柴田錬三郎
嗚呼 江戸城(中)
一 番 座
一
正月元旦。
すでに、江戸城に於ける歳首《さいしゆ》の儀式は、ほぼ完全なものになっていた。
歳首の儀式は、元和二年、大坂城豊臣家が滅亡した翌年から、はじめられた。年中行事のうちで、最も盛観に行われ、これが、幕末まで、つづいた。
まず――。
江戸城では、十二月十三日に煤《すす》払いを行い、次いで、城の内外の諸門に、松|餝《かざり》を立てた。
松餝は、葉のない太い竹を伐《き》って、これに松を添えたものであった。
これは、次のような因縁に基《もとづ》くものであった。
元亀三年暮、家康は、三方ヶ原で、武田信玄と戦って、惨敗し、浜松城に逃げ込んだ。明けて天正元年の正月は、家康にとって、まことに暗かった。
それをあざわらう発句《ほつく》を、信玄からの使者が、もたらした。
『松枯れて、竹たぐひなきあした哉《かな》』
松とは、家康の本姓松平を示している。
家康は、憤然となって、その短冊を裂こうとした。
すると、酒井|左衛門尉《さえもんのじよう》忠次が、笑い乍《なが》ら、
「殿――、その発句、こう詠《よ》んでは如何《いかが》かと存じます。松枯れで武田首なきあした哉、と」
家康は、忠次の巧みな頓智に、機嫌をなおした。
江戸城をつくってからは、家康は、正月には、門松を飾るならわしをつくった。太竹が、ななめに、すぱっと切られているのは、武田家の滅亡を意味しているのであった。
さて、正月の賀儀は、元旦、二日、三日の三回に分って行われた。
尾張・紀伊・水戸の御三家、老中、宰相である外様《とざま》、譜代の大名が、元旦に、登城して、将軍家に謁見、祝賀を述べた。御三家の嫡子、外様大名、万石以上以下の旗本諸有司、番士、交代寄合、表高家が二日に、万石以上の無官の嫡子、寄合、五百石以上の小普請、医師、諸国工匠などが、三日に、登城拝謁した。
将軍家は、元旦、二日の両日は、直垂《ひたたれ》をつけて、着座した。諸侯も侍従以上は直垂をつけ、四品《しほん》(従四位下)は狩衣、五位の諸大夫は大紋《だいもん》、平士は素袍《すおう》、といういでたちであった。
その儀式は、きわめて、ものものしいものであった。
例えば――。
元旦には、巳刻《みのこく》(午前十時)に、将軍家が、御座所に出る。まず、拝賀するのは、御三家であった。各々その官位の順にしたがって進み、敷居外で拝礼し、おわって、敷居内に入り、将軍に向って右方に着座した。その時、若年寄が、御三家からの献上太刀を、披露し、納める。
将軍家の前には、高家衆が給仕役をつとめて、熨斗蚫《のしあわび》、土器、吸物の膳部をはこぶ。吸物は、兎の羹《あつもの》であった。御三家の前にも、吸物が置かれる。
御三家は、順々に、将軍家の前に進んで、高家衆の酌で、盃をたまわる。
それがおわって、御三家が次の間に退くと、中奥小姓が、下賜の呉服物をはこんで来て、それぞれの前に置く。
つづいて、老中たちが、御三家と同様に進んで、盃をたまわることになる。
次いで、将軍家は、月番老中の先導で、白木書院に出座して、宰相以下の外様大大名、譜代大名の拝賀を受けるのであった。
御三家と老中を別として、諸大名の拝謁の順序も、この頃から、定められていた。
第一が、御家門(松平と名のることを許された越前・松江・津山などの国持大名ならびに侍従以上の大名)。
第二が、四位以上の外様大名、及び有馬、黒田、京極、伊達など。
第三が、四位以上の譜代大名。
第四が、譜代の中大名ならびに外様の中大名。
第五が、一万石以上の小大名。
旗本大身は、また、別に席次を定められていた。
ついでに、大名の区分には三通りがあった。
御三家・御家門・譜代・外様。
これは、家格によって分けられていた。
ほかに禄高によって、分けられてもいた。
国主(領地が一国以上に及ぶ)・準国主・城主(領土が一国以下でも城を有する)そして邑主《ゆうしゆ》(城を持たず、陣屋しかない)
さらに――。
宮廷からの叙任によっても、区別されていた。
大・中納言家(尾張・紀伊・水戸)
参議(前田家)
中将(井伊・酒井家など)
少将(細川家とか、高家の上格の者)
侍従(国持大名)
四品――従四位下(十万石以上)
五位(一万石以上)
そして、それらの家柄・禄高・地位に応じて、江戸城内に詰める部屋が、定められていた。
大廊下には御三家及び加賀・越前とか、溜《たまり》の間には彦根・会津・高松とか、帝鑑の間には、越前|庶流《しよりゆう》・譜代十万石以上及び名家とか、菊の間には三万石以下及び譜代庶流とか――。
二
二日――。
御三家の嫡子につづいて、国主、準国主など外様大名たちの拝賀もすみ、いよいよ、直参旗本一統の番が、まわって来た。
当時、拝謁の家格を持つ直参旗本は、五千余人であった。
後世、将軍家旗営の士臣を、旗本八万騎、と称したが、これは、員数ではなかった。家康が三河に在《あ》った頃、麾下《きか》の臣及び井伊・本多・酒井・榊原ら譜代の家来を併せて、隷属《れいぞく》の部下がほぼ八万に及んでいたからである。尤《もつと》も、お目見《めみえ》以下の、いわゆる御家人は、六万余いた。
将軍家が、五千余の旗本の拝賀を受けるのは、大広間に於てであった。
一之間から四之間まで、五千余の旗本が家格の順に、隙間なく居並んで、拝賀するさまは、まさしく、壮観であった。
それぞれ、おのが坐るべき場所を心得て居り、一統は、いささかもまごつかずに整然と座に就《つ》いた。
「はて――?」
水野出雲守成貞が、隣りの阿部四郎五郎に、
「老人たちは、如何したのか?」
と、頤《あご》をしゃくって、最前列に空けられた二つの座を、示した。
そこは、旗奉行大久保彦左衛門と槍奉行今村九兵衛が坐る座であった。
両人とも、七十を幾つか越えているが、矍鑠《かくしやく》として、一度も病臥したことはない武辺であった。その二人が、年中行事の最大の儀式に、欠席するのは、合点のいかぬことであった。
同朋衆が、捨土器《すてかわらけ》をのせた三方を、各人の前に配りおわって居り、将軍家の着座は、程なくのことと思われた。
「これは、いかん。老人たちは、どの部屋かに、いるに相違ない」
阿部四郎五郎が、あわてて、立って行き、目付衆に、
「旗奉行と槍奉行を、さがしてくれい」
と、たのんだ。
本丸表御殿も、毎年増築されて居り、『何之間』と称ばれる大名詰の座敷や、『何部屋』と称ばれる諸役人の勤務室などは、すでに、寛永のはじめから、定められていたが、一年に数度だけ、儀式に参列する無役の旗本の控部屋などは、毎年変えられていた。
おそらく、大久保彦左衛門と今村九兵衛は、昨年と同じ控部屋にいるものと、思われた。
目付衆は、手分けして、大急ぎで、二人の老人をさがした。
はたして――。
老人たちは、昨年の控部屋であった『山吹之間』に、端座していた。
彦左衛門も九兵衛も、儀式の日にのみ、登城が許されているので、今朝は、卯刻《うのこく》(午前六時)の開門と同時に、城内に入って来て、昨年と同じであろうと思いきめて、『山吹之間』に坐って、待っていたのである。
『山吹之間』は、今年から、京都所司代が、帰府した際の詰所にあてられることになり、空けられていたのである。
二人の老人は、あまりにも早朝に登城したので、目付衆が、気づかぬうちに、『山吹之間』に入ってしまったのであった。
将軍家が、直参旗本の拝賀を受けるのは、巳下刻《みのげこく》(午前十一時)過ぎであったので、旗本一同は、辰刻(午前八時)頃に登城すればよかったのである。
彦左衛門も九兵衛も、古稀を越えた老人の気ぜわしさで――登城が唯一の生甲斐にもなっていたことであり――夜明けの開門を待ちかねて、城内に入ったために、かえって、とりのこされる結果となった。
「お奉行がた、すでに、お祝いの儀が、はじまり申したのを、ご存じありませぬか。早々に着座されますよう――」
目付にうながされて、彦左衛門と九兵衛は、気色を一変させた。
「なにを申すか! それがしらは、卯刻から、ここに詰めて罷《まか》り在るのだ。それを、なんぞ、なんの沙汰もなく、お祝の儀がはじまるとは、何事だ!」
「この山吹之間は、今年より、京都所司代の詰所にかえられました」
「黙らっしゃい!」
彦左衛門が、戦場鍛えの大声を発した。
「歳首の儀式にて、旗本一統がうちそろうことは、いわば、出陣の馬揃いと同じことであろう。されば、出陣の馬揃いに、旗奉行と槍奉行が、姿をみせぬなどということが、万が一にも、考えられようか。……われらが神君は、曾《かつ》て一度も、この彦左衛門と九兵衛が、陣営に在るのを見落されたことはない。いざ馬を進められるにあたっては、まず、旗奉行と槍奉行に、お声をかけられたものだ。……いかに、われわれが、老いさらばえたとは申せ、このように、卯刻から詰めて罷《まか》り在るにもかかわらず、忘れ去られたものにされたとは、無念限りもない次第と申さねばならぬ。……九兵衛、もはや、この江戸城にては、旗奉行も槍奉行も、無用と相成ったとみえる。詮《せん》ないことゆえ、このまま、退出いたそうではないか」
彦左衛門も立ち、九兵衛も起った。
「お待ち下され! お二人が、この部屋に居られたことを、見落したのは、こちらの落度でござれば、重々にお詫びつかまつる。……お気持を直されて、何卒《なにとぞ》、大広間の方へ――」
目付は、しきりにあやまったが、彦左衛門も九兵衛も、頑として肯《き》き入れようとしなかった。
目付は、うしろにいた同朋へ、目くばせして、老中部屋へ報《しら》せよ、と命じた。
三
松平伊豆守信綱が、いそいで、『山吹之間』へ、やって来た。
「ご老人がた、この儀は、目付どもがうっかり失念したことであれば、言葉をつくして謝罪いたして居る。正月の祝賀の式であるゆえ、列座のほどを、この信綱からも、おねがい申す」
「伊豆殿、妙なことを申されるの。およそ、軍礼にあたって、旗と槍を失念するとは、この七十余年の生涯で、はじめて、うけたまわった。この大久保彦左衛門も今村九兵衛も、いまだ曾て、一番の座のおわったあとで、洗膳《あらいぜん》をくろうたおぼえはござらぬ。世も末世に相成ったものぞ。長生きしたおかげで、珍しい作法を、教えられるものよのう九兵衛――」
彦左衛門は、九兵衛に云って、あざけった。
旗本一統が列座するにあたっては、まず最初に旗奉行と槍奉行を、座に就かせるべきにもかかわらず、そこを空席のままにしておいて、すこしも気づかず、やっと、最後に、坐らせようとするのを、皮肉ったのである。
流石《さすが》の伊豆守も、むっとして、
「将軍家のお台所に、洗膳というものはござらぬぞ、老人!」
と、云った。
「ふん――」
彦左衛門は、せせらわらった。
「伊豆殿、お手前様のような若い御仁は、軍立場《いくさたてば》というものを、ご存じござらぬの。武門にあっては、酒を汲むにあたり、二番座になるを、洗膳と申して、剛直の士は、嫌い申すのじゃ。まして、出陣にも比すべき正月の祝賀にあたり、旗と槍を失念されるとは、戦場に出て、旗槍を置き忘れたるも同じこと。……それがしらは、合戦にのぞむこと数知れずでござったが、旗を出せ、槍を進め、との上意こそうけたまわり申したが、ついぞ、神君がご失念になったことはござらぬ。また、ご料理をたまわる際にも、一番座を欠かしたるおぼえはござらぬ。……何事にても、知らざることは、申されぬものよ」
ずけずけと、云いたいことを云ってのけた。
なにしろ、彦左衛門は、不平不満を胸中に溜めておけぬ老武辺であった。
幾年か前にも、老中土井利勝の饗応《きようおう》を受けた際――。
逞《たくま》しい栗毛の駿足を、庭へ曳き出し、利勝が、
「見るがよい、老人――、この馬は、大坂両度の役に、大いに役立った駿馬ゆえ、むかしを偲ぶ思い出に、こうして、老いてもなお大切に秘蔵いたして居る」
と、見せた。
彦左衛門は、これをきいて、
「成程、大炊頭《おおいのかみ》殿が、大坂の陣で、乗って遁《に》げられたのは、この馬でござるか。いかにも、足が早うみえ申すな。遁げるにはもって来いの駿足でござるて」
ぬけぬけと云いはなって、庭へ降りると、馬の頸をなでて、
「さても、お前は忠義ものよのう。よくぞ、主人を乗せてすたこら逃げ居った。主君想いの名馬じゃ。この上ともに、大切にされるがよかろう」
と、ほめたことであった。
利勝は、彦左衛門の皮肉には馴れていたので、べつに顔色も変えなかったが、一座の面々は、ひやひやしたものであった。
そういう彦左衛門が、頑として、伊豆守に立ち向ったのである。
伊豆守としては、もてあまさざるを得なかった。
目付から、彦左衛門が|ごね《ヽヽ》ているのをきいた酒井忠勝が、姿をみせなければ、伊豆守としては、あるいは、二人の老人が皺腹を切るのを見とどける結果をまねいたかも知れなかった。
忠勝が、近づいて、
「ご老人、もし上様が、許せ、と仰せられたならば、どうされる?」
と、訊ねた。
彦左衛門は、九兵衛と顔を見合せた。
忠勝は、微笑して、
「もはや、ご出座の刻限であれば、お伴いたそう」
と、うながした。
伊豆守は、忠勝を視て、
――この信綱が及ばぬものが、讃岐守《さぬきのかみ》にはある。
はじめて、微かな劣等感をおぼえさせられたことだった。
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地 震
一
この年は、春がなかった、といっていいくらい、雨がよく降りつづいた。
『咲くからに、見るからに、散るからに』人々の目を愉しませる桜は、ついに、春の陽ざかりの中で、美しさを誇る日を、一日も持たなかった。
そして、桜花が散っても、菜種梅雨《なたねづゆ》がつづいた。
「よく降る」
酒井讃岐守忠勝は、壺庭に面した長廊下を歩き乍《なが》ら、呟いた。
閣老たちの執務所に入って、同朋がさし出すお茶を喫《の》んでから、
「探幽《たんゆう》の仕事は、はかどっているかな?」
と、訊ねた。
御座所上段之間の襖絵は、絢爛たる源氏物語絵巻が、描きあげられていた。
狩野《かのう》守信は、ひきつづいて、下段之間の襖に向って、絵筆をはしらせた。
御座所に向って、左側が松、右側が竹、そして一之間との仕切り襖には梅――いずれも、御座所の源氏物語絵巻とは、対蹠的な清雅、枯淡な趣をたたえていた。
閣老たちは、守信がさらに休まずに、一之間の襖を描くものと思い、執務所を、別の座敷に移していた。
しかし、守信は、一之間の襖に向っては、一向に、筆を把《と》る気配をみせなかった。
閣老たちは、一之間、二之間、三之間には、竜とか唐獅子とか虎とか鷹とかを山水草花に配して、永徳・山楽ゆずりの豪華雄麗、奇抜奔放な構図を期待していた。
どういうわけか、守信は、下段の間に、松竹梅を描きあげると、そのまま、与えられた小納戸の溜《たまり》の一部屋にとじこもったきりで、すでに一月以上になる。
同朋が、その部屋から出て来る気配がない旨を伝えると、忠勝は、
「絵師とは、まことに結構な職業よのう。画《か》きたくなければ、意匠が思いうかばぬ、と申して、寝て居ればよい。……われら、幕府の禄を食《は》む者には、そういうわがままが、一日も、許されて居らぬ」
と、云った。
そこへ――。
松平信綱が、姿をみせた。
「去年より、つくって居り申した参覲交代制の試案が、ようやく、成り申した。ご被見下さるか」
「拝見いたそう」
忠勝は、伊豆守が思慮して、将軍家の許可を得た諸大名の参覲交代の制定には、必ずしも、賛成ではなかった。しかし、幕府そのものの方針が、中央集権の実を挙げることであってみれば、参覲交代制こそ、諸大名を将軍家の膝下に統率する最も巧妙な手段であった。
尤も――。
参覲というのは、べつに、伊豆守の独想ではなかった。
慶長八年、家康が、将軍職に就いた際、すでに、前田利長が江戸にやって来、つづいて、池田輝政が入府して、祝賀を述べた。これが、外様大名参覲の嚆矢《こうし》であった。
慶長十四年十一月に、二代将軍秀忠が、中国、西国、北国の諸大名を、江戸へ招き、越年させた。これが不文律となって、諸大名は、江戸と国許をしばしば、往復するようになっていた。
これを制度として定める、と考えたのが、松平信綱であった。
酒井忠勝は、その試案書を披《ひら》いた。
諸大名の在府は満一年。在国も一年。
参府、帰国(いわゆる御暇)いずれも、幕府の許可を必要とする。
外様大名が、江戸へやって来るのは、概《おおむ》ね四月とすること。譜代は、五月、九月、十二月に分けて、その半数を相互に交替せしめること。
帰国に際しては、一門もしくは家老職を、留守居として、江戸屋敷に置くこと。大名の妻子は、すでに江戸屋敷に在るようになっているが、あらためて、これを厳重に実行されること。
老中、若年寄及び奉行は、江戸に在って、帰国せざること。
関東八州の譜代大名は、在府、在国は各半年とすること。
参覲交代にあたっては、その道中の道筋を定めて、みだりにかえぬこと――つまり、東海道を中仙道にかえる、といった勝手な振舞いは許さざること。
その他、道中行列の供揃い道具なども、家格身分地位によって区別されるべきこと。
「大層苛酷な制度でござるな、これは――」
忠勝は、遠慮なくそう云って、試案書を、伊豆守に、返した。
「一年交替の儀を、いわれるのか?」
「九州や奥羽から、一年交替をするのは、さぞ辛かろう、と存ずるが……、ま、やむを得まい」
忠勝は、云った。
二
忠勝は、かねて、制定するとすれば、三年交替がよかろう、と考えていたのである。
一年毎に、江戸と国許を、往復するのは、あまりにも苛酷にすぎる、と思われる。
忠勝には、伊豆守信綱が一年交替を制度にしようとするのは、自分に対する挑戦のようにも感じられた。
伊豆守は、この忠勝が、必ず一年交替を反対するに相違ない、と考えて、わざと、定めようとするような気がした。
忠勝は、伊豆守の肚《はら》の裡《うち》を、読んで、あっさりと、この苛酷な制度をみとめたのであった。
これまでは、諸大名は、国許に二年でも三年でもいることができたし、また、将軍家に祝賀の事があった時に、出府して、一月も経たぬうちに、さっさと帰国しても、べつだんなんの咎《とが》めも蒙《こうむ》らなかったのである。
これまでに、罪を問われたのは、寛永九年五月、肥後熊本城主加藤忠広が、大御所秀忠の喪中にもかかわらず、江戸屋敷で生れた嫡子を、その母とともに、居城熊本へ送りかえし、
「公儀をないがしろにした」
という科《かど》で、領土没収の上、出羽庄内に配流されている。
しかし、妻子を帰国せしめた、というのは、封を奪って、配流にするほどの罪ではなかった。外孫とはいえ、忠広の姉は、紀伊頼宣の正室であり、徳川家とは縁戚関係になっていた。しかも、忠広の妻には、二代将軍秀忠が、蒲生秀行の女《むすめ》を養女として、嫁《とつ》がせていた。
将軍家の養女である妻を、子とともに、熊本へ送って、肥後とはどういう国か、見せてやったとしても、べつに罪科にはなるまい、と忠広が思ったのは、当然であったろう。
三代将軍家光は、しかし、それを重罪として、許さなかった。
忠広が、加藤清正の子であったことは不幸であった。
家光は、さきにも述べたが、精神的な発作を起こす持病があった。
その発作の起る前は、常軌を逸した言動を為《な》した。
家光が、最初に、発作を起したのは、皮肉にも、元和九年六月、父秀忠が隠居して、征夷大将軍に任ぜられるべく、いざ上洛しようとした二十歳の時であった。そのために、上洛が十日間も、おくれたものであった。
二十歳で将軍職を継ぐ、という大事のゆえに、興奮して、発作が起ったのである。
寛永四年の紫衣勅許破棄の事件も、家光の発作直前の激怒によって、起されている。
紫衣勅許破棄の事件とは――。
寛永三年五月に、皇太子御降誕を賀して、秀忠と家光が上洛した時のことである。
秀忠と、家光は、二条城に、後水尾天皇、東福門院、中和門院の行幸啓を仰いだ。
この二条城行幸啓を仰ぐにあたり、江戸から幕命によって、金地院崇伝が、京都に上って、その下準備にかかった。その際、諸宗の僧侶の出世が、元和元年に、家康が制定した宗門|法度《はつと》に抵触していることに、崇伝は、気がついた。
家康が制定した宗門法度では、四十歳以下の僧侶には、紫衣を勅許されることも、長老上人に成ることも、許されていなかった。
金地院崇伝が、調べてみると、紫衣をまとうことを許された僧侶のうち、四十歳未満の者が九十余人もいた。
崇伝は、ともあれ、二条城行幸啓がぶじに済むまでは、黙っていた。
秀忠、家光が、帰府したのち、崇伝は、京都所司代板倉重宗と相談した。その結果、将軍家に、如何とりはからいましょうかと、使者を趨《はし》らせた。
使者のもたらした書状を一読した時、家光は、発作の寸前にあり、異常に苛立《いらだ》ち、小姓の一人を手討ちにした矢先であった。
「坊主どもから、紫衣を剥《は》ぎとってしまえ!」
家光は、呶号した。
僧侶が紫衣をまとうのは、勅許によるものである。家光の呶号は、すなわち、天皇が僧侶たちに贈った綸旨《りんじ》を、反故《ほご》にすることであった。
所司代板倉重宗から、紫衣勅許の破棄を迫られた関白近衛|信尋《のぶひろ》は、
「かような前代未聞の儀は、奏上できぬ」
と、いったん、しりぞけた。
板倉重宗は、断乎として、奏上を迫った。
関白は、やむなく、後水尾天皇のお耳に入れた。
天皇は、激しく家光を悪《にく》まれた。
「将軍が、天皇たるこの身に、勅許をとり消せと申すのか! 将軍に命令されて、これにしたがわなければならぬような天位にあるこの身に、なんの面目があろうか!……将軍が、天皇より上の地位にあると申すなら、中宮(徳川和子)が生んだ高仁《すけひと》に、位を譲ろうぞ」
東福門院(和子)は、秀忠の女《むすめ》、家光の妹であった。元和六年に、後水尾天皇の女御として、入内《じゆだい》し、寛永六年に中宮になった婦人であった。
その東福門院が産んだ親王ならば、大御所秀忠にとっては孫であり、家光にとっては甥である。
将軍家が、天皇に命令したければ、甥を即位させるがよい。
後水尾天皇は、譲位をしても、幕府の申し入れは肯《き》かぬ、と決意されたのであった。
三
紫衣の勅許を賜った僧侶では、大徳寺派、妙心寺派が多かった。
幕府の処置に対して、敢然と反抗した大徳寺の硬派の代表者が、沢庵|宗彭《そうほう》であった。
沢庵は、大徳寺前住職・玉室宗珀、江月宗玩と連署して、五箇条三千余言の抗告をした。
大悟徹底は、当宗派の最も重んずるところであるが、これは、年齢を重ねることによって次第に成せるというものではない。上智の者は、若年であろうとも、悟得成就するが、下愚の輩にいたっては、終生これを成就し得ない。また、たとえ、千七百則の話題を、残らず観得しても、これを活用せずんば、禅機に通達したとは、云い得ぬ。されば、僧侶の身分地位の如何は、専らその人に在って、年齢ではない。一法度の条文を以て、紫衣勅許を破棄せしめようとするごとき、当派の奥旨を知らざるもはなはだしい、というべきであろう。
辞句激烈な右のような大意の上書が、幕閣の不快を呼んだのは、やむを得なかった。
殊に、土井大炊頭利勝は、むかっとなった。
崇伝は、大徳寺、妙心寺の硬派らを厳科に処すことを主張し、天海は、軽い咎めですませるように主張した。
その結果、妙心寺の東源は陸奥津軽に、単伝は出羽由利に、大徳寺の玉室は陸奥棚倉へ配流《はいる》された。沢庵は、その時、すでに、大徳寺をすてて、雲水となり、行方をくらましてしまったので、発見するまで、配流からはずされた(沢庵が、いつの間にか、江戸郊外目黒に、大徳寺別院をつくって、住職となり、たまたま立寄った家光を、将軍家とはそ知らぬふりをして、ののしり、そのことが、土井利勝に知られて、出羽上山へ配流されたことは、先に述べた)。
七十余人の僧侶が、出世綸旨を取上げられ、勅許の紫衣を剥《は》がれ、平僧に下げられたこの事件も、崇伝と板倉重宗が、家光に報せなければ、天皇を憤怒させ、御譲位をみるにいたらずに済んだに相違ない。
酒井忠勝は、将来、将軍家を刺激する事件を起しそうな制度は、なるべく、つくりたくはなかった。
一年毎の参覲交代、などという苛酷な制度は、やがて、どこかの大名に、やむなく、破らざるを得ぬ事情を起させるおそれがあった。
――この伊豆守という人物の五体には、あたたかい血は、かようて居らぬらしい。
忠勝が、内心そう呟いた――その折であった。
突如――。
激しいゆさぶりが、御殿を鳴らした。
忠勝も信綱も、曾て経験したことのない大きな地震であった。
「上様を――」
伊豆守は、そう云いのこして、廊下へ奔《はし》った。
忠勝の方は、音たててゆれる襖を、つぎつぎに、ひき開けて、御座所まで、見通せるように、すばやく立働いた。
万が一、火事になった際、煙を散らすためであった。
四之間から一之間まで、ことごとくの襖を開いても、なお、激震は、つづいていた。
御座所には、家光の姿はなかった。
――寝所であろう。
そこでの守護は、伊豆守にまかせることにして、忠勝は、御座所上段の間の床の間へ、視線を置いた。
その床の間には、家康の肖像が、掛けてあった。
家康が、生前に、本阿弥光悦に描かせて、大層気に入り、秀忠に遺《のこ》したのである。
江戸城内に於ける宝物のひとつであった。
いざ火事となれば、これを、床の間からはずして、庭へとび出すべく、忠勝は、そこを動かなかったのである。
――と。
人の気配に、忠勝は、頭をまわした。
一之間に、入って来たのは、探幽斎狩野守信であった。
忠勝が、そこにいるのをみとめると、にこりとして、
「この地震のおかげで、どうやら、ふっと、意匠を、思いつきました」
波状の|ゆれ《ヽヽ》がつづくなかで、守信は、平然として、そう云った。
「……?」
忠勝は、興味をそそられるまま、純白の襖に、何が描かれるか、見まもった。
守信が、手にしているのは、巨《おお》きな藁筆《わらふで》であった。
携《さ》げて来た壺に、その藁筆を、突き入れて、金箔を溶いた絵具をどっぷりとふくませるや、非常な勢いで、襖の下部へ、躍らせはじめた。
それは、雲であった。
朝陽にさんぜんと照りはえる雲海が、まず、すべての襖へ、描かれた。
「その雲の上に、何を描くのだ?」
忠勝は、訊ねた。
「天女でござる、天女――。ただいまの地震で、庭へ逃げ出した女中衆の姿が目にうつり、てまえに、はたと膝を打たせました」
守信は、こたえたことだった。
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上 洛 騒 動
一
「伊豆、梅雨があけたならば、上洛するぞ」
家光が、突然、云い出したのは、大天守閣の上層にのぼって、ひとかげりの雲もない碧落《あおぞら》に、すっきりとそびえる富嶽を、眺めやっている時であった。
松平伊豆守信綱ただ一人が、うしろにひかえていた。
将軍家が、京都へ行かねばならぬ理由は、何もなかった。
これまで、家光は、二度、上洛している。
元和九年と寛永三年である。
元和九年の上洛は、秀忠が隠居し、家光が、征夷大将軍に補せられるためであった。
寛永三年の上洛は、皇太子御誕生を祝賀するために、大御所秀忠が、云い出したことであった。家光は、その供をしたのである。皇太子を産んだ東福門院(和子)は、秀忠の女《むすめ》であり、皇太子高仁親王は、孫にあたる。大御所ならびに将軍家が、上洛して、祝賀を述べるのは、当然のことであった(尤も、高仁親王は、病弱で、わずか三歳で薨去した)。
その後、紫衣勅許破棄の事件が起り、将軍家の処断を悪《にく》まれた後水尾天皇は、御譲位の決意かたく、ついに、寛永七年に、興子内親王に、帝位をゆずられた。明正天皇がこれである。興子内親王も、徳川和子の産んだ皇女であり、秀忠にとって孫、家光にとっては姪にあたる。
この即位式には、当然、秀忠も家光も、上洛すべきであったが、秀忠はからだをこわしていたし、家光は、頑として、拒否した。
後水尾天皇の御譲位が、あまりに突然であり、幕府に対して、なんの通知もなかったことが、家光のつむじを曲げさせたのである。
明正天皇の即位の大典にも、上洛しなかった家光が、いま頃になって、どうして、急に、京へ行く、と云い出したのか、一瞬、伊豆守には、合点しがたかった。
将軍家上洛ともなると、文字通り天下の一大行事である。
伊豆守は、寛永三年の上洛にあたっても、扈従《こしよう》の一人に加わっていたが、道中宿泊の準備だけでも大変であった。すくなくとも、数箇月を必要とした。その時の上洛には、大小名、旗本諸役人以下足軽まで、九万人が従った。
各駅の旅宿の修築、道路の巡察、沿道の人家の人払いなど、出費の莫大さはもとより、東海道の各大名と庶民におよぼす迷惑は、筆紙に尽しがたいのであった。
寛永三年の上洛にあたっても、小田原城下では、林五郎左衛門重信という旗本が、番所に宿直して、ほんの半刻あまり、居眠りをしただけで、伊豆大島へ流罪になっている。
また――。
駿府では、大納言忠長が、掛川城を預る家老朝倉筑後守宣正に命じて、大井川に浮橋を架けさせて、平地のように往来の便利をとりはからったが、このことが、かえって、家光の憤激を買っている。
「箱根山と大井川は、関東鎮護の二大要険にもかかわらず、浮橋を架けたならば、庶民は、こん後も、これをのぞむに相違ない。われらの渡りの便のみを考えて、こん後のことに思慮が及ばぬとは、言語道断である」
家光は、忠長を、叱咤したことであった。
このたび、上洛ということになれば、扈従の数は、さらに増し、また、道中の途次、不測の異変が起って、犠牲者が出るおそれがある。
老中としては、将軍家には、なるべく府内から出てもらいたくなかった。せいぜい、日光東照宮参詣ぐらいに、とどめて欲しかった。
「上様、ご上洛あそばすご趣旨を、うかがいたく存じますが……?」
「伊豆、忠長が自刃してから、すでに半年になるぞ。……まだ、駿府で金銀を探しあてたという報告を、そちの口から、きいて居らぬ」
「は――」
伊豆守は、頭を下げた。
「忠長と、高崎でしばらく一緒にくらした九条|明子《さやこ》は、京都に居るのであろう?」
「はい。まだ剃髪得度されては居られませぬが、比丘尼《びくに》御所――霊鑑寺に――」
「まだ比丘尼になって居らぬのであれば、二条城へ、呼べるであろう。……伊豆、わし自身が、明子の口から、駿府にかくされた金銀の在処《ありか》を吐かせてくれる」
家光は、伊豆守が、柳生道場の隠密及び伊賀・甲賀の忍者らおよそ百人を、駿府へ遣わして、必死の探索をつづけていることを、きいていた。
――さがしても、徒労だ。
家光は、そう考えて、自ら乗り出す肚《はら》をきめた模様である。
忠長が、明子に、在処を打明けておいて自殺したに相違ない、と家光は考えたのであった。
「上様――」
伊豆守は、家光を、じっと冷たく瞶《みつ》めて、
「いましばらく、気長に、お待ち頂くわけには参りませぬか?」
「待てぬ!」
家光は、伊豆守を睨《にら》みかえした。
伊豆守は、家光の双眸に、狂暴な光の閃きを、視《み》た。
家光の発作が、やがて起るであろう不吉な予感が、伊豆守の脳裡を掠《かす》めた。
二
将軍家上洛の布令は、それから三日後に、出された。
将軍家の江戸出発は、六月二十日ときめられた。あと三月しかなかった。
諸侯の江戸屋敷は、騒動になった。
先発として、紀州頼宣、伊達政宗・忠宗父子、上杉定勝、佐竹義隆、加藤明成、丹羽長重、津軽信義が、まず六月朔日から、つぎつぎと上洛の途に就くことになった。
将軍家の扈従は、徳川頼房、土井大炊頭利勝、酒井讃岐守忠勝、松平伊豆守信綱以下三十万七千余。
寛永三年の上洛の九万人に比べて、四倍の人数であった。将軍家の威風を、天下に示す一大デモンストレーションであった。
「何故の上洛か?」
大名、旗本たちのうち、それを判った者はいなかった。
江戸城手伝い普請に、資金・資材・人員を投入して、ようやく、その完成が間近になり、ほっと一息ついていた大名たちにとって、将軍家上洛は、まさに青天の霹靂《へきれき》であった。
百石につき一人の人足を出し、その人足に銀百匁の手間賃を出し、さらに家臣は知行百石につき銀百匁を供出して、日本一の城郭の完成を手伝って来た大名たちであった。
完成を急ぐために、外様だけではなく、御三家も一門も譜代も、そのほか、三河衆、遠州衆、伊勢衆、播磨衆、備後衆、五畿内衆、近江衆、美濃衆、と称ばれる一万石以下の者たちまで動員されて、寛永六年からこの五年間、その普請工事に、全力を挙げて来たのである。
他家におくれをとらぬための『ご奉公』をするために、家臣の中には、自分の知行を抵当にして商人から借金してまで、割当の責任をはたしている者さえすくなくなかったし、働き盛りの百姓たちが徴発されて、田畑を原野にしてしまっている土地も多かった。
そのような苦しい負担から、ようやく解放される日が近い、と最後の課役を果たすのに必死懸命になっている矢先であった。
その日、上洛の条令及び下知状をもらって、屋敷へ戻って来た大名たちは、重臣たちに、それを示して、言葉もない重苦しい絶望的気分に陥《お》ちた。
伊達政宗は、江戸家老に向って、
「上様の気まぐれが、数百万人を苦しめるのう」
と、もらした。
一方――。
この上洛行列からはずされたことに、怒り狂った面々もいた。
直参寄合衆――旗本奴たちであった。
かれらは、城づくりの課役からも除外されていたが、上洛行列にも加えられなかったのである。
ただちに――。
水野出雲守成貞の屋敷に、一統が集合した。
「われら直参旗本とは、なんぞや! 主君の旗の下――ご馬前にあって、その守護の任に就《つ》くがゆえに、旗本というのではないか。すなわち、本陣にあって、主君とともに闘い、生死を一にする直属の国衆なのだぞ。それを、上洛行列から、はぶくとは、なんたる無礼だ!」
「左様! この坂部三十郎、五千石を食《は》み、馬上五騎、鉄砲五挺、弓三張、槍十本、旗二流、百人の家来を持って居るのは、なんのためだ。譜代直参の奉公人として、徳川家に仕えて居るのは、かかる場合、上様のおん身のまわりを警護する役目なればこそだ」
「松平伊豆め! 許せぬ!」
「旗奉行大久保彦左衛門も槍奉行今村九兵衛も、加えられて居らぬとは、もってのほかではないか。老人たちを、ここへ呼んで、われら直参旗本一統として、致し様がある旨を、上申書として、したためようではないか」
「よかろう」
一人が、即座に起《た》って、馬をとばして行った。
やがて、二人の老武士は、やって来たが、その態度は、意外にも、旗本奴連の期待を裏切るものであった。
彦左衛門は、云った。
「御辺らがいきりたつのは、よう判るが、このたびのご上洛は、御辺らが考えているような、徳川家の武威を示すためのものではない。申さば、上様の遊山《ゆさん》じゃな」
「遊山とは――?」
「京の都へ、遊びに参られることよ。それが、証拠に、先発の顔ぶれをみるがいい。伊達父子、上杉、佐竹、南部、加藤、丹羽、津軽――いずれも、東北の田舎大名どもではないか。上様のご上洛のお供でもせねば、生涯、京の都を見物できぬやからじゃ。……遊山のお供など、われら旗本は無用、無用――」
「しかし、ご老人、それならば、老中より、一言、その由、われわれに、ことわりがあってしかるべきではないか」
「お留守中の江戸城内外を守護するのが、われら旗本のつとめである。いまさら、老中より、教えてもらうまでもあるまい」
実は、彦左衛門と九兵衛は、酒井忠勝に呼ばれて、旗奉行・槍奉行として、将軍家不在の江戸城を守ってもらいたい、とたのまれたのである。
三
松平信綱は、知っていた。
後水尾天皇(いまは上皇だが)が、どれほど、将軍家光を、憎悪されているか、を。
御譲位の直接の原因は、紫衣勅許破棄の事件であった。しかし、氷山の一角にすぎなかった。
原因は、いくつもあった。そのうちの最も甚だしいのは、東福門院・中宮和子の産んだ皇女・皇太子以外のお子――すなわち、天皇が寵愛された御局衆が、身ごもると、京都所司代板倉重宗の密命を受けた医師が、むりやりに流産させ、あるいは、生れるとすぐに殺してしまったことである。
後水尾天皇としては、とうてい堪えられぬ幕府の横暴であった。
かぞえたてれば、きりのないほど、幾多の原因があった。
したがって、その御譲位は、将軍家光に対する天皇としてできる唯一の|あてつけ《ヽヽヽヽ》であり、|つらあて《ヽヽヽヽ》であった。
家光に対してけだもの以上に憎悪を抱いて居られる上皇の在《おわ》す京都へ向って、三十万七千余の大行列を以て、上洛して行く家光の精神状態は、たしかに、異常であった。
すでに――。
譲位後の後水尾上皇は、中宮御所に移られていたが、所司代板倉重宗は、公卿がたが、そこへ祗候《しこう》することを禁じ、その御門を、永久閉鎖してしまっていた。
即位は、寛永七年九月十二日に挙行されたが、帝位に即かれた女帝は、まだわずか八歳であった。上皇になられた後水尾天皇は、三十五歳の壮年であった。
常識では考えられぬ御譲位であった。
いまだ曾《かつ》て、このような不自然きわまる御譲位は、奈良朝以来八百余年間に、一度もなかったことである。
……将軍家上洛の報は、すぐさま、京都につたえられた。
公卿たちは、驚愕した。
――将軍家光は、上皇を弑逆《しいぎやく》し奉るのではあるまいか?
その不安が、民間にまでひそかに取沙汰された。
「いや、将軍家光は、八歳の天皇を思いのままに、あやつり、いつか、自らが帝位に即くために、下準備に、上洛して来るのだ」
そんな極端な臆測をする者もいた。
松平信綱としては、まことに苦痛な上洛であった。
しかし――。
伊豆守としては、断乎として、諫止《かんし》することはできなかった。
家光は、九条明子を呼びつけて、駿府にかくされた豊臣家遺金の隠匿《いんとく》場所を吐かせる目的を持っていたからである。
伊豆守が、いまだ、その在処をさがしあてられずに、焦燥躁している以上、家光の上洛を止めさせることはできなかった。
「おい、将軍家が上洛するぞ」
神田連雀町の張孔堂不伝の家へ、あわただしく戻って来た金井半兵衛が、夕餉《ゆうげ》の膳に就いている弥五郎に、呶鳴るように告げた。
「京見物がしたくなったのだろう」
弥五郎は、べつにおどろかなかった。
「冗談を云っている場合ではあるまい。これには、なにか理由があるに相違ない」
「べつに理由がなくても、上洛したいという気持は起るだろう」
「いいや必ず理由がある、とおれは睨んだ。もしかすると、後水尾上皇に、死を迫る存念かも知れぬ」
「半兵衛、お主、いつ、勤王の志を抱くようになった?」
「おい! おれを怒らせるな、弥五郎!」
「お主こそ、おちつけ。将軍家は、これまで二度、上洛しているが、いずれも、父親の供であった。こんどは、おのれ一人、天下人として、堂々と京都へくり込もうという気持を起したのだろう。生れ乍らの将軍の誇りを示そうというわけだな」
「それだけとは思えぬ。主上の地位を狙って居るのかも知れぬぞ」
「家光という人物、それほど、ばかではなかろう。……いや、待てよ」
弥五郎は、急にひきしまった表情になった。
「先日、駿府から不伝の便りがあったが、公儀隠密どもが、いかに躍起になっても、太閤遺金は、いまだに発見されぬ、と記してあった。……ふむ。あるいは、将軍家自身が、さがしあててくれよう、という料簡を起したのかも知れぬ。駿河大納言とともにくらした九条家の姫君は、京都に在る。将軍家は、その姫君に会って、責めるつもりか?」
「そうだ! それだ!」
半兵衛が、膝を打った。
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説 く
一
「三十万余の大行列で、上洛か。面倒なことに相成ったものぞ」
紀州頼宣は、庭苑の南隅にある露地奥の腰掛待合にいて、呟いた。
児小姓《ちごこしよう》一人が、控えているだけであった。
腰掛待合というのは、茶座所の準備がととのうまで、客が暫時待つために設けられた建物であった。頼宣は、しかし、茶亭よりも、この切妻造り萱葺きの腰掛待合のほうを好んで、佳い日和には、ここで、ひとときをすごすならわしを持っていた。
ここの貴人座の円座にあぐらをかいて、よく漢詩をものしたりしていた。尤も、漢詩はあまり上手ではなかった。
彼方の猿戸《さるど》が開いて、木村助九郎が、入って来た。
相変らず刀痕のある顔に無精髭をはやし、よれよれの小袖に袴をはき、無腰であった。
「殿――」
べつに、膝を突きもせず、かるく頭を下げただけで、
「先般、|※[#「奠+おおざと」]芝龍《ていしりゆう》がともないました、石川丈山の添状持参の由比弥五郎なる者、折入って、面謁の儀、願い出て居ります」
と、告げた。
「おう、あの浪人者か。あの面だましい、おぼえて居る。……ここへ、連れて参れ」
「かしこまりました」
助九郎が立去ると、裏手から、すっと姿を現したのは、蔭の護衛者である僧体の根来《ねごろ》一心斎であった。
「殿――、由比弥五郎と申す者、身共の観るところ尋常一様の凶相ではございませぬ。お近づけにならぬ方が、よろしゅうございます」
「面だましいのある者は、観かたによっては、凶相と受けとれよう、案じるな。……一心斎、退《さが》って居れ」
頼宣は、命じた。
やがて、助九郎の案内で、弥五郎が、猿戸から入って来た。
「願いの筋とは、何だ、申せ」
頼宣は、うながした。
弥五郎は、地面に端座すると、まず児小姓を遠ざけるのを願って、
「このたび、将軍家ご上洛にあたり、紀州様には、まず第一番にご出発の儀、うけたまわり、是非とも懇願申し上げたき儀これあり、拝謁つかまつりました」
「うむ。きこう」
「紀州様には、南蛮世界図というものを、ごらんあそばされたことがございましょうや?」
弥五郎は、訊ねた。
「うむ。見て居る」
「ならば、南蛮各国に比べて、わが国が、いかに小さな島国であるか、おみとめでございましょう。たとえば、隣邦|明《みん》国の広大さに対してわが国の狭さは、十分の一にも足りませぬ。……さらに、明朝は、国勢甚だ衰え、寇賊《こうぞく》四方に起り、天下は麻のごとく乱れて居ります」
「そのことは、※[#「奠+おおざと」]芝龍より、よくきき知って居る」
「去る四十余年前、故太閤が、朝鮮に渡り、明国に攻め入らんとした時とは、明朝の情勢は、全く一変し、その内憂外患ぶりは、目を掩《おお》わしむるものあり、ときき及びます。さらば、いまこそ、大軍団を以て、明国に押し渡り、明国を扶《たす》け、恩を売りつける秋《とき》かと存じます」
「一介の浪人者が、大層な軍師面をするものよの。その方、公儀はもとより、親藩譜代、外様すべての大名が、江戸城修築その他の工事普請で、どれほど、金力労力を費消して居るか、存じて居らぬはずはあるまい」
「もとより、存じて居ります。……しかし、紀州様ならば、その一個のお力で、軍船を組むことは、可能かと存じられます」
「なに? わしの一個の力で――? どういうことだ? 舳艫《じくろ》相ふくんで海原を渡り、旌旗《せいき》を日に映じて、大陸を進撃するには、巨万の軍用金を必要とするぞ」
「その儀にございます。……はばかりある申し条|乍《なが》ら、紀州様には、その軍用金調達が可能ではございますまいか」
「わしにか? わしにそのような能力があるかな?」
頼宣は、怪訝《けげん》の面持になった。
二
弥五郎は、じっと、頼宣を仰ぎ視て、
「大坂城陥落後、天守閣秘庫に所蔵されてありし故太閤遺金が、荷駄六百頭分も、運び出され、これが二分されて、江戸と駿府に所有されたこと、世間の噂にございます。……紀州様には、恰度《ちようど》その折、駿府にご在城であったと、きき及びます」
「………」
「去年の秋、老中伊豆守殿の宰領によって、久能山に所蔵されてあるその金銀が、江戸表まで、運ばれましたが、これは、贋金であった事実、それがし、たしかめて居ります」
「………」
「まことの太閤遺金は、いまだ、駿府城の内外の何処かに、埋蔵されてあることは、疑う余地を入れませぬ。……紀州様が、もし、その埋蔵の場所を、ご存じならば、これこそ、明国に押し渡る軍用金として、充二分の金額ではございますまいか」
「弥五郎――」
「はい」
「わしは、太閤遺金の半分が、駿府へはこばれたことは、この目で見とどけて居る。……しかし、それは、久能山に所蔵されてあるものとばかり、思って居った。……松平伊豆が、江戸へはこんだときいたが、よもや、贋金であろうとは、露《つゆ》知らなかったぞ」
「それがし、推測つかまつりますに、まことの埋蔵場所をご存じであったのは、先般、高崎にてご自害なされた駿河大納言卿のみであったと存じます」
「うむ。それならば、駿河大納言は、その秘密を胸中に抱いて、あの世へ去った――ということに相成るではないか。無限の怨みを抱いた兄の将軍家に、その場所を報せておいて、相果てたはずはあるまい」
「もとよりのことと、推測つかまつります」
「ならば、その金銀は、永久に地下にねむるであろう。この頼宣に、さがしあてるてだてのあろうはずがないではないか」
「それが……ございます」
弥五郎は、微笑した。
「なに? あると?!」
「ございます。……駿河大納言卿には、ご自害なさる前、数月の間、起居をともにされた女性がおいでになります。前《さきの》関白九条忠栄様のご息女にして、明子と申されます」
「………」
「大納言卿には、あるいは、明子姫に、埋蔵場所をお打明けになって、お果てなされたのではあるまいか、と推測つかまつります」
「ふむ。考えられぬことではないな」
「このたびのご上洛に、第一番のご先発、とうけたまわり、紀州様が、ひそかに、明子姫にお会いなされて、その場所をおきき出しになる――このてだて、如何でございましょう?」
「………」
「それがしが、かようなお願いをつかまつりますのも、われら浪人者は、もはや、この寛永の御世にては、いかにおのれに才能の自信があっても、驥足《きそく》を展《の》ばす余地はございませぬ。……さりとて、もはや、ご公儀の政策により、去年、今年にわたって、海外雄飛の道は、全く、とざされました」
曾て――。
家康時代に、海外へおもむく朱印船は、二百艘の多数をかぞえた。
それが――。
去年、渡航を許可されたのは、東京《トンキン》行きに平野藤次郎、末吉孫左衛門、交趾《コウチ》行きに末次平蔵、茶屋四郎次郎、柬埔寨《カンボジヤ》行きに橋本新左衛門、三浦按針(第一世三浦按針の子ジョセフ)、――わずかこの六人に、過ぎなかった。
さらに――。
今年に入ってからは、幕府の鎖国令は、愈々きびしいものになった。
あらたに長崎奉行となった榊原飛騨守、神尾内記は、前年の布令に重ねて、
一、異国へ奉書船(朱印の外に、さらに老中へ奉書して、許可を得た船)の外、(海外へ)船つかわし候儀、かたく停止の事。
一、奉書船の外に、日本人、異国へつかわし申しまじく候。もし、忍び候て、乗り参らす候者これあるに於ては、死罪。
一、異国にて住居つかまつりし日本人、来り候わば、死罪申しつくるべく候。
その他、長崎に於ける交易や、伴天連《バテレン》詮議について、苛酷なまでの禁止制札を、長崎湊に掲示したのである。
「目下、天下にあふれた浪人者の数は、およそ二十万を下るまいと存じます。かれらをして、新天地雄飛の機会をお与え下さるのは、紀州様、貴方様を措《お》いて他にない、と存じ、必死のお願いをつかまつる次第にございます。何卒《なにとぞ》、ご勘考の程、伏してお願いつかまつります」
弥五郎は、伏した。
「よし、ききおいたぞ」
「おききとどけ下さいましたか。千万、|忝 《かたじけの》う存じまする」
「誤解するな、弥五郎。わしは、その方の申し述べることを、ただ耳に入れただけだぞ。承諾したわけではない」
「は――?」
「日本全土に飢えて居る二十余万の浪人者に、好機を与えてくれようとするその方の壮志は、よく判る。……しかし、まちがえるなよ、弥五郎、わしは、徳川家の者だ。徳川幕府のうち樹てた政策にそむくことは、叶わぬ。……将軍家が、明国出兵を仰せ出されるのであれば、その秋《とき》こそは、まず、この紀州頼宣が、二十余万の浪人者を呼び集めて、先鋒をうけたまわって、海を渡って参ろう。将軍家が、そのご意志がないとなれば、わしが勝手に、軍団を組むわけには参らぬ。そうではないか?」
「ご尤もの仰せなれども……、紀州様なればこそ、将軍家をご説得になるお力があると存じます」
「弥五郎、公儀の政道をあずかるのは、松平伊豆と酒井讃岐の二人だぞ。この紀州はもとより、尾張も水戸も、政道に口をさしはさむ権利など、与えられて居らぬ。もし、幕閣の評定で決定したことに、叛《そむ》いたならば、われら三家といえども、駿河大納言と同じ轍《わだち》を踏むに相違あるまい」
「………」
弥五郎は、俯向《うつむ》いて、口を緘《と》じた。
頼宣は、にことして、
「どうやら、わしに失望した様子だな?」
と、云った。
三
弥五郎は、しばらく、無言で、頭を下げていたが、
「これにて、おいとまつかまつります。ご静遊中、お心をお煩《わずら》わしつかまつり、ふかくお詫び申し上げます」
と、云った。
「また、参るがよい」
「有難う存じます」
弥五郎が、立去ると、すぐに、裏手から、根来一心斎が、進み出て来た。
「殿――、身共が申し上げた通りでございましょうがな。彼奴、尋常一様の凶相の持主ではござりませぬ。生かしておけば、ご当家にとって、禍をおよぼす男でございます。……身共が、討ち果しまする」
「いかん!」
頼宣は、とどめた。
「あの男の勇気のほど、わしは、みとめる」
「しかし――」
「待て、一心斎。この江戸で、なんの目的も生甲斐もなく、ただいたずらに飲みくらって、乱暴を働いて居る旗本奴どもと、あの男とを、比較してみよ。性根・器量に於て雲泥の差がある。……まだ、三十にもなるまいに、あれだけの壮図を、胸中に画《えが》くとは、天晴れなものよ」
「殿! まかりまちがえば、天下騒乱をひき起す危険な男でございますぞ」
「やるなら、ひとつ、やらせてみようではないか」
「なんということを仰せある!」
一心斎は、苛立って、こぶしで膝を打った。
弥五郎は、木村助九郎の長屋に、立寄っていた。
「懸河の弁をふるって居った模様だが、むだであったらしいのう」
助九郎は、笑い乍ら、云った。
「徒労であったとは思いません」
弥五郎は、こたえた。
「殿の心を動かし得た、と自信を持つのか?」
「自信はありませんが……、五年後、あるいは十年後に相成るか、きっと、紀州公のお心のうちで、それがしの志が、花を咲かせる秋《とき》があるかと存じます」
「ふうん――」
助九郎は、壺酒を口飲みして、宙を見据えていたが、
「お主は、この前、巡り逢った時、自分には、押えがたい覇気がある、と申して居ったな」
「申しました。この太平の時世では、その覇気ゆえに、おのれをほろぼすおそれがあるやも知れず、と申しました。……それがしは、十歳の折、お手前に一命を救うて頂きましたが、所詮は、畳の上では死ねぬ人間、という予感がいたして居ります」
「生れるのが、百年ばかりおそかったようだな」
「おのれ自身、そう思います」
「しかも、なお、この太平の時世で、覇気をためすか?」
「ためします。男子として生れた以上、このまま、浪々のくらしで、老い朽《く》ちる存念は、毛頭ありません」
「どうも、お主を眺めて居ると、おれまでが、碌々《ろくろく》として生きているのが、虚《むな》しいような気になって来る。成程、お主は、どうも、つきあうのは、大いに危険な人物のようだ」
「あの折、小わっぱが切腹するままに、すてておけばよかった、と悔いておいでですか?」
「ははは……、悔いるどころか、お主が、将来、どんな大きな異変をまき起すか――大いに興味をそそられるぞ」
「ご期待に応えて、あるいは、江戸城を乗っ取るかも知れません」
「面白い!」
助九郎は、声をあげた。その眇目《すがめ》が、光った。
「おれは、十年前まで、師の命令によって、隠密となり、外様大名の領地を経巡《へめぐ》ったが、公儀に媚びへつらう腰抜けぶりを、目の辺《あたり》にして、ほとほと愛想がつきた。伊達政宗ほどの武将が、|きゅうきゅう《ヽヽヽヽヽヽ》として、公儀のご機嫌をとりむすんで居るのだから、話にならぬ。……で、おれは、勝手に、隠密役をねがい下げにした。……素浪人の中に、お主のような気骨のある者がいたとは、気に入った。うむ、気に入ったぞ! 天下は、時どき、大さわぎを起した方がよい。やれ、弥五郎、江戸城を乗っ取ってみせろ!」
木村助九郎が、何者かに毒殺されたのは、それから数日後であった。
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雨 中 血 闘
一
「よう降りつづくのう」
うんざりした声音《こわね》で、一人が吐き出し、別の者が、
「このぶんでは、明日も明後日も、晴れるけしきはないな」
と、応じた。
『さかさ富士』の活画《いきえ》を眺める杉木立の箱根の坂道から、数町密林を登ったところにある、古びた権現別社であった。
起請誓紙の神文に、『梵天帝釈《ぼんてんたいしやく》、四大天王、伊豆、箱根両所の権現』云々と記されてある箱根権現は、いまは、一里のむこうに、翠色《すいしよく》したたる湖光を呑む一地角にある。
建久四年曾我兄弟が、父の敵工藤祐経を討たせたまえ、と祈った――それ以前、本社殿は、こちらの方であった。
そのことを知る者は、いまはほとんどいない。もとより詣でる者もなかった。
ひと嵐が襲《おそ》って来れば、音たてて崩壊してしまいそうなほど、荒廃が甚しかった。
げんに――。
十数人の浪人者が、屯《たむろ》している社殿内には、いたるところ、雨漏りがしていた。
霖雨《りんう》は、五日前からのものであった。
社殿をとりまく樹木は、楓《かえで》、|楢《なら》、椚《くぬぎ》、樫《かし》、椎《しい》など、いずれも、|もみじ《ヽヽヽ》する霜葉ばかりなので、秋には、錦を飾る屏風の中の景観になるが、いまは、時折りの風で、つめたい雫《しずく》を散らすばかりであった。
もう午《ひる》をすぎていたが、浪人者たちは、朝から、この廃殿に集合していた。
妙なことだが、かれらは、一人も、なんの目的で、ここに集まって来たのか、知らなかった。
いずれも、駿河大納言忠長に仕えていた旧家臣たちであった。
忠長が、改易配流になった際、致仕《ちし》した駿府城の次席家老桜田内蔵助正成は、三島に隠棲していたが、この面々は、その桜田内蔵助から、ここへ集合するように、書状をもらっていた。
その父祖は、家康・秀忠に仕えて、武勲のあった旗本ばかりであった。忠長の家臣になったのが、不運であった。望むならば、紀州家か水戸家に随身することもできたが、かれらは、そうしなかった。
忠長を、高崎まで送って行ったのは、かれらであった。かれらは、主君が無実の罪に問われたことを知っていた。
かれらは、旧主を死に追いやった将軍家を、悪《にく》んでいた。
「ご家老は、おそいのう。どうされたのか?」
当然、自分たちに呼集をかけた桜田内蔵助が、ここへやって来るものと思い、待ち受けているのであった。
「もうすぐ古稀だからのう。やすみやすみ登っておいでなのだろう」
一人が、そう云った折、樹木をくぐって、苔むした石段を、ゆっくりと登って来る姿が現れた。旅姿の武士であった。
編笠をかぶっていたが、一瞥《いちべつ》しただけで、尋常の躯幹の持主ではなかった。その足どりには、逞《たくま》しい若さがあった。
一斉に、その姿へ視線をそそいだ浪人者たちは、期せずして、不安な予感をおぼえた。
――何者だろう?
互いに、無言で、顔を見合せた。
武士は、階下に立つと、編笠をぬいだ。
意外にも、まだ二十代なかばの青年であった。右眼が細く、左眼が大きくみひらかれているのが、いささか無気味であったが、広い額や高い鼻梁やひきむすんだ口辺には、武辺の正しい家門を継いだ品格があった。
「柳生十兵衛|三厳《みつよし》と申す」
若い武士は、名のった。
忠長の旧臣たちは、斉《ひと》しく、
――これが、柳生の嫡男か!
と、目を光らせた。
「なんの用向きか?」
その問いにこたえる前に、十兵衛は、云った。
「御辺らの頭領桜田内蔵助殿は、今朝、亡くなられ申した」
二
「なに?! まことか、それは?」
「討ち果した当人が申して居るのでござれば、相違ござらぬ」
十兵衛は、平然として、こたえた。
「なんだと! 討ち果したと?!」
十四人は、差料をつかんで、とび起《た》った。
「まず、きかれい。……この柳生十兵衛は、公儀隠密の役目をうけたまわる。……桜田内蔵助殿が、一昨年大晦日、江戸城大手門前にて、上様に直訴に及び、願いの儀をしりぞけられて切腹いたした忠長卿附家老御堂|玄蕃《げんば》殿と、とり交した密書を、それがし、入手いたした。……その密書には、もし忠長卿が改易配流のまま生涯を了えられた際は、そのご無念を、旧家臣どもによっておはらし申すべき旨、誓約してあり申した。……御堂玄蕃殿は、おのが生命とひきかえに、忠長卿の赦免を乞うて、上様の面前にて、切腹され申した。しかるに、公儀より、高崎の配所には、赦免のご沙汰はついになく、忠長卿が、昨年暮、ご自害なされたことは、すでに、御辺らのご承知の通り――。ここにいたって、桜田内蔵助殿は、御堂玄蕃殿との密約をはたすべく、|ほぞ《ヽヽ》をきめられた。……このたび、上様ご上洛の布令が出されたのを、奇貨|居《お》くべし、と内蔵助殿は、合点され、上様|弑逆《しいぎやく》の計画をたてたが、これは天下の兇変を為す大事であれば、味方として一命をすてさせる御辺らにも、かたく秘密にして、襲撃方法を練《ね》った、と思われい」
「………」
一同は、息をのんで、食い入るように十兵衛を見下して、沈黙をつづけた。
「公儀隠密の役目をうけたまわるそれがしは、忠長卿ご自害以来、ひそかに、桜田内蔵助殿の身辺を、手の者に監視させて居り申したところ、謀叛の儀、明白と相成り申した」
十兵衛が、父宗矩の命令によって、嫡男であり乍ら、柳生家を継ぐのを止めて、柳生庄に帰り、宗矩がつくっておいた柾木《まさき》坂の道場のあるじになったのは、十六歳の時であった。
おそらく、その時は、宗矩は、十兵衛の異常なまでの卓抜した天稟《てんぴん》を看《み》て、柳生流正統を後世にまでのこさせる肚であったに相違ない。
しかし――。
宗矩は、将軍家師範であるよりも、政治家の末座に就いて、幕閣の評議に加わるうちに、考えを変えたのである。
十兵衛に、公儀隠密の役目を命じ、柾木坂道場の門弟中から、その手足となって働く資質をそなえた者を、幾十人かえらび出して、日本全土へ配らせたのであった。
その一人が、忠長自刃以来、桜田内蔵助の動静を、ずうっと監視しつづけていたのである。
「内蔵助殿が、本日、ここに御辺らを集めたのは、謀叛の大事を打明け、誓紙に血判をとる存念であったことは、疑いを入れぬところ。……御辺らもまた、内蔵助殿に説かれたならば、おそらく、なんのためらいもなく、誓紙に血判し、上洛途次の将軍家襲撃に加わったことと存ずる。しかし、いまは頭領を喪《うしな》い、敵である公儀隠密のそれがしより、呼集の理由を告げられた御辺らは、とくと、おのが身の帰趨《きすう》を思案されなければ相成らぬ。……申さば、それがしは、御辺らが、おとなしく、退去されるよう、説得に参ったのであり、討ち取る意志を持っては居り申さぬ。如何でござろう、おとなしく、退去されては――?」
ただ一人でやって来て、十兵衛は、堂々と勧告したのである。
駿河大納言の不運に深い同情を寄せ、また、この面々が、三河譜代の家門の出であることに敬意を抱いた上での行動であった。
しかし――。
私淑する桜田内蔵助を討ち果した公儀隠密柳生十兵衛を目前にして、忠長の旧臣たちは、その勧告を肯《き》く耳を持たなかった。
赦免を願って切腹した御堂玄蕃の死が犬死におわり、旧主忠長は自決し、そしていま、自分たちの扇の要《かなめ》であった桜田内蔵助を斬られた十四人にとって、十兵衛の勧告は、かえって、逆の効果があった。
不意に、一人が、沈黙を破った。
「桜田内蔵助殿の決意は、われわれが継ぐぞ!」
その叫びが、こだまを呼んで、つぎつぎと、将軍家光に対する憎悪の言葉を、各々の口からほとばしらせた。
「されば――」
十兵衛は、云った。
「上様襲撃の儀は、まず、この柳生十兵衛の屍《かばね》を踏み越えての上で為《な》されい」
「よしっ!」
八文字髭をたくわえた一人が、抜刀しざま、階段を一挙に駆け降りた。
あと十三人は、十兵衛が、抜いたとも見えぬのに、味方の脳天が真二つに割れるのをみとめた。
「くそっ!」
血汐のにおいをかいだ餓狼《がろう》のように、面々は、十兵衛を包囲して、討ちとるべく、地上へ跳躍した。
瞬間――。
十兵衛は、正面から攻撃して来た二人を、ほとんど一閃裡《いつせんり》に、血煙をあげさせておいて、逆に、階段を猿《ましら》の迅さで、馳せのぼっていた。
この血闘が呼んだように、急に風が起って、雨は横なぐりに激しく音たてて降りそそいで来た。
十兵衛は、雨中の闘いをきらって、社殿内へ、ゆっくりと後退した。
内部は薄暗く、十兵衛の姿は、影になった。
襲撃|方《がた》は、刀槍の術を習練していたとはいえ、真剣を使うのは、はじめてであったし、包囲の陣形を布いてこそ、討ち取る可能がある、という意識があった。
対手は、父但馬守にまさるとも劣らぬ異常の天才児ときこえていた。
すでに、その業前の冴えを、目にもとまらず三人を斬り伏せることで、充分に示しているのであった。
社殿内へ位置を移した十兵衛に向って、攻撃するには、戸口は狭く、せいぜい、二人が並んで進入できるだけであった。
冷静に思案する余裕を持てば、かれらは、戦法を変えるべきであった。
その余裕も、経験も、かれらにはなかった。
「柳生十兵衛といえども、鬼神ではあるまい。こちらは、十一人だぞ!」
「おれが、やる!」
「あとに、つづけ!」
三
霖雨もいとわず、箱根路を越えて行く旅客がいた。
一行四人――荒木又右衛門、渡辺数馬、そしてその若党岩本孫右衛門・河合武右衛門であった。
一昨日、又右衛門は、柳生邸へ呼ばれて、宗矩から、
「京畿に配ってある道場の者から、河合又五郎が、河合甚左衛門、桜井半兵衛らに守られて、京都にひそむ、との報告があった。このたび、上様ご上洛にあたり、扈従《こしよう》する安藤重長には、機会をみて、又五郎を呼び寄せ、上様に拝謁させる肚がある、と思われる。又五郎が、渡辺源太夫を殺した原因に就いて、言上し、お許しを乞うものであろう」
と、きかされたのである。
河合又五郎は、衆道好みの将軍家光に、主君池田忠雄の寵愛する渡辺源太夫を献上しようとして、源太夫が拒絶したので、これを殺したのである。献上の理由は、池田家が国許からはこんで来た本丸玄関前を飾る石材を、旗本奴連に破壊されぬように、源太夫から将軍家に願わせるためであった。すなわち、又五郎は、主家のためを考えて、為そうとして、かえって、このたびの騒動をひき起してしまったのである。
安藤重長が、又五郎を拝謁させて、原因を言上すれば、必ず将軍家は、
「渡辺数馬に、又五郎を討たせるな」
と、上意を下すに相違ない。
そうなったら、万事休すである。
家光の上洛は、六月二十日と決定していた。
あと二十日後であった。
すでに、紀州頼宣も伊達政宗も、京都に在って、警備を敷いていた。
したがって、洛中で、河合又五郎を発見しても、これを討つことは、許されぬ。都の路面を血でけがすことはできなかった。
――いかにして、又五郎を、洛中から追い出すか?
荒木又右衛門は、渡辺数馬と若党二人をともなって、道中をいそぎ乍《なが》ら、そのことを苦慮していた。
「義兄《あに》上!」
数馬に呼ばれて、われにかえった――とたん、又右衛門は、神経がひきしまった。
凄じい懸声が、密林の奥からひびいて来たのである。絶鳴が、ひきつづいた。
「義兄上、見て参りましょうか?」
数馬が、云った。
「すてておけ。われわれとは、かかわりのない出来事だ」
又右衛門は、足を停めなかった。
十歩も行かぬうちに、また、懸声と絶鳴が、木立をつらぬいて来た。
「義兄《あに》上!」
「すてておけというのだ」
関所を彼方に見る地点まで来た折であった。
杉の並木の蔭から、
「荒木殿!」
声をかけて、数人の武士が、とび出して来た。
「おお、柾木坂道場の――」
いずれも、又右衛門が、十兵衛に代って、教えた者たちであった。
「お主ら、どうして、ここに居る!」
「十兵衛先生に、ここで、待て、と申しつけられて居ります」
「なに、若先生は、どこに参られたのだ?」
「むこうに、箱根権現の別社殿――と申しても、もう数百年前から廃《すた》れて居りますが――に参られて居ります」
その言葉をききおわらぬうちに、又右衛門は、身をひるがえして、いま辿って来た坂路を、疾駆しはじめた。
数馬と若党たちが、あとを追うと、又右衛門は、ふりかえって、
「ついて来てはならぬ!」
と、叱咤した。
又右衛門が、そこに至った時には、しかし、すでに、決闘は終っていた。
石段を駆け登った又右衛門は、此処にも其処にも、雨にうたれて、血海の中に斃《たお》れている死骸を、見出した。
立っている人影は、どこにも見当らなかった。
「若先生っ!」
又右衛門は、声をあげて呼んだ。
社殿の中から、俯伏した死骸をまたいで、十兵衛が、すうっと出て来た。
「おおっ! ごぶじでしたか!」
又右衛門は、ほっとした。
十兵衛は、階段を降りて来た。その顔には、沈痛な表情があった。
「斬りたくない者たちを斬った」
ひと言、吐きすてておいて、十兵衛は、歩き出していた。
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呂宋《ルソン》から来た男
一
「京都は、暑いのう。こうして坐って居るだけで、あぶら汗が、にじみ出る」
紀州頼宣は、児小姓に扇であおがせ乍《なが》ら、やりきれぬ表情になっていた。寒中でも、毎朝、褌ひとつで、庭へ出て、木太刀《きだち》の素振りを欠かさぬ頼宣は、夏は、にが手であった。ひどい汗かきであった。
ここは、御池通り大宮の西にある神泉苑であった。
頼宣が坐っているのは、池畔《ちはん》に建つ乾臨閣であった。前方にひろがったのを法成就池《ほうじようしゆうじ》、という。
池の中央に、善女龍神をまつる中島があり、池畔の石垣の突堤から太鼓橋が架けられてあった。空海が、天下の大|旱魃《かんばつ》を救わんとして、天竺《てんじく》無熱池の善女龍神を請じた、とつたえられている。小野小町も、和歌を詠じて、雨を降らした、という。
もともと、封境広大な禁苑の一部で、代々の天子が遊覧した池である。
白河院が遊んだ折、鵜匠の芸を披露したところ、鵜が池中にもぐって、魚の代りに、金覆輪の太刀をくわえてあがって来た。そこで、銘を鵜丸とつけ、崇徳院にさずけられ、やがて、六条判官源為義に賜ったという作り話も、つたえられている。
紀州頼宣が、自家の京都屋敷に入らずに、宿所をここにえらんだのは、将軍家が入る二条城をむこうにのぞみ、守護の地利がある、という名目であった。実は、熱暑の京都では、池の畔なら涼しかろう、と思ったからである。
天竺無熱池の善女龍神がまねかれている池であり乍ら、まるで、湯気を立てているように、吹きつけて来る風は、かえってじっとりと肌を汗ばませるのであった。
頼宣の面前には、奇妙な男が、かしこまっていた。
年配は三十半ばであろう。額にも頬にも、凄じい刃傷《にんじよう》の痕があり、右耳は削《そ》ぎ落されていた。皮膚は、異常な陽焼けで、文字通り赤銅色であった。肩幅の広さ、胸の厚さも、逞《たくま》しいというより、無気味なくらいであった。
呂宋《ルソン》左源太、と称《い》うこの男は、※[#「奠+おおざと」]芝龍の添状を持参して、はじめて、頼宣に謁見をもとめたのである。
※[#「奠+おおざと」]芝龍は、一昨年暮、七隻の海賊船を率いて、母国に還っていた。
内憂としては、「闖《ちん》賊」李自成や張献忠に率いられた農民軍の、津浪のような叛乱に遭《あ》い、外患としては「北|狄《てき》」満州族に、怒濤のごとく万里の長城線まで迫られていた明朝としては、たとえ海賊であるとはいえ、八|※[#「門がまえ+虫」]《びん》(福建省周辺)にその名をとどろかせた※[#「奠+おおざと」]芝龍が、還って来たのを歓迎して、たちまち、海防遊撃の総兵官に任じたのであった。滅亡寸前にある明朝は、恥も外聞もなく、宮廷を助けてくれる者ならば、盗賊であろうと、破落戸《ごろつき》であろうと、脱獄凶悪犯であろうと、刀槍を使い、拳法に秀でて、度胸がある者なら、武官にとりたてて、闖賊・北狄にあたらせようとしたのである。
いまは――。
※[#「奠+おおざと」]芝龍は、海寇と呼ばれる逆賊から一転して海防遊撃の総兵官となったが、これは、渠《かれ》をして忽ち沿海地方に於ける最強の軍閥にのしあげた。
すなわち、明朝御用の大海賊となったわけである。
芝龍は、数十隻の軍船を率いて、台湾、呂宋、柬埔寨《カンボジヤ》、暹羅《シヤム》まで、押し渡って、あばれまわっている、という。
呂宋左源太は、その名の通り、呂宋にある日本人町の住民であった。豊臣家の残党で、大坂城が陥落したのち、西国へ遁れ、平戸から、ポルトガル船に乗って、呂宋に渡り、明国海寇船にやとわれて、十余年にわたって、その猛勇ぶりを発揮した旨が、芝龍の添状には、記されてあった。
「呂宋左源太とやら、すでに、公儀では、今年より、異邦に住む日本人が、帰国いたしたならば、見つけ次第、捕えて、死罪にするという禁令を出して居る。その方は、罪人なのだぞ」
頼宣は、笑い乍ら、云った。
すると、左源太も、にやりとして、
「その罪人を、大納言様は、平気で、謁見なされて居られます」
「芝龍の添状を持参いたしたのだから、やむを得まい」
「他の大名がたならば、たとえ生命の恩人の添状を持参いたしても、目通りさせては下さらぬと存じます」
左源太は、こたえた。
「ははは……、わしを買いかぶるな。べつに、外様大名ほどに、公儀をおそれては居らぬが、改易配流の身に相成ることなど、まっぴらごめんだ。……その方は、どうせ、まかりまちがえば、公儀の咎めを蒙るような不穏な企て話を持って来たのであろう」
「御意――」
左源太は、平然として、うなずいた。
二
「きくだけは、きいてやろうか」
頼宣は、うながした。
「大納言様には、海の彼方の各地いたるところに、日本人町があることを、すでにご存じではありますまいか?」
「うむ、噂としては、耳にいたして居る」
「それがしが住居をかまえている呂宋の西北岸パンガシナン州(現在のリンガエン湾岸)にだけでも、四千余の日本人が住んで居ります。州内の一港は、『日本の湊』(Puerto del Japon)とさえ称《よ》ばれて居ります」
左源太は、述べた。
『日本の湊』には、城塞が築かれて、五百余の生命知らずの武辺者が、たてこもり、海賊船十三隻を、城塞の下に浮かべているのは、天正年間から、かわっていないのであった。
さらに、近くのデイラオ(現在のマニラの中枢地域)には、日本人二千数百人が、城壁を築いて、町をつくり、繁栄し、イスパニア政庁をおびやかしている。
曾て――。
慶長十一年には、千五百人の日本人が、仲間一人をイスパニア人に殺されたのを名目として、総督がモルッカ諸島遠征の留守を狙って、パンガシナン州を占領しようと企てたことがあった。
この騒動は、マニラ市創設以来最大の危難であった。
急遽、ひきかえして来た総督は、三万余のイスパニヤ軍を指揮して、デイラオの日本人町を焼きはらい、日本人に集団住居することを禁じたことであった。
しかし、慶長十九年に、徳川幕府によって、キリシタン信徒三百余人が母国から、三隻の船で海外へ追放された時、その一隻に乗っていた高山右近、内藤徳庵らの大名とその一族が、マニラに至ってみると、デイラオの東南にあるサン・ミゲルには堂々たる日本人町がつくられ、剽悍《ひようかん》無比な武装隊が組織されていた。翌年には、高山右近の要請により、デイラオにも、日本人町が復興し、母国の勇武の気風をはずかしめぬように、武芸にはげみ、信儀礼節を重んじ、日本の風俗慣習をそのまま維持して、いまにいたっている。
左源太は、海寇となって、南方各地に押し渡ったが、澳門《マカオ》にも、交趾《コウチ》(現在の越南中部以南)にも、柬埔寨《カンボジヤ》にも、暹羅《シヤム》にも、いたるところに、日本人町がつくられているのを、その目で見て来ていた。
「きくところによれば、目下、わが国には、二十万以上の浪人者が、国中にちらばって、為すすべもなく、露命をつないでいる由。このうちから、一万の強者をえらんで、舳艫《じくろ》相|銜《ふく》んで、呂宋に押し渡るならば、イスパニヤ政庁をたたきつぶし、イスパニヤ人を海へ追い落して、呂宋全土を占拠するのは、決して、それがしの夢想にあらず、たった一月もあれば足りるかと存じます」
頼宣は、|とうとう《ヽヽヽヽ》と述べたてる左源太を見まもり乍ら、先般、江戸で、由比弥五郎から、同じような企図をきかされたのを、思い出していた。
弥五郎は、太閤秀吉の遺金をさがし出して、それを軍用金にあてて、浪人者に海外の新天地雄飛の機会を与えて欲しい、と説いた。
左源太は、一万の精鋭があれば、呂宋島を占領できる、と説く。
頼宣は、にわかに、胸が大きくふくれあがるのをおぼえた。
頼宣は、弥五郎に対しては「その方の申し述べることを、ただ耳に入れただけで、承諾したわけではない。……わしは、徳川家の者だ。徳川幕府のうち樹てた政策にそむくことは、叶わぬ」と、こたえたものであった。
しかし、いま、呂宋左源太から、呂宋の日本人町の現状をつぶさにきかされると、
――やってみたいものだ!
その野心が、心中に油然《ゆうぜん》とわきあがったのである。
「大納言様に、国を鎖《とざ》すことの幕府の愚さを説く必要はございますまい。ただ、それがしは、貴方様が、一万の精鋭をえりすぐって、総大将として、呂宋に押し渡られますよう、願い上げます。……大納言様! 伏して、お願い申し上げます。呂宋の同胞どもは、貴方様のご出陣を、鶴首して、お待ちいたして居ります」
左源太は、平伏した。
「考えておこう」
頼宣は、こたえた。
その時――。
「殿――」
縁側さきに、影のように根来一心斎が、うずくまった。
「ただいまより、谷御殿へ、使いに参ります」
「うむ」
頼宣は、起って縁側へ出て、自らしたためた書状を、一心斎に、手渡した。
谷御殿と称《よ》ばれる霊鑑寺は、比丘尼御所であった。そこに、高崎から帰京した九条明子が、有髪の尼として、住んでいたのである。
比丘尼御所には、男子は入れなかった。
頼宣は、明子を、この神泉苑に招くことにしたのである。
三
霊鑑寺の境内はずれにある庵室では、白布白衣で身をつつんだ明子が、駿河大納言忠長の位牌に、朝夕、誦経をあげる単調な明け暮れの日々をすごしていた。
明子は、まだ処女であった。
明子は、忠長とともに褥《しとね》をともにすることなく、おわったのである。
それだけに、忠長の俤《おもかげ》は、明子の脳裡から、永久に消え去ることはあるまい。生涯ただ一人と想いきめた男と、ついに男女の契りをむすぶことなくおわり、自分が父の逝去のために京都へ帰っているあいだに、忠長に自害されたのであった。
このような衝撃は、女子として、堪えがたいものであった。
せめて、一夜の契りでもむすんでいれば、まだ、その思い出だけで、生きられたかも知れぬ。
忠長がどれほど深く自分を愛してくれていたか、明子には、判りすぎるほど、よく判っていた。それでい乍ら、忠長は、ついに、自分を抱くことなく、二十八歳の短い生涯を終えたのである。
忠長のことを、忘れるのは、死ぬまでできそうもなかった。明子にのこされたのは、一人静かに、不幸であった貴公子の菩提を弔うことだけであった。
忠長は、明子に遺書ものこさずに、逝った。それが、明子にとって、唯一の不満であった。しかし、遺書も残さなかった気持も、明子には、判るような気もした。
「姫様――」
庭の置石を踏んで、一人の尼僧が、近づいて来た。
「紀州大納言卿のお使いが、参られて、書状をお渡しして、返辞を頂いて欲しい、と申して居りまする」
明子は、受けとって、披見してみた。
「ただいま、風邪にて臥《ふ》せて居ります、とつたえてくりゃれ」
明子は、云った。
「それが……、是非とも、ご承諾を頂かねばならぬ、重大な用向きがある、と申して居ります。……ほんの一刻ばかり、面晤《めんご》の時間を持ちたいとか……」
明子は、曾て、忠長から、
「三百諸侯中、紀州大納言だけは、わしの気持は、判ってくれている信頼できる御仁だ」
と、云われたことを、ふと思い出した。
明子は、忠長がなぜ自害したか、その原因を頼宣からきいてみたい、とふと思った。
「明後日ならば……」
明子は、こたえた。
「はい。そうつたえまする」
跫音《あしおと》は、遠ざかった。
今日まで、明子は、忠長について親しく語り合う対手を持たなかったのである。
紀州頼宣の人柄は、明子の耳にも入っていた。
誦経の明け暮れにも、いささか退屈していた。
――お会いしてみよう。
心をきめた――その折であった。
花頭窓《かとうまど》の外から、ひそやかな声音で、
「姫様、紀州殿にお会いになってはなりませぬ」
その声が、ひびいた。
「あ――」
明子は、愕然となった。
「そなたは――?」
「名張の夜兵衛にございます。お久しゅうございます」
曲者は、こたえた。
「どうして、ここへ――?」
「比丘尼御所というものは、なかなか忍び込む隙がございませぬ」
「わたくしが、どうして、紀州大納言卿に、会うてはいけませぬか?」
「|こんたん《ヽヽヽヽ》が見えすいて居ります。紀州殿は、貴女様に、きき出したいことが、おありでございます」
「………」
「貴女様が、駿河大納言卿より、駿河のどこかに、大坂城よりはこばれた金銀をかくした場所を教えられて、逝かれた、と紀州殿は、お考えでございます」
「………」
「その隠匿場所を、きき出そうとのこんたんにございます」
「………」
「相違ございませぬ。……お会いになってはなりませぬ」
「………」
「よろしゅうございますか。この儀、絶対に相違ございませぬ」
「存ぜぬ、とこたえればよろしいでしょう」
その言葉をきいた瞬間、夜兵衛は、歓喜した。
――そうだ! 駿河大納言は、この姫君にだけは、まことの隠匿場所を、打明けたに相違ない!
夜兵衛は、明子を追って、京都へ潜入した甲斐があった、と思った。
[#改ページ]
女 人 執 念
一
二日後――。
九条明子は、紀州家からさし向けられた駕籠で、神泉苑に到着した。
乾臨閣で、対座した頼宣は、にこやかに、
「たっての招待をききとどけて頂き、|忝 《かたじけな》く存ずる」
と、挨拶した。
明子は、かたい表情で、頼宣を視《み》かえし、
「ご用のおもむき、うけたまわりましたならば、すぐに、おいとまいたさねばなりませぬ。わたくしは、いまだ髪をおろして居らぬとは申せ、尼の身でありますれば……」
と、云った。
「では、早速、申し上げよう。……この頼宣、公儀に叛《そむ》く野望を、胸中に蔵して居り申す」
「………」
「兵二万乃至三万の軍船団を率いて、海を渡り、呂宋へ押し入り、呂宋領主になりたい野望でござる」
「………」
「この野望を実現し得るか否か、ひとえに、貴女のご返答にかかって居る」
「………」
「呂宋へ攻め入るには、まず、一千万両の軍用金を必要といたす、当紀州家には、そのような金はない。調達いたさねば相成らぬ。……駿府の何処かに、ねむって居る太閤秀吉が遺した金銀を、使いたく存ずる。その秘蔵の場所を知っていたのは、亡くなられた大納言忠長殿であった。きくところによれば、貴女は、高崎の配所にて、忠長殿と、事実上の夫婦として、すごされた由。忠長殿は、貴女にだけは、その場所を打明けて、逝かれたのではあるまいか、と存ずる。……甚だ身勝手な申し条|乍《なが》ら、身共の壮挙を実現させて頂けまいか。この儀、如何でござろうか?」
頼宣は、きわめて率直に、申し入れた。
明子は、名張の夜兵衛から、きかされていなかったならば、頼宣の申し入れに、すこしはとまどったに相違ない。
頼宣の申し入れを、あらかじめ知っての上で、招きに応じた明子は、眉宇《びう》もうごかさなかった。
「わたくしは、大納言卿より、そのような大事な秘密を、打明けられては居りませぬ」
「まことですな?」
「はい」
「では、打明けられる代りに、遺品として、秘密の書状らしいものを、忠長殿から、与えられては居られぬか?」
「いいえ、わたくし宛の遺言状さえも、おのこしにはなりませんでした。わたくしが、父の死去の報せがあって、この京都へもどっているあいだに、あのお方は、お一人で、ひそやかにご自害あそばしました」
「ふむ。忠長殿は、二千万両にも及ぶ莫大な金銀を、駿府の何処かにねむらせておいたまま、他界されたか」
「………」
「将軍家に対する恨みは、よほど深かったと思われる」
「………」
「しかし――」
頼宣は、急に、鋭くひきしまった気色をみせた。
「身共は、忠長殿の気象を、いささか、理解いたして居る。……忠長殿が、ただ厭世の気持が昂じて、自決されただけとは、考えられぬ。おのれ自身は、現世を去るが、その後で、誰人かによって、将軍家に向って、一矢をむくいさせてくれよう、という思慮をめぐらすだけの冷静を、持《じ》されたに相違ない、と存ずる。あの気象には、もし戦国の時世に生れていたならば、常に先陣を取る強さがあった、と身共は、理解いたして居る」
「ご気象の強さは、わたくしも、よく存じて居りまする。……紀州様は、ただいま、わたくしが、高崎にて、事実上の夫婦としてくらしていた、と申されましたが、あのお方は、わたくしの手ひとつ、にぎろうとなさらずに、お逝きになりました。……貴方様ゆえ、申し上げますが、わたくしは、ご老中松平伊豆守殿のはからいによって、高崎へ送られました。伊豆守殿が、何故に、そのようにはからわれたか、申し上げるまでもございますまい。忠長様は、そのことを敏《さと》く察知あそばされて、わたくしにも、心をお許しにはならなかったのでございます。まことに、女子にとっては、哀しいご気象の強さでございました。……憎む敵である松平伊豆守のまわし者であるわたくしに、どうして、大事の秘密など、打明けられましょう。むしろ、ご気象が弱かったならば、わたくしを妻となさり、大事の秘密もお打明けになったと存じまする」
「ふむ!」
頼宣は、たかが公卿の女《むすめ》と甘く看ていたおのれの不明を自嘲した。
――この尼僧の口を割らせることは、容易ではないぞ。
頼宣は、ひとまず、ひきさがることにした。
「よく相判り申した。……ところで、ついでにおたずねするが、貴女は、いま身共に申されたと同じ返辞を、松平伊豆守にも、なされたか?」
忠長が自害して、一月後に、伊豆守は、他の事情にかこつけて、上洛していた。明子に逢う目的であった。
「わたくしは、どなたに対しても、同じおこたえしかできませぬ」
明子は、頭を下げると、座を立った。
二
明子が立去ると入れちがいに、縁側さきに、根来一心斎が、姿を現した。
「殿には、一本取られましたな?」
物蔭で、対話の一切を、きき取っていたのである。
「うむ、やられたのう。……一心斎、どうだな。根来寺|行人《ぎようにん》として、あの姫が、事実をこたえたか、それとも、わしを巧みにだましたか――どちらだ、と考えるぞ?」
「まっ赤ないつわりを申された、と看て取りました」
「どうして、判った?」
「女人の心と申すものを、殿は、まだよく存じござらぬ。……あの姫君は、一途ひと筋に、男を恋い慕うたならば、その男の思うところを、そのままそっくり、おのが心にする女性でござる。すなわち、駿河大納言卿が、上様を恨み、松平伊豆守を憎んだ――その怨恨憎悪を、二倍にも三倍にもして、あの姫君は、心の奥にひそめておいでなさる、と、観察つかまつってござる。……されば、殿が、どのような手段をお使いなさろうと、あの姫君は、駿河大納言卿より打明けられた秘密を、もらされるはずはござらぬ」
「成程――、それで、姫は、駿河大納言に代って、将軍家に、復讐する肚でもきめて居る、とお前は看たか?」
「まさしく!」
一心斎は、自信をもって、うなずいた。
「あの姫君は、谷御殿に入って、大納言卿の菩提を弔う、とみせかけていて、実は、上様に復讐する好機のめぐり来るのを、待って居られるに相違ありますまい。……たとえ、それが五年さき、十年さきになろうとも、必ず、復讐してみせる、と」
「外面《げめん》は菩薩で、内心は夜叉《やしや》、と申すか」
「華厳経に、三千界に有るところ、男子の諸煩悩は、一人の女人の業障の為に合い集り、女人こそは地獄の使い、とあり申すが……、まことに、女子はおそろしい執念を持って居ります。男を恋い慕うのも執念なら、男を怨み憎むのも執念。……駿河大納言卿になり代って、卿を殺した男どもに、復讐してやろうという執念は、まさに、地獄の使いのおそろしさ、というものでござる」
一心斎の言葉をきいているうちに、頼宣は、しだいに不快の念を催した。
――あの臈《ろうた》けた佳人が、夜叉か?
さらに、つぎつぎと、女というものをののしる一心斎に対してまで、頼宣は、嫌悪感をおぼえて、
「もうよい!」
と、制した。
「殿――」
一心斎は、けろりとした顔つきで、
「殿は、まこと、呂宋へ出兵なさるご存念でござるか?」
「女子に執念があるならば、男子は、すべからく、壮志を抱くべきであろう」
「あの呂宋左源太と申す男、あるいは、とんだくわせ者かも知れ申さぬ」
「他の大名の目には、わしがお前を飼っているのは、くわせ者にたぶらかされているかと見えよう」
「それがしは、いまだ、一度も、何事であれ、殿をそそのかしたおぼえはござらぬ。……由比弥五郎と申し、呂宋左源太と申し、殿をそそのかし、かつぎあげて、途方もない企みを図るのは、護衛の任務を与えられて居るこの一心斎には、どうも不安でなりませぬ」
「一心斎!」
頼宣は、きっとなって、根来寺行人を、睨みつけた。
「その方、いささか、図に乗りすぎて居るぞ! わしに無断で、木村助九郎を毒殺したごとき、許せぬぞ!」
「殿! 由比弥五郎が、殿をそそのかしたあとで、木村の長屋に立寄って、助九郎と、どんな会話を交したか、ご存じござるまい。助九郎は、弥五郎に、天下に大異変をまき起せ、江戸城を乗っ取ってみせろ、とあおりたてたのでござる。かりにも、紀州家兵法師範たる者が、口にすべき言葉でござろうか! 助九郎は、紀州家にとって、百害あって一益もない男、と断定いたしたゆえ、それで、思いきって、処断いたしたのでござる」
「おのれで勝手に思いきめたならば、主《あるじ》のわしに、一言の進言もせずに、家臣を殺すのか、非情者めが!」
「殿――、それほど、この一心斎が憎い、とおぼしめすなら、切腹をお申しつけになったら、いかがでござる。それがし、このお庭にて、見事に、腹十文字にかき切って、ごらんに入れまするぞ」
一心斎は、そう云いはなった。
頼宣が、「よし、そうせい」と命じたならば、一心斎は、即座に、切腹してみせるに相違ない。そういう男であった。
主家のため、主人のため、妻子も持たず、扶持さえももらわず、生涯を、影の形により添うごとく、護衛者として身命を捧げて、奉公しているこの男を、頼宣は、死なせたり、追放したりすることはできなかった。
三
明子が、霊鑑寺境内はしの庵室へもどったその宵――。
名張の夜兵衛のひそやかな声が、花頭窓の外から、きこえた。
「姫様――、紀州殿がもとめられたのは、やはり、駿府にかくしてある大坂城の金銀の儀でございましたか?」
「そうでした」
「で――、姫様は、存ぜぬ、とおこたえなさいましたか?」
「はい」
「忝う存じました。この夜兵衛よりも、おん礼申し上げます。……では、これにて――」
立去ろうとする夜兵衛を、明子は、呼びとめた。
「夜兵衛、そなたにききたいことがありまする」
「はい。なんなりとおきき下さいませ」
「そなたも、駿府にある豊臣家の遺金を、狙っている一人なのですか?」
「ご明察の通りでございます」
「そなたは、ただの盗賊ではありますまい」
「駿河大納言卿には、すでに、てまえの素姓を申し上げましたが、卿よりおきき及びではございませぬか?」
「いいえ」
「申し上げましょう。それがしは、豊臣家譜代の家臣にございます。故太閤の稚児姓より勤め上げて、秀頼公の守役となり、大坂城陥落まで、ご奉公つかまつりました者にて、熊谷三郎兵衛と申します。……大坂城が、いよいよ、陥落まぬがれがたし、と相成った時、右大臣様に呼ばれて、三郎兵衛、城内山里曲輪の地下に所蔵してある判金、法馬を守れ、と命じられました」
そこで、三郎兵衛は、寄騎三十名に命じて、山里曲輪から東へ二里、長瀬川へ抜けている地下道を、運ぼうとした。しかし、その時は、すでに、手おくれであった。
徳川家康は、その莫大な軍用金をわがものにせんがために、大坂城を攻めて、豊臣家を滅亡せしめたのである。
家康の指令によって、大坂城に間者として入り込んでいた伊賀・甲賀の忍びの者たちは、その所蔵場所をさがしあてていたのであった。
抜け穴に於て、凄じい死闘がくりひろげられ、敵味方ともほとんどが討死し、三郎兵衛自身も、瀕死の重傷を負うた。
そして、軍用金は、家康の手中に帰したのであった。
「……申さば、それがしは、掠奪された金銀を、取りかえすべく、それを余生の使命にいたして居る者であります。決して、盗賊ではありませぬ。盗賊は、駿府大御所の方でありました。神明に誓い、真実を申し上げました。……もし、姫様が、大納言卿より、その所蔵場所を打明けられて居られるとしても、決して、徳川家の人々に、お教えになりませぬよう、お願いいたす所以であります。それがしにだけは、お教え頂きたい、と虫のいいことは申しませぬ。ただ、その金銀が江戸城へはこばれることだけは、それがしは、身命をなげうっても、はばまねばなりませぬ。……姫様、紀州大納言卿に、存ぜぬ、とおこたえ下さいましたこと、厚くお礼申し上げます」
明子は夜兵衛の話をききおわった時、ひとつの決意をしていた。
「そなた、その金銀が、もし万一、手に入ったならば、どうします?」
「正直なところ、どうするか、考えては居りませぬ。……ただ大坂城に味方した武士の遺族だけでも、十数万をかぞえます。それらの人々に、わかち与えてやれるものならば、という気持はありまする」
「それだけの軍用金があれば、徳川家を倒す軍勢を催すことはできるのではありませぬか?」
臈《ろうた》けた有髪の尼の口から、意外な意見が吐かれたので、夜兵衛は、一瞬おどろきのあまり、沈黙した。
「できませぬか?」
「それは……しかるべき大将がござれば――」
「その大将を、さがしてたもれ」
「は――?」
「たのみましたぞ」
「姫様!」
「わたくしは、将軍家も松平伊豆守も、憎んで居ります。この憎しみは、生涯、消えることはありますまい。それゆえに、すべてをあきらめて、髪をおろすことができませぬ。……そなたが、徳川家を倒す智能と力をそなえた、大将たる器《うつわ》の御仁をさがし出して下さった時、その金銀の所蔵場所を、教えておいて、髪をおろすことにいたします。……幾|歳《とせ》でも、その秋《とき》が来るのを、ここで、待って居りまする」
「姫様、相判りました。……お待ち下さいますよう――、必ず、それだけの器量を具備した人物を、さがして参ります」
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野 望 道 中
一
記録(「上洛記」「寛永系図伝」「人見私記」その他)によれば――。
三代将軍家光は、寛永十一年六月二十日、江戸城を発して、上洛の途に就いた。
扈従は、徳川頼房、土井大炊頭利勝、酒井讃岐守忠勝、松平伊豆守信綱以下三十万七千余人。
未曾有の供揃いは、
「将軍家は、居城を、江戸から二条城に移し、やがては、天位を奪う存念ではあるまいか?」
そんな危惧の取沙汰まで、ひき起した。
後水尾天皇が、将軍家ならびに幕府に対する憤懣の|あてつけ《ヽヽヽヽ》に、女一宮《によいちのみや》(興子内親王)に譲位されて以来、朝幕の関係は、きわめて冷たいものとなっていた。
寛永六年十一月八日の譲位は、突如として決行されたものであった。
興子内親王を新帝にし、上皇の地位にしりぞいた後水尾天皇は、新帝の生母である中宮徳川和子を皇太后宮とし、東福門院と院号宣下しておいて、その日限り、寝所をともにすることを、きっぱりと断たれたのであった。
「徳川家が、勝手に宮廷を占拠するがよい」
上皇の態度は、それであった。
寛永七年九月十二日の即位式にも、上皇は、|そっぽ《ヽヽヽ》を向かれたまま、関知されなかった。
尤も――。
即位の大礼も、戦国時代以後は、ほとんど廃典同様の略式で行われていた。
しかし、このたびの即位式は、簡略にするわけにはいかなかった。
新帝は、二代将軍秀忠の孫であり、当代家光の姪にあたっていた。
京都所司代板倉周防守重宗が、総指揮をとって、旧典に従い、すべて式正《しきしよう》に拠ることとし、高|御座《みくら》はじめ、礼服も、上卿《しようけい》・内弁・外弁など諸司の正服も、用いる器具も、ことごとく新調し、有職故実《ゆうそくこじつ》に通暁している公卿たちにはかって、万に一も遺漏なきことを期したので、その即位式は、結構も善美をつくした盛典となった。
ただ、後水尾上皇だけは、その即位式にも、出座されなかった。
上皇の胸中には、
――慶長十六年のわが即位式の際、徳川家康が、なんの援助をしてくれたか! 公卿一同が、つぎはぎの色褪せた礼服をまとっているのを、冷然と眺めていただけではないか! 高御座の縁《ふち》もすりきれてしまっていたのだ! いまにして、諸事をいにしえ通りにかえして、盛典を催すなど、笑止の沙汰!
その憤りがあったに相違ない。
徳川和子は、美しく、聡明な女性であった。女御として迎えた時、後水尾天皇は、一瞥しただけで、愛《いと》しい女子と思われた。爾来、天皇と和子の間には、愛し愛されるよろこびが、日々に増したのであった。
和子を愛し乍《なが》らも、後水尾天皇は、その愛に負けて、天位に在る者の面目を失うことには、堪えられなかった。
このたび――。
将軍家が上洛にあたり、上皇の御料七千石を増進する旨が、奏上されたが、
「慮外の儀である」
と、上皇は、拒否されていた。
おそらく、家光が上洛して来ても、上皇は、逢おうとなさらぬに相違ない。
このような朝幕関係は、水が低きにつくごとく、世間の知るところとなっていた。
――もしかすれば、幼い新帝に代って、将軍家が、天位を襲うのかも知れぬ?
そんな疑惑が生じるのも、当然であった。
その野望があるからこそ、三十万七千余という空前絶後の供揃いをもって、上洛するのではあるまいか。
家光は、これまで、二回、上洛している。
元和九年、二十歳の時、上洛して、征夷大将軍に補せられた。
二回目は、寛永三年、二十三歳の時、やはり、大御所秀忠のあとを追って、上洛している。
この二回の上洛は、いずれも、家光の意志ではなく、秀忠の命令によるものであった。
このたび、家光が、はじめて、自分の意志で、上洛するのであった。
その真意を知るのは、酒井忠勝と松平信綱の二人だけであった。
二
六月二十日未刻(午後二時)すぎ、家光は、神奈川に着き、そこに設けられた仮御殿に泊った。二十一日は、藤沢泊り。二十二日は、大磯で小憩し、夕刻、稲葉鶴千代正則の居城小田原城に入った。家光が、天守閣にのぼって、夜景色を眺めやっている折、箱根山中に、火の手があがった。夜火か失火か、早川と須雲川が合流する湯本の三昧橋が、突然、燃え出したのである。あっ、という間に、三昧橋をはさんで居竝ぶ旅籠《はたご》がぜんぶ、九軒全焼してしまった。
その報告をきいた家光は、伊豆守に、
「わしの上洛をはばもうとする者のしわざであろう」
と、云った。
伊豆守は、それには、こたえず、
「ご予定が一日延びまするが、お許したまわりますよう――」
と、頭を下げた。
翌二十三日、家光が、海辺の松田屋敷に臨んで、海婦《あま》の鮑《あわび》取りを見て、興に入っている頃、伊豆守は、急遽仮の三昧橋を架けるとともに、五万人を指揮して、箱根路を、湯本から三島まで、くまなく、探索させていた。
怪しむべき人間を発見逮捕することはできなかったが、伊豆守は、小田原から箱根路までの四里八町、箱根宿より三島までの三里二十八町――合わせて八里の箱根路に、一間置きに、手練者《てだれ》を配備した。
二十四日、家光は、箱根路を、別の忍び駕籠で登ると、芦の湖の畔に建てられた休憩所で、昼のひとやすみをして、湖面にうつった|さかさ《ヽヽヽ》富士を、賞した。その夜は、三島に宿した。
二十五日、吉原で小休息した折、柴田某という浪士が、直訴におよぼうとして、捕えられた。
しかし、明日、久能山東照権現社に参詣する予定の家光は、血でけがすのをはばかり、誅戮《ちゆうりく》をやめて、柴田某を追放に処した。実は、酒井忠勝の思慮によって、柴田某には、一味徒党がいるかも知れぬので、わざと追放して、柳生道場の隠密たちに、その後を尾行させてみたのである。
柴田某は、山麓にある阿弥陀堂に入って、そこで、切腹して相果てた。
その日は、蒲原泊りであった。翌二十六日、家光は、久能山へ、徒歩で登り、東照権現社へ参詣し、午後おそく、駿府城に入った。
「金蔵を見るぞ」
家光は、伊豆守ただ一人をつれて、天守閣を出て、金蔵に入った。
そこには、無数の千両箱が積まれてあった。
「伊豆! あるではないか。そちは、わしをおどろかせようと思って、わざと、黙って居ったな。こやつめ!」
家光が、笑い乍ら、云うと、伊豆守は、その一箱の蓋をひらいてみせた。
「ごらん下さいますよう――」
家光は、箱にびっしりと詰められた縦五寸、横三寸あまりの楕円形をした大判を、つまみあげてみた。
「ふむ!」
形状だけは、横目まで入れて、天正大判金そっくりであった。山吹色もしていた。
一瞥《いちべつ》した限りでは、ほんものとまちがいそうであったが、手にしてみると、重さがちがっていたし、爪でひっかいただけで、中身が銅《あかがね》と判った。
家光は、贋大判を、箱へ投げもどしておいて、
「伊豆――、これを、作ったのは、東照神君であろうか? それとも、父上が忠長に命じて、作らせて、まことの大判を、他処へかくさせたのであろうか?」
「おそらく、東照神君のご深慮か、と推察つかまつります」
「久能山に所蔵してあったのも贋、この金蔵のも贋――。いかに深慮とはいえ、あまりに手数をかけすぎて居る。神君のご存念のほど、腑に落ちかねる」
「上様、徳川家は、当時は、ことほど左様に、貧しかったとおぼしめし下さいますよう――」
「大坂城を攻めた際、軍用金は、底をついていた、と申すか?」
「おそらくは――」
諸大名に、そう思わせなかったところに、家康の苦慮があり、偉さがあった、といえる。
家康は、慶長八年二月、将軍職に就くや、大規模な江戸の市《まち》づくりを開始し、未曾有の巨城をその中央部に普請する計画を発表したのであった。
その年から、大坂城を滅亡せしめるまで、十年間、家康は、数期にわたって、築城工事をつづけた。
諸大名は、自分たちも資金、資材、人員を惜しげもなく投入しているが、幕府自身、それ以上に、巨額の金を費消しているものとばかり、考えていた。
事実、家康は、使ったに相違ない。そして、たくわえていた軍用金の大半をうしなったのである。
徳川家が、豊臣家にまさるともおとらぬ莫大な蓄財がある、と諸大名に信じさせるためであった。
大坂城を攻め滅す前に、秀吉恩顧の外様大名たちの牙を抜くためには、家康としては、このかけひきを必要としたのである。権威を裏打ちするのは、やはり、金銀であった。
「伊豆、そちは、すでにもう、隠匿場所の手がかりは、つかんで居るのであろうな?」
家光は、訊ねた。
「あいにく、いまだ、皆目見当もついては居りませぬ」
「智慧伊豆ともいわれるそちが、手がかりもつかんで居らぬとは、なさけないではないか」
「誰人もいまだ、全く手がかりをつかんで居らぬことが、せめてものなぐさめでございます。……この発見は、いささか、長い月日を必要とすると存じますれば、それまで、気長にお待ち下さいますよう、願い上げます。……但し、結果は、必ず、この信綱が、見つけて、江戸城ご金蔵へ、はこんでごらんに入れます」
「短気のわしに、気長に待てと申すか。……やむを得まい」
家光も、伊豆守の言葉に、したがうよりほかはなかった。
三
駿河路を、一人の初老の人物が、ゆっくりと道中していた。
無腰で、浅黄の筒袖に軽袗《かるさん》をはき、角《すみ》頭巾をかぶり、背中にかなりの荷物を、はすかけに背負うていた。
鼻梁の高さと、半白の頤鬚《あごひげ》が目立つ。
駿河路の第一程――右方に富嶽がそびえ、左方は千本松原が海原をさえぎっている。
将軍家の上洛のために、街道上はきれいに掃ききよめられ、人家の煙も立たず、立場茶屋など、葦簀《よしず》でかくされている。
すでに、将軍家の行列は、蜿蜒《えんえん》数里にわたって、通りすぎたあとであったが、まだ街道上は、ひっそりとして、旅客の姿は、見当らぬ。
偶然であった。
石川丈山は、熱海をすてて、京都にもとめてある草庵に移り住もうとして、将軍家上洛行列のあとを、ついて行くことになったのである。
馬蹄の音が、後方から起った。
みるみる、迫って来て、
「先生――」
馬上から、呼びかけて来た。
ふりかえった丈山は、それが、由比弥五郎とみとめると、
「どこへ参る?」
と、訊ねた。
「駿府へ参ります。……将軍家には、今日あたり、駿府城を発足されたと存じます」
「留守盗人をやるこんたんを起したか?」
「それがし、熱海へ立寄りましたところ、すでに、あの小屋をすてられたあとでありました。駿府城までに、先生に追いつけるものと確信して、追って参りました。……この馬をお使い下さい」
弥五郎は、馬からひらりと降りた。
「弥五郎、お前は、まだ、妄想にとり憑《つ》かれているとみえるの」
「妄想ではありませぬ。野心です」
「このわしに、宝さがしを手伝え、というても、無駄だぞ」
「駿府へ入れば、先生のお考えもいささかは変りましょう」
「もういま頃は、松平伊豆守が、宝をさがしあてて居るかも知れぬ。……このたびの上様ご上洛は、駿府に立寄って、伊豆守に、宝さがしをやらせるのが目的であろうからな」
「先生! 太閤遺金は、必ず、この弥五郎が、手中に納めてみせてごらんに入れます」
「どうしても、黄金亡者の夢を、すてきれぬか?」
「それがしは、紀州侯に謁見いたしました」
弥五郎は、胸中にあふれている野望を、頼宣に告げた旨を、語った。
「大納言殿は、なんとこたえたな?」
「大いに心を動かされたご様子でありました」
「覇気ありあまる気象に生れた以上、忠告したところではじまるまいが、お前の壮図は、たぶん、画餠《がべい》に帰すであろうな。紀州殿を説得してみたところで、目下の天下の状況では、呂宋《ルソン》へ出兵することなど、ただの夢想にすぎぬ。実現はすまい」
「やってみなければわかりませぬ」
丈山は、一片の雲影もない富嶽へ、視線を向けた。
「美しいのう。太古から、あのすがたをたたえ、われらの死んだ後、二百年、三百年、千年ののちまでも、そのままに、人の目を愉しませてくれる。それにひきかえ、人の一生の短さよのう」
「だからこそ、人生五十年のうち、やりたいことをやらねばなりますまい」
「お前は、百年おくれて、生れた。戦国の世に生れて居れば、一国一城のあるじにもなれたであろうものを――」
行手に、臨時の木戸が設けられていた。
二人が近づくと、番士が二人、立ちはだかって、
「いかがわしき人ていの者は、通すことは罷り成らぬ」
番士の一人が、肩をいからせて、横柄に、云った。
「いかがわしい者に、見え申すか?」
「風体を変えた怪しい浪士とみた。素姓をきこう」
「丈山と申す、世捨て人でござる。これは、連れにて、由比弥五郎と申す者」
「丈山? 丈山と名乗っただけでは判らぬ。前身の姓名をきこう」
弥五郎が、代って、これは三河譜代の家人《けにん》で、石川嘉右衛門重之殿である、とこたえた。
その名は、下級の番士の耳にもひびいていた。
にわかに態度をあらためて、
「お通り下され」
いったん通したが、念のためと、どこへ行かれる、と訊ねた。
「京都に、終《つい》の栖《すみか》をもとめてあり申すゆえ、そこへ、死にに参る」
丈山は、淡々とした口調で、こたえたことだった。
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上 洛
一
「金、金、金……、地獄の沙汰も金次第かのう」
旅籠の二階の出窓に、腰を下した石川丈山は、昏《く》れなずむ空に、くろぐろとそびえた駿府城の天守閣を、仰ぎ乍《なが》ら、呟いた。
丈山――石川重之は、二十歳から三十三歳までの十三年間、この駿府城に於て、家康に奉公したのであった。
なつかしい城であった。
さまざまの思い出が、脳裡を去来しているに相違なかったが、丈山は、それにはふれず、弥五郎の耳をわざとそばだたせるような言葉を吐いた。
「先生――」
弥五郎は、呼んだ。
「なんだな?」
「駿府大御所が、大坂城から召し上げた金銀は、およそ、どれくらいか、見当がおつきになりますか?」
「見当は、つく。荷駄五百頭分であったか、六百頭分あったかどうか、この目でたしかめて居らぬが、すくなくとも、三百頭以上で、運ばれたに相違ない。一駄ではこべる金は天正大判六千枚というところか。かりに、噂通り三百頭であったならば、百八十万枚。すなわち、千八百万両である。銀の方は、その半分ぐらいであったろうか。……このほかに、金銀千枚吹きの法馬《ほうま》も、幾十個か、これは、海上をはこばれたはずだ」
「それがしがきき及んだところでは、上杉謙信が歿した時、春日山城の庫《くら》には、大判二千五百枚が軍用金として貯存されてあったとか。また、穴山梅雪は、天正十年三月、主家武田家が滅亡した後、残された金二千枚を積んで、織田信長に帰服した由。それにくらべて、いかに、大坂城内にたくわえられていた金銀が巨額であったか、よくわかります」
大判一枚あれば、百六十俵の糧米が買える大変なねうちであった。
秀吉が、天下人になった頃は、金一万枚は、およそ米五十万石に相当したのである。
したがって――。
秀吉が、後藤徳乗・長乗に命じて鋳造させた天正大判は、軍用のためと部将大名衆へ頒与するためであり、一般の通貨とならなかった。あまりに、高価額すぎたのである。
現代ならば、まず、百万円札というところであろう。
慶長六年、天下の覇権をにぎった徳川家康は、大判・小判・一分判・丁銀・豆板銀と、いわゆる慶長金銀を鋳造した。その大判は、天正大判に比べて、ひとまわり小さくなり、質も落ちていたが、やはり、一般庶民とは無縁のもので、もっぱら、贈答の品として使われた。
「……大御所が、慶長十年、将軍職を、秀忠公に譲られて、駿府へ退隠された時、江戸城の西の丸の金蔵には、軍用金として金三万枚、銀子一万三千貫があった。大御所は、それを、そっくり将軍家へ進呈された。つまり、大御所は、ほとんど無一文で、この駿府城へ移られた。……この前も、申したが、天下人たる徳川家康には、金がなく、一大名になり下った豊臣秀頼には、金があった。……武力を支えるのが金銭であることは、大御所が、最もよく承知されていた。わずか六歳で今川家の質子《ちし》となった大御所は、三河にのこした家臣団が、どれだけ貧窮したか、つぶさに、思い知らされて居った。この苦い経験が、家康という人物に、金銀こそ万能、と教えて居った。太閤秀吉も、天下を取るに必要な槓杆《こうかん》は、金銀であると熟知していて、あれだけの莫大な富の蓄積をしたが、大御所が、その遺金を狙ったのは、当然のことであった」
「大御所は、天下人になってから、自ら倹約を実行し、百姓に対しては、難儀にならぬほどにくらさせて、決して気ままをさせぬのが慈悲だ、と申されていた由ですが、それほどにして、富を江戸城に集めても、金三万枚、銀子一万三千貫しか貯えることができませんでしたか?」
「大御所は、大久保石見という適材を見出して、伊豆や相模や佐渡や甲府や奥州南部、はては、遠く蝦夷の松前まで、金山を掘らされたが、それによって、一万枚の金を貯蓄するのは、容易ではなかったのを、わしは、見とどけている」
そう考えてみると、家康にとって、大坂城の太閤遺金が、いかに垂涎《すいぜん》措くあたわざるものであったか、合点がゆく。
「……それがしは、この駿府のどこかに、すくなくて一千万両、多ければ二千万両の金額が、隠匿されてある、と確信いたします」
「その金銀を入手したならば、紀州殿を説いて、呂宋《ルソン》へ押し渡って、新しい領土を攻め取るか。夢想は、いくらひろげてもかまわぬが、夢は所詮夢で終るだろうの」
「先生!」
弥五郎は、必死の眼眸《まなざし》を据えた。
「大御所が、隠匿されたとすれば、どのあたりか――先生ならば、大御所の肚裡《とり》を読みとることがおできになるはずです。何卒、この弥五郎に、先生の推測をお教え下さいますまいか? お願い申し上げます」
「師匠が反対するのを、弟子は敢えて押しきって、野望を実現しようとする。師匠たる者が、どうして、それに協力せねばならぬ?」
丈山の返辞は、冷やかであった。
二
将軍家光は、二十八日、宇津の谷峠を越えて田中城に入り、二十九日、大井川を越え、小夜中山を経て掛川城に泊った。
浜松城に至ったのは、七月朔日。翌二日、そこが父秀忠の誕生地であるので、産土《うぶすな》神五社、諏訪明神社に詣でた。
荒井で昼餐、千鳥丸で浜名湖を渡り、夕刻、吉田に入った。現在の豊橋である。
武田信玄の終焉《しゆうえん》の地であるとの疑問を伝える野田城址も、程遠くない。山本勘助の碑も、鳥居強右衛門の墓も、近傍にあった。家光は、ごく少数の供をつれて、鳥居強右衛門の墓に詣でた。
払暁、吉田を発し、その日は岡崎城に入って泊った。
祖父家康が、幼少時、辛酸をなめた松平家の故郷なので、家光は、一汁一菜の粗食を摂って、祖父の苦労を偲んだ。
四日、日吉丸と蜂須賀小六との出会いの故事をのこす矢矧《やはぎ》橋を渡った。池鯉鮒《ちりゆう》より、徳川義直の出迎えを受けて、尾張・名古屋城に入った。義直は、家康直筆の兵法一巻、銃五挺を、将軍家に献じた。
六日、萩原、墨俣《すのまた》を経て、大垣城へ泊り、城主松平越中守定綱は、これより扈従した。井伊|靫負佐《ゆげいのすけ》直滋が、彦根から、迎えとして参着。
七日、彦根着。城主井伊|掃部頭《かもんのかみ》直孝が、扈従の列に入った。
八日、永原着。九日、矢橋《やばせ》より船で、膳所《ぜぜ》城に入った。
十日は、船で、琵琶湖をめぐって、和歌を詠じた。
家光は、このたびの上洛の道中、しばしば作歌した。
神奈川の仮御殿では、
旅とてもいづくも同じ我国のへだてはあらじ照らす日の本
藤沢の駅では、白雨が降ったので、
一通り降る夕立の雨晴れてこころすずしきゆふ暮の空
大磯の浜辺では、
うつし絵も及ばぬ山の海かけて松に浪こす浦のながめは
いずれも、下手くそであった。家光自身は、おのれに才能がないとは、すこしも考えてはいなかった。
すこし上手な歌、と受けとれるのは、古人の猿真似であった。
宇津の谷峠を越えた時、
旅づかれうつの山辺の現《うつつ》にも夢にも見ゆる蔦の細道
と詠んだが、これは、新古今の在原業平朝臣の「駿河なる宇津の山辺の現にも夢にも人にあはぬなりけり」から、あきらかに、ぬすんでいる。
在原業平の頃は、たしかに辿るに心細いものさびしい『蔦の細道』であったろうが、寛永十一年のいまは、立派な二間幅の街道であった。大行列で往く家光に、蔦の細道の古跡を偲《しの》べる道理がない。
こう記してみると、一人の男が、気まぐれに思い立って、東海道をのんびりと、下手くそな和歌を作り乍ら、京都へ上って行ったようにみえる。
三十万七千余という未曾有の行列を為しての道中であった。
供をしている大名以下足軽まで、そして、沿道の住民にとって、迷惑この上もない旅であることに、家光は、全く気をつかってはいなかった。
松平伊豆守は、家光の通る二日前から、沿道いたるところに、警備の手練者を配り、厳重に目を光らせて、瞬時の油断もしてはならぬ、と命じていたし、酒井忠勝は、家光が不快にならぬように、毎日乗物を替えたり、各城の寝所も、さだめてあった部屋を、別の部屋に代えるこまかな心くばりをしていた。
景色を愉しんで、下手くそな和歌を、家光につくらせるために、蔭で、どれだけの神経が使われたか知れなかった。
琵琶湖の遊覧にあたっては、湖畔の漁師は一人のこらず、山の一箇処へ集められ、舟という舟は、底へ穴があけられて、陸地へひきあげられていたのである。
十一日、家光は、京都に入った。
上下三十万七千余の扈従の大行列を観ようとして、洛中洛外、大坂からも兵庫からも大和からも、庶民が、膳所から京都まで、沿道に充満したが、おびただしい数十万の見物人の中から、怪しいと看られた者は、片はしから、抜き出されて、遠くへ追われた。
三
それより二日前――。
洛北如意山の麓に沿うた疏水をつたって、南禅寺道から、鹿ヶ谷の聚落に入る竹藪の多い坂道を、編笠をかぶった武士が、ゆっくりと、辿っていた。
箱根の権現別社で、駿河大納言旧臣十四人を、またたく間に、一太刀ずつで、斬り伏せた柳生十兵衛三厳であることは、その尋常でない躯幹と、逞しく若い足どりで、明白であった。
このあたりは、『平家物語』の描いた景色そのままを、とどめていた。廃寺の土塀がつづいたり、竹藪が切れると、巨樹が空を掩うていたり、木漏れ陽は、道までとどいていない薄暗さであった。
それでいて、むっとこもった熱気は、うだるほど、からだを押し包む。
旅馴れた十兵衛は、その暑さを、すこしも感じないような足どりであった。
鹿ヶ谷の聚落には、いまなお、公卿の別邸があった。尤も、往昔のおもかげはなく、いずれも、荒れはてていた。
――ここか。
十兵衛は、その別邸のひとつの、めぐらされた生垣から、邸内を、のぞいた。
庭を流れている水の音が、涼しいが、建物は廃屋にひとしく、茅の屋根には、雑草がのびていた。
十兵衛は、傾きかかった門をくぐった。
樹木を吟味された植込みも、手入れがされぬままに、枝はのび放題になり、玄関に至るまで、十兵衛の編笠に、ぶっつかって、ざわめいた。
「たのもう」
十兵衛は、編笠をかぶったままで、案内を乞うた。
しばらく返辞がなかった。あきらかに、屋内に、人の気配はあった。
十兵衛は、声を張った。
「それがし、柳生十兵衛三厳と申す。……河合甚左衛門殿に、お目にかかりたい」
高崎城下を立退いた河合又五郎が、その伯父河合甚左衛門、妹聟桜井半兵衛らに守られて、中仙道を通り、この京都へ、かくれたことは、柾木《まさき》坂道場から放った十兵衛の門弟の一人から、報せがあった。
この鹿ヶ谷のなにがしなる公卿の別邸に、一時、仮寓をもとめていることを、さぐり出すのは、さまで、面倒ではなかった。
奥から、跫音《あしおと》がひびいて来た。
現れたのは、六尺を越える大兵の武士であった。
十兵衛は、編笠をはずすと、
「河合甚左衛門殿か?」
と、見上げた。
「左様でござる」
甚左衛門は、玄関に正座した。
甚左衛門は、偶然にも、荒木又右衛門と同じく、大和国郡山を領する松平下総守の家臣であった。又右衛門が、剣の師範であるのに対して、甚左衛門は、槍の師範であった。宝蔵院流のその術は、ひろくきこえていた。
人格者として、家中から尊敬を受けていた人物である。又右衛門とも、平常親しく交り、互いの業をみとめ合っていた。
皮肉にも――。
又右衛門が、義弟渡辺数馬に味方して、河合又五郎を討つべく、松平家を致仕すると、同時に、甚左衛門も、又五郎を守るべく、暇をとったのであった。
昨日の親友は、今日の仇敵となったのである。
「用向きだけを、おつたえいたす」
十兵衛は、かわいた声音で、云った。
「渡辺数馬は、荒木又右衛門とともに、この京洛に入り申した。しかし、身共は、河合又五郎殿が、ここにかくれ住むことは、いまだ、又右衛門に、報せては居り申さぬ。……明後日、上様がご上洛されるからでござる。上様ご上洛の前に、洛中を血でけがすことは、はばかりあるゆえ、又右衛門には、又五郎殿の行方を、わざと黙って居り申す」
「ご配慮の儀、|忝 《かたじけの》う存じます」
「ついては、上様ご上洛前に――今明日うちに、当邸を、立退かれるよう、おすすめいたす。これは、公儀隠密として、おすすめいたす」
「………」
「荒木又右衛門は、身共の門下でござれば、渠《かれ》が助太刀いたす渡辺数馬に、仇討させてやりたいのは、人情と申すもの。しかし、公儀隠密たる身は、私情をさしはさむことは、許されず、何事も、公儀のおんために働かねばなり申さぬ。されば、上様ご上洛前に、貴殿がたには、この洛中洛外より、遠くへ、退去して頂かねばなり申さぬ。……この儀、しかと、おききとどけ頂きたく存ずる」
甚左衛門は、しかし、俯向いて、しばらく、返辞をしなかった。
甚左衛門は、将軍家が上洛したのを好機とみて、扈従して来た安藤重長にたのんで、河合又五郎を、ひそかに拝謁させる肚づもりだったのである。
又五郎の口から、じかに、渡辺源太夫を討った真相を言上させれば、将軍家は、その志を汲みとってくれるに相違ない。将軍家は、一度は、池田忠雄に、「渡辺源太夫をくれぬか」と所望して、ことわられている。
又五郎が、源太夫を将軍家に献上して、主家が国許から運んで来た江戸本丸玄関前を飾る石材を、旗本奴連から守ろう、とした忠義心から、このたびの騒動をひき起したことが、将軍家の耳に入れば、
「けなげな志、河合又五郎を守護してやれ」
という上意が下される自信が、甚左衛門にはあったのである。
甚左衛門は、十兵衛を視かえした。
十兵衛の面上には、申し入れた以上、一歩もあとへ退かぬ決意の色があった。
――やんぬるかな!
甚左衛門は、又五郎に、運のないことを直感した。
「承知つかまつりました。本日中にも、退去いたします」
甚左衛門は、承知した。
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佐 倉 農 民
一
西へ往く者があれば、東へ来る者もある。
将軍家光が、京都へ入った――その日、東海道を夜通し歩いて、明け六つを待って、朱引|外《そと》(市外地)から、江戸へ、高輪の下木戸をくぐった一団があった。
いずれも、まっ黒に陽焼けて、痩せこけて、至極粗末な旅姿をしていた。
二十三歳の若い大庄屋・木内宗吾を頭領とする下総国佐倉の農民たち二十七人であった。
直見《あたみ》郷熱海に於ける、五年間の石切りの課役を終えて、ようやく帰国を許されたのである。
五年前に、木内宗吾がひきつれて、熱海へやって来た時、佐倉の農民は、二百七十六人いた。そのうち、切り出した石に押しつぶされたり、断崖から落ちたり、事故で亡くなったのが、六十七人。病気に罹《かか》って斃《たお》れたのが、四十四人。不具になったり、その他余儀ない事情で、国へ還った者が、三十二人。この多数の減員に対して、国からあらたに補給されたのは、わずか二十三人。しかし、これらは、いずれも、十三歳から十五歳までの少年たちであった。
江戸城づくりに、印東庄三十六箇村だけでも、これだけの大きな犠牲をはらったのである。
石切りが終了すると、宗吾は、女房子持ちの者たちを、国へかえし、自分より年下の若者たちだけをのこして、丁場のあと始末をして、ひきあげて来たのであった。
宗吾は、江戸で二日ばかり、若者たちを遊ばせてやる肚であった。
「お前ら、江戸で、なにがしたい?」
熱海を発つ時、宗吾は、一同に訊ねた。
自分たちが切り出した石で飾られたお城を見たい、と願う者が大半であった。日本橋を渡ってみたい、とのぞむ者もいたし、浅草寺へ詣でて、事故で亡くなった父親に代って、拝みたい、と申し出る者もいた。
宗吾は、微笑し乍《なが》ら、
「お前らは、まだ女子を抱いたことがないだろう」
と、云った。
一人残らず、かれらは、童貞であった。
「実は、わしもまだ、女子を知らぬ。江戸へ出たら、お前らに、女子を抱かさせてやる」
若者たちは、わあっ、と歓声をあげた。
「江戸には、吉原という日本一の廓《くるわ》があることを、お前らも、きいて居るだろう。わしが、そこへ、連れて行ってやる」
再び若者たちは、歓声をあげた。
貧しい百姓家に生れたかれらにとって、夢のような話であった。生涯忘れられぬ思い出になるに相違なかった。
伊豆山の走湯《はしりゆ》には、熱海の丁場で働く男たちの慰労のために、遊び女《め》の溜《たまり》が設けられていたが、佐倉の農民で、そこへ出かけた者は一人もいなかった。頭領の宗吾が、行かなかったからである。
二年前、宗吾の妹波津をかしらにして七人の少女が、はるばる、熱海へ、父や兄の手伝いをしようとして、やって来たことがあった。宗吾は、はげしく叱って、国へ帰れ、と命じたが、彼女たちは一人も、ぶじに帰国しなかった。
走湯で、荒くれ男どもに襲われて、むりやり、遊び女の溜へ入れられた七人のうち、三人が自殺し、二人が遊び女にされ、どうやら逃げることのできたのは、波津ともう一人だけであった。その二人も、いまだ、行方不明であった。
そんないまわしい事件の起った走湯へ、佐倉の農民たちは、女を買いに行く気がしなかったのである。
――波津は、もしかすれば、江戸にいるかも知れぬ。
宗吾は、そんな気がしていた。
そして、その場所が、吉原の廓ではなかろうか、という不吉な予感はずうっと、宗吾の脳裡にあったのである。
二十七人の若者をひきつれた宗吾は、まず、人馬|輻輳《ふくそう》する日本橋を渡り、濠に沿うて外郭をまわった。
まだ、外郭をめぐる濠工事は、進行最中であった。
周囲約四里の外郭――いわゆる「御曲輪内」に、江戸の城下町が、すっぽりと入っている大規模なものであったので、濠工事は、慶長九年以来、|えんえん《ヽヽヽヽ》として、つづけられているのであった。
宗吾は、舟口(呉服橋門)に至ると、そこの見附を守備する番士に、
「大手門を拝見させて頂くわけには参りますまいか?」
と、願い出た。
「そのような|むさい《ヽヽヽ》風態をいたした者を、通すわけには参らぬ!」
番士は、|にべ《ヽヽ》もなく、はねつけた。
宗吾は、自分たちは直見郷熱海で、石切りの奉公をしていた佐倉の農民であり、自分たちの切り出した石が、大手門を飾っている、ときいていたので、ひと目だけ、拝見したいと思っているゆえ、まげてご許可のほど――とねばった。
二
「ならぬ!」
番士は、断乎として、拒否した。
この見附を守っているのは、出羽の秋元家の家中であった。
その折――。
十数台の牛車に、石材を積んで、懸声いさましく、人夫の列が来た。
先頭に立って音頭をとっているのは、幡随意院組の頭領長兵衛であった。
幡随意院組は、この一年で、かなり名を挙げていた。市井であばれていた若い町奴たちが、屈強の乾分《こぶん》を幾人ずつかひきつれて、幡随意院組に加わったからである。唐犬権兵衛、放駒《はなれごま》四郎兵衛、冥途の小八、大仏勘三、小仏小平などであった。
長兵衛が、かき集めた人足も、城石や、材木の陸揚げ、運搬に、馴れて来ていたし、そこへ、町奴連が加わって、結束力ができたのであるから、鬼に金棒であった。
町奴連が、幡随意院組に加わったのは、旗本奴に対抗するためには、ばらばらでいては、とうてい敵わないからであった。
旗本奴は、白柄組や大小神祇組や六法組のほか、吉弥組とか鶺鴒《せきれい》組とか笊籠《ざるかご》組とか、ぞくぞくと新しい組をつくって、その傍若無人の所業を、いよいよほしいままにしたのである。
さいわいに、町奴には、旗本奴とちがい、人足|請負《うけおい》という稼業があった。
幡随意院組に加わった町奴の中で、唐犬権兵衛は、智慧者であった。
「大きな石を運ぶのに、丸太棒のコロで台を動かすのは、はかどらねえ。牛車を使うのが一番だ」
と、云い、京都四条車町の牛屋を呼んだのである。これが、大成功であった。
幡随意院組は、五万石以上の大名がたからも、やとわれるようになっていた。
いま――。
牛車で運んで来たのは、稲葉政勝分担の紅葉山東照宮桝形を飾る化粧石であった。
「さあ、どいた! どいた! お石様のお通りだ!」
長兵衛は、番所の前に群れている土くさい一団に、怒鳴った。
宗吾は、とっさに、思いついて、長兵衛に近づくと、
「お願いがござる。わしらを、臨時の人夫として、やとって下さいませぬか?」
と、たのんだ。
「人手は、ごらんの通り、足りているぜ」
「いや、実は――」
宗吾は、事情を説明した。
長兵衛は、ききおわると、
「よし、判った。合点承知、引き受けたぜ」
と、胸を叩いてみせ、秋元家の番士に、
「この者どもは、たったいま、幡随意院組がやとった人足でさあ。たのみましたぜ」
と、云った。
「人足であれば、やむを得ぬ」
番士は、融通を利《き》かせた。
佐倉の農民たちは、宗吾の機転と長兵衛の心意気で、大手門を見物するだけではなく、本丸まで入ることを得た。
尤も、これは、将軍家が留守中のことであったので、秋元家の番士も、かれらを通らせたのであったろう。
さて――。
佐倉の農民一同に、江戸城内を見物させて、空車を牛に曳かせて、舟口を出た時、長兵衛は、宗吾に、
「この江戸で、ほかに見物してえところがあるのなら、案内してさしあげますぜ」
と、云った。
「では、あつかましゅう、お願いついでに、吉原の廓へ、ご案内下さいますまいか?」
「ほう、こいつはまた、豪儀《ごうぎ》な申し出をなさるねえ」
長兵衛は、あらためて、農民たちを見わたし、いずれも二十前後であるのをみとめると、
「成程! 熱海の石切丁場で、死ぬほど苦労したこの若い衆に、うれしい土産話をひとつつくってやろうという|かしら《ヽヽヽ》心ってえわけか。……吉原のことなら、まかせておいてもらおうぜ」
と、云った。
「忝う存じます。なにぶんにも、てまえをはじめ、一人も、女子の肌にふれた者は居りませぬゆえ、傾城《けいせい》町へ行く、というだけで、身も心もわくわくして居ります」
宗吾は、頭を下げた。
「この幡随意院の長兵衛が引受けたからには、お前さんたちに、端《はした》女郎は抱かせねえ。この世の極楽を、たっぷりとあじわって、男に生れた甲斐があったと知らせてあげまさあ」
三
迂闊《うかつ》というべきであった。
長兵衛は、乾分を一人もともなわず、宗吾以下佐倉の若い農民二十七人を案内して、廓の大門をくぐったのである。
人の出さかる午刻《うまのこく》(真昼)前であった。
生れてはじめて、廓に入った若者たちは、ただもう、好奇心をあおられ、いくぶん怯気《おじけ》づき乍ら、きょろきょろと、見まわして歩くので、一瞥で、場ちがいな田舎者と判った。顔も土くさく、身装《みなり》も粗末だったし、長兵衛と顔馴染の廓者は、いずれも、けげんな面持で眺めやった。
もうこの頃は、あちらこちらに、湯女《ゆな》を置く風呂屋が非常に繁昌していたので、吉原の廓は、いささか、押され気味であった。
風呂屋は、いわば、現代のトルコ風呂で、客が気軽に上ることができ、湯女が垢をかいて、全身を洗ってくれ、頭髪も梳《す》いて、結いあげてくれ、暮がたになると、上り場に囲った格子仕切りの小座敷で、衣服をあらためた湯女が、三味線を鳴らして小唄をうたった挙句、ほどよく酔った客と枕を交してくれ、しかも、遊び代が安かったので、江戸という新開地には、向いていたのである。
風呂屋のうちで、最も名の通ったのは、神田の松平丹後守屋敷前にある紀伊国湯であった。丹後守屋敷前にあるので、ここに出入りする歌|ぶき《ヽヽ》者(町奴)を、丹前へかかる、といい、一種の伊達風俗を、丹前風と、後世に名をのこした。
それにひきかえ、京都の三筋町をまねた吉原の廓は、万事格式を重んじ、美しい大夫を呼ぶには、ひどく手間がかかったのである。
薄小袖の上にさまざまの模様の衣裳をまとい、|はなだ《ヽヽヽ》の常陸帯を締めた名のある大夫は、えりすぐられた気品のある美しい容姿で、一般庶民には、ちょっと近寄りがたかった。雨の日など、六尺と称ばれる男に背負われて張《は》り肱のポーズよろしく、うしろから、長柄の傘をさしかけられて、しずしずと道中して来た。
大名とか大名屋敷の留守居とか大町人とかが、揚屋へ呼ぶ、いわば特権階級をよろこばせる存在であり、呼んでも必ずしも、やって来るわけではなく、呼んだその日に、褥《しとね》をひとつにする次第でもなかった。格子女郎や端女郎は、別であったが、それにしても、寝るまでの手つづきが面倒なので、安直に遊べる風呂屋の方に、しだいに人気が移り、慶長、元和の頃の盛況は、見られなくなっていた。
そこで、吉原では、廓内で、女歌舞伎の興行を催したり、そのほか勧進舞いやら獅子舞いやら、相撲、浄瑠璃まで、毎日ひらいて、客を招く手段としていた。
ともあれ――。
特権階級や、金のある出府の大尽分限者には、足をはこばせる江戸名所であることには、まちがいなかった。
その頃の吉原は、現代の伝馬町を中心にして、東北から南へ、二町四方あった。
長兵衛は、宗吾一行を、本町を中心とする京町、江戸町、伏見町、堺町、大坂町、角町、新町と、ひとわたりひきまわして、やがて、揚屋町に来た。
その時――。
『伏見屋』という青楼の三階の窓から、一行を、みとめた者がいた。
旗本奴の一人久世三四郎であった。
「ふん、彼奴――幡随意院の青二才め、垢くさい百姓どもをひきつれて、入って来たな。どうやら、乾分の数を増すために、下総だか上総だか安房だか、食いつめた百姓漁師の次三男をひっぱって来た模様だぞ」
そう云って、座敷をふりかえった。
座敷には、水野出雲守成貞や阿部四郎五郎や、旗本寄合衆が、大夫をはべらせて、酒を飲んでいた。
阿部四郎五郎が、
「どれ――」
と、立って来て、往還を見下し、
「ふうん、試し斬りには、おあつらえ向きの|どん《ヽヽ》百姓どもだな」
と、云った。
「出雲――、どうだ、試し斬りをやってみるか?」
阿部四郎五郎も水野成貞も、最近、新刀を手に入れていた。
水野成貞は、三日あまりの流連《いつづけ》で、かなり酔っていた。
「やってもよい」
成貞は、こたえた。
恰度《ちようど》、将軍上洛の扈従から、はずされて、かれらは、腹を立てている最中であった。
その鬱憤のはけ口のないままに、吉原で流連をつづけていたのである。
「長兵衛は、乾分どもを一人も、連れて居らぬ。|どん《ヽヽ》百姓どもを三十人あまり、ひき連れているだけだ……。試し斬りには、ちょうどよい」
四郎五郎が云い、三四郎も、うなずいた。
「やるか!」
成貞は、大夫の膝からやおら身を起して、
「おい、女ども、この儀、口外すると、お前らも、のこらず、斬るぞ」
と、おどかした。
「くるわの中で、騒動は、止してくんなまし」
大夫の一人が、たのんだ。
「わかって居る。彼奴らが、大門を出たところを、片づける」
四郎五郎が、云った。
「ほんとに、男伊達衆は、どうして、こうも、人を斬るのがお好きなのであろう」
「戦《いく》さがなくなったからだ。戦さが!」
四郎五郎が、吐き出した。
そういう企てがなされたとは、露知らず、長兵衛は、宗吾一行を、それぞれ、五人、六人と分けて、各揚屋へ、あげていった。
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横 死
一
暮六つの鐘を合図に、佐倉の若い農民たちは、彼方《かなた》此方《こなた》の揚屋から、ぞろぞろと、出て来た。
どの顔も、生れてはじめて女の肌を知った興奮で、上気していた。
暮六つ、といっても、夏のことで、あたりが昏《く》れなずむには、あと半刻あまりあった。
まだ明るい往還で、互いに顔を見合せた若者たちは、うれしさを抑えきれぬ、照れくさい素朴な表情になっていた。
幡随意院の長兵衛が、明日の石材運搬の手筈をととのえて、吉原へひきかえして来ると、もう揚屋町の木戸口には、木内宗吾をかしらに、農民二十七人がそろっていた。
「やあ、おまえがた、男になった、という面がまえになっとるぞ、めでたい、めでたい」
長兵衛が、笑い乍ら云うと、宗吾は、生真面目な態度で、
「おかげさまで、五年の苦労の垢を落すことができ申して、お礼の言葉もありませぬ」
と、頭を下げた。
「なんの――。石切丁場が、生地獄だということは、噂にきいて居った。おまえがたを、すこしでも慰労できたのは、わっしも、町奴として、うれしいわさ。……ところで、この廓の中のことなら、どこの泥溝《どぶ》に鼠が何びきいるか、ということまで知って居る男に、きいてみたんだが、お前さんの妹らしい女郎は、いねえようだぜ」
長兵衛は、吉原へやって来る途次、宗吾から、その妹波津のことをきかされたので、しらべてみたのである。
「妹は、そのうち、きっと国許へ、もどって参りましょう」
宗吾は、失望の色をかくして、云った。
「もしかすれば、どこかの大店に、奉公しているかも知れねえから、心掛けておくぜ」
「お願い申します」
「馬喰町の旅籠に、みんな一緒に泊れるように部屋をあけさせておいたから、明日は、浅草見物でもしなせえ。わっしが、旅籠まで、案内しよう」
「なにからなにまで、ご親切におとり扱い下されて、有難う存じます」
長兵衛の親切が、かえって仇となる兇変が、大門|外《そと》で待っているとは、夢にも知らず、宗吾以下二十七人は、褥《しとね》の中での遊女の肌のやわらかさや、肢態のあらわさを、まだ目や腕にのこし乍ら、なかば夢見心地で、ぞろぞろと歩いて行った。
いや、宗吾一人だけは、心中が冷たく醒《さ》めていた。宗吾は、女郎とともに寝たが、抱きはしなかったのである。
――もしや、妹が、このような境遇になっているのであれば……?
その気持が、金で売るからだを抱かせなかったのである。
それとは気づかぬ長兵衛は、
「そうだ。明日、浅草見物をすませたあとで、こんどはひとつ、神田の丹前風呂へ案内しようか。湯女《ゆな》は、女郎とは、またちがった味があって、面白いのだ」
などと一人合点で、きめていた。
やがて、一同は、大門を出た。
後世の伝馬町二丁目三丁目にあたるこの大門外は、当時は、往還の左右は、葭《よし》や茅が生い茂っていて、人家はなかった。沼沢がまだ埋めたてられていなかったのである。
吉原廓の遊興が、昼間に限られていたのは、大門外の夜間往来が、物騒だったからである。廓で遊ぶ者は、金子を余分に懐中にしていることは、いうまでもない。その懐中を狙う盗賊が、出没するのは、当然である。したがって、陽が落ちると、通客の姿は、往還から、絶えた。
長兵衛と宗吾一行が、大門を出たのは、もうそろそろ人影のなくなる頃合であった。
ものの一町も歩いた時――不意に。
葭の蔭から、躍り出て来た旗本奴連が、一斉に抜刀した。
「なんだ! なにをしやがる!」
長兵衛は、とっさに、闘うことの無駄をさとった。
こちらは、刀を腰にしているのは、この自分ただ一人であった。
旗本奴の頭数は、二十人に近かった。
長兵衛は、真正面に仁王立ったのが、白柄組頭領・水野出雲守成貞であるのをみとめた。
麻の小袖の、定紋の代りに髑髏《どくろ》を染め抜き、腰のあたりに花切り鎌、左に輪ちがいを浮かせた、その野晒《のざらし》模様は、あまりにも有名だったからである。
「どうしようといやがるんでえ?」
長兵衛の叫びに対して、成貞は、いきなり大上段から斬りつけて来た。
二
長兵衛は、町道場へかよって、すでにかなりの腕前になっていたので、きえーっ、と唸って来た白刃を、抜きつけで、受けとめた。
その瞬間、背後で、
「ぎゃっ!」
と、絶鳴がほとばしった。
「畜生っ! うぬら、手向いもしねえ、得物を持たねえ百姓を、斬りやがるのか!」
長兵衛は、血汐が逆流する憤怒にかられた。
「うぬが、乾分にしようとして、江戸へつれて来た百姓漁師の伜どもであろう。いまのうちに、片づけておいてくれるのだ!」
成貞は、長兵衛を咫尺《しせき》の間に睨みつけ乍ら、云った。
「ちがうっ! この者たちは、佐倉の百姓で、熱海の石切りの御用をすませて……」
「問答無用っ! 新刀の試し斬りには、ちょうど手頃の手輩だ」
「く、くそっ!」
長兵衛は、成貞を睨みかえしつつ、
「佐倉の衆、逃げろ!」
と、絶叫した。
その絶叫をきくまでもなく、すでに十人あまりは葭茅の中へ、跳び込んでいた。
しかし、往還上には、忽ち、そこに、ここに、悲鳴と血煙があがっていた。
悪鬼に似た旗本奴たちのふるう白刃に対して、抵抗し得る力を具備していたのは、木内宗吾一人だけであった。
宗吾は、十歳頃から、鹿島神道流を習っていた。
旗本奴の一人へ、体当りをくれると、その刀を奪いとって、
「外道めら!」
と、ののしりざま、まだ十七歳の農民を無慚に斬り殺した敵の胸いたを、刺し貫いた。
宗吾が、長兵衛と二人だけで、闘うのであったならば、死にもの狂いの働きぶりで、旗本奴連を、浮足立たせることもできたであろう。
逃げまどう農民たちをかばい乍らの闘いであった。あせりが先立って、その腕前を存分に発揮しかねた。
もし、一人の助勢者が出現しなかったならば、宗吾自身も、斬られていたかも知れなかった。
大門から、長槍をかついだ浪人者が、ふらりと出て来て、夕映えの中でくりひろげられる修羅場を、行手に目撃して、
「おっ!」
地を蹴って、奔《はし》った。
丸橋忠弥であった。
たった二人しか刀を持っていない貧しい身装《みなり》の群に向って、餓狼《がろう》の襲うに似た旗本奴連の残虐な行為が、忠弥の五体に、久しぶりに、闘志をみなぎらせた。
「おのれら、それでも、直参旗本かっ!」
一喝もろとも、びゅん、と長槍をひと薙《な》ぎした。旗本奴二人が、一瞬裡に、斃《たお》れた。
「乞食浪人めが、飛び込んで来居ったぞ!」
その叫びが、斬殺されるであろうあと幾人かの佐倉の農民の生命を救った。
旗本奴連は、農民たちに向って、振りかぶり、突きつけていた白刃を、一斉に、忠弥に対して向きかえた。
弊衣|蓬髪《がつそう》の六尺ゆたかな巨漢は、餓狼のえじきにするに足りた。
しかし、えじきにできる対手ではないことは、すぐに、判った。
その強さは、無類であった。
多敵の闘いに於て、忠弥は、穂先だけではなく、石突きをも武器とした。
背後から肉薄した者を、振りかえりもせず、目にもとまらぬ速度で、長柄を引くや、石突きで、その咽喉を突いて、仆《たお》していた。後頭に目がある、としか受けとれなかった。
いったん、葭の中へ遁れて、隙をうかがって、横あいから斬りつけようとした者に対しては旋風《つむじ》のように円を描いて、その顔を真二つにした。
この無雙の槍術者を味方に得て、長兵衛は勇躍したし、宗吾も、農民たちをかばう必要はなくなって、猛然と反撃した。
流石に、水野成貞も、いたずらに、こちらの死傷が増すのに堪えきれなくなり、
「退《ひ》けっ! 一応、退けっ!」
と、下知した。
その声を待っていたように、旗本奴連は、どっと、逃げ出した。
とたん、
「おいっ! 野晒奴! 待て! 貴様、頭領なら、いさぎよく、一騎討ちしろ!」
忠弥が、叫んだ。
成貞も、直参旗本の面目にかけて、挑戦された以上、遁走できなかった。
「よしっ!」
ぱっと、向きなおった。
忠弥は、にやりとすると、
「出羽山形住人・宝蔵院流・丸橋忠弥盛任」
と、名のった。
「白柄組領袖・水野出雲守成貞だ。おぼえておけ!」
「おぼえておいてやるから、あの世から、いくらでも化けて、出て来い」
三
白柄組領袖三千石水野成貞の屋敷は、麹町二丁目にあった。
主人が、夕餉を摂るのは、月のうち一度か二度であったので、その宵も、十六歳の嫡男――百助あらため十郎左衛門成之が一人だけで、母百代の給仕で、夕餉の膳に就いていた。
そこへ――。
あわただしく、家来の一人が、廊下を駆けて来て、
「申し上げます! 一大事|出来《しゆつらい》にございます!」
と、告げた。
「如何しましたぞ?」
「お殿様が、ご遺体と相成り、おもどりにございます」
「なにっ!」
叫んで、茶碗と箸を置いたのは、十郎左衛門であり、百代の方は、大きく双眸をみひらいただけで声をあげなかった。
母子が、書院へ入ってみると、成貞の遺骸のかたわらに、阿部四郎五郎が、坐っていた。
母子は、かっと眸子《ひとみ》をひき剥いた死顔を視た。
百代が、その目蓋をそっと閉じさせるのを待って、阿部四郎五郎は、
「無念の最期でござった」
と、云った。
「喧嘩沙汰にて、こうなったのですか?」
十郎左衛門が、訊ねた。
「いや……、その、果し合い――でござった」
「対手は、何者でありましたか?」
「町奴でござる」
四郎五郎は、遺骸をはこんで来る道みち、考えていた嘘を、口にした。
「え? 町奴とは?」
「幡随意院組と申す町奴どもでござった。かしらは、長兵衛と申し……、拙者らが、馳せつけた時には、すでに、長兵衛とその乾分ども三十数人によって、無念の最期を、とげられて居り申した」
四郎五郎は、まことしやかに、語った。
なぜ、そのような嘘をついたのか?
水野出雲守成貞ほか、旗本奴九人が、討たれたのを、表沙汰にできぬからであった。
対手が、丸橋忠弥という浪人者である、と事実を告げれば、当然、嫡男十郎左衛門は、敵討をしなければならぬ。
旗本の敵討は、老中の許可を得なければならず、許可を願い出れば、大目付の取調べを受けることになる。
そうなると、真相が発覚するおそれがあった。無辜《むこ》の農民を、襲って試し斬りにしようとしたことが原因、と判明すれば、襲った旗本奴一同が、切腹させられることは、火を見るよりあきらかであった。
旗本奴と町奴との争いは、日常事となっていた。
その争いの挙句、水野成貞ら九人が、死んだ、というのであれば、表沙汰にせずに、すませられるのであった。
たとえ、だまし討ちであっても、対手が下等な町奴であれば、討たれた旗本大身の息子は、敵討をすることは許されぬ。つまり、公儀への届出は、『急病死』としなければならなかった。
そもそも、直参旗本が、市中無頼の下郎と争うことなど、許されぬ所業であった。
したがって、これは、公儀に於ても、知らぬふりをすることになる。
噂が世間にひろまり、白柄組領袖以下九人を討ったのは、丸橋忠弥という浪人者であった。と知れても、公儀には、いずれも、『急病死』と届け出てあるのだから、大目付の取調べはないのであった。
「幡随意院組の長兵衛とやらは、わがあるじに、意趣を抱いて居りましたか?」
百代が、問うた。
「いや、名を売ろうとのこんたんから、些細なことから、因縁をつけて、果し合い、と相成った次第でござろう」
四郎五郎は、こたえた。
「まことですね」
百代は、念を押した。
「相違ござらぬ」
四郎五郎は、顔面をこわばらせ乍ら、こたえた。
「……それでは、わがあるじの不覚であった、と申すよりほかはありませぬ」
百代は、云ってから、
「十郎左衛門、父上の横死の儀は、お忘れなさい」
と、わが子を、じっと見まもった。
「………」
十郎左衛門は、返辞をせずに、父の死顔を、瞶《みつ》めていた。
「十郎左衛門!」
百代が、呼ぶと、十郎左衛門は、死顔から視線をそらさずに、
「わかって居ります」
と、はじきかえすようにこたえた。
それから、やおら、阿部四郎五郎へ、視線を移した。
「阿部殿――」
「む?」
「明日より、この十郎左衛門成之が、白柄組領袖に相成りますが、ご承知おき下され」
「お許《こと》は、しかし、まだ、十六歳だが……」
「十六歳であろうと、身共は、出雲守成貞の嫡男、白柄組の首座に就くのは、当然と存じます」
少年は、きっぱりと云ってのけた。
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焼 き 打 ち
一
「うるさいっ!」
丸橋忠弥は、呶鳴《どな》ってはね起きざま、刀を抜いて、びゅうっ、と宙をひと薙《な》ぎした。
十数ひきの蠅が、宿酔《ふつかよ》いの忠弥のただよわせるにおいを好むかのように、寝そべったまわりを、ぶんぶん飛びまわり、顔や胸へ、とまったり匍《は》ったりしていたのである。
そうでなくてさえ、うだるような熱暑に、いい加減うんざりしていた忠弥であった。
蠅は、巧みに、白刃の閃光をかわして、天井へ遁《に》げた。
神田連雀町の張孔堂楠不伝の家であった。
由比弥五郎が、
「駿府へ行って来る」
と、云いのこして、旅へ出たあと、金井半兵衛と忠弥が、留守居をひき受けて、居候していた。
「槍を使えば、無雙のくせに、刀をふるうと、蠅いっぴき片づけられぬか」
どこかへ出かけていた半兵衛が、いつの間にか、木戸を通って庭に立っていた。
「ならば、お主、蠅を斬り落してみろ」
忠弥は、ふてくされて、云った。
「蠅と女は、勝手につきまとわせておいて、そ知らぬふりをして居れば、そのうち、どこかへ消えるものだ」
座敷へ上って来た半兵衛は、坐って腕を組むと、
「吉原の大門外での大あばれは、江戸中で、評判になって居るぞ。当分、お主は、外へ出ぬ方がよかろう」
と、云った。
「旗本奴が、二十人や三十人、|たば《ヽヽ》になってかかって来ても、ビクともするものか」
「くだらぬ喧嘩沙汰で、名を売るな。江戸に住みにくくなるぞ」
「江戸にどうしても住まねばならぬ理由は、何もないぞ。人生いたるところ、青山ありだ」
「そうはいかん。お互いに、流浪はあきた。ここらあたりで、腰をおちつける必要がある。……弥五郎は、この張孔堂を十倍もの構えにして、千人の門下を集める必要があるし、お主は、江戸随一の道場をひらく必要がある」
「どうして、そんな必要があるのだ?」
「天下を取る足固めだ」
「天下を取る?」
忠弥は、いささか、あきれて、半兵衛を、視かえした。
「本気か、おい?」
「正念立志、十五歳にして、すでに、肚《はら》をすえたこの金井半兵衛だ。孔子|曰《いわ》く、仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼《おそ》れず、徳川幕府、なにするものぞ!……よいか、忠弥、弥五郎はすでに、紀州大納言に会って、その壮図を説いて居る。あとは、数十万の軍勢を動かす軍用金を、駿府で発見すればよいのだ」
「ふうん!」
「将軍家光を斃《たお》して、紀州大納言を四代の座に据え、しかるのち、われわれは、大軍船を組み、舳艫《じくろ》千里、明国へ押し渡る。明国の領土は、わが日本の数十倍なのだぞ。……どうだ、想像しただけで、血が沸き、肉が躍るではないか」
「あまりに、話が大きすぎる」
忠弥は、再びぶんぶん飛び交いはじめた蠅の群を、手ではらった。
「虎と見て、石に立つ矢の例《ためし》ありだ。念力だ、念力!」
半兵衛が、力をこめて、そう云った折、玄関に案内を乞う声がした。
半兵衛が、出てみると、そこに立っていたのは、熊谷三郎兵衛――名張の夜兵衛であった。
「お――老人、どこへ姿をくらまして居ったのだ?」
「本日、京都から立ち戻り申した」
半兵衛は、夜兵衛を、座敷に上げると、
「お主、京都へ、何をしに行って居ったのだ?」
「九条家の姫君に、逢うて参り申した」
「逢うた甲斐はあったのか?」
「ござった」
「ふむ! つまり、駿河大納言は、惚れた女子にだけは、豊臣家遺金の埋蔵場所を教えて、死んだ。その場所を、お主は、九条家の女《むすめ》から、きき出して来たというのか?」
「いや、そこまでは……」
夜兵衛は、かぶりを振り、
「姫君が、駿河大納言卿より打明けられていたところまでは、たしかに、つきとめて参り申した」
「その口から吐かせなければ、何にもならんではないか」
半兵衛は、いまいましげに、云った。
二
夜兵衛は、微笑して、明子の言葉を伝えた。
自分は、将軍家も松平信綱も、憎んでいる。この憎しみは、生涯消えることはあるまい。それゆえに、まだ、すべてをあきらめて髪をおろすことができずにいる。もし、徳川家を倒す智能と力をそなえた、三軍の大将たる器《うつわ》の人物をさがし出してくれたならば、その時、所蔵場所を教えて、自分は得度剃髪《とくどていはつ》するであろう。
「で――、お主は、その人物をさがし出して来る、と約束したわけだな?」
半兵衛も、忠弥も、目を光らせて、首を突き出した。
「約束して参り申した」
「その時、お主の念頭に泛《うか》んだのは、この金井半兵衛であったか、それとも、こっちの丸橋忠弥であったか?」
「あいにく、御辺がたのことは――」
「思い出さなかった、というのか?」
「忌憚《きたん》なく云わせて頂くならば、金井|氏《うじ》も丸橋氏も、三軍を指揮する器量を備えては居り申さぬ」
「指揮させてみろ! 神算鬼謀を発揮するかも知れぬぞ!」
忠弥が、いまいましげに、呶鳴った。
「頭領は頭領、軍師は軍師として、おのずからなる風格をそなえて居るもの」
夜兵衛は、もの静かにこたえた。
「そう云われてみると、その通りだな」
半兵衛が、率直にみとめた。
「諸臈亮孔明が、三顧の礼をもって、劉備玄徳に、軍師として迎えられた時、ちょうど、われわれと同年の二十八歳であった。しかも、ただ一度も、戦場へ出て指揮をとったこともなかった。……大夢誰かまず覚む、平生我自ら知る、草堂春睡足れり、窓外日遅々たり、などと草廬《そうろ》でうそぶいて居っただけで、誰も、渠《かれ》の器量を知りはしなかったのを、劉備玄徳だけが、これをみとめた。つまり、おのずからなる軍師の風格があった、という次第だ。……忠弥、どうやら、この老人の目には、われわれにその風格がない、と映ったらしいぞ」
「莫迦《ばか》な! 見かけばかりの空《から》大名、と申すではないか。面相骨格をひと目見ただけで、その人間の凡・非凡が、判ってたまるか!」
忠弥は、夜兵衛を睨みつけた。
半兵衛の方は、薄ら笑い乍ら、
「忠弥――、この老人に、ひとつ、弥五郎をひきあわせてみるか。弥五郎ならば、熊谷三郎兵衛殿の鑑識《めがね》にかなうかも知れぬぞ」
「ふん、どうせ、われわれ同様、ただの素浪人としか看ようとはすまい」
「それは、どういう御仁でござろうか?」
夜兵衛が、訊ねた。
「まことの素姓は、当人も、まだわれわれに、打明けては居らぬが、われわれより、少々出来が上であることだけは、まちがいない」
「年歯のほどは――?」
「われわれと同年配だ。……そうだ、弥五郎は、いつぞや、ふと、独語のように、もらしたことがある。おのれは、十歳の時、大坂城とともに、滅びる運命であったと……」
「ほう!」
夜兵衛は、興味をそそられた面持になった。
「あの言葉が、まこととすれば、弥五郎は、つまり、老人――お主と同じく、豊臣家の落人《おちゆうど》だ。もしかすれば、大坂城内で、お主は弥五郎と、顔をあわせているかも知れぬ」
「その御仁に、是非、ひき会わせて下され」
「目下、駿府におもむいて居る。お主と同じ目的を持ってな。しかし、おそらく、さがしあてられず、むなしく手ぶらで戻って参るに相違ない。その時、ひき会わせよう。……ところで、お主、ここへたずねて来たのは、いったい、なんの|こんたん《ヽヽヽヽ》があってのことだ? よもや、われわれを同志とみなして居るわけではあるまい」
「老残の身なれば、味方を欲しているのは、事実でござる」
「お主――」
半兵衛は、夜兵衛を、じっと見据えて、
「駿府にかくされてある豊臣家遺金の掠奪は、さておいて、目下、何かを企んで居るな?」
と、云った。
「企んで居り申す」
「事と次第によっては、味方になるぞ」
夜兵衛は、しばらく、沈黙を置いてから、口をひらいた。
「江戸城焼き打ちでござる」
さしたることでもない、といったひくい静かな語気で、途方もない計画を、告げた。
半兵衛と忠弥は、顔を見合せた。
夜兵衛は、無表情で、言葉を続《つ》いだ。
「このこと、この月うちに、必ず決行いたす」
将軍家光が上洛中の江戸城は、警戒が手薄に相違なかった。
そこをうかがって、焼き打ちをしかけ、あわよくば、西ノ丸にある金蔵から、千両箱をいくつか、掠奪してくれる。
老人は、そう決意しているのであった。
半兵衛と忠弥は、老いたる豊臣家残党のなみなみならぬ復讐の執念を、あらためて、思い知らされて、緊張せざるを得なかった。
「てだては成って居るのか、老人?」
半兵衛が、問うた。
「一昨年大晦日、大手門前に馬で出て来た将軍家の面前に於て、切腹いたした武士がござった。駿河大納言卿の附家老御堂玄蕃と申す者にて、大納言卿の赦免を乞い、逆に、叱咤され、切腹を命じられ、その場で相果てた忠義の士でござる。……おのれが切腹すれば、主人が赦免されるか、と念を押しておいて、切腹いたしたのでござったが、結果は、大納言卿の自刃で終り、御堂玄蕃の死は、無駄死と相成り申した。……その御堂玄蕃の娘が、江戸城大奥に、女中としてつとめて居り申す。佐恵と申すその娘を、説いて、味方にいたして居り申す」
「その娘に、放火させる、というわけか」
「左様――。城内各処に、爆薬を仕掛けておいて、これに、放火させ申す。お手前がたが、味方になって下されば、石運びの人足に化けて、城内へ入り込み、爆薬を仕掛ける手伝いをして頂きとう存ずる」
「面白い!」
忠弥が、丁と膝を打った。
「手伝ってやるぞ。慶長初年から、|えんえん《ヽヽヽヽ》として、三代にわたって、ようやく完成間近を迎えた巨城を、一朝にして、烏有《うゆう》に帰せしめるとは、壮快の挙だ。やろう!」
三
将軍家光が、上洛中、江戸城の留守居をしたのは、酒井|雅楽頭《うたのかみ》忠世であった。
七月二十七日、夕刻、突如として、西ノ丸が出火した時、酒井忠世は、本丸にいた。
烈風の吹きすさぶ宵であった。
あっという間に、西ノ丸本殿、台殿、多門櫓、渡矢倉などが、猛炎につつまれて、手のほどこし様がなかった。
ただの失火でないことは、一時に各処から火の手があがったことで、明白であった。
酒井忠世の下知を受けて、西尾丹後守忠照らが、馳せつけた時には、もはや、手のほどこしようがなかった。
紅蓮舌《ぐれんぜつ》は、烈風に乗って、西ノ丸のすべての建物を、なめ尽し、一|刻《とき》も経たぬうちに、ことごとく灰燼《かいじん》とした。
ただ――。
次つぎと放火したのが、元駿河大納言忠長の附家老の娘佐恵という女中であることは、目撃者があって判明し、番士十数人がとびかかって、とりおさえようとしたが、懐剣を抜いて、覚悟の自害をとげた。
佐恵一人の仕業ではなく、何者かが、蔭で、糸をあやつったことは、容易に推測がついたが、ついに、つきとめるにいたらなかった。
江戸城に火の手があがったことは、江戸市民を騒然たらしめた。
金井半兵衛と丸橋忠弥は、虎ノ門で、この火事を見物していた。
「やったのう!」
「夜兵衛は、豊臣家残党を七八人語らって、火消し人夫に化けて、消火にあたると見せかけて、金蔵を狙っているが、はたして、千両箱を盗み出せるかどうかな」
「もしかすれば、夜兵衛は、城内から内濠下に設けられた抜け穴を脱出して来るかも知れぬ」
「執念だのう。やったものだ」
酒井忠世は、この責任をとって、東叡山寛永寺に入ると、家光の処罰を待った。
急報がもたらされた時、家光は、大坂城に滞在していた。
酒井因幡守忠知が、昼夜ぶっ通しで、早馬をとばして、注進に及んだ。
家光は、土井大炊頭利勝、酒井讃岐守忠勝、そして松平伊豆守信綱を召して、
「失火と思うか、それとも放火と思うか?」
と、問うた。
「失火と存じます」
と、こたえたのは、土井利勝であった。
「たぶん、放火かと存じられます」
と、こたえたのは、松平信綱であった。
酒井忠勝は、調べぬ上は、いずれともきめかねます、とこたえた。
家光は、留守居の酒井忠世に責任をとらせるべきか否かは、三閣老にまかせた。
当然――。
酒井忠世は、罪科を背負うて切腹するであろうと推測された。
土井利勝は、酒井忠世が責任を負って、自決するのは、避けられぬことであろう、と云った。家光の逆鱗《げきりん》の態度をうかがったからである。
しかし、酒井忠勝と松平信綱は、反対の気色を示した。
いずれにしても――。
酒井忠世の執権職の権勢は、地に落ちた。
酒井忠勝と松平信綱の力が、一歩進められたことは、事実であった、土井利勝は、すでに老いていた。
東叡山から、南光坊(天海)の赦免乞いがなければ、酒井忠世は、自決して相果てたに相違ない。
天下未曾有の巨城は、慶長八年の普請工事以来、はじめてケチがついたのであった。
「建物は、再築できまするが、人材は再び得られませぬ」
酒井忠勝が、二人だけになった時、家光に告げたのが、効果があった。
酒井忠世は、老中を罷免させられ、永らく、寛永寺に蟄居《ちつきよ》した。
いずれにせよ、それまで老中並(准老中)であった松平伊豆守信綱が、酒井忠世の座を襲って、正式に老中になったのであった。
忠勝の方は、帰府してから、西ノ丸金蔵から、千両箱が三つ、盗み出されていることを知ったが、ひそかに、おのが蓄えた金で、おぎなっておいた。
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対 面 異 変
一
三代将軍家光の上洛は、成功であった。
酒井忠勝と松平信綱の巧みな工作によるものであった。
一例を挙げるならば……。
上洛すると、まず為《な》されたのは、京洛の各町より、町年寄二人ずつを、二条城に呼んで、家光自身が、じかに、銀十二万枚を下賜する旨を告げた。
当時、京都市中の商家は、三万五千四百十九戸であった。
賜銀は、京都所司代の役所に於て、小堀遠江守政一、代官五味金右衛門豊直が、奉行となって、各町へ頒《わ》けた。一戸あたり、銀百三十四匁八分二厘になった。このようなほどこしは、公卿でも武家でも、前例がないことであった。京都の庶民は、感激して、それまでは、
「徳川殿」
と、呼んでいたのを、
「江戸様」
と、呼び改めて、「江戸様の方には、足を向けて寐られぬ」と云い合った。爾後、京都の庶民は、歴代将軍を、「江戸様」と呼びならわして、維新前まで及んだ。
『寛永日記』とか『御当家記年録』とか『吉良日記』などの記録によれば、家光は、自ら幾度も仙洞《せんとう》御所へ行き、後水尾上皇に拝謁して、盃を賜っていることになっている。
これは、いつわりであった。
上洛中、酒井忠勝と松平信綱が、いかに智慧をしぼり、あらゆる工作をやっても、ついに実現しなかったのは、後水尾上皇と家光との対面であった。失敗といえば、唯一の失敗であった。
酒井忠勝は、『万葉集注』を、蒔絵の函に納めて、京都所司代板倉周防守重宗を、使者として、上皇に献上した。『万葉集注』は、無雙の珍本として、かねて上皇が欲しがって居られたものであった。
上皇は、のどから手の出るほど欲しいその『万葉集注』さえも、つきかえされたのが、事実であった。
八月朔日。
大坂城から二条城に還って来た家光は、この日|卯刻《うのこく》(午前六時)、轅《ながえ》の牛車に乗って城を出て、御所におもむいた。四足門で降り立ち、長橋局より御殿に入り、天皇ならびに東福門院と対面し、別れの挨拶をすませた。
家光にとって、東福門院は、妹であり、天皇は姪であった。天皇は、まだわずか十二歳の少女に過ぎなかった。
したがって、その対面は、うやうやしく天盃を賜る、といった固苦しいものではなかった。
家光は、上機嫌で、天皇、東福門院と、昼食をともにしてから退出、施薬院で衣冠を脱いで直垂《ひたたれ》姿になると、二条城へ帰還した。
「伊豆――、九条明子を呼んであるか?」
家光は、御座所に入ると、気ぜわしく訊ねた。
「すでに、さきほど、登城されて居ります」
伊豆守は、微笑してこたえた。
家光は、伊豆守から、九条明子を、二条城に呼ぶのは、公の儀式がすべて終ってからになされますように、と押しとどめられていたのである。
公の儀式は、本日――八月朔日をもって、ことごとく完了したのであった。家光は、今日という日を、待ちかねていた。
伊豆守が、明子を二条城へ迎えるには、蔭の苦労があったことは、勿論であった。
まともに呼んだのでは、明子が、比丘尼御所を出て来るわけがなかった。
――どうやって、二条城へ連れて来るか?
江戸を発足する時から、伊豆守の念頭を片刻もはなれなかった思索であった。
京都に着いて、かねて、明子のいる比丘尼御所を看張《みは》らせておいた隠密の一人から、明子が紀州頼宣に招かれて、その宿所である神泉苑におもむいた旨、報告を受けた伊豆守は、しめたと北叟《ほくそ》笑んだことだった。
――これで、尼たる身は、比丘尼御所から出られぬ、という拒絶はできなくなった。
紀州頼宣が、明子を招いた理由は、こちらと同じ目的のため、と容易に推察できた。
伊豆守は、しかし、わざと、そのことは知らぬふりをして、明子を招いた。予想通り、明子は、いまだ有髪ではあるが、仏門に帰依した身では、霊鑑寺から出られない、とことわって来た。そこで、伊豆守は、はじめて、奥の手を出した。
紀州殿から招かれたならば、おもむくが、将軍家に呼ばれては、参れないというのか、と――。
そして、明子に対して、二条城へやって来る日時を、指定しておいたのである。
二
「上様、姫にご下問なさいます書院に、一人、同席させたき客が居りますが、お許したまわりますよう――」
伊豆守は、申し出た。
「誰だ、それは?」
「紀州大納言卿にございます」
「何故に――?」
「紀州大納言卿は、先発にて、この京都に入られますと、早速に、九条明子姫を、宿所に招かれた事実が判明いたして居ります」
「紀州が、余をだし抜こうとした、と申すのか?」
「それは、なんとも申し上げられませぬ。ただ、卿が姫を招いた事実は、明白でございます」
「よし! 同席させい」
家光は、かねて、紀州頼宣より、一種の威圧感をおぼえさせられていた。頼宣が、叔父であり、その面貌の立派さ、見事な大兵ぶりなど、挙げれば理由はいくつもあったろう。
もし、頼宣が、ずっと歳上であったならば、べつに、家光は、威圧感をおぼえずにすんだかも知れぬ。同年であったのが、いけなかった。
いわゆる、反《そり》が合わぬ、というやつであった。
家光は、尾張義直や水戸頼房とは、親しく語らったが、紀州頼宣とは、ほとんど口をきいたこともなかった。
家光は、伊豆守の言葉をきいた時、すぐに、頼宣が、関ヶ原役後には、まだ幼年であったが、駿府城にいたことを思い出したのである。
――紀州は……紀州もまた、駿府にかくされている太閤遺金をさがして居る。紀州は、なにやら、大きな野望を抱いて居るのではあるまいか?
猜疑心《さいぎしん》に於ては、人一倍強い家光であった。
――頼宣の面前で、九条明子に、忠長からきかされた秘密をきき出して、頼宣の鼻をあかしてくれる!
伊豆守は、すべての手筈をととのえていた。
家光が、書院に入った時、すでに、明子も頼宣も、座に就いていた。
「九条明子、余の問いに、包みかくすことなく、こたえよ」
家光は、挨拶も受けずに、いきなり、云った。
頼宣は、じっと家光を、瞶《みつ》めていた。
「忠長は、そなたに、遺言をいたしたであろう。その遺言を、きこう」
「忠長様は、わたくしが、父の喪に服するために、京都へ帰っているあいだに、ご自害あそばされました。わたくし宛の遺言状は、残されては居りませなんだ」
「されば、閨《ねや》で、ひとつ褥《しとね》に伏した時、忠長が打明けた秘密を、きかせよ」
「忠長様は、わたくしと寝所をともにあそばされたことは、一度もございませぬ」
「いつわりを申すな!」
「いつわりではございませぬ。まことでございます」
「強情な気象とみえる。……紀州、お許もまた、この姫から、同じ返辞をきかされたか?」
家光は、頼宣を睨んだ。
「左様でござる」
頼宣は、率直にみとめた。権謀術数の才にはきわめて乏しいこの大納言は、いまさら、かくしてもはじまらぬ、と覚悟していた。
家光は、頼宣に、訊ねた。
「お許は、駿府にある軍用金を、入手したならば、どのように使う存念であったか?」
「軍船団を率いて、海を渡って、呂宋に押し渡り、呂宋領主となり、さらに、明国へ兵を進める壮挙を、胸中に企図つかまつった」
「これはまた、大層な野望よの。……たとえ、御辺が、東照神君の第十子であり、わが叔父にあたって居ろうとも、すでに公儀の方針は決定し、きびしい鎖国の令を布いてある。その禁を破る者は、御辺であっても、例外はみとめられぬ」
「上様、耶蘇教禁止と、交易の禁止は、別とお考えなさいませぬか? 東照神君は、たしかに、耶蘇教に対しては好意をお持ちではありませんでした。しかし、南蛮との交易は、大いに奨励されて居りましたぞ。……上様が、東照神君を、こよなく景仰されるならば、そのご意志を継いで、わが日本を富ますべく、大いに海外との交易をなされては、如何でござろうか?」
頼宣は、遠慮なく、進言した。
「余は、将軍だ。お許の指図など、受けぬ。……余をさし置いて、駿府に所蔵されてある軍用金を、私有しようと計ったことは、許されぬ!」
家光は、呶鳴るように云った。
控えていた伊豆守は、家光に発作が起る前ぶれの予感がして、はらはらした。
幕府は、三年前、令して、外国へ航する商船は、朱印の外に、老中の奉書を、長崎奉行に提出することをきめていた。奉書船が、これであった。
奉書船のほかは、海外渡航を禁じ、無断で犯す者は、死罪とし、また、海外移住民が帰って来た場合も、死罪に処せられる法度がつくられていた。
三
「上様――、貴方様は、海の彼方の各地に、どれだけの日本人が、町をつくり、砦《とりで》を築いて、わが武辺の面目を発揮して居るか、ご存じございますまい」
頼宣は、呂宋からやって来た呂宋左源太が述べたてた南方諸国に於ける日本人の実状を、受け売りして、述べた。
家光は、一応は、耳を傾けるふりをした。他の者の進言であったならば、大いに興味をそそられたかも知れぬ。全く反《そり》の合わぬ頼宣から、きかされると、頼宣の顔を見ているだけで、家光は、苛立たしい反感をおぼえた。
「紀州、呂宋へ押し渡る野望は、すてい!」
いささかキンキン声で、家光は、きびしく禁じた。
「野望はすてませぬが、上様のお気持が変るまで、お待ちいたしましょう」
頼宣は、こたえた。
伊豆守は、家光の|こめかみ《ヽヽヽヽ》が、びくびく痙攣《けいれん》するのをみとめた。
――危ない!
頼宣と明子の前で、家光が発作を起すのは、最大の恥となる。
伊豆守は、頼宣を同席させたことを、悔いた。
家光は、明子を睨みつけた。
「九条明子!」
家光の声音は、異常に高いものとなっていた。
「はい――」
「そなたを、江戸城へともなうぞ!」
「え?」
明子は、愕然となって、家光を仰いだ。
「そなたを、余の側妾《そばめ》にいたす」
「上様、わたくしは、有髪ではございますが、すでに、僧籍に入って居ります、比丘尼として、み仏におつかえする者でございます。……その儀ばかりは、おことわりいたさなければなりませぬ」
憎悪が、明子をおちつかせ、語気をきわめて冷やかなものにした。
「元の女子にもどればよい。将軍としての命令だ。承知させるぞ」
「たとえ、将軍家のお言葉でありましょうとも、お受けいたすわけには参りませぬ」
「是が非でも、承知させるぞ!」
「いえ――」
「明子! この家光を、甘く観るなよ! 天下人だぞ!……天下に、余にさからう者は、一人も居らぬぞ」
二十歳にして、父秀忠から将軍職をゆずられた時、伊達政宗以下、豊臣秀吉の家臣であった面々がいまだに健在である外様大名たちを、居竝ばせておいて、
「東照神君、父上は、この中で、お許《もと》とか御辺などと呼んでいた者があるが、余は、生れ乍らの将軍家である。お許とか御辺などとは呼ばぬ。その方、と呼びすてる。そう心得よ」
と、申し渡した家光であった。
老獪な智慧者の大僧正天海でさえ、
「神祖(家康)は、万事に通達され、人情世態のことも熟知されて居ったから、何事を申し上げるのも、やすらかで、滞るところはなかった。また、台徳院(秀忠)も、資質温柔であられたから、神祖に申し上げるのと同様、なんの気がねも不要であったが、ご当代(家光)は、なにさま、聡明英武《ヽヽヽヽ》であられるから、なんとなく、何事も申し上げにくい」
と、述懐しているくらいである。
聡明英武、というのは、皮肉であった。短気で、猜疑心が深く、寛容さがみじんもない極端な性情の所有者であったから、すべての人が、おそれたのである。
愛憎の度合が激しく、気まぐれであった。酒井忠勝と松平信綱が、この偏執狂ともいえる欠点をおぎなうのに、どれほど腐心したか、測り知れなかった。
家光は、直参旗本どもを、非常に愛した。秀忠が逝った時、外様大名や譜代大名には、遺金を頒《わ》けなかったが、両番、大番千石以下の旗本御家人には、すべて二百石ずつ加増した。
旗本奴連が、拝借金を願い出ると、酒井忠勝や阿部忠秋は、きびしく拒否した。それをきくと、家光は、激怒して、忠勝を呼びつけざま、いきなり、その頬へ平手打ちをくらわせ、
「金銀などというものは、金蔵に積んでおいては土石にひとしいではないか。三河以来、身命をなげうって忠節を尽した者どもの子孫に、貸し与えて、なんの不都合がある!」
と、呶鳴りつけた。
これらの逸話は、寛量宏度を示すものとして、伝えられているが、元和|偃武《えんぶ》を経て、寛永年間に入ると、もはや、旗本八万騎など、禄盗人でしかなくなっていた。合戦があってこその旗本であった。家光がかれらを偏愛したことが、かれらをして、無頼|放縦《ほうしよう》の暴徒と化さしめた、といえる。
「よいな、明子! 余が帰府するにあたり、そなたを、供させるぞ」
そう云いはなっておいて、家光は、立ち上った。
明子が強く抗議しようとした――その瞬間。
家光は、なにやら、奇妙な叫びをほとばしらせて、棒倒しに、凄じい音たてて、ぶっ倒れるや、四肢を、びくんびくんと、痙攣させた。
――やはり、起ってしまった。
伊豆守は暗然となり乍ら、そのぶざまな姿を、見まもっていた。
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鍵 屋 の 辻
一
将軍家光が、再び三十万七千余人の大行列をもって、江戸城へ帰って行ってから、約二月後――十一月七日。
伊賀上野・鍵屋の辻に於て、ひとつの凄絶な決闘が行なわれた。
討手方は、
渡辺数馬(二十七歳)
荒木又右衛門(三十歳)
数馬の若党・河合武右衛門(四十歳)
又右衛門の若党・岩本孫右衛門(三十八歳)
この四人であった。
敵は、河合又五郎(二十四歳)であった。又五郎を守護したのは、又五郎の伯父・河合甚左衛門(四十一歳)をかしらとして、又五郎家来喜蔵、甚左衛門家来与作、同熊蔵、又五郎の義弟・桜井半兵衛(二十四歳)、同人家来溝口八左衛門、同三助、同勘七、同市蔵、他に又五郎の義兄にあたる大坂商人虎屋九兵衛――総勢十一人であった。
柳生十兵衛の勧告によって、京都を去った河合又五郎は、甚左衛門らに守られて、大坂の姉聟虎屋九兵衛を頼ったのであったが、大坂にいることは、発見される危険率が高いので、奈良に移ったのであった。
奈良には、甚左衛門の妻の実家があった。あまり名が知られてはいなかったが、由緒ある寺院であった。
討手方が、そのかくれ場所を探しあてるのには、さして、日数を必要としなかった。柳生十兵衛が営む柾木坂道場の門弟たちが、隠密の役目を果してくれたからであった。
報せを受けると、数馬は、ただちに、その寺院へ、襲撃をしかけようと、又右衛門に云った。
又右衛門は、かぶりを振った。
「これは、仇討でもなければ、果し合いでもない。無断で、寺院に押し入ることは、許されぬ」
敵討は、家康の覚書によって、幕府の願簿に記入してもらえるようになっていた。幕府は、士道尊重のために、敵討を公認したのである。
しかし、渡辺数馬が河合又五郎を討つことは、幕府の願簿に記入されていなかった。
親は子の敵を討てず、兄は弟の敵を討つことができぬ、というのが当時の作法であった。
河合又五郎が斬ったのは、数馬の弟源太夫であった。したがって、表向きに敵討を願い出ることができなかったのである。
しかし、数馬は、亡き主君の遺恨をはらさなければならなかった。いわば、これは、幕府のみとめぬ非公式の上意討ちであった。
したがって、闘いの場所は、あまりはればれしくない処をえらばなければならなかった。その点、荒木又右衛門は、慎重であった。
松平伊豆守から、江戸府内で、刀を抜いてはならぬ、と命じられて以来、又右衛門は、河合又五郎を討つのは、人目にたたぬ場所でなければならぬ、と心にきめていた。
又右衛門は、数馬を抑えて、又五郎が、その寺院から出るのを、辛抱づよく待った。
一方――。
護衛がしらの河合甚左衛門としては、討手方に、柳生十兵衛という公儀隠密がついている以上、すでにこのかくれ場所は知られたものと覚悟していたが、しかし、武辺の面目から、いつまでも、身をひそめてはいられなかった。
――もう一度、出府して、安藤家を通じて、将軍家に、又五郎が渡辺源太夫を討った真相を言上し、上意によって、又五郎の身の安泰をはかるのが、護衛がしらとしての任務であろう。
江戸には、味方してくれる多勢の旗本奴連がいるのであった。
甚左衛門は、決意すると、道中途次で襲撃された場合のことを思慮して、おのが槍のほかに、鉄砲一挺、半弓一張を用意した。
敵としておそれなければならぬのは、荒木又右衛門一人であった。
「わしの槍が勝つか、荒木の剣が優るか――闘いは、それで決定する。あるいは、相討ちになるやも知れぬ。お前は、必ず、数馬を斬って、まっしぐらに、江戸へ向って趨《はし》れ。よいな」
甚左衛門は、又五郎に云いきかせた。
そして、一行が、奈良を発足したのは、十一月六日であった。
このことは、寺院をずうっと見張っていた柳生の門弟によって、討手方へ、ただちに報告された。
荒木又右衛門は、渡辺数馬とともに、柳生庄の柾木坂道場で、その日を待ちのぞんでいたのである。
二
河合又五郎一行が、奈良から七里ばかりの先の伊賀国島ヶ原に、宿をとった、という報せがあると、荒木又右衛門は、
――襲撃場所は、上野鍵屋の辻で。
と、きめた。
又右衛門ら四人は、暗夜にまぎれて、島ヶ原を通り抜けた。上野は、島ヶ原から二里ばかりさきにあった。
上野は、津に本城を置く藤堂氏の支城がある小さな城下町であった。
鍵屋の辻は、町の西端にあった。
又右衛門ら四人は、夜明け前に、その辻にある茶屋に入った。
呼び起された茶屋の老夫婦は、又右衛門から事情を打明けられて、いそいで、湯をわかし、最後の宴のために、酒肴の用意もしてくれた。
又右衛門は、用意周到な策戦を樹てて、数馬と若党二人に、|しか《ヽヽ》と教え込んだ。
河合又五郎に対しては、当然、数馬が斬りかかるが、その助勢に、孫右衛門をつけた。
武右衛門には、河合甚左衛門の槍を持ったその家来に斬りかからせて、その槍の柄を両断せよ、と命じた。
甚左衛門に槍を持たせたならば、あるいは、自分が敗れるかも知れぬのであった。
桜井半兵衛も、かなりの手練者《てだれ》ときいているので、又右衛門としては、甚左衛門と半兵衛と、二人を斬らねばならなかった。そのためには、絶対に、甚左衛門に槍を把《と》らせてはならなかった。
「数馬、よいな、かねて申しきかせたごとく、お前は、独力で、又五郎を討つのだ。たとえ、お前が手負うても、わしは、助太刀はせぬぞ。孫右衛門を、お前につけるのは、助太刀させるのではない。孫右衛門には、又五郎を助けようとする者に立ちむかわせる。武右衛門は、おのが身を斬らせても、河合甚左衛門の槍の柄を、両断せよ。武右衛門が、槍の柄を両断し得るか否かに、勝敗はかかっている」
又右衛門は、それぞれの肝に|しか《ヽヽ》と銘じさせた。
辰刻(午前八時)――。
島ヶ原を、夜明けに出発した河合又五郎一行の先物見《さきものみ》として、大坂商人虎屋九兵衛が、上野城下に入って来た頃、又右衛門ら四人は、その茶屋から、姿を消していた。
又五郎一行は、ぶじに、城下を通り抜けて、鍵屋の辻にさしかかった。
さきに辻に至って、怪しい影はないか、と見わたしていた九兵衛が、扇をさしあげて、心配無用の合図をした。
先頭を甚左衛門、又五郎がその次、いずれも馬上にあった。そのあとを、若党どもが、一列をつくっていた。甚左衛門の槍をかついだ与作は、その先頭にいた。しんがりは、桜井半兵衛が歩行《かち》で行き、家来の市蔵に、馬を曳かせていた。
辻の一隅に、炭屋があり、炭俵が積まれていた。そのひとつが、ころがり出たように、辻のまん中頃に、ぽつんと置かれてあった。
一行が、ゆっくりと通り過ぎようとした時――突如、炭俵がはねあがった。
甚左衛門の槍をかついでいた与作に、炭俵に化けた武右衛門は、体当りをくれた。
「おっ!」
「出たぞっ!」
半弓をつがえたり、鉄砲をかまえるいとまもなかった。
武右衛門は、与作の脾腹を突き刺して、槍を奪った。
「おのれっ!」
桜井半兵衛の家来溝口八左衛門が、武右衛門の背中を割りつけた。
武右衛門は、割りつけられ乍らも、その長柄を、まっ二つにした。
その時には、甚左衛門の行手に、荒木又右衛門が立ちふさがっていたし、又五郎には、数馬が襲いかかっていた。孫右衛門は、荒木家の若党だけあって、相当な使い手で、半弓を持った敵へ、躍りかかって、血煙をあげさせた。
甚左衛門は、おのが槍が、柄を両断されるさまを、ちらと視やってから、地上へ跳んだ。
又右衛門と甚左衛門は、同じ松平下総守家中であり、平常親交があった間柄である。
「御辺の策、みごとだな」
甚左衛門は、差料を抜いて構え乍ら、又右衛門に、云った。
「貴殿に、槍を把らせるわけには参らなかった。許されい」
又右衛門は、青眼につけつつ、詫びた。
一騎討ちの決闘ではなく、又右衛門は、甚左衛門を斬ったならば、ただちに桜井半兵衛を斬らねばならなかった。そうしなければ、数馬の身があぶなかった。
桜井半兵衛には、孫右衛門がむかっていたが、あきらかに腕の差があった。
数馬は、馬の後脚を薙いで、又五郎を地上へ転倒させると、遮二無二に、斬りかかっていたが、まだ浅傷《あさで》を負わせることもできずにいた。
又右衛門は、汐合のきわまるのを待つ余裕はなく、猛然と、甚左衛門を攻撃した。
白刃と白刃が、鋭く摩擦して、火花を散らした。
甚左衛門は、又右衛門の猛攻を、辛《かろう》じて躱《かわ》すばかりで、ついに、反撃の瞬間をとらえることはできなかった。
又右衛門の業前は、柳生十兵衛とともに、柳生道場で双璧の豪快な仕太刀であり、新陰流の古勢『逆風の太刀』を受け継いでいた。
十兵衛三厳は、常に、赤銅の鍔を用いていたが、ある時、人から、
「赤銅の鍔というものは、時として切断されることがある。そのような鍔を用いるのは、兵法者にあるまじき心掛けと申さねばならぬ」
と、云われると、笑って、
「それがしに於ては、鍔を頼むことはない」
と、こたえた。
つまり、鍔ぜり合い、などという業は、十兵衛にとって、無用であった。
十兵衛は、立合えば、必ず、間合の迅業《はやわざ》を発揮して、一太刀で、対手を倒した。
又右衛門もまた、その奥旨《おうし》を会得していた。
甚左衛門は、又右衛門の初太刀こそ、刃摺りでのがれたが、あとは、きえーっ、きえーっ、と宙を截《き》る白刃を、ただ、避け、躱すばかりであった。
一瞬――。
又右衛門が、ぴたっと、動きを停止した。
甚左衛門は、ふうっと熱い息を吐いた。次の刹那、左肩から斜めに、一閃が走り、甚左衛門は、くわっと双眼をひき剥いたなり、だらりと太刀を落した。左肩をしたたかに割りつけた又右衛門の白刃は、甚左衛門の右手くびまでも両断したのであった。
三
甚左衛門が、地面へ仆れ臥した時には、もう、又右衛門は、孫右衛門を斬りたてている桜井半兵衛へ向って、疾駆していた。
その前に立ちふさがろうとした溝口八左衛門と半兵衛家来三助は、奔《はし》り乍らひと薙ぎした又右衛門の切先を、胸と咽喉に受けて、崩れた。
又右衛門と桜井半兵衛の闘いは、一瞬裡に決した。
孫右衛門によって、耳や肩や右手の指に、浅傷を受けていた半兵衛は、疾駆して来た又右衛門の姿が、七尺以上もの巨大な、怪物じみたものに映った。
その怯《お》じ気が、びゅんと横へ掠めさせた閃光に、身をのけぞらせた。
額を斬られた半兵衛は、そのまま、仰向けに仆れた。そこを、孫右衛門が、襲った。
あとに残ったのは、小者ばかりであった。いずれも、又右衛門の豪快無比な働きぶりに、ふるえあがって、逃げ散った。
数馬と又五郎は、文字通りの死闘をつづけていた。
数馬の腕前は、あきらかに、又五郎のそれより劣っていた。ただ、敵を討たねばならぬという気力だけが、五体に燃えたぎり、その気力で、劣った腕前をおぎなっていた。
地下《じげ》の者や旅人が、騒動をききつけて、辻の各所へ蝟集《いしゆう》して、この修羅場を、固唾《かたず》をのんで、見まもっていた。
又右衛門は、二人の死闘を、じっと眺めているばかりであった。
急報によって、藤堂家の目付彦坂嘉兵衛が、上野城から、馬をとばして来て、
「何が故の斬り合いだ?」
と、叱咤《しつた》した。
又右衛門は、手短かに、仔細を告げた。
彦坂嘉兵衛は、合点して、あとから馳せつけた家士たちに、人垣の前に等間隔で警備の位置につかせた。
数馬と又五郎の死闘は、それから一刻半(三時間)もつづいた。
双方血まみれになり、喘ぎの激しさは、遠く見まもる見物人の耳にもとどいた。
その間――。
又右衛門は、一語のはげましも、数馬にかけなかった。
ようやく――。
数馬が、無我夢中でなぐった一撃で、又五郎の片腕が刎《は》ねとび、死闘は終った。
「数馬、仕止めい!」
又右衛門が、はじめて、声をかけた。
数馬は、ずるずると地面を匍《は》って行き、又五郎の胸を、脇差で刺した。
彦坂嘉兵衛の指揮で、家士たちが、斃《たお》れた人々をしらべると、河合甚左衛門も桜井半兵衛も、すでに縡《こと》切れていた。討手方は、武右衛門が、絶命していた。
又右衛門は、孫右衛門に、数馬をかつがせて、茶屋に入り、手当をさせた。
彦坂嘉兵衛が、やって来て、
「ご本懐をとげられて、おめでとう存ずる」
と云うと、又右衛門は、
「これは、仇討でも果し合いでもござらぬ。ご城下を血でけがした罪はまぬがれ申さぬ。藤堂家のご指示にしたがい申す」
と、こたえた。
彦坂嘉兵衛は、ひとまず、三人を、自家へともない、主君へ急使をはしらせた。
藤堂家では、三人を、重臣の屋敷に移して、しばらく預かることにした。
ところで――。
この決闘の見物人の中に、深編笠をかぶって、その終始を、目撃した武士がいた。
柳生十兵衛であった。
十兵衛は、荒木又右衛門と顔を合せることもせず、何処へともなく、立去った。
それから、五日後に、江戸の柳生但馬守宗矩の許へ、十兵衛の手紙がとどいた。
読了してから、宗矩は、しばらく、宙を瞶《みつ》めていたが、
「又右衛門は、いまから、旗本たちに、一命をつけ狙われるであろう」
と、ひくく呟きすてた。
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十 枚 皿
一
話は、二月前にさかのぼる。
九条明子は、二条城で将軍家光に会ってから三日後、霊鑑寺門跡から居室に呼ばれて、
「将軍家のおのぞみゆえ、そもじに、江戸城へ参ってもらわねばなりませぬ」
と、云われた。
松平伊豆守から、寺領を三百石加増する、という条件を出されて、門跡は、承諾したのである。
たとえ、明子が、剃髪していても、将軍家の下命とあれば、門跡は、拒否できなかったのであろう。
明子は、覚悟をきめた。
逃亡して、行方をくらますことは不可能であった。すでに、この比丘尼御所の周囲は、伊豆守の下知によって、伊賀衆・甲賀衆が、厳重に監視していた。
覚悟をきめると、明子の脳裡に、ひとつの思案がうかんだ。
その夜、更けてから、明子は、少女時代から、十年間も影の形に添うように仕えてくれている侍女の於菊を、そっと寝室へ呼んだ。於菊は、明子より二歳年下であった。
「そなたに、たのみがあります」
そう云う明子の必死の表情を、於菊は、瞶《みつ》めかえして、
「はい」
と、うなずいた。
明子の前には、桐の函が、置かれてあった。
「この中には、十枚の皿が入って居ります。父上が、朝廷よりたまわったお品で、九条家の宝物です」
明子は、蓋をあけて、絹で包んだその一枚を、ひらいてみせた。
「これは、名工|祥瑞《しよんずい》が、精魂こめて焼きあげて、朝廷に献上したお品の由です」
祥瑞――伊勢の陶工五郎大輔は、ほぼ百年前の人物であった。明国へ渡航して、福州に在ること数年、帰朝するにあたって、中国の陶工が使用する高嶺――すなわち、磁器に用いる白土と呉須《ごす》を、多量に携えて来た。その白土と呉須で、肥前有田に陶窯《とうよう》をかまえて、皿と洒瓶と茶壺をつくった。
於菊が手渡された白磁の皿は、平滑の釉面《ゆうめん》に、藍絵の明国美人像が画《えが》かれてあった。
祥瑞は、陶器に絵を描いた磁器の元祖であった。
そして、この皿は、名工祥瑞の最高傑作なのであった。
阿米夜《あめや》と称する朝鮮人が、本邦に帰化して、後年、楽焼と呼んで茶家が珍玩する品をつくったのは、祥瑞が帰朝してから、かなり後年であった。
「この十枚の皿は、金子では購《あがな》うことのできない貴重な品ゆえ、もし、将軍家に見つけられたならば、取りあげられてしまいます。そなたにあずけます」
「あの……」
於菊は、不安な面持になり、
「わたくしは、江戸城にてお仕えできぬのでございますか?」
と、訊ねた。
「そなたには、江戸までは供をしてもらいます。但し、出府したならば、この十枚の皿を守るために、そなたは、青山の大久保播磨殿の屋敷に、身を寄せてもらいます。……播磨殿は、わたくしの従兄にあたることは、そなたも、存じて居りましょう。……わかりましたね?」
「はい、お別れするのは、つろうございますが、このお皿を、姫様と思い、お守りいたしまする」
「たのみましたぞ。……ついでに、申し添えておきますが、幾年さきになるか、それはまだ、わかりませぬが、もし、名張の夜兵衛と申す老爺が、たずねて参ったならば、この十枚の皿を、お渡しなさい」
「はい」
「播磨殿にも、このことは、打明けてはなりませぬ。そなた自身の持物のようにして、守って下さい」
「かしこまりました」
明子は、侍女於菊に、ひそかな誓いをさせておいて、帰府する将軍家光の行列に加わったのであった。
二
大久保播磨は、六千石の直参旗本であった。父の代までは、御書院|番頭《ばんがしら》を勤め、牛込御門番所の向う角《かど》に屋敷を構えていた。父の頼母《たのも》は、国持大名や城持大名に対して、常に鬱勃たる不平を抱く澆季《ぎようき》武士であった。
その不平を、折ある毎に、城内で爆発させていたので、やがて、御書院番頭を免じられ、お咎め寄合にされ、上屋敷も召し上げられた。林と野の中にある青山の下屋敷に、逼塞《ひつそく》してからの頼母の言動には、あきらかに狂気がみえて来た。
頼母が遺書ものこさず割腹自殺したのは、七年前――播磨が十五歳になった正月元旦であった。
母は、それよりさきに逝き、兄弟も姉妹もなく、播磨は、全く孤独な無為徒食の境涯になった。当然、華冑《かちゆう》の不良児として、旗本奴の組むいずれかの徒党に入って、横暴無頼の道を歩む運命とみえた。しかし、播磨は、そうしなかった。
頼母の放埒な行状を、物心ついた頃から見聞きさせられた播磨は、父のような生涯を送るまい、と自分を戒めていた。
父頼母は、平仮名しか読めぬ読書ぎらいであったが、播磨は、公儀の奨励にしたがって、儒学――四書五経の勉強に、一日のうち必ず一|刻《とき》をついやした。
勿論、武技の習練もおこたらなかった。剣は小野派一刀流を学んだし、槍は大島流を学んだし、弓も馬も、当時の主流となった流派を学んだ。
いわば、文武両道にはげみ、清廉・潔白・節義を尚《とうと》ぶ武士道の吟味に叶った人生を送ろうとしている典型的な若い直参旗本であった。
出府した於菊が、江戸城を下り、明子の添状を持参して、青山の大久保家を訪れたのは、ちょうど、伊賀上野・鍵屋の辻で、凄絶な決闘が行われたのと同じ十一月七日であった。
用人がさし出した明子の添状を読んだ播磨は、
「当家に、女中など無用だが……」
と、呟いた。
当時は、鍵屋の辻の決闘を起す原因となった池田忠雄の寵童渡辺源太夫の例もあるごとく、戦国時代の遺風を受けて、妻妾を持たず、美しい稚児姓――若衆を寵愛する大名旗本もすくなくなく、衆道がさかんであったが、しかし、女中も置かぬ武家屋敷はなかった。
大久保家だけは、ただ一人の女中も下婢も置いていなかったのである。
亡父頼母が、妻を喪って以来、なぜか、女子を嫌悪するようになり、それまで使っていた女中をつぎつぎと追い出してしまい、播磨が当主となった時には、すでに、屋敷内に女気は全くなくなっていたのである。
しかし――。
将軍家の側室となった従妹九条明子のたのみであるので、播磨は、於菊を門前払いにするわけにいかなかった。
用人に、
「書院へ通しておけ」
と、命じておいて、播磨は、しばらくの間、漢書をひもといていた。
やがて、播磨は、やむを得ぬ、という気持で、居室を出た。
播磨が書院に入ると、於菊は平伏し、そのまま、声をかけられるまで、顔をあげなかった。
「身共が、播磨だ」
そう名のられて、於菊は、はじめて、顔をあげた。
瞬間――。
播磨は、京女の特徴をすべてそなえた、おっとりした面高な美しさに、はっと打たれた。
たしかに、於菊は、花容と謂《い》うにふさわしい京女であった。
しかし、播磨が、他の旗本たちのように、遊里に出入りしていたならば、その美しさに、それほど打たれはしなかったはずである。吉原の廓には、於菊よりも美しい大夫は、幾人もいたのである。播磨は、いまだ一度も、吉原の大門をくぐった経験を持たなかった。
「菊と申します」
「う、うむ」
「姫様のお願いの儀、何卒おききとどけ下さいますよう――」
「しかし、当家には、女子は――下婢一人さえも居らぬのだが……」
「女子を置かぬ、という掟が、ご当家におありでございますか?」
「いや、べつに、そのような掟など、つくっては居らぬが……母が逝った頃より、この屋敷から、女子はしだいに減り、身共が家督を相続した時には、一人もいなくなった。爾来、七年間、ずうっと、男ばかりのくらしをつづけて参ったのだ」
「わたくしを、例外として、召し使って下さいませ」
「………」
播磨は、即座には、承知しかねた。
べつに、ことわらなければならぬ者は、いなかったが、この美しい娘を屋敷内に入れたならば、|なにか《ヽヽヽ》が起るような、微かな不安感で、播磨の心がゆらいだのである。
三
当時――。
青山から渋谷にかけての地域は、その三分の二は、往昔の武蔵野そのまま、欅の林と、原野がひろがっていた。家康がはじめて江戸入りした時の古街道が、三倍の幅にひろげられたおかげで、沿道に、大名や旗本の下屋敷が、かなり建てられていたが、敷地が広いために、庭づくりまでには手がとどかず、一望した限りでは、市中としてのたたずまいではなかった。
町家の区域も割りあてられていたが、軒をならべるには、まだかなりの月日を必要としそうであった。
木枯しの中で、葉を落した欅の枝が、鋭く空を刺した蕭条たる景色がつづく街道を、ゆっくりと馬を進めているのは、大久保彦左衛門であった。
供を一人だけ、連れていた。太助という二十歳ばかりの若党で、彦左衛門が、十年前、浅草寺参詣の折、乞食の群の中からひろって来て、育ててやったのである。
両親の知れぬ孤児で、物心ついた頃から、かっぱらいをして露命をつないでいた少年であったが、大久保家に連れて来られると、意外に素直な性情を持っていて、命じられることをよく守って、くるくる働いた。
いまでは、彦左衛門にとって、かけがえのない若党であった。
「思い出すのう」
と彦左衛門は、馬上から、あたりを見わたして、云った。
「神君が、入府なされた時のままの景色が、のこって居るわ」
この頑固な武辺にとって、残っているのは、過去の思い出だけであった。
ともに戦い、ともに笑い、ともに泣いた同輩は、ほとんど残らず他界していた。その淋しさが老人をいよいよ頑固にしていた。
忠節一途に、三河譜代の面目を保って来た彦左衛門も、いまは、儀式の日に、登城しても、槍奉行の今村九兵衛と話を交すぐらいのもので、控部屋で、為すこともなく半日をすごしている。彦左衛門の前に来て、戦場話をきこうとする若い者など一人もいなかった。
「生き過ぎたのう」
「うむ、まさしくな」
彦左衛門と九兵衛が、顔を合せて、交す言葉は、それであった。
「殿様、あのお屋敷でございます」
馬の口をとっていた太助が、指さした。
彦左衛門が、訪ねようとしているのは、大久保播磨であった。
播磨の父は、彦左衛門の従兄であった。
「まだ二十二か三にしかならぬのに、播磨は、こんなところで、隠居同様のくらしをし居って……、泉下で、爺《じじ》いが泣いて居ろう」
彦左衛門は、いまいましげに吐き出した。
播磨が、文武両道にはげんでいることを、彦左衛門は、知っていた。
どうにかして、父の頼母が勤めていた御書院番頭の職に就かせてやろうと、彦左衛門は、閣老がたにたのんでいたが、効果はなかった。
彦左衛門が、書院に坐ると、すぐに、播磨が現れた。
「播磨、いましばらくの辛抱じゃ。きっと、わしが、吉左右《きつそう》をもたらす。待って居れい」
「ご厚情、|忝 《かたじけの》う存じます」
百のうち一も、実現の可能がないことは、播磨の方が知っていた。
播磨は、ただ、老いたる武辺の気持を、有難い、と受けとるだけであった。
「ところで、お許は、もう、そろそろ、嫁をもろうてもよいの」
彦左衛門は、きり出した。
「はあ……」
「もらわぬか?」
彦左衛門は、気ぜわしく、二三の候補をあげた。
その中には、若年寄三浦志摩守正次の女《むすめ》の名もあった。
播磨は、彦左衛門の言葉をきいているうちに、一昨日、この屋敷に、ただ一人の侍女として入れた於菊の容姿が、眼裏に泛《うか》んだ。
「どうじゃ? もらわぬか?」
「はあ……」
「気のない返答をするな。わしは、閨縁《けいえん》によって、役職にありつかせよう、などというあさましい気持で、すすめて居るのではないぞ。……ただ、お許ほどの優秀な若者が、お咎め寄合で、こんな青山などに、逼塞《ひつそく》して居るのが、腹立たしいのじゃ。お許は、ひとたび役職に就けば、御奉行にも、京都所司代にも、大坂城の城代にもなれる男だと、わしは、かたく信じて居る」
「身共は、三十歳までは、妻帯せぬつもりで居りますが――」
「待てぬ。それまでは、わしは、生きて居らぬ」
彦左衛門は、はかばかしい返辞をせぬ播磨に、いささか腹を立てた。
結局、
「もらいます」
という確約を得られぬままに、彦左衛門は、座を立たなければならなかった。
彦左衛門を門外まで見送って、居室にひきかえして来た播磨は、しばらく、宙へ眼眸を据えて、じっとしていた。
やがて――。
播磨は、於菊を呼んだ。
「そなたを、屋敷に置いてやる」
侍女として使うかどうか、まだ迷っていた播磨であった。
彦左衛門の来訪は、播磨に、かえって、その肚にさせたのであった。
「うれしゅう存じまする」
平伏する於菊を、見やり乍ら、播磨は、しかし、再び、ふっと、なぜともなく、この娘をそばに仕えさせることに、いちまつの不安をおぼえたことだった。
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大奥の中で
一
九条明子が、江戸城大奥で与えられたのは、ただの将軍附き中臈《ちゆうろう》の地位であった。
古今未曾有の巨城は、完成に近づきつつあったが、まだ、将軍家はじめ城内に勤める役人や大奥女中を、がんじがらめにしばる殿中規則は、ととのってはいなかった。
将軍家光の行動は自由であり、中奥と大奥を仕切る御錠口など設けられて居らず、女中たちが表御殿へ出て来るのも、珍しくはなかった。
お鈴廊下が経界《けいかい》となり、御錠口の杉戸から内は、男子禁制となったのは、六代家宣からであった。六代家宣の御台所として、京都から嫁いで来た近衛関白の女《むすめ》が、儀式を守ることにきびしく、公卿の生活様式を、そっくり、大奥に移したからである。
家光夫人となった鷹司関白の女《むすめ》孝子は、自分の身のまわりだけに、実家の日常の行儀を持ち込んだにすぎなかった。
大奥女中たちは、公用をつくって、尾張・紀伊・水戸の御三家はじめ、親藩譜代の大大名の屋敷がたちならぶ吹上(のちの御苑)へ、自由に往来して、なかには、大名の家士と、林の中で、ひとときの密会を愉しむ者もあった。
『楽書(落書)をした者は死罪』
という処罰規則は、元和年間に出されていたが、
『城内で密会した男女は死罪』
という掟など、つくられてはいなかった。
家光附きの中臈は、七人いて、これに、明子は加えられたのであるが、家光の手がつけられたのは、明子だけであった。
家光は、御台所の許にも殆ど姿を現さず、もっぱら、中奥で、美しい稚児姓を、褥で抱いて寝ていた。
家光が、明子を|犯した《ヽヽヽ》のは、帰府の途中、駿府城内に於てであった。
明子が、あてがわれた部屋で、寝ていると、夜半、家光は、突如として、入って来て、荒々しく、その処女を破ったのであった。
明子は、生贄《いけにえ》となる覚悟をしていたので、拒絶はしなかったが、かたく目蓋を閉ざして、顔をそ向け、死人のような肢体に、暴力が加えられるにまかせた。
家光は、江戸城へ帰って来てから、もう一度、中奥へ、明子を呼び、稚児姓の見ている前で、犯した。
それだけであった。
家光は、女体を愛撫して、愉しむ好色漢ではなかった。
明子を犯したのは、別の目的があるからであり、手をつけておけば、女というものは、そのうち、わが命令に従う、という単純な考えかたをしていたにすぎなかった。女の執念の強さ深さなど、家光は、脳裡に、|ちら《ヽヽ》ともわかせたことはなかった。
――三度目は、口をひらかせてくれる。
家光は、自信のようなものを持っていた。
他の中臈七人は、いずれも春日局が、えらんで、側妾候補として、大奥へ入れたのであるが、家光は、目もくれようとしなかった。
蓄妾の風習は、世嗣をもうけるためであった。
徳川家歴代将軍の中で、正室の腹から生れたのは、家光だけであった。
八代吉宗、十五代慶喜は別として、各将軍は、いずれも、側妾の腹から生れている。蓄妾の必要は、あったわけである。
家光の例をみても――。
正室鷹司孝子は、家光より二歳も年上で、二十四歳で御台所となっているが、ついに世嗣を産《う》まなかった。
四代家綱は、寛永十八年八月三日、家光が三十八歳の時に生れているが、生母は、於楽の方(増山氏)であった。
それより四年前――寛永十四年に、於振の方(岡氏)が、はじめて、家光の子をみごもっているが、生れたのは女であった。尾張徳川義直の嗣子右兵衛督光友の夫人となった千代姫である。
家光には、息子が、家綱のほかに、四人ある。いずれも、側妾が産んでいる。
綱重――寛永二十一年五月二十四日誕生。生母は於夏の方(岡部氏)。
亀松――正保二年二月二十九日誕生。生母は、於玉の方(本庄氏)。三歳で夭折。
綱吉――正保三年正月八日誕生。生母は、同じく於玉の方であった。
鶴松――慶安元年正月十日誕生。生母は、同じく於玉の方。半年間、この世に在っただけである。
家光は、四十に手がとどく頃になってから、ようやく、世嗣をつくらねばならぬ、と自覚して、中臈へ、つぎつぎと手をつけたのである。
男子を一人だけつくっても、夭折のおそれがあったので、可能な限り、中臈たちに、子供を産ませなければならなかった。
五人生まれた男子のうち、二人は夭折している。
四代将軍職を継いだ家綱、次男綱重、そして五代将軍家となった綱吉の三人の生母たちは、いずれも、あまり立派な素姓ではなかった。
『腹は借りもの』という思念が牢固として受け継がれて居り、春日局にえらばれたこれらの中臈は、健康本位で、その素姓などあまり問題にされなかったのである。
二
明子が、御台所と顔を合せたのは、江戸城へ入って、三月も過ぎてからであった。
鷹司孝子には、同じ五摂家の女《むすめ》として、明子は、幼い頃から、可愛がられていた。
孝子は、将軍家の正室となるべく、江戸へ下った時も、明子をつき添わせて来た。
十四歳の明子は、その時、二十歳の駿河大納言忠長に、見そめられたのであった。
孝子は、帰府した家光が、九条明子をともなって来た、ときかされて、大層おどろいたことだった。
ともに摂政関白となる家柄の公卿の女《むすめ》であり乍ら、自分は御台所となり、明子はただの中臈として、江戸城内でくらすことになったのである。孝子は、明子をあわれに想い、敢えて、顔を合せようとしなかったのである。
二人が別れてから、十年の歳月が流れ過ぎていた。
孝子は三十四歳になり、明子は、二十四歳になっていた。
――逢いたい!
と思い乍ら、孝子は、明子と顔を合せるのがつらくて、一日のばしにしていたのである。
明子の方からは、目通りを願い出ては来なかった。
その年の暮――。
孝子は、思いきって、明子を、自分の部屋へ呼んだのであった。
明子が入って来た時、孝子の方がむしろおちつかず、胸をさわがせていた。
明子の態度は、ものしずかであった。
その物腰と、匂うばかりの美しさに、孝子は、微かな嫉妬さえ、おぼえたことであった。
その姿を見るまでは、孝子は、家光にむりやり拉致《らち》されて来た明子を、ふびんに思っていたのである。
――この美しさには、いかに衆道好みの将軍家でも、惹《ひ》かれないわけにいかなかったであろう。
家光の目的を知らぬ孝子は、はじめて、明子が中臈にされたことに、納得がいったのであった。
明子から無言裡の挨拶を受けてから、孝子は、
「逢いたいと思いつつ、つい、今日まで、呼びかねて居りました。許してたもれ」
と、云った。
明子は、孝子へ、まなざしをかえし、
「御台様は、おしあわせでございますか?」
と、訊ねた。きわめて唐突な質問であった。
孝子は、虚を衝かれたかたちで、一瞬、応える言葉が、口から出なかった。
「おしあわせではないように、お見受けいたしまする」
明子は、ためらわずに、云いきった。
「これが、わたくしに与えられた運命《さだめ》でありますれば……」
孝子は、明子の観察を肯定するような返辞をした。
孝子が、家光と寝所をともにしたのは、十年間で、かぞえるほどのすくなさであった。のみならず、家光の粗暴な行動は、孝子に、夫婦の営みというものに、嫌悪の情を催させたばかりであった。
女のよろこびを知らぬままに、孝子は、この十年間を、すごして来ている。
御台所という、女性として最高の地位にある自分と、十年ぶりに顔を合せたとたん、その不幸を指摘した明子の鋭さに、孝子の方が、うろたえていた。
「貴女は、どうなのです?」
と、訊きかえす必要はなかった。
大奥にも、明子が、駿河大納言の配流さきの高崎へ、呼ばれて、一緒にくらしたことが、きこえて来ていた。
忠長が、いまだ駿府城主であれば、もう明子は、その夫人になっているはずであった。
忠長は自決し、明子は中臈として、この江戸城へつれて来られている。それだけの事実で、明子が、いかに不幸な身の上であるか、判る。
ただ、
――わたくしならば、駿河大納言卿が、自決された時、あとを追って、この世を去ったであろうが……。
その疑念が、孝子の心の隅にあった。
孝子と明子の会見は、口数すくなく、時間も短かった。
明子が、辞去しようとした折、孝子は、ひとつだけ、問うた。
「駿河大納言卿は、なぜ、ご自害あそばされたのであろう?」
明子は、顔を伏せたまま、
「存じませぬ」
と、こたえた。
孝子は、自分に対してまでも、かたく、心をとざしてしまった明子を、ふっと、おそろしいものにおぼえたことだった。
三
下《しも》の町(後世は、下《した》町と称ばれたが)にあっては――。
浅草幡随意院の門前に、木の香が匂う新しく大きな構えの家を、若い町奴の頭領長兵衛は、建てて、いまや、押しも押されもせぬ存在になっていた。
夕餉どきであった。
「たのもう!」
張りのある大きな声が、かかった。
「おうい、どこの誰でえ――?」
威勢のいい返辞をして、広土間へ出たのは、冥途の小八であった。
「……?」
熨斗目《のしめ》の紋服をつけた旗本が、ただ一人で、そこに立っていた。
まだ若い。十六七歳であろう。
眉目が秀れ、双眸に光があり、口辺に強い意志を示していた。
「どなた様で――?」
「直参白柄組領袖水野出雲守成貞が嫡男十郎左衛門成之。……幡随意院長兵衛に、申し渡したき儀があって、罷《まか》り越した。取次げい」
堂々と、胸を張って、云った。
「お待ちなすって――」
二十六歳になる冥途の小八が、威圧されて、あわてて、奥へ駆け込んだ。
長兵衛は、苦手な帳づけをしていたが、取次がれて、
「ふうん。たった一人で、乗り込んで来たとは、いい度胸だな。座敷へ、通しておきな」
と、命じた。
待たせずに、長兵衛は、若い伊達旗本の前に出た。
「長兵衛でごぜえます」
「このたび、亡父のあとを継いで白柄組の首座に就いた水野十郎左衛門成之だ。見知りおけい」
「へい。お若いのに、ご立派な貫禄でごぜえます」
「世辞はよい。……本日は、その方に、事実の有無をたしかめに参った。昨年秋、吉原の廓外で、その方と乾分ども三十数名が、わが父出雲守以下白柄組一統と争闘いたしたのは、しかと相違ないな?」
「たしかに、相違ごぜえませんが、てまえが、乾分を三十何人もひきつれていた、というのは、まちがいでごぜえます。てまえが、つれていたのは、熱海の石切場から、国許へ帰ろうとしていた佐倉の農民衆でござんした」
「その方と百姓ずれが、わが父出雲守はじめ直参の歴々九人も討ち取ったと申すのか? ごまかすな、長兵衛!」
「てまえも、こうして、ひとっぱし、幡随意院組をつくって、かしらになっている者でごぜえます。けちな逃げ口上など、申し上げません」
「その方と百姓どもで、どうして、わが父出雲守と直参の歴々九人まで、討ち果すことができたのだ?」
「それは、一人のご浪人衆が、助太刀して下さったからでごぜえます」
「浪人者が――?」
「左様で……。そのご浪人衆の槍さばきは、鬼神といってもいい途方もない凄じい強さでございましたな」
「なんと申す浪人者であった!」
「そのお名前は、存じ上げて居りますが、貴方様には、申し上げられません」
長兵衛は、きっぱりとこたえた。
「なぜ申せぬ?」
「申し上げれば、貴方様は、敵討ちをなさることになりましょう。失礼でごぜえますが、貴方様は、まだお若うございます。とうてい、あのご浪人衆には、敵《かな》いますまい。返り討ちにおなりになるのは、目に見えて居ります」
「黙れっ!」
十郎左衛門は、叫んだ。
「亡父の敵が、府内に居ると判って居り乍ら、白柄組頭領として、黙って、看過せると思うか。水野家の面目にかけて、武士道の吟味を通さねば相成らぬ!」
「水野様!」
長兵衛は、おちついて、こたえた。
「そのご浪人衆は、てまえの助太刀をして下された御仁でごぜえます。白柄組ご一統と、争うたのは、この長兵衛でごぜえます。たしかに、出雲守様は、そのご浪人衆の槍先にかかってお果てなされましたが、貴方様のお父上の敵は、あくまで、この幡随意院の長兵衛でごぜえます。父御の敵として、お討ちなさるなら、この長兵衛でごぜえます。それが、筋道と申すもの」
「町奴風情を対手に、敵討ちなど、直参旗本として、できるか!」
「いずれ、どこかの往来で、手討ちになされば、よろしゅうございましょう」
不敵にも、長兵衛は、そう云って、にやっとした。
十郎左衛門は、しかし、まだ、長兵衛の言葉を信じてはいなかった。
阿部四郎五郎の報告の方を信じていた。
ただ――。
十郎左衛門が、判ったことは、この町奴の態度の立派さであった。
旗本奴の中にも、これほど毅然たる勇気のほどを示す者は、いないように思われた。
父成貞が、この男から討たれたとしても、すこしも、恥ではないような気がした。
「その方の覚悟のほど、見定めた。……後日、いずれ、その方に対しては、致し様がある」
十郎左衛門は、そう云いおいて、座を立った。
長兵衛の方も、
――これァ、おやじ殿よりも、ずっと上出来な旗本奴だぜ。
と、胸中で呟いていた。
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絞 殺 記
一
神田連雀町にある張孔堂楠不伝の家へ、由比弥五郎が、飄然として帰って来たのは、その次の年の秋も闌《た》けてからであった。
玄関に立った弥五郎は、空家のような静けさと、ただようている薬餌のにおいに、眉宇《びう》をひそめた。
奥座敷に入ってみると、そこに、不伝が、変りはてた姿で、牀《とこ》に臥していた。
文字通り、骨と皮に痩せおとろえて、掛具の上にのせている片腕など、枯枝のようにくろずみ、骨だけの細さで、目をそむけたいくらいであった。
弥五郎は、一瞥して、その面貌に死相をみとめた。
不伝は、口をひらいたが、咽喉に痰がからんで、すぐには、言葉が出せなかった。
弥五郎は、枕元に坐ると、
「お主が、わずらっているとは知らなかった」
と、云った。
「駿府でな、久能山はじめ、山という山を、さがしまわったのが、老躯にこたえ申して……、このざまに、相成った。あと、せいぜい、生きて、半年――いや、三月でござろうて」
「………」
「弥五郎殿の帰られるのを、文字通り一日千秋の思いで、待って居り申した」
「駿府にかくされた豊臣遺金の在処《ありか》を、つきとめた、と云われるのか?」
「い、いや――、それは、まだ……、つきとめては、居り申さぬが、およその見当だけは、つき申した」
「駿府のどのあたりに……?」
「久能山でも、他の山中でも、ござらぬ。……駿府城内に、かくされてある、と見当をつけ申した。……ただ、無念|乍《なが》ら、城内の、どのあたりかは、いまだ……」
不伝は、激しく咳込んで、わななく手で、洟紙《はながみ》を把《と》ると、口にあてた。
喀《は》いた痰には、血がまじっていた。
不伝は、しかし、苦しさを怺《こら》えて、言葉を継いだ。
「……弥五郎殿、城内にかくされた黄金を、手中にするのは、あんたを措《お》いて、他には、居り申さぬ。……みごと、成功して下されよ」
「………」
「あんたならば、必ず、やれる。……弥五郎殿、わしから、あんたに、のこす品がござる」
「………」
不伝は、床の間に据えてある古|櫃《びつ》の中の品を、とり出して欲しい、と弥五郎にたのんだ。
油紙で包んだ書状らしいもの、金襴の袋に入れられた小刀、そして、何巻かの軍書など――。
不伝は、まず、油紙に包んだ書状を、披《ひら》いてみせた。
「ごらんなされ。この宝物……後醍醐帝が勅筆の御|綸旨《りんじ》と、大塔宮の令旨《りようじ》で、ござるよ」
弥五郎は、受けとってみて、どうやら真物らしい、と思った。
「その小刀は、伯耆《ほうき》安綱――菊水の紋が打ってあり申す。……いずれも、わが始祖楠木正成公が、賜った宝物――」
「不伝殿――」
弥五郎は、冷やかな語気で、云った。
「垂死のこの期《ご》におよんで、この弥五郎に、まだ嘘を吐《つ》くのは、止されるがよい」
弥五郎は、不伝からきかされた経歴は、全く信じてはいなかった。
不伝は、咳込みつづけた。
弥五郎は、
「これらの品は、どうやら、贋ものではないようだが、お主が、どこから入手したか、それをうかがいたいものだ」
と、促した。
楠木正成の末子正|儀《のり》には、四人の子があり、その四男正平から十代の末に正虎なる人物が居り、大饗《おおあえ》と苗字をかえていたが、織田信長に目をかけられ、そのとりなしによって、正親町天皇から、朝敵の汚名を勅免され、従四位下河内守に任じ、晴れて、「楠正虎」と名のった。
自分は、その楠正虎の一子である、と不伝はうそぶいていたのである。
弥五郎から、垂死に臨んで、嘘いつわりは無用、とたしなめられて、不伝は、しばらく咳込みつづけて、ようやく、おさまった時、
「……申しわけない」
と、詫びた。
「それがしは、本名は、室戸甚四郎、駿府の郷士でござる」
二
不伝が、間歇《かんけつ》的に起る背骨の激痛に堪え乍ら、弥五郎に打明けた真実は、次のようなことであった。
寛永四年十一月六日。
江戸城西ノ丸の小姓溜で、ひとつの刃傷沙汰が起った。
宿直《とのい》の小姓組番同士の、口論の挙句の殺傷事件であった。被害者は、木造三郎左衛門、鈴木久右衛門の二人であった。加害者は、|楢村《ならむら》孫九郎といった。
楢村孫九郎は、一刀流を学び、天稟《てんぴん》をきたえていた。
木造三郎左衛門は、一太刀で即死し、鈴木久右衛門は右腕を肱から両断された。
楢村孫九郎は、その月十三日に、切腹を命じられ、家は断絶してしまった。
楢村家は、名門であった。
孫九郎の祖父は、大饗《おおあえ》玄正といい、楠木正成の後胤として、後陽成天皇に召し出され、
『ことしより花咲き初《そ》むる橘のいかで昔の香に匂ふらん』
という宸筆《しんぴつ》の色紙を下賜されたこともあった。
備前の宇喜多中納言秀家に仕えていたが、慶長五年の東西手切れの際、大饗玄正は、主君に、石田三成に味方することの不可を諫言《かんげん》したが、容れられず、致仕して、妻の実家の苗字楢村姓を名のった。
のちに、徳川家康に召し出されて、備中に二千石の知行を受け、旗本の列に加えられた。
殿中に於て刃傷沙汰を起した楢村孫九郎には、十二歳の嫡子利正があった。妻はすでに亡くなって居り、孤児となった利正は、母の実家である駿府の楢村家へひきとられた。
楢村家は、駿府できこえた豪族で、利正の祖父が、八十歳になり乍ら、一人だけ生き残っていた。
不伝は、楢村家の家来筋にあたる郷士であった。
一年過ぎて祖父が逝き、楢村利正は、西国辺の大名に召し抱えられることになった。その折、利正は、不伝に、大饗家重代の文書、刀剣などを預けて行った。
不伝は、それらの品が、楠木正成の後胤であることを証拠だてる宝物と知るや、着服して、故郷をすてた――という次第であった。
「当節、楠流軍学・兵法は、大|流行《はやり》をして居る。日蓮宗の僧日応、号して陽翁の陽翁伝楠流をはじめ、軍林私宝なる軍書を伝書とする河内流、山本勘助の兵法を主流とする名取流、河宇田正|鑒《かん》がひろめた河陽流など、すべて、楠木正成を祖と仰ぐ軍学・兵法だ。……そこで、お主は、楠木正成の後胤となりすますことにした。楠木氏嫡流ともなれば、大名・旗本はじめ、門をたたく者は、数知れず、ということになる、とお主は、考えた」
「左様――、その通りだ。……たしかに、わしは、大|かたり《ヽヽヽ》の山師だ。……だが、それには、理由がある。わしの叔父は、徳川家の足軽大将で、騎馬三十騎、足軽百人を支配して居った。大坂役の後、わしの叔父は、荷駄三百頭の太閤遺金を、駿府へ運んで来る指揮をとった。……叔父は、それきり、家にはもどらなかった。毒殺されたに相違ない。叔父とともに、豊家遺金をかくした人足数十人も、一人のこらず、毒殺されたのだ。……物心つかぬうちに実父を喪ったわしを、育ててくれた叔父の恨みを、はらすためにも、豊家遺金を、奪いとってくれよう、とわしは決意をしたのでござる。……この目的をとげるための手段として、わしは、楠木氏嫡流になりすました……」
そこまで語って、不伝は、再び、激しく咳込んだ。
弥五郎は、それがおさまるのを待って、話題を転じた。
「半兵衛と忠弥は、どこへ行き申した?」
「わしが、太閤遺金は、駿府にある、と云うと、二人して、駿府へおもむき申した。……わしは、弥五郎殿を、頭領としなければ成功はおぼつかぬ、ととどめたのじゃが――」
「あるいは、駿府城を、焼きはらってでも、見つけてくれよう、と半兵衛は、考えて居るのかも知れぬ」
弥五郎は、そう云って、笑った。
「あの二人が、二人だけで、いかに躍起になろうとも、どうなるものでも、ござるまい。……弥五郎殿、あんたならば、やれる。大楠公の生れかわりとして、……神算鬼謀をもって、天下を、徳川家から、奪い取って下され。……たのみ申す」
「将軍家を倒すのは、不可能事としても、その軍用金を、手に入れることができれば、あるいは、太閤秀吉が晩年に夢みた明国制覇、とまでは及ばぬまでも、日本中にちらばる二十数万の浪人どもを、率いて、海の彼方に、新天地をひらくことは、実現できるかも知れぬ」
「やって下され。……あの世から、眺めて居り申そう」
三
同じ日――。
将軍家光は、苛立った形相で、松平伊豆守を、睨みつけていた。
「伊豆! なぜ、訊かぬ?」
「は――?」
「九条明子を、おのがものにし乍ら、どうして、まだ白状させることができぬのか、とそちは、内心、余を、さげすんで居るのであろう。だから、わざと、そのことには、そちは、ふれようとせぬのだ」
「あせらず、気長に、姫君の口がひらくのを、お待ち下さいますよう、願い上げまする」
「日光東照宮の造営には、百万両を必要とするのだぞ。さらに、来年早々には、当城の惣郭修築の大工事に着手いたすのではないか。……そちは、当城の金蔵の蓄えは、減らさぬ、という。是非とも駿府にかくされた天正大判、小判、法馬を、手に入れねばならぬぞ」
「御意――」
「そちが、見つけることが叶わなければ、余が、明子に白状させるよりほかはないのだ。……どうして、そちは、余を、せかさぬのだ?」
「上様――、急がずば濡れざらましを旅人のあとより晴るる野路のむら雨、という歌もありますれば……」
「黙れ! 余は、急いで居るのだ! 日光東照宮をつくるのも、当城惣郭をつくるのも、余人ではない、この家光なのだぞ。急がねばならぬのだ。……判って居る。老中が、政務繁多であることは、よく判って居る。だから、余は、余自身の力で、見つけようといたして居るのだ」
家光は、早口に、云いたてた。
たしかに――。
老中職としては、政務繁多であった。
今年に入ってからだけでも、幕府は、四月には、長崎一港だけを唯一の外国交易の互市場として、異邦船の外は、一切入港を禁じたし、六月には、諸大名の参覲交代の制を確定したし、七月には、譜代の大名・旗本には金銀五十万八千余両の恩借を許したし、十月には、若年寄の制度を定めて、土井利隆、酒井忠朝をそれに任じたし、十一月には、寺社奉行を置いたし、次いで、評定所設置そのほか諸有司分課を定め、ここに幕府の職制を、ゆるぎないものにしていた。
酒井忠勝と松平伊豆守の二人で、これらの政務をやりとげていたのである。
家光は、伊豆守が、何もこたえぬうちに、さっと、座を立った。
「伊豆、明日には、必ず、そちに、駿府へ、金銀を取りに行かせるぞ」
とどめるいとまはなかった。
家光は、風の速さで、中奥へ入ってしまった。
それから家光は、小半刻のちに、明子を、寝所に呼びつけていた。
家光は、いきなり、衣裳をまとったままの明子を、褥の上へ、押し倒した。
春日局から、女体というものは、やさしい愛撫によって、肌身を燃えさせ、秘処を濡れさせるもの、と教えられていたが、家光には、そんな余裕はなかった。
その帯を抜き取るいとまも惜しむように、乱暴に、前をはだけさせると、あらわになった白い裸身の上へのしかかり、猪突の気ぜわしさで、かわいた柔襞《やわひだ》へ、男性の力を押しつけ、破った。
その乱暴を加えつつ、
「明子、もはや、口を閉ざすことは、許さぬぞ。忠長が、ひそかに、そなたに告げた秘密を、申せ!」
と迫った。
明子は、顔をそむけたなり、かたく口を閉ざして、こたえようとせぬ。
「白状せぬか!」
云いざま、家光は、上半身を起すや、明子の下肢を、大きく押しひろげさせ、さらに、両膝を掴んで、ひき裂くように空ざまに挙げて、足くびを掴んだ。
放恣な肢態をとらされつつも、明子は、死人のように無抵抗であった。
「申せ! 白状せい!」
嗜虐の衝動が、さらに昂じた家光は、明子の足を、その双の肩まで折り曲げさせた。
苦痛に眉根を寄せつつも、明子は、この拷問に、必死に堪え忍んだ。
――くそ!
家光は、足くびからはなした両手を、明子の頸へあてた。
「白状せぬと殺すぞ!」
「………」
「殺されても、よいのだな?」
「………」
「強情者めが!」
家光は、ぐいと頸を締めた。
「ああっ、ああ!」
明子は、はじめて、苦痛に堪えかねてもがいた。
「白状せい! 申さぬか! 云えっ!」
発作直前の血汐のたぎりが、家光を野獣にした。
明子の頸を締めた十指に、渾身の力が、こもった。
家光は、明子を殺す意志はなかったろう。
しかし、明子の無言の拒否が、家光にわれを忘れさせた。
ぐったりとなって、もがきを止めた明子を見た瞬間、家光は、
――しまった!
と、後悔した。
「修馬!」
あわてて寵童を呼んで、明子の身をしらべさせたが、もう間に合わなかった。
「脈が絶えて居りまする」
その報告を、遠いものにききつつ、家光は、激しい眩暈《めまい》に襲われ、ばたっと倒れるや、呻きたてて、四肢を痙攣させた。
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平 将 門
一
青山に住む大久保播磨が、今秋あらたに設置された評定所(これは、後世の老中・若年寄・各奉行ら、幕府の実力者たちの評定所とは、すこし意味合いがちがっていた)に、呼び出されたのは、寛永十二年も押しつまった十二月二十九日であった。
――もしかすれば?
登城する播磨の胸は、期待で、ふくらんでいた。
祖父の従弟である大久保彦左衛門の周旋が効を奏して、もしかすると、亡父の職掌であった御書院番頭に、就けるのではあるまいか。いや、いきなり番頭はむりとしても、御書院番の末座に加えられるのではあるまいか。
――屹度《きつと》そうだ。老人が、必ず吉左右《きつそう》をもたらすゆえ、しばらく辛抱して待って居れ、と約束してくれていたのだから……。
二十三歳の今日まで、かえりみて、他人に対しても、おのれ自身に対しても、慙《は》じなければならぬ所業など、ひとつもしていない播磨であった。
直参旗本としての姿勢を、常に正しくするように心掛けて来たのである。国持・城持の大名に対して鬱勃《うつぼつ》たる不平を抱いた挙句、お咎め寄合にされ、ついに狂気して割腹自殺をとげた亡父の二の舞いは踏むまいと、播磨は、旗本奴の群に身を投ずるのを拒否し、ひたすら、士道の吟味に専念して来たのである。
匹夫も志を奪うべからず、というからには、直参旗本たる面目を保って、文武両道に精進していれば、やがて、必ず、お上のお耳に達して、目通りが叶う日が訪れる、と信じて来た播磨である。
今日という日が、その念願の達する日かも知れなかった。
播磨が、登城するのは、元服御目見した十五歳の春以来、実に八年ぶりのことであった。
全神経をはりつめて登城した播磨が、同朋のみちびきで、通された和田倉門外辰ノ口の評定所は、木の香のただよう新築の建物であった。
四半刻あまり待たせて、播磨の前に現れたのは、老中松平伊豆守信綱であった。
「御辺は、お咎め寄合にもかかわらず、旗本奴の党などに加わって居らぬ由、きき及んで居る」
平伏した播磨は、伊豆守のその言葉をきいて、
――まちがいない! 御書院番になれるのだ!
と、若い血汐を沸かせた。
「不服不満も起るであろうに、若年の身で、能《よ》く身の行儀をわきまえて居るのは、まことに神妙と申せる」
「はっ――」
播磨は、いったんあげかけた上半身をまた、伏せた。
伊豆守の次の言葉は、もうきかないでも判った歓喜が、播磨の全身をかけめぐった。
ところが……。
伊豆守の次の言葉は、播磨の期待を裏切って、全く意外な質問であった。
「御辺の屋敷には、女中がただ一人のみ、いるときいたが、たしかであろうか?」
「はあ……?」
播磨は、顔をあげた。
「京都より、中臈として出世した九条明子殿に、久しく仕えていた侍女であるとか――?」
「はい」
「たしか、御辺は、九条明子殿の従兄にあたるのであったな」
「相違ございませぬ」
「明子殿は、先月中旬、不幸にも、他界された」
「はあ……」
播磨にとって、九条明子は、いまだ一度も会ったことのない従妹であった。そんな遠い存在の明子が、将軍家の側室になった、ときかされても、閨縁にたよる気持など、みじんも起したことはなかったし、また、亡くなった、ときかされても、ただ、そうか、とうなずくばかりであった。
伊豆守は、言葉をつづけた。
「御辺ならば、打明けてもよいであろう。明子殿は、駿河大納言忠長卿より、公儀にとって、きわめて重大な意味を持つ秘密の事柄を、告げられていたはずであったが、このこと、明子殿は、上様にも言上することなく、他界された。……明子殿は、あるいは、久しくそばに仕えていた――目下、御辺の屋敷に奉公いたして居る女中に、ひそかに、教えて居たかも知れぬ」
「………」
「そこで、老中職として御辺にたのむのは、その女中に、口を割らせてもらいたいということである」
「はい」
「重ねて申すが、公儀にとってきわめて重大な意味を持つ秘密の事柄ゆえ、御辺の働きに、希望をかけるものである」
「はい!」
「御辺が、どのような手段をえらぼうとも、それは一存にまかせる。……うら若い女子ゆえ、その口を割らせるには、まず、他人ではなくなる必要があろう。……美しい、ときいたが、左様か?」
「はい」
一瞬、播磨は、目を伏せた。
播磨の性情、身辺のことは、くわしく調べあげている伊豆守は、冷たく冴えた視線を、その表情へあてて、
――菊という娘を、この若者は、すでに、愛して居る。
と、たしかめた。
二
若い旗本は、御書院番に召し出される代りに、屋敷内に使う唯一の女である於菊の口を割らせる任務を命じられて、青山へ帰って来た。
――ご老中は、わしを試そうとされて居るのだ。
播磨は、そう解釈した。
於菊を、妾にして、その何事《ヽヽ》かをきき出すことなど、なんの造作もない、と思える播磨には、わざわざ評定所まで呼び出した松平伊豆守のやりかたが、大袈裟にすぎるような気がしていた。
「若殿様!」
門を入ろうとした播磨に、往還から、はずんだ声音で呼びかけた者があった。
馬上から振りかえった播磨は、そこに、大久保彦左衛門の若党太助の姿を見出した。
太助は、しかし、若党のいでたちではなく、当節|流行《はやり》の丹前風の|どてら《ヽヽヽ》を腹掛の上にはおっていた。
その腹掛の紺木綿には、白く、一心という二文字が染め抜いてあった。
荷台をかついでいたが、その蓋にも、一心という二文字が書かれていた。
「その方、老人の供を止めたのか?」
「これは、お殿様のご命令なのでございます。魚屋を稼業にせい、と仰せつけられました」
明日にも突然卒去するかも知れぬ高齢の彦左衛門の配慮であろう。乞食の群の中からひろいあげて、一人前の若党にしあげてやった太助に対して、彦左衛門は、格別の愛情を持っているので、自分がこの世を去ったあとの世すぎを心配してやったものであろう。
「この――一心、というお言葉を、お殿様から頂戴して、今年の春から、神田で魚屋をいとなんで居ります。……今朝、駿河台へご機嫌うかがいに参りましたところ、こちらのお屋敷のご用人が、馳せつけて参られて、若殿様が、登城なさいました、とお報せに相成りました。いよいよ、お役にお就きになる、とうかがって、お祝いのしるしに、鯛をいっぴき、持参いたしました。お召し上りのほどを――」
「用人の奴、早合点いたした。登城したからと申して、べつに、直ちに番入りできるわけではないのだ。しかし、いずれ、来年中にも、父の家職を継げるであろう。……その鯛、受けるぞ」
播磨は、玄関に出迎えた用人に、同じ言葉を投げておいて、奥の居間に入った。
於菊が、あとをついて来て、大小や裃や袴を受けとった。
於菊が、この屋敷へやって来てから、ちょうど一年が経っていた。
夜伽以外のことは、播磨の身のまわりの世話一切は、於菊の手にまかされていた。
播磨にとって、もはや、於菊は、いなくてならぬ存在になっていた。
袴をたたむ於菊の横顔を、播磨は、ちらりと視やった。
――この娘を、妾にするのだ。ご老中の命令なのだ。
自分に云いきかせると、にわかに、胸の鼓動をおぼえた。
「菊!」
「はい」
こちらを見上げた白い美しい顔へ、播磨は、いきなり、「今宵、寝所へ来い」とは、云い出しかねて、
「駿河台で若党をつとめていた太助と申す男、魚屋になって、鯛を持参いたした。そなた、料理を手つだってやれ」
と、命じた。
「はい」
於菊が去ると、播磨は、あらためて、伊豆守の言葉を、反芻《はんすう》してみた。
「……うら若い女子ゆえ、その口を割らせるには、まず、他人ではなくなる必要があろう」
伊豆守は、そう云ったのである。
いまだ一度も遊里に行ったことのない播磨は、女を抱く|すべ《ヽヽ》を知らなかったが、於菊のからだを抱きたい欲求は、充分に心中で沸きたぎっていた。
女中に手をつける、ということは、旗本奴どもの常習ときいていた播磨は、けんめいに、その欲求を抑えて来たのである。
老中である松平伊豆守から、そうせよ、と命じられたいま、播磨は、もはや、抑制の必要はなくなったのである。
――今宵からだ! 今宵!
播磨は、胸中で、叫んだ。
三
正月をあと三日後にひかえて、神田連雀町の張孔堂楠不伝の家では、ささやかな葬儀が、いとなまれていた。
喪主には由比弥五郎がなり、門弟が二十人あまり詰めて、近くの禅寺から堂司《どうす》を一人呼んで来て、誦経《ずきよう》させていた。
弥五郎は、誦経のあいだ、腕組みして、目蓋を閉じ、身じろぎもしなかった。
堂司が、ひきあげて行くと、弥五郎は、やおら、棺の上に置いてある二三の品を、手にして、門弟たちに向きなおった。
「遺言によって、門下一統に、披露いたす。……楠不伝先生は、楠木正成公の後胤であった。その証拠の品が、これである」
好奇の目を光らせる門弟たちに、弥五郎は、つぎつぎと、それらの宝物を、見せた。
後醍醐帝勅筆の綸旨《りんじ》、大塔宮の令旨《りようじ》、そして菊水の紋を打ってある伯耆安綱。
「不肖この由比弥五郎が、今日より、楠不伝先生の遺志を継ぎ、張孔堂正雪と名のり申す。……もし、それがしを師とするに不服の御仁があれば、ただいま、座を立たれたい」
一人も、立ち去る者はいなかった。
「では、遺言にしたがって、これより、遺骸を埋葬いたす」
弥五郎は、棺をかつぐ者四人を、指名した。
「先生、埋葬地は、どこになさいますか?」
「芝崎の将門《まさかど》塚である」
弥五郎は、明快な返辞をした。
一同は、一瞬、息をのんだ。
芝崎は、江戸城大手門の正面――神田橋門内であった。そこには、土井大炊頭利勝の本邸があり、将門塚は、その敷地内に在った。
尤も――。
土井家では、将門塚を移すのを遠慮して、塀をひきさげていた。
土井利勝が、ここに邸地をもらうまでは、日輪寺という古刹があった。将門塚は、その境内にあった。
日輪寺は、延文年間、遊行上人真教坊の建立したものであるが、将門塚は、それ以前から、そこに在った。
天慶三年二月、相馬小次郎平将門は、あやまって逆賊の汚名を蒙って、誅戮《ちゆうりく》され、その首が、京師《けいし》へ送られた。ところが、首のない屍骸が、そのあとを追って来て、此処まで辿りつき、ついに仆れた。地下《じげ》人が、それを葬って、塚を建てた。爾来、種々の災異が起ったが、地下人は、すべて、将門の祟《たた》りにして、おそれおののき、朝廷へ歎願して、その首を下げてもらい、塚へ合せ埋めた。にもかかわらず、なお災異は、熄《や》まずに、ひきつづいた。
後年、真教坊が、東巡の途次、これをきいて、一祠を建てて、将門の霊を祀《まつ》った。称して、神田明神といい、別に一寺を祠辺に建てて、真教坊自身が住んだ。日輪寺が、これである。
真教坊によって、百世|廟食《びようしよく》の神にされた将門の霊魂は、ようやく安んじたか、災異は、その後は起らなかった。
天正十八年、家康が、江戸へ入国するに及んで、すべての社寺は移転させられ、神田明神は神田橋外へ、日輪寺は白銀《しろがね》町へ移された。
しかし――。
将門塚だけは、地下人の強い歎願もあり、徳川家の面々も、再び災異の起るのをおそれて、そのまま、そこにのこした。
土井利勝も、もらった邸地内に、将門塚があったが、これを移すのをはばかって、塀をひきさげた。
将門の怨霊《おんりよう》の祟りのことは、二百三十年を経ても、ふかく浸透していたと思われる。
由比弥五郎が、楠不伝の遺骸を、その将門塚へ葬る、と明言するのをきいて、門弟一同が、慄然となったのも、当然であった。
そんなことをすれば、どんなおそろしい祟りを蒙るかも知れぬ、という恐怖を、まずおぼえた。
次に、江戸城大手門の正面にあたる土地へ、土井家に無断で埋葬するのは、いかにも、公儀をないがしろにした、無謀きわまる暴挙と思われた。
「将門塚へ、葬ることは……」
一人が、怯じ気の声音をもらした。
「かまわぬ」
弥五郎は、平然として、云った。
「楠木正成公の後胤たる楠不伝先生の遺骸を葬るには、将門塚こそ、最もふさわしい場所と心得る。……参ろう」
弔《とむらい》の列が、しずしずと芝崎口――神田橋門にさしかかると、はたして、一同が予測した通り、そこを守っていた土井家の家士数名が、血相変えて、咎めた。
弥五郎は、泰然たる態度で、
「故人の遺言により、将門塚に埋葬いたす。お通し頂きたい」
と、申し入れた。
「ならぬ! ならぬ! なんという心得ちがいをいたすか! 場所柄をわきまえい!」
番士は、頑として通そうとしなかった。
――これぐらいのことは、判っていたであろうに……。
門弟たちは、うらめしげに、弥五郎を、眺めた。
実は、弥五郎が、わざと騒動を起すべく、棺をはこんで来たのだと、看てとった門弟は、一人としていなかった。
土井邸から、急報によって、数十人が奔り出て来るのを、弥五郎は待って、急にきびしい表情になると、
「故人は、常人ではござらぬ。おのおのがたが、柩《ひつぎ》に一指でもふれてごろうじろ。たちまち、土井家には、祟りが起り申すこと、うたがいを入れ申さぬ!」
と、云いはなった。
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あ ら た ま
一
「なに?! 将門塚へ、死人を埋めようとしている不埒《ふらち》者が居ると?」
土井大炊頭利勝は、側用人から報告されて、なかばあきれ、なかば腹を立てた。
「狂気《きちがい》沙汰だの」
「御意――、しかし、いくら叱咤いたしても、故人の遺言である、と云い張り、立ち退こうとはいたしませぬ」
「何者だ?」
「神田連雀町にて、軍学指南道場をかまえる張孔堂由比正雪、と名のって居り、遺骸は、その師の楠不伝とか――」
「追い払ってしまえばよかろう」
「それが……」
側用人は、当惑の面持で、
「由比正雪なる者、もし当家の家臣が、柩《ひつぎ》に一指でもふれるならば、土井家に祟りがある、とうそぶき、門弟どもに守らせて居りますれば、ひとまず、殿におうかがいいたしてから、と存じまして……」
と、告げた。
「この土井家に、祟る、と申すか、不逞《ふてい》なうそぶきを口にする曲者よ」
「由比正雪は、師の楠不伝が、楠木正成直系であったなどとたわ言を申して居りまする」
「楠木正成の後裔だと?……証拠でもあるのか?」
「その品、持参いたして居る由にございます」
「見たか?」
「いえ、いかがわしき贋の|しろもの《ヽヽヽヽ》と存じ、見る気にもならず――」
「持って参れ」
利勝は命じた。
ほどなく――。
由比正雪自身が、それらの品を持参して、土井邸へ入って来た。
その旨、報らされた利勝は、
「会ってくれよう。庭へまわせ」
と、命じた。
庭さきに、片膝ついた由比正雪を、広縁から見下した利勝は、一瞥して、
――只の素浪人ではない面がまえをいたして居る。
と、看た。
「張孔堂由比民部之輔正雪と申します」
民部之輔とは、とっさに思いついた称名であった。弥五郎では、いかにも軽かったからである。
「その方が埋葬しようとして居る死者は、楠木正成直系の裔《すえ》、と申して居ったそうだな?」
「証拠の品、ごらん下さいますよう――」
弥五郎は、立って、つかつかと広縁へ進み寄った。
側用人が、あわててさえぎり、さし出された品を受けとって、利勝の前に、置いた。
弥五郎は、利勝が手にしたのを、それぞれ、
「それは、後醍醐帝が勅筆の御綸旨」
「それなる小刀は、正成公が後醍醐帝よりたまわった伯耆安綱」
と、説明した。
利勝は、こういう古い品に、べつに目が利《き》いてはいなかったが、まんざら贋物とは思えなかった。
利勝は、側用人の手から、弥五郎にもどさせると、
「それらの品、真贋いずれにせよ、死者を、将門塚に埋葬いたそうなどとは、不届きな所業である」
と、云った。
「これは、それがしの意志ではなく、故人の遺言でありますれば、遺言通りにいたそうとしたまででござる」
「当家でさえも遠慮して、動かさずに居る塚を、掘ろうといたすとは、祟りをおそれぬもはなはだしいではないか」
「それをきめた者は、すでに他界いたして居ります。もし、遺言通りにいたさねば、霊魂は、中有《ちゆうう》にさまよい、あるいは、御当家に祟るおそれなしといたしませぬ。何卒、故人の願いを叶えさせて頂きとう存じます」
「その方、この大炊頭を、おどかそうといたすのか?」
「決して! ただ、それがしは、故人の遺志を尊重いたしたまでのことでございます」
「許せぬの、将門塚をいじるのは――」
利勝は拒否したが、その語気にはかなりのためらいがあった。
弥五郎は、利勝の様子を、冷やかに見上げて、
「それがしといたしましては、御門を通して頂けない上は、やむを得ませぬ。柩を、御門外へうちすて置きますゆえ、御当家にて、いか様にも、ご処分下さいますよう、願い上げます」
と、云った。
「莫迦《ばか》な! 他人の死体など、当家でとりかたづけられようか!」
利勝は、思わず呶鳴った。
弥五郎は、黙って、一礼すると、するするとひき退ろうとした。これは、かけひきであった。
「待て!」
利勝は、手をあげて、とどめた。
二
――張孔堂の名を、ひろく売るには、思いきった手を打たねばならぬ!
弥五郎は、不伝の葬儀をいとなみ乍ら――近くの禅寺から呼んだ堂司が誦経《ずきよう》しているあいだ、その方法を思案していたのである。
そして、ふっと、思いついたのが、
――そうだ! 将門塚へ埋葬してくれよう。
それであった。
もとより――。
弥五郎は、神田橋門で、土井家から、拒絶され、とうてい、埋葬することは不可能であろう、と見通していた。
――土井利勝に会うことができれば、それだけで、成功したと満足しなければなるまい。
弥五郎は、自分に云いきかせていたのである。
いまもなお、江戸の人々が、その祟りをおそれている将門塚へ、堂々と、死者を埋葬しようと企てたことだけでも、評判になろう、その死者が、楠木正成公の後胤であり、証拠の品を、土井大炊頭へ提示した、となれば、軍学ばやりの当節、張孔堂は、門前市を為すに相違ない。
弥五郎のこの賭は、図にあたった。
土井利勝から、
「しかるべき埋葬地を、与えよう」
と、約束させて、弥五郎は、ひきあげた。
たしかに――。
弥五郎が、将門塚に目をつけたのは、賢明であった。
いかに、将門塚が、さわらぬ神に祟りなしと、おそれられたか――。
徳川将軍家の威勢をもってしても、将門塚を、ついに、その覇業が終熄するまで、そこから動かすことができなかったのでも、明白である。
遊行上人真教坊によって建てられた神田明神は、神田橋外から神田台へ、そして、湯島台に移されたし、日輪寺は、白銀町から東神田谷原町へ、そして浅草へ移されたし、また、土井利勝邸は、四代将軍家綱の時には、下馬将軍とうたわれた酒井雅楽頭忠清のものとかわり、さらに、五代将軍綱吉の時世には、堀田筑前守正俊の上屋敷となったが、将門塚のみは、依然として、同じ場所に在った。
いや、徳川家が政権をかえし、明治に入ってからも、将門塚だけは、動かなかった。丸ノ内大手町となって、そこは、大蔵省の構内に入れられたが、役人たちのうちで、将門塚を移そうとする者はいなかった。
それほど、将門塚は、祟りをおそれられたのである。
その塚へ死者を埋葬しようと企てるなど、狂人のしわざ、とみなされることだった。
弥五郎は、しかし、狂人でない証拠を、土井利勝に示したのである。
土井家から、埋葬地として、牛込|榎《えのき》町に、二千坪の広い土地をもらうことに、弥五郎は成功したのであった。
噂は、歳暮のうちに、たちまち、江戸中にひろまった。
「いやあ、やり居ったのう。老中筆頭土井大炊頭から、二千坪の土地をまきあげたとはあっぱれ!」
「まさに張孔堂の名に慙《は》じぬ軍師だて」
金井半兵衛と丸橋忠弥が、どかどかと入って来て、大声をたてたのは、正月元旦の朝であった。
かれらは、駿府から帰って来て、その評判をきいたのである。
弥五郎は、薄ら笑って、
「お主らは、駿府城へ火つけして、なんの得るところもなく、空手でひきかえして来たか」
と、云いあてた。
十二月二十九日――弥五郎が、不伝の遺骸を将門塚に埋葬しようと企てたのと同じ日、駿府城から出火して、小天守閣が焼けていた。
弥五郎は、
――半兵衛と忠弥の仕業だな。
と、推測したのである。
「われわれが、やったと判ったか?」
「一昨年、将軍家が上洛中に、江戸城も、西ノ丸が焼けたが、あれも、お主らの仕業か?」
「あれは、ちがう。名張の夜兵衛という盗賊が、やったのだ。駿河大納言の附家老で、大手門前に於て、将軍家の面前で割腹自殺をとげた御堂玄蕃の娘佐恵というのが、西ノ丸の女中をしていたのを、味方にひき入れて、放火させたのだ」
「名張の夜兵衛とは、何者だ?」
「そうだ、あの爺さんのことは、まだ、お主に話していなかったな」
半兵衛が、説明した。
豊臣家の落人で、本知三千石、寄騎三十騎をもらっていた侍大将・熊谷三郎兵衛というのが、その老いた盗賊の正体であること。大坂夏の陣で、いよいよ陥落が迫った際、三郎兵衛は、秀頼から、城内山里曲輪の地下に所蔵されてある軍用金を守るように命じられたが、徳川方の伊賀・甲賀衆に先手を打たれて、ことごとく奪われて、無念の|ほぞ《ヽヽ》を噛んだこと。……爾来、熊谷三郎兵衛は、盗賊になり果て乍ら、たとえ二万両が一万両でも、とりかえそうと、執念の鬼になって居ること。
「……つまり、われわれは、江戸城西ノ丸を焼くのは、手伝っただけだ。石運びの人足に化けて、城内へ入り込み、爆薬を仕掛ける手伝いをしたにすぎぬ」
「熊谷三郎兵衛は、江戸城の金蔵から、いくばくかは、盗み出したか?」
「いや、それ以後、一度も、逢って居らぬので、それはきいて居らぬが……、ともあれ、名張の夜兵衛は、お主に、会いたがって居る。あの爺さんを味方にして、お主が、壮挙を企てれば、必ず事は成るぞ。……そうだ、この噂をきいたならば、あの爺さんは、屹度、お主に会いに来るぞ。面白くなって来たな、忠弥」
「うむ。おれも、腕がむずむずして来た。……弥五郎、この次は、どんな手段で、幕府の閣老どもに、ひと泡噴かせるのだ?」
「天の秋《とき》、地の利、人の和――これが、ぴたりと合一して居らぬと、大きな仕事はできぬ。……当分は、張孔堂を繁昌させることにいそしむ」
弥五郎は、こたえた。
三
同じ正月元旦の朝を、互いに面映《おもは》ゆく迎えた若い男女がいた。
大久保播磨と於菊であった。
播磨は、評定所で、松平伊豆守に命じられたその日の宵にも、於菊をわがものにしようと、|ほぞ《ヽヽ》をかため乍ら、童貞の逡巡《ためらい》から、その実行を、大晦日までのばしたのである。
除夜の鐘をきいた時、播磨は、ついに、おのれをかりたてて、
「菊!」
と、呼んだのであった。
「菊! 用がある。ここへ、参れ」
除夜の鐘のゆるやかさと反対に、播磨の胸は、早鐘のように動悸打っていた。
於菊は、二室ばかりへだてた部屋を、居間としてあてがわれていた。
「はい、ただいま!」
於菊から澄んだ声音をかえされると、播磨の鼓動は、息苦しいまでに、さらに早くなった。
「着がえずとも、よい。そのままで、すぐ……すぐ、だ――」
播磨は、叫んだ。
於菊は、何事が起ったのであろうと、いそいで、廊下を小走りに、奥へ入って来た。
播磨は、褥の上に、正座していた。
於菊を見ると、いきなり、
「と、伽《とぎ》をせい」
と、云った。
「えっ?!」
於菊は、はっとなって、全身をこわばらせた。
「伽をせい、菊!」
播磨は、譫言《うわごと》のように、くりかえした。
「あ、あの……、わたくしは、ただ、女中として、召し使うて頂くために……」
播磨は、しかし、みなまで云わせずに、突っ立つと、於菊に近寄り、その肩へ腕をまわしたのであった。
「おゆるしを――」
於菊は、わずかに、さからった。
「伽をするのだ! 菊、よいな、よいな! 伽を、してくれい!」
うわずった語気で、同じ言葉をくりかえし乍ら、播磨は、於菊のからだを、ひきずるようにして褥へ連れて来た。
「お殿様!」
「菊! よいな、よいな、伽をするのだ。……たのむ!」
播磨は、於菊を押し倒すと、その上へ掩《おお》いかぶさった。
ともに、異性と手を握り合ったこともない童貞と処女が、ひとつ褥で重なったのであった。
本能が教えるままに、播磨は、気ぜわしく、於菊の寝衣の前をはだけさせ、膝を下肢のあいだに割り込ませた。於菊は、喘ぎつつも、こばもうとはしなかった。
於菊も、この一年のうちに、いつとなく、播磨を慕う想いを芽ばえさせていたようであった。
営みは、きわめて、あっけなくおわった。
潮の引くように、官能の昂《たか》ぶりが去ると、播磨は、於菊の上から、さっと降りて、傍に仰臥した。
「ゆるせ」
なんとなく、その言葉が、口から出た。
「……いえ――」
於菊は、そっと起き上ると、褥をすべり出て、身づくろいして、平伏し、
「さがりまする」
と、ことわって、起った。
播磨は、於菊にそのまま、一緒に寝ていてもらいたかった。
於菊が、自分の居間へさがって行ったのが、播磨には物足りなかった。冷たすぎるような気がした。ついに一睡もせずに、元旦の朝を迎えた播磨は、今日からは、於菊という存在が念頭から瞬時もはなれなくなるであろうことが、判った。
寝所から、縁側に出ると、そこに、於菊が、いつものように、洗面の道具をそろえて、ひかえていたが、その顔をちらと見やって、播磨は、すぐ、視線をそらした。
――ご老中に命じられたのだ。
播磨は、おちつくために、自身に云いきかせたことだった。
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千 夜 奉 公
一
「あっ! 小父様!」
広土間に案内を乞う声がして、台所にいた千夜は、何気なく内土間との仕切りの紅殻《べんがら》格子を開けて、よろこびの叫びをあげた。
訪れたのは、名張の夜兵衛であった。
幡随意院長兵衛の家が、このように大きな構えになってから、はじめて、夜兵衛は、訪れて来たのである。
「これはこれは、別の娘御かと、見まちがえたぞ。美しゅうなった。わしなどには、三年の月日は、まばたきするほどの短さじゃが、そなたのような子にとっては、蝉が殻を脱ぐように、美しゅう変化する時期ぞ」
夜兵衛は、座敷にあがって、あらためて、千夜を、つくづくと見なおした。
「緑葉、陰を成し、子、枝に満つ、か。あと三年も経つと、そなたも、良い男子にとついで、嬰児《やや》を抱いて居るかも知れぬの」
緑葉云々は、杜牧《とぼく》のうたった詩である。
十歳前後の美少女を見て、十年後の婚を約して重幣《ちようへい》を贈ったが、事情あって、その地におもむくことができず、ようやく十四年ぶりに訪れてみると、少女は佳人となって、すでに三年、二児の母親となっていた、という意味である。
「小父様が、わたしがお嫁になる人を見つけて下さいますか?」
千夜は、はじらいもせず、にこにこと、夜兵衛を見かえした。
「おお、見つけようとも! 三国一の花聟どのをな」
「でも、小父様は、出て行ってしまわれると、また三年も四年も、来ては下さりませぬ」
「いやいや、こんどは、ずっとこの江戸住いをすることにきめたのでな、ちょくちょく、顔をのぞけよう」
そう云った時、夜兵衛は、急に、苦しげに、俯向いた。
千夜はびっくりして、
「小父様、どうなされたのです?」
と、のぞき込んだ。
「お加減がわるいのでしたら、お医者様を呼んで参ります」
「大事ない、大事ない。……むかし蒙った傷が、時折ふと痛むだけで、べつに生命に別状はないのだ。関東の空っ風が、痛みを呼んだだけのことだて、心配無用――」
そう云いつつも、夜兵衛は、襲って来た眩暈《めまい》を怺《こら》えきれずに、片手を畳に突いて、崩れ伏すのを、ふせいだ。
千夜は、いそいで、夜具をはこんで来た。
それに身を横たえた夜兵衛は、どうやら、すこし楽になった模様であった。
「小父様、わたくしがお嫁にゆくまで、ちゃんと生きていて下さらなければ、いやですよ」
「生きているとも――。このまま、死んでしもうては、悔いても悔いきれぬ」
そう応えてから、夜兵衛は、長兵衛がいつ帰宅するか、訊ねた。
「夕餉には、きっと、おもどりです」
長兵衛以下身内衆は、今日も、江戸城の石はこびに出かけていたのである。
家が大きくなるとともに、身内衆も増して、いまでは、賄《まかな》いの下婢を三人も使っていた。
夜兵衛は、しばらく、目蓋を閉じていたが、
「千夜さん、この家を出るのは、いやかな?」
と、訊ねた。
「小父様と一緒にくらせるなら、よろこんで――」
「いや、そうではない。ちょっとな……、その、もし、そなたがよければ、武家屋敷へ、見習い奉公をしてもらえないか、と思ってな」
「小父様が、そうせよ、と仰言るなら、そうします」
夜兵衛は、目蓋を開いて、千夜を眺めた。
――この子を、わしの野望の手さきに使いたくはないが……。
つよくためらいつつも、夜兵衛は、この千夜こそ、その役目にうってつけであることを、思わずにはいられなかった。
二
長兵衛が、唐犬権兵衛、放駒四郎兵衛、冥途の小八ら、十数人の町奴連をひきつれて、帰ってきたのは、それから二|刻《とき》ばかり経ってからであった。
「これァ珍しい客人だ。……夜兵衛さん、どうしなすったい? ひどう顔色がわるいぜ。もう年齢《とし》が年齢だから、無理はきかねえやな。……どうだ、この家で、隠居したら――。夜兵衛さんが、ただ坐っていてくれるだけで、乾分どもに、睨みがきいて、あっしは、有難《ありがて》えんだがね」
長兵衛は、実は、夜兵衛の正体を知らなかった。
浅草界隈を、|ぐれ《ヽヽ》てうろつきまわっている頃、旗本奴と喧嘩沙汰になり、袋叩きに遭おうとしたところを、夜兵衛にたすけられたのであった。十年前のことである。
夜兵衛が、どうやら盗賊らしい――それも、もっぱら大名屋敷へ忍び込んで大金を奪っているようだ、とうすうす気づいたのは、知りあって、数年経ってからであった。
尤も、長兵衛は、それを、夜兵衛の口から、たしかめたことはなかった。
伊賀名張出身の、薬種あきないの商人、として、長兵衛は、親しみを持っていた。
夜兵衛は、長兵衛のすすめには、返辞をせず、
「お前さんも、とうとう町奴の頭領になんなすったの」
「頭領というところまでには、まだ貫禄が足りねえが、まあ、どうやら、恰好だけはついて来たァな」
「結構だ。お前さんは、そのうちに、府内随一の親分になれるだろう。それだけの度胸と器量をそなえている」
「夜兵衛さん、ところで、隠居のことだが――」
「いや、わしは、まだ、隠居などしてはいられぬ身なのだ。……今日は、お前さんに、ひとつ、たのみがあって来た」
「どんなたのみでも、引き受けますぜ」
「なァに、大したたのみじゃない。……千夜を、旗本屋敷へ、奉公させてみようと思って、やって来たのだ」
「旗本奴の屋敷なら、止したがいいぜ。狼の|すみか《ヽヽヽ》へ、兎を送り込むようなものだ」
「旗本奴ではない。お咎め寄合だが、若い当主は、文武両道にはげむ立派な人柄で、いずれは、亡父の跡を継いで、御書院番頭の席を与えられる御仁だ」
青山に屋敷を構える六千石の三河譜代で、大久保播磨という、まだ二十三歳の独身旗本だ、と夜兵衛は告げた。
「夜兵衛さん、どうしてまた、あの娘に武家奉公をさせる気になったのだい?」
「ちょっと、深い仔細があってな」
夜兵衛は、長兵衛に打明けようとはしなかった。
夜兵衛は、昨年秋、九条明子が、将軍家光に殺された事実を、つきとめたのであった。夜兵衛自身、江戸城大奥に忍び込んで、明子に逢おうとして、彼女がすでにこの世にいないのを知り、家光に絞殺されたことを、さぐりあてたのである。
家光が、なぜ、明子を殺したか?
その理由は、夜兵衛には、容易に推測できた。
夜兵衛は、十日あまりも、江戸城大奥の天井裏や床下にひそみつづけて、女中たちのひそやかな取沙汰を地獄耳に入れたことだった。
明子は、家光によって、無理矢理に、江戸へ連れて来られたが、その時、ただ一人だけ、信頼のおける侍女を供にしていた。於菊というその侍女は、いったん江戸城に入ったが、ものの二月も経たぬうちに、明子に暇乞いして、明子の従兄にあたる大久保播磨の屋敷に入って、女中となった。それまでの大久保家には、全く女気がなかった。いまは、於菊は、播磨にとって、なくてはならぬ存在となっている模様である。
以上のことを、夜兵衛は、調べあげて、幡随意院門前を訪れたのであった。
「夜兵衛さんが、是非そうしたい、というのなら、あっしは、べつに、反対する理由はねえが……、文武両道にはげんでいる旗本の大身といっても、あっしは、あんまり、信用はしねえぜ。第一、独身《ひとりみ》である、というのが、気に食わねえ」
「長兵衛、わしは、千夜でなければやれぬことを、たのむのだ」
「へえ――?」
「千夜なら、屹度やってくれる」
夜兵衛は、実は、青山の大久保邸へ忍び込んで、於菊に会おう、と考えていたのであるが、恰度その時分から、急に、からだの不調をおぼえ、潜入することが不可能になったのである。
「しかし、夜兵衛さん、旗本屋敷は、ちゃんとした身許引受人がいねえと、奉公させちゃくれねえぜ。まさか、町奴のこの長兵衛が、引受人にはなれませんぜ」
「そのことには、懸念はない」
夜兵衛は、千夜をここへ呼んで、二人きりにして欲しい、とたのんだ。
長兵衛は、立って行った。
千夜が入ってくると、夜兵衛は、長兵衛の承諾を受けた旨を告げ、奉公先は、直参旗本・六千石・大久保播磨であると、教えた。
「小父様、千夜は、何年奉公をすればよろしいのですか?」
「一年、二年――いや、もしかすると三年があるいは五年にと……」
夜兵衛は、呟くように云って、
「すまぬ。三年過ぎたら、そなたは、三国一の聟と所帯を持って、可愛い嬰児を抱いているかも知れぬ、と云った舌の根もかわかぬうちに、こんなたのみごとをして、許しておくれ」
「わたしは、作法を習いに参るのですから、何年でも辛抱いたします」
「千夜さん、この奉公には、作法見習いのほかに、目的があるのじゃ」
「はい」
「よくきいてもらいたい。大久保家には、たった一人だけ、女中が、殿様の世話をして居る。於菊という女中じゃが、優しい心根を持って居る。そなたは、その於菊という女中に、目をかけてもらうことに相成る。……さて、肝心の目的は、於菊が、ある大切な品を――それは、書類になって居るか、それとも、別の物か、それは、わしにも判らぬが――所持して居るはずじゃ」
「………」
「それが、どれほど大切な品か、おそらく、於菊自身も知っては居るまい。昨年、京都より、将軍家に連れられて、江戸城に入った於菊のあるじ九条明子という姫君から、あずかった品なのだ」
「………」
「そなたの奉公目的は、その品を――盗むことだ」
「え?!」
千夜は、おどろきで、眸子《ひとみ》をみはった。
「盗めと命ずるわしが、わるい。しかし、やってもらわねばならぬ。その品は、将軍家も欲しがっている。重大な秘密をひそめている。やってくれるか、千夜さん?」
「は、はい!」
千夜は、うなずいた。
三
その青山の大久保邸では――。
播磨が、居室に、於菊を呼んでいた。
几上に漢書をひらいていたが、播磨は、読んではいなかった。
於菊は、お茶を所望されたものと思い、それを捧げて入ってきた。
播磨は、於菊へ視線を向けようとせず、
「菊は、明子殿に、幾年仕えた?」
と、訊ねた。
「十年に相成りまする」
「明子殿が、高崎へ行った時も、従うたか?」
「いえ、姫様が高崎へ参られましたのは、世間の目をはばかるお忍びでありましたので、わたくしは、京都のお屋敷の留守居をいたしました」
それをきくと、播磨は、しばらく沈黙を置いてから、
「明子殿は、そなたに、何か、大事を打明けはしなかったか?」
と、訊ねた。
「いえ、べつに――」
播磨は、その時はじめて、於菊に向きなおると、
「身共に、虚言《うそ》を吐いてはならぬ。かくしだては、無用ぞ!」
と、云った。
「お殿様に、かくしだてなど、いたしませぬ」
肌身を与えた男に対して、どうして嘘いつわりなど云えよう。
於菊の表情は、播磨の疑惑の視線を、うらめしいものに、受けとめていた。
「まことだな?」
「わたくしは、もう、身も心も、貴方様に捧げて居りまする」
「明子殿は、昨年十一月中旬に、城内で、みまかった」
「えっ?」
於菊は、愕然と、顔色を一変させた。
そして――。
みるみる、双眸に泪《なみだ》を滲ませた。
「姫様が、お亡くなりに……?」
信じられぬ、と微かにかぶりを振った。
「明子殿は、駿河大納言卿より、公儀にとって、きわめて重大な意味を持つ秘密の事柄を、打明けられていた。……明子殿は、自身の身に不慮の凶事が起るかも知れぬ万が一の場合を予想して、その事を、そなたに、ひそかに教えていたのではあるまいか? 菊、そなたが、ありていに打明けてくれるならば、身共は、今年うちにも、御書院番として出仕できるのだ」
「お殿様、わたくしは、決して、かくしだてをいたしては居りませぬ」
そうこたえつつも、於菊の脳裡には、京都に於て、深夜、ひそかに明子に呼ばれた時の光景が、よみがえっていた。
明子は、於菊に、十枚の皿を渡し、これは金子では購《あがな》うことのできぬ貴重な品であり、もし将軍家に見つけられたならば、取りあげられてしまうゆえ、そなたにあずける、と云い、さらに、
「……出府したならば、この十枚の皿を守るために、青山の大久保播磨殿の屋敷に身を寄せてもらいます。……幾年さきになるか、それはまだ、わかりませぬが、もし、名張の夜兵衛と申す老爺が、たずねて参ったならば、お渡しなさい」
と、命じたのであった。
その十枚の皿は、いまも、大切に、自分の居間の戸棚にしまってある。
――姫様は、なにも打明けられなかったけれど、もしや、あの十枚の皿の中に、その秘密が、かくされているのであろうか?
「菊! その顔は、なにか迷うて居るな?」
播磨が、鋭く、云った。
その時、門前に、千夜を連れた幡随意院長兵衛が、やって来ていた。
千夜は、ふところに、夜兵衛がもらって来た大久保彦左衛門の添状を入れていた。
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心 猿
一
その年も、冬が去って、はや、桜花のたよりをきく季節を迎えていた。
青山の大久保邸では、当主播磨は、春どころではなかった。
愛憎とは、糾《あざな》う繩のようなものであることを、播磨は、存分に思い知らされていた。
於菊のことばかりが、播磨の脳裡を、四六時中占めていた。
播磨は、女人というものを、これほど激しく愛するおのれを知るとともに、於菊が心の一部しかみせていないことに、物狂おしいほど焦躁し、はては、憎悪の情にかりたてられていた。
於菊の心には、あきらかに、かたく閉ざした扉があり、その奥を、播磨にのぞかせなかったのである。
夜、寝所へ呼ばれると、於菊は、一度として拒否したことはなかった。月の|もの《ヽヽ》がある日だけ、その旨を告げて、許しを乞うたが、そのほかの日は、たとえ風邪ぎみで微熱があっても、播磨の臥床に入るのをためらわなかった。
そして、播磨の愛撫にこたえて、肢体を燃えさせた。
その限りでは、於菊は、完全に播磨のものであった。
しかし、播磨が、ひとたび、明子のことにふれると、於菊は、なんのかくしだてもしていない、とつよく否定しつづけた。
於菊が平気で虚言を吐ける女であれば、播磨も、信じたかも知れなかった。
播磨の目には、その心に閉ざされた扉が見えた。
肌身を許し、まちがいなく、男を慕い乍《なが》らも、その扉を開こうとはせぬのは、心の奥に、魔性をひそめている証左ではあるまいか。播磨は、そう疑わずにいられなかった。
播磨が、松平伊豆守とまではいかずとも、多少の狡猾さがあったならば、於菊の居間に踏み込んで、於菊の目の前で、その持物を調べたであろう。
そうすれば、於菊は、播磨にかくさなければならぬ品を所持していれば、その品を手にされた瞬間、あきらかに、狼狽の色を示すに相違なかった。
播磨は、ひたすら、於菊の心の扉を開かせたい、とあせり、懊悩した。あまりにも深く、於菊を愛してしまったからであった。
いまは――。
伊豆守の下命により、於菊の口を割らせて、御書院番に召し出されることが、播磨の第一義ではなくなっていた。
心の扉を開かせて、決して、その奥に魔性がひそんでいないのを、たしかめたい、という願いが、播磨に、全く平常心を失わしめていた。
その日――。
午餉《ひるげ》の膳部に就いて、黙々として摂り了えた播磨は、於菊が懸盤《かけばん》を下げようとすると、不意に、その手をつかんだ。
於菊は、播磨の表情を視て、からだを求められていると察知した。
白昼、播磨が求めて来たのは、はじめてであった。
座敷には、春光が、さし込んでいた。障子はあけはなたれていて、中庭が見渡せた。
「お殿様!」
於菊は、かぶりを振った。
昨夜、寝所に呼ばれた於菊は、月の|もの《ヽヽ》がある旨を告げて、許しを乞うていた。
播磨はそれを忘れているはずはなかった。知っていて、しかも、白昼、求めて来たのである。
「おゆるしを……」
ずるずるとひき寄せられて、双腕の中に入れられ乍ら、於菊は、羞恥と困惑を、顔にあふれさせ、四肢をこわばらせた。
播磨は、許さなかった。
於菊は、唇で口がふさがれたが、それはこばまなかった。
めり込んで来た舌を、歯の裡に受け容れて、応えた。
しかし、猿臂《えんぴ》がのびて、裳裾をはぐり、白縮緬の二布《こしまき》の蔭へ――内腿へ、掌がすべり込もうとするや、その手を|しか《ヽヽ》と抑えて、唇を口からはずし、
「いけませぬ!……わたくしは、けがれて居ります」
かわいた声音で、抵抗した。
「かまわぬ!」
播磨は、遮二無二、五指を股奥へ匍い込ませた。
於菊は、必死に、膝を合せて、開くまいとしつつ、
「……では、今宵にして下さいませ」
「いや、いまだ!」
播磨は、もはや悪鬼であった。
二
於菊の抵抗は、決していい加減なものではなかった。
渾身の力をふりしぼって、そうさせまいとしたが、ついに、真綿を木綿布で包んだ|あてもの《ヽヽヽヽ》を、股間から、むしり取られてしまった。
於菊は、抵抗を止めて、播磨の為すままにまかせるよりほかはなかった。
陽ざしのまぶしさに、於菊は、首をねじれるだけねじって、観念した。
思うさまに下肢をひろげさせた播磨は、血で濡れた恥部へ、おのが物を直入させると、
「菊! 申せ! かくすな! 九条明子から打明けられた秘密を、吐け!……たのむ!」
と、促した。
「………」
於菊は、目蓋も唇もひしと閉ざして、死人のようになっているばかりであった。
「菊、たのむ! 身共に、かくしだてを、してくれるな!」
「………」
「菊っ!」
播磨は、於菊を力一杯に抱きしめると、激しくゆさぶった。
死人にひとしく無反応になっていることが、最大の抵抗と受けとれた。
「真に愛し合う者同士の間に、いささかの秘密があってはならぬのだぞ、菊!」
「………」
「菊っ! こたえぬか!」
「………」
於菊の寝顔を凝視する播磨の双眸が、狂暴な憎悪の光を帯びた。
突如――。
播磨は、高い声をはりあげて、
「千夜! 千夜は居らぬか! 千夜っ!」
と、呼びたてた。
於菊は、あっとなった。
千夜が、大久保彦左衛門の添状を持参して、幡随意院長兵衛にともなわれて大久保家へやって来てから、もう一月余が過ぎていた。
播磨は、千夜を、於菊の召使いとして、屋敷に入れることを許したのであった。
於菊も千夜も、ともに両親を喪った孤児であり、その点でも、親しみ合えた。
いまでは、姉妹のようにむつまじい仲になっていた。
まだ十四歳の乙女に、このあさましい光景を目撃させようとする播磨を、於菊は、乱心したのではあるまいか、と疑った。
散り乱れたわが姿を、千夜に眺められるのは、於菊にとって、死ぬよりもはずかしかった。
「お殿様! 千夜をお呼びになるのだけは、かんにんして下さいませ」
「ならば、申せ! かくしだてするな!」
「わたくしは、姫様から、何も打明けられては居りませぬ。まことでございます。信じて下さいませ!」
「だまされぬぞ、身共は!」
播磨は、月水によごれた肌身を犯すことに、一種の嗜虐の快感さえおぼえつつ、
「千夜っ! 千夜は居らぬか? ここへ、参れ!」
と、さらに声を張りあげて、呼んだ。
「お殿様っ!」
於菊は、死にもの狂いで、播磨の下から遁《のが》れようともがいた。
軽い寝衣いちまいだけであったならば、あるいは、遁れることができたかも知れぬ。
重い衣裳をつけていては、身の自由をとりもどすことはおろか、体内から男を抜かせることさえも叶わなかった。
「おゆるしを!」
於菊の眸子から、どっと泪があふれた。
「許さぬ!」
播磨は、叫んだ。
その時、襖ごしに、次の間から、
「お呼びでございますか?」
千夜の声が、きこえた。
播磨は、於菊の耳もとへ口を寄せると、
「ありていに申せ! 申さぬと、襖を開かせるぞ!」
と、ささやいた。
「……ああ、あ!」
於菊は、喘いだ。
「さ――申せ! 九条明子から打明けられた秘密を――」
「お殿様! わたくしは、嘘いつわりを申しては居りませぬ!」
「千夜に、襖を開かせてもよいのだな?」
「ああ……、お、おゆるしを――、何卒、その儀ばかりは……」
「ならば、かくすな!」
播磨の若い力は、すこしも萎《な》えようとはせず、かえって、嗜虐の快感でさらに熱《いき》り立つようであった。
播磨は、於菊の両の膝を掴んで、一杯に押し拡げさせていた。
したがって、於菊の手は自由であり、そのつもりならば、播磨の顔をかきむしって、たじろがせることもできた。於菊は、しかし、そのような反抗はしかねた。
於菊は、これほどのはずかしめを受け乍らも、決して、播磨をいやになってはいなかったのである。
三
「ほう、これは!」
欅の嫩葉《わかば》が、春風にさわいでいる青山街道を、ゆっくりと、杖をついて歩いている名張の夜兵衛は、自分をさっさと追い抜いた若い男の背中に、ふと目をとめて、微笑した。
袖なしの半臂《はんぴ》の紺木綿に、大きく、
『一心』
その二文字が染め抜いてあったが、そのわきに、
『大久保彦左衛門忠教|識《しるす》』
と、あったのである。
肴屋であることは、かついでいる荷台で、判った。
「もし――失礼じゃが、若い衆」
夜兵衛は、呼びかけた。
振りかえった太助は、見知らぬ老爺へ視線をかえして、
「あっしにご用ですかい?」
「お前さんは、大久保彦左衛門殿に目をかけられていなさるか?」
「餓鬼の頃、お殿様にひろわれて、一年前まで、若党をつとめていた者でさあ。……あんたはお殿様とは?」
「むかし、さむらいであった頃、大久保殿には、懇意にして頂いた者でな」
「そうですかい。お一人きりで、さびしがっておいでだから、たずねて行って下さりゃ、およろこびですぜ」
「そのうちに、おたずねしましょうぞ」
肩をならべた夜兵衛と太助の足が、大久保播磨邸の門前で、停められた。
二人は、顔を見合せた。
「あっしは、このお屋敷に――」
「ほう、わしも、ここへ参ったのじゃが……」
「あっしは、十日毎に、魚をとどけに来ているんでさあ」
「わしは、はじめてじゃが、このお屋敷にわしの養い娘《こ》が、召し使うて頂いて居るので、様子をうかがいにな」
「ああ、あのういういしい、いじらしげな、千夜という子があんたの――」
「そうですわい。ちゃんとつとめができているか、心配でな」
「あっしがみたところでは、ご懸念無用でさあ。於菊さんというご女中が、よくできたおひとで、あの子を、妹のように可愛がっている様子ですぜ」
「それは、有難いことだ」
二人は、潜り戸を開けて、邸内に入った。
台所口に立った――その時であった。
廊下をあわただしく走って来る跫音《あしおと》がひびいて、台所の広い板敷きへ姿をあらわしたのは、その千夜自身であった。
まっ青な顔色になり、べたんと坐り込むと、激しく肩を上下させた。
よほど、強烈な衝撃を受けたとみえた。
「千夜、どうしたな?」
夜兵衛が、おどろいて、声をかけた。
「あっ! 小父様っ!」
千夜は、救いの神がやって来たよろこびを、全身にあふれさせると、土間へとび降りて、夜兵衛に、すがりついた。
「どうしたというのだ!……おちつきなさい。わしが、たずねて来たからには、なにも心配は要《い》らぬよ。おちついて、云うてみなさい」
しかし、千夜は、喘ぐばかりで、何も告げようとはしなかった。
「おい、千夜さん、いったい、何が起ったというんだよ? お爺さんに云ってみねえな」
太助も、千夜の肩を、たたいた。
千夜は、ただもう、かぶりを振るばかりであった。
千夜は、主人の播磨から、
「襖を開けて、入って参れ」
と、命じられて、そうしたとたん、想像もしなかった光景を目撃させられて、目も唇も凍《い》てつかせ、石のようにからだをかたくしたのであった。
次の瞬間――。
播磨は、於菊の上から、はね起きるや、ひと跳びに、千夜をとらえた。
「於菊! 白状せぬと、この千夜を、身共は、犯すぞ!」
その形相は、疑いもなく狂人のものであった。
その乱心ぶりは、しかし、於菊を、逆に、おちつかせた。
起き上って、すばやく前をととのえ乍ら、於菊は、
「お殿様、この菊に、死ね、とおもとめなされますか」
そう云った。
「死なせぬぞ、白状いたすまでは!」
「千夜に、乱暴なさいますれば、わたくしは、生きては居りませぬ」
於菊は、きっぱりと云いきった。
「死ねるかどうか、見て居れ!」
播磨は、千夜を、その場へ押し倒そうとした。
刹那――。
千夜は、自身を守る本能のすばやさで播磨の手くびへ、噛みつき、ひるむ隙に、さっと遁れたのであった。
偶然にも、夜兵衛が、訪れてくれたのは、まさしく、千夜にとって、地獄に仏であった。
千夜は、ようやく、自分をとりもどすと夜兵衛を仰ぎ視た。
「小父様、於菊さまを、救うてあげて下さい!」
「救う?」
「はい! 於菊さまは、お殿様に殺されます!」
[#改ページ]
張孔堂正雪
一
大久保播磨は、茫然と自失のていで、座敷に胡座《あぐら》をかいていた。
於菊は、自分の居間へ、遁《に》げ去っていた。
虚脱状態の播磨の脳裡の片隅には、
――菊の心は、もう、わしから去ってしまったであろう。
その絶望の意識だけが、湧いていた。
――なんということを、しでかしてしまったのだろう、わしは!
於菊の心がとりもどせるものなら、播磨は、どんなことでもしたかった。
しかし、もうおそすぎる。
――終りだ、わしと菊の仲は!
松平伊豆守が、よけいな命令を下したことが、このような結果を招いてしまった、といううらめしさも、意識を掠《かす》めていた。
九条明子の秘密を白状させる、という目的などなければ、自分と於菊は自然に結ばれて、相愛の日々を迎えたに相違ないように思われる。
千夜まで犯そうとして、於菊をおどしたことは、最大の失敗であり、狂気としか云い様のない不覚の所業であったのだ。
もはや、とりかえしはつかなかった。
――どうすればよいのだ?
どうしていいのか、播磨には、判らなかった。
庭を横切って、一人の老爺が、ゆっくりと、広縁さきへ近づいて来るのが、見られた。杖をついていた。
沓石《くついし》の前に、跪《ひざまず》くと、
「卒爾乍《そつじなが》ら、御意を得たく、罷り出た者でございます」
と、頭を下げた。
「………」
「御当家にお召し使い頂いて居ります、千夜の養い親にて、夜兵衛と申します」
そう名のられて、播磨は、はっとなり、顔面をこわばらせた。
夜兵衛は、顔をあげると、じっと、播磨を瞶《みつ》めた。
播磨は、その視線がまぶしく、目を伏せた。
「千夜なら……、連れもどってよい」
播磨は、弱い声音で云った。
「いえ、せっかく、作法見習いをさせて頂いて居るのでございますれば、こん後とも、お召し使い下さいますよう、願い上げまする。なにか、不始末をしでかしたのならば、別でございますが……」
「千夜は、……その方に、なにか、告げたか?」
「いえ、べつに、何も申しはいたしませぬ。……ただ――」
「ただ?」
「千夜は、なにやら、見てはならぬものを見てしまった模様で、ひどう、おびえて居りまする」
「………」
「お殿様――」
播磨は、夜兵衛の双眼が、急に鋭く光るのをみとめて、微かな戦慄をおぼえた。
「てまえが、本日、ご挨拶に罷り出ましたのは、千夜をお召し使い頂いたお礼を申し上げるためだけではございませぬ」
「………」
「ご女中の於菊どののことでございます」
「なに?!」
播磨は、ぎくっとなって、顔色を一変させた。
「その方、何者だ?」
「盗賊でございます」
夜兵衛は、わるびれずに、こたえた。
「なんだと?」
「大名衆、旗本衆のお屋敷はおろか、江戸城にまでも、忍び込んで居る盗賊でございますよ」
夜兵衛は、そう云って、微笑してみせた。
「な、なんのこんたんがあって、おのれの正体を明かすのだ?」
「ご老中松平伊豆守殿は、悪人中の悪人でございます」
唐突に、鋭く、断定しておいて、夜兵衛は、もとの穏かな口調にもどすと、
「貴方様は、伊豆守殿にあやつられた傀儡《くぐつ》におなりでございます」
と、云った。
「莫迦《ばか》なっ! 雑言も、事と次第によっては、生命取りになるぞ!」
「おちついて、おききとどけ下さいますよう……。てまえは、貴方様が、そのお若さにもかかわらず、直参旗本衆の中では、まれにみる清廉謹直の、士道の吟味を守っておいでなさる御仁と存じ上げたゆえ、正直に、こちらの正体も打明けて、ご忠告申し上げて居るのでございます」
二
播磨は、しばらく夜兵衛を睨み下していたが、
「上って参れ」
と、促した。
「失礼つかまつります」
夜兵衛は、座敷内で自分の座をきめると、
「盗賊風情が、いささかおこがましい申し条乍ら、てまえは、伊豆守殿に恨みを抱く者でございます。……ここ両三年のあいだ、伊豆守殿のお生命を申し受けるべく、ひそかに、狙いつづけて居りました。……偶然でございました。貴方様が、辰ノ口の評定所へ呼び出され、伊豆守殿の引見を受けられた時、てまえは、天井裏に、ひそんで居りました」
「………」
「てまえは、伊豆守殿が、貴方様に命令されたことを、のこらず、ぬすみぎきいたしました」
「………」
「てまえの口から、ぬすみぎきした内密の内容を、申し上げるまでもございますまい。……貴方様は、爾来、九条明子様より遣わされたご女中於菊どのを責めて、明子様の秘密を白状させるべく、ひどう躍起におなりのご様子――」
「………」
播磨は、口を真一文字にひきむすんで、一語も発しようとはしないが、その表情を眺めやって、
――わしの推量は、中《あた》って居る。
と、夜兵衛は、確信した。
夜兵衛が、評定所の天井裏にひそんで、ぬすみぎきした、というのは、いつわりであった。
千夜から、「於菊様は、お殿様に殺されます」ときいたとたん、夜兵衛は、
――大久保播磨は、松平伊豆守から、厳命を下されたな。
と、直感したのである。
「徒労でございますよ。於菊どのは、何もご存じではありませぬ」
「その方、なぜ、九条明子の秘密を、存じて居るのだ?」
播磨は、はじめて口を開いて、訊ねた。
「駿河大納言忠長卿が、何故にご自害なされたか――その理由でございます。伊豆守殿は、貴方様にも、その理由を、打明けては居られませぬな?」
「知らぬ。その方がぬすみぎきした通り、ご老中は、公儀にとってきわめて重大な意味を持つ秘密の事柄、とだけ申された」
「貴方様は、明子様が、そのような容易ならぬ秘密を、於菊どのにお教えなされた、とお考えなさいますか?」
「………」
「貴方様は、ご存じではございますまい。明子様は、将軍家に、殺されたのでございますよ」
「な、なに!」
播磨は、かっと瞠目した。
「将軍家が、発作の持病になやまされておいでのことは、公然の秘事。その発作直前には、狂人同様のお振舞いをなさることも知る人ぞ知る」
夜兵衛は、冷然と告げた。
播磨は、そんな事実など、いまはじめて耳にした。息をのんで、夜兵衛を、見まもった。
「於菊どのは、決して、明子様より、秘密を教えられては居りませぬ。これは、たしかでございます」
「その方、九条明子と、どういう関係にある者なのだ?」
「てまえは……、明子様のお父君九条関白様に召し使われて居りました伊賀名張の忍びの者でございます。もとより、九条家でも、てまえが、関白様より召し使われていたことを知って居る人は、誰一人居りませぬ。ただ、明子様だけが、ご存じでございました」
「きかせい。駿河大納言卿がご自害なされたまことの理由を――」
播磨は、求めた。
「その儀は、てまえも、存じませぬ」
「その方、明子から打明けられて居ったであろう」
「居りませぬな。明子様は、その秘密を胸に抱いて、ご他界になりました。……それよりも、もし、かりに、於菊どのが、明子様より教えられていたとして、貴方様に、打明けた、といたしましょう。貴方様は、早速に、手柄として、伊豆守殿に、ご報告なさいますな?」
「……うむ」
「さて、その結果は、如何相成りましょうか。その首尾により、貴方様は、はたして、亡き父上のあとを襲うて、御書院番頭におとりたてにあずかることが、できましょうかな。……できませぬな。貴方様は、伊豆守殿によって、あの世へ送られるのは、たなごころを指すがごとく明白でございます」
「………」
「伊豆守殿が、悪人中の悪人、と申し上げたのは、この意味でございます。公儀にとって重大な意味を持つ事柄を知る貴方様を、どうして、伊豆守殿が、生かしておきましょうか!」
「………」
「お判りでございますか!」
「どうすればよいのだ?」
「為さることは、一手しかございませぬ。於菊どのが、全く知らない旨を、伊豆守殿にご報告になり、折をみて、於菊どのをお屋敷から去らせること。貴方様には、それしか、為さるすべはございませぬ」
「………」
「では、これにて――」
夜兵衛は、頭を下げた。
夜兵衛の失敗は、この時、於菊に会わなかったことであった。
明子が、十枚の祥瑞《しよんずい》皿を於菊にあずけ、名張の夜兵衛に渡すように、と命じたことを、流石の夜兵衛も、夢にも知らなかったのである。
三
新緑の季節――。
牛込榎町の二千坪の敷地内に、表間口四十五間、奥行三十五間の堂々たる建物が、完成していた。
門前には、
『軍学兵法六芸十能医陰両道指南
張孔堂由比民部之輔正雪』
と記した大看板が、かかげられた。
新築成ったその日。
百畳敷きの道場では、家督名ひろめの祝儀の酒宴が、催された。
二間床には、錺《かざり》として、楠木正成・同正行・同正澄の三幅対がかけてあった。
その下には、三方の上に、後醍醐帝勅筆の綸旨、大塔宮の令旨がのせられてあり、珊瑚造りの刀懸けには、菊水の紋の打ってある伯耆安綱がかけてあり、さらに、そのわきに、『気巻』『軍敗伝』『気候』『気絵図』などの軍法書が、白木の台に積んであった。
大看板に、医陰という二文字が記されてあるのは、兵書には、必ず、医術や薬種についてくわしく述べられてあり、また、陰陽道の知識も加えてあるからであった。
すなわち。
由比正雪は、兵法軍略の指南のほか、医学、陰陽道まで教授する、という次第であった。
すでに、正雪が、土井大炊頭利勝をやりこめて、この牛込榎町の二千坪の土地をせしめたことは、大名・旗本から市井の匹夫にいたるまで、噂をひろめていたので、屋敷が成った時には、千人を越える入門の申し込みがあった。
この日、正雪は、浅黄|むく《ヽヽ》の小袖の上に、紺地の長絹をまとって、上座に就き、六韜《りくとう》・三略を三行ばかり、三遍ずつ素読し、つづいて、入門者一同とともに、素焼の盃をあげて、御世泰平をことほいで、飲み干した。
入門者は、旗本や大藩の家中の者が半数以上を占めていた。
正雪は、町人や職人も、入門をこばまなかった。
そして――、
「当道場に入った上は、武士も町人も百姓も、全く同格として、とり扱うゆえ、左様心得られたい。たとえ、十万石の大名の子息であろうとも、特別扱いはいたさぬ。隣りに、府外で田畑をつくっている百姓の倅が、座に就こうとも、これと同席を忌《い》みきらう者は、即刻道場を去ってもらう。当道場に於ける限り、身分地位の上下はない。それがしが、みとめるのは、その才能実力のみである」
と、申し渡していた。
それがまた、評判を呼んでいた。
酒宴が絶頂に達した頃あいをみて、正雪は、奥の居室へ、入った。
――丈山先生が、今日の有様をごらんになったら、なんと云われるであろうか?
正雪は、まだ出来あがっていない奥庭を眺めやり乍ら、思った。
石川丈山は、京都に入り、叡山麓の一乗寺村に、詩仙堂と名づけた草庵で、晴耕雨読のくらしをつづけていた。
「ばかなまねは、止めるがよい」
もし、丈山が、今日の有様を眺めたら、そう云うに相違ないような気がした。
丈山は、熱海から京都へ行く途中、弥五郎に巡り逢った時、云ったのである。
「お前は、百年おくれて、生れた。戦国の世に生れて居れば、一国一城のあるじにもなれたであろうものを――」
徳川将軍家の権威が、不動のものとなったこの寛永の時世に、敢えて幕府の方針にさからうようなくらしかたを、浪人風情がやってのければ、いずれは、ただではすむまい。
丈山は、暗に、弥五郎を、いましめたのであった。
しかし、弥五郎は、好むと好まざるとにかかわらず、張孔堂正雪となり、世間の目をそばだたせる大道場を構えてしまったのである。
この上は、浪人の身として、どれだけ、やってのけられるか、やるよりほかはなかった。
正雪は、道場から、いちだんと高い丸橋忠弥の歌声がひびいて来るのをきき乍ら、
――おれの目的は、海外雄飛にある!
と、自分に云いきかせた。
その折、玄関取次ぎの門下生が、
「先生、浅草幡随意院門前の、長兵衛と申す町奴が、お願いの筋があって、ぜひお目にかかりたい、と訪ねて参って居りますが」
と、告げた。
正雪は、旗本奴と町奴は、弟子にとらぬ方針であった。
「金井半兵衛に、用向きをきかせるがよい」
正雪は、こたえた。
これからは、かるがるしく、人に会わぬようにする、と正雪は、心にきめていた。
処世の策として、諸臈孔明のやりかたを学ぶことにしたのである。
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大盗忘れ形見
一
奇妙な、浪人者であった。
年齢は三十六七であろうが、総髪は真白であった。いっそ、小気味がいいほど、黒毛は一本もなかった。そのくせ、臀《しり》端折りして、むき出した毛脛は、黒く密生して針金でも植えたようであった。はだけた胸毛も、濃く、藻に似ていた。
頭髪だけが古稀翁|宛然《さながら》であった。
身丈は、ひょろひょろと高く、六尺近くあろうが、ひどく痩せこけていた。但し、顔の血色はよかった。
その顔だが、一応造作の出来はいいのだが、なんとなくバランスがとれていなかった。
双眼は大きいのだが、少々はなれすぎているとか、鼻梁は高いのだが、鉤形《かぎがた》になっているとか……。
それよりも、手と足が、異常に巨きく発達しているのが、人目をひいた。
いま――。
濠端に佇んで、朝の中天を截《き》りぬいている駿府城の天守閣を、ぼんやり仰ぎ視ているのだが、どうやら、すぐにそこをはなれそうな気色はなかった。
「もし――」
背後から、呼びかけられて、浪人者は、振りかえった。
若い女で、肌の色が白くなめらかで、切長な眸子のすずやかな容貌を持っていた。立姿も美しかった。殊に、頸すじから肩へかけての線が、すっきりと際立っていた。
旅姿で、杖をついていた。懐剣を胸にのぞかせているところをみると、武家の出であろうが、べつに供をつれてはいなかった。
「卒爾|乍《なが》ら、お前様は、元は駿河大納言卿のご家中でありましたか?」
「いや、べつに、当城とは、なんの縁もない者でござる」
「でも……、むこうの休み茶屋で、拝見いたして居りますと、もう小半刻も、天守閣を眺めつづけておいででございます」
「天守閣というものが、好きなのでござるよ。これで、日本全土の城を、経巡って眺めて参り申した」
そうこたえてから、浪人者は、両手をさしあげると、大あくびをした。
変り者に相違なかった。
若い女は、微笑して、
「わたくしはまた、亡き主君を偲んでおいでかとお見受けいたしました」
と、云った。
すると、浪人者は、
「拙者が、あの天守閣を仰いでいるあいだ、貴女は、拙者を眺めていたことに相成りますな?」
「はい」
若い女は、うなずいた。
「どうしてでござる?」
「ただ、なんとなく……」
若い女は、微笑をかえした。
「ははあ、ただなんとなく――か。ところで、あの茶屋には、一夜《あま》酒を売って居り申そうか?」
「わたくし、飲みました」
「それは、有難い」
浪人者は、大股に、休み茶屋へ向った。若い女も、なんとなく、ついて来た。
甘酒が、ひろく庶民の飲料となって、おでんや鍋焼うどんとともに、どこででも売られるようになったのは、江戸時代も中期になってからであった。
この頃は、関東や東海道の宿駅などでは、あまり売られていなかった。
尤も、甘酒は、古くからあり、奈良時代は、粉《こな》酒を|あまざけ《ヽヽヽヽ》と称《よ》んでいた。
大坂地方で、産土《うぶすな》神や船玉の神を祭るのに使い、また、大津の問屋の麹《こうじ》で、禁裏へ奉る一夜酒を作ったのも、古代からの名残りであった。
甘酒は、ようやく、東国にも普及しようとしていた。
若い女は、はこばれて来た熱い甘酒を、さもうまそうに飲む浪人者を見まもり乍ら、
「お前様は、近畿の御仁《おひと》でございますか?」
と、訊ねた。
「左様――、斑鳩《いかるが》の里で、生れ申した」
「それは、良い土地で、お生れになりましたなあ」
「あいにく、育ったのは、大坂の貧民窟でござる。ただ、物心ついた頃より、大坂城の天守閣を、毎日、眺めていたのが、唯一の愉しい思い出でござるよ」
「ぶしつけなおたずねをいたしますが、その御髪《おぐし》は、生れついて白いのでございますか?」
若い女は、訊ねた。
その時、はじめて、浪人者の表情が、ひきしまったものとなった。
二
「いや、これは、七歳の時に、真白になり申した。あまりのおそろしい出来事に遭って――。仔細はおきき下さるな。思い出すのも、まっぴらでござる」
浪人者は、こたえてから、しげしげと、若い女を、視なおした。
「貴女は、お一人で、なにが目的で、道中されて居るのでござるか?」
「江戸へ参って、弟が奪われた貴重の品を、取り返す目的を抱いて居ります」
「貴重の品とは?」
「わたくしの家は、この駿府はずれの豪族で、|楢村《ならむら》家と申します。父は、公儀小姓組番をつとめ、楢村孫九郎と申しました。事情があって、十年前に、江戸城西ノ丸の小姓溜で、同輩の木造三郎左衛門、鈴木久右衛門と申す者に、武士の意気地で、刃傷に及び、二人を討ち果しました。その罪で、父は切腹し、家は、断絶いたしました。父の祖父は、大饗《おおあえ》玄正と申し、楠木正成の後胤でございました。
わたくしの弟にて、楢村家の跡目を継いだ利正と申す者が居り、やがて、西国の大名に召し抱えられましたが、西国におもむくにあたり、大饗家重代の家宝を、家来筋にあたる室戸甚四郎と申す者に、預けて参りましたが、甚四郎は、心の曲った者で、それらの品を、着服し、出府して、江戸に於て、楠木正成の直系を称し、楠不伝と名を変えて、道場をひらき、あまた門下を集めた模様でございます。わたくしは、弟に代って、それらの家宝をとりかえさなければなりませぬ。……たまたま、お前様をお見かけして、この御仁こそ、助太刀して頂けるのではあるまいか、と思い立ったのでございます」
「………」
「噂にきけば、楠不伝は、牛込榎町にて、宏壮な邸宅を構え、大名旗本、その他を、多数門下に加えた由。……許すことは、できませぬ」
「………」
「とっさに、助太刀をお願いしようと思いつきました。お前様の後姿に、いちぶの隙もないのをお見かけしたのでございます。この御仁ならば、助太刀をして下さるのではあるまいか、と予感をおぼえました。申しおくれましたが、わたくしは、百合と申します」
若い女は、すらすらと語った。
「真実を打明けて居られるらしい」
浪人者は、独語すると、
「拙者は、石川五郎太と申す」
と、名のった。
「はい――」
楢村百合は、じっと、浪人者の視線を受けとめて、諾否の言葉を待った。
石川五郎太が、口をひらこうとした時であった。
あわただしく、大手門方面から馳せつけて来た二人の武士が、茶屋の前をふさいだ。
「こやつだな?」
一人が、石川五郎太を指さし、もう一人が、鋭く睨みつけて、
「相違ない。こやつだ!」
と、云った。
「なんでござろうか?」
石川五郎太が怪訝《けげん》そうに訊ねた。
「しらばくれるな! われわれは、駿府目付だ。と申せば、おのれは、もはや、遁《のが》れられぬところと、観念いたせ!」
「詮議を受けるようなことは、一向に身におぼえがござらぬが、嫌疑をかけられたのは、拙者の人格の未熟でござる。役所へ連行して頂いて、申しひらきつかまつる」
「神妙の態度だ。両刀を渡せ」
石川五郎太は、命じられた通りに、腰から大小を抜くと、目付の一人に預けた。
それから、百合を見かえり、
「妙な按配になり申したが、これは、なにかのまちがいでござろう。嫌疑がはれ申したならば、貴女のあとを追い申すゆえ、ひと足さきにお行き下され」
と、云った。
百合は、しかし、駿府目付に逮捕されたこの浪人者が、容易に身の自由をとりもどせまいと思った。
目付たちは、この浪人者になにやらかかわりのありそうな女を、行かせてもよいものかどうか、と顔を見合せた。
それを看てとった五郎太が、
「このご婦人とは、たったいま、知り合ったばかりでござる。神明に誓って、相違ござらぬ」
と、弁明した。
目付たちは、百合が立ち去るのを許した。五郎太は、百合の姿が見えなくなると、
「では、役所へお連れ下され」
と、自分の方から促した。
二人の目付は、五郎太のあまりの神妙な態度に、
――もしかすると?
――どうやら、こやつではないかも知れぬ?
と、視線を交した。
三
五郎太は、目付に前後をはさまれて、濠端を歩き出した。
飄々とした歩きかたであった。
「貴殿がた――」
五郎太は、天守閣を仰ぎ見乍ら、呼びかけた。
「あの天守とおのれ自身を比べて、人間の卑小さに、少々腹立たしい思いをなさらぬか?」
「余計な口をきくな!」
後方の目付が、叱咤した。
「いや、余計な口をきいては居り申さぬ。お目付衆は、いわば、城の番犬のようなもの――」
「なに!」
前を行く目付が、凄い形相で、振りかえって、睨みつけた。
「番犬だと! おのれ、なにをほざくか!」
「そのように|むき《ヽヽ》になって、慍《おこ》るのが、番犬たる証拠でござるな」
「黙れっ!」
「黙りたくとも、貴殿がたに対しては、しゃべりたくなり申す。番犬、と申したのは、つまり、その鼻の嗅ぎ当てぶりが、あっぱれであった、とほめているのでござる」
「なんだと?!」
「ははは……、たしかに、この石川五郎太、お目付衆に捕えられるおぼえがござる」
「やっぱり、おのれは――」
「左様、一昨夜、城内に忍び込み、あちらこちらをうろつきまわったのは、拙者でござる」
平然として白状する五郎太、二人の目付は、薄気味悪いものに見まもった。
両刀を渡して、無腰になり乍ら、なんのはばかるところもなく、自身を曲者とみとめてみせたのである。
「なにが目的で、忍び込んだ?」
「駿府城内にたくわえられた莫大な軍用金が、目当てでござった。すなわち、この石川五郎太は、盗賊でござる」
「ぬけぬけと、ほざき居る。おのれの方から、白状する存念をきこう」
「貴殿がたの虜囚《りよしゆう》になる気持など、さらさらない、ということでござる」
そうこたえた――次の瞬間。
目付の一人の小脇にかかえられていた大小は、五郎太の腰にもどった。
あっ、となって、もう一人の目付が、
「おのれっ!」
と、差料を抜きはなつのと、五郎太が地を蹴って、宙を翔《と》ぶのが、ほとんど同時であった。
濠に沿うて、馬場があり、往還とは松の並木がへだてていた。
五郎太の痩身は、その松の梢へ、跳躍したのであった。
「ごらんの通り、貴殿がたの手では、とうてい、捕えられるような男ではござらぬ、拙者は――」
梢の蔭に、すっと身をかくし乍ら、五郎太は、高らかに云いはなった。
目付二人は、夢中で、その下へ奔った。
血眼で、仰ぎ視たが、もはや、その姿をとらえ得なかった。
「あきらめられい。徒労でござる」
別の高処《たかみ》から、五郎太の声が、降って来た。
目付たちは、手裏剣をつかむや、躍起になって、五郎太の姿をもとめた。
しかし、その血眼に映るのは、幹と枝葉と、青空ばかりであった。
信じられぬことだった。
五郎太の姿は、完全に空間に溶け込んでいた。
「お目付衆、いかがでござる? 拙者を見つけるのは、もはや、不可能でござるよ」
「おのれっ! うぬは、何者だ?」
「石川五郎太と申す盗賊でござる、とおきかせいたしてある」
「本名を名のれ!」
「石川五郎太が、まちがいもなく本名でござる」
「嘘を吐くな!」
「お目付衆ともなると、うたぐり深いものだ。……おう、そうだ。ひとつだけ、申し忘れるところでござった。拙者は、いまから三十年前、伏見城大手門前の広場にて、釜ゆでの極刑に処せられた大盗石川五右衛門の一子でござる。あの日のことは、昨日のことのように、忘れ申さぬ。父五右衛門は、七歳の拙者の身をかばったために、生捕られたのでござる。そして、釜ゆでにされる際、父五右衛門は、拙者を両手たかだかと、さしあげたまま、縡《こと》切れ申した。拙者の頭髪が、斯様に真白になったのは、その時の恐怖のゆえでござる。……大盗石川五右衛門の倅ともなれば、貴殿がたにつかまるような|へま《ヽヽ》はつかまつらぬ。おさらば――」
楢村百合は、城下はずれの古びた阿弥陀堂の格子戸前に、腰をかけていた。
――あと半刻を、待ってみよう。
自分に云いきかせて、城下の方へ、じっと眼眸を置いていた。
あと半刻も待つ必要はなかった。
飄々とした足どりの痩身が、街道上に現れたのである。
「あ! やはり、あらぬ濡れ衣をかけられておいでだった」
百合は、表情をあかるいものにした。
石川五郎太は、百合をみとめると、片手をさしあげた。
「やあ! お待たせいたした」
飄々とした足どりにもかかわらず、その歩速は、常人が小走りになるよりも迅《はや》かった。
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禁 教 迫 害
一
季節は、孟冬《もうとう》(十月)もなかばを過ぎていたが、まだ清秋のようなあたたかさであった。
道中するには、適《かな》った日和つづきであった。しかし、気候は、この月に入ってからはじめて、おさまったのである。
この年は、農民にとっては、業苦の天災がつづく凶年であった。
梅雨期には、全く雨が降らず、日本全土で、血で血を洗うような水争いが起っていた。
夏が過ぎてから、豪雨が、たてつづけに襲って来て、例年の三分の二にも足らぬ青田を、さらに減少せしめた。
石川五郎太と楢村百合が辿って行く駿河路も、山麓や河川沿いの地域は、いたるところ、田畑が土砂に埋められて、幾度びが荒れ狂った暴風雨の凄じさを、物語っていた。
楢村百合は、しかし、そのいたましい光景に、目を向けるより、連れになってくれた浪人者に、心を奪われていた。
「お前様は、元はいずれかのご家中でありましたか?」
「いや、父祖の代からの浪人者でござる」
大盗石川五右衛門の息子は、こたえた。
「わたくしには、なんとなく、お前様が、由緒ある大家のご出身のように見えまする」
「そう見て下さるのは、|忝 《かたじけな》いが……、なに、伊賀の山中で、国衆と称《よ》ばれた、名もない地ざむらいの末孫にすぎ申さぬ。おまけに、七歳の年から、乞食同様に、諸方を漂泊し乍《なが》ら、育ち申した。……父親を喪って、京洛をうろついている時、この浮浪児を、救ってくれたのは、加茂の磧《かわら》で興行していた、出雲の阿国と申す歌舞伎役者でござった。この東海道を下って、はじめて江戸を眺めたのも、出雲の阿国が、徳川内府に招かれて、江戸城で、歌舞伎踊を披露したおかげでござった。尤も、脂粉《おんなけ》ばかりの世界で、走り使いをやらされているのは、性分に合わず、ほどなく、行方をくらましてしまい申したが――」
「それから、日本中を、お歩きなさいましたか?」
「歩き申したな、足の向くまま、気の向くままに……」
「兵法修業を、どこでなさいましたか?」
「伯耆から、小舟で、隠岐島へ流れ着いたところ、そこに、仙人のようなくらしをしている老人が居り申した。その老人から、習い申した。前身は、さだめし名のある兵法者であったに相違ござるまいが、問うても、名さえ打明けてはくれませなんだ。ただ、一言、むかしは、飯綱《いづな》使いであった、とだけもらして居り申したが……」
飯綱使い、とは、荼枳尼《だきに》天の法・摩利支天の法を使う妖術者を、指して謂《い》った。
兵法者で、飯綱使いと称されたのは、塚原卜伝と松山|主水《もんど》であった。その業前が、幻妙をきわめ、人間ばなれしたものであったからである。
隠岐島にかくれ棲んでいた老人は、むかしは飯綱使いであった、というだけあって、五郎太に教えた変幻自在の芸と術は、ただの兵法ではなかった。
五郎太は、三年間、その草庵にとどまり、老人の静かな他界を看取ってから、本土へもどって来た。
この年、大坂役が、起った。
五郎太は、すすんで、大坂城にやとわれ、まだ十六歳の若年乍ら、飯綱使いぶりを存分に発揮して、冬の陣も夏の陣も、かぞえきれぬほど寄手を討ち取ったが、身には微傷だに蒙らなかった。
そして、落城とともに、姿をくらまし、再び流浪者となった。
ただの浪人者ではない、と看た楢村百合の目は、正しかったわけである。
その奇妙な風姿には、一瞥した瞬間から、惹かれたが、こうして肩をならべて歩いていると、ますます、離れがたい魅力を、百合におぼえさせていた。
巡り逢うべくして遇《あ》った、自分にとって生涯唯一人の男子のような気がしていた。
駿府城の濠端で、思いきって声をかけた自分の振舞いは、神明のみちびきであったとさえ思われる。
「あ!」
百合は、われにかえって、前方を眺めやった。
街道を掩うて、軍列がこちらへ向って来るのが、遠望された。
「なんでしょう?……どこかで、合戦が起ったのでしょうか?」
「戦さなど、どこにも起る気配はなかったが――」
と、呟いた五郎太は、
「ああ! 判った。あれは、島原・天草で起って居る一揆を、鎮圧に行く軍勢でござるよ」
と、判断した。
「島原・天草で、一揆が――?」
「左様、拙者は、この夏までは、島原に在ったのでござるが、一揆は、起るべくして起り申した」
二
軍列を避けて、脇道にしりぞき、松の疎林の中に、腰をおろした五郎太が、百合に語った島原・天草の一揆蜂起の遠因・理由は、次のような次第であった。
曾《かつ》て――。
島原は、有馬晴信の領地であり、天草は、天草種元の所有地であった。
有馬晴信も天草種元も、いずれも熱烈な吉利支丹《キリシタン》信徒であった。
天草種元は、信仰夢中のあまり、全島民に対して、
「耶蘇教信者になるか、拒否するか――もし、拒否するに於ては、天草より退去すべし」
と命令して、一人残らず、改宗せしめたくらいであった。
そして、吉利支丹大名小西行長の援護を受けて、当時、天草島は、海を渡って来る宣教師たちが、必ず足を踏み入れる聖地の観があった。
関ヶ原役後、天草の領主は、代って、寺沢広高になった。寺沢広高も、吉利支丹大名の一人であったので、徳川幕府が、吉利支丹禁制の令を発するまでは、島民の信仰ぶりを、むしろ大いによし、としていた。
慶長十七年三月二十一日、徳川家康は、異教禁制にふみきる布令を下した。まず、駿府・江戸・長崎などの幕府直轄地から、信徒を追い払い、同時に、京都にある吉利支丹宗門の寺院を破壊させた。
この三月二十一日は、有馬晴信の陰謀事件に、裁決を下した日であった。家康は、この事件をきっかけにして、耶蘇教を禁圧する肚をきめたのである。
事件というのは――。
肥前国の藤津・彼杵《そのき》・杵島の三郡は、元は有馬家累代の領地であったが、当時は、鍋島家の所有となっていた。有馬晴信は、機会があれば、この三郡をとりもどす悲願を持っていた。
家康の寵臣本多正純の家臣で、吉利支丹信徒パウロ岡本大八という者がいた。本多正純は、岡本大八を、しばしば、長崎へ遣わして、異国との交易状況を視察させていた。
ある年、岡本大八は、その視察を終えて、帰府の途中、有馬晴信に逢うと、
「近頃、葡萄牙《ポルトガル》船追撃の功によって、ご当家に賜賞のうわさがござる。もし、ご当家で、おのぞみなれば、藤津・彼杵・杵島三郡を、領地替えできるよう、あるじ正純に、お取次ぎ申そう」
と、云った。
晴信以下重臣たちは、この言葉を信じて、岡本大八に、数千両を贈賄した。
大八は、話が進んだとみせかけて、家康の朱印や文書を偽造して、晴信に手渡した。
勿論、いつわりであるから、時が経っても、有馬家に対して幕府からなんの沙汰もなかった。
晴信は、しびれをきらして、本多正純を、訪問して、事の是非をたずねた。正純は、おどろいて、晴信と大八を対決させた。
その結果、大八は、投獄された。
大八は、獄中から、有馬晴信は吉利支丹大名として、幕府を裏切るかずかずの所行を犯している旨、家康宛に直訴状をさし出した。
有馬晴信は、所領を召し上げられ、甲州に配流され、やがて、死を賜うた。
家康の胸中に、九州著名の大名や本多正純の家宰たる者が、このような悪事を犯したのは、耶蘇教を信じたからではないか、耶蘇教徒は油断のならぬものという猜疑の念が起ったのは、事実であろう。
すくなくとも、宗教というものが、深く人の心の奥へ食い込むと、いかなる不敵な行動でも為さしめる力を持っていることを、家康は知っていた。
家康は、翌年慶長十八年十二月に、金地院崇伝に命じて、伴天連《バテレン》追放の一文をものさせ、いよいよ、厳しい禁圧の態度を、示した。
[#2字下げ]爰《ここ》に吉利支丹の徒党、適々《たまたま》日本に来り、啻《ただ》に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、大いに邪法を弘め、正宗を惑わし、以て城中の政号を改めて己《おのれ》が有と作さんと欲す。これ大禍の萌《きざ》し也。制せずんばあるべからず。
そういう激しい文章でつづられた禁制令であった。
これが、全土に布かれるや、島原・天草の様相は忽ち一変した。
天草の領主寺沢広高は、すばやく改宗して、迫害者の立場に就いた。
島原の新領主となった松倉重政も、従来は耶蘇教に対しては寛大な大名であったが、幕府の徹底的な弾圧方針を知ると、その方針の実行者たる|ほぞ《ヽヽ》をかためた。
三
吉利支丹禁圧は、家康から秀忠、秀忠から家光、と将軍職がゆずられるにつれて、次第に、厳しく激しいものとなった。
家康は、禁制令にこそ激烈な文章をつらねたが、信徒を捕えて死刑に処することはしなかった。
旗本千五百石の原|主水《もんど》が、信徒と判明したが、改宗を迫ってもはねつけると、家康は、額に烙印し、両手の十指ぜんぶを截《き》って追放にした。しかし、殺しはしなかった。
二代秀忠は、耶蘇教師は、日本占領の野望を燃やす西班牙《スペイン》王の派遣して来た間者《かんじや》だと疑ったが、伴天連を捕えて死刑に処することはしなかった。ただ、日本から追放するにとどめた。
しかし――。
三代を継いだ家光は、みじんの容赦もなく、信徒を狩るや、火刑、磔刑《たつけい》をつぎつぎと行なった。
家光が、将軍となる元和九年までは、家康から追放された原主水でも、江戸府内に潜伏していることができたのである。
この原主水も、逮捕された。同時に繩目を受けたのは、耶蘇会《ゼスイツト》の布教師エロニモとフランシスコ会のガルベス神父、そして、遠藤シモンほか四十七人の信徒であった。
伴天連たちは、それぞれ、途方もない苦難を経た古つわものであった。
エロニモは、伊太利《イタリア》のシシリイ出身で、十八歳で耶蘇会に入り、師にしたがって、印度に至り、日本に入る許可を受けた。しかし、エロニモが乗った船は、暴風雨に遭い、喜望峰から南米ブラジルに漂着した。葡萄牙《ポルトガル》へ回航の途中、英国海賊に襲われて、人質として英国へ連れて行かれた。ロンドンからリスボンヘ、印度を経て支那へ、そして、ようやく目的地日本に至ったのは、慶長七年であった。
一年間、日本語をしゃべることと、書くことを学び、布教にのり出したが、その足跡は北陸・奥羽から遠く蝦夷にまで及んだ。
二十余年間にわたる、文字通り献身的な伝道の挙句、エロニモは、遁れられぬと知ると、世俗の衣服を脱ぎすてて、剃髪し、法衣をまとい、立派な、おごそかな神父の容姿になって、奉行所へ名乗り出たことであった。
フランシスコ会のガルベス師も、エロニモと同じ年――慶長七年に、日本へ渡って来たが、慶長十九年、家康によって、国外追放になり、いったん馬尼剌《マニラ》へしりぞいたが、元和四年には、水夫に化けて潜入して来た冒険者であった。
ガルベスは、一時、伊達政宗を頼って、奥羽一円を布教して巡ったが、家光が将軍となるや、政宗がてのひらをかえしたように冷酷になり、領地からの退去を命じたので、やむなく、関東に忍び込んで、上総や安房で、漁師たちを信徒にすべく努めたのであった。
探索の手がのびて来たので、ガルベスは、小舟で鎌倉へ遁れようとしたが、海上で発見され、逮捕された。
原主水、エロニモ、ガルベス以下五十人の信徒は、前三人が痩馬に乗せられ、後の者は跣足《はだし》で、市中をひきまわされてから、刑場である品川八っ山へ至った。
エロニモは、市中ひきまわしの間、絶えず、沿道に集まった見物人たちに、教義を説ききかせた。
原主水は、刑場に入ると、馬上から、大音声で、蝟集した見物人に、云った。
「それがしは、三河譜代の御家人原主水でござる。このたび、神の道の為に死に申す。これは、それがしの勝利でござれば、最期のさまを、とくとごらんあれ」
役人たちは、エロニモや主水が、なんと叫び、どうしゃべりかけようが、そのままに、すてておいた。異邦の宗教を信仰することを、曲事《まがごと》とは、内心考えてはいなかったからである。
処刑の時刻が迫った時であった。
突如、信徒の一人が、恐怖のあまり、棄教を叫んだ。即座に、踏絵が用意され、その男は、それを踏んだ。
男は、放免された。
すごすごと、竹柵を出て行こうとする男を、群衆の中から、一人の浪人者が躍り出て来て、|むなぐら《ヽヽヽヽ》をつかんだ。
「お主は、卑怯者ぞ! 恥をさらしてはならぬ! さ、悔い改めて、刑に就け!」
しかし、棄教者には、もはや、その勇気はなかった。
棄教者を責めた浪人者は、役人に向い、「拙者も、吉利支丹信徒でござる。この放免者になり代って、火刑に遭いとう存ずる。許されい」
と、申し出た。
役人たちは、確たる証拠がない上は、左様なことはできぬ、としりぞけた。
火刑は、下層の者からの順序で、つぎつぎととり行なわれたが、一人として恐怖の悲鳴をあげる者はいなかった。
最後に、原主水とエロニモとガルベス三人が、高く十字架上に縛せられた。主水は、しきりに江戸の町の方を眺めやっていたが、天を仰ぎ、府内外にかくれ住む信徒たちの身の安からんことを祈った。
エロニモは、竹柵外の群衆に向って、なお、教義を説きつづけた。
ガルベスは、終始沈黙して、目蓋を閉じたままで、火焔に包まれた。
奉行以下役人が、刑場を去ったのは、薄暮であった。闇がそこに落ちると、三三五五と、人影が柵内へ忍び入って来て、その焼死体を、そっと、運び去って行った。
寛永元年――家光自身が、火刑を命じた第一回の迫害であった。
江戸に於ては、翌年、さらに、三十七人の信徒が捕えられて、処刑された。その中には、女子五人、小児十八人が加わっていた。
その頃から、弾圧は、狂気じみて来たのである。
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信 仰 不 滅
一
日本へ潜入すれば、必ず捕えられて、磔刑か火刑に遭う、と判り乍ら、異邦の宣教師は、つぎつぎと、海を渡って来た。
宛然《さながら》、殉教をのぞむがごとく、僧侶たちは、潜入して来たのである。
例えば――。
豊臣秀吉が、慶長元年十一月に、怒りにまかせて、吉利支丹信徒二十六人を、長崎で火刑に処した報が、マニラに伝えられるや、それから四箇月後には、フランシスコ会の布教師ゼロニモとゴメスという二人が、日本人に扮して、日本船に乗り込んで、潜入して来ていた。
三代将軍家光の厳命によって、耶蘇会《ゼスイツト》の使徒エロニモ聖師とフランシスコ会のガルベス神父が、江戸品川で火刑に遭うた、という悲報が、マニラにとどくや、僧侶と信徒の間には、異常な興奮と感激がまき起った。そして、マニラ総督や大司教の阻止勧告をしりぞけて、十人の決死の伴天連が、日本へ潜入して来た。
これは、どういうことなのか?
日本の施政者にとって、このことは、無気味であり、不快であり、腹立たしかった。
現世に在って艱難苦痛を堪え忍び、来世に於て天国へ昇るのを、救いの真意義としているのが伴天連の法《のり》のようであるが、殺されて流す血汐が、天国《ハライソ》とやらへ入る左券と信じ、殉教こそ無上の栄誉、最上の救いと思い込んで、あらそって死に赴こうとするのは、沙汰の限りとしか、考えられなかった。
殺されると判って、潜入して来る勇気と熱情と努力には、敬意を表さねばならぬが、武士道の吟味を精神上の原理とし、誇りをおのが生命とするこちらにとって、合点のいかぬのは、主君の為でも、国の為でもなく、『神』という抽象の存在に対して、没我の奉仕を誓って、身をすてることをはばからぬことであった。
不可解であった。
たしかに、宗教上での信仰は、絶対性を有《も》っている。自己の存在の基礎となり、生活の原則となるものであるから、信仰は何ものにも替えがたい貴重なものであろう。
しかし、信仰をすてるか、生命を棄てるかと迫られた場合、よろこんで、後者をえらぶ仏教徒は、まず、日本には見当らなかった。
吉利支丹信徒は、その殉教を栄誉として、すすんで、死んで行くのであった。
いかにも没我とみえたが、考えてみれば、極端な利己主義とも受けとれた。
このような宗門に、庶民がつぎつぎと帰依して、その頭数がおびただしいものとなれば、曾ての一向宗門徒以上の、おそるべき、兇暴な徒党と化す危険を蔵している。
――殲滅せしめるに如《し》くはない。
将軍家光以下、幕府の閣老たちは、伴天連の本分を、嫌悪したのである。
「手段をえらばずともよい。吉利支丹伴天連とその信者は、一人のこらず、掃滅せよ!」
家光の下命を奉じて、寛永三年、長崎所司代となった水野河内守と、そのあとを継いだ竹中|采女《うねめ》の、吉利支丹信徒迫害は、爾来八年間、目をそむけしめる残忍|嗜虐《しぎやく》をほしいままにした観があった。
ただ召捕れば、火焙《ひあぶ》りにするとか、打首にするとか、というだけでなく、あらゆる拷問をもって、のぞんだのである。
あるいは、穴に逆吊りにし、あるいは海中に柱を立てて、満ちて来れば顔まで漬けさせ、あるいはまた、火山の熱湯にじりじりと吊り下げたりした。まず、信者の首領株を、拷問によって、棄教の範を示させる目的であったので、その手段は、残忍をきわめたのであった。
男女の別なく素裸にして、極寒中、氷の張った池を割って、首まで漬けて、口腔いっぱいに、氷を押し入れた。額には、キリシタンという五文宇の烙印をした。石をくくりつけて、海に沈めた。温泉岳(現在の雲仙岳)の地獄湯に、炙籠《あぶりかご》に乗せて吊り下げ、下肢を浸させた。竹の鋸で、頭を挽《ひ》いた。その傷口には、塩をすり込んだ。母親の面前で、その子のからだへ、真赤に焼けた鉄棒をあてた。尖った木の針で、皮膚を刺して、肉の中深へ折れ込ませた。人妻、生娘を捕えて、衣服を剥ぎとり、市中をひきまわした挙句、多くの人々の見まもる中で、身分卑しい者に、犬のように犯させた。蛇桶の中へ投げ入れて、恥部へ蛇を匍い込ませた。
ありとあらゆるむごたらしい拷問を加えて、それでも、棄教せぬ者は、火刑に処した。
島原領主松倉重政、その子勝家も、天草領主寺沢広高、その子堅高も、残忍な迫害者となって、同様な拷問を加えた。
二
さらに、その上、松倉重政、勝家父子は、前代未聞の重税を、領民に課したのであった。
家を建てれば建築税を、炉を設ければ炉税を、窓を設ければ窓税を、出産すれば頭税を、はては、死亡埋葬すれば穴税を――といったあんばいに、まさに苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》の権化となって、あらゆる税目を設けて、領民の膏血《こうけつ》をしぼりあげたのであった。
勿論、年貢米は、他領の倍を課した。
島原半島は、山地が大部分を占め、一帯に地味は瘠せ、耕地がすくなく、また、十数年来凶作がつづき、飢饉が起っていた。そうした不運は、一切おかまいなく、松倉家は、領民を飢死寸前までに追いつめたのであった。
理由があった。
松倉重政は、小大名のくせに、幕閣の列に加わりたい野望を抱いた。
そのために、幕府の機嫌伺いには、いかなる労役も辞さなかった。
重政は四万三千石であったが、江戸城馬場先の石垣と門を築く工事を割り当てられるや、自ら進んで、
「島原には、良き石材がありますれば、十万石分のお役をうけたまわります」
と、申し出たことであった。
徳川家に媚《こび》ることに汲々として、その江戸城手伝いには、不興を買わぬように、藩をあげて、金と人員と労力と神経を惜しまぬ大名も、課せられた軍賦を、わが所領石高の倍、三倍をと、申し出る者はいなかった。
千石夫といい、所領石高千石につき一人の割合で人夫を出させられたが、大名たちの中には、二人、三人、あるいは五人、と余計にさし出した例は、珍しくなかった。
しかし、四万三千石のくせに、十万石分の金と人員と石材、木材をさし出すと申し出たのは、一人松倉重政だけであった。
島原領民は、江戸城完成のための犠牲にもなったのである。
そうでなくてさえ、島原領民は、つかれ果てていた。
松倉重政は、有馬晴信の故城日野江城を解いて、島原へ移して高来《たかぎ》城を築いたのであったが、それには、七年間の歳月と経費と労力を費した。すべて、領民の負担であった。
その惨たる疲弊を、全く無視して、重政は、江戸城ご奉公の布令を出したのであった。
そして、それに追い討ちをかけて、
「吉利支丹宗門に帰依すること罷《まか》りならぬ」
と、禁圧に出たのであった。
有馬・小西の両吉利支丹大名によって護《まも》られた島原・天草が、信徒の聖地にされていたことは、さきに述べた。
松倉家と寺沢家の極端な変貌は、しかし領民の信仰を、さらに根強く、深いものにしてしまう逆効果があった。
松倉家と寺沢家では、将軍家光の機嫌をそこなわぬためには、躍起になって、殲滅しなければならなかった。
松倉家にも、寺沢家にも、拷問役人たるために生れて来たような冷酷非情な家臣がいた。
前者には多賀主水、後者には三宅|某《なにがし》がいた。
迫害は、長崎に於いて、新所司代水野河内守が、開始したのと同時に、島原・天草に於いても、開始された。
拷問方法は、長崎方面のそれと、全く同様に、残虐をきわめた。
にも拘らず――。
信徒の頭数は、なお、すこしも減ろうとはしなかった。
|ごう《ヽヽ》をにやした松倉家の多賀主水は、さらに凄じい温泉岳地獄谷の責苦を思いついた。
囚徒十六人を、瘠馬に乗せて行き、硫黄ガスが、息もつかせぬほど渦巻く地獄谷の池の畔へ、素裸にして立たせ、その背中を小刀で截《た》ち割って、熱湯を柄杓《ひしやく》でそそぎ込み、あるいは、噴きあがる中へ、逆吊りにした。
しかもなお――。
信徒たちは、ただの一人も、心を変えようとはしなかった。
その指導者であるパウロ内堀作右衛門は、すでに、十本の指をことごとく切断されていたが、その責苦に堪えつつ、同志をはげましつづけた。
「何人といえども、霊魂《アニマ》を奪うことはできぬ。わしは、このように指をすべて失っているが、菖蒲の花ひとひらを切られたほどにも思うて居らぬ」
信徒たちは、うなずき、
「グローリア!」
とか、
「ゼズス・マリア!」
とか、神の恩寵を求めつつ、つぎつぎと息絶えていった。
作右衛門は、さいごに一人残るや、「主よ、今こそ御言葉に従いて、しもべを安らかに逝かしめたまえ」という聖歌をうたい、
「いと尊き|聖体の秘蹟《サクラメント》は、讃美せられたまえ」
と、祈って、こときれた、という。
重政が逝き、勝家が、遺領を継ぐや、多賀主水は、さらに、信徒のみならず、普通の農民に対しても、税を納めなければ、捕えて、こうした言語に絶する拷問を加えた。
天草に於ても、三宅某が、多賀主水に劣らぬ凶悪無道の迫害に、寧日もないありさまであった。
三
「……吉利支丹宗門迫害と、旱魃飢饉と、巨岩がのしかかって来るような重税とに、襲いかかられては、いかに、おとなしい百姓でも、窮鼠、猫を噛むことに相成る。島原・天草の領民が、立ち上ったのは、おそきに過ぎた、とさえ申せる」
石川五郎太は、その窮状のさんたんたるさまを語ってから、百合に、そう云った。
軍列は、すでに、街道を遠くへ去っていた。
百合は、彼方の海へ眼眸《まなざし》を置いて、
「信仰とは、そのように強いものなのでございましょうか?」
「拙者は、伴天連に接したことは、いまだ一度もないので、その教義をきいたことがござらぬゆえ、どうも判りかね申すが……、殉教こそ最高の光栄と信じ込んだ者たちの強さは、無比でござろうな。……拙者が、島原の吉利支丹信徒から、きかされた限りでは、伴天連の教えは、はなはだ厭世観念に満ちた、自己愛の強いものでござった。現世では、どのような苛酷な苦しみに遭おうとかまわぬ。その艱難に堪えて、すすんで死に就いてこそ、来世は天国へ昇れる、という次第で――これが、まるで、人間の救われる唯一の道、といった教えでござったな」
「………」
「拙者も、島原に在る時は、祖先伝来の仏教をすてても、南蛮渡来の奇異幻怪な、耳新しい教法に帰依して、その信仰のためには、死をすこしもおそれぬ、ということに大いに興味を抱いて、信者どもの言葉に、耳を傾け申したが……、ついに、判ることは叶わなかった」
「吉利支丹宗門では、あがめられているのは、磔《はりつけ》にされた神の子、とか……?」
「左様、ゼズス・キリスト、と申す千数百年前の男で、伴天連どもは、あたかも、その男から、じかに命令されでもしたように、日本へ潜入して来て、布教していた由でござる」
「………」
「拙者が、思うに、伴天連は、風貌も立派であり、当節の仏寺の破戒坊主とちがい、自ら身を持するに、はなはだ厳格で、布教に於ては献身の二字に尽き、また、その説くところは、仏教のように陰鬱で、判り難《にく》いものでなく単純明快で、その儀式も大いに人を魅するものがあったし、天文学や医術にも知識ゆたかで、病人を治療し、癒《なお》してやる率も高かったので、たちまちのうちに、日本全土に信者の数を増すことができたのでござろう」
「それにしても、百姓衆が、拷問に堪え、死をすこしもおそれずに、亡くなってゆく、などとは、よほど、吉利支丹の教法には、心を奪うものがあるのではございますまいか」
「こういう話を、きき申した」
五郎太は、百合に、語った。
島原の三十二歳になる庄屋後家で、一村の信徒のかしらになった女がいた。多賀主水は、捕えて、いろいろ威嚇したが、効果がないので、素裸にして、城の大手門広場で、衆人の目にさらした。庄屋後家は、みじんもひるまなかった。
ただ、見物の群衆のうちで、五人ばかりの女が、こんなはずかしめを受けるくらいなら、と棄教した。
庄屋後家は、その女たちを軽蔑し、昂然と頭髪をはらって、胸を張り、多賀主水を痛罵した。
主水は、彼女の頭髪を、樹木の高枝へひっくくって、裸身を吊した。
その挙句、彼女の三歳になる女の子を、連れて来させて、きものを剥いだ。二月の極寒であった。幼女は、寒さと恐怖で、哭《な》き叫んだ。
その子の乳母が、駆けつけて来て、
「これは、わたくしの子供でございますれば――」
と、許しを乞うた。
すると庄屋後家は、ためらわず、
「いつわりを申してはなりませぬ、この子の母は、わたくしです!」
と、叫んだことであった。
幼女もまた、素裸のままで、母のそばに、枝から逆さ吊りにされた。
三刻(六時間)余も過ぎたが、庄屋後家は、ついに、棄教しようとはしなかった、という。
五郎太は、長崎におもむいた時には、拷問を目撃していた。
地に深く掘った穴へ、腕木をはめた棒杭に信徒の両足をしばりつけて、逆さ吊りにしておいて、幾日も、水も食物も与えずに、責め苦しめる『穴つるし』であった。
死にいたるまで、老幼の者は二三日、屈強の青壮年は七八日を要する。
五郎太は、だらりと吊りさげられて、虫の息になっている者――それは、やはり、若い女であったが――を、一刻あまり見まもったが、役人が、いくど、
「ころべ!」
と、うながしても、肯《き》き入れなかった。
その無慚な光景を、いま、まざまざと思い泛べ乍ら、
「かよわい者をして、鬼神もたじろぐほどに、強くするのは、吉利支丹宗門帰依だけでござるな」
と、云った。
「わたくし、一度、伴天連の説く教えを、きいてみたいと存じます」
百合は、云った。
気丈夫に生れついた百合は、もっと強くありたい、とねがっているようであった。
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こ の 秋《とき》
一
同じ日――。
道場の講筵《こうえん》で、二刻以上も、孫子の兵法を説いて、弥五郎正雪が、居室へ戻って来ると、金井半兵衛が、ひどい仏頂面で、胡座《あぐら》をかいていた。
「張孔堂は、いまや、門前市をなし、門下生の頭数は千を越え、めでたし、というところだが、おい、弥五郎、お主は、肝心のことを忘れては居らんか」
「何を忘れている、というのだ?」
「天下を取る大志だ」
半兵衛は、睨みつけるように、双眼を据えた。
「おれは、お主たちに、天下を取ってみせる、と誓ったおぼえはないが……」
「云いのがれは、止してもらおう。胸襟をひらいた間柄ではないか、水くさいぞ、弥五郎!」
「半兵衛、千人の門下を集めろ、とすすめたのは、お主ではないか」
「そうだ、おれが、すすめた。但し――但しだ。門弟をつくるというのは、お主が天下を取るための軍勢を組織するということではなかったか。その目的を、お主は、どうやら、忘れて居る様子が、おれには、うかがわれるのだ。それが、気に食わん!」
「おれは、天下取りの野望を遂げるための足がかりとして、張孔堂道場を、楠不伝から引き継いだわけではない」
「弥五郎、それならば、なぜ、紀州大納言に会って、壮図を説いた?……将軍家光を殺して、紀州大納言を四代の座に据えておいて、大軍船団を組み、舳艫千里、明国へ押し渡る――その壮図を、お主は、紀州大納言に説いたはずだぞ。かくすな。お主とおれは、兄弟以上の仲ではないか。……それとも、お主は、いつの間にか、軍学者として、門下どもから、ぺこぺこと平伏されることだけに、満足するようになったのか?」
「ことわっておく、半兵衛。張孔堂を引き継いだ時、お主と忠弥に云っておいたぞ。天の秋《とき》、地の利、人の和――これがぴたりと合一せぬ限り、大きな仕事はできぬ、とな。天の秋は、いまだ到来しては居らぬし、地の利といえども、これぐらいの道場を構えただけでは、一万石の小大名にも及ばぬし、人の和を得るには、人材が集まって居らぬ」
「それみろ! やはり、お主の胸中には、天下取りの大志が蔵されて居るではないか」
「大きな仕事、と申したからとて、それは、徳川将軍家を倒すことを意味しては居らぬ」
「まだかくすのか、弥五郎!」
半兵衛が、思わず、高声を張りあげた時であった。
玄関取次ぎの門下生が、廊下から、
「先生、幡随意院の長兵衛が参りました」
と、告げた。
長兵衛が、はじめて、この張孔堂を訪れたのは、半年前であった。
その時、正雪は、旗本奴と町奴とは弟子にとらぬ方針をきめていたので、代理として、金井半兵衛に用向きをきかせたのであった。
長兵衛の願いの筋というのは、弟子入りではなく、家に食客としている老人が、宿痾《しゆくあ》持ちで、最近急に容態が悪化したので、是非診察して頂きたい、という用件であった。
実は、張孔堂由比民部之輔正雪の高名をきいて、長兵衛が、おのが一存で、診察をたのみに来たのではなかった。
その老人が、のぞんだのである。
半兵衛は、老人が名張の夜兵衛と名のっている、ときいて、即座に承知したのであった。
名張の夜兵衛という老賊――実は、豊臣家の落人で、本知三千石、寄騎三十騎をもらっていた侍大将・熊谷三郎兵衛が、その正体であることは、すでに、半兵衛は、正雪に告げていた。
それから数日後、夜兵衛は、張孔堂を、駕籠で、訪れた。
正雪は、夜兵衛と二人きりで会った。
両者の間に、どのような会話が交されたか、半兵衛にも忠弥にも、知らされなかった。
爾来、夜兵衛は、月に一度ぐらいの割合で、張孔堂を訪れて、半刻ばかり、正雪と膝をまじえて、何事かを語らうならわしをつくっていた。
幡随意院の長兵衛が、訪ねて来たのは、これで二回目であった。
二
正雪は、長兵衛が来た、ときいた瞬間、不吉な予感をおぼえた。
半兵衛が起とうとするのをとどめて、正雪自身、玄関へ出ていった。
「老人の加減がよくないのではないのか?」
正雪は、長兵衛の挨拶も受けずに、訊ねた。
「へい。今月に入ってから、どうも、はかばかしくないので、気になって居りやしたが、ここ二三日、急に弱ったのが、目に見えて来たのでございます」
「よし、これから、参ろう」
「え?! おいで下せえますのか。そいつは、有難う存じます」
長兵衛は、ふかぶかと頭を下げた。
牛込から浅草までは、普通の足なら、一刻以上かかった。
正雪は、しかし、馬も駕籠もつかわず、長兵衛と肩をならべて、歩いて行った。
外濠に沿うた往還を、小石川門、筋違《すじかい》橋門と過ぎて行き乍ら、正雪は、この若い町奴から観た世間に就いて、いろいろと質問をつづけた。
長兵衛の返辞は、率直であった。
正雪が、西空を截《き》り抜いて、そびえる江戸城天守閣を、指さして、
「どう眺めるな、お前は?」
と、訊ねると、長兵衛は、かぶりを振って、
「空にそびえて、見様《みざま》の良いのは、富士のお山だけで、たくさんじゃございますまいか。なにも、人間の手で、造りあげることはねえ、と思いやすがね。どうやらもう戦さは起らねえだろうから、それで焼けることはありますまいが、この関東には、空っ風というやつがありやすからね、いずれは、燃えてしまいますぜ。何百万両かかったか知らねえが、火がついたら、あっという間に、無くなってしまいまさ。富士のお山は、焼けませんがねえ」
と、せせら嗤《わら》った。
「しかし、お前は、城造りの下働きをして、大いに儲けて居るそうではないか」
「これは人足請負という稼業ですぜ。禄盗人の旗本奴と同じに視られちゃたまりませんや」
「長兵衛――」
「へい」
「お前は、乾分《こぶん》の頭数をかなりそろえている模様だが、それは、いずれ、旗本奴どもと争う下地をつくっているようなものだぞ、徒党と徒党との反目が、そのままで、すむ道理があるまい」
「ご忠告は有難うごぜえますが、乗りかかった船には、乗らなきゃいけねえ。もう、あとへは退けませんや。男一匹、からだを張って生きているからにゃ、いつ死んだって悔いをのこさねえ覚悟は、できて居りやす」
「最近の旗本奴は、独立独歩の気概を持した手輩は見当らぬそうだが、すこしは、気骨のある男に、出会ったことがあるか?」
「居りやすよ、一人だけ」
「どんな男だ?」
「まだ十七か八の青二歳でございますがね、堂々と、わっしの家に乗り込んで来て、胸を張って、このたび、白柄組頭領になった水野十郎左衛門成之である。と名乗りをあげやしてね、それァあっぱれな貫禄でございましたねえ。……てまえが、お父上の出雲守成貞様の敵と思い込んで、乗り込んでおいでになりましたので、斬ったのはてまえに助太刀をして下さった丸橋忠弥というご浪人だが、討つべき敵はわっしに相違ねえ、と申したところ、直参旗本として、町奴風情を討つ気持はない、と申されて、立去られましたが、その時はまだ十六歳だったが、見上げた度胸っぷりでございましたな」
「長兵衛、お前もわしも、この世に生れるのが、二三十年おそかったようだな」
「へぇ――?」
長兵衛は、正雪の横顔を、視やった。
――只者じゃねえ、ときいていたが、この御仁は、いつか、何か、大きなことをやらかすに相違ねえ。
あらためて、長兵衛は、正雪のひきしまった表情に、畏敬の念をわかせた。
三
名張の夜兵衛は、病みやつれて、牀に横たわっていた。
その枕辺には、一人の異様な男が、腕を組んでいた。
額にも頬にも、凄まじい刃傷の痕があり、右耳は削ぎ落されて居り、皮膚は、異常な陽焼けで、文字通り赤銅色であった。肩幅の広さ、胸の厚さも、並の武士の二倍はあろう。
その面貌、五体から放たれる精気は、人を威圧せずにおかぬ。
将軍上洛の先発となって、紀州頼宣が、御池通り大宮の西にある神泉苑の乾臨閣に逗留していた時、※[#「奠+おおざと」]芝龍の添状を持参して面謁を乞うた呂宋《ルソン》左源太であった。
頼宣に向って、一万の精鋭があれば、呂宋島を占領できる、とうそぶき、頼宣に、総大将たることを考えておこう、と返辞させたこの怪物は、夜兵衛とは、二十年来の懇意の間柄であった。
実は――。
大坂城にあって、左源太は、弱冠十七歳乍ら、熊谷三郎兵衛が率いる隊の寄騎筆頭をつとめたつわものであった。
落城とともに、行方をくらましたが、ひそかに海を渡って、呂宋の日本人町の住民となっていたのである。
「……宿願も叶わぬままに、斯様に老いぼれ、病みさらばえた老醜を、御辺に見せて、慙《は》じ入る」
夜兵衛は、天井の一点を仰ぎ乍ら、云った。
「死相などは、塵けほども、あらわれては居り申さぬ」
左源太は、そう云ってから、
「いよいよ、時節到来でござる」
と、にやりとした。
「時節到来とは?」
「島原・天草に於て、天草甚兵衛殿が軍師となって、挙兵つかまつった。兵の大半は地下《じげ》の百姓どもでござるが、いずれも、吉利支丹宗門に帰依して、狂信いたして居りますゆえ、ただの足軽小者の比ではござらぬ」
「そうか。天草甚兵衛が、事を起したか」
夜兵衛は、感慨ぶかく、往時の友の姿を思い浮べた。
天草甚兵衛は、真田幸村の組織した真田六文銭組の謀師格の武辺であった。
小西行長の遺臣で、行長滅亡後、肥後宇土郡江辺村に隠棲していたが、大坂の陣が起るや、真田幸村の招聘に応じて、大坂城に入ったのであった。
大坂城が陥落するや、ひそかに落ちのびて、故郷天草大矢野の里に帰り、農夫となった。
先祖は、安芸国中村の城主阿曾沼中務少輔といい、甚兵衛は、小西行長に随身した時、六千石をもらっていた。
したがって、帰農して、田畑をたがやす身とはなっても、いつの間にか、天草はもとより、島原、肥後の地下人たちの尊敬を一身に集めるようになっていた。
甚兵衛自身は、別に吉利支丹信徒ではなかったが、禁教迫害が凄じくなるにつれて、信徒たちは、甚兵衛をたよるようになっていた。
天草・島原には、小西行長の遺臣が、多く住んでいた。大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江深右衛門、小山善右衛門、森宗意など、いずれも、若き日に、朝鮮役・関ヶ原役で軍功を樹《た》てた武辺であった。さらに、加藤清正の老臣の子である千々輪五郎左衛門、豊臣秀頼の稚児姓であった赤星内膳など、士道の吟味を知る者たちが、農夫となっていた。
さらにまた、大坂城の落人たちが、名をかくして、前述の人々をたよって来て、島原・天草にかくれ住んでいた。
天草甚兵衛は、これらの武士とその子たちによって、目には見えぬ首座に据えられていたのである。
「天草と島原の苛政と、耶蘇教徒の迫害は、噂にきいて居ったが……、甚兵衛は、ついに、騒動を起したか」
「逃げ路をふさがれて、追いつめられた挙句、生か死をえらぶべく奮い起った人間ほど、強いものはござらぬ。この一揆、野火のごとく、四方八方へひろがり申すことは、目に見えて居ります。……それがしも、この義軍を援けるべく、呂宋の日本人町デイラオヘ、至急の密書を、送り申した。呂宋の西北岸パンガシナン州に住む四千余のわが同胞は、秋《とき》こそ来れりとばかり、大砲鉄砲を、海賊船に積んで、馳せ戻って参ることに相成ります。……ご老人、いまをのがしては、徳川幕府を倒す秋はござらぬぞ!……気力をふりしぼって、恢復して下されい」
「左源太、人には寿命というものがある。わしの寿命は、どうやら、尽きたようだ。無念乍ら、豊家再興に一役をになうことは、あきらめねばならぬ」
「どうして、そのような……、熊谷三郎兵衛ともあろう侍大将が、気落ちなどされるのか。西に天草甚兵衛殿が総大将となって決起し、東に貴方様が総指揮をとって呼応されるならば、日本全土に、徳川幕府打倒の烽火《のろし》はあがり、燎原の勢いをもって、江戸城を焼きつくすことができるのでござるぞ!」
「その夢を、いくど、わしは、みたことか」
夜兵衛は、呟いた。
「夢ではござらぬ。われわれの力で、これを実現してみせるのでござる」
「左源太――、わしに代って、総大将になる器量を持った人物が、この江戸に居る」
「まことでござるか?」
「長兵衛を使いに遣《や》ったゆえ、おっつけ、ここへ参ろう」
「何者でござる?」
「牛込榎町に、軍学の道場をひらいて居る張孔堂由比正雪という人物だ。まだ三十半ばだが、頭脳は切れる。お主にひきあわせるゆえ、とくと観てもらいたい」
「かしこまりました」
左源太は、呂宋における日本人のくらしぶりを、つぶさに、夜兵衛にきかせた。
呂宋の日本人町デイラオは、マニラの東側城壁外に、支那人町とパコの土人町との中間を占める地域にあり、文禄年間につくられた時は、わずか七八十人であったが、慶長八年には五百人をかぞえ、三年後に、イスパニヤ人と騒擾を起した時には、千五百人に増していた。
元和元年に、デイラオは、イスパニヤ総督が率いる三万の軍勢によって、焼きはらわれ、日本人は、デイラオの東南にあるパシヤ河をへだてたサン・ミゲルに、移住を命じられたが、その時は、すでに三千人を越えていた。
デイラオの町も復興し、ここにも、千余人が、いま、住んでいる。
武士は、大小をたばさみ、髷を結い、紋服をつけ、昼夜武術の修業にはげみ、礼節を尊び、名誉と秩序を重んじ、士道の面目をみじんもすててはいなかったのであった。
かれらが、すわ鎌倉、と南蛮製の大砲鉄砲を持って、日本へ押し帰って来るならば、おそらく、千騎は十万騎の武力を発揮するに相違ない。
すくなくとも、左源太は、そう確信しているようであった。
[#改ページ]
未《いま》だ起《た》たず
一
正雪が、長兵衛の案内で、その病室に入った時、呂宋左源太は、次の間にしりぞいていた。
「どうやら、死神めが、枕辺に立ち申した」
そう告げる夜兵衛の痩せさらばえた面貌に、正雪は、死相を看た。
「気力は、まだ、衰えては居られぬように、お見受けするが……」
「二十余年の間、正体をかくして生きて参ったゆえ、死神めが吹きつけて来る無常の風にも、くたばる気色をみせぬのでござろうて」
夜兵衛は、さびしげに笑って、
「伊勢物語にござるのう――ついに行く道とはかねて知りながら、昨日今日とは思わざりしを。……正雪殿、徒死とはこういう死にかたを指《さ》して申すのでござろうな」
「………」
正雪は、腕を組んで、こたえる言葉がなかった。
「正雪殿、お手前に、わざわざ、お越し頂いたのは、肉を餓虎に委《まか》すのがおそろしいあまりではなく、この年寄の妄執であった志を、継いで頂きたいためでござる」
「ご老人は、自身に代って、この正雪に、徳川幕府へ、一矢むくいて欲しい、と申されるのか?」
「左様――、同じ豊家の遺臣として、是非とも、お手前に、お願い申したい」
「はたして、それがしに、それだけの器量があるかどうか……。一人の手を以て、天下の目を掩いがたし、ということわざもありますれば――」
「垂死の者に、本性をかくすのは、止めて頂こう。お手前は、軍学の町道場主として一生をおわるのをよしとする料簡など、みじんも持たぬ御仁だ。……お手前には、天下の士を雲合霧集する器量がござる。……聚蚊《しゆうぶん》は雷《らい》をなす。お手前は、天下を竦動《しようどう》せしめる相をそなえて居られる。……おたのみ申す」
「………」
「五年後、十年後――いや、たとえ、二十年後でもよい。徳川将軍打倒の烽火をあげて頂きたい。冥土で、その日の来るのを、待って居り申す」
正雪は、老人の説得をきき乍ら、次の間と仕切った襖の隙間から、自分にそそがれる視線を感じた。
夜兵衛は、正雪の表情を視ると、
「左源太、入って来てよい」
と、呼んだ。
左源太が入って来ると、夜兵衛は、
「どうだな、左源太、わしの観る目が狂って居るかな?」
と、訊ねた。
「いや、決して!」
左源太は、かぶりを振った。
夜兵衛は、正雪と左源太をひきあわせた。
二人は、互いの顔を瞶《みつ》め合った。
沈黙が、置かれた。
夜兵衛が、重い咳をしてから、
「左源太、この由比正雪殿は、幼名は木村重丸――長門守重成殿の実弟なのだ」
と、教えた。
「すると、あの落城の際には、お手前様は、まだ――」
「十歳でござった」
「よう遁れ出られましたな?」
「山里丸の唐物倉で、淀様、秀頼公のあとを追うて、切腹いたそうとしたところ、馳せ入って来た徳川方の武者から、わっぱのぶんざいで小ざかしい振舞いをするな、と叱咤とともに、峰撃ちをくらわされたのでござる。意識を失った身は、どうやら、その武者の手で、城外へはこび出されたようで、われにかえった時は、どことも知れぬ雑木林の中に横たわって居り申した。……その武者が、柳生但馬守の高弟木村助九郎殿であったことは、近年にいたって、判明いたした。……林の中から、放心のていで、よろめき出て、焼きつくされる大坂城を望見したのが、昨日のことのように、思い出され申す。その折、顔も頭髪も衣裳も、火焔の中をくぐり抜けて来た、見るもむごたらしい姿の女性が、それがしに呼びかけられたのでござる。それは、秀頼公附きの膳部係支配の篠路どのと申すご女中でござった」
それをきくと、左源太が、叫ぶように云った。
「それは、われらの実の姉でござる!」
「あの小母御が、貴殿の!」
正雪は、偶然のめぐりあわせに、瞠目した。
「相違ござらぬ! 篠路は、拙者より六つ年上の姉にて、十四歳で召されて、大坂城へ上り申した。拙者が、豊臣家に随身いたしたのも、姉のすすめによるものでござった」
「奇縁だな」
夜兵衛が、天井を仰ぎ乍ら、云った。
正雪にとって、篠路の相貌は、あまりにも遠い日の稚《おさな》い記憶であり、その記憶も、無慚に焼けただれた化物にひとしい面相の記憶によって、消されていたので、左源太の顔に、姉弟の相似を見出すべくもなかった。
二
正雪は、篠路の悽愴無比な復讐夜叉と化した討死ぶりを、語るべきか否か、しばらく迷った挙句、
「篠路どのが、如何様な最期をとげられたか、それがしは、見とどけて居り申す」
と、云った。
「おきかせ下され」
左源太は、双眼を光らせた。
「あれは、落城後、半年を過ぎて居り申した」
正雪は、語った。
岡部宿より十石坂を歴《へ》て、湯谷口より登る宇津谷嶺の、本海道を眼下にする虎岩の上に匐《は》い伏した少年は、その光景を、目撃したのである。
老いたる天下の覇者が、大坂城に蓄えられた莫大な金銀を、三百頭以上の荷駄ではこぶ長蛇の道中が、そこへさしかかった時であった。突如として、峠の茶店の屋根に、篠路が、すっくと立って、まとっていた黒衣をかなぐりすてて、全身に負うた火傷の痕を、初春の陽ざしにさらし乍ら、のろいをこめた罵詈《ばり》をあびせておいて、短剣をふりかざし、四方輿に乗った家康めがけて、宙を躍ったのであった。
のけぞる家康の前に、跳び降りた篠路が、肩に腕に腰に股に、矢を射立てられ乍らも、なお倒れようとせず、鮮血を噴かせつつ、ほとんど意識を喪った身で、短剣をさしのべ、突こうとした酸鼻の光景を、正雪は、つい昨日起った出来事のように、脳裡によみがえらせて、語った。
左源太はまばたきもせず、夜兵衛は目蓋を閉じたなり、固唾をのんで、耳を傾けていた。
正雪は、語り了えた時、
――あの狂気の怨念を、おれは、継いでいるのか?
と、おのれに、問うてみた。
――継いではいない。
はっきりとしたこたえが、かえって来た。
少年重丸は、秀頼の食膳の毒見役であった。いまにして思えば、これは、みじめな役目であった。料理に毒をまぜられていたならば、もだえ死ぬ身であった。重丸にとって、忠節心が生れるには、秀頼は、あまりに雲の上に在る存在であった。ただの一語も、声をかけてもらったおぼえはなかったのである。
さらに、また――。
重丸は、淀君と秀頼が、なんとかして生き残ろうと、必死に生命乞いをした惨めなありさまも、目撃している。
淀君は、泣き叫んで、
「ただの一万石でよい。右大臣を生きさせて欲しい!」
と、大野修理にすがりついて、家康への使者を命じたし、秀頼の方は、
「高野山へのぼって、剃髪するゆえ、たのむ!」
と、家康の使者安藤対馬守と近藤石見の前に両手をつかえたことだった。
結局、井伊掃部助直孝から切腹を申しつけられるや、母子は、抱きあってもだえ哭《な》いたものだった。
十歳ではあったが、重丸は、おのが主君に対して、微かな軽侮の念をおぼえたのであった。
ただ――。
淀君も秀頼も自決し、つづいて、護衛の将士も侍女たちも、あいついで死んでゆくのを見て、自分もまた、死なねばならぬと覚悟して、ちぎり取った片袖を短剣に巻きつけて、切腹しようとしたまでであった。
篠路の、女性としては空前にして絶後ともいうべき壮烈な復讐夜叉としての最期は、彼女自身の覚悟がなさしめたことであり、重丸にとって、脳裡から生涯消え去らぬ記憶ではあったが、その遺志を継いで、徳川家を打倒する|ほぞ《ヽヽ》を、性根に据えた次第ではなかった。
いわば――。
正雪が、胸中に蔵している壮志は――それは、いま、大きく動き出しているが――、夜兵衛や左源太とは異質のものであった。
豊臣家を滅亡せしめた徳川家に対する復讐心ではなかった。
「張孔堂先生――」
急に、左源太が、威儀を正して、呼んだ。
「……?」
「日本全土に身をひそめる浪人たちが、いよいよ、起つ秋《とき》が参って居り申す」
「………」
「島原・天草に於て、一揆が起って居ることを、先生は、まだ、ご存じではありますまい。ただの百姓一揆ではござらぬ。軍師は、元真田六文銭組謀将・天草甚兵衛殿、各隊長は、すべて、大坂城生残りの一騎当千のつわものぞろいにて、この壮挙に馳せ参じた腕におぼえのある浪人者約二百三十人は、いずれも、徳川家によって主家を滅された面々でござる。兵数は、すでに三万を越えて居り……」
「しかし――」
正雪は、左源太の言葉をさえぎった。
「その兵は、すべて、百姓でござろう」
「死ねば、天国へ行けると、かたく信じて疑わぬ吉利支丹宗門に帰依した百姓どもでござる。そこいらの徒士《かち》や足軽のやからとは、生死の覚悟がちがって居り申す。その信念が、いかに不退転のものであるか、これまでの言語に絶する拷問に遭うて死んで行った信徒たちの例をみれば、お判りでござろう」
「いかに信念に燃えていても、鍬を槍に代えただけで、ただの一日で兵隊になれるとは思えぬが……」
そのむかし、凡下《ぼんげ》・地下人《じげにん》・土民・郷民と称《よ》ばれていた時代には、土一揆・国一揆を起して、自己の要求貫徹に武力を用い、成功したこともあった。
しかし、江戸幕府の確立したいま、僻地の百姓が、二万や三万、徒党を組んで、反抗したところで、所詮は、蟷螂《とうろう》の斧にすぎまい、と正雪には思われた。
三
「お待ち下され。島原・天草にて蜂起した一揆には、天人とあがめられる総大将が居り申す」
左源太は、云った。
「天人?」
「左様――、拙者も一度、目見《まみ》え申したが、天人と申してもはばからぬ美しさと気品をそなえた少年でござった」
「少年?!」
正雪は、眉宇をひそめた。
「まだ十六歳乍ら、その美貌がたたえる聡明英知のけしきは、思わず、人に頭を下げさせ申す。天草甚兵衛殿が、何処からともなわれたかは不明でござるが、すでに十歳以前から高貴の相と衆を抜いた知能は、評判であった由。それ……、太平記に書かれてある、栴檀《せんだん》の林に入る者は染めざるに衣おのずから香《かんば》し。あれでござったそうな」
その名は、益田四郎時貞、といった。養い親の天草甚兵衛は、四郎時貞の素姓を、決して、人には語らなかった。
天草大矢野に、一人の美童がいて、稽古せずして書を読み、諸経の講釈をし、さまざまの奇蹟を行う、という風聞が九州一円にひろまったのは、二年あまり前からであった。
雀のとまった竹を折るが、雀はおそれず飛び立とうともせぬ、とか、空から鳩をまねき寄せて、掌にとまらせて、卵を産ませてみせるとか……。
噂がたかまるにつれて、吉利支丹信徒たちは、
「その若衆様こそ、天人に相違ない」
と、ひそかに私語しあって、ひと目でも拝もうと、大矢野を訪れるようになっていた。
そして、今夏、一通の檄文が、島原・天草へばらまかれたのであった。
[#ここから2字下げ]
態《わざ》と申し遺し候。天人あま下り成され候て、外道《ぜんちよ》どもは、天主《でうす》様より火の苛責《かしやく》成され候間、何者なりとも、|きりしたん《ヽヽヽヽヽ》に成りたく候はば、早々御越あるべく候。村々の庄屋、二名は早々の御越あるべく候。島中この状御廻しこれあるべく候。異端者方にても、|きりしたん《ヽヽヽヽヽ》になり候者は御免なさるべく候。恐惶謹言。
右早々村々へ御廻し成さるべく候由申入れ候。
天人を御使に遣し申候間、村中の者に御申附け成さるべく候。|きりしたん《ヽヽヽヽヽ》になり申し候者の外は、日本六十六国ともに、天主様よりの御定にて、地獄《インヘルノ》に踏み込み成さるべく候間、そのぶん御心得なさるべく候。天草の内、大矢野に御座成され候四郎様と仰せられる御仁こそ、天人にて御座候。爰元《ここもと》に御座候間、そのぶん御心得あるべく候。
[#ここで字下げ終わり]
この檄文によって、火がつき、一揆は爆発したのであった。
重税と飢餓と吉利支丹宗門禁圧に喘いでいた百姓たちは、仰ぐべき天人を得て、神の恩寵《ガラサ》が、手のとどくところにあると、信じるや、それまで、峻法をはばかっていかにも仏教に服しているようにみせかけていたのを、ふりすてて、彼処此処に寄り集まると、堂々とぜずす・きりしとの画像をかかげて、礼拝しはじめたのであった。
諸村|与《あずか》りの代官たちは、この報告をきいて、愕然となった。
あれほど酷薄無慚な処刑をつづけたにもかかわらず、百姓たちが、なんのはばかるところもなく、その信仰ぶりを公開しはじめたのである。無気味であり、恐怖をおぼえさせられ、戦慄せざるを得なかった。
代官所が、その集合を襲って、召捕ることは、叶わなかった。集合場所が、あまりに多すぎたからである。
そして――。
代官所は、逆に、百姓の集団に襲われて、牢を破られたのであった。
「目下、島原・天草には、反逆の炎は、燎原の勢いで、燃えひろがって居り申す。……左様、あるいはもう、島原城は、陥落して居るやも知れ申さぬ」
左源太は、すでに、一揆が、代官を殺し、役所を焼きはらう有様を、目撃しておいて、急遽、出府して来たのであった。
「つまり、貴殿は、島原・天草の一揆に呼応して、江戸に於ても、謀反を起そうという決意で、この老人をたずねておいでになったか?」
「いかにも!」
左源太は、うなずいた。
正雪は、夜兵衛へ、視線を向けた。
「ご老人――、謀反を起すには、それだけの軍用金が要《い》り申す。それが、手に入るまでは、起《た》つことはでき申さぬ」
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待 ち 伏 せ
一
黄昏《たそがれ》が迫って、正雪は、幡随意院長兵衛の家を辞去した。
長兵衛が、乾分を幾人か従わせようとしたが、正雪は、ことわって、編笠で顔をかくし乍ら、一人で、帰途についた。
独歩を好んだし、独歩し乍ら、思慮する癖を身につけていた。
――あの老人とおれの志は、根本のところで異っているが、目的は同じだ。
正雪が、謀反を起すには、それだけの軍用金を必要とする、というと、夜兵衛は、呂宋左源太を次の間へ退らせておいて、駿河にかくされてある豊家遺金を入手する手段がある、と告げたのであった。
駿河大納言忠長は、自害する直前に、九条明子に、その隠匿場所を教えたに相違ないこと。明子は、将軍家光によって、無理矢理、京都から江戸へともなわれて、その隠匿場所を白状せよ、と責めたてられた挙句、口をひらかぬまま、家光の手で殺されたこと。その明子の侍女於菊という娘が、目下、青山に住む直参大身の大久保播磨の屋敷にいること。大久保播磨は、松平伊豆守から、於菊が九条明子から秘密を打明けられているに相違ないゆえ、是が非でも白状させよ、と厳命を下されたこと。目下、於菊は、播磨から責められているが、絶対に白状していないこと。
夜兵衛は、つつみかくさず、一切の経緯を物語ってから、
「於菊の口から、豊家遺金のかくし場所をきき出すのは、どうやら、正雪殿、お手前の役目のようでござる。いやお手前を措いて、他には誰も、居り申さぬ。これは、垂死の者のみが働かせ得る霊感、と申そうか。……おねがいつかまつる」
と、たのみ、自分が孫のように可愛がっていた千夜という少女を、於菊のそばへ置いてある、と告げたのである。
正雪は、歩き乍ら、
――はたして、於菊というその娘が、九条明子から、教えられているかどうか、どうも疑わしい。
と、胸裡で呟いていた。
莫大な金銀は、そのまま、永久に、地下にねむりつづけるのではあるまいか、という予感の方が強かった。
――と。
浅草の末社の土塀がつらなっている、人影のない、昏《く》れなずむ往還上に、不意に、正雪の行手をさえぎった者があった。
正雪は、とっさに、老人と見まちがえた。肩に散らした総髪が、真白だったからである。
しかし、対手が、数歩の距離に迫って来ると、意外に若いのが、判った。
浪人者であった。
「牛込榎町に邸宅を構えて、軍学の講義をして居られる張孔堂殿と、お見受けいたす」
「左様だが……、お手前は?」
「石川五郎太と申す、流浪者でござる」
「なんのご用向きであろう?」
「貴殿を、許しがたい曲者と悪《にく》み、討ち果すべく出府した武家の娘御が居り申す。行きずりの縁にて、拙者が助太刀いたすことになり申した。……一昨日より、貴殿が他出されるのを、うかがっていたところ、さいわいに、本日、この浅草に何かのご用の向きがあったとみえて、参られた。その帰途を、待ち伏せ申した。その娘御の許へ案内いたすゆえ、ご同道ねがいたい。すぐ近所でござる」
「どのような意趣か、お手前は、きかれたか?」
「貴殿は、駿府の豪族楢村家重代の家宝を、着服し、自ら楠木正成の後胤と称している由、その儀、他人乍らも、拙者は、楢村家の娘御に同情し、義憤をおぼえ申した」
――そうか。楠不伝と名のっていた室戸甚四郎の旧悪のむくいが、このようなかたちで、おれの身にふりかかって来たか。
正雪は、はじめて、罪人の立場に置かれたのを思い知らされた。
正雪は、不伝がのこした後醍醐帝勅筆の綸旨と大塔宮の令旨と、そして楠木正成がその成功によって賜った伯耆安綱の三品を、巧みに利用して、いまの大規模な道場を造りあげたのである。
その三品を所持していなければ、土井大炊頭利勝をやりこめて、張孔堂の名を世間にひろく売ることは、叶わなかったであろう。
その三品は、いまも、麗々しく、講堂の二間床に、飾ってある。
楠不伝は、正成後胤といつわっていたが、こちらは渠《かれ》とその三品を利用して、名を売ったのである。
悪質の点では、むしろ、自分の方が上であろう。
二
「それがしは、由比民部之輔正雪と申す、楢村家の娘御が憎んで居られる楠不伝ではない。昨年、不伝は死去致した」
ともあれ、正雪は、一応、弁明せざるを得なかった。
「張孔堂と称している上は、楠不伝の跡目を相続されたのでござろう。ならば、楢村家の家宝の品を受け継いで居られるであろうが――」
五郎太は云った。
べつに身構えているわけでもなく、殺気も放っている次第ではなかったが、正雪の目には、
――この男、出来る!
と、映った。
ただの素浪人でないことは、明らかであった。
「いかにも、楠不伝よりあずかり申した」
「ではそれを、楢村百合殿に、お返し頂きたい」
「さて、それは、どうであろうか」
「なんと申される?」
「お手前が、助太刀しようと約束した娘御が、はたして、楠木正成直系の大饗玄正の末孫であるかどうか――確たる証拠でもあろうか? お手前は、かんたんに、その娘御の言葉を信用されたのではあるまいか?」
「拙者をお人好しの莫迦者と、看られるのか?」
薄闇の中で、五郎太は、きらっと眼光を、射かけて来た。
なんとなく、ひょろひょろと身丈だけが高く、痩せこけて、たよりなげな姿であり、顔の造作も不均衡で、常人ならば、いかにも尾羽打ち枯らした浪人者と受けとれようが、正雪は、その凄じい眼光をあびた刹那、
――この男は、異常な怨念のようなものを心中に蔵しているな。
と、直感した。
「三千界の有るところ、男子の諸煩悩は、合集して、一人の女人の業障を為す、すなわち女人は地獄の使い、と華厳経にもみえて居るゆえ、お手前は、もしや、その娘御に、たぶらかされているのではあるまいか、と懸念したまでのこと。そうでなければ、さいわいだが……」
「拙者は、女人などにだまされるような男ではござらぬ!」
五郎太は、呶鳴るように高声をあげ、
「その品を所持して居られる上は、これより、楢村百合殿の許へ参り、仔細を語って、彼女を張孔堂へともない、いさぎよく返されるよう、要求いたす」
と、迫った。
「それがしは、あれだけの道場をひらいて居るあるじであれば、逃げもかくれもいたさぬ。明日にでも、その娘御を同道して、牛込をたずねて来られるがよい」
「いや、今宵うちに、返して頂きたい。明日になったならば、もうおそいおそれがござる。品物を贋にすりかえられる疑いが起り申す」
「そこまで疑われるならば、やむを得ぬ。そういたそう」
正雪は、承知した。
寺通りを抜けて、町家の一廓へ出た。
武家屋敷や寺社は別として、寛永年間は、まだ、江戸の町は、整ってはいなかった。
日本橋、京橋、神田あたりの表通りは、屋根を瓦で葺いた大きな商店が、檐《のき》をならべていたが、一歩、裏路へ入ると、どこも、綴《とじ》葺きという板葺きに石をのせた長屋ばかりであった。
この浅草界隈ともなると、立派なのは、寺院だけで、商店も小さく、長屋は小屋といった方がふさわしく、いわゆる陋巷《ろうこう》で、しかも、いたるところ、雑木のしげった空地だらけで、葦の茂った沼地が、ものさびしく、ひろがっていた。
武家と庶民とでは、衣食住の差が、あまりにもはなはだしい時代であった。
長屋で、畳敷きなどは、皆無であった。藁むしろを敷いただけであった。
そういう薄穢い一廓に入った時、
「おい、弥五郎、どうしたのだ?」
よごれた暖簾をかけた居酒屋から、呼び声が、飛んで来た。
丸橋忠弥のものであった。
忠弥は、正雪と金井半兵衛の助力で、本郷御茶の水に、槍術道場を構えたが、稽古の峻烈さと、いったん酒が入ると別人になったように狂暴性を発揮するため、弟子が逃げ出し、入門者もあとを絶ち、つい一月あまり前、道場をつぶしてしまっていた。
正雪も半兵衛も、ここのところ、その行方を知らないでいたのである。
浅草の陋巷で、とぐろをまいているのは、いかにも、忠弥らしかった。
それでも、|まんさん《ヽヽヽヽ》たる足どりで現れた忠弥は、長槍だけは手ばなしてはいなかった。
「張孔堂由比民部之輔正雪ともあろう大先生が、どうして、こんなところを、うろついて居るんだ?」
そう訊ねかけ乍ら、忠弥は、酔眼を、じろじろと、石川五郎太へ送りつけた。
正雪は、
「大楠公遺品をとり返しに出府した武家娘が現れたので、はたして、にせものか、ほんものか、たしかめに行くのだ」
と、告げた。
とたん――、
「|かたり《ヽヽヽ》にきまって居るではないか、そんな奴ばら!」
忠弥は、故意に、五郎太を挑発するように、叫んだ。
五郎太は、しかし、即座には、憤りの色はみせなかった。
三
「弥五郎、よもや、お主がだまされるとは思えぬが、……のこのこ、そこへ行くとは、みっともないではないか。ふん、この浪人者、いかにも、くわせ者の面をして居る」
忠弥は、ずけずけと云いはなった。
「忠弥、このような場所で、酔いくらうのもいい加減にして、牛込へ来るがよい」
そう云いすてて、正雪は、行き過ぎようとした。
「待てっ!」
忠弥が、きたえた声を張った。
「そのくわせ者を、おれが、片づけてくれる!」
その挑戦に、五郎太が、さっと向きなおるや、忠弥は、長槍を、ぴたっと、その胸もとへ擬した。
「おい、かたり野郎! この丸橋忠弥盛任の宝蔵院流槍術の突きを、みごと、かわしてみせろ。自信がなくば、土下座してあやまれ」
その罵詈に対して、五郎太は、居酒屋から流れ出るあかりの中に、にやにやした。
「ずいぶんと、意気張る御仁でござるのう、あんたは――」
「あんただと! くそっ! 抜けっ!」
「拙者は、人を斬るのは、きらいでござる」
「かたり野郎のぶんざいで、なにをほざくか! ゆくぞ!」
忠弥は、じりっと、間隔を詰めた。
見まもっていた正雪が、
「忠弥、止せ。この石川五郎太という浪人衆は、只者ではない。出来る! それも、尋常一様の兵法修業ではないように、看たぞ」
と、忠告した。
「面白いではないか。丸橋忠弥の槍と、互角に立ち合うことのできる奴に、はじめて出会うたぞ」
忠弥は、りゅう、とひとしごきして、さらに、一歩肉薄した。
五郎太は、完全に、長槍の穂先の圏《けん》内に容れられ乍らも、なお、両手をだらんと下げたなり、身じろぎだにしなかった。
その対峙のまま、忠弥も動かなくなった。いかに短気で、どんなに酒を飲んでいても、忠弥は、やはり、抜群の使い手であった。
五郎太の身構えもせぬ静止相を、睨むうちに、
――こやつ、忍びの手練者《てだれ》だな。
と看てとったのである。
「………」
「………」
正雪が、見まもる中で、両者は、石と化したように、まばたきひとつしなかった。
やがて――。
忠弥が、ゆっくりと、穂先を、地面すれすれまで、落した。
とみた――刹那。
びゅんとはねあげられる穂先に、石川五郎太の五体は、重量を失ったもののごとき軽さで、宙高く翔《と》びあがった。
突きを躱《かわ》す術をそなえている、と看た忠弥のはねあげの迅業は、あやまってはいなかった。
しかし、五郎太にとって、むしろ、その迅業の方が、躱しやすかった、といえた。
居酒屋の廂《ひさし》に、鳥のごとく、とまった五郎太をふり仰いだ忠弥は、ふうっと熟柿くさい息を吐いた。
「そこまでだな、忠弥」
正雪が、云った。
「そうらしいな。……おい、降りて来い、蝙蝠《こうもり》の化物!」
忠弥は、叫んだ。
「ごめん――」
五郎太は、二人の面前に、ひらりと降り立った。
「案内して頂こう」
正雪は、歩き出した。
「いや、ちょっと、お待ち下され」
五郎太は、当惑げに、白い頭髪を、がしがしと、かいた。
「楢村百合殿が、討ちとろうとした楠不伝が死去したからには、拙者は、もうべつに、助太刀をする必要はなくなった、と考えなおし申した」
「ははは……、くわせ者も、時には、|かたり《ヽヽヽ》であることをみとめるのだな」
忠弥が、云った。
「誤解しないで頂きとうござる。拙者は、くわせ者でもなければ、詐欺を働こうとして居るのでもござらぬ。楢村百合という娘御にだまされて居るとも、毛頭みじんうたがっては居り申さぬ……ただ、なんと申そうか、貴殿がたに、なにやら、親しみをおぼえ申したのでござる」
「笑わせるな! 騙りという奴は、そういう具合に、二重三重に、こっちの気持を手玉にとろうとしやがる」
忠弥が、再び長槍を構えようとするのを、正雪は、抑えた。
「忠弥、この御仁、相当面白い人物らしいぞ。われわれの仲間になれそうだ」
「弥五郎、お主ともあろう男が、だまされるのか!」
忠弥は、憤然となった。
正雪は、忠弥にかまわず、
「明日、その楢村百合とやら申す娘御をともなって、道場へ参られるがよい」
と、五郎太に云った。
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討 死
一
島原・天草で起った騒動は、九州の大名衆さえも、
「すぐに鎮圧できるだろう」
と、しごくかんたんに看ていた。
一揆が暴発したのは、十月二十日であったが、江戸に在る九州大名たちが、国許からその報せを受けたのは、十一月もなかばになってからであった。
のみならず、べつにさわぎたてもしなかった。
仙台城主伊達忠宗から、肥後熊本城主細川忠利の屋敷に、
「九州のどこかで、騒動が起った由、援けが必要ならば、お申し出下されたい」
と、使者が遣わされると、忠利は、左のような、|のんき《ヽヽヽ》な返書をしていた。
[#この行2字下げ]松倉長門の知行地島原と申すところで、|きりしたん《ヽヽヽヽヽ》共がたてこもり、所々の代官などをうち殺し、松倉の留守居城から二十町ばかりのところに、一揆が寄り合い居り申し候ゆえ、城中の者、一揆を追い払い、百人あまり討ち果し申し候。はてしもない儀に候ゆえ、城へひき取り候ところ、四方よりつけ込み、城下を焼きはらい申し候。(中略)兵粮は町裏の海辺にござ候ゆえ、百姓どもを追い払って、城内へ取り入れること叶わず候が、本丸にも兵粮ござ候由に候。さむらい共は七八十人ござ候て、籠城つかまつり居り候。十一月|晦日《みそか》までの間に、百姓どもを成敗仕るべき由に候。島原より、国(肥後)へ加勢を乞い申し候えども、軍勢を動かすのは御|法度《はつと》にて、上意なくては、罷り成らず候ゆえ、豊後の横目衆(牧野氏・林氏)へ尋ね候えば、江戸へ御意を得べく、使者を遣し候間、御諚《ごじよう》のあるまで相待ち候え、とのお申しつけゆえ、明日城が落ち候うとも、御下知なき以前は、見物にてござ候。されども、本丸・二ノ丸は石垣も高く、よき水濠にてござ候間、城は落ち申すまじくと存じ候。
この書簡をみただけでも、九州大名たちは、「大したことはあるまい」と、|たか《ヽヽ》をくくっていたし、また、ひたすら、幕府の下知にしたがうことのみしか考えていなかった。
隣家から猛火が噴きあがっても、幕府から、
「消せ」
と、命令があるまでは、腕をこまねいて、傍観しているよりほかはなかったのである。
もし、許可なく、自主的に、消火につとめたならば、幕府から、みだりに法度を破った、という咎めを蒙って、改易させられるおそれがあった。いや、そうおそれるまでに、大名たちは、卑屈になり骨抜きにされていたのである。
豊後の幕府直領内の目付衆が、江戸城からの命令があるまでは、九州大名たちに、島原・天草へ、一兵も送ろうとはしなかった。
そのあいだに、一揆の頭数は、急速に増したのであった。
わずか十六歳の益田四郎時貞を総大将とした一揆は、十一月中に、三万余の大軍にふくれあがっていた。
江戸城内で、一揆制圧の評定がひらかれたのは、十一月十八日であった。
そして、板倉内膳正重昌が、目付石谷十蔵をしたがえて、討伐に向うことになった。
板倉重昌は、京都初代所司代板倉勝重の次男で、故秀忠の御書院番頭をつとめ、いまは、家光の近習出頭人であった。
重昌は、決して凡庸な人物ではなかった。家康の寵をこうむっていたし、大坂冬の陣後の和睦に際しては、二十六歳の若年乍ら、大坂におもむいて、その起請文を受けとって来ただけの器量をそなえていた。
しかし――。
重昌は、兵略に長《た》けた武将ではなかった。文治派であった。しかも、わずか一万石の小身にすぎなかった。
重昌を、征討使に下命したのは、この年、大老となった土井大炊頭利勝であった。
利勝が、板倉重昌を名指《なざ》した時、酒井忠勝と松平信綱は、同時に口をひらいて、反対をとなえようとしたが、言葉を出さなかった。
大老の権威は絶対であり、老中の上にあって、政務を総理する。大老の意見をくつがえすことのできるのは、将軍家だけであった。
土井利勝が初代大老職に就いたのは、去年から、将軍家光が気鬱症に罹り(実は発作が頻繁となり)一切、閣老とも顔を合せなくなったため、家光に代って政務をとらざるを得なくなったからであった。
二
酒井忠勝も松平信綱も、これはただの一揆ではない、とさとり、討伐の大将としては、板倉重昌は全くその任ではない、と考えたものの、家光が絶対に謁見を拒否している以上、どうすべくもなかった。
板倉重昌が、その任ではない、とさとったのは、忠勝・信綱だけではなかった。
その日、有馬豊氏邸で、申楽《さるがく》見物に招じられていた柳生但馬守宗矩は、重昌出陣のことを耳にするや、
「それはならぬ!」
と、叫んで、駿馬を借り受け、重昌のあとを追って、東海道を疾駆した。
しかし、重昌が品川から船でおもむいたと知るや、馬首をめぐらし、夜中、土井邸の門前に至って、大声を張って、面会をもとめた。
利勝の面前に出るや、宗矩は、
「板倉内膳は、文治の才こそ衆を抜いて居りますけれど、兵を動かす力は乏しく、身分は軽く、禄も尠く、とうてい西国の諸大名を、指揮する追討使となることは叶いませぬ。これは、いたずらに、内膳正をして、死地におもむかしめる結果と相成りましょう。総大将には、御一門のかたがたか、さもなくんば、宿老の中からおえらびあって、お遣わしなされますよう、願いあげまする」
と、進言した。
利勝は、その諫《いさ》めを、しりぞけた。
討手を命じた西国大名は、戸田左門氏鉄、細川越中守忠利、鍋島信濃守勝茂、有馬左衛門佐直純、黒田右衛門佐忠之、寺沢兵庫頭忠高らで、あるいは五十万石以上の国主であり、あるいは九州に威をふるった名家であった。
とうてい、板倉重昌ごとき、身分地位の軽い文治派のあやつれる大名衆ではなかった。
はたして――。
十二月朔日、肥後高瀬に到着した板倉重昌は、肥後・肥前・筑後三国の諸大名と会合して、攻撃の評議をしたとたんから、みじめな苦境に立たされた。
五十歳の重昌は、これまで、ただの一度も戦場を馳せめぐって闘った経験がなかったからである。
重昌が老中ででもあったならば、
「御辺がたに、功名を争って頂こう」
と、威圧もできたであろう。
おのれより身分も地位も格も上にある諸大名の、勝手な意見を、きかされるままに、いたずらに迷うばかりであった。
そして、その惨めな征討使ぶりは、戦いの現場におもむいて、さらに惨めさを露呈してしまった。
肥後・肥前・筑後三国の軍勢は、一揆のたて籠った原城に押し寄せたが、ただとり巻いただけであった。
その攻撃ぶりは、きわめて、臆病なへっぴり腰であった。
武辺を誇る戦闘力は、関ヶ原役を境にして、日本から消え失せていた、といっても過言ではなかった。
大坂役で、阿修羅の働きをしたのは、豊臣方の牢人武将とその配下だけであった。
それでもまだ、大坂役では、徳川方にも、千軍万馬の、戦場を馳せめぐった武辺が、生き残っていたおかげで、士卒を叱咤して、先頭をきって進む勇猛のほどを発揮したのであった。
あれから二十三年を経て、そうした武辺の大半は逝き、老い果てていた。
壮年以下、九割九分の士卒が、実戦を知らなかった。
矢玉に首をすくめ、死ぬことをおそれたのである。
これに対して、十字架《くるす》の旗をひるがえし、
「天主《でうす》よ、われに勝利を与え給え!」
と叫んで、迎え撃った一揆勢は、生命をすてることをみじんも惜しまなかった。
五日過ぎ、十日経ったが、原城が陥落する気配もなかった。
十二月二十日。
寄手は、総攻撃をしかけた。
しかし、その総攻撃は、甚だ脆弱《ぜいじやく》なものであった。
攻略の策の下手さもあったが、侍大将一人が討死すると、したがっていた士卒は、忽ち浮足立って、進むのを止めてしまうあんばいであった。
その総攻撃にあたって、自ら先頭に立ったのは、一人、立花左近将監忠茂だけであった。そのために、立花勢の討死者が最も多かった。立花三左衛門、十時吉兵衛、依田清兵衛、渡辺次郎右衛門ら侍大将ら二十八人が討死し、雑兵まで合せて三百八十余人が相果てた。その立花勢でも、逃げ出した者の方が、はるかに多かった。
以来、諸軍は、ただ持場をかためるだけで、|じり《ヽヽ》とも動かなくなった。
三
「やむを得ぬ。それがしが、参ろう」
十二月二十日の総攻撃の失敗の急報が、江戸城にもたらされるや、松平信綱は、老中部屋で、酒井忠勝と対座して、そう云った。
すると、忠勝は、
「もう、間に合わぬかも知れぬ」
と、云った。
「間に合わぬとは?」
「内膳正のことだ。……お許が到着した頃は、すでに、討死して居ろう」
「………」
二人は、視線を合せたなり、沈黙した。
寛永十四年が終ろうとする大晦日のことであった。
忠勝は、総攻撃失敗の報をきくと、
――板倉は、死ぬであろう。
と、直感したのであった。
重昌が、討死したのは、明けて正月元日の辰刻(午前八時)であった。
正月元日を期して、二回目の総攻撃をする旨を、重昌は、諸軍へ布令した。
後日の記録によれば、総攻撃は、辰刻と申し合せてあったが、有馬兵部大輔忠頼が、先駆けの功名をもくろんで、寅の一点(午前四時)に、大手三ノ丸濠ぎわに殺到して、友軍の策応を狂わせてしまったため、失敗した、とある。
『元寛日記』も『寛明日記』も、そう書き、『徳川実紀』は、有馬勢は、そのために、千余人が討死し、退却を余儀なくされた、と記している。
事実は、そうではなかった。
午前四時に、攻めかけたのは、征討使板倉重昌自身であった。
自分が総指揮官である限り、諸大名の足並はそろわぬ、と知り、また味方の士卒の臆病ぶりをつぶさに見せつけられ、同時に、吉利支丹宗門に帰依した敵のおそるべき力を思い知らされた重昌は、
――死ぬよりほかに、おのが面目をたてるすべはない。
と、覚悟したのであった。
不幸といえばあまりに不幸な人物であった。
重昌は、二代京都所司代周防守重宗の弟であったが、世人からは、
「臙脂《えんじ》内膳」
と、呼ばれていた。
兄の周防よりも、頭脳が秀れて居り、蘇芳《すほう》(周防)よりも色が増す臙脂だ、とほめられたくらいであった。
たしかに、文治派としては、松平伊豆守信綱を扶《たす》けて、種々の功績があったのである。だが、戦闘かけひきは、全くの未経験であり、軍法兵略も学んではいなかった。
こうしたぶざまな攻撃をして、なんの面目があって、生きて再び、江戸城へ帰還することができるであろう。
元日夜明け前――。
重昌は、手勢を率いて、大手三ノ丸濠ぎわへ、攻め寄せた。
その時刻、使者を遣わして、松倉勝家(重治)に、ともに、攻撃をしかけるよう、要請していた。この騒動の起る直接の原因をつくった松倉重政の嗣子重治こそ、責任をとって、討死すべきであった。
しかし、松倉重治は、城内から撃ちかけて来る鉄砲や矢におそれをなして、軍を進めることができぬ卑劣ぶりを示した。
原城の城壁は、高さ七間もあり、切り立った断崖絶壁であったので、攀《よ》じ登る手段もなかった。
それを承知で、重昌は、目付石谷十蔵とともに、攀じのぼって行った。
当然、城壁上から、矢玉が、大石が、重昌めがけて、襲いかかって来た。
重昌の兜を砕いたのは、大石であった。
重昌は、濠へ落下し、水底へ没した。
重昌の嫡男主水佑重矩は、まだ二十一歳であったが、松倉重治が動かぬのをみて、憤怒し、まっさきに、数十丈の塀をよじ登って行ったが、矢玉に肩を射抜かれて、これも落下した。さいわいには、重矩は、生命をとりとめて、後年、大坂城代として名を挙げた。
重昌には、辞世の歌があった。
あらたまの年にまかせて咲く花の
名のみ残らば 魁《さきがけ》と知れ
重昌の討死を知って、流石の西国大名衆も、奮起して、総攻撃をしかけた。
その結果――。
有馬勢の討死は九十四人、雑兵数百。鍋島勢は、士の討死が三百八十余人、雑兵二千余。松倉勢は、士の討死がわずか十七人であった。
この日、立花忠茂は、第一回の総攻撃の際の諸大名の卑怯さを憤っていて、浜手を詰めて、動かなかった。
板倉重昌討死の急報が、江戸へもたらされる前に――松平伊豆守信綱は、江戸を出発した。
伊豆守自身、合戦の経験はなかった。
――あるいは、内膳と同様、生きて帰府は叶わぬかも知れぬ。
その覚悟は、できていた。
自分が死ねば、おそらく、幕閣の権勢は、酒井忠勝の手中に帰すであろう。
大老土井大炊頭利勝は、板倉重昌を征討使に指名して、|みそ《ヽヽ》をつけて、権威は一歩、後退してしまった。すでに、耄碌《もうろく》していたのである。
――やむを得ぬ!
伊豆守は、駿府にかくされた太閤遺金を発見できなかったことだけが、心残りであった。
それで――。
出発の前日、大久保播磨を呼んで、
「於菊を白状させることができぬ時は、御辺が、切腹して責任をとるがよい」
と、厳命を下しておいたのであった。
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二 つ の 死
一
……まさしく、それは、九条明子の霊魂が告げた予感というものであった、といえたろう。
大久保播磨が、松平伊豆守に、評定所へ呼び出されて、於菊を白状させることができなければ切腹して責任をとれ、と厳命を下されていた――その留守中、於菊は、ひとり居間にこもっていたが、一瞬、おのが生命の灯の薄さを、霊感のようにおぼえた。
於菊は、千夜を、そっと、呼び入れた。
「千夜、そなたに、わたくし、必死のたのみがあります」
「はい」
千夜は、於菊の尋常ならぬ厳しい表情に、固唾をのんだ。
於菊の前には、桐の箱が置かれてあった。
「これを、そなたに、預けます」
「……?」
於菊は、蓋を開けて、絹で包んだ十枚皿の一枚を、千夜に示した。
「これは、百年前の名工祥瑞が焼きあげた、比類のない名品です。……わたくしは、わがあるじ九条明子様より、一命に代えても守るように命じられて、お預りいたしました。……この皿十枚を、そなたに、預けます」
「於菊様! 千夜には、そんな大切なお品を、お預りすることはできませぬ」
「いいえ。そなただからこそ、屋敷内の者たちに疑われずに、預けることができるのです。そなたが、奉公に上って来た時持参した荷物の中に、おかくしなさい」
「……?」
「そして、今日のうちに、ひまをとって、幡随意院の長兵衛の家へ、お帰りなさい。そなたを召使ったのは、わたくしゆえ、なにかの落度があって、ひまを出した口実をもうけます」
「はい」
「たのみましたぞ」
「かしこまりました。……でも、於菊様、このお品を、千夜は、いつまでお預りすればよろしいのでございますか?」
「姫様のお話によれば、名張の夜兵衛と申す老爺が、たずねて参ったならば、渡すように、というご命令でありましたが、その老爺が、何処の者か、いつたずねて参るか……?」
みなまできかず、千夜が、おどろきの声をたてた。
「どうしたのです?」
於菊は、怪訝《けげん》に眉宇をひそめた。
「於菊様!」
千夜は、息をはずませた。
「わたしを、このお屋敷にご奉公に上るように、命じたのは、その夜兵衛小父様だったのでございます!」
「おお! そうでしたか! では、そなたが、この屋敷へ奉公に上ったのは、偶然ではなく、その老爺のはからいであったのですね?」
「左様でございます」
「よかった!」
於菊は、大きく安堵の吐息をした。
「で――、その老爺は、どこに住んで居ります?」
「幡随意院の長兵衛殿の家に、身を寄せておいででございます。わたしの生命の恩人でございます」
「……神は、わたくしをお見すてではなかった。姫様の霊魂のおみちびきです」
於菊は、そう自分に云いきかせてから、
「千夜、この十枚の皿は、わがあるじ九条明子様が、わがいのちとひきかえに、わたくしに、守るようにお渡しなされた、この世に二つとない貴重な品なのです。……よろしいか。その、名張の夜兵衛という老爺以外に、渡してはなりませぬ。この儀、かまえて、忘れてはなりませぬぞ。そなたを信じて、預けるのです」
「はい! お誓いいたします。小父様のほかには、決して、見せも、渡しもいたしませぬ」
於菊は、播磨から、九条明子より何か重大な秘密を打明けられていると責めたてられて、心身ともにさいなまれる痛苦の日々を送っているうちに、いつとなく、――お預りした祥瑞皿に、その秘密が、かくされてあるに相違ない!
と、推測がついたのであった。
於菊は、奉公にはげむうちに、播磨を慕う想いを芽ばえさせ、やがて、肉体の契りがむすばれてからは、生涯ただ一人の男性と思いきめたのであったが、九条明子という不幸なあるじの遺命を破ることは、絶対にできなかったのである。
その点では、於菊は、意志のかたい女であった。
千夜が、名張の夜兵衛のはからいで奉公に上った少女と判ったいま、於菊の心は、定った。
――これで、いつでも、死ねる。泉下へ行って、姫様に、ぶじにつとめをはたすことができた、とご報告申し上げられる。
将軍家に殺された明子の霊魂を、すこしでもなぐさめられるものならば、於菊は、いつ死んでも、この世にのこす悔いはなかった。
はっきり云えば、立身をあせる播磨の態度が、於菊の思慕の情を、すこしずつ削りとっていた現状であった。
二
播磨が、評定所を退出して、青山の屋敷に帰って来たのは、申刻《さるのこく》(午後四時)すぎであったが、その時は、もう、千夜は、暇乞いして、去っていた。
於菊は、播磨が、はずした袴や裃《かみしも》をたたみ乍ら、敏感に、
――やはり、予感は、的中《あた》った。
と、自分に云いきかせていた。
播磨の顔面にも、挙措にも、もはや、おのれ自身どうにもならぬ必死の気色がみなぎっていたのである。
「菊――」
正座した播磨は、うわずった声音で呼んだ。
「はい」
「身共の目を、見よ」
「………」
じっと瞶《みつ》めかえす於菊の双眸が澄み、面持も静かであるために、播磨は、一瞬、口から送り出さねばならぬ激しい言葉を、ぐっと咽喉奥へ沈めた。
しばらく沈黙を置いて、
「菊、そなたが秘密を打明けるか、それとも、身共が切腹するか――いずれかひとつを、えらばねば相成らぬ次第となったぞ!」
と、云った。
「お殿様、わたくしをご成敗なされませ」
於菊の返辞はそれであった。
「殺されても、白状はせぬ、と申すのか?」
「菊は姫様から何事も、打明けられては居りませぬ。……なれど、ご老中がたが、左様お疑いならば、いたしかたがございませぬ。……わたくしを成敗した、とご報告あそばしたならば、ご老中がたも、おあきらめなさいましょう」
「菊! そなた、まことに、身共にかくして居らぬのだな?」
「かくしては居りませぬ」
於菊は、こたえた。
播磨は、先般やって来た夜兵衛という老いたる盗賊の言葉を、思い出した。
「於菊どのは、決して、明子様より、秘密を教えられては居りませぬ」
夜兵衛は、明言したし、また、かりに於菊が秘密を打明けられていたとして、
「貴方様が、早速に、手柄として、伊豆守殿に、ご報告なさいますれば、その結果は……、公儀にとって重大な意味を持つ事柄を知る貴方様を、どうして、伊豆守殿が、生かしておきましょうか」
と、予言をしたのであった。
播磨は、その時は、夜兵衛の忠告を、尤もだ、と合点したものであった。
しかし――。
いまは、夜兵衛という盗賊が、この屋敷に現れたことそのものが、疑うべきもの、と考えられていた。
――於菊が、秘密を知るからこそ、あのような曲者が、屋敷へやって来て、したり顔の忠告をして、わしをだまそうとしたのではないか?
「菊! 身共は、いまこそ、心の底まで包みかくさず云うぞ。九条明子の秘密が、公儀にとって、どんな重大な事柄か、それをそなたに打明けさせて、御書院番に召し出されたい――そんなことは、もはや、どうでもよいのだ。身共は、そなたを失いたくないのだ。……そなたが、あくまで、口をつぐんで居れば、いずれ、伊豆守殿は、そなたを呼びつけて、責苦に遭わせるであろう。そなたは、生きて再び、この屋敷に、もどることは叶うまい。……身共にとって、いまは、この世で、そなたが、一番大切な宝なのだ。判ってくれい。……そなたも、身共を、生涯唯一の男、と思いきめているであろう。たのむ! 九条明子が、なにか、公儀にとって、手がかりとなることを、もらしはしなかったか。思い出して、身共に教えてくれぬか。たのむ!」
播磨は、両手をつかえた。
於菊は、顔を伏せて、視線を、膝の手へ落した。
「菊! たのむ! 思い出してくれ!……このまま、そなたが、何もこたえてくれなければ、そなたも、老中に殺され、身共も切腹しなければならぬ仕儀となるのだ」
「お殿様、菊は、ご成敗を、とお願いいたして居ります」
この声音の冷たさが、不意に、播磨に、はっと、ひとつの直感を働かせた。
「菊! 千夜はどうした? ここへ、呼べ!」
「千夜は、落度があって、宿下りをいたさせました」
「おのれ!」
播磨は、かっと、眦《まなじり》を裂いた。
「千夜は、夜兵衛と申すあの曲者が、奉公に上げた娘だぞ。……そうか、判ったぞ! 菊! そなたは、夜兵衛の一味であったな? そうだな?」
「ちがいまする。わたくしは、夜兵衛と申す老人などと、面識はございませぬ」
「この期に及んで、まだ、しらばくれるか!」
播磨は、かっと、逆上した。
もし、この時、於菊が、播磨にすがりついて、泣きむせび乍ら、どれほど自分が想い慕っているか、かきくどいたならば、惨劇は、避けられたであろう。
播磨の逆上ぶりに対して、於菊の様子は、水のようにもの静かであった。
播磨は、思わず、夢中で、差料をつかんだ。
「菊! まこと、生命が惜しゅうはないのか?」
「いたしかたございませぬ」
この声音の冷たいひびきが、播磨に抜刀させた。
抜刀し乍らも、なお、播磨は、一縷《いちる》の希望をつないで、
「菊! そなたは、身共にとって、この世に二人とない女子なのだぞ!」
と、叫んだ。
「だからこそ、わたくしは、お殿様のお手にかかって、相果てとうございます」
「莫迦っ!」
呶号とともに、播磨は、於菊めがけて、白刃を、振りおろした。
兵法の修業が成っていた一撃であった。
於菊は、右肩から袈裟がけに、したたか斬り下げられて、倒れた。
返り血の冷たさが、播磨をして、われにかえらせた。
「菊っ!」
絶叫して、播磨は、於菊を抱き起した。
みるみる血の気を喪って、死相を呈した於菊は、目蓋を微かにふるわせて、うすくひらくと、
「……お殿様、……菊が、……貴方様を、……お慕い……申して、いたことだけは……うそ、いつわりでは、ありませなんだ」
との言葉を、遺した。
三
千夜が、幡随意院門前の長兵衛宅へ戻りついて、裏土間に入った時、ぷうんと、線香の匂いが、鼻の孔を刺した。
「……?」
千夜は、不審なままに、内土間との仕切りの紅殻格子を開けた。
台所から、そそくさと出て来た下婢の一人が、あっ、と叫び声をあげて、
「親分!」
と、奥へ金切り声をあげた。
「千夜さんが、帰って来なんしたよ」
「おう――」
長兵衛が、大股に出て来て、千夜を、いたましく、見下した。
「いま、使いをやろうとしたんだが……、虫の知らせで、戻って来たか、千夜さん。……ひと足、おそかった!」
千夜は、一瞬、いっぱいに、双眸をみひらいたが、その瞬間、駆けあがった。
奥座敷の牀に寝かせられた夜兵衛の顔には、白い布がかけてあった。
「小父様っ!」
千夜は、夜具にしがみついた。
沈痛な表情で、枕辺に坐った長兵衛は、
「すまねえ、千夜さん」
と、頭を下げた。
「今朝がたは、粥《かゆ》をすすって、べつにつらそうな様もみせずに、わっし共を、仕事に送り出してくれたんだ。……西国のどこかで、百姓一揆が起って、それを征伐に、品川から軍船がくり出すんで、その手伝い人足をかきあつめなけりゃならねえので、四方を奔《はし》りまわっていたので、容態が急に変った報せを知った時には、もう間に合わなかった。……ねむるようなみごとな往生だった。……あぶねえと判っていりゃ、おめえを、呼びもどしたんだが……、すまねえ。かんべんしてくれろよ」
千夜は、ようやく、哭《な》きやむと、白布をそっと、とりはらってみた。
睡っているような穏やかな死顔であった。まだ、しゃくりあげ乍ら、千夜は、――小父様、ご恩は、一生忘れませぬ!
と、声なく云いかけた。
いつのまにか――。
呂宋左源太が、入って来ていて、
「長兵衛」
と、呼んだ。
「へい」
「いまこそ、この老人の素姓を打明ける」
「へい」
「この御仁は、ただの盗賊ではなかった。徳川家の天下をくつがえす大望を抱きつづけた豊臣家の遺臣――熊谷三郎兵衛という、大坂城一方の侍大将であった」
「やっぱり、左様でござんしたか。あっしも、うすうす、前身は、名のあるおさむらいであろう、と想像はして居りましたが……」
「熊谷殿の遺志は、われら豊家遺臣が、継がねばならぬ。……必ず、秋《とき》を得て、徳川家にひと泡噴かせてくれる! そうだ、今日から、この左源太が、熊谷三郎兵衛と名のって、その遺志を継ぐことにいたす」
左源太は、断乎として、誓った。
長兵衛にとっては、そんな壮挙は、かかわりのないことであったが、なにやら、五体の血汐が熱くなるのをおぼえた。
千夜のかたわらには、荷物が置いてあったが、その中に、莫大な軍用金の在処《ありか》を教える十枚の皿がかくしてあることは、呂宋左源太の夢にも知らぬことであった。
[#地付き]〈嗚呼 江戸城(中) 了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和五十年九月二十五日刊
外字置き換え
※[#「示+氏」]→祇
※[#「馬+單」]→騨