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われら九人の戦鬼(下)
[#地から2字上げ]柴田錬三郎
美女狂い
その寺は、伊吹野の平野をはるかに見渡す丘陵の上にあった。
丘陵は、裾から頂上まで、美しい枝ぶりの松で掩われていた。
これは、大昔の高貴の人の墳墓かともみえる。
ひと時代前までは、ここは、|名《めい》|刹《さつ》として、廻国巡礼の足をはこばせたにちがいない。
平安から鎌倉、足利初期までは、人々は信仰あつく、百寺巡り、三塔の巡礼、三十三箇所の観音巡礼など、生涯かならずなさねばならないことにかぞえていた。
戦乱になってから、諸国は兵馬に荒らされて、道路がふさがってしまい、巡礼の大方は、廃れてしまったのである。
この寺は、浄土宗たることを、山門の額にかかげてある。
全国二十五箇所の霊場のひとつであったのかも知れぬ。
五百の兵を率いて、山門の前に到着した鷹森周防は、五摂家守護の武士であるだけに、山門からなだらかに登っている参道と、その彼方にそびえている堂宇伽藍を、望むや、
「ほう、名刹だな」
と、云った。
かたわらに立つ勘念を見やって、
「まさか、お主が、住職ではあるまい」
勘念は、笑って、
「拙僧は、ただの|所《しょ》|化《け》でござる。ただ、前年、師の|聖《ひじり》が|寂滅《じゃくめつ》なされてより、あらたに、住職をお迎えできずにいるのでござる」
と、こたえた。
「お主が、かってに住職になることもできぬか」
「それは、なりませぬな」
「はっはっ、坊主という者は、不便だのう。われら武家は、力さえあれば、天下も取るぞ」
「まことにおうらやましいご身分でござる。……では、申しわけなきことながら、ここで、馬をすてていただきとう存じます」
「心得て居るわい」
山門を、馬上で通ることは、将軍家といえども、許されぬのである。
周防は、おのが旗本ときめた十人ばかりの武者に、
「姫をつれて参れ」
と、命じ、五百の兵には、野営の下知をしておいて、馬を降り、山門をくぐって行った。
美夜は、|輿《こし》から出ると、歩き疲れている女官たちに、
「わたくし一人、楽なおもいをして、申しわけありませぬ。……参りましょう」
と、わびるとともに、いざなった。
「姫お一人を、ともない申す」
旗本の一人が、冷然として云った。
「えっ!」
美夜も女官たちも、顔色をかえた。
女官たちを、兵の群の中へ置きすてておけば、どのような事態になるか、容易に想像されるところである。
「それは、あまりにむたいと申すもの……。旗本ならば、かよわい女性を守護なされるのが、つとめでありましょう」
美夜は、|怯《お》じずに、云った。
「大将の命令でござれば、やむを得ぬ」
「いえ、鷹森周防殿は、大将ではありませぬ。ただの公卿守護のさむらいでしかありませぬ。わたくしたちに命を下す権利など持たれぬ」
美夜にとって、東山中納言は、敬慕できぬ伯父であったとはいえ、目の前で、むざんに斬られては、その対手を許すわけにはいかなかった。
女子のかよわい力では、討てぬために、だまって従って来たが、いずれ天罰が加えられるものと、信じている。
「姫が、なんと申されようが、四王天延正殿が果てられたあとは、鷹森周防殿が総大将じゃ」
問答は無用とみて、旗本の一人が、美夜の手をつかんだ。
女官たちは、泣いて、乞うたが、許されなかった。
鷹森周防が、兵の群の中へ、女官たちを置きすてたのは、それだけのこんたんがあった。
兵たちに、永年の戦友を裏切る残忍をみせた周防である。兵たちの心を懐柔するには、女子を与えるに限る、と考えたのである。
そして……。
臈[#「臈」は底本では草冠「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)。「臈」の表記もあり(791行)]たけた美女の美夜を、まずわがものにしたあとは、旗本十人に、つぎつぎと、まわしてくれよう、という肚に相違なかった。
美夜は、泣きさけぶ女官たちに、うしろ髪をひかれながら、山門をくぐらされた。
前後を歩く旗本たちは、いずれも、陰惨なまでに暗い顔つきで、黙々としていた。
かれらは、鷹森周防に忠誠をちかって、旗本になったわけではない。しかたなしに、家来になったまでである。
鷹森周防が、大将と仰ぐべき人物ではないことは、判っていたのである。
ただ、野良犬の群にひとしい放浪の軍勢は、たとえ鷹森周防が、粗暴野卑な男でも、ひとまず大将として仰いでおかねば、かたちをなさぬのであった。
かれらの心中にあるのは、
──いったい、これから、どうなるのだ?
その不安だけであった。
東山中納言には、行先に心算があったに相違ないし、また、四王天延正ならば、五百の軍勢を生かす方法も考えつく器量を持っていたであろう。
鷹森周防は、ただもう、大将になりたいばかりに、残忍な行動に出たのだ。
この軍勢の行手は、暗澹たるものなのだ。
鷹森周防は、雑草がところどころにしげっている広い境内に立つと、
「そやつを、ここへ、つれて参れ」
と、勘念に命じた。
周防は、なにか卑怯な企てでもあるのではないかと疑い、本堂や方丈や、建物の中に入るのを、警戒したのである。
勘念は、笑いながら、
「お手前様は、もうご自身を、その者の目にさらしておいででござる」
と、云った。
「なに?」
周防は、目をむいた。
「そやつ、どこにひそんで居る」
「ひそんでは居りませぬぞ」
勘念は、片手をあげて、本堂の屋根を、指さした。
数尺もの厚さに葺いた萱屋根の斜面に、人が一人、ながながと、寐そべっていたのである。
「む?」
見上げて、周防は、うなった。
「九十九谷左近殿!」
勘念は、大声で呼んだ。
「起きられい。お客人でござる」
左近は、やおら、身を起した。
鷹森周防のどぎもを抜くには、この大屋根の上に寐そべってみせるにかぎる、と考えて、勘念に云いふくめておいたのである。
ぬっと立った左近は、じっと、周防を見下したまま、わざと、無言であった。
勘念は、いそいで、どこかへ消えたが、もどって来た時、一頭の牛を曳いていた。
「降りて参られい」
勘念が、まねくと同時に、左近は、屋根を蹴った。
周防も、いま境内に達した美夜や旗本たちも、あっと、目をみはった。
左近は、宙をきって地上めがけて、わが身をおとすや、かるがると、その牛のせなかに乗ってみせたのである。
こちらを、神秘めかした存在にみせかけるには、これぐらいのはなれ業を示す必要があったのである。
左近は、牛の上から、冷たく刺すような視線を、周防にあびせて、
「お主、大層な剣難の相をもって居るな」
と、あびせた。
「わかるか?」
周防は、ぎくりとなった。
「観相の術を学ばずとも、お主ほど、ありありと剣難の相をみせて居れば、すぐに、判る」
「ふむ──」
「お主の|生命《い の ち》は、長くて一月、あるいは、今日のうちにも、果てるかも知れぬ」
左近は、ものものしい口調で、宣言した。
「なにを、ばかな!」
周防は、憤然となった。
「この鷹森周防は、不死身ぞ! そうやすやすと、生命を落してたまろうか」
左近は、せせら笑った。
「お主は、軍勢を率いて居るが、どうやら、にわか大将とみえる」
「………」
云いあてられて、周防は、むっと口をへの字に曲げた。
「自分で勝手に大将になったつもりでも、従っている者どもが、はたして、心服して居るか、どうかだ」
そう云って、左近は、じろりと、旗本たちへ、鋭い視線をくれた。
周防は、思わず、ぞくっと悪寒をおぼえて、旗本たちを、ふりかえった。
それから、虚勢をはって、
「おい、牢人! 嘲弄は、許さんぞ」
と、呶鳴った。
「ははは……」
左近は、笑った。
「いま、逆上して、おれにとびかかって参れば、お主は、自らすすんで剣難の相にたがわず、この場で、生命を落すことになる」
「ほざくなっ!」
周防は、長槍をかまえた。
すると、左近が、ゆっくりと、牛の上に、突っ立った。
周防は、なかば脅しのつもりで、左近めがけて、長槍を、突き上げた。
瞬間──。
槍の穂先は、けらくびから両断されて、空へ飛んだ。
そして、左近の姿は、牛のむこうがわへ、消えていた。
あまりの|迅《はや》|業《わざ》に、茫然となった周防は、方丈の方へ、スタスタと歩み去ろうとする左近をみとめて、
「ま、待て!」
と、呼びかけた。
左近は、ふりかえりもしなかった。
「待て! 待たぬか!」
周防は、追いかけた。
左近は、立ちどまって、頭をまわし、
「大将の|器《うつわ》でもない者が、勝手に軍勢を率いてみたところで、行手に横死しか待って居らぬ」
と、云った。
周防は、ごくっと生唾をのみ下してから、
「その方、わしの軍師になってくれまいか」
と、申し出た。
「軍師に──?」
「さ、左様──、軍師として、迎えよう。……たのむ!」
「ふん──」
「たのむ! ……是非、きき入れてもらいたい」
「軍師は、大将の行動をしばる役目だ。それでもよいのか? おれに、爾後の行動をまかせるというのか?」
「まかせる。……但し、わしは大将として、五百の兵に、城を取ってみせねばならぬ。それを、その方にたのむのだ」
「城をか──」
左近のまなこが光った。
左近の最初の予定は、美しい上臈[#「臈」は底本では草冠「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)。「臈」の表記もあり(791行)]を掠奪して、逃走することであった。
しかし、鷹森周防を嘲弄しているうちに、考えが変って来た。
周防から、軍師になってくれ、と頭を下げられると、
──もしかすると……。
ふと、左近の脳裡に、兵法者にあるまじき野望が、鎌首をもちあげたのである。
──五百の兵を、そっくり、奪いとれるかも知れぬぞ。
もし、そうなれば、これは、夢にさえ想像していなかった世界が、おれのものになる。
一振りの剣に拠って、一生をつらぬこうとしていた左近も、一瞬、おのれをとらえた野望を、ふりはらい難かった。
「たっての希望ならば、城取りに役立とう」
左近は、こたえてしまった。
「有難い。……早速に、お主と策をめぐらしたい」
周防は、髯面をかがやかせた。
「勘念、方丈へ、大将を案内せい」
左近は、命じた。
勘念は、ちょっと、とまどった表情になった。
──この大将を、この場で、討ちすてるのではなかったのか?
勘念がきかされた計画は、にわか大将を、討ちすてて、軍勢を四散せしめ、一人を奪うことであった。
──はて? どういうことになるのか?
不審のままに、勘念は、周防を、方丈へみちびいた。
左近が、つづいて、その座敷に入ろうとすると、勘念が、そばへ寄って来て、
「どうなるのでござる?」
と、ささやいた。
「軍勢を、おれが、取る」
左近は、云った。
「取る、と申されても……?」
「兵法者が、大将にはなれぬ、というのか?」
「いや、そうは申しませんが……、これだけの軍勢をやしなうのは、容易ではござらぬ」
「おれに、まかせておけ。それよりも、あの上臈[#「臈」は底本では草冠「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)。「臈」の表記もあり(791行)]を、一人、別の部屋へ入れておけ」
「承知しました」
左近は、座敷に入って、周防と対坐するや、
「まず、第一に、おことわりいたそう」
「うむ?」
「|其《そこ》|許《もと》を大将と仰ぎ、軍師をつとめるからには、その剣難を、それがしが、移し持つことに相成る」
「たのむ」
「其許が、恩義ある御仁ならいざ知らず、わざわざ、見知らぬ他人の剣難を、引受けるとは、これ以上ばかげた話はない」
周防は、あわてて、
「お主が、引受けてくれるからには、いかなる条件でも、のむことにいたそう」
と、云った。
「しかと、約束されるか?」
「いたすぞ!」
周防は、もはや、この兵法者の魅力に、眩惑されたかたちであった。
「よろしい。では、引受け申す。その条件というのは、さしたることではござらぬ」
「なんであろう?」
「上臈[#「臈」は底本では草冠「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)。「臈」の表記もあり(791行)]が一人、供に加わって居られる」
「うむ」
「あの上臈[#「臈」は底本では「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)D。「臈」の表記もあり(791行)]を、所望いたす」
「お主が欲しければ、くれるぞ」
周防は、美女よりも、城の方が欲しかった。
「ところで、城じゃが……、この伊吹野には、あるのだな?」
「もとより、伊吹野城があり申す」
「それを、奪うか!」
「但し、城は、先般何者とも知れぬ徒党の襲うところとなり、炎上いたした」
「城主は、|如何《い か が》した?」
「城主田丸豪太夫は、目下、その焼け落ちた城郭内にひそんで、傷ついた野獣のていでござるわ」
「では、奪うに造作はあるまい。この鷹森周防が、あらたな城を築いてくれる」
「そうたやすくは、事は運び申さぬ」
「なぜだ?」
「田丸豪太夫は、野盗よりのし上って、この伊吹野一国を掌中におさめたつわものでござる。城を焼かれたとはいえ、なお、城内には、数百の兵をやしなっているかにみえ申す」
「その程度の武力ならば、一挙に攻めて、討ちとればよかろう」
「そうは参らぬ。……其許自身が率いて居る兵を、みられい。一人のこらず、疲れはてて、気力も失せて居る。叱咤したところで、どれだけの働きをいたそうか」
云っているうちに、左近は、おのれがいかにも軍師らしく思えて来た。
軍略を多年研究し、いよいよ、|諸《しょ》|葛《かつ》|孔《こう》|明《めい》のごとく、臥竜ひとたび|出廬《しゅつろ》の機を迎えたような気分になって来た。
「伊吹野城を奪うのは、真正面から攻めることは不可と存ずる」
「策が、お主にはあるのじゃな? きこう。きかせてくれい」
周防は、首をつき出した。
目の前に菓子を置かれて、生唾をのむ児童のような単純な様子をむき出した周防を、左近は、
──これで、大将のつもりか!
と、内心あざけりつつ、
「城主田丸豪太夫には、援軍が来た、と思わせる策をとることにいたす」
と、云った。
「援軍と思わせる? わしは、田丸豪太夫などと、面識はないぞ」
周防は、首を振った。
「そこが、策と申すもの」
左近は、にやりとしておいて、立ち上った。
周防は、あわてて、
「ま、待てい。その策とやらを、きかせい」
と、たのんだ。
「策は、これから思案いたす」
そう云いすてておいて、左近は、どこかへ姿を消してしまった。
「ふん──」
周防は、首をひねった。
九十九谷左近と名のるあの兵法者、たしかに、薄気味わるいところがあるが、はたして、軍師として信頼できるのか、どうか?
周防は、勘念が入って来たので、
「坊主──。|彼奴《き ゃ つ》は、|下《げ》|忍《にん》あがりの曲者であろう?」
と、問うた。
「途方もない。九十九谷左近殿は、楠木正成の苗裔でござる」
勘念は、まことしやかな表情で、こたえた。
「自称して居るだけであろう。自称して居る奴に、本物は居らぬ」
「おん大将は、大層うたがいぶかいお方でありますな。……さればとて、貴方様の左右を見まわしますに、右腕とも左腕とも、たのむ御家来衆は、一人もおいでではありませぬが──」
「わかった。もうよいわ!」
周防は、いらいらして、叫んだ。
「姫は、どの部屋だ?」
「はい。奥の貴賓の間へご案内つかまつりました。まことに、美しい上臈[#「臈」は底本では草冠「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)。「臈」の表記もあり(791行)]でございますな」
「坊主のくせに、よけいなことを申すな。……案内せい」
「では、姫様に、おうかがいして参りましょう」
「すぐに、案内せい」
「姫様の方で、休息したいから、とおことわりになるかも知れませぬ」
「わしは、大将だ。なんのことわる必要がある!」
「女人をたずねるのは、その都合をたずねるのが、都の作法ではありますまいか?」
「つべこべと申すな!」
周防は、呶鳴りつけて、ぬっと立った。
九十九谷左近に、美夜を、生娘のままにくれるのは、いかにも、腹立たしいことなので、周防は、左近が迫っても、これを拒絶するように、云いふくめるつもりであった。
勘念は、周防の肚のうちを読みとったような顔つきになったが、黙って、さきに立った。
荒れてはいたが、名刹の方丈であった。周防は、その立派な構えを眺めて、広縁を歩みながら、
──そうだ。この古寺を、当座の砦がわりにしてもよい。
と、考えた。
その貴賓の間は、金泥の|襖《ふすま》に、折上げの|格《ごう》天井、二間の床も堂々として、名刹として、過去に、幾人かの高貴の人を迎えたであろうたたずまいをみせていた。
美夜は、ひとり、そこに坐っていた。
上座をさけて、庭を見わたせる場所で、脇息に、ひたいをのせて、まぶたを閉じていた。
美夜は、疲れていた。
孤独に閉じこめられた若い女の心が、疲れていたのである。
ものを想う気力も失せているようであった。
こうしていることは、美夜にとって、休息にはならぬ。|虜《とりこ》の状態にほかならない。
行手に、光があるわけではない。
美夜は、姉の遺言によって、多門夜八郎という人物に、めぐり会う日のみを、心の奥に、願っている。
しかし、多門夜八郎が、はたして、いかなる性情の持主か、見当さえもつかなかったのである。姉は、多門夜八郎が現れるのを待っている三年の間に、いつとなく、自分自身でかってに、一人の理想の男性像をつくりあげてしまったのではなかろうか。
現実の多門夜八郎は、おそるべき粗暴な男ではあるまいか?
その不安が、美夜にないとはいえぬ。
そのような男を、さがしもとめている自分は、なんというあわれな娘であろうか?
ふっと──その気持が、起ったことも、一度や二度ではないのである。
この貴賓の間に入れられた時も、その気持が起った。そして、あわてて、ふりはらったものである。
さいわいにして、多門夜八郎が、姉が想い描いたような男子であったとしても、この広い世界の何処にいるのであろう。
めぐり会えるという幸運は、池の中に落ちた一本の針を、ひろいあげるような、奇蹟に近いものではあるまいか。
その絶望的な気持が、堪え難い孤独感をまねいてしまったのである。
この心の疲れは、からだの芯底を|疼《うず》かせている。
「こちらでござる」
勘念の声がして、荒々しい足音が近づいて来たので、美夜は、われにかえった。
ぬっと入って来た鷹森周防を見て、美夜は、心も身も、ひきしめた。
周防は、大将らしく、どっかと上座に腰を据えると、
「そなた、この鷹森周防を、恨みに思うて居ろうな?」
と、問うた。
美夜の返辞はなかった。
「恨みに思うて居ろうな、とたずねて居る」
周防は、大声を発した。
美夜は、視線をそらしたまま、
「おのが悲運には、なれて居ります」
と、こたえた。
「悲運か──ふん、戦乱の時世に、家を喪った者が、幸運であろう道理がない」
周防は、態度に威厳をもたせて、云った。
「やむを得ぬ。弱肉強食じゃ。……今日よりは、そなたは、わしの命令を肯かねばならぬ。よいか?」
「なにを命令しようとなされます?」
美夜は、不安のまなざしをかえした。
「先程、そなた、本堂の屋根から跳び降りて参った兵法者を見たであろう? あの兵法者を、われら軍師とした」
「………」
「九十九谷左近と申すあの兵法者、好色とみえて、そなたに目をとめ居った」
「え?」
「これだけの軍勢に、軍師を持たぬ道理はない。九十九谷左近を、軍師にすることにいたしたが、条件をひとつ、つけて参った」
「………?」
「そなたを、寄越せ、と申した」
「まあ!」
「その場ではやむを得ず、承知してくれたが、そなたのような美女を、むざと、むさくるしい兵法者ずれに渡してなろうか。そなたさえ、たじろがねば、左近も、無下に、横車を押しては参るまい」
「はい」
「よいか。今宵、左近が押しかけて参っても、決して、たじろいでは相成らぬぞ」
「はい。わかりました」
美夜は、意外にも、この荒武者が自分に心をつかってくれるのに、素直にうなずいた。
「ところで──」
周防は、急に目を光らせた。
「もしかりに、わしが、近いうちに、城を取り、この伊吹野を治める領主となったならば、もとより、行きどころのないそなたは、城に住まうであろうな?」
「………?」
「そなたは、領主夫人になる所存はないか?」
「………?」
「どうじゃな? ……返辞をせぬか? そなたは、わしを恨んで居らず、おのが悲運をあきらめている、と申したぞ。わしが、その悲運を、追いはらってくれよう。どうじゃ? 色よい返辞をせぬか」
「わたくしは、領主の妻になることが、幸運とは、思うて居りませぬ」
「なんじゃと?」
「わたくしは、なろうことなら、自分で、自分の生きる道を、見つけたいと思うて居ります」
「ばかな!」
周防は、呶鳴った。
「女一人が、この荒野のただ中で、どうして生きて行けるぞ!」
美夜は、冷たいまなざしを、単純で粗暴な荒武者に、かえした。
「わたくしに、いささかの野心でも、抱いて居られるならば、それは、あきらめて頂かねばなりませぬ」
「なに!」
まだ二十歳にもならぬ娘に、さげすまれて、周防は、かっとなった。
「身共は、そなたを城主夫人にしてやろう、と申して居るのだぞ。その好意を受けぬばかりか、身共を好色者と、さげすむか!」
「さげすみはいたしませぬ。……ただ──」
「ただ、なんじゃ?」
「ただ、力を持たぬかよわい|女《おな》|子《ご》でも、心には武器を持って居ります」
「なんの武器じゃ?」
「操をけがすよりは、死をえらぶ──その強さを申して居ります」
「ほう、操をけがすよりも、死をえらぶ強さか!」
周防は、いきなり、すっくと立つと、ずかずかと、美夜に迫るや、|猿《えん》|臂《ぴ》をのばした。
「死ぬかどうか──試してくれよう」
抱きすくめようとしたとたん、美夜は、すばやく、周防の腰から、脇差を抜き取った。
「おっ!」
周防は、あわてた。
その隙に、美夜は、するりと、のがれて、白刃の先を、おのがのどに擬した。
「無理強いに手ごめにされようとするならば、突いてみせまする!」
美夜は、厳しい態度で、云った。
「小ざかしゅうおどかし居る」
周防は、いまいましく、舌打ちした。しかし、文字通り必死の態度を示されては、ひとまず、ひきさがらざるを得なかった。
「そなたは、意中の男でも居るのか!」
「そのような|男《おの》|子《こ》がいたならば、どのように、幸せでありましょうか」
「はっはっは……、かくさずともよいわ。そなたには、男が居ろう?」
「居りませぬ」
「そなたの顔に、書いてあるぞ。戦場往来の猪武者でも、それぐらいのことがわからずには居らぬぞ」
そう云われて、美夜も、思わず、とまどった。
その隙を、周防は、のがさなかった。片足をはねあげて、美夜の手を蹴った。
脇差は、高く飛んで、天井に突き刺さった。
「はっはっは……、死ねまいぞ、姫!」
周防は、にやにやしながら、美夜に迫った。
美夜は、あとへいざりつつ、
「舌を噛むこともできまする!」
「噛めるものなら、噛んでみい! そうたやすく、死ねるものではないぞ」
周防は、ひとつかみの距離まで、肉薄した。
その時、広縁から、不意に、声がかかった。
「そこいらあたりまでに、とどめては如何であろう、おん大将」
左近が、そこで、笑っていた。
──しもうた!
周防は、狼狽した。
左近は、ふところ手で、入って来ると、
「このおん大将の約束は、あまりあてにはならぬらしい」
と、云った。
うっそりと立った姿は、いかにも、人を食ったものだった。
しかし、ただよわせている不気味な雰囲気は、周防の四肢の動きを封じるに充分であった。
周防は、ふてくされて、どっかと大あぐらをかくと、
「その娘、あまりに美しゅう生れついて居って、目ざわりだ。われらの目のつかぬところへ、連れて行ってもらおう」
と、いまいましげに云った。
「ははは……、正直なところは、取柄らしい。しかし、別に観れば、大将の器には、程遠い」
「なにっ!」
「自身そうは思わぬか?」
「うるさいっ! 娘をつれて、消え失せろ!」
周防は、呶号した。
「消え失せるのは、貴殿の方ではないかな?」
「なにっ?!」
周防は、目をひき剥いた。
「きけば、お主は、年来の旧友を殺して、大将になった、という。乱世にあっては、野望をとげるためには、それもまた、やむを得ぬ措置かも知れぬ。しかし、まずかったのは、兵たちの眼前で、それをやってのけたことだ」
「………」
周防は、左近を睨みつけて、何か喚こうとしたが、言葉が見つからなかった。
「生死をともにした戦友を裏切る冷酷無情を、兵らに見せつけておいて、おれは大将だと胸をそらしてみたところで、誰一人として心服する者はあるまい。もし、お主のそばへ寄って来る者があれば、それは、お主を仆して、おのれが、大将の座に居坐ってやろう、と野心を抱いた者であろう」
その言葉のおわるかおわらぬうちに、周防は、けものの咆哮するに似た喚声を発して、抜き討ちをしかけた。
左近は、苦もなく、かわして、蹴倒した。
ぶざまに、ひっくりかえった周防は、
「斬れっ!」
と、絶叫した。
「斬らぬ。そのかわりに、お主にふさわしい振舞いをさせてやろう」
左近は、冷笑した。
五百の兵が、山門をくぐって、境内へ登って来るように命じられたのは、その翌朝であった。
兵たちは、野宿からまぬがれるのをよろこんで、ゾロゾロと登って来た。
境内には、十人の旗本が横列をなして、待っていた。
兵たちが、その前にかたまると、一人が、
「お前たちに見せるものがある。その前に、申しきかせるが、東山中納言殿を殺し、四王天延正を裏切った鷹森周防は、もはや、われら軍勢の大将ではない」
と、申し渡した。
兵たちは、どよめいた。
「われらは、大将を失ったのである。しかし、われらは、生きのびねばならぬ。この荒土の中で生きのびねばならぬ。生きのびるてだてを、われらに教示してくれる御仁が居る」
それに応えて、
「ここに居る」
という声が、空から降って来た。
本堂の大屋根に、寐そべっている左近を、兵たちは、あきれて仰ぎ視た。
左近は、やおら起き上ると、きわめて、無造作に、|躍《と》んだ。
兵たちの中には、叫び声をたてる者もいた。
左近は、かるがると、地に降り立つと、にやりとしてみせた。
兵たちをおどろかせ、息をのませるには、この上の鮮やかな演技はなかった。
「それがしは、九十九谷左近という兵法者だ。もとより、一軍を率いる器ではない。旗本衆のたのみによって、いささかの力を貸すにすぎぬ。……お主らには、城が要る。その城を、それがしが、取って、お主らに与えたく存ずる」
「そ、それは、まことでござるか?」
兵の一人が、叫んだ。
「九十九谷左近は、不可能なことを、公言はせぬ。誓おう。……さて、お主らの目の前を、一人の敗残者が通る。つつしんで、見送ってくれい」
左近が合図をすると、方丈から、勘念が出て来て、
「お立ちなされ」
と、|内《な》|部《か》へ声をかけた。
現れたのは、無腰の鷹森周防であった。
顔面をゆがめて、境内の光景を見まわした周防は、
「く、くそ!」
と、うめいた。
すべての目は、冷たく、周防を見まもっている。
周防は、広縁から降りて、歩き出さざるを得なかった。
左近は、周防が前に来ると、兵たちに、
「一同、昨日の大将に、敬意をはらうがよい」
と、云った。
孤身多恨
「夜八郎殿──」
しのびやかな|声《こわ》|音《ね》に、夜八郎は、夢を破られた。
畜生藪から帰って来てから、夜八郎は、ずっと牀についていた。浪々十年の疲れが一時に出たように、夜八郎は、起き上れなかったのである。
「夜八郎殿──」
杉乃江の声であった。
夜八郎は起き上ってみて、もう三更をまわっているらしい、と感じた。
「御用か?」
「奥へ、来てもらえませぬか」
「奥へ?」
眉宇をひそめた夜八郎は、瞬間、はっとなった。
「梨花が、どうか、いたしたか?」
「おしずかに──」
杉乃江は、小袖の蔭から、手燭を出して、夜八郎を照らし、
「梨花どのは、お手前様と、二人きりで、別れを惜しみたいと……」
そこまで云いかけて、泪があふれたか、顔をそむけた。
夜八郎は、廊下を歩き出しながら、
「梨花は、意識がはっきりしているのですな?」
「はい。お手前様に見とられつつ、この世に別れたいと申されて居りまする」
「………」
いずれ、この日が来ることは、覚悟していた夜八郎である。
──おれのような男を慕うたために、このような見知らぬ土地で、果てるのか。
心の底を疼かしているのは、そのことであった。
廊下の曲り角に、ひとつ、人影がうずくまっていた。
「柿丸か──」
夜八郎が、立ちどまると、柿丸は黙って両手をついて、頭を下げた。
「知って居るのか?」
夜八郎の問いに、杉乃江がかわって、
「柿丸殿は、この十日あまりずっと、夜もねむらず、|寝《ね》|室《や》の前の廊下に坐りつづけて居られます」
「そうであったか」
思えば、この男は、梨花をかどわかした敗軍の侍大将に従うた足軽の一人であった。そのおかげで、夜八郎は、梨花を知り、これを犯したのであった。
爾来、柿丸は、梨花を守護することを生甲斐とし、無二の忠僕としてつくして来たのである。
梨花を|喪《うしな》えば、この男は、明日から、なにを目的に生きて行くのであろうか。
「柿丸──。梨花に代って、礼を云うぞ」
「………」
柿丸は、ただ、無言で、さらにひくく、頭を下げただけであった。
寝室は、あかるくしてあった。
灯かげを受けて、梨花の顔は、白蝋のように冷たくなめらかなものになっていた。
夜八郎が、枕もとに坐ると、梨花は、細く、まぶたをひらいた。
しかし、もうその焦点が、さだまらぬ哀しさを、視線に示した。
夜八郎のすがたが、|眸子《ひ と み》にとらえられなかった。
「ここにいる。夜八郎だ」
夜八郎は、薄い掛具の下をさぐって、梨花の手をにぎってやった。
「夜八郎様──」
梨花は、自分に納得させるように、つぶやいた。
「貴方様に……、わたくしは、なにも、して、さしあげることが、できませんでした」
「そなたは、わたしに出会うたために、|生命《い の ち》を縮めたのかも知れぬ」
「いえ──」
梨花は、かぶりを振って、夜八郎の顔を、見わけようとした。
灯のあかるさにも、その視力は、はたらかなくなっている。
夜八郎は、そっと、梨花をかかえ起してやった。
梨花のからだは、あまりにも軽かった。
あまりの軽さが、夜八郎の胸を、烈しく疼かせた。
夜八郎は、洛外|化野《あだしの》で、九十九谷左近と決闘をする朝、天満坊に案内された小さな家で、梨花とめぐり会い、そして、すぐ別れた時のことを思い出した。
あの時は、病んでいたとはいえ、梨花に、死の翳は落ちていなかった。
死の危険があったのは、夜八郎の方であった。
そのために、夜八郎の態度は、そらぞらしいものになっていた。梨花は、身を近づけることさえ叶わなかったのである。
いまは──。
こうして、優しく抱かれながら、梨花は、もうすぐ、夜八郎と、永遠に、別れて行かなければならなかった。
「……うれしい」
梨花は、微かに、つぶやいた。
死の使者が、そこまで、迎えに来て居りながら、梨花に、その恐怖はなかった。
死というものに思いをひそめつつ、生きて来たこの幾月間かであった。覚悟はできていたのである。
「……うれしい」
もう一度、梨花はつぶやいた。
その一言で、夜八郎を想いつづけて生きぬいて来た長い月日の苦労が、きれいにあらい流されるようであった。
「そなた、あの世で、待っていてくれ」
夜八郎は、云った。
「あの世では、そなたと二人きりの、くらしをしよう」
「はい。……お待ちして居ります」
ま近に寄せられた夜八郎の顔が、おぼろに見わけられるのであろう、梨花の眸子は、みひらかれ、まばたきもしなかった。
「あの世では、小さな家をもとめていてくれ。海の近い、小松にかこまれた家がよいぞ。……わたしが行くまで、小犬でも飼って、待っていてくれるか」
夜八郎は、視線を宙に置いて、話しつづけた。
「小犬のほかに、猫も、いや、鶏も、飼うがよい。わたしが、行くまでには、すこし間があるかも知れぬ。そなたが待っていても、わたしは、べつに、死に急ぎはせぬ。わたしが、白髪まじりになって参っても、そなたは、いやがりはせぬであろう。……あの世では、もう死ぬことはない。そうとすれば、人間同士の争いもなかろう。わたしとそなたのくらしをさまたげるものは、何もないであろう」
夜八郎は、急に、てのひらに、梨花のからだの重みを感じて、その顔を視た。
まぶたは、閉じられていた。
夜八郎は、食い入るように、その寝顔を見まもった。
いま──。
清純なたましいは、しずかに、そのからだから、抜け出そうとしていた。
「梨花!」
夜八郎は、小声で呼んだ。
「安らかにな……」
神も仏も信じないこの牢人者が、いまはじめて、あの世で、梨花が、必ず、つつましい、草庵をもとめて、自分を待ちながらくらすであろうことを、信じた。
人を愛したのは、おそらく、これがはじめの、おわりではなかろうか。
夜八郎が、しずかに、遺体を仰臥させて、胸で、手を組ませた時、柿丸が、入って来た。
「見てやれ、柿丸──、美しい死顔だ」
夜八郎は、云った。
いざって、枕もとへ寄った柿丸は、その死顔を一瞥するや、双眼からどっと泪をあふらせた。
「梨花様! もう、患いのつらさは、ありませぬぞ。たましいだけを、夜八郎様に、より添わせて、おいでなされ」
そう云いながら、わななく指で、乱れ髪を、ひたいからかきあげてやった。
天満坊が、しずかに入って来ると、|誦経《ずきょう》をはじめた。
その荘重な声をききながら、夜八郎は、じっと、死顔を見まもりつづけた。
宿運というものが、ひしひしと、夜八郎の胸をしめつけていた。
異常な出会いをして、暴力で犯した女であった。その野蛮な男を良人と思いさだめて、ここまで、追うて来て、短い生涯を閉じたのである。
戦乱の世とはいえ、あまりにはかない一生であった。
朝──。
枕元に坐って、線香を絶やさぬようにしていた夜八郎は、陽ざしが障子に映えた時、しぜんに、首をたれて、ほんのわずかなまどろみに陥ちた。
「……夜八郎様」
縁側から、声があって、夜八郎は、目ざめた。
柿丸が、うずくまっていた。
「おとむらいの用意ができました」
墓穴を掘って来た、という意味であった。
「どこだ、墓地は?」
「土地の者たちが、月見の岡と|称《よ》んでいる丘の上でござる。いつぞや、梨花様は、そこへ参られて、わしに、おたのみでした」
「そうか。自分で、墓地もきめていたのか」
夜八郎は、ふかい溜息をした。
「では、葬ろうか」
「夜八郎様。お願いが、ひとつ、ござる」
柿丸は、夜八郎を見つめて、云った。
「なんだ?」
「ご遺体を、わしに、背負わせて、月見の岡まで、はこばせて下され」
「………」
夜八郎は、柿丸を、見つめかえした。
「お願い申します!」
柿丸は、平伏した。
──この誠実無比な男は、あるいは、梨花を、愛していたのかも知れぬ。
──いや、きっと、そうであろう。
「お前が、そうしたければ、そうするがいい」
「|忝《かたじけの》うござる」
やがて、夜八郎は、冷たい梨花を背負うた柿丸と、並んで、公卿館を出た。
門前まで、泰国家の人々、天満坊、百平太など、一人のこらず、見送って出た。
葬列をつくることは、夜八郎が断ったのである。
梨花を葬ってやるには、柿丸と二人だけの方がよい、と思ったのである。
野道を辿って行きながら、
「お主と知りあった頃を、思い出す」
と、夜八郎は、つぶやくように云った。
夜八郎と梨花と柿丸は、行手にあてのない旅をつづけたものだった。
不毛の原野を越え、森に入って、盗賊小屋に辿りつくまでの幾日間かの旅が、いま、なつかしいものに思い出される。
三人とも、孤独な身の上であった。それが、吹き寄せられたように、偶然に一緒になって、なんとなく、旅をすることになったのである。
いまにして、それが、因縁というものであった、と思いだされるのである。
「あの時は、貴方様は、おそろしい、非情な|御《お》|仁《ひと》と思うて居りました。わしの思いちがいでござった」
柿丸は、俯向いて、背中の梨花の重みを、一歩一歩かみしめるようにして歩きながら、云った。
「おれ自身も、非情な男と思っていた。また、そのような行動をとって来た」
夜八郎は、今日も雲一片も見当らぬ夏空を見やりながら、云った。
「そうでなかったことに、ご自身でもお気づきなされたか?」
「さあ? どういうものであろう? 対手次第で、悪鬼になるかも知れぬ」
「いや──。あの頃の貴方様と、いまの貴方様とは、まるっきり、別の御仁のように、人相がちがってしまわれた」
「そうか」
「いまは、どこやら、さびしそうな顔つきをなされて居ります。それが、かえって、気がかりでござる」
「おれに、さびしげな翳が出た、というのか」
夜八郎は、自嘲の薄ら笑いを、頬に刷いた。
──天心山の老僧や天満坊によって、おれの歪んだ性質が、|矯《た》められたのか?
おのれに問うた時、夜八郎の胸中が、ふいに、痛んだ。
たとえ、性情が矯められたところで、|逝《い》った者は、帰っては来ぬ。
夜八郎は、二人の哀しい女性を、あの世に送っていた。
一人は、陽明御殿から奪って来た|水《み》|無《な》|瀬《せ》家の姫君であった。
そして、もう一人は、いま、柿丸が背負うている。
どちらも、夜八郎が、野獣のような荒々しい仕打ちをした娘であった。
それが、恨まないばかりか、夜八郎を良人と心にきめて、この世を去って行ったのである。
──おれが、愛したのでもないのに、あの姫も、梨花も、どうして、おれを慕ったのか?
夜八郎には、判らぬことだった。
野道は、森に入り、森を出て、やがて、丘陵にさしかかった。
「夜八郎様。いつまで、この伊吹野にとどまっておいでなされる?」
柿丸が、たずねた。
「わからぬ。……仕事が、ひとつ、のこって居る」
「なんでござろう?」
「大庄山の頂上にある湖の水を落して、百姓たちに、田植えをさせてやらねばならぬ。天満坊が、それを計画して居る」
べつだん、それを為すことが、罪業ふかい身のつぐないとは考えていなかったが、夜八郎は、引き受ける肚になっていた。
「わしも、その時は、つれて行って下され」
「十中八九、生命はないものと思わねばならぬ」
「べつに、このさき生きのびたところで、いい目に会うこともあるまいゆえ、惜しいとは思いませぬわい」
なだらかな傾斜の道をのぼって行った二人は、そこに、ひとつの人影を、見出した。
柿丸が掘った墓穴のかたわらに立っていたのは、杉乃江であった。
夜八郎が、近づくと、杉乃江は、さみしく微笑して、
「梨花どのは、よい場所を、えらばれました」
と、云った。
「わたくしも、自分の|奥《おく》|津《つ》|城《き》どころを、このように風のすずやかな丘の上にえらびたいと存じまする」
夜八郎は、杉乃江が旅装束をしているのを眺めて、
「京へもどられるのか?」
と、問うた。
「はい。梨花どのが逝かれたのをみて、急に、都が恋しゅうなりました」
どのような仔細があって、京の御所を出て、この伊吹野にまで流れて来たのか、たずねたこともなかったが、都の空はあのあたりかと、毎日眺めくらしていたに相違ない。
女官として幾十年かすごして来た婦人にとっては、やはり、このような片田舎に住むことは、堪えられないのであろう。
「女の一人旅は、危険です」
「このような婆を、からかう者は居りますまい。金子も所持いたしませぬ。寺から寺へ、宿をたのみながら、辿って参りますゆえ──」
「しかし、餓狼のような野盗が横行している山野を、一人で越えて行かれるのは、どういうものか」
「わたくしのことなど、ご心配には及びませぬ。それより、はよう、梨花どのを葬っておあげなされませ」
やがて──。
そこに、きれいな土まんじゅうが盛られ、白い墓標が立てられた。
長い黙祷をおえてから、杉乃江は、
「お別れいたします」
と、夜八郎に、頭を下げた。
「柿丸──」
夜八郎は、振りかえって、
「このご婦人を、京まで、送ってもらえまいか?」
と、たのんだ。
柿丸は、ちょっとためらっていたが、
「お送りつかまつる」
と、こたえた。
「いえ、そのようなことまで、して頂いては……」
杉乃江は、気の毒げに、柿丸を視た。
柿丸は、珍しく笑顔をみせて、
「わしは、|女《おな》|子《ご》衆の守護役には、向いている男でござる」
と、云った。
「この男がついていれば、安心です」
夜八郎は、口を添えた。
「では、ご好意にあまえて、供をしてもらいます」
杉乃江は、柿丸にも頭を下げた。
生きてふたたび、会うこともあるまい人を、見送るのは、悲しいことであった。
丘を下って、しだいに小さくなりゆく杉乃江の姿を、じっと、目で追いながら、夜八郎は、
──京へもどっても、御所では、あの女性を迎えてくれるであろうか?
そのことを考えていた。
五摂家の公卿までが、都を見すてている時世であった。
禁廷の建物のなかばは、|烏《う》|有《ゆう》に帰しているはずである。多くの女官たちも、散り散りになっているに相違ない。
そのようなところへ、もどって行って、はたして、くらせるものであろうか?
夜八郎は、追いかけて行って、思いとどまらせたい衝動にかられた。
しかし、夜八郎の足は、動かなかった。
|生者必滅会者定離《しょうじゃひつめつえしゃじょうり》の宿運が、人間にあるかぎり、去らんとする者をとどめるのは、むだであろう。
ふと──。
夜八郎は、人の気配をおぼえて、頭をまわした。
新しい墓の前に、女がうずくまっていた。
小幸であった。
祈りおわってから、立ち上ると、小幸は、俯向いて、夜八郎のそばへ寄って来た。
「一昨夜、梨花様は、わたしを、おそばへ、お呼びなさいました」
「………」
「梨花様は、自分が逝ったあとは、夜八郎様のお世話をたのみます、と遺言なさいました」
「………」
夜八郎は、黙って、歩き出した。
「梨花様は、わたしが、貴方様をお慕い申し上げているのを、とっくにご存じだったのでございましょうか」
「………」
「わたしが、お世話を申上げても、よろしゅうございましょうか?」
「べつに、世話をしてもらわずとも、野宿で生きて来た男だ」
「わたしが、お世話申上げたいのでございます」
「それは、そなたの心次第だ」
「お世話してさしあげても、よろしいのでございますね?」
小幸は、うれしそうな声をあげた。
夜八郎は、立ちどまって、丘の上を、ふりかえってみた。
墓標が、白く、あざやかに、目にしみた。
──あれが、おれの妻だ。
夜八郎は、自分に云いきかせた。
小幸は、夜八郎の暗い面貌を、せつなげに、見まもった。
夜八郎は、ふたたび、歩き出した。
小幸は、うしろにしたがいながら、
──このおかたのためなら、|生命《い の ち》をすてても!
と、自分に云いきかせていた。
その人を
「杉乃江様は、やはり、京の都が、恋しゅうござるか?」
一歩毎に、灰のように土埃が舞うかわききった往還をすすみながら、柿丸が、たずねた。
「京に生れて、育った身ゆえ──」
「しかし、もう、都は、焼野原になって居るのではござるまいか」
「そなたが出て来た時は、どうでした?」
「なにやら、あわただしゅう、戦雲が動いて居るように見えました」
「………」
杉乃江の目もとがくもるのを、横目で見て、柿丸は、ちょっとあわてた。
「いや、したれど、御所だけは、安泰でござろう。天下|人《びと》になるには、天子様の御詔勅を頂かねばなりますまいから、野望の武将らも、天子様をおびやかすようなことはいたしますまい」
「わたくしは、御所へは、もどりませぬ」
「はあ……?」
「比丘尼御所の方へ参ろうと存じて居ります」
「では、杉乃江様は、尼におなりなされますか」
「それよりほかに、わたくしのような者が、余生を送るすべはありますまい」
「成程──。尼におなりめさるのか。それは、結構でござる」
三里も進んだであろうか。
「杉乃江様。あそこの森のむこうに、寺院の大屋根が、見えますぞ」
「見えます」
「今夜は、あそこで、泊めてもらうことにいたしては、いかがで?」
陽ざしは、二人の足もとからのびた影法師を長いものにしていた。
「泊めてもらいましょう」
杉乃江は、はじめて長い|道《みち》|程《のり》を歩いたので、疲れをおぼえていた。
山門の見える地点までやって来て、柿丸は、
「はてな?」
と、小首をかしげた。
木立のあいだから、多勢の人影がうごくのを、みとめたのである。
「杉乃江様、しばらく、ここで、待っていて下され。どうも、様子がおかしい。ちょっと、見て参ります」
柿丸は、急ぎ足に、木立の中へ入って行った。
杉乃江は、路傍の石に腰を下して、一望かわきあがった野へ、目を置いた。
──どうして、雨が降らぬのであろう?
──もし、人身御供によって、雨が降るならば、わたくしが、そのいけにえになってもよいのだけれど……。
誰人のためにも役立ったおぼえのない杉乃江は、せめて尼になって、悲運に果てた人々の霊に祈ろう、と思いたったのであるが、それよりほかに、人の世に役立つことがあれば、よろこんで身を捧げたかった。
柿丸が、木立の中から、緊張した面持で、もどって来た。
「杉乃江様。この寺は、近寄ることは、叶いませんぞ」
「どうしたのですか?」
「軍勢が居ります。滞在しているのでござる」
「軍勢が──?」
「数百とかぞえられます。あるいは、ここを、砦がわりにしようというこんたんかとも、うかがわれます」
杉乃江は、ちょっと考えていたが、
「かまいますまい」
と、云った。
「泊まると、申されますか?」
「若い美しい|女《おな》|子《ご》ならいざ知らず、このようなばばを、まさか、からかいもいたしますまい」
杉乃江は、微笑して、云った。
「そう申されれば、そうでござろうが……」
柿丸は、しかし、なんとなく、その寺に行くことに、不安をおぼえていた。
行けば、思いがけない異変が起るような気がしてならなかった。
「参りましょう。参って、大将にたのんでみることにいたします」
杉乃江は、疲れた足をすすませた。
柿丸は、見わたしたところ、ほかに宿をもとめる家もないし、杉乃江がもう一里も歩けぬほど疲れているのが、判っていたので、
──やむを得ぬ。
と、決心した。
やがて、山門の前に至って、見張りの兵に、
「おん大将に会わせてもらいたい」
と、申し入れた。
「御用は?」
「一夜の宿を、お借りしたい」
「旅人を泊めることは許されぬ」
兵は、きびしい態度で、拒絶した。
柿丸は、むっとなって、
「われらは、おん大将に会うてたのみたい、と申して居るのだ」
兵は、柿丸のうしろの杉乃江を見て、身分いやしからぬ婦人と知ると、黙って、境内へ登って行った。
すぐ引きかえして来ると、
「境内まで案内いたす」
と、告げた。
高い長い石段を、柿丸は、杉乃江の手をひいて、登って行った。
杉乃江は、途中立ちどまって、
「由緒のある古刹とおぼえます」
と、云った。
軍勢にけがされたことに、心をいためたのである。
境内には、所在なげに、兵たちが、たむろしていたが、
──なんだ、婆さんでははじまらん。
そんな目つきで、じろじろ見やった。
九十九谷左近は、十人の旗本衆を前にして、絵図面をひろげていた。
絵図面は、伊吹野城であった。
「この焼け城には、まだ、兵が残って居る。その頭数は、不明だ。二百は下るまい。……城主田丸豪太夫は、なかば狂乱の状態にある。乱心はして居っても、武将として戦うすべまで忘れては居るまい。お主らが想像するより以上の猛者であることだけは、それがしが、確信をもって、云う。二十人や三十人の雑兵に、包囲されても、ビクともするものではない」
そう云ってから、左近は、あらためて、旗本衆を見わたした。
──どうやら、戦場で阿修羅となって働いた経験をもっている者は、一人も、いないらしい。
旗本の|走衆《はしりしゅう》といえば、主君の身辺を守るえらばれた|強《つわ》|者《もの》たちのはずであった。
どう見たところで、一騎当千の度胸の持主とは、受けとれぬ。
城攻めにあっては、まっさき駆けて、功名手柄を競うのが走衆であるが、左近が絵図面をひろげてみせても、一向に、気負い立とうとはしない。
はなはだ、たよりない面々であった。
「お主ら十人が力を合せて、奮迅して、ようやく、田丸豪太夫を討ちとれよう。……お主ら、その度胸は、あろうな?」
左近は、一人一人の顔へ、鋭い視線を当てた。
どの顔も、沈黙をまもった。
「その働きによって、お主らは、それぞれ、奉行となり、この土地を治めることになるのだ。おのれのためだ」
「………」
「返辞をきこう。それによって、それがしは、城取りをやるかやらぬか、きめる。……それがしは、剣の|奥《おう》|義《ぎ》をきわめることのみを生涯の目的として生きて居る兵法者だ。城主になる野望など、持っては居らぬ。いずれ、伊吹野城が再築され、平野がみのったならば、それがしは、去る。お主らのうちから、一人、城主となる者がえらばれよう」
それをきいて、はじめて、一同の表情が動いた。
左近は、自分の言葉に効果があったことに、満足した。
その時、|徒《か》|士《ち》が、庭へ入って来て、
「旅の者が二人、今夜の宿をもとめて居りますが……」
と、取次いだ。
「何者だ?」
旗本衆の一人が、問うた。
「品のある老婆と、小者でございます」
「追いかえしてしまえ」
徒士は、独断で、二人を境内までつれて来ていたので、ためらった。
左近が、絵図面へ目を落しながら、
「かまわぬ。泊めてやれ」
と、云った。
方丈の奥の一室では──。
丸窓のそばに、美夜は、坐って、裏手にせまった山麓の景色を、ぼんやりと眺めていた。
木立の縁を、しろじろと彩って、えごのき[#「えごのき」に傍点]が、咲いていた。
[#ここから2字下げ]
路の|辺《へ》の|壱《いち》|師《し》の花のいちじろく
[#ここから6字下げ]
人みな知りぬ我が恋妻は
[#ここで字下げ終わり]
そんな一首が、万葉集にある。
壱師の花とは、このえごのき[#「えごのき」に傍点]のことであろうか。
美夜は、そんなことを、思っていた。
鷹森周防が追われ、九十九谷左近が頭首の座についてから、美夜は、一時の安泰を得たようであった。
左近は、あれから一度も、この部屋へ、姿をあらわしていなかった。
しかし、左近が、信じられる男である、という証拠は、何もなかった。
いつ、夜半に、左近が、ふみ込んで来るか、知れなかった。
その不安が、しばしば、美夜を、目ざめさせた。
希望のない昼であり、怯えていなければならぬ夜であった。
縁側に、足音が近づいた。
「こちらに、泊まられい」
「忝う存じます」
言葉が交され、障子がひらかれた。
美夜は、入って来た婦人を見やって、
──どこかで、会ったような?
そんな気がした。
「旅の者でありまする。一夜の宿をおかりいたします」
杉乃江は、若く美しい|上臈《じょうろう》がいた意外さにおどろきながら、挨拶した。
「どうぞ。お心やすらかにおすごしなさいませ」
美夜は、微笑して、挨拶をかえした。
杉乃江は、お茶をたててすすめてくれる美夜を眺めて、──都のにおいをもったこの娘御が、まるで、とらわれ人のように、こんなところにいるとは?
と、いぶかった。
「うかがって、よろしいことかどうか……、貴女は、都で、姫君と呼ばれたおひとではありませぬか?」
杉乃江は、たずねてみた。
「はい」
「お宮は、公卿でありましょうか?」
「摂州の水無瀬でありまする」
「まあ──水無瀬家の!」
杉乃江は、おどろいた。
「水無瀬家の姫君でおわしましたか!」
「いまは、ただの、家無しの女子にすぎませぬ」
「どうして、このようなところまで、おいでなさいました?」
美夜は、伯父東山中納言につれられて、都を出たことを、語った。
「中納言殿は、この伊吹野へ行くと申されましたか?」
「はい」
「伊吹野の、公卿館をたずねるとは、申されませんでしたか?」
「はい、そのようなことを申して居りました」
「わたくしは、その公卿館に居りました」
杉乃江は、告げた。
「………?」
美夜は、杉乃江の気品のある顔を、見まもった。
「公卿館のあるじ泰国清平殿は、二十年ばかり前に、五摂家から、たくさんの金銀をお預りなされた由、ききおよびます。中納言殿は、あるいは、その金銀を受けとりに参られたのではありますまいか」
「………」
美夜は、東山中納言が殺された理由を、納得した。
杉乃江は、その暗い表情を眺めて、
「おさしつかえなければ、仔細をうかがいまする」
と、うながした。
美夜は、三日前に起った惨事について、語った。
杉乃江は、いたましげに美夜を見まもりながら、ききおわると、
「すると、貴女は、目下は、とらわれびとというわけですね?」
「はい」
「九十九谷左近という兵法者は、貴女を、どうしようというのでしょう?」
「わかりませぬ」
「わたくしのような力のない女には、どうしてさしあげることもできませぬが……、もし、貴女が、救いをもとめたいのでしたら、その救い手は居りまする」
「え?」
「わたくしが出て来た公卿館に、力を持った強い|男《おの》|子《こ》が居りまする。貴女のような美しい娘御を守るにふさわしい御仁です」
「………」
美夜は、杉乃江を、じっと、見つめかえした。
杉乃江は、微笑した。
「御自身は、ただの放浪の牢人者でしかない、と申されて居りますが、まことは、足利将軍家の血を継いでおいでです」
「えっ?」
美夜は、はっとなった。
「世をすてておいでのようにみえますが、決意なされば、いかなる危険をも冒す勇気を持っておいでの御仁です。……わたくしが、明日にも、公卿館へひきかえして、その御仁に、貴女のことを、話して、おたのみしてみましょう」
「もしや、そのおかたは、多門夜八郎と名乗っておいでではありませぬか?」
美夜は、たずねた。
杉乃江は、びっくりして、
「ご存じでしたか、多門夜八郎殿を?」
と、ききかえした。
美夜は、うれしさで、両手を胸にあてた。
「やっぱり……多門夜八郎様は、わたくしが想像していた通りのおかたでした!」
はずんだ声音で、云った。
杉乃江は、
──これには、なにか、仔細があるらしい。
と、思った。
美夜は、杉乃江へ、熱で潤んだようなまなざしを当てた。
「わたくしが、今日まで持っていた唯ひとつの希望は、多門夜八郎様にめぐり会うことでした。亡くなった姉の遺言でございます」
美夜は、つつまずに、夜八郎と姉とのあいだに起ったいきさつを語った。
幸せの薄かった姉が、病臥のあいだに描きあげた夜八郎の像を、そのまま、美夜が受けとっていることを、杉乃江は、きかされて、いくども、うなずいた。
「わかりました。明朝、わたくしは、公卿館へもどって、夜八郎殿に、貴女のことを、おつたえいたしましょう」
「お願い申します」
美夜は、頭を下げた。
胸の中に、眩しい光がさし込んで来たようなよろこびが、美夜の顔を上気させていた。
杉乃江は、その顔を、この上もなく美しいものに、見まもった。
──自分には、このようなよろこびが、ついに、一度も、おとずれなかった。
禁廷の女官として、冷たい形式にしばられた日々が、過去の記憶のすべてであった。
それだけに、この若く美しい娘を、幸せにしてやりたい、という願いが、胸にあふれた。
夜更けて──。
牀をならべてやすんでからも、二人の女性は、べつべつの想いで、ねむられそうもなかった。
杉乃江は、闇に|眸子《ひ と み》をひらいて、云った。
「女の幸せは、やはり、良き殿御により添うてくらすことですね」
「はい──」
「夜八郎殿が、貴女を、姉君のかわりに、愛して下さればよいが……」
杉乃江は、丘の上にねむっている梨花のことを、考えていた。
梨花を喪った夜八郎は、もう別の女性を、愛そうとはせぬのではあるまいか?
その不安が、杉乃江の心にあったのである。
「わたくしは、この世に、多門様のほかに、おすがりするおかたが、ありませぬ」
美夜は、自分に云いきかせるように、はっきりと云った。
燃える剣
すさまじい音響が、渓谷に起り、遠山にいくつかのこだまを呼んでいた。
いまだ一度も斧を加えられたことのない密林が、伐りひらかれているのであった。
斧をふるっているのは、いずれも、屈強の若者たちであった。
「おーい! もう、いいぞ。その樹は、のこしておけ。こんどは、この大岩の下を掘るのだ。抜け穴をつくる」
絵図面を携えている年配の武士が、大声で、その巨巌の上から、叫んだ。
若者たちは、斧をすてて、それぞれの場所に憩うた。
山城から、伊吹野の北の麓に通じる道つくりは、あと一息であった。
ただの道つくりではなく、降りるに易く、登るに難いつくりかたをしていたのである。
密林と巨巌と渓谷を利用し、さらに、|蝮《まむし》や|百足《む か で》の棲息地をあえてえらんで、道を通じさせていた。
陽が落ちれば、山犬の群が跳梁する地域もあった。
また──。
いつの頃からたて籠ったとも知れぬ、奇怪な山賤の一団が、|蟠《ばん》|踞《きょ》している広い草原を横切らねばならなかった。
そこでは、すでに、七人の若者が毒矢を射込まれて、仆れている。
人間とも思われぬ敏捷無類の敵ゆえ、追うことは叶わなかった。本拠も、つきとめられなかった。
邪宗の信仰を抱いてでもいるのか、射かけて来る毒矢には、判読し難い梵字が書き込まれてあった。
かれらにとっては、その草原は、一族以外の者を一歩をも入れぬ掟を設けているに相違なかった。
山城側では、高札を立て、道つくりは、伊吹野城奪還の目的を持ってなされるものであり、成功のあかつきには、兵糧と武器の贈与をなす、と約束したのであった。そして、貴重な米を、五俵も、高札のわきに積んで、休戦の協定をもとめた。
一夜が明けてみると、米俵はなくなって居り、折られた毒矢一本が高札に突き立ててあった。
山城側では、休戦の協定に応じたものとみとめた。
しかし、なお、油断はならなかった。
草原を横切る際には、八方に目を配って、警戒をおこたらぬようにしなければならなかった。
いま、伐りはらっている密林は、その草原の下にあった。
密林を過ぎれば、山頂から落ちている渓谷へ出る。曾ては、どうどうと湖の水が流れていた渓谷であったが、いまは、涸れて、ひとすくいもない。
渓谷の断崖ぶちに沿うて行けば、麓は、一里のさきにある。
普請奉行を命じられた横川勘兵衛は、巨巌の上に、絵図面をひろげて、思案をこらしていた。
と──。
人影が、その絵図面の上に、さした。
何気なく顔を|擡《もた》げた勘兵衛は、そこに奈良城義太郎の鋭くひきしまった|面《か》|貌《お》を見出して、はっとなった。
勘兵衛は、ずうっと、工事の指揮にかかりきっていて、山城へは、しばらく戻っていなかった。
義太郎が、帰って来た、という報らせは耳にしていたが、まだ会っていなかったのである。
勘兵衛は、義太郎が幼少の頃の、守り役であった。
「若か──」
「勘兵衛、わしが、今日からは、山城のあるじだぞ」
義太郎は、昂然と胸を張って、云った。
「三家老は、それを、承知いたしたのでござろうか?」
勘兵衛は、眉宇をひそめて、たずねた。
「承知するも、せぬもない。父親が乱心すれば、その嫡子が、あとを継ぐ。どこに、ふしぎがある」
「それがしどもに、異存はござらぬが、庄野、藤掛、矢倉ら|首《おと》|名《な》らは、大いに不服でござろう。殊に、山城をして、ゆるがぬ安泰に置いた庄野四郎五郎はな──」
勘兵衛は、ためらわずに、云った。
気骨のある武士であった。いま、工事に従事させている若者らは、ことごとく、勘兵衛の|寄《より》|騎《き》であった。
いうならば、山城の武力は、勘兵衛の手に、にぎられている、といって過言ではなかった。
義太郎が、城主としての真の権力を得るには、勘兵衛の無条件の味方がなければおぼつかなかった。
「庄野四郎五郎が、いかなる才覚を発揮して、大庄山に和平を敷いたかは知らぬ。しかし、その功績によって、城主の地位が買えるはずがあるまい」
「その通りでござる。したが、兵らが、はたして、首名側につくか、若の側につくか、それが問題でござろう」
「勘兵衛、お主が兵を説いてくれれば、なんの騒動にもなるまい」
「そのような役目は、まっぴらでござるな」
「なぜだ?」
「それがしは、政権の争いにかかわりあいたくはござらぬ」
勘兵衛らしい態度であった。
義太郎は、「よし──」と云った。
「たのまぬ。しかし、わしのなすことを、邪魔だてはせぬな?」
「それがしは、むかし、若の守り役をつかまつった。伜とも思うて居り申す」
勘兵衛は、そう云って、微笑した。
義太郎が、ひきかえそうとすると、勘兵衛は、呼びとめた。
「若──。かるはずみな振舞いをなさるな」
「忠告なら、無用にせい。わしは、わしの思うがままに、行動する」
義太郎は、云いすてた。
勘兵衛は、歎息した。
わざと冷たい態度をとったのは、義太郎のためを思ったからである。武力を持つ自分が、一も二もなく、味方する態度を示せば、義太郎は、城主の座に就くために、どんな暴力をふるわぬとも限らぬ。それを憂えた勘兵衛であった。
勘兵衛は、庄野四郎五郎に、城主となる野望がある、とは考えていなかったのである。
「奉行殿──」
寄騎の一人が、そばへ寄って来た。
「それがしが、きいたところでは、若殿は、庄野殿の息女を、どこかへ拉致して、これを囮にして居られるそうでござる」
「まことか、それは──?」
勘兵衛は、愕然となった。
「若殿が、庄野殿にむかって、そのことを、はっきりと申されたのを、きいた者が居ります」
「なんという振舞いを!」
勘兵衛は、吐きすてた。
こちらが、道つくりに専念しているあいだに、山城では、思いもかけぬ波瀾が起っていたのだ。
勘兵衛は、道つくりを中止して、急遽、ひきあげたい衝動にかられた。
しかし、道つくりは、中止できなかった。
山城の兵糧は、乏しくなっていた。伊吹野城に侵入して、兵糧を奪取しなければならなかったのである。
「工事に、かかれい!」
勘兵衛は、下知しておいて、副将の佐田なにがしを呼んだ。
「城へもどって、様子を見て参らねばならなくなった。明朝には、もどる。それまで、わしに代って、指揮をたのむ」
「心得申した」
勘兵衛は、いそいで、義太郎のあとを追うことにした。
もし、勘兵衛が、そのまままっすぐに、足をはやめて登って行っていれば、頂上に至らぬうちに、義太郎に追いつけたに相違ない。
邪魔が入った。
草原を横切ろうとすると、不意に、山賤が三人、勘兵衛の前をふさいだのであった。
勘兵衛は、はじめて、その姿に接した。
いずれも、顔半面をくろぐろと髯で掩い、けものの皮でつくった袖なしを羽織り、短槍を携えていた。
勘兵衛は、山賤から、さらに、米五俵を要求された。
伊吹野城の地下倉から、兵糧を奪取するまで待ってもらわねばならぬ、という返辞を、山賤は、承服しなかった。
山城の本丸に於ては──。
庄野四郎五郎は、蜂尾兵庫助と、かなり険悪な空気の中で、対坐していた。
兵庫助が、現れて、
「若を、ひとまず、主座に就けては、いかがであろう」
と、申し出たのである。
これに対して、庄野四郎五郎は、冷然として、反撥したのであった。
「われらが、営々|孜《し》|々《し》として、今日まで努力して、保って来た平和を、若のために、ふみにじられることは、兵らの立場からも、断じて、許されぬ」
「若は、主座に就くことをもとめて居るのであり、専横の権力をつかもうとしているのではござるまい」
「主座に就けば、専横の権力をふるうことは、云うをまたぬ」
「それは、被害妄想と申すもの。若は生来寛濶の気象であり、この五年間、苦労もされて居り申す」
兵庫助としては、なんとか、事を穏便にしずめたい気持であった。
しかし、庄野の方は、いまや、意地にも、義太郎を、山城から追放したい|意《い》|嚮《こう》をかためていた。
問答は、はてしがなかった。
空気は険悪になるばかりであった。
そこへ、義太郎が、ぬっと、姿を現した。
「兵庫助──。無用の問答は、|措《お》けい」
義太郎は、庄野を睨み据えて、云った。
「若! 敵同士ではござらぬ。おだやかに、話し合うことが、肝要でござるぞ」
「ふん──」
義太郎は、せせらわらった。
「勘兵衛に会うて来たぞ。勘兵衛は、わしの味方だ。寄騎一同、ことごとく、わしを主人と仰ぐと誓ったぞ!」
義太郎は、うそぶいた。
──云うべからざることを、どうして、わきまえぬのか!
兵庫助は、絶望的な気持になった。
庄野四郎五郎の面貌に、露骨に、憎悪の色がみなぎった。
義太郎は、ずかずかと、上座にあがって、どっかと、あぐらをかいた。
「庄野四郎五郎、即刻、当城を立去れい!」
大声で、命令した。
「主人でもないお手前様から、さような命令は、受けぬ」
庄野は、云いかえした。
「わしは、奈良城義太郎だ! この大庄山および伊吹野の領主だ!」
義太郎は、叫んだ。
その時であった。
幽鬼のように、ひとつの人影が、ふらりと、入って来た。
庄野四郎五郎は、そちらを見やって、あっ、となった。
「美代奈!」
白蝋のように蒼ざめて、|眸子《ひ と み》をうつろに宙に送ったわが娘の顔を凝視した庄野は、いかにひどい打撃を心身に蒙っているかを知った。
「美代奈!」
庄野は、あわてて立って行き、美代奈の肩をとらえ、
「どうしたのだ? どこへ、監禁されていたのだ?」
「………」
美代奈は、唖のように、こたえなかった。
「美代奈! そなたは、何をされたのだ? これ──痴呆に相成ったのか!」
庄野は、烈しく、美代奈をゆさぶった。
瞬間──。
美代奈は、父の手をふりはらいざま、胸にしのばせた懐剣を抜くや、義太郎めがけて、突きかかった。
義太郎は、身をひねって、美代奈の手くびを打って、懐剣をとり落させた。
美代奈の形相は、一変していた。
「鬼!」
まなじりをつりあげ、眼球をとび出さんばかりに、かっとみひらいた凄じい憎悪の表情は、とうてい、若い女のものではなかった。
美代奈が、落ちた懐剣をひろいとるのを、庄野も、兵庫助も、息をのんで、見まもった。
義太郎は、冷然としている。
美代奈は、再び義太郎を突くかわりに、不意に、懐剣を、おのが胸に刺した。
「美代奈!」
庄野は、仰天して、とびついた。
美代奈は、がっくりと、父の胸によりかかって、目蓋を閉じた。
「美代奈っ! な、なんということを!」
庄野は、わが娘をかかえて、全身をふるわせた。
義太郎が、座を立った。
とたんに、庄野は、美代奈のうらみを、そのまま、おのが面相にみなぎらせて、
「待たれい!」
と、呼びとめた。
義太郎は、じろりと、庄野を視かえした。
「おのが子を、このような目に遭わされて、父たる者、そのままに、ひきさがるわけには参らぬ!」
「娘の讐を|復《かえ》すというのか?」
「左様──。勝負いたすぞ!」
「よかろう。兵庫助、検分せい」
義太郎は、昂然として、云った。
──やんぬるかな!
兵庫助は、嘆息した。
──いずれかが、仆れなければ、事はおさまるまい。
やがて──。
本丸の平庭上で、義太郎と庄野四郎五郎は、対峙した。
対手を寸毫も許さぬそれぞれの憎悪を、全身にみなぎらせて、十歩の距離をとって、向い立った二人は、おのが人生に於ける最大の関頭に立ったと覚悟した。
蜂尾兵庫助ただ一人が、検分の役をとり、すべての者が、遠ざけられていた。
平庭はだだ広く、三人の姿が、小さいものに見られた。
物蔭には、多くの者が、息をひそめているはずであったが、|寂《せき》としている。
陽ざしが眩しく照りつけているばかりであった。
義太郎は、長剣を携げ、四郎五郎は短槍を小脇に、かいこんでいた。
先に──。
四郎五郎が、すうっと、穂先をさし出して、ぴたりと構えた。
「いざ!」
その声に応じて、義太郎は、抜きはなって、鞘を遠くへ、投げすてた。
「おうっ!」
義太郎は、高く叫んで、大上段にふりかぶるや、かっと、双眼を、ひき剥いた。
四郎五郎は、やや猫背になって、義太郎と逆に、細目になった。
戦いの場数をふんでいることにおいては、若年の義太郎の方が、多かった。四郎五郎は、文官としての手腕が秀れた人物であり、刀槍をふるうのは得意でなく、そのために、浪々のくらしが長かったのである。
とはいえ、戦国の武士であるからには、戦場を駆けめぐった経験は、一度や二度ではない。ただ、この場合、敵を斬るよりも、おのが生命の無事の方に、心を配って来たのである。
このような一騎討ちは、おそらく、はじめてであった。
義太郎を亡き者にする巧妙な策謀が、四郎五郎の脳裡に、うかばないはずはなかった。敢えて、策謀をすてて、決闘をえらんだのは、わが娘の死に出会って逆上したのではなく、かれもまた、戦国を生きる武士であったからである。
義太郎の方とすれば、この機会をこそ、のぞんでいたのである。
一太刀で斬る自信を、総身に満たして、義太郎は、すこしずつ、進みはじめた。
四郎五郎は、動かぬ。
白く広い庭上に、動くものといえば、義太郎の長身とその地上の影法師だけであった。
横川勘兵衛が、もどりついたのは、その時であった。
義太郎と四郎五郎が決闘をしているときいて、
「ばかな!」
と、叫んで、走り出した。
その距離は、五歩にまで縮まった。
大上段にふりかぶった義太郎が、一瞬、にやりとした。
四郎五郎の構えに、ひるみが生じるのを視たのである。
勘兵衛が、奔り出て来たのは、その時であった。
「若っ!」
絶叫するのと、義太郎が、地を蹴るのが、同時であった。
白刃と槍の穂先が、交叉した。とみえた刹那、そこに、|血《ち》|飛沫《し ぶ き》が、噴水のごとく、ほとばしった。
「ああっ!」
勘兵衛は、間に合わなかったくやしさを、その叫びにこめた。
四郎五郎は、よろめきつつ、槍を杖にしたが、おのが五体を支えきれず、がくっと、膝を折った。
兵庫助が、いそいで歩み寄って、かかえた。
「遺言は──?」
耳もとでうながされると、四郎五郎は、かぶりを振り、がくっと、顔を仰向けた。
闇になって行く世界へ、大きく双眼をみひらきながら、
「ほ、ほろびる。……ほろびるぞ」
そのつぶやきを、この世にのこした。
義太郎は、その最期を、冷然と見下していた。
勘兵衛が、寄って来て、
「若! 奸賊ならばいざ知らず、この山城の安泰につくした首名を、斬るとは、あまりの所業と申さねばならぬ」
と、云った。
「わしが、挑んだ勝負ではない」
「庄野が挑んだ、と申されるのか?」
勘兵衛は、納得しがたい表情になった。
兵庫助が、
「美代奈が、面前で、自害したため、娘の仇討ちをしようとして、返り討ちに相成った」
と、説明した。
矢倉新兵衛、藤掛左馬之丞はじめ、家臣たちが、こわばった面持で、近づいて来た。
義太郎は、昂然と胸をはると、
「庄野四郎五郎に心服して居った者は、居らぬか?」
と、家臣一同を見わたした。
「居るならば、出い。一騎討ちをしてくれる! 居らぬか?」
誰も、その正面に出て来る者はいなかった。
「よし! されば──ただいまより、当城のあるじは、この奈良城義太郎だぞ。不服の者は、即刻、去れ」
満々たる自負をもって、宣言する義太郎の横顔を、兵庫助と勘兵衛は、それぞれの暗い気持で、見まもった。
──はたして、このがむしゃらな若者を、主君にして、どうなるのであろうか?
暗い気持の中の不安は、共通していた。
宿敵卍
えんや、ほう
えんや、ほう
多勢のかけ声が、庭の一隅からきこえて来る。
井戸掘りである。
百平太が指揮して、二三日前から掘りにかかった。青助、黒太、赤松、白次など、労働をきらう都の夜盗たちも、せっせと働いている。
それまで使っていた井戸が涸れて、いよいよ水が乏しくなり、別の井戸を掘らねばならなくなったのである。
ただの深さでは、水は、わいて来そうもなかった。
水がいかに貴重なものか、思い知らされた青助たちは、背に腹はかえられず、早朝から日暮れまで、けんめいに掘りつづけている。
えんや、ほう
えんや、ほう
かけ声のうちでも、青助の声が、いちだんと高い。祭文語りをやったことのある男である。
天満坊は、座敷で、そのかけ声をききながら、一枚の絵図面をひろげていた。
夜八郎が、黙兵衛からもらって来た、大庄山の地勢をこまかく描いた絵図面であった。
無数の朱点が、入れてある。越え難い危険の場所であることを、示していて、その理由が説明してある。
一読しただけでは、とうてい、突破は不可能である。
天満坊は、夜八郎から、これを渡された時、
「これでは、鬼神か天狗ででもない限り、竜神湖まで辿りつくことは、おぼつかぬ」
と、云ったものであった。
田丸豪太夫の攻撃をおそれた奈良城義胤が、まるで狂気にちかい必死な努力で、登り道をふさいでしまったのである。ただふさいだだけではなく、餌をまいて、山犬の群をおびき寄せて、そこへ棲みつかせ、あるいは、蝮をはなった。渓谷の上にさしわたした釣り橋を切り落したばかりか、両断崖には、百足を飼って、岩にむらがらせていた。
さらには、中腹の草原には、怪しい神を奉する得体の知れぬ山賤の一党の巣窟がある。
尋常一様のわざをもってしては、登攀は不可能であった。
だが──。
伊吹野は、いまや、絶体絶命の瀬戸際まで追いつめられている。
この二十日あまりの間に、雨が降らなければ、田植えはできないのである。そうなれば、農夫たちは、伊吹野を|逃散《ちょうさん》するか、あるいは、餓死しかのこされていない。
天を仰げば、雨が降るのは、絶望である。
なんとしても、竜神湖の水を落して、伊吹野に流し入れなければならなかった。
その日から、天満坊は、この絵図面を、睨んで、毎日すごしている。
──やれるかも知れぬ。
すこしずつ、その気持になって来た。
絵図面が示す限りでは、人間業をもってしては到底不可能な事も、あたってくだければ、意外の幸運によって、成功するかも知れないのだ。
敢然として進む闘志と自信を、おのれのものにする必要があった。
「御坊──」
影のように、すっと入って来た者に、呼ばれて、天満坊は、絵図面から、顔をあげた。
七位の大乗であった。
ある日、忽然として姿を消して、それきり行方知れずになっていたのである。
「お主は、もう、都へもどった、と思って居ったが……」
「当地は、気に入って居り申す」
大乗は、にやりとして、
「大庄山の麓を、うろついて居り申した」
と、告げた。
「ほう……何か収穫はあったかな?」
「奈良城勢は、どうやら、伊吹野へ降りて来る気配がござる」
「なんと……、まことかな?」
「たしかに! それがしは、こころみに、渓谷を途中まで登って行ってみたのでござる。……すると、人跡未踏の密林で、樹が伐り倒される音が、間断なく、ひびいて参った。道つくりをして居るとしか、考えられず、思いきって、渓谷から、絶壁をよじのぼってみようといたしたところ……、いやはや──」
大乗は、片袖をまくって、二の腕を示した。
凄じい傷が、ついていた。
「いかがしたな?」
「山犬の群が、一挙に襲って来申したわ」
「ほう──」
「やむなく、水の涸れた谷底まで退却いたしたところで、そこでもまた、ひどい目に遭い申した」
「何が襲うて来たな?」
「百足の大群でござった。岩かげという岩かげから、ゾロゾロとはい出して来た光景は、鳥肌がたつ、などという程度の不気味さではござらぬ」
「ふむ──」
「たしかに、奈良城勢は、道つくりをいたして居り申すが、途中にうごめいて居るけだもの、毒虫のたぐいを、どうやって、はらいのけるのか、見当もつき申さぬ」
「敵が降りられる道なら、こちらも登れぬはずはないがのう」
天満坊は、急に、
──いよいよ、やってのけるか!
と、ほぞ[#「ほぞ」に傍点]をきめた。
「大乗──」
しばらく沈黙を置いてから、天満坊は、忍者へ、いつになくきびしい表情を向けた。
「なんでござる?」
「お主これまで、到底不可能と思われる冒険に、生命を賭けたことはないか?」
「………」
大乗は、腕を|拱《こまね》いて、考えた。
「お主のような、盗賊と忍者を兼ねている者ならば、そのような機会が、一度や二度は、あったろう」
「それは、ないとは申さぬが……、死地と判って居れば、それに対する充分の準備をいたしたゆえ──」
「それは、そうであろう。しかし、充分の準備をいたして、その死地に忍び入りながら、絶体絶命の状態に陥った場合は?」
「悪運というやつでござる。おのれ自身、思いもかけぬ智慧がひらめいたり、身をすてて躍った瞬間に予期もせぬものが救ってくれて、道がひらけたり……、いわば、これは、測らざる偶然が、生命をたすけてくれるのでござる」
「それじゃな」
天満坊は、にっこりした。
「御坊は、いよいよ、大庄山を襲われますか?」
「背に腹はかえられぬ。水は、竜神湖にしかない。虎穴に入らずんば、虎児を獲ず、だのう」
「御坊が、覚悟をきめられたのであれば、それがしは、もう一度、奈良城勢の道つくりの状況を、調べて参る」
「たのむ」
大乗は、これから直ちに、大庄山へ向う気色をみせて、座を立った。
入れちがいに、多門夜八郎の姿が現れた。
「当家のあるじの臨終が、せまった」
夜八郎が、沈んだ声音で、告げた。
「ほう──」
天満坊も、暗い面持になった。
公卿館の主人泰国清平が、重態に陥ったのは、十日ばかり前からであった。
「遺言は、おわって居るのであろう」
「いや、太郎は、まだ、きいて居らぬ、という」
「………?」
「五摂家の金銀を、どこに埋めてあるか、太郎は、知らされて居らぬのかな?」
「たぶん──」
「困ったものだな。清平殿は、もう意識はないのであろう」
「目ざめる希望はない」
「清平殿ともあろう者が、どうして、口をつぐんだまま、逝こうとするのか」
天満坊は、立った。
夜八郎は、天満坊が出て行くと、自分はのこって、そこにひろげられてある絵図面へ、目を落した。
──金よりも、水か。
やがて、夜八郎が、清平の寝所へ行くべく、立ち上った折であった。
小幸が、あわただしく、駆け入って来た。
「杉乃江様が、おもどりになりました」
「なに?」
夜八郎は、おどろいて、玄関へいそいだ。
よほど、急いでもどったものであろう、杉乃江は、玄関の式台に坐って、苦しげにあえいでいた。
「どうなされたのだ? 何か起ったのであろうか?」
「はい。貴方様に、ぜひともお願いしなければならぬことが起りました」
「何か?」
「伊吹野の東の岬に、古刹がありまする。そこに、都からやって参った五百ばかりの軍勢が居りまする。その軍勢とともに、一人の姫君が、おいでです」
「………?」
「摂州水無瀬家の姫君で、美夜と申されまする」
「水無瀬家の──?」
夜八郎は、はっとなった。
「お会いなされたおぼえがおありでしょう?」
「それがしは、かつて、水無瀬家の姫をかどわかしたことがある。その妹であろうか」
「そうなのです。……美夜様は、お姉上の遺言によって、貴方様をさがしもとめて居られまする」
「………」
「貴方様にお目もじすることを、唯一の生甲斐になされている天涯孤独のおひとでございます」
「………」
「美夜様は、目下、監禁同様のおん身でありまする。貴方様以外に、救い出せる御仁は、見当りませぬ」
「その軍勢を率いるのは、何者であろう?」
「それが、率いて参った大将ら二人は、一人は斬られ、一人は追放され、いまは、得体の知れぬ兵法者が、主謀格となって、伊吹野城を奪おうと、計っている由──」
「兵法者?」
「はい。九十九谷なにがしと名のる、|稀《き》|代《たい》の使い手の由にございます」
「左近か!」
「ご存じでしたか?」
「それがしの宿敵だ」
「まあ!」
夜八郎は、微笑して、
「あの兵法者とは、三度び、闘うことになる。いずれ、出会うであろうという予感はあった」
と、云った。
「では、美夜様を、救い出しに行って下さいますか?」
「参ろう」
夜八郎は、陽明御殿にふみ込んだ時に、一室で出会った少女を、ありありと思い出していた。
夜八郎は、杉乃江から、柿丸を、その古刹にのこして、ひそかに、美夜の身辺を守護させているときいて、単身でおもむく肚をきめた。
夜八郎は、清平の寝所から出て来る天満坊に、そのことを告げた。
「死地に入らねばならぬほど、その娘を救わねばならぬ義理があるとは思えぬが……」
天満坊は、云った。
「それが、ある」
「どうしてじゃな」
「御坊には、わかるまい。おれは、けがれを知らぬ娘を、二人までも、あの世へ送っている。おれのせいなのだ」
「………」
「三人目の娘を、あの世へ送るわけにはいかぬ」
「成程のう──」
「美夜という娘が、おれにめぐり会おうとして、都を出て来たのを、勝手なふるまいだと、すてておくわけにはいかぬ」
「五百の軍勢のまっただ中へ乗り込んで、九十九谷左近と、決闘し、これに勝って、姫を救い出す──。世の中が、万事、そう都合よくはこぶのであれば、苦労はあるまい」
「わかって居る。しかし、おれは、行かねばならぬ」
「お|許《こと》の生命は、大切なのだ。お許を措いて、誰が、大庄山へ登って、竜神湖の水を、きって落せるかの?」
そう云われると、夜八郎も、口をつぐまざるを得なかった。
「一人の|女《おな》|子《ご》を救うことと、伊吹野一万の農民を救うのと、どちらが大切か、自ら明らかであろうがな」
「………」
「と申したところで、ひとたび決意したことを、変えるお許でもあるまい。……行かっしゃれ」
夜八郎は、|一《いち》|揖《ゆう》しておいて、館を出た。
百平太が、馬を用意して、待っていた。
「多門様。わしを、供にして下され」
「いや、おれ一人で行く」
「足手まといには、なり申さぬわい」
「お前がじゃまなのではない。おれは、おれ一人の力を試してみようと思うのだ」
「ざんねんじゃ」
百平太は、かぶりを振った。
門前には、杉乃江と小幸が、ならんで見送った。
「武運のほどを、お祈りして居りまする」
杉乃江が、頭を下げると、夜八郎は、笑って、
「神を信じなかった男が、天佑を信じて居る。……待っていてもらおう」
夜八郎は、まっしぐらに、馬をとばしはじめた。
杉乃江は、見送る小幸の双眸に、泪がわきあがるのをみとめて、
──ああ、この娘も!
と、思った。
ところで──。
伊吹野城の田丸豪太夫は、焼きはらわれた荒城の中で、手負い猪のように、昼夜うめきつつ、|逼《ひっ》|塞《そく》していたのであろうか?
いや、野伏の中から身を起した豪太夫は、やはり、不死身であった。
擁する兵は、二百にも足らなくなっていたが、結果としては、豪太夫の力を信ずる者たちがのこったことになり、その団結はかたいものとなった。
ひとつには、豪太夫が、奇蹟でも行うように、多量の武器と兵糧を、焼土の下から、とり出してみせたからである。
また、もうひとつの理由として──。
豪太夫は、いずれ、近い時をえらんで、公卿館を、再び襲い、こんどこそ、五摂家の金銀を奪ってみせる、と兵らに誓ってみせたからである。
豪太夫が住む仮の館も、士の|屯《たむろ》する根小屋も、そして兵らの起居する小屋も、つくられていた。
新しく井戸も二箇処に掘られ、水の不足もなかった。
兵らとしては、旱魃の野をうろつくよりも、荒城にとどまっている方が、よほど、楽であった。
女も何十人か、拉致されて来ていた。
その中から、見目のいい女を数人えらんで、豪太夫は、かたわらにすえて、酒をくらう余裕をみせていたのである。
その日。
夕陽が沈みかけた頃あい、海へ、|漁《あ》|網《み》を打ちに行っていた武者三騎が、馳せもどって来ると、豪太夫に、耳よりな吉報をもたらした。
「殿──。東の岬にある古寺に、五百ばかりの軍勢が、憩うて居りますぞ。具足の派手さから見て、都から落ちて参ったこと明らかでござる」
これをきいて、豪太夫の双眼が、光った。
「都から落ちて来たのであれば、疲労がひどいであろう」
「もとより、士気はたるみはてている、と見え申した。浜辺へ、小魚すくいに出て来た雑兵の一人を生捕って参りましたゆえ、尋問なされい」
「庭さきへ、曳け」
豪太夫は、縁側へ出ると、地面へひき据えられた雑兵を、見下し、
「生命が惜しくば、つつみかくすな!」
と、まず一喝をくらわせた。
雑兵は、首をすくめて、豪太夫を、仰いだ。
「大将は、何者だ?」
問われて、雑兵は、ごくっと、生唾をのみ下してから、
「大将は、居りませぬ」
と、こたえた。
「大将が居らぬ? 何を、ほざくっ! 大将の居らぬ軍勢が、どこにある! おのれ、そのそっ首を刎ねられたいか!」
豪太夫が、呶鳴りつけると、雑兵は、いよいよ首を縮めながら、
「ま、まことでござる」
「まことだと!」
豪太夫が、佩刀を抜きはなたんとする気勢を示すと、雑兵は、必死の形相で、
「お願いでございます! 嘘は、申しませぬ!……大将は、殺されたのでございます!」
と、叫んだ。
「殺された?」
「は、はいっ! 四王天延正様は、殺されました」
「殺したのは、何者だ?」
「鷹森周防様でございます」
「なんだ、そやつ?」
「四王天様と、ともに、都を出て参られたおひとでございます」
「ふむ──、裏切ったわけだな。いまは、そやつが、大将ではないか。大将は、居るではないか」
「と、ところが、どうした次第か……、鷹森様は、追い出されてしもうたのでございます」
「追い出された? 追い出したのは、旗本どもか?」
「そ、そうでございます」
「不甲斐ない軍勢だのう。旗本どもが、協議して、率いるというのか。ばかくさい。そんなことは、できるものではないわ。軍勢と申すものは、権威と実力を兼備した大将が、掌握してこそ、士気もたかまり、陣形をととのえるものぞ。……おのれら、ただ、うそうそと、当惑いたして居るばかりであろうが……」
「そ、それが……、軍師が、おつきなされたので、決して、わたくしどもは、当惑は、いたして居りませぬ」
「軍師?」
「はい。左様でございます。鷹森様が、追い出されたのも、その軍師が、お旗本衆に、お命じになったからと、存じられます」
「どんな軍師だ? そんな奴が、どこにいた?」
「お寺においででございました。兵法者でございます」
「兵法者?」
「途轍もない早業をお持ちなされている兵法者でございます」
「そやつ──九十九谷左近とは、申さんか?」
問う豪太夫のまなこが、凄じい光を放った。
「は、はい──」
「左近め! おのれ──」
豪太夫は、べろりと、唇をなめた。
「一人で、うまい汁をくらおうと、浅智慧を働かして居るのであろうが、そうはさせぬぞ!」
「やあっ!」
「おーっ!」
「たあっ!」
凄じい懸声が、森をくぐりぬけ、岬にこだまし、海原の上を流れた。
旗本十騎、いずれも、上半身をむき出して、木刀をそれぞれの構えにとっているのであった。
これに、向って、うっそりと立っているのは、九十九谷左近一人だけであった。
木刀を左手に、ダラリとさげて、構えもとって居らぬ。
左近の|眼《まな》|眸《ざし》は、氷のようにひややかに、十人の構えへ、ゆっくりと移動していた。
いずれもが、必死であることは、みとめられる。
しかし──。
左近から、見れば、なっていないのだ。
どれ一人として、戦場を馳せめぐった経験をもっていないことが、あまりにも明白であった。
どの裸身にも、刀傷槍傷が、ひとつもついていないのだ。
ついていないのはよい。ただ、修羅場をくぐった者と、そうでない者の差は、その度胸の発揮にある。前者は、敵に対して、退るよりも進む方が、かえって、おのが|生命《い の ち》に利があることを知っている。
十騎は、一人として、進んで来ようとはせぬのである。
「どうした? なにを、ぐずぐずして居る? 撃って来ぬか?」
左近は、ひややかにさそった。
誰も、進んでは来なかった。
左近の姿が、巌のごとく、巨大なものに目に映っていて、動けなかったのであった。
「来ぬかっ!」
左近が、一喝した。
一人、
「くそっ!」
呶号しざま、地を蹴って来た。
左近は、一歩も動かず、そいつを、もんどりうたせておいて、
「次だ!」
叫んで、ずかずかと迫った。
旗本たちは、さっと散った。
「臆病者っ!」
左近の木刀が、閃くとともに、三人ばかりが、よろけたり、のけぞったりした。
じっとしていても、撃ちのめされると知るや、旗本たちは、なかばやけくそで、四方から、とびかかって来た。
それが、左近の思う壺であった。
木刀と木刀の打ち音さえしなかった。呻き声だけが、そこに、ここに、起って、みるみるうちに、裸身が土にまみれた。
「お主ら──」
左近は、ぶざまに倒れた旗本たちを見まわして、
「それで、旗本か! 不甲斐ない、というもおろかだぞ! 合戦になった時、その腰抜けぶりで、なんとする!」
べっと唾を吐きすてておいて、踵をまわした。
左近は、旗本どものあまりの弱さに、不快になって、方丈へもどって来ると、
「話にならん! なにが、五摂家守護の軍勢だ。くそ度胸のある野伏に二十名もあばれ込まれたら、八方に散りぢりになるて」
と、吐きすてた。
こんな軍勢を率いて、伊吹野城を攻めることなど、到底おぼつかぬ。
焼け城の手負い猪とはいえ、いやしくも、田丸豪太夫は、おのが力でのしあがって、一国一城のあるじとなった武将である。
こんな軍勢に攻め寄せられたぐらいで、降伏するはずがない。
一瞥しただけで、
「なんだ、この蝿どもは!」
と、せせら笑うに相違ないであろう。
左近は、率いていることが、ばからしくなった。
「左近殿──」
勘念が、入って来ると、声を落して、
「どうやら、士卒ともども、蝉の抜殻でござるようじゃ」
と、云った。
「どうにもならん。旗本にしてくれた者どもが、一人として、戦場に出たことがない。刀も槍も、使いかたを知らぬのだ。……ばかばかしくなって来た」
「かげで、ぶつぶつ、不平だけは、こぼしているようでござる」
「ふん──。兵糧も乏しくなって来たのだろう」
「左様でござる。兵らは、自分の米を盗んだとわめいては、つかみあい、粥の分配が不公平だと申しては、隊と隊でにらみあい──まるで、餓鬼地獄でござるわ。……どうなされるおつもりですかのう?」
「………」
「このような軍勢で、伊吹野城を攻め落すことは、かないますまい」
「おれも、そのことを、考えていた」
「いっそ、追いはらってしまわれたら、気がせいせいしませぬかな」
「まァ、待て──。烏合の衆でも、使い方によっては、役に立つ。……ひとつ、兵糧が一粒もなくなるまで、すてておいて、本当の餓鬼にしてくれるか。そうすれば、伊吹野城に、たんまり、兵糧のたくわえがある、ときかせれば、死にもの狂いになって、働くのではないか」
「それも、一案でござろうが、どうやら、伊吹野城には、百や百五十の兵は、のこっている模様でありますぞ。ふみとどまった兵らは、ここの雑兵どもとは、くらべもならぬ荒らくれぞろいではありますまいかな」
「そうであろうな」
「まず、城取りの希望は、ござるまい」
「勘念──。他人事のように申すな。……おれは、いかなる手段をもってしても、城を取ってみせるぞ」
「ところで──」
勘念は、左近へ、小ずるい目を向けた。
「あの娘御を、左近殿は、どうなされる?」
「どうするか、まだ、考えては居らぬ」
「あれは、ただの娘御ではないようでござる」
「公卿の娘だろう。……公卿の娘であろうと、土民の娘であろうと、家をはなれてしまえば、おれの目には、ただの娘だ」
「いや、その意味ではござらぬ。昨夜泊って、今朝がた出て行った老女が居り申したが、娘御とのひそひそ話を拙僧は、そっと、ぬすみぎいたのでござる」
「勘念! 貴様、邪念を起して、忍び寄ったな?」
左近は、睨みつけた。
勘念は狼狽して、手をふった。
「そ、そうではござらぬ。あの老女に、どこやら、見おぼえがあり申したので、ちょっと、気にかかり……」
「ごまかすな! 邪念を起したのなら、起したと云え!」
「そ、それも、なくはなかったのでござるが……ともかくぬすみぎいたところでは──」
「なんだ?」
「あの老女は、公卿館へ、身を寄せていた者でござった。先年、拙僧が、亡師の供をして、何かの法要に公卿館へ参った節、出会った老女でござった。……老女と娘御の会話に、耳をすませているうちに、娘御は、公卿館にいる多門夜八郎と申す武士を、さがしている、と判ったのでござる」
「なに!」
左近の双眼が、にわかに光った。
「多門夜八郎が、公卿館にいる?!」
「そ、そうでござる。……で、つまり、老女は、公卿館へひきかえし、多門夜八郎に仔細を告げて、娘御をたすけに──」
左近は、みなまできかずに、立ち上ると廊下へ出た。
勘念が、追って出て、呼ぶと、左近は、ふり向きもせず、
「来るな!」
と、呶鳴りすてた。
勘念は、
──やれやれ。
と、肩をすくめた。
左近は、奥へ入ると、いきなり、檜戸を烈しい勢いでひき開けた。
美夜は、念珠を手にして、床の間にかけられた阿弥陀三尊にむかって、経文を誦えていたが、びくっとなって、ふりかえった。
左近は、立ったままで、
「そなたに、問うことがある」
と、云った。
「なんでございましょうか?」
美夜は|怯《お》じずに、見かえした。
「そなたは、多門夜八郎をさがしている娘だそうなが、まことか?」
「………」
美夜の顔から、血の色が引いた。
「それは、まことか、ときいて居るのだ?」
左近の凄じい形相に、美夜は、目を伏せないわけにいかなかった。
「まことでございます」
「なんの仔細があって、さがして居る?」
「亡き姉の遺言でございます」
「遺言?」
「はい」
「その姉と、多門夜八郎と、いかなる因縁がある、と申すのだ?」
「………」
「かくすな! 云え!」
「貴方様とは、なんのかかわりもないこと」
「かくすことは、許さん!」
左近は、ずかずかと、美夜に迫った。
美夜は、全身を硬直させて、あとずさった。
「そなたの姉は、夜八郎と契って居ったのか?」
「いえ──、でも、心では、妻として……」
「妻としてだと! ふん──」
左近の顔面が、陰惨なゆがみかたをした。
伊吹野城内にあって、左近は、梨花という美女を犯そうとしたことがある。
梨花は、多門夜八郎を良人と思いきめている女性であった。
それを知った左近は、にわかに狂暴な発作にかられて、梨花に襲いかかったものであった。
多門夜八郎の妻だから、犯す、とうそぶいた左近であった。
邪魔が入って、犯すことはできなかった。
梨花をとりにがした当座、左近は、無性やたらに、狂暴な衝動にかられたことを、おぼえている。
いま、また──。
夜八郎をさがしもとめる別の美女を、目前にして、左近は、名状し難い苛立たしさをおぼえていた。
夜八郎を慕う女が──それも、並すぐれた容色の持主が、つぎつぎと、自分の前にあらわれるとは、いったい、どうした因縁なのか?
「そなたは、公卿の娘であろう?」
「はい」
「公卿の娘が、あの牢人者を、なぜ、慕う?」
「多門夜八郎様は、ただの牢人衆ではありませぬ」
「なんだと?」
「将軍足利義晴様の御実子です」
「な、なにっ?!」
左近も、流石に、愕然となった。
「彼奴が──、将軍家の子息だと?」
「はい。相違ありませぬ」
「将軍家の子息が、なぜ、牢人となって、諸方をうろついて居る? そなたら、たぶらかされて居るな?」
「いいえ。わたくしは、亡き姉の口から、きいて居ります」
美夜は、亡き姉が、近衛家の|嫡嗣《ちゃくし》に、嫁がせられようとして、陽明御殿へつれて来られた時、多門夜八郎に拉致されたいきさつを語った。
そして、三年後に|逝《ゆ》くまで、姉が、夜八郎を慕いつづけていたことも──。
「ふん!」
左近の顔面が、また、みにくくゆがんだ。
夜八郎は、女を暴力で犯しながらも、結果においては、慕われている。
しかるに、この九十九谷左近は、どうだ!
左近の脳裡には、柳の遊廓に身を沈めた一人の不幸な女の|俤《おもかげ》が、|泛《うか》んでいた。
花鳥大夫といい、柳の遊廓で、随一の人気をほこっているが、もとは、青蓮尼という比丘尼であった。
|曾《かつ》て、左近が、山科の山道で、出会うて、これを犯した比丘尼であった。
左近は、青蓮尼を|還《げん》|俗《ぞく》させて、三月ばかり、妻として、一緒にくらしたものであった。しかし、青蓮尼は、左近に対して、憎しみをすてず、その三月のあいだに、二度も、短剣で刺そうとしたことであった。
やがて、左近によって女の官能をめざめさせられた青蓮尼は、女が地獄の使いであるならば、いっそ身を泥沼に沈めようと、決意して、傾城になったのである。
傾城になった青蓮尼を、左近がたずねたのは、|化野《あだしの》で、多門夜八郎と決闘をする約束をした前夜である。
花鳥大夫は、客として現れた左近に対して、客としてしか、扱わなかった。
女郎にまで堕とされた女としては、当然のことであったろう。
しかし、多門夜八郎に対する女たちの慕いかたは、これは、どういうのだ?
夜八郎が、それほど、優しいとは思えぬにもかかわらず、女たちは、おのが心身を捧げて悔いぬのだ。
左近は、彼我の差を比べて、どす黒い業念が、心中に渦巻くのを、おぼえた。
「そなたもまた、まだ見ぬ多門夜八郎を、慕って居るようだな?」
「………」
「そうであろう。かくすな!」
「わたくしには、この世で、ほかに、のぞみとて、ありませぬゆえ──」
「夜八郎を、いつの間にやら、天下に唯一の男、と思いきめたか!」
「はい」
「ばかめっ!」
左近は、一喝した。
美夜は、悪鬼に似た左近の形相に、戦慄した。
「多門夜八郎は、この九十九谷左近の生涯の宿敵だ! 彼奴を斬るか、おれが死ぬか──|倶《とも》に天をいただかぬ敵同士だ。それを、知ったならば、そなた自身の身が、どうなるか、判るだろう!」
かっ、と逆上したならば、この孤独な兵法者は、狂人と化す。
理性というものは、完全に喪失してしまうのだ。
美夜の肩をつかんだ左近の十指は、野獣の鋭い爪に似ていた。
「な、なにを、なされる!」
美夜は、もがいた。
反抗は、かえって、左近の狂暴性をあおった。
「犯すのだ! おれのものにしてくれるのだ! おれは、残忍なけだものになってみせてやる!」
左近は、かつて、梨花にむかってあびせたと同じ言葉をうそぶいた。
美夜は、懐剣を抜いて、突こうとした。
しかし、かんたんに、たたき落された。
「恥を知るがよい!」
「けだものが、恥など知るか!」
左近は、薄ら笑いながら、美夜を、押し倒し、膝のあいだへ、片足をふみ込ませた。
前のみだれる羞恥と口惜しさに、美夜は、声をしぼって、救いをもとめた。
「叫べ! しかし、たすけはないぞ! ここに、おれに手向う奴は居らぬ」
左近の片手が、美夜の胸の隆起をねらって、うごめいた。
美夜は、悲鳴をほとばしらせた。
その時──。
檜戸がひき開けられ、
「九十九谷左近! それが、兵法者のなすべき振舞いか」
呶号が、あびせられた。
美夜を救う者は、一人、この寺にいたのである。
「なに!」
ふりかえった左近めがけて、猛然と、斬りつけたのは、柿丸であった。
かよわい女子を守護する。それが、この純朴な若者に与えられた運命のようであった。
左近は、あやうく、そのすざまじい一撃をかわして、差料をつかんで、遠くへ、すっくと立った。
「おのれは、何者だ?」
「多門夜八郎の家来──柿丸という者だ」
「ふん──」
左近は、双眼をほそめた。
左近は、狂人から、兵法者にかえった。
狂人やけだものでは、尋常の勝負はできぬ。人と人との闘いは、常に、心気が冷たく冴えていなければならぬ。
左近は、もとの左近に、還った。
「貴様のような小者では、対手にとって不足だが、ひさしぶりに、斬る快味をあじわうには、まず、手頃であろう。……庭へ出い!」
左近は、そう云って、にやりとした。
「よし! 出てやる!」
柿丸としても、遁げるわけにはいかなかった。
美夜が、出て行こうとする柿丸を、呼んだ。
「お止しなさい! 貴方は、勝てませぬ!」
必死になって、かぶりを振ってみせた。
美夜とすれば、柿丸に、多門夜八郎が到着するまで、時刻をかせいでもらいたかった。
この若者が、左近と闘って、百に一も、勝機をつかむことは、至難であろう。
みすみす、柿丸が斬られるのを、美夜は、眺めているわけにはいかなかった。
美夜は、左近が、狂人から兵法者に還ったのを、看てとっていた。もはや、再び、けだものになって、襲いかかって来ることはあるまい、と思われたのである。
「男子の意地として、いったん挑戦したものを、ひきさがるわけには参らぬのでござる」
柿丸は、かぶりを振ってみせて、ぱっと、庭へとび出して行った。
左近は、すでに、庭へ出て、利剣を、朝陽にかざしていた。
幾十人の敵の血を、この白刃にぬったことであろう。
利剣はなお、強敵の血汐をもとめて、|鬼哭啾啾《きこくしゅうしゅう》として、左近に、訴えている。
びゅん!
びゅん!
と、素振りをくれてから、左近は、近づいて来た柿丸を、振りかえった。
「小者──覚悟はよいな?」
「おう!」
柿丸は、一刀を大上段に、ふりかぶった。
柿丸は、もとより、剣法など知ってはいない。人を斬ったことさえもない。
あるのは、闘志だけである。
この兵法者がおそるべき使い手であることは、判っている。判っていながら、闘志だけで、たたかおうとするのである。
柿丸は、まぶたを閉じた。
天満坊から教えられていたのである。
「絶対死地に追いつめられた時には、敵を見ずに、立ち向うことだ」
柿丸は、その言葉を思い出したのであった。
「ふむ!」
まぶたを閉じて、大上段に構えた柿丸を、じっと、正視して、左近は、
「柿丸、と申したな。自ら進んで盲目となる剣法も、この九十九谷左近には、通用せぬぞ!」
と、云った。
「来い!」
柿丸は叫んだ。
「生命が惜しければ、斬りかたがあるぞ」
「うるさいっ!」
柿丸は、無謀な前進を開始した。
その瞬間──。
左近は、思いもかけず、おのれ自身の内に、ふしぎな心理をさとった。
──この小者を、斬ったならば、兵法者として、名折れになる。
ふっと、脳裡に、その思いが、かすめたのである。
なぜ、起ったのか、左近には、わからなかった。
しいて云えば、双眼をしっかとふさいで、おそれず、ためらわず、前進して来る柿丸の姿に、その性情の純一なものが、あらわれていたからであろうか。
「止まれ!」
左近は、叫んだ。
柿丸は、止った。
「そこから、一歩でも出たら、斬るぞ!」
そう云われて、柿丸は、まぶたをひらいた。
「なぜ、勝負をさけるのじゃ?」
「貴様が、あまりに、弱すぎる」
それをきくや、柿丸は、敢然として、地を蹴った。
「ばかめっ!」
左近は、すり上げの一閃で、柿丸の一刀を、宙へはねとばした。
柿丸は、その衝撃で、どどっと泳ぐや、地べたへ|匐《は》った。
「|去《う》せろ! 二度と、おれの前に現れるな!」
左近が、きめつけた時であった。
馬蹄の音が、坂道に起った。それを、制止しようとする叫びも、ひびいて来た。
左近は、奔って、本堂の廻廊上へ、とび上った。
多門夜八郎以外に、単騎で乗り込んで来る者はいないはずであった。
はたして──。
山門をくぐって、馬を境内におどり込ませたのは、夜八郎であった。
「来たな!」
左近の眉間が、ビリビリと痙攣した。
左近は、先般、夜八郎と、野路で出会って、勝負を挑み、敗れている。
その勝負は、左近が、業と力に於て勝ち、夜八郎には、勝運があった。
左近は、右腕を斬られはしたものの、敗北をみとめる気持は起らなかったのである。
それは、夜八郎もみとめるところであろう。
いまこそ、雌雄を決する時、といえた。
左近は、一間余の高さの廻廊上から、夜八郎は、馬上から、
「………」
「………」
無言で、凝視しあった。
旗本はじめ、かなりの人影が、あちらこちらの隅に出て来ていたが、一瞬にして、境内にみなぎった殺気に、息をのんだ。
さきに、口をひらいたのは、夜八郎の方であった。
「水無瀬家の姫は、どこだ?」
その問いを投げた。
それに対して、左近が、
「多門夜八郎! まず、勝負せい!」
と叫んだ。
夜八郎は、たけっている馬をしずめながら、微笑した。
「姫に、会っておかねばならぬ。お主に敗れて、生命を落したあとでは、会えまい」
道理であった。
左近は、殺気を五体から抜くと、
「方丈に居る。……早くしろ! おれは、長くは、待たぬぞ!」
と、云った。
「心得た」
夜八郎は、地上に降り立つと、柿丸に案内するように、と目くばせしておいて、方丈へ向って歩き出した。
柿丸は、うれしげに、
「生命びろいをつかまつった」
と、云った。
「どうした?」
「左近め、姫君を手ごめにしようといたしたので、わしは、立合ったのでござる」
「お前が、立合ったのか?」
夜八郎は、あきれた。
「はい。立合い申した」
「どうして、斬られなかった?」
「どうしてだか、わからんのでござる」
「左近が、立合って、お前を斬らぬはずはないが……」
夜八郎は、納得できぬ面持であった。
方丈に入りながら、
「あるいは、左近は、お前を見ているうちに、斬る気が失せたのかも知れぬ」
と、云った。
「なぜでござる?」
「そこが、お前の人柄であろう」
「人柄とは?」
「おのれの好ましさを、おのれ自身は、気がつかぬ。それが人柄だ」
夜八郎は、笑った。
柿丸は、奥の一室へ、案内した。
「ここでござる」
夜八郎は、檜戸を開いた。
美夜は、大きく|眸子《ひ と み》をひらいて、夜八郎を視て、まばたきもしなかった。
夜八郎は、前に坐ると、
「多門夜八郎だ」
と、告げた。
「はい。……すぐに、わかりました」
「わかった? どうしてだな?」
「おぼえて居ります」
「おぼえて居る?」
「陽明御殿で、貴方様は、わたくしのやすんでいる部屋へ、忍び入って、姉の寝所を、おききなさいました」
「うむ──。あの折の少女が、そなたか?」
「はい──」
美夜は、夜八郎を、見つめながら、胸が疼くような感動をおぼえていた。
姉が、三年のあいだ、夢に、うつつに、恋い慕いつづけていた人物が、いま、ここにいる。
美夜は、ついに、めぐり会えたのである。
「姉の遺言によって、わたしをさがしていた、ときいたが、まことか?」
夜八郎は、たずねた。
「はい──」
「わたしに、つたえることがあるのか?」
「はい。ございます」
美夜は、じっと、夜八郎を見つめながら、
「あれから、わたくしは、三年後に、無量寺に、姉をおとずれたのでございます。……姉は、わたくしに申しました。姉は、貴方様を、救いの主と感謝し、いつか、良人と心に思いさだめて居りました」
「………」
美夜は、姉の言葉をつたえた。
「……あの|御《お》|仁《ひと》を、良人と思いさだめて、ふたたび、ここへ参られるのを待って居りましたが、不治のやまいのために、生きて、お目もじすることは、叶いますまい。……美夜どの、わたくしにかわって、いつの日か、会うて下され。そして、わたくしが、妻として、感謝しながら、この世を去った、とつたえて下され」
姉は、そう云いのこしたのであった。
夜八郎は、ききおわっても、しばらく、無言をつづけた。
「多門様──。わたくしは、貴方様に、姉の遺言をとどけるのを、ただひとつの生甲斐にして参りました。それを、いま、おわりました。このさき、どうやって、世をすごして参ればよいのか、お教え下さいませ」
美夜は、ためらわずに、願った。
夜八郎の双眸が、翳をふかいものにするのを、美夜は、みとめた。
「そなたは、姉と生写しといってもよいほど、よく似ている」
夜八郎は、つぶやくように、云った。
「そなたを眺めていると、七年前を思い出す。わたしは、そなたの姉に対して、いっぴきの兇暴な野獣であった。……わたしの所業を、恨まぬばかりか、感謝しながら、この世を去った、ということを、わたしは、無量寺の老僧からきかされて、納得し難かった。しかし、そなたとこうして会っていると、あの姫の優しい心が、判って来るような気がする。……姉を、不幸のうちに死なせたわたしは、妹を、幸せにしてやらねばならぬのであろう。姉は、それを、のぞんで、遺言したのかも知れぬ」
「………」
「美夜──と申したな?」
「はい」
「美夜を、幸せにしてやらねばならぬ」
「ありがとう存じまする」
「但し、わたしに生命があれば、だ」
「え?」
「これから、九十九谷左近と、決闘をいたす」
「貴方様は、必ず、お勝ちなさいます」
「それは、勝負してみなければ、判らぬことだ」
「いいえ!」
美夜は、つよく、かぶりを振った。
「貴方様は、必ずお勝ちになりまする!」
「それは、わからぬ。左近は、兵法者だ。無数の強敵とたたかって、勝ちのこった稀代の使い手だ。わたしは、兵法者ではない。ただの、放浪の牢人者にすぎぬ」
「いいえ──。わたくしには、はっきりとわかりまする。貴方様は、お勝ちになります!」
美夜は、叫んだ。
叫びつつも、心の中では、恐怖がひろがった。
「わたしが斃れたら、柿丸という男が、そなたを守護することになろう。都へもどるがよい」
「いいえ!」
美夜は、必死に、かぶりを振った。
「貴方様は、お勝ちになりまする!」
くりかえして、叫ぶうちに、泪があふれて来た。
境内から、左近の声が、ひびいて来た。
「出て来いっ! 多門夜八郎──。ぐずぐずいたすなっ!」
夜八郎は、立ち上った。
「多門様!」
美夜は、われをわすれて、すがりついた。
「お願いでございます! 生きて下さいませ!」
「………」
夜八郎は、しずかに、美夜をはなすと、部屋を出た。
美夜の|哭《な》き声が、追って来た。
廊下に、柿丸が、坐っていた。
夜八郎は、微笑して、
「柿丸、人間には、それぞれ、役目があるとみえる。……お前は、若い女を守護するように、運命づけられて居るようだ」
と、云った。
「お引きうけいたします」
柿丸は、頭を下げた。
夜八郎は、境内へ、出た。
「おそいぞ!」
左近は、夜八郎を、睨みつけた。
「試合をするにあたり、条件がひとつある」
夜八郎は、云いかけた。
「なんだ?」
「もし、お主が勝った時は、あの娘を、そのまま、ここから出て行かせてもらいたい」
「よかろう」
左近は、承知した。
「そちらに、条件があれば、きこう」
夜八郎は、うながした。
「ふん──」
左近は、せせら笑った。
「おれは、勝つ!」
「敗れる場合も、ある」
「いいや! おれが今日までの修業の一切を結集して、汝に勝つ!」
左近は、云いはなった。
剣の道に於ては、「心秘」ということが、重んじられる。心に秘める、という意味ではない。各人各様、それぞれ、同じ極意を学んでも、心に受けとるものは、ちがっている、という意味である。
太刀生れ。
諸流によって、それぞれ、太刀の法形はちがっている。しかし、太刀を使うには、その備わるところは、打つ、突く、払う──この三つのほかにはない。振りかぶった太刀は、振り下げねば、|業《わざ》にならず、突き出した太刀は、引かねば業を成さぬ。陰陽の理である。したがって、法形は如何にあれ、業の極まるところはひとつであり、会得するものは、おのれ自身によってである。極意をさとるのに、師はないのである。
次に無学、ということが、「心秘」の重点にある。
学習するところは、師伝である。しかし、変にのぞんで、師伝のごとく、使うのは、下手である。たたかいは、臨機応変である。敵には、大兵者も居り、小兵者も居る。太刀に長短があり、力量優れた者、構えのさまざま、業の遅速緩急、そして、時と所と位がある。師に学んだ通りを為しても、必勝は期しがたい。したがって、その時の決闘に於て、師から学んだものをはなれて、おのが見、知るままに働く位を、「無学」といい、その無学によって、その瞬間に至るまで知らなかった太刀筋をもって勝つのが、天性の妙である。これを、「極意」という。
夜八郎が、太刀を携げて、境内へ出て来た時の心境は、まさに、その「心秘」であった。
尋常の業をもってしては、左近に、勝てる道理がないのである。左近は、兵法者であり、その|天《てん》|稟《ぴん》もまた万人に一人のものである。
それにひきかえて、夜八郎には、正しい剣の修業など、なかった。
試合にあたって、左近と対するには、勝とうと思わず、負けようとも思わず、おのれ自身も知らなかった意外の業が、機に臨んで生れることを、期すばかりであった。
「参ろう!」
左近は、云いはなつや、三尺の長剣を抜きはなった。
その双眼は、|炳《へい》|乎《こ》たる光芒を放っている。常人では、とうてい、受けとめられぬ凄じい眼光であった。
地上は、木立の影を匍わせて、光の縞を織っている。
四方に立つ見物の士らも、樹木のように動かぬ。
静寂が、暑気はげしい空間に、びっしりと張りつめているのであった。
両者は、十歩の距離を置いていた。
「抜け!」
左近は、叫んで、ゆっくりと、上段に構えた。
夜八郎は、左近の凄じい眼光をあびながら、スーッと、白刃を抜くと、右手につかんだまま、地へ下げた。
そして、ややほそめた双眸を、沈静な色で、いろどった。
「多門夜八郎! なんの構えだ?」
左近が、大声で、問うた。
「お主に対して、構えは、無用であろう」
「なんだと?」
「わたしは、兵法者ではない。お前ほどの使い手に、いかなる構えをとっても、むだと知った」
「ふん──」
左近は、しかし、夜八郎の言葉を、言葉通りには、受けとらなかった。
夜八郎は、たしかに、兵法修業をして居らぬ。それは、あきらかに、みとめられる。しかし、おのが身をはこぶところに、修羅場があり、それを、くぐりぬけて来ている。そして、いつの間にか、異様なまでに強い決闘者となっている。
いうならば、禅の文句の、
「夢幻空華、なんぞとらえるに労せん」
という心境を持っている。
これが悟りだとか、これが極意だとか、とらえようとしない心境である。
すなわち、夜八郎自身知らぬ業を、石火の間に発揮するおそろしさを、左近は、見てとっているのであった。
右手にダラリと太刀をさげているばかりの、きわめて自然な立ち姿を、左近は、かえって、おそるべきものにみとめざるを得なかったのである。
「いざ!」
左近は、総身に満ちた闘志を、その一声に、ほとばしらせた。
切っ先は、天を刺している。
やや、左半身になったのは、誘いの構えであった。
左から、円を描いて、進むことになる。
これは、左近が、有利な位置を占めているためであった。左近の長身は、|木《こ》|漏《も》れの陽を、うしろから受けて、かげになっていた。
ということは──。
これを受けている夜八郎の顔に、陽が当っていたことである。
陽ざしをまともにあびるのは、不利であることは、いうまでもない。それを判っていながら、平然として、その位置に立ったのは、夜八郎は、待たせた者の仁義にしたがったのである。
敵をあざむくためではなかった。
尋常の業をもってして勝てぬ以上は、おのれを不利な立場に置くことも、さして苦痛ではなかった。
陽のまぶしさも、意識のうちに入れぬ「無学」が、夜八郎には、かえって、心気を冴えさせることになる。
第三者には、自暴自棄ともみえるかも知れなかった。
結果は、しかし、不明である。
宿敵は、最後の一瞬にむかって、時間をきざみはじめた。
運命刀
左近は、ゆっくりと、左へ、左へと、円を描きはじめた。
それにつれて、夜八郎も、からだをまわしはじめた。剣は、なお、ダラリと下げたままであった。
孫子に「兵は|脆《き》|道《どう》なり」という言葉があるが、夜八郎は、その構え、その地歩に於て、わざと、左近に有利を与えたがごとくみせている。
はたして、それが、たたかいの上での脆道かどうか?
夜八郎自身、まず、身をすてて、死中に活を得ようとしているのであったろうか?
左近は、あきらかに、一太刀必殺を期している。これに対して、夜八郎は、ふせぎ、というより、にげ、の姿勢しかとっていないのであった。
この両者の相違は、そのまなこにあらわれていた。
左近の双眼は、らんとして、殺気のほむらを燃やして、夜八郎の痩身を焼いている。
夜八郎のそれは、沈静な色を湛えて、やや細められ、殺気はもとより、闘志の色すらにじませてはいないのである。
これは、戦乱に生きる二人の、闘志というものに対する心構えが、おのずから異質であることを、示してもいるようである。
左近にとって、生きるということは闘うことと同じ意味であった。絶えず、強い者をさがし、えらんで、これと闘って、勝つこと──それが、左近の人生であった。
夜八郎は、生きることとは何か、という暗中摸索をつづけて来た孤独な牢人者であった。そのために、若い日には、京の都をあばれまわり、無頼の行状をかさねた。しかし、その心情の中には、常に、虚しさに堪えようとする寂寥感があったのである。闘争は、その寂寥感を忘れるための一方便にすぎなかったのである。
剣をふるうことは、夜八郎にとって、第一義ではなかった。
と、対比してみれば、表面上は、あきらかに、この決闘は、左近の方に、有利であった。
ただ、いかなる決闘にあっても、優勢の者が、必ず勝利をおさめるとはかぎっていない。
勝敗の岐れは、一瞬の──まったく、一毛の差もない間によって、決するのであり、それは、技をこえたものである場合がある。
生きようとする魂の在り方が対極を為しているとはいえ、そして、その修業も異るとはいうものの、ともに、数知れぬ戦いの場をふみこえて来た剣士たちであった。
|業《わざ》|前《まえ》のすぐれていることは、さして、問題とならぬ。
あるいは、一瞬の間に、運命の神が、どちらに微笑むか、であろう。
すっ、すっ、すっ……と、左近は、大地をすべって、迫った。
そして、ついに、夜八郎を、大上段にふりかぶった大太刀の一撃圏内に、容れた。
夜八郎は、なおも、その片手地摺りの、構えともいえぬ姿を、変えてはいなかった。
「多門夜八郎、いかにっ!」
突如として、左近は、叫んだ。
「………」
夜八郎は、その叫びに対して、声を発するかわりに、はじめて、大きく、双眼をひらいた。
──刹那。
「ええいっ!」
左近は、一羽の巨きな鳥と化したごとく、地を蹴った。
背後から、陽ざしを受けている左近であった。地面を匐っていたその影法師が、夜八郎に掩いかぶさったのである。
虚空を截って、大上段からの一閃が、夜八郎の頭上へ、はしった。
左近としては、文字通り、一撃必殺であったろう。
いや、左近は、その肉眼に、夜八郎の姿を、まっ二つにした、と映していたに相違ない。
いうならば、左近は、夜八郎の影を斬って、形をのがしたのだ。
なぜならば、夜八郎は、その必殺の一撃に対して、なんの受け太刀もみせずに、斜横に、飛んだのであった。
それは、かわして跳躍した、というよりも、わが身を、目に見えぬ何者かに投げつけられたように、空中へほうり出した、という方が、ふさわしい動きであった。
それが、証拠に、夜八郎は、六尺のわきで、地面へ倒れて、一廻転したのである。
「おっ! しゃっ!」
仕損じたとさとった左近が、そのまま、夜八郎のはね起きるいとまを与えるはずがなかった。
ただ、左近は、その一撃に、完全なる業と力をぶちこめたので、むなしく宙を截った太刀を、そのまま、地上に倒れている夜八郎へむけての攻撃へ継続させるわけにはいかなかった。
ひと呼吸をもって、次の一撃を放つ構えをとらざるを得なかった。
そのほんの一瞬間が、夜八郎に、たとえ立ち上るいとまはなくとも、横たわったなりでの防禦の構えをとらせ得た。
「喝っ!」
左近は、再び叫んで、夜八郎めがけて、襲いかかった。
紫電となって降って来た白い光を、夜八郎が、受けとめたのは、いつの間に抜いたか、小刀の方であった。
ぱっと、火花が散った。
刃と刃は、噛みあったまま、空中に停止した。
左近が、はっと、おのが不利をさとったのは、この瞬間であった。
おのれは、大地に大きく大股をふみひらいて、立っている。
夜八郎は、倒れたままで、小刀で、左近の太刀を受けとめている。
誰の目にも、左近が、絶対の優勢をたもっているかに見える。
そうではなかった。
動けなくなったのは、左近の方であった。
もし、跳び退るならば、その一瞬の隙をえらんで、夜八郎の右手の剣が、襲って来るに相違なかったのである。
左近が、その大太刀で、夜八郎の左手の小刀を押さえつけているからこそ、夜八郎は、それを受けとめるために、渾身の力を集めていて、右手の剣を使う余裕がないのだ。
小刀で受けとめている力から解放されるならば、夜八郎は、完全に自由をとりもどす。
跳び退る左近に対して、存分の|一《いっ》|颯《さつ》|業《わざ》をふるうことができるのである。
左近は、跳び退ることは、不可能であった。
動けぬからには、のこされているのは、業ではなく、力のみであった。
すなわち、押えつける力が、受けとめる力に、まさればいいわけであった。
「う、むっ!」
左近の顔面が、朱を散らした。
大太刀が折れよとばかり、満身からの力をこめた。
受けとめている小刀が、じりじりと、夜八郎の顔へ下った。
そして、ついに、小刀の峰が、夜八郎の額へふれようとした。
左近のからだは、夜八郎の上へ、完全に掩いかぶさるほどに、傾いていた。
左近のまなこも、夜八郎の|眸子《ひ と み》も、もはや人間のものと思われぬ凄じい動物的な光をぎらつかせていた。
左近は、これがおのれの力の限界と思うばかりに、小刀を押した。
その瞬間であった。
夜八郎は、目蓋を閉じるとともに左腕から、ふっと、力を抜いた。
あらんかぎりの力をふりしぼっていた左近は、受けとめる力を抜いた小刀を、夜八郎の額へ、のめり込ませるほど、押しつけた。
だが、力と力の均衡が崩れたこの瞬間、左近のからだもまた崩れた。
夜八郎は、その隙をのがさなかった。
夜八郎は、左腕から抜いた力を、右腕に使う業にこめて、左近の胸を、ふかぶかとつらぬいた。
「う、ううっ!」
左近は、のけぞった。
地ひびきたてて、左近が仆れても、夜八郎は、まだ起き上らなかった。
小刀をはさんで、左近の白刃で、額を押された痛みのために、意識がなかば薄れていたのである。
異様に、しらけた静寂が、境内を占めていた。
この凄じい決闘を見まもった十人の旗本はじめ、すべての人は、あまりの緊張のあとに来た一種の放心状態で、声を発しなかったのであろうか。
夜八郎もまた、そのまま、しばらく、仰臥して、目蓋をとじて、動かなかった。
「……多門……、夜八郎──」
かすかに、ひくい声音で、呼ばれて、夜八郎は、起き上った。
呼んだのは、ふかぶかと胸に白刃を突き立てられていた左近であった。
夜八郎は、よろめき立つと、左近のそばへ寄り、白刃を、その胸から、ひき抜いた。
血汐が、傷口から、どっと、噴き出た。
夜八郎は、いそいで、左近の片袖をひきむしり、その片手で、傷口を押えさせた。
「……もう、間に合わぬ」
左近は、つぶやいた。
焦点をうしなったまなざしを、空へ送って、
「おれが……敗れた。……しかし、悔い、は、ない。……多門、夜八郎──お、お主には、運がある。……お主は、老いぼれに、なるまで、生き、のびるだろう」
「………」
「おれが、いまわのきわに、云うのだ。……まちがいは、ない。……長生き、しろ」
左近は、まなこをひらいている力もうせたか、かすかにふるわせつつ目蓋をとじた。
わずかの沈黙を置いてから、
「この、おれにも、こうして、敗れて……死ぬ時が、あった」
その言葉を、この世へのこした。
夜八郎は、しばらく、死顔を、じっと、見下していた。
曾て、一度も、この兵法者に、憎悪をおぼえたことはない夜八郎であった。
左近が、挑んで来たから、たたかったまでであった。
剣の道ひとすじに生きたこの兵法者の短い生涯は、壮烈であり、凄絶であった。心から、敬意をはらうに足りた。
左近に、権謀術策はなかった。あくまで、堂々と、正面から、たたかいを挑んで来たのであった。敗れたのは、不運の二字につきる。
夜八郎は、合掌した。
夜八郎の生涯にあって、これほどの強敵に出会うことは、またと再び、ないであろう。敵も、かくまでに宿命的な間柄になれば、親友にひとしく、その死が惜しまれる。
方丈へ向って歩き出した夜八郎は、胸中に、ぽっかりと、空洞でもできたような、ある種の虚しさをおぼえていた。
美夜と柿丸が、方丈に待っていたが、勝利をおさめながらも、沈痛な色に、顔を沈ませている夜八郎を、いぶかった。
「では──参ろうか」
夜八郎は、やがて、立ち上った。
「軍勢をどうなされる?」
柿丸が、問うた。
「おれが率いて居るのではない。兵どもが、自分自分で思案することだ」
「しかし、すてておけば、野伏になるばかりでござる」
「おれは、城取りの野望はないゆえ、軍勢など、必要はない。第一、見受けたところ、軍勢とは名ばかりで、烏合の衆というのも、おろかな、どの面も、まるで生気がない。左近とおれの立合いを見た者どもは、旗本衆であろうが、一人として使いものにはならぬ。隊列をつくって、ここまでやって来たのが、笑止というものだろう。……のたれ死をさせておけ」
夜八郎は、ばかばかしげに云いすてて、方丈を出た。
その時、遠くに、軍馬の音が起るのを、きいた。
はっとなって、夜八郎は、境内の端へ急いで歩いて行き、木立越しに、野を望見しようとしたが、重なり合った枝葉が厚くて、視界をさえぎっている。
やむなく、地を蹴って、松の高枝へとびつくと、小手をかざして、のびあがった。
土煙りをあげて、黒い一隊が、こちらをめがけて、進んで来る。
伊吹野城の方角からであった。
──田丸豪太夫だ!
夜八郎は、心身がひきしまった。
焼け城の中にうずくまっていた手負いの猛獣が、獲物をもとめて、出て来たのである。
すてておけば、この五百の軍勢は、ひとたまりもなく、蹴散らされ、降伏させられるのであろう。
すてておけないのは、降伏した兵どもが、豪太夫によって、きたえなおされ、戦闘分子にしあげられることであった。
地面へ跳び降りた夜八郎は、柿丸に、
「いかん! 田丸豪太夫が、残兵を率いて、おし寄せて来る!」
と、云った。
「どうなされる?」
「やむを得ぬ。この幽霊のような兵どもを、使ってみよう」
「使えるのでござるか?」
「豪太夫の捕虜にするわけにいかぬ。お前は、姫をつれて、館へ奔れ。おれの馬で行け」
命じておいて、夜八郎は、本堂の廻廊上へ駆け上ると、大音声をあげた。
「|小人頭《こびとがしら》以上は、集合せい! 火急だ!」
集って来た者たちの、ひどくのろのろした動作に、夜八郎はなかば絶望しながら、
「ここへ攻め寄せる一隊がある! 百騎足らずとみたが、士気を持って居るぞ! お主ら、これとたたかって勝てば、城と武器と兵糧を獲ることができる!」
夜八郎は、ここで、いちだんと声をはりあげた。
「もし、敗れるならば、お主らは、捕虜となり、雑兵に|墜《お》とされる!」
旗本、走衆、小人頭らは、しんとして、一語も発せずに、夜八郎を仰いでいる。
この沈黙は、夜八郎にとって、まことにたよりないものであった。
──よし! されば、得物をとって、迎撃してくれよう!
そうした戦意士気は、この沈黙の中に、さっぱりふくんではいなかった。
ただ、ぼんやりと、夜八郎の激しい言葉をきいているだけで、危機感さえもおぼえていないようであった。
夜八郎は、痴呆の群に向って、いたずらに、叫びたてているようなむなしさをおぼえた。
「お主ら、いやしくも、五摂家守護にあたったさむらいであろう。捕虜のはずかしめを蒙り、雑兵に墜ちる生恥をさらして、おめおめと、都へもどれるものかどうかだ!」
そうあびせられて、ようやく、一同の顔色がうごいた。
いつの日か、都へ帰る。それが、一同の唯一の希望であったのだ。
「もし、伊吹野城の田丸豪太夫に敗れんか、お主らは、都へもどるのぞみは、断たれる! それでも、よいか?」
夜八郎は、いちだんと、声を高いものにして、あびせた。
すると、ようやく、旗本の一人が、口をひらいた。
「伊吹野城に、武器、兵糧があること、相違ござらぬか?」
「誓って、嘘は申さぬ!」
夜八郎は、こたえた。
その旗本は、二歩ばかり前へ出て、味方へ向きなおった。
「おのおの方! 戦おうではないか! 都へ帰るためには、武器と兵糧が必要だ」
「おう!」
まばらながら、応じる声があがった。
「よし! きまった!」
すかさず、夜八郎は、云った。
「お主らに申しきかせることが、ひとつある。それがし多門夜八郎の素姓をあきらかにしておく。それがしは、将軍足利義晴が一子義正だ」
一同は、半信半疑の表情になって、夜八郎を、見つめた。
「その証拠を見せる」
ただ一騎で、五百の軍勢へ乗り込むには、何かの役に立つかも知れぬ、と思って、馬の鞍につけて来た品を、夜八郎は、|左《ゆん》|手《で》につかんで、高くかかげてみせた。
それは、いつぞや、夜八郎が山賊小屋に忘れたのを、百平太がひろって、ずっと所持していた品であった。
夜八郎は、百平太から返されていたのである。
夜八郎は、それを、たかだかと捧げて、云った。
「日本の国に、ひとつあって、ふたつとないもの──とくと見とどけるがよい」
云いざま、さっと、うち振った。
巻きこまれていたそれは、ぱあっと華やかに、宙にひろがった。
錦でつくられた日輪模様の旗であった。
さむらいならば、これが、将軍の在るところにひるがえるのを、知らぬ者はない。
「この旗を、ひろいものと疑う者があらば、進み出てもらおう。出陣の血祭といたす」
夜八郎は、云いはなつや、さっと、白刃を抜きはなった。
この時、走衆の一人が、
「わしは、将軍家を、間近に、拝したことがある。この御仁と生写しと申してもよい」
と、云った。
平常寡黙で、|律《りち》|儀《ぎ》な、嘘のつけぬ男であることを、一同は知っていたので、
──そうか! この御仁が!
と、もはや疑わなかった。
旗本の一人が、廻廊下へ、進み寄って、
「多門夜八郎様! われら五百の士卒、貴方様のために、命をなげ出しまする!」
と、誓ってみせた。
「たしかに、きいた!」
夜八郎は、一同を見まわし、
「誓うか?」
と、問うた。
おーっ! 旗本も走衆も、小人頭も、生きかえったような表情で、高らかに応じた。
将軍家のおん曹司が、おのれらの大将となったのである。
ふるい立たざるを得なかった。
「では、下知する。五人一伍、十人一火、五十人一隊──旗本衆が、その隊長となる。……先陣は、お主だ」
夜八郎に、指さされた者は、
「浦上彦十郎」
と、名のった。
「二陣は、お主」
「寺部外記」
「三陣は、お主」
「小幡左門」
「三陣までを、|鳥雲《ちょううん》の備えとなす。麓の地形に拠って、伏せろ。早く、行け!」
命令を受けて、浦上、寺部、小幡の三名は、奔って行った。
鳥雲の備え、とは、鳥の集散するごとく、雲の変化するごとき陣法である。これは山中の備えで、樹木、岩石、凹地などを利用して、分合自在の|伏《ふせ》|勢《ぜい》をなすのである。
夜八郎は、のこり七隊のうち、三隊を、鳥雲の備えの予備として、行かせた。
そして、あとの四隊を、おのれ自身、率いることにした。
戦略は、たちどころに、成った。
「停止せい!」
自ら、先頭をきって、疾駆していた田丸豪太夫が、たづなをひいて、片手をかかげた。
岬の森が、すぐ、間近に迫っていた。
五百の軍勢が、そこにいる、というのに、ひっそりとして、人影ひとつ、見当らぬ。
「物見せい!」
下知を受けて、二人の士が、馬をすてて、木立を利用しながら、奔って行った。
「殿──」
すぐ背後にしたがっていた岩室半左衛門という物頭が、
「一気に、踏み散らされるご所存か?」
「わしは、今日まで、ただ一度も、|姑《こ》|息《そく》の策を弄して居らぬ。常に、正々堂々と、真正面から|攻《う》ちかけて居る」
豪太夫は、云った。
|鎧袖一触《がいしゅういっしょく》の自信が、豪太夫の胸中に満ちていた。
実は、昨夜のうちに、忍び物見をはなって、この岬の古寺に拠っている軍勢が、どの程度のものか、調べさせてある。
報告によれば士気がたるんでいる、というもおろかな軍勢であった。ようやく、ここまでたどりついて、へたばり込んでいる、という状態である、という。
九十九谷左近が、どうして、そんな軍勢を手下にしたのか知らぬが、左近一人、いかに勇猛の兵法者であったとしても、手足となる兵らが、へたばり込んでしまっていては、戦陣の張りようもあるまい。
──左近に、目に物見せてくれる!
豪太夫は、左近がただ一人血まみれになってあばれ狂う光景を想像しながら、馬を進めて来たのである。
異変が起り、その指揮が、左近から多門夜八郎にとってかわったことを夢にも知らぬ豪太夫は、この一戦を、捲土重来の好機と考えていた。
軍勢五百のうち、百人を殺し、百人を遁走させたとしても、三百を捕虜として、おのが手勢に加えられる計算をたてていたのである。
豪太夫が、焼け城の中で、思案していたのは、大庄山を襲い、奈良城義胤とその家来どもを、討ちはらっておいて、竜神湖の水を伊吹野へ落して、農夫どもを狂喜させることであった。
そうすれば、農夫どもは、この田丸豪太夫を、神とあがめるに相違なかった。
伊吹野の領主として、昔日にまさる権威を誇るためには、その手段しかないようであった。
大庄山を襲うには、城内に残った士卒だけでは、足りなかった。
三百の兵を加えることは、思いもかけぬ運がめぐって来たのを意味している。
豪太夫の狸の皮算用は、胸中において、成っていたのである。
物見の士二人が、駆けもどって来た。
「申しあげます!」
馬上の豪太夫を仰いだかれらの顔は、緊張していた。
「どうした?」
「すでに、わが隊の攻め寄せるのに対する陣形を構えている様子と、見てとりました。麓の松林の中には、鳥雲の備えがあるように、察しられ、また、頂上の寺院の、もの静けさも、怪しむべしと存じました」
この物見の士二人は、ともに、すでに、いくたびも戦場を馳せめぐった熟練者であった。
異常なまでに緊張してみせているのは、敵の備えが、なみなみでない証左である。
豪太夫は、意外な思いがした。
「九十九谷左近が、軍略に秀れているはずがないが……?」
兵法者というものは、武士とは区別されて考えられていた時代であった。
腰の一剣に、おのが生命を賭けて、諸方をわたり歩く、いわば一匹狼であり、その業が、必ずしも、大きな合戦に役立つものとは、武将たちは、考えていなかった。
したがって、兵法者は、臨時にやとわれて、合戦に加わっても、兵などは、あずけられなかった。隊長になどされなかったのである。兵法者自身も、剣をみがく方便として、やとわれただけであった。
功名手柄を期して、大将首をねらったりするようなことはなく、乱戦裡で、剣をふるう修業をしたのである。
戦場武者とは、おのずから、別の存在として、みられていた。そのような兵法者が、軍略などを学んでいるとは、とうてい考えられなかった。
──左近のほかに、陣法にくわしい、いくさのかけひきに長じた武辺がいるのか?
そうとしか、思われなかった。
「では、容易に、近づけぬ、と申すのだな?」
「ご要心なさいまするに、こしたことはないと存じます」
「弱兵が、一夜にして、強兵に変化するはずもあるまいが……」
豪太夫は、ちょっと、首をひねっていたが、
「佐々兵庫──」
と、呼んだ。
長髯をたくわえた、見るからに強そうな組頭が、馬をのり出して来た。
「その方、二十騎を率いて、あの林の前を駆けすぎつつ、矢を射込んでみろ」
「は──、かしこまりました」
「戦うのではない。伏せている敵兵どもに、士気があるかないか、それをはかり、判断して参れ」
「心得ました」
佐々兵庫は、馬責めの巧みな士を、つぎつぎと指名し、これを、一列縦隊にならばせるや、
「行くぞ!」
と、下知して、まっさき駆けて、馬腹を蹴った。
雨を受けるのを忘れた、かわききった荒地は、一線をひいたごとく三間ずつの間隔をとって疾駆する二十騎のひづめに蹴られて、幕でも張るように土煙りをひろげた。
その林にむかって佐々兵庫は、わざと、まっしぐらには近づかずに、大きく迂廻して行った。
佐々兵庫はじめ、つきしたがっている者たちは、豪太夫が伊吹野を奪取するまでの、戦闘に明け暮れる時代を、ともにすごして来た面々であった。
いわば、いずこの武将の下にあっても、強い武力をなす分子であった。
戦闘そのものが好きな男たち、といえた。
疾駆のさまに、その勇猛の気魄があふれていた。
林に近づくと、佐々兵庫は、背中から矢を抜いて、弓につがえた。つづく者も、それにならった。
「よいな! 一矢だけ、放つのだ。二矢を放ってはならぬ!」
兵庫は、叫んでおいて、手綱に頼らぬ乗尻のまま、馬を責めた。
木立の中は、しんとしていた。
しかし、林の前に至るや、兵庫の目は、樹木のかげに、ちらちらとうごく人影を、いくつか、みとめていた。
馬の前へ躍り出て来るか?
それとも、先に、矢を放って来るか?
伏兵ならば、当然、その反撃があることを、覚悟すべきであった。
兵庫は、それを予期しつつ、敢えて、木立ぎわを、駆け抜けざまに、一矢を射込んだ。
悲鳴がつらぬくのをききながら、兵庫は、馬首をまわした。
つづく者は、のこらず、兵庫にならって、一矢を射込んでおいて、草地に円を描きつつ、遠くへのがれた。
木立の中で、つぎつぎと、悲鳴があった。
しかし──。
伏兵が躍り出て来る気配もなければ、一矢さえもむくいては来なかった。
襲撃隊は、いったん、林にむかって、半町あまりの距離をとって、横列になり、しばし、待ちかまえた。
木立の中では、射倒された者を介抱したり、はこんだりする動きはあったが、撃って出て来ようとする様子など、全くみとめられなかった。
「あきれたものだ。伏勢が、敵に矢を射込まれても、伏せたまま、無抵抗とは、なんたるざまだ!」
兵庫は、ばかばかしさに、唾を吐きすてた。
この報告は、ただちに、豪太夫にもたらされた。
「ふむ。こちらをあざむく策とはみえなんだか?」
豪太夫は、たずねた。
「もしあれが、策ならば、われらの目にとまるように、矢を射込まれたうろたえを見せはいたしますまい」
佐々兵庫は、伏勢に、戦意がないものと断定したのである。
戦意はあったが、疾駆して来た騎馬隊の、みなぎらせた勇猛の気魄に圧倒され、喪失してしまったもの、と高言するにはばからなかった。
主人の豪太夫の方が、まだ、要心ぶかかった。
「もう一度、脅し矢をくれてみるか」
「いいや、もうその必要はありますまい。一挙に、衝くべきかと存じます」
「その方の判断に、盲の部分はあるまいな?」
「確信をもって!」
「よし! では、撃とう」
豪太夫は、百騎を左右に散らせて、|鶴《かく》|翼《よく》の陣形を、とらせた。
「まっしぐらに、突入せい!」
下知を受けて、鶴が翼をひろげたごとく横へひらいた騎馬陣は、一斉に、土煙りをあげて、岬の丘陵めがけて、突進しはじめた。
その時、夜八郎の方は、ちょうど、反対側の麓を、二百の兵を率いて、まわりかけていた。
佐々兵庫が、伏勢に、脅し矢を射かける光景を、眺めていたならば、臨機応変の戦法も思案し得たであろうが、それを見ていない夜八郎は、敵軍が突入して来るには、まだ時間がある、と考えていたのである。
そのあいだに、麓をまわって、突入して来た敵陣の背後を衝く策であった。
誤算であった、というよりも、やはり、都ぐらしで腑抜けになった兵の戦意の乏しさをどうすべくもなかったのである。
「あれは?」
夜八郎は、馬蹄のひびきと、木立のむこうに舞い立つ土煙りを見てとって、はっとなった。
──しまった! おくれた!
夜八郎は、
「つづけ!」
と、叫ぶや、奔りはじめた。
将軍家御曹司に率いられている、という気持が、この二百の兵に、伏勢三百人とはちがって、かなりの勇気をふるい起させていた。
しかし、人間の足はあまりに、のろかった。
麓をなかばもまわらぬ頃、すでに、むこう側では、騎馬陣に突入された伏勢三百人が、ふるえあがって、われ勝ちに、寺院めがけて、逃走しはじめていた。
文字通り、蜘蛛の子を散らすような、なさけない卑怯ぶりであった。
騎馬陣の放つ矢を、前で受けた者は、ほとんどなく、背中にあびて、ばたばたと倒れていた。
「追いあげてしまえ!」
豪太夫は、久しぶりに、勝利の快感に、血をわきたたせていた。
一陣・浦上彦十郎、二陣・寺部外記、三陣・小幡左門──いずれも、兵らを叱咤するかわりに、おのが生命ひとつをまもるのに必死になって、境内めがけて、駆け登ろうとしていた。
それに向って、騎馬隊が、疾風の迅さで殺到して来た。
「来たっ!」
「わあっ!」
「たすけて、くれっ」
後続の兵たちは、馬蹄に蹴られたり、槍で突かれたりして、悲鳴をあげて、逃げまどった。
「ああっ!」
「降伏を──」
「にげろ!」
隊長三人は、それぞれの叫びをあげて、死にもの狂いに、脱兎の卑怯ぶりをみせていたが……。
まず、小幡左門が、背中を、槍でつらぬかれて、
「げえっ!」
と、絶鳴をほとばしらせた。
つづいて、寺部外記が、大太刀で、肩を斬られて、つんのめった。
浦上彦十郎は、もはや、のがれられぬと知って、老松をうしろ楯にして、刀を構えた。
それへ、馬を駆け寄せたのは、佐々兵庫であった。
「おのれ、隊長の一人だろう。なんのざまだ! 恥を知れっ!」
馬から跳び降りると、長槍を、ぴたっと構えて、
「大将はどこだ? 九十九谷左近は、どこだ? 云えっ!」
「大将は、九十九谷左近では、ご、ござらぬ──」
彦十郎は恐怖の目をむきながら、かぶりを振った。
「左近が大将であるとは、忍び物見が、調べあげて居るぞ!」
「い、いや! 左近は、死に申した」
「では、大将は、何者だ?」
兵庫は、槍の穂先を、彦十郎の鼻さきへ、突きつけた。
彦十郎は、刀をすてて、その場へ、へたばり込んだ。
「降伏つかまつる」
「大将は、何者だ、と問うているのだ!」
「多門夜八郎──将軍家の御曹司でござる」
「なにっ?!」
「ま、まことでござる。……降伏つかまつる」
「将軍家の御曹司が、この伊吹野に在ると申すのか! 信じられぬわ。……第一、おのれら腰抜けが、将軍家直参であろうはずがないぞ!」
兵庫は、槍の穂先で、彦十郎の頸根をたたいた。
「たわ言を申すな!」
「い、いつわりは申さぬ。神明に誓い申す」
浦上彦十郎は、たすかりたい一心で、恥を忘れて、地べたへ両手をついた。
「よし! そやつが、そうほざいて居るのだな。贋者め、どこにかくれて居る? 云えっ!」
佐々兵庫は、呶鳴った。
「四隊を、率いて、裏手へ、まわり申した」
「裏手は、断崖ではないか」
「降り路が、ござる」
「そうか、わが軍の背後を衝く策であったのだな。よし──」
兵庫は、馬へとび乗った。
その時、すでに、一方的な戦いは、ほぼおわっていた。
参道の左右に、降伏した兵が、ずらりと土下座させられていた。
豪太夫が、その中を、駆け上って来た。
「どうした?」
「殿──。この腰抜け軍勢を率いて居るのは、将軍家御曹司を詐称いたして居る多門夜八郎という者らしゅうござる」
「将軍家御曹司だと? 大層なほら[#「ほら」に傍点]を吹いて居るな」
兵庫は、その多門夜八郎が、裏手の断崖をつたい降りて、背後を衝く策をとっていたことを告げ、
「ひとまず、山門を入って、待ち構え、参道下に寄せて来たところを、一挙に、片づけてはいかがかと存じます」
「よかろう。捕虜どもを、まず、追いあげい」
浦上彦十郎は、ひっくくられて、先頭に立たされた。
どうやら、隊長として捕えられたのは、自分一人のようであった。
予備三隊の隊長たちは、殺されたか、野へのがれたか、いずれかであろう。
兵庫は、境内へ捕虜どもを坐らせると、彦十郎を、豪太夫の面前へひき据えて、目くばせした。
豪太夫は、捕虜どもを見わたし、
「おのれらは、ただいまより、伊吹野城主たる田丸豪太夫に、忠誠を誓い、粉骨砕身いたせ。よいか!」
申し渡しざま、陣太刀を抜いて、彦十郎の首を刎ねた。
「よいか! 異心を抱く奴は、即刻、このように成敗いたすぞ! 忠誠を誓うか?」
捕虜どもは、平伏した。
山門ぎわでは、十騎ばかりが、参道下へ、鋭い目を光らせていた。
兵の動きは、見られなかった。
兵庫が歩いて来て、
「寄せて来る気配はないか?」
と、問うた。
「ありませぬ。物見もまだ、もどっては来ませぬ」
「もう少し、待とう」
一刻が、過ぎた。
参道の入口は、ひっそりとして、ついに、人影のうごく様子もない。
ただ、あやしまれたのは、放った忍び物見が、いまだに、還ってこないことであった。
殺された、と断定せざるを得なかった。
兵庫は、念のために、さらに二人をえらんで、麓まで奔らせることにした。
「ただちに、もどって来い」
命じられた通り、二人は、すぐに、参道をかけあがって来た。
「麓のどこにも、敵らしい影は、見当りません」
その報告に、兵庫は、首をかしげた。
本堂に憩うている豪太夫のところへ来た兵庫は、その旨を告げて、
「いましばらく、お待ちなされるか? それとも、こちらから降りて、裏手へまわり、ひそんで居るところを、襲いましょうか!」
と、問うた。
「夜陰に乗ずる。それまで、待て」
豪太夫は、云った。
将軍家御曹司と称している男が、どれだけの智能をそなえているか、判らぬことだった。また、豪太夫自身、そうした高い身分に対して、極端な劣等感を持っているだけに、慎重な態度をとることになった。
その軍勢が、裏手の密林の中にひそんでいることは、疑いを入れぬところであった。
出るに出られず、やむなく、じっと気配をひそめているもの、と判断される。
「兵庫、いら立たずともよいぞ。ゆっくりと構えて、兎狩りのつもりでやろう」
豪太夫は、そう云って、笑ってみせた。
「は──しかし」
「しかし、なんだ?」
「さきに放った忍び物見二名は、熟練の者でありますれば、たやすく捕えられたり、斬られたりはせぬはずでござる。たとえ、一人は殺されても、一人は、にげもどって参るに相違ないのでござるのが……、その点が、あやしまれてならぬのでござる」
「熟練の忍び物見にも、不覚はある。心配は無用にせい。それよりも、捕虜どもを、眺めて、使いものになるかならぬか、その方の意見をきかせい」
兵庫は、豪太夫が珍しくおちつきはらっているのを、なかばいぶかりつつ、境内へひき据えられている捕虜の群を、視察しに行った。
豪太夫は、方丈にたくわえてあった酒が、発見されて、はこばれて来ると、
「女をつれて来るのであったのう」
と云って、|高《たか》|坏《つき》の魚の干物をかじりながら飲みはじめた。
陽は、西に傾いた。
ようやく、騎馬隊も、気がゆるんで来た。本堂の廻廊や方丈のあちらこちらに憩うているうちに、いびきをかく者も出て来た。
ここが奇襲されるおそれはない安心感が、惰気を催したのである。
突如──。
本堂の裏側から、凄じい鯨波が噴きあがったのは、陽がようやく西の山かげへ没しようとした頃合であった。
「なんだ?」
豪太夫は、思わず、盃を投げつけて、立ち上った。
兵庫が、|階《きざはし》へとび上って来た。
「殿っ! 不覚でござった!」
「|莫《ば》|迦《か》っ!」
豪太夫が、廻廊へとび出した時、喚声をあげた兵が、どっと、境内へ奔り出て来た。
まさしく、豪太夫のうかつであった。
断崖を降りて裏手へまわったのであれば、再び、そこをよじのぼって来る場合がある、と考え及ぶべきであったのだ。
こちらをおそれて、密林中にひそんだなり、身動きできぬもの、と勝手に思いきめていたのは、甚しいうぬぼれであった。
豪太夫は、殺到して来た敵兵の死にもの狂いの勢いを視て、うなった。
迎える配下は、全くの不意を衝かれた狼狽で、各個ばらばらに、得物をつかんで、向って行ったが、その光景は、いかにもだらしないものにみえた。
具足をぬいでいる者が大半で、その姿で、あわをくらって、槍のかわりに旗をふりまわしたり、|雪《なだ》|崩《れ》をうって来る敵兵の前で、茫然とつっ立って、為すすべもなかったり、もろくも刀をたたき落されて、逃げ出したり──たちまち、敗色を濃いものにした。
境内にひき据えられていた捕虜どもも、味方の奇襲に、狂喜して、一斉に、立ち上ると、八方へ散った。
豪太夫の呶号も、兵庫の絶叫も、騒然たる修羅の渦の中では、なんの威力もなかった。
まさしく、それは、死にもの狂いになった人間の渦であった。
伊吹野勢は、その渦の中へ、まき込まれてしまった。
戦闘というものは、勢いの優劣によって、勝敗が決する。
雑兵といえども、ひとたび勢いに乗れば、意外な目ざましい働きを示すものである。
多門夜八郎によって、生か死か、この戦いが、お主らの運命を決する、と鼓舞された四隊二百の兵は、捕虜になった兵どもとは、同じ軍勢と思われぬくらい、勇敢な闘志をむき出していた。
「こなくそ!」
「野郎っ!」
「くたばれっ!」
渦の中へまき込んだ敵へ、襲いかかる勢いは、けだものと化したように、おそれを知らなかった。
そこに──。
ここに──。
地面を血汐にそめて、ころがるのは、伊吹野城の武者ばかりであった。
「お──!」
ただ一人──といってもいい凄じい阿修羅ぶりを発揮していた佐々兵庫が、大きく、目をひきむいた。
方丈の広縁に、一人の敵兵がかかげる旗をみとめたのである。
日輪の旗であった。
「あれは、将軍の──」
兵庫は、猛然とそこへむかって、突進した。
三人ばかりの敵兵が、躍りかかって来たが、|案《か》|山《か》|子《し》のように、はねとばされた。
「多門夜八郎とか申す牢人は、何処だ? 出い!」
兵庫は、広縁下に仁王立って、叫んだ。
「ここに居る!」
声は、背後から来た。
ぱっと向きなおった兵庫は、そこに立つ着流しの牢人姿を一瞥しざま、
「おのれかっ!」
大太刀を、真向から、なぐりつけるように、襲いかかった。
兵庫は、夜八郎が、鳥影のように、斜横にとぶのを、視た。
それが、兵庫のこの世に於ける見おさめであった。
兵庫を地面へ仆した夜八郎は、身をひるがえし、本堂へ奔った。
豪太夫は、廻廊上に立って、兵庫が、斬られるのを目撃していた。
「おのれかっ──将軍家落胤と詐称する|不《ふ》|埒《らち》|者《もの》は──」
豪太夫は、長槍をひとしごきするや、ぴたっと、構えた。
階を一気に駆けのぼった夜八郎は、薄ら笑った。
「教えてくれよう。田丸豪太夫。伊吹野城を焼いたのは、この多門夜八郎だ、と知れ」
「なにっ!」
「手負い猪になって、しばらく息をひそめていた、と思っていたら、また、牙をむき出して来たな」
「うぬがっ!」
豪太夫は、全身を憤怒のかたまりにして、夜八郎めがけて、長槍を突きかけた。
数知れず、戦場を駆けめぐって、一国一城のあるじにまでのし上った田丸豪太夫であった。突き出した長槍の凄じい勢いは、尋常の者の受けとめ得るものではなかった。
夜八郎は、本能的に、一歩退った。
豪太夫は、猛獣のように唸りを発しつつ、突きまくって来た。
夜八郎は、あとへあとへと、後退した。
豪太夫の攻撃は、夜八郎に息をつくいとまを与えなかった。
突く、引く──その迅さは、夜八郎に剣を振る業を使わせなかった。
ついに──。
夜八郎は、階を、降りはじめた。
自らを最も不利な位置に移したのである。
追いつめられて、やむなく、後退しているのだ、とみえた。
そうでなければ、自らをわざと不利の位置に移すわけがなかった。
階を、一段一段と降りつつ、豪太夫の突きまくって来る長槍をふせぐのは、ほとんど、不可能であった。
豪太夫は、もはや、完全に、おのが勝ちを疑わなかった。
その自信が、豪太夫に、夜八郎を睨み下して、にたりとする余裕を生ましめた。
夜八郎の方は、実は、その瞬間をつかむために、わざと、自らを不利の位置に移したのであった。
豪太夫が、にたりとした──そのせつな、夜八郎は、五体を躍り上らせた。
槍の穂先が、空中へ、はね飛んだ。
「おっ!」
豪太夫は、両断された槍の柄を、夜八郎へ投げつけておいて、陣太刀を抜こうとした。
夜八郎は、しかし、そのいとまを与えなかった。
陣太刀が、鞘をはなれたか、はなれぬ瞬間、夜八郎が、下から、びゅん、とはねあげた白刃が、豪太夫の頤から額まで、まっ二つに割った。
大きく弓なりにのけぞりつつ、豪太夫は、陣太刀を、宙にひとふりした。
廻廊の床を、大きく音たてて、豪太夫が仰のけに倒れるのを見とどけてから、夜八郎は、境内にむかって、
「たたかいは、おわったぞ!」
と、叫んだ。
境内では、すでに、旗色は完全に明らかになっていた。
奇襲の兵は、捕虜になっていた味方を加えて、勢いに乗じて、伊吹野城の百騎を、片っぱしから、討ちとっていた。
なおまだ十数騎が、血みどろになってあばれまわっていたが、夜八郎の一声で、がっくりと力を落し、太刀をほうりすてる者もあれば、どさっと地べたへ坐り込む者もあった。
「残党は、捕虜にはせぬ」
夜八郎は、そう申し渡しておいて、階をのぼって、廻廊上に立つと、
「お主らは、よく働いた。合戦というものは、士気如何によって、勝敗の決することが、よく判ったであろう。……かちどきを!」
|凜《りん》|乎《こ》として、夜八郎が、太刀を高くかかげるや、数百の兵は、狂喜の叫びを合せた。
夜八郎は、ゆっくりと境内に降りると、|鐘《しゅ》|楼《ろう》わきの松につないである馬に寄って、ひらりと、うちまたがった。
夜八郎にしたがって、裏手から奇襲した隊長の一人が、あわてて近づくと、
「いかがなされる?」
と、問うた。
「お主らに、将軍の旗を贈る。伊吹野に入るもよし、京の都へ帰るもよし──。お主ら隊長たちの協議によって、きめるがよかろう」
栄枯盛衰
おそろしく、ひょろ高い男であった。六尺二三寸は、あろう。
それが、|鎧櫃《よろいびつ》を背負って、長槍を杖にして、林の中から出て来て、刎ね橋のたもとに立つと、伊吹野城を、眺め、
「ふうん──」
と、大きな鼻孔をふくらませた。
「これは、いったい、どういうのだ?」
濠のむこうに、城壁はあるが、建物が消えてしまっている。
牢人者は、一歩毎に、脚の骨が、ぽきっぽきっと鳴るような、歩きかたで、橋を渡った。
「何者だ?」
城門わきの渡り櫓から、番兵が、|誰《すい》|何《か》した。
「天堂寺虎蔵が、もどって参った、と殿に取次いでもらおう」
牢人者は、大声で、告げた。
「天堂寺虎蔵? そんな客は、きいたことがない!」
「お前ら、昨日今日やとわれた雑兵には、わからん。さっさと、取次げ」
「殿は、お留守だ」
「もどられるまで、待つ」
しばらく、返辞がなかった。
天堂寺虎蔵は、城門に焼けこげたあとがあるのをみとめて、
「ひと合戦があったらしいな」
と、つぶやいた。
やがて、潜り戸が、開かれた。
見覚えのある顔が、のぞいて、
「入られい」
と、招じた。
「数馬か。元気か」
虎蔵は、笑いかけた。
対手は、しかし、こわばった表情のまま、虎蔵を門内へ入れた。
「ほう──」
虎口に立った虎蔵は、ずうっと城内を見渡した。
「これは、みごとに焼きはらわれたものだのう。何者に、攻められたな?」
しかし、森口数馬という小姓は、その質問にこたえずに、先に立って歩いた。
「おい、なぜ、こたえん?」
「何者とも、知れ申さぬ」
「何者とも知れぬ? それは、どういうことだ? そんな阿呆な話はあるまい」
「隣国神矢右衛門太郎のみつぎ使者と申す、坊主武者が、米五十俵をはこんで参り、奸策を用いて、城を焼いたのでござる」
「殿は、まんまと、乗せられたのか?」
「とうてい贋者とは、見えなかったのでござる」
「おのが左右に、信頼すべき智慧のある家臣を持たなんだ不運だのう」
「殿は、その叡山入道と称する坊主武者を、軍師にしようとお考えになった模様でござる。ただの曲者ではなかったのでござる」
天堂寺虎蔵は、新しく建てられた城主館に入った。
このひょろ高い人物は、三年前までは、田丸豪太夫の右腕として、武勇のほまれ高かった侍大将であった。
些細な事柄から、豪太夫と口論して、いきなり、庭へ投げとばしておいて、それなり、城を退去したのであった。
戦国の世に、最も存在価値のある、豪気ひとすじに生きる武辺であった。
田丸豪太夫は、たしかに、横道きわまる暴君であったが、家臣の働きに対しては、公正な眼力をそなえていた。豪太夫は、天堂寺虎蔵を、最も信頼していたのである。
ただ、その場の空気で、双方ともに短気一徹であるために、憤怒を激突させてしまい、虎蔵が、主君を見すてる結果になってしまったのであるが、憎悪をあとにのこしたわけではなかった。
「殿は、どこへ、出向かれた?」
虎蔵は、小姓に問うた。
「都から落ちて来た五百ばかりの軍勢が、東の岬の古寺に籠っている、という報告があって、これを征伐に──」
「………?」
虎蔵は、眉宇をひそめた。
「程なく、捕虜どもをつれて、もどられると存ずる」
「いったい、何騎で、城を出て行かれたのだ?」
「百騎でござる」
「百騎? 当城には、それだけしか、のこって居らぬのか?」
「恩知らずどもは、城が炎上した直後、姿をくらましてしまい申した」
「殿が、狂気の振舞いをみせられたからであろう」
虎蔵には、その時の豪太夫の行動が、手にとるように、判った。
若い女が、酒をはこんで来た。
虎蔵は、どこからか拉致されて来たに相違ない若い女を眺めて、
「兵を集める前に、まず、|夜《よ》|伽《とぎ》をさらって来るとは、殿もあい変らずだのう」
と、笑った。
酒を飲むと、旅の疲れが出たか、虎蔵は、ごろりと、横になった。
陽は、西に傾いた。
しかし、豪太夫が率いた百騎が、帰還して来る様子はなかった。
ふっと、目をさました虎蔵は、瞬間、鋭い表情になった。
床下に、人がいる。
気配ともいえぬほど、微かな気配であったが、虎蔵の神経に、つたわって来た。
虎蔵は、そっと音もなく立ち上ると、壁にたてかけた長槍を、つかんだ。
つかむやいなや、気合もろとも、ぐさっと、床板をつらぬいた。
ねらいは、あやまらなかったはずである。
しかし、手ごたえはなかった。
虎蔵は、穂先をひき抜くと、しばらく、床板を、じっと、睨み据えた。
床下から、気配は、消えている。
どこかに、伏せて、息を断っているに相違なかった。
虎蔵は、こちらから誘いをかけるより、ほかはない、とさとると、
「おい、曲者! ひそんで居る場所は、判って居るぞ! 生命が惜しければ、降伏せい!」
と、云いかけた。
すると、はたして、気配がうごいた。
間髪を入れず、虎蔵は、そこをめがけて、長槍を、突き入れた。
しかし、こんども、手ごたえはなかった。
そればかりか、引こうとしたが、ビクともしなかった。
柄をつかまれたのである。
なみなみならぬ手練を持つ曲者であった。
虎蔵は、
「うむっ!」
と、渾身の力をこめて、長槍をひき抜いた。
床下から、
「天堂寺虎蔵殿でござろう」
と、声がひびいて来た。
「いかにも、おれは、天堂寺虎蔵だ。おのれは、何者だ?」
「貴殿の目の前へ、ただいま、姿を現し申す」
「よし──出て来い」
虎蔵は、万一の用心に、床柱を背にして、待ちうけた。
やがて、次の間とを仕切る檜戸が、開かれ、忍び装束が、すり足に入って来た。
「忍者か」
「明りをつけ申す」
部屋は、すっかり暗くなっていた。
燭台から、灯かげがひろがると、虎蔵は、
「大乗──貴様か」
と、おどろきの声をあげた。
この三年あまりの浪々漂泊の間に、ふと知りあった忍者であった。
この忍者に、野伏七八人を加えて、山城の強欲な酒造りの大尽の屋敷を襲って、砂金袋を荷駄一疋分、掠奪したことがある。
「こんな焼け城の中を、何用あって、うろうろいたして居る?」
「お手前こそ、どうして、ここへおいでか?」
「当城の田丸豪太夫殿は、おれの旧主だ」
「ほう、これは、初耳でござる。左様でありましたか」
七位の大乗は、ゆっくりとかまえると、顔へひっかかった蜘蛛の巣をはらった。
「おい、大乗、どうして、床下へ忍んだ?」
「故意に、忍んだわけではござらぬ。なんとなく、そうなり申した」
七位の大乗は、こたえた。
「こら、天堂寺虎蔵をなめてかかると承知せんぞ」
「とんでもない。正直なことを申上げて居るのでござる」
「理由を云え!」
「地下の抜け穴をつたって来ているうちに、そうなったのでござる」
「城外からか?」
「城外も、城外──一里もむこうからでござる」
「この伊吹野城に、抜け穴が掘ってあるとは、知らぬぞ」
「たぶん、前城主の奈良城義胤殿が、掘ったものでござろうな」
「その一里さきの場所とは?」
虎蔵は、訊問した。
「大庄山の麓──当城から、恰度真西に当り申すな」
大乗は、そうこたえてから、鼻孔をひらいたと思うや、くしゃみをした。
「一里の抜け穴を辿ると、さすがに、からだがひえて、腹底まで、ふるえが来申すて」
「貴様、どうして、そんな場所にいた?」
「ちょっと、調べることがござってな」
大乗は、天満坊の依頼によって、奈良城勢が、大庄山から降りる新しい道を作っている状況を、調査していたのである。
「何を調べて居った?」
「それは、ちょっと、申上げかねる」
「おい、大乗──、おれにかくすのか?」
虎蔵に、睨みつけられて、大乗は、額へ、三筋ばかり、当惑の皺をつくった。
「かくすな」
「弱り申したな」
大乗は、頭をかいた。
「なにが、弱る? 貴様が、どこかに義理だてして、秘密を守るような仁義の男か。小ずるくて、欲深で、決して損になるような立廻りをせぬ奴だ。利得をもくろんで居るのであろうが!」
「ところが、天堂寺殿──、最近、この大乗、いささか宗旨がえいたして、いたって、殊勝な振舞いをつかまつる」
「なんだと?」
「と申しても、頭から、信じては頂けまいが、きくだけ、きいて下され」
大乗は、ひどく、真剣な表情になった。
「いかにも、きいてやろう。話せ」
「天堂寺殿は、どの方角から参られたか存ぜぬが、この伊吹野に、水が一滴もない惨状は、ごらんなされたかな?」
「ああ、見た。百姓どもは、困窮しているのだろう?」
「まさしく──、今年、田植えができなければ、伊吹野の住人は、ことごとく 飢え死にするか、逃散するか、どちらかでござるな。……そこで、七位の大乗、義をみてせざるは勇なきなり、と──」
「はっはっは……」
天堂寺虎蔵は、大乗の真剣な話のなかばで、大声をあげて笑った。
大乗は、予期してはいたが、あまりにばかにされて、さすがに、むっとした顔つきになった。
「それがしは、まじめに話して居るのでござる」
「うむ。盗人にも仏心はある、と申すのだな。それで──?」
「公卿館をご存じでござろう?」
「知って居る。藤原氏の嫡流などと称して居る泰国家だろう」
「公卿館に、天満坊といわれる面白い大器量人が、逗留されて居るのでござる」
「天満坊? 坊主か?」
「左様──」
「その坊主に、説法されて、貴様、宗旨がえをした、と申すのだな?」
「いや、説法などは、きき申さぬ。ただ、その人格に服したのでござる。ただの坊様ではござらぬ」
「わかった。そやつだな、この城を焼きはらったのは!」
「………」
「おい、かくしてもはじまらぬぞ、大乗!」
「たしかに──」
「隣国のみつぎ使者といつわって、乗り込んで来て、焼きはらうとは、孔明正成の智能だな」
「その通りでござる。天満坊殿は、まさしく、百年に一人、あらわれるかあらわれぬほどの大器量人でござる」
「その坊主が、百姓どもを救おうと企てて居る。それを、貴様が、たすけて居る、というのだな?」
「いかにも──、それがし、この年になって、はじめて、善行を為すことの快味をおぼえて居り申す」
「報酬は、なんだ?」
「報酬など……」
「黙れ! 貴様が、いかに善行にもせよ、報酬なくして、働く奴か!」
「それが、神明に誓って──」
「嘘をつくな!」
虎蔵は、一喝をくらわせた。
大乗は、ふたたび、当惑の皺を、額へ三本きざんだ。
「報酬は、なんだ?」
「やむを得ぬ。天堂寺殿には、かくすわけに参るまい。……実は、公卿館には、莫大な金銀が、かくしてあるのでござる」
「まことか?」
「二十年前に、五摂家から、預ったのでござるて──」
「ほう、そうか。五摂家が、都が兵火に罹るのをおそれて、金銀を、この伊吹野にかくしたわけだな。……忍者め、やっぱり、欲の皮をつっぱらして居るではないか。なにが、農夫のための善行だ!」
虎蔵は、呶鳴りつけた。
大乗は、あわてて、手を振り、首を振って、弁明につとめた。
「ともかく、天堂寺殿も、天満坊殿にお会いなされば、その大器量人ぶりが、はっきりと判り申す」
「それは、それとしておこう。……で、お前の役目は、なんだ?」
「大庄山の奈良城勢の動静をさぐることでござる」
「さぐって、どうする?」
「大庄山の竜神湖の水門を開けて、伊吹野へ水を引くためには、山城を攻め落さねばならぬからでござるな」
「おい、ちょっと、待て。途方もない企てを、平気で申すな」
「途方もない企てには相違ござらぬ。しかし、これは、夢想ではなく、是が非でもやりとげなければならぬ焦眉の急務でござる」
「いかに、焦眉の急務であろうと、不可能は、あくまで不可能ではないか」
「天満坊殿は、不可能事を、可能にする御仁でござる」
「ばかを云え!」
虎蔵は、まったくばかばかしげに、かぶりを振った。
「信じられぬならば、それまでのことでござる」
大乗は、いささか憤然となって、云った。
「それよりも、ききたいことがある」
虎蔵は、鋭く大乗を見据えて、
「お前は、奈良城勢の動静をさぐっているうちに、抜け穴を発見した、と申したな?」
「左様──」
「すると、抜け穴は、大庄山に通じているのだな? それは、中腹か、それとも頂上までか?」
「とんでもない。山麓まででござる」
「山麓? 山麓で、どうして奈良城勢の動静が、さぐれるのだ?」
「奈良城勢は、山頂から麓までの、降り道を作って居り申すな」
「なんだと?」
虎蔵は、おどろいた。
「奈良城勢は、野へ降りて来る計画をたてて居るのか?」
「道を作っているからには、そのこんたんでござろうな」
「再び、この伊吹野城を、奪いかえす、というのか?……あの腰抜けの奈良城義胤に、それだけの計画がたてられる道理がないが……」
虎蔵が、そう云うのをきいて、大乗は、ちょっとためらっていたが、
「奈良城義胤は、乱心して、もはや廃人の模様でござる。ただ、どうやら、山城には異変が起り、権力の座には、別の者が就いたらしゅうござる」
「そうか、それなら、話がわかる。城を焼かれ、兵を失った田丸豪太夫を、この機会に、一挙に、討ちとろうというわけか」
主君横死の悲報をもって、一騎が、駆けもどって来たのは、その頃であった。
城内にのこっていたわずかばかりの兵は、茫然となった。
小姓の森口数馬は、天堂寺虎蔵に、告げるべきかどうか、まよった。
しかし、いまは、城内には、数馬より上の地位にあるさむらいは、一人ものこっていなかった。
数馬自身、残兵を率いる勇気も器量もなかった。
皮肉にも──。
主君と争って、退散した天堂寺虎蔵が、三年ぶりに、ぶらりと舞いもどった時に、その主君は、果てたのである。
数馬は、やむなく、虎蔵にたよるよりほかはなかった。
数馬が、その部屋に入ると、虎蔵は、
「騎馬がもどって来たようだな? どうした?」
と、見据えた。
「殿はじめ、全騎、討死つかまつりました」
数馬は、うつ向いて、告げた。
「なんだと? まことか?」
「生きのこったのは、わずか十数騎の由。四方へ散ったと申します」
「いったい、敵は何者であったのだ? 判っていたのか?」
「ただの落人勢ではなく、将軍家の旗をかかげた──つまり、足利家のおん曹司であった、と申します」
「バカな! 将軍の息子が、こんなところを、うろついて居るわけがあるか! 贋者だろう。……ふん、贋者に、殿がのう……」
虎蔵は、腕を組んだ。
田丸豪太夫ともあろう豪の者が、自ら百騎を率いて、攻め出て行って、全滅するとは、なんということであろう。豪太夫は、たとえ、家来全員が討死しても、最後に一人、生き抜く人物である、とかねてから、虎蔵は、信じていた。
神力も、業力の|熾《さか》んな者には、天罰が加えられず、という言葉があるが、まさしく、豪太夫は、そういう業力の所有者であったはずである。
この城が焼けるとともに、その業力も衰えたのであろうか?
それにしても、この最期は、あっけなさすぎる。
「天堂寺様──」
数馬が、必死の面持で、呼んだ。
「なんだ?」
「この上は、われら生き残りの者は、お手前様に、おたのみするほかに、すべを知りませぬ」
「城には何人のこって居る?」
「二十名あまりかと存じます」
「足軽ばかりだろう?」
「はい」
「まあよい、集めろ」
数馬が兵を集めるために出て行くと、入れちがいに、七位の大乗が、再び、姿をあらわした。
「田丸豪太夫も、ついに、悪運つき申したな」
「おい、気をつけて、物を云え。おれの主人だぞ」
虎蔵は、大乗を、にらんだ。
「天堂寺殿の主君としては、いささか、軽うござったて。……唯今より、ご貴殿が、当城のあるじになられた。めでとうござる」
「足軽|雑兵《ぞうひょう》が二十人しか居らぬのに、なにが、あるじだ。……ところで、大乗、将軍のおん曹司と称する奴が、ここらあたりをうろついていると、きいたことがあるか? どうせ、贋者だろうが……」
「贋者ではござらぬ」
「なに?」
「まさしく、将軍家のおん曹司──多門夜八郎と申される御仁でござる」
「懇意か?」
「懇意も懇意──。多門夜八郎殿は、公卿館に身を寄せられ、天満坊殿と力を合せて、伊吹野の住民どもを救おうとしてござる」
「それが、どうして、都からの落人勢を率いて居る?」
「さあ、そこらあたりのいきさつは、存ぜぬが、ともあれ、夜八郎殿が、数百の兵を旗下に置いたとなると、これは鬼に金棒でござるな。いずれ、明日にも、当城へ駆け入って来られようて」
「大乗!」
虎蔵は、態度をあらためると、
「それがしを、多門夜八郎に引き合わせい」
「どうなさる? 一騎討ちでもなされる所存かな?」
「主君の敵だから、仇討をするのが家来としてのつとめであろうな。しかし、仇を討ったところで、べつに、どうということもあるまい。それよりも、田丸豪太夫を討ち果した|強《つわ》|者《もの》を、一度、見たい興味だ。会った上で、一騎討ちをやるかどうか、きめるぞ」
「それもよろしかろう。……したが、天堂寺殿は、このまま、当城をあずかって、野望をたくましゅうされるのではござるまいな?」
「さむらいならば、それくらいの野望を持つのも、わるくあるまい」
虎蔵は、高笑いした。
「申上げておくが、奈良城勢は、すでに、降り道をほぼ完成つかまつった。されば、近日中に、一挙に、当城へ、攻め込んで参り申すは、あきらかでござる」
「地下の抜け穴をくぐって参る、というのであろう。なんのこともあるまい。火薬でもしかけて、木っ端にしてくれよう」
虎蔵は、平然として、云いはなった。
「さて、そうたやすく、片づけられますかな」
「まあ、見ておれ。……大乗、お主も、ひとつ、力をかせ」
地下の敵
「ほう──水無瀬家の息女と申される」
公卿館の書院で、天満坊は、対坐した美貌の娘を、無遠慮に、しげしげと眺めて、
「あでやか!」
と、云った。
「多門夜八郎は、まことに果報者。つぎつぎと、美女に慕われて、男冥利につきると、申すものじゃな」
美夜は、うつ向いて、
──つぎつぎと? 多門様には、姉のほかにも、慕われる女性がいたのであろうか?
と、思った。
「和尚殿──」
美夜を案内して来た柿丸が、縁側から声をかけた。
「わしは、これから、岬へひきかえして、様子を見て参ります」
「いや、それには及ぶまい」
天満坊は、とどめた。
「気がかりでござるゆえ……」
「多門夜八郎は、不死身じゃ。五百の軍勢が一人のこらず滅んでも、おのれ自身は、生きてもどって参る。もどって参らねばならぬ。このような臈[#「臈」は底本では草冠「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)。「臈」の表記もあり(791行)]たけた美女が、待っているのじゃからの」
「しかし──」
「まあ、よい。待って居れ。……多門夜八郎が、もし無為無策で、敗れるようなことがあったら、将軍家おん曹司の資格はない。武辺の面目を発揮する好機であろう。首尾よく、田丸豪太夫を討ちとることが出来たならば、人間が一段と大きくなろう」
「運不運と申すものがありますぞ。不運によって敗れるようなことがあっても、それは、夜八郎様の落度ではござるまいが──」
「不運もまた落度のうちじゃ。不運のさなか、おのが身ひとつを生きのびさせるのが、男子の力と申すものじゃのう」
柿丸は、天満坊の言葉に、すなおにうなずくことはできなかった。
──わしは、わしの考えによって、行動するまでのことだ。
柿丸は、館の門を、走り出ようとした。
「おーい!」
百平太が追って来た。
「おれを、つれて行け」
夜八郎が、岬の古寺で、落人勢を率いて、田丸豪太夫の攻撃を受けていることは、たちまち、館内にひろまっていたのである。
「お主など来ても、何もならん」
柿丸は、かぶりを振った。
「そっちは役立って、こっちは役立たず、などと、勝手にきめるな」
百平太は、柿丸にならんで走りだした。
「百平太! 不具にされながら、もう、夜八郎様をうらんで居らぬのか?」
「とおのむかしに、消えたわい」
「性根は、善い奴だな」
「|措《お》けい。そういうお主は、どういうつもりで、夜八郎様の家来になって居る?」
「家来になっている方が、働きやすいからだ」
「成程な──」
百平太は、柿丸の足の迅さに、おくれまいと、首を肩の中へめり込ませるような恰好になりながら、
「身分地位などというやつは、人間が勝手にきめたもので、癪にさわる、と思うていたが……、生れつき、大将になる者と、家来になる者と、きまっているのかも知れんな」
「あたりまえだ。わしやお主が、かりに城をもらったとしても、兵がやしなえるか」
「そりゃそうだ」
百平太は、正直に、合点した。
「夜八郎様は、これまで、自分が、将軍家の子だ、と吹聴されたことは、一度もなかった。ただの牢人者という顔をされて居った。家来など一人も、持とうとは、されなんだ。……それにも拘らず、いざとなると、軍勢が、むこうから、ころがり込んで参る」
「お主もすすんで家来になるし、おれも、耳を斬られたうらみを忘れる、か」
「わしは、夜八郎様が、やがて、将軍の位に就かれる、と信じて居る」
「それは、チト夢想にすぎぬかな?」
「いいや!」
柿丸は、前方をにらんで、走りながら、かぶりを振り、
「一介の牢人者として、憂世の苦労をされた夜八郎様が、将軍家になられたならば、天下は、たちまち、治まる。わしら下賤の者らが、愉しゅうすごせるような世の中にして下さるに相違ない」
「それは、そうかも知れんぞ。うん! 夜八郎様に、ひとつ、将軍になって頂こうかい。それには、まず、田丸をやっつけて、伊吹野城を奪って──」
やがて、埃道が、|三《みつ》|叉《また》に岐れる辻へ来た。
南へ行けば岬、北へ行けば伊吹野城。そして、西へ向えば、大庄山の麓へ行き着くことになる。
二人は、岬への道筋をえらんだ。
その時──。
彼方から、一騎、土煙りをあげて、疾駆して来るのが、見受けられた。
「はてな?」
|眸子《ひ と み》をこらしていた柿丸は、
「あっ! 夜八郎様だ!」
と、叫んだ。
「相違ないか?」
「わしの目に狂いがあろうか」
たちまち──。
二人の前へ来た夜八郎は、たづなを引いて、笑った。
「出迎えか」
「ご無事で──」
「田丸豪太夫は、斬った。天満坊へ、つたえてくれ」
「貴方様は、どちらへ?」
「城だ。城を、取る」
夜八郎は、馬首を、北への道筋に向けた。
夜八郎が、城へ向って来た時刻、天堂寺虎蔵は、七位の大乗をつれて、地下の抜け穴へ、降りていた。
ひいんやりとした、土くさい空気が、こもった抜け穴は、意外に広かった。
虎蔵は、大乗がかかげる灯火で、ぐるぐると見まわし、
「大層な地下道を作ってあったものだ。ついぞ、気がつかなんだぞ」
進みかけて、ふと、片側の壁の一箇処へ目をとめた。
「はてな?」
虎蔵は、そばへ寄った。
そこだけが、きれいに塗られてあったのである。
大乗も、はっとなった。
気づかなかったことである。這入って来た時は、暗黒の中を手さぐっていたからである。
「ここは、どうやら、戸口になって居るぞ」
虎蔵は、|小《こ》|柄《づか》を抜くと、壁を切りはじめた。
二尺四方を切って、ひき剥ぐと、
「ほう、これは!」
虎蔵は、声をあげた。
壁のむこうは、鉄の板がはめられていたのである。
「この奥には、倉が設けられてあるぞ。大乗、手つだえ」
「もしかすれば、地下牢かも知れ申さぬ。……中には、|髑《どく》|髏《ろ》ばかりがころがっているのではござるまいかな」
「開いてみなければ、わかるまい」
虎蔵と大乗は、壁を切り破り、剥ぎ落した。
一間四方の鉄の板は、岩壁の中に、きっちりとはめてあり、二人が突いたぐらいでは、ビクともするものではなかった。
「さてな! こいつを、どうやって、破るかだのう」
「手がかりがござらぬな」
「大乗、忍者ならば、思案せい」
「と申されてもな」
大乗は、しきりに、鉄の板を、調べていたが、
「これを開くのは、見当もつき申さん」
と、弱音をあげた。
「だらしのない忍者めが──」
虎蔵も、調べなおしてみたが、どうにも、開けるすべがなさそうであった。
「火薬ででも、爆破せねばなるまいて」
虎蔵が、なげ出すように云った。とたん、大乗の目が、ひそかに、光った。
──そうだ、このかくし倉には、武器や火薬が、たくわえられているに相違ない。それに、兵糧もだ。
実は、大乗には、開けるすべは、判っていたのである。
「まあ、よい。急ぐことはない。……ともかく、抜けてみよう」
虎蔵は、鉄の板を開けるのを、ひとまずあきらめて、抜け穴を辿ってみることにした。
「大乗──、およそ、どれくらいの長さだ?」
「さて、およそ一里──いや、もっとござろうか」
「奈良城義胤は、よほど要心ぶかかったとみえる。これだけの長さの抜け穴をつくるには、十年も費したろうな?」
二人は、灯火をつぎ足し、つぎ足ししながら、進んで行った。
およそ、五六町も進んだろうか。
突然、大乗が、あかりを消した。
「どうした、大乗?」
「足音が、きこえ申す」
「なに?」
虎蔵は、耳をすました。
はるか遠くから、微かに、地底をつたわって来る音が、ひびいて来る。
「奈良城勢だな?」
「さて、どうでござるかな?」
大乗は、奈良城勢が攻め込んで来るには、すこし早すぎるような気がした。
さらに、半町ばかり進んだ時、大乗が、
「おっ!」
と、叫びを発した。
「なんだ? どうした?」
「あのひびきは、何か、ちがう?」
「何かとは?」
「人間の足音とは、ちがい申すぞ」
「すると?」
「あるいは──」
「あるいは?」
「天堂寺殿、ひきかえされい」
「おい、大乗、何者が、やって来るというのだ?」
「餓狼でござるわい!」
大乗は、云いすてるや、くるっと踵をまわして、走り出した。
「大乗、待て!」
虎蔵も、あわてて、大乗のあとから、走りはじめた。
忍者は、闇を疾走する修業を積んでいる。しかし、いかに戦場の荒武者といえども、暗黒の地下道を走ることは、おぼつかなかった。
たちまち──。
大乗は、かなり後方で、人間とけものが、凄じい争いをひき起す音をきいた。
「虎も、餓狼の群には、敵わぬ」
大乗は、つぶやいた。
虎蔵を救うすべはなかった。
大乗は、おのが生命ひとつを守るのが、かろうじてであった。
虎蔵を倒したけものの一団は、猛然と、大乗を追って来た。
「来たか!」
大乗は、やむなく、天井へとびあがり、|蝙《こう》|蝠《もり》のように、身を岩壁へはりつけた。
多門夜八郎が、伊吹野城へ到着したのは、ちょうど、その時刻であった。
夜八郎は、刎ね橋のむこうの城門が開かれているのを、見た。
ただ一騎、生き残った武者が駆けもどった時に、開かれて、そのままになっているのであった。
──雑兵だけが、幾人か残っているらしい。
夜八郎は、馬を一気に、駆け入らせた。
これをとがめる者は、いなかった。
新しく建てられた城主の館と判る本丸まで、馬を進めるあいだ、人影を見なかった。
馬をすてて、つかつかと、館の玄関へ近づいた時、はじめて、人が出て来て、
「|誰《たれ》|人《びと》でござろうか?」
と、とがめた。
「多門夜八郎。当城主田丸豪太夫の|首《しる》|級《し 》をあげた者だ」
そう告げて、夜八郎は、馬の背にのせていた包みを、とりおろした。
それは、古刹の方丈にあった住職の袈裟でくるんだ豪太夫の首であった。
「お主は──?」
と、問われて、蒼白になった応対者は、
「小姓森田数馬──」
と、名のった。
「お主の上に立つ武士は、残って居らぬのか?」
「新城主となる御仁が、もどって居られる」
「新城主?」
「三年前に、当城を退去された侍大将の天堂寺虎蔵殿が、今日、もどって参られた。……天堂寺殿が、そのおん首を、受領つかまつる」
「案内をたのむ」
夜八郎は、数馬のあとから、館内へ入った。
ひっそりとして、空家さながらであった。
曾て、夜八郎が、忍び入った時は、建物も大きく立派なものであったし、あらゆる場所に、兵の気配が満ちていたものであった。
まさしく、栄枯盛衰のはかなさを、この城は、示している。
数馬は、城主の居間の前へ来て、天堂寺虎蔵を、呼んだ。
返辞はなかった。
夜八郎は、檜戸を開いてみた。
広い部屋は、がらんとしていた。
上座に置かれてある円座が、わびしげに、白く浮きあがっていた。
夜八郎は、その円座の上へ、首級を置いた。
「どこへ参られたのであろう?」
下座へ就いた数馬は、首をかしげた。
夜八郎は、円座のわきに坐ると、
「お主のほかに、何人の雑兵が残って居る?」
と、問うた。
「二十名ばかり──」
数馬は、うつ向いてこたえた。
「天堂寺虎蔵なる侍大将が、いかに豪の者でも、雑兵たった二十を家来にしたのでは、どうにもなるまい」
夜八郎が、微笑して、云った。
「おうかがいつかまつる」
数馬は、夜八郎を見つめた。
「われら主人が率いた百騎は、いかが相成りましたか?」
「あるいは討死。あるいは|逃散《ちょうさん》。……当城へ、舞いもどることは、おれが、許さなかった」
「お手前様の兵は?」
「あれは、おれの兵ではなかった。京へひきかえして行った」
「お手前様は、首級をご持参なされて、当城を取ろうとなされるのでありましょうか?」
「空城を接収するのに、手勢は必要あるまい。天堂寺虎蔵が、新城主となる、と申すなら、それと一騎討ちをいたす」
数馬は、不敵な言葉を平然として吐くこの若い牢人者を、
──いったい、何者であろう?
と、うたがいおそれた。
その折──。
数馬をぎょっとさせたのは、不意に、どこからか、こもり声がひびいたことである。
「そこにおいでなさるのは、多門夜八郎殿でござるか?」
声は、そう問うた。
「左様──」
夜八郎が、こたえると、片隅の床板が、ぽんと、揚げられて、首がひとつ、ヒョイとのぞいた。
「大乗か」
「いやはや、大変な目に遭い申した」
七位の大乗は、のこのこと上って来ると、顔にひっかかった蜘蛛の巣をはらいのけながら、
「あやうく、生命びろいをつかまつった」
「どうした?」
「大庄山麓とこの城をつなぐ抜け穴が設けられてあるのでござる」
大乗は、説明しはじめた。
それを発見して、ここへ忍び込むと、旧知の荒武者天堂寺虎蔵と出会い、問答ののち、案内して行こうとしたところ、山犬の群に襲われた。
夜八郎も、数馬も、眉宇をひそめて、大乗の話をきいた。
「で──つまり、天堂寺殿は、|彼奴《き ゃ つ》らのえじきになった模様で、それがし一人、生命からがら、逃げもどった次第でござる」
「その山犬の群を、使っている者が、いたか、どうか、だな」
「たぶん……、後方には、その者がいたでござろうな」
「奈良城勢と思うか?」
「さあ?」
大乗は、首をかしげた。
夜八郎が、立ち上った。
「参ろう」
「参ろう──と申されて?」
「おれが、調べる」
「抜け穴を、でござるか?」
大乗は、あっけにとられた。
「案内してくれ、大乗」
「そ、それは………しかし、山犬どもは、まだ、うろうろいたして居りますが……」
「けものなどに、遠慮はして居られぬ」
夜八郎は、笑って、云ってのけた。
「しかし、あの群は、わざと飢えさせて居り申すゆえ、狂暴きわまる気色でござる」
「狂暴であればあるほど、片づけやすい」
夜八郎は、ふと、思いついて、
「お主──」
と、数馬へ、視線を向け、
「雑兵十人に、|松《たい》|明《まつ》を持たせて、おれのあとに、従わせてもらおう」
「は──?」
数馬は、ためらった。
「天堂寺虎蔵が、相果てた上は、当城は、この多門夜八郎の支配に置かれる。そうではないか」
「たしかに──」
数馬も、いまは、夜八郎に服従するよりほかはなかった。
数馬は、いそいで、館を出ると、大声で兵を集めた。
「松明を用意せい。急げ」
わけのわからぬままに、兵らは、走って行った。
そのあいだに──。
夜八郎は、大乗の案内で、抜け穴の出入口を、調べた。
大乗は、身ひとつ通れるだけ、鉄蓋を開いていたが、夜八郎は、それをとりはずしてみた。
灯火を入れてみて、
「これは、かなりの荷物をはこぶように設けられている」
と、云った。
石段がひろく、数人がならんで昇降できるように、大がかりに掘られているのであった。
「おそらく、奈良城義胤は、この城から遁れ出る際、武器と兵糧を、相当量はこんだに相違あるまい」
「そういえば、地下にも、倉が設けてある模様でござる」
「そうか。これだけの抜け穴をつくった以上、倉も設けたであろう」
「武器や兵糧も、なお、倉にかくしてあるのではござるまいか」
「わかった! 奈良城勢が、大庄山に降り道をひらいたのは、当城を奪いかえす目的だが、それには、地下倉にかくした武器と兵糧を取る、ということが含まれて居る」
「成程──、たしかに、その通りでござるわい」
大乗も、うなずいた。
大乗は、石段を降りて行き、地下道の様子をうかがっていたが、程なくひきかえして来て、
「餓狼の群は、ひきあげたようにみえ申す。気配はござらぬ」
と、報告した。
「むこうの出入口近くに、飼っているのであろう。檻でも設けてあるのか」
夜八郎は、推測した。
数馬が、松明をかざした兵十人をつれて、やって来た。
「お前らを、つれて、当城から大庄山の麓に至る抜け穴を通る」
夜八郎は、云った。
兵らの顔に、怯えの色がうかんだ。
「お前らに、危険はない。……かりにも危険が迫って来るようなことがあれば、逃げろ」
夜八郎と大乗は、先に立って、石段を降りて行った。
十本の松明に照らされて、地下道は、すみずみまで、見わけることができた。
「この岩盤を切り抜くのは、容易ではなかったろう。地下道をつくる技術を備えた者がいたに相違ない」
しばらく行ってから、大乗が、
「それでござる」
と、岩にはめこまれた鉄板を示した。
「成程──。地下倉だな」
「開けてみせ申すかな」
「いや、待て。開けるのは、あとだ」
夜八郎は、背後から松明の明りを送られて、前方へ長い影法師をはわせながら、進んで行く。
大乗が、ふっと、背すじに悪寒をおぼえて、
「大丈夫でござるかな? 敵は、餓狼の群──それも、二三びきではござらぬ」
と、ささやいた。
「大乗──」
「なんでござる」
「他人のすみかに忍び入ったことは、無数だろう。どのような思いもうけぬ危険が待ち伏せているかも知れぬに──」
「それは、そうでござるが……」
「おれたちは、危険のただ中を歩くような運命に生れついて居る。安楽浄土の後生とは、無縁だ」
「そういう言葉を吐かれるので、それがしは、お手前様に従わぬわけに参らぬのでござる」
大乗は、いまいましげに、云った。
夜八郎は、笑い声をたてた。
大乗は、全神経を緊張させて、行手の闇の中からひびいて来るどんな微かな音も、ききのがすまいとしていたが、とある地点まで至ると、
「お!」
と、足を停めた。
「どうした?」
「対手が餓狼なら、こっちも、かぎ犬になり申す。……要心めされい。これからさきは、地獄でござる」
「地獄か──よかろう」
夜八郎は、差料の鯉口をきった。
それから、後にしたがう兵らをふりかえって、
「五人ずつわかれて、左右の壁に吸いつくのだ。動いてはならぬ」
と、命じた。
十人の兵は、生命の危険が迫れば、にげ出してもよい、と云われて、従って来たのだが、どうやら、こんなに奥まで進んできた以上、にげることは不可能だ、とさとった。
いかなる敵が殺到して来るのか、わからぬままに、覚悟をきめなければならなかった。
「大乗──。餓狼を近づけさせて、一気に片づけるのだ。よいな!」
「かしこまった」
その地点は、行手が、大きく曲った箇処で、敵を迎え撃つには、有利であった。
夜八郎も大乗も、左右にわかれて、壁へ、からだを寄せて、待ちかまえた。
やがて──。
疾駆して来る四つ足の群の、名状し難い不気味な音が、高くなって来た。
「大乗! 一瞬の勝負だぞ!」
「心得て居り申すわい!」
曲り角に、黒いけものの集団が、どっと出現した。
「あっ!」
兵らの口から、恐怖の叫びがあがった。
「動くな!」
夜八郎は、叱咤した。
牙を持った野獣の群は、燃えあがる松明の炎に、一瞬、ひるんだ。
大乗は、大きく一呼吸した。
──来やがれ!
大乗は、右手に一本、そして左手に、七八本の手裏剣をつかんでいた。
餓狼の群は、唸りをたてながら、ゆっくりと迫って来た。
大乗は、夜八郎の下知を待つ。
夜八郎は、容易に、口をひらかなかった。
距離は、ついに、二間あまりに縮まった。
「撃て!」
夜八郎は、叫ぶとともに、五体を躍らせて、餓狼の群のまっただ中へ──。
「応っ!」
大乗は、手裏剣を、目にもとまらぬ迅さで投げはじめた。
夜八郎が、一閃毎に、首を、胴を、刎ねて行く、その左右へ、手裏剣は、吸い込まれるごとく、飛んで、確実に、一疋ずつ|斃《たお》した。
攻撃太刀と援護手裏剣の、みごとな一致であった。
夜八郎は、二疋ばかりが遁走して行くのを見送って、けものの返り血のなまぐささに、ふうっと、ひと息ついた。
「やっつけ申したわい」
大乗が、そばへ来て、云うと、夜八郎は、
「これからだ」
と、こたえた。
もののふの日
そのあたりは、幾百年かのむかし、心得ある地頭が、植えたものであろう、同じ高さの杉が、|鬱《うっ》|蒼《そう》として山麓を帯になって巻いている密林地帯であった。
その密林の中の一箇処が、伐りひらかれて、陽ざしを呼び入れ、あかるい空地となっていた。
大庄山の頂上からの道は、そこへ通じていた。
山城の侍大将、横川勘兵衛は、|床几《しょうぎ》に腰をおろして、足下に横たわっている血まみれの男を、じっと、見まもっていた。
血まみれの男は、天堂寺虎蔵であった。顔面は、いちめんに傷ついて血を噴かせ、衣服はずたずたに、噛み破られていた。
常人ならば、とっくに、息絶えているところである。
流石は、刀創槍傷を全身にもっている戦場武者であった。意識こそうしなっているが、胸はゆっくりと上下に動いている。
横川勘兵衛は、まばたきもせずに、見まもりつづけている。
と──。
虎蔵は、太い眉をしかめた。眩しい陽ざしが移って、顔に当ったのである。
──不死身の男よ!
勘兵衛は、微笑した。
虎蔵は、まなこをひらいた。どうして、こんなところに横たわっているのか、すぐには、思考力が働かぬようであったが、そこにいる人間に気がついて、視線を仰がせると、事態をさとった。
起き上ることは、よほどの苦痛であったろうが、虎蔵は、横たわっている屈辱には、堪えられなかった。
「おれは、とりこか」
虎蔵は、血唾をべっと吐きすててから、云った。
「まずはな」
勘兵衛は、微笑しながら、うなずいてみせた。
「貴公は?」
「奈良城義胤の家臣横川勘兵衛」
「それがしは……天堂寺虎蔵だ」
「伊吹野城に、抜け穴が設けてあったのを、貴公は、よく知って居ったものだ」
「それがしの旧知の忍者が、さぐりあてた」
「成程──忍者ならば、さぐり当てるかも知れぬ。しかし、お主は、何故に、一人で抜け穴を通って来ようとしたのか? 家来どもを、どうしてひきつれなんだ?」
「家来一同に、抜け穴があることを、知らせることの是非を考えたまでだ」
虎蔵としては、主君以下旗本全員が、ことごとく滅んでしまったことを、敵である奈良城方へ、知られたくはなかった。
「いささか、うたがわしいの」
勘兵衛も、さる者であった。
「焼け城には、もう兵はのこって居らぬのではないか」
「兵がのこって居るか居らぬか、貴公自身で、見とどけたらよかろう」
虎蔵は、疼痛はげしい上半身を、立てた。
「いや、少々ばかりの兵がのこって居っても、落日をもはや中天にもどすことは不可能だ。田丸豪太夫の命脈は、すでに尽きて居る」
「さあ、それは、どうであろうかな。山城で飢えた奈良城勢の方が、野へ降りて来るのが、おこがましい、と申すものではあるまいか」
虎蔵が、せせらわらった時であった。
一人の若い士が、血相かえて奔って来ると、
「地下道に強敵が、出現つかまつりました」
と、報告した。
「旗本勢が寄せて来たか?」
「いえ、多勢ではなく、雑兵をしたがえた牢人ていの男と、忍びの者らしき者の二人だけでありますが……忽ち、犬どもを斬り殺してしまい、進んで参ります」
「………?」
勘兵衛は、ちょっと、首をかしげてから、虎蔵を見やった。
「お主がやとうた牢人者か?」
「伊吹野城には、あらたに召しかかえた猛者が、百騎を下らず!」
虎蔵は、云いはなった。
云いはなちつつも、心中では、
──何者を、七位の大乗がつれて来たのか?
と、疑惑を起していた。
「虚言には、乗らぬが……、要心はいたそう」
勘兵衛は、床几から立つと、呼子笛を吹いた。
後方の密林中から、屈強の若者たちが、どやどやと姿をあらわして、勘兵衛の前に横列をつくった。
勘兵衛の手足となって、工事をやりとげた面々であった。
「伊吹野城からの地下道を、|手《て》|強《ごわ》い太刀使いがやって来る、という急報が来た。猶予はならぬことに相成った。そやつを片づけて、お主らがまず尖兵となって、城内へ攻め込む。もし、まだ、城内に、田丸豪太夫が、百騎二百騎の武者をやしなって居るのであれば、お主らは、全滅の悲運を覚悟することに相成ろう。よいな?」
勘兵衛は、申し渡した。
勘兵衛としては、すでに、抜け穴が、田丸勢に知られてしまった、と考えざるを得なかったのである。
「ま、待てっ!」
虎蔵が、叫んだ。
「みすみす、全滅の憂目に遭うと知りつつ、なぜ、これらの若者たちを、行かせるのだ?」
虎蔵は、勘兵衛をなじった。
虎蔵としては、わずか二十騎でも、城内におどり込まれたならば、万事休すのだ。
城内には、雑兵がわずかしかのこってはいないのである。
勘兵衛は、虎蔵を見下し、
「お主が、もし、拙者の立場にあったならば、五百あるいは千の兵を率いて、地下道を駆ける、というのか」
と、云った。
虎蔵は、ぐっと、返答につまった。
虎蔵が勘兵衛であったならば、やはり、この手飼いの若武者たちに、乗るかそるかの冒険をさせるに相違なかった。
狭い地下道なのである。多勢をもって攻め入ることは、むだであった。
寡勢で、攻め入って、城内をかきまわしておいて、城門をひらき、味方の主勢をみちびき入れるのが、戦略というものであろう。
「では、勝手にするがよかろう」
虎蔵は、あきらめた。
その様子を見下していた勘兵衛が、にやりとした。
「読めたぞ」
「なに?」
「伊吹野城には、兵は一人もいないのであろう。どうだ?」
「………」
「かくしてもはじまるまい。もしかすれば、もはや、田丸豪太夫も、城から去って居るのではないか?」
「………」
「おい、どうだ? 図星であろう」
「いかにも、その通りだ。伊吹野城は、空城に相成って居るのだ。兵は一人も居らぬ。……但し」
虎蔵は、肩をひとゆすりした。
「生命知らずの牢人どもの巣窟に相成って居ると、知ってもらおう」
こんどは、勘兵衛が、黙って、虎蔵を睨んでいる番だった。
「京畿にあぶれた数名の牢人が、東へ向って、歩き出しているうちに、一人また一人と、連れになり、この伊吹野に到着した時には、およそ百名をかぞえて居った。軍勢にあらず、いうならば、餓狼の群──それが、伊吹野城を乗っ取った。地下倉に、兵糧と兵器があると知った。……となると、奈良城勢も、容易に攻め入ることは、かなわぬ。はっはっは……」
「信じられんの。が、まあ、要心いたそう。お主は、むこうの小屋で、ゆっくり休養せい」
勘兵衛は、虎蔵をそこへすてておいて、空地を横切って、密林の中へ入って行った。
巨大な岩が、一本の老杉を抱くようにして、どっしりとわだかまっていた。
その老杉の蔭が、岩に大きく口をあけていた。
地下道は、そこが出入口であった。
勘兵衛は、岩の前に立っている二人の若者に、
「何名、入って行った?」
と、問うた。
「十名、入り申した」
──そろそろ、地上が近いな。
夜八郎は、しのびやかな風に頬をなでられて、そう感じた。
雑兵たちは、城内へ還し、大乗と二人きりであった。
地下道は、すこしずつ、広くなっていた。
まっすぐ進んで来たのが、急角度で曲ることになり、そこで、夜八郎は、足を停めると、ちょっと、思案した。
「どうされる?」
数歩のあとを|従《つ》いて来ていた大乗が、急いで寄って来て、ささやいた。
「敵が、むこうに待ちかまえて居る気配でござるな」
「さほどの頭数ではなさそうだ」
大乗は、地べたへ身を伏せると、耳を土につけた。
「どうだ?」
夜八郎が、たずねた。
大乗は、起き上ると、
「およそ、十名あまりかと存ずる」
と、告げた。
「よし! おれが、一気に、斬る。大乗、援護せい」
「お一人で、大丈夫でござるか?」
「闇に利く目を持っているはずだぞ。お主の手裏剣が、あやまって、おれの背中を刺さぬかぎり、一人のこらず、片づけてみせる」
夜八郎は、餓狼を斬った剣を、すらりと抜いた。
──この勇気!
大乗は、肚裡で、うなった。
──七位の大乗、終生他人の下には就かぬ、と心に誓って居ったが……、如何せん、この高貴の牢人衆の魅力には勝てぬわい。
「では、よいな?」
「かしこまった」
次の瞬間──。
夜八郎は、疾風を起して、その曲り角から、奔り出た。
そこは、おどろくほどの広さに、掘りひろげられて居り、採光にも充分の考慮が、払われていた。
その明るさは、しかし、この場合、奈良城側にとって、不利であった。
夜八郎は、闇に馴れた目をもって躍り出て来たのである。奈良城側は、陽の眩しい地上から降りて来たので、この地下はいっそ暗いものであった。
「来た!」
「包め」
十人の若者は、すでに、抜刀して居り、一斉に、半円の陣形をとった。
夜八郎の疾駆は、まさしく、猛狗に似ていた。
来た、と見て、太刀を構えた瞬間には、もう、その若者は、目くらむような一閃の白い光と、凄じい衝撃をくらって、のけぞっていた。
同時に──。
曲り角の闇の中から、手裏剣が、つづけさまに、放たれた。
斬る。
跳ぶ。
斬る。
躍る。
夜八郎の闘いぶりは、魔神に似た凄じさであった。
ほとんど、一颯の太刀で、一人を斬った。
夜八郎の翻転が止んだ時、山城の若者たち九人の生命が、喪われていた。そのうち四人は、手裏剣を、のどや胸に受けていた。
夜八郎は、生きのこった一人を、じっと、見据えた。
岩壁に、背中をすりつけて、太刀を構えた若者は、絶体絶命の一瞬に追いつめられて、ふいご[#「ふいご」に傍点]のように胸を喘がせていた。
「山城のことを、包まずに、語れば、斬らぬ」
夜八郎は、云った。
「………」
若者の顔面に、ほっとした色が、うかんだ。
「山城に、奈良城義胤は、健在か?」
若者は、かぶりを振った。
「患っているのか?」
「乱心されて居る」
「主君に代って、支配するのは、誰だ?」
「おん曹司──義太郎殿」
「奈良城義太郎は、伊吹野城を奪われた時、出奔して、行方知れず、ときいて居るぞ」
「還って参られた」
「兵の数は?」
「………」
「云え!」
「………」
「云わぬと、斬る!」
「三百──」
「まことだな?」
「相違ない」
「降り道をひらいた一人だな、お主は?」
「さ、さよう──」
「降りるはやすく、登るは難しい、と判断し得るが……、難所は、幾箇処だ?」
「無数だ」
「幾箇所あるか、ときいて居る。難所である理由も、だ」
若者は、こたえる代りに、気力がつきたとみえて、太刀を下げると、ずるずると、くずれ落ちた。
大乗が、かたわらに寄って、懐中にしのばせていた絵図面をひろげた。
「さ──ひとつ、降り道を、示してもらおう」
若者はふるえる指さきで、説明しようとした。
とたん──。
唸りを発して、一矢が飛来して、若者の頸根を刺した。
第二矢もおそって来たが、これは、大乗が、手刀で打ち落した。
「油断した!」
夜八郎は壁ぎわへしりぞいた。
矢は、それきり、飛来しては来なかった。
夜八郎と大乗は、岩壁へ、身を寄せたなり、かなり長い時間を動かなかった。
不気味な静寂が、つづく……。
大乗が、ついに、しびれをきらした。
「どうなされる? 進まれるか、それとも、退かれるか?」
「退却はせぬ」
夜八郎は、こたえた。
「しかし、進めば、矢が襲って参る」
「そうとは、かぎるまい」
「と申されると?」
「敵が多勢ならば、矢は、つぎつぎと、飛来したろう。第二矢で止めたのは、寡勢を意味して居る」
「成程──」
「ただ、こっちは、要心しているだけだ。……こっちが、いら立つならば、同時に、むこうも、いら立っていることだ。もうすこし、待とう」
「かしこまった」
夜八郎の洞察力は、鋭かった。
それから……ものの百もかぞえたろうか。
頭上から、パラパラと、土が落ちて来た。
瞬間──。
大乗の右手から、そのくらがりめがけて、手裏剣が投じられた。
巨きな蝙蝠のように、弓と矢を持った黒装束の男が、落下して来た。
夜八郎は、男が地面に横たわる前に、奔って、石段下に達した。
と──。
そこから、躍って来た二名の敵を、ほとんど、一閃裡に斬り仆した。
とみる間に、夜八郎は、石段を駆けのぼって行った。
巌をうがってつくられた洞窟が、そこにあり、夜八郎は、いったん、そこで立ちどまったが、襲撃の気配はない、とさとるや、すばやく、地上へ、すべり出た。
そのせつな──。
ぶん、と宙を唸って、一本の矢が来た。
これを頭上にかわした夜八郎は、
「問答を求めるぞ!」
と、大声で、云いはなった。
木立の中に、数個の人影がみとめられたが、動かなかった。
「隊長は、どこだ?」
夜八郎は、二三歩、進み出て問うた。
次の矢をつがえた者が、樹蔭から正面に姿を現し、
「なんの問答だ?」
と、叫びかえした。
「お主らでは、対手にならぬ。隊長の許へ案内せい」
その返答は、弦を鳴らして、矢をきって放って来ることだった。
夜八郎は、目にもとまらぬ迅業で、その矢を、ま二つに両断した。
「むだにさからうと、ことごとく、斬るぞ!」
夜八郎の面前へ、横川勘兵衛が立ったのは、それから十もかぞえぬうちであった。
夜八郎は、一瞥して、
──これは、ひとかどの侍大将だな。
と、直感した。
勘兵衛は、夜八郎を、睨み据えて、
「剣の豪なる者に対して、敬意を表するのは、われら戦国の武士の作法と、心得る。但し、談合如何によっては、われら奈良城の兵全員をくり出しても、貴殿を討ちとってみせる」
と、云った。
まず、先手を打ったのである。
夜八郎は、微笑した。
「それがしは、もとより、兵法者でも、また、戦場武者でもない。闘争によって、身を立てては居らぬ。したがって、身を守ることはするが、好んで、攻撃に出るものではない」
「よろしかろう。で、問答とは?」
「水が欲しい」
夜八郎は、ずばりと云った。
「水?」
「左様、水が欲しい。竜神湖の水をもらいたい」
「………」
「それがしは、泰国清平が公卿館に身を寄せる牢人者、多門夜八郎という、都落ちの漂泊の徒にすぎぬ。天下がどう動こうと、一城一国が誰人に奪われようと、一向にかかわり知らず、おのが身ひとつを、その日その日生きのびさせれば、それでよい、と考えているすね者と、思って頂こう。したがって、この伊吹野の支配者が、田丸豪太夫であろうと、奈良城義胤であろうと、どうでもよい。……しかし、当地でしばらくすごすうちに、幾千の農夫が、一滴の水もない野で飢えているさまを、そのままには、看過できなくなった。申すまでもないことだが、人間は食わねばならぬ。その米をつくる農夫が、さげすまれ、奴隷のごとく、扱われていることに矛盾があるが、それはさて措き、米をつくろうとしている農夫に、水を呉れるのを拒否することが、伊吹野の領主たりし奈良城義胤のなすべきことかどうか、考えれば、自明の理であろう。……領主の座を奪いあうのは、武士の面目をかけることであろうが、農夫を、その戦いの犠牲にすることは、断じて許されぬ。そうではあるまいか」
夜八郎の口調は、きわめて淡々としていた。
黙って、きいていた勘兵衛は、夜八郎が言葉を切るのを待って、
「貴殿の申し条は、重々尤もと心得る。しかしながら、城を奪われ、兵の大半を滅ぼされて、山上へ追い上げられた者の、復讐の一念が、どれだけ熾烈なものであるか、これは、第三者の傍観によっては、はかり難い。主取り随身を知らぬ貴殿の冷やかな目には、伊吹野を涸らすことは、狂気の沙汰としか映らぬとしても、これは、また、やむなき措置である」
「では、奈良城方は、伊吹野の農夫一人のこらず、飢え死んでもよい、といわれるのか?」
「伊吹野城が、奈良城家にかえらぬ限りは、野に在る者を救うことはできぬ。城が再び奈良城家のものにもどれば、竜神湖の水は、のこらず、農夫らに与えられよう」
「奈良城家があっての、農夫だ、といわれるのか?」
「左様、とこたえれば、人間の尊敬をけがすもの、と嘲罵があびせられよう。貴殿は、知るまい。田丸豪太夫が、攻め入って来た五年前、伊吹野の農夫どもが、いかなる態度をもって、この攻防に処したか。数十年にわたる奈良城義胤の仁慈の政治を享けながら、田丸豪太夫が、暴風雨のごとく攻め入って来るや、ただ、おそれおののいて、家の中にかくれひそんでいたばかりであった。もし、領主の高恩を感じていたならば、たとえ、敵わぬまでも、鋤鍬をとって、城方へ味方していたであろう。……都落ちの貴殿などには、農夫というものが、いかに、小ずるく、利己主義で、恩義知らずか、知るところではないのだ。……五年前、もし、伊吹野の農夫が、のこらず決起して、城方へ味方していたならば、田丸豪太夫をして、ムザとは城へ攻め込ませはしなかったはずなのだ。当時、農夫どもの冷酷非情ぶりを、貴殿が目撃していたならば、よもや、その窮状を、救おうとはせぬであろう。今日、かれらが飢え死のうとして居るのは、いわば、自業自得、むくいと申すほかはない」
勘兵衛は、云いたてた。
夜八郎は、しかし、その言葉にたじろがなかった。
「農夫が、おのれを守ろうとして、政権の争奪に目をつむるのは、当然のことではあるまいか。武器を持たず、米をつくるすべしか知らぬ農夫が、ひとたび、戦争が起れば、さざえのごとく、かたく殻をとじて、かくれひそむことを、責めることは、断じて、できぬ。鋤鍬を武器としてとれ、とのぞむ方が無理ではあるまいか。武士と農夫は、同じ人間とはいえ、生きている目的が全くちがって居ることに、思いをいたせば、その利己主義をそしることは、断じて、できぬはず──」
「その言葉は、農夫どもの冷酷非情を目撃しなかった者の吐くもの。数十年恩顧を蒙った農夫どもが、領主が滅ぶさまを、黙って傍観した利己主義は、断乎として許されぬ。……もし、農夫どもが、水を欲するならば、天に祈って雨乞いする前に、伊吹野城の田丸豪太夫が、滅ぶことを祈るがよかろう」
「その必要はない。田丸豪太夫は、すでに、滅亡した」
「なに?!」
勘兵衛は、大きく目をひきむいた。
「それは、まことか?」
「相違ない」
夜八郎は、こたえた。
横川勘兵衛としては、天堂寺虎蔵を眺めているうちに、そんな予感も起っていたのである。
しかし──。
田丸豪太夫ともあろう猛獣にも似た武将が、このようにはやばやと、業力が尽きるとは、どうしても、想像しがたかった。
勘兵衛としては、兵の過半を失っても、田丸豪太夫自身は、なお、焼け城に、|蟠《ばん》|踞《きょ》しているものと思っていた。
夜八郎から、滅亡した、ときかされても、すぐには、信じ難かった。
「田丸豪太夫が、もはや、この世にないとは!」
勘兵衛は、うめくように、云った。
「信じられぬのであれば、それがしが、城内へ案内いたす」
夜八郎は、云った。
勘兵衛は、そう云われて、はじめて、夜八郎を冷静に観察する余裕をもった。
ただの牢人者ではなかった。
風貌は、さわやか、という形容がふさわしい。この秀れた眉目は、下層の世界からは生れぬものである。由緒ある家系が、永い時代をかけて、つくったものといえる。
態度には、陰険な翳などみじんもない。颯爽としているのである。ただ一人で、立ちながら、おそれを知らぬ明るさをはなっているのは、よほどの勇気を示すものである。もとより、その剣技の冴えは、充分に見とどけられたことである。
「貴殿は、ただの牢人衆とは思われぬが、もしかすれば、幕府から遣わされた御仁か?」
勘兵衛は、問うた。
「いや、生れながらの牢人者」
夜八郎は、こたえた。
「かくさずともよい」
「べつに、かくしては居らぬ。それがしが何者であれ、それは、当面の談合に、なんのかかわるところもない。……それがし個人の利益を欲して、罷り出たのではない。そのことを、承知されたい」
「………」
勘兵衛は、黙って、まばたきもせず、夜八郎を見つめていたが、やがて、大きくうなずいた。
「貴殿を信じることにいたそう」
「城内へ、案内いたす」
「案内ねがおう」
勘兵衛は、ふりかえって、若者たちに、待っているように命じた。
すると、若者たちは、口々に、一人で入るのは危険である、ととどめた。
勘兵衛は、笑って、
「武士が、ひとたび、対手を信ずる、と云ったならば、敵城へ単身乗り込むことを避けるわけには参らぬ。もし、わしが、二刻経っても、もどって来なかったならば、その時は、城内には、なお、田丸豪太夫が生きているものと思うがよい」
と、云いのこした。
生死一如
一刻あまりが、過ぎた。
密林の中で、待つ奈良城衆は、しだいに、いら立ちはじめた。
横川勘兵衛が、単身で、得体の知れぬ牢人者に案内させて、伊吹野城へおもむいて行ったのは、あまりにも、無謀な振舞いではなかったろうか。
若者たちの脳裡には、ひとしく、その不安が生れていた。
「おい。われわれは、ここに、待っているのは、おろかではないのか」
一人が、不意に、声をあげた。
「そうだ。もう、じっとはして居れん!」
「乗り込むか」
「まず、山城から、味方を百騎ばかり呼び寄せて、城の大手から、乗り込もうではないか」
「よかろう」
二十人あまりの若者たちは、一斉に、動いた。
その時──。
岩窟から、勘兵衛の姿が、現れた。
若者たちは、息をつめて、勘兵衛を、見つめた。
勘兵衛の表情は、おもむく時とすこしも変ってはいなかった。
「お主らは、ここを守って居れ」
そう申し渡しておいて、山城へ向って、歩き出した。
「隊長殿、田丸豪太夫の生死は?」
一人が、問うた。
勘兵衛は、向きなおると、
「多門夜八郎というあの牢人の言葉は、信じてよい」
と、こたえた。
「では、田丸豪太夫は、もはや、この世の者ではないのでござるな?」
「生死のほどは、まだわからぬ。ただ、城には、もはや、とどまって居らぬことは、たしかめて来た。城内には、雑兵わずかしか留守居して居らぬ。しかし、お主らだけで、攻め入ってはならぬ。これは、厳重に、申し渡しておく」
勘兵衛の姿は、樹林の中へ、遠ざかって行った。
若者たちは、勘兵衛の態度が、どうも|解《げ》せなかった。
功名を欲するならば、ただちに、自分たちをひきつれて、城を取るべきではないか。なぜそうしないのか?
勘兵衛という人物の大きさを知っているかれらは、その命令には、絶対服従して、いささかの不満もなかったが、それにしても、いまの態度は、納得しがたかった。
降り道を、苦心してつくったのは、城を奪いかえすためであった。にもかかわらず、勘兵衛は、敵将が城から姿を消しているのをたしかめても、すこしも、うれしそうではなかった。
「どうも、わからんな」
一人が、口をとがらせ、となりの者も、
「どうする、というのであろう?」
と、小首をかしげた。
勘兵衛は、新しい山道を、ゆっくりと登って行く──。
敵将・田丸豪太夫が、相果てた、と知りながら、勘兵衛の心は、重かった。
多門夜八郎という牢人者の魅力が、勘兵衛の心中を占めたからである。
山城の新主人である奈良城義太郎と、あまりに差がありすぎた。
多門夜八郎に比べれば、義太郎は、野卑粗暴な猪武者でしかなかった。
──あのような青年が、わがあるじであれば……。
その想いが、勘兵衛の気持を重くしているのであった。
多門夜八郎は、しかし、目下の状況に於ては、敵であった。夜八郎の要求するところは、奈良城側としては、容れることはできなかった。
奈良城一党が、即刻、大庄山を降りて、伊吹野城へ帰還することは、不可能である。義太郎はじめ主だった人々が、多門夜八郎の言葉を信用するはずがないのであった。
必ず、それは、奸策である、と議決されるに相違ないのだ。
勘兵衛には、義太郎を説得する自信はなかった。
しかし、勘兵衛は、その努力をしなければならなかった。むだと知りつつも、であった。
勘兵衛は、密林の中をくぐり抜けて、やがて、草原の一端へ出た。
まっすぐに、横切って行こうとすると、東方と西方から、同時に、馬蹄の音が起った。
たちまちに、勘兵衛めがけて、疾駆して来たのは、裸馬にまたがった山賤であった。
左右から二人ずつ、勘兵衛をはさむ敵意をみなぎらせた構えをとった。
いずれも、顔半面を髯で掩い、短槍を小脇にかい込み、凄じい眼光を、勘兵衛へ刺した。
「お主、約束を破ったな!」
一人が、呶号するように、あびせて来た。
「身共が、約束を破った? ……米五俵のことか?」
「すでに、道は通じた。にもかかわらず、米五俵を、われらへ贈って参る気配がないぞ」
「道は通じたが、わが隊は、まだ伊吹野城へ、入っては居らぬ。したがって、地下倉の兵糧を、当方に収めては居らぬ」
「云うな! 伊吹野城は、すでに、焼きはらわれて居るぞ。野へ降りたわれらの一人が、それを見とどけて来た。……地下倉に、兵糧がたくわえてある、などと、ようも、われらを騙したな!」
「騙しはせぬ。伊吹野城の地下には、兵三千が三年籠るだけの兵糧がたくわえてある。まちがいはない」
「この期に及んで、まだ、たぶらかすかっ!」
一人が、いきなり短槍を、突き出した。
おそろしい敵であった。
考え様によっては、この山賤の一団は、千をかぞえる軍勢にもまさる強敵であろう。
勘兵衛の想像するところでは、百に満たぬ一団であろうが、まさしく一騎当千という形容があてはまる面々である。
いかなる神を信仰しているのか、もしくは、下界には見当らぬ偶像でもあがめているのか──その狂信によって、一個の力を常人の十倍にもして、それを異常な団結力としている一団であった。
この草原を聖域となし、守護するためには、いかなる狂暴な手段もあえて辞せぬ徒党である。
熱狂的な信仰心というものが、人間を、どのように凄じい闘争の権化となすか、いまさら、云うを俟たぬ。
この草原には、一族以外の者を一人も入れぬ掟を設けた山賤団が、奈良城勢の道つくりを黙許したのは、伊吹野城奪還のあかつき、武器と兵糧を多量に贈与するという条件をつけられたためであった。下界と絶縁してくらしている山賤団にとって、その条件は、非常な魅力であったのである。
それだけに、期待は大きく、一日千秋の思いで、首をながくしていたに相違ない。
ところが──。
伊吹野城は、すでに、惨たる廃墟と化している、という報告がもたらされて、山賤団は、期待が大きかっただけにかえって、
「だまされた!」
と、激怒も凄じかったのである。
勘兵衛としては、絶体絶命の立場に置かれたわけであった。
突き出された短槍のけら首を、むずとつかんだ勘兵衛は、
「待て! 談合をのぞむぞ──」
と、叫んだ。
「なんの談合か! かたり者め!」
さらに一方から、短槍が、電光の迅さで、襲って来た。
やむなく、勘兵衛は、身を沈めて、それを頭上にかわしざまに、馬脚を、抜き討ちに、払った。
馬が倒れ、乗り手が、ほうり出されるや、他の三人が、
「おのれが!」
「くそっ!」
と、雄叫びして、馬上から跳んだ。
「待て! 討ちあいは、好まぬ。……首領に会おう、首領に──」
勘兵衛は、なんとかして、山賤団との闘争を、避けたかった。
しかし、対手がたは、勘兵衛をかたり者ときめてしまっていて、談合の余裕などあるべくもなかった。
四人は、前後左右から、じりじりと、穂先をきらめかせて、迫って来た。
──やむなし?
勘兵衛は、覚悟をきめた。
「やあっ!」
正面の敵が、|鍾馗《しょうき》に似た形相に、闘志をみなぎらせて、びゅっと短槍を突き込んで来た。
勘兵衛は、これを柄なかばから、両断するや、くるっと向きなおりざま、背後の敵めがけて、跳躍した。
戦場に於ける死闘を、いくたびとなく重ねている勘兵衛は、いわば、討ちあいのコツというものを心得ていた。
正面の敵と太刀打ちした瞬間には、右か左かの敵へむかって、斬りつけて行く──というのは、本能が生んだ定法である。敵がたも、当然、そう動くものと、考えている。
勘兵衛の豊富な経験は、定法をやぶるところに、勝機があることを、教えていた。
勘兵衛は、背後の敵へ向って、跳躍した。
背後に在る者には、まず正面の味方に初撃の手柄を与える気持がある。それが隙となっているのであった。
勘兵衛は、ぞんぶんに、その敵を、脳天から斬り下げた。
そして、血けむりあげて倒れる敵の上をとび越えて、余裕のある構えをとった。
「やりやがったな!」
短槍を両断された正面の敵が、一尺あまりの無反りの野太刀を抜いて、猛然と、襲って来た。
「犬死ぞっ!」
勘兵衛は、一喝とともに、頸根から|肋《あばら》まで、手ごたえ充分に斬った。
その時──。
草原を、こちらへめがけて、鳥影がかすめる速度で、疾駆して来た一騎があった。
すると。
残りの二人が、ぱっと、一間ばかり、とび退った。
勘兵衛は、眉宇をひそめて、近づく者を見た。
女であった。
しかも、若い。
長い黒髪を、山の涼風になびかせて、たちまち、そこへ至ると、勢いあまって、馬を棹立たせたが、そのとたんに、裾がめくれて、太股まであらわになった。
弓と矢を、背負うていたが、太刀は帯びていなかった。
小麦色の|貌《かお》に、|眸子《ひ と み》の大きいのと、唇のあかいのが、あざやかであった。
「おのれは、奈良城勢の侍大将か?」
男子の語気をぬすんだ、威厳をふくませた声音で、問うた。
「横川勘兵衛。この草原に、道を通じた者──」
勘兵衛は、こたえた。
「廃墟と相成った伊吹野城から、兵糧と武器をはこんで来て、われらに呉れる、とだました張本人だな」
「だましはせぬ。約束の実行が、おくれたまでのことだ」
「黙れっ! 焼け城に、兵糧・武器がのこって居ろうか!」
まだ、二十歳にも満たぬであろう。口もとのあたりには、少女の稚さをのこしている。
しかし、その態度は、あきらかに、山賤団のかしらに立つものであることを示した。
「伊吹野城の地上は焼けても、地下まで火はとどいて居らぬ。地下倉には、五年前の退去の際にかくした兵糧と武器が、そのまま、のこって居る。それを、今日、拙者自身の目で、たしかめて来た。神明に誓う」
勘兵衛は、こたえた。
山賤娘は、その言葉をすぐには信ずべくもなかったが、勘兵衛の堂々たる応対ぶりに、直感を得たか、
「あと幾日待てばよいのだ?」
「十日」
「おそい!」
娘は、かぶりを振った。
「そなた、首領か?」
「頭主は、父じゃ。されど、父は、三日前に、天に還った」
天に還る──。この徒党の信仰する宗門では、逝くのは、天に還る、ということなのであろう。
異邦から伝わって来た宗門と推察される。
「|父《てて》|御《ご》がみまかったのであれば、当然、そなたが、首領の座に就くのではないのか」
「女子は、頭主にはなれぬ。……それよりも、期限は、五日。五日が一日ものびることは、許さぬ」
「承知した」
やむなく、勘兵衛は、うなずいた。
山賤娘は、生き残った者たちへ、仆れた味方を担いで、ひきあげるように、命じた。
「あいや──」
勘兵衛は、馬首をめぐらした娘を、呼びとめた。
「なんじゃ?」
「そなたの名は?」
「天香」
娘は、こたえた。
「信仰する神とは?」
「神は神じゃ。この世に、神がふたつとあろうか」
「成程──。だが、われわれの信ずる神と、同じ神かどうかだな」
「おのれらの信ずる神は、神ではない。邪鬼じゃ」
娘は、云いのこすや、馬脚をあおって、みるみるうちに、草原の彼方へ小さくなって行った。
勘兵衛は、山城へ向って、歩き出した。
──五日、か。
この短い期限は、苦痛であった。
はたして、五日のうちに、兵糧と武器を、あの地下倉から、はこんで来れるであろうか。
多門夜八郎は、竜神湖の水門をひらくのと同時に、こちらは地下倉の扉をひらこう、という条件を申し出たのである。
勘兵衛は、夜八郎とたたかいたくはなかった。
山城の広場では──。
義太郎が、あらたに、旗本に指名した若ざむらい三十騎を、ふんどし一本にして、九尺柄の槍を構えさせ、突撃の修練をさせていた。
義太郎自身も、半裸になり、二間柄の長槍をひっさげていた。
突く的は、松の立木であった。
うわあっ!
喚声をあげて、十間を駆けざまに、突くのであったが、生木を突くのは容易のわざではなく、皮を|殺《そ》いでよろめいたり、手がしびれて、唸ったり、突くには突いたが、引き抜けずに、狼狽したり──あまり、気勢のあがらぬ光景を呈していた。
義太郎は、そのために、ひどく、不機嫌になっていた。
若ざむらいたちは、朝からぶっ通しの訓練で、疲労しはてていたが、義太郎は、止めさせようとはしなかった。
「もう一度!」
義太郎は、呶鳴った。
二三人が、うらみ顔を向けた。
「こらっ! 貴様ら、これしきの修練に、精根がつきるのか! それで武士といえるか! 庄野四郎五郎の懐柔策に乗せられて、どやつもこやつも、|女《おな》|子《ご》のように、からだがなま白く、ふやけてしまって居るのだ。きたえなおされるのが、それほどつらいか。おいっ!」
義太郎に、穂先を胸もとへ突きつけられた一人は、蒼ざめながら、
「い、いえ! 倒れるまで、やりまする」
と、こたえた。
「そうだ! 血|反《へ》|吐《ど》を流すまで、修練してこそ、この戦乱の世を生き抜く武士になれるのだ。……もう一度、突けっ!」
三十騎は、再び横列の陣をとるや、義太郎の下知をあびて、うわああっ、と立木へ向って、殺到して行った。
しかし、その突きぶりは、前よりも、もっとぶざまであった。
「おのれら──なんたるざまかっ!」
義太郎は、ほとんど逆上の形相で、呶号するや、もどって来た若ざむらいの一人を、石突きで突き倒しておいて、
「見ておれ! 槍というものの使いかたを教えてくれる」
と、ピタッと長槍を構えるや、一瞬、立木の一本を睨みすえたが、
「おーっ!」
と、満身からの気合をほとばしらせて、地を蹴った。
疾風を起す、とはその疾駆のことであったろう。
黒い風と化して、地上を掠めて行った義太郎は、
「えいっ!」
と、長槍の柄まで通れと、立木を突いた。
穂先は、ぞんぶんに生木をつらぬいた。
瞬間──。
義太郎は、苦もなく、引き抜いて、隣りの立木を、ぐさと突き刺した。
その時、広場の一隅には、蜂尾兵庫助が姿を現して、この光景を、じっと、見まもっていた。
──強い! たしかに、強い。だが……。
兵庫助は、心中で、かぶりを振った。
──このあまりの強さは、大将たる者の強さではない。
兵庫助は、つぶやいた。
──大将の強さは、苦難に遭って、堪えることなのだ。目に見えた強さではない。家来どもが、危機を迎えて動揺した時、一人毅然として、いささかも顔色を変えぬ強さこそ、大将にそなわって居るべきもの。槍で突いたり、太刀をふるったりする強さは、家来にまかせておけばよい。
兵庫助は、庄野四郎五郎を義太郎が討った時から、奈良城勢の運命がきまったような不吉な予感をおぼえていたのである。
庄野四郎五郎を殺すべきではなかったのだ。たしかにこの五年の間に、庄野四郎五郎がつかんだ権勢は大きかった。しかし、それは、奸策を弄して、つかんだものではなかったのだ。庄野自身の功績の大きさに正比例したものであった。
庄野四郎五郎がいたからこそ、山城に拠る将士と兵は、生きのびられた、といっても過言ではない。
義太郎が、もしまことの大将の|器《うつわ》ならば、庄野四郎五郎の才覚を利用する度量があるべきであったのだ。
矢倉新兵衛も藤掛左馬之丞も、そのほか主だった家臣らは、いまは、沈黙をまもっているとはいえ、義太郎のがむしゃらな暴挙を、|悪《にく》んでいることは、兵庫助には、手にとるように、判るのである。
さらに──。
義太郎が、このような凄じい訓練をほどこせば、若ざむらいたちも、心を離反させるに相違ないのだ。
兵庫助は、一人暗然として、義太郎の姿を見まもっている。
とは気づかずに、義太郎は、大股にひきかえして来ると、いまいましげに、
「これらの腰抜けを率いて、伊吹野城を奪還することは、不可能だぞ、兵庫助」
と、云った。
「わずかの日数をもって、|強《つわ》|者《もの》に仕上げようとしても、無理でござろう」
兵庫助は、おだやかな口調で、云った。
「待てぬ! この月うちにも、おれは、伊吹野城を攻め落してくれるのだ!」
義太郎は、云いすてておいて、馬卒に馬を曳かせるや、とび乗って、まっしぐらに、湖水へ向った。
遠く沖まで泳いで来るのが、義太郎の日課となっていた。
そのあいだに、横川勘兵衛が、帰城して来た。
まず、兵庫助と会った勘兵衛は、
「若と、議論をたたかわすために、もどり申した」
と、云った。
兵庫助と勘兵衛は、しばらく、じっと、顔を見合せて、沈黙をまもっていた。
言葉をもってせずとも、通じ合うものが、互いの心と心の間を流れた。
やがて兵庫助が、口をひらいた。
「お主、死ぬつもりか?」
「いや、まだ、犬死はつかまつりとうござらぬ。ただ──」
「………」
兵庫助は、勘兵衛の眉間をかげらせる暗い色をみとめた。
「事態如何によっては、拙者一個の生命をもって、奈良城一党の危機をはばみたく存ずる次第──」
「お主は、伊吹野城に、何か異変が起るのを見とどけて参ったのではないか?」
「いかにも、見とどけて参り申した」
「われわれにとって、不利な異変か?」
「田丸豪太夫は、相果てたげに、うかがわれ申した」
「ほう……それは!」
「しかし、それは、事実まちがいなし、とつきとめた次第ではござらぬ。氏素姓いやしからぬ若い牢人者が、一人、城を占拠して居り、拙者をして、城内を自由にくまなく歩くにまかせ申した」
「どういうのであろう?」
「それが奸策か否か──いまだ、思案の中にあり申す。あるいは、かれは、田丸豪太夫がやとった軍師かも、知れ申さぬ」
「お主──」
兵庫助は、ひとつ大きく呼吸してから、
「若に下知を仰いで、城を奪いかえす存念か?」
「左様でござる」
「お主は、若を、なんと見て居る?」
「なんと見るとは?」
「その振舞いを、疑わずに受け入れるほど、若の器量を、高く買っているか、どうかじゃ」
「………」
「包まず、意見をきかしてくれぬか?」
「蜂尾殿は、若を、主人として仰ぐことに、|危《き》|懼《く》を抱いておられる?」
「………」
「さもあろう、と存ずる。若に心服して居る若ざむらいは、一人も居りますまい」
「と、身共も思う」
「しかし、若は、奈良城家の嫡男でござる。主人となられることに、異議をとなえることは、われらとしては、でき申さぬ。意見が分れれば、死をえらぶか、退去するか、そのいずれかが、随身者の辿る道でござろう」
「お主の云う通りだ。云う通りではあるが……、その振舞いが、あまりにも、狂気の沙汰であれば、これを、黙過はできまい」
兵庫助が、そう云った時であった。
馬蹄の音がひびき、たちまち、庭さきへ、ふんどしひとつの逞しい裸像を、馬上に立てた義太郎が、駆け入って来た。
兵庫助と勘兵衛は、顔を見合せた。
義太郎は、しずくのぼたぼたとしたたる裸身を、どっかと上座に据えると、
「勘兵衛──、降り道は、完成したらしいな。どうだ、抜け穴から、伊吹野城へ、もぐってみたか?」
と、せっかちな口調で、たずねた。
「入って見申した」
勘兵衛は、こたえた。
「どうだ、田丸豪太夫は、焼け城の中に、兵をどれくらいやしなって居る?」
「田丸豪太夫は、城内から姿を消して居り申す」
「なに? なんだと?!」
義太郎は、目をひきむいた。
勘兵衛は、くわしく、経過の報告をした。
まず、よく飼いならした山犬の群を、抜け穴へ送り込み、田丸勢の侍大将と称する天堂寺虎蔵という荒武者を、生捕ったこと。天堂寺虎蔵の白状したところでは、豪太夫は、何処の何者とも判らぬ一軍とたたかって、討死したこと。その事実の有無を調べに、若ざむらいたちを、送り込もうとしたところ、城内から降りて来た一人の牢人者のために、まず山犬どもが一疋のこらず退治され、次いで、若ざむらいたちも、討ちとられてしまったこと。
そこまできくと、義太郎は、双眼を、ぎらぎらときらめかせて、
「そやつ、兵法者か?」
と、叫んだ。
「いや、兵法者とは、見え申さず、どこやら、都育ちの典雅なけしきをただよわせて居り申した」
「勘兵衛、そやつと闘ったのだな?」
「いや、談合をつかまつっただけでござる」
「ばかなっ! 若ざむらいどもを討たれて、談合とは、何事か!」
「山犬と若ざむらいどもを、立ち向かわせたのは、こちらでござる。対手は、これを討ちはらったまでのことでござる」
「弁解は、きかぬ! 勘兵衛、貴様も、老いぼれたな」
「若!」
勘兵衛は、態度をあらためた。
「すでに、伊吹野城には、田丸豪太夫の姿はござらぬ。戦わずして、城へ還る|秋《とき》が参ったのでござる。……拙者は、多門夜八郎と申すその牢人者を、信頼すべき人物と、心得申したゆえ、談合によって、和平裡に、わが一党が下山できれば、と存じたのでござる」
「それが、老いぼれた証拠だぞ! 田丸豪太夫が、相果てたなどと、誰が信じようか。彼奴、兵の頭数が足らぬため、小ずるい策を弄して、われらをおびき寄せて、討ちはらおう、というこんたんに相違ないぞ。……それが、わからぬとは、なんたる腑抜けになりはてたものか。勘兵衛、おのれをなさけないと思え!」
義太郎のこの罵倒は、勘兵衛が予想していた通りであった。
義太郎が、田丸豪太夫の討死を信じようとしないことは、勘兵衛自身そのことに、半信半疑であるくらいであるから、当然のことであろうし、また、見も知らぬ牢人者一人に、部下を斬られて、闘いもしなかった勘兵衛に対して義太郎が激昂するのは、わかりきっていたのである。
しかし、勘兵衛としては、おのが立場を不利にしても、義太郎と議論をたたかわさざるを得なかった。
「若、きいて頂きたい!」
勘兵衛は、らん[#「らん」に傍点]と双眼を据えるや、舌頭から、鋭い気合をほとばしらせた。
「ぬかしてみよ、弁解の余地があるか!」
義太郎は、肩をそびやかした。
しかし、勘兵衛が、ひとたび、決死の気色を示すと、少年の頃、しばしば、その粗暴をとりひしがれた記憶をもつ義太郎は、他の家臣に対するような威圧をもって抑えつけるわけには、いかなかった。
勘兵衛は、説きはじめた。
人間は、これと見込んだ対手には、みじんも疑わずに信頼を寄せることが、いかに肝要であるか。その信頼があるからこそ、主従、朋友の間柄が、緊密はなれるべからざるのではあるまいか。権謀術数の乱世であればこそ、武士は、武士を観る目を持たねばならぬ。
自分は、多門夜八郎を一瞥した時、この人物は信頼するに足りる、とおのれの目に確信を持った。もとより、根拠のない信頼である。しかし、おのれの目に自信なくしては、生きることの放棄を意味する。
このたびこそ、横川勘兵衛が一身に、責任を負う覚悟を据えて、見知らぬ牢人者を信頼してみたいのである。
「若──、おねがいつかまつる。この横川勘兵衛に、御一任下されませい」
勘兵衛は、ふかく頭を下げた。
しばらく、じっと、勘兵衛を見据えていた義太郎は、
「よし! まかせてくれる……しかし、そやつは、条件なくしては、城を明け渡しはすまい。条件を申し出たであろう」
「いかにも、申し出てござる」
「条件は、なんだ?」
勘兵衛は、頭を立てると、
「竜神湖の水を、伊吹野に落してやり、農民どもに、田植えをさせてやることでござる」
と、云った。
「なにっ!」
たちまち、義太郎は、血相を変えた。
かたわらの兵庫助もまた、はっとなった。
「勘兵衛!」
義太郎は、つっ立った。
「おのれ! 奈良城一党を裏切る存念か!」
義太郎は、城内中にひびき渡るような呶号を発した。
「おのれがっ──田丸豪太夫に、いかなる好餌をもって釣られたか、裏切り者となったとは、なんたる不義不忠かっ! そのそっ首を刎ねてくれるぞ! 覚悟せい!」
義太郎は、佩刀をつかみとりざま、抜きはなった。
勘兵衛は、誠心をもって説いたことが、全く徒労であったことを知った。
「多門夜八郎が、伊吹野城を明け渡すに当り、竜神湖を落す条件をつけたのは、私心ではござらぬ」
勘兵衛は、むだと知りつつ、なお、説こうとした。
「ええいっ! 申すなっ! 弁明は、きかぬぞ! 勘兵衛、立てっ!」
義太郎は、切先を、勘兵衛の鼻さきへ突きつけた。
「言訳でも弁解でもござらぬ。事実そのままを申し上げて居り申す」
勘兵衛は、自若として、云った。
──斬られてもよい!
勘兵衛の覚悟は、きまっていた。
「ほざくな、と申すに!」
義太郎は、太刀を、大上段にふりかぶった。
黙って眺めていた兵庫助は、義太郎が本当に、勘兵衛の首を刎ねるのではなかろうか、という恐怖をおぼえた。
「若!」
兵庫助は、さっと立って、義太郎の前をふさいだ。
「横川勘兵衛は、奈良城家にとって、唯一無比の忠臣でござるぞ。勘兵衛を失って、いったい、誰が、軍を率いるのでござろうか?」
「裏切り者に、軍をまかせられるか!」
「当山城の士卒全員が、離反いたしても、勘兵衛は、若を裏切り申さぬ!」
兵庫助は、毅然として、云った。
流石に、義太郎は、気勢をくじかれて、一歩退ると、
「竜神湖の水を、野へ落すことは、断じて許さぬ!」
と、呶号しておいて、奥へ去った。
兵庫助と勘兵衛は、しばし、黙然としていた。
やがて、兵庫助が、口をひらいた。
「明日の運命は、誰人にも、わからぬ」
と、独語した。
「蜂尾殿──」
勘兵衛は、さみしげに、微笑して、
「われらは、山を下っても、どこへ行くあてもない者でござれば、若に随うよりほかはござるまい」
と云った。
兵庫助は、勘兵衛を視て、
「お主、その多門夜八郎とやら申す牢人者が、もし、わがあるじであれば、と想像したのではないか?」
「ご明察──。世はままならぬものでござる」
戦鬼九人
「わが手足となって働く者を、十人ばかりえらんで、至急に、伊吹野城へ、遣わされたい」
七位の大乗が、多門夜八郎のその依頼を、公卿館へもたらしたのは、山城にあって、勘兵衛と義太郎の対決があった頃である。
天満坊は、微笑して、
「いよいよ、やるかの」
と、云い、
「さて、多門夜八郎の手足となって働く者どもは──?」
と、考えはじめた。
大乗は、その様子を見まもりながら、
「もとより、それがしが、加わることはきまって居り申すて」
と、云った。
天満坊は、まず、泰国太郎を呼び、次いで、柿丸、百平太を呼んだ。
「多門夜八郎が大将となって、いよいよ大庄山の奈良城勢と一戦を交え、竜神湖の水を、野へ落すことに相成った。成功の是非は、お主たちの働きにかかって居る」
天満坊は、云った。
「お主たちは、ただいまより、人間ではなく、戦う鬼──戦鬼になる。よろしいな?」
「かしこまった」
泰国太郎が、こたえた。
「したが、この四人だけでは、頭数として、不足でありますまいか。農夫の中より、屈強の者を二三人えらんでは?」
「いや──」
天満坊は、かぶりを振った。
「農夫は、米をつくるのが、使命じゃな。戦鬼にはなれぬ」
「しかし──」
「ほかにもう四人、戦鬼になる者どもが居るな」
天満坊は、青助、黒太、赤松、白次の無頼漢四人の名を挙げた。
泰国太郎は、眉宇をひそめた。
「あの者どもは、いざとなれば、おのが生命を、惜しんで、遁走いたすのでありますまいか?」
「ところが、意外に役に立つ、と愚僧は考える」
天満坊は、四人を呼んだ。
庭さきへまわったかれらを、座敷へ上げた天満坊は、
「お前らの生命を、もらいたいと思うが、どうであろうな」
と云い出した。
青助、黒太、赤松、白次は、互いに顔を見合せた。
天満坊は、微笑しながら、
「生命は、たったひとつしかないもの。いちど、すてると、とりかえしはつかぬ。生命は惜しいもの。これは、申すまでもない。しかし、男子と生れて、そのたったひとつしかない生命を、いかに、気前よくなげ出して、世のため、人のために、つくすか──これこそ、まことの面目と申すものじゃ」
「いったい、おれたちに、何をしろ、と仰言るんで?」
青助が、目を光らせながら、たずねた。
「戦う鬼になってもらいたい」
「戦う鬼?」
「ひとつの目的にむかって、まっしぐらに突き進む鬼じゃな。突き進む行手には、人間の業では、とうていのりこえられぬものが、たちふさがる。しかし、鬼となった以上は、これを、のりこえるのだ。不可能事を可能にしてみせる。ただの人間ならば、為し得ぬであろうが、鬼ならば、やってのけられる。どうじゃな?」
「ふうん、こいつは、大変だ」
青助は、他の三人をかえりみて、
「どうだ、おめえたち、鬼になれるか?」
と問うた。
「わからねえ」
赤松が、かぶりを振った。
「おれは、鬼になんぞ、なれそうもねえ」
白次がつぶやいた。
黒太だけは、腕を組んで、むすっ、としていたが、
「もし、鬼になって、やりとげたら、どんな報酬が頂戴できるんですかい?」
と、きいた。
「さむらいになりたければ、さむらいにしてつかわそう。足軽十人を与えようかな。金が欲しければ、黄金百枚」
「そんな大金が、どこにあるんですかい?」
「当館に在る」
「へえ? ほんまですかい?」
「黒太、あるんだ。おれは、ちゃんと知っているんだ」
青助が、鼻翼を、ひくひくとうごめかしながら、云った。
「むかし、京都の五摂家からよう、百疋の馬で、この館へ、はこばれて来た金銀詰めの長持が、十棹もある、と地獄耳にはさんでらあ」
「その通り!」
七位の大乗が、大声で、云った。
「実は、それがしも、その金銀が欲しさに、この伊吹野へやって来たのだ」
「よおし! わかった。和尚様、なりますぜ、鬼に!」
黒太が、叫んだ。
赤松も白次も、黒太が叫んだからには、自分だけ、しりごみするわけにはいかなかった。
「さて、きまったぞ!」
天満坊は、大きくうなずいた。
「御坊、われら八人だけで、足り申そうか」
泰国太郎は、なお、不安をのこした。
なろうことなら、農夫の中から、屈強の若者をえらび出して、党に加えたかったのである。
「兵は、多きをもって強しとせず。寡勢、能く、雲霞の敵を蹴散らすところに、男子の本懐があろう。たのむ!」
天満坊は、頭を下げた。
かくて、大庄山頂の竜神湖の水門へ向って、突進して行く戦鬼は、そろった。九人である。
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多門夜八郎
泰国太郎
柿丸
百平太
七位の大乗
青助
黒太
赤松
白次
[#ここで字下げ終わり]
天満坊の冷静な目で眺めて、この戦鬼党は、決して、一騎当千ではなかった。夜八郎と大乗は別として、他の七人は、いずれも、平凡な男たちであった。剣を把って強いというのでもなければ、他に自慢できる特技をそなえているわけでもなかった。膂力が秀れているというのでもないし、異常な度胸の持主という次第でもなかった。
夜八郎が、はたして、これらの凡夫を率いて、鬼神の活躍ができるかどうか、疑問と云わざるを得ない。
しかし、天満坊は、信念を持っていた。
凡夫だからこそ、戦鬼になれるのだ。そこに、人間の力の尊さ、偉大さがある。秀れた人間が、秀れた働きをするのは、なんのふしぎもない、そこらあたり、どこにでもいる凡庸な人間が、ひとたび、ほぞ[#「ほぞ」に傍点]をかためて、生命をなげ出して、不可能と思われる難事を克服するところに、真の面目があり、これこそ、たたえねばならぬ。
百年に一人、百万人に一人、という英傑の偉業のみが、世にたたえられるのは、真理ではない。
凡夫が、その力の限りをふりしぼり尽して、為しとげた仕事こそ、まことの偉業ではなかろうか。
おそらく、その仕事は、後世にまで伝えられはすまい。歴史にとどめられるような事柄ではないのだ。だからこそ、たたえられるべき仕事ではあるまいか。
天満坊は、目前にならぶ平凡な戦鬼たちを見わたして、胸の奥底に、微かな痛みをおぼえた。
美夜が杉乃江をともなって、酒肴を持って、現れると、青助たちは、その美しさに、
「へえ!」
とか、
「ほう──」
とか、歓声をあげた。
美夜は、臈[#「臈」は底本では草冠「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)。「臈」の表記もあり(791行)]たけた顔に、優しい笑みをたたえながら、八人の戦鬼に、盃を与え、酒をついでまわりはじめた。
「こんな途方もない天女様に、酌をしてもらうとは、生命を、ほうり出さざるを得んわい」
黒太が、舌なめずりしながら、青助に、ささやいた。
「よだれをたらすな、黒太。みっともねえぞ」
青助が、小突いた。
天満坊は、美夜が酌をしおわるのを待って、
「さて──、お主たちに、申しておきたいことが、ふたつ、みつ」
と、八人を見わたした。
「うかがい申す」
泰国太郎が、代表して、こたえた。
「まず、第一に──。われらが壮挙の目的は、竜神湖の水を、この涸れはてた荒野へ、落すことにあって、奈良城勢を滅ぼすことではない。よって、湖の水門をひらくまでは、石にかじりついても、おのが生命を守って、そこへ、たどりつかねばならぬ。生命をなげすてることより、生命を守ることの方が、十倍も、いや百倍も、むつかしいことは、申すまでもない。……第二には──。この壮挙をなしとげるためには、おのれ一人の力をもって、手柄にしようとする考えを、すてることじゃな。多門夜八郎の下に、お主らが、縦糸でつながるとともに、また横糸でもつながり、九人が完全なる一体となって働く──そのことが、肝要であろう。抜くべからざる危機に遭うた際には、九人が一体になることによって、能く突破し得るものじゃの。もし、すすんで、生命をすてるとすれば、その時──おのが生命をすてれば、八人が前進できると知った時であろう」
天満坊は、そう云って、微笑した。
青助ら四人の無頼者たちは、神妙に、きいている。
天満坊は、やおら、手を叩いた。
下僕二人が、かなり大きな|櫃《ひつ》を、重そうにかかえて、入って来ると、天満坊の前に据えた。
天満坊は、蓋をひらくと、両手をさし入れて、革袋を四個、つかみ出し、青助ら四人の前に置いた。
「これが、お主らへの報酬じゃ」
青助らは、大急ぎで、袋の口をひらいてみて、歓声をあげた。
砂金であった。
さらさら、と掌へ受けてみて、なんともいえぬ快い重さに、無頼者たちは、われを忘れた。
この一袋あれば、五年は、寝てくらせるであろう。これを携げて、都へ帰って行った時の光景が、四人の脳裡に想いうかべられた。
顔見合せて、にやっとしてから、
「黒太、やろうぜ」
「うむ! やろう! 赤松、度胸がきまったのう」
「わしの生命と同じ重さじゃわい。そうではないか、白次?」
「そ、そうじゃて。一生に一度、これぐらいの金が持ちたい、というのが、おれの夢だったぞい」
歓喜する無頼者たちを、眺めやっていた天満坊は、
「では最後に、ひとつ。お主らの働きに、伊吹野八千人の百姓の生命が、かけられていることを、申し添えて置く」
その時刻、伊吹野城においては──。
多門夜八郎は、焼け崩れた大手門の渡り櫓の上に立って、刎ね橋を、ゾロゾロと出て行く雑兵の列を見送っていた。
田丸豪太夫が館にのこしていた金と兵糧を、雑兵たちに分配して、
「どこへでも、去るがよい」
と、命じたのである。
残りたい、と願い出る者が二三人あったが、夜八郎は、首をたてには振らなかった。
伊吹野城から、田丸豪太夫が支配したものは、一切払ってしまうことにしたのである。
これは、多門夜八郎の潔癖であるとともに、横川勘兵衛への対策でもあった。
雑兵たちの姿が、森の彼方に遠ざかった時、森口数馬が、櫓へのぼって来た。
「城内は、全く無人と相成りました」
数馬は、報告した。
この小姓は、誠実な人柄であった。夜八郎の命令を奉じ、雑兵たちを指揮して、城内を整然と片づけ、いつ、奈良城勢が入って来ても、明け渡せるようにしたのである。
「ご苦労だった。厚く礼を云う」
夜八郎は、数馬へ頭を下げた。
数馬は、夜八郎を見まもって、
「おうかがいしておきたい儀が、ひとつ、ござる」
と、云った。
「なんであろう?」
「横川勘兵衛なる侍大将は、信頼のおける人物でござろうか?」
「おれは、信頼しておる」
この城を、奈良城家に返還するのを条件として、竜神湖の水を野へ流す、という約束を、夜八郎がしたことを、数馬は、知っていたが、それに疑念を抱いていたのである。
「それならば、結構でござる。……では、それがしは、これにて、退去つかまつる」
数馬は、頭を下げた。
「何処へ行く?」
夜八郎は、問うた。
「それは、まだ、きめて居りません」
「野へ出てみて、もし、気が向けば、公卿館へ寄るがよかろう。天満坊という人物が、お主を迎えてくれよう」
「天満坊と申すのは、われらがあるじをだまして、当城を、焼きはらった敵でござろう。それがしは、田丸豪太夫の小姓でござる、天満坊に、頭を下げることは、できません」
数馬は、きっぱりとこたえた。
──どこの城にも、このような誠実な男が、必ず一人や二人、いるものだ。
夜八郎は、暗い気持で、櫓を降りて行く数馬を眺めた。
やがて、刎ね橋を、馬に乗って出て行く数馬の姿があらわれた。替え馬を一疋ひきつれていた。
──幸せが、あの若者におとずれるように。
夜八郎は、振りかえって会釈する数馬に、応えながら、祈ってやった。
夜八郎は、城主の館にもどると、広間に入って、ごろりと横になり、手枕をして、目蓋をとじた。
全くの無人となった焼け城の中で、ただ一人、悠々と寐そべっているところに、一種の快感をおぼえた。
……いつの間にか、うとうと、とまどろんでいた。
どれくらいの時刻が、移ったか。
ふと、夜八郎は人の気配に、意識をよみがえらせた。
次の間に、忍びやかに歩く者がある。
夜八郎は、動かず、目蓋を閉じたままでいた。
やがて、仕切の杉戸が、そろそろと開かれた。
夜八郎は、依然として、そのままでいる。
戸を開いた者は、じっと、夜八郎を見下していた。
と──。
不意に、夜八郎は、起き上った。
むこうは、あわてて、身をしりぞけた。
「女、どうした?」
夜八郎は、声をかけた。
観念したらしく、怯ず怯ずと入って来たのは、若い女であった。
「そなた、この館の召使いか? どうして、残って居る?」
夜八郎は、たずねた。
「ちがいます。城の者ではありません」
若い女は、かぶりを振った。
「では、旅の者か?」
「いえ──。山むこうの田無宿の|旅籠《は た ご》のむすめでございます。いち[#「いち」に傍点]と申します」
「どうして、この城へ、忍び込んだ?」
「若様を──奈良城義太郎様を、さがして──、もしや、この城におもどりかと……」
いちは、田丸豪太夫が討死した、という噂をきいたので、思いきって来てみたのであった。
いちは、五年ぶりで還って来た義太郎に、操を与えていた。
義太郎を慕っていたためではなかった。なかば暴力に屈してしまったかたちであったが、操を与えるかわりに、いちは、義太郎に、条件を出していた。
大庄山の竜神湖の水を、伊吹野へ落して、百姓衆に、田植えをさせること──それであった。
義太郎は、約束して、山城へ去ったのである。
田丸豪太夫が滅んだいま、当然、義太郎が、伊吹野城へもどって来る、と思い、いちは、気丈夫にも、一人で、やって来たのであった。
いちは、義太郎のかわりに、見知らぬ牢人者を、焼け城内に見出したのである。
いちは、その前に正座した。
「旅籠のむすめか」
夜八郎は、いちを見まもっていたが、
「奈良城義太郎を、慕うているのだな」
と、微笑した。
「わかりません」
いちは、俯向いで、こたえた。
「わからぬ? 慕うているのではないか?」
「若様は、奈良城家のおん曹司でございます。わたしは、いやしい旅籠のむすめでございます。いくら、慕うても、どうにもなりませぬ」
「待て──」
夜八郎は、いちに据えた|眼《まな》|眸《ざし》を、冷たく光らせた。
「そなたは、奈良城義太郎が、いかなる男か、どうやら看破っているようだな?」
「………」
「かくすな。恋に心をもやしているのならば、こちらの問いに、そのように平静な返答はできぬはずだぞ」
「………」
「たぶん、そなたは、奈良城義太郎に、操を奪われて居るのであろうが、心から慕うているのではあるまい」
「………」
「かくすな!」
鋭く問いつめられて、いちは、きっとなった。
「貴方様は、どなたなのです?」
「おれか。おれは、ただの牢人者だ。どこかの馬の骨と思ってもらってよい」
「どうして、ここへ、たった一人で、とどまって居られます?」
「奈良城勢に、当城をひき渡すためだ」
「え──?」
「但し、条件をつけてある。大庄山の頂上にある湖から、水を落す、という条件をな」
「………」
いちは、自分が操を与える時と同じ条件を、この牢人者が要求していることに、おどろいた。
「どうだな、奈良城義太郎は、おれのつけた条件をのむと思うか? そなたの考えを、きかせてもらおうか」
「若様は、ここに、貴方様がたったお一人でとどまっておいでのことを、ご存じでございましょうか?」
「そうきいたであろうな」
「それならば……、若様は、兵を率いて、襲って参られます」
「おれの出した条件をふみにじる、と予想するのか?」
「若様は、荒々しい気象の|御《お》|仁《ひと》でございます。貴方様が、この城にお一人でとどまっていられる、ときかれたら、すぐさま、攻めて参られるに相違ありません。敵と思いきめたなら、野獣のようにたけり狂って、襲う荒武者でございます」
「そうか。そういう男か」
夜八郎は、腕を組んだ。
泰国太郎を先頭に、八人の戦鬼が、到着したのは、それから四半刻ばかり後であった。
「お手前の指揮のもとに、生命をすてるように、天満坊殿より、命じられ申した」
太郎から、そう告げられて、夜八郎は、あらためて、八人の顔を、ひとつひとつ、見やった。
それから、夜八郎が、まず、声をかけたのは、
「青助──」
「へい」
「お前は、おのれに、人より秀れている点がある、というものを持って居るか?」
「さあ?」
青助は、正直に、首をひねった。
「お前は、さんざ、都で悪事を働いて来たのであろう。その間に、特技を身につけたのではないか?」
「べつに、ございません。ただ、ちょっと、闇に目が利くぐらいのもので……」
「それも、特技だ。人間は小ざかしく、小ずるく生れついて居るようだし、|乱《らっ》|波《ぱ》の役目はつとまるだろう」
乱波とは、敵地へ忍び入って、危険を冒して、状勢を調べて来る者のことを、指していう。
「黒太は、どうだ?」
「へ、へい。……おれは、別に取柄はねえです」
黒太がこたえると、青助が、代って、
「夜八郎様。こいつは、毛虫だろうと、蛾だろうと、土だろうと、なんでも食うことができますぜ」
と、こたえた。
「そんなのは、特技にゃならねえ」
黒太は、かぶりを振った。
「いや、それも、特技のひとつだろう。役に立つ。次に、赤松だが──」
「おれは、|木《き》|樵《こり》のせがれで、山のことなら、すこしは、わかりますがね。そのほかのことは、バカでさあ」
「山のことが判るとは、なにより貴重だ。その知識を大いに役立ててもらおう。さいごに、白次だが、これまで、人にやれなかったことをやったか?」
「へえ?」
白次は、首をかたむけた。
「夜八郎様──」
青助がまた代って、こたえた。
「こいつは、のろまで、何をやらしても、満足なことはひとつもできませんが、寒中すっ裸にされて、二昼夜も、加茂の|磧《かわら》にころがされていたのに、くしゃみひとつもしなかった野郎でございます」
「そうか。それは、やはり特技のひとつだな」
夜八郎は、微笑した。
百害あって一益もないような無頼者も、それぞれに、何か特質をそなえているものであった。
生命をすてる覚悟さえ据えれば、それらの特質は、充分な威力を発揮する、と考えられた。
山へ
闇の中であった。
咳ひとつしても、ものすごいこだまが、かえって来る。
柿丸と百平太は、その深い|静寂《し じ ま》の闇の中に、腰を下していた。
地下の抜け道の、ちょうど、地下倉に近い地点であった。
「しずかすぎるのう」
百平太が、つぶやいた。
「しずかなのは、きらいか?」
柿丸が、問うた。
「つまらんことが、思い出されるから、ごめんだな」
「どんなことを?」
「おふくろめが、若い男にすてられて、半狂乱になったこととか、丹波の山中で、子連れの商人の女房を手ごめにしたこととか……」
「………」
「柿丸さん、あんたは、悪事というものを犯したことは、ないだろうな?」
「雑兵になって、あっちこっちの戦場を駆けまわっていただけだ」
「敵の城が陥ちた時、乗り込んだことは、ないのか?」
「ある」
「その時は、さむらいも足軽も、われ勝ちに、女を手ごめにしたり、品ものをかっさらうのじゃないのかい?」
「それは、やる。そのために、兵にやとわれている者が多い」
「あんたは、やらなかったのかい?」
「ああ、わしは、やらなかった。……しかし、やる者を、止めもしなかった」
「止めたら、あんたが殺されるだろう」
「そうだな」
「おれは、山賊になったり、野伏の仲間になったが……、足軽になるのだけは、ごめんだった」
「どうしてだ?」
「戦争ってえやつが、大きらいだからよ。大将たちは、城や土地を取ったり取られたりするから、いいだろうが、足軽なんてやつは、死んだら死に損、勝っても、城に入りきらなけりゃ、追っぱらわれる。あんなつまらねえやつは、いねえからな」
「………」
「それにくらべりゃ、山賊なんぞ、おもしろいものさ。自由きままなくらしができるからな。首領は別だが、あとは、女も物も、平等に分配するんだ。食って飲んで、寐ていられるあいだは、何日でも、そうやって、ごろごろしているわけよ」
「そんなお主が、どうして、天満坊殿の家来になったのだろう?」
「いまだに、おれ自身も、わからねえや。……和尚様は、おれに、水一滴がどんなに貴いものか、ということを教えてくれたんだが、それをきいただけで、おれの心が、くるりとひっくりかえったはずもねえんだが……」
百平太は、われながら、ふしぎだ、と思うのだ。
「やっぱり、お主は、性根は善良なのだ」
柿丸は、云った。
「自分でも、むかし、悪事をやりながら、こんなことをして、天罰があたる、といつも思っていたことは、いたんだが……」
「その天罰は、夜八郎様に、両耳を切られることだけで、済んだのだな」
「ははは……、有難いことさ。|生命《い の ち》|冥加《みょうが》というやつだ。それにしても、おれのようなろくでなしが、百姓衆のために、働くことになったのだから、世の中は、面白いしくみになっているものだ」
百平太が、そこまで云った時、柿丸が、「しっ!」と制した。
「なんだい?」
「誰か、こっちへ来る」
「おっ! たしかに──」
遠くに、微かに、赤い灯かげが、闇に滲んでいるのが、見わけられた。
「知らせよう」
百平太が、立ち上ろうとすると、
「待て! 軍勢じゃない。一人だぞ」
と、柿丸が、云った。
灯火はしだいに、大きくなって来た。
柿丸と百平太は、息をひそめて、じっと、待ちかまえている。
やがて──。
はっきりと、ただ一人で、地下を辿って来たとわかる対手は、待ち伏せる男たちの前方三四間のところに、立ちどまった。
こちらを、すかし見ていたが、
「そこに、いるのは、多門殿の家来衆か?」
と、声をかけて来た。
「そうだ。おめえは、何者だ?」
「拙者は、横川勘兵衛と申す者。多門殿に、取り次いでもらおう」
その姓名をきいた瞬間、柿丸の双眼が、愕きで、大きくみひらかれた。十余年前、母親が臨終にあたって、十一歳の柿丸に告げた父親の名が、横川勘兵衛であったのだ。
柿丸は、しかし、歯をくいしばって、黙った。
「奈良城のさむらいか?」
百平太がたずねた。
「うむ」
「なんの用だ?」
「取り次げば、判る」
「そうかんたんには、取り次げねえ。おれたちは、ここで、地下をもぐって来やがる奈良城の奴らを、片づけるように、命令されているんだ。火薬があるぞ、火薬が!」
「拙者は、闘いに来たのではない。多門殿と交した約束を守って、参ったのだ」
柿丸が、ひくくうなるように、
「この御仁、手負うているぞ」
「ほんとかい?」
「うむ。重傷のようにみえる」
「じゃ、とびかかっては来るめえ」
百平太は、安心して、
「柿丸、案内してやれ」
「うむ」
勘兵衛は、歩み寄って来た。柿丸が先に立った。
左手に松明を、右手に杖をついていた。一歩毎に、上半身を、苦しげに傾けていたのである。
勘兵衛は、肩と太股に、槍傷を受けていた。山を下ろうとして、突如、背後から、刺されたのである。
義太郎の命令によって、旗本数人が襲って来たのであった。予期したことであった。
義太郎が、無断で山を下ろうとする勘兵衛を、そのまま、黙認するはずはなかったのである。
勘兵衛は、襲撃者二名を、その場において斬り伏せておいて、山を下って来た。
偶然、勘兵衛を救って、城までともなってくれたのは、天堂寺虎蔵であった。戦場武者は、戦場武者を知るものであったろう。
柿丸にみちびかれて、地上へ登る勘兵衛は、いかにも、息苦しげであった。
柿丸が、見かねて、手をかそうとすると、勘兵衛は、もののふらしく、それを拒絶した。
夜八郎の前に坐った時、勘兵衛の顔には、死相とみえる色が濃かった。
夜八郎は、一瞥して、この荒武者が、山城で、どのような立場に追い込まれたか、察知した。
「裏切り者になられたか?」
夜八郎は、問うた。
「いかにも──」
両腕を膝に突き立てて、上半身を支えながら、
「ごらんのごとく、身共は、役に立ち申さなんだ」
「ご貴殿を、裏切り者にして、申しわけない」
「いや──。若殿を説得しようといたしたのは、身共の意志から出たことでござる。……山城は、すでに、若殿の独裁権が敷かれて居り申す。もはや、身共個人の力をもってしては、如何ともなり申さぬ」
「やむを得ぬ仕儀と心得る。どうぞ、やすまれい」
夜八郎は、七位の大乗に命じて、勘兵衛を、別室に横たわらせようとした。
「いや、身共は、いまだ、奈良城家を裏切っては居り申さぬ」
勘兵衛は、かぶりを振った。
「そのからだで、どこへ行かれる?」
「すておかれい」
勘兵衛は、大きく、ひとつ息をついてから、
「奈良城勢は、数日うちにも、当城を攻めるべく、新道を降りて参るでござろう。……貴殿は、当城に籠って、攻撃を受けるか、それとも、奈良城勢が降りて来る前に、新道を登って、湖の水門をひらくか、いずれをえらぶか──今明日のうちに、決意されるがよろしかろう」
「忝けない。ご厚意、生涯忘れ申さぬ」
夜八郎は、頭を下げた。
勘兵衛は、見送りをことわって、城門から出て行った。
門前には、天堂寺虎蔵が待っていた。
柿丸一人が、ひそかに、櫓にのぼって、よろめきながら遠ざかる手負い武者二人の姿を、いつまでも見送った。
その宵──。
九人の戦鬼は、城主館の広間で、酒宴を催した。
どこからさがし出して来たか、七位の大乗が、大|瓶《がめ》にたっぷりと仕込まれた酒を、青助たちにはこばせて、中央に据えたのである。
酌をする女もいた。いち[#「いち」に傍点]であった。
柿丸が一滴も飲まないのを除いて、他の者たちは、いずれも、酒には強かった。
飲むほどに酔うほどに、青助たちは、|生《き》|地《じ》をむき出して、わめき、踊り、いちを追いかけまわした。
夜八郎は、床柱を背にして、黙々として、盃を口にはこんでいた。
やがて──。
夜八郎は、一人そっと立って、館を出た。
外には、満月があった。
夜八郎は、濡れたように濃いおのが影法師をふんで、広場を横切ると、伊吹野を見渡せる断崖ぶちに立った。
かわききった野は、夜の光に彩られて、夢幻のひろがりをみせていた。
こうして、寂寞の世界にたたずむと、夜八郎には、この世界に生きる人間というものの、卑小さが、想われるのだ。
あちらの国、こちらの国を、孤独な放浪をつづけながら、夜八郎が、おのれを救うひとときを持つのは、こうした深夜の景色の中に、身を置く時であった。
月や星や山や野や林は、黙々として、人間の営みを見まもっている。
人間同士が、血みどろになって闘い、勝ったり負けたりしながら、やがて、勝った者も負けた者も、死に絶えて行く──その歴史を、自然は、黙々として、見まもっている。
夜八郎は、満月を仰いだ。
──この月は、無数の人間の勝負を見下して来た。
その感慨が、夜八郎の胸を湿らせた。
背後に、人の気配がした。
「何を見ておいでなのですか?」
いちの声が、たずねた。
「夜を見て居る」
夜八郎は、こたえた。
「夜がお好きなのですか?」
「好きだから、夜八郎と名乗って居る。夜は、みにくいものをかくしてくれる」
「貴方様は、不幸なお育ちをなされたのですか?」
「過ぎ去ったことは、忘れた」
「申しわけありませぬ」
いちは、わびた。
「そなたは、いま、さびしゅうはないか?」
夜八郎が、たずねた。
「さびしゅうございます」
「おれは、こうして、月の下に立っていると、人間が、いかに、つまらない生きものかを想う」
「………」
いちは、夜八郎の後姿を見まもるうちに、急に、胸の痛みをおぼえた。
夜八郎が、湿った感慨をふりはらって、館へもどろうと、踵をまわした時、
「おねがいでございます!」
いちが、月光に濡れた顔に、真剣な表情をうかべていた。
「なんだ?」
「わたしも、ご一党にお加え下さい!」
「おれは、まだ、女を家来にして、使ったことがない」
「働きます! どんな働きでもいたします!」
「ことわる」
夜八郎は、冷たく、突きはなしておいて、歩き出した。
「おねがいです! どうか、働かせて下さいませ!」
いちは、夜八郎の袖をとらえた。
夜八郎は、
「そなたに、男子三人分の働きができようとも、ことわる」
「なぜですか?」
「先刻、酒をくらった男どもが、そなたを、血走ったまなこで、追いかけまわしたであろう」
「………」
「あれは、酒がなさしめた、と思うな。あれが、男の正体と申すものだ」
「………」
「そなたが一行に加われば、そなたの白い肌や胸のふくらみが、男どもの本能を刺戟する。それが、決死の壮挙にとって、いかに邪魔になるか、おれには、手にとるようにわかる」
「………」
「そなたに働いてもらうとするば、唯ひとつ──今夜、飢えた男どもに、からだを抱かせてくれることだ。そして、明朝、城を出て行くことだ。……そなたに、できるか?」
「………」
いちは、こたえなかった。
夜八郎は、袖をはらっていちから遠ざかりながら、
──むごいことを云った。
と、微かな悔いをおぼえていた。
広場を横切りながら、振りかえってみると、同じ場所に、佇立している黒影が、見わけられた。
夜八郎は、館にもどると、広間に倒れている八人を見わたした。
それから、突如声を発した。
「皆、起きろ!」
鋭い叫びをあびせられて、八人は、一斉にはじかれたように、とび起きた。
夜八郎は、上座に坐ると、
「これから、二つの手段を、云う。お主らが、そのいずれをえらぶか、多数決とする。よいな」
と、ひとつひとつの顔を、順に見やった。
「うけたまわる」
泰国太郎が、代表して、応じた。
「奈良城義太郎が、その兵を率いて、降りて来る。それに対するわれらの手段は、二つある」
夜八郎は、云った。
「ひとつ──当城にたて籠って、攻め寄せる敵勢を迎え撃つか。いまひとつ──敵が山を下って来る前に、われら九人で、登って行き、湖水へ行き着き、水門をひらくか。いずれかをえらばなければならぬ事態に相成った」
そう告げて、あらためて、八人を見渡した夜八郎は、
「お主ら、前者をえらぶか、それとも後者をとるか──いずれか、おのおのの意見をきこう」
と、問うた。
しばらく、沈黙があった。
七位の大乗が、口をひらいた。
「大将のご意見は──?」
「まだ、いずれともきめかねて居る。敵勢を当城へ引きつけて、奈良城義太郎の|首《しる》|級《し 》を挙げ、兵を屈服せしめたのち、山を登って、水門をひらくがよいか。それとも、機先を制して、敵が降りて来る前に、山を登って行くか」
夜八郎は、八人の決意を一致させるために、そう云った。
泰国太郎が、夜八郎を見つめながら、
「山城の兵力は、三百以上と思われるが、われら九人をもって、これを迎撃して、はたして、蹴散らせるものでござろうか?」
と、当然の質問を発した。
夜八郎は、微笑して、
「もとより、奇策を用いなければ、撃ちかえすことはできぬ。それが、成るか成らぬかは、神のみが知って居ろう。さいわいに、こちらには、豊富な火薬があるが……」
「九対三百か──ふむ、おもしろい戦いではあるのう」
大乗が、つぶやいた。
「おれは──」
百平太が、口をひらいた。
「おれは、城になど籠らずに、先に山を登った方がいいと思う。もし、城を攻められて、こっちがみんな討死しちまったら、誰が水門をひらくんだ!」
「わしも、そう考える」
柿丸が、賛成した。
「しかし、山を登る途中で、敵勢に襲われたら、それこそ、ひとたまりもない」
と、泰国太郎が、かぶりを振った。
「では、明朝にも、出発すればよい」
百平太が、云った。
「敵が、明日、降りて来るのに、ぶっつかったら、如何する?」
「それは、その時のことだ」
「水門をひらくまでは、死んではならぬ身だ」
「しかし、敵にぶっつかったら、もうしようがねえだろう。九人のうち、二人でも三人でも、生きのこって、水門にたどり着くことだ」
「二人や三人では、水門をひらけぬぞ」
「じゃ、どうするんだ? 城に籠って、奈良城義太郎という野郎が攻めて来るのを待つのか?」
泰国太郎と百平太のあいだに、険悪な空気が起った。
「まあ、まあ──」
大乗が、両手を挙げた。
「甲論乙駁をやっても、はじまらぬ。意見は意見として述べて、大将の決断にゆだねようではないか」
「よし──。それがしは、多門殿に奇策があるならば、敵勢を、当城にひき寄せて、一挙に、潰滅せしめ、しかるのちに、山を登る手段の方をえらぶ」
泰国太郎が、云った。
「太郎殿に賛成の者は?」
大乗が、問うた。
返辞をする者はなかった。
「わしは、明朝にも、山を登る手段をとる」
柿丸が、云った。
百平太は、勿論、その組であった。
「青助たちは、どうだ?」
夜八郎が、四人を見やった。
四人は、顔を見合せた。
「おれたちには、どっちがよいか、よく、わかりませんや。大将が、おやりなさる方に、したがいます」
青助が、代表して、こたえた。
夜八郎は、目蓋を閉じて、しばらく、黙思していた。
八人は、固唾をのんで、待った。
夜八郎が、双眸をひらいた。
「夜が明けるとともに、城を出て行く!」
ひくいが、強いひびきの口調であった。
決断はなされた。
夜八郎は、一人一人に、所持して行く武器を指示しておいて、座を立った。
地下倉は、すでに調べてあり、必要な物は、はこび出してあった。地下倉にはおどろくべき多量の武器と兵糧がたくわえてあったのである。
七位の大乗は、これを見出した時、
「大将、これを、百姓らに渡して、一軍を組んで、山城を襲ったら、いかがでござろうか」
と、提案したものであった。
夜八郎は、かぶりを振った。
「百姓は、米をつくるのをつとめとしている者どもだ。得物を与えて、戦いの場へかりたてるのは、許されぬ!」
きっぱりと、云ったことだった。
もし、九人がのこらず、討死しはてたならば、その時は、あるいは、天満坊が、農夫数千を率いて、決起するかも知れない。それは、夜八郎自身、かかわり知らぬ後日のことである。
いまは、九人が一丸となって、目的に突進するばかりである。
夜八郎は、自分の寝所にえらんだ一室に入った。
夜明けまでには、なお、二刻あった。
夜八郎は、こうした場合でも、熟睡できるからだをつくっていた。
どれくらい、睡ったか──。
夜八郎の本能が、室内に人の気配があることをさとった。
そのまま、夜八郎は、ねむったふりをしていた。
忍び入って来た者は、片隅に、ひっそりと坐っている。
「どうしたのだ?」
不意に、夜八郎は、声をかけた。
対手は、いち[#「いち」に傍点]であった。
いちは、夜八郎へ、視線を向けると、
「わたしを、役立てて下さいませ」
と、云った。
夜八郎は、仰臥したまま、
「役立てろ、とは?」
「貴方様は、わたしに、仰言いました。女子のわたしにできるのは、からだを与えることしかないのだ、と──」
「………」
「わたしのからだを、さしあげたく存じます」
「………」
「どうぞ、お取り下さいませ」
夜八郎は、起き上って、いちを見かえした。
いちは、決意したおちつきをみせている。
「おれは、たしかに、云った。おれが、率いて行く八人のうち六人までは、無頼の極道者たちだ。この伊吹野へ来るまでは、二日に一度は、女を抱いていたに相違ない。この伊吹野へ来てからは、抱くべき女を持たず、よく我慢しているものだ、とひそかに感心していたものだ。……明朝、山へ向って出発すれば、おそらく、生きて再び、降りて来られる者は、一人か二人であろう。せめて、この世のなごりに、女を抱かせてやりたい、と思って、つい、そなたに、あのようなことを、云ってしまった。……しかし、それは、おれの思いちがいであったようだ」
「なぜでございますか?」
「むこうにやすんでいるかれらは、念頭に、女の肌などは、ないであろう。無頼の極道者も、今宵のいっときを境にして、義に勇む士と変った。人身御供を抱くあさましい料簡はすてて居る、と信じられるのだ」
「………」
「そなたの好意は、忝けない。あつく礼を云う。……だが、もはや、かれらに、女体は無用である。そなたは、あちらで、やすんでくれてよい」
「でも、それは、貴方様お一人の、勝手なお考えではございますまいか」
「いや──。おれ自身が、平気で、女を犯した男だ。明日、死ぬ、とわかった夜、若い女を前にして、このような殊勝な態度を示すことなど、昨日までのおれには、想像もできなかったことだ。自分でもよくわからぬ。……いまのおれは、ぐっすりとねむることだけを考えて居る。そして、むこうにやすんでいる八人も、おれと同じに相違ないのだ」
奇襲むざん
|昧《まい》|爽《そう》──。
夜八郎は、夜具をはねて、起きた。すでに、身仕度をしていた。
その時を待っていたように、七位の大乗が、姿を現した。
「|慧《けい》|眼《がん》、恐れ入り申した」
にやりとしつつ、云った。
「来たか」
夜八郎も、微笑した。
昨夜、夜八郎は、いち[#「いち」に傍点]が去ったあとで、そっと、大乗を呼び、
「奈良城義太郎は、あるいは、明朝あたり、忍び物見を送って来るかも知れぬ。お主、充分に気をつけて居れ」
と、命じておいたのである。
はたして、夜八郎の予感した通りであった。
「抜け穴を通って、約十騎が潜入して参り申した。いま、柵を破って居ります」
「お主一人で、片づけられるか?」
「青助に手つだわせて、苦もなく、みなごろしに──」
大乗は、館を出た。
すでに、青助が、命を受けて、六尺あまりの細竹を一本持って、待ちうけていた。竹のさきは、たんぽ[#「たんぽ」に傍点]にしてあった。
「よし、ついて来い」
「へい」
大乗は、地下道の出入口に来ると、青助をふりかえって、
「足音をたててはならぬ」
と、命じた。
「大乗殿のように、気配まで消すわけには参りませんぜ」
「お前の身軽さならば、呼吸を腹でして、かかとをつけなければ、わしと同様、忍び歩けるぞ」
二人は、そっと、石段を降りて行った。
物音が、ひびいて来ている。生木で組んだ柵をこわしている音である。敵がたも、なるべく、そっとこわしているのであったが、地下道でたてるために、大きな響きになる。
大乗は、降りきると、
「匍うのだ」
と、ささやいた。
数間はなれると、物のかたちもおぼろになる暗さであった。
大乗は、まるで爬虫類のように、するすると匍って行くので、これに、青助がおくれぬようにするのは、容易のわざではなかった。
ものの二十間も、匍い進んだろうか。
「よし──。たんぽ[#「たんぽ」に傍点]に火をつけろ。つけたら、にげろ!」
大乗は、命じた。
|燧石《ひうちいし》を打つ必要はなかった。忍者は腹火と呼んでいる、衣服の中に、燃える小さな火をかくしていたのである。
青助は、それをとり出し、細竹のさきのたんぽ[#「たんぽ」に傍点]へつけるや、大乗に渡しておいて、一目散に遁走した。
柵と大乗たちの伏せていた地点との距離は、十間あまりであった。
大乗は、青助が直火をとり出した時には、すでに、すっくと立って、手裏剣を五六本つかんでいた。
闇に、腹火がにじむとともに、忍び物見がたから、矢が射放たれて来た。
同時に、大乗が、ものすごい迅さで、手裏剣を投げとばした。
青助が身をひるがえした瞬間には、大乗は、手裏剣を投げつくして、たんぽ[#「たんぽ」に傍点]の燃える細竹をつかみとっていた。
とみた次の一瞬──。
燃える細竹は、大乗の手から、はなれて、宙を飛んだ。
それは、柵より一尺ばかり手前の地面に落ちた。
すると、その地面の土が、ぱっと白い火花を散らして、燃えあがった。
火薬が撒かれ、それに土をかぶせてあったのである。
文字通りの火の海であった。
白い火花は、柵をくぐって、忍び物見たちが立つ地面へむかって、凄じい勢いでひろがったのである。
狼狽して、後退する敵勢にむかって、大乗は、奔り寄りざま、あらたにつかんだ手裏剣を、充分の余裕をもって、一人一人狙いさだめて、放った。
二人ばかりが、その手裏剣をかわして、柵を突破して来た。
大乗は、わざと、背中をみせて、遁走した。
上り口まで来た時、くるっと向きなおりざま、まず一人を、手裏剣で仆しておいて、最後の一人に、
「降伏しろ!」
と、叫んだ。
しかし、対手は、脚絆やふんごみ[#「ふんごみ」に傍点]をぶすぶすと燃えさせながら、手負い|猪《じし》のように突進して来た。
大乗は、再び身をひるがえして、石段を駆けあがった。
「待てっ!」
若い敵士は、躍起になって、追いかけて来た。
大乗は、地上へ誘い出すと、もう一度、
「降伏しろ!」
と、呶鳴った。
「うぬがっ!」
朋輩をみなごろしにされた若者が、その勧告を耳に入れるものではなかった。
猛然と斬りかかって来た。
とたんに、物蔭から、青助が、手槍をもって、とび出して来て、背後から、
「やああっ!」
と、突きくれた。
したたか|脾《ひ》|腹《ばら》を刺された敵士は、よろめきつつ、槍を両断し、そして、倒れた。
「ばかっ!」
大乗が、青助を叱咤した。
「よけいなことをするな! 生捕りにしようとしたのだぞ!」
いつの間にか、夜八郎が、近くに立っていた。
仆れた敵士のそばへ、寄って、すでに絶息しているのをみとめると、
「惜しいことをした」
と、云った。
青助が、土下座して、
「許されませい!」
と、頭を下げた。
「これからは、命令以外の行動は、一切禁ずる」
夜八郎は、八人がそろうのを待って、一人一人の顔を、順に、見わたした。
「お主らのうち、誰がまず最初に斃れるか、それは、神のみが知っている。誰でもよい、生き残った者が、水門を、開くのだ。必ず、開くのだ!」
八人が、その言葉に応える決意の色を、目にも口にもみなぎらせた。
「参ろう」
歩き出そうとして、ふと、夜八郎は、彼方にたたずむいちの姿を、見出した。
一瞬、夜八郎の心に、つれて行ってやりたい衝動が起った。
しかし、それを抑えると、夜八郎は、大股に、ゆっくりと、地下道の出入口に近づいて行った。
「多門様、あの娘を、どうなされる?」
柿丸が、うしろから、問うた。
「どうもせぬ」
「すてておかれますか?」
夜八郎は、ふりかえって、柿丸を視た。
「そうであったな。これまで、孤独で不運な娘がいると、必ず、お主に預けることになった。しかし、あの娘は、その必要はない。一人で生きて行ける娘だ」
「そうでござるか」
柿丸は、ほっとしたように、いちを見やった。
いちは、頭を下げた。
柿丸は、手をあげてやった。
黒太が、赤松に、
「もったいないことをしたのう。大将は、あの娘に、どうやら、手をつけなんだらしい」
と、ささやいた。
「わしらが手ごめにしようとしたら、大将から、首を刎ねられとるわい」
青助が、云った。
泰国太郎は、しきりに何か考えている様子であったが、
「百平太──」
と、呼びかけた。
「なんでござるな?」
「われらが出た直後に、奈良城勢が攻め入って来ることも考えられる。多門殿は、そのことを危懼されては居らぬのか?」
「さあ?」
「地下倉の武器を奪われたら、一大事だぞ」
「その心配はない」
こたえたのは、大乗であった。
「扉を破ろうとすれば、火薬が爆発する仕掛けをほどこしてある」
九人の戦鬼は、地下道へ降りた。
七位の大乗が、先頭に立ち、足もとへ、革袋から、すこしずつ、黄燐をまいて、進んで行った。
青白い微光が、ひとすじ地面へ、のびて行く。
暗闇の中を辿るのに、これが最も巧妙な手段であった。大乗自身は、闇に目が利くのである。
柵を越える時、大乗は、気をつけるように、注意した。
しかし、のろまな白次が、やっぱり、仆れている敵をふみつけて、
「ひゃっ!」
と、声をたてた。
あとは、一路──まっすぐに、進んで行けばよかった。
奈良城義太郎は、忍び物見十騎を送り込んで来ただけで、第二陣を備えてはいなかった。これは、夜八郎が、推測した通りであった。
森林の中へ抜け出るにあたって、大乗が、まず、さきに、地上を窺い、
「大丈夫でござる」
と、告げ、苦もなく、巨岩の蔭から、つぎつぎと、空地に立った。
「この密林をくぐり抜ければ、渓谷に降りることになり申す。そこから、旧道と新道に岐れるのでござるが、どちらを進むか、大将の判断に、おまかせいたす」
大乗は、云った。
新道を行けば、奈良城勢に、正面衝突する危険もあり、また、さまざまの障害が設けてあるはずであった。
旧道は、敵と遭遇する心配はないが、すでに、破壊されつくしている。
いずれをえらぶか、判断はむつかしい。
夜八郎は、渓谷へ行き着くまでに、きめよう、とこたえた。
密林には、通り路がつくられてあった。
しかし、大乗は、わざと、路を踏むことをさけて、かたわらの|茨《いばら》を切りはらいつつ進んだ。
路には、必ず何かの仕掛けがしてあるもの、と考えたのである。
はたして──。
しんがりを歩いていた黒太が、悲鳴をあげて、ひっくりかえった。
|茨《いばら》を押しわけるのが面倒なので、うっかり、路を踏んだとたんに、落葉の下から、鋭い短い唸りを発して、鉄の環が、はねあがって来て、脛へ噛みついたのである。
山犬や熊を獲る罠であった。
「うっ! 痛えっ! ててっ! 畜生っ」
黒太は、うめいて、鉄の環をはずそうとしたが、容易なことでは、はずれそうもなかった。
百平太と青助と赤松の三人がかりで、ようやく、黒太を自由の身にした。
密林は、突如として切れた。
深夜ならば、幾人かが、宙を踏んで、断崖から、渓谷へ転落したに相違ない。
密林をまっ二つに截ったように、絶壁が、数丈も深い渓谷へ落ちていた。
むこう側の絶壁まで、約三間の距離である。
新道も旧道も、彼方に在った。
渓谷の底は、涸れていた。
竜神湖の水を落しても、この渓谷へは流れて来ないのである。太古から、底は涸れているようであった。
そればかりではなく、重なりあった岩石の蔭から、黄色の薄煙が、ゆうゆうとたちのぼるのが、みとめられる。
夜八郎は、渓谷を見わたして、首をかしげた。
太古から水が涸れているならば、当然、樹木が茂っているはずであるが、一本すらも、見当らぬ。これは、立ち昇る黄煙が、猛毒を含んでいる証拠である。
降りて行けば、たちまち、毒気に当てられて。仆れるに相違ない。
ちょうど、むこう正面の断崖縁に、高い丸太の梯子が、まっすぐに立ててある。奈良城勢は、その梯子を架けて、仮橋をつくるのである。
「あの梯子を、どうやって、倒して、架けるかだな」
大乗が、独語した。
すると、赤松が、
「わしが、やってみるかの」
と、云った。
木樵の伜として、物心のついた時から、青年まで、山中をかけまわったこの男は、こういう場合に、役に立つ。
腰に携げていた細引の輪をはずすと、その先に、脇差を鞘毎、結びつけた。
そして、腰を落して、身構えた。
別人のように、鋭くひきしまった表情で、
「一、二、三!」
懸声とともに、梯子めがけて、投げつけた。
脇差は、長く尾をひいて、宙をはねあがった、とみるや、見事に、梯子の九尺ばかり高い横木へ、ひっかかった。
赤松は、細引を、ぐいと引きしぼった。
脇差は、縦木と横木へかっちりと押しつけられた。
赤松は、細引にすがって、苦もなく、渓谷の上の空間を、飛び渡って、梯子へとりついた。
「木樵の伜の芸当よのう」
百平太が、にやにやして、云った。
赤松は、喬木の幹へ梯子をくくりつけた綱を解くと、
「そーら、倒すぞ!」
と、叫んだ。
梯子は、大きく傾いて来たかとみるや、こちらの断崖縁へ、どさっと乗った。
梯子を渡って、むこう縁に着くや、夜八郎は、ためらわずに、
「新道を進む」
と、宣言した。
泰国太郎が、
「新道を進めば、必ず、奈良城勢と正面衝突する予感がいたす。数百の兵を対手に闘って、勝算がござるのか?」
と、なじるように問うた。
「勝算はない」
夜八郎は、こたえた。
「当って砕けるのはよいが、全員討死いたしては、それこそ犬死ではあるまいか」
「一人がおのれを殺して、一人を助けて進ませるという手段がある。四人が斃れれば、四人が生きのびよう。最悪の場合でも、三人は生きのこり得る、とおれは考える」
夜八郎は、云った。
今更ながら、文字通りの決死行であることを、八人の肚裡に据えさせた。
泰国太郎としても、これ以上口にすべき言葉はなかった。
前進があるばかりであった。
再び、密林の中を通じた道を──その道わきを、茨を切りはらいつつの前進がなされた。
やがて、樹木は疎らになり、陽ざしが、足もとにまでさして来る地域に来た。
夜八郎が、足をとめて、
「黒太──」
と、呼んだ。
「へい」
「前方に、臭気があるな?」
「へい、あります」
「なんの臭気だ?」
「もっと、よく、かいで参ります。ここで、待っていて頂きましょうわい」
黒太は、あまり敏捷でない動作で、木立を縫って、進んで行った。
黒太が戻って来るまで、八人は無言であった。
梢には、鳥がさえずり、足もとを|栗《り》|鼠《す》が掠め過ぎた。
しだいに、暑気が増して来るのが、感じられた。
黒太は、戻って来ると、首を振った。
「とても、通れる原じゃありませんや」
いまいましげに、かぶりを振った。
「何が居る?」
「くちなわ[#「くちなわ」に傍点]でさあ。七色のね」
「毒蛇か?」
「へい。あんなに数知れず、うごめいてやがる光景は、はじめて、お目にかかりました」
「突破は、不可能か?」
「まずね。山城の奴らの中に、くちなわ[#「くちなわ」に傍点]飼いが居りますぜ。ただ、あの原に、集ったとは、思われねえ。わざと、はなし飼いしてやがるに相違ありません。あの中を進むには、それだけの身がためをしなけりゃ、とても──」
夜八郎は、黒太を見すえて、
「毛虫でも毒蛾でも喰べるお前のことだ、思案があろう」
と、云った。
黒太は、ちょっと、考え込んでいたが、にわかに、異様な決意を肚に据える気色を示した。
「山犬でも猿でも、そうなんだが、くちなわ[#「くちなわ」に傍点]にも、むらがっている時は、かならず、|長《おさ》が居りまさあ。そいつが、動き出すと、他のやつらも、それに従って、ゾロゾロと動くものでさあ。その長を、おれが、なんとか、してくれよう」
皆は、じっと、黒太を、見まもった。
「おれが、長を、誘い込んで、場所をかえている隙に、原をつっ走って頂きますぜ」
「大丈夫か、黒太?」
百平太が、たずねた。
「大丈夫でさあ。そのかわり、おれ自身は、ひょっとすると、ひょっとすらあ」
黒太は、にやっとしてみせた。
「参ろう」
夜八郎が、歩き出した。
樹木が一本も見当らぬその野芝の原は、約百歩のひろさで、ちょうど沼のように、やや窪んだ地形を、九人の前に置いた。
左右は、断崖になっている。いわば、|渡《わた》|廊《どの》のあんばいで、ここが、大庄山の登り口に当る。
夜八郎はじめ、すべての者が、慄然となって、立ちすくんだ。
野芝をうめつくして、無数の毒蛇がうごめいている光景は、ここからさきが、人界と隔絶した地獄であることを、暗示しているようであった。
山野に起き伏しすることに馴れている戦鬼たちも、これほど不気味な光景に接しては、背筋が冷たくならざるを得なかった。
「じゃ、やりますぜ」
黒太は、なんのおそれる気色もなく、一人で原へふみ込んで行くと、ずうっと、物色していたが、
「いたぜ」
と、にやりとした。
毒蛇の長を、発見したのである。
黒太は、脇差を抜くと、左腕へ、ぶすりと刺したてた。
そして、その左腕を振って、血汐をまきつつ、断崖縁の方へ、身を移して行った。
と──。
毒蛇の群が、一斉に、鎌首を立てた、とみるや、動きはじめた。
夜八郎たちの立つところからも、はっきりとみとめられる、ひときわ巨きな長が、血のにおいをかいで、黒太めがけて動き出したので、群は、それに従ったのである。
「いまだ!」
夜八郎が、まっさきに、奔り出した。
七人は、一列になって、疾駆した。
夜八郎ら八人が、百歩の距離の原を、ぶじにつっ走った時、すでに、毒蛇の長は、黒太の足元に達していた。
高く鎌首を|擡《もた》げて、二条に割れた赤い舌を、ヒラヒラさせていた。
黒太は、脇差をかまえて、とびかかって来たら、斬りすててくれるぞ、と息をつめていた。
「黒太!」
百平太が、呼ぶのをきいた瞬間、黒太は、おそろしい絶望感に襲われた。
毒蛇の長から、目をはなしたならば、自分の敗北であることに、気がついたのである。
しかし、遁走するには、目をはなさなければならなかった。
長が、とびかかって来ぬかぎり、他の毒蛇どもは、じっと待っているのだが、しかし、もし、黒太が、長を襲って、斬りすてれば、一斉に、躍りかかって来るであろう。
黒太は、やむなく、じりじりと、後退しはじめた。
もとより、背後にも、毒蛇は匐っていた。
それを踏みつけないように、細心の要心をしながら、黒太は、七八歩、後退した。
「黒太! 何を愚図愚図してやがる。走らねえか!」
青助が、いら立って、叫んだ。
黒太は、それにこたえる余裕さえもなかった。顔の全面から、油汗が滲み出ていた。
一瞬──。
黒太は、一匹を、かかとで、踏みつけた。
そのなんとも名状しがたいイヤな触感が、ついに、黒太に、忍耐力をうしなわせた。
ぱっと、身をひるがえすと、疾駆しはじめた。
しかし、人間の脚よりも、毒蛇のすべる方が、はるかに、迅かった。
毒蛇の長が、大きくはねあがって、黒太の背中を襲うのが、夜八郎たちの目に映った。
「黒太っ!」
「にげろっ!」
「ああっ! いけねえっ!」
青助、赤松、白次が、同時に、絶叫した。
それは、正視に堪えぬむざんな光景であった。
黒太は、毒蛇の長に、頸根を噛みつかれるや、反射的に、左手を背中にまわして、その胴をつかみざま、脇差をひらめかして、胴を両断した。
すると、ザワザワと野芝を鳴らして追って来ていた無数の毒蛇が、その瞬間を待っていたように、黒太めがけて、とびかかったのである。
人間は、黒い細長い爬虫にまみれて、異様な叫び声を、そこにのこして、断崖から、谷底へ、転落して行った。
毒蛇がうごめく渡廊を過ぎると、あとは、赤松の疎林の斜面を、登って行くことになる。
勾配の急な斜面であったが、その地域だけが地質がちがっているように、目に痛いほど白く、暑気を増した陽ざしをあびた景色は、いかにものどかであった。
すでに、伊吹野の平野は、はるかな眼下にあった。
一行は、場所をえらんで、持参した弁当をつかった。
そのひとときは、物見遊山にでも来たような状態であったが、誰もが口数すくなかった。
黒太の悲惨な最期が、脳裡にこびりついていたし、この憩いが決して、のんびりしたものではなく、絶えず、四方に神経を配っていなければならなかったからである。
「いくさの前でも、平気で大食できたが、いまは、初陣の直前のように、食欲がない」
柿丸が、にぎり飯を膝に置いて、つぶやいた。
泰国太郎も百平太も、同様であった。
夜八郎は、水を飲んだだけで、仰臥して、目蓋を閉じていた。
七位の大乗は、しきりに、あちらこちらを、歩きまわって調べていた。
一人、白次だけが、むしゃむしゃと、にぎり飯を、頬ばっていた。
大乗が、夜八郎のそばへ、もどって来た。
「この松林の上は、どうやら、広い平らな台地になって居り申す」
告げられて、夜八郎は、むっくり起き上った。
「見渡したか?」
「無数の大岩が台地と松林を区切って居るので、岩かげから、そっと、のぞいてみただけでござるが……」
大乗の予感では、そこらあたりに、毒蛇以上のおそるべき障害がありそうであった。
「行こう」
夜八郎は、歩き出した。
ものの二町も登ると、太古に、大庄山が火を噴いた時、ころがり落ちて来たか、と想像される巨岩が、そこに、重なりあって、視界をさえぎっていた。
「岩へのぼって、姿をさらすな」
夜八郎は、皆へ忠告しておいて、岩と岩との隙間をさがして、岩肌へ身をこすらせながら、抜けた。
岩蔭から望むと、大乗の告げた通り、平坦な台地が、東方へむかって、やや下りかげんにひろがって居り、ところどころに、喬木が樹冠を大きくひろげていた。
小松が匐っていたり、灌木がむらがっていたり、草地になっていたり、変化に富んでいる台地であった。
「ここなら、人間も住めるな」
柿丸が、何気なく云った時、二頭の鹿が、東から、疾駆して来るのが、みとめられた。
「おっ!」
大乗が、声を発した。
他の者の目には、映らなかったが、疾駆する鹿へむかって、矢が射かけられたのである。
「いかん」
大乗が、首を振って、
「みな、伏せろ」
と、叫んだ。
二頭の鹿は、こちらへ向って、みるみる近づいて来た。
それを追う者の姿が、彼方に出現した。
三人──いずれも、はだか馬にうちまたがって、鮮やかに、灌木を躍り越えて来る。
「大将! 彼奴ら、ここまで来申すぞ」
「ただの猟師ではないようだな」
夜八郎が、小首をかしげると、のびあがって、|眸子《ひ と み》をこらしていた奉国太郎の口から、ひくい呻きが発しられた。
「あれは、山賤だ!」
「山賤とは?」
「邪宗を奉じて、当山にたてこもっている一族でござる。いつぞや、数人が野へ降りて来たのを、一人を生捕ったところ、舌を噛んで果て申した。背負っていた矢には、猛毒が塗ってあり、奇妙な梵字らしいものが書き込んであり申した。彼奴らが、どれだけの人数か、判らぬが、とても、闘うことは、かなわぬ!」
太郎は、山賤四人と争った時の、凄じい反撃ぶりを想起して、ぶるっと身ぶるいした。
邪宗を狂信している者ぐらい、おそろしい存在はない。
可能なかぎり、闘いはさけねばならなかった。
しかし、皮肉にも、そう祈る八人が、身を伏せている其処へ向って、二頭の鹿は、逃げて来るのだ。
「大乗、発見されたら、やむを得ぬ。あの三人を、斬るぞ」
「かしこまった」
二頭の鹿は、其処へ三間あまりの距離にまで近づくと、急に方角を転じた。
その瞬間──。
飛来した矢が、一頭を|斃《たお》した。
のこり一頭が灌木のしげみへ、躍り込んでしまったので、追手たちは、あきらめて、斃した鹿のそばで、馬を降りた。
その場で、皮を剥ぐ作業が、はじまった。
八人は、息をのんで、見まもっていた。
と──。
白次が、先程から、飯粒が鼻孔に入っていて、しきりに小鼻をひくつかせていたが、ついに、我慢ならずに、くしゃみを発してしまった。
山賤の一人が、それをききとがめた。
鋭い視線をこちらへ投じていたが、大股に、近づいて来た。
──万事休す!
大乗は、胸でつぶやいた。
山賤が、二間の近くへ寄って来るや、突如、夜八郎が、躍り立った。
疾風を起す──とは、まさに、夜八郎のその瞬間の行動であった。
一太刀で、近づいた山賤に血煙りをあげさせるや、あとの二人へ向って、数間の距離を猛然と奔ったのである。
そのすさまじい勢いに、敵がたは、矢を放つことを忘れ、野太刀を抜いて防禦の構えをとるのが、せいぜいであった。
夜八郎は、奔り寄りざま、まず一人を、一閃の太刀で、斬り伏せた。
「ああっ!」
残った敵は、悲鳴ともひびく声を噴かせて、一間あまり、跳び|退《すさ》った。
夜八郎は、冷たく冴えた視線を据えて、
「二人のあとを追うか、それとも、こちらの問いにこたえるか!」
と、あびせて、じりっと迫った。
「………」
夜八郎の長身から、めらめらと萌え立つ剣気に、山賤の本能は、怯えた。
その恐怖を、肩の喘ぎに示して、山賤は、じりじりと後退した。
「こちらは、さきを急いで居る。返辞をせぬのは、生命が惜しくないことに、受けとるぞ!」
「ま、待った!」
山賤は、五指をひらいた片手をさし出して、夜八郎の一撃をこばんだ。
「こちらの問いにこたえるか?」
「こ、こたえる」
「おのれら一族の頭数は?」
「七十八人」
「砦を築いて居るのか」
「いや──」
「それでは、くらしぶりは、木樵や猟師とかわらぬのか?」
「………」
「なぜこたえぬ?」
「われらは、天帝を仰ぐ。天帝の霊示に従って、その日その日をすごして居る」
「天帝とは?」
「天帝とは、全世界の神を|僕《しもべ》とする、われらが唯一の守護本尊だ」
「その天帝とやらの霊示を、貴様たちに伝えるのが、頭領だな?」
「左様──」
「頭領の前身は武士か、それとも農夫か?」
「………」
「こたえい!」
夜八郎は、大きく一歩、迫った。
山賤は、ごくっと生唾をのみ下してから、
「頭領は、みまかった」
と、こたえた。
「では、貴様らの自治か?」
「い、いや……。頭領の息女を、われらは、主座に置いて居る」
「娘を、新しい頭領にしようとして居る?」
夜八郎は、ちょっと、何やら思慮の様子をみせたが、次の瞬間、大きく地を蹴るや、その残りの一人をも、一太刀のもとに、斬り仆した。
その時であった。
「大将! もう一人、いたっ!」
青助が、叫んだ。
大乗に命じられて、近くの松の|高処《た か み》によじのぼって、彼方をうかがっていたのである。
彼方の樹冠をひろげた喬木の蔭に、裸馬に乗った山賤がいて、こちらの光景を、目撃しているのを、みとめたのであった。
夜八郎が、命令を下すより早く、大乗は、そこに乗りすてられていた裸馬に、とび乗るや、
「やあーっ!」
と、馬腹を蹴っていた。
夜八郎は、追跡して行く大乗を見送っておいて、
「急ぐぞ!」
と、六人へ云いおいて、足早やに歩き出した。
柿丸が、心得て、目じるしに、樹の幹を、削りながら、進んで行った。
二町も進むと、草木がなくなり、賽の河原とでも、名づけたいような、荒涼たる岩場へ出た。
地面は、大小無数の岩石で掩われ、自然につくられたとはいえ、|化生《けしょう》のつくったものとしか思われぬような形や、積みかさなりが、見る者を慄然とさせる。
夜八郎は、見渡して、
──あの山賤一族は、ここを、天帝の降りて来る霊場にしているのかも知れぬ。
と、想像した。
この区域を、身を陽にさらしながら|渉《わた》って行くことに、危険をおぼえざるを得なかった。
「ここで、大乗を待つ」
夜八郎は、六人に、岩蔭に身を伏せるように、命じた。
四半刻を経て、大乗が、裸馬をとばして、追いついて来た。
異常に緊張した表情が、遁れた者を仆せなかったことを、告げていた。
裸馬から、とび降りると、夜八郎の前に立ち、
「この岩場は、彼奴らのすみかに通じて居り申す。いまに、われわれをもとめて、一族を挙げて、馳せ寄せるに相違ござらぬ」
と、云った。
「夜を待つよりほかに、突破するすべはないようだな」
「まず──」
「柿丸──」
夜八郎は、呼んで、
「今夜の天候を看ることができるか?」
「は──」
柿丸は、しばらく、空を仰いでいたが、
「月光をさえぎるだけの雲が、出るかどうか?」
と、首をかしげた。
もし、月光に照らされたならば、突破することは、絶望であろう。
陽が落ちるまでには、二刻(四時間)あまりがあった。
夜八郎ら七人は、岩場から、はるか後方へしりぞいて、灌木の中に身をかくした。
山賤一族は、全員とかぞえられる隊を組んで、岩場を進んで来たが、これは、大乗が決死の策によって、あざむくことに成功した。
すなわち。
山賤隊を、半町の近くまで進ませておいて、大乗は、けものがにわかの敵の襲来におどろいて遁走するごとく、とある喬木の蔭から、裸馬をとび出させたのであった。
「おっ! 彼奴っ──あそこだ!」
山賤隊は、一斉に、岩場から、草地へ、殺到した。
大乗は、いかにもあわてふためいた様子で、味方の伏せている場所とは反対方角へ、馬を駆けさせて行った。
そして──。
馬をどこかへすてて、夜八郎たちの処へもどって来たのは、陽が傾いた頃合であった。
どさっ、と坐り込むと、
「やれやれ──、一代の忍者も、ひと汗かき申したわい」
と、肩で大きくひと呼吸をした。
巧みに、敵勢を翻弄して、さんざ追いかけまわさせた挙句に、|行方《ゆ く え》をくらまして、もどり着いたのであった。
「お主の観たところでは、尋常の敵ではないか?」
「まさに!」
大乗は、うなずいてみせた。
「真正面から衝突しては、洪水にむかって、|柄杓《ひしゃく》をふりまわすようなものでござるな」
「夜を待とう」
だが、その夜が来た時──。
じっと、空へ向って、視線を仰がせていた柿丸が、
「だめだ!」
と、絶望の声をもらした。
「今夜は、月が海の上をすべるようなものだ!」
月光は、くまなく下界を照らし、身をかくすすべはないのだ。
岩場には、いたるところに、見張りがひそみ、こちらが出現すれば、即座に、これを告げる方法を用意しているに相違なかった。
「お主たち──」
夜八郎は、決然として云った。
「この邪宗の地域で、半数が生命をすてることになるが、覚悟してもらおう」
「どうするといわれるのだ?」
泰国太郎が、問うた。
「山賤の本拠を、こちらが、奇襲する!」
夜八郎は、云った。
「一族の大半は、あの岩場に分散して居る。本拠には、小人数しか居るまい。これを奇襲して、頭領の娘とやらを捕える!」
敵の裏をかいて、その本拠を衝く──。
この奇襲策は、まさに、いま、戦鬼らがえらぶ唯一の戦法であった。
敵が、我に十倍する頭数であっても、岩場に分散している限り、その力はきわめて弱い。
頭領が亡くなり、その娘が王座に就いている、ということは、こちらにとって、何よりもさいわいであった。娘を捕虜にしてしまえば、一族を屈服させることは、なんの造作もない。
ただ、果して、その本拠が、どのような構造をもっているのか? 攻め入って、その虚を衝けるほど、ただの|山《さん》|砦《さい》にすぎないのか、どうか?
これは、あるいは無謀きわまる奇襲かも知れなかった。
しかし、虎穴に入らずんば虎児を獲ず、というたとえもある。
夜八郎は、ほぞ[#「ほぞ」に傍点]をきめると、立ち上った。
大乗が、先導し、六人は黙々として、夜八郎のうしろに、従った。
およそ、一里を進んだろうか。
月光が、しだいに、冴えかえった。
「ここで──」
と、大乗が、手を挙げてとどめた。
「むこうの、大きな岩がふたつ──あのあいだを抜けると、かれらのすみかがある、と看てとり申す」
夜八郎は、じっと、すかし見ていたが、
「裏手へまわれぬか?」
「こちらの岩場を越えれば──」
「岩場には、ふみ込めば、たちまち露見する仕掛けがほどこしてあるに相違ない」
「しかし、むこうは、断崖絶壁になって居る模様でござる」
「ということは、そちらには、警戒の目がないことだ」
「それは、そうじゃが……」
「越えられるか、越えられぬか──ためしてみてくれ」
「大将は、どうされる?」
「おれは、まっすぐに、あの岩の間を抜けて、ふみ込む」
「お一人でか?」
「おれには、十人や十五人を斬り伏せる剣がある」
「よろしゅうござる。絶壁を渡ってみようわい」
その時、赤松が、
「絶壁を渡る方法は、ないことはないて」
と、云った。
「よし、木樵の本領を発揮せい」
手筈は、ととのった。
要心すべきは、この本拠に於て、乱闘がくりひろげられるのを、岩場に分散した者どもに感づかせないことであった。
ただ、絶体絶命の場合を考慮して、それぞれが、火薬を、身につけた。
夜八郎は、ただ一人、その場にのこって、その時を待った。
夜八郎が冴えかえる月光をあびて、微動もせずにうずくまっていた時間は、およそ半刻であった。
ふと──。
夜八郎の耳に、奇妙な音が、ひびいて来た。
じっと、耳をすませると、それは太鼓の音に合せて誦する呪文めいた祈祷の声であった。
夜八郎は、月を仰いだ。|恰度《ちょうど》、亥刻──乙夜(午後十時)である。
祈祷の時間に相違ない。
──よし!
夜八郎は、一人微笑すると、身を起した。
天が味方するごとく、空に雲がわいていて、かなりのはやさで流れていた。
夜八郎は、月が雲にかくれるのを待って、音もなく、地上を奔った。
月光が落ちると、ぱっと身を伏せた。
いくたびか、奔っては、伏せて、ついに、その岩に行き着いた。
大乗が看てとった通り、岩と岩の間が、通路になっていた。
夜八郎は、その通路を、そろそろと、匍匐しはじめた。
三間あまりむこうに、|冠《かぶ》|木《き》門のような木戸が設けてあった。
太い角材で組んだ格子の扉のむこうに、人影が、ゆっくりと行ったり来たりしているのを、夜八郎は、みとめた。
それが、一人だけであるのを確認するや、夜八郎は、大乗から借りた忍び手裏剣を、投じた。
これは、手練の技であった。
絶鳴をあげさせずに仆すには、心臓を刺しつらぬかねばならなかった。夜八郎は、見事に、それに成功した。
夜八郎は、すばやく、木戸に寄って、扉をしらべ、大乗が渡してくれた忍び袋の中から、七つ道具をとり出して、これを破った。
通路は、そこから五筋に岐れていた。いわゆる露地の迷路、という敵をあざむく砦構えであった。
その道を、あやまって進めば、|陥《かん》|穽《せい》が待ちかまえている。
夜八郎は、地に伏せて、耳を土にあてた。奇妙な祈祷の声は、どの道筋からひびいて来るのか?
これを正確に判断するのは、大乗のような忍者でなければ、能く為し得ない。
夜八郎は、むかって右から二番目の通路へ、足をふみ出した。
柵が左右につらねてあり、道幅は三尺の狭さであった。
およそ二十歩進んだ時、前方に人声がした。
はっ、と一瞬、足を停めたが、
──ままよ!
夜八郎は、不敵に、再び前進しはじめた。
山賤四人が、その道筋を、こちらへむかって来ていた。
三尺幅の狭い通路を、一列になって歩いて来るのである。
夜八郎は、もはや、ひきかえすわけにはいかなかった。
距離が、七八歩に縮まった。
先頭の者が、月かげにすかし見て、
「誰だ?」
と、叫んだ。
その刹那、夜八郎は、地を蹴って、旋風のごとく、襲った。
もし、そこが、身を自由にひるがえさせる広さをもっていたならば、夜八郎は、敵に味方を呼ぶ余裕を与えはしなかったであろう。
一人を斬って、その屍を躍りこえて、次の一人を斬るよりほかにすべはなかった。
三人を斬り仆した時、しんがりの者が、絶叫をあげて、逃走しはじめた。
夜八郎は、その背中をまっ二つに割るや、
──あとは、死闘のみ!
と、覚悟をきめた。
岩場に散っていた者どもが、砦内の急変をききつけて、馳せもどって来る音が、|潮《しお》|騒《さい》のように、ひびいて来る。
夜八郎は、まっしぐらに、建物めがけて、奔った。
建物から、篝火をつかんだ者が、十人あまり、どっと、とび出して来た。
夜八郎は、その正面へ、身をさらした。
「なんだ?」
「山城の廻し者かっ?」
「おしつつめ!」
呶号をあげつつ、包囲の陣形をとろうとした。
夜八郎は、そのいとまを与えず、矢の迅さで、建物の玄関に達した。
神殿造りの宏壮な建物であった。
玄関には、五人の者が、弦をひきしぼっていた。
夜八郎が地面に伏せるのと、矢が唸りすぎるのが同時であった。
球のごとくはね起きた刹那には、夜八郎の剣は、一閃裡に、二人を斬っていた。
「曲者っ!」
「ここだっ!」
叫ぶ者もまた、夜八郎の剣の|贄《にえ》になった。
──娘を|虜《とりこ》に!
血ぶるいした夜八郎は、奥へ向って、廊下を突進して行く。
それをはばもうとして、殺到して来る山賤たちの得物は、刀、槍、薙刀、くさり鎌など、さまざまであった。
夜八郎は、躍りかかって来る敵を、一太刀ずつで斬る凄じい強さを発揮しつつ、次第に、奥へ入った。
唐戸や柱の蔭から、不意に襲って来る敵に対しても、夜八郎は、無類の迅業を示した。
夜八郎が、長い廊下を突破して、渡廊でつなぐ奥殿とおぼしい建物をむこうにのぞむ庭へ出た時であった。
突如──。
その奥殿の裏手から、もの凄い音響とともに、火柱が噴きあがって、たちまち、あたりを、昼のあかるさに浮きあがらせた。
──やったぞ!
夜八郎は、追いすがって来る敵を、四方に置きながら、にやりとした。
大乗が、六人の仲間を指揮して、火薬を炸裂させたのである。
たちまち。
奥殿内は、騒然となった。
火と人間がまき起すあらゆる音が、渦をまいて、夜の空気をかきみだした。
夜八郎自身は、躍起になって襲いかかって来る敵を、もうかぞえきれぬくらい、斬り仆し、なおも、剣をふるいつづけていた。
と──。
奥殿から、まっしぐらに、渡廊へ奔り出て来た白衣の姿を、ちら、とみとめたせつな、夜八郎は、
──これが、頭領の娘だな!
と、直感した。
直感した次の一瞬には、夜八郎の姿は、翔けるがごとく、渡廊上に在った。
長い黒髪を乱した白衣の女は、その小脇に、大きな|白《しろ》|銀《がね》の珠をかかえていた。
それが、かれらの信奉する神を象徴するものであったろう。
夜八郎は、その前に、立ちはだかるや、
「頭領のむすめは、そなたか?」
と、問うた。
「乱入者っ! なにがための存念かっ?」
「われわれは、この山砦を滅ぼしに来たのではない。そなたの生命をもらいに来たのでもない。……われわれは、この地域を通って、山頂へ行きたい。それだけだ。それを、そなたら山賤が拒否するために、やむなく、自衛の反撃に出たまでだ」
「………」
故頭領の|女《むすめ》・天香は、けもののようにらんらんと目を光らせて、夜八郎を睨みつけている。
「われわれが、山頂へ行きたい理由を云おう」
そこまで云った瞬間、背後から、猛然と、槍が突きかけられた。
夜八郎は、わずかに、身をねじって、槍の柄をつかむや、突き手を蹴倒し、四方を睨みまわした。
「おのれら! おとなしくせぬと、この白球を、まっ二つに斬るぞ!」
その叫びは、山賤全員を、しずまりかえらせるのに、絶大な効果があった。
夜八郎は、天香に視線を当てると、
「竜神湖の水を、伊吹野へ流して、農民らに田植えをさせる──それが目的だ」
夜八郎は、天香の|眸子《ひ と み》に、微かに動くものをみとめた。
「われわれ八人は、これまで、世の中に対して何ひとつ益になることはしなかった。いや、害毒を流す余計者であった。ところが、伊吹野の惨状を眺め、餓死に追いつめられた農夫の窮迫ぶりを訴えられるや、人間が神から本来与えられている倫理の観念にめざめた。八千の農夫の生命を救うために、おのが生命を投げ出す決意をした。……そなたらが、いかなる神を信じているかは知らぬ。しかし、いやしくも、神と名のつくものを信仰しているならば、おのれをすてて働こうとしている者に、味方してやろうという心情がわからぬはずはあるまい。ただいたずらに、聖域をふみ荒そうとしているのではない、ということが判ったならば、こころよくそこを通してくれるのが、神を信仰する者の態度ではあるまいか」
夜八郎のその言葉に対して、天香は、しばし、沈黙を守っていたが、やがて、山賤一同へ視線をまわして、
「お前たち、退るがよい」
と、命じた。
「こやつらを、通すと云われるのか?」
一人が、問い、他の者が、
「朋輩の半数を斬られ、奥殿を焼かれて、許すわけには参らぬ!」
と、声を張った。
天香は、凜とした態度で、
「通すのじゃ!」
と、叫んだ。
「通すわけには参らん!」
憤りをこめた声が、はねかえされた。
「わたしの命令をきけぬのか?」
「天香殿は、頭領ではござらぬぞ!」
「頭領ではなくとも、この御珠の霊示をつたえるわたしじゃ! もし、お前らが|肯《き》かぬと申すならば、御珠を地へ投げて、みじんにくだき、一人のこらず天罰を蒙ろうぞ!」
その宣言は、山賤一同を動揺させた。
天香は、夜八郎へ視線をもどして、
「お行きなされ」
と、云った。
「忝い」
夜八郎は、頭を下げた。
それから、
「泰国太郎! 大乗! 柿丸! 百平太!」
と呼んだ。
炎上する奥殿の蔭から、最初に現れたのは、柿丸であった。
袖やたっつけ[#「たっつけ」に傍点]を、ぶすぶすとこがしながら、奔って、夜八郎のそばへ来た。
「他の者は?」
「わ、わかりません。青助は、崖を渡る時、落ちてしまったのを、見とどけましたが……」
いかに必死な働きをしたか、という証左であった。一人一人が、大乗の指示によって、人間の力の可能ぎりぎりの働きをしたのである。
「参ろう」
夜八郎は、歩き出した。
夜が明けた。
岩場と草地のさかいに、三個の人影が、朝陽をあびて、たたずんでいた。
夜八郎と柿丸と白次であった。
青助は、断崖から墜落し、赤松もまた、仲間を奥殿裏手へよじのぼらせる時に、自らを犠牲にして、谷底へ消えたのであった。木樵の伜である赤松がいたおかげで、その断崖を渡ることができたのであった。
百平太は、奥殿を破壊するにあたり、火薬を仕掛けるいとまがなく、自ら、火薬を抱いて突入し、五体を四散させたのであった。
泰国太郎は、奥殿守護の山賤七人と血みどろの闘いをくりひろげて、敵をことごとく斬るとともに、自らも無数の重傷を受けて、仆れたのであった。
七位の大乗の姿は、どこへ消えたか、判らなかった。
夜八郎は、岩場を横切る前に、大乗が、生きて、現れるのを、そこで、待つことにしたのである。
しかし──。
すでに一刻半が過ぎていたが、大乗が現れる気配は、さらになかった。
「もう、待てぬ」
夜八郎は、ほぞ[#「ほぞ」に傍点]をきめた。
「生き残ったのは、われら三人だけだ。この三人で、竜神湖の水門を開かねばならなくなった」
この岩場を横切るために、あまりにも大きな犠牲を払わなければならなかった。これは、夢にだに予測しないことであった。
はたして、この三人だけで、水門をひらくことが、できるものであろうか。
山頂へ辿りつくことさえ、おぼつかぬのではあるまいか。
夜八郎は、岩場へ、足をふみ入れた。
柿丸も白次も、山賤の砦のある方角を視やった。
倒れた仲間への哀悼をこめたまなざしであった。
夜八郎は、振りかえって、
「早く来ぬか」
と、うながした。
二人は、急いで、あとにつづいた。
岩場を、なかば横切った時であった。
「おーい!」
後方に、呼び声が起った。
三人はふりかえって、目をかがやかせた。
大乗が、意外な方角の密林の中から、とび出して、まっしぐらに、こっちへ疾駆して来る。
「どこに行って居った?」
「大将!」
大乗は、合掌してみせた。
「われわれが、山賤の砦で闘っているあいだに、山城の奈良城義太郎が、手勢を率いて、降りて行き申した。万歳でござる! もはや、行く手に、敵影はござらぬ」
──神よ!
夜八郎は、生れてはじめて、その加護を信じた。
「奈良城義太郎は、山城の兵総員を率いて行った、とみえたか?」
「およそ三百とかぞえられ申したゆえ、おそらく、全兵でござろうな」
「では、水門には、見張りの兵二三人しか居るまい」
「左様でござろうな。ここからは、一路、なんの障害もなく、進めそうでござる。奈良城勢の降りて来る様子を眺めて、そう判断つかまつった」
「大乗──」
夜八郎が、微笑した。
「なんでござる?」
「伊吹野城の地下倉に、お主、仕掛けをしたか?」
「蓄えてある兵糧、武器は、まことに、もったいないことながら、あの鉄扉を開けば、爆発する仕掛けに相成って居り申す」
「ふむ──」
「扉が爆発すれば、倉の中の火薬も、爆発つかまつる。されば、奈良城義太郎とその手勢も、吹きとぶことに相成る次第でござる」
「やむを得ぬ仕儀だな」
「まことに、やむを得ぬ仕儀でござる」
そうこたえてから、大乗は、眉宇をひそめた。
「百平太も、相果て申したか」
「しもうた!」
大乗は、舌打ちした。
「どうした?」
「百平太には、水門を開く火薬を持たせてあったのでござる」
「………」
「火薬がなければ、水門を開くことは、不可能でござる」
「………」
「どうすればよいのか?」
大乗が、困惑の表情をみせたのは、よくよくのことである。
「われわれの人力では、開けぬか?」
「そんなことは、到底かない申さぬ。……おそらく、水門は、滑車の鎖で閉じてあるに相違ござるまい。水中にもぐって、その鎖を切るのは、とうてい、できるわざではござらぬ。魚にでも化けぬ限り、そんなに長い時間、水中にもぐっていることはかない申さん」
大乗は、いまいましく、吐き出した。
この時、白次が、遠慮ぎみの重い口調で、
「わしは、若狭の海辺で育った男やで、ちっとばかリ長く、水の底へ沈んでいることは、できそうじゃ」
と、云った。
「よし!」
夜八郎は、決然として、云った。
「当って砕けることだ」
公卿館の座敷で、天満坊は、|結《けっ》|跏《か》|趺《ふ》|坐《ざ》の姿勢で、じっと、瞑目していた。
一昨日から、そうやって、坐禅を組みつづけていたのである。
厠へ立つほかは、その|坐《ざ》|蒲《ほ》を動かずにいた。
坐ったまま、ねむる修業が、天満坊には、できていた。
衣ずれの音が、縁側でした。
「おかゆをお持ちいたしました」
ものしずかな美しい声音に、天満坊は、目蓋をひらいた。
「これは……、姫君が、わざわざ、はこんで頂いて、恐縮に存じますの」
天満坊は、美夜の、すこしやつれたかにみえる気品の匂う顔を、視た。
「なにか、からだをうごかしていなければ、おちつきませぬゆえ……」
美夜は、云った。
「多門夜八郎は、不死身の御仁じゃ。案ずることはない」
「そうでございましょうか。わたくしも、信じては居りますけど……」
「今日あたりは、山を下って参るのではあるまいかな」
天満坊が、そう云った時であった。
野の遠くで、叫び声があがった。そして、その叫び声が、つぎつぎと、こだまを生むように、|彼方《か な た》|此方《こ な た》に、同じ叫び声を伝播させた。
「水だあっ!」
「水じゃっ!」
「水が落ちて来たぞっ!」
「水っ! 水っ! 水が、やって来たあっ!」
一瞬にして、館内も、騒然となった。
「大徳どの!」
美夜は、何か云おうとして、声がつまった。泪が、あふれた。
天満坊一人、おちつきはらっていた。
「あの九人ならば、必ず、やってのけるであろうと思っていた。期待を裏切らなかったのう」
すべての家から、人々はとび出して来て、渦をまいて水が落ちて来る渓谷へ向って、奔っていた。
と──。
人々の足を一瞬、地に釘づけする大音響が、彼方で起った。
それは、地軸を裂くような凄じい爆発であった。
「おおっ! 城がっ──城が、火柱をたて居るっ!」
人々は、わけがわからずに、目をみはった。
天満坊は、はじめて坐蒲から立って、高櫓へ登って、伊吹野城に、幾本もの火柱が噴きあがるさまを、望見した。
「ぬかりはなかったのう。おそらく、奈良城勢を押し入らせておいて、地下倉の火薬を爆発させたものであろう。よくぞ、やった!」
山頂から落ちた濁水は、伊吹野に掘りめぐらされた灌漑溝を、ひたひたと満たして行った。
水が流れる!
ただそれだけのことが、これほど、人間を、狂喜させ、乱舞させた例が、これまであったろうか。
八千の人々は、溝を満たして行く水を、食い入るように見つめて、この水が、自分たちの血であることを感じた。
そして──。
水は、伊吹野のすみずみまで流れ渡った。
その時刻、九人の戦鬼のうちから、たった一人が、公卿館へ、戻りついた。
柿丸であった。
遠くに、その姿をみとめて、小幸が叫びたてながら、注進して来たので、天満坊、美夜はじめ、館中の人々が、門前に集まって、迎えた。
柿丸は、疲労に堪えるこわばった表情で、ゆっくり近づいて来た。
たった一人しか戻って来なかった! 迎える人々は、息をのみ、粛然として、しずまった。
柿丸は、天満坊の前に立った。
「ご苦労であった」
天満坊は、まず、感動をこめてねぎらった。
柿丸は、無言で、頭を下げた。
「さ、ゆっくりと休息するがよい」
天満坊は、何もきかずに、柿丸を、いざなおうとした。
美夜が、たまりかねて、
「あ、あの……、ほかの人たちは、いかがなされたか?」
と、問うた。
柿丸は、美夜を、視た。
何かいおうとしたが、思いとどまった気色で、天満坊に向くと、
「黒太は、無数の毒蛇がうごめく原を、われらを通すために、自らを犠牲につかまつりました。泰国太郎殿と百平太と青助と赤松は邪宗を奉じて居る山賤団の山砦にて、壮烈な最期をとげました。……それから、水門を開くにあたって七位の大乗と白次が、水中にもぐり──滑車の鎖を断ち切ることに成功つかまつりましたが、そのまま、ついに浮かび上らず……」
そこまで、告げて、口ごもり、頭を垂れた。
大乗と白次は、水門から怒濤となって噴き出た洪水に呑み込まれてしまったのであった。火薬がない以上、身をすてて、水門を開くよりほかにすべはなかったのである。
「では──」
美夜は、必死の面持で、たずねた。
「夜八郎様は、どこで、お果てなされたのでしょう?」
「………」
柿丸は、返辞をためらった。
「柿丸、夜八郎殿は、斬り死か?」
天満坊が、問うた。
柿丸は、頭を|擡《もた》げた。
「申上げます。……夜八郎様から、口どめされて居りましたが、申上げます。夜八郎様は、不死身でござった。水門をひらくにあたり、そこを警備していた兵は、三十余名の多きをかぞえましたが、これを、阿修羅となって、斬り散らし、生き残られたのでござる」
「ああっ!」
美夜の口から、歓喜の叫びがほとばしった。
「されど……、もはや、自分の為すべきことは終った、と申されて、麓に降りると、わし一人に報告をまかせられて、一人、東へ向って、歩いて行かれたのでござる」
飄然として遠ざかって行く夜八郎を見送ったのち、柿丸は、館へもどって来たのである。
人間業とも思われぬ仕事をなしとげながら、狂喜する人々を見ようともせず、一人で立ち去って行くとは、いかにも、多門夜八郎らしかった。
天満坊は、死んで行った七人の霊を胸の中に抱いて歩いて行く孤影を、想いやった。
──まことの武士とは、あの人物のことであろう。
すすり泣きの声が起ると、人々は、すべて、頭を垂れた。
天満坊が、急に、
「姫君─」
と、呼んだ。
「は、はい」
美夜が、泪の顔を擡げた。
「長い旅を覚悟なされるか?」
美夜は、天満坊の云おうとする意味を、すぐに、さとった。
「はい、行きまする。どこまでも──」
「そのお覚悟ならば、行かれい。……柿丸、お供をするか?」
「は──」
「お主は、美しい女性のお供をして、主人のあとを追うて行くように生れついているのではないかな?」
「はい。どうやら、そうらしゅうござる」
市女笠と杖を手にした旅装束の美夜は、柿丸をしたがえて、人々に見送られながら、公卿館を出た。多門夜八郎のあとを慕うて──。
行く手に、どのような運命が待っているかは知らぬ。ただ一人の|男《おの》|子《こ》を恋う女の、ひたむきな情熱のみが、心で燃えていた。
五百年を経た今日、伊吹野は新しい地名となり、野を横切って、東海道新幹線が走っている。
九人の戦鬼のいさおは、大庄山の麓の松林ぎわ、細い草径のほとりに、苔むした一基の碑となって、とどめられている。しかし、刻まれた文字も、いまでは、風化して、ほとんど読むこともおぼつかない。
この作品は昭和三十九年二月二十三日より報知新聞に四百四十二回にわたって連載され、四十年文藝春秋より刊行。
〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年十二月二十五日刊
(C) Eiko Saitou 2001
文春ウェブ文庫版
われら九人の戦鬼(下)
二〇〇一年十月二十日 第一版
著 者 柴田錬三郎
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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