柴田錬三郎
嗚呼 江戸城(上)
寛永九年秋
一
駿河大納言《するがだいなごん》忠長は、おそろしく長い沈黙をまもって、江戸よりの使者松平伊豆守信綱を、睨みつづけていた。
晩秋の明るい陽ざしの落ちた午後であったが、駿府《すんぷ》城内は、死に絶えたような静寂《せいじやく》に占められていた。
忠長と伊豆守が対座する白書院は、伊豆守が人払いしたので、二人だけであった。
忠長の双眸《そうぼう》は血走り、時折りこめかみが、痙攣《けいれん》していた。
伊豆守は、無表情を保っていた。
無表情は、伊豆守が少年時代からそなえた特質のひとつであった。そのせいか、三十歳とは見えなかった。二十七歳の忠長と、十以上のひらきがあるように見えた。
残酷《ざんこく》な宣告をつたえる使者として、いかにもふさわしい冷たい雰囲気が、伊豆守にはあった。
そしてまた、残酷な宣告を下される悲劇の主人公にふさわしい美貌《びぼう》を、忠長は持っていた。
忠長の祖母は、織田信長の実妹お市の方であった。織田家は、美男・美女の家系であった。忠長が、その血すじを享《う》けていた。兄の三代将軍家光は、徳川家の血が濃く、祖父家康の若い頃に酷似《こくじ》している、といわれていた。
あまりの美男であるために、兄の家光から憎まれたのではないか、と蔭で噂されたくらいである。
いま――。
伊豆守は、たぐいまれなその美貌が、憤りと悲しみの色を滲《にじ》ませて、それに堪えているさまを、無表情で、見まもっている。
伊豆守は、忠長が口をひらくのを待っているのであった。いや、返辞は、べつに、きかないでもよかった。
[#この行1字下げ]『駿河、遠江《とおとうみ》、甲斐《かい》三国の封を没し、上野《こうずけ》高崎に幽し、安藤重長に預《あず》く』
この宣告に対する忠長の返辞は無用であった。
伊豆守は、すぐ座を立ってもよかったのである。
激情を抑えて、沈黙《ちんもく》を守りつづける忠長を、じっと見まもっているのは、残忍といえた。
敢えて、その残忍を為《な》しているのは、別に考えるところがあったからである。
忠長が、目蓋《まぶた》を閉じた。
すると、睫毛《まつげ》の蔭から、泪《なみだ》がわき出て、頬をつたった。
伊豆守の無表情は、かわらぬ。
やがて、忠長は、目蓋を閉じたまま、呟くように、云った。
「よい。……それほど、欲しければ、返してやる」
伊豆守は、平伏した。待っていた甲斐があったのである。忠長は、伊豆守が望む言葉を、口にしたのであった。
久能山所蔵の金銀のことであった。
その金銀は、家康が大坂城を滅《ほろぼ》して、荷駄三百頭ではこんだといわれる豊臣秀吉の遺産であった。
忠長は、二代将軍秀忠の遺言によって、これを所有したのであった。
幕府は、この金銀が是非とも必要であった。
天正十八年八月、家康が関東に入部して以来、日本最大の規模を持つ江戸城が、ようやく、完成に近づきつつあった。その普請工事に、久能山所蔵の金銀を、どうしても、幕府は、手に入れなければならなかったのである。
いわば――。
忠長は、将軍家居城の完成のために、犠牲になったのである。
忠長は、平伏した伊豆守を、そこにのこして広縁に出た。
目に痛いほどの白砂の平庭へ、うつろな視線を投げた忠長は、
「伊豆――」
と、呼んだ。
伊豆守は、上半身を起した。
「そちは、女人を愛したことがあるか? あるまいな」
「ございませぬ」
「わしには、ある。いまも、恋して居る。しかし、そちが参ったことによって、この恋は、破れた」
「いずれのどなたか、お打明け下さいますれば……」
「配所まで、連れて来る、と申すか」
忠長は、向きなおった。
「伊豆! わしにも、武士の誇りがあるぞ! このわしに、罪なくして配所の月を眺めさせておいて、伴侶を与える慈悲心《じひしん》を持つとは、笑止! 去《い》ね!」
忠長は、呶鳴《どな》った。
伊豆守は、一礼すると、しずかに、座を立った。
「犬め!」
忠良は、脇息《きようそく》をつかみとるや、退出して行く伊豆守の後姿めがけて、投げつけた。
二
駿河大納言忠長が、上野高崎に配流《はいる》されるべく、わずか十七名の供揃いで、駿府城を出た――同じ日。
駿河と伊豆の国境にある三島宿の三島大明神の境内で、いささか奇妙な奉納兵法試合が、催されていた。
三島大明神は、天平年間に創置され、当国の『一の宮』として崇敬されている古社であった。
秀吉は、小田原攻めにあたって、この神社に戦勝を祈念したし、家康も、関東入部にあたって、百年の大計を願った。
秀吉は、戦勝祈願をしたばかりか、仁王門左右にある神池に湧き出ている水の美しさに目をとめて、扈従《こしよう》から、この清水は、富嶽《ふがく》の白雪が溶けて、黄瀬川に流れ、地下をくぐって、湧き出ている、ときかされると、なんのためらいもなく、素裸になって、とび込んだ、という。
秀吉は、日本一が好きだったのである。富士山は、日本随一の名山である。その嶺から溶けて流れて来た水をあびるのは、秀吉の稚気であった。稚気の発揮は、秀吉が諸将を懐柔する一策であった。
海道に面した鳥居側に、高札が立てられていた。
[#ここから2字下げ]
『奉納兵法試合のこと
当大明神は、そのむかし伊弉諾尊《いざなぎのみこと》が剣を抜いて軻遇突智《かくつち》を斬って、三|段《きだ》と為せる――摂津《せつつ》国島下郡三島神社、伊予州|越智《おち》郡大山積神社とともに一神を祀《まつ》る神の宮也。されば、武辺が、大山|祇《ずみ》命に祈りて、武術を練る興行を催すことに、微塵《みじん》の疑念なかるべし。
武蔵、相模、甲斐、駿河、遠江、さらには遠方より武者修業の兵法者、こぞりて、参加されるべし。
勝法、十人抜き。武器勝手たるべし。十人抜きの勝法に、賞金壱百両を呈す。
吉月吉日
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]勧進元 張孔堂楠不伝』
この高札が、立てられたのは、十日前であった。
世相というものは、皮肉にも、それを必要とする時代よりも、それを必要としなくなった頃に熾《さか》んになる風潮がある。豊臣家が滅び、元和偃武《げんなえんぶ》を経て、寛永年間に入るや、かえって、軍学とか刀槍術の習得研磨が、武士の必修科目になっていた。
殊に――。
兵法(剣術)の隆盛は、未曾有《みぞう》のものがあり、分立する流派はかぞえきれないくらいであった。
したがって、神社が、縁起にかこつけて、奉納兵法試合を催すことは、すこしも珍しくはなかった。
ただ、この三島大明神境内の試合が衆目を惹《ひ》いたのは、主催が神社ではなく、あまり、というよりほとんど名の知られていない人物であり、多額の賞金を出したことであった。
この日、早朝から、境内に蝟集《いしゆう》した人数は、五千人を越えた。
そして、出場を申し入れた兵法者は、百人に近かった。
尤も、試合は明け六つから開始されたが、巳刻《みのこく》(午前十時)過ぎまでに、十人勝ち抜いた者は、一人もいなかった。六人抜いた者が、いただけである。
ところが……。
巳刻過ぎてから、途方もなく強い兵法者が、現れた。
出羽山形住人・丸橋忠弥盛任と名乗る宝蔵院流の槍使いであった。
六尺ゆたかの巨漢で、文字通りの敝衣蓬髪《へいいがつそう》で、濃い髭の中に、顔の半面がかくれていて、年歯のほども判然としなかった。
狙《ねら》って決して仕損じない目にもとまらぬ迅業《はやわざ》を放つ一瞬前、にやっとする癖があったが、その笑顔に若さがあった。おそらく三十歳に達していまい。
槍は、|たんぽ《ヽヽヽ》ではなく、枇杷らしい手作りの九尺柄で、尖端に、三寸あまりの小さな黒光りする降三世《ごうざんぜ》明王をくっつけているのが、人目を惹《ひ》いた。
身から発する火焔や四面八手が、穂先の代用を為した。
いや、真槍の穂先よりも、忿怒《ふんぬ》の相を呈した降三世明王を、突きつけられた方が、試合対手としては、薄気味わるいに相違なかった。
事実、二人ばかりが、咽喉《のど》と胸を突かれて、重傷を負い、一人はほどなく、事切れた。
正午を迎えた頃、丸橋忠弥は、九人を抜いていた。
三
ところで――。
五千余の見物人に交って、丸橋忠弥の友人が、二人いた。
この二人は、試合場を見下す特別席にいた。
特別席といっても、主催者が、それを設けた次第ではなかった。
仁王門の東にある三層塔の、二階の回廊に、無断で登っていたのである。
いずれも、二十七八歳であったが、風貌《ふうぼう》骨格がいちじるしい対蹠《たいせき》を為していた。
総髪を肩に散らして、白無地の小袖に、革製の派手な蝙蝠《こうもり》羽織をまとった青年は、無気味なくらい顔色が蒼白く、切長で大きな双眸に、人を魅する、一種妖しい光があった。
もう一人の、月代《さかやき》を大きく剃って、茶筌《ちやせん》に下げ、浅黄木綿の|そぎ《ヽヽ》袖に、木綿|袴《ばかま》をはいた青年は、異常なほど色が黒く、顎が四角に張り、唇が厚く、見るからに無骨そのものであった。
「忠弥の奴、強いときいていたが、これほどまでにやるとは、知らなんだ。わしの一月ぶんのかせぎを、たったの半日で、やり居る」
笑い乍《なが》ら、そう云った無骨な青年は、金井半兵衛といい、肥後熊本の浪人者であった。
肥後熊本の国主加藤忠広は、この年六月一日、五十二万石を没収されて、出羽へ流謫《るたく》の身になっていた。金井半兵衛は、加藤家の近習《きんじゆう》であった、と自分で云っている。
いわば、金井半兵衛は、中の浪人者といえた。
当時――。
浪人者は、上、中、下の三段階に、分れていた。
上の浪人者は、父祖に戦功があり、おのれもまた武勇を誇り、系図も正しく、諸方に家名が知られ、知行も多く、重臣の列に加わり乍ら、主君と意見が衝突したり、性格のちがいから、おのれの方から暇を取った者を、いう。こういう人物は、親戚・縁者からの援助もすくなくなく、また、各大名から召し抱えようという引く手もあまたであった。上の浪人者の典型は、大坂夏の陣に抜群の戦功を樹《た》て、その抜け駆けの武勇を、逆にとがめられて、家康の勘気を蒙《こうむ》って、致仕《ちし》した石川嘉右衛門重之(号、丈山)である。
丈山は、致仕したのち、紀州及び水戸家、または前田家その他の大名衆のねんごろな招聘《しようへい》にも、頑として応じなかったが、その後、藤堂高虎に召されて、三千俵の合力に預り、一年後には、これをことわって、また洛北に隠棲《いんせい》し、寛永に入ってから、浅野|長晟《ながあきら》に招かれて、客分として一千石を与えられた。しかし、今夏、長晟が逝くと、丈山は、浅野家を去って、いまは、伊豆のどこかで、悠々と、温泉につかっている、という噂がある。
中の浪人者は、金井半兵衛のように、近習役とか、中小姓などを勤めていたが、主家が改易《かいえき》になったり、あるいは、失策を犯して主君の叱責《しつせき》を受け、追放された者、を指す。こういう浪人者が、当時、日本全土に、あふれていた。
下の浪人者は、きわめて下級の士で、主家が滅んだり、おのれが罪を犯したりして扶持をはなれた者、あるいは、父祖代々の浪人で、生れていまだ一度も主取りしたことのない者、などであった。
「審判をやって居るあの楠不伝という人物、なにかの|こんたん《ヽヽヽヽ》があって、十人抜きに百両を出そうとしているに相違ない」
もう一人の、双眸の美しい蒼白な顔色の青年が、呟くように云った。
これは、由比弥五郎と名乗る浪人者であったが、なぜか、親しい間柄になった金井半兵衛にも、素姓を打明けてはいなかった。
丸橋忠弥は、ついに、十人を抜いた。
「お見事!」
舞殿を背にして、審判の床几《しようぎ》に就いていた楠不伝が、立ち上って、高く、扇子をかざした。
一筋の白髪の道を、額の中央から通している総髪も、高い鼻梁《びりよう》も、突出した顴骨《かんこつ》も、堂々たる恰幅《かつぷく》も、そして、その苗字をあらわす菊水の大紋を浮かせた黒羽二重の衣服も――いずれも、威厳を示す風姿であった。
舞殿の中央には、白木の台が据えられ、山のかたちに、金襴の袱紗《ふくさ》物がのせてあった。おそらく、それが、何百両かの金子《きんす》なのであろう。
忠弥は、しかし、百両を所望して、不伝の前へ進む代りに、
「このまま、勝ち抜きをつづけたく存ずる」
と、云った。
「と、申すと?」
「二十人を抜けば、二百両頂戴いたすことができるのでござろう。三十人を抜けば、三百両――」
「大層な自信だが、そのようなさだめはつくって居り申さぬよ。また、たとえ、つくったとしても、不可能と存ずる」
「いや、不可能ではござらぬ。それがし、三十人抜きをつかまつる」
「せっかくの百両を、みすみす|ふい《ヽヽ》にすることはあるまい、と思うが……。欲深も、程々にされよ」
「断じて、拙者、欲深ではござらぬ、三百両を手に入れたいのは、理由がござる」
「なんの理由かな?」
「拙者は、親しい友二人と――つまり、三人で参った。すなわち、拙者は、二人の友になり代って、試合をいたし、三十人抜いて、三百両を手に入れたならば、仲よく、三人で分ける所存――」
忠弥は、云った。
三層塔から見下している金井半兵衛が、苦笑した。
「あやつ、あれほど友情に厚いとは、知らなんだ」
由比弥五郎の方は、べつに、表情も動かさす、沈黙を守っていた。
[#改ページ]
奇 策
一
三島神社境内で催された奉納兵法試合は、人の顔も判別しがたい暮色の中で、終了した。
丸橋忠弥の三十人抜きを阻止する強敵は、一人も現れなかった。
忠弥が、三十人目を、ただの一突きで、倒すや、境内をうずめていた観衆は、いい加減見くたびれてい乍《なが》らも、最後の緊張で固唾《かたず》をのんでいただけに、それから解放されたどよめきをあげた。
楠不伝は、舞殿に上って、袱紗《ふくさ》物をのせた白木の台を、重そうに把《と》りあげると、階下に進んで来た忠弥へ、
「おめでとうござる」
と、さし出した。
「忠弥の奴、賞金が三百両、用意されていると看《み》て、一人占めにすることにしたのだな」
三層塔で、金井半兵衛が、苦笑し乍ら、云った。忠弥が、べつに友情厚く、三人で分けるために、三十人抜きを敢行したのではない、と判ったのである。
「楠不伝は、このまま、忠弥を立去らせはすまい」
かたわらで、由比弥五郎が、呟くように云った。
その推測は、中《あた》った。
楠不伝は、忠弥に、
「お手前の勝利を祝って、一献《いつこん》さし上げたく存ずる。親友ご両人も、ともなわれたい」
と、申し出た。
やがて、不伝が招じたのは、お旅所《たびしよ》裏手にある草庵であった。
不伝は、居|竝《なら》んだ忠弥、半兵衛、弥五郎の顔を、ゆっくりと見渡してから、大きく合点して、微笑した。
「野《や》に、偉材がいることが、判り申したのは、本日の興行が無駄ではなかった、と申すもの」
と、云った。
そのとたん、弥五郎が、意外な罵詈《ばり》を、冷やかに、口にした。
「御辺は、|かたり《ヽヽヽ》か」
忠弥と半兵衛は、おどろいて、弥五郎を視た。
不伝自身は、平然として、
「|かたり《ヽヽヽ》とは?」
と、問いかえした。
弥五郎は、
「忠弥、その袱紗物を、調べてみるがいい」
と、云った。
「なんだというのだ?」
「貴様が携《さ》げているのを眺めて、三百両にしては、重さが足りぬように思えた」
「ばかな!」
忠弥は、いそいで、袱紗をひらくと、切餅を破った。
畳に散ったのは、黄金ではなく、小判型につくった鉄板であった。
かっとなった忠弥は、
「だましたな、|かたり《ヽヽヽ》め」
と、不伝へとびつきそうな気色を示した。
不伝は、しかし、当然この事態を予想していたように、おちつきはらっていた。
「だましたのであれば、お手前らを、ここに招じはいたさぬ」
「贋金《にせがね》をつかませておいて、ようも、ぬけぬけと――くそっ! なんの|こんたん《ヽヽヽヽ》だ」
「野にある偉材を、同志として迎えるための一策でござった」
「同志だ、と――。嗤《わら》わせるな! 人をかたり居って、同志として迎えたいなどと、人を|こけ《ヽヽ》にするのも、たいがいにしろ!」
「お手前らの決意次第で、この贋三百両が、まことの小判に変り申す。それも、十倍、いや百倍になって、お手前らの懐中に、入ることに相成る」
「大|かたり《ヽヽヽ》の山師に、これ以上、だまされてたまるか! 芋刺しにしてやりたくて、腕がむずむずして居るのだぞ、おれは――」
忠弥は、突っ立つと、
「おい、弥五郎、半兵衛、去《い》ぬぞ!」
と、うながした。
「待て、忠弥」
半兵衛が、とどめた。
「この山師殿は、張孔堂と称している。たぶん、張孔の張は、張良を意味し、孔は孔明を意味しているに相違ない。張良と孔明の才器をあわせ持つとうそぶく男が、どんな金儲け話をするか、一応きいてみるのも、酒の肴にはなる。智慧|出《い》でて大偽あり、と老子も云って居る。その智慧の程度を、ひとつ、計らせてもらおう。……まさか、われわれをただ愚弄《ぐろう》するためにだけ、ここへつれて来たわけではあるまい」
二
不伝は、半兵衛が忠弥を座にもどらせるのを待って、
「このたび、駿河大納言忠長卿が、幕命によって、領地没収の上、上野高崎の地に幽閉されることになったその報は、すでに、お手前らの耳にもとどいて居ろう。馬いっぴき、持槍一本、近習わずか十数名を従えただけの配流《はいる》行列は、たぶん、明日あたり、この三島にさしかかるはず――」
と、きり出した。
駿河大納言忠長が、改易《かいえき》配流になるかも知れぬ、という噂が、巷間《こうかん》にひろまったのは、二代将軍秀忠が逝《い》った今年正月からであった。
忠長は、その時、行状不届の咎《とがめ》を蒙《こうむ》って、秀忠の命により、甲府に蟄居《ちつきよ》中であった。
父秀忠が、病臥したときいた忠長は、再三、天海大僧正に、親書を送って、赦免を乞い、父を見舞うことを歎願したが、ついに許されなかった。
忠長は、秀忠が逝ってからも、その葬儀に参列することさえも許されなかった。
巷間につたえられた噂では、忠長は、父秀忠の忌諱《きき》にふれて、ついに、許されなかった、ということであった。
兄の三代将軍家光は、弟の赦免を病臥の父に願った。すると、秀忠は、落涙し乍ら、忠長自筆の書状を、家光に示した。
その書状には、
[#この行2字下げ]『駿・遠・甲・信四国合わせて百万石を下されたく、さもなくば、現在と同じ高でもよろしく、封地を五畿内に替えて下され、大坂城をお預け下されたく、若《も》し右二条とも叶わずば、切腹して相果て、永くお怨《うら》み申し上ぐべし』
としたためてあり、秀忠は、
「われらの子のことなれば、許したきは山々なれど、天下の仕置には、代えがたし」
と、慨《なげ》いた、という。
この話は、いささかでも政治に関心を持つ者ならば、
――つくり話だな。
と、判断できた。
それより二年前、忠長は、秀忠から、
「一両年も国許に在《あ》りて、仕置申しつける」
と命があって、江戸へ来ることを禁じられていたが、何故の謹慎か、理由は不明であった。
忠長は酒興に乗じて、いろいろ乱暴な挙動があり、宛然《さながら》乱心者で、いささかでも意に逆らう者は手討にしてはばからぬ行状をくりひろげている、という風聞があった。
しかし、それはあくまで風聞であり、駿府を通る参覲道中の西国大名衆は、その反対の忠長の人柄を知っていた。
大名衆は、出府または帰国の途次、駿府に入ると、必ず忠長に目通りして、ご機嫌伺いをした。
忠長は、それらの大名を、分けへだてせずに、歓待して、
「ここは江戸ではない、心置きなくくつろぐがよい」
と云い、上下のへだてをとりはらった談笑の時をすごさせた。
そして、必ず、道具または馬、あるいは巻物などを贈った。
意に逆らう者は、片はしから手討にする酷薄無比な忠長とは、およそ正反対の優しい性情の持主であった。
寛永六年に、忠長は、異母弟保科正之が、まだ父秀忠と対面していないのをきき、これを同道して出府すべく、駿府城へ呼んだ。
その時、忠長は、座敷の内、所々警備の番士に、一人も詰めるのは無用である、と申しつけた。
正之が入城し、兄弟のなごやかな歓談を終えて、辞去するにあたり、忠長は、番士らが残らず詰所に出てもよい、と許した。
後日、近習に、このことを問われた忠長は、笑って、
「幸松(正之のこと)は、高遠の田舎育ちで、万《よろ》ず不調法であろうかと思い、当番のさむらいどもに、その不調法を見られてはと気づかって、一同を遠ざけてみたが、利発の取廻しに安堵して、帰りには、番士どもを詰所に出させたのだ」
と、語った。
忠長は、このように、尋常の|※[#「糸+丸」]袴《がんこ》公子ではなかった。
天性の怜悧《れいり》は、人心を収めるのに、巧みであった。
これらの逸話の持主が、理由もなく、狂気の濫行《らんぎよう》をするはずがない、と忠長を知る人々は、つよく否定した。しかし、幕府の仕置を、真向から批判する勇気のある士は、一人もいなかった。
要するに――。
家光は、自分よりも父母に愛され、自分よりも大名旗本に人気のある弟忠長を憎んだのであった。
秀忠が、忠長の病気見舞いの歎願を拒否したのではなく、家光がさせなかったのである。
そして、世間へは、家光がとりなそうとしたが、秀忠が許さなかった、と|ふれ《ヽヽ》させたのである。
秀忠が逝くや、家光は、忠長をいったん許して、甲府から駿府へもどしておいて、半年後、改易配流の苛酷な措置をとったのであった。
これは、元和二年、家康が逝った直後、秀忠が、自分よりも世間に人気のあった弟忠輝を、越後高田の封を奪って配流したケースとそっくりであった。
つまり、秀忠は、曾《かつ》て自分が実弟に加えた残忍を、そのまま、長男家光から仕返しされたのであった。
「……無実の罪をさせられ、配謫《はいたく》の憂目《うきめ》に遭《お》うた、そのまことの理由を、お手前らは、知って居るかな?」
不伝は、胸を張って、三人の青年を見やった。
「久能山所蔵の金銀を、召し上げるためである。……台徳院《たいとくいん》公(秀忠)は、三代将軍家にも内密に、遺言状をのこされた。その遺言状には、駿河大納言に、久能山所蔵の金銀をゆずる、と記されてあった。この遺言が、三代将軍家を、烈火のごとく、憤らせたのだ」
三
どこで調べたか、聞いたか――いかにも、真相らしく、そう語る不伝を、忠弥・半兵衛・弥五郎は、黙って、見まもっている。
「その久能山の金銀だが、大納言卿の配流道中より、三日乃至四日おくれて、江戸へはこばれて来る。荷駄三百頭の金銀である。それを、狙うのが、この張孔堂の存念である。……如何《どう》だ、おのおの?」
聴き手たちは、顔を見合わせた。
「張良・孔明の妙案奇策が、その胸にある、というのか?」
半兵衛が訊ねた。
「ある! 襲う場所は、箱根山中。用意するのは、牛三十頭、木曾義仲の鬼謀にならって、その角《つの》に松明《たいまつ》を燃やして、突入させる。荷駄は、おどろいて、断崖から落ちる。どうじゃな、これは?」
忠弥が、「面白いな」と乗ったとたん、弥五郎が、笑い声をたてた。
「なにが、おかしい?」
忠弥は、弥五郎を睨んだ。
「牛と馬の習性を知らぬ者ならば、妙策と思うかも知れぬが、ばかげている」
「ばかげているとは?」
不伝が、険《けわ》しい表情になった。
「牛と馬は、決して闘争はせぬ。牛は馬をさけるし、馬は牛をさける。したがって、すれちがうだけだ」
「やってみなければ、判るまい。牛は、角に松明を燃やして居るのだ。馬がおどろかぬはずはない」
「では、おどろくとしよう。……ところで、牛の角に、松明をくくりつけ、火を放つのは、荷駄が、すぐ先まで近づいてからでなければなるまい。三百頭の金銀をはこぶ道中ならば、前後の警備は、ものものしかろう。こうした不意の襲撃にそなえて、おそらく、箱根山中は、通行止めになろう。牛三十頭をつれて、箱根に入ることなど、不可能だ。かりに、それが可能としても、山中いたるところに、警備の者が配されている中で、どうして、牛の角で松明が焚《た》けるか?」
弥五郎から、冷やかに直視されて、不伝は、言葉がなかった。
ひとたび、口をひらくと、弥五郎の舌鋒《ぜつぽう》は、対手《あいて》を容赦しなかった。
「不伝殿。御辺が、久能山所蔵の金銀を掠奪する目的で、奉納試合を催したことからして、まず、うわついて、いささか、間抜けて居る。一文無しが、贋小判をつくって、十人抜きに賞金百両を出す、など餓鬼大将の妄想遊戯に近い。……なるほど、御辺は、三十人抜いた手練者《てだれ》を、こうして、えらぶことができた。しかし、それで、どうなるというのだ? 丸橋忠弥ただ一人を味方につけて、いったい、なにができる!」
不伝が、憤然として、何か応《こた》えようとする前に、忠弥が、
「待った、弥五郎」
と、手を挙げた。
「この襲撃計画、無謀だからこそ、面白いではないか。ひとつ、やれるかやれぬか、ものはためしに、やってみようではないか」
「正気か、忠弥!」
「正気だ」
「では、勝手にやることだ」
「弥五郎、やるには、お主の智慧が必要だ」
「徒労なことに、智慧をしぼりたくはない」
「ま、そう云うな。……お主のことだ。不伝殿の愚策を軽蔑した時、妙案が胸にうかんだにちがいない。おれなら、こうやる、と――」
「………」
「きかせろ、弥五郎」
弥五郎は、ちょっと、沈黙を置いてから、
「本当にやる気なのだな、忠弥?」
「やる!」
「試案として、ひとつだけ、教えよう」
「うむ!」
忠弥も、不伝も、半兵衛も、じっと、弥五郎を、瞶《みつ》めた。
「箱根山中が、通行止めになる。それを、逆に利用して、一策が思いつく。……煙硝玉を、地面に埋める。この埋めかたが、馬の前脚の双つの蹄《ひづめ》が踏む幅を、はかって、埋める。荷駄の先導を、数十人の警備の士が往くであろうが、これは、まっすぐに、道の中央を進むから、煙硝玉を踏むおそれはあるまい。……煙硝玉が炸裂《さくれつ》して、騒動になった際、馬の習性は、おどろけば、奔走する。後退することはない。奔走する馬の群は、つぎつぎと、煙硝玉を踏みつけ、騒ぎはいよいよ大きくなり、馬どもは、ますます、奔走する。……そのどさくさで、千両箱の二つや三つ、掠奪することが、できるかも知れぬ」
「まさしく、神算にして鬼謀。やるぞ!」
忠弥が、叫んだ。
弥五郎は、すっと、座を立った。
「おい、弥五郎、お主は、加わらぬのか?」
半兵衛が、訊ねた。
「半兵衛、お主は、忠弥をたすけてやれ」
「お主は、これからどこへ行くのだ?」
「伊豆へ行く。おれの恩師に逢いに行く」
[#改ページ]
む す め 旅
一
二日後――。
由比弥五郎は、修善寺から、伊豆の東岸にある伊東へ抜ける天城道を、辿《たど》っていた。
弥五郎は、修善寺にある真言教場・桂谷山寺に、恩師が滞在するときいて、たずねて行ったのであったが、再会は叶わなかった。
住職も、行先をよく知らなかったが、「直見《あたみ》郷に行って、雁皮紙《がんぴし》のつくりかたを、おぼえたい、と申されていたが……、もしかすると、熱海の湯場《ゆば》の近くに紙|漉《す》き所を設けて居られるかも知れ申さぬ」
と、告げられて、弥五郎は、そこをたずねることにしたのであった。
弥五郎の師は、丈山・石川嘉右衛門重之であった。
いわゆる「上の浪人」石川丈山は、一種の謎につつまれた人物であった。
石川氏は、徳川家の三河譜代の家人で、代々勲功があった。重之の父信定は、戦場に於ける負傷のために、廃人となった。家康は、それをあわれんで、その子重之を、小姓として近侍させた。
重之は、前髪立ちの頃から、宿直《とのい》をつとめ、微かな物音にも、すぐに目をさまして、警戒を怠らず、家康の信任が厚かった。
慶長五年の関ヶ原役には、重之は、十八歳であったが、江戸城の留守居を命じられて、戦功の機会をのがした。
しかし、慶長十二年冬、新築成ったばかりの駿府城が、何者かの放火によって焼けた際、家康の第十子(のちの紀伊大納言頼宣)を、死を決して、火中から救い出して、褒状をもらっている。
大坂役が来た時、重之は、すでに三十三歳になっていた。
重之は、その戦いにも、駿府城留守居を命じられたが、血書をしたためて、参戦を乞うた。
冬の陣は、許しがなかったが、夏の陣には、従軍をみとめられた。
五月七日――。
重之は、玉造《たまつくり》口から、桜門に、単騎突入した。馬は仆《たお》れ、身は重傷を負うたが、大坂方七手組の一将の首級を挙げて、帰って来た。
この先駆けが、家康の勘気に触れた。
先駆けは、きびしく禁じられている時代であった。
重之がはなばなしい先駆けをして、敵将の首級を挙げた戦功は、軍規違反行為として、行賞からもれた。
しかし――。
その日、そばに在って、重之の働きぶりを目撃した武士たちは、首をかしげた。
事実は――。
重之は、七日の暁、家康から当軍の先手に、伝令使を命じられて、戦場に出、そのまま、前田利常の先手本多安房守正重の手勢に加わり、岡山表の敵陣を突破し、平野口追手の黒門で、奮戦した。敵将の首級を挙げたのは、そこであった、という。
大坂城陥落の前日にあたるその日の戦闘は、攻め込む隊と、邀《むか》え撃つ隊が、その地点を入れかわって、味方が味方を襲撃する混乱も起っていた。
重之が加わった本多安房守正重は、かれの叔父にあたっていた。
前田利常勢の先手に、他に山崎閑斎、寺西若狭、村井飛騨、篠原出羽、津田和泉らがいたが、まっ先駆けて突撃したのは、本多正重の隊であった。
これに加わった重之が、一番乗りの槍をつけたとしても、ふしぎではなかった。
戦闘が終った時、池田勝兵衛は、
「本日の戦功第一は、石川重之である」
と、褒めたものであった。
――石川重之が、軍規をみだした咎《とが》で、行賞にもれたとは合点しがたい。
その働きを見聞きした者たちは、いぶからずにはいられなかった。
重之は、しかし、親しい者にも、真相を打ちあけず、家康が京都に在るあいだは、蟄居《ちつきよ》謹慎していた。家康が、江戸へ還るべく、出発するのを待って、重之は、致仕《ちし》して、京都妙心寺に入ってしまった。
その親戚には、本多正信、松平正綱などがいたし、重之が、その気になって、罪を謝したならば、勘気がとけて、出仕が叶ったかも知れぬ。げんに、親戚のめんめんは、そうすすめたし、土井利勝、板倉重宗らも、あるいは秀忠の旨を受け、あるいは個人的に忠告をしたが、重之は、頑として、耳をかさなかった。
十七年余も滅私奉公した家康に、死んでも頭を下げようとせぬ重之には、なにか理由があるに相違なかった。
誰にも真因は判らなかった。
由比弥五郎が、その弟子になったのは、それから三年後であった。
重之は、丈山と号して、洛北の草庵にこもっていた。その門に入った時、弥五郎は、十四歳であった。
弥五郎は、丈山の唯一の弟子となったのである。
二
弥五郎の辿る天城道は、狩野川の支流大見川の渓流に沿うて、険しい山谷をうねらせていた。
大見の郷、という。
その郷の首里を、八幡《はつま》といい、かなりの聚落であった。
八幡を過ぎて、いよいよ、密林の山ふところへ入る。
弥五郎は、歩きつづけた足をそのまま、八幡で休ませようとせず、山ふところへ入ろうとして、ふっと、立ち停った。
あたりは、人の身丈よりもひくい土常山《きあまちや》という小木の茂みであった。
地下《じげ》人の栽培する甘木であった。その葉を煮ると甘く、食料となった。天城という名称は、すなわち、甘木より起っている。
その甘木の茂みのむこうに、なにか騒動が起っている様子であった。
近づいてみると――。
甘木の茂みと、松や樅《もみ》や欅《けやき》の密林とのあいだに、かなりの空地が設けられていたが、そこに、奇妙な光景が、あった。
七人ばかり、いずれも少女が、背合せの円陣をつくり、それを、十人あまりの荒くれた男どもが、包囲していた。
少女たちは、旅姿で、その背中に、小太刀を負うていた。年齢は、上は十六七、下は十三四であった。武士の家の者ではなく、農民のむすめ|てい《ヽヽ》であった。
美醜は別として、どの貌《かお》にも、鋭くひきしまった隙のない表情があったし、身構えにも習練のけしきが現れていた。
包囲した荒くれた男どもは、天城山中に巣食う山賤《やまがつ》であろう。鉈《なた》をさしている腰には、かつては、太刀を帯びた者もいるに相違なかった。小田原北条家の残党を父に持つ者もいたろうし、大坂城から遁《のが》れ出た落人も交っている、と考えられる。
徳川幕府が、大坂方の将士とその家族を追う執念は、凄じいものがあった。
豊臣家が滅びて、十五年以上も過ぎているというのに、京都や大坂や、そして西国の城下町には、大野治房、その妻子、同じく大野道犬(治胤)の子、または、後藤又兵衛の子などの人相を記した高札が、立てられているのであった。
治房の子が、永井勘兵衛と名をかえて、長崎にひそんでいる、という噂がひろまると、長崎奉行は、町中の下人にいたるまで、三四代前の祖先にさかのぼって調べたということであった。
詮議の手から遁れるすべとして、落人たちがえらんだのは山中へひそむか、遠い島へ渡るか、いずれかであった。
山賤になったとしても、ふしぎではないのであった。そして、喪家《そうか》の犬が、追いつめられて、狂犬と化すのも、うなずけるところである。
「この嬢《じよ》っ子ら、どうやら、おれたちと、一戦交えるつもりらしいの」
一人がにやにやし乍《なが》ら、云った。
すると、年かさの少女が、おちついた声音《こわね》で、
「うちらは、|むたい《ヽヽヽ》な振舞いをしかけて来る奴ばらを、防ぐすべを、知っている」
と、云いかえした。
「大層なほざきだが、兵法道場で、習うたとでもいうのか?」
「そうじゃ」
「小娘に、兵法を習わせるとは、お前らの国は、物好きな気風だのう。どこだ、国は?」
「下総《しもうさ》じゃ」
「下総では、百姓の娘にまで、兵法を習わせるのか?」
「習うてわるいか?」
「わるくはない。わるくはないが、刀の振りかたをおぼえたのを自慢げに、嬢っ子ばかりぞろぞろと、この天城の山中まで、旅をして来るとはのう、ちと無謀にすぎるわい」
「ためしてみるか?」
「ためしてみるか、と来たぞ」
山賤どもは、どっと笑った。
笑いをおさめた時、かれらの形相は、残忍なものに変っていた。
山犬が、兎を見つけたのである。獲物が武芸を身につけているのは、こちらの狂暴性をあおってくれて、かえって面白い。
「では、ひとつ、ためしてみるぞ」
山賤どもが、包囲の輪を、一歩縮めたとたん、少女たちは、一斉に、背中の小太刀の柄へ、手をかけた。
かなりの距離を置いて見物する弥五郎は、少女たちが、どれだけたたかえるか、しばらく、その場を動かずにいることにした。
山賤どもが、さらに一歩迫ると、少女たちは、一瞬の遅速もなく、白刃を抜きつれた。
中段やや高めにつけた七人の構えは、みじんの怯《お》じ気もなく、しずかに、ひきしまっていた。
それにしても――。
毛皮の袖なしを羽織って、鉈を腰にさした髭むくじゃらの荒くれ男十一人に包囲され乍ら、いささかもたじろがず、小太刀を構えてたたかおうとする少女七人――この対照の奇妙は、すこしばかり滑稽なものに、弥五郎の目に映った。
「おっ――りゃっ!」
山賤の一人が、大袈裟な懸声もろとも、ひっ携げていた折れ弓をあげて、威嚇の一撃をくれた。
瞬間――血|飛沫《しぶき》がそこにあがって、よろめいたのは、山賤の方であった。手くびを、したたか斬られたのである。
斬ったのは、十四五歳の、丸い目と鼻と、薄い唇を持った、色白の可愛い少女であった。小太刀をつかんだ双手も、それがいかにも重げにみえる細さであった。
にも拘らず、ふるった技は、目にもとまらぬほどの迅《はや》さであり、残心の構えに、一分の隙もなかった。
三
「手ごわいのう。これでは、小娘ばかりうち連れて、平気で、道中するはずだ」
一人が、やおら鉈を腰から抜き取り乍ら、云った。
「きたえたからだなら、抱きかげんもよかろう。……嬢っ子めら、覚悟は、いいか!」
山賤どもは、ようやく、真剣になって襲いかかるけしきを示した。
少女たちは、おし黙って、動かぬ。
――ここらあたりまでだな。
弥五郎は、不意に、地を蹴って、奔《はし》った。
「止めろ! 見苦しい!」
一喝をあびて、山賤どもは、狂暴な視線を、蒼白い面貌をそなえた総髪の青年へふり向けた。
「邪魔ひろぐなっ!」
一人がずかずかと向って来ると、弥五郎は、冷笑して、
「おのれら、人里へ姿を現す身ではなかろう。獣欲にわれを忘れているうち、おのが身に危険が迫るのを、気づかぬのか。……おのれらのうち、どれが大坂方の落人か、すでに、看《み》分けたぞ。……山狩りは、一両日中に行われると、覚悟せよ」
と、きめつけた。
公儀隠密と見せかけたのである。
一人がなにか呶号して、鉈を撃ちかけて来た。
弥五郎が、かわしもせず、その胴を薙《な》いで、くさむらに沈めた。
騒動は、それで、終った。
弥五郎は、山賤どもが、仲間の死骸をそこにのこして、密林の中へ消えるのを待ってから、少女たちに、問いかけた。
「そなたら、下総だ、と申したな?」
「はい」
「そなたらは、その小太刀を、鹿島神宮で習うたのか?」
「はい」
室町時代から戦国にかけて、関東に於ける剣道の大本山といわれたのは、鹿島神宮であった。鹿島神道流の剣威を、五畿七道に風靡《ふうび》させたのは、塚原|卜伝《ぼくでん》であり、その伝統は、寛永のいまも、衰えていなかった。
「しかし、下総には、鹿島神宮が在って、いかに兵法が盛んでも、地下《じげ》のむすめどもにまで、小太刀のふるいかたを教えるとは……」
弥五郎は、少女たちを、見まわして、
「そなたらは、郷士の家の出か、農民でも庄屋のむすめらしいが?」
「はい。わたくしは、下総印旛郡公津の大庄屋木内宗吾の妹|波津《はつ》と申します」
一番年かさの少女がこたえ、他の者もつぎつぎと名のった。いずれも、庄屋・郷士のむすめであった。
「それにしても、どうして、小太刀を習ったのだ」
弥五郎は、不審をただした。
「下総が、ご老中土井|大炊頭《おおいのかみ》様のご領地になってから、若い強い男が、村からいなくなりました。じゃから、村を守るために、うちらむすめが、小太刀を習わねばなりませぬ」
木内宗吾の妹波津は、はきはきとこたえた。
「若い強い男が、村からいなくなった? どういうわけだ、それは?」
「江戸のお城つくりのお手つだいに、みんな、つれて行かれました」
下総は、土井利勝から、堀田正盛の手に移ったが、新領主は、徳川家奉公のために、さらに苛酷な方策をとり、十歳以上の少年、六十歳の老人までも、江戸城普請のために、狩《か》り出した、という。
幕府では、築城と江戸の町づくりに、各大名に、千石夫を割りあてていた。すなわち、所領石高千石につき一人の割合で、人夫を出す規定をつくったのである。
しかし、徳川家の意を迎えるために、大名衆は、千石につき一人でよいところを、五人も十人も出していたのである。
おそらく、堀田正盛は、千石につき二十人以上も出しているに相違なかった。
「なるほど、村から男がいなくなるわけだな。……ところで、そなたらは、どうして、この伊豆まで、旅をして来たのだ?」
「はい。この伊豆の直見郷の熱海というところで、わたくしらの父や兄が、御用石の切り出しをしているのでございます。そこへ、たずねて参ります」
少女たちは、江戸を通って、東海道を進んで来ると、箱根をはじめ、各地に関所があって、とがめられるので、甲州街道をえらび、甲府から身延山を経て、三島に至る、遠まわりの道中をして来たのであった。
[#改ページ]
釣 人 哄 笑
一
由比弥五郎は、下総国の少女七人を連れて、柏《かしわ》峠を越え、伊東へ降りた。
日が暮れてから、かなり経っていたので、弥五郎は、伊東で一泊することにした。宿舎にえらんだのは、源頼朝が伊東祐清の女《むすめ》と通じて、しばしばあいびきした音無の森の中にある久豆弥《くずみ》明神であった。
禰宜《ねぎ》に乞うと、こころよく、一室をかしてくれた。
夕餉《ゆうげ》のあとのひととき、弥五郎は、少女たちの口から、江戸城の普請工事のために、下総国の農民たちが、いかに筆紙に尽しがたい苦役を強《し》いられているか――その実状を、きかされた。
弥五郎は、まだ江戸城を、見ていなかった。
これから、はじめて、出府して、いわゆる天下普請によって完成しようとしている巨城を見るつもりであった。
弥五郎が仕入れている知識では、江戸城は、大坂城の倍の規模を持っていた。
豊臣秀吉が築いた大坂城は、外郭の周囲約二里、東西約二十町、南北約十九町であった。その当時は、まさしく日本随一であった。
ところが――。
江戸城は、外郭の周囲約四里、東西約五十町、南北約三十五町。内郭だけで周囲約二里、ときいた。
すなわち、大坂城の外郭が、そのまま、すっぽりと、江戸城の内郭におさまってしまうことになり、いかに江戸城が、未曾有の巨城であるか、明白である。
天正十八年八月一日、家康が江戸に入った時、江戸城は、城とは名ばかりで、荒れはてた豪族館にすぎなかった。城の外廻りには、石垣などは一箇処も見当らず、すべて芝土居で、雑木と竹が繁茂しているばかりであった。
城塁の高さと、崖のけわしさと、湧き水をたたえた濠が、太田道灌がここをえらんだ理由を示していたが、濠に架けられた橋は、兵馬の通るのに堪《た》えられぬ老朽ぶりであったし、門は焼け崩《くず》れたままになっていた。
「子城」「中城」「外城」と三郭に区切られた城内には、あちこちに侍の家が残っていたが、石火矢による火災を防ぐために土をのせた屋根は、腐って、雨もりがしていたし、したがって屋内の畳も敷物も臭気を発して、坐ることはおろか、歩くのさえもはばかられた。
玄関は、板敷きではなく、土間で、上り段には幅のひろい舟板を二段にならべたみすぼらしさであった。
家康は、しかし、荒廃した江戸城の普請よりもさきに、知行割り、検地とともに、江戸の町づくりに着手した。
当時、江戸城の周辺には、茅ぶきの根小屋が、百軒あまりちらばっているにすぎなかったのである。
慶長三年、秀吉が逝《ゆ》き、同五年、関ヶ原役で西軍に圧勝し、同八年、征夷大将軍の宣下《せんげ》を受けて、家康は、いよいよ、江戸城づくりに、譜代・外様《とざま》を問わず総大名を手伝わせた。
爾来――。
寛永九年の今年までの三十年間、かぞえきれぬ金と人足が投入されて来た。
いわば、空前絶後の巨城を築きあげるために、日本中の人間が、私《わたくし》のくらしを犠牲にした、といえる。
そして、いまも、そうしているのであった。
「……つまり、そなたらは、物心ついた頃から、父親や兄の顔を見ないで、育った、というわけか」
弥五郎は、居並んだ七人の少女を見やって、云った。
「はい」
「それにしては、そなたらが、よく生れたものだな」
印旛郡公津の大庄屋木内宗吾の妹波津が、にっこりして、
「父や兄は、年に一度、田植え時に、交替で、村へもどって参ります。そのおかげで、子が生れて居ります」
と、こたえた。
「この三十年間、どこの領土でも、女子ばかりが、田畑をたがやして、年貢を納めて来たのか」
弥五郎は、暗然として呟《つぶや》いた。
数年間、弥五郎は、京都の島原の遊廓で、庄内から売られて来た少年に会ったことがある。
少年の故郷――庄内・岩川村では、元和のはじめから、女子が片はしから売られ、売りつくすと、こんどは、少年が売られ、青壮年は江戸城普請工事につれて行かれていたので、寛永のはじめには、田畑は荒野にかえってしまった、ときかされた時、弥五郎は、
――いささか、誇張にすぎる。
と、受けとったものであったが……。
二
「百姓は、生かさず、殺さずして使うもの、か」
弥五郎は、家康が云ったと伝えられるその言葉を、口にした。
――将軍家の居城を、権威あるものにするために、どれだけの百姓が飢え死し、どれだけの女子や少年が売られたろう?
年貢につまると、子女を売り、女房を五年季、十年季の質入れすることは、通常とされている時世であった。
それは、旱魃《かんばつ》や暴風雨のような天災に遭《お》うた場合は、やむを得ぬとあきらめることもできた。
江戸城普請は、いわば人災であった。その苦役のために、青壮年が奪われて、村の窮乏は恒久化したのである。
「ばかげて居る!」
弥五郎が、吐き出す様子を、七人の少女は眸子《ひとみ》を張り、膝をそろえて、じっと見まもっていた。
「乱世はおわり、合戦はあとを断ったが、百姓のくらしぶりは、依然として惨《みじ》めなのだ。こんなばかげたことはない」
弥五郎は、少女たちを視《み》かえして、
「そなたらは、年に幾度、米が喰べられる?」
と、訊ねた。
「お正月に一度だけでござります」
波津がこたえた。
「庄屋の家でもか?」
「はい」
「主食は、麦か?」
「|きんか《ヽヽヽ》粥《がゆ》でござります。粟と芋に、ほんのすこし米の粉をまぜて、湯でかためたものでござります。麦は、早うお腹が空くので、一日に一升も喰べなければなりませぬ。それでは、たくわえた麦は、すぐなくなりますし、麦を売らねば、くらしの費用が出ませぬ。百姓どもは、芋頭や大根だのを、塩で煮て、主食にして居ります」
「そうまで、貧苦に堪え乍《なが》ら、そなたらは、お上をうらめしゅう思わぬのか?」
「………」
「江戸に、将軍家の城を築くために、自分たちが、こんな惨めなくらしをせねばならぬ、ということが、腹立たしくはないか?」
「………」
少女たちは、天下人を平然とそしる若い浪人者を、息をのんで、瞶《みつ》めた。
そんな気持など、起したことはなかった。城主の命令は、絶対であった。城主が自分の主人である将軍家につくそうとしているのだから、百姓どもが、どんな苦難不幸をも我慢するのは、あたりまえだ、と思っていた。
ところが、この浪人者は、おそろしい言葉を口にしてはばからぬのであった。
少女たちは、ただ、息をのむばかりであった。
弥五郎は、少女たちの表情を眺めやって、ふっと、破顔した。
「そなたらに、申しきかせても、はじまらぬことだな。……ところで、どうして、そなたらは、父や兄や弟の働いている石切場へ、行こうとしているのだ?」
「稲刈りが済んだので、うちらも手伝うて、一日も早う、御用がおわるように……、そう思うて国を出て参りました」
波津が、こたえた。
さいわい、大庄屋、庄屋、郷士の女《むすめ》である彼女らは、村をまもる目的によって、七八歳頃から、鹿島神宮で、神道流の習練をさせられていたので、伊豆に至る道中で、危難を払う自信を持っていた。
自分たちが、石切場へ行けば、父や兄弟をはげます役目もつとまる、と考えたのであった。
「けなげな心根ではあるが、旅の途次、ぶじであったのは、偶然そうであっただけのことだな。世をすねた、自棄《やけ》になった浪人者や、性悪の|ごろつき《ヽヽヽヽ》が、いたるところにいるのだ。そなたらは、恰好の生贄《いけにえ》であった。無謀であった、と思いかえすがよい。……このわし自身、こんどの場合、そなたらの味方になったが、別の時には、敵にまわって牙を剥《む》くかも知れぬ」
「貴方様は、そんな御仁《おひと》ではござりませぬ」
「いや、わからぬぞ。人間は、善と悪と、両面をそなえているのだ。……譜代大名が、主人の徳川家のために働くのは、善であろう。が、そのために、百姓たちを苦しめるのは、悪ではないか。……奉公というものも、観《み》かたによって、善となり、悪となる。ははは……また、理窟を、こねたな。もう寝よう。ゆっくり、休め。明朝には、父や兄弟に逢えるぞ」
三
夜が淡々《あわあわ》と明けそめた頃あい、波間に、一尾の魚が、躍って、そのまま、宙につりあげられた。
「でっかいぞ、でっかいぞ!」
はねまわる黒鯛をつかんだ釣人は、浅黄の筒袖に軽袗《かるさん》をはき、角頭巾《すみずきん》をかぶった初老の人物であった。
鼻梁の高さが目立った。鼻下と頤《あご》にたくわえた髯《ひげ》が、半白であった。
数丈の絶壁を背負うた崖裾の、海中に浮き出た岩に、腰を据えて、餌を投げたとたんに、食いついて来たのである。
魚籃《びく》に入れて、釣針に鰺《あじ》をつけ乍ら、
「今朝は、大漁のような予感がする。遠来の客でもあるかな」
と、呟いた。
その時、左方に、渚から長く延びた突堤に横づけされていた大きな石船から、小舟がはなれた。
半刻も経つと、数千人の人夫によって、切り出された石材が、梃子で押されて、この石船にはこばれてくる光景が、見られる。
後方の山の斜面にちらばる小屋は、まだねむっている。動いているものといえば、湯場からたちのぼっている湯煙だけであった。
小舟は、舳先《へさき》に一人の武士を乗せて、その釣場へ、近づいて来た。
釣人は、ちらと、一瞥《いちべつ》をくれて、
「遠来の客ではなさそうだ。釣をじゃまだてする不風流者めだのう」
と、吐きすてた。
小舟は、岩のわきへ着けられた。
「卒爾《そつじ》乍ら、石川丈山先生とお見受けいたし、ご挨拶つかまつる。紀伊大納言家の江戸家老・牧野兵庫頭長虎でござる」
挨拶したのは、まだ三十歳あまりの、はっとするほど容色の秀れた武士であった。
骨組みの華奢《きやしや》な、どこやら衆道の稚児若衆あがりのにおいのする、しかし才智が脳裡に満ちていそうな若い家老職であった。
石川丈山は、返辞も礼もかえさなかった。
牧野兵庫頭は、かまわず、岩へ上って来た。
「身共は、昨日より、石船十七艘を率いて、お手伝いに罷《まか》り越しました。先生が、当地に仮住居されて、毎朝、ここで釣をされているときき及び、早速に、ご挨拶に参上した次第でござる。よろしくお見知りおきのほどを――」
「ご用の向きがあれば、お使いを下されば、こちらから、出向き申す」
丈山の語気には、そっけないひびきがあった。
「べつに、主命を持ってご挨拶いたしたのではござらぬ。……ただ、主人が、かねてより、先生を、紀州家へ客分として招きたい意嚮《いこう》を抱いている旨、耳にいたして居りましたので――」
「その儀は、すでに、お断りしてあり申す」
「それも、きき及んで居ります。――しかし、主人にとっては、慶長十二年冬に、駿府城が焼けた際、火の中から先生に救い出された恩誼《おんぎ》も、これあり、せっかく、ここに仮住居なされているならば、ひと足のばして、出府なされて、主人とお会い下さるわけに参るまいか、と存じた次第でござる」
「この世捨て人を、客分にされて、石はこびの宰領にしようとでも、申されるのか?」
丈山は、笑った。
「その儀でござる。わが紀州家には、築城術に長《た》けた者が居らず、このたびのお手伝いにあたっては、他家にかなりおくれをとって居るのでござる。それゆえ、是非とも、先生のお智慧を――」
「ちょっと、お待ち頂きたい。……風聞によれば、この伊豆から江戸へむかった石船が、慶長年間だけでも、鍋島勝茂殿の持船百二十艘、加藤嘉明殿の持船四十六艘、黒田長政殿の持船三十艘、そのほか四百艘以上が、転覆、沈没し、死者はかり知れず、とか……。世捨て人といえども、ひとつしかない生命を、大切にいたしたく存ずる。石と心中するなど、まっぴらごめんを蒙りたい」
「ご尤《もつと》ものお言葉。……身共も、石船に乗ってみて、大波ひとつくらえば、かんたんに転覆するおそろしさが、身にしみ申した。巨大な重量の石を、横に移動させることは、人手が多ければ、さまで困難ではないが、これを、上下させるのは、人数を幾倍にしても不可能ゆえ、捲車で船に乗せるのに、船底へおろすことを避けて、石の底面を、舷側と同じ高さにいたして居り申す。かような石積みをいたせば、船の安定度は、甚だわるくなり、大波ひとつくらえば、かんたんに、転覆いたす。……これまで、江戸にぶじに着いた石船よりも、海底へ沈んだ石船の方が、数が多かったのも道理でござる。……先生、もし、なにか、石船に巧みな工夫をほどこすよい思案がありますれば、ご教示のほどをお願いつかまつります」
「よい思案など、この世捨て人に、あろうはずがござらぬな」
「先生!」
牧野兵庫頭は、岩へ正座すると、
「何卒《なにとぞ》、ご教示のほどを――」
と、平伏した。
「それがしは、目下、雁皮紙漉《がんぴしす》きと、魚を釣ることだけしか、念頭にござらぬ。……こちらから、お願いいたそう。かもうて下さるな」
「ご教示下さるまでは、兵庫頭、いくどでも、身をはこんで参る存念でござる」
「無駄でござるな、無駄!」
丈山は、そう云いすてておいて、「かかったぞ!」と顔面に喜色をあふらせて、竿をぐっと引いた。
「こんどは、もっと大きな奴だぞ! ありがたい。これぞ、浮世の醍醐味! 人生法楽の真髄! ははは……、せいぜいあばれるがいい。のがさんぞ、のがさんぞ!」
[#改ページ]
石 切 場
一
朝――辰刻(午前八時)、直見郷熱海では、数千の人が、一斉に、働き出した。
金槌をふるって石切|鏨《たがね》を石に打ち込む音、切り出した五十人持ち、百人持ちの巨石を、捲車で、すこしずつ山腹から海辺へおろしてゆく懸声、そして、波止場の高く長い突堤を、梃子で、石船へはこぶ歌声……。
十余年前までは、村坊中に湧き出ている二十余箇処の大湯が、遠来の客を招く、ここは、深秀の趣を持つ山嶽と、染翠《せんすい》の工を湛えた海原を愛《め》でる静かな湯治場であった。
梅の名所でもあり、
梅が香もわくや出で湯の春の風
と、発句《ほつく》がものされ、また、紅葉の季節には、鹿の声が終夜きこえて、
夜《よる》は湯にぬれさす袖を鹿の声
という秀句ものこされ、江戸をへだたる二十九里のこの熱海は、都人士の足を一度ははこばせる温泉であった。
ところが――。
寛永に入って、熱海は、その様相を一変させたのである。
江戸城完成を急ぐ幕府では、この湯治場をも、採石場に、指定したのであった。
ひとつの城を築くにあたっては、莫大な石材を必要とする。石材の乏しい国では、墓石まで使った例が珍しくはない。
まして、空前絶後の大城郭を完成するために、その必要とする石材の量は、算出不可能であり乍《なが》らも、江戸近辺には、石がなかったのである。
慶長九年夏に、江戸城普請の計画が公布されて以来、どれだけの石材が、日本全土から、運ばれて来たであろう。
最も遠くからは、加藤清正によって、肥後石と称《よ》ばれる美しい巨石が運ばれて、これは、本丸中門を飾った。
肥後石と比肩する美しい摂津の御影石も、西国大名によって運ばれ、石垣の角や、枡形《ますがた》の石垣など、人目をひく場所に組み込まれた。
慶長十年、家康が大御所となった年、浅野幸長は、三百八十五艘の石船をさし出した、と記録にある。
他の大名衆も、われ劣らじと、多数の石船を建造し、領地から良質の石材を運んだのであった。
関ヶ原役には、石田三成に乞われて、西軍に加わり、勇猛の戦闘ぶりを発揮した島津義弘でさえ、慶長十一年に、石船百五十艘を調達したが、その廻送がおくれ、
「もし、江戸へ到着したとしても、時分《じぶん》後になって、工事に間に合わず、御用に立たずとして、(公儀が)お受けとりにならなかったならば、|ふとどき《ヽヽヽヽ》の仕置などと、世上の風聞たるべく――」
家の存亡にかかわる一大事である、と極度の不安におそわれている。
関ヶ原役が終って、わずか五年も経たぬうちに、豊臣秀吉恩顧の諸大名でさえ、このありさまであった。
家康は、江戸城普請という大仕事によって、日本全土の大名ことごとくが、完全に徳川家の足下に膝を折って、懾伏《しようふく》した姿を、見とどけたのである。まだ、大坂城の天守閣がそびえ立ち、秀頼・淀君母子が健在である時に、この母子を守護する立場にある面々を使役して、江戸城を築かせたのは、家康の狡智といえた。
江戸城普請は、慶長年間、ただの一日も休むことなく、つづけられた。
家康・秀忠は、外様大名衆に、その領地から良質の石材を運ばせるとともに、おびただしい人夫をさし出させて、関東地方の山々から、石を切り出させた。
伊豆は、江戸城を築く全期間を通じての石の主産地となった。
伊豆半島の東岸の各|浦《うら》には、石切場が設けられ、各大名がさし出した石船が、三千艘も、伊豆にあつまった。関ヶ原役では、西軍の総帥であった毛利輝元は、この伊豆だけにも、三千人の人夫をさし出して、家康のご機嫌をうかがっている。
こうして、伊豆半島東岸の各浦――七ヶ浦、宇佐美、伊東、川奈、稲取などの石は、この三十年間に、ほとんど採りつくされたのである。
そして――。
二代将軍秀忠も遊んだ、都人士の愛《め》でる湯治場熱海が、ついに、伊豆で最後の採石場にされたのであった。
いまは、湯治の客は、全く姿を消し、各大名がそれぞれ石切りの丁場を受け持ち、その重臣が采配をふるい、家臣団が、国許からひきつれて来た徴発農民を指図して、一年に一日の休日もつくらず、切り出し、運搬し、船積みし、江戸へ送り出しているのであった。
二
「待て! 待てっ! もっと、ゆっくりだ。……ゆっくり、まわせ!……そうだ! その調子だぞ!」
樹木がことごとく伐《き》りとられて、株だけを残した斜面に、男の腕ほどの太さの綱が、ぴいんと張られた――その脇に立って、若々しい指図が、なされていた。
綱は、百人持ちの巨石を、吊りおろしていた。
石切場の平地には、捲車が立てられ、四本の腕木に、二十人ずつ八十人の人夫が、とりついていた。
捲車――神楽桟《かぐらさん》と称ばれた日本式ウインチが、巨石を山腹から海辺へおろす唯一の機械であった。
ひとかかえもある丸柱に、太綱を巻きつけて、丸柱から四方へさしのばされた腕木に、人夫がとりついて、ゆっくりと丸柱を廻転させて、綱をのばしてゆくのである。
機械とはいえ、やはり、これも、限りある人間の体力によって、巨石を動かすのであった。
すこしでも、気にゆるみが生じたならば、捲車は、八十人の腕力をふりきって、急廻転して、巨石をころがりおとすことになる。加速度のついた巨石は、綱を切って、そのまま、海辺まで落下するおそれがあった。
これまで、失敗の例は、一、二にとどまらなかった。
綱を切った巨石が、落下の方角を変えて、湯場の楼屋を破壊したこともあり、また、人夫数人を押しつぶして、谷間の底へ消えたこともある。
ここは、堀田正盛の丁場であったが、さいわい、今日まで、さしたる惨事もひき起してはいなかった。
捲車の指図をしているのは、堀田家の家臣ではなく、下総国佐倉の大庄屋・木内宗吾であった。
大庄屋といっても、まだわずか二十一歳の若者であった。
この若者を頭領と仰いで、佐倉の農民二百七十余人が、この丁場で働いていた。その団結力は、他の丁場の人夫群とは比べもならぬ鞏固《きようこ》さがあった。
それというのも――。
木内宗吾は、ただの農民ではなかった。その曾祖父は、左馬允胤忠《さまのじようたねただ》といい、佐倉の城主千葉介重胤に仕え、四天王の一人であった。
天正十八年、豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、千葉介重胤は、北条氏に従ったため、その領地を失った。木内左馬允も、牢人して、自ら下総国印旛郡公津に土着し、農民となった。
宗吾が生れた慶長十七年には、すでに、千葉氏は滅びて、下総一円は、土井大炊頭利勝の領地となり、宗吾が育った時、堀田正盛の支配下に置かれていた。
しかし――。
下総国は、千葉氏によって、七百年も治められた国であった。農民たちの心から、七百年来の旧主に対する思慕が、一朝にして失われるべくもなかった。
佐倉に於ては、木内左馬允胤忠という人物は、神格化され、その子孫である宗吾の存在は、農民たちにとって、まぎれもない主人であった。
堀田正盛を領主と仰ぐ気持はきわめてうすく、印東庄三十六箇村の農民たちは、宗吾のためなら、生命をなげうち、水火も辞せぬ忠誠心を持っていたのである。
宗吾は、農民の信望に応《こた》えるだけの気骨と胆力をそなえた若者であった。
「ようし! いいぞ。……綱を止めろ!」
宗吾が、片手を挙げた。
巨石は、勾配のゆるやかな台地にまでおろされていた。
その台地を越えると、道が海辺までつくられていて、巨石は、丸太棒をコロにした、太い材木で組んだ戸板のような台に載《の》せられて、運ばれるのであった。
台に載せて、波止場へ運び、突堤から石船に積むのは、外様でも小大名の役目になり、石船で江戸まで運ぶのは、親藩・外様の大大名が受け持っていた。
台地におろされた巨石は、そこで、堀田家の紋を彫り込まれて、外様の小大名の家中へ渡されるのであった。
石工が、紋を彫るべく、玄翁《げんのう》と鑿《のみ》を持って、巨石に近づいたその折――。
どういうわけか、突如、巨石をひっ張っている綱が、ゆるんだ。
異常な悲鳴をあげて、石工がはねとばされた。
巨石は、数廻転して、台地から落ちた。
台地の下の道で、待ちかまえていた小大名家の家臣と人夫たちが、あわてて、左右へ逃げ散ろうとしたが、逃げおくれた数人が、あわれな悲鳴をほとばしらせた。
由比弥五郎が、七人の少女をともなって、伊東を早発ちして、宇佐美、網代《あじろ》を過ぎて、この熱海を一望のもとに見渡せる断崖の上の地点に出たのは、ちょうど、この時であった。
堀田家の丁場は、弥五郎と少女たちの立った場所から、最も近いところにあった。
「ああっ!」
少女たちは、いきなり、その惨事を目撃させられて、思わず、ひとかたまりに、身を寄せ合った。
「引けっ! 引きあげろ!」
宗音の叱咤が、ここまで、ひびいて来た。
「兄《あに》さんじゃ!」
波津が、叫んだ。
三
「おのれっ! われらを、外様の小藩とあなどって、わざと、石を落したなっ!」
一人の武士が、憤怒して、台地へとびあがると、斜面を駆けのばった。
宗吾に迫るや、抜刀した。
「おのれのそっ首、もろうたぞ!」
小大名の家臣としては、逆上したのは、むりもなかった。
巨石は、道をそれて、右方の窪地へ落ち込んでしまったのである。
台地へおろすまでが、堀田家の仕事なのであった。台地から下へ落ちた石は、その小大名家で、責任を持たなければならなかった。
窪地へ落ち込んだ巨石を、道まで曳《ひ》きあげるのは、小大名家の人夫だけでは、不可能であった。
采配をふるう者としては、思わずかっとわれを忘れたのである。
石切場からは、宗吾の前で白刃が宙に閃くのを視て、佐倉の農民たちが、なだれをうって、奔《はし》り降りて来た。
「さわぐなっ!」
宗吾は、農夫たちを一喝しておいて、抜刀者に向い、
「ご所望ならば、この首、さしあげましょう」
と、云った。
「百姓にしては、いさぎよいぞ。おのれの首を刎《は》ねて、拙者も切腹いたすぞ」
「そうなさる前に、てまえも、お手前様も、なさねばならぬことがありましょう」
「なに? なにをする、というのだ?」
「石を、道まで曳きあげることでございます」
「………」
抜刀者は、自分よりも十歳も年少らしい若者のおちついた態度に、ようやく、われにかえった。
「てまえらが、捲車を総員で、まわしますゆえ、お手前様の方でも、総手で、石の下へ、割り木をかませて頂きとう存じます」
「う、うむ――」
小大名の家臣は、うなずいた。
一|刻《とき》も――それ以上の時間をついやして、巨石が、窪地から道へ、曳きあげられるのを、弥五郎と少女たちは、辛抱づよく、眺めたことだった。
眺め乍ら、弥五郎は、
「ああなると、もはや、人間ではなく、蟻だな」
と、呟いた。
波津が、それをききとがめて、非難の眼眸《まなざし》を、弥五郎の横顔へ、くれた。
ようやく、巨石が道へ曳きあげられ、佐倉の農民たちの手つだいで、台へ載せられるのを待って、弥五郎は、少女たちに云った。
「そなたらが、手伝う仕事ではないようだな」
「いいえ!」
波津が、かぶりを振った。
「女子にできる仕事が、いくらでもあると存じます。炊事や、洗濯や、道具みがきや、そのほか、いろいろと……」
「見るがいい。何千人が働いているか知らぬが、女の姿など、ひとつも見当らぬ。たぶん、女人禁制なのだろう。湯場からも、女はすべて、追い出した模様だ」
もとより、これだけの大集団を働かせるからには、年に一度、国許へ帰すだけの慰労だけでなく、遊び女《め》の溜りも設けてあろう。しかし、その場所は、遠いに相違ない。
「こちらは、せっかく、はるばる来たのじゃから、お手伝いをさせて頂くよう、お願いしてみます」
波津は、云った。
弥五郎は、あらためて、少女たちを見まわした。
十七歳の波津が、最年長であった。いちばん年下は、まだ十三歳である。
しかし、鹿島神宮で小太刀を習練しただけあって、その四肢はのびのびと発達していたし、半数以上は、胸をゆたかに盛りあげていた。おそらく、大半は、月の|もの《ヽヽ》があるに相違ない。
「願ってみるのはよいが、父や兄に迷惑をかけぬようにしたがよい」
弥五郎は、ひとまず、ここで、少女たちに別れることにした。
波津は、弥五郎に礼をのべると、六人の仲間をうながして、堀田家の丁場へむかった。
一列になって坂道を降りて行く後姿を見送った弥五郎は、ふっと、
――あの娘《こ》らは、ぶじに国許へは、もどれぬかも知れぬ。
と、不吉な予感をおぼえた。
その予感をふりはらっておいて、弥五郎は、もよりの湯場へ足を向けた。
湯場は、湯治の客を迎えるのを禁じられて、丁場を受け持つ各大名の家臣連の宿舎になっていた。
弥五郎は、湯場の地下《じげ》人から、近頃ここへ現れて、雁皮紙《がんぴし》の漉《す》き所を設けた初老の浪人がいることを、たしかめた。
「この熱海で、御用石のお手伝いをせずに、くらしておいでの御仁は、そのご浪人お一人でございます」
そうきかされて、弥五郎は、微笑してうなずいた。
――おれの恩師だ。そうでなくてはならぬのだ。
[#改ページ]
旗 本 奴《やつこ》
一
当時――。
小田原の城下には、箱根口と江戸口に、関所にも似た木戸が設けられ、城主大久保氏の家臣が、通行の旅客に、きびしい監視の目を光らせていた。
江戸口ぎわに、『装束屋敷』と称《よ》ばれる宏壮な構えの屋敷があった。これは、慶長年間に、江戸下向の勅使を、泊めるために建てられたものであったが、寛永に入ってから、上洛帰府の将軍家代参者や、あるいは老中なども、泊るようになっていた。
その日――夕餉《ゆうげ》時を過ぎた頃合、装束屋敷の書院には、殺気にも似た険悪な空気が、みなぎっていた。
上座に就《つ》いているのは、老中並(准老中)松平伊豆守信綱であった。
駿府城に於て、大納言忠長に苛酷な宣言を与えたのち、久能山にまわって、そこに所蔵されている荷駄三百頭の莫大な金銀を、江戸へ向って送り出しておいて、信綱は、帰府の途次にあった。
御用金は、昨日箱根路を越えて、今日未明に小田原へ運ばれ、いま、この装束屋敷の数室に据《す》えてあった。信綱は、一日おくれて、半刻ばかり前に、到着したばかりであった。
下座から、信綱を睨んでいるのは、異様な風態の武士であった。
まず、人目をそばだてるのは、鼠色に染めた羽織の野晒《のざらし》模様であった。定紋《じようもん》の代りに、髑髏《されこうべ》を抜きあげ、腰のあたりに花切り鎌、左に輪ちがいを浮かせていた。
頭髪が、派手な糸鬢奴《いとびんやつこ》で、これに合わせた服装であった。すなわち、糸鬢奴の奴を「ぬ」に利《き》かせて、「鎌輪《かまわ》ぬ」と読ませたわけである。
小袖には、天鵞絨《びろうど》の襟をつけ、はだけた胸もとからは、鎖帷子《くさりかたびら》をのぞかせていた。白帯を三重にまわし、小袖の丈は、三里(膝頭下)の短さで、大|胡座《あぐら》をかいているので、毛脛《けずね》がまる見えであった。
右に置いた朱鞘の大刀は、無|反《そ》り四尺の長さで、柄には、棕櫚《しゆろ》が巻きつけてあった。
容貌は、その風態にふさわしく、双眼が異常にはなれ、鼻梁《びりよう》も唇も特大であった。
旗本白柄組|領袖《りようしゆう》・三千石・水野出雲守成貞――それが、この人物であった。
「ご老中には、あくまでも、箱根山中に於て、御用金襲撃はなかった、と申されるのか?」
その声量もまた、特大であった。
「左様――。根も葉もない風聞を、御辺が、ききとがめたまでのこと」
伊豆守信綱の態度は、静かであった。
無表情の顔の中に湛《たた》えられた冷たい眼眸《まなざし》は、まばたきもせず、対手の鋭い眼光を受けとめていた。
金銀を背負った荷駄三百頭が、小田原へ向って降りかかった時、突如、地面に埋められた煙硝玉が、蹄に踏まれて炸裂《さくれつ》し、驚いた馬がつぎつぎと奔馳《ほんち》して、そのうち数頭が、谷底へ落ちた、という噂が、ひそやかに、急速に、ひろまったのである。
「千両箱が数個、掠奪《りやくだつ》されたらしい」
その私語《ささやき》が、口から口ヘ伝えられて、一日過ぎた今日は、小田原城下で、知らぬ者はなくなっていた。
水野出雲守成貞以下、旗本百騎が、小田原――江戸の間の御用金警備を命じられて、到着したのは、今朝であった。
成貞は、伊豆守が装束屋敷に入るのを待って、事実の有無をたしかめに来たのである。
伊豆守は、即座に、否定したことであった。
――かくそうとして居るな。
成貞は、そう看《み》てとって、食い下る肚《はら》になっていた。
「面妖《おか》しゅうござるな。御用金は、昨日早朝に、三島を発した、と聞き及び申した。しかるに、当小田原へ到着したのは、今朝《こんちよう》未明であった。箱根越えに、一昼夜をついやしたのは、なんとしても、不審をおぼえ申す」
「………」
「ご老中、お手前様が、曲者の襲撃に遭《お》うたことを、かくされるのは、お立場の上から、ご尤もの儀と存じます。しかし、事実そうであったといたせば、当城下より江戸表までの警備をうけたまわったそれがしら旗本一統としては、すてて置くことはでき申さぬ。詮議の手助けをいたさねばなり申さぬ。……包まず、お打明け頂きとう存じます」
「左様の事実はない、と申して居る」
「ご老中! かくされるな! 千両箱幾個かが、掠奪され、あわてて、小田原城内の金蔵より、その分を借り受けて、数量を合わされたのではござるまいか?」
二
水野成貞が、躍起《やつき》になればなるほど、伊豆守の態度は、冷たく冴えたものになるようであった。
成貞は、権謀術数《けんぼうじゆつすう》をめぐらす型とは、およそ程遠い人物であった。
猛気は五体に盈《み》ちていたが、脳中に智謀能才はきわめて乏しかった。よくいえば、豁達《かつたつ》、わるくいえば粗暴、いうならば、殺伐な戦国の気風をただよわせる武辺者であった。
その血は、父日向守勝成から、享《う》けていた。
水野日向守勝成は、乱世を流浪する、いわゆる合戦買いの牢人であった。
北は奥羽から南は九州の果てまでも、わたりあるき、処々の大名に随身《ずいしん》したが、好悪の情が激しく、ある時は、同藩の士と口論して、これを斬って趨《はし》ったこともあり、ある時は、仕える主人が小人物であるのを軽蔑して、退散したこともあった。
元亀、天正の実力時代であった。
やがて、勝成は、徳川家の麾下《きか》に入り、長湫《ながくて》の戦いで、衆にすぐれた戦功をあげ、関ヶ原役では、一方の勇将として、武名を馳せた。
家康が、将軍の座に就いた時、勝成は、福山城主となり、十万石を領していた。
出雲守成貞は、その三男であった。
三男に生れて、旗本直参にとりたてられ、三千石を領したのは、幸運といえたが、泰平の世をすごすには、気象が、殺伐に過ぎた。
旗本は、戦時に於ては親兵であるが、平時に於ては、ごく少数者を除けば、無職の遊民であった。
旗本のうち、職掌あるのを、書院番、小姓番といい、この両番は、将軍の身辺護衛をつとめた。ほかに大番というのがあり、これは、江戸・大坂・駿府・京都二条の四城の守衛であった。別に、新番と小十人《こじゆうにん》があった。
これら番方も、天下が治《おさま》ってしまえば、べつに、何もすることはなかった。ただ、城の番人として、宿直するだけであり、実際の仕事は、下役の渡り奉公の用人どもが、つかさどった。
番方らは、宿直にあたっても、市中の仕出屋から、弁当をとり寄せ、汁番とか酒番とかを設け、飲んだり食ったりするだけで、時間つぶしをしたにすぎなかった。
まして――。
書院番、小姓番、大番に入れられぬ旗本――寄合衆(三千石以上)とか、小普請組となると、全く何もすることがなかった。
全く何もすることがない寄合衆の一人である水野出雲守成貞が、放縦|不羈《ふき》な気象を持って生れたところに、不幸があった。
風態に異風を凝《こ》らしてみたり、借金の山を築いてみたり、市井であばれまわってみたり、幕府の法度《はつと》をわざと犯してみたり、大名を敵視して、望んで争いの因をつくってみたり――六法《むほう》者と毛嫌いされる、いわゆる奇を衒《てら》う旗本|奴《やつこ》が、江戸には横行していた。
その旗本奴の代表者が、水野出雲守成貞であった(ちなみに、成貞の嫡男が、後年、白柄組の頭領を継いだ十郎左衛門成之であった。この年、十郎左衛門は、まだ十四歳の少年であった)。
「ご老中が、あくまで、御用金襲撃の事実をかくされるのであれば、われら旗本一統は、別に思案をたてて、致し様がござる。かまいますまいな!」
成貞は、そう云いはなって、肩をゆさぶってみせた。
「御辺らが、さわげば、あらぬ取沙汰を、さらにひろめることに相成る。止したがよい」
「いいや、ご老中の事|勿《なか》れのおつとめぶりが、われらには、不服でござる。……あるいは、隠密裡に詮議されて居るやも知れ申さぬが、お打明け頂けぬ以上、われら旗本一統は一統として、きびしく取締り申すゆえ、すておかれませい」
それを捨てぜりふにして、成貞は、さっと座を立った。
伊豆守は、しかし、そこで、老中の権威を示す厳命を下そうとはしなかった。
自分よりも数歳年長の旗本奴が、鉛を|くけ《ヽヽ》込んだ裾を、はねかえして、跫音《あしおと》荒く出て行くのを、黙然として、冷たく、見送っただけであった。
「殿――」
次の間から、襖ごしに、呼んだのは、股肱《ここう》の用人志村源八郎であった。
「このまま旗本衆の振舞いを、見のがしておいても、よろしゅうございますか?」
「すておけ」
伊豆守は、こたえた。
「は――、しかし……」
「わしが、べつだん、曲者詮議をせぬのを、そちが、いぶかって居るのであろう」
「殿のお心うちが、読みとりかねて居ります」
「よいのだ、これで――」
「は――?」
「旗本奴も、血をわかせる機会にめぐり会って、いい気分になって居ろう。無為徒食ほど、つまらぬくらしはない。たまには、こういう仕事を与えることが、必要だ。勝手に動きまわらせておくがよい」
伊豆守は、なぜ曲者詮議をせぬのか、その理由を教えようとせず、おだやかな語気で、そう云っただけであった。
三
その夜が更《ふ》けて――子刻《ねのこく》(午前零時)近くなった頃合であった。
針一本落ちても、ひびきそうな深い寂寞の底に沈んだ装束屋敷内で、ひとつの異変が起った。
荷駄三百頭の金銀は、種類分けされて、各室に据えられ、宿直の士十五名ずつが、警備にあたっていた。
久能山所蔵の金銀は、大坂城から運ばれた時のままの模様で、大判や丁銀だけではなく、法馬《ほうま》(分銅)もあり、それぞれ、函《はこ》におさめてあった。
異変は、天正大判が詰められてあるらしい千両箱の積まれた部屋で、起った。
床の間の天井板がはずされ、革製の細い管《くだ》が、山水の掛物の蔭を、壁をつたってするするとおろされた。
そして、管から、よく視《み》なければ、それと判らぬくらい薄い烟《けむり》が、ただよい出た。
よほど強烈な毒煙らしく、それが、畳を匍《は》いはじめるや、もう、五人の宿直の士は、うなだれて、睡魔の虜《とりこ》になっていた。
次に――。
千両箱の真上の天井板が、はずされ、先端に鉤《かぎ》のついた綱が、たぐりおろされた。
こうして、千両箱が一個、音もなく、盗み去られた。
その異変とほぼ同じ時刻、装束屋敷から北に数町へだたった野道で、妻子連れの浪人者が、突然、松の疎林から奔《はし》り出た二人の武士から、鋭い誰何《すいか》をあびていた。
誰何したのは、夜目にもはっきりそれと判る旗本奴連であった。
「おいっ! この夜半、木戸を避けて、野道を遁走《とんそう》して、どこへ参る?」
前後をはさまれた浪人者は、おどおどし乍ら、
「べ、べつに、遁走など、しては居り申さぬ。……少々さきを急ぐゆえ、真夜中発ちをいたしたまでのことでござる」
と、弁解した。
江戸口・箱根口の木戸は、いずれも、暮六《くれむ》つには、閉められる。関所ではないから、木戸口が閉められたあとは、野道をひろったとしても、べつだん、さしつかえはなかった。そうする旅人もかなりいたのである。
「足弱二人を連れて、真夜中発ちとは、怪しい。木戸口の改所まで、同道せい」
「|むたい《ヽヽヽ》な取調べを、受けるおぼえはござらぬ」
「黙れっ! うぬは、箱根山中で、御用金を襲った曲者の一味であろう?」
「と、とほうもない云いががりを、つけられるな」
「おいっ! われらは、大久保家の木っ端役人とは、ちがうぞ。旗本白柄組だ。神妙にしろ!」
浪人者は、あるいは、大坂城の落人であったかも知れなかった。
江戸からやって来た旗本奴が、夜になって、にわかに、城下の旅籠《はたご》という旅籠、あるいは社寺などへ、踏み込んで来たが、御用金掠奪の下手人探索の騒動と知れたものの、この浪人は、おのが素姓が露見するのをおそれて、捜査の網から遁れようとしたものであったろう。
その配慮が、かえって不運をまねいたのである。豊臣家残党と知れたならば、勿論死罪をまぬがれぬ。
浪人者は、やむなく連行されるとみせかけて、数歩進んで、いきなり、身をひるがえしざま、旗本奴の一人を、斬った。
「やはり、そうか。うぬは、一味だな」
跳び退ったもう一人の旗本奴は、仲間を斬られた憤怒を、白刃にこめて、大上段にふりかぶった。
浪人者は、初老であったし、宿痾《しゆくあ》持ちらしく、肩で激しく喘《あえ》ぐうちに、咳込みはじめた。
旗本奴は、野獣めいた呶号をほとばしらせて、襲いかかった。
良人の身があぶない、と看《み》た浪人者の妻女が、懐剣を抜きざま、旗本奴の横腹へ突きかけた。
もし、妻女が、石かなにかにつまずかなければ、あるいは、良人を救い、自身もたすかったかも知れなかった。
悲鳴をあげて、たたらを踏んだところを、
「しゃらくせえっ!」
存分に斬り下げられた。
「お、おのれっ!」
浪人者は、妻を斬られて、逆上した。
文字通り死にもの狂いの反撃に、旗本奴は、浮足立った。
星あかりの野道で、しばらく、凄惨な死闘がくりひろげられたが、やがて、双方の口から、同時に絶鳴がほとばしった。
旗本奴は、腹を貫かれ、浪人者は、頸根を割りつけられて、とも倒れに、その場へ仆《たお》れた。
小さな孤影だけが、地上にのこった。
まだ十歳あまりの少女であったが、あまりのおそろしさに、悲鳴も出ぬまま、立ちすくんでいるうちに、脳裡が空白になり、石像と化した、とみえた。
ひとつの黒影が、足早に近づいて来た。
小脇に、かかえているのは、まぎれもなく、千両箱であった。
「お!」
闇に目の利く男らしく、地面に仆れている屍体を、見わたし、
「どうしたんだ、これァ?」
と、呟き乍ら、少女へ視線を移した。
[#改ページ]
曲 者 詮 議
一
夜明けを告げる小鳥のさえずりが、一人の男を目覚めさせた。
小田原から一里あまり、酒匂川を渡った小八幡という村から、足柄道をすこし入ったところに建つ古びた地蔵堂の中であった。
淡い朝霞が、破れ格子から、注ぎ入っていたが、屋内の隅には、まだ闇が溜っていた。
「あっ、あーあ……」
双腕をさしのばし、大きく背のびして、
「よう睡《ね》た」
と、呟いて、起き上った。
片手で、頸筋《くびすじ》をぐいぐいともみ乍《なが》ら、
「年齢《とし》だのう。こんなに、よう睡たにもかかわらず、疲れだけが、のこって居る」
と、しきりに首を左右に曲げた。
千両箱を、枕にして、寝ていたのである。
六十に近い老爺で、額や口の脇の皺《しわ》は、彫ったように深かった。
昨夜、小田原城下江戸口の装束屋敷に忍び込んで、千両箱を盗み取った男であった。
腰から莨入《たばこい》れを、抜きとって、うまそうに、ふかぶかと一服吸い込み、紫煙をくゆらせてから、男は、地蔵尊の方へ、視線を移した。
供物台の下に、一人の少女が、寝ていた。男が、かけてやった合羽《かつぱ》にくるまっている。
「ほう――」
男は、少女の双眸がひらかれて、まばたきもせず、自分を瞶《みつ》めているのをみとめた。
「可哀そうに、まんじりともしなかったのではないかな。……むりもない。あのような、両親のむざんな最期を、目撃させられてはのう――」
男は、いたましい思いを、表情にした。
少女は、起き上ると、きちんと正座した。頬には、泣いた痕があった。
「なんという名じゃな、そなた?」
「千夜《ちや》と申します」
「いくつかな?」
「十一歳に相成ります」
「父御は、ご浪人衆のようであったが……」
「はい」
「国は、どちらかな?」
「土佐浦戸であった、ときいて居ります。でも、わたくしは、備前の小さな島で、生れて、育ちました」
――この子の父親は、長曾我部宮内少輔殿の旧臣で、主君が六条河原で斬られた時、備前の小島にかくれ住んだに相違ない。なにかの事情で、江戸へおもむく途中、不幸に遭《お》うたのだ。
男は、煙管《きせる》に莨《たばこ》をつめかえて、火をつけた。
紫煙の行方を見送ってから、男は、やさしい微笑の顔を、千夜に向けると、
「昨夜のことは、忘れるようにつとめるのだな。……そなたの身柄は、わしが、引き受けよう」
と、云った。
「………」
千夜は、黙って、じっと、男を瞶《みつ》めかえしている。
「お――そうだ。名のるのを忘れていた。わしは、伊賀国の名張《なばり》というところから出て来た者で、夜《よる》兵衛――いや、夜《や》兵衛とおぼえておいてもらおう。生業《なりわい》は、旅商人ということにしておこうかな」
「………」
「後見役の柄ではないし、後生《ごしよう》願いをする料簡も持たぬが、そなたとは、なにやら前世からの縁があるような気がするので、ひとつ、そなたにだけは、いい小父さんであった、と思われて、あの世へ行くことにしようかな」
千夜は、そのやさしい言葉に、こくりとうなずいた。
「さて、と――、そうときまれば、早速、江戸へ出て、住居をきめなければならぬ、江戸城の天守閣が眺められるところに、住み心地のいい家をな。……さいわい、いくらぜいたくしても使いきれぬほど、金はある」
名張の夜兵衛は、千両箱を、ぽんとたたいてみせて、
「そなたは、まだ、天正大判を見たことがあるまい」
「ございませぬ」
「眺めるかな」
夜兵衛は、道中差から小柄を抜きとると、千両箱の錠前を、ことことといじっていたが、苦もなくはずした。
「実はな、わしもまだ、こんな大金にお目にかかるのは、いまがはじめてでな」
笑い乍ら、夜兵衛は、ひょいと、蓋《ふた》を開いた。
とたん――。
夜兵衛の顔色が、さっと一変した。
「これは!」
縦五寸、横三寸あまりの楕円形をした一枚を、つまみあげた夜兵衛は、
「伊豆守め! 見事に、一杯くわせ居ったな!」
と、呻《うめ》いた。
形状だけは、横目まで入れて、大判とそっくりであったが、それは、黄金ではなく、銅《あかがね》だったのである。
「伊豆守は、贋金銀を、荷駄三百頭で、陸路をはこび、ほんものの大判小判、丁銀《ちようぎん》、法馬《ほうま》は、おそらく、海路をはこんでいるのだな。……ふふふふ、名張の夜兵衛ともあろう者が、だまされるとはのう。……伊豆守め、わしは、これで、ひきさがりはせぬぞ。家康に奪い去られた豊臣家の軍用金は、この名張の夜兵衛が、生命のある限り、取りかえしつづけてくれる!」
二
名張の夜兵衛よりもさきに、贋の天正大判を、松平信綱からつかまされた者たちがいた。
楠不伝と丸橋忠弥と金井半兵衛であった。
由比弥五郎からさずけられた作戦は、図に当り、三箇の千両箱を掠奪することに成功したかれらは、箱根七湯のひとつ木賀ノ湯にそれを運んだ。
木賀ノ湯には、北条氏政がつくったといわれる『隠れ湯』があった。
見たところ、ただの木樵《きこり》小屋であるが、岩にかこまれた地下室が設けられ、そこからさらに石段を下ると、自然石でつくった湯槽《ゆぶね》が、湯煙をたちこめさせていた。
木樵小屋は、老朽して、傾いていたし、数軒の湯宿からは、かなりはなれた場所にあるので、まさしく、これは、掠奪者が身をひそませるには恰好の『隠れ湯』であった。
三人は、その地下室に、千両箱を運び、蓋を開けてみて、唖然となったことであった。
丸橋忠弥は、もし金井半兵衛がとどめなければ、憤怒のあまり、楠不伝を、槍の贄《にえ》にしたに相違なかった。
忠弥は、不伝と顔をつきあわせていると、突き殺したい衝動が起るとみえて、昨夜|更《ふ》けてから、
「おれは、出て行く」
と、槍をひっさげて、『隠れ湯』を去っていた。
半兵衛の方は、べつに不伝を憎む様子もなく、腰をあげようとはしなかった。
今朝も、起き抜けに、石段を降りて、岩風呂に身を沈めると、のんびりと今様《いまよう》をうたっていた。
不伝が、降りて来て、傍につかると、半兵衛は、
「どうも、面妖《おか》しい」
と、云った。
「面妖しい、とは?」
「あの贋判金のことだが……、久能山から運び出す宰領をやったのは、松平伊豆守だと、御辺は云ったが、伊豆守が、駿河大納言に引導を渡しに出かけて行ったのは、十日ばかり前だろう」
「左様――」
「そんな短い期間に、贋判金やら贋丁銀やら贋法馬やらを、作れる道理がない」
「うむ、そう申せば、そうじゃが……」
「駿府大御所(家康)が、大坂城から運んで来た時には、勿論、贋ではなかったろう。……贋にすりかえたのは、駿府大御所の仕業ではなかったか?……実は、伊豆守も、贋とは知らずに、江戸表へ運ぼうとしているのではあるまいか? 本物の方は、久能山か、あるいは駿府城のどこかに、かくしてあるのではないのか。そのことを知っているのは、亡くなった江戸大御所(秀忠)と駿河大納言の二人だけだとしたら、どうだ?」
「………」
不伝は、湯煙の中の半兵衛の表情を、すかし視乍《みなが》ら、息をのんでいる。
「駿河大納言は、封土を没収され、配流《はいる》される無念で、わざとそのことを黙って、伊豆守に、贋ものを運ばせたのではあるまいか。それが、せめてもの、兄将軍家に対する腹癒《はらい》せなのだ。所蔵場所は、おのれ一人の胸にひそめて、たとえ殺されても、江戸城へは渡さぬ、と決意して、高崎に幽閉されたのではなかろうか。……ふむ。この推測は、大いに愉快だぞ」
「すると、久能山か、駿府城をさがせば、見つけられる、というのじゃな?」
「御辺のような間抜けには、十年が二十年嗅きまわったところで、さがしあてられるものではない。……これは、金井半兵衛の一世一代の大仕事だな」
「お主の推測が事実とすれば、松平伊豆守は、駿河大納言に迫って、必ず所蔵場所を吐かせるに相違あるまい」
「いや、吐かぬな、大納言は――。秘密を抱いて、三途《さんず》の川を渡るだろう。そうでなくては、面白くない。……さがしあてるのは、この金井半兵衛だ」
自信のほどを、語気にこめて、半兵衛が、云いはなった時であった。
石段上から、
「おい――」
忠弥の呼び声が、ひびいた。
「なんだ、戻って来たのか? どうしたのだ?」
「街道は、西へも東へも、行けぬ」
素裸になって、降りて来た忠弥は、ざぶっと、身を沈めると、顔を洗った。
「強盗詮議が、きびしいのか?」
「そうだ。浪人者は、一歩も歩けぬぞ」
「そうか。これで、はっきりと判ったぞ」
「なにが、判ったのだ?」
「伊豆守が、贋金と知って居れば、強盗の詮議などするはずはあるまい。そ知らぬふりをして、江戸へ運んでしまうだろう。贋金と知らぬから、さわぎたてて居るのだ。……おれの推測は、中《あた》ったわけだ。面白くなって来たぞ。……伊豆守はじめ、総動員で、贋金を取りかえそうと、血眼になって居るとは、はっはっは――」
「いや、捜索の網を張って居るのは、行列の面々ではない。江戸から護衛のためにやって来た旗本奴が、昨夜から、にわかに、さわぎたてはじめたのだ」
「旗本奴が――? ふむ、これは、妙だな。旗本奴は、総身に智慧のまわりかねる六法者だ。そいつらだけが、勝手にさわぎたてている、というのであれば、これは、こっちの推測は、はずれたことになるぞ。つまり、伊豆守は、贋金と知っていた。知っていて、わざと、そ知らぬふりして江戸表へ運ぼうとしていた。そこで、箱根山中の襲撃を、口外無用と、一同に申し渡しておいたところへ、旗本奴が到着して、噂をきいてさわぎたてはじめた。ということになると……?」
半兵衛は、腕を組んで、首をひねった。
三
その朝――。
装束屋敷から、御用金行列は、辰刻(午前八時)に出発という、布告が出されたので、一般の旅客は、その前に、あらそって、小田原を出た。
酒匂川は、当時はまだ、土橋が架《か》けられていなかったので、非常な混雑を呈した。
大井川とともに、この川を渡るのは、老人や子供や婦女子には、徒渉《かちわた》りはむりであった。
人足に背負われるか、輦台《れんだい》に乗らねばならなかった。
押しかけた旅客の数がおびただしかったので、人足も輦台も足らなくなり、土手や磧《かわら》は、人でうずまった。
そこへ――。
旗本奴数十騎が、疾駆《しつく》して来た。
江戸口の木戸で、目を光らせて、怪しいと睨《にら》んだ者は、片ぱしから、とらえて吟味したのであるが、木戸を避けて、野道をひろって行った者も、かなりある、とみて、酒匂川で、再吟味することにしたのであった。
旗本奴連の呶声をあびて、土手や磧は、いよいよ混雑した。
「おい、待て! その輦台、出してはならぬ!」
かなり上手《かみて》の堤上に、身分のある人だけを渡す輦台が用意されている小屋があった。
その小屋から、駕籠をそのまま乗せた輦台が、磧へかつぎおろされるのを、旗本奴の一人が見咎めた……。
駕籠は、大名の夫人や息女が微行する、いわゆる御忍《おしのび》駕籠であることが、一瞥《いちべつ》で判った。
十人あまりの供ざむらいが、前後につき添っていた。
「待て、待て、待てっ!」
旗本奴が三人ばかり、まっしぐらに、そこへ奔《はし》り寄った。
旗本奴たちは、供ぞろいが、藩士ではなく、それとすぐ知れる公家《くげ》侍であるのをみとめたが、かまわず、
「駕籠の戸を開けてもらおう」
と、迫った。
「これは、摂家《せつけ》のお方でござれば、面謁の儀はおことわり申す」
いかにも摂家に仕える六位の侍らしい風貌の供がしらが、駕籠の前をふさいだ。
「この駕籠は、江戸口の木戸を通って居らぬぞ!」
旗本奴の一人が、叫んだ。
「開けろ! 中には、人の代りに、千両箱が据えてあるのだろう」
「無礼な! われらは、九条家である。みだりに、江戸幕府の者らに、狼藉を働くのを許すわけには参らぬ。敢《あ》えて狼藉を働くのであれば、老中方へ、申し伝えて、仕置の儀も辞さぬ」
「うるさいっ! つべこべ、ほざくな。戸を開けろ、戸を――」
いきなり、一人から、肩を突かれて、供がしらは、よろけた。
公家侍たちは、旗本奴に抵抗する腕力も勇気も持合せていなかった。
顔面をこわばらせ、憎悪の目を光らせ乍らも、立ちすくんで、旗本奴のなすままに、まかせるよりほかにすべはなかった。
駕籠の戸は、旗本奴の一人によって、ひき開けられた。
「ほう」
ひき開けた者の口から、思わず、嘆声があげられた。
乗っていたのは、若い姫君であった。
その臈長《ろうた》けた美しさは、旗本奴が、これまで接したことのない、たぐいまれなものだったのである。
絖《ぬめ》のような肌の滑らかな白さといい、切長な双眸の神秘《くしび》なまでの潤《うるお》いのある光といい、細く高く通った鼻梁の気品といい、名工の手で彫られたような唇のかたちのよさといい――これは、平安朝のむかしから、代を追う毎に、美しさを加えた、二代や三代ではとうていつくりあげられぬ純乎《じゆんこ》たる生きた芸術品、といえた。
年齢は、十八九であろう。
「駕籠から、出られい!」
旗本奴は、興奮のあまり、音程を数度も高く金切らせて、叫んだ。
朝陽の中に立たせて、旗本奴全員で、とくと、舌なめずりする衝動にかられたのである。
その折――。
輦台小屋わきの堤上に、深編笠をかぶった長身の武士が、現れて、じっと、その光景を見下した。
[#改ページ]
対 立
一
悲鳴が、朝陽をつらぬいて、磧《かわら》の遠くまでひびいた。
五摂家のひとつである九条家の姫君は、旗本奴の一人に、手くびをつかまれて、駕籠から曳き出されたのである。
公家侍のうち二人ばかりが、それをさえぎろうとして、峰撃ちをくらって、その場へ崩れ落ちた。
下流の渡し口で、旅客の吟味をしていた旗本奴連が、こちらへ向って来た。
「どうした?」
「なんだ、その上臈《じようろう》は?」
好奇の目を光らせて近づく仲間へ、姫君を虜《とりこ》にした三人は、
「怪しい天女だ」
「千両箱の化身かも知れぬぞ」
などと、叫びかえしておいて、いきなり、六本の猿臂《えんぴ》をのばして、その生きた芸術品を、すくいあげると、
「よいしょっ!」
と、空中へほうりあげた。
裳裾《もすそ》がぱあっとみだれて、白い脛《はぎ》が、あらわに剥《む》けて、躍った。
近づいて来た旗本奴連は、わっとはやしたてた。
姫君は、再びほうりあげられた時には、もう意識を失ったらしく、悲鳴もあげなかった。
二布《こしまき》が散って、太腿まで、無垢の肌が明るい宙にさらされた。
旗本奴たちは、深編笠をかぶった長身の武士が、堤を降りて、すぐそばへ身を移していることに、気がつかなかった。
姫君を三度《みたび》、ほうりあげようとした刹那、深編笠の蔭から、鋭い懸声が発しられた。
三人の旗本奴は、稲光でもくらったように、びくんと総身を痙攣《けいれん》させると、力が抜けた。
姫君は、地面へ落ちて、死んだように横たわった。
「姫様っ!」
供がしらはじめ、数人の公家侍が、はじかれたように、そのそばへ奔《はし》った。
旗本奴一同は、深編笠の武士のあまりの凄《すさま》じい気合に搏《う》たれて、ほんのしばらく、黙って、睨みつけていたが、一人がわれにかえって、
「こやつ、曲者詮議の邪魔だてするか!」
と、叫ぶのをきっかけに、素早く動いて、包囲の陣形をとった。
深編笠の武士は、薄気味わるいまでにおちつきはらって、佇立《ちよりつ》したままであった。
「笠をとれ、笠を――」
正面の旗本奴が、喚《わめ》くと、武士は、ゆっくりと、顎でくくった紐を解いた。
現した面貌は、疱瘡《ほうそう》の痕《あと》が甚しい、きわめて醜いものであった。一眼が大きくみひらかれ、片方の目蓋《まぶた》がたれさがっていて、いよいよ、化物じみていた。
「名乗れ! どこの田舎ざむらいだ?」
「大和郡山、松平下総守家中・荒木又右衛門と申す」
「旗本白柄組の曲者詮議をさまたげるからには、覚悟の上のことであろうな?」
旗本奴たちは、この醜い面貌の武士が、将軍家師範柳生|宗矩《むねのり》の直弟子であり、その通称又右衛門をゆずられた俊髦《しゆんぼう》であることを、知らなかった。
「べつに、覚悟など、つかまつらぬ」
又右衛門は、かえって対手がたを激昂させる言葉を、平然と口にした。
「ほざき居った! 郡山の山猿が、兵法天狗になったあまり、天下無敵と錯覚を起して居る模様だな。……おのれは、旗本白柄組を敵にまわしたのだぞ? よいか、うぬが面前にいるのは、旗本白柄組だぞ!」
「咋夜来より、小田原城下に、六法《むほう》が罷《まか》り通っていることは、承知つかまつる」
「こやつ! おのれが鬼神の業《わざ》でもそなえていると、思い上って居るのか!」
十余人の旗本奴が、一斉に、抜刀した。
又右衛門は、口辺に冷笑を刷くと、
「六法に対しては、身共も無法の振舞いを以て、応《こた》え申す」
云いはなって、やおら、差料《さしりよう》を鞘《さや》からすべり出した。
二
荒木又右衛門が、江戸へ出ようとしているのは、ひとつの重大な目的を持っているためであった。
その途次に於て、旗本奴の狼藉を目撃して、敢えて喧嘩を買ったのは、その目的と密接なつながりがあったからである。
又右衛門は、大名対旗本の反目対立という、ここ三十年間くりかえされて来た紛争のひとつの渦中に、まき込まれようとしていた。
大名と旗本が、目に見えた反目対立をしたのは、大坂役後――豊臣家が滅亡してからのことであったが、それ以前に、すでに、互いに氷炭相容れぬ萌芽《きざし》は、みられていた。
関ヶ原役が終るや、家康は、家門譜代の家人を枢地に封じて、外様《とざま》大名を牽制せしめるとともに、外様を以て外様を制肘《せいちゆう》する政策をとった。外様のうち大大名は、これを僻遠《へきえん》の地に送って、その力を中央に及ぼすことを不可能にした。
しかし、家康は、石田三成に味方した諸将を、根こそぎ絶やす苛酷を、為さなかった。
西軍の総大将たる毛利輝元さえも、安芸、備中、備後、因幡《いなば》、伯耆《ほうき》・出雲・隠岐・石見を削られたが、なお防長三十一万九千石を安堵するを得た。鍋島直茂は、その嫡子勝茂が、西軍に加わったので、当然、減封される運命にあったが、立花宗茂を討つことによって、本領を削られることをまぬがれた。その立花宗茂にしても、いったん所領はことごとく没収されて、肥後の高瀬に隠棲し、あるいは、江戸に出て高田の宝善寺に居候になったりなどしていたが、やがて故郷柳河の本領を返されて、十八万石の城主にかえり咲いていた。
薩摩の島津義弘ともなると、関ヶ原の戦闘に於ては、一千五百の将兵の大半を喪《うしな》うほどの、西軍随一の働きをし、わずか数十名を率いただけで、まっしぐらに東軍陣地を突破して、故山へ遁れ去っていた。家康としては、当然、その罪を問うて、改易にする口実があった。にもかかわらず、家康は、鹿児島六十一万二千五百石から、一石も奪わず、許した。
家康は、いったんは、黒田如水、加藤清正、鍋島直茂に、降将立花宗茂を加えて、薩摩を討つ、とみせて、冬期を口実に中止したが、これは、ただの示威であった。家康は、大軍を催して、鹿児島へ攻め入る意嚮《いこう》を持たなかった。
島津義弘は、嵎《ぐう》を負《お》うた手負いの猛虎であった。率いる薩摩隼人の勇猛ぶりは、関ヶ原の戦場で、天下にその名をとどろかせていた。
これを滅亡せしめるためには、おそらく、関ヶ原役以上の犠牲を払わねばならぬ、と家康は、考えたのである。
このように、当然改易にすべき大名の生命をのばした家康の政策は、股肱《ここう》をもって任ずる徳川家の家人たちにとって、大いに不服であり、不満であった。
その父祖からひきつづき、徳川家のために、誠忠の限りを尽した三河譜代の旗本たちは、その働きに対して、酬《むく》いられることが、きわめて薄かったからである。
旗本を代表する大久保彦左衛門|忠教《ただたか》の例を挙げれば――。
天正三年、十六歳で家康に召し出されて以来、遠江《とおとうみ》 乾《いぬい》の戦いに初首級をあげたのを手はじめに、ありとあらゆる合戦に参加して、手柄をたて乍ら、ついに、一万石の小大名になることもなく終っていた。
関ヶ原役の頃は、その甥の大久保相模守|忠鄰《ただちか》の所領の一部と、武蔵埼玉郡のうち――合せて二千石の知行をもらっていたにすぎなかった。それも、家康からじかに与えられていたのではなく、甥相模守の任意のかたちで、知行地をあずけられた、いわば陪臣《ばいしん》の扱いであった。
のちに、慶長十九年、相模守が改易になると、彦左衛門は、隠居した家康に、駿河へ呼ばれて、三河額田郡のうち、千石を与えられた。その時、彦左衛門は、すでに五十五歳になっていた。
徳川家に歯向った者どもが、本領を安堵したり、大大名の地位を維持しているのに比べて、十六歳の若年から、文字通り身命をなげうち、妻も娶《めと》らず奉公したおのれが、たった千石の知行しか与えられていない。この不平不満は、常に、彦左衛門の心中に、くすぶりつづけていた。
元和八年、六十三歳の時に、彦左衛門が著《あらわ》した『三河物語』では、その満腔《まんこう》の不満が、ぶちまけられている。
『三河物語』の中に、次のような一節がある。
[#ここから1字下げ]
『知行を必ず取れることは五つあるが、斯《か》くの如き心を持って知行をのぞんではなるまい。また、知行を取れないことも五つあるが、是をば、死すともこの心を持ちつづけるべきである。知行を必ず取れる者とは――。
一、主《あるじ》に弓を引き、別儀別心を為したる者。これは、大いなる知行を取れて、末も栄える。
二、|あやかり《ヽヽヽヽ》をして、人にわらわれた者。
三、公儀にへつらい、御座敷の内で、立ちまわりのよき者。
四、讒言《ざんげん》を巧みにして、立居振舞、身なりよき者。
五、どこの馬の骨とも判らぬ他国者。
次に、知行の取れない者とは――。
一、譜代の主人に、別儀別心を起さず、弓を引くことなく、忠節忠誠を為したる者。これは、末も栄えることはない。
二、武辺(武功をあげた者)であること。
三、公儀にへつらわぬ不調法者。
四、讒言など思いも及ばぬ年の寄った者。
五、譜代として久しい者。
しかし、たとえ知行が取れず、飢え死ぬとも、必ず夢ゆめ、この心持をひとつも捨てずに持つべきである』
[#ここで字下げ終わり]
という、皮肉もきわまる著述を、老人は残している。
この大久保彦左衛門の不平不満は、旗本一統の気持を、代表するものであった。
三
寛永のはじめ――。
旗本寄合の主だった人々が、土井利勝、酒井忠勝ら幕政を左右する権臣と、談合する機会があった。
その時、彦左衛門も列席していて、突然、大声をあげて、
「さても、人の世の因果とは、おそろしいものでござるよのう」
と、云い出した。
利勝、忠勝はじめ、一同が、老人はまた何か含むところがあるな、と見まもっていると、彦左衛門は、
「因果応報は、必ずあるものでござる。……信長公は、美濃の岩|もろ《ヽヽ》城で甲州衆を焚き殺し、また甲州へ攻め入って、恵林寺の僧侶を焼き殺したが、因果はてきめん、それから三月も経たないうちに、本能寺に於て、おのれ自身、明智光秀に焼き殺され申した。また、太閤(秀吉)も、主君信長公の子息信孝殿を、野間の内海に於て、詰腹切らせられたが、その因果は、その子に報いて、秀頼殿は、大坂城内にて、自害され申した。……左様、こういうこともござったな。小牧の役の後、太閤は、わが大御所(家康)を上洛させ、饗応にこと寄せて、毒殺せんとはかられたが、その因果は、あやまって、弟秀長殿を毒殺することに相成り申したな。……まことに、因果応報とは、おそろしいものでござるよ」
と、云った。
旗本寄合衆は、彦左衛門の皮肉をきっかけにして、旗本直参がいかに報われることが薄いか、述べたてた。
毛利家や島津家が、のうのうと、大大名におさまりかえっていることも、あからさまに、云いたてた。
酒井忠勝は、いちいち尤《もつと》も、とうなずいてから、
「老人が申した因果応報を、諸大名も、いまは、|きも《ヽヽ》に銘じて居る」
と、こたえた。
「その因果応報とは、なんでござる?」
「この江戸城造りに、外様大名衆が、どれだけの金子と資材と人員をつぎ込んだか、御辺らは、想像もつかぬのではあるまいか。……公儀が、慶長九年六月一日、江戸城普請の計画を公布して以来、今日まで、大坂役に際しても休むことなく、普請工事は、つづけられて来た。……たとえば、石であるが、関東には、石はなく、石は、外様大名衆の領地である遠隔の国にあるゆえ、福島正則、浅野幸長、加藤清正、島津義弘、黒田長政、鍋島勝茂、加藤嘉明、毛利秀就、吉川広家、京極高知、木下延俊ら、西国筋の外様大名衆二十八家が、所領石高十万石につき、百人持ちの石千百二十玉を割りあてられて、はるばる、石船に積んで、江戸まで運んで参った。……運んで参る途中、石船の三分の一は、転覆して、海底に沈んだ。沈んだ石は、勘定に入れず、大名衆は、割りあてられただけの石を、あらたに船を建造して、運んで参った。それが、慶長十年のただ一年間だけの課役であった。……翌十一年には、さらに、外様大名衆は、三千艘の石船をもって、伊豆に集まり、一艘の船に百人持ちの巨石を、二個ずつ積んで、月に二度、江戸と伊豆の間を往復いたした。……いかに、莫大な石材が、江戸へ運ばれたか、御辺らもおよその想像がつくであろう。……御当代になってからは、この大城郭を完成するために、外様大名衆のみならず、御三家、一門、譜代まで六十八家、さらには、三河衆、伊勢衆、五畿内衆、近江衆など、小大名衆にまで、助役が課せられた。……お手伝いを命じられなかったのは、ひとり、御辺ら旗本直参だけである」
酒井忠勝の説明は、しかし、旗本寄合衆、小普請組の面々を、納得させることにはならなかった。
天下普請と称《よ》ばれる江戸城造りの課役から、はずされたことが、かえって、かれらの遊民的な生活を、無頼放縦なものにした、といえる。
戦国時代には、強いということが、即ち正しいことであり、富んでいることが、即ち権威となっていた。
徳川幕府が確立したいま――。
この考えは、大きく鈍《にぶ》って来てしまっていた。
譜代の家人八万騎は、直参という誇りだけを与えられて、富を与えられていなかった。
実力のない権威をふりかざしてみたところで、世人がこれに膝を折る道理がなかった。
旗本は、富を持つ国持ち大名・城持ち大名と反目するとともに、おのれらの前に膝を折ろうとせぬ庶民に対して横暴の所業に出るようになった。
かれらは、外様はもとより譜代大名の家中とも、騒動を起すことを、日常の料簡とし、また、幕府役人たちに向っても冷嘲悪罵をあびせ、さらに、通行の庶民が、あやまって突き当ったというだけで、抜き討ちに、その素首《すこうべ》を、刎《は》ねた。
荒木又右衛門をして、大名対旗本の紛争の渦にまき込む事件は、二年前に起っていた。
[#改ページ]
寵 童 騒 動
一
寛永七年七月二十一日宵――。
備前岡山の烏城《うじよう》城下では、太守池田宰相忠雄に、世子勝之助が誕生したのを祝って、盛大な盆踊の興行が、くりひろげられていた。
内山下《うちさんげ》の大手さき――榎《えのき》の馬場には、無数の篝火《かがりび》が燃やされ、城下の二十歳未満の男女が数十陣を組んで、盆歌を唄いつつ、踊りまわっていた。
一陣は前隊と後隊にわかれ、前隊は十五歳まで、後隊は二十五歳までの、男女混成隊であった。
まず、前隊が、
「盆は盆は
今日明日ばかり」
と唄うと、後隊が、それを受けて、
「明日は嫁御の
しほれ草、しほれ草」
と、唱和する。
すると、向いの他陣の前隊が、
「しほたれ草を
矢倉にあげて」
と、挑みかかって、声をはりあげ、その後隊がすかさず、
「下から見れば
木槿《ぼけ》の花、木槿の花」
と、はやす。
こうして、城下の一町内を一陣とする踊子隊が、紅白にわかれて、踊り乍ら接近して行き、
わあっ!
と、衝突するのであった。
合戦をまねた盆踊りであった。但し、衝突しても、つかみあったり叩き合ったりするのは禁じられていて、鯨波《とき》をあげるとすぐに歌と踊りをつづけて、入り乱れて行き交《か》い、やがて、自陣の隊伍をととのえるのであった。
いつもの年ならば、亥刻《いのこく》(午後十時)には終るのであったが、その宵は、若君誕生とあって、丑《うし》刻(午前二時)まで、つづけることが許されていた。
戌《いぬ》刻(午後八時)過ぎのことであった。
同じ内山下にある家士渡辺数馬の家で、惨劇が起った。
その宵、渡辺家は、当主数馬は、妻をともなって、岳父津田豊後の家へ招かれていたし、また用人以下下婢にいたるまで一人のこらず、踊見物に出かけていた。数馬の弟源太夫が一人だけ、留守居をしていた。風邪で、発熱していたからである。
源太夫は、十七歳、中国西国に雙《なら》ぶ容色なし、とうたわれた色若衆であった。
戦国からの余風で、大名旗本の間には、まだ、衆道《しゆどう》(男色)がさかんであった。
そして、それをかくしたりなどはしなかった。美童を擁していれば、目映《まば》ゆく厚化粧させ、華やかな振袖をまとわせ、参覲道中などには、金鞍置いた白馬にまたがらせて、これ見よがしに、世人の目をそばだてさせたものであった。
池田忠雄にとって、渡辺源太夫は、天下に自慢する生きた財宝であった。
源太夫が、臥《ふ》せている寝間に、不意に、忍び入って来たのは、同じ池田家の家士・河合又五郎であった。
「其許《そこもと》に、一身を犠牲にして、主家を救ってもらいたく、必死のたのみをいたしとうて、罷《まか》り越した」
又五郎は、畳に両手をつかえた。
「何事でござりましょう?」
「今宵|即刻《そつこく》、それがしと一緒に、城下を抜け出し、出府してもらいたい」
「屋形《やかた》様に、無断で抜け出せ、と申されますか?」
「左様――、殿のお怒りを承知の上で、非常の手段をとらねば相成らぬのだ。……其許《そこもと》を、将軍家へ献上する!」
又五郎は、云った。
将軍家光は、最も旺盛な衆道好みであった。
家光が、池田忠雄の寵童渡辺源太夫の評判を耳にして、
「宮内少輔、その児小姓《ちごこしよう》を、余にくれぬか?」
と、たのんだことがあり、忠雄は、
「こればかりは――」
と、ことわっていた。
二
河合又五郎は、必死の事情を、説明した。
三代家光は、生れ乍らの将軍家にふさわしく、江戸城完成のために、日本全土の大名衆を総動員した。
その第一期工事は、前年――寛永六年から、開始された。
あまりにも広大な規模を持った江戸城は、家康・秀忠の二代にわたって、一日の休みもなくつづけられ乍ら、なお完成していなかった。
家光は、その年の正月祝賀の宴席で、諸大名に向って、
「これより五年のうちに、当城を、完成させる」
と、云いきったのである。
第一期工事は、仕残された内郭外郭の石垣の修築であった。石垣の延べ間《けん》数一千七百五十間、坪数四万四千五百三十三坪であった。
備前池田家に課せられた助役は、本丸玄関前石垣修築であった。老中筆頭土井大炊頭利勝が、総指揮をとり、池田忠雄が、石材をはこび、いわば、これは、江戸城で最も美しい眺めにするための化粧工事であった。
さいわいに、備前には、和気郡木谷村(のちの閑谷《しずたに》)の幽谷に、江戸城本丸玄関を飾るにふさわしい美しい石が、あった。
綿密な調査と工夫の上で、石材が切り出され、五艘の石船によって、はるばる、江戸へ、運ばれた。そのうち、三艘は――二艘が遠州灘で、一艘が相模灘で――転覆して沈んだが、それは、あらかじめ計算に入れた上での運送であった。
二艘分の石材で、充分足りたのである。
ところが――。
江戸の舟着場から陸揚げされたそれらの化粧石材が、江戸城内の普請場まで運ばれて、一夜を経た朝、むざんに割られ、あるいは傷つけられてしまったのである。
普請場は、本丸の郭内にあった。
したがって、池田家の家中は、そこに入って警備することは、許されなかった。警備にあたったのは、旗本小普請組の面々であった。
旗本は、寄合衆も小普請組も、工事普請を直接手伝う役からは除かれていたが、願い出れば、城内の警備の任に就くことができた。徳川家に敵意を抱く豊臣家残党や改易大名の旧臣が、人夫に化けて、入り込むのを、監視するためであった。
池田家では、家中総力を挙げて運んだ化粧石がことごとく破壊損傷させられたときかされると、すぐに、
――旗本奴どもの仕業だな!
と、さとった。
二年前、池田忠雄は、登城行列に、酔ってあばれ込んだ三名の旗本小普請組を、容赦なく無礼討ちに討ち果していた。爾来、池田家と直参旗本との間は、日毎に険悪な反目対立をみていたのである。
それにしても――。
江戸城内で、本丸玄関前を飾る石材を、破壊損傷するような暴挙を、旗本がしでかそうとは、池田家では、夢想だにしていなかった。
定府《じようふ》の重臣たちは、主君が国許に在るのを、不幸中のさいわいとして、急遽、烏城の重臣たちと相計って、忠雄には、
「三艘が沈みましたゆえ、至急に、もう三艘分の石を、運ぶことにいたします」
と、報告した。
そして、あらたに切り出した石材は、今夏、江戸まで運ばれたが、直接に江戸城へ送り込むのを避けて、池田家江戸屋敷へ移して、いまもなお、動かさずにいるのであった。
旗本小普請組が、城内普請場の警備にあたっているかぎり、運び込むと、再び破壊損傷されるおそれがあった。
「……つまり、其許を将軍家に献上するのは、其許の口から、じかに、上様におねがいして、当家の石の警備は、当家の家臣によってさせて頂くようにお許しをたまわる――その儀なのだ」
河合又五郎は、源太夫を、説いた。
実は――。
和気郡木谷村の幽谷からの切り出しの指揮をとっているのは、又五郎の父河合半左衛門だったのである。
源太夫は、しかし、首をたてには振らなかった。
「屋形様に無断で、出奔することは、心に叶いませぬ」
「これほど、|ことわけ《ヽヽヽヽ》を打明けて、たのんでもか?」
「屋形様のお許しがあれば、身を生贄《いけにえ》にすることは、いささかもいといはしませぬが……」
「殿に申し上げて、お許しが得られる可能があれば、こうして、其許を説きはせぬ」
源太夫は、しかし、頑として、拒絶した。
ついに――。
かっとなった又五郎は、源太夫に一太刀あびせておいて、渡辺家を去った。
三
徒《かち》目付遠山才兵衛が、なにかの用向きがあって、渡辺家を訪れたのは、その直後であった。
遠山才兵衛は、寝間から玄関まで匍《は》い出して来て、そこで倒れている血まみれの源太夫を、発見して仰天した。
源太夫は、下手人が河合又五郎である旨を、才兵衛に告げておいて、縡《こと》切れた。
才兵衛は、津田豊後家にいる渡辺数馬に報せに、奔った。
数馬は、わが家へ馳せもどって、その惨状を見とどけるや、ただちに、河合半左衛門家へ、向った。
河合家の門は、かたく閉じられていて、数馬と才兵衛が、いかに声をはりあげても、森《しん》として、応答はなかった。
数馬は、激昂《げつこう》して、門の扉を破ろうとした。
そこへ、重臣の荒尾志摩と近習《きんじゆう》の加藤主膳が、馬をとばして、到着した。
河合家の門は、ようやく、開かれた。
しかし、又五郎の姿は、もはや家の中にはなかった。
「遁《にが》したに相違あるまい!」
と迫られたが、半左衛門は、息子は夕餉《ゆうげ》を摂《と》ってすぐに出て行ったきりである、とこたえた。
河合半左衛門は、この事態に於ては、息子又五郎を手討ちにするか、あるいはその身柄を藩庁へさし出して、おのれは切腹して詫びなければならぬ恩義を、主君池田忠雄から、蒙っている人物であった。
半左衛門は、もとは、高崎城主安藤対馬守重長の家来であった。
ある時、朋輩の伊能五郎右衛門と、些細《ささい》なことから口論になった挙句、これを斬って逃走する途中、池田家の登城行列に、出会い、
「武士道の吟味により、朋輩を討ち果し、追手に追われて居ります。何卒、ご当家のお慈悲をお願いつかまつる」
と、あわれみを乞うた。
池田忠雄は、窮鳥ふところに入れば猟師もこれを殺さず、という気持から、半左衛門を庇護してやった。
安藤家からは、正式の引渡し請求がなされたが、池田忠雄は、突っぱねた。
池田忠雄は、家康の息女督姫の腹から生れている大名であった、すなわち、家康の外孫にあたって居り、本家の鳥取池田家三十二万石と全く同等の、三十一万五千石の太守であった。
五万五千石の安藤重長ごときは、足下に見下していた。
安藤重長としても、対手が池田忠雄では、泣き寝入りせざるを得なかった。
尤も――。
安藤家は、三河譜代であり、重長の曾祖父家重は、安祥《あんじよう》縄手で討死して居り、伯父直次は、十七歳で姉川合戦で武功を樹《た》てて居り、父重信は、長湫《ながくて》の合戦に奮闘して驍名《ぎようめい》をはせて居り、さらに、重長自身は、十六歳で、初陣の武勲を、大坂夏の陣の首帳にとどめて居り、武門のほまれの高い家柄であった。
池田忠雄に対する怨みは、想像を絶するものがあったに相違ない。
河合半左衛門は、はじめは無禄の食客であったが、やがて、才覚を買われて、二百石を給され、しだいに立身して、千石の知行取りになっていた。
それほどの恩義を蒙った半左衛門が、主君の寵童を斬った息子又五郎を、逃してやった、ということは、周囲の人々にとって、全く合点しがたかった。
半左衛門は、かたく口をとざして、一言の弁解もしなかった。又五郎が、源太夫を斬った理由を、知っているに相違ない、と思われたが、吟味の座に据えられても、口をひらかなかった。
又五郎は、逐電《ちくでん》して、江戸へ出ると、旗本寄合衆の一人安藤四郎右衛門に、かくまわれた。
安藤四郎右衛門は、池田忠雄に終生の怨みを抱く高崎城主安藤重長の実弟であった。
「本家安藤の怨みをはらすのは、この秋《とき》ぞ!」
安藤四郎右衛門は、久世三四郎、阿部四郎五郎、坂部三十郎、植村善治ら、旗本のうちでも、六法《むほう》者をもって鳴る面々と語らって、池田忠雄に、ひと泡噴かせる肚《はら》をきめた。
池田忠雄は、又五郎が、安藤四郎右衛門にかくまわれている、という報せを受けると、ただちに、江戸家老に命じて、身柄引渡しを要求させた。そして、はねつけられた。
又五郎の父半左衛門を、かくまった時と、全く逆の立場に、池田忠雄は、置かれたわけであった。
忠雄は、参覲の時期を三月もはやめて、出府して来た。是が非でも、又五郎の身柄を、引渡させて、自ら手討ちにする憤怒に燃えていたのである。
手ぐすねひいていた安藤四郎右衛門は、池田家の使者に対して、
「身共は、安藤重長が実弟なれば、兄の無念を忘じ難く、河合半左衛門と交換ならば、又五郎をお返しつかまつる」
と、条件を出した。
忠雄は、やむなく、半左衛門を、江戸へ護送させて、安藤四郎右衛門の手に、渡した。
ところが――。
半左衛門を受けとり乍ら、四郎右衛門は、又五郎を、池田家へ渡そうとはしなかった。
あざむかれた池田忠雄は、火のごとく激昂した。
備前三十一万五千石の存亡を賭けても、安藤四郎右衛門邸へ、手勢を率いて、押し寄せ、又五郎を奪いとってくれる、と怒り狂った。
これに対し、安藤邸には、旗本寄合衆、小普請組が、ぞくぞくと詰めた。
いまにも、江戸市中で、大名と旗本の戦闘が、くりひろげられそうな、険悪なけしきになった。
それが、昨秋から今年の三月にかけての状況であった。
四月三日、池田忠雄が突如として、疱瘡《ほうそう》にかかって、卒去《そつきよ》した。
松平伊豆守信綱が、騒動をおさめるために、江戸城典医に命じ、将軍家のお見舞いの薬、と称して、忠雄に一服盛ったのである。
渡辺数馬は、弟の怨みをはらす、というよりも、主君の無念をはらすために、仇討をしなければならなかった。
その渡辺数馬の姉を妻としている武士に、荒木又右衛門がいた。
又右衛門は、義弟の依頼を容《い》れて、主家からいとまをとって、出府しようとしていたのである。
[#改ページ]
荒木又右衛門
一
酒匂川の磧《かわら》上にくりひろげられている旗本奴の狼藉《ろうぜき》ぶりを、目撃した荒木又右衛門は、
――こやつらが、池田宰相様のお生命《いのち》を縮めたのだ。
その憤怒が、胸中にわきたったのであった。
又右衛門の父服部平左衛門は、渡辺数馬の主家である備前岡山の池田家に仕えた三百石取りの武士であった。
又右衛門にとって、池田忠雄は、旧主にあたっていた。
又右衛門は、次男で、幼名|巳《み》之助といい、十二歳で、姫路の本多甲斐守政朝の家臣で、父平左衛門とは従兄弟にあたる服部半兵衛の養子になった。
事情があって、二十四歳で、養家を去った巳之助は、岡山へは戻らず、実父の出身地伊賀国中瀬村大字荒木に住んだ。
そして半年後に、柳生谷の柾木《まさき》坂道場に入門した。
柾木坂道場のあるじは、柳生但馬守宗矩の嫡男十兵衛|三厳《みつよし》であったが、まだ十六歳の少年であった。
しかし、その剣は、文字通り無雙であった。二十四歳の服部巳之助は、すでに一流をひらくに足りる業前《わざまえ》の持主であったが、十六歳の十兵衛の剣の前には、敵ではなかった。
十兵衛が、父宗矩から、
「柳生谷に帰って、柳生新陰流の正統を、故山にのこせ」
と、命じられたのは、元服した正月元旦であった。
宗矩は、すでに、柾木坂に道場をつくっておいたのである。
けだし、宗矩は、十兵衛の異常なまでに卓抜した天賦を看《み》て、この嫡男をして、兵法ひとすじの生涯をつらぬかせてやりたい肚《はら》になったのである。
将軍家師範となった柳生宗矩は、すでに、兵法者の道からはずれて、政治家の末座に就《つ》いていたのである。
二十四歳の服部巳之助が、十六歳の十兵衛の門弟になったのは、べつに、ふしぎではなかった。十兵衛の強さは、十五歳で、江戸から柳生へ帰る途中で、存分に発揮されていた。
京都粟田口に至ったのは、深夜であった。
一人の供もなく、通り過ぎて行く十兵衛の前に、数十人の追剥《おいは》ぎの群が、むらがって来た。
路銀のみならず、大小も衣服も置いて行け、と迫られた十兵衛は、しずかに、羽織を脱いだ。
その羽織を受けとろうとして、賊の一人は、さしのばした片手を、一瞬、十兵衛は、抜きつけに、肱《ひじ》から両断した。
その一閃の迅業《はやわざ》を、次の賊の首を刎《は》ねる迅業に継続させておいて、十兵衛は、一町を奔《はし》って、青蓮院《しようれんいん》の土塀下の石垣を、背負って立った。
満月の明りがあったので、身をひそめることはできなかった。
喚《わめ》きたてて、悪鬼のごとく襲いかかって来た賊徒どもを、十兵衛は、終始無言で、太刀先に廻って来たのから、二人ずつ、斬り伏せた。
またたく間に、十二人の生命を奪った。ほかに幾人手負わせたか、かぞえていなかった。
逃げ出したのは、賊徒の方であった。十兵衛は、月光をたよりに、懐紙へ、『討ちすてし者、柳生十兵衛三厳』としたためると、屍骸のひとつの上へ、のせておいて、すたすたと、立去った。
服部巳之助は、この十兵衛があるじとなった柾木坂道場で、四年の修業を積み、出府して、柳生宗矩に、はじめて目見《まみ》えた。
江戸柳生道場でさらに一年の修業がなされた。
宗矩は、自分の通称又右衛門を、巳之助に与え、荒木又右衛門と名のらせ、大和郡山城主松平下総守忠明に推挙した。
松平家には、すでに、兵法師範として、三百石を食《は》む河合甚左衛門がいたが、又右衛門は、二百五十石で召抱えられて、河合とならんで、家中の若侍たちに、稽古をつけることになった。そして、又右衛門は、旧主池田家の家中から、渡辺数馬の姉|みね《ヽヽ》を妻として迎えた。
数馬の弟源太夫が、河合又五郎のために斬られる二年前のことであった。
二
荒木又右衛門は、義弟数馬の口から、旧主池田忠雄の最期の|さま《ヽヽ》を、きかされていた。
「余は、松平伊豆のために、毒を盛られた、と判り乍《なが》ら、死ぬ。……この無念は、又五郎の首を、余の墓前に供えてくれるならば、はれるであろう。この儀をはたすまでは、一子勝五郎に、家督相続もさせては相成らぬ」
忠雄は、そう遺言して、憤死をとげたのであった。
その凄《すさま》じい無念ぶりを知る又右衛門は、武士として、兵法者として、酒匂川の磧上に於ける旗本奴の狼藉ぶりを、黙視傍観《もくしぼうかん》することはできなかったのである。
「六法に対しては、身共も無法の振舞いを以て、応《こた》え申す」
そう云いはなって、やおら、差料を鞘《さや》からすべり出した又右衛門は、青眼に構えた。
旗本奴たちは、
「こやつは、千両箱を掠奪した賊の頭領株だな」
「相違あるまい! 大坂城から遁《に》げ出して、野鼠となった奴と看《み》たぞ!」
白刃の煌《きらめ》きを眺めて、下流から、旗本奴連が、素破《すわ》っと、一斉に、こちらへ、疾駆《しつく》して来た。
又右衛門は、五十名近い生命知らずの徒党を、ただ一人で、敵にまわすことになった。
又右衛門には、死をおそれる気持など、みじんもなかった。
――幾人を斬ることができるか?
心中には、その想念しかなかった。
渡辺数馬の義兄として、また、池田忠雄の旧家臣として、旗本奴との決闘は、後日に重大な意義のあるものとなる、と考えた又右衛門であった。
「や、や、やあっ!」
正面の旗本奴が、懸声《かけごえ》凄じく、撃ち込んで来た。
次の瞬間には、又右衛門が払ったともみえぬのに、白刃は、その手をはなれて、空へ飛んでいた。
「だあっ!」
横あいから、突きかけてきたのを、ひっぱずしておいて、又右衛門が、走らせた刃線上に、大上段に構えた者の胴が、空《あ》けられていた。
血《ち》飛沫《しぶき》を、その仲間に降らせておいて、又右衛門は、もう青眼の構えにかえっていた。
「斬ったな、こやつがっ!」
下流から駆けつけたばかりの旗本奴が、長槍をしごいて、まっしぐらに突進して来た。
又右衛門は、その柄を真二つにしざま、その顔面を、額から頤《おとがい》まで、截《た》ち割った。
差料を抜いた時から、踏みしめた地点を、一歩も動かずに、豪快な太刀さばきをみせる又右衛門の気魄《きはく》に、包囲した旗本奴連は、圧倒された。
その時――。
「一同、刀を引けい! ご老中松平伊豆守様なるぞ!」
叱咤《しつた》が、堤上から、あびせられた。
十数騎が、横列をつくったあとから、白馬を堤へ乗りあげた伊豆守信綱は、ちょっと、磧上の光景を、見やったが、ゆっくりと、斜面を降りて来た。
伊豆守が、地上に立ってから、まっすぐに進んだのは、公家侍にまもられている九条家の姫君の前であった。
「旗本どもの狼藉、この信綱が、代って、お詫《わ》びつかまつる」
そう云って、かるく頭を下げた。
この姫君は、京都を出て、上野国高崎へおもむく途次にあった。
高崎城主安藤重長に預けられた駿河大納言忠長に、逢いに行こうとしていたのである。これは、伊豆守信綱のはからいであった。
伊豆守は、忠長を改易配流《かいえきはいる》するために、駿府城におもむいた際、忠長から、
「そちは、女人を愛したことがあるか?」
と、問われて、ない、とこたえると、
「わしには、ある、いまも、恋して居る。しかし、そちが参ったことによって、この恋は、破れた」
と、悲痛な言葉を、投げつけられたものであった。
忠長は、その女人が、どこのだれか、打ち明けようとしなかった。しかし、伊豆守には、それが、五摂家の一つである九条家の姫君|明子《さやこ》であることを、つきとめるのに、さほどの苦労も日数も必要としなかった。
配所にある忠長の許へ、恋する娘を、黙って、送りとどける――それが、伊豆守のやりかたであった。
ちなみに――。
忠長を預った安藤重長が、河合又五郎の父半左衛門の旧主であり、池田忠雄から煮え湯をのまされた大名であることは、さきに述べた通りである。
その安藤重長が預った駿河大納言に逢いに行こうとする姫君を、旗本奴が襲い、荒木又右衛門がさえぎって、決闘になったのも、ひとつの因果|輪廻《りんね》、といえた。
三
いくばくかの後――。
九条明子の乗った駕籠が、輦台《れんだい》でむこう岸へ渡され、旗本奴連が遠くへしりぞけられ、ひろびろとした明るい静寂にかえった磧で、荒木又右衛門は、旧主を毒殺した老中の面前に、膝まずいていた。
松平下総守家来荒木又右衛門、と名のった、疱瘡《ほうそう》の痕も甚しい、醜貌の武士を、しばらく、じっと見下していた伊豆守は、
「その方が、柳生道場の駿足《しゆんそく》であることは、承知して居る。……郡山からは、いとまをとって、出府しようといたしているのではあるまいか?」
と、問うた。
旗本奴は、こちらの素姓《すじよう》を知らなかったが、この老中は、知っていた。渡辺数馬の義兄であることも、知っているに相違なかった。
つまり、出府の目的も、看《み》て取ったのである。
又右衛門は、伊豆守を、仰ぎ視《み》た。
「拙者、武士道の吟味を怠りたくはございませぬ」
「ふむ」
伊豆守は、うなずいた。
又右衛門は、伊豆守の無表情に、憎悪をおぼえた。
この老中は、旧主池田忠雄を、毒殺したのみか、国替《くにが》えまでやったのである。
池田忠雄が逝《い》って、十日も経たぬうちに、鳥取池田家に対して、
「国を入れ替るように――」
と、命じたのであった。
伊豆守は、閣老たちに向い、
「このまま、うちすてておけば、池田家の家臣どもは、主人の遺志を継いで、いかなる大事をひきおこすか、測りがたく存ずれば、仕置の儀、それがしにおまかせ下さい」
と、申し出たのであった。
すなわち、池田家の家臣一同が、河合又五郎を討つべく、江戸市中を戦場として、旗本一統と血闘するおそれがあるゆえ、そうさせぬ手段《てだて》をとりたい、と伊豆守は、思案したのである。
それは、国替えであった。
大名にとって、国替えは、想像を絶するほどの災難であった。城主から足軽にいたるまで、その準備と実行に忙殺されて、すくなくとも、あらたに移った場所におちつくまでには、一年以上もかかるのであった。
鳥取城主は、名君のきこえの高い池田光政であった。幕閣の肚《はら》の中を読みとった光政は、一議に及ばず、国替えを、承諾した。
本家が承諾した以上、岡山池田家が、鳥取へ移るのを拒むわけにはいかなかった。
そのために、岡山池田家の家中は、河合又五郎をかくまっている旗本寄合安藤四郎右衛門邸へ、襲撃をしかけることが、不可能になったのである。
「ご老中に、お願いの儀がございます。何卒《なにとぞ》、おききとどけのほどを――」
又右衛門は、必死の面持で、土下座した。
「申してみよ」
「河合又五郎を、江戸より追放して頂きますよう、お願い申し上げまする」
又右衛門は、額を、土へ押しつけた。
伊豆守は、冷やかに、
「又右衛門、この信綱に向って、そのたのみをするのか。おろか者よ」
と、云った。
「は――?」
「池田宰相が逝った上は、河合又五郎を、旗本らが、かばう必要はなかろう、とすでに申し渡してある」
「………」
「又五郎は、この数日うちに、江戸から出るであろう。いや、もう江戸を出たかも知れぬ」
「まことでございますか?」
「その方を、出府させまいための、わしのとっさのいつわり、とでも受けとるか?」
「は――、いえ……」
又右衛門は、うろたえた。
こうした権謀術策に長《た》けた政治家にかかると、おのれのような剣の使いかたしか知らぬ兵法者は、赤児同然であると、又右衛門は、思い知らされた。
「わしは、その方の出府をさまたげて居るのではない。その方は、ともあれ、江戸へ入らねば、河合又五郎が、旗本らの手で、何処へ落されたか、さぐりあてられまい。……出府いたすがよい」
「はっ、忝《かたじけの》 う存じまする」
「但し!」
伊豆守は、声音をあらためた。
「府内に入ったならば、たとえ、旗本らがいかに挑みかかって参ろうとも、刀を抜くことは、この信綱が、許さぬ。よいな。このこと、かまえて、しかと心得ておくがよい」
「はっ! 仰せの儀、決して、破りませぬ」
「行け」
伊豆守は、渡し口の方へ遠ざかる又右衛門の後姿を見送り乍ら、後に控えている股肱《ここう》の用人を、
「源八郎、昨夜、装束屋敷に於て、またひとつ、千両箱が盗まれたことを、そちは、なぜ、かくして居る!」
と、叱った。
「申しわけございませぬ」
志村源八郎は、伊豆守以外に、御用金が贋金であることを知っている唯一人の男であった。
「箱根山中で掠奪した賊と、昨夜の賊は、勿論、別人であろうが、こちらが、安心していられるのは、どちらも、贋金であることを、世間に云いふらしはせぬであろう、ということだ」
「左様でありましょうか?」
用人の方は、不安な表情であった。
「それぐらいのことが、看通《みとお》せぬようでは、わしの片腕として、勤まらぬぞ」
「下手人は、いかなる素姓の者どもか、殿には、もはや推測がお成りでございましょうか?」
「いくつかの推測は、できる。しかし、正体をつきとめたところで、どうということはあるまい。……賊は、賊でしかない」
伊豆守は、冷然と云いすてた。
その折、贋御用金の行列が、彼方に到着したのが、見受けられた。
[#改ページ]
真 相
一
今日もまた、直見郷熱海では、辰刻《たつのこく》(午前八時)になると、一斉に、石材を切り出し、運ぶ音と懸声が、山にこだまし、海原にひろがった。
由比弥五郎は、朝食のあと片づけを終えて、隣接した紙|漉《す》き所に入った。
師の丈山は、板の間いちめんに、漉きあがった雁皮紙《がんぴし》をならべ、一枚一枚|把《と》って、吟味していた。
雁皮紙漉きと、魚釣りと、読書に明け暮れる、のどかで単調な隠棲ぶりに、弥五郎は、この五日間、つきあって来た。
「先生、今日あたり、おいとまいたします」
弥五郎は、告げた。
「うむ」
丈山は、弥五郎がどこへ行こうと、一向に興味のない様子で、つと、雁皮紙をさし出し、
「どうだな。上出来ではないか。わずか半年の研鑚《けんさん》で、これだけの紙を漉きあげられるようになったのは、わしも器用なものだ」
「はあ――」
弥五郎は、受けとって、眺めた。
たしかに、しっとりとした艶《つや》と色を持ったなめらかな美しさがあった。そして、その上品な薄さも、素人漉きとは、思えなかった。
「雁皮の木は、四国に多いので、京畿あたりで使われている紙は、みな、讃岐や伊予で作られて居る。ところが、この熱海の桜雁皮の方が、原料木としては、四国のよりも、樹皮の繊維が、精緻《せいち》で強靱《きようじん》なのだな。……こちらの紙が、讃岐製だが、比べてみるとよい。はるかに、わしの作った方が、良質だ」
「はあ――」
弥五郎は、二枚の紙を、ならべてみた。
「どうだな」
「仰せの通りです」
「ははは、弥五郎は、紙漉きなど、職人にまかせればよい、と思っている様子だが……、物を作る愉《たの》しさは、格別だぞ。お前には、判るまい」
「先生は、いつまで、当地におとどまりです?」
「わしは、今年四十九歳になる。人生五十年、と申すが、このようなくらしをしていると、どうやら七十ぐらいまでは、生きのびよう。……来年、五十歳になったのを期に、京都へもどることにする。叡山麓の一乗寺村に、もうすでに、土地も購《あがな》ってある。詩仙堂という家号も、きまっている。もっぱら、詩を作るくらしになろう。おのれで漉きあげた紙に、おのれの作った詩歌を書く――これ以上のぜいたくな閑居はなかろう」
「先生!」
弥五郎は、師の顔を、鋭く正視して、
「おいとまするにあたり、ひとつだけ、おうかがいしたいことがあります」
と、云った。
「なんだな?」
「先生は、駿河大御所に、十七年余も、ご奉公をなさいました。大坂夏の陣には、抜群の戦功を樹《た》てられ乍《なが》ら、役が終るとともに、致仕《ちし》されて、隠遁されてしまいました。誰人のすすめも肯《き》かれず、再び、徳川家に再出仕されませんでした。……その真因を、知る者は居りませぬ。是非、おうかがいいたしとう存じます」
「過ぎ去った、遠い日のことだ」
「先生にとっては、そうでありましょうが、門弟のわたくしは、その真因をうかがうことにより、師表のお志を、これからのおのが往《ゆ》く道を照らす光といたしたく存じます」
しばらく、沈黙があった。
やがて、丈山は、口をひらくと、古歌一首を、誦した。
「七十の年ふるままに鈴鹿川、老《おい》の浪よる影ぞかなしき」
「………?」
「人間も、古稀を越えると、性根があさましゅうなる。……大御所(家康)ほどのお方も、例外ではなかった。老いぼれて、死欲だけが旺盛になられた。大御所は、幼少期に質子《ちし》となって、あらゆる辛苦に堪《た》えることを知られて以来、流れる水にさからい、行く雲をとどめる無謀を、一切さけ乍ら、生涯をすごして参られた。関ヶ原役に於て、勝つべくようにして勝った戦いぶりは、悠揚《ゆうよう》として迫らざる、劉備玄徳の態度にも比ぶべき見事さであった。……しかるに、七十の坂を越えて、はじめて、大御所は、英雄の生涯に、拭《ぬぐ》うべからざる汚点をつけられた。大坂城を滅亡せしめたことだ」
「………」
弥五郎は、師の面貌《めんぼう》が一変して、険しくひきしまったものになるのに、はじめて接して、息をのんだ。
二
「もとより、覇者としては、おのが死後に禍となる根を断とうと考えるのは、当然のことであろう。……大御所は、若年《じやくねん》より、主柱《おもばしら》の倒れた後の家の惨状を、つぶさに、その目で、見とどけて参られた。今川義元、武田信玄、北条氏康、織田信長――かれらが死後のその家が、無慚《むざん》なまでに崩れ潰《つい》えてしまったのを、眺めて来られた。……そこで、後顧の憂いなきように、豊臣家を根絶やしにしよう、と決意をなされた。……しかし、豊臣秀頼公は、たとえ、累進して右大臣にまで列せられたとはいえ、摂河泉三州の内、六十五万七千四百石にまで切り下げられた一大名でしかなくなって居り、もはや、太閤の箕裘《ききゆう》を継いで、天下の大政を関白する可能は、一毛ものこってはいなかった。……太閤恩顧の諸大名が、関ヶ原役以後、大御所に媚《こ》びへつらうあさましさは、大御所自身が、しかと見とどけられたはずであり、たとえ秀頼公が、太閤が遺《のこ》した莫大《ばくだい》な軍資に藉《よ》って、難攻不落の名城にたて籠《こも》ったところで、それらの大名衆が、これに応ずる心配は、全くなかった。おのが孫娘を添わせた秀頼公を、滅さねばならぬ、已《や》むを得ざる理由は、ただひとつもなかった」
「………」
弥五郎は、一声も発せず、師の峻烈《しゆんれつ》な言葉に、耳を傾けている。
「弥五郎、人間とは、まことにあさましいものよ。……天下人となった徳川家康には、金がなかった。一大名になり下った豊臣秀頼には、金があった。そこで、貧乏な天下人は、富有な一大名を滅して、その金を奪うことにした。それだけの話であったのだ」
「………」
「大御所は、天下人の住居にふさわしい城として、大坂城より二倍の規模を持つ大城郭を、江戸に築いて居られた。いくら、金があっても足りるものではない。一方、秀頼公は、十数年間にわたって、京畿の神社仏閣の建立修築に、無数の洪費を投じ乍ら、天守閣の庫中に積んだ黄金の山は、ビクともせずにのこっていた。……大御所は、滅亡せしめる必要のない豊臣家を、地上より払って、その金を奪いとり、江戸城完成のために使うことにされた」
「………」
「わしは、大坂役を起そうとする大御所に向って、秀頼公を弑逆《しいぎやく》させぬように、進言した。そのため、冬の陣には、駿府城にのこされてしまった。やむなく、夏の陣には、いまだ一度も合戦に加わったことのない旨を云いたてて、従軍をみとめられた。……わしは、秀頼公を救い出して、大御所にひきあわせ、せめて十万石の所領でも、与えられるように、歎願する肚であった。わしが、岡山表で働いたのは、城内へ突入して、秀頼公を救い出す目的のためであった。それが叶わず、わしは、むなしく、本営へひきあげた。そうして、その夜、わしは、あらためて、大御所に、秀頼公の生命の安堵を願った。大御所は、断乎として、肯き入れようとなされなかった。……その時、わしは、死欲にとりつかれた老醜を、その姿に視た。わしの隠遁の志は、その座で、きまったのだ」
三
丈山は、遠くへ眼眸《まなざし》を置いて、話頭《わとう》を転じた。
「わしは、隠遁してみて、おのれのために生きる者と、義のために死ぬ者との差が、はっきりと判るようになった。……徳川家に屈服して、大坂城を攻めた太閤恩顧の諸大名に比べ、義のために、秀頼公に味方して、戦い、敗れ、討死し、あるいは踪跡を断った武辺が、いかに、すがすがしいものとして、記憶にとどまって居ることか――」
「………」
「後藤基次、真田幸村、木村重成、毛利勝永、長曾我部盛親、大野治房――かれらが、いかに見事な戦いぶりをみせたか、お前も、きき及んで居ろう。……かれらが、義のために生き、そして死んで行ったことは、その言行をみれば、よく判る。また、かれらの家族、家来、知己の行動からも、しのばれる」
丈山は、それらの大坂城の将星について、語りはじめた。
後藤又兵衛基次は、大坂城に入って、五人衆の一に加えられた時、木村重成らと同格に、定禄三千石を賜う、と沙汰された。しかし、一戦の功も樹てぬうちは高禄にあずかる道理はない、と固辞した。
基次の宿営には、兵器のほかには、夜具さえなかった。それをきいた淀君は、錦の直垂《ひたたれ》と小袖と絹の夜着・蒲団を贈った。
基次は、
「直垂は、采を執る身の栄誉、つつしんで頂戴つかまつる」
と云って、小袖と夜具は、そのまま、返上した。
次いで、千姫から、縮緬《ちりめん》幕、毛氈《もうせん》、屏風《びようぶ》、燭台、硯函《すずりばこ》、定器膳椀、食籠《じきろう》、湯桶《ゆとう》、|※[#「石」+「蝶のつくり」」]《さら》鉢、銚子・盃、茶器、火鉢、料理道具一揃い、酒、油、炭、蝋燭、味噌、塩など、贈られて来た。
基次は、使者に向って、
「おびただしい下されもの、冥加《みようが》にあまって、もったいのうござる。せっかくの賜物を、ご辞退申上げるのも、非礼にあたり申すゆえ、当用の分だけ、頂戴つかまつる」
と、目録に、筆を把《と》って、
「幔幕《まんまく》は軍用にも成れば、ひと張《はり》いただき申す。毛氈もさしあたり馬氈に結構。燭台と蝋燭は、緩急の用に立ち申す。鍋と包丁は早速の調法。酒は郎党どもに頂戴させ申す」
と、それだけの品目に点を加え、そして、逆に、
「味噌は、それがし家法で、たくさん製《つく》らせて居りますれば、お台所にて、おためし下され」
と、ひと壺、献上した。
木村重成が若樹の桜花ぶりは、永久に芳香をとどめるものであるが、その妻の振舞いも、良人にならぶすがすがしさであった。
大蔵卿の姪で、名を青柳といった。重成が討死した時、懐妊していた。大坂城が陥落すると、青柳は、江州蒲生郡馬淵の里へ落ちのび、知り人の許に身を寄せて、やがて、男児を分娩した。身二つになると、黒髪を髻《もとどり》 より切りすてて、法体《ほつたい》となった。三年忌を迎えた当夜、青柳は、人知れず、その地の持仏堂に入って、自害して、世を去った。
真田幸村の軍略兵法の秀抜は、青史にとどめる価値があるが、大坂冬夏両役に参加した諸大名の家乗《かじよう》という家乗は、申し合せたように、幸村らの鬼神の働きによって失った兵数を、ひたかくしにした。
冬の陣に於て、城南攻撃で、失敗した前田利常は、二千数百人の兵を討死せしめているが、記録には、重臣と侍大将の死傷を書いただけで、全体の討死数をかくしている。
『孝亮宿禰《たかすけすくね》日次記』には、越前兵の戦死四百八十騎、加州兵の戦死三百騎、その他の雑兵の死は、数を知らず、としている。
『駿府記』には、彦根兵の死傷数百騎とある。
このあたりが、真田丸を攻めた前田利常、松平忠直、井伊直孝三家の届け出た公称であったろう。
しかし、『慶元記』には、
「諸家より届出の死傷数は、おおむね五分の一にすぎぬ」
と、すっぱ抜いてある。
当日、前田勢の先頭隊に属して、闘った武士が、故郷へ寄せた手紙には、「一組は十四人進んで七人戦死し、一組は八人押し寄せて五人まで討たる」と記している。
激戦凄じく、真田幸村のために、六千以上の将士、兵卒が死傷させられているにもかかわらず、記録にはとどめられていないのである。
幸村が率いて真田丸にたて籠った兵は五千に過ぎず、これを攻めた前田勢は一万二千、松平勢は一万、井伊勢は四千であった。
幸村の一子大助幸綱は、父が前線で討死するや、絶食して、切腹の用意をし、翌日、秀頼自害を見とどけておいて、庭上に立ち出ると、真一文字に腹をかっさばいて、主と父のあとを追っている。十六歳であった。
毛利勝永の一子勝家も真田幸綱と同年の十六歳であったが、父とともに、見事に割腹している。
長曾我部盛親の一族郎党の義勇ぶりも、あっぱれである。
盛親の舎弟右近は、肥後加藤家の客分となっていたが、大坂役後、伏見へ押送《おうそう》されて、切腹を命じられた。
その時、右近の郎党宮崎久兵衛は、右近からひきつれられたのではなく、自ら進んで、随行して来たのであったが、主人が切腹ときまるや、検使の藤堂高虎に殉死の儀を願い出た。
高虎は、
「その方には、なんのおかまいもない。切腹の儀は相許さぬ」
と、制止した。
久兵衛は、承服せず、
「わが主《あるじ》は、いまだ、切腹の場面に出会ったことがござらぬ。勝手不案内でござれば、それがしが、ひとつ、手本に、腹を切ってみせとうござる」
と云いはなち、その場で、肌を押しくつろげ、脇差を腹へ突き立てて、ぎりぎりと、ひきまわし、
「わが君、斯様《かよう》になされませい」
と、声をかけた。
右近は、
「心得た」
と、応《こた》えて、それにならった、という。
大野主馬治房は、落城とともに、落ちのびて、姫路池田利隆の家臣内田|勘解由《かげゆ》をたよった。
勘解由は、大野主馬治房が行方知れず、という噂をきき、必ず自分をたよって来るものと思い、毎夜、庭を歩きまわって、咳払いをつづけ、忍んで来た治房に、知らせようとつとめた。
六日後、治房は、予想通りに、忍んで来た。
勘解由は、翌日から病気と称して、屋敷にひきこもり、治房を守護した。
しかし、やがて、家中に、勘解由が治房をかくまっているらしい、と疑う者が出て来た。
やむなく、勘解由は、夜陰に乗じて、治房を落ちのびさせることにした。とある四つ辻まで送って、その場に、勘解由は、耳を掩い、目を閉じて、大地にうち伏して、
「はよう、行かれい」
と、うながした。
翌朝、捕手の一隊が、押し寄せたが、勘解由は、たしかにかくまったが、昨夜のうちに何処かへ立去られて、行方は存じ申さぬ、とこたえた。
勘解由は、禁錮数年で、許されたが、その後、知己から、
「貴殿は、大野治房を、落ちのびさせる際、目を閉じ耳をふさいで、地面に伏されたときくが――?」
と、訊ねられて、
「もし、拷問にかけられた際、正気を失って、つい口にするおそれがあるゆえ、大野殿が、東か西か、南か北か、いずれへ落ちのびたか、知らぬに如《し》くはなしと思うて、そうしたまででござる」
と、こたえた、という。
[#改ページ]
野 心 浪 人
一
「妙なものよのう」
大坂城の将星と、その家族、郎党、知己の、すがすがしい行動を語り了《お》えた丈山は、再び、遠くへ眼眸《まなざし》を置いて、
「敗者が美しさをのこし、勝者がみにくさをのこして居る。これは、欲をすてて義をとった者と、義をすてて欲をとった者との差だ。……豊臣家とともに、大坂城は滅び、代って、徳川家とともに、江戸城が、数十万の人々の奉公によって、完成しつつある。……去年、わしは、出府して、江戸城を眺めたが、古今|未曾有《みぞう》の巨城の威厳を誇って、まことに、見事な構えであったな。勝者の栄光を映《は》えさせて居った。義をすてて欲をとった大御所の執念が、築きあげたものであった。……皮肉なものだ。敗者の美しさは、人の記憶にのみとどまり、勝者のみにくさは、巨大な城郭として、のこされるのだ。……わしは、江戸城の天守閣を仰ぎ乍《なが》ら、これを崩壊せしめる新しい権力者は、いつの頃、出現するであろうか、と想いやった」
「………」
「おそらく、百年や二百年では、出現すまい、と考えられる。徳川家の勢威は、あまりにも巨大なものとなった。斯《か》くまでに自家をのしあげた大御所は、やはり、偉大な器量人ではあった。わしごときが、その姿に、死欲にとりつかれた老醜を視《み》たことなど、大御所にとっては、蚊に食われたほどのかゆみでもなかったであろう」
「先生――」
弥五郎が、はじめて、口をひらいた。
「駿河大御所が、大坂城内に蓄《たくわ》えられていた軍用金を運んだのは、久能山であった、ときき及んで居りますが、その金銀が、目下、江戸へ運ばれて居ります」
「ほう……」
「松平伊豆守の宰領《さいりよう》の下に、荷駄三百頭で、運ばれて居り、わたくしは、それを強奪しようと企てる者から、仲間に入れとさそわれました。軍勢を催して、襲撃するのならいざ知らず、たかが数人で狙う愚挙を、わたくしは、わらって、去って参りましたが、これは、大坂城の軍用金が、今日まで手をつけられずに、久能山にねむらせてあったことになりますが、先生は、いかがお考えでしょうか?」
「面妖《おか》しいな」
「は――? 面妖しいとは?」
「わしが知るところでは、大坂城の金銀は、二分されて、江戸と駿府に、所蔵されたはずだ。江戸城所蔵の分は、おそらく、城づくりに使われて居るであろうが、莫大な額ゆえ、まだまだ、その三分の一も費消されては居るまい。久能山所蔵の分に、手をつけなければならぬ時態には、たちいたっては居らぬはずだが……」
「公儀では、このたび、駿河大納言を、改易、配流にしましたが、その理由は、久能山所蔵の金銀を召し上げるためであった、とか――」
弥五郎は、楠不伝からきかされた話を、つたえた。
前将軍秀忠は、三代家光にもかくして、駿河大納言忠長に、久能山所蔵の金銀をゆずっておいた。この行為が、家光を、烈火のごとく憤怒させて、実弟忠長に対して、改易配流という苛酷な措置をとらせた。
「その話が、事実であるとしても、久能山から、はやばやと、江戸まで運ぶ必要はない。松平伊豆守ほどの智慧《ちえ》者が、駿河大納言を配流にした直後、久能山から、運び出すような、性急なまねをするとは、考えられぬ」
「松平伊豆守が、智慧者ゆえ、そうしているとは、考えられませぬか。江戸城完成のためには、将軍家は、久能山所蔵の軍用金までも、敢えて、費消するのであるから、諸大名が、その所蔵の軍用金を使うのもやむを得ぬ、と世人に納得させる。その智慧を働かせた、とは考えられませぬか?」
弥五郎の推理をきいた丈山は、急に、
「ふふふ……」と、ふくみ笑いを、もらした。
弥五郎の推理が、丈山の脳裡に、ひとつの直感をひらめかせさせたのである。
「弥五郎、お前が、掠奪の企てに加わらなかったのは、賢明であったな」
「はあ――?」
「松平伊豆守が、運んで居るのは、たぶん、贋金であろう。お前の推測通り、将軍家自身も、江戸城完成のためには、徳川家自身の軍用金を惜しみなく使うのだ、と諸大名に思わせるために――。しかし、それは、伊豆守が、久能山に所蔵してあるのが、贋金である、と知って、思いついたことに相違あるまい。いや、きっと、そうであろう」
二
「先生!」
弥五郎は、丈山を瞶《みつ》めて
「久能山に、贋金を置いたのは、やはり、駿河大御所のしわざでありましょうか?」
「まちがいあるまい。思いあたることがある。大御所は、おのが没後のずっと後世のことにまで、思慮をめぐらされたのだ。……たくわえた金銀というものは、いつの間にやら、なし崩しに、使いはたしてしまう。幕府が、軍用金を費消してしまった、と諸大名に看て取られるのは、政治の上で、ひとつの危機をまねくことになる。そこで、久能山所蔵の金銀は、一文も手をつけずに、いつまでも置いてあることにする。これは、幕府の台所の余裕ぶりを示すものゆえ、大御所は、ひそかに、贋金にしておいたのだ。まことの金銀は、駿府の何処かに、かくしておき、江戸城の金蔵が空《から》になった時は、すこしずつ、目立たぬように、運んで使うようにと、二代将軍家に内密の遺言状をのこされた、と考えられる。百年の後のことまでも、思慮をめぐらすのが、大御所という御仁《おひと》の性格であった」
「ところが、駿河大御所といえども、子孫の肉親間の相剋《そうこく》にまでは、思い及ばなかった、ということになります。三代将軍家となった孫が、実弟を、よもや、改易配流にしようなどとは、夢にも考えずに、大御所は逝かれた――」
「うむ。まさしくな」
「先生、わたくしが、もうひとつ推測いたしますれば、駿河大納言卿は、まことの金銀は、どこに所蔵してあるか、松平伊豆守に、打明けずに、駿府城を去ったのではありますまいか?」
弥五郎は、鋭く双眸《そうぼう》を光らせ乍ら、云った。
二代将軍秀忠は、勿論、家康から渡された内密の遺言状によって、まことの金銀の所蔵場所を知っていた。久能山所蔵のものは、贋であることを、承知していた。
しかし、秀忠は、駿河大納言忠長可愛さのあまり、その秘密を、家光には、教えなかった。すなわち、家康の遺言状を渡さなかった。忠長にだけ、教えておいた。
このたび、松平伊豆守が、残酷な宣告を下す使者となって、駿府へおもむき、忠長を駿府城から追放して、はじめて、この秘密を知らされた。
無実の罪をきせられ、領土を奪われ、配所の月を眺めさせられる憂目《うきめ》に遭《あ》った忠長が、どうして、むざむざと、まことの金銀の所蔵場所を、伊豆守に告げるものであったろう。
久能山所蔵の金銀が、贋であることは、忠長追放直後、伊豆守が調べてみて、はじめて知った。
伊豆守は、しかし、そ知らぬふりで、その贋金であることを、逆に利用して、堂々と、江戸へ運ぶことにした。
「……駿河大納言卿が、口をひらかぬ限り、まことの金銀の所蔵場所は、誰にもわからぬ、となれば、これは、面白いことになります」
弥五郎は、云った。
いかに、松平伊豆守が当代の智慧者でも、駿河大納言の口を割らせることは、不可能と思われるのである。
「弥五郎、お前も、黄金亡者になる素質を持っているようだな」
丈山は、自分が漉きあげた雁皮紙を、折からさし込んで来た朝陽に、すかし視乍ら、云った。
「わたくしは、流浪の孤児となって育って居ります。莫大な金銀が、何処かにねむっている、ときけば、興味をそそられます」
「興味をそそられるというところまでで、気持をとどめることはできぬか?」
「手に入れたい、と血汐がたかぶって居ります」
「手に入れて、どうする?」
「そこまではまだ……」
「お前の推測も、わしの推測も、とんだ的はずれかも知れぬぞ。……伊豆守は、まことの金銀の方も、ちゃんと、納めて居るやも知れぬ」
「先生は肚の底では、伊豆守がそれをまだ納めて居らぬ、とみておいでです。わたくしにはわかります」
「ははは……」
丈山は、笑い声をたてた。
「お前は、伊豆守以上に智慧のまわる男だ。……智慧がまわりすぎると、身をほろぼす禍をまねくことになる。……弥五郎、お互いの推測は、この場限りといたそうではないか」
「先生、この弥五郎、まだ二十八歳です。生涯、市井の片隅で浪人ぐらしをしつづけるつもりは、毛頭ありません。きっと、世にわが名をひろめる決意をして居ります。そのためには、軍資を手に入れたく存じます。……先生、ご推測のついでに、もし大坂城の金銀が、駿府に所蔵されているとすれば、城内のどのあたりか、それとも、城外とするならば、何処であろうか、見当をつけて下さいますまいか」
弥五郎は、強い気色で、師に迫った。
丈山石川重之は、前髪立ちの頃から、家康に近侍した人物であった。したがって、駿府城内外の地理にくわしいのであった。
莫大な金銀を所蔵する場所として、家康がどこをえらんだか――丈山には、容易に見当がつくはずであった。
すくなくとも、弥五郎には、そう考えられたのである。
「弥五郎、お前は、智慧者というよりも、妄想者といえるのう」
「おさげすみは承知の上で、何卒《なにとぞ》お願い申します」
「妄想を起すよりも、どこかの大名に随身《ずいしん》することを考えぬか。お前ほどの器量ならば、充分に重臣の列に加わることができよう。……そうだ。紀州の江戸家老で、牧野兵庫頭という、まだ若いが、切れ者らしい人物が、この熱海に参って居る。わしの添状《そえじよう》を持って行けば、召抱《めしかか》えてくれるであろう。どうだ、そうせぬか?」
「おことわりします。わたくしは、たとえ、直参旗本にとりたてよう、とすすめられても、ご免を蒙《こうむ》ります。……裃《かみしも》姿で、登城することなど、わたくしの性分に合いませぬ」
弥五郎は、きっぱりと拒否した。
三
同じ日の朝――。
小田原城下の江戸口を、三人の浪人者が歩み出ていた。
丸橋忠弥と金井半兵衛と楠不伝であった。
長槍をかついだ忠弥は、野武士然として胸を張っていたし、ふところ手の半兵衛は、飄々乎《ひようひようこ》として、その日の風まかせという様子を示していたし、そして、楠不伝だけは、いささか生彩のない猫背を出して、数歩おくれていた。
「おい半兵衛、江戸へ出て、どうするというのだ?」
「さあ、どうするかな」
「おいおい、まだ、きめて居らんとは、なにごとだ。けしからんぞ」
「急《せ》くな、さわぐな、あわてるな、か。末は終《つい》に海となるべき山川《やまかわ》も、しばし木の葉の下をくぐるなり。隠忍自重《いんにんじちよう》。必ず忍ぶことあれば、すなわち能《よ》く済《な》ることあり」
「人間わずか五十年、日になおせば二万日しかないのだ。悠長にかまえていられるか。……弥五郎の神算鬼謀《しんさんきぼう》をもって、千両箱を掠奪してみると、これが、贋金だし、今年は、ふりかえると、ろくなことはなかった。せめて、来年は、芽の出る目算をたてたいものだ。半兵衛、ちゃんと、たててくれ」
「ともかく、江戸へ出てから、思案しようではないか」
「それでは、おそい! 江戸へ出るまでに、考えてもらおう」
忠弥は、酒匂川の渡し口に到着すると、
「それにしても――」
と、険しい視線を、背後の楠不伝へまわし、
「疫病神《やくびようがみ》を、江戸までつれて行く気か、半兵衛。……川の中へ、抛《ほう》り込んでくれようか」
と、云った。
「止せ。おれは、爺さんのどこか間抜けたところが、好きなのだ。一応、江戸まで、連れて行ってやろうではないか」
「まっ平だぞ。爺《じじ》いの面を見ていると、芋刺しにしたくなるのだ。江戸へ入るまでに、殺してしまうおそれがあるから、追いはらえ、と云っているのだ」
「そう気を荒立てるな」
半兵衛は、声をひそめると、
「この爺さんは、犬のようにうまいものを嗅《か》ぎわける鼻を持って居る。……この鼻は、いつか、必ず役に立つ」
と、ささやいた。
忠弥は、不安げな面持で佇《たたず》んでいる不伝を、じろりと睨んだ。
「忠弥、おれに、万事まかせろ。おのれ一人だけの才覚で、大きな仕事はできぬ。利用できる奴を、どんどん利用する。いたずらに嫌悪するだけが、能ではないぞ」
「勝手にしろ!」
忠弥は、渡し舟にとび乗ると、舳先《へさき》に胡座《あぐら》をかいた。
半兵衛は、不伝と、艫《とも》に腰を下すと、
「不伝殿に、きいておこうかな。お主は、どうして、あの荷駄三百頭の件を、知っていた?」
「それは、申せぬ」
「忠弥が睨《にら》んで居るのだぞ、不伝殿。……芋刺しにされたくなければ、教えるのだな。お主が、云わぬ、というのであれば、忠弥が芋刺しにするのを、おれは、止めぬ」
「金井氏、そのような、冷酷なことを申されるな。……身共《みども》は、貴殿がたにとって、大きな利益をもたらす人間であることを、確約いたす」
「たとえば――?」
「たとえば、その……、荷駄三百頭分の判金丁銀が、駿河城のどこにかくされているか、つきとめてみせる、と申したら、いかがでござる?」
「成程――、それは、忝《かたじけな》 い。お主に後光がさして来た。しかし、どうやってつきとめるか、その手段は云えぬ、というのだな!」
「左様、それは、申せぬ。もとより、身共一人では、つきとめても、掠奪はできぬゆえ、貴殿がたに、おまかせする次第だ」
「よかろう」
半兵衛は、うなずいた。
「おい、半兵衛」
舳先から、忠弥が呼んだ。
「よいか、むこう岸へ、着くまでに、来年の計をたてろ!」
[#改ページ]
遺 言 状
一
当時――。
熱海と小田原を結ぶ道は、馬や駕籠で通るのは至難であったので、湯治の客は、海上を往き来した。
しばしば崖崩れがあり、また、山犬や熊の襲撃も珍しくなかった。街道らしい道筋がつけられていたのは、熱海・伊豆山間と小田原・根府川間だけであった。
石川丈山の草屋を辞去した由比弥五郎は、しかし、敢えて、その険難の陸路をえらんだ。
熱海を出発して、二十余町を歩くと、伊豆山に至る。
この土地は、走湯《はしりゆ》と称されていた。
熱湯が、海面から数十尺の上の、山脚の岩洞の中で湧き出て、小さな瀑布になって海岸へ落ちていたからであった。
弥五郎は、その湯滝の音を、頭上にきき乍ら、波浪の噛む岩から岩へ、跳び移って、進んでいた。
沖あいを数艘の船が、ゆっくりと進んでいた。江戸へ巨石を運ぶ船であることは、一瞥《いちべつ》で判った。巨石を水中に沈めて、荷重を軽くするように工夫された特殊の構造の千石船であった。
「勝者のみにくさは、巨大な城郭として、後世にまで残される、か」
師丈山の述懐を、弥五郎は、呟いた。
その時――。
不意に、頭上で、女の鋭い悲鳴が、ほとばしった。
振り仰いだ弥五郎の目に、断崖から落下する人影が、映った。
女であった。
途中、突出した巌にたたきつけられ、大きくはずむと、弥五郎の前方十歩あまりの渚《なぎさ》へ落ちた。
急いで、そこへ奔《はし》った弥五郎は、抱き起してみて、
「おっ!」
と、目を瞶《みは》った。
弥五郎が、先日、熱海へともなった下総国の少女七人のうちの一人に、まぎれもなかった。
すでに、縡《こと》切れていた。
「やはり!」
弥五郎は、合点した。
この走湯に、熱海の石切り丁場で働く男たちの慰労のために、二百人以上の遊び女《め》の溜《たま》りが、設けられていることを、弥五郎は、きいていたのである。
稲刈りをすませて、農閑期に入ったのをさいわいに、父兄たちの使役を手伝って、すこしでも早く御用済みになるように、とかたらって、国を出て来た少女たちのけなげな志は、やはり、無謀であった。
弥五郎は、彼女たちと別れる際、
――あの娘《こ》らは、ぶじに国許へは、もどれぬかも知れぬ。
と、不吉な予感をおぼえたことを、思い出した。
激しい憤りが、弥五郎の胸中に、わき立った。
ひきつづいて、頭上で、悲鳴と呶号《どごう》があがるのをきいて、弥五郎は、よじのぼる場所を物色した。しかし、そのような場所は、見当らなかった。
やむなく、弥五郎は、遺体をかかえあげて、すぐむこうの洞窟の中へ安置してやることにした。
数歩進んだ折であった。どこをどうやって、つたい降りて来たか、彼方から、少女の一人が、姿を現した。
砂地を駆けて来たのは、印旛郡公津の大庄屋木内宗吾の妹波津にまぎれもなかった。
波津は、弥五郎の腕の中にある遺体を、見ると、大きく眸子《ぼうし》をひらいて、一瞬痴呆の表情になったが、急に、渚へ坐り込んで、両手を顔にあてた。
弥五郎は、その慟哭《どうこく》をきき乍ら、しばらく、その場に佇立《ちよりつ》していた。
洞窟内へ、遺体を、そっと横たえてやってから、弥五郎は、ついて来た波津に、
「あとの五人は、いかがした?」
と、訊《たず》ねた。
「みんな、ばらばらに、ひきはなされて……、|かな《ヽヽ》が首をくくったことと、|すえ《ヽヽ》が山の中へ逃げ込んだことを、ききました。……この|やす《ヽヽ》は、わたくしと同じ、溜りに入れられて居りました。……わたくしが、わるかったのです。みんなを、さそうて、国を出て来たのは、わたくしで、ございました。……ああ!」
波津は、再び、両手を顔にあてて、身もだえた。
弥五郎は、その小袖に、血汐がついているのを、みとめた。
――抵抗した際、対手を手負わせたに相違ない。
「これも、因縁だな。おれは、そなたを助ける役割を、神仏から、与えられて居るらしい」
「申しわけございませぬ」
「参ろう」
「でも……」
波津は、溜りには、まだ三人が残っていることを、その悲しみの表情に示した。
「そなた一人だけでも、ぶじに国へ帰ることだ」
「できませぬ、そんな……、おめおめと、わたくしだけが……」
「そなたが帰国しなければ、誰が、この惨状を、国の人々に報《しら》せるのだ?」
「………」
「参ろう」
弥五郎は、歩き出した。波津は、うなだれて、そのあとにしたがった。
二
その日、松平伊豆守は、帰府すると、まっすぐに、登城して、将軍家光に、報告をすませ、夜に入って、外桜田の屋敷へもどってきた。
居間でくつろぐ暇もなく、入れかわり伺候《しこう》する側用人や目付や近習の報告を受け、また命令を下し、食膳に就いたのは、戌刻《いぬのこく》(午後八時)過ぎであった。
伊豆守は、給仕の小姓も女中も、傍に置かぬならわしであった。
志村源八郎だけが、控えていた。
摂《と》り終えて、湯呑みを把《と》りあげた伊豆守は、何気ない口調で、
「上様に、久能山所蔵の判金が、贋であった旨、申し上げたら、知って居った、と仰せられた。この伊豆が、贋金と知ったら、どうするか、見ていてやろう、とな」
「上様も、お人がわるうございますな」
「上様は、まことの判金・法馬は、駿府城の御金蔵に所蔵されてある、とお思いのようだ」
「未発見の儀、申し上げられましたか?」
「いや、申し上げなかった。わしが、ちゃんと、たしかめて来た、ときめておいでだったので、黙って、退出して参った」
「どうなされます?」
源八郎の問いにこたえるかわりに、伊豆守は、
「姫君は、下屋敷に入られて居るのであろうな?」
と、訊ねた。
高崎に配流された駿府大納言忠長に、逢いに行こうとしている九条|明子《さやこ》のことであった。
伊豆守は、九条明子に、江戸では、自分の下屋敷で、一泊するように、すすめておいたのである。
源八郎は、九条明子が、今朝がた下屋敷に入った旨を、こたえた。
「あとで、面談に参ろう」
そう云ってから、伊豆守は、
「上様は、明年早々、全土から一流の兵法者を召し出して、御前試合をさせよ、と仰せられた」
と、云った。
「御前試合を――?」
源八郎は、眉宇《びう》をひそめた。
そのような催しは、江戸城が完成してからのことにすべきではあるまいか。
源八郎ならずとも、誰しも、そう考えざるを得ない。
将軍家光のわがままぶりは、異常といえるほどであった。
後世、駿河大納言忠長の行状として伝えられた無法狼藉は、実は、家光が犯したのを、御用史家が巧妙にすりかえたのである。
家光には、酒乱癖があり、酔って、意に逆らった者を手討ちにしたことは、一度や二度ではなかった。忠長には、そのような濫行は、全くなかった。
天海大僧正が、しばしば口にした、と伝えられる言葉に、
「神祖(家康)は、万事に通達して、人情世態のことも熟知されていたゆえ、何事を申し上げるにも、やすらかであって、滞《とどこお》るところがなかった。台徳院(秀忠)は、資質温柔であられたから、神祖と同じ様であった。しかし、当代(家光)は、きわめて、聡明英武《ヽヽヽヽ》であられるためか、なんとなく何事も申し上げにくい」
と、いうのがある。
聡明英武、というのは、飾り言葉で、実は、非常に酷薄で狂的な性情の持主であることを、暗にほのめかしている。
人見友玄は、少年時代、世子家綱の御伽役《おとぎやく》をつとめていたので、家光の面前に伺候する機会が多かったが、そのたびに、
「上様を、いかにも、恐ろしく、見上げたものであった」
と、子孫に云い伝えている。
家光の眼光が、常に、残忍な光を帯びていたためである。
将軍職を継いだ頃、夜な夜な、市中へ忍び出て、辻斬りをやったことは、あまりにも有名である。
神尾備前守元勝が、江戸町奉行になった時、家光は、問うた。
「町奉行は、府内の生殺を司《つかさど》り、大切の職務だが、心得は如何に?」
元勝は| 承 《うけたまわ》って、
「依怙贔屓《えこひいき》をいたしませぬ」
と、こたえた。
とたんに、家光は、からからと笑った。
「人として生れて、依怙贔屓せぬ者があろうか、たわけ! 余が天下を治める上でも、外様《とざま》大名をあしらうのと、譜代の者どもを遇するには、おのずから差別をいたすぞ。軽重の法を立てるには、大いに依怙贔屓せい」
家光の口から吐かれる言葉は、常に、人の意表に出た。
伊達政宗の病いが重いときいていた家光は、品川東海寺に遊んだついでに、その屋敷に、見舞った。
政宗は、苦痛をこらえて、大急ぎで肩衣袴を身につけ、右の手を土井利勝に、左の手を柳生宗矩にとられ、うしろから酒井忠勝に腰を支えられて、家光の前へ、罷《まか》り出た。
家光は、政宗を直視すると、
「中納言、その病体では、とても本復の望みはないようじゃな。しかし、安心せよ、そちが卒去しても、伊達家は、越前守忠宗のものになるよう、とりはからってつかわす」
と、云った。
ある時、細川三斎(忠興)が、まだ鷹が鶴を捉《とら》える光景を見たことがない、と話しているのをきいた家光は、
「余が、放鷹《ほうよう》に案内してつかわそう」
と、云い、日をえらんで、三斎を、鷹場へともなった。
鶴が舞い降りる場所に到着したので、三斎は、家光が、|こぶし《ヽヽヽ》の鷹をいつ放つか、と待っていると、
「どうも、この代《しろ》(鶴を獲る鷹の飼付場)は気に食わぬ」
家光は、ひどく不機嫌に吐きすてておいて、さっさとはなれた。
別の代《しろ》へ移ったが、そこでもまた、家光は、
「寄せ方がわるい」
と、呶鳴って、鷹を放とうとしなかった。
三斎は、その日、早朝から黄昏刻《たそがれどき》まで、さんざ、老脚を曳《ひ》きつつ、歩きまわされた挙句、ついに、鷹が鶴を襲って捉える光景を、見せてもらえず、疲労しはてたことだった。
こうした逸話は、その気宇・風格を示すものとして美談めかして伝えられているが、家光の冷酷残忍な性情を示している以外のなにものでもない。
三
伊豆守が、下屋敷へ、馬を駆ったのは、夜も更けてからであった。
九条明子は、疲れて牀《とこ》に臥《ふ》していたが、侍女に取次がれて、急いで、着換えた。
書院で待っていた伊豆守は、明子が入って行くと、挨拶ぬきで、用向きをきり出した。
「高崎へ参られたならば、身共がおたのみすることを、お引受けいただきたく存じます」
「わたくしにできますことならば……」
九条明子は――明子もまた、忠長を愛していた。
改易配流された忠長の許へ、送ってくれる伊豆守のはからいは、明子にとって、生涯の恩義といえた。
どのようなたのみでも、肯《き》き入れなければならなかった。
「大納言卿は、神君(家康)が二代様に残された遺言状を、ご所持のはずでござる」
「………」
「その遺言状を、大納言卿に気づかれぬように、手に入れて、身共にお渡し下さるよう――」
明子は、あきれ顔で、
「わたくしに、遺言状を盗め、とお申しつけになるのですか?」
「左様――」
伊豆守は、無表情で、うなずいた。
「伊豆殿は、その目的があって、わたくしを、高崎へ――大納言様に、逢わせて下さるのですね?」
「いかにも――」
伊豆守は、明子の視線を、平然と受けとめていた。
「わたくしが、いやだと申せば……?」
「是非とも、そうして頂きとう存じます」
「いやです! そのような大切な品を、盗むなど、……わたくしには、できませぬ」
「やって下さらねばならぬ!」
伊豆守は、語気鋭く、云った。
「いやだと申せば、このまま、京都へ、送りかえすと、仰せか?」
「それだけでは、相済まぬ」
「相済まぬとは?」
「大納言卿に、自刃して頂くことになりましょう」
「え? ……そ、そんな――」
「貴女様の心ひとつに、大納言卿の生死は、かかって居ります」
「………」
明子の顔から、血の気が引いた。双眸《そうぼう》は、大きくみひらかれたまま、まばたきもしなかった。
「二度とは、申し上げぬ。貴女様の働きによって、大納言卿のおいのちは、救われましょう」
「………」
「では、お願いつかまつる」
伊豆守は、一礼すると、座を立った。
「あ、あの――」
明子は、呼びとめたが、伊豆守を振りかえらせることはできなかった。
一人、広い書院にとりのこされると、明子の俯向《うつむ》いた顔から、泪《なみだ》が一滴、膝で重ねた手の甲へ、落ちた。
松平伊豆守信綱のはからいには、毒があったのである。
たったいままで、感謝し信頼していた人物が、実は敵であったと思い知らされた怒りと悲しさは、この堂上公卿の娘にとって、恋する人が改易配流になったと報された時以上のものがあった。
[#改ページ]
若 い 町 奴
一
十一月半ば――といっても、寛永九年の暦である。
秋はすでに去って、風は肌を刺す冷たさであった。
一片の雲影もとどめぬ澄みきった青空を截《き》りぬいて、江戸城の天守閣がそびえ、そのむこうに、富嶽のすがたがあり、人為《じんい》と自然の美を競っていた。
将軍家お膝元。
住む人々には、その誇りを与え、はじめて出府した来た者たちには、心がまえをあらたにさせる景色であった。
往還のせわしさも、江戸でなければ見られぬ風景であった。
城づくりとともに、町づくりも、まだつづいていたのである。
慶長八年二月、征夷大将軍となった直後、家康が、まず諸大名に命じた町づくりは、大規模な海岸埋立て工事であった。神田山(駿河台、御茶の水の丘陵)を掘り崩して、その土で、外島(豊島)の洲崎を埋め立て、市街をひろげる工事であった。
その工事を命じられた大名は、加藤清正、福島正則ら七十家であった。
七十家が出した二万八千余の人夫の力で、広大な外島洲崎は、陸地となり、今日の日本橋浜町あたりから新橋附近までの下町がつくられたのであった。
銀座の尾張町という地名は、このあたりの工事を、尾張の徳川家が受け持ったからである。
そして、その時、道三堀と平川が延長された掘割に、橋が架けられ、日本橋と名づけられた。
この日本橋を中心として、江戸の町づくりは、活況を呈した。
日本橋が架けられた頃、江戸の住民は、約十五万人であった。
元和を経て、寛永に入ると、その人口は、三倍にふくれあがっていた。
江戸城がしだいに、その偉容を現すにつれて、武家屋敷も、寺院堂塔の建築も、数を増し、町家の戸数は倍加したのである。元和年間には、工事の請負《うけおい》御用達のおかげで、一町毎に、二、三人が一夜にして富豪に成り上った、といわれている。
寛永九年のいまでは、大名旗本の屋敷は、ほぼ建ちそろい、寺院や神社もまた、大方は建立《こんりゆう》をおわっていた。
大名たちは、江戸城の完成に、総力を挙げていた。
しかし、富豪を続出させた市井《しせい》では、金もうけのあらゆる店をひらかせ、遊里を繁昌させていた。
京では、遊女町は、島原といって、朱雀にあり、祇園町の娼楼も、島原に劣らず栄えていたが、江戸では、慶長年間までは、定《きま》った傾城《けいせい》町はなかった。二軒、三軒と、各処にちらばっていて、十数軒が檐《のき》をならべていたのは、麹町八丁目、鎌倉河岸、柳町などの数箇所にすぎなかった。
元和三年、庄司甚左衛門という小田原の浪人が、幕府に請《こ》うて、傾城町の敷地を、堺町の辺にもらい受け、江戸中の女郎屋を、この一箇処に集めた。その当時は、この地は、葭《よし》がぼうぼうと生え繁った沼沢《しようたく》であったので、葭原と名づけられ、のちに、縁起をかついで、吉原と改められた(吉原遊廓が、浅草三谷村へ移されたのは、明暦年間である)。
この頃の吉原は、夜よりも昼の方が、賑わっていた。
早朝に登楼して、午《ひる》まえに、あわただしく去る客の方が、多かったのである。
廓《くるわ》の大門を出入する遊客が、最も多い巳刻(午前十時)すぎ――。
突然、大門内で、凄じい集団悲鳴があがった。喧嘩沙汰の起らぬ日はない時世であったが、廓中にひびき渡るほど、十数人の女が、いまにも死ぬような悲鳴を、一斉にあげたのは、はじめてであった。
旗本奴連中が、それぞれ一人ずつ、一糸まとわぬ素裸の遊女を、ひっかついで、大門を出て来たのである。
かれらが登楼した店に、なにか不始末があったか、それとも、六方《むほう》の名をてらうための乱暴か、いずれも、遊女の頭髪をひっつかんで、肩の上で弓なりに仰向かせ、後手を臀部からまわして、その陰部へ指を突っ込む無慚《むざん》なかつぎかたをしていた。
二
遊客たちは、旗本奴連が、最も乱暴な神祇《しんぎ》組であるのを、その風俗からみとめて、固唾《かたず》をのみ、あるいは、後退《あとずさ》りした。
髪は結《ゆ》わずに、手一|束《そく》に切ってざんばらにし、三里(膝頭下)の短い丈《たけ》の白羽二重の綿入れをまとい、緋の帯を三|重《え》にまわし、袖口をくくりあげて、鉛を|くけ《ヽヽ》込んだ褄《つま》を刎《は》ねかえらせ乍ら、裸女をひっかついで、大股にのし歩いて来る徒党の光景は、二人や三人が、さからってみたところで、どうなるものでもない、と思われた。
ところが――。
敢《あ》えて、その横行をはばむ者が、行手に出現した。
黒木綿を着流した長身の若者であった。まだ、二十歳にもなるまい。
色の黒いのと、異常なまでに鼻梁が高いのが、目立った。
旗本奴にならって、町奴と自称する博徒の一人にまぎれもなかった。四尺近い無|反《そり》の刀を、腰におび、高下駄をはいていた。
江戸には、町奴の頭数もすくなくなかったが、すすんで旗本奴と争いをひき起すような度胸を持った者は、ほとんどいなかった。
町奴が、たった一人で、旗本奴連の行手をふさいだので、遊客たちは、目をみはった。
「下郎! 退《ひ》け!」
先頭の旗本奴が、怒鳴った。
「女郎どもをはなしてやって下され」
若い町奴は、おちついた態度で、たのんだ。
「ほう、青二才の博徒ふぜいが、われら直参の面前に立ちはだかるとは、面白い。いい度胸だ、とほめてくれるぞ」
「女郎も、犬猫とはちがい、人間でありますれば、恥を知って居ります。はなしてやって下され、お願い申します」
「うぬが名を名乗れ」
「浅草の神田山幡随意院の門前に住む長兵衛と申します」
「われらの面前に立ちはだかる上からは、覚悟はできて居ろうな。その覚悟のほどを、ほざけ!」
「どのようにすれば、女郎どもを、おはなし下さるか、おきかせ下されば、したがいましょう」
「われらは、女郎を人間扱いにして居らぬ。女郎の味方をするうぬも、人間扱いにはせぬぞ。犬猫は、往来でも、交《つる》む。うぬは、この路上で、女郎と交んでみせろ!」
そう呶鳴られて、長兵衛は、ちょっと返辞をためらっていたが、
「抱けば、おゆるし下されますか?」
「おう、交んでみせたら、かんべんしてくれようぞ」
「かしこまりました」
長兵衛は、旗本奴連にひっかつがれている遊女たちに向って、
「この場で、わしに抱かれる恥を忍ぶ者は、いないか?」
と、訊《たず》ねかけた。
数人の遊女が、同時に、承知の声をあげた。
長兵衛は、最も醜い貌《かお》と肢体を持った遊女を、指さした。
「お前にしよう」
帯を解き、ぱっと脱いだ黒木綿を、地面へひろげた長兵衛は、まず、
「お旗本衆、女郎どもを、おはなし下され」
と、請求した。
十数人の遊女が、旗本奴の肩からおろされるのを待って、その店の者たちが、衣類をかかえて、馳《は》せ寄った。
ただ一人、長兵衛から指さされた遊女が、素裸のまま、地面にひろげられた黒木綿の上に、仰臥《ぎようが》して、目蓋を閉じた。
長兵衛は、すこしもためらわずに、褌をはずした。あらわにされた男根は、その逞しい体躯にふさわしいものであった。
「長兵衛!」
旗本奴の一人が、にやにやし乍ら、
「うぬらは、犬猫同様に、往来で、交むのだぞ。されば、犬猫の恰好でやれ」
と命じた。
長兵衛は、その旗本奴へ、鋭い敵意の視線をくれた。しかし、何も云わず、遊女をひき起した。
遊女を四《よつ》ン匐《ば》いにさせる前に、長兵衛は、遠巻きにした見物人を、見まわして、
「皆の衆、人情がおありならば、目をつむっていて下され」
と、たのんだ。
百人近い見物人は、一斉に目蓋を閉じた。
「忝《かたじけ》 のう存じます」
長兵衛は、礼をのべておいて、遊女に、
「ここを、人里はなれた山中と思え。眺めているのは、けものだと考えるのだ」
と、ささやいた。
「あい」
うなずいた遊女は、すすんで、四ン匐いになって、下肢を開いた。
その臀部へ、おのれの前をあてがい乍ら、長兵衛は、碧空《あおぞら》を仰いだ。
「いい日和《ひより》だ。何千年か前の、わしらの先祖は、こうやって、大らかに、交合を愉しんだのだぞ」
その表情は、いかにも明るかった。
見まもる旗本奴連など、眼中にない態度で、遊女の背中や胸の隆起や腹部を、ゆっくりと撫でさすっていた長兵衛は、一瞬、
「豊年じゃ! 満作じゃ!」
と、高らかに叫んで、ぐっと、おのれの前を、遊女の臀部へ押しつけた。
すると、遊女が、
「おお! うれしい!」
と、声をあげた。
「こやつが!」
旗本奴連は、町奴に恥をさらさせようとして、その結果、あざ嗤《わら》う代りに、不快の形相になった。
一人が、長兵衛の顔へ、べっと唾を吐きかけ、一人がいきなり、足蹴にしようとした。
とたん、
「喝《か》っ!」
四方をつらぬく一声が、かかった。
人垣を分けて、進み出てきたのは、白髯《はくぜん》を胸にたらした僧侶であった。
ただの坊さんではなかった。大僧正の鈍色《どんじき》をまとっていた。
「あ! 幡随意院の上人様だ!」
見物人の中から、叫ぶ者があった。
老僧は、旗本奴連に近づくと、
「直参衆、御辺らの負けでござる。おひきとりなされ」
と、云った。
三
半刻後――。
長兵衛は、浅草の神田山幡随意院の方丈にいた。
「長兵衛、町奴とはつらいものよの。任侠ぶりを発揮するためには、白昼、往還上で、傾城と交尾せねばならぬとはのう――」
老僧は、点前《てまえ》をし乍ら、云った。
幡随意院住職は、名を智誉、はじめ典誉と号し、向導ともいい、善智識の名の高い僧侶であった。
二代将軍秀忠は、向導を、しばしば、城内へ招いて、法話を聴いた。向導は、天海とも親しく、旗本奴といえども、この大僧正に、あいだに入られては、ひきさがらざるを得なかった。
長兵衛にとって、向導は、師であり、父であった。
長兵衛は、十八年前、幡随意院の山門にすてられていたのである。
赤児をすてるのを、乞食が目撃していた。すてたのは、尾羽打ち枯らした浪人者であった、ということであった。
向導は、ひろいあげて、門守に育てさせた。
ゆくゆくは、剃髪させるつもりであったが、長兵衛と名づけられた少年は、経を読むことまではしたがったが、小僧になることは死んでもいやだ、と云いはり、毎日、町道場へかようことを止めなかった。
十歳頃には、すでに、近所|界隈《かいわい》の自分より年長の少年たちを手下にしていたし、十四五歳にみえる体格と膂力《りよりよく》を有《も》っていた。
長兵衛が、向導に無断で、寺を出て、博徒になったのは、三年前の十五歳の正月であった。
爾来《じらい》、一度も、幡随意院の山門をくぐってはいなかった。向導の耳には、時折り、長兵衛の放縦な行状が、きこえていた。
師であり父である大僧正の前に、三年ぶりにかしこまった長兵衛は、皮肉をあびせられ乍ら、目を伏せて、身じろぎもせずにいる。
「長兵衛、お前が出没する場所は、博奕場と遊廓と芝居小屋と岡場所だけであろうな?」
向導に問われて、長兵衛は、正直に、
「はい」
と、こたえた。
「では、まじめに、正直に、汗を流して働いている人々の姿は、目に映らぬのじゃな?」
「いえ、ちゃんと、見て居ります」
「見乍ら、なんとも思わぬのじゃな。感ずるところはないのじゃな」
「………」
「お前を、公儀に願って、ひっ捕えて、佐渡へ送り、二三年、金掘り人夫をつとめさせてくれようか、と思うが、どうであろうの?」
「上人様!」
流石《さすが》に、長兵衛は、顔色を変えた。
佐渡金山の人夫にされるのは、地獄へ落されるも同然だ、ということを、長兵衛も、きいていたのである。
「いやか?」
「勿論、まっぴらでございます」
「しかし、今更、博徒の群から抜け出すことはできぬ、というのであろう?」
「………」
「わしは、お前に、町奴を止めて、商家の手代になれ、などとは云わぬ。お前は、商家の手代などになれる男ではない。町奴がふさわしい」
「そうお思いでございますか?」
長兵衛は、目をかがやかした。
「そう思うとも、町奴以外に、お前のなれるものはない。……但し、博奕と女と酒と喧嘩にあけくれている今日のお前は、まことの町奴ではない」
「………」
「博徒になどなるのは、出来そこないの屑じゃが、莫迦《ばか》と鋏《はさみ》は使いよう、と申すゆえ、人間の屑でも、頭数をそろえて、使う時と場所をえらべば、大いに役に立とう」
「………」
「お前は、まず、博徒の頭目になるがよい。出来そこないの屑を、ひろい集めるつとめをやるがよい。その目的を抱いて、博奕場へ出入りし、女子を抱き、洒をくらい、喧嘩をするがよい」
「はい」
長兵衛は、目がさめたような表情になった。
「わかったら、出て行け、三年経ったら、人間の屑をひろい集めた、と報せに参るがよかろう」
[#改ページ]
不 満 老 人
一
「さあ、とうとう着いたぞ。ここが、日本橋じゃ、千夜さん――」
少女の肩を抱いて、雑沓《ざつとう》から身を守ってやり乍《なが》ら、そう云ったのは、名張の夜兵衛――小田原の装束屋敷で、松平信綱宰領の御用金の中から、千両箱ひとつを盗んだ男であった。
今日も、冬空は晴れわたり、鹿《か》の子まだらに化粧された富士の嶺が、南にすっきりと抜け出し、その右方に、天守閣がそびえ、北方には、上野東叡山が、くろぐろとわだかまっていた。
頭をめぐらせば、|海づら《ヽヽヽ》近く、大小さまざまの出船入船が、行き来していた。
それにしても――。
橋上の雑沓ぶりは、もの凄いばかりであった。
幅四間余のうち、中央二間が空けられていて、騎馬や乗物・駕籠の武家・出家が、悠々と通っているため、欄干ぎわを往き来する庶民は、押し合いもみ合い、一瞬も足をとどめてはいられないのであった。
橋の下からは、揚荷積荷の懸声にまじって、乗合船の呼び声が、かまびすしい。
「さ、千夜さんの渡り始《ぞ》めじゃ。足もとに気をつけてな」
夜兵衛は、千夜をかばい乍ら、渡りはじめたが、その視線は、西空にそびえる天守閣へ、あてられて、冷たく光っていた。
千夜は、生れてはじめてこんなもの凄い雑沓の中に置かれて、必死の面持であった。
橋を渡りきると、西側が高札場、東側が罪人の晒場《さらしば》になっていた。
晒場には、十重の人垣がつくられているところをみると、鋸挽《のこぎりび》きの罪人でもひき据えられている模様であった。
夜兵術は、高礼場の前に、立った。
石垣を築き、柵をめぐらした高札場には、屋根の下に、七八枚の高札が立てられてあった。
いちばん上段にある古びた高札は、元和の頃から立てられたものであろう。
[#この行1字下げ]「親子兄弟親類それぞれ親しく、主人ある輩は、おのおの奉公に精を出すべき事」
とか、
[#この行1字下げ]「博奕・喧嘩沙汰をつつしみ、人の害になるべき事を為さざる事」
とか、
[#この行1字下げ]「盗賊悪党のたぐいあらば、申し出べし。屹度、ごほうび下さる事」
とか、
[#この行1字下げ]「人身売買かたく禁止す。但し、男女の下人あるいは永年季または譜代に召し置く事は、相対に任すべき事」
とか、一般処世上の訓示が、記されていた。
切支丹禁制の高札もあった。火事に関する禁令もかかげられていた。
また――。
ここから、府内名所に至る里程の表示もあった。上野へ一里、本郷追分へ三十丁、両国へ十八丁、目黒へ二里、四谷追分へ一里、浅草観音へ一里二丁、といったぐあいに教え、ついでに、そこまでの伝馬《てんま》ならびに人足荷物の賃銀も、書き添えてあった。
夜兵衛は、いちばん下の右端に立てられた小さな高札を、じっと視《み》ていた。その高札が、最も古かった。
定
[#ここから2字下げ、折り返して4字下げ]
一、大坂籠城の落人詮議は、永世也。不審の者あれば、申し出べし。ごほうび下さるべし。
一、再び主取りせんとする浪人、旧主より合力《ごうりき》を受けて、町中に住む浪人、出家の恰好をせる浪人は、すべて追放の事。
一、お上に名の通りし浪人、商人になりし浪人、また、切手(聞届済の証明書)所持の浪人は、おかまいなき事。
[#ここで字下げ終わり]
瞶《みつ》める夜兵衛の眼光には、怒りの色がこもった。
その時、背後から、
「熊谷三郎兵衛」
不意に、そう呼びかける者があった。
夜兵衛は、動かなかった。
熊谷三郎兵衛は、十七年前、夜兵衛が、すてた姓名であった。
「そうか。熊谷三郎兵衛、と呼んでは、返辞をせぬのう」
呼びかけた者は、笑い声を立てた。
その笑い声をきいて、夜兵衛は、やおら向きなおった。
七十を幾つか越えた、白髪長躯の武士が、そこに立っていた。
馬で通りかかって、夜兵衛の姿をみとめて、降りて、近づいたのである。
五六歩うしろに、口取りの従士二人を、ひかえさせていた。
「久闊《きゆうかつ》――。わしも老いたが、お主も皺《しわ》を寄せたのう」
笑った老武士は、大久保彦左衛門忠教であった。
二
それから、しばらくのち、大久保彦左衛門は、夜兵衛をともなって、日本橋南の通り二丁目にある大きな構えの近江店「伴伝」の奥座敷にいた。
蚊帳《かや》と畳表をあきなっている店であった。あるじの伝兵衛は、近江商人中の錚々《そうそう》であった。もと武士であったが、二十歳の時、刀をすてて、織田信長が安土に築城した時、その城下に、店をひらいた。五十年も前のことである。
大久保彦左衛門とは、三十余年のふるいつきあいであった。
「お主は、大坂城で、死んだものと思うていたが、よう生きていた」
彦左衛門は、酒をすすめ乍ら、なつかしさを表情にも声音《こわね》にも示した。
「熊谷三郎兵衛は、もはや、この世には在《あ》りませぬよ。……てまえは、いまは、夜兵衛という旅商人でしてな」
夜兵衛は、こたえた。
「ははは……、この大久保忠教から見れば、お主は、身装《みなり》を変えているだけで、熊谷三郎兵衛にまぎれもない。……太閤のおそばに、太刀持ちをしていた稚児姓《ちごしよう》姿は、美しかったのう。左様、お主と知り合ってから、四十年以上になるか。月日の流れ過ぎるのは、早いものよ。……味方になったり、敵になったり、さまざまな場所で、顔も合せたし、槍も合せたが……、こうして、生き残って、めぐり逢ってみると、すべて、なつかしい思い出となって居る」
「………」
「旗本八万騎、と申しても、その八割はすでに、戦場を知らぬ二代、三代で、われらとは、話が合わぬ。わしが、戦さ話をすると、そっぽを向いて、きこうともせぬ。……敵であったお主とめぐり逢うて、膝を交えるよろこびは、若い旗本どもには、わかるまい」
「………」
「どうだ、三郎兵衛、わしの食客にならぬか? わしは、去年までは、ただの千石取りであったが、今年、どういう風の吹きまわしか、もう千石、加増された。……お主に、二百石ぐらいの捨扶持《すてぶち》は、呉《く》れられるぞ」
彦左衛門は、老人の気ぜわしさで、そう云った。
「てまえは、伊賀名張から出て来た、薬種あきないの商人夜兵衛、と申し上げて居りますよ」
「お主が、ただの旅商人になり下って、その日ぐらしをして居るとは、考えられぬ。……まだ、落人詮議の目がきびしいさなか、身をやつしているのは、別に何かこんたんがあってのことかな? どうだ、正直に、泥を吐かぬか?」
「別に、何も、打ち明けるようなことは、胸にありませんな」
「その娘《こ》は、なんだな? お主は、たしか、わし同様、妻帯せなんだはずだ。孫ではあるまい」
「小田原で、ひろいましたので――」
夜兵衛は、その両親が、旗本奴連に斬られて、孤児となったあわれな身の上の少女である旨を、告げた。
「三郎兵衛――いや、夜兵衛か。人間、何もすることがなくなるのは、これほどつまらぬくらしはない。このせわしい江戸で、何もすることがなくて、ぶらぶらして居るのは、旗本寄合、小普請組だけなのだ。そういうわしも、その一人じゃが……。戦場で刀槍をふりまわす役目の旗本が、御世泰平になってみると、有害無益の徒輩《とはい》になりはてるのは、やむを得ぬ仕儀であろう。……嬢や、そなたの両親を斬った旗本奴の罪を、わしが代って、詫びをする。こらえてくれい」
彦左衛門は、千夜に、頭を下げた。
夜兵衛は、十六歳の若年から六十年の間、妻も娶《めと》らず、主家奉公一途に生きたこの老武士が、満腔《まんこう》の不満を胸中にくすぶらせ乍ら、余生を送っているのを、気の毒なものに、見まもった。
三
宵闇が落ちた頃あい、夜兵衛は、千夜を連れて、浅草の寺町に現れていた。
左右ともに、寺院の土塀がつらなる、人影のまれな往還をひろい乍ら、
「千夜さんは、嫁にゆくまで、どうやって、すごしたいかな? 大名屋敷に女中奉公をするか、それとも、町家で、くらすか? ……そなたの気持をきいておこうか?」
夜兵衛は訊《たず》ねた。
「小父《おじ》様と一緒にくらしては、いけないのでしょうか?」
「わしは、旅商人なのでな。江戸に住居をきめても、ものの十日とおちついて居られぬ」
「わたくしが、留守を守ります」
「それは、忝《かたじけな》 いが、十一の娘に、留守居をたのむわけにはいかんな」
「いいえ、大丈夫です。わたくしは、ちゃんと、守ります。家をきれいにして、小父様のお世話をいたします。炊事もできます。母様が、病弱だったので、わたくしは、三年ぐらい前から、ご膳づくりをして居りました」
「うれしいことを云うてくれる。そなたは将来、どんな男につれ添うか知らぬが、そなたを妻にした者は、幸せであろう」
やがて夜兵衛は、幡随意院門前の、とある横町に入って、長屋の一軒を、訪れた。
「長兵衛、いるかえ?」
案内を乞うと、すぐ返辞があった。
破れ襖を開けて、顔をのぞけたのは、前日、旗本奴の横暴を一手にひき受けて、衆人環視の中で、吉原女郎と交接してみせた若い町奴であった。
「これは、夜兵衛さんか。いつ、江戸へ戻って来なすった?」
「今日だよ」
「あっしの家へ、まっすぐに、たずねて来て下さったとは、忝《かたじけね》 え」
八畳一間の家には、家具調度は、ひとつも見当らなかった。
冬を迎え乍ら、火鉢も置いてなかった。
「これはまた、殺風景なすまいだ」
「駆け出しの町奴の家ですぜ。鼠と家守《やもり》と|なめくじ《ヽヽヽヽ》を同居させているのは、しかたがありますめえ。三日に一度、隣の婆さんが掃除してくれているから、べつに、塵《ちり》だらけじゃありませんぜ」
「しばらく、厄介になってもいいかね?」
「気軽に、いつまでも、いて下せえ。尤《もつと》も、あっしは、料理はできねえが……」
「わしとこの娘《こ》が、引受けた。これで、煮たり焼いたりは、馴れているのだ」
「それじゃ、こっちから、お礼を云わなくちゃならねえ。どうも、あっしは、炊事と洗濯だけは苦手で隣近所にたのんでいるんです。……そうだ、夜具を借りて来なけりゃ――」
「いや、その心配は無用。おっつけ、夜具は、日本橋の伴伝から、とどけてくれる」
「へえ、手まわしのいいことだ。伴伝とはごうぎだな」
「うむ。旗本寄合衆の大久保彦左衛門という御仁の世話だ」
「それは旗本奴ですかい?」
「いや、もう七十過ぎた老人だ。身命をなげうって、御家のために働いて、わずか二千石の知行しかもらっていない御仁だが、当節まれにみる気骨の持主だな。対手が老中だろうがなんだろうが、気に食わぬことがあると、ずけずけと、皮肉をあびせて、一歩もあとへ退かぬそうな。……市中を横行して、弱い者いじめをしている山犬にひとしい旗本奴どもとは、料簡《りようけん》がちがっている」
「夜兵衛さん、旗本奴が山犬なら、町奴は虫けら、ということになるんだが……、あっしは、これから、志を立てることにしたんですぜ」
「志を――?」
「志とは、ちと大袈裟《おおげさ》なんだが、つまり、町奴をひとまとめにして、あっしは、その頭領になってくれようと、肚《はら》をきめたんでさあ」
「そりゃ、立派な志だね」
「なァに、あっしの親代りの幡随意院の大僧正に意見されてね、そうきめたんだが……、野郎どもをひとまとめにして、それからどうするか、そのさきのことが、あっしには、わからねえ。教えておくんなさい」
「頭数がそろえば、いくらでも仕事はあるだろう」
「石はこびなんざ、まっぴら御免を蒙《こうむ》りてえ」
大名各家の石船が、江戸湊に入り、舟着場から城内まで、その石が、運ばれる重労働ぶりを、長兵衛は、物心ついた頃から眺めさせられていた。
いわゆる石引きは、音頭とりが巨石の上に乗り、縄を曳《ひ》く人足どもが、木遣《きや》りをうたっているので、一見のんびりした風景であった。しかし、これは、途方もない重労働であった。
また、あつかうのが石なので、使役にたずさわる人々の気分は、荒っぽいものとなった。
長兵衛も、少年の頃、石引き喧嘩を目撃したことがある。
福島正則の家中が、千数百人の人足を動員して、巨大な角石を引いているところを、藤堂高虎の組の人足数百人が、牛車数輛に、割栗石を積んで、あとから追いついた。藤堂家の家臣は、福島家の家臣に、挨拶せずに、さっさと、追い越そうとした。
それが、福島家の面々の気にさわった。
家臣と家臣、人足と人足が、入りみだれて、修羅《しゆら》場をくりひろげ、百人以上の死傷者を出したものであった。
見物している長兵衛の足もとへ刎《は》ねとばされた手が一本、ころがって来、気がつくと、返り血を顔にも胸にも、べっとりとあびていた。
石引きは、今日も、つづけられているのであった。
「夜兵衛さん、あっしは思うんだが、将軍様の住居だというので、どうして、あのような途方もねえばかでかい城を造らなけりゃならねえのか、なんだか、ばかばかしいような気がしてならねえ。将軍様の威厳を示してえのだろうが、ちと、こけおどかしすぎるように思えてならねえのだ。……眺めていると、いい加減に止《よ》さねえか、と呶鳴《どな》りたくなるんでさあ」
夜兵衛は、その罵詈《ばり》を、微笑できき乍ら、黙っていた。
[#改ページ]
異 国 僧
一
「今日は、昨日よりもさらに涼しくて、しのぎよいのう」
水野出雲守成貞は、朋輩阿部四郎五郎邸の広縁を、のしのしと歩き乍ら、奥座敷へ案内する用人に、云った。
涼しいどころではない。庭の樹木を鳴らして吹きつける寒風は、肌を刺していた。
成貞は、素肌に、帷子《かたびら》一枚だけの、真夏のいでたちで、扇をつかっていた。
旗本寄合衆が、各家持ちまわりで、月に一度催す強情宴が、今日であった。
戸障子は、すべて開け放ってあり、庭には、水が打ってあった。
当番になった屋敷の使傭人たちにとっては、たまったものではなかった。その迷惑ぶりが、成貞の前を歩く用人のまるめられた背中に示されていた。
奥座敷には、七八名の寄合衆が、集まっていた。いずれも、帷子一枚で、扇をつかっていた。三人ばかり、その帷子さえも、片肌脱ぎになっていた。
膳部には、冷|素麺《そうめん》がのせてあった。
「今日の一番の馳走は、なんだな?」
成貞は、主人の阿部四郎五郎に、訊ねた。
「うまいぞ。まず、食ってから、あててみせい」
四郎五郎は、笑った。
女中が、その料理を、各膳部に、配った。
成貞は、一口喰べてみて、
「歯ごたえがあるのう。味はわるくない」
と、云った。
「鼠の赤児の蒲焼きだ。添えてある塩辛は、蚯蚓《みみず》だ」
四郎五郎が、教えた。
流石《さすが》に、成貞は、胸がむかついた。しかし、「思いついたものだ」と云い乍ら、むしゃむしゃ、咽喉へ押し込んだ。
「おい、出雲――、小田原の酒匂川では、御辺の率いる白柄組が二人、荒木又右衛門という奴に、斬られたそうだな」
「うむ」
「荒木又右衛門という奴、しらべたら、安藤四郎右衛門がかくまった河合又五郎を、討とうとして居る渡辺数馬の義兄だぞ。……柳生但馬守から、その通称をゆずられた手練者《てだれ》だ。渡辺数馬に助太刀すべく、出府して参ったに相違ない。……酒匂川で、討ち取るべきであったな」
「おれは、小田原城下にいて、報せをきいて酒匂川に駆けつけてみると、もう、荒木は、姿を消していた。……ところで、河合又五郎の身柄は、どうした?」
「松平豆州(信綱)から、江戸から退去させろ、と厳命があったので、安藤の屋敷に置いておけなくなった。谷中の浄観寺というぼろ寺に、かくした」
又五郎の父河合半左衛門の方は、伊豆守がじかに安藤四郎右衛門を呼びつけて、その身柄を、徳島城主蜂須賀蓬庵(忠政)に渡させていた。
蜂須賀蓬庵は、憤死した池田忠雄の舅《しゆうと》にあたる人物であった。
蓬庵は、半左衛門を受取ると、領地阿波国へ押送《おうそう》する、と告げたが、どうやら、家臣に命じて、大坂からの船中で、刺し殺し、死骸を海中へ棄てた模様であった。
安藤四郎右衛門は、伊豆守の処断によって、上野東叡山の宿坊のひとつに、逼塞《ひつそく》させられていた。いずれ、切腹を命じられるのは、目に見えていた。
「池田家の家中が、血眼になって居る。遠からず、又五郎のかくれ家は、突きとめられる」
久世三四郎が、云った。
「おれの輩下を斬った荒木又右衛門に、又五郎を討たせては、面目にかかわる。断じて、討たせぬぞ!」
水野成貞は、呶鳴るように云った。
「先手を打って、荒木を見つけ出して、殺《や》るか」
阿部四郎五郎が、云った。
「疱瘡|痕《あと》のひどい化物面で、六尺越えた大兵だから、市中を歩けば、すぐわかる。……殺るにしかずだ」
「おれは、伊豆守を殺りたいのう。あいつこそ、われら寄合の敵だぞ!」
一人が、さも憎々しげに、吐き出した。
「豆州か。老中にのしあがるだけあって、当代随一の曲者よ」
成貞が宙を睨んで、云った。
小田原の装束屋敷で対面した時の、冷たく冴えた伊豆守の態度を思い泛《うか》べ乍ら、成貞は、あらたな憤怒をおぼえた。
――あの落着きはらった曲者に、ひと泡噴かせる意外な手段《てだて》は、ないものか?
二
同じ時刻――。由比弥五郎は、江戸城三十六見附のひとつ――外堀に架けられた浅草橋門の袂《たもと》に佇立《ちよりつ》して、五層の天守閣を、遠くに望み見ていた。
見附というのは、堀に架けられた城門をいう。見張番所の意味である(今日なお、赤坂見附、市ヶ谷見附、四谷見附などの名称がのこされている。当時は、三十六見附といわれていたが、正確にそれだけの城門があったわけではなく、多数を意味した)。
――この巨大さは、どうだ?
弥五郎は、胸のうちで、呟いた。
今朝がた――まだ陽がささぬうちに、品川の旅籠を出て、熱海からともなって来た下総佐倉の大庄屋・木内宗吾の妹波津に、国許へ帰るようにと云いきかせておいて、別れた弥五郎は、浜御殿大手門をふり出しに、外堀に沿うて、巡ってみたのである。
御成門、虎ノ門、赤坂門、喰違門(伊賀町新土橋)、四谷門、市ヶ谷門、牛込門、小石川門、筋違橋門、そしてこの浅草橋に至った時には、陽は中天に昇りきっていた。
どの見附にも、鉄砲数挺、弓数張、長柄槍、持筒などを備えた譜代大名の家中が、ものものしく、警備についていた。
無用の者は、外郭へ入るのを禁じられて居り、武士も一応、そこで下馬していた。
徳川家の権威を、まざまざと見せつけられた弥五郎は、いまさらに、師丈山の言葉を思い泛《うか》べて、合点せざるを得なかった。
「……敗者の美しさは、人の記憶にのみとどまり、勝者のみにくさは、巨大な城郭として、のこされるのだ。……わしは、江戸城の天守閣を仰ぎ乍ら、これを崩壊せしめる新しい権力者は、いつの頃、出現するであろうか、と想いやった。……おそらく、百年や二百年では、出現すまい、と考えられる。徳川家の勢威は、あまりにも巨大なものとなった。斯《か》くまでに自家をのしあげた大御所は、やはり、偉大な器量人であった」
――しかし!
弥五郎は、急に、身ぶるいするほどの激しい反撥に駆られた。
――この大城郭をつくりあげたのは、神ではない。人間なのだ。徳川家康という、たった一人の人物が、のこしたものではないか。……人間がつくりあげたものならば、人間が奪い取れぬはずはない。家康が、大坂城を奪い取ったように、この江戸城も、誰かが奪い取れぬはずはない。決して、不可能事ではないのだ!
「やれる!」
弥五郎の口から、なかば意識せずして、語気強く、その一言が、出た。
「なにが、やれると云われる?」
いつの間にか、隣に立って、同じく、天守閣を望見していた一人の雲水が、ききとがめて、問いかけた。
はっ、とわれにかえった弥五郎は、視線をまわした。
「いや、べつに――」
かぶりを振り乍ら、弥五郎は、まんじゅう笠の下の面貌に、目を奪われた。
双眸も鼻梁も口も、弥五郎がこれまで接したことのない魁偉《かいい》の造作であった。皮膚は赤銅色をして居り、弥五郎は、
――海賊のようだな。
と、思った。
気がついてみると、そのうしろに、まだ七八歳の小坊主が、同じくまんじゅう笠をかぶって、かくれるように、つき添うていた。
「失礼乍ら、御辺のいまの一言は、拙僧の肺腑に、ひびき申した」
雲水は、云った。
「………」
「御辺は、あの天守閣を仰いで、人の力の強さを、申されたのでござろうか?」
「いや――」
弥五郎は、思わずかぶりを振った。
何者か知らぬが、この雲水もまた、自分と同じ想念をわかせていたのではなかろうか、という気がしたのである。
「栄位勢利、たとえば寄客の如し、という言葉があり申すが……、たとえば、四十年前、大坂城の天守閣を仰いだ者が、この大城郭が二十年の後には、滅び去るなどと、どうして予想し得たであろうか、と思いやって居り申した」
「ほう……、御辺は、この江戸城も、わが身がこの世に在るあいだに、滅びるかも知れぬ、と予想して居られるのか?」
「それがしは――」
弥五郎は、西を指さして、
「あの富嶽と天守閣の差を、考えたまでのことです。富嶽を消し去ることは、人力ではかなわぬが、天守閣は、人間が作ったものゆえ、これを焼きはらうのは、可能であろう、と」
と、云った。
「ふむ。成程!」
雲水は、ふかくうなずいた。
その折――。
わっしょ!
わっしょ!
懸声が、後方からひびいて来た。
今日もまた、諸大名課役の石引きが、なされているのであった。
弥五郎も、雲水も、頭をまわした。
太い材木を組んだ台に、巨石をのせ、丸太棒をコロに使って、数百人が、それを引いている作業は、この三十年間、江戸で見馴れた光景であった。
「あの石は、自然が人間に与えてくれたもの。たとえ、天守閣は無に帰しても、石垣だけは、千年の後まで残り申そう」
そう云いのこして、雲水は、小坊主の手をひいて、そこをはなれようとした。
「もし、お待ち下され」
弥五郎は、呼びとめた。
「御坊のご尊名を、おきかせ頂きたい。それがしは、由比弥五郎と申す」
雲水はちょっと考えていたが、
「拙僧は、風に吹かれて、海原を流されて来た、文字通りの雲水でござる。御辺とは、なにやら、|うま《ヽヽ》が合いそうな。……同道されるか。これより、紀州邸へ参る」
と、さそった。
三
雲水は、日本人ではなかった。
明国人、鄭芝龍《ていしりゅう》。字《あざな》は飛黄。泉州南安県石井巡司の人であった。
芝龍の父紹祖は、泉州の庫吏であった。
その姿容の魁偉について、一挿話がある。十歳の頃、家の前の往還で、石を投げて遊んでいた芝龍は、向いの府の門から出て来た府尹《ふいん》(知事)蔡善継の額《ひたい》に、あやまって、石を中《あ》てた。善継は、怒って、少年を捕えたが、その面貌の尋常でないのを視て、
「ふむ。この子は、後年、貴封されるであろう」
と、感嘆して、釈放した、という。
鄭芝龍が、日本へ流れ着いたのは、慶長十七年――十八歳の時であった。
芝龍が、密出国して、日本へ渡来した動機は、甚だかんばしくないものであった。
府尹蔡善継が、貴封されるであろうと看た面貌の佳良とはうらはらに、芝龍は、性情ややもすれば蕩逸、読書をきらい、膂力《りよりよく》のあるにまかせて拳術を好み、喧嘩沙汰にあけくれる少年時代を送った。
庫吏である父紹祖は、各方面からの賄賂が多く、その金を、蓄妾に費して、七人も擁していた。
芝龍は、父の第六子を産んだ妾と、密通した。その現場を、父に発見され、
「殺すぞ!」
と、朴刀《ぼくとう》で追われた。逃げた芝龍は、湊へ出て、そこに碇泊している阿蘭陀《オランダ》船に、かくれた。
出帆してから発見されたが、乗客の商人にかばってもらい、肥前平戸に至った。
その翌年、芝龍は、阿蘭陀商人にともなわれて、駿府におもむき、家康に謁見している。芝龍は、母国を脱出する際、たくさんの薬種を携えていたので、それを、家康に献じた。
「日本に住んで、何をする?」
家康に問われて、芝龍は、
「この国は、まことに山嶽にめぐまれて居ります。ひろく、薬種を採って歩きたく存じます」
と、こたえた。
その通り、芝龍は、それから十年間、日本中を漂泊した。
その挙句、はじめて日本へ着いた肥前平戸へ、巡り還《かえ》った。
平戸が、交易港になったのは、天文十八年にはじまり、寛永年間に入っても、長崎港とともに、海外との市場としてさかえていた。阿蘭陀屋敷もあった。
平戸城下から西南およそ一里余のところに、岬湾が屈曲し、白砂の浜がひらけていた。いわゆる千里ヶ浜であった。浜に沿うて西に入る河内浦という湾が、阿蘭陀船の碇泊場であった。
芝龍は、この河内浦の阿蘭陀屋敷に、食客となった。通辞の役を与えられたが、あまり働かず、もっぱら、松浦藩の若ざむらいたちに、拳術を教えた。
そのうちに、ある足軽の娘と通じた。
娘は、みごもって、それを慙《は》じて、海に身を投げるべく、文貝をひろって、袂に入れている時、分娩の気を催した。
家にもどれぬまま、磯の岩蔭で、陣痛に堪えて、男児を産みおとした。
芝龍が、いま、連れている少年が、それであった。福松と名づけられていた(のちの国姓爺鄭成功である)。
鄭芝龍が、由比弥五郎を、ともなったのは、紀州徳川頼宣の屋敷であった。
芝龍は、すでに、いくたびか、頼宣に謁見しているとみえて、すぐに、用人の案内で、書院に通された。
「由比殿、紀州侯の器量は、日本随一でござる」
芝龍は、云った。
「そのことは、それがしの師の石川丈山先生から、うかがって居ります」
弥五郎は、こたえた。
実は、弥五郎は、懐中に、頼宣宛の丈山の添状を持っていたのである。
この明国人に誘われずとも、いずれ、この屋敷を訪れる意志を持っていた弥五郎である。
「拙僧は、紀州侯こそ、将軍の座に就かれるべきおかたと思って居るのでござるよ」
芝龍は、遠慮のない言葉を口にして、かたわらにひかえたわが子福松に、云いきかせた。
「よいか、福松。殿様に拝謁したならば、しかと、まなこを据えて、男らしゅう、ふるまうのだぞ」
[#改ページ]
凶 相
一
紀州頼宣が、書院に現れるまでには、かなりの時間があった。
そのあいだ、弥五郎は、明国人の雲水に、興味をそそられるままに、いくつかの質問を投げた。
「御坊は、風に吹かれて日本に流れ着いた、と申されたが……。ただ、目的もなく行雲流水のその日ぐらしをして居られるとは、思われぬ……。御坊の正体を、うかがいたい」
まず、そう訊ねた。
すると、鄭芝龍は、笑って、
「べつに、かくしだてはいたさぬ。……拙僧、実は、海賊でござる。海賊船七隻を持つ舶主《はくしゆ》でござる」
と、こたえた。
曾て、日本には「倭寇《わこう》」と称ばれる海賊がいた。
「倭寇」の全盛期、その根拠地は、五島列島であった。
豊臣秀吉が、朝鮮出兵に失敗したのを転機として、二百数十年にわたって、大陸沿岸に猛威をふるった「倭寇」は、一応影をひそめた、といわれている。
しかし、倭寇は、絶えたのではなかった。
関ヶ原役の後、西軍に与《くみ》して滅亡した大名の旧臣たちが、五島列島へ遁《のが》れて、倭寇の数は、かえって増したのであった。
ただ、倭寇は、牙舟《がしゆう》を駆って、明国を侵す無謀な戦法を止めて、密貿易者となったのである。
明国にも、海寇と称ばれている密貿易団がいた。
|※#「さんずい+章」]《しよう》州の顔思斎、泉州の楊天生を首領株として、洪陞《こうしよう》、張弘、陳徳、林徳、林福、李英、荘桂、楊経、李俊臣など、いずれも、剣の手練者、拳法の妙手、膂力《りよりよく》二十人力といった猛者《もさ》連で、殺人など日常茶飯事としている面々であった。
倭寇は、この明国海寇と、取引きをはじめたのである。
海寇の船主の一人に、黄程という者がいた。これが、鄭芝龍の母方の伯父にあたる人物であった。
五年前、黄程は、平戸にやって来て、芝龍に巡り逢うと、
「海寇となれ」
とすすめて、五島列島に碇泊させているおのが持船七隻を、与えて去ったのであった。
海寇となった芝龍は、数度にわたって、母国へ還り、沿海の海賊として名をとどろかせている李魁奇と、一戦を交えて、これを撃破し、八|※[#「門がまえ+虫」]《びん》(福建省周辺)に、おのが名を記憶せしめていた。
「……すると、御辺は、いずれは、祖国へ戻って、明朝をおびやかす野望をお持ちであろうか?」
弥五郎は、問うた。
「左様――、いずれはな」
芝龍は、にやりとしてみせた。
そして、芝龍は、目下の明朝の情勢を、弥五郎に、語ってきかせた。
太祖洪武帝からかぞえて十六代、二百七十余年を経て、ようやく、明朝は、崩壊のきざしをみせていた。
文字通り内憂外患が、明国を襲っていた。
内憂は、西北部の陝西《せんさい》や河南地方に、津浪のように起っている流賊・闖賊《ちんぞく》の蜂起であった。これは、飢餓寸前に追いつめられた農民たちの一揆であった。李自成、張献忠などという、山戦野闘のかけひきに長じた指導者の下に、農民は、|いなご《ヽヽヽ》の群のように、賊徒に変っていた。
一方――。
外患というのは、万里の長城を越えて、「北狄《ほくてき》」満州族が、侵入して来ようとしていることであった。
当時、満州族は、国を後金《こうきん》と号し、少数貴族の支配の下に、曾ての元のように、中国全土を征服する野望をたくましゅうしていたのである。
明朝にとって、これはおそるべき危機の到来であった。
「この日本は、今より、徳川家が天下人として、永久の支配体制を確立しようとしているのに対し、わが母国は、明朝が、三百年に近い支配を終って、滅亡の道を、大急ぎで辿《たど》って居り申す。……好漢ならば、この秋《とき》をのがさず、豈起《あにた》たざるべけんや」
そう云って、芝龍は、高い声を立てて、笑った。
二
頼宣が、大股に、書院に入って来た。
「鄭芝龍が、江戸へ現れるとは、珍しいの。……先般は、和歌山の方へ、珍しい品をたくさん届けてくれて、礼を申すぞ」
家康の十男である頼宣は、三百諸侯きっての大兵で、面貌も秀れていた。
この年、男盛りの三十歳であった。
頼宣は、非常にめぐまれた大名であった。わずか二歳で、水戸に二十万石を与えられ、九歳の時には、駿河・遠江・東三河あわせて五十万石の領主となって、浜松城にいた。
元和五年――満十七歳の夏には、紀州・勢州あわせて五十五万石の国守となった。家康はすでに没し、将軍は秀忠であった。
秀忠は、附家老の安藤帯刀を召して、
「頼宣を、駿河に置いたのは、大御所のお命じになったことであるゆえ、もし、頼宣が、国替えを不服とするならば、そのままにいたしてもよい」
と、云った。
帯刀から、その旨を伝えられた頼宣は、
「将軍家が、ひとたびきめられた国替えを、身共の不服で、中止されたならば、将軍家の威光にかかわろう」
と云って、紀州に移るのを承知した。
しかし――。
頼宣は、いよいよ入国して、和歌山城下へ数里という地点の山間部にさしかかった頃、ひどく不機嫌になった。
つき添うていた安藤帯刀は、紀州があまりに山間の辺境であるので、頼宣が不機嫌になったのだと察し、
「もし万が一、国家に兇変が起った場合、将軍家を、安全にお守りできる国としては、紀州を措《お》いて他にはありませぬ。ただいま、通って居ります山間部の嶮《けわ》しい道こそ、たのもしく、この紀州は海陸ともに要害の地でありまする」
と、語ってきかせた。
「うむ。そうだな、その通りだな」
頼宣は、きわめて単純に、機嫌をなおした、という。
頼宣は、家康の実子であり乍ら、附家老があきれるほど、権謀術数の知能は皆無であった。
ただ、きわめて幸いな運勢のもとに生れた貴公子といえた。
「大納言様、このたび、この鄭芝龍は、海寇としてではなく、明朝の家臣として、母国に還る|ほぞ《ヽヽ》をきめました。お別れに罷《まか》り出ました」
「そうか、還るか」
「つきましては、これなる伜福松は、日本にとどめ置きますゆえ、お見知りおき下さいますよう……」
芝龍は、福松に挨拶させて、
「なお、これなる浪人者は、由比弥五郎と申し、常ならぬ胆力を所有している者でありますれば、お目にかけられますよう、願いあげます」
と、とりなした。
弥五郎は、石川丈山の添状を、さし出した。
一読した頼宣は、
「丈山は、わが一命を救ってくれた恩人だ。その丈山の唯一の門下とあれば、厚く遇してやらねばなるまい。当屋敷で、ゆるりとすごすがよい」
と、云った。
べつに、弥五郎の人相を看《み》ようともしなかった。丈山の添状を持参した、というだけで、安易に、紀州家出入りを許した軽率が、後年、幕府転覆の隠謀を抱いた、と閣老から疑惑をかけられる禍を招こうとは、この時、頼宣は、夢想だにしなかった。
弥五郎は、一室を与えられたので、しばらく食客として逗留する肚になって、のびのびと仰臥した。
出府した日に、徳川御三家のひとつに、厚く遇されることになったのは、いかにも幸先が、よいように思われた。
――しかし、おれは、この紀州家に、随身はせぬぞ。
天井を仰ぎ乍ら、弥五郎は、自分に云いきかせた。
――一家臣となっては、おれは、おれの驥足《きそく》を充分に展《の》ばすことはできぬ。おれは、あくまで、無位無官として、生き抜く。そのうち、好機をつかんだならば、雲に乗ってみせる!
「ご浪人!」
不意に、呼ぶ声が起った。
「当家に入って、そのような険しい顔つきをせぬものぞ」
「なに」
弥五郎は、はね起きた。
障子のむこうの広縁からのような気もし、また、杉戸をへだてる次の間からのような気もした。
「誰人だ、お主は――?」
「紀州家の鼠よ。天井裏にいたり、床下にいたり、あるいは、庭の植込みの蔭とか、時には厠《かわや》の糞壺のわきにも――」
「忍者か」
「ま、そんなところだ」
「それがしは、お主にあやしまれるような存念など抱いては居らぬ」
「どうかな」
「忍者とは、疑い深いものだな」
「貴公は、邪心を起している時の自身の顔つきを、鏡にうつしたことは、あるまい。……尋常一様の凶相ではないのう」
「………」
弥五郎は、ゆっくりと、頭をまわした。
背後は、床の間であった。
大|忿怒《ふんぬ》相の不動明王の掛物があった。
弥五郎は、その不動明王の、くわっとみひらいた双眸が、活《い》きているのを、みとめた。
「姿をみせたらどうだ。あらためて、それがしの顔を、よく観《み》てもらおう。凶相かどうか――」
「そうするかな」
掛物をあげて、出て来たのは、意外にも、僧侶の|なり《ヽヽ》をしている男であった。
三
青あおと、剃りあげた坊主頭が、よく似合って居り、どう眺めても、誦経《ずきよう》にあけくれている桑門《そうもん》としか受けとれなかった。年配は四十前後であろう。
「お主、まことの忍者か?」
「ははは……、忍者でもあり、坊主でもある。……先祖代々、坊主で、この身も、十一歳までは、小僧であったゆえ、いま、こういう恰好をしていても、ふしぎではあるまい。しかし、経文とは無縁になり、殿様のかくれ守《もり》となっているのだから、これは、やはり化け姿であろうかの。……根来《ねごろ》一心斎と申す。貴公の名は、すでに、きいた。由比弥五郎殿、どこのご浪人衆か?」
「出生は、秘密にしている」
「左様か、では、問うまい」
「凶相かどうか、あらためて、観てもらおう」
弥五郎は、わざと、きびしい表情になってみせた。
「そのように、作った相では、実相は判らなくなるの」
根来一心斎は、微笑して云った。
弥五郎は、表情を穏かなものに変えた。
しかし、一心斎は、かぶりを振った。
「貴公は、人の前では、如何様《いかよう》な顔つきをしても、すべて作った相らしい」
「では、どうすればよい?」
「貴公、剣のたしなみは?」
「いささか――」
「立合うか。真剣の立合いならば、作った相など保っては居れまい」
「よかろう」
弥五郎は、応じた。
根来一心斎が、弥五郎を案内した試合場は、家臣の長屋でも建てる予定地らしい、立木を伐ったばかりの空地であった。
いたるところに、切り株が残って居り、尋常の立合いには、地利を得ない場所であった。
弥五郎は、まだ、忍びの術をそなえた者と、決闘した経験がなかったので、
――ここは、おれにとって、最も不利だな。
と思ったものの、拒否はしなかった。
「参ろう」
一心斎は、懐中から一尺二三寸の忍び刀を抜きはなつと、鳥がはばたくように、双手を左右に開いた。
弥五郎は、差料を鞘走《さやばし》らせる前に、
「お主は、根来寺衆徒の末裔《まつえい》か?」
と訊ねた。
「左様、いまだ、身共は、根来寺の行人《ぎようにん》の資格をそなえて居り申す」
根来寺は、紀州那賀郡、葛城《かつらぎ》山脈中の山村にある。
天正年間までは、山中に二百余の僧院があり、常に二万余人の衆徒が、住んでいた。根来寺の僧侶の特長は、頭髪を一定の長さにのばし、金銭でやとわれて、合戦に参加することであった。
僧侶であり乍ら、経文をよむよりも、戦闘訓練にはげんだ奇妙な集団であった。刀槍の芸、弓矢の稽古、忍びの術にはげみ、各人が毎日七本の矢を作り、そして、異邦から輸入した鉄砲の修練をし、また、具足を製《つく》ることにも、熟達していた。
さらに、他の集団とちがっていることは、長老あるいは、頭領の家を持たず、集合の席に於いて、最も力のある者を指揮者にえらぶ、現代の民主主義組織に似た実力主義を、とっていた。
根来寺衆徒は、天正十三年に、豊臣秀吉によって、潰滅させられたが、秀吉の没後、高野山や雑賀《さいが》に遁れ、ひそんでいた残党が、つぎつぎに、根来寺へ戻って来た。
再び、むかしの戦闘集団の組織を為《な》すことは、許されなかったが、兵法者あるいは忍者として、育つ者がつづき、諸処におもむいて、大名にやとわれた。
この根来一心斎も、その一人に相違なかった。
弥五郎にとっては、おそるべき敵といえた。
青眼に構えた弥五郎は、必死の覚悟をしなければならなかった。
「できるの、貴公――」
一心斎は、弥五郎の構えを視《み》て、にやっとした。
こちらを、できる、と看《み》た一心斎が、どれほどの手練者か、弥五郎には、見当もつかなかった。
すでに、晩秋の陽は、西に沈みかかろうとしていた。
双方は、対峙《たいじ》したまま、微動だにせず、このまま、宵闇を迎えるかと、思われた。
[#改ページ]
奇 遇
一
「由比弥五郎殿、この立合い、止すか」
不意に、根来一心斎が、にやりとして、云った。
双方、地に根生《ねば》えたように不動の対峙を、ものの四半刻《しはんとき》もつづけてから、一心斎は、急に、気持を変えたようであった。
「それがしの剣をあなどっての申し入れならば、無用!」
弥五郎は、声を張った。
「あなどりはせぬ。貴公は、できる。しかし、身共の方が、もっと、できる。また、貴公の人相も、たしかに、看《み》た。……凶相であること、まぎれもない。当家にとどまれば、当家に禍をまねく。とすれば、身共は、貴公を斬らねばならぬ。……しかし、惜しい。貴公ほどの英気を五体から滲ませた青年に、はじめて出会うた。斬るには、惜しい。……すみやかに、立去ってもらおう」
「いやだ!」
弥五郎は、叫んだ。
「いやだと――?」
「左様、それがしは、物心ついた頃より、他人から憐憫《れんびん》をかけられるのを排して生きて参った。これからも、その矜持《きようじ》は断じて枉《ま》げぬ。さらに申せば、ここで、一命を落す予感など、いささかも持って居らぬ」
とたん、かなりの距離を置いた地点から、
「その言や良し!」
大声が、かかった。
いつの間にか、切り株のひとつに、一人の武士が、腰を下して、この試合を、見まもっていたのである。
眇目《すがめ》で無精髭《ぶしようひげ》をはやし、眉間《みけん》と頤《あご》にひどい刀痕があった。袴をまくりあげて、毛脛をむき出していた。
紀州頼宣の兵法師範役・木村助九郎が、この人物であった。柳生但馬守宗矩の高足《こうそく》の一人で、剣を使うために生れたような兵法者であった。
十代に於て、すでに、柳生道場の右翼となっていたが、二十歳の正月から、道場に姿を現さなくなった。
宗矩から、心得を変えたか、と訊かれて、
「座法の剣を、工夫いたして居ります」
と、こたえ、その結果を二年後に披露する、と約束した。
二年を経て、正月元日の祝宴に出て来た助九郎は、
「座法の剣をごらんに入れ申す」
と、云った。
白木の台の上に、据えたのは、冑《かぶと》であった。
その前に端座した助九郎は、目蓋を閉じ、静止数秒を置いて、一瞬、抜きつけに、白刃を、冑へ送った。
冑は、八幡座を、真向《まつこう》から雨走りまで、両断された。
片膝も立てぬ、神技ともいうべき一閃の迅業《はやわざ》は、宗矩はじめ門下一同に、声さえもあげさせなかった。
もともと奇行の多かった助九郎は、その一事によって、さらに、只者《ただもの》ならぬ存在に視られるようになり、いよいよ孤独な兵法者となった。
紀州頼宣の兵法師範になったのは、宗矩の推挙によるものではなかった。
頼宣から、「木村助九郎を――」と、もとめられた時、宗矩は、
「師範の器《うつわ》ではありませぬ」
と、ことわったものであった。
頼宣のたっての要求に、宗矩は、助九郎の意嚮《いこう》をただした。
助九郎は、
「勝手に、いつでも、致仕する自由をお与え下されば――」
と、虫のいい条件をつけた。
紀州家に仕えて六年余になるが、助九郎が、頼宣に、稽古をつけたのは、数度にすぎなかった。
その稽古も、奇妙なものであった。
おのれは素手で、頼宣に木太刀を持たせ、全身どこでも、撃たせた。助九郎は、逃げも躱《かわ》しもせず、打たれるにまかせた。
頼宣としては、まことに、愉快ならざる仕太刀であった。
「柳生流の極意が、無刀取りならば、なぜ、打たれぬようにつとめて、こちらの得物を奪わぬのか?」
頼宣が、云うと、助九郎は、笑って、
「手前の肌身に、痣《あざ》ひとつ、つけられぬ未熟の殿に対して、左様な受け業《わざ》は無用にございます」
と、こたえた。
頼宣が、渾身《こんしん》の力をこめて、搏《う》ったにもかかわらず、助九郎の五体に、打撲傷はおろか微《かす》かな痣さえもつけることは叶わなかったのである。
木村助九郎とは、そういう兵法者であった。
二
助九郎は、切り株から起《た》ち上ると、ゆっくりと、近づいて来た。
「一心斎、この若い浪人は、お主があなどるほど、弱くはないぞ。……それとも、実は、思いのほかの強さと看てとって、わざとあなどった様子で、立合うのを止そうというのか?」
「虚仮《こけ》を申されるな。この一心斎の力を、木村殿は、まだ見分《けんぶん》されて居らぬ。ごらんに入れ申すぞ」
「そうか。業前《わざまえ》に差がある、と自負するのであれば、その手並の冴《さ》えを、見とどけよう。お主が、その忍び刀を、空へ投げる。その隙を、この若い浪人が、襲う。如何だ? やってみせるか、一心斎」
「承知いたした。……参ろう、由比弥五郎殿」
弥五郎は、べつに兵法者ではなかったので、こちらに利のある優劣平均条件をつけられても、屈辱とは思わなかったが、刀身をかえして峰を下にすることだけは忘れなかった。
「参る!」
弥五郎は、上段にふりかぶると、するすると、進んだ。
それに対して、一心斎は、左手につかんだ忍び刀で、ゆっくりと、円を描いた。一周する毎に、その速度を、すこしずつ増してゆき、やがて、目にもとまらぬまでに廻転させた。
弥五郎の足が停められた。と同時に、一心斎は、忍び刀を、空中へ抛《ほう》った。
「えいっ!」
弥五郎は、大きく踏み込みざま、鋭い刃風を、一心斎の頭上へ送った。
勝負は、きわめてあっけなかった。
一心斎は、跳び退りも、躱《かわ》しもせずに、したたかに、脳天へ峰撃《みねう》ちをくらって、のめり伏した。
――何故だ?
弥五郎は、眉宇《びう》をひそめた。
一心斎には、こちらの一撃をひっぱずしざま、手もとへとび込んで、刀を奪う迅業がそなわっていた相違ない。どうして、為すすべもなく、倒れたのか?
「おい――」
助九郎が、弥五郎に、声をかけた。
「一心斎は、お主の峰打ちぐらいで、死ぬような奴ではない。待って居れば、のこのこ起き上る」
その通りであった。
ひくい呻《うめ》きをもらしてから、一心斎は、顔をあげた。
弥五郎は、起き上った一心斎の右手に短剣が握られ、そして、その甲に、小柄が突き刺さっているのを、見出した。
――そうだったのか。
弥五郎は、合点した。
一心斎は、左手で忍び刀を空中へ抛っておいて、右手で、懐中にかくした短剣を抜いたのである。
その刹那、助九郎が、小柄を投げて、一心斎の右手の動きを封じたのであった。
一心斎が不覚をとったのでもなければ、弥五郎が勝ったのでもなかった。
「木村殿、曲者かも知れぬ他処《よそ》者に、助勢されるとは、存念のほど、納得でき申さぬ」
一心斎は、右手の甲から小柄を抜きとると、いまいましげに、云った。
「わしは、忍者が使う術を好かぬ」
助九郎は、どうやら、一心斎の戦法を、あらかじめ看て取っていたようである。
助九郎は、一心斎が去ると、弥五郎をうながして、歩き出した。
「ご助勢、忝《かたじけの》 うござった」
弥五郎が、礼をのべると、助九郎は、笑い乍ら、
「根来の鼠づれに、旧知を殺させたくはなかったのでな」
と、云った。
「旧知?」
「左様、わしの目に狂いがなければ、お主は、旧知だ。十七年ぶりに、めぐり逢うた」
「………?」
「お主は、十七年前の幼童のおもかげを、まだ、その目もと口もとに、残して居る。……お主の方は、わしをおぼえては居るまいがな。わしは、あの時、十七歳であった」
三
十七年前――元和元年、弥五郎は、わずか十歳であった。
弥五郎は、豊臣秀頼の太刀を持つ稚児姓だったのである。
その素姓は、大坂城の七将星の一人木村長門守重成の実弟であった。
木村重成は、紀州那賀郡猪垣村の地ざむらい佐々木三郎左衛門の子であった。当歳の時、生母が、この年誕生した秀頼のお乳人として挙げられることになり、佐々木家から離別した。重成も、ともなわれて、去った。
弥五郎は、佐々木三郎左衛門が、その後、正妻を持たず、妾とした百姓娘に生ませた子であった。
異母兄重成の方は、木村常陸介|重茲《しげとし》の養子となった。常陸介重茲は、秀吉がまだ筑前守であった頃から仕えて、各地の合戦に殊勲をたて、越前に於て十二万石の領主となり、やがて、関白秀次の執権となった。
その勢力は、石田治部少輔三誠に匹敵する、といわれていたが、秀次が高野山で自決するや、自分は、摂州茨木の大門寺にしりぞいて、割腹して果てた。
養子重成は、その時まだ四歳であったのて、生母に扶《たす》けられて、本国近江にのがれ、蒲生郡馬淵で、ひそかに育った。
淀君は、その消息を耳にして、生母が秀頼のお乳人であったよしみもあり、母子ともども、大坂城に召し出した。
生母は宮内卿の地位を与えられ、若君秀頼の保姆となり、重成もまた秀頼の扈従《こしよう》となって、左右に奉仕した。
弥五郎が、生れたのは、その頃であった。
重成は、長門守に任官して、三千石を食する身となった時、秀頼に向って、自分には、異母弟があり、紀州の山中に育って居りますが、七歳に相成りましたゆえ、挙げて稚児姓にお加え下さいますよう、と願い出て、許された。
弥五郎は、秀頼の乳兄弟である木村長門守重成の実弟として、大坂城へ迎えられたのであった。いずれ、兄に次《つ》いで、地位をたかめ、大名になる少年とみなされた。
慶長十九年十月十二日、東西の砲火が堺の一角からひらかれて、弥五郎の将来も断たれた。
翌年五月八日、大坂城が陥落した際、弥五郎は、焼け残った山里丸の唐物《からもの》倉に、淀君、秀頼につき添うて、籠《こも》っていた。
十歳の少年は、太閤秀吉の御曹子たる身が、生き残るべく、いかに必死にいのち乞いをしたか、その惨めなありさまを、つぶさに見とどけていた。
淀君が泣き叫んで、
「ただの一万石でもよい。右大臣(秀頼)を生きさせて欲しい!」
と、大野修理にすがりついて、家康への使者を命じたり、また、秀頼が、
「高野山へのぼって、剃髪するゆえ、たのむ!」
と、家康の使者安藤対馬守と近藤石見の前に、両手をつかえたりした挙句、井伊|掃部助《かもんのすけ》直孝によって、
「切腹申しつける」
という口上があるや、母と子は抱きあって、もだえ哭《な》いたものであった。
十歳の少年は、その光景を目撃して、見苦しい、と感じたことだった。
木村助九郎は、自分の長屋へ、弥五郎をともなうと、酒をすすめ乍ら、
「けなげであったのう、あの時のお主は――」
と、云った。
その言葉が、弥五郎に、はっと、一人の武者の姿を思い出させた。
淀君と秀頼が、血海の中に仆《たお》れ伏すのを見とどけて、護衛の将士、女中たちも、つぎつぎと自決したが、弥五郎もまた、当然、自分も死なねばならぬと覚悟して、片袖をちぎり取って、短剣を巻き、衣服の前を押しくつろげたのであった。
その時、一人の武者が、奔《はし》り込んで来て、
「わっぱのぶんざいで、小ざかしい振舞いをするな!」
呶鳴りつけ、太刀を一閃させた。
弥五郎の右手から、短剣は、はねとばされた。
弥五郎の記憶は、それきり絶えてしまっていた。
意識をとりもどしたのは、雑木林の中であった。
「それがしを、大坂城から救い出して下されたのは、お手前でしたか」
弥五郎は、あらためて、まじまじと、助九郎を、瞶《みつ》めた。
「もし、平常時に、お主と出会ったのであれば、おもかげをみとめることは、できかねたな。切腹しようとした顔は、少年乍ら、あっぱれ、ひきしまったものであった。おかげで、お主が、一心斎と立合っているのを眺めて、すぐ思い出した」
「御厚志のほど……、あらためて、お礼申し上げます」
弥五郎は、頭を下げた。
「礼を云われるのは、まだ早いようだな。……一心斎は、お主の顔を、凶相と看たらしい。お主がもし悲惨な死にざまをさらすようなことがあれば、あの時、花と散っていた方が、幸せであった、ということになる。人生というものは、長く生きた方が、幸せとは限らぬからな。そうではあるまいか」
助九郎は、ぐいぐいと、酒を飲んだ。
弥五郎は、微笑して、
「それがしは、たぶん、老醜をさらすことにはなるまい、と存じます」
「どうしてだ?」
「覇気があるからです。この覇気は、太平の時世では、おのれをほろぼすおそれがあります。左様、お手前の申されるように、悲惨な死にざまをさらすことに相成るやも知れません。しかし、十歳のあの時、お手前のおかげで、生きのこったのは、やはり、有難かった。おのれの力をためすことができるのですから――」
「おのれの力をためす、か」
助九郎は、宙へ双眸を据えたが、ふふんと自嘲の薄ら笑いをした。
「人間という奴、二間を跳ぶことは、修業次第でやれぬことはないが、五間を跳ぶことは絶対にできぬ。なさけない生きものよ」
[#改ページ]
女 丈 夫
一
「さあさあ、お立ちあい、とくときいてもらおう。胸中に鱗甲《りんこう》あり、とは三国志の言葉だが、すなわち、人間には、必ず人と相争う心がある、という意味だ。しかし、天下に和平がめぐって来ると、人間それぞれ小利巧になり、殺生八分の損、見るは十分の損、風波を起すのを、避けるようになる。死ねば死損、生くれば生得《いきどく》、死んで花実が咲くものか、という料簡が、お手前ら見物衆の顔に現れて居る。……ほれ、そこのご老人など、傍杖《そばづえ》くらうのさえ、まっぴらだ、という顔つきだ。……それも、よし。一擲《いつてき》、乾坤《けんこん》を賭す戦乱の世は、遠く去った。生命あっての物種というご時世とも相成れば、敢えて喧嘩を買おうなどというこんたんがあって、こうして人垣を築かせたのではない。泥を打てば面《おもて》にはねる。人を謀《はか》れば、人に謀らる。左様な害心は、いささかみじんもない。危険は常に当方にのみあって、立ち向って来るお手前がたを、秋毫《しゆうごう》も害《そこな》うところはない。すなわち、ここにそろえた十本の手裏剣を、ひと打ち十文で買ってもらう。これを防ぐのは、これにある海内無雙《かいだいむそう》の槍術の達人丸橋忠弥盛任」
得意の弁舌をふるい乍ら、金井半兵衛は、遠巻きにした見物人百人あまりを眺めやって、
――かかって来そうな奴は、一人か二人だな。
と、看てとった。
ここは、日本橋南詰東側の晒場《さらしば》であった。
当時は、晒し刑に処せられる罪人は、毎日あるわけではなく、空地のままになっている日が多かった。
この空地を利用して、銭集めをやろうと思いついたのは、金井半兵衛であった。
十歩を置いて、手裏剣を投げさせ、これを、丸橋忠弥が、払う。もし、手裏剣が、忠弥の五体のどこからか、血を流させたならば、十両を進呈。袖なり袴を縫うことができたならば、一両を進呈。
十本ことごとく、払い落されても、わずか、百文の損である。
見事、忠弥の心の臓を貫いてみせたならば、百両を進呈。
「人を殺して人を安んずれば、之を殺すも可なり、と司馬法にも記されてあるところ。ごらんの通り、この敝衣蓬髪《へいいがつそう》、長髯《ちょうぜん》の宝蔵院流の達人は、生きている限り、真剣の勝負をつづけ、立ち合えば必ず勝ち、あの世へ送る人命の数は、おびただしきものと相成ろう。されば、本日この時、見物衆のうちに、この巨漢を仕止めることに成功する御仁があれば、まさに、司馬法の教える通り、人を殺して人を安んずれば、之を殺すも可なり、という次第。われと思わん御仁は、十本の手裏剣を買われい」
――半兵衛の奴、勝手な口上をほざく。
忠弥は、罪人に代りおのれが晒されている不快さに、憮然たる表情になっていた。
「よおし! おれが、百両頂きだぞ」
一番はじめに、名のりをあげたのは、黒木綿の裾を高く腰に巻きつけ、足くびまでの長羽織をつけた、八字髭の町奴であった。
金井半兵衛は、笑い乍ら、
「お手前が、最初の挑戦者になるのではあるまいかと、見て居り申した」
と、ひらいた鉄扇に、十本の手裏剣をのせて、さし出した。
百文とひきかえに、それをつかみ取った町奴は、
「宝蔵院流の使い手だが、なんだか知らねえが、この唐犬権兵衛はな、餓鬼の頃から、竹槍を投げつけて、狂い犬を仕止めてきたえあげた腕前を持っているんだぜ。覚悟は、いいだろうな」
と、忠弥を睨みすえた。
「はっはっは……、お主のような男でなければ、この勝負、面白うならぬ」
忠弥は、こたえた。
「ほざいたな! ゆくぜ!」
唐犬権兵衛と名のる若い町奴は、右手に一本、手裏剣をつかむや、頭上へたかだかと、かざした。
その身構えは、たしかに、習練されたものだった。
忠弥は、穂先の代用とした降三世明王を地摺りにとって、待つ。
見物の群は、固唾《かたず》をのんだ。
「なんだ? 鋸挽きか?」
「ちがうぞ。敵討ちじゃねえのか?」
「敵討ちだと?」
橋を渡って来た者、渡ろうとしかかった者が、どっと殺到して、人垣が大ゆれにゆれた。
馬で通りかかったどこかの大名の留守居らしい武士も、たづなをひいて、停ったし、御忍駕籠の行列も通り過ぎるのを止めて、
「見分しますぞ」
と云って、三十半ばの、旗本大身の奥方とみえる婦人が、供の者に、草履をそろえさせて、立ち出た。
二
「やあっ!」
唐犬権兵衛は、狙う時間を充分とって、びゅっと投げつけた。
忠弥は、その手裏剣を、苦もなく、空へ高くはじきとばした。
「まず、一本は仕損じたり」
半兵衛が、そう云い乍《なが》ら、落ちて来た手裏剣を、受けとめた。
「野郎っ!」
権兵衛は、二本目、三本目、四本目、五本目と、矢つぎ早やに、投げた。
忠弥は、悠々たる槍さばきをみせて、あるいは、打ち落し、あるいは、はじきとばし、決して身をかわして後方へ飛ばすことをしなかった。
権兵衛の放った十本は、ことごとく、半兵衛の手に、もどってしまった。
「ちえっ、くそ! おい、もう一度やらせろい!」
権兵衛は、くやしさに、眦《まなじり》 をひきつらせて、叫んだ。
「この上、未熟を披露することはあるまい。次は、どなたかな?」
半兵衛は、人垣のむこうにいる馬上の武士を、指さして、
「貴殿は、いかがだな?」
と、云った。
武士は、顔をそ向けると、馬を進めて、行ってしまった。
「さあ、お立ちあい! われこそ、と思う御仁は、居らぬのか?」
半兵衛は、鉄扇へ手裏剣をのせて、人垣の前を、巡《めぐ》り歩いた。
「わたくしが、こころみましょうぞ」
応えたのは、御忍駕籠から立ち出て、見物していた旗本大身の奥方であった。
「これは、これは、ご婦人がおやり下さるとは、見物衆にとっても、目の馳走でござる。光栄ついでに、こなた様は、いずれの夫人か、ご尊名のほどをおうかがいしとうござる」
「わたくしは、旗本白柄組頭領水野出雲守成貞が妻でありまする」
その言葉をきいて、見物人は、どっとどよめいた。
白柄組の名は、府内に鳴りひびいていたし、その領袖水野成貞の野晒模様の羽織をまとった異様な風体を、見かけた者も、人垣の中にはかなりいたのである。
いや、そればかりか、水野成貞の妻であるこの女性《によしよう》の素姓を知っている者も、いた。
「あれは、おめえ、阿波二十五万石蜂須賀様のお姫様だったおかただぜ」
隣の連れに、教えた。
「ほんとか、おい、それァ――」
「おいらの兄貴が、蜂須賀様のお屋敷に奉公していたんだ。……当時評判の伊達者の水野出雲守様が、|きおい《ヽヽヽ》姿で、蜂須賀様のお屋敷前を通りかかったのを、ご当主の姉君にあたるあのおかたが、屋敷内から、見そめて、恋わずらいした挙句、首尾よく輿入れされたのだ。もう十四五年前のことになるかのう。……旗本奴の伊達者に惚れて、二十五万石の大名の家から、三千石の水野家へ嫁に行くほどの女子だからな、ただの勝気じゃねえやな」
「へええ! こいつは、また、|ごうぎ《ヽヽヽ》な手裏剣打ちが現れたものだ」
(むほう)の代表者の妻らしく、水野成貞の妻|百代《ももよ》は、供の者に百文支払わせて、手裏剣を受けとらせた。
双手に一本ずつ、つかんだ百代は、
「参りますぞ!」
忠弥を、|きっ《ヽヽ》と見据えた。顔の造作も大きく、身丈もあり、いかにも、凜乎《りんこ》たる女丈夫であった。
忠弥は、唐犬権兵衛に対した時と同じ構えをみせていたが、並はずれて勝気らしい白柄組領袖の妻が、二本を同時に、打ち放して来ると知ると、ゆっくりと、地摺りから上段へ移した。
百代は、双手を胸前で交叉させる構えをとった。
これは、忍び構えといい、曲者が迫り寄った時など、物蔭にひそんでいて、不意に、攻撃する女人手裏剣であった。
一本は顔面を、一本は腹部を狙って、同時に放つのである。
なまじの修業では、身に備わらぬ業《わざ》であった。百代には、充分の自信があると思われた。
「えいっ!」
二本の手裏剣が、宙を截《き》って、忠弥を襲った。
刹那――。
九尺柄の槍が、風車のように、旋回した。
手裏剣が、どこへはじきとばされたか、見物人はもとより、打ち放った百代自身にも、わからなかった。
忠弥は、平然として、槍を立てている。
半兵衛が、笑い乍ら、
「出雲守奥方、袂と裾をごらん頂こう」
と、云った。
はっとなって、百代が、視線を落すと、一本は袂を、一本は裾を縫っていた。
百代は憤然となり、見物人は、手を拍《う》ったり、とびあがったりして、はやしたてた。
顔面から血の気を引かせた百代は、供の者の手から、手裏剣二本をひったくると、
「もう一度、参るぞ!」
と、柳眉《りゆうび》をつりあげた。
その時――。
「母上っ! 母上っ!」
そう呼んで、人垣をかきわけて、出て来たのは、熨斗目《のしめ》姿の、前髪立ちの少年であった。
「母上、お止《や》めなされ。はしたない振舞いでござるぞ」
少年は、出雲守成貞の嫡男百助であった。後の十郎左衛門成之である。
「百助、止めだてしなさるな。このままで、ひきさがるのは、水野家の恥になりまする!」
「それならば、母上に代って、拙者がつかまつる」
十四歳の少年は、いきなり、母の手から二本、供の者の手から、のこり六本を、つかみ取ると、構えもみせず、その手裏剣全部を、忠弥めがけて、ぱっと、投げつけた。
忠弥は、立てていた槍を、かるくびゅんとひと振りしただけで、八本ことごとく、地面へ落した。
三
水野家母子が去り、見物人が散った時、忠弥はいまいましげに、
「たった二百文かせぐために、乞食芸人のように、おれの槍術を大道で売らねばならんとは、なんのために、江戸へ出て来たのか」
と、云った。
「まさに、その通りだな」
すこしはなれた常夜燈のかたわらから、編笠をかぶった浪人者が、こたえた。
半兵衛が、一瞥して、
「お――弥五郎か」
と、声をあげた。
いくばくかののち、三人の仲間は、馬喰町のうすぎたない旅籠の二階に、いた。
弥五郎は、半兵衛と忠弥の顔を見くらべて薄ら笑い乍ら、
「噂によれば、お主らは、首尾よく、箱根山中で、久能山から運ばれて来た天正判金を、二箱か三箱、掠奪したらしいが、それにしては、大道芸を披露して、小銭かせぎをしているとは、どういうのだ?」
と、訊ねた。
「松平伊豆守にしてやられた。箱に詰められていたのは、黄金ではなく、銅《あかがね》であった」
「贋判金だったと? やはり、そうであったか」
弥五郎は、うなずいた。
「弥五郎、駿府大御所(家康)は、曲者であったぞ。大坂城から運んで来た荷駄三百頭の判金・法馬を、贋にすりかえておいたのだ。松平伊豆は、久能山へ行ってみて、それが贋と知りつつ、大層な警備をつけて、江戸へ運んできたという次第だ。つまり、幕府自身、江戸城完成のためには、徳川家|備金《そなえきん》を惜しげもなく使う、とみせかけて、諸大名に、自家の出費もやむを得ぬ、と納得させる小細工だったのだな」
「すると、お主も、本物は、駿府のどこかに、かくしてある、と推測するわけだな?」
「そうだ。そのことを知っているのは、亡くなった江戸大御所(秀忠)と駿河大納言の二人だけに、相違ない。……将軍家は、久能山所蔵の金銀欲しさに、実弟を所領没収、配流にしたが、どっこい、棚からぼた餅というわけには参らなんだようだ」
「それが事実とすれば、その莫大な軍用金は、地下でねむりつづけることになるな」
「そうだ。松平伊豆が、どんな策をめぐらし、駿河大納言に吐かせようと計っても、大納言は、口をひらくまい」
弥五郎は、腕を組んだ。
師丈山の言葉が、脳裡によみがえっていた。
「弥五郎、人間とは、まことにあさましいものよ。……天下人となった徳川家康には、金がなかった。一大名になり下った豊臣秀頼には、金があった。そこで、貧乏な天下人は、富有な一大名を滅して、その金を奪うことにした。大坂の役とは、それだけの話であったのだ」
そして、丈山は、松平伊豆守の宰領の下に、久能山の金銀が江戸に運ばれている、ときくと、
「面妖《おか》しいな」
と、首をかしげ、大坂城から奪いあげた金銀は二分されて、江戸と駿府に所蔵され、江戸城所蔵の分だけでも莫大な額であるゆえ、久能山所蔵の分に手をつけなければならぬ事態に、たちいたっていないはずだ、と云い、
「松平伊豆守が運んで居るのは、たぶん、贋金であろう」
と、推測したものであった。
その推測は、やはり、正しかった。
丈山の推測と半兵衛の意見は、ぴたりと一致しているのであった。
弥五郎は、その時、丈山に向って、駿府に所蔵されているとすれば、城内のどのあたりか、それとも、城外とするならば、何処であろうか、見当をつけて頂きたい、と迫った。
しかし、丈山は、それにこたえてはくれなかった。
「どうだ、弥五郎、われわれが、ただの素浪人でおわらぬためには、駿府にかくされた金銀を、奪うという大志を樹《た》てるべきだぞ」
半兵衛が、云った。
「………」
弥五郎は、沈黙していたが、その脳裡に思い泛《うか》べていたのは、紀州頼宣の姿であった。
紀州頼宣は、慶長十五年から元和五年まで――九歳から十七歳まで、駿河・遠江・東三河五十万石の領主となっていた。居城は、浜松城であったが、家康に寵愛されて、一年のうち半分は、駿府城ですごしていた、という。
家康が、大坂城から豊臣家財宝を、駿府へ運んできた時、頼宣は、駿府城にいたかも知れぬ。
その翌年、家康が逝くや、頼宣は、浜松城から駿府城へ、移って来ている。
――もし、紀州家当主が、所蔵場所を知っているとすれば?
師丈山が、紀州家に随身したらどうだ、とすすめてくれたのは、重大な暗示になるのではあるまいか。
[#改ページ]
闇 の 耳
一
――成程、松平伊豆守という男、噂以上の器量の持主とみえる。
松平邸の表屋敷から奥の広敷《ひろしき》へ、天井裏の闇の中を、音もなく身を移して行く者が、胸の裡で、独語をもらしていた。
名張の夜兵衛であった。
表屋敷の書院をはじめ、覗《のぞ》き下したどの部屋も、装飾となるものは、何ひとつ見当らないのであった。
家臣の詰める溜《たまり》など、荒壁であった。
夜兵衛の見知っている限り、これほど質素な屋敷は、またとなかった。
大名屋敷が、華麗を競うた時代であった。
十万石以上の邸第ともなると、表門はいずれも二階乃至三階の楼門構えで、軒瓦の紋所には、金箔を貼り、門扉には後藤彫《ごとうぼり》など花卉禽獣《かききんじゆう》を浮きたたせていた。徳川家一門はじめ、大大名ともなると、将軍家を迎える御成門を設け、その華麗さは、目をそばだたせた。
例えば、会津蒲生氏の御成門は、寛永元年に、将軍家光の御成りに備えて設けたもので、柱には金で藤花を鏤《ちりば》め、扉には仙人阿羅漢の像をきざんで、その精緻はさながら蒔絵《まきえ》であった。その評判の高さに、終日、門前に見物人が群をなしたので、日暮門《ひぐらしもん》と称《よ》ばれていた。
国に城を持たぬ小大名でも、江戸屋敷には思いきって、金をかけていた。
いずれも、桃山式建築様式を用いて、欄柱は多く黒漆を塗り、天井、欄間、襖、屏風などには、金銀の極彩色をほどこし、名工の彫刻、著名な画家の絵を自慢にした。
床の間の書画に、千金を投ずるのは、常識であったし、その下には名器の銅燈を置き、絶えず蘭麝《らんじや》の芳香をくゆらせた。
茶道を最高の趣味とする風潮は、桃山時代からそのまま受け継がれていたので、室内装飾に数寄をつくすのは、当然であった。
いずれの部屋も、上中下もしくは上下の両三室に区分し、各間数十畳を敷いた構造であってみれば、その装飾に費した金子の額は、莫大なものとなった。
さらに、建物にふさわしい庭園をつくることになり、泉水、巨岩、喬木《きようぼく》の配置のために、国庫の備金は湯水のように失われていた。
蒲生家の庭園は、家光に、
「この幽邃《ゆうすい》の趣は、まるで深山だの」
と称させたし、本郷前田家のそれもまた、寛永中に成ったが、三百年後まで、その規模の宏大を残したし、小石川水戸家の後楽園は、現代の人にも、一度は、足をはこばせている。
ただ一家《いつけ》――松平伊豆守信綱の屋敷だけは、空家にひとしい簡素さであった。
広間も書院も、けばけばしい金銀の彫刻、絵画など全く見当らず、天井も柱もただ真白く、襖さえも薄墨の山水画で、統一されているだけであった。
庭は、白砂を敷きつめた平庭で、東南に帯を投げたように、一間幅の流れが、ゆるやかにうねっているばかりであった。
いま――。
夜兵衛が、覗き下す伊豆守の居間は、ただの杉戸がたてまわされていて、据えられているものといえば、経几《きようぎ》ただひとつであった。屏風すらも置かれてはいなかった。
この質素なくらしぶりは、伊豆守信綱一人の思慮ではなく、亡父の遺訓にしたがったもののようであった。
亡父大河内右衛門大夫正綱は、正しくは、信綱の伯父であった。
大河内正綱は、十七歳より家康に仕え、関ヶ原役にも大坂陣にも、戦功があったが、武人であるよりも、経理の吏として、非常な才能をそなえた人物であった。
秀忠が二代将軍になった頃より、その職責に就き、家光が三代を襲うた時には、財政を一手にあずかって、ただの一事もあやまちを犯さなかった。
家光時代までは、勘定奉行というものはなかった。大河内正綱が、財政の責任者として、十余年間、その職務を全うしたのである。
正綱が、ようやく老いて、その重任に堪えられなくなり、閣老に相談して、勘定頭を設け、伊原半十郎忠治、杉浦内蔵允正友、酒井紀伊守忠吉の三人を、それに任じたのであった。
正綱は、幕府財政を一手にとりしきる上は、李下《りか》に冠を正さずという心掛けを忘れず、日常のくらしぶりを簡素の上にも簡素にし、妻さえもめとらなかった。
信綱は、正綱の弟金兵衛久綱の子であった。
幼名長四郎といった信綱に対する養父正綱の教育は、厳格をきわめ、長四郎は能《よ》くそれに応えたのである。
二
ひとつの逸話が、のこっている。
ある宵――。
将軍秀忠が、夫人となにごとやら、しずかに語らっている折、突然、庭さきへ、激しい勢いで何かが落ちる音が、ひびいた。
元和偃武《げんなえんぶ》とはいえ、亡家の残党が江戸城へ忍び込んで来るおそれは、多分にあった。
秀忠は、とっさに、側の刀をつかんで、外の様子に、耳をすました。
べつに、怪しい気配もなかったが、秀忠は、こころみに、夫人に燭台をかかげさせて、障子をひき開けてみた。
月の明るい宵であったので、遠くまで見渡せた。怪しい影は、みとめられなかった。
秀忠は、念のため、物音をききつけて奔《はし》って来た女中たちに、庭を調べさせた。
大奥の坪庭《つぼにわ》は、火除けと曲者に身をかくさせぬ目的があったので、小松を配しているだけであり、調べに手間どらなかった。
その物音は、屋根の廂《ひさし》から、銅《かね》の箱樋《はことゆ》が堕《お》ちたものであることが、判明した。
「危《あや》うかったな。人の頭に落ちたならば、怪我をするところであった」
そう云い乍《なが》ら、秀忠が、部屋に戻ろうとした時、まだ庭にいた女中の一人が、
「曲者!」
と、叫んだ。
巨きな沓《くつ》石の蔭にひそんでいる者を、発見したのであった。
匍《は》い出て来たのは、少年であった。
燭台をさしつけられると、それは、竹千代(家光)の扈従《こしよう》大河内長四郎であった。
秀忠は、かねがね、この賢《かしこ》く謙虚な少年が、竹千代にとって将来かけがえのない股肱《ここう》になるであろうと考えていた。
「長四郎、なにがゆえの存念で、縁の下にひそんで居った?」
秀忠の下問に対して、きわめて平凡な返答が、かえって来た。
「お屋根に、雀が巣をつくり、可愛らしい雛《ひな》が孵《かえ》って居るのを眺めて居りますうちに、是非とも欲しゅうなり、穫《と》りにあがりましたところ、あやまって、箱樋の釣《つり》が切れて、落ちたのでございまする。何卒《なにとぞ》お許したまわりますよう――」
それをきいて、夫人は、すぐに、――さては、と思い、
「そもじに、そのようなあぶないことをさせたのは、竹千代であろう。きっと、そうであろう」
と、云った。
すると、長四郎は、口ごもりもせず、
「いえ、決して、若君様の御用ではござりませぬ。わたくしが、欲しゅうて、手飼いにいたしたく、獲りに上りました」
秀忠は、長四郎の態度を、じっと見まもっていたが、
「長四郎、参れ」
座敷へ上げると、
「あらためて、もう一度、尋ねるぞ。竹千代に命じられたのではないのだな?」
と、念を押した。
「はい」
「十歳を越えたばかりの年で、強情者よ。小ざかしゅう、忠義面をしてみせるのが、小面憎い、真実《まこと》を云わしてくれようぞ」
秀忠は、侍臣を呼んで、大きな麻袋を持参させると、その中へ長四郎を突き込み、口を閉じ、柱へ吊した。
朝を迎えて、秀忠は、朝餉《あさげ》を摂り了えてから、もう一度、
「真実を申せ」
と、促した。
袋の中からは、同じ返答しか、かえって来なかった。
秀忠は、そのまま、政務をとりに、表御殿へ出て行った。
夫人は、午《ひる》になると、女中どもに袋をおろさせて、口を開き、握り飯を与えてから、元通りに、柱へ吊しておいた。
暮れがた大奥へ戻って来た秀忠は、長四郎を袋から出して、三度び、白状するように迫った。
長四郎は、頑として、前言をひるがえそうとはしなかった。
秀忠は、
「されば、人をさわがせた罪により、手討ちにいたすよりほかはあるまいの」
と、刀を把《と》った。
夫人が、あわてて、それはあまりにふびんゆえ、このたびだけはお許しを、ととりなして、長四郎は、ようやく、許された。
長四郎が、退出したあとで、秀忠は、笑い乍ら、
「竹千代は、よい家来を持ったの」
と、云ったことだった。
三
夜兵衛は、伊豆守が下城して来て、その居間に入るまで、一|刻《とき》以上を待たなければならなかった。
伊豆守は、養父にならったわけでもあるまいが、まだ妻帯せず、側室も置いてはいなかった。
まだ十二三歳の可愛らしい召使いに、裃《かみしも》 と袴をたたませておいて、すぐに、経几に向って、坐った。
几上《きじよう》には、日誌が置いてあった。
その日誌は、すでに、夜兵衛が忍び降りて、ぬすみ読んでいた。しかし、夜兵衛が求める手がかりは、その中には、記されてはいなかった。すくなくとも、夜兵衛を、これだと北叟笑《ほくそえ》ませる文章は、見当らなかったのである。
伊豆守は、筆を把ると、当日の出来事を、簡潔に、したためた。
――伊豆守という男、日誌にも、人にさとられてはならぬことは、記録せぬのか?
記されてあるのは、ことごとく、将軍家光に関することだけだったのである。
この日の項も、今年四月十七日、家康の第十七回神忌に、家光が日光東照宮に参詣した際、古河観音寺に於て、古河城主永井信濃守尚政より、昼食の饗応があったが、今日、家光が思い出して、
「あの昼食の山女《やまめ》はうまかった」
と、云った――そのことを記しただけである。
召使いの少女が、夕餉の膳をはこんで来て、伊豆守は箸を把った。
一汁一菜のきわめて粗末な夕餉であった。
少女は、給仕をせずに、すぐしりぞいて行った。
――これから、十日も、この天井裏にひそんでいることになろうか?
夜兵衛は、自分に云い聞かせていた。
伊豆守が、箸を置いて、湯呑みを手にした時であった。
「入りまする」
次の間から、杉戸をへだてて、呼びかけた者があった。
「うむ」
入って来たのは、股肱の用人志村源八郎であった。旅装のままであった。
「もどったか」
伊豆守は、源八郎を、冷たく視た。
「大納言卿には、極度の鬱病にお罹《かか》りあそばされているとお見受けいたしました」
源八郎は、まず、そう報告した。
主人の密命を受けて、源八郎は、上野国高崎へ行って来たのである。
駿河大納言忠長が配流《はいる》されているところであった。
「およそ、そうであろうか、と察して居ったが、姫君に逢えば、心もなごむかと思うたが……」
「それが、大納言卿には、姫君に、逢おうとなさいませぬ」
「なに?」
伊豆守の顔で、はじめて、表情が動いた。
「逢おうとせぬ、と?」
「はい。……どうしても、逢おうとなさいませぬ」
身柄あずかり主の高崎城主安藤重長が、じきじきに、忠長の蟄居《ちつきよ》宅へおもむいて、京都からはるばる九条明子が、逢いに来た旨を告げて、ご自由に同居なさるように、とすすめたが、
「逢いとうない」
と、頑として、しりぞけた、という。
伊豆守は、宙へ眼眸《まなざし》を置いた。
伊豆守の脳裡には、忠長との最後の会話の場面が、よみがえった。
「伊豆――、そちは、女人を愛したことがあるか? あるまいな」
「ございませぬ」
「わたしには、ある。いまも恋して居る。しかし、そちが参ったことによって、この恋は、破れた」
「いずれのどなたか、お打明け下さいますれば……」
「配所まで、連れて来る、と申すか。……伊豆! わしにも、武士の誇りがあるぞ! このわしに、罪なくして配所の月を眺めさせておいて、伴侶を与える慈悲心を持つとは、笑止! 去《い》ね!」
そう呶鳴った忠長の形相は、凄じいものであった。
「大納言卿は、姫君を逢わせようとしたのは、わしのはからい、と看て取られたな」
長い沈黙ののち、伊豆守は、云った。
源八郎は、じっと、主人の顔を見まもっている。
「わしのはからい、と看て取ったならば、逢わぬ、と意地を張られるのではあるまいか、という予感もなくはなかった。しかし、結局は、恋する女子を、そばに置かれぬはずはない、と考えたのだが……」
九条明子が、高崎へ着いてから、すでに、三月経っているのであった。
「わしの考えが、甘かったようだ」
「年があらたまりますれば、あるいは、大納言卿も、お気持が変るやも知れませぬ」
「変るまい」
伊豆守は、冷たい語気で、云った。
「わしは、あのおかたのご気象を、いささか、観《み》そこねたらしい」
「もし、お逢いなさらぬ、と相成りますと――?」
源八郎は、不安な表情になった。
伊豆守は、また、しばらく、沈黙を置いた。
やがて、一言、
「自決だな」
と、呟くように、云った。
「自決? 大納言卿が、自決あそばすと、仰せられますか?」
「鬱病の果ては、それ以外の道はない」
「………」
源八郎は、息をのんだ。
天井裏で、きき耳をたてている夜兵衛も、伊豆守の次の言葉を待って、固唾をのんでいた。
[#改ページ]
高 崎 へ
一
「うっ! 寒い! この上州|空風《からつかぜ》というやつ、武蔵野の木枯しよりも、肌身にこたえるのう」
まっ向から吹きつけて来る北|颪《おろし》に、金井半兵衛は、胴ぶるいすると、耳朶がちぎれるようだ、と云って、鼠色の布で、頬かぶりをした。
肩を竝《なら》べて行く丸橋忠弥の方は、寒気などなにも感じない面がまえで、まっすぐ宙を睨みつけていたが、
「どうも判らん!」
と、云った。
「なにが判らんのだ?」
「弥五郎の存念が、さっぱり判らん。……半兵衛、お主には、判って居るのか?」
上野国高崎へ行き、ひそかに、駿河大納言忠長を説いて、幽居から脱出させ、駿府城を奪って、江戸城の幕府と覇を争わせようではないか、と途方もない企図が為《な》されたのは、三日前、馬喰町のうすぎたない旅籠の二階に於てであった。
云い出したのは、半兵衛であり、忠弥がすぐに、
「面白い!」
と、賛成した。
しかし、弥五郎は、乗らなかったのである。
半兵衛自身、云い出した時には、
――この陰謀は、夢想に近いな。
と、思ったものであった。
しかし、しゃべっているうちに、しだいに、実現可能の自信らしいものが、脳裡に湧いて来たのである。そうなると、半兵衛という男の想像力は、大鵬《おおとり》の翼のように、ひろがるのであった。
「……駿府大御所が、遺訓して居る。武を以て天下は取るべし、武を以て天下は治むべからず。幕府は、これを祖法として、天下が徳川家のものになったいまは、武より文治の方針をとって居る。儒学の奨励、制度典章の制度、行儀作法の実行。……そこが、われわれのつけめだ。元和偃武を経て、この寛永も九年が過ぎると、すべての大名は、おのが家を守ることに|汲 々《きゆうきゆう》として居る。高材逸足は、その力を展《の》べる機会は、全くない、……五十年前ならば、槍先の功名で、一国一城のあるじになる夢も可能であった。同胞同士の闘いがいやならば、倭寇《わこう》となって海の彼方の国に、雄図をこころみることもできた。
伊達政宗ほどの人物が、
馬上少年過ぐ
時|平《たいら》かにして白髪多し
残躯天の許すところ
楽まずして如何せん
などと吟じて、腰抜けぶりを示して居るのだ。
この天下泰平こそ、われわれは、逆手にとって、絶対不動の権勢を確立したかとみえる江戸城の幕府を、ゆさぶる好機と、みなすことができるのだ。
まず――。
天下にあふれた浪人者の数が、どれくらいか、およそ計算しただけでも、二十万は下るまい。
大坂役前に改易された大名の数のおびただしさは、云うまでもないが、大坂役後に改易された大大名だけでも、かぞえてみると――。
元和二年に松平忠輝・四十五万石。
元和五年に福島正則・四十九万八千石。
元和六年には、田中忠正・三十二万五千石。
元和八年、最上義俊・五十七万石。
同年には、本多正純までが十五万五千石を、失った。
元利九年には、松平忠直・六十七万石。
この寛永になってからは、四年正月に蒲生忠郷・六十万石。
今年に入ってからも、六月には加藤忠広・五十二万石。そして、この秋には、駿河大納言までが、五十五万石を奪い上げられたのだ。これから、まだまだ、どれくらいの大名が、領地を失うか知れぬ。主家を喪《うしな》った武士のうち、他家に随身できた者は、おそらく一割にも足りまい。
さらにだ。
三河譜代の旗本は、父祖の功に対して、その禄高知行は、むくいられるところあまりにすくなく、幕府枢要の座に就くことは、許されず、その不平不満が、江戸府内にあふれて居る。旗本奴と称して、無性やたらに市中をあばれまわって、わずかに、うさばらしをして居る現状が、旗本どもの不平不満ぶりを実証して居る。
この罅隙《かげき》に乗じて、われわれは、起つのだ。仰ぐべき主人はいる。将軍家実弟だ。つかむべき軍用金は、駿府のどこかに、山とねむって居る。
駿河大納言を頭領に奉じて、無尽蔵の豊臣家遺金を使って、旗本八万騎ならびに二十万の浪人を糾合《きゆうごう》すれば、壮図は必ず成る!」
この滔々《とうとう》たる弁舌に対して、忠弥は五体の血汐をたぎらせたが、弥五郎の冷たい態度は、いささかも変らなかったのである。
二
「半兵衛――、弥五郎を除いては、この壮挙は、成らんぞ。あいつ、どうして、賛同しなかったのだ?」
二人は、もうすでに、高崎まで八里の深谷宿へ入る行人橋を渡っていた。
「まあ待て。ともかく、からだをあたためてからだ」
半兵衛は、橋袂の腰掛け茶屋へ入ると、洒を注文した。
客といえば、奥の片隅には、善光寺詣でらしい巡礼の老爺《ろうや》が一人、甘酒をすすっているだけで、半兵衛も忠弥も、べつに気にもとめなかった。
「あいつは、海賊船七隻を持った明国人と知り合って、紀州邸へ行った、と話していたな。……明国人は、たしか、鄭芝龍といった」
半兵衛は、はこばれた茶碗酒を、ひと息に飲み干してから、云った。
「それが、どうした?」
「弥五郎の目は、海のむこうへ、向けられているのかも知れん」
「さては、その、鄭なんとかいう明国人に、誘われたか?」
「誘われて、心を動かす奴ではないが、鄭芝龍の話をきいて居るうちに、なにやら、思案したに相違ない」
「たとえば、その海賊船七隻を奪って、倭寇になるとかか?」
「うむ」
「そう思案したならば、おれたち仲間を誘うだろ?」
「あいつは、友人といえども、心中を割って、本音を吐かぬ奴だ。いよいよとなって、はじめて、打明ける奴だ」
「海賊船を七隻も奪うには、人数が必要だろう。腕の立つ者を――旗本でも浪人者でも、五百人や千人は、集めねばならんだろう。先立つのは、軍資金だ。当然、駿府にかくされた太閤遺金を手に入れるお主の計略に、賛成すべきではないか?」
「われわれに、やらせてみて、それから、おもむろに腰を上げる肚だろうな、おそらく――」
「水くさい奴だ! あいつ、もはや、友人ではないぞ! われわれが失敗すれば、知らん顔をするつもりだな。成功すれば、のこのこ、現れて、かしら面でもするつもりか、くそ!」
「忠弥――。人間という奴は、前後左右からの、観かたによって、全くちがったものに目に映る。由比弥五郎は、あるいは、もしかすれば、われわれ二人よりは、ひとまわり器が大きいのかも知れん。……そうだ。あいつの師は、たしか、丈山・石川嘉右衛門重之だ。大坂役に於ける屈指の殊勲者であり乍ら、自らその地位をすてて、主君家康にそむいた人物だ。軍略、経綸――ふたつの才をあわせ備えた当代まれにみる傑物に、弥五郎が、どのような訓導を受けたか――あいつ、一度も、われわれにもらしたことはないが……」
「天下を取る智謀でもさずけられた、というのか?」
「いずれにしても――」
半兵衛は、拳《こぶし》で、どしんと叩いた。
「われわれは、やりとげなければならん! この金井半兵衛が、懸河《けんが》の弁をふるって、駿河大納言を、説き伏せて、起たせてくれるのだ」
半兵衛と忠弥が、床几《しようぎ》から立って、出て行こうとした時、それまで、終始|俯向《うつむ》いて、動かなかった老巡礼が、はじめて、顔をあげると、二人の後姿へ、視線を送った。
その鋭い眼光は、名張の夜兵衛のものであった。
――あの浪人どもも、大坂城から運ばれた判金・法馬が、まだ駿府にかくされて在る、と知って居る!
夜兵衛は、小田原の装束屋敷から盗み出した千両箱の中身が、黄金ではなく、銅《あかがね》と知った時、松平伊豆守は、贋金は陸路をはこび、真物は海路をはこんだな、と推測したものであった。
しかし、江戸に入って、ひそかにさぐったところでは、どうもそういうけはいはなさそうであった。そこで、松平邸へ忍び込んで、伊豆守の居間を天井裏から覗き下したのである。その努力は、徒労ではなかった。
伊豆守の密命を受けた腹心の士が、帰着して、報告するのを、見とどけることができたのである。
伊豆守とその家臣との会話を、ぬすみぎきしているうちに、夜兵衛は、
――そうか! 金銀は、まだ、駿府に在るのだ!
と、さとったのである。
伊豆守は、一人の美しい姫君を、大納言忠長のそばへ送ったが、忠長がその姫君に逢おうとせぬ、と報告を受けて、珍しく苦渋の表情をつくった。
伊豆守が、将軍家実弟に同情して、その憂悶《ゆうもん》をなぐさめるべく、女性を一人、送ったのではないことは、明白であった。松平信綱は、そんな私情を動かす人物ではないのだ。|こんたん《ヽヽヽヽ》があって、その姫君を、送ったのである。
――大納言に、夜伽《よとぎ》の牀《とこ》の中で、金銀の在処《ありか》を、しゃべらせようという肚なのだ。
夜兵衛は、そうはさせぬぞ、と肚をきめて、江戸を出て来たのであった。
意外なことに、自分以外にも、そのことを知っている者がいたのである。自分と同じ目的を胸に抱いて、あの浪人者たちは、高崎をめざしている。
――そうか! あの男どもだな。箱根山中で、御用金行列を襲ったのは!
三
同じ日――。
柳生但馬守宗矩は、自邸の庭の片隅に、
『無刀庵』という額をかかげた草庵で、点前《てまえ》をしていた。
客は、荒木又右衛門であった。
又右衛門は、地紋に雲鶴のある茶碗を、前に置かれて、
「頂戴つかまつります」
と、作法正しく、把《と》り上げた。
但馬守は、冷たく冴えた眼眸で、茶を喫《の》む門下の逸足を、見まもった。
茶碗をかえされた時、但馬守は、
「又右衛門、道場の者が目撃した由だが、数日前、旗本奴に包囲されたが、お前は、刀を抜かずに、逃げたそうだな?」
「はい。逃げました」
「お前ほどの者が、衆人の見ている前で、逃げたとは――?」
「出府の途次、小田原の酒匂川|磧《かわら》にて、旗本衆と争いました際、松平伊豆守様のご出馬があり、府内に入ったならば、たとえ、旗本らがいかに挑みかかって参ろうとも、刀を抜くことは許さぬ、と命じられました」
「そうであったか。……旗本奴は、お前を、目の敵にいたして居る模様だな」
「御意《ぎよい》――」
「その顔で、白昼往来すれば、旗本奴の目にとまらぬはずはない」
「……――」
「お前は、どうしても、渡辺数馬に、河合又五郎を討たせたいか?」
「旧主のご無念を想いますれば、武士道の吟味を通さねばなりませぬ」
「河合又五郎が、渡辺源太夫を殺したのは、私《わたくし》事でない理由があった、ときいたぞ」
池田家と直参旗本が日毎に険悪な反目対立をみた挙句、池田家がはるばる運んで来た江戸城本丸玄関前石垣用の巨石を、旗本が割った――そのことが、このたびの騒動の遠因となっているのであった。
河合又五郎は、将軍家の衆道趣味を利用して、主君忠雄の寵童渡辺源太夫を、ひそかに、江戸城へ上げて、家光にじかに願わせて、再度運搬して来た巨石を、守ろうとしたのである。
又五郎の行動は、主家を思うあまりの一計であった。源太夫が、その申し入れを拒否したので、又五郎は、斬ったのである。
又右衛門は、師を、見かえして、
「身共が、郡山を去った日、同じく、槍術師範の河合甚左衛門も、致任《ちし》つかまつりました。甚左衛門は、又五郎の伯父にあたります。甚左衛門の方より、身共をたずねて参り、自身は又五郎の護衛をつとめるゆえ、仇討場に於て、相目見《あいまみ》えようと約束いたしました。……この敵討は、甚左衛門と身共との決闘にも相成ります」
と、云った。
但馬守は、遠くへ視線を投げて、
「では、止められまいな」
「必ず、数馬に助太刀して、又五郎を討ち果しまする」
又右衛門は、きっぱりと云った。
「お前ならば、やりとげるであろう。やるがよい。ただ――」
「は――?」
「又五郎を討ったあと、お前は、長生きはできまい」
「はい」
但馬守は、又右衛門を見まもった。
「お前が、数馬に又五郎を討たせて、剣名をあげれば、旗本奴の憎しみは、お前一個人に集中するだろう。お前は、生きのびるのぞみはない」
「やむを得ませぬ」
「又五郎は、すでに、この江戸には居らぬ。旗本奴らが、安藤四郎右衛門宅から、谷中の浄観寺に、又五郎の身柄を移したことは、道場の者が、すでにお前に教えたな」
「はい。しかし、浄観寺より、姿を消し、行方知れずになって居りました」
「本日、又五郎が、中仙道を行ったらしい、という情報が、もたらされた」
柳生道場は、一言にしてあかせば、家光が将軍職に就いた時から、日本全土へ放つ隠密の養成所となっていたのである。
松平忠輝が、福島正則が、田中忠政が、最上義俊が、本多正純が、松平忠直が、蒲生忠郷が、加藤忠広が、つぎつぎと改易させられたのも、その国へ侵入した柳生隠密の探索によって、内情を幕府が知ったからである。もとより、改易にすべき内情ではなかったかも知れぬが、どのようにでも、理由は、こじつけることができた。
史実には残らぬが、天下が徳川幕府のために存す政策に、柳生隠密の働きは、おそるべきものがあった。
「又五郎の身柄は、おそらく、安藤四郎右衛門の実兄であり、池田家に怨みを抱く高崎城主安藤対馬守に、預けられたと思われる」
「身共は、これよりただちに、数馬をつれて、高崎へ参ります」
又右衛門は、座を立とうとした。
「待て!」
但馬守は、抑えた。
「わしが、数人をすでに高崎へ送った。その報告次第で、お前は、発て」
[#改ページ]
密 書
一
美しい庭であった。
霰敷《あられじ》きの苑路、枯れ山水の石組、石灯籠、蹲踞《つくばい》――それらの附近に、楓、赤松、本斛《もつこく》、多羅葉《たらよう》などが、きれいに刈り込まれて、配されてある。
尤も――。
広さは、二百坪にも満たぬせまさであり、古びた宝形造の茶亭も小ぢんまりとして、辻堂のような印象であった。
それよりも、この庭をとりかこんでいる外塀のつくりの異常さが、目立った。
外塀は、丸竹を棕梠縄で結んだものであったが、その高さが、茶亭の茅葺きの屋根の頂と同じくらいであった。
その異常な高い外塀のために、冬空は截《き》られて、まだ午すぎにもかかわらず、さし込む陽ざしは、茶亭の軒の上にあたっているばかりであった。
茶亭の丸窓の障子が、なかば開けられ、うつろな眼眸《まなざし》の顔が、のぞいていた。
駿河大納言忠長のものであった。
駿府城に於て、松平伊豆守信綱によって、残酷な宣告を伝えられてから、三月しか経っていなかったが、別人のように憔悴《しようすい》の色が濃く、鼻下にも、無精の髭がのびるにまかせていた。
忠長は、この高崎城下へ配流《はいる》になり、城主の別荘である屋敷を与えられたが、なぜか、その日から、十数室ある母屋には住まず、『時雨庵』と名づけられた小さな茶亭に、寝起きしていた。
駿府からは、十七名の家臣が供をして来たが、忠長は、聾唖《ろうあ》の下僕一人だけ残して、すべて、帰してしまった。
全くの孤独の、終日言葉を口にせぬ日々がつづいていた。
毎日、夕餉後に、高崎城から、次席家老が、機嫌うかがいに、やって来たが、忠長は、無言で挨拶を受けるだけで、おのれの方からは、一切話そうとはしなかった。
忠長が、人間らしい感情をおもてにあらわしたのは、ただ一度、城主安藤重長が、来訪した時だけであった。
九条明子が、はるばる、京都から、逢いに来た旨を、安藤重長から、伝えられた瞬間、忠長は、信じられぬ驚きの様子を示した。
重長は、忠長が、驚愕の色を、喜悦の色に変えるもの、と思っていたが、その期待は、裏切られた。
苦痛に似た表情になるのを視た重長は、逢ってすぐに別れなければならぬつらさを、忠長が想ったに相違ない、と察して、
「当邸にて、同居なさいますのは、ご自由でございます」
と、云った。
しかし、忠長の面上に、喜悦の色は現れなかった。
長い沈黙ののち、忠長は、宙を睨んで、
「これは、松平伊豆のはからいか」
と、云った。
重長に問うのではなく、おのれ自身の看破力をたしかめるために、その言葉を、口にしたようであった。
もとより、重長は、そうだ、とこたえることはできなかった。
「逢わぬ!」
忠長の返辞は、その一言であった。
重長が、かさねてすすめるのを止めたのは、忠長の態度には、鬼気迫るものがあったからである。
……庭を、聾唖の下僕治助が、掃き集めた落葉を詰めた籠を、背負うて、影のように、忠長の視野を横切った。
それをしおに、忠長は、障子を閉めた。
苑路を、跫音《あしおと》が近づいて来たのは、それから、小半刻後であった。
「小森田数右衛門にございまする」
夕餉後、必ず挨拶にやって来る次席家老が、今日は、珍しく、はやばやと、現れた。
忠長は、茶亭へ、小森田数右衛門を、上げたことはなかった。
数右衛門は、「ごめん下されませ」とことわって、正面の障子戸を開けた。
忠長は、背を向けていた。
「ただいま、江戸表より、早馬到着つかまつり、ご老中酒井讃岐守様よりの書状が、とどきましてございまする。ご披見あそばしまするよう、願い上げまする」
数右衛門は、それを両手に捧げ持って、忠長が、把りあげるのを待った。
忠長は、頭をまわしたが、すぐには、起たなかった。
酒井讃岐守忠勝には、忠長は、数度会っている。その印象は、きわめて良かった。
酒井忠勝は、風貌も態度も、松平信綱とは、対蹠的で、接する者に温《あたた》かな気分を与え、諧謔味《かいぎやくみ》を帯びた多弁で、絶えず笑いを呼んだ。また、歯に衣をきせず、皮肉をあびせる毒舌家でもあったが、憎悪を買わぬ人柄であった。
忠勝が、老中の席に就いたのは、この年の春であったが、御用部屋に入って十日あまり経って将軍家光が、忠勝を呼び、
「そちは、大炊(土井利勝)や伯耆《ほうき》(青山忠俊)や雅楽《うた》(酒井忠世)に対して、ことごとく反目して、口論をたたかわせ、自らを不利にいたして居るそうなが、なんの存念か?」
と、訊ねた。
忠勝は、笑って、
「御政事むきの評議に於いて、万が一、いささかでも、私《わたくし》の情に流れまする時、身共が喧嘩腰に相成りますれば、御一統には、冷静をとりもどされますゆえ、敢えて、大声を立てることにいたして居りまする。されば、事の曲直が論じられて、公の処置に決したる際は、身共は、沈黙つかまつります」
と、こたえた、という。
二
元和から寛永にかけて、徳川幕府の礎《いしずえ》を不動のものとしたのは、土井利勝、青山忠俊、酒井忠世であったが、その後を承《う》けて、幕閣の二柱となるのは、松平伊豆守信綱と酒井讃岐守忠勝であることは、衆目の一致するところであった。
配謫《はいたく》者忠長にとって、いかに良い印象を与えられた人物であるとはいえ、酒井忠勝は、やはり、敵であった。
「読む必要はない」
その拒絶の一言が、忠長の口から出ようとした。
その時、数右衛門が、云った。
「この書状は、酒井讃岐守様の私信でありますれば、ご披見ののちは、ただちに焼きすてて下さいますように、とのことでございます」
「………」
忠長は、ちょっとためらっていたが、起って、数右衛門が捧げた手紙を、受けとった。
数右衛門は、立去った。
忠長は、封を切った。
文面は、次のような内容であった。
[#この行2字下げ] 貴方様は、九条家の姫君が、逢いに参られたにもかかわらず、いまだお逢いなさろうとせぬ、ときき及び、何故であろうか、と不審に思って居りましたところ、このたび、出府して参った安藤重長の話によって、松平伊豆守のはからいと思い込まれての頑《かたくな》なご態度と判明いたし、とり急ぎ、この一文をお送りいたすものにて、九条家の姫君を、おそばへお送りしたのは、この忠勝の思案にほかなりませぬ。まことに苛酷な申し条ながら、貴方様が幽居をお出になるのぞみは、いまだお世嗣《よつぎ》のない上様が、突如として御他界にならぬ限り、ないものと存じます。さて、ここで、この忠勝が、思いますには、上様が鷹司信房卿の姫君孝子様を夫人にお迎えになったのは、寛永二年二十二歳の時であり、また、その翌三年には、側室お振の方を大奥に入れられて居りますが、いまだ、お世嗣をもうけておいでになりませぬ。あるいは、上様には、ついに、お世嗣はないか、とも思われます。老中職にあるわたくしが申すのは、はばかりある儀ながら、貴方様を好きでございます。貴方様が、お子をおつくりになれば、わたくしが老中職に在る間、必ず、そのお子を、大名にしてさしあげるべく、力をつくすつもりで居ります。なろうことならば、そのお子を、大坂城の城主にしてさしあげ、摂津・河内・和泉の国主にお据えすることは、決して夢ではないと存じます。そしてまた、お世嗣のないまま上様が御他界になった時には、四代将軍家におのぼりになる可能性も充分ある、と存じ、九条家の姫君を、高崎にお送りした次第でございます。なにとぞ、わたくしの願いをおききとどけ下さいまして、明子様をおそばへお置き下さいますよう――。
――そうか!
忠長は、二度読みかえしてから、ここに幽閉されて以来、はじめて、生気を眸子にも頬にも、よみがえらせた。
――九条明子を、寄越したのは、忠勝のはからいであったのか!
忠勝が、兄家光よりも弟の自分の方を好きだ、ということに対しては、多少の疑念もないではない。
しかし、将軍家に子種がない、とみて、弟であるこの忠長に子をつくらせておこう、という考えを起したのは、老中として当然かも知れぬ。
酒井讃岐守忠勝は、松平伊豆守信綱よりも、十歳年長である。四十歳にして、老中となったのである。三十歳の伊豆守に負けてはならぬ、という激しい競争心を燃やしているに相違ない。だからこそ、伊豆守が使者となって配流したこの忠長を、味方にしておくことは、将来、競争に勝つひとつの布石となるのだ。
――もし、いま、将軍家が死ねば、誰が、四代を継ぐのだ?
忠長は、自分に問うた。
――紀州頼宣か? 尾張義直か? 水戸頼房か? それとも……?
忠長は、思わず、声を発した。
「将軍家実弟であるこの忠長か?」
忠長は、立ち上ると、丸窓の障子を開けて、高い外塀の上に、残照を映えさせた冬空を仰いだ。
――よし! 九条明子に、逢うぞ! わしの子を生ませてやる!
三
その日――。
高崎城下へ一里十九町の倉ヶ野で、ひとつの騒動が起っていた。
倉ヶ野は、日光道へ岐《わか》れる宿であったので、元和三年に日光に東照宮が造立されて以来、急ににぎわいをみせるようになっていた。殊に、家光が、将軍職を襲って、しばしば参詣するようになってからは、大名もそれにならい、上野、信濃、越後などから、中仙道を道中して来る大名たちは、この倉ヶ野から日光へ向ったので、ここ数年うちに、宿場の戸数は、十倍以上になっていた。
「おい、半兵衛――、関所らしいものが、設けてあるぞ」
丸橋忠弥が、新しい草鞋《わらじ》にはきかえて追いついて来た金井半兵衛に、行手を指さした。
「倉ヶ野に、関所などはないが……? はてな?」
吹きまくる北|颪《おろし》に、土煙が舞うので、はっきりと見分けられなかったが、近づいてみて、
「関所ではない。臨時の木戸だな。どういうのだろう? 日光道で、なにか、異変でも起ったか?」
半兵衛は、なんとなく、ふっと、微かな不安をおぼえた。
二人が、その木戸の前に進むと、急に、手槍をひっ携《さ》げた武士が七八人、どやどやと出て来た。
一瞥《いちべつ》して、江戸市中を横行する旗本奴と、知れた。
「おい、待て!」
どの目も、険しく光っていた。
「名のれっ!」
さっと、包囲した。
「肥後浪人・金井半兵衛」
「出羽山形住人・丸橋忠弥」
名のってから、半兵衛は、平気な様子をみせて、ぐるっと見まわし、
「どうかされたのか?」
と、訊ねた。
「どうかされたと?! しらばくれるな! おのれら、高崎城下へ、さぐりに参ったな? どうだ、図星だろう」
たしかに、図星だった。
流石《さすが》の能弁の半兵衛が、一瞬、ぐっと、つまった。
忠弥の方は、真正直に、敵意の表情をつくった。
「やはり、まちがいないぞ! おのれら、肥後だとか、出羽だとか、ごまかそうとしても、われわれの目は、節穴ではないわ。……さあ、即刻、ひきかえせ。ぐずぐずして居ると、この景色が、この世の見おさめになるぞ!」
「待って頂きたい。拙者が肥後浪人であり、この男が出羽山形の出身であることは、神明に誓って、まちがいござらぬ。……人ちがいをされて居るのだ。いったい、なんの詮議をされて居るのか、まず、それを、うかがいたい」
「なんの詮議だと?! 空とぼけるのも、いい加減にせい。われら旗本白柄組が、こうして、人改めをいたして居るのを、承知の上で、空とぼけるからには、うぬら、上司に必死の覚悟をせよ、と命じられたな。されば、ここで、討死せい!」
旗本奴たちは、一斉に、手槍を構えた。
「待たれい! 待って下され!……手向いなどいたさぬ。理由が判れば、すぐに退去いたす。……理由をおきかせを――」
半兵衛は、土下座してでも、無駄な争闘は、避けたい、と思った。
ところが、忠弥の方は、小田原城下に於ける騒動を思い出して、
――あの時、さわぎたてていた奴ばらだな。どうせ、こいつらとの一戦はまぬがれぬ。
と、|ほぞ《ヽヽ》をかためたのである。
忠弥の闘志をむき出したその態度が、旗本奴たちに、待ちうけていた敵、と勘ちがいさせてしまった。
「やあっ!」
正面の旗本奴が、突きかけて来た。
忠弥は、かわしざまに、おのが槍で、その足を薙《な》いだ。
足くびから刎《は》ねられた片足がふっとび、血飛沫《ちしぶき》が、ぱっとまき散らされた。
「あっ! いかん!」
半兵衛は、叫んだが、もはや、こうなっては、やむを得なかった。
横あいからくり出された槍を、ひっつかむと、対手の胴をひと蹴りして、奪いとった半兵衛は、
「忠弥! 逃げろ! こんな狂犬どもを対手《あいて》にしてあばれても、一文《ヽヽ》のとくにもならんぞ。……逃げろ!」
と、叫んでおいて、いま来た道を奔り出した。
ものの一町も、疾駆して、ふりかえってみると、忠弥は、まだ、闘っていた。
「あいつも、狂犬だな」
半兵衛は、舌打ちしたが、
「それにしても、高崎城下に入って来る武士を、旗本奴が、はばむとは、どういうことなんだ!」
首をかしげざるを得なかった。
待っていると、ようやく、忠弥が、四人ばかり突き仆《たお》しておいて、こちらへ、逃げて来た。
生き残った面々が、追いかけて来たが、忠弥の迅足に及ぶべくもなかった。
[#改ページ]
無 断 食 客
一
「どういうのだろうな、あいつら――?」
「わからん! さっぱり、わけがわがらん」
金井半兵衛と丸橋忠弥は、雑木林の中にある小さな古びた神社の鰐口《わにぐち》の下に、腰を下して、顔を見合わせた。
この雑木林は、倉ヶ野から十町もはなれてはいなかった。
旗本奴連は、逃げる忠弥を、ものの二町も追いかけて来て、あきらめた模様で、ひきかえして行ったのである。
どうしても討ちとらねばならぬ敵ならば、臨時の木戸を設けて、待ちうけていたくらいであるから、執拗に追跡して来るはずであった。
味方を四人も殺され乍ら、追跡をあきらめたのも、面妖《おか》しいといえた。
「あいつら、人違いをしていることは、まちがいないが、さて、おれたちを、何者に思いちがいをして居るのか?」
「上司に必死の覚悟をせよ、と命じられて来たろう、とぬかして居ったな。おれたちを、どこかの家臣と思い込んだのだな」
「半兵衛、もしかすると、旗本奴どもは、おれたちと同じ目的を持って居るかも知れんぞ」
忠弥が、云った。
「駿河大納言に、判金・法馬の隠匿《いんとく》場所を吐かせよう、と鳩首《きようしゆ》一決して、白柄組が高崎へ乗り込んで来た、と考えられぬか? 旗本奴どもは、松平伊豆守が宰領して、江戸へ運んで来た大坂城軍用金は、贋と知って居るに相違ない。だからこそ、小田原城下で、大騒ぎを起したのだ。そこで、まことの軍用金の在処《ありか》をつきとめて、閣老たちの鼻をあかしてやろう、と思いついた。あいつら、おれたちを、松平伊豆守が放って来た隠密と勘ちがいをしたに相違ない……。どうだ? この推測、中《あた》って居るぞ」
忠弥は、得意気に、鼻孔をひらいてみせた。
しかし、半兵衛は、
「ちがうな。肝心の一点を、お主は、看て居らん」
あっさりと、否定した。
「なんだ、肝心の一点とは――?」
「お主は、松平伊豆守が一筋縄でいかぬ大曲者であることを、忘れて居る」
「知って居るぞ。知らんでどうする。彼奴は、贋金と知りつつ、堂々と、江戸へ運んで来た男だ。煮ても焼いても食えん奸物であることくらい、知って居るぞ」
「さあ、そこだ。……旗本奴連が、小田原で大騒ぎをしたのは、箱根山中で、おれたちから、御用金を掠奪されたという事実を知ったからなのだ。松平伊豆守が、その事実をかくしているのを怒って、渠《かれ》らは、躍起になって、盗賊詮議をやったのだ。……さて、ここで、考えられるのは、松平伊豆守が、問い詰める旗本奴に対して、あっさりと、あれは、贋金なのだ、と教えたか。絶対に、教えはしなかったはずだ。ただ、掠奪された事実はない、と否定しただけだったろうな」
「ふむ。そういえば、掠奪されたのが贋金だと教えられたならば、旗本奴どもが、あれほど大騒ぎして、盗賊詮議は、やらなかったろうな」
忠弥は、いったん、みとめたものの、
「しかし、おい、江戸城内へ運び込んだあとで、実は、贋金だった、と旗本奴の一人が、偶然つきとめた、としたらどうだ?」
「だから、お主は、松平伊豆守という大曲者を看る目が甘い、というのだ。旗本奴連に、そんな秘密をにぎられるような、手ぬかりのある人物ではない、松平伊豆守は――」
「ふうん」
忠弥は、いまいましげに、ぼりぼりと頭をひっかいた。雲脂《ふけ》が、とび散った。
半兵衛は、宙を見据え乍ら、
「おれが想像するのに、運んで来たのが贋金であった、と伊豆守が打明けたのは、閣老の中でも、酒井忠勝ぐらいのものだろう。それから、将軍家にかな」
そこまで云った――とたん、忠弥が、無言で、制した。
「………?」
不審の表情になった半兵衛に、忠弥は、社殿の中に、人の気配がある、と目で教えた。
二
忠弥は、わざと、双手をさしあげて、大あくびをした。
次の瞬間、獲物を襲う猛獣の迅《はや》さで、槍をひっつかみざま、社殿の格子を蹴った。
「おいっ!」
忠弥は、薄暗い奥にうずくまる人影へ向って、ぴたっと、穂先を狙いつけて、
「おのれは、ただの鼠ではない、と看たぞ! 冥土への土産話に、おれの槍さばきをとくと見ておけ!」
と、あびせた。
自分たちの会話をぬすみぎきされた以上、生かしてはおけぬ、と考えたのである。
くろぐろと動かぬ対手は、意外におちついた、もの静かな声音で、
「老いぼれでござれば、とうてい、お手前の槍をかわすことはできぬ、と存ずるが、いまここで、犬死はでき申さぬ」
と、こたえた。
「口達者に、云いくるめて、隙をうかがおうとしても、そうは参らんぞ」
「隙をうかがったところで、お手前の手練の業から、身をのがれさせることは、かない申さぬ」
「その小ずるい云い様が、気に食わぬ」
忠弥は、じりっじりっと、社殿内へ、踏み込んだ。
その時、半兵衛が、すかし視て、
「忠弥、待て! その者には、どこかで、逢って居るぞ」
と、云った。
「なんだと? こいつに、どこで逢ったというのだ?」
「いま、思い出す。この巡礼姿には、つい、最近、どこかで逢った」
すると、それまで身じろぎもせずにうずくまっていた老爺《ろうや》が、やおら、身を起した。
「お手前がたとは、深谷宿へ入る行人橋ぎわの腰掛け茶屋で、出会い申した」
「おお、そうだった。あの茶屋の片隅にいた老人だ。……つまり、お主は、あの時、われわれがしゃべっていることを、すべて、きき取ったのだな?」
「左様でござる」
「はて、あの茶屋で、おれたちは、どんなことをしゃべったかな?」
半兵衛が思い出そうとすると、忠弥は、苛立《いらだ》って、
「なにをしゃべって、この爺さんにきかれてしまって居ろうと、ここで、片づければ、それですむことだ」
と、云った。
「まあ、急《せ》くな、忠弥……。老人、お主、何者だ?」
「お手前がたと同類だと思って頂いてよい」
「同類?」
「箱根山中で、御用金を強奪したのは、お手前がたでござったな。この爺《じじ》いは、御用金が、小田原の装束屋敷に積まれた夜、その一箱を、盗み出して、贋金と知り申した」
「ふん、盗賊か」
忠弥が、吐きすてた。
「お手前がたも、盗賊ではないとは申せまい」
「その通りだ。天下を狙う大盗賊だ!」
忠弥は、云いざま、夜兵衛の胸もとめがけて、電光の突きをくれた。
刹那――、夜兵衛の老躯は、重力のないもののように、宙へ翔《と》んでいた。
半兵衛は、穂先へ、鳥のごとく、ひょいと、とまった夜兵衛を視《み》て、
「忠弥、この老人、使えるぞ」
と、云った。
「忍者だな、こいつ!」
忠弥が、叫んだ。おのが熟達の穂先を、みごとにかわしたばかりか、あざけるように、とまってみせたのが、六十前後の老爺であることが、忠弥をかっとさせていた。
床へ降り立った夜兵衛に向って、忠弥は、こんどこそ必殺の一撃を放つべく、身構えた。
「待て、忠弥!……この老人は、談合次第では、味方にできるぞ」
「半兵衛、お主こそ、大甘だぞ。こんな忍び崩れの老いぼれ盗賊を、仲間に加えて、なにになるというのだ。おれに、片づけさせろ!」
「待てというのだ、忠弥! この老人は、只の忍者ではない。われわれと同じく、大きな志を胸中に持つ人物と看たぞ」
「莫迦《ばか》なっ! 一人|合点《がてん》もいい加減にしろ!」
忠弥は、槍の柄を半兵衛に、つかまれると、憤然となって、呶号した。
「忠弥、考えてみろ。この老人が、ここにいる、ということは、高崎城下に入ろうとしている――即ち、駿河大納言に会おうとしている、と受けとってよい。城下に入って、大納言に会う手段は、胸中にあるに相違ないのだぞ」
忠弥は、そう云われて、やっと、殺気を消した。
「老人、名のってもらおうか。それがしは、金井半兵衛、こっちは丸橋忠弥。われわれが、どんな大志を抱いているか、すでに、ぬすみ聞いて居ろう。……お主、何者だ?」
半兵衛は、訊ねた。
「名張の夜兵衛と申す」
「それは、仮の名だろう。前身は――?」
「父祖から継いだ姓名は、十七年前にすて申した」
「その姓名をあかしてもらわぬ以上は、この丸橋忠弥が、納得すまい」
そうもとめられて、夜兵衛は、ちょっと沈黙を置いてから、名のった。
「豊臣家譜代・熊谷三郎兵衛。本知三千石、寄騎《よりき》三十騎を頂戴いたして居り申した。大坂の役に於て、討死しそこねて、斯様《かよう》に老残の身をさらして居り申す」
三
駿河大納言忠長は、その翌日、いつものごとく、夕餉《ゆうげ》後に、機嫌伺いにやって来た安藤家次席家老小森田数右衛門に向って、唐突に、
「九条明子に、逢おう」
と、云った。
「おお、それは、重畳至極《ちようじようしごく》の儀に存じまする。早速、明日にも、お連れ申し上げまする」
数右衛門は、ほっとした様子で、平伏した。
「今宵うちに、ともなってくれい。わしは、母屋にもどる」
忠長は、せっかちな催促をした。
すると、数右衛門は、ちょっと、当惑の気色を示した。
「今宵は、ともなうことは、できぬ、と申すか?」
「は、いえ、そうではございませぬが……」
「では、ともなって参れ。わしは、母屋にもどって、待って居るぞ」
「その儀にございまするが――」
「その儀とは?」
「母屋におもどりあそばす儀にございまする」
「もどってはいかぬ都合でもあるのか?」
「は――実は、おん殿様には、母屋をおきらいあそばしているものとばかり存じ……、仔細あって、当家をたよって参った者を、一時、逗留させて居りまする」
「何者だ?」
「池田宰相の元家来にて、河合又五郎と申す者にございまする」
忠長は、しかし、河合又五郎を間にはさんでの池田家と旗本との争いを、知らなかった。
「その河合とやらを、当屋敷内に置かねばならぬ仔細とは、何だ?」
「は――」
数右衛門は、即座には返答しかねた。
忠長は、数右衛門をじっと見据えていたが、
「安藤家が、かくもうている、というわけだな?」
鋭く推察した。
数右衛門は、かくしていられぬこと、と自分に云いきかせて、備前岡山の烏城《うじよう》城下で起った城主寵童渡辺源太夫を、河合又五郎が殺害逃亡してからの騒動を、逐一物語った。
きき了えた忠長は、
「城内に、かくまうことはならぬのか?」
と、訊ねた。
「もし、城内にかくまえば、あるじ安藤重長が承知の上で、かくもうたことに相成りまする。もしこのことが、江戸表へ知れましたならば、池田家と当家の確執は、いよいよ深まり、ご公儀のお咎《とが》めを蒙《こうむ》る仕儀に相ならぬとも限りませぬ。当家といたしましては、あくまでも、河合又五郎が、自身でひそかに、当城下に忍び入って、かくれて居るのを、知って知らぬふりをいたして居らねばなりませぬ。それと申しますのも、河合又五郎をかくまうことに肩入れした旗本衆が、多数当城下に参られ、臨時の木戸などを設けて、池田家の家中が押し寄せて参るのをはばむ構えをいたして居ります。一方では、河合が当城下にひそむか否か、さぐるために、ご公儀よりの隠密が、入り込んでいるけはいも感じられまする。……それゆえ、河合をかくまうには、このお屋敷内が最も安全な場所と心得て、まことに恐縮のきわみではございましたが、無断にて、入らせた次第にございまする」
何事もお家大事の一念から、この次席家老が、思案の挙句、為《な》した取扱いであったろう。
幾重にも謝罪する数右衛門を、見据え乍ら、忠長は、かなり不快の念を催した。
せっかく、九条明子と逢おうと、決意した矢先のことであった。
よけいな邪魔者に、母屋に居坐られているのは、面白くなかった。
「河合なる者、他処へ身柄を移したら、如何だ? そうなれば、旗本どもも、城下を立去るであろう。安藤家の迷惑にはなるまい」
「は……、それは、その通りでございますが――」
数右衛門は、主君安藤重長から、
「河合又五郎を、かくまってつかわせ」
と、命じられていたのである。
「できぬ、と申すのか?」
忠長は、数右衛門を、睨んだ。
「まことに、申しわけなき儀にございますが……、小者部屋で結構でございますゆえ、しばらくの間、河合を――」
「ならぬ!」
忠長は、突如、激しく叫んだ。
「改易配流の身とはいえ、わしは、将軍家の弟だ。殺害の罪を犯した者を同居させることは、まかりならぬ。……今宵うちに、連れ出せ! わし自身が、じきじき、追い出してやってもよいぞ!」
「は、はっ!」
数右衛門は、平伏した。
忠長は、次席家老が去ると、自ら母屋へもどって、河合又五郎なる者を、呶鳴りつけたい衝動にかられた。
それを押えているうちに、
――数右衛門は、河合を連れ去る代りに、明子をともなっては参るまい。
その予感がした。
はたして――。
その次の日の宵、やって来た数右衛門は、
「姫様には、風邪発熱あそばされて居りますゆえ、ご快癒まで、お待ちあそばしますよう――」
と告げた。
[#改ページ]
楠 流 軍 学
一
夜半――子刻《ねのこく》(午前零時)を告げる寺鐘が、遠くからひびいて、すでにかなり過ぎた頃あいであった。
駿河大納言忠長は、闇にまなこをひらいて、憂悶に堪えていた。
この高崎に来てから、まんぞくに熟睡した夜は、ほとんどなかった。
性情か、育ちのゆえか、憂悶をまぎらわせるために、起き出て、小太刀をふるったり、あるいは、幽居を脱出したりすることは、一度もしなかった。ただ、じっと堪えつづけているばかりであった。
憂世《うきよ》のさだめ、とあきらめて、『伝灯録』などをひもといて、禅の世界に入ろうという気持を起すには、忠長は、まだ、若すぎた。
傷心を癒《いや》すすべを、考えたことはある。しかし、ただ考えただけで、行為に移す前に、虚《むな》しさがさえぎった。
身におぼえのない理由による改易配流に対する憤りが、心中にくすぶりつづけている限り、忠長は、憂悶にじっと堪える自虐の静けさの中に、自身を置いて、何もせぬことにしている。
酒井忠勝の私信と称する書状が、この静けさに、波紋を投じたが、いまは、忠長の鋭い感性は、
――あれは、忠勝のものではなく、伊豆守がわしを詐《だま》そうとした奸策であったかも知れぬ。
と、疑惑を生んでいた。
改易配流の罪状は、この忠長が、父秀忠に加増を請い、然らざれば大坂城を預けられんことを強請した、という増上慢の咎《とが》めであった。事実無根であった。
兄家光が、自分を憎んでいたことは、忠長は、充分承知していた。しかし、忠長は、嘗ていまだ一度も、兄に対して|たて《ヽヽ》ついたおぼえはなかった。
父秀忠の死を待って、兄の憎悪が、どのようなかたちで、自分にふりかかって来るか、漠とした不安は、忠長になくはなかった。
兄家光は、父秀忠が病臥するや、ただちに、この忠長を、不遜の振舞いがある、として甲府に蟄居《ちつきよ》せしめた。父秀忠には、もはや、家光に、そうさせぬ気力はなかったに相違ない。
兄家光は、弟に、垂死《すいし》の父秀忠を見舞うことさえも許さなかった。
その残忍な措置は、ただ、弟を憎むあまりの単純な理由ではなかった。
家光は、父秀忠が、弟に久能山所蔵の(実は別の場所にかくしてある)莫大な金銀をゆずった、と知ったからなのである。
家光は、秀忠が逝くや、弟をいったん許して、甲府から駿府へもどしている。家光は、そうしてやれば、弟が、あるいは、その莫大な金銀を、
「江戸城修築のご用にたてて頂きたい」
と、申し出ると期待したのかも知れなかった。
忠長は、それをしなかった。
そこで、兄家光は、弟を改易配流にしたのである。
ただ憎んだだけで、改易にしたのであれば、その時、使者松平伊豆守に対して、家光は、
「自決させよ」
と、命じたに相違ない。
弟を自殺させて、世間の反感を買う必要はなかった。駿府城を召し上げて、その所蔵する金銀を手に入れればよかったのである。
松平伊豆守は、家光から、「手に入れよ」と命じられたに相違ないのであった。
――伊豆の奴、久能山へおもむいて、そこに置いてあるのが贋金と、知って、愕然としたに相違ない。
忠長は、闇の中で、冷たく薄ら笑った。
――そこで、伊豆の奴は、いそいで、駿府城の金蔵を調べた。金銀は、そこにもなかった。さぞや、あわてたであろう。
駿府城の金蔵は、ただの作りではなく、深い地下蔵が設けられてあった。家康の配慮であった。降り口はふさがれて、金蔵を破壊しなければ、降り口が発見できぬ用心深いしかけになっていた。
たとえ、松平伊豆守といえども、そこまでは、気がつかなかったに相違ない。
――あるいは、兄は、久能山に所蔵してあるのは贋金で、まことの金銀は、駿府城の金蔵にしまわれてあるところまでは、知っていたかも知れぬ。しかし、それが、金蔵の下の地下蔵にかくされてあることは、知るべくもないのだ。
忠長には、判るのだ。
松平伊豆守が、九条明子を高崎まで送って来たのは、金銀が、発見できなかった証左なのだ。
――伊豆の奴は、わしが明子に逢おうとせぬと知って、別の策を思案した。酒井忠勝に相談もせずに、忠勝の私信といつわり、わしに好餌を投げて来た。おそらく、そうであろう。
――わしの機嫌とりをはじめたのは、所蔵場所をわしの口から吐かせようという、躍起の焦慮なのだ。
二
「大納言卿に、申し上げます」
どこからともなく、ひそやかな呼び声が、茶亭内へ、つたわって来た。
「………?」
忠長は、すぐには、返辞をせず、じっときき耳をたてた。
「夜半、忍び入って、お願い申し上げる曲者なれば、お信じ頂けますまいとは、重々承知の上でございます。ただ、おききとり下さいますよう、願い上げまする。……それがしは、豊臣家譜代にて、故太閤の稚児姓《ちごしよう》より勤め上げた熊谷三郎兵衛と申す者にございまする。大坂の役に於て、いよいよ、陥落迫りし際、右大臣様(秀頼)より、城内山里|曲輪《くるわ》の地下に所蔵してある軍用金を、守るように、命じられた者にございます。……山里曲輪の地下蔵からは、東へ二里、長瀬川に通じる抜け穴が設けてありました。……それがしが、寄騎三十名とともに、軍用金を、その抜け穴よりはこび出そうとしたところ、時すでにおそく、伊賀、甲賀衆の探知するところとなり、軍用金ことごとく、駿府大御所が召し上げられるところと相成り、無念の|ほぞ《ヽヽ》を噛んだ次第にございます。……軍用金は、荷駄六百頭に及ぶ莫大な判金、法馬であり、それが二分されて、江戸城と駿府城の金蔵に所蔵されたことは、大納言卿もご承知のことと存じまする。……豊臣家が亡びて十七年、それがしは、亡君のご命令を為し遂げる能わず、その無念を胸中に抱いて、いたずらに、馬齢を加えた次第にございます。……このたび、貴方様が、配流のおん身になったのも、その理由は、幕府に於て、駿府に所蔵の豊臣家遺金を召し上げんがためのご措置と、推察つかまつりましたが、いかがでございましょうか?」
忠長は、外の闇にうずくまる曲者の問いに、しばらく、返辞をかえさなかったが、やがて、
「その方は、旧主の軍用金を、とり返さんとの存念を抱いて居るのか?」
と、訊ねた。
「これは、執念にございまする。たとえ、一万両いや、千両箱ひとつなりとも、とりかえさなければ、あの世へ参って、亡君の御前に罷《まか》り出ることは叶いませぬ。……このたび、大納言卿が斯様《かよう》なおいたわしい配流におなりあそばされた直後、松平伊豆守殿宰領の下に、久能山所蔵の金銀が荷駄三百頭、江戸表へはこばれましたが、途中、それがしが、そのうちの千両箱ひとつを盗みましたところ、贋金でございました。……まことの判金・法馬は、いまだ、駿府に所蔵されてあるものと、推測つかまつります」
「その通りだ」
忠長は、こたえた。
「突然、忍んで参った、豊臣家遺臣が、その所蔵の場所を、お教え下さいますように、とお願いつかまつりましても、それは、とうてい叶わぬ儀とは、重々承知の上でございます。ただ、いまだ駿府に所蔵されてある、とおうかがいしただけで、恭《かたじけな》 き次第にございます」
「ひとつ、きこう」
「はい」
「その方は、軍用金を奪い返したならば、なにに使おうと申すのか?……右大臣家(秀頼)が、いまだ、薩摩のあたりに生存しているという噂をきく。その方は、旧臣や浪人者を集めて、再挙を計ろうとでも、考えて居るのか?」
「いえ、左様な存念は、毛頭みじんもございませぬ。……ただ、ご存じかも知れませぬが、いま、日本全土にちらばって居る貧窮した喪家《そうか》の浪人は、二十万とも三十万ともいわれて居りまする。誠心あり乍らも、商人になる才覚も金子もなく、いたずらに、飢えているこれらの浪人どもを、いささかでもうるおしてやれるならば、と存じて居りまする」
「………」
忠長は、しばらく、沈黙を守った。
「大納言様――」
「うむ」
「熊谷三郎兵衛、まことに勝手なお願いを、ひとつだけ、つかまつります」
「なにか?」
「それは……、松平伊豆守殿に、駿府に所蔵されてある場所を、決して、お打明けあそばさぬように――そのお願いをつかまつります」
「うむ。しかと約束しよう」
「恭《かたじけの》 う存じまする。……では、これにて、失礼つかまつりまする。夜半、無断にて推参つかまつりましたこと、お詫びつかまつります」
「待て!」
忠長の脳裡に、急にひらめく直感があった。
「その方、よほど忍びの術を修業した、とみえる」
「は――、いささか」
「江戸表にては、松平伊豆守の屋敷に、忍び入ったであろう?」
「忍び入りました」
「その方が、覗き見た伊豆の様子を、きかせい」
夜兵衛は、こたえて、伊豆守と用人志村源八郎との密談をつたえた。
きき了《お》えた忠長は、
――そうか。
と、合点した。
――やはり、あの密書は、酒井忠勝のものではなかった。伊豆の悪智慧であった。
「その方に、たのみがある」
「なんなりとお申しつけ下さいませ」
「当城下に、わしをたずねて、京都より参った九条明子が、滞在いたして居る。たぶん城内ではなく、当屋敷のほかに、城主の別邸は、二つ三つはあろう。そのひとつに、いると思う。……その方、そこへ忍び入って、明子に会うて、もらえまいか?」
「かしこまりました。おききいたすことは?」
「明子は、松平伊豆によって、遣《つか》わされて居る。しかし、明子のまことの心情は、いかがなるものか、それを、わしは知りたい」
三
江戸では――。
由比弥五郎は、神田連雀町のとある小路に、かなりの構えをもった家に、食客となっていた。
楠不伝の家であった。
おもてには、大看板がかかげてあった。
『楠流軍学兵法六芸十能医陰両道其他 一切指南 張孔堂楠不伝』
弥五郎は、偶然、浅草寺へ参詣した時、境内で、不伝とめぐり逢い、この連雀町の家へさそわれるままに、ついて来たのであるが、大看板を一瞥しただけで、
――相当な大|かたり《ヽヽヽ》だな。
と、苦笑したものであった。
楠不伝が、|かたり《ヽヽヽ》者であることは、三島神社で、最初に会った時から、弥五郎は看破っている。
不伝の取柄といえば、その見事な風貌と堂々たる恰幅だけであった。菊水の大紋を浮かせた黒羽二重の衣服をつけた姿は、江戸城の老中の溜《たまり》に据えても、他の老中を圧倒するに相違ない。
「楠流軍学、とは吹いたものだな」
弥五郎が、笑うと、不伝は、
「身共は、楠木正成の後胤であることは、まぎれもござらぬぞ。これは、まことでござる」
色をなして、云いはった。
楠木正成の末子|正儀《まさのり》には、四人の子があった。その四男正平から十代の末裔に正虎なる人物がいた。備前国に生れて、天文五年、十七歳の時、足利将軍義輝に仕えた。苗字を、大饗《おおあえ》と変えていたが、楠木正儀直系である系図を所持していた。
どのような努力をはらったか、織田信長に目をかけられ、その執奏《とりなし》によって、正親町天皇から、『朝敵』の汚名を勅免されて、晴れて、「楠正虎」と名のり、従四位下河内守に任じた。
楠正虎は、武人であるよりも文人としての才に長《た》けていて、信長や秀吉の右筆《ゆうひつ》をつとめ、後陽成天皇にも、書道を教授した、という。号を長諳《ちようあん》、と称して、多くの公卿に出入りしていた。
その子に、甚四郎というのがいた。すなわち、この楠不伝であった。
天正十二年、羽柴秀吉に仕えて、甚兵衛成辰とあらためて、近習となったが、秀吉没後、徳川家康の右筆となり、駿府城に入った。関ヶ原役が終って、考えるところあって、徳川家を致仕し、諸方を遍歴して、諸大名に、楠流軍学を講義した。
不伝の口から語られた経歴はざっと、そういうあんばいであった。
――もっともらしく、つくりあげたものだ。
弥五郎は、信用しなかった。
軍学という名称が生れたのは、戦国時代末期、『太平記』を読んだ連中が、楠木正成の兵略ぶりに魅せられて、いつとなく、合戦手本ととなえるようになってからである。
正成の兵略を記述したのは、名和長年とされている。その末孫と称する名和正之が、その家伝の兵略を、『理尽抄』という一書にして、京都の日応という日蓮宗僧侶に与えた。日応は、これを下敷きにして、『陽翁伝楠流』という兵書を著《あらわ》した。日応は陽翁と号したからである。
いまでは、『陽翁伝楠流』が、軍学者たる者の必ず几上《きじよう》に置かれる兵書となっている。
弥五郎も、『陽翁伝楠流』を読んだことがある。
『太平記』に記された正成の兵略ぶりを、なぞったものにすぎなかった。
「軍学などというものは、戦乱の世が去ってから、いかにも大層な武士の必修課目に加えられただけのことで、鉄砲、大筒の威力のなかった時代の、楠木正成の兵略など、なんのねうちもない」
師の石川丈山から、そうきかされていた弥五郎であった。
にもかかわらず――。
不伝の家に入門して来る武士は、日毎に増しているのであった。
弥五郎は、襖ひとつへだてて、寝そべり乍ら、不伝のものものしげな口調の講義を、きき乍ら、
――天下泰平の証拠だな。
と、思っていた。
[#改ページ]
復 讐 夜 叉
一
その日その日が、無為《むい》に過ぎている。
楠不伝の家に食客となった由比弥五郎にとっては、まさに、それであった。
五体内に、大きく、ひとつの壮志が動き出していた。動き出してい乍ら、為すこともなく、日々が去って行くことは、弥五郎にとっては、堪えがたい焦躁になり、突如として、隣りの座敷へ踏み込んで行き、ものものしげな口調で軍学を講義している不伝を、はねのけて、居並んだ若ざむらいたちに向って、おのが壮志を述べたてたい衝動にかられた。
――まだ、早い!
弥五郎は、おのれを抑える。
――おれは、日本の孔明になる! しかし、劉備玄徳がいなければ、孔明にはなれぬ。……劉備玄徳に逢うまでは、待たねばならぬ。
仰臥して、目蓋を閉じて、弥五郎は、おのれに云いきかせる。
襖をへだてて、ひびいて来る不伝の講義の声を、ただの雑音ときき乍ら、弥五郎は、十七年前の、あの日の出来事を、思い泛《うか》べていた。
その出来事は、師丈山にさえも打明けてはいなかった。弥五郎は、おそらく、胸中に秘めて、ついに、他人に語ることなくおわるであろう。
由比弥五郎は、十歳の時、大坂城とともに、滅び去る運命にあった。
少年弥五郎は、淀君と秀頼が自決し、護衛の将士も女中も、あいついで死んでゆくを見て、自分もまた、死なねばならぬと覚悟して、ちぎり取った片袖を巻きつけた短剣で、切腹しようとしたのである。そこへ、馳《は》せ入って来た徳川方の武者に、
「わっぱのぶんざいで、小ざかしい振舞いをするな!」
と、大刀で、その短剣を、はねとばされ、気絶させられたおかげて、生きのびたのであった(その武者が、柳生但馬守宗矩の高足、木村助九郎であることは、先般、判明した)。
意識をとりもどしたのは、どことも知れぬ雑木林の中であったが、助九郎が、そこへはこんでくれたものであったろう。
ふらふらと林を出た弥五郎は、燃えあがる大坂城を、望見して、痴呆のように、茫然と、立ちつくしたことだった。
「重丸殿!」
背後から、ひそやかな呼び声が、かかったのは、その時であった。
弥五郎は、兄長門守重成から一字をもらって、重丸と名のっていたのである。
振りかえった重丸は、悸《ぎよ》っとなって、眸子をみはった。
頭髪も顔面も衣裳も、火焔の中をくぐった、無慚《むざん》をきわめた女性《によしよう》の姿が、松の幹にすがって、そこに、あった。
自分の名を呼ぶからには、殿中で常日頃親しく口をきく女中に相違なかったが、とっさに重丸には誰とも見分けられぬくらい、その貌《かお》は焼けただれていたのである。
「重丸殿……、わらわじゃ。……篠路《しのじ》じゃ」
そう名のられて、重丸は、「ああ……」と声をあげたことだった。
篠路というその女性は、秀頼附きの膳部係支配であった。そして、重丸は、秀頼の毒見役だったのである。
……篠路と重丸は、その林の中で、一昼夜をすごした。
重丸が、篠路をたすけて、林を出た時、二人は、乞食姿になっていた。尤も、徳川方の落人狩りの網にかかったとしても、化物にひとしい面相になった女と十歳の少年では、べつに捕えられるおそれはなかったであろう。
篠路が、重丸の手をかりて、一時、身をひそめたのは、知りあいの、洛北のある六位|蔵人《くろうど》の家であった。
火傷が癒えてから、篠路は、重丸をともなって、東海道を下り、宇津山の蔦の細道の奥にある熊野権現の祠《ほこら》を、住居にさだめた。
岡部宿より、十石坂を歴《へ》て、湯谷口より登りになる宇津山には、東海道のほかに、古《いにしえ》の細道があった。
これを、『蔦の細道』といった。
嶮路で、左右は、篠竹が人の身丈《みたけ》ほどに生い茂り、鎌で払わなければ通れない杣道《そまみち》であった。
宇津谷|嶺《みね》は、上り下りわずか十六町であったが、往昔《おうせき》から、ものさびしい密林中の山道なので、草賊が潜伏して、しばしば、旅人を襲った。
海道筋でさえ、そうであるから、まして、蔦の細道など、猟師の影が横切るのさえ、まれであった。
その日――。
重丸が、目覚めた時、篠路の姿は、林から消えていた。
置手紙があった。それには、今日、重丸が行って立つべき場所だけが、指定してあった。
二
『本海道を眼下にする虎岩の上で、申刻《さるのこく》(午後三時)、何事が起るか、とくと、見とどけよ。 篠路』
篠路が、何をしようとするのか、判らぬままに、重丸は、不吉な予感にかられた。
重丸は、祠を出ると、天を仰ぎ、太陽の位置によって、時刻をはかった。
――もうすぐだ。
小さなけもののような速力で、重丸は、嶺の頂上に馳せのぼり、東へ向った。
坂路は、急傾斜で、しかも真砂地であったので、重丸は、松の太枝を小刀で伐って、それにうちまたがり、まるで雪の斜面を滑走するように、下って行った。
深い渓谷が、落ち込んで居り、矼《とびこえ》の橋が架けられていた。
それを渡ると、本海道を眼下にする虎岩が、どっしりと居据っていた。
十団子《とうだんご》を売る茶店が、虎岩下に凭《よ》りかかるようにして、石をのせた木端葺《こつぱぶ》きの屋根をのぞかせていた。蔦の細道は、ここで終って、東海道が東西へのびているのであった。
半刻近くが、過ぎたであろうか。
重丸は、長蛇の行列が、宇津山を越えて来るのを、虎岩の上に伏せ乍ら、見出した。
重丸には、一瞥《いちべつ》しただけでは、それが、どこの大名か、判らなかった。
将士兵卒は、いずれも具足を解いて、平常の姿になり、槍鉄砲なども、わずかの数に減じていた。
ただ――。
まことにおびただしい数の荷駄が、蜿々《えんえん》としてつらなって居り、左右に、徒士《かち》目付、小人目付の装《なり》の供揃いが、異常なまでに多数であるのが、目立った。
尤も、荷駄をはさんで、前後の隊伍は、五十人一隊の編成をつくって居り、これは、いざとなれば、たちまち、一番備え、二番備えと、いくつかの陣備えになって、先陣後陣が、一斉に動いて、自由に、変化することができる行列であった。
ちょうど、行列の中央に、四方輿《しほうごし》に乗った、白髪の老人が、秋|闌《た》けた景色を、眺めやっていた。
――あいつ!
重丸は、心の裡で叫んだ。
――徳川大御所だ!
かあっ、と全身の血汐が燃えた。
思わず知らず、虎岩から滑り降りた重丸は、匐《は》い松の股のあわいから、双眸を光らせて、老いたる天下の覇者を、睨みつけた。
先払いの徒士が、十団子の茶店の前を過ぎ、馬や台笠や、槍のさきが、見えかくれしつつ、通って行った。
ほどなく、家康を乗せた輿が、茶店の屋根のむこうにかくれた。
その時であった。
茶店の屋根を、裏手から、黒い影が、するすると登った。
重丸は、あっとなった。半ば抜け落ちた頭髪、凄じい顔半面の火傷の痕――篠路にまぎれもなかった。
「小母御《おばご》!」
重丸は、胸が割れんばかりに、動悸打たせた。
篠路は、屋根の頂きに、すっと立つや、四方にひびき渡る。りんりんたる声音で、
「徳川家康殿に、物申す!」
と呼ばわった。
家康はじめ、行列一同が、はっとなって一斉に振り仰ぐや、篠路は、まとっていた黒衣をかなぐりすてた。
胸にも腹部にも四肢にも、無慚な火傷の痕が浮きあがり、人々の眉宇《びう》をひそめさせた。
「われこそは、大谷刑部少輔吉継が妹にて、右大臣秀頼君がご幼少の頃より、膳部の係をつとめし篠路と申す者にて候。……おのれは、秀頼君が幼主なるをよいことにして、関ヶ原役後は、豊臣家直管の所領を、摂河泉三州六十五万七千石に切り下げたるのみか、秀頼君が二十歳を越えられ、右大臣家に列せられたるにもかかわらず、世上一般が太閤の箕裘《ききゆう》を継がれて大政を関白せられるものと思い居りたるを裏切り、自ら征夷大将軍の職に就き、さらにその職を嗣子《しし》秀忠に譲りたるのみか、太閤殿下が在世の日、心を用いて蓄積されたる出師《すいし》準備の黄金欲しさに、ついに、あらぬ口実をつけて、攻めたて、わずか二十三歳の秀頼君を滅したる大罪は、百年千年の後まで、怨恨となって、この世にとどまるであろう。……姦物! 亡君が無念のほど、この女子が、代って、おのれに投げつけてくれようぞ!」
叫びあげた篠路は、短剣をたかだかとふりかざして、宙を躍りざま、輿めがけて、襲いかかった。
そのみにくい裸身にむかって、先陣後陣から幾本かの矢が、飛んだ。
のけぞる老覇者の前に、すくっと立った篠路は、肩に腕に腰に股に、矢を射立てられ乍らも、なお倒れようとせず、鮮血を噴かせつつ、ほとんど意識を喪《うしな》い乍らも、短剣をさしのべて、突こうとした。
岩蔭で、松の幹にしがみついていた重丸は、
――小母御!
胸の裡で、絶叫した。
女性として、空前にして絶後とでもいうべき壮烈無比な復讐夜叉としての最期ぶりは、重丸の眼裏にやきついて、ついに、生涯消え得ぬものとなった。
思えば――
あの時の荷駄こそ、家康が大坂城から奪い取った太閤遺金であったのだ。
いまも……。
目蓋を閉じている弥五郎は、昨日のことのように、ありありと、あの瞬間の光景を、甦《よみがえ》らせることができる。
――あの小母御の怨念をしずめるためにも、おれは、壮志を遂行せねばならぬのだが……。
三
高崎では――。
天守閣を彼方に仰ぐ窓辺で、九条明子は、浄几に就いて、しずかに筆を走らせていた。
明子は、世尊寺流(藤原行成・行能・行尹の三筆)を習って、能筆であった。
思いうかぶままに、万葉の恋歌を、しるしていた。
妹が門出入の河の瀬を早み吾が馬|躓《つまず》く家思うらしも
置きて行かば妹はま悲し持ちて行く梓《あずさ》の弓の弓束にもがも
後れ居て恋は苦しも朝狩の君が弓にもならましものを
「姫様!」
背後から呼ぶ者があった。
明子は、振り向いてみて、いつの間にか、部屋の片隅に、小者ていの老爺が、かしこまっているのをみとめた。
「そもじ、何者ですか? どうして、ここに――?」
「無断、参上つかまつり、ご無礼の儀、幾重にもお詫びつかまつります。……夜兵衛、と申します」
平伏する老爺を、見まもった明子は、急に、かたい表情になり、
「そもじ、松平伊豆守殿より遣《つかわ》された者ですか?」
と、訊ねた。
「いえ、そうではござりませぬ。大納言卿より命じられて、罷《まか》り出ました」
「え? 忠長殿より――?」
明子は、ぱっと顔の色を明るいものに変えた。
「忠長殿が、わたくしに、逢おうと仰せられますのか?」
「は――いえ、実は、大納言卿には、貴女様のまことの心情が、いかなるものか、それを、知りたいゆえ、きいて参れ、と……」
「まことの心情を?」
「はい」
わかりきったことをおたずねなさる、と云いかけて、明子は、はっとなった。
松平伊豆守の面貌が、思いうかんだからである。
伊豆守は、明子に命じたのである。
「大納言卿は、神君(家康)が二代様に残された遺言状を、ご所持のはずでござる。……その遺言状を、大納言卿に気づかれぬように、手に入れて、身共にお渡し下さるよう――」
明子は、、怒りに身をふるわせて、自分がもしその命令を拒んだならばどうなるのか、と問うた。
伊豆守の返辞は、冷酷なものであった。
「大納言卿に、自刃して頂くことになりましょう」
そして、こうも、つけ加えたのであった。
「貴女様の心ひとつに、大納言卿の生死は、かかって居ります」
松平伊豆守が、この明子を高崎へ送ってくれたのは、ひとつの目的があってのことであった。忠長に同情して、恋の仲立ちをしてくれたのではなかったのである。
明子は、宙へ眼眸を置いて、しばらく、沈黙をつづけた。
夜兵衛は、じっと、明子の美しい横顔を、瞶《みつ》めている。
その微妙な表情の変化から、夜兵衛は、心の裡を読みとろうとしていた。
やがて――。
「忠長殿は、わたくしに逢おうとは、仰せられぬのですね?」
「いえ、逢おうというお気持がおありのように、拝察つかまつりました」
「……わたくしは、忠長殿を、お慕いして居ります」
明子は、云った。
嘘ではなかった。忠長の面影が、明子の脳裡から、片刻《かたとき》も、消えたことはなかった。
――そうか。この姫君は、自分が伊豆守のあやつり人形にされていることを、知って居るのだ。
夜兵衛は、察知した。
「姫様――」
「………」
明子は、夜兵衛を見かえした。
「大納言卿に、お逢いなされませ。てまえが、そっと、ご案内つかまつります。……今夜半にも、誰人にも気づかれぬように――」
夜兵衛は、すすめた。
[#改ページ]
再 会
一
大納言忠長が、名張の夜兵衛のひそやかな呼び声をきいたのは、まるで、それを予感していたように、ふっと目覚めて、
――もうそろそろ、夜明けか。
と、胸の裡で呟いた――直後であった。
「夜兵衛にございまする」
「うむ。……明子に、会うてくれたか?」
忠長は、訊ねた。
「はい」
「明子のまことの心情を、問うてくれたか?」
「大納言卿にお願いつかまつります。姫君のまことの心情は、姫様御自身の口より、おききとりのほどを――」
「………」
忠長は、はっとなって、掛具をはねると、起き上った。
「明子を、ともなった、と申すのか?」
「はい」
夜兵衛が、よもや、監視の目をぬすんで、明子を抜け出させ、ここへ連れて来ようとは、予想もしていなかった忠長は、おどろきとよろこびで、胸の動悸が高鳴った。
「……では、てまえは、これにて――」
別れを告げる夜兵衛の声を、うわの空できき乍ら、忠長は、とっさに、どうしてよいか、わからなかった。
夜兵衛は、敏感に、忠長の気持を汲み取ったらしく、
「寒気がきびしゅうございますれば、はよう姫様を、お内へ――」
と、云いのこした。
忠長は、その言葉で、あわてて、牀《とこ》をはなれると、灯をともし、杉桁縁に行き、|にじり《ヽヽヽ》口の戸を開けた。
流れ出る仄《ほの》かな光の中に、明子の姿が、浮きあがった。
「………」
「………」
無言裡に、若い男女は、じっと瞶め合った。
三年ぶりに逢ったのである。
忠長は、片手をさしのべて、明子の手を把った。明子の手は、氷のように凍《い》てついていた。
茶亭内に、明子をみちびき入れた忠長は、なかば夢中で、その細い嫋《なよ》やかな処女のからだを、牀の中へ、横たえさせた。
愛し合っていた二人であったが、これまで、忠長は、明子の手ひとつにぎったことさえなかった。
異常な状況が、忠長に、こうした思いきった行動をとらせ、明子もまた、自然な素直さで、これにしたがった、といえる。
忠長は、はじめて、明子を抱いた。
しかし、それは、凍てついてしまったからだをあたためてやろうとする意識から、そうしたのであって、男の本能を抑えた優しさをこめたものであった。
むしろ、明子の方が、牀の中のぬくもりに、はじめて男に抱かれる官能の疼《うず》きをおぼえた。
忠長は、双腕の中へ、嫩《やわら》かな繊躯《せんく》をつつみ込むようにして、じっと動かなかった。
互いに、口をきくことも、動くことも、禁じられているように、ひそとして、夜明け前の静寂の底にいた。
忠長と明子が、はじめて出会ったのは、寛永二年――七年前のことであった。
この年八月二日、新将軍家光が、鷹司信房の女《むすめ》孝子を娶《めと》り、江戸城内で、盛大な婚儀の式と祝宴が催された。九条明子は、鷹司孝子につき添うて来た十四歳の少女であった。そして、その時、忠長は、二十歳であった。
忠長は、その前年――寛永元年、十九歳で、駿府城の城主となり、五十五万石を領していた。
いずれ、妻を迎えなければならなかったが、忠長は、江戸城天守閣前の庭苑でひらかれた宴遊の会で、明子を一瞥するや、
――妻にするならば、この乙女にしたい。
と、心にきめたのであった。
しかし、明子は、まだ十四歳であった。忠長は、一人、その気持を胸に秘めて、人には打明けなかった。
翌寛永三年、父秀忠が上洛して二条城に入った際、忠長は、これに随行し、公卿が催す歌会に出席し、明子と再会した。
その時、忠長と明子は、半刻あまり、二人きりですごす機会を得た。二人の心がかよい合ったのは、はやくも、その対座のあいだであった。
その後、忠長は、常に心がけて、上洛の機会をのぞみ、そのたびに、明子と逢った。
たとえば、寛永六年十一月に、後水尾天皇が、皇女興子内親王に、にわかに譲位された時など、忠長は、その譲位をよろこばぬ父秀忠、兄家光に代って、祝賀の辞を述べに上洛した。目的は、明子に逢うためであった。
すでに、明子は十八歳になり、その美貌は、若公卿たちに、歌にまで詠《よ》まれていた。
忠長は、譲位をよろこばぬ将軍家と大御所に、上皇の御気持をつたえる役目を、京都所司代板倉重宗に、申し入れて、一月以上も、京都にとどまった。
明子がいる京都に滞在することは、忠長にとって、愉しかった。また、逢う機会が、しばしばあった。
しかし――。
忠長は、明子に恋を語りはしなかった。互いの心がかよい合っている以上、言葉に出すまでもないことであった。
忠長は、閣老を介して、九条家に正式に申し入れるのを、いつにしようか、と考えていた。明子を娶《めと》ることに反対する者など一人もいるとは思われなかった。
二
皇女興子内親王が即位されて、その儀式が、寛永七年九月十二日に、挙行されたが、忠長は、その儀式に列席すべく、駿府城を出発しようとした矢先、江戸城よりの使者から、将軍家の名をもって、
「罷り成らぬ」
と、拒否されたのであった。
駿河大納言が、ひそかに、大御所(秀忠)に加増を乞い、然らざれば大坂城を預けられんことを強請した、という事実無根の噂が、江戸城内でささやかれていることを、忠長は、全く知らなかったのである。
やがて、大御所秀忠が、江戸城西の丸で病み臥すや、忠長は、突如として、甲府に蟄居させられ、明子を妻に迎えるどころではなくなったのである。
皮肉にも――。
改易配流の身になって、はじめて、忠長は、明子を双腕に抱いたのである。
兄家光の憎悪さえなければ、いま頃は、駿府城内で、明子を妻として、抱いていたであろうに、身におぼえのない罪状を問われて、すべてを失ったこの配所で、密通同様に、明子を、牀に入れている口惜しさが、忠長に、恋情を燃えさせなかった。
状況は如何に異常であれ、恋し合っている男と女が、契《ちぎ》ってなんのふしぎもないはずであった。
にもかかわらず、忠長は、明子を抱いたなり、微動もせぬ。
……と。
明子の方が、羞恥を含み乍らも、そっと、顔を寄せ、忠長の頬へ頬をあてた。
処女であっても、いざとなると、女人の方が、大胆であった。
何者に邪魔されるおそれのない、このひとときを、明子は、生涯に二度とめぐって来ない幸運として受けとるや、わが肌を恋する男に与える喜悦を、好奇の心をまじえつつ、その身の動きに現したのである。
忠長は、これに応《こた》えて、明子から衣裳を剥《は》ぎとり、官能の波に五体をゆだねるべきであった。
この三月の間、ほとんど口をひらくこともなく、憂悶の日々を送って来た若い配謫者が、明子の大胆さに、応える代りに、ふっと、ひとつの疑惑をおぼえたとしても、無理からぬことであろう。
「貴女《あなた》は、松平伊豆のはからいで、この高崎へ――この忠長に、逢いに来た。そうであろう?」
返辞はなかったが、はっと身をこわばらせたのが、云い当てられた、とみとめたことを示した。
「やはり、そうであったか」
忠長は、明子から双腕を解くと、身を起した。
明子も、起き上って、牀から降りないわけにはいかなかった。
「松平伊豆守信綱という男、ただ、わしをあわれんで、わしが愛する女人を、配所まで送りとどけてくれるような、慈悲心など、みじんも持っては居らぬ」
「………」
「貴女は、伊豆から、なにか条件をつけられて、わしに逢いに来たに相違ない。……伊豆は、わしが貴女に逢おうとせぬと知ると、酒井忠勝の名をかたって、貴女をそばへ置け、とすすめて来た。わしは、あやうく、信じるところであった。いや、書状を読んだ時は、忠勝がしたためたものと信じた……。伊豆の奸計と、判った。……わしと貴女は、老中松平信綱の策謀に乗せられて、こうして逢うているのだ」
「………」
「伊豆は、貴女に、如何なる条件をつけたか、うかがおう」
「………」
明子は、ふかく俯向いたまま、こたえなかった。
出府して、松平信綱の下屋敷に泊められた時、深夜、伊豆守から云い渡された言葉が、明子の耳底にこびりついていた。
「貴女様の心ひとつに、大納言卿の生死は、かかって居ります。……二度とは、申し上げぬ。貴女様の働きによって、大納言卿のおいのちは、救われましょう」
明子は、忠長が所持しているであろう家康が秀忠に残した遺言状を、盗むように、命じられたのである。
――もし、わたくしが、このことを打明けたならば、忠長様は、遺言状が、伊豆守の手に渡らぬように、なさるにちがいない。あるいは、焼きすててしまわれるかも知れない。……その時は、伊豆守は、忠長様を殺して、遺言状を手に入れようとするにちがいない。
「明子殿、なぜ、こたえぬ?……貴女は、わしを愛して居るのではないのか? まこと、愛しているなら、つつみかくさず、申されい! さ、申されい!」
忠長は、迫った。
三
夜は、明けていた。
「おい、半兵衛、起きろ!」
丸橋忠弥が、呶鳴った。
倉ヶ野から程遠からぬ雑木林の中の、例の小さな古びた神社の社殿を、忠弥と金井半兵衛は、仮のねぐらとしていた。
柏餅のように、一枚の布団にくるまっていた半兵衛が、首を持ち上げて、
「なんだ? まだ、夜が明けたばかりではないか」
「熊谷三郎兵衛というあの爺いめ、逃げたぞ。昨夜までに、ここへ戻って来る、という約束を破り居った。もう、戻っては来ぬぞ」
「さあ、どうかな」
半兵衛は、大あくびをした。
「あくびなどして居る場合か。あの爺いは、駿河大納言に忍び会ったかも知れん。……おい、半兵衛、懸河の弁をふるって、駿河大納言を説く、と高言をほざいたお主が、こんなところで、三日も四日も、縮こまっていてよいのか」
「急《せ》いては事を仕損ずる。まず、名張の夜兵衛が、どんな行動をとったか、それを知った上で、思案する」
「爺いは、とっくに、どこかへ、飛んだかも知れんではないか」
「飛ぶには、ちと年を取りすぎて、翼の力があるまい。爺さんは、おれたちと組む肚《はら》だ。まず、この見当は、はずれぬ」
「いやに自信ありげだな」
「待っていてみろ。爺さんは、戻って来るぞ」
半兵衛の見当は、はずれなかった。
それから四半刻《しはんとき》も経たぬうちに、格子が開かれて、夜兵衛の姿が、入って来た。
「どうした、首尾は?」
忠弥が、目を光らせて、訊ねた。
「駿河大納言卿に、九条家の姫君を、お逢わせいたした」
「そんなことは、どうでもいい。お主が、大納言をくどいた――その首尾をきいて居るのだ」
「豊臣家遺金が、駿府にいまだ所蔵されていることは、大納言卿も、おみとめでござった」
「どこだ? その場所は――? 大納言は、お主に、教えたか?」
忠弥は、首を突き出した。
「深夜、突然、忍び寄った者に、やすやすと、教える御仁がござろうか」
夜兵衛は、薄ら笑った。
「それは、まあ、そうだが……、ともかく、大納言に会って、話したことは、たしかだな?」
「ひとつだけ、大納言卿に、約束して頂き申した。駿府に所蔵されてある場所を、松平伊豆守には、決して打明けぬ、と」
「しかし、こっちにも、教えてくれんのでは、何もならん」
その時、半兵衛が、
「お主、九条家の姫君を、大納言に逢わせた、と云ったが、それは、どういうことだ?」
と、訊ねた。
「九条家の姫君は、大納言卿と、かねてより恋慕の仲でござった」
「ふむ。それで――?」
「姫君が、高崎まで、卿に逢いに参られたのは、松平伊豆守のはからいでござった」
「ははあ、判った。伊豆守は、女子を使って、大納言に所蔵場所を吐かせよう、と企てて居るのだ。……ところで、どうして、お主が、手びきして、大納言に姫君を逢わせなければならなんだのだ?」
夜兵衛は、忠長が、それが伊豆守のはからいとさとって、逢おうとはせぬのを知っていた、と告げた。
「恋の仲立ちをしたことは、すなわち、伊豆守の策計に、片棒をかついだことになるではないか」
「結果は、たぶん、片棒をかついだことには、なり申すまい」
「大納言は、惚れた女子にも、所蔵場所は、打明けぬ、というのか?」
「いや、そうは申しては居りませぬよ。打明けられるかも知れ申さぬ」
「それならば……」
「いや、お待ち下され、……大納言卿が、伊豆守の思惑通りにはなさらぬ、と存ずる。ただ、男女の仲は、まことに、微妙なもので、幾年か後、お子でももうけられたならば、大納言卿も、打明けられるかも知れ申さぬ」
「そんな気長な話など、ききたくもない。第一、お主、あと十年も生きられはせぬぞ」
忠弥は、ばかばかしげに、吐きすてた。
夜兵衛は、微笑して、
「何事にも、布石が肝要、それが捨て石になるか、見事に生きるか、それは、神のみぞ知り申すこと」
と、こたえた。
[#改ページ]
大手門切腹
一
今日も――。
江戸では、古今未曾有の大城郭造りのために、数万の人々が、必死になって、蟻のごとく、働いていた。
品川湾ならびに隅田川の城石揚げの専用船着場では、各大名の石船から、五十人持ち、百人持ちの巨大な角石をはじめ、割石、栗石が、あるいは、捲車――神楽桟と称ばれた日本式ウインチで、ゆっくりと陸揚げされたり、丸太棒のコロで台を動かして運びあげられたりしていた。
そして、船着場から、江戸城内の普請場までは、千人あるいは二千人の人夫が、木遣《きや》りの歌も絶え間なく、石引きをしていた。厳冬を迎え乍《なが》ら、人夫たちは、いずれも上半身を剥《む》き出し、汗で肌を濡らしていた。
石引き行列の先頭には、それを宰領する大名家の旗や幟《のぼり》がかかげられていた。
陸揚げされた石材を、普請場まで運ぶ任務と、石垣積みの工事が、それぞれ各家で分担されている次第ではなかった。
伊豆半島その他の石切りの丁場に於ては、切り出しと、波止場までの運搬と、受け持ちの大名がちがっていた。石材の切り出しは、十万石以上の大名が受け持ち、波止場までの運搬は、外様の小大名が分担するのが、不文律になっていた。
石船で、江戸まで運ぶのは、親藩・外様の大大名が受け持っていた。そして、石垣工事は、また、別の大名が、引き受けていた。
しかし――。
三代家光の時世になってからは、例えば、備前池田家のように、自領内から切り出した石材を、海上運搬するのも、江戸で陸揚げして、普請場まで運ぶのも、そして、石垣施工も、すべて、自家が負担するようになっていた。これは、幕府からの通達ではなく、大名自身の『ご奉公』であった。
徳川家のために、自家の金蔵の軍用金を使い、領民をして苦役に従わせることが、最大の『ご奉公』だったからである。
慶長十一年に、藤堂高虎によって作成された縄張りによって、採石ならびに石船の調達に応じたのは、加藤清正、池田輝政、福島正則、加藤嘉明、木村忠政、黒田長政、山内忠義、有馬豊氏、京極高知、細川忠興、池田忠継、浅野幸長、鍋島勝茂、寺沢広高ら、西国の諸大名であった。
すなわち。
大坂城に、豊臣秀頼が在るその頃、
――もしや?
という懸念から、家康は、太閣秀吉恩顧の大名衆に、ぞんぶんに軍用金を使わせる狡知《こうち》の思慮をしたのである。
したがって、その際は、採石、運送のみならず、築城工事にも、西国大名たちに丁場を割り当て、施工せしめた。
細川忠興(本丸・外郭石垣)
前田利光(外郭石垣)
池田輝政(外郭石垣)
加藤清正(本丸石垣・外郭石垣・西丸大手門・曲輪石垣・富士見櫓石垣)
福島正則(外郭石垣)
浅野幸長(外郭石垣)
黒田長政(天守台石垣・外郭石垣)
山内忠義(本丸石垣・外郭石垣)
毛利秀就(本丸・外郭石垣)
吉川広家(本丸)
木下延俊(虎ノ門石垣)
木下延俊などは、豊後国速見郡日出のわずか一万五千石の小大名であった。しかし、その父が、太閤秀吉の正室北政所の兄木下家定であったために、この助役を課せられたのである。
虎ノ門を作ったために、木下家は、ついに、幕末まで、借財からまぬがれることができなかった。
いうならば……。
江戸城は、豊臣秀吉恩顧の大名たちの手によって、成ったといっても、過言ではない。
周囲約四里の外郭、周囲約二里の内郭の濠を掘ったのは、奥羽、北陸、関東の諸大名――伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、最上義光、佐竹義宣、堀忠俊、溝口秀勝、村上義明らであった。
大坂城を滅亡せしめる以前に、豊臣家恩願の大名たちは、軍用金を湯水にひとしく費消させられて、完全に牙を抜かれていた、といえる。
慶長十九年までに、江戸城普請工事に、助役を命じられた譜代大名は、一人もいなかったのである。
二
城の美しさは、まず、その石垣の優美な曲線を描いた勾配にある。世界に比類をみないその勾配の美しさは、いったい、誰が考え出したものか?
これは、決して、まず美観を念頭に置いて作りあげた勾配ではなかった。
石垣が、永久に崩れないようにするために、考え出された形状であった。
水を湛えた濠から、重い石を、順々に高く積みあげる石垣には、当然、その基底の部分に非常な重圧が、かかるのは、自明の理である。
地盤がよほど堅くない限り、石垣は、しだいに沈下し、やがて、崩れ落ちる。そのために、底部の勾配をゆるやかにし、上部にゆくにしたがって、急にする。その形状に、美が生ずる。
石垣の積みかたには、算木積み、野づら積み、打込み接《は》ぎ、切込み接《は》ぎと四種の方法があり、これが併せて、為《な》されている。
積み上げられた石垣に、内部から土と水の重圧がかかるのは、力学上のいろはである。
したがって、石垣の裏には、水圧からまぬがれ、土圧をかわすために、非常な工夫が為されている。そもそも、石垣の、表面に現れた部分は、いわば、氷山の一角と考えてよく、かくされているのが大部分であった。いわゆる根を持った石を積んであるのであった。その奥に大きな割栗石を詰めてあり、さらに石を砕いた砂利と砂を詰めてあるのであった。
工夫を重ねたこの美しい勾配の石垣が、はじめて大きな規模で作りあげられたのは、織田信長の安土城であった。
近江国蒲生郡豊浦庄に、いくつかの丘陵が東西に連接し、安土山は、その西北端にあった。
奥島・伊崎島を置いて、琵琶湖をさえぎって、内湖《うちうみ》をつくった前景を、信長は、安土山の頂上に立って、眺めやり、
「この湖水が濠の役割をはたす」
と云って、城を築くことにしたのであった。
佐和山城主丹羽長秀を普請奉行にして、天正四年正月吉日を期して、着手せしめた。
安土城の石垣は、観音寺山、長命寺山、長光寺山、伊場山などの山々から、巨石が切り出されて、千、二千、三千|宛《ずつ》、安土山へひきあげられた、という。
それでも足らず、信長は、附近の諸城の石垣を崩して、巨石を撰《え》り取って、運ばせた。
津田坊の大石、というのがあった。蛇石という名石で、その巨大さは、とうてい、人力で運ぶのは、不可能と考えられた。
信長は、しかし、敢えて、蛇石で安土城を飾れ、と命じた。そこで、羽柴筑前守秀吉を頭領として、滝川左近、惟住《これずみ》五郎左衛門が、一万余の人夫を動員して、三昼夜かかって、山頂へ運びあげた、という記録がのこっている。
安土城こそ、日本の城郭に、革命をもたらした、といえる。
それまでの城砦《じようさい》は、自然の嶮岨に拠《よ》ることのみを重視したのである。
しかし、鉄砲、大筒が渡来し、それが攻防上最大の威力を発揮するようになってから、石垣こそ防禦に最適のものとなったのである。
さらに――。
信長は、天下の覇者たるにふさわしい城郭の結構を、諸将に示したかったのである。天守閣というものは、すでに永正年間に、摂津の伊丹城などに設けられていたが、せいぜい三重の高さにすぎなかった。
安土城にそびえた天守閣は、高さ十二間の七重(七階)の壮麗さであった。完成までに、約三年の月日を費した。
不幸にして、この天下無比の名城は、明智光秀の乱によって、烏有《うゆう》に帰し、石垣もまた、後年、大坂城を築くために、運びさられた。
信長が、安土城を築いたことは、やがて、豊臣秀吉をして、大坂城を築かせ、聚楽第を建てさせ、さらに伏見城をつくらせた。
築城の術は、桃山時代に入って、長足の進歩をとげた。
天下の覇者にふさわしい城を築いた信長・秀吉にならって、諸大名はあらそって、華麗な城を築いた。
天正年間には、姫路城、広島城、明石城、岡山城、松本城が築かれた。
文禄に入ると、金沢城、若松城が築かれた。
慶長初期には、仙台城、福岡城、熊本城、和歌山城、高知城が、ぞくぞくと、碧落《あおぞら》に天守閣をそびえさせた。
そして――。
第三の天下の覇者となった徳川家康が、信長の安土城、秀吉の大坂城よりも、さらに規模の大きな、文字通り空前絶後の大城郭を、江戸に出現せしめようと考えたのは、当然の推移であった。
家康には、豊臣家恩顧の大名たちの金蔵を、空にしてくれようという計算もあったのである。そのためには、江戸城の規模は、大坂城のそれよりも、二倍でなければならなかった。
三
次のような逸話が、のこされている。
石垣普請は、いうならば、諸大名の築城技術のコンクールであった。
いかに立派に、美しく、しかも永久の堅牢を保つように築きあげるか。また、人目につく場所を得て、後世までも、
「あれが、何家の築いたもの」
と、指さされたかった。
皮肉なことに、人目につかぬわるい丁場の方が、工事が困難で、それだけ、費用も余計にかかった。
普請丁場をきめるのは、籤《くじ》びきによって為された。
慶長十九年――第三期大工事が行われたが、この時も、西国の外様大名が動員された。
桜田から日比谷にかけて(いまの警視庁前から帝国劇場前あたりまでの)石垣の築造にあたったのは、
浅野但馬守|長晟《ながあきら》(和歌山三十七万四千石)
加藤侍従忠広(熊本五十三万石)
この二人であった。
このあたりは、神田山(駿河台)を崩して、その土で埋めたてた場所であった。家康が入府した頃は、遠浅の入江で、漁師の子らが、浅蜊蛤《あさりはまぐり》を取っていたのである。
したがって、地盤が、非常に弱かった。
浅野家では、桜田門の右方を築いていたが、工事を非常に急いだ。
浅野家では、慶長十一年の工事で、細川忠興の世子忠利が陣頭指揮をして、本丸石垣を築いたが、朝に根石を置いたばかりなのに、夕刻には、もう人が双手をさしあげるよりも高く石垣を積み重ねて、将軍秀忠に、おほめの言葉を頂いた、という話が、念頭にあり、是が非でも、加藤家よりも、一日でも早く、完成したかったものであろう。
浅野家の工事が七分通り築かれた頃、加藤家では、まだ五分も進行していなかった。
ところが、某日、凄じい夕立が襲いかかり、浅野家の石垣は、一挙に崩れ、百数十人もの家臣及び人夫が圧死する生地獄に遭った。
それにひきかえて――。
日比谷濠の(今日の日比谷公園側から帝国劇場側への)曲り角を中心とした石垣を築いていた加藤家では、五分の積み石に、みじんの狂いもみせなかった(そして、なお、一九七二年のいまも、われわれの目に、その美しい勾配のすがたを、見せてくれている)。
この石垣の普請奉行は、森本儀太夫といい、主君清正の重臣の一人で、熊本城を築いた築城家であった。
儀太夫は、空濠に降りて、その地盤が、涸《か》れた沼地同様のやわらかいものであるのを見とどけると、ます、千余の人夫に命じて、武蔵野に茂った萱《かや》を、多量に刈りとらせて、運ばせて来た。
そして、それを石を積む地盤に敷きならべさせ、家臣・人夫ともども、十歳から十三四歳までの子供たちを、集めて来て、その上を踏みかためさせた。
地盤がかたまったところを、見はからって、儀太夫は、はじめて、そこへ石垣を築いたのであった。
寛永九年の大晦日は、空に一片の雲影もなく晴れ渡り、風もなく、おだやかな午《ひる》であった。
江戸城桔梗門を、馬で駆け出たのは、将軍家光であった。すぐつづいて、老中酒井忠勝が、追って出て来た。あとにしたがったのは、数人の小姓だけであった。
家光は、辰巳櫓を左方に見て、桔梗濠に添うて、大手門へ、馬を駆った。
一気に、大手門を駆け抜けて、広場の中央まで進み出た家光は、馬首をまわした。
「ほう、なるほど!」
家光は、にっこりした。
「天守閣のむこうに、富嶽が、守り神のように、すっきりとそびえて居るわ」
家光が、こうして、馬上からゆっくりと、天守閣と富士山を配した空を、眺めやったのは、はじめてであった。
「忠勝、正月には、この広場で、大名どもに馬揃いをさせるか」
「武者備えをなされますか」
忠勝も、微笑した。
そこへ――。
和田倉門の橋を駆け渡って、家光めざして、奔《はし》って来た武士があった。
小姓たちが、さっと、家光を守って、前へ出た。
「上様っ!」
二十歩あまりへだてて、土下座したのは、前将軍秀忠が、駿河大納言忠長に、附家老として、駿府へ送ってやった御堂玄蕃であった。
忠長が、改易配流になると、御堂玄蕃は、二万石の所領を返上して、姿をかくしてしまっていたのである。
「上様! お願いでございまする! 何卒《なにとぞ》、大納言様を、お許し下さいませ。ただの十万石、いえ、五万石が三万石でも、たまわりますように、伏してお願い申し上げまする!」
御堂玄蕃は、平伏した。
「黙れっ!」
家光は、一喝した。
「余に、許しも得ず、領地をすてて、姿をくらまし居った罪は、許せぬぞ!……切腹申しつける。この場で、見事かき切ってみせい」
「それがしが、切腹いたしますれば、大納言様を、お許し下さいましょうか?」
「うむ。考えてくれてもよいぞ」
「有難き幸せ――、切腹つかまつります」
御堂玄蕃は、衣服の前を押しくつろげると、脇差を抜き、片袖をちぎりとって、それに巻きつけた。
「上様、ここにて切腹させますれば、けがれに相成ります」
忠勝が、とどめたが、家光は、
「かまわぬ! 切らせい!」
と、叫んだ。
江戸城大手門前で、切腹して相果てたのは、御堂玄蕃が、はじめてであり、その後、明治に至るまで、一人もいなかった。
[#改ページ]
吉 原 絵 師
一
一年という月日の経つのは早い。
名張の夜兵衛が、ふらりと、浅草幡随意院門前の横町におる町奴長兵衛の家に、姿を現したのは、ちょうど、まる一年目の初冬であった。
「どうやら、まだ、町奴の頭領にはなっていないようだな」
格子戸を開けてみて、破れ襖の隙間から八畳一間の屋内を眺めやった夜兵衛は、呟いた。
相変らず、家具調度は、なにもなく、ひとつだけ、まん中に火鉢が置かれてあった。
「ご免なさいよ」
台所で物音がするので、夜兵衛は、呼んでみた。
すすけた障子戸が開けられ、千夜の顔がのぞいた。
「あ――小父様!」
よろこびの色をいっぱいにあふれさせた千夜の顔は、この一年で、娘らしいういういしさをおびていた。
「ほう! なんとまあ、明るい容子《ようす》になったものぞ。……長兵衛が、親切にしてくれているのじゃな」
「はい。わたくしを、実の妹のように、やさしゅう可愛がって下されます。わたくしのつくる下手な料理も、おいしい、と云って召上って下さいます」
にこにこと、告げた。
「どうやら、千夜さんには、江戸の水が合ったようじゃ。結構、結構――」
千夜を対手にすると、夜兵衛は、いかにも好々爺《こうこうや》の旅商人そのものになった。
ちょうど、午《ひる》であった。
千夜は、夜兵衛の前へ、食膳をはこんで来た。
夜兵衛は、ならべられた惣菜を、一瞥《いちべつ》して、「ふーむ!」と唸った。わずか十二歳の少女がつくった料理とは、思われなかった。
箸をつけてみて、
「うまい!」
夜兵衛は、お世辞ではなく、舌つづみを打った。
「ご馳走さま――」
夜兵衛が、箸を置いて、合掌した折、格子戸があらあらしくひき開けられた。
「ちえっ、くそ面白くもねえや、浮世の仕組というやつは――」
ぶつぶつ罵《ののし》りすて乍ら、長兵衛が上って来て、破れ襖をひき開け、
「おっ、夜兵衛さん! こいつは、珍客だ。とんだ厄日だと思っていたが、おめえさんのご入来で、厄払いができるぜ」
と、云った。
「浮世の仕組が、どう面白くないのだね?」
「さむらいというものが、どうしてあんなことで、人を斬ったり、てめえ自身も腹を切らなけりゃいけねえのか。ばかばかしいったら、ありゃしねえや。……たかが、石をひとつ、あやまって、川へ落しただけのことよ、まるで天と地がひっくりかえった騒ぎをしやがって……」
長兵衛は、いまいましげに、つい先刻起った出来事を、説明した。
長兵衛は、今年に入ってから、仲間の町奴数人と語らって、人足請負の稼業をはじめたのであった。
仕事は、隅田川の城石揚げの専用船着場での運搬であった。
五万石以上の大名は、国許からつれて来た農民たちを使っていたし、足りない人数は、すでに手びろく請負っている人入れ業の親方と契約しておぎなっていた。
駆け出しの若い町奴が人足をかき集めた組をやとってくれるのは、二万石か一万石の小大名だけであった。人夫賃をできるだけ、安くあげるべく、たたけるだけたたくことができたからである。
長兵衛が頭領となった幡随意院組は、他の大きな組の三分の二に足りぬ賃銀で、働かざるを得なかった。尤《もっと》も、かき集めた人足は、|ろくでなし《ヽヽヽヽヽ》ぞろいで、城石の陸揚げ、運搬に経験のある者など一人もいなかった。
幡随意院組が、昨日からやとわれたのは、大関右衛門佐高増という、一万八千石の小大名であった。西之丸的場の乾壕の石垣を分担していた。
今朝、最後にのこった三十人持ちの石を、船から、丸太棒のコロで台曳きし乍ら、揚げようとした時、あやまって、川へ落してしまったのであった。
大関家の普請方は、まだ二十七八歳の武士であったが、激しい水|飛沫《しぶき》をあげて、石が川底へ沈むや、かっとなって、コロの丸太棒のならべかたをあやまった人足を、いきなり手討ちにしたのである。
長兵衛はじめ、幡随意院組が、憤然となって、包囲すると、その普請方は、
「責任は、拙者がとる」
と、云いざま、脇差を抜いて、腹へ突き立てたのであった。
「……全く、冗談じゃねえや。その石が、大手門とか天守台とかを飾る何百人持ちの、日本中をさがしまわって、やっとさがし出して運んで来た名石というのなら、話がわかるんだが……、たかがそこいらにころがっている、なんの変哲もねえ石じゃねえか。……きけば、的場の乾壕の石垣用だというんだ。そんな石ひとつ、落したぐれえで、人足を斬って、てめえもくたばるんだから、こんな阿呆らしい話が、またとあるもんけえ」
憤懣のやり場のない様子の長兵衛を、見まもっていた夜兵衛は、
「どうだな、気分なおしに、吉原へでも行くかね」
と、さそった。
二
当時――。
傾城《けいせい》町(遊廓)は、後世の概念とはちがったものであった。
遊女というものは、軽蔑された存在ではなかった。
幕府奉行所では、式日などは、吉原から、大夫と称《よ》ばれる女郎を三人ずつ給仕にさし出させていた。
大夫たちが、奉行所へおもむく際は、舟に苫《とま》覆いをし、幕簾《すだれ》をかけた。これが、屋形船の濫觴《らんしよう》である。
傾城は、廓の外へ出してはならぬ、という禁止条項があったが、奉行所が給仕に召し出すぐらいであったから、旗本屋敷や大商人の家へ呼ばれて、おもむくのは自由であった、神社仏閣への参詣という口実であった。
夜兵衛が、長兵衛とともに、登楼したのは、廓でも一番大きな構えの揚屋《あげや》であった。長兵衛は、夜兵衛の正体を知らなかった。五年あまり前、夜兵衛が、旧知の幡随意院住職をたずねて来た時に、斎《とき》の給仕をさせられて以来、長兵衛は、なんとなく、この老人が只者ではないような気がしていた。しかし、正体を訊ねたことはなかった。
「ひとつ、今日は、派手に遊ぼうかな」
夜兵衛が、云うと、長兵衛は、
「ようし、まかせておいてくれ」
と、胸を叩いた。
ちょうど一年前、旗本神祇組が、一糸まとわぬ素裸にした遊女をひっかついで、大門を出たところを、たった一人で、行手をさえぎり、男伊達《おとこだて》ぶりを発揮して以来、長兵衛は、吉原で、人気者になっていた。
この頃の吉原には、大夫七十数人、これに次ぐ格子女郎が三十人あまり、端《はした》女郎は九百人近くいた。
座敷には、やがて、大夫が五人、格子女郎が七人、端女郎が二十人以上も、ぞろぞろと入って来た。
「これだけ傾城が、そろったんだ。ひとつ、勧進舞いをやらかすか」
長兵衛が、先に立って、踊りはじめた。
夜兵衛は、床柱を背にして、にこやかに、華やかで、いささか猥雑な勧進舞いを、眺めていた。
但し、酒は一滴も、口にしなかった。
一|刻《とき》あまりうかれさわいで、女郎たちの大半が去った頃あいであった。
番頭が入って来て、長兵衛に、
「まことに、恐縮なお願いをいたしとう存じますが、こちらの長者さんに、おとりなし下されますまいか?」
と、たのんだ。
「なんでえ、願いってえのは?」
「あるいは、お叱りを蒙《こうむ》るかも存じませんが……」
十日ばかり前から、流連《いつづけ》ている一人の絵師がいるが、今日、支払いを請求したところ、金子《きんす》は所持していない、と平然としてこたえた。
どうして支払うつもりだ、と訊ねると、
「むこうの座敷で、大層派手に遊んで居られる長者に、絵を一枚|描《か》いて、買ってもらえば、あと十日ぐらいは居つづけられる」
と、こたえた、という。
「なんという絵師だ?」
長兵衛が、問うた。
「守信《もりのぶ》、と申されて居ります。登楼された時、三日分先払いされたので、どの程度名のある絵師か、ようきいて居りませんが……、そちら様は、守信という絵師を、ご存じ寄りでございましょうか?」
番頭は、夜兵衛に訊ねた。
夜兵衛は、即座に、こたえた。
「探幽斎狩野《たんゆうさいかのう》守信。もし、本物なら、日本一だな」
三
探幽斎狩野守信は、狩野派中興の傑物であった。稀代の奇人としても、有名であった。
元和のはじめ、守信は、駿府城へ呼ばれて、家康の面前で、絵を描いたことがあった。
家康の所望は、
「源頼朝、義経、ならびに梶原景時三人の、それぞれの性格を顕《あらわ》した図を描いてみよ」
それであった。守信は、ちょっと思案していたが、すぐに、絵絹に、筆をはしらせはじめた。
その図は――。
頼朝と景時が、碁をかこみ、義経と範頼が、かたわらで、その烏鷺《うろ》の争いを見物している時、突如として、稲妻が閃き、庭前へ落雷した――その一瞬の光景であった。
頼朝は、顔色常のごとく、平然として居り、景時はこの隙をうかがって、窃《ひそ》かに手を出して碁石を窃《ぬす》もうとして居り、義経は、刀の柄に手をかけ、景時が石をつかんだならば、一太刀の下に斬りすててくれようと、身構えている。すなわち、頼朝も景時も義経も、三人とも、落雷などは、みじんもおそれては居らず、ただ一人、範頼だけが、両掌で耳を掩《おお》うて、座にひれ臥していた。
家康は、眺めて、
「まことに、穿《うが》ち得て、妙だの」
と、感服した。
守信は、その時まだ、三十前であった。
偏窟《へんくつ》の名人らしく、守信は、一所不住の流浪の歳月を送った。
泉州堺の一国寺の居候となった頃の逸話がある。
守信は、徒《いたず》らに寝、徒らに食い、全く何もせずに、二年余をすごした。
同寺の住職は、
「徒食安逸もよいが、一枚ぐらい描きのこして行かれては、如何だ?」
と、揮毫《きごう》を望んだ。
守信は、承諾したが、どうやら、心中に納得できる意匠が思い泛《うか》ばぬらしく、そのまま十日あまりが過ぎた。
ある宵、童僧が、あわただしく住職の居間へ馳《は》せ込んで来て、
「狩野様は、気が狂われたように見えまする」
と、告げた。
住職が、いそいで、守信の部屋を、窺《うかが》ってみると、渠《かれ》は、障子の腰板に身を寄せ、四《よつ》ン匍《ば》いになったり、両手をばたばたさせたり、さまざまの姿態をつくって、その影を障子に映していた。
――ふむ!
住職は、ふかくうなずいて、そっと遠ざかった。
翌日になると、守信は、筆を把った。
方丈の一室の杉戸に、臥した鶴を描いた。その筆勢の絶妙は、住職に息をのませた。
その後十数日にわたって、守信は、夜は深更まで、おのが姿態の影を障子に映して、工夫をこらし、昼は、方丈すべての杉戸に、二十五羽の鶴を描いた。
住職は、あと一枚の杉戸がのこされた時、守信がいかに工夫をこらしたか、ひそかに窺い視た旨を、語った。
すると、守信は、急に不快な表情になり、すっと立つと、最後の一枚の杉戸の前に立った。
守信は、筆をはしらせたが、描いたのは、鶴ではなく、一本の檜であった。
そして、そのまま、住職に挨拶もせずに、寺を立去ってしまった。
住職は、守信の磊落《らいらく》ぶりにおどろくとともに、その放漫さに多少の憤りもおぼえた。
それから数十日を経て、突然、守信は、飄然《ひようぜん》として、一国寺へ戻って来た。
住職が、どうかされたか、と問うと、守信は、無表情で、
「東国へ参ろうと、足をのばして、箱根を越えようとしたところ、たまたま、一本の古い檜を見つけ申した。その枝ぶりが、てまえの意に適《かな》いましたので、ひきかえして参ったのです」
とこたえ、筆を把ると、立去る前に描いたその一本の檜に、たった一枝だけを画《か》き加えておいて、住職に一揖《いちゆう》するや、また、風のごとく、立去った。
夜兵衛は、この探幽斎狩野守信の名作を、いくたびか、見たことがあったのである。
「日本一と申されますので――?」
番頭は、信じがたい面持であった。
「探幽の絵一枚があれば、この店に、半年は流連できる」
夜兵衛は、云った。
「まことで?」
「こちらへ、お呼びしてもらおうか」
「かしこまりました」
やがて座敷に入って来たのは、まだ四十あまりの、あまり風采のあがらぬ、小柄な人物であった。
「てまえの絵を、お買いあげ下さるそうで、忝《かたじけ》 のう存じます」
「探幽殿の作ならば、千両も出す人が居りましょうに、遊び代だけでよいとは、安売りをなさる」
夜兵衛が、云うと、狩野守信は、笑って、
「絵などというものは、他人が勝手に、価額をつけるもの。当人のかかわり知ったことではありませんな」
と、こたえた。
番頭が、絵絹と筆硯を持参したが、守信は、それへは目もくれず、夜兵衛のかたわらに坐っている大夫へ、眼眸《まなざし》を向けると、
「どうであろうな。そなたの脊中の、白い肌に、描かせてもらえぬか?」
と、たのんだ。
「面白い!」
夜兵衛は、膝を打った。
守信が薄小袖を脱ぎすてた大夫の、絖《ぬめ》のようになめらかな白い柔肌の背に、描きあげたのは、一挺の斧と髑髏《されこうべ》であった。
その意味は、夜兵衛にだけ、判った。漢諺《かんげん》に、『美女は生を断つ斧』という言葉があり、また、いかなる佳人といえども、いずれは、髑髏となる、という皮肉であった。
「これから、どちらへお行きなさる?」
夜兵衛は、こころみに、訊ねてみた。
「江戸城へ参ります。三年ばかり前から、将軍家御座所の襖絵を、たのまれて居りましたが、ついつい、のばして居りました」
返辞は、それであった。
[#改ページ]
襖 絵 問 答
一
探幽斎狩野守信が、江戸城に入って、一月あまりが、過ぎた。
しかし――。
中奥の将軍家御座所上段、下段、二之間、三之間の襖は、まだ、純白のままであった。
守信は、御座所にほど近い、小納戸の溜《たまり》の一部屋を与えられたが、一度だけ御座所に案内されて、白襖を見渡しただけで、一向に、絵筆を把る様子もみせず、毎日、城内をぶらぶらしていた。
小姓(御伽衆)の一人が、守信に描かせる係にされていたが、十日が二十日過ぎても、無為徒食をつづける図迂図迂《ずうずう》しさに、いささか腹をたてて、
「どのような意匠か、おききしておいて、上様に申し上げたいが……」
と、催促した。
「何を画《か》くか、まだ、きめて居りませんな」
守信の返辞は、にべもないものであった。
今日も――。
守信は、広大な庭苑を、歩きまわっていた。
蓮池堀と称《よ》ばれている深い濠に沿うて、北へ歩くと、大奥の高い海鼠《なまこ》塀の彼方に――北の方に、天守閣が、碧落《あおぞら》を截《き》りぬいて、そびえていた。
この天守閣は、慶長十一年に、南北二十間一尺四寸(約三十六・五米)東西十八間一尺(約三十三米)高さ六間(約十一米)の石垣が築かれ、その翌年、石垣の上に五層の楼閣が完成したのである。
石垣下から、最上層の屋根の棟に、さんぜんとかがやいている金色の|鯱 《しやちほこ》までの高さは、二十八間五尺(五十一・五米)――文字通り、日本随一の覇府の天守閣であった。
南を正面とするこの大天守閣の入口に、小天守閣が、主君に侍《はべ》る家臣のように、つき添うていた。
守信は、天守台を右方に眺めて、西|拮橋《はねばし》門を、くぐった。
橋を渡って、左折すると、東照宮のある紅葉山であった。
紅葉山に、東照宮が建立されたのは、元和四年であった。
家康が江戸に入った頃は、紅葉山を含む西ノ丸一帯は、欅《けやき》林であった。日比谷あたりの漁師がつくった畠もあった。
文禄年間に、西ノ丸築城で、内郭にされて、一般庶民にとって全く近づくことのできない地域になった。
さらに、東照宮が建立され、つづいて台徳院(二代秀忠)の廟がつくられるや、大名・旗本といえども、勝手に入れぬ神聖な場所となった。
紅葉山の麓には、幾棟かの宝蔵がならんでいた。将軍家の具足や武器が納めてある。
紅葉山に至るまでには、もちろん、いくつかの門が設けられてあった。
守信のような絵師が、自由に出入りすることなど許されるべくもなかった。
やむなく、守信は、尾張・紀伊・水戸の御三家はじめ、親藩、譜代の大大名の屋敷がたちならぶ吹上の方角へ、まわって行きかけた。
その時――。
西拮橋門から、
「上様、お通りっ!」
という声が、かかった。
将軍家が、紅葉山東照宮に参詣するのは、正月・三月・五月・六月・九月・十二月の十七日、ときめられていて、秀忠時代は、きちんと守られていたが、家光が将軍職についてからは、突如として、『お宮御社参り』が行われるようになっていた。
定められたその月十七日の行事には、将軍家は、前夜から斎戒沐浴して、葡萄《えび》染めの直垂《ひたたれ》に風折烏帽子の装束で、巳刻(午前十時)に、本丸大広間玄関の駕籠台から、轅《ながえ》の輿《こし》に乗って、しずしずと紅葉山へ参詣するのであった。この参詣には、老中はじめ諸侯すべてが、大紋に直垂、烏帽子を着用して、つきしたがった。
徳川将軍家の権勢のほどを示す、いわばデモンストレーションのひとつである儀式であった。
家光の代になってからは、この儀式は、いよいよ重要なものになり、病臥している大名も、この日だけは、無理に登城して、加わったくらいであった。
家光は、この一年六回の儀式のほかに、個人として、急に思いたって、参詣することがしばしばであった。
家光の、家康に対する景仰の厚さを示すもの、とされていたが、実は、他に理由があった。
世間には厳秘に附されて居り、それを知る者は、家族にさえも絶対他言を禁じられていたが、家光には、精神的に発作をおこす持病があった。
この持病がなおるように、家光は、東照権現に、願かけをしていたのである。
二
家光は、儀式通りに、直垂をつけ、輿に乗って、西拮橋門を通って来た。供揃いはすくなかった。
濠ぎわにうずくまっている守信を見下した家光は、
「何者だな?」
と、訊ねた。家光は、まだ守信を目通りさせていなかったのである。
「これは、御座所のお襖絵を描かせまする狩野守信にございます」
「この男か、探幽は――」
家光は、すでに、守信が城に登って来た日に、その報告を受けていた。
「探幽、その方は、参ってからすでに一月以上に相成るが、まだ、描こうとして居らぬ由ではないか。なかなか筆を把らぬのは、名人面をしとうてもったいぶって居るわけか?」
「上様、お願いがございまする」
守信は、家光を仰いだ。
「なんだ、申してみよ」
「上様が、てまえに御座所のお襖絵を描かせてみよう、と仰せ出されましたのは、五年前、目黒の大徳寺の壁絵にお目をとめられたからと、きき及びまする」
「そうだ。それが、どうかいたしたか?」
「大徳寺住持の沢庵を、お許したまわりますよう、願い上げまする」
「沢庵を許せと? なんのことだ?」
家光は、五年前に、土井利勝によって、僧沢庵が、出羽上山に流されたことを、知らなかった。報《しら》されていなかったのである。
五年前――。
家光は、目黒あたりに、放鷹に出かけたことがあった。
ごく少数の供をしたがえただけであったが、のどがかわいて、附近の寺院に入った時は、小姓一人しかつれていなかった。
山門には、『大徳寺別院』という額が、かかげてあった。
家光が境内に立った時、住持は、頭巾をかぶって、竹垣の修理をしていた。
小姓が近づいて、茶を所望すると、住持は、
「渋茶でよろしければ――」
と、こころよく応じた。
座敷に案内された家光は、住持から、
「ご家人でござるかな?」
と、問われて、わざと、
「左様、将軍家のお供をして参った」
と、そらとぼけた。
住持が、台所へ行ったあいだに、家光は、座敷の壁いちめんに描かれた白菊の華麗さに見惚れた。
家光は、渋茶をはこんで来た住持に、
「このような田舎寺には、過ぎた壁絵だが、なんという絵師が描いたのか?」
と、訊ねた。
「狩野探幽と申す、日本一の絵師でござるわい」
住持は、こたえた。
「ふむ。さすれば、この寺には、物持ちの旦那でもついて居るのか?」
「いやいや、こんな片里の別院などを援けてくれる旦那などは、居りませぬ。……狩野探幽は、偏窟者で、どうやら、この寺が気に入ったらしく、一年あまり逗留してゆき申したのでござるよ。つまり、この菊は、居候代でござる。……この寺へ、参られる御仁で、左様、世間にきこえた、と申せば、保科正之殿の母御ぐらいのものでござろうか」
「………」
家光は、眉宇をひそめた。
保科正之、といえば、自分の異母弟であった。すなわち、その母親は、父秀忠の寵愛を蒙った女性であった。
秀忠の正室(浅井長政の娘・淀君の妹)は、非常に嫉妬深く、この側妾の存在をきらって、追放したのである。
追放されたのちに、保科正之は、生れたのであった。
「保科殿の母御は、月に一二度は参られるが、二代将軍家の寵愛を蒙ったおん身にもかかわらず、貧しいくらしをなされて居り、布施もほんの心ばかりでござるわ」
そう云ってから、住持は、家光を、じっと正視して、
「お手前が、将軍家のご家人とうけたまわったので、一言云わせて頂くといたそうか。……保科正之殿は、将軍家の弟君にもかかわらず、三万石の小大名の養子にて、ひどう貧しいくらしをして居られ申すよ。その母御の身装《みなり》など、せいぜい二三百石の武家の妻女でござるな。……身分のいやしい下々《しもじも》の家に於ては、兄弟ともなれば、深い情がかよい合って居るものでござるが、高貴のかたがたは、兄弟であっても、仲よく面晤《めんご》するどころか、会ったこともないとは、なんとも皮肉な話でござるわい」
「………」
家光は、住持の云う通りなので、かえす言葉がなかった。
いささか顔色を変えて、さっと座を立つと、立去ったことであった。
このことが、供をした小姓の口から、土井利勝に、報告された。
利勝は、住持が、高名な沢庵和尚であったことを調べると、
「沢庵は、客を上様と知っての上で、わざとののしったに相違ない」
と、憤って、即座に、配流をきめたのであった。ひとつには、寛永四年、紫衣勅許破棄の事件が起り、(いずれ後述することになろうが)大徳寺派、妙心寺派の僧侶のうち、主だった者は、配流になったが、沢庵だけは、その直前に行方をくらまし、雲水となった罪もあったのである。沢庵と親しい柳生但馬守宗矩が、とりなしたが、利勝は、肯《き》き入れなかった。
いまなお、沢庵は、出羽上山の|ぼろ《ヽヽ》草庵にいる。
いまはじめて、家光は、守信から、そのことをきかされて、
「余の知らぬことであったぞ。……沢庵を許せば、襖絵を描くと申すか?」
「はい。精魂こめまする」
「将軍たる身が、絵師づれに交換条件を出されて、おおそうか、と承知できるか。……とは申せ、白襖のままに、すてておくわけにも参るまい。承知してくれよう」
どうやら、家光は、この日は、ひどく機嫌がよかった模様である。
二十歳頃には、夜な夜な、江戸城から忍び出て、辻斬りを行ったほどの家光であった。かっとなれば、手討ちにするぐらい、平気な気象であった。
狩野守信にとって、さいわいであったのは、家光が紅葉山東照宮へ参詣する途中であったことである。
三
家光は、保科正之など、弟とは毛頭思っていなかった。
保科正之は、慶長十六年五月に、武蔵足立郡大間木村に生れている。
母は、いやしい家の出であった。板橋郷竹村の大工の娘で、江戸城へ、最も下の婢として奉公にあがり、やがて、中臈《ちゆうろう》の召使いとなり、秀忠の湯殿つきとなった。
湯殿で、秀忠の手がつき、お静の方と呼ばれる地位を得たが、懐妊するや、正室浅井氏の激しい嫉妬を買い、一命まで危うくなった。秀忠は、やむなく、お静の方の追放をみとめざるを得なかった。
保科正之は、つまり、貧しい百姓家で、こっそり産み落された日蔭者であった。幼名を幸松といった。
元和三年に、信濃高遠城主・保科肥後守正光の養子になった。
正光が逝ったのは、寛永八年であった。正之は、そのあとを襲《つ》いで、肥後守となったが、いまだ三万石の小大名でしかなかった。
家光が、そんな正之を、弟とみとめるはずがなかった。
東照宮参詣を了えて、中奥へ戻って来た家光を、松平伊豆守信綱が、待っていた。
本丸は、表向《おもてむき》、中奥向、大奥と、大きく区分されていた。
表向は、謁見その他の儀式が催される御殿であり、諸役人が詰めていた。
中奥は、将軍家が政務をとり、また日常生活をする公邸であった。
大奥は、将軍家の正室をはじめ、側妾、老女、中臈から下婢まで、数百人がくらす男子禁制の御殿で、いわば、将軍家の休息所であった。
表向と中奥は、建物がつづいて居り、区切りはなかった。中奥と大奥との間は、御鈴廊下と称される廊下によってつながっているだけで、建物は別になり、高塀によってさえぎられている。
この構成は、その後、いくたびも、大火で焼けて、建てなおされたが、明治まで変えられることはなかった。
表向、中奥、大奥あわせて、建物の面積は一万坪を越えていた。文字通り古今未曾有の御殿であった。
家光は、一年の大半を、中奥ですごし、大奥に入るのは、せいぜい月に一度であった。家光は、正室の鷹司信房の女《むすめ》孝子を、きらっていた。孝子と、褥《しとね》をともにしたのは、彼女が輿入れして三月あまりだけであった。
その後、お振の方という側妾が、老女たちによって、押しつけられたが、この女性に対しても、家光は、惹《ひ》かれなかった。お振の方は、きわだった美貌と肢体を持っていたが、ただ人形のようにおとなしいだけで、家光は、すこしも魅力をおぼえなかったのである。
家光は、中奥で、稚児姓を寝所に召して、抱くことの方が、多かった。
家光が、最も愛したのは、小森重丸という十五歳の稚児姓であった(ちなみに、側にはべる小姓と稚児姓とは、別であった。小姓は御伽衆で、前髪の少年ではなく、かなりの老人もいたのである。前髪の方は、児小姓または稚児姓といった)。
家光は、東照宮参詣をすませた気軽さで、まだ申刻《さるのこく》(午後四時)というのに、
「重丸、寝所で支度せよ」
と、命じた。
重丸は、
「松平伊豆守様が、あちらにて、至急の御用がございまする、と申されて居りまする」
と、告げた。
当時は、まだ、老中・若年寄が詰める御用部屋は、設けられてなかった。
閣老たちは、将軍家の居室の近くの部屋――御座所の三之間を、執務所にして居り、いつでも、将軍家に面謁できるしくみになっていた。ここを、かりに奉行所と称していた。
「呼べ」
家光は、承知した。
伊豆守信綱は、御座所に入って来ると、無表情で、家光を視た。
「なんだ、用とは?」
「駿河大納言様、昨夜、高崎の安藤家別邸に於て、ご自害あそばされました」
伊豆守は、告げた。
流石《さすが》に、家光の顔面が、さっとこわばった。
[#改ページ]
波 紋
一
しばらくの間、重苦しい沈黙があってから、家光は、口をひらいた。
「そちが、忠長に、腹を切らせたのか?」
「いえ、決して――」
伊豆守は、かぶりを振って、
「突如として、ご自害あそばされました」
と、こたえた。
伊豆守にも、全く判断に苦しむ忠長の行動であった。
伊豆守が、高崎に放《はな》っておいた隠密の報告によれば、忠長は、その前日まで、おだやかな日常を送っていた、という。
昨冬、忠長は、その配所へ、ひそかに九条明子を、迎え入れて、起居をともにするようになっていた(事実は、名張の夜兵衛が、明子を、忠長の許へともなったのであったが、そこまでは、伊豆守手飼いの隠密も、知らなかった)。
忠長は、明子を迎えてからは、それまで頑《かたく》なにとじこもっていた茶亭を出て、母屋へ移っていた。
しかし、明子とは、寝室だけは別にして、すごしている、という報せを、伊豆守は、受けていた。どうやら、褥《しとね》をともにするにはいたらぬままに、忠長は、おのが生命を断った模様であった。
――いずれは、夫婦ぐらしをされるに相違ない。
伊豆守は、気長に待つことにしていたのである。
七日前、明子の父前関白九条忠栄が、逝去した報を受けた伊豆守は、ただちに、高崎へ使者をはしらせて、明子に、墓参の儀は自由である旨を、伝えさせた。
明子は、急遽、中仙道を通って、京都へ帰って行った。
忠長が、明子を送り出したあとで、自害の決意をしたのか、ずっと前から肚《はら》をきめていたのか、それは、いまとなっては、知る由もない。
昨日、いつものごとく、夕餉後に、次席家老小森田数右衛門が、機嫌うかがいに、やって来た時には、忠長の態度に、すこしも、変ったところはなかった。
戌刻《いぬのこく》(午後八時)過ぎになって、聾唖の下僕治助が、血相変えて、あわただしく、小森田家へ馳せつけて来て、手まねで、忠長の自害を報せ、数右衛門を仰天させた。
忠長は、死装束はつけずに、寝召《ねめし》姿で、腹を切り、亡父秀忠の位牌の前で、俯伏《うつぶ》していた。
遺書は、一通もなかった。
小森田数右衛門は、忠長の遺体を、牀《とこ》に横たえておいて、そのまま、夜通し馬をとばして、出府し、主君安藤重長に、報告したのであった。重長は、自ら松平邸を訪問して、伊豆守に、家中の落度を詫びた。
流石の伊豆守も、一瞬、顔色を変えた。
駿河大納言が、自ら死をえらぶかも知れぬ、と推測をしたことは、一度もなかった伊豆守である。
老中松平信綱としては、おのが不明を責めざるを得なかった。
いずれは、忠長に死を与える冷酷な使者になるかも知れぬ、という予感はあった。
――大納言卿に、先を越された!
伊豆守は、|ほぞ《ヽヽ》を噛まざるを得なかった。
伊豆守は、裁かれる者として、家光の前に坐ったのであった。
「まあ、よいわ。勝手に死んだ者を、悼《いた》んでもはじまるまい」
家光は、冷やかに云った。
「上様――」
伊豆守は、じっと主人を瞶《みつ》めて、
「駿府城の御金蔵は、空でございます」
と、言上した。
「なにっ?!」
家光は、愕然となって、伊豆守を、視《み》かえした。
「まことか、それは?」
「まことでございます」
「何故、今日まで黙って居った、伊豆?」
家光は、こめかみに青筋を浮かせた。
「駿河大納言様がご所持の、神君(家康)より台徳院様(秀忠)にお残しあそばされたご遺言状を、こちらへ、お渡し頂いた上にて、申し上げようと思うて居りました」
その遺言状に、大坂城からはこんで来て、江戸城と二分した判金・法馬が、駿府のどこかに秘蔵されたか、記されてあることは明白であった。
家光は、舌打ちした。
久能山所蔵の判金が贋であり、まことの金は、駿府城金蔵にある、と知って、それを奪い取るべく、家光は、忠長を、改易配流処分にしたのであった。
二
「伊豆! われらは、忠長に、してやられたな」
家光は、云った。
忠長が、その遺言状を残しておくはずがなかった。焼きすてた、と考えられる。
「この信綱の不明、お詫びのいたし様もございませぬ」
伊豆守は、両手をつかえた。
「伊豆! そちらしゅうもないぞ。詫びですむことか。……駿府の城内か城外か、いずれかに所蔵されてあることは、明白なのだ。屹度《きつと》、さがし出せ」
「仰せまでもございませぬ」
「わしは、昨日、秋元但馬に、日光東照宮の造営に、いくら、かかるか、と訊ねたところ、百万両とこたえたぞ。この費用は、駿府城の金蔵にある金をあてようと考えていたのだ」
日光東照宮は、家康が逝った翌年――元和三年春に、秀忠の思案によって、その柩《ひつぎ》を、久能山から移葬されて、鎮座されていた。
しかし、その社殿は、ごく普通のつくりであった。
江戸城内の紅葉山東照宮よりも、ずっと小規模であった。
日光東照宮の大造営を行うことは、家光のかねての念願であった。
豪華壮麗、古今にその比をみない大建築を、江戸城完成とともに、日光山にも、為《な》してくれよう、と家光は考えて、すでに、一年前に、総奉行として、秋元但馬守泰朝を任命していたのである。
秋元但馬守は、元和三年に、谷を埋め、山を削ってつくられた日光東照宮の境内敷地を、さらに、三倍にひろげ、二万七千余坪として、そこに、未曾有の規模をもつ大造営を行う構想を総図面にしていた。
但馬守の構想をきき、総図面をつくったのは、江戸城天守閣を建てた幕府作事方大棟梁の甲良宗広であった。
甲良宗広は、近江国の出で、建仁寺流の匠家であり、当代随一の名匠と称されていた。
幕府の作事方大棟梁になる前は、京都で、関白近衛|信尹《のぶただ》邸を建て、次いで、洛東吉田神社をつくり、その功で従六位左衛門尉をたまわり、豊後守を受けていた。まだ二十代のことであった。
慶長五年に、家康が天下人となるや、宗広は、その作事方にまねかれて、江戸城づくりに加わったのであった。
爾来、三十余年、宗広は、江戸城普請に心血を注いで来て、いま、大棟梁となっている。
この名匠が、なお老いを知らずに健在であるかぎり、日光東照宮の大造営は、安心してまかせられるのであった。おそらく、外観・内容ともに、精巧、華麗、絢爛たる大建築を、山内に現出させて、将軍家を満足させてくれるに相違ない。
「伊豆! 屹度だぞ! わしは、百万両が二百万両かかっても、日光山に、天下一の造営をするのだ」
「はい」
伊豆守は、平伏した。
家光は、あらあらしい足どりで、奥へ去った。
伊豆守が、三之間へ下って来ると、そこに、酒井忠勝が、待っていた。
「上様のご機嫌は如何であったかな?」
忠勝に問われて、伊豆守は、ななめであった、とこたえるかわりに、
「切腹をまぬがれ申した」
と、云った。
「駿府にかくされた金は、どうやら、大納言卿とともに、永久に地下にねむることになりそうだな」
忠勝は、さりげない口調で、云った。
「さがしあてるのが、身共の使命となり申した」
「さがしあてられなかったら、切腹するかな、伊豆殿?」
「必ず、さがしあててみせ申す」
伊豆守は、きっぱりと、誓ってみせた。
「むつかしかろうな」
「どれほど困難であろうとも、さがしあてずには、おき申さぬ」
「左様、――その金があれば、この上、諸大名が、お手伝いに苦しまずに、すむ」
忠勝は、家光と伊豆守の会話を、ぬすみぎきでもしていたように、微笑し乍ら、云った。日光東照宮の大造営は、一両年うちに為されるに相違ないのであった。
|あて《ヽヽ》にしていた駿府城の金蔵の金がない、となれば、諸大名に割当てられることになる。
老中としては、江戸城金蔵の金は、可能なかぎり、減らしたくはなかったのである。
三
噂というものは、かくそうとすればするほど、かえって、急速に巷間《こうかん》にひろまる。
神田連雀町にある張孔堂楠不伝の家にも、三日後には、駿河大納言自害の噂は、入って来ていた。
「弥五郎殿、一大事じゃ!」
表から、せかせかと戻って来た不伝が、上って来るなり、
「そうやって、のんびり、寝そべっている場合ではござらぬぞ。……駿河大納言卿が、|これ《ヽヽ》をした」
と、切腹する手まねをしてみせ、
「これからただちに、駿河へ発《た》とうではござらぬか」
と、さそった。
弥五郎は、起き上りもしなかった。
「無駄だろう」
「いや、わしは、きっと、荷駄三百頭分の埋蔵金を、つきとめてみせ申すよ、……愉快! 松平伊豆守は、駿河大納言の口から、在処《ありか》を吐かせようとして、失敗した。大納言は、いま頃、泉下《せんか》で兄将軍家と伊豆守に対して、ざまをみろ、と、あざわらって居ろう。……わしには、つきとめるてだてがござるのだ」
「お主にてだてがあるくらいなら、智慧伊豆といわれる老中に、てだてがないはずはなかろう」
「伊豆守は、てだてがなかったからこそ、駿河大納言の口を割らせようと、苦労していたのではござらぬか。……わしには、あるのじゃ。一緒に参ろう。ござれ、きっと、さがしあててみせ申す。尤も、つきとめても、わし一人の力では、掠奪でき申さん。弥五郎殿らの力をかりなければ、なり申さぬ。同道して頂きたい」
「ご免を蒙ろう。お主が、行って、まず、つきとめて、ひきかえして来られるがよい。それから、腰を上げることにいたす。お主に代って、軍略の講義は、それがしが、やっておこう」
「あんたは、無欲なのか、それとも、わしをばかにして居るのか?」
不伝は、いささか、気色ばんだ。
「物欲も野望も、人一倍持って居る。また、お主を、ばかにしては居らぬ」
「それなら、同道を――」
「いまは、徒労だと思っているまでだ」
「いや、いまこそ、好機到来じゃ。……松平伊豆守が狼狽しているすきに、横あいから、頂戴するのだ」
「さがしあてる手段というのは?」
「それは、滅多に申せぬ」
不伝は、胸を張って、かぶりを振った。
風貌骨格は、人一倍立派なのにもかかわらず、この不伝という初老の浪人者は、話していると、どうして、こうも安っぽい男にみえて来るのか、弥五郎には、ふしぎであった。
大|かたり《ヽヽヽ》にしても、もうすこし、貫禄をみせて、説得力を所有していてもよかろうではないか。
不伝は、次の日、駿府へ向って、出発して行った。
弥五郎は、不伝に代って、十数人の門下に、講義の座に就いた。
不伝とは比較にならぬ話術力をそなえていたし、内容もあった。
門下生たちは、いままで、ただの食客と思っていた弥五郎に、にわかに、魅力をおぼえ、つぎつぎと質問を発した。
弥五郎の返答は、明快であった。
タ餉後――。
「ここか」
大声が、して、丸橋忠弥と金井半兵衛が、さがしあてて来た。
「駿河大納言が、自決した噂を、きいたか?」
「うむ」
「駿河大納言は、死をもって、将軍家に、駿河にかくされた太閤遺金を、永久に、幕府に渡さぬようにしたらしいぞ」
「ひそかに所蔵場所を、打明けておいた者がいるかも知れぬ」
「九条家の姫君にか。名張の夜兵衛という男が、配所へともなって、起居をともにさせた。姫君には、打明けられたかも知れぬぞ」
「さあ、それは、どうかな」
「いや、おれは、姫君に打明けたと確信する。……姫君は、父親の逝去で、京都へ帰った。……どうだ、姫君を拉致《らち》して、半兵衛に説かせて、復讐心をあおるか?」
忠弥が、云った。
「たとえ、大納言から打明けられていても、……いまは、時節ではない」
「というと?」
「姫君は、たぶん、京都か奈良の尼寺に入るだろう。……しばらく、待つことだな」
「弥五郎、お主の存念をきこう」
二人は、迫った。
弥五郎は、ちょっと黙っていたが、
「ここに、一人、器量の大きい人物がいる」
「誰だ!」
「紀州大納言頼宣公だ」
「ふうん。それが、どうした?」
「あの太守には、相当な野心がある、とみた」
「たとえば、どんな野心だ?」
「たとえば……、明国に渡って、崩壊寸前にある隙を狙って、ひとあばれするとか――」
「冗談を云うな」
「いや、それくらいの大きな器量をそなえている人物とみた。……おれは、鄭芝龍という男と知り合って、紀州家へ行ったのだが、あの大兵の躯幹には、いまにもあふれ出る覇力がみなぎっていた。紀州一国の城主として、満足している人物ではない」
「ふうん――」
「もし、駿府の太閤遺金を発見すれば、それを、そっくり、紀州大納言に渡せば、明国へ押し渡る計略を、実行に移すかも知れぬ」
「これは、また、太閤秀吉以上の壮図だな」
半兵衛が、云った。
「問題は、はたして、松平伊豆守を出し抜いて、駿府の金を、横奪《よこど》りできるかどうかだな」
そう云っているうちに、弥五郎の脳裡に、
――可能性はある!
急に、その野心がわき立った。
[#地付き]〈嗚呼 江戸城(上) 了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和五十年九月二十五日刊
外字置き換え
※[#「示+氏」]→祇
※[#「馬+單」]→騨