柴田錬三郎
嗚呼 江戸城(下)柴田錬三郎
原 城
一
松平伊豆守信綱が、島原・天草の叛乱鎮圧の総指揮をとるべく、江戸を出発したのは、寛永十四年も押しつまった十二月三日であった。
板倉重昌が、正月元日を期して、原城に総攻撃をしかけて、討死した時、信綱は、筑前原田に至って居り、まだその討死を知らなかった。
二日、肥前寺井に行き、そこから、島原に渡ろうとしたが、雪をまじえた烈風が吹きまくり、船が逆立つ波浪を乗りきることは不可能事と、進言された。翌三日、ようやく信綱は、島原に到着して、はじめて、総攻撃の失敗と、板倉重昌の討死を報された。
四日、有馬の陣営に入った信綱は、戸田左門|氏鉄《うじかね》とともに、四千余の手勢を引具して、原城を、巡視した。
十六歳の益田四郎時貞を総大将として、婦女子子供を合せて三万七千余のたてこもる原城が、攻めるに難く、守るに易い堅城であることは、いまだ攻城野戦の経験を持たぬ伊豆守信綱にも、すぐに、判った。
原城は、島原半島の南端、東岸の一港を抱き、南西に半島状の岬を有し、天草島の富岡城と十一海里へだてた丘陵に在った。
足利時代、有馬|貴純《たかずみ》の築いた城で、晴信まで七代が継いで来たが、晴信が本多正純の家臣岡本大八にだまされた挙句、所領を没収され、甲州に配流されるとともに、原城もまた、新城主松倉重政によって、廃址にされたのであった。
松倉重政が、何故に、無比の要害を誇る原城を解いて、島原へ移し、七年の歳月と経費と労力を費して、高来《たかぎ》城を築いたか、誰も合点しがたいことであった。
東北に高く、雲仙岳を仰ぎ、前方には方丈岳が横たわり、南面は、数丈の断崖絶壁になって、海原に対し、はるかにへだてて、天草の翠巒《すいらん》を望んでいた。
城の外面は、一帯の沼地がひろがり、出丸の丘陵は八方にさし出て、横矢(十字火)を集中するには究竟《くつきよう》の地の利を有していた。
すなわち、その地形が、劃然として、他所ときりはなされ、完全に独立した要害であった。
白堊の城壁をつらね、城楼を天空にそびえさせていた頃は、
『日暮城』
と、称《よ》ばれていた。
風光は絶佳だったのである。
伊豆守信綱は、巡見し乍《なが》ら、松倉重政が、ここを廃して、島原へ城を移したおろかさに、腹立たしさをおぼえるとともに、
――一揆勢が、ここをえらんだのは、軍師である天草甚兵衛という人物が、只者ではない証左だ。
と、みとめたことだった。
天草甚兵衛が、小西行長の遺臣で、大坂の陣が起るや、真田幸村の招聘に応じて、真田六文銭組の謀師格として働いた、という履歴は、すでに、信綱の耳に入っていた。
島原と天草と呼応して蜂起した一揆の戦闘の次第を、島原に到着して、くわしくきいた信綱は、天草甚兵衛が、烏合の衆であるべき農夫たちを、最も強い精兵と化さしめていることに、舌を巻いたのである。
一揆が蜂起してから、この原城にたてこもるまでの戦闘ぶりは、まことに鮮やかな、一糸みだれぬ神算鬼謀というべきものであった。
島原にあっては、島原城の次席家老富岡弥左衛門が指揮をとって、有馬村の一揆を征討すべく、軽舟に分乗して、海上から攻めかけようとして、みごとに、裏をかかれていた。
島原城から、有馬村までは海上五里であった。その中間に、布津、堂崎の岬があった。そこをまわりかけた折、突如として、城の方角に、凄じい火焔が噴きあがるのをみとめた。
富岡弥左衛門は、一揆勢が、城に不意撃ちをしかけた、と思った。本丸には、五百石もの火薬が貯蔵してあった。もし、それに火がつけば、城は四散するし、攻め陥《おと》されたならば、そっくり奪取されるおそれがあった。
富岡弥左衛門は、急遽、舟隊の舳先をまわすように、下知した。そして、おのれ自身は、陸路を馬で疾駆すべく、岬の渚へ、舟を着けさせた。
しかし、翌朝、島原城へ戻りついた馬の背中には、弥左衛門の首がくくりつけてあったし、舟隊の方は、ただの一兵も、城へは帰らなかった。暗夜の海上から、煙のように消えてしまったのであった。
島原城の主席家老岡本新兵衛は、自ら総指揮をとって、三百余の兵を率いると、一揆の主力が集中しているとみなされる深江村瀬野へ向って、趨《はし》った。深江村は、島原から二里足らずであった。
一揆勢が拠っていると報された瀬野の古塁は、古びた城門だけが建ちのこり、その内部や付近は、雑木が生い茂っていた。濠は、竹藪と化していた。
四辺は、森閑として、ものさびしく、一揆勢が内部にひそむ気配は感じられなかった。
しかし、そのものさびしさが、かえって、無気味であった。
主席家老岡本新兵衛は、苛立って、馬上から、「鬨《とき》をあげい!」と呶鳴ったが、一兵すら口をひらこうとせず、怯じ気づいた沈黙を守って、動かなかった。
新兵衛は、四人の士をえらんで、牆《かき》を越えさせた。やがて、門内に発見したのは、杖にすがらねば歩行のできぬ老爺と老婆数人だけであった。
それらの皺首を刎《は》ねて、古塁に火を放っておいて、松倉勢は、引きあげたが、半里ばかり戻った広畑の叢中《そうちゆう》から、突如として、一揆勢が、湧くがごとく出現して、襲いかかってきた。
古塁前で、鬨の声さえあげられなかった松倉勢に、この奇襲を迎撃する力があろう筈がなかった。
総大将岡本新兵衛はじめ、大半が討ち取られてしまった。
二
天草にあっては――。
領主の唐津城主寺沢堅高の重臣三宅重兵衛が、富岡城をあずかっていた。
三宅重兵衛は、歴戦の勇士で、武田流軍学にくわしく、山県三郎兵衛昌景に私淑していた。山県三郎兵衛は、長篠の合戦に、右手を鉄砲で撃ちぬかれるや、采配を左手に持ちかえ、さらに左手も撃たれるや、采配を口にくわえて、敵陣へ突入して行った猛将であった。
三宅重兵衛は、大矢野に一揆が起った、ときかされても、すぐには動かなかった。一揆勢が、大矢野島から、天草上島の上津浦に進出して、山砦を急築している、との報告にも、黙ってうなずいただけで、起《た》とうとはしなかった。
一揆勢が、天草の中心地である本渡に、十字架旗を押し進めて来た時、はじめて、三宅重兵衛は、起った。起つや、その行動は、敏速をきわめていた。
千五百の士卒を、海辺の砂上に整列させると、
「わが富岡城は、難攻不落の名城である。わが全軍が進発した後に、攻めかけられても、留守居の者だけで、充分に守りきることができ、陥落の心配は全くない。されば、わが全軍は、後顧の懸念はみじんもなく、疾風のごとく進むのだ。勝利は、まさに、速戦して即決でわが手に入る。奇道は無用。積水を千仭の谷に落すごとく、賊徒の本拠を衝く。進撃の途中の異変は、ことごとく、敵の欺瞞の策と思え。一切、わき見をいたすな!」
下知しておいて、自ら、白馬にうちまたがって先頭に立ち、疾駆して行った。
富岡の城兵千五百は、五里の山野を、一気に、趨《はし》った。伏兵ありとみせた竹藪の佯攻《ようこう》の動きも、原野の旗すすきの中に突如として具足を鳴らしてみせる偽兵作戦にも、目をくれなかった。
しかし、まっしぐらに本渡まで趨った富岡軍を待っていたのは、町を焼きつくす猛火の饗宴であった。
一揆勢は、本渡の住民を一人のこらずひきつれて、上津浦の山砦に、しりぞいていたのである。
三宅重兵衛は、ただちに、全軍を三分し、一隊は本渡を確守し、一隊は上津浦を攻撃し、のこり一隊は、遊軍として、危うきを援ける作戦をたてた。
上津浦の攻撃は、その子三宅重左衛門と並河九兵衛に当らせた。
激突は、上津浦と本渡の中間の海辺で、なされた。
富岡軍は、賊の軍勢が、上津浦の山砦を出て、堂々と海辺に布陣しているのを発見して、どっと攻めかけた。
とたんに、右方の山間の隘路から、立木すべて人間と化したごとく、わあっと鯨波をあげて、襲いかかって来たのであった。
ここに於ても、島原の松倉勢と同様、富岡勢は、たちまち、浮足立って、みじめな逃げ腰を示した。
並河九兵衛が討たれたのをきっかけにして、富岡勢は、算を乱して、潰走した。三宅重左衛門は、一騎のみ、渚づたいに遁走したが、途中、力尽きて、海中に落ちた。
夜が明けた頃あい、本渡の小丘陵の上で、濃い朝霧の中に、三宅重兵衛は、白馬にまたがり、潮騒のように、彼方からひびいてくる鯨波を、耳にしていた。
重兵衛にとって、全く信じられぬことが起っていた。
具足武器の完備した千五百の士卒が、槍や刀を持った者が半数にも足らぬ農夫の群三千余に、完敗したのである。
――あり得たことか?
一夜のうちに面相を一変させた重兵衛は、なお、悪夢でもみているような気持であった。
霧が、鯨波にうちはらわれるように、霽《は》れて来ると、海辺から、林から、野から、川から、無数の叛賊の徒の影が、この丘陵をめざして登ってくるのが、見わけられた。
――わしは、負けたのだ!
あらためて、おのれに云いきかせた重兵衛は、しかし、ここで討死することはできなかった。
城代である身は、生きて富岡城へ、還らなければならなかった。
死を視ること帰するがごとき吉利支丹宗門に帰依した土民たちの強さを、存分に思い知らされた三宅重兵衛は、富岡城めざして、白馬を駆った。
そして――。
重兵衛が、戻り着いて、松林のむこうに、薄暮の中にそびえる富岡城を仰いだ時、城壁上には、無数の旌旗《せいき》が、はためいていた。それらには、真紅の十字架が描かれていた。
重兵衛は、重傷の身が呼んだ幻影だ、とかぶりを振り、
「無念!」
と、呟いて、すこしずつ、うなだれてゆき、やがて、がくりと首を垂れるとともに、血まみれの躯を、砂地へ転落させた。
三
島原城を攻撃した一揆勢と、天草富岡を占領した一揆勢が、日を合せて、この原城の址に拠ったのは、寛永十四年十二月一日であった。
一揆両勢は、寺沢家と松倉家の倉庫を襲って、兵糧と武器を掠奪し、原城へ運び込み、昼夜をわかたず、壕を掘り、石垣を築き、塀をめぐらし、小屋を建て、またたくうちに、すべての籠城の構えをととのえて、幕府の征討軍の攻撃を、待ち受けたのであった。
そして――。
板倉重昌を征討使とする肥後・肥前・筑後の連合軍が押し寄せて来るや、
「天主《でうす》よ、われに勝利を与え給え!」
その叫びを合言葉に、鉄砲を撃ちたて、十二月二十日の総攻撃にも、正月元日の第二の総攻撃にも、一兵たりとも、城内に突入することを許さなかった。
原城巡視を終えて、本陣に戻って来た伊豆守信綱は、諸将を集合させた。
信綱は、云った。
「将軍家代理として、お許《こと》方に申し渡す。この老中松平伊豆守の命令を、一事たりとも、たがえぬよう――」
まず、おのれの立場が絶対的な権限を具備していることを、表明しておいて、各大名に持場を代えさせた。
先手の陣を、島原城主松倉長門守勝家(重治)から、細川越中守忠利に代えた。細川家の軍勢は、二万三千五百人であった。
信綱は、各大名に、その軍勢を増すように命じた。
鍋島勝茂、同直澄には、二万を三万五千に。
黒田忠之、同長興、同高政には、一万を二万に。
立花宗茂、同忠茂には、六千を一万に。
有馬豊氏、同忠頼には、五千を一万に。
有馬直純、同康純には、二千を三千に。
小笠原忠真には、三千を五千に。
水野勝成、同勝俊、同勝貞には、三千を五千に。
小笠原長次には、二千を三千に。
松倉重治には、千を二千に。
それから天草領主寺沢堅高には、唐津から五千人を呼んで、三倍にふやすように、命じた。
伊豆守信綱自身が率いた手勢は千五百、戸田左門氏鉄は、二千五百を引具していた。その他、薩摩の島津家からは一千、討死した板倉重昌が残した兵六百など、総勢あわせて十万の大軍にふくれあがらせて、信綱は、原城攻略を期したのである。
その十万の大軍が、有馬にそろった頃、江戸では――。
牛込榎町の張孔堂道場に、意外な来訪者があった。
卯下刻《うのげこく》(午前七時)正雪が、朝餉《あさげ》を摂《と》ろうとした時であった。
「先生、客であります」
取次の門弟が、告げた。
「はやばやと、誰人が来たのだ?」
「それが、頭巾で、おもてをかくして居り、讃岐《さぬき》が参った、とつたえよ、と……」
「讃岐?!‥…供は多勢か?」
「いえ、十人足らずでありますが――」
「書院へ通せ」
正雪は、命じておいて、
――どういうのであろう?
と、疑った。
讃岐、と名のったところをみると、酒井讃岐守忠勝ということになるが、老中たる身が、どういう理由があるにせよ、たかが市井の軍学道場へ、足をはこんで来るとは、考えられぬ破天荒の行動であった。
正雪は、ともかく、いそいで、衣服をつけて、書院に入った。
客座に就いている客は、頭巾をぬごうとはしなかった。
正雪は、鄭重に挨拶した。
頭巾の陰から、じっと、正雪を見据えた客は、
「讃岐守忠勝だ。見知りおいてくれい」
と、名のった。
「わざわざのご来訪の儀、早速に、うけたまわります」
「老中としてではなく、一大名として、お許に、たのみに参った」
忠勝は、云った。
「……?」
正雪は、忠勝の視線を、受けとめて、きり出される用件を、待った。
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向背《こうはい》問答
一
ややしばらく、沈黙を置いてから、酒井忠勝は、突然来訪した用件を、口にした。
「お許《こと》の軍学者としての才能を、買いたい」
「……?」
正雪は、無言で、まばたきもせずに、端座したなりであった。
「九州の、島原・天草に於て、百姓一揆が起って居ることは、すでにお許の耳にも入っていよう。……これは、ただの百姓一揆ではない。耶蘇教を狂信し、死ねば、天国《はらいそ》とやらへ昇れることをみじんも疑って居らぬ。この狂信は、わずか十歳足らずの子供の心にまで、かたく植えつけられて居る。したがって、諸大名の軍勢が、いかに躍起になって、攻めかけようとも、恐れず怯えず、阿修羅となって抵抗をつづけて居る。……刀で斬られようと、槍で突かれようと、矢弾が当ろうと、その死顔は、のこらず、天国へ昇る喜悦の色を湛えて居る由。……のみならず、総大将天草四郎時貞なる者は、十六歳の少年であるが、百姓どもは、この少年が、天主の命令によって、天国より遣された――つまり、神の子であると妄信して居る。一揆のまことの総指揮者たる天草甚兵衛と申す小西行長の遺臣が、百姓どもに、そう妄信させたに相違ない。天草甚兵衛は、大坂城の落人で、人格・才腕ともに、衆を抜いた人物ときこえて居る」
「………」
「天草甚兵衛は、おのれと同じ大坂城の落人や、改易となった大名の旧|家人《けにん》どもを、呼集して、耶蘇教狂信の百姓どもが組んだ各隊の隊長に配った模様である。これだけ申せば、一揆勢の強さが、どれほどのものか、お許にも、容易に想像がつくであろう」
「………」
「一揆勢は、島原の原城址にたてこもって居る。その総勢は、四万に近い。……この正月元日、公儀が征討使として、さし向けた板倉重昌は、総攻撃に失敗し、おのれ自身討死して相果てた。……目下、閣老の一人松平伊豆守が、当地におもむき、諸侯の軍勢を増し、攻略の策を練って居るが……、この忠勝の推測では、十日や二十日で、原城を陥落せしめることは叶うまい」
「………」
「そこでお許の軍学者としての才能を買ってみようと、わしは、思いついた次第だ」
「………」
「如何だな、金子一千両で、わしに売ってくれまいか?」
「それがしを、松平豆州殿の影の軍師に起用する、と仰せられますか?」
正雪は、訊ねた。
「いや――」
忠勝は、かぶりを振った。
「お許に、浪人を募集して、一隊をつくり、これを率いて、島原へ行ってもらいたい。……つまりは、この讃岐守忠勝がやとった浪人隊の隊長として、原城攻略に働いてもらいたい、ということだ」
――成程、そうか。考えたものだ。智慧伊豆と、幕閣の権力を争う人物らしい思案だ。正雪を、おのれの私兵として使おうというわけか。
忠勝は、松平伊豆守信綱に、一揆征討の功を一人占めにされないために、まことに巧妙な一策を考えたのである。
松平伊豆守自身が出馬すれば、おそらく、諸侯の軍勢は、十万を下らぬ大軍となろう。しかし、その大軍を以てしても、原城は容易に陥落させられぬ、と忠勝は、予想したのだ。
そこで、おのれがやとった私兵を、送り込んで、目ざましい働きをさせて、その働きで原城を陥落せしめたならば、功は伊豆守一人のものとはならぬのだ。
――権勢を競う政治家の狡智だな。
そう看てとった正雪は、しかし、どこできいたか、この張孔堂の才能を、忠勝が、高く評価したことに、好機到来のよろこびをおぼえた。
おそらく、忠勝は、由比正雪なる男が、土井大炊頭利勝から、この牛込榎町の広大な土地をせしめたのをきいて、起用してみよう、と思いついたのであろう。
「一千両では、不服か?」
忠勝は、正雪に返辞をうながした。
「決して!」
正雪は、かぶりを振ってから、
「ただ、これは、なにぶんにも大役でありますれば、即座に、よろこんで、お引き受けいたすのを、ためらいます。市井で窮迫いたしている浪人たちを、募集して一隊をつくってみても、はたして、どれだけの働きができるものか、と懸念つかまつります。ご期待に応《こた》えられなかった時には、この正雪、面目を失い、赤恥を天下にさらし、当道場もたたむ結果に相成ろうかと存じます」
と、云った。
「では、ことわる、と申すか?」
「もし、おことわりいたしたならば――?」
「左様、――一揆征伐の後、浪人取締りの法度《はつと》は、さらにきびしくなろう。お許らが、江戸に罷《まか》り在ることは、許されまい」
二
酒井忠勝は、返辞に一日の猶予を与えておいて、ひきあげていった。
門外まで見送っておいて、正雪が、座敷に戻って来ると、そこには、金井半兵衛、丸橋忠弥、そして、亡くなった夜兵衛の旧名を継いで熊谷三郎兵衛と名のることにした呂宋《ルソン》左源太の緊張した顔があった。
「おい。弥五郎、どうする? 引き受けるのか?」
半兵衛が、正雪が座に就かぬうちに、咳込むように訊ねた。
「引き受けるとも! 引き受けざるを得ないではないか。そうだろう、弥五郎?」
忠弥が、叫ぶように、云った。
三郎兵衛だけは、口を真一文字にひきむすび、睨みつけるように、凝視して、正雪が口をひらくのを、待った。
正雪は、三人をじらせるように、なかなか、口をひらかなかった。
「弥五郎、お主の肚は、もうきまっているのだろう。きかせろ」
半兵衛が、せかすと、忠弥が、
「讃岐守は、ことわれば、江戸から追いはらう、と云ったぞ。……千両出すから、浪人隊を組織し、功名を挙げろ、というたのみを、拒む理由は、なにもないぞ!」
と、云いたてた。
正雪は、ようやく、口をひらいた。
「かりに、千人の浪人を集めたとする。原城攻撃に加われば、三分の二は、討死することになろう。その討死人の中に、半兵衛、忠弥、お主らが加えられるかも知れぬ」
「討死など……」
半兵衛と忠弥が、同時に、同じ文句を吐きかけ、互いに顔を見合せた。
忠弥が、つづけた。
「吉利支丹宗を狂信している百姓どもが、どれだけ強いか知らぬが、所詮、百姓は百姓でしかあるまい。この丸橋忠弥が、百姓どもの手にかかって、犬死するなど、考えられぬわ」
「半兵衛、お主も、そう思うのか?」
正雪が、訊ねた。
「われわれには、業《ごう》力がある、と確信して居る。業力が熾《さか》んなれば、神力もこれに及ばず、というではないか」
半兵衛は、こたえて、にやりとしてみせた。
「業力、か。……では、われわれに業力がある、と確信しよう。絶対に討死はせぬことにしよう。……原城陥落に、抜群の功を樹《た》てたとしよう。しかし、その結果は、どうであろうな?」
「結果とは?」
「讃岐守は、老中としてではなく、一大名として、われわれをやとうのだ。つまり、われわれは、金でやとわれた私兵にすぎぬ。……いかにあっぱれな働きをしても、功名手柄としては、みとめてはもらえぬのだ。それでも、かまわぬ、というのだな?」
「べつに、おれたちは、旗本にとりたてられたい気もなければ、まして、酒井家の家来にしてやる、と云われたら、まっぴらごめんを蒙る――大いなる志を抱いて居るのだ。……浪人中に、由比民部之輔張孔堂正雪あり、と日本中に鳴りひびかせたならば、それは、大志実現の基礎のひとつとなるではないか」
「その通りだ。弥五郎、なにをためらうのだ。論議の余地はないぞ!」
忠弥から叫ばれて、正雪は、
「勿論、肚はきまっている。ただ、お主らに、犬死してもかまわぬのか、と問うたまでだ」
と、こたえた。
その時、はじめて、三郎兵衛が、沈黙を破った。
「待たれい!……原城は、絶対に、陥落いたさぬ!……島原・天草の一揆蜂起は、すなわち、徳川幕府打倒の狼火《のろし》でござるぞ! 御辺らは、味方する対手をまちがえて居る。原城にたてこもる吉利支丹勢にこそ、味方しなければ相成らぬ!」
「莫迦なっ!」
忠弥が、三郎兵衛を、睨みつけて、呶号した。
「どうも、貴様は、うさんくさい奴だ、と思っていたが、やっぱり、そうだったな。……吉利支丹伴天連のまわし者だったか、うぬは!」
「拙者が、大坂城の落人にて、呂宋より還って来た者であることは、すでに御辺らに打明けて居り申す。……島原・天草の一揆蜂起は、まちがいなく、徳川幕府を滅亡せしめる大合戦を告げる狼火でござる」
「どうして、原城が陥落せぬ、と断言できる?」
正雪が、訊ねた。
「呂宋の日本人町より、一騎当千の武辺たちが、最新の火砲を持って、援けに参るからでござる」
「お主に、そのことが、なぜ判るのだ?」
「拙者が、一揆蜂起のことを報せて、援けを要請いたしたからでござる。御辺らは、原城にたてこもる決死の義軍にこそ、味方されなくてはなり申さぬ」
「お主の言葉など、酒井讃岐守の言葉よりも、信用がならぬ」
「いいや、拙者の申すことが、正しいのでござる」
三郎兵衛は、呂宋日本人町の面々が、士気に於て、武装に於て、いかに強いか、そして、国を鎖《とざ》した徳川幕府をどれほど憎んでいるか、とうとうと説いた。
正雪は、三郎兵衛が、述べおわるのを待って、
「それで、きまった」
と、云った。
「きまったとは?」
「浪人隊を組むことがだ。……酒井讃岐守の走狗として働くか、それとも、原城にたてこもる一揆勢に味方するか――向背いずれか、それは、島原へ行ってから、決断する」
「呂宋から援軍が参ったならば、原城方へつくと約束して頂きたい」
三郎兵衛は、もとめた。
「たしかに!」
正雪は、うなずいてみせた。
三
皮肉にも――。
一揆征討に加わりたいと熱願して、酒井忠勝から、すげなくしりぞけられた一統がいた。
三河譜代の直参――旗本奴連であった。
旗本奴を代表して、白柄組の若い頭領・水野十郎左衛門が、評定所に罷り出て、その旨をしたためた一統の誓紙をさし出すと、忠勝は、さっと目を通しただけで、考慮の時間も置かずに、
「お主らの任務は、江戸城守備にある。みだりに、お膝元をはなれては相成らぬ」
と、拒否した。
十郎左衛門は、しかし、執拗に食いさがった。
旗本奴と称されて、奇行を演じ、乱暴の振舞いに及ぶのも、天下が泰平となり、その武勇を発揮する時と処を得ぬためである。島原・天草の一揆が起ったのは、われら旗本奴にとって、またとない働き場所を得たことである。一統うちそろって、血判してお願いしているゆえ、是非とも征討軍にお加え頂きたい。
半刻も、食いさがったが、忠勝は、首をたてには振らなかった。
「お主らに出陣を許す場合は、ただひとつしかない」
「そのひとつは――?」
「上様がじきじきご出馬なされる場合――それのみである」
忠勝のこの言葉に、十郎左衛門は、ついに、ひきさがらざるを得なかった。
水野邸に於て、十郎左衛門の帰るのを待ちうけていた旗本奴各組の主だった面々は、忠勝の言葉をつたえられて、無念の|ほぞ《ヽヽ》を噛まざるを得なかった。
同じ日――。
魚屋の一心太助は、大鯛をかついで、青山の大久保播磨の屋敷を、訪れていた。
台所口から、案内を乞うと、身を二つに折った老いた用人が、現れた。
その顔は、蒼ざめて、やつれはてていた。
太助は、それと気がつかずに、新年の挨拶をして、荷台から大鯛を、とり出そうとした。
用人が、かぶりを振った。
「そのようなものは、不要だ、太助」
「なんと仰言るんで――?」
「要らぬゆえ、持ち帰れ、と申して居る」
太助は、はじめて、用人のただならぬ疲労の|てい《ヽヽ》を視て、
「お殿様が、どうかなさいましたので――?」
と、問うた。
「今朝、切腹なされた」
「えっ? 切腹を――?!」
「わしは、これから、駿河台へ参って、大久保家を存続させるには、どのような措置をとればよいか、ご相談しようと考えていたところなのじゃ」
「どうしてまた、ご切腹など……?」
「殿が、掟をやぶって、屋敷に、女子をお入れなされた――その罰じゃ」
「於菊さんをお入れなすったのが、どんなわざわいをまねいた、と仰言るんですかい?」
用人は、主人が於菊を手討ちにしたことを、魚屋などに告げるのを、ためらった。
「きかせておくんなせえ。……於菊さんが、なにか、とんでもない不始末をやらかして、お殿様が、ご公儀にお詫びするために、ご切腹なさったのですかい?」
「いや、そうではない。……そうではないが――、やはり、女子を屋敷にお入れなされたのは、まちがいであった。女子が、必要であれば、外に置かれるべきであったのじゃ」
「ご用人さん、於菊さんは、どうなさったのですかい?」
「………」
「きかせておくんなせえ」
「……殿が、手討ちになされた」
「えっ? 手討ちに――?」
「太助、これは、外にもれてはならぬ。……由緒ある名家を、廃絶させてはならぬのじゃ。殿の切腹は、厳秘にして、公儀には届け出ず、至急に、養子縁組をしなければならぬ。……その儀について、駿河台のご老台のお智慧を拝借いたさねばならぬ。……太助、案内をしてくれ」
途方にくれはてている老用人は、太助にまで、頭を下げたことだった。
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浪人隊出発
一
[#ここから2字下げ]
急告
昨年十月、島原・天草に一揆起り、天草四郎なる者を大将として、総勢三万数千が、島原の古城にたてこもりたること、すでに世間に、きこえたり。この島原の古城と申すは、東は荒海、西は沼潮のさしひきあって、馬の蹄も立たず、南北は巌石そびえ立つ天嶮の要害なり。縦十八町、横十町あまり、中に空壕三重に掘り通したり。山の腰をうがちて、鉄砲|狭間《はざま》をあけ、本丸には小天守を組みあげ、櫓《やぐら》を出し、塀、逆茂木をかい立て、二ノ丸、三ノ丸まで、思う図にこしらえたり。一揆の得物は、さげ針を射るほどの弓数百、猪、兎の走りもの、空飛ぶ鳥も外《はず》さざるほどの鉄砲八百あまりなり。土手にひそみて、どうと木石を切って落す巧みを知り、女房老幼の役は、砂を炒りて大|杓子《しやくし》にてすくいかけ、あるいはまた煮え湯をあびせるなどの必死の抵抗ぶり、大楠公の奇略を再現せり。
されば、今年正月元日を期して、総攻撃をしかけたるも、御上使板倉内膳正殿の討死ありて、失敗されたり。ついに、御奉行には、ご老中松平伊豆守殿ご出馬なされ、西国諸大名衆を指揮なされ、ひと備《そな》えひと備えに芝土手を築き、逆茂木をゆい、柵をつけ、井櫓をあげ、十重はた重に布陣され、海手よりは、大船をかり組み、櫓をあげて、昼となく夜となく、鉄砲、石火矢、大砲を撃ちかけ申し候えども、一揆勢は、毫《ごう》もひるまず、城内の山の腰に、鉄砲|狭間《はざま》を三段にあけて、さか落しに撃ちかえし来る凄じき反撃ぶり也。城への道は、大手、搦手《からめて》に二筋あれども、細径岩づたいなれば、一騎討ちに相成り、一挙に塀下まで至ること思いも及ばず、寄手人数、日々損ずるばかりのけしきに候。
この秋《とき》、われら浪人が、一隊を組みて、攻撃に加わり、その力のほどを、天下に示すのは、公儀に対するご奉公にあらず、武辺の面目を発揮する好機と知ればなり。有志こぞりて、この好機を遁すべからず。いざ、きそい起《た》たん。
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一、集合期日 来る二月一日辰刻
一、集合場所 品川御殿山
[#この行3字下げ]附けたり、路銀所持不要、残す家族には金子十両を与う。それぞれの働きによりて、報酬を惜しまず、大将天草四郎の首級を挙げたる者には金子百両を約束するもの也。
[#地付き]張孔堂・由比民部之輔正雪
この高札が、日本橋袂はじめ、府内外数十箇所に立てられて、非常な評判を呼んだ。
集合期日までには、十日あったが、その間に、牛込榎町の道場へ押し寄せた浪人者は、千人以上をかぞえた。
正雪は、面会を拒絶し、二月一日、品川御殿山で、採否を決定する、と取次ぎの門弟に告げさせた。
「弥五郎、いったい、どれくらいの頭数を、そろえる心算だ?」
半兵衛が、訊ねた。
「三百だ」
正雪は、こたえた。
「なに? たったの三百人か!」
半兵衛は、あきれて、目を剥いた。
「やむを得ぬ。三百人でも多すぎるくらいだ」
「そうか、讃岐守が出す軍費が、すくないのだな?」
「わしに出す千両のほか、三千両しか呉れぬ。三百人なら、一人あたま十両にしかならぬ」
「つまり、働きの方の報酬は、お主の千両をあてる、というわけか」
「そうだ」
「ばかげて居る。どうして、一万両も出させなかったのだ?」
「わしは、三万両を請求した。すると、讃岐守は、集めるのは三百人でよいゆえ、三千両で足りよう、とこたえた。つまり、讃岐守にとっては、鍋島や黒田や立花の軍勢に匹敵する浪人軍をつくらせては、せっかくの思案が無意味になるのだ」
「どういうのだ、それは?」
「十万の大軍を以てしても、容易に陥落させられぬ城を、わずか三百の寡勢で、攻め崩させてこそ、讃岐守の目的が達しられるのだ」
「目的とは?」
「政敵松平豆州の鼻をあかす――それだ」
「あ――成程。酒井忠勝が、浪人隊をお主に引具させて、神算鬼謀を駆使させようというまことの目的は、そこにあったのか」
半兵衛は、唸った。
それから、半兵衛は、声をひそめると、
「ところで、あの呂宋左源太――いや、いまは、熊谷三郎兵衛か――あの男の進言だが、お主は、もし、あいつの高言通り、呂宋の日本人町から、大挙して援軍が来たら、寝返って、原城方へ味方する存念があるのか?」
と、問うた。
「半兵衛――」
正雪は、じっと、古い友を見据えて、
「駿府にかくされてある太閤遺金が、この手にあれば、なんの逡巡《ためら》うところもなく、これを好機として、徳川家打倒の決戦を図ってみせるのだが……」
と、云った。
「うむ! そうだな。欲しいのう!」
「呂宋の日本人町に、どれだけの荒武者が、頭数をそろえているか知らぬが……、かれらを乗せて来る船数は、知れて居る。やって来ても、せいぜい、千人か千五百人、というところであろう。これでは、十万の大軍を敗走せしめることは、とうてい、おぼつかぬ」
二
二月一日。
寒気が、骨にまでしみ透るように厳しい朝、品川御殿山に、ぞくぞくとつめかけた浪人者は、ざっと見渡しただけでも、五千人は下らなかった。
どの顔にも、島原の一戦に、おのが運命を賭ける気色が、たたえられていた。
日本全土に、三十万はいるであろうといわれている浪人者たちは、大半がその日の糧にも窮している落魄者ばかりであった。
府内外には、一万数千はいるであろうという推測であったが、かれらのうち、仕官の望みの叶えられる可能を持った者は、皆無といってもよかったのである。
浪人者たちが、糊口をしのぐ仕事(現代のアルバイト)は、ほとんどなかった。
江戸城普請をはじめ、幕府や大名の神社仏閣または河川の工事などには、
『浪人者を人足として使うべからず』
という布令が出ていたのである。
かれらの前途に、希望というものは、全くなかった。
そこへ――。
突如として、九州に一揆が起り、それがただの百姓一揆ではなく、十万の大軍に攻めかかられてもビクともせぬ抵抗を示している騒動となり、その寄手に、浪人隊を加える、という高札が立てられたのである。
――この秋《とき》を措いて、おのれが、世に出る機会は、二度とふたたびないであろう!
ふるい立って、浪人者たちは、その日を待ち、夜明け前から、品川御殿山に、ぞくぞくと集合したのである。
しかし――。
頂上にめぐらされた竹矢来の出入口には、
『採用は三百名に限ること』
と、記されているのを読んで、すでに五十路を越えた者のうちには、すごすごと帰って行く者もあった。
正雪は、高い台を設け、それに就いた。台の上には、巻紙がひろげてあった。採用したならば、署名血判させることにしたのである。
半兵衛、忠弥、三郎兵衛、そして門弟たちが、浪人者の群を一列にならばせた。
正雪は、前に立った者を、一瞥しただけで、明快に採否を決めた。
しつこく歎願しようとする者がすくなくなかったが、半兵衛と忠弥が、追いはらった。
午前中に、三百人がえらばれた。
居残したその面々に対して、正雪は、
「あらかじめ、御辺がたに申し渡しておく。それがしの予測するところ、生きて再び、帰還できる者は、三分の二、あるいは半数かも知れぬ。その覚悟をしておいて頂きたい。……さらに、公儀に於ては、おそらく、どのようなめざましい働きをした者といえども、家人《けにん》として、とりたてることは、まず、あるまい。ただ、諸大名のうち、これはと見込んで、召抱える家があるやも知れぬ。たとえば、大将天草四郎、あるいは軍師天草甚兵衛の首級を挙げた者など、紀州侯あたりは、野《や》に置くは惜しい、として随身させて下さろうか、とのぞみがかけられる」
と、申し渡した。
耳を傾ける三百人の顔には、かがやきの色があった。餓死寸前まで追いつめられた者には、死をおそれる気持よりも、好機をつかんだよろこびの方が、胸をふくらませていた。
三
島原においては――。
松平伊豆守は、十万の大軍を催して、十日あまり、猛攻をしかけてみたものの、士卒の数を減らすばかりと知って、やむなく、別の手段をこころみていた。
すなわち。
熊本の牢獄にとじこめていた天草甚兵衛の妻、娘、甥などを、本営につれて来させた。
甚兵衛の妻|いく《ヽヽ》は、総大将天草四郎時貞の養母であり、娘|まさ《ヽヽ》は、姉同様にしてくらして来て居り、甥小平は兄弟同様の間柄であった。
伊豆守は、まず四郎の義兄ともいうべき小平に、書簡をしたためさせて、城中に送った。
このたびだけは、将軍家には、もし城を空け渡して、降服するならば、わずか十六歳の少年ゆえ、赦免してくれてもよい、と仰せられて居り、また、吉利支丹宗徒でない者、吉利支丹宗門を棄てて、城外へ出て来た者は、一切お咎めなしと評議の由、この儀くれぐれも勘考されたい。もし、拒否するに於ては、持久の策によって、籠城の全員を、|ほし《ヽヽ》殺しにすると、お奉行の口から、じかにきかされた。自分小平は、捕われの身となっているものの、死を厭うているのではなく、ご公儀に於て、松倉、寺沢家の苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》をみとめられての上でのご慈悲ときかされ、この旨を、そもじに伝えるのである。
さらに、つづけて――。
伊豆守は、養母|いく《ヽヽ》、義姉|まさ《ヽヽ》の連名で、四郎に、すみやかに分別して、島原・天草の人民らをいたずらに死なせないように、と歎願させた。
この二通の手紙に対して、すぐに、城中から返辞が来た。
われわれ城中の衆は、全員身命を天主《でうす》に捧げる覚悟であり、決して、無理矢理に吉利支丹宗門に帰依させて、ここへたてこもらせた者は一人もいないゆえ、松平信綱の指金による書状は、こん後、無用とされたい。
おそらく――。
伊豆守は、羽柴秀吉が備中高松城を水攻めの持久戦にもち込んだ挙句、城主清水宗治一人を切腹させて陥落せしめた故事などを参考として、このような策をえらんでみたのであろう。
敵は、城取り国取りの争いで、籠城防戦している手輩ではなかった。
『天主至上』という絶対観念を性根に据えて、死ねば必ず天国に行けると確信している敵勢なのであった。
西国諸大名の軍勢は、ぞくぞくと増したものの、いかに大軍を以て総攻撃をくりかえそうとも、原城を陥落せしめることは、とうてい至難であることを、伊豆守は、みとめざるを得なかった。
城中からは、毎日、太鼓を打ち鳴らして、次のようなからかいの歌声がひびいて来た。
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かかれ、かかれ、寄衆|もっこ《ヽヽヽ》でかかれ、寄衆鉄砲の玉のあらん限りは。
どんどと鳴るは、寄衆の大筒、鳴らすとみ知らしょ、こちの小筒で。
ありがたの利生《りしよう》や、伴天連さまのおん影で、寄衆の頭をずんと|きり《ヽヽ》支丹。
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このかまびすしい歌舞は、諸侯、侍大将たちを切歯扼腕させたが、下士兵卒たちは、無念がるよりも、むしろ、一種の恐怖にかられた。
歌い舞うのは、全員が城から躍り出て、囲みを衝き、阿修羅となって闘う決議をした――死の前祝い、と受けとられたからである。
伊豆守は、平戸に寄港していた和蘭陀船ライプ号を、原城沖へ寄せさせて、七日間、砲撃させたが、城内の歌舞を沈黙せしめることは、叶わなかった。
由比正雪が、三百の浪人隊を率いて、江戸を出発したのは、ライプ号が砲撃の成果をあげ得ぬままに、平戸に帰帆した頃であった。
浪人隊が、川崎の大師河原に至った折であった。
飄然として、正雪の面前に立った男があった。
石川五郎太であった。
「拙者を、隊士にして頂きとう存じます」
そうたのんで、ペコリと頭を下げた。
「加わりたくば、何故品川御殿山へ参らなかった?」
「あの日は、ちょうど、秩父の方へ参って、留守して居り申した」
「進軍の途次で、加える例外は、みとめぬことにいたして居るゆえ、あきらめるがよい」
「お待ち下され」
五郎太は、にやっとして、
「拙者の取柄は、城内へ忍び込むことでござる。たとえ江戸城であろうと、駿府城、名古屋城……熊本城……いかなる警備のかたい城であろうとも、やすやすと忍び込む術、方法を心得て居りますれば、是非とも、隊士の一人にお加え頂きとう存じます」
と、云った。
ぬけぬけとした高言であったが、ふしぎに、この男の口から吐かれると、反感をおぼえなかった。
「ここでなら、どんな大|ぼら《ヽヽ》も吹けるわ」
丸橋忠弥が、睨みつけた。
すると、五郎太は、黙って、地を蹴った。
助走もなしに、かるがると、忠弥の頭上を翔《と》び越えて、ひょいと、降り立ってみせた。
一同は、唖然として、五郎太を眺めやった。
「忍者か、お主?」
金井半兵衛が、訊ねた。
「まあそんなところでござる」
「何が目的で加わる?」
このような特技があれば、どこの城へでも忍び込んで、金子を盗むぐらい造作もないであろう。
金目当てではないとすると、なんのために参加しようとするのか、疑われた。
「拙者は、由比正雪殿に惚れ申した。ただ、それだけのことでござる」
五郎太は、こたえたことだった。
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甚兵衛本心
一
「飢餓策をとるというのか、松平豆州は――」
茜《あかね》色の革製の頼政《よりまさ》頭巾をかぶった小具足姿の老武士が、城壁の望楼上から、寄手の陣地を、見渡し乍《なが》ら、つぶやいた。
この一月のうちに、寄手の陣地は、構えを一変させていた。
空壕は二重にうがたれ、壕の中は、渉《わた》るのをはばんで、鋭く先端をとがらした鹿砦《ろくさい》(逆茂木)をならべてあったし、壕と壕の間の芝土堤にも、竹槍を組んだ柵がめぐらしてあった。
さらに、二間毎に井楼を構えてあった。
星あかりさえない暗夜であろうとも、城内から一人も突破できぬように、完壁な包囲陣地となっていた。
寄手からも攻めぬが、籠城勢にも襲撃させず、一人たりとも脱出させぬ備えを、松平伊豆守は、とったのである。
月はかわり、二月も、もう中旬になっていた。
「豆州――」
老武士は、はるか彼方の本営へ向って、云った。
「この原城が陥落した時、生きて城内に在る者は、ただの一人も居らぬのを、見せてくれよう」
老武士は、一揆の総帥天草甚兵衛であった。
その折、二人の武士が、望楼へ登って来た。
芦塚忠兵衛と布津村作右衛門であった。前者は、加藤清正の旧臣であり、後者は島原できこえた旧家の郷士であった。
「頭領――」
芦塚忠兵衛は、甚兵衛をそう呼び、
「しらべ申したところ、兵粮は、一日一食として、あと二十日もござらぬ。千か二千で、一挙に、夜襲をしかけて、敵陣の粮米を奪うよりほかはないと存ずる」
と、云った。
「あの鹿砦の二重壕と竹柵の土堤を突破して、斬り込めば、千人のうち帰ることができるのは、半数、いや三分の一であろうな。もしかすれば、わずか百人に減って居ろう」
甚兵衛は、云った。
寄手の陣は、暮れるとともに、篝火を焚き、明けの明星がまたたく頃まで、片刻も消さずに燃やしつづけているのであった。
最近では、城内から討って出れば、たちまち、発見されてしまい、これまで、五人とか十人とか、決死隊が、幾組が討って出て、大半が死んでいた。もとより、それだけの働きをしてでのことだが……。
寄手の兵が、死をおそれ、大名自身士気を鼓舞することを忘れている怯懦《きようだ》卑屈の様子は、ありありと看て取れてはいるものの、大砲、鉄砲、弾薬の補給が、松平伊豆守によって、数倍にも為《な》されている|さま《ヽヽ》も、判っていたのである。
「坐して餓死するよりは、攻め出て、千人が百人に減じようとも、粮米と軍需の品を奪って参らねばならぬ事態にたちいたって居り申すぞ、頭領」
忠兵衛は、声音を高いものにして、云った。
「………」
甚兵衛は、すぐには、許諾しようとはしなかった。
昨年十二月、ここにたてこもった時には、本丸に在る総大将天草四郎時貞の下に、芦塚忠兵衛はじめ十三人の名のある浪人が諸事評定に加わっていた。
そして、諸郭《くるわ》には――。
二の郭には、上津浦・大蔵忠次を侍大将として五千人。その出丸には、田島刑部を足軽大将として五百人。三の郭には、堂島・対島忠家を大将として三千人。
大江口には、大矢野三左衛門を主将として、櫛山、小浜、千々岩、口ノ津などの村民が一万四百。池尻口には、深江治右衛門をかしらとして五百余人。天草丸には、木戸但馬安之を侍大将、上津浦三郎兵衛種時を足軽大将として四千人。
武者奉行には、有江監物入道休意をはじめ五人、普請奉行には、浜田三吉正為ほか二人。鉄砲大将には、大坂城に在って大野修理を補佐した古老・柳瀬茂右衛門。旗奉行には、高田権八、楠津孫兵衛。
評定衆、侍大将、足軽大将、各奉行のほとんどは、べつに吉利支丹宗徒ではなかったが、いずれも、大坂城の落人か、徳川幕府によってとりつぶされた大名の旧家臣たちであった。
一揆に加わった浪人は、八百七十余人。婦女子少童一万余を除けば、戦闘力を持った島原・天草の農民らは二万三千余人であった。
年がかわって、二月中旬のいまは、主だった武辺の三分の一が討死し、浪人の頭数は半数となり、農民軍は、一万七千余に減っていた。
実際の戦闘力は、しかし、総勢よりもさらに下まわっていた。寒気と飢餓が、病人を続出させていたからである。
二
「やむを得まい。……お主、千五百を率いて、討って出るがよい」
甚兵衛は、やがて、忠兵衛の申し出を、みとめた。
「どの陣地をえらべばよろしかろう?」
「鍋島がよい」
甚兵衛は、ためらうことなく、指示した。
「承知いたした。数日中に、斬り込みをしかけ申す」
芦塚忠兵衛と布津村作右衛門が、望楼を降りて行ってからも、なおしばらく、甚兵衛は、敵陣地を見渡していた。
「豆州、さきほどは、当城陥落の際は、一人の生存者もいない、と申したが、一人だけは、落ちのびさせてみせるぞ」
口の裡で、そう云っておいて、甚兵衛は、やおら、踵《きびす》をまわした。
甚兵衛が、本丸へ戻った時、広場の櫓の上には、白衣白袴に、緋の陣羽織をはおり、左手に念珠《コンタス》を持った華やかな四郎時貞の姿があった。
その櫓を、闘い窶《やつ》れ、飢え痩せた男女が、とりまいて、膝まずき、祈りの言葉を斉誦していた。
「……われらが主|でうす《ヽヽヽ》よ、聖なる苦難《ばつしよ》によりて、われらにおん慈悲をたれ給え。大いなるおん恩寵《がらさ》をこうむりて、……われらの罪科《もるたる》を許し給え。われらの罪科は、きわめて深く、弱き者どもなれば、われらの罪科のペニテンシアをなさんため、われらの守護の天使《あんじよす》、天国《はらいそ》のもろもろの聖人《かんとる》に見まもられて、みなみな信仰心を合せ、堅固に死せんと乞い奉る」
そうして、祈りのあいだあいだに、
「|さんた《ヽヽヽ》・|まりあ《ヽヽヽ》!」
と、絶叫していた。
四郎時貞は、その唱和に応えて、双手を、高く天へ向ってさしのべていた。
いかにも、天より舞い降りて来た神の御子のように、美しく、さわやかな立姿であった。
ここでは、寒さも飢えも、そして、幕府の軍勢に包囲されていることも、すべて、天主から与えられた試練であり、かれら一同に、みじんの苦痛も与えていないようであった。
広場の端に佇立して、じっと見まもる天草甚兵衛の眼光は冷たかった。
小半刻後――。
甚兵衛は、総大将の仮屋で、四郎と対座していた。
「……芦塚忠兵衛が、数日のうちに、千五百の手勢をもって、夜襲をしかけ、粮食を奪い取って来る、と誓ったが、……もはや、所詮は、飢えに臨んで苗を植えるにひとしい」
「ここにたてこもった時、すでに、死の覚悟はできて居りました」
四郎は、すがすがしい声音でこたえた。
「四郎! たのみがある!」
甚兵衛は、厳しい面持で、云った。
「なんでしょう?」
「お許《こと》だけは、討死してくれるな。生きのびて欲しい」
「|じじ《ヽヽ》殿!」
「きいてくれい。……お許には、生きのびて、徳川幕府を倒す軍勢を、もう一度、催してもらいたいのだ」
「………」
「たのむ!」
「|じじ《ヽヽ》殿、われらが一人だけ生きのびたところで、もはや、徳川家の天下をくつがえすことは、叶いませぬ」
「いや、できる! それが可能なのだ」
「………」
「よくきいておいてくれい。……二十三年前、大坂城が落ちた際、城内には、小判大判、法馬あわせて、故太閤が遺された軍用金が、およそ五千万両あった。家康は、この金子欲しさに、大坂城を攻め、秀頼公を殺したのだ。そうして、首尾よく目的を遂げた」
「………」
「わしは、知って居るのだ。その五千万両は、二分され、半分は、海上を江戸へ運ばれ、あとの半分は、陸路を駿府へ運ばれた。……江戸へ運ばれた分は、城造り町造り、その他の費用にあてられて、かなり減じて居ろう。しかし、駿府にある分は、いまだ、手をつけられては居らぬ。先年、駿河大納言忠長を罪なくして配流《はいる》処分にし、その半分の金銀も、江戸へ運んだようにみせかけたが、あれは、諸大名をだます奸計であった。江戸城完成のためには、徳川家自身の備え金を惜しみなく費消するゆえ、諸大名もおのが国の蓄えを使え、という詐《いつわ》りの策であったのだ。……二千五百万両! それだけの軍用金を入手することができれば、お許は、幾年かのち、必ず、幕府をくつがえす軍勢を集めることができる! お許は、生きて、ここから脱出し、ひとまず、呂宋に渡るがよい。南洋各地にあるわが同胞を語らい、大軍船団をつくって、攻めかえり、最初に、駿府城を占拠するのだ。そうして、二千五百万両を、手に入れるのだ」
甚兵衛は、力をこめて、説ききかせた。
「|じじ《ヽヽ》殿、どうして、その金銀が、手をつけられずに、いまだ、駿府にある、と確信されるのか? 確信できる証拠でもおありか?」
「あるとも!」
甚兵衛は、大きくうなずいてみせると、腹巻から、油紙で包んだ品をとり出した。
「これに、その場所と絵図面がしるしてある。家康は、隠匿の工事に従わせしめた下士と人夫は、ことごとく殺した、と思っていたであろうが、一人だけ生きのこって、逃亡した人夫がいた。その人夫が、場所と絵図面をしるした。……その人夫とは、わしが大坂城で使っていた忠実な下僕であったのだ」
「………」
「四郎! よいな! お許だけは、討死しては相成らぬ。生きのびるのだ。呂宋に渡って、同志を募り、再挙をはかるのだ。……たのむ!」
三
同じ時刻――。
寄手の本営では、松平伊豆守信綱が、諸将を集合させて、軍議をひらいていた。
諸将のうち、二人だけ、軍議から除かれていた。松倉長門守勝家と寺沢兵庫頭堅高であった。前者は島原六万三千石の領主であり、後者は肥前唐津城主だが、天草を合せて十二万石の領主であった。二人とも、このたびの一揆を起させる直接の原因をつくっていたので、伊豆守は、軍議の席上からはずしたのである。
「総攻撃の秋《とき》は、もはや迫っている」
そう主張しているのは、立花宗茂であった。
「いったん、わざと和睦をむすび、城から出たところを、一挙に片づける」
そう主張しているのは、細川忠利であった。
「この持久策をいましばらくつづけて、もう一度、和蘭陀船をたのんで、昼夜をわかたず、海上から砲撃すべきである」
そう主張したのは、鍋島勝茂であった。
それぞれの性格をあらわしていた。
寄手としてはこのまま、じっとしていることは、面目にかかわることだった。
おのれの主張を、伊豆守に容《い》れさせて、成功したい、とようやくあせりはじめたのである。
この二箇月半の間に、諸陣営が受けた被害は、決して、すくなくなかったのである。
籠城勢は、伊豆守が到着してからは、決して多勢をもって、正面から討って出ては来なかった。
数人ずつが、闇にまぎれて忍び出て来て、陣営を襲い、粮秣を掠奪し、仮屋に放火する戦法をくりかえしていたのである。一人一殺の、文字通り死をいとわぬ夜襲は、そうでなくてさえ、士気のあがらぬ寄手の士兵を、戦慄恐怖させていた。
いつ、どこから、音もなく襲いかかって来るか知れないのであった。
いつの間にか、粮米軍需品を掠奪されて、朝になって気がつくことが、しばしばであった。
発見して、包囲しても、たった一人であろうとも、みじんも、たじろがず、
「|さんた《ヽヽヽ》・|まりあ《ヽヽヽ》!」
と、絶唱して、阿修羅となって死んで行く光景は、討ちとる方が、怯じ気づいた。
たかが農夫ども、と|たか《ヽヽ》をくくっていた寄手は、しだいに、籠城勢が全員狂人ではないかと、疑うようになっていた。
仏法を修めた善智識でない限り、並の百姓町人が、これほど死をおそれぬ、ということは、戦さをするために藩籍に身を置いている士も兵も、想像もしがたいことであった。
伊豆守の看たところ、各陣地の士気は、阻喪してしまっている、といっても誇張ではなかった。
もし、天草甚兵衛が、その決意をかためて、生き残った二万を率いて、怒濤のごとくなだれ出て来たならば、おそらく、味方十万は、半数以下に減るに相違なかった。
――持久策を持して、餓死するのを待つか?
――総攻撃をしかけるべきか?
孫子には、『窮寇は追うべからず』といういましめがある。
つまり、飢餓戦術をとれば、敵は窮鼠となって猫を齧《か》むであろう。
そうなれば、味方の損害はおびただしいものとなる。いや、もしかすれば、諸陣営は、敗走するかも知れぬ。関ヶ原役や大坂役とは、その士気に雲泥の差があるからである。
そうなれば、老中松平伊豆守信綱としては、生きて江戸城へは還《かえ》れぬ。
――総攻撃によって、陥落せしめる以外にはあるまい。
自分にそう云いきかせた時であった。
小姓が、近づいて来て、
「江戸より、酒井讃岐守様の添状を持参した由比民部之輔正雪と申す者が、来着つかまつりました」
と、告げた。
由比正雪の名は、勿論、伊豆守の耳に入っていた。
伊豆守は、その添状を披《ひら》いた。
[#この行2字下げ]『由比正雪なる軍学者に、浪人隊三百を、引具させて、おもむかせるゆえ、この忠勝の私兵として、働かせて頂きたく存ずる。由比正雪の軍師としての才腕を、いささか買っての上での援助にて候』
内容は、そういう至極かんたんな文面であった。
伊豆守は、しばらく、宙へ視線を据えていたが、小姓に、
「待たせておけ」
と、命じた。
[#改ページ]
伊豆守対正雪
一
松平伊豆守信綱は、本営の仮屋裏手の警備士の小屋で、正雪を、一|刻《とき》以上も待たせた。
軍議が終了して、諸大名がひきあげて行ってからの半刻あまり、信綱は、仮睡をとったのである。
はたして、本当にまどろんだかどうか、起き上った信綱は、小姓に膳部をはこばせ、かるく湯づけを摂《と》り、それから、待たせた正雪を、仮屋に入れた。
「由比正雪と申します」
正雪が、縁側下で、挨拶すると、
「伊豆だ」
と、応えたが、上れとは、いわなかった。
正雪は、そのまま、地べたに端座した。
はじめて接する智慧伊豆と称される老中は、木彫の面のように表情をみじんも動かさず、じっと正雪の面貌へ、視線を射込んだ。
「讃岐守様のご依頼により、何卒、それがしが引具する浪人隊を、寄手にお加え下さいますよう、願い上げまする」
「人数は?」
「三百人でございます」
「千もひきつれて参った、と思ったが……」
「讃岐守様より、三千両を頂戴いたしましたので、一人あたり十両でやとい、手柄をたてた者には、それがしにお与え下さいました千両をあてまする」
「……三百人か」
伊豆守は、呟いてから、宙へ眼眸《まなざし》を据えた。
しばらくの間の沈黙は、きわめて重苦しいものであった。
やがて、伊豆守は、視線を正雪の顔へもどし、
「近く総攻めをやるつもりだが、その方の思案をきこう」
と、もとめた。
正雪は、沈黙の間に、伊豆守信綱という人物を、観察していた。
――酒井忠勝とは、全く異質の人物だな。
そう看て取った。
忠勝と信綱とでは、こちらを凝視する眼光に差があった。
忠勝の双眸は、対座している間、終始かわらぬ穏かな色がたたえられていた。信綱のそれは、宙に置いた時とこちらの顔を瞶《みつ》める時とでは、全く一変した。
その差は、忠勝の方が、長い期間をかけて、ひとつの思慮を練りあげ、さらに、あらかじめ対手の人柄才能を調べておいて、思慮したことを実行に移そうとするのに対して、信綱は、まず、虚心の状態で相手に対し、その目で、これは如何なる人物か、鋭く看て取り、それから、おもむろに肚をきめる、きわめて柔軟な、臨機応変が利くように精神を修練している、と受けとれた。
「お言葉をかえしますが、総攻めをなさいますについては、城内の情況を、くわしく、お調べの上のことでございましょうか?」
正雪は訊ねた。
「べつに、調べる必要はあるまい。すでに、籠城勢の頭数と武器がどれだけ減って居るか、あきらかであり、減りつつも、死をおそれぬ士気だけはいささかもおとろえては居らぬ。これだけ判って居れば、充分であろう」
「粮食は、まだ尽きては居りませぬか?」
「おそらく、乏しくなって居るであろう」
「失礼|乍《なが》ら、それがしが、当地へ参って、早速に、きき及んだところでは、籠城の徒輩は、これだけ厳重な包囲陣地を、夜半、しばしば、突破して、粮秣と武器弾薬を掠《かす》め奪《と》って行くとか……」
「………」
「粮食が尽きているか否か、そのことをお調べの上で、総攻めをなさるべきかと存じます」
正雪は、頭をあげて、云った。
「城内に攻め込んで、その貯蔵倉を見ぬ限り、それは、たしかめられまい」
「いえ、たとえ攻め込まずとも、さぐるすべはございます」
「……?」
「籠城したまま、一度も攻め出て来ぬ者ども――倒えば、老人あるいは子供を殺して、その死体の腑分《ふわけ》をいたせば、粮食が尽きたか否か、判明つかまつりましょう」
「ふむ!」
伊豆守の双眸が、さらに鋭い光を増した。
自分がこれまで夢にも思いつかなかったことを、この市井の軍学者は、口にしたのである。
成程、その死体を腑分してみれば、その胃袋に入っている物で、城内の兵粮が尽きているか否か、明白となる。
二
伊豆守は、曾て日本軍が朝鮮へ攻め入った時、蔚山《うるさん》城内にたてこもった加藤清正の軍勢が、いかに悲惨な飢餓に苦しんだか――その故事を思い出した。
大河内秀元という部将が記した陣中日誌を、伊豆守は、読んでいたのである。
大河内秀元は、臑当《すねあて》をやめて、脚絆に代えていた。ところが、脚絆の紐を解きもせぬのに、それが、ずるずると、足くびまで、下って来てしまった。臑の肉が落ちて、文字通り骨と皮とになり、さながら細竹の筒を立てたように痩せこけたためであった。
傍輩に、山川長兵衛という荒武者がいた。長兵衛は、非常に醜悪な面貌の持主であったので、人目のあるところでは、必ず頬当《ほおあて》をつけて、顔をかくしていた。
大河内秀元は、自分の痩せさらばえかたから比べて、山川長兵衛が、どんな顔つきになっているか、一度見たいと思い、
「御辺、その頬当をはずしてみせぬか?」
と、もとめた。
長兵衛は、容易に承知しなかった。
秀元が、しつっこくたのむと、長兵衛は、しぶしぶ、頬当を取ってみせた。
その貌を一瞥して、秀元は、悸《ぎよ》っとなり、総身が粟立った。絵に描いた地獄の餓鬼そのもので、さすがの秀元も視線をそむけてしまった。
部将たちが、この有様だったのである。小者足軽にいたると、その悲惨さは、名状すべくもなかった。
牛や馬がいるあいだは、これを殺して、飢えをしのいだが、やがて、牛馬を食いつくすと、城内の鼠を獲りつくし、紙を噛み、壁土を煮て食う者も出て来た。
夜陰に乗じて、城外へ忍び出て、見張りの明兵を襲い、その肉を斬り取って、戻って来て、焼いて食った小隊もあった、という。
蔚山城内には、戦闘の士兵だけがたてこもっていて、ようやく、その飢餓に堪え得たのである。
ところが――。
この原城内には、非戦闘員が――老幼婦女子が、一万以上も、いるのである。
幼い子供など、飢餓に堪える忍耐力のあろうはずがない。
かりに、子供の死体を腑分してみて、もし、胃袋に米麦粟など一粒もなく、雑草のたぐいが入っていれば、これは、完全に、城内から粮食が欠乏した証拠である。
――成程、この男、只者ではない。
伊豆守は、正雪を瞶《みつ》め乍ら、思った。
兵粮が、城内に貯えられているあいだは、士気の点で、彼我に非常な差があり、総攻撃をしかければ、味方はいたずらに多数を討死させる結果となる。
伊豆守は、目下、鉱山人夫を動員して、城内へ入る燧道《トンネル》を穿《ほ》らしているが、この工事は、遅々として進んではいなかった。
また、伊賀・甲賀の忍びの者を、城内へ忍び込ませて、放火する策も実行されたが、かれらは、吉利支丹宗門の称名でつくった合言葉を知らなかったし、さらに、籠城の者たちはすべて西国語を使って居り、潜入した忍者たちはすぐに討ちとられ、一人も還って来ていないのであった。
伊豆守は、そのことを、正直に告げ、
「城内には、忍びの者といえども潜入させることは叶わぬ。……どうして、たてこもった者を殺して、その胃袋を取って来ることができようか」
と、云った。
すると、正雪は、微笑して、
「それがし、すでに、一人、城内へ忍び込ませて居ります」
と、こたえた。
「生きては戻れまい」
「ただの忍者ではございませぬ。……石川五郎太と申し、三十余年前、伏見城大手門前にて、釜ゆでの極刑に処せられた大盗石川五右衛門の伜であります。……忍びの術に長《た》けていることもさること乍ら、七歳の時から、日本全土を流浪し、奥羽から薩摩まで、足跡いたらざるはなく、その土地土地の言葉を巧みにつかいこなし、さらにまた、長崎に於て、伴天連について、南蛮語も習って居りますれば、必ず、城内粮食の貯蔵の有無をつきとめて参ると、それがし、信頼いたして居ります」
「………」
碁でいえば、伊豆守は、ことごとく、正雪に先手を打たれたあんばいとなった。
「その者が還って来るまで、拱手して、総攻めを待て、と申すか?」
「お待ち下さいますよう、願い上げます」
「ならば……、賊徒どもが飢餓によって、戦闘の力を喪ったならば、べつに、その方ら浪人隊などの助勢を、必要とはいたすまい」
「申し上げますが、敵は、餓して死を待つよりは、夜襲をしかけて。粮食を奪いに参るは必定であります。その時、われら浪人隊が――」
「夜半に、盗みに出て参ったのは、三度や四度ではない。これらは、そのほとんどを討ち取って居る」
「しかし、それは、せいぜい十人程度の小隊を組んでの夜襲でございましたろう?」
「うむ」
「いずれ、近日中には、千あるいは二千以上の大隊をもって、夜襲して参ると存じます。それも最も士気の阻喪している陣営めがけて――」
そう云って、正雪は、微笑した。
たしかにその通りだ、と伊豆守は、合点せざるを得なかった。
――野《や》に、これほどの天才がいたか!
伊豆守は、微かな恐怖すらおぼえた。
もし、二千以上の敵勢が、阿修羅となって攻め込んで来たならば、その陣地は、目もあてられぬ惨敗をするに相違なかった。
伊豆守は、到着して以来、十回あまり攻撃をしかけてみて、諸大名の士卒の怯懦《きようだ》ぶりを、いやというほど目撃させられていたのである。
「死にもの狂いの敵大隊の夜襲の際こそ、われら三百の浪人隊の働きどころと心得ます。何卒、寄手にお加え下さいますよう、願い上げます」
正雪は、あらためて、平伏した。
三
籠城兵の大隊が、いずれの陣地めがけて、夜襲をしかけて来るか?
この予測は、伊豆守といえども、しかねた。
「その方ら浪人隊は、どの大名の陣営に加わりたいのか?」
伊豆守は、訊ねた。
「お許し頂けますならば明朝までに、きめたく存じます」
――この男、すでに、どの陣営が、最も士気が阻喪しているか、調べて居るようだ。
伊豆守は、そう思った。
「浪人隊を、五十人ずつ――六組に分けて、各陣地に配ってくれよう」
「その儀は、おことわりいたします」
「どの陣地へ、夜襲をしかけて参るか、その方には、予想できるのか?」
「およそは……」
「もし、その方の予測がはずれた場合は、如何いたす?」
「せっかく、讃岐守様のおとりはからいにて、やとって頂き、ひと働きいたすべく、はるばる馳せ参じました以上、われら浪人だけで、城内への突入口をひらくお約束をいたします」
正雪は、はばかることなく、こたえてみせた。
突入口をひらく、ということは、隊士の半数、いや三分の二以上の犠牲を覚悟した上での働きである。
もしかすれば、大半が討死しても、なお、突入口をひらくのを失敗するかも知れなかった。
「よかろう」
伊豆守は、許した。
正雪は、浪人隊を待機させている大三崎という無住となった村へ、ひきかえして来た。
すてられた家の一軒の炉端を、金井半兵衛と丸橋忠弥と熊谷三郎兵衛(呂宋左源太)が、かこんで鶴首していた。
「豆州を説き伏せたか?」
正雪が坐るのを待つのも、もどかしげに、半兵衛が、訊ねた。
「ともかく、持場をもらって来た」
「しめたぞ! どの大名の陣だ?」
忠弥が、首を突き出した。
「それは、石川五郎太が戻って来てから、きめる」
正雪自身、まだ、きめてはいなかったのである。
「総攻めは、近日中であろうか?」
三郎兵衛は、いらだった面持であった。
三郎兵衛としては、呂宋からの援軍が、総攻撃前に到着することを、必死に祈っているのであった。
「熊谷――、お主は、まだ、呂宋の日本人町から、援け手が来る、と信じて居るのか?」
正雪は、三郎兵衛を視かえした。
「信じて居るとも! 必ず参る!」
「わしは来ぬ、と思う。たとえ、来たとしても、間に合うまい」
「由比殿! 貴公は、豆州の走狗になると約束したな!」
三郎兵衛は、正雪を睨みつけた。
「総攻めの前に、援け手が来れば、勿論、われら浪人隊は、槍先太刀先を、幕府方へ向ける」
「その総攻めは、いつになるか、豆州は言ったか?」
「いや――」
正雪は、かぶりを振り、
「豆州は、どうやら、この正雪を、曲者と看たらしい。それゆえ、わしは、わざと、われら浪人隊にとって最も不利な策を申し入れて来た」
と、伊豆守との問答を、包まずに語った。
その申し入れをしなければ、おそらく、伊豆守は承知しなかったであろう、とつけ加えた。
半兵衛が舌打ちして、
「夜襲を迎撃するにしても、突入口をひらくにしても、こっちの死傷はおびただしいぞ」
と、云った。
正雪は、微笑して、
「神力も及ばぬ業力を、われわれは試《ため》すのではなかったか。半兵衛?」
「それは、そうだが……」
「半兵衛、おれたちは、やって来たのだ。もはや、あとへはひけぬ。浪人隊の強さを示さねばならぬ」
「そうだ! やろう!」
忠弥が、叫んだ。
「あぶないところに登らねば、熟柿は食えんぞ!」
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夜 襲
一
二月二十一日の丑刻(午前二時)――。
正雪が伊豆守信綱に向って、予言した通り、はたして、城内から、大挙して、粮食と武器を強奪すべく、躍り出て来た。
天草甚兵衛の作戦は、次の通りであった。
まず、総勢を三手に分けた。
第一隊には、大矢野三左衛門を主将とする大江口から、いかにも、籠城勢の大半が、攻め出るような気勢をあげさせた。
第二隊は、田島刑部を足軽大将とする二の郭《くるわ》出丸の五百人が、実際に、猛然と奔り出て、寄手の後方へまわって、火矢を、諸大名の陣屋へ放った。いや、放とうとした、といった方が、正しいであろう。五百人は、寄手の後方へまわった時には、すでに、大半が討ちとられて、二三十人に減っていたからである。
第一隊のもの凄い気勢ぶりも、第二隊の決死行も、いわば、第三隊が粮食武器を奪い取るべく、丙口《ひのえぐち》から忍び出るのを扶《たす》けるための術策であった。
芦塚忠兵衛と布津村作右衛門が率いる千四百余人が、音を忍ばせて、城から抜け出して、襲ったのは、黒田忠之・長興の陣営であった。
実は、黒田勢は、立花左近将監忠茂を総大将とする軍勢とともに、士気の点では、他勢にまさっていた。
去年の十二月二十日、そして正月元日の二度の総攻撃に於て、最も不面目な戦いかたをしたのは、松倉勢であった。
第一次総攻撃には、鍋島勢が、いちばん足場のわるい天草出崎で擬勢を張り、鯨波《げいは》をあげて、いかにも、そこから攻め入ると思わせておいて、立花、有馬、松倉の三勢が、大手口から一挙に攻め込もうとした。
そして、結果は、立花勢の歴々が二十八人も討死し、雑兵の死傷三百八十余人、という敗北に終った。
その際、立花勢は、城内から撃ちかけられる鉄砲の激しさに、空壕が討死人で埋まり、やむなく、家老立花三左衛門以下数十人が、松倉勢の攻め口三ノ丸の方へまわろうとした。
松倉勢が、総攻撃にもかかわらず、籠城方の反撃の凄じさに、一向に突進しようとしなかったからである。
立花三左衛門らが、その怯懦を叫びつつ、三ノ丸へまわろうとすると、松倉勢は、かえって、
「御辺らこそ、逃げ出して見苦しゅう見え候ぞ!」
と、呶鳴りかえして、わが持場へ、かれらを一歩も入れなかった。
ともあれ、寄手の攻めぶりに、全く統一がとれず、おのが怯懦を、味方になすりつけるようでは、総攻撃に成功するはずがなかった。
このため、第二次総攻撃にあたっては、立花忠茂は、第一次に於ける松倉勢の援助がなかったのを憤って、兵を動かさなかった。
第二次では、征討使板倉重昌が、死ぬこと以外に、おのが面目をたてるすべはないと知って、辰刻(午前八時)総攻撃の申し合せを、無視して、寅刻(午前四時)に、大手三ノ丸壕へ殺到し、覚悟通り討死したのであった。
第二次総攻撃では、有馬兵部大輔忠頼が、板倉重昌の屍を乗り越えて、大いに奮戦したが、闘いぶりが拙劣をきわめ、名のある家臣九十四人、雑兵数百人が討死した。つづいて、鍋島勢も、きわめてまずい攻撃をして三百八十余人の士を失った。
これに比べて、松倉勢は、わずか士が十七人、雑兵は三四十人喪っただけであった。
当然――。
籠城方は、最も士気の阻喪している松倉勝家(重治)の陣営めがけて、夜襲をしかけるべきであった。
ところが――。
芦塚忠兵衛と布津村作右衛門が引具する千四百余人は、あらたに寄手に加わった黒田甲斐守忠之の陣営めがけて、殺到したのであった。
黒田忠之は、黒田如水の孫、長政の嫡男であった。尤も、忠之という人物は、全く自制心のない、奔放な放蕩児であった。
父の長政は、はやくから、忠之が黒田家を継ぐ資格のない凡夫であるのを看てとって、元服した時、次の三箇条をつきつけたことがあった。
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一、二千石の土地を呉れるから、百姓になるか。
一、銀十万両を呉れるから、京大坂の間で商人になるか。
一、千石の知行を呉れるから、一寺を建立して坊主になるか。
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忠之があやうく、百姓か商人か坊主にされようとしたのを救って、廃嫡をまぬがれさせてくれたのが、忠臣栗山大膳であった。
二
いわゆる『黒田騒動』について、ついでに述べておけば――。
黒田忠之が、三代目らしい苦労知らずの格下りの人柄で、放埒な乱行をくりかえすのを見かねて、重臣筆頭栗山大膳は、元和元年に、左のような諫言書を提出している。
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一、女色・男色に耽るのをつつしまれたい。
一、鼓《つづみ》に夢中になるのも、ほどほどにされたい。
一、酒を飲むのも、節度を保って頂きたい。
一、武術はご自身が励まずとも、近習たちの修業ぐらいは、努めて奨励されたい。
一、真実立腹された場合、または咎めが重なった時は、家臣を斬りすてられても致し様がないが、いたずらに逆上して、やたらに家臣を打ち叩くのは止めて頂きたい。
一、夜ふかしは早々に切りあげ、早起きされるようにすれば、心身が健全になるゆえ、十日ほど努めて行われるならば、あとは習慣になり申す。
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忠之は、いったんは、この諫言を肯《き》き入れたが、生来の忍耐力のなさの上に、倉八《くらはち》十太夫という稚児姓《ちごこしよう》にそそのかされて、以前に増した乱行をくりかえすようになった。当時の稚児姓とは、衆道のもてあそび者であった。
倉八十太夫は、忠之が黒田家当主となるや、うなぎ登りに出世して、一万石の領主にまでなった。
この十太夫が、側近である限り、すでに老いた戦場武者の老臣たちは、主君の乱行をしずめるてだてがなかった。一人、栗山大膳だけが、おもてを冒《おか》して、諫言しつづけたが、忠之は、絶対に大膳を遠ざけて、逢わぬようになった。
衆道の争いから、菩提寺の住職を捕えて、鉛をくくりつけて沼に沈めて殺したり、家臣の妻が美貌である噂をきいて、これを奪いあげたりする乱行は、まだ家中の内で隠蔽糊塗できたが、やがて、豪華な巨船の建造、浪人召抱え、足軽隊の増強など、幕府閣老の眉宇をひそめさせる所業に及んで、ついに、栗山大膳は、おのが身を投げ出して、逆臣になる覚悟をした。
当時、九州総目付として、幕府から豊後府内に遣されていたのは、竹中半兵衛の孫にあたる竹中|采女正《うねめのしよう》重次であった。
大膳は、竹中重次に、忠之を隠居させたいという訴状を、提出した。
これを知った倉八十太夫は、足軽隊をひきつれて、栗山家の屋敷を包囲した。主君の命令があれば、撃ち込むように、大砲も据えつけた。しかし、これは、双方の睨みあいだけに終った。
忠之は、直ちに出府を命じられた。寛永九年九月のことである。駿河大納言忠長が、兄の三代将軍家光から、改易配流にされたのと同年同月であった。
流石《さすが》の忠之も、はじめて、家と身の破滅の危機を思い知らされた。
出府した忠之は、江戸屋敷に入ることは許されなかった。当時の掟として、老中の取調べを受ける身となった大名は、『寺入り』と称して、寺院に泊らされた。
いずれの寺院からも、宿舎にすることを拒絶され、ようやく、府外渋谷の長谷《はせ》寺が、逗留させてくれた。そのことが、忠之には、よほど骨身にこたえたようであった。
すでに、その年の春には、肥後熊本の加藤忠広が、五十二万石を没収されて、出羽へ流されていたし、将軍家の実弟である駿河大納言忠長さえも、配所の月を仰ぐ身となっていたのである。
――改易はまぬがれぬ!
忠之も、あきらめざるを得なかった。
幕府の裁決は、容易に下されなかった。翌年春まで、忠之は、長谷寺に謹慎させられていた。
その間、黒田家が存続できるように、いかに、栗山大膳が智能をしぼって、閣老に歎願し、おのれ自身一人が罪をひっかぶることに努力したか、忠之は知らなかった。
やがて、栗山大膳は逆臣として黒田家を放逐されて奥州盛岡へ配流、倉八十太夫は剃髪させられ高野山入り、黒田忠之はお咎めなし、という判決が下された。
これは、ひとえに、栗山大膳の必死の尽力によるものであった。
その後、忠之は、前非を悔いて、乱行はしていなかった。
そして、このたび――。
忠之は、弟長興、高政とともに二万の軍勢を引具して、一揆討伐に加わったのであった。
武功をあげて、それまでの汚名を返上する好機といえた。
忠之の下には、その父長政にしたがって、戦場を馳せ巡った老武辺が、幾人もいたのである。
家老黒田|監物《けんもつ》も、その一人であった。
三
無謀にも――。
籠城方の夜襲隊は、士気あがる黒田勢の陣営めがけて、突撃を敢行したのであった。
ところが、意外にも、黒田勢の陣営は、不意の奇襲に対して、防備が手薄であった。
それが証拠に、指揮をとった古強者の黒田監物が、弾丸で、額のまん中を撃ち抜かれて、斃れた。
それと視た監物の嫡男佐久左衛門が、激怒して、
「うぬら、土民どもがっ!」
足軽数十人を叱咤して、猛然と、夜襲勢の中へ斬り込んで行ったが、これもまた、槍で胸いたを貫かれて、血|反吐《へど》を吐いた。
黒田監物父子を討たれた黒田勢は、たちまち浮足立った。
その時、夜襲隊の背後を衝いたのが、丸橋忠弥を頭領とする浪人隊であった。
忠弥をはじめ、浪人者三百の働きは、めざましいものであった。
夜が明けた時、霙《みぞれ》に濡れて、|るいるい《ヽヽヽヽ》と仆れていた籠城衆は、ざっとかぞえて、二百八十人を越えていた。
黒田勢の犠牲は、黒田監物父子をはじめ、三十八人の士と、雑兵二十人であった。
寄手が、一挙に、一揆の者どもを四百人以上も討ち取ったのは、このたびが、はじめてであった。
その日のうちに、正雪は、松平伊豆守信綱に、その仮屋へ呼ばれた。
伊豆守は、こんどは、正雪を、土下座させず、板敷きへ上げた。
「昨夜の、浪人隊の働きぶりを、きいた」
伊豆守は、云った。
しかし、あっぱれであった、とほめるかわりに、
「千あるいは二千以上の大隊をもって、夜襲して参るであろう、というその方の予言は、的中した。しかし、最も士気の阻喪している陣営めがけて攻めかかるであろう、との予想は、はずれたな」
と、云った。
「はずれました」
正雪は、みとめた。
「しかるに、浪人隊は、全軍中きわだって士気旺盛な黒田の陣営へ、一揆が仕掛けて来ると、看て取って、助勢いたした」
「はい」
「妙ではないか。その方の予想にしたがえば、浪人隊は、さしづめ、松倉の陣営にでも加わっているべきであった」
伊豆守は、鋭く正雪を見据えた。
「それがし、いったんは、一揆が最も士気の阻喪した陣営めがけて、夜襲をしかけるであろうと予想つかまつりましたが、ふと、諸葛亮孔明の故事を思い出し、天草甚兵衛は、孔明になろうかも知れぬ、と推測つかまつりました。おのが勢は弱い、と思っている陣営こそ、夜襲に対する備えはきびしくして居り、おのが勢こそ全軍随一の強さである、と誇っている陣営が、いちばん守りが薄い。孔明は、主君劉備玄徳に、そう進言いたして居ります。そこで、それがしは、いったんは、改易の瀬戸際まで追いつめられた黒田家が、原城陥落の第一の働きをして、ご公儀のおほめにあずかるのはこの秋《とき》とばかり、気負い立っているのを眺めて、おそらく、天草甚兵衛は、この陣営を襲うであろう、と勘考いたした次第にございます」
伊豆守は、そう述べる正雪に対して、まばたきもせず冷たい眼光を射放ち、しばらく、無言でいたが、
「討死した百姓の腑分をいたしてみたところ、米麦はおろか、粟稗《ひえ》すら、胃袋に見当らなかった。その方が、城内へ潜入させた忍びの者は、いかがいたした?」
「もはや、子供に与える大豆少々しか、残って居らぬことを、つきとめて参りました」
正雪は、こたえた。
伊豆守は、かなり長いあいだ沈黙した。
やがて、口をひらいて、云ったのは、
「浪人隊は、解散して、ひきあげるがよい」
その言葉であった。
「総攻めには加えぬ、と仰せられますか?」
流石の正雪も、いささか、気色ばんだ。
伊豆守は、冷やかに薄ら笑って、
「讃岐守の私兵たるその方ら浪人隊が、いかに功名手柄をたてても、この伊豆は、一文もほうびを与えるわけには参らぬ。浪人隊は、讃岐守の期待に応《こた》えて、一人十両ずつの働きはいたしたではないか。この上、ほうびももらえぬのに、一命を賭けることはあるまい。……解散いたして、去るがよい」
と、云った。
――負けた。この伊豆守には。
正雪は、率直に、みとめた。
「お言葉、うけたまわりました」
正雪は、頭を下げて、仮屋を出た。
本陣をはなれ、野道を歩き出した正雪のそばへ、影のように、姿を現したのは、石川五郎太であった。
「いかがでしたか? 伊豆守は、総攻めにあたり、浪人隊に先陣を命じられたでござろうか?」
「その反対であった。解散して去れ、と命じられた」
「なんと?」
「松平信綱という人物は、とうてい、われらが手玉にとれる老中ではない。こちらの肚の中を看透した」
実は、天草甚兵衛に、芦塚忠兵衛ら千四百余人をして、黒田忠之の陣営を夜襲させたのは、この正雪自身であった。
城内へ忍び込ませた石川五郎太の口から、甚兵衛に、孔明の故事を、告げさせたのである。
「骨折り損であったな、石川五郎太」
そう云う正雪の語気には、自嘲のひびきがあった。
――原城は、数日うちに陥落するだろう。一揆の者たちは、天国《はらいそ》とやらへ昇るがいい。
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自 疑 不 信
一
街道を吹き抜けてゆく北風の音が、鋭かった。
街道に面した掛け茶屋に、編笠で顔をかくした浪人が二人、床几に腰を下して、茶碗酒を手にしていた。
「もう木枯しが吹きはじめたな」
その声は、金井半兵衛のものだった。
「どうするのだ、半兵衛? 京都は、所司代が、いよいよ、浪人取締りを厳重にしているらしいから、住めんぞ」
そう云ったのは、丸橋忠弥であった。
ここは、芥川という川沿いの小さな宿《しゆく》であった。二人は、山陽道を通って、摂津から――昆陽《こや》、郡山を過ぎて、京都へ向っていた。
この芥川宿の近くは、高槻で、『都をば霞とともに立ちしかど』と詠った能因法師墳墓もこのあたりにあり、一瞥のどかな景色であった。
ここから、山崎、伏見を経て、京都に至る。
天草・島原の乱が終って、一年半以上が経っていた。
「江戸へ帰るか」
半兵衛が云った。
「府内は、京都よりも、もっと浪人取締りがきびしかろう」
忠弥が、投げ出すように云った。
「奇妙な事態になったものだな。弥五郎が、浪人隊を組織して、原城攻略に参加したのが、浪人者にとっては、かえって迷惑なことになったな」
半兵衛の声音には、沈鬱なひびきがあった。
一揆がたてこもる原城が、陥落したのは、去年二月二十七日であった。
この総攻撃で、評定によって決定した二十八日夜明けというのを無視して、二十七日午後、抜け駆けの攻撃をやってのけたのは、鍋島勢であった。
これは主将鍋島勝茂が、先功の野心に燃えて、下知した攻撃ではなかった。
やとった浪人勢四十余人が、いきなり、猛然と襲撃し、出丸、二ノ丸を突破したため、やむなく、鍋島勝茂は、
「かかれ!」
と、下知したのであった。
実は――。
由比正雪は、伊豆守信綱から、
「浪人隊を解散して、立去れ」
と、命じられ、やむなくその旨を、三百人の浪人者たちに伝えたのであった。
しかし――。
浪人者たちは、隊を解散したが、立去りはしなかったのである。
それぞれ、二十人、三十人と群をなして、各大名の持場へおもむき、
「随身、報酬は望み申さぬ。ただ、城攻略にお加え頂きたい」
と、願い出たのであった。
立花宗茂、有馬豊氏、小笠原忠真らは、拒絶したが、
「よかろう」
と、こころよく加えたのは、細川忠利と鍋島勝茂と黒田忠之、そして水野勝成であった。
水野家に加わっていた浪人勢は、鍋島家にやとわれた仲間たちが、評定を無視して、突如として、城めがけて襲いかかったのを知り、おくれじと、突撃を敢行した。そして、本丸下まで攻め込んだ。その時、水野勢は、籠城兵の死にもの狂いの抵抗を受けて百数十人が討死したが、三十六人の浪人者もまたその半数が、生命をすてていた。
浪人者をやとわなかった有馬直純・康純は、水野勢に一番乗りをされてなるか、と必死に手勢を叱咤したが、敵の矢弾の前におそれをなした家臣・足軽は、はるか後方の跡腰曲輪で立往生してしまった。
次いで――。
猛然と、突撃を敢行したのは、細川勢であったが、これもまた、その先鋒をひき受けた浪人勢六十余人であった。忽ちにして、三の曲輪を破り、酉刻《とりのこく》(午後六時)には、本丸の海側一帯を占拠してしまい、たかだかと旌旗《せいき》をかざしてみせた。
黒田忠之もまた、七十余人の浪人勢を先頭に立てて、自らは素肌に具足をつけ、大身の槍をひっさげ、大江口という最も難所めがけて、猛襲を加え、小半刻うちに、天草丸を乗っ取ってしまった。
浪人勢をやとわなかった有馬、立花、小笠原、寺沢、松倉の軍は、外郭を包囲したばかりで、城内へ攻め込むことは叶わなかった。
つまり――。
原城を一夜にして陥落せしめたのは、帰する所、浪人勢の働きによるものであった。
しかし、その功は、総指揮官松平伊豆守信綱によって、全く黙殺された。
伊豆守は、鍋島勝茂を呼んで、軍法を無視した抜け駆けの功を、やんわりとたしなめたにとどめただけであった。
一揆の総大将天草四郎時貞の首級を挙げたのは、細川家の家士陳佐左衛門であった――という。
翌二十八日、原城は、籠城兵及びその家族老幼婦女子一人のこらず、死んで、焦土と化した。
攻略に加わらなかったのは、由比正雪と熊谷三郎兵衛と石川五郎太の三人だけであった。
金井半兵衛は黒田勢に、丸橋忠弥は細川勢に加わり、むくいられることのないめざましい働きをしたのであった。
二
浪人勢の|すてばち《ヽヽヽヽ》的な働きは、かえって、逆効果となった。
伊豆守をして、
――浪人どもは、警戒せねばならぬ。これらが、一万、二万と徒党を組んだならば、二十万の大軍を以てしても、容易に滅すことはできぬ。
いかにも為政者らしい考えを生じせしめた模様であった。
原城陥落後、正雪は、すぐに、半兵衛・忠弥に、「長崎へ行く」と別れを告げて、去ったのであった。熊谷三郎兵衛が、乞うて、その供をした。
石川五郎太は、
「それがしは、これより、まっすぐに、出府いたす」
と云いのこして、姿を消した。
半兵衛と忠弥は、九州にとどまり、豊前・豊後で、一年あまりをすごしたのであった。
しかし、黒田家も細川家も、二人を特にもてなしてはくれなかった。足軽小屋を貸し、食客の捨扶持をほんのわずか給してくれたにすぎなかったのである。
天草・島原平定後、各大名はなんの褒賞ももらえず、ただ、島原城主松倉勝家が改易させられ封を没せられ、天草を領していた肥前唐津城主寺沢堅高は、封を削られたにすぎなかった(五年後に、寺沢堅高も、改易させられた)。
江戸へ帰って来た松平伊豆守信綱は、吉利支丹宗門の禁圧をさらに苛酷なものとするとともに、浪人取締りも厳重にすることを、閣議で主張した。
皮肉にも――。
一人、得《とく》をしたのは、酒井忠勝であった。
原城陥落は、忠勝が浪人者を募って隊を組ませ、私兵として送り、その働きのおかげであったことが、江戸城内はじめ各大名家中、市井にまで、口から口ヘ伝えられたのである。おかげで、その年十一月、大老職が設けられることになり、将軍家光の下命で、土井利勝とともに、忠勝がその地位にのぼった。
「忠弥――」
半兵衛が、呼んだ。
「うむ?」
「この八月に、江戸城本丸が焼けた、というが、あれは、もしかすると、石川五郎太のしわざかも知れぬぞ」
「なに?!」
「五郎太は、原城の一揆勢に深い同情を寄せていたふしがある。熊谷三郎兵衛とともに、弥五郎が、原城側へ味方してくれるのを、期待していたのかも知れぬ。……呂宋の日本人町からも援軍がなかったので、やむなく、あきらめたのであろうが、父石川五右衛門を釜ゆでにした徳川家康に対しては、芯底からの怨恨を抱いているらしい。また、父親の血を継いで、盗心も旺盛だ。……江戸城本丸を焼いたのは、あいつだ、とおれは推測する。そのどさくさに、金蔵から、千両箱の二つや三つは、掠奪したに相違ないぞ」
「たしかに、あいつ、相当な曲者だな。……あいつが、千両箱を盗み出しているとすれば、われわれは、江戸へ帰ることにするか」
「貧乏には、あきあきしたからのう」
「ところで、弥五郎は、いま頃、どうして居るのだろう? まだ、長崎にとどまって居るのかな?」
「弥五郎の胸中では、いよいよ、海外雄飛の志が、ふくらんで居るのだろう。……大名の大船建造を禁ずるわ、徒党取締令が公示されるわ、鎖国令もいよいよ厳しくなり、交易国はオランダだけになった、というからな。ポルトガル船さえも、長崎港には入れぬ、という噂だとすると、弥五郎は、ますます、公儀の裏をかいて、天下をあっと云わせる壮大な企図を、海を見|乍《なが》ら、想い描いて居るだろうな」
「そうだ。熊谷三郎兵衛がそばにいるからな。いま頃は、呂宋の日本人町と、連絡をとって、計画を練って居るかも知れん。……ともかく、江戸へひきかえして、榎町の道場で、正雪の帰って来るのを待とうではないか」
「そうするか」
半兵衛と忠弥は、街道へ出た。
三
二人は、京都を通るのは避けて、伏見から大津へ抜けることにした。
京都に於ては、所司代板倉重宗の浪人取締りが、殊更に厳しかったからである。
板倉重宗は、すでに元和九年に、次のような布令を下している。
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一、再び主取りをせんと考えている浪人は追い払うこと。
一、出家とみせかけて、寺に身を寄せている浪人も追い払うこと。
一、旧主から合力を受けて、町中に住む浪人は、住居をすてること。家屋敷持ちは、その町で、買い取るか預かるかして立退かせること。
一、お上《かみ》に名の通っている浪士は、その限りにあらず。但し、その者が、こん後大名へ奉公せず、また、他の浪人を抱えて徒党を組まざることを、親戚縁者・知人・十人組に誓い、町内に一札を入れた場合に限る。
一、士たることをすてて、町人となり商売をし、妻子をやしなって居る者は、そのままにさし許す。但し、一札を入れること前条に同じ。
一、お上に名の通っている浪人、商人になっている浪人も、必ず、『切手』(幕府の証明書)を所持しているべきこと。
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この布令とともに、これに背《そむ》いた場合は、その浪人は、召捕って打首にし、家を貸した家主も成敗し、その町は、間口六十間につき銀一貫目の罰金を支払う、という罰則を明示していた。
寛永六年には、さらに、この布令を苛酷なものにし、保証人(しかるべき身分の公家・武家)のない浪人は、たとえお上に名の通っている者でも、住居まかりならず、としている。
このたび――。
原城攻略にあたり、浪人勢の強さを、その目で見とどけた老中松平伊豆守信綱は、さらに厳しい布令を、日本全土にくばって、浪人者を、山奥ふかく追い込むか、餓死させるか、完全に孤独な商人になり下らせるか――冷酷な措置をとろうとしているに相違ないのであった。
「半兵衛、江戸へ帰ったら。たちまち、追いはらわれるのではあるまいかな?」
忠弥が、云った。
「まず、その心配はあるまい。榎町の道場は、大老となった土井大炊頭から借りた土地だからな。それに、酒井讃岐守は、おれたちをやとった老中だ。……伊豆守といえども、張孔堂道場だけは、とりつぶすことはできまい」
「伊豆め、酒井忠勝がひと足さきに大老になったので、さぞ、くやしがって居ることだろう。それというのも、おれたちの働きのおかげだからな、讃岐守が大老になれたのは――」
「それにしても……」
半兵衛は、前方を見据え乍ら、
「駿府にかくされた豊家遺金が、欲しいのう」
と、云った。
「もう一度、駿府で、さがすか?」
「そうだ。石川五郎太が居るぞ。五郎太に、駿府城へ忍び込ませて、さがさせるのはどうだ?」
「うむ! いい思案だ。大盗のせがれだからな。見つけるかも知れぬ!」
その石川五郎太は、神田の裏店《だな》で、楢村百合と同棲して、近所づきあいもせず、ひっそりとくらしていた。
夕餉をひかえた時、百合が、急にあらたまった態度で、
「おうかがいいたしたい儀がございます」
と、云った。
「なんでござろう?」
「貴方様と、こうして、このひとつ家に起き臥しするようになって、もう二年近くに相成ります」
「そうでござるな」
「貴方様は、奥の部屋で、わたくしはこの部屋で、わかれわかれに、夜をすごして参りました」
「………」
「貴方様は、わたくしがおきらいでございますか? それとも、女人というものを好まれませぬか?」
百合としては、思いきった質問であった。
「いや、きらいではござらぬ。拙者は、貴女が好きでござる」
「なのに……、どうして、わたくしを、このまま、すてておかれるのでございます?」
「いや、それは、ただ……」
五郎太は、かなり当惑の表情を示した。
その時、邪魔者が、格子戸をがらりと開けた。
「へい、ごめんなすって――」
隣家に住む、腕に一心という二文字を刺青《いれずみ》した魚屋の太助であった。
「鰤《ぶり》のうめえやつがありやすが、召し上って頂きてえんで……」
「それは、かたじけない」
「あっしが、料理してあげまさあ」
気軽く、台所へ入って行った。
この年春さき、太助は、旧主人の大久保彦左衛門を喪っていた。青山の大久保播磨も、先年切腹して相果てていた。
太助という男は、誰か自分が惚れ込む男がいないと、気のすまない気象の持主であった。
どうやら、石川五郎太が、太助に見込まれたようであった。
おかげで、五郎太と百合の肝心の対話は、中止されてしまった。
百合が、さびしげに、膝で、おのが手を手でさするしぐさを、五郎太は、眺めやり乍ら、
――自分は、この女性を、不幸な後家にしたくはない。
と、胸中で呟いていた。
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仇 討 奴
一
江戸城本丸が、失火か放火か、全焼したのは、寛永十六年八月十一日であった。
天草・島原の乱が終熄して、一年半を経ていた。ちなみに、総大将天草四郎時貞の首級を挙げたのは、細川忠利の家士陳佐左衛門であった、というが、陳佐左衛門自身、べつに四郎の美しい容貌を見知っていたわけではなく、本丸の廬舎《ろしや》に押し入ったところ、側女を二人ばかりはべらせて、かなり手負いを受けた美少年が、絹引かつぎで身を掩うて、臥牀していたので、これが四郎時貞か、と思い、その首級を挙げたのである。母とか姉らしい婦人二人が馳せ入って来て、慟哭《どうこく》したので、当人に相違ない、と自信を抱いたが、あるいは、替玉であったかどうか、さだかではなかった。
母とか姉とかいっても、天草甚兵衛がどこからかひろって来た少年なので、義理の間柄であり、陳佐左衛門は、その慟哭が演技であったかどうか、しかと、看てとるべきであった。
それにしても惨状目をそむけしめる陥落ぶりであった。
それから、一年余を経て、江戸城本丸は、焼け落ちたのであった。
松平伊豆守は、島原残党が、ひそかに忍び入って、放火したと推測したが、酒井忠勝は、失火説をとった。
いずれにしても――。
富嶽と偉容を競うた大天守閣は、あとかたもなく、消え失せたのであった。
その頃、家光の持病は、愈々ひどくなり、紅蓮舌が、中奥をなめはじめた時には、その発作にのたうちまわって居り、稚児姓《ちごこしよう》三人が、必死になって、かつぎ出し、西ノ丸へ移した。
発作がおさまった時、家光は、伊豆守信綱を呼んで、
「一年うちに、本丸を元通りにせよ」
と、命じた。
翌年四月五日、本丸は、完全に元通りに竣工したが、そのために動員した人数と労力は、まことにおびただしく、その労力は、言語を絶している。課役を命じられた諸大名のうちに、予定通りに普請工事がはこばず、責任をとった奉行が、十一人も切腹しているが、『徳川実紀』その他の記録は、この事を、抹殺した。
普請工事の請負いで、儲けたのは、商人と請負人足のかしらであった。
江戸の材木商や、大坂の両替商が、一躍、財産を数倍にふくれあがらせたのもそのおかげであったし、幡随意院長兵衛が、旗本奴をしのぐ町奴の勢力を得たのも、その余得であった。
さて――。
鎖国令と禁教令は、いよいよ徹底的に実行され、容赦のない苛酷な手段がとられた。
ただ――。
浪人者に対する取締りは、ゆるやかになった。大老となった酒井忠勝のとりはからいであった。原城陥落で、浪人隊のめざましい働きを、閣老たちも、みとめざるを得なかったからである。
この処置によって、酒井忠勝と松平信綱は、はっきりと対立した。その時から、この二人が、親しく膝を交え政事を協議することは全くなくなった。
乱後、半年あまりして、長崎から正雪が帰府すると、牛込榎町の張孔堂道場は、門弟の数が、数倍にもふくれあがった。
江戸や京大坂の浪人者は、街頭で、ほそぼそと、いわゆる『軍書読み』『太平記読み』の辻講釈をして、露命をつないでいたが、一人、正雪だけは、『平家物語』を講義して、例えば、木曾義仲の破滅ぶりなどに、痛烈な批判を加えて、評判を呼んでいた。源義経に対しても、決して、判官びいきなどしなかった。平家を滅した大勝利に酔って、京都にひきあげると、宮廷の者たちの狡猾な口車に乗せられて、武家たる面目や名分を忘れて、公卿の猿真似をやったので、兄頼朝の激怒を買ったのだ、と批判して、門弟たちを納得させた。
能弁無類であった。和漢各書も、いつの間にか読破していた。
さらに――。
正雪は、一年のうち、数箇月をさいて、北は奥羽から、南は薩摩まで、歩きまわって、つぶさに、貧困な農民生活と、浪人たちの窮迫ぶりを眺めて来ていた。
どうやら――。
正雪の肚の裡で、ひとつの壮図決断力が、|しか《ヽヽ》と根を据えたのは、この頃からであったようである。
――必ず実行してみせてくれる!
その決意は、動かぬものとなった。
ただ――。
正雪のまわりには、正雪と対等の智能を備えている人物がいなかった。金井半兵衛も、丸橋忠弥も、熊谷三郎兵衛も、石川五郎太も、それぞれ特技を備えて居り、勇気の点では衆に秀れて居るが、頭脳の点で、いまひとつ、正雪は全幅の信頼が置けなかった。
――人材というものが、いかに乏しいものか!
幕府体制派である酒井讃岐守忠勝、松平伊豆守信綱を、堂々と向うにまわして、神算鬼謀をめぐらす大将が、正雪は欲しかったが、全く見当らなかった。
――紀州頼宣を説き伏せて、わが壮図を実践するしか手段《すべ》はない。
曾て、頼宣は、鯨獲りと称して、太地浦や湯崎浦で水軍をつくり、大がかりな習練をやってのけて、幕府から、それとなく忠告されたことがあったし、天草・島原の乱までは、名のある浪人を、どしどし召抱えていた。
福島正則が改易になった際、その家臣村上彦右衛門通清の俊才たることをきいて、早速に召抱え、いきなり武者奉行職に就けたのも、その一例であった。
しかし、天草・島原の乱後、流石の頼宣も、浪人召抱えは、幕府に対して、遠慮しなければならなかった。
しかし、諸大名中、紀州頼宣は、抜群の気宇雄大な人物であった。
――紀州頼宣を利用する以外に、おれの壮図を実践はできぬ。
正雪は、かたく|ほぞ《ヽヽ》をきめたのであった。
二
正雪の肚の底には、
『山田長政』
という人物があった。
少年時代、重丸といった正雪は、木村重成の異母弟である事実が、さいわい露見せず、自分を大坂城から救い出してくれた篠路が、大坂城の太閤遺金を強奪して駿府へ帰る徳川家康に向って、婦女子にあるまじき凄愴きわまる憤死をとげたのち、少年一人流浪して、駿府に入り、賤機《しずはた》山の麓にある有渡《うと》郡下足洗村の庄屋半左衛門にひろわれたことがあった。
半左衛門は、先祖は豪族で、その地方で大層な尊敬を受けている庄屋であった。慶安の乱の後、正雪の連累として、屋敷や財産は、闕《けつ》所になったが、その目録が残っている。三町に二町四方の大きな屋敷地、土蔵二十庫、米二万四千俵、金子十八万両、銀八千貫目、銭三万九千八百貫、槍百筋、薙刀二十振、弓五十張、矢二万本、具足入りの長持二百六十五棹、押収されたというから、ただの庄屋ではなかった。
この足洗村の庄屋の家から、重丸は、近くの臨済寺という古刹《こさつ》へかよって、勉学にいそしんだ。そして、時折、賤機山の南端にある浅間《せんげん》神社に遊びに行った。
その社殿に、山田長政奉納の『戦艦図絵額』がかかげてあるのを、眺めた。
重丸は、山田長政という人物に、興味を抱いて、庄屋半左衛門に、その素姓と行跡を訊ねた。
山田長政は、武士郷士の出でもなんでもなく、大名の駕籠舁きであったという。
駿河の生れであった。
十八歳の年に、大志をたてて、日本を脱出し、暹羅《シヤムロ》に渡り、当時、暹羅と哥阿国(六崑《リゴル》国)との戦争がくりかえされているのをみて、長政は、在留日本人を呼集して義勇軍をつくり大変な武功をたてて、官職に就き、ついに暹羅皇太子の師範役になって、二万石程度の領主となった、という。
長政が、この『戦艦図絵額』を、はるばる暹羅から送って来て、浅間神社に奉納したのは、寛永初年であったという。
この時、暹羅国王が、正使を、徳川将軍家に遣して来て、長政もまた、土井利勝に対して、大層な贈物をした由であった。
そして、その時、長政は、『王』という称号をもらっていたという。
このことは、少年重丸を感動させ、ひとつの夢をはぐくんだのである。
いわば――。
正雪は、少年時、山田長政の奉納額によって、夢を育て、その夢をふくらませ、ついに、その夢を実行する決意にいたった、といえる。
――二十数万の浪人者を救うてだては、海外渡航しかない。
原城陥落に際して、正雪は、吉利支丹宗門に帰依した農民たちの異常な強さを目撃させられるとともに、十万の寄手の士兵の臆病風に吹かれた、生命惜しさの攻撃ぶりを、つぶさに見せられたのである。
原城攻略に成功したのは、|すてばち《ヽヽヽヽ》な浪人勢の働きが、八分か九分であった、といえる。
その浪人たちを引具して、海外へ押し渡って、呂宋や安南や暹羅の日本人町を栄えさせ、あわよくば、オランダ・ポルトガル・イギリスまで行って、そこで、活躍してくれよう。
これが、正雪の夢だったのである。
そして、その夢は、断じて実行させなければならなかった。
しかし――。
『異国へ渡る者は捕えて死罪、異国から帰って来た者も死罪』という苛酷きわまる鎖国方針がとられた時代に、この冒険をやってのけようとするのであった。
計画は、綿密に練らなければならなかった。三年や五年で、やってのけられる|わざ《ヽヽ》ではなかった。
軍資金も必要とした。兵船をそろえなければならなかった。勇猛な浪人者を集めて、厳秘の盟約を結ばねばならなかった。
正雪は、しかし、絶対にやってのける誓いを立てたのであった。
第二の山田長政になり、あるいは、ヨーロッパにその名をとどろかせることができるかも知れなかった。その智能がおのれにはある、という自信があった。
『張孔堂正雪』は、幾年さきになるか、その野心をはたすべく、徐々に、地がためをすることにしたのである。
三
その正雪と全く対蹠的に、前途に希望もなく、その日その日を、自暴自棄的に、乱暴狼藉を、依然として犯している一群がいた。
旗本奴たちであった。
島原・天草の乱、という絶好の機会が到来したにもかかわらず、酒井忠勝から、
「お主らが出陣するのは、上様がじきじきに出馬なされる場合のみである」
と、|にべ《ヽヽ》もなく拒絶された旗本奴一統は、その鬱憤を、市井《しせい》で荒れ狂うことで、はらした。
吉原の花街が、しだいにさびれて来た原因のひとつは、実は、旗本奴連が横行して暴虐をきわめるので、一般庶民がおそれをなして、足を遠のかせたためといわれている。
吉原の全盛期には(勿論、後世元禄頃の全盛期には遠く及ばなかったが)大夫七十余人、格子女郎三十余人、端《はした》女郎にいたっては八百八十余人と記録にのこっているが、その盛況ぶりも、島原・天草の乱が起った頃が絶頂で、町人職人たちは、しだいに、風呂屋の方へ移っていった。
ただの風呂屋ではなく、そこには、湯女《ゆな》がいた。一軒に二十人、三十人もいて、すなわち、現代のトルコ風呂そのままのサーヴィスをしたのであった。
風呂屋は、府内いたるところにあり、その繁昌は、完全に、吉原の盛況を奪った観があった。|びた《ヽヽ》十五文とか二十文とか、値段が安かったからである。
勿論、士人を除き、旗本奴も行ったが、どういうわけか、風呂屋の方は、町奴が、幅をきかして、旗本奴一統にはむしろ、好みが合わず、ここでの喧嘩争闘沙汰は、なくはなかったが、きわめてすくなかった。
互いに裸で、とっ組み合えば、平常重労働をしている町奴の方が体力がまさって強かった、といえる。兵法修業した旗本奴連は、やはり、刀槍にたよることになるため、風呂屋をきらったものであろう。
慶安年間に、湯女置きの風呂屋が禁じられるまでは、吉原は、ついに、その繁昌をしのぐことはできなかった。
ただ一人――。
旗本奴の中で、遊里に足を踏み入れぬ人物がいた。白柄組の若い頭領水野十郎左衛門であった。
誰が誘っても、行こうとはしなかった。
女丈夫であるその母百代さえが、いぶかって、
「頭領ならば、他の組の頭領がたとのつきあいもあろうに――」
と、遊里行きをすすめたくらいであったが、十郎左衛門は、
「女郎を買うのは、好み申さぬ」
と、こたえていた。
十郎左衛門のくらしは、もっぱら槍の独習にあけくれた。
やがて――。
十郎左衛門が、訪れたのは、お茶の水の宝蔵院流丸橋忠弥の道場であった(お茶の水、といっても、現在のお茶の水駅近辺ではなく、本郷元町のあたりであった。ここに高林寺という寺があり、境内からよい水が湧くので、将軍家のお茶をたてる水として、毎日、献上されていたので、この名称が出来た)。
「たのもう!」
十郎左衛門は、供一人連れず、玄関で呼ばわった。
道場は、かなりの構えで、多数の稽古の懸声が、ひびいていた。忠弥は、一度つぶした道場を、正雪に説得されて、再びひらいたのであった。
取次の門弟が出て来ると、十郎左衛門は、
「旗本直参白柄組頭領、水野十郎左衛門である。当道場主丸橋忠弥と、真槍の試合をいたしたく参った。取次いでもらおう」
と、云った。
十郎左衛門は、忠弥の高名をきき、思いついてふらりと訪れたのではなかった。
曾て――。
前髪立ちの、百助といった少年の頃、十郎左衛門は、日本橋南詰東側の晒場《さらしば》に於て、その槍術ぶりをみせて銭集めをしている丸橋忠弥と、出会っていた。
その日、その母百代が、物好きにも、手裏剣撃ちをやり、放った二本とも、忠弥に見事にはじきとばされたのであった。
百助(十郎左衛門)は、母に代って、八本の手裏剣を、いっぺんに、忠弥めがけて、投げつけたものであった。
その八本ことごとく地面へはね落されて以来、十郎左衛門は、
――あの浪人者めに、いつかきっと、目にものみせてくれる!
と、おのれに誓ったのであった。
はからずも――。
それから二年後、その父水野出雲守成貞は、吉原の大門外で、幡随意院長兵衛をかしらとする町奴連と、喧嘩沙汰をひき起し、横死したのであったが、後日、十郎左衛門は、父を突き殺したのは、町奴ではなく、丸橋忠弥という浪人者であった、と知ったのであった。
いわば――。
十郎左衛門は、今日まで、父の仇を討つべく、必死の槍術修業をして来て、ようやく、勝つ自信を抱いて、その道場を訪れたのであった。
[#改ページ]
血 統 槍
一
血筋というものであったろう。
旗本奴白柄組の若い頭領水野十郎左衛門は、乱世に生れるべき気象の持主であった、といえる。
十郎左衛門は、その父出雲守成貞よりも、さらに濃く、祖父日向守勝成の血を享《う》けているようであった。
祖父日向守勝成は、藤十郎といい、天正七年三月、十六歳で初陣し、徳川家康と武田勝頼との戦いに、前者の先陣をつとめ、遠州高天神城に於て、武名のきこえた敵将を二人までも、槍で突き殺し、悠々と首級を挙げているのであった。
このめざましい功名手柄ぶりは、織田信長の耳にまできこえ、感状と名刀左文字を与えられたことだった。
藤十郎の父惣兵衛忠重は、三河刈屋城の城主であり、惣兵衛の姉お太《ひろ》は、徳川家康の生母であった。
つまり、藤十郎は、家康とは従兄弟《いとこ》の間柄であった。惣兵衛の代までは、水野家は、松平家(徳川家)と同格の家柄であった、というわけである。
ただ、なにぶんにも戦乱の時代であった。松平家は、幼少の家康が質子《ちし》となって、今川家の下に置かれ、水野家は、織田家に属し、敵対の間柄になった。そのために、家康の生母お太は、離縁になり、水野家へかえされたのであった。
織田信長が、田楽|狭間《はざま》に、今川義元を奇襲した時、水野家の当主信元は、信長にしたがって、まっしぐらに突入していたし、松平家康の方は、今川勢の一将となっていた。
しかし――。
水野信元の実弟惣兵衛忠重は、兄と仲たがいして、家を出て牢人ぐらしをつづけていたが、やがて、義兄の家康に招かれて、その客分となった。
信元の方は、織田信長の誤解による激怒を蒙って自害し、その居城刈屋城を取りあげられた。
のち、信長は、おのが誤解であったと知って、信元の居城刈屋城を、弟の惣兵衛忠重に呉れて、おのが幕下に入れた。天正十年六月一日、本能寺の異変があってから、水野惣兵衛は、あらためて、正式に、徳川家康の家臣となった。
徳川家と水野家は、そういう親密な関係であった。
そして、惣兵衛忠重の嫡男藤十郎は、無類のあばれ者で、一日として、のんびりとすごしていられない気象の持主であった。その気象が、合戦にあたって、抜群の功名手柄をたてさせた。
信長が本能寺に横死した直後、徳川家と北条家は、甲斐・信濃両国を争奪し合った。その時、前者は八千余、後者は五万一千余。とうてい、家康に勝算のない合戦であったが、神算鬼謀と三河武辺の忠誠無比の勇猛によって、五分の戦闘をくりひろげた。
甲府に入った家康は、新府城に拠り、古府《こふ》(甲府)には、鳥居元忠をかしらとする四名の部将をのこした。その中に、水野藤十郎も加わっていた。手勢は、わずか千五百であった。
鳥居元忠は、北条勢約一万が、御坂峠を越えて、黒駒の姥《うば》口山に入って来た、という間者の急報を受けると、手勢五百を引具して、これを邀撃《ようげき》すべく、古府城を奔り出た。
他の三将には、なにも報せなかった。先陣の功名を挙げる心算であったろう。
ところが――。
鳥居勢が、ものの半里も進撃しないうちに、疾風のごとく後から追って来た一隊があった。
先頭をきって疾駆して来たのは、水野藤十郎であった。
元忠を追い抜きざま、
「手柄を一人占めにされてたまろうぞや、この狸|親爺《おやじ》め!」
と、べっと唾を吐きかけておいて、あっという間に、一町もひきはなした。
一万の北条勢の陣地へ突撃を敢行した藤十郎の働きぶりは、文字通り阿修羅であった。
その長槍の使いかたは、人間ばなれがしていた、という。
北条勢は、黒駒山へ追い込まれ、御坂峠まで退却した。
藤十郎は、その闘いで、三百余の敵を、突き殺し、薙《な》ぎ仆《たお》したといわれている。まだ十九歳の若武者であった。
それから二年後――天正十二年四月、徳川家康は、羽柴秀吉と、小牧長久手の合戦で覇を争ったが、その戦場に於ても、一番槍一番首を挙げたのは、藤十郎であった。
二
水野藤十郎勝成は、戦闘をするために生れたような男であった。
合戦がない時は、博奕と酒と女にあけくれた。
そのために、あっという間に無一文になり、借金の山を背負った。水野家の勘定方に、二度三度と無心を重ねたが、流石に、四度目になると、勘定方も、きびしい態度で拒否した。
口論になった挙句、藤十郎は、いきなり、勘定方を、一太刀で斬ってしまい、刈屋城から逐電《ちくでん》せざるを得なかった。
父惣兵衛忠重は、伜の武功は武功、不埒は不埒として、親子の縁を切ることにした。
それから、水野藤十郎勝成の日本全土の流浪がはじまった。
武力が物云う時世であった。
藤十郎のひっさげた長槍は、自ら望めば、どこの武将でも、高く買ってくれた。
まず、羽柴秀吉が、七百石で買ってくれた。しかし、藤十郎は、秀吉の人柄とソリが合わず、すぐに退転して、九州へ移り、肥後に入って、佐々成政に、その長槍を千石で買ってもらった。
やがて、佐々成政が、秀吉の逆鱗にふれて、自決して果てるや、藤十郎は、再び浪人者となった。しかし、すぐ、小西行長に迎えられて、千石を給せられた。
小西家に仕えている期間も、短かった。同藩の士と喧嘩沙汰をひき起して、これを長槍で突き殺して、去った。そして、次に、隣邦の加藤清正に、同じく千石で召しかかえられたが、ここでもまた、上役と口論した挙句、これを斬って、逃走した。
その次に仕えたのが、黒田長政であった。藤十郎は千石を所望し、受諾された。黒田家にもまた、藤十郎は、長くとどまることができなかった。兵法師範役と試合をして、これをあの世へ送ったからである。
藤十郎が、徳川家に帰参したのは、関ヶ原役の起る直前であった。
伏見の宿所へ伺候した藤十郎を引見した家康は、笑って、
「父親から勘当された伜に、わしは、千石も呉れることはできぬ。隠し扶持として百人扶持ほど取らせようか」
と、云った。
ほどなく、家康は、水野惣兵衛を呼んで、藤十郎の勘当を許させたが、その時、父子は一語も交さなかった、という。
惣兵衛忠重が、石田三成の刺客の手で、横死したのは、その直後であった。
家康は、藤十郎勝成を、刈屋城三万石の城主とした。
関ヶ原役では、藤十郎の働きは、鬼神にひとしいものだった、という。
あとは、藤十郎らしからぬ出世ぶりであった。大和郡山六万石から、四年後には備後福山十万石の領主に――。
その三男出雲守成貞は、旗本直参三千石の身分であったが、きわめて愚劣な喧嘩沙汰から、吉原の大門外で、丸橋忠弥の槍にかかって、横死して、父の武名をはずかしめている。
しかし――。
そのあとを継いだ十郎左衛門には、いまだ、祖父勝成が、七十半ばで、福山城内で健在であり、徳川将軍家始祖の従弟である大名として、大いに睨みをきかせて、後楯となってくれていた。
旗本奴白柄組が、いかに江戸府内外で、乱暴狼藉を働こうと、閣老が、これを咎めて、罪を問い、自決を命ずることができずにいるのは、実は、家康の従弟である水野日向守(藤十郎)勝成が、いまなお、矍鑠《かくしやく》としているが為であった。
このたびの天草・島原の乱に於いても――。
水野日向守勝成は、七十五歳であり乍《なが》ら、馬にうちまたがって、山陽街道を疾駆して行き、松平伊豆守信綱より一月おくれて、島原に到着したが、ひとわたり味方の陣地の模様、籠城方の闘いぶりを眺めやって、伊豆守に、
「十年ひと昔、と申すが、二十年も経つと、武士が、百姓よりも腰抜けになり申すかの」
と、一言皮肉をのこして、さっさと、備後へひきあげてしまっていた。
十郎左衛門は、その祖父の血を最も濃く享《う》け継いだ若者であった。
だからこそ――。
白柄組頭領であり乍ら、部下一人もひきつれずに、単身、父の仇を討つべく、丸橋忠弥の道場へ、乗り込んで来たのであった。
忠弥の宝蔵院流槍術は、つとに、きこえているところである。
その業前《わざまえ》を、みじんもおそれずに、真槍の試合を、申し入れたのであった。
もし、時代が乱世であれば、このような浪人者と試合などせず、戦場を馳せめぐって、一番槍一番首をめざす若者なのであった。
三
その日――。
丸橋忠弥は、神田雉子町の丹前風呂屋から、湯女《ゆな》を三人、道場へ呼び、したたかに飲みくらい、白昼にもかかわらず、湯女の一人を抱いて、寝ていた。
「先生!」
廊下から、取次ぎの門弟が、いびきをかいている忠弥を、呼びさました。
「なんだ?」
「旗本直参白柄組頭領・水野十郎左衛門殿が、真槍の試合をいたしたい、と罷《まか》り越されておいででありますが……」
「ふうん――」
起きあがった忠弥は、全くの素裸であった。
酔いはまだ、全身にのこって、けだるかった。
大あくびをした忠弥は、いそいで起き上って身づくろいしようとする湯女の股間へ、片手を入れて、乱暴な弄びかたをし乍ら、
「おれが、吉原の大門外で、片づけた水野出雲守の伜だな。……何歳ぐらいだ?」
と、訊ねた。
「まだ二十歳には、一二年あるかと見受けます」
「父親の仇討に参ったのだろうが、そんな青二才では、対手にならん。助太刀の旗本奴をどれくらい連れて居るのだ?」
「単身で、乗り込んで参られました」
「なに?!」
忠弥は、あきれた。
「この丸橋忠弥と、一騎討ちをしようというのか」
「そのようであります」
「肚が太いのか、乱気の脳|みそ《ヽヽ》持ちか。向う見ずもはなはだしい青二才だな。……面白い。立ち合ってくれる。道場で、待たせておけ」
「はい」
門弟が、去ると、忠弥は、再び湯女の上へ掩いかぶさった。
「よいのかえ、|ぬし《ヽヽ》? 試合を前にして――」
湯女は、からだをひらき乍ら、忠弥を仰ぎ見た。
「ははは……、精気でも抜いておかねば、阿呆らしゅうて、青二才などと、立ち合えるか。よいか、ちと時間をかけて、愉しむぞ」
忠弥が、牀から出たのは、半刻も経ってからであった。
さらに、忠弥は、飲みのこした酒を、あおっておいて、褌《ふんどし》ひとつの裸躯《らく》を、道場へはこんだ。
しびれをきらせて待っていた十郎左衛門は、現れた対手の無礼な姿を眺めて、かっとなった。
「尋常の試合を申し入れたそれがしに対して、半刻も待たせたばかりか、そのざまは、許しがたい!」
「おっと! 勝手に押しかけて参って、立ち合いを申し入れて来たお手前に、女と酒のにおいをぷんぷんただよわせて居ろうと、はだかで居ろうと、それは、当方の気まま、文句を云われるおぼえはござらぬ」
忠弥は、酔眼をほそめて、にやりとしたが、十郎左衛門の面だましいだけは、ちゃんとみとめた。
十郎左衛門は、ひっ携げて来た祖父勝成ゆずりの、無数の武者の生命を奪った長槍を、床板に突き立て、
「白柄組頭領の面目にかけて、お主を討つ!」
と、叫んだ。
「その気概だけは、買い申す。ただ、この丸橋忠弥を討つには、まだ修業も足らぬようだし、自身の手で人を討った経験もお持ちではござるまい。……ま、五六年経って、参られては、いかがであろうな」
「黙れっ!」
十郎左衛門は、長槍を構えた。
「勝負っ!」
云いはなったが、忠弥は一向に、板壁に架けた槍を把ろうとはせず、だらりと両手を下げたなりであった。
「槍を持て!」
十郎左衛門は、せき立てた。
「あいにくだが、穂先を交える敵ではない、お手前は――」
「なにっ!」
「どうしても、死にたければ、お手前のその槍を奪って、胸|いた《ヽヽ》を刺して進ぜる」
忠弥が、云いおわらぬうちに、逆上した十郎左衛門は、懸声凄じく、びゅっと、独習三年の飛電の突きを放った。
刹那――。
忠弥は、大きく股をひらいて、跳びあがった。
降り立った時には、褌下の股間で、槍の千段巻きをぴたりとはさみ、むずと柄をつかんでいた。
「うぬっ!」
十郎左衛門は、渾身の力をこめて引こうとしたが、ビクともしなかった。
忠弥は、にやにやして、
「酒に酔い痴《し》れ、女を抱いた直後のそれがしと、必死の修練を積んで、雄々しい覚悟をきめて乗り込んで来たお手前との間に、これだけの腕の差がござるよ」
と、云った。
「く、くそっ!」
憤怒と屈辱で、十郎左衛門は、満面を朱色に染めた。
その時――。
「忠弥、くだらぬからかいは止せ」
その声が、戸口から、かかった。
いつの間にか訪れた金井半兵衛が、そこに立っていた。
「こっちが望んで、からかって居るのではない」
「いやしくも、対手は、若年とはいえ、直参旗本白柄組頭領ではないか。恥をかかせるな、忠弥!」
半兵衛は、叱咤した。
忠弥は、しぶしぶ、跳び退った。
「水野殿、父御の仇討は、五年か十年の後になされい」
半兵衛が、おだやかに云いきかせた。
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曲 者 二 人
一
寅刻《とらのこく》(午前三時)――。
雲片ひとつない空に、寒月が冴えていた。
「ばかげている」
その独語が、月光で光った瓦の上で、もらされた。
大老土井大炊頭利勝の本邸の大屋根にうずくまった黒影が、口にした。
彼方には、再建成った江戸城の大天守閣が、くろぐろと、夜空を截《き》り抜いて、そびえていた。
「大老たる者の金蔵に、たった一万両足らずの金しかたくわえてないとは――」
石川五郎太であった。
五郎太は、いまは、最も忠実な由比正雪の股肱《ここう》であった。
寛永十六年、江戸城本丸に放火して、全焼せしめたのは、五郎太の仕業であった。
天草・島原の乱が終了した直後、正雪は、熊谷三郎兵衛をともなって、日本唯一の異邦との交易港である長崎におもむいたが、その際、石川五郎太に、
「お主は、まっすぐに出府して、江戸城の天守閣を焼きはらってくれ」
と命じたのであった。
五郎太が、その理由を問うと、正雪は、微笑して、
「その騒動にまぎれて、城内金蔵に忍び込み、どれだけのたくわえがあるか、調べ、ついでに、盗めるだけの金銀を掠め奪ってもらいたい」
と、こたえたことだった。
五郎太は、その命令を実行した。江戸城金蔵には、ざっと見つもって、四千万両の千両箱が積んであった。五郎太が、盗み出したのは、二千両であった。
その二千両が、現在、張孔堂道場の維持費にあてられている。
五郎太自身は、神田の裏店で、楢村百合とひっそりと同棲して居り、牛込榎町には、正雪のひそかな使者が用命を伝えて来ぬ限り、一度も、訪れてはいなかった。
寛永十九年が明けて、日光東照宮造営が完成し、将軍家光が、春になって、参詣する、という噂が立つと、正雪は、五郎太に、使者を寄越して、
「大老土井大炊頭と酒井讃岐守、ならびに老中松平伊豆守の邸内へ潜入し、その金蔵に、どれだけの貯え金があるか、調べてもらいたい」
と、命じて来たのであった。
そこで、五郎太は、まず最初に、今夜、土井大炊頭利勝の本邸へ忍び込んだのであった。
当時の不文律のさだめとして、老中は、ほとんど国許の本城には、軍資金をのこさず、江戸の本邸に、貯蔵していることを、正雪は、知っていたのである。
大老たる身が、わずか一万両足らずの金子を、金蔵に置いているとは、五郎太の想像もしなかったことである。
あきれた尠《すくな》さであった。
酒井忠勝も、松平伊豆守も、このぶんでは、本邸には、|たか《ヽヽ》の知れた金銀しか貯えては居るまいと、推測された。
「どうやら、外様大名どもからのつけとどけで、台所をまかなっているところか」
考えてみれば、大老・老中といえども、石高の方は、きわめてすくないのであった。
土井利勝は、下総古河十六万石、酒井忠勝は若狭小浜十二万三千石、松平信綱は、はじめは武蔵|忍《おし》でわずか三万石であり、老中になって、やっと七万五千石になったのである。
富有であるはずがなかった。
他の老中――堀田正盛にしても阿部忠秋にしても永井尚政にしても、二十万石を越えている大名は一人もいないのであった。
権勢は与えるが、武力と軍資金を与えぬ――始祖家康の、巧妙な政策は、厳然として守られていた。
徳川家股肱中の股肱井伊直孝でさえ、彦根二十万石であった。関ヶ原役で敵対した上杉景勝よりも十万石すくなかった。関ヶ原役では、石田三成に味方して、東軍をさんざんになやました島津義弘は、罪を咎められず、島津家六十二万八千七百石の領土は安泰であった。
その代り――。
外様大名は、遠隔の地に置かれ、参覲交代という想像を絶する出費を強いられ、さらに、江戸城はじめ徳川家ゆかりの神社仏閣の建立再建の課役で、湯水のごとく、軍資金を費消させられていた。
ちなみに――。
日本全土の石高総計は三千万石をやや上まわる程度であった。寛永十二年の江戸城完成のために動員された諸大名の役高は、総計六百六十四万五千石であった。寛永六年の本丸・西ノ丸工事の時の約二倍であった。
この両工事にあたって、土井利勝も酒井忠勝も、それぞれ、大玄関前とか大手門とか、分担課役を引き受けているが、実は、裏では、外様大名の秘密の賄賂でまかなったのが、実状であった。
二
「それにしても、たった一年で、あんな大天守閣を、再建するとは、松平伊豆守が、どれだけの大名を泣かせたことやら――」
土井邸の屋根から、その大天守閣を仰ぎ乍《なが》ら、石川五郎太は、呟いた。
再建にあたって、伊豆守が命じた課役は、石垣は黒田忠之、浅野光|晟《あきら》、天守一重は水野勝成、二重は永井尚政、三重は松井康重、四重は松平忠国、五重は永井直清であった。石垣下から一番上の屋根の上まで高さ十七丈二尺(五十一・五米)、その上に黄金色に輝く純金の鯱は、高さ一丈、横六尺五寸であった。
文字通り未曾有の大天守閣であった。
後年これは、明暦三年正月十八日の大火(俗に謂う振袖火事)で焼けたが、保科正之の主張で、再建されず、江戸城は天守閣を有《も》たぬままに、明治に至った。
「あんなしろものをつくるために、日本中で、何百万人の人々が、直接間接に迷惑したことか。京都・奈良ならいざ知らず、海原から一年中風の吹きつけて来る場所で、あんな建物を、いくら建てなおしたところで、ものの十年も経たぬうちに、焼けてしまうのが、落ちだて」
大老の金蔵内の貯え金の尠さにあきれた五郎太は、ついでに、彼方にそびえる大天守閣にまで、腹が立って来た。
げんに、自分一人の力で、何百万両かを費したその天守閣を烏有《うゆう》に帰せしめた五郎太であった。何百万人かの努力と犠牲によってつくられた徳川将軍家の権威を象徴する建物といえども、たった一人の盗賊の手で焼きはらうことができるのであった。
ばかげているといわざるを得なかった。
途方もない巨費をつかって、また再び建てるよりは、小屋同然の粗末な家に住んでいる数十万の庶民に、なぜ、ほどこしてやらないのか?
「ばかげて居る!」
五郎太は、もう一度、吐き出して、ようやく、腰を上げた。
すでに、さきに述べたが、土井邸の建つ芝崎――神田橋門内の往還に面した処には、将門《まさかど》塚があった。
平将門の祟《たたり》の伝説は、土井利勝をもおそれさせて、その塚を移動することをせず、わざわざ塀をひきさげて、そのままにしていた。
五郎太が、塀を音もなく越えて、忍び出たのは、その将門塚わきであった。
恰度その時、塚の前には、ひとつの黒影がうずくまっていた。
こちらが、忍び出て来たことに気がつかず、塚の前に、供え物をしていた。ただの供物ではなく、月光を受けて冷たく光る太刀であった。
その白刃を、柄を土に植えて、直立させていたのである。
作業が終ると、男は、合掌して、祈願をこめはじめた。
しばらく、じっと見まもっていた五郎太は、祈願のあまりの長さにしびれをきらせて、
「卒爾《そつじ》乍ら――」
と、声をかけた。
男は、一瞬、はっとなったが、すぐに、覚悟をきめた者のおちついた態度を示して、五郎太へ視線を向けた。
「太刀を、そのような供えかたをするのは、なんのまじないでござるかな?」
五郎太が、訊ねると、男は、
「お手前様は、何人でありましょうか?」
と、問いかえした。
「たったいま、この大老邸から抜け出して来た盗賊でござるが……」
「……?」
「尤も、今夜は、金子を盗みに入ったのではなく、大老にどれだけの貯えがあるか、調べに忍び入っただけでござるよ」
その言葉をきいて、男は、
「てまえは、下総国佐倉の大庄屋にて、木内宗吾と申します」
と、名のった。
「ふうん、すると、お主は、平将門の末裔ででもあるのかな」
平将門の本貫(本籍)及び偽宮は、下総国相馬郡であった、といわれている。
したがって、世間では、将門のことを、相馬の将門、または相馬小次郎と称している。
相馬小次郎というのは、実は、千葉常胤の次子師常――相馬家の始祖のことである。
相馬郡にある予葉師常の居城の址《あと》は、その規模が非常に広大であったので、後人が、ここを平将門の住んだ相馬内裏とこじつけたもののようである。
いずれにせよ――。
下総国を七百年間にわたって治めた千葉氏の一人である佐倉城主千葉重胤の四天王の一人木内|左馬允胤忠《さまのじようたねただ》が、宗吾の曾祖父であってみれば、相馬小次郎と称される平将門を、最高の武神と仰ぐ下総国の住民たちにとって、木内宗吾の存在は、ただの大庄屋ではなかった。
佐倉に於ては、領主堀田正盛よりも、木内宗吾の方が、はるかに上の家門の主人、といえた。
三
「いえ、てまえは、べつに、平新皇の末裔などではありませず、ただ、下総ではいささか名の通っている旧い家の者にすぎませぬ。……仔細を申し上げますれば、この太刀は、佐倉の勝胤寺に宝物として所蔵されていた品であります」
勝胤寺は、享禄元年(一五二八)、佐倉城主千葉勝胤が建立した寺院であった。勝胤は、建立した時、この太刀が、多くの合戦で人命を断っているので、その諸精霊の怨恨を消さしめるべく、多大の供養料とともに、納めたのであった。その太刀は、平将門が腰に佩《お》びていた、といい伝えられていたのである。
宗吾が、つづけて語ろうとするのを、
「しっ!」
と、制して、五郎太は、宗吾に身を伏せるように指示した。
見張りの番士二人の跫音《あしおと》が、きこえたからである。
しかし、番士たちが、将門塚の前を避けるならわしを、五郎太は、知っていた。
番士二人が、遠まわりして行き過ぎるのを見送ってから、五郎太は、
「お主、さしつかえなければ、拙宅へ参られい」
と、さそった。
「かたじけのう存じます」
夜明け前のくらがりでは、互いの人体も看《み》わけられず、一方は大老邸へ忍び込んだ盗賊だと告げ、片方は将門塚に白刃の供え物をしている下総の大庄屋と名のった男二人は、怪しむべき対手であることが、かえって、心に通じ合うものを生じせしめたのであったろう。
神田橋門は、卯刻(午前六時)に開けられ、酉《とり》刻(午後六時)には、閉じられる規則になっているため、木内宗吾もまた、五郎太と同様、どこからか、門内へ忍び入ったに相違なかった。
東の空がしらんだ頃あいには、五郎太は、自身の家で、宗吾とさしむかい、牀《とこ》にも就かずに待っていた楢村百合のたてた茶を喫んでいた。
「お主は、天下がひっくりかえる大願でもたてられたか?」
五郎太は、冗談めかして、訊ねた。
「滅相もない」
宗吾は、沈痛な面持でかぶりを振った。
「ご公儀のご政道に、みじんの叛意を抱く者ではありませぬ。ただ、下総の農民どもの窮状が、いささかでもゆるめられるものならと存じ、平新皇にお祈りいたしただけでありまする」
「下総佐倉の領主は、たしか、老中の堀田加賀守でござったな?」
「左様です。お手前様が忍び込まれた土井大炊頭様の所領の頃は、年貢・諸役は、まずまず、他領と差はなく、荒蕪地などは、免除の慈悲を受けて参りましたが、ご当主が信州松本から所|替《が》えになられてよりは、文字通りの苛斂《かれん》| 誅求《ちゆうきゆう》になりました」
宗吾は、語った。
自分は、堀田加賀守正盛が、新領主になった時、他の大庄屋ともども城内に召されて、引見されたが、むしろ寛容の人柄と看て、ほっとしたものであった。
ところが、翌年から、一挙に租税が重くなった。
米は、一石につき一斗二升ずつの増税となり、小物成《こものなり》の大豆・小豆・胡麻・糠・藁・繩にまで課税されるようになった。
重税の理由は、
『江戸の大城完成のお手伝いのため』
それであった。
住民たちは、譜代大名であり、しかも老中職に就いた堀田正盛が、その主家の居城完成のために力を尽すのは当然である、と考え、歯を食いしばって、重税に堪えた。
また――。
伊豆|直見《あたみ》郷熱海の石切場の使役として、宗吾以下佐倉農民二百七十余人がおもむいて、他の丁場の人夫たちとは比べもなら鞏固《きようこ》な団結力を発揮して、働いたことだった。
印東庄三十六箇村の農民たちは、二十歳の宗吾から、
「お前らの生命を、この宗吾にくれ」
と、頭を下げられて、欣然として承知したのであった。
宗吾は、木内左馬允胤忠という、神格化された人物の末孫にふさわしい気骨と胆力をそなえた若者であった。
領主堀田正盛の命令であっても、もし、宗吾が、頭を横に振ったならば、佐倉の農民たちは、テコでも動かなかったであろう。
それから五年後、宗吾は、熱海の石切りの課役を終えて、帰国したのであったが、その五年間に、丁場の事故で六十七人の犠牲者を出し、四十四人に病死され、不具になったりその他の余儀ない事情で三十二人を国へ還していた。この多数の減員に対して、国からあらたに補給されたのは、十三歳から十五歳までの、わずか二十三人の少年たちであった。
それほどの大きな犠牲をはらった奉公をすませて、帰って来た佐倉に、宗吾を待っていたのは、さらに悲惨なくらしであった。
佐倉城主堀田加賀守は、老中であり、且江戸城完成の責任者としての重い任務のゆえもあって、宿痾《しゆくあ》がひどくなり、ずっと江戸に在り、嗣子上野介正信に、所領土の政治をまかせきりであった。その正信が、国家老池浦|主計《かずえ》、郡奉行金沢丈右衛門に命じ、常識でははかれぬ滅茶滅茶な重税をとりたてていたのである。
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詩 仙 堂
一
下総佐倉城主堀田正盛の嫡男上野介正信が、弱冠十六歳で、領民を生地獄の苦しみに追い込んで、重税を取り立てたのは、それだけの理由があった。
天草・島原の乱が起り、この一揆制圧のために、松平伊豆守信網がおもむくにあたって、なおつづけられている江戸城完成工事の総指揮者として、老中堀田正盛を指名し、将軍家光の許可を得ておいたのである。
伊豆守は、帰府しても、江戸城完成工事の責任は、堀田正盛に負わせておいた。
それが、堀田家にとって、災禍となったのである。
本丸・二ノ丸・三ノ丸の結構が成り、城を西側からかこむ赤坂・四谷・市ヶ谷・牛込の外濠もできあがり、また東から南にかけて、神田橋から常盤橋、呉服橋、鍛冶橋、幸橋、虎ノ門、赤坂溜池にいたる濠の石垣の修築も成り、ついに、未曾有の巨城が完成した――その矢先に、天守閣から火の手があがり、本丸が全焼したのであった。
激怒した将軍家光は、伊豆守信綱に、一年間で本丸を元通りにせよ、と命じたが、その責任は、堀田正盛がとらなければならなかった。
本丸再建のために、堀田正盛の心身は、三十半ばの壮年であり乍《なが》ら、消耗し果て、再建成るや、気力も体力も尽きはてたのであった。そして、のこされたのは莫大な借財であった。
家督を継いだ上野介正信は、やむなく、苛政の権化《ごんげ》たらざるを得なかった。
その重税ぶりの凄じさは――。
家内人員で、十五歳から六十歳までの男女に対して、一日一文、畳一畳につき月一文、牛馬を持つ者は年に三文を課した。醤油、油、酒、太物《ふともの》、荒物、小間物などを商う者に対して、一年の商い金が百両ならば五両、寺院には年に一両、そのほか、野菜、大根、煙草、味噌のたぐいにいたるまで課税した。
米麦、小物成《こものなり》に対する租税は三倍にひきあげ、家を相続した者や聟養子になった者からは冥加金《みようがきん》を徴し、牛馬の売買には運上を取った。
農民も商人も、納税がおくれれば、村役人が手錠や繩をかけられる法規がつくられたので、妻や娘を売って上納する者が続出したし、田畑を村方へ差し出して、他領へ逃散《ちようさん》した人数は、この一年間で七百三十余人に及び、百八十軒、寺院十一箇寺が無住となった。
他領へ逃散した者たちは、あるいは餓死し、あるいは盗賊となって捕えられて斬られた。
まさしく、生地獄が、佐倉郷に現出したのである。
逃散者は、いまなお相次ぎ、散田《さんでん》(耕作人のいない田)は多くなるばかりであった。
そこで――。
木内宗吾は、ついに、決意して、平将門が腰に帯びたとつたえられる千葉勝胤奉納の宝刀を、勝胤寺からぬすみ出し、出府し、芝崎の将門塚へ供えて、
――下総国を救い給え!
と、祈願をこめた次第であった。
堀田正盛・正信父子ぐらい、徳川家にとって、この上もない忠臣はなかった、といえよう。
後年、慶安四年、将軍家光が逝くと、加賀守正盛は、江戸屋敷で、その日のうちにあと追いの殉死をしている。
その子の上野介正信もまた、延宝六年に四代将軍家綱が死ぬと、剪刀《かみそり》で自殺している。正盛の場合は、殉死は納得できるが、正信の場合は、一般には合点しがたい自殺であった。
正信は、父正盛の死後、佐倉十二万石の城主となり、詰衆の列に加わったが、万治三年十月八日に、一封の諫書を、幕閣の保科正之と阿部豊後守忠秋につきつけて、幕府政道の非を糾弾しておいて、居城佐倉にひきこもってしまっている。
『当代(家綱)御幼稚のむかしより、世を知召すこと、既に十年、輔導の人、その道を得ず、天下の人民の悉く疲弊し、幕下の将士尽く貧困す。すべからくすみやかに恩恵を施し、窮愁を宥《おさ》められるべし。まず、正信が父より伝え賜うところの禄を以て御家人等に充《あ》て賜わる料とせられるべし』
次いで、国許から、わが所領はすべて返上いたす、と云い送ったのである。
閣老たちの諭示も断乎として肯き入れず、出府を拒否したため、ついに所領を没収され、舎弟脇坂安政の領地信州飯田に配流の身となった。これは、伊豆守信綱の断乎たる処置であった。
寛文二年には、正信は、酒井忠直に預けられ、若狭国へ流されたが、無断で、脱出して、男山八幡宮や清水の観音堂に参籠した。将軍家に、若君が誕生するように祈祷したのである。やがて、正信は、捕えられて、こんどは、淡路島へ流された。そして、その配所で、将軍家綱の逝去をきくと、周囲の阻止を排して、自殺してしまったのであった。
堀田正盛・正信父子は、まさに、表面的には、典型的な忠臣の亀鑑そのものであった。
しかし――。
堀田父子が忠臣であるがために、その領地の地下《じげ》民は、塗炭の苦しみに遭わなければならなかったのである。
忠臣父子にとって、徳川将軍家は神に等しい存在であり、領民は虫けら同様であった。
ちなみに、堀田正盛の祖母は、家光の乳人・春日局であった。
二
木内宗吾は、石川五郎太に向って、語った。
「お手前様も、すでにご存じと思いますが、ふつう、千石の米を穫《と》るには、約八百五六十人の人口がなくては叶いませぬ。……ところが、佐倉では、千代田の大城のお手伝いのために、ここ十年あまり、壮丁の三分の二が、かり出され、老幼婦女子のみで、どうにか、米をつくって参りました。……わるいことは、重なるもので、先年、飢饉に喘《あえ》いでいる時に、江戸城ご本丸が焼けて、その責任を負うたわれらがご城主が、一年以内に、天守閣を元通りに再建なさることになりました。……逃散して明《あき》村になり、散田が非常な数になり出したのも、これは避けがたい悲運と申すわけであります」
散田となった田畑が、千町歩に及ぶ現状をきかされて、五郎太は、
――正雪殿に命じられて、わしが、江戸城本丸と天守閣を焼きはらったのが、原因なのだ!
と、息のつまる思いで、宗吾の言葉をきかざるを得なかった。
「……申しわけない」
五郎太が、顔を伏せて呟くのを、宗吾は、ききとがめて、
「なんと申されました?」
「木内殿!」
五郎太は、不意に、畳に両手をつかえて、平伏した。
「お許し下され! 罪は、この石川五郎太にござる」
「……?」
あまりに唐突な謝罪に、宗吾は、わけがわからず、眉宇をひそめた。
「実は……、江戸城天守閣に放火して、本丸を焼きはらった下手人は、この拙者でござる」
「………」
宗吾は、唖然として、五郎太を見まもった。
「おのが所業のために、日本中の庶民が、どれだけ迷惑を蒙り、苦しみ喘ぐか――その時は、全く考え及び申さなんだのでござる。……詫びてすむことではござらぬが、何卒、お許し下され!」
「失礼乍ら、何が、目的で、ご本丸に放火なされましたか?」
「それは、いまは、打明けることはでき申さぬが、それゆえに、お手前がたが、左様な窮状に追い込まれる結果を招くとは、その時は、うかつにも、思いも及び申さなかった。……お許し下され。……下総のみならず、日本全土の人民が、江戸城本丸と天守閣の再建に、どれだけの苦難に遭うたか、想像しただけで、胸が疼《うず》き申す」
五郎太は、衷心からの苦渋の表情を現して、つかえた両手を挙げようとしなかった。
その胸中には、
――由比正雪殿の思案は、天草・島原の乱で、浪人隊をすげなく追いはらった憤りがあって、伊豆守に目にものみせてくれようとしたのであったろうが……。
その考えが、あったが、正雪自身、その再建のために、日本全土の人々がどれだけの迷惑を蒙ることになるか、思い及んでいたであろうか? ――おそらく、みじんも思い及ばなかったに相違ない。
――正雪という人物、大きな野望を蔵しているが、天下の庶民の幸せについてなど、すこしも考慮してはいないのではあるまいか?
五郎太は、はじめて、由比正雪という人物の性情に、疑念を抱かざるを得なかった。
――おれは、正雪の下に就いたのは、あやまっていたのではないか?
微かな悔いの念も、生じた。
夜が明けた。
百合が、朝餉の膳部を、二人の対座する部屋へはこんで来た。
宗吾は、遠慮したが、五郎太にすすめられて、箸を把りあげた。
木椀に盛られた御飯には、麦は交っていなかった。
その白飯へ、じっと視線を落す宗吾を、五郎太は、見まもって、
「佐倉の大庄屋であるお手前も、滅多に、白い飯は摂られぬか?」
と、訊ねた。
「正月一度だけ、摂ります。麦七分を常食といたして居りましたのは、父の代までのことで、粟、稗《ひえ》を七分とした芋粥にして居ります」
「………」
五郎太は、暗然となった。
やがて、宗吾が、礼を述べて、立ち去ると、五郎太は、百合に、
「拙者は、途方もない大罪を犯し申した」
と、云った。
すでに、襖ひとつへだてて、宗吾の話をきいていた百合は、
「貴方が、自責の念を負われることはないと存じます」
「江戸城本丸に放火したのは、拙者でござる。……どうも、拙者は、由比民部之輔に踊らされる傀儡《くぐつ》のような気がして来ました」
そう云う五郎太を、百合は、微笑して見まもり、
「貴方は、大盗石川五右衛門の血を受け継いでおいでです。諸大名の城や屋敷へ忍び入って、金子を掠奪するのを止めて、ただの町人にはなれますまい」
と、云った。
「痛いところを突かれ申した」
五郎太は、苦笑した。
「ご自身、生涯を世間の裏街道を歩くご存念ゆえ、わたくしと、同じ屋根の下に住み乍らも、男女の契りをむすぶのを避けておいでなのですね?」
「この白髪をごらん下されば、お判りでござろう。拙者は、いずれ、公儀に捕えられて、処刑される身と覚悟をいたして居り申すゆえ……」
「わたくしの方で、そのような運命《さだめ》のおん身と知りつつ、お願い申しても、禁断を破ろうとはなさいませぬか?」
「………」
五郎太は、百合のつよい視線をはずして、宙へ双眸を据えた。
しばらく、沈黙を置いて、
「拙者が捕えられれば、妻となった百合殿も、死罪となることをまぬがれ申さぬ」
と、云った。
「貴方がわたくしを愛して下さるのであれば、よろこんで、ともに、冥途への道を歩みます」
百合の返辞には、いささかのよどみもなかった。
三
その頃、正雪は、京都にいた。
正雪は、紀州和歌山の居城に在る徳川頼宣に引見を願うべく、ひそかに、江戸を出て東海道を上って来たのであったが、京都に入ると、詩仙堂という隠栖所《いんせいじよ》をつくって、そこにこもっている師の石川丈山を、たずねることにしたのである。
詩仙堂は、曾て、慶長のはじめ、宮本武蔵が、室町兵法所吉岡道場一門七十余人と死闘した洛北一乗寺村にあった。
「ここか――」
なだらかな坂道をのぼって来た正雪は、樹枝がふかく被いかぶさった入口の門前に立った。
門には、『小有洞』と隷書《れいしよ》で彫った扁額が、かかげてあった。
現代でこそ、詩仙堂は京都の名所となり、市内に容《い》れられているが、この頃は、鹿や猪の出没する僻地であり、しかも、台麓とはいえ凸凹のひどい場所であった。
丈山は、平《たいら》な場所は一坪もない僻地をえらんで、隠栖所を建てたのである。
正雪は、丈山から、詩仙堂を、『|凹凸※[#「穴/果」]《おうとつか》』と名づけた、という手紙をもらっていた。
その入口から奥をのぞくと、まさしく小さな洞であった。
竹林の中を、石段をのぼって行くと、第二の門が設けてあった。
『梅関』
扁額が示す通り、幾株かの老梅が、門をかくすように、枝をさし交していた。
そこをくぐって行くと、第三の門があった。
『凹凸※[#「穴/果」]』
扁額が、その堂名を示していた。
――なるほど、わが師の隠栖所らしい。
正雪は、玄関に立って、そう思った。
玄関には、『蜂要』という扁額がかかげられてあったが、たしかに、蜂のように腰をかがめて出入りしなければならぬように、ひくくつくられた構えであった。
正雪が、案内を乞うても、堂内は、しいんとしずまりかえって、人の気配もないようであった。
水音だけが、奥から、微かにひびいて来た。
正雪は、無断で上ることにした。
家屋は、意外に広かった。
「これが、詩仙堂か」
正雪は、最初に踏み込んだ部屋で、呟いた。
欄間にあたる壁上に、中華の詩人三十六人の画像が描かれ、それぞれの側に、その詩が、一篇ずつ記されてあったからである。
丈山の手紙には、日本の三十六歌仙にならって、わざわざ乞うて、狩野探幽を招き、三十六詩仙を描いてもらった、とあったのである。
その小室を出て、廊下を横切ると、広い座敷があった。
凹凸の土地の、悪木を伐り、奥草《おうそう》を抜き、水を流し、山脚を除いてつくりあげた唐風のゆるやかに傾斜した庭に面していた。
床の間には、『福』『禄』『寿』の三幅の掛軸が、かけられてあった。竹筆による隷書であった。
「先生!」
正雪は、大声で呼んでみた。
「弥五郎です。……弥五郎が参りました」
すると――。
「上って参れ」
その声が、頭上からひびいた。
「は?」
すぐには、階段が、見当らなかった。
その座敷の真上に、小室が設けられていたが、階段は、目につかぬところにとりつけてあったのである。
正雪が、それを見つけてのぼって行くと、たしかに小室があったが、そこにも、丈山の姿はなかった。
「どこです、先生?」
「この上だ」
建物は、三層になっていたのである。
丈山は、三階の三畳間に、寝そべっていた。
そこには、『嘯月楼《しようげつろう》』という扁額が、かかげてあった。
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師 弟 問 答
一
正雪が、挨拶をすませると、丈山は、窓外へ視線を送って、
「今年は、京の都に、春が来るのがおそいのう」
と、云った。
たしかに、『嘯月楼』と名づけられた三階は、畳が氷のように冷たく、それに、じかに丈山が、悠々と寝そべっていたのが、ふしぎなくらいであった。
手あぶりひとつ、置かれてはいなかった。
「清吟のおくらしを、おさまたげして申しわけありませぬ」
「三年前、お前は、すでに、わしの隠栖を邪魔いたして居る」
丈山は、云った。
三年前――天草・島原の乱が終熄して、半年あまり過ぎて、この『凹凸※[#「穴/果」]』に、正雪は、熊谷三郎兵衛に添状を持たせて、一人の美少年を送り込み、かくまって頂きたい、と願って、許されたのであった。
あきらかに、西邦人の血の混ったと思われるその美少年が何者か、丈山は、その正体を訊《ただ》そうとはせず、
「弥五郎にも、衆道趣味があったか」
と、冗談めかして、云ったことだった。
実は、美少年は、石川五郎太が、原城が陥落する隙をうかがって、救い出した天草四郎時貞であった。
しかし、その時、四郎時貞は、重傷《ふかで》を負うていて、歩行すらも不可能の状態であった。
熊谷三郎兵衛が、その身柄を受けとり、正雪とともに、長崎へともなって、かくまい、ひそかにオランダ船の船医を招いて、治療にあたらせたのであった。
四郎時貞は、傷の箇処がわるく、恢復がはかばかしくなかった。
もし、四郎時貞が、恢復すれば、熊谷三郎兵衛は、呂宋へ身柄を送る心算であった。
四郎時貞が、歩行できるまでに恢復した時、すでに、公儀の詮議探索はきわめて厳重なものとなり、三郎兵衛が、かねて、目をつけて、その船長に事実を打明けて、便乗をたのんでいたポルトガル船が、長崎湊から退去させられたのであった。
その際、松平伊豆守信綱は、交易再開を執拗に迫って来たポルトガル使節を、容赦なく六十一人も、斬殺していた。鎖国断行のみせしめのためであった。
この残忍な措置が、オランダ船の船長以下乗組員を、戦慄させた。
熊谷三郎兵衛が、どのように、歎願しても、ポルトガル船は、天草・島原の乱の首領である少年を、乗せることは、露見をおそれて、かたく拒絶したのであった。
三郎兵衛は、四郎時貞を、呂宋に送る手段を失った。
やむなく――。
正雪は、師丈山宛の添状をしたため、三郎兵衛に、こっそり、四郎時貞を、長崎から京都へともなわせたのであった。
その道中が、瞬間も油断のできぬ、三郎兵衛の神経をすりへらさせた隠密行であったことは、述べるまでもない。
「弥五郎、気の毒であったが、あの若者は、当堂にあずかってから、一年後に、みまかった」
「左様でしたか。……やはり、あの傷がもとで――?」
「いや、自殺であった」
「自殺?!」
「吉利支丹宗門の信徒は、自殺を禁じられているそうなが……、あの若者、まことは、吉利支丹に帰依していたのではなかったようじゃな。……尤も、すでに胸部に疾患があり、それが進んで居って、いくども血を喀《は》いて居ったが……」
「………」
正雪が、三郎兵衛に持参させた添状には、少年が天草四郎時貞であることは記してなかったが、丈山は、一瞥して、看破したに相違なかった。
看破し乍《なが》らも、引き受けてくれたのである。
「若者は、自決するにあたって、わしに、遺書をのこした。その遺書には、別の品も添えてあった」
「はあ?」
「その品は、お前が、のどから手が出るほど欲しているものであった」
「……?」
「しかし、いまは、お前に、渡すことはできぬ」
「………」
「その時節が到来したならば、渡そう。その品が、ある絵図面であることだけは、打明けておく。それまで、わしが預っておく。それで、よいな?」
「先生が、そう仰せならば、やむを得ません」
正雪は、こたえた。
正雪は、霊感に似た直感で、それがいかなる品か、見当がついた。
二
丈山は、江戸に於ける張孔堂の盛況ぶりを、正雪からきかされたのち、ふっと、別のことを云った。
「お前は、気づいたであろうかな。この庭の眺めのことだが、座敷から眺めるのと、二階から眺めるのと、そして、この三階の嘯月楼から眺めるのとでは、全く景色が、別のものとして目に映るのを――」
「それは、|うかつ《ヽヽヽ》にも気がつきませんでした」
「そのような節穴目では、天下を眺めることは叶うまい」
「申しわけありませぬ」
正雪は、あらためて、その三階の窓から、庭を眺めやった。
丈山の云う通りであった。一階の座敷から眺めた景色とは、全く別の風景が、眼下にひらけていた。
同じ庭であるにもかかわらず、どうして、全く別の景色に変っているのか?
「わずか三層の高低で、庭景色さえも、別のものとして、目に映る。ましてや、天下を眺めるのに、その立場を異にすれば、黒と見えたものが白と映り、白と映ったものが赤と見える」
丈山は、つづけた。
「お前は、もう一度、紀州殿を説くべく、わしに添状をしたためさせに参ったのであろうが、こんども徒労におわるのではあるまいかな」
「先生、それがし、大盗石川五右衛門の伜五郎太なる者を味方にひき入れ、江戸城へ忍び込ませ、金蔵に貯えられた金銀を調べさせたところ、四千万両にのぼる厖大な額をかぞえました。……先年、先生は、徳川大御所が、秀忠公に将軍家を譲って、駿府へ退隠した時には、江戸城西ノ丸の金蔵には、軍用金として金三万枚、銀子一万三千貫をのこしたと、申されました。大御所は、ほとんど無一文で、駿府城へ移られた由。……ところが、いまは、江戸城の金蔵には、四千万両が貯えられてあるのを、それがし、つきとめました。……されば、駿府にも、必ず一千万両以上がかくされて居りましょう」
「ほう、それはまた、大層な金銀があったものだな」
「徳川大御所が、大坂城から召し上げた金銀は、およそ荷駄六百頭――天正大判だけで百八十万枚――二千万両ぐらいであろう、と先生は、見当をおつけになりましたが、実は、それの数倍いや三倍の巨額の金銀が、ひそかに、大坂城から奪取されたことに相成ります」
「太閤秀吉は、一億に近い軍用金をたくわえていた、というわけか。……考えられぬの。江戸城内の金蔵の千両箱の大半は、空かも知れぬぞ、正雪――」
「なんと申されます?」
「敵をあざむくには、まず味方をあざむかねば相成らぬ。大御所は、二代将軍家に、そう教えておかれたかも知れぬ。土井利勝はじめ閣老がたも、大御所にまんまとあざむかれた、と考えられぬこともない」
「先生、いずれにせよ、それがしの推測するところ、駿府にかくされた金銀は、数千万と申さずとも、すくなくとも、一千万両を下るまいと確信いたします」
「推測するのはお前の勝手だな」
「一千万両あれば、十万の浪人者をしたがえて、海を渡ることが可能であります」
「紀州侯に、その金高を告げれば、決意してもらえる、と確信して、和歌山城を訪ねようというわけか」
「紀州侯が、毎年、鯨獲りと称して、太地浦や湯崎浦で、数百艘の船をもって、水軍の演習をされて居ることは、つとにきこえて居るところであり、海外雄飛の大志は、胸中に大いに湧きたっておいでである証左であります。……それがしの味方となった者の一人に、呂宋左源太――いまは、熊谷三郎兵衛と名を変えて居りますが――、この男が、目下、明国御用の大海賊となってあばれまわって居る|※[#「奠+おおざと」]芝龍《ていしりゆう》の添状を持参して、紀州侯に面謁して、呂宋に於ける日本人町の現状をつぶさにおきかせすると、大いに、心を動かされたご様子であった、と申して居ります。……それがしが、いま一度、面謁して、いまひと押し、述べたならば、大軍船団を組もうと確約して頂けるものと、自信を持って居ります」
丈山は、正雪の説くところを、黙ってきいていたが、
「弥五郎、やはり、お前は、百年おくれて生れた」
と、云った。
「わしは、紀州侯の器量の大きさはみとめる。しかし、すでに、幕府の体制が完く整ったいま、紀州侯の器量は、発揮されるべくもない。……世捨人の衰えた思念が、お前の野望を無謀と看た、という次第ではない。この三階の嘯月楼から、見下す庭が、わしに、天下の状況の縮図と見えて来て居る」
正雪は、いかに師から諫められても、ひとたび胸中にふくらんだ野望を、しぼませるわけにはいかなかった。
「先生の添状は、頂きませぬ。しかし、紀州侯を、いま一度、説くことは、おとどめ下さいますな」
きっぱりと云いきる正雪を、丈山は、じっと瞶《みつ》めて、
「お前は、いつかどこかで、凶相がある、と云われたことはないか?」
と、訊ねた。
「云われました。紀州家の食客|根来《ねごろ》一心斎が、指摘いたしました。……覇気のある者に、凶相のない顔はありますまい」
正雪は、平然として、云った。
「今日、お前の面相を眺めているうちに、わしも、あきらかに、凶相があらわれて来たのをみとめた」
「不快の念を催されましたか?」
「惜しい気がして来た。おそらく、お前は、わしよりさきに、横死するであろうな」
丈山は、予言した。
「覚悟をいたして居ります。十歳の折、大坂城を落ちのびた頃より、なんとなく、自分は、横死するのではあるまいか、という予感がし、いまだ、つづいて居ります」
「人は、生れた時から、おのが力では押し伏せがたい宿運を背負うて居るようだ。……わしが、この詩仙堂を、お前にゆずる、と申しても、受けまい。……実は、わしは、近年うちに他界して、おのれが魂魄を、お前に移す、という夢をしばしばみたが、所詮は、夢であったか」
そう云ってから、丈山は、再び窓外へ視線を送り、
「この庭も完成した。あとは、余命を送るばかりだ。あと十年生きるか、二十年生きるか、同じ日のくりかえしであろう」
と、呟いた。
正雪は、いま、はっきりと、師とは別の世界に住むおのれを知った。
三
正雪は、しかし、丈山に、ひとつだけ訊ねておきたい事柄があった。
「先生――」
「なんだな?」
「それがしが、先年、直見郷熱海で、何故に世をお捨てなされた、とお訊ねした時、こうおこたえになりました。……天下人となった徳川家康には金がなかった、一大名になり下った豊臣秀頼には、金があった。貧乏な天下人は、富有な一大名を滅して、その金を奪うことにした。……先生は、大坂役を起そうとする大御所に向って、秀頼公を弑逆《しいぎやく》なさらぬように、進言なさいました。そのために、冬の陣には、駿府城にのこされ、ようやく、夏の陣に参加することを許されました。先生が、先駆けの功をたてられたのは、秀頼公を救い出す心算であられた。そして、総攻撃の前夜、先生は、大御所に、秀頼公の生命の安堵を、願い出られました。しかし、大御所は、断乎として、肯き入れようとはなされなかった。……その時、先生は、死欲にとりつかれた大御所の老醜を、ごらんになって、隠遁の肚を、即座におきめなされた、と申されました」
「嘘は申して居らぬ」
「だが、その時、先生は、まだ三十三歳の壮年であられました。この正雪は、すでに、その年齢に達して居ります。……三十三歳で、世を捨てる存念を抱かれた――そのことが、この正雪には、合点いたしかねまする。先生は、十七年間も、大御所にお仕えなされたおん身ではありませんか。ただ、死欲にとり憑《つ》かれた老醜を看ただけで、それほど永くお仕えなされた主君を、見すてる気持が、起るものでありましょうか。古稀(七十歳)を越えた老人が、おのが家を百年二百年の安泰にしようと思案したことは、納得できることではありますまいか。……それがしは、その時、先生の心中に、何か別のきびしい正念が起ったに相違ない、と推察いたしますが……」
「………」
しばらく、重い沈黙があった。
やがて、丈山は、口をひらいた。
「弥五郎――いや、いまは、由比民部之輔正雪か――、わしが、秀頼公救命の儀を願い出て、大御所から拒否された時、わしの胸中に沸いたのは、十七年も仕えた主君に対する激しい憎悪であった」
「憎悪!」
「老いの醜さに対する嫌悪よりも、憎悪の方が激しかったのを、わしは、いまも、昨日のことのように、はっきりとおぼえて居る。この憎悪は、生れてはじめてと申してよいほど、堪えがたいものであった。はっきりと申せば、わしは、その瞬間、大御所を刺し殺したい衝動をおぼえたものであった」
「………」
「正雪、それほどの激しい殺意の憎悪をおぼえて、なお、主君に仕えつづけることができるか?」
「できますまい」
「申さば、わしは、大御所の顔を見ただけで、むかむかするようになった。……太閤秀吉は、わが子可愛さのあまり、死を間近にして、痴愚になった由だが、これは、許される。しかし、大御所の老醜が生んだ残忍無比な妄執は、許されることではなかった」
そのために、丈山ほどの大人物が、紀州及び水戸徳川家をはじめとして、前田家その他の大大名のねんごろな招聘に応じなかったのである。
記録には、生母のたのみで、藤堂高虎から三千俵の合力をもらい、あるいはまた、浅野|長晟《ながあきら》の客分となり一千石をもらった、とあるが、それは、丈山自身が、承知したのではなく、むこうが勝手に待遇してくれただけのことであり、その家へおもむいて、陪臣と肩をならべたことは、ただの一度もなかった(おそらく、それらは、家康のさしがねであったに相違ない)。
丈山は、それらの大名の客分となった時、生母をともなって、悠々と有馬で湯治の歳月をすごしていたのである。
「正雪――、この詩仙堂は、わしがひそかに貯えた金子で、土地を購い、家を建てたのではないのだ。諸侯が、わしのつたない書画を法外な高値で買ってくれて、三千両が集ったために、つくられたのだ。……正雪、こういう人生もあることを忘れるな」
「………」
「金というものは、人間を悪鬼にも羅刹にもする。そのことを充分、心得ておいてもらおう。わしが、お前に、忠告できるのは、それだけだ」
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死 者 復 活
一
由比正雪が、洛北詩仙堂を訪ねた同じ日、江戸に於ては――。
松平伊豆守信綱が、お忍びで、柳生但馬守|宗矩《むねのり》の小石川の隠居所に、訪れていた。
対座する信綱と宗矩の書院の次の間に、一人の武士が控えていた。
荒木又右衛門であった。
宗矩は、古稀を迎えていた。又右衛門はまだ三十六歳であったが、五十の坂にかかっているようにみえた。
信綱は、又右衛門より二歳だけ年長であったが、反対に十歳も年下にみえた。その気力も体力も、充分に満ちていた。
実は、荒木又右衛門は、寛永十一年十一月七日、伊賀上野鍵屋の辻で、義弟渡辺数馬に助太刀して、河合又五郎を討ち、それから二年後、卒然として逝ったことになっていた。その墓も建てられていた。
この果し合い(正しくは、上意討ち)は、柳生十兵衛が目撃し、ただちに江戸表へ報告していた。
その報告を受けた但馬守宗矩は、十兵衛へ返書を送り、
「一両年うちに、又右衛門が、病死したことにいたせ。墓も立派なものを建て、世間に信じ込ませ、その行方を絶たしめよ」
と、命じたのであった。
十兵衛は、その通りにして、荒木又右衛門を変装させ、その身柄を対馬へ送り、現在まで、そこの山中に、ひそませていたのである。
但馬守宗矩は、旗本奴が必ず、荒木又右衛門を尾《つ》け狙うと推測して、その措置をとったのであった。
宗矩は、この秘密は、松平信綱ただ一人にだけ、打明けていた。
今年になって、伊豆守は、突然、但馬守に、
「荒木又右衛門が、いまだに健在ならば、対馬から、江戸へ呼び寄せてもらえぬか」
と、たのんだのであった。
なぜ、呼び寄せるか、理由は明かさなかった。
但馬守宗矩は、伊豆守の意図が奈辺にあるか、判らぬままに、荒木又右衛門を、ひそかに、対馬から出府させたのであった。
お忍びで訪れた伊豆守は、宗矩と久しぶりに顔を合せ、一昨年から軽い中風に罹《かか》った老体の容態などをねぎらい、次の間に控えた又右衛門を、すぐに呼び入れようとはしなかった。
ものの半刻もしてから、はじめて、又右衛門を、面前へ呼び、その挨拶を受けた。
すでに、ずっとむかしになるが、伊豆守は、又右衛門と、一度だけ、会っている。酒匂川に於て、高崎の駿河大納言忠長の許へ、伊豆守のはからいで送られようとしていた九条|明子《さやこ》に、狼藉を働こうとした旗本奴連と決闘した際、又右衛門は、さしかかった伊豆守に、面謁していた。
伊豆守は、はっきりと、その時の又右衛門の面だましいを記憶していた。
尤も、疱瘡の痕も甚だしい、化物じみたその醜悪な貌《かお》は、一度見れば忘れられるものではなかった。
「又右衛門、面貌が変ったの。いや、年齢によって、老けた、と申すのではない……対馬の山中で、兵法修業、精神の涵養を、一日も欠かさずにすごしたとみえて、神韻《しんいん》|縹 渺《ひようびよう》たるけしきをたたえて居ると申しても、世辞ではない」
「恐れ入りまする。……ただ、山中のけもの対手に、なんとなく、無為な日々をすごしたにすぎませぬ」
「おそらく、いまは、その方の業前に互角の勝負をし得る武芸者は、ただ一人も居るまい。この伊豆にも、そう看るぐらいの眼力はあるぞ」
「何卒、過褒のお言葉は、そのあたりで、お止め下さいますよう、願い上げまする。……この又右衛門、ただなんとなく余生をすごして居るにすぎませぬ。何故のお召しか存じませぬが、お役に立てるとは、いささかも思われませぬ」
「それが……、役に立つのだな、その方の業前が――」
「………」
又右衛門は、じっと、伊豆守の視線を受けとめた。
「又右衛門、その方の余命を、残忍酷薄な暗殺者として、送ってはくれまいか?」
「は――?」
「夜半をえらんで、辻斬りを行ってもらいたい」
「……?」
「対手方は、目下府内を横行いたして居る旗本奴どもだ」
伊豆守は、ずばりと云ってのけた。又右衛門に拒絶を許さぬきびしい語気であった。
二
旗本奴と称される幕府直参旗本、またその下の徒士衆が組む徒党の頭数は、天草・島原の乱後、さらに増していた。
白柄組をはじめ、六法組、大小神祇組、吉弥組、鉄砲組、鶺鴒《せきれい》組、笊籠《ざるかご》組など、十数年前から比べると、数十倍にふくれあがっていた。
就中、水野十郎左衛門成之を頭領とする白柄組は、百名を越えていた。いまでは、大小神祇組も吉弥組も、白柄組の下に属していた。
世間では、かれらを『六方《むほう》者』と称《よ》び馴らしているが、これは、特別に長い大小を前後へ(落し差しではなく)四本突き出し、肩を張って、両手を左右へ振る異様な闊歩をやるので、六方の言葉が生れたのであろうが、無論『無法』をひっかけていた。
『六方《ろうぼう》を踏む』という所作が、現代まで、歌舞伎の古典様式としてのこっているほどである。いかに、寛永のこの時代、旗本奴が、江戸市中、肩先で風を切ってのし歩いたか、想像に難くない。
旗本奴は、徒党を組んだ当初は、|きおい《ヽヽヽ》と称ばれていた。|きおい《ヽヽヽ》とは、気概ある者という意味であった。
たしかに――。
水野十郎左衛門の父出雲守成貞が、市中をのし歩いた頃は、直参旗本としての気概のある行動をとっていた。
岡山城主池田忠雄と真っ向から対立した一例でもあきらかのごとく、国持大名・城持大名ならびに幕府役人を目の敵にして、敢えて口実をつくって喧嘩争闘をまき起し、一歩も退かなかった。肥後加藤家の江戸家老と、往還上で睨みあい、たまたま通りかかった大目付秋山正重の仲裁で、いったん、ひきさがったが、肚の虫がおさまらず、加藤忠広の登城行列の行手をさえぎって、日本橋の橋上で、割腹自殺をとげた旗本奴もいた。
旗本奴の放縦無頼の行状は、庶民にまで迷惑をおよぼすことは、ほとんどなかった。その心髄には、義をもって生涯を貫く廉直があった。いわゆる『弱きを扶け強きを挫く』精神があった。
一面識もない人物からでも、態度を低くし言葉を厚くして依頼されると、一命をなげうって、これを引き受けたし、営利の念など、さらさらなかった。
いやしくも、ことが金銭に関する限り、これをいやしいものとし、敵討の助太刀などたのまれても、一文の礼金も受けとらなかったし、遊里に入っても、青楼側の態度が気に食わなければ、流連《いつづけ》の挙句、その代金を支払わなかったし、また逆に、腰掛茶屋でも、その接待ぶりが気に入ると、甘酒一杯に慶長大判を与えて立去っていた。
しかし、そうした|きおい《ヽヽヽ》ぶりも、寛永のはじめまでで、組が増し、徒党の頭数が多くなるにつれて、虎の威をかりる狐の所業が目立つようになり、無辜《むこ》の庶民に対してまで、刀のこじりがさわったとか、まき水が裾にかかったとか、ごく些細なことに因縁をつけて、乱暴狼藉を働くようになって来たのである。
町家の難儀は、しだいにひどくなっていた。
天草・島原の乱の制圧に、参加を拒否されてからは、さらに、旗本奴連の横暴無頼ぶりは、目にあまるものになった。
遊里、芝居小屋、岡場所などでの喧嘩沙汰は、今更いうまでもなく、花柳の巷で豪遊する富有な町人を狙って、これを斬り仆し、金を奪う者まで現れて来ていた。
「いまでは、博奕をなりわいとする町奴どもの方に、意気地とか侠気があるように、みえて居る」
伊豆守は、又右衛門に云った。
「殊に、浅草幡随意院門前の長兵衛なる町奴は、人入れ稼業、人足請負、大川筋の溺死人の始末などを正業といたして居る男だが、その侠気は、府内の人気を集めて、いまは、旗本奴と拮抗して、一歩もゆずらぬ勢いを持って居る。もとより、長兵衛の乾分どももまた、博奕と淫酒放蕩にあけくれて、悪事を働いて居る者もすくなくはあるまい。ただ、町奴どもが、庶民に迷惑をかけて居らぬことだけは、あきらかである。……いずれにせよ、公儀政道の上からは、旗本奴、町奴のたぐいは、地上からは一掃いたさねばならぬ。……まず、その手はじめに、その方に、暗殺者となってもらい、旗本奴どもを、次つぎに斬ってもらいたい」
「はい」
すでに五十の坂に至った又右衛門にとって、この下命は、大層気の重い、嫌悪をともなう仕事であった。
河合又五郎を討った後、すでに世間からは死去した武芸者にされているおのれが、その余生を人斬り役として送らねばならぬとは……。
名のある刀、あるいは新刀を入手した武士が、その斬れ味を試すために、夜半、辻斬りをすることを、べつに、異常の行為とはみなさぬ時代ではあったが、いやしくも、荒木又右衛門は、柳生道場の高足として、武士道の吟味を通して来た兵法者であった。
正体をかくして、旗本奴を暗殺する役目は、初老の身としては、いかにも、気が重かった。
しかし、下命するのは、老中松平信綱であり、師の柳生宗矩も、それを暗黙裡に受諾しているのであった。
又右衛門は、ことわることはできなかった。
伊豆守は、つけ加えた。
「斬るのは、旗本奴ばかりではなく、世上、人気を得て居る浪人者も、容赦なく、えらんであの世へ送って、一向にさしつかえはない」
「は――」
「たとえば、目下、牛込榎町に軍学道場をひらいて居る由比正雪と申す浪人者など、政道の邪魔者と申してよい」
「由比正雪と申す軍学者の名は、出府いたしてから、すぐに、噂されて居ることを耳にいたしましたが、曲者にございますか?」
「油断できぬ曲者だな、まさしくあの男――」
伊豆守は、島原で引見した時の、正雪の面貌を思い泛《うか》べ乍ら、断定した。
三
浅草幡随意院の門前にある長兵衛の家は、毎年大きくなり、三年前と比べて数倍の規模になっていた。
重立った乾分たちの家が、周囲にびっしりとならんでいたし、双方合せると、坪数は、数万石の大名屋敷よりも広かった。
江戸城の完成とともに、大きくなったのである。
諸国の寒村から逃散《ちようさん》して来た貧窮百姓の中から、血気の若者が、ぞくぞくと乾分に加わり、日毎に頭数が増していた。
親分の長兵衛は、まだ二十六歳の若さであり、幡随意院浅草組は、活気にあふれていた。
長兵衛が、夕餉《ゆうげ》を摂り了えた時分、一の乾分の唐犬権兵衛が、部屋に入って来た。
「親分――、お願《ねげ》えがひとつありやすが、きいて頂きてえ」
唐犬権兵衛は、長兵衛より四つ年上の三十歳であった。
「なんでえ?」
「江戸一番の町奴の頭領が、まだ孤身《ひとりみ》でいるのは、どうも、恰好がつきませんぜ。姐《あね》さん、とおれたちが呼ぶひとを、つくって頂きてえ。乾分一同のお願いでさあ」
「おれは、三十までは、嬶《かかあ》は持たねえ心算《つもり》だ」
「それじゃあ、あいてが、年増になってしまいますぜ」
「|あいて《ヽヽヽ》だと? おれには、嬶にするときめたあいてはいねえぜ」
「親分のお内儀《かみ》さんにきめた娘は、あっしら乾分一同がえらんで居りやす」
「勝手にきめられちゃ困るぜ」
「親分も、この娘なら、と納得して下さるでしょうぜ」
「おれが知っているこの町内の娘か?」
「親分のすぐのそばにいますぜ」
「………」
「やっと、わかって頂けやしたな……。千夜さんは、今年でもう十九になって居るんですぜ。どうして、あんなに滅法きれいになったのを、自分のものにしようという気を起しなさらなかったのか、こちらが、うかがいてえくらいのものですぜ」
「千夜さんは、駄目だ。あれは、大切なあずかりもので、人入れ稼業の親方風情の嬶にできる娘御じゃねえ」
「親分――、お前様が、千夜さんに、惚れていなさることは、乾分一同ちゃんと見通して居りますぜ」
「惚れているのと、嬶になってもらうのとは、別だ」
「親分、もし千夜さんが、諾《うん》と云いなさったら、どうしなさる?」
「………」
長兵衛は、腕を組んで、返辞をためらった。
「千夜さんをここに呼んでも、よござんすかい?」
「いや、待て」
「なぜ、止めなさる?」
「浅草組の頭領の女房には、千夜さんはもったいねえ。……千夜さんには、もっとふさわしい男がいる」
「ふさわしい男? 誰ですかい、それは?」
「おれにまかせてもらおう」
長兵衛は、たまたま、権兵衛からこの話をきり出されて、急に、思いついたのであった。
権兵衛を去らせると、長兵衛は、千夜を呼んだ。
「千夜さん、たのみがある」
「はい」
千夜は、おもてへ出れば、人々の視線を集めるほど、美しくなっていた。気品もあった。
「あんたには、明日から、牛込榎町へ移ってもらいてえ」
「なぜですか?」
「あんたは、この浅草組の家に住むには、どうも、そのう……、お嬢様すぎるのだ」
「わたくしは、いつまでも、ここで、お世話になっていたいと存じます」
「千夜さんには、千夜さんが住むにふさわしい家がありますぜ」
「……?」
「それは、由比正雪先生のお屋敷でさあ」
長兵衛は、云ってから、あわてて、
「いや、追い出すわけじゃねえ。……この家のどの部屋も、ごらんの通り、仕事のねえ時は、博奕で血眼になった野郎ばかりが、ごろごろして居る。……千夜さんは、こんな下種《げす》下郎の家にとどまっている娘御じゃねえ。……たのみます。牛込榎町へ、移って頂きてえ」
頭を下げ乍ら、長兵衛は、胸の裡が、微かに疼《うず》くのをおぼえた。
――おれは、この娘にしんそこ惚れている! 惚れているからこそ、追い出すのだ!
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彦左衛門一周忌
一
「はやいものだのう、われら旗本奴の大黒柱が倒れて、もう一年が経つ」
「十六歳の初陣から、無数の戦場を馳せ巡って、総身に槍傷刀傷矢傷をのこし乍《なが》ら、八十歳まで生きのびられたのだから、まず、百万人に一人といってもよい運の強い御仁であったわけだ」
「あと十年は、|かくしゃく《ヽヽヽヽヽ》とされて居ると思っていたがのう……」
駿河台の故大久保彦左衛門邸の座敷には、名のある旗本奴が、六十余人ずらりと居竝んでいた。
彦左衛門の一周忌であった。
三河譜代・直参旗本――この身分と地位と面目を象徴していた老人であった。逝かれてみて、いよいよ、その感が深かった。
徳川家康が、今川家の質子《ちし》からまぬがれて、知能の限りをしぼって、ついに天下人となり、その将軍職を秀忠にゆずり、そして、三代の職に就くや『余は生れ乍らの将軍である』と諸侯にうそぶいた家光の代まで――主家の経緯を、つぶさに見とどけた最後の生証人であった。
そういえば――。
この『駿河台』という地名も、彦左衛門によってつくられたのであった。
天正十八年八月朔日、家康が、江戸城に入った時、城はただの館にも劣るものであったことは、この物語のはじめに、すでに述べてある。
さきの城代遠山景政の時代、なぜか、城構えをせずにうちすてていたので、外廻りは石垣で築いたところなど一箇処もなく、すべて芝土居で、竹藪であった。
城内には、遠山氏の館と彼処此処に侍の根小屋がのこっていたが、板葺きの屋根へ、籠城中に、石火矢による火災ふせぎのために、泥を塗っていたので、雨漏りによって、畳も敷物も板敷きも腐っていた。
館の玄関も、板敷きではなく、ただの土間で、舟板を二段に重ねて敷いてある粗末さであった。
城からは、すぐ海つづきになり、木戸門を出ると、漁師の小屋がならんでいた。遠山家の侍たちは、気がるに城を出て、肴を買いもとめていた模様である。
『慶長見聞記』に、
『天正のお|うち《ヽヽ》入りまでは、高き身分も卑しきも、みな、松の柱、竹の編戸、葎《むぐら》の庵、蓬《よもぎ》が宿、草葺きの小家がちなる軒のつまに、咲きかかりたる夕顔の白き花のみにて、蚊遣火のふすぶるも、哀れに見えておかしかりし』
と、記されてある通りであったろう。
城の西北に、神田があった。
神田というのは、むかし、各国に一段歩ずつ、伊勢神宮の御供米をつくる田が指定されていた――それを指している。
その神田の背後に、かなり高い山がそびえていた。地下《じげ》人は、神田山と称《よ》んでいた。
家康は、城造りよりもまずさきに、町造りをするために、諸侯に命じて、千石につき一人の割合で、人夫を賦課して、神田山を削らせて、城から東南のふかい入江を、埋めたてたのであった(浜町、葭町、八丁堀、銀座、日比谷あたりは、この神田山の土で埋めたてられたのである)。
徳川家の家臣たちは、それぞれ、古寺や神社、あるいは本丸台地下の百戸ほどの根小屋に、仮住いして、町づくりに専念した。
彦左衛門は、外桜田の松林の中の古寺の庫裡に住んでいた。この地域は、大名小路に指定されて、屋敷造りに大わらわであった。
その松林の西方――山の手の台地を、家康は、直参旗本屋敷地帯として開発させていた。いわゆる大番町で、一番町から六番町に分けられ、これは賽の目に象《かたど》り、陰陽四方に卦し、六番までの号数にして、一番町の裏を六番町にし、二番町の隣りに五番町を置き、三番町四番町をならべていた。
彦左衛門は、しかし、かねてより、この大番町に屋敷をかまえるのをきらっていた。
自分だけは、別の場所を物色していた。
彦左衛門には、影の形に添うように、一人の従者がいた。喜兵衛といい、隻眼、跛で、伊賀の忍者であった。彦左衛門は、足軽も中間も女中も使ってはいなかった。
「喜兵衛、江戸の台地はいくつある?」
彦左衛門が、訊ねると、喜兵衛は即座に、
「高輪台、白銀台、目白台、三河台、本郷台、それから、神田山を崩しのこした台と、六つあまりと存じまする」
「もし、智略秀れた武将が、江戸城を攻めるとなると、さしづめ、そのうちの、どの台地を占拠するであろうかな?」
「まず――本郷台あたりか、と存じます。本郷台よりお城まで、さえぎるべき天然の要害はございませぬ」
当時、江戸川は、小石川の水と合して、飯田町附近をすぎて、一ッ橋、神田橋の城濠に入って、下流は、日本橋川になっていた。
湯島吉祥寺前に、巨濠をうがって、これを神田川に合流させ、柳原筋に堤防を築く、という計画があったが、まだ手をつけられていなかった。
「といたせば、本郷台を占拠した敵勢を追撃するのは、神田台しかあるまい。わしは、神田台に、敷地を頂こうわい」
そして、これは、許可され、実現した。
元和二年四月十七日、家康が、駿府城で薨じた。そこで大御所附きの諸士の大半は、駿府城をひきはらって、江戸へ移って来ることになった。
かれらは、ほとんど三千石以上の旗本たちであった。
希望の場所を、ときかれるや、一人のこらず、「大久保彦左衛門殿の住む神田台を――」と望んだ。
彦左衛門は、秀忠から、この旨を告げられるや、にやりとして、
「神田台は、本日より、駿河台と改名つかまつります」
と、こたえたことだった。
二
大久保彦左衛門が、残した逸話は、多い。そして、その逸話は、旗本たちに、快哉を叫ばせていた。
ある時、将軍秀忠から、彦左衛門は、鶴の吸物を賜った。
秀忠は、
「|じじ《ヽヽ》は、鶴をくらったのは、久しぶりではないのか?」
と、問うた。
彦左衛門は、にやりとすると、
「なんの、それがし方では、鶴などは、常時くらって居りまする。本日、頂戴いたした鶴は、いささか味が、まずいように思われましたゆえ、おん礼のため、鶴の餌を、献上つかまつりまする」
と、こたえた。
その翌日、秀忠の前に、うやうやしくさし出されたのは、いっぴきの泥鰌《どじよう》が泳いでいる桶であった。
この皮肉には、流石の秀忠も、むっとなった。鶴は、大層用心ぶかい鳥で、これを捕獲するのは、容易ではなかったのである。
秀忠は、小姓の一人に、
「|じじ《ヽヽ》の屋敷へ行き、様子を見て参れ」
と、命じた。
小姓が、ひそかに、邸内へ忍び込んでみると、庭に、二羽の鶴が、悠々と歩きまわっていた。忍者の喜兵衛が、昨日のうちに捕獲して、飛べないように、羽根を切っておいたのであった。
彦左衛門は、家康や秀忠の前で、伽《とぎ》をしている場合でも、話が合戦のことに及ぶと、主君が機嫌のよい時は、わざと味方の敗《ま》けいくさの話を持ち出したし、機嫌のわるい時は、勝ちいくさについて、語った、という。
主君に対しても、そういう態度をとった彦左衛門が、幕政を左右する権臣に対して、忌憚のない皮肉を、真っ向からあびせるのに、なんの躊躇もしなかったのは、いうまでもない。
そして――。
元和|偃武《えんぶ》が過ぎて、寛永に入り、天下が、徳川幕府の体制下に整うと、功名槍ひとすじに生きた彦左衛門のような戦場武者は、いよいよ余計者となった。
見るもの、聞くものが、みな不平の種になった。老齢を加えるにつれて、その頑固さも極端になった。
大久保彦左衛門の不幸は、長生きしたことであった。
彦左衛門は、自分とともに長生きしすぎた朋友の今村九兵衛に、よく、愚痴をもらすようになった。
「わしらは、この世では、全く無用者になったようじゃ。御世泰平になると、武勲の士はしだいに遠ざけられ、公儀に丈《たけ》た文飾の徒が優遇され、登用される。……槍は袋にしまわれ、儀礼の書籍がものを云う。……思えば、武辺の作法というやつは、われら武骨の、生命知らずの者たちにとって、これほど莫迦げたものはない。たとえば、切腹じゃ。切腹は、西へ向って正座するというさだめになって居るそうな。ばかばかしい作法ではないか。わしが見とどけた武田の部将|孕石《はらみいし》主水《もんど》の最期など、見事なものであったわ」
天正九年三月、武田氏の遠江国高天神城が、家康の包囲を受けて、陥落した。
籠城の孕石主水は、包囲陣を突破して出たが、ついに捕虜となった。
家康は、幼い頃、質子として今川氏のもとにあった頃、主水から侮辱されたおぼえがあったので、切腹を命じた。
彦左衛門が、これを検視した。
主水は、切腹の命令を受けると、悠然として、その座に就いた。
彦左衛門は、主水が、南へ向って坐ったのを視て、
「孕石殿、御辺ほどの武者が、最期の作法を知らぬとは、いぶかしい。なぜ、西へ向って、正座されぬ?」
と、訊ねた。
主水は、笑って、
「御辺こそ、経文をひらいたことはござらぬか。経文の中に、どこに、極楽は西方にある、と記されてある? 仏者十方仏土中|旡二《むに》亦無三除仏方便説、と説いてあるではござらぬか。西を向こうが、南を向こうが、それがしの勝手でござる」
そうこたえると、目前に咲いた桃の花を愛で乍ら、脇差を腹に突き立てたことだった。
武士の礼儀作法は、元和、寛永と下るにつれて、しだいに、やかましく、きびしいものになり、大名・旗本・陪臣をしばりつけていた。
それが、彦左衛門には、気に食わなかった。
その不平不満を、彦左衛門は、『三河物語』という一書に残して、逝ったのであった。
三
『三河物語』に、次のような、彦左衛門がつねづねよく使った慈悲についての逸話が、述べられている。
家康の父広忠の代のことであった。
恰度、田植の頃、近藤なにがしなる譜代の一士が、貧しさゆえに、自分も田植に従事していた。
これを、広忠が、鷹狩の道すがら見とがめて、見覚えのある顔だが、誰であったか思い出さぬゆえ、連れて参れ、と近臣に命じた。
近臣は、近藤の朋輩であったので、泥まみれの近藤をつれて来るのを、はばかったが、主命ゆえ、しかたなく、畔《あぜ》に入って、近藤に告げた。
武士たる身が、ひそかに百姓の仕事をしているところを主君に見られたのは、この上もない恥辱であった。
近藤は、成敗を覚悟し、近臣たちもまた、それをまぬがれがたい、と気の毒に思っていた。
ところが、広忠は、双眸に泪をうかべて、
「汝が、そのようなことをして、妻子をやしない、一朝事ある際は、先駆けして一命をすててくれるのは、思えば、この広忠が小身ゆえである。ふびんに思うが、この身が小身では、むくいてやることができず、申しわけない。斯様なまねまでして、奉公してくれることは、かえすがえすもうれしゅう思う。どうか、その方は、譜代の身ゆえ、この身が貧しい小身でも、見すてずに、奉公いたしてくれよ」
と、云った。
これこそが、主君というもののまことの慈悲、というものである。彦左衛門は、そう述べている。
徳川家が今日の隆昌は、譜代の家士の臥薪嘗胆《がしんしようたん》の成果である。つまり、三河者は、明け暮れ弓矢の道に志したが為に、公儀の道――即ち、文飾にはおろそかである。しかし、一旦緩急に処して、文飾の徒が、何の役に立つものぞ。
しかるに、武骨の士は、むくいられることすくなく、口に甘き文飾浮華の徒のみが栄える時世となってしまった。
長生きをするものではない。
満腔の不満を、『三河物語』の中で、ぶちまけておいて、彦左衛門は、逝ったのである。
この『三河物語』が、いまは、旗本奴たちの間に、読みまわされて、
「この通りだ! われら三河譜代・直参旗本は、公儀から、いまや邪魔者扱いにされて居る。われらは、断乎として、老人の意嚮を継いで、幕閣に反抗すべきである」
と、意見が一致しているのであった。
大久保彦左衛門は、おのが一身をなげうって働いた挙句、むくいられることのすくなさに、満腔の不満を抱いて、『三河物語』を記したのである。
しかし――。
いまの旗本奴連は、三河譜代・直参旗本という栄誉と身分地位は、父祖の働きによって得られて、これを受け継いだにすぎなかった。
かれらが、五千石とか三千石とかの知行を得ていることに、不平不満を抱くのは、自ら深く思慮すれば、おこがましいといえた。
ただ、遊んでいれば、一生何もせずにくらせるのであった。
大久保彦左衛門の立場とは、全く異っているのであった。
にもかかわらず、旗本奴連は、外様大名を憎み、閣老の政策を嫌悪していた。
江戸城完成、日光東照宮修築、その他、河川工事などの課役で、どれだけ外様・譜代大名が苦しんでいるか――そんなことには、目もくれぬ暗愚さが、かれらに、いたずらに、不平不満を抱かせていた。
「どうだ、大久保翁の一周忌を期して、われら旗本が、どれだけ、三河武士の面目をそなえて居るか、ひとつ、外様どもに対して、真正面から、喧嘩をふっかけてくれようか」
一人が、云った。
「よかろう。……たとえば、加賀前田百万石と、このおれの三千石を天秤にかけて、あの本郷の広大な屋敷を、とりつぶしてくれようか」
「面白い! おれは、仙台の伊達をむこうにまわしてくれるぞ」
「おれは、池田一族にぶっつかってくれる」
「毛利、鍋島、島津、上杉、南部、津軽……かぞえてみれば、われわれの生命と家をひきかえに、ぶっつぶしてくれる外様は、山といるぞ」
「やるべし!……場合によっては、外様をかばう老中――松平伊豆守信綱をも、敵にまわして、闘ってくれようではないか」
はたして、そんなことが可能かどうか――一歩退って考えれば、明白なことであったが、一座の空気は、まるで、天下をひっくりかえすように殺気だち、旗本奴たちは、その空気に酔った。
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刺 客
一
子刻《ねのこく》(午前零時)過ぎて、旗本奴連は、駿河台の大久保邸から、ひきあげた。
尤も、酔いつぶれて、そのまま、睡り込んでしまった者も七八人いたが……。
この彦左衛門一周忌の賄《まかない》方は、一心太助が、日本橋の魚河岸の威勢のいい連中の協力を得て、ひき受けていた。
太助自身も、台所で、あまり飲めぬ酒で酔い伏していて、座敷の宴が終って、どやどやと玄関へ出て行く多勢の跫音《あしおと》で、はね起きた。
夜明けには魚河岸へ行かなければならぬので、太助も、旗本奴連とともに、屋敷を辞去することにした。
太助は、急いで玄関へ走り出て、式台下で、
「お殿様方には、わざわざご足労をおかけいたしまして、まことに|忝 《かたじけの》う存じました。さぞや、亡きあるじもよろこんで居ることと存じまする」
と、礼をのべた。
「太助、肴は滅法うまかったぞ。返礼に、これから、吉原へ連れて行ってくれよう。ついて参れ」
そう云ったのは、大小神祇組の頭領柴山弥惣左衛門であった。
素肌に紫縮緬の綿入れを一枚まとい、白い帯を三重《みえ》にまわし、白い袖口を高く括《くく》りあげ、丈は三里のすこし下ほどの短さで、その裾に鉛を|くけ《ヽヽ》込み、闊歩する毎に褄《つま》がはねかえって、|がんぎ《ヽヽヽ》染の紅裏《べにうら》がちらつく伊達風俗であった。
そのとなりに肩をならべている吉弥組の副頭領小笠原弥市右衛門は、頭髪を|ぼうぼう《ヽヽヽヽ》と禿《かむろ》のようにのばし、浅黄木綿に葡萄唐草を散らした小袖に、革袴をはいていた。
この二人が代表するように、旗本奴連は、大半が、世人の目をそばだたせる異形の風体をしていた。
「てまえは、明朝が早うございますので……」
太助は、一応ことわった。
「太助、お前はまだ、独身《ひとりみ》だったろう。亡主の一周忌ぐらい、女郎を抱け」
一周忌だから、精進して、魚類など摂らず、女色もつつしむ、というのが世間の常識であったが、旗本奴の行状は、全くその逆であった。
「どうぞ、吉原へは、お殿様がたで、お行き下さいますよう――」
「黙れ! 太助、大久保彦左衛門忠教殿はな、男子としておかしくはなかったのだぞ。ただ、徳川家のおんために奉公の限りを尽すあまり、妻帯するいとまがなかったのだ。お気の毒と申すほかはない。そこでだ、お前が、せめて、この一周忌に、亡主に代って、女の柔肌を愉しみ、その無念の精霊をおなぐさめしろ。よいか、ついて参れ」
「はい」
太助も、有無を云わせぬ柴山弥惣左衛門の命令に、さからうわけにいかなかった。
吉原の廓へ行く面々には、駕籠がそろえられた。
十三四人であった。
太助は、しんがりをついて行くことにした。実は、太助は、一度も女郎買いをしたことがなく、まだ童貞であった。べつに、主人を見ならったわけではないが、なんとなく、女子を知らぬままに、今日に至っていたのである。
――|おやじ《ヽヽヽ》様の一周忌に、そうするのも、わるくはないな。
ふと、その気になった。
一列になった十余挺の駕籠の行列は、外濠の筋違橋の方角へ向って、坂を降りて行った。
町家の区域を過ぎると、広い馬場になっていた(後世のお玉ヶ池附近であった)。
まだ桜花の季節は、二十日あまりさきの、肌の冷え込む深夜であった。下弦の月が、ちょうど真上にあり、往還は、その光で、翳《かげり》のないひろびろとした直線を浮きあげていた。
そのために、不意に、馬場の土手から、ひらりと跳んで往還上へ立った人影が、くっきりとあざやかであった。
武士であった。頭巾をかぶり、筒袖に、|たっつけ《ヽヽヽヽ》をはいていた。
先頭の駕籠が、数歩の距離にせばまると、
「旗本奴衆と、お見受けつかまつる」
覆面の武士は、呼びかけた。
先頭の駕籠に乗っていたのは、吉弥組の副頭領小笠原弥市右衛門であった。
駕籠から、顔をのぞけて、月闇をすかし視乍《みなが》ら、
「なんだ、|うぬれ《ヽヽヽ》は?」
誰何《すいか》した。
「仔細あって姓名を名乗る儀は、ご容赦。……旗本奴衆のお生命《いのち》を頂戴いたす者と、お思い下され」
「なんだと!」
旗本奴連は、つぎつぎに、駕籠から、とび出すや、抜刀した。
駕籠舁きたちは、蜘蛛の子を散らすように、逃げ散った。
見物したのは、ただ一人、一心太助だけであった。
二
ただ一人の見物人にとって、その光景は、悪夢をみているに等しかった。
十余人が、一人残らず、斬られたのであった。文字通り、またたく間であった。
刺客は、人間ばなれしたすごい業前を具備していた。
刃と刃が噛み合う音は、ただの一度も起らなかった。懸声をほとばしらせ、呶号を噴かせたのは、旗本奴ばかりで、刺客は、終始無言裡に、一太刀ずつで、向って来る対手を斃した。
悪夢でもみているように、その場へ立ちつくした太助が、ひとつだけ記憶にとどめたのは、刺客は自身からは決して撃ち掛けず、旗本奴に斬りかからせておいて、これを、あるいは真っ向から唐竹割りに、あるいは袈裟がけに、あるいは胴薙ぎにしたことであった。
旗本奴連が、一人残らず一太刀ずつで仕止められたのは、かれらが兵法修業が未熟であった証拠にはならなかった。
小笠原弥市右衛門は、一刀流を学んで、小野道場の四天王の筆頭として世間にきこえていたし、柴山弥惣左衛門は、町奴六人を単身で対手にしてことごとく斬り殺していた。幾度も辻斬りを経験している者もいたし、膂力《りよりよく》十人を誇る者もいたのである。
一人として、喧嘩争闘に弱い者はいなかった。おそらく、その三分の二が、おのが差料に血を吸わせた経験者であったろう。
その面々が、一合も撃ち合ういとまさえも与えられずに、斬られたのであった。
夜叉か鬼神としか、考えられなかった。
太助は、すぐ数歩前で、最後の一人が、袈裟がけに斬られるのを眺めさせられ乍ら、不動縛りに遭ったように、その場を動けず、恐怖のまなこを瞠《みひら》いたなりでいた。
みな殺しにしてから、刺客が、ふうっと、大きく吐息したのを、太助は、おぼえている。夜叉でも鬼神でもなく、やはり、人間であった。
その吐息によって、人間であることを示し、さらに、衂《ちぬ》れた白刃を、鞘に納めると、自分が斬った十数箇の屍《むくろ》に対して、合掌したことだった。
太助は、その背中を視乍ら、指一本動かすことも叶わなかった。
合掌をすませた刺客は、やおら、太助に向きなおると、
「お前は、これら旗本奴衆の供か?」
と、訊ねた。
「は、はい」
「旗本奴の各組のかたがたに、伝えてもらいたい。旗本奴衆が、夜中横行されるならば、あと幾人、このような最期をとげることに相成るやも知れ申さぬ、とな」
「………」
「なきがら取り片づけの儀、お前にたのむ」
覆面の刺客は、ゆっくりと大股に、闇の中へ姿を消した。
三
百合は、五郎太の下で、微かな官能の喘ぎをもらしていた。
ひとつ屋根の下でくらして二年間、いつの間にか百合は、五郎太を愛するようになっていたが、五郎太は、部屋を別にして、どうしても、同じ褥《しとね》の中で契ってくれようとはしなかったのである。
下総佐倉の大庄屋木内宗吾を、五郎太が家へともなったのをきっかけに、二人は、ついに、夫婦になったのである。
宗吾が厚く礼を述べて立去ったその日の夜、五郎太と百合は、むすばれた。
それからは、堰を切ったように、夜毎、褥の中で、ふたつのからだは、ひとつになって、情念の渦の中で溺れつづけていた。
百合は、男を体内に容れるという喜悦で狂った。その年齢に達していたのである。
そして、五郎太の体液が、奥ふかくほとばしり入る瞬間、百合は、思わず叫びをあげて、まといつかせた四肢に力をこめた。
今夜も、百合は、その瞬間が来るのを待っていた。
……突如。
壁ひとつへだてた隣家から、もの凄い叫喚とともに、なにか物がたたきつけられ、毀《こわ》れる音がひびいて来て、五郎太は、百合にその瞬間を与えるのを中断して、さっと、身を起した。
隣家に住む魚屋の太助は、大久保彦左衛門邸で長年若党を勤めただけあって、礼儀作法を心得て居り、家の中にいる時は、いつも、ひっそりとしていた。酒飲みでもなく、仲間を呼んで騒いだりするような、近所迷惑になる行為は、一度もしていなかった。
「どうしたというのであろう?」
五郎太は、眉宇をひそめた。
まだ夜明け前――寅刻(午前四時)近い時刻であった。
がつん、がつん、と壁になにかがぶつけられる音が、つづいた。
――額を打ちつけて居る!
五郎太は、さとった。
「畜生! 畜生っ!……腰抜け! 太助の腰抜け野郎!……なにが、一心だ! 臆病者!……畜生っ!」
おのれを罵る叫びとともに、太助は、壁へ額をぶちつけるのを、いつまでも止めようとせぬ。
「ちょっと、見て参る」
五郎太は、百合に云った時には、もう衣類をつけていた。
隣家の戸口は、開けられたままになっていた。
「太助どの、どうされた?」
五郎太に、声をかけられた太助は、
「うっちゃっておいて下せえ。……おれは、腰抜けの卑怯者なんだ!」
と、なおも、額を壁へぶちあてつづけた。
「止されい!」
五郎太は、無理矢理に、壁から太助をひきはなして、灯をともした。
太助の額は、血だらけになっていた。
「さしつかえなければ、事情をうかがいたい。この拙者で、なにか役に立つならば、お力添えいたすが……」
日頃、|しゅん《ヽヽヽ》の魚をとどけてくれて、金を受けとろうとせぬ親切に、むくいることができれば、と五郎太は、思ったのである。
がっくりとうなだれた太助は、かぶりを振って、
「終ってしまったことなんで……。もう、あっしは、大久保彦左衛門の若党だった、なんて面《つら》はできませんや」
と、云ってから、ふと思いつき、
「そうだ、旦那に、おねがいしたいことがあります」
「なんなりと」
「こいつを――」
太助は、右腕の袖をまくって、一心という二文字の刺青《いれずみ》を示し、
「旦那に、焼火箸で、焼き消して頂きとうございます」
四
同じ時刻――。
柳生但馬守宗矩の小石川隠居所では、その居間で、宗矩の前に、荒木又右衛門が端座していた。
「大久保翁の一周忌の帰りの面々を、待ち伏せた、と申すか?」
「はい」
「幾人斬った?」
「十三人でございました」
又右衛門はこたえた。
宗矩は、その身に微傷だに負うていないのを見やって、
――流石に、わしの名を呉れただけの男よ。
と、感嘆し乍ら、
「明日――いや、もう今日か――、この暗殺は、府内中の取沙汰に相成ろう」
と、云った。
「先生!」
又右衛門は、暗い眼眸《まなざし》を、宗矩へかえして、
「斯様な暴挙は、かえって、逆の効果をまねくことに相成りますまいか? 旗本奴衆をして、さらに狂暴に、いきりたたせる――いわば、火に油をそそぐようなものかと存じますが……?」
「左様、旗本奴は、躍起になって、夜毎、暗殺者をさがしまわるであろうな」
「それがしは、すでに、この世に亡き者となり、墓まで設けられて居る身でありますれば、いつ死すとも、いささかも惜しい生命ではございませぬが、孤身で剣をふるって、旗本奴衆や名ある浪人者を、のこらず、斬ることは、とうていおぼつかぬことは、申し上げるまでもなく……、ただ、旗本奴衆を、さらに、いたずらに、狂気にかりたてるだけといたせば、まことに無駄な殺戮《さつりく》と存じます。それがし一人をさがしまわって、夜半の市中を馳せまわるのであれば、一向にかまいませぬが、用事にて他出したかたがたを、見さかいなく襲いかかる狂犬の所業も、当然、想像できまする。それがしの暗殺が、各大名衆の家臣や、あるいは善良な庶民を犠牲にするおそれなしとは申せませぬ」
「お許《こと》の申す通り、旗本奴は、狂犬と相成ろう。そのために、犠牲となる者も一人や二人ではあるまい」
「ならば……」
「待て、又右衛門。先祖に徳川家尽忠の士を持つ旗本奴を、上様お膝元から払い去るには、非常の手段をとらねばならぬ。ご老中としては、現状のまま、旗本奴の無法ぶりをすてておかれるわけには参らぬのだ。時世の推移とともに、股肱をもって任ずる譜代直参の粛清も、また、やむを得ぬ仕儀だ。……政道とは、斯様に、残酷なものと知るがよい」
「………」
又右衛門は、膝へ視線を落した。
「相すまぬ」
宗矩は、おのが高弟に対して、頭を下げた。
「いえ、それがしの余命が、ご政道にお役に立つのでありますれば、夜毎、この剣を衂《ちぬ》らせて、地獄へおちることは、すこしもいといませぬが……、ひとつだけ、おうかがいつかまつります」
「なんだな?」
「この暗殺の儀、伊豆守様お一人の決断によるものでございましょうか? それとも、閣老がたの評定の上にてきめられたことでありましょうか?」
「伊豆守殿お一人が思案されたことだ」
こたえる宗矩のおもてに、はじめて、微かな苦渋の色が滲んでいた。
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航 洋 船
一
紀州・和歌山城の白書院では――。
当主頼宣は、一人の珍客を引見していた。
客は、まだ二十歳に満たぬ若者であった。
眉目秀れて、双眸の光、ひきしまった口もとのあたり、尋常の面だましいではなかった。皮膚は焼けて赤銅色をしていた。武術で鍛えあげている躯幹であることが、一瞥で明白であったが、端座した姿に、どことなく気品があった。
すでに四十歳になり、堂々たる貫禄をそなえた頼宣と対座して、いささかも|ひけ《ヽヽ》をとらぬ立派な容子であった。
「……そうか、そなたが、福松か。はやいものだのう。あれから、もう十年が経ったか。いまは、なんと名乗って居る?」
「|※[#「奠+おおざと」]森《ていしん》と申します」
若者は、こたえた。
十年前、雲水に化けた明国の海賊・※[#「奠+おおざと」]芝龍が、由比弥五郎とともに、江戸の紀州屋敷を訪れた時、一人の少年――わが子をともなっていたが、それが、いまは、このように立派な若者に成育していたのである。
「そなたは、たしか、父に、日本へとどめ置かれたはずであったが……」
「あれから、二年後、母国へ還り都督に進んだ父に、呼ばれて、海を渡り、父が治める福建泉州の安平鎮に参り、そこの居城に育ちました」
※[#「奠+おおざと」]森――後年、御営中軍都督※[#「奠+おおざと」]成功となったこの若者は、都督である父の居城に入った時は、母国の言葉も慣習も知らぬ九州平戸生れの日本の少年でしかなかった。
文武の道に志すことの熱心であった少年は、十五歳になった時には、すでにあっぱれ一人前の俊髦《しゆんぼう》となり、南安県学員にえらばれて、そこで首席を贏《か》ち得、当時、明朝随一の学者餞謙益の門に入って、森にちなむ大木という字《あざな》をつけられたものであった。
このままでいけば、※[#「奠+おおざと」]森は、父のあとを継いで都督となり、やがては、それ以上の高官の地位に就くことのできる才能を所有していたのである。
頼宣には、その成育ぶりをきかないでも、この若者が、只者ではないことが、一瞥して判った。
「そなたが、わしをたよって、日本へ還って来た理由をきこうか」
「明朝は、このままにては、ここ数年も経たぬうちに、滅亡いたします」
※[#「奠+おおざと」]森は、即座にこたえた。
第一代太祖洪武帝(朱元璋)からかぞえて、十七代二百八十余年を経って、明朝は、まさに滅亡の危機にひんしていたのである。
「目下、庶民の間には、明朝は、重病人にたとえられて居ります。闖《ちん》賊・李自成が率いて、万里の長城を乗り越えて、北京を襲おうとしている辺警(満州軍)は、腰背の病。宮廷内にある張・李は腹心の病。天災は傷寒・失熱の病。一身にこれだけの病を背負えば、とうてい治癒はおぼつかぬ、と。……明朝に仕える者が、申すのは、いささか、はばかりあること乍《なが》ら、太祖が犯した罪が、いまにして、天罰を加えられているように存じられます」
※[#「奠+おおざと」]森は、忌憚《きたん》なく述べた。
明の太祖、朱元璋は、貧賤の家から身を起し、元を破って、金陵(南京)に於て即位した傑物であったが、明朝百年の計を思慮して、股肱・功臣をことごとく殺戮していた。
『二十二史|箚記《さつき》』に、次のように評されている。
『明祖、諸功臣の力を藉《か》りて以て天下を取り、天下すでに定まるに及んで、即ち天下を取った功臣をことごとく殺せり。その残忍、実に、千古未だ有らざる処、蓋《けだ》し、英雄、猜疑して、殺を好む。本それ天性か』
しかし――。
太祖・朱元璋は、一面では、内治には心を用い、後宮に倹素を旨とし、制度を整え、妃嬪《きひん》の数を減じ、宦官《かんがん》の放縦《ほうしよう》をいましめ、前代の淫靡《いんび》の風を一掃した名君でもあった。その皇后馬氏もまた、賢明仁慈の婦人であった。
明朝は、中国四千年の歴史からみれば、決して、悪い国家ではなかった。
たとえば――。
いま、頼宣と※[#「奠+おおざと」]成功が対座している時から、三年の後に、明朝は滅亡したが、その時の、最後の皇帝毅宗(崇禎帝)の最期ぶりは、あっぱれであった。
満州軍を率いる李自成に、帝都を陥落せしめられるや、毅宗は、まず、皇后をさとして、自殺させた。
皇后は、泪をぬぐい、
「陛下に事《つか》えること十八年、ついに今日あることは想いも及びませず、無念に存じます」
と、云いおいて、自ら縊《くび》って、相果てた。
皇帝は、次に、剣を抜いて、わが子長平公主に対し、
「汝は、何故にわが家に生れて、今日の悲しみに遭うか。あわれよ!」
と、かぶり振って、これを斫《き》り殺した。
つづいて、袁貴妃に、くびをくくらせたが、繩が断れて、よみがえったので、皇帝は、これも、斬り仆《たお》した。さらになお、愛する妃数人を、自らの手で斬っておいて、皇帝は、自らは、帛《きぬ》を頸に巻きつけて、自尽した。
群臣で、これに殉じて死する高官は、范景《はんけい》以下数十人であった。
毅宗が、暗愚の皇帝ではなかった証拠である。
二
「※[#「奠+おおざと」]森、そなた、わしに援助を求めよ、と父から命じられて、ひそかに、この日本に忍び戻って参ったか?」
「いえ、わたくし一存にて、紀州様のご助力を仰ぎたく、海を渡って参りました」
「瀕死の病人を救う医師の役目は、わしには、つとまらぬ。そなたもすでに、きき及んで居ろう。天草・島原の叛乱以後、徳川幕府は、完全に、国を鎖《とざ》した」
「紀州様。日本には、髀肉《ひにく》の嘆をかこっている勇猛の浪人衆が、数十万いる、ときき及びます。その浪人衆を、わが明朝軍におかりいたしたいのでございます」
※[#「奠+おおざと」]森の願いをきくと、頼宣は、先年上洛した際、宿所にたずねて来た呂宋左源太の述べたてた事実を思いうかべた。
同時に――。
いま、江戸で張孔堂道場の名をたかめている由比弥五郎の説いたことも、記憶によみがえらせた。
しばらく、沈黙を置いてから、頼宣は、独語するように、云った。
「……わしが、将軍職に在ればのう」
その折であった。
侍臣の一人が、廊下に両手をつかえて、
「由比民部之輔正雪なる浪人者が、面謁の儀を願い出て居りまする」
と、取次いだ。
「これは、偶然だな。……逢ってくれよう。ここへ、つれて参れ」
頼宣は、許した。
正雪は、洛北詩仙堂を辞去すると、まっすぐに紀州に来たのであった。
頼宣は、入って来て挨拶する正雪に、
「名を挙げたのう」
と、云った。
次いで、頼宣は、※[#「奠+おおざと」]森を指さし、
「この若者が、何者か、判るか、正雪?」
と、訊ねた。
「は――?」
「※[#「奠+おおざと」]芝龍の伜福松――いまは、※[#「奠+おおざと」]森という、明朝きっての俊才に育って居る」
「それは!」
正雪は、※[#「奠+おおざと」]森と顔を見合せた。
「わたくしは、貴方を、よく覚えて居ります」
※[#「奠+おおざと」]森は、云った。
「立派な青年になられた」
正雪は、一種の感動をおぼえて、こたえた。
「正雪、この若者、明朝を救うために、日本の浪人者をかき集めて、大陸へともないたい、と歎願に参った。……その方も、また、浪人者どもの救済について、説きに参ったのであろう」
「御意! これは、またとない好機と存じます」
「島原の乱の前であればな、わしも、その方たちの願いを、あるいは、ききとどけてやれたかも知れぬ。……松平伊豆という老中が、江戸城に在る限り、わしは、展《の》ばすべき驥足《きそく》を縛られて居る」
それをきくと、正雪は、当然その言葉をきかされるであろうと予測していた無表情で、
「おうかがいつかまつります。大納言様には、鯨獲りの船を、幾艘ばかりお持ちでございましょうや?」
「……?」
「きき及びますところでは、紀州家には、鯨獲りのために、曾て、伊達政宗公が、使節をローマヘ派遣するために建造した航洋船陸奥丸と同様の規模の大船を、数船建造あそばした由。まことでございましょうや?」
日本が、本格的な西洋式帆船を造ったのは、慶長十年(一六〇五年)であった。それより五年前、オランダ船リーフデ号の航海長であった英国人ウィリアム・アダムス(日本名三浦按針)が、日本に住みつき、家康の下命によって、その指導によって、伊豆の伊東海岸に於て、八十|屯《トン》積と百二十屯積の二船を、建造した、といわれている。
この造船技術によって、慶長十五年には、百二十屯型の船が造られ、呂宋太守ドン・ロドリゴを頭とする日本人商人たちが、浦賀を出帆し、三箇月を経て、太平洋を横断して、メキシコに渡航している。
伊達政宗もまた、幕府御船方向井将監と相談して、ウィリアム・アダムスによってその技術を学んだ船大工を使い、西洋式帆船陸奥丸を建造して、使節|支倉《はせくら》常長をローマヘ送ったのであった。陸奥丸は、竜骨の長さ十八間、幅五間半、主檣《しゆしよう》の高さ十五|尋《ひろ》(七十五尺)前檣十三尋半(六十八尺)の二檣スクーナーであった、という。
それまで、日本には、そんな巨きな帆を張った航洋船など、存在しなかったのである。
「………」
頼宣は、正雪の問いには、返辞をしなかった。
三
造船技術が、発達したのは、豊臣秀吉のおかげであった。
秀吉は、朝鮮侵攻を企図するにあたり、諸大名に命じて、おびただしい軍船を造らせた。その数は七百余艘に及び、兵の輸送船は数千隻にのぼった、といわれている。
ただ、この軍船は、日本にむかしからある型であったため、名将李舜臣が率いる亀甲型の軍船(船体を銅板または鉄板で覆うた戦艦)のために、惨敗している。
「それがしが、調べましたところ、太閤が建造して、朝鮮より帰還した軍船ならびに輸送船の三分の一は、いまなお、瀬戸内海の各島にて、亀甲型や打櫂《だとう》型(推進に櫓を用いず、打櫂を使って軽快に進む)に改造されて、つながれているとのこと。これらの船をしたがえて、大納言様がお持ちの帆船を旗艦として、海を渡れば、浪人者の五万や十万を日本から脱出させることは、きわめて可能と存じます」
「………」
頼宣は、口をひきむすんだなりであった。
幕府からの附家老安藤帯刀の腹心が、物蔭で、耳をすまして、ぬすみぎきしている気配をおぼえているので、うかつな返辞はできなかった。
「大納言様、島原一揆を契機として、御三家筆頭に在られる貴方様に、浪人者どもの海外雄飛の総大将におなり下さいますよう、お願いつかまつりますのは、とうてい、不可能と存じます。……しかし、もし、この正雪に、軍資金が手に入りましたあかつきには、所持あそばす航洋船を、何卒おゆずり下さいますことを、お許したまわりますよう、願い上げまする。二年さき五年さきになるか、それは、この正雪にも判りませぬが、その節、もし、おゆずり頂けましたならば……」
正雪は、そこで、※[#「奠+おおざと」]森へ視線を向け、
「わが日本の浪人者どもが、いかに勇猛無比であるか、お手前のたのみを承諾して、大陸へ押し渡り、鬼神の働きをしてごらんに入れ申す」
と、云った。
※[#「奠+おおざと」]森は、正雪の視線を受けとめ、
――この人物ならば、信頼できる!
と、思い、大きくうなずいた。
頼宣が、正雪と※[#「奠+おおざと」]森を立去らせて、別室に入ると、そこに坐って待っていたのは、儒者の熊沢蕃山であった。
熊沢蕃山は、附家老安藤帯刀のすすめで、半年ほど前から、和歌山城に逗留して、頼宣に儒学の講義をしていた。
蕃山は、頼宣が座に就くと、
「お叱りを蒙ると存じますが、白書院の武者がくしにて、あの由比民部之輔なる人物を、ひそかに、観察つかまつりました」
と、云った。
「うむ」
「あの面貌、てまえがこれまで逢うたいかなる人物よりも、凶相をそなえて居りまする」
蕃山は、自信をもって告げた。
――根来一心斎も、そう申していたな。
頼宣は、思い出した。
一心斎は、二年前に逝っていた。
――一心斎が生きていれば、正雪を生かして、城からは出さなかったであろう。
「二度と再び、お近づけあそばさぬ方が、よろしいかと存じます」
「わしは、いかなる男でも、来る者はこばまぬ」
頼宣は、云った。
「しかし、あの由比民部之輔なる人物だけは……」
「お許に、そう忠告されると、かえって、近づけたくなるの」
頼宣は、笑った。
頼宣は、儒学がきらいであった。この熊沢蕃山という儒者も、なんとなく虫が好かなかった。
なろうことなら、いいかげんで、講義をうちきって、退去してもらいたかった。
儒学というものが、いかに、人間の自由な言辞行動をしばりつける教えであるか。人間には、それぞれ、生来の個性がある。その個性を、抹殺する、とはいわぬまでも、いちじるしく、減殺しようとする学問であることはまちがいない。
頼宣のような気象の持主にとっては、およそ性分に合わなかった。
蕃山は、講義をはじめたが、頼宣は、きいているふりをし乍ら、舳艫《じくろ》相銜《あいふく》んで、千里の波濤を乗り越えて行く光景を、想像していた。
頼宣は、すでに、西洋諸国に就いての知識を、かなりたくわえていた。
将軍家光の鎖国政策に対しては、つよい反撥をおぼえていた。
――国を鎖して、なんの益がある。諸外国と交易してこそ、国が富むのではないか。吉利支丹宗門を恐れるなど、臆病もはなはだしい。……わしが、将軍家なら、自ら船をかって、ヨーロッパへ渡って、その国ぶりを、つぶさに見聞してやるのだが……。
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堺 湊《みなと》
一
おもおもしい誦経《ずきよう》の声が、かすみ敷いた、風もないおだやかな春空に流れていた。
小石川の無量山寿経寺の墓地からであった。
浄家十八檀林のひとつであるこの寿経寺は、世間では、伝通院という寺号の方が、きこえていた。慶長七年八月に逝去した伝通院殿(家康の生母)の遺言によって、この寺院に霊廟が建立されていたからである。
その墓地には、どういうわけか、三河譜代・直参旗本の墓が、ほとんどを占めていた。
そして――。
今月に入ってから、まだ半月も経たぬというのに、名ある旗本衆の新墓が、すでに三十七基も、竝んでいた。
今日は、涅槃会《ねはんえ》(二月十五日)――釈尊入滅の日であった。
当然、伝通院でも、本堂に、涅槃像がかかげられ、供養が行われるので、早朝から、善男善女の参詣があるはずであった。
ところが――。
参詣人は、総門前で、一人のこらず、入るのを拒否されたのである。
拒否したのは、旗本奴連であった。
「本年の涅槃会の供養は、われら旗本奴各組のみによって、とり行うゆえ、去れ!」
総門を占拠した居丈高な異風体の直参連に、呶鳴りつけられて、参詣人は、怯えあがって、退散した。
そして――。
白柄組の若い頭領・水野十郎左衛門が、住職に、強硬な申し入れをして、三十七基の新墓の前で、供養をさせていたのである。
新仏は、一人のこらず、夜半、往還上で刺客に襲われて、一太刀ずつで斬られた者たちであった。
その暗殺者が、何者であるか――いまだ、見当さえもついてはいなかった。ただ、はっきりと判断できるのは、その暗殺者が、複数ではない、ということだけであった。
たった一人の刺客に、夜毎、旗本奴は、斬られているのであった。
これほどの憤怒、屈辱は、またとなかった。
誦経する住職以下十数人の僧侶の背後に、ずらりと居竝んだ七十数人の旗本奴たちは、いずれも、死者の霊魂がしずまるのを祈る表情などしてはいなかった。
数珠《じゆじゆ》こそ手にしていたが、殺気にも似た険しい気色を双眼にも口辺にも、五体ぜんたいにみなぎらせていた。
供養というより、復讐を誓い合うための集合といえた。
……誦経が、終了した。
住職はじめ僧侶たちは、供養人がたが、線香を供え、閼伽《あか》水をそそぎ、合掌祈念するために、脇へしりぞいた。
旗本奴一統は、そんなきまりきった作法はとらなかった。
まず――。
水野十郎左衛門が、
「えいっ!」
懸声を発しざま、数珠を、空中へほうり上げ、落下して来るのを、抜きつけに、斬った。
一統が、一斉に、それにならった。
たちまち、墓地には、ばらばらにされた無数の珠が、ちらばった。
「なんという罰あたりな振舞いをなさる!」
住職は、声音をふるわせて、咎めた。
十郎左衛門は、昂然と胸を張り、
「横死をとげたわれらが朋輩の、中有《ちゆうう》にさまよう怨霊をして、成仏せしめるには、面々を殺した刺客の首級を供える手段《てだて》以外にはござらぬ。されば、いま、われらが数珠を鳴らして祈ったところで、諸精霊は、かえって、腹を立て、なにを愚図愚図して居る、早く仇を討ってくれ、と――その声なき声が、わが耳にきこえて居り申す。……この供養、面々を斬った曲者を、屹度さがし出して、無念をはらしてくれる誓いのためでござる」
「天に唾すれば、おのが面《おもて》へかかるが道理、御辺らの職業がまねいたむくいではござらぬのかな?」
古稀を越えた住職は、云った。
旗本奴の一人が、かっとなって、
「くそ坊主っ! なにをほざくかっ!」
と、呶鳴った。
十郎左衛門は、殺気立つ一同を押えて、
「涅槃会の供養を独占いたしたご無礼の段、ご容赦――」
と、頭を下げておいて、踵《きびす》をまわした。
旗本奴一統の頭領たる貫禄が、その若い逞しい姿には、もうすでにそなわっていた。
二
「おい、半兵衛、ここ一月あまりで、旗本奴を三十余人も闇討ちにしたのは、いったい、何者か、見当がつくか?」
張孔堂道場を、ふらりと訪れた丸橋忠弥が、金井半兵衛に、訊ねた。
無雙の槍術を自負する忠弥にとって、その刺客の正体を知りたいのは、当然であった。
「見当をつけろ、というのなら……」
半兵衛は、腕組みし乍《なが》ら、云った。
「豊臣家の落人が、どこかの山中にひそんで、その伜に、剣の天稟《てんぴん》があるのを知って、これに、異常の修業をさせて、江戸へ送り込んで来た、というところかな」
「そういう男ならば、なにも旗本奴などを斬らずとも、老中松平伊豆守あたりの生命を狙う大志を抱くのではないか?」
「まず、手はじめに、旗本奴どもを、次つぎに斬って、府内の治安状況をひっかきまわす、という手かも知れん」
「おれには、そうは思えん。名は知られて居らぬが、稀代の兵法者が、おのれの業前を試して居るような気がするぞ」
「まあ、どちらでもよかろう。旗本奴のような手輩は、どんどん数が減った方がいい。……考えてもみい、忠弥。かりに、弥五郎が、大志を成そうとする場合、江戸城守護の旗本のうち、最も生命知らずは、旗本奴どもだからな。こいつらが、片っぱしから斬られるうちに、しだいに腰抜けになることは、大いにのぞましいことではないか」
「おれは、|そいつ《ヽヽヽ》と一騎討ちしてみたいのだ。……名の通った強者《つわもの》どもが、一太刀ずつで斬られているのをきくと、おれの腕が、むずむずして来る。ひとつ、旗本奴の異風体をして、夜半をのし歩いてみてやろうか、と思って居る」
「やめておけ。無駄なことだ」
「いや、おれは、どうしても、一騎討ちしてみたい。お主には、おれの気持は、判らん。……おれの道場へ入門して来る若僧どもの、へっぴり腰を、毎日、眺めさせられて居ると、いい加減うんざりする」
忠弥が門弟につける稽古は、全く容赦のない凄じさであったので、それに堪えて、業《わざ》を鍛えようとする者は、甚だすくなかったのである。
「白柄組の水野十郎左衛門は、お主を、父の敵と知って、いつか、仇を討とうと肚をきめて居るではないか。お主が、|そいつ《ヽヽヽ》を殺《や》れば、水野に味方した結果になるぞ」
「そんなことは、どうでもいい、おれは、あの若者が、気に入って居る。あの若者になら、討たれてやっても、悔いはない。尤も、おれを討てるほど、腕をみがくことはおぼつかんだろうが……」
忠弥が、そう云った折、酒肴の膳部を持って、一人の娘が入って来た。
「ほう、これは!」
忠弥は、娘のういういしい美しさに見惚れた。
「いつの間に、こんな天女のような娘を、道場へ入れたのだ?」
「幡随意院の長兵衛が、あずかってくれ、と連れて来た」
「弥五郎の妻女に、というわけか?」
「弥五郎は、無妻を通す、ときめて居るらしい。わしが、弥五郎に無断で、長兵衛からあずかった」
忠弥は、娘に名をきき、
「武家の出だな?」
「はい」
「美しすぎるのう。弥五郎にふさわしいが……、弥五郎が無妻を通すときめて居るのなら――」
「おい、忠弥。妙な野心を起すな!」
「そういう半兵衛、お主は、どうなのだ? こういう美しい娘と、毎日、顔を合せて居って、色情が起らぬ、といえば、嘘になるぞ」
「止せ!」
半兵衛は、千夜をさがらせると、忠弥に、
「あの娘は、夜兵衛が江戸へともなって来た。それから、青山の大久保播磨の屋敷に奉公させて居る。大久保播磨は、九条明子付きの侍女於菊を側妾《そばめ》にして居った。……夜兵衛が、千夜を、大久保家に奉公させたのは、ちゃんとこんたんがあったことは、明白だ。……すなわち、あの娘は、なにか、われわれに秘密をかくして居る」
「おい!」
忠弥は、双眸を光らせて、首を突き出した。
「駿府にかくされて居る太閤遺金の在処《ありか》を、夜兵衛は、さぐりあてておいて、弥五郎には打明けずに、逝ったのではないのか? あの娘にだけ、そっと教えておいて、死んだ。……お主は、そう看て居るのだろう? どうだ、半兵衛?」
「あわてるな、忠弥。……あの娘が、ここへやって来てから、半月になるが、わしは、ずっと、注意ぶかく観察して居る。……まだ、あの娘の挙動には、わしにピンと来るものはない。……あせることはない。そのうち、弥五郎も、紀州頼宣に逢って、帰って来る。あの娘に、白状させるのは、それからのことにしよう」
「幡随意院の長兵衛が、そういう秘密をかくし持った娘を、送り込んでくれたとは、有難い。……弥五郎には、是非とも、あの娘を、抱かせようではないか。女というやつは、はじめて肌身を許した男には、なにもかも白状するものぞ」
三
和歌山城を去った正雪は、※[#「奠+おおざと」]森をともなって、堺の湊へ、身を移していた。
曾て、室町幕府、織田信長、豊臣秀吉らの海外交易によって、殷賑《いんしん》をきわめたこの湊も、いまは、海外交易は長崎港にだけ限られてしまい、むかしのおもかげはなかった。
しかも、大坂夏の陣に、全市を焼かれて、一面焦土と化して以来、勘合貿易によってふくれあがった堺の大商人たちの店は、ただの三割しか再建されてはいなかった。
ただ――。
そのむかし、大きな海外交易をやってのけた堺町人の幾人かは、まだ、生き残っていた。
目下、その町人たちが、行っているあきないは、『糸|割符《わりふ》貿易』であった。
長崎港へ輸入する、オランダ、ポルトガル、明国などの品物を、長崎、京都、堺の三市の商人で分割購入する制度であった。
生糸が主な輸入品であったために、『糸割符』という名称がつけられていたが、いまは、あらゆる品が、輸入されていた。
足利幕府の時代は、生糸輸入は、堺が独占したものであった。寛永のこの頃は、さらに江戸商人が加わって、四市の割符となり、さらに、長崎、京都、江戸の商人たちが金力にものをいわせて、完全に、堺町人を圧倒していた。
数十年前には、『糸割符』の六割の権利をにぎっていた淡路屋が、さびれたとはいえ、いまだに健在であった。
当主重兵衛は、七代目で、三十になったばかりの、覇気満々の町人ということであった。
正雪は、詩仙堂を辞去する際、師の石川丈山から、
「和歌山へ参ったら、戻りに堺へ立寄り、淡路屋重兵衛を訪ねるがよかろう」
と、云われていたのである。
淡路屋は、大町浜筋という、広い往還に面した、最も良い場所を占めていた。
大坂夏の陣で、店は烏有《うゆう》に帰し、再建していた。公儀に遠慮してか、店の構えは、大坂の有名商店の五分の一ぐらいの小ぶりであったが、背後には、ずらりと十棟にあまる土蔵をならべていた。往還をへだてて、船着場になっていた。
淡路屋は、そのむかしは、明朝をふるえあがらせた『倭寇《わこう》』の後裔である、という噂であった。
織田信長や豊臣秀吉の天下統一の大事業を促進させるには、鉄砲の輸入が大きな役割をはたしたが、その大量輸入を引受けたのも、淡路屋であった、という。
正雪と※[#「奠+おおざと」]森が通された座敷は、そうしたこの店の歴史を示す品物は、何ひとつ置かれてはいなかった。
「お待たせいたしました」
用事で他出していたあるじ重兵衛は、手代の迎えで、帰って来ると、ひくい物腰で、来客二人に応対した。
正雪は師の丈山から、一度立寄るようにすすめられた旨を告げた。
「丈山先生には、時折り、珍しい唐物が入ると、おとどけに上って居ります」
重兵衛は、こたえてから、
「ごらんの通り、この堺の湊は、むかしのおもかげはなく、てまえどもの店も、土蔵の半数は空になって居ります」
と、云った。
「しかし、お主は、どこかに造船所を持っている、ときいた。噂では、紀州家の鯨獲りの巨船は、すべて、淡路家が造った、と耳に入った」
正雪は、重兵衛を正視して、云った。
重兵衛は、返辞をせずに、正雪の鋭い視線を受けとめた。
「その鯨獲りの船は、そのむかしの末吉船や角倉《すみのくら》船や、茶屋船や西村船などの構造とは、全く異ったものであり、オランダ型船に、さらに改良を加え、遠洋航海のために造られた、ときき及んだ」
「それは、もう十年前のことでございます。……たしかに、てまえどもは、造船所を持って居りますが、ただいまは、ご公儀をはばかり、紀州様ももはや巨船をお造りになるのを中止なされて居りますゆえ、数十石積みの商い船を造って居るにすぎませぬ」
「それがしが、もし、それだけの金子を手に入れて、乗員数百人可能の巨船を注文したならば、造ってもらえるであろうか?」
正雪の言葉に対して、重兵衛は、しばらく沈黙を置いてから、
「失礼|乍《なが》ら、ご浪人衆である貴方様のご注文では、おひき受けいたしかねます。……堺奉行の目が光って居りますゆえ、たとえ、紀州様のご下命でも、もはや、伊達政宗様がローマヘ使節を送られた陸奥丸ほどの規模の船を造ることは、とうてい叶いませぬ」
「淡路屋殿、単刀直入に申す。天下には、三十万に近い浪人者が、如何に生きるべきか、その往くべき道を見失って居る。それがしは、これらの浪人どもをして、異邦に新天地を与えたい」
「………」
「そのためには、船が要《い》る。その船を造ってくれるのを、お主と、思いきめた」
「………」
「その金子は、この由比民部之輔正雪が、きっとつくって、お主の手に渡し申す! 幾年さきになるか、それは、しかと約束しかねるが、お主が承諾してくれるならば、絶対に実現してみせる!……約束して頂きたい」
正雪は、頭を下げた。
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大 老 孤 独
一
涅槃会《ねはんえ》から十日が過ぎて、夜半の江戸の往還上に、一太刀で斬られて斃《たお》れる旗本奴が、さらに、十一人をかぞえた。
旗本奴連が、朋輩の敵を討つべく、血眼になって、夜道をうろついたために、さらに犠牲者の数を増したのである。
暗殺者は、文字通り、通り魔のように、かれらの行手に出現し、人間ばなれした迅業《はやわざ》をふるっておいて、闇に消えた。
大名家臣や庶民は、何者とも知れぬその暗殺者の働きぶりに、溜飲を下げたが、まきぞえをくらうのをおそれて、夜道の通行を止めた。
町奴たちも、
「ざまをみやがれ。一人のこらず、斬られてしまやがれ!」
と、喝采したものの、夜歩きはひかえた。
しかし――。
この異変によって、無関係な者が、襲われて生命を落すことになったのは、暗殺者である荒木又右衛門の予想通りであった。
旗本奴連は、対手が徳川家に怨恨を抱く豊臣家残党あたり、と見当つけて、各処の裏店に住むそれらしい浪人者を、問答無用に、斬殺する暴挙に出た。
白昼それらの裏店に押しかけたり、通行中のところを、呼び止めて、容赦なく、襲撃したのである。
また、大名の家中や無辜《むこ》の庶民に対する八つ当りの狼藉も、さらに度を増した。
江戸府内の夜中の路上は、全く人影が絶えた。
旗本奴連のみが、それぞれ群をなして、餓狼のごとく、刺客をもとめて、うろつきまわった。そして、一夜に一人の割合で、かれらは斬られたのである。
水野十郎左衛門は、最大の頭数を誇る白柄組頭領として、憎むべき暗殺者を、おのが槍で是非とも仕止めたい|ほぞ《ヽヽ》をきめて、一夜として、おのが屋敷ですごすことはなかった。
供は数人の時もあれば、十数人いや二十名を越えることもあった。
――白柄組頭領たるこの十郎左衛門の面前に、出現せぬはずはない。
そうさせるために、十郎左衛門は、
『白柄組頭領 水野十郎左衛門成之』
と大書した幟を、若党に持たせ、松明《たいまつ》で照らし出し乍《なが》ら、その暗殺者の出現しそうな道をえらんで、子刻《ねのこく》(午前零時)すぎまで歩きまわった。
当然、暗殺者は、十郎左衛門の夜毎の横行闊歩を知ったに相違ないが、なぜか、その面前に出現しようとはしなかった。
「どうして、この成之に襲いかかっては来ないのか?」
十郎左衛門は、苛立った。
やがて、その機会は、ついに来た。
十六夜の月が、早い雲行きの上を見えかくれしている宵であった。
浅草寺末寺のならぶ道を歩いている時、突如、行手の辻で、呶号が起り、つづいて、断末魔の悲鳴が、夜空をつらぬいた。
「出たぞっ!」
十郎左衛門と供をしていた旗本奴四人は、地を蹴って奔《はし》った。
「待てっ! われらは白柄組頭領水野十郎左衛門だぞ! 敵にうしろをみせるなっ!」
疾駆しつつ、十郎左衛門は、叫んだ。
一瞬裡に、旗本奴二人を斬っておいて、足早やに立去ろうとしていた暗殺者は、疾駆して来る十郎左衛門たちから姿を消すにしては、三叉路のいずれも、まっすぐで、遠見が利くのを見やってから、その孤影をそこに佇ませた。
十郎左衛門は、若党から槍をひったくると、ひとしごきして、二個の屍をまたぎ越えると、すすっと、肉薄した。
「おのれに、まず、きこう。これまでに、五十人に近い旗本奴を暗殺いたして居るが、何故に、旗本奴を代表するこの水野十郎左衛門成之を、狙わなかったか? 申せ!」
「お手前は、頭領ではあっても、まだ二十歳に満たぬ若年ゆえ、一命を申し受けるのを避け申した」
対手の声音は、おだやかであった。
「黙れ! 刺客づれに憐憫をかけられるのは、屈辱でこそあれ、無用の情には、憤怒がわき立つ! おのれの口上、白柄組頭領を侮蔑したことに相成ると知れ!」
「申し上げるが、一統の夜行をとどめて、犬死をさせぬようにするのが、頭領たる者の思慮というものではござるまいか」
その忠告は、十郎左衛門たちを、逆上させる効果しかなかった。
懸声もろとも、十郎左衛門は、柄までも通れと、突きかかった。
次の刹那、穂先は、雲間から顔をのぞかせた十六夜《いざよい》月を、慕うように、中天へ刎《は》ねとばされた。
「うぬがっ!」
「こなくそっ!」
左右から、猛然と斬りつけた者たちは、ほとんど一閃裡《いつせんり》に、黒い血煙りをあげさせられた。
十郎左衛門は、差料を抜きはなつや、体当りに突撃した。
対手は、躱《かわ》しもせずに、その白刃もまた、宙へはじきとばす迅業を放った。
残りの旗本奴二人は、喚きたてつつ、滅茶滅茶に、刀をふりまわして、攻めかかった。
暗殺者が、この二人を、地上へ横たえさせるのに、なんの造作もなかった。その地歩を移しもせずに、一人を袈裟がけに、一人を胴薙ぎにした。
二
十郎左衛門は、地面に坐ると、
「斬れっ!」
と、叫んだ。
「黄泉の路上、老いはすくなし、とか。……春秋に富む身を、大切にされては如何でござろう」
「うぬが説法など、直参旗本をあざけるとしかきかぬぞ!」
十郎左衛門は、脇差を抜くや、いきなり、腹へ刺そうとした。
とたん――。
横あいから、飛礫《つぶて》が飛んで来て、その右手の甲を、打った。
いつの間にか、辻のはしに現れて、この修羅場を見物している者が、一人いたのである。
のそのそと大股に近づいて来た見物人は、十郎左衛門に、
「父御の仇も討たずに、この場で犬死をするとは、御辺も、よほど血迷って居られるのう」
と、云った。
丸橋忠弥であった。
暗殺者が、黙って、そのまま、踵をまわそうとすると、忠弥は、
「待たれい!」
と、呼びとめた。
「お主は、旗本奴ばかりを目の敵にして、斬殺をつづけて居るが、旗本奴に代って、この丸橋忠弥が対手をする、と申し入れたならば、受けるか?」
「………」
暗殺者は、月あかりに、じっと、忠弥を視やった。
「この白柄組の若い頭領は、父御をそれがしに殺されて居る。それがしは、どうやら、畳の上で往生のできぬ予感がいたして居る。ならば、いずれ将来、この水野十郎左衛門に、討たれてやりたいと存じて居る。この場で、犬死はさせとうないし、また、旗本奴の面目意地からして、切腹を止めれば、あくまで、お主を討とうといたすに相違ない。が、どうやら、お主を討てる腕前ではないらしい。お主に斬られるのは、目に見えて居る。それは、この丸橋忠弥が、許さん。……お主を討つのは、江戸ひろしといえども、それがしを措《お》いて、他には居らぬ。……尋常の勝負を、申し入れるぞ」
その挑戦に対して、対手は、ものしずかな語気で、
「丸橋忠弥殿は、たしか、牛込榎町に軍学道場をかまえる由比正雪という御仁の仲間でござったな?」
と、問うた。
「左様、民部之輔正雪は、それがしの兄分にあたる。それが、どうかいたしたか?」
「由比正雪という人物、いずれ、拙者の暗殺帖に書き加える予定に相成って居り申す」
「なんだと?!」
「由比道場にて、お手前との勝負、承諾いたした。それには、条件がひとつ。もし、拙者が勝ったならば、次は、由比正雪殿と試合をいたし、これを斬る」
「ほざいたことよ!」
忠弥は、肩をひとゆすりした。
「どういう存念で、旗本奴連を、つぎつぎに暗殺して居るのか知らぬが、この丸橋忠弥は、将軍家の威光をかさにきた旗本奴連とは、そもそも、修業がちがって居るのだ。お主がどれだけの剣の奥旨を会得して居るか知らぬが、そうやすやすと討たれるような槍使いではないわ。……面白い! 由比道場で、雌雄を決しようではないか。期日は五日後の正午。よいな?」
「承知いたした」
暗殺者は、かるく一揖《いちゆう》して、月闇の中に、姿を没した。
忠弥は、まだ地面に在る十郎左衛門に、
「きかれたか。それがしが、ここへ通りかかったのも、これもひとつの因縁と申すものだ。彼奴との決闘は、この丸橋忠弥にまかされい。お手前は、こん後、幾年か修業を積んで、それがしを討つ執念を燃やされるがよかろう。……その未熟の腕で、彼奴にかかっていったところで、とうてい、討つことはおぼつかぬ」
「し、しかし、身共は、白柄組頭領として……」
「早すぎたのだ、頭領になったのが――。業《わざ》と貫禄を備えた時、はじめて、頭領としての資格がある。まず、あと十年の歳月が、お手前には必要であろうて」
そう云い置いて、忠弥は、すたすたと遠ざかって行った。
十郎左衛門は、うなだれた。無念の泪が、|ぼうだ《ヽヽヽ》として頬をつたい落ちた。
三
江戸城内の大老の間《ま》に、酒井忠勝は、孤座していた。
土井利勝は、すでに、老い果てて、病臥勝ちになり、ほとんど、登城せず、大老の間は、忠勝の独占のかたちになっていた。
しかし――。
大老職に就いてみて、忠勝は、松平信綱はじめ老中、そして若年寄との間に、しだいに溝がつくられ、距離が置かれるのをおぼえるようになっていた。
老中であった時は、十歳も若い松平信綱と競う覇気が、熾《さか》んであったが、大老職にのぼってみると、評定所に於ける評議の決定を、将軍家光に承諾せしめる責任を負わされたために、かえって、口をとざす立場に置かれるのを思い知らされた。
将軍家光の持病の発作は、さらに頻繁になり、そのために、その日その日の機嫌が、別人のように変転していた。
大老は、いわば、手のつけられぬ将軍家と、老中・若年寄のあいだにはさまれた存在であった。
評定所に於ける評議の決定を、家光から、|にべ《ヽヽ》もなく却下されると、大老としての面目を失うことになった。
老中のうちでも、松平信綱は、あきらかに、大老酒井忠勝を窮地に追い込む狡智の政策をうち出して、他の老中・若年寄の賛成を得て、それを将軍家から却下させるように、仕向けて来ていた。
伊豆守信綱のうち出す政策は、その場では、いかにも、徳川家のためと、考えられたが、忠勝には、あとで思慮するとその内容は、家光から一喝をくらうことが目に見えていた。
忠勝は、信綱の肚が看え乍らも、その政策をしりぞけるわけにはいかなかった。
しかし、それを家光に承諾させるには、よほど機嫌のいい折を見はからって、願い出なければならず、その願い出によって、たちまち家光をして態度を一変させることが、しばしばであった。
忠勝は、巧妙きわまる信綱のやりかたに、みすみすはめさせられて、苦痛の孤立状態に追い込まれていた。
忠勝は、おのが座を守るためには、家光を隠居させて大御所にし、今年生れた世子(家綱)を将軍職に就かせる手段しかなかった。しかし、家光が、とうてい、大御所となることを承知するはずはなかった。
大老となってから、忠勝は、老中・若年寄と、親しく語らう機会を失っていた。それも、疑いもなく信綱の策略であった。
土井利勝が健康であった頃は、家光は、徳川家三代に仕えたこの忠良の老臣に一目を置き、その願いをしりぞけることは、ほとんどなかった。
利勝の推挽《すいばん》によって、大老となった忠勝は、評定所で可決された幾件かの評議を、家光から却下されているうちに、自分という存在が、うとましく思われるようになったのを、感じていた。
――大老などになるものではない。
屋敷に帰って、夜半ねむれぬ時など、そんな愚痴も、胸の裡でもらされた。
将軍家光の狂的な病症と松平信綱の狡智の攻撃の板ばさみになった孤独感は、時折り、忠勝自身をして、ひどい気鬱症状に陥らせていた。
いまが、そうであった。
三十畳もあるだだ広い大老の間に、ぽつんとただ一人で坐っていることに、名状しがたい孤独感がわいていた。
老中も若年寄も、誰一人として、気軽に入って来ようとせぬのであった。
――豆州に、この大老職をゆずったならば、決してわしと同じ窮地には陥ちまい。
気象の相違であった。
信綱ならば、必ず、家光を巧みにまるめこみ、骨なしにしてしまうであろう。
忠勝は、信綱の性格が、底知れぬほど冷酷なものを有《も》っているのを知っていた。
幕閣の首座に在るには、その性格が必要なのであった。
一昨年、ポルトガル使節六十一人を、長崎に於て処刑したのも、庶民の人気を集めた女歌舞伎を厳禁したのも、些細な理由で長崎のオランダ商館を、長崎奉行をして破壊させ、オランダとの交易に、大きな利益をあげることにしたのも、将軍家の病状に薬効がないのを理由に、小石川薬園の薬草栽培の責任を、尾張徳川義直と水戸徳川頼房になすりつけたのも、去年の夏、暑気しのぎに庶民が流行《はや》らせ熱中した風流踊を、奢侈《しやし》に流れるという名目で禁じたのも、すべて、松平伊豆守信綱のやったことだった。
――わしは、しかし、断じて、大老職を辞さぬぞ!
忠勝は、宙を睨んで、おのれに云いきかせた。
その折、廊下に声があった。
入って来たのは、柳生宗矩であった。軽い中気に罹っているため、座に就くのが、いかにも不自由そうであった。
挨拶をすませた宗矩は、すでにおきき及びでありましょうが、今年に入って旗本奴がすでに五十人も暗殺されて居りまするが、もはや、このあたりで、この騒動をおさめなければなりませぬ、と云った。
「刺客は、伊豆守一人の存念によって下命された者であろう」
忠勝は、云いあてた。
「身共の門弟にて、荒木又右衛門が下手人にございます」
宗矩は、包まず、打明けた。
「又右衛門は、すでに世間では、亡き者となって居りまする。……このあたりで、又右衛門を、対馬へ還らせ、しずかな余生を送らせてやりとう存じますれば、この儀、ご大老より、伊豆守様に、おとりはからい下さいますよう、願い上げまする」
柳生宗矩は、旗本奴を五十人も暗殺した又右衛門の役目は、終った、と考えたのである。
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春 日 局
一
荒木又右衛門が、柳生宗矩に呼ばれて、酒井忠勝が大老の権威を使って、松平伊豆守信綱に、
「荒木又右衛門をして、旗本奴どもを暗殺する苛酷な役目から免じてもらいたい」
と、忠告した旨をきかされたのは、それから四日後であった。
又右衛門は、恩師が大老に願い出てくれたに相違ないとさとって、平伏した。
「明日にも、対馬へ帰るがよい」
宗矩からすすめられた又右衛門は、
「いま、ひとりだけ、斬らねばならぬ者が居りますゆえ、それが終り次第、江戸を立去ります」
と、こたえた。
「何者だな?」
「お茶の水にて、宝蔵院流槍術の道場をひらく丸橋忠弥なる人物と、由比正雪の道場にて立合いの約束をつかまつりました」
「その試合、止すのだな、又右衛門」
宗矩は、即座に忠告した。
「何故でございましょうや?」
「柳生道場の高弟の一人を、わざと浪人者にならせて、丸橋の道場へ入門させてみた。忠弥と申す兵法者、ただの使い手ではない、という報告がなされて居る」
「武士として、約束した上からには、約束ははたさねばなりませぬ」
「又右衛門、お前は、出府した時とは別人のごとく、憔悴《しようすい》の色を、おもてに、にじませて居る。年齢には勝てぬ。……町道場主などとの約束を破棄したところで、恥にはなるまい。中止いたせ。こっそりと江戸を立去るがよい」
「………」
「考えてみるがよい。丸橋忠弥は、刺客が荒木又右衛門と知っての上で、挑戦したわけではあるまい。何処の何者とも――正体を知らぬがままに、試合の約束をいたしたのではないか。お前が、約束を破ったところで、荒木又右衛門の名はすこしも傷つかぬのだ。……いや、お前が、由比正雪の道場へ参って、お前の顔を見知っていた者がいたならば、これこそ、大騒動に相成る。旗本奴を五十人も斬った刺客が、実は、生きていた荒木又右衛門である、と露見いたしたならば、どのような大騒動に相成るか、予測もできぬ事態をひき起すに相違ない。……又右衛門、たのむ。この試合、止めてくれい」
宗矩は、頭を下げた。
又右衛門は、長い沈黙を置いてから、
「相判りました。明日、江戸より退去つかまつります」
と、こたえた。
「よう、ききわけてくれた。……これにて、旗本奴らを斬った刺客の正体は、永久に謎で終る」
「先生、それがしは、すでに墓の下に入って居るべき者でありました」
「……うむ」
「ご老中のご下命ゆえ、ご政道のお役に立つならば、と鬼になり夜叉となって、夜毎、旗本奴衆の生命を奪いましたが……、結果は、それがしの予想通りに相成りました」
「まさしくの……」
「ご政道上、これも、やむなき仕儀、と伊豆守様は、お考えでありましょうが、それがしが剣を衂《ちぬ》らせたために、どれだけ多くの人々が犠牲に相成りましたことか。申さば、旗本奴衆を、狂犬と化さしめる役目をつとめただけ、という暗い悔いが、この又右衛門の心中を占めて居ります」
「又右衛門、お前にそう云われると、わしには、一言もない。ただ、わしに申せるのは、徳川家にご奉公しているこの宗矩として、ご老中のたのみを拒絶できなかった、ということだけだ」
「お言葉をかえしますが、伊豆守様の致《いた》され様《よう》は、一途ひとすじに、ご政道のためでありましょうや! 伊豆守様の胸中には、大老となられた酒井讃岐守様に対抗する権勢欲がなくはないのではありますまいか? その疑念をうち消すことはできませぬ。こん後も、その対抗心、権勢欲が、どういうかたちであらわれ、無辜《むこ》の人々に、どのようなむざん苛酷な犠牲を強いる結果をまねくことに相成るか? この又右衛門は、もはや二度と再び、ご政道の名に於て行われる残忍な行為を、みたくはございませぬ。……先生、対馬の山中には、まことに平和な、人を傷つけることのないくらしがございます。もし、おできになりますことならば、先生も、一度、対馬へ――それがしの草庵へ、おいで下さいますよう、おすすめつかまつります」
「うむ。……それが、許されるものならばのう」
宗矩は、沈鬱な面持で、目を伏せた。
すでに、将軍家兵法師範役は、次男飛騨守宗冬にゆずり、表面上はいかにも楽隠居の身であったが、事実は、古稀の老齢にあり乍《なが》ら、なお、宗矩は、徳川幕府のために重大な使命を帯びて、それを実行しつづけていたのである。
すなわち――。
柳生道場は、ただの兵法道場ではなく、外様・譜代を問わず、各大名の領地へ忍び込む隠密の養成所であり、きたえあげられた門弟を諸国へ放つ采配を、宗矩は、この隠居所から、ふるっていたのである。
家光が将軍職になった時、宗矩は、その下命を受けた。
「なろうことならば、外様大名はことごとく、とりつぶしてくれようと思うが、そうもなるまい。しかし、すくなくとも、外様どもに、いささかの落度があっても改易させられる、という恐怖心を植えつけてくれよう。その役目を、そちに命ずる」
家光は、ひそかに、宗矩に命じたのであった。
三代将軍がその座に就いてから、まず、最初に改易させられたのは、皮肉にも、外様大名ではなく、家光の実弟である駿河大納言忠長であったが、柳生道場から放たれた隠密よりの密《ひそ》かな報告によって、忠長がいかに、諸大名に絶大な人気があるか、という事実が、家光に、改易配流の肚をきめさせたのであった。
いわば――。
柳生道場から、諸国へ隠密が放たれる、ということは、なかば公然の事実として、諸大名間に知れわたっていた。そして、そのことが、大名各家を恐怖戦慄せしめているのであった。
二
「又右衛門、いまさら申したところで愚痴になるが、わしは、ただ将軍家兵法師範役として、兵法者の生涯を送りたかった。亡父も、そのつもりで、わしを、徳川家に随身させた。……それが、いつの間にか、諸大名をつぎつぎととりつぶす蔭の極悪人の役目をつとめるようになってしまった。悔いをのこす七十年の生涯となった。人間の宿運とは、妙なものよのう。諸侯の目に、わしは、悪鬼と映って居ろう。いまとなって、晩節を全うする余命は、与えられて居らぬ。……おのれが犯した罪を、せめて、つぐなうためには、一年なり二年なり、全身不随と相成り、糞小便をたれ流す醜悪きわまる癈人としてすごして、最もぶざまな死にざまを、願って居る」
「先生!」
「わしが、公儀の蔭に於て犯した罪は、許されようもなく深い。……お前だけは、静かな余生を送らせてやりたかったが、それも叶わず、羅刹《らせつ》同様の殺戮を行わせてしまった。……長男の十兵衛も、隠密として、何処の土地で、どのようにして相果てたやら、父親のわしも知らぬ。お前一人だけでも、せめて、対馬の、その草庵で、おだやかな日々を送ってもらいたい。そうやって、お前がすごして居ることを、わしは、ひそかななぐさめとしたい。……ははは、この宗矩が、はじめて、老いの愚痴を吐いたのう。許してくれい」
宗矩は、再び、頭を下げた。
次の日――早朝。
一人の雲水が、品川の木戸を出て、西へ向った。
荒木又右衛門の姿が、再び、世間に現れることはなかった。又右衛門は、伊賀上野における決闘ののち、二年を経て、三十二歳で没した、という記録を、歴史にのこして、その剣名を後世へ長くとどめた。
対馬山中の草庵で、又右衛門が、幾歳まで生きのびたか、知る人はない。
柳生宗矩が、逝ったのは、それから六年後であった。おのれがのぞむ醜悪ぶざまな死にざまではなく、用人も女中も気づかぬうちに、夜半、しずかに息をひきとっていた、という。
三
四代将軍職を継いだ家綱が、生れたのは、この年、八月三日であった。
生母は、側室の於楽の方であった。春日局が、上野寛永寺に参詣の帰途、ふと目にとめた貧しい身なりの十六七の少女を、供の者に、
「あのむすめを、大奥へ召し出すように」
と、命じたのが、四代将軍をつくるきっかけであった。
於楽の方は、皮肉にも、大坂城から落ちのびて、その素姓をかくしていた増山某という浪人者の女《むすめ》であった。
増山某は、大坂城では最下級の徒《かち》ざむらいであった。絵を描くのを趣味としていたので、大小をすてて絵師として、江戸へ出て来たのであったが、画才があるわけではなく、極貧の挙句、枕絵を描いて、町人たちに安売りし乍ら、ほそぼそとくらしている男であった。
将軍家|乳人《めのと》として、当世第一の出頭人である春日局から、
「むすめをさし出すように」
という下命は、夢のような出来事であった。
家光の寵童趣味は、ようやく、消えて、いまは、於万の方という美女が、その寵愛を一身にあつめていた。
家光より二歳年上の正室鷹司孝子とは、家光は江戸城に迎えて半年も経たぬうちに、夫婦の交合を断ったため、孝子は、本丸を去って、中ノ丸の別殿に住んでいた。大奥の女中たちは、孝子を、御台所とは呼ばず、中ノ丸様と称《よ》んでいた。
大奥を統轄し、曾《かつ》ては、二代秀忠の内命を受けて政局に関係するなど、旭日の威権を誇っていた春日局も、家光の寵童趣味だけは、どんなに苦心しても、止めさせられなかった。
九条明子が江戸城に入った当時は、家光附きの中臈は七人いた。いずれも、美貌と健康な肢体を持って居り、春日局が、その氏素姓を問わずに、えらんだ娘たちであった。
家光は、しかし、その七人には、目もくれず、もっぱら、中奥で、美しい稚児姓を抱いて寝ていたのであった。
たまたま――寛永十三年春。
伊勢内宮に在る慶光院の比丘尼《びくに》が、住職|継目《つぎめ》のお礼言上に、江戸城へ参向したことがあった。慶光院は、尼寺で、常紫衣の重い寺格であった。その時の比丘尼は、六条有純の息女で、十六歳であった。
比丘尼が、登城して来た場合、将軍家に代って、春日局が、引見するならわしになっていた。
春日局は、その比丘尼の姿を一瞥するや、
――これならば!
と、ひそかに、思いきめた。
比丘尼は、少女らしからぬ凜々しい面差であり、稚児姓が頭をまるめた、とみえたのである。
|みどり《ヽヽヽ》の黒髪と、|なよなよ《ヽヽヽヽ》した肢体を有《も》った娘を、抱くのをきらっている家光も、この比丘尼ならば、気に入るに相違ない、と春日局は合点したのであった。
はたして、家光は、春日局にすすめられて、青頭の比丘尼を視ると、にわかに興味をわかせた。
その時から、家光の稚児姓を抱いて寝る習慣は終った。
比丘尼は、還俗させられ(但し、二年あまりは青頭のままであったが)於万の方と名を改めて、中臈となり、家光の寵愛を一身にあつめた。
於万の方の凜々しい面差は、異常なまでに強い気象をあらわしたものであった。
春日局は、自分がえらんで、家光に与え乍らも、於万の方の強い気象に、一種のおそれをおぼえた。そのおそれには、嫉妬もまじっていた。すでに六十の坂にさしかかり乍らも、春日局も、やはり女であった。
春日局は、家光に、於万の方だけを寵愛することを、いさめた。
於万の方が懐妊せぬことが、この場合、春日局の諫言の名分となった。
家光は、その諫言を容易に肯き入れようとはしなかったが、やがて、しぶしぶ、七人の中臈のうちから、於万の方とは対蹠的な一人をえらんで、褥に入れた。
それは、於振の方であった。於振の方は、すぐに、みごもった。しかし、生れたのは、女子であった(のちに、紀州吉宗と将軍職をあらそった尾張徳川義直の嗣子右兵衛督光友の夫人となった千代姫である)。
家光は、生れたのが女の子であるのを知ると、かえって、他の中臈たちを抱こうとせず、もっばら、於万の方と褥をともにした。
春日局は、於万の方によく似た娘をさがして、家光に与えねばならぬ、と心にかけた。
そして某日、上野寛永寺参詣の帰途、ふと見かけたのが、於万の方と姉妹といってもいいくらいよく似た少女だったのである。
――於万の方に、将軍家を独占させてはならぬ。
春日局の肚裡《とり》には、嫉妬をまじえたそのおそれがわいたからである。
はたして、春日局の見当ははずれず、於楽の方となったその娘は、於万の方と、家光の寵愛を二分した。
春日局としては、寵愛を二分させるまでの苦労に比べれば、それを三分させ四分させ、さらに、五分、六分させるのは、きわめてたやすかった。
世嗣をつくるという名分の上に立った蓄妾の風習を、江戸城内に定着させたことが、二百六十余年の長きにわたって、大奥という常人の想像しがたい陰惨で奇怪な別世界を、日本の歴史上につくりあげることになろうとは、その時、春日局は、夢想だにしなかった。
春日局自身、おのが行為に、みじんも罪の意識はなかった。
ひたすら、徳川家のため、家光のために、彼女は、忠節を尽したのである。
事実、彼女自身は、大奥の主裁であり乍ら、その日常は、いたって質素で、いささかも奢《おご》らなかった。衣服は、常に|べにがら《ヽヽヽヽ》染めか茜《あかね》染めの木綿をまとい、しかも、自分の部屋で、召使いの女中に縫わせた。生涯、絹ものは、身につけなかった。食事は、黒米飯に、ぬかみそ汁、赤いわしのたぐいで、下婢と全く同じものを摂《と》った。
家光が、その粗食をきいて、
「年寄りゆえ、もうすこしうまい料理を口にいたしたらどうだ?」
と、すすめると、春日局は、かぶりを振り、
「上様にお乳をさし上げて居りました頃には、大御所様、御台所様よりも結構なる料理を頂戴いたして参りましたなれど、お乳のご用がなくなりましてからは、女中どもの手本にならねばと心がけて居りますれば、上様のおなさけはご無用に存じまする」
と、こたえていた。
自分自身の行為は、絶対に正しい、とかたく信じて疑わぬ。――これほど、始末におえぬ人間はいない。春日局は、その典型であった。
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天竺徳兵衛
一
正雪は、駿府にいた。
城下ではなく、府中の西北にある丘陵――賤機《しずはた》山へ登っていた。
賤機という名は、そのむかし、養蚕と機織《はたおり》の工人として、秦人が多く渡来して、この地方に住みついたところから、起っている。
賤機山の東には、麻機《あさはた》という地名があり、安倍川を越えて西へ行くと、服織《はたおり》、または羽鳥、服部という村落があった。この地の郷社の祭神は、馬鳴《めみよう》大明神であった。
馬鳴というのは、中央|亜細亜《アジア》の地名である。蚕の原生地であるパミール高原にある。
蚕業は、パミール高原から、中国、印度、波斯《ペルシヤ》につたわり、さらに、朝鮮を経て、日本へもたらされた。
中国でも印度でも、養蚕、機織に従事する人々は、原産地を神仏化し、偶像をつくり出した。馬鳴菩薩、馬鳴大明神がそれである。
賤機山の南端にある浅間《せんげん》神社にも、馬鳴大明神がまつられてあった。
浅間神社とは、浅間造りの社殿であるための俗称であり、正しくは、馬鳴神社と呼ぶべきかも知れなかった。
すなわち。
神社は、秦人の末裔たちが、建立したものであった。
正雪は、その浅間神社に詣でていた。
二十年ぶりで、正雪は、ここへやって来たのである。
大坂城から、ともに落ちのびた秀頼附きの膳部係支配女中・篠路が、大坂城の金銀を奪って江戸・駿府へひきあげる徳川家康の面前で、壮烈無比な復讐夜叉としての最期をとげたのち、全くの孤児となった重丸(弥五郎)は、駿河国の|はたもの《ヽヽヽヽ》の村を転々としたのであった。
|はたもの《ヽヽヽヽ》とは、秦人の末裔のことをいい、地下《じげ》人たちとは、いまだにはっきりと別人種であるというくらしかたをしているので、大坂城落人の少年としては、身をかくすには、都合がよかったのである。
|はたもの《ヽヽヽヽ》の村は、賤機山の周辺に多くちらばっていた。
その頃、弥五郎と改名した重丸は、浅間神社へ、はるか遠い暹羅《シヤムロ》から、山田仁左衛門尉長政なる人物が、『戦艦図絵額』を、丁銀二十貫、白砂糖五百斤、白綾子五疋を添えて、奉納した、という噂をきいて、それを眺めに詣でたことであった。
山田長政は、賤機山麓の|はたもの《ヽヽヽヽ》村の出身で、徳川家旗本大久保治左衛門の陸尺《ろくしやく》(駕籠舁き)であった、という。
その男が、いまでは、暹羅で、|握浮※[#「口+那」]《オーク・ブラ》という、日本ではさしづめ老中にあたる地位にのぼって、自分が乗っている戦艦を描いた額を、祖国郷土の馬鳴大明神に、奉納して来たのであった。
その戦艦図絵は、流浪漂泊の落人少年の夢をさそい、大きくふくらませたことだった。
その夢を、由比民部之輔正雪となったいま、実現させようとしている。
[#この行2字下げ]『奉掛御立願、諸願成就、令満之処、当国生、今天竺暹羅居住、元和四年戊午、二月吉日山田仁左衛門尉長政』
その文字を読み乍《なが》ら、
――このおれも、いつの日にか、これに数倍する戦艦図絵を、洛北の詩仙堂の壁にかざりたいものだが……。
正雪は、想った。
しかし、長政が、日本を出て行った頃と現在とでは、全く事情が、一変している。
長政が、海外雄飛を志した頃は、あらゆる国と交易し、渡航は全く自由であったのだ。
いわゆる朱印船、奉書船を駆って、異邦と交通したのは、|角倉 了以《すみのくらりようい》、同じく与一、呂宋助左衛門、末吉孫左衛門、茶屋四郎次郎、西村太郎右衛門、荒木宗太郎、角屋七郎兵衛、天竺《てんじく》徳兵衛、島井宗室、神谷|宗湛《そうたん》、大沢四郎右衛門、大賀九郎左衛門、末次平蔵、船本弥七郎、後藤宗印など、枚挙にいとまなかった。
それが……。
寛永十年を境にして、海外渡航は禁止され、さらに十三年には、異邦に在る同胞が帰国しても死罪という、おそるべき法度がつくられたのである。
――しかし!
正雪は、おのが心に、あらためて、誓った。
――おれは、やる! 鎖国令などというおろかな法度を、必ず破ってみせるぞ!
二
誰かが、社殿へあがって来る跫音《あしおと》がひびいた。
正雪は、べつに振りかえらず、『戦艦図絵額』を仰ぎつづけた。
「卒爾乍ら、山田長政殿に、ご縁故の御仁でありましょうかな?」
背後から声をかけられて、正雪は、頭をまわした。
そこに、中年の町人が立っていた。
「いや、べつに――」
正雪は、かぶりを振ってから、
「お手前は――?」
と、訊ねた。
「大坂の商人《あきんど》でありましてな、徳兵衛と申します。江戸へ出たもどりに、ちょっと、この浅間神社のこの奉納額を拝見しようと存じ、立寄りました」
「………」
「てまえは、暹羅で、立身なされて、オンソラ――王という意味でありますが――になられた山田長政殿に、お会いしたことがある男でございます」
「ほう、それは!」
正雪は、にわかに、興味をわかせて、大坂町人を見なおした。
「それがしは、江戸で軍学道場をひらく由比正雪と申す。……さしつかえなければ、山田長政殿が、彼《か》の国で、如何に活躍されているか、うかがいたい」
「お手前様も、海の彼方に渡って、日本人の面目を発揮したい、とお考えでありましょうかな?」
「いかにも!」
正雪は、うなずいた。
「てまえは、麓の足洗村の名主半左衛門さんの屋敷に、二三日逗留させてもろうて居りますれば、よろしければ、ご一緒に参られませぬか?」
その時は、正雪は黙っていたが、流浪の少年重丸は、足洗村名主半左衛門の屋敷にひろわれて二年余もすごしていたのである。
二人は肩をならべて、境内を出た。
坂道を下って行き乍ら、大坂町人は、自分は、天竺徳兵衛とあだ名されている者で、二度ばかり、海外渡航したことがある、と告げた。
天竺徳兵衛は、後年――宝永四年に、九十歳を越えてから、南方諸国の見聞録を綴って、長崎奉行に呈し、後世までその名をとどめた放胆な町人であった。
徳兵衛は、播州高砂町出身で、寛永三年、十五歳で、角倉了以の息子与一の指揮する朱印船に乗って、船長前橋清兵衛の書役として、印度へおもむき、同五年に帰国し、寛永七年には再び、家康の顧問であったオランダ人ヤンヨースが船長である船に便乗して、安南、暹羅そして印度へ渡って、同九年八月に、長崎へ帰って来ている町人であった。
オランダ人ヤンヨースは、三浦按針とともに、家康の庇護を蒙った外国人であった。
かれが与えられた屋敷跡が、ヤンヨースをなまって、八重洲となった(現在の東京駅八重洲口である)。
足洗村名主の屋敷へ向って同行し乍ら、徳兵衛は、
「鎖国令など、本邦はじまって以来の、おろかな禁令でありますな。諸外国と交易して、利することはあれ、損をすることなど、すこしもないのに、ご公儀のどなたがお考えになったか、この上もない愚劣な政策でありまするて」
忌憚なく、云ってのけた。
「お手前様は、白砂糖を食されたことがおありですかな?」
「いや?」
正雪は、かぶりを振った。
「白砂糖など、高砂(台湾)には、腐るほどありまするて。……日本から、蚊帳、傘、扇、塗物、刀などを持参して、天竺(印度のみならず、安南、暹羅をふくめての総称であった)からは、伽羅《きやら》、薬種、蘇芳《すおう》、鮫などを買いつけて来る。こういう交易がどうして不都合でありましょうかな……。日本では、飢饉が起れば、たちまち数千人の餓死者が、出ますが、南方から米を仕入れれば、たちどころに解消するのです。第一、米が安い。日本では、米の値段は、一石につき銀二十三四匁で、つまり銀一匁四升二三合しか買えませんが、あちらの国で、銀一匁で一斗八升から二斗四升という安値。つまり、日本は四五倍の高さでありますよ。……ばかげて居るとお思いになりませぬか?」
「たしかに!」
正雪は、納得した。
「ご公儀は、まことにばかげた法度をつくられたものですわい」
「それがしは、せめて、日本中にちらばって、飢えている浪人者二十数万を、海の彼方へ送りたいと存じて居る」
「そのこと! そのこと!……呂宋、安南、暹羅にある日本人町は、鎖国の禁令によって、後継者を迎えることが不可能となり、いずれ死に絶え、滅亡してしまいまするて」
天竺徳兵衛は、人影のちらばる道を歩き乍ら、あたりはばからぬ大声で、云ってのけた。
三
名主の屋敷というよりも、豪族の館、といった方がふさわしい堂々たる構えを、彼方の山麓に、正雪は、二十年ぶりに眺めやった。
足洗村も、|はたもの《ヽヽヽヽ》の村であり、名主の半左衛門は、幡《はた》という苗字を有《も》ち、足洗村だけではなく、賤機山の周辺の|はたもの《ヽヽヽヽ》の頭領であった。
おそらく、半左衛門の先祖が、渡来して来た養蚕と機織の工人たちのかしらだったに相違ない。もしかすれば、秦朝で、かなりの身分地位に在り、なにかの仔細があって、大陸を遁れて、日本へ渡って来たのかも知れなかった。
秦といえば、当然、始皇帝が想起される。
後人をして驕暴《きようぼう》無道とののしらせたその雄図大略が、無数の犠牲者を出したことは、いうまでもあるまい。
六国を滅して四海を併せ、東亜の大陸に郡県の一大帝国をつくりあげるまでには、討死させた兵数は、おそらく百万以上であったろう。
始皇帝が、阿房宮を建てたことは、あまりにも有名だが、その宮殿を完成させるために、普請工事に囚徒七十余万人を使った、という。
阿房宮がいかに壮大華麗であったか、ということよりも、七十余万人も囚人がいた、という事実の方が、始皇帝の専制君主ぶりを、知らせてくれる。
咸陽附近二十里(八十キロ)の内に建った宮殿の数は二百七十、複道、甬道《ようどう》を以てつなぎ、すべての宮殿に、各国から拉致した美人三千人を入れた始皇帝は、自身の居るところは、宮人にも知らさず、もし、皇帝がどの宮殿に住んでいるか、人に語った役人は、死罪にした。
こういう凄じい専制君主の宮廷から、脱出して、海をへだてた小さな未開の国(日本)に、安住の土地をもとめた秦人がいた、としてもふしぎはない。
幡半左衛門の先祖が、秦の宮廷の官人であった、という証拠はないが、多数の工人をひきつれて、海を渡って来たところから推測して、それだけの脱出船をととのえることができたのは、ただの商人では不可能のしわざであったろう。おそらく宮廷の織室(織物工場)をあずかる高官あたりであったと考えられる。
だからこそ、ただの名主ではなく、乱世百年を経て徳川家の天下になっても、三町に二町四方の広大な屋敷地を所有し、土蔵二十戸(うち酒蔵五、質蔵二)を建てならべる構えを、誇っていられるに相違ない。
|はたもの《ヽヽヽヽ》は、この幡家を頭領と仰いで、遠いむかしから、寛永のこの時代まで、かたい団結を守りつづけて来たのである。
二十年ぶりに、その門をくぐり乍ら、正雪は、どこもすこしも変っていないたたずまいを、なつかしんだ。
変っていたのは、母屋の広縁で、鶯《うぐいす》に、すり餌をやっている当主半左衛門が、頭髪に霜を加えた初老の姿になり、この正雪が壮年になっていることであった。
「半左衛門殿、浅間神社で、一人、知己をつくって、客人として、ともないましたぞ」
天竺徳兵衛が、広縁へ近寄って、告げた。
「ほう、それは……、ようこそ、参られました」
半左衛門は、正雪に挨拶してから、
「はて、どこかで、貴方様には、お目にかかったようですが……、思いちがいかな?」
と、云った。
正雪は、微笑して、
「思い出して頂きましょう、二十年前、お世話になった流浪の小伜を――」
「おお!」
半左衛門は、おどろきとよろこびの表情になった。
「そもじは!」
「左様、弥五です」
正雪は、この屋敷にひろわれた時には、重丸という名をすてて、弥五郎と名のっていたのである。
半左衛門からは、「弥五」と呼びならされていた。
「これは、人がわるい。お手前様は、半左衛門とは、すでにもう、知りあいであったか」
徳兵衛は、いささかあきれて、かぶりを振った。
「二十年前、家のない放浪児であったそれがしを、このご主人が、ひろって下されたのです」
正雪は、打明けた。
座敷に招じられてから、正雪は、あらためて挨拶し、江戸に於て軍学道場主になっている旨を、告げた。
半左衛門は、正雪の噂は、きいていなかった。
「あんたは、必ず、将来ひとかどの人物になる、と思うて居ったが、やはり、江戸で、名を挙げられたか。なにはさて、めでたい」
半左衛門は、心からよろこんだ。
酒肴の膳部が、はこばれて、三人は、盃をくみかわし乍ら、四方山話をしたが、そのうち、天竺徳兵衛が、やはり、現在の公儀の法度を非難する話題へ移した。
「半左衛門殿も、そうは思われぬか。……わしは、もう一度、海原を押し渡って、天竺へ参りたい。日本を船出する時の壮快な気分、はるばると帰って来て、祖国の島影をみとめた時のなつかしさは、とうてい言葉にも筆紙にもつくせぬものぞ」
「徳兵衛殿は、山田長政に会われた由ですが、どのような地位と力をそなえて居られましたろう?」
正雪は、訊ねた。
「あれは、ちょうど十年前のことでしたな。長政殿は、暹羅で、司臘《セーナー》那毘《ビモツク》という――つまり、王という地位に就かれて、日本の軍勢を率いて、暹羅の内乱をしずめようと、腐心されて居りましたわい。内乱については、この一商人ごときには、なにがなんだか、判りませんでしたが、長政殿は、なんでも、わずか十歳の親王を、天子の位に即《つ》けようと、日夜、粉骨砕身して、その方略を思案されている模様でありましたな」
それだけきいただけで、正雪は、
――日本から、数万の浪人者が、暹羅へ渡って、山田長政を援けたならば!
と、胸がおどった。
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死 後 問 答
一
酒肴の膳部が下げられてからも、天竺徳兵衛の、公儀が鎖国令を実行したことに対する忌憚のない非難は、容赦なく加えられた。
半左衛門と正雪は、聞き手にまわり、耳を傾けた。
正雪は、徳兵衛の話が、一段落したところで口をひらいた。
「お手前がたの力をおかりすれば、野にあふれた浪人衆を、ひそかに、この日本から脱出せしめる手段《てだて》が、可能なような気がいたして参りました」
「弥五――いや、いまは軍学者由比正雪殿か――お主は、そのような大それた野望を抱いて居るのかな?」
半左衛門が、眉宇をひそめて、訊ねた。
「この決意、しだいに、それがしの胸中で、熟して参りました」
「はたして、それは可能であろうか。わしには、とうてい不可能と思えるが……?」
「半左衛門殿は、噂できかれたかどうか……、この駿府城のどこかに、徳川家康が、大坂城より奪った莫大な軍用金が、かくされて居り申す。……それに、紀州大納言殿の器量は、ただに、紀州を統治されているだけでは、大いに不服でありましょう。紀州殿が、後楯になって下されば、この壮図、必ずしも、それがしの夢想ではありませぬ。……ただ、駿府にかくされた莫大な軍用金さえ、手に入れることができれば……」
そういう正雪を見まもり乍ら、半左衛門は、
――年少の頃から、ただ者ではなく、いずれ、大きな仕事をやってのけると思っていたが……。
と、二十年前を思い泛《うか》べつつも、正雪の壮図は、あまりにも無謀と思わざるを得なかった。
半左衛門は、この屋敷を守り、秦人の末裔たる|はたもの《ヽヽヽヽ》の頭領として生きていることに、ある程度、満足している状態にあった。
しかし――。
正雪が、※[#「奠+おおざと」]芝龍の息子※[#「奠+おおざと」]森とともに、頼宣に謁見して、もし駿府の軍資金が入手したならば、紀州家の船をゆずり受けて、海外雄飛を説いた旨をきかされると、半左衛門の心は、しだいに動いた。
秦人の末裔として、ただの名主としてこのまま生涯を終るのは、なんとなく物足りない意識も、心の片隅にあった半左衛門であった。
天竺徳兵衛は、半左衛門の心が動いたのを看《み》てとって、正雪の壮図に賛同の言葉を吐いた。
半左衛門は、しかし、
「駿府に、太閤遺金が、かくされていることは、はたして、まことであろうかのう?」
と、疑念を口にした。
「それは、たしかに事実です。ただ、どこに、どのようにして、隠匿されてあるか、それが、いまだに全く不明なのです」
「それでは、話にならぬ」
「いや、この正雪が、必ず、発見し、入手してごらんに入れ申す」
正雪は、語気きびしく、断言した。
「さあ、それは、どうであろうかな。三十年も前のことなら、いざ知らず、いまは、幕閣に、松平伊豆守という切れ者が居って、寸分の油断なく、目を配って居るゆえ、お主が、徒党を組むことさえ、はたして、できるかどうかのう」
半左衛門は、薄ら笑った。
「松平信綱が、睨みをきかせて居ればこそ、それがしは、闘志が燃えるのです」
正雪は、島原に於て、伊豆守に会ったいきさつを語ってきかせた。
すると、半左衛門は、
「それは、かえって、逆の効果があったかも知れぬ」
と、云った。
「何故です?」
「お主は、原城攻略についての策謀を述べたのではなかったかな?」
「いささか――」
「わしが噂できいたところでは、原城は、浪人隊のめざましい働きによって、陥落したとか……。そのことが、伊豆守の心中に、どのような考えを生ませたか、お主、推測できるかな?」
「………」
「伊豆守は、決して、浪人隊の働きを、率直によろこびはせなんだ、と思わぬか? 天草・島原一揆征伐のあと、吉利支丹宗門の禁圧をより一層厳しいものにしたのは当然の仕儀だが、いったんは大老酒井讃岐守殿のとりはからいで、ゆるめられた浪人取締りを最近になって、非常なまでに強化した事実を、なんとみるかな、正雪?」
「………」
「わしは、たかが、片田舎の名主にすぎぬが、……いや、かえって、そうだからこそ、公儀のやりかたが、はっきりと目に見える。……お主は、なまじ、原城攻略に、浪人隊を率いていくべきではなかったのではあるまいかな」
「………」
「松平伊豆守は、浪人というものの強さを知った。知らせるべきではなかった。公儀が猫ならば、浪人衆は窮鼠ということになる。公儀としては、窮鼠に噛みつかれたくはあるまい。まして、窮鼠の群を率いるお主を、看のがす道理があるまい。……お主の道場に、伊豆守の命令を受けた隠密が、門弟として入って来て居ることは、おそらく、まちがいあるまい」
幡半左衛門の忠告は、正雪の心にしみた。
天竺徳兵衛が、口をはさむ余地はなかった。
二
江戸にあっては――。
松平伊豆守信綱が、春日局に呼ばれて、その自邸を訪問していた(春日局の自邸は、丸ノ内代官町――現在の半蔵門から竹橋へ出る中間に在った)。
信綱が、春日局と顔を合せたのは、ほぼ一年ぶりであった。
信綱は、書院ではなく、奥の座敷へ案内されて、一歩入って、春日局を一瞥した瞬間、ぎょっとなった。
別人にひとしい、痩せ衰えて、皺だらけになった老婆が、そこにいた。
褥《しとね》にこそ伏していなかったが、脇息を前に置いて、辛うじて、それにすがって、坐っている姿は、正視に堪えなかった。
春日局は、六十四歳であった。当時としては、平均寿命を、十余年も長く生きて居り乍《なが》ら、奇怪といってもいいくらい、目じりにさえ皺一本もない、肌の艶やかな、四十そこそこにしか見えない女性であった。
その若々しく、美しい春日局を知っている信綱は、死相を呈した醜悪な老婆を面前にして、同一人とは思えなかった。
とっさに、言葉がないままに、信綱は、座に就いた。
春日局の方が、さきに、
「ごらんの通り、わたくしには、死神が迎えに参って居ります」
と、云った。
「おつかれが出て、ずっとひきこもっておいでだとだけ、うかがって居り申したが……」
「人間とは、ふしぎなもの。これまで、三日と牀《とこ》に就いたおぼえのない身ゆえ、自分では、古稀(七十歳)を越えるのは、造作もないことと存じて居りましたが、あっという間に、斯様なすがたに相成りました」
声音だけは、意志の強さを示して、冴えてよどみがなかった。
信綱は、なまじのはげましやなぐさめの言葉を無用と知って、この大奥の主裁者がわざわざ呼んだ――その用件がきり出されるのを待った。
春日局は、まず、家光の持病の加減について、信綱に質問した。
「政務をおとりになるのは、もはや、ご無理と存ずる」
信綱は、正直にこたえた。
家光は、三年前、江戸城本丸が、何者かの――石川五郎太のしわざであったが――放火によって、焼け落ちて、西ノ丸に移って以来、一切、表御殿へ出なくなっていた。一年間で、本丸は竣工したが、家光は、その本丸にも還らずにいた。尾張・紀州・水戸の三家をはじめ、譜代・外様いずれの大名も、この三年間、謁見を許された者は一人もいなかった。
大老酒井忠勝と老中松平信綱だけが、月に一度か二度、目通りするだけであった。
この三年の間だけで、家光は、発作の起る直前に、元の寵童二人と小納戸一人、そして同朋一人を、手討ちにしている。この事実は、春日局の耳にも入っていないはずであった。
家光は、すでに、将軍家としての資格を喪失していた。
「伊豆殿――」
春日局は、信綱を、じっと瞥《みつ》めて、
「わたくしは、来年のいま頃は、もうこの世には在りますまい。……案じられますのは、四代をお継ぎになる和子が、ご病弱なおからだにお生れになったことです」
と、云った。
「………」
「おそらく、伊豆殿が、その職に在るあいだに、四代をお継ぎになりましょうが、あるいは、すぐに、五代にかわる懸念がありまする」
「………」
「その秋《とき》、お手前様は、決して、紀州様に、御座を与えてはなりませぬ」
春日局は、はっきりと、云った。
三
春日局は、どれほど親しい身近な人にも、自分の前半生については、一切打明けたことはなかった。それは、物心ついた頃より、あまりにも、覇者の生命の短さ、栄枯盛衰のはげしさを見せつけられたためであった。
春日局は、名を福《ふく》といい、明智光秀の旗本にその人ありと知られた斎藤内蔵助利三の娘であった。
その父が、羽柴秀吉に捕えられて、刑場で首を刎《は》ねられた時、福はまだわずか四歳であった。
逆賊の遺児として、四歳から娘に育って美濃の豪族林正成に嫁すまでの十数年間、彼女がどのようにして、憂世の波にもまれ、風に打たれたか、つまびらかではない。
あるいは、亡父の妹が、土佐の長曾我部元親の正室であったから、福は、兄や弟とともに、四国に渡って、長曾我部家にやしなわれたのかも知れない。
とすれば、その長曾我部家が、滅亡するのを、福は、見せられている。
いずれにせよ、福が娘となり、林八右衛門正成の妻となったのは、疑いないところである。
林正成は、豊臣秀吉に仕え、文禄元年、朝鮮役に際して、乞われて小早川秀秋の家老となった。
林正成は、狷介《けんかい》一徹な性格で、機を看て巧みに身を処すことのできぬ武辺であった。
小早川秀秋が、関ヶ原役で、石田三成を裏切った時から、正成は、主君を軽蔑し、やがて、二万石の高禄をすてて、備前を去り、本国美濃に帰って、谷口で浪人ぐらしをはじめた。
妻の福は、そういう良人の行為を、古い武辺の愚《おろか》さと批判し、谷口の|わび《ヽヽ》住居になってから、夫婦の間は、氷のように冷えたものとなった。
慶長九年七月十七日、三代将軍職を継ぐ男児(家光)が生れ、家康は、賢徳のある女性を、宮廷内からえらんで、傅育《ふいく》の任に当てようと考え、民部卿局という者を、京都へ上らせた。
しかし、宮廷内の位のある女官たちは、関東へ下るのをおそれいやがって、民部卿局が指名した数人は一人も、応諾しなかった。
民部卿局は、京都所司代板倉勝重と相談して、粟田口に、高札を立てて、氏素姓正しいしかるべき女性を求めた。
たまたま、用事で上京していた福は、この高札を読んで、即座に決意した。
谷口に帰って来た福は、良人に、この旨を告げた。
良人正成のこたえは、
「徳川家を継ぐ子の乳母になりたければ、当家から離別して行け」
それだった。
福は、良人と別れ、三人の子をすてて、出府し、竹千代(家光)の乳母となった。二十六歳であった。
幕府では、離別したとはいえ、三人の子をつくった正成を、浪人ぐらしのままに、うちすててはおけぬ、と徳川家仕官をすすめた。
正成は、切腹という壮烈な行為で、その返答をした。
春日局とは、こういう前半生を有った女性であった。
ただの勝気ではなく、今日の情況を看て、ただちに明日の状態を予想し、それに対応するきわめて冷静な判断力を、そなえていた。と同時に、自分が育て、将軍職に就けた家光に対して、異常なまでの愛情を抱いていた。
「先の先までのご懸念をなさる」
伊豆守は、微笑でこたえた。
春日局が、家光と同年である紀州頼宣を、非常にきらっていることは、かねてから、伊豆守は、察していた。
誰が看ても、家光と頼宣を比べれば、その器量に於て、後者がはるかにまさっていたのである。
「伊豆殿、おたのみ申します。紀州様にだけは、御座を与えて下さるな」
春日局は、頭を下げた。
「承知いたした。……それにしても、お局殿も、気が弱うなられたものですな。あと十年が二十年でも、生きのびて、和子を守りお育てする気力を、どうして失われました?」
「死病にかかっては、いかに気丈夫なわたくしといえども、もう敵いませぬ」
「ところで――」
伊豆守は、さりげなく話題を転じた。
「このたびの本丸再築にあたっては、堀田加賀殿には、大層ご苦労をおかけして、申しわけなく存じて居り申す」
下総佐倉城主堀田加賀守正盛は、実は、春日局の孫なのであった。春日局の長女が、堀田正利へ嫁して、もうけたのが正盛であった。
春日局は、十五歳で長女を産み、その長女も十五歳で、正盛を産んでいた。春日局は、三十歳で、祖母になっていたわけである。
伊豆守が、堀田正盛を、江戸城完成工事の総指揮者に任じたのは、ひとつには、春日局へのご機嫌とりであった。
それが、堀田正盛には、かえって、災禍となり、たった一年間で本丸を再建したために、正盛は、三十半ばの壮年であり乍ら、心身を消耗しつくして、莫大な借財を背負うて、目下、病臥しているのであった。
そして、正盛の嫡男正信が、弱冠十六歳で、苛政の権化となって、領民から膏血《こうけつ》をしぼりあげていた。
すべては、伊豆守の春日局に対するご機嫌とりから出た結果であった。
「なんの、主家へご奉公するのは、戦場にて、ご馬前で相果てるのと同じこと」
春日局は、こともなげに、云ってのけた。
堀田正盛が、自分の孫である、という情など、この老婆には、ほとんどないかのようであった。
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月 下 決 闘
一
張孔堂道場の小部屋で、千夜は、さして急ぐでもない小さな自分の用事を足していた。
道場は、幾棟かに分れていて、それぞれ、内弟子たちが住んでいて、自分たちで食事を作り、掃除洗濯するくらしをしていた。
千夜は、主人正雪の居間、書斎、寝室のある棟の中の小部屋を与えられていた。尤も、正雪が、諸国を経巡る旅に出たあとで、幡随意院長兵衛にともなわれたので、千夜は、まだ主人には正式に面謁して居らず、召使いとしての仕事はしていなかった。
ただ、遊んでいてはもったいないので、金井半兵衛や来客に、茶菓子を出すつとめを、自分から願い出て、させてもらっていたが、千夜にとって、生れてはじめて、ひまをもてあますくらしであった。
朝餉《あさげ》を終えた時刻で、これから午《ひる》までは、べつに、義務づけられた仕事はないのであった。
「千夜どのは、おいでか?」
不意に、廊下で、忍びやかな声音が、かかった。
「はい」
「ごめん――」
障子をひらいたのは、内弟子の小笠原兵馬であった。
旗本直参小十人組の組頭の三男であった。三河譜代で、御目見《おめみえ》の家であったが、百俵十人扶持の家の三男では、この寛永年間でも、すでに、前途に希望がなく、小笠原兵馬は、父からいくばくかの金子をもらって、屋敷を出て、由比正雪の門弟になり、道場に住み込んだ青年であった。
小笠原兵馬は、文武の道にうち込むことに、非常に熱心であったが、それよりも、数多い門弟の中で、ずば抜けた美男子であるために、どこにいても、目立つ青年であった。
千夜もまた、道場に来て、最初に、その顔と姓名をおぼえたのは、小笠原兵馬であった。
尤も――。
今日まで、べつに、親しく、会話を交したことは一度もなかった。いや、まともに、視線を合せたおぼえさえもなかった。
いま――。
はじめて、千夜は、兵馬の眼眸《まなざし》を、正面から受けて、とっさに顔をあからめて、目を伏せた。
内弟子が、留守中の主人の棟に、ことわりもなく入って来ることさえ無礼な振舞いであった。まして、その召使いの娘の部屋をおとずれるなどとは、絶対に許されぬことであった。
千夜は、しかし、作法をわきまえぬその行為を、とがめる意識は、すこしもわかぬまま、じっと、身をかたくした。
「折入ってのお話がござる」
兵馬は、部屋へ入るや、後手に障子を閉めた。
「はい……?」
千夜は、頭を下げつつ、にわかな胸のときめきをおぼえた。
荒くれた町奴がごろごろしている長兵衛の家で娘になり乍《なが》らも、男に対して、このように身も心も浮きあがるような気分になったのは、いまがはじめてであった。
「千夜どの! 身共は、そなたを好きになって居り申す」
兵馬は、単刀直入に打明けて来た。
「………」
千夜は、その言葉を待ってでもいたように、はげしい悦びの動悸で、胸が鳴った。
長兵衛の家では、長兵衛や唐犬権兵衛のきびしい命令もあったであろう、一人として、ひそかに、千夜をくどいた男はいなかった。
男から恋をささやかれた経験を持たぬ娘が、ささやかれる前に、身も心も浮きあがるような気分になっていたのである。
「………」
心の臓の鼓動を速いものにしつつ、千夜は、なんとこたえようもなく、俯向《うつむ》きつづけた。
兵馬は、はじめて千夜を見た瞬間から、恋をした、と云った。
――わたくしも!
千夜は、胸の裡で、応《こた》えた。
「千夜どの! 身共は、そなたを生涯の妻に、と思いきめ申した。それゆえ、斯様に、敢えて礼儀をすてて、忍んで参った」
兵馬の言葉は、千夜の返答を待たずに、つづけられた。
千夜は、もう、兵馬がつぎつぎと吐く言葉をきいているゆとりなど、みじんもなかった。
ただ、
――この御仁《おひと》に愛されている!
その歓喜だけが、全身を馳せめぐっていた。
……いつの間にか、手を握られ、抱き寄せられていた。
それに抵抗した意識さえも、千夜にはなかった。
千夜は、唇を、男の口でふさがれた。
瞬間、千夜のからだ中から、骨が溶けたようになった。その代りに、どうしても止められないふるえが襲って来た。
二
と――。
不意に、兵馬は、千夜のからだを離して、すすっと退り、
「相済まぬ! 恋情を抑えきれず、つい、本能に身をまかせて、非礼の働きをいたした。……許されい」
と、詫びた。
千夜は、なかば物足りなさを感じ乍ら、かんまんな動きで、身づくろいして、坐りなおした。
「千夜どの! 明日の夜、忍んで参っても、よろしいか?」
「い、いえ、それは……」
千夜は、思わず、かぶりを振った。しかし、それは、拒絶を意味してはいなかった。すくなくとも、兵馬は、そう看てとったようであった。
「では、明夜――」
兵馬は、そそくさと立って、廊下へ忍び出て行ってしまった。
千夜には、一人とりのこされた空虚感が、一瞬、のこった。それは、兵馬があまりにも早く、立去ってしまった不満といえた。
もはや、千夜は、一人で、無心の状態で、時間をすごすことはできぬ身となった。
兵馬の姿が、瞬時も、脳裡をはなれなくなった。
次の日の夜まで、なんという長く待ち遠しい一日であったことだろう。
誰にも、気づかれなかった。
金井半兵衛だけが、茶菓子をはこんで来た千夜の様子を眺めて、
「そなた、加減でもわるいのか?」
と、訊ねたくらいのものであった。
夕餉を摂り了えた時から、千夜の心は、さわぎつづけ、不安と期待がたかまった。
――何刻ごろ、忍んでおいでになるのであろう?
――おいでにならぬかも知れない?
――あれほどお顔も頭脳も業前も立派な御仁《おひと》が、わたくしのような、素姓も知れぬ女中風情に、まことの恋をなされるはずがない。ただ、ちょっと、からかってみられたにすぎないのではあるまいか?
――いいえ! 何事にもひと筋にうち込むご気象ゆえ、わたくしを、心から愛して下されたに相違ない! 兵馬様は、かならず、おいでになる!
不安をうち消しては、期待し、期待が裏切られる場合にそなえる本能が、不安感をよみがえらせ……千夜の心は、荒浪にもまれるように、さわぎつづけた。
初更(午後八時)をまわった頃合――。
千夜の耳は、敏感な野性の小動物のように、遠くから、忍びやかに近づいて来る跫音《あしおと》を、ききとった。
――おいでになった!
千夜の胸は、早鐘のように高鳴って、破れそうになった。
今日まで、白粉《おしろい》も紅《べに》もつけたことのない顔に、うっすらと化粧していたし、小袖に、香も焚きこめていた。
跫音が、部屋の前で止った瞬間、千夜は、呼吸が苦しくなり、大きく肩で吐息した。
「千夜どの!」
兵馬の声が、呼んだ。
「は、はい!」
「ごめん――」
兵馬は、障子を開けて、すっと入って来た。
「参り申した」
「はい!」
千夜のからだは、すでに、兵馬の手がのびて、抱きかかえられるのに応えるべく、燃えていた。
「身共の恋、受け入れて下さるな?」
「は、はい! ……でも」
「でも? なにか、身共にご不満があれば、おきかせ下され」
「ここは、由比正雪様のおすまいゆえ、こうして、忍んでおいでなさいますと、……不義を働いたことに相成ります。……もし、万一、露見いたしますと、貴方様のお身の上が……、わたくしには、それが、心配で――」
「先生は、江戸城内や大名屋敷の老いた石頭とはちがい、これが真剣な恋とお判りになれば、屹度、おみとめ下さる、と確信いたす」
「で、でも、それは、貴方様だけが、そうお思いになっているだけで、……あるいは、先生は、お許し下さらぬかも知れませぬ。……いえ、先生がお許し下さっても、金井様や、他のかたがたが、お怒りになり……」
云いおわらぬうちに、千夜のからだは、兵馬の腕の中にあった。
千夜の唇は、もうすでに、骨が溶けるような甘美な恋の味を知っていた。
舌と舌がもつれあい、自分の舌の方が、兵馬の口の中へ吸い込まれた瞬間、千夜の全身は、|おこり《ヽヽヽ》のようにふるえ、そして、それは、容易におさまりそうもなかった。
兵馬の片手が、下へのびて、千夜の小袖と二布《こしまき》を、そろそろと、たくしあげようとした――その時であった。
「もう、そのあたりで、止められたらどうでござろうか」
冷やかな声音の忠告が、廊下から、障子をつらぬいて、二人へあびせられた。
三
とたん――、兵馬は、千夜を突きとばしておいて、さっと、身構えた。
脇差だけ佩《お》びていたが、その柄へ、手をかけた。
廊下に佇立した者は、
「あられもない光景は、見とうもない。小笠原兵馬殿、お主の方から、出て来るのだな」
と、云った。
石川五郎太であった。
「………」
兵馬は、ちょっとためらっていたが、
「これは、真剣な恋でござる! 何卒、お看のがし下されい」
と、たのんだ。
すると、五郎太は、
「不義をとがめて居るのではござらぬよ。お手前が、何故に、その娘御をわがものにしようとしたか――その目的に、およその見当がついたゆえ、中止してもらったのでござる」
と、云った。
「目的など……」
「余人は知らぬ。この石川五郎太を、だますことはでき申さぬよ、小笠原兵馬殿」
「………」
「柳生道場内から、老中松平伊豆守殿に、えらび出されて、送り込まれたほどの逸足ならば、いさぎよく、出て来て、拙者と立ち合うのだな」
五郎太は、ずばりと云ってのけた。
「………」
兵馬は無言で、立つと、障子を開けた。
五郎太は、云った。
「差料を持参されい。拙者は、この庭で、待って居る」
「………」
「はやくして頂きたい。門弟たちに気づかれぬうちに、勝負をきめたい」
「………」
兵馬は、廊下を奔り去った。
――どうぞ、このまま、お遁《に》げなさるように!
部屋の中で、千夜は、合掌した。
いかなる目的があって、兵馬が、自分をわがものにしようとしたのか、皆目判らぬ千夜であったが、その目的遂行のための生贄《いけにえ》にされようとしたことを知らされても、もう、心身ともに、兵馬に与えてしまった恋慕の情は、消すべくもなかった。
千夜の祈りにもかかわらず、兵馬は、おのが差料を携げて、ひきかえして来た。
五郎太は、庭の中央に立ち、その白髪を、月光に照らしていた。
兵馬が、庭へ降りると、五郎太は、
「やむを得ぬ仕儀でござる。この石川五郎太、正雪先生の股肱《ここう》となった上からは、幕府から送り込まれた間者を、生かして去らせるわけには参らぬ。もし拙者に勝ったならば、首尾よく目的を遂げられい」
と、云った。
「………」
兵馬は、言葉を吐く代りに、白刃を鞘走らせると、中段に位《くらい》取った。
「出来申すの」
五郎太は、その構えを、じっと凝視して、独語するように云った。
五郎太自身は、兵馬の構えに応じて、抜刀することはしなかった。
兵馬は、じりっじりっと、迫った。
五郎太は、動かず、おのが五体が完全に、兵馬の刃圏内《じんけんない》に容れられても、平然として、自然の立姿を保っていた。
いくばくかの対峙があって、兵馬は、汐合きわまった刹那をのがさず、きえーっと、月かげを截《き》り、夜気を鳴らした。
五郎太は、あおられて、飛ぶように、身を宙のものにした。
五郎太が、とまったのは、背後にあった高麗燈籠の上であった。
初太刀を失敗した兵馬は、やはり、若かった。
遁れて跳躍した敵に対して、おのれも、すばやく、後退する老獪《ろうかい》な智慧が働かなかった。
そのまま、猛然と進んで、地を蹴るや、燈籠上の五郎太の下肢めがけて、目にもとまらぬ迅速なひと薙ぎを送りつけた。
五郎太は、翼でもあるかのごとく、空へ翔《と》んだ。
兵馬は、五郎太が地面へ降り立った時、地ひびきたてて、仆れた。
その咽喉《のど》には、ふかぶかと手裏剣が、突き剌さっていた。
「許されい」
五郎太は、片手拝みに、縡《こと》切れた兵馬に、詫びた。
それから、ゆっくりと踵をまわして、歩き、千夜がいる部屋に入った。
「どうやら生れてはじめて恋をしたらしいそなたにも、ふかくお詫びつかまつる。許して下され」
五郎太は、頭を下げた。
千夜は、自分がいまどのような状況下に置かれているのか、判断もつかぬような、茫然と自失の|てい《ヽヽ》であった。
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皿 文 字
一
石川五郎太は、千夜に訊ねた。
「小笠原兵馬が、何故に、そなたに、恋をしかけたか――その目的は、お判りか?」
「いえ、まるきり、見当も……」
千夜は、かぶりを振った。
兵馬を殺した五郎太に、憎しみや怨みの気持はなかったが、もう生甲斐を失ったような虚脱感が、千夜にはあった。
「そなたは、少女の頃、しばらく、青山に在った直参大身の大久保播磨邸に奉公していた由、きいたが……」
「はい。いたして居りました」
「それは、そなたの親代りになっていた夜兵衛という老人の命令であったのだな?」
「はい」
「夜兵衛という老人が、実は、大坂城の落人で、熊谷三郎兵衛という武士であったことを、そなたは、知らされていたかな?」
「いいえ。……でも、前身はおさむらいだったのではあるまいか、と想像いたして居りました」
千夜は、そう返辞をした。
「老人は、大久保邸へ、そなたを作法見習い奉公させるにあたって、何かをせよ、と命じはせなんだか?」
「………」
「かくさずに、打明けて頂きたい。たのむ!」
五郎太は、頭を下げた。
千夜は、しばらく沈黙を置いてから、
「大久保家のお女中於菊さまが所持なされている、ある大切な品物を、盗んでもらいたい、と申しつけられました」
と、こたえた。
「その於菊という女中は、あるじ大久保播磨に斬られて、亡くなった。……そなたは、於菊が所持していた大切な品を、盗んで、幡随意院長兵衛宅へもどったかな?」
「いえ、盗みはいたしませぬ」
「盗まなかったと?」
「はい」
「ふむ?」
五郎太は、腕組みをした。
千夜は、於菊によって、大久保邸から、こっそりと立去らされた日のことを、思い泛べた。
於菊は、百年前の名工|祥瑞《しよんずい》が焼きあげたという十枚の皿を、預け、
「千夜、この十枚の皿は、わがあるじ九条明子様が、わがいのちとひきかえに、わたくしに、守るようにとお渡しなされた、この世に二つとない貴重な品なのです。……よろしいか。その、名張の夜兵衛という老爺以外に、渡してはなりませぬ。この儀、かまえて、忘れてはなりませぬぞ。そなたを信じて、預けるのです」
と、申しつけたのであった。
しかし――。
千夜が、その貴重な品を持って、長兵衛の家へ帰って来た時、一刻おそく、すでに、夜兵衛は、この世を去って、顔に白布をかけられていたのである。
――於菊さまのご遺言を、わたしは、守らなければならない!
自分に云いきかせたものの、千夜は、十枚の祥瑞皿を渡すべき人を喪っているのであった。
「千夜殿!」
五郎太は、千夜の顔を凝視して、
「拙者を警戒されて居るな。しかし、そなたは、もはや、この道場以外に身を置くべき処はござらぬ。もし、そなたが、その大切な品を所持されているならば、渡す対手は、由比正雪先生しかござるまい」
と、云った。
「………」
千夜は、眼眸《まなざし》を、膝へ落したなり、身じろぎもしなかった。
五郎太から、そう云われてみれば、その通りに思われる。しかし、於菊からは、名張の夜兵衛以外の人には、絶対に渡してはならぬ、と命じられた千夜であった。
「千夜殿! そなたは、まちがいなく、その大切な品を所持して居られる。そなたのその様子が、はっきりと、示して居る。……だからこそ、老中松平伊豆守の放った間者に、狙いをつけられたのでござるよ」
「………」
千夜は、顔をあげて、五郎太を視かえした。
ふっ、と――。
古稀翁さながらの白髪を有ったこの人物に対して、千夜は、兄のような感情がわくのをおぼえた。呂宋左源太(目下は、夜兵衛の本名を継いで熊谷三郎兵衛となっている)や金井半兵衛や丸橋忠弥とは、どことなく異質な、こちらの心が許せるような人柄に思われて来た。
――この御仁は、わたしがこばめば、必ず、この部屋から、あの品をさがし出すに相違ない。
千夜は、この石川五郎太が、ただの浪人者ではなく、むかし、伏見城大手門前の広場で、釜ゆでの極刑に処せられた、大盗石川五右衛門の息子であることを、金井半兵衛から、きかされていたのである。
――この御仁を信頼してみよう。
千夜は、自分に云いきかせると、しずかに座を立った。
ほんの一昼夜だけにせよ、わが心と身を燃やした青年が、実は、公儀から送り込まれた間者であり、自分をだましたのだと判ったいま、千夜は、もう生きていることなど、どうでもいいような、なかば自棄的な気持になっていた。
二
千夜は、五郎太の膝の前へ、紫色の布で包んだ桐函を、置いた。
「わたくしが、於菊さまから、お預りしたのは、このお品でございます。名張の夜兵衛という老爺以外に渡してはならぬ、というお申しつけでありました」
「拝見いたす」
五郎太は、無造作に、包みを解き、函の蓋をあけた。
「ほう、これは、皿でござるな」
絹で包んだその一枚を、手に把った五郎太は、
「この皿の中に、重大な秘密がかくされていることは、すでに、そなたも想像されて居ろう。……拙者を信頼して頂くためにも、その秘密が、なんであるか、そなたに、お教え申そう。……於菊殿は、九条明子殿の召使いでござった。九条明子殿は、駿河大納言忠長卿の想われ人であり、忠長卿が高崎へ配流になってから、そこへ、松平伊豆守によって、送られた女性《によしよう》でござった。……松平信綱が、何故に、その配所へ、明子殿を送ったか。それは、駿府にかくされてある太閤秀吉の遺金の在処《ありか》を、忠長卿の口からきかせるはからいだったのでござる。明子殿は、たしかに、忠長卿から打明けられたに相違ござらぬ。しかし、その秘密を松平伊豆守に告げる代りに、召使いの於菊殿に、この皿に記しとめて預けた、という次第。……すなわち、この皿の中にかくされてある秘密というのは、駿府にかくされてある太閤遺金の在処を記してあること、と心得られたい」
「はい」
千夜は、うなずいた。
絹布から出された十枚の祥瑞皿は、一列に竝《なら》べられた。
五郎太は、まず中央の一枚を把りあげて、表を丹念に眺め、それから、裏をかえした。
「む!」
五郎太の双眸が、光った。
き
その文字が、朱漆で記されてあった。
これは、祥瑞が焼きあげた時、入れた文字ではないことは、明白であった。
五郎太は、十枚の皿を、すべて裏がえしにしてみた。
ぞんごうきかぐのちら
「判った! この十文字を、ならべかえてみればよいのだ」
五郎太が、ならべかえるのに、さして時間を必要とはしなかった。
「出来申したぞ」
五郎太は、千夜に微笑してみせた。
千夜は、読んだ。
ごきんぞうのちかぐら(御金蔵の地下蔵)
「太閤遺金は、駿府城内の御金蔵の下に、地下蔵を設けて、そこにかくされてあるのでござるよ」
「………」
千夜は、ほっ、と吐息した。
五郎太は、ちょっと沈黙を置いてから、十枚の皿を重ねた。
次に為した五郎太の振舞いは、千夜を、愕然とさせることであった。
不意に、五郎太は、それを両手でかかえあげると、縁側へ出て、沓石《くついし》めがけて、たたきつけたのである。
千夜が、止めるいとまもない素早さであった。
「な、なにをなされます!」
千夜は、顔から血の気を引かせ、からだをふるわせて、五郎太を、睨みつけた。
五郎太は、おちつきはらって、
「次の公儀隠密が、門弟となって、当道場へ送り込まれて参っても、これで、むなしく、ひきあげるしかすべがなくなり申した」
「で、でも……、貴方様は、あの品を、由比正雪先生に、さし出すおつもりではなかったのではございませぬか?」
千夜は、にわかに、この人物が、太閤遺金を一人占めにしようという|こんたん《ヽヽヽヽ》を起した悪党、という疑惑の念をわかせた。
「千夜殿、拙者が、私欲を起して、皿をくだいた、とお疑いらしいが、それは、ちがい申す」
「……?」
「拙者は、たしかに、正雪先生の腹心になり申した。いまでも、正雪先生に惚れ、魅せられて居り申す。しかし!」
五郎太は、鋭い視線を、宙に送って、
「正雪先生に対して、ひとつ、拙者は、疑念を抱いて居るのでござる」
三
石川五郎太が、もし、下総国佐倉の大庄屋木内宗吾に、偶然出合わなかったならば、正雪という人物の性格に対して、その疑念を抱かなかったに相違ない。
五郎太が、正雪の命令によって、江戸城天守閣に放火して、本丸を焼きはらったため、どれだけの人民が、塗炭の苦難に遭うたことであったか。そのことまで、正雪は、思いを馳せなかったのは、明白である。
正雪の肚裡《とり》には、天草・島原の乱で、浪人隊をすげなく追いはらった憤りがあって、松平伊豆守にひと泡噴かせ、目にものみせてくれようという気持があったに相違ない。
――正雪という人物は、大きな野望を抱いているが、天下万民の幸せなど、すこしも考慮に入れていないのではあるまいか?
五郎太は、木内宗吾の話をきいた時、はじめて、ふっと、その疑念を抱き、正雪の腹心となったことに、微かな悔いさえおぼえたことだった。
五郎太は、そのいきさつを、千夜に、包まず、語った。
「もし、正雪先生が、太閤遺金を入手されたならば、どのような乱を起して、それが、日本全土の大名衆や庶民に、いかなる災禍をおよぼす結果を招くか測り知れず――と、拙者は、そのことを憂うのでござる」
「………」
「駿府城の御金蔵の地下蔵に、太閤遺金が、かくされてあることは、そなたと拙者の胸にたたんで、余人に口外せぬことにいたし、……やがて、正雪先生が、どのような壮図を企てて居られるか――すくなくとも、天下万民に、なんの迷惑もかけぬ|それ《ヽヽ》であれば、その秋《とき》こそ、太閤遺金の在処を、先生に、打明けてもおそくはあるまい、と存ずる次第。……お判り頂けるであろうか?」
「は、はい」
千夜は、いちまつの疑惑をのこし乍らも、納得した。
「では、小笠原兵馬の遺体を、始末いたす」
五郎太は、立ち上りかけて、
「拙者は、これまで、人を殺すことを、極力避けて参ったが、今宵は、やむなく、対手が、公儀のまわし者と知って、手にかけ申した。……そなたの純な心が傾いた青年を、殺したのは、後のちまでの悔いとなり申す。かさねて、お詫びつかまつる」
と、詫びた。
次の日――。
金井半兵衛は、五郎太から、小笠原兵馬が、柳生道場より遣わされた隠密であった、と知らされて、
「もしかすると、門下の中に、そういう奴がまぎれ込んで居るかも知れぬ、とかねがね予想はして居ったが、あの好もしい若者が、間者であったとはのう」
と、眉宇をひそめた。
「第二、第三の隠密が、送り込まれて参ることは、これで、もはや、明白となり申した。充分に、お気をつけられるよう、お願いつかまつる」
「看破する任務は、お主に、まかせる。お主が、最も適任だからな」
「いや、拙者は、ちと思うところがあって、日本全土を経巡って、浪人衆が如何に貧窮いたしているか、この目でたしかめてみたいと思いたち申したなれば……」
「浪人どもが、いかに困っているか、たしかめるまでもあるまい。第一、お主、これまで、諸国をまわって居るではないか」
「いままでは、徳川家憎さのあまり、譜代大名の国ばかり、観てまわり申したゆえ、こんどは、外様大名の領土内にいる、浪人衆のくらしぶりを、つぶさに調べあげて参ろうと存ずる」
「それもよかろう。……これは、と目をつけた浪人者は、お主、ひそかにくどいて味方につけてくれぬか?」
「かしこまり申した」
五郎太が、出て行くと、入れ代りに、丸橋忠弥が、姿をあらわした。
「正雪は、帰府が、おそいのう。どこをうろついて居るのか?」
「正雪は、無駄には、一日たりともすごして居らぬはずだ」
「それにしても、便りぐらい寄越してもよいではないか。……もしかすれば、紀州大納言の説得に、失敗したのかも知れぬ」
「忠弥、あせるな。急《せ》いては、事を仕損んずるぞ。それよりも、お主の道場にも、公儀隠密が、門弟としてもぐり込んで居るかも知れぬ。くれぐれも、要心しろ」
「おれは、槍術を教えて居るだけだ。こちらの大志を、さぐり取られるうれいなど、全くない」
「いや、お主は、大酒をくらいすぎる。酔ったあまり、つい、軽率に口をすべらすおそれがある。……酒をつつしめ、酒を」
「おれが、禁酒したところで、肝心の軍資金を、正雪が手に入れてくれぬことには、壮図は、画餠《がべい》に帰すだけだぞ」
そう云う忠弥は、すでに、白昼から、熟柿臭い息を吐いていた。
半兵衛は、長年の友であり乍ら、この忠弥が、同志である限り、いざ壮図決行となった際、この男から、大事がもれるような不吉な予感が、その時、ふっと、わいたことだった。
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日 月 逝 く
一
歳月の流れるのは、早い。
寛永は、二十年で終った。十月三日、天皇が、紹仁親王に譲位され、その月二十一日に即位があったからである。それより二月前に、春日局が逝った。
年号は、正保と変り、あっという間に、四年が過ぎた。
その四年の間に、前大老土井利勝が、寿齢七十二歳で逝き、柳生宗矩もまた歿した。七十六歳であった。
正保はやがて、改元あって、慶安と変った。
未曾有の規模を誇る江戸城は、全く完成し、約三百町といわれる江戸の町もできあがった。
いわば、江戸という町は、築城着手とともにつくられ、その普請工事とともにひろがり、その完成とともに、できあがった、といえる。
空前にして絶後の巨城をつくるためには、あらゆる職人を必要とした。
大工、石工、左官、鍛冶、鋳物師、畳屋、葺瓦工、表具師、庭師等々。
濠や石垣の工事は普請と称されて、これは大名の分担であった。建物を築くのは、作事といわれ、大工の仕事であり、江戸城建築にあたっては、中井大和、木原|内匠《たくみ》、甲良《こうら》豊後、平内大隅、鈴木近江、鶴飛騨、弁慶小左衛門、そしてかれらが逝くと、その息子たちが、うけ継いで働いた。
これらの大工は、後世のいわゆる職人ではなかった。あらゆる合戦に従軍して、徳川家の為に、本陣の小屋その他の作業をひき受けた士《さむらい》であった。
すなわち、士兼職人であり、中井大和などは、大和国の豪族出身で、関ヶ原役後、五畿内及び近江の大工、杣《そま》職人など一万六千人の頭領となっていた。
大名の家臣などよりも、地位が高かった。
本丸はじめ各丸の建物に関する限り、老中にさえも、口をさしはさませなかった(尤も、かれらが、どの建物を担当したか、その記録は、ほとんどのこってはいない。本丸玄関前の弁慶橋は、弁慶小左衛門が架けた。その程度にしか、判明していない)。
尤も――。
寛永年間にも、正保年間にも、大地震と火災に遭い、そのたびに修築再建しなければならず、おそらく、大工はじめすべての職人が、自分の持場のみならず、あらゆる箇処で働いたに相違なかった。
ただ、かれらが住んだ町が、その職名をとって町名にし――鍛冶町とか、材木町とか、白壁町とか大鋸町とか、畳町とか、後世までのこした。
町がひろがれば、当然、それに対応する政治方針がたてられ、あらゆる部面で、幕府は、庶民のくらしのための処置をとらなければならなかった。
府内各所に、辻番所を設置したのも、浅草寺をさらに大きく再建してやったのも、水道をはしばしまでのばしたのも、人別帳を調製したのも、倉庫の制を定めて、きびしく規則を守らせたのも、市中取締りの与力・同心に金もうけの商売(アルバイト)を禁じたのも、風呂屋から湯女を追放したのも、人口がふくれあがったせいであり、新しい秩序をつくらなければならなかったからである。
武士に対しては、法度をさらに厳重に守らせ、大小の刀の寸法をきめ、頭髪(髷)や髭の制度も、身分地位に応じたものにさだめた。
すべては、松平伊豆守信綱が、思案し、評定所で、提案し、形式的に将軍家光の裁可を得ておこなった。
そうした期間に、市井に於て、徐々に変ったのは、張孔堂道場であった。
敷地はさらにひろげられ、構えは数万石の大名の屋敷に匹敵した。
表門のつくりだけは、公儀に遠慮して、黒の冠木門そのままであったが、敷地は買いひろげて一万坪以上となり、建物はすべて建てかえられていた。入母屋造りの道場は、三倍になり、内弟子の長屋が増し建てられ、土蔵の数も、幾棟かが建て増され、表玄関には、堂々と菊水の紋を染めぬいた幕が張られた。
内塀がつくられ、その木戸を通って、内玄関が新設されていた。
講堂は、数倍の広さになり、母屋とは渡り廊下でつながれ、その講堂の上段正面にも、菊水の幕が張られた壇が設けられ、楠木正成の遺品と称する品が、一層おもおもしい価値を誇った。
門弟が日毎に増したためであった。
一介の浪人者が、公儀はもとより大大名の援助もなく、そこまで立派な道場をつくりあげたのは、稀有《けう》のことであった。
主人正雪の衣服も変った。総髪を肩までたらし、白の内衣に、うぐいす色の、菊水の紋のある細長《ほそなが》をかさね、白の大口の袴をつけ、左手に中啓を持って、講筵に臨んだ。
その堂々たる貫禄と識見ぶりは、もはや、金井半兵衛や丸橋忠弥から、気軽に、
「おい、正雪」
と呼びすてることをはばからせるようになっていた。
二
大半というよりほとんどの浪人者が尾羽打ち枯らして、街の辻で、いわゆる『軍書読み』『太平記読み』をやり、あるいは寺子屋をひらいて、ほそぼそと、その日その日を、どうにかすごしているのに比べて、由比正雪の羽振りは、いささか大袈裟にいえば、奇蹟といえた。
年号が慶安と変っても、幕府の浪人取締りは、ゆるめられるどころか、ますます厳しいものとなっている。
にも拘らず、一人、由比正雪だけは、日の出の勢いで、高名を売り、屋敷をひろげ、門弟の数を増しているのであった。
大老酒井忠勝や老中松平信綱が、正雪一人だけを、例外の浪人者として、黙って、みとめているのは何故であったろうか?
いかに、正雪が学識ゆたかで、人品骨柄が立派であろうとも、これだけの絶大な人気を得たのは、講座に坐っただけで、ふしぎな魅力を発したからに相違なかった。
寛永の末に、江戸へ舞い戻って来てから、正雪は別人のごとく魅力のある人物になったようであった。
金井半兵衛や丸橋忠弥が、正雪に対して、がらりと態度を変えて、あたかも、家臣のような態度になったことでも、その変貌ぶりが明白であった。
いまでは、半兵衛も忠弥も、いつの間にか、正雪を、「弥五郎」とか「正雪」とか呼びすてにするのを止めて、当人に対しては、
「正雪殿」
と、敬語を使い、第三者に対しては、
「張孔堂先生」
と、云っていた。
この二人が、正雪に抱く不満は、ただひとつあった。
正雪が、千夜を妻にしようとせぬことであった。
すでに四十歳を越えた正雪が、どうして、美しい千夜を、寝室に呼ぼうとせぬのか、半兵衛にも忠弥にも、合点しがたかった。
千夜は、すでに、二十七歳になっていた。
十五六歳で嫁《とつ》ぐのが、べつだん珍しくはなく、二十歳になると、もう婚期が過ぎた、といわれていた時代であった。
二十七歳ならば、数人の子の母親になっている年齢であった。
千夜は、美しいおかげで、二十歳そこそこにしか見えなかったが、三十路《みそじ》の峠はすぐそこにあり、越えれば、急速に花の盛りをあとにすることになろう。
「なぜ、妻になさらぬ? いや、妻でなくともよい。側妾《そばめ》として、褥をともにして、なんのさしつかえがござろうか?」
半兵衛と忠弥が、膝詰談判したが、正雪は、頑として肯き入れなかった。それから、すでに四年余が、過ぎている。
千夜は、依然として、ただ正雪の食事の給仕、身のまわりの世話をするだけの女中でしかなかった。
そして、その状態が、こうして長い月日にわたってつづくと、正雪のような意志の強い人物は、ふと気持を変えて、千夜を褥へ入れることは、まず、あり得ないようであった。
千夜は、自分から願い出る女ではなかった。公儀隠密であった小笠原兵馬に、たった一日だけ、恋情の焔を燃やして以来、その心はふかく閉《と》ざされたものとなっていた。
正雪は、そのことを、石川五郎太から、ひそかに告げられたかどうか、千夜に向って、ふれたこともなく、また、半兵衛・忠弥に、語ったこともなかった。
さりとて、正雪は、門弟をひきつれて、吉原の廓など、遊里におもむくこともしなかった。
きわめて厳しい克己・禁欲のくらしを守り通していた。
半兵衛も忠弥も、無妻であったが、前者は、しばしば、遊里へ足を踏み入れていたし、後者は、歌舞伎の元祖出雲の阿国の弟子である美しい女を、妾として家へ入れていた。
「判らんのう。いったい、正雪殿は、女を抱きたい欲情を起したことはないのか? それとも、抑えて居るのか?」
忠弥は、半兵衛に、云ったし、半兵衛の方は、
「大望を敢行せんとする者は、妻妾や子をつくって、それに気持をとらわれるのをきらって、断乎として、寄せつけぬのであろうな」
と、解釈するよりほかに、納得のしようがなかった。
三
正雪が、しばしば、軍学講義と称して、出府した紀州大納言頼宣を、その邸に訪れるようになったのは、正保と年号があらたまってからであった。
邸内では、正雪は、頼宣と二人きりで、さしむかい、一刻以上もすごしている模様であった。
はたして、軍学の講義がなされているのかどうか、誰も知らなかった。
江戸の紀州邸には、附家老安藤帯刀はいなかった。また帯刀の腹心と目される士も、その講筵の座からは、遠ざけられた。
隣邦明朝最後の天子毅宗|崇禎《すうてい》帝が、北京の景山(煤山・万歳山)で、自ら縊《くび》って相果てたのは、ちょうどその頃であった。
『闖《ちん》賊』李自戒に、北京を攻め落されたためであった。
明朝は、初代太祖洪武帝から、かぞえて十七代――二百九十五年をもって、その歴史の幕を閉じたのである。
その時、※[#「奠+おおざと」]森(二十一歳)は、父※[#「奠+おおざと」]芝龍とともに、福州(福建)に在った。
よもや北京が陥落するとは、※[#「奠+おおざと」]父子も予想もしていなかった。
『辺警』満州軍が、万里の長城を乗り越えることは、夢にも考えていなかったからである。
天下第一の関と誇る山海関を守備していたのは、明朝随一の武将呉三桂であった。
ところが――。
呉三桂将軍は、『闖賊』李自成の率いる革命軍を制圧するべく、敢えて、『辺警』満州軍と同盟をむすび、これに、万里の長城を越えさせたのである。
あるいは、呉三桂は、腐りはてた明の宮廷を打倒して、敢えて逆臣となり、貳心《じしん》を働かせたのかも知れなかった。
満州軍は、呉三桂から、『闖賊』を討滅する名分を得て、華北になだれ込んだ。
その結果、明朝最後の天子が、自殺する、という悲惨な結果をまねいた。
毅宗崇禎帝が、自殺すると、神宗千暦帝(十四代)の孫である福王弘光帝が、史可法ら重臣によって、南京に擁立された。しかし、福王は、暗愚で、この明朝未曾有の危機をわきまえず、酒と女にうつつをぬかす人物であったので、たちまち、清軍(満州軍)に、南京を攻め取られ、かれ自身も捕えられて、首を刎ねられた。
その悲報が、福州にもたらされると、※[#「奠+おおざと」]芝龍は、唐王隆武帝を擁立して、あくまで、清軍に反抗し、明朝を再興せんと、決意した。
隆武帝は、若武者※[#「奠+おおざと」]森を信頼して、
「余にむすめがいたならば、その方を聟としたい」
と云い、国姓の朱印を与え、成功と改名させ、御営中軍都督に任じた(国姓爺《こくせんや》の称名は、これにもとづく)。
国姓爺※[#「奠+おおざと」]成功は、ただちに、使者をしたて、海原を渡って、日本へ遣し、紀州頼宣に、
「明朝復興のために、何卒ご援助のほどを――」
と、求めた。いわゆる『乞師《きつし》日本』である。
しかし、この援軍を乞う密書は、附家老安藤帯刀の手によって、にぎりつぶされてしまった。
もし、密書が、頼宣の目を通すところとなっていたならば、日本軍遠征は、実現したかも知れなかった。
※[#「奠+おおざと」]成功にとって、不運であったのは、日本軍が援けてくれなかったばかりか、その父※[#「奠+おおざと」]芝龍に裏切られたことにあった。
※[#「奠+おおざと」]芝龍は、元来明朝の忠臣ではなく、海賊であった。
日毎に強大になる清軍に味方すべきか、すでに最後の天子を喪った明の残軍に忠節をつくすべきか?
『人傑とは、すみやかに時務を識《し》るべきである』
その信条を有っている※[#「奠+おおざと」]芝龍は、おのが一命と財産を守らなければならぬ、と考えた。
※[#「奠+おおざと」]芝龍は、唐王隆武帝にそむいて、清軍に寝返った。
しかし――。
その息子の※[#「奠+おおざと」]成功は、敢然として、抗戦の決意を守り、清軍がつたえた、いつわりの和睦の好餌には、ひっかからなかった。
※[#「奠+おおざと」]成功は、去って行く父親に向って、
「虎は山をはなれるべからず、魚は淵を出るべからず」
と、諫めた。
※[#「奠+おおざと」]芝龍は、かぶりを振って、新興の勢力に降るのが、身の安全である旨を、云いのこした。
※[#「奠+おおざと」]成功は、孔子廟前で、儒服を脱ぎすて、これを香炉の中で焚きすて、徹底抗戦を神明に祈り、天佑を乞うた。
かりに、紀州頼宣が、大軍船団を率いて、海を渡って、※[#「奠+おおざと」]成功に味方し、猛反撃にうって出たならば、あるいは、明朝は復活したかも知れない。
※[#「奠+おおざと」]成功は、わずかな手勢を引具して、清軍に抗戦したが、闘いに利あらず、裏切った実父の内通もあって、あえなくも、福州を敵の手に渡さなければならなかった。
この闘いで、隆武帝は、南京の弘光帝と同じ運命をたどり、捕えられて、首を刎ねられた。
この時から――。
国姓爺※[#「奠+おおざと」]成功の、一身をなげうった、凄じい執念に燃えたぎった抗戦がつづくのである。
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世捨人贈与
一
笠も衣服も、ふた昔も前の、おそろしく古びたものを身につけた一人の老人が、品川の大木戸をくぐって、府内に入って来たのは、その年の秋の暮であった。
無腰で、桜の杖を携えていたが、その身ごなし足どりは、かくれ様もなく、武家のものであった。
高輪を過ぎ、増上寺門前にさしかかった時、笠をあげて、あたりを見まわした。
その面貌は、石川丈山のものであった。
二十年前のもの静かな景色など、どこにも見当らぬ大層なにぎわいをみせている門前風景を、笠をあげて見わたした丈山は、
「公儀の中央集権がつくったものか」
と、呟いた。そのにぎわいに、いささかの嫌悪感をおぼえた独語であった。
実は、丈山は、熱海で紙|漉《す》きに幾年かを過していた頃、たった一度出府したきりで、京都へ隠棲してからは、ただの一度も、江戸に足を踏み入れていなかった。
京洛とは、比較にもならぬ、おびただしい人の数で、しかも、あらゆる階級の人々が、片刻も惜しむようにあわただしく行き交うている雑沓ぶりは、曾て丈山が眺めたことのない光景であった。
彼方の空には、未曾有の巨城の天守閣が、秋空を截《き》り抜いて、そびえ立っていた。
――あの江戸城を完成するために、日本全土の、大名や百姓が、どれだけ苦しめられたことか! 将軍家の権勢と、幕府の威力を誇示するために、あれほどまでの大城廓をつくらなければならなかったとは……。
雑沓を縫って、ゆっくりと歩いて行く丈山は、巨城に対してもまた、微かな嫌悪感をおぼえていた。
と――。
すれちがった墨染の衣をまとい、銅鉢を手にした托鉢僧が、ふと気づいて、頭をまわし、
「卒爾乍《そつじなが》ら、そこの御仁は、石川丈山殿とお見受けいたしたが……?」
と、武家言葉で、呼びかけた。
丈山は、振りかえって、眉宇《びう》をひそめた。
澄みきった晩秋の陽ざしをあびた托鉢僧の顔は、丈山のむかしの親しい知己であった。
「ほう、お手前様は!」
丈山は、いささかあきれて、托鉢僧の顔を見まもった。
それは、三河刈屋城主・松平能登守定政にまぎれもなかった。
「そのお姿は、どうなされた?」
丈山は、不審の面持になった。
松平能登守定政といえば、家康の弟(異父)定勝の六男で、寛永十年、二十四歳のときから、三代家光に仕え、児小姓から小姓組頭、近習と出世し、正保に入って、伊勢長嶋から刈屋城に移り、二万石を領した、譜代中の譜代であった。
その祖母が伝通院(家康の母、水野氏)であり、徳川家一族であった。禄高こそすくないが、江戸城内を大手を振って歩ける家柄であり、その気になれば、加判の列に加わることも可能な人物であった。
その人物が、みすぼらしい雲水に姿をかえて、市中を、物乞いして歩いているとは、不可解というほかはなかった。
「ははは……、大名というものが、いやになり申して、せがれ定知に家をゆずり、いまは気楽な、能登入道|不白《ふはく》という托鉢僧になり申した。……つまり、お手前とは、いささか異なるが、自由気ままな身になり申した」
徳川家一族の大名が、その身分地位をすてて、町家の門口に立って、銅鉢に、一文二文のほどこしを受ける身になるとは、前代未聞の振舞いであった。
天下に、浪人者があふれ、|つて《ヽヽ》をたのんで仕官の機会を必死にねらっている時世に、二万石を投げすてて、あろうことか、乞食同様の雲水になるとは、常人ではできぬしわざであった。
「なんぞ、深い仔細でもござってか?」
丈山は、訊ねた。
「心よりふる天が下、有一念、無一念、人をあらため、我を改むべし。……なに、現在の執政(老中)――殊に、松平豆州の施政ぶりが、なんとも、肚に据えかねるゆえ、わざと、反抗してみただけのことでござるわい」
能登入道不白は、あっさりと云ってのけた。
「………」
丈山は、流石に、こたえる言葉がなかった。
「尤も、公儀は、いまだ、わしが、刈屋城をすてたことは、みとめては呉れ申さぬが、もはや、大名にたちかえって、江戸城出府など、まっぴらごめんを蒙りたく存じて居り申す」
どうやら、定政は、幕閣へ対して、建白書を提出しているに相違なかった。
このような奇怪な所業に及べば、いずれ、刈屋城を没収され、領土は召し上げられるであろうが、それを承知の上で、托鉢僧になったのは、閣老たちには、狂気したと受け取られるに相違ないであろう。
――この能登守が、示した反抗は、巨城完成のために、どれだけ大名衆が、苦しめられたか、つぶさに見とどけているうちに、|むなくそ《ヽヽヽヽ》がわるくなったゆえであろう。
丈山は、想いやった。
能登入道は、一揖《いちゆう》すると、瓢々として、丈山から離れて行った。
二
やがて――。
丈山は、牛込榎町の宏壮な由比道場の門前に立った。
ずうっと、眺めまわして、丈山は、呟いた。
「これは、あまりに構えが大きすぎる」
冠木《かぶき》門をくぐり、吟味された植込みの中の広く長い、白砂を敷いた道を、表玄関へ向って、歩み乍《なが》ら、丈山は、もう一度、
「あまりに大きすぎる」
と、呟いた。
表玄関は、檜戸で閉ざされていた。門弟たちの出入り口は、別に設けられているのであろう。
丈山が、案内を乞うと、檜戸を開けた取次ぎの門弟は、訪客の粗末な身装《みなり》を一|瞥《べつ》して、あきらかに、拒否の態度を示した。
「洛北の詩仙堂が参った、と伝えて頂こう」
「先生は、不意の訪客には、絶対にお会いいたさぬ」
二十歳あまりの門弟は、拒否することが誇らしげに、云った。
「一応、詩仙堂のじじいが参った、と取次いで頂きたいものだ」
「旧知の間柄だといわれるのか?」
「左様――」
「たとえ旧知の間柄であっても、先生は、突然の訪問を、決して、受けられぬしきたりを守って居られる」
「このじじいならば、あるじ殿自ら、玄関へ出迎えるのではあるまいかな」
丈山は、微笑して、云った。
「………」
門弟は、古笠の下の顔を、視なおした。ようやく、その人品をみとめると、奥へ入った。
丈山の予言通り、正雪自身、いそいで、玄関へ、姿を現した。
あとに従って来た取次ぎの門弟は、正雪が式台へ正座して挨拶するのを眺めて、あわてて平伏した。
丈山は、正雪が、道場や書庫などをごらん下さいますよう、と願うのに、かぶりを振って、書院へ通った。
対座してから、丈山が、まず最初に口にしたのは、
「この大きさは、まずいの」
その言葉であった。
「まずいと仰せられますと?」
「お主ほどの器量者が、まだ、気づいて居らぬとは、ますます、まずいの」
丈山から、そう云われて、正雪は、にわかに、緊張の色を面上に刷いた。
「正雪、お前は、氏素姓の知れぬ浪人者だ。その得体の知れぬ浪人者を、府内の中央で、これだけの大きな構えの屋敷を設けさせて、松平豆州が、見て見ぬふりをいたして居る。……妙だとは思わぬか?」
「は――?」
「豆州は、お前が、どれだけ道場をふくれあがらせ、門下の頭数を増すであろうか――それを、黙って、眺めて居る。これを、無気味だと考えぬのは、お前が、何も気付いておらぬ証拠だ、とみるが、如何だな?」
「先生!」
「道場も門下の頭数も、ふくれあがらせるだけふくれあがらせておいて、機を看て、一挙に、お前をたたきつぶす――そういう豆州の肚を看抜くことができぬとは、お前ほどの男が、よほど迂闊になっている証拠であろうな。山に入って山を視ず、ということか」
「………」
「どうだな? 豆州の|こんたん《ヽヽヽヽ》が、どうして、お前には、看通せぬ? ……この張孔堂道場の構えは、すくなくとも、二万石の大名屋敷に比肩する。一介の浪人者が、斯くまでに、のしあがり、虚名を高めたことは、寛永以来、いまだ曾てないことだ。松平豆州は、それを、黙って、眺めて居る。ということは、いずれ、機会をうかがって、一挙に、たたきつぶしてくれようという肚をきめて居るからではあるまいかな。日本全土の二十余万の浪人者どもをふるえあがらせるためにな。……お前が、虚名を高め、くらしぶりを華やかにすればするほど、浪人者どもに対する見せしめのために、たたきつぶす効果があると申すもの。……由比正雪ともあろう男が、そのことに気づかぬとは、暗愚とののしられてもいたしかたがあるまいの」
まさしく、正雪は、丈山から、死角を照らされた戦慄をおぼえた。
「先生は、即刻、当道場をたため、と仰せられますか?」
「すでに、おそいの。お前の虚名は売れすぎた」
「………」
「もはや、由比民部之輔正雪は、あとへは、一歩も退《ひ》けまい」
「どうせよ、と仰せられます?」
「打つ手は、早いほどよい」
「………」
「成るか成らぬか――生死を賭けて、大博奕を打つよりほかに、お前には、ほかにすべはあるまい」
「………」
丈山は、そう云って、ふっと、微笑した。
「わしは、紀州へ参って、大納言卿を説いて、その足で出府して来た。頼宣公は、わしの説くところを納得された。|くじら《ヽヽヽ》獲りの船を、三十余艘、貸与する、と約束された。お前のためにな」
「先生!」
「お前の大望である海外雄飛のためにな。この丈山に、|しか《ヽヽ》と約束して下された」
三
「ご厚情のほど、生涯忘れませぬ」
平伏する正雪を見やって、丈山は、
「ところで、お前には、お前を扶《たす》けて、大事を成就させる智略をそなえた股肱《ここう》が居るのかな?」
と、訊ねた。
正雪は、一瞬、返辞をとまどった。
その様子を看て取った丈山は、
「壮挙を為す上に於ては、すくなくとも、五人以上の、信頼するに足りる器量をそなえた者が、お前を扶けなければなるまい。尾羽打ち枯らした浪人者どもを、二千や三千配下につけたところで、役には立たぬ。……正雪、対手は、松平豆州なのだぞ」
と、云った。
「仰せご尤もです。……しかし、野《や》には、なかなか、信頼するに足りる人物は、見当りませぬ」
「それでは、失敗の確率の方が高いの」
「………」
正雪は、半兵衛や忠弥の顔を、思いうかべ乍ら、
――あの男らでは……。
と、いちまつの不安感に襲われた。
「正雪――」
「はい」
「わしは、いま、決行を急げ、とすすめたが、どうやら、お前には、信頼するに足りる器量を所有して居る右腕左腕が居らぬ模様だな」
「………」
「わしが、紀州公からうかがったところでは、将軍家の不例は、相当ひどい模様だな。まんぞくに、政務がとれる状態ではないらしい。とすれば、他界されるのは、さほど先ではあるまい。四代を継ぐ和子は、幼少だ。三代公が他界されたならば、いかに松平豆州といえども、四代継嗣の問題に忙殺されて、お前などに目を光らせている余裕はあるまい。その隙をうかがって、決行すれば、成功率は高かろう。べつに、幕府覆滅の叛乱を起すのではない。軍船をしたてて、日本を脱出する企図の実行ゆえ、お前の組織した一党の団結力が、かたければ、実現不可能な夢ではない」
「先生! この壮図には、軍資金を必要といたします。その調達をせぬ限り、それがしは、実行いたしかねる不安を抱いて居ります」
正雪は、そう云って、じっと、恩師を瞶《みつ》めた。
すると――。
丈山は、やおら、懐中から、油紙に包んだ品をとり出して、正雪に手渡した。
「これは、お前から身柄を預った天草四郎時貞が残した遺書と一枚の絵図面だ。……先年、お前が、詩仙堂を訪れた際、時節が到来したならば、お前に渡す、と約束した。……受け取るがよい」
「忝《かたじけの》 う存じます」
正雪は、まず、その遺書を披《ひら》いてみた。
それは、天草四郎時貞が、いよいよ島原の原城陥落が避けられなくなった際、養父天草甚兵衛からきかされた秘密が、したためてあった。
駿府城内に、二千五百万両の太閤遺金が、かくされてあること。
その秘密であった。
やはり、正雪の予想は、的中していたのである。しかも、予想の倍以上の金高であった。
もうひとつの品は、その莫大な金銀をかくした場所と絵図面であった。
太閤遺金は、駿府城内金蔵の下の地下蔵に隠匿してあった。
「先生!」
丹念に、その絵図面を見入った正雪は、
「この軍資金を奪うためには、駿府城の金蔵を、爆破しなければなりませぬな」
「そのことだ。……火薬の知識が豊富で、金蔵を一挙に爆破できる者を、お前は、味方につけなければならぬ」
「………」
「その者を見つけ出し、説いて、味方につけることが、お前には、できるかな。できなければ、お前は、海外雄飛の夢をすてなければなるまい」
「先生! この正雪、不可能事と思われることを、可能にしてみせる自信がございます」
「ならば、よかろう。……さて、と――」
丈山は、もう、腰を上げていた。
「わしの出府して来た用件は、終った。これで、いとまをしよう」
正雪は、しばらくの逗留をすすめたが、丈山は、かぶりを振った。
「わしは、世捨人じゃよ、世捨人。……お前の壮拳の成ることを、遠く、洛北の隠棲所から期待して居ろう」
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権 謀 の 座
一
正雪は、恩師丈山が、江戸を立去ってから、一月あまりは、金井半兵衛・丸橋忠弥・熊谷三郎兵衛らにも、丈山の言葉を伝えず、壮挙決行の誓いをもとめようとはしなかった。
一人、書屋にとじこもって、いかにして、企図を成功させようか、と策略を練っていた。
海外雄飛の条件は、ととのったのである。紀州頼宣は、三十余艘の軍船を貸与してくれることになったし、駿府に隠匿された二千五百万両の太閤遺金の在処も判明したのである。
あとは――。
秘密裡に、日本全土から、胆力と知能の秀れた浪人者をまず三千人あまりえらび出し、これを説いて、同志に加えること。そして、決行の機会をつかむこと。それであった。
――三代将軍家光が、いつ、亡き人となるか?
丈山が告げた通り、まさしく、その秋《とき》こそ、決行の好機に相違なかった。
――家光逝去の前に、松平豆州が、おれをたたきつぶして来たならば……?
不安は、それひとつであった。
正雪は、しかし、その不安を脳裡から除くことにした。除かねば、壮図の策略を練ることができぬからであった。
正雪が、緘黙《かんもく》したまま、三月あまりが過ぎた――ある日。
夕餉の膳部をはこんで来た千夜が、いつになく緊張した様子を示した。
それに気がついて、正雪は、どうかしたか、と訊ねた。
「はい」
千夜は、正雪を正視して、
「天竺徳兵衛と申す大坂の商人の使いが、明けがた、こっそり、わたくしに、と一通の書状をとどけて参りました」
「そなた、天竺徳兵衛とは、知りあいであったのか?」
「いえ、存じませぬ。ただ、天竺徳兵衛殿の手許へ、厦門《アモイ》島から、密書がとどき、これを、当家に在る千夜という女子に渡してくれるように、とのことで……、わたくしが、受けとりました」
千夜は、そう告げて、一通の書状を、正雪にさし出した。
宛名は、『千夜殿』とあり、差出人は、『石川五郎太』と記してあった。
石川五郎太は、五年前、道場へ公儀隠密として送り込まれた小笠原兵馬を殺した直後、正雪にも無断で、江戸から姿を消したのであった。
その妻百合をともなって、行方をくらまして、爾来、杳《よう》として消息を断っていた。
「五郎太は、日本を脱出していたのか」
正雪は、千夜宛の密書を披いた。
それには、この石川五郎太は、目下、抗清復明に身命をなげうち、その軍船の舳先に『殺父報国』の旗をひるがえして、清の大軍と死闘している国姓爺※[#「奠+おおざと」]成功の意気に感動して、南方諸国から馳せ参じた日本の浪士らとともに、義勇軍を組んで、厦門・金門の両島を拠点として、これを扶《たす》けている、と記してあった。
※[#「奠+おおざと」]成功は、いくたびも、徳川幕府に対して、『乞師日本』――すなわち、援明抗清の軍勢を要請したが、江戸城内から全く黙殺されている。いまこそ、由比民部之輔正雪殿が決起して、自ら浪人隊を率いて、千里の波濤を押し渡って参られるべき秋《とき》と存ずる。石川五郎太はそう述べていた。
そして――、
『もし、正雪殿が、数千の浪人勢を引具して、当地へ馳せ参じられたならば、福建・広東・浙江などの省を席捲することは、きわめて容易のわざにて、一年以内に南京の攻略に成功すること疑いこれなきと存ずるゆえ、そなたが胸裡に抱く例の秘密を、正雪殿に打明けて、その決起をうながして頂きたい』
と、むすんであった。
正雪は、六年前、紀州和歌山城で逢った、眉目秀麗、端座した姿に気品のただようていた若者の姿を思い浮べた。
――あの※[#「奠+おおざと」]森が、国姓爺※[#「奠+おおざと」]成功となり、父の芝龍に裏切られ乍《なが》ら、『殺父』の悲憤に燃えて、清軍と戦っている、というのか!
正雪は、すでに、明朝が滅亡し、清朝が成った次第を、かなりくわしく、きき知っていた。※[#「奠+おおざと」]芝龍が、清に降ったことも、耳に入れていた。
――※[#「奠+おおざと」]成功は、まだ二十五六歳であろうが……。
正雪は、胸が熱くなるのをおぼえつつ、
「そなたの秘密とは?」
と、千夜に訊ねた。
「わたくしは、駿河大納言卿の寵愛をお受けあそばした九条明子様が、侍女の於菊様にお預けになった名品祥瑞皿十枚を、守ってくれるように、と渡されて居りました。その皿の裏には、十の文字が記されてあったのでございます」
すると、正雪は、
「駿府城の金蔵の地下蔵、という文句が記されてあったのであろう」
と、云いあてた。
「先生は、もう、ご存じだったのでございますか!」
千夜は、目をみはった。
「うむ。その絵図面を、さるところから、すでに入手いたして居る。……そなたの証言で、大坂城から掠奪された大金のかくし場所は、まさに、そこであることが、確信できた!」
「………」
「われら浪人者一統の行先も、決定した。行先は、厦門だ」
二
正雪が、夜半、書屋に、金井半兵衛、丸橋忠弥、そして熊谷三郎兵衛の三人を、ひそかに呼集して、壮図決行の肚を打明けたのは、それから十日後であった。
正雪は、まず、駿府に隠匿されてある莫大な太閤遺金の在処が判った旨を、告げた。
「どこだ、そこは?」
忠弥が、双眼を光らせた。
「駿府城の金蔵の下にある」
「金蔵の下?!」
「おそらく、金蔵を破壊いたさねば、入手できまい」
「大仕事だな」
金井半兵衛が、腕組みして、首をかしげた。
すると、熊谷三郎兵衛が、
「それがしは、火薬の取扱いを知って居る。火薬さえ手に入れることができれば、金蔵を爆破してみせ申す」
と、云った。
「火薬は、手に入れることができる」
正雪は、こたえた。
「北丸煙硝蔵をあずかる奉行の河原十郎兵衛が、この張孔堂に心酔いたして居るゆえ、味方に加える自信がある」
北丸というのは、現在の千代田区代官町にあたり、そこは、もとは駿河大納言忠長の江戸屋敷であった。河原十郎兵衛は、その江戸屋敷留守居であった。忠長が高崎幽閉後、屋敷がとりはらわれて、敷地内に煙硝蔵が設けられたが、河原十郎兵衛は、ひきつづいて、それの奉行を命じられた人物であった。つまり、忠長の旧家臣であった。
「煙硝蔵には、ほぼ七千石の煙硝が納められている、と十郎兵衛からきいたが、足りるか?」
正雪は、熊谷三郎兵衛に、訊ねた。
「千石もあれば、金蔵はおろか、駿府城の天守閣も、ふっとばすことができ申す」
「よし!」
うなずいた正雪は、
「南龍公(紀州頼宣)は、三十余艘の軍船を、貸与して下さる。三千人を乗り込ませることができる。問題は、この三千人の浪人者を、いかに、公儀にさとられず、同志とするかにある。たった一人が、うかつに、口をすべらせても、この企図は失敗する」
と、云った。
そして、つづけて、
「当道場内にも、公儀隠密が、二人や三人、門弟に化けて、松平豆州から送り込まれて居ろう。……半兵衛、どれが、間者か、看破できるか?」
と、訊ねた。
「いや、それは……」
半兵衛は、当惑の面持で、かぶりを振った。
「石川五郎太が居れば、看破してくれるであろうが、いまは、厦門で、ひたすら、われら一統の到着を鶴首して居る。……ともあれ、三千人を糾合するには、まずさきに、隊長たる者をえらび、この者たちを、諸国へ放たねばならなぬ」
正雪は、かねてから絶対信頼できると目をとめていた者の名を挙げた。
吉田勘右衛門・加藤市郎右衛門・熊谷六郎右衛門・鵜野九郎右衛門・坪内左司馬・有竹作右衛門・安見善兵衛・関ヶ原清兵衛・本吉新八・石橋源右衛門・佐原重兵衛・桜井三太夫・同彦兵衛・長山兵右衛門・柴原又左衛門など――。
いずれも、浪人者であり、その素姓、性情など、正雪が、充分に吟味調査した面々であった。
「これらの者たちを、それぞれ、月日をわけて、江戸から出て行かせ、諸国に逼塞《ひつそく》する、これはと見込んだ浪人者を説いて、味方に加えるのが、まず第一の仕事に相成る」
「決起の秋《とき》は、いつに相成ろうか?」
忠弥が、気ぜわしく、訊ねた。
「三代将軍家が、一両年うちに、逝く。その直後だ」
「では、その決行の方略は――?」
「それは、いずれ、教える。まだ、この正雪の心中で、万全の策が熟して居らぬ。いま申せることは、前代未聞の騒動をひき起す、ということだけだ」
「正雪殿、行先を、呂宋の日本人町にして下さらぬか?」
熊谷三郎兵衛が、たのんだ。
「いや、厦門だ。※[#「奠+おおざと」]成功を扶けて、福建・広東・浙江三省の沿海地方を席捲し、南京を攻略する。しかるのち、呂宋へひきあげて、そこに一大拠点をつくろうではないか」
正雪は、微笑して、云った。
三
偶然にも――。
同じ日、松平伊豆守信綱は、小姓頭の奥村権之丞を居間に呼びつけていた。
「その方に、いとまをつかわす」
冷たい無表情で、そう命じた。
「てまえに、なにか落度がございましたか?」
「落度はない。その方が、人一倍意志の強い、わしの無二の股肱ゆえ、いとまをとらすのだ」
「………」
「おまえは、いったん、江戸を出て、仙台へ入り、方言と訛を、この三月のうちに、完全に身につけた浪人者となって、江戸へ戻り、由比正雪の道場へ、門弟として入れ。よいな?」
「はい」
奥村権之丞は、主人の意図するところを、即座に合点して、平伏した。
「お前は、伊達家の家臣で、些細ないざこざから上司を斬って、逐電《ちくてん》した男になりすますのだ。その虚構の事実を、わしが伊達家に命じて、つくっておく、お前が、由比道場へ門弟として入ってから、ほどなく、伊達家から、使者がおもむき、それらしい男が入った模様ゆえ、もし当人ならば、引き渡してもらいたい、と談判する。正雪は、勿論、そういう男は門下に居らぬ、とはねつけるに相違ない。その時から、お前は、正雪の信頼を受ける門弟の一人と相成ろう」
「うけたまわりました」
伊豆守は一通の添状を、権之丞に、与えた。
仙台青葉城をあずかる城代家老宛の添状であった。
権之丞を出て行かせた伊豆守は、しばらく、目蓋を閉じて、身じろぎもしなかった。
その耳には、六年前に逝った春日局の言葉が、昨日きいたように、ひびいていた。
「伊豆殿――、わたくしは、来年のいま頃は、もうこの世に在りますまい。……案じられますのは、四代をお継ぎになる和子が、ご病弱なおからだにお生れになったことです。……おそらく、伊豆殿が、その職に在るあいだに、四代をお継ぎになりましょうが、あるいは、すぐに、五代にかわる懸念がありまする。……その秋《とき》、お手前様は、決して、紀州様に、御座を与えてはなりませぬ」
春日局は、そうたのんだのである。
それから六年の歳月を経た――いま。
三代将軍家光の寿命は、まさに尽きようとして居り、江戸城内には、
「四代の御座は、南龍公に――」
という空気が、流れていた。
四代を継ぐべき竹千代(家綱)は、すでに正二位・権大納言をもらっていたが、まだ九歳の少年であり、しかも、一年のうち数箇月は、臥牀している虚弱きわまる身であった。
このような、夭折《ようせつ》することが目に見えている少年に、将軍職を継がせるよりも、家康の第十子である紀州頼宣をして、四代の座に就かせた方が、徳川家のためではあるまいか。
この意見を、公然と口にする者こそいなかったが、大老酒井忠勝の表情には、ありありと、そうしたい、という気持があらわれているのを、伊豆守は、看てとっていた。
断じて、そうはさせぬ、という気色を示しているのは、西ノ丸に上って、竹千代の輔佐役をつとめている保科正之だけであった。
しかし、保科正之ただ一人が、いかに主張しても、もし、この松平信綱が、紀州頼宣を推せば、竹千代は、四代将軍家には絶対になれぬであろう。
――わしは、しかし、春日局の遺言を守って、幼主をいただくのだ!
これは、あきらかに、大老酒井忠勝に対する挑戦であった。
伊豆守は、忠勝が大老となってから、渠《かれ》をして、大老の間《ま》に、文字通り孤座せしめるように仕向け、それに成功していた。
しかし、大老はやはり大老であり、老中の上に存在する最高職であった。
その大老の権力が、行使されるのは、三代将軍家光が逝った時に、ほかならぬ。
将軍家に代って、大老が、
「四代の御座は、紀州公に」
と申し渡せば、老中、若年寄の意見は通らぬのである。
伊豆守は、忠勝にそう云わせてはならぬのであった。
そのためには、紀州頼宣に徳川幕府の法度を犯す科《とが》がある事実をつかんでおかなければならなかった。
伊豆守は、由比正雪が、しばしば、紀州頼宣を、その邸に訪れていることを、知っていた。
正雪が、軍学講義と称して、何を説いているか?
伊豆守には、およその推測がついていた。
――これを、南龍公に四代を継がさせぬ罪科とすることができる!
伊豆守は、自信を持って、おのれに云いきかせたのである。
頼宣をしりぞけて、竹千代を四代将軍家に据えることは、すなわち、大老酒井忠勝をして、いよいよ、孤立せしめることを意味していた。
伊豆守は、是が非でも、紀州頼宣に罪科がある証拠をつきとめておかなければならなかった。
もし、頼宣が四代将軍家となったあかつきには、この松平信綱は、老中職から追われることは、火を見るよりあきらかだったからである。
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成るか成らぬか
一
三代将軍家光が、四十八歳で逝ったのは、それから、一年後――慶安三年十二月二十九日であった。『徳川実紀』その他の史書には、逝去は、慶安四年四月二十日|薨《こう》ず、となっている。事実は、その前年の暮が迫ってからであった。
その喪は、かたく秘められたのである。
家光が危篤状態に陥るや、西ノ丸からは、竹千代(家綱)、そして、次男長松(のちの甲府宰相綱重)、四男徳松(のちの五代将軍綱吉)が、病室の次の間に詰めたが、これを、退出させたのは、松平伊豆守信綱のはからいであった。
その子らが、病床に侍《はべ》れば、父が危篤になったことが、城内から城外へもれて、世間にひろまり、騒ぎとなるおそれがあったからである。
大老酒井忠勝は、家光が逝くや、
「公儀の権威は確立し、制度もさだまり、ご逝去は、なんら世間を動揺せしめるものではない」
と、井伊掃部頭直孝にも、松平伊豆守にも、竹千代輔佐役の保科正之にも云って、ただちに、公表すべきである、と主張した。
『徳川実紀』にも――。
酒井忠勝が、閣老その他諸大名を集めて、
「儲嗣《ちよし》はおん年いまだ十一歳ながら、前代の御子にまします上からは、いずれも心安く思われるがよい。しかし乍《なが》ら、古より、幼主が継がれた際には、群臣の存念一決することがむずかしく、危機をまねく患《うれ》いがあるゆえ、もし、いま、面々のうちに、天下を取らんとする野望を抱く者が居るならば、いまが好機である。遠慮なく反逆を企て、下剋上を実行されたい、この讃岐守が、見ン事踏みつぶしてごらんに入れよう」
と、おどしつけた、とある。
諸侯は、ひとしく、平伏して、みじんの異心もないことを誓った、という。
これは、事実ではない。
家光の逝去を、しばらく、厳秘にふすよう、忠勝に、伊豆守が迫り、納得させたのが、真相であった。
伊豆守は、その理由として、忠勝に向って、
「紀州大納言卿に、四代の御座をのぞむ野心がある、とは申さぬが、あるいは、閣議にて、それを主張する者も現れる予感なしといたさぬ。……南龍公には、将軍職を継がれる資格は、ござらぬ」
と、云いきったのである。
忠勝が、頼宣を四代に推すのを看越して、先手を打ったのである。
「資格がないとは――?」
「南龍公がもし、四代の御座に就かれたならば、大軍を催して、国姓爺※[#「奠+おおざと」]成功の乞師日本に応じて、清国へ、攻め入られるに相違ござらぬ。いわば、大納言卿が、太閤秀吉の朝鮮攻めの二の舞いを演じられるのは、明白であることを、断言でき申す」
「それは、御辺のただの憶測ではあるまいか?」
「いや、大納言卿に、その野望がある事実を、この伊豆は、すでに、つきとめて居り申す」
「………」
「曾て、島原原城の攻略にあたり、お手前様が、浪人隊を組織させて、送り込まれた由比正雪なる人物が、いまや、日本全土に虚名を馳せて、大道場をかまえ、わがもの顔に振舞って居ることを、ご存じのはず。この由比正雪が、南龍公を説きそそのかして、大軍を清国へ攻め込ませようとしている、おそるべき陰謀を、この伊豆は、さぐりあてて居り、疑いなきものと確信つかまつる」
伊豆守は、頼宣と正雪との秘密の協定を、まるでその目で目撃したごとく、語った。
忠勝は、容易に信じようとはしなかったが、伊豆守に先手を打たれた無念の|ほぞ《ヽヽ》を噛んだ。
そこで――。
家光の死は、ひとまず、厳秘にされて、年を越したのであった。
そして、四代を継ぐのは、竹千代と内定したのである。大老である忠勝の発言権は、その瞬間から、奪われた。
忠勝は、沈黙し、伊豆守が、井伊直孝、保科正之、阿部忠秋、松平|乗寿《のりなが》の老臣を、自由にあやつる権力をつかんだ。
まことに、伊豆守の権勢争奪の演出は、巧妙をきわめた。
二
江戸城内に於ける、その秘密の処置が、由比正雪の耳に入らなかったのは、正雪の不覚であった。というよりも伊豆守に軍配を挙げるべきであった。ひとつには、市井の軍学者としては、江戸城内に、間者を入り込ませることは、不可能だったのである。
翌慶安四年四月二十日、家光逝去が公表された時には、伊豆守は、わざと紀州頼宣を国許に帰しておいて、由比正雪一派をたたきつぶす万全の方策を、たてていたのである。
正雪は、そのことに、夢にも気がつかなかった。
正雪の方は、着々として、海外雄飛の策謀を進め、すでに、日本全土に、三千数百の浪人者を同志に加えることに成功し、起つべき秋《とき》を待ちかまえていた。
正雪にとって、いまひとつの不覚は、伊達家脱藩浪人・千葉源次郎と変名して、内弟子に入り込んでいた伊豆守股肱の奥村権之丞を、いつの間にか、信頼するに足りる門弟の一人に加えていたことであった。
奥村権之丞は、内弟子となって半年ばかり経て、こういう事実を、金井半兵衛に打明けていた。
すなわち。
江戸城天守台の石垣内に、穴蔵と称《とな》える場所があり、四方に高さ二間の石垣をめぐらし、その中に、大坂城から奪った太閤遺金三千余万両が、かくされていること。
これは、曾て、主君伊達政宗が、なにかの機会に、ふと、その秘密をもらしたのを、権之丞は、きいた、と語ったのである。
正雪は、金井半兵衛から、このことを伝えられると、紀州頼宣に、事実の有無をたしかめた。頼宣は、「それはまことであろう」とこたえたことだった。
これは、まぎれもない事実であった。太閤遺金は、いつの間にか金蔵から、その穴蔵へ移されていたのである。
正雪らが滅びたのち、明暦の大火があって、天守閣が、焼失した際、金銀ことごとく、鎔解して、一団の塊《かたまり》 となってしまった。後に、石垣を崩して、この巨大な塊を三ノ丸にはこぶのに、人夫五百人の力を必要とした。そして、銀座年寄・京屋与四郎及び古手屋四郎右衛門の二人が、下命によって、この金銀を吹き分けたのであった。
奥村権之丞のこの報告が、正雪をして、渠《かれ》を信頼させ、壮図を打明ける門下の一人にした。
家光薨ず、という公布がなされるや、正雪は、
――秋《とき》はいたった!
と、いよいよ、実行のほぞを固めた。
正雪は、強叔父(頼宣)が弱甥(竹千代)の位を奪うことを、信じたのである。
その年七月中旬を期して、壮図を為す、と決定した。
紀州頼宣自身、松平伊豆守の密使を受けて、
「四代の御座は、南龍公――貴方様に、と大老酒井讃岐守殿も、意嚮《いこう》をきめて居り申し候」
と、だまされていた。
頼宣は、そのいつわりの密書を一読して、
「よし! わしが、四代を継げば、ただちに、国姓爺※[#「奠+おおざと」]成功に援軍を送り、日本武士の勇猛ぶりを、思う存分、清軍に向って、発揮してくれるぞ!」
と、勇躍したことだった。
すべては、松平伊豆守という老獪な智慧者に、踊らされたのである。
頼宣は、密使を、由比正雪に送り、自分が四代将軍職に就くことは確実である旨を、報せた。
正雪は、その報告を受けるや、七月下旬を期して、いよいよ、その実行に着手した。
丸橋忠弥らを江戸にとどめ、加藤市郎右衛門らを京都におもむかせ、金井半兵衛らを大坂に向わせた。
正雪自身は、熊谷三郎兵衛らをひきつれて、駿府に至り、駿府城金蔵を爆破して、その地下蔵の軍用金を奪う指揮をとることにした。
北丸煙硝蔵の奉行河原十郎兵衛からは、二千石以上の煙硝を、ひそかに運び出させて居り、そのうちの一千石を、すでに、駿府にはこんで、賤機山の麓にある足洗村名主・半左衛門の土蔵にかくしてもらっていた。
紀州家の鯨獲り船に擬装した三十七艘の軍船が、呼応して、奪った太閤遺金と二千余人の浪人者を乗せるべく。久能山沖あいに、航行して来る手筈も、もれなく、ととのっていた。
決起の日――。
河原十郎兵衛は、夜陰に乗じて、煙硝蔵に火をはなって、一大爆破を起し、同時に、市中各所にひそむ同志の浪人者が、一斉に、丸橋忠弥の許へ馳せ参ずる。
丸橋忠弥は、その一軍を率いて、大騒動の虚に乗じて、城内へ突入し、あわよくば、天守閣の石垣内の穴蔵から金銀を奪うとともに、松平伊豆守以下、老中を襲撃して、これを斬る。
佐原重兵衛、長山兵右衛門らは、八方を駆け巡って、譜代大名の屋敷に、火薬つきの火矢を射込んで、これを焼く。
京都に於ては、加藤市郎右衛門、坪内左司馬らが、二条城を乗っ取る。
大坂では、金井半兵衛が、主将となり、石橋源右衛門が副将となって、諸大名の蔵屋敷を襲撃して、米穀を奪取する。
まことに、途方もない企謀であった。これを、一挙に、たった一日で、やってのけようというわけであった。
江戸品川沖にも、堺湊にも、天竺徳兵衛がひそかにまわしてくれた千石船が、待機してくれている確約がなされていた(尤も、これらの千石船は、天竺徳兵衛の所有するものであることは、かたく秘していたので、凶変発覚後、徳兵衛は、共犯者として、召捕られるのをまぬかれた)。
三
深更――。
伊豆守は、私邸の南隅にある茶亭に、由比道場から抜け出して来た奥村権之丞を、迎え入れていた。
権之丞が、松平邸へ戻って来たのは、その夜が、はじめてであった。それまでは、密書だけを、伊豆守にひそかにとどけていたのである。
「正雪は、いよいよ、動き出したか?」
伊豆守は、正雪が一切の手筈をととのえたことは、すでに、権之丞の密書によって知っていた。
「はい。……正雪は、来る七月二十九日を期して、決行することを定めました」
「ふむ! すると、正雪が、おそらく、駿府へおもむくのは、それより十日ばかり前に相成ろうな」
伊豆守は、予測した。
「殿――、正雪が、駿府へおもむく前に、逮捕なさいましょうか?」
「いや――」
伊豆守は、かぶりを振った。
「正雪には、駿府へおもむかせる」
「……?」
「正雪が、駿府に至ると同時に、紀州家の軍船団が、久能山沖に参るであろうゆえ、それを待つのだ」
正雪一統を、江戸で逮捕し、あるいは討ちとることは、さしたる難事ではなかった。しかし、それでは、紀州頼宣に謀叛の罪科がある証拠がつかめぬのであった。
紀州家の軍船団が、久能山沖へ現れて、待機してこそ、頼宣の罪科は明白となるのであった。
伊豆守の目的は、頼宣を評定所に据えて、大老酒井忠勝の面前で、その罪科を糾明することにあった。
「殿!」
必死な面持で、瞶《みつ》める権之丞に対して、伊豆守は、冷たい微笑をかえした。
「お前は、正雪が只者ではないことを、この一年間、看て取って来た。駿府に至った正雪が、討手勢に襲われたならば、意外の奇謀を用いて、これをしりぞけ、海へ遁れるのではあるまいか、と懸念いたして居るのであろう?」
「はい」
「懸念無用だ。正雪は、陰謀が露見していることを、気づいては居らぬ。いや、たとえ、気づいたとしても、もはや、手おくれだ。……すでに、駿府城金蔵の下の地下蔵には、金銀はない」
伊豆守は、権之丞の密かな報告によって、二十年間もさがしあぐねていたそのかくし場所を知るや、金蔵の床を破り、深く掘りぬいて、地下蔵から、別の場所へ、二千五百万両を移してしまっていたのである。
「正雪は、軍資金を入手できぬと判れば、海へ遁れはせぬ。おそらく、いさぎよく、あきらめて、自決いたすに相違あるまい」
「はい――」
「あの男、乱世に生れるべき器量の所有者であった。惜しいと思う、あれだけの男が、もし、わしの右腕になってくれていたならば……」
そこまで云いかけて、伊豆守は、しずかに、楽茶碗を把って、一服した。
「わたくしの御用は、これにて終ったのでございましょうや?」
権之丞は、訊ねた。
「終ったな。……お前は、何食わぬ顔をして、由比道場へ帰り、黙って、眺めて居ればよい」
「正雪が、江戸を出発する日がきまりましたならば、お報せいたさねば、と存じますが……」
「報さずともよい。外から見張って居る」
「はい」
「この陰謀、きわめてかんたんに片がつくであろう」
「お言葉をかえしますが、江戸には、丸橋忠弥が残って居りますゆえ――」
「たかが、槍使い、しかも、きけば、あまり頭脳の方は上出来ではない由。召捕るのに、さまでの手間は、かからぬであろう」
権之丞は、今更乍ら、主人の自信に、胸がひきしまるのをおぼえた。
権之丞は、正雪が企てた途方もなく大がかりな壮挙を、その目で見、その耳で聞いていたのである。日本全土から、同志となった三千余人の浪人者が、さまざまの職業の者に身装を変えて、江戸はじめ、駿府、京都、大坂へ、ぞくぞくと集結しているのであった。
伊豆守が、平然として、待っていることが、なんとも不思議でならなかった権之丞であった。
どうして、一日も早く、正雪を逮捕せぬのか、一味徒党を一網打尽にせぬのか、と毎日苛立っていたのである。
おそらく、主人が、万全の対策をたてているのであろう、とは考えていたものの、権之丞は、由比道場から一歩も外出できぬ身であったために、その対策が全く判らぬままでいたのであった。
一年半ぶりに、主人に面謁してみて、権之丞は、ようやく、ほっとした。
「よい、行け」
伊豆守は、権之丞を、茶亭から送り出した。
それから、あらためて、一人しずかに、点前《てまえ》をし乍ら、
――将軍宣下の礼は、正雪を滅して、一月後にいたそうか。
そう考えていた。
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自 刃
一
慶安四年七月二十一日の宵。
夕餉を摂《と》りおわった正雪は、膳部を下げようとした千夜に向って、何気ない口調で、
「そなた、明日――夜明け前に、発って、鎌倉へ参るのだ」
と、命じた。
「……?」
千夜は、あまりに唐突なその命令に、わが耳を疑う面持になった。
「鎌倉に、北条時宗夫人覚山尼が開創した松岡東慶寺という尼寺がある。そなたは、そこへ行って、くらすがよい」
「わたくしに、尼になれ、と仰せられますか?」
「いや、そうではない。東慶寺は、男子禁制、罪を問われた女人といえども、駆け込めば免訴となる寺法を有《も》って居る尼寺だ。たとえば、この由比正雪が幕府覆滅を企てた大罪人であり、そなたが正雪の妻であっても、公儀は、そなたが、東慶寺に入った以上、そこから引き出して処刑することは、絶対にできぬ――それだけの権威を、宮廷からも徳川家からも与えられて居る尼寺だ。五年前までは、豊臣秀頼公のご息女である天秀尼が当山二十世であった。……わしは、明日、江戸を発つ。その行先は、海の彼方にある。そなたは、東慶寺にて、心しずかに、わしからの便りを待つがよい」
「はい」
千夜は、両手をつかえて、頭を下げた瞬間、なぜか、目蓋《まぶた》が熱くなり、潤《うる》んだ。
正雪が、道場を出発したのは、千夜が駕籠で鎌倉へ向った直後であった。
冠木門を徒歩で出た正雪は、和田助という草履取りただ一人を、供にしていただけであった。
飄然として諸国を経巡る旅へ出る。見送る門弟たちの目には、そう映った。
品川の大木戸をくぐった時、役人たちは、それが有名な由比道場のあるじとは、気がつかなかった。辰下刻《たつのげこく》(午前九時)――。
正雪が、鈴ヶ森に至ると、そこに、数日前から、各人ばらばらに府内を出ていた同志たちが、うちそろって、待っていた。
熊谷三郎兵衛、鵜野九郎右衛門、有竹作右衛門、安見善兵衛、熊谷六郎右衛門、関ヶ原清兵衛、本吉新八、桜井三太夫、それに、廓然《かくねん》という増上寺の所化を加えた九名であった。
空は、雲影をとどめぬ快晴であったが、涼風が吹く日であった。尤も、当時の七月は、新秋とも早秋とも称び、下旬ともなれば、暑気はおとろえていた。
一行は、藤沢、小田原へそれぞれ一泊して、二十四日午に、箱根の関所を越えた。
『紀州家軍学指南・張孔堂由比民部之輔正雪』
正雪は、堂々とそう名乗り、証拠の品として頼宣直筆の書状を、提出した。箱根の関所には、各大名の印章や花押《かおう》が、置いてあった。関所奉行が、照らしあわせてみると、頼宣の印章と花押に相違なかった。
頼宣は、和歌山城へ帰って居り、その書状は、正雪を呼んでいたのである。
正雪一行は、なんなく、関所を通過した。
三島宿へ降りた時、一騎、どこかの大名の急使者らしい武士が、非常な速力で、正雪一行を追い越して、あっという間に、西の彼方に疾駆して行った。
それが、松平伊豆守の下知を受けた駒井右京親直であることに、正雪はじめ同志面々は、夢にも気がつかなかった。
正雪には、おのれがあとにした江戸に於て、一大捕物陣が展開されようなどとは、ほんの微かな不吉な予感さえも、脳裡に、泛《うか》んでいなかった。
『徳川実紀』その他の史書、講釈本が、後世に遺したのは、奥村権之丞、その弟八左衛門、田代又左衛門、または御弓師藤四郎らの訴人によって、|にわかに《ヽヽヽヽ》、松平伊豆守信綱が、石谷十蔵(のちの左近将監)と神尾元勝の南北両町奉行に下知して、丸橋忠弥、煙硝蔵の奉行河原十郎兵衛の家へ、召捕りの一隊を送った、とあるが、事実とは反している。
伊豆守にとって、この召捕りは、すでに、前からの予定に組み入れていたことであった。
伊豆守は、正雪が江戸を出発するときを、いまやおそしと待ちかまえていたのである。
正雪の壮挙は七月二十九日、とすでに知っていた伊豆守は、万全の手配りをして、手ぐすねをひいていたのであった。
丸橋忠弥召捕りは、正雪が駿府に到着する一日前、と伊豆守はきめて居り、南北両町奉行を呼び、
「二騎の与力に、二十余名の同心を引具させて、丑下刻(午前二時)闇に乗じて、襲撃し、火事だと連呼して、忠弥をおびき出して召捕るがよい。火事だ、と申せば、あわてて、槍をひっ携げて出るのを忘れるであろうゆえ、味方に手疵を蒙る者は出ないであろう」
と、下知していた。
そして、忠弥逮捕は、伊豆守の方策通りに成功したのであった。
河原十郎兵衛の方は、同時刻、北町奉行所の同心・吉野六太夫、南町奉行所の同心・高田安右衛門が、あらかじめ、宵のうちから煙硝蔵に忍び入っていて、二人だけで、十郎兵衛の寝室に踏み込み、抵抗するいとまを与えず、召捕った。
二
二十五日夕刻、正雪一行は、江戸で起った凶変を夢にも知らず、駿府に到着した。
一行から、桜井三太夫がはなれて、足洗村名主・半左衛門の屋敷へ、おもむいた。二十九日に壮挙を決行するため、土蔵にあずかってある火薬千石を、ひそかにはこび出して、駿府城金蔵を、爆破させる役目をおびていた。
火薬千石を、城内へはこび込む工作としては、新将軍家がその宣下をする儀式に、半左衛門が指揮をとって、駿府の|はたもの《ヽヽヽヽ》を総動員し、見事な絨毯を織りあげて、これをその御座にお敷きたまわるように、と駿府城代大久保忠成に願い出て、それを容れた長持をはこび入れる許可を得ていたので、その長持にかくすことにしていた。
熊谷三郎兵衛以下七名が、半左衛門に従って、長持をはこぶ|はたもの《ヽヽヽヽ》に化けることになっていた。
そして、金蔵を爆破したならば、正雪が陣頭に立って、駿府に入り込んでいる浪人勢二千余名を率いて、一挙に、城内へ攻め込み、地下蔵の二千五百万両を奪って、久能山沖合で待機している紀州家軍船へ、早船で移す手筈であった。
正雪は、駿府城代・大久保忠成以下、一加番・秋田盛季、二加番・戸田重種、在番頭・山口重恒、駿府定番・井戸真弘、そして、駿府町奉行・神保重利らが、いずれも、凡庸な役人であるのを、調べあげていることに、ぬかりはなかった。
ただ――。
大手組奉行の落合小平次なる人物が、相当頭脳が切れて、油断がならぬ曲者であることに、いちまつの不安はあった。
正雪は、一行とともに、かねて予約していた梅屋町の梅屋太郎左衛門の家を、宿にした。
梅屋は、太郎左衛門の父作右衛門が、浜松時代、家康に目をかけられ、梅を献上した縁で、『梅屋』と名のるのを許された旧家であった。
家康が駿府に入った際、作右衛門も供をして入り、町屋を賜った。そして、その住居をきめたところが梅屋町と呼ばれるようになり、梅屋は、糸割符商人となり、駿府三十六町をとりしきる町年寄六人衆の一人となった。
こうした旧家であったので、家康が在城中、頼宣が駿河・遠江五十万石を与えられた時、梅屋は、御用達商人にしてもらったのであった。爾来、頼宣が、紀州に移ってからは、その参府往来の本陣をつとめるようになっていた。
正雪が、梅屋を宿としたのは、頼宣のすすめによるものであった。
すでに、その時――。
正雪一行を三島宿で追い越した駒井右京は、駿府城内に於て、城代大久保忠成以下諸役人を呼集して、厳秘裡に正雪召捕りの評議をこらしていたのである。
大久保忠成以下諸役人は、このおそるべき正雪の壮挙決行は、いま、はじめて、耳に入れられたので、顔色を失った。
一人、大手組奉行・落合小平次だけは、すでに、一月前に、伊豆守の密使によって、この旨を報されていたので、おちつきはらっていた。
駒井右京が、大久保忠成以下諸役人に命じた正雪召捕りのための手配りは、伊豆守の指令通りで、水ももらさぬものであった。
指令を終えた右京は、落合小平次に向って、
「御辺に、梅屋に投宿した由比正雪をして、観念いたすよう――無益な抵抗をいたさぬよう、説得方をつとめて頂きたい」
と、申しつけた。
「うけたまわり申した」
小平次は、当然その指示が自分に下されるものと予知していた態度で、こたえた。
三
落合小平次が、堂々と、しかも何気なく、『梅屋』を訪れたのは、戌刻《いぬのこく》(午後八時)であった。
単身であった。
「老中松平伊豆守様のお使い番駒井右京殿のご下知により、当駿府城大手組落合小平次、由比民部之輔正雪殿に、折り入ってご相談いたしたい。この旨、取次いでもらおう」
小平次は、『梅屋』の番頭に申し入れた。
これが奥の離れに、急報されると、一同の顔色が一変した。
一人、正雪だけは、泰然として、物静かな態度を崩さなかった。
「どうなさる?」
熊谷三郎兵衛は、正雪を凝視した。
「会おう」
正雪は、即座に応じた。
「しかし、うかつにお会いなされては……」
「壮挙決行は、二十九日。まだ四日間ある。……やむを得まい」
正雪に、陰謀露見の予感がしたかどうか?
それは、余人には、窺知できなかった。
「あるいは、われらの壮挙が、事前に、洩れた懸念なしといたさぬ。今宵は、落合小平次の面談申し入れを、霍乱《かくらん》であるという口実を設けて拒絶し、この駿府に入っている浪士一統を、急遽、呼集しては如何でござろうか?」
三郎兵衛は、提案した。
「いや――」
正雪は、かぶりを振り、
「もし、露見していたならば、金蔵を爆破することは叶わず、また、久能山沖に至るであろう紀州家の軍船団も、抑えられるに相違あるまい。……わしは、松平豆州を、いささか、甘く看たようだ」
「しかし、このまま、壮挙が挫折するのは、とうてい堪え難い!」
三郎兵衛は、呻いた。
正雪は、しずかに微笑して、
「われら一統に、運がなかった、といさぎよくあきらめることにいたそう」
と、云った。
云い乍《なが》ら、三島宿で、疾風のごとく追い抜いて行った武士が、――あれが、駒井右京であったらしい。
と、記憶によみがえらせていた。
「通すがよい」
正雪は、一行中最年少の桜井三太夫に命じた。
落合小平次は、二階の座敷で待っていた。
正雪が、入ると、小平次は、鄭重に挨拶してから、いきなり、威儀を正し、
「当梅屋は、千五百三十余人の捕手方によって、包囲つかまつった」
と、告げた。
「この由比正雪を、召捕れ、と松平伊豆守殿が下知されたのでござるか?」
「くどくは、申さぬ。お覚悟あれ」
正雪は、平服のままの小平次を眺めた。
――松平豆州に、この正雪は、敗れた!
そう直感した。
しかし、一応は、逮捕の理由を訊ねた。
すると、小平次は、自分は江戸表よりの使者駒井右京に命じられただけであり、その理由を、はっきりとは知らぬ、とこたえた。
「………」
正雪は、もはや、反抗することの無駄をさとった。万事休したのである。
いきなり、この小平次を斬り、直ちに二千余の浪人者を呼集する手段《てだて》もなくはなかった。しかし、所詮は、蟷螂の斧であろう。
駿府城の金蔵の地下蔵の太閤遺金を、すでに入手していれば、話は別であった。
落合小平次は、黙然たる正雪を正視して、
「駒井右京殿のご報告によれば、すでに、江戸表にては、貴殿の同志丸橋忠弥、河原十郎兵衛らは、召捕られて居る模様でござる。京都、大坂に於ても、ことごとく、貴殿一統の逮捕の手筈は、ととのって居り申す」
「………」
正雪は、門下のうち、誰が裏切ったか、何者が公儀の間者であったか、思いあたらなかった。
もはや、きく必要もなかった。
完全に、松平信綱に、先手を打たれて、敗北したのである。
「つけ加え申すが……」
小平次は、つづけた。
「当駿府城の金蔵を、お手前がたとえ爆破されたとしても、その地下蔵に、大坂城よりはこんでたくわえてあった金銀は、もはや、ただの一両たりとも、残っては居り申さぬ」
この宣告は、正雪にとって、致命的な絶望であった。
面上にこそ、その絶望感を現さなかったが、正雪の覚悟は、その瞬間に、きまった。
「お使いご苦労でありました。おひきとり下され」
正雪は、かるく一揖《いちゆう》した。
小平次を去らせておいて、正雪は、しずかな足どりで、離れに戻って来た。
待っていた面々の緊張ぶりは、形容を超えたものであった。
正雪は、座に就くと、
「われらの壮挙は、事前に、水泡と帰した。……金蔵の下の地下蔵には、もはや、太閤遺金は、ない」
と、告げた。
一同は、沈黙したなり、血走った眼眸《まなざし》を、正雪に集中した。
「お主がたには、申しわけない。この正雪に味方して頂いたために、今宵ここにて、おのおのがたの寿命は、尽き申した」
「敵わぬまでも、討って出て、斬り死つかまつろうか?」
鵜野九郎右衛門が云い、二十代三十代の面々は、それに賛同した。
「いや――」
正雪は、かぶりを振った。
「二十人や三十人、捕手方を殺傷したところで、なににもならぬ」
「では、このまま、自裁いたさねばなり申さぬか?」
熊谷三郎兵衛が、堪えがたそうに、叫んだ。
「おのおの方――」
正雪は、九人を見まわして、
「討って出れば、幾人かは手傷を負うて、召捕られ、拷問に遭い、見苦しい死にざまをさらすことに相成り申そう。無駄と存ずる」
と、云いきかせた。
「われらが討って出て、阿修羅の働きをいたせば、諸方から集まった浪人衆が、馳せつけて、味方してくれ申そう。……せめて、正雪殿、お手前様だけは、この場を遁れて、再挙をはかられては如何でござろうか?」
「掠奪するはずであった太閤遺金が入手できぬ上からは、再挙は不可能と存ずる。……松平豆州が、そ知らぬ顔で、われらをこの駿府に参らせた肚の裡も、はっきり看え申した。……おのおの方を斬り死させて、この正雪一人が遁れ去ることは、武士として、この上の卑怯はござらぬ。……ご一同とともに、いさぎよく、自刃いたすのが、この正雪のとるべき唯一の手段と存ずる」
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頼 宣 糺 問
一
松平伊豆守は、書院の広縁に、後手を組んで、佇立していた。
澄みきった秋空を截りぬいて巨城の天守閣が、すぐ眼前に、五十三間二重櫓を右方にかしずかせて、そびえていた。
伊豆守の屋敷は、雉子橋門内に在り、竹橋門をへだてて、内郭の諸侯の屋敷のうち、最も、天守閣に近い位置を占めていた。
「すべて終ったな」
伊豆守は、独語するように、云った。
「はい」
書院の下座で、応《こた》えたのは、駿府大手組奉行・落合小平次であった。
由比正雪とその随行者十人が自刃し、一味の足洗村名主・半左衛門を召捕り、そして、久能山沖合に現れた紀州家軍船三十七艘を、拿捕《だほ》した旨を、伊豆守は、小平次から報告を受けたのであった。
伊豆守が思案した万全の備えの方策は、みじんの狂いも生ぜずに、成功したのであった。
落合小平次は、伊豆守が、駿府に隠匿された太閤遺金をさがしあてるべく、寛永十七年に、送り込んでおいた切れ者の旗本であった。
「正雪の最期は、いさぎよいものであったか?」
「はい、正雪は、一味徒党に、一人も、われら捕手方に反抗させず、従容として、自刃つかまつりました」
その言葉をきいた伊豆守は、ゆっくりと頭をまわし、小平次を視た。
「お前は、はじめから、正雪を生捕りにする気持はなかったのではないか? 自刃するのを、待っていてやったのであろう」
「はっ!」
小平次は、平伏した。
伊豆守は、座に戻ると、
「お前は、正雪に、連判状を焼く時間を、与えてやったわけだな」
と、云った。
伊豆守は、駒井右京の口から、小平次に、正雪を生捕るようにとも、三千余名にのぼるであろう浪人者がその名をつらねた連判状を必ず奪えとも、指令を下してはいなかった。
その連判状を奪えば、浪人者三千余人を一人残らず、逮捕するか、反抗すれば討ちとることができたのである。
伊豆守には、一網打尽の気持はなかった。慈悲心ではなかった。そんな必要はない、と考えたまでであった。
貧窮した浪人者どもは、その一人一人は、看るべき器量の持主であっても、首魁を喪ってしまえば、元の無力な失業者にかえるだけのことだ、と伊豆守は、考えていた。
正雪の壮志を継いで、再挙をはかる者が現れぬともかぎらぬ、などという懸念は、伊豆守の脳裡には、さらさらなかった。むしろ、連判状に名をつらねたことを、悔いおそれて、いずれも、人里はなれた山中奥ふかく、逃げ込むであろう、と推測していた。
伊豆守の膝前には、小平次が、割腹して俯伏した正雪の死骸のかたわらからひろった遺書が、置かれてあった。
[#ここから2字下げ]
このたび讒訴《ざんそ》これあり、私、謀叛を致す様に聞《きこ》し召され候得共、私|体《てい》如何ぞ、四代の天下をして乱破せしむる事、叶う可き儀これ無く候。然れ共、天下の制法無道にして、上下困窮つかまつること、心ある者、誰かこれを悲しまざらん哉。
殊に、主家を喪いたる浪士どもの数の|夥 《おびただ》しき事、未曾有の悲惨に御座候。今更、列拳するに及ばざる儀なれども、大坂役後、今日までに改易せられたる諸侯を、思い出すままに挙げ申すならば、松平忠輝殿(四十五万石)福島正則殿(四十九万八千余石)田中忠政殿(三十二万五千石)最上義俊殿(五十七万石)本多上野介殿(十五万五千石)松平忠直殿(六十七万石)蒲生忠郷殿(六十万石)加藤忠広殿(五十二万石)駿河大納言忠長殿(五十五万石)堀尾忠晴殿(二十四万石)蒲生忠知殿(二十万石)鳥居忠恒殿(二十四万石)京極忠高殿(二十四万四千余石)生駒高俊殿(十七万三千石)堀直定殿(十万石)加藤明成殿(四十万石)、而して、十万石以下の大名にて、改易減封されたるもの、かぞえるにいとまなき多数に御座候。これら諸侯より禄をはなれたる浪士どものご救済は、ただの一度も成されざるご政道、天下長久の為によろしからず、私不肖に御座候得共、微力を尽して、浪士どもに生きる道を与えたく、今度、少々いつわり謀りて、法度を犯し、人数を催し、海原を押し渡りて、厦門《アモイ》に至り、抗清復明に身命をなげうちて働き居る国姓爺※[#「奠+おおざと」]成功に力をかさんと、志をたてしものに御座候て、夢ゆめ、公儀に対し謀叛を起す存念など、みじんもこれ無く候。
不肖の志は、紀伊大納言様の御名とお力を借り申さず候えば、人数かたらい難く、海原を押し渡る儀不可能と存じ候ゆえ、いつわりて御扶持を蒙り候者と申し候得共、私儀、誰人よりも扶持申し請《う》け候者にてこれなく候。ただただ、天下困窮の浪士どもを救済し、海原の彼方に、新天地をひらかんと志をたて申し候のみにて、心底天も照覧あれ、この外、他に異心これ無く候。国を鎖《とざ》す封建の制度の非、その他申し達する事、数多《あまた》御座候得共、時急早々、申し残し候。已上。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]由比正雪書之
二
伊豆守が、その遺書を、城中の奉行所(将軍家の居室近くの老中相談部屋)に於て、大老酒井忠勝はじめ、永井信濃守尚政、阿部豊後守忠秋、松平和泉守乗寿ら老中、そして、宿老・井伊掃部頭直孝、それに、竹千代(家綱)の輔佐役・保科正之を加えて、かれらの目に披露したのは、それから三日後であった。
すでに――。
正雪の一味徒党は、追いつめられて、自殺するか、逮捕されて処刑されるか――騒動は、落着していた。
江戸では、丸橋忠弥はじめ三十四人が、鈴ヶ森で処刑されていた。
『落穂集』の著者大道寺友山が、十三歳の時、その三十四人の市中ひきまわしの行列を見物していた。それによれば、忠弥は、鼻馬で、罪状・刑名を記した捨札・幟のあとを曳かれて行き、そのあとを妻と子がつづいていた。その子は、まだ嬰児であり、風車と人形を手に持たせられていたが、罪人として切繩を頸にかけられていた、という。
『翁草』という書には、『忠弥、人品骨柄、群を出で、実にさる者と見えたり。四方《そう》髪にて、刑日に衣類の儀、これを願い、ずいぶん爽やかに美を尽し、出《いで》立ちける。頃日、厳しく責《せめ》を受くるといえども、させる疵もなく、労倦《ろうけん》の|てい《ヽヽ》もみえず、莞爾《かんじ》として、まっ先に引きまわされる』とあり、またその内妻も、良人を辱しめざる女子として、『良人の捕わるるや、かいがいしく、連判状を燈火に灰燼にし、駆け入る人々(捕手方)に向い、さわぎたまうほどのことはなく、家には女子供のみにて候と、髪を撫でつけ衣紋をなおし、尋常に繩を受ける』と記している。その内妻は、出雲の阿国の弟子であり、三十五歳であったが、二十四五にしか見えぬ美しい容子の持主であった。
忠弥は、刑場で、罪《ざい》木にかけられ、眼前で、見せ槍されても、泰然自若として、眉毛一本動かさなかったが、その槍で、いよいよ突かれようとした時、口をひらいて、
「雲水の行衛……」
と辞世の上《かみ》を、呟《つぶや》いた。
しかし、下《しも》を口にするいとまを与えられず、脇の下から胸部に貫かれた。
後人が、その下を作り、『雲水の行衛も西の空なれば、頼む甲斐ある道しるべせよ』と詠んだ。
ちょうど同じ日、金井半兵衛は、大坂市中を、巧みに転々と逃げかくれていたが、ついに、観念して、天王寺で切腹自決して相果てていた。
一通の遺書をのこしていたが、その内容は、
「正雪は、私欲のために、この企てを起したのではない。政道がよこしまで、武家・出家・商人・農民ことごとく苦しみ、憤っているのをみて、困窮した人々が、異邦へ移住できる道をつくる先達となるべく、浪人たちを集めたのである。鎖国こそ、最大の悪政であり、正雪の計画を無道とするのは、見当ちがいも甚しいものである』
という意味のものであった。
伊豆守は、老臣一同が正雪の遺書をまわし読み了えるのを待って、まっすぐに、大老酒井忠勝を瞶《みつ》め乍ら、
「正雪が、箱根の関所を通過せし際、示した頼宣公の書状は、関奉行所が、その印章を照応いたし、ほんものとみとめて居り申す。これなる正雪の遺書と合わせて、紀州大納言卿が、公儀ご法度を破ろうとなされたことは、疑いなきところと存ずる」
と、云いはなった。
勝ち誇った者の鋭い舌頭であった。
忠勝は、信綱の冷たい視線を受けとめて、
「正雪と申す者、奸智《かんち》に長《た》けて居るゆえ、頼宣公の贋の判物をつくり、また、わざと、遺書に、お名を挙げたかも知れぬ」
と、云った。
「ならば――」
伊豆守は、忠勝がそう云うのを待ちかまえていたように、
「頼宣公の出府をうながし、当奉行所にて、喚問の儀、とりおこなわれるようお願いつかまつる」
と、提言した。
すると、井伊直孝が、御三家のおかたを、この部屋で喚問するのは如何なものか、と難色を示した。
伊豆守は、その意見も当然出るものと、予想していた態度で、
「されば、身共が、出府された大納言卿を、そのお屋敷に訪ねて参り、公《おおやけ》の釈明をもとめて参り申す」
と云った。
頼宣を、この奉行所に呼ぶか、こちらが紀州邸へおもむくか――どちらでも、伊豆守には、もはや、かまわなかったのである。
これで、頼宣が、四代将軍職を継ぐことができなくなったことだけは、決定したのである。
伊豆守は、閣老・宿老評議の座で、大老讃岐守忠勝に、勝ったのである。
重苦しい沈黙が、部屋を占めた。
「では、これにて――」
評定は終った、として、まっさきに席を立ったのは、伊豆守自身であった。
つづいて、保科正之が起ち、井伊直孝が去った。
最後に、ただ一人のこされたのは、酒井忠勝であった。
じっと、長いあいだ、宙へ眼眸を置いていた忠勝は、やがて、われにかえると、
「……正雪を、厦門へ渡らせてやるべきであったものを――」
ひくく、呟きすてたことだった。
三
紀州頼宣が、至急の出府をうながされて、江戸屋敷へ到着したのは、その年の八月上旬であった。
老中松平伊豆守信綱の訪問は、はやくも、到着翌日であった。
「閣議により、上使として、罷り起し申した」
伊豆守は、そうことわっておいて、上座に就いた。
「………」
天皇、そして将軍家以外に対して、下座に就いたことのない頼宣は、怒気を全身にあふらせて、伊豆守を睨みつけた。
あまりに天下が太平無事であるため、しきりに胸中にさわぐ鋭気を抑えるのに苦しんだ挙句、不眠症に罹《かか》り、それをなおすべく、多くの戦場を馳駆した老武辺たちを、枕許に呼び寄せ、終夜、いくさ語りをやらせたほどの頼宣であった。
松平信綱ごとき者の下座に坐らされて、頼宣は、|はらわた《ヽヽヽヽ》が煮えたぎった。
伊豆守は、懐中から、一通の書状をとり出して、頼宣へ向って、ひろげてみせた。
「これは、先般、駿府にて自刃いたした由比正雪なる者が遺《のこ》した品のひとつ――貴方様が正雪へ宛てられた書状でござる。これに捺された印章は、たしかに貴方様の判物にまちがいないと存ずるが、如何でござろうか?」
「………」
頼宣は、和歌山城を発足するにあたって、附家老の安藤帯刀から、「このたびのご出府は、屹度、松平豆州の審問をお受けあそばすことに相成りますゆえ、由比正雪に関《かかわ》ることは一切何も知らぬと、おこたえあそばしますよう――」と忠告を受けていた。
しかし、その書状が、自分の書いたものにまぎれもない。とみとめた頼宣は、とっさに、それは贋物だと、首を横へは振れなかった。嘘のつけぬ気象であった。
伊豆守は、つづいて、正雪の遺書をとり出して、披《ひら》いてみせた。
紀州家軍船三十七艘は、すでに、久能山沖合で、拿捕《だほ》されていた(尤も、それらの軍船には、紀州家の家臣は乗り組んでは居らず、船頭・水手《かこ》らは、紀州家やとい、とは白状してはいなかったが――)。
「この遺書に記されてあることが事実といたせば、東照神君の御子である貴方様といえども、徳川家ご法度にそむいた罪科は、まぬがれることはできませぬぞ!」
伊豆守は、きめつけた。
頼宣は、おのれ自身、何を云おうとしているのか、思慮の余裕もなく、口をひらいて、呶号しようとした。
その刹那であった。
次の間との仕切襖がひらかれ、近習の加納七郎太という二十歳の若者が、
「おそれ乍ら、それは、何者かの謀書にございます。ご判形だけは贋ではなく、お殿様のお持物に相違ございませぬ。ご判形おあずかりのてまえが、咋年うかつにも、紛失いたしたのでございまする」
と、云いわけしておいて、さっと、庭さきへ跳び降り、地面へ正座すると、前を押しひらいて、脇差を抜きはなち、
「お詫びつかまつります!」
と、叫びざま、腹へ突き立てた。
「七郎太!」
頼宣が、奔って、縁側へ出た。
伊豆守は、冷やかに、その切腹のさまを眺めやり乍ら、
――安藤帯刀に云いふくめられて、あたら若い生命をすてたか。
と、察知した。
伊豆守は、べつに、紀州家をとりつぶすつもりはなかった。
「大納言卿は、良き家臣をお持ちなされました」
そう云いのこして、上座を立った。
その年より、万治二年まで――十年間、紀州頼宣は、ついに、帰国を許されなかった。また、頼宣がそれまで用いていた印章はすてられ、新しい判物に改められた。
家綱が、四代将軍の礼を行ったのは、同月十八日であった。
まだわずか十一歳であった。
酒井忠勝は、その時から、全く権力のない大老――いわば、隠居同様の名誉会長となりはてたのであった。
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そ の 後
――補筆――
最後に、作者が、顔を出すことを、お許し頂きたい。
この物語の主人公は、題名が示す通り、人間ではなく、日本に於ける未曾有の大城郭『江戸城』であった。
私が、ペンを把って書きはじめた時の、意図は、まちがいなくそうであった。
ところが――。
いつの間にか、その意図に反して、由比正雪という人物が、主人公の|かたち《ヽヽヽ》になってしまった。これは、私の物語作りの体質であろう。
したがって、正雪の自刃とともに、作者の息は切れてしまったのである。
最初の意図を守っていたならば、慶応四年(明治元年)四月十一日、家康が天正十八年八月に入府してから二百七十八年目に、江戸城が明け渡されるまで、延々と書きつづけることができたかも知れぬ。
その体力も気力も、目下の私には、ない。
作者にとって、幸か不幸か、由比正雪が主人公になってしまった以上、かれが壮図挫折して無念の死をとげたことによって、この物語も一応終了するのが、妥当であろう。
ただ、正雪が主人公になったからには、登場した人物の最期をも、見とどけておく義務が、作者にあろう。
まず――。
酒井讃岐守忠勝は、執権の実力を剥奪されたまま、為すところもなく、五年余をすごして、その最高職を降りた。全く何ひとつ、大老の権勢を示す機会はなかった。
忠勝が、大老を辞した翌年――明暦三年正月十八日、日本最大の大火災が起り、江戸城本丸・二ノ丸・三ノ丸ことごとく焼失した。延焼八百余町、死者十万七千余人をかぞえる、いわゆる振袖火事であった。
この振袖火事で、勿論、江戸城を象徴する天守閣も、その姿を永久に消し去った。
その当時、名工として名高かった石工棟梁亀岡久兵衛の息子――のちの石見《いわみ》入道宗山は、江戸城が焼失するさまを、次のように語っている。
「明暦三年正月十八日の出火は、翌十九日になっても、熄《や》まず、焼け|ぼこり《ヽヽヽ》が吹き立ち、白昼にもかかわらずさながら暗闇のようになった。やがて、牛込方面から火の手があがり、さらに麹町など、城西側からも猛火が迫ったので、大城内に飛火する危険が起り、自分は、城内に設けられた石細工小屋をこわすべく、奔《はし》った。……大手門前は、藤堂大学様じきじきのご出馬で、数百人の鉄砲持ち槍持ちが警固にあたり、他の御門前も、譜代のお大名がたが、隙間なく詰め寄せて、火事沙汰というよりも、いくさでも起ったかのごとき光景であった。……自分が、城内の石割りの火薬を置いた危険な小屋をこわしておいて、大手方面へ奔った時には、すでに宵闇が落ちていた。此方彼方の櫓は、鉄砲の火薬に引火し、天地が炸裂するような音がとどろいて、焼け落ちていた」
天守閣は、再建にあたっては、外の壁面すべて漆喰《しつくい》に塗り込めて、飛火を受けつけぬように工夫してあったが、二重目の窓が、猛火によって生じた旋風で自然に開かれ、飛火を吸い込んだために、紅蓮舌になめつくされたのであった。そして、天守閣から飛び舞う火の粉をあびて、本丸も二ノ丸も三ノ丸も、ことごとく焼失したのであった。焼けのこったのは、西ノ丸だけであった。
将軍家綱は、天守閣再建を希望したが、その叔父であり輔佐役の保科正之が、
「もはや、江戸城へ攻め入る敵が皆無のいま、天守閣は要害に関係なく、ただ、お上が登られて、遠景をごらんになるだけの無用の建物に、莫大な財貨を費消し、民力を屈するのは、策を得たるものに非ず」
と反対して、沙汰やみにした。
のちに、新井白石が、日本の統治者たる将軍家の住まう江戸城にだけ、天守閣がないのは、体裁がととのわぬ、と主張したが、やがて白石の失脚によって、再建は実現しなかった。
さて――。
酒井忠勝が、大老職をしりぞいたあと、松平伊豆守信綱は、思う存分にその権勢をほしいままにしたが、忠勝よりも十歳も年下にもかかわらず、忠勝よりさきに逝った。寛文二年三月十六日、六十七歳であった。
すでに髪をおろして入道となり、空印と号していた忠勝は、執念でそれを待ちのぞんでいたごとく、伊豆守の死を見とどけておいて、同年七月十三日に歿した。
○
町奴の総頭領・幡随意院長兵衛が、旗本奴白柄組の首将・水野十郎左衛門に、その屋敷へ招かれて、松平紋三郎、高木九郎八、鳥居権之丞ら十余人の旗本奴連によって、刀槍で殺されたのは、由比正雪の乱があった翌年――承応元年の春のことであった。
十郎左衛門は、長兵衛を殺す目的で、屋敷へ招いたのではなかった。
正保を経て、慶安に入ると、旗本奴と町奴との対立争闘はますます激化して、町奉行所も手がつけられぬありさまとなった。
双方の総大将である十郎左衛門も長兵衛も、互いに、対手の器量をみとめ合ってはいたものの、和解の談合の機会がないまま、歳月がうち過ぎたのである。
由比正雪事件が起って、江戸府内に在る浪人者ならびに無法者に対する取締りが、非常に厳しくなったのを|しお《ヽヽ》に、水野十郎左衛門は、旗本奴と町奴との争闘を、自主的に中止すべく、和睦の意《こころ》から、長兵衛を自邸へ招いたのであった。
しかし、直参の面々は、頭領の心懐を汲まず、十郎左衛門が中座した隙に、突如、長兵衛を襲って、無腰の身に、斬りつけ、突きかかったのであった。
かなり酩酊していた長兵衛は、手負い乍《なが》らも、一人の槍を奪いとって、高木九郎八を突き殺した。その瞬間、鳥居権之丞から、熱燗の酒を顔へあびせられて、眼が見えなくなり、遁走の隙を失ったのであった。行年三十八歳の男盛りであった。
死屍は、古菰《ごも》に包まれて、江戸川へ棄てられた。
翌朝、小石川隆慶橋下に漂流したのが、発見された。亡骸《なきがら》は、浅草の五台山文殊院源空寺に葬られた。
その墓石には、
慶安三年庚寅四月十三日
善誉道観勇士 俗名 塚本長兵衛
三十六歳
と、刻まれてある。
二年前に死んだことになっているのは、北町奉行石谷十蔵(左近将監)が、水野十郎左衛門の縁戚にあたって居り、水野邸に於ける殺戮ではない、とごまかすための工作であった。
その石谷十蔵が、町奉行をやめると、一年を過ぎぬうちに、水野十郎左衛門は、無頼段々増長の廉《かど》をもって、姻戚蜂須賀阿波守光隆へ、お預けの身となった。
長兵衛が殺されてから十年目であった。
白柄組が、その間、どれほどの曲事《まがごと》を為《な》し、悪徳を世間へ波及させたか、その記録は、全くのこされてはいない。ただ、幕府にとっては、甚しい|もてあまし《ヽヽヽヽヽ》者であったであろうことは、推測するに難くない。
寛文四年三月二十六日、十郎左衛門は、蜂須賀邸から、評定所へ召し出された。すでに、その時、十郎左衛門は、死を覚悟していた。お預け後、謹慎の態度如何によっては、許される可能性は、充分にあった。
ところが、十郎左衛門は、許されるのを拒否するがごとく、異常きわまる身装風体で、評定所へ出頭した。
頭は、お預け以来一度も、櫛を入れぬとも思える、文字通りの蓬髪で、髯ものばし放題にし、衣服は、膝がしらが露出するまで短く、裾をざぐざぐに切っていた。のみならず、当日は、雨で、わざとずぶ濡れになって、罷り出た。
神妙の様子ならば、許してやろうという気持で、待っていた若年寄・土屋但馬守数直は、その無作法の姿を一瞥しただけで、非常に立腹した。
尋問も行われなかった。
翌朝、蜂須賀邸へ、若年寄の使者が来て、十郎左衛門に、切腹仰せつけられる旨を、達した。
十郎左衛門は、正室を持たず、庶子に二歳の男児がいたが、お預け中に、夭折していた。
切腹は、七日後に行われた。検使として、滝川長門守利貞と兼松下総守正直が、遣された。
滝川利貞は、十郎左衛門の望んだ貞宗の小脇差を、三宝にのせて、贈った。
十郎左衛門は、礼をのべてから、後方に控えた介錯人・山名勘十郎を見かえり、
「それがしが、言葉をかけるまで、何卒、首を刎ねるのをお待ち下されい」
と、云いおいて、小脇差を手にした。
白刃には、白紙が巻きつけてあった。十郎左衛門は、その白紙を、ほどきはじめた。
山名勘十郎は、
「そのままにて、腹をなされた方がようござる」
と、忠告した。
十郎左衛門は、薄ら笑って、とくと焼刃《やいば》を眺めたいのだ、とこたえた。
そして、貞宗を、じっと、かざし視てから、
「む! 存ずるより見事でござる」
と、云いざま、おのが太腿へ、ぐさりと突き立て、ぐうっとひと引きに三寸ばかり引き斬ってみて、
「斬れ味も、格別でござる」
と、笑って、太腿からひき抜き、切先を腹へあて、
「さあ、首を打たれるがよい」
と、促した。
『腹を切るよりも能《よ》き手本』として、後のちまで語り継がれる鮮やかな最期であった。
○
木内宗吾(佐倉惣五郎)の最期にもふれておかねばなるまい。
下総国印旛郡佐倉の城主堀田加賀守正盛が、将軍家光が逝くや、老中職のまま、江戸屋敷であと追い殉死をしたのは、すでに述べたところであるが、その家督を継いだ上野介正信の年貢・課役の増徴は、さらに凄まじいものとなっていた。
正信は、決して、冷酷無比な性情の持主ではなかった。平常は、むしろ、家来たちをいたわる穏やかな青年大名であった。
ただ、ひとたび、徳川家ご奉公という名分の上に立つと、悪鬼のようになった。曾祖母春日局、父加賀守正盛と、三代つづいた典型的な忠義の権化であった。のちに、領土を返上した正信もまた、父の行為にならい、四代将軍家綱が逝くや、淡路島の配所で、殉死を遂げた人物であった。
こういう人物を領主にいただいた人民こそ、迷惑というもおろかな、生地獄の苦しみに遭わなければならなかった。
その生地獄ぶりも、前にすでに述べてある。
いかに、領主には絶対服従の封建制度の確立した時世とはいえ、餓死寸前まで追いつめられれば、窮鼠も、猫を噛まざるを得なかった。
木内宗吾は、ついに、死の覚悟をして、将軍家に直訴に及ぶことにした。
将軍家に直訴に及ぶ前に、宗吾は、あらたに老中となった、同じ下総国の海上二万二千石の領主久世大和守広之に、駕籠訴をしていた。しかし、願書は、下げ戻しになり、このたびだけは、穏便にとりはからって、罪科とせぬ、と申し渡されていた。
宗吾は、屈しなかった。
――老中に願っても駄目だ。いっそ、将軍家に直訴を!
そう決意したのである。
出府して、その機会をうかがっていた宗吾は、将軍家綱が、上野寛永寺に詣でることを耳にし、その前夜から、下谷広小路黒門前の三枚橋の橋下に身をかくして待ち受け、当日、辰刻(午前八時)将軍家の乗物が、さしかかるや、六尺あまりの竹のさきに、訴状をさしはさんで、
「お願い申し上げまする!」
と、叫んだのであった。承応二年十二月二十日であった。由比正雪事件から二年後のことである。
お側の衆が、おどろいて――庶民の直訴などは、はじめてであったので――思わず、訴状を取って、「退れ!」と命じた。
宗吾は、将軍家の目にふれるものと信じて、平伏したまま、いざって後退した。
たしかに、訴状は、将軍家に手渡されたが、家綱は、目を通さず、井上河内守に下げ渡した。
井上河内守は、一読すると、殿中で、堀田上野介正信に、渡した。正信は、面目を喪失した。
おのが領地の百姓が、おそれ多くも将軍家に直訴に及んだことは、忠義一途の譜代詰衆としては、堪えがたい屈辱であった。
訴状の内容には、充分合点するところもあったが、直訴した木内宗吾を許すわけにはいかなかった。
明暦二年八月三日、木内宗吾は、十一歳の長男とともに、本佐倉清光寺畔の刑場で、磔《はりつけ》に処せられた。
それより前、宗吾は、堀田家定府の士によって、江戸市内で、捕縛されていた。
一介の庄星が、将軍家に直訴に及んだことは、たちまち、府内外の評判になり、宗吾が佐倉へ曳かれて行く沿道の両側は、見物人でうずまった。
深川の船蔵前を通過しようとした際であった。
料亭の内儀《おかみ》らしい身装の、ふっくらと肉《しし》のりのした、いかにも裕福そうな中年の美しい女が、宗吾を押送する堀田家の士に向って、
「お願いでございます。この御仁《おひと》に、これを、ひと口、喰べさせてあげて下さりませ」
と、一個の乾柿を、さし出した。
乾柿は、宗吾の好物であった。
宗吾は、その女の面貌を、じっと瞶《みつ》めた。
――波津!
胸の裡で、その名を呼んだ。
寛永九年秋、伊豆直見郷熱海の石切場で働いていたこの兄を慕って、はるばる逢いに来て、それきり行方知れずになっていた妹の名であった。
宗吾は、その中年女の面貌に、はっきりと、妹波津のおもかげを看て取ったのである。
――生きて、幸せにくらして居ったのか!
宗吾は、妹に巡り逢えただけでも、直訴の甲斐があった、と思ったことだった。
○
水戸の徳川|光圀《みつくに》が、京都へやって来て、単身で、洛北一乗寺村の詩仙堂を訪れたのは、寛文六年であった。光圀は、まだ三十五歳の壮年であった。
石川丈山は、八十歳を越えた高齢を迎え乍ら、なお、耳目はたしかで、矍鑠《かくしやく》としていた。
四方山話の挙句、光圀は、ふと、思い出したように、
「ところで、由比正雪と申す男、ご老人の唯一の門下生、ときき及んだことがあり申すが、まことであろうか?」
と訊ねた。
丈山は、微笑して、うなずき、
「この爺《じじ》いが、そそのかして、国禁を犯させようといたしたのでござる」
と、正直にこたえた。
「ご老人、お手前が采配を振って居られたならば、あるいは、由比正雪と浪人どもは、海外へおもむくことに成功したかも知れ申さぬ」
光圀は、云った。
丈山は、かぶりを振り、
「三千や五千の浪人どもをひきつれて参ったところで、どうにもならぬ、と近頃では、思うようになり申した。……さてはや、幕府が、国を開いて、異邦と自由に交易することができるようになるのは、百年後になるか、二百年後になるか、それとも三百年も後のことに相成りましょうか……」
と、云って、溜息をついたことであった。
丈山は、それから六年後――九十歳の天寿をまっとうして、この世を去った。
[#地付き]〈嗚呼 江戸城 了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和五十年十月二十五日刊
外字置き換え
※[#「示+氏」]→祇
※[#「馬+單」]→騨