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われら九人の戦鬼(中)
[#地から2字上げ]柴田錬三郎
闇の中の叫び
満天に、星がきらめいていた。
花鳥風月とは全く無縁に生きている百平太が、見上げて、思わず、
「餓鬼の頃を、思い出すなあ!」
と、声をあげたくらいである。
「あの星が、雨雲で掩われぬ限り、伊吹野に平和は来ないだろう」
前を歩く多門夜八郎が、云った。
「雨ってえやつは、もう、この国を見はなしたのじゃありませんかね」
百平太は、|独語《ひとりごと》のように云った。
「どうして、そんなことを考える?」
「こりゃ、|空《から》|梅《つ》|雨《ゆ》というものじゃなくて、雨が、天から、いなくなった、としか思えねえ。つまり、地上で、人間どもが、あんまり、あさましい戦さばかりくりかえしているから、ひとつ、こらしめてくれようとね」
「そう思いたくなるほど、全く、降らぬな。雲ひとつさえ、あらわれぬ」
戦乱にあけくれて、生命というものが、あまりに無価値にとりあつかわれていると、人情として、天変や地異を、神仏の怒りと解釈したくなる。
惑信迷妄の時代であった。
一昨年も昨年も、そして今年も、かわいているべき厳冬に、雨が降りつづいて、降るべき季節に、ピタリと、とまってしまっているのであった。
神仏が、人類に愛想をつかして、しばらくのあいだ、地獄の苦しみを与えようとしているのだ、というおそれが、上下すべての人の心にわいたとしても、ふしぎはないのである。
「百平太──」
森蔭の闇道を、ゆっくりと辿りながら、夜八郎が、呼んだ。
「へい。なんです?」
「お前は、どうやら、心を入れかえたようだな」
「まあね。ヘヘヘ……」
「天満坊の感化か?」
「そういったところで──」
「お前のような男が、心を入れかえたとは、人間というものは面白いものだな」
「多門様、おれは、和尚さんから、一滴の水が、どんなに大切なものか、話をきかされたんでさあ。その話は、おれの胸に、じーんと、しみわたりましてね」
百平太は、天満坊からきかされた話を、夜八郎に、語った。
夜八郎は、黙って、ききおわってから、
「成程、お前を改心させるねうちのある話だな」
と、云った。
「そうでしょう。この話をきけば、どんな野郎だって、感動しますぜ。おれは、その時以来、和尚さんの弟子になったんでさあ」
「おかげで、おれは、お前から、復讐されずに、すむ」
「おれはね、多門様──」
百平太が、云った。
「両の耳を殺ぎ落したお前様に、どんなことがあっても、復讐してやろう、と誓いをたてて居りましたぜ。本気で、そう誓っていたんでさあ。ところが、和尚さんから、もしかりに、多門夜八郎を討つことができたとしても、切り落されたあとに、また、茸のように耳が生えて来るか、ときかれた時にゃ、うなりましたぜ」
「………」
「おれは、そんなことは、爪のカケラほども考えちゃいなかった。ただ、耳を殺ぎやがった奴に復讐することだけに、一念をこりかためていたんでさ。……まちがって居りましたぜ」
「いや、まちがっては居らぬ。復讐心というものは、男の性根には、あってよいものだ」
夜八郎は、云った。
「お手前様も、誰かに、復讐してやろうと、考えていなさるのか? それは、お止めなされ。つまらぬことでござるて」
「はは……、百平太から、説法されようとは、思わなんだぞ」
「い、いや、説法などと……、とんでもない。おれは、ただ──」
弁解しようとする百平太を、
「しっ!」
と、止めた夜八郎は、立ちどまって、星明りの野を、すかし視た。
彼方には、もう、くろぐろと、伊吹野城の外郭が、浮きあがっていた。
それへ通じる街道を、一騎、疾駆するのを、夜八郎は、みとめたのである。
街道は、この森わきをぬけている。
「百平太。あいつを、捕えるぞ」
夜八郎は、告げた。
夜八郎と百平太は、伊吹野城を偵察すべく、公卿館をぬけ出して来たのである。
伊吹野城襲撃の策略は、天満坊にまかせてある。
天満坊は、どうやら、|肚《と》|裡《り》に、意外の策略を成らせた模様である。
夜八郎は、城内の構造、ならびに、人数を、正確に、しらべて来ることを、天満坊に約束して来たのである。
「ここで、待って居れ」
云いのこしておいて、夜八郎は、足音を消して、森蔭から奔り出ると、大きく跳んで、街道わきの小川へ、身を伏せた。
そこヘ──。
蹄の音をたてて、まっしぐらに、騎馬が来た。
瞬間──。
夜八郎が、どんな業をつかったか、馬は棹立ちになり、乗り手は、もんどり打って、小川へ落ちた。
「やったあっ!」
百平太は、そこへ、つッ走った。
涸れた川底では、争いはなかった。夜八郎は、苦もなく、対手をねじ伏せていた。
路上へ、|虜《とりこ》をひきずりあげた夜八郎は、
「伊吹野城の者か?」
と、尋問を開始した。
「ちがう!」
武者は、生捕られた無念を、声音にこめて、かぶりをふった。
「何処の使者だ?」
「………」
「さまで遠方から参ったのではなかろう。馬脚が、疲れて居らなんだぞ」
「………」
「隣国の城から来た、とみたが、どうだ?」
「………」
対手が、頑固に沈黙をまもろうとするや、夜八郎は、いきなり、対手の腰から、脇差を抜き取って、すっと、鼻さきに突きつけた。
「無抵抗になった者を、殺すのは、好まぬ。鼻を殺ぎ落すか、目玉をえぐるか──いずれにいたそうか。おのれで、えらべ!」
「………」
対手は、なおも、口をつぐんでいた。
そこへ、百平太が、寄って来て、
「さむれえ! おれの顔を、よく見てくれ。両の耳がないぜ。この御仁は、やるときめたことは、容赦なくやってのけるのさ」
と、云いかけた。
武者は、きくに堪えなくなったか、
「拙者は、何も、密命をおびた使者ではない!」
と、叫んだ。
「なんの使者だ?」
「田丸豪太夫殿に、隣国の友誼をむすぶべく、明日、米五十俵を贈ることを、申し伝えに参った使者だ」
「ほう……、それは、殊勝な心掛けだ。隣国は、たしか、神矢右衛門太郎であったな。田丸豪太夫の暴虐ぶりをきいて、おそれをなしたか」
「わが主人は、益なき闘争を避けようとするだけだ」
「この旱魃飢饉に、米五十俵の賄賂は、手痛かろうに、平和主義者は、気前がいいことだ。……立て!」
「ど、どうするというのだ。拙者の申したことに、みじんのいつわりもないぞ」
「と、信じたからこそ、お主を、伊吹野城へ行かせるわけに参らぬし、また、帰すこともできぬのだ。ほんの一日だけ、そこの森の中で、樹木と抱きあって、おとなしくしていてもらおう」
夜八郎は、百平太に手伝わせて、隣国神矢右衛門太郎の使者を、森の中へつれ込み、猿ぐつわをかませて、松の幹へ、しばりつけておいて、伊吹野城へむかった。
城の周囲の地形は、すでに、くわしく、調べてあった。
城内の構造も、城主が奈良城義胤時代に、城造りの人夫として、長いあいだ、働いていた男が、公卿館にいて、その記憶を見取り図にさせて、夜八郎は、おぼえ込んでいた。
まず、忍び入るには、不便はなかった。
伊吹野城は、山城ではなかった。
小丘陵を占めて、後方に人跡未踏の密林をひかえさせ、左右に盛りあがったもうひとまわり大きな丘陵を砦にして、前面に、目くらむような深い濠を設けていた。
左右の丘陵の裾を、竹藪が掩うていたが、これが、この城の守りを堅固なものにしていた。竹藪の中には、熊や狐狸を生捕る|鉄《かな》|環《わ》の刎ね罠と、ひとたび落ち込めば、匍い上ることの不可能な|陥穽《おとしあな》が、無数に設けてあったからである。曾て──。
この竹藪を突破して、攻撃しようとした軍隊の遺棄した骸骨が、たくさんちらばっているはずである。
前面の深い濠には、長さ五間、幅二間の刎ね橋が架けられ、夜になると、ひきあげられてしまう大がかりな仕掛けになっていた。
夜八郎と百平太は、その刎ね橋ぎわに、身を伏せて、しばらく、城門を、うかがっていた。
城門の両脇に、高い望楼が、星空にむかって突出していた。
そこに、昼夜をわかたぬ見張りの兵がいるのである。灯の中で、人影がうごくのが、はっきりとみとめられる。
「多門様、これァ、とても、忍び込むことは叶いませんぜ」
百平太が、ささやきかけた。
夜八郎は、それにこたえるかわりに、
「|戌《いぬ》刻(午後八時)が、そろそろ近づいたようだな」
と、つぶやいた。
「戌刻になったら、どういうことが起るんですかい?」
「その橋が、つりあげられる」
冬ならば、|酉刻《とりのこく》(午後六時)、夏ならば、戌刻に、橋がつりあげられるならわしであることを、夜八郎は、きいて来たのである。
つまり、ちょうど、その時刻をねらって、やって来たのである。
百平太は、橋がつりあげられる時、夜八郎が、いかなる行動をとるのか、さっぱり見当がつかず、
──ああやって、見張られていては、手も足も出ねえ。
と、かぶりを振った。
やがて──。
城内の奥から、太鼓の音がひびいて来た。五つ鳴った。戌刻である。
地面に伏せた夜八郎は、二つの望楼へ、鋭く目を配っていたが、灯の中の人影が急にせわしく動いて、ふっと消えた瞬間、
「百平太、おれに、つづけ!」
と、命じざま、ツツ……と|匍《ほ》|匐《ふく》して、橋袂に進むや、その裏側へ、もぐり込んだ。百平太も、それに、ならった。
戌刻になり、刎ね橋がつりあげられる、ときいた夜八郎は、そのつりあげの役目を、望楼の見張りの兵がつとめる、と予想したのである。予想は、的中した。
橋をつりあげた兵らは、夜の見張りの兵らと、交替するのであった。
この時、望楼は、ほんのわずかの時間だけ、空になる。
まさしく、絶好の機会であった。
夜八郎と百平太は、橋の裏側の太い桁につかまった。
城門内から、橋を釣った鉄鎖を巻く音がひびいた。
巨大な橋は、徐々に、不気味な軋り音をたてて、動きはじめた。
「成程!」
百平太が、はじめて、合点した。
「こいつは、いい智慧だ。じっとしていりゃ、しぜんに、からだを、城へはこんでくれる」
橋の裏側に、ぴったりとからだを吸いつけているのであるから、城側から、絶対に、発見される心配はなかった。
橋が、直立するまでには、ゆっくりと、五十をかぞえる時間を要した。
夜八郎は、直立した橋の先端が、望楼よりも、高いのを、ちゃんと測っていた。
その先端から、城門の屋根へ、跳ぶのを、見張りの兵から、発見されるおそれはなかったのである。
「さて──」
城の一角に降り立った夜八郎は、星明りに、ずうっと見わたして、
「あとは、大手を振って歩くことになる」
と、云った。
「大丈夫ですかい?」
百平太は、不安だった。
「城内を警備する兵は、一人も居らぬはずだ」
「へえ──?」
百平太は、合点がいかなかった。
夜八郎は、暴君田丸豪太夫の性格から、判断して、外敵からの攻撃に対しては、巨大な刎ね橋を工夫している一例をみても、万全の備えを設けているが、内敵が起ることなど、みじんも考慮に入れていまい、と断定していたのである。
配下としている将士は、いずれ、得体の知れぬ怪しい手輩も多かろうが、それらの者を、田丸豪太夫は、すこしも警戒していないに相違ない。
城主として万能である自信に満ちて、いかなる狂暴な、陰険な性情を持つ家来といえども、おのが一喝をあびせれば、小猫のように縮みあがるであろう、と思っているであろう。
夜八郎の判断は、あやまっていなかった。
二人は、二ノ丸から本丸に進み入るあいだに、幾組かの兵の群れに出会ったが、一言も、とがめられなかった。
約|一《ひと》|刻《とき》をついやして、二人は、丹念に、城内の構造を、しらべあげた。
「およそのところは、つかめたぞ。しばらく、どこかで、ひとねむりしよう」
夜八郎は、てごろの場所を、物色した。
やがて、二ノ丸はずれに、幾棟か小さな建物がならんでいるのを、みとめて、二人は、近づいて行った。
その半数が、毀れかかっているのを、みとめたからである。
端の一棟だけから、灯かげがもれ出ていた。
そこにだけ、足軽でも住んでいるのであろう。いずれは、とりはらってしまう古建物のようであった。
夜八郎と百平太は、灯のある棟と反対の小屋に入った。
「敵の腹中で、ねむるのも、わるくはない」
そう云って、夜八郎は、埃まみれの床板の上へ、ごろりと横になった。
百平太は、おちつかないままに、裏口からのぞいてみた。
そこから、断崖になり、はるかな下方に、竹藪がひろがっていた。
──二人だけで、忍び込むのは、刎ね橋を利用すりゃ、造作はないことが、判ったが、さて、一同うちそろって襲うとなると、いったい、どうするんだろうな?
百平太には、見当もつかなかった。
夜八郎は、もう睡ったとみえて、微動もせぬ。
百平太は、横になったところで、ねむれそうもなかったが、ともかく、横になることにした。
その時──。
突然、深夜の静寂を、鋭い叫び声が、破った。
「なんだ?」
百平太は、はね起きた。
「多門様、ありゃ、女の声ですぜ」
「すてておけ」
夜八郎は、云った。
「おれたちと、かかわりのないことだ」
「しかし、女の悲鳴をきいちゃ、どうも、じっとしていられませんや」
「ここは、自由にどこへでも身をはこべる処ではない。敵の城内だ」
「わかっていまさあ。わかってはいるんだが……」
再び、叫び声が起った。
百平太は、
「手ごめにしてやがるらしいな」
と、つぶやいた。
「興味があるなら、忍んで行ってみるがいい。むこうの、明りのついた小屋の中で起っている」
夜八郎は、云った。
もし、夜八郎自身が、興味を起して、その小屋へ忍び寄って、のぞいてみたならば、愕然となったはずである。
そこで、烈しく争っている男女は、どちらも、夜八郎に目を瞠らせる者だったのである。
男は、九十九谷左近であり、女は、梨花であった。
左近は、ねじ伏せて、氷のように冷たい視線を、その白い顔へ、そそいでいた。
左近が、一変して狂暴な野獣と化したのは、理由があった。
左近が、この小屋へ、梨花をともなった時は、邪念は、意識していなかった。
足軽を呼びつけて、食事を命じ、梨花がそれを摂るあいだ、どこかへ出て行く心づかいまで示した。
梨花は、左近を、思いのほか心の優しい男ではなかろうか、と考えたくらいであった。
足軽を家来のように使いながら、城内でいちばんみすぼらしい小屋に住んでいることを、不審に思い、それをたずねると、
「兵法者に、家などない。したがって、立派な構えに住むと、おちつかぬのだ」
と、こたえたことだった。
自ら好んで、|毀《こわ》れかかったぼろ小屋をえらんで住んでいるのも、おのれに厳しい掟を与えているのだ、と好意を抱かせた。
左近は、酒を|携《さ》げて、もどって来て、飲みはじめたが、梨花とは距離を置き、酌の所望などしなかった。
梨花は、破れた板壁によりかかって美しい星空を仰いでいた。
──あの星のひとつになれば、夜八郎さまがどこにおいでか、すぐわかろうものを。
そんな感慨にふけっていると、左近が、長い沈黙を破った。
「そなたは、どこへ行こうとしているのだ?」
「東国へ参ろうと存じます」
「東国といっても、広いぞ」
「はい」
「東国のどこへ行く?」
「わたくしにも、わかりませぬ」
「わからぬ?」
「はい」
「どうしてだ?」
「東国のどこかに、わたくしのたずねる御仁が、おいでのはずなのです」
「ふん──」
左近の顔に、微かに、同情の色が、浮いた。
「それは、池の中へ落ちた一本の針を、ひろうにひとしい」
「いえ──」
梨花は、かぶりをふった。
「わたくしは、かならず、たずねあてまする。会わねばなりませぬ!」
きっぱりと、云った。
「そなたが、恋する男か?」
左近は、問うた。
梨花が、はじらって、目を伏せるのを眺めて、左近は、微笑した。
「うらやましいことだ、その男は──」
左近は、云った。
「しかし、そなたのような上臈から、一途に慕われる果報を、その男は、知っているかどうかだ」
「………」
「知らないのではないか?」
「………」
「薄情な男ほど、心の優しい娘に慕われる、という。その男は、薄情者ではないのか?」
「いえ、そんな──」
梨花は、かぶりを振った。
左近は、その様子が、自信のないものであるのを、みとめた。
「どうやら、おれの云うことは、当っているようだな。……はるばる、東国まで旅をして行って、首尾よく会うことが、できても、つれなくされれば、何もなるまい」
「………」
「もしかすれば、さんざなぐさみ者にされて、女郎に売りとばされるかも知れぬ」
「いいえ!」
梨花は、きっとなった。
「多門夜八郎様は、そのような御仁ではありませぬ!」
「なに?!」
左近は、その名をききとがめた。
「なんと云った?」
にわかに険しい面相となった左近を、梨花は、怯えて視かえした。
「そなた、いま、その男の名を、多門夜八郎、と呼んだな?」
「呼びました」
「多門夜八郎が、そなたの慕う男か?」
「はい」
「……む!」
左近の奥歯が、ぎりっと、鳴った。
「夜八郎様を、貴方様は、ご存じなのでしょうか?」
「おれの宿敵だ」
「え?」
「おれは、京で、多門夜八郎に試合を挑む高札をかかげた九十九谷左近だ」
梨花は、あっとなった。
「そなた、知っているようだな。……夜八郎め、おれが指定した場所へ、現れなんだ。……そうか、|彼奴《き ゃ つ》は、東国へ遁走し居ったのだな」
左近の双眸が、ギラギラと燃えた。
梨花は、立ち上った。
「どこへ行く?」
「夜八郎の宿敵である貴方様に、お世話になることはできませぬ」
梨花は、云った。
「そなたが、宿敵の女房と判ったからには、どこへもやるわけには参らぬ」
左近が、梨花に、とびかかったのは、次の瞬間であった。
「な、なにをなさる!」
梨花は、悲鳴をあげて、抵抗した。
左近は、梨花の両腕を、ひっつかむと、顔を近ぢかと寄せて、
「そなたは、もう、多門夜八郎と、契っているな?」
と、睨みすえた。
「け、けがらわしい!」
梨花は、必死に、両腕の自由を、とりもどそうとした。
「契っているのだろう、どうだ?」
「さげすみまするぞ!」
「ふん──。夜八郎と契っているなら、そなたを、彼奴の妻とみなすぞ。よいな」
「妻ならば……、どうされるのじゃ?」
「犯す!」
左近は、云いはなった。
「け、けだもの!」
「いかにも、|女《おな》|子《ご》を犯すには、けだものにならねばならぬ。多門夜八郎の妻を犯してくれるのだ。最も残忍なけだものになってみせてやる!」
その言葉をきいて、梨花は、あらん限りの声で、悲鳴をほとばしらしたのであった。
その悲鳴を、五棟へだてた小屋で、偶然にも、夜八郎自身が、耳にしたのであった。
病み疲れている女性であっても、操を守ろうとする本能が、意外な反抗力をふりしぼらせた。
不覚にも、左近が、突きとばされて、仰のけに倒れた。
その隙に、梨花は、左近が置いた大刀をひろいとって、抜きはなつ敏捷さを示したのである。
左近は、立ち上ると、にやりとして、
「剣を習うたおぼえはないようだな」
と、云った。
おぼえはなくとも、操を奪われるよりは、死をえらぶ、と文字通り必死の覚悟をきめて、白刃を構えているのである。
左近といえども、容易に、近づけなかった。
梨花に撃ち込ませておいて、白刃を奪い取る以外に、手段はなかった。
左近は、じりじりと、迫った。
梨花は、すこしずつ、あと退った。
ついに──。
梨花の背中が、板壁に、ふれた。
「おれは、多門夜八郎に出会えば、必ず、斬る。……良人の敵だ。いまのうちに、良人の敵を、斬っておいたらどうだ?」
左近は、にやにやした。
梨花に、斬りつけさせようと、こころみるのであった。
梨花は、しかし、追いつめられた者の自己保護の本能から、撃ち込めば、白刃を奪われる、とさとっているようであった。
左近は、さらに、一歩迫った。
「斬って来ぬか!」
あびせざま、両手を大きく、ひろげた。
絶体絶命の立場に追いつめられた梨花は、ついに、
──南無!
と、祈りざま、白刃を、ぱっとふりかざした。
その隙を、一流兵法者たる左近が、どうして、のがそう。
さっと、肉薄した。
──八幡っ!
梨花は、白刃を振りおろした。
と同時に──。
左近の長身が躍って、梨花の|利《きき》|腕《うで》を、つかんだ。
白刃は、遠くへはねとんで、板壁へ、ぐさと突き立った。
その時である。
「ははは……、見苦しいぜ、九十九谷左近。女子を犯すのに、大層手間をとって居るではないかよ!」
おもてから、そのあざけりが、破れ戸をくぐって来た。
「なにっ!」
左近は、一瞬、梨花を当て落しておいて、白刃をひろいとるや、
「何奴だ! ぶった斬ってくれる!」
と、呶鳴りざま、おもてへ、とび出した。
人影は、どこにもなかった。
「にげかくれるか、卑怯者! 出ろっ!」
左近は、悪魔のように、吼えたてて、あちらへ走り、こちらへ駆けた。
しかし、どこにも、人影は、見当らなかった。
「くそ!」
左近は、べっと、唾を吐きすてておいて、小屋へひきかえした。
城内の将士で、自分を忌みきらう者は、すくなくないのだ。
忍び寄って来て、あざける者がいたとしても、ふしぎはない。
左近は、逆上した自分がばかげていた、と思いかえして、小屋へ入った。
とたんに、あっとなった。
当て落したはずの梨花の姿が、そこから、煙りのように、消えうせているではないか。
梨花が、意識をとりもどして、遁げたとは考えられなかった。当て落した以上、半刻は、そのまま倒れているはずであった。
あざけった者が、忍び入って、かついで、遁げたのだ。
城内をくまなくさがすことは、容易ではなかった。
「おのれっ! 明朝になってみろ! 必ず、さがし出して、両断してくれる!」
深夜、さがしまわってみたところで、徒労におわる、と考えて、左近は、朝を待つことにしたのであった。
東の空が、しらんで来た時刻──。
夜八郎と百平太は、天にむかって直立した刎ね橋の裏側に、ぴったりと吸いついていた。
百平太の背中には、梨花が背負われていた。
左近にあざけりをあびせたのは、百平太であり、梨花をその小屋からぬすみ出したのは夜八郎であった。
百平太は、夜八郎から、
「興味があるなら、のぞいて来い」
と云われて、退屈まぎれに、そっと、その小屋へ忍び寄ってみたのであった。
そして、男が九十九谷左近であるのをみとめ、その問答から梨花が夜八郎にとってどんな女性であるか、をさとって、あわをくらって、こちらの小屋へ奔りもどって、夜八郎に、急報したのであった。
おどろいた夜八郎は、とっさの智慧で、百平太にあざけらせて、左近を外へおびき出し、その隙に、梨花をすくったのであった。
梨花は、百平太の背中で、なお、死んだように、意識を喪ったままであった。
夜八郎が、わざと、そのままに、ねむらせておいたのである。
「……世の中というやつは、せまいものですねえ、多門様」
百平太が、そう云って、白い歯をみせた。
「うむ──」
夜八郎は、ちらと、梨花の寐顔を視やった。
──おれを慕って、京を出て来たに相違ない。
いつかは、京へ帰って来る、と冷たい言葉をのこしたのを、思い出しながら、夜八郎は、微かな胸の痛みをおぼえた。
ひとすじに、恋の道を生きようとする女の、おそれを知らぬ心の強さを、いまはじめて、知らされた。
自分は、ただ、漠然と、東国へ行く、と云いのこしたのである。
梨花は、ただその一言をたよりに、見も知らぬ国への旅を、思いきめ、そして、京を出て来たのである。
その道中がいかにおそろしいものか、東国がどんなに広いところか──そのことにおそれず、ひたすら、恋する男に会う一念のみを、心に火と燃やして来たのである。
男には、この強さはない。
女の一念は、ついに、そのねがいを叶えたのである。
めぐり会ったのを、偶然とか奇蹟とか、いうよりも、梨花自身の意志がそうした必然、と考えてやれることだった。
どーん
どーん
城内から、朝を告げる太鼓の音がひびいた。
刎ね橋は、徐々に、おろされて来た。
荒土の中に
朝陽のさしそめた森の中に、チチチ……と、小鳥が、さえずりはじめた。
夜八郎は、梨花の顔を、膝の上に置いていた。
おのが身は、松の幹によりかけて、縞を織ってそそいで来た光を、視ていた。
奇妙なことに──。
自分と梨花とが、いつか、こうして会うような予感が、ずっと以前から、あったような気がした。
──おれにも、女人に恋われることに、よろこびをおぼえる情愛が、あったのか。
わざと、冷たく、自分に呟いてみる。
しかし、その冷たさの方が、そらぞらしいものに思われた。
梨花の慕心を、すなおに、受けてやるのが、いまの自分のなすべき唯一の正直な振舞であった。
夜八郎は、視線を落して、梨花の寐顔を視た。
寐顔には、一条の光が、あたっていた。
美しかった。
女の顔が、このように美しいものだということを、夜八郎は、はじめて、知った。
この美しいものが、けがされずに、清浄なままであったのは、やはり、神が味方したのであろうか。
と──。
梨花の長い睫毛が、かすかに、ゆれた。
潤んだ|眸子《ひ と み》が、夜八郎を、見あげた。
夜八郎は、この一瞬を待っていたにも拘らず、なぜか、微かな狼狽をおぼえた。
梨花は、はっきりと、双眸をひらいた。
「おれだ。夜八郎だ」
夜八郎は、わざと、感情をころした声音で、云った。
夢の中にいた梨花は、その一言で、小さな叫びをあげた。
次に──。
両手をさしのべて、夜八郎の袖にすがると、顔を胸に押しつけて、烈しく|嗚《お》|咽《えつ》しはじめた。
夜八郎は、抱きしめてやるべきであったろう。
しかし、夜八郎は、片手を、こまかにふるえるせなかへまわしただけであった。
抱きしめてやることを、ためらったのは、近くに、百平太がいるのを意識したからであった。
その百平太は、すこしはなれた場所で、前後不覚にねむっていた。
ようやく、嗚咽をおさめた梨花は、起きなおって、坐ると、両手を、胸にあてた。
「……夢で、ありませぬように──」
小声で、つぶやいた。
そのいじらしさが、夜八郎の胸中を、不意に、熱くした。
「夢ではない」
夜八郎は、云った。
「おれは、おれ自身知らずに、そなたを救い出しに、城内へ忍び入ったようだ」
不意に──。
百平太が、ぱっとはね起きた。
「多門様っ!」
「なんだ!」
「馬の蹄の音がきこえますぜ」
「うむ──」
「見て来ます」
百平太は、けもののようなすばしこさで、木立の中を掠めて行った。
「多いな」
夜八郎は、騎馬の群が、五騎や十騎ではない、とさとった。
城から、こちらへ向って来る。
「梨花、歩けるか?」
夜八郎は、きいた。
「歩けます」
「いざとなれば、たたかうことになる」
夜八郎は、腰から脇差を鞘ごと抜きとって、梨花に与えた。
百平太が、血相を変えて、駆けもどって来た。
「いけねえ! 追手ですぜ。この森めがけて、ふっとんで来やがるんでさ。ど、どうします?」
「ひそめるだけひそんで、発見されれば、阿修羅だ」
夜八郎は、笑ってみせた。
その不敵なおちつきぶりが、百平太にも、度胸をきめさせた。
「三十騎は居りますぜ」
「よかろう。おれが、二十五騎を斬る。お前が、五騎を対手にする。やれるか?」
「やりまさあ!」
その三十騎が、森に到着した時、三人の姿は、灌木の茂みの中に沈んでいた。
一斉に、馬から降りたが、べつに、木立の中へ、目を配るでもなく、けもの道を、一列になって、黙々と進んだ。
どの顔の表情も、険しかったが、追手の目つきをしていなかった。
一騎だけ、おくれて、そこに到着したが、これは、九十九谷左近であった。
左近が、大股に森へふみ入った時、三十騎は、空地に、半円の陣をかまえていた。
左近へそそがれる視線は、食いつきそうな鋭さであった。
左近と城内の若い旗本たちとの|軋《あつ》|轢《れき》は、ついに、爆発の時を迎えたのである。
それというのも──。
女を盗んだのが旗本の一人だ、と思い込んだ左近が、夜が明けるとともに、旗本館へ呶鳴り込み、|罵《ば》|詈《り》の応酬があって、
「よし、それならば、太刀で解決してくれようではないか」
「のぞむところだ」
ということになったのである。
旗本たちとすれば、左近が、何かのこんたんあって、云いがかりをつけて来たもの、と憤激したのである。
左近の方は、女をかくされた、と信じて疑わなかったのである。
城の縄張り内での私闘には、面倒があるので、この森が、修羅場にえらばれたのであった。
三十人を対手にしようとして、左近は、いっそ、はればれとした顔つきをしていた。
「ふうん、そろったのう、地獄行きの面々が──」
そう云って、悠々と半円陣の中へ、進み入った。
「九十九谷左近、おのれは、大庄山に遁げ込んだ奈良城義胤のまわし者だろう。どうだ?」
一人が、あびせた。
「奈良城義胤? そんな奴は、知らん」
「この|期《ご》におよんで、しらばくれるな!」
「うるさい! おれは、天下を独歩する兵法者だ。田舎大名などにやとわれるようなケチな料簡など、毛頭みじん持たぬ」
「それならば、なぜ、無法の云いがかりをつけて、城内の攪乱を企てるのだ?」
「おれに、なんどくりかえさせるのだ。この中に、おれがつれて来た女を、さらった奴が居るのだ。そやつを許すことは、断じてできんのだ」
「われわれの中に、お主の女を奪るような卑劣な者は居らん」
「では、曲者が忍び入って、さらったというのか? いったい、どうやって、城から、つれ出したのだ? こたえられる者がいたら、きこうではないか」
「そんなことは、われわれの知ったことではない。ともかく、お主の女など、奪っては居らん」
「たしかに奪ったぞ!」
「酒に酔いしれて、阿呆夢でもみたのだろう」
一人が、あざけって、笑い声をたてた。
瞬間──。
左近の五体が、飛鳥と化した。
対手は、恐怖の形相で、とび退こうとしたが、そのいとまを与えられず、脳天から|血《ち》|飛沫《し ぶ き》を噴かせてしまった。
左近は、血刀を地摺りに下げて、すす……と、一間あまりあとずさった。
「さあ、どこからでも、かかって来い!」
ぴゅっ、と血刀をひと振りして、ゆっくりと、片手を青眼にかまえた。
左手を空けて、自由にしているのは、多勢を敵にした場合、応変の迅業を、小太刀で発揮するためであった。
二十九本の白刃に、迫られて、自若とした静止相に、兵法者の凄じい鋭気が、たたえられている。
この瞬間を生甲斐としている左近であった。
兵法者となるために生れて来たような人間なのであった。
二十九人が、たった一人の敵に対して、威圧されたように、容易に動けないのも、あきらかな技の差であった。
不意に──。
左近が、青眼の構えをすてて、太刀を、ダラリと下げた。
「腰抜けどもっ!」
突如とした一喝をあびせて、つかつかと、三歩ばかり前進した。
「頭数が、これだけ、そろって居って、初太刀をしかける勇気のある奴は、一人も居らんとは!」
べっと、地面へ、唾を吐きつけて、ぐるりと見わたしておき、不敵にも、くるりと、踵をまわした。
そのまま、立去るかとみせたのである。
この侮辱を、誘いの手と、判らぬ者はいなかった。
しかし、全くばかにしたように背中を向けられては、旗本の面目にかけて、黙って見送ることが、できなかった。
一斉に──五六人が、呶号をあげて、その後姿めがけて、奔った。
とみたせつな。
くるっと、向きなおった左近は、すでに左手にも小太刀を抜きはなって居り、
「来たかっ!」
その声とともに、五体を跳躍させた。
木漏れ陽の中で、それは、魔影のような速力で、敵群へぶっつかって行った。
血煙りが、波濤の飛沫にも似て、はね散った。
左近が、とある松の幹を後楯にして、ぴたりと静止にかえった時、地面には、五つのむくろが、横たわっていた。
返り血をあびた左近の面貌は、幽鬼さながらであった。
騎馬数十が一団となって、城からまっしぐらに、この森へ、駆けつけて来たのは、そのおりであった。
先頭をきって来たのは、城主田丸豪太夫であった。
怒気を満面にみなぎらせて、修羅場へ、疾駆して来ると、
「|莫《ば》|迦《か》者どもっ!」
と、大喝した。
旗本たちは、顔面を一変させたが、一人、左近だけは、薄ら笑いをうかべた。
「左近! 増上慢も、ほどほどにせい!」
豪太夫は、睨みつけた。
「増上慢ではござらぬ。この連中が、卑劣者をかぼうたために、やむなく、私闘いたして居り申す」
「女子一人をかくされて、逆上したその方もその方だ! 私闘は、許さん。……それとも、この豪太夫が指揮をとる旗本全員をむこうにまわして、たたかってみせる、と申すか?」
「おのぞみなれば──」
不敵にも、左近は、そうこたえた。
このおそるべき度胸が、豪太夫には、気に入っていた。
「その方は、まさしく、剣鬼というべき奴だ!」
一同が、城へひきあげて行く時、馬が二頭、消えていることを、いぶかる者はいなかった。
左近に六人が斬られたので、六頭の馬があったわけであるが、四頭しかあまっていなかった。
それに気づいた者も、馬が勝手に、城の厩へ帰ったものと思い、べつに、気にもとめなかった。
二頭の馬は、反対側の森かげに、曳かれていた。
百平太が、ぬすんだのである。
馬蹄の音が遠ざかると、百平太は、くさむらから身を起して、
「多門様、馬の用意ができて居ります」
と、声をかけた。
夜八郎は、梨花をともなって、木立の中から出て来ると、
「手まわしがよいな、百平太」
と、笑った。
「役に立つことを、みとめて下さりゃ、それで、満足でさあ。これも、和尚さんのおみちびきで、性根があらたまった証拠でありましょうわい」
帰途、夜八郎は、次の森の中へ寄ってみた。
そこには、昨夜とらえた隣国神矢右衛門太郎の使者を、松の幹へしばりつけてあったのである。
夜八郎は、すぐに、森から出て来ると、黙って、馬へ乗った。
「あいつ、どうなったんで?」
百平太が、たずねた。
「毒蛇にかまれて、果てていた」
こたえておいて、夜八郎は、馬を疾駆させはじめた。
街道を行く必要はなかった。
すべての田が、ひび割れた荒土であった。それを、まっしぐらにつききって行けばよかった。
梨花は、夜八郎の背中にすがりながら、水をうしなったいたましい世界を眺めた。
──農夫たちは、どうして、生きて行くのであろう?
梨花は、点々とちらばっている貧しい家に住む人々の苦難を、想った。
身も心も捧げた人にめぐり会えたよろこびは、このむざんな飢渇の野にあって、一時、おさえなければならぬことだった。
「夜八郎様──」
「うむ?」
「貴方様は、みじめな領民の味方をしようとなされているのでしょうか?」
「もののはずみで、城主を敵にして居る」
「うれしゅうございます」
「ことわっておく。おれは、べつに、しいたげられた者たちを眺めて、心を痛めたわけではない。また、暴君の行状をきいて、義憤をおぼえた次第でもない。……ほかにすることがないから、やっている、と云えるかも知れぬ」
しかし、梨花は、その言葉を、決して、虚無が吐かせたものとは、きかなかった。
伊吹野城には、諸方から拉致されて来た若い女が、百人あまり、五棟の館に、住まわせられていた。
この中で、城主の寝所で|伽《とぎ》をつとめた女が、六十人あまり。
田丸豪太夫は、一度、手をつけて、気に入らなければ、すぐに、家臣へ下げ渡す。
これまでに、すでに、数十人の女が、家臣へ、呉れられていた。豪太夫にとっては、女は、ただの玩弄物でしかなかった。
しかし、この玩弄物は、一夜も欠かさずに、豪太夫の|臥《ふし》|床《ど》をあたためなければならなかった。
豪太夫は、おそるべき精力家だったのである。
豪太夫は、夕食を|摂《と》りおわると、女館から、十人を呼び、眺めわたして、その夜の伽を、その中からえらぶならわしであった。
女たちは、夕刻になると、美しく化粧し、きらびやかな衣裳をつけて、呼び出されるのを待っていなければならなかった。
その中には、ひそかに、殿の寵を一人じめにしたい、と野心を抱いている女もいたし、一夜の伽に、その荒々しい暴力を受けて死ぬ思いをしたので、二度と自分にまわって来ないように祈っている女もいたし、また、まだ一度も呼び出されたことがなく、伽とはどういうことをするのか、すこしもわからずに、おどおどしている女もいた。
五棟百部屋に住む女たちの心はさまざまであった。
いま──。
美しくよそおいおわった女の一人が、鉄格子のはまった窓から、じっと、たそがれの平原へ、まなざしをなげていた。
|眸子《ひ と み》の色は、暗かった。
志保、という。
一月ばかり前に、つれて来られた娘であった。
まだ、一度も、伽をしていなかった。
美貌であったが、骨が細く肉が薄く、魅力にとぼしかったので、係りの小姓が、いつも、はずしたのである。
たしかに、志保の容子には、その生立ちに何か悲惨な因果を負うたような、暗い翳がつきまとうていたのである。
眉目の美しさは、その暗い翳でころされてしまっていた。
田も河も林も、そして人家も、水一滴もなくかわききってしまった伊吹野を、じっと、跳めている志保の表情は、さらに、陰惨なまでに、暗いものになっていた。
と──。
コトリ、とどこかで、かすかな物音がした。
その音で、われにかえった志保は、窓からはなれた。
志保は、気がつかなかったが、いつの間にか、天井板が、はずされ、そこから、ひとつの顔が、のぞいて、鋭く見下していたのである。
志保は、何気なく、天井を仰いだ。
はっ、と大きく眸子をみひらいたが、なぜか、声は立てなかった。
天井裏に、ひそんでいた者は、音もなく、志保の前に、降り立った。
「曲者に相違は、ござらぬが、お|許《こと》に、危害をくわえる者ではござらぬ」
そう云った。
志保は、おどろきとおそれを押えると、
「なにが、目的であろう?」
と、見まもった。
「柿丸と申す。昨日、当城へ拉致された若い女人の供をいたして居った者」
「………?」
「それがしにとっては、大切な女人でござれば、ぜひとも、救って、去りたく存ずる」
この女人館に住む女たちは、自由に外を出歩くことを許されていなかった。したがって、城内で、どんな出来事が起っても、全く知るすべはなかった。いや、同じ棟に住みながら、ほとんど顔を合せない孤独なくらしだったのである。
新しい女人が、拉致されたことなど、志保が、知るべくもなかった。
ただ、一棟二十部屋、五棟の館なので、百人以上は、住まわせられぬため、新しい女人が拉致されて来れば、当然、ふるい女が、その数だけ、追われることを、志保は知っていた。
「お手前は、すでに、この女子衆の館をおしらべでありましょうか?」
「五棟ござるな」
「二十部屋ずつ、百部屋あります。その部屋を、ひとつずつ、さがしてまわるのは、容易のわざではありませぬ」
志保は、冷たい表情で、云った。
柿丸の顔に、困惑の色が、うかんだ。
だが、すぐ、そこへ、正坐すると、両手をつかえた。
「お願いでござる。力を、おかし下され。なにとぞ!」
柿丸は、平伏した。
「お手前は、わたくしを、どうして、おえらびなされた?」
「この棟に忍び入り、天井裏から、幾部屋かを、のぞいて、歩き申した。窓から外を眺めているお|許《こと》を、見たとたん、この女人ならば、味方になって下さる、と直感いたした。失礼ながら、お許の、その顔のくらさは、身の不幸を知って居られるためのものでござろう」
「………」
「お許は、それがしを見つけても、声を立てられなんだ。とらわれの身をあきらめては居られぬ証拠でござろう。……お願いつかまつる! もし、お許も、遁れたいとお考えであれば、手引きつかまつる」
その時、廊下に、ドヤドヤと足音がひびいた。
「今宵のお伽を申しつけられる者、左の者たちである」
近習の大声が、ひびいた。
偶然にも──。
近習は、この棟で、二人の女の名を呼んだが、その一人に、志保が加えられていた。
志保は、廊下へ出て、近習へ、一礼して、応えた。
部屋へもどった志保は、依然として、冷たく動かぬ表情を、たもっていた。
「わたくしは、今宵はじめて、夜伽の候補にされました。殿の面前には、候補十人が、ならぶならわしになって居ります。たぶん、お手前の連れのかたは、その一人に加えられていると存じます」
「忝い。お願い申す。……梨花という女人でござる」
志保は、柿丸の必死な態度を眺めて、
「わたくしにも、お手前のような、たのもしい味方がありますれば……」
と、云った。
「………?」
柿丸は、志保を、見かえした。
「ぐちでした。……わたくしは、一人ゆえ、自分の力でなさねばなりませぬ」
「なにを、なそうといわれる?」
「もし──、わたくしが、夜伽にえらばれたならば、その時……」
「………?」
「その時、いのちをすてます」
「………?」
「いのちをすてても、べつに、悲しんでくれる者は居りませぬ」
「貴女は、城主を、刺そうといわれるのか?」
「はい」
「どうして、そのような無謀を──?」
「田丸豪太夫は、父母の敵だからです」
「………?」
「わたくしの家は、|検《け》|非《び》|違《い》|使《し》の|裔《すえ》で、野に下って、郷士として、平和な館をかまえて居りました。田畠はすべて、百姓たちの自由にまかせ、山林の経営に、父は熱心な人でした。武将たちの攻めつ攻められつのあわただしい交替とは、かかわりのない平和なくらしでした。武将たちもまた、一時の覇権争いに、田畠を荒らしても、わたくしの家にまで、兵火をおよぼすことは、さけてくれたのでした。領土を奪いとったあかつき、わたくしの父がどんなに重要な立場にいるか、知っていたからです。父を利用することが、百姓たちの心をしたがわせるはやみちであったのです。……田丸豪太夫は、そうではありませんでした。領民の尊敬を一身にあつめている父を、憎んだのです。……父母は、館もろとも、焼かれました」
「………」
「この恨みは、はらさねばなりませぬ。……わたくしは、田丸豪太夫と同じ天をいただいて生きているわけには参りませぬ!」
志保の表情は、はげしいものとなっていた。
柿丸は、息をのんで、志保を見つめた。
それから、半刻ののち──。
美しく装った十人の女が、城主館の広間に、ならんでいた。
いずれも、二十歳前後の、眉目のととのった、氏素姓のいやしくない清浄な容子の持主たちであった。
近習が奥へ入った隙をえらんで、志保が、口をひらいた。
「この中に、梨花と申されるおひとが、おいででしょうか?」
九人は、黙って、志保を見かえした。
「昨日、当城へ、つれて来られたおひとです。おいでになりませぬか?」
返辞はなかった。
志保は、一人一人の顔を、見やった。
どの顔にも、かくそうとしている色は、みとめられなかった。
──この中に、いないとすると?
志保は、当惑した。
当然、梨花がいるもの、ときめて、柿丸が、自分の部屋に待っている、と耳うちして、歓喜させるつもりだったのである。
もし、加えられていなかった時は、柿丸に、どんな連絡をするか、約束をしていなかったのである。
十人のうち、一人が夜伽にえらばれても、のこり九人は、そのまま、城主館に、朝まで、とどめておかれるならわしだった。
志保は、柿丸に、合図のすべがなかった。
もし梨花が加えられていない場合を考慮していたならば、なんらかの方法で、それを知らせる手筈はできたのである。
柿丸は、梨花が加えられているものと思って、この城主館へ、忍び入って来るに相違ない。
──どうしたらよいであろう?
志保は、はげしい焦躁をおぼえた。
どうしてよいか、見当もつかなかった。
そのおり──。
奥から、
「お入りっ!」
と、高い声が、かかった。
志保は、俯向いて、かたく、両手をにぎり合せた。
田丸豪太夫は、ずかずかと、広間に入って来るや、せわしく、十人の女を見わたして、
「相も変らず、人形同様の生気のない顔ばかりだのう」
と、云ったが、急に、志保の顔へ、視線をとめた。
「その女──はじめて、見るぞ!」
豪太夫は、志保を指さした。
「なぜ、今日まで、すてておいた?」
「は──。なにぶん、陰気なむすめでありましたゆえ……」
近習が、怯ず怯ずと、こたえた。
「陰気だと?」
豪太夫は、あらためて、志保の顔を、のぞき視て、
「間抜け者め、この顔を、陰気と看るとは、おのれの目玉は、節孔だぞ。男まさりの、烈しい気象をあらわして居るのじゃわい。わしの好みぞ」
と、にやにやした。
「では、今宵は、このむすめにあそばされますか?」
「おう、あたりまえだ。手ごたえのありそうな別品ではないか。ははは……愉しむぞ」
豪太夫は、志保の前に寄ると、その肩をつかんだ。
志保は、毒虫に百ぴきもたかられたような戦慄を、全身に走らせた。
「うむ。肉づきは上々だぞ。掘り出しものよ」
豪太夫は、満足して、奥へ去った。
近習は、険しいまでにこわばった、冷たい表情をしている志保を、じろじろと、眺めて、
──殿は、こんな|女《おな》|子《ご》を、どうして気に入ったのか?
と、いぶかりつつ、
「志保と申したな。お伽の作法は、かねて、書きつけにして、渡してある通りだ。いささかでも、反抗の気色を示しては相成らぬぞ」
と、教えた。
「はい」
志保は、俯向いたまま、こたえた。
──とうとう、生命をすてる時が来た。
近習にうながされて、立ち上った志保は、自分に云いきかせた。
寝所の次の間には、燃えるような真紅の寐間着が、用意されていた。
豪太夫の好みに相違なかった。
「殿が、|鉦《かね》を叩かれたならば、伺候いたすように──」
近習は、命じておいて、立去った。
志保は、しばらく、その場に坐っていてから、ようやく、立って、衣裳を脱ぎはじめた。
懐中にしのばせていた懐剣を、どうしようか、とためらった。寐間着にかくすわけにいかぬと考えて、小柄だけ抜きとって、下げ髪を結んだところへ、さし入れた。
もはや、自分の部屋で待っている柿丸のことは、念頭からすてていた。
こうして、生命をすてて、父母の|讐《かたき》を|復《う》つのが、自分の運命であった、とあらためて、胸のうちで、つぶやいていた。
四半刻がすぎた。
寐所から、鉦が、打ち鳴らされた。
志保は、立ち上った。
みつぎ使者
さすがに──。
志保の胸は、早鐘のように、せわしく鳴った。
寝所には、あの毛むくじゃらの巨漢が、|褥《しとね》に仰臥している。
ちょっとさわられただけで、百ぴきの毒虫にたかられたような戦慄が走ったのだ。
その仰臥の姿を想像しただけで、悪寒が、おこりのように、全身を粟立てた。
鉦は、つづけて、打ち鳴らされた。
志保は、力をこめて、ふるえをとめると、寝所に入った。
豪太夫は、大椀になみなみと酒を盛って、片手にしていたが、志保が入るや、
「おそい!」
と、どなりつけた。
「申しわけございませぬ」
志保は、褥のすそへ、坐った。
豪太夫は、寐酒をひと息に飲みほすと、
「くれてやろう」
と、その大椀をさし出した。
「いえ、わたくしは……」
志保は、辞退した。
「遠慮するな。酔った美女は、風情があるわ」
「一滴も、たしなみませぬ」
「いまから、飲むけいこをせい」
「お許し下さいませ」
「許さん!」
豪太夫は、大声をあげた。
自分の思い通りにならぬことは、この世にひとつもない、といった傲岸な態度であった。
志保は、困惑した。
酒というものを、生れてまだ一度も、口にしたことのない志保であった。
酔いが、どのように苦しいものか、わからぬが、おそらく、四肢がうばわれ、目がまわって、地獄におちた状態になろう、と想像できる。
「これに、たっぷり飲めとは申して居らぬぞ。……ためしじゃ。飲め」
豪太夫は、大椀を、志保の膝へ、投げた。
やむなく──。
志保は、それを、把った。
豪太夫は、にやにやして、
「よし、注いでつかわす」
と、酒壷を、つかんだ。
「近う──」
命じられて、志保は、おそるおそる、そのそばへ、寄った。
とたんに、豪太夫は、片手をのばして、志保の肩を抱きかかえた。
志保のからだは、石のかたさになった。
──生命をすてるのではないか!
志保は、自分を|叱《しっ》|咤《た》しながら、大椀にそそがれる白く濁った液体を、じっと、見まもった。
「さあ──飲め。飲めば、極楽にあそぶ気分になるぞ」
志保は、そっと、大椀のふちへ、唇をつけた。
しかし、容易に、飲むことができなかった。
「はっはっは……、まるで毒でも服すようにおそろしげではないか。よし、では、口うつしに飲ませてつかわそうか」
豪太夫に云われて、志保は、あわてて、ひと口、飲んだ。
意外にも、甘かった。
「どうじゃ、うまかろう」
「は、はい──」
「ぐっと、飲め」
「はい」
志保は、その意外な甘さに、軽率にも、酒に対する恐怖をすてた。
「ほう……飲んだぞ。みごとじゃ」
豪太夫は、大椀をかたむける志保を、ほめつつ、抱き腕に、力をこめた。
──なんでもない。わたくしは、酒につよいのであろう。
大椀を、三方にかえした志保は、そう思った。
父が、酒豪だったのである。その血を継いでいるのだ、と自分に云いきかせた。
「よしよし──、いますぐ、陶然となるぞ」
豪太夫は、志保を、褥の上へ押し倒した。
その毛むくじゃらな手が、胸をさぐって来るや、志保は、本能的に、拒もうとした。
処女の抵抗は、豪太夫の望むところである。
しゃにむに、五指で、その隆起をつかんだ。
瞬間──。
志保は、全身をつらぬく戦慄に、反射的な烈しい身もだえを示した。
それが、酔いを一時に発する結果をまねいた。
おそろしい勢いで、胸の鼓動が、迅鳴りはじめた。
「……あ、あっ!」
志保は、悲鳴をあげて、はね起きようとした。
「ふっふっ……」
豪太夫は、すでに、こうした残忍な行為を、いくたびもやってのけている、とみえて、猫が捕えた鼠をもてあそぶように、ゆっくりと時間をかけて愉しもうとする様子であった。
志保は、心臓が破れる、と思った。
──母さまっ!
祈りざま、志保は、下げ髪の結びめにかくしていた小柄を、さっと、抜き持った。
「南無っ!」
声を発して、小柄を、豪太夫の咽喉めがけて、突き出した。
「おっ──こやつ!」
不意をくらった豪太夫は、はらいのけようとしたはずみに、その手の甲を、ぐさと刺されてしまった。
「わしを殺そうとしたとは、小面憎いぞ」
血まみれの拳で、志保を、ひとなぐりに、悶絶させておいて、どっかとあぐらをかいた豪太夫は、熟柿くさい息を、吐いてから、にやりとした。
すこしも、腹を立ててはいなかった。
小柄で、手の甲を刺されたのは、おのれの不覚であった。
たしかに──。
はじめて接する手ごたえのある娘であった。
これまで夜伽をさせた数百人の女は、ひとしなみに、人形のように、おとなしく、まるで死んだようになって、されるがままに、身をまかせた。
生命を狙われたのは、今宵がはじめてであった。
生命を狙われることに、腹など立ちはしなかった。戦乱の時世である。これは、日常のことといえる。もし、殺されれば、それは、おのれが不覚であったことなのである。
むしろ、女の細腕で、この田丸豪太夫を刺そうとしたけなげさを、ほめてやってもよいくらいなのだ。
これほどの手ごたえのある娘を、わがものにすることに、大いに快感をおぼえるのだ。
豪太夫は、大椀に、酒を注いで、ひと息に、飲みほした。
それから、|猿《えん》|臂《び》をのばした。
俯伏しに、気絶した志保を、ごろりと、仰向けにしてみた。
寐間着の前は乱れ、はだけて、胸も太股も、あらわになっていた。
「意趣をふくむからには、両親を、わしに殺されたとみえるのう」
しかし、豪太夫は、この女が、どこの何者のむすめか、詮議してみる興味など、すこしもなかった。
その白いゆたかな肌にのみ、興味があった。
みずみずしい、ふっくらと盛りあがった乳房を、ぐい、とわしづかみにしてみた。
なんというあたたかい弾力であろうか。
このように美しい白いからだの中に、あらん限りの憎悪をひそめていた、というのが、まことにおもしろい。
「では──ゆるゆると、ものにしてくれるかの」
豪太夫は、酒を口にふくむや、志保の寐顔へ、霧にして、吹きかけた。
ひくい呻きが、もらされた。
「目をさませい!」
豪太夫は、らんぼうに、ゆさぶった。
志保は、まぶたをひらいた。
次の瞬間──。
はじかれたように、はね起きて、乱れた寐間着の前を、あわせつつ、じりじりと、あとずさった。
「勇気のほど、ほめてつかわすぞ」
豪太夫は、笑った。
「こ、ころせ!」
志保は、叫んだ。
「はっはっは……、そなたのような逸品を、なんで殺してたまろうか。もう、むだに、いきり立つのは、止めにせい」
「父上、母上のかたき!」
志保は、あらんかぎりの憎悪をこめて、にらみつけた。
「わかって居る。食うか食われるかの世の中だ。強者が勝ち、弱者が亡ぶ。それだけのことだ。そなたの父は、この田丸豪太夫よりも、力が弱かった。それで、相果てた。……わしを恨んでも、しかたがないぞ!」
「父は、なんの野望もなく、平和にくらしていたのです。これまで、この国に攻め入った大名で、父を厚くもてなしこそすれ、滅ぼそうなどと考えた|御《お》|仁《ひと》は、一人たりともありはしませぬ! お手前だけが、残忍むざんに、反抗もせぬ父を、殺されたのじゃ!」
「何者であったな、そなたの父は?」
「横尾喜左衛門を、お忘れか!」
「横尾?……うむ。あの君子面をした郷士か。おぼえて居る。わしにむかって、武将の道などを、説法し居ったのう」
豪太夫は、さっと、猿臂をのばして、志保を、とらえた。
志保は、死にもの狂いに、もがいた。
「ころせ! こ、ころせっ!」
もはや女であることを忘れて、志保は、胸も太股もあらわになるのを、いとわなかった。
かみつき、ひっかき、たたき、蹴った。
豪太夫は、志保が、死にもの狂いになればなるほど、快感をそそられるように、笑い声をたてて、あしらった。
そして、一瞬──。
隙をとらえて、馬乗りになり、四肢をおさえつけた。
「どうじゃ、抵抗しながら、犯されるがよいか?」
「ちっ──こ、ころせ!」
志保は、べっと、唾を吐きかけた。
「はっはっは……」
豪太夫は、高笑いをたてつつ、巧みに、じりじりと、膝で、志保の両脚を、押しひろげようとした。
と──。
志保が、まぶたを閉じた。
「母様っ!」
悲痛な声で、亡き母を呼んだ。
次の瞬間、舌を噛んだ。
みるみる、血汐が口からあふれ出るのを見て、さすがに、豪太夫は、狼狽した。
「こやつ! 舌を噛むことがあるか!」
身をどけて、抱き起してみた。
志保のからだは、苦悶で、はげしくわなないた。
その折であった。
この寝所へ、ぬっと、押し入って来た者が、
「おっ!」
と、驚愕の叫びを発した。
柿丸であった。
志保の部屋で、じっとしていることが、できなくなり、召された十人の女の中に、梨花を見つけようとして、この館に忍び入って来たのであった。
建物に入るや、たちまち、奥から、女の悲鳴をきいた柿丸は、いそいで、廊下を、進み入った。
途中、近習の一人に発見されたが、一瞬裡に、これを斬り仆して、空部屋へ、蹴込んでおいた。
柿丸は、むざんな光景を一瞥するや、
「おのれっ!」
と、われを忘れた。
柿丸にすれば、この城主が、梨花をさらった、とばかり思い込んでいたので、憎悪が凄じかった。
一太刀に、斬りつけた。
「おっ!」
豪太夫は、巨躯を一廻転して、立った。
その左手くびから、血がしたたった。
「曲者め、わしに手傷を負わせたのう」
豪太夫の形相は、かえって、笑いを刷いた。
「くたばれい! この暴虐人め!」
柿丸は、じりじりと迫った。
「若僧! そのへっぴり腰では、この田丸豪太夫は、斬れぬぞ!」
「斬れるか斬れぬか──くそっ!」
柿丸は、猛然と、躍った。
あやうく、かわした豪太夫は、かわしざまに、床の間にたてかけてあった長槍を、つかみとった。
「呼吸をととのえなおせ、若僧! 喘ぐ奴を突くと、血汐がとびすぎるわ!」
豪太夫は、うそぶいて、穂先を、ぴたっと、柿丸の胸へ、ねらいつけた。
恐怖が、柿丸の全身をつらぬいた。
その恐怖が、結果として、柿丸を生かした。
──生きねば!
柿丸は、むだにすてる生命ではないことに、気づいたのである。
梨花を救わねばならぬ使命があった。
「うおっ!」
野獣に似た叫びをあげて、攻撃を示しておいて、柿丸は、ぱっと、身をひるがえした。
「にげるかっ!」
豪太夫は、跳ぼうとして、志保のからだにつまずいて、のめった。
その隙に、柿丸は、廊下へ、奔り出た。
その時、近習が、かけつけて来ていた。
柿丸は、板戸へ体当りをくれて、とある部屋へ、おどり込んだ。
そこには、九人の女たちが、いた。
「梨花様っ!」
柿丸は、絶叫したが、こたえはなかった。
絶望しつつ、柿丸は、その部屋を駆けぬけて行った。
庭へのがれ出た柿丸は、追いすがって来た近習に、池泉ぎわで、包囲された。
ついに梨花をさがし出せなかった絶望感が、いま、柿丸を、狂暴な野性にかえそうとしていた。
──くそっ! どうともなりやがれっ!
こちらも死を覚悟したが、対手がたをも、一人でも多く、あの世へ道連れにしてくれるぞ、と睨みまわした。
一瞬──。
柿丸は、もの凄い叫びを発して、包囲陣へむかって、身をおどらせた。
柿丸は、さむらいではなかった。雑兵として戦場をかけまわった男であった。したがって、これだけ多勢の敵をむこうにまわしてたたかうのは、はじめてであった。どうたたかうか、そのすべを知らなかった。
ただ──。
死にもの狂いに、野獣があばれるように、あばれまわるだけであった。
それが、いたずらに、体力を消耗させることであることを知らぬではなかったが、ほかに、受けて立つ業など、柿丸に、そなわっているはずもなかった。
ただ、少年にして天涯孤独となり、たった一人の力で生きぬくためのきたえかたを、その五体は、していたのである。
これは、なまじの武技を修業しているのよりも、はるかに、戦闘力をやしなっていることを意味した。
その証拠に──。
十数人の近習がつくった包囲の陣形を、みるみる、崩してしまった。
あきらかに、近習たちは、柿丸の凄じいあばれかたを、もてあました。
たちまち、数人を手負わせておいて、柿丸は、本能の敏捷さで、木立の闇へ、奔った。
「待てっ!」
「のがすなっ!」
近習たちとしては、対手が、左近のような一流兵法者ならいざ知らず、見受けたところ、うすぎたない土民でしかない若者一人を、とりにがすのは、面目にかかわることだった。
いくら、あばれまわっても、そのうちに、かんたんに討ちとれる、とタカをくくったところに、油断が生じた。
たちまち、味方数人が負傷してしまい、
──こやつ、なかなか手強いぞ!
と、思った時には、もう、木立の中へ、のがしていた。
それは、この城郭が、まだ築かれていなかった頃のままに、のこされている密林の一部であった。
いまだに、狐狸も棲んでいる模様であった。
近習連は、ふみ込んだものの、墨を流したような暗闇に、途方にくれなければならなかった。
こうなると、一人だけというのは、有利となる。
近習連は、闇の中で、互いに味方と呼び合わなければ、同士討ちをやりそうであった。
およそ半刻近くも、必死に、さがしまわったが、近習連は、ついに、たった一人の敵を、見つけ、討ちとることは、できなかった。
「朝を待とう」
一人が、云った。
「いや、是が非でもさがし出さなければ、殿が、承知されぬぞ」
「しかし、この闇では、|如何《い か ん》ともしがたい」
「闇に目の利く者は、一人も居らんのか?」
「九十九谷左近にたのむか?」
「ばかな! 彼奴は、われわれの敵だぞ」
「朝を待とう、朝を──」
「この森を包囲して、待つのだ」
やむなく、近習連が、木立の闇から、ひきあげて行く様子を、柿丸は、とある巨樹の|高処《た か み》から耳にしていた。
一人ではなかった。
一枝高いところに、もう一人、ひそんでいる者がいたのである。
柿丸が、この木立の闇へのがれ込んだ時、不意に、一条の綱が、降って来て、首にかかった。あわてて、はらおうとしたが、そのいとまがなく、ぎゅっと、頸を締められてしまった。
|縊《くび》られそうになって、思わず、その綱をつかんだ瞬間、頭上から、
「敵ではない。助けてやるから、この綱にすがって、登って来い」
という声が、降って来た。
それは、綱をつたって、柿丸の耳にのみひびく、忍者独特の忍び声であった。
で──。
柿丸は、無我夢中で、綱をつたって、巨樹へのぼったのである。
山中を、けもの対手に、猿のようなくらしをして育った経験が、こうした場合、役に立った。
「お手前は!」
高処の枝にすがってから、頭上にうずくまる者に、たずねかけると、
「しっ! しずかに──」
と、制された。
それから一刻、そこで、柿丸は、何者とも知れぬ男とともに、息をひそめていたのである。
木下闇が、しずかになり、密林の外を包囲するざわめきが、|汐《しお》|騒《さい》のように、つたわって来た。
「やれやれ、ひと騒動のおかげで、こっちは、ひどう迷惑する」
頭上の男が、云った。
「申しわけありません。やむを得ぬ仕儀にて……」
柿丸は、詫びた。
「どうした、というのだ?」
「わしがお供をしていた姫君が、当城へさらわれたので、救い出そうと、忍び入って、……この騒ぎになりました」
「無謀なことをしたものだ」
男は、云った。
「やむを得なかったのでござる。姫君をさらわれては、わしは、のめのめと生きていられないのでござる」
柿丸は、こたえた。
男は、ふふ……、と、ふくみ笑いをもらした。
「何をわらわれる?」
「飛んで火に入る夏の虫、ということわざがあるて」
どうやら、頭上の男は、相当皮肉な性格の持主のようであった。
「お手前は、どうして、ここに、ひそんで居られるのじゃ?」
柿丸は、その不審を問うた。
「使命を与えられて居る」
「なんの使命を?」
「かるがるしゅうは、打明けられぬて──」
「忍者でござろう、お手前は?」
「左様──。七位の大乗という忍者さ」
「この城主を攻めようとしている武将にやとわれて居られるのじゃな?」
「そんなところだ。……ところで、その姫君というのは、女人館に、とらわれて居ったかな?」
「いや、まだ、わかり申さぬ。たぶん、とらえられて居られる、と思うのじゃが──」
「おれは、三日前から、あの女人館に忍び込んで居った。で──館内の様子は、つぶさに、見とどけて居る。……その姫君とやらは、いつ、拉致されて来たのだ?」
「一昨夜でござる」
「それは、おかしいぞ。女人館には、新しい娘は、一人も殖えなかった」
七位の大乗は、多門夜八郎と百平太が忍び入って来て、梨花を救って、去ったことを、知らなかったのである。
これは、夜八郎の方が、まだ、大乗を、味方として信用して居らず、連絡をとらなかったためであった。
大乗は、ひとたびは、天満坊に屈服して、公卿館側についたとはいえ、伊吹野城へひきかえせば、ふたたび、田丸豪太夫の方へ寐返りを打つかも知れぬ、と警戒されたことだった。
「梨花様は、たしかに、この城へ、拉致されたのでござる」
柿丸は、云った。
「拉致されて来たのなら、女人館へ、つれ込まれるはずだが……」
「べつの場所に、監禁されているのかも知れますまい」
「それでは、お主は、姫君を見つけて、救い出すまでは、のがれ出られぬ、というのか?」
「姫君を見失っては、多門夜八郎殿に、合わせる顔がないのじゃ」
柿丸は独語を吐いた。
すると、大乗は、その名をききとがめた。
「なに? なんと云うた?」
「なんと云うた、とは?」
柿丸は、ききかえした。
「お主、いま、多門夜八郎殿に、合わせる顔がない、と云ったな?」
「申したが……?」
「これは、偶然だのう。おれは、その多門夜八郎から、命じられて、当城に忍び入って、いろいろと、調べて居る者だ」
「そ、それは!」
思わず、柿丸は、高い声をたてた。
「しっ! しずかに──」
と、制して、大乗は、
「姫君というのは、多門夜八郎氏のなにかに当るのだな?」
「妻におなりになるおひとでござる」
「成程の。つまり、多門氏のあとを追って、この土地まで、たどりついたところを、当城の荒くれ共にさらわれた、というわけだ」
忍者だけに、合点がはやかった。
「その通りでござる」
「そうすると……ふむ!」
大乗は、ちょっと思案しているようであったが、
「今夜は、警戒が厳重で、どうにも、ここから、動きはとれぬ。……明夜だな、明夜──」
と、云った。
「援助して下さるか?」
「やむを得ないの。多門氏の妻になる姫君、というのであれば、見すてるわけに参るまい。……そろそろ引きあげようか、とうかがっていたところだが、もう二夜、のばすことにいたそうて」
「かたじけのうござる。……夜八郎様は、この伊吹野においでなのですか?」
「うむ。公卿館という屋敷にの」
「有難い! 梨花様を、救い出して、夜八郎様にお会わせすることができる!」
柿丸は、胸がおどった。
すでに、梨花が、救われて、夜八郎のそばに在る、とは、神ならぬ身の、知る由もなかった。
やがて……。
夜は、明けた。
陽がのぼるまでのひととき、乳色の朝霧が、城内を包んだ。
その間に、大乗と柿丸の姿は、その巨樹の高処から、消えて、その潜伏場所を、どこかへ移していた。
今日もまた、空には、一斑の雲影も、みとめられなかった。
灼けた陽は、かわきはてた荒野を、容赦なく照りつけはじめた。
その時刻──。
街道上に、一群の行列が出現した。
それは、米俵を積んだ荷車五台を牛に曳かせた一団であった。
先頭を、馬で進んで来たのは、坊主あたまの具足武者であった。
天満坊にまぎれもなかった。
「どうも、いかん!」
田丸豪太夫は、朝食に、鶏一羽を丸焼きにしたのを、あらかた平げる健啖ぶりを示して、太鼓腹を、ひとなでしてから、大声を発した。
「どうなさいました?」
近習が、いぶかって、たずねた。
「|髀《ひ》|肉《にく》がつきすぎた」
「は──?」
「久しゅう、戦場を駆けまわらぬので、五体の|緊《しま》りが、ゆるんだぞ」
「殿のご威勢が、四隣を圧したために、兵火がおさまって、めでたい限りと存じますが……」
「ばかを云え! この田丸豪太夫が、伊吹野城ひとつを占めて、満足して居る、と思うのか。京へ攻めのぼって、天下を制する覇道を進むのだ。それまでの一息を入れているにすぎぬわ」
「いずれは、その壮図を、おきかせ下さるものと存じて居りました」
近習は、口でへつらいながら、内心では、
──それほどの器量が、この|巨男《おおおとこ》にはあるべくもないが……。
と、思っていた。
「休息が、ちと、永すぎたようだぞ」
「は──?」
「そろそろ、隣りの神矢右衛門太郎を、撃ち砕いてくれるか」
「神矢は、かねてより、恭順の意を表して居りますが……?」
「かまわん。右衛門太郎は、平家の嫡流だ。城内には、おびただしい宝物を蓄えて居るはずだ。一品のこらず、まきあげてくれよう」
──やはり、前身は、あらそわれぬ。|盗《ぬす》|人《っと》根性が、一城のあるじになっても、抜けきれぬ。
近習は、ひそかに、さげすんだ。
「数日うちに、出馬してくれよう」
「殿、それよりも、まずさきに、公卿館をお攻めになりましては?」
近習は、すすめた。
「うむ、そうであったな。泰国清平のことを忘れて居ったわ」
豪太夫は、先夜、忍び入って来た七位の大乗と名のる忍者の言葉を、思い出した。
泰国清平は、摂家五軒から委託された莫大な金銀を、館の内か外かに、隠している、という。
こころみに、一隊を送ったところ、伏兵のために、撃退されてしまった。侍大将荒巻鬼十郎は、その失敗の責任を負って、切腹して果てた。
豪太夫は、七位の大乗の言葉など、信用できなかったので、それきりに、すてておいたのであった。
公卿館を、蹂躪することなど、朝飯前のひと仕事にすぎなかった。しかし、いかに、土賊上りの豪太夫でも、泰国清平を滅ぼすことは、土一揆の頻発している目下の伊吹野の飢えた現状にあっては、得策でないことが、判っていたのである。
公卿館が、蓄えている糧秣を、土民たちに、すこしずつ、ほどこしているからこそ、まだ、惨状は、この程度で、くいとめられているのである。
もし公卿館を攻め滅ぼしてしまえば、土民たちは、救いの主を失って、完全に飢えてしまう。
餓死に追いつめられた土民たちが、ついには、一人のこらず、団結して、文字通り死にもの狂いになって、伊吹野城へ、襲いかかって来ることは、目に見えている。
これは、始末のわるい面倒事である。
公卿館は、当分、そのまま、すてておいた方が、よさそうであった。
豪太夫は、その肚で、一隊が撃退されても、自らが出馬して、公卿館をふみにじろうとは、しなかったのである。
しかし、いま、近習から、そそのかされて、ふと、七位の大乗の言葉を思い出した豪太夫は、
──京へ攻めのぼるには、莫大な軍資金を必要とする。
と、考えた。
充分の軍資金がなければ、強力な軍勢は組織できぬ。
もし、泰国清平が、五摂家から金銀を委託されているのが真実ならば、その額は、大変なものに相違ない。
──ひとつ、公卿館を襲ってくれるか?
豪太夫は、急に、五体がむずむずして来た。
想像もしなかったほどの金銀が、眼前に置かれた光景が、目さきにちらついた。
──いやしかし、あの|鼠《そ》|賊《ぞく》めの言葉は、信じ難い。
幾千という土民が、狂気したごとく喚きたてて、城へむかって殺到して来る光景も、想像されるのだ。
「ひとつ、泰国清平を召捕って、拷問にかけてくれるか」
殺さねばよいのだ。
いためつけて、そのことが、事実かどうか、たしかめるだけでよいのだ。
「よし!」
豪太夫は、おのれにうなずいた。
その折、広縁に、旗本の一人が現れて、
「申し上げます。隣国神矢右衛門太郎殿の使者が、只今、大手門前に、到着いたし、みつぎの儀を、申し出て居ります」
「なに、みつぎだと? みつぎをするのなら、あらかじめ、手紙を送って来るはずだが……?」
「使者が申すには、あらかじめ、お手紙をさしあげるべきであったところ、主人急病のため、そのひまがなく、やむなく、突然参上した次第の由にございます」
「みつぎは、なんだ?」
「米五十俵にございます」
「五十俵か、ほう──」
豪太夫の顔面が、ほころびた。
「右衛門太郎め、思いきって、へつらい居ったのう」
隣国を攻撃してくれようか、と髀肉をなでていた矢先であったので、豪太夫は、気をよくした。
豪太夫が、書院へ出て行くと、坊主頭の巨漢が、一人正座していた。
「神矢右衛門太郎の筆頭家臣、叡山入道政道と申す者、爾後お見知りおき下されますよう──」
まことしやかに名のって、平伏した。
「右衛門太郎氏は、病臥ときいたが、まことか?」
「再起不能かと存じられます」
天満坊は、こたえた。
「ふむ、それは、気の毒だのう。後継ぎはあるか?」
「長子、次子──八歳と七歳でありますれば、主座に就く力はありませぬ」
「お主が、後見いたすのであろう」
「あいにくなことに、それがしは、譜代の家臣ではござらぬ。いささかの智謀を買われて、三年前に、随身いたした者。生え抜きの家臣らは、それがしが、筆頭の座に在ることだけでも、快からず思って居ります。まして、後見役にでも就けば、それがしに野望ありと、疑いをかけて参りましょう。到底、それがし一人の力で、おさえきれますまい」
「そうか、それは、気苦労なことだな。右衛門太郎氏が、逝去した時が、神矢家存亡の危機ということに相成るの」
「そういうわけでありまする」
「お主の肚のうちは、どうじゃ?」
「と仰せられますと?」
「お主には、神矢の幼な子たちを擁して、奮闘する決意があるか、どうか──それを、ききたい」
「家臣一同が一致団結して、神矢家を守り、その指揮を、それがしにまかせる、というのでありますれば……」
「それは、のぞみ得ぬことだ、というのだな?」
「御意──。すでに、殿の病いが不治と知って、重臣らは、後見後はおのれの手に、と野心を起して、目に見えた反目をみせて居ります。それがしを除く密議もなされた気配にございます」
天満坊は、豪太夫を|北《ほく》|叟《そ》|笑《え》ませる虚言を、おもおもしい口調で、吐いてみせた。
豪太夫は、これが、贋使者である疑いなど、夢にも気づかずに、じっと見据えていた。
天満坊も、まばたきもせずに、見かえしている。
豪太夫が、口をひらいた。
「どうじゃ、入道──。神矢城を、お主自身のものにせぬか?」
「なんと仰せられましたか?」
こっちから、巧みにそそのかし、とうとう、豪太夫を、口車に乗せることに成功しながら、天満坊は、何食わぬ顔で、ききかえした。
「お主が、神矢城のあるじになっては、どうじゃ、と申しているのだ」
「これは奇怪なことを仰せられる。それがしには、そのような、天をおそれざる謀叛心など、いささかもありませぬ」
「申すな! お主は、智謀を買われて、筆頭家臣にまでのし上った男ではないか。智謀が長じて居れば、神矢城内の状況如何によっては、おのれが、主座に就けば、という野望が起らぬはずはないぞ!」
「………」
「どうじゃ! しらばくれるな!」
豪太夫は、いい気分であった。この巨漢の肚裡を、見ン事看破してくれた、と自信満々だったのである。
天満坊は、いかにも、看破されたように、目を伏せると、
「なにさま、神矢城は、右衛門太郎様の人徳によって、平和を保たれて居りました故、ひとたび、主君がお亡くなりになることが、避くべからざる事実と知れば、重臣らは、おのれの無能を棚に上げて、扇の|要《かなめ》が切れたごとく、各人ばらばらに、邪念を燃やすことに相成ります。まことに、なさけなき次第で……」
「そのことは、もう判った。お主自身の料簡だ。どうじゃ、右衛門太郎氏の逝去を好機にして、一城の支配者になってみせぬか。……この田丸豪太夫が、力を貸すぞ」
豪太夫は、そう云って、にやりとしてみせた。
天満坊は、
──この暴君の頭脳が単純なのか、それとも、わしの口舌が巧妙なのかな?
と、内心おかしさをおぼえつつ、
「それは、ご本心でござろうか?」
と、鋭く見つめかえした。
「本心でなくて、どうする。お主が、終生の味方であると誓うなら、いくらでも援助してくれるぞ。……わしは、いずれ、京の都へ攻めのぼる。覇道を猛進撃するにあたっては、お主のような人物が、左右の腕に必要じゃ」
「お言葉、有難ききわみではありますが、犬といえども三年飼われれば、その恩を一生忘れぬ、と申します。まして、人間のそれがしが、筆頭家臣にされた恩を、忘れて、叛旗をひるがえすわけには、到底参りませぬ」
天満坊は、対手をじらせることにした。また、すぐに承知するよりは、気骨を示す方が、対手を信用させる効果があるのであった。
はたして、豪太夫は、
「今夜は、当城に泊って、ゆっくりと、思案してくれい」
と、云った。
「さて──」
別室を与えられた天満坊は、一人端坐して、つぶやいた。
「のるか、そるか──ここ一番の大ばくち!」
ほどなく、隣りの広間へ、天満坊がひきつれて来た従者たちが、案内されて来た。
泰国太郎ら、公卿館の地ざむらい数名は、神矢城の士になりすましていることは、容易であったが、百平太を|走衆頭《はしりしゅうがしら》とする青助、黒太、赤松、白次らは、城兵の目がなくなると、たちまち、本性をあらわしてしまった。
「やれやれ──」
「どっこいしょ」
「どうも、さむらいの恰好は、窮屈でいけねえ」
いずれも、袴をまくりあげて、大あぐらをかいてしまった。
泰国太郎は、これらの無頼者たちを、走衆にしたのを、後悔していた。
農夫たちを小人にして、これらの無頼者たちをさむらい衆にしたのは、まちがっていたようである。
「お主ら、さむらいだぞ。もっと、威儀を持て」
太郎は、叱咤した。
「威儀を持て、って、どうすりゃいいんだ?」
「あぐらなど、かいてはならん」
「おめえさんみてえに坐るのは、苦手なんだ。かんべんしてもらおう」
青助たちは、太郎とは、どうしても、ウマが合わなかった。
「城の者たちに、見られたら、たちまち、疑われるではないか」
「へへへ……、さっと、早変りするのは、得意でさあ。なあ、白次」
「おれは、いつでも、さむらいになってみせるが、おめえの恰好は、どう眺めても、いただけねえな」
「なにをっ! おれの髯っ面こそ、いちばん、さむれえらしいじゃねえか。戦場でよう、大将首の取れそうなのは、おれだけだぞ」
青助は、胸をそらしてみせた。
「う、うそこきやがれ。……いくさの経験があるのは、おれだけだぞ。おれは、ほんとに、敵軍のさむらいを、槍で突いたことがあるんだぞ」
赤松が、うそぶいた。
「わらわせるな。てめえは、いくさのおわったあとを、うろうろしやがって、討死したさむらいから、具足を剥ぎとるのを、あきないにしてやがったのさ」
「お、おい! あんまり、おれを、見下げやがると、承知しねえぞ」
四人のあいだが険悪になるのを見て、百平太が、うんざりしながら、
「止せ! ここは、敵城だぞ!」
と、きめつけた。
青助たちは、百平太から、敵城内にいるのだ、と云われて、ようやく、しんとなった。
「百平太の兄ィ」
白次が、小ずるい目つきで、
「田丸豪太夫ってえのは、大層な好色だそうだから、きれいな女子を、かっさらって来て、夜昼とりかえひきかえ、抱いてやがるんだろうな?」
と、きいた。
「そんなことは、知らん」
「だってよう、多門の大将と一緒に、忍び込んで、ちゃんと、城内の様子を、しらべあげているんだろう?」
「女子が何十人いても、わしらとは、無関係だ」
「そういうけどよう、五十俵もはこんで来たおれらに、女子を一人ずつあてがってくれても、罰は当るめえ」
「ばかなことを云うな! わしたちは、みつぎ使者なのだぞ」
太郎は、いまいましげに、云った。
「みつぎ、ってなんのことだ?」
黒太が、問うた。
「ちぇっ!」
百平太は、舌打ちした。
「降参したしるしに、米を持参して来た使いなんだ、わしらは──」
「ふうん。降参しているのか、おれたちは──。へえん、おもしろくねえね」
「おめえは、いったい、なんの使いだと思って、ついて来やがったのだ?」
「隣り国の城ざむらいに化けろ、というから、おれはまた、この城で、大歓迎を受けるものと思っていたァな」
「あきれた野郎だ」
「おい、もうすこし、声をひくくしろ」
百平太は、立って行って、警戒の目を、広間の外へ光らせた。
そこへ、天満坊が、入って来た。
「みんな、ご苦労だったの」
にこにこして、一同を見わたしてから、
「こうして、なごやかに、話し合っているお主らを眺めていると、|生命《い の ち》をもらうのが心苦しい。しかし、やむを得ぬ」
と、云った。
「和尚さん、なんと云いなすったね?」
青助が、しかめ面になって、たずねた。
「生命を、拙僧にくれ、と申したよ」
「冗談じゃねえ」
たちまち、青助たちは、憤然となった。
「おれたちは、こんなところへ、生命をすてに来たんじゃねえ」
「と申すであろう、と思って、企てていることを、打明けずに、つれて来たのじゃよ」
「なにを、企てているんでえ?」
「それを、これから、話す」
天満坊は、百平太に、念のために、広間のまわりを、見まわらせた。
みつぎ使者を怪しむ気配は、城内には、すこしもなく、この建物に、人影は見当らなかった。
その時刻──。北隅の根小屋では、九十九谷左近が、城内の出来事などは、全くかかわり知らぬ顔で、無為な午睡をむさぼっていた。
同じ場所に、このように、永いあいだ、滞在しているのは、左近としては、珍しいことであった。
これまでの左近ならば、とっくのむかし、城を去って、いま頃は、百里も遠いところを、放浪しているはずであった。
この城にとどまっているのは、居心地がよいからではなかった。城外の悲惨な飢饉のさまを、眺めたり聞いたりすると、わざわざ、生地獄の世界へ出て行くのが、|億《おっ》|劫《くう》になったのである。
この城に在るかぎり、飲食は、思うがままである。
さらに、城士たちとの反目も、左近にとっては、刺戟になる。豪太夫は暴君であるだけに、城士と決闘して、幾人かを斬った左近を、べつに罰しようとはしないのである。
強い者が勝つ。
この方則を第一条にした野性の信念を持っている豪太夫は、左近の強さを高く買っている。
左近にとっては、豪太夫の態度が、おもしろいのであった。
まだ当分の間は、腰を据えているつもりであった。
「九十九谷殿」
しのびやかな声が、戸口で呼んだ。
左近は薄目をひらいた。
近習の一人が、姿をみせていた。
左近は、やおら起き上ると、大きく背のびした。
杉戸某という近習は、いかにも小ずるそうな表情で入って来ると、
「折入って、相談申上げたき儀がござる」
と、云った。
左近は、こういう型の男が、最もきらいであった。
かねてから、主人の目をかすめて、酒や肴をはこんで来たり、女を世話したり、しきりに機嫌をとって来る男であったが、左近は、それを拒絶もしないかわりに、礼も云ったことはなかった。
「おきき下さるか?」
杉戸は、なれなれしく、そばへ寄って来て、首をつき出した。
「なんだ?」
「それがし生涯ただ一度の決死の覚悟をさだめた上での相談でござれば、|何《なに》|卒《とぞ》真剣におこたえ下され」
「………?」
「本日、神矢右衛門太郎より、米の五十俵のみつぎがされ申した。使者は、叡山入道と申す、見るからに豪傑にて、われらの主人と対坐して、かえって威圧するほどの貫禄でござる」
「………」
「それがしは、殿と使者との問答を、屏風の蔭にしのんで、のこらず、ききとり申したのでござる」
近習の杉戸は、豪太夫が、叡山入道をそそのかして、神矢右衛門太郎が不治の病いに仆れたのをさいわい、その城を奪いとってしまえ、とそそのかしたことを、告げて、
「まことに、わが主人らしい、奸策でござる」
と、にやにやした。
左近は、興味もなさそうな表情で、無精髭を、抜いている。
「ところが、叡山入道の方は、毅然たるもので、犬も三日飼われれば三年恩を忘れぬ、ましてや人間に於てをや、などとうそぶいて、殿の申し出を容易に受けつけぬ気色を示して居り申したが、さて、肚のうちは、どうでござろうか?」
「………」
「それがしが思うに、あの入道は、ただ者ではござらぬ」
狡猾な男だけに、人を観察する目もあるようであった。
「貴殿も、とっくにご存じであろうが、城士すべての心は、すでに、殿から去って居り申す。心服いたしている者など、一人もござらぬ。ただ、あの威嚇の前に、黙って、頭を下げているだけでござる」
「そればかりではあるまい」
左近は、冷笑した。
「この城には、どうやら、三年も、のうのうと食って寐ていられるだけの糧秣がたくわえてある。金銀も山と積んである。それが、城主に頭を下げさせている理由だろう」
「ご尤もなお言葉じゃ。まさしく、その通りでござるわ。当城のたくわえ物は、想像以上に豊富でござる。……それじゃによって、それがしも、深く思慮するところがあり申すのだ」
「お主の考えは、見当がつくぞ」
左近は、わざと、あくびをしてみせてから、
「その叡山入道とやらと、共謀して、城主を片づけようというのだろう?」
「そ、その通りでござる。あの入道が、その気になれば、必ず、成功いたす」
杉戸は、おのがたてた陰謀をくどくどと、語りはじめた。
叡山入道が、豪太夫を、神矢城へ案内する。
豪太夫には、病気見舞いと称して、神矢城へ乗り込み、一挙に、城を奪いとる計画だ、とそそのかす。豪太夫が、これに乗らぬはずはない。
で──、豪太夫を、神矢城にともなうや、逆に、入道の手で、討ちとってしまう。
この壮挙は、神矢城に於ける入道の立場をも、絶対のものにしてしまうであろう。
まさに、一石二鳥である。
「いかがでござろう? それがしの計略は、必ず成功すると存ずるのじゃ」
杉戸は、打明けたからには、是が非でも、左近を味方にひき入れねば、と顔面を必死にこわばらせていた。
左近は、しばらく、沈黙していたが、
「おもしろそうだ」
と、こたえた。
「賛同して下さるか!」
杉戸は、大きく息をはずませた。
左近は、それにうなずくかわりに、
「お主は、殿に仕えて、幾年になる?」
と、問うた。
「七年余に相成り申す。されば、殿の表情ひとつを観て、いま、何を考えているか、おのが|掌《たなごころ》を見るごとく、判り申すのじゃ」
杉戸は、得意げに、こたえた。
「お主は、さむらいの出ではないようだな」
「京の染物屋の小僧をして居り申した。商人がきらいで、折あらば、と考えていたところ、たまたま、野盗の群を率いた田丸豪太夫に出くわして、家来になったのでござる」
「ふむ。すると、殿には、染物屋の小僧から、ひろわれた恩があるわけだな」
「恩というほどのこともござらぬわ。それがしが、そばで、智慧袋となって、殿にいろいろと、策をさずけた功績も、買ってもらわねばならぬ」
杉戸は、小鼻をふくらませた。
「持ちつ持たれつか。わるくない話だが……、田丸豪太夫あってのお主、お主あっての田丸豪太夫、ということになるようだな」
「いや、それがしはそれがし──、仕えた時から、この主人には、永くは仕えられぬ、ときめて居り申した」
「お主の方が、主人よりも、はるかに、悪党らしい」
左近が、云った。
しかし、杉戸は、悪人と云われたことを、かえって、おのれの都合のいいように受けとって、にやにやとしてみせた。
「それがしの計画に、何卒賛同して下され」
「さあ、どうするかな」
左近は、また、物憂げなあくびをして、ふらりと立ち上った。
「おたのみ申す」
杉戸の顔に、不安の色が、刷かれた。
左近は、じろっと、杉戸を見下してから、黙って、壁に立てかけた剣を、把った。
次の瞬間──。
「莫迦めっ!」
と、一喝をあびせた。
「な、なにっ?」
杉戸は、血相を変えた。
「小智慧を、チョロチョロ働かせているうちに、おのれが、ひとかどの人物のように、錯覚を起したとは、笑止! 染物屋になって、女子どもを対手にして、機嫌をとっていれば、|生《いの》|命《ち》に別状はなかったろうものを、なまじ分にすぎた野心をおこしたために、運命を変えたぞ」
左近の凄じい|睥《へい》|睨《げい》をあびて、杉戸は、ふるえあがった。
もし、その時、杉戸が、もうすこし悪智慧を働かせて、左近の前に四ン匐いになって、卑屈きわまる態度を示して、生命乞いをしてみせたならば、生命を落さずに済んだであろう。
杉戸は、恐怖が先立って、小ずるく頭脳を廻転させることが、できずに、あわてて、逃げ出そうとしたために、一太刀あびてしまった。
絶鳴をあげるいとまもないくらい、冴えた一閃の下に、杉戸は、くずれ伏した。
「小才子が──、自業自得というものだろう」
左近は、血ぬれた白刃を、杉戸の袴でふいて、腰に納めると、外へ出た。
念のために、叡山入道とやら称する人物を、見とどけておくことにした。
左近は、城内を──女人館は別として──いかなる場所も、自由気ままに歩きまわって、はばからぬ。
他国の使者を滞在させる建物に入るのも、べつに、遠慮をしなかった。
門をくぐろうとして、番士に、
「ここは、遠慮されたい」
と、さえぎられたが、左近は、冷然として、
「叡山入道に、用がある」
と、云いすてておいて、すうっと通ってしまった。
庭へまわって、建物へ、近づいた。
偶然であった。
広縁に、坊主頭の巨躯が、のっそりと立ったのである。
「………?!」
一瞬、左近の眉宇が、ひそめられた。
対手も、左近を見て、眼光を鋭いものにした。
十ばかりかぞえるくらいの短い時間が、おそろしく長く感じられる無言の対峙があった。
左近が、つと、足をふみ出した。
同時に──。
天満坊の緊張した表情も、ゆるめられた。
左近は、広縁に近づくと、
「叡山入道というのは、お主のことか、天満坊?」
と、睨んだ。
「左様──」
天満坊は、おちつきはらって、こたえた。
「乞食坊主が、いつの間にか、この地方の名家へ入り込んで、使者になるまでに、出世したとは──」
左近の面上に、あざけりの色が、露骨に刷かれた。
「どうだな、上って来ては──」
天満坊は、すすめておいて、踵をまわすと、部屋へもどった。
左近は、つづいて、入って来ると、
「どういうのだ、天満坊?」
と、見据えた。
天満坊は、平然として、左近の鋭い視線を受けとめて、
「お主は、この城でなにをしているのかな? まさか随身したわけではあるまい」
と、たずねかえした。
「随身などを、するものか。居候だ。……こう世の中が飢えて、米も水も無くなっては、そんな心配のない場所で、当分のんびりとくらしているのも、わるいことではない。……酒もあり、女もある。居心地はよいことだ」
「ははは……、あいかわらず、ぬけぬけとした兵法者よ。多門夜八郎を追うて、試合をする気持もゆるんだか」
「ばかを云え! 多門夜八郎は、生涯の宿敵だ。三年後、五年後、いや十年かかろうとも、必ず、見つけ出して、斬る」
「理由もない執念を燃やすのが、兵法者というものかの」
天満坊は、空とぼけた口調で、云った。
「おい、天満坊! おれの尋問をはぐらかすな。お主は、まことに、神矢城の使者か?」
「そう見えぬか?」
「なに?」
「この坊主は、七変化が得意でな。数珠をまさぐって、お経をとなえれば、善知識にみえる。洛中を徘徊する無頼の徒の群に入れば、破戒むざんの極悪|売《まい》|僧《す》にみえる。さらにまた、三軍を指揮する采配をにぎらせれば、古今無双の名将の威厳をそなえるがごとくみえる。……ははは、田舎城の使者としては、ちと、貫禄がありすぎる、と申すもの」
「云わせておけば、大層なほらを吹く。……天満坊! 贋使者だな?」
「左近──」
「なんだ?」
「お主は、野に飢えて、息絶え絶えになっている百姓たちの、悲惨な姿を眺めて居ろう。……一揆を起して、老人や女や子供たちまでが、悲痛な叫びをあげて、走るさまを、目撃しているであろう」
「それが、どうした?」
「お主も、人間ならば、感ずるところがあるはずだ」
「………」
「人間は生きねばならぬ。生きるためには、食わねばならぬ。米をつくる百姓が米を食えず、米をつくらぬさむらいが米を食っている。こんな阿呆な話はない。……一揆は、城取りの野望で起す軍とは、全くちがう。生きんがための、文字通り必死な神乞いともいえよう」
「………」
「この城には、おどろくべき米がたくわえられている。野には、米は一粒もない。……この不公平な現実を、正さねばならぬ。そのために、天満坊は、神の使者として来た。それでも、お主は、わしを、贋者と呼ばれるかな?」
掠奪行
一方、公卿館にあっては──。
伊吹野中の農夫たちが、続々と、館に入って来ていた。
「蓄え米を、のこらずわかつから、宵のうちまでに、館へ集まるように」
その布告を受けて、農夫たちは、夢かと思いながら、急いでやって来たのである。
書院にいた夜八郎は、およそ三千人あまり集った頃を見はからって、立ち上った。
庭へ出ようとするところへ、臥床しているはずの泰国清平が、杖にすがり、老僕にささえられながら、現れた。
「多門殿──」
はげしい怒気を顔にも声にもあふらせて、呼んだ。
「こ、これは、いったい、どうしたことで、ござるのか?」
夜八郎は、老人を、書院に坐らせると、
「おことわりしなかったのは、おわびする。しかし、毒には毒をもって制する手段もやむを得ぬ、と天満坊の企図するところに賛成して、今夜、伊吹野城を、襲撃いたす」
「と、とほうもない! それは、暴挙と申すもの」
清平は、かぶりを振った。
「百姓をにわか兵にしたてて、伊吹野城を攻めるなど……、なんという、無謀な! そ、そのようなきちがい沙汰を、天満坊ともあろう御仁が、どうして、くわだてるのか?」
「いや、勿論、伊吹野城を攻略するのではない。戦うために、百姓たちを集めたのではないのです」
「では、どうなされる、というのじゃ?」
「城内に蓄えた米を、奪うだけです」
「米を?」
「左様──。あの城には、ここ数年間百姓たちが汗してつくった米が、倉に山と積まれて居り申す」
「それは、存じて居る。存じて居るが……、どうして、奪えるものぞ。数千の兵が拠っている城の糧秣を奪いとるなどとは、想像もつかぬ」
老人は、かぶりを振った。
「それがしも、はたして、それが可能か、どうか──いささか、疑念は抱くが、天満坊は、絶対の自信を持って居るのです」
「その計画というのは?」
「天満坊の胸中に秘められていて、それがしも、よく判りかねる。ただ、天満坊が、それがしにたのみのこしたのは、百姓たちを、できるだけ多勢、集めて、これを軍勢とみせかけて欲しい、ということです。おそらく、隣国の軍勢が、押し寄せた、とみせかけて、田丸豪太夫に、兵を出させ、その留守中をねらう計画と思われる」
「すると、もう、天満坊は、伊吹野城へ、行かれたのか?」
「神矢右衛門太郎のみつぎ使者といつわって、米五十俵をはこんで、行きました」
「なんという、無謀な暴挙を!」
老人は、嘆息した。
「おしまいじゃ! この公卿館は、滅びる」
夜八郎は、その様子を見まもって、
「ご老人は、米を奪ったあとの、田丸豪太夫の憤怒を、想像されているのか?」
と、問うた。
「そのいかりが、どのように凄じいものか、天満坊は、いささかの考慮もされなんだのか」
「いや、あれだけの深慮遠謀の智慧者ゆえ、当然、そのことに考え及んでいないはずはない」
「田丸豪太夫は、必ず、全兵を率いて、当家へ押し寄せて参ろう。その時は、ひとたまりもない」
「………」
夜八郎も、その時、天満坊がいかなる奇策を用いるか、想像もつかなかった。
「多門殿、お願いじゃ。これより、お手前が、なんとか、城内にある天満坊殿に、連絡をとって、思いとどまらせて頂けまいか」
「もはや、おそいことです」
「いかぬ! いかぬ! ……よし、お手前には、もうたのまぬ。太郎を行かせよう」
「太郎殿も、天満坊に従って、城へ参った」
「げっ!」
清平は、仰天した。
「そ、それは、まことか?」
「太郎殿は、われわれの壮挙に、賛成し、ひと働きを誓ったことです」
「なんという、おろかな! ……太郎は、わしが、この二十年の苦心を、つぶさに、見て居ったに……」
清平は、わなわなと、全身をふるわせた。
清平は、この公卿館が焼きはらわれることや、わが身が殺されることには、覚悟をきめることができた。
ただ──。
五摂家からあずかった金銀を、守らねばならぬ重大な任務があった。
おのれが死ねば、息子の太郎に、その任務を与えなければならなかった。
おのれも息子も死んでしまえば、その金銀は、永久に、地中にねむってしまうことになる。
「多門殿!」
老人は、語気をあらためて、夜八郎を凝視した。
「杉乃江殿から、うかがった。お手前は、将軍家の御子息の由」
「………」
「相違ござるまいな?」
「当人は、氏素姓もない牢人者ときめて居る」
「お手前が、将軍家の御子息であることは、かくれもないのであれば、お願い申しておきたい儀がござる」
「………?」
「これは、せがれ以外に、お手前にはじめて、打ち明け申す秘密でござる」
「………」
「きかれたならば、胸にたたまれて、天満坊殿にも、口外されてはならぬ」
遠く、広庭へ蝟集した農夫の群のざわめきを、ききながら、泰国清平は、その秘密を、夜八郎に、語った。
腕を組んで、ききおわった夜八郎は、その顔に微笑をうかべていた。
「律儀に、二十年間も、五摂家の財産を守られたのは、ご苦労でした。しかし、その責任は、もう、はたされたのではあるまいか」
「とんでもござらぬ。五摂家へお返し申すまでは、なお、責任を負わねばなり申さぬ」
「では、おうかがいするが、五摂家では、二十年間に、泰国殿に、何かむくいるところがありましたか? 五摂家では、ただ、お手前の律儀な気象をいいことにして、預けぱなしで、そ知らぬふりをしていたのではあるまいか」
その通りであった。
「やがて、天下が泰平になれば、さっさと取りに来る。まことに、身勝手な話だ。元来、公卿衆というのは、そういうものだが、話をうかがっていると、他人事ながら、腹が立って来る。むしろ、それだけの金銀を、貧しい百姓らに、わかち与えてやる方が、泰国らしい、と申せる」
「そ、そのようなことは、でき申さぬ!」
清平は、秘密を打明けたのを、後悔した。
夜八郎は、ははは、と笑い声をたてて、
「安堵されい、いかなることがあろうとも、田丸豪太夫に、金銀を渡すようなことはいたさぬ。これは、約束いたす。……しかし、矢はすでに放たれた。米は、伊吹野城から、奪わねばならぬのです」
そう云いのこして、夜八郎は、さっと、座を立った。
清平は、あわてて、呼びとめようとしたが、そのいとまもなく、夜八郎を出て行かせてしまった。
「……破滅じゃ! この公卿館は、ほどなく|烏《う》|有《ゆう》に帰そう」
清平は、暗然として、つぶやいた。
夜八郎は、広庭に面する廻廊に出た。
広庭は、農夫の群で、うずまっていた。女も子供も多い。
夜八郎が、鋭く冴えた一声をはなつと、ざわめきは、一時にしずまった。
「お主らは、飢えている。明日口にする米一粒も、持たぬ」
まず、夜八郎は、そう云った。
「しかし、お主らは、生きねばならぬ。生きるためには、その米を、おのが手に、つかみ取らねばならぬ」
群衆は、どっと、その言葉に、応じて、喚声をあげた。
夜八郎は、ずうっと見渡してから、
「米はある!」
と、叫んだ。
群衆は、一瞬、しーんとなった。
次の瞬間、夜八郎の高らかな声が、その無数の頭の上を渡った。
「米は伊吹野城にある!」
農夫三千余は、息をのんだ。
──いったい、この牢人者は、何を云い出すのか?
ひとしく、とまどわざるを得なかった。
おびただしい米が、伊吹野城に蓄えられていることは、きかされるまでもない。知りすぎるくらい、知っていることである。
それが、いったい、どうしたというのであろう。
伊吹野城に米はあっても、それは、自分たちとは、全く無関係ではないか。
もし、その米が、自分たちにわかち与えられるならば、と想像することは、天から米が降って来るのを望むにひとしい。
──この牢人者は、途方もないことを云い出すものだ。
どの顔にも、その表情があった。
見渡した夜八郎は、微笑して、
「まず、考えよ!」
と、声を張った。
「田丸豪太夫は、鬼神ではない。お主らと同じ人間だ。……お主らは、いままで、田丸豪太夫を、自分たちのはるか上に立つ絶対権力者、と思い込んでいたであろう。ちがう! いま、お主ら三千人の中へ、豪太夫をひきすえてみるとよい。ただの弱小の人間でしかあるまい。なぐる、蹴る、ふみつける──思いのままではないか。……お主ら一人一人は、力はないかも知れぬが、三千という頭数を結集させれば、この力は凄じい。伊吹野城の米を奪うことは、断じて、夢ではない」
「し、しかし──」
一人が、叫んだ。
「城には、兵が居りまするぞ。刀や槍を持った兵が、居りまするぞ!」
「わしらが、鎌や鍬を持って行ったところで、敵いはせぬ」
「みすみす、殺されに行くようなものじゃ」
「お前様はご存じあるまいが、城の兵らは、わしらを虫けらとしか、思うて居らぬぞい。……わしらの兄も弟も、殺されて居るのじゃ!」
「わしらを、兵にしようとしても、それは、なるまいぞ」
一斉に、農夫たちは、叫びたてた。
夜八郎は、その騒擾が、しずまるのを待って、
「それがしは、お主らに、軍勢を組め、とたのんでは居らぬ」
「すりゃ、なんとせい、と云われるのじゃ?」
「ただ米を取りに行けばよいのだ」
「わからんことを申される」
「策がある。その策は、すでに、着々とおしすすめている。お主らは、それがしの指示にしたがってくれればよい。お主らに、武器をとってたたかってくれ、と申しているのではない。犠牲者も出さぬ!」
農夫たちは、夜八郎の言葉を、どうしても、信用することが、できないようであった。
無理もないことであった。
とうてい、考えられぬ壮挙であった。
ざわめきたてて、いっかな、しずまりそうもなかった。
その時であった。
夜八郎のかたわらへ、泰国清平が、杖にすがって、現れた。
「皆の衆──」
清平に呼びかけられて、群衆は、口をつぐんで、視線を集めて来た。
「きかせておこう。……この多門夜八郎殿は、足利将軍家のおん曹司であらせられる!」
清平の言葉は、農夫たちに、|固《かた》|唾《ず》をのませた。
「将軍職を継ぐ資格をお持ちのおん身が、故あって、こうして諸国を放浪されて居るのじゃ。たまたま、この伊吹野に参られて、あまりにむごたらしいお主らのさまを目撃され、決意なされた。……お主らは、将軍家おん曹司から、じきじきに、たのまれて居るのじゃ。それも、お主らを救わんがためなのじゃぞ!」
清平は、ここで、病躯を忘れて、声をはりあげた。
「もし、お主らが、それでもまだ合点が参らぬ、というのであれば、この清平が、輿に乗って、先頭を行こうぞ」
悲壮な宣言は、農夫たちを、一も二もなく、熱狂させた。
喚声があがった。
「お館様っ!」
「やりまするぞ!」
「伊吹野城へ、押し寄せまするぞっ」
闘志がふくれあがる光景に、夜八郎は、
──よし!
と、うなずいた。
いつの間にか、背後に、梨花が出て来ていた。
夜八郎は、ふりかえって、
「見るがいい。まことの人間の力が、ここにみなぎった」
と、云った。
梨花は、はじめて、青年らしい颯爽たる気概を満たした夜八郎の姿に接して、感動で、口がきけなかった。
夜八郎は、清平に向って、礼をのべた。
清平は、かぶりを振って、
「滅び行く者も、死花ぐらいは咲かせてみとう存ずる」
と、こたえて、杖にささえられながら、奥へ去って行った。
清平は、夜八郎が農夫たちに呼びかける声をきいているうちに、
──天満坊の奇策は、あるいは、成功するかも知れぬ。
と、思いなおしたのである。
さて──。
城内にあっては、天満坊は、夜に入っても、悠然と構えて、いささかも、事を急ごうとしなかった。
太郎が、そっと入って来て、
「この城内に、御坊を知る兵法者がいるのに、どうして、そのように、おちつかれて居る?」
と、なじった。
天満坊は、にこりとして、
「見物人が、居ってはいかぬかな?」
と、云った。
「見物人?!」
「左様さの。あの九十九谷左近は、わしらが贋使者であることを、城主に注進するような、卑劣者ではない。冷酷きわまる性情を持った剣鬼じゃが、その点だけは、信用できる」
「わかるものではない」
「太郎殿、お手前は、かなり疑いぶかい御仁じゃが、事を為すにあたっては、信ずべき者と信じ難い者を看わける目は、必要じゃな」
「あの兵法者は、信用できぬ。なぜ、斬ってしまわなかったのか……、大事を行なう上には、用心の上にも用心が、肝要であろうものを──」
いまいましげに、太郎は、云って、しりぞいた。
その直後であった。
天井板がはずされ、七位の大乗が、ひらりと、とび降りて来た。
「ほう……、お主も、信用できる忍者であったな」
天満坊は、笑った。
「七位の大乗、いったんの誓いは、死に代えても、守り申すな」
大乗も、にやりと笑いかえしてみせた。
「では、お主が調べたところをきこうか」
「ここに──」
大乗は、懐中から、城内の見取り図をとり出して、ひろげた。
天満坊は、大乗に、主として、武器蔵を調べさせたのである。
「ほう、武器蔵は、三つもそなえてあるのか。大層な物持ちじゃな。……多すぎるが、いたしかたがない。のこらず、片づけることにいたそう」
天満坊は、大乗を、視て、
「お主一人で、仕掛けて、片づけるのは、ちとむりであろうな?」
と、訊ねた。
すると、大乗は、
「さいわい、連れを、見つけ申した」
と、こたえた。
「ほう──連れをな?」
「柿丸という男で、御坊とも顔見知りときき申したぞ」
「成程、梨花殿を救いに、城内に忍び入っていたのじゃな。恰度よい連れじゃ」
天満坊は、大乗に、見取り図を扇子でさして、指令しはじめた。
払暁──。といっても、霧が野を流れていて、森と野と川がおぼろに見わけられる程度で、山もまだかくれている時刻であった。
伊吹野城の櫓の上では、物見の兵二人が、いずれも、柱によりかかって、こくりこくりとやっていた。
物見役は、夜明け前の一刻が、いちばん、つらい。
つい、居睡らずにはいられなかった。
すでに、四隣を制圧して居り、敵軍が突如として押し寄せて来ることなど、全く考えられなかったので、兵らは、物見など、いまは形式にすぎないことに、思っていたのである。
交替の時間まで、そこで、こくりこくりやっていれば、役目はすむ、ときめていた。
はるかな、遠方から、潮騒のように、人馬の進んで来る音が、つたわって来たが、兵らは、目ざめようとしなかった。
夜があけたばかりの、澄みきった空気は、その人馬の音を、しだいに、近いものにして来た。
三人ばかりの従士が、血相を変えて、櫓下へ駆けつけて来た。
「おのれらっ!」
呶号されて、二人の兵は、はじめて、目をさまして、きょときょと、となった。
「おのれらっ! あの軍馬の蹄の音と、いななきが、きこえぬかっ!」
そう喚かれて、兵らは、愕然となった。
従士三人は、櫓上へのぼって来るや、
「こやつ!」
「穀つぶしめ!」
「これを、くらえっ!」
矢庭に、抜刀して、あびせかけた。
兵のうち、一人は、顔面を斬られて、絶叫をほとばしらせ、もう一人は、無我夢中で、宙へ跳び出て、地べたで、ぎゃっと、断末魔の声をあげた。
従士たちは、のびあがって、南方をすかし見た。
「くそ! 見えぬ! 霧を利用し居る」
「あの音では、五千──いや、七千は下らぬぞ」
「いや、一万以上と、わしは、判断する」
いずれも、うわずった声音で、口走った。
「そ、それにしても、いったい、どこの軍勢だ?」
「わからぬ。……土一揆ではないのか」
「ばかを云え! 土一揆が、あれほど、軍馬を持って居るか」
たしかに──。
近づいて来る馬蹄の音といななきは、すくなからぬものだった。
城内は、たちまち、騒然となった。
小姓に起された田丸豪太夫自身、いったい何者が襲来したのか見当もつかぬままに、
「うむ! ひさしぶりの合戦ぞ!」
と、武者ぶるいした。
ほどなく、霧が散った。
南方にわだかまる森のあたりに、旗と指物が、浮きあがった。それは、かぞえきれぬほどの多さであった。
田丸豪太夫は、|武者溜《むしゃだまり》を設けた広場に高くそびえている着到櫓の上に、立って、これをみとめた。
思わず、うめき声が、その口からもらされた。
豪太夫は、かつて、これほどおびただしい旗と指物を、見たことがなかった。
そこに、土煙りが、もうもうと舞い立っている。
これは、すくなくとも、三万は、下らない軍勢と受けとってよかった。
さすがの豪太夫も、顔色が、青ざめた。
すでに、伊吹野の四方に、豪太夫に、抵抗する勢力は、なかったはずである。
まして、伊吹野へ攻め入って来る勇気ある隣国があろうなどとは、考えられなかった。
──どうしたというのだ?
豪太夫は、われにもあらず、狼狽した。
こういう場合、専横主君であり左右に軍師も老臣も持たぬ豪太夫は、疑惑を問うべき左右の士がいない心細さをおぼえずにはいられなかった。荒巻鬼十郎がいないことは痛手であった。
それだけに、よけいに、居たたまれない焦躁にかられた。
「くそ! いったい、あれは、何者なのだ?」
豪太夫は、呶鳴った。
その時──。
ふいに、背後から、
「さあ、何者でござろう」
という声が、かかった。
ぎょっとなって、振りかえった豪太夫は、そこに、いつの間にか、九十九谷左近が立っているのを見出して、
「なんだ、その方か!」
と、吐きすてた。
「殿にも、あれが、何者か、見当がおつきにならぬところをみると、彗星のごとく出現した名もなき武将でござろうな」
「そ、そんな奴が、この近隣に居るわけがないっ!」
「では、あるいは……」
と、云いかけて、左近は、にやにやとして、次の言葉を、わざとひかえた。
「あるいは、なんだ? もったいぶらずに、云うてみい!」
豪太夫は、|苛《いら》|立《だ》った口調で、せかした。
「あるいは、京都を見すてて、何処かに新領土をもとめて下って来た細川、山名あたりの一族でござろうか」
「ば、ばかな!」
豪太夫は、まなじりをひきつらせた。
もし万が一、そのようなことになれば、この伊吹野城など、ひとたまりもなかった。
左近は、豪太夫が、狼狽をかくしきれぬていへ、じろりと横目をくれて、
「そうでないとは、否定できますまい。すでに、京都は、御所をはじめ、将軍、三管四職の邸第は、灰燼に帰して居り、覇をとなうべき王城の地とは申されぬ。……賢明な武将ならば、ひとたびは、しりぞいて、新天地に兵を養い、捲土重来が上策と考えるのではござるまいか」
左近は、じわじわと、豪太夫を、おどかした。
権謀術策には、およそ縁遠い頭脳の、猪武者の豪太夫は、そう云われると、そうかも知れぬ、と思った。
「あれが、細川か山名なれば、反抗は、かなわぬ」
「田丸豪太夫ともあろう猛将が、なんと気弱な──」
左近は、せせらわらった。
「天下に名を馳せんと思うなら、いさぎよく、撃って出て、玉砕せんという覚悟がなくてはなりますまい」
「い、いや──」
豪太夫は、かぶりを振った。
「あれは、すくなくとも、三万の兵だ。こちらは、わずか、三千足らず。とうてい、抗すべくもない」
「寡兵をもって、大軍を撃ってこそ、天下に、名もあげられようものを──」
「おいっ! 他人事と思うて、やすやすと申すな。神算鬼謀には、|稀《き》|代《たい》の軍師がいてこそ……」
「殿──。その軍師は、当城に在るではござらぬか」
「なに?」
「神矢城から参って居るあの大坊主は、それがしも、一瞥して、ただ者にはあらず、と看て取り申した」
「お──、あの叡山入道と申す男が、いたな」
豪太夫は、なぜ、あの|法《ほっ》|体《たい》の人物がいたことに、気がつかなかったか、と胸をはずませた。
「おいっ!」
武者溜に集っている家臣たちへ、大声を投げた。
「誰かある。叡山入道を、ここへ、呼べ! 早うせいっ!」
やがて、着到櫓へ、天満坊が、悠々たる態度で、現れた。
「大層な軍勢が、寄せて参るようでござるな」
にこやかな表情で、云った。
「お、お主──」
豪太夫は、興奮のあまりのどもり声で、
「あれを、わしは、京都を見かぎって、新しい領土をさがして来た細川か、山名か、とみたが、どうだ?」
左近の姿は、すでに、消えていたので、豪太夫は、自分の考えにして、問うた。
「さてな?」
天満坊は、ちょっと、首をかたげてみせた。
「わしには、そのほかには、この伊吹野へ攻め入って来る敵が、近くの国にあろうとは、思われぬのだ」
「ご尤もの仰せ──、それがしも、そう思います」
「では、細川か山名か──三管四職のうちの誰かが、下って来た、としか、考えられぬではないか」
「もし、そうであっても、殿は、一戦を交えられますかな?」
「………」
豪太夫は、左近から、弱気をわらわれたばかりなので、戦いたくない、とは云えなかった。しかし、戦ってやる、とはとうていこたえられなかった。
天満坊は、まんまと、わが策謀に乗って来た豪太夫を、にこやかに見まもりつつ、
「戦うべきか、戦わざるべきか──まさに、これは、興亡の岐路に立たれた、と申すべき──」
と、云った。
からかわれているとは知らず、豪太夫は、必死であった。
「お主! わしの軍師になってくれい。軍師になってくれれば、意見に従うぞ」
「それがしなど、とても、軍師などつとまる智慧など持ちませぬな」
「いや、お主は、軍師として、またとない人物と、わしは見込んだ。たのむ」
豪太夫は、頭を下げた。
「それがしに、どうせよ、と仰せであろう?」
「あの軍勢を、黙って迎え入れるべきか、それとも、追いはらうべきか。追いはらうには、いかなる作戦をなせばよいか。考えてくれい。たのむぞ」
「………」
天満坊は、こたえるかわりに、小手をかざして、南方を見やった。
土煙りは、森の前の野いっぱいから、舞い立っている。
──うまいものだ!
天満坊は、感心した。
──あれでは、どう見ても、三万の軍勢以外の何者でもない。
夜八郎が、農夫たちを使って、そう見せかけているのであった。
──将軍家の御曹司ともなれば、いつの間にか、虚実の軍略を身につけているものだわい。
「おい! 叡山入道──きいてくれぬのか?」
豪太夫は、喚きたてた。
天満坊は、いよいよおちつきはらって、
「あの軍勢が、もし京都から下って来た細川、山名であれば、これを、黙って迎え入れれば、殿のお生命は、ありますまい」
「う、うむ。わしも、そう思う」
「さりとて、城内にある兵だけでは、|蟷《とう》|螂《ろう》が斧に向うのたとえそのままでござろう」
「では──、いったいどうすればよいのじゃ?」
天満坊は、云った。
「真正面から、撃って出て、とうてい勝目がない、となれば、策を用いざるを得ますまい」
「そうだ! その通りだ!」
豪太夫は、叫んだ。
「その策を、お主に考えてもらいたいのだ」
「策と申すものは、かるがるしゅう用いざるもの──」
「しかし、お主はいま、策を用いざるを得ぬ、と申したではないか」
「申してござる。しかし、策を用いる以上、敵を完全にだまさなければ、成功はおぼつかぬことでござれば、殿には、はたして、その巧妙なかけひきが、おできになるかどうか……」
「できぬわけはないぞ。……やる! やってみせる!」
この時はじめて、天満坊は、異常に緊張した様子をつくると、再び、南方の野を、凝視した。
かなりのながい沈黙であった。
豪太夫は、不安な表情で、天満坊の横顔を見まもって、固唾をのんでいた。
天満坊は、豪太夫を見かえると、
「それがしに、城内の兵をお与え下されば、なんとか、敵を退却せしむる策が、ないことはござらぬ」
「そ、その策とは?」
「それがしが、兵を率いて、城を出て行き、途中で、布陣つかまつる。兵らにはなるべく平常のままの服装をさせ申す。決して、槍や弓矢を携えさせぬのでござる」
「ふむ。それで──?」
「布陣いたしたならば、それがしが、数騎のみをつれて、敵陣営へ乗り込んで参る」
「ほう?」
「伊吹野城が、決して反抗の意志なき旨を述べ、つつしんで城内へ案内つかまつる、と申し出るのでござる」
「成程──」
「敵が、それがしの口上を信用するか、どうか──それは、それがしの態度如何にかかること。おまかせ下されば、必ず、敵をだましてごらんに入れ申す」
「たのむぞ!」
「で──敵陣営を油断させておいて、口実を設けて、夜まで、そこに敵陣をとどめておき、わが兵を、忍び寄らせるのでござる。それがしが、隙をうかがって、敵将の首を刎ねるのを合図に、わが兵が一斉に、夜襲いたす」
「おお、そうか! うむ! これこそ、あっぱれな秘策だぞ。叡山入道、たのむ。やってくれ」
「はたして、図に描いた通りに、成しとげられるものかどうか、その自信はござらぬが……」
「いや! 成功するぞ! 絶対に大丈夫だ。やってくれい!」
田丸豪太夫は、みごとに、天満坊の策謀に乗せられてしまった。
「では、兵をおかりつかまつる」
「おう、のぞむがままの兵を率いて行け」
豪太夫は、みじんの疑いも抱かずに、ゆるした。
天満坊が出て行くと、入れかわりに、もう六十に手のとどく年配の士が、入って来て、平伏した。
豪太夫の脳中に、名をとどめている家来ではなかった。
「なんだ?」
「それがし、足軽頭をつとめまする加茂九兵衛と申しまする」
痩せこけて、貧弱なからだを、さらに縮めて、名のった。
「足軽頭が、なんとした?」
「はばかりながら、申し上げまする。叡山入道と申される神矢城の謀将に、当城の全兵をおまかしなされるのは、いかがなものかと存じ、軽輩の身分をかえりみずに、罷り出た次第でございます」
「わしに、|諌《かん》|言《げん》に参った、と申すのか?」
「なにとぞ、いま一度、御考慮のほど、ねがわしゅう存じまする」
「九兵衛!」
「はい」
「おのれは、主人の頭脳に、智慧が足らぬ、とさげすんで居るのか?」
「とんでもござりませぬ。……それがしは、あの叡山入道なる人物に、いささか、疑いをかけているだけでございまする」
「あの男は、わしが見込んだ。わしの方から、軍師になってくれとたのんだのだぞ。おのれら、下っ端ざむらいに、何が判る! 下れっ!」
しかし、加茂九兵衛は、よほどの覚悟をきめて来たとみえて、容易に、座を立つ気配を示さなかった。
「お言葉をかえすようなれど、それがしは、いささか、孫子が軍略を学んで居り、兵を動かすにあたっては……」
「黙れっ! 足軽頭に、孫子を講釈されるほど、田丸豪太夫は、間抜けではないぞっ! 下れっ! 下らぬと、討ちすてるぞ!」
「おん殿!」
九兵衛は、じっと、豪太夫を見つめた。
「当城に、勇猛の士は数多くござりましょうが、虚実の兵策を用いる御仁が、一人でも居りましょうか。さればこそ、おん殿は、他城の使者をくどいて、軍師になされるのではございますまいか」
これは、豪太夫にとって、痛い言葉であった。
しかし、城主として、まず、豪太夫がえらんだ態度は、威厳を保つことであった。
「こやつ! 三万の軍勢が追って参って居るものを、主人をとまどわせて、あざけろうという所存かっ! 許せぬぞ!」
と、呶号した。
加茂九兵衛は、豪太夫が、刀架けから陣太刀をつかみとるのを眺めつつ、みじんもたじろがなかった。
「軽輩の諌言をお怒りは、ご尤もなれど、まず、その前に、いかなる者の言葉にもせよ、それが、誠心から吐かれるものならば、上に立つお方は、一応耳をかたむけられるのが、肝要かと存じられまする」
「それぐらいのことは、云われなくとも、わかって居る。わしは、おのれの、小ざかしげな面つきが、気に食わん」
「おん殿!」
加茂九兵衛は、もう一度平伏した。
「叡山入道と称するかの御仁、はたして、神矢城より遣わされた使者かどうか──、それがしは、まず、それを疑うて居りまする」
「黙れっ! 叡山入道は、米五十俵をみついで参った使者だぞ! 五十俵には、石ころでも詰めてある、とでも申すのか」
「正しく、米が詰めてありましたなれど、虚実の兵策を用いるのに、それは、当然のこと。そのことをもって、神矢城の正使者と早合点するのは、いかがでござりましょうや?」
「贋ものという証拠でもあるのか、証拠が!」
「べつに証拠とてありませぬが、ただ……」
「ただ、なんだ?」
「ただ、ひきつれて参った家来衆が、使者随従には、いささかおそまつな面々と見受け、ひそかに挙動をうかがうに、どうも、あやしむに足りる、と存じましたれば……」
「うつけめ! 足軽頭ふぜいに、そのような判断をつける目があるか」
「はばかりながら、それがしは、いささか、観相もつかまつります」
「観相?」
「はい。人はおのずから、昨日の運、明日の運を、その面様にあらわして居りまする。それがしは、四十年にわたって、そのことを、究めて参りましてございます」
「よし、おもしろい。わしの人相を観るがよいぞ。どうじゃ、わしが、いかなる過去をもち、将来どれだけの大領主になるか──あててみせろ」
「………」
「高言ほざいたからには、わからぬとは、云わせぬぞ! さあ、申せ!」
豪太夫は、迫った。
加茂九兵衛は、あくまでもおちつきはらって、主君を、じっと見かえしていた。
「云わぬか!」
豪太夫は、凄じい眼光を、射かけた。
「おん殿──」
九兵衛は、わずかに眉宇をひそめて、
「人相と申すものは、その運につれて、変るもの。まず、叡山入道に、兵をお貸し与えになるのを、思いとどまられませ」
「こやつ!」
豪太夫は、陣太刀を、ぱっと、抜きはなった。
「それへ、なおれっ! 観相をいたすなどと、高言ほざいて、わしの人相を観よと申せば、おそれをなして、ごまかそうとする。おのれのような|下《げ》|者《もの》など、家来には要らぬぞ。そのそっ首を刎ねてくれる」
しかし、九兵衛は、白刃をつきつけられても、自若として、いささかの動揺もみせず、
「云え、と仰せられるならば、申上げぬでもありませぬが、それよりも、焦眉の急は、叡山入道を城から出してはならぬことゆえ、お願い申上げましたまでのこと。おきき入れ下さらぬとあれば、やむなき仕儀と存じまする。おん殿のお顔にあらわれた、未来のこと、申上げまする」
「まず、わしの過去を観ろ」
「それは、申上げても詮ないこと」
「なんだと!」
「おん殿のふみこえて参られましたのは、いずれも、白日の大道ではこれなく、陰惨な裏道ばかりでありましたなれば、これを、当てるのは、はばかりあることに存じまする」
「かまわぬ。申せ!」
豪太夫は、呶鳴った。
「では、ひとつだけ、当ててみまする。……おん殿が、十余年前、千騎をおのが旗下に置くために用意なされた軍用金は、どこで、手になされましたか?」
「……む!」
豪太夫は、口をへの字に曲げた。
「おそらく、残忍むざんな行為によって、手になされたに相違ございますまい」
「おい、九兵衛!」
「はい──」
「おのれは、わしを悪人と観ながら、なぜ、随身した?」
「小人の哀しさ、それがしは、十年前おん殿にお目通りした時、おそろしいまでの覇気を観たのでござりまする。あるいは、天下|人《びと》にまで、のしあがって行く覇気ではあるまいか、と感じ、即座に、その下につけば、かなりの出世もかなうか、と我欲を起した次第にござります」
「よし、わかった。……では、わしの未来を観よ!」
「………」
しばし、沈黙をまもって、じーっと、豪太夫の面相を凝視していた九兵衛は、
「命運、ここらあたりで、お尽きなされた」
と、つぶやくように、云った。
瞬間──。
白刃が一閃した。
九兵衛の首は、|血《ち》|飛沫《し ぶ き》の中に、高く天井へ飛んだ。
「何をぬかし居ったか! 命運尽きたのは、おのれの方ではないか!」
豪太夫は、吐きすてた。
さて──。
その森の前には、およそ三千の農夫たちが、多門夜八郎の指揮の下に、陣列を敷いて、旗指物を、ひるがえしていた。
旗指物といっても、公卿館で、大いそぎで作製された粗末きわまるしろものであった。遠望に堪えれば、それで、かまわなかったのである。
夜八郎は、組みあげた櫓の上に立って、城内の動静を、待ち受けていた。
火矢が、ひとつ、空高く、あがった。
「よし!」
夜八郎は、片手を挙げた。
それを合図に、農夫陣は、足もとの土をかきたてた。
土煙りが、もうもうと、舞いたって、あたりいちめんが、濃霧のように、包まれてしまった。
城がたから遠望すれば、いよいよ、進撃を開始して来た、と受けとれる。
農夫の一人が、櫓の上に、かけあがって来て、不安をいっぱい顔にあふらせて、
「ど、どうなりましたぞ?」
と、きいた。
「いま、城門をひらいて、城兵全軍が、押し出して来るところだ」
「ひえっ! そ、そんな……、わ、わしらは、みな殺しじゃ! 約束が、ち、ちがう!」
農夫は、憎悪の目で、夜八郎を、にらみつけた。
「あわてるな。指揮をとっている大将は、天満坊だ」
「え?」
「田丸豪太夫を、たくみにあざむいて、城兵すべてを、野へひっぱり出して来る策略だ」
「そ、そんなことが、できるものじゃろうか?」
考えられないことだった。
いや、夜八郎自身も、天満坊がたてた大胆不敵な計略が、果して、実現可能なものか、大きな不安を抱いていた。
もし露見すれば、天満坊らは、一人のこらず、殺されてしまうのである。
そうなれば、ここに集まる農夫たちも、生きてのがれる者は、殆どなくなるのではないか。
そのおそれを、胸中に押えながら、じっと、城を見まもっていたのである。
さいわいに──。
火矢が、打ちあげられた。
これは、城兵を野へつれ出す計画が成ったことを、知らせるものであった。
夜八郎は、正直、ほっと、蘇生の思いをしたのである。
「合図はあった。もう大丈夫だ! 安心して、待っているとよい」
夜八郎は、農夫へ微笑してみせた。
城門はひらかれ、天満坊を先頭に、城兵は、堂々と押し出して来た。
天満坊が、率いたのは、およそ三千。
曾ては、数万の軍勢を、おのが手足のごとく動かした天満坊である。ひとたび、馬上に、采配を握って、先頭にたてば、その威容は、三千の将士、兵らを、文句なく従わしめる力を、おのずから発揮した。
「全員、静粛を保ち、私語を許さず」
その指令が、ゆき渡っていた。
法螺貝、鉦、太鼓など、一切持たず、ただ、旗のみを高くかかげていた。
進む陣法は、また、戦闘のためのものではなく、ただの平和な行列をえらんであった。
半里を進んではじめて、天満坊は、采配をたかだかとかざして、
「鶴翼!」
と、命を下した。
諸葛孔明八陣のうちのひとつであった。
天満坊は、陣法が成るのを見てから、大音声をはりあげた。
「孫子曰く、三軍の衆、必ず敵を受けて敗るること無からしむべきは、奇正是なり。兵の加わる所、|砥《と》|石《いし》をもって卵に投ずるが如き者は、虚実是なり。……凡そ戦いは、正を以て合し、奇を以て勝つ!」
将士のうちの大半は、その意味など、解すべくもない。
わかろうとわかるまいと、天満坊としては、われにある神算鬼謀ぶりに、これら三千の将兵をして畏敬せしめればよかった。
「そのむかし、源九郎義経が、一ノ谷の合戦に、ひよどり越えの険を冒して、一ノ谷の本陣を衝き、これを破ったごとき、まさしく、奇兵を用いて、疾風迅雷の勝ちを制したものである。……いま、わが三千は、三万の大軍に当らんとする。奇兵をもって、敵の虚を衝かざるべからざる──まさに、興廃の一戦である。よって、まず、この叡山入道が、|間《かん》を用いて、敵をあざむかんとする。すなわち、自ら、わずか三騎をひきつれて、敵が本陣に乗り込み、口舌をもって、恭順の意を表し、決して、敵対するものに非ざることを信じさせるであろう。そうしておいて、敵陣に、油断を生ぜしめ、夜に入るや、闇に乗じて、一挙に突入して、縦横むじんに蹴ちらそうとするものである。……諸士、それを、心得て、鋭気をひそめて、待つがよかろう」
申し渡された将兵は、ただ、天満坊の凄まじいまでの威風をあびて、一語も発する者もなかった。
「よし! されば──」
天満坊は、采配を投げすてると、従者から、大薙刀を受けとり、かねて指名しておいた旗本三騎を駆け出させた。
三騎は、それにおくれじと、つづいて、疾駆した。
──ここらあたりか。
ひとつの森のわきをまわって、城兵の目からかくれた時、天満坊は、馬をとめた。
おもむろに、馬首をまわすと、大薙刀を、直立に持って、従って来た旗本三騎を、視た。
「お主らに、覚悟してもらわねばならぬ」
凜然として、いった。
三騎は、敵陣営に乗り込むための覚悟と、受けとり、一人が、
「もとより、申されるまでもないこと。いざとなれば、斬死つかまつる」
と、こたえた。
天満坊は、かぶりを振った。
「さにあらず! お主らに、ここで、果ててもらうことだ」
「なにっ?」
三騎は、愕然となった。
「ごめん!」
天満坊は、ことわりざまに、馬を躍らせた。
次の瞬間には、一騎の首が、血煙りとともに、刎ねとばされていた。
「おのれがっ!」
「くそっ!」
あざむかれたと知って、のこりの二騎は、陣太刀を抜きはなち、猛然と、反撃しようとした。
しかし、天満坊が、唸らせる大薙刀の前には、一太刀をあびせることも、かなわなかった。
一騎は、左肩から袈裟がけに斬られ、もう一騎は、胴を薙ぎ払われて、もろくも、地上へ落ちた。
「南無!」
天満坊は、片手拝みに、詫びておいて、さっと、馬首をめぐらすや、まっしぐらに疾駆した。
櫓上から、その騎形をみとめた夜八郎は、
「やったな、天満坊!」
と、微笑した。
たちまち、櫓下に到着した天満坊は、笑顔を|擡《もた》げて、
「孔明、正成も、我に及ばず!」
と、云いはなってみせた。
夜八郎は、のぼって来た天満坊に、
「これから、どうなる?」
と、問うた。
「夜を待つだけだの」
「夜を待って、どうする?」
「お主には、農夫千人をひきつれて、城門前へ、忍び寄ってもらう」
「うむ」
「わしは、城兵を率いて、ここへ夜襲をしかける。ここには、この櫓ひとつがのこっているだけじゃ。つまり、城兵陣と農夫陣が、その処を交換するだけのことに相成る」
「それから?」
「それから、米を奪う」
天満坊は、愉快そうに、笑い声をたてた。
陽が傾き、夕風が立った。
城内も、城兵陣も、そして、この森の農夫の群も、ひそと鳴りをしずめている。
嵐の前のしずけさであった。
館にいた田丸豪太夫は、どうにもおちつかずに、再び、着到櫓へ出て来た。
叡山入道が、敵をあざむいて、油断をさせておいて、奇襲をしかけるという策略には、みじんの疑いも抱いてはいなかった。
旗本のうちの数名に申しつけ、刻々の状況を報らせる手段はとってあった。
叡山入道は、旗本三騎を率いて、敵陣営へむかって、進んで行った、という報告があってから、その後、なんの音沙汰もないままに、時間が過ぎていた。
報告がないことは、策略が着々と押しすすめられている証拠であろう。
ただ、豪太夫にとって、あまりにも、時間の経つのが、のろすぎた。
今日ほど、太陽が西の山蔭に沈むのが、のろいと思ったことはない。
「おいっ!」
豪太夫は、苛立たしく、櫓下にならんでいる侍臣を呼んだ。
一人が、駆け上って来た。
「待っては居れぬ。わしも出るぞ!」
「殿、それは、あまりに、性急にすぎますまいか」
「わしは、今日まで、おのが手勢の先頭に立たなかったことはない。……今宵は、叡山入道にまかせようと、思っていたが、どうにも、我慢がならぬ」
「し、しかし──」
「おのれが、先陣をきってこそ、勝利のよろこびはあると申すものぞ! 出るぞ! 馬を引けい!」
ひとたび、云い出したら、断乎として、あとへ引かぬ人物であった。
城門が開かれ、刎ね橋が、軋りつつ、降ろされた。
「そのままに、しておけい!」
云いのこしておいて、豪太夫は、七騎ばかりをひきつれて、颯爽とうち出た。
太陽は、その時、そのすがたを没していて、残照が、西の空を彩っていた。
城にのこったわずかばかりの士や兵は、なんとはなしの不安をおぼえつつ、その後姿を見送った。
ただ、その中で、一人だけ、冷たい薄ら笑いをうかべて、見送る兵がいた。
七位の大乗は、いつの間にか、兵に化けて、残留隊の中にまぎれ込んでいたのである。
やがて、夕闇が、ただよい寄せて来た頃あい──。
七位の大乗は、泰国太郎、百平太、青助、黒太、赤松、白次らが、待機しているところへ、忍んで来た。
「城主も出て行き、もはや、城内は、空家も同然でござるな」
そう告げて、大乗は、にやっとした。
闇が、涸れはてた野を匍ってから、半刻も過ぎた頃あい──。
一本の火矢が、その森の蔭から、するすると、飛んで、消えた。
それが、叡山入道の合図であった。
長蛇の陣を敷いて、待機していた田丸勢は、城主を先頭にして、音をしのばせて、進みはじめた。
馬と旗指物をそこにすて、具足がふれ合わぬように間隔をとり、闇に目ばかり光らせて進む奇襲行であった。
豪太夫としては、そのむかしの野盗時代を思い出す。
このように、暗夜を利用して、山犬のように襲いかかっては、金を物品を女を、掠奪したものであった。
一城のあるじとなってからは、このような、興亡をかける奇襲は、一度も行っていなかった。
いまこそ──。
伊吹野城が滅びるか、存続するかの決戦である。
豪太夫は、はじめて、武将としての悲壮な気概が、全身に満ちあふれるのを、おぼえていた。
敵勢は、三万とも四万とも、かぞえられるのである。
ひくい丘陵の裾に来て、豪太夫は、
「ひらけ!」
と、指令した。
長蛇陣から、鋒矢陣に転じせしめ、丘陵を一気に越えて、森へ向って、まっしぐらに、突入することにしたのである。
足軽隊が、急いで前へ出て、鋒矢の陣形をとった。
武者隊が、その後に、三列縦隊をとった。
豪太夫は、武者隊の先頭に立つと、ひとつ大きく深呼吸をした。
大声をあげて、これぞ興亡の一戦であるぞ、と全軍を叱咤したいところであった。
「よし! 進め!」
押しころした声で、下知を下した。
田丸勢は、丘陵を越えた。
越えた裾から、その森までは、三町あまりであった。
もはや、音を忍ばせる必要はなかった。
「突撃っ!」
豪太夫は、大声を口から噴かせた。
鋒矢陣は、鯨波こそたてなかったが、一人のこらず、けものと化した勢いで、疾駆して行った。
森蔭には、幾十となく、篝火が焚かれ、旗指物が、浮きあがっていた。
陣幕がめぐらされ、竹束の楯らしいものもならべられてあり、一瞥したところ、大軍の野陣を疑う余地はなかった。
ただ、その陣営が、ひそとしずまりかえっているのが、怪しかったが、それを疑っている余裕など、田丸豪太夫には、なかった。
うわああっ!
田丸勢は、あらんかぎりの喚声をあげて、その陣営へ突入した。
狐に化かされた。
そうとしか思えない奇怪な野陣が、そこにあった。
敵兵は、一兵もいなかったのである。
篝火だけが、あかあかと、燃えあがっているばかりであった。
「なんだ、これはっ!」
豪太夫は、総身の血汐が逆流した。
叡山入道と称した男の面貌が、闇の中に浮いて、あざ笑った。
──彼奴!
まんまと一杯くわされたのである。
これほどの憤怒は、曾ておぼえがなかった。
──どうしてくれよう!
八つ裂きにしたかった。
しかし、叡山入道は、はるか手のとどかぬ遠方に去って、
「ざまをみろ!」
と、うそぶいているであろう。
と──。
豪太夫は、頭上から冷水をあびせられたような戦慄におそわれた。
叡山入道が、ここへ、意味もなく、城兵全員をおびき出したはずがないことに、気づいたのであった。
その時、豪太夫の戦慄に、応えるかのごとく、後方にあって、
どーん!
どーん!
と、炸裂音が、起った。
「ああっ!」
闇夜を彩る火の粉が、舞い上るのをみとめて、豪太夫は、はらわたまで、青ざめた。
まさしく、城が爆破されたのである。
総勢、喚きたてて走り出したが、なんとおのが足の、のろかったことか。
奇襲のために、途中に馬をすてて来ていたのである。
そのことも、叡山入道の策略のひとつであったのだ。
まるで、小児のごとく、完膚なきまでに、田丸勢は、だまされたのである。
丘陵を越えて、野をひた走りながら、豪太夫は、城が、えんえんと夜空をこがして、燃えあがる光景に、わが身が焼かれるように逆上した。
城には、南蛮渡りの火薬が、おびただしく、たくわえてあった。それは、豪太夫の自慢のひとつであった。
それが、爆発させられたのである。
──彼奴め、何者だっ?
疾駆しながら、豪太夫は、おそれをおぼえた。
城内には、わずか三十人あまりの余卒をのこしていただけである。
なんの抵抗力もなかったろう。
えたいの知れぬ敵は、その空城へ乗り込んで来て、思いのままに、ふみあらしたのである。
駆け通しに駆けて、城へ辿りついた田丸勢を迎えたのは、夜風を誘ったように、無数に舞い散る火の粉であった。
火焔は、すでに、城門にまで、燃え移っていた。
「殿! 危険でござる!」
刎ね橋を、渡ろうとする豪太夫を、旗本の一人が、しがみつくようにして、とどめた。
「はなせっ!」
豪太夫は、家来を突きとばしておいて、橋の中ほどまで進んだ。
その時、城門が、轟然と、音たてて、崩れた。
「おのれ! あの坊主め、草の根をわけても、さがし出して、八つ裂きにしてくれる!」
豪太夫は、叫んだ。
しかし、火焔を受けたその面相は、むしろ、うつろなものであった。
城内には、ただ、物の燃えつくす音響があるばかりで、人の叫びはなかった。
殺される者はことごとく果て、逃走する者は一人のこらず、城外へ去ったものであろう。
この時─。
三千の農夫の群は、二里の遠方を、歓喜の足どりで、急いでいた。
どの肩にも、背中にも、そして、荷車にも、伊吹野城の米倉から奪いとった米が、あった。
まるで、夢であった。
これほど、かんたんに、米が掠奪できたことが、その重みを五体に感じながら、まだ信じ難いくらいであった。
しんがりに、天満坊と夜八郎が、くつわをならべていた。
「御坊、これから、どうなる?」
夜八郎は、そのことを懸念していた。
「さあ、どうなるかな」
天満坊は、大仕事をやってのけたあととも思えぬ、いつものとぼけた口調で、こたえた。
「明日になれば、田丸勢は、公卿館へ、攻め寄せて来るであろう」
「まずな」
「どうする?」
「飢えた狼の大群を、迎えることになっては、むだな抵抗は、せぬことじゃて」
「では、館を、空っぽにしておくか」
「それがよいな」
「御坊は、もしその気になれば、天下も取れるな」
「なんの……、対手が田丸豪太夫だから、詐術が成功したまでのこと。いささかの頭脳があれば、わしの詐術ぐらい、看破できぬはずはない」
「いや。わたし自身、御坊の奇策が、判らなかった。舌を巻いた」
「ははは……これぐらいの策略におどろいてくれては、こまる。お手前には、これから、やってもらわねばならぬ異常な冒険がある」
はたして──。
田丸豪太夫が、千騎あまりを率いて、公卿館へ、殺到して来たのは、夜が明けたばかりの時刻であった。
土煙りをまきあげて疾駆して来るのをみとめて、農夫たちが、
「来たっ!」
と、はねあがって、走った。
天満坊に命じられて、林や堤などに伏せていたのである。
農夫たちは、館へは、走らず、それぞれ、別の方角へ、姿を消してしまった。
館の内は、ひっそりとして、田丸勢が、門前に殺到して来ても、なんの反応も示さなかった。
豪太夫は、馬上に、躍り立つようにして、
「門を開けいっ!」
と、呶号した。
城を焼かれた領主の形相は、人間ばなれのした凄じいものになっていた。
門扉は、すぐに、開かれた。
建物までの広い前庭は、しろじろと白砂が浮きあがって、人影ひとつ見当らなかった。
田丸勢としては、いささか、勝手のちがった思いであった。
開門を命じても、容易に応じないであろうし、相当の抵抗があるものと、考えていたのである。
どういうものか、全くの無抵抗である。
豪太夫は、馬を乗り入れると、
「泰国清平、出いっ!」
と、叫んだ。
豪太夫は、この静寂には、何かのしかけがあるものと疑っていた。
城が烏有に帰したにも拘らず、この豪族の館がそのまま、堂々と大屋根をそびえさせているのが、憎かった。
ほんのわずかの反抗の気色でもあれば、たちまち焼きはらってくれよう、と気負い立っていた。
泰国清平は、下僕の肩にすがって、大玄関に現れた。
そして、そこへ、うずくまった。
豪太夫は睨みつけて、
「伊吹野城に、火を放ったのは、土一揆の仕業であろうが!」
と、呶号した。
「何を申されることか?」
清平は、いかにも、けげんそうな面持になった。
「しらばくれるな! おのれが、農奴らをそそのかして、奸計をなしたであろう? どうだ、泥を吐けい!」
「毛頭、おぼえもなきこと──」
清平は、おちついた態度で、かぶりを振り、
「昨夕、軍勢らしいものが、この裏手の間道を通るのを、小者がみとめて、報らせて参りましたが、われらのかかわり知らぬことゆえ、そのままに、うちすごしましたが……」
豪太夫自身、まさか土一揆の仕業とは思っていなかった。
叡山入道という人物の用いた策略がおそるべきものであったところをみれば、おそらく、隣国の武将にやとわれた都落ちの軍師とも想像され、よもや、土一揆の指導者とは考えられなかった。
ただ、正体不明であるからには、この公卿館でやとった人物と、疑うことも可能であった。
その理由のひとつは、三万の兵を布陣させたとみせかけた場所に、のこされていた旗指物は、いかにも、粗末なにせものであったことである。急いでつくりあげたにしても、兵の手によるものであれば、ある程度、旗指物の恰好をなしたに相違ない。旗指物のなんたるかを知らない者たちによって、つくられたしろものであった。
農夫らをして、つくらしめた、と判定できたのである。
「泰国っ! しらばくれるな! おのれが仕業であるという証拠があるぞ!」
豪太夫は、馬からとび降りると、清平の前へ迫った。
「証拠と申されると?」
「叡山入道と称する男が、この館に滞在したことを、密告して参った者が居るぞ!」
「叡山入道? ……一向に、おぼえがありませぬが──」
「老いぼれて、なお、生命が惜しいかっ!」
豪太夫は、清平の肩を、蹴った。
清平は、うしろへ倒れた。
小者に抱き起されると、そうしているだけでも堪え難そうに、肩で喘いだ。
豪太夫は、その様子を眺めて、この病みやつれた老人に、城を焼きはらうだけの気力がのこっていようとは、思われなかった。
豪太夫は、家臣たちへ目くばせした。
たちまち──。
館の中は、千騎の足に、ふみあらされた。
あちらこちらの片隅でおののいているのは、年老いた下僕や下婢だけで、屈強の男は一人も見当らず、建物はほとんど空家同様であった。
書院にふみ入って、床几に腰かけていた豪太夫は、家臣たちの報告をきくや、清平を面前へひき据えた。
「屋敷内を空にしたのは、このことを予知した上での小ずるい措置だな!」
と、きめつけた。
「とんでもござらぬ」
清平は、暗然たる表情で、かぶりを振り、
「せがれ太郎めが、伊吹野を見すてて、若い働き手ばかりをかき集めて、|逃散《ちょうさん》いたしたのでござる」
「逃散?」
「左様でござる。この館は、虚名のみをとどめる廃墟とののしり、死期せまった父親をすてて、逃散つかまつった。倉などをごらん下されば、おわかりと存じます。せいぜい一月がほど食いつなげる糧秣しか、のこしてはくれなかったのでござる」
清平の言葉は、いつわりではなく、三つの倉には、ほとんど、米は、のこされていなかった。
豪太夫としては、清平を信じないわけにはいかなくなった。
しかし、豪太夫には、もうひとつ、問い糺さなければならぬことがあった。
「当家は、二十年前、五摂家から、金銀を預けられた由、どこに、隠匿いたして居る?」
豪太夫は、預ったことは、すでに疑いもない事実だと知っているぞ、という態度で、問うた。
すると、否定するとばかり思っていた清平が、
「ご存じよりでござったか」
と、こたえた。
「うむ。承知して居るぞ。……軍資金として、わしがもらうぞ。処を申せ」
「御城主の所望とあれば、やむを得ぬ仕儀でござる。あれだけの金銀であれば、昨日にまさる難攻不落の城郭を築くのも、容易でござる」
「礼を云うぞ、泰国──」
豪太夫は、正直のところ、ほっとなった。
城を焼かれ、武器と糧秣をことごとく失った武将は、翼をもぎとられたのにひとしい。擁する軍勢を、そのまま、従わせておくことは不可能であった。
田丸勢は、四散する危機を迎えていたのである。
五摂家からはこばれた莫大な金銀が手に入れば、その|憂《うき》|目《め》に遭うこともない。
城を再築し、武器も糧秣も手に入れられる。
「よし! 案内をたのもう」
豪太夫は、床几から立った。
「それがしは、ごらんのごとく歩行もおぼつかぬ身でござれば、ただいま、図面を書き申して、下僕に案内させますれば、しばらくのご猶予を──」
「うむ、よかろう」
清平が出て行くと、豪太夫は、家臣がさがして来た酒を飲みはじめた。
──それにしても、叡山入道という奴、何者だ?
また、あらたな憤りが、豪太夫の胸中に、沸きたって来た。
──彼奴め、やっぱり、神矢城からの使者であったかも知れぬ!
神矢城では、近隣の武将をかたらって、策略を用いたのかも知れぬ。
その想像が、いちばん妥当のようであった。
「よし! 城を築きなおし、武器を集めたならば、神矢城を、ひと押しに、押しつぶしてくれる!」
豪太夫は、叫んだ。
その時、庭へ、ゆっくりと姿を現した者があった。
九十九谷左近であった。
「おっ!」
豪太夫は、目を剥いた。
「左近、どこへ姿をくらまして居った!」
城が焼かれた時、左近は、城内にいたはずである。
留守を守る士卒は、一人のこらず討死するか、焼け死んで居り、女人館の女たちは消えうせ、豪太夫が、入った時には、灰燼の中にとどまっている者は、たった一人も見当らなかったのである。
当然、左近は、剣をふるうのは、この機会とばかり、阿修羅となってあばれたに相違ない、と想像されるところである。
左近は、書院に上って来ると、
「寡兵をもって、十倍する敵を攻め破る壮烈な戦いぶりを拝見できなかったのは、かえすがえすも、ざんねんでござった」
と、云った。
「何? おのれは、昨夜、どこに居った?」
「合戦見物に罷り出たのでござる」
「城には、居らなんだのか?」
「殿が、馬で走り出られるのをみとめて、それがしも、あとを追い申した」
豪太夫は、舌打ちした。
「まことだな? 軍勢に攻め寄せられて、あわてて、城から逃げたのではあるまいな?」
「この九十九谷左近が、左様な臆病者に見え申すか?」
「数千の兵に攻め入られれば、おのれといえども、怯じ気づくであろうが……」
「はっはっは……」
左近は、高笑いした。
「たとえ、数千が、数万であろうが、それがし一人にかかって来るのは、せいぜい数十人。これを斬りはらう剣を、それがしが持たぬ、とお思いでござろうか」
「高言は、あとから、いくらでも、ほざけるぞ」
「城を焼きはらわれて、殿も、いささか、逆上気味になられて居る」
「なにっ! おのれ、ののしるか、左近!」
豪太夫は、凄じい形相になった。
左近は、平然として、
「酒を一杯、頂戴つかまつる」
と、片手をのばして、盃を把った。
豪太夫は、その盃を、足蹴にした。
しかし、どうしたのか、白い液体を、もろ[#「もろ」に傍点]に頭にかぶったのは、豪太夫自身であった。
そこへ、清平が、下僕をつれて、もどって来た。
絵図面を、豪太夫の前に置き、
「裏手の北山の頂上に、三十六基の墓標がならんで居り申す。まず、そこに立たれて、正しく東の方へ向い、目をこらせば、斜面一町の下方に、赤松が七本並んで居ります。その七本の列を、右方ヘ一直線に引いて、ちょうど、並の人間の歩幅で、三十歩……」
くわしく、説明する清平を、左近は、なぜか、冷たい薄ら笑いをうかべながら、見まもっていた。
豪太夫の方は、夢中であった。
愕然となったことである。
絵図面によって、その場所に立った時、豪太夫は、
「おのれがっ!」
と、おそろしい呻きをたてた。
墓穴のような深い穴が、七つばかり、掘られていたのである。
五摂家の金銀は、奪い去られていた。
「なんということだっ!」
豪太夫は、この憤怒を、たたきつける対手がないままに、随従して来た家臣たちを、睨みまわした。
どの顔にも、主君に対する信頼感を失った表情が、うかんでいるようであった。
豪太夫は、恐怖を感じた。
城を焼かれ、武器と糧秣を盗まれた豪太夫には、ここにかくされていた金銀を手にすることができなければ、絶対君主として、家来をしたがわせる力は、もはやないのであった。
養う能力を持たぬ武将に、一兵も服従するはずがないのである。
「清平め! わしに、一杯食わせ居ったなっ!」
豪太夫は、呶号した。
しかし、家臣一同は、おし黙ったままであった。
これは、城を焼いた者の仕業であることが、あまりに容易に、合点されたからである。
豪太夫は、馬へとび乗るや、
「神矢城を襲うぞっ! つづけっ!」
と、下知を下した。
いつもならば、これに応ずる声が、あがるはずであった。
一人として、口をひらく者はなかった。
「神矢城を襲うて、奪いかえすのだ! 者どもっ、つづかぬか!」
豪太夫は、馬腹を蹴った。
だが──。
あとにつづく者は、一騎もなかった。
裸同然の軍勢が、気勢もあがらぬままに、隣国へ攻め入ったところで、城を取ることなど、できようとは思われなかった。
四散。
いまは、それあるのみ、という絶望感が、すべての脳裡を占めていた。
ただ一騎、土煙りをあげて、麓へ疾駆して行く豪太夫の姿が、いかにもあわれなものに、眺められた。
これが、昨日まで絶対の地位を占めていた暴君であろうか。
この小山と谷ひとつへだてた山の頂上に、天満坊、夜八郎、泰国太郎はじめ、数十人の男女が立って、豪太夫の孤影を見送っていた。
「栄枯盛衰を、|面《ま》の当りに見るのう」
天満坊は、かたわらの泰国太郎に、笑った。
「御坊の神算鬼謀、おそれ入った」
太郎は、心から、云った。
山城の若武者
今日も、暑気を増した陽ざしが、かわいた下界を、じりじりと照りつけていた。
伊吹野に入る街道は、西からも東からも山を越えなければならぬ。
東からは、山ふたつ越えることになるが、そのあいだに、ひとにぎりほどの盆地があって、宿駅が、つぶれかかったような家並を、街道の左右に二町ばかりつらねている。
この宿駅は、北からも山岳が掩いかぶさるように迫って居り、渓流から、なお、わずかばかりであるが、落し水が街道を横切っているので、かなりのにぎわいをみせていた。
旅人たちは、東から来て、ここに一泊し、伊吹野を避けて南ヘ──海沿いの街道を辿って行くのであった。
編笠をかぶった武士が一人、この宿駅に現れたのは、|午《ひる》をすこしまわった時刻であった。
往還には、駅馬が二頭ばかり、首をたれているだけで、人影もなかった。
どの家でも、半裸の男女が、ひとときの午睡をむさぼっていた。天変地異がうちつづくと、人間は、絶望的になって、どうでもなりやがれとばかり、ひどく怠情になるもののようであった。
武士は、この宿駅で他の家を圧して大きな構えをもつ|旅籠《は た ご》の前に来て、編笠をあげた。
土間には、|草鞋《わ ら じ》が三四足ぬぎすてられているだけで、人の気配もない。
「たのもう──」
武士は、土間に入って、編笠をぬいだ。
総髪の若々しい|貌《かお》であった。
日焼けした、たくましい眉目に、旅の疲れなどみじんもない。
しばらくして、裏口に物音がした。
武士は、土間を仕切る格子を開けた。
水桶をふたつ携げて入って来た若い女をみとめて、武士は、
「いち──」
と、呼んだ。
何気なく、こちらを見た娘は、
「まあ! 若様っ!」
と、歓喜の声をあげた。
「五年ぶりだな」
若様と呼ばれた武士は、にっこりした。
「ほんに──五年ぶりでございます!」
娘は、そばへ寄って来ようとしてから、はしたないのに気がついて、あらためて、
「おもどりなさいませ」
と、ていねいに挨拶した。
「そなた、元気でよい」
「はい。からだだけは、丈夫でございます。……若様は、ずっと、関東でございましたか?」
「うむ」
「関東で、どんな……、あ、いけない、若様を、そんなところに、立たせぱなしで、ごめんなさいませ。……さ、どうぞ、お上り下さいませ」
「泊めてもらうぞ」
「はい。うれしゅう存じます」
いち[#「いち」に傍点]は、いそいそと、若い武士を、二階の部屋へ案内した。
案内してから、またあらためて、挨拶した。
奈良城義太郎。
それが、この若い武士の名であった。
五年前まで、伊吹野の|管《かん》|領《れい》であった奈良城義胤の嫡子であった。
伊吹野城が、田丸豪太夫の率いる一万余騎に包囲された時、義太郎は、まだ二十歳であった。
二十日間の攻防戦によって、伊吹野城は降服した。
その時、義太郎一人だけ、あくまで抗戦を主張したのであったが、父義胤は、田丸豪太夫の強さをおそれ、玉砕の無意味を説いて、手勢二百をひきつれて、大庄山の山城へ去ったのであった。
義太郎の方は、それを不満として、父と別れ、関東めざして、武者修業の旅へ出てしまったのである。
田丸豪太夫が、侵入して来るまでは、伊吹野は、ふしぎにただの一度も兵火のあがらぬ平和の土地であった。
義太郎が、馬責めに遠出して、この宿駅にしばしば憩うたのも、いずれ領主となった時、庶民の世界を知っておきたいためであった。
義太郎が現れる時は、いつも、ただ一騎である。
そして、この旅籠の娘いち[#「いち」に傍点]と親しくなったのである。
城主の嫡子とか、旅籠の娘とか、そんな身分の遠いへだたりなど、すこしも感じない間柄になったのである。
いち[#「いち」に傍点]は、その頃まだ、十六であった。
「あの頃は、愉しかったな、いち」
「はい。そうでございました。若様のお供をして、よく茸を採りに、山へ参りました」
「熊が現れて、仕止めそこねたことがある。お前が、わしを、必死になって、とめたからだ」
「若様に、おけがをさせたくなかったからでございます」
「わしに、惚れていたか、いち?」
「まあ、なんということを──」
いち[#「いち」に傍点]は、顔をあかくした。
五年前が、つい昨日のことのように思われる。
義太郎は、いち[#「いち」に傍点]が、肌のきれいな、豊満な娘になっているのを眺めて、心をそそられた。
いち[#「いち」に傍点]が、自分の帰りを待っていてくれたような気がした。
「いち」
「はい──」
いち[#「いち」に傍点]は、あかるい表情で、義太郎を見かえした。
「今夜──わしのものになってくれぬか?」
義太郎は、思いきって、たのんだ。
戦国の若武者は、後世の青年のように、こういう欲求に、ためらいをみせなかった。
さすがに、いち[#「いち」に傍点]は、俯向いて、すぐには、返辞をしなかった。
「いやか、いち?」
「いえ……」
いち[#「いち」に傍点]は、義太郎を見かえして、にこっとした。
「若様は、むかしから、せっかちでございました。すこしもかわっていらっしゃいませぬ」
「うむ、かわって居らぬ」
義太郎は、いち[#「いち」に傍点]の手をとってひき寄せた。
「いけませぬ、若様。まだ、昼でございます」
「うむ。そうだな。……では、夜、忍んで参るな?」
「はい──」
いち[#「いち」に傍点]は、承諾した。
いち[#「いち」に傍点]は、それから、不安な面持になった。
「若様、大庄山のお城へ、おもどりでございますか?」
「うむ。ほかに、もどるところもない」
「若様が、お城におもどりなさると、軍勢をつくって、伊吹野城を奪いかえされるのでございますね?」
「それだけの力は、わしにはない」
「どうしてでございますか? 伊吹野城を奪られっぱなしで、くやしくはないのでございますか?」
「くやしくないはずがあるまい。あの日のことを思い出すたびに、腹の中が、にえくりかえるぞ」
「若様。田丸豪太夫というのは、それはもう、人間ではない、という噂でございます。鬼畜のように、百姓たちを殺して居ります」
「伊吹野でも、一揆が起っているのだな?」
「伊吹野は、生地獄でございます。水が、もう一滴もなくて、田植えもできませぬ」
「田植えもできない? そんなはずはあるまい。大庄山には、太古から一度も涸れたことのない湖がある」
「………」
いち[#「いち」に傍点]は、なぜか、黙って、俯向いた。
「田丸豪太夫を、攻め落す武将は、一人も現れぬのか」
義太郎は、吐き出した。
「若様。……お願いでございます。若様のお力で、伊吹野城を奪りかえして下さいませ」
「うむ!」
義太郎は、腕を組んだ。
その時、さわぎたてながら、おもてから入って来た一団があった。
野伏とも、山賊ともみえる二十数人の荒くれた男どもであった。
「いち!」
「いちはどこだ?」
「八荒竜虎隊のおもどりだぞ」
「いちに、上臈[#「臈」は底本では草冠「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)。これ以外は表記は「臈」になっている]の衣裳をもって来てくれたぞっ!」
叫びたてながら、どやどやと、二階に上って来た。
「なんだ、あれは?」
義太郎が、たずねた。
「旅荒しです」
いち[#「いち」に傍点]が、こたえた。
「旅荒し?」
「はい。もとは、都で、北面のさむらいだった、と申して居りますが、このあたりでは、旅荒しというて居ります」
「野伏のたぐいだな?」
「そうだと思います。けど、里の人たちには、悪いことはいたしませぬ。旅荷をねらって、山や野に待伏せていて、おそいかかるのだそうです。お大名の運ぶ荷など、いちばんのえものだ、と申しています」
「なにが北面の武士だ。あぶれ足軽どもだろう」
義太郎が吐きすてたとたんに、杉戸がひき開けられた。
「いち、こっちへ参れ」
髯だらけの顔が、大声をあげた。
義太郎が、
「他客の部屋を、無断で開けるな!」
と、きめつけた。
「なに!」
「その方ら、この宿で、わがもの顔に振舞って居るようだが、容赦せぬ客もいるぞ!」
「おうっ! おもしろい! やるか!」
髯面が、にたっとした。
「若様! およしなさいませ」
いち[#「いち」に傍点]が、あわてて、あいだに入って、
「髯長さん、あっちへ、行って!」
と、手を振った。
「いいや、行かんぞ。挑まれては、あとへ引けぬわい」
「ダメ! あんたがた、この宿では、喧嘩をしない約束です」
「売られたものは、買わずばなるまい」
「ダメです! 喧嘩は、ゆるしませんよ」
中風の父親に代って、この旅籠を一人できりもりしているいち[#「いち」に傍点]は、生来の気丈もあって、旅荒しなどをおそれてはいなかった。
「いち! その男、どうやら、お前の情夫らしいの」
「いやしいことを云わないで! 若様ですよ、若様!」
「どこのバカ様だ?」
「伊吹野城の御領主様の若様ですよ!」
「なに! 田丸豪太夫のせがれだと?」
「ちがいます! 伊吹野城は、奈良城義胤様のものじゃ。義胤様のおん曹子です」
「はっはっ……」
髯の長兵衛という、旅荒しの副将格の男は、哄笑した。
「田丸豪太夫に追いはらわれた腰抜け大名のせがれが、お主か。はっはっは……」
これをきいて、義太郎が、すっと立ち上った。
その双眸が、氷のように冷たい殺気をみなぎらせているのをみとめて、いち[#「いち」に傍点]が、
「若様!」
と、叫んだ。
次の瞬間、義太郎の差料が、鞘走った。
髯の長兵衛の首が、|血《ち》|飛沫《し ぶ き》あげて、刎ねとんだ。
旅荒しの一団は、他客の部屋へ首を突っ込んで、しきりに大声をあげていた髯の長兵衛が、不意に、その首をうしなった胴体を、どさりと、廊下へ倒したので、
「おっ!」
「なんだ!」
と、むかいの広間で、総立ちになった。
いち[#「いち」に傍点]が、とび出して来て、
「待って!」
と、両手をひらいたが、一団は、もはや、いち[#「いち」に傍点]などには、目もくれなかった。
「何奴だ?」
「出ろっ!」
「たたき斬ってやるっ!」
口々に呶号しながら、廊下へふみ出して来た。
いち[#「いち」に傍点]が、ふりかえって、
「若様! にげて──にげて、下さいませっ!」
と、絶叫した。
そのいち[#「いち」に傍点]を、一人が、はねのけて、杉戸を、蹴倒した。
奈良城義太郎は、平然として、部星のまん中に立っていた。
「うぬは、何者だ?」
「何者でもよかろう。おのれら毒虫どもとは、いささか、身分がちがう者だ、とおぼえておけ!」
「ほざくなっ! 名を名乗れ、名を──」
「わめきたてるよりも、勝負がしたいのであれば、おもてへ出て、待って居れ」
「よし! うぬが──にげるなっ!」
「ひさしぶりで、毒虫を斬って、心気爽快だ。あと幾人居る。のこらず、片づけてつかわすゆえ、覚悟して、待って居れ」
義太郎は、どうやら、この五年間を、いたずらにすごさなかったようである。充分の腕前に、おのれを仕上げているようであった。
旅荒しの一団を、おもてへ奔り出させておいて、義太郎は、
「いち[#「いち」に傍点]、今夜の約束を、忘れるな」
と、笑った。
「若様!」
いち[#「いち」に傍点]は、全身をおののかせた。
「対手は、二十人以上もいるのでございますよ」
「だから、斬り甲斐がある」
「そ、そんな……」
「ははは……、いち、わしは、むかしのわしとは、チトちがうぞ。五年間、風雪をしのいで、心身をきたえぬいた。合戦にも、十余たび加わって、無数の敵を斬った。……あいつらを、片づけるくらい、造作はない」
「でも……、対手がただって、人殺しにはなれている者たちですよ」
「心配するな。……今夜の約束だけを、忘れるな」
そう云いのこすと、義太郎は、悠々と、梯子段を降りて行った。
奈良城義太郎と旅荒し二十余人との決闘には、宿はずれの明神祠の境内が、えらばれた。
境内といっても、塀は崩れ、雑草がしげり、|御《み》|手洗《た ら し》は倒れ、松も三四本立枯れている荒涼たる景色であった。
義太郎は、さきに到着して、布陣した旅荒したちを、眺めやって、なんのためらうところもなく、ゆっくりと、進み入った。
と──。
一人が、義太郎の正面へ出て、
「口上、ひとつ」
と、云った。
「なんだ?」
「お主がもし、大庄山へおもむき、その父奈良城義胤に、伊吹野の百姓に、加えて居る塗炭の苦しみを、除いてやるように忠告するならば、この決闘を延期してやってもよい」
「わしの父が、百姓たちに、塗炭の苦しみを与えている? なんだ、それは?」
「おのれは、一度、伊吹野を歩いてみろ。一滴の水もないぞ」
「それがどうした?」
「大庄山の竜神湖には、湧き水が、満々とたたえられて居るぞ。あの水を、渓谷に落してみろ。伊吹野は、明日にも、田植えができるのだぞ」
「竜神湖の水を、ほせと申すか」
「そうだ。奈良城義胤は、名君と称されたこともあるぞ。しかるに、いまは、鬼畜だ」
「………」
「伊吹野は、飲み水さえも節約して居る。しかるに、大庄山には、太古から涸れたことのない水が、一望見はるかす広い湖に湛えられて居る。……伊吹野を奪われたからといって、百姓までも苦しめてよいのか。鬼畜でなくて、なんだ?」
「それだけの正義心があるならば、お主ら一同、大庄山へ行って、城主を説き伏せたらどうだ?」
「嫡子であるおのれこそ、説得する義務があるぞ」
「父は父、わしはわしだ。……怯じ気づいて、延期を申し出たか」
義太郎は、せせら笑った。
「怯じ気づいてだと! おのれっ!」
正面の敵は、大身の槍をひとしごきして、じりじりと、肉薄して来た。
と同時に、二十余人が、抜刀しざま、円を描いて、義太郎を、包んで来た。
義太郎は、まだ抜かずに、すこしずつ、位置を移した。
旅荒したちは、義太郎の凄じい太刀筋を知っているだけに、容易に、襲いかかっては来なかった。
一瞬──。
義太郎は、猛然と、一角めがけて、身を躍らせた。
|旋風《つ む じ》のような迅さであった。
鞘走らせた早業も、目にもとまらぬものだった。
のみならず──。
血煙りをあげたのは、一人だけではなかった。
一人は、のけぞり、一人は、がくっと膝をついて、のめり込んだ。
義太郎は、一刀をつかんでいた。
「お主ら、こういうあんばいに、あの世へ行きたいか?」
旅荒したちの闘志は、一瞬にして、しぼんでいた。
義太郎は、一同の顔を見わたして、にやりとすると、一刀を、腰に納めた。
「旅荒しども。ただいまより、この奈良城義太郎の家来となる。はっはっは……」
云いすてておいて、歩き出した。
その隙をうかがって、一人が、背後から、斬りつけた。
義太郎は、しかし、一歩も動かなかった。
しかし、次の瞬間、一同が視たのは、義太郎の小刀で胸を刺された仲間の惨めな姿であった。
義太郎が、小刀をひき抜くと、口からどっと血汐を吐いて、仆れた。
義太郎は、ひとつひとつの顔を見まわして、
「家来になるのを承服できぬ者は、まだ、いるか?」
沈黙が、もはや、抵抗の意志のないことを示した。
義太郎は、境内を出ようとして、そこに、牢人者が、うっそりと立っているのを、見出した。
一瞥した刹那──。
義太郎は、全身に、異様な戦慄が走るのをおぼえた。
「お主は?」
義太郎は、眼光を刺した。
「決闘の見物に来た」
牢人者は、薄ら笑って、こたえた。
「ふん──」
義太郎は、二歩ばかり近づいた。
「ただの見物ではなさそうだな」
「そういうことだな」
「お主、兵法者か?」
「見れば、わかるだろう」
「わしと、たたかうのか?」
「おれは、強い奴に出会うと、見のがしはせん。……奈良城義胤の嫡子が、これほどの使い手であろうとは思わなかった。闘志がわいたぞ!」
「お主の名は?」
「九十九谷左近」
義太郎は、一刀を抜きはなつと、身構えた。
「来いっ!」
「………」
「………」
九十九谷左近と奈良城義太郎とのあいだには、殺気を盛りあげる沈黙が、つづいた。
尤も──。
殺気は、義太郎の方から、一方的に、左近にむかって、放射されていた。
左近の方は、だらりと、両手を垂らしたまま、義太郎が、いつ、攻撃して来るか、待っている。
強敵を発見した時の、猛獣が、しばらく、不気味な静止をつづけるのに、似ていた。
義太郎の背後に、旅荒したちが、寄って来たが、左近の目には、立木同様にしか、映っていなかった。
不意に、義太郎が、
「参るぞ!」
と、叫んだ。
叫ぶとともに、大上段に、ふりかぶった。
左近は、決闘の刹那に、湛える冷やかな微笑を、いまも、口辺に刷いた。
義太郎の長身が、地を蹴って、跳躍した。
旅荒したちは、あまりの凄じい激突に、声を発した者もあり、顔をつき出した者もあり、首を縮めた者もあった。
一瞬の、目にもとまらぬ激突のあとに、静止が来た。
そして──
静止によって、旅荒したちは、両者が、いかに迅業を用いたかを、みとめた。
義太郎は、大上段から、斬りつける刹那に、いつの間にか、それを左手で為し、右手には、小刀を抜いていた。
その猛撃をあびた左近は、右手に長剣を抜き持って、義太郎の真っ向からの白刃を受けとめ、左手で、小刀をつかんだ義太郎の右手の手くびをおさえていた。
そして、両者は、四つに組んだかたちで、静止したのである。
撃った義太郎の意外な迅業に対して、左近もまた、これを受けとめる見事な迅業を発揮したのである。
義太郎の双眼は、火と燃え、左近の|眸子《ひ と み》は、氷のように冷たかった。
突然、
「止めて!」
鋭い、かん高い叫びが、とんで来た。
旅籠の娘いち[#「いち」に傍点]が、息せき切って、走って来たのである。
「止めて!」
いち[#「いち」に傍点]は、おそれずに、そばへ寄って来ると、叫んだ。
「どうする?」
左近は、にやりとして、問うた。
問われるまでもなく、義太郎は、この静止は、対手がしりぞかぬかぎり、おのれもしりぞけぬことを知っていた。
「引くぞ。……試合は、あらためて、やろう」
いち[#「いち」に傍点]は、なお、|呼《い》|吸《き》をはずませながら、大股に歩く義太郎のそばに、つき添っていた。
「若様は、ほんとに、お強いのですね!」
「強くならねば、この乱世を生きては行けぬぞ」
こたえておいて、義太郎は、ふりかえってみた。
街道上に、遠く、九十九谷左近の後姿があった。
義太郎は、左近に、約束したのである。
「それがしは、大庄山の山城へ、戻る。試合は、そこで、やろう。待って居る」
義太郎は、父や家臣の前で、いかに、自分が強いか、それを、示したかったのである。
決闘の対手として、あの兵法者は、またとない強敵であった。
父義胤は、すでに、|齢《よわい》六十を越えた老爺であり、すでに、伊吹野城を奪われた時から、一軍を率いる気力を失っている。五年経った今日では、さらに、弱っているに相違ない。
主人の座を、譲られるべきである。
義太郎は、その目的で、還って来たのであった。
「いち、一緒に、大庄山へ行くか?」
「え?」
いち[#「いち」に傍点]は、義太郎の横顔を、仰いだ。
「わたしを、つれて行って下さるのですか?」
「お前は、勇気のある娘だ。わしのそばにいてくれるにふさわしいぞ」
「でも、わたしのような、旅籠の娘をおつれになれば、非難が起ります」
「かまわん。わしは、これまで、自分のしたいように、やって来た。これからも、やる!」
義太郎は、昂然と、云いはなった。
宿へもどって来ると、多勢の者が、寄り集って、さわいでいた。
いち[#「いち」に傍点]が、たずねると、伊吹野城が、焼きはらわれてしまっているという。
「なに!」
表情を変えた義太郎は、伊吹野を通って来て、その惨状を見とどけた、と報らせた行商人のそばへ、つかつかと近づいた。
「それは、まことだな?」
「相違ありませぬ。去年、通った時は、美しゅうそびえていたお城が、あとかたもありませなんだ。こわごわ、近づいてみますと、焼け落ちていたのでございます。それも、ほんの二三日前、と思われました」
「田丸豪太夫を、攻め滅ぼす者が、現れたのか?」
「それが、妙でございます」
旅の商人は、首をひねりながら、
「城には、去年と同じ、旗が立って居ります。ご城主は、変らないように見受けました。……つまり、失火で、焼けたのではございますまいか」
旅籠の一室にもどると、義太郎は、腕を組んだ。
──さて、これから、どうなる?
伊吹野城が、失火で焼けたにせよ、何者かの放火で炎上したにせよ、武器、兵糧が|烏《う》|有《ゆう》に帰したのは、疑いを入れぬ。
田丸豪太夫は、その戦闘力を喪失しているに相違ない。
撃つなら、いまである。
「やるか!」
義太郎は、顔をかがやかせた。
騎馬の群が、あわただしく、この宿に、駆け入って来たのは、この折であった。
義太郎は、はね立って、無双窓をひらいて、往還を見下した。
数騎ずつが一団になって、はやい勢いで、駆け抜けて行く。
「|彼奴《き ゃ つ》ら、伊吹野城の武者どもだな」
あきらかに、追われているようなあわただしい疾駆ぶりであった。
武器と兵糧を失った城を、見すてて行くのだ。
およそ、三百騎あまりが、あっという間に、通過して行った。
「田丸豪太夫め、手足をもがれたか!」
義太郎は、嘲笑した。
いち[#「いち」に傍点]が、食膳を、はこんで来た。
「伊吹野城から、武者がたが、逃げて行くようです」
「豪太夫の命運、尽きたぞ」
「いい気味でございます」
「しかし、待てよ」
義太郎は、首をひねった。
「もしかすれば、どこかの武将が、軍勢を伊吹野へ寄せて来て居るのかも知れぬぞ」
「………?」
「わしは、明日、伊吹野へ行ってみてやろう。状況を見とどけてくれる」
「危険ではないのでしょうか?」
「危険? わしは、今日まで、数知れず、虎の尾をまたいで来たぞ」
云うなり、義太郎は、いち[#「いち」に傍点]の手をにぎった。
「いち、よいな? わしのものになれ」
「若様──」
いちは、手をにぎられたまま、
「お願いがございます」
「なんだ?」
「大庄山の湖の水を、伊吹野へ落して、百姓衆を、たすけてやって下さいませ」
「………?」
「田丸豪太夫は、もう、たたかう力がなくなったのですから、湖の水がなくなっても、攻めのぼっては来ないと思います」
気丈夫で、|頭脳《あ た ま》の働きのはやいこの娘は、義太郎に、わが身を提供するかわりに、条件を出したのであった。
「よし、約束してやろう」
「ほんとですね? 約束して下さいますね?」
「武士に二言はないぞ」
義太郎は、いちを抱き寄せた。
暴君狂乱
突如──。
血にまみれた者が、半焼けの女人館から、庭へ泳ぎ出て、のめった。
伊吹野城にどうにか住める程度に焼けのこっているのは、その女人館だけであった。
ふらりと、縁側へ現れた田丸豪太夫は、まさしく、悪鬼の形相であった。
槍をひっさげて、狂的に光るまなこを、虚空に据えて、
「どいつも、こいつも……」
と、吼え声をしぼった。
「逃亡をねらい居って──くそっ! おのれらっ、出て来い! 一人のこらず、突き殺してくれる!」
すでに城内には、二百人にも足らぬ人数しかのこっていなかった。
焼けこげた木材をとりあえず組みたてた小屋をいくつか、建てて、住んでいたが、いずれも、もはや、この城にとどまる気持はなかった。
とどまっている理由があるとすれば、地下倉にたくわえられているであろう武器と兵糧に対する魅力にひかれているからであった。
地下倉があることは、疑いを入れなかった。
しかし、そこに、どれだけの武器と兵糧が、たくわえられているのか、誰も知らなかった。
豪太夫は、庭へ降り立つと、槍を立てて、
「出て来いっ! おのれら──、何をこそこそと、企んで居るかっ!」
と、呶号した。
豪太夫の目には、人影は、映っていなかった。
そこ|彼処《か し こ》の物蔭に、家臣たちが、ひそんでいる気配がある。
豪太夫にとって、昨日までの家臣が、いまや、一人のこらず敵であった。
自分を視る目は、背信の小ずるい光しか持ってはいなかった。
豪太夫は、その目つきで視られると、我慢ならず、狂乱した。
すでにもう、十数人を斬りすて、突き殺していた。
まさに、荒城は、地獄図絵を描いていた。
しばらく、呶号をまきちらしていてから、豪太夫は、ふらふらと、館の中へ、もどって行った。
すると、あちらの物蔭、こちらの物蔭から、ぞろそろと、士卒たちが、姿を現した。
「もう許せん!」
大声で云ったのは、旗本のうちでも重きをなしていた大場陣十郎であった。
「狂人を、主人に仰いで居るわけには参らん!」
「そうだ。討つのも、やむを得ぬ」
桜場勘助という若い近習が、応じた。
「おのおの──どうだ?」
陣十郎が、見まわした。
「異存はないぞ」
一人が叫び、
「今夜のうちにも──」
別の一人が、意気込んだ。
「よし──きまった! 北の出丸に、全員が集合だ」
「待った!」
不意に、すこしはなれた場所から、声をかけた者があった。
焼け落ち、つみかさなった材木の蔭から、のっそりと現れたのは、城内の者ではなかった。
忍びの|装《なり》をしている。
一同は、気色ばんで、黙って、近づいて来た者を、睨んだ。
「かるがるしゅう、主人を殺すまいぞ」
枯草色の覆面のかげで、にやりとしてみせた。
「おのれは、何者だ?」
「見らるる通りの忍びの者」
「名のれ!」
「七位の大乗」
「なんだと?」
「おそれ多くも、京の御所にて、天子様を守護し奉って居った公卿忍者と知っておいてもらおうか」
「仰々しゅうほざくな!」
「田舎ざむらいどもには、きかせても、信用してもらえぬの」
「何が目的で、忍び入った?」
大場陣十郎と桜場勘助が、左右からつめ寄った。
七位の大乗は、一同の気色など、一向に意に介せぬ態度で、ぐるりと見わたし、
「よう焼けたのう。……合戦もせぬのに、城が焼きはらわれてしまったとは、あまりきいたことがない」
と、笑った。
「おのれ! 目的を云え!」
陣十郎が、呶鳴った。
「目的か──」
大乗は、おちつきはらっている。
「目的は、ない」
「なに! 目的もなしに、さまよい込んだと、ほざくか!」
「焼きはらわれた城に、未練たらしく、城主はじめ、お主らが、まだ、ごそごそと居残っているのは、みじめとも、あわれとも……」
云いおわらぬうちに、陣十郎が、凄じい勢いで、斬りつけた。
大乗は、かるがると、一間を跳んで、のがれると、
「むだに怒るものではない」
と、云った。
それから、語気をあらためると、
「手負い|猪《じし》と化した主人を、暗殺しようと計るなど、人間の屑だぞ」
と、きめつけた。
一同は、しんとなった。
豪太夫は、一室に、大|胡坐《あ ぐ ら》をかいて、酒をくらいはじめていた。
大瓶に、柄杓をつっ込んで、汲み出すと、口呑みにするのであった。
片隅に、小娘が一人、身を縮めて、控えていた。
逃げそこねた下婢であった。
みにくい顔だちで、土くさい。昨日までの豪太夫なら、目もくれなかった下婢である。
夜中、狂暴な欲情のにえ[#「にえ」に傍点]にしているだけで、昼間は、酌をさせる気にもならぬ。
豪太夫は、ギラキラと光る双眸を宙に据えて、酒をがぶ飲みしているうちに、意味をなさぬ唸り声をたてはじめた。
この惨めな状態が、どう考えても、あり得ぬことに思われるのだ。
華々しい一戦を展開し、武運われに利あらずして、敗退したのであれば、勝敗は兵家の常で、あきらめることもできる。
神矢城からの献米使者と称する|木菟入《ずくにゅう》に、まんまと一杯くわされて、城外へおびき出された隙に、城を焼かれてしまったのである。
なんとも、やり場のない無念、憤怒、痛恨であった。
当の木菟入は、何処かへ、姿をくらましてしまったのである。ひっ捕えて八つ裂きにしてくれれば、多少腹の虫もおさまるかも知れぬが、それもかなわぬ、となれば、家臣どもに、あたり散らすよりほかはなかった。
その家臣どもも、櫛の歯を|挽《ひ》くがごとく、逃亡して行っているのである。
──あり得ることか!
と、おのが悲運を、信じがたいのも、むりはなかった。
と──。
廊下に、黒い影が立った。
豪太夫は、まだ気づかずに、柄杓を口ヘはこんでいた。
「だいぶ、ご乱心のていにお見受けつかまつる」
声をかけられて、豪太夫は、
「なに!」
と、頭をまわした。
「おのれは、なんだ?」
「お忘れとは、なさけのうござる。七位の大乗でござる」
大乗は、おそれず、豪太夫の前に、進んで来て、正座した。
「火事泥棒に参ったか、下忍め──」
「お言葉でござるが、それがしは、おなぐさめに参上いたしたのでござる」
「おのれ、田丸豪太夫を、あざけるかっ!」
豪太夫は、たちまち、殺気をみなぎらせた。
「そう、見さかいなく、憤激なさるものではござらぬ」
大乗は、おちつきはらっていた。
「うるさいっ! 下忍、早々に立去れっ!」
豪太夫は、呶号した。
「はは……、そのように、いたずらに、殺気立つものではござらぬ」
大乗は、わざと、おちつきはらって、笑った。
豪太夫は、いきなり、槍をつかんで、びゅっと、突き出した。
大乗は、|耳《みみ》|朶《たぶ》すれすれに、流しておいて、平然としている。
豪太夫は、睨みつけているうちに、ふっと、直感するところがあった。
「下忍──、おのれは、城に放火した曲者めを、知って居るな?」
「存じて居り申す」
大乗は、即座にこたえた。
「叡山入道と称した木菟入の正体は、なんだ?」
「曾ては、禁廷の近衛兵十万を率いて、京畿におし寄せる諸国の軍勢を、四方に撃破した稀代の軍師でござる」
「………」
「たまたま、この伊吹野を過ぎようとして、土民の窮状を眺め、さらば、とばかり、当城に蓄えてある米を、奇策をもって、奪いとって、わかち与えたものでござる。孔明、正成にまさるとも劣らぬ軍師の智能の前には、いかに勇猛の殿といえども、小児のごとく、手をひねりあげられたのは、やむなき仕儀でござった」
豪太夫は、呻いた。
「彼奴は、何処にいる?」
「もはや、数十里のさきを、飄々乎として、旅をされて居るものと存ずる」
「くそっ!」
豪太夫は、まなじりをひきつらせて、さらに凄じい唸り声を発した。
大乗は、冷やかに、豪太夫を、見まもりながら、
「さて──」
と、態度をあらためた。
「それがしが、うち眺めたところ、殿は、いうなれば、荒野に飢えて咆哮する猛虎でござるな」
「それがどうした?」
「ただ、いたずらに、ほえたててみたところで、それは、いよいよ、空腹を増す作用でしかござるまい」
「下忍ずれが、こざかしゅう、説法いたすか」
豪太夫は、吐き出したが、大乗の云うことはたしかにその通りであったので、語気から、憤りは減じていた。
「ひとたびは、この伊吹野を制圧された猛将である殿が、これしきの悲運に、逆上されるのは、おなさけない。……ここが、思案のしどころかと存じます」
「ええい、いったい、どうせい、と申すのだ?」
豪太夫は、いら立ちながら、呶鳴った。
大乗は、微笑しながら、
「ここに、再び、以前にまさる城を築くためには、まず、残留いたして居る家来らに、城主たる者の威力を示してやらねばなり申さぬ」
「それぐらいのことは、おのれに忠告されずとも、判って居る」
「では、うかがい申すが、残留いたして居る家来らは、自分に畏怖するがゆえである、とお思いでござろうか?」
「ふん──」
豪太夫は、あたりまえではないか、という表情をした。
「とんでもないお考えちがいでござる」
「なんだと?」
「家来らは、殿を畏怖して、とどまって居るのではござらぬ。地下倉に、なお、武器、兵糧が、充分蓄えられてある、と信じて居るからでござる」
「………?」
「それがしが、忍び入って参ると、家来らは、殿が狂気されたものと、みなし、今夜うちにも、|弑逆《しいぎゃく》し……」
「なにっ?!」
豪太夫は、血相変えた。
「そ、それは、まことかっ!」
「おちつかれい! 殿には、もはや忠義だての臣は、一人もいないのでござるぞ。家来全員をむこうにまわして、どれだけのたたかいがなされるものぞ。それよりも、叛かんとして居る家来らを、いかに、翻心させるか──その智謀こそ、城主として、めぐらすべきでござろう」
「………」
「第一に、なすべきは、地下倉に、どれだけの武器、兵糧が蓄えてあるか、きかせて、安堵させることでござろうな」
「ふん──」
豪太夫は、自嘲した。
「地下倉か──、なるほど、この城には、途方もなく広い地下倉が、設けられて居るぞ」
「それがしも、噂で、きいて居り申した」
「だが、矢一本、米一粒も、ありはせぬぞ!」
「え?」
大乗は、愕然たる表情をつくった。
内心では、にやりとして、
──やはり、そうか。
と、合点していた。
大乗は、天満坊から命じられて、地下倉にはたして、どれだけの蓄えがあるか、つきとめに来たのである。
「五年前、わしが、乗り込んで参った時、すでに、地下倉は、空であったわ。奈良城義胤め、城を奪われるのを予想して、ひそかに、大庄山へはこび去って居ったものよ。……どうじゃ、下忍。地下倉が空と知った家来どもが、黙って、とどまって居るか? 地下倉に、おびただしゅう、武器も米もあると思わせておけばこそ、なお、とどまって居るのではないか」
「わかり申した」
大乗は、大きくうなずいてから、
「地下倉に、矢一本米一粒もない、となれば、殿として、早々に、なさるべきこと──唯ひとつ」
「なんだ? どうせよ、と申すのだ?」
「城兵どもに、士気をふるいたたせる手段を講ずべきでござる」
「士気だと?」
「左様、坐して飢えるよりも、手に唾して宝を取るべし──殿、目を挙げて、大庄山をごらんあれ。奈良城義胤が拠る山城には、当城に蓄えてあった宝が、一杯あふれて居り申す」
「ふむ!」
豪太夫は、にわかに、眼光を鋭いものにした。
大乗に云われてはじめて、大庄山の山城のことに、気がついたのである。
大庄山へ追い上げてしまった奈良城義胤など、もはや、なんのねうちもない存在だとばかり思っていた豪太夫である。
豪太夫が、伊吹野城を奪って五年、義胤は、大庄山の頂上で、息をひそめて、くらしているかとみえたが、大乗に云われてみれば、息をひそめているのではなく、武器も兵糧もありあまって、悠々とすごしていたのではないか、と思える。
下界に起るさまざまの異変を、眺め下しながら、捲土重来の時節を、うかがっているのではあるまいか。
いずれ、義胤は、伊吹野城が灰燼に帰したことを知って、嘲笑するであろう。
そして、直ちに、奪還の手筈を、ととのえるかも知れぬ。
いや、もう、いつでも、山を駆け下ることができるように、兵備は成っているかも知れないではないか。
豪太夫は、
「よし!」
と、叫んだ。
片隅に控えた娘をふりかえると、
「大場陣十郎を、呼んで参れ」
と、命じた。
大乗は、豪太夫を見まもりながら、
──こんな単純きわまる野人が、よくも、五年もの間、城主でおさまっていられたものだ。
と、なかば、あきれていた。
こちらの思う壺にはまってくれるのだ。
戦乱を生き抜く武将たちは、もっと猜疑深く、対手の肚の裡を読むのが、すばやいものである。
豪太夫も、人を信じないことに於ては、人後に落ちぬかも知れぬが、巧妙な策にのせられることでは、少年のように単純にすぎる。
大乗が、そそのかしたのは、大庄山を攻めるには、いかなる手段があるか、それを、調べたかったのである。
大場陣十郎は、一人だけでは、現れなかった。
桜場勘助以下、十人あまりをひきつれて、庭をまわって、近づいて来た。
「ご用でござりますか?」
要心をおこたらぬ表情で、主君を、視た。
豪太夫は、叛こうする家臣らを眺めると、にわかに憤怒が、こみあげて来た模様であったが、あらたな目的の前に、それを抑えた。
「一同の中に、大庄山の地勢にくわしい者が居るか?」
豪太夫は、大声で、問うた。
「居るならば、進み出て、こたえい」
「お調べなされて、なんとなされます」
「きけ!」
豪太夫は、にやりとして、
「奈良城義胤がこもる山城には、武器も兵糧も、山とあるぞ。義胤を撃ち滅ぼして、これを奪う。同時に、山頂の湖水を渓谷に落して、伊吹野へ引いてくれる。されば、農夫どもは、狂喜して、田植えをいたすであろう。人心|収攬《しゅうらん》に、この上のてだてはあるまい。この挙が成れば、伊吹野城は、昔日をしのぐ偉容を再現いたすぞ。どうだ?」
一石二鳥の妙計に、家臣たちも、顔面をかがやかせた。
と──。
「それがし、申上げまする」
日村弘達という人物が、名のり出た。かなりの年配であった。
以前は、奈良城義胤に仕え、伊吹野の代官をつとめていた人物であった。
「それがしは、十年あまり、横目として、四方の地勢をくわしく、踏査つかまつった者でござる。……大庄山の地勢も、くわしく記憶つかまつります」
「どうだ、難路か?」
「難路と申すもおろか、|木《き》|樵《こり》、猟師といえども、登ることは、叶いますまい」
「義胤は、家来をひきつれ、武器、兵糧をはこび上げたぞ」
「その道は、すでに、ふさがれて居ります」
「ひらけばよかろう」
「ひらくのは、不可能かと存じます。なぜならば、旧主は、山にくわしい者たちをのこらず、ひきつれて、登りましたゆえ、道をふさぐのに完璧であったと存じます」
「その道ひとつしか、ないのか?」
「ございませぬ」
「ふむ!」
豪太夫は、腕を組んだが、荒々しく、
「わしの経験によって物云うぞ。山というものには、必ず、人道のほかに、けもの路が通じて居る。けものが通って、人間が通れぬはずはないぞ!」
と、叫んだ。
豪太夫の言葉は、たしかに、勇気のある、堂々たるものだった。
けもの路が通じている限り、そこを登ることは、不可能ではない。家臣一同は、主君の断言に、そんな気持になった。
日村弘達は、ちょっと、俯向いて、考えていたが、
「しばらく、お待ち下さいますよう──」
と、ことわって、下って行った。
「七位の大乗──」
豪太夫は、昂然と、胸をはった。
「やるぞ! 大庄山の山城を攻め落すぞ!」
「けもの路を、行かれますか?」
「けものが通る路を、人間が通れぬわけはなかろう」
「それがしには、ただの険路とは、思え申さぬ」
「どんな障害があると申す?」
「さあ、それは、それがしにも、想像がつき申さぬが、たぶん、意外の障害が、待ち伏せて居るに相違ござるまい」
「この田丸豪太夫に、それが突破できぬ、と申すか。笑止! みて居れ。わしは、ただの五十騎もあれば、いかなる難関をも突破してみせてくれる。これまでが、そうであった。わずか十騎あまりで、五千の敵兵を蹴ちらしたこともある。百姓に化けて、敵地二十里を通り抜けたこともあるぞ。なるかならぬかは、度胸ひとつだ。……大庄山へ登ることが、なにほどの難事か!」
豪太夫は、うそぶいた。
ほどなく、日村弘達が、大きな絵図面を持参した。
さいわいに、焼けのこった根小屋に、しまってあったのである。
弘達は、豪太夫の面前に、それをひろげた。
「ごらん下さいませ」
弘達は、扇子をもって、説明しはじめた。
大庄山は、伊吹野随一の深山であった。南北朝の頃までは、霊境として、|地《じ》|下《げ》の人々も、近づかなかった。
麓は、すべて、密林であり、檜、|樅《もみ》、|栂《とが》、松など。竹藪も多かった。
曾て、木樵の入ったことのない密林なので、ものの一丁も、踏み込むことは、かなわぬ。
密林の彼方に、奇怪なかたちをした巨巌が、そびえているのが、望まれる。およそ、そこまで四里と、測れる。
その巨巌の後から、三丈ばかりの滝が西方へ落ちている。
この瀑布は、山澗より、巌をつたい、ただ、布をさらすがごとく落ちていた。雲飛んで、素練をたれ、石にむせびて明珠を散らす、という壮快な眺めであった。
しかし、それも、五年前のことで、いまは、水は涸れてしまっている。
山頂の湖水の口が、閉ざされたからである。
その五年前には、瀑布のかたわらを、桟道が通って居り、大庄山へ登る唯一の道筋であった。
もとより、瀑布まで至る山路は、険難をきわめている。すべて、|岨《そば》づたいに行くかげ路であった。その路も、断崖によって、しばしば、遮断され、木を伐り渡してならべ、藤かずらでからめて、辛うじて、人一人通れるあんばいであった。
巌と巌とをつなぐ桟道も、すくなくなかった。
奈良城義胤は、岨路を崩してしまうと同様に、桟道をも落してしまっている。
いまや、全く、道は、喪失しているのであった。
なお、瀑布の上は、日村弘達も、踏み込むことが、かなわずに、どのような地勢になっているのか、見当もつかなかった。
「のみならず……」
弘達は、俯向いて、告げた。
「滝は、むかしより、修験道の霊場と相成って居り、そこに修行した者たちが、そのまま、とどまって、山賤となり、この世ならぬ修場をつくっている模様にて、常人が近づけば、直ちに、追い落す気配がございます」
かりに、岨路をひらき、桟道を架けて、滝まで辿りついても、そこに集っている山賤の一団に、襲われて、渓谷へ突き落されることになるのである。
「|渓《たに》|川《がわ》は、水が涸れているのであれば、そこを登れぬのか?」
大場陣十郎が、たずねた。
弘達は、かぶりを振った。
「渓川は、大岩の累積で、それを進むことは、人間業では為し得ぬ、と存ずる。よしんば、進み得たとしても、これを、山城で知れば、一挙に、水を落して参るでござろう。そうなれば、全員が、濁流に呑み込まれてしまうことに相成ります」
「よし、その道が登ることの不可能は、判った。……|木《き》|樵《こり》|路《みち》を、示せ」
豪太夫が、苛立って、叫んだ。
弘達は、当惑しつつ、おそらく、そうではなかろうか、と推測される木樵路を、扇子で、引いてみせながら、それが、いかに、危険な通行になるか、説明した。
すなわち。
いたるところに、毒蛇をはじめ、人間を襲うおそるべき生きものが、棲息していることであった。
木樵路がある、といっても、これは、霊域を|冒《おか》す木樵のかくれ路なので、常人が、さがしさがし辿ることは、不可能に近いわざであった。
一同は、弘達の説明がすすむにつれて、絶望感を深くした。
豪太夫自身も、けものが通って、人間が通れぬことがあろうか、とうそぶいた時の意気が、しぼんで来た。
しかし、いま、絶望の声をあげることはできなかった。
「弘達──」
豪太夫は、にらみすえて、
「兵十名を与える。木樵路をさがして参れ!」
と、云った。
「それがしには、できかねまする」
弘達は、こたえた。
「なぜ、できぬ? おのれを除いて、ほかに、さがすことができる者が居るか」
「戦場において、馬前に仆れるは、武士たる者の面目なれば、生命を惜しむものではありませぬが、毒蛇、毒虫に噛まれて相果てるぶざまには、それがしは堪えられませぬ」
「大庄山を攻め落すためには、やむを得ぬぞ! 行け!」
「おことわりつかまつります」
「命令だ! |肯《き》かねば、討ちすてるぞ!」
豪太夫は、いきなり、抜刀した。
弘達は、とっさに、はね|起《た》って、遁げようとした。
「こやつ!」
豪太夫は、その背中へ、一閃を唸りおろしたが、わずかに、とどかなかった。
「殿っ!」
大場陣十郎が、太刀を鞘ごと突き出して、さえぎろうとした。
瞬間──。
「じゃまするなっ!」
豪太夫は、呶号とともに、横なぐりの一撃を、陣十郎へ、くれた。
「うわっ!」
顔面から血噴かせた陣十郎は、かたわらの桜場勘助へ、倒れかかった。
「殿っ! 狂気されたかっ!」
勘助が、叫んだ。
「うぬも、|抗《あらが》うかっ!」
豪太夫は、血ぬれた白刃をふりかぶった。
家臣たちは、総立ちになって、身構えた。
豪太夫は、ひとつひとつの顔を、睨みまわして、
「どいつも、こいつも、恩を忘れた犬畜生どもめ! 叛くならば、叛いてみろ!」
と、喚いた。
その座から、いつの間にか、七位の大乗は、姿を消していた。
豪太夫が、女人館で、荒れ狂っている頃には、大乗は、すでに、遁げ出した日村弘達をつかまえていた。
「お主に、話がある」
大乗は、微笑しながら、
「ついて来てもらおうか」
と、うながした。
「何者だ?」
「七位の大乗──と申しても、わかるまい。この城を焼きはらった叡山入道と称した天下一の軍師にたのまれて、やって来た者だ。……お主を、軍師の許へ案内いたす」
けもの路
大庄山が長く裾を|曳《ひ》いた伊吹野北隅は、漆黒の帯を巻いたような密林のつらなりであった。
遠望しただけで、そこは、人跡未踏と判る。近づけば、野との境の巨樹の高梢が、怪奇なまでに、天をするどく刺している。
よほどの勇気がなければ、踏み込むことは、かなわぬ。
その境に沿うた岨道を、いま、ひとつの人影が通って行く。
奈良城義太郎であった。
いち[#「いち」に傍点]と一夜をともにして、なんの未練気もなく、その宿駅をすてて来た義太郎であった。
密林が、すこしくびれ込んで、そこだけ、松の疎林がつくられている地点で、義太郎は、木立の奥をすかしみた。
「ほう──まだ、いるな」
義太郎は、うなずいてから、大股にふみ込んだ。
ものの十歩も、すすんだ時、不意に、横あいから、褐色のけものが、宙を躍って、義太郎に、襲いかかって来た。
身を沈めざまに、義太郎は、抜刀した。
しかしすぐに、白刃を腰に納めると、
「おどかすな」
と、云った。
木立の薄闇の中に、鋭いまなこが、いくつか、光っていた。
山犬どもである。
一疋を斬れば、血のにおいに狂って、四方にひそむかれらが、一斉に、攻撃して来ることに気がついて、義太郎は、おのれを抑えたのである。
義太郎は、ゆっくりと進みつつ、左から、右から、宙を跳んで来る山犬どもを、頭上にかわした。
山犬どもは、ただ、しきりに、義太郎を、脅してみるだけであった。
もし、これに対して、抵抗の気色をみせれば、たちまち、狂暴な攻撃力を発揮して来るに相違なかった。
無視して、平然として進むのが、安全であった。
木立の奥に、草庵があった。
義太郎が、その前に立った時、山犬どもは、いつの間にか、遠くへしりぞいて、ひそと、ひそんでしまった。
「たのもう」
義太郎は、大声で、案内を乞うた。
しばらく、なんの返辞もなかった。
「いないのか?」
失望の色を、顔にうかべて、戸口ヘ一歩寄った時、不意に、
「修業が足らぬの、若──」
頭上から、声が、かかった。
義太郎が、仰ぐと、この草庵のあるじは、屋根の上に寝そべっていた。
おそろしく醜い貌をした、鍋底のように皮膚の黒い男であった。筒袖に、|軽《かる》|衫《さん》をはいていた。
「そこで、何をしているのだ、黙兵衛?」
義太郎は、問うた。
屋上の男は、やおら、起き上ると、両手を高だかとさしのべて、大あくびをした。
「べつに、何もいたしては居り申さぬ。午睡の最中でござった」
「相変らず、変ったやつだ」
義太郎は、苦笑した。
奇人であった。人間とは一切没交渉なくらしをしている。どこから流れて来て、ここに住みついているのか、誰も知らぬ。
特技は、狂暴なけものを、手なずけることであった。
山犬も熊も、鹿も猿も、この男の手にかかると、家畜のようにおとなしくなるようであった。
また、どうやら、忍びの術も心得ているらしい。
屋根の斜面を、するすると、すべって、とんと地上に降り立った軽やかなわざは、常人のものではない。
「入られませい」
黙兵衛は、庵内に招じた。
火のない囲炉裏のそばに、小さな猿が、ちょこんと坐っていたし、屋根裏の|梁《はり》にも、|栗《り》|鼠《す》が二匹、とまっていた。
黙兵衛が、あぐらをかくと、小猿は、その膝に乗った。
「五年のあいだに、伊吹野は変ったようだな」
義太郎が云うと、黙兵衛は、さもばかばかしいといった首のふりかたをして、
「三年も雨が降らなければ、変りもいたすわい。百姓らは、よう生きて居る」
「大庄山には、水があるそうではないか」
「たっぷりとな」
「その水を渓に落さなければ、父上も、恨みを買おう」
「そういうわけでござるな」
「今朝、城を眺めて参った」
「焼きはらわれたようでござるな」
「あとかたもない。……しかしまだ、田丸豪太夫は、住んでいるようであった」
「兵は、三分の一も、のこっては居り申すまい。兵糧がなくなってはな」
「兵糧も焼けたか?」
「いや──」
黙兵衛は、かぶりを振った。
「百姓どもが、盗み去った模様でござる」
「では、城を焼いたのは、土一揆のしわざか?」
「そんなところでござろうな」
「田丸豪太夫が、むざむざ、土一揆にしてやられるとは、考えられぬが……」
「一人、秀れた軍師が指揮すれば、戦さずれした雑兵どもよりも、百姓たちの方が、はるかに、手足のごとく使えるものでござる」
「軍師だと?」
「左様、軍師がな」
黙兵衛は、にやりとした。
「軍師が出現して、百姓らに、味方した、というのか?」
義太郎は、眉宇をひそめて、たずねた。
「あの夜、なにやら、さわがしい空気が、城の方からつたわって参ったので、のこのこと、出かけてみ申した。……ははは、田丸豪太夫ともあろう猛将は、なんともはや、ぶざまきわまる醜態でござったな」
「どうした?」
「二千あまりの百姓どもが、旗やら幟やらをかかげて、軍勢とみせかけたのでござる。尤も、その布陣ぶりは、遠方から望めば、いかなる者の目にも、軍勢と映り申した。これは、よほど軍略を心得た者が指揮をとっていることは、明白でござったな。城兵どもが、騒ぎたて、城主田丸豪太夫も、錯覚を起したのは、当然でござったろう。おろかしくも、豪太夫は、城兵全員を率いて、城をとび出した、と思いなされ。その隙に、城内から、火が噴き申したな。……思うに、城内には、すでに、正体をかくした曲者が、乗り込んで、城主をたぶらかしていたのではござるまいか。多分そうでござったろう」
「お主のことだ、その曲者の正体をつきとめたであろう?」
「事のついででござるからな。空城を襲ったのは、百姓千人あまり。これを統率し指揮したのは、坊主でござったな」
「坊主?」
「その坊主、実は、それがしが、よく知っている人物でござったな」
「何者だ?」
「天満坊という通称を持つ乞食坊主。と申しただけでは、お判りになるまい。曾て、禁廷を守護する北面の武士を率いて、京洛に押し入ろうとする東海、北陸連合の大軍勢を、近江の野にひきつけて、縦横むじんに蹴散らした謀将でござるわ。一兵も持たず、百姓のみを使って、城を焼きはらったとは、流石に、天満坊でござった」
「どこに居る、そやつ?」
「公卿館に身を寄せて居り申すな」
「公卿館だと──。その坊主、泰国清平に味方いたして居るのか」
「そうらしゅうござるな」
「泰国清平は、すでに、おいぼれているはず。兵もたくわえては居らぬ。伊吹野城に反抗する気力などあろうと思えぬが……」
「乞食坊主が、ぶらりと現れて、伊吹野の惨状を眺め、ひとつ、乗り出してくれよう、とほぞをかためたものに相違ござるまいな。……田丸豪太夫が、逆立ちしても、とても、天満坊の智慧に及ぶものではござらぬ。それが証拠に、逆上した豪太夫は、翌朝、公卿館へ、おしかけ申したが、いかなる巧妙な策に乗せられたか、すごすごと引き上げ申したな」
「天満坊という奴、小面憎いな。ひとつ、公卿館へ、乗り込んでくれようか」
「お止めなされ。むだでござるて──」
黙兵衛は、薄ら笑った。
「それよりも、若は、どうして、この伊吹野へ、もどってござったな?」
黙兵衛は、たずねた。
「伊吹野は、わしが、生れ育った故郷だ。もどって参るのは、あたりまえではないか」
「さむらいに、故郷を恋う心などあってはなるまいが……」
「恋うて、もどって来たのではない。城をとりかえすためだ」
「天佑神助でござったな。若がもどられるのを待っていたごとく、城は炎上し、田丸豪太夫は、どうやら鋏をもぎとられた蟹といったあんばいでござる」
黙兵衛は、にやにやした。
「皮肉か──」
義太郎は、にらんだ。
「田丸豪太夫は、鋏はもがれても、まだ、七八本の脚を持って居りますぞ。若が単身をもって斬り込んで、敵うものではござるまい」
「大庄山へ行き、父を説く」
「ほう……、お父上と妥協されるか」
「あざけるか!」
「あざけりはいたさぬ。しかし、父上が、はたして、若に家来を貸して下さろうかな」
奈良城義胤は、その六十年の生涯において、自ら合戦を起したことは、一度もない。城を攻められたことは、二度。一度は、ほとんど山賊野伏の群であったので、これを追いはらうのは、さして困難ではなかった。二度目の攻め手が、田丸豪太夫であった。
戦乱の世に、三十余年も、平和なくらしをつづけて来られたことが、奇蹟に近いことだったが、それというのも、義胤が闘争をきらう君子人であったことが、諸国にきこえていたからであろう。伊吹野だけは、攻めるべき国ではない、と武将らは、あたかも、互いに禁域の約束を守るかのように、伊吹野へは、兵馬を入れなかったのである。
「父が、兵を貸さねば、父を押し込めても、わしはやる!」
「お伝えしなければなり申さぬが、お父上は、若が知って居られる五年前の父上ではござらぬ。平和な城の頭領でおわした頃は、温厚な君子人でござったわな。ところが、いまは、極度な臆病を生じられ、田丸豪太夫をおそれること、疫病神のごとしでござる」
伊吹野ひろし、といえども、大庄山へ登って、奈良城義胤と時おり会っているのは、黙兵衛ただ一人であった。
したがって、黙兵衛だけが、大庄山の山城の消息を伝え得るので、義太郎は、たずねたのである。
「もうろくされたのか?」
「まずはな」
黙兵衛は、かぶりを振ってみせた。
「よし! それならば、奈良城家は、わしが受けとって、当主となるぞ」
義太郎は、云いはなった。
黙兵衛は、薄ら笑った。
「それは、かなうまい」
「黙兵衛、忠告ならば、むだだぞ」
「忠告ではござらぬ。……若は、どうやって、大庄山へ登られるおつもりかな? すでに、ただひとつの道は、父上によって、ふさがれて居り申すぞ」
「それを知って居るから、ここへ、たずねて来た」
「ほう……、この黙兵衛に、案内役を命じられるおつもりかな」
「そうだ。たのむ!」
「ごめんを蒙り申す」
「なぜだ? お主以外に、大庄山を登り得る者は居らぬ。……岨道を、案内してくれ」
「岨道すらも、大庄山は、消されて居り申すて」
「しかし、お主は、時おり、登って居るのであろう?」
「けもの路を、さがしてな」
「そのけもの路を、案内してくれ」
「おことわり申そう」
「お主に登れても、わしには、登れぬ、というのか?」
「そういうわけでござるな」
「ばかにするな!」
義太郎が、呶鳴った。
「ご立腹の模様だが、若が、忍びの術を修得されて居らぬ、と申して居るのではござらぬ。……若は、けものにはなれぬ、と申して居る」
「けものに?」
「左様──、けものにな」
「どういうのだ、それは?」
「人間であっては、大庄山の頂上に至ることは、不可能でござる」
「人間が、けものになれるか!」
「この黙兵衛は、けものになれ申す」
黙兵衛は、そう云うや、ひくく、口笛を吹いた。
とたんに、入口から、山犬が三疋、のそのそと入って来た。
「若は、こいつらを、追いはらうことが、でき申すか?」
「………」
「ふふふ──」
黙兵衛は、笑い声をたてた。
それから、山犬どもにむかって、片手をふった。
山犬どもは、すごすごした恰好で、出て行った。
義太郎は、黙兵衛の無造作な手ぶりが、山犬どもを自由にあやつれることに、おどろいた。
「黙兵衛、お主が案内に立ってくれれば、けものどもを、追いはらうことができるではないか」
「けものは、追いはらえるかも知れ申さぬが、蛇だとか、|百足《む か で》だとか──毒虫どもを、追いはらうすべは、それがしにもござらぬ」
「お主は、毒蛇にも、百足にも、噛みつかれぬ、というのか?」
義太郎は、猜疑の視線を据えた。
「けもの同様に、からだをきたえて居り申すのでな」
「どうしても、わしを、大庄山へつれて行けぬ、と申すのか?」
義太郎は、殺気立った。
「まあ、おちつかれい」
黙兵衛は、脇の|小《こ》|瓶《がめ》から、ひとつかみ、粟をとり出すと、床へまいた。
すると、土間の上の梁にとまっていた六七羽の小鳥がツ[#「口」に「喜」。Unicode=#563B、DFパブリW5D外字=#F3C2]々とはばたいて、飛び降りて来ると、せっせとついばみはじめた。
黙兵衛は、そのさまを眺めながら、
「若──」
と、呼んだ。
「山上に籠ったお父上は、もはや下界とは無縁に相成った廃人同様の御仁でござる。あのままで、そっと、あの世へお送りいたしたら、いかがでござろうな?」
「………」
「お父上に従って行った家臣らも、五年も、山籠りをいたすうちに、どうやら、腰抜けに相成った模様でござる。もはや、原野へおろして、|馳《ち》|駆《く》せしめることは、むつかしかろうと存ずる。……使いものにならぬ家来どもを、お父上から借りて、叱咤してみたところで、焼城ひとつ奪うこともおぼつかぬでござろうて」
「黙兵衛!」
義太郎は、まなじりをひきつらせた。
「わしを、大庄山へつれて行きとうない理由が、ほかにあるのであろう?」
「猜疑深いのう」
黙兵衛は、ばからしげに、かぶりを振って、腰を上げようとした。
瞬間──。
義太郎は、抜く手もみせぬ凄じい抜き討ちをくれた。
間髪の差で、黙兵衛は、はね|退《の》くと、
「ほう──腕の方は、相当なものになられたの」
と、云った。
「黙兵衛! わしを、山城へつれて行け!」
義太郎は、絶叫した。
「なんともはや、人の云うことを、きかぬ若者じゃて──」
「おう、きかぬぞ! わしは、山城へ行って、当主となるのだ。当主となって、再び、伊吹野へ現れ、田丸豪太夫の首を刎ねてくれるぞ!」
義太郎の双眼は、狂的に光った。
「登る途中で、毒虫に噛まれて、犬死されても、よろしいのかな?」
「毒虫ごときに噛まれて、果てるような奈良城義太郎か!」
「生身というものは、意外に、もろいものでござるがの」
黙兵衛は、この言葉を、しみじみとした口調で云った。
ところで──。
公卿館に於ては、七位の大乗がともなった日村弘達を、前に据えて、天満坊は、きわめてのんきな表情をしていた。
実は、天満坊は、弘達にむかって、田丸豪太夫と同じ質問をしたのである。
弘達もまた、豪太夫に対してこたえた言葉をくりかえした。
にも拘らず、天満坊は、にこやかに、
「ああ、なるほど……大庄山征服は、いささか、面倒かな」
と、云った。
「面倒どころではござらぬ。不可能と申さねばならぬ。第一、たとえけもの路にもせよ、これを発見できれば、まだしも、登り得る可能も生じましょうが、さがし出す者が居り申さぬ」
「伊吹野に、猟師は、一人も居らぬ、と云われるか?」
「猟師も木樵も、一人のこらず、旧主が、大庄山の山城へ、ともない申した」
「さて、困ったわい。お手前は、案内役は、まっぴらだと申されるしのう」
天満坊は、無精髭ののびたあごを、なでた。
弘達は、俯向いた。
そこへ、多門夜八郎が、ふらりと入って来た。
「夜八郎殿、大庄山へ登って、竜神湖の水を、切って落すのは、どうやら、不可能らしい」
天満坊は、云った。
夜八郎は、大乗から、伊吹野城内の様子は、あらましきいて来たので、天満坊の言葉に、べつに、眉宇もひそめなかった。
「伊吹野城から掠奪した米があるゆえ、芋粥をすすっていれば、来年までは、生きのびられるかも知れぬ」
「そうさな。……しかし、来年になっても、雨が降らぬとすると、どうなるかのう?」
「それほど、神も無慈悲ではなかろう」
「どうしてどうして、神様は、いったん、そっぽを向いてしまうと、容易なことでは、助けて下さらぬ」
「御坊の思案ひとつだ」
「|愚《ぐ》|禿《とく》は、もちろん──」
と、云いかけて、天満坊は、つるりと、頭をひとなでしてから、
「やるさ」
こともなげな口調で、云った。
弘達が、はっと顔をあげて、天満坊を視た。
「不可能ときかされると、それを可能にしてみたくなる。そういう意地っぱりが、愚禿の身上でな」
「しかし、伊吹野城を焼くに当って、御坊は、勝つようにして勝つのが軍略兵法と心得る、と云っていたではないか」
「申したぞ。しかし、こんどは、対手は、人間ではない。山だ」
天満坊は、にやりとしてみせて、
「山が対手では、軍略兵法は、めぐらしようがないの」
と、云った。
夜八郎は、天満坊が、何を考えているのか、ちょっと、見当がつかなかった。
この時、弘達が、顔をあげた。
「大庄山へ案内できる者が、一人、居るには居るのでござるが……」
「ほう、それは、結構──。何者かな?」
「黙兵衛と申す男でござる」
何処の者とも知れぬが、八年ばかり前に、飄然として、伊吹野に現れて、畜生藪とよばれる大庄山の麓の深い竹藪の中に、草庵を建てて、住みついている。
けものを手なずけるのに巧みで、草庵の内外には、絶えず、山犬とか熊とか猿、栗鼠をうろつかせている。
「どうやら、黙兵衛は、時おり、大庄山を登って、山城を訪れて居る模様でござる」
「けものを手なずけるのが巧みであるところをみると、忍びの者であろうかな」
「そのように存じられます」
「ふむ──」
天満坊はちょっと、首をひねって、考えていたが、
「まず──くどいても、動くまいな」
と、云った。
「動くか、動かぬか──くどいてみなければ、わからぬことだ」
夜八郎が、云った。
「くどいてみるかな、夜八郎殿?」
天満坊が、夜八郎を視た。
「くどいてみよう」
夜八郎が、立ち上った。
長い縁側をまわって、玄関を出ようとすると、柿丸が姿をみせて、呼びとめた。
「梨花様の容態が、思わしゅうござらぬ」
と、告げた。
梨花が、臥床したのは、数日前からであったが、かなりの熱を出し、つづけて二度ばかり、かなりの血を喀いていたのである。
柿丸は、梨花につききりで、看護をしていたが、目に見えて衰弱する梨花を見まもって、気が気ではなかった。
「熱が高くなったのか?」
「熱よりも、息づかいが、尋常ではなくなり申した」
「………」
「梨花様を、このような地獄野で、はかなくさせてしもうては、あまりに、おかわいそうでござる。……天満坊様は、なんとか、よい処方を心得ては居られますまいか?」
「引導を渡す心得は、あろうが──」
「ぶるぶるっ! 縁起でもないことを、申されますな」
柿丸は、夜八郎を、にらんだ。
夜八郎は、梨花が臥せている部屋に入った。
梨花は、夜八郎が枕辺に坐ると、すぐに、まぶたをひらいて、微笑をうかべてみせた。
「加減は、どうだ?」
夜八郎は、きいた。
「わたくしのことなど、忘れていて下さいませ」
梨花は、こたえた。
「柿丸が、おれがこの部屋に顔をみせぬのを、不服としているようだ」
「神様のようなひとです。どうして、このようにわたくしに、つくして下さるのか、わかりませぬ」
「そういう男なのであろう」
夜八郎は、熱のために、あかみをおびた顔を見まもりながら、
──あまり、永くは、ないかも知れぬ。
不吉な予感を持った。
「用事があって、他出する。……無心に、養生することだ」
夜八郎は、云いのこして、立った。
出ようとすると、梨花が、
「もし!」
と、呼びとめた。
頭をまわすと、梨花の双眸が、ふしぎな美しさに、光った。
「……わたくしが、この世においとまする時、そばに、いて下さいますか?」
梨花は、たのんだ。
「………?」
夜八郎は、ひとつの感動で、とっさに返辞ができずに、梨花を、見つめかえした。
「お願い申します」
梨花は、両手を合せた。
「まるで、近いうちにも、逝くようなことを云うではないか」
「じぶんのいのちは、じぶんが、いちばんよく、存じて居ります。……一日、一日が、尊いものに思われて参りましたゆえ……」
「早くあの世へ行く理由はない」
「はい。……生きたく存じます。でも……」
「生きるのだ。生きようとするのだ」
あらあらしく云いすてて、夜八郎は、部屋を出た。
柿丸が、そこにうずくまっていた。
──この男の誠心も、神は、すげなく、しりぞけようとするのか。
夜八郎は、そう思いつつ、黙って、歩き出していた。
柿丸は、そっと、部屋をのぞき、合掌している梨花の仰臥の姿を視ると、大きく吐息した。
あわてて、玄関へ追ってみると、もう、夜八郎は、門のところまで出ていた。
「それがしを、お供に──」
柿丸が、大声で呼んだが、夜八郎は、ふりかえりもしなかった。
柿丸は、首をふって、ひきかえした。
どこか、遠くから、陽気なざれ唄が、ひびいて来た。百平太の声であった。
「あついな」
木も草も、生気をうしなった野道を、たどりながら、夜八郎は、つぶやいた。
綿雲を点在させた空は、黄ばんで、烟っているようである。
暑気は、日一日と増しているのである。
ひび割れた田や畑は、わずかな風が渡っても、灰のような土煙りを舞いたたせる。
青みをうしなったくさむらから、虫の音がひびくのが、ふしぎなくらいである。この枯野に、虫が吸う露が、のこっているのであろうか。
いくつかの小さな林をぬけて、伊吹野を一望見はるかす地点へ出た時であった。
半町ばかり前方に、涸れた川の堤上に、一個の人影が、みとめられた。
「………?」
夜八郎は、黄塵でかすんだ白日の野をへだてて、そこに立つ者に、不審の視線を向けた。
おれが、知っている者のようだな。
対手も、こちらを、視ている。
夜八郎が、歩き出そうとすると、急に、対手は、早い足どりで、こちらへむかって来た。
広い田をまっすぐに横切って来るや、夜八郎の行手数間のところへ、すっくと立った。
「多門夜八郎! 出会うたぞ」
九十九谷左近の日焼けた面貌に、薄ら笑いが、刷かれた。
「………」
夜八郎は、黙って、左近を見まもった。
「この日を、待っていたぞ。……今日は、遁さぬ!」
左近は、二三歩進み出て来た。
「お主は、城にいたそうだな?」
「いたぞ」
「天満坊と会ったにもかかわらず、田丸豪太夫に、それを告げなかったのは、何故だ?」
「告げようと告げまいと、おれの勝手だ。……天満坊が、どんな策を用いるか、それを傍観するのも、一興であったな」
「お主の胸中にも、義によって生きる心があるようだな」
「都合のいいような解釈をしてもらうまい。……おれは、兵法者だ。兵法試合にのみ生命を賭けて居る。そのほかのことには、一切おのが身を動かす気にはならぬ。……多門夜八郎、口上をもって遁れることは、許さんぞ!」
云いはなちざま、左近は、殺気をほとばしらせた。
「やむを得ぬ」
夜八郎は、決意した。
左近は、無造作に、抜刀すると、ずかずかと、迫って来た。
夜八郎は、二間に迫られて、差料を鞘走らせた。
その時、この決闘の殺気をあふるように、かたわらの林の梢から、大きな鳥が、ぎゃっ、と怪しげな啼き声をたてて、空へ飛び立った。
二間の距離が置かれたまま、二刀は、動かず、秒刻が移った。
左近の双眼は、|炬《たいまつ》となって燃えて居り、夜八郎の|眸子《ひ と み》は、刃物のように冷たく光っていた。
やがて──、
「左近」
夜八郎が、呼んだ。
「このままでは、夜が来、朝を迎えるぞ」
「ほざくな!」
左近は、じりっじりっと、距離を詰めて来ると、
「一太刀の勝負だぞ! かけひきは、許さぬ!」
「おれは、兵法者ではない。……一太刀を放つ汐合を知らぬ。お主の方から、撃って来い!」
「よし! 待って居れ!」
左近は、さらに、一歩出て、太刀を、上段にかまえた。
夜八郎は、逆に、切先を下げた。
さらに、四半刻が、過ぎた。
ようやく、左近の総身に、烈しくせきたてられる気色があふれた。
夜八郎は、依然として変らぬ冷たさで、微動もせぬ。
突如──、
「やあっ!」
左近の口から、凄じい気合が噴いて出た。
もし、夜八郎が、一歩退っていたならば、左近には、一撃をあびせる隙が見出せたに相違ない。
夜八郎は、石のごとく、不動であった。
左近は、気合を放つだけにとどまった。
それから、さらにまた、四半刻が移った。
左近にも、夜八郎にも、目に見えて、体力の消耗が現れた。
「左近っ! どうした? なぜ、撃って来ぬ!」
夜八郎が、叫んだ。
その眸子には、対峙に堪え難くなった烈しい色がみなぎっていた。
左近の双眼が、火を噴くように、ぎらぎらと輝いた。
次の瞬間──。
「ええいっ!」
左近は、地を蹴った。
刃金と刃金が噛む鋭い音が響いた。
夜八郎は、左近の電光の太刀を、|切《せっ》|羽《ぱ》で受けた。
眼光と眼光が、宙にぶっつかった。
左近は、渾身の力で、押して来た。
受ける夜八郎も、あらん限りの力をこめなければならなかった。
二つの顔が、みるみる汗にまみれた。
左近の力が、ついに、まさった。
そのせつな、弓なりに反っていた夜八郎が、自ら、地面へ倒れた。
渾身の力をふりしぼって、押していた左近には、とっさに、夜八郎があけた空間を、処理するいとまがなかった。
地面に倒れた夜八郎の方に、業を放つ余裕が生じたのは、皮肉であった。
左近としては、
「むっ!」
と、気合を噛んで、ふみとどまるのが、せい一杯であった。
その瞬間、夜八郎は、なかば無意識に、左手で脇差を抜きつけに、きえーっ、と一閃していた。
血飛沫がはねざまに、左近は、数尺をとびあがっていた。
夜八郎が、すっくと立った。
「うーむっ!」
左近は、左手づかみの一刀を、防禦に──顔面の前へ、斜横にかざして、大きく股をひらいた。
その右手は、ダラリと垂れ下っていた。上膊を、骨までもふかぶかと斬り込まれていたのである。
「勝負はついたぞ」
夜八郎は、大小二刀を、地摺りに下げて、云った。
「まだ──まだっ!」
左近は、絶叫した。
おのが血飛沫をあびた顔面は、悪鬼さながらであった。
斬られた無念が、もはやこれ以上たたかうことの不可能を、肯定でき難いのであったろう。
「兵法者ならば、いさぎよく、敗北をみとめるがよい」
「まだだっ!」
左近は、大きく一歩ふみ出した。
とたんに、よろっと、上半身を傾けた。
気力で、立っているだけである。
夜八郎は、じっと、左近を見まもって、
「怨恨があっての勝負ではない。再度の立合いを希望するならば、後日がある」
二刀を腰に納めると、夜八郎は、左近に背中を向けた。
ゆっくりと歩き出した夜八郎に、
「待てっ、多門!」
と、左近は、絶叫した。
すでに、立つ力はうせて、地べたに、あぐらをかいていた。
夜八郎は、ふりかえった。
「お主、公卿館にいるのだな?」
「左様──」
「数日うちにも、行くぞ!」
「いそぐことはない」
夜八郎が遠ざかると、左近は、着物の袖をちぎって、血止めの手当てをした。
それから、くさむらにころがると、目蓋を閉じた。
──おれが、やぶれた!
左近は、胸のうちで、つぶやいた。
九十九谷左近が、はじめて、やぶれたのだ!
無念の泪が、滲み出た。
かげ草
畜生藪──ときいた。
まさに、その通りであることを、その深い竹藪のほとりの草路を辿りはじめた時、夜八郎は、さとった。
流浪の永い年月、さまざまの山岳、原野を越えて来た夜八郎は、やはり、いつか、人間ばなれのした直感力をそなえていたのである。
──ふみ込むには、相当の危険を覚悟しなければならぬようだ。
黙兵衛という男は、けものを手なずけるのが得意、というが、おそらく、狂暴な野獣を、番犬代りにしているに相違ない。
夜八郎は、竹藪に沿うて、ものの一町も歩いてから、入口とおぼしい地点に立った。
べつに、ためらいもせずに、ふみ込んで行き、十歩と進まぬうちに、一疋の山犬に、躍りかかられた。
身を沈めて、これを頭上にかわしてから、ずうっと、見わたした。
「いるな」
夕闇のようなくらがりに、いくつかの光るまなこを、みとめて、つぶやいた。
次の瞬間から、夜八郎のつき進む路なき路の左右の太竹が、音たてて、つぎつぎと倒れはじめた。
脇差を抜いて、両断して行ったのである。
藪の中は、たちまち、ざわめきたった。
一本が倒れきらぬうちに、また一本が倒れかかる、という具合に、はげしい笹音がつづいたのである。
山犬どもは、その異変に怯じたか、ついに、動かなかった。
夜八郎は、草庵の前に立った。
案内を乞うたが、返辞は、なかった。
戸口は、手をかけても、開かなかった。
「留守か──」
失望したが、すぐに、引きかえす気になれず、入って待つことにした。
板戸をこじあけて、土間に入り、見まわした。
調度らしいものは、何ひとつ置いてない。
囲炉裏端に坐った夜八郎は、急に、疲労をおぼえた。
左近との決闘で体力が消耗していたのが、この小屋に入って、神経がゆるむと同時に、睡魔を呼んだのである。
「やすませてもらうか」
小屋の外に、山犬どもがうろつく気配があったが、べつに気にもかけす、夜八郎は、横になると、手枕して、目蓋を閉じた。
但し、太刀は、石火の迅さで抜けるところへ置いて、|柄《つか》へ右手をかけたままである。
十とかぞえぬうちに、夜八郎は、ねむった。
ねむりながら、夜八郎は、太刀の柄を、ぐい、とつかんだ。
意識がかえるよりさきに、ねむりの中でも、本能は起きていて、それをなした。
あるじがもどって来て、炉をへだてて、立ったのである。
夜八郎は、双眸をひらいた。
じっと、視おろす者と、視線が合ってから、やおら、身を起した。
「それがしは、多門夜八郎という牢人者」
夜八郎が、名のると、対手は、薄い笑顔をつくり、
「存じて居り申す。黙兵衛でござる」
と、頭を下げた。
「それがしを、どうして、知っている?」
「永らく、京に住みついて居りましたわい」
黙兵衛は、膝もとへ降りて来た栗鼠を、大きなてのひらにのせながら、
「お手前様は、ようあばれてござった。三条大橋で、二十人あまりも対手にして、大あばれにあばれてござるのを、見物したものでござる」
「………」
「見物人の中に、|公《く》|卿《げ》ざむらいがいて、お手前様のことを、あれは、将軍の落し|胤《だね》だ、と噂して居ったので、興味をおぼえ申した。……世間は、狭いもので、こんなところで、お目にかかろうとは、おもしろいものでござる」
「お主にたのみがある」
「大庄山の奈良城義胤の山城へ、案内せい、と申されるのでござろう」
「どうしてわかる?」
「お手前様が、公卿館から、わざわざ、ここへ足をはこんで参られるからには、目的はほかには考えられませんわい」
「きき入れてくれるか?」
「おことわりじゃな」
黙兵衛は、あっさりとこたえた。
「ことわる理由は?」
「大庄山の頂上に登りつくまでに、一人のこらず、死に果てることが、目に見えて居るからでござる。……無駄骨を折るのは、まっぴらでござるわい」
「お主自身も、生きのこる自信はない、とは云わせぬぞ」
夜八郎は、微笑しながら、云った。
「身共は、さようさな、これで、六度ばかり、登って居りますからな」
「とすれば、十人が登って、一人や二人は、生き残る可能は、考えられる」
「一人二人生きのこって、なんとなさる?」
「竜神湖の水を、渓谷へ、きって落す」
「………?」
「百姓たちに、水を与えてやらねばならぬ。米をつくらねばならぬ」
「お手前様は──」
黙兵衛は、けげんそうに、
「いつの間に、義のために生きる仁者におなりなされたか?」
「仁者などにはなって居らぬ。ただ、行きがかり上、あとへ引けなくなったまでだ」
「天満坊殿は、お手前様のような御仁までも、自由にあやつる軍師でござるな」
黙兵衛は、そう云って、さも感服したように、首を振った。
実は──。
黙兵衛は、奈良城義太郎を、山城まで案内して、もどって来たばかりであった。
その登攀は、文字通り決死であった。
途中、義太郎ほどの若者が、悲鳴をほとばしらせ、もはや一歩も動けぬ、と坐り込んだくらいであった。
黙兵衛が、山城を訪れてから、二年あまりが過ぎていた。
その二年の間に、登って行く道すじには、黙兵衛自身も、予測もしていなかったようなさまざまの障碍が待ち伏せていたのである。
それらは、黙兵衛を、しばしば、当惑させ、立往生させた。
しかし──。
黙兵衛は、いったん、ふみ出したからには、あとへは退けなかった。
黙兵衛が、義太郎をひきずるようにして、山頂へ立たせた時、黙兵衛自身も、全身傷つき、疲労しはてていた。
降りることに、恐怖さえおぼえていた。竜神湖の|畔《ほとり》に、義太郎を寐かせておいて、黙兵衛が、ふたたび危険な路をたどって、降りてきたのは、意地というべきであったろう。
「お主が、承知してくれるまで、ここに居すわるか」
夜八郎が、云った。
「十日、居すわられても、首をたてに振り申さぬな」
黙兵衛は、こたえた。
夜八郎に対してこそ見せぬが、黙兵衛は、このまま、三日も死んだように睡りたいくらい、極度に疲労しつくしていた。
それを、すこしも、おもてに現さぬところに、忍者の意地があった。
夜八郎は、ふと、黙兵衛の左手に、腕からつたい落ちる血汐をみとめた。
「お主、手負うているのか?」
「いや、ほんのかすり傷でござるわ。別状ござらぬ」
黙兵衛は、こともなげに、かぶりを振ってみせた。
夜八郎は、しかし、その瞬間から、黙兵衛が、尋常の状態ではないことを、観察しはじめた。
「疲れている様子だな?」
「ほんの、わずかばかり──」
黙兵衛は、笑ってみせた。
栗鼠は、血汐におどろいて、屋根裏の梁へ、駆けもどってしまった。
「おひきとり下さるかな?」
黙兵衛は、たのんだ。
「やむを得ぬ。出なおそう」
夜八郎は、腰を浮かせた。
その時であった。
藪の中で、鋭い悲鳴があがった。
若い女の声音であった。
野獣の群が、おそいかかる烈しい物音がつたわって来た。
夜八郎を、愕然とさせたのは、悲鳴につづいて、救いを求める叫びであった。
「夜八郎様っ!」
──おれを知っている女!
梨花が、起き上って、追って来たとは、考えられなかった。
「お! 小幸だ!」
夜八郎が、あわてて、おもてへ出て行こうとすると、
「待たれい!」
黙兵衛が、とどめて、やおら立ち上った。
「お手前様では、さばきがつけられぬ。……飢えた山犬どもは、若い女のにおいをかぐと、狂い立つでな」
「しかし、お主は、疲れはてているではないか。血も流して居る。生血のにおいをかがせれば、山犬どもは、よけいに、狂い立つのではないか」
「わしは、いわば、飼い主みたいなもの。心配無用じゃ」
黙兵衛は、出て行った。
夜八郎は、炉端で、待つことにした。
山犬どもが、急に、音をひそめたので、夜八郎は、やはり飼い主の威力だな、と思った。
しばらく、静寂がつづいた。
と──。
どうしたことか、前にも増した凄じい騒擾が、起った。
「なんだ!」
夜八郎は、土間へ跳んで、戸をひき開けた。
こちらへむかって奔って来る女の姿が、見えた。その彼方で、野獣と人間の目まぐるしい争闘の光景が、くりひろげられていた。
夜八郎は、走り寄った小幸を、小屋にひき入れておいて、修羅場へ向って、疾駆した。
山犬のむくろが、そこにも彼処にも横たわっている。
黙兵衛は、小刀を逆手に持って、襲って来る奴を、正確に、突き殺していた。
だがなお、十匹以上も、狂暴な跳躍をしかけて来ていた。
夜八郎は、抜刀しざま、一匹の胴を両断するや、
「黙兵衛! 引け!」
と、叫んだ。
「やはり、血のにおいをかがせたのは、不覚でござったわい」
黙兵衛は、喘ぎながら、云った。
夜八郎は、黙兵衛をかばって、その前に出ると、猛然と|迅《はや》|業《わざ》を発揮しはじめた。
野獣どもは、もはや、おびえて逃げることをしなかった。
それが、かえって、夜八郎には、都合がよかった。
尤も、人間の敵に包囲された時とちがい、息つく間もなく、五体を敏捷に旋回翻転させねばならなかったが……。
夜八郎は、なお数匹を斬りのこして、黙兵衛を、小屋まで、たどりつかせた。
黙兵衛が、土間に入って、小幸にささえられるのを見とどけておいて、夜八郎は、残った山犬どもを、片づけるべく、ふみ出そうとした。
「もう……止されい」
黙兵衛が、呼び止めた。
「一匹のこらず斬っておかねば、仲間を呼ぶだろう」
「いや、もう、遠方にいるのも、血のにおいを、嗅ぎつけ申したわい。……どうにも、相成らぬ」
そう云われて、夜八郎は、微かな悪寒をおぼえた。
黙兵衛は、炉端へ、ぼろきれのように倒れると、ひくく、
「不覚!」
と、つぶやいた。
「おゆるしを!」
小幸が、両手をついて、平伏した。
小幸は、夜八郎が、畜生藪へおもむいたときいて、無我夢中で、追って来たのであった。
小幸の父親は、先年、畜生藪で、山犬に襲われて、悲惨な最期をとげていたのである。
夜八郎が、父親と同じ目に遭うのではないか、とおそれた小幸は、われを忘れて、公卿館をとび出したのであった。
小幸は、夜八郎を、遠くから、恋していたのであった。もとより、近づいて、その想いを、態度に示す勇気はなかった。ただ、燃える恋慕の情を、じっと胸に抱いていただけである。
恋が、小幸を、畜生藪にふみ込ませた、といえる。
夜八郎は、小幸へは一瞥もくれずに、黙兵衛を、じっと見まもっていた。
すでに、黙兵衛のおもてには、死相があらわれていた。
「黙兵衛──」
呼んでみた。
閉じたまぶたが、微かに、わなないた。
「黙兵衛、しっかりせい」
「妙な、死にざまを、ごらんに入れる」
黙兵衛は、かすれ声で、云った。
「手当のすべがないか? 教えれば、努めるが……」
「いいや──」
黙兵衛は、かぶりを振った。
「人間の体力には、限りがござるわい。……よもや、こういうあんばいに、生命を落そうとは、夢想もいたさなんだ。あっけないものでござるて」
「………」
黙兵衛は、まぶたをひらいて、夜八郎を見上げた。
「実はな、それがしは、奈良城義胤殿のおん曹子が、長旅から、もどって参られたので、それを、山頂まで、おくりとどけて来たばかりでござった」
「………」
夜八郎は、息をのんで、死相濃い黙兵衛の顔を、見下した。
「自分で申すのは、いささかおもはゆいことながら……、よほどのことのない限り、死にかかるまでに、体力を消耗いたさぬ男でござる。……その男が、このていらくになったのは、大庄山を登るのが、どれほどの難事か──それを、示すものでござるわい。……かりに、百人の徒党をもって、登るとして、頂上に辿りついた時、生きのこって居るのは、二人か三人……おそらく、そんなところで、ござろうな」
語りながら、黙兵衛の息づかいは、急に、乱れて来た。
「しかし……」
黙兵衛は、視力をうしなった双眸を、大きくひらいて、夜八郎へ向けた。
「お手前様は……、それと、わかっていても、登るのを、中止なさるまい。……あの押入の中に、行李がござる。……その中に、絵図面が、ござる。竜神湖までの、道すじが、記して、あり申すゆえ……、是非にも、登ろうとされる時の、参考に、なされ……」
そう告げておいて、黙兵衛は、目蓋と口を閉じた。
じっと、見まもっていた夜八郎は、死に行く者の暗い翳を濃くする面貌に、胸がつまった。
「黙兵衛──」
呼ぶと、微かに、目蓋をふるえさせた。
「やすらかに、なり申した。……極楽だか、地獄だか……むこうに、現れて、来居ったわい。……さらばでござる」
忍者にふさわしい最期であった。
小屋の外に、山犬の群が、しだいに頭数を増しはじめるのを、知りながら、夜八郎は、しばらくは、黙然として、黙兵衛の死顔を見まもっていた。
小幸のすすり泣きの声が、とぎれとぎれに、つづく──。
夜八郎は、立ち上って、押入をひらいてみた。
古びた行李がひとつ、置いてあった。
かかえおろして、蓋を開くと、忍者が必要とする諸道具が入れてあった。
夜八郎は、油紙に包んだものを見つけて、|披《ひら》いた。
大庄山の地勢をこまかく描いた絵図面であった。
無数の朱点が入れてあった。
それらが、越え難い危険の場所を意味した。そして、ひとつひとつに、その理由が記してあった。
読みすすむにつれて、夜八郎は、とうてい、突破することの不可能をおぼえた。
顔をあげた夜八郎は、
「この図面を見た天満坊が、なんと云うか、だ」
と、つぶやいた。
それから、夜八郎は、小幸を見かえって、云った。
「それよりもまず、われわれが、どうやって、この畜生藪を脱出するか──それを考えねばならぬ」
戸口に、烈しくぶっつかる音、がりがりとひっかく音が、絶え間なく、起っていたし、仲間同士吠えあい、噛みあう不気味な騒ぎもつづいていた。
いわば──。
夜八郎と小幸は、血に狂った野獣の群のまっただ中で、完全に孤立するかたちとなったのである。
夜八郎一人ならば、突破することも不可能ではないかも知れぬが、小幸をつれていては、どうにも、すべはなかった。
「おゆるしなされませ。……わたしが、かるはずみに、貴方様を追うて来たばかりに、こんなことに、なってしもうて──」
小幸は、膝に置いた手の甲へ、泪をしたたらせた。
「泣くのは止さぬか。……おれは、過ぎたことを悔いはせぬ」
「はい。わかりました。もう、泣きませぬ」
「追って来たのは、おれの身を案じてくれたからか?」
「はい」
「畜生藪ときいて、来たからには、山犬がいることぐらいは知っていた。案じてくれることはなかった」
「館に、もう九十以上になる庭掃きの爺やが居ります。人相を観ます。……貴方様のお顔に、不吉な剣難の相がある、と云うて居りました。……それが、心配で──」
「剣難の相か」
夜八郎は、笑った。
「剣難の相は、生れた時からあるに相違ない。しかし、畜生ごときに噛み殺されはせぬ」
そう云ったとたん、板戸が、凄じい音をたてて、倒れた。
夜八郎が、太刀をつかんで、土間へ跳ぶのと、山犬が一匹、躍り込んで来るのが、同時であった。
山犬の首は、刎ねとんだ。
その血飛沫を慕って、そこへ、山犬の群は、一挙に、殺到して来た。
夜八郎は、脅しのために、太刀に素振りをくれた。
その脅しにも怯じずに、二匹が同時に、飛び込んで来た。
夜八郎は、これらを、ほとんど一閃の刃光の下に、ころがした。
小幸が、必死になって、板戸を起した。
「はめておけ! 裏口ヘまわれ!」
叫んでおいて、夜八郎は、おもてへ踏み出した。
その瞬間から、夜八郎は、一瞬の静止も許されなかった。
小屋の板壁に沿うて、来るけものを、目にもとまらぬ迅さで斬りつつ、夜八郎は奔った。
裏口に達して、夜八郎は、ようやく、息をついた。山犬どものほとんどは、仲間の屍へ、くらいついて、夜八郎を追うのを忘れたからである。
裏口の戸を、小幸に開けさせて、身を入れた瞬間、夜八郎は、はじめて、左肩に、疼痛をおぼえた。
「やられたな」
夜八郎は、苦笑した。
「血が!」
小幸が、声をふるわせた。
「黙兵衛が腰にさげている革袋は、たぶん、薬のはずだ。手当をしてくれ」
夜八郎は、片肌を脱いだ。
小幸は、噛み傷のむごたらしさを一瞥して、思わず小さな悲鳴をあげた。
夜八郎は、手当がおわるまで、微かな呻きもたてなかった。
外では──。
山犬どもは、仲間の屍を骨になるまでくらいつくす不気味な音をたてていたが、やがて、しずかになった。
腹を満たしたけものは、たぶん、明日まで、休息するのであったろう。
「いまなら、逃げられる隙があるかも知れぬ」
夜八郎は、|松《たい》|明《まつ》を振りながら、疾駆することを考えた。
小幸に、松明をつくるように命じた夜八郎は、板戸の隙間から、おもてをうかがった。
けものの影は、みとめられなかった。
「よし!」
こころみに、板戸をひき開けた。
せつな──。
音もなく、一匹が、矢の|迅《はや》さで、襲いかかって来た。
手負うた夜八郎には、抜き討ついとまもなく、わが身をかばうのが、かろうじてであった。
戸を閉めた夜八郎に向って、土間の奥から、山犬は、牙をひき剥いた。
小幸が、壁から忍び槍をつかみとって、投げるのを、間髪でかわした山犬は、唸りを噴かせて、夜八郎に襲いかかった。
これを両断する迅業は、夜八郎から、失われていた。
その咽喉へ、切先を突き立てざまに、夜八郎は、土間へころがった。
「夜八郎様っ!」
小幸は、土間へとび降りて、夜八郎に、しがみついた。
かかえ起されかけて、夜八郎は、はじめて、肩の|深《ふか》|傷《で》の痛みに、呻いた。
松明をかざして、藪の中を突破することは、不可能となった。
火をおそれずに、襲いかかって来るのが、たとえ、三匹や四匹にせよ、いるに相違ない、とわかったからには、こちらに、斬りはらう迅業がなければならなかった。
手負うた身に、それは失われている。
夜八郎は、小幸とともに、板戸に|突《つっ》|支《かい》をしておいて、炉端に、上った。
黙兵衛のなきがらは、そこに、ひっそりと横たわっていた。
夜が来た。
先刻まで、黙兵衛のなきがらが横たわっていたところに、夜八郎は、ねむっていた。
黙兵衛のなきがらは、土間の片隅に、土まんじゅうになっていた。小幸が、穴を掘って、埋葬したのである。
小幸は、死んだように、動かぬ夜八郎を、じっと見まもっていた。
遠くから恋していた男が、いま、手負うて、発熱して、自分のかたわらにあることに、小幸は、感動していた。
土一揆に加わって、城めざして走っているところを、城兵に襲われて、みな殺しにあった直後、夜八郎から生命を救われた小幸であった。
その時から、小幸にとって、夜八郎が、この世で唯一の男性となったのである。
農夫の娘が、さむらいを恋することなど、許されるはずもない。
人には告げられない慕情であった。それだけに、かえって、小幸の心中で、慕情は、しだいに、熱いものになった、といえる。
恋を、その行動にあらわすすべなぞ、この娘は、知らぬ。
ただ、こうして、じっと見まもっているだけで、幸福であった。
「しずかだな」
ねむっていると思っていた夜八郎が、ふいに、口をきいた。
小幸は、心の中を看すかされたように、狼狽の色を、顔に散らした。
「しずかだ」
夜八郎は、ひくく、くりかえした。
「はい。……しずかでございます」
「しずかすぎると、人間は、忘れていたむかしのことを、まとめて、思い出すようだな」
「………」
「まだ、十二三歳の頃であった。……おれは、京の寺に、あずけられていた。夜が、しずかすぎて、おれは、さびしくて、ねむれなかった。……それで、しかたがなく、木太刀をつくって、庭へ出て、素振りの稽古をした。月のある夜であった。狐がいっぴき、遠くにあらわれて、おれの稽古を、見物していた。……そのうちに、おれが、ひと振りするたびに、狐め、ピョンと、飛びあがりはじめた……。おれは、癪にさわった。狐が、自分を、からかっているのだ、と思ったのだ。おれは、しかし、無視することにした。その夜は、いつもより、百回も多く、素振りをした。おれは、狐の方が、さきに、飛びあがるのを止めるであろう、と思ったのだ。……狐め、止めなかった」
「………」
「おれは、次の夜も、同じ時刻に、庭へ出た。すると、狐めは、どこからともなく、現れた。おれが木太刀を振る。狐が、はねあがる。……おれは、へとへとになるまで、木太刀を振りつづけた。狐は、はねあがりつづけた。……おれは、地べたへ、へたばり込んだ」
小幸は、息をつめるようにして、夜八郎の話をきいていた。
「……その次の夜も、狐は、現れた。おれは、それが子狐であることを知った。おれの素振にあわせて、飛び上る稽古をしているのだ、と──。おれは、小狐と競うことにした。子狐ごときに、負けてなるか、と思った。……おれと子狐の稽古は、それから、三月もつづいた。……どういうのであろう。子狐めは、月が痩せて、しんの闇夜になると、現れなかったな」
きいているうちに、小幸は、胸が苦しくなった。
恋した娘だけが知る胸の鼓動の痛みであった。
「夜八郎様!」
思わず、小幸は、呼んだ。
夜八郎は、まぶたをひらいて、小幸を見上げた。
小幸は、言葉をつづけようとしたが、あまりの烈しい感動の波に、全身が宙に浮いたようになり、動悸のはやさに、口のうちが、かわいてしまった。
「ここへ、横になるがいい」
夜八郎が、すすめた。
「は、はい──」
小幸は、ためらわなかった。
小幸が、横になると、夜八郎は、片腕をのばして、その頭へまわした。
小幸は、夜八郎の胸へ、顔をうずめた。
──妙なものだ。
夜八郎は、心の中で、つぶやいた。
──無頼のおれが、この農夫の娘を、大切なもののように、扱っている。
──おれの性根にも、やはり、人間らしゅう、孤独のさびしさを知る善良さがあるのか?
夜八郎は、すなおに、それを、みとめようとした。
「……うれしい」
小幸が、微かな声音で、云った。
「そうか、うれしいか?」
「は、はい。……うれしゅうございます。……このまま、死んでもいい」
小幸は、そう云うと、口にした言葉に、羞恥をおぼえたか、急に、つよく、からだを押しつけて来た。
夜八郎は、痛みをこらえて、頭へまわした片腕に、力をこめてやった。
そのまま、かなり長い時間が、過ぎた。
突然──。
戸口に、凄じい勢いで、ぶっつかる音が起った。
山犬どもが、再び、さわぎはじめたのだ。
しかし──。
小幸も夜八郎も動かなかった。
そのうちに、夜八郎は、しだいに、意識がうすれて来た。
小幸は、そっと、顔をあげて、夜八郎の寐息をうかがった。
──おやすみなされた。
小幸は、さびしさをおぼえた。
絶え間なく、凄じい音響が、小屋の四方の壁に起って、夜八郎は、目ざめた。
小幸の姿は、かたわらになかった。
夜八郎は、小幸が、必死になって、戸口に突支をしているのを、視た。
戸は、なかば破られていた。
夜八郎は、おのが五体が、どれだけ働く力があるか、測った。
──やれるかも知れぬ。
夜八郎は、すばやく、土間へ降り立った。
「小幸、松明をつくれ!」
「はいっ!」
まだ、おもては、暁闇であった。
藪を突破できるか、できぬか──やってみなければわからぬことだった。
夜八郎が、抜刀するのと、戸が倒れるのが同時だった。
躍り込んで来た一匹を、真二つに斬った夜八郎は、
「はやくせい!」
と、叫んだ。
「は、はいっ!」
戸口には、闇に光る狂暴なまなこが、むらがって来た。
夜八郎は、刃を上にして、地摺りに構えた。
「うーおっ!」
数匹の唸りに送られて、一匹が、宙を跳んで来た。
そいつを、刎ねあげに、夜八郎は、斬った。
山犬は、首と胴をはなされつつ、おもてへ落ちた。
すると──。
たちまち、野獣の群は、仲間のしかばねへ、くらいついた。
そのほんの短い時間が、貴重であった。
「はいっ! これを──」
小幸が、さし出した松明を、つかんだ夜八郎は、
「おれに、つづけ! はなれるな!」
命じておいて、戸口を、一歩ふみ出した。
山犬どもは、一斉に、とび退った。
片手に松明を、片手に白刃をつかんで、夜八郎は、ゆっくりと進みはじめた。
小幸が、その背中に、ぴったりとより添っている。
十間あまりの距離を、ぶじに進んだ。
「よし!」
夜八郎は、小幸を、さっと前へ出し、松明を持たせた。
「走れ!」
「で、でも──」
「お前が、そばにいると、足手まといだ。走れ! 力のかぎり走れ!」
「はいっ!」
小幸は、奔り出した。
夜八郎は、狂犬の集団にむかい立った。
恰度、その時、この畜生藪に、無数の松明をかざした行列が入って来た。天満坊が先頭であった。
父子無情
杉、檜、楓、なら、けやき、かし、くぬぎ……。
大庄山の山頂にひろがる竜神湖を包囲する樹林は、すべて、原始のままに、巨木の集りであった。
湖水は、その原始の世界で、神秘なまでに深い紺碧の色を、おもおもしく、たたえている。
太古に生れたこの湖水は、曾てただの一度も、涸れたこともなく、満々として、澄みきっている。
と──。
陽光のきらめきを、波にひろげながら、一艘の小舟がはやい勢いで、南の岸辺へ、漕ぎすすめられて来た。
漕いでいるのは、半白のあたまの小男であった。
足もとの桶では、釣りあげた魚が、しきりに、はねあがっている。
間のびした歌声を、水面にわたらせながら、漕いでいるのであった。
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ひィふゥみィよォ
|四《よ》|方《も》の景色を、春とみて、
梅にうぐいす、ほーほけ、きょう
明日は、柳のくるわでなァ
琴をはやして
手まり歌
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舟を、|渚《なぎさ》にすべり込ませた小男は、魚桶をさげると、水の中に降り、綱をひっぱって、砂地へ上った。
「さァて、大漁、大漁──といいたいところじゃが、ちかごろは、魚めも、甘い雨が降らんで、照りつけるばかりじゃで、底へもぐってしもうたわい」
独り言をもらしながら、草径を、たどって行こうとした。
とたんに──。
「お──?」
しかめ面になって、杉の木立際へ、視線を据えた。
人が倒れている。
この湖畔に、人影など、小男は、曾て見かけたことはない。
「はての?」
そっと、近づいた小男は、そこに|俯《うつ》|伏《ぶ》しているのが、武士であるのを、みとめて、不審のかぶりを振った。
山城の住人ではない。
伊吹野から登って来たなどとは、とうてい考えられなかったが、しかし、山城の住人でないとすれば、下界の人間と受けとるよりほかはない。
「どうしたのじゃ、いったい?」
死んでいるのか、とのぞき込んだとたん、俯伏しのからだがうごいた。
「生きとる」
小男は、とび退った。
武士は、ひくいうなり声をもらしてから、目をさまし、のろのろと起き上った。
とたんに、小男は、驚愕の叫びを発した。
「若!」
小男は、信じられぬものを眺める表情になった。
起き上った武士は、奈良城義太郎であった。
「吾作か──」
義太郎は、笑って、両手を高くさしあげた。
「よう、ねむった。どうやら、わしは、一昼夜も、ねむりつづけていたのではないのか」
「若! お前様、どうやって、登って来なさった?」
吾作は、狐狸でも化けたのではないか、となお疑う様子であった。
「足があるから、登って来た」
「山に不案内で、登ってこられるはずがありませぬぞ」
吾作は、義太郎を幼年の頃から、世話をして来た下僕であった。
「それが、登れたのだから、おもしろかろう。……それよりも、父上は、どうされて居る?」
「………」
義太郎は、吾作の顔に、当惑の色がうかぶのを、みとめた。
「どうした? 父上の身の上に、なにか起っているのか?」
「若──」
吾作は、ひとつ、歎息をもらした。
「五年という歳月は、短いようで、長いものでござる」
「父上が、どうなされたというのだ。はやく、申せ」
「………」
「なぜ、申さぬのだ?」
「若──。父上様は、いまは、牢へ入っておいででござる」
「なに? 牢に入っている? それは、どういうことだ?」
「父上様は、乱心なされたのでござる」
「………」
義太郎は、思いがけない報らせに、茫然となった。
「三年ばかり前から、挙動にあやしいところがあらわれ申して、とうとう……」
「………」
義太郎には、父義胤が乱心するような人間とは、思えなかった。
これには、なにか、わけがあるような気がした。
「父上が牢に入れられたあと、誰が、山城を支配いたして居る?」
「矢倉新兵衛様と、藤掛左馬之丞様と、庄野四郎五郎様の、お三人でございます」
「妙だな──」
義太郎は、云った。
「|首《おと》|名《な》は、一人も居らぬな」
城主がその支配力を失えば、当然、首名(家老)が、その代理をつとめるべきにもかかわらず、三人とも、もとはただの番衆であった。
戦国の世にあっては、後代の大名のように、整然たる機構がなされていたわけではなかった。それぞれの大名が、それぞれ独自の機構をつくり、職制を敷いていたのである。
家臣は、御家人または家中衆と称され、源平時代の家の子郎党であった。
家中衆は、別に給人ともいわれ、武器と兵を持っていた。
家中衆は、三種にわかれた。
一門衆(または一族衆)
国衆
新参衆
この三種であった。一門衆は、領主の一族、一門である。領主とは血縁によってむすばれている。国衆は、領土内に古くから土着していたさむらいを指す。新参衆は、文字通り、あたらしく家来になった者で、他領より、併合や降伏などで、仕えたのである。
その三種の家中衆の下に、郎党、中間、若党、小者がいた。
吾作が、告げた三人は、いずれも、一門衆ではなかった。矢倉新兵衛、藤掛左馬之丞は国衆であり、庄野四郎五郎は新参衆であった。
「吾作──」
義太郎は、双眼を光らせた。
「浦上頼母や、久武大蔵は、いかがした?」
その二人は、首名(家老)であった。
父義胤に従って、この大庄山へ来たはずである。
「それが……」
吾作は、ごくっと唾をのみ下してから、
「浦上様は、五年前に、山城へ参られる途中に、谷底へ落ちなされ……、久武様は、三年前に、熱病におかかりなされて、相果てられてございます」
「両人とも、いぶかしい死に様ではなかったのか?」
「いえ……、そのような──、わたくしのような小者には、一向に……」
吾作は、かぶりを振った。
義太郎は、しばらく、沈黙を守っていたが、
「吾作──」
「はい」
「その桶の中の魚を、二三尾、焼け」
「はい」
「腹が|空《へ》った」
「す、すぐに──」
吾作は、枯枝をひろいあつめると、砂地へ降りて、活魚を串刺しにして、焼きにかかった。
義太郎は、かたわらに来て、腰を下すと、
「こんなに、山上には満々と水があるのに、下界は、からからにかわいて居る。妙なものだな」
と、云った。
「百姓たちは、さぞかし、困窮いたして居りましょうな」
吾作は、声音に同情をこめた。吾作も、もとは農夫であった。
やがて、魚が焼けた。
義太郎が、うまそうにむさぼり食うのを見まもりながら、吾作は、
「よう、まあ、道もない道を、お登りなされた」
と、云った。
「白状すると、黙兵衛が、そこまで、案内してくれたのだ」
「ああ、あの忍びの御仁がな。それならば、若のおん身に別状なかった、と合点が参りますわい」
「吾作──」
「はい」
「伊吹野城は、焼けたぞ。田丸豪太夫は、木から落ちた猿だ。……近いうちに、わしが、一挙に攻めつけて、豪太夫の首を刎ねてくれる。伊吹野城を、新しく築いてやるぞ」
「若──」
「見ておれ! わしは、やるぞ!」
「若──。父上様にお代りなされるおつもりでございますか?」
「あたりまえではないか。わしが、城主になって、なんのふしぎがある?」
「………」
「それとも、矢倉、藤掛、庄野らが、支配者面をして、主人の座を返さぬというのか?」
「………」
「吾作、知っていることを云え」
義太郎は、老下僕を、見すえた。
「わたくしめらには、ようわかりませぬが……、なにぶんにも、歳月が経って居りまするゆえ──」
「三名が、威張りかえって居る、というのだな?」
「はい。まあ、そ、そういうわけでございます」
「ほかの者どもは、黙って、頭を下げて居るのか?」
義太郎は、いまいましげに、舌打ちした。
吾作は、不安の視線を、血気の若主人へあてた。
──どうなるのであろう?
義太郎が還った城内に、大きな騒動が起ることは、目に見えて来た。
「田丸豪太夫を攻め滅ぼす前に、わしになさねばならぬ仕事ができたな」
「若──ご要心なされませい。ただお一人でおもどりなされたのでございますゆえ……」
「はっはっは、心配するな。山城が、五年前とはちがっているように、わしも、五年前の義太郎ではないぞ。……からだを見せてやろうか。無数の刀槍傷があるぞ」
「………」
「城には、何人居るのだ?」
「三百二十人ばかりでございます」
「手勢としては、充分の頭数だな」
義太郎は、その家来を、率いるおのれに、なんの不安もおぼえていないようであった。
「よし──行こう」
義太郎は、砂をはらって、立ち上った。
「若──。今日一日、城の外から、様子をごらんなされては、いかがなものでございましょう? わたくしめが、もどって、若らしいお姿を、湖水のほとりで見かけた、と|報《し》らせますれば、御一同衆が、どういう態度を示されるか、わかりますでございます」
吾作が、おずおずと、とどめた。
「ばかを云え! 城主の嫡子たるおれが、家臣どもの増上慢におそれをなして、城外からチロチロと、うかがうなどという阿呆なまねをするか」
義太郎は、ずんずん歩き出した。
吾作は、当惑して、立往生のかたちであったが、あわてて、追いかけた。
「若──」
必死な表情で、云った。
「てまえは、かくしていたことがございます」
「なんだ?」
「若──。城内には、もはや、若の味方は、一人も居りませぬぞ」
「おれが、帰って来たのを、家臣どもは、歓迎してくれぬと申すか。はっはっは……よかろう。おれが、たった一日で、家臣どもを平伏させてくれる」
「そんなことが、どうして、できますものか」
「できるか、できぬか、見て居れ。……矢倉、藤掛、庄野の三名のうち、どいつが、実権をにぎって居る?」
「庄野四郎五郎殿が、どうやら、主権を取られて居るらしゅうございますが、どうも、上の方のことは、わたくしめには、ようわかりませぬ」
「庄野四郎五郎ごとき、外様めが、のさばって居るとは──くそ!」
義太郎は、足もとの石を、蹴とばした。
その時、騎馬の音が、ひびいて来た。
「若──。かくれておいでなされ!」
吾作が、けんめいにすすめたが、
「かくれる必要などあるか!」
と、義太郎は、はねつけた。
木立の中を駆けぬけて来たのは、意外にも、武士ではなく、女であった。
まだ若く、美しかった。
男装をし、弓と矢を背負うていた。
義太郎には、見おぼえのない女であった。
義太郎の前に、さっと、馬をおどり出して来ると、たづなを引いて、にらみおろした。
「何者だ?」
義太郎は、こたえるかわりに、いきなり、女の足くびをつかむと、さっとひきずり落した。
「な、なにをする!」
女は、もがきつつ、ころがり落ちた。
はね起きざまに、脇差を抜いて、斬りかかった。
義太郎は、女の手から、苦もなく、小刀を奪いとると、
「小ざかしゅう、男まさりをみせて居るが、そなたは、いったい、どこから、つれて来られた女だ?」
と、にらみすえた。
「うるさいっ!」
女は、必死にもがいて、身の自由をとりもどそうとしたが、かえって、ねじりあげられた片腕が、折れる結果をまねきそうになって、すこしおとなしくなった。
「奈良城家の家中衆の中に、そなたのような女子は、いなかったぞ。云え、どこから、ひろわれて来た?」
「ひろわれてなど、来るか! わしは、城の姫じゃぞ! 狼藉して、あとで、泣き面かかぬがいい」
「姫?」
義太郎は、哄笑した。
「姫とはおそれ入ったな。城に、姫と呼ばれる娘が居るわけがあるか!」
「わたしは、姫じゃ!」
「奈良城義胤に、娘などはいない」
「あの老いぼれの狂人など、もう城主ではないわ!」
「乱心して居ろうと、城主は城主だぞ!」
義太郎は、むかっとして、その細手くびを、ひとねじりした。
「い、いたいっ!」
女は、悲鳴をあげた。
「云え! おのれは、何者の娘?」
「新しい頭領──庄野四郎五郎のむすめ美代奈じゃぞ!」
女は、叫んだ。
義太郎は、吾作をふりかえった。
「まことか、吾作?」
「は、はい──」
吾作は、うなずいた。
「三年ばかり前に……、庄野四郎五郎様が、山を降りなされた時、ともないなされたのでございます」
「国で、乞食同様のくらしをいたして居ったのを、つれて来た、というわけか」
庄野四郎五郎は、どこかの国の牢人者であった。
奈良城家に随身した次第は、義太郎は、知らぬが、口舌の徒で、巧みに、父義胤に取入って、いつの間にか、納戸頭衆に加えられていた。
その新参者が、城主の狂気を境にして、家臣筆頭の地位にまで、のし上ったとは、よほどの悪智慧の働く曲者であったことである。
年寄、首名は、数人いたはずである。
それらの重臣は、いったい、どうした、というのか?
曾て、伊吹野城に在った時代は、階級、職別は、整然としていたのである。
家臣それぞれ、分を守って、くらしていたのである。
義太郎は、奈良城家中が、この山城に移ってから、奉公人の間に、どんな変化をみせたのか、見当もつかなかった。
宿老たちが、なぜ、権力を失ったのか?
諸奉行が、いたはずである。いずれも、一門衆と呼ばれてよい面々であった。それらの奉行連は、矢倉新兵衛や藤掛左馬之丞や庄野四郎五郎が、のし上って来るのを、黙って眺めていたのか?
矢倉や藤掛は、まだしも、国衆であるから、その実力によって、擡頭して来たとしても、合点できぬことはないが、庄野四郎五郎という新参者が、権力の主座を奪うのを、どうして、一門衆が、阻止できなかったのであろう。
義太郎は、想像するのも、ばかばかしかった。
「いたいっ! はなせ!」
庄野四郎五郎の娘美代奈は、また、もがきはじめた。
「吾作──、縄はないか?」
「は、はい──」
吾作は、小舟へ走って行って、縄をもって来た。
義太郎は、それで、美代奈を、高小手に、しばりあげた。
美代奈は、地面へひき据えられると、あらん限りの憎悪をこめて、義太郎を、睨みあげた。
「おのれは、何者だ?」
「おれか──」
義太郎は、にやにやして、
「おれこそは、新しい主人だ。おぼえておけ」
「なにを、ほざくぞ!」
「奈良城義胤の嫡子義太郎が、もどって来たのだ。わかったか!」
云いざま、義太郎は、美代奈のはいている袴を、つかんで、べりっと、ひき裂いた。
ついでに、小袖の前を、むしるように、ひきはだけさせた。
太股まであらわにされて、美代奈は、「ひーっ!」と悲鳴をあげた。
「そなたを、焼こうと煮ようと、おれが奈良城義太郎である上は、自由勝手だぞ。思い知らせてくれようか!」
義太郎は、土足を、美代奈の膝のあいだへ、ねじり込ませた。
美代奈の顔面から、血の色が失せてしまった。
「よいか、女! 昨日までの乞食牢人の娘が、思い上って、姫になったなどと血迷うていたむくいを、受けろ!」
義太郎は、せせらわらった。
さすがに、気丈夫な娘も、城主のおん曹子の出現には、かえす言葉もなく、おののいた。
「ははは……」
義太郎は、冷たい笑い声をたてた。
「吾作、この葉むすめを、どうしてくれようか?」
吾作は、ただもう、小さく縮こまって、義太郎が美代奈をさいなむ光景を、息をのんで見まもるばかりであった。
美代奈は、屈辱に堪えきれす、
「ころせ!」
と、絶叫した。
ところが、そのさけびが、逆に、義太郎に、ひとつの計画を、思いつかせた。
──そうだ!
義太郎、にやりとした。
──この娘を、|囮《おとり》にしてくれる。
「吾作──」
「はい」
「この葉むすめを、監禁する場所はないか?」
「………」
吾作は、困惑の表情で、義太郎を仰いだ。
「それが、必要だ。さがせ」
「ど、どうなされるので?」
「|虜《とりこ》にしておいて、利用する。庄野四郎五郎に、ひと泡ふかせてくれる」
義太郎は、そう云ってから、いきなり、凄じい勢いで、美代奈の顔へ、三つ四つ、平手打ちをくれた。
「贋姫め! 下手にあがくと、女のかくしどころを、えぐりとるぞ。いいか! 娘らしく、吾作に従え! わかったか!」
「………」
「おのれの心次第では、わしの|側《そば》|妾《め》にしてやってもよいのだ。わしは、そなたのような気丈な女が、きらいではない。……二度とは、くりかえさんぞ! おぼえておけ!」
それから、半刻ばかり後のことであった。
義太郎は、美代奈が乗っていた馬に、うちまたがって、落葉樹林をくぐり抜けて、山城の前面に、出現していた。
義太郎が、はじめて眺める山城であった。
城というよりも、砦といった方がよさそうな、粗末な建物や塀が、台地上にかまえられていた。
しかし、地所は、充分に余裕をとってあり、数百人が拠るには、むしろひろすぎるかとみえた。
苦心は、城の前面にめぐらした濠のようであった。これは、湖水を引き入れて、四季の増減もなく、まんまんとして石垣をあらって居り、かりに敵が攻め寄せても、五間余の幅をもった水面を泳ぎ渡らせぬように、工夫してあった。
石垣上の矢倉も、粗末ながら、おそろしく、長くつらなっている。
諸国の山城を眺めて来た義太郎は、これが、一見甚だ急造りの構造でありながら、攻めるには最もむつかしいことを、みとめた。
橋は、|拮《はね》橋であった。
この橋だけは、伊吹野城のそれよりも、さらに、造りは岩乗なものであった。
義太郎は、蹄の音をたかくたてて、山城の拮橋へ、馬を駆け寄せた。
「もの申す!」
橋上へ、馬を立たせると、城内の奥までひびき渡るような大声を発した。
「奈良城義太郎、ただ今、帰着した。開門!」
城門わきの渡櫓の窓から、いくつかの顔がのぞいた。
「おっ! 若じゃ──」
「若が、もどられたぞ!」
騒然となるさまに、義太郎は微笑した。
しかし、どうしたわけか、門扉は、すぐには、開かれなかった。
そればかりではなく、急に、門内が、ひっそりとなった。
何も知らずに、到着したのであったならば、義太郎は、烈火の憤りを爆発させて、どなりたてたに相違ない。
すでに、城内に於ける下剋上の政変を知っている義太郎は、呶号するかわりに、門扉前まで馬を進めて、さっと鞍の上に立った。とみるや、ひと跳びに、櫓にとりついた。
|蔀《しとみ》をけやぶって、内部に入った義太郎は、そこに立ちすくむ番士らを、にらみまわした。
「おれは、歓迎されぬ帰城者のようだな」
一人の胸ぐらをつかむと、
「城門をひらくな、と命じたのは、誰だ? ぬかせ!」
と、叫んだ。
返辞をためらうのを、
「ぬかさぬかっ!」
と、鉄拳をくれて、ひっくりかえした。
それを足蹴にしておいて、櫓を駆け降りた義太郎は、|桝《ます》|形《がた》に集っている城兵の一団に向って、大股に、近づいた。
「おのれら、五年前に、おれを視た目つきとは、まるでちがって居るな。卑屈きわまる目つきだぞ! おのれらが、これほどの腰抜けとは知らなんだぞ!」
義太郎が、迫るや、番士らは、おびえて、あとへ退った。
どの顔にも、当惑の色があった。
それが、城内の支配者は、すでに奈良城義胤ではなくなっていることを、示した。
義太郎自身、おのれが異端者であることを、感じた。
「おのれらを威圧して居るのは、庄野四郎五郎であろう。そうだな?」
義太郎の眼光に射すくめられて、一人が、うなずいた。
「庄野四郎五郎は、何者ぞ! 流れ渡りの牢人ではないか。そのような新参者に、おのれらは、屈服したのか? 伊吹野城の国衆たる誇りを、どこへすてた!」
義太郎は、一人を足蹴にし、一人を、なぐり倒した。
こうした場合、単身であることに、いささかの弱味もみせてはならぬのを、義太郎は、知っていた。
「父上の許へ、案内せい」
義太郎は、昂然と頭をあげて、命じた。
番士らは、おし黙って、義太郎を包囲するかたちをとっているばかりであった。
「案内せぬか、腰抜けどもっ!」
義太郎は、呶鳴りたてておいて、二歩ばかり、ふみ出した。
そこへ、八字髭をたくわえた武士が、いそいで、近づいて来た。
「若──。おひさしゅう存じまする」
矢倉新兵衛であった。
──こやつが、首名の座をぬすんだ一人か。
義太郎は、憮然たる面持で、
「父上に会うぞ」
と、云った。
「ご案内つかまつる」
矢倉新兵衛は、さきに立った。
──こやつらのそっ首を刎ねてくれる機会を、近いうちに!
そう思いながら、義太郎は、あとをついて行った。
城内の眺めは、ここに、永らく籠らなければならぬためのつくりによって、ふつうの構造とは、ちがっていた。
広い畑もたがやされていたし、無数の根小屋がちらばっていた。
空堀も多く、切石を底に敷き詰めて、通路にしているのは、他の城と同様であったが、左右の斜面を、芋の葉で掩うているのは、山城らしいのどかな景色であった。
行き過ぎながら、義太郎は、山上に孤立しながら、それなりに、ここには、平和なくらしがあるのを、みとめないわけにはいかなかった。
女や子供の姿も、チラホラと、眺められた。
しかし、主人の座が奪われたことと、城内の平和とは、なんの関係もないはずである。
主人が乱心したのであれば、その座を空けて、嫡子たる自分が戻るのを、待っているのが、家臣としての、つとめではなかったか。
「おい──」
義太郎は、本丸の北隅にある館にみちびかれると、門口で、新兵衛を呼び止めた。
「家老たちは、どうした?」
「は──」
「わしが帰って来たというのに、一人も、迎えに出て居らぬではないか」
この館に着くまでに、遠くに人影はあったが、みな、おびえたように、立ちすくんだり、コソコソとかくれたりしたのである。
門口は、ひっそりとしている。
「家老たちは、一人のこらず、その方らが殺した、とでもいうのか?」
矢倉新兵衛は、三人の家老のうち、一人は山を去り、一人は病死し、のこり一人も目下病臥中だ、と告げた。
義太郎は、その言葉を信じなかった。しかし、三人の家老が、もはや、目の前に現れぬことだけは、明白であった。
門を入ったが、そこにも、人影はなかった。
「どいつも、迎えには出ぬのか!」
義太郎は、いまいましく、べっと、唾を吐きすてた。
「後刻、集合を命じて、ご挨拶いたさせますゆえ、しばらく、お待ちのほどを──」
矢倉新兵衛は、云った。
──ぬけぬけと、申し居る! おれが単身でもどって来たので、討ちとるのは造作のないことと、タカをくくって居るらしい。どっこい、そうは、いかんぞ!
玄関に入ると、そこに、一人の髭武者が、端坐していた。
藤掛左馬之丞であった。
挨拶するのへ、義太郎は、冷たい一瞥をくれただけで、式台へ上った。
建物は、新しかった。
寝殿造りの立派なものである。
天守を築かずに、この館に人手をかけたと思われる。
廻廊を歩き|乍《なが》ら、義太郎は、片側に閉めきった檜戸のかげに、多くの家臣どもが、息をひそめているような気がした。
矢倉新兵衛と藤掛左馬之丞が、うしろを、ついて来ている。
と──一瞬。
義太郎は、檜戸の一枚を、ぱっと、ひき開けた。
二十畳ばかりの部屋は、空虚であった。
義太郎は、振り向くと、
「庄野四郎五郎が、その方らの上に、座を占めているそうだが、まことか?」
と、問うた。
矢倉と藤掛は、顔を見合せた。
「そのようなことは、ございませぬ。われら両名は国衆を代表し、庄野四郎五郎は新参衆を代表して、当城を守って居る次第にて──」
「一門衆は、一人も加えずにだな」
「若──。一門衆のかたがたは、当城には、居られませぬぞ」
「牧頼母は、どうした?」
「伊吹野城退出の際、|深《ふか》|傷《で》を負われて、登る途中に、相果てられました」
「富田織部は、なんとしたぞ?」
「出家なされて、叡山へお行きなされました」
「それから、三家老たちは、逃亡、死去、病臥というわけか」
「左様でございます」
「庄野四郎五郎は、なぜ、わしに挨拶をせぬ?」
「早朝より、狩に出て居ります」
「都合よく、弁解いたすのう」
義太郎は、笑い声をたてて、歩き出した。
廻廊から|渡《わた》|廊《どの》をこえて、別棟に入ると、そこに、太い格子をめぐらした座敷牢が、かまえられていた。
義太郎は、その前に立つと、内部をすかし見た。
広い、うすぐらい牢内の中央に、|臥《ふし》|床《ど》がのべられ、ほんのわずかに、掛具が丘をつくっていた。
義太郎は、じっと、のぞき込んで、
「父上!」
と、あらあらしい声音で、呼んでみた。
布団の丘は、ビクリともしなかった。
「父上! 起きられい! 義太郎が、帰参いたした!」
その呼びかけに対して、丘は、ほんのわずかに、動いたばかりであった。
義太郎は、いら立つや、矢倉新兵衛と藤掛左馬之丞をふりかえり、
「中へ入って、ひき起してくれい」
と、命じた。
自分が入って行くのは、そのまま、この二人に、とじこめられる危険があったので、要心しなければならなかった。
矢倉と藤掛は、顔を見合せた。
「はやく、せい!」
義太郎は、呶鳴った。
やむなく、二人は、戸を開いた。
矢倉が入って行って、掛具ヘ手をかけると、
「殿!」
と、ゆさぶった。
「殿──。若がもどられましたぞ。……お起きめされ」
とたんに──。
布団の中で、破れ笛のような奇妙な悲鳴が発した。
「ゆ、ゆるして、くれ!………ゆ、ゆるせ!」
そう叫んで、掛具をけんめいに、つかんで、縮こまっている。
義太郎は、舌打ちした。
「ひきめくって、ここへ、つれ出せ!」
「しかし──」
矢倉は、しかめ面になって、
「狂われている御方と、まともの対面はなりますまい」
「かまわぬ。つれ出せ!」
義太郎に命じられて、矢倉は、やむなく、掛具をむりやりにひき剥いだ。
ぼうぼうと乱した蓬髪の、痩せさらばえた人間が、四肢を縮めて、そこを動くまいとするさまは、正視に堪えなかった。
矢倉は、力ずくで、狂人を、ずるずると、ひきずって、格子外へ、つれ出した。
義太郎は、蓬髪をつかんで、顔をひきあげてみた。
ぞっ、と背筋を悪寒が走った。
どす黒い皮膚に、無数の斑点が浮き、これは、まさしく、地獄図絵中の亡者であった。
五年前の父の面影は、どこにもなかった。
あまりのあさましさに、義太郎は、泥でも呑んだような表情になった。
しかし、義太郎は、糾明しなければならぬことにも、気がついていた。
義太郎は、芋虫のように、板敷きへ俯伏した父親を、しばらく、睨み下していたが、急に、鋭い表情を、矢倉新兵衛と藤掛左馬之丞へ向けた。
「これは、ただの乱心ではないようだな。……毒を盛られて、狂った、とみたぞ!」
二人は、さっと顔色を一変させた。
「途方もないことを!」
「なにゆえに、そのような云いがかりを!」
同時に、二人の口から、憤然たる叫びが発しられた。
「おい! わしを、五年前の青二才と、見くびったら、とんでもないまちがいだぞ! 奈良城義太郎は、むだに五年間を、流浪して居らぬぞ!」
義太郎は、二人を、睨みつけた。
「若! おちつかれい。お父上は、傷心のあまり、気が狂われたのでござる」
「そうは、思わぬ。父上の気象から考えて、乱心など、絶対にせぬ御仁だ。……おのれらが、共謀して、毒を盛ったに相違ないっ!」
凄じい気勢を示す義太郎に、不意に、義胤が、しがみついた。
「ゆ、ゆるせ!………ゆるして、くれっ!………わしが、わしが、あ、あやまる!」
焦点のない視線を、うろうろさせながら、けんめいに、わびた。
「父上! わしが、義太郎であることが、おわかりにならぬか! なんの許しを乞うているのだ?」
義太郎は、いら立つと、父親をはねのけておいて、
「廃人になったものを、元通りにいたすことは、かなわぬ。……今日よりは、わしが、城主だ!」
と、宣言した。
矢倉と藤掛は、こわばった表情で、おし黙っている。
「家臣どもを、集合させろ!」
義太郎は、命令した。
しかし、二人は、なお、こたえようとしなかった。
「おのれら、わしに、反抗するか!」
義太郎の全身から、殺気が噴いた。
その時であった。
渡廊に、多勢の足音が起った。
──来居ったな!
義太郎は、ほぞ[#「ほぞ」に傍点]をかためた。
先頭を進んで来たのは、長身の、恰幅のいい人物であった。
双眼に、冷たい光があった。
背後に、三十人あまりの家来をしたがえていた。
「庄野四郎五郎だな?」
義太郎は、この人物の顔には、あまり記憶はなかった。それほど、庄野四郎五郎は、五年前は、目立たぬ新参衆であった。
庄野四郎五郎は、いんぎんに頭を下げてから、
「城の平穏をみだしにお帰りなされた、と存ずる」
と、云った。
「なにっ!」
義太郎は、かっとなった。
「もう一度、申してみよ、牢人上りめ!」
「お手前様は、父君に、そむいて、この土地を去られた御仁でござる」
庄野四郎五郎は、冷やかに、云った。
「それが、どうした?」
「この五年の間、思考の力を喪失された主君を奉じながら、われら家臣が、かような山城で、いかに生き抜くべきか──筆紙につくせぬ労をし、ようやく自給自足の安泰を得たことを、申上げたい。勝手気ままな放浪の果てに、山へ登ってきて、自身が新しい城主だ、とうそぶかれても、それは、通用せぬことでござる」
「黙れ! おのれは、主人に、毒を盛って、痴呆と化さしめ、|佞《ねい》|弁《べん》をふるって、家臣一同をたぶらかし、奸計を弄して、支配の座へおさまったのであろう。家老たちを殺し、追いはらい、やがて、折を見て、父上を亡きものにして、おのれが城主となろう、と思い上って居るに相違ない」
「あらぬ妄想は、迷惑至極──。お父上と、いささか、頭脳の働きが似申したな」
「庄野四郎五郎! わしが帰って来たので、狼狽いたしたろうな。……ひきつれて居るのは、手なずけた護衛隊か。いつの世にも、成り上りの奸物めは、心を許す側近を一人も持たず、あらゆる者を疑うあまり、四六時中、おのが身を護衛させる。……見おぼえのある顔も、相当交って居る!」
義太郎は、庄野の背後にならんだ屈強の旗本たちを睨みまわし、
「貴様ら、牢人上りの新参めの目付になって、よろこんで居るのか。恥を知れっ!」
と、呶鳴りつけた。
庄野四郎五郎は、眉宇を動かさずに、
「当城にては、若を、食客として待遇つかまつる」
と、宣告した。
「うたうな、奸物! 今日からは、わしが、城主だ!」
「あまり、事々しゅう、楯をつかれると、好まざる仕儀と相成りますぞ」
「おう──好まざる仕儀とは、いかなる処置をとると申すのだ! やってみせろ!」
義太郎は、一歩出た。
とたんに、旗本衆から、数人が進み出て、庄野の前に立った。
義太郎は、正面に対峙したのが、かつては、小姓として、自分に、狩などには常に随っていた者であるのを、みとめて、血が逆流した。
「|栗《くり》|生《お》、おのれもか!」
「若! ここは、伊吹野城ではありませぬぞ。……庄野四郎五郎殿の苦心があったからこそ、このように、大庄山上に、奈良城家の面目が保たれ、三百余の者どもが、日々を、なんの不安もなく、すごしていられるのでござる!」
「ほざくなっ! おのれら一同、この奸物めに、たぶらかされて居るのだ! 目をさませ、目をっ──」
義太郎は、絶叫した。
「若──」
庄野四郎五郎が、冷やかに、呼んだ。
「休息なさる小屋は、用意いたした。そこでひとまず、心をしずめられては、いかがでござろう」
「城主は、城主の館に住むぞ。食客にするなどと、小ずるく、だまそうとしても、どっこい、そうは参らん。……おのれこそ、考えなおせ!」
「あくまで、埒もない横車を通そうとなさるなら、やむを得ませんぞ」
「どうする! さあ、どうするのだ?」
義太郎は、よもや、若殿として仕えて来たこれら旗本衆が、自分に討ちかかるとは、思わなかった。
──やれるものなら、やってみろ!
その気持であった。
「山城の平和のためでござる!」
「わしを、討ちとると云うのか! おもしろい! やってみせろ! 栗生! 貴様っ、わしが討てるか! 討てるなら、討ってみろ!」
義太郎は、一歩迫った。
栗生大三郎の顔面がゆがんだ。
「来い! 勝負してくれる!」
「待たれい!」
渡廊を奔って来た者があった。
もう白髪の老武者であった。伊吹野城にあっては、旗本隊将をつとめていた蜂尾兵庫助であった。
「若!」
必死の形相で、
「は、はやまられてはならぬ!」
と、叫んだ。
「兵庫助か──。わしは、はやまってなど居らぬぞ。庄野四郎五郎めにたぶらかされた家臣一同の目をさましてくれるのだ!」
「それが、はやまったお振舞いでござるのじゃ。……いきなり、城内にお入りなされても、五年の年月をかけたくらしぶりが、お判りになる道理はござらぬ」
「兵庫! おのれもまた、庄野四郎五郎にたぶらかされた一人か!」
「ちがい申す。この爺が、たぶらかされて、のめのめと生きのびるような卑劣者と思いめさるか。──ともかく、おしずまりなされ。この爺に、この場は、まかせて頂きたく存ずる」
なだめられて、義太郎は、ようやく、気色をしずめ、
「わしは、食客とはならぬ。これは、ことわっておく」
と云ってから、庄野四郎五郎へ、鋭い視線を向けて、
「庄野、おのれは、気丈夫な娘を持って居るな。伜でなくて、気の毒であったわ」
と、あびせた。
山城異変
蜂尾兵庫助は、義太郎を、館の奥の一室へ、ともなった。
そこは、城主の居間のようであった。
主をうしなって久しいらしく、カビくさい、しめった空気が、よどんでいた。
「若──」
兵庫助は、暗然とした面持で、義太郎を見まもった。
「思慮がなさすぎますぞ」
「あれよりほかに、奸臣めらをおさえつけるすべがあるか」
「庄野四郎五郎は、策師でござる。若が、がむしゃらに、おさえつけようとしても、おさえつけられるものではござらぬ」
「わしは、やる。庄野ごとき新参者に、負けはせん!」
「若! 策師には、策をもって対抗いたさねばなり申さぬ」
「わしが、無策だというのか。ははは……、庄野に手出しをさせぬ手は、すでに打ってあるぞ」
「いかなる手を打たれたのじゃ?」
「庄野の娘を、虜にしてある」
「えっ?」
兵庫助は、愕然となった。
「ははは……、どうだ、わしの策は?」
「上策とは、思い申さぬ」
兵庫助は、かぶりを振った。
「ほかに、策があるか」
「若は、まだ、若すぎますわい。……当城のほとんどの者は、庄野に心服いたして居り申す。若が、新城主を宣告されても、これを、受ける者は、まず、見当り申さぬ」
「それは、どういうのだ?」
「庄野は、人心を収攬する智慧をそなえて居るのでござる。この年寄も、庄野の頭脳の前には、屈服いたすよりほかはなかったのでござる」
「………」
「若──。この山城の者どもは、もはや、伊吹野城の家臣ではござらぬ。そのことを、よく、わきまえて下されい。若は、孤立されているのでござる」
「孤立をおそれていては、何もできぬ!」
義太郎は、叫んだ。
兵庫助は、溜息をついた。
「兵庫! 生命が惜しいのか?」
「生命が惜しゅうて、申しているのではござらぬ。若のおん身を気づかっているのでござる」
「心配するな。わしは、負けはせぬ。必ず、主人の座は、うばいかえしてみせる」
兵庫助は、しばらく、考えていたが、
「それでは、ここ数日だけでも、おとなしゅうしていて下されぬか」
と、たのんだ。
「おとなしゅうして居ったら、どうなるというのだ?」
「それがしに、いささか、考えがござる」
兵庫助が、義太郎に約束させて、出て行くと、入れちがいに、庄野四郎五郎が、姿をみせた。
義太郎は、わざと、寐そべった。
「うかがい申すが、娘を、どうされたな?」
「どうされたとは、なんだ?」
「どこかへ、監禁でもされたか、おききいたす」
「知らんな」
義太郎は、そらとぼけた。
「湖畔で、娘に出会われたのでござろう。乗りつけられた馬は、娘のものでござった」
「空き馬が、うろうろして居ったので、乗って来たまでだ」
「嘘をつかれるのは、あまりお上手ではないようでござる。そのお顔に、それがしの娘を生捕ったと、書いてござる」
「お主も、娘は、可愛いであろう」
「親でござるゆえ──」
「もし、お主の娘が、監禁されていたとしたら、どう出るつもりだ?」
「若が、そのような悪党とは知り申さなんだ」
庄野の面上に、凄じい怒気がみなぎった。
「どうする?」
義太郎は、にやりとした。
「わしを殺せば、娘は、ある場所で、餓死するぞ!」
「若!」
庄野の両のこぶしが、ぶるぶるとふるえた。
「庄野四郎五郎! わしは、新城主だぞ。それを、みとめてもらおう」
「………」
「みとめぬか!」
義太郎は、呶号した。
庄野は、苦渋の顔を、義太郎に向けて、憤怒を抑えていたが、
「みとめれば、娘をおかえし下さるのか?」
「お主の娘を、妻にしてくれよう」
庄野は、目を伏せて、しばらく、沈黙をまもっていたが、やがて、口から押し出すような語気で、
「やむを得ぬ仕儀と存ずる」
と、こたえた。
「よし、きまった」
義太郎は、庄野を、冷やかに見据えて、
「ところで、お主は、山城の一同を、いかなる口舌を弄して、心服させたか──それをきかせてもらおうか」
「誠意でござる」
「誠意だと──」
義太郎は、哄笑した。
「ふざけるな、庄野! 誠意などというしろもので、人心がつかめるか。お主が、弄した奸策を問うて居るのだ?」
「奸策など、それがしは、用いたことはござらぬ」
庄野は、にらみかえした。
これ以上の問答は無用と知ったのであろう、庄野四郎五郎は、座を立った。
「娘は、今日中につれて来て頂きたい」
「娘を、つれて来れば、わしを殺すであろう」
「………」
「当分は、娘を、某処にかくしておこう」
「そのような、無謀は、許されぬことでござる!」
「娘をつれて来た時は、すでに、わしの妻になって居る」
義太郎は、云いはなった。
庄野は、出て行った。
しばらく、そこに寐そべっていた義太郎は、頃あいを見すまして、そっと、起き上った。
広縁から庭へ降り、中門へむかって歩き出した。
とたんに──。
身をひるがえしざま、地を蹴って、一角へ奔った。樹蔭にひそんでいた者が、あわてて逃げ出そうとするのを、一撃で、なぐり倒した。
目付の一人であった。
「庄野の犬か、おのれ!」
馬乗りになって、顔面がゆがむほど、鉄拳をくれた。
「若──。お、お待ち下され!」
悲鳴をあげながら、目付は、叫んだ。
「なにを待てとほざく!」
「犬ではござらぬ」
「犬ではない?」
義太郎は、すばやく、あたりを見まわして、
「参れ!」
と、命じた。
人目のない場所をえらんで、向い立つと、
「犬ではないのに、なぜ、わしを見張って居った?」
「蜂尾兵庫助殿より命じられて、若のおん身を──」
「守っていた、というのか?」
「はい」
「守るにしては、弱すぎるぞ」
義太郎は、あざ笑った。
「若は、ご存じありませぬのか?」
「何をだ?」
「屈強の若い衆は、山城には、居らぬのでござる。庄野殿を護衛する旗本衆三十騎をのこして、みな城を出て居ります」
「どこへ参って居るのだ?」
「道つくりでござる」
「わしが登って来たけもの路には、人影もなかったぞ」
「道は、あらたに、密林をきりひらいて、つくって居ります。降りるはたやすく、登るのは困難なように──さまざまの障碍を設けているのでござる」
「道をつくって、どうする所存だ?」
「若──。山城には、もはや、あと一年も、くらす兵糧は、ないのでござる」
目付は、こたえた。
「なに! それは、まことか?」
義太郎は、愕然となった。
「ごく少数の人々しか、知っては居りませぬが、まことでござる」
「そうか。しかし、下界に、食いものはないぞ」
「は──?」
「兵庫助は、どこだ?」
「おのが小屋かと存じます」
「案内せい」
蜂尾兵庫助の根小屋は、密林をへだてて、砦をなした東南の一角に|存《あ》った。
平地はすべて、たがやされ、野菜がつくられていた。
小者たちが、数人そこで立ち働いていた。
義太郎が、小屋に入ってみると、兵庫助は、薬草をきざんでいた。
義太郎は、前に坐ると、
「道をつくって居るそうだな?」
「目付が申しましたか」
「道をつくって、伊吹野へ、糧秣を奪いに行く所存か?」
「いずれ、伊吹野城を奪いかえさねばなり申さぬ」
「兵庫にだけ、打明けてやる。伊吹野城は、焼け落ちた」
「えっ?! そ、それは、まことでござるか?」
「田丸豪太夫は、家臣大半にそむかれ、翼をもがれた猛禽よ。これを、ふみつぶすには、手勢百もあれば足りる」
「何者に、襲われて、炎上いたしましたか?」
「わしを、ここへ案内してくれた黙兵衛の話では、京から下って来て、公卿館の食客になった天満坊という乞食坊主のしわざ、と申していたな。飢えた窮民どもをかき集め、これを軍勢とみせかけて、巧みに、豪太夫を城外へおびき出し、その隙に、城に火をかけたらしい」
「城内には、おびただしい糧秣のたくわえがあった由でござるが……、それも焼けましたろうか?」
「百姓どもが、掠奪したようだぞ」
「まさか──?」
兵庫助は、首をかしげた。
それから、鋭い表情になって、
「若──。たとえ、地上の建物は、焼け落ちても、田丸豪太夫は、城を出て行きはいたしますまい。……伊吹野城には、地下に、秘密の広い倉がござる」
「わしは、知らぬぞ」
「殿とわれら数人の者しか、知り申さぬ。……その倉に、豪太夫は、豊富な食料をたくわえて居るに相違ござらぬ」
「……?」
兵庫助は、つづけた。
「地上に在った倉にも、多量の糧秣がたくわえてあったに相違ござるまいが、それを、ことごとく奪われても、豪太夫は、ビクともいたしますまい。地下倉には、それに数倍する食糧がたくわえてあるはずでござる。……ところで、その地下倉には、城外からの地下道が、掘り抜かれてあったことを、若は、ご存じござるまい」
「地下道が──?」
「左様──。お父上は、用意周到のお方でござった。伊吹野城を築かれる際に、ついでに、城外へ脱出できる地下道をも、掘り抜かれたのでござる。……畜生藪が出口でござった」
「そうか──。わかったぞ。黙兵衛が、畜生藪の中で、悠々とくらして居ったのは、その抜け道を知っていたからに相違ない。それをくぐって、糧秣をぬすんでいたものであろう」
「若が、三十騎も率いて行かれるならば、伊吹野城を奪取することは、造作もござらぬ。田丸豪太夫が、まだ、その地下道を知って居らぬのが幸いでござる」
「地下倉の糧秣取りの道づくりか」
義太郎は、ちょっと考えていたが、
「兵庫──。きくが、庄野、矢倉、藤掛の三奸臣の横暴を、このまま、黙過して居るわけではあるまいな? 時節が到来すれば、|彼奴《き ゃ つ》らを討つ存念は、あろうな?」
「………」
「兵庫、返辞をせい」
「若は、気早やにすぎますぞ」
「ははは……、兵庫、存念は読めた。……わしが、決行する時は、家臣どもを説き伏せい」
義太郎は、云いおいて、小屋を出た。
城を出た時、義太郎は、馬上の人となっていた。
風の迅さで、疾駆して行く義太郎を、たとえ追おうとする者があったとして、それはかなわなかったであろう。
密林の中の|杣《そま》|道《みち》を駆け抜けると、樹木が一本もない草原へ出た。
それを、まっしぐらに横切って行った義太郎は、ふたたび、密林に入った。
密林は、千仞の断崖で切れていた。
断崖ぶちで、馬をすてた義太郎は、
「吾作!」
と、呼んだ。
「吾作は、どこだ?」
こだまが、かえって来て、しばらくしてから、とある巌のあいだから、吾作の首がのぞいた。
「ここでございますよ、若──」
義太郎が近づいてみると、巌の下面が、くり抜かれたような通路になっていた。
それを抜けると、|截《き》り|殺《そ》がれた絶壁に、岩の頭が、のぞいて居り、それに、藤かつらで編んだ桟道が渡してあった。
その桟道を渡って行くと、とある部分が、そっくり、丸くえぐりとられたように、凹みがつくられ、小屋ひとつ建てられるほどの空地ができていた。
そこに、かなりの大きさの洞窟があった。
原始時代に、けものどもと闘った人類のすみかであろう。
「どうした、娘は? おとなしゅうして居るか?」
「あきらめた様子でございます」
「じゃじゃ馬を、これから、|牝《めす》らしゅう馴らしてくれる」
義太郎は、笑って、吾作を、桟道にのこしておいて、空地へ、降り立った。
その瞬間であった。
洞窟の中から、鹿がはねるようなしなやかで敏捷な速影が、義太郎めがけて、躍りかかって来た。
「おろか者っ!」
義太郎は、娘の手にひらめく白刃に、いささか狼狽して、どなった。
もし、これをかわせば、速影は、そのまま、勢いを止められずに、断崖から、空中へ、とび出してしまうであろう。
やむなく、義太郎は、一歩も動かずに、この突進を、受けた。
しかし、義太郎は、兵法者ではなかった。とっさの間に、無手で、この必殺の白刃を奪いとる業をそなえてはいなかった。
ひらめいて来る白い光にむかって、拳をふるって、はねとばそうとした。
ぐさ、と二の腕へ突き刺さる衝撃に、
「うっ!」
と、うめきつつ、義太郎は、一方の拳で、娘の顔面を、なぐりつけて、足元へ、ころがした。
それから、流石に一呼吸してから、短剣を、二の腕から抜きとり、
「勇気のほどは、ほめてくれる」
と、云った。
庄野四郎五郎の娘美代奈は、烈しくあえぎながら、
「ころせ!」
と、絶叫した。
こだまが、こだまを呼んで、遠方へ吸い込まれて行った。
「ははは……、せっかくの虜を、むざと殺してなるか。……美代奈と申したな。そなたの父に会うて、そなたを、わしの嫁にしてくれる、と宣言して来たぞ。安んじて、わしに抱かれるがいい」
「いやだ! 死んでも、いやだ!」
「ははは……、いまに、死んでも、はなれたくなくなるぞ」
義太郎は、いきなり、美代奈へ、当て身をくれて、気絶させると、かつぎあげて、洞窟の中に入った。
内部は、ひんやりとして、住み心地はよさそうであった。
十歩も奥に入ると、けものの皮が敷かれ、さまざまの道具も置かれていた。
義太郎は、美代奈を、そこへ、横たえると、二の腕の傷の手当をした。
手当を終えて、ふと、視線を落すと、美代奈が、意識をとりもどして、じっと、睨みあげていた。
「わしが、憎いか?」
「………」
「憎まれる理由はないぞ」
「………」
「そなたの父は、主君であるわしの父に、毒を盛って発狂させ、家臣の主座によじのぼった奸臣だぞ」
「ちがいます!」
美代奈は、起き上って、じりじりと、あとへ退った。
「わたしの父は、そのような悪事は、行いませぬ」
「では、どうして、牢人上りの新参衆である庄野四郎五郎が、山城の主権をつかんだのだ?」
「それは……、父が、経営の才があったからなのです」
「譜代の老臣らが、三名とも、いなくなったのは、どうしたわけだ?」
「そんなことは、知りませぬ」
「わしが、もどって来ても、城主の座に据えようとは、せなんだぞ!」
「貴方様は、奈良城家を、家来を、すてた御仁です」
「もどって来たではないか」
「五年前とは、事情が一変して居ります」
「だまれっ!」
義太郎は、美代奈に、とびかかって、ねじ伏せた。
美代奈は、すこしばかり抵抗したが、すぐ、敵わぬとさとったか、力を抜いて、まぶたをとじてしまった。
義太郎は、残忍な欲情にかられるままに、その帯をむしり取り、衣服の前を、ひきはだけさせた。
仄暗い洞窟の中で、美代奈の肌は、幻のような白さであった。
|肉《しし》のりはゆたかで、その白い肌に落ちた陰翳が、なまめかしく、美しかった。
「わしのものにするぞ!」
義太郎は、わざと大声で叫んだ。
美代奈は、死んだように、動かなかった。
義太郎は、その胸の隆起のひとつを、わしづかみにした。
「……あ!」
本能的な悲鳴をあげつつも、美代奈は、ひしと、まぶたを閉じていた。
まぶたを開かぬのが、唯一の抵抗のようであった。
義太郎は、野獣のように、白い肌をむさぼりはじめた。
美代奈は、ついに、さいごまで、なんの反応も示さなかった。
山城の本丸にあたる建物の奥では──。
庄野四郎五郎、藤掛左馬之丞、矢倉新兵衛の三重役が、|鼎《てい》|坐《ざ》していた。
いずれも、にがりきった面持であった。
営々として、この五年間、山城に、平和なくらしを保つことに努めて来た三重役であった。
下界と全く隔絶した山上で、数百人が生きのびるためには、筆紙につくせぬ苦労をはらわねばならなかった。
伊吹野城で、のんびりとくらしていた重臣たちの力をもってしては、とうてい、きり抜けられる困難ではなかったのである。
庄野四郎五郎は、伊賀国育ちで、山中のくらしには馴れて居り、敵勢に包囲された山頂の砦で、一年も籠った経験の持主であった。
その経験を生かして、大庄山で生きのびる方策をたて、実行して来たのであった。
庄野が中心的人物となったのは、当然であった。
狂気した城主の嫡男が、ひょっこり帰って来て、
「わしが新城主だ」
と、うそぶいても、それをすぐに受け入れるわけには、いかなかった。
「庄野殿──」
矢倉新兵衛が、口をひらいた。
「決断をお願いいたそう」
藤掛左馬之丞が、その言葉に合せて、
「やむを得ぬ仕儀かと存する」
と、云った。
「いや──」
庄野は、かぶりを振った。
「当城が、奈良城義胤所有であることは、誰人もみとめて居るところゆえ、その嫡子がこれを継ぐのに、なんのうたがいもない。……それを受け継がせずに、|弑逆《しいぎゃく》することは、ゆるされまい」
「しかし、このまま、義太郎殿を主座に据えては、山城の経営は──われわれの今日までの苦心は、水泡に帰す」
「と申して、主君の嫡子を弑逆すれば、われわれは、逆臣と相成る。家臣らのうちには、われわれに、必ずしも、心服している者ばかりは居らぬ。二派にわかれて、反目しあうようになれば、これは、一大事と相成る危険がある」
三重役は、ふたたび、沈黙を置いた。
藤掛が、急に、思いついたように、
「では、こういたそう。義太郎殿に、新城主たるには、それだけの器量を、発揮してもらうことは、いかがか?」
「と申すと?」
「伊吹野までの新しい道が通じたならば、義太郎殿に、三十騎あるいは四十騎を与えて、伊吹野城へ潜入してもらう。首尾よく、田丸豪太夫を討ちとることができたあかつきには、伊吹野城の城主として、われわれは、仰ぐことにする」
「成程──」
庄野四郎五郎は、藤掛左馬之丞の提案に、合点した。
「新城主たる面目を示してもらえるならば、われら一同も、納得いたすことになる」
「もし、義太郎殿が、田丸豪太夫から、返り討ちにあえば……、それは、それまでのこと。ともあれ、義太郎殿に、大将たる器量を示して頂くことにいたそう」
三重役の議は一決した。
「ところで──」
矢倉新兵衛が、心配そうな表情で、庄野を視た。
「美代奈殿は、いかがされたか? 義太郎殿が、なにやら、意味ありげな皮肉を云われて居ったが……」
「どうやら、虜にされて、どこかに監禁されて居るらしい」
庄野は、こたえた。
「不埒な!……義太郎殿に談判されるべきであろう」
「談判しても、解き放ってはもらえまい、と存ずる」
「しかし──」
「しばらく、知らぬ顔をいたしておこうかと、思って居る」
庄野は、沈痛な様子で、云った。
矢倉も藤掛も、庄野が、娘の美代奈を、いかに愛しているかを知っていた。
肚裡では、にえくりかえるほどの憤怒を持っているであろう、と察しがついた。
おちついているのが、ふしぎなくらいであった。
「義太郎殿が、美代奈殿を釈放するまで、黙って居るおつもりか?」
藤掛が、いたましそうに、問うた。
「それよりほかに、すべはござるまい」
「それでは、さんざもてあそばれることに相成り申すぞ」
「美代奈が、義太郎殿に出会うたのが、不運であった、とあきらめるよりほかはない」
庄野四郎五郎は、薄気味わるいくらい、冷静で沈着であった。
矢倉と藤掛が出て行くと、庄野は、はじめて、他人に見せぬ凄じい形相になって、宙の一点をにらんだ。
「青小僧め!」
八つ裂きにしてやりたいほどの憤怒を、炎のように面上から、噴き出させた。
腹心の部下が三名、音もなく、入って来た。
「八方をさがしまわりましたが、いまだ、どこに、監禁いたしたか、見当がつきませぬ。あと一日のご猶予を──」
と、一人が、乞うた。
「義太郎殿が、山上の地勢に通じて居るとは思われぬ。あるいは、味方して居る者が居るやも知れぬ。城内の者どもにも、監視の目をおこたらぬがよい」
庄野は、そう命じた。
公卿軍勢
かわききった街道を、十人を一伍とする軍兵が、黙々として、進んで行く。
右方に、松林をへだてて、海原がひらけている。
天も地もかわききっているために、海原もまた色あせたようにみえる。渡って来る風も、むし暑く、土ぼこりを吸いあげて、巻きあげる役にしか立たない。
隊伍は、およそ五百──五陣にわかれているが、いかにも、くたびれた行軍であった。
先陣につづいて、|輿《こし》が一列につらなっていたが、これには、軍勢にふさわしからぬ人々が乗っていた。
烏帽子に|直衣《の う し》すがたの公卿が三人──眉をそりおとした生白い|殿上人《てんじょうびと》たちが、いかにも、つかれた様子で、ゆられていた。
そして、そのうしろの輿には、女官が七人、いずれも、炎天の下の長旅に疲れはてて、ぐったりと脇息によりかかっているのであった。
「あ、あついの」
先頭の輿の公卿が、堪えがたそうに、つぶやいた。
「まだ、遠いのであろうか?」
うしろの輿の公卿が、同じくあえぎの声をあげた。
「四王天!……四王天!」
前の公卿が、のびあがるようにして、呼んだ。
脇を歩いていた公卿ざむらいが、
「呼びまするか?」
と、たずねた。
「うむ。これヘ──」
公卿ざむらいが、先陣へ向って、走って行くと、ほどなく、長髯の武者が、具足を鳴らして、ひきかえして来た。
「御用でござるか?」
「延正──、伊吹野は、まだ、遠いのか?」
「いや、もう四里ばかりに、近づき申した」
四王天延正という武者は、こたえた。
「四里もか」
殿上人は、うんざりした声音をもらした。
「たかが四里でござる。辛抱めされ」
四王天延正は、あきらかに、公卿衆を、軽蔑しきっている態度を示した。
「たのむ。……ここらあたりで、しばし、休息いたそう」
「陽が高いうちに、いそがねばなり申さぬ」
「し、しかし……、女官たちが、もう、これ以上は、堪えられまい」
たしかに、輿は、見かけたところは楽なようであったが、始終ゆれつづけて、疲れるものであった。
「ぜいたくを申されるな。徒歩の者どもの苦しさを、お考えなされい」
「わかって居る。……しかし、かよわい女官たちのことを、察してくれい。たのむ。ほんの四半刻でよい」
公卿は、たのんだ。
「それでは、少時の休息をつかまつろう」
四王天延正は、馬首をかえすと、先陣へもどり、
「止まれ! 休息だ!」
と、叫んだ。
先頭を進んでいた同じく長髯の武者が、ふりかえって、
「ばかな!……なんのための休息だ?」
と、睨んだ。
「中納言殿のたのみだ」
「なに!」
四王天延正とともに、この軍勢の指揮にあたる鷹森周防は、短気らしく、かっと目をひきむいた。
「周防──。ここらあたりが、ちょうど、場所としては、おもしろいぞ」
四王天延正は、意味ありげに、にやりとした。
「なんだと?」
鷹森周防には、すぐに、その意味が通じないようであった。
「かねて、思案のことだぞ」
「うむ。そうか!」
周防は、合点すると、
「よし! やろう!」
即座に、肚をきめた。
四王天延正は、大きく片手をさしあげて、振った。
「休息っ!」
全軍の足が、停められた。
兵たちは、思いがけぬ小休止を命じられて、おのおの松の木蔭をもとめて散らばって行った。
四王天延正と鷹森周防は、何ごとかを私語していたが、すぐに、一騎に命じて、各隊の隊長たちに、集合を伝えさせた。
輿の公卿たちは、隊長たちのあわただしい動きを、べつに気にもとめずに、仕丁に、湯をわかさせたり、薄茶を|挽《ひ》かせたりして、浜辺に出て、茶の湯をたのしもうとする模様であった。
四王天延正は、各隊長が集まると、険しく光る視線をめぐらして、
「ここで、あらためて、申すまでもないことだが、われらは、定住の国をもとめてさまようて居る、いわば、亡霊にひとしい軍勢だ」
と、云った。
どの隊長の顔にも、それを肯定する暗い表情があった。
延正は、つづけた。
「われらは、五摂家守護のために、三管領より遣わされた、寄合の軍勢であった。ところが、三管領が、京の都をすててしまったために、やむなく、一個独立したものとなって、五摂家に仕えるかたちをとらざるを得なくなった。しかし、われらは、あくまで、五摂家の家来ではない。三管領より遣わされた武辺者である。このことを、おのおのもまた、忘れては居るまい」
「さればと申して──」
隊長の一人が、声をあげた。
「われらが主人は、すでに、管領の地位を追われ、われらがことは忘れはてて居り申す」
「うむ、その通りだ。おのおのは、のこらず、主人をうしなった」
四王天延正は、にやりとしてみせた。
「申さば、主家を喪った者どもが、五摂家守護という名目だけをのこされて居る。その五摂家もまた、衰微した皇室を守護し奉る力も失って、朝臣にもあるまじく、都をすてて居る。さりとて、皇室の御料地たる能登、加賀、越前、摂津、丹波、美濃の国々は、すでに、大名どもの|押領《おうりょう》するところとなり、行ってこれを領する余地はない」
「では、何故に、この永旅を、されて居るのか? われわれは、禁廷御領地へ参るものと存じて、従って参り申した」
「そのことだ──」
廷正は、目顔で、一同に、もっと近くに寄るように命じた。
「四里のむこうに、伊吹野という一国があることは、すでに承知であろう。数十里にわたる肥沃の平野は、しかし、それがしの調べたところでは、水一滴もない荒土と化して居る。にもかかわらず、東山中納言殿は、伊吹野を、目ざして居られる。……それがしが、生きる能わざる荒野である、と忠告いたしたにもかかわらず、頑として、伊吹野へ行け、と命じられた東山中納言殿には、われらにかくした秘密がある、と察した。……この秘密は、何であったか?」
延正は、思わせぶりに、一同を見まわした。
どの隊長の顔も、好奇の色を示した。
東山中納言は、五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)の間に立って、それぞれの家領を差配する人物であった。
五摂家の家領は、あちらこちらにちらばっていたので、その水損や干損などの処置に、直接摂家自身でかかずらうことはなく、差配にまかせきりであった。
しぜんに、差配の東山中納言は、実際上の権力を得ていた。
尤も、戦乱がうちつづくうちに、家領からの収入も、目に見えて減少し、いまでは、一粒の納米もせぬ土地さえあり、差配人としての権力もあやしいものになっていたが、五摂家としては、差配人を責めるよりも、機嫌をとらねばならぬなさけない状態であった。
東山中納言は、三管領から遣わされた軍勢を、家領を守るという名目で、わが下に置いていたが、先月末、突然、家領見廻りの布告を出して、自ら都を出て来たのである。
めざすのは、五摂家の家領ではなく、伊吹野であった。
その伊吹野に、東山中納言は、何か秘密の目的を抱いている。
「四王天殿は、中納言の秘密をさぐりあてられたか?」
隊長の一人が、のど奥を鳴らしてから、問うた。
延正は、ふたたび、にやりとした。
「中納言殿がひきつれて来た御所の六位蔵人|壬《み》|生《ぶ》なにがしの口をひそかに割らせてみた」
一同は、息をのんだ。
「壬生が申すには、二十年のむかし、五摂家では、兵火をまぬがれるために、財宝をひとまとめにして、ひそかに、都から何処かの国へ、運ばれた、という。あるいは、その財宝が、伊吹野にかくされているのではあるまいか、と──」
延正は、そう告げてから、あらためて、隊長たち一人一人の顔を、ゆっくりと見まわした。
「もし、これが事実とすれば、おのおのは、どう考えるか──その意見をきこう」
延正に、指名された一人は、
「五摂家守護の役なれば……」
と、こたえた。
これをきくや、鷹森周防が、高い笑い声をたてた。
「はっはっは……、東山中納言が、その財宝を、五摂家から命じられて、取りにきたと思っているのか、お主は──。老人の甘さにも、程があるぞ」
「では、中納言が、一人占めされるこんたん、と看られるのか?」
「あたりまえではないか。東山中納言の強欲を、お主は知らんか」
「それは、許せぬ」
その隊長は、憤然となった。
次に、延正から、指名された者は、
「二十年前と今日では、禁廷の事情は一変いたして居り申す。五摂家が、皇室を守護なされて居るのなら話は別でござるが、どの家も、おのれをまもるに必死のていは、あさましい限りでござる。財宝を返す必要は、さらにござるまい」
と、云った。
さらに、次つぎと、意見が出された。
大半の者が、その財宝は、もはや、五摂家のものとみなすことはない、という意見を述べた。
四王天延正は、ききおわると、
「われらは、まず、われら自身が、生きのびることを考えねばならぬ、東山中納言殿が、私利私欲のために、われら一軍を動かしているとすれば、これは、許されぬ。……それがしと鷹森周防は、この場に於て、東山中納言を糾問いたそうと思う。場合によっては、非常の手段をとるやも知れぬが、その時、おのおのは、かまえて、兵の動揺を抑えてもらいたい。……いかがだ?」
流石に、一同は、沈黙した。
下剋上の世の中であった。家来が、主人を倒すことは、珍しくはなかった。
しかし、武士はまだ、公卿に対して、無条件な敬意を抱いている時世ではあったのである。
ところで──。
輿の女官の中に、一人、目のさめるように美しい上臈が交っていた。
まだ、十七八歳であろう。
あまりに、肌白く、|眉《み》|目《め》がろうたけて完全であると、いっそ、いのちが、はかなげにさえ思われる。
烈しく灼きつける初夏の陽ざしに、透き透るような肌は、堪えられぬか、とみえる風情であった。
老いた老女がかしずいていたが、なにか云いかけられても、なかば放心気味のまなざしを、松の枝ごしに望む海原へ送って、沈黙をまもっている。
「美夜──」
むこうの輿から、東山中納言が、呼んだ。
「浜の砂地で、茶の湯をしようぞ。……参れ」
美夜と呼ばれた上臈は、その言葉も、きこえぬように、|眸子《ひ と み》をじっとうごかさなかった。
東山中納言は、美夜の伯父であった。自分に子のない中納言は、美夜に、わが娘のような慈愛をそそいでいた。
「姫さま──」
侍女が、声をかけた。
「中納言様が、茶の湯をしようと、仰せられて居ります」
「え──?」
美夜は、われにかえって、
「茶の湯を?」
びっくりして、伯父の方を見やった。
いくつかの山を越えて来るあいだに、渓谷にはしだいに汲むべき水がなくなって、いま、後備の小荷駄の水は、極度に節約しなければならないくらい乏しくなっていたのである。
兵らは、この休憩の時間にも、水を与えられてはいなかった。
|渇《かつ》えた兵らに、茶の湯の催しを見せつけるのは、あまりに、むごいのではあるまいか。
美夜は、かねてから、下の者に対して、いささかも心をつかわぬ伯父の冷酷な気象が、好きではなかった。
しかし、伯父に命じられては、従わざるを得なかった。
輿を降りて、歩き出した時、近くに|憩《いこ》うていた兵たちが、一斉に、視線を集中した。
「……まるで天女じゃのう」
「目がくらんで、いよいよ、のどがかわくわい」
そんな声が、美夜の耳にとどいた。
松林の中には、|緋《ひ》|毛《もう》|氈《せん》が敷かれ、茶の湯の道具が配置されてあった。
そこから、渚までは、かなりの距離であった。
渚までの砂地が、目にいたいほど白く、いちめんに、貝がちらばって、美しく光っていた。
「さあ、ひとつ、たのもうぞ」
東山中納言は、どっかと、緋毛氈の上に腰を下した。
「伯父上様──」
美夜は、中納言のむかいに坐って、心の重い面持になり、
「水が乏しい、ときいて居ります。このような催しを、兵らに見せては、うらみを買うのではありますまいか?」
と、云った。
「なにを申す、むだな心をつかわぬがよい。そなたは、近頃、なにやら、心細げな浮かぬ顔をして居るが、加減でもわるいのではないか?」
「いえ、そんなことは、ありませぬ」
「すべては、わしにまかせておけばよい」
他の公卿が、座についてから、風流の宴がひらかれた。
東山中納言は、こうした催しのための品ものを、ことごとく、小者に持参させていたのである。
横笛や、筝や鼓や太鼓まで、用意されていた。
中納言は、茶の湯がおわると、
「ひとつ、幸若でもやろうかな」
と、かたえの同じ羽林家の少将たちに、|連《つれ》を所望した。
笛が吹かれ、太鼓が鳴らされはじめた。
中納言と少将たちは、都を出る時おぼえたばかりの「夜討曾我」を、舞いはじめた。
これを、街道の左右に憩うていた兵たちは、望見して、
「ちぇっ! いい気なものだのう」
「くそ、莫迦にしてやがる。今夜のねぐらもきまって居らぬに、なんのざまだ!」
と、口々にののしりはじめた。
そして──。
先陣で、座を組んでいた隊長たちは、人もなげな公卿たちの振舞いに、非常の決意をかためた。
「四王天殿──」
隊長の一人が、代表して、声を発した。
「東山中納言に、非常の手段をとられること、われわれ一同、見て見ぬ振りをつかまつろう」
「うむ──では」
延正がうなずいてみせると、隊長たちは、一斉に起って、馬を駆けさせて、おのおのの隊へもどって行った。
風流の座では、美夜だけが、武者がたのせわしい動きに、不安をおぼえた。
中納言はじめ公卿たちは、幸若舞いに、夢中であった。
「鷹森──やるぞ!」
四王天延正は、云った。
「うむ。……もし、斬る時は、わしに、やらせろ」
鷹森周防は、そう云って、にたりとした。
無数の戦場を駆けめぐった荒武者であった。人を斬ることなど、大根を切ることぐらいにしか思っていなかったし、公卿に対する尊敬心も持ってはいなかった。
恰度──この時。
かなり、沖あいに、釣り舟が、波にゆられていたが、胴の間に寝そべっていた釣り人がむっくりと起き上った。
九十九谷左近であった。
「勘念──」
東の岬のかげにある|古《こ》|刹《さつ》の|納《なっ》|所《しょ》が、いまでは、左近の唯一の家来になっていた。
坊主あたまに、鉢巻をして、舟をこいでいた。
「猿楽の音が、きこえるぞ」
「きこえますな」
「地獄の野で、猿楽をやっているとは、|解《げ》せん」
勘念は、目をほそめて、陸地へ、じっと視線を送っていたが、
「軍勢でござる」
と、告げた。
「軍勢?」
左近も、目をこらした。
彼方の松林のむこうに、旗幟が見わけられた。
「なるほど──軍勢だな。伊吹野へやって来る軍勢がいたとは?」
「伊吹野城が焼け落ちたときいて、隣国の大名が、奪いにやって来たのでござろうか?」
「荒廃した野のまん中にある焼け城を奪ったところで、どうなるものでもあるまい。土地をもとめてうろついている落人の群だろう。……舟を寄せてみるか」
「危険ではありませぬかな?」
「小魚を二三尾ころがしてあるこの小舟に、なんの危険がある。寄せろ」
左近は、命じた。
左近は、多門夜八郎に、決闘を挑んで敗れ、手負うて、その寺院によろけ込み、居候しているうちに、この勘念を、家来にしたのであった。
古刹には、九十にもなろう住職がいたが、左近が、身を寄せて、数日経たぬうちに、他界したのであった。
いまでは、そこが、左近のねぐらになっていた。
左近が、いまなお、伊吹野を見すてずに、とどまっているのは、ふたつの理由があった。
多門夜八郎に、再度の決闘を挑むこと。これがひとつ。
もうひとつは、公卿館のあるじ泰国清平が、おびただしい金銀をどこかに隠匿している事実を、たしかめること。あわよくば、それを、奪いとってやろうという野心を起しているのであった。
「落人の群なら、餌を与えてやれば、一躍、大将になれるかも知れぬ」
左近は、つぶやいた。
兵法者として、剣ひとすじに生きようとしていた左近の心中に、いつの間にか、変化が起っていた。
左近の釣り舟が、渚ぎわまで近づいた時であった。
東山中納言の舞う緋毛氈のまわりを、四王天延正、鷹森周防はじめ、十数騎が、どやどや、とりかこんだ。
中納言も、少将らも、自分たちの幸若を、見物に来たのだと思い、得意げに、舞いつづけている。
延正が、ずかずかと、緋毛氈の上へ、土足をふみ込ませて来た。
「なんじゃ!」
中納言は、かっとなって、
「無礼であろうぞ、四王天!」
と、叱咤した。
「中納言殿に、うかがいたい儀がござる」
「だまれ! われらが愉しみをさまたげ居って──下れ! 下れっ! 無礼者めが──」
中納言は、いきなり、扇子で、延正の顔をひっぱたこうとした。
延正は、すかさず、むこう|臑《ずね》を蹴とばした。
中納言は、ぶざまに、ひっくりかえった。
「な、なにを、いたす?」
中納言の顔には、はじめて、恐怖の色が刷かれた。
「おとなしゅうされるなら、生命をいただこうとは申さぬ」
「いったい、こ、これは、なんの謀叛じゃ?……われらを、なんとするのじゃ?」
「中納言殿。まず、用件を申す前に、知っておいて頂こう。……お主らは、ここでは、公卿の威光など、蛍の明りほどもなくなって居るのだ。そこいらの小者、雑仕のたぐいと、なんらかわって居らぬ腰抜けでしかない。このことを、しかとおぼえておいてもらおう」
そうあびせられて、中納言はじめ公卿たちは、おののいた。
「たったいままで、大層に威張りかえって、われわれを家来のように、あごで使って来たが、笑止と申すほかはない。京を出た時は、すでに、お主らは、あわれな|木《で》|偶《く》と化して居ったのだ。それに、気がつかなかったおろかさを悔いるがよかろう」
「な、なにが、恨みで、このような、叛心を起したのじゃ?」
「叛心? まだ、目がさめぬか! この軍勢を率いるのは、お主ら腰抜け公卿ではないぞ! この四王天延正だ!」
「な、なんという、横暴な!」
「ほざくなっ! 地べたに|跪《ひざまず》いて、生命乞いをするのを忘れるな! よいか! 軍勢の大将として、お主に、尋問することがある。つつみかくさず、こたえい。もし、ごまかす時には、そっ首を刎ねるぞ!」
延正は、いきなり、ぱっと抜刀してみせた。
中納言たちは、悲鳴をあげた。
「よいか! かくすな! ありのままを、こたえい。……伊吹野は、旅人の噂によれば、水一滴もなく荒土と化して居る。それを知りつつも、お主は敢えて、そこへおもむこうとして居る。何かのこんたんがあってのことに相違あるまい。……白状せい!」
四王天延正は、東山中納言を睨みすえて、呶鳴った。
「伊吹野は、これまで、一度も兵火に遭わなかった土地ときく。雨が降らぬのは、日本全土じゃ。明日にも、雨が降れば、伊吹野は、ふたたび、沃野にもどろう。……伊吹野を、しばらくのすみかにするのに、なんのふしぎがある。あらぬ疑いをかけるのは、武家と申す者の悪癖であろう」
「はっはっは……。公卿の口舌にだまされるほど、この四王天延正は、甘くできては居らぬぞ」
延正は、いきなり、中納言の肩を蹴った。
「な、なにをいたす! 無礼な!」
中納言は、恐怖と憤怒で、真っ青になった。
「おそろしいか、中納言?……お主ら堂上は、生れて一度も、生命の危機にさらされたこともなく、ぬくぬくと、酒をくらい、女を抱き、猿楽を舞うて居った。ここらあたりで、一度、斬られるおそろしさをあじわってみろ」
延正は、中納言の鼻さきへ、白刃をつきつけた。
「わしを、斬って、なにになるのじゃ?」
「伊吹野へ参ろうとするこんたんを白状せぬかぎり、お主のそっ首を刎ねることぐらい、大根を切るよりも造作はないぞ」
延正は、太刀を、ふりかぶってみせた。
中納言は、悲鳴をあげた。
他の公卿たちは、地べたへ、額をこすりつけた。
「ゆ、ゆるせ!」
中納言は、見栄をすてて、合掌した。
「では、白状せい」
「四王天──。わしを、責めて、なにを、云えと申すのじゃ?」
「公卿という奴は、首を刎ねられようとしても、なお、たぶらかそうとする小ずるさをすてぬ。……知って居るのだぞ、中納言」
延正は、にやりとした。
「伊吹野にある公卿館に、五摂家がはこんだ金銀を、お主は、ねらって居ろう。……どうだ?」
「………」
中納言は、愕然となって、少将たちを見まわした。
この中に、自分を裏切った者が居るのではなかろうか、と猜疑したのである。
延正は、その様子を眺めて、せせら笑った。
「中納言! お主が、都を出る時から、このことを、それがしは、知って居ったぞ。……どうだ!」
火辺水辺
東山中納言は、屈服した。いや、そうみえた。
「武力の前には、われらも敵わぬ。四王天──、そちの申し条に従おう」
中納言は、云った。
「公卿館に、五摂家の金銀が、預けられてあることは、やはり、まことであったのだな?」
「相違ない。……但し、公卿館の泰国清平と申す者、なみなみならぬ気骨の郷士ゆえ、なまなかのことでは、口を割らせることはできぬ」
「ははは……。こちらには、五百騎がござるぞ」
「四王天──。泰国清平を斬るは、たやすい。口を割らせることは、困難じゃ、と申して居るのじゃ」
「中納言殿には、口を割らせる策がある、と申されるのか?」
「あるからこそ、はるばると、参ったのだ」
「どうかな」
延正は、侮蔑の目をくれて、
「ともかく、いまから、お主らは、われわれの指揮に従う。一挙手一投足たりとも、おのが自由にはならぬ。輿などは、もってのほかだ」
「われらに、歩けと申すのか?」
「馬をくれる、といっても、馬には乗ったこともない、なさけない御仁だからのう。歩いてもらうよりほかはない」
「そんな、無茶な! ひどいではないか!……馬でよい。馬をくれ」
中納言は、いざって、延正の前に寄ると、鎧の草ずりをつかんだ。
いかにも、惨めで、卑屈な哀訴ぶりであった。
それが、つい、延正を、油断させた。
「女子のように、横乗りで行くか。……おい、公卿衆へ、馬をくれてやれ」
延正が、後備隊へ、叫んだ瞬間であった。
中納言は、延正の腰の脇差を、抜き取りざま、その脾腹へ、力まかせに、突き刺した。
「う、うっ! な、なにをするっ!」
延正は、苦痛に堪えつつ、中納言の頸を締めつけようとしたが、力がともなわず、大きく、上半身を傾けた。
中納言は、死にもの狂いに、脾腹を、ひとえぐりして、大きく、喘いだ。
「鷹森っ! 鷹森っ!」
延正は、地べたをはいずりながら、周防を呼んだ。
鷹森周防は、そばへ歩み寄ったが、意外な冷酷さで、延正の死の苦しみを見下した。
「延正、不覚だぞ!」
と、あびせた。
「周防! 手、手当を──」
延正は、片手をさしのべた。
鷹森周防は、四王天延正の手当をするかわりに、東山中納言に対して、抜き討ちの一太刀をあびせた。
「げえっ!」
肩を割りつけられて、中納言は、ひところびすると、生きものの本能で、狂ったように遁げ出した。
「ふん──」
周防は、せせら笑った。
「どこへ、にげ出すというのか」
中納言は、松林から渚へ、遁れ出ると、
「たすけてくれっ!」
と、絶叫した。
中納言の必死の目は、ちょうど渚に乗り着けた釣り舟を、みとめていた。
九十九谷左近は、舟から、降りると、ゆっくりと、中納言に近づいた。
中納言は、左近に、しがみついた。
「た、たすけてくれ!……死、死にたくない……た、たすけて──」
「公卿か──」
左近は、中納言を、つきはなした。
中納言は、また、砂をひっかくようにして、左近に、匍いよると、すがりつこうとした。
左近は、一歩はなれて、
「血が流れすぎて居る。公卿でも、野郎の玉は股間にぶらさげているはずだぞ。往生際は、いさぎよいものにしろ」
「お、おねがいじゃ!……い、いま、死にとうは、ない。……た、たすけて、く、くれるなら、姫を──、姫を、さ、さしつかわす」
「姫?」
「天、天下一の、美、美女じゃ」
「ふん──。あさましゅう、ほざくの」
左近は、中納言を、見すてて、歩き出した。
中納言は、力つきて俯伏した。
十指で、砂をひっかきつつ、なにやら、うわ言のようにもらしていたが、そのうちに、ぐったりとなった。
左近は、軍勢から、かなりの距離を置いて、松林に入ると、じっと、すかし見た。
呶号が起り、白刃が、閃くのが、みとめられた。
四王天延正が、鷹森周防の裏切りをさとって、手負いの身をはね起して、斬りかかったのである。
「くたばれっ」
周防は、延正を、まっ向から、斬り下げた。
それから、前陣後陣を見まわして、大音声を上げた。
「ただいまより、鷹森周防が、総大将ぞ! おのおの、従えっ!」
東山中納言と四王天延正と、二人を同時に、片づけた周防は、いまや、頭を立て、胸を張っていた。
「成程──。上臈がいるな」
左近は、にやりとした。
勘念が、うしろに、そっと寄って来た。
「大層な美女とみえまするな」
「あれを、奪うか」
「左近殿は、まだ、腕の傷が、癒えて居られますまい」
夜八郎に斬られた右腕上膊の傷は、骨に達する重傷であった。
容易に、治癒するはずもなかった。
いや、もはや、左近の右手は、以前のごとき神速の業は、使えぬに相違ないのである。
「勘念、おれには、まだ左手が使えるぞ」
「しかし……」
「見まわしたところ、一人のこらず、へたへたになって居る、あわれな軍勢ではないか。五百騎が千騎であろうと、おそるるには足りぬ」
「わざわざ、生命がけで、奪わねばならぬ理由はござるまいが……」
「あれほどの美女は、容易に見つからぬぞ」
「と申して、なにも、軍勢をむこうにまわして、奪わねばならぬほどのことは──」
「坊主め、女戒を説くな。それよりも、おれの策に、助勢しろ」
「どうせよ、と申されます?」
「はれがましゅう、われこそ大将だと、うそぶいたあの男、どうやら、頭脳は、単純とみえる。たぶらかすのは、造作もなかろう。……勘念、狐になって、だましてやれ」
「はて、どのようにして、だましたら、よろしゅうござろうか?」
「死相があらわれて居る、とでも、おどかしてやるのだな」
「そんなことを申したら、即座に、首を刎ねられましょうがな」
「お主の態度、次第だぞ。やれ!」
左近は、命じた。
勘念は、当惑していたが、ほぞ[#「ほぞ」に傍点]をきめて、
「死相があらわれているのは、われらの方かも知れぬが、やむを得ませぬわい」
と、云った。
「おれは、あとから、馬で行く」
左近は、勘念と打合せをしておいて、すばやく、遠ざかって行った。
勘念が、松林を出て、街道に立った時、軍勢は、出発しかかっていた。
輿に乗せられていたのは、美夜という上臈だけで、ほかの公卿や女官は、徒歩を命じられていた。
一瞬裡に、足軽同然の身にひきずりおとされた公卿衆は、生きた心地もない様子であった。
伯父を殺された美夜は、輿の中で、経文をとなえつづけていた。
伯父を必ずしも尊敬していた美夜ではなかった。伯父に都からつれ出される時は、生きることにも絶望していた美夜であった。
美夜の父は、羽林家の一人で、摂州|水《み》|無《な》|瀬《せ》家の権少将であった。
智者のほまれ高く、学識に於て、宮廷に比肩する者はなかった。ただ、気象がはげしく、おのが主張を一歩もゆずらぬ人であったので、それがわざわいして、毒殺されたのである。
美夜が、まだ六歳の頃のことで、家が廃されると、母と姉とともに、父の兄に当る東山中納言にひきとられたのであった。
美夜が、死にたい、と思うほどの衝撃を受けたのは、十歳の頃であった。
伯父と母が密通している場面を、偶然にも目撃したのである。
美夜が、もしかすれば、父を毒殺したのは、伯父ではなかろうか、と疑うようになったのは、それからかなり年がすぎてからであった。
美夜の母は、美しかった。天子さえも、その美しさをたたえて、一首うたわれたくらいであった。
伯父は、横恋慕していたのではなかったか。そのために、実の弟である少将を毒殺して、その妻を、手に入れたのではなかったのか。
べつに証拠があるわけではなかったが、美夜の心には、いつか、その黒い疑惑がわいていたのである。
そのために、伯父が、目の前で、鷹森周防のために斬られても、驚愕こそすれ、いささかの悲嘆もおぼえはしなかった。
天のむくい──そんな気持も、脳裡を、ちらとかすめていたのである。
それにしても……。
伯父が討たれ、ついに、この世に身をすがらせるべき人を一人も失くした美夜は、輿の中で、経文をとなえつつ、おのが悲しい運命に、堪え難くなっていた。
ただ──。
美夜に、生きるささえを与えているものがあるとすれば、それは、自分自身に誓ったある目的が彼女にはあったからである。
七年前のことである。
美夜には、五つ年上の姉があった。姉もまた、美貌の噂が高く、近衛家にのぞまれて、関白の次男に嫁ぐことになり、陽明御殿に輿入れした。
しかし、姉が、その輿入れがきまってから、夜毎泣いていることを、美夜は、知っていた。
姉は、近衛家の次男をきらっていたのである。近衛家の次男は、幼時脳をわずらって、なかば痴呆だったのである。
しかし、この時代に於て、娘たちに、おのが意志を通す自由はなかった。
姉は、生きたしかばねとなって、陽明御殿へ、つれて行かれた。その時、美夜も乞うて、姉について行ったのである。
異変が起ったのは、それから十日もすぎてはいなかった。
一夜、一人の若者が、御殿に押し入って来たのであった。
夜半──。
陽明御殿の一室で、十三歳の美夜は、ふっと、目をさました。
枕もとに、ひとつの黒影をみとめて、美夜は、|魂《たま》|消《げ》る悲鳴を発しようとした。
黒影は、すばやく、その口をふさいだ。
「さわぐな! おとなしゅうして居れば、斬りはせぬ」
曲者は、そう云った。
その時の光景を、美夜は、いまでも、ありありと、よみがえらせることができる。
曲者は、若者であった。
その双眸は、強く光っていたが、澄んでいた。
その双眸を見かえしているうちに、美夜は、なぜか、恐怖がうすらいだのを、はっきりとおぼえている。
「そなた、水無瀬家の小夜姫の妹だな? 似て居る」
若者は、云った。
美夜は、うなずいた。
「姉は、どこだ? どこに居る?」
美夜は、かぶりをふった。
若者は、いらだたしげに、
「近衛の白痴息子に、そなたの姉を、嫁にくれるわけには、いかぬ! この多門夜八郎が、奪って、妻にするのだ。……寝所を知って居れば、教えろ!」
侵入者は、そう迫った。
もし、美夜が、姉が夜毎泣いていたことを知っていなければ、その言葉をおそろしいものに、きいたにすぎなかったろう。
美夜は、黙って、奥を指さした。
「ここから、いくつめの部屋だ?」
侵入者は、たずねた。
美夜は、四つめとこたえた。
「よし!」
侵入者は、立ち上ってから、ふと、思いついたように、美夜を視た。
「安心しろ。姉は、この多門夜八郎が、幸せにしてくれる」
そう云いのこすや、風のごとく、天井へ跳びあがって、姿を消したのであった。
姉は、そのまま、その若者に拉致され、ふたたび、近衛家には、もどらなかった。
美夜が、姉に会ったのは、それから三年後であった。
姉は、木幡里の天心山無量寺という古刹の方丈で、死の床についていた。
住職からの使いの寺僧が、東山家を訪れて、美夜を、ともなったのである。
姉と妹は、泪の対面をした。
姉は、やせほそった手で、美夜の手をにぎり、
「美夜に、たのみがひとつ、ありまする」
と、云った。
それは、自分を、近衛家から拉致した若者多門夜八郎に、いつの日にか、めぐり会うことがあれば、礼を云って欲しい、というねがいであった。
姉は、多門夜八郎を救いの主と感謝し、夜八郎が、再び、姿を現す日を、待っていたのである。
美夜は、姉がいまわのきわにのこした言葉を、おぼえている。
「近衛家の御殿に押し入って、わたしをうばった御仁です。ただの武士ではありませぬ。住職殿が申されるには、あの若者は、たぶん、将軍家──足利義晴殿のおん曹子であろう、ということです。そのお母びととともに不遇にすごされて、大層な乱暴者になられ、多門夜八郎と名のって、洛中をあばれまわられた御仁に相違ないとのこと、わたくしにとっては、救いの主でありました。わたくしは、いまはもう、あの御仁を、良人と思いさだめて、ふたたび、ここへ参られるのを待って居りましたが、不治のやまいのために、生きて、お目もじすることは、叶いますまい。……美夜どの、わたくしにかわって、いつの日か、会うて下され。そして、わたくしが、妻として、感謝しながら、この世を去った、とつたえて下され。おねがい申しまする」
そう云いのこしたのである。
「姉上様──、かならず、多門夜八郎様にお会いいたします。そして、きっと、おつたえします」
美夜は、誓った。
姉が息をひきとったのは、その翌日であった。
老僧は、美夜と対坐すると、
「姉ぎみは、お顔も美しいように、心も美しいおひとでござった。……ご自分をかどわかした若者を、生涯の良人と心にさだめて、三年間をすごされた。口にこそ出されなんだが、多門夜八郎が現れるのを、毎日、祈ってござったようじゃ。……しかれども、多門夜八郎は、世をすねた無法者ゆえ、ふたたび、もどっては参るまいか、と存ずる。申さば、あの若者は、兇刃をふるう不吉の兵法者ゆえ、あるいは、そなたは、お会いなさらぬ方がよかろうか、とも思うが、いかなものであろうな」
「いえ!」
美夜は、つよくかぶりを振った。
「わたくしは、会いまする。会わねばなりませぬ」
「ぜひと思いきめたのであれば、止めはいたさぬが……」
老僧は、かぶりを振ったことだった。
老僧は、夜八郎を、美しく心やさしい女性を幸せにしてやれる男とは、思っていなかったようである。
しかし──。
美夜の心には、いつの間にか、まだ見ぬ多門夜八郎の姿が、想い描かれていたのである。
──多門夜八郎殿に、会うこと。
それが、美夜の生きる目的とさえもなったのである。
多門夜八郎に会えば、幸せがおとずれるような気さえするようになっていた美夜であった。
鷹森周防は、得意の絶頂にいた。
「よーし! 全軍、進めっ!」
高らかに、片手をふった。
五百の軍勢は、すべて、おのが家来となったのである。思うがままに、動かせるのだ。
──伊吹野へ行って、五摂家の財宝を手に入れるならば、おれは、天下をも、わがものにすることができるぞ!
野望は、胸中に、あふれている。
そのおりであった。
一人の僧が、急ぎ足に、松林の中から現れて、
「あいや、おん大将殿──」
と、大声に呼びかけた。
「なんだ?」
にらみかえした周防に、僧は、平然として近づいた。
「まことに、はばかりのあることを申し上げますが、拙僧、林の中より、お前様の人相を、ちらと拝見つかまつりました」
「それが、どうした」
「危いかな!」
「なんだと」
周防は、目をひき剥いた。
「お手前様のように、遠目にもありありと、剣難の相があらわれて居る御仁は、滅多にあるものではござらぬ」
「乞食坊主めっ!」
周防の髭面が、一瞬、まっ赤になった。
「なんのこんたんがあって、この鷹森周防をたぶらかそうというのだ! くそっ!」
周防は、抜き討ちの気勢を示した。
勘念は、あくまでおちつきはらって、
「仏門に帰依して、ひたすら、二十余年の間、祈祷にあけくれていた者に、一片の邪念とてあるべくもござらぬ。誠心をもって、申上げているのでござれば、お耳にとめ下され」
勘念は、そう云って、合掌してみせた。
そこまで云われると、周防も、ふと、不安をおぼえずにはいられなかった。
主人の地位にある東山中納言と、永年戦友として苦労をともにして来た四王天延正を亡きものにしたうしろめたさが、周防にないはずはなかったのである。
「この鷹森周防に、どうせよ、と申すのだ?」
「お見受けいたしましたところ、お手前様には、よき相談対手たる軍師をお持ちではないようでござる」
「ふむ!」
「お手前様が、剣難の相を払うには、おのが身の|業《ごう》を、他の者に移すのが、唯一の手段と心得まするな」
「軍師をやとうて、そやつに、業を移せと申すのか!」
「左様──。軍師とは、ただ、いくさのかけひきのみを為すものに非ずして、主君のすべての業をも引き受けるものでござる」
「ばかな」
周防は、吐き出した。
「そのような軍師が、おいそれと見つかるはずがあるか」
「それが、居りまする」
勘念は、けろりとした表情でこたえた。
「居る?」
「すぐ、近くに──」
「近くにだと?」
「剣難を、代って受けるだけの人物が、容易に見つかるはずもない──とのお考えはご尤もながら、これも奇縁と申すもの。……拙僧が、これから参る古刹に、一人、牢人衆が身を寄せて居りますが、まことにもっておそるべき、万人に一人の兵法者にて、しかも、世をすねて居りまする」
「ふむ?」
「他人の剣難を代って受けるには、それだけの業力を所有いたしていなければなりませぬ。その牢人者こそ、まさしく、お手前様の片腕となって、剣難を一身に引受けるに、またとない人物かと存じまする」
「どうも、おのれの言葉は、信用ならんぞ!」
周防は、なお、猜疑のまなこを光らせた。
「嘘とお思いになって、拙僧に、案内させてごらんなされては、如何でございましょうな?」
「よし──、案内せい」
周防は、行くことにきめた。
荒武者といえども、人間の弱点を衝かれては、つい、口車に乗らざるを得なかった。
「しかし、もし、そやつが、とるに足りぬ屑者であったならば、坊主、おのれの人相見たても、でたらめであったことになるぞ。その時の覚悟はよいな?」
「もとよりのこと。その時は、即座に、この坊主首をはねられませ」
勘念は、平然としてこたえた。
外見は、いかにも平然としてみせてはいたが、しかし、勘念も、内心では、
──はたして、うまく、ゆくかな?
と、多大の不安を抱いていた。
周防の馬わきを歩きながら、勘念は、うしろをふりかえって、
「おん大将は、大層美しい上臈をおつれなされて居りますな?」
と、たずねた。
「はっはっ……、剣難の相とともに、女難の相も観たか」
「お手前様の想いものでございますな?」
「これから、わがものにしてくれるのだ。……その古寺に、上臈を抱くにふさわしい室があるか?」
「ありますとも。存分にお愉しみなされませい」
「破戒坊主め、話がわかるぞ」
周防は、ふたたび、いい気分になった。
五百の軍勢を率いたのは、生れてはじめてだったのである。
〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年十二月二十五日刊
(C) Eiko Saitou 2001
文春ウェブ文庫版
われら九人の戦鬼(中)
二〇〇一年十月二十日 第一版
著 者 柴田錬三郎
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
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bb011006