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われら九人の戦鬼(上)
[#地から2字上げ]柴田錬三郎
月と女と
満月が、新戦場を、照らしていた。
千騎と千騎が、激突し、血みどろになって闘った野を|靄《もや》がつつみ、それに、月光が落ちたのである。
自然は、永劫に絶えることのない人間の争いとはかかわりなく、静かな夜を迎えていた。
新戦場に、もう、物音は絶えていた。
夜の静寂は、深いのであった。
と──。
白い闇の中に、騎馬の音が、迫った。
数騎である。
おそろしい|迅《はや》さで、死の原野を一気に駆けぬけて、西方にわだかまる丘陵の松の木立の中で、蹄の音を、止めた。
この丘陵は、ぜんたいが|砦《とりで》になっていて、かなりむかしから、一隊がたて籠っていた模様である。
頂上には、かなりな構えの陣屋が建てられていた。
これを守備していた者たちは、今日、滅びはてた。
敵が放った火で、なかば焼けおち、月光は、その惨たるすがたへ、不気味な凄みをおびさせている。
黒影の群は、木立の中で馬をすてると、陣屋へ、のぼって来た。
先頭の者が、人をせおっている。月明りに、はっきりと、女と判る。
死んだように、ぐったりとなっている。
せおっているのは、具足武者であった。それにしたがっているのは、足軽たちのようである。
ようやく|余《よ》|燼《じん》のおさまった焼跡をふみこえて、陣屋の中に入ると、武士は、女を板敷きにおろして、
「あかりだ」
と、云った。
燭台がさがし出され、やがて、赤い灯火が、闇をすみずみへ、押しやった。
意識をうしなっている女は、まだ若く、美しい顔だちであった。
ゆれる灯の中で、顔にさした陰翳もゆれ、それがなまめかしかった。白いやわらかな|肌《き》|理《め》の頬やあごやのどが、この陰惨な屋内で、いたましいくらい清純なのであった。
まとった衣裳が、かなりの身分を示している。
裳裾がみだれて、白い脛がのぞいていて、それへ、足軽たちの視線が、集中していた。武士が、そのあさましい視線に気がついて、
「おい、もう、よい。外へ出ろ」
と、命じた。
武士は、いかにも度胸と|膂力《りょりょく》のありそうな、逞しい風貌と体躯の持主だった。
四人の足軽は、これと|対《たい》|蹠《せき》|的《てき》に、下卑た面つきと、うすよごれた恰好をしていた。
武士が、一軍の旗本の中でも重きをなす|母《ほ》|衣《ろ》衆ならば、足軽たちは昨日|野《の》|伏《ぶし》だったのが、臨時にやとわれた虫けら同様の雑兵であった。
武士は、足軽などを、人間あつかいにはしていなかった。
「おいっ! 外へ出ていろ、と申すのだ!」
武士は、足軽たちが、意外にも、おし黙って、そこを動こうとせぬのに、声を荒げた。
にも拘らず──。
「………」
「………」
「………」
「………」
四つのきたない顔が、目玉を底光らせて、依然として、動こうとせぬのだ。
「ええい! おのれら──」
武士は、ようやく、足軽たちの肚の中を読んで、すっくと突っ立った。
「おれが、敗軍の侍大将と、あなどったか、おのれら! 毛利伝十郎は、おのれら野伏あがりに、見くびられるほど、まだ、鋭気が衰えては居らんぞ!」
腰の大刀に、右手をかけて、にらみつけた。
すると、足軽たちは、まるで、この瞬間を待っていたように、顔を見合せた。
そして、一人が、
「その姫様を、どうするね、侍大将?」
と、たずねた。
いかにも横柄な口のききかたであった。野伏あがりだから、言葉づかいを心得ているわけはないが、語気が、毛利伝十郎を、なめきっていた。
「どうしようと、おのれの知ったことか!」
「そりゃ、まあ、そうだが……、気になる」
「うるさいっ! 出て行け!」
伝十郎は、いきなり、抜刀した。
四人は、一斉に立った。
しかし、怯えて立ったのではない証拠に、退くかわりに、横の間隔をひらいた。
つまり、たたかうための陣形をとったのである。
伝十郎は、愕然となった。
虫けら同様の小者が、反抗しようとは! 夢にも考えなかったことである。
伝十郎の五体に、かあっと、憤怒の血がたぎった。
足軽たちは、伝十郎のこんたんを看破したのである。
意識を喪っている女は、敵将の息女であった。
敗軍の母衣衆としては、これを拉致して、わがものにし、あわよくば、高い身代金を要求する──その復讐をなそうというわけであった。
この四人の足軽は、伝十郎が、偶然、戦場で生き残っているのを、ひろって来たのである。
よもや、この足軽が、伏兵になろうなどとは、この砦に帰りつくまで、想像もしていなかった伝十郎である。
闘いの陣形をとられてみて、この四人が、ただの小者ではなかった、と判った。
しかし、武辺の面目として、この手輩と妥協はできなかった。
「来いっ!」
伝十郎は、身構えた。
|戦場数《いくさばかず》を踏んでいる毛利伝十郎であった。
野伏あがりの雑兵どもに、敗れるなどとは、夢にも、考えていなかった。
いきなり、一人へむかって、呶号すさまじく、躍りかかった。
次の瞬間であった。
──こやつら、ただ者ではない!
そう直感して、背筋に|悪《お》|寒《かん》を這わせたのは。
斬りつけた一人は、まるで、風のような迅さで、とび|退《すさ》っていたし、ほかの三人は、その場を動きもせずに、黙って、平然と立っていたのである。
「うぬっ!」
伝十郎は、奮然と、四人を睨みまわすと、
「おのれら、どこかの忍びか!」
と、呶鳴った。
「野伏から、忍びに、格上げしてくれたぜ」
一人が、ひっひっひ、と嘲罵的な笑い声をたてた。
「侍大将。おれたちを、買いかぶらんでもいいぜ。おれたちは、ただの百姓上りさ。……ただ、あっちの戦場や、こっちの戦場をうろうろしているあいだに、滅多に斬られねえコツをおぼえただけよ」
「ほざくな!」
伝十郎は、次の一人へ、一太刀あびせた。
対手は、苦もなく、身を沈めて、刃風を頭上に、唸り過ぎさせた。
伝十郎は、もはや、我慢ならず、猛然とあばれはじめた。
足軽たちは、四方へとびはねて、逃げていたが、そのうち、一人が、
「おれが、一番乗りだぞっ!」
と、叫んだ。
伝十郎には、それが何を意味するか、すぐ判って、かっとなるや、
「くそっ!」
その男めがけて、とびかかった。
その刹那、
「おれだっ、一番乗りは!」
背後で叫びざま、一人が、伝十郎へ、突きかけた。
あやうく、それをかわしたが、体勢が崩れた。
その隙につけ込んで、ほかの一人が、
「やったあっ!」
と、刀をまっすぐに突き出して、板敷きを蹴った。
|脾《ひ》|腹《ばら》をふかぶかと刺しつらぬかれた伝十郎は、野獣のような唸り声をたてて、白刃を旋回させた。
それが、一人のあごを殺いだ。
「ちっ──いてえっ!」
はねあがって、あごをおさえた男は、その怒りを、一撃にこめて、伝十郎の脳天へ、片手なぐりに、斬り下した。
伝十郎は、たまらず、ぐらぐらと上半身をゆれさせて、板敷きへ、崩れ込んだ。
「おれだぞ! 一番乗り!」
脾腹を刺した男が、顔の返り血をぬぐいながら、どなった。
「いいか、おれだぞ、一番乗りは!」
その男は、もう一度、高声でくりかえした。
あとの三人は、返辞をしなかった。
「おい、きこえているのか!」
呶鳴っておいて、倒れている女へ、近づこうとした。
とたんに、一人が、
「弥蔵、|籤《くじ》だ。籤にせい」
と、云った。
「ごめんだ。おれが、この侍大将をやっつけたのだぞ。一番乗りにきまって居る。戦場の作法と申すものだわい」
弥蔵は、断乎として、|肯《うなず》かずに、女へ、手をかけた。
すると、三人のうち、二人が目くばせしあった。
次の瞬間──。
二人は、同じ迅さで、躍り立ちざま、左右から、弥蔵へ、一太刀ずつ、あびせた。
肩と腰を斬られながら、弥蔵は、屈せず、白刃とともに、からだを、|独《こ》|楽《ま》のように、旋回させた。
もとより、二人を、手負わせるにはいたらず、血ぶるいして、つっ立つと、
「おのれらっ!」
と、喚いて、振りかぶった。
そこをまた、二人から、同時に、襲いかかられて、こんどは、絶鳴をあげて、のけぞった。
二人は、ぶっ倒れた弥蔵へ、冷淡な視線を落していたが、どちらからともなく、顔を見合せた。
「籤か?」
一人が、云うと、もう一人が、かぶりを振った。
「はずれた方が、腹が立つ。一緒に、なぶろうではないか」
「それもよいのう」
にたりとして、のこりの一人を、かえり見た。
その男は、ずっとはなれたところに、うずくまっていた。
「柿丸──貴様は、どうする?」
「どうもせん」
「どうもせん?」
「わしは、見物して居る」
「ふん。どんじりでも、我慢するというのか?」
「いいや、わしは、お主らのように、飢えては居らん」
「飢えて居らんはずがあるか」
「女は、欲しゅうないのじゃ」
「禅坊主のようなことをぬかすな」
「本当だから、しようがない。お主らは、あさましすぎる」
「なんだと!」
二人は、柿丸を睨みつけた。
柿丸は、そっぽを向いた。
「すてておけ。わしらはわしらで、勝手にやろう」
「そうだの」
二人は、女のそばへ寄った。
四つの手が、みるみる、女の衣裳を|剥《は》ぎとりはじめた。
二人の足軽のまなこは、飢えた野獣の光を、ぎらぎら放っていた。
その光が、あらわになった若い肌へ、ぶすぶすと、突き刺さった。
四本の手は、ついに、女のからだから、まとうたものを、一枚のこらず、剥ぎとった。
赤い灯火に照らされた白い肢体は、まだ熟しきらぬ清楚で繊細なおさない線をのこしていた。しかし、白蝋のようになめらかなその曲線は、たとえようもなく、美しい。
二人の足軽は、ともに、ごくりと、生唾をのみ込んだ。
この時、奥にうずくまっている柿丸が、ひくく、
「あぶない!」
と、つぶやいた。
その独語は、女体に目をうばわれている二人の耳には、きこえなかった。
いや、上階に、あきらかに、人の動く気配が起っても、なお、二人は、気がつかなかった。
階段を降りて来る、みしっみしっ、という音で、はじめて、二人は、はっと、険しい視線を、向けた。
降り立ったのは、着流しの牢人者であった。
三十がらみの、眉目に、野性の翳のある人物であった。|貌《かお》ぜんたいが、くらいのだが、それを救っているのは、ひきむすんだ口もとの気品であった。
ただの牢人者とは思われなかった。
但し、みなりは、いかにも貧しかった。
「そのあたりでよかろう、女をいじめるのは──」
そう云った。
|声《こわ》|音《ね》は、冴えている。
二人の足軽は、刀をつかむや、とびかかる身構えをとった。
獲物を襲わんとする猛獣に似ていた。
牢人者は、平然として、左手に、かなりの長剣を携げて、立っている。
足軽たちは、左右へ、じりじりと、はなれた。
「お主たち。おれは、そこで死んでいる侍大将のように、そうたやすくは、片づけられぬぞ」
そう云う牢人者の顔に、冷たい薄ら笑いが、|刷《は》かれた。
先刻から、上階にいて、一部始終を|視《み》|下《おろ》していたに相違ない。
いままで、沈黙を守っていたのは、他人事に対して、無関心な気象であろう。
女が、一糸まとわぬ素裸にひきむかれたのを看て、それがういういしい処女の肌であったので、腰を上げたのだ、と思われる。
足軽たちは、対手がなにをうそぶこうが、これを殺す一念しか持たなかった。
牢人者は、完全に、敵二人から、左右一直線に、地歩を占められた。
にも拘らず、べつに、身構えようともしないのであった。
闘いは、一瞬にして、決した。
左右から、躍った足軽たちの速影が、牢人者の前と後を、とびちがった。
そして、それぞれ、仲間が立っていたところまで、跳んだ。
とみえた時、かれらは、ともに、のどから、噴水のように血汐をほとばしらせて、よろめき崩れ、板敷きを、響かせていた。
牢人者は、依然として、同じ場所に、立っていた。ちがっているのは、右手に、白刃を握っていることであった。
おそるべき|迅《はや》|業《わざ》を発揮したものである。これは、ただ修羅場の場数をふんでいるだけで、なせる業ではなかった。異常な修業を積んでいる、と判る。
牢人者は、やおら、頭をまわして、奥にうずくまる柿丸を、視やった。
「おい、お前は、どうする?」
そう問うた。
柿丸は、じっと、見かえして、
「どうもいたさぬ」
「仲間が斬られても、腹は立たぬのか?」
「べつに、好んで仲間になったわけではござらぬ。雑兵になっているうちに、偶然、四人生きのこっただけでござる。その侍大将が、手を貸せと申されるから、手つだったまでのことでござる」
「ふん──」
牢人者は、薄ら笑った。
「お前だけは、|此奴《こ い つ》らとは、すこしちがっているようだな。女に興味はない面をして居るし、傍観者になったのは、どうやら、ただの小ずるさではなかろう」
「………」
柿丸は、なぜか、ぺこりと頭を下げた。
この時、倒れている女が、ひくく、呻いた。
牢人者は、白刃を鞘におさめると、ひとつ大きく背のびしてから、
「……くだらぬ」
と、つぶやいた。
「お手前様は、強うござるな」
柿丸が、云った。
「世辞は止めろ」
牢人者は、その場にあぐらをかくと、
「酒が欲しいところだ」
と、云った。
「酒なら、ござる」
柿丸は、立って、牢人者のわきを通って、おもてに出て行った。馬の鞍へ、|瓶《かめ》をくくりつけているのを思い出したのである。
牢人者は、柿丸がわきを通りすぎる時に、視やって、まだ二十歳を越したばかりの若者なのをみとめた。
女が、どうやら意識をとりもどした様子に、視線を移して、刀のこじりで、はだけた衣裳をはねて、前をかくしてやった。
若い女の美しい裸形など、一向に興味もないようなしぐさであった。
女は、はっきりと、おのれをとりもどすや、はじかれたように、はね起きた。
牢人者は、女が怯えながらあとへいざるのへ、じろりと、冷たい一瞥をくれた。しかし、べつに、声をかけようとはしなかった。
柿丸が、瓶を|携《さ》げて、もどって来た。
|木《き》|椀《まり》も持っていて、それへなみなみと、白い液体を盛って、牢人者の前に置いた。
それから、女の方へむきなおって、
「気を失っているあいだに、形勢が変り申した。そなたを手ごめにしようとした者らは、見られるように、一人のこらず、相果ててござる」
そう告げた。
女は、なお、怯えの色を、顔にうかべている。
「わしも、そなたを拉致するのを手つだった一人じゃが、べつに、色情に狂っては居らん。……そなたを、救ったのは、このご牢人衆じゃ。礼をのべたがよかろう」
「余計なことを云うな」
牢人者は、二杯目をのみほしてから、木椀を、柿丸へさし出した。
「お前も、やるだろう」
「いや、わしは、一滴もやり申さぬ。この酒は、侍大将のものでござった」
「お前は、存外|木《ぼく》|訥《とつ》な男らしいな」
牢人者は、笑った。
歯が、|皓《しろ》かった。
「木訥ではござらぬ。酒がきらいなだけでござる」
柿丸は、いかにも、不服げに、云った。
「それは、どこの娘だ?」
「この砦を滅ぼした高明寺高政の息女梨花どのらしゅうござる」
「相違ないか、女?」
牢人者は、訊ねた。
「はい──」
女は、うなずいた。
「いくさに敗れた腹いせに、敵将の娘をかどわかして、手ごめにしようとは、考えたものだったな」
牢人者は、三杯目をなみなみと、注いだ。斗酒なお辞せずのようであった。
それを見まもる柿丸のまなざしが、畏敬の色をふくんでいた。
「お手前様は、どうして、ここに、在られたのでござろうか?」
「この砦の守将が、旧知だった。たずねて来たら、滅んで居った。人間の運は、わからぬ。天下人を夢みて居る奴だったが……」
「お手前様が、一日早く到着されていたならば、勝敗はどうなっていたか、わかり申さぬ」
「世辞は止せ、と云っているぞ。……おれは、野良犬だ。軍略など、何も知らん。第一、いくさに加わるためにやって来たのではない」
「そのようなことを申される御仁こそ……、いや、これも世辞になると、叱られそうだから、やめておこう」
柿丸は、かぶりを振った。
牢人者は、やおら、立ち上った。
「おれは、出て行く」
「あいや!」
柿丸が、呼びとめた。
「お手前様は、おいそぎでござろうか?」
「いそぐ? ははははっ」
牢人者は、声をたてて笑った。
「多門夜八郎に、急ぎの用など、あろうはずがない」
──たもん、やはちろう!
柿丸は、その姓名を、脳裡にたたみ込んでおいて、
「それでは、ひとつ、お願いの儀がござる」
「なんだ?」
「この高明寺高政殿の息女を、館まで、おつれ頂けますまいか。お手前様としては、助けたついで、と申すもの」
「|莫《ば》|迦《か》を云え。救ってやったからといって、家までとどけてやる義理などはない」
「ほうびなど、欲しい御仁とは見え申さぬが……、女子はきらいでござるか?」
「好きだな」
「それでは、おつれ下され。梨花どのは、美女でござる」
「お前に云われなくとも、わかって居る」
「お願い申す」
柿丸は、両手を板敷きへついて、頭を下げた。
「お前が、つれて行け」
「それがしは、拉致した者でござる。つれて行くことは、叶い申さぬ」
「それでは、女を、ここへ、すてておけ。足があれば、歩いて帰るであろう」
「お手前様は、よほど、ひねくれたご気象でござるようじゃ」
柿丸は、歎息した。
この時、梨花が、きっと、顔をあげた。
「わたくしは、もう、館へは、戻れませぬ」
「戻れぬはずがあろうか」
柿丸が、かぶりを振った。
「館では、いまごろ、大騒ぎをしてござろう。戻れば、大よろこびをされるじゃろう」
「いいえ! いったん敵の手にとらわれた者が、生きておめおめと戻ることは、できませぬ。……わたくしも、左様な恥辱には、堪えられませぬ」
「そなたの家では、そのように、家門の栄誉を誇って居るのか?」
夜八郎が、急に、鋭い視線を、梨花にくれた。
「|桓《かん》|武《む》|平《へい》|氏《し》以来の家ならば、当然でありましょう」
「そうか。そなたは、心から、そう思っているのだな?」
「思って居ります」
「よし!」
夜八郎は、柿丸を、振りかえると、
「お前は、おもてへ出て居れ」
と、命じた。
「どうなされるぞ? まさか、これだけの美女を、むざと、殺されるのではござるまいな?」
「殺しはせぬ。犯すのだ」
夜八郎は、平然として、云ってのけた。
犯す、と云われて、柿丸は、唖然となった。
「どういう存念かのう?」
「よけいなことを、きくな!」
「それは、まあ……、人それぞれ、思案はあるじゃろうが……」
柿丸は、べつに、反対する理由も、思い当らなかった。
梨花が、家門の栄誉に誇りを持っている、と云ったのが、多門夜八郎のカンにさわったのである。
柿丸には、夜八郎が腹を立てた気持が、わかるような気もしたのである。
やがて──。
柿丸は、どこで見つけたか、柄の焼けた|鍬《くわ》を片手に携げて、廃墟に立った。
毛利伝十郎と仲間三人の屍骸を、葬ってやろう、と思いたったのである。
戦場の討死者は、味方が敗北した場合には、そのまま、野ざらしになってしまうのがならいであった。柿丸としても、べつに、葬ってやらねばならぬ義理はなかったが、この男の心には、そんな優しさがのこっているとみえた。
ざくっ、ざくっ、と土を掘り起しながら、柿丸は、口のうちで、なかば無意識に、念仏をとなえていた。
そのうち、柿丸の脳裡には、十年前の思い出が、よみがえっていた。
十年前、十一歳の柿丸は、病弱な母親につれられて、東国へむかって、旅をしていた。母親は、なぜ、東国へ行こうとするのか、息子には、打明けていなかった。しかし、柿丸の方では、うすうす感づいていた。
母親は、ある軍勢が暴風雨のような勢いで、通過して行った道筋の農夫の娘であった。その時、髯武者の一人に、犯されて、柿丸を生んだのである。髯武者は、東国の住人であることを告げて、去っていたので、母親の念頭から、まだ見ぬその土地のことが、はなれなかった。
その髯武者が、でたらめを告げたのかも知れないし、本当であったとしても、はたして、まだ生きているかどうか、わからなかったが、息子が大きくなるにつれて、母親は、一目会わせたい想いがつのって来たのである。
そして、ある郷士の家の下婢をしていた母親は、思いきって、柿丸をつれて、東国をめざしたのであった。
だが、病弱な女にとって、生れてはじめての長旅は、到底無理であった。
もう、故郷にはひきかえせない遠い他国まで来て、母親は、倒れた。
ある|古《こ》|刹《さつ》の裏にある墓守りの小屋で、十日あまり寝てから、息をひきとったのであるが、その臨終で、母親は、柿丸に、はじめて、父親の名を告げたのである。
柿丸には、横川勘兵衛というその名など、おぼえておく気持はなかったが、なんとなく、いまも、脳裡に、刻んでいる。
柿丸は、墓守りが、老爺であったので、自分一人で、墓穴を掘って、母親のなきがらを埋めたのであった。
──あの夜も、月がきれいじゃった。
柿丸は、大きく掘りひろげた墓穴へ、月光が降って来るのを眺めて、胸のうちで、呟いた。
母親のなきがらは、少女のように、小さいものになっていた。それを、そっと、穴底へ横たえた時、月光をあびた死顔が、十一歳の柿丸には、大層美しいものに見えたことである。
柿丸は、泪をぽたぽたとこぼしながら、その死顔へ、土をかぶせたものであった。
その思い出をよみがえらせて、柿丸は、胸の底に、微かな痛みをおぼえている。
「つらかったのう」
思わず、そう呟いてから、柿丸は、われにかえり、墓穴から、はい上った。
四個の死体は、近くに、ならべて、寝かせてあった。
それを、つぎつぎと、墓穴へはこんで来た柿丸は、葬りおわると、
「殺しあった者同士が、一緒に葬られるのは、あじけなかろうが、あきらめてもらおう。穴を四つも掘ってやるほどの親切心は、持たぬ」
と、ことわって、合掌した。
それから、ゆっくりと、建物へひきかえして来た。
|恰度《ちょうど》その時、多門夜八郎が、出て来た。
「犯されたかな?」
柿丸は、訊ねた。
こんな質問は、ひどくばかげている。
夜八郎は、こたえずに、歩き出そうとした。
「梨花どのを、すてて行かれるのか?」
「お前に、まかせる」
「それは、迷惑至極でござる」
柿丸は、かぶりを振った。
「お前は、どうやら、善良な若者らしい。不運な娘を世話するために、ここにいるようなものだ」
「勝手なことを申されるものじゃ」
不運な女など、母親を見ただけで、たくさんである。
あの梨花が、この牢人者に犯されたために、もし、懐妊したら、どうなるというのであろう。
柿丸が、一人だけ、仲間からはずれて、傍観者の立場をえらんだのは、不幸な母親のことを思い出していたからである。
「お願いでござる。梨花どのを、おつれ下され」
夜八郎は、こたえず、歩き出そうとした。
「梨花どのが、もし、お手前様の子供を生んだら、かわいそうでござる」
「子供を生む?」
夜八郎は、柿丸の言葉に、頭をまわした。
「お前は、なぜ、そんな想像をするのだ?」
「………」
柿丸は、ちょっと、返答に窮した。
「そうか」
夜八郎は、合点した。
「お前が、そうやって、生れて来たのか」
野の果て
丘陵の麓に、かなりの騎馬の音が、起ったのは、その時であった。
夜八郎は、ちょっと、耳をすましていたが、柿丸を振りかえると、
「おい──、どうやら、かぎあてられたようだな」
と、云った。
「高明寺高政の手勢だと、申されるのか?」
「敗走して来た者どもなら、あのように馬脚に力をあまさせては居るまい」
蹄の音をきいただけで、それを判断できるには、相当の経験を積んでいなければならぬ。
──この牢人衆は、いよいよ、ただものではないようだ。
柿丸は、あらためて、自分に呟いた。
「いかがされるかな?」
柿丸は、たずねた。
「女に、きいて来い」
「かしこまった」
柿丸は、すばやく、屋内に駆け入ると、板敷きに巨きく映した影法師を、ゆらゆらとゆらめかせて、ひっそりとうなだれた梨花に、
「高明寺家の手勢が、迎えに参り申した。いかがなされるぞ?」
と、声をかけた。
梨花は、すっと、立った。
「わたくしは、戻りませぬ」
「されば……、多門夜八郎殿に、|従《つ》いて行かれるか?」
「従いて参ります」
「よし、きまった! さ、ござれ」
柿丸は、燭台のあかりを吹き消すと、梨花の手を引いて、おもてへ奔り出た。
──と。
夜八郎の姿は、どこにもなかった。
「おっ! わしらを置いて、逃げるとは卑怯!」
柿丸が、叫ぶと、
「ここだ」
夜八郎の返辞があった。
夜八郎は、建物の蔭に、毛利伝十郎が乗って来た馬に、またがっていた。
「梨花どのは、馬をこなすことは、どうじゃ?」
柿丸が問うと、梨花は、かぶりを振った。
「習うて居りませぬ」
これをきくや、夜八郎が、手をさしのべた。
「乗れ」
梨花は、夜八郎の心の|裡《うち》を読みとりかねて、一瞬、ためらったが、斜面を駆け上って来る騎馬の音に、はっとなって、その手にすがった。
柿丸は、すでに、自分の乗って来た馬に、またがっていた。
二騎は、追手と反対の方角へ、疾駆しはじめた。
夜八郎も柿丸も、ただの乗り手ではなかった。
梨花は、必死に、夜八郎のせなかにしがみついて、まぶたを閉じていた。
ふしぎな陶酔感が、梨花のからだをひたしていた。
男の体躯の逞しさを、頬や腕や胸に、じかに感じながら、疾駆するがままにまかせていることに、梨花は、はじめて、若い血の燃えるのをおぼえたのである。
この男は、つい、先刻、自分のからだを、弄んだ憎むべき人物であった。にも拘らず、梨花は、もう、みじんも、憎悪を抱いてはいなかった。
自分は、文字通りすがりつくべき男を、得たのである。
その意識が、はっきりと、心にあった。
梨花は、不幸な育ちかたをした娘であった。
梨花の母は、梨花を生むとすぐ、亡くなった。美しく、優しい婦人であった、ときく。梨花にとって、第一の不幸がそれであった。
第二の不幸は、父高明寺高政が、城取りの野望の権化で、わが子のことなど一顧もしない冷酷非情の武将であったことである。梨花は、父に抱かれたことはおろか、優しい言葉ひとつ、かけられた記憶がなかった。
第三の不幸は、つぎつぎにとりかえられる義母が、一人のこらず、意地悪な女だったことである。そして、梨花を守ってくれる老女も侍臣もいなかったのである。
梨花の十九年間は、完全な孤独であった、といえる。
もし、このような不幸な育ちかたをしていなければ、自分を犯した男に対して、すぐに憎悪を忘れることはできなかったであろう。
十九歳の若い生命は、いまようやく、自由の世界へとび出して、はつらつとはばたこうと、しているようであった。
逞しい男に、しがみついていることが、こんなにも、快いことなのか。身がおどるにつれて、心もおどっていた。
「あっ!」
突如、梨花は、悲鳴をあげて、宙をもんどりうった。
馬が、かなりの幅の川を跳び越えた瞬間、前脚を折ったのである。
ひらっと、はねあがって、草地に立った夜八郎は、つづいて、たくみに跳び越えて来た柿丸が、たづなを引いて、
「これに乗られませい」
と、すすめたが、黙って、夜明けの|狭《さ》|霧《ぎり》の中をせわしく蹄の音をひびかせて追って来る黒い速影の群へ、視線を置いた。
「それがしが、この川ぶちで、なんとか、くいとめ申す!」
柿丸が、馬からとび降りて、叫ぶと、夜八郎は、
「ばかを云え」
と、云いすてておいて、その馬へ、ひらりと、またがったか、とみるや、川面の上を躍って、追手陣めがけて、逆に、まっしぐらに、馬をとばしはじめた。
夜八郎は、追手を、七八騎と、看ていた。
これは、まちがいなかった。
指揮をとるのは、高明寺高政の甥にあたる高明寺源太郎といい、まだ二十歳をこえたばかりであったが、|膂力《りょりょく》三十人力と称される巨漢であった。
梨花を、いずれ、わが妻に、と心にきめていたので、拉致された、ときくや、憤怒|凄《すさま》じく、ただ一騎で、陣屋をとび出したのであった。
二里を|迅《はや》|駆《が》けて、ようやく、七騎の血気武者たちが追いつくのを待ち、四方へ奔らせ、焼け砦に、梨花がつれて行かれた、とつきとめたのであった。
こちらが、麓に到着するや、はやくも遁走を企てる敵を、
──小面憎し!
とばかり、馬脚をあおった高明寺源太郎は、一気に追いついて、討ち果す闘志を、全身にみなぎらせていた。
追手勢にとって、邪魔であったのは、夜明けの狭霧であった。
これがなければ、もっと早く、追いつけたはずである。
ようやく、あと一息と源太郎とその供七騎が、闘志を昂めた──その時である。
狭霧の中を、むこうから、逆に、こちらへ向って、一騎が疾駆してきたのである。
「なんだ、|彼奴《き ゃ つ》っ!」
高明寺源太郎は、不審のままに、腰の太刀を抜きはなった。
つづいて、うしろの七騎も、抜刀した。
狭霧を割って、敵騎の速影が出現した。
とみた刹那──。
「おーっ!」
高明寺源太郎は、物凄い呶号をほとばしらせて、そやつめがけて、三尺四寸の白刃を、あびせかけた。
次の瞬間、刃金の鋭いひびきの中で、高明寺源太郎は、その右手がしびれ、大きくゆれて、宙へ抛り出されていた。
自分でも、どうして、こんなぶざまな敗北を喫したのか、わけのわからぬままに、源太郎は、地面へ、たたきつけられたのである。
「く、くそっ!」
はね起きた源太郎は、おのが部下が、つぎつぎと、馬からころげ落ちるのを、目撃して、一瞬、唖然となった。
人間業とも思われぬ敵であった。
げんに、その一瞬には、
──何かの化身か?
と、神仏の存在などみじんも信じない源太郎が、思ったことである。
敵は、追手八騎を一人のこらず、馬上から消えさせておいて、さっと馬首を向けかえて、ひきかえして来るや、こんどは、主を失ってうろつく馬どもを、追いはらった。
どの馬も、尻を斬られて、悲鳴をあげて、八方へ、駆け散ってしまった。
「待てっ!」
高明寺源太郎は、そのまま自分の横手を駆け抜けようとする敵騎に向って、狂気のように、躍りかかった。
しかし、あっという間に、数間の距離をはなされてしまった。
「待ていっ! 卑怯っ!」
源太郎は、あらん限りの声をふりしぼった。
それをきいて、多門夜八郎は、たづなを引いて、頭をまわした。
皮肉にも、狭霧は、その時きれいに散っていた。
「卑怯とは?」
「卑怯ではないか、おのれ! 馬から、降りろ! 降りて、尋常に、勝負せいっ!」
そう叫びたてる源太郎の形相は、悪鬼に似ていた。
夜八郎は、にやりとして、
「その折れ刀でか」
「な、なにっ!」
源太郎は、はっとなって、おのが右手につかんだ太刀を、視た。
なかばから、折れている。
どうして、これに気がつかなかったのか。
「ふふふ……。剛勇を自慢する面だましいをそなえているようだが、刀を両断されていることも気がつかぬほど、逆上していては、勝ち目はない。……生命びろいをした、と胸でも、撫でおろすがいい」
「うぬ! ほざくなっ!」
源太郎は、倒れた部下の一人の手から、太刀をもぎ取って、
「勝負せいっ! 勝負っ!」
と、絶叫した。
「ひろい刀で、勝てるか! 莫迦者っ!」
「降りろっ! 降りんかっ!」
「勝負は、後日にあずけておく。自分の得物で、かかって来い。……おれは、多門夜八郎。主人も家も持って居らぬから、いずれは、何処かの山野で出会うだろう」
「よしっ! 高明寺源太郎の名を、おぼえておけ」
「忘れることもあるが、出会ったら、思い出してやろう」
夜八郎は、皮肉な一言をのこして、みるみる遠ざかって行った。
源太郎は、大きく吐息した。
こんな惨めな敗北は、生れてはじめてであった。
どうして、あんなに、あっけなく、馬から抛り出されたのであろう。どう考えても、納得できなかった。
敵は、ただ、さっと、脇を駆け抜けて行ったばかりである。その白刃の閃きすらも、源太郎は、目にとめていなかった。
にも拘らず、こちらの太刀は半ばから両断され、身は宙へ抛られていたのである。
「くそっ!」
呻きながら、源太郎は、視線をまわした。地上に|仆《たお》れた七名の部下は、のこらず、息絶えていた。
川を躍り越えて、夜八郎は、柿丸と梨花のそばへ、戻って来た。
「いやあー、おどろき申した。お手前様は、鬼神に等しい御仁じゃ!」
柿丸は、心から、叫ばずにはいられなかった。
朝陽をあびた夜八郎の面貌は、やはり、くらいものだった。無表情が動かぬのである。
「お前が、この娘をつれて行くなら、馬をやる」
夜八郎が、そういうと、柿丸は、あわてて、かぶりを振った。
「それがしは、徒歩で、お供つかまつる」
「馬について、走れるのか?」
「まあ、ごらんなさるがよい」
柿丸は、にやっとしてみせた。
二十歳の若者の健康な表情であった。
夜八郎としては、行きがかりから、やむなく、梨花をつれ、柿丸を供させることになった。
孤独を好み、これまで、ただの一度も、徒党に入らず、友もつくらず、まして、愛する女などを連れにしたおぼえのない夜八郎であった。
いわば、群から離脱した|剽悍《ひょうかん》な一匹の狼であった。
──煩わしいな。
そう思いつつ、梨花を、うしろに乗せ、馬を走らせはじめた。
一里ばかり、かなりの迅駆けをやりながら、夜八郎は、一度も、うしろを振りかえらなかった。
丘陵を二つばかり越えて、平原が地底へ落ちるように傾斜して、展望される一角へ降りた時、夜八郎は、はじめて、馬をとめて、頭をまわした。
柿丸は、ちゃんと、うしろに、くっついていた。
喘ぎもせず、汗もかかず、けろりとした様子をみせている。
「お前は、小鷹の術でも習ったのか?」
夜八郎は、たずねた。
「なんとなく馴れて居るだけでござる」
「なんとなくか──ふん」
「まことでござる。戦場の雑兵は、わが生命を守るには、人よりも一歩はやく、逃げなければなり申さぬ」
「成程な。しかし、お前は、ただ馴れだけで、今日まで、無事に生きのびたのではなかろう。適当な血の巡りの早さと、四肢に生れついての敏捷さがそなわっているようだ」
「おほめにあずかって、恐れ入りたてまつる」
「ほめているのではない。此後は、それが、かえって、おのれに、禍となるかも知れぬ、と申すのだ」
「左様でござろうか。たとえば、どういう場合でありましょうか?」
「たとえば、おれのような、あまり幸運というものに縁のない牢人者に、なんとなく、くっついて来るがごときだ」
夜八郎と梨花と柿丸は、陽が中天に昇った時刻に、ようやく、傾斜する広大な平原を、つききった。
そのあいだ、ついに、人家を一軒も、みとめなかった。
海にむかってひろがった野とちがって、これは、完全に不毛地帯であった。
途中で、夜八郎が、|小《こ》|柄《づか》を投じて、兎を仕止めて、これを焼いて、腹を満たした。柿丸が、塩を持っていたので、梨花も、口に入れることができた。
その憩いのひととき、柿丸が、夜八郎に、遠慮ぎみに、素姓をきいた。
すると、夜八郎は、口辺に冷やかな微笑を刷いて、
「おれが、天子の落し子とでも打明けたら、満足するのか」
と、こたえた。
「まことでござるか?」
柿丸は、居ずまいを正しそうになった。
「お前は、血の巡りの早いくせに、|虚《こ》|仮《け》にちかいほど|莫《ば》|迦《か》正直な奴だな」
「こういう人間を、おどろかせるものでは、ござらぬ」
「おれが、たとえ、天子の落胤としても、それが、どうだというのだ、その反対に、|犬《いぬ》|神《じ》|人《にん》の末裔であったとしても、それが、現在のおれに、どんなかかわりがある。……天子も犬神人も、この牢人者とは、無縁だ。氏だの素姓だの、そんなものは、おれたちのような者には、一椀の飯ほどの、ねうちもありはしない」
「そういうものでござろうか」
柿丸は、梨花の意見をもとめるように、ちらと、見やった。
梨花は、小さい声で、
「わたくしも、そう思います」
と、云った。
──女子は、一度、肌身をゆるすと、その男に、同化しようと努めるそうだが……。
柿丸は、そう思いつつ、梨花の整った白い横顔を、見まもったことだった。
平原をつききったところに、かなり深い森が、視界をさえぎっていた。
森の彼方に、山嶽はなかった。
「地の果て、とでも申したくなるところでござる」
柿丸が、云った。
夜八郎は、この森は馬ではくぐれぬ、と思うと、未練気もなく、乗りすてることにした。
「柿丸」
「はい」
「おれは、森の中を歩くのは、不得手だ。お前は、どうだ?」
「いささか、心得て居り申す」
柿丸は、先に立った。
その時分から、梨花は、貧血を起し、めまいをおぼえるようになった。
これに、気づいて、夜八郎が、
「おれの背に乗れ」
と、すすめた。
「いえ……、まだ歩けます」
梨花は、ためらった。
「歩けるとみれば、背負いはせぬ」
夜八郎は、冷やかな声音で、云った。
柿丸が、近づいて来て、
「よいしょ」
と、梨花を持ち上げて、夜八郎の背中に乗せた。
森の中は、|昏《くら》かった。
重なりあって、層をなした枝葉が、陽をさえぎって、すこしはなれると、顔も判別し難くなった。
そして、潅木や|茨《いばら》や熊笹に掩われた地面は、数歩進むのさえ、容易ではなかった。
「引きかえした方がよくはないか?」
夜八郎が、云うと、柿丸は、かぶりを振って、
「この森を突破せねば、里へ出ることは、かない申さぬ」
と、こたえた。
とある地点では、突如、巨きな黒い獣が、躍りかかって来て、柿丸は、潅木を烈しくざわめかして、格闘していたが、ようやく、仕止めて、立ち上った。
顔が、血だらけになっていた。
「まだ子熊でござったが、親熊が、知ったら、追いかけて来申す。そうなったら、ことでござる」
柿丸は、革袋から竹筒に詰めた薬をとり出して、傷口に塗りながら、そう云った。
「街道を奔るのと、どちらが、安全であったか」
夜八郎は、薄闇の中で、苦笑した。
高明寺勢に追われるのをきらって、わざと、こちらへ駆けて来てみたのだが、人間の代りに、野獣を対手にしなければならぬとすると、むしろ、街道を行った方がよかったような気もする。
柿丸のカンに、万事まかせて、歩くよりすべはなかった。
|小《こ》|半《はん》|刻《とき》も進んでから、柿丸が急に、伏せて、土に耳をあてていたが、のこのこと起きあがると、
「はてな?」
小首をかしげた。
「どうした?」
「どうも、妙でござる。これだけ、地面が傾いていれば、もう、そろそろ、渓水の音が、ひびいて来ても、よさそうでござるが……、一向に、きこえ申さぬ」
「谷は、ないのかも知れぬではないか」
「そんなはずは、ないと思うのじゃが……」
柿丸は、なんとも、納得のいかぬ様子を示した。
「ともかく、ここまで来たら、進むよりほかはあるまい」
「それは、そうでござるが──」
さらに、半刻を費した。
柿丸が、ふと思いついて、かたえのかなり高い樹にとびついて、するすると、のぼって行った。
やがて、降りて来た柿丸は、ひとつ、大きく吐息してから、云った。
「森を出たところは、屏風を立てたような絶壁でござる。谷は、そのむこうでござった」
そそり立つ絶壁に沿うて、進むうちに、日が暮れた。
森の中から、山犬の吠え声が起こると、けものたちが、それに応じて、|擾《さわ》いだ。
「果てしがないようだな」
夜八郎も、|流石《さ す が》にうんざりした。
「夜の明けるのを、待つことにしてはどうだ、柿丸?」
「いや、それは、危険でござる。けものどもが、匂いをかぎつけて、寄って参る。それが、すくない頭数ではござらぬ」
「お前は、山中の経験は、豊富のようだな」
「里ぐらしがいやになって、|木《き》|樵《こり》小屋で、四年ばかり、くらしたことがござる」
さらに──。
一里も進んだろうか。
「お!」
柿丸が、闇をすかし視て、声をあげた。
「灯がござる」
「灯?」
「人家がござる」
「こんなところにも、人間が棲んでいるのか?」
夜八郎は、ずっと彼方に、|蛍火《ほたるび》のように、小さくまたたいている灯を、みとめて、あきれた。
やがて、絶壁が、きれて、下方から、渓流の音が、きこえて来た。
「それがしが、様子を見て来申す」
柿丸は、要心ぶかかった。
夜八郎は、梨花を、湿った地面へおろした。
「……足手まといに相成り、申しわけありませぬ」
梨花が、ひくい声音で、詫びた。
夜八郎は、黙っていた。
「迷惑だとお思いではありませぬか?」
「迷惑でないとは云わぬ。……だが、連れて来た以上、やむを得ぬ」
夜八郎は、冷やかな語気で、こたえた。
しばらく、沈黙を置いてから、梨花は、つぶやくように、
「わたしを、ここで、おすてになっても、お恨みには思いませぬ」
と、云った。
「本心か?」
夜八郎は、問うた。
「はい──」
「ばかっ!」
梨花の頬が、鳴った。
そこへ、柿丸が、ほとんど音もたてずに、駆けもどって来た。
「あれは、山賊のすみかでござる」
「そんなところであろうと思っていた」
「炉をかこんで、五人。いずれも、ひと癖ありげな面がまえの|輩《やから》が、酒をくらって居り申す」
「ふむ」
「どうなされる?」
「その小屋で憩うには、片づけるよりほかはあるまい」
夜八郎は、あっさりと云ってのけた。
将軍の旗
成程──山賊にふさわしい凄味とうすぎたなさをそなえた五つの貌であった。
のみならず、いま、|博《ばく》|奕《ち》がたけなわとなって、さらに、その目つきも血走り、片肌双肌ぬいで、焼け|皮《は》|膚《だ》をあぶらぎらせて、いよいよ、すさまじい光景を呈していた。
|就中《なかんずく》──、もっとも際立っているのは、いま、一人勝ちのにやにや笑いをうかべている男であった。
まず、異様なのは、天狗の落し子のように、極端に突出した鼻梁であった。しかし、泥団子をくっつけた、といった形容は、当らぬ。鼻梁自体は、実に立派な形をしているのであった。ただそれが、目や口とおよそ釣合わぬ。途方もない巨きさなのであった。
目などは、むしろ、小さく、丸く、愛敬があった。
からだは、小柄で痩せて、いかにも貧弱であった。
「へっへっへ……、どうも、すまねえな。今夜もまた、おめえがたは、丸裸になるらしいぜ」
なんともげびた笑い声をたてながら、「ホイ、ホイ……」と、小ばかにした掛声とともに、四人の前から、つぎつぎに、銭をひろい取っていた。
どうやら、この小男のために、他の者たちは、ずうっと、取られっぱなしの模様である。
それに、懲りずに、また、はじめて、たちまち、してやられているけしきであった。
──と。
一人が、小男の手がのびて、自分の前の銭をつかんだ瞬間、凄い目つきになった。
小男は、その殺気をあびて、ひょいと、鎌首をもちあげた。
「遊びに、恨みは禁物だぜ、角兵衛」
そう云った。
角兵衛と呼ばれた男は、顔中に、槍傷刀創をつくっている、いかにも、戦場武者崩れの年配者であった。
「てめえの勝ちぶりに、腹を立てねえ者が、あるか!」
「その気持は、わかるがね、しかし、遊びは、遊びよ。おめえのような荒武者に、かっとされては、おちおち、博奕はやっていられねえ」
小男は、ひろいあつめた銭を、じゃらじゃら、わざとらしく鳴らして、胴に巻きつけた汚れ布の中へ、しまった。
「百平太!」
ほかの一人が、小男を、睨んだ。
「てめえは、まさか、手妻を使っているんじゃねえだろうな?」
「なんだと?」
「てめえは、むかし、|放《ほう》|下《か》|師《し》だった、ときいたことがあるぞ」
「おいおい、おめえら、いくら、負けつづけたのが口惜しいからといって、あらぬ疑いをかけるのは、止してもらおうぜ」
たしかに──。
小男百平太の方に、やり込める利があった。
しかし、しだいに険悪な空気になって来ると、百平太の巨きな鼻が、四人の目には、なんとも、小憎らしいものに、映って来たのである。こんなばかげた鼻を持っている奴は、仲間を|騙《だま》して、金をまきあげるくらいの狡猾なまねは、平気でやるに相違ない。そんな腹立たしさが、期せずして、四人の胸中にわいた。
「百平太、銭を、みなにもどせ。てめえが、手妻を使っているかどうか、もう一度、やりなおして、とくと見とどけてやる」
角兵衛が、云った。
「冗談じゃねえ。やりたけりゃ、おれから、借りてもらおうぜ。せっかく勝ったのを、もどすなんて、まっぴら御免だね」
「百平太! てめえは、たしかに、手妻を使いやがった!」
突如、一人が、呶号して、野太刀をひっつかむと、立ち上った。
「なんだ! どうしようと云やがるんだ?」
百平太は、他の四人もまた、あきらかに殺意をこめた気色をみなぎらせたのを視て、狼狽を示したが、
「くそ!」
と、恐怖をはねのけて、痩せ肩を張った。
「おれは、手妻なんぞ、絶対に使わねえぞ! 神に誓ってやらあ、神に!」
「笑わせるな! てめえが神に誓ったら、神様の方が、にげ出すぜ」
一人が、いきなり、手槍をつかむや、柄で、百平太を突きとばそうとした。
瞬間──百平太は、敏捷な身ごなしで、それをかわしざま、槍をひったくって、とびさがった。
「百平太! やる気か!」
角兵衛が、せせら笑った。
「てめえらとの仲間づきあいは、もうまっぴらだ。……おい、この百平太は、そう、むざむざ、殺されはしねえぜ」
「ほざくなっ!」
一人が、抜刀するや、青眼にとって、じりじりと、肉薄した。
急に──。
小屋の中は、静かになった。
追いつめられた者の、死にもの狂いの反抗が、いかに凄じいものか、四人とも知っていたからである。
百平太を、たたきのめすだけでは、すまなくなったのである。
肉薄した者も、槍の穂先に、おのが太刀の切先が交叉するや、ぴたっと動かなくなった。
対峙が、いつまでも、つづくかと思われた。
と──。
「待て!」
と、角兵衛が、声をかけた。
「おもてに、人がいるぞ!」
──おもてに人がいる?
他の三人も、また百平太も、信じ難い表情になった。
「おれが、見る!」
角兵衛が、云いざま、土間へ跳んで、戸を蹴り開けた。
瞬間──旋風がとび込むように、黒影が、角兵衛へ、体当りをくれた。
「うっ!」
胸いたを、背中まで、刺しつらぬかれて、角兵衛は、のけぞった。
角兵衛ほどの戦場往来の|強《つわ》|者《もの》が、みじんの油断もなく、戸を蹴り開けながら、あっけなく、白刃を突き通されたとなれば、これは、いっそ、対手の迅さを、ほめるべきであった。
侵入者は、刀を抜きとって、角兵衛を突きころがしておいて、
「今晩は、山賊がた──」
と、挨拶した。
まことに小莫迦にした振舞いであった。
虚を衝かれた残り四人は、茫然と、痴呆のごとく、棒立った。
「月がいいぜ。満月だ。外で勝負しようか」
侵入者は、また、人を喰った言葉を吐いた。
「ほざくなっ! 野郎、どこの馬の骨だ?」
一人が、われにかえって、噛みつくように、呶鳴った。
「馬の骨じゃねえ。渡り鳥だ」
「なにをっ!」
「ねぐらが、欲しいんだ。お主らを斬ったあとで、ゆっくりと、その炉端で、寝かせてもらう」
「この青二才め! どこまで、人をなめてやがる!」
一人が、抜き討ちに、躍りかかった。
柿丸は、おそろしく、敏捷なかわしぶりをみせて、ひょいと、おもてへ、にげた。
山賊たちは、どっと、追って出た。
ただ、百平太だけは、何を思ったか、炉端にのこった。
呶号と刃風と、地面をふみ鳴らす音と、そして、濡れ手拭いを振るような人体の斬られる音が、絶鳴を呼んで、つづけざまに、起った。
百平太は、首を縮めて、それを、じっと、きいていた。
おもてが、静かになった。
すっと、土間に入って来たのは、角兵衛を突き刺した若い侵入者ではなく、昏い翳を刷いた牢人者であった。
そのあとから、若い侵入者と、もう一人──若い女が、姿をみせた。
百平太は、女の顔の美しさに、目を光らせた。
夜八郎は、のそりと、板敷きに上ると、
「お前は、なぜ、そこに、のこっている?」
と、問うた。
「へへへ……」
百平太は、殊更に卑屈な笑顔をつくってみせた。
「斬られたくはなかったんでね」
「これから、斬られるかも知れぬぞ」
夜八郎は、云った。
「降参します。この通りに──」
百平太は、両手をつくと、平伏した。
「ひどく、気の弱い山賊だな」
「左様。いまだ、人を殺したことがござらぬ」
「べつに、自慢にはなるまい。おのれが、狡猾に生れついているからではないのか。殺す役目は、他人にまかせて、女や金品を|掠《かす》めとる──そうではないのか」
「よくおわかりでござる」
「お前のような男の方が、たちがわるいといえるな」
夜八郎は、一歩、出た。
「お、おゆるしを!」
百平太は、懐中から、金袋をつかみ出すと、前へ置き、ずるずるっと、あと退って、|平《ひら》|蜘《ぐ》|蛛《も》のようになった。
「そうやって、内心、舌を出している──それが、お前の、今日までの処世方法だろう」
「おゆるしを! |何《なに》|卒《とぞ》、おゆるしを!」
「年貢の納め時だ。覚悟をせい」
夜八郎は、さらに、一歩迫った。
百平太は、顔を|擡《もた》げて、夜八郎を、視あげた。
「本、本当に、斬ると、いわれるのか?」
「斬る!」
「どうしても?」
「四人の仲間が、あの世の入口で、待っている。お前一人だけ、たすかろうというのは、いささか、虫がよすぎるぞ」
夜八郎は、じっと、睨み下している。
百平太は、またたきもせずに、見つめかえしていたが、
「成程──」
と、合点した。
「たしかに、これまでは、このように卑屈な態度をみせれば、どうやら、生命の安全だけは保て申した。が、お手前様には、通用せぬらしい。……あきらめると、いたそう」
「よい覚悟だ」
「斬って頂きましょう」
百平太は、正座しなおすと、|目《ま》|蓋《ぶた》を閉じて、合掌した。
「念仏は、声をあげて誦す方がよかろう」
夜八郎が、云った。
「勝手でござる。……どうせ、極楽には行けぬ身なれば、これは、恐怖をはらいのけるための方便にすぎ申さぬ」
「よし!」
一瞬──。
炉火を反射して、一刀が、振り下された。
閃光は、旋回して、はねあがった。
百平太は、
「うわああっ」
と、悲鳴をあげて、ひっくりかえった。
仰向けに、板敷きをひびかせた百平太は、わななく手で、両耳を押さえた。
その指のあいだから、みるみる、血汐が噴いた。
二つの耳が、虫のように、板敷きに、落ちていた。
百平太は、激痛に堪えて、仰臥しながら、夜八郎を仰ぎ、
「ど、どうして、耳だけを、斬られたぞっ?」
と、わめいた。
「のぞみとあれば、こんどは、両手を|刎《は》ねてくれようか」
「な、なにをっ……、阿呆らしい!」
百平太は、顔中を、くしゃくしゃに歪めて、のろのろと起き上った。
そして、ふたつみつ、大きな喘ぎをみせてから、
「生命だけは、たすけて、下さるんで、しょうね?」
と、たずねた。
「生かしておいても、益にはなるまいが……」
「毒にならんように、お手前様の、家来にして頂きましょう」
「おれ自身が、悪党の部類に属する」
「そ、それなら、それで、役に立ちまさあ」
そう云いながら、百平太は、だんだん、うなだれてゆき、ついに、俯伏してしまった。
意識を、喪ったのである。
「柿丸、手当をしてやれ」
「かしこまった」
柿丸は、百平太を仰向けに寝かせながら、
「途方もない鼻よのう」
と、感嘆した。
夜八郎は、炉端に、腰を下すと、|粗《そ》|朶《だ》をくべて、火を大きくした。
梨花が、むかいに坐ると、夜八郎は、ふと視やって、
「そなた、熱があるようだな?」
「いえ……」
梨花は、俯向いて、かぶりを振った。
「かくさんでもよかろう。……横になるがいい」
「はい──」
「親切で申しているのではない。患われては、面倒だから、云うのだ」
「はい……、では、やすませて頂きます」
梨花は、横になると、たちまち、深淵へ落下するような疲労感で、いったんとじた目蓋を、ひらく力も失せた。
柿丸は、手当をしてやった百平太を、片隅へ寝かせておいて、
「さて、──、また、墓穴を掘らねばならぬが……」
と、独語して、土間に降りた。
「すてておけば、けものが、きれいに白骨にしてくれよう」
夜八郎が、冷淡に、云った。
「いや、そういうものではござるまい。生命をすてて、この小屋を提供してくれた御仁たちでござるゆえ、埋めてやらねばなり申さぬ」
柿丸は、土間に|仆《たお》れている角兵衛の死体をかつぎ上げて、おもてへ出て行った。
梨花は、ふっと、目がさめた。
かなり高い熱が出ているらしく、からだ中がけだるく、手足をうごかすのも億劫であった。
うるんだ|眸子《ひ と み》を、そっと移して、夜八郎の姿を、もとめた。
意外にも──。
夜八郎は、炉端に──同じ場所に、依然として、坐っていた。
目蓋を閉じて、まどろんでいる。
坐ってねむることのできる男なのであった。
「………!」
梨花は、まばたきもせずに、夜八郎の横顔を、見つめた。
なぜか……。
その横顔には、淋しい色が、ほのかに滲んでいる。
梨花には、それが、はっきりと、見てとれた。
孤独に育った者のみが、それはみとめ得るものかも知れなかった。
──この御仁も、ひとりさびしく生い育ったのであろうか。
きっと、そうなのだ、と梨花は、自分にうなずいた。
常に、皮肉な言辞を弄し、冷たい態度を持しているが、実は、その心の奥底には、孤独の哀しみを、湛えているに相違ない。
梨花は、その横顔を見つめているうちに、ふっと、泪ぐんだ。
──さびしいおひと!
──わたくしが、そばにいて、なぐさめてさしあげられるものならば……。
梨花は、胸のうちで、つぶやいた。
その時、梨花のまなざしで、ねむりをさまされたように、夜八郎は、双眼をひらいた。
梨花は、反射的に、目蓋をふさいで、ねむったふりをした。
こんどは、夜八郎が、梨花の寝顔を、見下す番になった。
夜八郎は、つと、片手をのばして、梨花のひたいへ、てのひらをあててみた。
「熱が高いな」
夜八郎は、立って行くと、台所の水瓶から汲んで、布を濡らして、もどって来た。
それを、梨花のひたいにあててやり、炉火に、粗朶をくべて、焔を大きくした。
と──。
夜八郎は、梨花のふさいだ眸子から、睫毛を押しあげるようにして、泪の粒が、湧きあがるのを、視た。
──目を覚ましていたのか。
ちょっと、当惑の面持になった。
かけてやる言葉を見出せないままに、夜八郎は、腕組みをした。
感傷というものを、極度にきらう生きかたをして来た夜八郎である。
こうした、夜の静寂の中で、若い女に泣かれるのは、まことに苦手であった。
「……貴方様は、お優しいかたなのですね」
梨花が、つぶやくように云った。
「優しい?」
夜八郎は、梨花を見かえして、けげんな表情になった。
自分という男に対して、優しい、などという言葉を与えられたのは、生れてはじめてであった。
ほかのいかなる言葉よりも、夜八郎を、あっけにとらせ、そして狼狽させた。
「おれが、優しい?」
「はい──」
「どういうのだ? なんのこんたんから、そんなことを云うのだ?」
「ただ、そう思いました」
「ただ、そう思った?……おれが、|慍《おこ》るのを承知で、そんなふざけたことを云うのか?」
「い、いいえ! わたくしは、ただ、心から、そう思って──」
「止せ!」
夜八郎は、炉火へ、あらたな枯枝を、たたき込んだ。
「おれは、そなたを、犯した。厄介に思っている。いっそ、すてて来れば、さばさばしたものを、と後悔しているくらいだ。おれは、おれ自身の心のままに振舞い、正直な言葉を吐いている。ひとつとして、そなたに感謝されるようなことを、して居らぬし、云っても居らぬ。……そなたは、おれが、額をひやしてやったので、おれを、優しい男だ、と思いちがえたのか。親切心からではない。明朝ここを出発する時、熱を出されていては、厄介だからだ。背負うて行くのは、やりきれぬ。歩いてもらいたいものだ」
夜八郎は、喋っているうちに、次第に、烈しい語気になった。
しかし、梨花は、もう|怯《お》じなかった。
「わたくしは、ひたいをひやして頂いたので、貴方様が、お優しいかたと、思ったのではありませぬ」
「………?」
「貴方様の、まどろんでおいでの横顔を、拝見しているうちに……、貴方様が、さびしい心をお持ちのかたなのだ、と思いました」
「………」
「ちがって居りましょうか?」
「………」
「ちがって居りましたら、お詫びいたします。……わたくし自身、さびしく育った女でありますゆえ、貴方様のお顔に、あらわれたさびしい色が、わかります」
「おれは、女に同情されるような生きかたは、して居らぬ。孤独は、おれの好むところだ」
「まどろんでおいでの時は、心の奥にひそめていたものが、お顔にあらわれるのでは、ありますまいか」
「ことわっておく」
夜八郎は、云った。
「女というやつは、いかなる環境に置かれても、おのれの都合のいいような考えを働かせて、おのが座をつくろうとする。そなたは、おれという男を、自分勝手に、解釈して、定めてしまおうとしている。あいにくだが、おれは、ちがう。おれは、気が変れば、そなたを、ここへ、すてて置くことのできる男だ。このことを、ことわっておく。……もう、やすんでくれ。おれも、ねむる」
夜八郎は、ごろりと、横になって、梨花に、背中を向けた。
梨花も、熱のために、もう、眸子をひらいている力はなかった。
……梨花が、ふたたび、目ざめた時は、もう、朝であった。
まだ陽はささなかったが、なかばひらいた戸口から、白い霧が流れ入っていた。
炉火が消えて、冷気が屋内を占めていた。
梨花は、夜八郎の姿が、消えているのに気づいて、はっとなった。
「柿丸殿──」
梨花が、呼ぶと、柿丸は、
「うむっ……」
と、|寐《ね》がえりうって、
「もう、朝か」
と、起き上った。
「あっああ、あーっ! よう、寐た」
両手をさしあげて、あくびする柿丸へ、梨花は、不安のまなざしを当てて、
「多門殿の姿が、見えませぬ」
と、告げた。
「ふーん」
柿丸は、ちょっと小首をかしげたが、ふと、炉端に、妙なものがあるのをみとめて、寄って来た。
それは、錦でつくられた日輪模様の旗であった。
「立派なしろものだが、あの御仁が落されたのか?」
柿丸が、つぶやくと、奥の隅から、
「そうだ。あの牢人衆が、落して行った」
百平太が、云った。
柿丸は、ふりかえって、
「おい! お主は、多門殿が、出て行くのを、見ていたのか?」
「ああ──」
「こやつ、なぜ、わしを起さなんだ?」
「おのれの耳を斬った者を、呼びとめるばかは、あるまい」
百平太は、こたえた。
そう云われれば、その通りだった。
柿丸は、舌打ちして、梨花をかかえ起すと、
「追わねばならん!」
と背負うた。
「おい、おれも、連れて行ってくれ」
百平太が、たのんだ。
「病人を二人も、連れて行けるか。お前は、勝手に、どこへでも行け」
百平太は、一人とりのこされると、さほど悲嘆した様子もなく、すてられた旗を手に把った。
「これは、将軍の旗らしいが……、どうして、あの牢人が、持っていたのか?」
雌雄
おそろしく巨きな|幟《のぼり》であった。都大路の四つ辻のまん中に、立ててある。
この辻へむかって歩いて来る人々は、ずうっと遠方から、これをみとめることができた。
兵火のために、あとかたもなく焼きはらわれたこの地域も、三年と経たぬうちに、あらゆる店が|櫛《しっ》|比《ぴ》して、以前にまさる賑いをみせている。
米、小麦、油、蜜──それぞれ、升や椀に盛られて、売られている。小麦は一斗九升百文、油は一升六十文。値札が貼られているのも、近頃の流行である。
べらぼうに、物価があがってしまったのである。
古着店、道具屋も、多い。古着店には、都をにげ出した公家が、すてて行ったのか、売りはらったのか、束帯やら|狩《かり》|衣《ぎぬ》やら|袿《うちかけ》やら、はては舞楽衣裳まで、ぶら下っている。道具屋には、大鎧、冑、鉄面、弓具、太刀、槍から、馬具、指物、陣太鼓まで、その気になれば、たちまち侍大将のいでたちが整う光景であった。
こうした都の中心にあたるこの四つ辻のまん中に、突然、途方もなく巨きな幟が、立てられたのである。
織るほどの雑沓の流れを、せき止めたのは、髯だらけの、六尺ゆたかな壮漢であった。
幟とともに、長い|床几《しょうぎ》をかついで来て、これに、悠々と寐そべったのである。
まことに、人を食った振舞いであった。
幟には──
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天下第一兵法者・|九《つ》|十《づ》|九《ら》|谷《や》左近
天道照覧真剣試合
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と、筆太に、記してあった。
つまり、この繁華な辻を利用して、挑戦者をもとめて、名を売ろうとするのであった。
数十人に包囲され、じろじろと眺められながら、|肱枕《ひじまくら》で、目蓋を閉じている。
「往来をふさいでは、ただでは、すむまいの」
「いまに、騒動が起るわさ」
「兵法を売りものにするようでは、名人とは申せまい。ぶざまに負けて、こそこそにげ出すのが落ちではないかや」
がやがやとざわめきたてられながら、壮漢は、まるで、午睡でもしているように、微動もせぬ。
やがて、どこかの武将の|麾《き》|下《か》らしい騎馬の一団が、この辻へ駆けて来て、これをみとめた。
「横道者が、大層な幟を立てたな」
先頭の士が、笑って、うしろをふりかえると、
「からかってつかわすか」
と、云った。
「止された方が……。討ちすてても、手柄にはなり申さぬ」
「しばらく戦場に出ぬので、|髀《ひ》|肉《にく》の嘆をかこって居ったところだ」
士は、ひらりと、馬から降り立った。
見るからに強そうな戦場武者が、ツカツカと、近づいて行ったので、群衆は、どっと、どよめいた。
「九十九谷左近!」
思いきった大声が、長床几に寐そべった兵法者へ、あびせられた。
「足利高晴が家中、栗崎左馬之助が、勝負を挑むぞ。起きい!」
しかし、九十九谷左近は、薄目をひらいて、じっと見やっただけで、動こうともしなかった。
「おいっ! その方、つんぼか!」
栗崎左馬之助は、呶鳴った。
「きこえて居る」
「ならば、さっさと、立てい! それとも、対手を見て、強いと知れば、狸寐入りして、避ける存念か?」
「その反対だ」
「なに?」
「勝つことがきまっている対手には、起き上る必要はない」
九十九谷左近は、不敵な言葉を、吐いた。
栗崎左馬之助の面上に、みるみる、朱の色が、散った。
「その高言を、この栗崎左馬之助に向って、ほざくのだな」
「左様──」
「うぬがっ!」
栗崎左馬之助は、足利高晴の麾下として、かなり名を知られた、膂力二十人力を自負する豪の者であった。
これほどの侮辱を受けたのは、はじめてであったろう。
陣太刀のくり[#「くり」に傍点]形をひっ掴んだ左馬之助の左手が、ぶるぶるっ、とふるえた。
次の瞬間──。
「くらえっ!」
大喝もろとも、抜き討ちの一閃を、あびせた。
ばああん、と烈しい音が、はじけた。
ま二つになったのは、長床几であった。
はね起きて、|躱《かわ》した左近の速影は、誰の目にも、とまらぬくらいであった。
左近は、一間のむこうに立って、左馬之助が、長床几を両断して、よろめくのを、眺めた。
左馬之助は、向きなおって、ひとつ、「ふうーっ!」と熱い息を吐いた。
左近は、にやにやして、
「それがしの申したこと、いつわりではあるまい」
と、云った。
「ま、まだっ──わ、わからぬっ!」
左馬之助は、喚いた。
「わからぬとは?」
左近は、眉宇をひそめて、
「これでまだ、腕の差が、わからぬというのか?」
「そうだっ! わからぬぞっ!」
左馬之助は、絶叫した。
栗崎左馬之助としては、こんなぶざまな失敗をやって、すごすごと退くよりは、死んだ方がましであった。
|蝟集《いしゅう》した見物人の目が、ぜんぶ、自分をわらっているような気がした。
生れてはじめて、なんとも堪え難い屈辱をあじわったのである。
「抜けっ! 尋常の勝負っ! 勝負っ!」
左馬之助は、|吼《ほ》えたてるや、陣太刀を、大上段にふりかぶった。
九十九谷左近は、両手をダラリとたらしたなりで、
「ちと、しつっこいな」
と、呟いた。
この時、一人の男が、人垣をかきわけて、ひょいと、首をつき出し、
「ほっ! やり居る!」
と、愉しそうに、にたっとした。
両耳が、なかった。傷あとがひきつれている。
耳というものは、ある時は、いかにも無駄なしろものみたいであるが、こうして、いざ無くなってみると、面相のかたちがすっかり変ってしまい、いかにも滑稽である。
百平太は、あの森林地帯から、どうやって脱出したか、都へまぎれ込んで、|賽《さい》ころひとつを元手に、餌あさりをしているらしい。
あれから、もう三月が過ぎている。
百平太は、ちらっ、ちらっと、左近と左馬之助を見比べたが、
「ちぇっ!」
と、舌打ちした。
「猟師に、|案《か》|山《か》|子《し》が、棒をふりあげているようなもんだ。話にならねえ」
即座に、どっちが、強いか判断できたのである。
百平太は、止せばよいのに、よけいなお節介をやきたくなった。
「おーい! そこの騎馬のお武家衆。お前さんがたの仲間は、えらそうに、大上段にふりかぶっていなさるが、いっぺんに斬られてしまいますぜ。助太刀しなけりゃ、駄目じゃねえか」
左馬之助の耳には、そんな言葉は、全く入らぬようであったが、左近は、悠々たる余裕ぶりを示して、
「くだらん口をきくな、耳無し!」
と、叱りつけた。
「へん! そうじゃねえか。勝つにきまっているんじゃねえか。いっそ、あの五六人もむこうにまわして、派手に、やらかしてもらいてえや」
百平太は、大声で、云った。
その時、左馬之助が、満身からの懸声を噴かせて、斬り込んだ。
左近は、そのわきを、すりぬけて、さっと、数尺をすべり出た。
どのような迅業をつかったか。
左馬之助の両手から、陣太刀は、はなれて、空中へ、舞い上っていた。
その陣太刀は、ちょうど、左近の頭上へ、ひらひらと、落ちて来た。
左近は、ひょいと、つかみとって、
「得物がなくなっては、勝負になるまい」
と、いかにも無造作に、左馬之助へ、ほうり返した。
群衆が、どっと、笑いだした。
その中でも、百平太の、ひっひっひっ、という下卑た笑い声が、いちばん高かった。
左馬之助の顔面は、悲惨なまでに、蒼ざめていた。
左馬之助は、援助でも乞うように、ちらっと、うしろの朋輩をふりかえったが、突如、野獣のような唸り声をしぼると、左近めがけて、滅茶滅茶に、斬りかかった。
狂人そのもののあばれ様であった。
そうでもしなければ、この重なる屈辱を、どうしていいか、わからなくなったのであろう。
左近の方は、にやにやしながら、その無謀太刀を、とびかわし、すべりよけていたが、そのうちに、
「いい加減にせぬかっ!」
凄じい一喝をあびせた。
一瞬、左馬之助が、ふりかぶったまま、動きをとめた。
左近は、その隙をのがさず、抜く手もみせぬ迅さで、白い閃光を、左馬之助の胴へ送った。
峰撃ちであった。
左馬之助は、一本の棒になったように、まっすぐになったままで地ひびきたてた。
左近は、刀を腰に納めると、左馬之助の朋輩たちに向って、
「お主らのうちには、報復したいと思う御仁は、どうやらいないらしい。ならば、この|猪《しし》殿をつれて、さっさと退散されるがよかろう。……おっと、そうだ、忘れて居った」
昏倒した左馬之助にしゃがみかかると、懐中をさぐって、金袋をひき出した。
「これは、当方の|勝《かち》|代《しろ》として、頂戴しておく」
そう云っておいて、大股に、酒を売る店へ、歩いて行った。
この姿を見送って、群衆は、夢からさめたように、一時にさわぎたてた。
こんな途方もなく強い兵法者を、見たことがなかった。幟に書いてある文句は、いつわりではなかったのである。
「まったく、強すぎるぜ、あン畜生っ!」
百平太は、かぶりを振ってから、歩き出した。
──あんなに強い奴を味方につけて、なにか、ひと儲けする仕事はねえかな?
そんなことを、内心、考えながら、辻を抜けて、とある道すじを、ぶらぶらと行く。
やがて、一軒の武具屋の前を通りすぎようとして、何気なく店内を見やった百平太は、
「おやっ!」
と、目を剥いた。
とっさに──。
百平太は、くるっと、|踵《きびす》をまわすや、辻へむかって、とぶように駆けもどって来た。
九十九谷左近は、酒店の床几に腰を据えて、大きな木椀になみなみと盛ったのを、飲みつづけていた。
「天下第一の兵法者殿!」
百平太は、大声で、呼びかけた。
左近は、血相を変えている醜面の男を、じろりと視た。
「お、お願いがござる!」
「なんだ?」
「お手前様の剣術を、買いとうござる!」
「いくらで買う?」
「こ、これだけ──」
百平太は、懐中から、鹿皮で作った袋を、ひき出すと、そっくり、左近に手渡した。
左近は、紐を解いて、てのひらに、受けてみた。
ざらざらと落ちたのは、銅銭ばかりであった。
「それがしの業前を買う金子にしては、チト足りぬな」
「いま、それだけしか、持ち合せがないのでござる。あとで、欲しいと申されるだけ、つくり申す」
「それがしに、押込み強盗の手伝いでもやらせるつもりか?」
「そ、そうではござらぬ。仇討を、つかまつりたい」
「仇討?」
「左様──、父の敵を」
「嘘をつくな!」
左近は、笑った。
「父の敵を討つような、殊勝な面など、しては居らぬ」
「そ、それは……、しかし、ともかく、仇討を──」
「わかった。察するところ、貴様のその両耳を殺ぎ落した奴に、復讐したいのであろう。そうであろう?」
「ご賢察!」
百平太は、正直に叫んだ。
「何者だ?」
「何者とも判り申さぬが……、ともかく、滅法に強い牢人者でござる」
「それがしは、これまで、途方もなく強いとか、はかり知れぬ腕前とか、噂に高い使い手と、立合ったが、いずれも、程が知れた輩であった。貴様ごときが、銅銭五六枚で、それがしを買って、勝負させるような対手なら、見ずとも、わかる。立去れい!」
左近は、金袋を、百平太に、投げかえした。
「まことに強いのでござる! 嘘いつわりは申さぬ! 兵法者なれば、断じて、たたかいたくなる対手でござる!」
百平太は、必死であった。
「うるさいっ! まごまごして居ると、貴様の首を刎ねるぞ!」
左近は、一喝した。
思わず、とびさがったとたん、百平太は、
「あ! あそこへ来た!」
と、指さした。
左近は、百平太が指さす方へ、視線を向けた。
ゆっくりと歩いて来る牢人者を、一瞥したとたん、左近は、急に、鋭くひきしまった表情になった。
百平太は、その様子に、
──しめた!
と、にやりとした。
「彼奴、いかがでござる? 立合うに足りる男でござろうが──」
左近の双眸が、妖しいまでに光った。
歩いて来た牢人者の姿に、みじんの隙もないのを、左近は、みとめたのである。
「お立合いなさるか?」
「むこう次第だ」
左近は、こたえた。
「かしこまった!」
百平太は、走って、その前に立ちふさがると、
「多門夜八郎殿!」
と、大声で、呼びかけた。
夜八郎は、例の暗い翳を刷いた無表情で、百平太を視かえした。
「耳無しか。しぶとく、生きのびたようだな」
「遺恨をはらさんと存ずる」
「白昼、堂々と名のりかけるとは、お前らしくないぞ」
「それがしは、到底お手前の敵ではござらぬ。されば、天下第一の兵法者を、やとって、遺恨をはらす存念でござる」
「成程──。その天下第一とやらは、どこにいる?」
「あそこに──」
百平太は、酒店を、指さした。
夜八郎は、左近を視た。
左近の眼光が、尋常ではないのを、みとめながら、夜八郎は、眉宇もうごかさず、
「強そうだな」
と、呟いた。
「強うござるとも! あの幟を、見られい」
夜八郎は、視線をまわして、幟に記された文句を読んだ。
「耳無し──」
「それがしには、百平太という、立派な名前がござる」
「悪事でよごれ果てた名前だろう。耳無しの方が、よほど、いいぞ。……おれは、売名兵法者などと、立合う興味はない」
夜八郎は、云いすてて、歩き出した。
「挑戦をさけるとは、卑怯!」
百平太は、呶鳴った。
夜八郎は、蝿がたかったほどにも感じない態度で、行こうとした。
「待たれい!」
左近が、酒店から出て来て、呼びとめた。
夜八郎は、立ちどまって、首だけまわした。
「九十九谷左近、ひさしぶりで、真剣試合の闘志を起し申した。立合って頂きたい」
「あいにくだが、おれは、兵法者ではない。剣に、生甲斐など托しては居らぬ」
夜八郎は、こたえた。
「兵法者ではないと申されるが、その五体に、一分の隙もないのは、兵法修業を積んでいる証拠でござろう」
「山野に起き臥しする流浪人が、おのが身を守るすべを、いつの間にか、備えていても、べつにふしぎはあるまい」
「その業を観たいと念ずるのが、兵法者の貪欲と申すもの」
「ことわる!」
「多門夜八郎といわれたな」
「それが、どうした?」
「お主が、あくまでさけようとされるなら、やむを得ぬ。あの幟を立てたところに、高札を立て申す」
「………」
「日時と場所を指定し、もし現れぬにおいては、再び高札をかかげて、天下に、その臆病を嘲罵いたす」
夜八郎は、一瞬、眉目に、殺気めいた気色を掠めさせたが、無言で、左近からはなれた。
「ちぇっ!」
百平太は、いまいましげに、舌打ちした。
「畜生っ! 野郎は、太刀さばきに、迷いでも、生じていやがるんだな」
「そうではあるまい」
左近は、その後姿へ、じっと、視線をつけながら、
「あれは、それがし以上に、闘うために生れて来たような人物と、みた。ただ、今日は、なにやら、別の思念が、胸中にあるように、察しられた。その思念が、闘志をおさえたに相違ない。……高礼を立てておけば、必ず、やって参る!」
「本当に、そうお思いですかい?」
「確信する」
「よーし! しめた! 千人の見物人を集めて、その前で、斬り殺されるざまに、手をたたいてやるぞ」
「百平太、ことわっておくが、それがしが、勝つとは、限らぬぞ」
「冗談じゃねえ。お手前様が、負けるはずが、あるものですかい」
「いや、勝敗は、五分五分と思われる。毛ひとすじの差で、どちらかが、|仆《たお》れる。それが、それがしか、あの仁か、神のみぞ知る」
「心細いことを、云わねえで頂きてえ。お手前様が負けたら、おれは、いったい、どうなるんだ?」
「お前も、あの仁に、斬られるだろうな」
「まっぴらだね。……おねがいでござる! どうぞ、勝って下され。おれは、お手前様が欲しいだけ、黄金をかきあつめて参りますぜ。おねがいします!」
百平太は、両手を合せた。
左近は、高笑いした。
「お前の正直さは、気に入った。せいぜい、金子を盗んで参れ。柳町で、酒池肉林といこう」
煩悩花
多門夜八郎は、それから一刻あまりのち、宇治川から、|木幡里《こはたのさと》に入って、竹の小藪に沿うた細径を、辿っていた。
やがて──。
古びた山門の前に立つと、暗い視線をあげた。
山門にかかげられた「天心山」と雄渾に記された額が、まっ二つに割れている。
七年前、夜八郎が、地面を蹴って、跳び上りざま、斬ったのである。
額は、そのまま、傾いて、支えあって、かかっている。
「………」
夜八郎の蒼白い、|殺《そ》げた頬が、ぴくりと痙攣した。
山門は、無法の振舞いをなした者が、再び訪れるのを、待っていたようである。夜八郎は、山門をくぐった。
ここは、都にある無数の寺院の中でも、指に折られるほどの古刹とおぼしい。
広い境内は、白く、美しく掃ききよめられている。
宝殿、法堂、祖師堂、伽藍堂、禅悦堂など、いずれも、その古びたすがたを、互いに、調和させ、密林の山を背景にして、いかにも、古刹の気品をたたえている。
境内の中央に立った夜八郎は、視線を一巡させてから、
「変っては居らぬ。何も、変っては居らぬ」
と、独語した。
七年前の厳冬──。
夜八郎は、七色の糸で屋根を美しくふいた糸毛車を、牛ならぬ騎馬にひっぱらせ、その騎馬を鞭打って、この山門を、駆け込んで来たのであった。
そして、追跡して来た北面の武士三名を、境内で、またたく間に斬り仆したものであった。
夜八郎が、最後の一人を地に匍わせた時、凄じい一喝が、あびせられた。
枯木にも似た老僧が、杖をついて、立っていた。
「荒れ古びたりとはいえ、当寺は、夢窓国師が開基になる五山随一であるぞ! |解《げ》|脱《だつ》門に通じる菩提路上にあって、殺生の暴虐をなすとは何事ぞ!」
睨みすえられて、夜八郎は、一瞬ひるんだが、
「くそ! 邪魔をすれば、桑門といえども、容赦はせぬっ!」
と、青眼につけた。
「青二才! |愚《ぐ》|禿《とく》が、斬れるか」
老僧は、微笑した。
「案山子を斬るよりも、造作はないぞ」
「よし、かかって参れ」
「斬るぞ!」
夜八郎は、じりじりと、迫った。
老僧は、静止相をそのままに、微動もせずに、夜八郎の迫るにまかせた。
夜八郎の長身から、凄じい殺気が噴いた。
夜八郎は、それまでに、正しい剣の修業などはしていなかった。
ただ、おそるべき|天《てん》|稟《ぴん》をそなえているままに、無法無頼の日々を送って、かぞえきれぬほど人数を殺傷していた。
いわば、荒武者が、合戦の場数を踏むうちに、十人の敵に包囲されても、余裕をもって、血路をひらく業を身につけるように、夜八郎は、ひとたび白刃をかざせば、いかなる強敵であろうとも、これを討ちとる凄じい闘志が燃えたつのであった。
恐怖というものを知らぬ不死身の強さが、夜八郎を、それまでの無数の争闘に、勝たせつづけて来たのである。
いわば、神がかりにも近い自信であった。
枯木にも似た老僧を、ま二つにするのに、なんの造作があろうか。
じりじりと、肉薄した瞬間、しかし、夜八郎の目に、どうしたことか、その白衣の痩姿が、にわかに、|巌《いわお》のように、巨きなものと化したのである。
夜八郎は、
──くそ!
とばかり、全身から、凄じい殺気を噴かせた。
次の一瞬、
「ええいっ!」
と、斬りつけた。
その一閃の白刃が、おのれの双手からはなれて、宙へ飛ぶのに、夜八郎は、愕然と、棒立った。
細い篠竹の杖に、あっけなく、太刀をはねとばされたのである。
信じ難いことが、起ったのである。
老僧は、もとのままの姿勢で、同じ地点に立っている。
「斬れなかったの、若い衆?」
老僧は、微笑した。
「おのれは、なんの化身だ?」
夜八郎は、叫んだ。
「化身に見えるか。おのが頭脳が狂っていることに、気がつくがいい」
老僧は、云いすてておいて、糸毛車に寄った。
中には、猿ぐつわをかまされ、手足を縛られた上臈[#「臈」は底本では草冠「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)。中巻、下巻では「臈」の表記もあり]が、気を失っていた。
「若い衆、この姫君を、どこから盗んで参ったな?」
「陽明御殿からだ」
「ほう──それは、大層な館から、盗んで来たものだ」
陽明御殿とは、近衛家を称する。
関白太政大臣になる摂家である。
「この姫君は、近衛殿の御息女かな?」
「ちがう。摂州の|水《み》|無《な》|瀬《せ》家から近衛の次男に嫁入りして来たむすめだ」
「すると……、お|許《こと》は、婚儀の席から、盗んで参ったのか?」
「そうだ。おれは二年前から、目をつけていたのだ」
夜八郎は、胸を張った。
老僧は、しばし、夜八郎の顔を、凝視していたが、
「お許は、足利一門の生れだの?」
と、問うた。
「そんなことは、どうでもいい」
「どうでもよくはない。足利一門の面貌の特徴は、尊氏殿以来、その大耳にある。お許の耳は、あきらかに、それだな。……あるいは、公方の職を襲う公達として、生れたのではないのかな?」
「うるさいっ! おれは、このむすめが、欲しいだけなのだ!」
「水無瀬家の姫君を妻にせんとする勇気はたのもしいが、その手段がいやしい。お許が、将軍家のおん曹子ならば、ほかにとるべき手段はなかったかの?」
「おれは、名門の、家柄の、地位だ身分だ、と空威張りする長袖族が、大きらいだ。おれは、おれだ! おれは、おれ自身の力で、生きるのだ!」
喚きたてる夜八郎に、老僧は、憐憫のまなざしをそそいだ。
「お許が、この姫君を、おのが腕に抱く資格を得るまでには、なお、数年の修業が要ろう」
「おいぼれ!」
夜八郎は、遠くへ落ちた白刃へ、走って、つかみとるや、再び、猛然と、斬りつけたが……。
眉間に、矢のごとく、落ちた杖の一撃に、あえなく、昏倒してしまった。
意識を、吹きかえした時、老僧の姿も、水無瀬家の姫君の姿も、境内から、消えうせていた。
夜八郎は、満腔の無念をはらすすべもないままに、山門にかかげられた額を、両断して、立去ったのであった。
あれから、七年の歳月が流れすぎている。
再び訪れまい、と思っていたこの古刹へ、夜八郎は、足をはこんで来た。
どうして、おとずれたのか、自分でも、わからなかった。
都へ舞い戻って来たのも、あの時以来である。
漂泊の七年間に、夜八郎は、剣を|把《と》る腕を、鍛えあげていた。といって、あの老僧と、再び闘う意志はなかった。老僧は、さらに老いているであろう。あるいは、もう、この世の人ではないかも知れない。
ただ、日本中を、さまよい歩いているあいだ、夜八郎の脳裡では、老僧の姿が、しだいに、なつかしいものになっていたのである。
陽明御殿から奪って来た水無瀬家の姫君のことなど、はるか遠い、無縁の存在になっていたにも拘らず、老僧だけが、なぜか、記憶の中で、ひときわ鮮やかに、生きていたのである。
さりとて、再会したいという思いは起きなかったのだが……。
──おれは、やはり、あの老僧に、会いに来たようだ。
夜八郎は、おのれに、云いきかせた。
まっすぐに、方丈に足をはこんだ夜八郎は、玄関に立って、案内を乞うた。
若い|納《なっ》|所《しょ》が出て来た。
「御住持は、ご健在であろうか?」
「昨秋来、病牀に|罷《まか》り在りますゆえ、どなたとも、ご|面《めん》|晤《ご》の儀は──」
「左様か──。では、こうお伝え頂こう。七年前、水無瀬家の姫を拉致した無法者が、たずねて参ったが……、姫の消息をご存じならば、お教え頂けまいか、と。……姫の消息が、わかれば、ただ、それだけで、満足いたす」
「しばらく、お待ちを──」
納所は、奥へ入って行ったが、すぐに、出て来た。
「会おう、と申されて居ります。お通り下されませ」
「会って頂けるのか。|忝《かたじ》けない」
そこは、三十畳以上もある広い座敷であった。
その中央に、小さく牀がのべられていた。
人が寐ているとは思えぬくらい、掛具は、平べたくなっていた。
枕にのせている首は、宛然、木彫の像のようであった。
夜八郎が、距離をとって、正座し、挨拶すると、枯れはてた首が、ゆっくりと、こちらへまわされた。
その双眸だけが、生きて、光があった。
しばらく、じっと、夜八郎を、見つめていたが、やがて、微かに口をうごかした。
「七年の歳月は、無駄には、流れなかった、とみえる」
呟くように、そう云った。
「心身とも、未だ修業は、成って居り申さぬ」
夜八郎は、こたえた。
「成らぬ、と|慙《は》じる精神を、お手前は、持った」
「………」
「いや……、死にぞこないの老いぼれが、説法でもあるまい」
老僧は、視線を天井に向けた。
「愚禿は、お手前に、わびなければならぬ」
「それがしに?……それは、どういう──?」
夜八郎は、眉宇をひそめた。
「水無瀬家の姫君のことじゃ」
「………」
「お手前は、あの時、むりやりに、拉致したつもりでござったろう。いやがる姫君を、縛って、掠奪した、と思って居られたな」
「………?」
「ちがった。……姫君は、近衛家の次男との婚儀には、死ぬ思いであった由」
「なに!」
夜八郎は、愕然となった。
老僧は、その枯れた木彫のような小さな貌に、ほのかな微笑を刷いて、夜八郎を、視た。
「姫君は、お手前が、出現するや、救いの神、と悦ばれたそうな」
「まことですな?」
「姫君ご自身の口から、愚禿は、きかされた。……お許は、姫君とは、以前からの知りあいでござったのじゃな?」
「左様──」
「姫君は、お許が、突如、出現いたすや、夢ではあるまいか、と心がおどった由──」
「………」
夜八郎は、茫然となった。
あの夜のことが、まざまざと、脳裡によみがえって来た。
近衛邸へ侵入した夜八郎は、天井裏をつたって、姫の控え部屋へ、とび降りたのであった。
とび降りざまに、燭台のあかりを消したが、もしその時、姫の表情を見とどけておけば、あのような乱暴な拉致のしかたをせずにすんだのだ。
夜八郎は、部屋を闇にしておいて、
「多門夜八郎、姫に、想いを寄せて居り申す。近衛の莫迦息子などに、そなたをくれるわけに参らぬゆえ、うばって行き、それがしの妻にいたす」
そう宣告するや、矢庭に、猿ぐつわをかませ、手足をしばったものであった。
姫に口をきくいとまも与えなかったことが、いまにして、痛恨となる。
もし、姫に口がきけたならば、身柄を掠奪されることが、どんなに、うれしいか、夜八郎に告げたはずである。
おのれが、おそるべき悪業をなしている、という心のあせりが、全く一方的な行動を夜八郎にとらせてしまったのである。
夜八郎は、猿ぐつわをかませ、手足をしばったのみでは気がすまず、当て落して、死人のように無抵抗なものにしておいて、近衛邸から、はこび出したのであった。
あらかじめ、糸毛車を盗んでおいて、それに押し込んで、牛のかわりに、駿馬をつけて奔り出した。
糸毛車の雑色が、それと気づいて、急報したので、激しい追跡を受けることになったのだが、夜八郎は、いやがる姫を無理無体に強奪したと思い込んでいたため、あの結果を招いてしまったのである。
もし、夜八郎が、姫のまことの心を知っていたならば、おのずから、逃亡の方法も、変っていたに相違ない。
もとより、そうなっていたならば、夜八郎自身の人生も、別の道を歩むことになったであろう。
なんという軽率であったろう。
なぜ、あの時、闇の部屋で、姫の心を、ききだす時間を持たなかったのか。
たしかに──姫は、なんの抵抗も示さなかったではないか。
夜八郎は、ふかくうなだれたまま、微動もしなくなった。
後悔が、千本の針となって、全身を刺している。
それに堪えていることが、姫への詫びになっていた。
夜八郎は、ようやく、顔をあげた。
「姫は、いま、何処に?」
老僧は、その問いに、しばらく、こたえなかった。
夜八郎は、待った。
老僧は、ようやく、口をひらいた。
「姫は、墓地に、ねむっている」
「墓地に!」
夜八郎は、心も身も、冷たくこわばるのをおぼえた。
「姫は、この寺で、三年すごされた。それから、燭台の灯がしだいに細くなって、消えるように、この世を去られた。……姫は、お許が、ここへ、やって来るのを、毎日、待っていた模様であった。ひと言も、口には、されなんだが、お許が、現れるのを、唯一の希望にして、消え細ろうとする生命を、一日でも一刻でも、保とうと、努力されていた」
「………」
「お許は、ついに、現れなんだ。……姫は、亡くなる日の朝、枕元に坐った愚禿に、世話になった礼をのべられたのち、多門夜八郎殿がもし参られた節には、わたくしが、感謝しながら逝った、とお伝え下さい、と遺言された」
「………」
「ままならぬ浮世のさだめに、すこしもあらがわずに亡くなられた姫の顔は、安らかで、この上もなくけだかいものであった」
「………」
「お許に、見せたかった」
老僧は、長い話に疲れて、目蓋を閉じた。
納所が、小声で、
「お墓へ、案内申上げます」
と、うながすまで、夜八郎は、茫然と、虚脱したように、坐っていた。
広い墓地の南隅に据えられた小さな墓碑は、もう四年の歳月を経た色をつけていた。
風もなく、陽の明るい墓地には、鳥のさえずりもきこえず、森とした静寂を保っている。
凝然と、墓の前に|佇《ちょ》|立《りつ》して、夜八郎は、もう悔いさえも消えて、淡い虚無感の中にいた。
あの美しい姫が、この一基の墓碑と化している。
そのことに、悲しみや怒りをおぼえるかわりに、
──無常とは、これか。
とおのれに問う、なかば痴呆の状態を迎えていたのである。
納所が、背後で、ひくく、|誦経《ずきょう》をはじめたので、夜八郎は、われにかえって、あか[#「あか」に傍点]桶から、水を汲んで、墓碑にそそぎ、合掌した。
合掌をつづけているうちに、姫の声が、きこえて来るような気がして来た。
夜八郎が、その前半生に、はじめて、おぼえる菩提心であった。
夜八郎は、まぎれもなく、将軍足利義晴の子であった。
但し、義晴が、その家臣美濃辺某の妻を、むりやり、手ごめ同然に、犯して生ませた子であった。
足利義晴は、京を追われたり、また攻め戻って来たり、いくたびも同じことをくりかえしている不運な将軍であった。
したがって、わが子が、どの女の腹から生れたか、知るいとまさえもなかった。
夜八郎自身も、母のふところに抱かれた頃から、兵火に追われて、転々とした。
物心ついた頃は、|相国寺《しょうこくじ》にいた。その時、すでに、母は亡かった。
やがて、相国寺|鹿《ろく》|苑《おん》|院《いん》が炎上して、夜八郎は、一人の武者に背負われて、遁れた。そして、近江坂本に在った父義晴に、はじめて、対面させられたが、それは、夜八郎の心を傷つける効果しかなかった。
義晴は、夜八郎をつれて来た武者から、
「和子様にございます」
と、告げられたが、じろっと一瞥しただけで、
「下げろ」
と、命じたことだった。
義晴は、おのれに叛いた武将らを、討伐することに躍起になっていて、見知らぬ幼児をつれて来られても、わずらわしいだけであった。
夜八郎が、人間不信の孤独感を胸に抱いたのは、その時──八歳の日からであった。
十歳になってから、夜八郎は、細川高国にあずけられ、高国が、三好勢と闘い、摂津の|伊《い》|丹《たみ》城を攻めたり、池田城を抜いたりした陣中で、育っていった。
やがて、高国は、摂津広徳寺で自殺した。
その際、高国は、夜八郎に、
「もののふの最期のさまを、とくと見とどけておくがよい」
と、云って、凄絶な割腹の状況を目撃させたのである。
十三歳の少年にとって、これは、あまりにも、強烈な衝撃であった。
夜八郎の人となりは、このようにして、将軍の子らしからぬ逆境の中での、おそろしい経験をあじわわされつつ、成ったのである。
夜八郎が、その本名義澄をすてて、多門夜八郎と名のって、牢人の生涯を送ろうと、心にきめたのは、十五歳の元服の時であった。
左様──。
夜八郎は、まさしく、野性の若者として、それからの数年間、あばれまわった。
将軍の子のおもかげなど、全くなかったのである。
今日──多門夜八郎は漂泊の牢人者以外の何者でもない。
亡き人をとむらう菩提心さえも、いまはじめて、心に生んだのである。
納所の誦経が、おわった。
夜八郎は、われにかえった。
ふと、墓碑のかたわらに、咲いている早春の小花へ、目をとめた。
はかないほど、純白な薄い花びらであった。
「これは、なんという花であろうか?」
夜八郎は、指さした。
「煩悩花と申します。墓地にしか咲かぬ花なので、そう名づけられているのでございましょう」
「煩悩花か──」
夜八郎は、つぶやいた。
──姫の墓のかたわらに咲くに、ふさわしい。
夜八郎は、感傷を、胸のうちから、はらいすてると、方丈へもどって来た。
枯木のような老僧は、枕辺に端坐した夜八郎へ、べつに目蓋をひらこうとはせず、
「姫の霊は、お許の祈りに、応えたであろうかな?」
と、問うた。
「いや、べつに──」
夜八郎は、老僧の木彫のような顔を見下して、
──どういう意味か?
と、いぶかった。
「それでよい。……姫の霊は、いま、やすらかに、ねむっているのであろう」
「霊魂などというものが、この世に存在するとは、思わぬが……」
「左様さの……、あるといえばあるし、べつに、霊魂があることを、信じなければならぬ心境には、ないであろう」
「御坊──」
夜八郎は、語気をあらためて、
「七年前、御坊は、それがしの剣を、苦もなく杖で、払われたが……、あれは、兵法の修業による手練であったか、うかがいたい」
と、たずねた。
老僧は、目蓋をうすく、ひらいて、夜八郎を視た。
「愚禿は、兵法の修業など、やったおぼえはない」
「すると、禅の修行による会得であろうか?」
「会得と申せば、面はゆい。……ただ、お許の剣気を、こちらの心に映してみたまでのこと──」
「剣気を、心に映す?」
「わからねば、それでよい。いずれ、わかろう。それよりも、お許は、七年前とは、比べもならぬ強者になっているようじゃが……、あれから、多くの人命をあの世へ送ったのであろう」
「………」
「それで、いまだ、なんの罰も蒙らずに、生きていることは、よほど、業力が強いと申せる。……なろうことなら、その業力を、善行に使ってほしいものじゃな」
「………」
夜八郎は、黙して、腕を組んでいるばかりであった。
剣、その手に
三日すぎた。
そのあいだ、夜八郎は、食事と厠に立つほかは、本堂で、微動だにせぬ坐禅を組んで、すごした。
べつに、老僧に、すすめられたからではなかった。
自分でも、説明のつかぬ、なんとはなしに、そうしてみたくなっただけのことであった。
夜も、|結《けっ》|跏《か》|趺《ふ》|坐《ざ》の姿勢で、ねむった。
山野に起き臥しした身には、それは、大した苦痛ではなかった。
四日めの朝が、明けるや、夜八郎は、本堂を出て、南隅の井戸端に行き、素裸になって、冷水をあびた。
いかにも、悟りをひらかん、としてのふるまいに似ていた。
食膳に就いた時、心身がさわやかになっていたならば、おのずと、悟ったような気分にもなったろうが、夜八郎は、ただ、空腹であったにすぎない。
給仕をする納所は、箸をとりあげた夜八郎を見まもって、
「いよいよ、勝負に対する心構えが、おできになりましたご様子」
と、云った。
「勝負?」
夜八郎は、不審の視線を、返した。
「勝負とは?」
「おかくしになることは、ありませぬ」
「べつに、何も、かくしては居らぬが……、勝負とは、何であろう?」
「この三日間のご精進は、九十九谷左近殿と、雌雄を決する心構えをつくられるためのものではありませなんだか?」
「いや──」
「はて?」
こんどは、納所の方が、いぶかしい表情になった。
「昨日、托鉢に参り、|行《み》|幸《ゆき》大路の辻にて、九十九谷左近殿が、お手前様に、勝負を挑む高札を、観て参りました」
そう告げられて、夜八郎は、合点した。
「たしかに、あの兵法者は、そんなことを申していたが……」
「お手前様は、お受けにならぬわけには、参りますまい」
「と申すと?」
「もし、これを避けるに於ては、天下にその臆病を|嗤《わら》うであろう、と附記してありました」
「それがしは、剣をもって生きる兵法者ではない。臆病者とわらわれても、一向にさしつかえはないが……」
「そう仰言るなら、強いて、おすすめはいたしませぬが、あの高札は、万余の人々が読むのではありますまいか」
「多門夜八郎の名が、売れた以上は、あとへひけまい、というわけか」
夜八郎は、笑った。
同じ時刻──。
宇治川沿いの道を、男女二人の旅人が、辿っていた。
市女笠をかぶった女人は、馬の背に腰かけ、男は、そのたづなをとっている。
多門夜八郎をさがして、山野を越えて来た梨花と柿丸であった。
柿丸の風体は相変らずであり、その顔つきも、二十歳の健康な表情を保っている。
それにひきかえて、市女笠の下の梨花のおもては、いたいたしいまでに蒼ざめていた。
あの日以来、梨花のからだは、その疲労からのがれることができずにいるのであった。微熱も出ていたし、めまいにもおそわれつづけていた。
もし柿丸という親切な若者が、つき添っていなければ、すでに、梨花の生命の灯は消えてしまったに相違ない。
柿丸は、まるで、こういう役を勤めるために生れて来たような若者であった。
寺や神社の片隅を借りて、三日とか、五日とか、静養するくらしをつづけながら、京の都へむかって来たのだが、そのあいだ、柿丸は、ただの一度も、世話することが面倒になったそぶりなど見せなかった。
梨花が喰べたいものを、きき出して、必ず手に入れて来たし、梨花のその日の気分を看て、花を採って来たり、そっと一人にしておいたり、あるいは、子供たちを多勢寄せ集めて、にぎやかに遊ばせたり──いろいろと、なぐさめる方法を考えた。
──この世に、こんなに、親切なひとがいるものであろうか!
梨花は、いくど、その優しい心づかいに、|泪《なみだ》ぐんだか知れなかった。
柿丸は、決して、親切を押しつけては来なかった。何気ないように振舞って、それが、みんな、梨花につくしていることになったのである。
「京へ上ってみなされぬか。都のにぎわいが、気分をかえてくれ申そう」
柿丸は、そういうすすめかたをしたが、夜八郎の消息がわかるかも知れぬことと、良い医者に梨花のからだを診せることが、心にあったからに相違ない。
梨花は、すぐ、柿丸の心がわかって、
「参ります」
と、こたえたのである。
かなり遠い道中であったが、柿丸がつき添っていてくれる限り、梨花は、なんの不安もなかった。
からだの加減については、梨花自身よりも、柿丸の方が、よくわかっているくらいであった。
いつの間にか──。
梨花は、多門夜八郎にめぐり会うことだけを、生甲斐にしていたのである。
夜八郎が、会った時、どのような態度をみせるか──そのことは、すこしも考えていなかった。
「すこし、やすまれるか」
柿丸は、馬をとめた。
梨花が、小松の根かたに腰を下すと、柿丸は、すぐに、川べりへ降りて行って、白い布を濡らして来た。
「すみませぬ」
梨花は、それで、顔やうなじを拭いた。
「陽のあるうちに、都へ入れます」
柿丸は、云った。
いつも無表情で、滅多に笑顔を見せぬ若者であったが、それは、孤独で育ったせいであろう。
梨花には、かえって、その方がよかった。
「梨花様は、都で、たずねたい御仁がありますか?」
「いえ、べつに……、知り人はありませぬ」
こたえてから、梨花は、急に不安な面持になり、
「あの……、わたくしは、貴方の親切にあまえて、路銀のことをききもいたしませんでしたが、都に入れば、またなにかと、お金が要ると思いますけど──?」
「それは、心配無用でござる。その日をすごす金子など、どうにでもなります」
「でも、わたくしを、良い医者に診せて下さるとなれば、お金が要ります」
「そういうことは、この柿丸におまかせ下され。これで、ちょっとしたあきないをするすべも、知って居り申す」
柿丸が、珍しく、そう云って、にやっとしてみせた。
梨花は、うつ向いた。泪が、あふれそうになった。
「……貴方は、神様のようなおひとなのですね」
梨花は、つぶやくように、云った。
柿丸は、当惑して、梨花を、ちらと見やった。
「貴方のようなおひとが、この世にいるなどとは、夢にも思ったことがなかったのです」
「………」
「わたくしは、貴方につくして頂いたご恩にむくいるためにも、からだをなおしたいと思います」
「梨花様。わしは、貴女様をかどわかすのを、手つだった男です。神様だなどと云われると、わしに罰があたります。そういうほめかたは、止して下され」
「いいえ、わたくしは、高明寺館から、つれ出されたのを、むしろ、よろこんで居ります。そのおかげで、わたくしの人生が、変りましたもの」
「………」
「貴方のような親切なおひとに、会えたのだけでも、よかったを思って居ります」
梨花は、顔をあげて、遠くを視た。
自分に暴力をくわえた多門夜八郎を、いつの間にか、生涯の良人、と心にきめていることも、ふしぎなよろこびであった。
こういう人生が、自分にあったのだ。
「やあ! まるで、人間の洪水だ!」
柿丸が、珍しく、表情を動かして、大声をあげた。
都大路の四つ辻に、梨花をともなって、出て来たのである。こんなおびただしい群衆を眺めたのは、生れてはじめてであった。
梨花も、市女笠をあげて、そのにぎやかな光景に、目をうばわれた。
「梨花様。こういうにぎわいを眺めると、なんとなく、気分がうきうきいたしますな」
「そうですね」
梨花も、そう思った。
人影のない山野を辿っていると、人間の微小さに、つい、心が暗くなり、滅入り込むことがしばしばである。
人間が人間を対手にしてつくりあげる世界の活況は、一歩入って来た者に、たちまち、強い刺戟を与えることになる。
──負けてはいられぬぞ!
おのれが生きている|証《あか》しを、その世界の中でつかもうとする気力が、わきたつのである。
「梨花様。どの顔も、いきいきして居りますぞ。働いていることは、いいものでござる」
柿丸は、ぐるぐる見まわしながら、辻のまん中へ出て来た。
そして、そこに、立てられている巨きな幟を、仰いだ。
「ふうん。天下第一兵法者か。大層な披露をするものよ」
柿丸は、首をふりつつ、幟の下の高札へ、目をくれた。
とたんに──。
柿丸の顔が、緊張した。
高札には──
[#ここから2字下げ]
試合所望の事
多門夜八郎殿に告ぐ、天下の剣は|竝《なら》び立たず、利剣は|■《と》いでわが腰間に在り、貴下が剣と交えることを望んでやまず、わが挑戦に応じて、雌雄を決すべし
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
日時 来る七日卯刻
場所 小倉山北麓|化野《あだしの》
九十九谷左近、つつしんで申す
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから1字下げ]
付けたり、もし、当日当時刻当場所へ来らざる時は、高札をもって、その卑怯を天下に嗤うもの也
[#ここで字下げ終わり]
「梨花様! 多門殿は、この京においででござる!」
柿丸は、高札を指さした。
梨花は、息をのんで、その挑戦文を読んだ。
「柿丸殿は、多門殿が、試合をなさるとお思いですか?」
「それは、もう、こんな高札をかかげられたからには、応じないわけには参りませんぞ」
と、こたえてから、柿丸は、
──いや?
と、思いかえした。
──あの御仁は、相当のひねくれ者ゆえ、もしかすると、現れぬかも知れんぞ?
深更──。
夜八郎は、ねむって、夢の中で、水無瀬家の姫君と会っていた。姫君は、夜八郎の前に、つつましく、うつ向いて坐っている。
なにか、話しかけなければ、消えてしまいそうな不安にかられながら、夜八郎は、言葉が、口から出なかった。
そのもどかしさに、おのれに嫌悪さえおぼえた。
──率直になれ、夜八郎! お前は、この姫を、愛しているのではないのか。いま、姫の心も身も、とらえておかなければ、もう、永久に、お前の許へは、現れぬのだぞ!
その声が、どこからか、ひびいて来る。
夜八郎は、焦躁した。
なぜ、姫に話しかけることが、できないのか?
──おれは、この姫が、欲しいのだ!
心で叫びながらも、口は、|膠《にかわ》で付けられたように、ひらこうとはしないのだ。
夜八郎は、おのれを憤り、叱咤し、憎みさえした。
ついに──。
「姫!」
一言だけ、口から発した。
……瞬間。
夜八郎の五体は、寐床から、飛鳥のごとく、はねとんでいた。
姫が突如、悪鬼と化して、躍りかかったからである。
夜八郎は、すっくと、突っ立って、はじめて、目をさましていた。
寐床をへだてて、佇立しているのは、意外にも、むこうの部屋で、垂死の身を横たえているはずの老僧であった。
杖をにぎって、じっと、夜八郎を、見すえている。
「御坊──、それがしを、撃たれたか?」
夜八郎は、問うた。
「いかにも、試した」
「なにゆえに?」
「お許は、このおいぼれと、再度、たたかいたい存念を抱いて、たずねて来たのではなかったのかな?」
「………」
「お許は、夢の中で、うなされていた模様であった。これを撃つのは、嬰児をなぶるにひとしい、と思われた。……ところが、お許は、この杖を、みごとにかわして、そこへ立った」
「………」
「さとったかな?」
「いや──」
夜八郎は、かぶりをふって、
「わからぬ。自身におぼえはない」
「それじゃな、剣の極意というものは……」
「………」
「九十九谷左近に挑戦された由、受けてみては、どうか?」
──この老僧は、九十九谷左近を、知っているな。
夜八郎は、直感した。
「御坊にことわっておくが、それがしは、兵法者ではない」
「剣に拠って、生きて居らぬ、と申したいのであろうが……、では、お許は、何をもって、おのが生ける証しをたてるのであろうか?」
「………」
「お許は、姫の墓の前で、おのれの中にある|敬《けい》|虔《けん》をさとったはず──。お許は、こん後、いままで通り、無目的に、風の吹くままに、生きて行くことは、かなわぬ。何かを求め、何かを為そうとして、生きて行かねばならぬ。……まず、その剣をもって、試しては、いかがだ?」
「御坊は、あの兵法者を、ご存じか?」
「知って居る」
老僧は、うなずいた。
「三十年前、|斑《いか》|鳩《るが》寺の門前で、ひろって、育ててくれた。二十歳まで育てて、その|性《さが》の悪に愛想をつかして、追うた。剣に、異常の天稟はあった」
「………」
「噂にきいただけでも、この十年のあいだに、二十七人の兵法者と試合して、一人のこらず、斬って居る。その強さは、比類がない、と申せる。……だが、人間である限り、永久に無敵であることは許されぬ。一度は、敗れなければならぬ。敗れることによって、おのが身に限りのあることを知らねばならぬ。……人間は、万能ではない。日月に私照はない。九十九谷左近は、あるいは、その技に於て、お許よりも秀れて居るかも知れぬ。しかし、その|驕《おごり》は、必ず、不覚を招かざるを得まい」
「………」
「七年前、お許は、このおいぼれの一本の細杖に翻弄された。巧の偽は、拙の誠に|如《し》かず──それだけのことであった。こんどは、それを、お許が、左近にむかって、示す番であろうかな」
「………」
「いや、これは、おいぼれのさかしら口であった。……つかれた。やすむことにいたそうかな」
老僧は、急に、おのが病める身に、気がついたように、杖にすがって、去った。
夜八郎は、それから、なお、長いあいだ、その場に、佇立したままでいた。
──おれに、なんの悟りがあるのか?
──おれは、昨日のおれ、去月のおれ、一年前のおれと、なんの変りもない。
夜八郎は、おもてへ出ると、井戸端に行き、素裸になって、幾杯も水をあびた。
部屋へもどった時、あわただしく、納所が入って来た。
「上人様が、ご他界でございます!」
夜が明けた。
黙然として、老僧のなきがらの枕辺に正座していた夜八郎が、われにかえって、しろじろと浮きあがって来た庭へ視線を向けた。
納所が、置石をふんで、広縁へ近づいて来た。
「よい日和でございます。雲影もありませぬ」
おちついて、そう云った。
昨夜、牀にもどった老僧が、この世の人でなくなったのを発見した時は、流石に動転したらしいが、今朝は、いつもの通りのおだやかな表情にもどっている。
二十歳すぎたばかりの若さにも拘らず、立派な態度と、云わざるを得ない。
老僧は、可念と呼んでいたが、その名のごとく、幼い頃から仏門に入って、|勤行《ごんぎょう》をつとめているうちに、このようなおちつきを身につけたのであろうか。
可念は、老僧を葬る墓穴を掘って来たのである。
「多門様、おそれ入りますが、上人様を、拙僧に背負わせて下さいませぬか?」
「かしこまった」
夜八郎は、なきがらをかかえあげて、可念の背中にのせた。
これほど、もの静かな埋葬は、なかった。
また、上人の位を与えられているひじりとして、このような粗末な葬儀をいとなまれるのも、|稀《け》|有《う》のことであったろう。
かねての遺言であった。
可念は、|樒《しきみ》をしとねにした穴の中へ、なきがらを仰臥させ、胸で手を組ませると、それを、樒で掩った。
土を落すのは、夜八郎が、手つだった。
土まんじゅうを盛ってから、可念の|誦経《ずきょう》が長くつづけられた。夜八郎は、そのあいだ、すこしはなれた地点で、身じろぎもせずに、佇立していた。
方丈にもどって、可念の|点《て》|前《まえ》を受けた時、夜八郎は、口をひらいた。
「お願いがある」
「申しつけられませ」
「九十九谷左近の挑戦を受けて、立合うことにいたす」
「勝利は、貴方様のものでございましょう」
「いや──。それがし自身は、四分の勝目しか考えて居らぬ。ついては、それがしが、敗れた際、貴所の手で、葬って頂けまいか。それを、お願いいたしたい」
「………」
「引受けて頂けまいか」
「お引受けつかまつります」
可念は、うつ向いてこたえた。
「忝けない」
夜八郎は、頭を下げた。
可念が、つと立って、奥へ入った。すぐにもどって来た可念の手には、一振の太刀が持たれていた。
「上人様のお形見でございます。お腰に、どうぞ──」
一滴の水
建物も人間も、これ以上きたなくすることはできない、と思われる光景であった。
建物は、兵火をあびて、なかば焼け崩れた神社の社殿であった。
月明りが、破れた屋根から、落ちている。柱も板壁も黒こげになり、祭壇は滅茶滅茶である。のみならず、長い年月、怪しい者どものすみかにされていて、夜具がわりの|莚《むしろ》やら|藁《わら》やらが持ち込まれて、散乱している。そのほか、食いのこしの猪や狸の骨つきの肉などが、干からびて、ほうり出されている、といったあんばいであった。
ここに毎夜集って来る人間どもは、それにふさわしい野伏、コソ泥、女さらい、破戒坊主、|破《ご》|落《ろ》|戸《つき》など、まともな世間からはみ出したやからであった。
もともと、この神社そのものが、こうなる運命にあった、といえるかも知れぬ。
「毒蛇様」
その俗称で知られた神社であった。
牛尾山の布引滝からすこし下って、蛇ケ淵がある。
その蛇ケ淵に棲む大蛇を、祀った神社であった。
むかし、この淵に大蛇が棲んでいて、人民をしきりに、なやましていた。
伊賀寺景綱という剛の者がいて、常に牛尾観音を信じ、某日、この淵を通りかかったところ、|長《たけなが》の大蛇が躍り出て、とびかかって来た。
景綱は、すこしも怯じすに、腰の太刀を抜きざまに、その太胴を両断、さらに、首を刎ね、尾を斬った。
洛東清水寺の音羽滝は、その夜、おびただしい血汐が流れて来て、真紅と化した。
景綱は、大蛇のしかばねを、川辺の芝生で焼きすてた。いまも、そこに、焼芝の名がのこっている。
景綱は、わが家へ帰ったのち、毒蛇の瘴気にあたり、高熱を出した。生命も危くみえたところへ、香染めの衣をつけた異僧が、忽然として現れて、薬の霊方を与えた。調合して、服薬したところ、景綱は、たちまち、平癒した。
この秘薬は、伊賀寺家に、代々伝えられて、いまも、これをもとめる人が多い。
伊賀寺家では、その秘薬でもうけた金で、毒蛇明神を建てたのである。
いずれは、このようなあさましいすがたになる運命の社であった、といえる。
いま──。
どこからか盗んで来たらしい三基の|短《たん》|檠《けい》に、灯火をまたたかせて、八九人のあぶれ者たちが、二個の賽の目に、まなこを血走らせている。
毒蛇の|眷《けん》|属《ぞく》と見えないこともない。
男ばかりではなく、女も二人ばかり交っている。
のみならず、その一人は、色香のしたたる仇めいた風情の女であった。
片膝立てて、水色の|二《こし》|布《まき》のかげから、白い脛をちらつかせながら、男どもの目にぬすませているのであった。
壺を振っているのは、片肌ぬぎの耳無し男であった。
「さあ、張ってもらおうぜ。……へっへっ、丁と出ても、半と出ても、──勝っても負けても、どうせ、汗を流してかせいだ金じゃねえ。あぶくのような悪銭だあ。──さあ、いいか」
百平太は、きょろきょろ、と小ずるく、見まわした。
「よーし、張ったな。みんないい度胸だ。ここが一番──えいっ!」
さっと壺をあげた。
「へっへっ……すまねえ。丁だあ」
百平太は、張られた金を、自分の前に、かき集めた。
親の自分が丁、子の一同が半──これでもう、四回も百平太は、勝ちつづけていたのである。
もうほとんど大半の金が、百平太の前に、かき集められていた。
「ちょいと、お|館《やかた》──」
仇な女が、呼んだ。
「へっ、お館と呼んで下さりましたね。なんだよ、色っぽいの?」
「お前さんは、大層壺さばきがうまいけど、どこかで修業して来たのかい?」
「馴れだあ、馴れ──」
「自分の思うままに、賽の目が出せるようだねえ」
「おいおい、へんな云いがかりは、止してもらおうぜ。おれは、べつに、親をやりつづけてえとは、云ってやしねえんだ。おのぞみなら、どなた様にでも、おゆずりいたしますぜ」
と、うそぶかれても、親になるほど金を持っている者は、一人もいなかった。
「ちぇっ! お前さん一人に、みんな、キリキリ舞いさせられているあんばいだよ」
「あいにくだがな、姐さんよ。おらァ金をつくらなけりゃならねえ、泪ぐましい理由があるんだ。今夜だけは、負けてやるわけにはいかねえんだ。さあ、もう一丁、張って来る奴は、いねえか?」
流石に、もう、どの顔も、しぶる色をみせた。
その時──。
すこしはなれた場所に、寐そべっていた男が、やおら、起き上った。
先刻から、ずうっと、寐そべって、動かずにいたのである。
坊主あたまの、何を食っているのか、まるまると肥った男であった。
「わしが、ひとつ、張り合うかな、耳無しのお館」
そう云って、のそのそと近づいて来た。
眉が八の字になり、目尻も下り、百平太の前にあぐらをかいて、にやっと笑った顔が、ひどく愛敬のあるものになった。
頸から頭陀袋を下げていたが、それから、金をつかみ出して、
「まず、これぐらいで、やるか」
と、じゃらんと、置いた。
瞬間──。
百平太は、
──このふとっちょ、ただ者じゃねえな!
と、直感した。
「おめえさん、和尚さんですかい?」
「極楽に見はなされた蛸坊主さ。そんなことは、どうでもよかろ。張ったぜ」
「へい、承知──」
百平太は、賽ころふたつ、壺へ入れて、ガラガラとふって、さっと伏せた。
「行こうぜ、和尚さん!」
百平太は、きょろっ、と上目づかいに、ふとり坊主を見上げた。
「ちょっと、待った」
ふとり坊主は、合掌し、瞑目すると、口のうちで、ぶつぶつと、お経をとなえていたが、かぶりを振って、
「いかんな」
と、云った。
「なにが、いけねえ?」
「阿弥陀如来のお告げがあった。もういっぺん、壺を振りなおせ、と」
「ふざけちゃいけねえや。真剣勝負なんだぜ、和尚さん」
「だから、もういっぺん、壺を振ってもらおうか」
「しようがねえな」
しぶしぶ百平太は、壺を上げて、賽ころを入れなおし、カラカラと、ころがした。
ふとり坊主は、双眼をほそめて、百平太の手さばきを眺めていた。が、壺が、さっと伏せられようとした刹那、間髪を入れず、
「喝っ!」
と、途方もない大声を発した。
百平太の全身が、ぶるるっと、ふるえた。
当然、文句を云うところであったろうが、百平太は、おそろしく緊張した顔つきになって、黙ってふとり坊主を、睨んだ。
「半にするかな、それとも、丁にするかな」
ふとり坊主は、にやにやした。
──勝手にしやがれ!
百平太は、肚の中で、叫んだ。
ふとり坊主は、また、口のうちで、お経をとなえていたが、
「半だ」
「半か?」
「いや、丁にいたそう」
「どっちだ?」
「ひとつ、お前さん、きめてくれぬか?」
「コケをぬかせ。はやくきめろ」
「では、丁と参ろう」
「丁でいいんだな」
「まァな」
「じらすねえ!」
「丁と参る」
「いいんだな?」
「あけるがいい」
百平太は、パッと、壺をあげた。
固唾をのんでいた一同の視線が、二個の賽ころへ、集中した。
丁であった。
ふとり坊主の勝であった。
皆の口から、それぞれの言葉や嘆息がもらされた。百平太の負を、小気味がいい、とあざけることでは、一致していた。
「和尚さん!」
百平太は、ふとり坊主を、睨みつけて、
「ひとつ、大きくやる気はねえかね?」
と、云った。
「わしは、バクチというものを、実は、生れてはじめてやるのじゃよ」
「だから、阿弥陀如来だか、菩薩だかに、きいてみるのか?」
「まあ、そうだな」
「ふん──。おれの眼力では、和尚さんは、相当なバクチ打ちに、見えるがね」
「ちがうな。わしは、バクチや女で、寺を追われたのではない」
「ともかく、やるな?」
「乗りかかった船だ。お前さんの前にある金を、そっくり頂戴するかな」
「止しやがれ」
しかし、ふとり坊主のうそぶきは、必ずしも脅しではなかった。
百平太に、二度も三度も、壺を振りなおさせ、壺を伏せる瞬間をはずさす、一喝をくれる手間をかけて、百平太から、ごそっ、ごそっ、とまきあげていった。
「負けた! とても、敵わねえ!」
ついに、百平太が、悲鳴をあげた時には、もうその前から、三分の二の金が、ふとり坊主の方へ、移っていた。
「はっはっは……とうとう、参ったかな。しかし、どうせ、いさぎよく負けるのなら、その残り金も、度胸よく賭けてみたらどうかな」
「ようし、和尚さん、あんた、親になってみろい!」
「いいとも──」
ふとり坊主は、気楽に、賽ころと壺を、引き寄せた。
「お前さんは、念仏のかわりに、流行歌でも唄ったらどうかな」
ふとり坊主は、からかった。
百平太は、口を歪めたが、ふっと気がついて、一同を見まわし、
「おい、お前がたは、もう、引き上げてもらおうぜ。気が散っていけねえ。最後の勝負は、誰にも見られたくねえ」
「わしは、一向にかまわんが……」
「おれは、かまうぜ。……さあ、引き上げたり、引き上げたり」
百平太は、せきたてた。
二人きりになると、百平太は、掌へ、べっべっと唾を吐きかけて、パンパンと拍つや、
「よしっ! 来い! 糞坊主!」
と、呶鳴った。
ふとり坊主は、無造作に、壺へ賽ころをほうり込んだ。
「壺を伏せてもいいかな?」
ふとり坊主は、笑いながら、きいた。
「よけいなことを、きくない!」
「では──」
ふとり坊主は、ゆっくりと、壺を伏せた。
「どっちじゃ」
「半だ!」
「半でええかな?」
「うるせえっ!」
「されば──」
ふとり坊主は、壺をあげた。
一瞬──百平太は、息がつまった。
こんな経験は、はじめてである。博奕で、これほど追いつめられたのは、はじめてである。
自分は、博奕のために生れて来た男だ、と思っていた百平太である。
このぬけぬけとした破戒僧に、どうして、こんなにやすやすと負けたのか。負けたいまでも、信じ難かった。
しかし、完全に敗北したのである。
百平太の前から、有金は、のこらず、ふとり坊主の前に移ってしまっていた。
「|運《うん》|否《ぷ》|天《てん》|賦《ぷ》とは、よくぞ申したな。気の毒じゃった」
「和尚!」
百平太は、眉をビクビクと痙攣させた。
「嘘をつきやがったな! うぬは、バクチに素人じゃねえぞ!」
「はっはっは……、わしは、生れてはじめて、バクチをやったから、虚心坦懐に、勝ったのじゃわい」
「しらばくれるな!」
百平太は、うしろにかくしていた短刀を、つかむや、抜きはなった。
「おいっ! おれを、なめやがるかっ!」
殺気をみなぎらせて、切っ先を、徐々に、つき出した。
ふとり坊主は、一向に、怯じ気をみせようとはしなかった。
「百平太、といったな」
「それが、どうした?」
「お前は、ちょっとおもしろい男だと思っていたが、どうやら、ただの、どぶ鼠らしい」
「なにをっ!」
「負けて、刃物をつきつけて、居直るとは、あさましすぎる。……お前が、壺を伏せる時、賽ころに、手妻をつかうのを、わしが、看破らなかったとでも、思って居るのかな」
ふとり坊主は、世間話でもしているような口調で、云った。
「ちえっ!」
百平太は、舌打ちした。
「知っていやがったのか、畜生め!」
「はっはっは……。負けた時は、いさぎよく、兜をぬぐがよい。それが、男らしい、と申すものじゃ」
百平太は、ふてくされた。
「おれは、金が要るんだ。どうしても、要るんだ!」
「何に、金が要る? 女かな?」
ふとり坊主は、訊ねた。
「ちがう! 仇討をやるんだ!」
百平太は、喚いた。
「仇討を──。ほほう、これは、柄に合わぬことを申すぞ」
ふとり坊主は、下り眉を、さらに完全な八の字にした。
「おれが、仇討をやったら、おかしいか?」
「べつに、おかしくはないぞ。あっぱれな心掛けじゃ。父か兄の殺された恨みをはらすのかな?」
「いいや──。この耳を殺ぎ落しやがった野郎に、復讐してやるんだ!」
「ふむ。察するところ、お前は、手妻を看破されて、その|耳《みみ》|朶《たぶ》を、刎ねられたのじゃな?」
「そうじゃねえ! おれが、平あやまりにあやまって、金はぜんぶ、くれてやると、拝んでいるのにも拘らず、容赦しやがらねえで、殺ぎ落しやがったんだ」
「それで──仇討をするのに、どうして、金が要るのだな?」
「野郎は、滅法強い牢人者だから、こっちも、それに負けねえ兵法者をやとうんだ。九十九谷左近、といってな。こいつは、途方もねえ強い兵法者よ」
「九十九谷左近は、わしも、知って居る」
「知っているのか。知っているなら、猶更だ。あの兵法者をやとうには、そこにある金でも、まだ足りねえ」
「あきらめるがよい。お前は、負けたのじゃ」
ふとり坊主は、金を、頭陀袋へ、しまいはじめた。
その隙をうかがって、百平太は、バッタが跳ぶようにして、短刀を突きくれた。
「おっと!」
ふとり坊主は、さもあぶなそうに、顔をそらした。
その時は、もう、百平太の|利《きき》|腕《うで》をつかんでいた。
「いてっ!」
百平太は、ねじあげられて、悲鳴をあげつつ、短刀を、ポロリと落した。
ふとり坊主は、百平太を突きはなすと、
「この天満坊を刺すには、九十九谷左近といわずとも、その弟子ぐらいの腕前が必要だな」
そう云って、笑った。
百平太は、強い者に対しては、一も二もなく、降服する男であった。
「かんべんしてくれ。和尚は、ただ、デブデブふとっているだけだ、と思っていたんだ」
「あいにくだったな」
「どうも、和尚は、ただ者じゃねえようだね」
「なあに、ただの破戒坊主にすぎん」
「いいや、ちがう!」
百平太の顔には、もう、畏敬の色さえうかべられていた。
「和尚さん──」
百平太は、膝小僧をそろえると、ぺこんと、ひとつ、頭を下げた。
「おれはね、生れつきは、善人だ、と自分でも、思っているんだ。乳のみ児の時に、母親にすてられてから、自分一人で生きて行かなけりゃならねえために、こういう調子に、こすっからくなったんだが……、これでも、男いっぴきの、意気地だけは、すててはいねえつもりだ」
「ふむ、ふむ」
天満坊と名のったふとり坊主は、おもしろそうに、うなずいている。
「和尚さんは、笑うかも知れねえ。しかし、おれが、おれの耳を殺ぎ落しやがった多門夜八郎という牢人者に、復讐したいと誓いをたてたのは、嘘じゃねえ。信じてもらいてえ」
たしかに、百平太の巨きな鼻の突出した顔面は、真剣そのものであった。
「嘘ではなかろう。信じてもよい」
天満坊は、こたえた。
「じゃ、たのみます。その金を、おれに、十日ばかり貸して頂きてえ」
百平太は、両手をついて、頭を下げた。
「百平太──」
「へい」
「その多門夜八郎とやらを、九十九谷左近に討ちとらせたら、お前の耳朶が、|茸《きのこ》のように生えて来るというのかな?」
「意地悪なことを云うものじゃありませんや。生えて来るわけがねえ」
「それなら、討っても、討たなくても、結局は、おなじではないかな」
「ちがいますぜ。多門夜八郎が、斬り仆されるところを、見とどけりゃ、おれの胸の中は、すーっ、と溜飲が下るじゃありませんか」
「たった、それだけの話ではないか」
「たった、とはなんです! 男の意気地というものだ」
「お前自身の手で、討てばいざ知らず、金でやとった兵法者に討たせて、溜飲を下げるなどとは、むしろ、男の風上に置けぬ」
「じゃ、憎い|敵《かたき》が、目の前を歩いていても、指をくわえて、眺めていろ、というんですかい?」
「もう一度、おのれのやっていることを、考えなおしてみるとよい」
天満坊は、じっと、百平太を見据えた。
その眼光は、別人のように、鋭いものになっていた。
「お前という男は、いままで、他人のために尽したことがあるかな? どうじゃ?」
「………」
百平太は、唇をとがらせて、首をひねった。
「ないであろう?」
「そう云われりゃ、まあ……、他人の役に立ったことはねえが──」
百平太は、天満坊を、ちらと見やって、その鋭い眼光に、あわてて、うつ向いた。
「他人のために尽すことが、どんなに、気持がいいものか、お前は、知らぬ」
天満坊は、云った。
「………」
百平太は、頭を上げなかった。
「なにも、後生をねがうために、善行をほどこせ、と申しているのではない。貧しい人に金をめぐんだり、困っている人をたすけたりしてみることは、努力を要することだ。よろこんでやる者は、まず、千人に一人も居るまい。だが、やったあとで、どんなに気持がいいものか──それは、やってみなければ、わからぬ」
「………」
「お前は、これまで、そういう努力を、爪のカケラほども、払ったことがないらしい。幼くして、食うためにおぼえたのは、盗みであろう。そうじゃな?」
「へい」
「お前は、働いて、生きるというすべを、さけた。それが、いちばん安易な生きかたじゃからな。バクチで、他人から金をまきあげる。それも、必死になってやるのではなく、手妻をつかって、人の目をごまかして、まきあげる。バクチという遊びにすらも、お前は、最も安易な手段をえらんで居る。仇討をするのも、自分ではやらずに、他人の力を借りる。……人間として、下の下だ」
「………」
「お前は、このくそ坊主、大層偉そうな説法をしくさる、と内心思っているのではないか?」
「へ──、い、いいや……」
「思っているだろう。思うのが、当然だ。しかし、わしは、福徳兼備の、悟りをひらいた善知識ではない。見かけた通りの乞食坊主だ。だから、お前に、こんな説法をするのだ。二十年前のわしは、実は、お前そっくりであった。つまり、わしは、お前に、二十年前のわしの姿を見て居る」
「………?」
百平太は、顔を擡げて、天満坊を視た。
「きかせようかな」
天満坊は、遠い視線を宙に送って、遠くすぎ去った日のことを回想する面持になった。
「ひどいものであった、わしの若い日は──」
天満坊は、かぶりを振った。
夜は、更けわたっていた。
いつの間にか、雨が降り出して、軒端をつたう音が、この静寂をいっそう、さびしくしている。
百平太が、|胴《どう》|顫《ぶる》いしたのは、急に底冷えて来たためである。
百平太は、脱いだ袖に、腕を通して、ひとつ、くしゃみをした。
天満坊は、百平太の存在も忘れたように、宙を見つめている。
「和尚さん、きかせて頂きてえ」
百平太が、うながした。
天満坊は、語り出した。
「むかし、淀川を上り下りするあきない船に、酒を売ってくらしている女がいた。三度嫁いで、三度とも、亭主にきらわれて、すてられた女じゃった。からだの岩乗な、つかれを知らぬ働き者であったが、欲情も深かった。……やがて、女は、淀川船に酒を売るよりも、もっと、もうかる方法を思いついた。夜半に比叡山にのぼって、酒や干魚や焼餅を密売することであった。
殺生禁断、女人結界、|葷《くん》|酒《しゅ》山門に入るを許さぬ霊山には、たくましい|青《あお》|道《どう》|心《しん》が、三千余も、うようよしている。
おのずから、裏道がつくられて、男装した遊び|女《め》が、酒さかなをひっかついで、登って来ることも、黙認されていたのじゃ。
といっても、青道心らは、際限もなく旺盛な胃袋を所有していても、あいにく、懐中の方が、甚だ乏しかった。そこで、仏具を盗み出して、売りとばす荒っぽい手段もとられていた。
女は、そういう仕事の手先につかわれて、調法な存在となった。
ある日、女が、いつもの通り、かついで来た荷を、僧房でさばいて、|食《じき》|堂《どう》の裏手から、去ろうとした。そこへ、ふいに、数人の青道心が、とび出して来て、有無を云わせぬすばやさで、女の手とり足とり、食堂内へつれ込んだ。
そうして……、女は、およそ二十人の青道心から、矢つぎばやな手ごめを受けたのだ。青道心どもが、にげ去った時、女は、死んだように、気を失って、動かなかった。
それから、十月後に、まるまると肥えた嬰児が、東塔の庭に、置きすてられていた。それが、わしであった」
そう語って、天満坊は、さすがに、ゆがんだ笑顔になった。
「どうだ、百平太、同じ捨児でも、お前の方は、父親が何者か、わかっているだろう」
「へい」
「わしをみるがいい、二十人の青道心のうちの一人が、父親なのだぞ。こんな、悲惨な話が、またとあるか」
「………」
「わしの母親としても、父親が何者か、ちゃんとわかっていれば、わしを捨てはしなかったろう。入れかわり立ちかわり、おそいかかって、手ごめにしたけだもののような青道心の、どれか一人が、子の父親と思えば、くやしさが、たぎりたち、その子を、比叡山へすてざるを得なかったろうではないか」
「ま、まことに……」
百平太は、うなずいて、生唾をのみ込んだ。
「そのような因果な捨児が、どうして、心正しい修行に精進することができようか」
天満坊は、十一二歳から、おそるべき奇行をやってのけて、気性の荒い比叡山僧房のめんめんの舌をまかせたことだった。
青大将を生きたまま|嚥《の》み下してみたり、|霏《ひ》|霏《ひ》として降りしきる雪の中に、すっ裸で、一晩中あぐらをかいてみたり、放尿脱糞は、一丈も高い檜の老樹の枝に、しゃがんで、やってのける習慣をつけた。
いつの間にか、この小坊主だけが、特別扱いされるようになったのも、むりはなかった。
天満坊は、十一二歳で、すでに、十七歳の若者に負けぬ膂力をそなえていたからである。
天満坊が、月のうち、十日ばかり、僧房から姿を消すようになったのは、十五歳の時からであった。
天満坊は、九尺の六角棒をひっさげて、比叡山に棲息する猪、猿、狐などのけものを追いまわしはじめたのである。
そして、一年経った頃には、どんな敏捷な猿でも狐でも、狙えば、必ず、撃ち殺すことが、できるようになった。
独力によって、棒の迅業をならいおぼえた天満坊少年は、もはや天下におそれる者はなし、とうぬぼれた。
その増上慢が、いよいよ奇行を、はなはだしいものにした。
盗みと、女を犯すことこそしなかったが、そのほかの悪いことは、のこらず、やってのけた。
そして、ついに──。
ある日、数十人の青道心から包囲されて、生捕られ、僧牢へ、ぶち込まれたのであった。
「わしの師は、慈願禅師という、もう古稀にちかいひじりであった。師が、わしにくわえた罰は、なんであったと思う? 水を一滴もくれぬことであった。さよう、わしに与えられたのは、猪や狐や狸の肉だけであった。それも、塩からく焼いた肉であった。これをくらえばたちまち、のどが、かわく。だが、師は、水をくれなかった。……わしは、ありとあらゆる罵り、わめきをやった。やればやるほど、のどが、かわいた。五日経つと、わしは、一椀の水が与えられるならば、どんなことでもやる、と哀訴した。それでも、なお、師は、水をくれなかった。どんなに、つらかったか。文字通り、狂い死にそうであった。……七日めに、わしは、ひき出された。
師は、わしに、追放を申し渡し、乞食坊主になって、諸国を放浪して、他人のために、どれだけの善行が積めるものか、やってみせい、と云われた。
その時、わしは、地べたに仰のけに倒れていたが、折からの山風に松の梢がゆれて、ひとしずく、たまり雨が、わしの口に落ちて来た。
おお、どんなに、その一滴の水が、うまかったことか!
わしは、その時はじめて、悟りのようなものを、おぼえたのだ」
天満坊は、語り了えて、微笑した。
「お前は、その時の、一滴の水によみがえったわしの気持を、想像できるかな?」
そうきかれて、百平太は、きいていただけで、のどのかわきをおぼえた緊張面になって、
「わ、わかる!」
と、大きく合点してみせた。
「では、きこう。お前は、いま、わしが一滴の水を、欲したごとく、奪われた金を、欲しているか、どうかじゃ」
「………」
「どうじゃな」
「い、いや……、それほどのことでも、ござらぬが──」
「そうであろう。復讐をしとげたところで、殺ぎ落された耳朶は、生えて参らぬからな」
「う、うん──勿論、それは、そうだが……」
「お前は、まだ、死ぬか生きるか、ギリギリに切羽詰ったところへ、追い込まれたことがない。それが、お前という男に、真剣に生きる、ということが、どんなものか、さとらせて居らぬ」
「たしかに、ち、ちがいねえ」
「わしが、一度、お前を、どこかの牢獄へほうり込んで、十日ばかり、水を与えずにおく試練を加えてやればよいのじゃが……」
「と、とんでもねえ!」
百平太は、あわてて、手をふってから、あらためて、両手をつくと、
「和尚さん、弟子にして下され。おれは、心がけをあらためます」
と、願った。
「ははは……、わしの弟子になったところで、一朝一夕に、その小ずるい根性がなおるものでもあるまいが……九十九谷左近と多門夜八郎の試合を、見とどけるかな」
「え──? おれは、もう、九十九谷左近をやとうことは、止めたのですぜ」
「九十九谷左近は、すでに挑戦の高札を立てているではないか」
天満坊は、すでに、そのことを知っていた。
「多門夜八郎に、もののふの血が流れているのであれば、挑戦に応ずるであろう」
「へ、へい……」
「この試合は、想像しただけで、おもしろそうじゃな。お前を斬らずに、耳朶だけ殺ぎ落した牢人者ならば、さだめし、気骨のある変り者に相違ない。九十九谷左近と剣を交えるには、ふさわしい人物と思われる」
「なにやら、浮世をすねたような男でござる」
「わしも、見物いたそうかな。……百平太! もし、その時、九十九谷左近が、多門夜八郎に勝ったならば──」
「勝ったならば?」
「わしは、即座に、お前の首を刎ねてくれよう。どうじゃ、この賭は?」
春風譜
いくたびか焼けおちては、架けなおされたその橋は、幽霊橋と|称《よ》ばれている。
そのむかし、音にきこえた北面の武士が、禁廷の御用で、東国へおもむいているあいだに、京の都では、突如として叛乱が起り、武士の父は、敵の手にかかって、果てた。それと知らず、都へもどって来た武士は、昏れがた、この橋を渡りかかって、血まみれの父の亡霊に会った。まだ、父が果てたことを知らずにいた武士は、驚愕して、その仔細を問うた。
亡霊は、去月、この橋を|輿《こし》で通りかかったところを、兇漢に襲われて、無念の最期をとげたことを、語った。
復讐の一念に燃えた武士は、それから、半歳の間、昼夜をわかたず、この橋袂の小屋にひそんで、待ちかまえていた。
やがて、ある宵、禁廷でも隠然たる権勢を|有《も》った公卿が、輿に乗って通りかかったところ、先払いの者が、悲鳴をあげて、あとずさった。
行手に、血まみれの亡霊が、出現したのである。
小屋の中から窺っていた武士は、公卿が輿の上でのけぞるのを視てとり、
──此奴こそ!
と、合点するや、風の如く、躍り出て、公卿の首を刎ねた。
幽霊橋の名は、それによって起った、という。
そのせいか、昏れがたになると、この橋を渡る人影は、ばったり絶えて、急に、ものさびしくなる。
梨花をともなった柿丸が、さしかかったのは、恰度その時刻であった。
「ほう……、このあたりが、しずかなのは、なんとしたことであろうかな?」
宵の雑沓を抜けて来た者の目には、いかにも不思議な静寂が、ここにはある。
梨花も、市女笠をあげて、けげんなまなざしをめぐらせた。
「梨花様。むこうの橋袂に、|旅籠《は た ご》がござる。しずかな場所ゆえ、ひとまず、あそこで、やすむことにいたしましょう」
柿丸は、きめた。
その旅籠に入った時、梨花は、ふと、なにか、いやな予感をおぼえた。
しかし、べつに、理由とてもないので、梨花は、口にはしなかった。
旅籠の中が、妙に、しーんと、ひそまりかえっているのが、梨花の病んで鋭くなった神経に、ある薄気味わるさを、感じさせたのである。
ふつう、この時刻ならば、旅籠は、にぎやかなものである。
柿丸も、それをちょっと、いぶかったが、病人には、しずかな方がよいので、べつに気にせず、
「だれか居らぬかな?」
と、呼んだ。
しばらく、なんの気配もなかった。
ようやく、奥から出て来たのは、からだが二つに折れた老婆であった。
「泊めてもらえるか?」
柿丸が、云いかけると、老婆は、二人を見くらべて、ちょっと小首をかしげるていであったが、黙って、二階を指さした。
「無愛想なばあ様だな」
柿丸は、苦笑してから、梨花を見かえり、
「このあんばいでは、なんの世話もしてくれますまい」
と云った。
二階には、かなり広い部屋と小部屋が二つばかりならんでいたが、ひっそりとして、客のいる気配もなかった。
柿丸は、広い部屋を、梨花にえらんで、押入れから、夜具をとり出して、延べた。
「七日まで、あと四日でござる。そのあいだ、ゆっくりと休養なさることです」
柿丸は、下座に坐ってから、云った。
「多門様は、あの挑戦を、お受けになるでしょうか?」
梨花は、なお、そのことを、疑っていた。
「おそらく……、この京の都で、武士の恥をさらせば、日本全土へきこえ、生涯の汚辱となり申すゆえ──」
柿丸は、そうこたえたものの、はたして、夜八郎が、当日その時刻、小倉山北麓化野へ、出現するかどうか、断言しきれる自信はなかった。
梨花は、敏感に、柿丸の心のうちを読みとって、強いて、微笑をつくった。
「よろしいのです。このように早くお目にかかれようなどとは、夢にも考えて居りませんでした。……お目にかかるのが、半年さき、一年さきになっても、わたくしは、かまいませぬ。ただ、お目にかかるのが、わたくしの生きて行く希望となって居りますゆえ、多門様が、万一、試合でお果てなさるようなことがあれば、わたくしも生きては行けませぬ。なろうことなら、試合をさけて下さることを、わたくしは、願って居ります」
「よう申されました。そのお気持ならば、それがしも、貴女様と同じ心構えをつかまつる。……なに、四日もあれば、必ず、多門殿の|在《あり》|処《か》をつきとめることも、できぬ相談ではありますまい。……さ、ともかく、おやすみ下され」
柿丸は、梨花を牀に横にならせてから、
「ちょっと、出かけて参ります」
と告げた。
「今夜は、貴方も、休息なさるとよろしいのに──」
梨花は、そばにいてもらいたそうな表情をした。
「良医を一人、見つけて参りたいのでござる」
「わたくしのために?」
「やはり、一度、医師に、診てもらわれた方がよろしゅうござる」
柿丸は、出て行った。
一人きりになると、梨花は、急に、孤独感にとらわれた。
この旅籠の静寂がはらむ不気味さが、にわかに、はっきりと、梨花を、おそれさせたのである。
老婆は、猫のように丸く小さくなって、炉端に、じっと動かぬ。
廊下に足音がひびいても、べつに、顔をあげようとはしなかった。
「ばば」
声をかけられたが、ふりかえるかわりに、枯木のような片手をのばして、火箸を取ると、|粗《そ》|朶《だ》|火《び》をかきたてた。
「おい、ばば……、青助は、まだか?」
そう問うて、どっかとあぐらをかいたのは、野盗のたぐいと一瞥でわかる髯だらけの男であった。
老婆は、歯のない口のうちをもぐもぐさせてから、何か云った。
「なに? なんだ?」
男は、ききなおして、
「二階に客? どんな奴だ?」
「|夫婦《め お と》じゃ」
「夫婦だと?」
「若いのう」
「若い夫婦か──ふん。金を持って居る様子があるか?」
老婆は、こたえたが、男にも、意味がよく汲みとれなかった。
「こんな旅籠に、何も知らずに、迷い込んで来る奴がいるとはのう。……ああ、腹が鳴る。酒はないか」
「買うて来るがええ」
「金などあるか!」
男は、いまいましげに、吐きすてた。
そこへ、また一人、同じくうす汚れた風体の男が入って来た。しかし、これは、まだ若く、むしろ美男に属する。
「お──青助か。四五日、どこへ姿をくらまして居った? おんしが見つからぬので、あたら、うまい仕事をのがしたぞ」
「おれは、これからは、仕事は一人でやる」
青助は、冷やかに云って、むかい側に、坐った。
「一人でやる? おい、仲間を裏切る気か?」
男は、|気《け》|色《しき》ばんだ。
「早合点するな、黒太──」
青助は、その冷酷な性情を示す刺すような|眼《まな》|眸《ざし》をかえして、
「おれは、これからは、女であきないをやるのだ」
と、云った。
「なんだ、それは? おんしは、これまでも、さんざ、女をだましては、売りとばしていたではないか」
黒太は、云った。
「こんどは、ちがう。女たちを集めて、可愛がってやる。つまり、おれは、|娘子軍《じょうしぐん》をつくって、大将になるのだ」
「どういうのだ、そりゃ?」
「まあ、みておれ。おもしろいことになる」
「もったいぶるな、話せ」
黒太は、首をつき出した。
青助は、にやりとしただけであった。
この時──。
ふいに、老婆が、顔をあげて、云った。
「若い、美しい|女《おな》|子《ご》なら、二階に、居る」
「なんだと?」
青助の目が、きらっと光った。
「それは、ほんとか、ばば?」
「上って行って、みるがええ」
「よし!」
青助は、精気のあふれた身ごなしで、足音をしのばせて、梯子段を、そーっと、のぼって行った。
黒太も、梯子段の下まで行って、見上げていた。
やがて、青助が、ゆっくりと降りて来た。
「とびきりの上玉だ」
ささやかれて、黒太は、
「迷い込んだのが、因果か」
と、にやっとした。
「赤松や白次のもどらねえうちに、やるぜ」
青助が、云った。
「それは、約定にはずれるぜ」
「約定を破りたくなる上玉よ。赤松や白次に食わせるのは、もったいねえ」
「てめえは、全く、油断も隙もならねえ野郎だな」
黒太の方は、ためらいをみせた。
「てめえだって、ひと目、拝んだら、仲間を裏切りたくなるぜ。あんな滅法きれいな上玉は、いままで、見たことはねえ」
青助は、老婆のそばへ寄ると、連れの有無を問うた。
「若い男が、つれて来たが、すぐ、出て行った」
「どんな奴だ?」
「土くさい男じゃったが、強そうじゃった」
「どこからか、かどわかして来やがったかな」
「いいや。家来のような態度をみせていたぞえ」
「それじゃ、愚図愚図してはいられねえ」
青助は、黒太に、目くばせした。
老婆は、炉ばたにうずくまったまま、二人の男が、二階へ忍び上って行くのへ、ちらりと、一瞥をくれた。
悲鳴がつらぬき、一瞬の烈しい物音が起った。
老婆は、依然として、うずくまったままである。
青助が降りて来、つづいて、ぐったりとなった梨花を背負うて黒太が、降りて来た。
「ばば、赤松や白次が来ても、黙っていろ」
青助が、云ったが、老婆は、返辞もしなかった。
青助は、老婆へ、青銭を、抛っておいて、
「ぬかしたら、承知しねえぞ!」
と、云いのこした。
老婆は、青銭をひろって、かくしながら、
「連れの若い男がもどって来たら、どうするのじゃ?」
「つんぼで唖になっていろ」
蓬髪を、こよりでむすび、あご髯を長くのばし、小袖の裾をしり端折りして、痩せこけた両脚をむき出し、鹿皮の袋を背中に負っている。
これが京洛随一の名医師とは、誰も気がつくまい。
日本健康斎と称している。
若い頃、|八《ば》|幡《はん》船に乗って、海を渡って行き、三十年の永い年月を、異邦ですごした人物であった。
陋巷のぼろ家に住まって、貧しい人々を対手に、|施療《せりょう》をつづけている。禁廷をはじめ、三管領や四職から、招かれても、一向に応じない一徹さが、庶民の人気の的になっていた。
「コレ、若いの──」
健康斎は、幽霊橋を渡りながら、
「年寄を、そう、急がせるものではない。息切れがして、かなわぬ。もそっと、ゆっくり歩いてもらえぬかな」
と云って、立ちどまると、背中をのばして、ヤレヤレ、とひと息ついた。
柿丸は、しかたなく、足をとめて、健康斎を振りかえり、
「あの宿でござるゆえ、お願いつかまつる」
と、云った。
「ふん──」
健康斎は、ちょっと眉宇をひそめた。
「患者は、若い女子と云うたの?」
「左様でござる」
「おぬしは、あの旅籠に、若い女子をのこしておいて、すこしも心配せぬのかな?」
「それは、どういうことでござる?」
「おぬしは、京の市中には不案内ゆえ、あの旅籠がどんな宿か、存じて居るまいが、集って来るのは、|蛆《うじ》やらダニやら蛇やら、満足な人間は、いっぴきも居らぬ」
「なるほど……、それで、妙にしずかでござった。それなら、なおさら、ゆっくりして居れぬ。先生、早う──」
柿丸は、走るような急ぎ足になった。
健康斎は、かぶりを振って、とことこと、ついて行った。
柿丸は、土間にとび込んで、|草鞋《わ ら じ》をぬぐのももどかしく、梯子段を駆け上った。
「いないっ!」
柿丸は、血相変えた。
ダダ……と、駆け降りて来た柿丸は、炉端の老婆の肩を、つかんだ。
「おばば! わ、わしの連れは、どうしたぞ?」
老婆は、肩をゆさぶられて、とろんとした顔つきで、柿丸を仰いだ。
「おばば! わしの連れは、どうした、ときいているのだ?」
柿丸は、二階を指さして、どなった。
老婆は、口を半開きにして、かぶりを振った。
いかにも、もうろくしきった様子を示した。
「唖でつんぼで、ぼけていると──いったところじゃ」
健康斎が、上り|框《がまち》に、腰を下して、云った。
「唖であろうと、つんぼであろうと、梯子段がここにあるんだ。梨花様が、さらわれるのを、見とどけなかったはずがない!」
柿丸は、躍起になって、老婆のむなぐらをつかむや、
「ばばっ! わしの連れが、どこへつれ去られたか、云わぬと、しめ殺すぞ!」
と、叫んだ。
「無駄じゃな、その婆さんを責めるのは──」
健康斎は、そう云いながら、上って来ると、炉の中から、燃える粗朶を一本とりあげて、すっと老婆の鼻さきへ、近づけた。
「熱っ!」
老婆は思わず、声をたてて、のけぞった。
「ははは……、唖ではなかったのう、婆さん」
健康斎は、笑った。
柿丸は、老婆の枯木のような片腕をねじあげた。
「ばば、白状せぬと、この腕を、へし折るぞ!」
老婆は、苦しがりつつ、かぶりを振った。
「知、知らぬ!」
「知らぬとは、云わせぬぞ! この古狸め!」
柿丸は、本当に、老婆の腕を折ろうとした。
「待った、待った」
健康斎が、あわてて、とめた。
「婆さんの腕を折ったところで、おぬしの連れをさらって行った悪党どもの行先は、判りはせん」
「先生っ! た、たのむ! お手前様が診なければならん患者が、さらわれたのでござるぞ! お手前様も、さがし出す義務がござる!」
「まあ、おちつかっしゃい」
健康斎は、別の燃木をひろいとって、老婆の鼻さきへ、近づけると、
「女子をさらって行ったのは、なんという悪党どもであったかな、婆さん?」
と、問うた。
老婆は、ためらっていたが、ひくい声音で、ぼそぼそと、こたえた。
「青助と、黒太じゃな。よし、わかった」
健康斎は、柿丸に、「参ろう」と、うながした。
柿丸は、老婆を、殺してもあきたらぬ憎いものに、睨みつけていたが、健康斎のおちついた態度に、怒りをおさえて、ついて、出た。
健康斎は、歩き出しながら、
「悪党の巣というものは、そう多いものではない。見つけるのは、かんたんではないが、さりとて、むつかしいというほどのこともない」
と、云った。
「しかし、愚図愚図して居っては、梨花様は、けがされてしまうのじゃ! 先生、はようして下され!」
旅籠を出て、橋を渡りかけたとたん、健康斎が、
「ほう、参ったぞ」
と、にやりとした。
|破《ご》|落《ろ》|戸《つき》ていの男が二人、酔った足どりで、近づいて来たのである。
「おい、お前ら──」
健康斎が、声をかけると、男たちは、
「おう、先生じゃねえか」
「こんなところで、亡霊をとっつかまえて、薬餌でも採ろうってえのかい」
「亡霊の代りに、つかまえたい奴が居る」
「誰でえ、そいつは──?」
「青助に、黒太だ。どこに居る?」
「そこにゃ、いねえのかい?」
「婆さんが、どこかへ行った、と申したな」
「それじゃ、きまってらあ。毒蛇様だ」
「毒蛇様? あの神社は、焼け落ちたはずだが──」
「半焼けだ。毎夜、賭場になっているぜ」
「その神社は、どっちだ?」
柿丸が、一人の胸ぐらをとった。
「わしが知って居る」
健康斎が、歩き出した。
柿丸は、健康斎の腕をつかむと、
「たのむっ! 走って下され、先生!」
と、ひっぱった。
「待て、待て──。近頃、とみに心悸亢進で、走るのは、苦手じゃわい」
健康斎は、ひきずられながら、悲鳴をあげた。
柿丸は、いきなり、健康斎を、
「ござれっ!」
と、背負った。
「ほっ、これは安楽じゃ」
「方角を指示なされい」
柿丸は、奔り出した。
牛尾山麓の蛇ケ淵までは、かなりの距離であったが、柿丸は、一気に、疾駆した。
「あれじゃ──」
柿丸の背中から、健康斎が指さすところに、巨大な化物のように、なかば焼け崩れた社殿が、ぬっと、松の木立の中にそびえていた。
柿丸は、とっさに、健康斎を、そこへ、ほうり出しておいて、矢のごとく突進して行った。
だが──。
境内に立った瞬間、ぴたっと足を停めて、眉宇をひそめた。
社殿の中から、のんびりとした歌声が、ひびいて来たのである。
[#ここから2字下げ]
花をな、へだてそ垣ほの梅
さてこそ、花の情なれ
花に三春の約あり
人に一夜をなれそめて
後いかならむ、うちつけに
心は空に、奈良むらさきの
………
[#ここで字下げ終わり]
健康斎が、柿丸のそばへ寄って米て、社殿内から、ひびいて来る歌声に、
「ほう、これはまた、いささか、状況がちがったな」
と、云い、
「はてな? あの声には、ききおぼえがあるぞ」
と、云った。
二人は、肩をならべて、社殿へ入って行った。
社殿内のうすぎたない光景は、すでに、百平太を中心にした賭博の場面で、説明した通りである。
そこに、大あぐらをかいて、春の歌をうたっているのは、破戒僧天満坊にまぎれもない。
かたわらに、梨花が、横たわって、白い寐顔をみせている。
青助と黒太は、太柱に、ぐるぐる巻きに、くくりつけられて、世にもなさけない面になっている。
青助と黒太は、梨花をもてあそぶべく、ここへかつぎ込み、天満坊に、とりおさえられたのである。
「ほう……、これは、珍しいの。天満坊ではないか」
健康斎が、声をかけた。
天満坊も、健康斎を視て、
「なんだ、藪医者か──」
と、笑った。
旧知の間柄であった。
柿丸は、梨花のそばへ寄って、
「梨花様、こらえて下され。それがしが、あのいかがわしい旅籠へおつれ申したために、かような目にお遭わせして、申しわけござらぬ」
と、頭を下げた。
天満坊が、健康斎に、小声で、
「美人薄命じゃな」
と、云った。
健康斎は、梨花のそばへ寄って、額へ手をあてた。
燃えるように熱い。
「そなた。これまで、血を|喀《は》いたかな?」
健康斎は、たずねた。
「はい──」
梨花は、まぶたを閉じたまま、うなずいた。
「養生が足らぬな。滋養物も、摂って居らぬ」
そう云って、柿丸を、視かえした。
柿丸は、黙って、頭を下げた。
天満坊の方は、青助と黒太をひきたてて、社殿を出た。
「春が来たと、風がささやいて居る。……どうじゃ、お前ら、春にさきがけて、散るか」
青助と黒太は、地べたへ、へたばりこむと、額を土へこすりつけた。
「ははは……、虫けらも、せっかくめぐって来た春を、生きのびたいか」
天満坊は、二人を解き放ってやると、また、のんびりと、唄いはじめた。
生命ある日に
柳の遊廓、という。
つい数年前までは、小さな沼をとりかこんで、柳が五六本、ものさびしく、水面に、枝をたらしていたのであるが、大内裏を抜け出した美しい女官と、身分のひくい青ざむらいが、からだをひとつにしばって、沼に投じたのを、きっかけにして、にわかに、絃歌が夜半までひびく色里になってしまったのである。
|大《おお》|門《もん》までの二町あまりの往還には、柳の並木が植えられ、駕籠やらかくれ笠の遊客が、行き交う景色は、一度通った者には忘れられないものとなる。
彼方に、大門が、くろぐろと構えられ、その内側に、無数の灯が、なまめかしく、またたいている。
心うきうきと、今様を口ずさみながら、急ぎ足に近づく男たちの脳裡からは、妻子のことや家のことなど、どこかへ、ふっとんでしまっている。
その遊客の群に交って、くるわへ行くにはふさわしからぬ人物が一人。
おそろしく巨きな幟に、長剣を一振り、くくりつけたのを、肩にかついでいる。
六尺ゆたかの巨躯も目立つが、それよりも、着たきりのぼろ小袖が、すれちがう者に思わず、顔をそむけさせるほど、プンとくさい。
九十九谷左近は、多門夜八郎に挑戦した日を明日にひかえて、遊廓にあそびにやって来た。
大門をくぐると、たちまち、左右に並んだ青楼から、袖ひき婆さんたちの声が、かかって来るのだが、左近が通りかかると、
「おや、いやだ」
とか、
「なんだろうね、ありゃ──」
とか、露骨な声が、あびせられた。
左近は、一向に耳にとめる気色もみせず、悠々と通って行く。
やがて──。
とある青楼の前に立ちどまると、
「ここだな」
と、つぶやいた。
床几に腰かけていた袖ひき婆さんが、うさんくさげに、睨み上げて、
「うちは、お公家なら、六位の蔵人、お武家なら、大大名の近習──」
と、云った。
左近は、その言葉を黙殺して、入って行こうとした。
「ちょいと!」
婆さんは、あわてて、前をさえぎった。
「失礼だけど、うちは、ご牢人衆を上げないことにしているんですよ」
「おれは、牢人者ではない」
「どう見たって、牢人さんとよりほかに、受けとり様がありませんよ」
「あいにくだが、おれは、兵法者だ」
左近は、そう云って、婆さんの膝へ、小粒銀を二つばかり、投げた。
「へえ!」
袖ひき婆さんは、目をまるくして、左近を、まじまじと見上げた。
こんなたくさんの心づけをくれる客は、滅多にいるものではない。
乞食同然の|装《なり》をした兵法者が、いったい、どうしてこんな気前のよさを示すのか。
婆さんは、うす気味わるくさえ感じた。
「花鳥大夫に会いたい」
左近は、云った。
「へえ──」
婆さんは、急いで、奥へ入りかけてから、客の名をきいていないのに気がついた。
「どなた様で──?」
「むかしの知りあい、と云ってもらおうか」
「かしこまりました」
婆さんに耳うちされた|下《しも》|部《べ》の女が、左近を部屋へ、案内した。
あまり上等の部屋ではなかったが、左近は、その裏座敷にあぐらをかくと、
「まともに、夜具に寝るのは、幾年ぶりかのう」
と、云いつつ、下部の女にも、小粒銀を投げてやった。
女は、びっくりして、左近を視、
「お気に召さねば、ほかの座敷に、ご案内を──」
と、云った。
「手の裏を返したように、扱うな。おれは、気が変ると、同じ銀でも、こっちの方で、お前の首を刎ねるかも知れぬぞ」
左近は、にやりとした。
女は首を縮めて、にげて行ってしまった。
「こらっ、酒を忘れるな!」
左近は、家中にひびき渡る大声をあびせた。
酒は、はこばれて来たが、遊女は、容易に現れなかった。
さびしい顔つきの|禿《かむろ》が入って来て、かたわらへ、ちょこんと坐って、酌をしようとしたが、
「要らぬ」
とことわって、左近は、手酌で、飲みつづけた。
ようやく、廊下に、草履の音が、近づいた。
「こちらかえ──?」
きれいな声がした。
「あい」
禿が、すぐ立って、障子を開けた。
俯向きかげんで入って来た遊女は、両手をつかえて、挨拶してから、顔をあげたとたん、
「あ!」
と、おどろきの声をあげた。
「二年ぶりだな、青蓮尼──」
左近は、遊女を、そう呼んで、薄ら笑った。
遊女は、禿に、
「呼ぶまで、あちらへ──」
と、命じた。
禿は、敏感に、二人の顔を、見くらべておいて、立って行った。
遊女は、二人きりになると、
「青蓮尼は、二年前に、亡くなりました」
と、云った。
しずかな声音であった。
「生れかわって、花鳥という大夫が、ここに在る、か──。ははは」
左近は、笑い声をたてた。
「どうだな? あのまま、山科の古寺で、尼として、勤行三昧にくらしていた方が幸せであったか。それとも、こうして、紅灯の中で、夜毎、うかれ客を対手にして酒をくらっている方が愉しいか、……それも、ききたくて参った」
「貴方様は、地獄へつきおとした女が、どのように、みだらな色にそまったか、見とどけに参られましたのか?」
花鳥大夫は、じっと、左近を見つめた。
「なんの……。おれは、そなたを、金をはらって、抱きに来た。ただの客にすぎぬ」
「………」
花鳥大夫は、左近の冷たい面貌を見つめているうちに、二年前のいまわしい記憶が、まざまざとよみがえったか、視線を膝に落した。
灯かげでつくられた陰翳が、眉目を、さびしいものにした。
二年前──。
山科の山道を通っていた左近は、不意に、五人の飢えた牢人者に、襲われた。
山賊をはたらくのは、はじめての連中であった。
きわめて、平凡な風貌の、どこかの武将の家来になれば、可もなく不可もない一員になりそうな牢人者たちであった。
左近は、久しぶりに、愛刀を血ぬらせる快感に躍り立って、五人を、みるみる斬り伏せていった。
左近の凄じい腕前と剣気は、牢人者たちに、たちまち、恐怖の表情をつくらせた。
仲間三人を斬られた残りの二人は、一人は刀をほうり出し、一人は松の幹に背中をすりつけて、許しを乞うた。
しかし──。
左近は、寸毫の容赦もせず、一人を袈裟がけにし、もう一人の顔面を真二つにした。
その瞬間、女の悲鳴があがった。
すこしはなれた地点に、三人の尼僧が立ちすくんで、この光景を目撃していたのである。
二人の尼僧は、年老いていたが、一人は、目のさめるような美貌であった。
「むごい!」
年老いた尼僧の一人が、云った。
「むごい?」
左近は、薄ら笑って、白刃を腰に納めてから、近づくと、
「五人に一人、しかも、斬らねば斬られる死地に置かれたのだ。……なにが、むごいのか、教えてもらおう!」
「か、かたなをすてて、許しを乞う者を、斬るとは、あまりに、残忍ではありませぬか?」
老尼は、恐怖を抑えて、左近を責めた。
左近は、三人の尼僧を眺めやって、不意に哄笑した。
それから、
「むごい、とか、残忍、とか──それが、どんなものか、貴女がたに、お教えいたそうか」
と、云いはなったことである。
尼僧たちは、左近が放つ殺気をあびて、怯えた。
次の刹那──。
左近の腰から、白刃が、閃光を描いた。
尼僧たちは、悲鳴をほとばしらせて、遁れるいとまもなく、峰撃たれて、つぎつぎと、その場へ、崩れ落ちた。
意識をとりもどした時、年配の尼僧二人は、それぞれ、松の幹へ、後手にくくりつけられていた。
そして──
左近は、若い美しい尼僧を、地べたに、仰臥させ、白衣の前をひきめくって、あられもないすがたにさせていたのである。
「尼がた──」
左近は、老尼たちへ、冷たい視線をくれて、
「仏に|帰《き》|依《え》しているとか、阿弥陀の|十《じっ》|方《ぽう》|無《む》|碍《げ》の光に浴しているとか、せいぜい、自分をだますのに、日々あけくれて居る模様だが、生き身を持っているかなしさを、ひとつ、とくと、見とどけるがいい。頭をまるめようが、法衣をつけて居ろうが、女は女だ。……女は、男に抱かれるようにできて居るのだ」
うそぶいておいて、片手をのばすや、思いきりみだらなしぐさを開始したのであった。
二人の尼僧は、顔をそむけ、経文をとなえて、その残忍な光景に堪えようとした。
しかし、左近にうそぶかれたごとく、本能に加えられる強烈な刺戟に、うち克つすべはなく、若い美しい肢体の犯されるさまから、ついに、視線をそらしたままではすごせなかった。
二人とも、すでに|四《よ》|十《そ》|路《じ》を越えた|未《お》|通《ぼ》|女《こ》であったが、それだけに、好奇心のそそられかたは、名状し難い烈しさであった、といえる。
左近は、目撃させることの快感にかられつつ、思うさまに、その美しい白いからだを、もてあそんだのであった。
左近が、その上から、身をどけた瞬間、若い尼僧は、はじかれたようにはね起きて、断崖から身をおどらせて、果てようとした。
それを、さえぎって、抱きかかえた左近は、老尼たちへ、
「どうする、この女を?」
「許すか、それとも、追放するのか?」
左近は、がっくりとうなだれた若い尼僧へ、
「あの二人が、そなたを許すか、許さぬかで、仏の有無が判るぞ」
と、ささやいておいて、その二人を松の幹から、解いてやったのである。
左近の予測は、的中した。
二人の|比《び》|丘《く》|尼《に》は、自由の身になるや、互いに顔を見合せ、急に法衣をひるがえして、駆け去ってしまったのである。
若い尼僧には、一瞥すら与えずに、すて去った。
左近は、冷笑した。
「どうだ、これが、現実というものだ。そなたが、おれに犯されたのは、不可抗力による不運だったのだ。まことに、阿弥陀如来の光があるものなら、不運にも傷ついたそなたを、広大無辺の慈悲によって、包んでやるべきではないのか。あの尼めらは、そなたを、すてて、逃げたぞ。仏門に帰依した者に、あの冷酷があってよいのか。どうだ? これでも、そなたは、なお、阿弥陀を信じるのか?」
左近は、尼僧の肩をつかんで、烈しくゆさぶると、哄笑したことであった。
あれから、二年──。
青蓮尼は、この柳の遊廓で、花鳥大夫と名のって、一二をあらそう傾城となっているのであった。
尼から遊女へ──女として、これほどの烈しい変りかたをした者は、万人に一人もあるまい。
いま、左近は、花鳥大夫を、眺めて、二年前を思い出しながら、にやりとした。
左近は、青蓮尼をつれて、京の都へ出て、三月あまり、一緒にくらしたのである。
そのあいだに、左近は、二度ばかり、青蓮尼から、ねむっているところを、短剣で、刺されようとした。
左近は、わざと、ねむったふりをして、女の様子をはかったものである。
青蓮尼は、切っ先を、左近ののどへ、擬しながらも、ついに、突くことができなかった。
憎みつつも、いつの間にか、左近に抱かれることを欲している自分が、あさましく、いとわしく、そして、あわれで、青蓮尼は、ひそかに、泣きつづけたことだった。
青蓮尼が、いっそ、女が地獄の使いであるならば、おのが身を泥沼に沈めてみよう、と決意したのは、左近によって、官能をめざめさせられた瞬間であった。
青蓮尼は、左近に、そのことを告げて、別れたのであった。左近は、冷たく笑って、敢えて止めようとはしなかった。
「傾城になって、そなたは、何をさとったな?」
左近は、たずねた。
「男が、けだものであることを、あらためて、さとった、と申上げたならば、貴方様は、ご満足でありましょうか?」
「ふん──」
「わたくしは、男が、大層かわいい生きものであることを、知りました」
「なんだと?」
左近は、あきれて、目を光らせた。
「わたくしは、貴方様によって、男は、おそろしいもの、と教えられて参りました。ところが、この世界に入ってみて、男は、案に相違して、大層かわいい生きものであることを知りました」
「その理由をきこうか」
左近は、花鳥大夫を、見すえた。
「こうした世界は、嘘と嘘でかためているはずなのに、いのちがけで、傾城に惚れる男が、一人や二人でないことを、わたくしは、知りました」
「そなたには、幾人でも、男は惚れるだろう」
「いえ。わたくしのことではありませぬ。……わたくしどもの目には、まさしく地獄の使いの悪性女に、善良な商人が、無我夢中になって、かよいつめ、十年もかかって、たくわえた金を、のこらず、つかいはたす例を、ひとつふたつならず、みせられました。乞食同様になって、すごすごと、どこかへ去って行くあわれな後姿を眺めて、わたくしは、男が女よりも、どれだけ、お人好しであることか、としみじみ、さとりました」
「だが、同時に、ここには、|蛇《だ》|蝎《かつ》のような悪党も、うようよしているはずだな」
「蛇蝎にみえる男でも、心のどこかには、女に対する弱さ、もろさを持って居ります」
花鳥は云った。
「大層慈悲ぶかいことだ。それでは、この九十九谷左近を、許す寛大さもあるだろう」
「………」
花鳥は、こたえるかわりに、手をたたいた。
禿が入って来た。
「離れに、席を──」
花鳥は、命じた。
「おれは、ここでかまわぬ」
左近が云うと、花鳥は、あでやかな微笑をかえして、
「今宵かぎりのおいのちなれば、もてなしに、心をこめたく存じます」
と、云った。
「今宵かぎりの生命?」
左近は、眉宇をひそめた。
「おれが、多門夜八郎に挑戦したことを、そなた、知って居るのか?」
「都のまん中に、高札を立てれば、噂はここへもつたわります」
「おれが、どうして、多門夜八郎に敗れると、きめているのだ?」
「貴方様の影のうすさを、入って来た瞬間に、感じました」
「はっはっは……」
左近は、声をたてて、笑った。
「おれが、影がうすい、というのか。これは、そなたが、おれを憎むかわりに、はじめての男を忘れかねている、という証拠になるぞ」
そう云って、また、声をたてて、笑った。
離家は、一戸建ての茅葺屋根で、小松にかこまれていた。
花鳥は、左近を、そこへみちびくと、入口で、頭をまわし、
「お泊りなさるのですね?」
と、たずねた。
「そなた次第だ」
左近は、こたえた。
「わたくしは、遊女ゆえ、お客がのぞむままになります」
「花鳥大夫は、わがままで、客をえりごのみすると、噂にきいて居るぞ。まして、自分を、この泥沼へつき|堕《おと》した男を、黙って迎えてくれようなどとは、考えられなかった」
「そのご心配はありませぬ」
室内は、炉で燃える|榾《ほ》|柮《だ》|火《び》で、あたたかかった。
炉をへだてて対坐すると、左近は、禿がはこんで来た酒を、手酌で飲みはじめた。
花鳥は、なにやら居心地わるそうな左近を見まもりながら、
「貴方様は、どこやら、すこし、お変りになりました」
と、云った。
「べつに、当人は、変ったとは思って居らぬ。そなたと別れてからも、兵法修業を名目にして、多くの人を斬ったぞ」
「わたくしのことを、お忘れにならずに、会いにみえましたのは?」
「む──」
左近は、ちょっと、首をひねって、考えた。
花鳥を視かえした左近は、自嘲に似た微笑をつくった。
「おれのこれまでの生涯で、おれをののしらなかった女は、そなた一人だけだ」
「………」
「内心では、どれほど、おれを憎んでいたか、それは、知らぬ。しかし、そなたは、表面では、おれにむかって、一言も、うらみがましいことは云わなかった。それが、別れたあとで、おれに、そなたを忘れられなくしたのだろう」
「………」
「と申して、おれは、いまさら、あやまる存念はない。……おれは、そなたを、抱きに来た。抱かせるか?」
「売りもののからだでありますゆえ、こばみは、いたしませぬ」
「そうか。……いや、氷のように冷たいからだでも、おれは一向にかまわぬ」
左近は、たてつづけに、盃をあけた。
花鳥は、榾柮火が乏しくなったので、細薪をくべ足した。
と──。
左近が、炉の中へ、首をのめり込ませるように、上半身を傾けて来た。
花鳥は、じっと、左近を見まもった。
「……ねむい」
呟いた左近は、いったん姿勢をととのえてから、ぐらりと、横臥しになった。
とみるや、もう、寐息をたてていた。
正体をうしなった左近へ、じっと、視線をそそぐ花鳥の表情は、別人のように、冷たく、きびしいものになっていた。
酒には、ねむり薬が、混じてあったのである。
──わたしは、この男を、亡きものにするため、ねむらせたのであろうか?
花鳥は、自分に問うた。
ねむり薬を混じる決心をしたのは、左近から、「そなたを抱きに来た」と云われた瞬間であった。
どんなイヤな客に身をまかせても、左近にだけは、許せなかった。
そのぬけぬけとした言葉をきいた瞬間、花鳥は、はじめて、左近を憎んだのである。
昨日まで、時おり、脳裡にうかぶ左近の|俤《おもかげ》は、むしろ、ふしぎに、なつかしいものであった。
左近に対してすこしも憎悪の念がない自分が、ふしぎなくらいであった。
この一年間、花鳥は、無数の男を眺めているうちに、左近という人物が、判って来るような気がしたのである。
柳の遊廓へ来る客の大半は、嘘つきであった。本性をかくして、女を抱くのが、客というものであった。
花鳥は、左近にむかって、
「男はかわいいもの」
と云ったが、それは、左近に示す虚勢でしかなかった。花鳥自身の心の中には、客たちの嘘でかためた遊びぶりが、堪えがたいものとして、あったのである。
思えば、左近は、おのれをいつわらぬ男であった。おのが意志のままに行動する男であった。たまたま、その犠牲になって、尼僧から遊女へ、転落したとはいえ、花鳥は左近から裏切られて、そうなったのではなかったのである。
花鳥は、左近のような男を、まだ一人も、客のうちに、見出していなかった。
二年のあいだに、花鳥は、いつの間にか、
──自分の生涯では、やはり、あの人だけが、唯一のおとこであった。
と、信じるようになっていたのである。
その左近が、客として姿を現して、
「そなたを抱きに来た」
と、云ったので、花鳥は、思わず、かっとなったのである。
なぜ、正直に、
「明日、おれは死ぬかも知れぬゆえ、女のからだを抱いておきたい」
と、云わぬのか。
左近も、やはり、客となると、嘘つきでしかなかった。
花鳥は、その憤りで、左近をねむらせてしまったのであったが……。
正体もなくねむる左近を、じっと見まもるうちに、花鳥は、
──このひとも、孤独なのであろうか?
ふと、うたがわずには、いられなかった。
化野決闘
夜明け──。
多門夜八郎は、広沢池の|畔《ほとり》を、ゆっくりと歩いていた。
暁闇に|鹿《しし》ケ谷の古刹を出て来たのである。そこには、可念の紹介で、三泊していた。
といって、べつだん、決闘にそなえて、心気を冴えさせるべく、坐禅を組んだわけではない。
ただ、三日間、無為にすごして来ただけである。
剣に拠って生きようとしている身ではなかった。決闘に、生命が燃えるわけではない。
夜八郎は、三夜を、古刹の方丈ですごしながら、逝った老僧を、脳裡に、その声とともによみがえらせていた。
老僧は、云ったことである。
「お許は、姫の墓の前で、おのれの中にある敬虔をさとった。お許は、こん後は、いままで通り、無目的で、風の吹くままに、生きて行くことは、かなわぬ。何かを求め、何かを為そうとして、生きて行かねばならぬ」
そのために、九十九谷左近との試合をするがよい、と老僧は、すすめたのである。
夜八郎は、べつだん、自分が一夜にして、人格が一変したとは思えなかった。
したがって、老僧の言葉に、納得することはできなかった。
左近の挑戦に応じよう、と肚をきめたのは、老僧が、
「左近の技は、お許よりも秀れて居るかも知れぬ」
と、云ったからである。
敵に六分、おのれに四分の勝目──と、測った夜八郎は、ふと、
──ここらあたりが、おれの散り|秋《どき》かも知れぬ。
と思ったのである。
宵に寐て、夜半に目ざめた夜八郎は、井戸端へ出て、冷水をかぶった時、ふしぎなすがすがしさをおぼえた。
老僧が、どこからか、微笑をもって見まもっているような気がした。
夜八郎は、苦笑した。
──おれを、悟りに近づけようとしてくれているのか。
死後の霊魂の存在などを、すこしも信じていない夜八郎は、老僧の暗示にかかったおのれに、意外な善良さを見つけた。
山門を出ようとすると、いつの間にか、そこに、可念が立っていて、
「ご武運のほどをお祈りいたします」
と、挨拶した。
もし敗れたならば、葬ってくれるように、この若い僧侶にたのんであった。
夜八郎は、黙って、頭を下げておいて、可念の前を過ぎた。
可念は、あとから、決闘場へ来るであろう。
夜八郎は、おのが|屍《むくろ》の前で、可念が誦経する光景を、想像しながら、暁闇の中を歩いた。
そして、
──おちついているこの気持が、いささかの悟りの境地というのなら、悟りとはさしたるものではなさそうだ。
と、考えたことである。
|化野《あだしの》への近道をえらんで、膝までからまる雑草の野の中に、細径をさがそうとした時、前方を、鹿が音もなく影を掠めさせた。
瞬間──。
夜八郎の脳裡に、天啓のごとくひらめくものがあった。
足を停めて、雑草の中へ、身を沈めた夜八郎は、鋭く、野へ視線を配った。
いる。
南方の松の木立に、鹿の影が大小ふたつ。親子であろう。
──よし!
夜八郎は、距離を目測した。
鹿たちは、おそるべき敵が近くにひそむとは知らずに、木立の中から、出て来た。
夜八郎は、頃あいを見はからって、石をひろうと、その木立の中めがけて、投じた。
幹を打つ音とともに、鹿たちは、風の迅さで、跳躍しはじめた。
その速影が、前方に来るや、夜八郎は、猛然と、とび出した。
すでに、その時、二刀を抜きはなって居り、夜八郎は、それを、ともに、肩にかつぐように、後方へ流していた。
危険に対して、疾駆の護身本能しか持たぬ鹿たちは、夜八郎の姿を、みとめたせつな、もう方角を転じていた。
それをのがさず、夜八郎は、
「うむ!」
と、気合もろとも、二剣を、双手から放した。
二条の閃光を発した白刃は、吸い込まれるように、鹿たちを襲った。
雑草へ伏した鹿たちは、もう動かなかった。
ゆっくりと近づいた夜八郎は、長剣短剣とも、鹿親子の頭に突き立っているのを、見とどけた。
夜八郎は、鹿の脚に勝ったおのが迅業に、満足をおぼえた。
二剣を、腰に納めて、歩き出そうとしたとたん、夜八郎は、近くに人が立っているのに気づいて、頭をまわした。
ずんぐりと肥った、ぼろ法衣をまとった僧体の男が、雑草の中に出現していた。
視線が合うと、男は、にやっとした。
「大層な手練でござるの、多門夜八郎殿」
「………?」
夜八郎は、自分を知っている見知らぬ男を、鋭く見据えて、沈黙を守った。
「これから決死の勝負をなさるにあたって、おのが迅業を試されたかな」
「………」
「しかし、そのような試しをされるほかに、もうひとつ、お手前に、して頂かねばならぬことがござる」
「お主、何者だ?」
「これは、申しおくれた。天満坊という乞食坊主でござる」
「それがしに、何をせよ、というのか?」
夜八郎は、天満坊に、たずねた。
「会って頂きたい人が、一人ござるな」
天満坊は、そう云って、坊主あたまを、ガシガシと、かいた。
「それがしは、別れを惜しまねばならぬような者は、一人も持たぬが……」
「それが、ござるな」
「………?」
「若い、美しい|女《にょ》|人《にん》でござる」
「おんな?」
夜八郎は、眉宇をひそめた。
「左様、それも、氏素姓正しい、上臈[#「臈」は底本では草冠「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)。中巻、下巻では「臈」の表記もあり]でござるわい」
「おぼえがない」
「梨花殿じゃ」
「梨花?」
「おのれが抱いた女人の名まで、忘れるとは、なんとつれない御仁かのう」
「むだな足どめは、止してもらおう」
夜八郎は、歩き出した。
梨花のことは、すぐ、思い出していたが、未練のある女性ではなかった。
偶然に救い、気まぐれに犯し、途中で、すてた娘であった。
「待たっしゃい!」
天満坊は、大声をあげて、夜八郎を、とどめた。
「梨花殿は、お手前を、生涯の良人と思いさだめて、あとを追うて、この京へ参ったのじゃ。お手前にとっては、その場かぎりのなぐさみものであったかも知れぬが、若い女にとっては、はじめて操をくれた男を、ひたむきに慕うのは、その心情の美しさを|証《あか》すものだ。お手前は、会ってやらねばなり申さぬ」
「よけいなお節介であろう」
「いいや、さにあらず。鹿を仕止めて、おのが腕を試してみたところで、九十九谷左近に、必ず勝てるとは、限って居らぬ。陽が中天に昇った頃には、お手前は、化野のくさむらに、冷たくなって居るかも知れぬ。そうではない、と誰人も保証することはできぬ。……万が一、お手前が、討たれたならば、せっかく、京へたどりついた梨花殿は、いかが相成る。ひと目だけでも、会っておけば、この後、尼になろうとも、思い出が、梨花殿を生かして行くのではあるまいかな」
「………」
「梨花殿自身が、さほど長い生命とも思えぬやまいの身であれば、お手前に会えぬのと会うのとでは、明日からの心がまえが、どれだけちがうか──そこのところを、考えてやって頂こう」
「………」
夜八郎は、野の果てへ、暗い視線を放っていたが、しずかに、天満坊を、かえり見ると、
「いま、どこに?」
と、たずねた。
「参られい」
天満坊は、夜八郎を、いざなった。
夜八郎は、ちょっとためらっていたが、
──女の心の哀しさを、測れるようになったおのれではないか。
と、自身に云いきかせて、そのあとにしたがった。
天満坊は、飄々たる歩きかたで、ひくく唐の陸魯望の離別詩を、口ずさんだ。
[#ここから2字下げ]
大丈夫涙なきに非ず
|灑《そそ》がす離別の間
剣に依りて樽酒に対す
遊子の顔を為すを恥ず
[#ここで字下げ終わり]
ひょいと、夜八郎をふりかえるや、
「多門殿は、女子というものを、どう思われるかな?」
「べつに、どうとも思わぬが……」
「女子は、可愛いもの、と思われたことは、ござらぬかな?」
「………」
「はっはっは……。この乞食坊主が、妙なことを云い出したので、面くらわれたようじゃ。……これで、若い頃、女子に死ぬほど、恋したことがござる。笑われるな」
「笑いはいたさぬ。……それで、その女子とは──?」
「女子には、良人が居り申したわ。その良人が、極道の限りをつくす悪党めで、愚僧は、とうとう、肚にすえかねて、討ち果してくれようと、決意したものでござった。ところが、女子め、良人を斬るなら、さきに、自分を殺してくれろ、と申したわ。この時の愚僧の気持は、まことに、名状し難いものでござったな」
「………」
「あれほど、自分をいためつけている極悪人を、かばおうとする女心が、どうしても判らなんだのでござる。愚僧、あっけにとられて、言葉もなかったげにござる」
「………」
「女子という者は、とうてい、男の理解し難い心根を持っている、と絶望して以来、こちらから、女子には近づかぬことにいたした」
「………」
「多門殿には、そのような経験は、おありではござらぬかな?」
「ない、とこたえれば、嘘になる。しかし、ある、とこたえるのも、はばかる」
夜八郎は、朝靄のはれて行く野へ、目をはなちながら、あいまいな返辞をした。
「それは、また、どういう経験でござろうか?」
「お主のように、こともなげに語ることのできぬ思い出なれば……」
「ああ、さようか。きかぬことにいたそう。ただ、ここで、愚僧が申上げておきたいのは、むこうの森の中の家で、お手前を待つ女人は、女子の心の美しさを持っている、ということでござるわい」
夜八郎が、案内された、その森の中の小さな家は、いかにも、美しい女性が待つにふさわしい風雅なたたずまいであった。
「では──」
天満坊は、立ちどまった。
「ここまでの案内役が、愚僧のつとめでござる」
そう告げて、くるっと踵をまわした。
木立の中に入ると、まだ、暁闇がのこっていた。
夜八郎は、戸口に立つ人影を、視た。
柿丸であった。
夜八郎が、その前に立つと、柿丸は、黙って、頭を下げた。口下手な男なのである。
「お主が、今日まで、あの娘の面倒をみていたのか?」
「行きがかりにて……」
柿丸は、ひくい声音でこたえた。
夜八郎は、この誠実で朴訥な若者には、なつかしさをおぼえた。
夜八郎が斬りすてた男たちを、黙々として埋葬してやった柿丸である。
この戦乱の浮世に、縁もゆかりもない、しかも悪党に属する男たちの遺骸を、埋葬してやる誠実を持ちつづけることは、貧しい放浪者として、まことに、むつかしい。
この若者なら、おそらく、死ぬまで持ちつづけるに相違ない。
今日まで梨花を世話して来たのも、無償の無心がなければ、できるわざではない。
梨花が、夜八郎の妻になることをねがっているのを見て、柿丸は、二人を会わせようと、そのことのみを考え、努力して来たのである。
「あの娘の容態は、いかがだ?」
夜八郎は、たずねた。
「わるうござる」
柿丸は、目を伏せて、こたえた。
「どこがわるい?」
「胸でござる。……しばしば、血を|喀《は》かれたのでござる。永くは、|保《も》たぬと、この京に住む名医が申されました」
柿丸は、夜八郎へ、哀訴するような表情をみせた。
しかし、口のうちで、云った言葉は、あまりに、ひくくて、夜八郎には、よくききとれなかった。
妻にすると云って欲しい、という意味の言葉であったろう。
夜八郎は、家の中へ入った。
煎じ薬の匂いがこもっていた。
夜八郎は、土間に立って、一瞬、眉をひそめた。
当然、臥床にあるものと想像していた梨花が、きちんと正座していたのである。
「あ──梨花様! 何をされるぞ!」
夜八郎のうしろで、柿丸が、おどろきの叫びをあげた。
梨花は、ずっと寐ていたのである。今朝、夜八郎を迎えるために、いつの間にか、起きて、夜具を片づけたのである。
夜八郎は、上って行くと、
「そなた、寐ていなくともよいのか」
と、何気ない口調で、云いかけた。
夜八郎の、もの静かな態度が、梨花のはりつめた心を救った。
「ご心配には及びませぬ」
梨花は、両手をつかえて、つとめて、気分のさわやかな様子を装おうとした。
──熱があるからだだな。
夜八郎は、正座すると、
「柿丸が、そなたの世話をしていたようだな?」
「はい。柿丸殿がいなければ、わたくしは、もういまごろは、この世の者ではなかったと存じます」
「あれほど誠実な男は、珍しい」
「はい。万人に一人も居りませぬ」
二人は、すでに数年も一緒にくらしている夫婦のような会話を交していることに、気がついて、視線を合せた。
めぐり会いながら、肝心の話が、互いに、口にできぬもどかしさをおぼえた。
夜八郎の方は、むしろ、その方がよかったのかも知れぬ。
しかし、梨花の方は、たまらないことだった。
夜八郎は、あるいは、死に行くのかも知れないのである。
女としては、そのさいごの別れに、男の胸のうちで、泣いてみたい衝動があった。
しかし、夜八郎の、むしろ、そらぞらしげな態度に対して、じりとも寄ることさえも、叶わなかった。
かなり長い沈黙の時間が流れた。
梨花は、しだいに、堪えがたくなった。身の内には、火と燃えるものがありながら、じっと動かずにいなければならない苦しさは、名状しがたかった。
やがて──。
夜八郎が、
「約束の時刻が、迫った。行かねばならぬ」
と、告げて、膝を立てかけた。
梨花は、どきっとなって、夜八郎を仰いだ。
しかし、ただ、
「ご武運のほどを──」
それだけ云って、目ですがるよりほかに、とるべきすべを知らなかった。
「では──」
夜八郎は、|一《いち》|揖《ゆう》して、立った。
梨花は、ふかく頭を下げた。
その時──。
柿丸が、ぬっと土間に入って来た。
その表情は、憤懣をみなぎらせていた。
「………?」
見下す夜八郎を、ぎらぎら光る眼眸で、睨みかえした。
「お手前様の血は、白う冷たく、にごってござるのか?」
夜八郎は、朝陽のさしそめた野道を、かなりの急ぎ足で、辿りながら、いま、柿丸からあびせられた言葉を、よみがえらせていた。
「お手前様の血は、白う冷たく、にごってござるのか?」
憎悪をふくんでいたのであれば、さまで、心にこたえはしなかったろう。
その声には、哀訴のひびきがあったのである。
柿丸とすれば、そう叫びたくなるのは、当然であったろう。
せっかく、八方をさがしまわった挙句、ようやく、夜八郎をさがしあて、梨花にひきあわせたのである。
二人が、期待に応えてくれる再会の光景をみせてくれたならば、柿丸は、それで、満足であったのだ。
なんという、そらぞらしい再会であったろう。なんという夜八郎の態度のつめたさであったことか。また、梨花も、幼女のようにからだをこわばらせて、じっとしているだけとは、あまりにも、じれったいことであった。
柿丸としては、思わず、叫ばずにはいられなかったのである。
それに対して、夜八郎は、黙って、わきをすり抜けて、おもてへ出たのであった。
そして──。
いちども、ふりかえらなかった。
夜八郎は、おのれの冷酷を、後悔はしなかった。
──おれに、ほかに、とるべきすべがあったか。
胸に問うてみて、それよりほかに、こたえは出なかったのである。
梨花に対しては、詫びる気持もなくはなかった。
しかし、心から愛している女性ではなかった。
梨花の必死な思慕に応えて、抱きしめてやるのは、おのが心をいつわることであった。
──いっそ、これで、おれをあきらめてくれるとよいのだ。
夜八郎は、いつの間にか、背後に、のこのこと従いて来る者があるのに気がついた。
「天満坊殿か?」
「左様──」
「それがしの最期でも、見とどける所存か?」
「まず、そんなところであろうな」
天満坊は、否定しなかった。
「それがしが、女に冷淡な会いかたをしたのを、御坊も、おこった一人か?」
「愚僧は、ただの案内役。男女の間の機微については、そ知らぬふりをいたすのが、方針でな」
天満坊は、高い笑い声をたてた。
それから、不意に、声音をあらためて、云ったことである。
「それよりも、お手前の五体には、油断がなさすぎるのう」
油断がなさすぎる、と云われて、夜八郎は、はじめて、天満坊をふりかえった。
「それは、どういうことか?」
「お手前は、女子に再会なされても、一瞬の油断もなかったのでは、ござらぬかな?」
「………」
「それは、無駄でござったな。女子は、お手前に、ただ、抱いて欲しい、とねがって居り申した。そのいじらしい女子に対して、一瞬の油断もせなんだとは、どういうことでござろうかな」
天満坊は、そう云って、大きなてのひらで、つるりと顔をなでた。
夜八郎は、苦笑して、
「修業のために生きては居らぬ」
と、こたえた。
「では、何故に、九十九谷左近の挑戦を受けられたな?」
天満坊は、肩をならべた。
「気まぐれ──であろうか」
「気まぐれにしては、対手が強すぎる」
夜八郎は、天満坊の表情が、ひきしまったのを視て、
「お主、あの兵法者をご存じか?」
と、問うた。
「知らなければ、このように、お手前につきまとって、心配はせぬ。左近は、剣鬼と申してもよい」
「………」
「なろうことなら、これから、ひきかえして、女子を安心させて頂きたいものだが……、それもなるまいな」
「お主に心配してもらう筋はないが……」
夜八郎が、そう云うと、天満坊は、にやっとした。
「多門夜八郎という|仮名《けみょう》をもって、京洛を横行した若者が、いかなる素姓か──その当時から、愚僧は、存じ上げて居った」
「………?」
「いや、素姓などは、どうでもよいことだが、その若者を生んだ美しい婦人に、愚僧は、二度ばかりお目にかかったことがござる。いまも、その美しい|容《よう》|子《す》を、ありありと、想いうかべることができ申すて──」
「………」
「美人薄命、とはよく申した。ご不幸なかたであった」
「………」
夜八郎は、物心ついた頃には、その母と別れていた。
母は、美濃辺某という北面の武士の妻であった。その美貌が、仇となって、将軍足利義晴に、良人からひきはなされ、手ごめ同然に、犯されたのである。
夜八郎が、そのことを知ったのは、十五歳になってからであった。
夜八郎は、実父である足利義晴を、憎んだ。
将軍家は、夜八郎にとって、他人よりも冷酷な存在だったのである。
夜八郎は、生れて三月も経たないうちに、母のふところに抱かれて、兵火に追われて、都を遁れ出ていた。
畿内はもとより、紀伊、中国、山陰、北陸と、転々として、母とともに、移り住んだのである。
物心ついた頃には、相国寺境内の草庵に、ひっそりと、かくれていた。その時、すでに、母は、かさなる苦難に、病みやつれて、|臥《ふし》|床《ど》に就いている日が多かった。
しかし、夜八郎は、母が亡くなった日のことは、ふしぎに記憶になかった。
いつの間にか、寐ていた母の姿が消えて、部屋は、ひろびろとしたものになっていたのである。
夜八郎の脳裡に、なお、いまもあざやかに焼きついているのは、相国寺鹿苑院が、兵火をあびて、炎上した光景であった。
地獄というものがある、と誰かにきかされていたが、その地獄が、自分の目の前にやって来たことを、夜八郎は、感じたことだった。
おびえて立ちすくむ夜八郎を、不意に出現した一人の髯武者が、はせ寄って、
「さ──ござれ!」
と、背負ってくれたが、なんという安堵であったろう。
その髯武者は、夜八郎を背負って、山野を疾駆し、近江坂本に陣営を構えていた足利将軍に伺候したのである。
その時の光景も、夜八郎の脳裏に、なお、まざまざとうかぶ。
義晴は、いかにも疲れたような様子で、|曲r[#「ろく」はUnicode=#5F54/DFパブリW5D外字=#F472]《きょくろく》によりかかっていた。
髯武者が、平伏して、
「お上、これは、和子様にございます」
と、ひきあわせると、義晴は、うさんくさいものをつれて来られたように、じろっと一瞥しただけで、一言、
「下げろ」
と、命じただけであった。
夜八郎は、八歳であった。
髯武者から、「和子様のお父上は、おそれ多くも将軍家でございまするぞ。日本一偉い方でございます」と、教えられて来たのであった。
その人が、なんという冷淡な態度をみせたことであったか。
──こんな人は、父でもなんでもないぞ!
夜八郎は、人間不信の孤独感を胸にわかせて、義晴を、にらんだことだった。
「お主──」
夜八郎は、天満坊を、視た。
「わたしを、将軍家の許へ、背負って行ってくれた武者がいたが、もしや、お主ではなかったのか?」
「ははは……、おぼえはござらぬの」
天満坊は、かぶりを振った。
否定されると、夜八郎は、急に、
──この僧に、まちがいないようだ。
と、直感した。
ふっと、左近は、目がさめた。
瞬間、
「おっ!」
と、驚愕の声を発して、左近は、はね起きた。
陽ざしが、明るく、室内へさし込んでいる。
「しまった!」
左近の顔色は、変っていた。
寐すごしたのである。
多門夜八郎に対する挑戦の高札に、時刻を|卯《う》の刻(明け六つ)と指定したのは、自分の方である。
その自分が、卯の刻を半|刻《とき》もすぎて、目をさましたのである。
「しまった! しまった!」
天下にその卑怯を、わらわれるのは、自分の方ではないか。
左近は、刀をひっつかんで、とび出した。
すると、庭の伝い石の上に、あでやかに、春の花を|剪《き》りとって、花鳥大夫が、たたずんでいた。
「お目ざめになりましたか」
美しく微笑みかけた。
「そなた、おれの決闘時刻を知っていたはずだぞ!」
「存じて居りました。卯の刻でありましょう」
「それを知っていながら、すてておいたとは、どういうわけだ!」
「あまりに、よくおやすみでありましたゆえ──」
「嘘をつけ! おれに、恥をかかせる冷たい心であったのだろう。どうだ?」
「………」
「そうにちがいあるまい!」
左近に、にらみつけられて、花鳥は、微笑を、顔から消した。
「貴方様は、ただ、酒に酔って、不覚にねむってしもうた、と思っておいでですか?」
「なに!」
「酒の中に、ねむり薬が、しのばせてあったとしたら?」
「なんだと!」
左近の総身が、ぶるっと顫えた。
「おれを、ねむらせたと?」
「このわたくしの手で、貴方様の生命を奪おうとして──」
「なぜ殺さなんだ?」
「寐顔が、やすらかであったゆえ……」
「莫迦っ!」
呶号しざま、左近は、花鳥を、蹴倒した。
その時、なぜ、花鳥を、一刀両断にしなかったのか、後のち、左近は、思いかえして、ふしぎであった。
柳の遊廓を、奔り出て行きながら、左近は、おのれの不覚に、五体を裂きたいほどの激情をわきたたせていた。
左近が、化野の野原へ、駆け着いた時は、すでに、辰の刻(午前八時)になろうとしていた。
左近は、血眼になって、八方を見まわし、
「多門夜八郎っ! |何処《い ず こ》に?」
と、絶叫した。
原野は、春のよそおいにつつまれて、ひっそりと、陽光を受けている。
さらに、人影は、見当らなかった。
「多門夜八郎っ! 九十九谷左近が、ただ今、到着いたした! 仔細あって、遅れたが、卑怯心のためではないっ!」
左近は、わめきたてた。
「出あえっ! 勝負するぞ!」
すると──。
くさむらの中から、むっくりと、坊主頭がのぞいた。
「お!」
左近は、目を瞠った。
「天満坊!」
「ははあ……久濶。お互いに、健在でめでたい」
「見物に参ったのであれば、多門夜八郎の姿を見かけたろう。どこにいる?」
「勝負は、もうついたのではないかな」
天満坊は、とぼけ声を出した。
「おれは、たったいま、到着したばかりだぞ!」
「だからさ、もう勝負はついた。お主の負けじゃ」
「なんだと!」
「一刻ちかくもおくれたのじゃ。弁解にならぬ。お主の負けじゃ」
「仔細がある。おくれたのは、おれの意志ではない」
「いくら弁解してみてもはじまるまい。おくれたことは、消し様もない。多門夜八郎は、お主を、さげすんで、立去った」
「く、くそっ!」
左近は、満面朱となった。
天満坊は、にこにこしながら、左近を見まもって、
「負けたからには、いさぎよく、この決闘をあきらめることじゃな」
「あきらめるものか! もう一度、高札を……」
「|愚者《おろかもの》! 何を申す!」
突如として、天満坊の凄じい一喝があびせられた。
左近は、反抗的に、刀へ手をかけて、身がまえた。
「兵法者ならば、恥を知れ! 斬られて、地に伏した時、おのが刀が短かかったからとか、二刀を使えばとか、弁解してみたところで、はじまろうか! 約束の刻限がすぎれば、おのれが負けたのは、明白なる事実。それを、いさぎよくみとめぬばかりか、もう一度、高札を立てようなどと、愚行も沙汰の限り──。高札を立てて、天下にその卑怯をわらうのは、多門夜八郎の方だぞ。おろか者め!」
餓鬼
春はすぐに逝き、その年は、|空《から》|梅《つ》|雨《ゆ》で、すぐ夏を迎え、その異常な暑気が、疫病を生んで、日本全土へひろげた。
その恐怖に堪えて、ようやく生きのこった人々が、秋風に、ほっとしたのも束の間、冬将軍の襲来は例年にない早さであった。そして、貧しい人々が、多く、餓えて、こごえ死んだ。
年があらたまっても、人々は、なんの吉兆もおぼえず、今年はもっとおそろしいことが起るのではなかろうか、と怯えた。
兵乱はなおひきつづいていたし、気候の不順は、春を迎えても、なおつづいていた。
迷信ぶかい時代であった。
さまざまの流言がひろがり、まことしやかな不吉な予言が信じられ、日本全土の人々が、神仏に祈ることに、むだな時間をついやした。
めぐり来た春も、寒いままに、足早に去った。
と思うや、たちまち、異常な熱気が、大地を包み、空に一点の雲影もない日が、つづきはじめた。
そして、この日照りは、梅雨の季節を迎えても、変らなかった。雨雲は、地の果て、海の彼方にひそんで、さらに、起る気配はなかった。
何かにのろわれたような気候は、諸国の武将たちの闘志を、にぶらせたくらいであった。
去年も、|旱《かん》|魃《ばつ》であった。
今年も、旱魃は、うたがいもなかった。
そうなれば、武将たちは、みだりに、兵を動かすことを警戒しなければならなかった。
城に蓄えた糧秣を、大切にしなければならなかったからである。
武将らは、合戦を一時中止しても、領土内の百姓たちがかくし持っている米や麦を徴発することにした。
百姓たちは、奴隷の智慧をしぼって、隠匿のしかたが巧妙になっていたので、いたるところで、血が流されることになった。
この人為の暴力が、ますます、不吉な予言を生み、末世の惨状は、ひどくなるばかりであった。
当然──。
窮鼠、猫を噛む光景が、現出することになった。
土一揆の蜂起である。
それは、まず、京洛において起り、大和へひろがり、そして、日本全土へひろがった。
すると、山法師も、牢人、野伏の集団も、横行しはじめた。
一揆は、まず、酒屋や土倉を襲撃し、やみくもに放火してまわった。いわば、一種の狂人のふるまいであった。
だが、土一揆といっても、幾種類かに区別された。
悪党の集団は、破壊することに躍起になっていたが、農民の徒党は、徳政要求であった。
それは──。
およそ、三四百人の群衆であった。
どれ一人として、まんぞくな衣服をつけている者はなかった。過半数は、半裸であった。
筵旗をひるがえして、街道を、黒雲のようにかたまって、奔って行く。
雲にかくれることを知らぬ太陽の下で、眩しくきらめくのは、鍬とか、鋤とか、農具であった。刀をかざしているのは、かぞえるほどしかいなかった。
他の者は、棒をつかんでいた。
指揮をとる牢人の姿は見当らなかった。
ぜんぶが農民であった。女も子供も交っている。
指揮者を持たぬこの集団は、まさしく、今日を餓えきった貧しい人々であった。
街道の左右にひろがる広大な田野に、水は一滴もたまってはいないのである。地面は、ことごとく、ひび割れていた。
いつもならば、苗代は、青あおとして、田植えを待っている頃である。
苗代は、どこにも、見当らなかった。
二年間も、天から水をもらえない農民たちは、ついに、米麦を徴発した城主にむかって、憤怒を爆発させたのである。
伊吹野というこの平野は、肥沃な土地として、兵を起す武家たちの|垂《すい》|涎《ぜん》するところであった。
伊吹野が、田丸豪太夫という武将によって占領されたのは、五年前であった。
五年前までは、伊吹野の管領の実権は、西方にそびえる大庄山に蟠踞する奈良城|義《よし》|胤《たね》の手に在った。
田丸豪太夫は、伊賀の地侍から身を起した人物であった。
当時──。
武家衆、牢人、国衆と区別される階級があった。
国衆は、地侍・庄官を指す。牢人は、武家で、その所領からはなれた者。この牢人が、多く、土一揆の大将となった。また、武家衆に従って、合戦に身を投じ、勝利にみちびいたあかつき、何かの地位を得ようとする野望を抱いていた。
武家衆は、守護やそれに準ずるように大きくなった武家をいう。
すなわち、武家衆は、牢人や国衆(地侍)を集めて、強力な戦力をつくって、合戦を起したのである。
国衆の下に、耕作農民がいたのである。
田丸豪太夫は、そうした最も下級のさむらいであった。
おそるべき狡智と、五十人力と称せられる膂力をもって、田丸豪太夫が、武家にのしあがったのは、三十になったばかりの頃であった。
その武力によって、伊吹野から、奈良城義胤を追うに、わずか二十日あまりを要しただけであった。
伊吹野を奪った田丸豪太夫の|苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》は、言語に絶する凄じいものであった。
そして、圧政は、二年間の飢饉によって、さらに拍車をかけられたのである。
その圧政に追いつめられた農民たちの蜂起は、京洛や大和に於ける牢人指揮の土一揆とは、おのずから、質を異にしていた。
濛々として舞い立つ土煙は、はるかな遠方からもみとめられ、この一揆に加わるべく、あちらこちらから田畦を走って来る百姓の影も、すくなくなかった。
一人一人にひきはなされると、卑屈な農奴でしかない人々も、徒党を組むとともに、狂暴な野獣心をあふらせていた。
と──。
彼方の森から、二十数騎の一隊が出現した。
しかし、これは、暴徒の狂気に、油をそそぐ逆効果しかなかった。
うわっ!
うわっ!
暴徒は|鯨《げい》|波《は》をあげた。
「やっつけろ!」
「城のさむらいを、みんな、やっつけろ!」
「田丸豪太夫を、ぶっ殺せ!」
口々にわめきたてて、得物をふりかざしながら、森へむかって、突進した。
すると、騎馬隊は、さっと間隔をとって、左右にひらいた。
一騎ずつ、暴徒たちを対手にたたかう陣形をみせたのである。
暴徒たちは、これしきの頭数など、苦もなく、押しつぶせるぞ、とばかり、津波のように、押しかけた。
騎馬隊の列と、暴徒の群との距離が、三間あまりに、せばまった。
突如──。
森の中から、凄じい唸りを生じて、数百本の矢が一斉に射かけられた。
「うあっ!」
「ぎゃっ!」
「ひーっ!」
暴徒たちは、顔に、胸に、腹に、手足に、矢をあびて、よろめき、のけぞり、きりきり舞いし、ぶっ倒れた。
その混乱の渦めがけて、森にかくれていた千余の兵が、どっと、躍り出た。
暴徒たちは、しかし、殺到する武装の大隊に、怯え上る者は一人もいなかった。
父を、子を、兄を、弟を、友を、矢で射殺された者たちは、完全に逆上し、狂ったけだものと化した、といえる。
うああっ!
槍と刀にむかって、滅茶滅茶に、突撃した。
たちまちに──。
惨たる修羅場が、そこに、くりひろげられた。
呶号と悲鳴と呻きと断末魔の声と──。
土煙の中に、血汐がとび散り、人間の最後ののたうちまわる生地獄の光景が、しばらく、つづいた。
槍に胸を刺されて、のぞける者。刀で脳天を割られる者。片手を斬られながら、しがみつき、噛みつく者。むき出された乳房を、刀で突き刺されつつ、鎌を投げつける女。兵の脚にしがみついて、ひきずりまわされる少年。
一人の屈強な若者は、敵の槍をうばいとって、女の乳房を刺した兵を、なぐりつけ、けとばしておいて、
「くそっ! さむらいなんか、こわくねえぞっ!」
と、呶号しつつ、騎馬武者めがけて、突進して行った。
しかし、馬上から降り下される太刀に、顔面をまっ二つにされて、ころがってしまった。
地べたに仆れた者は、もはや、二度とは、起き上れなかった。光を喪った双眼を、ぱっくりとみひらいたまま、咽喉を、胸を、腕を、脚を、ふみにじられるにまかせていた。
まだ動ける者は、どうにかして、土足の下からのがれようと、もがき、のたうったが、やがて、無抵抗になって、俯伏すと、ごぼごぼっと、口から血泡を噴いて、のびてしまった。
一揆に対する騎馬武者の暴力は、正視に堪えぬものがあった。
棒や鍬をふりかざした者たちめがけて、
「おりゃっ!」
と、おめきたてて、馬を煽らせて、躍りかかるや、のけぞったのをみじんも容赦せずに、だだっと馬蹄にかけた。
その凄惨さに、おびえ、立ちすくんだ者も、次の瞬間には、馬蹄の下に、横たわっていなければならなかった。
思うままな虐殺ぶりであった。
ようやく──。
農民たちは、ばらばらになり、崩れたった。
そうなると、やはり、|烏《う》|合《ごう》の集りのかなしさで、あっという間に、十人へ伝播し、それはさらに、五十人へとひろがった。
文字通り、蜘蛛の子を散らすような悲惨な光景が、そこに現出した。
それに対して、田丸豪太夫の城兵たちは、いささかも容赦しなかった。
逃げ散る農民たちを、兵らは、まるで愉快な遊びでもやっているような喚声をあげて、追いかけ、突き刺し、斬り仆した。
ついに──。
森の内外に、農民全員が、土を、草を、あけにそめて、むくろとなって、動かなくなった。
軍勢が、引きあげた頃──。
この血なまぐさい地獄場へむかって、旅の一騎が、近づいて来た。
旅の一騎は、多門夜八郎であった。
衣服は旅塵によごれ、髯ものび放題であった。
そのうすぎたない風体にふさわしく、乗っているのは、見るからに痩せさらばえた駄馬であった。
荷物といえば、うしろに、大きな革袋を、ふり分けに積んでいた。ひとつの袋には、水を入れ、もうひとつの袋には、|糒《ほしい》を入れていた。
「………?」
たづなを引いて、馬を停めた夜八郎は、そこの、見るも無慙な光景に、眉宇をひそめた。
──土一揆だな。
これは、すぐに、判った。
それにしても、これは、あまりに凄じい虐殺ぶりであった。
──この土地の城主は、よほど残忍な男だな。
夜八郎は、山を越えて、この土地に入った時、見はるかす平野が、水が涸れはてているのをみとめて、
──これは、ただではすむまい。一揆が起っているに相違ない。
と、推測したことである。
それは、的中していた。
みな殺しにしたところをみると、城主は|苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》の権化かと想像される。
──長くとどまる土地ではないようだ。
馬を歩み出させようとした時であった。
るいるいたる死骸の中から、一人、ふらふらと立ち上って、こちらへ、手をさしのべ、
「み、水を─」
と、喘いだ。
女であった。
まだ、若い。
血汐にまみれているが、見受けたところ、さしたる負傷もしていないようであった。
よろめきながら、寄って来た。
「水を……、下され」
夜八郎は、黙って、革袋を把りあげると、紐を解いて、女の口へ、あてがってやった。
女は、無我夢中で、飲んだ。
そして、急に、めまいに襲われたように、馬腹へよりかかり、そのまま、ずるずると、地べたへ崩れ落ちそうになった。
夜八郎は、肩をつかんで、さっと、馬上へひきあげた。
この女が、唯一の生存者のようであった。
夜八郎は、かかえてやって、どこにも、重傷を負うていないのを、たしかめた。
顔は、まだ少女のなごりをとどめている。十七か八であろう。
「送ってやろう。家は、どこだ?」
たずねると、不意に、泪をあふらせて、身をふるわせた。
「家は、あるのだろう?」
「あります。……けど、もう、誰も、いないんです」
「親兄弟は、みな殺されてしまった、というのか?」
夜八郎が、問うと、娘は、黙ってうなずいた。
夜八郎は、娘に、方角を指ささせておいて、馬を走らせはじめた。
その時──。
ふっと、
──おれは、もしかすれば、この土地で、生命をすてるかも知れぬ。
そんな不吉な予感がした。
こういう気持は、はじめてのことだった。
一望の田野は、荒れて、ひび[#「ひび」に傍点]割れ、娘が指さした方角にむかって、一直線に、馬を走らせることができた。
夜八郎は、苗代もないのを、いぶかった。
「苗代をつくっていないのは、どうしたのか?」
夜八郎は、問うた。
「水が、ありませぬ」
「水がないのは、判っているが、山に湖水はあるだろう?」
「………」
娘は、なぜか、こたえなかった。
──何か、仔細があるな。
夜八郎は、直感した。
前方にそびえる山嶽の|容《かたち》を眺めれば、山上に湖がある、と判る。
二年や三年の旱魃で、水が全く涸れるということは、考えられぬのである。
しかし、百姓が、苗代もつくれぬ、という絶望的状態は、渓流に一滴もなくなった証左である。
夜八郎は、娘の沈黙から、その絶望を汲みとった。
やがて──。
夜八郎と娘は、濠と|築《つい》|地《じ》をめぐらした宏壮な館の前に着いた。
由緒ある豪族の末裔であることは、そのたたずまいを一瞥すれば、足りた。
「これは?」
たづなを引いてから、夜八郎は、胸によりかかった娘に、問うた。
「公卿館──と申します」
娘は、こたえた。
源平のむかし、遁れて、ここへ移り住んだ公卿の子孫に相違ない。
濠には、|刎《は》ね橋が架けられていた。
その濠は、大層な深さであったが、底まで完全に涸れあがっていた。
夜八郎は、刎ね橋を渡り、ぴったりと閉ざされた大きな正門の前で、馬を停めると、
「おねがいいたす」
と、大声で、呼ばわった。
返辞はなかったが、門扉が左右にひらかれた。
夜八郎は、娘をおろし、自分も降りた。
屈強な若者が、二人を迎えた。
娘は、地べたに|跪《ひざまず》いて、若者を仰いだ。
若者は、娘へ、異様に緊張した表情を据えると、
「そなた一人か、生き残ったのは?」
と、たずねた。
「はい。……このご牢人衆にたすけられました」
そうこたえて、娘は、うなだれると、むせび哭きはじめた。
若者は、夜八郎へ、一礼すると、
「どうぞ、こちらへ──」
と、案内すべく、背中を向けた。
夜八郎は、そのあとに従いながら、この館が、そのまま城砦の構造をもっているのを、知った。
源平いずれかの落人として、この里に移り住んで以来、|地《じ》|下《げ》人たちの尊崇を受けて、隠然たる勢威を誇って来たに相違ない。
戦乱の世になって、その勢威は、ようやくおとろえ、領主に対立する力を喪ってしまったのであろう。
建物は、荒れはてていた。
広い、さむざむとした書院に通された夜八郎は、やはりただの牢人者ではないだけに、縁上げの|格《ごう》天井や襖や壁画に、この家が、大納言の格式を備えているのを、観た。
若者にささえられて、病弱らしい老人が入って来た。
その風貌は、まぎれもなく、堂上公卿の特徴を持っていた。
「|泰《やす》|国《くに》|清《きよ》|平《ひら》でござる。これは、一子太郎と申す。……下婢をおたすけ下されて、|忝《かたじけ》のうござった」
老人は、挨拶してから、息子を下らせた。
「土一揆の指揮は、御当家か?」
夜八郎は、たずねてみた。
泰国清平は、かぶりを振った。
「当家では、必死に、押えようとしたのでござるが……、やむなき仕儀でござった」
沈痛な面持で、清平は、こたえた。それから、夜八郎を、じっと見て、
「下婢は、一揆ことごとく虐殺された、と報らせ申したが、貴殿は、惨状をごらんなされたかな?」
「見とどけました」
「この伊吹野の支配者は、それをもって示す暴君でござる」
「………」
「たまたま、二年つづきの飢饉が、農民らをして、あのような狂徒と化さしめたのでござるが、たとえ飢饉におそわれずとも、いずれは、一揆が起るものと、考えて居り申した。むごいことでござる」
「………」
「武器を持たぬ者は、反抗いたせば、なぶり殺されるだけの話でござる。それがしは、農民らに、そう申して、なだめつづけて来たのでござるが……」
清平は、歎息した。
この館を、覇者にふみにじらせないためには、さざえのごとく、かたく殻をとざすことが唯一の手段であったのであろうが……。
夜八郎の前に、茶がはこばれて来た。
はこんで来た者の手くびに、白い布が巻きつけられ、血がにじんでいるのを見て、夜八郎は、その顔へ、視線を向けた。
たすけてやった娘であった。
よごれを洗った顔は、清潔で美しかった。
清平が、微笑しながら、
「これは、気丈夫な娘でござってな、この館から、一揆に加わったのは、この娘ただ一人でござる」
「………」
「それがしが、門扉を閉ざして、一揆を見て見ぬふりをしているのを、さだめし、薄情とお思いでござろう」
「保身は、誰でも、必要ゆえ、やむを得ぬ仕儀と存ずる」
「いや、門扉を閉ざしているのは、保身ではござらぬ」
「………」
「この土地の敵は、城主田丸豪太夫一人だけではないのでござる。大庄山に籠る旧城主奈良城義胤殿も、農民の敵に、まわったのでござる」
「御当主─」
夜八郎は、清平の言葉をさえぎった。
「わたしは、ただの通りすがりの旅者にすぎ申さぬ。窮状をうかがっても、役立つ身ではないのです。また、役立てようとも思い申さぬ。ご容赦ねがいたい」
「そうでござったな。年寄の愚痴をおきかせしても、はじまらぬこと。失礼いたしました」
清平は、手をたたいて、息子の太郎を呼ぶと、扶けられて、書院を出て行った。
夜八郎は、横臥すると、目蓋をとじた。
一刻をまどろんだら、出て行くつもりであった。
しばらくして、忍び入って来る気配があった。
「ご牢人様──」
ひくく、呼びかけて来たのは、救ってやった娘であった。
「なんだ?」
「お願いがございます!」
両手をつかえた娘の顔には、必死の色があふれていた。
「お館様に、力添えをしてあげて下さいませ。お願いでございます」
「おれには、そんな力はない」
「いいえ! あります! ご牢人様は、あのむごたらしい光景をごらんになっても、おちついていられました。ただのご牢人衆とは思われませぬ」
夜八郎は、起き上った。
「おれが、いささかの腕を持っていたところで、どうなるものでもあるまい。雨を降らせる神通力を持った人間を、さがして来ることだな」
夜八郎は、冷淡に、つきはなした。
|小《こ》|幸《さち》という娘は、夜八郎がいくら冷たい態度を示しても、ひきさがらなかった。
夜八郎は、押問答が面倒くさくなった。
「おれに、どうしろ、というのだ?」
「この館に、おとどまり下されませ。しばらくのあいだでよろしいのです」
「とどまっていたら、どうなるというのだ?」
「田丸豪太夫の手勢が、必ず、押し寄せて参ります」
「ここに、それをふせぐ兵の用意があるのか?」
「ございませぬ」
「農民が、たて籠ったところで、なんのふせぎにもならぬことは、そなたが、その目で見とどけている」
「はい──」
「では、おれ一人が、とどまっていたところで、何の役に立つ?」
「田丸豪太夫の、むごたらしい仕打を、見とどけて下さいませ」
「ただ、見とどけるだけでよいのか?」
「はい」
「ただ見とどけただけで、何になる?」
「………」
小幸は、うつ向いて、こたえなかった。
「第一、この館を、城兵が襲って来る、とは限るまい」
「いえ!」
小幸は、頭を擡げて、必死に、夜八郎を、見つめた。
「この館には、米と麦の、たくわえがあるのでございます」
「………」
「もし、このたくわえがなければ、百姓たちは、もう昨年のうちに、みんな、死んでしまって居ります」
「年貢米をひそかにけずって、この館にかくした、というのか?」
「はい。……そのたくわえを、すこしずつ、みんなで、分けて、|粥《かゆ》にして、喰べて居ります。でも、近頃では、三日に一回しか、粥はすすれませぬ。そうしなければ、秋までには、無くなってしまうのでございます。……今年は、どうしても、田植えをしなければならぬのでございますけど──」
それならば、苗代をつくっておくべきであろうが、それもしていないのは、農民らの、田丸豪太夫に対する反逆であろうか。
「川には、一滴もなく、涸れているのだな?」
「はい」
「井戸の水は、まだのこっているのだろう?」
「はい、すこしは──」
「それで、苗代をつくるがよいではないか。おれに、それを見とどけさせるがよかろう」
夜八郎は、云ってしまった。
小幸の顔に、歓喜の色が、浮かんだ。
「はい。みんなに、そうつたえますでございます」
地獄野
雲ひとつない空が、いちめん黄色にかすんでいる。
水のない平野を吹き渡る風が、黄塵をまきあげているからであった。
樹木もまた、ほこりにまみれて、いかにも生気をうしなっている。
二頭の牛をつれた六つの人影が、松木立の中を、峠の頂上へのぼって来た。
この丘陵を越えれば、伊吹野になる。
丘陵は、小松で掩われていて、いかにも、国境らしく、ここから景色を変えるのである。
旅の一行は、一上一下する道を辿って来たのだが、それは、常に、視界をさえぎる山の中であった。
峠の頂上へ出れば、ひろびろとした|沃《よく》|野《や》が展望される愉しみで、旅人たちは、山の中を歩いて来たわけである。
しかし、頂上へ来るや、一行の目に映ったのは、むざんに横倒しになっている休み茶屋のすがたであった。
「ちぇっ!」
先頭の牛を曳いていた若い男が、いまいましく、舌打ちした。
「草餅でも、たらふく、くらってやろう、と思っていたのに、なんでえ、こりゃ──」
路上にころがっている欠け茶碗を、蹴とばした。
若い男は、青助であった。
うしろの牛を曳いているのが、黒太であった。
かなりの荷をかついだ男が二人──赤松、白次という。
加茂川の、九条あたりに架けられた幽霊橋の袂にある旅籠に巣食っていた小悪党たちであった。
さんざ働いた積悪のつぐないをさせられるために、こうして、旅へ出て来たのである。
すこしおくれて歩いて来ている天満坊が、かれらの主人というわけである。
天満坊の背後には、百平太がいる。
まことに、組むにふさわしい一行であった。
百平太は別として、青助・黒太・赤松・白次が、天満坊に心服しているわけではなかった。
この四人は、ある公卿屋敷へ忍び込んだところを、役人に捕えられ、あやうく打首にされようとしたところを、偶然、天満坊に見かけられて、助けられたのである。
天満坊が、その役人と旧知の間柄であったのが、四人にさいわいした。
「愚僧は、旅へ出るから、お前らも、連れて参ろう」
天満坊は、四人に命じ、百平太を加えて、京の都をはなれたのであった。
旅に出てから、もうそろそろ一月になる。
百平太も四人も、天満坊が、いったいどこへ行くのか、知らぬ。
きいてみても、天満坊は、こたえなかった。
四人は、ふてくされて、地べたへ坐り込んだ。
天満坊が、近づいて来て、笑いながら、
「浮世と申すものは、まず、こういうあんばいに、期待を裏切るものでな」
と、云った。
「ここで、和尚の説法など、ききたくはねえや」
青助が、べっと唾を吐き出した。
天満坊は、何を思ったか、かたわらの大きな岩の上へ、ひょいと、とび乗って、小手をかざした。
「これはひどい」
そう云って、かぶりを振った。
「何が、ひどいんですかね、和尚さん?」
百平太が、けげんそうに、仰いだ。
「沃野は、化して、|荒《こう》|土《ど》となって居る。水がないのじゃ、水が──」
天満坊は、こたえた。
「雨が降らなけりゃ、水はねえやな」
黒太が、云った。
「ただの水のなさではないのう」
天満坊は、見わたして、
「苗代もない田野を、はじめて見たぞ。どういうのであろうかの」
「そんなことは、こっちには、なんの関係もねえや」
青助が、立ち上って、
「都合で、ひきかえしても、こっちは、ちっとも、かまわねえんですぜ、和尚さん」
「愚僧の方が、かまうな」
天満坊は、岩から降りると、百平太に、牛の背中に積んだ水と糧食は、どのくらいある、とたずねた。
「ほしい[#「ほしい」に傍点]は、十日分もありますがね。水は、二日も保ちませんぜ」
「二日分とは、心細いな。そうなると、一日一椀ということになろうな」
「冗談じゃねえ!」
青助が、憤然となった。
「おれたちは、好きこのんで、地獄のような野へ、降りて行くことはねえんだ」
「そうよ。ばかくせえ。ひきかえそうじゃねえか」
黒太が、同調し、赤松も白次も、同じ表情になった。
とたんに、百平太が、
「うるせえっ!」
と、呶鳴りつけた。
「てめえら、いったい、誰に、生命をたすけられたんだ? 青助、黒太、てめえら二人は、二度までも、和尚さんに、生命をたすけられていやがるんだぞ! つべこべほざかずに、和尚さんの行くところへ、ついて行きゃいいんだ」
「し、しかし──」
「しかしもくそもあるか」
百平太は、いきなり、青助の横面を、なぐりつけた。
青助は、かっとなったが、百平太の凄じい眼光を射込まれると、うつ向いてしまった。
百平太は、別人のごとく、邪念をすてた男になっていた。
天満坊から、一滴の水の尊さを教えられ、自分勝手に、弟子になったつもりの百平太は、その日以来、女にも博奕にも目をくれず、完全な忠僕になっていたのである。
天満坊が、
「お前の謹厳も、いつまでつづくものかの?」
と笑うと、百平太は、ムキになって、
「半年や一年で、元へもどるようなら、観世よりで、首をくくってみせます」
と、こたえたものだった。
この一年間、百平太の行動は、すこしの表裏もなかった。
単純な気象なだけに、志をあらためると、これほど、きれいさっぱり過去をすてられる男はない、といってよい。
青助たちは、百平太の剣幕に、おそれをなして、黙りこくってしまった。
天満坊は、面白そうに、百平太と四人を見くらべていたが、
「では、地獄のような荒土へ、降りるといたそうかな」
と云った。
「おい、お前ら、途中で、|音《ね》をあげたら承知せんぞ」
百平太は、四人へ宣言しておいて、天満坊のあとへ、したがった。
「百平太──」
「なんです?」
「もしかすれば、伊吹野で、われわれのうち、一人か二人──いや、われわれ全員、生命を落すような運命になるかも知れぬな」
「どうしてですかね?」
「どうも、見わたしたところ、ただの荒土ではないらしい。農民は、おそらく、餓狼になっているであろうし、領主は──領主も尋常の人物ではない、相当な暴君と、想像されるな」
「そうですかねえ」
「北の山を見るがいい。湖水をもった山容だ。山上の湖水というものは、二年ぐらいのひでりで、涸れるものではない。……これだけの沃野に、一滴の水もないのは、その湖水をせきとめてしまって、渓流をかわかしてしまった証拠であろうよ」
「成程──」
「恰度、わしが、牢にとじこめられて、水を与えられなかったように、農民たちは、領主から、水を断たれているように思われる。もし、そうでなければ、さいわいだが……」
「つまり、領主と百姓は、仇敵同士になっているというわけで?」
「まず、そうとしか、考えられぬ」
「和尚さんは、当然、百姓の味方になって、ひと合戦やってやろう、という肚づもりじゃな。これは、おもしろい!」
百平太は、顔をかがやかした。
荒れはて、かわききった野へ降りると、陽光は、まるで、この空の上でだけ、熱気を増しているように、ギラギラとまぶしかった。
田畑も草地も林も、なにもかも、水気をうしなって、いたずらに、陽光を吸っているせいであろうか。
「暑いぜ」
と、黒太がぼやき、青助が、
「地獄よ!」
と、吐きすてていた。
赤松も白次も、すっかり、しょげきった顔つきであった。
天満坊は、野に降りてみて、あらためて、その悲惨な景色に暗然となり、
「これは、ひどい」
と、かぶりを振った。
街道は、小川に沿うているのだが、水は全く涸れている。
人と牛が舞いあげる灰のような土煙りが、いかに、雨から見はなされているか、という証拠である。
と──
森のかなたで、異常な絶叫があがった。
「おっ! 早速、何か異変が起ったぞ!」
と、百平太が、目を光らせた。
森かげから、二つの人影が、とび出して来た。
必死に、こちらめがけて、草径を走って来る。
それを追って、騎馬の群が、おどり出て来た。
あっという間に、二つの人影を、包んで、縄を投げかけるのを、みとめたものの、距離がありすぎて、天満坊一行は、どうすべくもなかった。
十数騎は、こちらへ向って、疾駆して来はじめた。
「ありゃ、ひどいことをし居る!」
白次が、叫んだ。
逃げようとした二人の男が、縄をひっかけられて、地べたを、ぼろきれのように、ひきずられているのであった。
十数騎が疾駆して来る道筋と、こちらの一行が進んで行く街道が、ぶっつかるところが、どうやら、村辻になっていて、雨乞いの阿弥陀堂や、石地蔵や、高札が、立っていた。
たちまち、十数騎は、二人の男を、その辻へ、ひきずって来た。
そして、阿弥陀堂の蔭から、十字に組んだ|磔《はりつけ》柱を、かつぎ出すと、|虜《とりこ》たちを背中合せにくくりつけて、地上へ直立させた。
もうその時、天満坊の一行は、そこへ近づいていた。
天満坊から、
「そ知らぬふりをしているのじゃよ」
と、命じられていたので、百平太はじめ、四人の無頼漢たちは、黙々として、牛を曳いて来たのである。
十数騎は、天満坊一行へ、険しい視線を向けたが、先頭に立つのが僧侶と見て、そのまま、反対の方角へ駆け去った。
天満坊は、磔柱の下へ、歩み寄った。
なんとも、むざんなすがたの囚徒であった。二町余も、地べたをひきずられたので、からだ中がすりむけて、血だらけになっていた。
ぐったりと、案山子のように、首をたれているが、生命はあるらしい。
「さて、どうしたものかの」
天満坊が、つぶやいた。
「和尚さん、人助けするのが、お前様の使命でござる」
百平太が、云った。
「一人、二人をたすけても、しかたがあるまいが……」
天満坊は、云いながらも、杖をさしのべて、囚徒の|鳩《みぞ》|尾《おち》を突いた。
「う……うっ!」
ひくいうめきが、もらされた。
「|地《じ》|下《げ》衆──」
天満坊は、大声で、呼んだ。
囚徒は、どんよりとにごった目をひらいて、見下した。
「どうして、このようなひどい目に遭うたのじゃな?」
「………」
「ほ──まだ、意識がしっかり、もどらぬ様子じゃ」
「裏側の方の奴が、若いぞ」
青助が云った。
天満坊は、そちらの囚徒も、杖で、息をふきかえらせた。
「あ、ああっ!」
若い農夫は、すぐに、叫びをあげて、視線を、一行へはなった。
「お、お前がたは?」
「旅の者じゃが、お主らが刑罰を受けたのを見て、気になってな」
天満坊が、云いかけると、若い農夫は、突如、狂ったように、
「お、お願いじゃ。公卿館へ、報らせて下され!」
と、叫んだ。
「公卿館とは?」
「あの|巽《たつみ》の森のかげにあるお屋敷じゃ。わ、わしら百姓らをまもって下さる豪族殿じゃ」
「何を報らせるのかな?」
「城から、米を奪いに、兵どもが、大挙して、おし寄せて来ますのじゃ! わしらは、それを、ぬすみぎいたので捕まって、こ、こうなりましたのじゃ」
天満坊の想像は、ほぼ当っているようであった。
天満坊は、青助たちに、礎柱を倒して、たすけるように、命じた。
「こう来なくちゃ、おもしろくねえ」
百平太は、にやっとした。
天満坊は、巽の方角に、こんもりとわだかまった森を、見やった。
公卿館の庭は、広かった。
落人ではあっても、堂上公卿の誇りをすてぬために、建物はもとより、その庭の造りにも、都の風雅に心を使っていた。
荒れてはいるが、木立のけしき、築山のたたずまい、そして心字をかたどる泉水のひろがりに、都の邸第や寺院をしのばせるものがあった。
夜八郎は、足利将軍の子であった。
風雅を解する心をそなえていた。
築山の休み石に腰を下して、庭を眺めながら、長い間、動かずにいる。
眼下の心字池は、全く水が涸れて、落葉をつもらせているばかりである。
やがて──。
夜八郎の放心を破ったのは、鋭い|懸《かけ》|声《ごえ》であった。
夜八郎は、視線をまわした。
母屋と別棟をつないで、廻廊になっている。その前の白砂の庭上に、泰国清平の長子太郎が、一人立って、槍を、さしのべていた。
「ええいっ!」
満身からの気合を発して、宙を突く。
ぱっと、身をひるがえして、背後へも、ぴゅっ、とくり出す。
怨敵田丸豪太夫を、突き殺す一念をこめての稽古であろう。
夜八郎は、しばらく、その必死な稽古ぶりを眺めていた。
泰国太郎は、業をそなえているわけではなかった。
独習には、おのずから、欠陥が露呈する。それを、当人も気がつかずに、無我夢中である。
築山の裏がわから、人がのぼって来たのは、そのおりであった。
「多門夜八郎様」
呼ばれて、夜八郎は、頭をまわした。
頭髪に白いものをまじえている初老の婦人が、すこしさがった場所に立っていた。
公卿館と称される屋敷に住むにふさわしい品のいい婦人であった。
「わたしは、当館に身を寄せて居りまする杉乃江と申す者でございます」
いんぎんに挨拶した。
「失礼ながら、わたくしは、貴方様を、存じ上げて居ります」
「………」
「もう、十余年のむかしになりましょうか。貴方様が、五条の拝領館におすまいなされた頃──」
杉乃江というこの女性は、どうやら、御所に仕えていたようである。
「さようか」
夜八郎は、素姓を知られていては、いまさら、かくすにもおよばぬので、
「手のつけられぬ不良児は、処々方々に迷惑をかけた。貴女のまわりの人々にも、かけたかも知れぬ」
そう云った。
杉乃江は、微笑した。
優しい表情は、その心の優しさをあらわしているようであった。
「貴方様が、乱暴な和子であったことは、洛内外で、噂されて居りました。わたくしが乗っていた牛車も、貴方様が、市中を横行する無頼者たちと大立ちまわりをされているのに行き会うて、道をさけねばならなかったのを、おぼえて居りまする」
「それは、ご迷惑をおかけした」
「かようなところでお目もじいたそうとは、露存じませなんだ。おなつかしゅう存じます」
「都から、どうして、落ちられたのか?」
「兵乱にあけくれる都よりも、平和な里がよかろうか、と存じて、参りましたが……」
「その里が、このような凄じい世界と化した、といわるるか」
「都では、水は、絶えず、川を流れているものと思って居りましたが、かほどまでに貴重なものとは、夢にも知りませなんだ」
夜八郎は、ほっとふかい溜息をつく初老の婦人を眺めて、自分の母親も生きていれば、これぐらいであろうか、と思った。
その感傷をふりすてるために、夜八郎は、すっと、立った。
築山を降りて、夜八郎は、泰国太郎の前に立った。
泰国太郎は、双眸を光らせて、夜八郎を視た。
「お教えするほどの業は持たぬが、案山子がわりに、突かれ役を、お引受けいたそう」
夜八郎は、云った。
「|忝《かたじ》けないが、怪我をされるおそれもある」
「その心配は無用にされい。どこで、果てても、べつだん悔いをのこさぬ牢人者ゆえ、遠慮なく、突いて頂こう」
「容赦なく、突き申すぞ」
太郎は、ぴたっと、槍を構えた。
夜八郎は、両手をダラリと下げたなり、しずかに、立っている。
太郎は、構えもみせず、むかい立った夜八郎を、一瞬、いぶかる表情になった。
ひと突きすれば、なんの造作もなく、夜八郎の胸を刺しつらぬいてしまいそうに思われた。
「参る!」
叫んで、太郎は、じりっと迫った。
そうすれば、夜八郎が、さっと身構えると思ったのである。
夜八郎は、平然として、動かぬ。
太郎は、一片の疑念を抱きつつ、
「えいっ!」
と、突き出した。
瞬間、夜八郎は、かわしもせずに、手刀で、くり出された槍の柄を、発止と、|搏《う》った。
太郎の両手は、じーん、としびれて、槍をぽろりと、落してしまった。
天満坊が、百平太と四人の小悪党をつれて、公卿館へ到着したのは、恰度その折であった。
小幸が、小走りに庭へあらわれて、
「若様──」
と、泰国太郎を呼んだ。
「旅の僧が、門前に訪れて居ります。お館様にお目にかかりたいと申して──」
「一人か?」
太郎は、夜八郎に、なんの苦もなく、手刀で槍を撃ち落されて、不機嫌であった。
「いえ、むさい恰好をした家来を四五人つれて居ります」
「追いかえせ。そのような者に食わせるものはない」
「大事のことを、告げたい、と申して居りますけど」
「坊主なら、小ずるい口上をつくるだろう。追いかえせ」
「はい──」
小幸は、裏門へ、走って行った。
「多門殿、いま一手、教えて下され」
太郎は、槍をひろうや、二三度、しごいて、ぴたっと、穂先を、夜八郎の胸もとへ、狙いつけた。
──むだな稽古だが……。
夜八郎は、内心、思いつつ、ことわりもならず、じっと、太郎を視た。
「やああっ!」
太郎は、懸声だけは、凄じく、噴かせた。
しかし、こんどは、容易に、突きかかって来なかった。
夜八郎は、うっそりと、|自《じ》|然《ねん》|体《たい》で、立っているばかりである。
その姿が、太郎には、急に、|巌《いわお》のように巨大なものに思われて来た。
──くそ!
と、歯をくいしばって、睨みつけた。
闘志は、いやが上にも、若い躯幹にみなぎりあふれているのだが、技のともなわぬかなしさで、じりとも、つめ寄れぬのだ。
「どうした?」
夜八郎が、ひややかに、声をかけた。
「なぜ、突いて来ぬ?」
そのさそいのおわらぬうちに、太郎は、猛然と突きかけた。
はっ、となった。
もうその時には、夜八郎の姿は、そこには、なかった。
──おのれ!
血走ったまなこを、ぐるっとまわして、太郎は、狼狽した。
「おれは、ここにいる」
高い縁側から、夜八郎は、云った。
そこへ、小幸が、ふたたび、あらわれた。
「若様──、坊さまは、どうしても、|去《い》にません」
「なんだ!」
太郎は、どなった。
「よし! わしが、追いかえしてくれる」
太郎は、ずかずかと、歩き出そうとした。
すると、小幸が、
「坊さまは、わるい人ではないようです。|磔《はりつけ》にされた村の衆をすくってくれたのだそうでございます」
と、告げた。
「口実をつけて、入り込んで来るのであろう。乞食坊主め、ひと突きだぞ」
「若様。坊さまは、お館様に、むかし、京の都でお目にかかったことがある、とも申して居ります」
「なに! でたらめをほざき居る。なんという坊主だ?」
「天満坊とか……」
「天満坊? 呼びすて名しか持たぬ乞食坊主など、くそ──」
太郎が、走り出そうとすると、
「待った!」
夜八郎が、呼びとめた。
「その僧侶は、それがしが存じ寄りだ。ただの乞食坊主ではない」
「まことか、多門殿?」
「うむ」
夜八郎は、縁側から、降りた。
表門の扉が、ひらかれた。
「おう!」
天満坊は、意外な人物を、そこに見出して、微笑したし、百平太もまた、
「おやっ!」
と、叫び声をあげた。
夜八郎は、べつに、眉宇もうごかさず、
「御坊を、待ちうけていたかたちに相成った」
と、云った。
「うむ。どうやら、多門夜八郎も、その剣を、人助けに振う|秋《とき》を迎えた、というわけかな」
「自ら進んで、そうなったわけではないが、時と場合が、おのれを、大層な善玉にしたててくれるようだ」
「|善《ぜん》|哉《ざい》、善哉──。入れてもらっても、よろしいな?」
天満坊は、夜八郎のうしろに立つ、敵意をもった表情の太郎へ、目を向けた。
夜八郎は、太郎をふりかえって、
「この館にとって、強い味方を迎えたことになる」
と、云った。
そう云われても、眺めたところ、たのもしい援助者とは、とうてい受けとれなかった。
太郎は、不機嫌に、口をつぐんで、去ってしまった。
天満坊は、書院に通されると、
「泰国清平殿には、一度、お目にかかったことがあるが、春風をさそう慈顔の持主であったな。この土地では、神様の次に位するお館様というわけであろうわい」
と、云った。
暴君城
「うああっ!」
突如、どこからか、けだものじみた絶叫があがるのを、きっかけにして、あわただしい人の動きが起った。
ここ──伊吹野城は、城内に六千余の将兵を擁して、昼夜殺伐の空気をみなぎらしていた。
したがって、日に一度や二度、どこかで、喧嘩沙汰が起るのはやむを得なかったのである。
それにしても、いま、発しられた絶叫は、異常であった。
城主の館に近い場所で起ったのである。
城主田丸豪太夫は、あらたにさがして来た十七八のういういしい侍女三人に、からだをもませながら、六尺余の巨躯をよこたえて、いい気分で、うとうとしていたところであった。
かっ、と双眼を|剥《む》いた豪太夫は、
「なんだ?」
と、呶鳴った。
憤ると、四肢は鋼鉄のかたさに変じ、侍女たちは、びくっと、怯えた。
膂力五十人力と誇るこの野伏あがりの武将は、寛容というものをみじんも持たぬ人物であった。
憤怒すれば、それが十年の股肱であろうとも、容赦なく、首を刎ねた。
その代り、これはと見込んだ者なら、それが足軽であろうと人足であろうと、直ちに士分にとりたてて、惜しげもなく五百貫、千貫を呉れるような長所もあった。
これから、午睡に入ろうとする矢先、異常な絶叫と|騒擾《そうじょう》に、目をさまさせられた豪太夫は、
「華丸!」
と、|稚児姓《ちごしょう》を呼んだ。
「何が起ったか、見とどけて来い。狼藉を働いている奴は、しょっぴいて参れ。新刀の試しにしてくれる」
華丸は、かしこまって、館を走り出て行った。
城主の館と重だった家臣たちのあいだは、土居でへだてられ、かなりの|火《ひ》|除《よけ》地が、|公《い》|孫《ちょ》|樹《う》でかこまれていた。
騒擾は、そこで起っていた。
一本の公孫樹の根かたに、一人の士が仆れていたが、その頭蓋は、ざくろ[#「ざくろ」に傍点]のようにむざんに、割られて、脳漿が流れ出していた。
中央に、うっそり立って、おそろしく長い棒をつかんでいるのは、どこをどう辿って、この城の食客になったのか、兵法者九十九谷左近にまぎれもない。
七人ばかりの士が、太刀を抜きはなって、包囲していた。
左近は、どうやら、かなり酔っている様子であった。
まなこがすわって、不気味である。
包囲者たちへ、順々に、視線をまわして、
「どいつも、こいつも、案山子に見えるぞ」
と、うそぶいた。
伊吹野城の旗本たちとしては、昨日今日ふらりとやって来た、どこの馬の骨ともわからぬさすらい者に、こうまで、なめられては、逆上しないではいられなかった。
城主の館に近いと知りつつも、一斉に、吼えたてて、殺気を渦巻かせた。
正面の一人が、猛然と、斬りつけた。
左近は、無造作なひと振りで、そいつを、もんどりうたせて、地べたへのびさせると、
「次っ!」
と、云った。
いかにも、小莫迦にした態度であった。
「おのれっ!」
背後の一人が、
「くたばれ!」
呶号しざま、刀身を水平にして、ひと跳びに、突きかかった。
左近は、これに、視線をめぐらせるいとまはなかった。
とっさに、地を蹴って、おのが身を五尺の空中のものにした。
次のせつな、突きかかった者は、脳天を、ま二つに割られて、
「げえっ!」
と、前へ、つんのめった。
土へ落ちた顔は、陰惨で、みるみる口から、血泡を噴かせた。
「次だ!」
左近は、長い棒を、直立させ、にやりとした。
酔いは、この冷酷な兵法者を、いやが上にも、狂暴にしていた。
「おしずまり下されっ!」
華丸が、土居をのりこえて来て、叫んだ。
「殿が、おいかりでござるぞ!」
これをきいて、旗本たちは、われにかえった表情になった。
左近だけは、一人平然としていた。
「殿が、おいかりか! ふん──騎虎の勢いなれば、中止するわけには参らん、とつたえろ」
こんな無礼な言葉は、家臣では、とうてい口にできるものではない。
「心されい!」
華丸は、忠告した。
「殿にそのようなことを申上げれば、お手前の生命はないものと、覚悟されい!」
「うるさい! 稚児風情が、つべこべ申すな。ひっ込め!」
華丸は、呶鳴りつけられて、憤然となって、館へ、かけもどって行った。
報告をきいた豪太夫の眉間が、びくびくと痙攣した。
その兵法者の風貌さえも、思い出せなかった。
天下第一、などと豪語するのを、かえっておもしろいと思って、食客にしてやったのである。
豪太夫は、むっくりと起き上った。
「どうした、案山子どのがた──」
左近は、にやにやして、急に萎縮した旗本たちを、見まわした。
「殿のいかりが、それほど|怕《こわ》いか、腰抜けども──」
いかにののしられても、旗本たちは、手も足も出ないのであった。
そこへ──。
大身の槍をつかんだ田丸豪太夫が、その巨躯を出現させた。
「おのれら!」
凄じい大声を発した。
「その痩牢人いっぴき、討ちとれぬのか!」
「左様──」
こたえたのは、左近の方であった。
「伊吹野城は、天下に鳴りひびいた荒武者ぞろい、などとは笑止。拝見いたしたところ、いずれも、土民の小伜あがりといったところ──。刀槍の振りかたなど、さっぱり知らぬように見え申す」
そのうそぶきをきいて、一人が、我慢ならず、
「やああっ!」
と、雄叫びして、斬りつけた。
左近は、これを地面に匍わせるのに、目にもとまらぬ迅業を示した。
「おのれら、引けい! どうやら、おのれらに討ちとれる敵ではなさそうだ」
豪太夫は、旗本たちを散らせておいて、左近の前面へ、進んで来た。
「九十九谷左近、と申したな?」
「左様──」
「当城の食客になりながら、旗本たちを斬るとは、それ相当のこんたんがあってのことであろうな?」
「売られた喧嘩を買ったまでのこと。他意はござらぬ」
「まことか?」
豪太夫は、旗本の一人を、じろりと見やった。
「|雑《ぞう》|言《ごん》|罵《ば》|詈《り》を許しがたく──」
主君を必死に見かえしながら、その返答があった。
豪太夫は、左近へ、視線をもどすと、
「天下第一の兵法、と高言いたして居ったな?」
「いかにも──」
「戦場首を、いくら挙げたぞ?」
「いまだ、一度も──」
「一度も?」
「それがしは、いまだ、主取りなどいたして居り申さぬ。ひたすら、兵法修業に心身をうち込み、その開眼によって、世間へ出て来申した。国取り城取りの野望の道具になど、わが剣を役立て申さぬ」
「では、なんの意志があって、当城へ入って参った?」
「ここには、米と水が、たっぷりあるとききましたゆえ──」
左近は、しゃあしゃあとこたえた。
「人もなげな高言を吐く度胸は、買ってやる。……田丸豪太夫のこの槍を、みごとかわしたら、当城に於ける傍若無人ぶりも、見遁してつかわす」
云いざま、豪太夫は、大身の槍を、たかだかと、頭上へ、かざした。
「……ふむ!」
左近は、にやりとした。
尋常の気力体力をもってしては、容易に太刀撃ちできぬ対手であることは、いうまでもない。
しかし、左近は、当然、こうなることを予想しながら、あばれていたのである。
この城に入って、田丸豪太夫に会ったとたん、左近は、
──この巨漢に、ひと泡噴かせてやると、どういうことになるか?
と、不敵な予想をしてみたのである。
一瞥しただけで、|稀《き》|代《たい》の暴君に相違ない、と判ったのである。
この暴君に、いまださからった者は、一人もいないであろう。
さからった者がいたとしても、|生命《い の ち》をとりとめた者はあるまい。
左近は、敢えて、豪太夫にひと泡噴かせる機会をねらっていたのである。
「御城主に、一言うかがっておきたい」
「申せ」
「もし、それがしが、勝をおさめたならば、いかがされる?」
「わしの槍をかわすだけではなく、勝つ、とほざくのか?」
豪太夫は、残忍な笑みを、口辺に|刷《は》いた。
「天下第一と称す身なれば──」
「黙れっ!」
豪太夫は、一喝した。
「尋常の勝負をいたしてくれるだけでも、慈悲と思え、痩牢人めが!」
あびせざま、長槍を、凄じい唸りを生じて、旋回させはじめた。
左近は、あとへあとへ、退るよりほかにすべはなかった。
巨大な刃円を、宙に描かれては、これに対抗する兵法は、まず、あるべくもない。にげまわるよりほかに、ほどこす策はあり得ないのである。
尤も──。
左近自身、豪太夫が襲って来るのは、こうした荒業であろう、と予測していたはずである。
しばらくは、後退するばかりのおちつきを示すことになる。
旗本たちは、固唾をのんで、見まもっている。
左近は、だんだん、追いつめられた。
背後には、高い|築《つい》|地《じ》があった。
それと知りつつ、左近は、後退しつづけたのである。
唸る刃円の下で、豪太夫の巨大な姿は、まさに悪鬼に似ていた。
ついに──。
左近は、築地ぎわまで、追いつめられた。
見まもる旗本たちの目には、左近が、絶体絶命の一瞬に立たされた、と映った。
豪太夫自身も、唸る刃円で、左近の首が刎ねとぶのを、確信したに相違ない。
その刹那であった。
左近の五体が、地を蹴って、築地の上へ、跳び上り、さらに、宙のものとなった。
「う──むっ!」
豪太夫は、その速影にむかって、とっさに、長槍を振り変えようとした。
その隙を、左近が、のがすはずはなかった。
豪太夫の頭上を、左近は、鳥のごとく、翔けすぎた。
「うぬがっ!」
豪太夫が、喚いた瞬間は、もはやおそかった。
その長槍は、穂先から一尺ばかりの柄を、両断されていたのである。
左近は、二間のむこうに、降り立って、冷然と、狼狽する巨漢を、見まもった。
豪太夫は、両断された長槍の柄を、憤怒のままに、左近へ投げつけておいて、
「太刀を貸せ!」
と、旗本たちへ、呶鳴った。
「殿、無駄でござろう。それがしは、兵法者。剣をもってたたかって、それがしに勝つのは、不可能でござる」
「ほざくなっ! 戦場を駆けめぐること十八度び、百五十余のさむらい首を取った田丸豪太夫を、あなどるかっ!」
旗本の一人の太刀をひったくりざま、豪太夫は、猛虎が躍るように、左近へ、襲いかかった。
だが、そのもの凄い攻撃も、次の瞬間には、鋭い金属音とともに、太刀が鍔もとから折れ飛ぶ結果を生んだだけであった。
左近は、さらに、一間余を、跳び退っていた。
「うむっ!」
流石に、豪太夫も、茫然となった。
「おのれは、天狗にでも、その迅業をならったか!」
「ということに、いたしておこう」
左近は、にやりとした。
「おのれの迅業に、尋常の太刀撃ちはできぬ、とわかったぞ。よし、盃をつかわす。参れ」
豪太夫は、折れ太刀をほうり出しておいて、大股に、館へ遠ざかって行った。
左近は、旗本たちを見まわして、
「お主らは、いさぎよい主君を持ったな」
と、皮肉をあびせておいて、館へむかった。
侍女にみちびかれて、その部屋へ一歩入りかけた左近に、電光の槍がくり出されて来た。
これを、苦もなくかわして、柄をつかんだ左近は、
「このあたりで、存念をかえられぬと、|首《しる》|級《し》を頂戴いたすぞ!」
と、きめつけた。
豪太夫は、槍をすてて、上座にもどると、
「盃をくれよう、左近」
と、云った。
左近の無類の強さを、二度たしかめた豪太夫は、もう、率直に、それをみとめて、親しみさえ抱いた模様である。
左近の方が、この暴君に対する警戒心を解きかねて、
「なんの意味でござろう?」
と、冷たく見かえした。
「その方の強さを、賞してくれるのだ」
「それだけでござるか」
「はは……、うたがいぶかい兵法者よの。……酒に、毒でも混じてあるか、と思うなら、わしが毒見をしてくれる」
豪太夫は、侍女に、先に酌させて、ひと息に飲みほして、左近に、盃を投げた。
「どうじゃ、左近、わしの股肱にならぬか?」
豪太夫が、すすめた。
「おことわり申す」
「三千貫をくれるが、いやか?」
「兵法者は、主取りはせぬもの。食客が気ままでござる。時が来れば、立去らせて頂き申す」
「はっはっは、欲のない男よのう。では、女をくれる。この三人のうちから、えらべ」
そう云われて、左近は、ういういしい娘たちを、見やった。
いずれも、無理むたいに、拉致されてきた郷士の子女らしい。
男の手でけがされて居らぬ清浄な肌をもっている。
左近の冷たい|眼《まな》|眸《ざし》を受けて、娘たちは、俯向いた。
左近は、ふっと、柳の廓へ売った尼僧のことを思いうかべた。
「そのうちに、気が向いたならば、頂戴つかまつる。それまで、殿も、これらの娘たちに、手をつけずにいて頂けますまいか」
「勝手なことを、ほざき居る。今日は、その方の申し条を、受け入れねばなるまい」
豪太夫は、承知した。
その時、旗本の一人が、入って来た。
「申上げます」
左近は、それをしおに、立って、部屋を出た。
「泰国清平の館には、米七十俵が隠匿されていること、つきとめましてございます」
「七十俵もかくして居ったか。清平め、先日、やって参った時には、一粒もなくなった、と空とぼけて居った。よし、今夜にも、襲って、|奪《と》りたてろ」
「かしこまりました」
「手向う奴ばらは、のこらず、斬れ!」
「はい」
廊下をゆっくりと歩きながら、左近は、この会話を、のこらず、きいた。
──大層な悪党だ。
しかし、そう思ったものの、左近の心には、飢餓迫った農夫たちに対する同情など、すこしもわいてはいなかった。
いざ戦わん
「どうするかの、多門夜八郎殿?」
書院で寐そべっている天満坊が、縁側に立つ夜八郎に、声をかけた。
宵闇が、庭を閉ざそうとしていた。
「この館に味方して、田丸豪太夫と一戦交えるか、それとも、退散するか──思案は、ここらあたりで、きめねばならぬの」
夜八郎は、ひとたびは、飢餓に瀕した農民たちの味方をするほぞをかためていたのだが、伊吹野城には、六千の将兵がいて、昼夜殺伐の空気をみなぎらせている、ときいて、
──これは、無駄死になる。
と、迷いはじめたのである。
六千の軍勢に抗するには、いかに寡勢とはいえ、二千の兵を率いなければ、勝算はおぼつかぬ。
精鋭なれば、五百でもよい。
しかし、これは、ギリギリの頭数である。
ところが──。
この公卿館には、太刀の使いかたを知っている者は、わずか二十名あまりである。それも、合戦らしい合戦に参加したことのない、久しく土にしたしんだ者ばかりである。
敵を引き受けて、堂々と闘えるのは、夜八郎自身と、天満坊と、泰国太郎の三人だけであろう。百平太、青助、黒太、赤松、白次の五人が、まあ、なんとか、役に立つであろう。
わずかこれだけの人数で、夜襲をしかけて来る伊吹野城の|猛《も》|者《さ》隊を、どうふせぐか?
不可能としか考えられぬ。
「どうするな、夜八郎殿?」
天満坊が、かさねて、問うた。
夜八郎は、頭をまわした。
「おれの決意をしきりに促すところをみると、御坊には、何か、思案があるのか?」
「うむ──」
天満坊は、やおら、起き上って、
「ないこともない」
「押し寄せて来るのは、五百か千か、わからぬのだぞ?」
「敵の数をかぞえてみてもはじまらぬの。こちらは、まるっきり、兵を持たぬのだからな」
「兵を持たずに、どうして、策がたてられる?」
「孫子曰く、呉を以てこれを|度《はか》るに、越人の兵多しといえども、亦なんぞ勝に益あらんや。|故《いにしえ》に曰く、勝は為すべきなり、敵、|衆《おお》しといえども、闘うこと無からしむ可し、と」
「策をきかせてもらおう」
夜八郎も、ついに、ほぞ[#「ほぞ」に傍点]をきめた。
「策は、これから、お手前と、練ることにいたそうか」
「おれには、策はない」
夜八郎は、天満坊の前に、坐った。
天満坊は、いつの間に用意したのか、円座の下から、この館を中心にした見取図をとり出した。
公卿館の北隅に、土蔵が建っていた。
元は、ここを牢獄にでもしていたものか、入口の扉も高窓も、太い鉄格子造りであった。内部は、ただ広い土間である。
その土間のあちらこちらに陣どって、せっせと何やら仕事をしているのは、天満坊にくっついて来た五人の無法者たちであった。
白次が、鍋で何やら、ひどく臭気を発するものを煮つめている。
赤松が、黄色の粉状のものを、|薬《や》|研《げん》でおろしている。
黒太は、桶の上に渋紙をひろげて、鍋で煮つめたものを、こしている。
青助は、ひと節に切った青竹へ、何やら細工をほどこしている。
百平太は、鼻唄まじりに、青竹へ、綿棒を麻縄でくくりつけている。
「えいや、こーら、と来たぜ。手柄づくしは、那須野の国よ、那須の与市というさむらいは、男小兵で御座候えど、つもるお年は今十九歳、残しおかれしところをきけば、お国讃岐の屋島ケ浦の、源氏平家のお|戦《いくさ》に、平家方なる沖なる船の、|舳《みよし》に立てたる棹の上、|黄《こ》|金《がね》の扇がキラキラと、光るを見てとり、源氏の大将、九郎判官義経公はえ、与市御用とお呼びでござる」
「うるせえな」
青助が、首を振って、
「こんなしろものを、こさえて、天満坊主は、いってえ、何をしようというんでえ?」
と、云った。
「雨乞いの花火をあげるんだとよ」
赤松が、こたえた。
「花火をあげりゃ、雨が降るのか。莫迦くせえ。花火をあげるより、土を掘った方が、手っとり早えじゃねえか」
「頓馬だのう、黒太。雨が降らねえと、地底に水は溜まらねえのよ」
「阿呆ったれ! 地底へ溜めるよりさきに、田に溜めなけりゃ、いけねえじゃねえか」
百平太が、呶鳴った。
「どっちにしても、しんきくせえ仕事だなあ。いい加減で、こんな水っ気のねえ国は、おさらばしてえぜ」
「愚図愚図云っても、はじまらねえ。はやいところ、仕事をあげろい」
青助は、叫んでおいて、すっと、百平太に、口を寄せた。
「おい、百──」
「なんだ?」
「この館にいる娘たちは、そろって、目鼻立ちが、ととのっているぜ」
そうささやいて、ヒヒヒといやしい笑いをもらした。
「目の早え野郎だ。夜這うつもりか?」
「どうだ、今晩──。寐小屋は、ちゃんと、しらべてある」
「ふん──」
「やろうぜ!」
「そういえば、もう長いこと、柔かい肌を抱いていねえな」
「そうよ。なにも、坊主にくっついているからといって、こっちまでが、精進していることはねえやな」
「ふん──」
百平太は、青助を、視た。
「そんなに、てめえ、女に飢えているのか?」
「男なら、女に飢えていねえはずがあるめえ」
青助は、思わず、大声を出した。
「そうよ、きまってらァな」
黒太が、応じた。
「おれなんざ、京の都じゃ、三日に一度ずつ、とっかえひっかえ、女を抱いていたぜ」
「嘘をこくな。てめえ、博奕で勝ったためしがあるか。女を買う金なんぞ、持っているはずがあるけえ」
青助が、きめつけた。
「な、なにをぬかしやがる。金はなくても、女は、抱けらあ」
「へっ、わらわせるな。女に惚れられたけりゃ、生れなおして来やがれ、鬼瓦め」
「なんだと!」
黒太が、かっとなって、突っ立った。
「やるか!」
青助も、さっと立ち上った。
「止せ! てめえら──、ここは、京の都じゃねえぞ」
百平太が、あいだへ割って入った。
こんなに殺気立つのも、久しく、女の肌に接していないせいかも知れなかった。
「あああ……あっ、あっ、あーっ!」
わざと大声あげて、青助は、どたんと、仰のけにながながと、寝そべった。
ほかの三人も、仕事の手を、やすめてしまった。
百平太一人、いらいらして、
「おい、晩飯までに、仕上げなけりゃならねえんだぞ」
と、呶鳴った。
「花火を上げるのに、なにも、急ぐことはあるめえ、一日や二日おくれたって、どうということはねえや」
青助が、ふてくされた声音を、返した。
「和尚が、命じたんだ。和尚は、いい加減なことを命令する御|仁《ひと》じゃねえぞ」
「百平太、おめえは和尚の家来になっているのかも知れねえが、おれたちは、家来になったつもりはねえぜ。ついて来い、と云うから、ついて来ただけだ」
「莫迦野郎! 和尚が、いなけりゃ、てめえらは、いま頃、地獄の針の山で、ヒイヒイ泣きわめいていやがるんだぞ。……さあ、さっさと、仕事をつづけろい!」
百平太に、せきたてられて、四人は、しぶしぶ、おのおのの座に就いた。
泰国太郎が、姿をみせたのは、その時であった。
「何をしているのだ?」
「ごらんの通りでさ」
青助が、つっけんどん[#「つっけんどん」に傍点]に、こたえた。
「こんな作業は、はじめて見るのだ」
「いくさには、必要なものですぜ」
なにげなくこたえた青助は、とたんに、「おっ!」と声をあげた。
青助は、自分で口にした言葉で、はっと、直感が働いたのである。
「そうだ! こいつは、和尚が、ひと合戦やらかすためじゃねえのか!」
大声で、叫んだ。
「なに?!」
泰国太郎が、愕然として、百平太のつくった竹筒をつかみあげてみた。
「これは?」
「さあ、何でござんしょうかね」
百平太は、そらとぼけた。
泰国太郎は、この館が夜襲を受けることを、まだ、きかされていなかった。
「お、和尚が、ひと合戦やらかす、といっても、兵隊を、ど、どうするんだろ?」
赤松が、云った。
「そんなこと、知るもんけえ。おれは、まっぴらだぞ。敵が、攻め寄せて来やがったら、スタコラさっさと、三十六計だあ!」
青助が、叫んだ。
「敵が攻め寄せて来る?」
太郎は、はっとなって、
「伊吹野城から、田丸豪太夫が、攻めて来る、というのか?」
と、百平太に、きいた。
「まあ、そういうわけらしゅうござんすね」
百平太は、おちつきはらっていた。
太郎は、身をひるがえして、走り出て行った。
「おい、百平太! どうするんだ?」
青助が、そばへ寄って来た。
「どうするとは?」
「おちついている場合じゃあるめえ」
「だから、いそいで、仕上げようとしているのよ」
「そうじゃねえ。おれたちは、兵隊じゃねえんだ。なにも、この館を守ってやる義理はねえんだぞ」
「そうさな。……しかし、和尚が、守ると云うのだったら、おれたちは、従わないわけにはいくまい」
「いやだ! まっぴらだ。どうせ、攻め寄せて来やがるのは、百や二百じゃねえだろう。この館には、それをふせぐ兵隊は、十人もいねえじゃねえか」
「だから、和尚が、孔明、正成の奇策をめぐらそうという次第に相成るのさ」
「奇策だって、兵隊が三百もいる上でのことよ。これだけの頭数で、どうしようもあるか!」
「それじゃ、いまから、コソコソ逃げ出すか?」
「………」
「青助、おめえが、こんな弱虫野郎とは、知らなんだぜ」
「くたばるとわかっているのに、みすみす、とどまっている必要はねえじゃねえか」
「青助!」
突如、百平太が、もの凄い一喝を発した。
「男なら、度胸をきめろい! 莫迦野郎!」
「父上」
太郎は、奥の部屋にふみ込むと、大声で、呼んだ。
屏風のむこうに、泰国清平は、牀に臥していた。
「なんだな?」
「伊吹野城より、夜襲して参るとは、まことでござるか?」
太郎は屏風をまわって、父の枕元に、坐った。
「夜襲?」
清平は、眉宇をひそめた。
「そのような噂をきいたのか?」
「噂ではござらぬ。すでに、今夜にも、襲撃して来る、とあの坊主は、防戦の準備をいたして居りますぞ」
「わしは、べつに、法師から、何もきかされては居らぬが……」
「父上」
太郎は、目つきを鋭いものにして、
「あの坊主、信用なり申そうか」
「わしは、むかし、京の都で、会うている。相当の器量人であった、と記憶して居る」
「しかし、いまは、うらぶれ果てたさすらい者ですぞ。……もしかすれば、田丸豪太夫の廻し者かも知れません」
「疑惑をかけるのも、人によりけりであろう」
「いや、それがしは、どうしても、あの坊主を信用いたさぬ」
「しかし、法師は、多門殿とも懇意の由ではないか」
「それがしは、多門夜八郎にも、疑いを抱いて居ります」
「多門殿も、伊吹野城の廻し者と、疑うのか?」
「あるいは──」
「疑いすぎるようだ」
清平は、目蓋を閉じて、云った。
「父上! 田丸豪太夫は、父上が、五摂家よりおあずかりした金銀のこと、かぎつけたのではありますまいか?」
太郎は、声をひそめて、云った。
清平は、黙って、息子の真剣な表情を見上げた。
五摂家とは、摂政関白に補せられるのを先途とする家柄の公卿をいう。近衛、九条、二条、一条、鷹司の五軒である。
近衛家を陽明御殿、九条家を陶化御殿、二条家を銅駄御殿、一条家を桃華御殿、鷹司家を楊梅御殿、という。
この五つの御殿の中に、それぞれ、多くの金銀が蓄えられていたことは、勿論である。
しかし、応仁の大乱が起り、京洛にいくたびとなく兵火があがる悲惨に、五摂家では、その金銀を何処かへ移して、安全を計らねばならなかったのである。
その保管を受ける家は、よほど、信頼がなければならなかった。
泰国清平が、それに、えらばれたのであった。
五摂家の金銀が、荷駄二十数頭に積まれて、ひそかに、この公卿館に運ばれて来たのは、二十年前のことである。
泰国清平は、これを、館の裏手にある小山の中に、埋めたのである。清平がえらんだ場所を、掘って、匿す仕事をしたのは、運んで来た三十六名の公卿ざむらいであった。
清平は、五摂家のひそかな指令によって、その三十六名の公卿ざむらいを、その夜の宴で、毒殺したのであった。
残忍な所業であったが、秘密を保持するためには、やむを得ぬ処置であった。
三十六基の墓標は、小山の頂上に並んでいる。
「太郎、滅多なことを口にすまいぞ!」
清平は、たしなめた。
秘密を知っているのは、父と子の二人きりであった。
「しかし、父上……」
「田丸豪太夫は、さとるはずがない。よけいな心配であろう」
「万が一、ということも、考えられますぞ」
「いや、わしは、そのような|疑《ぎ》|懼《く》は持たぬ。田丸豪太夫が、欲しているのは、倉にたくわえた米に相違ない」
「では、父上は、多門夜八郎も天満坊も、信用なさるのか?」
その時、障子がしずかに開かれた。
「太郎殿──」
入って来たのは、杉乃江という老女であった。
「多門夜八郎殿の素姓を、明かしておきまする」
そう云って、座に就いた。
「小母御は、あの牢人者の素姓をご存じか?」
「存じて居ります」
「何者です?」
「将軍足利義晴殿の|御《み》|子《こ》です」
「え?」
清平も太郎も、愕然となった。
「将軍家の御子でありながら、お生れなされた時から、兵火に追われて、あちらへ二日、こちらに三日、と転々となされ、物心つかれた頃には、お母君も喪われて、不幸なお育ちをなされたおかた、とききおよびまする。……わたくしが、お見かけした時には、それは乱暴な和子でありましたが、十余年を経て、ゆくりなくも、当館で、お会いしてみますと、別人のように、秀れた兵法者におなりなされて、やはり、高貴の血筋を享けられたおかたは、どのようなくらしをなされても、立派な面目を失われぬ、と思ったことでありまする」
杉乃江の言葉は、太郎の目の前をあかるいものにした。
「そうか! あの御仁は、将軍家の──。ふむ!」
太郎は、目をかがやかすと、
「味方として、千人の力に思えるぞ!」
倉の中では──。
百平太と青助ら四人との間に、険悪な空気が、みなぎっていた。
四人は、逃げだす、と主張し、百平太は、そうはさせぬ、と睨みすえていた。
天満坊が、ひょっこり姿をみせたのは、その時であった。
「ほう──」
ただならぬ様子を眺めて、天満坊は、一向に、動じなかった。
「たぶん、こうではないか、と思っていたぞ」
天満坊は、いっそおもしろそうに、にこにこした。
「和尚! おれたちは、犬死はまっぴら御免だぜ」
気色ばんだ青助が、叫んだ。
「べつに、お前たちに、犬死させようとは、して居らんが……」
「だって、和尚は、伊吹野城から攻めて来やがる軍勢に、おれたちを、ぶっつけようと、いうんだろう?」
「お前たちに、そんな大層な戦闘力があるかな?」
「なんだと?」
「お前たちは、いわば、吹けば飛んでしまう羽虫だ。まともに闘って、ものの十人も殺すことはできはすまい。戦場往来の荒武者にむかえば、ひとたまりもなく、ぺちゃんこだ」
「ぺちゃんこだと! くそ!」
青助は、憤然となった。
他の三人も、
「何をぬかしやがる」
「おれたちは、そんな腰抜けじゃねえぞ」
「ば、ばかに、するねえ」
ぶつぶつ云った。
「はっはっは、お主らにも、いささかの男の誇りはあるとみえる」
「おいっ! 和尚! おれたちを、羽虫だとほざいたな?」
「ほざいたぞ。せめて、蜂ぐらいだと、たよりになるのだがのう」
「畜生っ! 羽虫か蜂か、トンビか鷲か、おいっ、いっちょう、夜襲勢に、おれたちを、ぶっつけてみろ、ってんだ!」
青助が、すごんでみせた。
「ほほう、やる気はあるのかの?」
「くそ坊主に、これだけなめられちゃ、あとへ引けねえや! なあ、みんな──」
青助は、三人を見やった。
「そうとも! おれたちが、どれぐらいの働きをするか、見もしねえでよう、莫迦にされちゃたまらねえや」
黒太が、うそぶいた。
「ふむ。それほどまで云いはるなら、ひとつ、大いに働いてもらおうかの」
天満坊は、にこにこしながら、云った。
──うめえもんだ。
百平太は、内心、くすぐったい思いをしていた。
──脳みその足りねえこいつら、うまうまと、和尚に乗せられやがったぜ。
火炎陣
伊吹野城の城主館の控えの間で、小姓の華丸は、こくりこくりと、居睡りをしていた。
|戌刻《いぬのこく》(午後八時)をまわった頃あいであろう。
華丸は、三更──真夜中までは、そこに、控えていなければならなかったのである。
寝所では、田丸豪太夫が、あたらしい侍女を抱いて、寐ていた。
華丸は、がくんと、首を畳へぶつけそうになって、はっと目がさめた。
瞬間──。
華丸は、ぎょっとなった。
唐戸が音もなく開いていて、暗い廊下に、黒影がひとつ、立っていたのである。
「何者っ」
華丸は、太刀をつかんで、片膝立てると、|誰《すい》|何《か》した。
「城主に、会おう」
黒影は、ひくいが鋭い声音で、云った。
「何者だ、と問うている!」
「京の都から参った公卿忍者だと伝えい」
「公卿忍者?」
「そう申せば、城主は、判る」
「なんの用向きだ?」
「おのれごとき小わっぱに申しても、はじまらぬ。城主を起せ」
「お起しはできぬ」
「なぜ、起せぬ?」
「殿は、癇癖でござる」
「ははは……」
公卿忍者と称する黒影は、かわいた声音で、わらい声をたてた。
華丸は、はらはらした。
はたして、豪太夫は、そのわらい声で、目ざめた。
「華丸!」
「はっ──」
「何者が、そこに居る?」
「公卿忍者と申す者、無断にて侵入つかまつりました」
「公卿忍者だと!」
豪太夫は、|我《が》|破《ば》とはね起きた。
「そやつ、そこに、居るのだな?」
「はい」
華丸は、首をすくめた。
寝所は、控えの間を通らねば、入れぬ造りになっていた。
公卿忍者は、ゆっくりと、控えの間に入って来ると、仕切りの襖へ手をかけた。
「殿!」
華丸が、警戒をうながした。
襖が、開かれた。
瞬間──手裏剣が、飛来した。
公卿忍者は、身をひねって、これを、うしろへ流した。
「げえっ!」
絶鳴をあげて、華丸が、のけぞった。
手裏剣は、あやまって、華丸ののどに突き立ったのである。
「わざわざ、寵愛の小姓を殺されることはござるまい」
公卿忍者は、皮肉をあびせた。
豪太夫は、手裏剣を投げた手に、佩刀を抜きはなっていた。
「わしの首を奪りに参ったのか!」
「早合点されるな」
公卿忍者は、ゆっくりと、寝所に入って来ると、ピタリと正座した。
「おちつかれい、田丸豪太夫殿」
「………」
豪太夫は、油断なく、対手を睨んでいたが、やがて、しぶしぶ、座に就いた。
豪太夫は、曾て、|検《け》|非《び》|違《い》|使《し》の|地《じ》|下《げ》官人だったことがある。一条家の諸大夫の下に仕えていたが、一夜、十余名の浮浪の徒を率い、一条家の倉を破って、かなりの金銀を盗んで、遁走したのである。
その前科があるために、公卿忍者が現れたときくや、生命を取りに来たものと、思い込んだのである。
「貴様は、一条家のやとわれか?」
「いかにも──。七位の大乗と申す」
宮廷には、六位蔵人というのはあるが、七位はない。
わざと七位と称するのは、ひねくれ者の証拠であろう。
「一条家から、遣わされて参ったか?」
「さにあらず」
七位の大乗は、かぶりを振った。
「摂家の公卿には、あいそがつき申した。当城の客分にして頂こうかと存じて、参上つかまつった」
「公卿忍者などをやとう必要は、さらにないぞ」
「土産を持参いたしました」
「土産?」
「左様──。それがしが、この伊吹野に参ったのは、この土地の何処かに、荷駄二十数頭の金銀が、隠匿されてあることを、知ったからでござる」
「莫迦な! そのような事実があれば、この田丸豪太夫が、すでに、さがしあてて、城倉に置いて居るわ」
「そう申されると思うて居りました。これは、絵空事ではござらぬ。ちゃんと、証拠がござる」
「証拠があると? きこう」
「もはや、二十年前のことに相成るか、と存じます。五摂家では、諸国より興って来る武家どもの、京洛乱入を憂慮し、その蓄えた摂銀を、遠くに、かわして、かくすことを一議に及んだのでござる」
「ふむ?」
「一日、五摂家では、一家より一人ずつえらんで、平和祈願のために、出家して、高野山へのぼる、という名目をたて、その行列を、京から、送り出したのでござる。いずくんぞはからん、出家する者の荷とみせかけたのは、莫大な金銀でござった」
にわかに、豪太夫の顔面が、かがやいた。
「その金銀が、この土地へはこばれて来た、と申すのか?」
「左様でござる。伊吹野には、公卿館と称する屋敷がござるはず──」
「ある」
「五摂家では、泰国清平に、金銀を預けたのでござる」
「まことだな? まさか、わしに、一杯くわせるのではあるまいな?」
「疑い深い御仁とは、きいて居り申したが……、相違はござらぬ」
「荷駄二十数頭の金銀が、公卿館に、隠匿されて居る! ふむ!」
豪太夫の|炬《きょ》|眼《がん》が、狂おしいほどに、燃えた。
「殿──」
七位の大乗は、冷やかに、豪太夫を眺めて、
「その金銀を、掌中にされたならば、それがしに、いかほど、下さるか、うかがっておきたく存じます」
「左様さの──」
豪太夫は、にやりとした。
「わしも強欲だが、その方も、したたかな我欲の持主らしゅうみえるぞ」
「まさしく──」
大乗も、笑いかえした。
「半分けにしてくれる、と申したら、その方満足いたすであろうが、そうは参らぬの」
「兵を動かす分をみる、と申されますか?」
「その通りだ。その方には、三分の一をくれよう」
「お約束されますな?」
「疑い深いのは、その方だぞ」
「殿に申上げておきますが、金銀は、必ずしも、公卿館に隠匿されているとは、限り申さぬ。あるいは、館の裏手にある山の何処かに、埋められている、とも想像されるところでござる」
「泰国清平を捕えて、拷問にかけ、白状させるまでだ」
「なまなかの責めで、口を割るような男ならば、五摂家で、これほどの信頼はいたしますまい」
「まかせておけい」
豪太夫は、床の間から、|法《ほ》|螺《ら》|貝《がい》を把るや、吹き鳴らした。
それから、四半刻のちのことであった。
城門がひらかれ、一隊の騎馬が、蹄の音高く、走り出て行った。
およそ、三百騎とかぞえられた。
望楼上に、豪太夫と公卿忍者は、立っていた。
「百騎もあれば、充分であろうが、念のために、三百騎をむかわせてくれるぞ」
「公卿館の抵抗の力は、微弱だと申される?」
「手勢は居らぬ。ひと押しに、もみつぶす」
「はたして、そうたやすく、成るものでござろうか?」
「疑い深い忍者よの。はっはっはっ……、夜明けには、田丸豪太夫は、日本一の大金持ぞ!」
月明に、土煙りをもうもうとまきあげて、三百騎は、かわききった原野を、まっしぐらに疾駆して行く。
伊吹野城と、公卿館の間には、約二里の距離があった。
ひくい丘陵が二つ、横たわっている。丘陵と丘陵のあいだを、かなりの川がうねっているが、勿論、涸れあがって、久しい。
三百騎を指揮するのは、田丸豪太夫の|股《こ》|肱《こう》随一の荒武者・荒巻鬼十郎であった。
田丸勢が向うところ、必ず、荒巻鬼十郎のたけだけしい姿が、先駆していた。
胸まで垂れた長髯は、有名であった。
荒巻鬼十郎は、夜風に長髯をなびかせながら、むしろ、不服のてい[#「てい」に傍点]であった。
泰国清平の公卿館に、敵襲に備える兵力も武器もないことが、あまりにあきらかであった。
膂力三十人力を、自他ともにゆるす豪勇無双の荒巻鬼十郎が、わざわざ、指揮をとるまでもないことに、思われた。
敵が、二千騎もいて、しかも、いくたびかの戦闘できたえあげた精鋭というのであれば、こちらは、武者ぶるいするところである。
──公卿館を、ふみつぶすことなど、ばかくさい。
鬼十郎は、主命だから、しぶしぶ出て来たものの、丘陵のあたりで、寐そべりながら、四五十騎を|遣《つか》って、片づけて来させたいくらいの気持であった。
第一の丘陵の麓へ達した時である。
後方から、一騎、矢のごとく飛んで来て、鬼十郎のかたわらへ、出て来ると、
「油断大敵!」
ひくいが、鋭い一句を、投げかけた。
「なに?」
鬼十郎は、じろっと見やった。
「なんだ、お主は?」
「公卿忍者・七位の大乗と申す」
「殿をそそのかせて、今夜の奇襲をさせたのは、お主だな」
「左様──」
「油断大敵とは?」
「公卿館には、天満坊という坊主が、昨日到着した由、たったいま、館内を探索していた者からの報告があったので、大急ぎで、忠告に参った」
「その天満坊が、どうした、というのだ?」
「それがしは、天満坊を存じて居り申す。ただの坊主ではござらぬ。曾ては、将軍家の軍師となり、十万の兵を率いて、五畿内を馳せめぐり、向うところ敵なき神算鬼謀を発揮した怪僧でござる」
「いまは、零落して、乞食坊主になっているのではないか」
「零落はいたして居っても、頭脳までが衰えて居るとは、思い申さぬ」
「その坊主に、千騎二千騎の手勢があれば、話は、別だろう。徒手空拳で、何ができる! おそるるには、足りぬ。……いや、そやつと一騎討ちができると思えば、急に、力がわいて来たぞ!」
荒巻鬼十郎は、公卿忍者の忠告など、歯牙にもかけず、
「進め!」
呶号して、自ら先頭をきって、第一の丘陵を、一気に駆け越えようとした。
「ふん──猪武者が!」
七位の大乗は、いまいましく、吐きすてた。
勝手にしろ!
そう思って、大乗は、敢えて、ともに進もうとはしなかった。
丘陵は、けものの通り路のように、しぜんに、松の林の中に、一筋の道がつけられていた。
荒巻鬼十郎は、疾風の勢いで、それを奔り抜けようとしていた。
頂上から川までは、かなりの勾配になっていたが、鬼十郎は、いささかも、馬脚の速力をゆるめようとはしなかった。
ちょうど、坂の中途に来た瞬間であった。
突如──。
地面に、凄じい炸裂音が発して、馬が、棹立った。
鬼十郎の巨躯は、もんどり打って、松の梢へ、ほうり出され、はげしく枝葉を鳴らして、斜面へ、ころげ落ちた。
つき従っていた騎馬隊は、勾配の急な坂道を、隊長におくれじと、勢いまかせに疾駆していたので、その突如の地変に、たづなを引くいとまもなかった。
七八騎が、つぎつぎと、衝突して、折り重なるぶざまな光景を呈した。
さらに、そのうしろを駆け降りて来た者たちは、衝突を避けようとして、左右の木立へ、馬首を向けかえたが、これをいやがる馬の荒れ狂いにあって、宙へほうり出されてしまった。
地面にしかけた一個の火薬筒が、およそ数十騎をひっくりかえしてしまったのである。
さらに、後続する者たちは、そこに伏敵があった、と思い込んで、収拾つかぬ混乱を起してしまった。
田丸豪太夫の手勢は、食いつめ牢人、野伏、無頼の土民など、いわば寄せ集めの連中であった。
軍法を学んで、兵略に習練のある武士は、ほとんどいなかった、といってよい。
ただ、豪太夫や鬼十郎の凄じい豪勇ぶりを真似て、敵にぶっつかって行く我武者羅な度胸と力をそなえていたばかりである。
したがって、こういう場合、それぞれが、とっさに、心得ある行動をとることなど、不可能であった。
「なんだ?」
「どうしたっ?」
「突破しろっ!」
「やれっ!」
口々に呶号して、滅茶滅茶に、突進することしか、考えなかったのである。
あいにく──。
荒巻鬼十郎は、馬の蹄がふみつけた火薬筒から、濛っと発した白煙で、目をつぶされていた。
煙は、猛毒だったのである。
「ええい! おのれっ──」
鬼十郎は、狂いたって、「馬だっ! 馬を引けいっ!」と呶号した。
しかし、まわりの武者たちは、同じく、毒煙に目をくらまされて、右往左往しているばかりであった。
鬼十郎は、松の幹にぶっつかって、ころがったり、斜面をすべったりしているうちに、ようやく、一頭の馬にさわって、
「おっ──りゃっ!」
と、とび乗った。
「つづけっ!」
やみくもに、馬腹を蹴った。
もとより、これにつづく騎馬は、なかった。
たった一騎で、馬が疾駆するにまかせた鬼十郎は、川ぶちまで降りて、カンでたづなをひきしめると、
「おのれら! 何をぐずぐずいたし居るっ!」
と、後方へ絶叫した。
すると、これに応えたのは、川むこうからであった。
「そこに、あるのは、伊吹野城随一の猛将荒巻鬼十郎殿とおぼえたり!」
「なにっ?……おのれは、何者だ?」
「京より下った乞食坊主に候」
「天満坊とほざくは、おのれか!」
「すでに、わが名をおぼえていて下されたか。かたじけなや──」
からかわれた鬼十郎は、盲目であることを忘れて、遮二無二馬を川へ跳び入れた。
そこへ、ようやく、数十騎が、なだれを打って、駆け入って来て、鬼十郎につづいて、川へ躍った。
瞬間──。
涸れた川床が、蹄に踏まれざまに、凄じい轟音を発して、火を噴かせた。
二段に伏せた火炎陣であった。
川幅に比して、底が深いのは、まさに、火薬を伏せるには、絶好であった。
収拾すべからざる混乱は、丘陵上のそれとはくらべもならなかった。
火と毒煙と人馬の悲鳴が、眼下に渦巻くさまを、天満坊は、馬上から、眺めていた。
あとの軍勢が、そこへ、殺到して来て、茫然と立往生する光景も、天満坊を、にやりとさせたことであった。
と──。
その生地獄の中から、猛然と駆け上って来た武者があった。
荒巻鬼十郎であった。
陣太刀をふりかざして、
「天満坊っ! 出あえっ!」
はらわたをしぼるように喚きたてた姿は、まさしく、悪鬼であった。
天満坊は、馬上から、ひややかに、その惨たる姿を見下して、
「あいにくだが、盲武者を討っても、手柄にはならぬ」
と、云った。
鬼十郎は、その声の方角へむかって、突進すると、滅茶滅茶に、陣太刀を振りまわした。
とたんに──。
「荒巻鬼十郎! 血迷うな!」
天満坊の一喝が、あびせられた。
肺腑をつらぬく鋭さに、鬼十郎は、全身をびくっ、と痙攣させた。
「な、なにっ! くそ坊主!」
「坊主であればこそ、慈悲を知る! 一勝一敗は、兵家の常──、この心得あってこそ、もののふと申すもの。敗れたりと判りつつ、なお、血迷うて、狂いまわるのは、見苦しいぞ。孫子も曰うて居る。善く勝つ者は、勝ち易きに勝つ。……出なおして参れ、猪武者め!」
あびせすてると、天満坊は、馬首をめぐらして、悠々と駆け退いて行く。
遠ざかる馬蹄の音に、鬼十郎は、躍起になって、
「待てっ!」
と、狂人のごとく、追おうとしたが、地面の窪みに足をとられて、転倒してしまった。
天満坊は、森かげまで、馳せもどって来ると、
「皆、いるかな」
と、声をかけた。
「おーっ!」
百平太と青助と黒太と赤松と白次が、一斉に、応じた。
「どうであったな、わが神算鬼謀ぶりは?」
「うめえもんだ! 和尚が、楠正成の生れかわりにみえたぜ」
これは、青助の声であった。
「みろいっ! だから、おれは、和尚を信頼しろ、と云ったんだぞ」
百平太は、得意だった。
「さて──、敵は、このままでは、引きさがらぬ」
天満坊は、云った。
「懲りずに、やって来ますかい?」
「来る。三度目のおどかしで、退却させることになる」
「奴らは、しかし、まだ、百騎や百五十騎は、のこっているんじゃありませんかね。こっちは、たった六人ですぜ」
もう、地面には、火薬を仕掛けていなかったのである。
「ははは……、六人いれば、充分だ」
天満坊は、こともなげに、笑った。
やがて──。
百騎あまりが一団になって、疾駆して来た。
森のわきを、掠めすぎようとした刹那、天満坊の下知とともに、五人が、満月にひきしぼった弓から、矢を切って放った。
矢は、飛びざまに、火を噴いて、白煙を、虹のように、宙に架けた。
逆襲
「やれやれ──」
天満坊が、のっそり座敷に入って来た時、夜八郎は、着流しのまま、寐そべっていた。
床の間に、具足が据えられたままになっていた。
泰国清平が、わざわざ、倉から出して、貸してくれたのであるが、夜八郎は、手もふれずにいたのである。
「ほう、のんびりのていじゃな」
天満坊が、あぐらをかくと、夜八郎は、やおら起き上って、
「御坊なら、夜襲隊を、途中で、片づけるものと思っていた」
と、こたえた。
館では、婦女子まで、武装して、必死の備えに加わっていたのである。夜八郎一人だけ、天満坊の奇策の成功を信じていたようである。
「いや、どうして、なかなか、敵は、生命知らずの猛者ぞろいでな。危いところであった」
五本の火矢が、夜襲隊を、その地点から退却させたのは、いわば、|僥倖《ぎょうこう》であった。
指揮の隊長を喪った夜襲隊は、森から火矢をあびせられるや、ついに、今夜の突進をあきらめてしまったのである。
公卿館へ到着するまでには、いたるところに、火炎陣が伏せてある、とおそれざるを得なかったからである。
荒巻鬼十郎が、健在ならば、たとえ無数の火炎陣が待ちかまえていようとも、猛進して来たに相違ない。
もし、火矢が撒いた毒煙をかいくぐって、夜襲隊が、突撃して来たならば、もはや、あとには抵抗する用意は何ひとつなかったのである。
いま頃は、この館の中は、凄じい修羅場と化していたであろう。
「今夜は、まずまず、事なきを得たが、さて、明日はどうなるかだな」
天満坊は、|頤《あご》をなでた。
「御坊に、その思案が成って居らぬはずはなかろう」
夜八郎は、薄ら笑いながら、云った。
「思案は成っても、はたして、それが、図にあたるかどうかな。今夜のように、うまくはゆくまい」
「きこうか」
夜八郎は、うながした。
天満坊は、夜八郎を視かえした。
「伊吹野城に、逆襲をしかける。これじゃな」
「逆襲?」
夜八郎は、あきれた。
「手勢もないのに、どうして、逆襲をしかけられるのだ?」
「手勢はある」
天満坊は、にやっとした。
「どこに?」
夜八郎は、天満坊を見まもった。
「この伊吹野に、いる」
天満坊は、云った。
「………?」
「この伊吹野には、なお、八千の農夫とその家族が、住んでいる。これらが、手勢となる──とは、どうじゃな?」
「武器を取ったこともない者たちを、一日や二日で、兵として訓練することは、考えられぬが……」
「ははは……、そこが、つけ目じゃな」
「というと?」
「伊吹野城でも、そう思って居ろう。農夫というものは、虫けらのように、土にしがみついている生きもの、と勝手にきめているところに、こちらの策が生れる。……伊吹野城では、あのむごたらしい虐殺によって、農夫などが何千集まろうと、案山子の山だ、という甘い考えを起して居る。成程、指揮統率がなければ、惨めな烏合の衆でしかあるまい。しかし、神算鬼謀をもって、これを動かせば、伊吹野城の荒武者隊に、まさるとも決して劣らぬ働きを、発揮するのではあるまいかな」
「………」
「窮鼠も、猫を噛む。追いつめられた者は、復讐の一念に燃え立つならば、いかなる危険を冒すことも辞せぬ。そうではなかろうかな」
天満坊は、そう云うや、おのがむき出しの膝をぴしゃりと叩いて、
「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」
と、叫んだ。
──この桑門は、どうやら、天下を狙う大伴の黒主になれそうだ。
夜八郎は、微笑した。
「御坊が、その決意なら、こちらに反対する理由はない」
「左様。賛成して頂こう。農夫隊を率いて、伊吹野城を逆襲するのは、お手前の役目だからな」
「それがしに、指揮をとれ、というのか?」
「他に、誰が居るのじゃな」
「御坊がいるではないか」
「ははは……、軍師は、かるがるしゅうは動かぬもの。総大将は、自ら先頭に立って、その勇猛ぶりを示してもらわねばならぬのでな」
「やれというなら、やってもよいが……、田丸豪太夫の首を奪ることが、はたして、できるかどうかだ」
「いや、首は頂かんでもよろしい。そのかわり、伊吹野城にたくわえてある兵糧を頂戴いたすことにいたそうではないか」
天満坊は、不敵なことを、うそぶいた。
この時、夜八郎は、なにげなく、庭へ投げていた眼眸を、急に、光のあるものにした。
くらい樹蔭を、けもののようにすばやく掠める影を、みとめたのである。
常人ならば、狐狸のたぐいであろう、と見のがしたであろう。
夜八郎の直感力は、鋭かった。
「曲者が忍び込んだようだ」
ひくく、つぶやいた。
泰国清平は、太郎から、天満坊と五人の無法者たちの奇策の成功を、告げられて、
「みごとな軍師だの」
と、微笑していた。
「しかし、父上、奇策はやはり奇策にすぎません。今夜の敗退は、田丸豪太夫を、激怒させますぞ」
「そうであろうな」
「とすれば、明日は、豪太夫自身が、手勢を率いて、押し寄せて参るおそれがあります」
「ないとは申せまい」
「その時は、どうするのです? あの出家に、これを撃退する方法があろうとは、考えられぬ」
「天満坊殿は、そのことも、ちゃんと、思慮に入れているのではあるまいかな」
「いいや、今夜の奇策がせい一杯のところでありましたろう。もし、豪太夫が、攻め寄せて参ったら、出家らは、遁げ出してしまうのではありますまいか」
「太郎、お前は、どうして、そのように、疑い深くなったのじゃな?」
「名君と仰いでいた先の城主が、あのように、われわれ|地《じ》|下《げ》の者たちを、むざんに裏切られて以来、もう誰人をも信じることは、できなくなりました」
太郎の言葉には、憤りがこもっていた。
無理もなかった。
伊吹野城の前城主奈良城義胤は、田丸豪太夫に追われて、大庄山の天険に拠る城砦に籠っているが、それは、おのが一族の安泰だけをはかる卑劣な行為であった。
それというのも──。
田丸豪太夫が、この伊吹野をしばしば侵冦して来はじめたのは、六年あまり前からのことであった。
その頃すでに、奈良城義胤は、ひそかに、たくわえていた兵糧を、大庄山の城砦へ、はこびはじめていたのである。
春風駘蕩たる温容そのままの人格者として、領民から慕われていた義胤は、実は、小ずるい臆病者でしかなかったのである。
それが、判明したのは、田丸豪太夫が、全軍を率いて、伊吹野城に、総攻撃をしかけた時であった。
守備の将兵は、能く闘った。
我に数倍する田丸勢を、ひきつけてビクともせず、しばしば、夜陰に乗じて、城を出て、死闘を演じたことであった。
それにも拘らず──。
奈良城義胤は、城門をひらいて、田丸豪太夫に降服し、大庄山へ去ったのである。
悲憤のあまり、数十騎が、田丸の陣営へ斬り込んで、玉砕する悲劇も起った。
領民は、城主の不甲斐なさに、絶望した。
田丸豪太夫に、城を奪われたならば、伊吹野が、どのような惨状を迎えるか、目に見えていたのである。
奈良城義胤が、兵糧と武器を、ことごとく、大庄山にはこび去っていたことが判ったのは、田丸豪太夫が、入城してみてからであった。
豪太夫は、
「しまった!」
と、歯がみして、口惜しがった。
義胤が、わずか二百名の家来だけを、ひきつれて、のこりの将兵を、見すてたのは、こんたんがあったのである。
すなわち、ごく少数の家来を擁していれば、三年や四年は、平然として、たて籠っていられるからであった。
背後を人跡未踏の大密林と断崖にまもられ、前面に、神秘な深みどりに底知れぬ深さを示す湖水がひろがった城砦には、これを守備する武力は、さまで多勢を必要としなかったのである。
いま、義胤は、悠々として、下界の飢餓地獄を、眺め下している。
太郎が、義胤に対する憎悪を、露骨に表情に現すのは、当然であった。
若い太郎は、義胤をこそ、世人の亀鑑たるべき人格者と、慕っていたのである。その城主に裏切られて以来、人間というものが、信じられなくなったのである。
「太郎、天満坊殿だけは、信じてよい人物であろう。わしは、そう思う」
清平は、云った。
「父上が、そう云われるならば……」
太郎は、しぶしぶ、こたえた。
やがて、太郎が出て行ってから、ひとときの夜の静寂が、部屋にこもった。
と──。
どこかで、微かに、鼠が小走るような、小さな物音がひびいた。
清平は、病める者の鋭く冴えた神経で、それを、怪しむべきものに察知した。
「だれだ?」
清平は、|誰《すい》|何《か》した。
屏風の蔭に、あきらかに、人の気配が生れた。
「だれだ?」
「おしずかに!」
対手は、ひくい声音で、制した。
「わしの寐首を掻きに参った者か?」
「さにあらず、内密の相談を申しあげたく、参上いたしたる者」
「名のれい!」
「公卿忍者・七位の大乗と申す」
「公卿忍者と?」
「左様、五摂家様がたより遣わされて参った者とお思い下さいますよう──」
「五摂家より、なんの目的があって、遣わされて来た?」
「それがしが、これだけ申し上げれば、すぐに、合点なさるはず……」
「わからぬ、なんのことやら──」
「清平様、おかくしなされるな。七位の大乗は、五摂家様がたより、旨を奉じて参った者でござる」
泰国清平は、対手が、なんと云おうとも、油断をしなかった。
「五摂家より、お主が、遣わされた理由など、このおいぼれに、わかろう道理がない」
「ふふ……、それだけの要心ぶかい御仁なれば、莫大な金銀を、五摂家では、おあずけなされたことでござる」
七位の大乗は、ずばりと、云ってのけた。
「………」
清平は、内心愕然となった。
金銀をはこんで来た公卿ざむらい一行を、一人残らず暗殺せよ、と命じたくらい、五摂家では、このことの秘密保持には、要心ぶかかったのである。
この公卿忍者が、どうして、さとっているのか?
「お館──。お疑いは尤もでござるが、この七位の大乗は、一条関白様から、忝くも、股肱と思う、とお言葉を頂戴した者でござる。信じて下され」
「………」
「一条関白様には、都もようやく平穏にかえったゆえ、御所も修築し、五摂の館も新しく構えようと存ずるゆえ、伊吹野にかくしてある金銀のうちの半分を、はこびもどそうと存ずる、その方、泰国家へおもむいて、たしかに、その場所にかくしてあることを、たしかめて参れ、と仰せつけなされたのでござる」
「………」
「泰国殿!」
大乗は、急に、語気を鋭いものにした。
「おこたえにならぬところをみると、よもや、田丸豪太夫に奪われたのではござるまいな?」
「何を申す! 大切な金銀を、あの野伏あがりなどに、奪われてたまろうか。もし、奪われていたならば、こうして、のめのめと、生きては居らぬ」
「いや、それをうかがって、安堵つかまつった。では、たしかに、此処に埋めてある、という証拠をみせて頂きとう存ずる。たしかめたならば、即刻、都へたちかえって、関白様に、ご報告つかまつる」
大乗は、いかにも、誠意ありげに、云った。
「お主が、五摂家よりの使者である証拠は?」
清平は、それをもとめた。
「もとより、持参つかまつる」
大乗は、懐中から、油紙で包んだ密書をとり出し、うやうやしく、おし頂いてから、清平にさし出した。
清平は、|披《ひら》いてみて、一読してから、さらに、丹念に、贋ものであるかどうか、しらべた。あきらかに疑惑を呼ぶ怪しい点は、発見できなかった。文章、筆跡とも、関白らしいものであったし、捺された印璽も、関白のものであった。
だが、なお、清平は、警戒心を解かなかった。
「成程、この書状を拝見いたせば、お主が、五摂家のお使者のように、受けとれる。……だが、一条関白ともあろうお方が、身分も地位もない、かくれ|衛《え》|士《じ》のお主などに、どうして、この大事を打明けられるものであろうかな。信頼のできる六位蔵人あたりに、打明けられて、遣わされたのであればまだしも、お主などが、じかに、関白殿と口をきけた、ということさえも、疑わしい」
「それがしが、身分も地位もないかくれ衛士であればこそ、関白様には、深夜ひそかに、膝もとへお呼びなされることが、できたのでござる」
「さあ、どうであろうかな」
「信じ難い、と申されるか?」
──この老いぼれめ、なかなか、要心ぶかいぞ!
大乗は、内心少々あせりを生じた。
清平としては、語るに落ちるで、大乗から、金銀を田丸豪太夫に奪われたのではないか、とあびせられて、つい、そのようなことがあったならば、おめおめと生きては居らぬ、とこたえてしまい、それが、たしかに、金銀を預っている、と白状してしまう結果になったのに、気がついていた。
「ともあれ──」
清平は、居ずまいを正すと、
「押問答は、無用の儀と思う。早々に、立去って、二度と姿をみせてもらわぬよう、これが当方の希望──」
と、云った。
「泰国殿。それがしは、余人ではござらぬ。公卿忍者でござる。しかも、このように、関白様の蝋書を携えて参った者でござる。……怪しいから、立去れと申されても、すごすご退散いたすわけには参り申さぬ」
大乗は、云いおわると同時に、さっと立つや、風のように奔って、次の座敷との杉戸をひきあけた。
そして、そこに、身をひそめた者を、ねじ伏せた。
ねじ伏せられたのは、青助であった。
青助は、若い女をねらって、この母屋へ忍び入り、あまりの広さに方角を見失って、迷い迷い、奥へ進み入って来て、偶然、清平と大乗の問答を、ぬすみぎいたのである。
「おのれ! 内密の話をぬすみぎいた上からは、たとえ、当家の下僕であっても、許せぬぞ!」
大乗は、小刀を抜きはなった。
青助は、もがくことさえかなわぬねじ伏せられかたをして、
「……う、うっ!」
いたずらに、床へ押しつけられた顔を、左右に振るばかりであった。
大乗は、小刀を、振りかざして、青助の頸根へ、突きたてようとした。
その瞬間であった。
「忍者! 大層に、身振るな!」
その声とともに、すっとふみ入って来たのは、夜八郎であった。
大乗が、青助を刺せば、間髪を入れず、夜八郎の腰から、白刃が鞘走って、刺殺者の首を刎ねるであろう。
その殺気をあびて、大乗の振りかざした小刀が、宙で固着した。
夜八郎は、氷のような双眸を据えて、大乗を見据えている。
一瞬──。
大乗は、青助の上から、はね上って、一間の後方に立った。
「おのれは、公卿忍者と称したそうだな?」
「いかにも、左様──」
「笑止!」
「なに!」
「公卿忍者というものは、単独で行動はせぬ。必ず三人一組となって行動するのが掟だ。そのことを知って居る者はない、とたかをくくって、忍び入って来たのか?」
「………」
「あいにくであったな、七位の大乗──」
「おのれは、何者だ?」
「おれが、将軍足利義晴の子であったら、どうする?」
「なにっ?!」
「ははは……、おれが将軍家の伜であろうとなかろうと、そんなことは、どうでもよい。いまは、ただの牢人者だ。下忍ずれが、物欲しげに、七位などと名のる根性とは、いささかちがうぞ!」
「その高言を、太刀で示してもらおうか」
大乗は、小刀を左手に、太刀を右手にかざすと、ゆっくりと、右まわりにまわりはじめた。
「大乗、遁走は卑怯だぞ!」
右方には、杉戸があった。
夜八郎は、大乗がそれを破ろうとするのだ、と看破したのである。
看破された以上、大乗は、闘うよりほかはなかった。
夜八郎が、どれだけの業をそなえているのか知らぬが、そのおちつきはらった態度に示されている微塵の隙のなさは、なみなみならぬもの、と大乗はみとめざるを得なかったのである。
大乗は、決死の闘志を燃えたたせなければならなかった。
大乗には、おそるべき特技があった。助走なくして、翼があるごとく、二間余の宙を翔けることができるのであった。
大乗は、床を蹴った。
忍び装束の姿が、天井に吸いあげられるごとく、舞い立って、夜八郎の頭上を飛行した。
夜八郎は、身をひねりざまに、抜きつけの太刀を一閃させた。
|颯《さ》っと鳴る白い光芒の中を、襲って来た小刀が、はねとんだ。
大乗は、清平の坐る寐床の近くに降り立ちざまに、身をひるがえして、庭へ奔ろうとした。
「どっこい!」
庭から、一喝が、あびせられた。
「ここは、地獄の一丁目じゃ。なかなかもって、通り過ぎることは、かなわぬぞ」
大乗は、その声をきいて、戦慄した。
──天満坊だ!
「大乗、思いがけないところで、めぐり会うたものだ。|陰《おん》|陽《よう》寮のやとわれ下忍が、いつの間にやら、七位まで出世して、一条関白殿から、使命を受けるまでに信頼を得たとは、めでたい。……拙僧が知るお主は、大吉大凶の贋の陰陽札を、豪家の門やら座敷やら台所に貼りつけておいて、しきりに善男善女だましをやって居ったがのう……」
「ええい! うるさいっ!」
大乗は、狂気のごとく、喚きかえすや、再び、身を宙のものとした。
夜八郎を頭上から襲う秘術を、もう一度こころみたのである。
結果は、同じであった。
翔けつつ、撃ちおろした大乗の太刀は、一颯の刃風を受けて、遠くへはねとんでいた。
大乗は、元の位置へ、無手になって、舞いもどっていた。
「どうする?」
夜八郎は、薄ら笑いながら、問うた。
「なに? どうするとは?」
大乗は、夜八郎を睨みかえした。
「いい加減で、降服したら、どうだ、というのだ? それとも、懐中にかくしている忍び道具を、もう二つ、三つ、使用するか?」
「………」
「欲にからんで、忍び入って来た下忍に、面目も意地もあろうとは思われぬぞ」
「……う!」
「ついでに、申しておけば、おれは、むしろ、お主のような狡滑で、欲張りで、行動力を持っている闇馴れの男が、きらいではないので、斬りたくはない」
この言葉は、効果があった。
「参り申した」
大乗は、あっさりと、かぶとをぬいだ。
その場へ正座した大乗は、
「御随意に──」
と、云った。
夜八郎は、太刀を腰におさめると、清平にむかって、
「おさわがせした」
と、一礼した。
「あやうく、この忍者の口車に乗せられるところでござった。まことに、おはずかしい」
清平は、そう云って、頭を下げた。
その時、庭から、天満坊が、
「大乗、ちと、話したいことがある。書院へ来てもらおう。……多門殿は、お館と、相談があろう。……大乗、来さっしゃい」
と、うながした。
天満坊は、大乗を、書院にともなうと、
「早速じゃが、五摂家のかくし金銀のこと、どこで、かぎつけたな?」
と、訊ねた。
大乗は、それに返辞をする前に、小ずるい眼光をかえした。
「御坊も、その秘密を知って、当館へ乗り込んで参られたのか?」
「ははは……、盗賊は、仲間を語らいたがる。ま、お主の好きなように解釈するがよかろう。……どこで、かぎつけたぞ?」
天満坊の表情が、急に、きびしいものに変った。
「つい、先般、失火によって、桃華御殿(一条家)の倉三棟が焼け申した。その時、それがしは、御殿の廻廊の下にひそんで居り、関白様と若御所様の交される話を、ぬすみぎいたのでござる」
その時、一条関白は、子息に、
「こうした時には、気が楽なものだな」
と云い、子息はこたえて、
「わたしが、近く、伊吹野へ参って、泰国清平に、しかとあずかってくれているかどうか、たしかめて参りましょうか」
と、云ったのである。
そのみじかい会話をきいただけで、大乗は、敏感に、
──はてな? これは、くさい!
と、ピンと来たのである。
大切な財宝が入れてあるはずの倉が炎上するのを眺めて、平然としている御所父子の態度を、どうも妙だ、と感じていた矢先に、この会話をきいたのである。
それからの大乗の行動は、すばやかった。
五摂家の御殿へつぎつぎに忍び入って、さぐってみたのである。
それぞれの倉が、なんの警備もされていないのを調べてみれば、その中がすでに空であることが明白であった。
二十年前に、五摂家から、多数の荷駄がはこび出されたこと、そして、これをはこんで行った公卿ざむらいたちが、一人も帰って来なかったこと。
その事実をきき出すのに、大乗は、さして苦労をしなかった。
「成程な。関白殿の不覚であったな。そこでお主は、大層な野望を燃えたたせた……」
「よもや、当館に、天満坊殿や将軍家の御子がおいでであろうとは、存じ寄らぬところでござった」
「ところで、大乗──」
天満坊は、にこにこしながら、
「お主は、この伊吹野に入るや、まっすぐに、当家をねらって、忍び入って参ったのかな?」
「それは、勿論のことでござる。ほかに、うかがうところとてござらぬ」
「黙れっ!」
大乗に、凄じい一喝をくらわした。
大乗は、びくんと、全身を痙攣させて、亀の子のように、首を縮めた。
「大乗! 余人はごまかせても、この天満坊をだますことは、かなわぬぞ。おのれは、この伊吹野に入るや、まず、伊吹野城に忍び入って、田丸豪太夫に会うたであろう。相違あるまい!」
「………」
大乗は、上目づかいに、ちらりと、天満坊を見やった。
「負け犬」というやつがいる。犬は、一度、喧嘩をして、負けると、次からは、その敵を見かけるや、必ず、尻尾をまき込んで、こそこそと、かくれてしまう。もう、永久に、その敵には、勝てぬ、と思い込んでしまうのである。
大乗は、まさに、いま、「負け犬」であった。
「どうだ、大乗──。白状せい」
「恐れ入り申した」
大乗は、両手をつかえて、平伏した。
「豪太夫に、五摂家のかくし金銀のことを告げて、夜襲をそそのかしたのだな?」
「たしかに──」
「お主は、相当小ずるい|性《さが》に生れついて、欲深さもかなりのものであろうが、少々智慧が足らぬようだ」
「それがし自身は、そう思うて居り申さぬが……」
「馬鹿は、おのれを、むしろ、利巧と思い込んで居るぞ」
「智慧が、どう足りぬか、お教え頂こう」
「お主は、田丸豪太夫に、かくし金銀を奪わせて、山分けをもくろんだであろう?」
「その通りでござる」
「もし、かりに、豪太夫が、それをせしめたとして、お主に、分けるかどうか──それに疑いを持たなかったか?」
「………」
「豪太夫が、ただの粗暴な成り上り大名と、甘く見くびって居ったのであろう。そこが、智慧が足りぬ、と申すのだ」
「………」
「豪太夫は、かくし金銀をせしめたあかつき、お主に半分呉れるかわりに、お主を殺すことを考えるであろうな」
「成程──」
大乗は、天満坊に云われてみて、その通りだ、と合点した。
「敵が悪党ならば、こちらも悪党の心得をもって、敵の肚のうちをさぐってみる。これが、智慧の働かせどころであろうではないかな」
「恐れ入り申した」
大乗は、あらためて、頭を下げた。
「大乗、お主は、忍びの術では、多門殿に敗れた。この天満坊には、智慧の足りなさを指された。どうじゃな、もう小ずるく立ちまわる料簡をすてては──」
「服従つかまつる」
大乗は、こたえた。
「負け犬」は、全く素直になっていた。
「さて──ところでと」
天満坊は、微笑しながら、
「お主のことゆえ、伊吹野城に忍び入ったからには、城内の様子を、つぶさにしらべたであろうな?」
大乗は、おのれの行動を、ぴたりぴたりと云いあてられて、すっかり感服した。
「しらべ申した」
「田丸豪太夫が、諸方から強奪した財宝は、おびただしいものであろうな?」
「それがしは、いつぞや、伊勢管領の北畠家の館に忍び入ったことがござる。伊吹野城にあつめられた財宝は、それにまさるとも、劣らぬほどでござった」
北畠家は、足利家に次ぐ名家であった。
田丸豪太夫は、想像以上の悪辣な強盗を働いたことになる。
「米倉は、どうだな?」
「つめ込むだけ、つめ込んで居り申す。二年が三年の籠城をいたすとも、なんの不安もあり申さぬ。たくわえた|糒《ほしい》だけでも、どれだけ積んであるか、想像もつき申さぬ」
「そうか」
天満坊は、目蓋をとじて、しばらく、黙念としていたが、
「やはり、逆襲あるのみだの」
と、つぶやいた。
「逆襲──と申すと?」
大乗は、けげんに、天満坊を見つめた。
「先んずれば、敵を制すじゃ」
「伊吹野城へ、戦いを挑むのでござるか?」
「左様──」
「し、しかし──」
大乗は、あきれつつ、
「当館に、兵は居り申さぬが……」
「いる」
「どこに?」
「伊吹野にちらばる農夫たちが、明日からは、鍬をすてて、武器をとる。指揮をとるのは、将軍家のおん曹子だ。……面白かろう」
「農夫らを兵に? それは、無理な企てでござろう」
「兵は、闘魂を与えて、奇策をもって動かすもの。伊吹野城の烏合の雑兵どもと、生きんがために死にもの狂いになった農兵らと、いずれが強いか──これは、面白い闘いとなろうわい」
「そう申されるならば、そんな気もいたすが……」
「お主の浅智慧などで、結果は測れまいの」
「天満坊殿。それがしを、どうお使いめさる?」
大乗は、問うた。
「もう一度、伊吹野城へ、ひきかえしてもらおうかな」
「え?」
「三転──豪太夫の方へ、裏切るかな?」
「とんでもござらぬ」
大乗は、あわてて、かぶりを振った。
さすらい姫
今日も──。
陽が昇るにつれて、熱気が、山肌からあふれ出るように、急坂をのぼって行く旅人を、襲っていた。
二頭の痩せ馬は、うなだれて、石塊の多い坂道に、ぽくっ、ぽくっと、蹄の音をひびかせていた。
前の馬の上には、市女笠の若い女人が腰かけ、あとの馬は、旅の荷をのせていた。
前の馬の口をとるのは、柿丸であった。
幼くして家を失って、山野に起き臥しすることをおのが人生と思いさだめたこの男は、目くるめくような暑気にも、汗ひとつかかずに、かえって、喘ぐ馬をひきあげるような足どりをみせている。
「梨花様、もうすぐ、頂上でござる」
柿丸は、告げた。
市女笠をあげた梨花の貌は、あいかわらず血の気の薄い白蝋の色であったが、旅をする体力をとりもどしている証拠を、その|眸子《ひ と み》に示していた。澄んで、あかるいのであった。
「峠を越えれば、伊吹野でしたね」
「左様でござる」
「幼い頃、母にともなわれて、京へ上るために、一度通ったことがあります。……公卿館とよばれる屋敷で一泊いたしました」
「では、今夜も、その公卿館に、宿をたのむことにいたしましょう」
「御当主が健在ならば、わたくしのことを思い出して下さると思います。……泰国、と申された、と記憶して居ります」
「公卿館というからには、京から落ちられた公家衆でありましょうな?」
「幼い頃の記憶なので、どのような素姓の御仁か、判りませぬが……、お庭が大層広く、立派であったことを、おぼえて居ります」
梨花は、遠い記憶の糸をたぐる表情になった。
柿丸は、その顔を仰いで、
──すっかり、恢復された。
と、安堵した。
健康斎という名医の家で、一年の療養をした梨花である。
──あるいは、半年か一年の寿命かも知れぬ、と内心おそれていた柿丸も、健康斎の指示によって規則正しい療養の日々を送る梨花を眺めているうちに、
──大丈夫だ! これで、二十年、いや三十年の生命をひろわれた。
と、確信するようになったのである。
しかし、ある日、梨花が、
「夜八郎様のあとを、追ってみたい、と存じます」
と、云い出した時には、狼狽した。
永い旅に堪えるまでに、健康をとりもどしているとは、考えられなかったのである。
「もう一年ばかり、お待ちなされては?」
と、柿丸は、とどめざるを得なかった。
しかし──。
夜八郎のあとを追おう、と心にきめたのは、急に思いついたことではなく、梨花は、健康をとりもどすにつれて、考えていたことのようであった。
「柿丸殿には、ご迷惑をかけますけど、行かせて下さらぬか」
梨花の態度は、その決意のかたさを示していた。
しいて止めれば、一人だけで、出て行くに相違なかった。
梨花は、いつ還って来るかわからぬ夜八郎を、じっと待っていることに、堪えられなかったのである。
それというのも──。
別れる時、
「いつ、おもどりなさいましょうか?」
と、問うと、夜八郎は、冷やかに、
「わからぬ」
と、こたえたのである。
「三年さきになるか、五年あとになるか……。おれは、自身の気のおもむくままに、生きて行きたい」
この言葉は、梨花にとって、この上もなく悲しいものであった。
しかし、そのような孤独な意志を抱いている夜八郎を、おのが愛情でつなぎとめることはできなかったし、帰って来る日を約束させる勇気も出なかった梨花である。
梨花は、病みやつれた身を、牀の上に起して、出て行く夜八郎を、だまって、見送っただけであった。
柿丸が追って行き、
「せめて、来年、それができなければ、三年過ぎたら、帰って来る、とお約束して下され」
と、たのんだが、むだであった。
「おれは、修業のために旅に出るのではない。放浪するために、京を去るのだ。おのれ自身をしばるような約束は、できぬ」
夜八郎の返辞は、まことに、冷淡なものであった。
一処不住の漂泊者、とおのれの人生を思い定めてしまっている者に、心をひるがえさせることは、不可能であった。
梨花が、いかに慕っていても、それは梨花だけの気持であり、夜八郎が、受け入れているわけではなかった。
夜八郎は、ただ、
「東へ行く」
それだけ告げのこしたのであった。
ふつうの考えでは、ただ漠然と、東へ行く、とだけ云いすてた人のあとを追うのは、まるで、広い野の中に落ちた金をひろいあげるほどのたよりなさであろう。
梨花は、敢えて、その心細さを押し伏せたのである。
柿丸は、恋に生きる女の強さに打たれないわけにはいかなかったのである。
「梨花様が、それほどの決意をされているのであれば!」
柿丸は、従った。
二人が、京の都を出たのは、二十日前であった。
梨花は、さいわい、疲れをみせなかった。
柿丸は、梨花のことよりも、むしろ、突如として襲って来る野盗土賊に対して、油断なく心を配らなければ、ならなかった。
旱魃のうちつづく山野を越えて来たのである。
あらゆる人間が、飢えて、野獣に近い状態になっていた。
二十日のあいだに、二人は、八度びも、そうした人間野獣に、襲いかかられていた。
柿丸は、そのうちの幾人かを斬り仆し、また、多勢とみて、必死の逃走をやっていた。
このような殺伐な、弱肉強食の状態が、諸国にくりひろげられていることは、勿論、出発する時覚悟していたことである。
しかし、噂にきくのと、この目で見るのとでは、おのずから、ちがっていた。
梨花は、あまりにしばしばの襲撃に遭って、思わず、決意がにぶり、
「京へもどりましょうか」
と云った。
柿丸一人の奮戦にたよらねばならぬのは、あまりに、心苦しかったのである。
すると、柿丸は、笑ってかぶりを振り、
「貴女様は、多門様にお会いなさる日のよろこびだけを、想うていて下され」
と、こたえたことだった。
かえって、柿丸の方が、いかなる障害があろうとも、これを排除して、必ず、梨花を夜八郎にめぐり会わせてみせる、と不退転の覚悟をかためていたのである。
梨花のからだが、病いを再発させること以外、柿丸のおそれるものは、行手に何もなかった。
「さあ、そこが、頂上でござる」
柿丸は、馬を曳く足をいそがせた。
その頂上は、数日前、天満坊たちが憩うたところであった。
柿丸は、倒れた茶店を眺めて、
「どこも、ここも、人間が住みにくくなってしまって居る」
と、つぶやいた。
梨花は、なつかしそうに、眼下にひろがる伊吹野を見やったが、たちまち、
「これは!」
と、見わたすかぎり涸れはてた荒野に、声をのんだ。
田植えがおわって、野はいちめんに、青あおと息づいているべき季節であった。
目に入るのは、黄色にかわききった、死の世界のように不気味な静寂をたたえている広大な地表であった。
柿丸は、のびあがってみて、
「これは、いたましい!」
と、叫んだ。
「まるで、人間は一人のこらず、死に絶えているようじゃ」
柿丸が、うしろの馬の背中から、荷のひとつが、失くなっていることに気がついたのは、その直後であった。
「これは、しもうた!」
柿丸は、愕然となった。
その荷には、山の清水を汲んだ大きな革袋がくくりつけてあったのである。
「途中で、おとしたぞ。……梨花様、しばらく、ここで待っていて下され。ひろって参る」
その水がなくては、伊吹野を越えることは、おぼつかなかった。
柿丸は、韋駄天のように、いま来た道を奔って行った。
梨花は、松の木蔭に入って、涸れはてた平原へ、目を置いた。
東へ行けば、いつか、多門夜八郎にめぐりあえる。
その希望を胸に抱いて、ここまで来たのだが、思えば、これは、あまりにも心細い旅であった。
あるいは、ついにめぐり会えないままに、旅がおわるのではあるまいか。
それというのも──。
梨花は、おのが生命の短かさを予感していた。
さいわい、健康斎という名医によって、こうして旅のできる体力をとりもどしたとはいえ、すっかり治癒したとは、云えないのである。
柿丸に対しては、気づかれないようにとつとめてはいるが、もう細身の中に、疲れはつもっていた。
いつ倒れて、起き上れなくなるか、という|危《き》|懼《く》が、絶えず、心をおびやかしているのであった。
──このまま、京へひきかえして、どこか、山かげの草庵で、ひっそりくらしながら、多門様のおかえりを待っているのが、わたくしの生きかたではあるまいか?
ふと、その呟きを、胸でもらした時であった。
五六騎の蹄の音が、後方からひびいて来た。
土賊や野伏は、馬を駆らぬので、梨花は、べつに、警戒もせずに、そこに、うずくまっていた。
坂を駆け降りて来たのは、いずれも|猛《も》|者《さ》めかして髯をたくわえた武者連であった。
先頭の者が、そこに憩うている馬をみとめて、視線をまわし、梨花を発見するや、
「ほう──」
と、たづなを引いて、目を光らせた。
それから、うしろをふりかえって、
「狐かの?」
と笑った。
「かも知れぬ」
うしろの者も、にやりとした。
思いがけず、都の匂いをただよわせる美女を見つけて、武者連は、そのまま、駆け抜けるわけにはいかなかった。
「ひろって行くか」
一人が、云った。
「くじを引くことになるかの」
「待て──」
先頭の者が、云った。
「これは、献上品だのう。田丸豪太夫殿は、大層な色好みときいたぞ。随身の土産としては、恰好であろうがな」
「成程──、うまい考えだ」
この五人の騎馬武者は、伊吹野城へ、行こうとしているのであった。
五人は、馬から降りた。
梨花は、対手がたの不穏な態度と話をきいて、木立の中へさがり、すでに、懐剣を抜き持っていた。
「娘御──」
三人ばかりが、木立にふみ入って来た。
「われわれに出会ったのが、不運であったと、あきらめてもらおう。抵抗は、無駄だぞ」
「………」
梨花は、懐剣をかまえながら、じりじりと、あとずさった。
「べつに、取って食おうと申すのではない。この伊吹野の領主に、そなたを、側室として、献じようというのだ。あるいは、そなたが、領主の鼻毛を三寸も長くのびさせて、思うがままに栄華を愉しむことができるかも知れぬのだぞ」
「………」
「|女《おな》|子《ご》というものは、色香によって、天下を牛耳ることができる。幸せなものよ。われわれは、身体中に無数の刀創槍傷を負うても、侍大将になるのさえ、容易ではない。……さ、おとなしゅうせぬか」
「寄ってはなりませぬ!」
梨花は、懐剣の切先を、おのがのどに、擬した。
「寄れば、死にますぞ!」
「はっはっは……、その態度をみると、どうやら、ひとかどのさむらいの娘のようだな。ますます、気に入ったぞ」
こういう狼藉には、馴れている武者たちであった。
合戦におもむけば、その土地土地で、女をあさり、犯して、それを当然のことと考えている輩であった。
不意に──。
「いかん! 娘御、まむしが、足もとに来たぞ!」
一人が、大仰に叫んだ。
梨花が、はっとなって、足もとへ視線をおとした。
その隙をうかがって、二人が、さっと、とびかかった。
苦もなく懐剣を奪いあげると、
「おう──久しぶりで、餅肌を抱くぞ」
「うむ! このやわらかさは、無上のものよ」
矢庭に、四肢をつかんで、かつぎあげてしまった。
柿丸が、そこへもどって来たのは、梨花をさらった五騎が、遠く、平原の彼方に、豆つぶのように、小さくなった頃あいであった。
「おや?」
柿丸は、見まわし、
「どこへ、行かれたぞ?」
と、つぶやいたとたん、視線を、木立の地面へ、釘づけた。
健康斎から与えられた薬函が、そこへ落ちていた。
梨花が、常時、懐中にしていた品である。
とっさに──。
柿丸は、平原へ、鋭い視線を放った。
彼方に──。
騎馬の一列が、消えかかろうとしている。
「|彼奴《き ゃ つ》らかっ!」
柿丸は、おのが馬に、とび乗るや、坂を駆け降りて、追いはじめた。
だが、その馬は、戦場で馴れた駿足ではなかった。ただの駄馬であった。
はやる柿丸にとっては、いかにも、のろい脚力であった。
「くそっ! はしらぬかっ!」
柿丸は、積んであった荷を抛り出したばかりか、ひろって来た水入りの革袋までも、すてた。
にもかかわらず、駄馬は、一向に、先の騎馬との距離を、縮めようとはしなかった。
徒労と知りつつ、もっと奔らせようとしたことに、むりが生じた。
一瞬──。
駄馬は、前脚を折って、つンのめった。
柿丸は、もんどり打って、涸れた川床へ、投げ出された。
不覚にも、脾腹を打って、柿丸は、意識が遠のこうとした。
それを、必死にこらえて、路面まで、|匍《は》いあがったが、立つことは、おぼつかなかった。
そのまま、地べたへ爪をたてて、呻いた。
いくばくか経って、
「どうなされた?」
と、声をかけられた。
「た、たのむ!」
柿丸は、声をしぼった。
「わ、わしの背中を、踏んで、くれ」
「踏めば、どうなるのかや?」
「たのむ! 云う通りにしてくれ」
食べられる草をつんだ竹籠を背負うている農夫は、たのまれた通りに、柿丸の背中へ、土足をのせた。
「うーむっ!」
呻きを噛みしめて、ぐっと、こらえた柿丸は、農夫が背中から降りると、よろよろと立ち上った。
「取りかえすぞ!」
農夫は、狂おしい形相と化した柿丸を、いたましげに、見まもって、
「いま行ったさむらい衆を、追おうとなさるのか?」
と、問うた。
「わしの、仕えている姫君を、奪われたのだ! 取りもどさずには、おかぬ!」
柿丸は、歩き出そうとして、よろめいた。
農夫は、あわてて、手を添えてやり、
「はかないことじゃ」
と、つぶやいた。
「お、おぬしら、米づくりの衆は、あきらめが早いか知らぬが……、わしは、あきらめぬぞ! 姫君は、わしのいのちだ!」
「しかれども……」
農夫は、かぶりを振った。
「あの武家らが、伊吹野城へ入ってしもうては、どうするすべもありますまいが……」
「なぜだ?」
「旅の御仁なら、ご存じあるまいが、伊吹野城の頭領は、それはもう、血も泪もござない。わしら、百姓など、虫けら同様に思うてござるおそろしい御仁ゆえ……、あきらめられるがよろしかろ」
「いいや!」
柿丸は、農夫の手をふりはらうと、よろめきながら、足をふみ出した。
そのような暴君なら、なおさらのことである。梨花を|蹂躙《じゅうりん》されては、たまらぬ。
──救い出すぞ!
──たとえこの生命にかえても、奪いかえさずにはおくものか!
「旅の衆──」
農夫が、あわてて、追いついた。
「止めなされ。とても、一人の力では、無理じゃ」
「………」
「なぶり殺しにされるのが、目に見えているのを、行かせるわけにはいきませぬわい。のう、思いとどまりなされ」
「………」
「のう──、わるいことは、云わぬ。止めなされ、田丸豪太夫は、鬼か蛇にひとしい、途方もない悪者でありますのじゃ」
「………」
「どうしても、お娘御をとりもどしたければ、公卿館へ行きなされ。公卿館には、味方になってくれる人々がおいでじゃ」
「………」
「のう、たのみじゃ! ここは、ひとまず、心をおちつけて、思案の時を置きなされ」
「そんなひまはない。すてておいてくれ。わしは、行くのだ!」
農夫は、歎息して、足を停めた。
かわききった埃道を、進んで行く柿丸を、いたましげに見送りながら、
「詮もない!」
農夫は、かぶりを振った。
梨花を拉致した五騎は、伊吹野城の城門を彼方にのぞむ松林に達した。
「成程──。想像通り、相当な構えだな」
「よくぞ、のしあがったものだ。二十年前は、京洛をうろついていた|偸盗《ちゅうとう》であった奴がのう」
「いや、豪太夫殿は、あの当時から、相当の曲者であったぞ。ただの偸盗ではなかった。おれは、よく知って居る」
そう云ったのは、梨花を、随身の土産にしようと、云い出した男であった。
「おい──」
一人が、不服顔で、云った。
「これだけの美女を、無傷のままで、豪太夫に献上するのか」
「なに?」
「もったいないではないか。せっかくひろったのだ。われわれ五人のうち、誰かが、まず頂戴しておいても、罰はあたるまい」
「………」
他の四人は、顔を見合せた。
「どうだ、くじをひこうではないか?」
「うむ。それも、わるくはないが……」
「わるくないどころか、滅多に頂戴できぬ|稀《け》|有《う》の美女だぞ。こう、寐顔を眺めているだけで、むずむずして来るぞ」
梨花は、まだ意識をうしなったままであった。
みだれた|裳《も》|裾《すそ》のかげから、白い脛がのぞいていた。それへ、視線をつけていた一人が、
「よし! くじをひくか」
と、決断を下した。
五人は、馬から降りた。
松林の中は、ちょうど、あつらえ向きの空地ができていて、|褥《しとね》がわりの芝もきれいにひろがっていた。
「よかろう、ここで──」
「ところで、一人だけ、というのは、どういうものだろうな」
「われわれ五人が、次々と乗りかかってみい。この娘のからだは、ぶっこわれてしまうぞ。どうやら、病弱とみえるではないか。一人だけにせい」
「この場にいたって、慈悲をかける必要もなかろうが──」
「大切な献上物だ。扱いに気をつかいたいものぞ」
「指をくわえて見ているのは、やりきれたものではないが……、やむを得ん。当った奴は、せいぜい、そっと可愛がるのだな」
一人が、草を五本扱くと、長短をつくって、
「さあ、引け」
と、さし出した。
「南無!」
と、となえる者もあったし、うやうやしく合掌する者もあった。
「八幡! この血槍又九郎に、なにとぞ!」
柏手を鳴らす者もあった。
五人の手に、長短の草が一本ずつ、渡った。
「こりゃ、あかん!」
短いのを、ほうり出す者。
「ふむ! どうやら、おれらしい」
と、にたりとする者。
「待て、おれのと比べろ」
真剣な表情で、さし出す者。
そのおりであった。
ものの三間もはなれていないくさむらで、突然、動いたものがある。
「いい加減にしろ、無駄な遊びは──」
そうあびせておいて、すっくと、立った。
五人の視線にさらされたのは、九十九谷左近であった。
「なんだ、お主は?」
「見かけた通り、山野を道場にしている兵法者だ」
左近は、気色ばんだ五人の顔を、ひとつひとつ、見やって、云った。
「見かけ倒しであろうが、一人前の髯面をして居るではないか。女を抱きたければ、一人一人勝負して、勝ちのこった者が、存分に愉しんだらどうだ?」
「余計な指図をするな!」
一人が、凄じい敵意を示した。
「余計な指図をしたくなったのは、女をこっちにもらおう、と考えたからだ」
「なにっ!」
五人は、一斉に、立って、身構えた。
左近は、にやりとした。
「髀肉の嘆をかこつ、という文句があったな。おれは、ちょうど、その状態にある。しばらく、刀を抜かぬと、脳中が狂いかけて来る。まさか、敵意をみせぬやからを、斬るわけに参らぬので、餌あさりに里へ降りて来た熊を、やっつけてくれようと、こうして、ここに寐そべっていたところだ。熊の代りに、お主らが出現してくれたとは、有難い。おまけに、景物まで持参してくれてな」
「ほざくな!」
一人が、いきなり、抜刀して、ずかずかと、迫って来た。
左近は、氷のように冷たい視線を据えつけて、
「戦場で、雑兵を四五人も斬ったか」
と、あざけった。
武者は、呶号をあげざま、斬りつけた。
同時に、左近は、ひょいと、身を沈めた。
武者と左近の速影が、交叉した。
とみた時──。
左近の右手には、いつの間にか、一刀が抜き持たれて居り、武者のからだは、かんまんに傾いていた。
具足の音たてて、芝生に仆れた者へ、一瞥もくれずに、左近は、
「腕は、にぶって居らぬようだ」
と、うそぶいた。
この勝負に、梨花は、意識をとりもどして、|眸子《ひ と み》をひらいていた。
「次は、どの御仁だな?」
左近は、のこり四人を、見わたした。
目にもとまらぬ迅業を目撃させられて、武者たちは、完全に、息をのまされていた。
「どうした? 臆病風に吹かれて、その見事な髯が、寒気立ったようだな。……遠慮なく、多勢をたのんで、かかって来たらどうだ!」
左近は、ゆっくりと、二歩進んだ。
「く、くそっ!」
一人が、悪鬼の形相になって、大上段にかまえた。
「待て!」
仲間をとどめた者が、
「お主、城に身を寄せているのか?」
あきらかに、妥協を示す声音であった。
「田丸豪太夫は、強い者が好きなのでな」
「われわれも、田丸豪太夫殿に随身すべく、やって参った。……無意味な私闘は、避けたい」
「私闘?……おいっ!」
左近は、睨みつけた。
「おれは、兵法者だぞ! 兵法者は、剣を揮うことを、生甲斐とする。私闘とはなんだ! おれを強いとみて、遁辞を弄するのか、この腐れ武者ども!」
いきなり、大きく跳躍した左近は、その武者へ、真っ向から、凄じい一太刀をあびせた。
絶鳴をあげて、のけぞる仲間を見て、他の三人は、ぱっと、散った。
左近は、睨みまわして、
「来い! 来ぬかっ!」
と、叫んだ。
業はもとより、気魄において、問題にならなかった。
闘志を|殺《そ》ぎ落された三人は、見栄も外聞もなく、首をすくめて、ずるずると、後退した。
「ふん──」
左近は、ばかくさげに、かぶりを振った。
「消えうせてしまえ! 腰抜けども、斬るに足らん──」
三人はその嘲罵をあびて、申しあわせたように、身をひるがえした。
左近は、白刃を腰におさめると、芝生に起き上っている梨花へ、視線をくれた。
梨花は、大きく眸子をみはって、左近を見返していた。
恐怖の色は、みじんもみせていなかった。
「そなたのような上臈[#「臈」は底本では草冠「」(DFパブリW5D外字=#F2ED)。中巻、下巻では「臈」の表記もあり]が、虎狼のうようよしている山野を、どうして、一人旅をして居る?」
左近は、訊ねた。
「連れが居ります」
梨花は、こたえた。
「そなたを拉致されるような腰抜けが、連れとして役に立つか」
梨花は、敢えて、このおそろしい兵法者に、事情を説明する気にはなれなかった。
左近は、木漏れ陽のあたった梨花の貌へ、視線を当てているうちに、ふっと、
──似ている!
と、思った。
青蓮尼から転落して、柳の遊廓の遊女花鳥になった女性の面差に、どことなく似ているような気がした。
「そなた、京の生れか?」
「いえ──」
梨花は、かぶりを振った。
「しかし、そこいらの名もない武家の生れではないようだぞ」
「………」
「生家は、名のある家であろう。どうだ?」
「………」
「なぜ、こたえん?」
左近は、一歩寄った。
梨花は、怯じずに、左近を仰いだ。
「わたくしが、たとえ名のある家の生れであろうとも、そのことは、いまのわたくしと、なんのかかわりもないこと。……お手前様は、名家の娘ならば、敬意をはらうとでも、申されますか?」
「ふん──」
左近は、にが笑いをした。
「そなたの|容《よう》|子《す》がみせる気品に、いささか、心をひかれたまでだ」
左近の心の底には、やはり、花鳥大夫という存在が、重い位置を占めていたようである。
左近に、一片の良心がのこっているとすれば、それは、花鳥大夫に対する悔いであったろうか。
そうでなければ、五人の武者を、斬り、追いちらした左近は、かれらに代って、梨花を犯すことを考えたであろう。
左近は、その獣欲を持っていなかった。
といって、このまま、この美女を、去るにまかせる気もなかった。
「城へ来てもらおう」
左近は、命じた。
「わたくしは、連れの参るのを待ちたく存じます」
梨花は、こたえた。
「連れとは?」
「わたくしを、守護してくれる者です」
「そやつに、からだを与えているのか?」
「ご自身の性情で、他人をはかるのは、まちがって居ります」
「なに!」
左近は、狂暴な表情になった。
「わたくしを守護してくれている柿丸と申す若者は、心を特別に修めないにも拘らず、聖人の誠をそなえて居ります。そのような人も、この世には、いることを、知っていて頂きたく存じます」
「うるさい!………そなたを、城へつれて行くぞ!」
左近は、どなった。
〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年十二月二十五日刊
(C) Eiko Saitou 2001
文春ウェブ文庫版
われら九人の戦鬼(上)
二〇〇一年十月二十日 第一版
著 者 柴田錬三郎
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
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