい形相になって、
「おのれも、この刀で、三途《さんず》の川を渡らせて欲《ほ》しいか!」
と、じりじりと肉薄した。
無二斎老人は、無表情で、
「そんな打掛は、無用になって居りますよ、検非違使さん。刀を腰にお納めなさって、わしに、従《つ》いておいでになることだ。十万両の大判小判がかくしてある場所へご案内いたしますよ」
と、云った。左門とどぶのあとを尾行して、「六道さん」の地下へ降りたのは、実は、この老人だったのである。
「貴様も、軍用金をさがして居った一人か?」
「お前様がたが、血眼《ちまなこ》になって、さがしまわっているのを、横あいから眺《なが》めていて、一足さきに、その在処《ありか》をつきとめた、という次第でね。……しかし、なにせ、この老いぼれでは、一人で、十万両をかつぎ出すわけにいかぬ。浪花屋を斬《き》ったお前様を、片棒にするのも、わるくない。折半というところで、どうでしょうな。そこへ、これから、ご案内つかまつる」
――よし! この爺《じじい》が、どんな魂胆を持っているか知らぬが、その時はその時のことだ。案内させてくれる。
右京は、≪ほぞ≫をかためた。
騒然となった東山楼をあとにして、ほどなく、二|挺《ちょう》の駕寵《かご》が、「六道さん」めざして、とんだ。
そのあとを、尾行して行く者があった。どぶであった。
――へへ、左門の殿様が仰言《おっしゃ》った通りの筋書きになったぜ。
どぶは、珍皇寺山門前で、駕籠をすてた二人がまっすぐに、六道地蔵に向って、境内を横切って行くのを、見送って、
「待てば、海路の日和《ひより》だあ」
と、つぶやいた。
無二斎は、蝋燭《ろうそく》の焔《ほのお》を、袖《そで》でかばうようにして、水滴のしたたり落ちる地下道を、ゆっくりと進んで行く。そのあとにしたがう右京は、興奮のために、のどがからからにかわいていた。
やがて――
左門とどぶが見とどけた孔雀《くじゃく》の絵が刻まれた石壁の前に来て、無二斎は、それを照らし出し、
「ほれ――、この中に、十万両が、かくされてある」
と、告げた。
「おお!」
右京は、総身がわななくほどの狂喜にかられつつ、そこへ近づいた。
「ところが、どっこい、検非違使さん、お前様には、この十万両は、渡せぬのだ」
「な、なにっ?」
「ははは……」
無二斎の笑い声が、無気味に、石室《いしむろ》の闇《やみ》にひびきわたった。
「貴様っ! も、もしかすれば、貴様は、菊水無二斎ではないのか?」
右京の叫びに応じて、無二斎は、
「左様――お前様に斬《き》られたお衣《きぬ》の父親さ。……わしは、この日を待っていたのだ。……娘の敵《かたき》を、討つためにね。いいかね、有馬右京――世の中には、因果応報というものがあるのだ。それを、いまこそ、思い知らせてくれるのだ」
「く、くそっ!」
右京は、抜刀した。
瞬間、無二斎の右手から、鋼鉄造りの独楽《こま》が、飛んだ。
それを、右京の剣が、はじいた。剣は折れ、独楽は、壁の孔雀《くじゃく》にぶち当った。
すると、孔雀が、ばらばらと崩《くず》れた。無二斎は、つづけさまに、右京めがけて、独楽を投げつけた。右京は、折れ刀で、それをはらうことに必死で、孔雀絵の石壁が、みるみる崩れて、水を噴《ふ》き出すのに、気がつかなかった。
と――一瞬。
ごうおっ、と凄《すさま》じい音響とともに、その壁が破壊されたとみるや、川水が、この地下の石室めがけて、流れ込んで来た。
「ああっ!」
右京が、恐怖の絶叫をあげた時には、もう遁《のが》れるいとまはなかった。
「ははは……、やったぞ! 見ろ! 見るがいい! 悪党め! これが、因果応報だ!」
渦巻く濁流の中で、無二斎の笑い声がひびいた。
有馬右京と菊水無二斎の死体が、高瀬川に浮いた日、左門とどぶと小夜は、東海道を東へ――もう、大津を過ぎていた。
どぶは、左門の乗った駕籠《かご》わきにつき添って、その話をきいていた。
「高瀬川は、角倉了以《すみのくらりょうい》が、畢生《ひっせい》の力をふりしぼって、作りあげた運河だ。……関白秀次の埋蔵した軍用金の伝説は、どうやら、角倉了以と、その運河づくりに協力した五条家が、つたえのこしたものらしい。その伝説のおかげで、多くの人々が生命を落した」
「殿様、うかがいやすが、あの場所に、十万両は、本当に埋めてあったのでございましょうかね?」
どぶは、訊《たず》ねた。
「あったかも知れぬ。あるいは、なかったかも知れぬ」
「へえ?」
「あったとしても、すでに、角倉了以が、運河づくりで、使いはたしていたと思われる。了以は、その工費に七万五千両を調達した、と記録がのこって居る。埋蔵金十万両を掘り出して、その工費にあてたのかも知れぬ。……了以は、関白一族を弔うために、瑞泉寺を建立して居るし、高瀬川の下に、まことの菩提《ぼだい》所をつくって居る。関白一族の菩提を永久に弔《とむら》うようにとの口伝が、いつの間にか、尾ひれをつけて、黄金伝説と化したとも考えられる。いずれにしても――かりに十万両が、あの場所にまだ、かくされてあったとしても、もはや、水の底に相成った」
「まったくで――」
うなずくどぶの脳裡《のうり》には、一人さびしく、曲独楽をまわしている水干少年の姿が、泛《うか》んでいた。