[#表紙(表紙.jpg)]
岡っ引どぶ 巻一
柴田錬三郎
目 次
第一話 名刀因果
めくら旗本
忍びわざ
怨霊屋敷
異変
その行方
女心無情
第二話 白骨御殿
夢遊役者
恋慕くずれ
今様吉田御殿
誰も知らない
地獄極楽
散り別れ
[#改ページ]
第一話 名刀因果
めくら旗本
一
五月の鯉が、晴れた空にひるがえっている午《ひる》さがり――。
吉原堤を吹く風は、もう夏のものであった。
廓《くるわ》から出て来た客が、ふところ手で、ゆっくりと歩いて行く。
小|肥《ぶと》りで、頸《くび》も短いが、つけているものは、いかにも通客である。丹後縞《たんごじま》の小|袖《そで》を着流し、裾《すそ》がひるがえるたびに、艶《えん》な紅絹《もみ》がちらつく。腰には脇差を一本だけさしているが、坊主である。それに、宗匠|頭巾《ずきん》をかぶっている。
しぶいのどをきかせて行くのだが、文句もいい。
夕化粧
むかう鏡に、面《おも》やせて
恋に心も乱れ髪
むすぼれかかるおくれ毛は
アレ
青柳の雨沿いて
夜風にゆらぐ水の月
この美声をきいて、編笠茶屋のひとつから、親爺が、ひょいと顔をのぞけた。
「河内山の旦那、お寄んなさいまし」
と呼びかけて、ふと、そのうしろに、つけて来ている五、六人の男たちを一瞥《いちべつ》して、眉をしかめた。
いずれも、ひと癖もふた癖もある面《つら》がまえの男たちばかりであった。
「旦那――どうなすったので? 附《つけ》馬にしちゃ、頭数がそろっていますね」
「はは……、まさに、その通り――」
お数寄屋坊主河内山宗俊は、いかにも屈託なさそうに、高い笑い声をたてた。
「奉行所には犬、吉原には馬、妾《しょう》宅には猫――と相場がきまっている、と思っていたが、当節万事セチがらくなると、飼うものもちがって来たな。吉原に、馬のほかに、狼まで飼っているとは、今日まで、少しも知らなんだ。どうだ、親爺、見るがいい。どの面を見ても、人を二人や三人、殺しているだろう」
河内山宗俊は、ずけずけと云った。
男たちは、むすっとして、目を光らせているばかりである。
尤《もっと》も、対手が、名だたるお数寄屋坊主なので、表面ではさからえないことである。
「河内山の旦那ともあろうお方が、廓の中で、まさか、イカサマ博奕《ばくち》をおやんなさったわけでもございますまい」
「はは……、イカサマ博奕よりも、もっと悪いことをやってのけてな、それが、ばれた。≪すまき≫にされるどころか、この首があぶない」
河内山は、扇子で、頸根《くびね》をポンとたたいてから、
「ところで、≪どぶ≫を見かけなかったか?」
と、たずねた。
「へえ、ここ二、三日、見かけて居りませんが……、馬道あたりで、とぐろをまいているのじゃございますまいか」
「ふむ」
河内山は、首をかしげた。
「いまの時刻じゃ、湯屋の二階にいるかな。ま――行ってみよう」
河内山は、その≪どぶ≫というあだ名の男に、会わなければ、本当に、生命があぶないのであった。
二
河内山宗俊は、馬道に足をはこぶと、とある湯屋に入った。
当時、湯屋の二階は、楽隠居や遊び人や休み日のお店《たな》者などの、ひまつぶしの場所であった。
舟宿などは高いので、ここで、あいびきをする者たちもいた。
茶菓子も出たし、将棋盤も置いてあった。
河内山は、二階に、岡っ引の≪どぶ≫がいることをたしかめると、すぐには、階段をのぼって行かずに、湯につかった。
おもてに、生命《いのち》知らずの≪やくざ≫を待たせておいて、平然として、湯煙りの中で、流行《はやり》歌を口ずさむところは、いかにも、河内山らしかった。
やがて、二階にあがった河内山は、片隅の壁ぎわに、むこう向きに手枕で寝そべっている男をみとめて、近づいた。
「おい――、起きてもらおう」
河内山は、腰を足で小突いた。
男は、やおら、起きあがると、両手をさしのべて、大きなあくびをした。
まずい面である。
極端に目が小さい。鼻孔がひらいているし、口も大きかった。頤《おとがい》が張り出していて、恰度《ちょうど》将棋の駒のかたちをしている。
しかし、どことなく憎めない、むしろ愛敬のある顔だちではある。すくなくとも、河内山がつれて来た≪やくざ≫どもの悪党面とは、一線を劃《かく》している。
着たきり雀のよれよれの唐桟留《とうざんどめ》は、冬でも夏でも、これ一枚で通している無精さで、入る金は、ことごとく酒と女に費されてしまっているあんばいである。
腰に、十手をさしていなければ、これは、この湯屋でお断りの浮浪者である。
ところで、その十手だが、普通の十手とは、すこしちがっている。長さが五寸ばかり長かったし、太さも倍はあろう。
自分で勝手に作ったしろものである。
一時代前ならば、こういうでたらめは許されなかったであろうが、天保も十年|経《た》った今日、一年にたった二分のすて金しか呉れてやらぬ岡っ引に御用ききをさせるには、規則ずくめでしばるわけにはいかなくなっている。
下女の給金でさえ、一年三両にはねあがっている時世であった。
たった二分では、ものの十日もくらせる道理がないのである。
盛り場とか岡場所とか内緒の博奕場とか私娼窟《ししょうくつ》などを巡《まわ》って、顔をきかせて、いくばくかのひねり銭を取って暮らすのが、しがない岡っ引|稼業《かぎょう》であった。
しち面倒な規則を押しつけられれば、当節、岡っ引のなり手はなくなってしまうのだ。
それに、また――。
去年、町奉行に、遠山左衛門尉景元が、就いてから、この≪どぶ≫のような殆《ほとん》ど≪ごろつき≫の岡っ引の方が、かえって役に立つ、と重宝がられるようになったのである。
三
この≪どぶ≫の本名を、知っている者は、殆どない。まして、生地がどこか、どんな育ちかたをしたのか、誰も知っていない。
三年ばかり前に、いまと同様のよれよれ姿で、腰に十手をさし込んで、ふらりと、浅草へ現れたのであった。
最初は、ひどくうさん臭がられたが、この男は、他の岡っ引のように顔をきかせて、たかることを、絶対にしなかった。どこから、金を手に入れるのか、酒代に不自由していなかったし、吉原の小格子《こごうし》女郎や岡場所の女も、まめに買った。酒好きで、女好きなのであった。
しけた時は、夜鷹《よたか》を抱いて、夜をすごしている模様であった。
≪どぶ≫の名が、一躍、江戸中にひろまったのは、浅草寺が大晦日《おおみそか》に集めたお賽銭《さいせん》八百七十両が、正月三日うちに盗まれて、大騒動になったのを、どうやって探索したか、狸穴《まみあな》坂下の谷あいにある古洞の中から、発見して、持って来た手柄によってであった。
その古洞の中には、二人の浪人者が、互いにのどを突いて、相果てていた。
下手人は、その浪人者たちに相違ない、という判断が下されたが、≪どぶ≫は、ただ、
「あっしが、金を見つけて、はこび出す時には、そんな浪人者の影もかたちもありませんでした」
と、奉行所へ報告していた。
≪どぶ≫が、その二人の浪人者と闘って、のどを得物で刺しつらぬいて、殺したものだ、と看破したのは、町小路左門という盲目の与力ただ一人であった。
≪どぶ≫をひろいあげて、岡っ引にしてやったのは、その町小路左門だったのである。
≪どぶ≫は、その大手柄のほかに、三年間に、いくつかの手柄をたてている。
しかし、また、この男は、世間の目をしかめさせる不良行為も、かずかず、やってのけているのであった。
駒形町の質屋の後家を、酔いに乗じて、手ごめにしたのも、そのひとつであった。
後家の訴えで、≪どぶ≫はあやうく繩をかけられそうになったが、町小路左門の力で、まぬがれた。
町小路左門は、町奉行所では、例外といえる特殊な席を与えられている与力であった。
町奉行所の与力というものは、二百石取り、お目見え以下の身分であった。
ところが、町小路左門は、三千石の旗本大身の家に生れ、ゆくゆくは書院番頭になる身であった。
それが、二十歳の年、病いのため盲目になると、自らすすんで、高禄を返上して、与力の株を買って、町奉行附属になったのである。
与力は、事実上世襲であったが、法規の上では抱席といい、一代限りのことになっていた。左門は、そこを利用したのである。
こういう与力を後楯《うしろだて》にしている≪どぶ≫は、また、他の岡っ引とは、別人種といってよかったのである。
四
「おい、≪どぶ≫――弱ったことに相成った」
河内山宗俊は、その前に坐ると、首を振ってみせた。
「三浦屋の花紫を、難波へ売りとばしたのが、お前様とあっしのしわざだと、ばれましたかい」
≪どぶ≫は、そう云いあてて、湯呑みへ手をのばすと、飲みのこしの冷酒を、すすった。
「どうして判る?」
「それア判りまさ。お前様が、わざざわ、あっしを、さがしまわらねばならねえほどの用件は、ほかには、ねえ。おもてには、≪やくざ≫を待たせていなさる――」
先月のはじめのことであった。
河内山宗俊は、≪どぶ≫と共謀して、二百両仕事をやってのけたのである。
日本橋北の本小田原町の薬問屋小田原屋のあるじが、吉原の三浦屋抱えの散茶女郎花紫に、執心した。しかし、花紫は、疱瘡《ほうそう》わずらいで化物面になった小田原屋を、きらって、首をたてに振ろうとしなかった。
このことを耳にした河内山が、小田原屋に、「わしが、仲に入ってやろう」ともちかけて、百両の身請金を受けとり、三浦屋に対しては、抜荷の品を多数買い入れていることを、奉行所へ報《し》らせるとおどして、花紫をわずか五十両で身請し、そのまま、大坂の難波の廓《くるわ》へ、百五十両で売ってしまったのであった。
三浦屋が、抜荷の品を多数買い込んでいることを、かぎつけたのは、≪どぶ≫であった。
三浦屋は、はじめは、河内山に対して、しらばくれていたが、≪どぶ≫が現れて、ひとつひとつ品目をならべたてるや、かぶとをぬいだのである。
河内山は、≪どぶ≫に五十両渡し、百五十両を着服してしまった。
この悪事は、遠からず露見することは、判っていた。
露見したら、どういうことになるか――まア出たとこ勝負だ、と河内山は、タカをくくっていた。
ところが、三浦屋の方は、いつの間にか、生命《いのち》知らずの≪やくざ≫をやとっていたのである。
三浦屋としては、抜荷のことがあるので、奉行所へ訴え出ることはしないが、その代り、花紫の身請金を、あと百両出さねば、たとえお数寄屋坊主の河内山宗俊といえども、生かしておかぬ、とひらきなおり、廓を出て行く河内山に、≪やくざ≫どもを附けた、という次第であった。
「どうだ、≪どぶ≫――。なにか、いい智慧《ちえ》はないか。この河内山も、まだ四十になったばかりで、三途《さんず》の川を渡るのは、チト早すぎるようだ」
「あの金は、もうみんな、使ってしまったのですかい?」
≪どぶ≫は、小さな目を、まばたかせながら、たずねた。
「借金を払ったら、二分ものこらなかった。……百両つくるか、三途の川を渡るかだ。どっちでも、ごめんだて」
「…………」
≪どぶ≫は、ちょっと考えていたが、出窓へ寄って、往還を、見下した。
五
「成程、悪党面をそろえていやがる」
≪どぶ≫は、頤《おとがい》をなでた。
往還には、一応の間隔を置いて、五人の男が、立っていた。
人殺しには馴れている手輩であることは、一|瞥《べつ》して明らかであった。
「あいつらに食いつかれていちゃ、どうにも、荷厄介で、しんどい。智慧をはたらかせてもらおう」
河内山は、云った。
「…………」
≪どぶ≫は、なにか思案している様子であったが、河内山の前にもどると、黙って、腕を組んだ。
「どうだ?」
河内山は、返辞をもとめた。
「荒療治をやれ、と云いなさる?」
「しかたがあるまい」
「あっしゃ、御用聞きですがねえ」
≪どぶ≫は、うすら笑った。
「毒をもって毒を制す、というやつだな。ダニをつぶすのも、岡っ引のつとめのひとつだろう」
「しかたがねえ」
≪どぶ≫は、立ち上った。
河内山の方は、
「わしは、しばらく、ここで昼寝でもして行こう。ゆうべの相方が北山(接吻)だけで、からだ中を火にする女だったのでな……疲れた」
と云って、ごろりと横になってしまった。
≪どぶ≫は、のそのそと湯屋を出て行くと、待ちかまえたやくざどもを見わたして、
「あっしに、ついて来てくれ」
と、云いすてて、歩き出した。
「おい、おめえに、百両つくる才覚があるのか?」
一人が、訊ねた。
「まアな」
≪どぶ≫のいかにものんびりとした態度に、やくざどもは、顔を見合せた。
三浦屋の楼主からは、
「金をつくらなかったら、片づけてもらってもかまわぬ」
と云われているかれらは、このうすぎたない岡っ引一人ぐらい殺すのは、造作もないことに考えている。
当然、≪どぶ≫の方も、金をつくらなければ殺されると覚悟をきめているに相違ないから、多分あてはあるのであろう、と思われた。
五人は、二間ばかりおくれて、ついて行った。
≪どぶ≫は、吾妻橋を渡ると、本所の裏町を抜けて、北割下水の方角へ向って、黙々と足をはこんで行く。
このあたりは、小役人の家がならんでいる。
割下水は、横川へ通じていて、横川を越えると、小梅村になる。横川を境にして、景色は一変して、ひろびろとした野がひらける。
≪どぶ≫が五人をともなったのは、小梅村の古い寺院にとなり合せた、かなりな構えの屋敷であった。
六
≪どぶ≫が、潜《くぐ》り戸を入ろうとするのを眺めて、やくざどもは、さすがに、しりごみした。
「おい、ここは、旗本屋敷じゃねえか」
一人から、険しい目つきで、云われた≪どぶ≫は、ふりかえって、
「そうよ。三千石のご大身のお屋敷だ」
と、こたえた。
「この旗本に、百両借りる、とでも云うのか」
「まアな」
≪どぶ≫は、にやりとしてみせた。
「おい、てめえ、おれたちに、一杯食わせようというこんたんじゃねえだろうな?」
「ついて来りゃ、わからあ」
こういう際の≪どぶ≫の態度は、ちょっとつかみどころがないほど飄飄《ひょうひょう》としている。
やくざどもは、半信半疑のまま、屋敷の中へ、ぞろぞろと入って来た。
≪どぶ≫は、表玄関へは行かず、植込みをくぐって、中門を入った。
荒れ放題になったひろい庭は、まるで武蔵野へ還《かえ》ろうとしている景色であった。
「ひでえ景色だ」
やくざの目にも、なんとも荒廃したものに映った。
げんに、行手の苑路を、栗鼠《りす》が二匹、ちょろちょろと走りぬけて行った。飼っているのではなく、人気がないので、住みついたに相違ない。
樹木の高い梢《こずえ》には、鷺《さぎ》も六、七羽、とまっていた。そこに巣をつくっているらしい。
広い池泉があったが、水面は落葉で掩《おお》われていた。
池泉のほとりを通って≪どぶ≫は、書院の前に至ると、
「旦那――」
と、呼んだ。
「旦那――、≪どぶ≫でござんす」
三度ばかり、呼ぶと、くらい屋内から、ゆっくりと、黒い人影が、うごいた。
広縁に現れたのは、すらりと高い武士であった。
黒の着流しがよく似合う美男であった。気品もある。
年歯はまだ二十代の半ばであろうが、おちついた物腰に、風格があった。
ただ、気の毒なことに、その双眼が、かたく閉じられていた。目蓋《まぶた》は、おそらく、永久に開かないのであろう。
「連れがあるようだな、≪どぶ≫?」
「へえ。……それで、この連中とのかたをつけたいので、お庭を拝借いたしとう存じます」
≪どぶ≫は、云った。
「それは、一向にかまわぬが、五、六人はいるようだな」
「へえ、まあ、これぐらいの頭数なら、あっし一人で、なんとか……」
そうこたえて、≪どぶ≫は、なんとなく、片手でつるりと顔をなでた。
「お前は、岡っ引だ。たとえ、対手がたが、ごくつぶしのごろつきであろうとも、殺してはならぬ」
盲目の旗本は、云った。
七
≪どぶ≫は、のそのそと、やくざどもの前へひきかえして来ると、
「おめえらに、渡す金は、ねえ」
と云った。
「なんだと!」
五人は、さっと、血相を変えた。
「てめえ、やっぱり、だましやがったな!」
「だましたわけじゃねえや。おれは、おめえらに、この屋敷で、金をつくってやる、とは云わなかったぜ」
「ふざけるなっ!」
五人は、一斉に、匕首《あいくち》を、抜きはなった。
≪どぶ≫は、にやりとした。
「正当防衛というやつだ」
「野郎っ!」
猛然と突きかけて来た一人を、ひょい、とかわしざま、したたか、股間を蹴あげた。
なんともすばやい身ごなしであった。
「くそっ!」
「やっちまえっ!」
「このどぶ犬め!」
やくざどもは、口々に叫びつつ、身構えた。
生命のやりとりには、馴れている手輩であった。
たった一人を、とりかこんで、やっつけるのである。なんの造作はない、と思っていた。
ところが、≪どぶ≫の方は、一向に、平然たるもので、包囲されるにまかせている。
その態度が、いささか不気味といえばいえた。
「くらえっ!」
背後へまわった一人が、体当りで襲った。
瞬間――。
その≪やくざ≫は、絶鳴をあげて、たたらをふむと、どさっと坐り込んでしまった。
その一方の目から、血汐《ちしお》が噴《ふ》き出ていた。
いつの間にか、≪どぶ≫の右手には、武器があった。
それは、手槍の穂さきを、ずっと細くしたような双刃《もろは》の武器であった。
≪どぶ≫の長い十手は、仕込みになっていたのである。
突く、斬る――いずれにも使える。そして、これを使う修練も成っているのであった。
さすがに、残りのやくざどもは、ひるんだ。
「おめえら、一分か二分かの日当で、片目になりてえか」
≪どぶ≫は、にやにやしながら、云った。
「ほざくなっ!」
もう一人が、真正面から、はねあがるようにして、襲った。
しかし、その者も、次の瞬間には、悲鳴をあげて、のけぞらねばならなかった。
同じく、一方の目が、突き刺されて、みるみる鮮血を、流した。
「どうだね、無職《ぶしょく》衆――。ここは、北町奉行所与力様のお屋敷だ。場合によっては、押し入った罪で、ひっ捕えて、佐渡送りにできるんだぜ」
≪どぶ≫の言葉は、ひるんだやくざどもの闘志を完全にうばう効果があった。
八
しばらくのち――。
≪どぶ≫は、書院で、盲目の旗本と対座していた。
実は、≪どぶ≫は、この町小路左門という美男子と向い合うのは、最も苦手なのである。
まず第一に、容貌に於ける甚しい劣等感が生ずる。同じく人間に生れながら、どうして、こうも、顔のつくりに、雲泥の差があるのか。これは、やりきれぬことである。
つぎに――。
これほどの美男子に生れながら、盲目であることに、≪どぶ≫は、心から同情せざるを得ない。元来、≪どぶ≫は、人に同情したり、好意を抱いたりすることの大きらいな男なのである。しかし、この町小路左門に対してだけは、自分が負け犬とみとめた以上、盲目というハンディキャップを持たれるのは、どうしてもイヤであった。
さて――。
実はこれが最も肝心なことなのだが、≪どぶ≫は、対座していると、双眼を閉じた左門の姿に、すこし大袈裟《おおげさ》にいえば、一種の妖気《ようき》のようなものがただようのに、息苦しくなって来るのであった。
この圧迫感は、≪どぶ≫だけでなく、向い合う人すべてが、受けるもののようであった。
そして、その人その人によって、感じかたが、すこしずつ、ちがっているらしい。
――なにか、先祖におそろしいことが起って、そののろいが、この御仁《ごじん》にふりかかっているのではあるまいか?
そうおそれる者もいた。
――これは、何万人に一人といわれるほどの天才ではなかろうか?
そう直感する者もあった。
――氷のように冷酷な人柄に相違ない。
単純にそうきめてしまう者もいた。
いずれにしても、尋常一様の人物ではない、と思い、親しくつきあうのはご免を蒙《こうむ》りたい、としりごみすることに於ては、共通していた。
≪どぶ≫とても、自分からすすんで、家来になった次第ではない。
しかし、左門から受けた恩は深かったし、また、この人物の鋭く冴えた神経の前には、無条件に頭を下げざるを得なかったのである。
左門は、≪どぶ≫から、やくざどもと斬り合うことになったいきさつを、ききながら、黙然《もくねん》として、相槌《あいづち》も打たなかった。
≪どぶ≫の話が、おわると、左門は、はじめて、口をひらいた。
「河内山宗俊も、そろそろ、年|貢《ぐ》の納めどきのようだ」
そう云った。
「まさか、あれだけのお数寄屋坊主が、揚屋入りにはなりますまい」
「毒殺、という手がある」
左門は、冷然と、云いすてた。
「へえ――」
≪どぶ≫は、頸《くび》すじのあたりが、うそ寒くなった。
九
「お前も、これからは、要心することだ」
左門は、云った。
「へえ――」
「飲む打つ買うのを、ひかえいと申すのではない。ふるまいかたに工夫が要《い》るであろうな」
「下種《けす》に生れついた野郎に、身の動きを制限しろ、と仰言《おっしゃ》っても、少々むりじゃござんすまいか」
「のぞみによっては、市井《しせい》で野方図にくらすひまがないように、面倒な仕事を与えてやってもよいが――」
左門は、云った。
「へえ、お願えしましょう」
「ことわっておくが、この仕事は、お前のような吹けば飛ぶような岡っ引|風情《ふぜい》では、とうてい、突き破れぬ壁かも知れぬ。しかし、わしのえらぶ男は、お前を措《お》いて、他には居らぬ。やってみてもらおう」
「べつに、惜しい生命じゃありません。壁は、なるべく厚い方が、ぶち破る甲斐があります」
「よし――」
左門は、しばらく沈黙を置いてから、話しはじめた。
「本郷菊坂台町の、むなつき坂を下ったところに、怨霊《おんりょう》屋敷がある」
「怨霊屋敷?」
「旗本たちは、ひそかに、そう呼んで居る。大番組八千石、近藤右京亮友資。旗本の中で、これ以上の高禄の三河譜代は居らぬ。と同時に、これほど陰惨な家系を持った旗本も居らぬ」
「…………」
≪どぶ≫は、息をつめた。
「近藤家は、代々必ず一人は、狂人か白痴が出て居る。げんに、当主右京亮友資は、二十年前に、乱心して、爾来《じらい》一度も登城して居らぬ。すでに、六十を越えて居るし、生来、おとなしい性情ゆえ、乱心はしても、見たところは常人とかわらぬ模様だが、口走ることは人をおどろかせるらしい。長男市之助は、三十を越えているが、いまだ七、八歳の知能しか持たぬ。市之助には、妹が一人いる。これは、絶世と申してよい美女だが、あわれにも、片端《かたわ》だ」
「へえ。足でもわるいので?」
「いや、わしと同様、闇の中に居る」
「めくらで――」
「左様。呪《のろ》われた血統も、きわまって居る。しかし、これは、先祖が悪業を積んだむくい、という次第ではないようだ。代々、狂人、白痴、片端が生まれるに就いては、それなりの原因があるのであろうが、まだ、わしの調べは、そこまでは及んで居らぬ。……ところで、お前に、やってもらいたいことは、近藤の屋敷に忍び入って、来月、上様へ献上する近藤家の家宝のひとつ大盗正宗を、守ってもらいたいことだ」
「へえ――」
「大盗正宗は、太閤秀吉が、関白であった頃、首級を狙って寝所へ押し入って来た盗賊石川五右衛門を、足ばらいにして、しりぞけた、といういわれを持つ名刀だ」
十
左門は、つづけた。
「大坂夏の陣に、炎上する大坂城へ一番乗りした近藤右京亮友一は、自刃した豊臣秀頼を、発見し、その咽喉を突いた大盗正宗を、取って来た。その武勲によって、大盗正宗は、そのまま、近藤家の家宝として、下し置かれた。……さて、このたび、征夷《せいい》大将軍|譲職《じょうしょく》にあたり、特にもとめられて、近藤家より、その大盗正宗が、献上されることになった」
十一代将軍家斉は、五十年の永きにわたったその職を、いよいよ、来月はじめ、世子家慶に譲って、西ノ丸に移ることを、布告したのである。
当然、三百諸侯をはじめ、二万余の旗本は、身分地位に応じて、祝賀の品を献上しなければならなかった。
しかし、将軍家の方から、その品を指定されたのは、近藤家の大盗正宗だけであった。
家慶は、守護刀を欲しい、と云い出し、老中が、それならば、近藤家の大盗正宗こそふさわしゅう存じます、と言上したのである。
「ところで、先日、近藤家の用人佐倉なにがしが、わしに、内々で、面談を申し入れて参った」
左門が、会うと、佐倉某は、左門配下の手練者をえらんで、大盗正宗の守護を願い出たのである。
しかも、近藤家の人々にも気づかれぬように、姿をかくして、物蔭から、そっと守護して頂きたい、ということであった。
「大盗正宗を、狙う者がいる気配があるのか?」
左門が、問うと、佐倉は、
「不吉な予感とでも、申しましょうか、このところ昼夜、おちつきませぬ」
と、妙にあいまいなこたえかたをした。
もし、大盗正宗が盗まれれば、近藤家は、それを口実として、改易《かいえき》になることは、明白である。
ただでさえ、嫡子が白痴である近藤家の存続は、おぼつかぬのである。
当時、旗本としては、不具はもとより、病弱の者は、将軍家ご馬前のご奉公ができぬ、として、家を継ぐことは許されなかった。
近藤家の嫡子市之助に、家督を襲う資格はなかった。
ところが、右京亮友資は、市之助がまだ十歳の頃に、狂人となってしまい、廃嫡にして、養子を迎えることができなかったのである。
用人佐倉としては、大盗正宗を献上するのを好機として、新将軍家慶に乞うて、市之助を廃して、あらたに、他家から秀才を養子に迎えようと、考えたのである。
佐倉が、主家大事に、生涯をささげて来た忠臣であることは、盲目の左門にも、瞭然《りょうぜん》とした。
ただ、佐倉が、なにか、肝心の事柄を、かたくかくしていることは、気にかかったが……。
左門は、佐倉の依頼を引きうけた時、すぐ、≪どぶ≫の顔を思いうかべたのであった。
十一
「≪どぶ≫、これは、ひどう辛抱を要する仕事だ。献上日までは、まだ二十日ある。それまで、近藤の屋敷内に、ひそんでいなければならぬのだ。よいな?」
左門に、そう云われて、≪どぶ≫は、にやりとした。
「五年前、京から江戸まで、畑の芋を盗んでかじりかじり、辿《たど》りついた二十日間にくらべりゃ、楽なものでございます。……ところで、御当主が狂気、御嫡子が痴呆、お娘御がめくらで――いってえ、その名刀を、どなたが、守っておいでなので?」
「たぶん……、雪という娘であろうな」
「めくらで、守れましょうか?」
「わしは、一度会ったことがあるが、打てばひびく頭脳の冴えがあった。ただの娘ではない」
「その名刀が、一度や二度、雲がくれしたことがあるんでございましょうかね?」
「あったろうな。それでなければ、用人が、わざわざ、わしにたのみには参るまい」
「殿様――。場合によっては、この十手を抜いても、かまいますまいね?」
「お前は、岡っ引だ。十手の使いかたを、もうすこし心得たら、どうか」
「へい。……では、これで――」
≪どぶ≫はペこりと頭を下げると、縁側へさがった。
「≪どぶ≫――」
左門が、呼びとめた。
「へい」
「念のために、もうひとつ、教えておく。怨霊屋敷には、近藤家の遠縁にあたる浪人者が食客になって居る。これは、腕は立つ。忍び入ったお前を発見すれば、襲いかかるであろう。敵《かな》わぬかも知れぬぞ」
「わかりました。では、いずれ、のちほど――」
≪どぶ≫は、庭を横切って、裏門から出ようとして、そこで、小間使いの小夜に会った。
御家人の娘で、≪どぶ≫は、こんなういういしい娘を二人と知らぬ。ようやく十七歳になったばかりであった。
盲目の左門にとっては、小夜は、なくてはならぬ手足であった。
「小夜さん、まだ、殿様のお手がつきませんかい?」
≪どぶ≫は、いきなり、ぶしつけな質問をした。
「存じませぬ」
小夜は、頬をそめて、視線をそ向けた。
「もったいねえ。殿様も、案外野暮だ。……小夜さんの方から、寝所へ押しかけちゃ、どうでげしょうな」
「そんな――、いやな親分ですこと」
「へへ、親分と呼んでくれるのは、小夜さんだけだ。こんど来る時は、土産を持って来やすぜ。欲しいものを云っておくんなさい」
「なにも欲しゅうはありませぬ」
「天竺《てんじく》渡りの緋牡丹《ひぼたん》の手絡《てがら》なんざ、どうでげす?」
「要《い》りませぬ」
「へへ、かけて欲しいは薄なさけ、か。
ぬしに逢う夜は、小萩の笑顔、
かたみ小袖を波こえて、
末の松山、末までも、
かわるまいぞえ、百夜《ももよ》草
と来た」
忍びわざ
一
町小路屋敷を出た≪どぶ≫は、顔に似合わぬ佳《い》い声で、流行《はやり》歌を口ずさみながら、やがて、両国橋を渡った。
竝《なら》び茶屋の前を、行きすぎようとすると、
「ちょいと、≪どぶ≫旦那」
声が、かかった。
視線を向けると、緋毛氈《ひもうせん》をかけた茶のみ台に、長船《おさふね》あたまの、小股のきれあがった女が、放俗な姿勢で、笑っていた。
「てめえが、旦那をくっつける時には、ろくなたのみをしやがらねえ」
そう云いながらも、≪どぶ≫は、そばへ寄った。
「なんでえ?」
「あたまから、そうぽんぽんお云いでないよ」
女は、目もとに媚《こび》をうかべた。
「おい、ことわっておくが、てめえとおれとは、同じ追いつ追われつでも、色のかけひきじゃねえんだぜ。巾着《きんちゃく》切と岡っ引の間柄だぜ。たやすく、身内面をしてもらうめえ」
女は、はなれ島のお仙という≪すり≫であった。
「とんでもない。あたしが、いつ、おまいさんを、仲間あつかいにしたのさ。どんな時でも、ちゃんと、折目色目をわけて、たてまつっているじゃないか」
「置きやがれ。……用件ぬかせ、用件を――」
「まま、こなさんは、そのようにせかさずと、もそっと、こちゃへ、寄ってたもいのう」
「ちぇっ! 脳天が破れたような声を出しやがるねえ。てめえは、おれが、金輪際、女にもてねえ、と見くびっていやがるが、男は、面じゃねえぞ。心意気だ。てめえ自身いつの間にやら、おれに、少々いかれてやがるに相違ねえんだ。てめえ自身が、気づいていねえだけよ」
≪どぶ≫は、そう云って、お仙の手をにぎった。
「そろそろ往生《おうじょう》してもいい頃合だぜ」
「腕も立つし、心意気もあるこなさんだけどねえ、抱かれた時に、つい、あたしゃ、薄目をあけて、男の顔を見ることがあるんでねえ」
「このあま! ふざけやがって――」
≪どぶ≫は、お仙を突きはなすと、
「ぬかせ、用件を――。おれは、いそいでいるんだ」
「≪どぶ≫旦那。はなれ島のお仙が、後生一生のお願いを、きいておくれな。ね、おまいさんの親分に、会わせておくれ」
「なんだと?」
「あたしゃ、つい先日、竪川の置材木の上で、釣糸をたらしているおさむらいを見かけて、その佳い男っぷり、というよりも、なんだか、浮世の風もさけて通るような凄味《すごみ》のある様子に、ぞっこん、参っちまってね、どこの殿様か、きいたところ、町小路左門――三千石を返上して、与力の株を買った変り者、と教えられて、そいじゃ、≪どぶ≫旦那の親分じゃないか、やれうれしや、近づくてだてがあるわいな」
二
≪どぶ≫は、お仙のたのみをきくと、笑い出した。
「こいつは、お笑い草だ。女すりが、旗本の与力と、首尾したいと、岡っ引に、仲だちをたのむなんざ、前代未聞だ。……おい、お仙、陽気のせいで、少々頭が御座っているのじゃねえのか」
「本気さ。あたしゃね、浮気をした男は、一人や二人じゃないことは、かくさないよ。たんといましたさ。けどね、しんそこ、惚れて血道をあげた男は、一人もいないんだよ。日本中の神様に、誓ってもいいさ。……ところが、あの殿様を、ひと目見た時、なんていうんだろうね、女の血が疼《うず》いちゃった。それから、まる二日、そのお姿が、はなれないのさ。三日目に、やっと、自分をとりもどしたら、はっきり、わかったんだ。女は、男のために生きて死ぬんだ、と」
「あいにくだったな、姐御《あねご》。日本中の男をくどき落す自信があっても、あの旦那だけは、難攻不落だ。……第一、おめえ、町小路の旦那には、おめえの仇姿《あだ》は、見えねえのだぜ」
「あの、目蓋《まぶた》をとじて、じっと、釣竿をさしのばしておいでの姿が、あたしには、こたえられないのさ。……ね、おねがい! ひき合せておくれ!」
「駄目だ。あきらめな」
≪どぶ≫は、立ち上ろうとした。
「待っとくれ! あたしゃ、本気なんだよ。後生! おねがい!」
「うるせえ! ……おい、お仙、あんまり、男を≪こけ≫にするな」
「なんだって?」
「おれは、てめえと一度は、必ず寝てやろう、と肚をきめている男だぜ。その男に、人もあろうに、自分の親分と首尾させてくれ、とたのみやがるとは、なんてえこった! いい加減、頭に北山だあ! くそ面白くもねえ」
とび出しかけた≪どぶ≫は、ふと、脳裡《のうり》にひらめいたことがあって、お仙を見下した。
「お仙、おめえの料簡《りょうけん》次第では、ひき合せねえこともねえ」
「おや、急に、風向きが、かわったね」
「おめえの仲間に、大名屋敷へ忍び込むのに、馴れている野郎がいるだろう?」
「どうするのさ?」
「そいつに、一丁、忍びのわざを、教えてもらいてえんだ」
「岡っ引が、夜働きをするのかえ?」
「おい、いるなら、いると云え」
「そりゃ、いるわさ。でも、うっかり、おまいさんをつれて行ったら、あとで、小っぴどく、とっちめられるから、あたしゃ、まっぴらだよ」
「たのむ!」
「ほほ……、こんどは、≪どぶ≫旦那が、頭を下げる番になったね。じゃ、あたしのたのみも、きっと、きいてくれるんだね」
「お屋敷へつれて行ってやることだけは、約束してやる。あとは、おめえの腕次第だ。尤《もっと》も、ことわっておくが、町小路の旦那は、ただの色仕掛じゃ、金輪際、落ちねえぞ。肚をきめて、かかれ」
三
その夜、かなり更《ふ》けて――。
≪どぶ≫は、本所一つ目橋の袂《たもと》にある小料理屋の二階で、手酌で飲んでいた。
はなれ島のお仙が、ここで待っていれば、その男が、必ずやって来る、と教えてくれたのであった。
その二階の十畳の座敷は、ひくい衝立《ついたて》で、いくつかに、仕切ってあった。
しかし、もうこの時刻には、客の出入りは絶えていた。
しんとした重い夜気を感じながら、手酌で飲むのが、≪どぶ≫は、好きであった。
酒はつよく、もう六本ばかり空《あ》けていた。
≪どぶ≫は、左門のことを、考えていた。
――どういうんだろうな?
左門が、どうしてあのように、孤独な生活をつづけて、自分自身に対して、きびしい戒律を加えているのか、≪どぶ≫には、合点《がてん》がいかなかった。
左門自身その気になれば、いかようにも、その日を愉《たの》しむことができるはずであった。げんに、はなれ島のお仙という小股のきれあがった仇《あだ》っぽい莫連《ばくれん》でさえ、ひと目惚れしているのである。
左門は、女も寄せつけなければ、酒もたしなまず、人との交際ももとめようとせぬ。唯一の趣味といえば、釣だけであるが、それも、出かけるのは、一年のうち、かぞえるほどしかない。
≪どぶ≫が見かけるのは、常に、端然と坐った姿だけである。
――なにが、面白くて、生きていなさるのか?
≪どぶ≫は、双眼を閉じて、正座している左門の姿を想いうかべるたびに、妙に、胸の奥が押しつけられるような、息苦しさをおぼえる。
と――。
≪どぶ≫を、われにかえらせたのは、衝立を二つばかりへだてたむこうからきこえて来たいびきであった。
いつの間にか、人がいたのである。
――妙だな。
≪どぶ≫は、首をひねった。
――おれが、上って来た時には、たしかに、誰もいなかったんだが……。
酒を飲んでいるあいだにも、人の上って来る気配はなかった。
――ひそんでいやがったとしか思えねえが……?
自分につぶやいたとたん、≪どぶ≫は、はっとなった。
「そうか!」
≪どぶ≫は、腰をあげると、衝立ごしに、そこを見やった。
職人ていの男が、寝そべっていた。
≪どぶ≫は、衝立をまわって行くと、
「おい!」
と、声をかけた。
返辞はなかった。
豆しぼりで、顔を掩《おお》うている。
「おい、判ったぜ。おれが約束したのは、お前さんだろう。……起きてくれ」
≪どぶ≫に、うながされて、男は、ようやく、身を起した。
四
小肥りの、童顔といっていい、べつに特長のない四十男であった。
「一昼夜、ぶっ通しで、賭場《とば》にいたのでね、おまけに、オケラになったのですっかりくたびれたんだ。もうすこし、寝かせてもらえりゃ、よかった」
男は、そう云って、生あくびすると、「ねてい」と云った。
≪どぶ≫は、前に坐ると、
「おれが、上って来た時、あんたは、ここにいたかい?」
と、たずねた。
「いいや――」
男は、首を振った。
「わしが、そこの高窓から、そっと入って来た時、お前さんはまだ二本空けたばかりだったね」
――畜生!
≪どぶ≫は、肚《はら》のうちで、うめいた。
――この野郎、おれを、試《ため》しやがった。
全く気づかなかったのは、こっちの不覚である。岡っ引としては、この上もない恥というよりほかはない。
「お仙から、ききなすったろうが、おれは、≪どぶ≫だ」
「わしは、次郎吉とおぼえておいておくんなさい」
「見事な忍び込みぶりだ。かぶとをぬいだぜ」
「お前さんは、何か考えごとをしていなすったようだ」
「それにしてもだ。おれは、滅多にこんな不覚はとらねえ男なんだが……、一本参ったね」
≪どぶ≫は、正直にそう云って、にやっとしてみせた。
次郎吉と名のる男も、にこやかに見かえして、
「お仙さんの話だと、どこかの旗本の御大身の屋敷へ、忍び込むことを、企てていなさるとか……」
「ああ、そうなんだ。大番組八千石、本郷菊坂台町のむなつき坂を下ったところにある――」
「存じて居ります。怨霊《おんりょう》屋敷でござんしょう」
「あんたは、そこへ、忍び込んだことがあるのかい?」
「いや、べつに、わざわざ、怨霊にたたられに、忍び入ることもないので、塀を越えたことはありませんがね。噂だけは、きいて居りますよ」
「近所でも、そう呼んでいるのかい? おれは旗本仲間だけが、そう呼んでいるのだ、ときいたんだが……」
「旗本屋敷内のことは世間は知りませんね。わしも、別の旗本屋敷に忍び込んだ時、耳にしたんでさ。御当主が気が狂っていて、ご嫡男が痴呆《ちほう》で、お娘御がめくらだとか――」
「そうなんだ。その怨霊屋敷へ、おれは、忍び込む用があるのだ。しかし、おれは、武家屋敷へ忍び込んだ経験が、まだ、ねえのだ。要領というか、コツというものを、教えてもらいてえ」
五
次郎吉は、ちょっと、考えていたが、
「お前さんは、寝だめ、食いだめをしたことが、おありなさるか?」
と、たずねた。
「まだ、ねえやな。水っ腹で三日もすごしたことはあるが――」
「それが、できないと、忍び込みは、苦労だね」
「やってみるさ。おれには、それよりも、広い建物の中を、うろうろする方が、つらいように思えるぜ」
≪どぶ≫が云うと、次郎吉は、笑った。
「なに、廊下や座敷を歩くわけじゃねえ。天井裏をわたるのだ。方角をまちがえることは、滅多にないね。大名も旗本も、格式と石高《こくだか》で、それぞれ、造りがきまっているから、八千石屋敷の絵図面を見ておけば、たいがい、見当がつく。……ところで、お前さんは、怨霊屋敷の、どこらあたりを、のぞこうと考えていなさるので?」
「ある品が置いてあるところを、見つけて、そこに、しばらく、腰をおちつけてえのだ」
「ある品とは」
「それは、云えねえ。……あんたは、盗《ぬす》っ人《と》だろう。おれが云ったら、ひと足さきに、そいつを、盗み出すかも知れねえ」
「やけに用心ぶかいんだね」
「あたりめえじゃねえか。こっちは、生命がけの仕事を、引受けたんだ。横あいから、荒されちゃ、かなわねえ」
そう云う≪どぶ≫を、次郎吉は、じっと見まもっていたが、
「わしに手引きをさせると、忍び込むのも、造作はないのだが……」
と、つぶやくように、云った。
「おれは、岡っ引だ。盗っ人に手引きされたのじゃ、面目にかかわらあ」
「それは、まあ、そういうことだが、わしが、ここへ入って来たことにも、気がつかないようなうかつなところがあっちゃ、旗本屋敷へ忍び込むのは、考えものだね。すぐ、発見されて、追いまわされるおそれがある」
「いいから、コツだけを、教えてもらおう。礼はする」
≪どぶ≫は、ぺこりと頭を下げた。
次郎吉は、どうやら、≪どぶ≫に対して、好感を抱いた様子であった。
まず、こまかく、忍び込む手順を、教えてくれた。
それから、長い時間をひそむには、どのあたりがいいか。万一発見された場合は、どうやって、逃走すればいいか。などを、納得のゆく教えかたをした。
「有難てえ。これで、もうしめたものだ」
≪どぶ≫が、にやりとすると、次郎吉は、首を振って、
「その屋敷、屋敷で、思いがけぬことが起るものでね。ただ、要領とかコツとか、おぼえていても、必ずしも、その通りには、いかねえものだが……、まあ、やってみなさることだ」
「わかった。……ことわるまでもねえことだが、これは、秘密だぜ。他人にしゃべってくれては、こまるんだ」
≪どぶ≫は、念を押した。
六
同じ時刻――。
小梅村の夜道を、一|挺《ちょう》の駕籠《かご》が、ひそやかにやって来て、町小路家の門前で、停った。
小者が一人、供をしていた。
「お嬢様、ここでございます」
告げて、小者は、おろされた駕籠の前へ、草履《ぞうり》をそろえた。
あらわれたのは、お高祖頭巾《こそずきん》で顔を包んだ武家娘であった。
提灯《ちょうちん》のあかりに、浮きあがった姿は、なにかの化生のように、美しかった。
美しく生れたものが、そのまま、その美しさをみせているのではなく、この武家娘は、妖《あや》しい雰囲気《ふんいき》をただよわせるなにかを、心に持っているようである。
駕籠をそこに待たせておいて、武家娘は、小者に手をひかれて、潜《くぐ》り戸を入った。
いかにも、おぼつかない足どりは、闇のせいではなかった。
盲目だったのである。
表玄関で案内を乞うと、取次ぎに出て来たのは、もう古稀《こき》を越えたとおぼしい、からだが二つに曲った老人であった。
「かような夜半に、おうかがい申し、まことに、非礼のきわみでございまする。火急のお願いのために、非礼かえりみず、参上いたした次第にございます。近藤右京亮が女《むすめ》雪、ぜひとも、お目もじ叶《かな》いますよう、願い上げまする」
小者の口上は、それであった。
老人は、耳が遠いらしく、片手を耳にあてて、きいたが、
「しばらく、お待ちを――」
と、云いおいて、奥へ――長廊下をゆっくり歩いて、入った。
あるじの居間には、まだ、灯があった。
尤も、灯が入っていようといまいと、町小路左門の目には、どちらでもよいことだったが……。
老人は、廊下にうずくまると、
「殿――」
と、呼んだ。
「客か」
あるじの声が、打てばひびくように、応じた。
「はい。近藤右京亮様のご息女とか……」
「書院へ、通しておけ」
「かしこまりました」
老人は、ひきかえして行った。
居間では、その時、左門は、いっぴきの小猿を対手に、妙な遊びをしていた。
左門の右手には、半分ばかりに短く切った釣竿がにぎられていた。
てぐすのさきには、生きた鼠がくくりつけられていた。
畳の上を駆けまわる鼠にむかって、小猿が、狙いをつけて、ぱっと、とびかかる。瞬間、左門は、釣竿をはねあげる。鼠は、宙を舞って、小猿から、のがれる。
これが、くりかえされていた。
いかにも、盲人らしい遊びであった。
小猿は、どうしても、鼠が、とらえられないのであった。
左門の手練といえた。
七
鼠が、畳の上を、駆けまわるのは、早い。それに向って、とびかかる小猿の動作も、すばやい。
しかし、左門が、釣竿をはねあげるのは、鼠よりも小猿よりも、迅速だったのである。のみならず、小猿が鼠にとびかかる刹那《せつな》をはずさず、文字通り間一髪の差で、さっと、はねあげる手練は、まことに見事であった。
とうてい、盲人の業《わざ》とは思われないことであった。
左門は、なおしばらく、その遊びをつづけていたが、やがて、てぐすをたぐって、鼠をひき寄せると、自由の身にしてやった。
鼠は、必死になって、奔《はし》った。
それをめがけて、小猿が、跳んだ。
左門は、やおら、立ち上ると、廊下へ出た。
手さぐりで歩く必要はない。
わが屋敷内に於けるかぎり、左門は、目あきと同じように、歩くことができたのである。
書院に入った左門は、おのが座へ、しずかな足どりですすむと、就いた。
「近藤友資のむすめ雪にございます」
このような美しい声音《こわね》を、はじめて耳にした左門は、しかし、眉宇《びう》もうごかさず、
「お互いに、闇の中に住んでいる。自我は強くなる」
まず、そう云った。
「はい」
「思いつめると、夜中であろうと、かまわずに、人をたずねる振舞いも、その自我の強さゆえであろう。……ところが、それを受けるわたしの方は、そなた以上に、自我が強い。したがって、そなたにとっては、いかに必死の願いであろうとも、こちらには、同情とか憐憫《れんびん》の心は薄い、と思ってもらおう」
「わかりました。……でもお願いの儀、おききとり頂けるのでございましょうか?」
「うかがおう」
「先日、てまえどもの用人佐倉織部が、おうかがいいたしました由にございますが……?」
「うむ」
「たぶん、佐倉は、てまえどもが、このたび献上いたすことに相成りました大盗正宗の守護を、貴方様に、お願い申したのであろう、と存じます」
「その通りだな」
「そのことに就きまして……。佐倉のお願いを、取り下げたく、今夜、おうかがいいたしたのでございます」
「御当家用人は、大盗正宗を盗み取ろうとする者がいるゆえ、守護をたのんで参った。その危険はない、とそなたは云われるのか?」
「はい」
「それは、そなた自身の考えか?」
「はい」
「用人の話では、危険は今日にも、といった模様であった」
「いえ、その心配は、すこしもありませぬ」
雪は、きっぱりとこたえた。
「てまえどもの屋敷には、怪しい者は一人も、住まわせては居りませぬ」
八
旗本仲間から、「怨霊屋敷」とひそかに呼ばれている近藤家に、怪しい者は住んで居らぬ、と雪は、断言してみせたのである。
左門は、それに対して、しばし、沈黙を示した。
雪は、膝で手を組み、じっとうつ向いていた。
互いに、暗黒の中にいて、この夜中の寂寞《じゃくまく》を、受けとめている。
「ひとつ、うかがっておこうか」
左門が、云った。
「はい――」
「近藤家の先祖の一人に、寛永の頃、長崎奉行をつとめ、数万の切支丹《キリシタン》宗徒を、処罰した仁が居られる、ときいたことがある。まことであろうか?」
「まことでございます。右京亮友正と申されたその御仁は、当時、九州一円の信徒の怨嗟《えんさ》の的《まと》であった、ときいて居ります」
「その晩年は、いかがであったか?」
「狂い死をなされたとか……」
雪は、先祖の恥をかくさなかった。
「それだけ、うかがっておけばよい」
「あの……」
雪は、声音《こわね》に必死のひびきをこめて、
「わたくしのお願いを、おききとどけ下さいましょうか?」
「わたしが依頼を受けたのは、用人佐倉織部である。依頼を取り下げるのは、佐倉自身の口からであるべきかと思う。それが、筋道ではあるまいか」
「佐倉は、わたくしが、こうして取り下げに参ったときいたならば、不服をとなえるに相違ございませぬ」
「そなたには、気の毒だが、いったん引受けたものを、止めるわけにはいかぬ。……大盗正宗が、もし、盗まれたならば、近藤家は改易の危機に見舞われよう。佐倉が、お家大事に、大盗正宗を守ろうとするのは、当然であろう。そなた自身も、それをのぞんでしかるべきではないか。依頼を取り下げる気持が、奈辺にあるか知らぬが、近藤家の一員として、家のつぶされるのを、さけたい気持は同じであろう?」
「…………」
「佐倉織部も、そなたも、なにやら、肝心のことを、かくしているように、わたしには、思えるが、いかがであろう?」
「…………」
「話したくなければ、しいては、きかぬ。……ひきとって頂こう」
「では、どうあっても、わたくしのお願いを、おきき入れ下さいませぬか?」
「くどい」
左門は、冷然とこたえた。
老人が、入って来て、雪の手をとると、玄関へ、ともなおうとした。
いったん、廊下へ出た雪は、急に、それまでおさえにおさえていた感情を、ほとばしらせて、
「お願いでございます――」
と、叫んだ。
その悲痛な態度に、左門は、ある大きな疑惑をおぼえた。
九
雪が去ってから、なお、しばらく、左門は、書院に坐っていた。
「旦那様――」
小間使いの小夜の声が、廊下で、呼んだ。
「うむ」
「お夜食の用意ができました」
左門は、夜明けまで起きていて、午すぎまで寝ているので、三食がずれていた。
「ここへ、はこんでくれ」
「はい」
膳部が、左門の前へ、据えられた。芋粥《いもがゆ》であった。
左門が、食事についやす時間は、長い。小夜は、その給仕をしているのが、いちばん好きであった。
箸を置いた左門が、珍しく、小夜に、質問をした。
「そなたは、心の優しさは無類だが、それでも、自分のなかに、イヤなものがあるのに、気づくことがあるか?」
「はい、ございます」
小夜は、ためらわずに、こたえた。
「どういうことで、気づく?」
「飲んだくれの父を憎んだことがございます。くさい息を吐きながら、いびきをかいている父を眺めた時、いっそこのまま、死んで欲しい、と祈ったことをおぼえて居ります。すぐ、おそろしくなって、うち消しましたけど――」
「母をいじめた父が、憎かったのであろう?」
「はい。物心ついた頃から、母が苦労するのを、見せられましたゆえ……」
「父が亡くなった時、そなた、泣いたか?」
「いえ」
小夜は、かぶりを振った。
「泣きませんでした。……ほっといたしました。その時、自分のつめたさに、気がつきました」
「そなたでも、そうであったか」
「旦那様――」
「うむ?」
「女は、なにやら、ふかい業《ごう》を背負うているのではございますまいか?」
「そうは思わぬが……」
「わたくしは、そう思います。わたくしの心には、自分でもイヤになるものが、いっぱい、ございます」
「そなた自身は、それを嫌悪《けんお》していても、他人からみれば、むしろ、いじらしい心根かも知れぬ」
「そうでございましょうか?」
「そなたなどは、最もよく出来た娘だ。神様は、これ以上のつくりかたはできぬであろうな。ただ、喜怒哀楽《きどあいらく》の情を与えられているからには、泣きも笑いもしよう」
「わたくしは、そういう情を、おもてへすこしもあらわそうとなさいませぬ旦那様のようなおかたが、いちばんご立派だと存じます」
「そうではない。押えれば押えるだけ、わしの心中は、意馬心猿《いばしんえん》になって居る。わしのような男こそ、世の中ではおそろしい奴かも知れぬ」
怨霊屋敷
一
「いやなにおいがするな」
次郎吉が、云った。
近藤右京亮邸の庭の一隅――築山の深い木立の中であった。
大きな泉水をへだてて、母屋が、くろぐろと、闇に沈んでいる。
「におい? おれには、なにも、におわねえぜ」
≪どぶ≫が、けげんそうに云った。
「鼻でかぐにおいじゃないのさ。なんというのかね、古い屋敷には、それぞれ、長い歳月のあいだに、独特のにおいがただようものでね」
「そうか。……怨霊屋敷と称ばれているくれえだから、においもいやなものだろうな」
「これア、気をつけた方がいいな親分」
「親分は、止してくれ。柄じゃねえんだ」
「まさか、≪どぶ≫さんと呼ぶわけにもいくまい」
「≪どぶ≫と呼びすててくれりゃいいんだ。……もう、ここへ、ひそんで、半刻経つぜ。どうするんだ?」
「そろそろ、天井裏へ、忍び込んでもいいんだがね。……この仕事は、あせるのが、禁物なのだ。辛抱が肝心――」
次郎吉は、ようやく、腰を上げた。
≪どぶ≫は、あとにつづいた。
枝ぶりのいい小松のちらばった斜面を、そっと降りた次郎吉は、泉水のほとりへ立って、
「この水は、流れているのだな」
と、つぶやいた。そんなことに気づくとは、余裕のある証拠である。
「おもてに川は、ないぜ」
「裏手に、細いやつが流れているのさ。加賀宰相のお屋敷から、菊坂を落ちて、小石川へすてられている。水戸様のお屋敷を抜けているのだ。つまり、武家水さ」
地震、かみなり、火事、親爺――と恐れられた時代であった。
そのうちで、最も、心をくばらなければならぬのは、火事であった。
大名や旗本大身では、屋敷をつくる際、涸《か》れることのない水を引き入れることに、苦心したし、最も金をかけた。
火事の際、泉水というものが、重要な役割をはたしたのである。
いわば、武家屋敷専用の水が、江戸の市内には、無数に、流れていたのである。
ただ、年月が経《た》つにつれて、流れは、いたるところで、止ってしまい、修理の費用もないままに、大半の武家屋敷の泉水は、よどんでしまっていた。
泉水が、いつも、あたらしい水と入れかわっている屋敷は、珍しくなっていた。
この怨霊屋敷の泉水の水が、絶えず流れているのは、加賀邸から水戸邸へ通じているおかげであろう。
次郎吉という男は、流石《さすが》に、こういうことにまで、ちゃんと知識をそなえていた。
「お前さん、もし追われたら、この泉水に沿って、つっ走って、裏門近くで、どぶんと、とび込むんだな。もぐりがやれるなら、水門から、のがれ出ることができるぜ」
二
≪どぶ≫と次郎吉は、首尾よく、母屋《おもや》の天井裏へ、忍び込むことに成功した。
しかし、これからが、ひと仕事であった。
名刀大盗正宗が、どの部屋に置かれてあるのか、それをつきとめなければならなかった。
「これア、ひろすぎらあ!」
塵《ちり》のつもった梁《はり》の上に、とまった時、≪どぶ≫は、思わず、愚痴が出た。
闇は、見当がつかぬくらい、ひろく、ひろがっているのであった。
≪どぶ≫は、まだ要心して、次郎吉に対して、どんな品を見つけようとしているか、打明けてはいない。
したがって、自分で、さがしあてなければならないのであった。
「絵図面は、ちゃんと、見て来たはずだぜ、親分」
「それア見て来たことは、見て来たが、こうやって、忍び込んでみると、まるっきり、想像していたのとは、大ちがいだ。とんだ仕事を、引受けたものよ」
「愚痴はあとにしよう。……どういう部屋に置かれる品なのかね?」
「一番立派な座敷だろうな」
「それじゃ、書院だろう」
「いや、客に眺めさせるしろものじゃねえようだ。ともかく、この下がどこに当るらしい、と順々に、教えてくれねえか」
「一|刻《とき》も、歩けば、およそ、のみ込めるだろうね」
次郎吉と≪どぶ≫は、天井裏を移動して行った。
とある箇処で、次郎吉は、張りじまいの天井板をずらして、覗きおろしていたが、そっと、≪どぶ≫に、目をゆずった。
覗いてみた≪どぶ≫は、思わず、息をのんだ。
半白の頭髪の、白衣に白袴をはいた男が、厚い檜板の上へ、仰臥《ぎょうが》して、胸で手を組んでいた。
あたかも、死骸が、安置されているあんばいであった。
三方は壁、一方が太い格子になっている座敷牢であった。
この人物が、当主近藤右京亮であることは、まぎれもない。
――どういうのだ、これア?
狂人が、自ら好んで、そういう寝かたをしているのであろうか。
痩せさらばえて、ほとんど骨と皮になったその姿は、鬼気迫るものがある。
そのまま、息をひきとるのではあるまいか、とみえる。
「あきれたものだ」
顔をあげてから、≪どぶ≫は、吐き出した。
しかし、次郎吉の方は、妙な感心のしかたをしていた。
「狂っても、やっぱり、さむらいだね。ちゃんと、修業をしていなさる」
「修業?」
「あれは、修験道の修業に似ているよ」
三
≪どぶ≫と次郎吉は、場所を移した。
次に、次郎吉が、≪どぶ≫に覗かせたのは、これは、狂人の凄愴《せいそう》な姿とは反対に、なんとも、無邪気な光景であった。
すでに三十を越えたとみえる男が、内裏雛《だいりびな》を畳の上へならべて、ままごと遊びに、ふけっているのであった。
――あれが、長男の市之助か。
≪どぶ≫は、あきれて、隙間から目をはなすと、
「埒《らち》もねえ」
と、吐き出した。
「ものは考えようだな」
「どういうんでえ?」
「あの方が、幸せかも知れない、ということさ」
次郎吉が、云った。
「幸せだと? 冗談じゃねえ。ありゃ、生きたむくろじゃねえか」
「生きたむくろの方が、なまじ、正常の五感をそなえている人間よりも、はるかに、楽しい生涯を送っているのではあるまいかな」
「ふん――」
≪どぶ≫も、次郎吉からそう云われてみると、そんな気がしなくもなかった。
「ともかく怨霊屋敷とは、名づけやがった。もう一人、めくらの娘がいるんだったっけな」
「それじゃ、ついでに、その娘御も、上からのぞいてみなさるかい」
次郎吉という男は、まるで、わが家のように、隅ずみまで、間取りを知っていた。
梁《はり》をつたって行き、
「このあたりだな」
と、張りじまいの天井板を、ずらしてみて、
「そうだ」
と、云った。
みごとなカンといえた。
≪どぶ≫が、のぞいてみると、いかにも、娘の部屋らしいたたずまいであった。
なげしには、薙刀《なぎなた》が架けてあり、違い棚の下には、琴が置いてある。
茶道具も、片隅にそろっていた。
しかし、娘自身の姿は、見当らなかった。
行燈《あんどん》のあかりを、ほそめていないところをみると、ちょっと出て行ったのだ、と思われる。
「さて、案内はおわったね」
次郎吉は、云った。
「どうも、いろいろと――」
≪どぶ≫は、闇の中で、頭を下げた。
「わしは、これで、ひきあげるが……、お前さんは、ここで、夜あかしをしなさるかね?」
「しかたがあるめえ」
「夜あかししたら、明日の夜までは、動けねえが、いいかね?」
「昼間、抜け出るのは、危険かね?」
「盗っ人の常識さ。陽があるうちは、寝ているのがね」
次郎吉は、そう云ってから、かたわらをはなれた。
物音をたてずに、闇の中を去るわざは、≪どぶ≫に、いまさらながら、首を振らせた。
四
廊下に、衣《きぬ》ずれの音がしたのは、それから小半刻すぎてからであった。
娘の居間の上に、じっとうずくまっていた≪どぶ≫は、柄にもなく、胸をはずませた。
障子が、開かれた。
――おっ!
入って来た娘を、一|瞥《べつ》したとたん、≪どぶ≫は、思わず、胸のうちで、叫んだ。
――こりゃ、天女だ!
こんな臈《ろう》たけた、美しい女人を、≪どぶ≫は、まだ見たことがなかった。
吉原あたりにも、≪どぶ≫などの手がとどかぬ高嶺《たかね》の花の遊女は、いる。眺めただけで、むらむらとなって来るような色香の化身のような、みがきあげた仇姿である。
≪どぶ≫は、そういう美女しか、知らなかった。美女とは、そういうものだ、と思っていた。
あるいは、たとえば、左門の屋敷の小間使いをしている小夜のような、ういういしい娘を、≪どぶ≫は、あこがれていた。小夜のような娘を、一度抱くのが、≪どぶ≫の夢だった。
ところが――。
いま、おのが居間に入って来た盲目の武家娘を、見下した瞬間、≪どぶ≫は、女の美しさというものに対する観念を、一変させなければならなかった。
吉原の一流の遊女は、たしかに男心をそそるあでやかさは、あったが、清浄さとは程遠かった。小夜のようなういういしい生娘は、清純さを持っていたが、気品は匂うてはいなかった。
この盲目の武家娘は、清浄さと気品をかねそなえていた。のみならず、その美しさには、妖しいまでに、男心をまどわせる香をたたえている。
――どういうんだ、これア?
≪どぶ≫は、生唾《なまつば》をのみ込んで、自分に問うた。
――こんな美しい生きものが、この世には、いやがったのか!
じっと見下しているうちに、≪どぶ≫は、茫然と、われを忘れそうになった。
盲目ではあるが、わが居間に入ると、その動作にためらいはなく、娘は、茶道具に寄った。
ひとり、しずかに、点前《てまえ》をはじめたのである。
心をしずめるためであろう。
炭火を持参した年配の女中が、対手《あいて》であった。
おそらく、娘に、幼い頃からつかえているのであろう女中は、その心を万事心得ていて、世話をしているようであった。
点前《てまえ》がおわった時、女中は、
「もう、お一人で、外出なさいますことは、お止しあそばしませ」
と、云った。
「早瀬には、心配をかけました」
娘は、すなおに、あやまった。
早瀬と呼ばれた女中は、真剣な面持で、
「お嬢様!」
と、見つめて、
「なにか、お悩みがございますれば、この早瀬をお使い下さいませ」
五
盲目の娘――雪は、しばらく、こたえなかった。
やがて、
「やすみます」
と、告げた。
「はい」
早瀬という女中は、雪の手をひいて、次の間に入った。
当然、≪どぶ≫も、移動した。
早瀬に手つだわせて、白い寝召《ねめし》にきかえる光景を、≪どぶ≫は、息をのんで、見下した。
雪が、肌襦袢《はだじゅばん》と二布《こしまき》のみの姿になった瞬間など、≪どぶ≫は、思わず、ぶるるっと胴ぶるいしたことだ。
まず、普通の女なら、そういう姿になると、あまり色っぽいものではないが、この武家娘の場合は、例外であった。
肌襦袢も二布も、しっとりと、肢体にまつわりついて、夜の明りに、なよやかな曲線を浮きあげ、妖しいまでに女の美しさを示したのである。
――毎夜、こういう光景を見せつけられていると、おれも、気が狂うかも知れねえ。
≪どぶ≫は、抑制のきかなくなる自分の欲情を、おそれた。
「おやすみなさいませ」
早瀬は、挨拶をのこして、去って行った。
雪は、そのまま、すぐには、牀《とこ》に身を横たえなかった。
しばらく、牀の上に、正座して、何事かを思いふけっている様子であった。
どういう姿勢を保とうと、ともかく、美しすぎるのだ。
≪どぶ≫は、見まもっているうちに、どうにも我慢しきれぬ衝動で、歯をくいしばった。
股間が起した変化は、痛みをともなうばかりであった。
――まず、こいつを、しまつしなけりゃ、どうにもならねえ。
≪どぶ≫は、片手をおろして、おのが物を、ぎゅっと、つかみしめた。
と――。
雪が、すらりと、起った。
――おっ!
≪どぶ≫は、雪がこれから何をしようとするのか――それに、この男独特のカンをひらめかした。
雪は、闇の廊下へ、出た。
天井裏から尾《つ》ける≪どぶ≫は、全神経を耳に集めて、その衣《きぬ》ずれの音に従って、身を移すことになった。
衣ずれの音は、長い廊下を、忍びやかに、動いて行く。
――どこへ行くのだろう?
兄の部屋、父の座敷牢の前も、過ぎていく。
――いけねえ!
≪どぶ≫は、狼狽した。
天井裏が、それで、おわったのである。
雪は、母屋をぬけ出て行くのである。
≪どぶ≫は、下へ降りることを考えた。しかし、間に合いそうもなかった。
六
――くそ!
≪どぶ≫は、そこに、うずくまって、待つことにした。
ふたたび、衣《きぬ》ずれの音が、廊下からつたわって来るまで、動かぬことにした。
――それにしても、なんてえ美人なんだろう。ひとつ、内裏雛《だいりびな》のように、左門の旦那のそばへ、ならべて、夫婦にしてみてえ。
同じ闇の世界に佇《たたず》む男女である。
≪どぶ≫は、心から、そう思った。
そこで待っている時間は、短かった。
衣ずれの音をきいて、≪どぶ≫は、緊張した。
雪は、しずかに廊下をもどって行く。
≪どぶ≫は、その歩みにつれて、天井裏を移動した。
いつの間にか、盲目の娘に対してだけ、心を奪われて、屋敷内の他の怪しい動きをさぐることを、≪どぶ≫は、忘れていた。
雪は、寝室へもどった。
≪どぶ≫にとって、さいわいだったのは、行燈が、燈心を切って細められたまま、その仄《ほの》かなあかりをひろげていることであった。
そっとのぞき下したとたん、≪どぶ≫は、思わず、
――うむ!
と、胸のうちで、うなった。
雪の胸には、小刀が、抱かれていたのである。
――あれが大盗正宗か!
雪の振舞いに、直感を働かせたのは、正しかったのだ。
――あの娘が、宝刀を守る。そいつを、こっちが、天井裏から、守る。
≪どぶ≫は、闇の中で、にやりとした。
――こうなりゃ、二十日が二月でも、忍び甲斐があるぜ。
雪は、牀《とこ》の上に坐ると、小刀を膝へ置いた。
どこからはこんで来たのか知らぬが、雪は、自分で、この献上刀を、守護する決意をした模様である。
ずいぶん、長いあいだ、雪は、そうやって、身じろぎもせずに、坐りつづけていた。
暗黒の中で、この美しい娘が、いったい、なにを想っているのか――≪どぶ≫ならずとも、興味をひくことだった。
ようやく――。
雪が、身を横たえるのを見とどけて、≪どぶ≫は、そこをはなれた。
すべての部屋を、のぞいておかねばならぬことに、ようやく、気づいたのである。
しかし、天井裏を動きまわりながら、≪どぶ≫のまぶたの裏には、雪の寝顔が、こびりついて、どうしても、はなれようとはしなかった。
八千石ともなれば、部屋数は、多い。
そのひろさに比べて、使用人の数は、すくないようであった。
空部屋ばかりが、つづいていた。
≪どぶ≫は、そのうち、面倒くさくなった。
――今夜ぐらいは、こっちも、ねむらせてもらうことにするか。
七
その部屋は、別棟の離れにあった。
≪どぶ≫が、雪の振舞いを尾《つ》けまわしている時、二人の男が、その部屋で、対座していた。
一人は、用人の佐倉織部であった。
もう一人は、浪人ていの、三十前後の男で眼光が鋭かった。二年あまり前から食客になっている、須貝又十郎という兵法《へいほう》者であった。その無想流の腕の冴えは、西国一円で、かくれもない、という。
「……つまり、八千石乗っ取りか」
須貝又十郎は、長い対座の挙句《あげく》、薄ら笑いながら、云った。
「乗っ取り、と申しては、はばかりがござるが。……」
「結果は、そうなろう」
「たしかに、そうなり申すが――」
佐倉は、当惑の面持で、うなずいた。
佐倉が、須貝又十郎に打明けたのは、次のような話であった。
どうやら、今日まで、当主が狂人、嫡子が白痴であるにも拘《かかわ》らず、公儀から、廃家にされずに、見のがされて来たのは、老中水野出羽守に、賄賂《まいない》を欠かさなかったおかげである。しかし、このたび、将軍家が代るに当って、幕閣の権勢は水野越前守の手に移る。越前守は、賄賂のきかぬ老中である。
近藤家としては、このままでは、改易をまぬがれぬ。早急に、嫡男市之助を廃して、継ぐべき者を、他家より迎えなければならぬ。
ここに、考えられるのは、近藤家の親戚にあたる旗本から迎えるか、それとも、当主右京亮に最も血の近い者を迎えるか――いずれかである。
実は、右京亮には、かくし子があった。ただ、その生母が、深川の岡場所で働いていた、とうてい、世間にみとめられない素姓の女であったことである。
その子は、今年十四歳になる。さる貧しい御家人の養子にもらわれていた。近藤家から、多額の養育費が渡されたことは、勿論であった。
その御家人の家から、近藤家へ、嗣子《しし》として返そう、という申し出があったのは、五年ばかり前であった。
近藤家では、受けつけなかったが、最近になって、再び申し入れがあった。
実子であるからには、このことを考慮する余地もあった。
ただ、佐倉が、おそれているのは、御家人の家に、入智慧をする者がいるに相違ない、ということであった。
その少年を嗣子として引き取ることによって、近藤家が、乗っ取られる危険を、おぼえずにはいられなかった。
佐倉としては、親戚の旗本大身から、嗣子を迎えたい希望の方が、つよかった。
思案にあまって、佐倉は、須貝又十郎に、相談したのである。
しかし――。
この須貝又十郎という男も、佐倉には、油断のならぬ男に、思えるのだった。
八
「お主《ぬし》は、当家へ、れっきとした素姓の子弟を迎えたいのであろうが、怨霊屋敷と称ばれるこの家へ、はたして、嗣子としてやって来る者が、いるかな?」
須貝又十郎は、薄ら笑いながら云った。
「…………」
佐倉は、顔を伏せた。
云われるまでもなく、佐倉の不安は、そこにあった。
たしかに、部屋住みの、養子に行くよりほかに、将来に希望のない旗本の次男、三男にとって、八千石は、魅力に相違ない。
しかし、狂人の当主と白痴の嫡男を、背負わされるのだ。なにかのおそろしいのろいをかけられたような家を継げば、おのれにも、意外な災厄がかかって来るかも知れぬのだ。
それでもなお、八千石欲しさに、養子になろうとする者は、いやしい根性の持主ではあるまいか。
いや、たしかに、そうにちがいない。
そういういやしい根性の持主に、近藤家を渡すよりも、いっそ、当主のかくし子を迎えた方が、まだしも、なぐさめになろう。
「つまりだ、雪さんに惚れて、怨霊などものともせぬ、という若者が、現れれば、これは、話が別だな」
須貝又十郎は、云った。
「めくらではあっても、あれほどの美貌は、そこいらに、ざらに見受けられはせぬ。いや、もしかすれば、日本一の美しさとも申せる。……旗本のあいだでは、噂は高いが、まだ、雪さんの美貌を見た者は、ごく限られて居る。若い連中では、ほとんど、見た者は居るまい。……佐倉、どうだ、ひとつ、雪さんをつれて、旗本屋敷を、片はしから、歴訪してみては――。聟《むこ》取りの示威運動というやつだ」
「冗談を申される」
「冗談ではない。……そのうち、雪さんのためなら、生命もいらぬ、という若者が現れるかも知れぬぞ」
「まこと、そのような御仁が、入聟になって下されば……」
「そうさ。そうなれば、近藤家|安堵《あんど》、お主も一息つくというものだ」
「お嬢様なら、会う御仁すべてが、魂をとばして、魅入られましょうが――」
佐倉も、ふっと、又十郎のすすめに乗る気持に傾いた。
「雪さんに惚れぬ男がいたら、それは、よほどの朴念仁《ぼくねんじん》野郎だ。実は、おれも、惚れている」
「え?」
「いや、ただ、惚れているだけさ。居候《いそうろう》の分は、心得て居る」
又十郎は、笑った。
しかし、その笑いは、急に、ぴたりと止められた。
又十郎の視線が、鋭く、天井へ投げられたのである。
佐倉は、いぶかって、又十郎の視線を、追った。
又十郎は、やおら、すっと立ち上った。
九
立ち上ったとたん、又十郎は、おそるべき迅業《はやわざ》を、発揮した。
なげしの手槍をつかむが、はやいか、天井の一箇処を、つらぬいた。
ひき抜く。突く。
ひき抜く。突く。
またたく間に、六箇所も、天井板へ孔をあけた。
それから、舌打ちして、手槍を、なげしへもどした。
「く、曲者が、居りましたか?」
佐倉は、血相を変えて、問うた。
「ただの盗《ぬす》っ人《と》ではないようだ。おれの突きを、すべて、かわして、逃げた」
「そ、それは……」
「よほどの手練の者だ。盗みとは別のこんたんがあって、忍び込んで来たに相違ない。……佐倉、そのかくし子を養子にしている御家人は、どんな奴だ?」
「小日向刑部《こびなたぎょうぶ》、と申して、もう五十に手のとどく、大層な飲んだくれと、きき及んで居ります」
「あまり評判のよくない奴なのだな」
「左様――、借金がつもりつもって、妻女が素姓をかくして、料亭の仲居頭になっているという噂でござる」
「では――もしかすれば、小日向刑部が、やとった曲者かも知れぬ」
「なんの、こんたんがあって、忍び込ませたのでござろうか――」
「そうだな。……まず、考えられるのは、大盗正宗を盗むことだ」
「…………」
佐倉は、又十郎から云われるまでもなく、すでに、そうではあるまいか、と推理していた。わざと問うてみて、又十郎も自分と同じ考えをするのを、たしかめたのである。
佐倉が、町小路左門に、大盗正宗の守護がたを依頼したのは、実は、小日向刑部はじめ、近藤家乗っ取りを策す者たちを、警戒しなければならぬ、と考えたからであった。
大盗正宗を盗み取って、それを種にして、脅《おど》しかけて来て、無理矢理に、かくし子を押しつけて跡目相続させる。そういう陰謀を、佐倉は、予測したのである。
「佐倉、大盗正宗は、安全な場所に、置かれてあるのだろうな?」
又十郎は、たずねた。
「もとよりのこと」
その置き場所は、雪とこの自分しか知らぬ。又十郎に知らせることも、用心しているのであった。
「あの手練の者ならば、置き場所を、かぎあてるかも知れぬ」
又十郎は、云った。
「…………」
佐倉は、返辞をしなかった。
――あるいは、天井裏にいたのは、町小路左門殿から遣《つかわ》されて来た者かも知れぬ。
佐倉の心には、その考えも、わいていたのである。
――いずれにしても、あと二十日、必死の守護をしなければならぬ!
異変
一
次の日の黄昏《たそがれ》どき――。
食客、須貝又十郎が、ふらりと、雪を、その居間に、おとずれた。
「おじゃまつかまつる」
娘の居間に入る、礼儀として、障子を二枚あけはなっておいて、又十郎は、座についた。
「率爾《そつじ》なお願いをいたすが、お耳にとめられたい」
「なんでありましょうか?」
「旗本の次三男衆に、その美しいおすがたを見せる機会を、お持ちなさるまいか?」
「……?」
雪は、わずかに、首をかしげてみせた。
「食客のぶんざいで、さし出たことを申す、とお怒りかも存ぜぬが、近藤家の存亡が、貴女の肩にかかっている以上、これは、多くの人の意見を代表するものとして、おききねがいたい。……貴女は、大盗正宗を献上するのを機会に、聟《むこ》養子を、お迎えなさらねばならぬ、と存ずる」
「…………」
「このことは、それがしが、おすすめするまでもなく、貴女ご自身が、すでに胸に置いて居られるか、と存じまする。……ただ、貴女は、怨霊屋敷と称ばれる家になど、まともな聟養子が来てくれるはずもない、とあきらめが先立って居られるのかも存ぜぬ。……貴女は、不幸にして、ご自分の顔を、鏡の中で、ごらんになったことがない。貴女は、世にもたぐいまれな美貌をお持ちなのだ。いかなる男の心をも、溶《と》かす魅力を、そなえて居られる。貴女を眺めた旗本の次三男衆は、こぞって、聟養子たらんと、のぞむに相違ござるまい。これは、確信をもって、申し上げられる」
「…………」
「近藤家を存続させるためにも、また、貴女ご自身の幸せのためにも――貴女は、ひろく、その美しいお顔を、披露される必要がある」
「…………」
「いまひとつ、おつたえすれば、お父上のかくし子と称する今年十四歳の少年が、当家の嗣子たらんと希望している事実が、ござる。しかし、その少年の母親は、深川岡場所で、夜毎、無数の男と枕を交したいやしい女であり、はたして、お父上の実子か否か、疑わしい。とうてい、正式に迎える子では、あり申さぬ。このこともまた考慮されて、貴女は、決心なさらねば、と存ずる」
「ご厚意かたじけなく存じます」
雪は、頭を下げた。
「ご承知下さるか?」
「数日、考えてみとう存じます」
「お考えの挙句、拒まれるに於ては、近藤家は、滅びること必至《ひっし》でござるぞ」
「…………」
「近藤家が、当代をもって滅びてもよいのであれば、拒まれるがよろしかろうが……、貴女が、よもや、羞恥のために、自家を滅すとは、考えられぬ。……では、数日お待ち申す」
又十郎は、一人でしゃべっておいて、座を立った。
二
雪は、又十郎が去っても、同じ姿勢をくずさなかった。
うつ向いて、じっと、彫像のように、動かなかった。
やがて、老女の早瀬が、食膳をはこんで来た。
「どうあそばしました?」
早瀬は、けげんな視線を、雪の顔へあてた。
「お顔色がすぐれませぬが、お加減でも?」
「いえ――」
雪は、かぶりを振った。しかし、箸をとりあげたものの、また、膳へもどした。
「やはり、お加減が?」
早瀬は、はやく牀《とこ》に就くようにすすめた。
雪は、すなおに、したがった。
しかし――。
早瀬が去ると、雪は、掛具をあげて、しずかに、起きた。
天井裏には、≪どぶ≫がいた。
ほの白い素足が、畳をふむのを、見下して、≪どぶ≫は、二度も三度も、生唾をのみ込んだ。
――畳になりてえ!
心から、そう思ったのである。
あの美しい小さな素足で、胸やら腹やら、いや、顔でもかまわぬ、じわっとふみつけられたら、どんなに、気持がいいだろう。
≪どぶ≫は、べつに、自分を変態とは思っていなかった。
どんな男でも、あの素足で、ふまれたら、死んでもいいほどの快感をおぼえるに相違ない。≪どぶ≫は、そう思わずにはいられなかった。
雪は、手さぐりで、居間の厨子棚《ずしだな》に寄ると、例の大盗正宗を、とり出した。
そして、それを胸へかかえると、次の間へもどった。
牀の上に坐って、宝刀を、膝に置く。
それから、長いあいだ、うつ向いて、じっと動かぬ。
この振舞いは、前夜も、その前の夜も、同じであった。
――いってえ、なにを、考えているんだろうな?
≪どぶ≫には、見当もつかなかった。
昨日の昼、町小路屋敷へ、報告がてら立寄ると、左門から、雪の訪問を受けた、と教えられた。
「あの娘は、他人の守護は無用である、と申しに来た」
左門は、そう云って、なぜか、冷たい微笑をうかべた。
「わざわざことわりに参ったことに、興味をおぼえる。……あの娘が、刀を一人で守ろうとしているのであれば、お前も、見張り甲斐があろう」
「目に毒でしてね、寝召姿《ねめしすがた》など眺め下していると、むらむらっとなって、いつ、てめえが狼に化けそうになるか――その方が、心配でなりませんや」
≪どぶ≫は、正直に、告げたものだった。
三
左門は、≪どぶ≫の気持などは、一向に斟酌《しんしゃく》せぬ冷やかさで、
「これは、わしの予感だが、お前が、目をはなさずにいれは、必ず、なにか、異変が起るに相違ない」
と、云った。
「異変――ってえと、どんな?」
「そこまでは、わしも、予想がつかぬ。しかし、お前を狼狽させるほどの異変であろうことは、まず、まちがいはないようだ」
「曲者《くせもの》が十人も押し入って来るような異変じゃ、あっしは、手も足も出せません。まあ、むこうにまわして大立廻りをやらかすには、せいぜい、四人てえところでござんすかね」
「十人が二十人でも、お前は、ふせがねばなるまい」
「生命はひとつしか、ございませんよ」
「生命をすててもいいほどの美女ではないのか、雪という娘は――」
そう云われては、≪どぶ≫も、一言もなかった。
――さて、こうやって、天井裏から、眺め下している夜が、何日つづくかだ。
≪どぶ≫は、自分に、つぶやいた。
――十日も眺め下していると、もう、てめえ自身の欲情に制止はつかなくなるぜ。生命をすててもかまわねえ、と思うのは、その時だ。町小路左門ともあろう御仁が、この≪どぶ≫の肝心のところを、ご存じねえのだ。
たしかに、≪どぶ≫は、ものの三日も、女の肌に接しないと、いらいらして、無性やたらに怒りっぽくなって来るのであった。
女好きの男たちに、きいてみても、自分ほど極端なのは、いなかった。≪どぶ≫は、いつの間にか、おのれの体質は、特異に生れついているのだ、と思い込んでいた。
十四の折に、四十すぎた下女にとびかかって、男になった≪どぶ≫であった。
と――突然。
隙間風が、入ったのでもないのに、行燈《あんどん》のあかりが、急に、小さくなり、ふっと、消えた。
一瞬。
≪どぶ≫の脳裡を、不吉な予感が、走った。
予感は、的中した。
ものの十もかぞえぬうちに、鋭い悲鳴がほとばしった。
同時に、居間の丸窓が、蹴破られるような烈しい音をたてた。
――いけねえ!
天井裏に在るもどかしさに、≪どぶ≫は、かあっと全身の血をわきたてた。
闇に目は馴れているはずであったが、灯を失った直後の眼下の暗黒で、何が起ったかを、見とどける視力は、なかった。
≪どぶ≫は、とっさに、庭へ向って、身をおどらせることにきめた。
何者かが、侵入して、雪に悲鳴をあげさせておいて、庭へ逃げ去ったに相違ないのだ。
これは、疑う余地はないようであった。
≪どぶ≫は、鼠と化したような敏捷さで、天井裏を奔《はし》った。
四
しかし――。
月のある庭は、ただ、しいんと、ふかい静寂を保っているばかりであった。
≪どぶ≫は、庭の一隅に、突っ立った自分を、ひどく間抜けなものに、感じた。
一方――。
老女の早瀬が、悲鳴をききつけて、雪の居間へ駆けつけていた。
「ど、どうあそばしました? お嬢様! お嬢様っ!」
早瀬は、手さぐりで、行燈に寄ると、わななく手で、火打ちを打った。
闇を追いやって、赤いあかりが広がったとき、早瀬は、牀の上に、あられもない姿でうつ伏している雪を、見出した。
肩も下肢も、あらわにむき出されていた。
「お、お嬢様っ!」
早瀬が、馳《は》せ寄って、抱き起そうとすると、雪は、はげしく、首を振った。
「く、く、曲者を!」
「お嬢様! 曲者は、もう、あの窓から、逃げて居ります」
「い、いえ……、刀を――」
「え? 刀を、どう、なさいました?」
「大盗正宗を、曲者が、わたくしの手から、奪って……」
「えっ!」
早瀬は、仰天した。
もう一人、愕然《がくせん》と色を失った者がいた。
駆けつけて来た用人の佐倉織部であった。
佐倉は、そのまま、廊下を奔《はし》って、須貝又十郎を、呼びたてた。
又十郎は、離れから、とび出して来た。
「どうした?」
「曲者を、追って下されっ!」
「曲者が、どうした?」
佐倉は、奔り寄ると、あえぎあえぎ、
「お嬢様から、大盗正宗を、奪って、遁走《とんそう》いたしたのだ」
と、告げた。
又十郎は、庭を見わたし、侵入者ならば、ひそむであろう場所へ見当をつけて、疾駆《しっく》した。
佐倉は、はげしく、首を振って、
「こ、これは、内密に、せねばならぬ! 外にもらしては、ならぬ! 絶対に、内密に――」
と、自分に云いきかせた。
佐倉が、その寝室へひきかえして来た時には、雪は、もう身じまいをととのえて、牀の上に坐っていた。
「お嬢様!」
佐倉が、呼びかけると、雪は、うなだれた。
「織部、許して下され。……わたくしが、あさはかにも、刀を守ろうとしたのが、まちがって居りました」
と、詫びた。
「こ、このことは、内密に、いたさねばなりませぬ」
佐倉は、自分に云いきかせた言葉を、ここでも、くりかえした。
「は、はい」
雪は、うなずいた。
五
「お嬢様、曲者は、どのような者であったか、おわかりではありませぬか?」
佐倉は、たずねた。
「たとえば、忍びの術を心得た者のようであったとか……、あるいは、忍び込みには馴れていない者であったとか――」
雪は、首をかしげて、じっと思いかえしている様子であったが、
「忍びには修練のできた者のようであった気がいたします。……わたくしは、忍び入られた気配も、おぼえませんでした」
と、云った。
盲目の敏感な神経にふれぬように、忍び入って来て、宝刀を奪い去ったとすれば、よほどの手練者《てだれ》に相違ない。
「小日向刑部めが、忍者をやとったか!」
佐倉は、吐き出した。
この時、廊下に、黒い影がうずくまるのに気づいて、佐倉は、はっと、頭をまわした。
「なんだ、その方は?」
「へい。……町小路左門様から命じられて、お刀の見張りに参った岡っ引でございます」
「ぬけぬけと、申すな! お刀は、奪われたのだぞ!」
佐倉は、思わず、どなりつけた。
「見張りの役に、立たねえで、面目次第もございません。……弁解がましゅうございますが、あっしは、ここの天井裏に、いたのでございます」
「そ、それで、どうして、曲者が、忍び入って来たことに、気づかなかったのじゃ? うつけが!」
「全く、申しわけない次第でございます。……風のような曲者だった、と申し上げられます。行燈のあかりが、消えた。お嬢様の悲鳴がきこえた。窓が破られた。その間が、せいぜい五つもかぞえぬほどの短さでございました」
「行燈のあかりを吹き消したのならば、当然、この居間へ踏み込んでいたのではないか。……その方、居睡りでも、いたして居ったのであろう」
「冗談じゃねえ。あっしは、あかずに、お嬢様の美しい寝顔を――」
と、云いかけて、あわてて、首を振った≪どぶ≫は、
「曲者は、あかりのあるところへ、踏み込んじゃ居りません。これは、はっきりと申し上げられます」
それは、その通りだ。
張りじまいの天井板は、一寸以上もずらして、隙間をつくってあり、≪どぶ≫の目に、死角はなかったのだ。
「行燈のあかりが、都合よく、しぜんに、消えたものではあるまい。曲者が、消したのじゃ!」
「そりゃ、たしかに――。だが、どうやって、踏み込みもせずに、消しやがったのか、こいつは、謎でさ」
「たわけ!」
佐倉は、一喝《いっかつ》した。
「首をひねっている場合ではあるまい。曲者を追わぬか!」
六
翌朝――。
≪どぶ≫は、異変のおかげで、いまは、公然と、近藤邸内を、歩きまわる自由を、ゆるされた。
――どうも、合点《がてん》がいかねえ。
宏大な敷地を、くまなく、かぎまわって、泉水のほとりへもどった≪どぶ≫は、腕を組んで、首を振った。
いかに忍びの巧者でも、全く、その足跡をのこさぬ、というわけには、いかぬものである。のみならず、素人の目はごまかせるかも知れぬが、≪どぶ≫のような男の鋭い目から、忍び独特の足跡を、見のがされることは、できぬ。
ところが、その忍びの足跡は、どこにも、全く、ついていなかったのである。
――こいつは、謎が多すぎる!
≪どぶ≫は、目に見えぬほどのゆるやかさで流れている水面を、眺めながら、胸のうちで、つぶやいた。
――まるで、夜風のような曲者野郎だ。いや、夜風なら、音をたてるが、音も気配もなく、忍び入って、行燈のあかりを消して、刀をぬすみやがった。
もう一度、首を振った。
その時――。
≪どぶ≫は、ふと、泉水へかぶさるように組まれた石のわきのくさむらに、小さな浮子《うき》を、発見した。
なにげなくひろいあげてみて、
――鯉を釣る阿呆もねえだろうが……。
と、けげんに、眺めた。
――あの白痴の市之助が、釣るのだろうか?
そうとしか、考えられなかった。
「おい!」
不意に、背後から、声がかかった。
≪どぶ≫は、ふりかえって、そこに、須貝又十郎を見出した。
≪どぶ≫は、まだ、この食客とは、顔を合せていなかった。
「なんだ、お前は?」
「へい。岡っ引でございます」
「岡っ引が、どうして、旗本屋敷へ、入り込んで居る?」
「ご用人にたのまれましてな。お刀を見張りに参りましたので――」
「大盗正宗は、昨夜、盗まれたぞ」
「あっしは、その時、お嬢様のお居間の天井裏に居りましたので、へい」
「なんだと?」
≪どぶ≫は、険しい形相になった又十郎へ、にやっとしてみせて、
「旦那は、お出来なさる」
「なに?」
「旦那が突きあげなすった手槍で、あっしは、あやうく、片端《かたわ》になるところでござんした」
「あの曲者は、お前だったのか!」
「へい。天井裏をはいまわっているうちに、あの離れへも、おうかがいしちまった次第なんで――」
又十郎は、不快な面持になった。
七
「刀は、盗まれたのだ。もう、お前のような奴は、用はない。去れ!」
又十郎は、冷やかに、云った。
「そうはいかねえんで……。見張り役の落度でございますからね。さがし出さなけりゃ、面目ねえ」
「天井裏で、見張って居るさなかに、盗まれるような間抜けに、どうして、とりかえせるか! 出て行けと申したら、出て行け!」
≪どぶ≫としては、屋敷の隅々までさがして、徒労だったのだから、いつまでも、とどまっている必要もなかった。
「なんとか、さがし出して、持参いたします。それじゃ、ご免なすって――」
腰をかがめておいて、歩き出した。
刹那《せつな》――。
抜きつけの凄《すさま》じい一太刀が、背後から、襲って来た。
≪どぶ≫は、叫びとともに、置石を蹴った。
全く予想もしない不意撃ちであったので、辛じて両断をまぬがれる業《わざ》しかつかえなかった。
≪どぶ≫は、もろに、水面へ、おのが五体をたたきつけた。
ひともぐりして、首をのぞかせた≪どぶ≫は、ぶるっと水を振りはらって、
「冗談じゃねえ!」
「貴様、生かしては置けぬ!」
又十郎は、仕損じたおのれに腹を立てて、呶号《どごう》した。
「斬られる理由は、ありませんぜ」
「ある! 貴様が、大盗正宗が盗み去られたことを口外せぬ、という保障は、どこにもない!」
「てめえの落度を、てめえの口からばらすばかはいねえ」
「用人から依頼されただけの役目だ。責任を負う、という料簡が、貴様にあるかどうか、疑わしい」
「ずいぶん疑いぶかいご浪人だ」
≪どぶ≫は、そう云いながら、水中に立ちあがった。泉水は、意外に浅く、腰までしかなかった。
「貴様! 貴様自身が、そもそも怪しい奴だ。ただの岡っ引が、おれの槍や刀を、こうも見事にかわせるものではない。大盗正宗を、盗んだのは、実は、貴様かも知れぬぞ!」
又十郎は、泉水へふみ込んで来ようとした。
そこへ――。
佐倉織部が、あたふたと、駆けつけて来た。
「須貝殿! その男を討つのは、無用になされい!」
≪どぶ≫が、与力町小路左門から、遺《つかわ》されて来た男であることを告げて、佐倉は、又十郎に、白刃を腰に納めるように、うながした。
又十郎は、町小路左門という盲目の旗本のことは、きき知っていた。
「このこと口外させぬように、しかと、申し渡しておかねばなるまい」
又十郎は、佐倉へ、念を押しておいて、去った。
≪どぶ≫は、文字通りどぶ鼠になって上って来た。
八
「あの長屋へ参れば、着換えの着物があるはずじゃ」
佐倉は、云いおいて、歩き出そうとした。
「ご用人さん――」
≪どぶ≫は、呼びとめた。
「若殿様は、この泉水で、鯉釣りをなさいますかい?」
「なにをたわけなことを申す」
「へへ、それだけうかがっておけば、よろしいんで――」
≪どぶ≫は、遠ざかりながら、
――浮子《うき》が曲者《くせもの》か。
と、つぶやいた。
つぶやいたとたん、脳裡に、なにやら、ひらめくものをおぼえた。
その夜は、≪どぶ≫は、長屋の小者部屋で寝た。
あとから思いかえせば、岡っ引としては、最もうかつな一夜をすごしたものであった。やはり、雪の居間の天井裏へ、忍ぶべきであったのだ。
宝刀を奪い去られたからには、雪の寝顔を眺め下してもしかたがない、と思ったのである。事実、≪どぶ≫は、ひどい睡眠不足だったのである。
翌朝はやく、≪どぶ≫は、近藤邸の裏門から、ぬけ出した。
ものの二町も行かぬうちに、背後から、ポンと肩をたたかれた。
ふりかえると、次郎吉が、にやにやしていた。
「なんだ、お前さんか。泥棒猫みてえに、足音を消して忍び寄りやがるから、びっくりするじゃねえか」
「のんびりしていなさるようだが、いいんですかい?」
「べつに、のんびりしているわけじゃねえが……」
「あわてなすっても、いいようだ」
「なんだと?」
「むこうの辻番を、のぞいてみなさるといい」
「なんだ!」
「行けば、判る」
「気を持たすねえ」
その辻へ、≪どぶ≫は、いそいだ。
当時、武家地にあるのを辻番といい、町方にあるのを自身番といった。辻番は、大名旗本屋敷持ちで、町方の同心や岡っ引は、無関係であった。
辻番の役人は、武家屋敷を守るために詰めて居り、十手などは持っていなかった。町奉行所支配ではなかったのである。
したがって、≪どぶ≫は、自身番へ立寄るあんばいには、いかなかった。
突棒、差股《さすまた》、袖がらみなどが、かざってある番所の前へ来ると、六尺棒を小脇にかかえた番人に、ぺこりと頭を下げて、
「へい、お早ようございます」
と、挨拶して、
「ちょっと、なかをのぞかせて下さるわけには、参りますまいか」
と、願った。
「死人は、お前の知りあいか?」
番人が、問うた。
――そうか、次郎吉が見ろと云ったのは、死人なのか。
九
「へい。……そのう、ちょっと、心あたりがございまして――」
≪どぶ≫は、云った。
「あらためるがよかろう」
「有難う存じます」
土間に入って、こもをかぶせてある死人に、≪どぶ≫は、近寄った。
板の間には、若い役人がいて、
「岡っ引――。見ても、わからんぞ」
と、云った。
「ごめんなすって」
≪どぶ≫は、こもをあげてみた。
――これは!
唖然となった。死人には、首がなかったのである。
成程、役人が、見てもわからぬ、と云ったはずである。
「旦那、こいつを、川から、ひろいあげなすったので?」
≪どぶ≫は、役人を視《み》た。
「うむ。むこうの水門の前に、ふわふわ浮いて居った」
役人の指さした方角の水門は、近藤邸のものである。
――辻斬りをくらった野郎じゃねえ。
≪どぶ≫は、死体を、ひっくりかえした。
その腰に、鳶《とび》口に似た道具をさしているのを、みとめて、≪どぶ≫は、
――うなぎ捕りか。
と、さとった。
――この川に、うなぎはいねえはずだ。
加賀屋敷から、水戸屋敷へ落ちる水である。よごさぬように、配慮されている。澄んで底までが見えるような流れに、うなぎなどが棲《す》む余地はない。
また、たとえ、うなぎやその他の魚がいたとしても、武家水を、町人がよごすことは、厳しく禁じられている。
うなぎ捕りなどが、こっそりもぐり込む流れではなかったのである。
≪どぶ≫は、その白くふやけた手に、細引の切れはしが握りしめられているのを、じっと見まもって、
――どうやら、合点がいったぞ!
と、自分にうなずいた。
役人に礼をのべて、辻番を出た≪どぶ≫は、水門に向って、いそいだ。
と――。
「≪どぶ≫の親分、首は、流れて、下にあるぜ」
その声が、かかった。
次郎吉であった。待っていたのである。
「どこに――?」
「隣の屋敷へ流れ込む際《きわ》に、ひっかかっている」
≪どぶ≫は、次郎吉に指さされて、そこへ、近づいて行った。
石垣に沿うて、数十本の杭《くい》がならんでいたが、そのなかほどに、藻《も》のように、頭髪が、ゆらゆらと、ゆれていた。
一|瞥《べつ》しただけでは、まさか、そこに人間の首が、ひっかかっているとは、わからなかったが、じっと見据えると、たしかに、胴をはなれたやつであった。
≪どぶ≫は、裾をまくりあげると、じゃぶじゃぶと、二間幅の流れへ入って行った。
十
杭にからんだ頭髪をほどいて、首を持ちあげた≪どぶ≫は、顔をしかめて、
「重いな」
と、云った。
往還に立っていた次郎吉は、辻番の番人や役人が、いそいで、近づいて来るのをみとめて、
「じゃ、あとで――」
と、歩き出した。
「待ってくれ、おれも、行く」
≪どぶ≫としては、死顔を見とどけておけば、もうここに用はなかった。
岸へあがった≪どぶ≫は、番人に首を渡しておいて、次郎吉と、肩をならべた。
「やっぱり、おめえさんは、辻番の役人に顔を見られるのを、きらうところをみると、もっぱら武家屋敷だけを狙う盗《ぬす》っ人《と》らしいな」
次郎吉は、しかし、それにこたえる代りに、
「わしは、あのうなぎ捕りを知っているよ」
と、云った。
「教えてくれ」
「佐兵衛という男で、もとは、渡り奉公の折助だった。近頃は、水道橋ぎわに、蒲《かば》焼きの店を出していた。店といっても、小屋がけに毛のはえたようなものだが……。わしは、ちょくちょく、寄っていた。佐兵衛は、器用な男で、焼きかたが上手だった」
「…………」
次郎吉は、じっと前方を見据えて、口をへの字にむすんでいる≪どぶ≫を、横目で見た。
「思案にあまった、という様子だね、親分」
「親分は、止してくれ、と云ってるじゃねえか」
「お前さんが見張っていたものが、盗まれたのかね?」
「そうだ、まんまとやられた」
次郎吉は、袂《たもと》から、浮子《うき》をつまみ出した。
「こいつを、泉水に浮かせておいて、水門口まで、細引をひいておいた。曲者野郎は、あれを盗んで、泉水へ走り寄って、浮子を切って、細引へ、あれを結びつけた。水門口で待ちかまえていた奴が、細引をたぐって、あれを取った。つまり、曲者野郎は、二人いた。水門口にいた曲者が、あの佐兵衛だ。邸内から抜け出した曲者は、佐兵衛に近づくと、いきなり、首を刎《は》ねとばしておいて、あれを持って、逃げやがった。……そういうことになるんだな」
「あれ、とは?」
「…………」
「刀じゃないのかね。大盗正宗――」
「あてやがった」
「近藤家が、宝刀を、新しい公方《くぼう》様に献上する、ということぐらい、わしの耳にも入っているさ」
次郎吉は、どうやら、≪どぶ≫をともなって、近藤邸へ忍び入った時から、≪どぶ≫がなにを見つけようとしているのか、ちゃんとさとっていたに相違ない。
「それにしても、妙だね」
次郎吉は、言った。
「泉水に沈めて、盗み出すような手間を、どうしてかけたのか」
その行方
一
次郎吉の疑う通り、曲者は、刀をつかんでそのまま、屋敷を抜け出して行けばよかったはずである。それを、わざわざ、泉水に沈めて、細引をたぐって、水門口ヘ、ひき出したのは、どういうこんたんであったか。
≪どぶ≫は、しかし、いま、その疑惑に、頭を使っているいとまはなかった。
首を刎ねられた佐兵衛といううなぎ捕りが、曲者の一人であることは、まちがいないのだ。
まず、佐兵衛の身辺を洗ってみなければならぬ。
「成程、これアうすぎたねえや」
繩《なわ》のれんが、半分ばかりちぎれた店の前に立って、≪どぶ≫は、首を振った。
『うなぎ売ります』という木札がぶらさがっているので、蒲焼き屋とわかる。万《よろず》川魚の掛行燈もない。
のれんをくぐって、入ってみると、腰掛け樽が三つばかり置いてあるだけで、焼き台に火もない。勝手をのぞき込んでみると、鰻船は、空であった。
「おい、誰か、いねえか?」
呼んでみたが、しいんとして、人の気配はなかった。
――佐兵衛という奴は、独身者か。
次郎吉に、それをききもらしていた。
もう一度、大声をかけてみて、≪どぶ≫は、舌打ちして、おもてへ出た。
とたんに、凄じい、白刃の一撃が、まっ向から来た。
「おっ!」
≪どぶ≫は、のけぞって、背中を烈しく障子へぶちつけつつ、辛うじて、すれすれに、切先を鼻さきに流した。
「なんでえ!」
土間へ、退《さが》った≪どぶ≫は、第二撃を警戒しながら、ひややかに、刺客を観察した。
覆面をした、着流しの浪人ていの男であった。
不意撃ちを失敗した狼狽をかくしきれず、突きの構えをもって、ふみ込んで来ようとした。
「てめえか、刀を盗みやがったのは――」
≪どぶ≫は、じりじりと、壁ぎわへ寄りながら、にやりとした。
「ええい!」
懸声もろとも、電光の突きが来た。
≪どぶ≫は、余裕をもって、体をひらくと、閃光《せんこう》を流しざま、手刀を、刺客の手くびへくれた。
「うっ!」
たたらを踏むやつを、足がらみにして、のめらせておいて、≪どぶ≫は、その背中へのりかかった。
「へへ……、そこいらの岡っ引とは、チトちがうぜ。じたばたせずに、往生際を、きれいにしてもらおう」
片腕をねじあげておいて、その顔を包んだ黒い布を、はぎとった。
意外に、年配であった。
無精髭《ぶしょうひげ》をはやして、いかにもみすぼらしい面相である。
「刺客|面《づら》じゃねえや」
二
「さあ、きこうじゃねえか。どうして、おれを斬ろうとしたかだ」
後手にしばりあげた刺客を、奥の三畳間へひき据えて、≪どぶ≫は、ひややかに見据えた。
刺客は、むすっと、口をつぐんで、こたえぬ。
「そいじゃ、こっちから、おめえをやとった奴を、云ってやろうか。いま、近藤家乗っ取りを企てている御家人がいる。小日向刑部という奴だ。おめえは、その小日向刑部にやとわれて、大盗正宗を盗み出し、仲間の佐兵衛を殺し、ついでに、かぎまわる岡っ引も、片づけようとしやがった。そうだろう?」
「…………」
≪どぶ≫は、こっちの話をききながら、刺客の顔に、はじめて耳にするけげんな表情がうかぶのを、みとめた。
――ちがうな!
≪どぶ≫は、看《み》てとりつつも、
「どうだ、図星だろう」
と、云った。
「看破《みやぶ》られ申した」
刺客は、こたえた。
「ふざけるな!」
≪どぶ≫は、怒鳴りつけた。
「てめえみてえな尾羽打ち枯らした痩《やせ》浪人を、刺客にやとうほど、ヤキがまわっている直参《じきさん》が、どこにいる。刀を盗んだのも、てめえじゃねえ。……ありていに、泥を吐かねえと、その腕を一本、へし折るか、片目を突きつぶすぞ!」
≪どぶ≫は、きめつけた。
「許されい!」
浪人者は、卑屈に、頭を下げた。
「だから、泥を吐け、と云ってるんだ」
「それがしには、子供が六人、居り申す」
「それが、どうした?」
「佐兵衛殿から、先月、三両の金子をめぐまれ、おかげで、どうやら、生きのびることができ申した。……昨日、佐兵衛殿より、ある危険な仕事をしなければならなくなったゆえ、手助けをたのむ、と依頼され、引受け申した」
「ふむ、それで?」
「この店へ、亥刻《いのこく》(午後十時)頃に来て、待っていてくれるように、と云われて、待って居り申したが……、ついに、佐兵衛殿は、帰って参らず――夜明かしつかまつった」
「朝になって、岡っ引がやって来て、さぐる恰好をしたので、こやつが佐兵衛の敵かと思って、斬りつけた、というわけか」
「その通りでござる。……佐兵衛殿は、もとは、武家奉公をされた仁で、人格が成って居り申す。悪事を働くような人物ではござらぬ。それがしが、誓って申し上げられる」
その言葉に、嘘はないようであった。
「いまとなっては、善玉か悪玉か、しらべようはねえや」
「では、やはり佐兵衛殿は……」
「死んだよ、首を刎ねられてな」
≪どぶ≫が、告げると、浪人者の顔からさらに一層血の気が引いた。
三
それから五日間、≪どぶ≫は、江戸市中を、足を擂《す》り粉木《こぎ》にして、歩きまわった。
刀|鍛冶《かじ》、研《とぎ》師、刀屋、そして、刀の蒐集《しゅうしゅう》に熱中している町人を、片っぱしから、たずねまわったのである。
徒労であった。
「あァあ!」
≪どぶ≫は、本所一つ目橋|袂《たもと》の小料理屋「ひさご」の二階で、手枕になると、
「参った、参った」
と、大声をあげた。
衝立《ついたて》でいくつかに仕切られた座敷には、もう客の影もなかった。
どうやら、≪どぶ≫は、ここで、夜明しするつもりである。
≪どぶ≫は、家を持たない男であった。
――どうでも、左門の旦那に、頭を下げなけりゃ、ならなくなったか。
≪どぶ≫は、それをやりたくないばかりに、一人で、躍起になって、盗まれた宝刀を、さがしまわったのであった。
大盗正宗は自分の目の前で、盗まれたのである。おめおめと、左門の前へ出て、そう報告をできるものではなかった。
しかし、いかに、躍起になっても、手がかりさえもつかめなかった。
――しようがねえ。
≪どぶ≫は、観念した。
――左門の旦那に、恥を打明けて、智慧《ちえ》をかりるよりほかはあるめえ。
そうつぶやいた折であった。
衝立を三つばかりへだてたむこうの席から、しぶいのどの端唄《はうた》が、きこえて来た。
鶏《とり》の声、鐘の音さえ、身にしみて
いとどさびしき寝やの内
待つ身はつらいひじまくら
思わせぶりな、ほととぎす
≪どぶ≫は、はね起きた。
衝立を蹴とばすようにして、近づくと、その席で、手酌で飲んでいたのは、次郎吉であった。
「おれを、≪こけ≫にしやがるのか、盗っ人野郎!」
噛みつくようにどなる≪どぶ≫を、次郎吉は、微笑で見上げて、
「おちつくことだ」
と、云った。
「これが、おちついていられるけえ!」
≪どぶ≫は、むかいへ腰を下すと、
「天に翔《か》けたか、地にもぐったか――刀は、消えちまって、皆目見当もつかねえ」
「そこで、智慧を貸すために、こうして、わしが来たのさ」
「なんだと?」
「お前さんは肝心のところを、看《み》のがしたようだ」
「なにを、看のがした、というんだ?」
「首さ」
「首?」
「そうさ、佐兵衛の首さ」
「佐兵衛の首が、どうしたというんだ?」
「当節、あれほど、あざやかに一刀両断できる手練者《てだれ》は、ざらにはいない、ということさ」
四
≪どぶ≫は、次郎吉の言葉をきいて、にわかに、目を光らせた。
「そうか! そこに気がつかなかったとは、≪どぶ≫一代の不覚!」
ぴしゃっと、膝をたたいた。
「あの刎《は》ねっぷりは、ただの腕前じゃねえ」
「そうさな。ひとつや二つの首を斬っただけでは、あれほど、見事に刎ねられるものじゃない」
「つまり――首を斬るのを、商売にしている男、というわけだ」
「まあ、そう見てまちがいはなさそうだ」
「首斬り袈裟《けさ》右衛門!」
≪どぶ≫は、立ち上った。
「親分、対手は、首斬り袈裟右衛門だ。まかりまちがえると、お前さんの首が、とぶことになるよ」
次郎吉は、忠告した。
「云われるまでもねえや。……しかし、そうと見当がついたからにゃ、腕を拱《こまね》いているわけにいかねえ。行って来らあ」
≪どぶ≫は、「ひさご」を、とび出した。
夜更けの街をいそぎながら、≪どぶ≫は、次郎吉に指摘されるまで、そのことに気がつかなかった自分のうかつを、
――間抜けめ!
と、ののしった。
燈台|下《もと》暗し、というやつであった。
首斬り袈裟右衛門は、小伝馬町牢屋敷からひき出された死罪の者の首を刎ねるのを、一手にひき受けている男であった。
十年ばかり前までは、山田朝右衛門が、その役であった。首斬り朝右衛門の名は、日本中で知らぬ者はないくらいであった。その朝右衛門が、老齢になって、弟子の袈裟右衛門に、役をゆずったのである。
袈裟右衛門は、浅草奥山をうろついていた浮浪の孤児であった。それを、山田朝右衛門が、ひろって、据物《すえもの》斬りを仕込んで、自分の後継者にしたのである。
袈裟右衛門は、師匠以上の腕前であった。また、性格も冷酷で、まるで、首斬り役になるために生れて来た、という評判であった。
いったい、首斬り役というのは、奉行所の役人でもなければ、公儀の禄《ろく》を食《は》んでいる武士でもなかった。ただの浪人であった。町奉行所の火方盗賊改めの与力から、依頼を受けて、死罪人の首を斬るのであった。
浪人山田朝右衛門が、この役を依頼されるようになった由来は、はっきりとしていない。
首斬り役には、同心がいた。しかし、その同心は、決して、首を斬らずに、浪人山田朝右衛門に、その役を代行させた。
死体の検死は、御徒《おかち》目付、与力、同心などが、牢屋役人とともに立ち合うのであるが、首斬り役を、その同心に代って、浪人が為《な》しても、べつに誰も、なんとも云わないのであった。いつとない慣例になっていたからである。
首斬りは、刀の研《とぎ》代として、金子《きんす》二分が、同心に与えられた。同心は、しかし、その二分を、朝右衛門には、渡さなかった。朝右衛門は、大名旗本大身から、新刀試しを依頼され、その礼金をもらっていたからである。
五
元禄の頃――。
御留守居与力を勤めていた旗本に、鵜飼《うがい》十郎左衛門という人物がいた。据物斬りの達人であった。身長六尺二寸、力量二十人力と称された巨漢であった。
三十歳の時、公儀お火の番に召出されて、将軍家御道具おためしを申しつけられ、二十六振りの刀で、死罪人の生胴を斬った。
首を刎ねるのは、抱き首に落す、といって、のど皮一枚をのこして、斬るのが作法であった。そうすれば、首は、その膝へ落ちて、自ら抱くかたちになる。のど皮一枚をのこさなければ、刎ねられた首は、一間余も飛んでしまって、見ぐるしいのであった。
十郎左衛門は、二十六人の死罪人を、一人のこらず、抱き首に斬り落してみせたのである。
十郎左衛門の名は一躍とどろき、将軍家のみならず、諸大名からも、新刀試しの依頼が、ぞくぞくと来た。
十郎左衛門は、死罪人を、牢屋から、自邸へ、はこんで来て、庭で、生胴試しをやった、という。それでも、間に合わず、辻斬りもやったとつたえられている。
三十歳からはじめて、六十歳で隠居した十郎左衛門は、三十年間に、千五百人を斬り、供養塔を巣鴨火之番町の自邸の庭と、伝通院開山堂のうしろに建てた、という。
この鵜飼十郎左衛門が、隠居するにあたって、後継者としてえらんだのが、山田朝右衛門という浪人者であった。
山田朝右衛門が、腕が立ったこともあろうが、旗本の中では、そのような陰惨な役目をひきうける者がいなかったに相違ない。
爾来《じらい》、山田朝右衛門は、幾代にもわたって、新刀試しの役目を継いでいるうちに、死罪人の首斬り役を一手にひき受けるようになったのである。
鵜飼十郎左衛門は、いやしくも二百石取りの旗本であったので、牢屋へおもむくことはせず、死罪人を自邸へはこばせ、あくまで、将軍家お道具おためし役である格式を保った。しかし、浪人である山田朝右衛門は、そういう格式など保つ必要はなかった。したがって、いつの間にか、首斬り役になったのである。
山田家は、麹町平河町にあった。
山田家へ行って、金子二分を出すと、肺病の薬として、人肝《ひとぎも》をくれる、という噂があった。
山田家では、今日幾人死刑になる者がある、というと、牢屋敷へおもむく時、その数だけ燈明をあげた。ひとつ、首を刎ねると、その燈明がひとつ消える。二つ、首を刎ねると、燈明も二つ消える。家人は、燈明がぜんぶ消えるのを見て、今日のお役目はすんだ、と知った。
そういう怪談じみた話も、まことしやかに、市中につたわっていた。
いまは、朝右衛門は、大久保の方へ隠居――、その家には、弟子の袈裟右衛門がいる。
この袈裟右衛門は、冷酷非情な男で、新刀試しを、大名から依頼されると、死罪人ではあきたらず、辻斬りに出る、という評判があったのである。
六
さて――。
「ひさご」を出た≪どぶ≫が、まっすぐに、麹町平河町の山田朝右衛門の家まで行って、
――待てよ!
と、思いかえして、踵《きびす》をめぐらしたのは、そこは、岡っ引である自覚があった所以《ゆえん》である。
――袈裟右衛門の行動を、洗ってから、乗り込んでも、おそくはねえ。
そう思いかえしたのであった。
大盗正宗は、袈裟右衛門の手にある、と見当はついたのである。
あせることはなかった。
袈裟右衛門が、うなぎ捕りの佐兵衛と共謀《ぐる》になり、近藤家へ忍び込んで、大盗正宗を盗んだ、と考えるのは、どうも、はやのみ込みのような気がした≪どぶ≫であった。
袈裟右衛門ほどの手練者《てだれ》ならば、いったん手にした宝刀を、わざわざ、泉水へ沈めて、水門口の佐兵衛へ、細引でたぐらせるはずはなさそうである。
雪の手から奪ったならば、そのまま、つかんで、屋敷の外へ、抜け出て行くのではあるまいか。
――袈裟右衛門は、佐兵衛と共謀ではない。
どこかの大名か旗本に依頼された新刀試しに、辻斬りに出た。そして、あの往還を歩いているうちに、水門口から、細引で、刀をたぐり出した佐兵衛に、出会った。
袈裟右衛門は、こいつ恰好《かっこう》の獲物とばかり、一|閃裡《せんり》に、首をはねとばして、刀を奪った。
どうも、そう考えた方が、よさそうであった。
尤も――。
この推理も、断定はしかねる。袈裟右衛門が、偶然、そこを通りかかった、ということに、ひっかかる。
偶然ではなかったのではないか。袈裟右衛門は、佐兵衛が、その時刻、そこにいることを知って、近づいて行ったのではないか。
つまり、佐兵衛が、大盗正宗を手にするのを知っていて、やって来た。そして、首を刎《は》ねて、奪った。
袈裟右衛門は、近藤家乗っ取りをたくらむ御家人小日向刑部の一味ではなかろうか。
――迷わせやがる!
≪どぶ≫は、袈裟右衛門の昨日までの行動を洗うことにした。
どうやって、洗うか――そこは、≪どぶ≫独特の嗅覚《きゅうかく》にものいわせた。
二日後――。
≪どぶ≫は、妙にはればれとした顔つきで、町小路左門邸を、おとずれた。
玄関さきを掃《は》いている小間使いの小夜に、しのび寄って、
「ばあっ!」
と、おどかしておいて、
「ヘヘ、やっぱり、小夜さんの方がいいや。滅法美人でも、妖気のただよっていやがるのは、しまつにおえねえ。ういういしいってえやつが、娘の宝だあ」
七
盲目の与力は、書院の縁側に坐って、朝陽の中に、ひっそりとひたっていた。
「お早うございます」
≪どぶ≫が、挨拶しても、べつに、応《こた》えもせず、その姿勢を微動もさせなかった。
幾年つきあっても、≪どぶ≫にとって、この氷のような態度は、苦手であった。
「お詫び申し上げなけりゃ、なりません」
膝をそろえると、≪どぶ≫は、頭を下げた。
「大盗正宗が、盗まれたか」
左門は、云いあてた。
「へい」
≪どぶ≫は、左門の推量の鋭さに、いまさらながら、おどろきつつ、その冷たい横顔を見やった。
「逐一申し上げます」
≪どぶ≫は、次郎吉という男の手引きで、近藤家へ忍び込んだ時のことから、くわしく、報告した。
左門は、≪どぶ≫の話が終るまで、相槌ひとつ、打たなかった。
「……というわけでございます。大盗正宗は、山田袈裟右衛門の手許にあることは、まちがいない、と見当をつけやした」
≪どぶ≫は、そう告げて、左門の言葉を待った。
「うなぎ捕りの佐兵衛の首の斬り口のあざやかさを視て、袈裟右衛門の仕業《しわざ》と判断するのは、お前らしくもない。江戸には、辻斬りをやるさむらいは、二人や三人ではあるまい」
左門は、云った。
すると、≪どぶ≫は、にやっとした。
「あっしも、一度は、そう思いました。ところが、袈裟右衛門の素姓を洗ってみますと、奴が下手人であることは、疑いないものとなりましたので、へい。……袈裟右衛門は、浅草かいわいをうろついていた天涯孤独の浮浪児であったのを、山田朝右衛門に、ひろわれた、といわれて居りますが、実は、餓鬼の頃に、近藤右京亮屋敷の小者小屋で、育って居ります」
「ふむ!」
「袈裟右衛門の母親は、近藤の長男の、白痴の市之助の乳母だったわけなんで――。つまり、市之助と袈裟右衛門は、乳兄弟でござんした。母親が、十五か六の頃、亡くなったので、袈裟右衛門は、近藤屋敷をとび出して、なにやら、一人で食っていたのを、朝右衛門にひろわれて、首斬りの後継ぎにされたのでさ。……袈裟右衛門にとっては、近藤家は、恩のある主家ってえことになります。……だから、あっしゃ、佐兵衛の首を刎《は》ねたのは、奴の仕業にちげえねえ、と確信持ったのでございます」
「袈裟右衛門が、近頃でも、近藤家に出入している、という事実は、しらべたか?」
「そのことなんで――」
≪どぶ≫は、首をひねりながら、
「どうかぎまわってみても、そればかりは、つきとめられず、じれってえ思いをして居ります。最近は、死罪人も出ねえので、小伝馬町の牢屋敷の方へも出かけず、奴が外へ出たのを見かけた者は、一人も居りません」
と、云った。
八
左門は、薄ら笑って、
「死罪人がいなければ、新刀試しをするには、辻斬りということになる。袈裟右衛門は、昼は家にいて、夜行の徒になっているのであろうな」
と、云った。
「そういうわけでございますね」
≪どぶ≫は、うなずいた。
「夜陰にまぎれて、近藤家をたずねている、ということも、考えられる」
「殿様――」
≪どぶ≫は、左門を、そう呼んで、
「どうお考えになります、袈裟右衛門が、大盗正宗を、取って行ったということを?」
と、訊ねた。
≪どぶ≫は、袈裟右衛門が、近藤家嫡男市之助と乳兄弟であることをつきとめて、しめた、と小躍りしたものであったが、いま、こうして、左門に語っているうちに、なにやら、その事実の蔭にある謎《なぞ》が、どうしても解きかねるもどかしさに、いらだたしくなっていた。
左門の明快な一言を、ききたかった。
しかし――。
左門は、しばらく、沈黙をまもった。
≪どぶ≫には、こういう左門の態度が、いよいよ、やりきれなかった。
やがて、左門は、口をひらいた。
「めくらの娘が、一人で、大盗正宗を、おのが居間へ、抱いて来て、守ることにした。夜半、行燈のあかりが消えて、闇の中で、大盗正宗が、奪われた。お前ほどの闇に目の利く者が、曲者の侵入も、遁《のが》れ去るのも、見とどけられなかった。朝になって、お前は、泉水のほとりで、浮子《うき》を見つけた。外へ出てみると、細引のはしきれをつかんだうなぎ捕りの、首なし死体があった。その佐兵衛を斬ったのは、山田袈裟右衛門と見当つけて、しらべてみると、子供の頃、近藤家でやしなわれていた、と判った。……こういうことか」
「へい、そういうわけなんで……」
≪どぶ≫は、自分の報告を、あらためて、左門の口からきかされたものの、脳裡には、なんのあたらしい直感もひらめかなかった。
しだいに、もやもやと、霧がわきあがって来て、視界がなくなってしまうような不安さえおぼえた。
「≪どぶ≫――」
「へい」
≪どぶ≫は、首をのばして、左門の言葉を待った。
「袈裟右衛門から、大盗正宗を、とりもどして参るがよい」
――なんだ!
≪どぶ≫は、気が抜けた。
「へえ、そりゃ、もう、これから乗り込むつもりで居りますが……」
「手ごわい対手だぞ。まかりまちがえば、お前の首が、とぶ」
「めったなことじゃ、ひとつしかねえ首を、胴から、はなすわけには参りません」
≪どぶ≫は、頭を下げると、腰を上げた。
腰を上げながら、
――わけのわからねえ殿様だ!
と、妙にいまいましかった。
九
「ほい――ここだ」
≪どぶ≫は、麹町平河町のとある小路に入って、萱《かや》葺きの長屋門の門桁《もんげた》に、一尺ばかりの大きな定紋がはめ込んである家の前に立って、四角なあごをなでた。
当時、門に定紋をつけるのは、大名だけに許されたならわしであった。
山田朝右衛門は、旗本でもない浪人にもかかわらず、その門に、丸の中に一の字を書いた紋を、はめ込んでいた。
これは、その主家鵜飼十郎左衛門から受け継いだならわしであった。
鵜飼十郎左衛門は、将軍家御道具おためし役で、死罪人を、わが屋敷へ、牢屋からはこばせて、首を斬った。
武家は、表札をかかげないものであったから、万が一、まちがえて、死罪人を隣家へはこばれては、迷惑をかけるので、鵜飼家であることをわかりやすいように、門に定紋をはめ込んだのである。
山田朝右衛門は、べつに、首斬りを自家の庭ではやらなかったが、そのならわしだけを、鵜飼十郎左衛門から、踏襲したのである。
浪人の住居にしては、立派な構えであった。
≪どぶ≫は、くぐりから入ると、
「次郎吉なら、さしずめ、いやなにおいがする、と云うところだ」
と、つぶやいた。
玄関さきに立って、大声で案内を乞うと、しばらく返辞がなく、やがて、いかにも老いぼれた印象の、背中に≪こぶ≫を盛りあげた小男が、現れた。
「与力町小路左門殿の御用をつとめて居ります者でございます。ちょっと、お目にかからせて頂きとう存じます」
≪どぶ≫は、いんぎんに、申し入れた。
小男は、黙って、奥へ入った。
袈裟右衛門は、在宅している。
――ことわりやがるにちげえねえ。
そう判断した≪どぶ≫は、かまわず、ふみ込むことにした。
居間にいた袈裟右衛門は、はたして、小男から取り次がれると、
「多忙と申して、追いかえせ」
と、命じた。
その時、≪どぶ≫は、すでに、次の間に立っていた。
さっと、仕切りの襖《ふすま》を≪どぶ≫が開けた瞬間、もう袈裟右衛門は、床の間の刀架けから、差料をつかみ取っていた。
「へい、べつに、あっしは、修羅場を覚悟したわけじゃねえんで……」
≪どぶ≫は、わざとおちつきはらってみせて、その場へ、坐った。
袈裟右衛門は、冷やかな視線を、≪どぶ≫へ据えて、無言でいる。
まだ三十前の、にがみ走った男っぷりである。長身であり、いかにも、立姿に鋭気がみなぎっていた。
「話しあいが、ついて、納得がいったなら、あっしは、おとなしく、ひきさがります」
≪どぶ≫は、おだやかに、云った。
十
「なんの話しあいだ?」
袈裟右衛門は、冷やかに、問うた。
「お前様が、手に入れなすった大盗正宗を、こっちへ渡して頂きてえ、という相談でさ」
「…………」
「おねげえ申します」
≪どぶ≫は、ペコリと頭を下げた。
据物斬りの冴えた一太刀が、頭上へ降って来るのを、覚悟の上であった。油断はなかった。
しかし――来なかった。
袈裟右衛門は、意外に、おだやかな声音で、
「わしが、どうして持っている、と見当をつけた?」
と、問うた。
「へえ。そこは、蛇《じゃ》の道は蛇《へび》で――」
「それでは、返答になるまい」
「じゃ、申し上げます。お前様は、うなぎ捕りの佐兵衛の首を、斬りなすった。その見事な斬りくちと、お前様が、近藤家の嫡男市之助殿とは乳兄弟であること――このふたつで、参上した次第なんで、へい」
「岡っ引!」
「へい」
「宗旨は、なんだ?」
「宗旨?」
「供養のしかたがある」
「返辞は、その刀でする、と仰言《おっしゃ》る?」
「しかたがあるまい」
「人の首を斬るのをあきないにしておいでだと、そんなに、名刀というやつが欲しいものでござんすかねえ」
「ちがう!」
「ちがう――と仰言ると?」
「貴様などに、きかせても、はじまらぬ」
「あっしゃ、大盗正宗を、近藤家に返して頂きてえ、とお願いしているんですぜ。……旦那も、山田袈裟右衛門という名を天下に売った御仁だ。泥棒になり下っちゃ、面目にかかわりましょう」
その皮肉が、おわらぬうちに、抜き討ちの一閃が、来た。
≪どぶ≫は、かわすいとまはなく、腰の十手を抜きざま、受けた。
「できるの!」
袈裟右衛門は、にやりとした。
「旦那! 敵になりに来たんじゃねえ!」
≪どぶ≫は、云った。
袈裟右衛門は、しかし、凄い形相で、第二撃をくらわせるべく、ふりかぶった。
≪どぶ≫は、左手で十手をかまえつつ、右手で、ゆっくりと、その仕込みを抜いた。
「ふむ!」
袈裟右衛門は、双刃《もろは》の小刀に変った十手を視《み》て、ひくく呻《うめ》いた。
「貴様――、やはり、ただの岡っ引ではなかったな」
「ただの岡っ引でさ。世間がひどう物騒になって来たから、こういうしろものを作ってみただけのことでね」
≪どぶ≫は、薄ら笑ってみせた。
十一
まっ向から、第二撃の閃光が、落ちた。
と同時に――。
≪どぶ≫の五体は、畳の上を一廻転していた。
「うぬっ!」
袈裟右衛門は、無二無三に、斬り伏せるべく、撃ちおろして来た。
≪どぶ≫は、三畳あまりを、駒のようにころがった。
とみた瞬間、畳一枚を、ぱっと、はねあげた。
袈裟右衛門が、それをしたたかに斬り下げた隙に、≪どぶ≫は、すっくと立っていた。
刀をひき抜き、畳を蹴倒した時、袈裟右衛門の形相は、悪鬼だった。
こんどは、青眼《せいがん》にかまえて、じりじりと迫って来た。
≪どぶ≫は、十手刀を、ダラリと下げて、右まわりに、身を移した。
背後に、床の間が来た時、袈裟右衛門は、凄じい懸声とともに、斬りつけた。
≪どぶ≫は、床の間へ、跳びさがった。
すると、背中が、筆太に南無阿弥陀仏と記した掛物に、ふれた。
掛物が、音たてて、落ちた。
瞬間――。
袈裟右衛門は、なぜか、けだものじみた叫びを発して、突きの一手をはなって来た。
袈裟右衛門は、兵法者ではない。その突きの残心に、隙が生じた。
≪どぶ≫は、余裕をもって、袈裟右衛門の肩を、突き刺した。
すると、袈裟右衛門は、喚《わめ》きたてつつ、刀をすてて、組みついて来た。
≪どぶ≫は、組みつかれまいと、夢中で、身を躍らせた。
――しまった!
≪どぶ≫は、その意志なくして、ふかぶかと、十手刀を、対手の腹へ刺し通したのに、狼狽した。
袈裟右衛門は、身を二つに折ると、その場へずるずると、崩れ落ちた。
「旦那!」
≪どぶ≫は、かかえ起した。
「お前様が、わるいんだぜ!」
袈裟右衛門は、わななく手で、宙をさぐるようにした。
「ま、ま――正宗を、近藤へ、か、返さないで、くれ」
「なぜだ? どうして、返しちゃ、いけねえんだ? 旦那――え、おい、どうして、返しちゃ、いけねえんだ?」
≪どぶ≫は、耳もとで、大声をあげた。
袈裟右衛門は、ただ、かぶりを振ったばかりであった。
それから、視力をうしなったまなざしを、宙へ、送って
「わしの、いのちが、雪さんなのだ。……雪さんのために……」
と、つぶやいて、がっくりと落入った。
なんの意味か合点《がてん》しかねるままに、≪どぶ≫は、床の間を、見やった。
掛物のはずれたあとの壁が、小さな口をひらいていた。
その孔の中に、大盗正宗は、かくしてあった。
女心無情
一
それから、半|刻《とき》のちには――。
≪どぶ≫は、町小路家の書院に、かしこまっていた。
前には、大盗正宗が、置いてある。
左門は、しばらく待たせてから、入って来た。
「山田袈裟右衛門は、手|強《ごわ》かったか?」
左門は、まず、そう訊ねた。
「へい。相当な腕前でございました」
「手負わせるだけでは、すまなかったか?」
「妙なことに、自分で自分の生命をすてたような気がいたしやす」
「ふむ――」
≪どぶ≫は、大盗正宗を、左門の膝の前へ置いた。
「たしかに、取って参りました」
しかし、左門は、手をふれようとせず、
「袈裟右衛門は、なにか、遺言いたしたか?」
と、訊ねた。
「遺言、といえるかどうか、わかりませんが、……雪さんは、わしの生命だ、とつぶやいて、落ち入りました」
「そうか。やはり……」
「やはり、と申しやすと?」
「袈裟右衛門は、近藤家でやしなわれていた時から、あの雪という娘を、恋していたに相違ない。その心は、ずっと、変らなかったであろう」
「成程――。しかし、それほど恋していた娘を、困らせるようなことを、どうして、しでかしましたかね」
「お前は、袈裟右衛門と問答したのではないか」
そう云われて、≪どぶ≫は、はっと思い出した。
「そういえば、袈裟右衛門は、近藤家へは、刀をかえすことはできぬ、と意味ありげに、申しました」
「袈裟右衛門は、雪の心を知っていた」
「へえ――?」
「≪どぶ≫、まだ、判らぬか?」
「判らぬか、と仰言いますと?」
「ははは……」
左門は、ひくい声で、笑った。
「お前ほどの頭の切れる男でも、女心というものは、判らぬらしい」
「へえ、あっしゃ、いままで、女に惚れられたことが、ただのいっぺんもありませんのでね」
「ひがむことはない。惚れられずとも、惚れたことがあれば、女心は、判るはずだ。お前は、生命がけで、女に惚れたこともないのであろう」
「この面相じゃ、惚れてみたところで、惚れかえしてくれることは、金輪際《こんりんざい》ありやせんからね」
「そこが、お前の性根で、抜けた点であろう」
「しようがありませんや」
「そのために、お前は、天井裏から、雪の振舞いを眺め下しながら、その心を看破れなかったのだ」
「へえ――?」
「刀は、曲者に奪われたのではない」
左門は、ずばりと、断定してみせた。
二
「それじゃ、刀が失くなったのは!」
≪どぶ≫は、目をひき剥《む》いた。
「そうだ。雪自身のカラクリであった。曲者が、侵入した、とみせかけただけだ」
左門は、云った。
「そうか! わかりやした。行燈のあかりを消したのも、丸窓を破ったのも、あの娘のしわざだったのでござんすね」
「お前ほどの、闇に目の利く男が、曲者の侵入を、見のがすはずはない。……雪は、曲者が押し入ったとみせかけて、刀を胸に抱いて、俯伏《うつぶ》した。お前をはじめ、用人佐倉や須貝又十郎が、あわてて、架空の曲者を追いかけた隙に、雪は、刀を、どこかへ、そっと、かくした」
「成程、よく判りやした。あっしが、もう一度、あの娘を監視しなかったのが、不覚でござんした。あっしが、曲者をさがして、うろうろしているあいだに、あの娘は大盗正宗を持って、そっと、庭へ出た。たぶん、夜が明けた頃合だったに相違ねえ。泉水には、あらかじめ、浮子《うき》をつけた細引が、塀外の水門口まで、つたわせてあった。あの娘は、その浮子を切って、刀をむすびつけると、底へ沈めた――というわけでございます。……水門口には、うなぎ捕りの佐兵衛が、待ちかまえていて、細引をひっぱって、刀をたぐり寄せた」
「それは、ちがうであろう」
「へえ?」
「佐兵衛という男は、もとは、武家奉公をしていた、と申していたな」
「へい、そうなんで――」
「佐兵衛は、武家の泉水には、食用として、鯉やうなぎが飼ってあることを知って居った。それらの魚が、よく逃げ出すので、水門口で、獲《と》ることにしていたのであろう。この密漁は、辻番がねむっている夜明けがたに限る。……あの朝、近藤家の水門口に行ったのが、佐兵衛の不運であった。細引が、杭《くい》にむすびつけられてあるのを、不審に思い、たぐってみたら、刀が出て来た。そこへ、雪と手筈をうちあわせていた袈裟右衛門が、やって来た。自分が、たぐるはずであった細引を、うなぎ捕りにたぐられ、刀を手にされているのを見つけた袈裟右衛門は、狼狽して、うむを云わせず、佐兵衛の首を刎ねて、刀をとりかえした」
左門の明快な言葉に、≪どぶ≫は、いくども大きくうなずいた。
「つまり、その……、あの雪という娘御は、わざと、大盗正宗が、盗まれたことにしようと、計った、というわけでございますね」
「そうだ」
「献上の宝刀が、盗まれれば、家が断絶することを、知っていながら、そうした、と仰言るので?」
「たしかに――」
「それが、女心だ、と仰言るので?」
「判らぬか!」
「判らねえ」
≪どぶ≫は、首を振った。
三
左門は、微笑した。
「雪は、わが家が滅びることを、のぞんだのだ」
「どうしてでござんす?」
「近藤家が、代々必ず一人は、狂人か白痴が出て居ることは、すでに、お前にきかせた。……雪にとって、この呪《のろ》われた家系は、堪えがたいものであった。父は狂人、兄は白痴、そして、自身は盲目だ。このむざんな家系は、わが身を最後として、断たれなければならぬ。雪は、いつとなく、そう思いきめたに相違ない」
「…………」
≪どぶ≫は、息をのんで、耳をすましている。
「用人佐倉をはじめ、周囲の者が、いずれ、大盗正宗を献上するのを機会に、兄市之助を廃嫡《はいちゃく》にして、この自分に聟《むこ》を迎えて、家の存続をはかるのは、目に見えたこと。そうなれば、自分が産むであろう子供が、またもや、白痴か狂人であるおそれがある。それを想像しただけでも、雪は、おそろしかった。それよりは、いっそ、献上すべき宝刀を曲者に盗み去られたことにして、家を改易にしよう。近藤家を、この世より消し去ろう。雪は、そう決意した。そこで、その決意を、袈裟右衛門に打明けて、協力をたのんだ。雪に惚れた袈裟右衛門が、かぶりを横に振るはずはない。計画は、予定通りに、成された。……つまり、わしとお前は、余計なことをしたことになる」
そこまできいた時、≪どぶ≫は、急に、そわそわとおちつかなくなった。
その気配に、左門が、
「なにを、あわてて居る?」
と、問うた。
「へ、へえ。……あの屋敷の中が、なんとなく、気がかりになって来ましたので――」
「もう、手おくれであろう」
「え?」
「雪は、おそらく、もういま頃は、自害して、相果てて居るであろう」
「そ、そんな――もったいねえ――!」
「佳人薄命と申すではないか。生きながらえさせて、どうなるものでもあるまい」
「冗談じゃねえ。このお屋敷へつれて来たって、そこは、なんとか――」
「たわけ!」
左門は、ひくく、叱咤《しった》した。
「死なせてやるのが慈悲――という場合もあることを、岡っ引ならば、心得るがよかろう」
「そりゃ、わからないこともありませんが、あんまり、可哀そうで……、一度ぐらいは、うれしい思いを、させてあげてえ、と考えるのも、人情じゃござんすまいか」
「お前は、このわしに、雪を抱け、とでもすすめたいのか?」
「是非おねげえしてえところでございます」
「同病、相あわれむように、仕向けようとしても、そうは、都合よく、参らぬ。……それよりも≪どぶ≫」
「へい」
「この大盗正宗を、どこかへ、すてて参れ」
四
夏が、来ていた。
かっ、と眩《まぶ》しい朝陽のさす両国橋を、≪どぶ≫は、首を振りながら、渡って行く。
そっと来て、
なんにも云わず、好きの膝
つもりしあとの色を見て、
またわびている粋の痴話
ならば、こうしていてほしや
「てなことを、ゆうべ、云われた面《つら》じゃないねえ、その面は――」
ふいに、横あいから、皮肉な言葉が、なげられた。
「なんでえ?」
≪どぶ≫は、振りかえって、欄干《らんかん》によりかかっているはなれ島のお仙をみとめて、
「朝っぱらから、そんなところで、油を売っていやがって、みっともねえ」
「川の流れを見てくらす、ささ、しょんがえ――というところさ。……このあいだ、おまいさんの親分を、たずねて行って、あたしゃ、生きた心地もなく、しっぽを巻いたよ」
「どうしたい?」
「それがさ。釣竿に、餌のかわりに鼠をくくりつけて、小猿に、とびつかせているじゃないか。あきれたねえ。そればかりじゃないさ。あたしに、鼠の丸焼きをご馳走してやるから、ゆっくりして行けとさ」
「はっはっは……、百年の恋も、一時に、さめやがったろう」
「あたしゃ、一度惚れたら、あとへとはひきさがらないよ。さがらないけど、どうもねえ、鼠や猿を見せつけられると、色気なんぞどこへやら、せっかくのこの玉の肌に、ざわざわと悪寒《おかん》が走っちまう。……≪どぶ≫旦那、親分に云っとくれ。鼠や猿は、ごかんべん下さいって――」
「鼠や猿に、ちぢみあがっていて、恋しい男がくどき落せるけえ」
≪どぶ≫は、さっさとはなれて行った。
お仙が、何か呼びかけたが、耳に入れなかった。
やがて、≪どぶ≫が、入って行ったのは、深川も場末の、おそろしくうすぎたない裏長屋であった。
もう午前中から、蚊のうなりが、わああんと耳を打って来る。
「ごめんよ」
一軒の破れ格子をひらいて、首をつッ込んだ。
十四、五の少年が、せっせと、小刀で傘の骨をけずっていた。
そのむこうに、ぼろ夜具に、中年の女が、やつれた顔で、横たわっていた。少年の母親であった。
少年は、御家人小日向刑部の養子となっていたが、ごく最近、追い出されたあわれな身の上であった。実母と、こうして、わびずまいをしている。
≪どぶ≫が、顔をのぞけると、少年は、あわてて、居ずまいを正して、おじぎをした。
礼儀正しくしつけられていたし、その表情に、気象の良さをみせていた。
少年母子にとって、この岡っ引は、妙に親切な存在であった。
五
母子には、どうして、この岡っ引が親切にしてくれるのか、よくわからなかった。
小日向刑部の家を、少年が追い出された時、引きとって、実母に会わせてくれたのも、この長屋を借りて、住まわせてくれたのも、≪どぶ≫であった。
「どうだい、加減は?」
≪どぶ≫は、病人を見やった。
「はい、おかげさまで、すこしずつでございますが、気分がよくなって居ります」
掛具をあげて、女は、起き上った。
岡場所にいたというが、品のいい顔だちであった。
「夏をがまんすりゃ、秋になったら働けるだろう」
「はい。……親分のご親切のほど、なんとお礼を申し上げてよろしいか……、有難う存じます」
女は、両手を合せた。
≪どぶ≫は、ちょっと、照れてから、少年に、
「どうだい、その刀、よく切れるだろう?」
と、云った。
少年が持っている脇差は、≪どぶ≫が与えたのである。
「はい、大層よく切れます。これは、もしかすれば、名刀ではありませぬか?」
「ははは……、もとは、太閤秀吉様の差料だ、と云ったら、おどろくか」
「…………」
少年は、まさか、という表情になった。
「名刀かどうか、わからねえが、ま、よく切れるなら、大切に使ってもらいてえ」
「はい。一生、持って居ります」
「そうねがいてえな」
≪どぶ≫は、胸のうちで、
――この大盗正宗は、おめえが、受け継ぐさだめだったのだ。
と、つぶやいていた。
近藤家は、絶えたのである。
あの日、雪は、狂人の父と白痴の兄を、毒殺しておいて、自らは、のどを突いて、相果てたのであった。
となれば、近藤家の血統を享《う》けたのは、この世で、この少年ただ一人であった。
家宝の大盗正宗を、受け継ぐのに、なんのふしぎはないわけであった。
ただ、≪どぶ≫が、それと知らさずに、手渡しただけであった。
≪どぶ≫は、今日もまた、いくばくかの金を置いて、おもてへ出た。
――あの子供は、どうやら、きちがいにもバカにもならずに、済むらしい。ま、なんとか、まっとうな道を、歩いてもらいてえものだ。
柄にもなく、≪どぶ≫は、そう祈った。
深川八幡の門前を通りすぎようとした時であった。
「≪どぶ≫!」
険しい声が、かかった。
≪どぶ≫は、その顔を見さだめもせず、三十六計をきめて、つッ走り出した。≪どぶ≫を憎む敵は、江戸中いたるところにいたのである。
[#改ページ]
第二話 白骨御殿
夢遊役者
一
当時――。
江戸の市民は、季節のうつりかわりをたのしむくらしをしていた、といってよい。
旧暦の五月――夏至《げし》、半夏生《はんげしょう》、梅雨、竹酔日《ちくすいじつ》など、しゃれた呼称をつけていた。
月のはじめは、端午《たんご》を迎え、江戸市中に、吹貫き鯉がひるがえった。
合歓《ねぶ》の花が、夕に咲き、葵《あおい》は午《ひる》に傾いた。鯉のぼりの下の沼や川では、水鶏《くいな》が啼《な》いた。
隅田堤の三めぐりや、根津権現の神さびた池沼には、杜若花《かきつばた》が、美しく咲きみだれた。
半夏生ともなれば、水のあるところには、螢が飛んだ。
落合姿見橋のあたり、王子谷中、目白下江戸川のほとり、麻布古川橋たもとなど、日ぐれになると、かれんな光の虫は、幾千となく、夜空と草かげをいろどった、という。
そして、間もなく、入梅を迎えた。
しとしとと降りつづきはじめるのを待って、市中には、梅干用の梅の実を売る声が、いたるところに、きかれたのである。
「江戸府内絵本風俗往来」に、初夏の景色を描いて、次のように、つたえている。
「夕方、雷鳴相止むと、ひとしくいままで軒下にたたずみて、雨やどりせし人々、ようやく、東西に散じ、一時とだえる通路も、ふたたび、人と車の往き来しげく、夜になれば、一天、雲吹き散じて、月色雲のすき間より照り、家内の庭、植込みの樹竹、水気したたり、岩石のあいだなる下草は、地にふし、飛石のおもて、清く洗われ、吹き送る風のすずしく、すでに、苦熱を流し去りて、心よく、白昼にありては、樹間の蝉《せみ》の声ふたたびさわがしく、夜間にありては、蝙蝠《こうもり》のとび交うもおかし」
こうして、夏を迎えると、市民たちが待ちのぞんだ両国の川開きと相成るのであった。
その宵――。
「おうおうっ!」
ぞろぞろと、両国橋めざして、歩いて行く群衆を、かきわけるようにして、ほろ酔いの男が、大声をあげていた。
「どいつもこいつも、目の色変えやがって、川開きに行きやがる。なにが、面白いんでえ。こん畜生!」
前を行く年寄がふりかえって笑いながら、
「開くということは、めでたいことでな。天地開|闢《びゃく》というくらいのものだ。秘仏を開帳すれば縁日になるし、店を開けば祝い酒が来るのう」
「わかってらい。賭場をひらきゃ、オケラが出るし、山開きすりゃ、遭難すらあ。なにが、めでてえんだ」
「お前さんは、つぼみをひらかせたことはないかな?」
「へへへ、それだ。股をひらいて、袖口噛んでか――いっぺん、やってみてえや」
まわりの人々が、どっと笑った。
男は、酔眼をまわして、
「なにが、おかしいんでえ。おれにゃ、ちゃんと夫婦約束した≪おぼこ≫がいるんだぞ」
二
「年は十八、番茶も出花だ。……へへへ、このあいだ会った時に、約束したんだぞ。かたく約束白ちりめんの仇にゃ解かないしごきおび、ってな。どうだ、うらやましいだろう」
酔っぱらいは、かたわらの通行人へ、からみついた。
からみつかれたのは、お数寄屋坊主の河内山宗俊であった。
「うらやましいのう。新世帯を、いつ持つのだ?」
「来年春だ。家は狭くも肩身や顔は、ひろくうれしい新世帯と来らあ」
「そのうれしさもせいぜい半年だの。三年経ったら角が生え、五年経ったら化けるだろうな」
「なアに、あの娘は、いまから化《ば》けてら。恋にゃ心もついほそりがち、主を待つ夜はろくろ首、と来た」
そう云った時、初花火が、景気のいい音をひびかせて、宵空に、ぱあっ、とひらいた。
「玉屋っ!」
どっと、歓声があがった。
つづいて、もうひとつ――。
「鍵屋っ!」
ひろい大川は、涼船でうずまっていた。
橋の上、両岸、そして、花火の見えるかぎりの屋上、火の見|櫓《やぐら》、物干台は、人でいっぱいであった。
岡っ引≪どぶ≫も、橋の欄干の上へ、あぶなげもなく、腰かけて、見物に加わっていた。
不意に、うしろから、ぽん、と肩をたたかれて、ふりかえると、河内山の顔があった。
「へえ、こんばんは――」
「親分、のんびり、口をあけて、花火を見あげているひまは、なさそうだぜ」
「なんです?」
「百本杭に、土左衛門がひっかかっているのを、見て来た」
「べつに、珍しいことじゃありませんや。明日まで、ひっかかっていやがれ」
「ただの土左衛門じゃないのだな、これが――」
「首を突きあげて、花火でも見物していましたかい?」
「あわれや、眼窩《がんか》がぽっかり孔をあけていたな。土左衛門は、水ぶくれになるのがふつうだが、そいつは、反対に、皮も肉もなくなって居ったぞ」
「……?」
「皆、上《うわ》の空で、誰も気づいて居らぬ。お主、行って、ひろいあげてみるがいい。花火よりは、よほどおもしろい見世物だ」
すすめられて、≪どぶ≫は、半信半疑で、欄干を降りた。
つづけさまに、花火がうちあげられ、数万の群衆が、どよめいた。
≪どぶ≫は、歩きながら、若いきれいな女の顔へ、視線を移した。
無心に空を仰いでいる顔が、なんとも、好き心をそそる。
「玉屋がとり持つ縁かいな――といやがるが、土左衛門が対手じゃ、話にならねえ」
せっかく手柄にさせてやろうと、自分をさがして告げてくれた河内山の親切も、あまりありがたくはなかった。
三
「おうおう――親分、なにをさがしているんだい?」
百本杭へ、提灯をかざして、しきりに物色している≪どぶ≫へ、顔見知りの職人が、声をかけた。
河岸道にいっぱいにあふれた群衆は、のこらず、空を仰いでいるのに、一人だけ、水際へ視線を移しているのだから、いぶかられるのも、むりはなかった。
≪どぶ≫は、ふりかえって、若い大工をみとめると、
「七か、手つだってくれ、いま土左衛門をひきあげる」
「縁起でもねえ。今夜は川開きだから、明日にしてもらいてえな」
そう云いながらも、七助という男も、杭にひっかかったものはないか、とさがしはじめた。
やがて――。
「いたっ、ここだ!」
七助が、叫んだ。
≪どぶ≫は、いそいで、そこへ近づいて行って提灯を、さしのべた。
杭に、藻《も》のようにひっからまっている黒いものが、見えた。
頭髪である。
≪どぶ≫は、杭へ、片足をかけると、無造作に、ゆらゆらと浮いている髪の毛を、つかんだ。
ぐっと、ひっぱりあげると、水の中から、首が出た。
のぞいていた七助が、
「ひゃっ!」
と、悲鳴をあげた。
顔は、なかった。目も鼻も口も耳もなくなっていた。しかし、髑髏《どくろ》ではなかった。まだ額や頬には、皮や肉がついていた。
なんとも、名状しがたいむざんな土左衛門であった。
≪どぶ≫は、しかし、ちょっと、顔をしかめただけで、腕に力をこめると、ずるずると、死体をひきあげた。
もうその時は、まわりの見物人は、視線をそこへ集中させていたが、ひきあげられた死体を一|瞥《べつ》して、一斉に、
「わっ!」
と、恐怖の悲鳴をあげた。
ほとんど白骨になりながら、まだ五体がちゃんとつながれていてところどころに、皮と肉がついている、なんともむごたらしいさまは、悪夢をさそうに相違ない。
路上へ、ほうり出すと、≪どぶ≫は、額の汗をぬぐって、
「隅田川には、人間の肉をくらう魚が棲んでいやがるのか」
と、つぶやいた。
それとも、野犬に食いあらされたのを、誰かが、流れへ、投げ込んだのか。
いずれにしても、この死体は、飢えたけだものに食われたもの、と解釈するよりほかはなかった。
こわいもの見たさで、河岸道の群衆は、そこへ、どっとなだれ寄せて来た。
四
次の日の朝――。
≪どぶ≫は、小梅村の町小路左門邸をたずねるべく、本所を抜けて、横川に架《かか》った業平《なりひら》橋を、渡ろうとしていた。
横川を過ぎると、景色は、一変する。
のどかな田畑がひろがるのであった。見わたすかぎりの青田、ところどころにこんもりとわだかまる欅《けやき》の林、そして、ずっと彼方に、古寺の大屋根と五重塔が、浮きあがっている。
≪どぶ≫は、左門に会うのは苦手だが、田舎景色は好きである。≪どぶ≫は、備前の田舎で生れた男であった。
「小梅に、色女を待たせておいて、十日に一度かよう、てな仕掛けなら、こいつは、法楽だが――」
≪どぶ≫は、≪やぞう≫をきめて、首を振った。
夏景色
月にうかれてほととぎす
思いこがれてなきあかす
短き夜半《よわ》は、ねむられぬ
枕も、じゃまになるわいな
てなこと、くどく女が欲しい。
と――。
野道を、ふらふらと歩いて来る人影をみとめて、≪どぶ≫は、眉宇《びう》をひそめた。
遠目には、芸妓のように思われたが、近づくと、これは、歌舞伎の女形であった。
――女形が、どうして、こんなところを、うろついていやがるのだ?
≪どぶ≫は、首をかしげた。
男のくせに、女装をしている女形は、ふつう、町なかを、歩いたりなどせぬものであった。どこかへ出かける時は、かならず、駕籠《かご》で行き、なるべく、世人に姿を見せぬように、つとめるのであった。
大方、小梅村の大|商人《あきんど》の別荘へ招かれて、一夜をすごしたものに相違あるまいが、どうして、駕籠で帰らぬのか。
五、六歩の距離に近づいて、≪どぶ≫は、
「なんでえ?」
と、細目を光らせた。
その女形の顔つきは、あきらかに、尋常ではなかった。
――狂ってやがる!
一瞬、≪どぶ≫は、そう思った。
しかし、そうではなかった。
焦点を失った眸子《ひとみ》を、宙に置いて、≪どぶ≫の存在も気がつかぬように、ふらふらと行きかける女形に、≪どぶ≫は、こころみに、
「おい!」
と、鋭い声をかけてみた。
とたんに、女形は、びくっと肩をふるわせて、≪どぶ≫を視《み》た。
怯《おび》えた顔色は、あきらかに、正気のものであった。
「おめえ、どうかしたのか?」
と問うと、意外に、すなおに、
「あい――」
と、こくりとうなずいた。
まだ二十歳を出たばかりであろう。女形になるだけあって、切長な眸子《ひとみ》、細く高く通った鼻梁《びりょう》など、いかにも優しいつくりである。
五
しかし、これは、浮世絵になる有名な女形ではない。≪どぶ≫も、芝居にはくわしくはないが、堺町の中村座、葺屋《ふきや》町の市村座や、木挽町の守田座などの名題ならば、ひと通り、顔を見知っている。
「おい! しっかりしろい!」
≪どぶ≫は、女形の肩を、ゆさぶった。
その時、なにやら妙な匂いが、ぷうんと、≪どぶ≫の鼻を衝《つ》いた。
――おかしな媚薬《びやく》でも、飲まされやがったか。
≪どぶ≫は、あごへ手をかけると、ぐいと、正面へ向けて、
「おい、横川へ突っ込んで、正気にもどしてやろうか」
と、おどしてみた。
すると、女形は、うつろなまなざしを、≪どぶ≫へ当てると、
「もう……どうなってもいい、どうなっても――」
と、つぶやいた。
それから、視線を宙にうつすと、両手をさしのべた。
踊の所作ともみえる身ぶりで、
「あのような、美しい極楽鳥の舞う竜宮城が、この世に、あったのじゃ」
と、口走った。
「手がつけられねえ。……おめえ、竜宮城へ行った夢をみやがったのか」
「夢じゃござんせん。ほんとに……美しい極楽鳥のとんでいる竜宮城が――」
「冗談もやすみやすみに云え。海の底の竜宮城に、鳥がとんでいるわけがねえ」
「いえ……、魚も、美しい魚も、たくさん、いましたわえ」
「なにを、寝呆けてやがる。……てめえ、妙な薬をのまされやがって、幻覚を起しやがったな」
「ほほほ……」
女形は、不意に、かん高い笑い声をたてた。
「幻覚かえ。……あれが、幻覚かえ。……あたしは、もう一度、あの美しい世界で、おぼれたい」
「やれやれ、とんだ浦島太郎だ」
≪どぶ≫は、面倒くさくなって、女形を突きとばした。
女形は、そのまま、雲の上でも踏むような足どりで、遠ざかって行く。
≪どぶ≫は、ふと気づいて、
「おい、おめえ、何座の役者だ?」
と、声をかけた。
「あたしは……、品川の森村座の、中村菊也――」
「森村座か」
≪どぶ≫は、首を振った。
品川にある森村座というのは、名題になれない、門閥《もんばつ》からはずれた巧者たちが、反逆して、たてこもっている小屋であった。
この中村菊也も、その一人であろう。
≪どぶ≫は、舌打ちした。
「金をくさるほどため込みやがった商人どもが、かげで、どんなことをしてやがることか」
六
≪どぶ≫は、町小路邸の裏門の潜《くぐ》り戸から入ると、むうっとおそって来た草いきれに、
「ふうっ!」
と、吐息した。
「どういう料簡なんだろうな。この家の殿は――。三千石を返しちまって、与力になるなんざ、いくら盲目になって、ひねくれたからって、どう考えたって、まっとうな神経じゃねえや」
屋敷を、ぼうぼうと、夏草の生い茂るにまかせて、平然としている左門の気持が、さっぱり理解できぬことであった。
この広い敷地内でくらしているのは、主人のほかに、小間使いの小夜と、からだが二つに曲った七十過ぎの用人の二人だけであった。
庭へまわった≪どぶ≫は、泉水のほとりで、しきりに、笊《ざる》を使っている用人をみとめた。
「なにをしているんだい、爺さん?」
≪どぶ≫は、そばへ寄って、耳もとでどなった。
それでも、用人は、「え?」とききかえした。
「笊で、何をすくっているんだ、ときいているんだ」
「鮒《ふな》じゃ」
用人は、こたえた。
「今晩のおかずかい?」
「左様――」
「かしてみな」
≪どぶ≫は、よれよれの唐桟留《とうざんどめ》を脱ぎすてると、ざぶざぶと、泉水の中に入って行った。
腰までつかりながら、笊をひとすくいすると、鯉、鮒、なまずなど、十数尾もはねあがった。
「おそろしく、ごったに、飼ってやがるんだな」
≪どぶ≫は、あきれた。
「鮒だけじゃぞ。五尾もあればよい。あとは、放してくれ」
用人は、云った。
≪どぶ≫は、ついでに、台所へ行くと、器用に、鮒のうろこをはいで、にえたった醤油汁の中へ、ほうり込んだ。
そこへ、小夜が姿をみせた。
「親分は、板前をやったことがおありなのですか?」
と、たずねた。
「器用貧乏てえやつでね、竹籠造り、板削り、壁塗り、手料理、祭|囃子《ばやし》から着物のつくろいまで――なんでもやれらあ。こういう亭主を持ちゃ、女房は寝てくらせるものを、ままならねえ世の中だ」
「女のひとを、くどくのだけは、苦手なのですね」
「女ってえ生きものは、男を見る目がねえや。くそおもしろくもねえ」
「夫婦《めおと》になる、といえば、女は弱いのですよ」
「じゃ、小夜さん、なってくれろ、とたのんだら、うんと云ってくれるか?」
「わたくしは、だめです。お殿様のお世話をしなければなりませぬもの――」
七
左門は、居間にいた。
≪どぶ≫が来た、と報《し》らされると、
「ここへ、参るように――」
と、云った。
「ごめん下さいまし」
≪どぶ≫が、縁側にかしこまると、左門は、「寄れ」と命じた。
何気なく、≪どぶ≫が膝行《しこうしっこう》したとたん、左門は、背後に置いてある大刀を把《と》るが早いか、
「えいっ!」
抜きつけの一|閃《せん》を、あびせて来た。
≪どぶ≫は、かわすいとまもなく、あっと、上半身を反らしただけであった。
白刃の切先は、≪どぶ≫の額へ、紙一重で停《と》められていた。
左門は、すっと刀を引くと、鞘《さや》へ納めた。
「お、おどかさないで、おくんなせえまし」
≪どぶ≫は、顔の汗を、手の甲でぬぐった。
盲目の身で、なんとも鮮やかな手練ぶりであった。
「酔いをさませ、≪どぶ≫」
「へ? あっしゃ、飲んじゃ居りませんぜ」
「酒の代りに、別のものを飲んだであろう」
「別のもの、と申しやすと?」
「酒よりも、もっと酔うしろものだ」
その言葉をきいて、≪どぶ≫は、はっとなった。
「う、うつり香《が》ってやつだ」
「なんと申した?」
「殿様――、あっしは、お屋敷にうかがう途中で、歌舞伎役者に、出会うたのでございます。そいつが、妙な匂いを、ぷんぷんさせていやがった。きちげえかと思って、とっつかまえた時、その匂いが移って来やがった。そういうわけでございます」
「…………」
「まちげえござんせん」
≪どぶ≫は、中村菊也という女形の様子を、くわしく語り、
「この小梅村あたりに、別荘をつくってやがる商人どもは、かげで、何をしてやがるか、知れたものじゃございません」
と、云った。
「女形に、竜宮城の夢をみさせた、か。……信じられぬ」
「あっしが、ひとつ、調べてみましょうか?」
「お前は、次郎吉とやら申す盗賊に、忍びのコツを教えられて、かるがるしゅう忍び込む考えになったようだが、みだりに、生命を粗末にせぬがよい。当今は、大名旗本の屋敷より、商人の家の方が、警戒が厳重の模様だ」
「判って居りやす。しかし、商人どもが、金があるにまかせて、大層もねえ遊びにうつつをぬかしていやがる、と思うと、むなくそが、わるくなります。大名、旗本衆が、貧乏になって、やりくり算段に、悲鳴をあげていなさる当節、商人どもを、いい気にならせておくのは、癪《しゃく》でございますぜ」
「社会がそういうしくみになって居るのだ。いずれ、このしくみは、崩壊いたすであろう」
「へ?」
「士・農・工・商などと、身分や上下に割る制度が、永久につづくものでない」
八
「そいじゃ、いずれは、武家も町人も百姓も、身分が同じになる時世が来る、と仰言るんで――?」
「おそらくな」
「将軍様は、どうなりやす?」
「滅びよう」
れっきとした旗本の身でありながら、左門は、平然として、そう断定してみせた。
≪どぶ≫は、ひくく、唸《うな》った。
――この殿様にかかっちゃ、一生負け犬だ。
≪どぶ≫は、かぶとをぬいだ。
「ところで、あっしは、昨夜、妙な土左衛門を、百本杭から、ひきあげました」
その白骨死体について、≪どぶ≫が、くわしく語るのを、左門は眉宇《びう》もうごかさずに、ききおわると、
「年寄の役人のうちで、そのような死体を、これまで見た者がいたか?」
「いえ、一人も、いやしません。野犬に食いあらされた死体を見た御仁は、幾人も居りましたが、食いあらされかたが、まるっきりちがって居るそうなんで……、つまり、あれは、地獄から鬼どもが出て来て、生肉をていねいにくらいやがって――いうならば、骨までしゃぶった、というあんばいなのでございます」
「…………」
「ま、そうとしか、考えようがないほどの、なんとも、奇妙|奇天烈《きてれつ》な土左衛門でございました」
肉が腐って、なくなったというのではない証拠は、頭髪をつかんで、いくらつよくひっぱってみても、抜けなかったことで、あきらかだったのである。
「人間の肉をくらう種族が、どこかの山中から、降りて来やがった、と解釈できますまいか?」
「そういう種族が、出現したとすれば、第二、第三の犠牲者が、出るであろうな」
「そうなったら、これア忙しくなりやす。この炎天の下を、歩きまわるのは、思っただけで、うんざりだ」
「お前が、その死体を、ひきあげたからには、やむを得まい」
「それアまあ、そういうわけでございますがね……。牛や馬を食うというのなら、まだ、話がわかりますが、人間の肉をくらうというのは、正気ではやれるわざじゃござんせんねえ」
「オランダ医師にきいたことがあるが、未開の蛮人は、隣地の敵と闘って、勝つと、殺した敵の肉を、焼きも煮もせずに、くらうそうだ。……われわれの遠いむかしの先祖も、そうしたであろうな」
「ぶるぶるっ……寒気がして来やがった。――じゃ、これで、御免を蒙《こうむ》ります」
≪どぶ≫は、頭を下げた。
いつものことであるが、≪どぶ≫は、何か奇怪な事件が起ると、左門に、相談にやって来るのだが、その時、決して、膝を打って、そうか、と合点できるような言葉を与えられたためしはないのであった。
左門は、最初は、ただ黙って、聞きおくだけであった。
九
左門は、≪どぶ≫に、勝手にしゃべらせておいて、決して、自分から、手さぐってみるような推理を口には、出さないのであった。
その心中では、いろいろと思いうかぶことが、あるに相違なかった。しかし、それらが、自身にとって、あいまいである場合は、≪どぶ≫にまかせることは、絶対にせぬのだ。
したがって――。
≪どぶ≫は、左門に報告し、その指示を仰いで、自分の行動をきめることは、ほとんどなかった。
≪どぶ≫は、おのれ自身の考えで、歩くよりほかはなかった。
そして、どうやら、事件の真相へ、≪どぶ≫の手がかかった時、左門の存在がたのもしいものとして、≪どぶ≫の決断をささえるのであった。
≪どぶ≫は、台所へしりぞいて、煮えあがった鮒の味かげんをみた。
「うむ。わるくはねえ」
かたわらの小夜に、にやっとしてみせ、
「こいつで、一杯ご馳走になってゆくか」
と、云った。
「はい、どうぞ――」
小夜が、左門の給仕をすませて、膳部を下げて来た時、≪どぶ≫はもう、かなりの酒を、胃袋へ流し込んでいた。
「いい心もちになりやがった。おれは、近頃、どっちかといえば、女より酒の方が、よくなって来たぜ」
「親分は、そろそろ、世帯を持ったらいかがですか?」
「ヘヘ……、小夜さんにそうすすめられると、ぞくぞくと、うれしくならあ。……ういういしい女房がよう、亭主のおそい戻りを待っている図なんざ、わるくねえな。
火鉢にもたれて、待つ夜は胸も
ちょうど薬鑵《やかん》のたてる音、
と来た。
但し、これが、人三化七のかかあだと、家の前まで戻って来て、また、くるっと、踵《きびす》をまわすことにならあ」
「親分には、かみさんにしてもよい、という女子衆は、いないのですか?」
「いらあな、ごまんと――」
「じゃ、すぐ、世帯をお持ちなさいな」
「冗談じゃねえ、ごまんといても、それは、こっちがそう思うだけで、むこう様は、知らねえ話だ。……世の中ってえやつは、ままならねえや。女房になってやろう、という女は、こっちが、ご免を蒙《こうむ》りたい莫連《ばくれん》かくわせものばかりでな。……小夜さん、この江戸の男と女の頭数の比率を、知っていなさるかい?」
「存じません」
「人別帳でしらべると、男が百に女が六十だ。これじゃ、話にならねえ。おれのような、飲んだくれの一文無しの御用ききに、良い女房があたるはずがねえやな」
「そんなに、女のひとが、足りないのですか?」
「京大坂は、その逆よ。くそおもしろくもねえ」
≪どぶ≫は、いまいましく、首を振った。
恋慕くずれ
一
「あつい!」
愛宕《あたご》下の往還を、渋団扇《しぶうちわ》で胸へ風を入れながら、のそのそと歩く≪どぶ≫は、いくどめかの独語を、もらした。
実際、ここ数日のむし暑さは、堪えがたいものがあった。
往還上からは、ほとんど人影も絶えている。
「誰にたのまれたわけでもねえに、この炎天を、うろつくなんざ、≪こけ≫の骨頂か」
自嘲のつぶやきをもらした≪どぶ≫の耳に、すずしげな風鈴の音が、ひびいて来た。
湯屋の格子の前へ吊られた釣忍《つりしのぶ》につけてあるのが、鳴ったのである。
「ひと風呂、あびるか」
≪どぶ≫は、土間に入ると、もう一度、
「あついな」
と、云った。
番台の親爺が、笑いながら、
「暑い時にも、寒い時にも、湯にかぎりやす」
「あいにくだが、湯は好きじゃねえんだ」
「ほ――これア、異《い》なことを仰せられ、たてまつる。どうしてですかい、お客さん?」
「あらい立てしてあぶらを取る気、初手の小ぬかの当てこすり、たアどうだ」
「へっ、おそれ入りやした」
親爺は、衣類棚の前に立った≪どぶ≫の腰に、十手があるのをみとめて、あわてて、手で口をおさえた。
こんなうすぎたない岡っ引は、はじめてであった。
熱湯に、ひとうなりした≪どぶ≫は、二階へあがった。
二階の十畳間には、炉《ろ》がきってあり、薬鑵の湯が煮たっている。茶道具、菓子箱の前に、十六、七の小娘が、坐っている。
若い職人たちが、湯あがり姿で、将棋をさしていたし、手代風の男が寝そべって、貸本を読んでいた。
湯屋の二階は、若い衆の遊び場所であった。
「あい、旦那――」
小娘にさし出しされたお市豆を、ひとつ、つまんだ≪どぶ≫は、
「どうだい、姐ちゃん、この親分の女房にならねえか」
と、からかった。
「いやだ!」
にべもなく、かぶりを振った。
すると、将棋をさしていた職人の一人が、
「へへ、親分――、そいつは、もう生娘《きむすめ》じゃねえんだぜ」
と、云った。
「これア恐れ入ったな。もう男がいるのか」
「品川の森村座の中村菊也ってえ女形に、首ったけになりやがって、呉れちまったのさ」
「なに!」
≪どぶ≫は、目を光らせて、小娘を見すえた。
「ほんとか、それア?」
小娘は、うつ向いて、こたえなかった。
「ところがよう、たったいっぺんで、振られちまやがったんだ」
職人は、云った。
二
「それは、いつのことだ?」
≪どぶ≫は、職人をふりかえって、たずねた。
「いつだっけな。……そうだ、麻布の古川橋の舟宿の二階で、こいつが、菊也と手をとりあって、螢狩りとしゃれてやがるのを、見とどけてから、もう一月も前にならあ」
「どうして、一度だけの首尾で振られた?」
≪どぶ≫は、小娘の顔を、のぞき込んだ。
小娘は、袂《たもと》で顔を掩《おお》うと、しくしく泣き出した。
「親分も、カンがにぶいぜ。役者が、こんな小便くせえのを、二度も三度も、対手にするもんけえ。……いや、おれたちが、あんまり可哀そうだから、掛け合ってやったのよ。その時の菊也め、云い草が憎いや。あたしは、このところ、さる高貴の姫様のご寵愛を得て居りまするゆえ、もう、しもじもの女子衆に、肌身は、許せませぬ」
声色をつかって、妙なしなをつくってみせてから、げらげらと笑った。
「……?」
≪どぶ≫は、しかし、横川で出会った中村菊也の夢遊病者のような姿を思いうかべて、笑えなかった。
――高貴の姫様、か?
≪どぶ≫は、急に、立ち上った。
「そいつは、本当かも知れねえ」
「え? ……親分、野郎は、中村座や市村座の人気者じゃねえのだぜ。馬糞くせえ品川のぼろ小屋の名なし女形じゃねえか」
「そういう役者だからこそ、ひょっとすると、高貴の姫君が、こっそり買うのに、都合がよかったのかも知れねえ」
≪どぶ≫は、湯屋をとび出すと、品川へ向って、足をはやめた。
もう暑さも忘れていた。
カンというやつであった。
中村菊也の夢遊状態は、ただ、男女の悦楽《えつらく》に酔いしれたものではなかった。と今にして、推察できた。
――あれは、なにか、途方もねえ媚薬《びやく》をくらわされたからに相違ねえ。
小梅の里あたりに、そういう淫靡《いんび》な場所が設けられているのではあるまいか。
――もしかすると?
≪どぶ≫は、百本杭にひっかかっていた白骨死体も、そんな場所からかつぎ出されて、大川へ投げすてられたような想像力がはたらいたのである。
森村座は、品川の大木戸に近い、とある横丁にあったが、なるほど、うすぎたない小屋であった。
楽屋へ入ろうとしたとたん、ぷうん、と線香のにおいが、ただよった。
のっそり入った≪どぶ≫は、
「誰かいねえか?」
と、呼んだ。
眉を落した、皺《しわ》だらけの役者の顔が、のぞいた。
「中村菊也に会いてえ」
そう云うと、役者は、かぶりを振って、
「あいにく、昨夜、亡くなりましてございます」
三
「亡くなった?」
≪どぶ≫は、眉宇《びう》をひそめた。
「どういうんだ、それア?」
「あい――。お岩になって、化けているうちに、ほんとうに、幽霊になっていたのでござんすわえ」
この森村座の芝居は、思いきったどぎつい趣向をこらすことで、客を寄せ集めていた。
したがって、年中怪奇な因果《いんが》ものを出していた。夏になると、幽霊を出すのは、定石だが、同じ「四谷怪談」でも、市村座や守田座と同じでは、太刀打ちできないから、見物席の床を破って、お岩が浮かびあがったり、舞台の上で宙吊りになって漂ったり、さまざまの趣向をこらしていた。
中村菊也は、幽霊役者で、殊に、お岩を得意としていた。
昨日も――。
舞台の上から、見物席の上へ、ふわふわと漂い出て、さんざ、客に悲鳴をあげさせておいて、見物席のまん中に設けてある仕掛け穴から、消えようとしていた。
その時、どうしたわけか、穴へ沈まずに、かたわらの客へ、どさっと、よりかかってしまったのであった。
その客が、
「止《よ》しやがれ!」
と、突きはなすと、そのまま、ぐったりと、横たわってしまった。
お岩は、死体となっていたのである。
その胸には、ふかぶかと、小柄《こづか》が刺さっていた。
おそらく、舞台から見物席へ、宙を漂い出た時、どこからか、小柄を投じられたものに相違なかった。
「その小柄は、あるかい?」
「あい」
≪どぶ≫は、受けとってみた。
そこいらの貧乏ざむらいの差料についている品ではなかった。見事な金の竜の飾りがしてあった。
「これア、借りて行くぜ」
≪どぶ≫は、小柄《こづか》をふところにして、おもてへ出た。
小屋者たちの話では、検屍した町方同心は、中村菊也のあまりに真に迫った幽霊ぶりに、思わず、芝居ということを忘れた武士が、小柄を投じたに相違ないと判断した、という。
つまり、少々頭がおかしくなった武士のしわざだろう、というわけであった。
「お前らは、これからは、あまり客をこわがらせぬことだ」
それが、同心ののこしたせりふであったそうだ。
――間抜けた推測をしやがるものだ。
ようやく、風が涼しくなった往還を歩きながら、≪どぶ≫は、その同心をあざわらった。
――頭にござった奴なら、小柄を投げる前に、わめきたてるに相違ねえじゃねえか。まわりに気づかれぬように殺したのは、殺すこんたんを持って、小屋に入った証拠なんだ。
四
「――という、次第なんで、へい」
その翌朝、左門の前にかしこまった≪どぶ≫は、中村菊也のむざんな横死を、逐一報告して、頭を下げた。
左門の膝には、小猿がいた。
小猿が勝手に、膝にのるにまかせておいて、左門は、じっと動かずにいるだけなのであった。
≪どぶ≫は、左門がいつまでも黙っているので、しかたなく、
「これア、あっしのカンでございますが、百本杭にひっかかっていた白骨死体と、中村菊也が殺されたことと、なにか、関《かかわ》りあいがあるように、感じられてなりやせんが……、いかがなもので……」
と、云った。
「お前のカンが正しければ、これから、つぎつぎと犠牲者が、出るであろうな」
「どこかに、怪しい場所が、あるに相違ございません」
「…………」
「どうぞ、殿様のカンを働かせて頂きとう存じます」
「…………」
≪どぶ≫は、左門の言葉を、待った。
左門は、かなり長い沈黙を、まもった。
≪どぶ≫は、左門の膝の小猿を、小面憎いものに眺めて、舌を出したり、睨《にら》みつけたりした。
「≪どぶ≫――」
ようやく、左門が、口をひらいた。
「へい」
「中村菊也の胸を刺した小柄には、金の竜が彫ってあった、と申したな?」
「へい。ここに持参して居りやすが、立派な造りでございます」
「しかし、それを投げた者が、必ずしも、武士とは限るまいが……」
「へえ?」
「もし武士だとすれば、中村菊也が、この小梅の里をうろついていたことから推して、抜け出て来た屋敷が、どこか、見当をつけてみる必要がある」
「そ、そうなんでございます」
「小梅、押上、柳島から亀戸にかけて、ちらばって居る大名、旗本の別邸は、数が知れて居る。西尾|隠岐守《おきのかみ》、前田丹後守、井上筑後守、堀|長門守《ながとのかみ》、津軽越中守、加藤於兎三郎、堀丹波守、石川主殿頭、脇坂淡路守、斎藤内蔵助、松浦豊後守……いずれも、べつに、怪しくはない」
「そいじゃ、やっぱり、徒党を組んで、抜荷でもやって居る浪人者どもの隠れ家が、このあたりにあるのじゃございますまいか」
「住人のすくないこのあたりを、隠れ家にえらぶ莫迦《ばか》は居るまい。……法を犯す者が徒党を組む時は、必ず、燈台下の暗い場所をえらぶであろうな。町家のたて込んだ神田|界隈《かいわい》が、かえって、目立たぬ隠れ場所になる」
「…………」
「横川以東で、ごく最近、屋敷を設けた家があるとすれば、それが怪しいと、見当をつけてもよいが……」
そう云ったとたん、左門の表情が、にわかにひきしまるのを、≪どぶ≫は、視《み》た。
五
「どうなさいました?」
≪どぶ≫は、思わず、問うた。
左門が、表情を変える、ということは、曾《かつ》てないことであった。
左門は、しかし、すぐ、無表情にかえった。
「新しく屋敷を構えた者が、いる」
「え、居りますかい?」
≪どぶ≫は、のり出した。
「但し――」
左門は、小猿を、膝から投げ出した。
「ただの屋敷ではない」
「と仰言《おっしゃ》いますと?」
「将軍家ご息女が、輿《こし》入れされた屋敷だ」
「へえ、そいつは、どうも……、あっしら駄犬は、お屋敷内にどんな怪しい気配があっても、遠吠えするよりほかはねえ」
「そうでもないぞ」
左門は、うすら笑った。
「将軍家ご息女、と申しても、おもて向きは、中臈《ちゅうろう》ということになって居る。生母が、厠附《かわやつ》きのお端下《はした》であったため、お手がついたことを、公《おおやけ》にできなかったのだな」
「へっ、厠でお手がついた、とは、これがほんとのくせえ仲だ」
「したがって、生れた娘は、ご息女とはみとめられず、中臈にされた。しかし、ご息女であることはまぎれもなく周知であったため、特別の扱いをされていた模様だ。また、性情も驕慢《きょうまん》であり、その振舞いには、目にあまるものがあったようだ。……佐保、たしか、そういう名であったな」
三年前の梅雨晴れの一日、江戸城内に、町入り能興行が催された。
将軍家若君誕生の祝儀があって、そのよろこびを、江戸の町人たちにも頒《わか》ったのである。
町入り能興行とは、すなわち、町人たちを江戸城に入れて、能興行を見物させることをいった。
えらばれる町人は、名主、地面持ち、家作持ち、老舗の主人などであった。
当日は、紋付に麻上下をつけるのが、さだめであったが、それを持っていない者は、縞の衣服に紙製の紋を貼りつけることも、黙認された。
将軍家をはじめ、諸大名が、町人と一堂に集《つど》うて、催しものを愉しむ唯一の機会であった。
町人たちは、さだめられた時刻に、大手門を入り、中之門に至ると、一人宛雨傘を一本ずつ与えられた。もし万一、雨が降った場合の用心のためであった。したがって、渡された傘が証拠になり、もし傘を持っていなければ、不審の者として、場所へ入ることを許されなかった。
町人が坐らされた場所は、露地であったが、そこにならぶと、酒の下賜《かし》があった。
酒を入れてあるのは、錫《すず》製の瓶子であったが、これは下げ渡されるので、町人は、これを町内へ持ちかえるのを無上の光栄としたものであった。
いわば、江戸城内の無礼講であった。
この時、佐保という驕姫が、一人の若ざむらいをみそめたのであった。
六
佐保がみそめた若ざむらいは、二万石の小大名の小姓であった。
佐保の希望は、ただちに用部屋へつたえられた。
いかに、かげで、≪かわや姫≫と呼ばれている娘でも、将軍家実子であることが、あきらかである以上、十石取りの陪臣に輿《こし》入れすることは、許されなかった。
用部屋に於て、老中、若年寄の相談の結果、佐保の希望は、しりぞけられた。
すると、佐保は、たけり狂って、いさめた老女を、懐剣で刺し、おのれも、自害して果てようとした。
女中たち十数人が、必死になって、懐剣をとりあげると、佐保は庭へ奔《はし》り出て、井戸へ身を投じようとした。
真剣であったか、狂言であったか――いずれにせよ、佐保の物狂おしい振舞いは、大奥すべての人々から、愛想をつかされた。
佐保の身柄は、芝の御用屋敷(俗に謂《い》う比丘尼《びくに》屋敷)へ移された。
比丘尼屋敷というのは、逝去した前将軍の側妾《そばめ》たちが、その位牌をそれぞれ護持して、大奥からひき移って、その余生をすごすところであった。
幾年か前のことであった。
先代の将軍家が逝去して、八人の側妾《そばめ》が、御用屋敷入りした。その中に、お琴の方という、まだ二十三歳の美しい女性《にょしょう》がいた。
大奥への御機嫌うかがい、芝増上寺への御|廟《びょう》参のほかは、一切外出を禁じられた無聊《ぶりょう》の日々が一年すぎた。
たまたま、御用屋敷の茶亭の修築があり、それにあたった大工|肝煎《きもいり》なにがしという男が、錦絵の半四郎とそっくりの男前であった。
お琴の方は、一目視て、無聊《ぶりょう》に飢えていた心に、火がつけられた。
お琴の方の気持は、おのずと、その大工につたわり、ひそかに、媾曳《あいびき》の約束がなされた。
お琴の方が、生家の菩提《ぼだい》所へかようことが多くなったのは、それからであった。
文字通り薄氷を踏む密会が、月に一度、つづけられた。
他の側妾たちも、何もすることがなく、迎え送る日々をもてあましているのであった。しぜんに、他人の振舞いに、目を光らせることになる。
お琴の方の行動が怪しい、と疑惑を抱くのに、さほどの月日を必要としなかった。
やがて――。
某日、お琴の方は、実兄が急病であるゆえ、至急に、自邸へ来るように、という報せを受けた。
お琴の方は、おどろいて、駕籠で、御用屋敷を出た。
そして、それきり、お琴の方は、還っては来なかった。
お琴の方が、生家へ戻ったのは、まちがいなかった。しかし、急病であるはずの実兄は、書院に、厳然として端座して居り、お琴の方をその前に据えると、
「手討ちにいたす。理由は、自らの胸に問え」
と、宣告したのであった。
実兄は、側妾の連名による密告を受けとっていたのである。
七
比丘尼《びくに》屋敷とは、そのように、陰惨な隠居所であった。
佐保は、ここへ移されて、はじめの一月ほどは、おとなしくしていたが、ほどなく、理由をつけて、外出しはじめた。
べつに、位牌《いはい》を護持しているわけでもなく、罪をとがめられている身でもなかったので、外出を制することはできなかった。
芝居見物、花見、屋形船遊びはまだよい方で、浅草奥山や両国広小路の盛り場を、平然とねりあるくにいたって、大層な評判になった。
これが、町奉行より用部屋へ報告され、
「やむを得ぬ。恋慕の男へ、輿《こし》入れさせよう」
ということになった。
しかし、小大名の十石取りの小姓のところへ、嫁《とつ》がせることはできなかった。
先年、廃家になっていた七千石の旗本を、その小姓に継がせ、それに佐保を輿入れさせる面倒な手続きが、とられた。
大番頭、土屋千四郎。
それが、その婿《むこ》に与えられた身分と姓名であった。
これだけならば、まことに、めでたい結びであった。
不幸な娘が、一人いた。
その小姓には、許婚者《いいなずけ》がいた。同じ藩の小納戸の娘であった。相思相愛であった。
降ってわいたような命令が下るや、小姓は、ひとたびは、はげしく拒否した。
しかし、藩主から、じきじきに、
「たのむ!」
と、頭を下げられては、家臣として、なお首を横に振るわけには、いかなかった。
江戸城用部屋で決定したことを、二万石の小大名が、はねつける勇気があろうはずはなかった。
「藩のためと思って、お受けしてくれ」
そう云われると、小姓は、
「はい」
と、両手をつかえ、頭を下げざるを得なかった。
第三者からみれば、これは、異数の出世なのであった。
許婚者をすてるぐらい、さしたる苦痛ではないことに思われた。
しかし、相思相愛の仲である男女としては、一度は、心中まで覚悟したほどの、地獄の苦しみであった。
藩のために、という大義名分が、若ざむらいに、泪《なみだ》をはらわせ、娘をすてさせた。
すてられた娘は、その夜、懐剣でのどを突いて、死んだ。
もとより、この不祥事は、厳秘にふされた。
ひとつの悲劇を生んで、その婚礼は、はなやかに挙行された。
想いを遂《と》げた佐保は、婚礼の日、絶え間なく、高い笑い声をたてていた、という。
おのが意志が通らぬことはない、という自信は、ますます、佐保の性情をおごったものにさせたようであった。
八
「≪どぶ≫、どうだな。このような夫婦が、仲むつまじくすごせると思うか?」
左門は、問うた。
「惚れあった夫婦だって、三年経ちゃ、あきがきまさあ。……婚礼の夜、牀入りした時から、この夫婦仲は、しらじらしいものだったのじゃござんすまいか」
「お互いに、女房を持ったことのない身ゆえ、夫婦とはどういうものか、早計には、きめられぬが、まず、常識として、このような夫婦が、円満な家をつくれるわけがあるまいな」
「あたりまえでございますよ。あっしのような野郎でも、そんな女房なんざ、七里けっぱい、ぶるぶるだ。まっぴら御免を蒙《こうむ》りやす。……どうも、さむらいという身分の御仁は、てめえ自身の気持で、自由に何ひとつ振舞えねえ、お気の毒な存在でございますね」
「だから、いずれ、遠からず、武家制度というものは、滅びると先日申した」
「そうなったら、どういう世の中になりやしょう?」
「金を持って居る奴が、勝《かち》であろうな」
「するてえと、大坂商人あたりが、大名旗本に、とって代る、というわけなんで――?」
「たぶん、な」
「そいつも、ちっとばかり面白くねえな。いまでさえ、大商人どもは、さんざ、したい放題のことをしてやがる。こいつらに、身分地位まで呉れちまったら、これア、いまのご時世よりも、やりきれねえことになりゃしませんかねえ」
「いずれ、と申しても、わたしやお前が、あの世へ逝《い》ったあとのことだろう。見ないでも、すむ」
「へえ――。ところで、そのお屋敷でございますが、一丁さぐってみることに、いたしやしょうか?」
「まず、このあたりで、さぐってみるとすれば、その屋敷であろうが、岡っ引|風情《ふせい》がふみ込める家ではないが、厄介だな」
「忍びのコツは、のみ込んだつもりで居りやすが……」
「わたしが、耳にしたところでは、公儀が、この屋敷をなにかに利用している気配がある」
「何か、と仰言いますと?」
「公儀も、金の工面には、苦労している。武家|法度《はっと》というものを、つくったのはよいが、その制度がいまでは、おのれでおのれのくびを締めることに相成って居る。金もうけを、商人だけにまかせては居られぬ時世だ。公儀自身も、金をつくるてだてをしなければならなくなった。それには、おのれでつくった制度を、おのれで破ることも、敢《あ》えてしなければならなくなった。江戸城内で、これをやるわけにはいかぬ。世間の目をごまかして、ひそかな場所をつくる必要がある。……たとえば、加賀や薩摩が、さまざまの名目をつくって、蔭では、抜荷買いをやっているが、そういうてだてを、公儀もとらねばならぬほど、財政は困窮しているのだ」
「成程――」
≪どぶ≫は、目を光らせた。
九
左門は、云った。
「もし、公儀が、その屋敷を、そのような手段につかっているとすれば、警備は、厳重だ」
「へえ――」
≪どぶ≫は、無精髭《ぶしょうひげ》のあごをなでた。
「岡っ引一人の力では、手に負えるものではない」
「ときけば、いよいよ、武者ぶるいが起ります」
「…………」
「あたって砕《くだ》けることにいたします。いざとなったら、おたすけ下さいまし」
≪どぶ≫は、頭を下げておいて、縁側へ出た。
「≪どぶ≫――」
左門は、呼びとめた。
「へい、なにか?」
「お前は、前身は、さむらいであった」
この事実は、左門のほかは、知らぬことであった。
備前の海辺にある一万石の小藩の馬廻り役――それが、≪どぶ≫の前身であった。
さむらいをすてたのは、かなりこみ入った事情があり、そのために、≪どぶ≫は、三人ばかり、家中の者を殺傷していた。
切腹をまぬがれぬ身であったが、そこを、左門に、救われたのである。
救った時に、左門は、条件を出した。
「岡っ引になれ」
それであった。
≪どぶ≫は、左門を見かえして、
「あっしに、装《なり》をかえて、そのお屋敷を、さぐれ、と仰言います」
「その方が、便利であろう。町小路家に、大小をたばさむ家来が、もう一人ぐらい、いてもよい。……爺に、そう申して、衣服を借りるがよい」
「無腰になって、久しゅうございますが、恰好がつくかどうか――?」
≪どぶ≫は、首をひねりながら、下っていった。
用人に、その旨を告げると、
「お前が、武士のまねをいたすのか?」
あきれた表情を、された。
「馬子《まご》にも衣裳だアな。なんとか、ごまかすから、貸してくんねえな。……なに、刀は、抜かねえから、竹光でいいんだ」
よもや、元は武士であったとは知らぬ用人は、左門にききに行き、
「わたしが、そうするように命じたのだ」
という返辞に、
――酔狂なことだ。
と思いつつ、土蔵へ入って行った。
やがて――。
≪どぶ≫は、いかにも、下級ざむらいらしいいでたちになって、庭へ出た。
使いからもどって来た小夜が、その姿を見て、
「あら!」
と、目を見はった。
「へへ……、どうだい。こうなると、まんざらでもねえだろう、小夜さん。見なおしたかい?」
小夜は、首をすくめて、くすっと、笑ったばかりであった。
今様吉田御殿
一
数日過ぎたある日――。
炎暑はつづいていた。
陽盛りの街中には、人影もまれになっているくらいであったが、ここ深川の木場には、ならんだ≪いかだ≫の上に、点々として、釣人が腰を下して、浮子《うき》が動くのを辛抱づよく待っている。
さまざまの笠で、眩しい陽光を避けているのだが、沖から渡って来る汐風もかえって、肌を汗ばませるのに役立つばかりの、灼《い》りつけられる暑さに、じっと我慢しているとは、よほど、釣の好きな連中とみえる。
河岸道を歩いて来た≪どぶ≫は、その景色を眺めて、
「家で邪魔者あつかいをされた奴、浮世のすね者、それから、悩みごとを忘れてえとねがっている野郎――そういうのが、そろっていやがる」
と、つぶやいた。
ただ、釣が好きで、この炎暑の中に、幾|刻《とき》も、じっと太公望をきめ込んでいる、とは到底、≪どぶ≫には、考えられなかった。
海辺に生れて育った男であったが、釣などは、一度もしたことがなかったのである。
いかだの上へとび降りた≪どぶ≫は、釣人たちへ近づいて、一人一人へ鋭く視線を走らせたが、
――こいつだ!
と、うなずいた。
深編笠で顔をかくしている武士であった。衣服は立派であったし、竿も≪びく≫も、他の釣人が持参しているのとは、ちがっている。
≪どぶ≫は、武士の背後に、立った。
やがて、浮子にあたりが来た。
武士は、竿をはねあげた。
かかったのは、ハゼであった。
武士は、しかし、そのハゼを、釣針から取ると、≪びく≫には入れずに、また、水中へ投げもどした。
ハゼは秋の彼岸《ひがん》から、といわれている。彼岸の中日に釣ったハゼを喰べると、中風にならない、などという迷信も生れていた。
そのために、武士は、ハゼをすてたのであろうか。
≪どぶ≫は、びくの中をのぞいてみた。
何も、一尾も入っていない。
「失礼ながら、なぜ、ハゼをおすてなされるのですかな?」
にわか武士の≪どぶ≫は、問うた。
「…………」
武士は、返辞をしなかった。
「彼岸にならねば、ハゼを喰べぬ、という市中のならわしに、したがって居られますか?」
それをきくと、武士は、
「そのようなならわしがあるなどとは、知らなかった」
と、云った。
「では、どうして、また放ってやられるのですかな。せっかく釣りあげられたのを、もったいない」
「それがしの勝手でござろう」
武士は、ひややかに、こたえた。
二
「もし、釣りあげられた魚が、ご不用ならば、身共《みども》に頂戴できますまいか」
≪どぶ≫は、申し入れた。
「欲しければ、お持ちになるがよいが、そうやって、うしろに、いつまでも立って居られるのは、当方は、少々迷惑に存ずる」
武士は、云った。
「は――まことに、申しわけありませぬ。……ご静遊中を、とんだおじゃまをして、恐縮に存じますが、実は、てまえは、少々、人相を観《み》まするのでな」
「…………」
武士は、そう云われて、眉宇《びう》をひそめると、あらためて、話しかけて来た見知らぬ他人を、見かえした。
小藩の下級武士以外の何者でもない、見るからに泥くさい田舎者である。醜男《ぶおとこ》も、ここまで徹底すると、かえって、愛敬があるていの男である。
勤番で、江戸へ出て来て、うろうろと見物して歩いているのだ、と受けとれる。
「身共の人相が、どうかいたして居る、と云われるのか?」
「は――。非礼をおゆるし下さるならば、申しあげますが……」
≪どぶ≫は、神妙な表情で、云った。
「うかがおう」
武士――旗本大番|頭《がしら》・七千石・土屋千四郎は、緊張した面持をみせた。
≪どぶ≫は、わざと、田舎者らしく卑屈な態度をつくって、
「いや、そ、そのように、ひらきなおって下さると、甚だ申しあげにくうござるが……、ここまで、ぶらぶらと参りまして、ふと、お手前様のお貌《かお》を、拝見したとたん、はっと、相成りましてな」
「凶相だと云われる?」
「い、いや、そうは申しませぬ。……決して、お手前様のお貌は、凶相ではございませんぞ。いや、むしろ、異数の出世をなさる相と、お見受けつかまつりました。ただ――」
「ただ――?」
「つまり、そのう……ただ、手前が学んだ人相学によれば、お手前様の、その眉間《みけん》にある黒子《ほくろ》、また、口の両脇に刻まれた皺、さらに、その耳朶《じだ》のかたち――など、すべて、出世なされば、なさるほど、ご家庭上の不幸をおまねきなさることを、顕《あらわ》して居りまするな」
「…………」
「あるいはまた、身辺に、なにやら怪しいきざしがあり、やがて、それが、途方もない不幸な出来事となって、お手前様を憂悶《ゆうもん》の極に、陥らせる」
「…………」
「もしや、お手前様が、そのことを、お気づきなされているのであれば……」
「…………」
「いまのうちに、身分地位をおすてなさる――ということは、できないまでも、なにか、至急の方策をお樹《た》てなさらぬと、あとで、とりかえしのつかぬことに相成るやも知れませぬな」
三
不意に――。
土屋千四郎が、口をひらくと、哄笑《こうしょう》を発した。
その声の高さは、かなり距離のはなれている他の釣人たちまでが、びっくりして、こちらへ視線を向けたくらいであった。
「はっははは……」
土屋千四郎は、笑いつづけた。
ひどくしつこい笑いかたであった。
――おかしくて、笑ってはいねえんだ!
≪どぶ≫は、そこは独特の鋭いカンで、看《み》てとった。
笑いおさめた時、土屋千四郎は、きわめて鄭重《ていちょう》に、頭を下げた。
「観相の儀、忝《かた》じけない。身共が、出世の相を所有している由、みごとに的中つかまつった。……身共は、目下は旗本の列に加わり、七千石の屋敷をかまえて居り申すが、もとをただせば、田舎の小藩の十石取りの小姓の身――、まさしく、異数の出世をいたしたと申せる。それも、それがしが、なにか非常の才能、天賦《てんぷ》があって、おとりたてにあずかったというのであればまだしも、なんの取柄《とりえ》もない凡夫にすぎ申さなんだのが、降ってわいたような幸運をさずかり申した。貴公の観《み》られた通りの出世人相でござろうな」
「はあ――」
≪どぶ≫は、土屋千四郎の自嘲のひびきをこめた告白をきいて、うなずいたが、すかさず、
「失礼ながら、そのお小姓よりおとりたてになる際、なにか、身辺に、ご不幸は起りませなんだか?」
「…………」
「起ったのでは、ありませぬかな?」
「…………」
対手《あいて》の端正な顔に、苦渋の色が、一瞬、刷《は》かれるのを、≪どぶ≫は、冷たく正視した。
ややあって、土屋千四郎は、かぶりを振った。
「いや、何事も、起りはいたさなんだ」
「左様でありますか」
≪どぶ≫は、土屋千四郎がかくすのは、当然だと思った。
「で――現在は、お幸せなので?」
「いかにも!」
土屋千四郎は、はっきりと、うなずいた。
「途方もないおとりたてにあずかりながら、江戸城内でさげすまれることもなく、妻との仲も円満であり、家来たちもよくつかえてくれて居り……何ひとつ、不足不満は、ない。ごらんの通り、一人で外出して、半日の釣を愉しむ閑暇《かんか》もござるよ」
そうこたえて、土屋千四郎は、明るく微笑してみせた。
そう云われると、≪どぶ≫も、言葉の返しようもなかった。
「それは、まことに、お幸せなことでございます」
「左様――、幸せすぎて、かえって、それが、身共のしりをおちつかせなくして居ると申せようか」
土屋千四郎は、やおら、立ち上った。
「お近づきのしるしに、一献さしあげたい」
四
やがて、土屋千四郎と≪どぶ≫は、深川随一の料亭八百吉に、あがった。
すでに、馴染になっているらしく、土屋千四郎の姿を見るや、女将はじめ、女中全部が走り出て来て、嬌声をあげた。
「色男とは、報果なものでござる」
≪どぶ≫は、思わず、ひがみを、口にした。
こんな高級料亭に、まだ一度もあがったことのなかった≪どぶ≫である。
したがって、素姓《すじょう》のばれるおそれはないつもりであった。
いかにも、途方もない場所にともなわれて、恐縮しきったていで、片隅にかしこまった。
すぐに――。
羽織《はおり》と称される芸妓が七、八人、幇間《ほうかん》を二人ばかり加えて、座敷はにぎやかになった。
土屋千四郎は、しかし、床柱を背にして坐って、芸者の酌を受けるだけで、自分からさわごうとはしなかった。
口数もすくなく、ただ微笑しながら、芸妓の踊りや、幇間の滑稽な芸を、眺めているだけであった。
――もともと、こんな遊びをする柄じゃねえんだ。屋敷の中が、くそ面白くねえから、むりに、うさばらしをしてやがるのだ。
≪どぶ≫は、その様子を、ぬすみ視《み》ながら、胸のうちで、つぶやいた。
芸妓たちも、酔って、ようやく座がみだれた頃あい、一人の幇間が、≪どぶ≫の前へ来て、酌をするふりをしながら、小声で、
「あっしは、親分を、知って居りやす」
と、云った。
≪どぶ≫は、なにか可笑《おか》しいことを云われたように、にこにこして、
「御用筋で、化けた。……おめえ、あの殿様の供をして、押上のお屋敷へ、行ったことはねえか?」
と、たずねた。
「とんでもありやせんや。土屋の殿様は、ちゃあんと、晩飯前には、お帰んなさいます。芸妓や幇間末社をひきつれて、ご帰還なんてえ、粋なまねをなさるわけがありやせん。なにしろ、奥方様は、公方《くぼう》様のご落胤《らくいん》でございますからね」
「その奥方様が、手のつけられねえほどの悍馬《かんば》だ、ときいたことはねえか?」
「さあ――? そこまではね。しかし、たぶん、そりゃそうでござんしょうね。こちとら下賤のやからが、ご推察申し上げたてまつっても、公方様の御落胤を、お嬶《かか》になさりゃ、これア、肩のこることでござんしょうからね」
「殿様は、ここで、よく遊びなさる模様だな?」
「十日に一度ぐらい、でござんすかね」
「いつも、ああやって、おっとり坐っているだけかい?」
「ご自分からさわぎなさることは、ござんせんね」
その時、土屋千四郎が、≪どぶ≫へ声をかけた、
「こちらへ寄られい」
五
≪どぶ≫は、土屋千四郎の前に、坐った。
かなり酩酊のていをよそおって、
「どうも、相判りませぬな」
と、云った。
「なにが――?」
千四郎は、微笑を保ちながら、見かえした。
「お手前様の人相が――でござる」
酔眼を据えて、≪どぶ≫は、舌なめずりした。
「お手前様は、出世なさればなさるほど、不幸になる御仁じゃ。いや、そうにまちがいござらぬのでござる!」
「…………」
千四郎は、こんどは、木場に於ける時とちがって、否定はしなかった。
「白状なされては、いかがなものでありましょうや?」
≪どぶ≫は、首を突き出した。
「お手前様と奥方様が、仲むつまじゅうくらして居られる道理がない」
「…………」
「さ――正直に、白状なされませい!」
≪どぶ≫は、千四郎の膝へ、手をかけた。
千四郎の顔面から、微笑が消えていた。
しかし、白状する代りに、しずかに、≪どぶ≫の手をどけると、
「貴公は、今宵は、ここで、ゆっくりとすごされるがよい」
と云いおいて、立ち上った。
「これは、何事! わし――いや、それがしを、一人、すてておかれますのか!」
「せっかく、出府されたのだ。隅田川の水で洗いあげた白い肌も、味わってみられるがよかろう」
「もし! 勤番者を、さげすまれるか! 田舎者でも、武士の誇りがござる」
叫びたてる≪どぶ≫にかまわず、千四郎は、さっさと、座敷を出て行った。
芸妓、幇間が、のこらず送って出て行き、とりのこされた≪どぶ≫は、とたんに、あぐらをかいて、ひとつ、くしゃみをした。
岡っ引と看破《みやぶ》った幇間が、すぐに、もどって来て、
「親分、抱きやすか?」
と、云った。
「あたりめえだ。殿様のおゆるしが出たんだ。抱かずに、けえれるか」
「七人のうち、どの妓がご所望で?」
「こっちが、ご所望でも、あっちが、そっぽを向きやがったら、お手あげじゃねえか。……このおれでもいい、とうなずくやつを、つれて来な」
「親分でいい、とうなずく妓がいるかどうか」
「この野郎、おれを≪こけ≫にしやがると、てめえのへそくりを、客の懐中から盗ったことにして、まきあげちまうぞ」
「くわばら! ……親分と看破ったばっかりに、とんだ藪蛇《やぶへび》だ」
幇間は、出て行った。
≪どぶ≫は、大きなくしゃみを、もう一度してから、
「女を抱こうか、七千石取ろか――酔うて、伏見の千両松、と来やがった」
と、大声で云って、首を振った。
六
その日の黄昏どき――。
≪どぶ≫は、もとのよれよれの貧乏姿にもどって、押上村の野道を、ひろっていた。
ふたり暑さを川風に
流す浮名の涼み船
合わす調子の爪《つま》びきは
水ももらさぬ縁かいな
顔に似合わぬ美声を、夕風にのせて、ほろ酔い機嫌ともみえる足どりで、大雲寺、最教寺とふたつの古刹《こさつ》のならんだ広い往還を通って、最教寺沿いに、道を曲った。
いつの間に、そこに建てられたのか、真新しい海鼠塀《なまこべい》が、およそ二町も、のびていた。
ひとつの森を、そのまま、屋敷内に容《い》れたらしく、塀の上にそびえているのは、いずれも、鬱蒼《うっそう》とした老樹であった。
「へっ――忍び込む夜の、その間夫《まぶ》振りは、か」
≪どぶ≫は、枝ぶりを仰ぎながら、小声で唄いつつ、塀に沿うて、歩いた。
「泥棒かぶりに、尻|端折《はしょ》り、抜き足さし足しのび足、情婦《いろ》は、どこかい、二階かい」
とたんに――。
「こらっ!」
呶声が、かかった。
ふりかえると、いつの間にか、武士が二人、つッ立って、睨んでいた。
「ざれ歌などをうたう場所ではない。立去れ!」
「へえ――」
≪どぶ≫は、卑屈に、腰を折った。
「あっしは、べつに、そのう……怪しい者じゃございませんので――」
「うろうろするな、と申して居るのだ」
「うろうろしているから、≪うろんな奴≫というわけですかね」
「黙れっ! 雑言、許さんぞ!」
「大層きびしく警護なすっておいでですが、このお屋敷は、いってえ、どなた様が、おすまいなので――?」
「その方などの知るところではない。立去らんか!」
「おっと、そのぶんにはすておかん、と仰言られる前に、去ります、消えます――さようなら」
酔っぱらいとみせて、≪どぶ≫は、よたよたと走って、遠ざかった。
しかし――。
陽が落ち、月が空に冴えた頃合、≪どぶ≫は、最教寺に隣りあわせた雑木林の中から、するりと、出て来た。
ゆっくりと、その新しい屋敷に近づきながら、
――こいつは、どうやら、いのちがけの仕事になりやがった。
と、自分に覚悟をさせていた。
外を歩いているだけで、見|咎《とが》められたのである。
塀内へ忍び込んで、発見されたならば、それこそ、総動員で襲いかかって来るに相違ない。
ということは――。
忍び込む甲斐があるというわけである。
七
こんどは、路上で誰何《すいか》されないように、前後へ鋭く神経を配りつつ、≪どぶ≫は、海鼠塀《なまこべい》に沿うて、進んだ。
正門は、避けた。
向いの雑木林に、身をひそめて、警備の士が二人づれで行きすぎるのをやりすごすことが二度ばかりあって、≪どぶ≫は、裏手へまわった。
その時――。
裏門脇の潜《くぐ》り戸が、開かれた。
とっさに、≪どぶ≫は、地面へぴたっと身を伏せた。
出て来たのは、数人の武士にまもられた駕籠であった。
――ひとつ、こいつを尾《つ》けてみるか。
≪どぶ≫は、忍び込むのを、あとまわしにした。
もし、主人の土屋千四郎が、どこかへ出かけるのであったならば、どうやら、尾行は、徒労ということになろう。
別の人物ならば、むだ足にはならぬような気がした。
――あるいは、厠《かわや》姫かも知れねえぞ。
そう想像すると、≪どぶ≫は、胸がはずんだ。
駕籠が、土屋家のものであることは、月光で、その紋を、≪どぶ≫は視てとったのである。
裏から、ひそやかに出て行くのは、人目をはばかるからであり、これは、主人夫婦か、そうでなければ、内密の訪問客を送るのを、意味している。
内密の訪問客ならば、これこそ、尾ける甲斐があるというものであった。
四人の武士に前後をまもられた駕籠は、しずしずと、西へ向って進んだ。
――どうなる、こうなる、ああなりゃ、どっこい、か。天網恢々《てんもうかいかい》、疎《そ》にしてもらさず、というやつだぞ。
≪どぶ≫は、妙にうきうきして来た。
駕籠は、やがて、小梅村をまわって、西尾隠岐守の下屋敷前を過ぎた。
業平橋にさしかかったので、
――旗本屋敷に入りやがるな。
と、≪どぶ≫は、見当をつけた。
業平橋を渡れば、旗本の家がならぶ外割下水に入ることになるのだ。
意外にも――。
駕籠は、業平橋の上で、停った。
「おや?」
≪どぶ≫は、思わず、のびあがった。
四人の武士が、駕籠わきへ寄った。
とみるや、人間を一人、ひき出して、橋上から、横川の流れへ、投げたではないか。
高い水音が、宵空にひびいた。
駕籠は、何事もなかったように、ひきかえして来る。
――畜生! やりやがった!
≪どぶ≫は、駕籠を行きすぎさせると、いそいで、業平橋へ近づこうとした。
すこしばかりあせっていたので、駕籠がものの三間も行き過ぎないうちに、≪どぶ≫は、物蔭から出たため、武士の一人がふりかえって、
「お――彼奴《きゃつ》!」
と、叫んだ。それは、夕刻、海鼠塀外で、見咎めた武士だったのである。
八
「待てっ!」
呶鳴《どな》られて、≪どぶ≫は、舌打ちした。
こうなれば、居直るよりほかはなかった。
≪どぶ≫は、駕籠をすてて、馳せて来る四人の武士を、平然と迎えた。
――死体を横川へすてるのを、見たんだぞ。こっちに、≪たんか≫の利があるぜ。
「貴様は、先刻、屋敷前を、うろうろしていた男だな」
一人が、云った。
「よく、お判りで――」
≪どぶ≫は、対手がたを小莫迦《こばか》にしたような態度をみせた。
「おのれは、屋敷をさぐりに来た怪しい奴だな?」
「怪しまれるようなことを、お屋敷内で、なすっておいでなので?」
「雑言、許せぬ!」
四人は、一斉に、抜刀した。
≪どぶ≫は、一歩退って、
「そっちが、そう出るなら、こっちも、正体を、はっきりさせやすかね」
やおら、懐中にかくしていた十手を、抜き出してみせた。
「これでさ、あっしの正体は――」
十手をひらひらさせてから、
「ここ十日あまりのうちに、妙な事件が起って居りやす。大川の百本杭に、白骨死体が、ひっかかった。それから三、四日経って、品川の芝居小屋の女形が、殺された。どうも、この下手人は、同じ野郎らしい。……白骨死体を大川へ運んだのも、中村菊也へ小柄《こづか》を投げつけたのも――実は、お前さんがたのしわざじゃねえのか。それが証拠に、いま、また、横川へ、死体を投げ込んだ」
≪どぶ≫の言葉のおわらぬうちに、一人が真正面から、斬りつけて来た。
≪どぶ≫は、苦もなく十手で払ってから、
「これが返辞なら、下手人であることを白状したことになる」
と、云った。
「手ごわいぞ!」
一人が、叫んだ。
すると、いちばんうしろにいた者が、
「おれにまかせろ!」
と、云って、前へ出て来た。
ぴたりと青眼につけた構えを、すかし見て、≪どぶ≫は、
「できるね。お前さんが、中村菊也を、殺《や》ったのじゃないかね」
と、あびせた。
「貴様、とんで火に入る夏の虫だ」
「ご冗談で――。あっしを、ただの岡っ引と見て下すっちゃ、困りやす。これでも、もとはさむらいで、兵法ひと通りは修めて居るんでね」
「えいっ!」
凄じい一撃が、来た。
「むっ!」
≪どぶ≫は、この男専用の長い十手で――右手で柄を、左手でその先端をつかむと――頭上へかざして、その一撃を、受けとめた。
「うぬっ!」
対手は、力ずくで、≪どぶ≫を圧倒しようとした。
九
ちょうど、頭上へ横たえた十手の、まん中あたりを、白刃は、噛んでいた。
押す力と受ける力と――その差が、すこしずつ、目に見えて来た。
≪どぶ≫のからだが、だんだん沈みはじめた。
と――一瞬。
「おりゃっ!」
≪どぶ≫は、懸声とともに、体当りをくれた。
対手は、ひくく、「うっ!」と呻《うめ》くと、上半身を折った。
白刃を杖にして、身を支えようとしたが、それが叶わず、どさっと地べたへ膝をつき、徐々に崩れた。
わきをすりぬけた≪どぶ≫の両手には、その十手が二つにわかれていた。
左手には、鞘《さや》になった鉄棒がにぎられ、右手には、双刃の細く鋭いやつがさげられていた。
残りの三人は、意外な仕込み十手に、驚愕しつつ、切先をそろえた。
いま、脾腹《ひばら》を刺された者が、一番の使い手であろう。
たのみとする手練者を仆《たお》されて、三人は、かなり怯《お》じ気《け》づいているに相違なかったが、あとへ退けぬ立場にあるらしく、じりじりと肉薄して来る。
「止しゃいいんだ。お前さんがたこそ、とんで火に入る夏の虫だアな」
≪どぶ≫は、うそぶいた。
「えいっ!」
「やあっ!」
のどをしぼった気合もろとも、一人が突きに、一人がおがみ撃ちに、襲いかかって来た。
≪どぶ≫は、充分の余裕をもって、おがみ撃ちの白刃を、鞘《さや》で受けとめておいて、突きに来た白刃を肩わきに流した。
そして、
「痛いぞ!」
と、叫びざま、まず突きの敵の片目を、ぐさと刺した。
それを、ひき抜いたとみた刹那には、もう一人の片目をも、容赦なく、つぶしていた。
のこったのは、一人である。
≪どぶ≫は、ツツッと迫って、
「どうするね?」
と、云いかけた。
その返辞は、狂気じみた呶号《どごう》であった。
夜闇《やあん》を截《き》って、すて身の斬り込みを、敢えてはなって来たが……。
≪どぶ≫が、無造作ともみえる動きで、十手刀をさしのべるや、敵は、それをのぞむがごとく、とびかかって来て、鋭い尖端に、おのが胸いたを、与えてしまった。
あっけない、といえる闘いであった。
≪どぶ≫は、十手を、腰に落すと、すたすたと業平橋へ、進んで行った。
四人の敵には、いずれへも、致命傷は与えなかったつもりである。
敗北を蒙《こうむ》ったからには、のめのめと、屋敷へは戻ってゆけぬであろうが、生命をとりとめれば、なんとか生きてゆく手段もあろう。≪どぶ≫は、案外、人を憎まぬ男であった。
十
やがて、≪どぶ≫は、横川へ小舟をうかべて、提灯を水面にかざしながら、視線をまわしていた。
船頭は、いぶかって、
「なにをさがしなさるんで?」
と、問うた。
「土左衛門だ」
「げっ!」
船頭は、かぶりを振った。
「冗談じゃねえ。……まさか、この舟へひきあげるんじゃねえでしょうね?」
「ひきあげさせてもらうぜ」
「恨みが、舟へのりうつって来たら、たまらねえ」
船頭は、ぶつぶつ云ったが、≪どぶ≫の腰にある十手に対して、つよく反対もできなかった。
「お――あそこだ」
≪どぶ≫が、叫んだ。
舟は、ゆっくりと、葦《あし》を鳴らして、≪どぶ≫の指さすところへ、漕ぎ寄せられた。
≪どぶ≫は、片手をのばして、水面にふわふわと漂う衣服をつかんだ。
力をこめて、ひきあげようとして、
「おっ!」
流石《さすが》の≪どぶ≫が、ぞうっと、総毛立った。
その顔が、≪どくろ≫と化していたのである。
左様――。
骸骨《がいこつ》となっているのは、顔だけであった。頸はちゃんと胴につながって居り、手も足も完全であった。
「船頭、足の方をつかまえろ!」
≪どぶ≫は、命じておいて、ずるずると、死体をひきあげた。
船頭は、やれやれと首を振ってから、何気なく、その死顔を、提灯のあかりに、一瞥《いちべつ》した。とたん、
「わあっ!」
と、悲鳴をあげて、腰を抜かしてしまった。
≪どぶ≫の方は、
「これで、はっきりしやがった」
と、自信に満ちた独語を、もらしていた。
百本杭にひっかかっていた白骨死体が、あの土屋千四郎邸から、かつぎ出されたことは、疑う余地はなくなったのである。
それにしても、これは、なんというむごたらしい殺しかたであろうか。
五体は、まだ、生命を失ってから間もないと判るにもかかわらず、顔だけが、≪どくろ≫になっているとは!
どういう殺しかたをしたのか、想像もつかぬ。
――顔だけを、地獄の鬼に、むさぼり食わせた、というのか?
≪どぶ≫は、首をひねった。
――こいつは、いくら、左門の殿にも、見当がつくめえ。
≪どぶ≫は、この死人を、衣裳から見当つけて、寺小姓と看《み》た。大僧正などというやからから、夜毎もてあそばれている陰間《かげま》に相違ないのであった。
誰も知らない
一
「いやはや、さてはや――早野勘平、早駕籠で、はやさしかかる大手門、会うてかなしや、城代の、大石恋しも赤穂が浜」
首を振りながら、町小路家の裏門をくぐった≪どぶ≫は、台所口から、顔をのぞけて、そこにいる小夜に、
「ひとつだけ、きかあ、小夜さん」
と、云った。
「なんですか、親分?」
「死ぬほど、惚れる、ということは、知っていなさるね?」
「女は、みんな、そういう恋にあこがれています」
「ところがだ、殺すほど惚れる、という気持は、わかりやすかね、小夜さん?」
「それは、男のひとでしょう」
「どっこい、女にも、そういう気持を持ったのが、たまには、いるらしい」
「まあ、そうですか」
「小夜さんの心の中にも、しんそこ惚れたら、殺して喰べてしまいたいほどになるおそろしい気持がありやすかね?」
「気味のわるいことを云わないで下さい」
「≪おぼこ≫の小夜さんに、きくのが野暮か。……殿様は?」
「お午寝《ひるね》です」
「いいご身分だ。こちとらも、盲目《めしい》になりてえ」
「殺すほど惚れてもらって、針で目でも突いてもらったら、いかがですか」
「ほら――そういう邪険なことを云うところをみると、小夜さんのような、ういういしいお嬢さんも、どこかに、おそろしい夜叉《やしゃ》がひそんでいる証拠だぜ」
「いやなこと――」
小夜は、つんとなって、横を向いた。
「左門の殿様は、そいつを見抜いて、手をつけねえのかも知れねえ」
「親分!」
小夜は、きっとなった。
「云っていいことと、わるいことがあります」
「平にご容赦――」
≪どぶ≫は、庭へまわった。
松の枝から、ぴょんと、小猿がとび降りて来て、≪どぶ≫の肩にとまった。
「ちょっ!」
≪どぶ≫は、舌打ちして、
「なれなれしくしてもらうめえ。おれとおめえは、相性がわるいんだ」
と、はらいのけた。
≪どぶ≫は、申《さる》年生れであった。
左門は、座敷に、横たわっていた。
「呼んでみようか、呼ばずにもどろか――会いに来たには、来てみたが、主は手枕、空寝入り」
≪どぶ≫は、小声でつぶやきながら、縁側へそっと上った。
また、小猿が、≪どぶ≫の膝へぴょんとのった。
≪どぶ≫は、袂から、非常に美しい鳥の羽根を、とり出すと、まずそれで、自分の鼻さきをなでてみせて、小猿に渡し、左門の方へ押しやった。
二
小猿に起されて、しずかに坐った左門の手には、その綺麗な羽根が、持たれていた。
「この羽根が、どうかしたか、≪どぶ≫?」
「へい」
≪どぶ≫は、いつもながらの左門の鋭い直感力に、感服しながら、
「昨日の宵のことでございます。あっしが、例の――厠《かわや》姫屋敷をさぐりに行きましたところ、駕籠が一挺、裏門から出てめえりやしてね……」
≪どぶ≫は、その奇怪な死人遺棄の出来事を、くわしく語って、
「なんとも、はや――面だけが、髑髏《どくろ》に――目玉はえぐりとられ、鼻も口も耳もなくなり、頬も頤《おとがい》も骨だらけになったそいつが、しっかと、にぎりしめていたのが、その羽根なんでございます。赤と青と黄がまだらになって、目がさめるような美しさでございます」
「南方の土人国に棲《す》む極楽鳥、という鳥のものかも知れぬな」
「極楽鳥――成程。死人が、極楽浄土へ行くことを願って、にぎりしめていた、というあんばいでございますが、どうも、あっしには、なんとも、合点《がてん》がいかねえ」
「それは、そうであろう。顔だけが、髑髏になった死体など、いまだ、きいたことがない」
「ま、これで、百本杭の白骨死体も、厠姫屋敷からはこび出されて、すてられた、と判明いたしやしたが……、いってえ、どういうしかけで、あんなむごたらしいざまになるものでござんしょう?」
「わたしにも、判らぬ」
「へえ――」
≪どぶ≫は、しかし、左門が、心中では、なにか鋭い推理力を働かせているのではあるまいか、とその顔を、じっと、見まもった。
すると――。
「ひとつだけ、わたしが、自信をもって、云えることがある」
左門が、云った。
「なんでございましょう?」
「殺された女形――中村菊也、と申したな――それが、夢遊病者のようになっていたのは、たぶん、阿片《あへん》の毒に冒されていたからであろう」
「へえ? 阿片!」
「百本杭の土左衛門も、昨夜お前がひきあげた陰間のような小姓姿の死人も、いずれも、阿片をのまされて、中毒に罹《かか》っていたに相違ない。その状態で、殺されたであろう」
「するってえと……、阿片の中毒がひどくなったら、肉が落ちて、くたばると、髑髏になるのでございましょうか?」
「そうはなるまい。白骨や髑髏にされたのは、別の毒物に漬けられたのかも知れぬ。それは、わたしにも、なんとも、見当はつかぬ」
「阿片中毒に罹《かか》っていたことだけは、確信なさいますので――?」
「お前が、中村菊也にふれた直後、わたしの前に来た時、その匂いがした」
盲人の嗅覚であった。異常な鋭さだったのである。
三
「つまり――」
≪どぶ≫は、小さな目を光らせた。
「土屋千四郎邸内では、阿片を密用している。それも、厠姫が、使っているのではないか、とお考えなさいますので?」
「誰が用いて居るか――それは、つきとめてみなければ、断定はできまい」
左門は、こたえた。
「しかし、殿様――。あっしが、勤番侍に身を変えて、当ってみたところじゃ、土屋千四郎は、至極まっとうな御仁でございました。それはもう、誰からも好感を持たれるような、口ぶりも、態度も、怪しい気配なぞ、みじんもない……」
「孤独な翳《かげ》など、みじんもなかった、と申すのか?」
「へえ――孤独な翳、と仰言《おっしゃ》られると、それは、どことやら、さびしそうなところもみえないことはございませんでしたが――」
「お前に、首をひねらせなかったところをみると、よほど人間ができている、とみえる。それとも、心中を全く押しかくす狡猾《こうかつ》な性《さが》を持って居るかな」
「あっしは、どうも、善良な御仁のように見受けやした」
≪どぶ≫は、土屋千四郎に、深川随一の料亭八百吉で饗応を受けた話をした。
黙ってききおわった時、左門は、ふっと、口辺へ、皮肉な微笑をうかべた。
「≪どぶ≫――」
「へえ?」
「土屋に、女を抱かせられたのではないのか?」
≪どぶ≫は、あっとなった。
――この殿様には、何ひとつ、かくしだてができねえ!
「おそれ入りました」
≪どぶ≫は、ぺこりと、頭を下げた。
「そのために、お前の眼力が、にぶったのかも知れぬ」
「へえ――」
「その料亭を出た土屋が、はたして、帰邸したかどうか、そこまで、つきとめるのが、お前のつとめではなかったか」
「申しわけございませぬ。酒と女となると、あっしは、からきし、だらしがなくなって、われながら、愛想がつきます」
「ま、そこが、お前らしく、人間くさい点であろう。……≪どぶ≫、このまま、すてておくと、次々と、むごたらしい殺人がつづけられるであろう。早急に、くいとめねばならぬ」
「殿様、あの屋敷じゃ、大目付から、評定所へお申し出があって、お取調べ、ということになるのじゃございますまいか」
「いや――」
左門は、首を振った。
「閣老が承知の上で、あの屋敷を、なにか――金の工面の場所に使っているのであれば、大目付といえども、手がつけられぬ」
「左様で――」
「お前の力で、やるのだ、≪どぶ≫!」
左門は、きっぱりと云った。
四
≪どぶ≫は、左門から、「お前一人の力でやるのだ」と云われて、思わず、臍《へそ》の下のあたりが、冷たくなった。
「へい」
うなずいたものの、≪どぶ≫は、肩に重いものがのしかかって来るのをおぼえた。
左門は、うすい微笑をうかべて、
「土屋の屋敷に忍び込めば、お前が、舌なめずりする光景が、目撃できるかも知れぬ」
と、云った。
「生命とひきかえに拝見するんじゃ、あまり、ぞっといたしません」
「手伝ってくれる者は、他に居らぬのだ」
「わかって居りやす」
「土屋の屋敷へ、忍び込む前に、大奥医師の小杉戸玄斎を、たずねるがよい。いま、手紙を書いてつかわす」
左門は、手をたたいた。
小夜に、紙と筆を持参させる左門を、≪どぶ≫は、けげんに見まもった。
盲目で、字が書けるのであろうか――その疑問が、当然起っていた。
左門は、小夜に、墨をすらせておいて、巻紙と筆を把《と》った。
すらすらと、巻紙の上へ、筆を走らせはじめた手つきに、なんのぎごちなさもなかった。
≪どぶ≫は、舌を巻いた。
「では、これを――」
封書を手渡されて、≪どぶ≫は、思わず、
「お見事なもので――」
と、云った。
『小杉戸玄斎殿、硯《けん》北』という筆蹟は、能筆というよりほかはなかった。
左門はたしか、十歳の頃、盲目になった、と≪どぶ≫は、きいていた。十歳までの手習いで、このように能筆になれる道理がない。盲目になってから、習ったのであろうが、臨書の不可能な身で、どうして、このような書道家になれたのであろうか。
≪どぶ≫には、見当もつかなかった。
左門は、≪どぶ≫の疑問に、とんじゃくなしに、その美しい羽根を、小夜へさし出し、
「小夜、お前は、このような羽根をもった美しい鳥を飼ってみたいか?」
と、たずねていた。
「まあ、きれいな!」
小夜は、受けとってみて、
「それは、もう、飼ってみとうございます」
「くちばしから、人を殺す毒を出す鳥であってもか?」
「え? そ、そのようなおそろしい鳥が、いるのでございますか?」
「たとえば、の話だ」
「そんな毒をもった鳥ならば、ごめん蒙《こうむ》ります」
「はは……、お前なら、そうであろうな。ところが、世の中には、そういう毒をもった生きものを好む女性《にょしょう》もいるらしい」
「ほんとでございますか?」
「ほんとうか嘘か、≪どぶ≫が、これから、突きとめに参る」
五
大奥医師・小杉戸玄斎は、小肥りの、小さな目に丸い鼻をもった、あまり品のない五十男であった。
下級ざむらいの装《なり》になった≪どぶ≫が、さし出した町小路左門の手紙を、
「ほう、珍しい。町小路殿が、わしに書状をな」
と、受けとって、すぐに披《ひら》いた。
黙読してから、玄斎は、
「ふむ!」
と、ひとつ、呻《うめ》くように、鼻を鳴らした。
「これは、難題じゃな」
≪どぶ≫を見かえして、
「町小路殿は、大奥に於いて、麻薬使用の有無を、問われて居る」
と、云った。
「おきかせたまわりますよう、願い上げます」
≪どぶ≫は、頭を下げた。
「わしは、大奥出入りの医師じゃ。したがって、大奥のお暮らしぶりについて、これを、巷間《こうかん》につたえることは、かたく禁じられて居るな」
「承知つかまつります」
「ところが、町小路殿は、そのかくされている一面を、教えろ、と申される。こまったのう」
「何卒《なにとぞ》、お打明けの程を――」
「かくされた場所を、知りたいというのは、人情であろうな。まして、数百人の年若い女人が、くらして居る長局《ながつぼね》の中のありさまと来ては、市中にある人々が、ひとしく興味を抱くはず――。それだけに、秘密はきびしく守られて居る」
玄斎は、≪どぶ≫の顔を見ないで、語り出した。
江戸城はじめ大名の奥向では、御殿女中たちは、一種の幽閉状態ですごしている。
そこは、男子禁制である。七歳以上の男子は、大奥に泊めることは、許されていないのである。
表方の役人に会えるのは、御年寄とか、表使いとか、お使い番とかいう役目の女中だけであり、その他の女中は一年中、男の顔を見ることはない。病気になって、医師に診察してもらう以外は、男と口をきくことはないのであった。
のみならず――。
御目見《おめみえ》以上の高級の女中ともなると、奉公の期限がない。一生を、大奥ですごすのである。停年のない奉公ともなると、女としての感情は、尋常ではなくなるのは、当然であろう。
先年――、
水野越前守が老中になって、大奥女中のぜいたくを取りしまろうとした。すると、姉小路という御年寄が、越前守に、
「妾をお持ちでありましょうか?」
と問うた。
越前守が、ある、とこたえると、姉小路は、笑いながら、
「お手前様が、倹約政治をなさる御仁であっても、妾を持つのをお止めなさるわけに参らぬように、生涯禁欲を強いられてるわたくしどもが、少々のぜいたくをしても、これをおとがめなさることはできますまい」
と、こたえた、という。
六
「尼僧となって、仏につかえている身ではあるまいし、御殿奉公をしている女人らが、禁欲を一生|強《し》いられては、その代償として、うさばらしをなすのは、いたしかたのないことでな」
大奥医師・小杉戸玄斎は、笑いながら、≪どぶ≫に、云った。
「信仰、戒律を強いられては居らぬ大奥の女中たちが、その欲情をまぎらわす手段として、ひそかに入手に苦心するしろものは、お手前も、およそ想像がつくであろうがな」
「は――、つまり、あれで?」
「左様、≪あれ≫じゃ。長局の部屋には、必ず、枕草紙とあれが置いてあるな。天竺《てんじく》の水牛でつくったのとか、オランダから輸入された硝子製のやつとかな。お手前も、室町の横丁に、あれを専門で売る店があることを、ご存じではないかな。こっそりと、頭巾で顔を包んで買いに来るのは、侯門内家の婦人が多いそうな。掖庭《えきてい》に幸いをのぞみ、永|巷《こう》に泪《なみだ》を流すは、懐春女の常なり、という次第。……これを、とがめるわけに参るまい。さて、あれを用いるにあたって、空想をめぐらすだけでは、あきたらず、なにやら怪しい媚薬が欲しゅうなるのも、これは人情と申すもの。そこは、それ、蛇《じゃ》の道は蛇《へび》、というわけで、女人の執念というやつは、おそろしい。必ず、手に入れるのだな」
「女中がたの手に入るまでの道筋を、ご存じでありましょうか?」
「知らん――とこたえるよりほかはない」
玄斎は、かぶりを振った。
≪どぶ≫は、にやっとして、
「そこまでお教え下さったのですから、ついでに、何卒――」
と、たのんだ。
「こたえられぬものは、こたえられぬわさ。そうであろうが――」
玄斎は――玄斎もまた、にやにやした。
≪どぶ≫は、すかさず、話題を転じた。
「土屋千四郎という七千石のお旗本へ、お輿入れなされたご中臈《ちゅうろう》がおいででございますな?」
「うむ」
「あの姫君――いや、ご中臈は、大奥の頃は、やはり、≪あれ≫やら媚薬などをお用いでありましたでしょうな?」
「さあな。佐保様が、お輿入れなされたのは、たしか、二十一であったな」
「二十一ならば、あれを用いることをおぼえられていても、ふしぎはありますまい」
「ということじゃな」
「うかがいますが、姫君がお輿入れになるにあたっては、大奥医師である貴方様が、姫君のおからだを、念を入れて、診《み》てさしあげ、五体正常――決して、つまり、その、小野小町ではない、と証《あかし》をたてられるのでございましょうな?」
「医師のつとめじゃからな」
「佐保様というご中臈のおからだも、おしらべになったことと存じます。とすれば、≪あれ≫を用いられたかどうか、すぐにお判りであったと存じますが……」
七
ひどく突っ込んだ質問をする≪どぶ≫の真剣な表情を、玄斎は、いささか、迷惑そうに見かえした。
「ま――それは、お手前のご想像にまかせよう」
ぬらりと、にげた。
≪どぶ≫は、しかし、ひきさがらなかった。
「佐保様は、すでに、その時、媚薬の中毒に罹《かか》られては居りませなんだか!」
「お手前!」
玄斎も、ようやく、警戒の態度を示した。
「わしは、町小路殿とは、かねてご懇意にねがって居るゆえ、依頼があれば、助力を惜しむにやぶさかではないが……、もし、佐保様のお身に、探索の手をのばす、と申されるのであれば、この小杉戸玄斎、平に、かかわりあいは、ごめんを蒙りたい」
「つまり、土屋千四郎殿のお屋敷内で、何が起っているか――一切、知らぬ顔をしていたい、と申されますのか」
≪どぶ≫は、ずばりと、云ってのけた。
玄斎の顔面が、さっと、色を変えた。
――わかった!
≪どぶ≫は、内心、叫んだ。
「お手前は、町小路殿に伝えられい。土屋邸に関すことは、いっさい、知らぬふりをされた方が、身のためである、とな」
玄斎は、つよい語気で、忠告した。
「伝えたく存じますが、わがあるじは、こうと思いきめたことは、断乎として、やりとげる気象でありますゆえ……」
「いや、他の屋敷のことなら、わしは、止めだてはせぬ。しかし、土屋邸内のことは、いかん!」
玄斎は、そう云って、膝をひとつ打った。
≪どぶ≫は、黙って、頭を下げた。
玄斎は、わざわざ、玄関まで送って出て来て、
「よろしいな。くれぐれも、申しておく。町小路殿は、自ら身をほろぼすような振舞いをされてはならぬ!」
と、くりかえした。
「お言葉、耳に入れて、忘れませぬ」
≪どぶ≫は、門を出ると、ふうっと吐息した。
――さて、はや、いやはや、だ。
小杉戸玄斎が、色を為《な》して、あれほど、くどく念を押したのである。たしかに、これは、大変な対手を敵にすることになった。
――しようがねえや!
≪どぶ≫は、首を振った。
――乗りかかった船だ。ここで、足を停めるわけにいかねえじゃねえか。
左門は、おそらく、町奉行が、忠告しても、ひきさがりはしないであろう。
≪どぶ≫としては、「お前一人の力でやれ!」と左門から云われたことを、思い出して、
「やらざアなるめえ!」
と、自分に云いきかせた。
性根のすわったところを、左門に知ってもらう――それが、ひとつの生甲斐ともなっている≪どぶ≫であった。
地獄極楽
一
≪どぶ≫は、ついに、単身、土屋千四郎屋敷へ、乗り込むことにした。
「うかうかしている間に、この夕風には、秋のにおいがしやがらあ」
田舎ざむらいの野暮な装《なり》になった≪どぶ≫は、押上村の野道を、のそのそ辿《たど》りながら、つぶやいた。
日中は、相変らずの炎暑であったが、朝夕は、ずいぶんしのぎやすくなっていた。
≪どぶ≫は、小きざみに、首を振りながら、
「さても――午飯《ひるめし》おわるや、ねむ気しきりに催し、市中路上の往来も、陽の光のつよさに堪えかねて、一時はとだえるまま、しぜん、近隣なんの物音もきこえず、職人どもは午《ひる》やすみの肱《ひじ》枕、店では、算盤《そろばん》にもたれる手代もあれば、硯函《すずりばこ》へ肱をつきたる番頭もみえ、舟こぎする小僧もあり、勝手の方でも、女中ども思い思いのしのび眠り、奥では子供を寝かしながらの母親が、湯もじをみだして、くの字のかたち、いずれも他愛なきありさまにて、ふっと目がさめれば、もはや夕飯、行水に汗を流し、膳に向って、焼酎あわもり、さては亀の年のうるおいに、旦那の好きな囲碁将棋、また夜が更けて、翌日も、午飯おわれば、ねむるものと、まなこがおぼえている気楽なご時世も、江戸のならいとは、いとおかしけれ――」
と――行きすぎかけた古寺の門前の腰掛け茶屋から、
「なにを、ぶつぶつ、云っていなさるね?」
と、声が、かかった。
視線を向けた≪どぶ≫は、
「これア、お前さんか」
と立ちどまった。
茶屋から出て来たのは、次郎吉という、もっぱら大名屋敷を狙って、夜働きする盗賊であった。童顔で、小肥りで、どう見ても、かたぎの小商人《こあきんど》である。
「今日はまた、珍しく二本差しで――よう似合うていなさる」
「西国小藩の馬廻り役・十石三人|扶持《ぶち》、岡っ引≪どぶ≫左衛門、見知りおかれい」
「ははは……、とても、これから、一命をなげ出して、ひと働きやろうという御仁には、見えぬ」
「なんだと?」
≪どぶ≫は、急に、鋭い目つきで、次郎吉を、見据えた。
「どうして、それを、知っているんだ?」
「蛇の道は蛇でね」
「おれのあとを、くっついてまわったとしか思えねえぜ」
「そんな酔狂《すいきょう》なまねはしないね」
「じゃ、判るはずがねえじゃねえか。おれは、こんどは、お前さんに、助《す》けてくれ、とたのむ気はねえぜ」
「あんたにはたのまれなかったがね」
「じゃ、誰に?」
「昨日、町小路左門様に、呼ばれてね」
≪どぶ≫は、目をみはった。
「おめえ、殿様を知っているのか?」
二
「とんでもない」
次郎吉は、かぶりを振った。
「この盗っ人が、与力の殿様と知りあっているはずがない。……突然、使いが、みえたのさ、うちへ――」
この男は、日本橋の横丁で、小さな小間物店をひらいているのであった。十四、五の小女一人をつかって、昼間は、まことに、つつましく、くらしている。
「へえ! 殿様がどうして、お前さんの店と正体を知っていなすったのか?」
≪どぶ≫は、首をひねった。
「わしの方はまた、あんたが、しゃべっちまったのか、と思ったのだが……」
「おれは、しゃべらねえぜ。岡っ引が、盗っ人に手助けしてもらっている、と知られちゃ、赤っ恥をさらすことにならあな」
「はじめて、町小路の殿様にお会いしたんだが、目あきなんぞ、くらべもならねえ、万事お見通しだった」
「そうだろう。おれの親分だ。出来がちがってら。……で、なんて、云われたんだ?」
「≪どぶ≫を、助けてやってもらいたい、と頭を下げなすった」
「ふうん!」
自分一人の力でやれ、と命じたのは、ほかならぬ左門ではなかったか。
ここで、一番、「おれは一人でやる!」と見得《みえ》をきりたいところであった。のどもとまで、それが出たが、≪どぶ≫は、ぐっとのみ下して、
「殿様のせっかくの好意だ。受けるとするか」
と、云った。
「あの殿様に、命令されると、これあ、蛇に見込まれた蛙だね。……あんたのような男が、一文にもならぬ岡っ引稼業を、≪まめ≫につとめているわけが、よく判ったよ」
次郎吉は、黄昏の明るさの中で、微笑した。
「へっ、同じ蛙でも、鼻っさきから、背中へ、ずうんと一本、太い骨が通っていらあ。あながち、町小路左門という蛇に見込まれているわけじゃねえんだぜ」
「ことわってもらわなくとも、よくわかっている。……ところで、土屋千四郎という旗本の屋敷へ、忍び込みなさるらしいが、あの屋敷は、わしも、手びきがしにくい」
「どうしてだい?」
「大名旗本屋敷は、格式石高によって、敷地のひろさから、建物の構造が、きめられている。しかし、あの厠姫のお下り屋敷は、まるで、十万石以上の大名屋敷のひろさでね。建物も、わけのわからぬ構造らしい。……いやなに、新築した頃、わしは、物珍しさに、そっと忍び込んでみたことがあるのだ」
「いやなら、ひきさがってもらおうぜ」
「だから、ひきさがる、と云っているのじゃない。いい機会をもらった、とよろこんでいるくらいさ。……ただ、あんたが、まごまごして、どじをふむといけないと思ってね」
「べらぼうめ! まごつかねえように、こうして、ちゃんとさむれえになっているのじゃねえか」
三
≪どぶ≫は、土屋邸の正門に立った時には、一人になっていた。
小脇に、進物らしい包みをかかえて、いかにも、使者とみせかけた。
≪どぶ≫は、番士に、長崎奉行配下の横目である、と名のった。これは、考えた挙句の嘘であった。
公儀自ら、この屋敷を、海外との秘密の交易場所としているのであれば、長崎奉行よりの使者と名のれば、なんなく、主人に引見してもらえるはずであった。
はたして――。
≪どぶ≫は、すぐに、書院へみちびかれた。
たしかに、これは、七千石の旗本のすまいにしては、規模が大きすぎた。
一万石以下七千石までの屋敷は、五十間四方が、ふつうであった。
ところが、この邸宅は、その数倍の規模であった。
将軍家姫君が輿入れした屋敷であれば、宅地の制を無視してもかまわないであろう。しかし、佐保という女性は、公には、姫君ではなく、大奥の中臈でしかなかったのである。分限が、おのずときまっていたはずである。
にも拘《かかわ》らず、十万石相当の大規模な構造を持ったのは、必ず、その必要があったからに相違ない。
≪どぶ≫は、敵の本拠へ乗り込んだ緊張感で、しばらくは、じっと、二間床の山水の掛物へ、目を据えていたが、
――こうコチコチになっちゃ、神経が八方へ配れねえ。
と、自分に云いきかせて、猫背を出すと、小声で、
「やぼな屋敷の、大小すてて、か」
と、うたった。
「腰も身がるな、町ずまい――よい、よい、よいやさあ……。ほら、おいでなすった」
跫音《あしおと》が、近づいた。
≪どぶ≫は、上唇を、ぺろりとなめた。
障子が開かれたが、≪どぶ≫は、すぐには、頭をあげなかった。
「お主《ぬし》であったか」
土屋千四郎のしずかな声をきいてから、≪どぶ≫は、
「率爾《そつじ》に、夜ぶん参上つかまつったご無礼の段、ご容赦下されい」
と、挨拶した。
「お主が長崎奉行の下で働いて居られるとは?」
「まっ赤ないつわりでござる」
≪どぶ≫は、しゃあしゃあと云ってのけてから、
「しかし、ここに持参つかまつりましたのは、長崎のオランダ商館より出たる品にて、先般のお礼のしるしに、さしあげたく存じますれば、何卒、ごらん下さいますよう――」
と云って、風呂敷をひらいた。
土屋千四郎の前へ、さし出されたのは、洋書であった。
千四郎は、手にとった。
もとより、横文字を読めるはずもなかろうが、ぱらぱらとひらいてみて、千四郎の目は、とある頁に、釘づけになった。
四
洋書のその頁には、金髪の裸女が、三人の男に愛撫されているきわどい絵があったのである。
≪どぶ≫は、土屋千四郎の顔面が蒼ざめ、こめかみが、痙攣《けいれん》するのを、ひややかに見まもった。
千四郎は、しかし、何も云わずに、洋書をすっと、≪どぶ≫へ、押しやった。
「身共には、不用の書である故、おかえしいたす」
「左様でござるかな。もう一度、丹念にごらん下されい」
「その必要はない」
千四郎は、昂《たかぶ》る声を、つとめて抑えて、かぶりをふると、
「おひきとりを願おう」
と、云った。
「ふたつ、三つ、おうかがいいたしたき儀《ぎ》がありまするが、如何なもので?」
≪どぶ≫は、わざと、いやらしい微笑をうかべてみせた。
「見知らぬ御仁と、身共は、問答を好まぬ」
「そちら様が、好みなさらずとも、こちらには、是非とも、おうかがいいたさねばならぬことでござる」
「…………」
「お手前様は、やはり、目下ご不幸の状態に、おありなさる。これは、しかと、見とどけ申しました」
「見とどけたとは?」
千四郎は、鋭い表情で、≪どぶ≫を睨んだ。
「先夜のことでござる」
≪どぶ≫は、この当主に対しては、正面から、この邸内の秘密を暴露してみせる≪ほぞ≫をかためて、乗り込んだのである。
「ご当家がやとって居られる四人の士が、一挺の駕籠を擁して、ひそやかに、裏門を出られ申した。横川に至って、駕籠の中に押しこめていた一個の死体を、流れへ、どぶん、とほうり込まれました。……その死体たるや、なんともはや、奇々怪々の――息をひきとって間もないにもかかわらず、顔面だけが、≪どくろ≫に相成った寺小姓でありましたな。ご当家のあるじであるお手前様が、このことを、ご存じないはずはありますまい」
「…………」
「どうして、あのような、むごたらしい死体が、お屋敷内にて、つくられたのか――それを、うかがえませぬかな?」
「…………」
「川開きの夜、大川の百本杭に、ひっかかっていた白骨死体も、あるいは、ご当家で、つくられたものか、とおぼしく、また、品川の芝居小屋で、中村菊也という女形が、小柄を投げられて、殺されましたが、その下手人も、どうやら、ご当家お雇いの士の一人かと――」
「お主!」
千四郎は、かわいた声で、
「何者だ? まず、それをあきらかにしてもらわねばならぬ」
「犬――でござる」
「犬?」
「公儀の犬に、かぎまわられるおぼえはない、と仰せられますかな」
五
しばらく、重苦しい沈黙があった。
おそろしい苦悶《くもん》が、土屋千四郎の胸中をさいなんでいるようであった。
「もし――もしも」
千四郎は、喘《あえ》ぐように、口をひらくと、
「お主の云うことが、事実とみとめれば、どうする所存か?」
「町奉行所が、どうする、という権限はありませぬ。ご当主たるお手前様が、解決なさらねばならぬことかと存じます。裁くべきものは裁いて、罰を加えるべきでござる」
「…………」
千四郎は、こたえなかった。
こたえられなかったのである。
無言で、すっと、座を立った。
次の瞬間――。
千四郎の五体は、躍って、なげしの槍を、つかむや、ひとしごきして、穂先をピタリと、≪どぶ≫の胸もとへ、擬した。
≪どぶ≫は、平然として、坐ったままであった。
「……む!」
千四郎は、まなじりが裂けんばかりに、双眼をみひらいて、≪どぶ≫を睨みつけた。
「てまえを突き殺されても、≪こと≫の解決にはなりませぬな。これは、お手前様ご自身の覚悟の問題でござる」
≪どぶ≫は、云った。
千四郎は、槍をなげすてた。
「お主のうしろには、誰人がいる?」
それを、問うた。
「盲目の与力――町小路左門殿がおいでです」
「そうか!」
千四郎は、町小路左門がいかなる人物か、知っているようであった。
「身共に、いま、云えることは――」
千四郎は、にがいものを押し出すように、云った。
「罪は、すべて、身共《みども》に帰す、ということだ。身共が、妻を愛することが叶わなかった、ということから、この屋敷の不幸は起った。……いまとなっては、身共には、どうすることもできぬ」
「…………」
こんどは、≪どぶ≫が、黙ってきく番であった。
「人間の情というものは、努力して、変えられるものではない。愛そうと努めれば、かえって、嫌悪《けんお》がわく。それを押しかくそうとしても、女の敏《さと》い神経が、さとらぬはずはない。……いまでは、他人以上の冷たさが、互いの居場所を遠くへだてた」
「…………」
「見て見ぬふりをしているのは、身共の卑怯であろう。それは、みとめる。しかし、妻をそのようなおそろしい女にしたのが、おのれ自身であるからには、身共に、成敗の権はない。そうではなかろうか」
「…………」
「身共は、ただ、座して、天の裁きが下るのを、待っているばかりだ。……お主が、もし、その使者ならば、どうか、自由に振舞ってくれてよい」
六
四半刻のち――。
≪どぶ≫は、辞去するとみせかけて、闇の庭へ出た。
土屋千四郎は、べつに、妻佐保が、どの建物に住んでいるとは、教えはしなかった。
ただ、さきに立って、書院を出る時、
「お主、犬ならば、嗅覚《きゅうかく》は冴えて居ろう」
と、暗示を与えたのであった。
嗅《か》ぐことであった。
≪どぶ≫は、嗅ぎつつ、ひとつの建物へ、近づいた。
それは、松でかこまれたかなり大きな構えの建物であった。
見張りの者の有無に、神経を配りつつ、≪どぶ≫は、縁側へあがった。
たてきられた障子の内側には、灯があった。
すばやく、障子をひらいて、するりと入ったが、そこは、無人であった。
襖《ふすま》へ寄って、耳をすました。
廊下をへだてる奥の部屋には、あきらかに、人の気配があった。
≪どぶ≫は、嗅いだ。
――このにおいだ!
にやりとして、襖へ手をかけた。
その瞬間、≪どぶ≫は、天井裏には、すでに、次郎吉が、ひそんでいるような気がした。
廊下へ出た。
そのにおいは、つよく≪どぶ≫の鼻孔をおそった。
――さて、これからだ!
≪どぶ≫は、臍《へそ》の下へ、力をこめた。
奥の部屋へ――仕切りは板戸になっていたが、それを、そろりと開こうとしたせつな、
「曲者《くせもの》!」
鋭い叫びが、左右から同時に、あびせかけられた。
≪どぶ≫は、両側から迫る者たちの手に、短銃がにぎりしめられているのをみとめるや、かえって、度胸が生れた。
「左様――無断侵入の曲者でござる」
と、云って、板戸をさっと、ひき開けた。
≪どぶ≫の目に映ったその部屋の光景は、≪どぶ≫ほどのすれっからしをして、あっと息をのませるに充分であった。
敷具の上に、白羽二重の寝召《ねめし》いちまいの女体が仰臥していた。
その四方に、餓狼がえじきにむらがるように、素裸の男四人が、うずくまって、白い女体の、のどもとへ、手へ、胸へ、足へ、吸いついていたのである。
目蓋をとじて、男どもの愛撫に身をまかせた女性の顔は、意外に、無表情であった。
滑石《なめいし》のように艶やかな肌は、なんの反応も示してはいなかった。
男どもの愛撫が、まだ足らぬのであろうか。
いや、どの男も、無我夢中で、吸いつき、その悦びに、五体をうごめかしているのであった。
その裸形は、麻薬におかされた放恣《ほうし》なみにくさをあらわしていた。
七
土屋千四郎妻佐保は、ふっと、まぶたをひらいた。
二人の士に短銃をつきつけられて、入って来た≪どぶ≫を、みとめると、やおら、身を起した。
四人の裸男どもは、なお、女体を吸いつづけようと、うごめいた。佐保は、うるさげに、はらいのけた。
「その方、何者じゃ?」
佐保は、とろりと潤《うる》んだまなざしを、≪どぶ≫につけた。
≪どぶ≫は、とっさに、ひと芝居うつことにきめた。
「薬が、欲しゅうござる」
「なんの薬じゃ?」
「その男らが、浮世のすべてを忘れて、貴女様にすがりついて居る――そういう羽化登仙《うかとうせん》の状態になりとうござる。……何卒、薬を、おめぐみ下されい」
「ほほほ……」
佐保は、狂的な笑い声をたてると、ゆらりと、立ちあがった。
「その面でか! たわけ者! その方は、おのが面を、鏡にうつしたことが、あるのか。身の程知らずめが――」
佐保は、≪どぶ≫の顔へ、いきなり、ぺっと唾をはきかけた。
≪どぶ≫は、かっとなったが、顔には示さず、
「薬を!」
と、うめくように叫んだ。
すると、佐保は、また高笑いしてから、
「人食魚のえじきが、舞い込んで来たものよ。……こやつを、えじき部屋へ、投げ込んでおくがよい」
と云いすてて、すす……と奥へ去った。
≪どぶ≫は、引きたてられた。
長い廊下を、幾曲りかして、さらに、階段を上ったり、下ったりした挙句、突き込まれたのは、鉄格子のはまった暗い密室であった。
二人ばかり、壁ぎわへ、守宮《やもり》のように吸いついて、死んだように動かぬ男がいた。
≪どぶ≫は、近づいて、からだをひっくりかえしてみた。
二人とも、まだ二十歳ばかりの、のっぺりした色白の優男《やさおとこ》であった。
「おい!」
ゆさぶってみたが、なんの反応も示さなかった。
麻薬中毒の果てに、いまは、死を待つばかりになっているていであった。
「どうにも、こうにも、おれのようなまっとうな人間が住むところじゃねえや」
≪どぶ≫は、あぐらをかくと、鼻毛を二、三本ひき抜いた。
べつに、不安はおぼえてはいない。
こんなきちがい屋敷で、一命を落すなどということは、考えられないのだ。
「人食魚のえじきにする、と云やがったな」
≪どぶ≫は、つぶやいた。
「魚ってえのは、人間が食うものだと思っていたが、人間を食う魚がいるのかい。こんなチョボ一《いち》は、きいたことがねえや」
八
――もうそろそろ、夜が明ける頃だな。
≪どぶ≫が、闇をすかして、鉄格子の外を、見やった時であった。
しのびやかな足音が、近づいた。
このえじき部屋と称する牢の前に来た黒い影は、錠前をはずすと、
「親分、お待ちどお――」
と、云った。
次郎吉であった。
「待たせたぜ」
≪どぶ≫は、身を起して、云った。
「屋敷が広すぎるのでね、お前さんがどこへほうり込まれたか、さがすのに苦労した」
「ここは、どのあたりだい?」
「地下になっている。上は、倉さ」
「なんの倉だ?」
「どうやら、南蛮の珍品が、山と積まれているようだね」
「一度、拝見してえものだ」
「そんなものより、もっと面白い見世物がある。案内しようかね」
「なんでえ、それは?」
「見るまでのおたのしみにしておこう」
階段をのぼったところに一人、廊下に二人、猿ぐつわをかまされ、後手にしばられた番士が、倒れていた。次郎吉のしわざに相違なかった。
「やるね、旦那は――」
≪どぶ≫が、云うと、次郎吉は、
「奥方の寝所の厨子棚から、薬を頂戴したのさ。これは、よく利くね。……お前さんが、どうしても首をたてに振らぬ女を、わがものにしたい時には、これを、かがせるがいい、手拭いにつけて、鼻へ寄せると、とたんに、ばたりだ」
と、云った。
次郎吉が、≪どぶ≫をともなったのは、母屋と松の林をへだてた古めかしい寝殿造の別棟であった。
もう、夜は、しらじらと明けていた。
その建物へ近づいた≪どぶ≫は、あきれて、目を見はった。
「なんでえ、これア!」
釣殿というのであろう、泉水の上へ簀子縁《すのこえん》をのり出している風雅なたたずまいが、まるで化物屋敷のように荒れはてているのであった。
勾欄《こうらん》は折れ、簀子縁は落葉でうずまり、几帳は破れ、畳にもまた落葉が吹きたまっていた。
くもの巣が、いっぱい、かかっている。
「どういうんだ、この建物は?」
「公方様のお姫様が、輿入れなさると、初夜ってえやつをすごすのに、こういう御殿を建てるのじゃないのかね」
次郎吉が、智慧のあるところを、口にした。
「そうか、なアるほど――」
≪どぶ≫は、合点した。
この釣殿は、土屋千四郎と佐保が、夫婦の契りをむすぶために、設けられたのだ。
その几帳のかげには、臥牀《ふしど》が、ちゃんと延べられてある。
つまり、三年前に、その華やかな婚礼のために建てられ、初夜の時のままに、今日まで放置されてあるのだ。
九
「わからねえ!」
≪どぶ≫は、殿上へ立ち、破れ几帳のかげに延べられた臥牀《ふしど》を見下すと、かぶりを振った。
新郎新婦が、相抱いたであろう初夜の臥牀は、どうやら起き上って掛具をはねた――そのかたちのまま、三年間、誰にも一指もふれられずに、放置されているのだ。
いまは、鼠の巣になって居り、≪どぶ≫がかたわらに立つと、小さなやつが、チョロチョロと、掛具の下へかくれた。
落葉もかかり、くもの糸も張られている。
吹けば、塵埃《じんあい》が、舞いあがるだろう。
「つまり――」
≪どぶ≫は、次郎吉を振りかえって、
「お姫様と土屋千四郎は、いったんは、この中へ入った。……契ったか、契らなかったか――どうやら、夜が明けた時には、もう冷たい仲になって、この牀《とこ》を、見すてたというわけだろうぜ」
「そして、三年間、おっぽらかしているという次第だね」
「これを見りゃ、夫婦仲が、どういうものか、見当がつく……女房は、恋いこがれて、狂言自殺を企ててまでも、婿にした亭主の、冷たい態度に、かっとなって、夜毎、若い色男をひきずり込んで、痴情狂いだ。亭主は、その女房にそっぽを向いて、釣ざんまいという次第さな」
すると、次郎吉は、うすら笑って、
「その程度の夫婦なら、世間には、いくらでも、ころがっているがね」
と、云った。
「この今様吉田御殿は、もっと、おそろしい生地獄だ」
次郎吉は、≪どぶ≫をうながして、六曲屏風のかげに入ると、床板を、ひきあげた。
ぽっかりと、大きな孔《あな》があいた。
孔には、まっすぐに、梯子段が通じていた。
それをつたって降りるにつれて、熱風が吹きあげて来た。
なんとも形容しようのない香気が、その熱風に含まれていた。
地の底へ降り立ったとたん、≪どぶ≫は、前方に遊泳する無数の魚群に、きもをつぶした。
「こ、これア!」
次郎吉は、すでに、昨日のうちに、この驚くべき地下の別世界をたしかめたおちつきで、
「さしずめ、ここは、水族の館《やかた》というわけだ」
と、云った。
巨大な玻璃《はり》の水槽《すいそう》が、据えつけてあるのだ。
近寄った≪どぶ≫は、遊泳しているのが、ただの魚ではないのを、みとめた。極彩色の、まるで、あらゆる絵具を使ってつくりあげたような、しかも、珍奇なかたちをした魚群なのであった。
のみならず、巨大な水槽は、ひとつだけではなく、奥へいくつも据えられている模様であった。
十
次に――。
水槽部屋を過ぎて、階段をのぼり、重い鉄扉をひらくと、さらに、≪どぶ≫を仰天させる別世界が、そこにあった。
生れてはじめて接する異様な密林が、つくられて居り、その枝葉のかげに、目もさめるような美しい鳥が、啼《な》きかわし、飛び交《か》っていた。
「な、なんでえ、これア?」
樹木ひとつを眺めても、これは、自分らが住む日本のものではないのであった。
むうっとこもる熱気の中に、これらは、ふかぶかと茂っているのだ。
「まるで極楽だ!」
≪どぶ≫は、呻《うめ》くように、つぶやいた。
小さな鶏ほどの大きさの鳥が、頭上で羽づくろいしているのだが、そのかたちの優美さ、赤、青、黄さまざまの色彩をあつめたすがたの鮮やかさ。
くちばしの異様に長いの、枝の高処から地上までたれた長い尾、真紅のあたまに純白の羽根を持ったの、小指ほどの小さいの……。
「お!」
≪どぶ≫は、次郎吉に、袖をひっぱられて、身を伏せた。
密林の奥から、大きな竹籠をかかえた人影が、こちらへ、歩いて来る。
女であった。
ほとんど半裸で、胸と腰に、更紗《さらさ》を巻きつけただけの肌は、琥珀《こはく》色をしていた。
あきらかに、異邦の、しかも、熱帯の島の娘であった。
ゆたかな褐色の頭髪を、肩に散らして、彫《ほり》のふかい顔を仰向けながら、五彩異形の鳥たちに、餌を与えて、歩いているのだ。
待ちうけていた鳥たちは、一斉に、啼きたてたり、はばたいたりした。なかには、娘の頭や肩へ、とびのって、餌をせがむ。
娘は笑いながら、なにか異邦の言葉をかけて、そのくちばしへ、いたずらっぽく、唇をつけたりしている。
娘が、遠ざかるのを待って、次郎吉は、
「こっちだ、親分――」
と、≪どぶ≫を、うながした。
暗い洞穴《ほらあな》のような場所をくぐり、やがて、次郎吉が、闇の中で、なにやら、しきりに、戸らしいものを、ゴトゴトとゆりうごかしていたが、突然、あかるくなった。
次郎吉と≪どぶ≫が、地下から抜け出たのは、林の中の粗末な小屋であった。
薪《まき》や炭やらを積みかさねられた土間の片隅から、匐《は》いあがった二人は、悪夢でもみたあとの、腑《ふ》抜けたような表情を、見合せた。
「あきれたねえ」
≪どぶ≫は、薪へ腰を下すと、かぶりを振った。
「あきれた! どうにも、正気の沙汰じゃねえや」
「なに、あんな景色は、海の外へ出りゃ、いくらもあるのだろうよ」
次郎吉は、云った。
「どうやら、南蛮人につくらせたものだな」
散り別れ
一
≪どぶ≫は、町小路邸内へ、よろけ込んでから、ぶっ倒れ、そのまま、人事不省に陥った。
次郎吉と別れるまでは、さして、ふらふらもしていなかったのが、一人になって、野道を歩き出してから、烈しいめまいにおそわれたのであった。
どうやら、えじき部屋へ投げ込まれた際、のどのかわきを訴えて、水を二杯ばかり飲ませてもらったが、その水の中に、毒薬が混じてあったらしい。
常人ならば、すぐに、全身にまわって、次郎吉に救い出された頃にはもう、足どりもあやしいものになっていたに相違ない。
≪どぶ≫のからだは、二十代に、きたえてあった。
備前の山中で、三年ばかり、仙人のようなくらしをしたこともある。その三年間、けものと同じものを食って、生命をつないだ。毒茸を食って、十日あまりも倒れていたこともある。生来、丈夫にできているからだが、そのようなきたえかたをしていたので、毒薬をのまされても、すぐには、効目《ききめ》をあらわさなかった、とみえる。
町小路左門は、小夜から、≪どぶ≫が、台所で倒れた、と告げられるや、べつにおどろきもせず、薬函の中の、しかじかの薬をのませるようにと指示した。
≪どぶ≫は、しかし、その薬をのまされても、二昼夜、人事不省のままであった。
ようやく――。
意識をとりもどした≪どぶ≫は、しばらく、どこへ寝かされているのかさえも判らぬていで、あんぐり口をあけていた。
「親分!」
小夜に、ゆさぶられて、
「ああ、ここは――」
と、目をしばたたいた。
「親分、しっかりしなさい」
「生命を、とりとめたらしいな、小夜さん」
≪どぶ≫は、げっそり殺《そ》げた頬へ、むりに笑いを刻もうとした。
「一時は、どうなるか、と心配しましたよ」
「すまねえ、すまねえ。……どうやら、三途の川を、はんぶんくれえ渡っていた」
「よかったこと! 親分は、強いんですね」
「そうかんたんに、お陀仏《だぶつ》になっちゃかなわねえ」
≪どぶ≫は、起き上った。
まだ、頭の中は、石を詰め込まれたように重かったし、視野がおぼろだった。
「ひでえ目に遭わせやがった」
奇怪な地下室の光景は、悪夢の中で眺めたような気さえする。
「ともかく、殿様に、報告しなけりゃならねえ」
≪どぶ≫は、立ち上って、よろついた。
「まだ、むりですよ、親分。やすんでいなさい」
小夜が、手を貸した。
「なに、小夜さんにこうして、手を握ってもらっていりゃ、こんどは、本当に、地獄へ入っても、悔いはねえや」
二
左門の居間に入った≪どぶ≫は、両手をつかえて、
「醜態をさらしやして、申しわけございません」
と、頭を下げた。
「もう、加減はよいか?」
「へい、大丈夫でございます」
「土屋邸内では、いろいろと面白い見世物を眺めた模様だな」
「どうして、ご存じなんで?」
「お前が、しきりに、うわ言を申していたのでな」
「逐一、お報《しら》せいたします」
≪どぶ≫は、おのが目で見とどけたことを、のこらず、話した。
左門は、無言裡に、ききおわるや、
「わしに、ついて参るがよい」
と、命じて、すっと立った。
≪どぶ≫は、左門がどこへ行くのか、いぶかしいままに、あとに従った。
左門は、目あき同様の馴れた足どりで、廊下を過ぎると、書院に入った。
書院には、客がいたのである。
≪どぶ≫は、その客を一|瞥《べつ》して、はっと息をのんだ。
それは、土屋千四郎に、まぎれもなかった。
左門は、土屋千四郎を書院に待たせておいて、≪どぶ≫の報告をきいたのである。
「お待たせいたした」
左門が、座に就いて、挨拶すると、千四郎は、蒼ざめるほど緊張した顔を俯向《うつむ》けて、
「不意に参上つかまつり、非礼の儀、おゆるし下され」
と、鄭重に頭を下げた。
千四郎は、左門のうしろにしたがっている男が≪どぶ≫であることをみとめたが、当然この屋敷へ戻って来ているもの、と承知しているような様子をみせた。
「お話を、うけたまわり申す」
左門は、ひややかに、うながした。
千四郎は、さらにふかく、顔を伏せた。
「身共は――」
しばしの沈黙ののち、千四郎は、呼吸が苦しげな語調で、云った。
「お手前に、救いを乞いに参ったのではござらぬ」
「…………」
左門は、無言であった。
「ただ……、お手前にだけ、まことのことを知って頂きたく、それだけの意志をもって、参上いたした」
「うけたまわる」
「すでに、お手前は、そこにいる御用聞きの者に命じて、身共が身辺を、お調べなされた。お調べになったと思われることは、くどくどしくは、申し上げ申さぬ。……身共が、一万石の小大名の小姓から、お取立てにあずかり、七千石の知行をたまわって、廃家になっていた直参|布衣《ほい》を継いだことは、すでにご存じのはず――。身共は、その際、相思相愛であった許婚者を、すて申した。その娘は、悲嘆のあまり、自害して相果て申した。このことも、もはや、お調べずみかと存ずる」
三
土屋千四郎の告白が、つづく。
「かかる不幸な目に遭わせてまでも、身共を婿《むこ》にいたした中臈――佐保が、心優しい女子であったならば、また事情も別になったでござろう。……わが妻は、驕慢《きょうまん》この上ない気象の女子でござった。それは、婚礼の夜、すでに、現れ申した。そのために、申すもはばかることながら、その臥床《ふしど》で、契《ちぎ》ろうとして契れず、身共は、自害したあわれな許婚者《いいなずけ》の俤《おもかげ》が、つきまとうてはなれぬままに、妻をふりすてて、寝所を去り申した。……そして、ついに、今日まで、一度も、契っては居り申さぬ」
土屋千四郎が、おのれがあわれな傀儡《かいらい》であることを、知らされたのは、新邸に入ってものの十日も経たぬうちであった。
幕閣に於ては、驕慢な厠《かわや》姫のわがままをゆるして、小藩の小姓を七千石の旗本大身にひきあげてやり、新邸を構えさせるにあたって、かねてからの陰険なひとつの計画を実行したのであった。
海外諸国との交易は、徳川幕府としては、武家法度の第一条に明記する禁令であった。
ところが――。
江戸城ならびに大坂城の金庫は、まさに底をつき、もはや、進退|谷《きわ》まる財政難に陥っている幕府としては、自ら制した禁令をも破らざるを得ぬと、密議一決したのであった。
しかし、公儀自らが禁令を破ったことが、世間に知れることは、絶対に避けねばならなかった。
そこで、若年寄の一人が、全責任を負うて、悪党となって私腹をこやすとみせて、密貿易の秘密組織をつくり、その本拠を、土屋千四郎と厠姫佐保の新邸に置いたのである。
長崎奉行、船手頭、中川御番衆、蔵前札差、廻船問屋、大坂両替商など、多くの人々が、血判誓紙の上で、一味徒党を組んだ。
密貿易は、大いに成果を挙げた。
同時に――。
大奥へは、怪しげな玩弄器物、麻薬が、ひそかに持ち込まれた。
千四郎妻佐保も、この麻薬を、手に入れた。
千四郎に同衾《どうきん》を拒否された驕慢な厠姫が、屋敷を今様吉田御殿にして、夜毎、さまざまの若い男をひき入れたのは、当然の推移であった。
一方では――。
密貿易に加担した富有の商人どもが、各種の珍奇な品を海の彼方から運び込むうちに、ひとつ、この世の極楽をつくりあげてくれようではないか、と増上慢な密議をこらした。
そして、つくりあげたのが、≪どぶ≫が眺めた地下の世界であった。
佐保が、この地下の世界を利用しない道理がなかった。
おのが淫楽のために、ひき入れた男を、そのままには、屋敷の外へ解き放ってやるのをはばかる、となれば、そこに、さまざまの殺しかたが思案される。
おのが肌を愛撫せしめた男たちを殺すのも、驕姫の残忍な性を満足させることになるのであった。
四
その地下の巨大な水槽には、人食魚≪ぴらにあ≫も、数多く飼われていた。
佐保は、その水槽へ、おのが肌を愛撫せしめた男を、投げ込んで、むざんにも、白骨と化せしめる残忍の所業を、敢てしたのであった。
≪どぶ≫が、大川の百本杭で発見した白骨死体も、横川からひきあげたむざんな屍骸も、そのあわれないけにえだったわけである。
佐保自身、また、麻薬中毒となり、いまでは、それを飲まざるを得なくなっている。
なお――。
地下の楽園には、オランダ船より売られた南方の島の娘がいるが、いま、土屋千四郎が愛しているのは、その娘だけだ、という。
「以上、包みかくすところなく、打明け申した」
土屋千四郎は、告白を終えると、左門に向って、頭を下げた。
「では、これにて――」
立ち上る千四郎に向って、≪どぶ≫は、あわてて、声をかけようとしたが、とっさに、言葉が見つからず、いたずらに、口をぱくぱくさせるのみであった。
不幸な若い旗本は、去った。
書院には、しばらく、沈黙があった。
「殿様――」
≪どぶ≫は、左門を見つめて、
「あのお旗本は、死ぬ覚悟をして、打明けに参られたのでござんすね」
「そうであろうな」
「止めるてだては、ござりますまいか?」
「ない」
左門は、冷やかにこたえた。
「しかし、いまになって、死ぬ覚悟など……」
「いや、土屋千四郎は、おのが新邸が、公儀密貿易の本拠と知った時に、死ぬ覚悟をしたのに相違ない」
「へえ――?」
「白骨死体を、衆人の目のつく、大川や横川へすてたのも、中村菊也を殺したのも、土屋自身のしわざであろう。そうすれば、当然、巷《ちまた》の噂になり、町奉行所が動き、やがて、探索の目が、わが屋敷へそそがれる――と、土屋は、考えた。世間が疑惑すれば、公儀といえども、密貿易を中止せざるを得ぬ。土屋は、世間の力というものを借りて、おのが屋敷を崩壊させたい、とのぞんだ」
「成程――」
「お前は、明日にも、土屋邸へ行って、その崩壊のさまを、見とどけて参るがよい」
「承知いたしました」
≪どぶ≫は、左門が立って出て行くのを見送ってから、こぶしをかためて、自分の頭をたたいた。
「こん畜生! どうにも、こうにも、ずきずきしやがって――」
三、四度、頭を振ってから、
「そうだ! 明日といわず、今夜のうちにも――すこしも、早う、おお、そうじゃ!」
と、立ち上った。
五
その地下の楽園では――。
小更紗《こさらさ》と名をつけられた南方の島の娘が、餌籠をかかえて、この朝も、鳥たちを呼んで、密林の中をまわっていた。
鳥たちは、喜々として、小更紗のまわりへ、飛びあつまって来て、あるいは、頭へ、あるいは、肩へとまって、さわがしく、餌をせがんだ。
なかには、その大きなくちばしで、小更紗の頬をつつくのもいた。
小更紗は、くすぐったげに、身をよじって笑いながら、餌をついばませる。
いかにも、無心で、愉しそうであった。
ここが見知らぬ異国の地下であることなど、全く忘れているかのようであった。
と――、
小更紗は、うしろに、人の気配を感じて、ふりかえった。
いつの間に現われたのか、そこに立っていたのは、佐保であった。
まなじりがひきつれ、眸子《ひとみ》が血走り、かわいた唇が、こまかく痙攣《けいれん》していた。
小更紗は、その凄愴な形相に、戦慄して、肩をすくめると、あとずさりをした。
「そなた――」
佐保は、針の鋭さを、眼眸《まなこ》にこめて、云った。
「わたくしの良人に、情をかけられて居るのかえ?」
「……?」
小更紗は、まだこの国の言葉には、ほとんど通じていないらしく、ただ、怯《おび》えの色をみせているばかりであった。
佐保にとっては、対手が、言葉を解そうが解すまいが、そんなことは、どうでもよく、烈しい嫉妬をむき出して、
「その黒い肌が、わが良人にとって、どれだけの魅力がある、というのであろうの」
と、云いつつ、迫った。
小更紗は、一瞬、悲鳴をあげて、にげ出そうとした。
佐保は、ひととびに、とびついて、小更紗の頭髪を、ひっつかんだ。
「ふふふ……、おとなしゅういたすがよい。そなたのような、人目にあてられぬ娘は、やがて、こうなる宿命《さだめ》であったのじゃ」
そうあびせつつ、片腕をうしろにねじあげて、歩かせた。
佐保が、小更紗を押しやって、入ったのは、巨大な水槽のある部屋であった。
水槽のうちで、ひとつだけ、池のように、土の中へ埋め込まれたのがあった。
まん中に、木橋が架けられてあった。
これの水だけは、なぜか、黄色ににごっていて、中の魚のすがたは、みとめられなかった。
しかし、無数の魚がいることは、水面の波立ちで、判った。
人食魚≪ぴらにあ≫は、この水槽に飼われていたのである。
佐保は、それに架けられた木橋の上に、小更紗を押しやると、
「ほれ……、この中の人食魚のえじきに、そなたがなるのじゃ!」
と、云った。
六
小更紗も、この水槽の中にいるのが、どんなおそろしい魚であるか、知っていた。
「あ、ああ……あっ!」
悲鳴をあげて、佐保の手からのがれようと、もがいた。
「ふふふ……、おそろしいか! おそろしいであろう! ……人間が、魚のえじきになるのじゃ。小気味よう、むさぼり食うてくれるわ!」
佐保は、夜叉《やしゃ》の凄じさを、その笑い声にこめつつ、小更紗を、水槽の中へ突き落そうとした。
そうされまいと、文字通り必死で、小更紗は、反抗した。
しかし、ついに、その上半身が、弓なりに、水面上へ、反《そ》った。
その時――、
「佐保! その手を、はなせ!」
土屋千四郎の鋭い声が、かかった。
佐保は、じろっと、良人をにらんだが、
「この黒い肌が、いとしいか、千四郎!」
と、云った。
すでに、良人とはみなさず、自身は、将軍の実娘である誇りを示す態度であった。
「はなさぬか! はなさぬと!」
千四郎は、腰の差料を、抜きはなった。
「わたくしを、斬る、というのか! 将軍家のむすめであるわたくしを――」
「は、はなさねば、斬る!」
千四郎は、一歩迫った。
「斬れるものなら、斬ってみよ!」
叫びざま、佐保は、小更紗を、突きとばした。
「ああっ!」
高い水飛沫をあげて、小更紗のからだが、水中へ、沈んだ。
とみるや――。
もの凄い勢いで、水面がふくれあがり、水中に狂いまわる魚群の動きが起った。
小更紗の片手が、さいごの苦悶を示して、水面を割って出た。
その手が沈むや、それなり、小更紗のからだは、浮かびあがらなかった。
目に見えぬ凶悪な魚群は、ひとしきり、水中をはねまわっていたが、やがて、しずかになった。
それを見とどけておいて、佐保は、千四郎に向い立った。
「千四郎! 斬れるものなら、斬ってみよ!」
「むむっ!」
千四郎の双眼は、とび出さんばかりに、ひき剥《む》かれていた。
「斬れるか? え、斬れるか? すべての非は、お前にあるのじゃ! 初夜の臥牀《ふしど》で、わたくしをすてたお前の冷酷がまねいた罪じゃ!」
「むむっ!」
いったん、千四郎は、刀をふりあげたが、とびかかる気力はなかった。
「行け! 去れっ! おれを、一人にしろ!」
千四郎は、絶叫した。
七
その時――。
≪どぶ≫は、この屋敷の中の松林にひそんでいた。
彼方に、例の古めかしい寝殿造りの別棟があった。
朝陽にあたったその建物は、数十年も、そのままに放置されたように、古び荒れはてて見える。
――そうか。地下に、熱気のこもった部屋がつくってあるために、この建物はぼろぼろになりやがったんだ。
≪どぶ≫は、納得した。
と――。
泉水の中の築山の巨松のかげから、華やかな衣裳がうごいた。
「お!」
≪どぶ≫が、目を見はっていると、ふらふらと歩み出て来たのは、佐保にまぎれもなかった。
白磁のように冷たい顔は、この世のものとも思われぬ無気味さであった。
そのまま、石橋を渡って、その釣殿の簀子縁にあがる足どりは、さながら、幽鬼であった。
≪どぶ≫は、異様な興味をそそられるまま、松林を抜け出して、近づいた。
佐保は、破れ几帳《きちょう》をまわると、落葉と塵埃《じんあい》とくもの巣にまみれた臥牀へ、倒れた。
「……?」
さらに、近づこうとした≪どぶ≫は、不意に、はげしく身もだえして、すすり哭《な》きはじめた佐保の狂態に、足を釘づけされた。
その時であった。
突如として、≪どぶ≫の立つ地面の下が、ごおうっ、と奇怪な音を鳴らした。
「なんだ?」
≪どぶ≫は、あわをくらって、松林へ逃げ込んだ。
地面の下の轟音は、しだいに、高くなった。
「おおっ!」
≪どぶ≫は、わが目を疑った。
寝殿造りの建物が、にわかに、ぐらっとゆれたのである。
それは、宛然《さながら》、舞台の上の屋台崩しのように、かんまんに、崩壊する怪しい光景であった。
≪どぶ≫は、ただ茫然と、われを忘れて、見まもった。
建物は、音もなく地の底へ、ひき込まれるように、崩壊した。
とみるや、その中から、濛《もう》っと、黒煙がわきあがって、その残骸を押しつつんだ。
その黒煙が、天に冲《ちゅう》した時、さらに、ひときわ凄じい轟音とともに、火柱が、噴き出た。
――この世のおわりだ!
≪どぶ≫は、思わず、そう思ったくらいであった。
火柱は、空一杯に、火の粉をまきちらして、熱気を四方へみなぎらせた。
「南無!」
≪どぶ≫ほどの男が、われ知らず両手を合せたくらいの、それは、名状しがたいひとつの世界の終る地獄図絵だったのである。