柴田錬三郎著
裏返し忠臣蔵
目 次
吉良上野介
浅野内匠頭
大石内蔵助
堀部安兵衛
松の廊下
お軽勘平
高田郡兵衛
大石|主税《ちから》
千坂兵部
討入
切腹
高輪|泉岳寺《せんがくじ》
解説
吉良上野介
明暦《めいれき》三年厳冬のことであった。
吉良左近《きらさこん》は、自分の居室に、早朝からとじこもって、机に向っていた。
一冊の古びた漢書《かんしょ》を、和文になおすことに、われを忘れていたのである。
それは、軍略や修養には、全く無関係な書物であった。左近がはじめて接する古書であった。
一昨日、年があらたまるのを待って、十五歳をもって元服した左近は、登城して、将軍家に謁《えっ》し、吉良家の家督《かとく》を相続した旨を奏上した。
左近は、元服すれば、正月に上洛《じょうらく》して、禁中より、従《じゅ》四位下に叙《じょ》せられ、侍従兼上野介《じじゅうけんこうずけのすけ》に任ずる沙汰《さた》がある身であった。
表高家《おもてこうけ》である吉良家を嗣《つ》ぐのであったから、一躍《いちやく》して、四位の少将に叙せられるのは、べつに異例ではないが、左近は、その官位にふさわしい稀有《けう》の秀才であった。
先年――承応《じょうおう》二年春に、左近は十三歳にして、はじめて、将軍家に謁見したが、その時、すでに、秀才の噂は、江戸城内にもひびいていた。
四代将軍家綱は、左近と同年であったので、大老酒井|雅楽頭《うたのかみ》忠清が、幕臣の子弟の中から、左近をえらんで、学友にしたのである。
家綱は、父家光とちがって、温和柔弱な性情の持主で、自分から積極的に、指図をすることはなく、ただ、万事を大老酒井忠清にまかせて、ただ、
「左様いたせ」
と、云うばかりであった。
世間では、公方様《くぼうさま》と呼ばずに、「左様せい様」と称していた。
このように凡庸《ぼんよう》な将軍家にとって、稀有の秀才を学友にすることは、甚だ迷惑なことであったに相違ない。
始祖家康の定めたならわしにしたがって、将軍家は、一日のうち午前中は、学者や僧侶の講筵《こうえん》に、出座しなければならなかった。
経籍性理《けいせきせいり》の義理を講明したり、和漢史伝の故実《こじつ》を説いたりすることが、聞き手にとって面白い筈がなかった。就中《なかんずく》、程朱学《ていしゅがく》の論議など、砂を噛《か》んでいるようなつまらなさであった。
家綱は、この日課のおかげで、いつの間にか、眸子《ひとみ》をひらいて、居眠りをするわざを身につけたくらいである。講義が終わった時、しぜんに、目をさまして、
「ご苦労であった」
と、声をかけて、座を立つので、誰人にも気がつかれなかった。
ただ、下座《しもざ》にかしこまっている左近だけが、その居眠りを知っていた。家綱が、正直に左近に打ち明けて、一冊の書物の講義がおわると、
「つまり、一言で申せば、どういうことが書いてあるのだ?」
と、問うたからである。
左近は、そのたびに、凡庸な頭脳にも判りやすいように、講義のやり直しをした。したがって、左近自身は、学者や僧侶の論議は、一語ももらさずに、耳をかたむけていなければならなかった。
左近は、そのために、この二年間で、さらに、おそるべき博学になっていた。
さて――。
昨日、元服の奏上のあとで、家綱は、左近をともなって、中奥の居間に入り、
「たのみがある」
と、云って、一冊の古びた漢書を、抛《ほう》ったのであった。
「わしは、頭が悪うて、いまだに漢文が読めぬ。これは、茶坊主の一人から、ひそかに、もろうたものじゃが、むつかしゅうて、何が書いてあるのか、一向に判らぬ。左近、そちが、和文になおしてくれぬか?」
左近は、手に把《と》ってみた。
『脩真《しゅうしん》演義』
漢の元豊《げんぽう》三年、巫医《ふい》の咸《かん》なる人物が、武帝にたてまつった、男女接触の方法を順序次第に述べた、いわば閨房《けいぼう》の術書であった。
「かしこまりました。すぐに、和文になおして参ります」
左近自身にも、興味があった。左近はまだ童貞であった。
左近は、わが家に戻ると、早速に読みはじめ、ついに、深更にいたった。
そして、今朝は、早くから、和文になおす作業にとりかかったのである。
『……およそ、交合せんと欲すれば、まず自ら神《しん》を凝《こ》らし、性を定《さだ》かにすべし。女人を|抱※[#てへん+主]《ほうちゅう》し、温存す。彼《か》の唇口を吸い、彼の双乳を撚《ひね》り、女をして玉茎を弄《ろう》せしめ、他の心を動かさしむ。後手をもって陰戸を探るに、微《すこ》しく滑津《かつりつ》あり、まさに交合すべし。炉に入るには、法によるべし。緩《ゆる》やかに、功を施すべし。女は、必ず暢快《こころよく》なり、まず敗る』
左近は、ただ和文になおしただけでは、家綱にまだ判らぬ、と思い、さらに、それに訳をつけていた。
たとえば、『女人を|抱※[#てへん+主]《ほうちゅう》し温存す』とあるのは、女を抱えて、やさしく甘い言葉をかけて、その心をなぐさめる、という意味であろう、と訳した。
尤《もっと》も、左近自身にも、なんのことやら、解《げ》しがたい箇処もあった。
『上を紅蓮峰《ぐれんほう》といい、玉泉と名づく。また玉液という。中を双薺峰《そうせいほう》という。薬《やく》を蟠桃《ばんとう》と名づく。白雪といい、また瓊醤《ぎしょう》という。女人の乳中にあり。下を紫芝峰《ししほう》という。号して、虎洞という。また玄関ともいう。薬《やく》を黒鉛と名づく。女人の陰宮にあり』
こういう文章は、実際に、女体をくまなく調べて、もてあそんでみなければ、合点のいくわけがない。
『下を紫芝峰という』
というのは、たぶん、女陰を指すのであろう。
『その関《かん》、常に閉じて開かず。およそ媾合《こうごう》の会《かい》に、女情|託媚《たくび》すれば、面赤く、声ふるえ、その関はじめて開き、気をすなわち泄《もら》し、津すなわち溢る』
とつづいているが、童貞の身のかなしさで、想像しただけでは、どういう状態なのか、見当がつかぬ。
将軍家綱は、すでに、大奥で、女子を抱いているから、読めば、すぐに、合点がいくに相違ない。
左近は、はじめて、家綱に対して、嫉妬《しっと》と羨望《せんぼう》をおぼえた。
「若様――」
廊下で、乳母多津の声に、呼びかけられて、左近は、あわてて、古書を閉じ、訳を書いた料紙を、机の抽斗《ひきだし》にしまった。
「お父上が、お呼びでございます」
「いま、参る」
左近は、障子を開けて、廊下へ出た。
「ずいぶんと、ご熱心にご勉強遊ばしておいででございますこと。いったい、なにを……?」
多津に訊ねられて、左近は、憮然《ぶぜん》として、
「そなたの知ったことではない」
と、はねつけておいて、さっさと、歩き出した。
幼くして母を喪《うしな》った左近は、多津によって育てられた。
左近のことなら、なんでも知っている。という顔をしている多津の存在が、近頃では、いささか、わずらわしくなっている。
吉良|若狭守《わかさのかみ》義冬は、庭の見渡せる座敷に、高く積んだ夜具に凭《よ》りかかって、やすんでいた。
二年前から、胸に癰《よう》ができて、以来ずっと牀についたきりであった。
表高家筆頭である吉良義冬は、その父|義※[#こざとへん+爾]《よしみつ》の時代よりも、さらに、江戸城内では、重きをなして、諸侯をその下風に立たせることに成功した人物であった。
元来、高家《こうけ》というのは、もっぱら京都の宮廷との交渉にあたり、諸儀式、典礼《てんれい》のことを管掌する役であった。その称呼は、足利《あしかが》末期にはじまり、はじめは公家《こうけ》と書いたが、公卿《くぎょう》と混同するおそれがあるので、高家と唱え変えたのである。
吉良家は、足利将軍の門葉《もんよう》であり、渋川、石橋両家とともに、下馬衆と称された名門であった。下馬衆と称されたのは、いかなる大名でも、路上で出会った際、下馬の礼をとらねばならなかったからである。
足利末期から、次第に微禄《びろく》した吉良家も、その名門意識に於ては、戦国武将をはるかに見下していた。
徳川の天下になって吉良家は、将軍家より高家と定められ、再び左近衛権《さこんえのごんの》少将にかえり咲くや、その名門意識は、さらに高いものになった。
高家は、江戸城内では、無役で、年首、歳末、五節などに登城すればよかったが、幕府の施政方針が、典礼|規式《きしき》のきびしい実行を最も重視したので、大名たちは、それを守るのにいそがしく、どうしても指南役を必要としたため、毎日登城することになった。
したがって、高家は、大名衆から、乞われて教授するたびに、莫大《ばくだい》な謝礼をもらった。しかも、官位は、大名の上に在《あ》ったので、音物《いんもつ》を贈られても、常に頭《ず》を高くしていた。
のみならず、吉良義冬は、祖母が、家康の大叔母にあたる縁故もあって、小禄、小権にも拘《かかわ》らず、江戸城内で、高家という存在を、いやが上にも重いものにしたのであった。
それだけに、識見もあり、器量も大きかった。
その義冬も、病気には克《か》てなかった。
義冬は、死期を迎えたことを知っていた。
「お呼びでございますか」
入って来た息子へ、義冬は、冷たい眼眸《まなざし》をくれた。
「左近、そちは、今日まで、一度も、兵法道場へかよったことはなかったな?」
「はい。高家に、兵法は無用と存じました。そのかわり、兵法修業の時間を、書物をひもとくことに当てました」
「わし自身も、今日まで、そちと同じ意見であったゆえ、敢《あ》えてそちに兵法修業をさせようとはせなんだが……、高家もまた幕臣である以上は、太刀《たち》の振りかたぐらいは、おぼえておく必要がある。そのことが、今日、わかった」
「何事か、起こりましたか、父上?」
「起こったの」
「その病臥《びょうが》のおん身で、太刀など把《と》られましょうか」
「たわけ――。太刀を把とらねばならぬのは、そちだ」
「え――?」
左近は、眉宇《びう》をひそめた。
義冬は、かたわらに置いた文函《ふばこ》から、一通の封状を把ると、左近の膝へ投げた。
「読んでみるがよい」
「はい」
左近は、手紙を披《ひら》いてみた。
果し合い誓願之儀
まず、はじめに、そう断り書きがしてあった。
『一筆啓上仕候《いっぴつけいじょうつかまつりそろ》、今度身共儀、御当家嫡男左近殿に対して、武辺《ぶへん》の一義やみ難き事これあり、果し合いをもって、武士道の吟味《ぎんみ》と致さんと決意仕候得共、御当家は高家に候えば、利刀を振って武士の面目を樹《た》てる作法をご存じなきや、と考えられ候、依って、左近殿に直接果し状を送りつけ申さば、あるいは、握りつぶされる懸念《けねん》これあり、と存じ、父君たる若狭守殿に、斯状《しじょう》を奉る所以《ゆえん》に御座候、たとえ高家の作法が公家流にて、武勇を卻《しりぞ》け、惰弱《だじゃく》を尚《とうと》ぶを心掛となさるとも、形にもせよ、平常腰に二刀をたばさむ上からには、これを抜くすべを知らぬ、とは申されまじく、何卒《なにとぞ》父君より左近殿をはげまされ、当方が挑戦にお応《こた》えこれあるべく、願い上げ候、もしそれがしの申し出を拒否されるに於ては、日本橋|袂《たもと》に、高札《こうさつ》を立てて、その卑怯を嗤《わら》い申すべく、お覚悟なさるべく候、
一、日時|大晦日《おおみそか》未明
一、場所|馬喰町《ばくろちょう》馬場
追伸 左近殿には、兵法の心得これなき儀に候わば、助太刀勝手に御座候
播州《ばんしゅう》赤穂藩主|浅野内匠頭長直《あさのたくみのかみながなお》
嫡子又一郎長友』
義冬は、息子が読み了えるのを待って、
「浅野内匠頭の伜から、私恨を買ったおぼえがあるか?」
と、訊《たず》ねた。
「ありまする。……然れど、あれしきのことで――」
左近は、面《めん》ていをすこし蒼ざめさせ乍ら、首をかしげた。
一昨日のことであった。
江戸城内|富士見櫓《ふじみやぐら》の文庫に隣接した学舎で、左近は、浅野又一郎と、かなり激烈な口論をした。
富士見櫓の文庫は、家康が設立したもので、ここには、日本中から捜索され、出版謄写された古書が蒐《あつ》められていた。家康がこのことを為すまでは、孔子家語《こうしけご》をはじめとする漢籍、古事記をはじめとする国書は、各家に秘蔵され、就中《なかんずく》国書類は世に知られていなかった。この時、家康が謄写させなければ、あるいは、湮滅《いんめつ》し、散佚《さんいつ》してしまって、後世に残らなかったかも知れない。
三代家光にいたって、この夥《おびただ》しい貴重の書籍を、いたずらに、文庫内にねむらせておくのは如何か、という提議が閣老の間に交され、やがて、徳川家縁故の大名、旗本の子弟に限って、閲覧を許すことになり、文庫の隣に、学舎が建てられたのであった。
この学舎にまなぶことは、大名、旗本の子弟にとって、栄誉となり、各家では、遠い家譜を調べてほんの微かな縁故をさがし出して、嗣子《しし》を入れようと腐心した。
家康の聟となった浅野|長晟《ながあき》を宗家とする浅野一族の一人である又一郎長友や、曾祖母に家康の大叔母を有《も》つ吉良左近などは、碩学《せきがく》たちの謦咳《けいがい》を、机ひとつへだててきく上席を与えられていた。
浅野長友と吉良左近は、後者が一歳上であったが、その体格に於て、前者の方がはるかに年長にみえた。
又一郎長友は、学問よりも兵法に、その天稟《てんびん》を示し、柳生《やぎゅう》道場にかよって、すでに、高弟に挑んで、三本に一本を取る、という噂であった。
一昨日、講堂で、おのおの自習にふけっている時、長友の隣の席の少年が、『孫子《そんし》』を読んでいたが、
「衆を闘《たたか》わすこと、寡《か》を闘わすが如きは、形名これなり。……この形名の意味を、おぬし、ご存じか?」
と、長友に訊ねた。
長友は、即座に、
「それは、陣形のことだ。鶴翼陣《かくよくじん》とか、車懸《くるまがか》りの陣とか――」
と、こたえた。
すると、長友から二人ばかりへだてた席にいた左近が、古書に目を落としたままで、
「形名は、陣形のことではござらぬ。形とは、旌旗《せいき》の形の意。戦闘場裡にあっては、大将の姿は見えず、声はきこえぬゆえ、旌旗の形をもって、信号として、指揮いたす。そのことでござる」
と云った。
長友は、さっと顔色を一変して、左近を睨んだ。
「陣形によって、旌旗の形もちがう。形名の形は、陣形の形に相違ない!」
云いはる長友に対して、左近は、微笑し乍《なが》ら、
「鶴翼陣にはこの旌旗、と定めてしまえば、いかなる遠方からでも、敵に、それを看破《かんぱ》されてしまい申す。これは、おろかなこと。左様なおろかなことは、武将たちは、いたして居り申さぬ。それが証拠に、孫子の兵勢には、その次の条《くだり》で、三軍の衆、必ず敵を受けて敗ること無からしむべき者は、奇正是なり、と記してあるではござらぬか。奇正とは、正兵と、その正兵が変化自在に運用された時の奇兵を申し、奇兵は、進退常なく神出鬼没、臨機《りんき》応変をもって、勝を制するのでござる。李靖《りせい》公は、奇兵を形容して、奇にして疾《はや》く、防ぐべからざるは雷《らい》の如し、と記して居り申す。正兵を奇兵にして、虚実の戦いをなすに、何条をもって、遠方からでも、その陣形の判ってしまう旌旗の形を定めておき申そうか」
左近の明快な解釈を、周囲の者たちは、息をのんで、きいた。
高家の嗣子である左近が、『孫子』をそらんじているばかりか、その説くところを、みごとに理解している、というのは、実におどろくべきことだった。
長友の全身が、憤怒《ふんぬ》と屈辱で、顫《ふる》えた。
「そ、その定められた旌旗の形を、逆に応用するのが、実戦と申すものだ。形名とは、陣形の形だっ! おぬしごとき、長袖《ちょうしゅう》しか先祖に持たぬ仁が、兵略のことに、嘴《くちばし》を入れる資格があるか!」
「孫子は、統帥と戦略を究《きわ》めんとする人のみが読む資格がある、と考えるのは、いささかせまい見界《けんかい》ではござるまいか。心の堅甲利兵を身に備え、平常の行動に応用するために、町人|風情《ふぜい》が読んでも、役に立つ本と心得ます」
水のように平静な左近の態度が、長友をして、ますます激昂させた。
「されば、きくぞ。高家といえども、幕臣だ。一朝、事あり、この江戸城が攻められるならば、太刀を把って闘わねばならぬぞ。それをおぬしは、どうして、兵法をさげすんで、一歩も道場へ入らぬのか? それを、きこう」
長友は、迫った。
だが、左近は、それにこたえるかわりに、黙って、座を立つと、講堂を出て行こうとした。
「吉良左近っ! 待てっ!」
長友は、追おうとしたが、大事になるのを心配した周囲の少年たちから、おしとどめられてしまった。
この口論を理由にして、長友から、果し合いを申し込まれようとは、左近は、夢にも、考えていなかった。
「左近。太刀振りを習っておくのであったな」
義冬が、云った。
「父上、この果し状は、反古《ほご》にして、すててよろしいかと存じます」
左近は、こたえた。
「黙れ。当家は武辺ではないが長友も書いているごとく、大小を佩《お》びるからには、これを使うすべを知らぬ、という弁解は成り立たぬ。武士道の吟味、と云わぬまでも、男子の面目として、挑戦を避《さ》けて、高札で、世人に向って嘲罵《ちょうば》されては、明日を生きるわけには参るまい。そちの孫子の解釈は正しかったとしても、さしでがましゅう、口をさしはさんだ責任はとらねばならぬぞ」
「果し合いをせよ、と申されますのか?」
「やむを得まい」
「わたくしが、敗れるにきまって居ります。浅野又一郎は、剣の業《わざ》に秀れて居ります」
「対手《あいて》がいかに強かろうとも、闘わねばならぬ」
父のきびしい声音に、左近は俯向《うつむ》いた。
――助太刀は勝手、と書いているが……。
左近は、唇を噛み乍ら、思った。
左近が、居室に戻ると、すぐに、乳母の多津が、緊張した面持で、入って来た。
「若様、大変なことになりましたね」
「うむ」
左近は、腕を組んだ。
「若様、この多津に、万事おまかせ下さいましょうか?」
「お前に――? お前に、何ができる? 浅野家へ行って、あやまることなど、許さぬぞ。わしは、正しいことを云ったまでだ。絶対に、頭を下げたりはせぬ。そういう策をめぐらせるのは、止してもらおう」
「いいえ、浅野家へ詫《わ》びを入れることなど、多津も、いやでございます」
「しかし、わしは、闘うのは、ごめんだ。敗れると判りきっている果し合いなど、誰がするものか。……多津、助太刀を多勢、たのむという心算なら、すててくれ。わしは、闘わんぞ」
「助太刀など、どなたにもたのみはいたしませぬ」
「では、どうするというのだ?」
「わたくしに、おまかせ下さいませ」
「だから、どうするというのだ? 詫びもせず、助太刀もたのまず、わしも闘わぬ――それで、又一郎をあきらめさせる方法が、ほかにあるか?」
「ございます。……若様ご自身は、お闘いにならないでも、よろしゅうございます。でも、浅野長友殿のお腕前を、若様がひしがねば、事はおさまりませぬ。そこに、わたくしの思案がございます」
「わからぬ。どうするというのだ?」
「あとで、おわかりになります」
「いま、教えてくれ。……卑怯な計略を用いるのは、許さぬぞ」
「決して、吉良家の名をけがすようなまねはいたしませぬ」
左近は、すぐに打明けようとせぬ多津に、万事まかせることに、不安をおぼえたが、いまは、ほかに智慧《ちえ》は働かなかった。
多津は、云った。
「若様には、ひとつだけ、して頂きたいことがございます」
「なんだ?」
「明後日の夜明け前には、お父上に、果し合いに参ります、とお別れ下さいますよう、お願いいたします」
「……?」
「どこか、人目につかぬところで、一刻をおすごし遊ばされて、ご帰還《きかん》なさいますように――」
「父上には、なんと報告するのだ?」
「天佑《てんゆう》によって、勝利をあげました、とお告げなさいませ」
「多津! お前は、浅野又一郎を、刺客をやとって、闇討ちにいたす存念だな! 許さんぞ! そのような卑怯な振舞いは、断じて、許さぬ!」
「若様――。多津は、決して、そのような卑怯な奸策は用いませぬ。ご安心なさいませ」
「その計略以外に、又一郎に勝つ手段《てだて》があるのか?」
「ありまする」
「わからぬ! 勝手にせい」
左近は、かぶりを振ると、多津に背中を向けて、机で、頭をかかえてしまった。
「では、若様、わたくしがお願いしたことだけは、必ずおまもり下さいませ。……行って参ります」
多津は、頭を下げておいて、出て行った。
二日後――昧爽《まいそう》。
木挽町《こびきちょう》の浅野長直の下屋敷裏門から、一騎が、ようやく靄《もや》の見わけられる市中へ、風のごとく走り出るや、人影もない往還を、まっしぐらに、北へ疾駆した。
浅野又一郎長友は、生まれてはじめて、真剣の勝負をする興奮で、全身の血汐を沸きたたせていた。
昨夜は、その興奮で、殆《ほとん》ど睡《ねむ》っていなかった。
おのが果し状に対して、応諾《おうだく》の返事が来たのである。左近の父吉良義冬からであった。
返書を読んだ瞬間、又一郎は、
――左近め、ひそかに、剣法を習っていたのではないか?
その疑惑が、脳裡《のうり》を掠《かす》めた。
――習っていたならば、これに越したことはないではないか。ただ、大根を斬るように、左近を仆《たお》したのでは、武士道の吟味にならぬ。習ってくれていたのを、さいわいとしなければならぬぞ。
又一郎は、自分に、そう云いきかせた。
当時――明暦年間は、まだ、義を泰山の重きに比し、命を鴻毛《こうもう》の軽きに比す武士|気質《かたぎ》が、大名、旗本にゆきわたっていた時代であった。
主人の大名が逝去《せいきょ》すれば必ず、追腹といって、殉死者があったし、街巷《がいこう》には、暗夜に乗じて、通行人を襲っておのれの腕と刀の利鈍を試《ため》す者が、あとを断たなかったし、刃傷《にんじょう》、喧嘩《けんか》、争闘沙汰は、いたるところでくりひろげられているのである。堂々たる国持大名でも、憤怒に駆られると、千代田の殿中で、抜刀して攻撃し、おのれの領土没収、家名断絶をおそれなかった。まして、禄もひくく、身の煩累《はんるい》もすくない武辺者は、一言の行きちがいや、路上で傘のしずくがかかったとか袂がふれたとかの理由で、果し合いを遂げていたのである。
市巷には、旗本|奴《やっこ》とか町人奴とか、男伊達《おとこだて》が横行して、一日として血なまぐさい取沙汰のきかれない日はない江戸であった。
五万三千石の大名の嫡子が、ただ一騎で、決闘に趨《はし》った、としても、べつだん奇異の行状ではなかった。
馬喰町の馬場に、旗本の面々が、馬責めに来るには、まだ、半刻の間があった。
夜は、まだ、すっかり明けたとはいえなかった。
馬をすてて、馬場に踏入った又一郎は、まず、羽織をすてた。すでに、なめし革で、襷《たすき》をしていた。
又一郎は、小柄《こづか》を抜いて額にあてると、馬の鐙《あぶみ》を吊る鐙革を細く裂いたので、鉢巻きをした。そして、袴のももだちをとり、草履をぬぎすてて、足袋跣《たびはだし》になり、すべらぬように、よく土をつけた。
闘いの準備は成った。
あとは、吉良左近の出現を待つばかりである。
馬場は、出入口が一箇処しかない。
朝靄をすかして、そこを凝視していればよい。
又一郎は、現代の時間にして、十五分あまり、待って、ようやく、焦燥した。
父親は、応諾の返書を寄越したが、はたして、当の本人が、覚悟をさだめて、やって来るかどうか――その点が、疑わしいものに思われて来た。
左近は、やっぱり、兵法修業などしていなかったのではないだろうか?
――左近め、屋敷を出乍ら、どこかへ、遁走したのではあるまいな。
又一郎は、肚裡《とり》で、そう呟いた。
その時――。
「浅野長友殿――」
背後から、呼び声が、かかった。
又一郎は、はじかれたように、ぱっと向きなおった。
まぎれもなく、うすれゆく靄の中に、いつの間にか、吉良左近が、佇立《ちょりつ》していた。
勝負するいでたちではなかった。平常通りの姿であった。
「来たか、左近っ!」
又一郎は、目を剥《む》き、歯を剥くやいなや、抜刀した。
そして、そのまま、じりじりと肉薄しつつ、
「抜けっ、左近っ!」
と、叫んだ。
左近は、すこしずつ退き乍ら、
「抜く時は、それがし自身が、きめること。……遠慮なく、斬りかかられるがよい」
不敵な言葉を、口にした。
「おのれが!」
左近を全くの腕無しと思っていた又一郎は、その不敵な言葉をきいて、対手《あいて》がひそかに居合術を会得《えとく》していたのだ、と知った。
闘魂をあふれさせた又一郎は、対手の手練が不明なままに、猛然と、地を蹴って、斬りつけた。
刹那――左近の身が、蝶のように、ヒラと舞って、斜横に遁げた。
初太刀を仕損じた又一郎は、その延びた姿勢のままで、切っ先を摺《す》りあげに、左近の胴から面へ、きえーっ、と、薙《な》ぎつけた。
十四歳の少年と思われぬ、すでに五尺四寸に達している逞しい体躯が放《はな》った豪剣に、決して狂いはなかった。
ただ、間合の見切りに、対手《あいて》の方が、充分の習練があった。
又一郎の摺り上げの一閃の切っ先は、対手の鼻づらを紙一重で掠《かす》めて、宙へはねあがった。
次の瞬間、又一郎の胸部から下半身にかけて、隙だらけなものとなった。
その一瞬を、対手は待っていた。
無言の気合を噴かせて、左近は、抜きつけの、目にもとまらぬ一|颯《さつ》の刃風を、又一郎の胸部へ、送った。
「うっ!」
又一郎は、悲鳴を口の裡に噛んで、棒倒しにのけぞって、地ひびきをたてた。
左近の冷たい眼眸は、悶絶《もんぜつ》した又一郎へ、しばし、そそがれていた。
その胸から、血汐は噴かなかった。左近の右手に携《さ》げられた白刃は、峯《みね》をかえしていたのである。
又一郎が、意識をとりもどしたのは、馬責めに来た旗本の一人に発見されてからであった。
勿論、その時すでに、左近の姿はなかった。
左近が、帰って行ったのは、呉服橋にある吉良邸ではなかった。
鈴ガ森の縄手《なわて》をへだてて十町あまり、不入斗《いりやまず》村にある鈴森八幡宮の境内の片隅にある草庵《そうあん》であった。
「ただいま、戻り申した」
左近は、庵内に声をかけた。
障子が開かれ、顔を出したのは、多津であった。
「おお、ようこそ、ご無事で!」
その勝利を信じつつも、やはり、不安でおちついてはいられなかったであろう多津は、喜色を満面に湛えて、迎えた。
左近は、座敷に上がった。
多津は、食い入るように見戍《みまも》って、
「見事に勝たれましたな。有難う存じまする」
と、礼をのべた。
「約束通り、峯撃ちにいたした。胸を強打したゆえ、しばらくは、起き上がれ申さぬ」
「貴方様の方にはお怪我もなく――」
「捨て身になって、斬りかからせてみたのが、好運となり申した」
左近は――いや、左近に酷似した若者は、云った。
「よかった!……たとえ、陰のおん身でも、貴方様は、やはり、わたくしにとっては、ご主人――、もし、あえなくおなりになったら、お詫びに、冥途へ追おうと覚悟をきめて居り申しました。ああ、よかった、よかった!」
安堵する多津を、若者は、微笑して、眺めた。
その微笑は、文字通り瓜二つとはいえ、左近とは、気象《きしょう》も境遇も全くちがうことを、明らかに示していた。孤独な淋しい翳《かげ》を含んだものだったのである。
右近、という。
実は、左近とは双生児《ふたご》であった。四半刻《しはんとき》あとから、生まれたのが不運であった。
当時、迷信がつよくなって居り、双生児が生まれることは、余殃《よおう》のある家、と判断されていたので、吉良家では、このことをかたく秘し、弟の方を捨てたのである。
乳母の多津は、弟の方を抱いて、夜陰《やいん》ひそかに、屋敷を抜け出して、実兄が神官をつとめるこの鈴森八幡宮へ、連れて来て、預けたのであった。
右近と名づけられたこの弟は、幼少から、学問を学ばせられる代りに、抜刀術に秀れた神官から、木太刀を把ることを教えられたのであった。
そして――。
その修業が、奇《き》しくも、まだ会わぬ兄のために、役立ったのであった。
「乳母殿――」
右近は、目を膝に落としたままで、呼んだ。
「なんでございましょう?」
「わしの為したことは、いずれ、露見いたす、と存ずる。……これが、浅野家と吉良家との確執《かくしつ》の原因になるのではあるまいか、と心配いたす」
「いいえ!」
多津は、つよく、かぶりを振った。
「露見いたすようなことは、夢決して、ありませぬ。大丈夫でございます。ご案じなさいますな」
多津は、云いつつも、ふっと、不吉な影が忍び寄るような思いになられずにはいられなかった。
浅野又一郎長友は、それから三月あまりを臥牀《がしょう》していた。起き上がれるようになってからも、元の体力をとりもどすことは不可能な身になっていた。
長友は、三十二歳の若さで逝《い》ったが、それが遠因になっていたようである。
長友の嫡子《ちゃくし》が、内匠頭長矩《たくみのかみながのり》である。
浅野内匠頭
延宝《えんぽう》三年、正月三日――。
東の空が、ようやく白《しら》んだ頃あい、江戸|鉄砲洲《てっぽうず》の浅野|采女正長友《うねめのしょうながとも》の上屋敷の、霜の降りた平庭上に、一個の小さな人影が、蹲《うずくま》っていた。
藩主の嫡男長矩《ちゃくなんながのり》であった。
この正月をもって、十歳になる。
宗家の始祖浅野長政をはじめ、美男をもってきこえた浅野一族の子弟らしく、眸子《ぼうし》すずしく、鼻梁《びりょう》秀でた容貌が、夜明けの寒気にあたって、きびしくひきしまり、一層美しいものにみえる。
熨斗目《のしめ》の紋服がよく映《は》えて、一幅の掛物の裡にある観がある。
長矩は、足もとの昏《くら》いうちに、建物を抜け出して、足袋はだしで、霜を踏み、平庭の中央に坐ったのである。
これは、浅野家の嫡男に課せられた正月三日の行事であった。
前には、一振《ひとふ》りの太刀が置いてある。
これは、曾祖父長重から伝えのこされた三条|小鍛冶《こかじ》宗近であった。
戦記に拠《よ》れば、曾祖父長重は、大坂夏の陣に、この名刀をふるって、敵首六十級を挙《あ》げている、
元和《げんな》元年五月六日、道明寺口の戦いののち、浅野長重は、本多忠朝とともに先手をうけたまわって、七日早天に、阿倍野に至った。そこへ、敵将森|豊前守勝永《もりぶぜんのかみかつなが》が、大軍を率いて、どっと撃って出て来た。
長重は、まっさき駆けて斬り込んだ。これにつづいた家臣ら、討死する者三十余人、雑兵百余人に及んだ。
長重ただ一人、身に微傷《びしょう》だに受けず、天王寺木戸口を突破して、大坂城の濠《ほり》ぎわまで進んだ。
敵首六十級を衂《ちぬ》らせた三条宗近は、刃こぼれひとつしていなかった、という。
浅野家最大の宝物となったのは、当然である。
長矩の祖父長直は、その父の武勇を、子孫の脳裡から消させぬために、嫡男又一郎長友が、七歳になった正月三日、平庭につれ出して、この太刀を振らせ、爾後《じご》それをならわしとしたのである。
長友は、父のつくったその行動を継いで、わが子長矩にも、それを課したわけである。
長矩が、正月三日、夜明け前に起き出て、平庭に坐るのは、これで四度目であった。
寒気が全身を締めつけ、膝《ひざ》に置いた両手は、氷柱《つらら》になったように感覚をうしないかけている。
このつらさに堪えることも、五万三千石の藩主になるための、修業のひとつである。
しかし、生来《せいらい》短気で気まぐれな長矩にとっては、こういう修業が、最も苦痛であった。
長矩は、いくどか首をすくめ、それから、ぐっと胸を張る動作をくりかえしていたが、ついに、
「さむい! くそ!」
と、叫んだ。
そこいらを、駆けまわって、からだをあたためたい衝動にかられた。
と――。
父の姿が、彼方に現れた。
長矩は、姿勢を正した。
采女正《うねめのしょう》長友は、木太刀を携《さ》げて、ゆっくりと近づいて来た。長友は、すでに三年前から、病牀に伏《ふ》していて、実は、こうして、庭へ出て来るのは無理なからだになっていた。
又一郎と称していた元服時に、吉良左近と決闘し、胸を峯撃《みねう》たれてから、元の体力を恢復《かいふく》し得ぬ身となって、三十二歳を迎えていたのである。
去年の春あたりから、厠《かわや》へ立つことも苦しくなるほど衰弱していた。しかし、曾祖父の武勇を偲ぶ今朝の行事を、中止するわけにはいかなかった。
長友は、わが子の前に立つと、
「参ろうか」
と、言った。
長矩は、父の貌《かお》を仰いで、微かな戦慄《せんりつ》をおぼえた。
少年の目にも、ありありと死相が滲《にじ》んでいるのが、みとめられたからである。
明けそめた厳冬の朝の、澄みきった空気の中に浮いた、痩《や》せさらばえた蒼白な面相は、宛然幽鬼《さながらゆうき》であった。
長矩は、太刀を把《と》って立つと、一礼して、鞘走《さやばし》らせた。
青眼《せいがん》に構える。
凝《じつ》と、見据えた長友は、しばらく、木太刀をダラリとたらしたまま、動かなかった。
「いざっ!」
長矩は、帛《きぬ》を断つような鋭い懸声《かけごえ》を発した。
それに応じて、長友は、ソロリと木太刀を動かした。
そして、また、しばらく、静止相《せいしそう》を保った。
「この木太刀を両断できるまで修業にはげめ」
長友は、四年前、はじめて、長矩に、その太刀を構えさせた時、そう申しつけたことであった。
長矩が、気合を発して斬《き》り込み、長友が、これを払う。それで行事は、おわるのであったが、少年の力と技では、対手がいかに病臥《びょうが》の人であっても、木太刀を両断することは、できなかった。
これまで三回、長矩は、いつも、みじめに、白砂の上へ、転倒させられていた。
それがくやしくて、長矩は、去年一年、柳生道場へかよって、はた目をおどろかせるほど、けんめいに稽古《けいこ》にはげんだのであった。
六尺の巨漢であったという曾祖父が、縦横にうち振った三尺二寸の大太刀は、去年の正月までの長矩には、ただ斬りつける一動作だけでも容易ではなかった。しかし、今年の長矩には、それと同じ長さ、同じ重みの剣を素振りする習練もできていた。
今年こそは、むざと、父から、転倒させられぬ自信があった。
ところが……。
対峙《たいじ》して、睨み合ううちに、長矩は、いまにも父が倒れるのではなかろうか、とおそれた。
その心配が、長矩に、容易に撃《う》ち込ませなかった。
「長矩。いかがした? なぜ、斬って参らぬ?」
長友が、ひと喘《あえ》ぎして、かすれ声で、促した。
「お父上。おからだにさわりまする」
長矩は、言った。
「たわけ! そちにあわれまれるほど、父のからだは、|やわ《ヽヽ》にはできて居らぬ。……参れ!」
長友は、自身が高声《こうせい》がこたえて、佇立《ちょりつ》に堪えられぬように、上半身をぐらりとよろめかせた。
長矩は、父が眩暈《めまい》で倒れるのをふせごうとして木太刀を杖にするのを視て、
「父上!」
と、叫んだ。
長友は、かっと、まなこを瞠《みひら》くと、
「長矩! 遠慮は無用ぞ! わ、わしを敵と思え! いかに憎んでも、憎み足らぬ敵と思え!」
「……」
長矩は、凄愴《せいそう》きわまる父の姿を、おそれた。
「長矩、憎まぬか!」
長友は、喘ぎつつ、叱咤《しった》した。
「父上! 憎めませぬ!」
「た、たわけ!……よし、では、わしを、父の敵と思え。高家|肝煎《きもいり》の吉良上野介と……」
その言葉をのこして、長友は、意識を喪《うしな》って、地面へ崩《くず》れ落ちた。
長友が、目蓋《まぶた》をひらいたのは、午《ひる》すぎてからであった。
枕もとには、長矩と弟の長広が坐っていた。長広は、まだ四歳であった。
長友は、長矩を視ると、
「わしのいのちも、どうやら、おわりが来た。……遺言を、いたしておこう」
と、言った。
「はい」
長矩も、覚悟をした。
「先刻、わしは、庭で、そちに、父の敵が、いる、と申したな」
「はい」
「高家肝煎の、吉良上野介は、まさしく、わしの敵だ。……もう、十七年もむかしのことに相成るが――」
長友は、天井を仰ぎ乍ら、あの日の無念について、語りはじめた。
呼吸の苦しさに、いくども、声をやすめたが上野介を憎む執念は、その双眸《そうぼう》を息絶えるまで光らせつづけるようであった。
「……わしは、たしかに、左近に、敗れた。わしは、病牀に在って、なぜ敗れたか、考えつづけた。……わからなんだ。左近ごときに、長袖族《ちょうしゅうぞく》に――禁裏《きんり》落ちの口舌の徒に、敗れた自分が、どうしても、納得できなかった。たとえ、左近が、人知れず、太刀振りを習っていた、としても、わしが、敗れる筈が、ない。……わしは、いま一度、左近と果し合いをすることを、おのれに誓うた。……わしは、三月後に、病牀からはなれると、一夜、単身で、吉良邸へ、乗り込んで行った」
その時――。
幸か不幸か、吉良左近は、元服して、上野介義央《こうずけのすけよしなか》となって、上洛していた。禁中より、従四位下に叙せられ、侍従《じじゅう》に任ずるためであった。
長友は、むざとひきかえすのも腹立たしく、病臥中のその父義冬に、対面をもとめた。
義冬は、拒否せずに、長友を病室へ入れた。
そして、長友から、再度の果し合いの申入れをきくと、かぶりをふってみせて、
「無駄でござろうの」
と、言った。
「無駄とは?」
気色ばむ長友に、義冬は、微笑して、
「お手前が噂の太刀筋の前には、左近など、ひとたまりもなく、あえなくなり申そうず」
「それがしは、しかし、左近殿に敗れて居り申すぞ」
「あれは、代人じゃ」
「代人?」
「左様、左近は、双生児《ふたご》での。右近と申す弟がある。これは、剣を習って居る。左近の乳人めが、お手前より挑まれたときいて、小智慧をまわして、右近を代わりに行かせた。……お手前が、助太刀勝手、と記されたので、乳人めに、そのような卑劣の工作も、後日の弁疏《べんそ》になる、と思わせたのであろう」
「では、その右近殿と、それがしを立ち合わさせるよう、おとりはからい頂こう」
「それは、なり申すまい」
「なぜでござる?」
「右近は、影もの。いやしくも、浅野家の世嗣たるおん身が、影ものなどと立ち合った、と世間にきこえるのは、いかがなものでござろうかな。もし万一、お手前が敗れて、一命を落とされた場合、浅野家は、その不始末を咎められ、半地減封《はんちげんぽう》などという事態をまねかぬ、ともかぎり申さぬ。……さいわいに、先般のことは、お手前が、馬場で落馬して怪我をした、という噂で済んで居る。……家を、家来らを、大切に思われるならば、これまでのことにして、忘れてしまわれてはいかがであろう」
じゅんじゅんと説かれて、長友も、その場では、一応承服せざるを得なかった。
「……しかし、わしの憤《いきどお》りは、消えはせなんだ。わしは、必死になって、吉良右近の行方《ゆくえ》を、さがし、もとめた。……吉良家のはからいであったろう。右近は、この江戸から、姿をくらまし、とうとう、行方をつきとめることは、叶わなかった。……そのあいだに、左近は、四位の少将になり、表高家として、城内で、わしら大名を、見下す座を占めた。もはや、理由なくして、上野介を討ち果たすことは、できなくなった。……わしは、無念を胸中におさめて、いたずらに、病臥の月日をすごさなければ、ならなかった……」
勇猛の武将の血を享け継いだ長友にとって、この十七年間、一日として、その無念を忘れることはなかったに相違ない。
泰平の治世《ちせい》がつづくにつれて、江戸城内のごとき、式礼作法を日毎にきびしくする世界にあっては、武辺の気概《きがい》はしりぞけられ、出所進退を教える者の弁口が、重要視される。
表高家として、京都|通《つう》随一の吉良上野介が、老中や紀州、水戸などの御三家に自由に出入りして、幕府年中行事について、指南の役を受け持つようになってみれば、浅野長友などが近寄りがたい存在になるのも、いたしかたがなかった。
吉良上野介が、大内|仙洞《せんとう》使のあいだ、御存問のお使いを命じられ、やがて、後西天皇御|譲位《じょうい》の件について、いろいろ周旋するところがあった、ときこえて以来、その存在は、江戸城内で、ゆるぎない権勢を所有することになったのである。その時まだ、上野介は、二十二歳の若さであった。
そのように、しだいしだいに、権勢の階段をのぼって行く上野介を、長友は、病牀から、燠火《おきび》のように憎悪を燃やしつづけ乍ら、眺めていたのである。
そして、この無念は、妻にも家臣にも、誰にも打明けずに、胸の奥底にかくして来たのである。
いま――。
死に臨んで、はじめて、長友は、幼い子息二人に、包まずに、話した。
「……だが」
長友は、語り了ってから、しばしの沈黙ののち、長矩を視て、
「わしの無念を、そちに、この家とともにそのまま、ひき継がせて、讐《あだ》を復《う》たせたいために、遺言いたすのではないぞ、長矩――」
「はい」
「この父が、十七年間、おのれを犠牲にして、守った浅野家を、そちが継ぐ……。大切にせよ、ということだ」
「はい――」
長矩は、将来この父の無念をおのれのものとして、吉良上野介に討ちかかる運命が待っていようとは、夢にも思わずに、うなずいた。
「……大名と申すものは、所詮、家のため、家臣どものために、生きて居る。わしのように、斯様《かよう》に惨めな不具の身になっても、無念を押え、かくさねばならぬ。……これが宿運であろう。……長矩、よいな。そちは、年少にして、五万三千石の藩主に相成る。よくよくの心得をもって、座に就かねば、父の轍《てつ》をふむことになるぞ。……大名の嗣子《しし》たる者が、おのが一個の激情にかられて、果し合いをいたすなどという、おろかな振舞いを、そちは、まねてはならぬ。そちの気象が、わしの血を継いで、短気ゆえ、心がかりなのだ。……云わでものおのが恥を、そちに、打明けたのも、父の愚を再び演じさせまいためだ。わかったな、長矩」
「はい」
「では、……もう、あちらへ参るがよい」
兄弟をさがらせると、長友は、目蓋を閉じ、死神の迎えを待つように、呼吸もあるかないかの状態に陥った。
長友には、自分の遺言が、意外な、逆の効果を生む危険があるかも知れぬ、という意識がなかった。
大名となったわが子長矩が、やがて当然、江戸城内に於て、吉良上野介に、なにかの指導を仰がねばならぬ日が来る、ということに、長友は、思いいたらなかったのである。
殿中にあって、さまざまの行事が催される以上、大名たちに、役が課せられ、それを滞《とどこお》りなくはたすためには、それらの行事に通暁《つうぎょう》している高家に教えを乞わねばならぬ。長矩も、必ず、その日を迎えるに相違ない。
そのことに思いいたったならば、長友は、わが子に、吉良上野介が、生涯の敵であった、などと打明けられなかった筈である。
長友は、わが子をいましめるのに、重大なあやまちを犯した、というべきであった。
長友は、それから二十日後、夜のうちに、人知れず、逝《い》った。
四年の月日が経った。
浅野長矩は、祖父長直の官命を継ぎ、内匠頭《たくみのかみ》となっていた。
長矩は、時折り狂人のように、短気を爆発させて、周囲の者たちをおどろかせるほかは、ごく普通の少年君主であった。
浅野藩は、さまざまの騒動をひき起こしている他藩にくらべて、きわめて平穏安泰であった。
長矩の祖父長直が、賢君であり、百年の計を樹《た》て、これを実践したからであった。
浅野藩は、長直の時に、播州赤穂《ばんしゅうあこう》に転封《てんぽう》させられた。その時、赤穂には、城もなく、領内の三分の一は荒蕪《こうぶ》地であった。
長直は、山鹿素行《やまがそこう》を一千石をもって、聘《へい》し、まず赤穂城を築いた。つづいて、荒蕪地を開墾して、多くの新田をおこした。また、塩田を奨励した。長直が、逝く頃には、赤穂塩の名は、日本全土にひろまっていた。
いまや、赤穂藩は、大名中屈指の裕福を誇っていたし、また、山鹿素行の感化によって、家中一統の武士道の吟味に明るいことは、きこえていた。
赤穂藩の城代家老、大石内蔵助良雄《おおいしくらのすけよしお》は、わずか十九歳でその要職に就いていたが、その若年をもってしても、国が治められたのは、裕福と礼法のゆきわたったおかげであった、といってよい。
江戸に在る少年君主には、心|煩《わずら》うことは、何ひとつなかった。
春の午後であった。
馬場で馬を責めて、鉄砲洲《てっぽうず》の屋敷へもどって来た長矩は、厩《うまや》のとなりにある井戸で、水をあびた。
そこは、下級の厩番たちが使うところであったので、長矩がいきなり水をあびても、小姓たちには、着換えの衣服の用意がなかった。
小姓たちは、あわてて、衣服をとりに走った。
長矩は、かれらが戻って来るのを待ちきれずに、脱ぎすてた衣服をつけて、一人で、建物に入った。
小納戸の溜《たまり》の前を通りすぎようとして、長矩は、ふと、話声をききとがめた。
吉良上野介という名が、耳に入ったからである。
「……左様か。吉良殿が、そのような悪党とは、知らなんだな」
「いや、そうではなかったか、という憶測《おくそく》なのだ。事実は、ただの急病であったかも知れぬ」
「それにしても、幸運な御仁よの、吉良殿は……。息子を上杉侯にすると、せぬとは、大変なちがいだ」
そこまできいて、長矩は、さっと、杉戸を開いた。
小納戸たちは、不意に、主君が姿を現したので、愕然《がくぜん》となって、平伏した。
「その方たちが、いま話して居る――吉良上野介が悪党であるという話を、きかせてもらおう」
長矩は、所望した。
小納戸たちは、恐懼《きょうく》して、一人も頭を上げようとせぬ。
長矩は、苛立《いらだ》って、
「話せと命じて居る!」
と、高い声を発した。
「むかしの噂《うわさ》でございますれば……」
一人がおそるおそるこたえると、長矩は、
「かまわぬ。きかせい」
と、云った。
やむなく、
「おききずてに相成り、すぐにお忘れあそばしますように、願い上げまする」
と、ことわって、こもごもに、語ってきかせた。
寛文《かんぶん》四年――つまり、長矩がまだ生まれない前の年の五月七日、米沢藩主上杉|播磨守《はりまのかみ》綱勝が急逝《きゅうせい》した。
五月|朔日《ついたち》、上杉綱勝は、登営して、将軍家の儀式に参列し、帰途、実妹三姫の嫁ぎさきである吉良上野介義央の屋敷に立寄り、夕餉《ゆうげ》を倶《とも》にして、帰邸した。
乗り物から出て、玄関の式台に上ろうとしたとたん、呻《うめ》いて、膝《ひざ》を折った。
寵童《ちょうどう》の福王寺八弥が、おどろいて、かかえ起すと、綱勝の顔面は、もう草色に変じていた。そして、突如、口から夥しい血汐を噴いた。
血汐は、どす黒かった。
綱勝は、それから七日間、昏睡状態に陥ったまま、ついに甦《よみがえ》らなかった。二十八歳であった。
綱勝は、七年前に、愛していた妻春子を喪って以来、正室を迎えず、側妾《そばめ》もつくらず、子がなかった。
このまま、すてておけば、上杉家は、改易《かいえき》となり、断絶する。
そこで、当時の大老酒井|雅楽頭《うたのかみ》忠清の命令で、吉良上野介の一子三郎が、急遽《きゅうきょ》、上杉家の養子にされた。というのも、上野介の妻三姫は、綱勝の実妹だったからである。
吉良三郎は、上杉綱勝の甥であったから、養子に入ってもふしぎはなかった。尤も、まだ、二歳の孩児《がいじ》であったが……。
上杉家は、綱勝の死によって所領の半額を減知された。それから、吉良三郎を迎えて、喜平次|影倫《かげのり》と名のらせ相続者にした。
しかし――。
吉良三郎を迎えるにあたって、上杉家中には、烈しい抵抗があった。
吉良上野介夫妻は、綱勝が養嗣子《ようしし》を迎える前に、綱勝を殺せば、わが子三郎を三十万石の太守にできる、とひそかに企んだのではあるまいか。綱勝を殺したのは、吉良夫妻ではなかったか。
この疑惑は、上杉家中のみならず、各藩の人々が抱いたところであった。
綱勝の死にざまが、あまりに異常だったからである。
「吉良三郎を迎えるなら、わしは、致仕《ちし》して、上杉家を去る」
と、云いはる士もすくなくなかった。
事実、吉良三郎が養子に迎えられるや、三十余名が、米沢藩から去っている。
暗雲のような疑惑が、しばらくは、家中を掩《おお》うて、そのために、血気の士が決闘する事件まで起り、数年間は、江戸屋敷も米沢も、不穏な空気がただようていた。
しかし――。
二十年以上も経った今日では、吉良三郎も、従四位下侍従兼|弾正大弼《だんじょうのだいひつ》・上杉|綱憲《つなのり》となって、もはや、家中で背を向ける者もなくなっている。
以上の話を、長矩は、黙って、ききおわった。
小納戸たちは、長矩の反応を、不安をもって、見戍《みまも》った。
十四歳の主君に、きかせるべき話ではなかった。
長矩は、ついに一言も云わずに、すっと座を立った。小納戸たちは、このことが、ご家老の耳にとどいたら、どんな咎めをくらうか、と互いに顔を見合せて、悄然となった。
長矩は、居室に入ると、すぐに、小姓に、足軽頭・三百石の原惣右衛門《はらそうえもん》を呼ばせた。
原惣右衛門は、この時まだ三十半ばであったが、人柄・学識ともに、江戸詰藩士の中で一頭|擢《ぬき》ん出ていた。
長矩は、惣右衛門が伺候《しこう》するのを待ちかねて、
「問いたいことがある」
「何事でございましょうか?」
「表高家吉良上野介殿の噂をききたい」
「噂と申しますると?」
「噂じゃ! 悪《あ》しざまにののしられるような人柄か?」
長矩が江戸城へ登城するにあたっては、必ず、原惣右衛門が、供がしらをつとめる。
大名の登城は、大手御門からまっすぐに入った下乗橋で、駕籠《かご》から降り、徒歩になり、行列の供もみな落ちる。ただ、供がしらだけは、主人にしたがって、三之御門、中之御門、御書院御門を経て、表玄関まで従って行くことが許されているのであった。
したがって、原惣右衛門は、各藩の供がしらたちと、顔を合せる。
さまざまの話を交す機会がすくなくない。高家・大名・旗本衆の噂が、たくさん耳に入っている筈であった。
「吉良上野介殿は、ご公儀年中の行事を、滞りなく催されるために、なくてかなわぬ貴重な御仁、とうかがって居ります」
惣右衛門は、あたりさわりのない返辞をした。
長矩は、苛立たしげに、
「そのようなことを、きいて居るのではないっ! その人柄だ。いやしいか、欲深か、狡猾《こうかつ》か――?」
「左様な噂は、一向に耳にいたしませぬ」
「しかし、高家というやつは、小禄ゆえ、賄賂《まいない》によって、くらしをたてている、ときいたことがあるぞ」
「吉良家は、裕福とうけたまわって居りまする」
「こっそり、賄賂をとるから、ゆたかなのであろう」
「お言葉をかえしまするが、諸式の教えを乞うからには、やはり、音物《いんもつ》をおくるのは、これは礼儀でございますれば、べつだんのふとどきではありませぬ。吉良上野介殿は、表高家|肝煎《きもいり》であり、あらゆる事柄に通じておいでの御仁でありますれば、しぜん、お大名がたには、教えを乞う折が多く、音物も集まるかと存じまする」
惣右衛門の返辞は、長矩の期待に反する言葉ばかりであった。
「わかった! 下ってよい」
長矩は、不服な面持で、叫んだ。
惣右衛門は、怪訝《けげん》な眼眸《まなざし》を、年少の主人に当てた。
「おそれ乍ら、吉良殿に対し、何かお腹立ちのことでもありましょうか?」
「ない! なにもないっ!」
長矩は、叫んだ。
翌年秋、長矩《ながのり》は、帰国した。長矩の帰国は、これで二度目であった。
若い君主を迎えて、赤穂領内は、なんとなくあかるかった。長矩は、わずかな供をつれて、領内を馬で駆けめぐり、気がるに農家へ立寄って、茶を所望したりしたのである。
その日も、長矩は、朝から、城を出て行った。
大石内蔵助は、成年になる長矩を祝うために、正月の催しをはなやかにしようと、勘定奉行の大野九郎兵衛と、打合せをしていた。
内蔵助は、小柄で、色白で小肥りの、どこといって特徴のない風貌《ふうぼう》の持主であった。二十四歳になっていたが、二つ三つ若くみえた。
寡黙《かもく》で、喜怒哀楽の表情に乏しかったが、対座する者にすこしも不快の念を与えないのは、その童顔のおかげであった。しいて、特徴をさがせば、丸い小さなまなこを、まばたきさせずに、じっと対手に当てて、話をきくことであった。
内蔵助は、大野九郎兵衛が早口にしゃべりたてるのを、黙って、きいていた。
「……つまり、先日ご家老が申された催しを、そのまま正月三日間つづければ、百五十七両予算が超過いたす。これを、塩田方《えんでんがた》から出させるとなれば、もう一艘、大坂へ積み出さねばなり申さぬが、今年の塩の値段は一割がた安くなって居るゆえ、自身で自身のつくったものを安くするような下手な商法は、いかがなものかと存ずるが……」
九郎兵衛が、そう云ったとき、長矩の供をして行った近習《きんじゅう》が、血相を変えて、駆け込んで来た。
「申し上げまする。……殿が、ご乱心あそばされ――」
そこまできいた時、内蔵助は、さっと立って、廊下へ出ると、足早に歩き出した。日頃の、のろまと思われるくらい動作に冴えのない内蔵助にしては、別人のように敏捷《びんしょう》な行動であった。
歩き乍ら、
「場所は?」
ときき、近習がこたえると、あとは無言であった。
自身で、厩へ奔《はし》って、一頭ひき出すと、まっしぐらに、城門から疾駆《しっく》して行った。
広い塩田がきれたところに、祖父長直によって建立《こんりゅう》された赤穂神社のかなりふかい森が包んでいる。
その森沿いの道で、白刃がひらめいていた。
長矩が、大上段にかまえて、じりじりと進んでいる。
一間の距離を置いて後退しつづけているのは、かなり年配の浪人ていの男であった。無精髯《ぶしょうひげ》をはやし、よごれた小袖の肩がとがって、いかにも、むさくるしく、尾羽《おは》打ちからした風体である。
「抜けいっ!」
長矩は、叫んだ。
「この内匠頭が尋常の勝負をしてくれる、と申して居るのだぞ!」
浪人者は、かぶりを振って、
「ご無体《むたい》でござる。それがしは、ただの、通りすがりの浪士に、すぎ申さぬ。……お許しを――」
「云いわけは、きかぬぞ! 抜けいっ!」
長矩は、さらに、五歩ばかり進んだ。浪人は、それだけの距離を退った。
「うぬがっ!」
長矩は、ついに、対手が抜刀するのを待ちきれずに、地を蹴って、斬りつけた。
浪人者は、辛うじて、その刃風の下をくぐって、遁れた。しかしなお、抜いて、ふせごうとはしなかった。
しきりに許しを乞うさまに、いつわりはないようであった。長矩の背後に従《つ》いている近習たちにも、みとめられた。
長矩が、この浪人者を斬る理由など、なにもなかったのである。
この道を通りかかって、神社の方から森を出て来た浪人者を、長矩が、見とがめて、
「その方、いずれの者だ?」
と、声をかけ、三河から流れて来て、広島の知己をたずねて行く途中でござる、という返辞をきき、
「名は?」
と問うた。
「吉良庄次郎と申します」
浪人者は、こたえた。
とたんに、長矩は、馬からとび降りて、差料を抜きはなったのであった。
「おのれは、当藩をさぐりに参った間者であろう。討ちすててくれる。武士の情をもって、立合いを許してくれるゆえ、抜けい!」
そうあびせて、大上段にふりかぶったのである。
浪人者は、面くらい、土下座して、しきりに、怪しい者ではない、と弁解したが、長矩は、許さなかった。
長矩は、第二撃をあびせようと、また、じりじりと迫りはじめた。
そこへ、大石内蔵助が、馬をとばして来た。塩田の中をつききって、浪人者の後へ駆け上ると、地上へ、跳んだ。
「殿――。不埒者《ふらちもの》ならば、この内蔵助が、成敗《せいばい》つかまつります。お刀を、お納め下さい」
云いざま、ツツ……と進むと、浪人者へ拳を突きくれた。浪人者は、あっけなく、当て落されて、地べたへ倒れた。
内蔵助のとっさの処置が、長矩をして、われにかえらせたようであった。
気を失って、口を半開きにして、土の上へ横たわった者へ、不快な視線を落とした長矩は、黙って、くるりと踵《きびす》をまわすと、馬へとび乗った。
「戻るぞ」
その一声をのこして、馬蹄を鳴らした。
内蔵助は、みるみる遠ざかる主君を、見送ってから、倒れている浪人者に、背活を入れて、意識をとりもどさせた。
浪人者は、内蔵助から、不届きの振舞いがあって、怒りを買ったか、ときかれて、つよくかぶりを振った。
「わけがわかり申さぬ。それがしが、姓名を名のり申すと、いきなり、討ちとると申されて、太刀を抜かれたのでござる」
内蔵助は、その名をきいた。
吉良庄次郎、というこたえに、内蔵助は、そのよごれた小袖の紋を視た。
表高家・吉良上野介|義央《よしなか》の家紋と同じであった。
内蔵助は何も云わずに、
「領内を、早く立退かれるがよかろう」
と、すすめた。
馬を、城へ走らせ乍ら、
――父君のご無念を、ご存じであったのか?
どうして、そのことを知ったのか――それを疑った内蔵助は、ふっと、なにやら、不吉な予感をおぼえていた。
大石内蔵助
天和《てんな》三年二月――。
赤穂藩《あこうはん》城代家老・大石内蔵助良雄《おおいしくらのすけよしお》は、朔日《ついたち》に国を発って、江戸へ向っていた。
隠密《おんみつ》の出府であったので、供は、ただ一人、家僕の寺坂吉右衛門を連れていた。
この正月、主君|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》に、三月下旬の勅使《ちょくし》の饗応掛《きょうおうがか》りの命令があった、と報告が来たのである。
十七歳の長矩にとっては、藩主となってはじめての大任であった。
内蔵助は、この報《しら》せを受けるや、すぐに、吉良上野介という存在が、重くのしかかって来る不安に襲われた。
大名衆《だいみょうしゅう》の常識では、勅使饗応掛りという面倒な役目は、高家《こうけ》の指示を仰がずに、勤《つと》め了《おお》せることは、殆ど不可能事である、と考えられている。
高家は、石橋家、品川家、吉良家のほかに、さらに幾家か増しているとはいえ、表高家|肝煎《きもいり》である上野介をさし措《お》いて、他家からのみ指示を仰ぐことは、礼を失することになる。
内蔵助が調べてみれば、江戸城内に於ける上野介の立場は、想像以上の重いものになっていた。
伊勢、日光、東叡山《とうえいざん》などのさまざまの儀式挙行にあたっては、上野介一人がとりしきっている、といっても過言ではない。
その妻富子は、上杉家の女《むすめ》であり、その長子三郎は、上杉家を継《つ》いで従四位下侍従兼弾正大弼・綱憲《つなのり》となっている。さらに、長子鶴子を、薩摩《さつま》島津|綱貴《つなたか》の継室にしている。
延宝八年には、左近衛権少将《さこんえのごんのしょうしょう》に任じている。
将軍家|寵臣柳沢吉保《ちょうしんやなぎさわよしやす》は、吉良上野介を最も信頼し、その意見によって、殿中の催しを変更したり、中止したりしている、ときく。
内蔵助としては、この上野介を憎みつづけている若い主君が、ついに、高家に教えを乞わねばならぬ秋《とき》を迎えた以上、いたずらに、不安に駆《か》られるままに国で留守を守っていることには堪《た》えられなかったのである。
もとより――。
城代家老が、主君のいない城を出て、出府することは、許されない不文律があった。
内蔵助は、身分を秘して、こっそり、赤穂を出ざるを得なかった。衣服も粗末なものに変え、家僕の寺坂吉右衛門一人をつれて、東海道を下ることにしたのである。
内蔵助の肚裡《とり》には、このたびの初大任を主君に勤めさせるに当り、常識を破って、一切どの高家からも指示を仰がず、ただ、主君には秘密でかなりの音物《いんもつ》を、上野介に贈る、という計画が成っていた。
内蔵助は、ようやく二十代の半ばに達したばかりであったが、その学識に於て、なみなみならぬものがあった。十歳から五年間、京都に出て、伊藤仁斎《いとうじんさい》の門に入って学び、その教えられたところを、悉《ことごと》く身につけていたのである。
ただ、他人に、内蔵助は頭脳の抜群ぶりを示したことは一度もなかった。
逸話《いつわ》として、のこっているのは――。
内蔵助は、仁斎の門に入って、数年を経た頃、講筵《こうえん》に臨むと、ときどき、居睡りをするようになっていた。
高弟《こうてい》の一人が、内蔵助に忠告したが、居睡りのくせは、直りそうもなかった。
高弟は、憤《いきどお》って、仁斎に向って、
「彼のような懶怠者《なまけもの》は、当家の恥になりますゆえ、すみやかに破門なさいますよう」
と、すすめた。
仁斎は、笑って、
「良雄が舟こぎをしている時は、わし自身講じていることに熱の入って居らぬ時に限って居る。耳を傾けずともよいくだりでは、必ず居睡るとは、よほどの大器の証拠であろうな」
と、こたえた、という。
この逸話は、おそらく後人の作りごとであろうが、『昼行灯《ひるあんどん》』とあだ名されたことは事実であり、内蔵助は、自ら進んで、おのれが大きな器材であることを、他人に知らしめる機会を持たなかったのである。
しかし、高家が大名衆に教える式事次第などは、内蔵助の脳裡にある豊富な知識の中の、ほんの一部にすぎなかった。
高家にたよらないでも、主君をして無事に、勅使を饗応させる自信があったのである。
晴れて、暖かい朝、内蔵助は、桑名から宮まで七里の海上を渡る三十石船に乗っていた。
船内で武家と町人の坐る場所は、おのずと分れていて、武家に与えられる場所は、広くとってあった。
その日は、内蔵助のほかに、むさくるしい身装《みなり》の浪人者が一人だけ、黙然として、目蓋《まぶた》を閉じ、腕組みしているばかりであった。
かなりの年配で、総髪《そうはつ》に白いものが交じっていた。風貌は、見事といってよい造作をそなえて居り、衣服をあらためれば、よほどの身分の士とみえよう。
内蔵助は、最初、一瞥《いちべつ》した折、
――兵法者であろうか。
と、思っただけで、べつに、意識して、観察はしなかった。
家僕の寺坂吉右衛門が、熱いお茶をつくって来て、内蔵助の前に置き、ついでに、その浪人者にもすすめておいて、下って行った。
「頂戴いたす」
浪人者は、内蔵助に一礼して、茶椀を把り、ひと口|喫《の》んでから、何気なさそうな口調で、
「失礼乍ら、ご自身の面相《めんそう》に、剣難《けんなん》を看《み》て居られるか?」
と、訊ねた。
内蔵助は、思いもかけぬ唐突《とうとつ》な質問に、ちょっと、とまどった。
おのれの顔に、剣難の相など、観たおぼえは全くない。
丸い、色白の、どこといって特徴のない風貌は、どちらかといえば、小商人《こあきんど》などに、よく見かける。内蔵助自身、自分の顔がきらいであった。
武士としては、むしろ剣難の相があるきびしい面相の方が、よいかも知れぬが、あいにく、そういうきびしさは、どこをさがしても、見当たりはしない。
にも拘らず、浪人者は、なぜ、このような質問をしかけて来たのか。
「べつに、この顔に、剣難の相がある、とは思い申さぬが……」
内蔵助がこたえると、浪人者は、薄ら笑って、
「忍びを下郎に連れて居られるゆえ……」
と、云った。
内蔵助は、内心、あっとなった。
まさに、その通りであった。寺坂吉右衛門は、ただの足軽ではなかった。
五年前、京都留守居の小野寺十内《おのでらじゅうない》の添書《てんしょ》を持って、赤穂へやって来た伊賀者であった。
小野寺十内が所用あって、伊賀の山中を越えた時、老松《おいまつ》の太枝から、逆吊《さかづ》りされている男を見つけて、助けてやった。伊賀者寺坂吉右衛門と名のり、下忍の身で、上忍の家の女《むすめ》と駆落ちしようとしたところを、追手に捕えられて、餓死を待つばかりであった。
小野寺十内は、三昼夜も逆吊りにされ乍ら、地上におろして、縄目《なわめ》を解いてやると、平気で起き上がった不死身ぶりに、舌をまいたことだった。
人柄もよさそうに見えたし、これだけの修練を積んだ忍びの者を、やとっておけば、いずれ何かの役に立つかも知れぬ、と考えて、内蔵助の許へ、送ったのである。
事実、内蔵助は、吉右衛門を家僕にしてみて、その調法さに、手ばなせなくなった。
性質は淳朴《じゅんぼく》で、みじんも表裏を使うことがなかったし、また、鍛えぬいたからだは、怠惰を知らなかった。そして、内蔵助が、こころみに命じた忍びの術は、人間業とは思えなかった。
城の天守閣の大屋根から、大手|隅櫓《すみやぐら》の屋根へ移って、濠上を飛び越えて、往還上に立つまでに、今日の時間にして、十秒と要さなかったのである。
まさしく、寺坂吉右衛門は、これを使う者にとっては、理想的な忍者であった。
内蔵助の、その器量をかくした風貌が、まことに凡庸であるごとく、吉右衛門もまたその面相、挙措《きょそ》、どこを眺めても、忍者らしいけはいはみじんもない男であった。
一瞥ごくつまらない足軽でしかなかった。
にも拘らず――。
この浪人者は、吉右衛門を、苦もなく、忍者と看破したのである。
内蔵助は、
――これは、ただの兵法者ではない。
と、おそれた。
しかし、内蔵助は、そのおそれを、態度にはすこしも現さなかった。
「お手前は、三世相《さんぜそう》におくわしいとみえる」
そう云ってにこにこした。
浪人者は、
「人相指南《にんそうしなん》をいささか心得申す」
と、こたえ、その鋭い眸子《ひとみ》を、内蔵助の顔へ、据えつけた。
「たとえば、貴殿は、いかにも造化好相をして居られるかに見え申す。三停三才すべて福徳円満。さらに十二宮ひとつとして、邪悪の点はござらぬ。双の眉の間の命宮など、まことに美しく、光があって、これは学才あって智慧深いこと、百年に一人の人材と受けとれることでござる。……然し、それがしの目より観れば、聡明を示す上停の長いのも、勇気を示す天倉のゆたかさも、すべて、これはただならぬ悲運をもたらすために、作られたるもの、と判断つかまつる」
容赦のない言葉をあび乍ら、内蔵助は、眉毛一本動かさなかった。
「……これを要するに、貴殿がそなえて居られる叡智、聡明、勇気、然して名を発《あげ》る相は、貴殿の周囲の人々を悲命に斃《たお》れさせるために、天より与えられた、と解釈してよろしいか、と存ずる。下賤邪悪《げせんじゃあく》の相ゆえに、その親兄弟、妻子、縁者が、迷惑を蒙《こうむ》り、不幸の目に遭うのは、当然でござるが、貴殿のように完璧とも申せる見事な人相を持つがゆえに、貴殿の主君とか、上役、朋輩《ほうばい》、妻子、知己、家来らが、惨たる悲運に遭うことになるとは皮肉なものでござる。……それがしは、貴殿ご自身、おのが相を観てとって、剣難を避けるべく、忍びを下郎にしたてて居られるものと、思い申したが――」
この批判に対して、内蔵助は、一言も返辞をしようとはしなかった。
ただ、おだやかな態度で、
「お手前ご自身は、おのが相を、なんと観て居られるのか?」
と、訊ねた。
「それがしの人相でござるか。ごらんのごとく、いかにも険しい、三停三才六府、いずれを取っても、すべて最悪の相と申せる。にも拘らず、それがしのこの険悪の相は、周囲の者どもを救うためのものでござる。もとより、兵法修業をいたした人間でござれば、敵も多く、剣難の相も、ありあり、現れて居り申す。しかし、それがしが、この差料を抜く時は、身内の者を助けるためでござる。八幡、神明にかけて、これは、高言いたすことができる。……人相と申すものは、当人自身のためにばかりあるのではなく、その周囲の者を、幸せにするか不運に陥すか――それを現しているように心得申すが、いかがでござるかな?」
「成程――。人相とは、そういうものでござるか」
内蔵助は、にこやかに頷《うなず》いてみせた。
「いや、痩浪人《やせろうにん》の一人勝手な妄言《もうげん》と、お受けとり下されてよろしゅうござる」
浪人者は、その言葉を最後に、再び目蓋を閉じ、腕を組んで沈黙した。
宮で上陸した内蔵助主従は鳴海潟《なるみがた》を辿って行き乍ら、遠く前方を往く浪人者の後姿を、眺めた。
「何者でございましょうな、あのご浪人?」
吉右衛門は、船の中では、かなりはなれた場所に控えていたが、浪人の人相指南を、ちゃんときいていた。
「さあ、何者であろうかな」
内蔵助は、べつに気にもとめていない様子であった。
浪人者の人相指南には、たしかに一理があった。しかし、内蔵助はもともと、人相とか手相のたぐいを信じてはいなかった。
神仙でない限り、変えようもないものに、殊更《ことさら》な意味をつけて、未来を予測したところで、どうなるものでもあるまい。
十歩の距離を二歩で歩くことが不可能である以上、十歩の距離はやはり十歩で歩まねばならぬ。
内蔵助は、この合理精神を、祖父内蔵助|義欽《よしすけ》から、受け継いでいた。
父の権内良昭は、内蔵助が十五歳の時に三十四歳で早世したので、わが子に教えるところは、尠《すくな》かった。
父良昭が逝《い》った時は、まだ、祖父内蔵助義欽が、赤穂城代家老であった。
当時は、父子相|襲《つ》ぐ制度で、祖父から孫へ直接ゆずることは許されていなかったので、内蔵助は、祖父の養子となった。
それから五年後――内蔵助が十九歳になった正月に、祖父は六十歳で逝った。
祖父は、嫡子良昭を喪って、京都の伊藤仁斎の許から、孫の良雄を呼びかえして、城代家老という要職の後継ぎにした時、云ったことである。
「士たる者の道は、すでに仁斎先生の門をくぐってから、おぼえたであろう。祖父のわしから、あらためて教えるまでもない。ただそちが、わしのあとを継いだならば、わしが為した通りを踏めば、それでよい。わしの為したことは、何事も無理をせぬ。そのことだけじゃ」
当時、赤穂には、山鹿素行が、幕府の忌諱《きい》にふれて、謫居《たくきょ》中であった。
藩主以下、家中の重だった人々は、素行の感化を受けていた。内蔵助もまた、例外ではなかった。
祖父としては、教えるところはなかった。
しかし、内蔵助にとって祖父の何気ない言葉が、仁斎や素行の教えるところを行うに当って、最も重みをもって、心に残ったのである。
祖父は、臨終を迎えた時、内蔵助を枕辺に坐らせると、やはり同じ言葉をくりかえした。
「よいか。何事も、無理をするな。無理をすると、城代はつとまらぬぞ」
内蔵助は、祖父の葬儀を済《す》ませた夜、その日誌に記したことであった。
『十歩の距離は十歩で歩むべし』
この合理精神をかたく持している内蔵助が、人相や手相に惑って、もしかすれば未来に起るかも知れぬ不運などに、心を使う筈もなかった。
もし不運が起れば、その時に臨んで、事を処すまでのことであった。
どうやら、この合理精神は、大石家代々のもののようであった。
その家系は、鎮守府《ちんじゅふ》将軍藤原|秀郷《ひでさと》から出て、近江《おうみ》国栗太郡大石荘を領した。
応仁の乱に、一家は、ことごとく討死《うちじに》する不運に襲われた。大石荘の領民らは、その同宗同族の小山久朝を迎えて、大石家を再興させた。
それから数代を経て、大石内蔵助良勝が、出た。良勝は、幼少にして、石清水《いわしみず》八幡宮、宮本坊の弟子《でし》となり、十四歳の時、宮本坊を去って、江戸におもむき、十八歳で、赤穂侯祖|采女正《うねめのしょう》長重に仕えた。大坂陣の際、功があって千五百石を賜わり、城代家老となった。
采女正長重は、良勝を、城代家老にする時、三千石を与えようとしたのであったが、良勝が辞退して、千五百石にとどまったのである。
五万五千石の藩では、城代家老が千五百石の知行を頂戴するのも多いくらいだ、と良勝は、人に語った、という。
大石家が、近江の名門であることは衆知であり、良勝は、その気になれば、徳川家康から大名にも取りたてられることはできたのである。良勝が、徳川家の旗本に加わらずに、当時わずか二万石の小大名であった浅野長重に仕えたのも、長重の人格に敬服した為であったとはいえ、名門の裔《えい》たることにこだわらなかったからである。
長重が、大坂陣に、秀忠の軍に従って、戦功を樹《た》てることができたのも、良勝が股肱《ここう》となって、軍略を発揮したおかげであった。長重が、三千石を良勝に与えようとしたのは、長重としては、むしろ、すくなすぎる、と思ったくらいであった。それを、半分の千五百石に下げて、賜わった。良勝は、浅野宗家から来た家臣たちを抜いて、城代になったために当然受けるであろう憎しみやねたみを避ける遠慮をしたものであった。
良勝の長子内蔵助|良欽《よしすけ》もまた、父におとらぬ聡明の持主であった。その嫡男権内良昭も、幼少から、文武に秀れた才を示した。もし早世しなければ、城代家老の要職を無事に果したに相違ない。
要するに、大石家の家系には、屑は一人もいなかった。
ただ――。
内蔵助良雄だけは、曾祖父、祖父、父と比べられ、いかにも、風貌が見劣りしたので、頭脳までも疑われ、少年時には、『昼行灯』などとあだ名されたのである。
十九歳で、城代家老となった内蔵助が、およそ青年らしからぬ茫乎《ぼうこ》とした態度をみせ、また藩内のあまりの平穏無事に、その才腕を示す機会を一度も与えられなかったせいもあった。
その日まで、若い城代家老を、たのもしい、と信頼した者は、家中には一人もいなかった、といってよい。
このたび、内蔵助が、隠密《おんみつ》に出府《しゅっぷ》して行くのをみて、殆どの人たちは、なんの役に立つのか、と疑ったことであった。
内蔵助は、二月十三日、江戸、鉄砲洲《てっぽうず》の上屋敷に入った。
内匠頭長矩は、素直に悦《よろこ》んで、内蔵助を迎えた。
しかし、
「内蔵助、断っておくぞ。このたびのおつとめには、わしは、表高家の教示などは、受けぬ。安井に命じて、土方殿《ひじかたどの》に万事の指図を仰ぐとことにいたして居るゆえ、懸念に及ばぬ」
と、釘をさした。
このたびの饗応掛りは、勅使が浅野内匠頭長矩で、本院使が土方|市正雄豊《いちのかみかずとよ》、新院使が青木甲斐守重正であった。
土方雄豊は、すでに、これまでたびたび饗応掛りをつとめた経験者であった。長矩が、高家に賄賂《まいない》して、指示を仰ぐことをせず、土方雄豊に、たのむことにしたのは、手段としては、まちがっていなかった。
ただ、この場合でも、月番御用を勤める高家肝煎の吉良上野介には、しかるべき挨拶をするのが、礼儀であった。
長矩には、しかし、その意志はないようであった。
内蔵助は、さからわず、
「わたくしからも、土方様に、お願いつかまつりましょう」
と、こたえておいた。
内蔵助は、別室で、江戸家老安井彦右衛門に会い、土方|市正《いちのかみ》に、どんな礼物を贈ったのか、と訊ねた。
「巻絹《まきぎぬ》を一台、贈り申したが、いずれおつとめ相済んだ上は、また、しかるべき品をと存じて居りますが……」
内蔵助は、あまりのケチぶりにあきれた。
すこし裕福な町家の女房ならば、小判二両の櫛《くし》を、平気であたまにさしている世の中であった。
大名として最も大切な饗応掛りの指示を仰ぐのに、わずか巻絹一台を贈るとは、よほどの世間知らずと云わねばならぬ。安井彦右衛門は、実直一途な、およそ融通のきかぬ人物であることは、内蔵助も知っていたが、これほどまでに処世の表裏にうといとは思わなかった。
大名屋敷の留守居は、いわば、他家の留守居との交際を欠《か》かさず、遊里にしばしば出入りするのも、ひとつのつとめであって、世間のことにくわしくなければならぬ。おそらく、安井彦右衛門は、吉原などへは、まだ一度も足をはこんでいないのではないか。
「巻絹一台では、些少《さしょう》にすぎるでござろうか?」
彦右衛門は、内蔵助が無言をまもっているので、不安な面持ちになった。
内蔵助は、ちょっと沈黙を置いてから、
「前日に、土方家と青木家へ、黄金《おうごん》三十枚ずつ届けておいて頂きたい」
と、命じた。
彦右衛門は、びっくりして、内蔵助を見まもった。自分など、考えもしなかった大金を口にされたのである。
内蔵助は、それきり何も云わなかった。
翌日、内蔵助は、長矩に向って、
「このたび出府いたしましたのは、ご婚約の儀を進めたき存念にございます。数日のおひまを頂きまする」
と、ことわった。
十七歳の長矩が、妻を物色するのは、当時として、べつに早すぎはしなかった。
候補者はいた。浅野|因幡守《いなばのかみ》長治の息女であった。まだ十歳であった。利発で、美しいという噂を、内蔵助は耳にしていた。
因幡守長治は、浅野本家の但馬守|長晟《ながあき》の庶長子であった。生母がいやしかったので、長男であったが、家を継がず、備後《びんご》の三次《みよし》の城を賜い、五万石の領主となっていた。
長治が、賢明の人であることは、かくれもない。
その息女を、第一の候補者にしたのは、内蔵助であった。
長矩は、内蔵助の申出を、疑わずに、
「その儀は、そちにまかせる」
と、云った。
内蔵助は、上屋敷を出て、木挽町《こびきちょう》にある下屋敷へ移った。それから、内蔵助の活躍がはじまった。
吉良上野介はじめ、すべての高家へ、黄金百枚に添えて、貴重な能楽の面、唐画《とうが》の盆《ぼん》、狩野探幽《かのうたんゆう》の二段屏風《にだんびょうぶ》などが、贈られた。
これは、赤穂から直接に送られて来たように工作された。
上屋敷で、このことを知らされたのは、足軽頭・原惣右衛門一人だけであった。
上屋敷へ戻って来た時、内蔵助は、ひと綴りの帖を持参していた。
そして、それを安井彦右衛門に手渡し、
「饗応次第は、これに記した通りに――」
と、云った。
安井彦右衛門には、それが、江戸城内富士見櫓の文庫で、写されて来たものであり、そのためには、黄金百枚の謝礼がなされたことなど、もとより判る筈もなかった。
斯《か》くて――。
弱冠十七歳の浅野内匠頭長矩は、勅使饗応の大任を、無事に、つとめ了えることができた。
明日帰国ときめて、その前夜、内蔵助は、寺坂吉右衛門を連れて、吉原に遊んだ。
世間を知るためには、遊里に足を運ぶのが、捷径《しょうけい》であった。
夜更けて、内蔵助は、大門を出た。
わざと駕籠《かご》に乗らず、左右に編笠茶屋のならんだ五十間道を、ゆっくりとひろった。
編笠茶屋が尽きて、急にあたりが暗くなった地点に来た時であった。
一番端の茶屋から、ふらりと現れた人物と、偶然、内蔵助の視線が、合った。
対手《あいて》は、店内から流れる灯に、横顔を浮き出して、皓《しろ》い歯をみせた。
「また、お会いいたしたな」
桑名から宮へ渡る三十石船で、隣り合せた浪人者であった。
むさくるしい身装に変りはなかった。
「あの節は、したりげな、貴殿の人相指南をいたして、まことに失礼いたした。しかし、どうやら、貴殿とそれがしの、袖すり合《お》うた因縁は、意外に、浅からぬものであったように、心得申す。ここで、再会いたしたのは、決して、偶然ではござるまい。……それがしの人相指南がまちがっていない証拠を、貴殿に示せ、と神が告げられているようでござる」
「……」
内蔵助は、黙って、対手の顔を、見まもっている。
浪人者は、つづけた。
「あの節、それがしは、おのが面ていには、剣難の相があり、これは、周囲の者たちのために、剣を抜く宿運、と高言いたした。……貴殿に再会した今夜、その証拠をお見せいたそうと存ずる」
内蔵助は、そう云われて、この兵法者がどれほどの使い手か、ふと、興味を湧《わ》かせた。
「拝見いたそう」
内蔵助は、応じた。
「では……、しばらく、歩いて頂くことになる」
浪人者は、先に立って、歩き出した。
七、八歩おくれて、跟《つ》いて行き出した時、うしろから、つとより添った寺坂吉右衛門が、内蔵助の耳に、意外なことを、ささやいた。
「旦那様、あのご浪人は、吉良上野介様に、顔だちが、瓜二つでございまする」
「……?」
内蔵助は、慄然《りつぜん》となった。
内蔵助は、出府するや直ちに、吉右衛門を、吉良邸へ忍び込ませて、上野介の面貌を見とどけさせるとともに、どのようなくらしぶりか、さぐらせておいたのである。
――上野介と瓜二つ、とすれば?
内蔵助は、先君采女正長友の早世の原因を、知っていた。
又一郎と称していた元服時に、長友が、吉良上野介と決闘して、胸を峯《みね》撃たれ、ついに、元の体力を恢復《かいふく》し得ぬ身となったこと。そして、闘った対手が、実は、上野介義央ではなく、双生児の吉良右近という剣の手練者《てだれ》であったこと。
内蔵助に、このことを教えたのは、山鹿素行であった。素行は、長友自身の口から打明けられていたのである。
――この浪士が、吉良右近か!
まさに、これは、因縁というべきであった。
浪人者が、内蔵助主従をともなったのは、浅草寺《せんそうじ》北方に無数にならんだ末寺のひとつであった。
境内に入ると、浪人者は、
「ここで待っていて頂こう」
と、内蔵助主従を、鐘楼わきに立たせておいて、方丈に近づいた。
すぐに、大音声《だいおんじょう》が、ひびいた。
「上杉家旧家臣のかたがたに申し上げる。亡君|播磨守《はりまのかみ》殿が、吉良上野介に謀殺された、と思いなし、その復讐を企図されていること、すでに、吉良家に、露見いたした。依って、吉良家の依頼によって、素浪人一人、果し合いに罷《まか》り越したものでござる。尋常の勝負をこそ! 出られい!」
内蔵助は、十六夜《いざよい》の月明かりに、うっそりと立った浪人者の孤影を、じっとすかし見乍ら、
――やはり、そうであったか!
と頷いた。
吉良右近にまぎれもなかった。
双生児として生まれながら、さきに生まれた者は、表高家肝煎となって、江戸城内に幅をきかせ、あとに生まれた者は、世にかくれた一介の兵法者になり、しかも、兄の影武者になる運命にあまんじている。
内蔵助は、浮世のしくみの残酷さに、暗然となった。
方丈から躍り出て来たのは、七人であった。
月光を散らして凄惨《せいさん》な血闘が境内の白砂にくりひろげられた。
吉良右近が、最後の一人を斬り伏せた時、内蔵助は、踵《きびす》をまわしていた。
山門を出た時、内蔵助は、吉右衛門に、云った。
「今夜のことは、決して、他言してはならぬ!」
堀部安兵衛
浅野内匠頭守長矩《あさのたくみのかみながのり》は、江戸に在っても、五日に一度は、必ず、早朝、馬を駆《か》って、一刻《いっとき》ばかり、遠出するならわしを持っていた。
供は、二騎以上のことはなかった。供をするのは、武林唯七《たけばやしただしち》とか倉橋伝助とか、二十歳《はたち》を出たばかりの近習《きんじゅう》であった。
その朝――元禄七年二月上旬の、殊《こと》のほか厳《きび》しい寒さであったにも拘らず、長矩は、手水《ちょうず》を使うとすぐに、
「馬を曳《ひ》けい!」
と、命じた。
すると、それを待っていたように、近習頭の磯貝十郎左衛門が、
「今朝は、留守居・堀部弥兵衛《ほりべやへえ》殿が、お供つかまつります」
と、申し出た。
「弥兵衛が……?」
長矩は、眉宇《びう》をひそめた。
「年寄りの冷水であろう。遠慮させい」
堀部弥兵衛は、すでに六十五歳の老人であった。一刻《いっとき》以上の馬責めなど、無理な筈であった。
「それがしも、遠慮されるよう、とどめましたが、達《た》ってお供つかまつる、と申され……、一度云い出せば、肯《き》かぬ老人でございますれば――」
磯貝十郎左衛門は、俯向《うつむ》いて、云った。
堀部弥兵衛金丸の剛直は、長矩も、よく知っていた。
武辺《ぶへん》という称呼《しょうこ》にぴったりする人物で、兵法《ひょうほう》に通じ、武術に達し、壮年の頃は、長槍の技に於て、家中に比肩《ひけん》する者がなかった。父から禄を継《つ》いだ時には、わずか二十石五人|扶持《ぶち》であったが、小知にも拘らず、乗馬一頭をたくわえていた、という。
しかし、すでに、文恬武熙《ぶんてんぶき》の治世である。弥兵衛が、屠竜《とりゅう》の術を成した頃には、それを使うところはなかった。
弥兵衛は、そこで、職務を執《と》って、奉公しようと思い立った。寛文年間、まだ三十歳であった。
某日、主君長直の前に罷り出て、
「やつがれは、これと申す才能はございませぬが、いささか書道に心得がありますれば、ご登庸《とうよう》の儀願い上げまする」
と、申し立てた。
長直は、武辺そのものと思っていた弥兵衛が、意外の希望を口にしたので、面白いと思い、早速に右筆《ゆうひつ》に挙《あ》げた。
在ることしばらくして、弥兵衛は、何かの執筆を命じられた。
すると、弥兵衛は、いったん書几《しょき》に向い乍ら、筆をすてると、
「申しわけなきこと乍ら、御用に立つほどの筆のはこび叶《かな》い難く、何卒、他の御仁にお命じありたい」
と、辞退した。
右筆頭は、怪訝《けげん》な面持で、
「書道を申し立てて、ご登庸にあずかり乍ら、今更出来ぬとは、その意を得ぬ」
と、咎めた。
弥兵衛は、恐縮して、
「いかに泰平の御世とは申せ、なんのご奉公もつかまつらず、扶持を頂戴いたすのは、あまりに相すまぬと存じ、出来も致さぬ書道を申し立て、右筆の末筆をけがし、上《かみ》をあざむき奉った段、まことに申しわけなく存じまする」
と、詫《わ》びた。
右筆頭は、やむなく、その役を、他の者に代えたが、あとで、弥兵衛が反古《ほご》にした書きかけの料紙を、そっと披《ひら》いてみた。実は、なかなかの能筆であった。
ただ、弥兵衛自身が、気に入らず、筆を投げたにすぎなかった。
長直は、このことをきいて、その剛直の気象をよろこび、段々に禄を加増した。
采女正《うねめのしょう》長友を経て、長矩の代にいたると、弥兵衛は、三百石の定府《じょうふ》となって、江戸留守居の重職に就いていたが、元禄の華美な流俗にはみじんも倣《なら》わず、古風な武辺の風《ふう》を守っていた。愛馬は、自身の手で洗い、水を浴《つか》わせていたし、妻女にも、三度の食事の用意は、女中にまかせず、手ずから米をあらって炊《かし》がせるようにさせていた。
「頑固《がんこ》な|じじ《ヽヽ》めよ。それならば、冷汗ならぬ、熱汗をかかせてくれる」
長矩は、縁さきに曳かせた馬に、とび乗ると、さっと駆け出した。
衣服は、無紋《むもん》で、顔は、頭巾《ずきん》でつつんでいた。五万三千石の城主が、一騎か二騎だけの供で、市中を駆けるのは、世間ていをはばかることなので、せいぜい中級の武士を装ったのである。
長矩は、厩《うまや》で待っている老人を狼狽《ろうばい》させてやろうと、まっしぐらに、乾門《いぬいもん》から、とび出した。
すると、弥兵衛は、ちゃんと乾門の前で、待ち受けていた。
「お供つかまつりまする」
――小癪《こしゃく》なじじよ。
こちらの意地悪な肚裡《とり》を読まれた長矩は、
「おくれるな、じじ!」
と、云いすてて、猛烈な勢いで、駆け出した。
並みの老人ではなかった。長矩が、躍起《やっき》に馬脚をあおっても、弥兵衛は、そのうしろに、ぴたりと従《つ》いて来た。
その朝は、鉛色の雨雲が、ひくくたれこめていたが、赤坂御門下にさしかかった頃、ぽつりぽつりと落ちて来た。
長矩は、老人を濡《ぬ》れさせて風邪でもひかせてはなるまい、と思い、馬首をめぐらした。
桐樹《とうじゅ》の並んだ溜池《ためいけ》畔を、一気に駆けぬけようとしたとたん、突然、長矩は、たづなを引いて、馬を棹立《さおだ》たせた。
右方の小路から、しずしずと出て来た大名行列を、みとめたのである。
その乗物に浮いた紋が、長矩の眦《まなじり》をひきつらせた。
――吉良《きら》だ! 上野介《こうずけのすけ》!
瞬間、長矩の総身の血がわき立った。
――よし! 行列切りをしてくれる!
「弥兵衛! つづけっ!」
叫ぶや、馬腹を蹴った。
弥兵衛は、まっしぐらに行列へ突入して行く主君の無謀に、思わず、――乱心めされたかと驚愕《きょうがく》しつつも、従わないわけにいかなかった。
行列は、疾風を起して迫って来た二騎を見て、大あわてに、そのつらなりを二つに分けた。
長矩は、駆けぬけざまに、乗物わきの地面へ、ぱっと唾《つば》を吐《は》きすてた。
あとにしたがった弥兵衛は、両眼を閉ざして居り、ひくく、
「ご無礼、ご容赦《ようしゃ》!」
と、叫んでいた。
行列の人々は、憤りをこめて、駆け去る二騎を、罵《ののし》った。
その時、後尾にあった一人の士《さむらい》が、いそいで、乗物に近づき、
「殿、控え馬をお貸したまわりたく、――あの不所存者どもを、追って、成敗《せいばい》つかまつりまする!」
と、願い出た。
「無用にせい」
乗物の中から、吉良上野介は、平常の声音《こわね》で、とどめた。
しかし、その士は、
「いや! この無礼を許しては、高家の面目にかかわり、また、上杉家より遣わされたそれがし、中津川祐見が、役立たず、と世間から嗤《わら》われまする。ごめん!」
云いすてるや、控え馬へ、とび乗って、まっしぐらに、追跡しはじめた。
中津川祐見は、四年前、上杉家から、吉良へ養子に来た上杉綱憲の次男春千代の附人《つけびと》であった。
綱憲は、上野介の一子であるから、春千代は、孫に当る。上野介は、吉良家を孫に継がせることにしたのである。
春千代は、虚弱な体質であったので、上杉家では、これを武芸できたえさせるべく、家中から、一刀流の達人である中津川祐見をえらんで附人にしたのであった。
中津川祐見としては、剣名をひびかせているおのれが、行列に加わり乍ら、無礼者の横行を見のがしたとあっては、後日の申しひらきができぬことであった。
中津川祐見が、追跡をはじめた時には、すでに、遁走する二騎は、赤坂桐畑を突破《とっぱ》して、市ヶ谷見附方面に向って、雨中に消えようとしていた。
――遁さじ!
中津川祐見は、眦《まなじり》を決して、猛然と馬脚をあおった。
「殿っ!」
堀部弥兵衛が、必死に叫んだ。
「どこかで、馬を、すてられませい!」
追跡して来る者が、なみなみの乗り手ではない、と弥兵衛は、さとったのである。
馬をすてて、どこかの家へ、駆け込むより、ほかにすべはなくなっている。
市ヶ谷見附を通り越して、牛込にさしかかっていた。
広い往還《おうかん》を疾駆《しっく》して行くことは、いたずらに、追手に、距離を縮められるばかりであった。さりとて、横道をえらべば、突き当たってしまい、抜けることが、かなわぬかも知れぬ。
馬をすてて、身ひとつをかくすよりほかに、遁れるべき手段はない、と知れた。
「殿っ! 天竜寺の境内《けいだい》へ!」
弥兵衛は、叫んだ。
天竜寺は、牛込きっての巨刹《きょさつ》であり、その旧境内は、いまは、無数の長屋地として貸されている。遁げ込むには、最も適している。
長矩も、いまは、必死であった。
天竜寺の山門をくぐって、まっしぐらに、境内へ駆け入るや、ぱっと地上へ跳んだ。
「奔《はし》られませい」
弥兵衛も、馬をすてて、叫んだ。
中津川祐見が、追って、そこへ馬を乗り入れた時には、長矩と弥兵衛は、本堂裏手の墓地をつッ走っていた。
墓地のむこうは、迷路のような細道に、裏店《うらだな》がひしめきあっていた。
弥兵衛は、とある細道に駆け入ると、そこで遊んでいる子供たちに、息せわしく、
「この裏店に、さむらいは住んで居らぬか?」
と、訊ねた。
子供の一人が、とある一軒を指さした。
弥兵衛は、小銭を投げて、
「われらが、ここに入って来たことは、他言すまいぞ。よいな!」
と、云いふくめておいて、その家へ、長矩をともなった。
一歩入って、屋内を一瞥《いちべつ》すると、弥兵衛は、
――うむ、よし!
と、頷《うなず》いた。
侘《わび》しい貧乏ぐらしであるが、整然として、武士のたしなみが隅ずみまで、ゆきとどいている。書籍も多い。床の間には、鎧櫃《よろいびつ》も据えられてある。
唐紙《からかみ》が開かれ、次の間から、住人が姿をみせるや、弥兵衛は、思わず、わが意を得た微笑を口辺に生んだ。主君長矩と、ほぼ同年配であり、眉目が冴《さ》えていた。貧困にうちひしがれたいやしい色などみじんもない。
「どなたか?」
若い浪人者は、長矩と弥兵衛を、澄んだ眼眸《まなざし》で眺めた。
「火急の場合ゆえ、くわしくは申し上げられぬ。これは、播州赤穂《ばんしゅうあこう》城主浅野内匠頭長矩公にござる」
「……?」
若い浪人者は、微かに眉宇をひそめたが、さして驚かずに、その場へ坐った。
弥兵衛は、つづけた。
「実は、今朝、馬責めをあそばして居ったところ、赤坂御門前にて、表高家吉良上野介|義央《よしなか》殿の行列と行き会い申し、これを横切り申した。……その仔細《しさい》は、いまつまびらかに説明いたして居るいとまはござらぬ。浅野家先代よりの遺恨《いこん》を受け継いだわが殿の、咄嗟《とっさ》のお振舞いにて、決して、ただの悪戯《いたずら》ではござらぬ。……追手一騎、執拗《しつよう》にあとを慕うて参り、この天竜寺境内に駆け入って来て、躍起の探索をはじめた様子でござる。行列切りが、赤穂の藩主と知れば、追手は、直ちにひきかえして、これを公沙汰《おおやけざた》にいたすのは、目に見えて居り申す。何卒、貴殿の援《たす》けをおかりいたして、この場をきり抜けたく存ずる。お願いつかまつる!」
弥兵衛は、畳《たたみ》へ両手をつかえた。
長矩も、「たのむ」と、頭を下げた。
若い浪人者は、しばらく、沈黙をまもった。
五万三千石の城主が、こんな裏店へ逃げ込んで来る、などということは、想像もできなかった珍事である。
よくよくの遺恨があったからこそ、大名たる身分を忘れて、行列切りをして、このような事態を招いたに相違ない、と思われる。
「お援けつかまつる」
若い浪人者――越後|新発田《しばた》の浪士・中山安兵衛は、静かな声音で、承知した。
中山安兵衛は、ただの浪士ではなかった。
安兵衛の外祖父溝口四郎兵衛は、藩侯の一門格で、七百石を食し、家中の首班の座に在った。その妻――安兵衛の外祖母は、二代の藩主|伯耆守《ほうきのかみ》宣勝の第五女であった。外祖母の第六女が、安兵衛の母であった。
安兵衛の父中山弥次右衛門は、二百石を食し、近習頭であった。
安兵衛が十四歳の時――天和三年、父弥次右衛門は、新発田城の巽《たつみ》の櫓《やぐら》をあずかり中、一日、桐油の虫干《むしぼし》をしている時、あやまって、この櫓を焼失させてしまった。
城を重んずる時代のことであった。弥次右衛門は、その責を負うて致仕《ちし》し、城下を立退《たちの》いて、近在に蟄居《ちっきょ》したが、一年後に、病没した。その妻は、安兵衛を産みおとすと程なく、世を去っていた。
安兵衛は孤児となると、外祖父溝口四郎兵衛の後嗣《こうし》三郎兵衛の許に、ひきとられた。
しかし、十七歳の正月、安兵衛は、書置き一通をのこして、飄然《ひょうぜん》と家を出て、放浪の旅に出た。
その時すでに、安兵衛は、新発田城下にあって、異数の麒麟児《きりんじ》の名を得ていた。溝口家師範の道場に於て、安兵衛と互角に太刀打ちできる若ざむらいは一人もいなかったのである。
何処を放浪していたものか、安兵衛が江戸へ現れたのは、元禄元年――十九歳の時であった。
江戸随一と称された堀内源太左衛門の道場に入って、その天稟《てんびん》をみがき、その門を出て、この元天竜寺竹町の裏店で、独立の生活をはじめたのは、つい去年からであった。
堀内道場の代稽古《だいげいこ》をつとめるかたわら、安兵衛は天竜寺の庫裏《くり》を借りて、手習いの師匠もしていた。文武ともに、秀《すぐ》れていたのである。
内匠頭長矩がつけていた衣服を借りうけ、その頭巾をかぶった中山安兵衛は、裏店を出ると、悠々と墓地を横切って、天竜寺境内に立った。
浅野主従が乗りすてた二頭の馬のほかに、追手の馬も松につながれていた。
安兵衛が長矩の馬に、うち跨《またが》った時、中津川祐見が、探しあぐねて、本堂わきから姿をあらわし、
「おっ! おのれ!」
と叫んで、奔《はし》って来た。
安兵衛は祐見が、自身の馬にうち跨るのを待ってやるように、おちつきはらっていてから、さっと、馬をとばしはじめた。
ようやく、人影が多くなった往還を、二騎は通り魔の迅《はや》さで、掠《かす》めて行った。
およそ半刻――安兵衛は、東へ駆けたかとみるや、たちまち、西へ奔り、中津川祐見を、からかうがごとく、追跡に疲れさせた。
そして――。
遠くひきはなしておいて、安兵衛が入ったのは、喰違いに在る伊予西条藩主《いよさいじょうはんしゅ》松平左京大夫の上屋敷内の長屋であった。
そこに、家中上席を占める菅野六郎左衛門の家があった。
安兵衛は、菅野六郎左衛門と、叔姪《しゅくてつ》の義を結んでいた。
菅野六郎左衛門は、細井次郎大夫知慎(広沢)と親交があり、広沢に師事していた安兵衛と知りあうや、その人柄知能を愛し、一日、安兵衛に向って、
「お主《ぬし》は、いずれ仕官を求めることになろうが、その時は、親類の保証が必要となる。不肖《ふしょう》、この六郎左衛門が、叔父分に立ち申そうか」
と、申し出たのである。
安兵衛にとっては、願ってもない好意であった。
安兵衛として、その間柄にある六郎左衛門に、今日のおのれの行為を、報告しておかねばならぬ、と思ったのである。
六郎左衛門は、安兵衛から話をきくと、
「播州侯が、高家の吉良殿に、うらみを抱かれていたとはのう」
怪訝《けげん》に首をひねったが、
「ともあれ、お主の義侠はほめられてよい。たぶん、その堀部弥兵衛という留守居は、お主に、浅野家へ随身をすすめて参るぞ」
と、笑った。
「いささかの働きを、知行とひきかえにする所存はありませぬ」
安兵衛は、かぶりを振った。
安兵衛が、菅野家を訪れたのは、六郎左衛門にとって、不運となった。
中津川祐見は、主家に対する面目と、さんざんに江戸市中を駆け巡らせられた憤怒《ふんぬ》で、その騎影を見失っても、すこしも、あきらめずに、通行人や町家に問い歩いて、ついに、行列切りの曲者が、伊予藩邸へ入ったのをつきとめた。
松平家中には、祐見の知人がいた。目付の村上庄左衛門という人物であった。
祐見はすぐに、村上庄左衛門を訪れて、仔細《しさい》を語って、曲者が、家中の者か、それともこれをかくまう定府の士がいるのか、詮議がたを依頼した。
村上庄左衛門は、早速に、調べて、曲者が訪れたのは、菅野六郎左衛門宅であることを、知った。
村上庄左衛門にとって、菅野老人は、いわゆる虫の好かない存在であった。しかし、席次ははるかに上にあったので、これまでは遠慮していた。
しかし、このたびは、目付という職務を充分に利用して、菅野老人を罪人の座に据《す》えることができる、と、庄左衛門は、気負い立った。
翌日|午《ひる》――。
菅野六郎左衛門は目付組下から、諮問《しもん》部屋へ来られたい、という呼びだしを受けると、すぐに、
――安兵衛のことだな。
と直感した。
六郎左衛門は、その呼びだしに応じないことにした。主家となんのかかわりもない事柄であったし、目付などから取調べを受ける屈辱には堪えられなかったからである。
呼び出しに応ぜず、とみて、村上庄左衛門が、出向いてきた。
「昨日、御当家を訪ねて参った覆面の者が、何者か、うけたまわりたい」
庄左衛門は、切口上で、尋問してかかった。
「目付として、問われるのか?」
「左様――」
「当藩とはなんのかかわりもない、それがし一個の交際でござれば、放念ありたい」
「その者は、表高家吉良上野介殿の行列を切った不埒者《ふらちもの》でござる。左様な者を、藩邸にひき入れられては、公儀ならびに世間への、きこえをはばかり申す」
「黙らっしゃい。昨日参ったそれがしの友人は、そのような狂気の振舞いをいたすような者ではない。証拠もなくて、益《えき》なき詮議沙汰は、措《お》かっしゃい」
「証拠はござるぞ!」
庄左衛門は、吉良家附人中津川祐見が、つきとめたと主張した。
六郎左衛門は、とり合わなかった。
庄左衛門としては、六郎左衛門が、訪問者の名を口にせぬ以上、いくら云いたてても、徒労であった。
それが、かえって、庄左衛門に意地を張らせた。
「よろしい! それならば、目付としてではなく、村上庄左衛門個人として、武士の面目を立てねば相成らぬ。中津川祐見殿に、その名をつきとめて報せる、と約束した以上は、あとへひきさがるわけには参らぬ。覚悟をいたしたぞ!」
「覚悟、勝手じゃ!」
六郎左衛門は、冷笑した。
翌朝――夜が明けて間もなくの頃あい、村上家から、菅野家へ、若党が使いに来た。
六郎左衛門に渡されたのは、果し状であった。
『本日|巳《み》の下刻を期し、高田馬場にて、立合いを為し、昨日問答の理非を分つべく心得候』
一読した六郎左衛門は、玄関へ出て、使いの若党に、
「承諾した、と伝えい」
と、告げた。
居間に戻ると、老妻を呼び、
「村上庄左衛門と余儀なく果し合いをいたすことになった。理由は、そなたにきかせてもはじまらぬゆえ、きくな。……もし、わしが、武運つたなく、このまま出て行って、戻って参らなんだら、後事をよろしくたのむ、と言いのこした、と明日にも中山安兵衛に申しつたえてくれ」
と、申し渡した。
「村上殿には、助太刀《すけだち》がございましょうに、貴方様も、安兵衛殿におたのみなされては、いかがでございましょう」
「莫迦《ばか》を申せ。老いたりとはいえ、一刀流の免許をとった腕が、さまでおとろえたとは思わぬ。わし一人でよい」
実は、村上がたは、こちらが当然、行列切りの曲者を助太刀につれて来ることを期待しているに相違ないのだ。
中津川祐見という吉良家の附人は、利剣をみがいて、待ちかまえているであろう。
六郎左衛門は、その裏をかく心算《つもり》であった。
ただの意地の張り合いからの果し合いであれば、対手《あいて》が助太刀をたのめば、こちらも、中山安兵衛に助勢を乞うところである。
この果し合いには、安兵衛をともなうのは、対手がたの策に乗ることであった。
六郎左衛門は、討死を決意したのである。
若党佐次兵衛と草履取《ぞうりと》り一人をしたがえて、六郎左衛門は、出て行った。
妻女は、半刻ばかりは、焦燥《しょうそう》を怺《こら》えていたが、ついに、堪《た》えきれなくなって、手紙をしたためて、小者を、安兵衛の許へはしらせることにした。
安兵衛は、天竜寺庫裏で、子供たちに手習いをさせていたが、菅野家妻女の手紙を披見すると、叔姪《しゅくてつ》の義を結んだ自分に助太刀をもとめることをせずに、単身でおもむいたことに、疑問をおぼえた。
――もしや?
この果し合いには、一昨日の自分の訪問が、原因になっているのではないか、と直感が働いた。
安兵衛は、わが家へ駆け戻ると、差料《さしりょう》を掴《つか》んで、風の迅さで、高田馬場をめざした。
牛込馬場下まで来るや、そこにある酒屋に目をとめ、枡酒《ますざけ》を引かせ、ひと息に飲み干すと、馳《は》せ去った。その酒屋は、大正年間まで残り、その枡《ます》を家の什宝《じゅうほう》として、秘蔵していた、という。
その日、敵側は、村上庄左衛門に、その弟三郎右衛門、家来五人、そして中津川祐見を加えて、八人であった。
庄左衛門は、六郎左衛門が、若党と草履取りだけをつれて現れるや、
「助太刀はござらぬのか?」
と、大声で、問うた。
「助勢をひきつれるようにと、果し状には、書いてはなかったな」
六郎左衛門は、皮肉な冷笑をかえした。
「年寄り一人、いかに、気負い立とうとも、われわれには、勝てぬ。助け人を、呼ばれい。その時間を、待とう」
祐見が云った。
「それが、お主の目的であろうが、あいにくであった。それがしは、助勢はたのまぬ」
「なぶり殺しを覚悟の上とは、いさぎよい」
村上兄弟が、抜きつれて肉薄するや、若党佐次兵衛が、あるじをかばって、猛然と斬《き》りかかって行った。佐次兵衛は、ただの若党ではなく、元|江州《ごうしゅう》彦根の浪人で、腕が立った。
弟の三郎右衛門が佐次兵衛に斬りたてられて、たじたじとなるのを、助けようとした庄左衛門は、六郎左衛門の老人と思われぬ鋭い切先を受けて、右腕上膊を傷つけられた。
「うぬがっ!」
かっとなった庄右衛門は、躍り立ちざまに、一|薙《な》ぎをくれた。
六郎左衛門は、腕に薄傷《うすで》を負うたが、屈せず、突進した。
凄惨《せいさん》な血闘が、展開した。
佐次兵衛は、村上家の家来二人を仆《たお》したのち、祐見の太刀を背中に受けて、のめり伏した。
その時はもう、六郎左衛門は、身に数箇所の深傷《ふかで》を負うていた。
安兵衛が、馬場へ駆けつけたのは、その時であった。
「村上庄左衛門、卑劣《ひれつ》っ!」
その一|喝《かつ》のおわらぬうちに、三郎右衛門が、安兵衛の抜きつけの一閃をあびて、血煙をあげた。
庄左衛門をかばって、家来二人が切先をそろえて、安兵衛に、向って来たが、渠《かれ》らもまた、煌《きら》っ、煌《きら》っ、と閃《ひらめ》いた速刃の下に、屍となって、ころがった。
安兵衛は、懸声とともに撃《う》ちかかった庄左衛門に、
「未熟っ!」
と叫ぶ余裕をみせておいて、斜横に身をかわした。
その時はもう、庄左衛門の胴は、ぞんぶんに、薙ぎ斬られていた。
安兵衛は、中津川祐見と、対峙《たいじ》した。
「おのれか――行列を切った曲者は!」
祐見は、上段に構えつつ、安兵衛を睨みつけた。
安兵衛は、こたえぬ。
やはり、この果し合いの原因は、自分にあったのだ。
慙愧《ざんき》の念が、総身を渦巻《うずま》いていた。
祐見の方は、上杉家附人としての面目にかけて討たねばならぬ、という闘志をみなぎらせていた。
青眼と青眼の白刃が、両者それぞれの異質の剣気をこめて、固着の状態を迎えた。
およそ、二十をかぞえる時間が、過ぎた。
と――。
安兵衛が、ゆっくり、白刃を上段に移した。
祐見は、その誘いを待っていたごとく、満身からの気合をほとばしらせて、旋風《つむじかぜ》のごとく斬り込んだ。
ふたつの五体は、目にもとまらぬ迅さで、交叉した。
二間を奔《はし》った祐見は、まっすぐに、太刀をさしのべて、立った。
その頸根《くびね》から、血汐が、噴水のように噴いた。
安兵衛も同じく二間を奔っていたが、これは、充分の手ごたえを感じたものの余裕をもって、足を停めると、ゆっくりと向きなおっていた。安兵衛の帯は、一寸ばかり切り裂かれていた。
祐見が、地ひびきたてた時には、安兵衛は、もう、蹲《うずくま》っている六郎左衛門のそばに寄っていた。
六郎左衛門の意識は、殆ど喪《うしな》われていた。
安兵衛は、六郎左衛門を扶《たす》け起して、村上庄左衛門のそばへ、つれて行き、その咽喉《のど》に、止《とど》めの一刀を刺させた。
それから、草履取りを呼んで、六郎左衛門を背負わせると、松平左京大夫邸へ、戻ることにした。
しばらく行くと、六郎左衛門が、不意に呻《うめ》いた。
安兵衛は、とある旗本大身の下屋敷とおぼしい邸宅の生垣を押しわけて、草履取りに六郎左衛門をかつぎ込ませた。
番人が駆けつけて来て、この乱暴を咎めた。
安兵衛は、事情を告げて、暫時の休息を乞うた。番人は、こころよく応諾して、空小屋を提供してくれた。
そこで、手当をされた六郎左衛門は、意識をとりもどすと、救い手が安兵衛であるのを知って、
「か、かたじけない。……面目を、全《まっと》うした上は、みにくい、手負いのざまを家中の目には、さらしとうは、ない。……たのむ」
と、安兵衛に、おのが頸根を示した。
安兵衛は、六郎左衛門の首を打ち落として、草履取りに、持たせておいて、高田馬場へ、とってかえした。
すでに群集が、蝟集《いしゅう》して、さわぎたてていた。
安兵衛は、村上兄弟やその家来たちの屍が、村上家の手ではこび去られ、また、中津川祐見の死体が引取人がないままに、町役人によって、片づけられるところまで、見とどけて、立去った。
中津川祐見は、ただの浪人者として取扱われた。吉良家から、引取りの使者が来なかったのである。
中山安兵衛が、堀部弥兵衛の養子になったのは、以上のような因縁《いんねん》によるものであった。
但し、安兵衛は、はじめは、その懇望《こんもう》を容易に受けなかった。
弥兵衛に、再三足をはこばせたのち、
「中山姓を廃さずに、養子にしてもよい、という条件をおのみ下されば――」
と云い、これを承諾されるや、ようやく、養子となった。
安兵衛は、堀部家に入っても、三年余、中山姓で通した。
弥兵衛が、赤穂の城代大石内蔵助に、いきさつ一切を記して、報せたのは、安兵衛を養子に迎えてからであった。
内蔵助は、一読して、しばらく、黙然としていたが、やがて、独語したことだった。
「吉良殿が、このことを知って居らねばよいが……」
松の廊下
元禄十四年二月三日、播州赤穂城主|浅野内匠頭長矩《あさのたくみのかみながのり》、および、伊予《いよ》吉田|邑主《ゆうしゅ》伊達左京|亮《すけ》宗春の許へ、
『明四日五つ半《はん》刻、登城これある可し』
という老中連名の奉書が、届いた。
その日、長矩は、かなり烈しい腹痛に襲われていて、夫人はじめ側近の者たちに対して、不機嫌に当りちらしていた。
使者が帰ったあと、長矩は、江戸家老の安井彦右衛門に、
「なんの用向きを申しつけられるのか、判るか?」
と問うた。
「相判りかねまする」
彦右衛門は、当惑気味に、小首をかしげた。
「たわけ! 勅使下向にあたっての馳走人を命じられるのだ。それくらいのことが、判らぬか!」
長矩は、呶鳴りつけておいて、疼痛《とうつう》をつづける腹をおさえて、奥へ入った。
長矩の予想は、的中した。
翌日、帝鑑《ていかん》の間《ま》において、長矩と左京亮宗春は、月番老中秋元但馬守|喬朝《たかとも》から、「今年年頭の勅使|参内《さんだい》に付き、御馳走人仰せ付けらる」との旨を申し渡された。
その時、長矩は、列座した老中年寄からすこし下がったところに、表高家吉良上野介|義央《よしなか》が控えているのを、みとめていた。
長矩は、頭を上げると、
「ご上意でござるが、儀礼作法に嫻《なら》わざる身共ゆえ、勅使がたに対し、いささかの非礼あっても相叶わず、斯様な重大なお役目は、余人に仰せ付けられますよう、願い上げまする」
と、辞退した。
「そのご懸念は、無用であろう」
柳沢|出羽守吉保《でわのかみよしやす》が微笑しながら、さえぎった。
「この儀に就いては、多年勅使のご接伴を申し上げ、お役目に練達の吉良上野介殿に、よろしく談合されて、勤められい」
長矩がわざと辞退してみせたのは、柳沢吉保が必ずそう云うであろう、と予想したからであった。
――上野介などに、死んでも談合いたすものか!
胸中でうそぶきつつ、長矩は、頭を下げた。
秋元但馬守は、つづいて、
「例年の馳走の儀は、いささか鄭重《ていちょう》に過ぎたように心得る。今年は、万事軽く整えられるように」
と、注意した。
長矩は、帰邸すると、安井彦右衛門と藤井又右衛門を呼び、馳走役の旨を告げ、
「天和三年の春のようにせい。吉良上野介に音物《いんもつ》をすることは、許さぬぞ」
と、命じた。
長矩も、安井彦右衛門も、十八年前――天和三年二月、勅使|饗応《きょうおう》掛りを命じられた時、出府《しゅっぷ》して来た城代家老大石内蔵助良雄が、吉良上野介はじめすべての高家へ、黄金百枚に添えて貴重な品々を贈ったことを、夢にも知らなかったのである。
安井彦右衛門は、控え部屋に下がって来ると、藤井又右衛門に、
「この前の時、城代から渡された饗応次第が、文庫蔵にあった筈。とり出しておいて頂こう。あれがあれば、高家に教えを乞わずにすむ。……それにしても、殿は、あのように仰せられているが、やはり、吉良殿へは、巻絹《まきぎぬ》一台ぐらいは、贈っておこうではないか」
と、云った。
安井彦右衛門は、主君に内密で、上野介へ巻絹一台を賄賂《まいない》することを、自分の才覚だとうぬぼれる程度の人物であった。
勅使饗応掛りを仰せ付けられた旨が、赤穂の大石内蔵助に、報されたのは、二月も末になってからであった。
勅使が江戸表へ到着するのは、三月十日と定められていた。
内蔵助は、自分が急遽《きゅうきょ》出府するのが間に合わぬ、と知って、大きな不安に襲われた。
やむなく、寺坂吉右衛門を密使として、数日で、江戸|鉄砲洲《てっぽうず》屋敷へ趨《はし》らせることにした。
長矩は、三月|朔日《ついたち》、登城して、勅使七日間の予定表を渡されてきた。
勅使――柳原|前大納言《さきのだいなごん》正二位|資廉《すけかど》、高野中納言|従《じゅ》一位保春。
仙洞使《せんとうし》――清閑寺《せいかんじ》中納言従二位|熙定《ひろさだ》。
これに対して、幕府側は、正使が土屋相模守政直、副使が畠山民部大輔|其玄《もとはる》。勅使馳走役が浅野長矩、仙洞使馳走役が伊達宗春。
そして予定は――。
十一日、竜口伝奏《たつのくちてんそう》屋敷にて休息。
十二日、登城、将軍家対顔。
十三日、猿楽《さるがく》饗応。
十四日、この日、愈々《いよいよ》、将軍家の勅諚奉答《ちょくじょうほうとう》。
十五日、増上寺|参詣《さんけい》。
十六日、休息。
十七日、江戸|発駕《はつが》。
長矩は、この予定表を持って、帰邸すると、着換えるいとまも持たずに、気ぜわしい足どりで、右筆《ゆうひつ》部屋に入った。
とたんに、長矩の眉間《みけん》に、険しい気色が刷かれた。床の間にならべられた、かずかずの進物を発見したのである。
「なんだ、これは?」
「は――」
うしろに控えた安井彦右衛門は、当惑して、俯向いた。
忍びの者寺坂吉右衛門がもたらした城代家老大石内蔵助の指令によって、大いそぎで、吉良上野介宛ての進物を、ととのえたのである。
黄金二百枚及び梶川蒔絵《かじかわまきえ》の印籠《いんろう》、尾形乾山《おがたけんざん》の花瓶《かへい》、さらに、これに添えて、花の丸尽くしの巻絹。
長矩は、ずかずかと床の間へ歩み寄るや、
「これを、どこへ賄賂する所存だ? 彦右衛門、返答せい!」
と叫んだ。
「は――、城代の指示により、吉良殿へ……」
こたえかけて彦右衛門は、あっとなった。
長矩が、進物をのせた三方を蹴とばしたのである。
愈々、勅使が、明日は、江戸に到着して、竜口伝奏屋敷に入る、という宵であった。
柳営《りゅうえい》随一の勢力を誇る若年寄筆頭・柳沢|出羽守《でわのかみ》吉保は、神田橋の屋敷の奥の一間で、目付|所松《ところまつ》左京と密談を交していた。
「……ふむ。つまり、浅野内匠頭が、吉良上野介に、恨みを抱いているのは、昨日や今日のことではない、というわけか」
吉保は、所松左京から、くわしく、浅野家と吉良家の確執《かくしつ》をきかされたのである。
流石《さすが》は、柳沢出羽守から抜擢《ばってき》された白刃のように鋭利な目付であった。どこで、どうやって調べたか、確執の事情を、のこらず知っていた。
「このたび、浅野家が、勅使馳走人にえらばれた、とうかがい、なにやら、不吉な予感をおぼえて、両家の確執のことをお耳に入れておかねばならぬと存じ、参上いたしたのでござる」
「不吉な予感とは? 浅野内匠頭が吉良上野介に、殿中で、刃傷《にんじょう》でもするのではないかと想像したのかな?」
「よもや、殿中で、刀を抜くような、血迷うた振舞いには及びますまいが……」
「内匠頭は、短気の気性ときくぞ」
「それで、懸念はされるのでござるが……」
「左京――」
「は?」
左京は、吉保の表情が、急にあらたまったものになったので、
――なにか、思案を起したな!
と、直感した。
「浅野家は、内証|裕福《ゆうふく》ときいて居るが、お主が調べたところでは、どれほどの蓄えがある、とみる?」
「明確な数字は、掴《つか》めませぬが、それがしの調べたところでは、藩札《はんさつ》の発行高が、銀千貫目あまり、これから推して、藩庫金《はんこきん》は、数万両は下らず、と算定《さんてい》つかまつる。浅野家の家臣は、ざっと三百余名をかぞえますが、ふつう、五万石の大名では、せいぜい養う上士は七十名あまりが限度でござれば、浅野家では、その三倍も養って、平然といたしているところをみれば、あるいは、十万両もの蓄えがあろうか、とも考えられます」
「そうか。成程、五万石の大名が、藩庫に十万両も持って居れば、百年は安泰だの」
吉保は、笑った。
すでに、この当時、諸大名は、内証が苦しくなっていた。麹町には、大名専門の質屋もできていたくらいである。
はなやかな元禄期を迎えて、衣服も飲食も粧飾《しょうしょく》も豪奢《ごうしゃ》を競っているため、大名衆が上方商人から借り入れる金高はかさんできていた。藩庫に充分の蓄えがある家など、稀であった、といえる。
「左京――」
ややあって、吉保は、目付を呼んだ。
「は?」
左京は、吉保の宙に置いた双眸《そうぼう》が、冷たく光っているのを見た。
「わしは、ここ一両年のうちに、松平の称号を許され、たぶん、老中にのぼるであろうな」
「それは、お目出度う存じまする」
「老中にのぼれば、金が要《い》る」
「……?」
「わしは、百六十石の小身から、十五万石の大名になるのに、期間が短かった。人々は、異数の出世とうらやむが、出世をするには、それだけの金をつかった。柳沢家の台所は、目下、火の車と申してもよい。……若年寄が、老中に目色をうかがわせる権勢を持ったのはよいが、こう懐中が乏しゅうては、いざとなった場合、|どろ《ヽヽ》を出すおそれがある。権勢を張るには、それを支えてくれる金力がなければならぬ。わしの権勢も、老中にのぼった時が、まことの勝負どころであろうが、その時、懐中一文無しでは、話にならぬ。そうは、思わぬか?」
「ご尤《もっと》もでござる」
「判ってくれたようだな?」
吉保は、にやりとしてみせた。
「はい」
「浅野内匠頭には、気の毒だが、殿中で、刀を抜いてもらおうかの」
「承知つかまつりました」
左京は、合点《がってん》してみせた。
「では、たのむ。仕損じて、恥をさらしてはならぬぞ」
「ご懸念には及びませぬ」
勅使二卿及び院使は、予定通り三月十日、江戸へ到着し、竜口伝奏屋敷に入った。
浅野家からは、富森《とみのもり》助右衛門、高田郡兵衛が、夜明け前に出て、品川まで出迎えた。
内匠頭長矩は、左京亮、上野介とならんで、伝奏屋敷の表玄関で、出迎えた。
そのあとで、上野介は、念のために、屋敷内を、見まわった。
そして、幕府方上使が、勅使と応答する書院に入ってみて、眉宇をひそめた。
勅使が坐る上座のうしろに、狩野元信《かのうもとのぶ》の描いた竜虎の八双|屏風《びょうぶ》が立てられてあったからである。
「あの屏風は、取り替えたがよいな」
控えている番士に云った。
墨絵《すみえ》の、しかも竜虎の絵など、かざるのは、これまで例のないことだった。華やかな色彩の花鳥が、かざられるべきであった。
番士は、ちょっと、怪訝《けげん》な面持であった。
一昨日、浅野家から、はこばれて来たのは、たしかに、けんらんたる五彩八色の狩野|探幽《たんゆう》の花鳥だったのである。ところが、昨夜おそく、どうした理由か、急に、この竜虎と、とりかえられたのであった。番士は、これは、上野介の指示によるものとばかり思っていたのである。
上野介が、上使の休息する部屋の方へ行ったあとで、内匠頭長矩が、入って来た。
番士は、上野介が、この屏風をとりかえるように云い置いた旨を告げた。
内匠頭は、かっとなった。
昨日の午後、吉良家の使者を称する者が来て、口頭で、伝奏屋敷をかざるのは、華やかなものはさしひかえるように、と伝えたのである。そこで、急遽、花鳥を竜虎にとりかえたのであった。
――上野め、この長矩を翻弄する存念だな!
内匠頭は、上野介の居場所をきいて、廊下を突き進んだ。しかし、面詰は果せなかった。その室には、すでに上使と副使が到着しており、上野介と話していたからである。
屏風は、ただちにとりかえられた。
一日置いて、十二日、勅使・院使は、江戸城に入って、将軍家と対面した。そして、翌日、饗応の猿楽を観た。
その間に、浅野家では、騒動が起った。
勅使・院使は、十四日、将軍家との勅諚奉答を了えると、翌十五日は、芝増上寺へ参詣するが、その折、宿坊で休息する。
その宿坊の、院使が休息する寺院の畳を、伊達左京亮が、表替えしているという急報が、浅野家にもたらされたのである。
たしかに――。
大石内蔵助が、十八年前に安井彦右衛門に手渡した「饗応次第」には、
『勅使ご休息の宿坊は、障子はりかえ畳は表替えのこと』
という一条が記されてあった。
ところが、このたびは、老中からも、馳走の儀はこれまでいささか鄭重にすぎるようであるから、万事軽く整えるように、と注意があったし、宿坊の畳替えをするかどうか、伊達家へ問い合わせたところ、
「吉良殿より、障子のみ貼り替えあればよろしからん、と指図があったゆえ、畳の表替えはつかまつらず」
という返辞《へんじ》だったのである。
ところが、いつの間にか、伊達家では、宿坊の畳替えしている、という。
この急報に接して、内匠頭は、猿楽途中で、座を抜けて、下城して来た。
安井、藤井の両家老を睨《にら》みすえると、
「おのれら、たわけが! 何故に、内蔵助の指図通りに、畳の表替えをさせなんだか!……上野介のこんたんは見えて居ったのだぞ。当家から、じきじきに、指図を仰いで参らぬと知るや、上野めは、わざと伊達家に、畳の表替えに及ばず、と云い置き、その旨が当家に伝えられたのを見はからって、早々に、伊達家に対して指図をしなおし、表替えをさせたのだ。そうに、相違あるまい。……今夜のうちに、宿坊の畳をぜんぶ表替えいたすのだ! 江戸中の職人を集めて、やらせい!」
と、憤怒《ふんぬ》で全身を顫《ふる》わせつつ、命令を下した。
安井も藤井も、顔面から血の色を引かせてしまっていた。
宿坊|観智院《かんちいん》の畳は、二百枚を越える。これを一夜のうちに表替えすることは、不可能にちかい。
両人は、返答ができなかった。
そこへ、側用人の片岡源五右衛門が、入って来るや、必死の面持で、
「表替えつかまつります」
と、断言してみせた。
「源五か! たのむ!」
長矩は、頭を下げた。
その夜――おそい夕餉《ゆうげ》を摂《と》っていた吉良上野介は、用人松尾市兵衛から、
「浅野家で、騒動を起して居る模様でございます」
と、告げられた。
「なんだな?」
「江戸中から畳刺しを集めて、勅使の御宿坊の庭で、畳の表替えをされて居る、と注進して参りました」
「妙だの」
上野介は、首をかしげた。
「今年は、諸事節約のお達しによって、障子の貼り替えだけにいたす筈であったが……」
「いえ、それが、浅野家では、伊達家が御宿坊の畳を新しゅうされたのをきいて、大急ぎで、手配されて居る由にございます」
「院使の宿坊の畳を、表替えした、と申すのか。はての。それは、左京亮殿が勝手にしたことだ」
上野介は、左京亮から指図を仰がれた時、畳の表替えには及ぶまい、とこたえておいたのである。
「ほかの高家のおかたが、伊達様に、表替えをした方がよいと、ご忠告なされたのではございますまいか?」
市兵衛は、納得しがたい表情であった。
「左様なことは考えられぬ。もし、そうであれば、左京亮殿は、わしに相談して居る。……まあ、よい。畳が新しくなるのは、べつにわるいことではない。しかし、浅野家は、大変であろう」
「殿!」
市兵衛は、目を光らせて、
「浅野家は、殿をよほど、恨んでおいでのご様子でございます。ご要心あそばしませぬと――」
「うむ。判って居る。わしの方は、一向に、なんとも思って居らぬが……、むこうで、顔を合せれば、白眼を剥くのでの、隔意《かくい》なく話が交せぬ。恨まれてもしかたのない事情がある以上、今更、歩み寄りもできまい」
上野介は、そう云って、笑った。
十四日朝。
勅使・院使へ将軍家の勅諚奉答の式が挙行され、これが済めば、馳走人も役目の大半をおわったことになる。
内匠頭長矩は、明るい陽ざしがさして来た中庭に面した部屋で、夫人の給仕で朝食を摂っていた。
長矩も語らず、夫人も、黙している。
夫人は、大石内蔵助が懇望して貰った浅野因幡守長治の息女で、眉目麗しく、心根も優しい女性であった。
長矩の癇癖をやさしく包んで、しばしば逆上を平常にもどすことに、人知れぬ苦労をしながら、傍目《はため》には、つつましく目立たぬように自身を控えさせているように映《うつ》している。聡明は、その美しい眉目にあらわれていた。
長矩は、一膳だけ摂って、箸を投げた。
夫人がさし出すお茶を受けとった長矩は、
「奥――。大名というものは、おのれを殺さねば、生きてゆけぬのだな」
と、云った。夫人は、美しく微笑して、
「今日一日のご辛抱でございます」
「うむ辛抱だな、辛抱――」
長矩は頷いた。
その折、庭さきに、音もなく人影がうごいた。
沓石《くついし》の下で、平伏して、書状をさしあげているのをみとめて、夫人は、立って行き、それを受けとった。
主君へ宛てた城代家老大石内蔵助の手紙であった。
寺坂吉右衛門は、一度赤穂へ帰り、再び、風の迅《はや》さで、江戸へ駆け通して来たのである。
長矩は、手紙を披《ひら》いて、一読した。
それから、破顔した。
「内蔵助のやつ、わしの短気がよほど心配とみえる。短気ゆえに家をとりつぶしてしまった例をいくつも挙げて参った」
「殿は、よい家来をお持ちあそばします」
「うむ。たしかに、よい家来を持った。……奥、心配するな。ぶじに、つとめて参る」
長矩は、そう云いのこして、座を立った。
ちょうど辰刻《たつのこく》になった。
吉良上野介は、登城して、松の廊下にさしかかった時、呼びとめられた。御台所《みだいどころ》附きの留守居番|梶川与惣兵衛《かじかわよそべえ》であった。
「御台所に、御勅使の勅問がこれありましたゆえ、御台所からのお礼をいたさねば相成りませぬが、使番《つかいばん》として御宿舎へ参侯《さんこう》いたすに、何分にも、堂上の作法をわきまえず、先例をおきかせたまわらば、この上の幸甚はありませぬ」
与惣兵衛から問われて、上野介は気軽に、いろいろと使番のつとめかたを教えてやった。
「忝《かたじけ》のう存じました」
与惣兵衛が、礼をのべ、上野介が行きかけた――その時、廊下をまわって、内匠頭長矩の姿が現れた。
「あ――浅野殿」
与惣兵衛が、どうかしたのか、殊更に大きな声で呼んだ。
「何でござろう?」
「御馳走人のお手前様には、御勅使が下城なさる時刻がおわかりと存じます。後ほど、その時刻を、それがしに、お教え下さいますよう、おたのみ申します」
「承知いたした」
長矩は、こたえて、与惣兵衛とすれちがおうとした。
四、五歩さきに、上野介が立っていることは、すでにつよく意識していた。
――視もせず、口もきかねばよいのだ。
長矩は、自分に云いきかせていた。ところが、上野介の方から、話しかけて来た。
「浅野殿、勅使ご登営の刻限が、予定よりすこしおくれる模様ゆえ、左様に心得られるがよい」
「……」
長矩は、無言で、立ったきりであった。
その時、すれちがった与惣兵衛が、
「あ!」
と、声をたてた。
「浅野殿、脇差の鯉口《こいぐち》が――」
注意されて、長矩は、反射的に、右手で柄を掴んで鯉口が切れているかどうか、しらべた。
あわてた長矩は、そのために、切れていない鯉口を、逆に、切る結果になった。
その瞬間であった。
松を描いた襖《ふすま》の蔭から、目に見えない細い白いものが、宙を飛んで来るや、長矩の手くびにからまった。
それは、釣用の天蚕糸《てぐす》であった。
ぐい、と引かれて、長矩の右手は、抵抗するいとまもなく、白刃を抜いてしまった。
「何をするっ!」
長矩は、絶叫した。
とたんに、梶川与惣兵衛の「浅野殿、殿中でござるぞっ! 乱心されたかっ! 殿中で、抜刀すれば、おん身の破滅っ!」と叫びたてる声が、ふりまかれた。
長矩は、何者かに計られて、抜刀させられたと知りつつも、数歩のむこうに立っている上野介を視るや、
――もはや、これまでだ!
と、覚悟をきめた。
「吉良上野介! 亡父の遺恨《いこん》を、ここではらすぞ! 覚えたかっ!」
呶号しざま、白刃をふりかぶって、上野介めがけて、五体を躍らせた。
白刃の切尖は、上野介の烏帽子《えぼし》を裂いて、額を斬った。
老人のからだは、大きくよろめいて、廊下を鳴らした。
「うぬがっ!」
長矩は、この太刀を、足下へ匐《は》った上野介の背中へ撃ちおろした。
しかし、これも、おのが素襖《すおう》の袖に邪魔されて、浅傷《あさで》しか負わせられなかった。
もう一太刀を、とふりかぶったところを、梶川与惣兵衛に、羽掻いに抱きとめられた。
「放せっ!」
長矩は、もがいた。
「武士のなさけじゃっ! 放せっ!」
悲痛な叫びは、しかし、むなしく宙へ消えた。
忽ち――。
駆けつけた目付|所松《ところまつ》左京以下、大勢の番士に、押さえつけられ、脇差をもぎとられてしまった。
長矩は、もはや、抵抗はしなかった。
長矩は、大名たちに扶け起されて連れ去られる上野介を、茫然と見送った。
それから、頭をまわして、梶川与惣兵衛の姿をさがした。
梶川与惣兵衛に、計られた、ということだけは、明瞭に脳裡にのこっていた。
しかし、与惣兵衛の姿は、もう、その廊下には見当たらなかった。
長矩は、目付所松左京の冷たい眼眸《まなざし》と、視線がぶっつかった。
本能的な直感が、
――こやつが、自分に脇差を抜かせたのか?
と教えた。
しかし、それを口にすることはできなかった。
何者かの奸策に乗せられたのは疑いのない事実としても、抜いて、吉良上野介に斬りつけ、年中行事最大の式典をけがしてしまった罪はまぬがれぬ。
長矩は、ただ、おのが腕を押さえた人々に対して、
「乱心ではござらぬ。私怨による刃傷でござる。討ち損じたからには、もはや、あがきはつかまつらぬ。尋常に、お裁きを受け申すゆえ、お放し下され」
と、たのんだ。
その刃傷沙汰は、殿中上下に、時ならぬ騒ぎをひき起した。
松の廊下が、血でけがされたため、将軍家勅答の部屋は、急遽、白木書院から、黒木書院に変更された。
馳走人は、下総佐倉の城主戸田能登守忠真が、代わりを命じられた。
長矩は、蘇鉄の間の片隅に、屏風をひきまわされて、控えさせられた。
上野介は、高家詰所にはこばれて、外科御典医坂本養貞らによって治療を加えられたが、背中の疵は長さ五寸あまり、額の疵は軽微で、手当をするまでもなかった。
将軍綱吉は、この不始末をきかされると、激怒した。
老中若年寄の評定も待たずに、
「内匠頭を切腹させい」
と、命じた。
老中の一人|稲葉正通《いなばまさみち》は、
「仰せご尤もに存じまするが、内匠頭は、乱心のていにて、尋常の心懐をとりもどすには、しばらくの時刻を待たねばならぬかと存じまする。御処分の儀、ご猶予を願い上げ奉る」
と乞うた。
これは、長矩一人の罪として、浅野家を救おうという好意の発言であった。
秋元喬朝、土屋政直も、稲葉正通の意見に賛成した。
しかし、綱吉は、肯《き》き入れなかった。
「余の日ではない。勅使を迎えて、勅諚に奉答する日ではないか。内匠頭の振舞いは、公儀の威厳を地に墜した不敬きわまる失態である。許すわけには参らぬ。直ちに切腹させて、天朝に対し奉り、お詫びをさせるのじゃ!」
老中たちは、やむなく承服し、上野介の方の処分をきいたが、綱吉は返辞をせずに、奥へ入ってしまった。
喧嘩|両成敗《りょうせいばい》は、家康以来の規則であった。当然、上野介も切腹を命じられるもの、と思われた。
ところが、意外にも、上野介に対しては、
『公儀を重んじ、急難に臨みながら、時節をわきまえ、場所をつつしみたる段、神妙に思召さる。これによって何のお構いもなし。手疵療養いたすべき上意なり』と口達された。
この口達は、柳沢出羽守吉保が為した。
上野介は、午後おそくまで、高家詰所で、やすんでいてから、わが屋敷へ帰った。用人の松尾市兵衛に扶けられて、居室に延べられた牀に横たわると、天井を仰ぎ乍ら、
「市兵衛、わし一人が、悪者にされた模様じゃ」
と、云った。
「浅野様は、どうなさいました!」
「もう今時刻、愛宕下《あたごした》の田村邸で、腹を切って居ろうな。気の毒なことをいたした」
「刃傷を蒙ったのは、殿ご自身でございまするぞ。同情などなされることはございますまい」
「いや――」
上野介は、かぶりを振った。
「あれは、内匠頭の意志ではなかった。何者かが、内匠頭に脇差を抜かせるように仕組んだ」
「なんということを!」
市兵衛は、眉宇をひそめた。
「なにゆえに、また、そのようなおそろしいことを仕組んだものでございましょう」
「……」
上野介は、こたえなかった。無言が、それを仕組んだ者に見当がついていることを、示した。
市兵衛も、敢えて、その名を尋ねなかった。
「市兵衛――」
「はい」
「赤穂藩の城代家老大石内蔵助の名を、きいたことはないか?」
「いえ、いまだ……」
「若い頃は、昼行灯《ひるあんどん》などというあだ名をもらったそうだが、尋常一様の器量人ではない、という噂が、わしの耳に入って居る」
「左様でございますか」
「主家が改易《かいえき》になって、大石内蔵助が、どのようなことを考え、いかなる行動を起すか、それが、問題じゃな」
「殿!」
市兵衛は、はっとなって、主人を視た。
上野介は、目蓋《まぶた》を閉じた。
「疲れた。……ひとねむりいたそう」
そう云って、口を緘《つぐ》んだ主人を、市兵衛は、しばらく、不安をこめて、見戍《みまも》ったことだった。
お軽勘平
大石|内蔵助《くらのすけ》は、雨戸に小石が当る音で、目をさました。小石は、つづけさまに、三つ当った。
内蔵助は、起き出て、雨戸を一枚、繰《く》った。
春の夜のおぼろ月の下に、|つくばい《ヽヽヽヽ》わきにうずくまった人影を視て、
「吉右衛門か?」
と云うと、人影は、するすると進んで来て、
「一大事にございます」
と告げた。
「申せ」
「お殿様には、十四日朝、松のお廊下にて、吉良上野介《きらこうずけのすけ》殿に、刃傷《にんじょう》あそばされました」
内蔵助は、その報告をきくと、巨大な巌《いわお》のようなものが、ずしりと、肩にのしかかって来る衝撃をおぼえた。
――そうか、やはり!
不吉の予感は、寺坂吉右衛門を江戸へ趨《はし》らせた時から、あったのである。
今日は十六日である。吉右衛門は、わずか三日で、江戸から赤穂《あこう》へ、駆け戻って来た。しかし、呼吸のみだれもみせてはいない。
「討ち果たされたか?」
「いえ、浅傷とみえました。上野介殿には、午後には、屋敷へ戻られ、用人と話を交されて居りましたゆえ……」
吉右衛門は、吉良邸の天井裏に忍び込んで、上野介と用人松尾市兵衛との会話を、ぬすみぎいたのである。
内蔵助は、その会話の内容を吉右衛門からきいて、上野介が想像した通りの人物であることを、知った。
吉右衛門は、その会話によって、主君が切腹を命じられたことを知り、ただちに、愛宕《あたご》下の田村右京大夫邸へ奔《はし》り、その死をたしかめ、そこから、まっしぐらに、赤穂めざして、昼夜を駆け通して来たのであった。
「……休息いたせ。ご苦労であった」
内蔵助は、寝室へもどると、そのまま、つめたい畳の上に、ぴたりと坐った。
もう夜明けが近い。
――どうなる?
内蔵助は、おのれに問うた。
――どうにもならぬ。なるようにしか、ならぬ。
内蔵助は、闇を、凝《じ》っと見据《みす》え乍ら、主家があとかたもなく消え散る無情を、想った。
急変を知らせる片岡源五右衛門の書状を持った第一の早打ちが、赤穂へ帰着したのは、それから二日後の十八日の夜であった。早水藤左衛門《はやみとうざえもん》と萱野三平の両名であった。
その二日間、内蔵助は、誰にも黙って、平常通りに振舞っていたが、肚裡《とり》ではひとつの決意をかためていた。
決意にしたがった行動が、とられることになった。
早水藤左衛門も萱野三平も、片岡源五右衛門の書状を披見する内蔵助の様子が、みじんも乱れず、書状を巻きおわっても、依然《いぜん》として、顔色も変わっていないのを、いぶかったことであった。
内蔵助は、両名に対しては、一言も質問を発せず、うしろに控えた用人に、
「家中一同、直ちに登城いたすように触れるがよい」
と、命じた。
家中総出仕の触れは、時ならぬ真夜中の太鼓を城内から、廊下へひびき渡らせることであった。
赤穂城に於いて、太鼓櫓《たいこやぐら》が深夜、非常打ちに、鳴らされたのは、その夜がはじめてであった。
半刻を経ずして、家臣三百余人が、城内大広間に、整然と坐った。
内蔵助は、おのが席に就くと、
「只今、江戸屋敷より、片岡源五右衛門の書状が到着いたした。これを読み上げ申す」
と、云った。
何事が起ったのか――誰一人、知らなかった。
極度に緊張した静寂が、大広間を占めていた。
『口上書を以て申し上げ候。……御|勅使《ちょくし》柳原|大納言《だいなごん》様、高野中納言様、静閑寺《せいかんじ》中納言様、御道中御機嫌よく、当月十一日御到着、十二日御登城あそばされ、十三日御饗応御能あいすみ、翌十四日御白書院に於て、御勅答の式これあり候、御|執事《しつじ》役人諸侯のこらず御登城相成り候ところ、松の廊下に於て、吉良上野介殿|理不尽《りふじん》の過言を以て恥辱を与えられ、これにより、君刃傷に及ばれ候、しかるところ、同席梶川殿押えさせられ、多勢を以て白刃をうばい取り、吉良殿を打ち留め申さず、双方とも御存命にて、上野介殿は大友近江守殿へおあずけになり、伝奏饗応司は戸田|能登守《のとのかみ》殿へ仰《おお》せ付けられ候、あらまし右の通り候条、何れにも御家大切の時節に候故、御注進として早水藤左衛門、萱野三平両人馳せ登らせ申し候、この日取急ぎ、書中いちいちする能わず、両人委曲言上仕る可く候、尚追々御注進仕る可く候、恐惶謹言《きょうこうきんげん》
三月十四日|巳之下刻《みのげこく》
片岡源五右衛門
大石内蔵助殿』
読み了った時、大広間の空気は、やはり、静寂であった。しかしそれは、内蔵助が書状をひろげる前とは、全くちがった静寂であった。
衝撃の大きさが、三百余人を、一瞬、茫然《ぼうぜん》と、自失状態に陥れたのである。
と――末座の方から、
「無念なっ!」
一言、血を吐くように、叫んだ者があった。
それをきっかけにして、歔欷《すすりなき》の声が、あちらこちらで起った。
内蔵助一人、冷たいまでの無表情で、家中一同を、見やっていた。
翌十九日|卯刻《うのとき》(午前六時)――第二の早打ちが帰着した。原惣右衛門と大石瀬左衛門であった。
両名は、凶変《きょうへん》に関する一切の処分を見とどけて、同夜ただちに、江戸|鉄砲洲《てっぽうず》邸を発して、百五十五里の里程を、四日半で乗り打って来たのであった。
再び、総出仕の触れがあって、家臣三百余人は、主君の切腹、赤穂藩|改易《かいえき》、の悲報をつたえられた。
大広間には、もはや、静寂はなかった。
内蔵助が口をつぐむと、忽ち騒然となった。内蔵助は、しばらく、一同が、興奮し、騒ぐままにまかせた。
「大夫! 吉良上野介は、神妙、なんのおかまいもなし、とはまことでござるか?」
一人が、面を朱にして、問い、
「左様――本復の上は、常のごとく出仕、との上意」
という内蔵助の言葉をきくや、数人が突っ立って、
「喧嘩両成敗が、ご法度《はっと》でござるぞ!」
「ばかなっ! これが、ご政道かっ!」
「許せぬっ! 公儀のお裁きとは思えぬっ!」
と、口々に叫びたてた。
それから三日の間、大広間に於て、評議はつづけられた。
さまざまな意見が、しだいに、すてられ、まとめられ、やがて、二派にわかれた。
長矩《ながのり》の弟|大学長広《だいがくながひろ》を立てて、たとえ半知、いや三分の一であろうとも、浅野家を存続すべく、公儀に嘆訴する。
このことに、一同は、異存はなかった。
意見は、もし、これが採られず、しりぞけられた場合、家臣としていかなる態度をえらぶか――そのことで、二派となった。
「いさぎよく城を枕に討死せん」
と主張する派と、
「城にたて籠って、大学殿お取立てを嘆願するのは、強訴に類す。よろしく家中解散して、復図をめぐらしたがよろしからん」
と、恭順を述べる派と――。
後者の主唱者は、大野九郎兵衛であった。
大野九郎兵衛は、門閥《もんばつ》の城代家老である内蔵助の次にある仕置家老であったが、藩の財政を専らにして居り、実務の才腕を持っていた。
三十余年にわたって、赤穂藩の内証を豊かにするために、営々として励んで来た自分の功績が、主君の軽率《けいそつ》な行為で、一朝にして、潰《つい》え去ったのである。九郎兵衛にとって、それが、腹立たしかった。
――殿には、その時、家中一同、その家族、領民の顔や、田畑や塩田の景色などが、脳裡に、泛《うか》ばれなかったのか? もし、泛んでいたならば、かるがるしゅう、脇差を抜かれなかった筈だ。
九郎兵衛は、そう思うと、家来を忘れ、領土を忘れた主君のために、城を枕に討死する決意など、起らなかった。
評議三日目に、九郎兵衛は、中途で、座を立ってしまった。
そのあとで、衆議は一決し、内蔵助は、左のような嘆願書をしたためた。
『おそれ乍ら、書付《かきつけ》をもって申上げ奉り候、このたび内匠頭不調法仕り候て御法式の通り仰付けられ候段、畏《かしこま》り奉り候、然れ共、上野介殿御存生の由《よし》承り伝え候、左候えば、当城離散仕り、何方《いずかた》へ面を向け申す可き様も御座なく候、この段家中一同の存念に御座候に付、色々教訓仕り候得共、田舎者にて御座候えば、普通に承引《しょういん》仕らず候、然乍《しかしなが》らもし離散仕り安心仕る可き筋も御座候わば、各別之儀に御座候、上に対し奉り、毛頭御恨みがましき所存御座なく候得共、当城に於て餓死仕る可く覚悟に御座候、この段申上げ候、恐惶謹言
元禄十四年三月二十四日
大石内蔵助
並家中一同
荒木十左衛門様
榊原采女《さかきばらうねめ》様』
しかし――。
努力は、すべて、むなしかった。
嘆願書を持参した使者多川九左衛門、月岡治右衛門が、出府した時には、荒木十左衛門、榊原采女の城受取添役は、すでに江戸を出発したあとであった。
大垣城主であり、内匠頭長矩の従弟である戸田采女正から、内蔵助宛てに、
「城を、無事に、明け渡すように――」
という手紙も、届いた。
内蔵助は、四月に入って、三度び、家中一同を大広間に召集した。
そして、徐々に、開城実現に、会議をはこんだ。
内蔵助の肚《はら》は、寺坂吉右衛門が報告をもたらした時から、きまっていた。
――復讐。
それだけであった。
大学長広によって、浅野家を復興するなど、不可能であることを、百も承知していた。
将軍綱吉が、いかなる人物か、柳沢出羽守吉保《やなぎさわでわのかみよしやす》がどんな思案を腹中にひそめているか――内蔵助は、看てとっていた。
幕府を対手に、じたばたともがいてみたところで、徒労に畢《おわ》るのは、目に見えていることであった。
ただ――。
復讐へ、事をはこぶには、手続き、順序があった。内蔵助は、それを、踏んだだけであった。嘆願書など、真剣で、したためたわけではなかった。
四月十一日、第三回目の会議に於て、開城は決定した。
その夜、更けて――。
内蔵助は、吉右衛門を走らせて、六十人の藩士を、おのが屋敷へ呼び集めた。
第一の早打ちが到着して以来、いくたびかの会議を開き乍ら、内蔵助は、一人一人の人物を、注意ぶかく観察していたのである。そして、六十人を選び出したのである。
内蔵助は、奥座敷に、ぎっしりと詰めた六十人を、ゆっくりと見渡して、
「今夜、諸士に参集してもろうた理由は、すでに合点《がてん》の仁もあろうと存ずる。……申すまでもないこと乍ら、士が守るべきものは、節操である。勁草《つよくさ》を知るには、疾風《しっぷう》に遭《あ》わねばならぬ。義を重んじて節に臨む時、命を軽んずるは、士たるものの運命と存ずる。……と申せば、おわかりであろう。わがあるじは、吉良上野介殿に、恨みの太刀を加えんとして、果さず、無念の中に、腹を召された。されば、その家臣たる者、あるじに代わって、その恨みをはらすのは、正邪の理《ことわり》と事《こと》仰々しく申し立てるまでもなく、これが、士道の吟味と申すもの。……遠くさかのぼって、仰ぐに、安康《あんこう》天皇が、根使主《ねのおみ》の讒訴《ざんそ》を信じたまいて、罪のない大草香《おおくさか》皇子を殺害されるや、大草香皇子の御子|眉輪《まゆわ》王は、これを怨《うら》みとして、天皇を弑《しい》した故実あり。雄略《ゆうりゃく》天皇が、それを憤りたまいて、眉輪王を取調べられるや、眉輪王は、臣はもとより天位を求めず、唯父の仇を報ゆるのみ、とこたえられた、と申す。さらに、顕宗《けんそう》天皇は御父君が雄略天皇のために害せられたのを、怨みたまいて、御即位後の二年三月上巳の曲水《ごくすい》の宴に、皇太子と群臣に向って、次のごとく仰せられて居る。わが父君は、罪無きを射殺され、骨を郊野に棄て、いまだ獲《え》ず、憤り歎懐《たんかい》に盈《み》ち、臥《ふ》して泣き、讐《あだ》の恥を雪《すす》がんと志《おも》い、われきくに、父の讐は、与《とも》に共に天を戴かず、兄弟の讐は兵を反《かえ》さず、交遊《とも》の讐は国を同じゅうせず、それ、匹夫之子は、父母の讐に居り、苫《とま》に寝《い》ね、干《たて》に枕《ね》て、国を与《とも》にせず、緒《これ》に市朝《いちみかど》に遇《あ》えば、兵を反《かえ》さずして、便《すなわ》ち闘う、いわんや、吾立って天子たること今に二年、ねがわくは、その陵《みささぎ》をやぶりて、骨を摧《くだ》いて、投げ散らさん、いまこれを以て報わば、亦た孝にあらざらんか、と。……諸士は、この覚悟をなすべき立場に置かれた。今日ただいまより、死士たる決意をして、この内蔵助に従って頂きたく存ずる」
そう説いてから、あらためて、見渡し、
「如何に、御一同?」
と、問うた。
「仰せ、うけたまわった」
六十人中の首座に就いている奥野将監《おくのしょうげん》が、こたえた。
内蔵助は、頷いてから、
「なお、讐を復《う》つには、それだけの歳月を要すると存ずる。その間、志を不変のままに持すことは、人情として、容易ならざること。おのが自身の心変り、周囲の事情によるやむなき脱落も、あるかと存ずる。これもまた、やむを得ざる仕儀《しぎ》であれば、去る者に対して非難をあびせざること。さらに、去った者は、われら同志の企てるところを、絶対に他言せざること。これを誓うて頂かねばならぬ」
と、念を押した。
六十人は、内蔵助の議に従った。そして、署名血判は、為された。
四月十九日。
播州竜野《ばんしゅうたつの》の城主・脇坂淡路守安照《わきさかあわじのかみやすてる》と備中|足守《あもり》の城主・木下|肥後守利康《ひごのかみとしやす》の両受城使が入城して来た。
すでに、前日、副受城使である荒木十左衛門、榊原采女が、入城して、受取りの下検分を為し、城内の一糸みだれぬ整頓《せいとん》ぶりに、
――赤穂城に、人あり!
と、賞嘆《しょうたん》していた。
尤も――。
赤穂藩にも、卑劣《ひれつ》の士が、いないことはなかった。
荻原一統と称する兄弟がいた。兄荻原兵助は百五十石、弟儀右衛門は百石をもらい、禄高はさして多くなかったが、父祖が塩田をひらくにあたって、功績があり、大層な物持ちになっていた。赤穂はもとより、隣藩にも比肩《ひけん》するものがいないくらい、金子《きんす》のたくわえがあった。この荻原家に、大砲《おおづつ》が二門あった。
十八日昼、内蔵助が調べてみると、荻原兄弟は、いつの間にか、その二門の大砲を、受城使の脇坂淡路守に売り渡して、遁走してしまっていた。
二門の大砲は、大手にちかい台地に、赤穂城へ向って、据えられていたのである。
内蔵助は、しかし、憤りはしなかった。
――疾風をくらえば、弱草はなびくのみ。
去る者は、追わずであった。
「終わったの」
内蔵助が、云った。
屋内は、がらんとしていた。物音ひとつ、絶えている。
城を明け渡すとともに、内蔵助は、おのが一家をも処分していた。
妻と幼い子らを、妻の実家である但馬《たじま》国豊岡へ、帰してしまったのである。家には、十四歳になる長男|主税《ちから》良金だけを残していた。
「終わりましたな」
向いの座に就いて、こたえたのは、大目付であった間瀬久大夫《ませきゅうだゆう》であった。内蔵助よりも五歳も年長であったが逆に五つも若くみえる。飄々として、いかにも愛嬌のある人柄にみせているが、いざとなると、峻烈果断の挙《きょ》に出て、罪を問うに寸毫《すんごう》も容赦しなかった。
「大夫は、明日から、どうなさるおつもりでござろうか?」
「下僕の八助の在所が、尾崎村だ。そこに、しばらく仮寓して、それから、京へ上って、すまいをさだめる」
内蔵助は、こたえた。
間瀬久大夫は、内蔵助が、左右の腕に、疔《ちょう》をわずらい、ひどく難渋しているのを、知っていた。
下僕の在所で、その疔を癒《いや》そうとするのだ、と久大夫は、思った。
「それがしの家内を、おそばにつけましょう。二十年もわずらい就いて居った亡父に仕えて居りましたゆえ、看護には馴《な》れて居ります」
「いや――」
内蔵助は、かぶりを振ると、
「看護に馴れた女子よりも、目をたのしませてくれる若くて、眉目も肌も美しい女子がよいな」
「……?」
「この赤穂で、随一の小町娘は居らぬかな? お主なら、存じて居ろう」
「大夫!」
「目くじらたててくれまいぞ、久大夫。……この内蔵助の評判をさらに一層おとすための方便じゃ」
すでに、大石内蔵助の評判は、さんざんであった。
長矩の弟大学が閉門《へいもん》を命じられたのにひきかえ、松の廊下で長矩をとり押えた梶川与惣兵衛《かじかわよそべえ》は五百石加増を受け、吉良上野介は、役儀、願いの通り免《ゆる》されて、養子左兵衛(良周《よしちか》義周《よしちか》に吉良家を嗣《つ》がせて、楽隠居になっていた。
この片手落ちの裁きに対して、当然、赤穂城では、城代家老大石内蔵助は、立て籠もって、公儀に抗議し、再興が許されない秋《とき》は、いさぎよく、城を枕に討死すべきである、という期待を、日本全土の人々が、していたのである。
その期待を裏切って、内蔵助は、のめのめと、城を明け渡してしまったのである。
非難は、内蔵助に、集中していた。
「さらに、一層、評判をおとすために?」
久大夫は、内蔵助の言葉を、|おうむ《ヽヽヽ》がえしにした。
「密偵がこの赤穂に忍び込んでいる、と報せてくれたのは、お主ではなかったかな」
内蔵助は、云った。
「左様、それがしが、調べたところでは、密偵とおぼしい怪しい男が、すくなくとも、六人は、城下に入って居ります」
「せっかく参ってくれたその者らに、大石内蔵助は腰抜けの阿呆者《あほうもの》であった、と報告してもらわねばなるまい。密偵を送り込んで来たのは、上杉家の江戸家老|千坂兵部《ちさかひょうぶ》、とわしはみて居る。千坂兵部対手の智慧くらべは、容易ではない」
久大夫は、そう云われて、しばらく、考えていたが、
「|かる《ヽヽ》と申す娘が居ります。父親は、掛川長助と申して、十両五人扶持の徒士《かち》目付でありましたが、三年前に、死亡して居ります。|かる《ヽヽ》ほどの器量は、京島原、江戸吉原をさがしても、見当るまい、という噂があり、それがしも、みとめて居ります」
と、云った。
「やはり、この赤穂にも、絶世の美女が居ったか。……では、その|かる《ヽヽ》とやらを、たのもう」
「かしこまりました」
久大夫は、ひき受けた。
久大夫は、掛川長助|女《むすめ》・|かる《ヽヽ》には、萱野三平という、義盟に加わった若者が、許婚者としていることを知っていた。しかし、わざと、内蔵助に黙っていたのである。
萱野三平は、醇朴《じゅんぼく》な若者であった。
先祖代々十二両二分三人扶持の徒士《かち》であった。父母には、幼い頃、死にわかれ、一人で育った。
三年の江戸勤番がおわって、来年春に、国許へ帰って来たならば、掛川長助の女|かる《ヽヽ》と祝言する筈であった。
思いもかけず、主君が殿中の刃傷によって、第一の早打ちとなって、帰国した三平は、禄をはなれて浪人したからには、|かる《ヽヽ》と祝言どころではなかった。
三平は、城代家老に従って、主君の恨みをはらすべく、義盟に加わり、|かる《ヽヽ》をあきらめようとしていた。
もとより、赤穂小町と称《よ》ばれている|かる《ヽヽ》のすがたが、三平の脳裡から片時もはなれた次第ではない。だからこそ、三平は、|かる《ヽヽ》に会おうとしなかった。会えば、未練が出る。死士たることを誓った覚悟《かくご》が、崩《くず》れそうであった。
長屋にいれば、|かる《ヽヽ》が会いに来る、と思って、三平は、足軽頭であった原惣右衛門の家に、身を寄せて、想いを押し伏せていたのである。
原惣右衛門は、近日中に、江戸へ向って発足する、という。三平は、乞うて、その供をするつもりであった。
間瀬久大夫が、訪れた日、三平は、庭に立って、ぼんやりと、東の方を眺めていた。その方角に、|かる《ヽヽ》の家があった。
「萱野――」
呼ばれて、われにかえった三平は、元大目付を見出すと、鄭重に頭を下げた。
「話がある。座敷へ参れ」
久大夫は、三平をともなって、上ると、すぐに、
「お前は、なぜ、天下一の美女を泪《なみだ》にくれさせて、当家の居候になって居る?」
と、訊ねた。
三平は、怪訝《けげん》の眼眸を返した。覚悟をにぶらせまい、と必死に堪えていることが、どうして、この慧眼《けいがん》の元大目付に、わかってもらえないのか?
「思慮が浅いぞ、萱野――」
久大夫は、云った。
「なんと申されます?」
「お前は、第一の早打ちとして、江戸から駆け戻った者だ。殿のご無念を、身をもって感じている者だ。お前の挙動は、多くの人が注意して見て居る。……よいかな。当城下へ、吉良方から潜入した間者が、報復の企てがあるかないか、さぐるには、まず第一に、城代の動静、次には、お前ら早打ちの者の挙動だ」
「……」
「間者は、お前が、赤穂小町を許嫁《いいなずけ》に持つ、と知る。その美しい娘に、故意に、会おうとせぬのは、当然、義挙の企てに参加しているためだ、と解釈する。……そうであろう」
「はい」
「遠慮するな、萱野――。祝言をせい、祝言を」
「し、しかし……大目付殿!」
「はは……、天下一の美女を妻に持てば、この世に未練が出て、脱盟のおそれがある、と申したいのか。よいではないか、大夫は、申されたぞ。心変りも、周囲の事情によって脱落することを余儀なくされるのも、また、いたしかたがあるまい、とな」
「大目付殿――。この萱野三平は、第一の早打ちを勤めた者でございます。脱盟など、思いも及びませぬ」
「それならば、いざとなった時、|かる《ヽヽ》を殺して、参加せい。それだけの度胸があってこそ、第一の早打ちを為した者の面目と申すものだ。……よいか、われわれは、日本全土からの視線をあびて居る。盟約のことが、露見してはならぬ。……自然に振舞わねばならぬ。自然にだ、よいな」
「はい――」
三平は、承知した。
次の日の宵。
故掛川長助の家で、ささやかな祝言がとりおこなわれた。
白無垢《しろむく》をまとい、綿帽子で顔をかくした花嫁の介添《かいぞ》えは原惣右衛門の妻が、つとめた。
|かる《ヽヽ》の母|むよ《ヽヽ》は、なぜか、祝言の席に姿を見せなかった。
仲人は、間瀬久大夫が、つとめた。
喪家の者たちの婚礼であるために、列座する士は一人もなかった。ただ、赤穂小町がついに嫁になるのをそねむ者は多く、三々九度の盃が交されはじめるや、凄じい音をたてて、瓦礫《がれき》が、戸口といわず、雨戸をいわず、投げつけられた。石打ちという習俗は、この頃はさかんであったが、この家へ投げつけられる瓦礫の数は、まことに夥《おびただ》しかった。
久大夫が、高砂の謡のひと節を、めでたく納めると、ふつうは、花嫁は紅小袖に更《あらた》めるのだが、これは略された。
新郎新婦は、久大夫に促されて、奥の寝室に入った。
貧しい軽輩《けいはい》の家で、しかも、禄をはなれた者がむすぶ初夜の夢を、彩るものは、わずかに、鴛鴦《えんおう》の屏風だけであった。
三平が、牀に就くと、花嫁は、行灯《あんどん》のあかりを消して、寝室を、しんの闇にした。
そして、暗黒のなかで、白無垢を脱いだ。その衣ずれの音をきくうちに、三平の胸の鼓動は、音をたててはやくなった。
祝言をするとみせかけて、実際の契《ちぎ》りはむすぶまい、などと考えもした三平であったが、もう、男の本能を抑えるすべはなかった。
花嫁が、掛具をあげて、そっと、かたえに横になった。
三平の身も心も、顫《ふる》えた。
三平は、|かる《ヽヽ》と、三月十八日以来、一度も、顔を合せず、まして声も交してはいなかった。今宵《こよい》、二月ぶりに会い乍らも、綿帽子をかぶった顔を見ることも叶わず、それぞれの座に、黙々として坐っていたばかりである。
三平は、行灯にあかりをつけて、|かる《ヽヽ》の顔が見たかった。しかし、羞恥で闇にしたのを、つけるわけにはいかなかった。
せめて、何か、話を交したかった。
しかし、万感胸にせまって、何を話していいのか、わからなかった。
三平は、言葉が見つからぬままに、わななく手をのばした。
花嫁もまた顫えていた。喘ぎが、三平にきこえた。
三平が、女の肌にふれるのは、今宵が生まれてはじめてであった。|かる《ヽヽ》のために、童貞をまもったのである。
――わしは、|かる《ヽヽ》を抱いている!
――|かる《ヽヽ》が、いま、わしの妻になる!
――わしと|かる《ヽヽ》は、とうとう、夫婦《めおと》になる!
世界が、自分たち二人きりのものになった歓喜で、三平は、胸中で叫びたて乍ら、花嫁の唇を吸った。
時間をかけて、愛撫し、生娘《きむすめ》の極度に緊張したからだを、ほぐしてやる余裕など、あるべくもなかった。
本能のはやるがままに、掩《おお》いかぶさった瞬間、花嫁が抵抗を示した。
「ゆ、ゆるせ」
三平は、思わず、叫んだ。
その叫びが、花嫁に、抵抗を止めさせた。
……営みは、あっけなく終った。
三平は、おのれの身の内から、急速に、情気が去るのをおぼえつつ、脳裡の片隅に、ひとつの疑惑を湧かせていた。
いつぞや、朋輩《ほうばい》が話していたことである。
「生娘をわがものにするには、ひどく痛がるゆえ、三日もかかる」
その言葉を、三平は、思い出していたのである。
おのれの下にいる花嫁は、疼痛《とうつう》を訴えもせず、きわめてたやすく、からだの中へ、受け容《い》れたのである。
その疑惑は、翌朝になって、三平を驚愕させることによって、解明された。
花嫁は、|かる《ヽヽ》ではなかった。
かるの母親の|むよ《ヽヽ》だったのである。
大石内蔵助は、駕籠《かご》の中で、目蓋を閉じ、腕を組んでいた。
住み馴れた赤穂の城下をはなれて、下僕八助の在所尾崎村へ、趨《おもむ》こうとしていた。
前の駕籠《かご》には、|かる《ヽヽ》を乗せていた。
供には、徒士の横川勘平と、忍びの者寺坂吉右衛門の二人を、連れているだけであった。
尤も、途中で、不意に、多勢の敵に包囲されたとしても、さしておそるるには足りない。横川勘平は、居合の達人であり、吉右衛門の業《わざ》は、あらためて述べるまでもない。
――これからだ!
内蔵助は、目蓋にとどめて来た城が、しだいに遠くなるのを感じ乍ら、自分に云いきかせていた。
――これからだ! わしが、頭領としての力を、どれだけ、発揮できるか、これからだ!
その時、後方から、絶叫しつつ追って来る者があった。
横川勘平が、駕籠へ寄って来て、
「萱野三平が、参ります」
と、告げた。
「なにか、城下で大事が起ったかな?」
内蔵助は、眉宇をひそめた。
横川勘平には、三平が追ってきた理由が、判っていた。許嫁者を、盟主である人に奪われて、追って来たのだ。
横川勘平は、しかし、咄嗟《とっさ》に、それを説明しかねた。
「待たれいっ!」
三平は、疾風を起して、追い着くや、あっという間に、先へ出て、地べたに、ピタリと坐った。
駕籠は、停められた。
三平は、脇差を抜きはなった。
これを視て、|かる《ヽヽ》が、ころがるようにして、駕籠から出ると、
「三平さんっ!」
と、叫んで、駆け寄ろうとした。
「寄るなっ!」
三平は、凄まじい形相で、睨みつけて、|かる《ヽヽ》をその場へ釘づけにしておいて、
「大夫っ!」
と、呼んだ。
内蔵助は、駕籠から出ると、
「なにをする、萱野!」
「理由は、後刻、間瀬久大夫殿から、きかれませい!」
云いのこしざま、三平は、なんの逡巡もなく、脇差を、腹へ突き立てた。
後年、「三平」があやまって、「勘平」とつたえ残されたのは、その時、横川勘平が、三平の介錯《かいしゃく》をしたため、とりちがえられたものであろうか。
高田郡兵衛
上杉家江戸家老|千坂兵部《ちさかひょうぶ》は、初冬の陽ざしが匐《は》った座敷に、寝そべって、女中に腰をもませていた。
美男で通っている男であった。彫《ほり》が深く、鼻梁《びりょう》が美しく通っている。長身で、着流し姿も、裃《かみしも》姿も、どちらも惚《ほ》れ惚れするくらいである。
頭脳の鋭さは、刃物に似て居り、それが、時おり、露骨に光って、凡庸《ぼんよう》な人々を戦慄させるのが、難といえば難である。
主君上杉綱憲は、千坂兵部の云いなりであった。
庭に跫音《あしおと》がした。その跫音で、吉良家に遣《や》ってある牧野|春斎《しゅんさい》と知った。
牧野春斎は江戸町家の子であったが、その慧敏がみとめられて、上杉家の茶道坊主となり、このたびの凶変があって、千坂兵部が、吉良上野介の左右に侍させた。
牧野春斎は、附人が名目であったが、千坂兵部の命を受けて、上野介自身を監視する役目をつとめていたのである。
上杉家へ戻って来て、千坂兵部の役宅をおとずれる時は、玄関で案内を乞わずに、必ず、庭をまわって来る。
のみならず、姿を現すのは、まるで、見通したように、兵部が座敷で憩うている時刻に限っていた。
春斎は、座敷に上って来ると、女中を遠ざけておいて、
「大石内蔵助|儀《ぎ》、今朝、江戸を去りました」
と、告げた。
大石内蔵助は、六月二十五日、播州赤穂領より退去し、京都附近|山科《やましな》西之山村に、家屋敷を買いとって、隠栖《いんせい》していた。
そして、今月――十一月二日、不意に、出府して来たのであった。
内匠頭の実弟大学をして、浅野家再興の請願をするというのが口実であった。
千坂兵部は、牧野春斎に命じて、隠密《おんみつ》数人を使い、出府して来た内蔵助の行動を、さぐらせていたのである。
内蔵助は、まず、泉岳寺の亡君の墓に詣で、次に、その後室|揺泉院《ようせんいん》に伺候《しこう》した。
それから、浅野家再興の旨趣《ししゅ》を老中がたへ取り次いでくれた御目付荒木十左衛門を訪問し、さらに、宗家である広島藩松平|安芸守《あきのかみ》及び同族浅野|美濃《みのの》守、浅野左兵衛らの邸に、ご機嫌《きげん》伺いに罷り出ていた。
表面上の内蔵助には、なんのあやしむべきところはなかった。
内蔵助の泊まった旅館には、旧家臣が、つぎつぎと挨拶に来ていたが、これとて、当然の礼儀であり、かれらはいずれもばらばらにやって来て、同志全員が一堂に会合した様子はさらになかった。
内蔵助は、恰度《ちょうど》、二十日間、江戸に滞在して、べつに何事もなく、今朝、上方へ還《かえ》って行った、という。
「春斎――。お主が見るところは、どうだな?」
千坂兵部は寝そべったまま、訊ねた。
「大石に、報復の存念があるかないか、ということでございますか?」
「浅野家再興が不可能であることを、内蔵助程の者が、見通せぬ筈はあるまい」
「それがしの見るところ、大石には、報復の決意は、すでに動かぬものとなっている、と存じられます」
「うむ――」
「大石は、吉良邸が、上杉家によって、どれだけ、防備されて居るか、それを、はっきりとたしかめたく、出府《しゅっぷ》いたしたものと思われます。江戸に在る旧家臣らに、その報告をさせたに相違ありませぬ」
江戸に在る浅野家旧家臣は、堀部安兵衛、高田郡兵衛ら、武術をもって一流のきこえのある連中であった。
渠《かれ》ら硬派が、荏苒《じんぜん》無為に日が経つのを、我慢している筈がなかった。渠らは、仇討の拳を、一日もはやくと急いでいるに相違なかった。
いや、すでに、その証拠が、あった。
堀部安兵衛が、山科隠宅へ宛てて送った手紙を、春斎の派遣した忍びのものが、府中の旅籠《はたご》でぬすみ読むことに成功していたのである。
それには、次のように記されてあった。
『ここもとに於《おい》ても、人並みに存じつめ、まかり在り候者どもは、かくべつの儀にご座候。一義、黙しがたく存じ居り候者は、渡世の儀さしおき、この一義を第一と存じ候ゆえ、さしあたり難儀《なんぎ》つかまつる衆もこれあり候。事永く相待つ末に、必定本意を遂げ申す儀、手に取り申し候わば、如何様なるていに成り下り申すとも、この段いとい申すまじく候えども、何を本意に相待ち申す可き道理相見え申さず候えば、たがいに見苦しきていに、まかり成らざる内にと、これのみ心掛け申し候』
すなわち、その意は――。 同志の中には、のんきな輩《やから》は、内職に、医師を開業したり、手習その他の師匠をしたり、点者《てんじゃ》や宗匠《そうしょう》のまねをしたりして、収入の道をつくっているが、われわれ復讐の一念にこりかたまっている者は、商いをしたりするような余裕はさらになく、日に日に食いつめる一方である。それも、必定いつ頃までに本望を遂げ、目的を達し得られるときまっているならば、襤褸《ぼろ》を衣《き》ようが、水を飲んで飢えをしのごうが、さらに厭《いと》うところではないが、成敗利鈍は臣が明のあらかじめ睹《み》るところに非ず、ねがわくは、あまりに尾羽打ち枯らさぬうちに、義挙を敢行して頂きたく存ずる。
堀部安兵衛は、浪々の生活を幾年も送った者である。貧窮というものが、いかに、人間の志をむしばむものであるか、知りすぎるほど知っていたのである。
「どうするかな、春斎?」
兵部は、なお寝そべったまま、訊ねた。
「それがしが、調べたところ、大石を首領として報復の義盟を為した六十余名は、過激派、穏健派、中立派と、幾派かに岐《わか》れて居りまする。されば、このうちの最も急進の硬派をして、突如として、豹変させるのが、士気を沮喪《そそう》させる捷径《しょうけい》かと存じられます」
「成程の――。では、さしずめ、堀部安兵衛あたりを、裏切らせるか」
「堀部安兵衛を変節させることは、不可能でございましょう。それがしは、高田郡兵衛を候補に挙げまする」
「堀部と高田と、どうちがう?」
兵部は、訊ねた。
高田郡兵衛は、堀部安兵衛と同じく、兵法者《ひょうほうしゃ》として、浅野藩に、二百石で召し抱えられた士であった。槍術《そうじゅつ》の達者として、関東にかくれもなかった。
旗本に知己も多く、内匠頭が、桜田御番所勤番の折など、旗本の方からわざわざ、郡兵衛に挨拶しに、近づいて来るくらいであった。
浅野藩で、堀部安兵衛、奥田孫大夫とともに、兵法三羽鴉と称されていた。
堀部安兵衛を変節させることが不可能であって、どうして、高田郡兵衛を変節させることが可能なのか?
「堀部と高田は、その家族に、相違があります」
春斎は、こたえた。
堀部安兵衛には、養父に気骨をもって鳴る弥兵衛が居り、弥兵衛のきびしい躾《しつけ》を受けたその娘《むすめ》が妻になっている。
高田郡兵衛には、兄弥五兵衛がいるが、これは病弱で、一年の大半を牀《とこ》に伏《ふ》して居る。郡兵衛は、いまだ妻帯せず、伯父に当る旗本内田三郎右衛門から、しきりに養子にと、望まれている。
「さらに――」
春斎は微笑し乍ら、つけ加えた。
「兄弥五兵衛の妻女は、大層な美人でありまする。どうやら、郡兵衛は、兄の妻女の美貌がまなこの底にあって、なまじの器量の娘をめとりかねているふしが、うかがわれます」
それだけきけば、充分であった。
千坂兵部は独語するように、
「手筈に、万全を期さねばなるまい」
と、云った。
それから、急にむっくりと起き上り、
「御隠居の様子は、どうだ?」
と、訊ねた。
「役儀御免になられてより、もっぱら、茶の湯、数寄事《すきごと》に日々を送られるように、とまわりの者どもがおすすめして居った由にございますが、やはり、学問好きは、書屋に一日中とじこもられる日が多うございます。先日、書屋にて、気遠くおなりになり、しばらく、床の上に臥されて居りました」
「お主が看るところは――?」
「長くても、二、三年かと存じます」
春斎は、冷然として、断定してみせた。
千坂兵部としては、吉良上野介に、長生きされるのは、まことに迷惑なことなのであった。
なろうことなら、内匠頭に斬りつけられた傷が、悪化して、そのまま、他界してもらいたかったところである。
上野介が、上杉家当主の実父である上からは、もし赤穂の旧家臣らに仇討をされては、上杉家の面目にかかわる。是が非でも、上杉家の力をもって上野介を守らなければならなかった。
げんに、上野介の身辺は、上杉家より遣わした附人数十人によって厳重に守られている。また、大石内蔵助以下、義盟の同志と目される赤穂の浪士らの動静をさぐるために、兵部は、多くの人と金をつかっている。
上杉家江戸家老としては、このことが、片時も念頭から去っては居らぬのだ。
迷惑至極であった。
なるべくはやく、上野介に、病死してもらいたかった。
「御家老様――」
急に、春斎が、鋭くひきしまった表情になった。
「この春斎に、おまかせ下さいますか?」
「……」
兵部は、春斎を視《み》かえした。
春斎は、おそろしいことを、申し出ている。その表情で、兵部には、判った。
「それは、ならぬ!」
兵部は、かぶりを振った。
「そうしたければ、わしが、すでに、やって居る。いやしくも、われらが主の尊父を……それは、ならぬ!」
「はい」
春斎は、頭を下げた。
「ただ、ご隠居ご自身が、おのが一人の存在のために、あちらこちらが迷惑して居るのを、気の毒に思われ、寿命ののびるのを望まれぬのであれば、それは話が別だが……」
兵部の言葉は、暗示を含んだものに、春斎には、受けとれた。
「相判りました」
春斎は、もう一度、頭を下げた。
高田郡兵衛の兄弥五兵衛の妻須江が、伯父内田三郎右衛門にともなわれて、三郎右衛門の上司である江戸西丸留守居|築土左京亮《つくどさきょうのすけ》の面前へ出たのは、大石内蔵助が江戸を去って十日あまり過ぎてからであった。
江戸城留守居は、大奥の総務を司《つかさど》り、武庫の出納《すいとう》を監督する。城内の守衛が本務で、将軍外出の場合は、残って留守をあずかる役目なので、相当な権力を与えられている。
但し、平常は、職事はないので、かなり閑職といえる。
いま、飛ぶ鳥を落とす権勢を誇っている柳沢吉保が、立身のきっかけは、この築土左京亮の推挙が大きくものを云った、という。
したがって、江戸城内に於ける築土左京亮の存在は、無視すべからざるものになっている。
柳沢吉保は、自分と旗本との間に、築土左京亮を置いて、施政を円滑にしている。幕府にとって、大名よりも旗本の方が、政治のさまたげになる場合が多かったのである。
吉保にとって、左京亮は、重要な位置にいる人物であった。
須江の挨拶を受けた左京亮は、
「なるほど、噂にたがわぬ美形だな」
と、満足げに、頷《うなず》いた。
須江は、伯父がどうして、この御留守居に自分を挨拶させるのか、まだ理由をきかされていなかった。
あたりさわりのない四方山《よもやま》話が、しばらく交されてから、女中が膳部をはこんで来て、酒宴になった。
左京亮は、酒をたしなまぬたちとみえて、三郎右衛門が盃を口にはこぶにまかせていたが、ふと気がついたように、須江に、
「つかわそう」
と、盃をさし出した。
須江は、伯父を眺め、頂戴するように、と目くばせされてから、膝行《しっこう》して、盃を受けた。
須江が、ふうっと気遠くなったのは、自分の膳の前にもどって、ほんのしばらく経ってからであった。
思わず、畳に片手をついて、倒れかかる身を支えようとした。
しかし、手もとが狂って、膳の角を突いた。
膳がひっくりかえり、料理や皿や小鉢が散乱するのを見て、須江は、あっとなり、あわてて、膳をなおそうとしたが、襲って来た眩暈《めまい》に抗しきれず、それなり俯伏《うつぶ》してしまった。
どれくらいの時間が、経過したか。
巨大な重いものがのしかかっている息苦しさで、須江は、意識をとりもどした。
次いで、おのが下肢が、大きく拡げさせられているのを、感じた。
須江は、勝気な女性《にょしょう》であった。
自分がどのような目に遭《あ》わされているか、はっきりとさとると、まだしばらく、意識を喪《うしな》っているふりをしていることにした。
もしその時、須江が、必死になってもがいたならば、身を守ることができていたに相違ない。好色の江戸城留守居は、須江の下肢を拡げさせておいて、のしかかったばかりであったからである。
須江は、病弱の良人《おっと》とは、すでに、三年余も、夫婦のまじわりが絶えていた。二十八歳の豊かに熟した女体は、その営みに飢えていた、といえる。
硬直した強い力が、体内へ加えられて来た瞬間、須江の肌は、凝縮し、痙攣《けいれん》した。
男が冷静であれば、その変化で、女が意識を甦らせていることをさとった筈である。
築土左京亮は、意外にも、年甲斐もない昂奮でわれを忘れていた模様である。
須江は、二十貫にあまる巨躯《きょく》を乗せて、そのせわしい息づかいをきき乍ら、ぐったりと四肢を投げ出している自分に、一種の快感さえ湧かせていた。
左京亮が、事|熄《おわ》って、その部屋を出て行ってしまってから、なお、かなり長い間、須江は、死んだように、そのままの姿態で、じっと仰臥していた。
やがて、のろのろと起き上がって、衣裳をつけはじめた須江は、痴呆《ちほう》のように、腰のけだるさだけを感じていた。
女中が入って来て、「こちらへ――」とみちびいた。
座敷には、伯父の三郎右衛門が、待っていた。
飲みつづけていたに相違ないが、大層な酒豪であり、先刻とすこしも変らぬ泰然とした態度で、須江を迎えた。
「須江――覚悟せねばなるまいぞ」
三郎右衛門は、いきなり申し渡した。
「……」
須江は、黙って伯父を視かえした。
「御留守居は、わが内田家に、新御番入りを約束なされた。但し、その条件は、郡兵衛がわしの養子となって、内田家を継ぐことだ。郡兵衛が、そなたと夫婦になって、内田家へ入るのじゃ」
須江は、眉宇《びう》をひそめた。
自分には、弥五兵衛という良人があるではないか。
三郎右衛門は、須江の不審の表情を眺めて、薄ら笑った。
「弥五兵衛の病いは、不治じゃ。癒《なお》らぬと判って居り乍ら、長患いは、さぞ、辛かろう。……当人も、起てぬと知って居る。はやく楽になりたいものだ、とわしにもらしたこともある」
「伯父様!」
須江は、愕然《がくぜん》となって、恐怖を全身に滲ませた。
「須江!」
三郎右衛門は、険《けわ》しく須江を睨《にら》み据えた。
「そなたは、今宵を限りとして、弥五兵衛の妻ではなくなったのだぞ。御留守居のお情けを受けたからには、そのご意嚮《いこう》に従わねばならぬ。御留守居は、好色をもって、そなたを所望されたのではない。内田家を御番入りさせて下さるために、非常の手段をとって下されたのだ。御留守居のものと相成ったそなたは、是非にも、御留守居のご意嚮に従わねばならぬ。覚悟せい! よいな!」
高田郡兵衛は、山科へ帰る大石内蔵助に、護衛の役目をつとめて随行《ずいこう》し、一月あまり京都に在ってから、帰府して来た。
その一月のあいだ、郡兵衛は、内蔵助の所業を、にがにがしいものに眺めて来た。
内蔵助は、島原はじめ、祇園《ぎおん》町、伏見の撞木《しゅもく》町など、あらゆる遊里に出入して、金子を湯水のようにまき散らして、浮喜大尽《うきだいじん》の名を、風靡《ふうび》させていたのである。
内蔵助は、江戸から帰って来るや、翌日はもう、島原に足をはこび、遊女を総揚《そうあ》げしていたのである。
郡兵衛のような復讐の一念にこりかたまった者の目には、その遊興が、上杉方から放って来た間諜に対する反間《はんかん》苦肉の策であろう、と一応はみとめても、あまりに度が過ぎることに思われた。
敵の目をくらます策ならば、遊興のほかに、いくらでも方便がある筈であった。大坂で大きな商いをやってみせるのも一手だろうし、骨董をいじって公卿衆《くげしゅう》とつきあうのもよかろうし、歌人徘諧師をまねて、諸国を巡ってみるのも韜晦法《とうかいほう》のひとつではないか。
内蔵助は、もっぱら、昼夜を遊興についやすばかりであった。
郡兵衛は、内蔵助が出府すると、必ず、吉原に遊ぶことを知っていたし、粋人《すいじん》であることは、赤穂城内での花見に、廓《くるわ》の遊女を呼び入れて踊らせる一例でも、判っていた。
郡兵衛は、内蔵助の側近の地位にある吉田忠左衛門に、そっと、
「大夫は、あのように遊び耽《ふけ》って居られる時でも、よもや、義心をお忘れではござるまいな?」
と、訊ねてみた。
忠左衛門は、笑って、
「女子を抱いている最中、よもやにがい薬を嚥《の》んでいる気分である筈があるまい」
と、こたえた。
「では、大夫は、廓に入られると、全くの|うつけ《ヽヽヽ》になると申されるのか?」
「敵の目をあざむくためには、まず、おのれをあざむく必要があろうな。浮喜大尽である時は、大夫ではなく、全く別の人間になって居られる。美しい女子の肌を愛《め》で、酒の香をあじわい、踊りにうかれる――そのような振舞いが、苦痛をともなう道理があるまい。大夫は、愉《たの》しんで居られる。愉しんで居られるから、敵がたにも、それが、欺瞞《ぎまん》の所業とは受けとれぬ」
「しかし、大夫の遊蕩は、あまりに、埒《らち》を越えて居るのではござるまいか」
「左様――いささか、不謹慎にすぎるようだな。しかし、そのために、性根までが腑抜《ふぬ》けになる大夫ではない。このことだけは、はっきりと申せる」
郡兵衛は、釈然としないままに、帰府して来た。
待っていたのは、位牌《いはい》になった兄弥五兵衛であった。
郡兵衛は、自藩改易以来、兄の家に寄宿していた。
郡兵衛は、玄関へ出迎えた嫂《あによめ》が、後家の身なりになっているのを視て、はっとなった。
「兄者《あにじゃ》は、みまかったのですか?」
「はい――」
須江は、顔を伏せて、逝《い》ってからもう十四日が経つ、と告げた。
にわかに容態があらたまる、といった病気ではなかった。上方へ発足する時は、門口まで見送ってくれた兄であった。
その笑顔が、まだ、目蓋《まぶた》の裏にのこっている。
郡兵衛は、仏間に入って、位牌となった兄に、対座して、長いあいだ動かずにいた。
弥五兵衛は、優しい兄であった。郡兵衛は、十代の頃は、客気がありあまって、ずいぶん乱暴狼藉《らんぼうろうぜき》を働き、喧嘩沙汰も多く、周囲に迷惑をかけたが、弥五兵衛だけは、一度も叱ったことはなく、弟に代わって、頭を下げることをすこしもいとわなかった。郡兵衛が知らぬうちに、悶着《もんちゃく》をおさめてくれたことも、一度や二度ではなかった。
逝かれてみて、今更に、自分にとって、兄がいかに大切な存在であったか、思い知らされた。須江が供物《くもつ》を持って入って来て、郡兵衛はわれにかえり、
「遺言は、ござったか?」
と、訊ねた。
須江は、「ありました」とこたえたが、すぐには、口にしようとしなかった。
郡兵衛は、須江のためらっている様子を、訝《いぶか》って、見据えた。
須江は、ついに思いきって、遺言をつたえる面持をつくると、
「亡くなる三日前の宵でした。わたくしひとりを枕元にお呼びになり、そなたは、郡兵衛をどう思う、とおたずねになりました」
「……?」
「わたくしが、おたずねになる意味を、納得しかねて居りますと、旦那様は、お笑いになり、お前はわしよりも郡兵衛の方を好きなのではないか、と仰言ったのです」
「……」
郡兵衛は、息をのんだ。
自分が嫂を好きであったのを、兄は気がついていたのか?
「わたくしが、冗談にもせよそのようなことを仰せになるものではありませぬ、とたしなめると、旦那様は、急に真顔におなりになり、冗談ではない、わしは、わしが逝ったあとのことを考えて居るのだ。後家になったそなたが見知らぬ男の許へ嫁ぐことを想像するのは、わしには堪えられぬ。なろうことならば、郡兵衛と一緒になってくれないか。旦那様は、これがわしの遺言だ、と仰せになり、わたくしの手をしばらく、握っておいででした」
「……」
「郡兵衛殿、遺言ゆえ、おつたえしましたけど、お手前様にそのおつもりがない上は、わたくしのことなど、お考え下さらないでもよろしいのです」
須江から、そう云われて、郡兵衛は、
「い、いや……」
と、あわてて視線をそらし、あいまいなかぶりのふりかたをした。
郡兵衛は、嫂を恋うてはいたが、これまでにそれをそぶりにも示したことはなかったし、不倫な妄想を起したおぼえもなかった。
いや、たったいままで、位牌を瞶《みつ》めていた郡兵衛は、兄をなつかしむ心で一杯だったのである。
ところが、兄の遺言を打明けられるや、にわかに、郡兵衛は、この家に嫂と二人でいるおのが身に、のびのびとした自由が与えられているのを感じた。
奥の座敷は、病牀がとりはらわれて、ひろびろとしたものとなっているのだ。
郡兵衛は、にわかにうろたえる自分を、須江に気づかれまいとして、
「堀部安兵衛に会う約束がござった」
と云って、立った。
郡兵衛の後姿を見送る須江の眸子《ひとみ》には、冷たい光が湛えられた。
良人を毒殺した女には、したたかな度胸が据わっていたのである。
次の日から、須江は、郡兵衛の欲情をそそる巧妙な罠を、昼となく夜となく張りめぐらした。
それは、きわめて自然にみせかけた振舞いであったので、郡兵衛は、女が故意に挑発しているとは、全く気がつかなかった。
たとえば、郡兵衛が、縁側に立っている時に、須江は庭を横切ろうとして、石につまずいて、倒れてみせた。郡兵衛は、その呻《うめ》きにおどろいて、跣《はだし》でとび降りて、かかえ起した瞬間、乱れた裳裾からあらわになった白い脛《はぎ》が目にうつり、思わず、視線をそらさなければならなかった。
あるいは、また――。
湯殿で、着物を脱ぎかけて、なにかの用事を思い出したふりをして、廊下へ出て、そのしどけない姿を郡兵衛に目撃させておき、ひどく狼狽《ろうばい》してみせて、部屋へ身をかくしたりした。
こまかな日常の、そうした出来事がつみかさねられるうちに、郡兵衛は、しだいに、須江の姿を、自分の方から、もとめるようになって来た。堀部安兵衛など在府の同志との会合の席でも、いつの間にか、ぼんやりと須江のことを想っている自分を発見して、狼狽するようになって来た。
庭に、山吹の花が美しく咲く季節になった――ある夜。
もう三更をまわった時刻であったろうか。
郡兵衛が牀に就いた時、廊下を小走りに近づいて来る跫音《あしおと》がした。
「郡兵衛殿――」
障子ごしに、須江が呼んだ。息をはずませていた。
「なんでござろう?」
「奥座敷に、誰かが、居りまする」
郡兵衛は、はね起きて、障子を開けた。
須江は、白綸子《しろりんず》の寝召《ねめし》の胸を両手で掩うようにして、そこに立ちすくんでいた。
「人が居るとは?」
「気配がいたします。……わたくしは、近頃、夜ねむれないまま、時おり、旦那様が寝ておいでだった座敷に、一人で、坐っていることがあります。今夜もそうしていると……不意に、誰かが、襖を開けて、入って来る気配がして、……ふりかえると、姿はありませんでしたが、襖は開いているのです」
「見て参ろう。姉上は、ここに、おいでになるとよい」
郡兵衛は、奥へ入り、座敷を調べた。どこにも、異状はなかった。
須江の気のせいに相違なかった。
郡兵衛が、居間に戻ってみると、須江は、片隅に、しょんぼりと、うなだれて坐っていた。いかにも、あわれな風情《ふぜい》であった。
「姉上は、長いあいだの看護の疲れが、いまごろ、出て参られたのだ。箱根あたりに湯治《とうじ》にでも行かれたら、いかがでござろう」
そうすすめ乍ら、郡兵衛の視線は、行灯《あんどん》のあかりに浮きあがった須江の美しい横顔へ、食い入っていた。
須江は、そのまま、じっとしていたが、やがて、ひくく独語するように、
「わたくしは……さびしいのです」
ともらした。
女が男の欲情をそそるのに、これ以上の効果のある|せりふ《ヽヽヽ》は、なかった。
にわかに、郡兵衛の胸が、早鐘《はやがね》のように烈しく動悸《どうき》うって来た。もはや、郡兵衛の衝動を抑える何ものもそこにはなかった。
「姉上!」
郡兵衛は、喘《あえ》ぐように呼ぶと、須江に近づき、その肩をつかんだ。
須江を抱きかかえて、牀に入る瞬間、郡兵衛の脳裡には、島原の廓で遊び呆けている大石内蔵助の姿が、思い泛《うか》んでいた。
須江は、生娘のように、喘ぎ、はじらいつつ、郡兵衛をこばみつづけていたが、寝召の前を剥がれ、胸の隆起に男の口が吸いつくと、不意に、叫びをあげて、身もだえた。
郡兵衛は、二布《こしまき》の蔭へ片手をすべり込ませて、なめらかな柔肌《やわはだ》をさぐって、女の秘部にふれた刹那、仇討のことなど遠くへふきとんでしまい、また、たとえ兄の亡霊がここへ入って来て叱咤《しった》しようとも、女体を放しはせぬ狂おしい歓喜を、全身にかけめぐらせていた。
牧野春斎が、千坂兵部の役宅に現れたのは、恰度《ちょうど》去年、浅野内匠頭が、吉良上野介に刃傷《にんじょう》した日であった。
但し、去年とちがい、今年は、朝から雨が降りつづき、うすらつめたい日であった。
役宅の庭の桜も、満開をすぎたところを雨に打たれて、あらかた地面へ花びらを散らしていた。
「高田郡兵衛殿、背盟《はいめい》つかまつりました」
坐るとすぐに春斎は、報告した。
「そうか」
兵部は、微笑した。
「お主がめぐらした策謀は、よほど狡猾であったのであろう」
「なんの……所詮《しょせん》、男と申すものは、美しい女子の肌には、弱うござりまするな。高田郡兵衛は、嫂と夫婦になり、伯父の旗本内田三郎右衛門の家を継ぐことを承知いたしました。嫂の須江と申す女、したたか者にて、巧みに、郡兵衛を誘惑することに成功いたした模様にございます」
「高田郡兵衛が背盟すれば、盟約した浪士らは、動揺いたすであろうな」
「それは、申すまでもありませぬ」
千坂兵部は、すでに、大石内蔵助に誓書を納《い》れた浪士の数を知っていた。
赤穂藩には、三百八人の士がいた。そのうち、百十八人が、内蔵助の下に、復讐の挙に加わることを誓っていた。
「春斎――」
「はい」
「わしは思うに、大石が従えた浪士らのうち、鉄石心を持った者は、いずれ半数に満たぬであろう」
「御意――」
「あとの半数は日が経つにつれて、心がゆらいで居る、とみる。……高田郡兵衛を背盟させたのを機会に、一挙に、義盟をきり崩して、七、八十人脱落させることは、できぬものかの」
「やってやれぬことではございますまい」
「そうすれば、こちらの護衛は、楽になる。四、五十名の徒党ならば、よもや、御隠居の寝首をかかれる心配はあるまい」
そう云い乍らも、兵部の、宙の一点に据えた眼眸《まなざし》は、かなり暗いものであった。
大石|主税《ちから》
残暑がきびしい京の都の閏《うるう》八月であった。
風は落ち、庭の樹木は、そよともせず、あぶら蝉《ぜみ》のなき声が、じっとりと蒸した午後の陽ざしの中をつづく。
この時刻は、路上にも人影はすくなく、人々は屋内で、ごろごろと寝そべって、夕風の吹いて来るのを待っているものだが、ここ――四条道場|金蓮寺《きんれんじ》の梅林庵《ばいりんあん》からは三味線の音も冴えて、しぶいのどの粋な歌が、流れ出ていた。
金蓮寺は、四条道場といっても、錦小路《にしきこうじ》と綾小路《あやのこうじ》の間にある。錦綾山と号し、延慶《えんけい》年間、浄阿《じょうあ》上人の開基になる。今日の新京極の地に当り、当時、そこに子院が十八坊あった。梅林庵は、そのひとつであった。
唄っているのは、大石内蔵助であり、三味線をひいているのは、伏見|撞木《しゅもく》町笹屋の遊女浮橋であった。
そして、歌は、この春、内蔵助が祇園《ぎおん》「一力《いちりき》」で、酔後《すいご》の興に乗じて作った本調子「里げしき」であった。
「里げしき」は、いま、島原、祇園、伏見から、大坂の遊里までも、流行《はや》っていた。
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ふけて廓《くるわ》のよそほひ見れば、宵《よい》の燈火、うちそむき寝《ね》の、夢の花さへ散らす嵐のさそひ来て
(合)閨をつれ出すつれ人男、余所のさらばも、尚ほ哀れにて、裏も中戸をあくる東雲《しののめ》、送る姿のひとへ帯、とけてほどけて、寝乱れ髪の、黄楊《つげ》の、
(合)黄楊の小櫛も、さすが涙のはらはら袖に、こぼれて袖に、露のよすがの、うきつとめ、
(合)こぼれて袖に、つらきよすがのうきつとめ、
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唄いおわると、内蔵助は、つと猿臂《えんび》をのばして、浮橋の手を把った。
「いかがいたしたな、ここへ参った時から、浮かぬ顔をいたして居るぞ」
「あい。……どーぞ、かんにんして欲し。なんぼ、浮きたてようとつとめても、沈むばかりで、くるしゅうて……」
浮橋は、俯向《うつむ》くと、緋《ひ》の襦袢《じゅばん》の袖で、そっと泪《なみだ》をぬぐった。
内蔵助は、微笑して、
「なぜ、そのように、気が滅入るのだな?」
と、訊ねた。
「うき様は、近いうちに、この京を去って、江戸へお行きなさるのでございましょう? そのために、山科からこの梅林庵にお移りなされた、とききましたぞえ」
内蔵助が、山科の閑居をひきはらったのは、つい、十日ばかり前であった。
男山の大西坊証讃に譲り渡したのである。世間へは、「永々浪々のところ、このたび岡山の池田|玄藩《げんば》殿の招きに応じて、池田家江戸屋敷へ赴き申す」と称した。
家財什器一切を、大西坊に預け、この梅林庵へは、長男主税をともなって、身ひとつで、ふらりと移って来たのであった。
「それで、悲しんで居るのか。左様、わしは、江戸へ赴く」
「池田さまへお召し抱えになるとか……」
「それは、世間をだます東下りの口実でな、実は、亡君の怨みをはらす」
「それは、まことでござりまするか?」
「と申したら、そなたを、ここへ来させた御仁は、満足であろうか」
そう云って、内蔵助は、笑った。
浮橋の厚化粧の顔が、一瞬、石のようにかたいものになった。
内蔵助が、浮橋を寵愛《ちょうあい》してから、すでに一年が経っていた。
はじめて、伏見撞木町に遊んで、笹屋の遊女浮橋が、座敷に現れると、内蔵助は、
「わしがこの世にさがしもとめていた女子が、ここにいた」
と、大層な満足をみせて、酔って興を催すや、遊女二人の肩に乗って、天井に、墨痕《ぼっこん》あざやかに、浮橋をたたえる即興詩を記したものであった。
今日亦遊君過光陰
明日如何
可憐恐君急掃袖帰
浮世人久不許逗留
不過二夜者也
入って来た茶屋のあるじが、いたずら書きも程が過ぎまする、となじると、内蔵助は、笑って、
「憤るのは不粋《ぶすい》ぞ」
と、黄金を座敷中へばらまいて、
「こん後、浮橋は、この内蔵助のものぞ」
と、宣言したのであった。
爾来《じらい》、京大坂のあらゆる遊里へ足をのばし乍ら、内蔵助が、枕を交したのは、浮橋ただ一人であった。
その浮橋が、いつの間にか、内蔵助を裏切って、上杉家江戸家老|千坂兵部《ちさかひょうぶ》の放って来た間者の手先になっていたのである。
「人の心は、判らぬものよの。この内蔵助ともあろう者が、惚《ほ》れた女子に裏切られようとは……」
そう云って、内蔵助は、わななきはじめた浮橋を、じっと、見据えた。
「裏切った者を、そのまま、許しておくわけには参らぬが、その心は、どうあれ、斯様《かよう》までに美しゅう、あでやかに咲いた花は、京大坂はもとより、江戸をさがしもとめても、またと得られるものではない。さて如何いたしたものか」
その言葉のおわらぬうちに、浮橋は、突如、懐剣を抜きはなって、内蔵助に突きかけた。
内蔵助は、苦もなく躱《かわ》して、その利腕《ききうで》をつかんだ。
その時、庭さきに、現れたのは、同志二人――小山源五右衛門と進藤源四郎であった。
「大夫!」
「どうなされた?」
二人が血相変えて、上って来るや、内蔵助は、浮橋の手から短剣を奪って、ぽんと片隅へ投げておいて、
「ははは……座興にな、この浮橋を間者にしたてて、隙をうかがって、突きかけさせてみ申した」
と、云った。
二人は、猜疑《さいぎ》の眼眸《まなざし》を、浮橋に向けた。それから、互いに顔を見合わせた。
「大夫!」
源五衛門が、屹《きっ》となって、内蔵助を睨《にら》みすえた。
「この遊女め、まことの間者でござったろう。おかくしなさるな!」
「いや、座興、座興――」
「座興ならば、こやつ、はずかしい風情《ふぜい》をいたす筈。ただならぬ顔色が、まことの間者であることを、示して居り申すぞ」
「ははは……、浮橋、真《しん》を写しすぎたために、御両所から、ほんものと疑われて居るぞ。……もうよい。去《い》んでよいぞ」
「大夫! 間者と知りつつ解き放っておやりになるのか!」
「お手前ら、いささか、くどいのではあるまいかな」
「大夫の存念こそ判り申さぬ!」
内蔵助は、二人の烈しい剣幕《けんまく》にとりあわずに、浮橋を立たせた。
今年中にも復讐断行、の決議がなされたのは、先月二十八日のことであった。
場所は、この京の円山重阿弥《まるやましげあみ》の端寮に於てであった。
後世につたえられる円山会議であった。
それまで、山科の閑居に於て、五度びも、同志の会議は開かれていたが、内蔵助は、手の内をみせてはいなかった。
内蔵助の復讐の決意は、すでに、赤穂城に在った時から、成っていたが、吉良上野介の生命を奪うには、順序をふまなければならず、実は、亡君の実弟浅野大学が、閉門を解かれて、本家である広島の浅野家へ、永久|蟄居《ちっきょ》の幕命が下るのを、待っていたのである。
主家再興の努力はしたが、はじめから、その実現は不可能、と、見通していた内蔵助であった。山科の閑居へは、いくたびか、急進派の同志が押しかけて来て、一挙の決行を迫ったが、そのたびに、内蔵助は、主家再興を盾にして、なだめて来ている。
日が経つにつれて、堀部安兵衛《ほりべやすべえ》、原惣右衛門《はらそうえもん》、大高源五《おおたかげんご》らの急進派は、内蔵助の肚《はら》の裡《うち》までも疑うようになっていた。
この春、原惣右衛門が、江戸から内蔵助に送って来た意見書は、相当烈しいものであった。
大学様の安否を見極めんという御意見に一理はないことはないが、もし大学様が閉門を赦《ゆる》されて、すこしでも知行を頂けることに相成ったならば、われらの所存を達することは、いったい、どうなるのか。この上は、是非に及ばぬから、と出家禅門となる、などということは、最初からわれらの意志にはないのである。是非、討ち込むことが叶《かな》わぬとなれば、われら一同は、亡君の墓前で、むざむざ腹かき切るよりほかにすべがなく、無念の極みである。噂によれば、上野介は、近く米沢へ引きとられる噂もある、ときく。討ち入りは、一日も一刻も早いがよい。
この意見に対して、内蔵助は、依然として、ぬらりくらりとした態度を示し、遊里での乱行をつづけていたのである。
浅野大学に、幕命が下ったのは、七月十八日であった。
『浅野大学儀、閉門御免あそばされ候《そろ》、其方在所へ引取り差し置かるべき旨仰出され候、且又大学へも右の趣申渡し候間其旨存ぜらるべく候
稲葉丹後守《いなばたんごのかみ》
秋元但馬守《あきもとたじまのかみ》
小笠原佐渡守《おがさわらさどのかみ》
土屋相模守《つちやさがみのかみ》
阿部豊後守《あべぶんごのかみ》
松平安芸守《まつだいらあきのかみ》殿』
大学は、凶変以来、閉門を申しつけられ、木挽町四丁目の屋敷に謹慎していたのであったが、この日、加藤越中守明英邸へ、出頭命じられ、閉門を解かれ、本家である松平安芸守方へ引きとられ、広島へ差し遣《つか》わされる旨、仰付けられたのであった。
これで、浅野家再興ののぞみは、完全に潰《つい》えたのである。
内蔵助としては、順序をふみおわったわけであった。
そして、七月二十八日、円山会議を開いた次第であった。
内蔵助が、この日、呼び寄せたのは――。
原惣右衛門、小野寺|十内《じゅうない》、小野寺|幸右衛門《こうえもん》、間瀬久大夫《ませきゅうだゆう》、間瀬孫九郎《ませまごくろう》、堀部安兵衛、潮田又之丞《うしおだまたのじょう》、大高源五、武林唯七《たけばやしただしち》、中村勘助、貝賀弥左衛門《かいがやざえもん》、大石孫四郎《おおいしまごしろう》、不破数右衛門《ふわかずえもん》、矢頭右衛門七《やとうえもんしち》、岡本次郎左衛門、大石|瀬左衛門《せざえもん》、三村次郎左衛門《みむらじろうざえもん》の十七人であった。
この中に、小山源五衛門《おやまげんごえもん》、進藤源四郎《しんどうげんしろう》などは、加えていなかった。
この席上で、内蔵助は、はじめて、
「今年のうちに、必ず、仇討をつかまつる」
と、明言したのであった。
その直後から、盟約に加わっていた者たちが、つぎつぎと脱落して行った。
まず、船奉行を勤めていた里村津右衛門、使番・長沢六郎衛門、灰方藤兵衛の三人が、連判を破って、消え去った。
内蔵助は、いまこそ、同志を淘汰する必要をさとった。
貝賀弥左衛門、大高源五の両名に命じて、連判状の誓紙を、めいめいに切り抜いて、それぞれの士らへ、ひとまず返さしめた。
両名は、京都、奈良、伏見、大坂から播州《ばんしゅう》にまで巡って、
「すでに、おききおよびの通り、ひたすら苦心いたした甲斐もなく、大学様、芸州へお引渡しになり、主家再興ののぞみは絶え申した。さしあたり、妻子の養育が肝要でござるゆえ、他家への随身のご意志もあろうか、と存じ、連判の神文盟書は、ひとまず、お手元へ返却つかまつる」
と、さし出した。
黙って受けとる者もいたし、憤激《ふんげき》して内蔵助をなじる者もいた。
同士のふるい分けは、こうして為された。
その時までの連判者は、百二十人いたが、これによって、脱落した者は七十余人であった。この中に、内蔵助の次の席を占めた千石取りの奥野将監がいた。
奥野将監は、ひたすら、主家再興に希望を抱いていた。大学が広島送りになってからも、なお、希望をすてず、もう一度、出府して、嘆願しよう、と主張し、内蔵助からしりぞけられるや、
「当方の努力をつぶす大夫に、同心はでき申さぬ」
と、袂をわかって、去ったのである。
将監の直属であった進藤源四郎と小山源五右衛門は、脱盟せずに、内蔵助には、なお、主家再興に就いて何らかの策をひそめているのではあるまいか、と考えていた。
「大夫――。近日中に、出府されるのであれば、われら両名も、お供にお加え下されい」
進藤源四郎が、睨むように見据えて、願い出た。
「ご両所は、この内蔵助が、なお、大学様に知行をもらいたくて、あがくと、みて居られるかな」
「かくされまいぞ。大夫には、まだ、ひとつ、残された手段が、かくされている筈でござる」
「なんであろう」
「亡君の敵である吉良上野介に、すがる、という手段でござる」
「ほう――成程」
内蔵助は、微笑した。
源四郎は、内蔵助の肚裡を見事に云い当てたという気色で、
「いかがでござる、大夫?」
「云われてみると、そういう手段もあったな」
「かくされるな!……そうでなく、復讐の断行のために出府されるご決意ならば、どうして、敵の間者の手先となったあの遊女を、むざむざ、帰されるものか」
「わかった、わかった。……では、今日のところは、ひとまず、お引きとり頂こう。午睡の時刻が参ったのでな」
内蔵助は、進藤源四郎と小山源五右衛門を去らせると、長男|主税《ちから》を呼んだ。
主税は、この春、元服して、凛々《りり》しい姿になっていた。父は小柄であったが、主税は、よく延びて、五尺七寸を越えていた。
内蔵助が、わが子と二人きりで、あらたまって対座するのは、はじめてのことだった。
「そなたは、われら一同が、吉良邸へ討ち入って、必ず本懐がとげられるものと、信じて疑わぬか?」
「はい。疑いませぬ。神のお加護もありましょう。お殿様のおうらみは、屹度《きっと》はらせると存じます」
「よい、よい」
内蔵助は、頷《うなず》いた。主税は、父が今更どうして、そんなことを、あらたまって質問するのか、わからなかった。
「さて、めでたく本懐をとげた、といたそう。そのあと、われら一同が、ご公儀から、どのようなご処置を蒙《こうむ》るか、判るか?」
「判りませぬ」
「切腹を仰付けられる」
「……」
「切腹だぞ。主税には、できるか?」
「できまする!」
主税は、昂然と、胸を張ってみせた。
「そなたは、まだ生れて十五年しか経って居らぬ。花ならば、蕾《つぼみ》だ」
「父上! わたくしは、元服いたして居ります」
「左様、前髪は落とした。しかし、男子として為すべきことは、まだ、何もして居らぬ」
「……」
「たとえば、そなたは、まだ、女子を知らぬ」
「……」
主税は、目を伏せた。
「男子として生れた上からは、女子の肌も知らずに相果てるのは、遺憾《いかん》と申さねばなるまいの」
「父上! わたくしは、そのような欲望は、まだ一度も、抱きませぬ」
「そなたが、春情を催して居ろう、と推しはかって、斯様なことを申すのではない。女子の肌を知るのが、あさましいことのように思うのは、まちがって居る。知ってよい」
「……」
「せっかく生れて来たのだ。知らずに、死んで行くことはない」
「はい」
「この父が、そなたに、女子をくれてやろう」
「……」
主税は、その言葉をきくや、全身が、火照《ほて》った。
「世にも美しい女子だ。閨の中の振舞《ふるま》いにも馴れて居るゆえ、案ずることはない」
「……」
「先刻、参った伏見の遊女――浮橋じゃ」
「えっ!」
主税は、愕然《がくぜん》となって、顔を擡《もた》げて、父を視た。
浮橋は、父が寵愛した遊女ではないか。
主税は、父が正気で云うのか、と耳を疑った。
内蔵助は、微笑した。
「浮橋は、この父が、ひとつ牀《とこ》に寝た唯一の遊女だ。しかし、そなたが契《ちぎ》っても、一向にさしつかえはない。わしは、あの遊女を抱いては居らぬ。ただ、ひとつ牀に、枕をならべて、横になったにすぎぬ。わしが、そなたの母以外に、情をかけたのは、山科にのこした|かる《ヽヽ》だけだ」
「……」
「|かる《ヽヽ》のことは、そなたの母にことわって許しを受けて居る。……浮橋とは、ついに契らなんだ。それが、仇となって、浮橋は、わしを裏切り居ったわ」
「え?」
「上杉家の江戸家老がさしまわして来た間者の手先に、なり居った。……そのような女子を、そなたのはじめての女にえらんだのは、これも、ひとつの策だ」
「はい――」
「大石内蔵助には、仇討の存念がないと、息子のそなたが、浮橋に信じさせるのだ。それには、尋常の手段では、叶わぬ。契ることだ。……ははは、主税、どうじゃ、一石二鳥であろうが――」
次の日の宵、大石主税は、寺坂吉右衛門を供にして、伏見撞木町の廓《くるわ》へおもむいた。
廓というところへ入ったのは、生れてはじめてであった。
「浮橋に会いたい」
と申し込んでから、もう一刻以上が経つ。
主税は、かなり広い部屋に、一人で、ぽつんと正座して、待っていた。
あちらの座敷からも、こちらの部屋からも、三味線や太鼓の音や歌声や、にぎやかに笑い興じている声が、きこえて来ていた。
主税は、しかし、かたくこわばった心身を、この雰囲気の中で、さらに一層、頑《かたく》なに守ろうとした。
廓に一歩足をふみ入れたとたんから、そうであった。廓のたたずまいも、そこに住む人も、客も、目に映るものすべてに対して、十五歳の少年の潔癖《けっぺき》が、反撥した。
父が日毎夜毎入りびたった世界であったが、父がそうするのは、なにかの思案があっての上のことと思い、自分とは何のかかわりもない、と考えていて、この世界に全く興味も好奇心も起さなかった主税であった。
主税は、父を尊敬していた。浮橋はじめ、島原や祇園や伏見の遊女が、山科の閑居にも、よく訪れたが、彼女らにとりかこまれている父を眺めても、べつに不快をおぼえたことは一度もなかった。
しかし――。
ひとつの目的を与えられて、撞木町の廓に入った主税は、たちまち、この世界に、一種の憎悪《ぞうお》さえおぼえたのである。
主税の前には、膳部が置かれてあったが、給仕の女は現れていなかった。主税が拒否したのである。
「浮橋に会わせてくれればよい。他の女は不要だ」
慍《おこ》ったような口調で云う主税に、女中は、おそれをなしたようであった。
待たされている一刻の間に、一度、女中が姿をみせて、絹行灯の灯をあかるくして行っただけで、ずっと主税は一人で置かれていた。
この部屋は、離れの構えになっていて、廊下に行き交う跫音もなかった。
主税は、さんざめきの音をきいているうちに、いくたびか、起って立ち去りたい衝動にかられた。
――あと、百をかぞえるうちに、浮橋が現れなければ、帰ってやる。
主税は、自分に云いきかせて、一、二、三、四……とかぞえはじめた。
八十までかぞえた時、廊下に草履と衣ずれの音がひびいた。
「うき様のお若は、こちらかえ?」
浮橋の声が、かけられた。
主税は、咄嗟《とっさ》に、返辞をする代りに、ごくっと、生唾《なまつば》をのみ下した。
浮橋が入って来ると、蘭麝《らんじゃ》の香が、主税を包むように流れて来た。
浮橋は、兵庫の商人からしつこくひき据えられていて、おくれてしまったと詫《わ》びを云い、主税のかたわらに坐ると、酌をしようと、銚子を把ってみて、
「ま――ひえてしもうて……」
と手を打とうとした。
「酒は、要らぬ」
主税は、云った。
「くるわにお出なされたら、盃をお受けなさるのが作法じゃぞえ」
浮橋は、媚《こび》を含めて、あでやかに笑ってみせた。
そう云われて、主税は、やむなく従った。
酒がはこばれて来たが、べつに、浮橋は、他の遊女も禿《かむろ》も呼ぼうとはせず、一人で酌をした。
主税は、すすめられるままに、盃に三杯ばかり、飲み干した。
時折り、独酌の父から、盃をもらったことがあり、すこしぐらい飲んでも酔わぬ自信があった。
浮橋が、さらにすすめるのに、かぶりを振った主税は、
「わしは、父と別れて、出府いたす」
と、唐突に、きり出した。
「お父上と、争いをなされましたのかえ?」
浮橋は、美しい眉宇をひそめて、訊ねた。
「父は、江戸へは参らぬ。岡山へ行く」
「岡山へ――?」
内蔵助が、備前池田家の池田玄蕃の招きに応じて、池田家江戸屋敷へ赴く、という挨拶をして、山科の閑居をひきはらったことは、すでに、廓でも噂になっている。
まさか、池田家に随身するのではあるまい、と誰も考えたことであり、
――あるいは、それは出府の口実であろう。
と、疑った者もかなりいたのである。
「父は、池田家に仕官いたす存念とみえた。それで、わしは、父と争った」
「お若は、お父上とお別れなされて、江戸でどうなされますぞえ?」
「それは、云えぬ」
主税は、かぶりを振った。
「で――この浮橋に、おたのみとは?」
「父は、この一年間、廓に入りびたった」
「あい――」
「しかし、父が、いつくしんだのは、そなただけ、ときいて居る。……そなたは、父の性根を腐らせた女子じゃ!」
「いいえ――。お父上は、すこしも性根を腐らせてはおいでではありませぬぞえ」
「どうして、判る? さんざ遊び呆《ほう》けた挙句、池田家に仕官するなどとは、性根の腐った証拠ではないか」
「うき様は、京へお上りなされた時は、亡きお殿様のおうらみをはらすお覚悟であった、と申されますのかえ?」
「……」
主税は、こたえなかった。
浮橋は、微笑して、
「かりに、もし、この遊《あそ》び女《め》が、うき様の性根を腐らせてしもうた、として、お若は、わたくしを、どうなさろう、と仰せかえ?」
「わしは、女子を、まだ知らぬ」
主税は、烈しい口調で、云いにくいことを云った。
「あい――」
「そなたが、父ほどの男を狂わせる女子ならば、そういう悪性の女子とともに、一夜を明かして、わしもまた、骨抜きにされたならば、出府はあきらめ、父に詫びを入れて、岡山へ供をいたす」
「ほほほ……、妙な決意をなされましたこと」
「いやか?」
「さあ……」
「いやとは云わせぬ! いや、と申すなら、斬るぞ!」
「まあ、怕《こ》わ! そのようなおそろしい顔をなさるものではありませぬぞえ。ここは、廓、わたくしは、遊び女。枕を交した男は、数知れませぬ。……なんの、お若のご要望を、こばみは、しませぬぞえ。けど、お父上にさんざんなぶられた女子を、生れてはじめて契る対手にえらんで、気持がわるくはありませぬかえ?」
「女子の肌を知り度くて、そなたをもとめて居るのではない。父の性根を腐らせた女子だから、わしも、おのれをためすのだ!」
いかにも、十五歳の少年の、一途に思いつめた態度とみえた。
廓の夜は、更けていた。
主税は、ふたたび、孤独にとりのこされて、その部屋にいた。
しかし、こんどは坐っては居らず、牀の中にいた。
どこか、遠くから、三味線の音がひびいて来ていたが、それは爪弾《つまび》きで、哀切な調子の節であった。二人さし向いの、しっぽりと濡《ぬ》れ合う風情《ふぜい》を、その節が滲ませている。
初秋の夜風が、その音色を乗せて来る。
しかし、その音色に耳を傾ける余裕など、主税にあるべくもなかった。
跫音が近づいて来るや、主税は、胸が破れるほど動悸打って来た。そして、障子が開くや、思わず、目蓋《まぶた》を閉じてしまった。
「お若――、おそうなってあいすみませぬ」
浮橋は、声をかけて、主税が微動もせぬのをみとめておいて、うちかけを、ふわりとうしろへ落とした。
つき込み帯を、するすると解きすてて、足もとへとぐろを巻かせた。次いで、比翼紋《ひよくもん》の小紋を、肩からすべり落とし、浴衣染めの帷子《かたびら》いちまいになった。
その帷子も、ためらわずに、脱いだ。
あとには、燃えたつような緋縮緬の襦袢いちまいになった。
絹行灯のあかりの中に、肉の盈《み》ちた豊かな肢体が、なやましい曲線を描いて、浮きあがった。
「お若――、覚悟はよろしゅうおすかえ」
浮橋は、わざと、枕もとへ蹲《かが》んで、立膝になると、片手を、主税の胸に置いた。
長襦袢の前が割れ、紅絹《もみ》の脚布《こしまき》が乱れた蔭に、白い太腿《ふともも》が奥まであらわになり、力の眼眸の中にひろがった。
浮橋は、反射的に目蓋をふさぐ主税を、
「ほんに、いじらしい殿御――」
と、両手で、頬をはさむと、顔を顔へかぶせた。
ぬめぬめとした舌が、唇を割って、入ってきた刹那、主税は、
「ちがうっ!」
と、叫んで、浮橋を突きとばした。
紅絹の脚布が、ぱっと散って、太い下肢が空ざまにはねあがり、なんともぶざまな恰好で、浮橋は、倒れた。
主税は、とび起きざま、浮橋の胸ぐらを掴《つか》んだ。
「女郎っ! おのれは、寵愛を受けた父を、なにが不服で、裏切った? 申せ!」
凄じい眼光を当てられて、浮橋は、恐怖の色を顔いっぱいにあふらせて、わなないた。
夜明けも近いと思われる時刻、撞木町の廓から一挺の辻駕籠《つじかご》が出た。
街道をまっすぐに、京へ向って、急ぎはじめた。
ものの三町も来た地点で、不意に、堤の斜面から現れて、駕籠の行手をふさいだ者があった。
「駕籠屋、怪我をするぞ。退《の》いて居るがよい」
そう忠告したのは、寺坂吉右衛門であった。
駕籠|舁《か》きたちが、あわてて、にげ出すのを待ってから、吉右衛門は、ゆっくりと、駕籠に近づいた。
「上杉家御用屋敷の御仁と、お見受けつかまつります」
そう云いかけた。
乗っている武士は、黙然として、動かぬ。
「浮橋大夫より、大石内蔵助には仇討の決意あり、との密命を受けて、御用屋敷へお戻りと存じます。まことに、お気の毒乍ら、ご帰邸の儀、おあきらめ頂かねばなり申さぬ。間者のお役目なれば、その覚悟の程、すでにおありであろうと存じます」
口上のおわらぬうちに、駕籠の中から、白刃が、吉右衛門めがけて、電光の迅《はや》さで突き出された。
吉右衛門は鳥の軽さで、跳《と》び退いた。
武士は、駕籠から踊り出ざま、吉右衛門めがけて、凄じい攻撃をあびせかけた。
文字通り、吉右衛門に息つくいとまを与えぬ早撃ちであった。
ものの二十間も、吉右衛門は跳び退きつづけた。
そして、一瞬、どこに隙《すき》を発見したか、吉右衛門は、無言の反撃に出た。
それは、たった一太刀の逆襲であった。
武士は、大きくのけぞって、堤の斜面へころがり、磧《かわら》まで落ちた。
……吉右衛門は、ゆっくりと、磧へ降りて行った。
死骸に、石を積みかさねて、かくしておいて、再び街道上へもどった時、吉右衛門は、そこに、いつの間にか、主税が佇立《ちょりつ》しているのを見出した。
夜がしらじらと明けそめていて、主税の顔面は、蒼く沈んでいた。
「すまぬ、吉右衛門」
主税は、下僕に、頭を下げた。
「若様――」
吉右衛門は、晧《しろ》い歯をみせた。
「わたしは、若様が、よもや、浮橋大夫と枕を交される、とは思うて居りませなんだ。……あれで、よろしゅうございました」
「しかし、父上は、間者から、江戸表へ、大石内蔵助は仇討の存念をすてた、と報告させたかったのであろう」
「わたくしは、そうは思いませぬ。旦那様は、若様がなさることを、ちゃんとお見通しだったのではございますまいか」
「……」
主税は、歩き出した。
「今日も、良い日和《ひより》でございます」
うしろで、そういう吉右衛門の、おちついた態度に、主税は、若い自分が学ばねばならぬものを、感じた。
千坂兵部
元禄十五年十月七日
大石内蔵助は、京三条の旅籠《はたご》を出立して、江戸へ向った。
日野家用人|垣見五郎兵衛《かきみごろべえ》。それが東下の仮名であった。
そう記した絵符をかかげた長持|二棹《ふたさお》を人足に舁《かか》せ、潮田又之丞《うしおだまたのじょう》、近松勘六、菅谷半之丞、早水藤左衛門《はやみとうざえもん》、三村次郎左衛門、そして、寺坂吉右衛門をしたがえて、堂々と東海道を下って行った。
日野家は、公卿《くげ》の中でも、将軍家に最も昵懇《じっこん》の家柄であった。その家の用人を名のるのは、道中の便宜《べんぎ》がよかったからである。
内蔵助が、その名を仮りることができた理由があった。主君|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》には、隠し子が一人いた。京都御用屋敷の女中とのあいだにもうけた女《むすめ》であった。内匠頭は、参覲《さんきん》の途次、京都で三泊するならわしであったが、その折、美貌の女中を伽《とぎ》させて、うませたのである。
正室に子がなかったので、内匠頭は、遠慮して、かくしておき、京都留守居の小野寺十内に育てさせたのであった。
小野寺十内は、主家滅亡ののち、その姫君を、日野家に預けたのであった。眉目麗《びもくうる》わしい姫君は、将来、日野家の養女として、いずれふさわしい公卿へ嫁ぐことが約束されたのである。
その縁故《えんこ》によって、内蔵助は、日野家用人を詐称《さしょう》するを得たのであった。
道中つつがなく、箱根を越えて、小田原へ降り、脇本陣に泊った――その宵のことであった。
寺坂吉右衛門が、緊張した面持で、内蔵助の前に蹲《うずくま》った。
「いかがした?」
「異な人物が街道をへだてた向いの旅籠に入るのを見かけました」
「何者だな?」
「手前の記憶にまちがいがなければ、二十年前、旦那様がご出府の途次、桑名から宮へ渡る三十石船でお会いなされた御仁でございます」
「……」
内蔵助の表情が、一瞬、ひきしまった。
記憶力は抜群の内蔵助であった。吉右衛門に、そう告げられただけで、すぐに、二十年前のことが、脳裡《のうり》によみがえった。
三十石船で隣り合わせたむさくるしい浪人者は、不意に、内蔵助に向って、
「ご自身の面相に、剣難を看《み》て居られるか?」
と尋ねかけて来たものであった。
内蔵助が、べつに自分自身はそう思っては居らぬが、とこたえると、浪人者は、薄ら笑って、
「忍び下郎を連れて居られるゆえ――」
と、云いあてた。
吉右衛門が、郎党の姿をしているが、忍びの者であることを、看破したのである。
――これは、ただの兵法者ではない。
内蔵助は、ひそかに戦慄したことだった。
はたして、尋常の人物ではないことが、出府してから、明白となった。
内蔵助が、吉右衛門を連れて吉原に遊び、その帰途、編笠茶屋から現れた件《くだん》の浪人者に、再会したのである。
浪人者は、三十石船で、おのれ自身の険悪《けんあく》の相は、周囲の者どもを救うためのものであり、もとより剣難の相も顕《あらわ》れている、と語っていたが、再会するや、その証拠をお見せいたそう、と云って、先に立って歩き出した。
その時、吉右衛門が、
「旦那様、あのご浪人は、吉良上野介様に、顔だちが瓜二つでございまする」
と、ささやいたことだった。吉右衛門は、出府するや、すぐに、内蔵助の命令で、吉良邸へ忍び入って、上野介の面貌《めんぼう》を見とどけていたのである。
吉良右近!
内蔵助は、上野介の双生児が、その浪人者であることをさとった。
浪人者は、浅草寺北方に無数にならんだ末寺のひとつへ、内蔵助をともない、その方丈にかくれていた七人の浪士を呼び出して、これをことごとく斬ってみせた。
七人の浪士は、上杉家旧家臣であった。吉良上野介が亡君播磨守を謀殺したと信じて、その復讐を企てていた面々であた。
吉良右近は、兄上野介の身を安泰に置くために、刺客を買って出たのである。
常に蔭の人となって、吉良家を守護する。それが、吉良右近に課せられた使命だったのである。
ゆくりなくも――。
二十年を経て、亡君の怨をはらすべく、出府する途中で、その吉良右近にぶっつかるとは、偶然とは思えぬことだった。
――会おう!
内蔵助は、咄嗟《とっさ》に、決心した。
内蔵助以下同志は、誰もまだ、吉良上野介の貌《かお》を知らなかったのである。
吉良右近に会えば、上野介の貌が判る道理であった。
「吉右衛門。向いの旅籠へ参って、二十年前、お会いした者だが、あらためて、人相指南をお願いいたしたいゆえ、ご足労願えまいか、とたのんで参れ」
内蔵助は、随行の士らを別室へさがらせて、一人で、待った。
やがて、内蔵助の面前へ現れたのは、黒髪一本もとどめぬ白髪の浪人者であった。面貌も枯れて、艶がない。
吉良上野介は、たしか今年六十歳の筈であった。上野介の若白髪《わかしらが》は、有名で、二十代で、半白になっていた、と内蔵助は、きいたことがあった。
双生児であるこの人物が、白髪と化しているのは、ふしぎはない。それにしても、もう七十過ぎの老齢に見える。
裕福な高家と漂泊《ひょうはく》の兵法者では、双生児であっても、面貌に、相当な差がついているのではあるまいか。
内蔵助は、内心その懸念をわかせつつ、
「お久しゅう存ずる。……下僕がお手前をお見かけした、と申したので、おなつかしさのあまり、お呼びたていたした。ご無礼の程、おゆるしを――」
と、挨拶した。
吉良右近は、ひくいしゃがれ声で、
「垣見五郎兵衛、といわれるか」
と、呟くように云った。
内蔵助は、かまわず、にこやかに、
「二十年前、お手前は、身供の人相を、造化好相《ぞうかこうそう》、三停三才すべて福徳円満であるが、それがかえって、おのが周囲の人々を非命に斃《たお》れさせるもの、と観られた」
「いかにも――。その通りでは、ござらなんだかな?」
「思いあたることも、ふたつみつ、ござった。ところで、二十年を経たいま、身供の相が、どのように変ったか、ひとつ、観て頂きとう存ずる」
「貴殿を一瞥《いちべつ》して、ふしぎに思うのは、二十年前と、いささかも変らぬ相を保って居られることでござるよ」
そうこたえて、吉良右近は、はじめて皮肉な薄ら笑いを、口辺に刷《は》いた。
内蔵助は、変らぬにこやかさで、
「では、お手前ご自身の相は、いかがでござろうな?」
「これまた、奇妙なことに、それがしの人相も、二十年前と、一向に変わって居り申さぬ。三停三才六府、いずれを取っても、すべて最悪の凶相。にも拘《かかわ》らず、この相が、周囲の者どもを救うに役立つことに相成る。……それがしは、身内の者を助けるために、この差料を抜くことに相成り申すな。それも、ごく近い将来と存ずる」
吉良右近は、|たんたん《ヽヽヽヽ》としてこたえた。
内蔵助は、頷《うなず》き、
「その使命を果されるために、江戸へおもむかれるか?」
「貴殿が、周囲の人々を非命に斃れさせるために、出府されるようにな」
恰度《ちょうど》、その日――内蔵助と吉良右近が、小田原の脇本陣で対坐している頃、上杉家上屋敷では、江戸家老|千坂兵部《ちさかひょうぶ》が、主君弾正|大弼綱憲《だいひつつなのり》と対坐していた。
千坂兵部は、近く、江戸家老を辞して、故郷米沢へひきあげる予定であった。
綱憲は、ここ一月あまり、健康がすぐれず、病室にこもっていたが、急に、思い立って、兵部を呼んだのである。
座敷には、人払いがしてあった。
「兵部は、いつ、国許へ帰る?」
綱憲は、尋ねた。
若いが病弱な綱憲は、蒼白い神経を、顔面にむき出していた。
「来月にもと存じて居りましたが、まだ御用が重なって居りますれば、師走に入るかと存じます。しかし、正月は、お城から雪景色を眺めることになろうか、と思いまする」
「兵部、たのみがある」
綱憲は、呼吸せわしい語気で、云った。
「そちの帰国に、父上を、お連れしてくれぬか?」
「なんと仰せられます?」
「たのむ! 父上を、すてては置けぬ。……公儀では、もはや、父上を見すてられた。呉服橋の屋敷ならば、いかに、赤穂浪士が躍起になっても、斬り込めぬが、本所に屋敷がえをさせられたのでは、どうにもならぬ」
吉良上野介は、隠居すると、呉服橋の邸宅から、本所松坂町の、元近藤登之助の上屋敷へ、屋敷換えを申し渡されて、ひき移っていた。
呉服橋は、城郭《じょうかく》内である。ここへ斬り込めば、将軍家の家を冒したことになる。しかし、本所は、府下――上総《かずさ》国に属し、ものさびしい新開地である。そこへ乱入したとしても、将軍家膝元をさわがしたことにはならぬ。
これは、柳沢吉保が、吉良上野介を見すてたことを、意味する。
世間では、
「ご公儀では、赤穂浪人衆に、吉良を討ちやすいように、はからってやった」
と、噂していたくらいである。
「父上を、本所の屋敷に、いつまでも、置くことは、できぬ!」
綱憲は、叫ぶように云った。
「本所のお屋敷へは、当家より、小林平七以下|手練《てだれ》二十余人を、警備に遣《つか》わしてありまする」
兵部は、おちついて、こたえた。
「兵部、わしは、知って居るのだぞ! 赤穂浪士は、ぞくぞくとして、出府して参って居る。その頭数は、百人とも百五十人とも、きいたぞ」
「風評というものは、とかく、誇張されまする」
「兵部! 大石内蔵助が、出府して来て居ることを、耳にして居らぬ、とは云わせぬぞ!」
綱憲は、睨みつけた。
――誰が、告げたものであろう。
兵部は、主人に、そんなことを告げた者を、憎んだ。
たしかに――。
大石内蔵助が日野家用人とかたって、京都を発ったことは、間者から急報があった。
覚悟をしなければならぬことだった。
しかし――。
千坂兵部としては、上野介を、上杉家にひきとることは、断じて拒否しなければならなかった。まして、米沢へともなうことなど、もってのほかであった。
米沢では、いまだ、先代播磨守綱勝を、吉良上野介が謀殺した、と疑いつづけている者が、かなりいたのである。そこへ、上野介を連れて行ったならば、どういう事態が起るか。兵部には、手にとるごとく明らかであった。
「わしは……」
綱憲は、喘《あえ》ぐように、云った。
「おのれの実父を、むざむざ、赤穂浪士どもに、討たせるわけには参らぬ」
「……」
兵部は、膝へ目を落として、こたえぬ。
その冷たい態度が、綱憲を、さらに、苛立《いらだ》たせた。
「もし、万が一、父上が討たれた時、わしの面目はどうなる? 十五万石の城主たる者が、父親の身ひとつ守れなんだ、と世間に嗤《わら》われて――ど、どうすればよいのだ?」
「子としての私情、重々ご同情申上げまする」
「子としての私情だと!」
綱憲は、かっとなった。
「殿は、上杉家ご当主にございます。そして、この兵部は、上杉家の家老職にございます。ともに、守らねばならぬのは、上杉家ではございませぬか」
兵部は、はっきりと云いはなった。「人」を守るのではなく、「家」を守るのが、武士というものだ、と。
綱憲は、感情の爆発を必死に押さえるために、兵部にはっきりときこえるほど、呼吸を荒いものにした。
兵部は、平伏した。
「この上ともに、本所のお屋敷の警備につきましては心掛けますれば、ご安堵《あんど》のほどを――」
そう云いのこして、座を起った。
必死の忠告をしたにも拘らず、主君綱憲が、実父|義央《よしなか》を、上杉家へひきとる覚悟をかためたことを、兵部がきかされたのはそれから二日後であった。
吉良家へ目付として遣してある牧野春斎が、例によって、兵部が座敷で憩うている時刻を見はからったように、庭から姿を現して、そう告げたのである。
綱憲からの密使が、夜半に訪れて、上野介に面談し、主君の言葉を伝えるのを、牧野春斎が、ぬすみぎいたのであった。
兵部は、心底からの憤《いきどお》りをおぼえた。
――上杉十五万石を、他家から入ってきた者の無分別によって、とりつぶされてたまろうか!
――家老職というものが、家を守るためには、どれだけの思いきった措置をするか、殿は、思い知らねばなるまい。
兵部は、牧野春斎を見据えた。その双眸《そうぼう》は、氷のように冷たく光った。
「加奈は、いかがいたして居る?」
「は――?」
唐突に訊ねられて、春斎は、ちょっと眉宇をひそめた。
加奈は、千坂兵部の命令を受けて、本所の吉良邸で、奥女中として、上野介に仕えている娘であった。兵部の姪ということになっているが、実は、兵部のかくし児であった。そして、この秘密は、春斎一人しか知らなかった。
「加奈は、御隠居の受けはよいのであろうな?」
「お気に入りでございますが……」
「御隠居の加減は、どうだ?」
「すこしずつ、お弱りでございます」
春斎は、こたえた。
この前訪れた時、春斎は、上野介の生命が長くても二、三年であろうと断定している。
そして、
「この春斎に、おまかせ下さいますか?」
と、申し出たものであった。
「それは、ならぬ!」
兵部は、かぶりを振り、そうしたければ、すでにやって居るが、いやしくも、われらがあるじの尊父の生命を縮めることはできぬ、といったんは否定しておいて、
「ただ、御隠居ご自身が、おのが一人の存在のために、あちらこちらが迷惑して居るのを、気の毒に思われ、寿命ののびるのを望まぬのであれば、それは話は別だが……」
と暗示を含んだ言葉を呉れたのであった。
春斎は、兵部の意嚮《いこう》に頷いて、吉良邸へ戻って行ったのである。
慧敏、目から鼻へ抜ける春斎が、兵部の言葉をただきき流している筈がなかった。
おそらく、薬餌《やくじ》と称して、上野介に嚥《の》ませているものに、すこしずつ生命を縮める毒物をまぜているに相違なかった。
「べつに、どこと申して、おわるくはありませぬが、じっとお坐りになっているだけでも、動悸がする、と仰せられて、昼間でも、時折り横におなりでございます」
春斎は、そう告げて、にやりとしてみせた。
兵部は、しばらく沈黙を置いてから、
「春斎――、加奈に因果を含ませることにいたそうか」
と、云った。
「は――」
「御隠居の情《なさけ》を受けさせい。ただ一夜だけでよい。加奈に、覚悟させい」
「かしこまりました」
「その方の匙《さじ》加減ひとつによって、これは、決まるぞ。判って居ろう」
「判って居ります」
すこしずつ生命を縮める毒物を嚥ませることができるのであれば、突如として春情を催す秘薬を与えることもできるであろう、と兵部は、云ったのである。
「で――成功いたしたあと、加奈殿は、ただちに、こちらへ、おもどしつかまつりましょうか?」
「無用だ」
「と、仰せられますと?」
「御隠居の生命を縮めた女子だ。自害して、詫《わ》びさせるがよい」
「御家老! それは、あまりにむごいご処置ではありますまいか」
「春斎――。お前の口から、慈悲を願う言葉をきこうとは意外だったぞ」
兵部は、冷やかに云った。
「おそれ入りました」
春斎は、頭を下げた。
兵部が、上方へ放っていた最も信頼する間者を迎えたのは、三日後であった。
「大石内蔵助は、昨朝、鎌倉雪の下に到着いたしました。なお、随行の中村勘助なる者は、平間村へ赴きました。おそらく、内蔵助仮寓の検分と存じられます」
「内蔵助は、多分の路銀を所持いたして居るか?」
「いえ、大石の懐中は、乏しきやに存じられます。今春、大石は、実母の兄池田出羽守に千両を借用いたして居りますが、これは、すべて、浪士らにわかち与えて居りますれば、手許に一文も残って居りませぬ。このたびの出府にあたり、進藤|刑部大輔《ぎょうぶたゆう》に、無心に参った様子でありますが、どうやらことわられたとみえますれば、おそらく、百両も所持いたしては居りますまい」
「よし、判った。長い間、ご苦労であった」
――大石が、討ち入って来ることは、これで、疑いないものとなった。
兵部は、激しい昂奮《こうふん》をおぼえた。
――わしが勝つか、大石が勝つか?
兵部は、宙へ眼眸を据えた。
――わしが、勝つ!
その自信を裏づける証拠品が、その日の夕刻、兵部の許へ送られてきた。
若い婦人の屍体であった。
実子である加奈の死顔を視た瞬間、兵部は、悲しみや憐れみの情を催すよりさきに、
――大石に勝ったぞ!
と、心中で、叫んだ。
牧野春斎からの密書は、別に届けられた。
『御隠居ご他界の儀、明後日をもって発表つかまつることに相成り申し候』
たった、それだけ記されてあった。
春斎は、みごとに成功したのである。
吉良上野介ともあろう者が、若い腰元の上で息をひき取ったということは、この上もない恥であった。
急死にしても、それは、そのように、巧みにとりつくろわねばならぬことだった。二日間は、必要であろう。
兵部は、なにかの用事にかこつけて、吉良邸へ赴きたい衝動を抑えて、使者がやって来るまで、そ知らぬふりをしていることにした。
吉良上野介は、まさしく、逝去《せいきょ》したのだ。自害した加奈の屍体が、そっと送りとどけられたこと、それから春斎の密書が、それを証明している。
――大石め、どのような面をして、狼狽《ろうばい》するであろう。
兵部は、北叟笑《ほくそえ》んだ。
吉良邸から、使者が来たのは、次の日の夜に入ってからであった。
――一日はやいが?
疑いつつ、兵部が使者を迎えると、口上は、
「御隠居様、遽《にわか》の御重態にて、御家老を呼んで欲しい、と仰せられて居ります」
それであった。
――春斎の奴、なにか手ちがいを起して、わしの智慧を借りたくなったに相違ない。
「すぐに、参ろう」
兵部は、主君綱憲に、この旨を告げておいて、驚く綱憲を、
「お見舞は、明朝に――」
と、抑えておいて、馬で屋敷を出た。
本所松坂町の吉良邸は、べつにあわただしい空気につつまれてはいなかった。
いつもと変らず、ひっそりとしていて、玄関を上がって行く兵部を迎える附人の小林兵七の態度も変ったところはなかった。
「存じて居るか?」
そう訊ねてみると、小林兵七は、不審げに、自分をここへ遣した江戸家老を見かえして、
「は? 何か、出来《しゅったい》いたしましたか?」
と、問いかえした。
――春斎から報らされておらぬのだな。
兵部は、そう思った。
春斎が、隠密裡《おんみつり》に、遂行して、巧妙に厳秘にしているのだ。
「いや、存じて居らぬのなら、それでよい」
兵部は、さっさと奥へ入った。
奇妙なのは、長い廊下を進む兵部を、どこからも、春斎が、迎えに現れなかったことである。
――春斎は、どこに居るのか!
訝《いぶか》りつつ、兵部は、その座敷の次の間に入った。
襖《ふすま》が開かれていて、牀が延べられ、枕屏風《まくらびょうぶ》がまわされているのが、見えた。
――どうしたというのだ?
春斎の姿はおろか、詰めているべき家臣、侍女の姿が、ひとつも見当たらぬのであった。
がらんとして、空虚な冷たい静寂があるばかりであった。
兵部は、なんとはない不安にかられた。
やむなく、次の間へ座を占めたものの、おちつかなかった。
およそ、四半刻《しはんとき》も、坐りつづけていたろうか。
廊下に跫音《あしおと》がして、障子の前で停まった。
兵部は、緊張した。
障子を開けて入って来たのは、用人の松尾市兵衛であった。
兵部に向って、鄭重《ていちょう》に頭を下げてから、
「ひと足、おそうございました」
と、云った。
「御他界になった、と申されるか?」
「はい。ごらん下さいますよう――」
市兵衛は、しずかに、屏風を除《ど》けて、死顔にかけた白布をとりはらった。
兵部は、愕然《がくぜん》と、目を瞠《みは》った。
それは、上野介の死顔ではなかった。牧野春斎のものであった。
市兵衛は、兵部の驚愕《きょうがく》するさまを、冷やかに、見戍《みまも》っている。
「これは……、なんとしたことを?」
呼びかける兵部に、市兵衛は、憎しみをこめた語気で、云った。
「お手前様に、こちらから、説明いたさねばなりませぬか?」
「……」
兵部は、ぐっと、言葉につまった。
その時、また跫音が近づいてきた。
さらに、兵部の|きも《ヽヽ》をつぶさせる人物が入って来た。
上野介義央《こうずけのすけよしなか》に、ほかならなかったのである。
「千坂――」
上野介は、立ったままで、云った。
「わしは、飼い犬に手を噛まれるのは、好まぬ」
――一体、これは、どうしたというのだ?
兵部の脳裡は、激しく混乱した。
――こんなことが、あり得るのか?
春斎が、失敗した、としか考えようがなかった。事前に露見して、加奈が成敗され、つづいて、春斎も成敗された、というのか。
では、あの春斎の届けて来た密書は、何であったのだ?
春斎の筆蹟に相違なかったではないか。
「千坂、悪智慧は、このあたりで、すてるがよい。きけば、近く、江戸家老を辞して、米沢へ還《かえ》る由。来月早々にも、そういたすがよかろう。わしのことは、すておいてくれてよい」
顔を伏せて、その言葉をきいていた兵部は、ようやく度胸をきめると同時に、はっとなった。
――この声は、ちがう!
上野介の声音は、丸味をおびて、やわらかであった。いま、吐かれる声音は、しゃがれて鋭いのであった。
兵部は、視線を擡《もた》げて、対手を正視した。
――ちがう!
兵部は、胸中で、叫んだ。
――これは、義央殿ではない!
瓜二つではあるが、別人であった。
兵部の脳裡に、上野介には双生児の弟があったことが、ひらめいた。
――吉良右近! その人物だ!
兵部の双眸が、光った。
とたんに――、
「千坂! わしは、上野介じゃ。上野介以外の何者でもないぞ!」
との言葉があびせられた。
「は――」
兵部は、俯向《うつむ》いた。
――春斎は、失敗しなかったのだ! 御隠居の生命を縮めることに、成功したのだ。……ただ、いつの間にやら、吉良右近というこの人物が、出現したのだ。
「千坂――、この屍体を引きとって行くがよい。戻ったならば、当主に伝えい。上野介は、元気をとりもどした、とな」
「は――」
兵部は、両手を畳につかえた。
兵部は、春斎の遺骸《いがい》を駕籠《かご》へ乗せて、上杉邸へ戻って来た。
小林平七に、供をさせた。
自室に、平七をともなうと、兵部は、蒼褪《あおざ》めた面持で、
「平七、死んでもらわねばならぬ」
と、云った。
「その覚悟は、附人をお引受いたす時に、つかまつりました」
「いや、死んでくれ、とあらためてたのむのは、犬死をしてくれ、という意味だ」
「犬死、と仰せられますと?」
「刀を刃引きしておいてくれ。附人はのこらずだ」
「なんと仰せられます?」
平七は、きっとなった。
「もし万が一――いや、赤穂の浪士らは、必ず、討ち入って参るであろう。その際、附人どもは、浪士らを一人も、斬っては相成らぬ」
「なぜでございます?」
「大石に、御隠居を討たせるのだ」
「それでは、われらを附人に遣《つか》わされた意味をなしませぬ」
「よいのだ!」
兵部は、慍《おこ》ったような語気で、云った。
「それで、事は、おさまるのだ」
「犬死せい、と仰せられるならば、犬死せぬこともありませぬが……」
「平七! 犬死してくれるのが、上杉家への忠義になるのだ。たのむ!」
兵部は、頭を下げた。
それから三日後、兵部は、雪に埋もれた米沢へ去った。
討入
大石内蔵助は、再び出府《しゅっぷ》するや、川崎の宿脇平間村の借宅で、十日あまりをすごし、江戸の情況別条なし、と見てとるや、長男|主税《ちから》が垣見左内という変名で借りている日本橋|石町《こくちょう》三丁目小山屋弥兵衛の裏店《うらだな》へ、移った。
左内伯父分・垣見五郎兵衛という変名を使った。
その裏店に入るや、直ちに、江戸へ集った同志の面々へ、左のごとき訓令を発した。
一、一党の本部・垣見左内宅
二、討入について
(イ)討入の装束《しょうぞく》は、衣服は黒の小袖、帯の結び目は右の脇下、帯は前さがりにしてはずれないようにし、股引《ももひき》、脚絆《きゃはん》、|わらじ《ヽヽヽ》のこと。
(ロ)相印《あいじるし》、相言葉は追って定める。
(ハ)討入の武器は、随意《ずいい》。但《ただ》し、槍、半弓を用いる者は申し出ること。
三、討入まで
(イ)何時にても討入出来るよう準備をすることは勿論、他言をつつしみ、一家親類中のつけ届けもせぬこと。
(ロ)一人独立して、本意を遂《と》げる様なことがあってはならぬこと。
(ハ)目的を達し得る見込みをつけるまでは、お互いに自重すること。
(ニ)同志が寄合いの時には、言行をつつしむこと。
四、討入の時
(イ)復讐の対手は、上野介《こうずけのすけ》唯一人である。但し、むかって来る敵は、一人たりとも討ち洩《も》らさず斬るべし。
(ロ)必勝を期すべきこと。必ず、上野介の首級を挙《あ》げる信念を持って、疑わざること。
五、重ねて神文
近日、改めて誓約するべし。
内蔵助が、出府した時、同志は、五十五人いた。しかし、その裏店に移った時には、五十人に減《げん》じていた。
一切の準備は、成っていた。
堀部安兵衛は、そのひろい交友を利用し、神崎与五郎《かんざきよごろう》、前原伊助《まえばらいすけ》は、吉良邸附近に商店をひらき、くわしく偵察し、内情を調べあげていた。
吉良邸の絵図面も、手に入れていた。
しかし――。
上野介自身の動静については、依然として、雲の中にとざされているように、不明であった。
上野介が、夏頃から、急に健康状態がわるくなり、好きな茶会も中止している、ということまでは、さぐっていたが、その後、上野介が、健康を恢復《かいふく》したか、それとも、なお、病牀に在るか、判らなかった。
十一月末になって、吉良邸で久しぶりに、年末茶会が催される模様、という情報が入って来たが、これとて、信じてよいかどうか、疑問であった。
上杉家では、上野介を米沢へともなうらしい、という噂もあった。
内蔵助は、その裏店に入るや一歩も外出せず、つぎつぎともたらされる情報を、きいた。
十二月に入って、内蔵助は、突如《とつじょ》、同志全員を、深川八幡前の料亭へ、召集した。
そのふれ込みは、頼母子講《たのもしこう》の取立てにつき、初会をひらく、という名目であった。
一同が揃うと、吉田忠左衛門が、起請文《きしょうもん》前書きを読みあげた。
一、冷光院《れいこういん》様(長矩《ながのり》のこと)ご尊讐吉良上野介殿討ち取る志これあり、さむらい共申し合せ候ところ、この節に及び大臆病者共、変心退散つかまつり候者えり捨て、唯今申し合せ、必死相きわめ候面々の者は、御霊魂も御照覧あそばされるべく候こと。
一、上野介殿お屋敷へ押し込み働きの儀、手柄浅深これあるべからず候。上野介殿|首級《しるし》あげ候者も、警固一通りの者も、同前たるべく候。しかれば、組み合せ、働き役、好き事を申すまじく候。尤《もっと》も、先後の争い致すべからず候。一味合体、如何様の働き役に相当り候とも、すこしも難渋申すまじきこと。
一、一味のおのおの存じ寄り申出られ候とも、自己の意趣をふくみ、申し妨《さまた》げ候儀、これあるまじく候。誰にても、理の当然に申し合うべく候。かねて不快の底意これあり候とも、働きの節、たがいに助けあい、急を見継《みつ》ぎ、勝利の全きところを、もっぱらに相働くべきこと。
一、上野介殿十分に討ち取り申し候とも、めいめい一命遁るべき覚悟これなき上は、一同に申し合せ、散りぢりにまかり成り申すまじく候。手負《てお》いの者これあるに於ては、互いに引っかけ助けあい、その場へ集り申す可きこと。
右四箇条|相背《あいそむ》き候わば、この一大事、成就つかまつる可からず候。
それから、内蔵助は、討入の集合所、時刻、上野介首級を挙げることに成功した時の首級の処置、味方負傷者の処理、引揚げの時のさまざまの処置、追手のあった場合のこと、検使のあった時の心得、引揚げの場所など、くわしく、申し渡した。
しかし――。
肝心《かんじん》の、討入の日については、口にするのを避けた。
「いつになされるか?」
その問いに対しては、
「来年には相成らぬことだけは、お約束いたす」
と、それだけ、こたえた。
その夜――。
連れ立って、石町《こくちょう》の裏店へもどった内蔵助と忠左衛門は、なんとなく、重苦しい気分であった。
言葉すくなく、対坐《たいざ》の時刻を移してから、忠左衛門が感慨をこめてぽつりと云った。
「多勢、去り申した」
「左様」
内蔵助は、頷《うなず》いた。
主君切腹の時から、一年余のあいだに当然復讐の誓いをなすべき立場にあり乍ら、おのが身の安泰ばかりをはかって、遁げ出した者が、いかに多かったか。
江戸家老藤井又左衛門(八百石)、安井彦右衛門(六百五十石)、番外番頭近藤源八、番頭岡林|杢之助《もくのすけ》、そして、赤穂仕置家老大野九郎兵衛など。
藤井、安井の両江戸家老こそ、主君をして吉良上野介を怨《うら》ませた直接の責任者ではなかったか。藤井は、その祖先は、浅野長政に仕え、代々家老職を継いだ、譜代《ふだい》筆頭であったし、安井はまた浅野家の宗族の一人であった。浅野家はもともと安井姓を名のった家である。安井がいかに浅野家に於て重い地位にあったか、これで判ろう。
その二人ともが、毛頭みじん復讐の存念なく、遁げてしまった。
さらに――。
はじめは、一党に加わり乍ら、口実を設けて、去った者は、七十四人の多きをかぞえる。
奥野将監《おくのしょうげん》(千石)、進藤源四郎(四百石)、河村伝兵衛(四百石)など、譜代高禄の者が多かった。
「大夫――」
忠左衛門は、ふっと微笑して、
「選りのこった同志が、新参者か、しからずんば微禄者《びろくもの》であることは……、これは、どうしたことでありましょうな」
「……」
内蔵助は、黙して、こたえなかった。
内蔵助自身も、このことの意外さに、おどろいていたのである。
神崎与五郎は、五両三人|扶持《ぶち》の徒士目付《かちめつけ》で、しかも新参者であった。横川勘平も、新参者で、同じく五両三人扶持の徒士であった。徒士は、士分ではなく、軽輩《けいはい》で、主君にその名さえおぼえられていない小者であった。
千五百石の城内家老を除けば、他はすべて、三百石以下の士であり、五十石以下の小禄者がその半数なのであった。
内蔵助としても、これは、どうしたことか、説明のしようがなかった。
「老人――」
内蔵助は、話題を転じた。
「討入にあたり、口上書が必要だが、これも、お手前をわずらわしたい」
「かしこまった。……いや、実は、もうすでに、口上は、胸中に成って居り申す」
忠左衛門は、ちょっと瞑目《めいもく》していたが、ひくく、その口上を、口にしはじめた。
「……去年三月、内匠頭《たくみのかみ》儀、伝奏《てんそう》御馳走之儀につき、吉良上野介殿へ意趣を含《ふく》み罷《まか》り在り候ところ、殿中に於て当座しのび難き儀ご座候て、刃傷《にんじょう》に及び申し候。時節場所をわきまえざる働き、不調法至極につき切腹仰せつけられ、城地赤穂を召し上げられ候儀、家来共まで畏《おそ》れ入り奉り候。上使御下知を受け、城地差上げ、家中早速離散つかまつり候、右喧嘩の節、御同席におんさしとめの御方これあり、上野介殿、討ち留め申さず候、内匠頭|末期《まつご》残念の心底、家来共しのびがたきに仕り合い御座候、高家御歴々に対し、家来共|鬱憤《うっぷん》をはさみ候段、はばかりに存じ奉り候得共、主君の讐《あだ》は、倶《とも》に天を戴《いただ》くべからざる儀……」
「ちょっと、待たれい」
内蔵助は、とどめた。
「主君の讐は、倶に天を戴くべからず、というのは、いかがであろうか。『礼記《らいき》』には、父の讐は、とはあるが、主君、とは記されて居らぬが……」
「では、君父《くんぷ》の讐、といたしましょうか? はじめは、討ち果たすべきは武士の定法と存じ詰《つ》め候とつくってみましたが、いかにも弱いので――」
「君父の讐でよろしかろう」
内蔵助が、こたえた時、次の間から、
「吉右衛門にございます」
と、忍びやかな声音が、呼んだ。
「入って参れ」
内蔵助は、許した。
寺坂吉右衛門は、なにか、緊張した面持《おももち》で、入って来たが、そこに吉田忠左衛門がいるのを見ると、附向《うつむ》いた。
「かまわぬ。報告いたせ」
内蔵助は、促《うなが》した。
吉右衛門は、附向いたままで、
「今宵……、夕食後、上野介殿には、庭に出られ、木太刀の素振《すぶ》りをなされました。三百回がほど――」
と、云った。
忠左衛門は、眉宇《びう》をひそめて、
「上野介が、素振りを!」
唖然《あぜん》とした声音を出した。
吉良|義央《よしなか》は、読書人であり、生涯一度も兵法稽古《ひょうほうげいこ》などしたことのない人物であることは、あまりにも明白であった。
しかも、病臥中《びょうがちゅう》ときこえている上野介が、この寒空の下で、木太刀をふりまわすとは、なにごとであろう。
信じられないことであった。
内蔵助は、しかし、表情を動かさなかった。
「よい。判った」
吉右衛門を、下がらせると、内蔵助は、忠左衛門に向い、
「討入の日を、決め申した」
と、云った。
「え?……いつ、になされる」
「亡君の忌日《きじつ》」
「十四日に!」
「左様――」
「しかし、十四日に、はたして、上野介殿が、屋敷に所在するか、どうか――」
「上野介殿は、まちがいなく、十四日には、屋敷に罷り在ると存ずる」
内蔵助の強気は厳然たるものであった。
吉田忠左衛門が辞去したのち、内蔵助はあらためて、寺坂吉右衛門を呼んだ。
吉右衛門を、吉良邸へ忍び込ませて、さぐっていることは、内蔵助は、同志たちへも、殆ど告げていなかった。
「大夫様、あれは、上野介殿ではございませぬ。別人でございます!」
吉右衛門は、云った。
主従には、すでに、それが贋者《にせもの》ならば、何者であるか、判っていた。
「吉右衛門――。この一月あまりのあいだに、吉良邸の不浄門から、死去した使傭《しよう》人のむくろが、はこび出された事実があるかどうか調べて参れ」
「はい」
吉右衛門は、主人の顔をじっと瞶《みつ》めた。
「死んだ者は、討てぬ。しかし、生きて居る者は、討たねばならぬ!」
内蔵助は、ひくい、重い口調で、云った。
よし、現在、吉良邸に、上野介として在る者が、替玉であろうとも、上野介として、そこにいるからには、討入って、その首級を挙げることであった。
それが、大石内蔵助の使命であった。
内蔵助は、このたびの出府の途次、小田原で出会うた白髪の兵法者を、思い浮べていた。
――お主が、吉良上野介であれば、わしは、お主を、まちがいなく討ちとってみせる!
愈々《いよいよ》、十二月十四日を迎えた。
集合場所は、三箇所――本所林町五丁目堀部安兵衛宅、本所徳右衛門町一丁目杉野十平次宅、本所|相生町《あいおいちょう》二丁目前原伊助宅。
堀部と前原の宅へは、すでにあらかじめ、武器がはこばれてあった。
槍、薙刀《なぎなた》、野太刀、弓、鉞《まさかり》、大槌《おおづち》、竹梯子、取鉤《とりかぎ》、大鋸《おおのこ》、玄翁《げんのう》、鉄槓杆《かなてこ》、鉄鋤《てつすき》、鎹《かすがい》、鉄槌、龕燈《がんどう》、玉火、松明《たいまつ》、銅鑼《どら》など。
合言葉は、山と川。
組合せは三人を一組として、総勢四十七人が、大手・搦手《からめて》から分れて、討入ることになった。
めいめいは、大事の前の小事、他人にさとられてはならぬと、
「明日、にわかに上方へ上ることになりました」
と告げて、店賃《たなちん》など滞《とどこお》りなく支払い、暇《いとま》乞いして、荷物を片づけ、着込み頭巾《ずきん》などを、風呂敷包みにして、肩にかけ、なにげないていで、家を出て、三箇所の集合所へと歩いて行った。
前夜から、雪が降っていたが、この日、夕方からはれて、風も落ちていたが、そのかわり、寒気がきびしかった。
同志の一人、富森助右衛門は、出発にあたり、母の居間に入り、
「これにて、お別れつかまつります」
と、両手をつかえた。
すると、母親は、
「もう行かれるか。寒気がきびしいゆえ、これを、下に着てお行きなされ」
と、自身の衣類の中からえらんだとみえる白無垢《しろむく》の小袖を、さし出した。
助右衛門は、大石内蔵助に命じられて、西国へ往く、と告げていたのである。
助右衛門は、その小袖をおしいただいた。母は、義挙《ぎきょ》のことを、すでに看《み》てとっていたのである。女の身では、同志に加わることが許されないので、せめて、息子に、わが小袖を身がわりに着込んでもらうことにしたのであった。
このように、同志それぞれが、肉親に別れを告げていた。
倉橋伝助は、豪放磊落《ごうほうらいらく》の士であった。出発の時刻が迫ると、手を拍《う》って、妻女を、居室に呼んだ。
妻女が、入ってみると、伝助は、牀を敷き、素裸で、胡坐《あぐら》をかいていた。
「そなたをすてて、これより、十万億土へ参る」
そう云った。
「はい」
覚悟していた妻女は、眉宇もうごかさずに、頭を下げた。
「ついては、別離の契《ちぎ》りをいたそう。裸になれい」
「はい」
妻女は、すぐに、立って、衣裳を脱ぎすてた。
二布《こしまき》までもすてて、一糸まとわぬ裸身になったわが妻を、つくづくと眺めた伝助は、
「つれ添うて七年、はじめて、そなたの生れたままの姿に接したわい」
と笑って、抱き寄せると、牀へ倒れ込んだ。
良人と妻は、まだ陽のある時刻に、あたりはばかることなく、声をたてて、睦《むつ》み合ったので、両隣やむかいの家では、何事がおこったのであろうか、と首をかしげたことだった。
大石内蔵助は、午《ひる》すぎ、駕籠《かご》に乗って、堀部弥兵衛宅へ行った。弥兵衛宅は、矢之倉米沢町にあり、弥兵衛金丸は七十六歳だが、矍鑠《かくしゃく》たるものであった。
「大夫、ゆうべは、吉夢をみて、一句をものし申した」
と云って、短冊《たんざく》をさし出した。
雪はれて思ひをとげるあしたかな
日頃一句もつくったことのない老人が、けんめいにひねり出したその句に、内蔵助は、微笑した。
弥兵衛は、老妻に命じて、出陣の膳部《ぜんぶ》を用意させていた。
搗栗《つきぐり》、昆布《こんぶ》、そして寒鴨《かんがも》を調理した菜鳥の吸物。
それを摂《と》ってから、内蔵助は、弥兵衛とつれ立って、堀部安兵衛宅へ向った。
吉田忠左衛門、原惣右衛門ら数人は、両国橋の向川岸町にある亀田屋という茶屋へ立寄り、蕎麦切《そばぎり》を申しつけ、ゆるゆるとやすんでから、八つ刻(午前二時頃)、堀部宅へ集った。
前夜から、吉原の廓で泊り、春情を満足させて、前原伊助宅へやって来た若者たちもいた。
勝田新左衛門、間瀬孫九郎、岡野金右衛門らであった。
岡野金右衛門は、美男であり、吉原の女郎に、いのちがけで惚れられていた。
勢揃いは、成った。
上着はいずれも黒小袖、定紋付であったが、若い衆は、緋縮緬飛紗綾《ひぢりめんひしゃりょう》の帯をしめていたし、年寄でも、緋のたすきをかけた者もいた。元禄という華美で寛闊《かんかつ》な気風は、主君の仇を討つ士の行装にも、あらわれていたのである。
堀部安兵衛宅から、松坂町の吉良邸までは、十二丁の距離であった。
前夜に降った雪は、凍《い》てつき、その上に、有明の月が、皎《こう》と照らしていた。
同士四十七人は、世間をはばかって、堤燈《ちょうちん》も松明《たいまつ》もともさず、黙々として、進んで行った。
それより、半刻ばかり前に、吉良邸では、すでに、ひとつの異変が起っていた。
附人支配部屋で、ねむっていた小林平七は、廊下から、しのびやかに呼ぶ声に、ぱっと、身を起した。
ずっと衣服をつけたまま、牀についていたし、どんな微《かす》かな物音にも目ざめる神経の冴えがあった。
廊下に蹲《うずくま》っていたのは、千坂兵部《ちさかひょうぶ》がわざわざ伊賀の里からやとって、平七の手足にしてくれた忍びの者であった。
「赤穂の浪士らが、三箇所に集結し、火事装束に身がためつかまつりました」
「よし!」
平七は、頷くと、
「人数は?」
「およそ、五十名あまり」
「わかった。……お主のつとめは、これで終った。ご苦労であった」
「めざましきお働きのほどを――」
そう云いのこして、伊賀忍者は、闇《やみ》に消えた。
平七は、差料《さしりょう》を携《さ》げると、しのびやかな足どりで書院へ行った。その控え部屋で不寝番をつとめていたのは中小姓の清水一学であった。
「赤穂の浪士どもが討入って参る」
平七は、告げた。
「いよいよ!」
「かねて、申し渡してあるごとく、浪士らを一人も、殺しては相成らぬ」
「かしこまりました」
「わしは、高家に、為《な》すところがある。何事が起ろうとも、浪士どもが討入って来るまでは、そ知らぬふりをしていてもらいたい。よいな?」
「承知つかまつりました」
平七は、そこを出ると、まっすぐに、上野介の居間へむかって、歩いて行った。
平七の脳裡《のうり》には、「犬死してくれ」と云った千坂兵部の顔が、泛《うか》んでいた。
――見事に、犬死つかまつる!
平七は、上野介の居間へ入る前に、次の間へ、ふみ込んだ。
そこで不寝番をつとめていた近習の永松九郎兵衛は、こくりこくりと舟を漕《こ》いでいた。
人が入って来た気配に、はっと目をさまして、顔を擡《もた》げた――とたん。
平七は、抜く手も見せずに、その首を刎《は》ね落としていた。
それから、さっと、襖《ふすま》を押し開いた。
居間の中央に延べられた寝具が、はねのけられたのは、それと同時であった。
平七は、上野介を――いや、上野介と瓜二つの人物を、じっと見据《みす》えた。
「なんだな?」
老人は、冷たく光る眼眸《まなざし》を、返した。
「庭へ、お出ましありたい」
「どうする?」
「この小林平七と、決闘の儀、ご承知ありたい」
「ふむ」
老人は、微笑した。
「程なく、大石内蔵助が、浪士どもを率《ひき》いて、討入って参るとみえるの」
「左様――」
「お主は、その時は、大石が討入って参る直前に、この上野介を討て、と千坂兵部から命じられていたのか」
「お手前様が、吉良右近殿であることは、すでに、疑う余地もござらぬ。されば、上野介様とちがい、大石らに対し、存分に剣を振う腕前をお持ちであり、もし生きのこって、遁走されたならば、これは、後日になお、事態を紛糾《ふんきゅう》させることとなり申すゆえ……、やむなく、それがしが、刺客の役目、仰せつかり申した。尋常のお立ち合いを、お願いつかまつる」
「小林平七。……このわしが、はたして、斬れるかな?」
「一念、貫き申す」
「よい覚悟だ」
やがて、老人と平七は、凍てついた雪の庭で、対峙《たいじ》した。
相青眼《あいせいがん》になり、有明の月あかりに、対手を凝視したなり、両者は絵に入ったごとく、微動だにしなかった。
そのまま、……半刻が、経過した。
と――。
平七は、遠く、深夜の往還《おうかん》を、ふみしめて、近づいて来る多人数の跫音《あしおと》を――それは、きわめて、しのびやかなものであったが……、はっきりと、ききとった。
もはや、対峙をつづけるわけにはいかなかった。
老人に、微塵《みじん》の隙もなく、またいささかの体力の消耗もない、と判ってい乍ら、平七は、猛然と、攻撃に出た。
勝負は、一瞬にして、決した。
兵七は、老人の肩から、血飛沫《ちしぶき》がほとばしるのを、見とどけておいてから、徐々に、首をたれ、どさっと、雪の上へ、俯伏《うつぶ》した。
兵七の胸には、老人の刀が、ふかぶかと刺し通っていたのである。
老人は、いったん、よろめいて、膝を折ったが、不屈の気力をふるい起し、刀を杖にして、よろめき乍ら、歩き出した。
老人が、その身をはこび入れたのは、勝手の内の炭部屋であった。
炭部屋の板戸が、閉じられた時、赤穂四十六士が、どっと、邸内へ、討入って来たのであった。
浪士討入の光景は、すでに、幾多《いくた》の史伝、物語に描かれているゆえ、あえて、ここではくりかえすまい。
二手にわかれて、闖入《ちんにゅう》した四十六士は、出会う者をことごとく斬《き》り仆《たお》しつつ、上野介の居間へ乱入したが、そこにはすでに姿はなく、すでに邸外へ遁れ去ったか、といったんは、絶望した。
しかし、いま一度、屋敷内をくまなく尋ねようと、必死|血眼《ちまなこ》の捜索をつづけた挙句、まださがし残していた勝手の内の炭部屋とおぼしいところを、発見した。
戸を蹴破《けやぶ》ると、とたんに、奥から、潜んでいた二、三人が、皿や茶碗や炭を投げつけて来た、と、大方の本には、記してある。
それは、嘘であった。
手槍をかまえて、間《はざま》十次郎が、ふみ込むと、闇の中は、しんとして、なんの気配もしなかった。
「潜む者はないらしい」
間十次郎は、闇をすかし視てから、一度は、ひき揚げようとした。
そこへ、武林唯七が、やって来て、
「おれが、調べる」
と、ずかずかと、ふみ込んだ。
すると、炭俵に、幽鬼のごとく、白小袖をつけた人間が、凭《よ》りかかっているのを、見わけた。
「おっ!」
唯七は、刀を構えた。
対手は、よろりと、起き上がると、
「外で、待て――」
と、云った。
老人であることをみとめた唯七は、
――さては、これが!
と、全身の血をわきたたせた。
刀を杖にして、よろめき乍ら、雪の上に出て来た老人は、もはや、立っている気力はなく、どさりと坐った。
肩から胸にかけて、白小袖は、べっとりと血汐にそまっていた。
大石内蔵助が、そこへ来たのは、浪士全員が、老人を包囲してからであった。
内蔵助は、老人の姿を見て、
「手負わせた者は?」
と、部下たちを見まわした。
武林唯七が、発見した時は、すでに、手負うていた旨を、告げた。
内蔵助は、老人の前に坐った。
「吉良上野介殿と、お見受けつかまつる」
「……」
老人は、それにこたえず、黙って、内蔵助を視《み》かえした。
「おん首級、頂戴《ちょうだい》つかまつる」
内蔵助は、かわいた声音で、云った。
老人の首が、微かに動いた。
その声音は、内蔵助にのみ、きこえた。
「お主に、負けたの」
老人は、そう言ったのである。
内蔵助は、応えて、頷いてみせた。
それから、炭部屋の戸を開けた間十次郎に、老人の首を落とすように、命じた。
老人は、十次郎が、背後にまわって、白刃をふりかぶってもなお、じっと、内蔵助を瞶《みつ》めたままであった。
「えいっ!」
懸声もろとも、十次郎は、白刃をふり下した。
その刹那《せつな》――。
老人の顔が、にやりとした――という印象を、内蔵助は、眼裏にのこした。
討ち落した老人の首は、白小袖に包み、裏門へはこび、あらかじめ捕えておいた番足軽に見せた。
番足軽は、
「お殿様の首に、相違ございませぬ」
と、証明した。
首級は、内蔵助が持ち、浪士一同は、吉良邸を、ひきあげた。
裏門を出ると、そこに、寺坂吉右衛門が、蹲って、待っていた。
内蔵助は、吉右衛門をそばへ呼び、
「瑶泉院《ようせんいん》様へ、首尾を報せて参れ。次いで、芸州《げいしゅう》へおもむいて、大学様へも――」
と、命じた。
吉右衛門は、頭を下げた。
顔を擡げた時、小袖に包まれ、内蔵助の小脇にかかえられた首級へ、チラと視線を投げた。
しかし、またすぐ、頭を下げた。
浪士一同が、立去るまで、吉右衛門は、そこに、じっと、蹲りつづけていた。
跫音が、遠ざかってから、吉右衛門は、身を起した。
内蔵助に命じられた任務をはたせば、忍者吉右衛門は、自由の身にかえるのであった。忍者は、家来ではない。やとわれているだけであった。
後世、寺坂吉右衛門が、吉良邸門前から、逃亡した、という説がたてられたが、それは、吉右衛門が忍者であったことを知らぬための、思いちがいであった。
切腹
赤穂の浪士が、高家吉良家へ討入りして、上野介の首級を挙げ、亡君の怨みをはらした。
この報が、八方へひろまるや、江戸市民の話題は、これに集中し、いささかでも浅野内匠頭邸に縁故のあった者は、それだけで、鼻たかだかになり、また、浪士らと直接口をきいたことのある者など、日に幾度となく、その話をせがまれるあんばいとなった。
元和偃武《げんなえんぶ》は、すでに六十年のむかしのことになり、武弁殺伐の気風は、遠いものになっていた時世である。
六十年という歳月がつくりあげた秩序は、社会のすみずみにまで及び、大名から日傭取《ひようと》りにいたるまで、おのが分をまもることを、厳《きび》しく強いられていたのである。いわば、枝も鳴らさず、四海波おさまって、狼呑虎噬《ろうどんこぜい》の攻防の戦いは、はるかむかしの語り草となってしまい、刀は武士の腰間にあっても、殆ど装飾の形と化してしまっていた。
その時世に、突如として、四十有余の浪士が、一団となって、亡君の敵の邸内へ討ち入って、本懐を遂《と》げたのである。
世論が、これに集中して、沸騰《ふっとう》したのは、当然である。
乱世から遠くへだたったとはいえ、その祖父、その父に、剛強勇猛《ごうきょうゆうもう》の士を持った人々が、なお武断的な教育を最上のものと信じている時世なのであった。
町辻には、合戦講釈《かっせんこうしゃく》の太平記読みが、盛んに歓迎されていたし、芝居小屋では、曾我兄弟の狂言が大当りをとっていたのである。また、戦記軍談のたぐいも、大いに読まれていた。
太平洋戦争に日本が敗れて恰度《ちょうど》二十年、映画は「スパイ007」がバカ当りをとり、テレビでは「コンバット」が三〇パーセントの視聴率をあげ、出版では、「山本五十六」がベストセラーになる。アイビールックの若者たちが、戦闘兵士のカッコいい功名手柄ぶりに、熱狂する。
むかしもいまも、人情に変りはない。
もし、かりに、原爆で両親を殺された広島の一青年が、志をたてて、二十年の辛苦を嘗《な》めて、アメリカ合衆国はネバダの原爆基地へ潜入して、そこに貯蔵された原爆を爆発させたとせんか、まさに、世紀の一大快挙というべきであろう。
赤穂浪士の仇討は、泰平元禄の世にあっては、それに匹敵するぐらいの壮挙だったわけである。
赤穂浪士らは、四組に分けられ、大石内蔵助以下十七人は、肥後《ひご》熊本城主細川|越中守《えっちゅうのかみ》邸へ、大石主税以下十人は、伊予《いよ》松山城主松山|隠岐守《おきのかみ》邸へ、吉田忠左衛門以下十人は、長門《ながと》長府城主毛利甲斐守邸へ、間瀬孫九郎以下九人は、三河岡崎城主水野|監物《けんもつ》邸へ、それぞれ預けられたが、その待遇は、囚徒《しゅうと》ではなく、貴賓に対するように手厚かった。
細川越中守邸では、浪士接待役の堀内伝右衛門が、富森助右衛門に、次のように語っている。
「おのおの方のご忠義の程は、古今無双《ここんむそう》の評判にて、町方《まちかた》で、噂せぬ者は、ただ一人も居りませぬ。先日も、非番の折、すこし遠方に用事があって、辻駕籠に乗りましたところ、駕籠|舁《か》きどもが申しますには、四十六人の衆は、むかしの弁慶、忠信《ただのぶ》にも増したるお人柄、男振りまで揃い、就中《なかんずく》、大石主税と申される若衆は、元服すましたばかりにも拘《かかわ》らず、六尺の大男で、膂力《りょりょく》十人力、しかも、天下一の男前とかで、その夜も、大薙刀をふるって、弁慶にまさる働きをなされたそうな。……まことに、本気で信じ込んでいる様子でありました。その日ぐらしの駕籠舁き、日傭取りまでが、まるで、兄弟の働きのように、うれしげに噂している有様を、一度、お目にかけたく存じまするぞ」
この言葉だけで、当時の世上に於ける浪士らの人気の程を卜《ぼく》することができよう。
泉岳寺《せんがくじ》の亡君の墓へ、吉良上野介の首級をそなえた赤穂浪士らは、愛宕下の大目付仙石|伯耆守《ほうきのかみ》邸へ、一時召致され、一通りの吟味を受けたのち、四組に分けられて、各大名邸へ預けられたのであったが、細川邸では、藩主越中守綱利は、かれらが到着するまで――亥刻すぎ(午後十時すぎ)まで、寝に就かずに、待ちうけていて、直ちに接見したものであった。
綱利は、十七士が平伏した書院に入ると、上座に就かず、大石内蔵助の前へ、じかに畳へ坐った。
「赤穂城代――」
と呼び、内蔵助が頭を擡《もた》げると、大きく頷いてみせ、
「今日の働き、見事であった由、この越中も、心から慶賀いたす。一年有余の雌伏《しふく》、復讐を計って、他にもらさず、今日までの苦心のほどほとほと、感じ入った。……さいわいに、大目付よりのたのみにて、当邸へ預かった上は、自家に在ると同様に心得て、家中の者どもに、なんなりと申しつけて欲しい。家中の者どもも、お許《こと》らのたのみをきくのを、よろこびといたすであろう」
と、云った。
そして、夜更にも拘らず、すぐさまに、心のこもった食膳《しょくぜん》を、十七士の前へはこばせたのであった。
細川綱利は、老中柳沢吉保とは、最も懇親《こんしん》の間柄であった。あるいは、松の廊下に於ける刃傷沙汰《にんじょうざた》は、柳沢吉保の奸計であった、ということを、知っていたのかも知れない。
その渠《かれ》がすすんで、大名の作法を破って、囚徒たる赤穂浪士を厚くもてなしてみせたのであった。
他の三家――松平、毛利、水野家も、浪士らを、優遇することに於いて、細川家に劣るものではなかった。
細川邸では、十七士を、四間に十五間の櫛形の間《ま》に容れたが、藩主綱利は、次の朝、その部屋に来て、
「ここは、暗い。早々に役者の間を増築《ぞうちく》して移せ」
と、命じた。
そして、浪士らの身なりを視て、新しい小袖と宿衣を与えるように、接待役へ申しつけた。
料理は、朝昼夕三食とも二汁五菜で、綱利自らが献立を指図した。賓客《ひんきゃく》の饗応《きょうおう》以上の心遣いであった。浪士らは、あまりに膳部が結構なのに恐縮して、たびたび辞退したが、きき入れられず、のちには、一菜以外は手をつけぬようにした程であった。事実、小藩の下級武士であったかれらにとっては、生まれてはじめてのぜいたくな料理だったのである。
預かりの四家では、いずれも、不意事や火災などの異変に対処するために、警衛《けいえい》の手当や乗物まで常に備えたばかりでなく、もし公儀より宥免《ゆうめん》釈放の沙汰があったならば、直ちに贈ろうと、それぞれの家紋の入った小袖、裃《かみしも》、大小までも用意したのであった。
さらに、浪士らの心に叶うように、生花を部屋にかざったり、退屈をしのがせるべく軍書物語類を持参したり、肉親|朋友《ほうゆう》に便りをするようにと料紙|硯《すずり》を与えたり、親切のかぎりをつくした。
元禄十六年正月元旦を迎えると、年始のための熨斗目《のしめ》、袱紗《ふくさ》、麻裃をはこんだ。
浪士一同は、恐縮して、咎めの身の上である故、熨斗目は固辞し、麻裃だけを受けた。
細川家では、大晦日《おおみそか》までに、役者の間の増築がおわり、浪士らを、そこへ移した。
細川綱利は、浪士らを厚遇したのみでなく、その助命を、老中へ再三訴え寺社へも立願《りゅうがん》した。
細川家の浪士接待役堀内伝右衛門は、次のような覚書《おぼえがき》をのこしている。
正月になってから、富森助右衛門が、伝右衛門に云った。
「これは、大石内蔵助はじめ十七人の者どもの願いでござるが、それがしどもは、このたびの仕合に就いては、斬罪《ざんざい》を仰付《おおせつ》けられるでござろう。その死場所に、せめてよいところを与えられたいと願って居り申す。甚だ虫のよい願いながら、昨今、お手前がたのお話をうけたまわり、われらの評判がいささかよろしいのにうぬぼれて、あるいは、切腹という結構な仰付けに相成るやも知れぬ、とわれら一同寄り寄り話し合って居り申す。もし左様な節には、当お屋敷で、行われるかと存じます。われら一同、それぞれ宗旨も変って居り申すゆえ、各|菩提寺《ぼだいじ》より、死骸の下げ渡しを願い出ると存じますが、相成るべくは、泉岳寺の空地の片隅に、十七人とも、一緒に埋めて頂けますれば、この上の幸甚はござらぬ」
伝右衛門は、尤《もっと》もな願い、と感動し、大目付長瀬助之進に、その旨《むね》を願い出た。公儀としては、勿論、拒否の理由はなかった。
公儀よりききとどけられた旨が伝えられると、吉田忠左衛門は、伝右衛門に向い、
「助右衛門をもって、十七人の願いを申上げたところ、早速、おひき受け下され、まことに忝のうござった。就いては、もうひとつ、無心がござる。ごらんの通り、それがしは大兵《だいひょう》でござれば、死後見苦しいことと存ずる。ここに金子一両ござるゆえ、これをもって、二重の大風呂敷を作っていただけまいか。四方に鎖《かがり》をつけて、死骸の見えぬように、包んで頂きとう存ずる。おききとどけ下さるまいか」
伝右衛門は、金子をさし出されて、その覚悟の立派さに、思わず目頭を熱くした。
このような逸話《いつわ》が、屋敷から世間へ流れると、いよいよ、赤穂浪士に対する評判は高まった。
この評判が、江戸城内の閣議にも、影響しないわけがなかった。
将軍綱吉以下、閣老たちは、その採決の黒白をきめかねた。
内匠頭長矩に対する採決には、なんの躊躇《ちゅうちょ》もみせなかった綱吉も、大奥の女中たちの浪士助命嘆願をはじめ、大名・旗本の意見が、その忠義の称誉《しょうよ》に一致しているのをきいて、早計に、おのが決断を下すわけにはいかなかった。
広間には、重苦しい沈黙が、占めていた。閣老の顔ぶれに、欠けているのはなかった。
柳沢吉保の前には、今朝がた評定所からとどけられた評定衆《ひょうじょうしゅう》の意見書が置かれていた。
評定衆というのは、寺社奉行(永井|伊賀守《いがのかみ》ほか二名)、大目付(仙石伯耆守ほか三名)、町奉行(松前伊豆守ほか二名)、勘定奉行(荻原近江守ほか三名)によって、構成されている。
この十四名の評定衆が、十日間、論議に論議を重ねて、この意見書をつくりあげたのであった。
もとより、これは、あくまで意見書であり、採決は、将軍家と閣老が、とることであった。
しかし、老中・若年寄で、この意見書に、反対の者はなかった。柳沢吉保自身、沈黙を守ったのである。
将軍綱吉が、入って来た。
この日、綱吉は、生気がなかった。昨夜、久しぶりで、十八歳の処女を、抱いてみて、不能者だったのである。綱吉は、五十代も終りに近づいて、近来、とみに、体力のおとろえをおぼえていたのである。
けだるそうに、座に就いた綱吉は、
「どうだな?」
と、閣老たちを見渡した。
こういう気弱な口をきいたのは、はじめてであった。
「評定衆の意見書、ごらん下さいましょうか」
吉保が、うかがいをたてた。
「うむ」
綱吉は、それを受けとって、披見した。
意見書は、次のようなものであった。
一、吉良左兵衛(上野介養子)儀は、申訳も立てがたい仕方である。当夜、当然斬死をすべきであるにも拘らず、のめのめと生きのびた卑劣《ひれつ》ぶりは、その分にはすておきがたく、切腹を仰せつけられるべきである。
一、吉良上野介家来どものうち、このたび、卑劣にも、斬り合わずして、にげかくれた者は、のこらず斬罪にすべきである。その際すこしでも闘って手疵を負うた者どもは、親類へ引き取るのが順当かと考える。
一、上杉弾正|大弼《だいひつ》、同民部大輔儀は、浅野内匠頭家来どもが、上野介屋敷をひきあげ、泉岳寺へ参り罷《まか》りあるあいだ、何もせずに、動かなかったことは、武士道の吟味にはずれたのではないか、と考えられる。お仕置きのしかたもあるべきと存ずる。勿論、領地を召しあげられるのが当然かと思う。
一、さて、内匠頭家来どもの仕方であるが、これは、評議が右と左に分れざるを得ぬ。しかし乍ら、亡主の志を継いで、一命をすて、上野介へ押し入り、討ち取った段、真実の忠義と申すべきか、と心得る。御条目にある文武忠孝にはげみ、礼儀を正すべき趣にあてはまっているものと考えられる。且また、大勢申し合せて、兵具をつけ狼藉《ろうぜき》を働いた、という見方ができるとはいえ、この段遠慮をしていては、とうてい本意を遂げることはできず、やむなき仕儀であった。武家法度に於ては、徒党をむすび、誓約を成すことは、かたく禁じられているが、もし、内匠頭家来どもに徒党の志があったとすれば、すでに、去年、内匠頭が切腹して、領地を召しあげられた時に、城にたてこもって、反抗したに相違あるまい。その節は、いささかも、上使に対して違背《いはい》せずに、一切を渡して、しりぞいている。ただ、仇を討つにあたり、個々ばらばらの力では本意を達しないために、やむを得ず、大勢申し合せて、上野介宅へ押し入ったので、これをもって、徒党を組んだとは、みなすわけには参らぬ、と考えられる。
読みおわって、綱吉は、しばらく、ぼんやりした面持になっていたが、
「ふむ――」
と、ひくく唸った。
意見書は、吉良・上杉方に対してあまりにも苛酷であり、赤穂浪士らに対しては寛大をきわめていた。
綱吉は、咄嗟《とっさ》に、これを、どう受けとってよいか、思考の力がなかった。
どうでも、勝手にせい。そんな気持であった。
「つまり……」
綱吉は、云った。
「評定衆は、内匠頭の家来どもを、各家へ預けたまま、しばらく、すてておく、という意見じゃな」
「御意《ぎょい》――」
柳沢吉保は、こたえた。
「林|大学頭《だいがくのかみ》にも、意見をただしましたるところ、内匠頭家来どもは、各家へ数年のあいだ預け置き、落着仰せつけられるが、最もよろしき措置と存じられます、とこたえて居りましたれば……」
機を観《み》るに敏なこの才人は、輿論《よろん》に抗すべくもないことをさとって、巧みに、閣老の考えをまとめて、それを代弁《だいべん》する立場へおのれを置いていた。
綱吉は、老中筆頭の阿部豊後守正武を視て、
「これで、よいのか?」
と、念を押した。
豊後守は、両手をつかえ、
「内匠頭家来どもの仕方、後世に永くつたうべき事柄にございますれば、御当代のご処置は大切に存じまする」
と、こたえた。
土屋相模守も小笠原佐渡守も秋元但馬守も稲葉丹後守も、斉《ひと》しく、両手をつかえて、豊後守に賛成する様子を示した。
「では――しかるべく、とりはからえ」
綱吉は、ついに、一言も、自分の意見は口にせず、座を立った。
大石内蔵助は、ふっと、目をさました。
雨戸に、小石が当ったような気がしたのである。
――ききまちがいであったか?
と思っていると、こんどは、たしかに、雨戸が、コツンと鳴った。
内蔵助は、ゆっくりと、起き上がった。十七士は、増築されたこの役者の間三部屋に、起居していた。上の間には、内蔵助のほか、吉田忠左衛門、原惣右衛門、小野寺十内が住み、中の間に、堀部弥兵衛、片岡源五右衛門、間瀬久大夫、間《はざま》喜兵衛、早水《はやみ》藤左衛門が住み、他の八名が、三の間に住んでいた。
そして、内蔵助と、忠左衛門ら三人のあいだは、六曲屏風《ろっきょくびょうぶ》でへだてられていた。
内蔵助は、縁側へ出た。
そこに、二人の宿直《とのい》の番衆が、控えていた。
「手水《ちょうず》へ参る」
内蔵助は、告げた。預けられた当座は、厠《かわや》へ行くのも、この番衆の者が一人ずつ附き添い、戸口の傍で待っていたし、手水をつかう度に、小坊主が、柄杓《ひしゃく》をもって水をかける鄭重《ていちょう》な取扱いをされた。
内蔵助は、正月元旦に、藩主に目通りした際、このような鄭重な取扱いはもったいなさすぎる故、ご免を蒙りたい、と申し出て、納得してもらっていた。
厠に入った内蔵助は、高窓から、闇の外へ、声をかけた。
「吉右衛門か?」
すぐに、打てばひびく返辞があった。
「はい。……一昨日、芸州より立ちもどりましてございまする」
寺坂吉右衛門は、すでに、自由の身になっているのであった。
こうやって、報告する義務からは解かれている。
にも拘らず、なぜ、忍び入って来たのか?
「旦那様――」
「うむ」
「昨夜、柳沢様のお屋敷内に入って、様子をうかがいましたところ、ご一同様には、永くお預けののち、ご助命の由にございます。お目出度う存じまする」
「それに、まちがいはないか?」
「はい――、柳沢様が、奥方にお話しなされているのを、しかと、ききとって参りました。……御|宥面《ゆうめん》のあかつきには、こんどこそ、わたくしめを、下僕として、おつかい下さいますよう、願い上げまする」
内蔵助は、しばらく、なんともこたえなかった。
「旦那様!」
吉右衛門が、呼びかけると、内蔵助は、ようやく、口をひらいた。
「そこで、しばらく、待て」
「はい」
内蔵助は、部屋へひきかえして来ると、机に向って、料紙をひろげ、墨をすりはじめた。
吉田忠左衛門が、目ざめた。
不審に思って、身を起しかけると、隣りに寝ていた小野寺十内が、不意に、片手をのばして、制した。
忠左衛門は、うなずき、そっと、身を横たえて、寝入ったふりをした。
やがて、内蔵助は、一通の封書をつくると、再び、部屋を出た。
宿直の番衆へ、笑って、
「寒がりめの不覚《ふかく》でござった。もう一度、手水を使うて参る」
と、云った。
内蔵助が殊の外寒がりであることは、知れわたっていた。一度、小用をしたが、部屋へ戻ると、またすぐに行きたくなることは、べつに珍しくはない。
番衆は、恐縮して、
「明晩からは、炬燵《こたつ》におやすみ下さいますよう――」
とすすめた。
内蔵助は、厠に入ると、吉右衛門を呼んだ。
「お前に、ひと働きをたのみたい」
「なんなりと、仰せつけられませ」
「千代田のご城内へ、忍び込んでもらいたい」
「は――?」
「たのむ!」
「かしこまりました」
「大奥へ入り、公方《くぼう》様|御寝《ぎょしん》の間《ま》をうかがってもらいたい」
「はい」
「わしは、いま、上書をしたためた。これを、公方様へ、奉ってくれぬか?」
内蔵助は、高窓から、その封書を、そっと外へ落した。
「お引受けつかまつりまする!」
吉右衛門は、こたえた。語気に、決死の覚悟がこめられていた。
その夜も――。
将軍綱吉は、前夜とは別の、十八歳の処女を、褥《しとね》に入れていた。
しかし、抱き締めて、口を吸ってみても、まだかたい|つぼみ《ヽヽヽ》の胸の隆起を弄《もてあそ》んでみても、一向に、おのが物が役に立つ気配は起りそうもなかった。
綱吉は、苛立った。
そのうちに、ひとつの思案が、脳裡《のうり》で、むくっと鎌首をもちあげた。
「局《つぼね》――」
控えの間の老女を呼んだ。
「はい、これに在りまする」
「玉丸をつれて参れ」
「かしこまりました」
すぐに、老女が、つれてきたのは、美しい毛なみの白狗《しろいぬ》であった。
貞享四年正月、日本全土に、生類憐愍《しょうるいあわれみ》の令を布いてから、すでに十五年になる。
この苛酷な政令は、一日も休止されることなく、人民を苦しめつづけていた。
おのれが、戌《いぬ》年に生れた、というただそれだけの理由で、綱吉は、人間よりも犬の方を上に据え、それが昂《こう》じて、馬から猫から、蛇、蛙にいたるまで、殺すのを禁じてしまったのである。
戸田茂睡《とだもすい》という人物が記した「御当代記」には、生あるものはすべて――蚤《のみ》、虱《しらみ》、蚊、蝿までも殺さぬという誓紙を書かされた大名の家中もあった、と述べている。
この十五年間に、犬のために斬罪になったり、遠島になった者は、かぞえきれなかった。
当然――。
この江戸城内には、日本中からえりすぐって献上された数百頭の犬が、飼われていた。
綱吉が、そのなかで、最も愛寵《あいちょう》していたのが、玉丸というこの白狗であった。
「よしよし、玉丸これへ参れ」
綱吉は、白狗を呼び寄せると、のどを撫でてやり、
「その方に、ひとつ、たのみがあるぞ」
と、云った。
褥では、娘が、仰臥《ぎょうが》して、目蓋《まぶた》を閉じ、死んだように微動もせぬ。
綱吉は、下座に控えている御伽坊主(年配の剃髪《ていはつ》した女中)に、無言で、厨子棚《ずしだな》を指さし、薬餌函《やくじばこ》を持って来させた。
綱吉が、御伽坊主に命じたのは、薬餌函の中の常備の品のひとつ、蜂蜜《はちみつ》を、娘の秘所へ、塗ることであった。
流石に、老女の耳をはばかって、綱吉は、終始無言で、手真似で命じた。
御伽坊主は、娘の寝召の前を左右にはぐり、両股をすこし開かせておいて、そこへ、丹念に、蜂蜜を塗りつけた。
綱吉は、雪の中の疎林のようなわずかな恥毛が、濡れて、なびき伏すのをみとめてから、白狗の頸輪《くびわ》を曳《ひ》いて、その鼻づらを、そこへ、近づけてやった。
思いもかけぬ好物を与えられて、白狗は、夢中になって、むさぼりはじめた。
綱吉は、ひそやかに舌音をきき乍ら、じっと見戍《みまも》るうちに、しだいに、興奮をおぼえて来た。
眉宇《びう》をひそめて、この拷問《ごうもん》に堪《た》えている娘の寝顔が、すこしずつ、紅味をおびて来るのも、綱吉の嗜虐《しぎゃく》の快感をさそった。
綱吉は、白狗を押しのけて、やおら、娘の上へ、掩いかぶさった。
……四半刻を経て、綱吉は、満足して、娘の上から、起き上がった。
その時であった。
綱吉は、不審の眼眸《まなざし》を、下座へ投げた。
もう一人、御伽坊主が、そこに、平伏していたのである。
蜂蜜を、娘の秘所へ塗った御伽坊主は、そのかたわらに、だらしなく、横たわって、意識を失っていた。
「なんじゃ?」
綱吉は、訊ねた。
その御伽坊主は、平伏したまま、するすると進んで来ると、一通の上書を、捧げた。
綱吉は、その御伽坊主が男であるのをみとめてから、上書を受けとり、開いてみた。
『夜半《やはん》、曲者を用いて、御寝《ぎょしん》をみだし奉る儀、罪軽からず、恐懼惜《きょうくお》く能わざる儀に御座候、亦身分もわきまえず、上書し、嘆願つかまつる無礼の段、御|容赦《ようしゃ》願い上げ奉り候。今度、浅野内匠頭家来共、御公儀御免許もなき騒動を企てる事、亡主が恨《うらみ》を雪《そそ》がんが為のやむなき仕儀に御座候得共、志は儀なりと雖も、法に於て許すべからざる暴挙に御座候。法は天下の規矩《きく》にして、これを犯せし者共を、寛典《かんてん》に処したもうに於ては、御公儀の御法度の森厳は崩《くず》れ、爾後《じご》の御政道の上に多大のさわりとも相成らずやと存じ奉り候。われら浅野内匠頭家来共の仕方は、義を以て己を潔《いさぎよ》くする道を踏みしも、あくまで私の事にて、神祖(家康)の御法は、人を朝に殺す者は夕に死すとうけたまわり候得ば、何卒《なにとぞ》、我ら四十六人の者共に、死罪を賜わりて天下の法をおん立て下され度く、伏而《ふして》願い上げ奉り候
恐惶謹言《きょうこうきんげん》
浅野内匠頭家来
大石内蔵助良雄拝』
読み了えて、綱吉は、
「天晴《あっぱ》れな存念よ」
と、云った。
御伽坊主に化けた寺坂吉右衛門は、平伏して、身じろぎもせずに、いた。
「戻って、大石内蔵助に、伝えい。存念通りにいたしてくれよう」
綱吉は、云った。
二年ぶりに、男の資格をとりもどしたことで、綱吉の気持は、余裕を持っていたのである。
赤穂浪士を預かっていた四家に、渠《かれ》らに対し死を賜る旨の奉書が届いたのは、二月四日であった。
[#ここから2字下げ]
浅野内匠頭|儀《ぎ》、勅使御馳走の御用仰付け置かれ、その上時節柄、殿中を憚《はばか》らず不届きの仕形につき御仕置仰付けられ、吉良上野介儀、御構いなく差置かれ候処、主人之|讐《あだ》を報いんと申し立て、内匠頭家来四十六人、徒党を致し、上野介宅へ押し込み、飛道具など持参し、上野介を討ち候始末、公儀を恐れざるの段重々不届に候、之に依って切腹申し付ける者也
[#ここで字下げ終わり]
浪士四十六人は、いずれも麻裃を着用して、その上意の趣を、つつしんで受けた。
細川家に於ては、切腹の下命のことは、すでに正月二十二日に、判っていた。老中稲葉丹後守から、浪士らの親類書《しんるいがき》をさし出すように、との通告があったからである。親類書を求めることは、死骸下げ渡しの意味があったのである。
切腹|下達《かたつ》の奉書を使者が持参したのが午前中で、その午後には、検使の目付が、各家へ到着していた。
その間――わずか一刻ばかりのあいだに、浪士一同は、死装束《しにしょうぞく》にあらためた。
準備がおわって、しずかに、検使到着を待っている時、小野寺十内が、内蔵助の前に来て、小声で、
「ご配慮、忝《かたじけ》のうござった。有難う存じます」
と、礼を云った。
内蔵助は、黙って、十内を、視かえした。
「それがしら年寄共が、かねて心配いたして居ったのは、永のお預けを受けたあと、御宥免《ごゆうめん》を賜わることでござった。年寄共はさて措《お》き、若い衆は、このさき、二十年、三十年の生命がござる故、その間に、なにかのまちがいを犯し、汚点をつけ申しては、せっかく世間のおほめを頂いた身をけがすことになると、ひそかに案じて居ったことにござる。……切腹を許されて、この上の重畳《ちょうじょう》はござらぬ」
十内は、そう述べた。
内蔵助は、微笑して、
「お主、存じて居ったのか」
と、首をかるく横に振ってみせた。そして、べつに、何も云うべきこともない態度を持した。
やがて、時刻が来た。
細川家吉弘嘉左衛門、八木市大夫の両人が、役者の間の縁側へ来て、
「大石内蔵助殿、御出|候《そうら》え」
と、呼んだ。
内蔵助は、いかにもなにげない様子で、一同へ、
「お先に――」
と、かるく一揖《いちゆう》しておいて、起った。
縁側へ出ようとする内蔵助を、潮田《うしおだ》又之丞が、呼びとめた。
「大夫!」
内蔵助が、ふりかえると、又之丞は、
「皆の者、すぐ、あとを追って参ります」
と云った。
もう一度、内蔵助の顔がみたかったのである。
内蔵助は、かるく頷《うなず》いておいて、縁側をゆっくりと遠ざかって行った。
高輪|泉岳寺《せんがくじ》
いつの間にか、数十年の歳月が、経った。
赤穂浪士の義挙《ぎきょ》は、遠いむかしの物語となった。遠いむかしの物語になったために、かえって、そのいさおが、世人の胸に、ますますかがやかしいものになっていた。
浪士ら自身がかかわり知らぬ言行が、日本全土でつくられ、いつしか、それが、真実のものになっていた。浪士らの筆跡は、千金の宝ものにされ、浪士らが宿泊した家は、それを売りものにして、多くの利益を得た。
芸能の世界でも、浪士らの物語が、最大の売りものになっていた。
浪士らが自決した日から十二日目にあたる元禄十六年二月十六日には、はやくも、江戸堺町中村勘三郎一座で、夜討《ようち》の趣向を、曾我兄弟の仇討につくって、興行していた。これは、しかし、町奉行の命令で、停止させられた。
次に、公儀黙許の下に、二十四年目の宝永三年五月五日に、近松門左衛門の「碁盤太平記《ごばんたいへいき》」が上演され、これは、竹本筑後掾《たけもとちくごのじょう》の操《あやつ》り芝居で、高野師直《こうのもろなお》、大星由良之助、塩谷《しおや》判官などの名まえが、はじめて出た。
宝永七年になると、歌舞伎では、篠塚庄松一座が、東三八作「大矢数四十七本」を出した。
享保《きょうほう》十八年には、並木宗輔、条助作の「忠臣金の短冊《たんざく》」が、豊竹前大掾一座で興行された。いずれも、大当りであった。
「仮名手本忠臣蔵」が、竹本座で、はじめて上演されたのは、浪士義挙から三十余年後の、寛延元年八月十四日であった。この狂言は、未曾有《みぞう》の大当りをとった。
そのために、赤穂浪士に関する以後の芝居は「忠臣蔵」だけとなった。
江戸の庶民にとって、「忠臣蔵」は、なくてはならぬものとなった。すなわち、赤穂浪士に対する尊敬は、信仰に近いものとなったのである。
ところが――。
浪士らの遺族に対して、関心を抱く者は、誰もいなかった。その消息について語る人は、一人もいなかった。
内匠頭長矩の夫人|阿久里《あぐり》――瑶泉院《ようせんいん》はじめ、その妻、母、兄弟、姉弟たちは、いつの間にか、この世を、人知れず去って鬼籍に入っていた。
いや、なかには、一人二人、浪士の遺族にあるまじき所業をもって、周囲に眉宇《びう》をひそめさせる者もなくはなかった。
例えば――。
大石内蔵助良雄には、三男二女があった。
長男|主税《ちから》に就いては、述べるまでもない。次男吉千代は、当時十二歳で、その年、南禅寺大休和尚の弟子になって、出家し、宝永六年三月、十九歳で、逝《い》った。三男大三郎は、赤穂城から追われた時、まだ母の腹の中にあった。
内蔵助妻|りく《ヽヽ》は、離別というかたちで、実家である豊岡の、京極甲斐守家臣石束源吾兵衛の家へ戻ってから、大三郎を生んだ。
大三郎は、二歳になると、どういうゆかりがあったか、丹後宮津・須田村の眼医師林文左衛門へ、金子十両を添えて、養子に遣《つか》わされた。
その後、大赦《たいしゃ》がおこなわれ、内匠頭実弟浅野大学が寄合に召出されたのを機会に、大石内蔵助唯一の遺児である大三郎も、芸州浅野本家へ召抱えられた。
父の禄高《ろくだか》千五百石そのままが下され、番頭《ばんがしら》を与えられた。破格の厚遇《こうぐう》であった。
しかし、大三郎は、まことに、不肖の子で、勤めぎらいで、極端な怠け者であった。
頭脳の悪さも、話にならなかった。そのくせ、好色で、家の召使いといわず、近隣の娘といわず、やたらと手を出し、孕ませ、父の名をさんざんにけがした。三十なかばで、悪所がよいのむくいで、鼻が欠け落ち、禄高を五百石に減らされてしまった。
そのほか――。
浪士らの遺族の中で、男の子供は、十九人いたが、十五歳以上の者は、親の科《とが》によって処分される掟《おきて》のため、十九人の男の子のうち、四人が、伊豆大島へ流された。
そのうちの一人が、後に、盗賊になって、京大坂の分限者《ぶげんしゃ》をおびやかし、捕えられるや、
「おれは、赤穂浪士神崎与五郎則休の伜与市だ」
と、うそぶいたという。
「堀部安兵衛の許嫁《いいなずけ》であった女が、いまだ生存して、尼になって、亀井戸に住んでいる」
その噂がひろまったのは、義士の四十回忌が済み、木挽町《こびきちょう》の森田勘弥一座で、「忠臣蔵」が興行され、山本京四郎の扮する大石内蔵助が、大評判になっている頃であった。
その老尼は、妙海尼、といった。
亀井戸の安場大杉明神の傍に小庵を寓して、一人ずまいをし、亡き人々のあとを弔うために、時折り泉岳寺へ詣でている妙海尼は、俄然、江戸の市民たちから、あたたかい目を集中された。
堀部安兵衛の許嫁のまま、安兵衛と別れて、再び他に縁《とつ》がず、終身処女の身を通し、貞節をまもって、浅野主従の冥福を祈りつつ、尼となって殉ぜんとしている、ときけば、江戸の市民たちが、感動しない筈はなかった。
たちまち――。
寄附によって泉岳寺の門前に、一庵が建てられた。老いの身で亀井戸から参詣《さんけい》するのは、さぞつらかろう、という同情によるものであった。
庵は、清浄庵《せいじょうあん》と名づけられ、泉岳寺に参詣する人々は、必ず立ち寄って、老尼の話をきくようになった。そして、なにくれと、布施《ふせ》されるようになったので、老尼は、いつか、裕福になった。
浅野家に縁故の大名の一人が、一代燈明料として、年々、金子を給与してくれたので、清浄庵に住むようになって三年と経たぬうちに、老尼の存在は、泉岳寺のかたわらに、なくてならぬものになった。
水戸権中納言治保が、召見して、そのむかし話をきくにいたって、老尼は、さながら、大奥の上臈《じょうろう》ででもあるかのように、いよいよ、その態度を、威厳あるものに示しはじめた。
訪れる者のうち、土大夫か大きな町人でなければ、直接の談話を交さぬようになり、堀部家の祀《まつり》を絶やさぬために迎えた養子を通じて、布施を受けとった。
養子には、堀部弥惣次と名のらせた。
その日――十二月十四日。
浪士討入の日にあたり、高輪泉岳寺は、早朝から夕刻まで、参詣人の列が、ひきもきらなかった。
清浄庵でも、弥惣次が三方に受けとる布施は山となった。まさに、かき入れの日であった。
夕餉《ゆうげ》をおわった頃あい、弥惣次が、老尼の居間に入って来た、
「是非とも話をうかがいたい、というて、年寄が一人、どうしても立ち去りませぬが、会うておやりなされ」
と、すすめた。
「もう、疲れたぞえ」
老尼は、午前午後にわたって、十人以上の訪客に、むかし話をきかせていたのである。
「それが……、お布施に、十両を包んで居られるので――」
弥惣次は、云った。
老尼も、十両もほどこされては、客を居間に通さざるを得なかった。
入って来たのは、もう古希《こき》を疾《と》くに過ぎている、枯木のような老爺《ろうや》であった。
挨拶をおわると、老爺は、
「てまえは、若い頃、一度、大石内蔵助殿にお目にかかったことがありまする。……ご浪士がたが、切腹なされた頃から、西国へ参り、ずっと、その地に在ったため、この泉岳寺への参詣が叶わず、今日まで、うちすぎて居りました。冥土への土産に、とうとう、老いの身を、江戸へはこんで参り、ご一同のお墓へお詣りできまして、もうこの世に思いのこすことはありませぬ。……ついては、貴女様のお話もおうかがいして、冥途への土産話のひとつにいたしとう存じます」
と、云った。
「それはそれは、ご奇特なことでございまする」
妙海尼は、数珠《じゅず》をつまぐり乍ら、語り出した。
「わたくしは、俗名を順と申し、寅《とら》の歳に生まれました。母は、家つきの娘で、父弥兵衛は、養子でございました。母は、わたくしが幼い頃に逝《ゆ》き、祖母正伝院の手で、育てられたのでございます。七歳の時から、正伝院にしたがって、浅野家の奥にて、人となり、十五歳の時に、主家の凶変《きょうへん》に遭うたのでございます。祖父母にともなわれ、大石内蔵助殿の内室とともに、赤穂の城をのがれ出て、網干《あぼし》と申す土地に仮住し、翌年、山科に出て、大石殿の閑居でくらして居りました。御一党が、討入の際には、老父の許に居りました。
わたくしは、まだ十五歳であったため、安兵衛殿とは、祝言せず、許嫁のままでいたのでございます。もう一年おそければ、わたくしは、安兵衛殿の妻になっていたでございましょうに……。
その夜、父が槍を杖《つえ》ついて、立ち出てんとされるのを見て、わたくしは、
『門より内は、刀の業《わざ》、門より外は槍、とうけたまわりまする。お父上の槍は、チト長すぎはいたしませぬか?』
と、注意いたしました。
父は、大層よろこび、
『左様なことを、誰からききおぼえたか。よくぞ申した』
と、槍の柄を、畳《たたみ》の尺にて、五寸ばかり切り縮めて、出向うたのでございます。
吉良邸には、かねて、同志の妻女、娘が七人、間者となって入りこみ、そのうちには、忠義のために操をすてて、上野介殿の妾《しょう》となった者もございました。その子女たちの手引きによって、ご一党は、討入することができたのでございます。
七人の女子衆は、かねてより、大石殿から、一党討入の際には、みな、吉良家のために働け、と申し含められて居りましたので、けなげにも薙刀を把《と》って、味方にたち向い、わが父、わが良人の手で、仆《たお》れたのでございます。
大石殿には、七人の首級を挙《あ》げられて、泉岳寺に引揚げの際、いちいちこれを収めて、冷光院様のお墓のそばに、お埋めあそばされたのでございます。
わたくし順こと、やがて、仏門に帰依《きえ》いたしたく、はるばる妙齢で、出家|得度《とくど》は思いもよらぬ、まことその志があるならば、修業の道を踏め、と云われ、三箇年間、一室にとじこもって、苦行を重ねたことでございました。髪を落して、法体《ほったい》となったのは、ちょうど十九歳の時でございました。名も妙海と改めて、これより、廻国して、あまねく、六十余州の霊刹を巡礼したのち、江戸へもどって参りました。
わたくしの志は、大石殿内室のいまわのきわのお申し置きにしたがって、主家を再興することでございました。それのみ、昼夜心がけ、御老中のご通行めがけて、駕籠訴《かごそ》三たびにも及びました。はじめ、二度までは、おとがめもございませんでしたが、三度目は、これ以上|強訴《ごうそ》するにおいては、捕えて遠島申しつける、と厳しいお申し渡しでございましたので、とうとう思いとどまるよりほかはなかったのでございます。その後は、諸大名方の奥向きに召されて、罷《まか》り出るたびに、奥方様におすがりして、ひたすら、殿へのおとりつぎを哀訴《あいそ》いたした次第でございます。したれども、尼一人の力では、主家を再興することなど、及びもつかぬ儀にて、老いて、せめて、御主君やご一党のみ霊《たま》に、ただお経をあげるよりほかに、すべはないことでございます」
話の途中、しばしば、泪《なみだ》にむせびつつも、老尼は語り馴れた口調で、そこまで、きかせた。
対座の老爺は、終始、黙然として、相槌も打たずに、きいていた。
妙海尼は、ちらと、老爺を視《み》やった。
老爺の表情は、入って来た時と、全くかわってはいなかった。それが、妙海尼には、不審であった。
これまで、自分の話に感動しない者は、一人もいなかったのである。丹波|篠山《ささやま》の藩士佐治数馬という武士などは、一度訪れて、話をきくや、この上もなく感動して、再度訪れて、その語るところを記録して行ったくらいである。
――なぜ、この年寄は、自分の話に、感動しないのか?
妙海尼は、苛立たしさをおぼえずにはいられなかった。
妙海尼は、やむなく、つづけて語ることにした。
「わたくしが、山科にて、大石殿の御内室とともに在りました時のことでございました。……ある日、大石殿が、わたくしをお呼びになり、われらが、吉良邸に討入って、万一、本望を遂げなかった際、その場で、一同、腹をかっさばいて、相果てる所存ゆえ、そなたは女乍ら、行末たのもしく存ずれば、たとえ、天を翔《か》け、地をくぐっても、吉良邸へ忍び入り、上野介殿の首級を刎《は》ねてもらいたい、とお申しつけになりました」
そこまできいた老爺が、ふっと、片手をあげた。
「まこと、失礼なおたずねをつかまつりますが、貴女様は、堀部安兵衛殿とは、一度も、契られませなんだか?」
その質問は、しかし、妙海尼にとって、はじめてではないらしく、
「あれは、討入の一月ばかり前のことでございました」
と、おちつきはらって、語った。
「安兵衛殿には、永の暇乞《いとまご》いのつもりでありましたか、江戸から上方へのぼって参り、祖母正伝院とわたくしの住む山科の家をおとずれたのでございます。祖母は、そのだしぬけの訪れに、大層立腹いたし、仇討の志を忘れ、許嫁の娘に会いに参るなど、なんという未練がましさ、ときびしく対面をこばんだことでございました。安兵衛殿は、毛頭左様な料簡で参ったのではない、と誓紙に血判までして、さし出したのでございました。祖母は、それで、ようやくお会いなされましたが、決して、わたくしに会わそうとはなさいませんでした。わたくしは、終始、襖《ふすま》のかげにかくれて、安兵衛殿の声だけをきいて居りました。ついに、一言も交さずして、永き別れと相成りました。祖母は、それでも、安兵衛殿に、襯衣《はだぎ》二枚をとり出して、贈られたのでございました」
「……」
老爺は、再び沈黙をまもって、じっと妙海尼を見戍《みまも》った。
妙海尼は、少々うす気味わるくなった。
「今日は、たくさんの御仁がおみえになりましたゆえ、この尼も、疲《つか》れました。やすませて頂きとう存じまする」
そうことわって、起とうとした。
とたんに、
「あ――いや、まことにお疲れのところを、おそれ入りまするが、てまえの話も、ほんの少時、おききとどけ下さいませぬか?」
老爺は、云った。
「どんなお話でございましょうか?」
妙海尼は、眉宇をひそめて、老爺を見かえした。
「いえ、ほんのつまらぬ話でございますが、貴女様には、なにか、思い当られることもあるかと存じ、お耳に入れる次第でございます」
老爺は、俯向《うつむ》いて、目を膝に落し乍ら、語り出した。
「左様――四十年前、御一党には、首尾よく本懐《ほんかい》をお遂げになり、泉岳寺の亡君の墓前へ、上野介殿の首級をそなえられて、夜に入ってから、芝|愛宕《あたご》下の西久保《にしのくぼ》に在る大目付|仙石伯耆守《せんごくほうきのかみ》久尚様の邸へ召され、諸目付お立ちあいの上で、四大名方へ、分散お預けの旨を申し渡されました。
その時、堀部安兵衛殿には、大石内蔵助殿、父弥兵衛殿と、おわかれなされ、大石主税殿ら九名とともに、伊予松山の松平|隠岐守《おきのかみ》定直様のお屋敷へ、お預けとなりました。
隠岐守様のご本邸は、愛宕下二丁目にありました。
同家では、お預かりの沙汰を蒙るや、邸内の長屋十戸をあけて、一人一人を、轎《かご》にのせたまま、一戸毎に舁《かつ》ぎ込まれました。
第一番の長屋に入れられたのが、安兵衛殿でございました。身分からいえば、大石主税殿が入れられるべきでありましたろうが、安兵衛殿が主税殿に代って、受取諸員と応対なされたので、そのあつかいをされたのでございましたな。
隠岐守様は、恰度《ちょうど》その時は、ご病気でお引きこもり中であったにも拘らず、十名の轎《かご》が仙石邸を出たという報せを受けられるや、玄関までお出ましになり、寒気の中にお立ちになって、その到着を待ち、それぞれ、長屋に入るまでお見とどけになり、家老遠山三郎右衛門、服部源左衛門に、ねんごろにねぎらうようにお命じになりました」
「……」
妙海尼の顔色は、老爺のくわしい知識をきいて、やや蒼ざめた。
老爺は、つづけた。
「安兵衛殿ら十名のかたがたは、翌日三田の中屋敷の方へ、身柄を移され、それは、もう賓客のような鄭重なもてなしを受けられ、切腹のご沙汰があるまでの日々をすごされたのでありました。
ところで、ご一党の切腹は、二月四日でありましたが、その二月《ふたつき》のあいだ、一日も欠かさずに、安兵衛殿に、と申して、酒肴《しゅこう》などを届けて来る一人のうら若い女性《にょしょう》が居りました。しかし、外からの慰問の品は、一切受けつけてはならぬ定めでありましたので、ご一党の世話をしていた士が、その旨を申しきかせましたが、その娘は、いくら拒絶されても、届けて参りました。
いよいよ、切腹のご沙汰が下ってから、世話係りの士が、安兵衛殿に、|すが《ヽヽ》と申す女性をご記憶なされますか、と訊《たず》ねたところ、一向におぼえがない、という返辞でありました。
安兵衛殿は、自分が、中山新五郎と名のって、牛込天竜寺境内の裏店《うらだな》に住んでいた頃、そのとなりにいた娘、とつたえられても、すこしも、その俤《おもかげ》を思い出されなかったのでございます」
そこまで語って、老爺は、いったん口をつぐんで、妙海尼を、じっと見据《みす》えた。
老爺は、つづけた。
「貴女《あなた》様も、ご存じでありましょう。吉良邸討入の時、浪士がたは四十七名でありましたが、そのうちから、一人が、門前から、姿をくらまして居りまする。大石殿の下郎であった寺坂吉右衛門という男でありました。
実は、この男、忍びの者にて、つまり、赤穂藩へ仕えてはいたものの、家来ではありませなんだ。それ故、内蔵助殿は、本懐を遂《と》げたあかつき、吉右衛門を、去らせてやったのでございました。
しかし、吉右衛門は、浪士がたと苦労をともにしたことが忘れられず、ご一党が四大名方にお預けになってからも、そっと忍んで行って、世間の噂などを、お報せしていたのでございます。
左様《さよう》――。いよいよ、切腹のご沙汰が下ったその夜のことでございました。松平家へ忍び入って、お別れの挨拶をした吉右衛門は、安兵衛殿から、|すが《ヽヽ》という娘のことを調べて、もし不幸な境遇にいるのであれば、救ってやってもらいたい、と依頼されました。……吉右衛門が、それから数日後、さがし当てたのは、本所松坂町の、吉良邸にほど近い横町にある、小ぢんまりとした家でありました。|すが《ヽヽ》という女は、まだ十八にも拘らず、もう、日本橋の呉服屋の囲い者になり、裕福にくらして居り、吉右衛門が救ってやらねばならぬ境遇ではなかったのでございました」
そこまで語って、老爺は、再び沈黙した。
妙海尼は、俯向いて、石のようにからだをこわばらせているばかりであった。
その様子をしばらく眺めていてから、老爺は、再び、口をひらいた。
「ご公儀では、浪士がたの処分を決定なさると、個々の親類書《しんるいがき》を提出するようにお命じになった事実がありまする。貴女様が、堀部家のお娘御であれば、安兵衛殿が、どのような親類書をさし出されたか、おわかりのことと存じます。
その親類書には、堀部家に就いて、
一、養父(浅野内匠頭家来)堀部弥兵衛
一、養母(江戸両国橋近所米沢町大屋木村一兵衛店に罷在候)同人妻
一、妻(養母と一緒に差置候)堀部弥兵衛娘
と、記された筈でございます。
つまり、安兵衛殿は、弥兵衛殿の娘御を、すでに、ちゃんと、妻にされて居られた。
てまえが、うかがったところでは、安兵衛殿の妻おほり殿は、実母とともに、実母の兄に当られる松平兵部大輔様御奉公の本多孫太郎殿の家来忠見扶右衛門殿の家へ、引きとられて居ります。その後、安兵衛殿が切腹されてほどなく、丹羽左京大夫というお大名のお屋敷へ、母娘ともに、ご奉公に上られて居ります。丹羽家は、二本松のご城主で、十万七百石、その頃は、ご当主左京大夫様は幼かったとききまする。丹羽家は、浅野家とはご親類筋に当り、堀部家母娘がご奉公なされるには、ふさわしいお家でございました。ご当主が幼かったので、そのお守に、堀部母娘は、お召し出しになった、ときいて居りまする。……といたせば、堀部安兵衛殿の妻なる女性《にょしょう》と、貴女様とは、なんのかかわりもないおひととしか思われませぬ。てまえの耳にしていることが、まちがっているのか、貴女様が、嘘|詐《いつわ》りを申されているのか……、どういうものでございましょうかな」
「……」
老爺は、妙海尼の膝《ひざ》の両手が、微《かす》かにわななくのを、冷やかに見やりつつ、
「吉右衛門が調べたところによりますれば、|すが《ヽヽ》と申す女、安兵衛殿が、中山新五郎と名のって、牛込天竜寺境内の裏店にすまいなされていた頃、たしかに、燐家に住んでいた事実が、判明して居ります。父親は、天竜寺の庭男で、大変な飲んだくれのため、賽銭《さいせん》をこっそり盗んで酒代にあてていたと申します。飲んだくれのため、女房には逃げられ、一層自堕落なくらしになって居りましたが、娘に対してだけは猫可愛がりする優しい父親であったとか……。
酔うと、|すが《ヽヽ》を膝に抱きあげて、おめえのお袋は、生れつきの色きちがいだった、おめえも、お袋の血を引いて、男好きかも知れねえ、いいか、男にだまされるな、どうせ、男がいなくちゃ生きていけねえのなら、だましてやれ、男と女は、一生だましあって、生きて行くものなんだ、と云いきかせて、頬《ほお》ずりしたと申します。後年、|すが《ヽヽ》は、男にだまされたり、だましたりするたびに、父親の無精髯《ぶしょうひげ》の痛さを思い出したにちがいありますまい。
その頃、安兵衛殿は、天竜寺|庫裏《くり》で、子供たちに手習いをさせて居られましたが、ある日、菅野六郎左衛門殿の家から、小者が手紙を届けて参り、それを受けとって、天竜寺庫裏に行ったのが、|すが《ヽヽ》でありました。まだ六歳であった|すが《ヽヽ》は、その手紙を読んだ安兵衛殿が、顔色を変えたのに、怯《おび》えました。
安兵衛殿は、手紙を読み了えると、わが家へ馳せもどり、すぐに、差し料を掴んで、とび出して行かれました。
|すが《ヽヽ》が、その家をのぞいてみると、粗壁《あらかべ》に貼紙がしてございました。
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拙者《せっしゃ》叔父、松平左京大夫様家臣菅野六郎左衛門事、仔細《しさい》あって、今日、高田馬場に於て果合いたし候につき、見届《みとどけ》のため罷り越す。万一帰宅いたさざる節は、斬死いたしたるものとお心得下され度く、家具一切のしまつ御随意になし下さるべく候
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|すが《ヽヽ》には、もとより、何が書かれてあるのか、判る由もありませなんだが、もうおさむらい様は、もどっては来なさらぬ、と予感したと申します。はたして、安兵衛殿は、再びその家には、戻って参られなかった。
しかし、次の日には、裏店中《うらだなじゅう》が、大さわぎになりました。高田馬場の決闘は、中山新五郎という名を、一躍江戸中にひろめて、裏店の連中は、まるで肉親のように、鼻を高くして、朝から晩まで、安兵衛殿の噂でもちきったものでありました。
|すが《ヽヽ》は、しかし、知って居りました。裏店の連中で、安兵衛殿と親しく口をきいた者は一人も居らず、時折り、安兵衛殿が笑顔をみせてくれたのは自分だけであった、と自分に云いきかせたものでございました。……つまり、|すが《ヽヽ》と安兵衛殿とは、たったそれだけの縁しか持って居りませなんだ」
「お手前様は、何者でおじゃりまするぞ?」
妙海尼は、皺《しわ》だらけのまなじりをつりあげて、屹《きっ》っと、老爺を睨《にら》みつけた。
老爺は、うすら笑って、
「手前が何者か、名のる必要はございますまい。貴女様を、とんだくわせ者、とあばきたてている次第ではありませぬ。貴女様は、関東一円はおろか、日本中に知られて居ります。貴女様が、くわせ者と疑うて居る者は一人も居りますまい。貴女様は、このまま、この庵に、おすまいになり、訪れる方たちに、これまで通り、むかし語りをなされるがよろしかろうと存じます。ただ、いささかの忠告をおききとどけ下さるならば……」
老爺は、ここで、別人のような鋭い眼眸《まなざし》を据えた。
「貴女様がなされるむかし語りは、日によって、すこしずつ、ちがって居られる。たとえば、今日、てまえにお話し下されたのによれば、討入の日堀部安兵衛殿の宅に在って、送り出した、と申されて居る。ところが、ある人に語ったところでは、貴女様は、吉良家へ間者に入った七人のうちの一人であった、と申されて居る。
あの夜、大石殿のお申しつけで、六人を自害させ、いちいち、その首級を収《おさ》めて、自分が持たせられ、泉岳寺へはこんだ、と語られて居る。ずいぶん、話がちがって来て居りまする。斯様に、日によって、話がちがってしもうては、やがては、あの老尼は、でたらめを云って居るのではないか、と疑われるように相成りまする。
このことは、くれぐれも、ご注意なさるがよろしいかと存じます」
そう云いのこしておいて、老爺は、やおら立ち上った。
「お、お待ちを!」
妙海尼は、いざって、老爺に、とりすがった。
「お手前様は、何人じゃ? 教えて下され! お手前様は、も、もしや、寺坂吉右衛門殿では、ござりませぬか?」
「いや、いや……」
老爺は、かぶりを振《ふ》った。
「寺坂吉右衛門などは、もう、とうのむかしに、この世を去って居りましょう。てまえは、ただの老いぼれでありまする。……二度とふたたび、お邪魔は、つかまつりませぬ。どうぞ、浪士御一同の回向《えこう》の儀、おねがい申しまする」
老爺は、杖をついて、おもてへ出た。
とぼとぼと歩き出してから、ふと思い出したように、頭《こうべ》をまわして、内蔵助以下四十六人がねむる墓地の方を、見やった。
「みな様がた、おゆるし下されませい。吉右衛門も、七十の坂を越えて、気が弱うなりました。くわせ者と判りつつ、責めたてて、追いはらう気力がございませぬ」
口のうちで詫びると、ふかぶかと、頭を下げた。
妙海尼は、安永七年二月二十五日、泉岳寺門前の清浄庵で、やすらかに、寂滅《じゃくめつ》した。
人々は、その遺骸《いがい》を、四十六士の兆域《ちょういき》の入口、石段前の右側に葬った。そして、やがて、そこに一基の碑《ひ》が建てられた。
四十七士の墓前とともに、碑の前にも、二百余年間、香華《こうげ》は、絶えることがなかった。
解説
『忠臣蔵』は芸能・演劇の世界では不入りを知らない、必ず大当りをとるといわれる毒参湯《どくじんとう》である。それだけに、歴史小説でも、大衆小説でも、虚実をとりまぜ、作り替え、書き直しが行われて、おびただしい数量にのぼっている。そこに長短を問わず珠玉の名作が生れるし、また作家たるもの一度は挑戦してみたい魅力ある題材であるにちがいない。柴田錬三郎もまた「柴錬立川文庫」の一つとしてこの題材に取組んだ大衆作家である。
「立川文庫」といえば、大正初期、私の青少年時代に、親の眼、教師の眼を盗んで読み耽った娯楽読物の文庫であった。大阪の講談師の口述になる大衆小説で、学業を放棄して読み耽るほどに面白くてたまらなかったから、両親や教師の眼からみると、怪しからぬ禁書の親玉であった。もっとも私の少年期の親豊反徳《しんぽうはんとく》史観はたしかに立川文庫にやしなわれた偏見、弊害にはちがいない。それはさて措き、『仮名手本忠臣蔵』以来、その時代意識を反映して勧懲《かんちょう》の道具とされたように、作者の意図によって、どう綴り替えても、請けることのまちがいのない「立川文庫」ものとして、眼をつけるのも当然であった。そこで、賢明にも、柴田錬三郎は忠臣蔵をパロディの一種として、『裏返し忠臣蔵』を制作した。
いやしくも忠臣蔵を名乗る以上、まず『仮名手本忠臣蔵』以来、はたまた福本日南の代表作『元禄快挙録』以来、定められた大枠、つまり小説の構造を大きく踏みはずすわけにはいかない。踏みはずせば、忠臣蔵を名乗っても、忠臣蔵と認められぬ題材の最小限の制約がある。この最小限の制約を守り、小説の構造を踏みしめながら、なお且つ「裏返し」、想像を逞しくし、空想を馳せ、柴錬版の忠臣蔵を編み出すところに、作家の挑戦も、また作家の冒険も、或いはまた作家の得意満面な独創もあるというものである。
柴田錬三郎は、多くの点で、従来の忠臣蔵を裏返して、興味ある大衆小説としている。しかも大胆不敵にも、忠臣蔵の根幹に向って改作を試み、しかも大根のところで、その大枠を踏むという離れ業をやってのけ、読者の興味を深めている。私が敢てその一つ一つを数えあげて、読者の注意を惹くまでもないほどに明白で、作者のしたり顔が窺えるものだというべきである。とはいえ、解説者として、私はその根幹の二、三を挙げ、作者の意図に賞賛の拍手を、読者とともに送るのも、一つの任務というべきかもしれない。
まず第一は、『元禄快挙録』によると、吉良上野介|義央《よしなか》は、幼名を三郎、ついで右近《ヽヽ》と称し、任官して左近《ヽヽ》衛少将といわれたことに着目し、吉良左近、右近の双生児に分割し、全篇の二重構造を創造したことであろう。言いかえれば、左近、右近の双生児の存在を巧妙にあやつって、終始上野介の行動を表裏から窺うことを可能にしている。作者はこのことに着目すると、浅野内匠頭長直の長男又一郎良友と吉良左近との果し合いという発端から、討入のクライマックス、上杉家の附人小林平七と吉良右近との果し合いという挿話を挿入するまで、独自の物語を創造することに成功している。人物の扱い方では他にもこの種の細工がみられるが、たとえば義挙の発端から終極まで活躍する足軽寺坂吉右衛門を浅野の家臣ではない、契約上の忍者に設定し、終始隠密な活動を可能にし、情報の伝達を便にしている心憎い工夫などが挙げられる。
次に松の廊下の浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷の原因についても作者の独自の工夫がめぐらされている。勅使東下についての内匠頭と上野介との確執という紛争の原因から殿中の凶変という、通説を踏むかにみえながらも、もっと深い要因を用意する。一つには吉良家と浅野家との累代の遺恨が前提になり、大石内蔵助の注意深い処置も役立たず、内匠頭の刃傷が惹起しても不思議でない経過を辿っている。しかしなんといっても作者の独創は、柳沢出羽守吉保の大名取潰しの一端として権謀術数をめぐらす手段に目付|所松《ところまつ》左京に命じ、留守居番梶川与惣兵衛などと謀って、松の廊下の刃傷を吉保の仕組んだものとする智慧である。浅野内匠頭が罠に掛かったと気がついた時は、既に遅かったと物語をすすめる巧妙さである。
さらにいえば、さきにも言及した上杉家の附人小林平七と吉良右近との果し合いの前提として、上杉弾正大弼綱憲の江戸家老千坂兵部の画策がある。浅野家の城代家老大石内蔵助と上杉家の江戸家老千坂兵部との虚々実々の智慧競べは大衆小説の此上ない十八番として忠臣蔵を書くほどの作家なら誰でもが眼をつけるところである。柴田錬三郎は眼をつけたというだけでは、いかにも平凡の感がある。そこで一歩立入って、千坂兵部は藩主の意をきくとみせかけて、吉良左近を毒殺し、吉良右近に痛手を負わせ、討入の場を史実に辻褄を合せるという離れ業をやってのけ、見事に成功を収めている。作者の天晴の機知と手巧というべきであろう。
なお最後に余聞として浅野浪士の遺骸を祀る高輪泉岳寺に清浄庵を結び、追悼する妙海尼の挿話がある。堀部弥兵衛の娘で、安兵衛の許嫁と伝えられる女である。忍者の寺坂吉右衛門の最後の活躍としてその正体を明らかにし、民間伝説としての妙海尼の存在を敢て支持することとして結んでいる。細部に入れば、大衆作家が筆を弄する大石内蔵助の乱行を初め、お軽勘平の事件、或は脱落者高田郡兵衛等々、まだまだ抜目なく想像力を逞しゅうする箇所が数えられる。これらをすべて指摘することはできないが、そのすべてを通して、柴田錬三郎は忠臣蔵の義士伝たる反面を否定せず、なおパロディとして近世の戯作読本の系譜を守る吉良方からの伝奇小説としての妙を発揮して読者を慰藉してやまないことを思うべきである。
多くの忠臣蔵の中で、「柴錬立川文庫」として独自の存在価値を主張して已まない所以は、これらを通じて、作者の豊富な想像力と潤達な描写力に起因していることが知られる。読者は心置きなく、史実を離れて、柴錬の世界に心を遊ばせて悔があるまい。(瀬沼茂樹)
◆裏返し忠臣蔵◆ 柴錬立川文庫
柴田錬三郎著
二〇〇六年九月五日