柴田錬三郎著
柳生但馬守
目 次
柳生|但馬守《たじまのかみ》
名古屋|山三郎《さんざぶろう》
曾呂利新左衛門
竹中半兵衛
佐々木小次郎
抜刀|義太郎《よしたろう》
清酒日本之助
伊藤一刀斎
解説
柳生|但馬守《たじまのかみ》
慶長十九年十二月下旬、徳川家康は、大阪包囲陣を解《と》き、京都二条城に還《かえ》った。大阪冬の陣は、訖《おわ》った。
大晦《おおつごもり》の朝、家康は、ひそかに、居室に、柳生但馬守宗矩《やぎうたじまのかみむねのり》を呼んで、
「淀君を、奪いとるてだてはないか?」
と、問うた。
「真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》が、大阪城に在るかぎり、尋常の策略をもってしては――?」
と、但馬守は、首をひねり乍《なが》ら、
――大御所も、老《ふ》けられたか?
と、思った。
将軍秀忠が、十二月五日に、大阪城を総攻撃して、一挙に、烏有《うゆう》に帰せしめんとするや、家康は、突如《とつじょ》として、
「ならぬ!」
と、しりぞけ、講和を申し渡したものであった。
秀忠は、流石《さすが》に、色をなして、その真意を糺《ただ》した。
家康は、憮然《ぶぜん》とした面持で、
「古今無比の堅城じゃ。手に唾《つば》しただけでは、抜き難い。これを陥落せしむるには、二つの方法しかない。総構えを破壊して、濠《ほり》をことごとく埋めてしまうことがひとつ。内応者をつくって、城内を混乱せしめることがもうひとつ」
「水ももらさぬ包囲をもって、飢餓《きが》に陥《おちい》らしむる手段もありまするが……」
「それは、武士として、とるべきではなかろう」
家康は、講和の条件として、
一、大阪城本丸を残し、二ノ丸、三ノ丸を破壊すること。
一、織田|有楽《うらく》、大野|治長《はるなが》より人質を出すこと。
一、城内の旧新諸将士が、前条について異議なき事の誓紙《せいし》をさし出すこと。
この三条を、本多|正純《まさずみ》に持たせてやったのである。
こちらにとりあげる人質とは、淀君のことであった。
秀頼は、母を奪われるよりは、大阪城を灰にする方をえらぶであろう、と返答した。
で――家康は、大阪城本丸をはだかにする、という条件だけを秀頼に容《い》れさせて、講和をしたのである。
しかし、家康は、淀君を奪うという肚《はら》を、すててはいなかったのである。
「但馬――」
家康は、俯向《うつむ》いている但馬守へ、微笑し乍《なが》ら、
「わしが、淀君を人質にせねば不安でならぬ、とあせっていると、思うたか?」
と、言った。
肚の裡《うち》を看透《みすか》されて、但馬守は、ちょっと、うろたえた。
「はは……、ちごうたな。わしは、わしの最後の妾として、淀君を望んだまでじゃ」
家康は、あっさりと、言ってのけた。
主君の意外な言葉に、但馬守は、唖然《あぜん》となった。
家康が、おのが妾に、後家をえらぶのは、あまりにも有名であった。家康は、決して、季女《しょじょ》を物色しなかった。家臣の女《むすめ》に、どんな絶世の美女がいても、目もくれなかったのである。
「但馬には、わしの気持は、わかるまい。わしは、太閤の後家を、妾にしてやりたい、と以前から、考えて居ったのじゃ。太閤が在世の頃から、ずうっとな」
そう言われて、但馬守は、おぼろげ乍ら、家康の気持が、わかるような気がして来た。
秀吉が、君臨していた時代、その傍《かたえ》に坐した艶麗無比《えんれいむひ》の寵姫《ちょうき》に、ひそかに、欲情をひそめた遠い視線を送っている家康の姿が、彷彿《ほうふつ》とした。
「わしの寿命も、あと数年であろう故、やるべきことは、やっておかねばならぬ。……目下のわしが望みは、淀君を妾にすることだけじゃ、と申したら、嗤《わら》うかの、但馬?」
「いえ……」
但馬守は、両手をつかえて、家康の顔を仰《あお》ごうとはしなかった。
「はは……、心まかせに言うた。思案が成らば、やって呉《く》れい」
家康は、立って、寝所へ去った。
その夜、但馬守は、急使を、故郷柳生谷へ、趨《はし》らせた。
柳生谷には、末弟十左衛門|宗章《むねあき》が、永年の武者修業を了《お》えて、帰って来ている筈《はず》であった。
十左衛門は、宗矩《むねのり》が、剣を交えて、教えた唯一の肉親であった。まだ、二十代なかばになったばかりであった。
柳生の名をはずかしめぬ点稟《てんぴん》を誇る逸材《いつざい》であり、いままた、孤独な武者修業を積んで、どれだけ腕をみがいたか、大いなる期待があった。
武者修業の間の噂は、殆《ほとん》どきこえていなかった。達人名人と称される兵法者《ひょうほうしゃ》と、一度もたたかった様子はなかった。
ただ、二年ばかり前、親戚の松平出羽守直政の邸宅へ、飄然《ひょうぜん》として現れた折の振舞いだけが、但馬守の耳にとどいていた。
松平邸には、恰度《ちょうど》その時、奥羽随一と称せられる兵法者が、滞在していたので、直政は、十左衛門に、是非にと仕合を所望《しょもう》した。
十左衛門は、迷惑の態度を示《しめ》したが、対手《あいて》の兵法者が、殺気をみなぎらせて、是非是非と所望するので、やむなく、承諾した。
道場に入るや、兵法者は、壁にかけられた木太刀を把《と》ろうとした。瞬間――差料携《さしりょうさ》げて、するすると、背後に迫った十左衛門は、
「油断があり申すぞ!」
と、声をかけた。
兵法者が、ぱっと向きなおって、身構えるところを、十左衛門は、一閃《いっせん》の袈裟《けさ》がけに、斬り伏せた。
衣服を改めて座に就いた十左衛門は、出羽守に向って、
「それがしは、甚だ未熟者なれど、柳生一門にて候。兄但馬守宗矩は、将軍御師範役を相勤め居りまする。されば、それがしが、ここのところにおいて、負けるようなことがあらば、流儀に疵《きず》がつき申すのみならず、将軍家の御兵法は、未熟なる流儀お稽古、と風聞が立つようなことに相成っては、公私に就いておもしろからぬ儀と存じ、不憫《ふびん》乍ら、手討ちにいたし候」
と、告げた、という。
若年乍ら、思慮《しりょ》に富んでいた。
兄但馬守の依頼ならば、水火も辞《じ》せぬ十左衛門宗章である筈であった。
徳川家と豊臣家とのあいだに講和が成立した、ということは、しかし、いかなる人々にも、平和がおとずれたという安堵《あんど》を与えはしなかった。
大阪の街衢《がいく》などは、いくさの前の状態よりも、かえって、さらに、殺伐の気がみなぎっていた。
街辻で、武士たちが、些細《ささい》なことから口論して、斬りあいになっても、人々は、べつに珍しい見物《みもの》とも思わず、屍骸《しがい》が路上に横たわれば、あっという間に、下人たちの手で、素裸にひき剥《む》かれていた。
今日も――。
大阪城の威容《いよう》を彼方に望む太閤広場では、傀儡《くぐつ》、猿楽《さるがく》、陰陽《おんよう》占い、猿引き、放下《ほうか》、軽業《かるわざ》、手妻《てづま》などにまじって、おそるべき兵法見物が、催されていた。
方四間の竹矢来《たけやらい》を組み、その中央に、まだ若い牢人者《ろうにんもの》が、着流しで、うっそりと立っていた。
かたわらの鹿角の刀|架《か》けには、色とりどりの太刀が、七八本も、架けてあった。
口上を述べるのは、杖をついて、背中をまるめた座頭風の男であった。
若い牢人者が、用意の刀を、ことごとく、鞘《さや》をはらって、空中へ投げあげて、綾《あや》どりをする。希望の者は、矢来の内に入って、隙をうかがって、斬りつけてもらいたい。首尾よく、若い牢人者に、傷を負わせたら、小判十枚を頒《わか》つ。
但し、仕損じたならば、その者の生命は保障し難い。矢来に入る料金は、おぼしめしでよい。若い牢人者が、兵法修業のため催す興行である。
まことに、危険な見世物であったが、たちまちに、十人あまりの希望者があった。
若い牢人者は、胸でも患っているのではないかと疑いたくなるほど、顔面蒼白であった。眉目《びもく》には、気品があった。冷徹《れいてつ》な意志の持主らしい双眸《そうぼう》の冴《さ》えた光を、宙に放って動かさぬ。
挑戦したのは、戦場往来の猛者《もさ》らしいのとか、野伏《のぶせり》みたいなのだとか、街の破落戸《ごろつき》だとか、いろとりどりであった。いずれも、幾人の生命を衂《ちぬ》らせたであろう白刃を抜きはなつと、若い牢人者を、ぐるりと包囲《ほうい》した。
「さあさ、ごろうじませ。竜の興《おこ》るあれば、雲これに従い、虎うそぶけば、風|自《おのずか》ら生ず。天下に示す一心剣《いっしんけん》。これなん、飛竜の秘伝と申すべく、陰《かく》るるときは、九地《きゅうち》の下に潜《ひそ》み、動くときは、九天《きゅうてん》の上に陽《あら》われ、戦うときは、首尾ともに至り、震《ふる》うときは、天地もまた崩る。一剣、腰間に潜《ひそ》むといえども、男児ひとたび鞘を払えば、賊兵凶徒恐れ、刃《やいば》に、衂《ちぬ》らさずして、天下|治《おさま》る。さり乍ら、いまぞ示す、一心剣の奥義《おうぎ》――来れば則《すなわ》ち迎え、去れば則ち送り、対すれば則ち和す、五五の十、二八の十、一九の十、是《これ》をもって和すと申す。虚実を察し、陰伏《いんぷく》を識《し》り、大は方処を絶ち、細《さい》はみじんに入る、活殺|機《き》に在り、変化時に応ず。その極意、虚ならばつけ込み、|※《えい》[#金へん+英]ならば前後左右に身を転じ、微なるところを勝ち、幽《ゆう》なるところを抜かんず……」
「うるさいっ! 牢人、はやく、白刃を空へ投げろ!」
破落戸《ごろつき》の一人が、喚《わめ》いた。
若い牢人者は、無表情で、刀架けに寄ると、
「おのおのがた、それがしが、一刀を投げたならば、その瞬間より、仕合は開始したものと心得て、隙をうかがって、かかられい」
と、無敵な言葉を口にした。
――小面《こづら》憎し!
どの顔も、憤《いきどお》りの色を刷《は》いた。
「されば――」
若い牢人者は、一刀を手に把《と》るが早いか、抜く手もみせぬ迅《はや》さで、鞘走《さやばし》らせた。
白刃は、宛然《えんぜん》、目に見えぬ翼を持った鳥のように、一直線に、青空めがけて、翔《か》けあがった。
つづいて、二本目が、三本目が、四本目が――一呼吸の間を置いて、鞘をはなれると、眩《まぶ》しく冬陽《ふゆび》を弾《はじ》いてきらめき乍ら、飛翔《ひしょう》して行った。
八本目が、その手からはなれた時、最初の白刃が、空間を滑り落ちて来た。
受けとめざまに、はねあげる。
誰がやろうときわめてやさしい業《わざ》だ、とでも言いたげな、無造作ともみえるその所作は、蝟集《いしゅう》した見物人の目に、畏敬《いけい》の色を泛《うか》べさせた。
包囲したのは、十三名であった。
上段に、中段に、下段に、八双《はっそう》に――それぞれ、好みの構えをとって、蛇に似た目つきで、若い牢人者の痩身《そうしん》の隙を狙った。
若い牢人者の眼眸《まなざし》は、楕円を描いて舞う白刃の群へ送られている。
と――。
どこに隙を見出したか、熊の毛皮を羽織った野伏ていの男が、呶号《どごう》しざま、横あいから、斬りつけた。
その跳躍を受けた若い牢人者が、一歩も身を移さず、ただ、ひらっと、片手を旋回させた動作は、むしろ、緩慢《かんまん》にさえ見えた。
しかし、旋回させた片手が掴んだ白刃は、ただ一条の白い閃光《せんこう》と化していて、ぞんぶんに、対手の胴を薙《な》いでいたのである。
野伏は、がくっと仰向けた顔から断末魔《だんまつま》の濁《にご》った呻《うめ》きを洩らしつつ、地に崩れ落ちた。
若い牢人者は、そ知らぬふりで、白刃の楕円を描きつづける。
この神速《しんそく》の業を見せられた挑戦者たちは、平常の心理ならば、おのが腕前では、到底勝てぬと思い知って、退《しりぞ》くのが、当然であったろう。
数百の見物の目にかこまれた渠《かれ》らは、一人|斃《たお》されただけで退く臆病を、嗤われたくなかった。
このような危険を冒すだけあって、生命《いのち》知らずであった。
腕前の差を正しく識《し》るよりも、かえって、仲間の血汐《ちしお》をあびて、かっと狂おしい闘志を燃えたたせることになった。
ひきつづいて、さらにまた二人、猛然と斬りつけて、刃を噛み合せることも及ばずして、血煙の下に仆《たお》れ込むや、のこり十名は、その殺気に野獣の猛気《もうき》を加えた。
たしかに――。
八本の白刃を、受けとめては、投げあげる若い牢人者の姿は、あまりにも余裕《よゆう》があり、包囲されていることすら忘れているかのごとき小面憎さがあったのである。
「その催し、中止せい!」
矢来の外から、声がかかったのは、すでに、地面に、七個の死体《むくろ》が横たわってしまった時であった。
声をかけたのは、大阪城の宿老|織田有楽斎《おだうらくさい》であった。
織田有楽斎は、信長の弟であった。長益と言い、信長が生きている頃は、特に挙《あ》げて記すべき武勲もたてていなかった。秀吉に仕えてからも、戦場で名を挙げることもなかったが、なんとなく従四位侍従に進み、入道となってからは、有楽斎と号し、茶博士として茶道において天下に有名になった。
有楽斎が、英傑信長の弟に生れ乍ら、覇権《はけん》の争奪には加わらずに、風月の浄土《じょうど》に南面したのも、保身の智慧《ちえ》を働かせたためか。舌頭《ぜっとう》忘味の人か。漫《みだり》に茶と叫んで真を失った人か。
いずれにしても、大阪城の宿老であり乍ら、その攻防の軍議の席には、決して姿を現さぬふしぎな人物であった。
矢来の中を鎮《しず》まらせておいて、入って来た有楽斎は、若い牢人者を正視《せいし》すると、
「兵法達者を鼻にかけて、無益《むえき》の殺生を犯して、衆目《しゅうもく》を怖れさせるのは、人倫《じんりん》に悖《もと》る所行《しょぎょう》。豊家《ほうけ》の城下においては、許されぬ」
と、たしなめた。
若い牢人者は、鄭重《ていちょう》に一礼して、
「大阪城の御重役とお見かけつかまつる。それがし、幼年より、木曾山中に育って、兵法修業のみに心身を傾けた者にて、世間に出てみて、人と交るすべを知らず、進むべき途を見出しかねて居り申す。願わくば、この聊《いささ》かの腕前を、役立てる座をお与え下さるまいか」
と、たのんだ。
有楽斎は、斜陽《しゃよう》をあびた天守閣へ、視線を向けると、
「あれは烏有《うゆう》に帰すまでの、つかの間の美しいすがたじゃが、この時世に不服を抱く者の目には、永久の威厳をそなえたものに映《うつ》るそうな」
と、独語《どくご》するように、言った。
「お連れ下されい」
若い牢人者は、頭を下げた。
この光景を、矢来の外から――群衆の蔭から、見まもっていたのは、猿飛佐助《さるとびさすけ》であった。
――どこかで、見受けた貌《かお》じゃが……?
しきりに思い出そうとしていた。
有楽斎が、若い牢人者をつれて、大手門を入って行くのを、後を尾《つ》けて来た佐助は、見送り乍ら、まだ、思い出せないでいた。
若い牢人者は、柳生十左衛門宗章であった。佐助は、一度も会ったことはなかったのである。
ただ、十左衛門宗章は、柳生新三郎|正厳《まさよし》の若き日の風貌《ふうぼう》と酷似《こくじ》していたのである。柳生新三郎正厳は、但馬守宗矩のすぐ上の兄にあたる。父|石舟斎《せきしゅうさい》から勘当された稀世《きせい》の達人であった。佐助とのあいだには、奇怪な因縁があった。
十余年前、新三郎は、義妹に生ませた女の子を、将軍秀忠のむすめ、千姫とすりかえた。すりかえられた贋《にせ》千姫が、大阪へ送られて、秀頼と祝言することになった時、皮肉にも、新三郎は、弟但馬守の依頼によって、ほんものの千姫を、贋千姫とすりかえたのである。
家康も但馬守も、実は、替玉にした幼女が、ほんものであったことを、夢にも知らなかったのである。
ところが、このすりかえを探知した佐助が、また、贋千姫(実はほんもの)とほんもの(実は贋もの)をすりかえて、新三郎の許へ、返したのであった。
新三郎は、このあまりに皮肉な因果《いんが》に、名状し難い哄笑《こうしょう》を噴《ふ》かせて、佐助を一太刀に仕止めようとして、失敗したものであった。
佐助が、柳生新三郎の面貌を、忘れる筈がなかった。
秀頼の妻となっている千姫が、贋もので、柳生新三郎が義妹に生ませたむすめであることを、大阪城で知っているのは、佐助と佐助から告げられた幸村の二人だけである。
なにかに夢中になると、ほかのことは一切忘れてしまう癖のある佐助であった。
腕を組んで、しきりに考え込んでいた佐助は、自分がどの通りを歩いているのか、忘れていた。いつか、絃歌のさんざめく色街の細露路に入っていた。
「おい、佐助――」
二階から呼ばれて、われにかえった。ふり仰ぐと、霧隠才蔵《きりがくれさいぞう》の異相《いそう》が出窓にあった。
「上って参れ」
「いや、わしは……」
佐助は、しりごみをした。
「上って参れ。おもしろいものを観《み》せてやる」
才蔵は、にやにやした。
「わしなど、観てもしかたのないものであろうが」
どうせ、猥褻《わいせつ》な枕絵《まくらえ》か組合せ人形であろう、と思って、佐助は、かぶりを振った。
「お主《ぬし》に観せれば、そのどんぐり目が光るぞ」
「なんであろうな!」
「愚図愚図いたすな」
佐助は、のこのこと、上って行って、酔いつぶれて、正体もなくなった若い遊女の寝姿を見出した。
「なんじゃな? わしに見せようというものは?」
佐助は、見まわした。
才蔵は、おのが座にもどって、大茶碗になみなみと注いだ白酒を、ぐびぐびと飲んでいたが、
「やらぬか?」
と、さし出した。
佐助は、匂いをかぐのも厭《いや》そうに、顔をそむけた。
才蔵は、つと猿臂《えんぴ》をのばすと、遊女の帯へ指をかけた。
くるっ、くるっ、と遊女のからだが、二廻転ばかりした。
才蔵は、こんどは、衣裳の襟へ、指をかけた。
ひと引きに、ぱっと剥《は》ぐと、一糸まとわぬ白い裸身が、ごろんと、佐助の前へ、ころがって来た。
佐助は、大きく目を瞠《みは》った。
その背中の、絖《ぬめ》にも似た、滑《なめら》かな、肉の薄い柔肌《やわはだ》に、潤《うる》んだ朱《あか》で、
「江戸大納言息女是也《えどだいなごんそくじょこれなり》」
と、彫《ほ》ってあった。
佐助は、あわてて、その寝貌《ねがお》を、熟視《じゅくし》した。
「はは……どうじゃ、佐助。これが、将軍家のむすめだそうな。まことなら、おもしろいではないか。もう、何百の雑兵《ぞうひょう》に抱かれたであろう。ひとつ、かついで行って、二条城へ抛《ほう》り込んでやろうか」
佐助は、遊女に、背活《はいかつ》を入れた。
ぼんやりと、目蓋《まぶた》をひらいた遊女は、裸にされたのを、べつだんはじらう様子もなく、のろのろと起き上った。
「これ――そなたの父は、柳生新三郎|正厳《まさよし》殿ではないか?」
佐助は、真剣な表情で、訊《たず》ねた。
遊女は、物倦《ものう》げに、ちらっと佐助へ一瞥《いちべつ》をくれたが、返辞をするかわりに、才蔵が飲みのこした大茶碗へ、細腕をのばした。
「こたえぬか? 父御《ててご》は、いかがされたぞ?」
佐助は、肩をつかんだ。
遊女は、うるさげに、身をねじった。
「死んだよ、十年前に――」
「そうか!」
佐助は、唸った。
「佐助、大層感慨深げな気色《きしょく》だな。この女郎の父親を知って居るのか?」
「こ、この女子《おなご》は、まことの、将軍家息女なのじゃ!」
佐助は、言った。
才蔵もおどろかず、遊女も反応を示さなかった。
「この女子が、まことの千姫君なのだぞ、才蔵!」
佐助は、力をこめて、言った。
「はは……、お主が、そう申すなら、まちがいなかろう」
「おどろかぬのか、才蔵?」
「おどろいてもはじまるまい。雑兵対手の売女を、これこそ本物の将軍家息女だ、とひき連れてまわっても、誰が信じるか。当人ともども大恥をかくだけだ。……そうであろうが、なあ女?」
遊女は、とろんとした眼眸《まなざし》を、才蔵に向けたが、
「主《ぬし》様は、わたしに、異国|船《ぶね》を見物させてやろうと申されたが、いつのことじゃえ」
と、せがんだ。
「む――そうだ。忘れていた」
才蔵は、人差指を口にあてると、鋭く鳴らした。
羽音|凄《すさま》じく、出窓に、巨鷲《きょしゅう》が舞い降りて来た。屋根に憩《いこ》うて、主人の呼ぶのを待っていたのである。
「佐助、堺の港へ、ちょっと行って来るぞ」
才蔵は、そう言いすてるや、裸女に衣裳もくれずに、小わきにひっかかえて、巨鷲の足を、掴んでいた。
佐助は、遠ざかる羽音をきき乍ら、腕を組んでいたが、不意に、膝を搏《う》った。
「そうであった! あの牢人者の貌《かお》は、柳生新三郎殿に、似ているのじゃ!」
慶長十九年は、暮れた。
大阪城の総構《そうがま》えを破壊し、総濠《そうぼり》を埋める工事は、すでに、年内にほぼ、終了していた。本多上野介正純の総指揮のもとに、松平下総守忠明、本多美濃守忠政、本多豊後守|康紀《やすのり》の三大名が奉行となって、十万余の将士が、その工事にとりかかり、総構えをあとかたもなくし、外郭《がいかく》の濠を埋め、二ノ丸の濠を埋め、つづいて、本丸の濠まで埋めにかかった。
この報告に愕然《がくぜん》となった城|方《がた》では、淀君の名をもって、本多上野介に、厳重な抗議を申し入れた。狡猾《こうかつ》にも、正純は、京都の館《やかた》へ帰ってしまっていて、使者に会おうとせず、
「ここ数日、風邪高熱で臥《ふ》せて居り申せば、大阪へおもむくはおろか、物の下知《げち》するさまも知らぬ不覚さに候。薬を服して、養生に努《つと》めて居り申す故、三四日うちに平生に復すべしと思わるる故、それまで、お待ち下されたい」
と、返辞した。
使者は、ひきかえし、松平下総守や本多美濃守を責めたが、上野介が恢復《かいふく》するまでは、下知通りに工事を進めているまでのこと、上野介から大御所へ言上して、埋立てを中止せよとの命令があれば、いつでもそうする、と言いのがれた。双方の約束など反故《ほご》でしかなかった。工事は、家康の思うがままに、無遠慮に、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》にやってのけられたのである。
正月十五日、破壊は成った。
その日、柳生但馬守が、将軍家代理として、年賀のために、行列を揃えて、しずしずと、大阪城へ、乗り込んで来た。
年賀の使者が、三河|譜代《ふだい》の憎らしい大名ではなく、兵法者であったことは、秀頼をよろこばせた。
儀礼が終ると、秀頼は、
「去る年、余が上洛《じょうらく》の際、二条城に於て、木村重成と夢想只四郎と申す兵法者の試合を観せてもろうた。さいわいにも、木村重成が勝ちをひろうて、余も鼻が高かったが、このたび、そちが来訪したとなれば、当城内に滞留する兵法者をえらんで、立合わせたいと思うが、いかがであろう?」
と、言い出した。
但馬守にとって、当然予期した秀頼の申出であった。
但馬守は、微笑して、
「去る年の試合は、徳川方では、おのぞみのままに無名の兵法者を、さし出して、敗北を喫《きっ》しましたれば、このたびは、この但馬守の対手に、無名の兵法者をおえらび下されば、幸甚《こうじん》に存じまする」
と、言った。
秀頼は、真田幸村を呼び、但馬守の希望に叶う兵法者を一人、えらび出すように、命じた。
幸村は、なんの思慮するところもなく、
「旧蝋《きゅうろう》、織田有楽殿が、市中より連れて参った、一心流なる流儀を使う兵法者がよろしいかと存じまする」
と、こたえた。
望月周七郎《もちづきしゅうしちろう》と変名した柳生十左衛門のことであった。
但馬守は、自分の策謀《さくぼう》が、あまりに思い通りにはこぶので、ちょっと不安の念さえおぼえた。
最初にえらんでくれる対手が、実弟とは限らないと覚悟していたのである。
他の者がえらばれれば、容赦《ようしゃ》なく討ち果《はた》して、実弟が出されるまで、つづける肚《はら》であった。
試合場は、蘆田曲輪《あしだくるわ》の広場がえらばれた。やがて八箇月後に、その曲輪の矢倉の中で、猛火につつまれて、自害することになろうとは、秀頼も、神ならぬ身の、夢にも予想しなかったことである。
十七年前、太閤が醍醐《だいご》の花見を催した際、万朶《ばんだ》の花の下《もと》に張りめぐらした幔幕《まんまく》がひきまわされ、上座わきには、唐《から》まできこえた千成瓢《せんなりひさご》の馬印《うまじるし》も樹《た》てられた。
いやしくも、柳生但馬守は、将軍家代理であった。これに勝つことは、徳川家に勝つことであった。
試合場も、その大試合にふさわしく、しつらえられたのである。
淀君も、千姫以下あまたの女中をしたがえて、見物に現れた。
但馬守が、差料を携《さ》げて、歩み出た時、すでに、たたかう対手は、さだめの位置に、立っていた。
試合は、真剣をもってなされることは、但馬守の言い出した条件であった。
但馬守は、秀頼にも淀君へも、一揖《いちゆう》もくれずに、まっすぐに、ゆっくりと、実弟十左衛門宗章にむかって進み寄った。
「望月周七郎殿と申されるか?」
「左様、名もなき牢人者が、将軍家御指南役と立合えるとは、生涯ただ一度の光栄と存ずる」
「勝敗は、兵家の常。お手前が、敗れたる際は、宗旨《しゅうし》を申しのこされれば、回向《えこう》つかまつろう」
「野猿同様に育った身なれば、宗旨はござらぬ。敗れたる時は、屍骸は、とりすてて、野犬のえじきにでもして頂きたい」
「もし、勝利のあかつきは――?」
但馬守は、問うた。
「その時は、御主君より、褒美を賜りたく、柳生殿よりも、おとりなし下されたい」
「申されい」
「されば、無遠慮に……」
十左衛門は、淀君と千姫を中心にして、左右に居竝《いなら》ぶあでやかな女中衆へ、やおら、視線を向けた。
そして、微笑し乍ら、
「それがしも、将軍家御指南役を撃ち負かしたとなれば、世に名もあがり、門弟の志願者も二三にとどまらずと存ずる。ついては、この大阪城下に、一戸を構えて、一流の看板《かんばん》をかかげたく存じますれば、妻をめとる必要もこれあり、なろうことなら、淀君様お召使いを一人、所望つかまつる」
と、言った。
あらかじめ、但馬守と打合せていた要求であった。
但馬守は、秀頼に正対すると、その許可を乞うた。秀頼が、しりぞける筈もなかった。
「お手前、ご随意に、おのが妻にふさわしい女性《にょしょう》をえらばれるがよい」
但馬守は、すすめた。
十左衛門は、かぶりを振って、
「柳生殿と立合って、勝利をひろうた後の儀にござる」
と、言った。
すべての人に、好感を抱かせる謙虚な、すずやかな態度に思われた。
「では、参ろうか」
双方、二間の距離を置いて、対峙《たいじ》した。
この試合は、今日の言葉で謂《い》う「八百長」であった。
しかし、固唾《かたず》をのんで凝視する人々に――たとえ、そのうちのただ一人にさえも、
――はて?
と、怪しまれてはならなかった。
これは、むしろ、生命を賭《と》して闘うよりも、むつかしい試合と言えた。
抜く手を見せず――いずれを早く、いずれをおそしとせずに、ぴたっと、相青眼《あいせいがん》に構えた刹那《せつな》、但馬守の胸中にも、十左衛門の心底にも、これが「八百長」である意識は、払われていた。
人々の眼眸《まなざし》は、刃と刃の間に、かげろうのように燃え立つ剣気に、吸い寄せられ、気魂《きこん》を奪われた。
気魂を奪われない者が、列座中に、二人だけいた。重臣の座に就いている真田幸村と、その背後にひかえている猿飛佐助であった。
若い牢人者が、実は、柳生十左衛門宗章であることを佐助に調べさせた幸村は、この試合が、いかなる目的をもってなされるのか――そのことに、異常な興味をそそられていたのである。
ぬくもりのうすい冬陽の下で、淡い影法師を、長く、白砂に匍《は》わせつつ、不動の対峙《たいじ》は、つづいた。
と――。
但馬守の右足が、わずかに、摩《す》り出た。
それに応《こた》えて、十左衛門が、青眼から上段に、すっと構えを転じた。
但馬守は、その逆に、切っ先を、しずかに、下段へ移した。
同時に、じりじりと進みはじめた。
兵法に達した者ならば、但馬守が、「浦《うら》の波《なみ》」を使うな、と看てとった筈である。敵の切っ先一寸に交叉《こうさ》するまでに迫《せま》って、左を搏《う》つとみせて、右を斬り、あるいは、右を撃つとみせて、左を断つ極意であった。
上段に構えた対手は、もはや、別の構えに変化する余裕はない、距離がせばまりすぎたからである。
「ええいっ!」
但馬守は、満身からの気合を発して、五体を躍り込ませた。
但馬守が、右を搏《う》ったか、左を搏《う》ったか、誰人の目も、見とどけることは、不可能であった。
ただ、若い牢人者が、斬り返しもせずに、一間を跳び退る速影を、人々の眼裏《がんり》に残しただけであった。
ふたたび、双方もとの構えにもどった時、
「勝負あった!」
但馬守の口から、その一言が、発しられた。
「刀を引かれい。お手前の勝ちじゃ」
そう言っておいて、但馬守は、自身の方から、一歩退いて、白刃を下げた。
十左衛門は、一刀をうしろへまわすと、一礼した。
但馬守は、ゆっくりと秀頼の前に進むと、
「ごらん下さいますよう――。古今に稀《まれ》なる迅業《はやわざ》を使う兵法者にございます」
と、言って、ふところから、懐紙をとり出してみせた。そのまん中が、つらぬかれて、小さな孔《あな》があいていた。
秀頼は、しかし、怪訝《けげん》な面持で、
「したが、儂《か》の者は、片袖が、切られて居るぞ。相討ちではないか?」
「さあらず――」
但馬守は、かぶりをふって、「ご免」と言いざま、衣服の前をはだけてみせた。
逞《たくま》しい胸には、一点、血が滲《にじ》み出ていた。
「それがしが、もし、もう一寸ふかく、斬り込んで居りますれば、それがしの胸もまた、一寸ふかく刺し通されて居りました」
「む! 見事じゃ!」
秀頼は、感服して、若い牢人者にむかって、高い声で、
「おのが妻を、えらぶがよかろうぞ」
と、言った。
「有難き幸せに存じまする」
十左衛門は、ふかく頭を下げてから、
「いずれが菖蒲《あやめ》かきつばた――どの女性をえらべばよいか迷いますれば、天にまかせるこころみをお許し下さいますよう」
と、申出た。
「かまわぬぞ、どのような手段でも、とるがよい」
十左衛門は、白羽の矢を一本所望した。そして、侍臣が持参したそれを受けとると、おもむろに、女中衆へ、背中を向けた。
「ご無礼ご容赦《ようしゃ》!」
言いざま、矢を、空中高く、投げ上げた。
飛燕《ひえん》に似て、ひと舞いしたそれは、白い一線をひいて、落下して来るや、淀君のかたえに坐っている若い美しい女中の帯へ、ななめに、突きささった。
向きなおった十左衛門は、
「では――そのお女中を、それがしが生涯の伴侶《はんりょ》ときめまする」
と、言った。
人々は、ただ呆然《ぼうぜん》として、声もなかった。
幸村は、館にもどって、居室に入ると、跟《つ》いて来た佐助に、
「鮮かな手並であったな、佐助――」
と、言った。
「御意《ぎょい》。さすがは、柳生の麒麟児《きりんじ》でございましたな」
「しめし合せた通りに、但馬守の胸を、薄皮一枚に傷つけるとは、舌をまかせた」
「お主《しゅう》様」
佐助は、ぱちぱちとまばたき乍ら、
「うしろ向きに、白羽の矢を投げましたが、あの女人を、ねらったのでござろうか」
「勿論じゃ。あれは、たぶん、徳川方が送り込んだ女間者《めかんじゃ》であろう」
「え? あやつ、女間者でござったか!」
「まちがいあるまい」
「但馬守は、どのようなこんたんがあって、今日の趣向《しゅこう》をしくみましたぞや?」
「まだ、わからぬ」
「お主様にも、わかりませぬか?」
佐助は、不服げな顔をした。
「わからぬからこそ、そちに、任務ができたというものだ」
「ほ! これは!」
佐助は、にこっとして、片手で顔をつるりとひと撫《な》でした。
「何をいたせばよろしゅうござるや?」
「女間者の挙動を、天井裏から、覗《のぞ》いて居れい」
「それは、いとやすき任務でござるが、但馬守の方は、すてて置いてもよろしいのでありましょうかな?」
但馬守は、今夜、貴賓《きひん》屋敷に一泊して、明朝、去ることになっていた。
十左衛門が、白羽の矢をたてた女中を受けとるのも、明朝ときめられていた。十左衛門は、花嫁を駕籠《かご》にのせて、但馬守の行列に順《したが》って、城を退去する筈であった。
「但馬守は、ただ、就寝《しゅうしん》するばかりであろうな。十左衛門にも、不審《ふしん》の行動はあるまい」
幸村は、言った。
幸村が、佐助から起されたのは、夜明けがたであった。女間者が、容易《ようい》ならぬ振舞いをした、という。
淀君から最も信頼されていたかの女《じょ》は、最後の夜を、伽《とぎ》したいと願い出て、寝所にはべった。やがて、淀君が、睡りに入ったのをねらいすまして、睡り薬らしい液体を、なかばひらいた唇のあいだから、たらし込んだ。そして、寝所から、かつぎ出して、自分の部屋へ、はこんだのであった。
そこまで、見とどけて、佐助は、注進に来たのである。
「ふむ! そうか!」
幸村は、ようやく、但馬守の|こんたん《ヽヽヽヽ》が読めて、微笑した。
「お主様、これから、いかがいたしましょうか? 女間者めを、とりおさえましょうか?」
「ならぬ」
「はあ――?」
「すてておくのだ。ただ、天井裏から、見物して居れい」
「……?」
「そちが、活躍するのは、この城内ではない。二条城ということに相成ろう」
幸村は、そう言って、なにやら愉《たの》しそうに、はは……と笑い声をたてた。
但馬守が、大阪城を辞去したのは、朝食後早々であった。昨日で使者の勤めを終った但馬守は、秀頼に挨拶もせず、大野修理大夫にだけ見送られた。
行列の後尾には、一挺《いっちょう》の女駕籠が従った。そのわきに、若い牢人者が、つき添っていた。
女駕籠の中に、白羽の矢をたてられた女中のかわりに、こんこんと睡りつづける淀君が乗っていることを、知っているのは、大阪城内、十四万人のうち幸村と佐助のただ二人きりであった。
淀君が、意識をとりもどしたのは、その日も昏《く》れて、かなり過ぎてからであった。
自分の身柄が、夢裡《むり》に、二条城内に移されていると知った淀君は、半狂乱になって、つき添いを命じられた旗本や侍女に、手あたり次第、まわりの品物を、抛《ほう》りつけた。
ふみ込んで来た柳生但馬守から、
「故太閤殿下の寵姫ともあろうおん身が、下賤《げせん》の女房にも劣《おと》る、なんぞ、見苦しい狼藉沙汰《ろうぜきざた》でござろうか!」
と、きめつけられて、淀君は、ようやく、あばれるのを中止した。
息も切れていたし、いかにあばれようとも、無駄であることもわかって来ていた。
茫然《ぼうぜん》と虚脱《きょだつ》の|てい《ヽヽ》で坐り込んだ淀君を、しばらく見戍《みまも》っていた柳生但馬守は、おもむろに、拉致《らち》した目的をきかせはじめた。
「大御所におかせられては、二十年前より、そもじ様に、お心を寄せられていたのでござる」
そう言う敵の家臣を、淀君は、うつろな眼眸《まなざし》で視《み》た。
その言葉に対して、もう、憤《いか》りは沸《わ》かなかった。
元来、女性という者は、「貴女に惚《ほ》れている」と告白されて、わるい気分はせぬのである。
但馬守は、いまここで、淀君が家康の意を容《い》れて、肌身をゆるし、もしできれば、このまま、愛妾として、そばにはべるならば、秀頼および大阪城は、永い平和を享《う》けることができる、と懇々《こんこん》と説《と》いた。
それに対して、淀君は、一言の返辞もしなかった。ただ、身じろぎもせずに、坐っていた。
「半刻《はんとき》の猶予《ゆうよ》をお与えつかまつる」
但馬守は、言いのこして、下って行った。それから、ものの半刻も過ぎたであろうか。
天井から、音もなく、一通の封書が、淀君の膝に落ちた。それは、真田左衛門佐幸村の親書であった。
その内容は、但馬守が述べた趣旨《しゅし》とほぼ同じであった。
総構《そうがま》えを破壊され、総濠を埋め立てられ、本丸をまるはだかにされた大阪城は、もはや赤児も同様である。家康は、この一年の内に、必ずや攻め寄せて来て、火を放つに相違ない。家康がもし、壮年期に在るのであれば、この暴挙を思いとどまらせるてだてはない。家康は、いかに老獪《ろうかい》とはいえ、すでに古稀《こき》を迎えた老爺である。その心を幼童のそれにかえすことは、必ずしも不可能ではない。その方法としては、閨房《けいぼう》の睦《むつ》み合いこそ、最も効果あるものと考えられる。おそらく、家康は、貴女様を、二十余年前、はじめて見た時から、胸中を波立たせたに相違ない。あるいは、家康にとっては、貴女様を掌中《しょうちゅう》にするのは、将軍職を襲《おそ》った時以上の喜悦《きえつ》かも知れぬのである。何卒《なにとぞ》、貴女様の美と媚《こび》をもって、家康を、海鼠《なまこ》のごとく骨なきものにさせることはできないものであろうか。
ひそかに短剣を与えて、老爺の生命を縮めることは、たやすい。しかし、そうすれば、貴女様の一命はもとより、秀頼公のおいのちはあるまい。
とらわれの身となった宿運を逆手にとって、豊臣家の安泰《あんたい》をはかるのも、また賢婦のとるべき途ではあるまいか。
諄々《じゅんじゅん》と諭《さと》した長文を、読了した淀君のおもては、しかし、しらじらとして、無感動であった。
半刻のち、淀君は、但馬守にみちびかれて、奥御殿に入って、身柄を、数人の侍女の手に渡された。
衣裳を剥《は》がれ、一糸まとわぬ全裸にされた淀君は、香料を混《ま》ぜた湯で、くまなく拭ききよめられた。
「脂粉を仮《か》らずして、顔色は朝霞《ちょうか》の雪に映《えい》ずるがごとく、また梨花の雨を帯《お》びるがごとく、しかも娟秀無瑕《けんしゅうむか》、肌理膩潔《きりじけつ》、肥瘠《ひせき》度に合す。蛾眉《がび》にして鳳眼《ほうがん》、|※[#虫へん+酋]領《ゆうりょう》にして蝉鬢《せんびん》、ひたいは広円《こうえん》にして光鑑《ひかりかんが》むべく、その胸や平満、その脊や微厚《びこう》、その肩や円正、その腰や繊弱《せんじゃく》、痔《じ》なく瘍《よう》なく、黒子《ほくろ》なく、口鼻腋足の私病なく、玲瓏《れいろう》玉をあざむき、温淑《おんしゅく》の気は外にあふる、まことにこれ、絶代無二の佳人」
とは、漢の恵帝《けいてい》が、張《ちょう》皇后を冊立《さくりつ》するにあたって、命じて皇后の裸身を検査させた時、女官が復命した言である。
淀君のはだかは、まさに、張皇后のそれにも、ひけをとらなかった。
張皇后は、二十代、三十代よりも四十代の方が、美しくなった、という。崩《ほう》じたのは、四十一歳であったが、その美は玉をあざむいて、真に処女であった、という。
淀君のからだが、処女の如くであった、とは言わぬが、妍麗《けんれい》の容《かたち》は、十万人に一人ぐらいの|しろもの《ヽヽヽヽ》であったことは、信じてよいであろう。
その美体は、白羽二重の寝召《ねめし》いちまいに掩《おお》われて、七十翁の寝所《しんじょ》へ、送られたのであった。
二条城における、その閨房の模様を、天井裏から覗き下した佐助が、翌日の午後、ひょっこり、幸村の許に戻って来た時、なにやら、奇妙な面持であった。
「いかがいたした、佐助?」
その報告を待っていた幸村は、眉宇《びう》をひそめた。
「お主様。この佐助には、まことに、苦手な任務でござった」
「そうであったろう。始終を見とどけたか?」
「淀君様には、寝所にお入りになるなり、灯を消しておしまいなされましたので……」
「闇に目の利かぬそちではあるまい」
「それが……、なにさま、見馴れぬ有様ゆえ――」
「ごまかすな、佐助。大御所は、すぐ、灯をつけたであろう」
「まんず……」
「はは……、佐助、そちは、目蓋《まぶた》を閉じていたな?」
「御意」
佐助は、ほっとして、頷《うなず》いた。
「目蓋を閉じていても、音やら声やらは、ききわけた筈だぞ」
「それは、た、たしかに」
「淀殿と大御所は、どのような会話を交《かわ》したぞ?」
「淀君様には、一言も、口になされませなんだ」
「大御所は?」
「大御所は、とりとめない言葉を、ぼそぼそと、囁《ささや》かれて居りましたが、そのうちに、その……手足を、蠕々《ぜんぜん》と、うごめかす模様に相成り……」
佐助は、額の汗をぬぐった。
「どうした?」
「それは、半刻にわたりましたが、淀君様は、かたくお口をつぐまれたきり、さらに、蕩《と》け揺れる気配はこれなく……」
「ふむ。それから?」
「それがしも、不審をおぼえて、つい、目蓋をひらいてみましたところ、大御所は、淀君様の上に在りましたけれど……」
「どうした?」
「……あさましゅう、苛立《いらだ》ち、焦躁《あせ》って、おのれを責めたてるけしきにござったが、とうとう、なさけなさそうに、わしもおいぼれた、ゆるせ、となげきの言葉を洩《も》らして、ノロノロと身を起して、退《ど》かれたげにござる」
「……」
幸村は、憮然《ぶぜん》たる面持をつくった。
それを、上目づかいにうかがいつつ、佐助は、つけ加えた。
「淀君様には、まるで死人《しびと》のように、一糸まとわぬ裸形《らぎょう》を仰臥《おうが》させて、大御所のなすがままに、まかしておいでだったのでござるが、大御所が愚痴《ぐち》とともに身を起した時、薄目をひらいて、小気味よげな冷たい笑みを、口もとに泛《うか》べられたのを、それがし、しかと見とどけてござる」
佐助は、妙に力をこめて、告げた。
――天下に、何ひとつ、望みの叶わぬもののない徳川家康も、老齢には、ついに、勝てなんだか。
幸村は、かるい溜息をひとつ洩《も》らしてから、
「ご苦労であった、佐助。もはや、二条城に忍ぶ必要はないぞ」
と、言った。
「したれど、淀君様を、あのままには、すて置けませぬが――」
「すてて置いてよい」
「……?」
「すてて置けば、やがて、大御所が、送りかえして参るであろう」
「なぜでござるか?」
「とどめて置けば、おのが不能の惨《みじ》めさを味うばかりだからな。不能になった男は、その女に対しては、ひどう弱気なものだ。淀殿の生命《いのち》を奪うことはいたすまい。たとえ大御所が、死を呉れようとしても、それをゆるさぬ者が、側近に二人いる。柳生但馬守と阿茶局《あちゃのつぼね》が、生命乞いをするであろう」
阿茶局は、家康の後宮の監督として、最も信頼されている婦人であった。
大阪冬の陣を治《おさ》めて、講和を成立させたのは、阿茶局であった。
使者となって、淀君の妹である京極若狭守忠高の母常高院と会見して、成立させたのである。
幸村の予言は、まちがいなかった。
淀君が、柳生但馬守につき添われて、こっそり、大阪城へもどって来たのは、それから十日ばかり後であった。
幸村は、但馬守から淀君を受けとって、その居室にもどした後、
「大阪城が滅亡するのは、今年うちときまったようだ」
と、独語《どくご》したことであった。
名古屋|山三郎《さんざぶろう》
京の都に、春が来て、神社に、寺院に、城に、公卿館《くげやかた》に、民家に、そして街辻に、一斉に、さまざまの行事がくりひろげられることになった。
京の都には、諸宗ことごとく、会している。二月十五日の涅槃会《ねはんえ》ともなれば、宗旨《しゅうし》を問わず、伽藍《がらん》に涅槃像を懸《か》けて、善男善女に観覧させるから、にぎわいは、大変なものになる。
一戸のこらず、足腰の立つ者は、出かけて行くことになる。兆殿司《ちょうでんす》の描く涅槃像を懸けるので有名な東福寺《とうふくじ》などは、境内にひしめく群衆で、伽藍もゆれる、と噂されていた。
民家では、霰餅《あられもち》や大豆などを熬《い》って、仏様に供える。京辺では、これを|はなくろ《ヽヽヽヽ》と称《い》う。
嵯峨の清涼寺では、嵯峨の柱炬《はしらかがり》といい、大|松炬《たいまつ》をつくって、伽藍も燃えたつほどの勢いで、火焔を一夜中、絶やさぬ。
これは、釈迦の遺骸を荼毘《だび》した遺意である。
したがって、信仰ぶかい人々は、その煙を吸ったり、肌にふれさせたり、嗅いだりすることを、無上の有難いことにして、その日は、夜明け前から、参詣して来る。
清涼寺は、小倉山《おぐらやま》の東にある。俗に、嵯峨釈迦堂、という。
本尊の白栴檀《びゃくせんだん》釈迦像が立派なので、天下に知られているだけに、涅槃会には、東福寺とともに、夥《おびただ》しい群衆をあつめるのであった。
当然――。
群衆めあての見世物も、楼門前の広場に、ならぶ。
兵法《ひょうほう》試合を金にしようとする牢人者、相撲を売る巨漢《きょかん》、軽業、筑紫琴《つくしごと》をかきならす座頭、鷹の子を肩にとまらせ、「買わんか、買わんか」と呼ばわる猟師、系図香、源氏香を聞きあてさせる上臈《じょうろう》姿の女、おちぶれた猿楽役者の大道狂言、など。
これらの大道あきないのほかに、今日を晴れの華やかな衣裳をまとった男女が、円陣をつくって、さす手ひく手を合せて、踊りうかれている。この円陣踊りは、当今、京畿《けいき》で、大変な流行《はやり》であった。武士も平気で、この中に交るようになっていた。(蓋《けだ》し、これが、後の盆踊りの起源である)
ところで――。
この円陣踊りは、楼門前だけで、五組も六組も、見うけられたが、その中でも、参詣者たちの目をひきつけたのは、石段を舞台にして踊っている一組であった。
男一人に、女が七人。いずれも、若く、美しい肢体をもっていた。
男は、紫の布で顔をつつみ、濃艶《のうえん》な天竺《てんじく》牡丹を散らした小袖に、唐獅子の躍る聯想模様《れんそうもよう》の袖なし羽織《ばおり》をまとって、燃えるような緋袴《ひばかま》をはいていた。女たちは、そろいの名古屋桐の衣裳に、紅の腰|蓑《みの》をまとい、塗笠をかぶり、せなかに、桜の一枝をさし、数珠をくびにかけ、笛やら鼓やら鉦《かね》を鳴らしていた。
男は、ただ、素手を舞わせている。それは、女たちを指揮するあんばいになっているのだが、見物人を、思わず、溜息つかせるほど、一瞬もとどまるところを知らぬ無限の曲線美を描いて、鮮《あざ》やかな技《わざ》であった。
男女がうたっているのは、真宗門徒が朝夕となえている白骨《はっこつ》の御文《おふみ》(蓮如《れんにょ》和讃)であった。
それに、節をつけて、踊り歌に代えているのである。
それが、いかにも、涅槃会の寺院の門前の興行にふさわしかった。
投銭《なげせん》を欲しがる気色《きしょく》ともみえず、ただ、踊るが法楽《ほうらく》の|てい《ヽヽ》とみえた。
――おや!
ぞろぞろと流れる善男善女の川の中から、何気なく、その踊りへ、目をくれたのは、猿飛佐助であった。
素手で舞う男を、一瞥《いちべつ》した瞬間、佐助は、はっとなった。
隙がないのである。兎《う》の毛で突いたほどにも――。
女とも見まごうほどの、すんなりとした、柔軟な優姿《やさすがた》が、血闘場で躍る一流兵法者のそれにも比《ひ》せられる動きを示しているとは!
およそ、一芸に卓絶した者の所作は、みじんの隙もないものであることは、佐助も、きいている。
曾《かつ》て、剣聖上泉伊勢守信綱《けんせいかみいずみいせのかみのぶつな》は、正親町《おおぎまち》天皇より召されて昇殿し、従四位下を賜った際、新陰流法定を天覧演武するように、将軍家から命じられた。
信綱は、つつしんでこたえて、
「兵法の業《わざ》と申すものは、太刀を把《と》ったおぼえのこれ無きかたがた様に御覧に入れても、詮《せん》かたなき儀と存じられます。禁中におかせられて、聖上はじめ、公卿がたに、その良し悪しが、すぐに、おわかりになりまするは、猿楽《さるがく》かと存じまする。それがし、野《や》に育ちたる無風流者にて、歌舞音曲のことは、未だ一度も見聞つかまつりませぬ。されど、芸の業は、畢竟《ひっきょう》きわまる点は同じと存じますれば、拝見つかまつれば、その所作のうちに、隙がありしや、なかりしや、見とどけ得るか、と考えまする」
と、言った。
そこで、将軍家では、猿楽を催《もよお》すことにした。
猿楽は、足利《あしかが》家によって、武家の式楽《しきがく》とさだめられていたので、当時、技《わざ》は日々盛んで、また、観世《かんぜ》、今春《こんばる》、宝生《ほうしょう》、金剛《こんごう》各座は、一流名手を出していた。
えらばれたのは、観世の権《ごん》ノ頭《かみ》であった。
伊勢守信綱は、正面に高く構えられた公方桟敷のすぐ下に正座して、観世大夫が、広さ三間の舞台で、高砂の謡曲に乗って舞う一所作一所作を、見とどけた。
観世大夫の姿が、橋懸《はしがかり》から諸幕《もろまく》のむこうへ消えるや、将軍家は、待ちかねていて、
「どうであった? 隙があったか?」
と、訊ねた。
信綱は、向きなおって、
「みごとなる所作にて、いささかも、油断はないように、見受けました。ただ、しまいの方で――光|和《やわ》らぐ西の海の、彼処《かしこ》は住の江、此処は高砂、松も色そい、春も、のどかに……と、そのあたりで、大臣柱《おとどばしら》の方で、隈《くま》をとる時、ふと、隙のようなものを、見てとりました。あの一瞬、大夫を、撃《う》てば、撃ち倒し得たかも知れませぬ」
と、こたえた。
一方、楽屋に入った観世大夫は、将軍家近習に、
「上様のおん前に端坐《たんざ》されて、私の所作を、じっと見まもって居られた御仁《ごじん》は、何人でございましたろう?」
と、問うた。近習が、
「あれは、日本随一の剣の名人上泉伊勢守信綱殿でござった」
とこたえると、観世大夫は、
「さこそ!」
と、頷《うなず》いた。
「あの御仁は、私の所作を、ただ、美しいものとして眺めて居られたのではなかった。私が、春も、のどかに……というくだりで、隈をとる時、蝿がいっぴき大臣柱にとまっているのに、ふと、気をとられたところが、あの御仁は、とたんに、微笑なされた。その微笑が、私には、白刃よりもおそろしいものに思われたが、そうでありましたか、あの御仁が、上泉信綱先生でありましたか」
観世大夫は、衣服をあらためてから、将軍家の前に伺候《しこう》すると、上泉信綱が自分の所作に隙があったのを見のがさなかったことを告げて、兵法の達人の目のおそろしさを語った。
将軍家では、信綱の言葉と、ぴたりと一致しているのをきかされて、ふかく感服したことであった。
――何者であろうか? 紫の布のかげの眉目《びもく》は、堂上の公達《きんだち》のように気品をたたえている。
美男子に対してひどく劣等感を抱く佐助は、戸惑《とまど》いの面持で、熱心に、その踊りぶりを、眺《なが》めていた。
兵法者というものは、どんないでたちをしていても、一目して判るものである。この若者は、兵法者ではない。といって、猿楽の一座の者は、このような華美なよそおいは、絶対に許されぬ。むかし、猿楽は、京の都では、四条河原、糺《ただす》河原、祗園の旅所《たびしょ》などで行われていた。その頃は、公家《くげ》は、初めは、その品位を貶《おと》さんことを憚《はばか》って、往《い》って覧《み》ようとはしなかったが、いつしか、あらそって、舞台に上り、院宮《いんのみや》、槐門《かいもん》までも、これをたしなむようになり、仙洞《せんとう》に延攬《えんらん》し、清涼殿に猿楽舞台を建てるにいたった。
公卿や女官が、舞技に感動のあまり、衣服をぬいで、舞台へ投げるほどの熱狂的な興行になった。後世、纏頭《てんとう》を「はな」と呼ぶようになったのは、この頃、猿楽の大夫を賞すために、剪綵《せんさい》の花を与えて、翌日、これを証として、金銭財物を与える習《ならい》があったところから、出たのである。
猿楽が、宮廷御用を誇り、足利将軍は、武家の式楽にさだめられ、豊臣秀吉の寵を得、また、徳川家にも仕えるようになったからには、その大夫たちが、名門の格式を尊び、日常の振舞いにも、もったいぶるようになるのは、当然である。
寺社の門前で、うかれ踊りなど、する筈もない。
しかし――。
佐助が看《み》るところ、どうしても、猿楽の技をきたえていないと、これだけの舞いは、演じられるものではなかった。
――わからぬ。
佐助が、かぶりを振った折であった。
参詣道の彼方に、どっと騒音が起った。とみる間に、群衆の流れが、波だてて崩れると、馬蹄の音がひびいて来た。
騎馬が、一列になって、こちらへ向って、奔駆《ほんく》して来るのが見られた。
幾人かが、馬蹄にかけられたに相違ない。
乱暴な疾走ぶりであった。楼門前までの一町あまりの距離が、あっという間に、空けられた。参詣人も見世物の連中も、大あわてで、にげた。騎馬隊が、徳川の旗本たちであることが、一瞥《いちべつ》でわかったからである。徳川の旗本たちは、白馬を好み、一隊を組めば、必ず半数以上は、それに跨《またが》っていたからである。
いまや、天下は徳川のものであった。その旗本である士《さむらい》は、そこいらの大名の家臣と同一視されるのをきらい、どんな遠くからも、目にとまるように、工夫したものである。
――ほ! 面白いことになりそうじゃ。
石塔の上へ、ひょいと乗った佐助は、ひとり、にこにこした。
騎馬隊の殺到におどろかぬ例外が、目前にあったからである。石段で踊っている組であった。
世にも典雅な若者は、ますます、その五体の動きをさわやかに冴えさせているし、その指揮にしたがって、花のような美しい女たちは、声をそろえた蓮如和讃に酔うたごとく、さす手ひく手は、無我の境のものとみえた。
何かが起ると、期待してよいことだった。
はたして――。
騎馬隊の先頭をきった八字髭の荒武者が、
「いたぞ、彼奴《きゃつ》!」
と叫びざま、ぎらりと大仰《おおぎょう》に抜刀して、たかだかとふりかざすや、
「名古屋|山三《さんざ》! そのそっ首を刎《は》ねてくれるぞ! 覚悟せい!」
と、あびせかけた。
名古屋山三と呼ばれた男は、この襲撃を予期していたらしく、女たちに合図して、すたすたと、楼門下まで、ひきさがった。
旗本の面々は、一斉に、白馬からとび降りて、大刀を鞘走《さやばし》らせると、石段を駆け上った。
意外にも、その白刃の襖に正対したのは、七人の女たちであった。
笛や鼓や鉦をすてて、せなかに挿していた桜花一枝を右手に持ち、整然と横へ一列に竝び、眉宇《びう》ひとつ動かさぬ。
これから、白刃あいてに、新しい舞いを披露する趣向とさえ受けとれる。
名古屋山三は、そのうしろに立って、
「将軍家のお旗本衆が、涅槃会の盛事をみだして、この名古屋山三郎一人を討取らんと、躍起に目をひき剥《む》かれるは、いかにも、血迷うた振舞いと存ずる。されば、おのおのがたの狂い目をさますために、これら七人の娘子勢《じょうしぜい》をもって、意外の技など、御覧に入れ申そう。さいわいに、おのおのがたも、七名なれば、好みのむすめをえらんで、かかられい。もし、生捕ったあかつきは、煮て食おうと、焼いて食おうと、存分になされてかまわぬ」
さわやかな声音《こわね》で、言ってのけた。
旗本たちは、蝟集《いしゅう》している見物人のてまえ、桜花一枝を持った女たちにむかって、白刃をふりかざすのは、いかにも武士の面目に慙《は》じることに思われた。
口々に、名古屋山三をののしって、前へ出て、たたかえ、と叫んだが、無駄であった。
女たちが、桜花をかざして、すっと、一歩出るや、
「おーっ!」
と、はなやかな懸声《かけごえ》を、宙にほとばしらせた。
群衆が、わーっと、どよめいた。
旗本たちにむかって、さまざまの罵声が、飛んで来た。
「容赦《ようしゃ》ならぬ!」
一人が、吼《ほ》え、
「斬るぞ!」
一人が、呶号した。
そして、七士は、猛然と地を蹴った。勿論、かよわい女を斬るつもりはなく、突きはね、蹴とばすつもりであった。
甘くみたのが、不覚であった。
七つの髯面《ひげづら》が、桜の小枝で、したたか、撃《う》たれて、歪《ゆが》んだのである。なかには、あまりの痛さに、呻きを発した者もあった。
「おのれっ!」
将軍家|扈従《こじゅう》たちは、こんどこそ、本気で慍《いか》った。
そこに、くりひろげられた狼藉沙汰《ろうぜきざた》は、後年までの語り草であった。
七士が、七人の女にむかって、斬りかかった勢いは、野獣が花園へとび込んで荒れ狂うに似て、凄《すさま》じいものだった。
白刃の閃《ひらめ》くところに、血飛沫《ちしぶき》のかわりに、帯が、袖が、裾が、截《き》れ散った。
七士は、しかし、故意に、衣裳だけを斬ろうとしたのではなかった。容赦《ようしゃ》なく、血煙の下に、若い肢体を地べたへ仆《たお》す残忍な憤《いきどお》りを燃えたたせていたのである。戦場鍛えの腕には、ありあまる力がみなぎっていたし、女傀儡子《おんなくぐつ》を一刀両断にすることなど、両眼をふさいでいても容易だぐらいに思っていたのである。
初太刀をあびせて、切っ先が、帯を断って、衣裳の前が、ばらっと拡がるのを見た瞬間さえも、こちらが、無意識の裡《うち》に、わざとそうしてやったような気がしたくらいであった。
若い女が、前をはだけさせられれば、当然、羞恥《しゅうち》で、立ちすくんでしまう筈だった。
で――思わず、攻撃の手を休める一瞬を置いた。その隙に、対手《あいて》から、再び、桜の小枝で、ぴしっと、髯面を搏《う》たれて、かっとなった。
「くそ! 売女《ばいた》め!」
悪鬼のように、斬りつけて行って、はじめて、帯だけを截断《せつだん》したのは、おのれの慈悲ではなかったことを、思い知らされたのである。
真《ま》っ向《こう》から振り下す一撃も、横薙ぐ一閃も、切っ先が斬ったのは、ひるがえる袖であり、裳裾《もすそ》であった。
娘子勢《じょうしぜい》は、にげまどうとみせかけ乍ら、荒武者たちに、わが身をまとうたものを、斬らせて、すこしずつ、白い肌をあらわにして行ったのである。
斬り手は、しだいに、目眩《めくら》みはじめ、見物人にとっては、思いがけぬ目の正月となった。
やがて、境内が、地震《ない》のように、どよめき、ゆれた。ついに、一人の女が、ずたずたに截られた衣裳を、地べたにすてて、雪膚《ゆきはだ》を、惜しげもなく、春光にさらしたのである。つづいて、一人。そして、また一人。
みるみるうちに、女たちは、華美な襤褸《ぼろ》を脱ぎすてて、未だ男に一指もふれさせては居らぬげな、ういういしい柔肌《やわはだ》をあらわにするや、突如《とつじょ》、一斉に、宙に躍りあがった。
腰にまとうた一枚の生絹《すずし》の下裳《したも》が、風に捲《まか》れて、太腿《ふともも》の奥を彩《いろど》る慈茂までが、遠くにある者の目にも、映《うつ》った、という。
それを頭上に仰いだ斬り手たちが、思わず、ごくっと、生唾をのんだことは、言うまでもない。
旗本たちが、愕然とわれにかえったのは、七人の裸女に、おのれらが乗って来た白馬に、うち跨《またが》られた瞬間であった。
熱狂する群衆に包囲されて、七士の屈辱感は、名状しがたいものとなった。
そして、その憤怒は、楼門下に、ただ一人、佇立《ちょりつ》している名古屋山三にむかって、たたきつけられることになった。
名古屋山三は、自ら進んで、しずかな足どりで、歩《あゆ》み出て、目を剥き、歯を剥いた敵たちに、前後左右をふさがせておいて、
「そこの、忍者殿」
と、石塔上に、ちょこんと蹲《うずくま》っている佐助に、声をかけた。
ちゃんと、佐助の存在に気がついていたのである。
「お主《ぬし》がふところにしまっておいでの忍者槍を、お借りできまいか」
忍者槍の柄は、一尺の短かさにたたむことができる。ひきのばせば、一間柄となる。穂先もまた、柄《つか》の中に納められる。(カメラをのせる三脚を想像ありたい)
佐助は、承知して、それを懐中からとり出すと、するすると延してから、ひょーっと投げ与えた。
名古屋山三は、左手を挙《あ》げて、つかみとるや、
「それがしは、役者にて候えば、立合いも、小歌ぶりにて参ろうと存ずる」
と、言いはなって、ぴたっと、身構えた。
佐助の丸い眸《ひとみ》が、かがやいた。
その構えは、忍者槍を縦横無尽《じゅうおうむじん》に使いこなす術を会得《えとく》していることを、示していた。
すこしずつ、すこしずつ、身を廻転させつつ、名古屋山三は、いま流行の小歌を、口ずさみはじめた。
一天四海《いってんしかい》を、うち治めたまえば、
「えいっ!」
一人が、満身の気合を噴《ふ》かせて、斬りつけて来た。その大刀を、なんの苦もなく、空高く、刎《は》ねあげておいて、
国も動かぬあらがねの、
「おーっ」
野獣の咆哮《ほうこう》に似た懸声もろとも、躍《おど》りかかって来たのを、さっと、ひと薙《な》ぎ、足払いをかけて、地ひびきたたせておいて、
土の車の我らまで、道狭からぬ大君の、
と、うたいつづける颯爽《さっそう》たる姿に、魅せられ、われを忘れた見物人の幾人かが、なにか喚《わめ》き乍ら、人垣からとび出して、金袋やら品ものやら、抛《ほう》りはじめた。
なかに、三人ばかり、町娘が、狂気したように、帯を解き、衣裳を脱ぎすてると、金切声をあげて、投げるさまが、笑いを呼んだことである。
昏《く》れがた。
白川の流れに乗って、一艘の小舟がゆっくりと下っていた。
胴の間に横たわって、手枕《たまくら》で、目蓋《まぶた》をとじているのは、名古屋山三であった。漕《こ》いでいるのは、猿飛佐助であった。
なんということなく、こうなったのである。
名古屋山三は、大阪へ帰る、という。佐助も、大阪城へ戻って行くことになった。
水もしたたる美貌の持主が、稀《まれ》にみる使い手であったことは、佐助にとって、なんとも敵《かな》わぬ思いを抱かせる。
のこのこ踉《つ》いて来ざるを得なかった。
尤《もっと》も、佐助が、名古屋山三の正体をつきとめておかねばならぬ、と考えた理由は、ある。
名古屋山三は、徳川の旗本衆を、一人のこらず、あるいは腕を折り、あるいは片目にし、あるいは、膝の皿を砕いて、地べたにへたばらせておいて、あらたまった語気で、
「諸士に申しきかせておくことがある。諸士は、それがしが、二条城において、猿楽を演じた際、大御所殿の側室の一人が、それがしに迷うて、後を追って、城をぬけ出たことを、大層憤って、討取りに参られた。その側室が、小倉山の松の枝に、首縊《くびくく》ったすがたで発見されるや、それがしが、もてあそんで、殺した、と言いふらす御仁もあった由。それがしの、まったく、関《かかわ》り知らぬところ。……諸士は、それがしを、ただの遊芸者とさげすむがゆえに、主君の側室をぬすんだのを、徳川家の恥辱と、まなじりをひきつられた。もしも、それがしが、故太閤秀吉の落胤であったならば、いかがであろうか。家康殿は、側室の一人を、先の主人の御子に、提供したことになり、徳川家の恥辱には、相成り申すまい、諸士は、二条城へ戻って、大御所殿に、報告されるがよい。名古屋山三郎と申す能役者は、実は、故太閤秀吉の遺児であった、と」
そう言いきかせたものであった。
佐助が、これをきき流せるわけがなかった。
いつもの佐助ならば、こっそり、あとを尾《つ》けるところであった。今日は、なんとなく、送って行くあんばいとなってしまった。
空におぼろ月が浮かんだ頃、舟は、伏見を過ぎて、淀堤の下を下っていた。
「名古屋山三郎殿」
佐助は、艫《とも》から声をかけた。
返辞はなかったが、目をさましていることは、くろぐろとした寝姿を一瞥しただけで、佐助には判る。
「お手前が、徳川の旗本衆に、申しきかされたことは、あれは、たわむれに、からかったのでござったか?」
「……」
「念のために、おうかがいつかまつる」
「お主《ぬし》は、関東方か、それとも大阪方か?」
名古屋山三は、こたえる代りに、そう訊ねた。
「大阪方でござる」
「もし、わたしが、秀頼殿の兄にあたっていたならば、どうであろうな」
「どう――と申して、これは、一大事でござる」
「よもや、豊臣家で、作法をもって、わたしを大阪城へ迎えてはくれまい」
「……」
「わたしの方でも、迎えられても、参上はせぬ。太閤のせがれであろうが、なかろうが、どうでもよいことだ。ただ、徳川の者どもが、わたしを遊芸者とさげすんだので、名のってやったにすぎぬ。わたしは一介の能役者名古屋山三郎だ。豊臣家に対して、一片の野望も抱いては居らぬ」
その言葉は、おのれが豊臣秀吉の子であることを明らかにしたことにはならなかった。しかし、否定したことにもならなかった。どちらとも、受けとれた。
佐助の単純なあたまでは、その言葉の裏を読みとりかねた。
名古屋山三は、夜明けに、大阪の八軒に上陸すると、佐助に別れを告げて、濃い靄《もや》の中に消えて行った。
しかし、佐助は、名古屋山三が、天満の天神社わきの広場に設けられた阿国《おくに》歌舞伎の小屋に入るのを、見とどけるのを、忘れなかった。
さらでだに狭い場所に、幾個かの大葛籠《おおつづら》が据《す》えられてある楽屋であった。
花模様の夜具が延べられていて、もう人一人坐る余地もない。
名古屋山三は、すっと音もなく入って来ると、夜具の中から、擡《もた》げられた白い美しい貌《かお》へ、
「ねむい。ひと寝入りさせてくれ、姉者《あねじゃ》」
と言って、そのわきへ横になった。
山三より、七つか八つ年上であろう女は、
「よう冷えておいでじゃ」
と、呟《つぶや》き乍ら、自分のあたたかい寝召《ねめし》の中へ、冷えきった男の両足を包みこむようにした。
そして、唇を唇にふれるばかりに近づけて、
「無益《むえき》な騒ぎを起すまいぞ」
と、言った。
七人の女は、この阿国歌舞伎の踊り子たちであった。
「売られた喧嘩は、買わねばならぬ」
山三は、目蓋をとじて、こたえ乍ら、片手を、女のふところへ入れ、ほっかりとあたたかい、柔らかな隆起にさわった。片脚は、しぜんに、女の膝を割って、焼けそうなほど熱《あつ》い内股に、はさませていた。
しばらく、声はとだえて、手と足の隠微《いんび》な蠢《うごめ》きがつづけられていたが、急に、山三は、まなこをひらいて、女を凝視した。
「姉者。わしは、まことの太閤秀吉の子か?」
と、問うた。
下腹の蔭へ、男の指を容《い》れて、密《ひそか》な官能の疼《うず》きに恍惚《うっとり》となっていた女は、唐突《とうとつ》な質問に、咄嗟《とっさ》に返辞をしかねた。
「教えてくれ。姉者もわしも、むすめたちも、出雲《いずも》の山中で、ひそかに、技を修業したが、これは、これまでの猿楽とちがった新しい歌舞伎をつくるためだけであったとは、思われぬ。姉者に、なにか、期するところがあったに相違ない。……もしかすれば、姉者には、豊臣家に復讐する企《くわだ》てでもあるのではないか? そうだろう?」
「山三。この出雲の阿国の名は、いまは、天下にかくれもない。芸の道をすすむ女子《おなご》として、冥利《みょうり》につきているぞえ。それに……、天下に二人とない美しい男子《おのこ》のそなたを、ほかの女にとられずに、良人《つま》にすることもできた。この幸せを、失いとうはない。いまさらに、なにを好んで、わが身を、危険にさらすことがあろうぞ」
出雲の阿国は、決して、惑星のように出現して、一躍名声をあげたのではなかった。
足利の末頃から、京の都には、越前・近江・美濃、あるいは西国から、女|曲舞《くせまい》、女猿楽が、名を勧進《かんじん》に借りて、興行するものが多かったのである。出雲から出て来た阿国も、その一人であった。
阿国は、他の曲舞猿楽たちが、むかしの女|傀儡子《くぐつ》や白拍子《しらびょうし》の芸をそのまま踏襲《とうしゅう》しているのを看《み》て、もっとちがった新しいものを、と考えたのである。戦乱にあけくれた百年を経て、ようやく、民衆が、享楽的な意識にめざめていることを、さとったのである。
もう、人々は、中世初期の先祖のように、おそろしい厳粛《げんしゅく》な地獄思想などに、さいなまれてはいなかった。はるかに西方浄土を希求するよりも、いま目の前に、幸福を呼び、これを掴《つか》もうとしていた。
「夢の浮世じゃ。ただ、狂え」
戦火に追いまわされた挙句《あげく》に、得たのは、この現世享楽主義であった。
だから、諸行無常、盛者《しょうじゃ》必衰の理《ことわり》を説く「平家琵琶」など、すこしもよろこばれなくなった。抹香《まっこう》くさい白拍子の今様《いまよう》は、顔をそむけられようとしていた。
出雲の阿国は、肉の香の高い恋を讃美する小歌に乗って舞うてみせた。それが、にわかに、評判になり、歓迎されるようになったのである。
阿国は、一夜、不倫《ふりん》の恋の歓喜にむせぶ上臈《じょうろう》の姿態を、演じようと思いつくや、血をわけた弟山三郎の牀《とこ》に、忍んだのである。
山三は、はじめは、激しく、その挑《いど》みを拒否した。しかし、阿国の熟《う》れきった肉体の誘いに、ついに負けた。
阿国は、その時、すでに二十七歳になって居り、出雲山中において、忍者の修業にもひとしい十余年の技鍛《わざきた》えの肉体は、弟の愛撫を得て、一時に、その豊艶な香をはなって、花ひらき、観衆をのこらず、陶然たらしめたのである。
……阿国歌舞伎の名が、日本全土にひろまってから、すでに十年が経っている。
山三が、ふと、姉の心中には、別の謀計がひそめられているのではないか、と疑うようになったのは、つい半年ばかり前からであった。
ある日、顔面にいくすじか刀創の痕《あと》をのこしている老人が、阿国をおとずれて、ひそひそと交す会話を、山三は、偶然、ぬすみぎいたのである。
古武士の風格を、痩躯《そうく》に滲《にじ》ませた老人は、しきりに、起《た》つべき秋《とき》である、と阿国を説き伏せようとしていた。
そして、ついに、阿国の沈黙に、堪えきれなくなった焦躁の高声で、
「姫! 山三郎様こそ、まことの天下人《てんかびと》たる資格を有《も》った、故太閤の御落胤にござれば、いまさら、何を逡巡《しゅんじゅん》される! 姫が、異風なる男子の装いをもって、京都へ上って、歌舞伎踊りをされたのも、大阪城へ乗り込む機会をつかまんがための、一手段であり申した。その大道芸が、一世に謳《うた》われるようになったいま、いつの間にか、姫は、おのが虚名に溺《おぼ》れて、出雲山中でかためられた誓いを忘れてしまわれた。……爺《じい》めは、このまま、おめおめと、泉下《せんか》へ参ることは、でき申さぬ」
と、かきくどいた。
しかし、阿国は、ついに、老人を満足させる言葉を与えてはやらなかった。
山三は、物蔭から、悄然《しょうぜん》として立去る老人の後姿を見送って、曾《かつ》ては戦場においてその勇名をうたわれた武者に相違あるまい、と思いやったことだった。
いま、山三は、姉を抱き乍ら、急に、おのれの素姓を明白にしたい欲求のたかまった自分を、なかばいぶかりつつも、是が非でも、姉の口を割らずにはおかぬ気持になっていた。
「姉者! 平和をねがう心は、わかる。しかし、姉者が、曾て、一度は、心にきめた志を、わしは、なんとしても、知りとうなった。わしが、故太閤の子であることと、その企てたところは、切っても切れぬつながりがあるに相違ない。教えてくれ。たのむ!」
「……」
「姉者! もし打明けぬなら、わしは、姉者を、今日限り、すてるぞ!」
これをきくや、阿国のからだは、びくっと痙攣《けいれん》した。
しばらく、沈黙を置いてから、阿国は、ため息をもらした。
「……いずれ、そなたから、責められる日が来るであろうと、覚悟はしていました」
一方――。
佐助の報告をきいた真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》は、織田有楽斎《おだうらくさい》を、その館に訪うた。
「ご老人は、久しきにわたって、茶道日誌をつけて居られる、とききましたが……」
まず、何気ない口ぶりで、そう訊ねた。
「つれづれのままにな。……もう、幾冊になり申したか――」
「その日誌をひもとかれるならば、十年前、二十年前の、その日の出来事が、昨日のことのように、甦《よみがえ》って参られると存ずる」
「なかなか――。いまわしい思い出が多うござるゆえ、読みかえす機会は、ついぞござらぬな」
「ところが、本日は、そのいまわしい思い出をよみがえらせて頂きたく、参上いたしました」
「なんの理由で――?」
「秀頼公の兄と称する男が、出現つかまつりました。猿楽役者にて、名は名古屋山三郎、年の頃は三十前後。それがし、手の者をもって、調べさせましたところ、堺の人物にて、下掛《しもがかり》の金春座《こんぱるざ》より出たる喜多七大夫に育てられ、十歳頃、神かくしに遭《お》うて、行方知れずになっていたのが、十年ばかり前に、突然、出雲の阿国が率いる女歌舞伎の一座に現れたと申す」
「……」
「妄想《もうぞう》を起して、御落胤を詐称《さしょう》しているのではない、とふみましたので、もしや、お心あたりがあろうか、とおうかがいする次第でござる。故太閤の女色|漁《あさ》りの御乱行の一端を、おきかせ下さるまいか?」
「……」
有楽斎は、しばらく、黙然《もくねん》として、膝に扇子を立てていたが、幸村へ視線を向けると、
「名古屋山三郎なる者、もしまことの御落胤ならば、いかような処置をとられるぞ?」
と、訊ねた。
「豊家に対して害意を抱かぬことが、あきらかなれば、すて置きましょう。もし、企てるところがあれば、未然にふせがねばなりますまい」
秀頼が、秀吉の実子ではないことを知っている幸村は、落胤の存在をすててはおけなかったのである。(柴錬立川文庫(一)猿飛佐助「淀君」参照)
有楽斎は、頷《うなず》いて、奥へ入って行った。
幸村は、庭の樹に来て、しきりにさえずる小鳥のこえをきき乍ら、英傑と称せられた先達《せんだつ》たちの所業を、思い泛《うか》べていた。
武田信玄をはじめ、信長も秀吉も、ひとたび憎んだ敵に対しては、全く容赦のない惨刑《ざんけい》をくれている。
それは、宛然《えんぜん》、地獄の悪鬼にひとしい所業である。
たとえば――。
天正六年十月、織田信長は、股肱《ここう》の驍将《ぎょうしょう》荒木|摂津守村重《せっつのかみむらしげ》謀反の報に接するや、
「一族郎党を一人のこらず、生捕って、殺してしまえ!」
と、命令している。織田軍は、兵庫に討入るや、僧俗男女のきらいなく、投げ斬りに、斬り殺し、堂塔伽藍《どうとうがらん》、仏像経巻をのこらず破壊し、一宇《いちう》一時に雲上の煙と化さしめた。その残忍の手段は、須磨、一谷まで隈《くま》なく行われた。ただ怯《おび》えて、甲山《かぶとやま》へ小屋上りしようとしただけで、数百人の百姓は斬りすてられたのである。
荒木村重は、籠守していた伊丹《いたみ》城が、足軽大将の裏切りで、裸城になるや、従者五六人をつれて、忍び出て、尼崎《あまがさき》に落ちて行った。主人を喪《うしな》った伊丹城の将士は、やむなく、妻子を人質として城内へとどめておいて、尼崎へおもむき、村重に意見し、妻子を救う方法を乞うことにした。
しかし、村重は、家臣らを、しりぞけて、尼崎城に入れなかった。家臣らは、このまま伊丹城に還《かえ》るのも面目《めんぼく》なく、いずれも、逃亡してしまった。
信長は、村重一党の卑劣に対して、そのむくいの程を、天下にしめして、懲《こら》しめてやると、伊丹城にのこされた婦女子と子供を一人のこらず惨刑に処すように、命令した。
まず、村重夫人、側妾、そして歴々の将の妻たち、子供ら百二十二人が、尼崎附近の七松で、磔《はりつけ》にされ、槍で突かれ、鉄砲で撃たれ、薙刀《なぎなた》で首を刎《は》ねられた。
そのほか、召使いの女三百八十八人、歴々の女房につかえていた若党百二十四人――合計五百十余人は、四つの藁葺《わらぶ》き家にとじこめられ、四方に乾草を積みあげて、焼き殺された。
さらに――。
美貌の女房十六人、可愛い子供七人は、車一輛に二人宛乗せられ、洛中をひきまわされた挙句《あげく》、六条河原で斬首《ざんしゅ》された。
[#ここから2字下げ]
「女房たち、いづれも肌には、経帷《きょうかたびら》、上には色よき小袖、うつくしく、出立《いでた》ちぬ。歴々の女房衆にてましませば、のがれぬ道をさとり、すこしも、とり乱さず神妙なり。|たし《ヽヽ》と申すは、きこえある美人なり。古《いにし》へは、かりにも人にまみゆることなきを、時世にしたがふならひとて、さもあらけなき雑色《ぞうしき》共の手に渡り、小肘つかんで、車に引乗《ひきの》せらる。|たし《ヽヽ》は、車より降りざまに、帯しめなほし、髪たかだかと結直し、小袖の襟おしひろげ、尋常に切られ候。これを見るより、いづれも、最期よかりけり。……荒木久左衛門の息子十四歳、伊丹安太夫の伜八歳、おとなしく、最期どころはここかと申し候て、敷皮に直り、頸《えり》ぬき上げて切らるるを、貴賤《きせん》ほめずと云ふ者なし」
[#ここで字下げ終わり]
いかに、城主が謀反を企て、卑劣の振舞いにおよんだからといって、その一門の女子供に、このような惨刑をくわえることはあるまいと、取沙汰されたことであった。
これは、しかし、信長が、殊更《ことさら》に、残忍酷薄な性情の持主であった、という次第ではない。
戦国武将は、いずれも、多かれ少かれ、こうした無慚《むざん》な所業をやってのけている。
|※[#田へん+犬]畝《けんぽ》の間から身を起して、二百四十余年来の戦雲を掃蕩《そうとう》し、海内《かいだい》をわが手に納めた太閤秀吉もまた、敵の一門をみな殺しにする残忍をいくたびか犯している。
そして、さらに、秀吉が、信長とちがっていたところは、降伏し、滅した敵の母・妻・娘を、平然として、伽《とぎ》させていることであった。
その極端な一例として。
天正十五年、九州を伐《う》った際のことである。秀吉は、筑紫を経て、筑後に入り乍ら、近国の諸城主を引見した。
その中に、肥前国主・竜造寺政家《りゅうぞうじまさいえ》がいた。政家は、肥前一国と筑後半国の所有者で、元来、薩摩の島津氏とは、仇敵の間柄であった。
その父隆信は、島津家久との決戦に敗れて、自刃していた。そして、いまでは、島津氏臣下の位置に据えられていた。
秀吉が、島津氏を伐つべく、下って来るや、奇貨|居《お》くべしと、竜造寺政家は、薩摩にそむいて、味方についた。
しかし、秀吉は、政家が、九州大名中随一の、処世の術に長《た》けた人物であることを知っていたので、その二心なきを、最も残忍な方法で、たしかめることにした。
秀吉は、政家に訊ねた。
「お許《こと》の母者人《ははじゃびと》は、何歳になる?」
「六十三歳でござる」
「妻は?」
「三十四歳に相成ります」
「娘は?」
「十六歳に相成ります」
「お許は、この秀吉に、それら三人の女性《にょしょう》を呉れる覚悟があろうかな?」
「もとよりのこと――」
「いや。わしの申すのは、母も妻も娘も、伽《とぎ》にさし出す勇気があるか、ということじゃ」
流石《さすが》に、政家は、顔色を変えて、目を伏せ、しばらく、沈黙を置いたが、
「おのぞみならば――」
と、こたえた。
秀吉は、筑後に数日滞在したが、所望通りに、竜造寺家の三人の女性を、つぎつぎと抱いた。
政家の母と妻は、そのあとで、自害して果てている。
秀吉にとって、これぐらいの所業は、日常のことで、べつに珍しくはなかった。
秀吉が、天下人《てんかびと》の地位に即《つ》くまでに、無数の武将が、降伏し滅亡している。その家の女たちは、必ず一人か二人、生贄《いけにえ》として、秀吉の獣欲に提供されているのである。
六十三歳になる竜造寺政家の母は、白昼、陽の当る座敷で、犬のように匐《は》わされて、裳裾《もすそ》を捲りあげられて、臀部を曝《さら》し、
「ほう、|ばば《ヽヽ》にしては、ふくよかな餅肌よ」
と、秀吉に、撫《な》でられた、という。
政家の妻は、その夜、褥《しとね》で、一糸まとわぬ全裸を横たえさせられたし、十六歳になるむすめは、翌朝、湯殿にいる秀吉から呼ばれて、その処女を破られている。
尋常の感情をもってしては、なし得ぬ振舞いである。
秀吉に、幾人かの落胤がいたとしても、一向にふしぎはないのである。
再び、幸村の前に坐った織田有楽斎は、
「これは、お身だけの耳に容《い》れて、他の者にきかせては頂くまい」
まず、そうことわった。
幸村は、承知した。
「それがしが生涯において、絶世の美女と、みとめられる女性《にょしょう》は、二人居り申した。一人は、淀殿。もう一人は、関ケ原の合戦のみぎり、石田治部少輔によって、首を刎《は》ねられた細川|がらしや《ヽヽヽヽ》殿でおじゃった」
有楽斎は、言ってから、目蓋を閉じた。
「……淀殿の美しさは、お手前も、おみとめであろうが、|がらしや《ヽヽヽヽ》殿の美しさは、淀殿の美しさに、さらに臈《ろうた》けたものをくわえて居ったな。……故太閤が、お目をとめられぬ筈もない」
「……」
「|がらしや《ヽヽヽヽ》殿は、明智光秀の第二女じゃ。日向守が、本能寺を襲うて、主君を討ちとった時、当然、聟たる細川忠興は、離縁すべきであった。すてきれずに、幽閉するにとどめた未練の深さも、あまりに|がらしや《ヽヽヽヽ》殿が、美しすぎたからであったと申せる」
細川忠興が、妻を離縁しなかったのは、文字通り決死であったに相違ない。
同じ光秀の娘(|がらしや《ヽヽヽヽ》の姉)を娶《めと》っていた織田信澄は、信長の子であるにも拘《かかわ》らず、離縁しなかったばかりに、殺されているのである。
忠興は、それほど、妻の美貌を、愛していたのである。
「あれは……左様、故太閤が、島津征伐を下知された天正十四年の暮でござったな。細川忠興は、先鋒隊として、出発いたした。故太閤が、大阪城を出発なされたのは、翌十五年の三月|朔日《ついたち》でござった。その三箇月のあいだに、故太閤は、|がらしや《ヽヽヽヽ》殿を、茶会にことよせて、城内へ呼び寄せて居られる。それがしが、知るところでは、|がらしや《ヽヽヽヽ》殿は、七八|度《た》びの茶会に出席して、すくなくとも、三夜は、そのまま、城内に泊められて居る。……|がらしや《ヽヽヽヽ》殿が、伴天連《ばてれん》の教えに帰依《きえ》されたのは、それから程なくでござったよ」
某日、夫人は、守護の士たちの目をぬすんで、そっと邸をぬけ出すと、伴天連の教会へ行き、礼拝堂に入った。侍女一人もつれていなかった、という。
教父セスペデスは、いつの間にか入り込んで来て、聖壇上の救主の像を、じっと仰いでいる一人の婦人を見出して、これは必ず大名の奥方であろう、と想像した。
夫人に声をかけると、振り向いた美しい貌《かお》は、泪《なみだ》で濡れていた、という。
「説教を伺《うかが》おうと思って参上いたしました」
というねがいに、日本語の不自由なセスペデスは、日本の教兄ヴィンセントを呼んで、教義を説かしめた。
夫人は、その日のうちに、洗礼を受けて、立去った。
夫人は、良人が遠征中に、良人の主君に犯された罪のおそろしさを、異国の信仰にすがって、救われようとしたのである。
九州より帰って来た細川忠興は、妻が改宗し、吉利支丹《きりしたん》信徒になったことを知って、激怒し、爾来、夫婦の仲は、氷のように冷たくなった、とつたえられている。
事実は、そうではなかった。忠興は、妻が、秀吉に、しばしば、犯されたのを知って、狂うほど逆上したのである。
次の逸話は、最大の不運に遭うた夫婦の、悲惨な日常を、語っている。
ある日、夫婦は、食事を共にしていた。その時、屋根で、瓦をふいていた屋根屋が、あやまって、足をふみすべらせて、庭へ落ちた。
「無礼者っ!」
忠興は、血相変えるや、床の間から、差料《さしりょう》をつかみとりざま、庭へとび降りて、一颯《いっさつ》のもとに、屋根屋の首を刎ねた。
そして、その血首をひっさげて、上って来ると、夫人の食膳に、どさっと置いた。
しかし、夫人は、眉宇もひそめず、ただ、箸を置いただけであった。
「そちは、蛇の化身《けしん》のような女子《おなご》じゃな!」
忠興が、叫ぶと、夫人は、目を伏せたまま、
「父も、主君も、良人も、みな鬼なれば、わたくしも蛇の女房にならないわけには参りませぬ」
と、こたえた、という。
有楽斎は、言葉をつづけた。
「|がらしや《ヽヽヽヽ》殿は、忠興殿が九州から戻って来るすこし前に、一月ばかり、行方をくらまされて居った。……それがしが、そのかくれ場所を、偶然知ったのは、堺の千利休の屋敷に遊んだ時でござったよ。たまたま、|がらしや《ヽヽヽヽ》殿の噂が出ると、利休は、笑い乍ら、申した。もしかりに、あの絶世の美女が、猿面冠者の子を生んだとしたら、どのような貌であろうか、ご想像がおできでありましょうか、と。途方もない僭上《せんじょう》の暴言を吐くものぞ、といささか立腹いたしたところ、利休は、奥方が、この堺に住む猿楽役者喜多七大夫の屋敷の離れで、男の子を生みおとされた、と告げたものでござる」
有楽斎は、そこまで語ってから、あらためて、細川|がらしや《ヽヽヽヽ》夫人の美しい貌を思い泛《うか》べる遠い面持になると、
「もし、その名古屋山三郎なる者が、稀《まれ》にみる美貌であるならば、それは、まさしく――」
と、大きく首を上下に振ってみせた。
天満の天神社わきの阿国歌舞伎の小屋が、連日、割れんばかりの盛況を呈しているのは、出雲の阿国が、またまた、新しい趣向をこらした歌舞伎を演じているからであった。
すなわち。
阿国が、引立烏帽子をいただき、練貫柳狩衣《ねりぬきやなぎかりぎぬ》に、竜紋平鞘《りゅうもんひらざや》の太刀を佩《お》びた男装になり、その逆に、名古屋山三が、被衣《かつぎ》をかぶって女装して、春らんまんの野で、恋に身もだえ、もの狂うてみせたのである。
このふしぎな趣向は、見物の男女をともに、妖《あや》しい官能の匂いをたちこめた世界へ誘い込んで、陶然と酔わしめた。
忍びで、これを眺めた真田幸村自身も、一瞬は、われを忘れたくらいであった。
今日も――。
名古屋山三は、銅鏡の前に坐って、女人の貌に化けるべく、粧《よそお》いにかかった。
この一座が用いている白粉は、堺の銭屋宗安が、明国《みんこく》の白粉を模倣《もほう》して作った銭屋白粉であった。水銀でつくった白粉である。
水銀に食塩と朱色土を和し、苦塩《にがり》で練りかためて、鉄壺の中に入れて、炭火の最高熱であぶって、昇華した蒸気から採った結晶である。
これを、富士山の中腹につもった根雪を壺の中で溶かした水で解くと、よくのびて、美しい光沢を出す。
舞台化粧として、高価なものであった。
山三は、それを、たっぷりと両手で練って、その気品のある貌いちめんに、刷毛《はけ》で、厚く塗った。
それから、頬と唇と爪に、紅を施《ほどこ》すために、小さな漆塗板にのばした|つや《ヽヽ》紅を、小指のさきに、すくいとった。
その時であった。白粉の下の皮膚が、急に、びりびりと痙攣《けいれん》するや、無数の針で刺されるような疼《うず》きを発した。
――はて?
山三は、両手で、頬を押えた。
瞬間――その頬が、土竜《もぐら》にもちあげられる土のように、ふくれあがって来た。
「あっ! あ、あ、あっ――ああっ!」
凄じい絶叫をききつけて、阿国や踊り子たちが、駆け込んで来た。
山三は、両手で貌を掩《おお》うて、俯伏していた。
「どうしたのじゃ?」
阿国が、あわてて、抱き起した。
十指のあいだから、白粉と血の混《まざ》った液体が、じくじくと流れ出ていた。
その両手が、はなされた刹那《せつな》、女たちの口から、名状し難い恐怖の悲鳴が、ほとばしった。
額も眉も目も鼻も、頬も唇も、泥濘《ぬかるみ》のように、どろどろに、つぶれ、溶《と》けていたのである。
猿飛佐助は、その無慚《むざん》な光景を、物蔭から見とどけておいて、遁走《とんそう》した。白粉の中へ、毒薬を混じておいたのは、佐助のしわざであった。
まっしぐらに、大阪城まで、駆け戻って来た佐助は、すぐに幸村の許へ行かずに、人目のない空地で、しばらく、虚脱の|てい《ヽヽ》で、べったりと坐り込んでいた。
やがて、のろのろと立ち上った佐助は、よわよわしく、かぶりを振って、呟いたことだった。
「お主《しゅう》様も、豊家のためとはいえ、むごたらしいことをなさる。こういう役目は、わしは、もう二度と、ごめんだわい」
曾呂利新左衛門
「佐助、何をいたして居る?」
大阪城三ノ丸・真田丸の仮館《かりやかた》から、ぶらりと出た真田左衛門佐幸村は、いくつかの塹壕《ざんごう》を渡った時、ひくい丘陵《きゅうりょう》の斜面で、せっせと、鍬《くわ》をふるっている小さな姿を、見つけた。
そこは、四月前、前田筑前守利常《まえだちくぜんのかみとしつね》の軍勢をひきつけておいて、一挙に撃破した篠山《しのやま》と称する戦跡であった。
佐助は、顔を擡《もた》げて、春の薄陽《うすび》に、目を細め乍《なが》ら、
「観賞樹木の苗木を植え申す」
と、こたえた。
篠山と称《よ》ばれていたくらいで、丘陵に、いくさ前までは、いちめんに小篠《こしの》が密生していたが、土塁工事で掘りかえされ、また無数の砲弾をあびて、あか肌を剥《む》かれていた。
「なんのために、観賞樹木などを育てる?」
幸村は、怪訝《けげん》に眉宇《びう》をひそめた。
佐助は、しきりに、目蓋《まぶた》をパチパチとまたたかせ乍ら、こたえた。
「さる日、むこうの木野村を通りかかり申したところ、百姓たちが、さむらいという奴は、山も野も、滅茶滅茶にしておいて、あとしまつをせぬ、木を育て、野をたがやすことがどのような苦労か、一向に知らぬ、とののしって居ったのでござる。それで……、せめて、観賞樹木の苗木など、植えておこうと思い立ち申した」
佐助は、これが月桂樹《げっけいじゅ》、これが篠懸《すずかけ》、これが宇豆木《うつぎ》、これが楓《かえで》、と説明した。大和国|葛城《かつらぎ》の金剛山の山中で、十五年間育った佐助の、樹木に関する知識は、豊富であった。
いずれ、今年のうちにも、関東方と決戦の火ぶたがきられることは、目に見えている。この丘陵も、ふたたび、修羅場となるに相違ない。
それと知りつつ、百年後の人々の目をたのしませる樹木を植えておこうとする佐助の振舞いに、幸村は、感動をおぼえた。
佐助の植えた苗木のうち、たとえ一本か二本でも、戦火や兵の土足からまぬがれて、亭々《ていてい》たる喬木《きょうぼく》になるならば、それは、まことに、めでたいことと言わねばなるまい。
幸村は、ひとり深く頷《うなず》いておいて、踵《きびす》を返そうとした。
その時、佐助が振り下した鍬が、何かに当って、鋭い金属音をたてた。
頭をまわした幸村に、佐助は、
「殿、大きな櫃《ひつ》が、埋めてござる」
と、告げた。
幸村は、斜面を降りて行った。
佐助は、たちまちに、土を掘りかえして、長さ一間もある櫃の上側を露呈《ろてい》させた。
「蓋を開けてみるがよい」
「かしこまった」
佐助は、鍬で一撃して、錠前をこわすと、蓋を、ぱああんと、はねあけた。
「……?」
内部を覗《のぞ》いて、幸村は、小首をかしげた。
白鞘《しらざや》の刀が、夥《おびただ》しく、詰めてあったのである。
佐助は、黙って、その一|振《ふり》を把《と》って、幸村に、渡した。
抜きはなってみて、幸村は、
――これは!
と、思った。
意外にも、業物《わざもの》であった。幅は広く、切っ尖《さき》鋭い、豪壮《ごうそう》な剣形は、相州伝の特徴である。沸《にえ》のゆたかな、大乱《おおみだ》れの焼刃は、いかにも、見事な斬《き》れ味を示《しめ》しそうであった。
「次を――」
幸村は、命じて、抜きはらった。
これもまた、同じ相州伝の造りで、豪壮華麗《ごうそうかれい》であった。
幸村は、佐助に、次つぎと把《と》らせて、調べてみた。いずれも、のこらず、同じ特徴を有《も》ち、目を魅《み》するに足りた。
「佐助、銘《めい》を調べい」
命じられて、佐助は、片はしから、柄《つか》をはずしてみた。おどろくべきことに、のこらず、「正宗」という銘が彫ってあった。
櫃の中には、「正宗」が、四十九振あったのである。
幸村は、何を考えたか、その一振だけを手にのこして、佐助に、蓋をして、元通りに土中に埋めさせた。
「佐助――」
「はい」
「曾呂利新左衛門という老爺《ろうや》が、まだ、何処《どこ》かに、隠《かく》れ住んで居ろう。すみかをつきとめて参れ」
「かしこまりました」
幸村の姿が遠ざかると、佐助は、櫃の上の土へ、目じるしに、栴檀《せんだん》の苗木を一本植えつけておいて、すたすたと、市中へむかって、歩いて行った。
太閤秀吉の御伽《おとぎ》衆の筆頭・曾呂利新左衛門が、悠然《ゆうぜん》として姿を消したのは、慶長三年八月十八日――すなわち、秀吉が六十三歳を一|期《ご》として逝《い》った夜であった。
|※[#田へん+犬]畝《けんぽ》の間から起って、天下をわがものにした秀吉は、和歌、連歌《れんが》、狂歌、能、茶の湯など、当時|流行《はやり》の芸能を身につけることを大層好んだ。したがって、城中ぐらしの折は勿論のこと、陣中にあっても、側近に、学者や歌人や猿楽師《さるごうし》や茶匠などを、はべらせていた。これらの人々は、御伽《おとぎ》衆とか御咄《おはなし》衆とか、称《よ》ばれていた。
曾呂利新左衛門が、御伽衆に加ったのは、秀吉の御茶頭《おさどう》・千利休の推挽《すいばん》によるものであった。
秀吉が、二十四国の軍勢を率《ひき》いて、九州を伐《う》った時であった。
秀吉の供をした茶博士千利休は、筑後に入って、高良《こうら》山に到着した時、曾呂利新左衛門という茶人が山麓に住んでいるときいて、すぐに、使いを出して、訪問する日時を告げさせた。
利休は、若い日、茶を武野紹鴎《たけのじょうおう》に学んだが、同門に、新左衛門という人物が居り、その飄々《ひょうひょう》たる風格に、とうてい自分のような俗人の及びがたいものをおぼえ、その印象は、数十年を経ても、なお、利休の心に鮮《あざ》やかであったのである。
利休と新左衛門の交際は、三年あまりであったが、ついに、利休は、新左衛門の正体を掴むことは叶わなかった。いかなる素姓か、何を目的に生きているのか、どれだけの器量の持主か――なにひとつ、利休には、判《わか》らずじまいであった。
ともあれ、利休は、すでに、天下一の茶博士であった。
茶の湯は、もはや、貴人の遊興ではなく、大名富豪はもとより下級武士たちの間にも、生活の一部となっていた。したがって、千利休の威福《いふく》は、秀吉の権勢に次《つ》いでいたと言っても、過言ではなかった。
その大宗匠が、自ら進んで、訪問を申入れたということは、たちまち噂をよぶに足る出来事であった。
曾呂利新左衛門のすまいは、街道に面して、人馬の軽塵《けいじん》で、門も垣根も、白くよごれている、まことに粗末《そまつ》なたたずまいであった。門を入ってみると、庭は雑草がはびこるにまかせ、内露地へ通じる小径には、古草履の片方がすててあったりした。
供の者たちを門前に待たせておいて、その小径を辿《たど》る利休の目は、しかし、その荒れるにまかせたかに見えるたたずまいが、ただの山裾の田舎家のそれではないことを、さとっていた。
露地や茶庭の理想は、侘《わ》びを主眼とし、人為による自然の野趣《やしゅ》を、数歩の間に味わわせるにある。
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦《うら》の苫屋《とまや》の秋の夕ぐれ
とか、
夕月夜 海少しある木の間かな
とか、歌や句が示《しめ》す景趣《けいしゅ》の簡素な風情《ふぜい》を尊び、正規を破って不整斉《ふせいせい》なるものに雅《みや》びと美を求め、木の間隠れ、葉隠《はがく》れのおくゆかしさを眺めようとするのが、茶禅三昧《さぜんざんまい》の人のすみかである。
しかし、その主意が、あまりにつよく俗塵《ぞくじん》を排《はい》すると、かえって、人間ばなれのした世界をつくってしまう。深山|幽谷《ゆうこく》の鬼気を生んでしまうおそれもある。
どんな俗人をも、容《い》れて、その心を洗うのが、まことの侘びというものである。
その露地は、まさに、茶道の意《こころ》を具現《ぐげん》していた。
――この家のあるじは、自分の知っている新左衛門と同一人物に相違ない。
利休は、確信しつつ、内露地のくぐり戸を入ろうとした。
とたんに、足下の地面が、音をたてて、陥没《かんぼつ》し、利休は、身丈よりも深い穴底へ、転落した。
簀《す》の子を敷いた上へ、土をかぶせ、千鳥《ちどり》がけの飛石を据《す》え、苔《こけ》をうえた落し穴を設《もう》けてあったのである。
穴底には、座布団が敷いてあり、練香《ねりこう》が焚《た》かれていた。利休は、その座布団に坐って、しばらく、救い上げられるのを、待たなければならなかった。
やがて、梯子《はしご》がおろされた。上って行くと、色白な美しい娘が、つつましやかに、挨拶して、湯殿に案内した。新しい衣服も用意してあった。
茶室に入ると、手枕で寝そべっていたあるじが、やおら起き上って、
「よう見えた」
と、にこりとした。
ともに、古稀《こき》を迎えて、互いの面貌《めんぼう》に、若い日の面影を見出すことは、不可能であった。利休は、しかし、対坐した瞬間に、大宗匠たるおのれが、僻陬《へきすう》にうもれた名もない男に、依然として、及びがたい距離をつけられているのを、おぼえさせられたことであった。
あるいは、第三者の目には、
「格別のおもてなしにあずかり、かたじけのう存ずる」
と、挨拶する利休の方が、はるかに立派に映《うつ》ったかも知れない。
利休は、あらかじめ、秀吉直属の忍者をつかって、新左衛門のくらしぶりを調べさせておいたのである。くぐり戸前に、落し穴が設けられてあることも、知っていた。
知っていて、わざと落ちたのは、せっかくの趣向を無にすることはあるまい、と考えたからである。
新左衛門は、点前《てまえ》の座に就《つ》き乍ら、
「宗易《そうえき》殿は、むかしと聊《いささ》かも、変って居られぬの」
と、言った。
「そうであろうか」
「お許《こと》は、人の心をとらえるのが、巧《たく》みであった。そのおかげで、関白の寵遇《ちょうぐう》を受け、天下にその名を知らぬ者もない茶博士におなりじゃ」
「皮肉はご免を蒙《こうむ》りたい。わしは、べつだん、好んで、社鼠城狐《しゃそじょうこ》のたぐいになったつもりはない」
「もとより、お許は、まことの君子人じゃ。落し穴がもてなしのひとつと受けとって、わざわざ、落ちてくれる御仁じゃ。……宗易殿、わしなら、落ちぬよ」
「左様か――」
「あしざまに申そうか」
「……?」
「お許の振舞いは、立派であった。他の者なら、落し穴があると知っていて、わざと落ちてくれたのを、感動いたそうよ。この新左衛門は、あいにく、ひねくれ者で、すこしも、お許の振舞いを、ありがたいとは思わぬ。お許は、まず、対手《あいて》が何者か、洞察《どうさつ》して、それから、落ちるべきであった」
「成程。これは、不覚でござったな」
利休は、微笑して、頷《うなず》いた。
新左衛門は、利休の前へ、茶碗をすすめておいて、
「お許が、関白という人物の気象を、知って居られるか、どうかじゃな」
と、言った。
そう言われて、利休は、はじめて、愕然《がくぜん》となった。利休は、秀吉を、おのれを寵遇《ちょうぐう》してくれる関白としか、考えていなかったのである。一個の人間としては、観《み》ていなかった。
五年後、利休は、秀吉から、明白な罪状も挙《あ》げられずに、切腹を命じられていた。
京都|聚楽第《じゅらくだい》の不審庵《ふしんあん》を逐《お》われて、故郷堺の町に蟄居《ちっきょ》すべく、ただ一人の見送り人もなく、一人さびしく淀川を舟で下る時、利休は、新左衛門の言葉を、胸中にかみしめたことであった。
天正十五年十月、九州遠征を終えて、京に帰って来た秀吉は、その祝賀の園遊の意味で、北野天満宮の境内で、古今未曾有《ここんみぞう》の大茶湯を催した。
[#ここから2字下げ]
来る十月|朔日《ついたち》、北野松原に於て、茶湯を興行せしむ可く候、貴賤《きせん》に寄らず、貧富に拘《かかわ》らず、望みの面々は来会して、一興を催すべし。美麗を禁じ倹約を好み営み申す可く候、秀吉数十年求め置きし諸道具かざり立ておくべきの条、望み次第見物すべき者也。
[#ここで字下げ終わり]
右のような制札《せいさつ》が、洛中洛外はもとより、大阪にも奈良にも立てられたのみならず、早飛脚《はやびきゃく》によって、遠方の城下町まではこばれた。
北野の森には、経堂から松原にかけて、千二三百軒の数寄屋、茶屋が建てられた。
茶の湯に執心《しゅうしん》の者は、若党、町人、百姓以下の者でもかまわぬ、釜ひとつ、釣瓶《つるべ》(箱釣瓶形の水指)ひとつ、湯呑茶碗ひとつ持参するだけでもよい、茶(抹茶《まっちゃ》)がない者は麦こがしでも苦しゅうないゆえ、来会せよ。座敷は、北野の松原であるから、畳二畳敷の稲掃筵《いなばきむしろ》を敷いてつくればよい。坐る序列も自由にしよう。
このような触れ書きが出たので、人々は非常に悦んだ。
当日、この大茶湯に集った茶人は、およそ六千八百人であった、という。
まだ朝靄《あさもや》のあるうちに、北野に到着した秀吉は、第一番屋敷に入って、そこに飾られた、自分の蒐集《しゅうしゅう》になる天下の名器を眺めて、満足してから、うしろに控えている千利休や津田|宗及《そうぎゅう》、今井宗久らをふりかえって、
「そちらは、本日の来会者のうちから、これぞまことの数寄者《すきもの》とみとめられる者がいたら、昼食の後に、報《し》らせい」
と、命じた。
やがて、その時刻が来ると、利休が、罷《まか》り出て、
「お気に召すかどうか存じませぬが、宗易の目に狂いがなければ、本日第一等の数寄者が居りますれば、ご案内つかまつります」
と、報らせた。
秀吉は、気軽に立って、利休に案内させた。
馬場先の野に、竹の柱に真柴垣《ましばがき》を外にかこった粗末な数寄屋が建てられてあった。
利休の声で、かこいからあらわれたのは、新左衛門であった。荒布の帷子《かたびら》を渋で染めたのを身につけた姿は、他の茶人とは、全く異る雰囲気を漂《ただよ》わせていた。
「曾呂利、と申す男にございます」
利休の言上に頷《うなず》き乍ら、その小さな、しなびた風貌を、正視した秀吉は、
「極道《ごくどう》の限りをつくした挙句《あげく》に、そのように枯れた、とみたが、どうじゃ?」
と、問うた。
「御明察《ごめいさつ》おそれ入りたてまつる」
新左衛門は、秀吉をみちびいて、数寄屋の客座に据えた。
自在に掛けた蘆屋《あしや》釜、新焼(楽焼)の水指と茶碗――たったそれだけが、用意してあった。
そして、点《た》てられたのは、雲脚《うんきゃく》(粗末な抹茶)であった。
ところが、その雲脚が、それまで喫《きっ》したいかなる高価な茶よりも、秀吉には、うまかった。百座のもてなしで腹中が重くなっていた秀吉にとって、なによりの馳走であった。
秀吉は、もう一服所望してから、
「うまい。まぎれもなく、本日第一等の茶の湯じゃ。ほうびに、何を呉《く》れようかの。扶持米《ふちまい》はどうじゃ」
「養う妻子もなく、ただ、侘び者の気ままぐらしなれば、欲念とて、さらにござりませぬ」
新左衛門は、辞退した。
「要《い》らぬと申すと、ますます、呉れてやりたくなる。欲しゅうはないが、呉れるものなら、もらってもよい、と思いつくものを、申してみよ」
新左衛門は、ちょっと、考えていたが、
「それほどまでに、仰せられますならば、東海道より京に入る馬一疋につき一銭ずつ賜りたく存じまする」
「ほう、面白いことを申す。よし、さし許すぞ。関所賃をとりたてい」
秀吉は、かんたんに承知した。
それから、幾日か後、粟田口《あわたぐち》と蹴上《けあげ》のちょうどまん中頃、街道に面した小さな草庵の窓に、ごく目立たない貼紙がかかげられた。
「馬一疋につき、ぜに一銭をたまわりたし」
そう記してあり、茶の湯に使う柄杓《ひしゃく》が、窓から、突き出してあった。
しかし、三日経ち五日過ぎても、柄杓には、一銭も入れられなかった。
秀吉が、ふと思い出さなければ、おそらく、柄杓は空のままに、腐《くさ》り落ちたに相違ない。
秀吉が、利休に、新左衛門の消息を問うたのは、半年も過ぎてからであった。
利休は、新左衛門が、お許し通りに、京の入口に家をかまえて、馬匹の関所を設けているが、いまだ一銭も払う者はいない、と報告した。
「侘び者との約束を違《たが》えたとあっては、この関白秀吉の名折れじゃ」
秀吉は、ただちに、石田三成を呼びつけて、半年前より、京へ、馬を入れた者を調べあげて、一疋につき一銭を徴収《ちょうしゅう》し、さらに、その罰として、馬を取りあげてしまうように、命じた。
翌日、この旨を記した高札が、市中の辻々に立てられるや、大騒動になった。
たちまち、新左衛門の草庵の窓の貼札と柄杓は、ものものしい関所の備えよりも、威厳《いげん》のあるものとなった。
半年間に、京に入った馬とその所有主を調査するのは、大変な仕事であった。大半の者は、申し出なかった。
ある日、新左衛門は、石田三成に呼び出されて、奉行所におもむいた。
三成は、可能な限りの調査をして、徴収した夥しい一銭の山を、新左衛門に示《しめ》した。
新左衛門は、それを眺めて、薄ら笑い乍ら、
「実は、それがしは、貼紙を出した日より、京に入れられる大名衆の馬匹の数を、記しとめて置きましたれば、御調べの数と、おひき合せ下さいますよう――」
と、言って、持参した一冊子をさし出した。
三成は、目を光らせた。それを看《み》れば、どの大名が嘘つきか、また、軍勢統率にどれだけ神経を配っているか、一目瞭然《いちもくりょうぜん》とする筈であった。いわば、各大名の評価ができるのである。
三成は、その日のうちに、その冊子を持参して、秀吉の前に出ると、
「曾呂利新左衛門と申す侘び者は、おそるべき智慧の持主と存じられます」
と、告げた。
その冊子が、大名衆の色を喪《うしな》わしめる威力を発揮したことは、言うまでもなかった。嘘をついたこともさること乍ら、持馬ことごとく召上げられてしまうのは、大傷手《おおいたで》であった。
新左衛門が、秀吉の懇望《こんもう》によって、御伽衆に上ったのは、それから程《ほど》なくであった。
新左衛門が、秀吉に仕えた期間の逸話は、かずかず巷間《こうかん》にのこされている。
某日、秀吉は、新左衛門に、問うた。
「わしの面が、猿に似ていると申すが、そうかな、新左?」
新左衛門は、かぶりを振った。
「いや、途方もございませぬ。猿めの面が、太閤殿下に似ているにすぎませぬ」
「ははは、こいつめが――」
秀吉は、高笑いした。
また、ある時、伏見から大阪へ還《かえ》るために、淀川を下る船上で、新左衛門は、突然、扇子で、岸辺を指さし、
「殿下、御|覧《ろう》じませ。キウリがキウリを食《くろ》うて居りまする」
と、言った。
秀吉は、小姓に遠眼鏡を持って来させて、目にあててみた。
木売《きう》り商人《あきんど》が、胡瓜《きゅうり》をかじっていたのである。
またある時、――。
「新左、その方、千軍万馬の間を往来した大名たちを慄《ふる》え上らせることができるかの?」
「造作もないことでございます」
新左衛門は、あっさりこたえた。
「やってみせい」
「かしこまりました」
その日から、新左衛門は、かねてから秀吉の忌諱《きい》に触れることを恐れている大名が伺候《しこう》すると、するすると罷り出て、秀吉の耳もとで、耳うちして、下って行く振舞いをやりはじめた。
その態度が、いかにも、その大名の行状を、そっと告げるらしくみえた。
おかげで、新左衛門は、大名たちから、次つぎと、賄賂《わいろ》をおくられるようになった。新左衛門は、それらの品を列記して、秀吉に、示した。剛愎勇猛をもって鳴る武将たちが、吹けば飛ぶような老いぼれ御伽衆に、高価な珍品を贈っているのを知らされて、秀吉は、あきれた。
新左衛門が、狂歌の達人であると、千利休からきいた秀吉は、こまらせてやろうと、
奥山に紅葉ふみわけ鳴く螢
と上の句をよんで、下の句をつけるように命じた。
新左衛門は、即座に、
鹿《しか》とも見えずともし灯の影
と、付けた。
また、某日、狂歌の名人として名高い里村紹巴《さとむらしょうは》が伺候《しこう》して来たので、秀吉は、
「天下一の大きな歌をよんでみせい」
と、命じた。
紹巴は、思案する間も置かず、
須弥山《しゅみせん》に腰うちかけて大空を ぐつと呑めども喉《のど》にさはらず
と、よんでみせた。
秀吉は、新左衛門を視《み》て、
「新左、その方には、この歌以上に大きなのが、つくれるか?」
と、からかった。
新左衛門は、平然として、
「なんの、わけなき儀にございます」
と、こたえて、
須弥山に腰かけ空を呑む人を 鼻毛の先で吹きとばしけり
と、よんでみせた、という。
これらの逸話は、しかし、その殆《ほとん》どが、作りものであった。
新左衛門は、とぼけ面をして、主人の顔色をうかがい乍ら、要領よく調子を合せる人物ではなかった。軽口をたたいたり、狂歌をよんだりする御伽衆は、別に多勢いたのである。
新左衛門は、ただ、秀吉の質問にこたえて、秀吉を、はっとわれにかえらせる鋭い返答をしただけであった。
すでに、秀吉の側近には、その怒りをおそれずに、真実を口にする者はいなくなっていたので、新左衛門の立場は、別格のものとなり、秀吉も、歯に衣《きぬ》をきせぬ言葉を、容《い》れたのである。
頽唐期《たいとうき》に入った秀吉は、壮年時代のように、感情を調節したり、抑制したりすることができなくなり、おのが大権に立入られたり、牴触《ていしょく》されたり、その尊厳をいささかでも冒《おか》されそうな気配をおぼえると、何人《なんびと》と雖《いえど》も仮借《かしゃく》なく、制裁《せいさい》を加えた。浅野長政や加藤清正さえも、その憤りに触れて厳罰をくらっていた。実弟秀長も、島津氏と講和条件を約定した際、秀吉の認可を受けなかったかどで、戒飭《かいちょく》せられた。徳川家康すらも、時には、秀吉の草履を直していたのである。
秀吉の面前で、真実の言葉を吐く者が皆無になったのは、当然である。
ただ一人、新左衛門だけが、言いたいことを言った。
曾呂利新左衛門が、秀吉の御伽衆となって、為《な》した仕事のうち、公然の秘密として伝えのこされているのは、「五郎入道正宗」を、天下随一の名刀にしあげたことである。
ある日、秀吉は、新左衛門と二人でいる時、何気なく、
「もう、日本国土に、褒美に呉れるべき寸地もなくなったようじゃ。この上は、朝鮮、明国でも奪って、手柄の者へ、頒《わか》ってやるよりほかはあるまいの」
と、言った。
新左衛門は、ちらりと秀吉を視《み》て、
「あとは、刀を賜うよりほかはありませぬ」
と、こたえた。
「刀も、もう大方の名剣は、諸将の手許に在るわ」
豊太閤となった秀吉が、身辺に聚《あつ》めた名刀は、北条時頼の佩刀《はいとう》であった鬼丸国綱、山中鹿之介の佩刀であった三日月宗近、東山義政の佩刀であった海老名宗近をはじめ、数多かったが、無造作に呉れることも好きであったので、一国一城に代るねうちの品ともなれば、甚《はなは》だ品不足であった。
秀吉の言う通り、名刀として定評のある備前刀の上位鍛冶や、京の上作物の太刀は、それぞれ何某と呼ばれる将領の所持するところとなり、武士は一度手に入れたからには、容易に、手放す筈はなかった。
新左衛門は、俯向《うつむ》いて、独語のように、ひくい声音《こわね》で言った。
「名刀をつくりあげてみたら、いかがかと存じます」
「なんと申したな?」
秀吉は、ききかえした。
「むかし、将軍|鹿苑院《ろくおんいん》殿(足利義満)には、宇都宮三河入道に諮《はか》って、古来の名作中、以て進献礼聘《しんけんれいへい》の資《し》となすに足るべきものを註記《ちゅうき》せしめ、北条の頃の注進物に従って、可然物《しかるべきもの》六十|口《ふり》を選ばれた、とききおよびます」
「新左に教えられんでも、それぐらいのことは、知って居るわ」
「されば、それにならって、名刀をおつくりあそばされるのでございます」
「世に埋もれた名刀などが、あろう筈もないぞ」
「ございます」
「あるか? よしよし、あるならば、さし出してみせい」
新左衛門は、二十日の猶予《ゆうよ》を乞うた。
きっかり二十日後に、秀吉の前にあらわれた新左衛門は、二振りの刀を携《たずさ》えていた。
「何処へ参っていたな?」
「武蔵国《むさしのくに》でございます」
新左衛門は、その一振りを抜いて、秀吉に示した。
愛刀家である秀吉の目は、いい加減なものではなかった。
まず、そのすがたから、刃紋、地鉄《じがね》、錵《にえ》、匂いを、|※[#金へん+祖]元《はばきもと》から切っ先まで、見上げ見下し、掌《てのひら》を返して同じく熟視《じゅくし》に分時《ふんじ》を費《ついや》した秀吉は、
「ふむ!」
と、唸った。
その華美|絢爛《けんらん》の技巧は、備前備中《びぜんびっちゅう》の名工の作るものとは、全く異った新機軸であった。
「これは、何者じゃな?」
「相州の五郎入道正宗でございます」
「正宗? きいたことがあるぞ」
「殿下が御所持の鬼丸国綱にも比すべき名工でございます」
「大層なほめかたをいたすの」
秀吉所持の名刀のうちでも、鬼丸国綱といえば、古今無類の傑作であった。
粟田口国綱が、八十六歳の時、北条時頼に命じられて、一代の心血を注いで鍛《きた》えたのである。
鬼丸の称のあるのは、次の逸話による。ある年の冬、時頼は、熱病に苦しんで、夜な夜な、夢裡《むり》に小鬼に襲われて、心身を疲れさせて、日々衰弱していたが、一夕《いっせき》、ふと思いついて、秘蔵の国綱を、枕頭に立てかけておいた。すると、深更におよんで、その刀が、自然にばったり倒れざまに、するりと抜け出て、傍らの鉄の火鉢に附いている小鬼の面のシガミを切り落した。時頼の病いは、次の朝から、薄紙《うすがみ》をはぐように、癒《い》えた、という。
鬼丸は、のちに、新田義貞の手に入り、義貞が討死したあと、足利高経の所有に帰し、継がれて、足利|義昭《よしあき》のものとなった。
そして、義昭から、秀吉に贈られたのであった。
尤《もっと》も、義昭が、進んで、秀吉に贈ったのではなかった。むしろ、周囲の事情から余儀《よぎ》なく、秀吉に贈ったのである。
秀吉が、天下を掌握するや、その地位と権勢をもって、すべての事は望んで得られざるはなく、欲して能わざるはなかった。ただ、鬼丸国綱だけは、手に入らなかった。
諸侯は、秀吉の権勢をおそれて、その愛刀癖をねらって、伝来の名器、名刀を、惜し気もなく献じていたが、独り将軍義昭だけは、秀吉に進物を贈ろうとはしなかった。
そのうちに、公方が、秀吉の最も欲している鬼丸国綱を、吝《おし》んで贈らないのは、再び天下を足利家にとりかえそうという肚《はら》をもっているからである、という流言蜚語《りゅうげんひご》がとんだので、義昭は、やむなく、泪《なみだ》をのんで、秀吉に贈ったのであった。
「新左、この正宗は、建武《けんむ》の頃か?」
「左様でございます」
「しかし、北条の注進物にも、足利の可然物《しかるべきもの》にも、その名は現れて居らぬぞ」
「北条の注進物にその名が現れないのは、幕府が鎌倉に在りましたゆえ、お膝元の相州物をあえて注進せしむる必要がなかったからと存じられます。また、可然物は、選択を備前備中に採ったのでありますれば、相州物がないのは当然でございます。……いや、それよりもまず、この正宗は、その生涯で、おそらく、三十本と鍛えては居りませず、その斬れ味のすばらしさのため、建武時代、戦場において、ことごとく、使いはたされたかと存じられます」
楠木正成が、千早に籠城し、城が陥ちて一門一族がみな討死するや、天下の名器名宝はことごとく焼失し、就中《なかんずく》刀剣は一振りのこさずその後を絶った、と太平記にも明記されてある。
三十振りの正宗は、北条氏が滅亡する際、のこらず消えた、とも考えられる。
この一振りだけが、武州八王子の天満宮に奉納されて、残っていたのを、新左衛門は、手に入れて来たのである。
「殿下、正宗は、日本ひろしと雖も、この一振りしか、残っては居りますまい」
「一振りしか残って居らぬものを、どうすると申すのじゃ?」
秀吉は、怪訝《けげん》に、眉宇《びう》をひそめた。
新左衛門は、薄ら笑って、持参したもう一刀の方を、秀吉に、さし出した。
抜きはなってみて、秀吉は、
「なんじゃ! これも、正宗ではないか」
と、言った。
前の刀と、すんぶん、相違のないつくりだったのである。
「それは、新刀でございます」
「新刀じゃと?」
「武州八王子に住んで居ります野田|繁慶《しげよし》と申す刀工が、作りあげた、いわば、正宗のにせものでございます」
新左衛門は、説明した。
野田繁慶は、通称喜四郎|清堯《きよたか》といい、もとは、鉄砲鍛冶であった。
少年の頃から、誇大妄想《こだいもうそう》の奇行《きこう》が多く、青年に達して、一夜天神の夢想にて天下無双の打物《うちもの》の妙《みょう》を得た、と称して、刀工となった、という。
数年前、新左衛門は、武蔵国を旅した際、八王子に入って、繁慶の噂をきいて、その家に、立寄ってみた。そして、その作を、一瞥《いちべつ》して、驚嘆《きょうたん》した。
繁慶は、鍛刀の技巧に於ては唯我独尊、とうそぶいたが、たしかに、舌をまかざるを得ぬ見事な鍛え上げであった。
しかし、新左衛門は、鋭くも、繁慶が、相州の名工のうちの何人《なんぴと》かの鍛えかたを、ぬすんだに相違ない、と看破《かんぱ》した。
新左衛門は、隣家の人から、繁慶が天満宮の崇拝者で、日に一度は、必ず詣《もう》でているときいて、天満宮に行った。
宮司から、繁慶が、奉納されている太刀のうち、建武の頃の刀工で五郎入道正宗という名人の作を、詣でる毎に、半刻も費《ついや》して、凝視《ぎょうし》して行く、ときき出して、それを観せてもらった。それは、繁慶が作った刀とそっくりであった。
正宗の刀には、青、黄、赤、白、黒の五|行《ぎょう》の鉄が生じていた。繁慶《しげよし》の作にも、その五行の鉄が能く生じていた。繁慶が、正宗の五行の鉄をぬすむには、おそらく、言語に絶した苦心を要したに相違ない。繁慶もまた、天才と称《い》ってもさしつかえはなかった。
新左衛門は、このふしぎな奇人のことを思い出して、秀吉に、名刀をつくってみせると約束して、はるばる八王子まで出かけて行ったのである。
「殿下、繁慶は、すでに、正宗と申してさしつかえのない刀を、四十本も作って居ります。さいわいにも、奇人らしく、一振りさえも、人手に渡しては居りませぬ。繁慶が作った刀を、正宗と称して、正宗の名を天下にひろめるならば、俄然、諸将は、あらそって、さがすに相違ございませぬ。さがしもとめて、ついに、手に入らざれば、正宗の名は、ますます、高くなりましょう」
「新左、見上げた智慧じゃ。正宗の名を、天下にひろめてみせい」
秀吉は、命じた。
新左衛門の打った手は、すばやく、且《かつ》鮮やかであった。
まず、新左衛門は、鎌倉へ行き、荏柄《えがら》天神に、八王子の天満宮から持って来た正宗を奉納し、これが、北条の頃から奉納されていた文書をつくった。ついで、天神の境内の片隅にある古塚を見たてて、正宗の墓とした。
それから、おもむろに、正宗という名工の名を、諸将に認識させる巧妙な手段を、つぎつぎと実行したのであった。
正宗の名が、ようやく天下にひろまった頃、武州八王子の刀工野田繁慶は、一夜何者かに、一刀のもとに斬られて、死んでいた。
猿飛佐助は、幸村の命を受けて、五日ばかり姿を消していたが、ひょっこりと戻って来ると、
「宇治の平等院《びょうどういん》の山門前に、老いぼれた乞食《こつじつ》が、数年前より、雨の日も風の日も、坐って居りますが、どうやら、曾呂利新左衛門のなれの果《は》てらしゅうござる」
と、告げた。
「乞食になって居るのか。曾呂利らしいとも言える」
幸村は、会ってみることにして、佐助を供《とも》にして、忍び姿で、出かけた。
春光うららかな午《ひる》であったが、忌《い》み日であったので、山道に人影は見当らなかった。
幸村は、佐助から指さされて、とある松の根かたにつくねんと坐っている乞食へ、目をやった。
人間とも見えぬ、捨てられた襤褸《ぼろ》にひとしい姿であった。老い枯れて、小児のように小さくなり、皺だらけのしなびた面貌は、背後の松の幹の瘤《こぶ》といささかも変らなかった。
前に立った幸村は、
「曾呂利新左衛門殿とお見受けいたす」
と、呼びかけた。
老乞食は、鐚銭《びたせん》が二つ三つ投げ込まれてある縁欠け椀へ、視線を落して、微動もせぬ。
「それがしは、真田左衛門佐幸村でござる」
名のられて、はじめて、老乞食は、やおら、顔を擡《もた》げた。
「世捨人のお手前をおたずねしたのは、それがしの差料《さしりょう》を、鑑定して頂きたいためでござる」
幸村は、いきなり、腰のものをすらりと抜いて、老乞食に、さし出した。
老乞食は、鍔元《つばもと》から切っ尖《さき》へ、ゆっくりと眼眸《まなざし》を移行させてから、ひくいしゃがれた声で、
「篠山から、掘り出されたの」
と、言った。
その通りであった。幸村は、佐助が掘り出した櫃の中の四十九本の刀の中から、一振りだけ、手にのこしていた。それを持参したのである。
「これには、正宗の銘がござるが、お手前が入れられたと存ずる。お手前が、何故に、正宗をえらんで、その名を天下に喧伝《けんでん》されたか、その理由をうかがいたい」
「きいて、益《えき》にもならぬことを――」
老乞食は、かぶりを振った。
幸村は、凝《じ》っと、その皺だらけのしなびた面貌を見据えていたが、
「お手前は、もしや、正宗刀に対して、うらみでも抱いては居られなんだか?」
「……」
「それがしが思うに、お手前は、ただの茶人ではなく、前身は、忍びの者でござったろう。曾呂利とは、忍びの者の異名《いみょう》に相違ござるまい」
「……」
「九十翁となられたお手前の、その何気ない姿にも、なお忍びの者の隙のない構えがのこっているように、お見受けする」
「……」
老乞食は、沈黙をまもったままで、やおら、身を起した。
幸村と佐助は、春風に乗ったように飄々《ひょうひょう》として、歩む老乞食のあとに、したがった。
老乞食が、入って行ったのは、二町余さきの宇治橋の袂にある風雅なつくりの草庵《そうあん》であった。
室には、何ひとつ置かれてなかった。
対坐した時、幸村は、対手《あいて》の双眸《そうぼう》が、別人のもののように、鋭い光を宿しているのを視た。
「真田殿は、正宗を、どう思われるな?」
老乞食の口が、はじめて開いて、その質問を発した。
「それがしは、五郎入道正宗と申す刀工も、またその高弟|郷《ごう》の義弘も、この世に存在しなかった、と存ずる」
幸村は、ずばりと断言した。
老乞食は、頷いた。
幸村は、微笑して、
「当今、日本三作として、粟田口吉光、正宗、義弘が挙げられ、珍重されて居りますが、吉光はたしかに存在いたした証拠がござるが、正宗、義弘は、あるいは、曾呂利殿、お手前が創作された刀工ではなかろうか、とかねて疑って居り申した」
「……」
「お手前は、建武の頃、正宗なる名人がいた、と称し、武州八王子の天満宮に奉納されていた正宗を、故太閤にご覧に入れられたそうな。また、正宗を模した野田繁慶の刀を、同時に、呈上されたそうな。実は、その正宗もまた、繁慶の作ではなかったか。されば、二刀が、そっくり同じであったのは、当然のこと。お手前は、まんまと、故太閤を騙《だま》されたのであった」
「……」
「正宗などという刀工は、この世に存在せず、曾呂利新左衛門によって、創作され、無銘の相州物が聚《あつ》められて、鋭利と華美の刀をえらんで、磨《す》り上げて、これを正宗と称した――そうとしか、考えられぬふしがござる」
「……」
「お手前は、太閤がみまかるや、直ちに、その手許にあった正宗銘の刀を四十九本ことごとく櫃に納めて、篠山に埋めておいて、何処《いずこ》かへ退去された。そうですな?」
新左衛門は、それにこたえるかわりに、
「豊太閤は、曾て、関白に任じられた折、側近の御用学者大村|由己《ゆうこ》に命じて、関白任官記を作らせられた。それによれば、秀吉公の祖父は、萩中納言と申す公卿で、同僚の讒訴《ざんそ》によって、都を追われ、尾張国飛保の村雲という在所に侘び住いをした、という。中納言に、女《むすめ》が一人いて、幼い頃上京して、宮仕えをして居ったが、二十歳の頃、村雲に帰って、男子を生み落した。これが、秀吉公であった、という。すなわち、秀吉公は、天子の御落胤であった、ということに相成る。関白ともなれば、家柄が欲しゅうなる。尾張国愛智郡中村の土百姓弥右衛門の小せがれでは、面白くない。そこで、おこがましくも、天子の御落胤になりすました。……世の中とは、こんなものでござろうな」
老乞食は、そう言って、ひくい、含み笑いを洩《も》らした。
幸村は、次の言葉を待って、沈黙した。
老乞食は、眼眸《まなざし》を宙に置いた。
「真田殿、さすがは天下の名将の慧眼《けいがん》、みごとに、この老いぼれの前身を、言いあてられた。新左衛門は、まぎれもなく、忍び者でござったよ」
「……」
「もう三十年のむかしのことに相成る。新左衛門の秘密を打明け申そうか」
天正十年、武田勝頼が、天目山《てんもくざん》の麓《ふもと》で、織田信長の軍勢五千に包囲されて、屠腹《とふく》し、武田家が滅亡した際、東山梨郡松里村の恵林寺《えりんじ》もまた、炎上した。
恵林寺は、夢窓国師《むそうこくし》が開山になり、武田信玄によって寺領三百貫文を寄附され、快川《かいせん》国師を聘《へい》し、常時三百余の雲水を集めて、大いに臨済の風を起した天下の名刹《めいさつ》であった。
織田信忠は、恵林寺に、勝頼夫人をはじめ、武田家の重臣らが逃れ込んでいる報に接して、快川和尚に、引渡すように、使者を送った。しかし、その拒絶にあい、ついに、恵林寺の焼打ちを、命じた。
快川和尚は、いよいよ、兵火に遭《あ》うと覚悟するや、門類二百余人を山門上にあつめ、威儀《いぎ》を具《そな》え、位に依《よ》って坐せしめるや、
「諸人いまは火焔の裏《うち》に坐す、如何にして法輪《ほうりん》を転ずる、各々一転語を著《つ》けて、末期《まつご》の句を為《な》せ」
と命じた。
衆は、みな語を下した。
快川和尚は、最後に、
「安禅《あんぜん》必ずしも山水を須《もち》いず、心頭《しんとう》を滅却《めっきゃく》すれば、火もまた涼し」
と、うそぶいた。
そして、本堂|須弥壇《しゅみだん》前に、一人|結跏趺坐《けっかふざ》した。
猛火が舞い入って、法衣についた時であった。一人の黒衣の男が、風のように駆け入って来て、
「木曾谷の忍び・曾呂利新十郎でござる。使命を与えられませい」
と、叫んだ。
それより十年前、まだ二十歳にならぬ曾呂利新十郎は、忍者の人生に懐疑《かいぎ》して、快川和尚に、教えを乞うたことがあった。
快川和尚は、新十郎に、五重塔上で、百箇日坐禅を組ませたのち、人間として生きるための言葉を与えた。
新十郎は、おかげで、ただの忍者でおわらずに、一己不動の人格を有《も》ち得た。
快川和尚は、身が焼けるにまかせ乍ら、
「為《な》そうと思うことを為すがよい。やがて、それがおわった時、人の世の虚《むな》しさを悟《さと》るところがあろう」
と言った。
新十郎は、その言葉を己《おの》れ流に合点《がてん》して、去った。
新十郎が、為そうと決意したのは、織田信長の首級《しゅきゅう》を奪《と》ることであった。
新十郎は、甲州より凱旋《がいせん》する信長を、つけ狙《ねら》った。
だが、ついに、その隙はなかった。
甲州を発し、笛吹川を渡り、姥口、本巣《もとす》を経て、上野原、井手野で富士山を見物してから、大宮、富士川、蒲原を越える信長の身辺は、徳川家康によって、完全な警備をされていたのである。
富士山見物をする信長の接待にあたって、家康は、戦略よりも、もっと心を配ったのである。
信長が、大井川を越えた時など、家康はその左右の川中に、人垣を作って、護衛の万全を期したくらいであった。
新十郎は、安土へ帰陣する信長を、遠くから、無念の焦躁裡《しょうそうり》に、見送らなければならなかった。
その苛立《いらだ》ちが、新十郎をして、一流忍者の用意周到《よういしゅうとう》を失わしめた。新十郎は、忍耐づよく、信長が安土城を出て来るのを待ちかまえることができなかった。
新十郎は、死地たることを承知で、安土城内へ、忍び入った。
そして――。
信長直属の忍者十七名に包囲され、九名まで斃《たお》したのち、血まみれになって生捕られたのであった。
庭先にひき据えられた新十郎を、縁側から見下した信長は、生捕った忍者組頭から、稀代《きたい》の術者であることをきくと、
「どうじゃ、この信長にやとわれぬか!」
と、言った。
新十郎は、冷やかな微笑を返しただけであった。
そこまで語ってから、老いたる太閤御伽衆は、しばらく、沈黙を置いた。
「真田殿。御貴殿は、宮刑《きゅうけい》と申す刑罰をご存じか?」
「宮刑?」
「日本には、ござらぬ。中国の古代に於ける刑じゃ」
「おお――」
幸村は、頷いた。
黥《げい》(入れ墨)、|※[#鼻へん+利のつくり]《ぎ》(鼻を削《そ》ぐ)、|※[#非+利のつくり]《ひ》(脚を断つ)、宮、の四つが、中国古代から行われている残忍な肉刑である。
宮刑は、またの名を腐刑《ふけい》ともいう。男根を截《た》つ刑である。腐刑とは、その創《きず》が甚《はなは》だしく腐臭を放つためであった。宮廷の宦官《かんがん》が、殆ど、宮刑を受けた者たちであったことは、有名である。
「織田信長は、わしの首を刎《は》ねる代りに、宮刑をくれ居ったのでござるよ」
「……」
幸村は、思わず、息をのんだ。
「恰度《ちょうど》その折、安土城に、武州八王子から、野田繁慶なる刀工が、おのがきたえあげた剣こそ、古今随一の名品と誇称して、献上しに参っていたのでござる。信長は、繁慶をからかって、その方の刀は、人の首を斬るのはおぼつかぬが、男根ぐらいは斬れるであろう、ひとつ試してやろうと、わしに宮刑をくれたのでござる」
「……」
「真田殿。貴殿ならば、わしの復讐が、お判りであろう」
「判り申す」
曾呂利新左衛門は、信長に復讐することはできなかった。
信長は、それから一月後に、本能寺で、果《は》ててしまったからである。
そこで、新左衛門は、おのが男根を截《き》った野田繁慶の刀に対して、復讐をすることにしたのであった。
おのが男根を截った刀を、天下無比の名刀にしあげて、太閤秀吉、徳川家康をはじめ、すべての諸将に、これを佩《お》びることを、栄誉とさせる。
これが、曾呂利新左衛門の復讐だったのである。
語り了った新左衛門は、
「もう去《い》なれい、真田殿」
と、言って、さも疲れたように、床柱に凭《よ》りかかって、目蓋をとじた。
幸村は、この老乞食は、たぶん、このまま、この世を去るのではあるまいか、と見まもったことであった。
竹中半兵衛
夜半――それも、四更《しこう》に近くなって、大阪城|真田丸《さなだまる》の館《やかた》に、供一人もつれぬ武将が、闇の中を訪れた。
まだ牀《とこ》に就《つ》かず、軍書をひらいていた左衛門佐幸村《さえもんのすけゆきむら》は、廊下から、筧十蔵《かけひじゅうぞう》の声で、
「塙団右衛門《ばんだんえもん》直之殿、お忍びでござる」
と、告げられて、なにか異変があったな、と直感した。
はたして、塙団右衛門直之は、七尺近い巨躯《きょく》をはこんで来て、対坐するや、魁偉《かいい》の面貌《めんぼう》を、沈痛にくもらせて、
「何者とも知れず、国松君《くにまつぎみ》を連れ去り申した」
と、告げた。
国松とは、秀頼の嗣子《しし》であった。当年六歳になる。母は、正室千姫ではなく、加藤清正の女奈々《むすめなな》であった。国松を生んですぐ、みまかっていた。
塙団右衛門《ばんだんえもん》が、その傳者《もり》となって、おのが館に、あずかっていた。徳川と手切れになった際、大阪|随一《ずいいち》の豪《ごう》の者塙団右衛門ならば、もし陥落せんか、懐《ふところ》に抱いて、敵陣を突破し、何処かに落ちのびて守り育ててくれるであろうと、秀頼は配慮《はいりょ》したのである。
さいわい、冬の陣は講和《こうわ》となり、塙団右衛門も阿修羅《あしゅら》の突破行《とっぱこう》を為《な》さずに済んだが、国松はそのまま、その館にとどめて置かれたのである。
夕食後、半刻ばかり、お伽衆《とぎしゅう》対手に双六《すごろく》遊びをしてから、寝に就き、それからしばらくして、侍女が燭台《しょくだい》のあかりを細くするために入って行くと、もう褥《しとね》の中は、空《から》になっていた、という。
急報を受けた塙団右衛門は、お伽衆や侍女に、かたく口どめして、寝所をくまなく調べたが、いかなる方法で拉致《らち》されたか、皆目判《かいもくわか》らなかった。
尋常の手段では、連れ出せなかった筈である。次の間には、忍びの者が三人も、詰めていたし、廊下にも庭にも、宿直《とのい》の士《さむらい》らが多勢いたのである。
天井裏か、床下か、いずれからか出入りしたに相違《そうい》ないと考えられたが、痕跡《こんせき》はのこっていなかった。
幸村は、筧十蔵を呼ぶと、
「国松君の今宵の伽《とぎ》をした侍女を捕えて参れ」
と、命じた。
筧十蔵は、しかし、侍女の代りに、一通の遺書を持って来た。
侍女は、居室で、自害して果《は》てていた。
遺書には、たった一行、詫《わ》びの言葉がしたためてあった。
幸村は、団右衛門に、言った。
「其許《そこもと》が寝所にかけつけられた時、国松君は、まだ、そこに居られた筈でござる」
「なんと申される?」
「たぶん、伽の侍女が、そのせなかに、肌へじかに、国松君を背負うていた、と存ずる。其許《そこもと》が、この凶変《きょうへん》を厳秘にふされ、宿直の士《さむらい》らにも報《し》らせないであろうことは、曲者は、あらかじめ、測《はか》って居り申した筈。寝所を調査されているあいだに侍女は、抜け出し、自室にもどって、そこに待ちかまえていた味方の者に、若君を渡した。そやつは、若君をかかえて、悠々《ゆうゆう》と遁走《とんそう》いたした。そう判断つかまつる」
「しかし、侍女は、詫びのため自害《じがい》いたして居り申すぞ」
「死を覚悟の上での仕業《しわざ》であった、と存ずる。侍女の仕業であった証拠は、この遺書でござる。封《ふう》じた糊《のり》は、今宵つけたものではなく、この乾きは、先夜のうちに封じたことが明らかでござる。すなわち、詫びの遺書が、若君が拉致《らち》されるよりも先に書かれた――」
幸村は、微笑した。
「大御所め、あろうことか、国松君を、さらうとは!」
塙団右衛門は、悪鬼のように、凄《すさま》じい、眼光を宙に放って、呻《うめ》いた。
「待たれい。大御所ともあろう人物が、このような軽はずみな指令をするとは、思えぬ」
秀頼の嗣子《しし》をかどわかして、大阪方を激昂《げきこう》させ、戦いをしかけさせる――そのような手段を弄《ろう》するほど、家康は小人ではない、と幸村は断言できる。
講和条件によって大阪城の濠《ほり》という濠を埋めつくし、城壁を破壊している家康である。大阪城を炎上《えんじょう》させる方図《ほうと》は成っていたのである。
あとにのこされているのは、豊臣家を滅《ほろぼ》す天下|納得《なっとく》の名分をどうたてるかである。秀頼の嗣子をかどわかして、大阪方を挑発《ちょうはつ》した、となれば、世間の非難は、徳川家に集まろう。
敵を滅《ほろぼ》すために、陰険《いんけん》であり悪辣《あくらつ》であり冷酷であるということは、むしろ、第三者の目には、攻撃者に、正当の理由があるかのごとく、思わせる――それであろう。
幸村は、家康が、幼児などをさらって、秀頼や淀君を刺戟する下策《げさく》をとるとは、考えられなかった。
「大御所の指令でないとすれば、本多上野介《ほんだこうずけのすけ》あたりの策謀《さくぼう》でござろうか」
「いや、若君を盗んだのは、徳川方ではない、と存ずる」
「では、何者と想像される?」
「さあ――?」
幸村も、首をかしげざるを得なかった。
判っているのは、下手人が、侍女に化けさせて、入り込ませていた味方の女を自害させたほどの、尋常一様でない曲者であるということであった。
ともあれ、この誘拐《ゆうかい》は、大阪城内にも深く秘密にしておいて、至急に、国松を奪いかえさなければならなかった。
幸村は、塙団右衛門が去ると、すぐに、猿飛佐助を呼んで、念の為に、伏見城内をさぐらせることにした。
次の夜更けて、戻って来た佐助は、伏見城の家康の身辺に、なんの変った様子も見受けられなかった、と報告した。
幸村は、しばらく沈思していたが、
「佐助、目的を遂《と》げるために、自ら進んでおのれの生命をすてた忍者の回向《えこう》は、いかがいたす?」と、訊《たず》ねた。
「その里その里のならわしがござるが、何処《いずこ》でも、偈頌《げじゅ》も陀羅尼《だらに》も誦《とな》えはいたしますまい。伊賀の里あたりでは、死ぬと決めたならば、その者が、風のごとく帰って来て、先祖の墓に、黒い蓮華《れんげ》を一輪、供《そな》えて置いて去る、ときき及んだことがござる」
「佐助、伊賀へ行け!」
「かしこまった」
二日後、佐助の姿は、伊賀郡|刃心《じんしん》山の中腹にある杉の密林内の墓地に現れた。刃心とは、すなわち、忍の字を二つに分けたもので、そこが、伊賀衆の修業の山であった。
墓碑《ぼひ》といっても、自然石が、あちらこちらに、まばらに据《す》えてあるだけで、それが墓と判るのは、それぞれに、「上」とか「中」とか「下」とか刻まれていることであった。すなわち、上忍、中忍、下忍《げにん》の証《あかし》であった。上忍の墓は大きく、下忍の墓は小さかった。
佐助は、その上忍の墓のひとつの前に、漆黒《しっこく》の蓮華の造花が、供えられているのを、見出した。
佐助は、その墓碑《ぼひ》が、この墓地の恰度《ちょうど》中央に位置しているのを知って、
「頭領波賀家の墓じゃな」
と、合点《がてん》した。
自害した侍女は、伊賀忍《いがしの》び衆《しゅう》の支配者の女《むすめ》であった、ということになる。
では、その娘を使ったのは、当然、波賀家の当主ということになる。
佐助は、まっしぐらに、山を駆《か》け下って、その聚落《しゅうらく》のある忍び谷へ至った。
しかし、そこで、佐助が、きかされたのは、頭領波賀家は、三十年前に絶えて、その屋敷さえも無くなっているということであった。
伊賀忍び衆を支配していた波賀彦十郎は、豊臣秀吉が、羽柴筑前守であった頃、その軍師竹中半兵衛《ぐんしたけなかはんべえ》にやとわれて、神魔《しんま》と称せられるほどの活躍をしていたが、竹中半兵衛が逝《ゆ》くと同時に、忽然《こつぜん》として姿を消し、そのまま、杳《よう》として行方を絶ち、ついに伊賀へも還《かえ》らなかった、という。
「さて――どうしたものか?」
佐助は、当惑し乍《なが》ら、大阪城へ戻って行った。
恰度《ちょうど》、同じ日――。
関ケ原駅の東南に蟠踞《ばんきょ》する美濃《みの》の中山――すなわち南宮山の杣道《そまみち》を、すたすたと登っている一人の若い山賤《やまがつ》がいた。身丈も小柄で、どこといって特徴もない凡庸《ぼんよう》な風貌の若者であったが、その速歩《そくほ》ぶりは、視る者が視《み》れば、忍者のそれであった。かなりの勾配《こうばい》の、石塊の多い坂を、常人が平地を走るのとかわらぬ迅《はや》さで、進んでいるのであった。のみならず、跫音《あしおと》を消している。
背には藺草《いぐさ》を貼《は》った竹籠を、負うていたが、空《から》ででもあるかのように、かるがるとしていた。頂上に達して、若者は、足をとめて、春光の満ちた関ケ原の山野へ、眸子《ひとみ》を放った。その凡庸な面貌に、はじめて、鋭利な表情が刷《は》かれた。
十余年前、この南宮山には、毛利秀元が陣を敷き、それにつづく東南の岡ケ鼻には、長束正家《ながつかまさいえ》、安国寺恵瓊《あんこくじえけい》、そして山下には長曾我部盛親《ちょうそかべもりちか》と、いずれも石田三成に味方する西軍の勇将らが布陣《ふじん》していたのである。しかし、ひとたび、関ケ原において、東軍と西軍が激突《げきとつ》し、石田三成の主隊が総崩《そうくず》れになるや、毛利も長曾我部も、いずれも、戦わずして、退いたのであった。
関ケ原の決戦は、小早川秀秋の裏切りによって、勝敗がわかれたと言われる。もとより、それは明らかだが、この南宮山に陣を敷いた毛利軍が、鉄砲の音、矢叫《やたけ》び、鬨《とき》の声が西北よりつたわって来るのをきき乍《なが》ら、ついに動かなかったことも、原因しているのである。
毛利秀元もまた、石田三成を裏切っていたのである。豊臣家にとっては、まさに痛恨《つうこん》の古戦場であった。
山賤《やまがつ》に身を変えた若者は、往時《おうじ》を偲《しの》び、毛利秀元の背信を憎むがごとき気色をみせたのであった。
われにかえって歩き出した時、背中の竹籠の中から、小さな呻《うめ》き声が洩《も》れた。
「いま、しばらくの辛抱でござる、若君様」
若者は、意識を喪《うしな》わしめている幼児に、そう言いかけておいて、さらに飛ぶように、足をはやめた。
南宮山の尾根づたいに、一上一下すること一里で、岡ケ鼻と称《よ》ばれる栗原山に達する。
落陽《らくよう》が、青野《あおの》ケ原の彼方《かなた》一円に、美しい夕焼の彩《いろどり》を刷《は》いて、美濃近江の山々をくろぐろと沈め乍ら、あかあかと、覆輪《ふくりん》をはらって、大きいすがたをあらわした頃あい。
若者は、まばらな赤松にかこまれた、中腹の平地に、ひっそりと建つ一草堂の柴門の前に立っていた。
柴門の編戸《あみど》は、傾《かたむ》いて、夕風にゆれている。
つと入った若者は、草堂が、半町もかなたに、生《おい》茂った雑草をへだてて建っているのにも拘《かかわ》らず、そこで、つつましく、膝を折って、一礼した。
「殿、彦太郎、ただいま、帰参つかまつりました」
草堂の中に在るであろうその仁《ひと》に、挨拶しておいて、立ち上ると、忠義の家臣のみがたたえる粛々《しゅくしゅく》とした物腰で、足をすすめた。
しかし、若者は、玄関から入ろうとはせず、荒壁《あらかべ》に沿《そ》うて、裏手にまわり、背負うた籠をおろして、
「若君様、さぞ窮屈でございましたろう。おゆるしたまわりませい」
と言い乍ら、蓋をはらって、五六歳の幼児を、抱きあげた。
こんこんと睡りつづける顔や手足を、筧《かけひ》の水で、拭いてやり、おのれも、身をきよめてから、
「さて、殿に、御対面を――」
と、呟《つぶや》いた。
瞬間、暮色《ぼしょく》の中で、全身をさっと緊張させて、踵《きびす》をまわすと、幼児を抱いたまま、ツツ……と、裏口から入った。
若者は、草堂の中のあるじの|さま《ヽヽ》が、手にとるようにわかっていたのである。
あるじは、蒲《がま》の円座《えんざ》に坐って、黙然と、半眼に閉じて、動かずにいた筈である。
ところが、幼児をいざ対面させよう、と呟いた瞬間、若者は、あるじが動いた気配を察知したのである。
その気配は、鋭いものであった。
若者は、土間にいったん蹲《うずくま》ってから、そっと、頭を擡《もた》げた。
粗土《あらつち》と松の丸柱の床の間を背にして、白髪白髯、白衣の人が、端坐していた。松形鶴骨《しょうけいかくこつ》の老夫子《ろうふうし》の神采《しんさい》とは、この人を形容するためにつくられた賞称《しょうしょう》であろうか。
床の間に掛けられた横幅の一字「義」という朱拓《しゅたく》が、翁の白いすがたと相|映《は》えて、荘厳である。
座右に渾天儀《こんてんぎ》、|書※[#竹かんむり+鹿]《しょろく》、小机があるのみ。
「殿、無断にて、半歳の間、姿をくらませし罪、幾重にもお詫びつかまつります」
若者は、ふたたび頭を下げて、しばらく、そのまま、動かなかった。
老翁の膝の前には、鮫鞘《さめざや》の短剣が置かれてあった。若者は、老翁が、小机の上にのせていたそれを、把《と》って、膝の前に置いた――それだけの気配を察知して、はっと緊張し、急いで、入って来たのであった。
おのが無断|出奔《しゅっぽん》を、老翁は、咎《とが》めるのだ、とおそれたのである。
「彦太郎――」
老翁は、呼んだ。その声音《こわね》はさびて、静かであった。
「はい」
「その幼童は、秀頼公の御嫡嗣《ごちゃくし》か?」
言い当てられて、若者は、
「国松君にございまする」
と、こたえた。
「美しい御子《おこ》だの」
「はいっ――」
若者は、幼児をほめられて、急に、顔をかがやかせて、
「彦太郎、一身にかえて、天下人にふさわしき武将にお育て申上げます」
と、きっぱり言った。
若者は、かねて、老翁が、
「豊臣家は一両年うちに、徳川家康によって滅されるであろう。おいたわしいが、秀頼公は、自決なさるよりほかはない。やはり、豊臣家の血は、二代をもって絶える宿運であったな」
と、独語するようにもらしていたのを、きいていたのである。
――よし、それならば、大阪城が炎上する前に、国松君をおつれ出し申して、わしが、守り育てよう。殿も、義心を汲《く》まれて、幼君を薫陶化育《くんとうかいく》するすべを、授《さず》けて下さるであろう。
そう心に誓《ちか》い、ついに実行したのである。
「彦太郎――」
「はい」
若者は、老翁を、凝《じ》っと視《み》かえした。
老翁は、短剣を把《と》った。
「これで、その幼な児の胸を刺せ」
穏やかな語気で、吐いたのは、無慚《むざん》なその言葉であった。
若者は、息をのみ、眦《まなじり》が裂《さ》けんばかりに、瞠目《どうもく》した。
老翁は、四十余年前に逝《い》った筈の竹中半兵衛|重治《しげはる》その仁《ひと》であった。
古書に謂《い》う。
司馬遷《しばせん》の史記をひもとけば、張良《ちょうりょう》あり、韓信《かんしん》あり、黥布《げいふ》あり、蕭何《しょうが》あり、|樊※[#口へん+會]《はんかい》あり。あたかも春の山の桜、山吹、秋の野の菊、楓《かえで》を看《み》るごとし。わが国史《こくし》の元亀《げんき》天正の際に現れたる英主、勇将を観《み》るに、また同一の感を生ず。
もし豊臣秀吉を以て、沛公《はいこう》に比することを得ば、かの加藤、福島のごとき七将は、|樊※[#口へん+會]《はんかい》なり。曹参《そうざん》なり。韓信《かんしん》なり。攻むなれば取り、戦えば勝つ。石田、長束は、蕭何《しょうが》か陳平《ちんぺい》か。すこしく呂后《ろこう》に似たる淀君あり。
陵墓《りょうぼ》の土いまだ乾かざるに、宮廷の内は、紛々《ふんぷん》として乱麻《らんま》のごとく、|芒※[#石へん+昜]《ぼうとう》に白蛇《はくだ》を斬りし火徳はや衰えて、群雄鼎《ぐんゆうかなえ》の軽重《けいちょう》を試《こころ》みんと為すに至る。
この衰乱《すいらん》の代を見ず、覇主《はしゅ》の妬忌《とき》にふれず、赤松子《せきしょうし》に学びて高踏《こうとう》せし子房《しぼう》の風骨あるは、織田・豊臣二姓の世に、ただ一人、濃州菩提《のうしゅうぼだい》の城主たりし竹中半兵衛尉重治あるのみ。
渠《かれ》、夙《はや》くより俊英《しゅんえい》の誉《ほまれ》あり。馬皮にて包める鎧《よろい》を着し、木綿の羽織に、一ノ谷と名付けたる冑《かぶと》の緒《お》を締め、馬上|凛乎《りんこ》として士卒に下知《げち》すれば、戦わざるに、先ず敵軍の気を屈せしめ、味方の士気を鼓舞《こぶ》し、百戦して百勝す、と言う。
重治、秀吉の寄騎《よりき》となり、帷幄《いあく》の中に策《さく》をめぐらし、秀吉が征西将軍に歴上《へのぼ》るまで、奇勲《きくん》を奏《そう》せしこと、かぞえきれず。
されど、重治は、孔明《こうめい》にも比すべき聡明叡智《そうめいえいち》の仁《ひと》、栄華ある者は必ず愁悴《しゅうすい》ある自然の理数を知りて、一身の栄位勢利を望まず、望むところは、方外の人となりて四海に遊び、蘿窓《らそう》の月をめでて、瞑想《めいそう》の妙味を識《し》らんとすることなり。
秀吉の乞いを容《い》れて、その帷幄《いあく》の臣となりし際すでに、その人と為《な》りを知り、終生を倶《とも》にする仲たるは難事とさとれり。我、渠《かれ》に服するか、渠《かれ》をして我に従わしむるか、二途のうち一途あるのみ。されば、やがて渠と我との反目は火を看《み》るよりも明らかなり。長頸烏喙《ちょうけいうかい》の人は、苦を供に為す可《べ》しと雖《いえど》も、楽は与《とも》に為すこと能わず。我が智は、渠《かれ》より優ると雖《いえど》も、渠また覇者《はしゃ》の略あり勢あり。優者、優者に伴《とも》なえば、激して火となるか、触《ふ》れて砕けざるを得ず。
秀吉が勢威ようやく熾《さか》んとなる頃、重治、忽焉《こつえん》として、その病躯《びょうく》をかくし、ついに、その臨終を、何人にも看《み》せず。蓋《けだ》し、おのがこの世に在ることの使命の畢《おわ》れるを知りての処置なるべし。重治こそ、張子房《ちょうしぼう》と言うべけれ。光風霽月《こうふうせいげつ》の胸懐《きょうかい》、武人中には、稀《まれ》なる者なりき。
まさしく、竹中半兵衛は、日本に於ける最も軍師らしい軍師であった。
その父重元は、遠江守《とおとうみのかみ》と称して、美濃の斎藤山城守入道|道三《どうさん》の家臣であった。
半兵衛は、父が逝《ゆ》くや、わずか十四歳で、美濃国|菩提《ぼだい》城の城主になり、近隣に、俊英のきこえが高かった。匂うばかりの気品をそなえた、白面の貴公子で、幼少より病弱であった。
四季にかかわりなく、城内にとじこもって、書物をひもといている明け暮れであったが、稀《まれ》に、馬場へ馬責めに、姿を現すことがあると、里娘たちは、目の色を変えて、奔《はし》ったものであった。桔梗《ききょう》色の袖無し羽織をまとい、朱房《しゅぶさ》の鞭《むち》を手にした姿は、絵に描いたように美しかったのである。
当主となったその年、斎藤家の戦いに加わるや、学問好きの病弱子とばかり思っていた周囲の人々は、陣頭に馬を進めるその姿が、いかなる勇猛の武将よりも、威厳のあるのをみとめて、目を瞠《みは》ったことであった。
ただ、文にのみ俊英ではなかったのである。武においても、その鋭鋒は、たちまち、あらわれたのである。
「若殿、魁《さきがけ》にお在《わ》せば、軍中なんとなく重きをなし、卒伍《そつご》の端《はし》までも心を安んじけり」
と、家臣の一人は、誌《しる》している。
また、
「軍を見給ふこと、神の如《ごと》く、戦ふや果断《かだん》、守るや森厳《しんげん》、度量は江海《えうみ》の如く、おん目は、常に和《なご》み給ひ、いかなる困難の時にありと雖《いえど》も、徒《いたず》らに狂躁《きょうそう》のお唇《くち》をひらき給へる例《ためし》あることをきかず」
と、筆をきわめて賞讃している。
もとより、病弱の身を、乱軍中に斬り込ませて、武功を揚《あ》げるのではなかった。その卓抜《たくばつ》した頭脳ひとつによって、われに数倍、数十倍する敵勢を、一瞬にして、敗走せしめたのである。十七歳になった時、半兵衛は、おのれの年齢と同じ数の合戦をして、ことごとく、完璧の勝利を得ていた、という。
ただ――。
このたぐい稀《まれ》な軍師の上に立つ主将が、あまりにも、暗愚《あんぐ》であった。主将は斎藤|竜興《たつおき》であった。その祖父山城守道三ほどの頭脳を持たず、その父|義竜《よしたつ》ほどの胆力《たんりょく》もなく、ただ、祖父・父から残忍酷薄《ざんにんこくはく》な性格と堂々たる躯幹《くかん》だけを受け継いだ人物であった。
この暗愚の主将の下《もと》に、日根野、氏江《うじえ》、不破《ふわ》という三家老がいたが、いずれも、主将の威光を笠に着て、横暴きわまりなく、家中の心ある人々は、渠《かれ》らを蛇蝎《だかつ》のごとく憎んでいた。
ある年の正月元旦。
朝から酒色に沈湎《ちんめん》した竜興は、美童の膝に倚《よ》りかかって、櫓《やぐら》の窓から、高峰の雪を眺めていた。
家老の一人氏江が、ふと、城門へ目をやって、
「ほう、小才子が参り居った」
と、いまいましげに、言った。
日根野、不破も、覗《のぞ》いて、
「あの小憎らしげに、悟《さと》りすましたなま白い面《つら》がまえは、どうじゃ。まだ十七歳の青二才のぶんざいで、軍師はわれ一人、と尊大《そんだい》ぶり居って……」
「味噌《みそ》の味噌臭いは、反吐《へど》が出るわ。彼奴《きゃつ》めを、あのままに天狗《てんぐ》にして置くと、あるいは、後日の祟《たた》りに相成るやも知れ申さぬ。……殿、ひとつ、こらしめておやり召され」
と、口々に罵倒《ばとう》した。
城門を入って来ようとしたのは、出仕《しゅっし》の装《よそお》いも清雅《せいが》な菩提《ぼだい》城の城主竹中半兵衛であった。
「その方ら、重治の小智慧が、よほど、うらやましいとみえるの……はははは。したが、一度ころばして、高慢の鼻を折って置く必要はあろう。誰かある、この窓から放尿《ほうにょう》して重治に、ひっかけてやれ」
竜興は、命じた。
逸《はや》り気の若侍の一人が、さっと窓に立つや、袴《はかま》をまくりあげて、
「御諚《ごじょう》っ!」
と、叫びつつ、一条の汚水を、半兵衛めがけて、放しかけた。
櫓《やぐら》下に立ちどまって、ふり仰いだ半兵衛は、自若《じじゃく》として顔色も変えず、無言で静かに踵《きびす》をかえすと、城門を出て行った。
「重治は、怨《うら》みを含《ふく》んで、謀叛《むほん》するに相違《そうい》ない。備えをせぬうちに、菩提山を包囲するに如《し》かず」
と、三家老は、侍大将斎藤飛騨守に、稲葉山の兵三千を率いさせて、どっと向かわせた。
しかし、半兵衛は、その軍勢に対して、一矢も酬《むく》いず、
「帰城いたしてより、高熱を発して居りますれば――」
と、おのれに代って、十五歳の弟久作|重矩《しげのり》を、質子《ちし》として、稲葉山へ送り、あくまで恭順《きょうじゅん》の態度を示した。
久作重矩は、兄にまさるともおとらぬ、気品をそなえた美貌の持主であった。男色好みの竜興は、たちまち、気に入って、小姓筆頭に据《す》えようとした。
すると、久作は、
「それがしは、質子《ちし》にございますれば、御城内に質子|構《がま》えの一戸をたまわり、それに、殿をお迎えいたし度《た》く存じます」
と、申出た。
当時はそのようなしきたりがあったのである。
敵城内に、質子構えを建てる場合は、質子側で、職工を送って、好みの作りにするのも、ならわしのひとつであった。菩提城から、二百人ばかりの職工が、稲葉山へ送られて来た。
一月中は、美濃の国は、雪に埋《うず》もれていた。その白ひと色の世界の中で、若き病|孫子《そんし》は、菩提山の城門を、かたく閉じて、音もなかった。
雪が解《と》けた三月初旬の某朝。
半兵衛は、旗本十六騎を召すや、
「これより、稲葉城を、占領いたす」
と、静かな語気で申渡した。
それより二日前、稲葉城から、弟久作が病臥《びょうが》して、危篤《きとく》状態に陥《おちい》っている、という使いが来ていたのである。
半兵衛は、馬の裏皮に粒漆《つぶうるし》をかけた具足をつけ、青黄木綿《あおきもめん》の筒袖陣羽織《つつそでじんばおり》をまとい、天下にきこえた「一ノ谷」の装《よそお》いも凛々《りり》しく、白馬に鞭打《むちう》って、まっしぐらに、稲葉山へ疾駆《しっく》した。
到着したのは、夜半。
わずか十六騎をひきつれた半兵衛を、奇襲して来たと疑う者はいなかった。難なく、質子構えに入った半兵衛は、仮病《けびょう》をとなえていた弟久作と、職工に化けていた二百人の部下に迎えられて、その苦心をねぎらい、ただちに、おのおののなすべき任務をさずけた。
翌朝、日根野、氏江、不破の三家老が、一座に会した時、半兵衛は、不意に、音もなく、踏み込み、
「天誅《てんちゅう》!」一喝《いっかつ》もろとも、まず、日根野を血煙あげさせた。
仰天《ぎょうてん》して遁《のが》れようとする氏江、不破を、さっと襖《ふすま》を開いて、十六騎が包囲した。
この時、城門という城門は傭役《ようえき》に扮《ふん》していた半兵衛|麾下《きか》二百の面々によって、占拠《せんきょ》されていた。主将竜興が、牀《とこ》を蹴って立ち上ったのは、突如《とつじょ》として、鐘の丸の警鐘《けいしょう》が、いんいんとして鳴るのをきいてからであった。
四辺の騒然たる物音は、まさしく、敵が攻め入ったことを示《しめ》していた。
血まみれの近習が駆《か》け入って来て、
「竹中重治、謀叛《むほん》にございまする!」
と、報らせた時、城外には、鬨《とき》の声が噴《ふ》きあがっていた。
竜興は、天守閣の上層《じょうそう》へ駆け上ってみて、愕然《がくぜん》となった。
稲葉山の山下を十重二十重《とえはたえ》に包囲した兵が、朝風にはためかせている旌旗《せいき》は、竹中半兵衛のものであった。その数二千余。
竜興の狼狽《ろうばい》ぶりは、後のちまで、士《さむらい》たちの笑い草のひとつになった。
竜興は、白綾《しろあや》の寝衣姿で、重代の刀をひと腰|携《さ》げたままで、近習三名とともに、搦手《からめて》から落ちて行った。のみならず、その搦手《からめて》は、竜興が遁《のが》れ出られるように、半兵衛が、わざと手勢を遠ざけて、空けておいたのである。
竜興は、いのちからがら、祖宗が築いた城を退散して、稲葉郡黒野村の鵜飼《うがい》城へ、逃げ込んだ。
だが、もとより謀叛の心はない半兵衛は、大手搦手をしっかりと閉《とざ》しておいて、城下に降りて行き、一夜のうちに布陣《ふじん》せしめた手勢二千に、厳たる軍律を課し、さらに、岐阜一円に、高札を立てて、決して内乱ではないと布告《ふこく》した。
稲葉城は、城主を喪《うしな》っても、城下は、平常通りの平和を保った。
これをきいた四隣の武将たちは、半兵衛の神謀鬼略《しんぼうきりゃく》に、驚嘆した。織田信長は、即刻、使者を遣《つかわ》して、すみやかに竜興を弑《しい》さば、その賞に美濃全州を与えよう、と言越《いいこ》した。半兵衛は、笑って、
「美濃の国が御所望ならば、戦場までお越したまわりたい、と信長公へ伝えられたし」
と、返辞した。
それから二月後、半兵衛は、稲葉城を、おのが舅《しゅうと》の安藤伊賀守に引渡し、累代《るいだい》の主君斎藤家を去った。
さらに、おのが居城菩提山も、叔父の竹中重利に預《あず》けておいて、一人|飄然《ひょうぜん》として、栗原山の麓《ふもと》に草堂を構えて、閑居《かんきょ》したのであった。
家臣らは、誰も、その草堂を訪れることは許されず、いつか、年月を経ていた。半兵衛が、どのような独居をつづけているか、知る者はなかった。いつか、竹中半兵衛の名は、諸国の武将の脳裡から薄れ、遠のいていた。
木下藤吉郎が、洲俣《すのまた》城の城主になってから、ふと、竹中半兵衛の名を思い泛《うか》べたのは、賢明であった。
織田信長の諸将が、おどろくべき大軍をもって美濃に攻め入って、一城をも奪取するを得ずして、むなしくひきあげて来た時、木下藤吉郎は、
――もしかすれば、竹中半兵衛が、斎藤家に、軍略をさずけたのではないか?
と、想像したのである。
――よし! この上は、竹中半兵衛を、味方へ招いてくれる。
決意するや、実行は早かった。
そのむかし、劉備玄徳《りゅうびげんとく》が、三|顧《こ》の礼をとって、千年に一人と称《い》われる孔明を、臥竜岡《がりょうこう》上の庵《いおり》におとずれて、軍師として迎えたことを、想《おも》ったのである。
藤吉郎は、やはり、劉備玄徳と同じく、天才児の草庵を、三度おとずれた。一度目は、留守であった。二度目は、追いかえされた。そして、三度目に、門前に、二刻以上も、待ちつづけて、ついに、対面するを得た。
容貌《ようぼう》に極端な劣等感を抱く藤吉郎は、まず、対手《あいて》の気品匂う皓歯明眸《こうしめいぼう》に打たれたに相違ない。学識においても、天地の差があった。
藤吉郎は、おのれを赤裸にむきだして、当って砕けることによって、対手の好感を得るよりほかにすべはない、と咄嗟《とっさ》に|ほぞ《ヽヽ》をかためた。
そして、それに、成功した。
半兵衛は、藤吉郎が、尋常の説客のように、とうとうとして天下国家を論じたり、誇大《こだい》な好餌《こうじ》をもって釣ろうとしたりしないのが、気に入った。
藤吉郎は、自分は土民の中から身を起した男であって、ただ、労力を惜しまず、必死に働くことだけで、ようやく一城のあるじになったが、もはやこれからは、労力や直感力だけで、おのが立場を守れるものでもなく、また、前進することも不可能ゆえ、偉大な頭脳に扶《たす》けられたいために、おうかがいした、とくどいたのであった。
半兵衛は、物静かに、微笑し乍ら、
「それがしに、孔明のごとき天下三分の計はありませぬが、敢えておたずねなら、申上げる。尾張、美濃は、わが日本の中央なり。首を取るも、尾《お》を攻めるも、ただ将帥の方寸にある。いまや旧主斎藤竜興は暗愚《あんぐ》にして図《はか》るに足らず、浅井、朝倉、六角は大名と言う木偶《でく》のみ。武田、上杉は、天下に号令するには器量が小さく、三好、松永は、ひっきょう児戯《じぎ》のみ。尾《お》に当ったる今川を撃ち滅された織田|上総介《かずさのすけ》殿が、首をのばして畿内《きだい》に進み、室町家をさしはさみ、天下に号令されれば、中原に図るべく、覇業《はぎょう》は成す可し」
と、断定した。
それから、凝《じ》っと、藤吉郎の猿貌《えんぼう》を見据《みす》えて、
「さり乍ら、魏《ぎ》に嗣《つ》ぎたるは司馬氏であり、覇権《はけん》の行方と申すものは、いつの世も、奕棋《えきぎ》に似たものに候か」
と、意味ありげに、言い添《そ》えたことであった。半兵衛は、その時すでに、やがて、天下を取るのは、この猿面冠者であろう、と看破《かんぱ》したのである。
半兵衛は、乞われて、草廬《そうろ》を出た。時に、二十三歳であった。
秀吉が、木下藤吉郎から羽柴筑前守に出世するまでに、百戦して百勝した功は、けだし、その帷幄《いあく》にあってめぐらした竹中半兵衛の智略《ちりゃく》によるものであった。
その戦歴を、いまここにくだくだしく述べる必要もあるまい。
ここでは、半兵衛がのこした逸話を、二三|挙《あ》げて置く。
ある軍議の席上、秀吉の股肱《ここう》の一人が、ふと立って行き、やがて座に戻った。半兵衛は、その中座を咎《とが》めた。士は、ちょっと照れ乍ら、
「厠《かわや》に行き申した」
と、こたえた。
とたんに、半兵衛の凛乎《りんこ》たる叱咤《しった》がとんだ。
「お手前は、敵騎《てきき》が目前に襲って参るのを見て、のこのこと便所に入られるか? 催《もよお》したならば、具足の下に垂れ流しにされるであろう。お手前は、敵騎の首級を挙げることよりも、軍議の方を軽んじて居られるか。軍議と申すものは、それによって、わが軍勢が勝つか負けるかが決定する最も大事であり申す。お手前が、敵騎の首をひとつや二つ刎《は》ねるのとは、比べもならぬ。便を催さば、この座でされい」
いささか、だれぎみであった軍議の席は、一瞬にして、ひきしまったことであった。
半兵衛の深智は、微《び》に入って、能《よ》く事理《じり》を弁《べん》じ、人々の意表を衝《つ》いた。
士たちは、戦場を疾駆《しっく》するために、すこしでも良い馬を欲しがった。秀吉も、しきりに、家臣を遣って、駿駒《しゅんく》をさがさせた。
半兵衛だけは、べつに、求めようとしなかった。
ある出陣の前夜、半兵衛は、旗本の居|並《なら》んだ際、それぞれが自慢の馬を見渡して、
「お手前らの騎馬は、いずれも分に過ぎたる値《あたい》をもって購《あがな》われたと存ずる。さり乍ら、いざ戦場に馳《は》せ入って、よき敵と見かけ、追い詰めて、跳び降りんとする時、あるいは、槍を合せんと、馬をすてる際、馬|副《ぞ》えの家来が続いて居らざるゆえ、馬は矢玉におそれ、何処かへ走り去ることがあり申す。また、せっかく高価で手に入れた駿馬を、失ってはならぬ、という気持から、兎角、功をたてる機を失う場合もないとは申せぬ。いやしくも、士は、十両で馬を買わんとするに、まず五両で求めるがよろしかろう。惜気《おしげ》もなく、とび降り、乗りすててもかまい申さぬ。そのあとで、また五両で、他の馬を求むべし。馬に限らず、何事も、この心得が肝要《かんよう》と存ずる」
と、教えて、一同を、成程と合点させた。
半兵衛は、目下の者たちに対してだけではなく、秀吉やその重臣たちに対しても、すこしも、その厳しい態度を変えなかった。
黒田官兵衛|孝高《よしたか》は、秀吉から、我が立身すれば、汝にその半分の知行を与えよう、という誓文《せいもん》をもらっていた。しかし、秀吉は、次第に立身したが、一向に、その誓文を実行する様子はなかったので、内心不平を抱いていた。
ある日、半兵衛が孝高の許を訪れた時、孝高は誓文の事を言い出して、不平の表情を示した。半兵衛は、その誓文を拝見いたしたい、と申出た。
孝高から、それを受けとった半兵衛は、一読したのち、一言も言わずに、ま二つに引裂いて火鉢の火の中へ投じた。
孝高が、憤然《ふんぜん》となって、迫ると、半兵衛は、穏かに微笑して、
「この誓文があればこそ、不平も発し、不勤も起り申す。されば、この誓文は、足下のためには、不吉のもの故、破り棄つるに如かず、と心得申した」
と、こたえた。孝高は、大いに悟るところがあった。
竹中半兵衛が、忽焉《こつえん》として、秀吉の前から姿を消したのは、本能寺において、明智光秀によって信長|憤死《ふんし》の急報がとどいた時であった。
――いよいよ、天下は、この猿面《さるめん》のあるじのものとなろう。
半兵衛は、そうさとるや、覇主《はしゅ》との反目《はんもく》や軋轢《あつれき》の起らぬうちに、去ったのである。逝《い》ったのではなかった。
秀吉は、去られた、と発表するのをはばかって、死去した、と触《ふ》れたのである。
半兵衛が、供《とも》に連れたのは、伊賀|忍《しの》び衆《しゅう》の頭目であった波賀彦十郎ただ一人であった。
波賀彦十郎は、半兵衛に心服《しんぷく》し、伊賀忍び衆の頭目たる地位もすてて、一下僕たることにあまんじ、そして、終生忠勤をはげんだのであった。
半兵衛は、再び、栗原山の草堂に還《かえ》って来た。
波賀彦十郎は、里娘を妻にもらい受け、夫婦ともども、半兵衛に仕えた。その子に、彦太郎、八重の兄妹が生れたが、彦十郎は、二人に、忍びの術を仕込み乍ら、半兵衛に対する忠誠心を植えつけたのであった。
いま――。
八十の翁になった半兵衛は、豊臣秀頼の嗣子国松を拉致《らち》して来た波賀彦太郎に向って、短剣をさし出して、
「その幼な児の胸を刺せ!」
と、命じた。
彦太郎は、一瞬、主人の気が狂ったのではないか、と疑った。
妹八重の生命を犠牲にしてまで、奪って来た国松であった。
「彦太郎、わしの意《こころ》が判らぬか?」
「わ、わかりませぬ!」
彦太郎は、主君を睨《にら》みつけた。
「そちが、守り育てて、天下を奪いかえす野望をうえつけるのは、このお子の不幸だ、と申すのだ。徳川家康は、いま日本を統一し、百年、いや二百年、三百年の平和をつづかせる経綸《けいりん》を為しつつある。そのために、豊臣家が滅びるのも、また、やむを得まい。この御子ひとりを生きのびさせたところで、どうなるものでもない。ただの土民として成長させるのもあわれであれば、ただいま、無心のうちに逝《い》かせる方が、慈悲かも知れぬ」
「い、いやでござりますぞ! わ、わしは、ど、どうしても、若君様を……」
狂気のごとく、たけり立つ彦太郎を、しばらく見戌《みまも》っていた半兵衛は、やがて言った。
「されば、そちに命ずる儀がある」
厳然たる態度に、彦太郎の狂気はおさまった。
「わしの一書を持参して、大阪城へ忍び込み、秀頼公御自身に手渡しせい。手紙には、秀頼公お一人で、供を一騎もひきつれずに、この草庵へ参って、御子を受けとられるように、すすめておこう。もし秀頼公に、その勇気がおありならば、わしは、大阪城に入り、再び軍師として、徳川家康を、撃ち破ってみせよう。秀頼公に、お一人で、此処へ参られる勇気がなければ……それまでじゃ」
五日後――。
彦太郎は、茫然《ぼうぜん》たる様子で、栗原山に戻って来た。
秀頼に、単身《たんしん》、わが子を受けとりにやって来る勇気などあるべくもないのを、彦太郎は、見とどけて来たのである。
草堂に入った彦太郎は、主人の姿も、国松の姿も消え去って、さむざむとした静寂《せいじゃく》が占めているのを、みとめた。
やがて、彦太郎が見出したのは、裏手のくさむらに建つ二つの墓碑であった。
ひとつには、
「老」
もうひとつには、
「幼」
の一字が刻まれてあった。
佐々木小次郎
天正四年十一月二十五日、伊勢の国司・多芸《たき》御所、北畠|具教《とものり》は、織田信長の謀計《ぼうけい》によって、重臣ことごとくから裏切られ、内山里の館《やかた》を、織田の精鋭五千に十重二十重《とえはたえ》に包囲されて、戦死し、ここに准后親房《じゅんこうちかふさ》から九代、百六十万石の太守は、滅《ほろ》びた。
多芸御所・具教は、半年ばかり前から、からだの衰えを感じ、労咳《ろうがい》かも知れぬと思って、隠居していた大河内城を出て、暖かい内山里の館に移っていたのである。
労咳ではなく、実は、すこしずつ、食膳に、毒を盛られていたのであった。
信長に内通した木造具康《きづくりともやす》、津川|玄蕃允《ばんばのすけ》、田丸|中務少輔《なかつかさしょうゆう》ら伊勢四|管領《かんりょう》の北畠一族が、密議をこらして、その奸策《かんさく》を為《な》したのである。
多芸御所は、それより七年前、足利義昭を奉じた信長と講和し、信長の次男|茶筌丸《ちゃせんまる》を養嗣子《ようしし》にし、その三男三七丸を北伊勢の名家|神戸蔵人大夫具盛《かんべくらんどのたいふとももり》の後継者にした。そして、いまや、茶筌丸は北畠|信雄《のぶかつ》と名のって、南伊勢の府城《ふじょう》(霧山城)の当主となっていたし、三七丸は、神戸信孝と名のって、同じく神戸家の主になっていた。
多芸御所が、よもや、信長から、滅されようなどとは、夢にも思っていなかったのは、当然である。
払暁《ふつぎょう》――。
多芸御所の夢を破ったのは、館へ押し入って来た、霜柱を踏む夥《おびただ》しい跫音《あしおと》であった。その跫音が、具足武者《ぐそくむしゃ》のものであることは、即座に察知できた。
――何者どもの推参《すいさん》か?
もとより、咄嗟《とっさ》に判断し難いままに、多芸御所は、純白の寝衣姿を、音もなく起き上らせて、床の間から、愛刀藤四郎を把《と》った。
毒を盛られて、五体が衰弱しているとはいえ、塚原卜伝《つかはらぼくでん》から「一の太刀」の奥義《おうぎ》を受け、上泉信綱から、新陰《しんかげ》流の極意を伝授された多芸御所であった。ただの大名ではなかった。
寝間の中央に立って、ひしひしと包囲の輪をせばめて来る軍兵《ぐんぴょう》の、殺気|凄《すさま》じい気配に耳をすませていると、不意に、高らかな声が、かかった。
「不智の卿に申上げる。織田信長|麾下《きか》、主命によって、御首級《みしるし》頂戴つかまつる」
これをきくや、多芸御所は、勃然《ぼつぜん》たる憤怒《ふんぬ》で、総身が火と燃えた。
しかし、すぐに、その憤怒を抑えて、
――おのれを嗤《わら》うことぞ!
と、自嘲《じちょう》した。
七年前、信長の勢威に屈《くっ》して、その次男三男を迎える屈辱《くつじょく》に甘んじたおのれが愚かだったのである。のみならず、信長が、いかに残忍酷薄な武将であるかも、かねてより、聞き知っていた具教である。
――北畠家も、今日をもって、この世から払われるか。
多芸御所は、黯然《あんぜん》として、呟《つぶや》いた。
すでに、嫡男具房、次男|藤教《ふじのり》、三男式部大輔らのいる大河内城も、大軍によって包囲されているに相違ない。
――やんぬる哉《かな》!
ひえびえとした畳を、音もなくすべって、広縁へ出ようとすると、背後の二の間との仕切り襖《ぶすま》が開いて、
「おん殿!」
ひくいが、鋭い声が、かかった。
側室|須摩《すま》が、刀を立てて、片手をついていた。
そのかたえには、今年三歳になる小次丸《こつぎまる》が、つぶらな眸子《まなこ》をいっぱいにひらいて、立っていた。
須摩は、小柳生《こやぎゅう》谷の城主柳生但馬守|宗厳《むねよし》の女《むすめ》であった。この年、二十一歳。四年前に、宗厳から、送られて来て、具教の側室になり、小次丸を生んでいた。
女子《おなご》乍ら、血はあらそわれず、武芸におそるべき天稟《てんぴん》をそなえていた。気性も激しく、しばしば、具教に、試合を挑んで、辟易《へきえき》させていた。
多芸御所は、咄嗟《とっさ》に、大河内城のわが子らが討死してしまえば、北畠家の血を絶やさぬためには、この小次丸を遁《のが》すことよりほかはない、と思いついた。
「須摩、小次丸を生かせい。育てて、一流の兵法者《ひょうほうしゃ》にせい。これが遺言じゃ」
多芸御所は、須摩の返辞をきくいとまもなく、蔀《しとみ》を破って躍り込んで来た一番乗りの敵兵を、水もたまらず、斬り伏せておいて、広縁へ、出ていた。
宿直《とのい》の士は、二十人にも足らず、あとは足軽と侍女ばかりであった。
多芸御所が、三四人を斬り払って、庭へ跳んだ時には、もう、宿直の士らは悉《ことごと》く斃《たお》れたらしく、どこにも、争闘の物音はなかった。
多芸御所は、周囲に刀槍の垣をめぐらされ乍ら、阿修羅《あしゅら》とはならず、向って来る敵を、ただ一太刀ずつで、地に仆《たお》していた。
白衣を真紅《しんく》に染めて、凄じい利剣の冴《さ》えを発揮するその姿は、人間ばなれした妖気を湛《たた》えていた。
不意に、屋内が騒然となった時、はじめて、多芸御所は、その無念無想を破られた。
須摩が、襲われたのである。
多芸御所は、小次丸を小脇にかかえ、衂《ちぬ》られた白刃を携《ひっさ》げて、走り出て来た須摩をみとめて、それをかばうべく、猛然と、敵陣の一角を衝《つ》いた。
須摩もまた、多芸御所へむかって、死にもの狂いに、近づこうとした。
敵兵らは、魔神が揮《ふる》うにも似た目にもとまらぬ二人の働きにたじたじとなって、その道を空《あ》けた。
多芸御所は、須摩の手から、小次丸を取るや、いきなり、その小さなからだを、空へ抛《ほう》りあげた。
この館《やかた》とともに老いた巨松が、はるかな高処《たかみ》に、太枝をさしのべていたが、小次丸は、気も失わずに、それへしがみついた。
「小次丸! 父が最期を、よっく見とどけい!」
言いざま、多芸御所は、須摩に当て身をくれておいて、敵陣へ、躍《おど》り込んで行った。須摩に当て身をくれたのは、斬り死させまいためであった。
多芸御所の血まみれな姿が旋《つむじ》風のように翻転《ほんてん》するところに、絶鳴がほとばしり、血煙とともに、腕が、首が、刎《は》ねとんだ。
その阿修羅にむかって、討手もまた、悪鬼になって、刀を、槍を、揮《ふる》って、襲いかかった。
東天を掩《おお》うた雲が割れて、朝陽《あさひ》が、そこへ幾条《いくすじ》かの箭《や》になって、降りそそいだ時、地上には、二十体もの屍骸が、横たわっていた。
多芸御所は、松の幹に凭《よ》りかかり、折れた藤四郎をダラリと携げて、半眼に閉じていた。その腹には、二本の槍が突き刺さっていた。
襲撃兵たちは、武器を引いて、包囲の陣形をとり、粛然《しゅくぜん》として、剣聖と称ばれた稀有《けう》の技《わざ》の持主の最期を見戌《みまも》っていた。
隊長|新免武蔵守《にいみむさしのかみ》が、しずかに、歩み寄って、
「御所――」
と、呼びかけた。
反応はなかった。
「天晴れのお働きでござった。後の世までの語り草に相成り申す」
鄭重に、頭を下げた。
それから、兵らに、「引きあげい」と命じた。
「隊長、あの嬰児《えいじ》を――」
一人に指さされて、武蔵守は、頭上を仰いだ。
枝にしがみついた三歳の児童は、眦《まなじり》を切れんばかりに瞠《みひら》いて、見下していた。
武蔵守は、微笑した。
「わっぱ! わしは、新免《にいみ》武蔵守|一真《かずざね》という。おぼえておいて、成育のあかつきには、父の讐《あだ》を復《う》ちに参れ」
すると、それに応《こた》えて、後方から、
「おお! 討たいでか! おぼえておるがよい!」
鋭い叫びが、発しられた。
意識をとりもどした須摩が、幽鬼《ゆうき》のように、地べたに坐っていたのである。
それから、三十余年の星霜《せいそう》が移った。
花にはまだ旬日《じゅんじつ》あろう早春の夜あけ、加茂川の白い流れをはるか眼下にする東山三十六峰の中腹を匐《は》う杣道《そまみち》を、蓬髪粗服《ほうはつそふく》の牢人者が、非常な迅《はや》さで、進んでいた。
六尺ゆたかの巨漢《きょかん》で、面貌《めんぼう》もまた、顴骨《かんこつ》が異常に突出し、大きな眸子《ひとみ》と眸子が、鼻梁に切れ込むほど接近して、一瞥《いちべつ》只者でない骨相をしていた。
作州《さくしゅう》牢人・宮本武蔵|義恒《よしつね》は、一乗寺山麓《いちじょうじさんろく》・藪之郷下《やぶのごうさが》り松《まつ》へむかって、足をはやめていた。
そこに、扶桑《ふそう》第一と称する吉岡道場の面々およそ二百二十余名が、吉岡家の跡目相続人である今年十一歳の壬生《みぶ》源次郎を擁《よう》して、武蔵を待ちかまえていた。
宮本武蔵は、前年暮に、吉岡道場の当主清十郎と、蓮台寺《れんだいじ》野で立合って、木太刀の一撃で、右肩を微塵《みじん》に砕《くだ》いていた。そして、この年正月七日、粉雪の舞う三十三間堂で、清十郎の弟伝七郎と決闘して、これを、ま二つに斬りすてていた。
吉岡道場としては、いかなる手段をもってしても、宮本武蔵を討ち取らなければ、面目が立たなくなったのである。
吉岡道場側は、一方的に、京の都の辻々に、宮本武蔵との果し合いの高札を立てた。
道場全員が、一乗寺山麓の下り松に集り、鉄砲、弓矢を持って、八方の物蔭にひそんで、待ちかまえるであろうことを、武蔵は、百も承知して、約束通り、そこへおもむこうとしているのであった。
当然――。
武蔵は、敵がたが、待ち伏せている三つの道筋を避けて、意外の方角をえらんで、進んでいた。
一乗寺山の一面は、人跡未踏《じんせきみとう》の、断崖で、しかも、大竹藪に掩《おお》われている。武蔵は、そこをすべり降りて、敵方が思いもかけぬ奇襲を敢行《かんこう》する作戦をたてていた。
下り松を、竹藪の下に見下す台地へ出た武蔵は、ふと、杉の喬木にかこまれている古びた八幡の社を見つけた。
――勝利を祈ろう。
社壇に進んで、神前に下っている鰐口《わにぐち》の緒を掴《つか》んだ。
まさに、それを振ろうとした刹那《せつな》、
「怯《お》じたか、宮本武蔵!」
突如《とつじょ》、冴《さ》えた声が、暗黒の拝殿内から、その一喝《いっかつ》をあびせかけた。
武蔵は、鰐口の緒をはなして、一間も跳び下った。
格子戸を左右に押し開いて、すっと現れたのは、武蔵より数歳上かと思われる牢人者であった。
しかし、その姿は、およそ武蔵と対蹠的《たいしょてき》であった。総髪を手一束に切りそろえて、肩までたらし、眉目《びもく》は化粧でもしているのではないかと疑いたくなるほど端麗《たんれい》で、肌理《きめ》こまかに白く冴《さ》え、頤《あご》の線や丸味は女のように優雅でさえあった。猩々緋《しょうじょうひ》の袖無し羽織に、染革の|たっつけ《ヽヽヽヽ》袴をつけ、麻うらに皮紐の草鞋《わらじ》をはいていた。そして、肩には、四尺にもあまる長剣を背負うていた。
「……」
「……」
一瞬の睨《にら》みあいが過ぎると、対手《あいて》は、口を開いた。
「それがしは、中条《ちゅうじょう》流|富田勢源《とだせいげん》が門弟にて、巌流《がんりゅう》・佐々木小次郎と申す」
「吉岡道場に荷担《かたん》されて、ここに待ち伏せて居られたか」
武蔵は、対手が、宙《ちゅう》を躍《おど》って来るのを警戒しつつ、それをたしかめた。
「さあらず。まず、糺《ただ》し置きたき儀がある」
「……何か?」
「お主《ぬし》は、宮本武蔵と名乗って居らるるが、本姓は、新免《にいみ》と言われるな?」
「左様――」
「新免武蔵守|一真《かずざね》とは、いかなる属柄《ぞくへい》か、うかがおう」
「新免一真は、それがしの実父にて候」
播州《ばんしゅう》赤松氏の族で、揖東《いとう》郡林田の城主に、新免伊賀守という武将がいた。武蔵の父武蔵守一真は、その子孫であった。赤松円心の曾孫別所長治に仕えて、兵法の妙手として名高かった。狷介固陋《けんかいころう》の強烈な性格の持主で、主人長治と、些細《ささい》な事柄で意見が衝突し、そのまま、別所家を退散して、諸国を徘徊《はいかい》していたが、たまたま、岐阜城において催された武芸試合に出場して、秀《すぐ》れた業前《わざまえ》をみせたのが縁になり、食客の位置で、侍大将分の手勢を与えられたのであった。
南伊勢を襲うて、多芸御所・北畠具教の首級を挙《あ》げるように、命ぜられたのは、その頃のことであった。
しかし、新免武蔵守一真は、天正八年正月に、信長が、おのが旧主別所長治を滅したのを機会に、岐阜城を辞《じ》し、再び、牢人者の境遇にかえり、揖保《いほ》川の支流沿岸の宮本村に、寓居《ぐうきょ》を編《あ》んだ。宮本武蔵は、そこで生れ、育った。
雌雄《しゆう》剣伝に拠《よ》れば、
「父一真は、武蔵の生れた時、骨格|逞《たくま》しく、将来非凡の勇士たるべき祥瑞《しょうずい》を契《ちぎ》つて、源義経の忠良武蔵坊弁慶にもあやかれ、とて弁之助と名付けたり。成長の後、武蔵と更名したるは、父武蔵守からとりしにあらず、武蔵坊よりとりしものなるべし」
と、いう。
義恒《よしつね》というのも、源義経からとって、一字を変えたのである。
新免武蔵守一真が、実父ときいて、佐々木小次郎と名のる兵法者は、にやりとした。
「宮本武蔵! お主の生命を奪うのは、吉岡道場の面々にあらず。この佐々木小次郎と決った」
「……?」
「それがしは、三十年前、わが父北畠具教が、お主の父新免武蔵守に襲われて、斬り死するさまを、つぶさに見とどけた。その際、武蔵守は、それがしにむかって、成長のあかつき、復讐のことあるべし、と言うた。しかし、それがしが、一流を樹立せし時は、すでに、武蔵守は、この世に亡《な》かった。ただ、その嫡子が、兵法者となって、諸方を武者修業をしているときき、捜《さが》しもとめていたところ、吉岡道場と闘うお主――宮本武蔵こそ、その一子にまちがいなし、と合点《がてん》した次第だ。……お主と雌雄を決するのは、宿縁によって、この佐々木小次郎を措《お》いて外にはない!」
昂然《こうぜん》としてうそぶく佐々木小次郎を、凝《じ》っと仰いでいた宮本武蔵は、しかし、それに対して、一語も返さず、軽く一揖《いちゆう》すると、社殿をはなれた。
「武蔵! 忘れるな!」
佐々木小次郎は、後姿にむかって、鋭い声を投げた。武蔵は、ふりかえらず、歩みも停めなかった。
宮本武蔵は、後年、その「五輪の書」の中に於て、次のように、記している。
[#ここから2字下げ]
『剣を踏むといふ事。
剣を踏むといふ心は、兵法に専ら用ふる儀なり。まづ大いなる兵法にしては、弓鉄砲に於ても、敵、我方に打ちかけ、何事にしても仕懸くる時、我は其後にかからんとするによりて、敵は更らにまた弓を使ひ、また鉄砲に薬をこめて打出す故、踏み入り難し。我は、敵の弓鉄砲にても放つうちに、早くかかる心也。早くかかれば、矢も使ひ難し、鉄砲も打ち得ざる心なり。(中略)敵の打出す太刀は、足にて踏み付ける心にて、打出すところを勝ち、二度目を敵の打ち得ざるやうにすべし。踏む、といふは、足には限る可らず、身にても踏み、心にても踏み、勿論太刀にても踏み付けて、二の目をよく敵にさせざるやうに心得《こころう》べし』
[#ここで字下げ終わり]
一乗寺山麓・下り松に対する武蔵の奇襲は、まさに、それであった。
敵二百二十余名の盲点を衝《つ》いて、逆落しの断崖を掩《おお》うた大竹藪から、猛虎に似た凄《すさま》じい勢いで躍り出た武蔵は、そのあまりの不意の出現に、吉岡道場の面々が愕然となった隙に、まっしぐらに、下り松に突入して、そこに立った名目人|壬生《みぶ》源次郎(十一歳)の恐怖をあふらせた幼《おさ》な首を、空中高く、刎《は》ねとばしていたのである。
次いで、その左側に立っていた後見人吉岡又七郎(七十八歳)の白髪首をも、両断しておいて、悪鬼のごとく、地上を掠《かす》めて、ふたたび大竹藪に、身をかくしてしまった。
名目人と後見人を討ち果せば、吉岡一門に完全に勝ったことを意味した。武蔵としては、当然為すべきことを為したのである。
おかげで、岩蔭に、樹蔭に、藪中に、凹地に伏せていた道場の門弟たちは、一人のこらず、おめいて、飛び出して来た。いわば、たった一人の武蔵に、狩り出される結果になってしまった。鉄砲も弓矢も、なんの役にも、立たなかった。
「槍っ!」
「槍だっ! 槍組っ、はやくっ!」
吉岡十傑の一人小橋|蔵人《くらんど》が、狂気のように呶号《どごう》して、武蔵を追って、大竹藪へ五体を弾《は》ね入れた。
太い竹の密生した藪の中では、刀よりも槍の方が、得物《えもの》として利があった。
しかし、槍組は、それぞれ、武蔵がいずれからか出現するであろう三筋の道に伏勢として配置されていたので、そこへ駆け集るには、時間が、かかった。
ようやく、槍組が、竹藪の中へ殺到した時、そこには、小橋蔵人ほか六七名の人の屍骸《しがい》が横たわっているだけで、すでに、武蔵の姿はなかった。
門弟衆が、武蔵の姿を発見したのは、それから今日の時間にして、二十分も過ぎてからであった。
二百二十余名が、血眼になって捜しもとめたが、武蔵は、天に翔《か》けたか、地底にもぐったか、踪跡《そうせき》を絶ってしまっていた。
武蔵は、大竹藪のかたわらに建っているかなりな百姓家の藁|葺《ぶ》きの切妻屋根に、ぴたっと臥《ふ》していたのである。
躍起《やっき》に馳せめぐる跫音《あしおと》が、遠のいたのを見すまして、頃合よし、と屋根から跳んで、一散に、藪道を奔《はし》りはじめた。
しかし、ものの半町も行かぬうちに、武蔵は、
「う、むっ!」
と、眦《まなじり》を裂いて、闘志を全身から噴出させた。
そこに、五十名をこえる敵勢が、待ち構えていたのである。
声を絶ち、跫音《あしおと》を消していたのは、道場の高足たちの流石《さすが》な智能ぶりであった。一門は、四方に分れて、息をひそめて、武蔵の出現を待っていたのである。
武蔵の姿を発見するや、五十余名は、天地にとどろく鯨波《げいは》をあげた。他の三方にいる味方たちに、報《し》らせたのである。
武蔵は、のがれられぬ、と死を覚悟した。
その時である。
「宮本武蔵! お主は、ここでは果てぬぞ」
その冴えた声が、頭上から、降ってきた。
喬木《きょうぼく》から、大鷲のように、猩々緋《しょうじょうひ》の羽織をひるがえして、地上へ飛び降りて来たのは、佐々木小次郎であった。武蔵の立った地点とは反対側の、吉岡一門の背後であった。
「お主を果てさせぬために、この佐々木小次郎が助勢いたす」
言いざま、背負うた四尺余の長剣を、ぎらりと抜きはなった。
同時に、武蔵もまた、大小二刀を鞘走《さやばし》らせて、それを水平に、前面へさしのべていた。
武蔵が、二刀を使ったのは、この時が、はじめてであった。
後年、武蔵は、記している。
武士は、二刀を帯びている。我が一流を、二刀一流と名付けるは、常に佩《お》びるところの二刀を、充分に活用するにある。一命をすてる時は、道具を残さず役に立てたきもので、道具を役立てずに、腰に納めたままで死ぬことがあってはならぬ。その真意は、常に、双手《そうしゅ》二刀を揮《ふる》うことではなく、隻手《せきしゅ》をもって一刀を揮《ふる》うことである。馬上、川沿い、細道、磧《かわら》、人ごみ、沼地の畔《ほとり》などを、疾駆《しっく》する時には、当然、太刀は片手で使わなければならぬ。されば、隻腕《せきわん》を以て揮う修練ができて居れば、死地にあっては、双腕を以て揮う、ということもできるのである。
この理《ことわり》もまた、武蔵が、実戦によってさとったことである。
武蔵の二刀と、佐々木小次郎の物干竿と名づける長剣が、その細道上に閃《ひらめ》いて、斬った人数は、実に三十七体をかぞえた。
陽が高く昇った頃あい、武蔵の姿は、再びその古い八幡社の前に在った。
右手に太刀、左手に脇差を、掴《つか》んだままであった。はなそうとしても、はなれなかったのである。
十指は、柄《つか》を掴《つか》みしめたまま、化石したごとく凝結《ぎょうけつ》していた。
無数の傷から流れる血汐と返り血で、蓬髪《ほうはつ》から草鞋足《わらじあし》まで、血の海から匐《は》い上って来たような悽愴《せいそう》な姿になっていた。
双眸は、なお殺人鬼の狂的な光を放っていた。
ふと――われにかえって、八幡社を視《み》た。
――そうだ、おれは、神を恃《たの》もうとした。
佐々木小次郎の出現がなければ、そうしたに相違ない。事に臨んで、心を変ぜざるのは、いかにむつかしいことであろうか。
――いまこそ、神の前に、ぬかずいて、生きのこった悦びを告げるか。
そう思って、武蔵は、拝殿へ近づいた。
そして、歯で、曲った双手の指を噛み延ばして、二刀をすてると、御手洗の水で、顔を洗い、口漱《くちすす》いでから、鰐口の鈴から垂れている一条の綱を、把った。
とたんに――、
「武蔵!」
暗黒の内部から、声があった。
それを神の声と、錯覚したとしても、これは、武蔵の心気が衰弱していたせいではなかったろう。
よもや、そこに、佐々木小次郎が戻っている偶然があろうなどとは、夢にも考えられなかったのである。
「礼には、及ばぬ」
次の、その言葉をきいて、武蔵は、あっとなった。
眸子《ひとみ》をこらして、格子の中を、窺《うかが》った。
佐々木小次郎は、昏《くら》い板の間に、死体のように仰臥していた。
「果し合いの儀、約束せい」
小次郎は、言った。
「承知した。条件は?」
「ここ半年うちに、天下の耳目を集めて、堂々と、やる。なろうべくんば、何処かの大大名を、検分役にたのもうぞ」
「心得た」
武蔵は、再び、鈴を鳴らすことなく、そこから立去らねばならなかった。
慶長十七年四月十三日、辰《たつ》の上刻(午前八時)、関門海峡の孤島・船島において、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことは、ここにあらためて記すまでもない。
決闘までの経緯は、吉川英治著「宮本武蔵」を一読されたい。
当「立川文庫」に於ては、前書が記すことを忘れた決闘直後の模様を、細川家の家老長岡佐渡の日誌によって、書いておくものである。
……試合は、熄《おわ》った。
武蔵は、六尺の長身を、三尺に縮《ちぢ》めて、宙を翔《か》けたあと、膝まで海水に浸けて、立っていた。
いま、宙を翔けつつ、小次郎の脳天へ電光の一閃をくれた櫓《ろ》を削《けず》った木剣を、右手に、ダラリと携げて居り、木剣の先は、波にあらわれていた。
小次郎は、十歩ばかりはなれた汀《みぎわ》に仆《たお》れていた。
砂の上に横臥《よこぶ》しになり、物干竿と名づけた備前長光《びぜんながみつ》の大業物《おおわざもの》を、まだ握りしめた右腕をまっすぐにのばし、その上膊《じょうはく》へ顔を載せていた。
目蓋《まぶた》を閉じた顔には、みじんの苦痛の色も滲《にじ》んではいない。ねむっているようであった。
そろえて延べられた両足を、磯波の水泡《みなわ》が寄せて来て、濡《ぬ》らしていた。
武蔵は、サクサクと砂を踏む跫音《あしおと》に、ふと、われにかえって、視線をまわした。近づいて来たのは、白絹で首をつつんだ比丘尼《びくに》であった。
武蔵は、眉宇《びう》をひそめて、
「回向《えこう》は、まだ早い」
と呟いて、ザブザブと水を踏んで、上って来ると、小次郎のかたえに、膝を折った。
その横臥《よこぶ》しの顔の鼻へ、掌《てのひら》をあててみた。まだ、微かな息がある。
武蔵は、立ち上ると、
「手当によっては、たすかろう、尼どのよりも、医師《くすし》が必要だ」
そう言った。
比丘尼は、凝《じ》っと、武蔵を正視《せいし》して、
「わたくしは、小次郎の母に候」
と、言った。
「……」
武蔵は、母と名のり乍ら、悲嘆《ひたん》の気色《きしょく》をみじんもみせず、いっそ冷やかなまでに、ものしずかな態度を持している白衣の姿へ、鋭い凝視《ぎょうし》をくれていたが、ふっと、そらすと、遠く、竜胆《りんどう》の紋のついた幔幕の前に腰かけている細川家の検使に向って、歩き出していた。
すると、比丘尼は、つと、小次郎に近よって、造作もなく、その長身を、双腕に乗せて持ち上げると、汀をつたって、すこしはなれたところにいる小舟へ向った。
比丘尼が乗って来た小舟であろう。
比丘尼と小次郎を乗せた小舟は、磯《いそ》をはなれた。
比丘尼は、小次郎の頭を膝に乗せて、眼眸《まなざし》を、はるかな検使場へ送った。
そこに立って、勝利を報告している宮本武蔵を、視《み》やり乍ら、
「……」
微かに唇をうごかした。
三十余年間、わが子を、守り育てて、一心不乱に、一流兵法者となるべく修業させ、そして、そうならせたのが、水の泡であったことを、さみしく呟いたのであったろうか。
二年後、関東と大阪と手切れになり、冬の陣が起り、それは、大阪側の屈辱的な条件を容《い》れる講和をもって、和平をもたらした。
その直後のことである。
真田左衛門佐幸村は、猿飛佐助をつれて、京の都へ、忍《しの》び視察《しさつ》に出かけた。
伏見城の周辺から、下京《しもぎょう》、上京《かみぎょう》をひと巡りしてから、午後になって、実相院《じっそういん》北の辻に、大きな屋敷を構えている刀師の本阿弥光悦をおとずれて、半刻ばかり閑談してから、辞去した。
澄んだ綺麗な水の流れる有栖川《ありすがわ》に沿《そ》うたこの地域は、戦火からまぬかれて、公卿屋敷や比丘尼寺などが、古びた床しいたたずまいを、つらねて、洛内でも一番静かな住い地である。
どこかで、のんびりとした蹴鞠《けまり》をはねあげる音がきこえて来たりした。
空は明るかったが、影が長くなり、冬陽《ふゆび》にあたたかみが乏《とぼ》しく、この静寂はなにか侘《わび》しいものに感じられた。土塀から、さし出された樹木も、裸《はだか》になったのが多く、枝は鋭く、青空を刺《さ》していた。
突如《とつじょ》――。
魂消《たまぎ》る悲鳴が、明るい宙をつらぬき、つづいて、あわただしい物音が起った。
真田主従は、立ちどまった。
川をへだてた向い側の、とある寺の山門から、ふらりと、現れた人物を、主従は、黙って、眺めた。
小脇に、死んだようにぐったりとなった青あたまの比丘尼をかかえ、右手に、おそろしく長い白刃を携《さ》げている。
蓬髪敝衣《ほうはつへいい》である。ぼろぼろになった猩々緋《しょうじょうひ》の袖無し羽織をつけているのも、いっそみじめったらしい。
真田主従に、奇怪な思いをさせたのは、その面貌《めんぼう》が、痴呆《ちほう》そのもので、口はしから、|よだれ《ヽヽヽ》さえ流しているにも拘《かかわ》らず、その痩身《そうしん》に、兎《う》の毛で突いたほどの隙もないことであった。
常人の目には、ふらふらと歩く姿は、ただ不気味なものにしか映《うつ》らないであろう。しかし、その姿に、剣魔と称してもよいおそるべき技がひそめられているのを、看破《かんぱ》できる者は、ザラには居るまい。
げんに、彼方の辻をまがって来た大兵《だいひょう》の武士が、それを認めて、何か大声で叫んで、ずかずかと近づいて来るや、
「痴《し》れ者! 尼をはなせ。成敗してくれる」
と、呶鳴った。
新刀でも、入手して、斬れ味をためしたかったのであろう。
掠奪者《りゃくだつしゃ》の方は、武士が抜刀して大上段にかまえても、比丘尼をはなそうともせず、依然《いぜん》たるうつろな没表情のままであった。
武士は、懸声《かけごえ》凄じく、斬りつけた。
瞬間――掠奪者の白刃は、その一撃に対して、横|薙《な》ぎの一閃《いっせん》を合せた。
武士の首は、血の尾をひいて、冬空を舞い、胴体は、有栖川に高い飛沫《ひまつ》をあげた。
掠奪者は、何事もなかったかのように、ふらりふらりと歩いて行く。
「佐助――」
「はい」
「あの尼を救うて参れ」
「彼奴は、いかがいたしましょう?」
「お前には、討てまい。強すぎる」
佐助は、せわしく、まばたきしたが、黙って、主人のそばをはなれた。
掠奪者が、佐助に尾《つ》けられるにまかせて、入って行ったのは、程遠からぬ辻の一角に建っている崩《くず》れかかった阿弥陀堂《あみだどう》の中であった。
どうやら、そこを住居としている模様であった。
薄暗い板の間に、さらって来た比丘尼をそっと仰臥《ぎょうが》させると、浮浪者は、しばらく、その寝顔を、瞶《みつ》めていた。比丘尼は、もう初老で、中性化した色も艶もない相貌《そうぼう》をしていた。
急に――。
浮浪者の顔が、悲しげに歪《ゆが》むと、よだれを垂らしつづけるその口から、もらされたのは、
「母上!」
それであった。
別に悲痛な声音《こわね》ではなかった。痴愚の脳裡が恋うている間《ま》のびのしたひびきをもっていた。
「母上は、やっぱり、生きとったぞ。なぜ、わしに、かくれて、あんなところに、いたのだ?……そうか。わしが、宮本武蔵に敗けたので、きらいになったのだな。そうだろう。……母上、わしは、母上に」
あとは、何やら、口のうちで、ぶつぶつと呟《つぶや》き乍ら、垢《あか》まみれの双手《そうしゅ》をさしのばして、比丘尼の襟もとを、はだけさせた。
初老乍ら、男を知らずに、法衣の内にかくして来た肌は、意外に白く、豊かであった。ただ、乳房は、いかにも肉が薄く、小さかった。
浮浪者は、そこへ、顔を寄せると、くんくんと、鼻孔を鳴らした。それから、乳首をくわえた。
その触感で、比丘尼の意識が蘇《よみがえ》った。
うすぼんやりと、目蓋《まぶた》をひらいたが、次の瞬間、かっと恐怖で瞠《みひら》いて、悲鳴をほとばしらせた。
「母上、わしが、そんなに、きらいになったのか?」
浮浪者の濁《にご》った双眸が、薄闇の中で、遽《にわか》に、光った。
「ち、ちがいます! わたくしは、そ、そなたの、母ではありませぬ!」
比丘尼は、仰のけになったまま、ずるっずるっと匍匐《ほふく》して、遁れようとした。
「母上じゃ。まちがいないぞ。わしが、憎うて、きらっている。……わしが、宮本武蔵に、敗れたから――それで、憎んでいる。きらっている」
「ち、ちがうっ! わたくしは、そなたなど、知らぬ……ゆるして!」
比丘尼は、はねあがろうとした。
浮浪者は、その片足を掴《つか》んだ。
音たてて倒れた比丘尼は、白衣の裾を乱して、太股まであらわにし乍ら、死にもの狂いにもがいた。
「……わしを、きらって居る。……きらって居る……」
浮浪者は、譫言《うわごと》のように呟《つぶや》き乍ら、のたうつ手足を、弄《もてあそ》ぶように、抑えたり離したりした。
比丘尼は、帯も解けて、半裸になり乍ら、浮浪者を、蹴ったり、噛みついたり、ひっかいたりしつづけた。
浮浪者は、そのうちに、面倒になったか、比丘尼の青あたまを、ごつんと、床へぶちつけた。
ひーっ、と悲鳴をあげて、比丘尼は、それなり、動かなくなった。
浮浪者は、微かな当惑の色を泛べて、あられもない白い肢体を、しばらく見下していたが、そろりと、太股の上を、片手を滑らせて、黒毛の密生した秘処へ、指を寄せた。その奥をまさぐる仕種《しぐさ》をつづけていたかとみるや、不意に、「う、う、う、」と、咽喉奥を鳴らした。
男の本能が、奔騰《ほんとう》したのである。
瞬間――。
格子をくぐって、一条の綱が飛び入って、その手くびにからむや、ぐいっと曳いた。
浮浪者が、一刹那を置いて、空いた片手で、差料を抜き取りざま、その綱を、すぱっと両断したのは、水際立った手練《しゅれん》と言えた。
白刃携げて、すっくと立った浮浪者にむかって、おもてから、高らかな声が、かかった。
「佐々木小次郎、出て参れ。宮本武蔵が、あらためて、果し合いに参った」
猿飛佐助は、途方もない冒険をこころみようとしていた。
痴愚の浮浪者を、巌流・佐々木小次郎に相違《そうい》なしと看て、試合を挑《いど》んだのである。
二年前、長門と豊前の際海の孤島・船島で、宮本武蔵と佐々木小次郎が立合い、武蔵が、櫓造《ろづく》りの木太刀を揮って、一撃のもとに、小次郎を仆《たお》したことは、すでに日本全土の語り草になっている。
武蔵は、柿色の鉢巻を、物干竿と称する長剣で両断されたのみであったが、小次郎は、眉間を砕かれて、即死した、という。
ところが、小次郎は、生きのこったのである。
眉間を撃たれたために、痴愚の人となって――。
佐助は、浮浪者の独語の中に、「宮本武蔵に敗れた」という一句をきいて、はっとなり、薄暗い堂内を透《すか》し視て、その額に、ありありと、傷痕をみとめたのである。痴愚となり果て乍らも、稀有《けう》の剣技だけはのこしていることも、佐々木小次郎のなれの果てである証左《しょうさ》である。
――すれば、ひとつ!
佐助としては、珍しく、闘志を沸きたたせたのであった。
その右手には、有栖川にもやってある小船から取ってきた櫓《ろ》を掴んでいた。
船島における試合を、再現しようというわけであった。
佐助は、小次郎が出て来て立つであろう地点を計算に入れて、そこから二間の距離にある石地蔵の蔭に、かくれて待ちかまえた。
はたして――。
小次郎は、佐助が測《はか》った地点に、立った。
よだれをたらしている。衣服の前もだらしなく、はだけている。
しかし、その双眸だけは、(吉川英治流にやれば)虹《にじ》が走るがごとく、殺気の光彩《こうさい》を燃やしていた。
今日の時間にして、およそ十分あまり、佐助は、石地蔵尊の蔭で、気配を消していてから、突如、すっと出現した。
瞬間――。
「武蔵っ!」
叫びざま、小次郎は、携《さ》げていた物干竿を、鞘走《さやばし》らせた。その迅《はや》さに、きえーっと、刃音が起った。
贋武蔵は、小次郎が、鞘の方を後へ抛《な》げるのを視て、
「小次郎、鞘をひろえ。この前も、鞘を投げすてて、この武蔵から、汝、負けたり、と叫ばれて居るぞ」
と、言った。
小次郎のおもてに、困惑の色が滲んだ。
「待っていてやる。ひろえ」
促されて、小次郎は、三歩退って、鞘をひろいあげると、腰にした。
そして、元の位置へ、進みかけた刹那、贋武蔵は、ツツツ……と一間をすべり出て、地を蹴《け》った。
宙を飛びつつ、双腕をあげて、六尺の櫓をふりかぶった贋武蔵の速影《はやかげ》へ、小次郎は、双眸を細めるや、
「うっ――むっ!」
と、渾身《こんしん》の気魄《きはく》を、電撃にそなえて、口腔内《こうこうない》に含み、敢《あ》えて吐かなかった。
速影が頭上に来た。
同時に、小次郎は、気魄を爆発させ、大上段の長剣で、びゅんと、速影を薙《な》いだ。
この一閃に対して贋武蔵には、おどろくべき秘技が用意されていた。
贋武蔵の両脚が、ぱっと、前後へ水平に、ひらいたのである。長剣は、その下を、すれすれに、掠《かす》めたのであった。(言うならば、スプリンターが、ハードルを跳び越える姿勢を想像ありたい)
そして――。
空を截《き》った櫓は、二年前に撃たれて、つけられた小次郎の額の傷痕を、正確に、搏《う》っていたのである。
……中有《ちゅうう》の闇が、おとずれた。
その闇の中から、小次郎が、甦ったのは、四半刻も過ぎてからであった。
よろよろと起き上った小次郎の面貌は、もはや、痴愚のものではなかった。
不審の眼眸《まなざし》を、あたりへめぐらして、
「おれは、どうして、ここに居るのか?」
その独語を、もらしていた。
それから、数日のち、東海道を東へ向って、しずかに歩む一人の雲水の姿が、見受けられた。まんじゅう笠の下の顔は、俗世をすてた者のみが持つ穏かで、澄んだ表情を湛えていた。
雲水が、何処の土地へ消えたか、もとより、知る人もない。
抜刀|義太郎《よしたろう》
天下が徳川家のものとなり、豊臣秀頼が一地方大名に墜落させられた慶長末年、ようやく、戦国の惨劇《さんげき》も、過去の物語になりつつあった。
昌平泰安の世が来たのである。
兵火があがるとすれば、大阪城に対する大御所家康の一撃であろうが、それは、もはや、誰人にも、全土に飛火するとは、考えられなかった。
ただ、大阪城が炎上するだけで、熄《おわ》るであろう。
武家は、その刀を収《おさ》めて、沈黙すべきものとなろう、とは、はやくも、識見《しきけん》のある人の説くところであった。
泰平を迎えた証左が、まず、見えたのは、町人の中から、武士の専横に対する反抗が起ったことである。
町人とさえ言えば、目に功利の判別ばかりで、気概《きがい》も風尚《ふうしょう》もなく、徳義も人道もただ算盤《そろばん》勘定から割り出すもののように思われて、社会最下の階級に辱《はずか》しめられて来た。戦乱の世にあっては、それもやむを得なかった。屈辱をはねかえす気概をわきたたせるには、あまりにも、武将たちの勢威は凄《すさま》じかったのである。
ところが、天下が平穏になり、それが恒久《こうきゅう》のものと信じられるようになれば、武器を持たない者たちが、おのが世の到来、とばかり本能的に、頭を擡《もた》げるのは、人情というものである。
武士の専横に対する反抗の、最も著《いちじる》しいものが、町奴《まちやっこ》――俗に謂《い》う男伊達《おとこだて》の出現であった。
大阪城が、冬の陣の敗北で、総濠《そうぼり》を埋めつくされた頃、京洛《けいらく》の内外には、荊組《いばらぎぐみ》、皮袴組《かわばかまぐみ》などという、町奴の徒党《ととう》が、のし歩いていた。一人のこらず、町家から出て来た乱暴者たちであった。
「室町殿物語」には、その風俗を、次のように、記している。
[#ここから2字下げ]
『その装束はと見てあれば、晒染《さらしぞ》めの下帯、小玉打ちの上帯など、幾重《いくえ》にもまはし、三尺八寸の朱鞘《しゅざや》の刀、柄は一尺八寸に巻かせ、べつに二尺一寸の打刀《うちがたな》も同じ拵《こしら》へにて仕立て、そぎたて鑓《やり》、かい持てるもあり、髪は掴《つか》み乱して、荒縄の鉢巻きなど、|むず《ヽヽ》と締め、熊手、鉞《まさかり》など前後をかため、常に同行二十人ばかりにて押通るを、「あれこそ、当時世に聞ゆる荊組《いばらぎぐみ》ぞ、辺りへ寄るな、物言ふな」とて、人々|怯《お》じ怖れて、道をひらきける』
[#ここで字下げ終わり]
今日も――。
五条橋を、派手を誇《ほこ》る風態《ふうてい》の無法者が十数人、遊女を三人ばかりひっかついで、橋幅いっぱいに、渡りかかった。
遊女たちは、むざんにも、双《そう》の足くびを掴《つか》まれて、思いきり引き拡《ひろ》げられていて、裳裾《もすそ》も二布《こしまき》も垂れはだけて、白昼の陽光に、秘すべき箇処を、くろぐろと、さらしてしまっていた。
そればかりか、絶え間なく、
「えい、よおっ!」
「えい、よおっ!」
と、宙《ちゅう》へ抛《ほう》りあげられていた。
もはや、悲鳴も尽《つ》きたか、死んだように、されるがままであった。
これの有様を眺めて、人々は、橋を渡るのを中止して、橋袂《はしだもと》の左右へかたまってしまった。
この時であった。
まだ十歳になるかならぬかとおぼしい少童が、むこうから押し渡って来る無法者の群など、まるで目に入らぬかのごとく、すたすたと、橋へさしかかった。
「これ、わっぱ! 危いぞ! 行ってはなるまいぞ! 戻れ、戻れ!」
人々が、声をあげて、とどめたが、少童はそ知らぬ顔で、足を進めて行く――。
――はてな? あれは、尋常一様のわっぱではない!
群衆の中の、編笠をかぶった牢人《ろうにん》体の男が、その独語《どくご》を、胸の裡《うち》で、もらした。
真田幸村の忍び姿であった。
少童は、武士の子らしく、腰に一振《ひとふ》り帯びていたが、それが、渠《かれ》の身丈にふさわしい小刀ではなく、立派な太刀だったのである。鐺《こじり》が、地にふれんばかりの長さであった。
「おもしろい!」
幸村は、編笠の内で、|にこ《ヽヽ》とした。
少童の足どりの軽《かろ》やかさは、眺めていても、気持がいいくらいであった。
一方、無法者たちは、こんな小さな存在など、目にもくれずに、橋板を踏みならして来た。
もとより、ひと蹴《け》りに、流れへはね落してしまうつもりであったろう。
少童は、すずしい面持で、無法者たちの前で、立ちどまった。
「なんじゃ、わっぱ!」
一人が、破《わ》れ鐘《がね》のように、呶鳴《どな》った。
「通るのじゃ」
少童は言った。
「虚仮《こけ》がッ!」
ぱっと、足蹴《あしげ》をくれた。
刹那《せつな》――その片脚が、無法者のからだからはなれて、血汐《ちしお》の尾をひきつつ、宙《ちゅう》へ高く舞い上った。
いつ抜いたともみえず、少童の右手には、太刀が白く光っていた。
無法者たちは、一瞬、信じられぬ光景を観《み》せつけられた痴呆《ちほう》の空白状態に襲われて、しいん、となった。
十歳にも満たぬ少童に、神技《しんぎ》ともいうべき抜刀法がそなわっていたのである。
唖然《あぜん》となったのも、当然であった。
白昼夢《はくちゅうむ》でもみているような、その沈黙を、後方の一人が、ようやく破った。
「そやつ! 天狗《てんぐ》の化身《けしん》だぞ!」
その叫びで、前列に並んだ四五人が、はっとわれにかえって、わけのわからぬ呶号《どごう》をほとばしらせざま、三尺八寸の大太刀をひき抜いた。
いや、ひき抜いたとみえた時には、少童の左右に、二人が、のけぞっていた。
次の瞬間には、さらに、二人が、屍骸《しがい》となって、薙《な》ぎ仆《たお》されていた。
後列の無法者たちは、あまりの凄《すさま》じい少童の剣さばきに、もう見栄《みえ》も虚勢《きょせい》もなく、仰天し、悲鳴をあげて、遊女を抛《ほう》りすてると、われ勝ちに、逃げ出した。
少童は、屍骸《しがい》の衣服で、白刃の血糊《ちのり》をぬぐうと、腰に納めて、何事もなかったかのように、すたすたと、橋を渡って行った。
町家のならんだ通りに入ろうとした地点で、左右の物蔭にひそんでいた無法者二人が、突如《とつじょ》、躍り出て、斬りかかった。
少童は、一歩も動かず、颯《さっ》と、白い閃光《せんこう》を描きつつ、小さな速影《はやかげ》を廻転させた。
うしろから尾《つ》けて来ていた真田幸村は、
「うむ!」
と、唸《うな》った。
右からの敵を袈裟《けさ》がけに斬った迅業《はやわざ》を、そのまま、左からの敵の腰ぐるまを払う冴えに継続させた手練《しゅれん》は、まさしく、天狗《てんぐ》の化身と思わせるばかりであった。
須臾《しばらく》の後、真田幸村は、東山双林寺《ひがしやまそうりんじ》の南にある西行庵で、白髪|白髯《はくぜん》の老翁と対坐していた。
この茅葺《かやぶ》きの小庵は、名の示す通り、北面の武士をすてた西行法師が、四方行脚《しほうあんぎゃ》ののち、ここに在《あ》った蔡華園院《さいかおんいん》に住みつき、「願はくは花の下にてわれ死なん その如月《きさらぎ》の望月《もちづき》のころ」と詠《えい》じて、心静かに逝《い》った址《あと》であった。
のち、誰人かが、西行を偲《しの》んで、小庵《しょうあん》を建てたのである。
ところで――。
幸村は、少童を尾《つ》けて来て、西行と頓阿《とんあ》の二法師の木像をまつるこの西行庵に入るのを見とどけ、案内を乞うて、上るや、そこに端坐《たんざ》している老翁とは、初対面ではないのに、気がついた。
一年前、いよいよ、大阪城入りを決意して、猿飛佐助一人をともない、高野|山麓《さんろく》北谷の九度山《くどさん》を出た幸村が、河内路にさしかかった時、出会った白木の杖《つえ》を曳いた老人が、まさしく、この人物であった。
老人は、幸村を呼びとめて、腰に帯びた剣の相を、五宮ことごとく、おのが面ていに映《うつ》されて居る、と言ったものであった。
幸村が刀を抜いてみせると、老人は、夕陽に刃をかざして凝視《ぎょうし》したのち、
「五宮ともに大凶、浮んで居る月も星も疵《きず》も、すべて、戦死の相を示して居る」
と、言いはなって、白木の杖で、発止《はっし》と打ち、ま二つに折って、叢《くさむら》へ抛《なげう》ったのである。
老人は、「天下の名将たる者、差料にも心せられよ」と、言いのこして、白木の杖をのこして、去った。杖の中には、名剣正宗が仕込んであった。
「あの節の御厚意、忝《かたじけの》う存ずる」
幸村は、鄭重《ていちょう》に礼をのべた。
「子供のいたずらがお目にとまったために、再《ふたた》びお会いいたしたのも、何かの因縁《いんねん》でござろう。……この老いぼれは、林崎重信《はやしざきしげのぶ》がなれの果てでござる」
これをきいて、幸村は、
――さこそ!
と、大きく頷《うなず》いた。
抜刀術始祖・林崎甚助重信の剣名は、すでに伝説中のものとなっているほど、世にも高かったのである。
天文年間、奥州山形から十余里、楯岡《たておか》の砦《とりで》から北へ一里、林崎という部落に生れた甚助重信は、村はずれにある林崎明神と称《よ》ぶ熊野神社にこもって、三年間、長柄刀をふるって、修業ののち、抜刀の妙旨《みょうし》を悟《さと》った、という。
剣の闘いは、間一髪の差である。間《ま》の遅いか、迅《はや》いか――それで決する。とすれば、刀が鞘をはなれる時には、すでに、勝負が決していなければならぬ。
抜刀の術こそ、剣の修業に最も肝要である。
それが、甚助重信の独り学んで、奥義を極めた前人未到《ぜんじんみとう》の兵法であった。
甚助重信は、やがて、その抜刀法を持って、諸国を遊歴して、一流の名をひろめた。誰が言うともなく、その一流を、林崎|夢想《むそう》流と呼び、目にもとまらず鞘をはなれる迅業《はやわざ》を、剣客たちは、あらそって、学んだ。
居合――という言葉を、誰知らぬ者もなくなった頃、甚助重信は、さらに、鹿島神宮の武林に入って、天神真道流の研鑽《けんさん》に身をゆだねていた、という。
時代が元亀に入った時、甚助重信は、越後の上杉謙信に乞われて、その幕将松田尾張守の麾下《きか》に入って、戦場を馳駆《ちく》し、天馬空《てんばくう》を翔《か》けるがごとく、敵を斬りはらった、という。
謙信の歿後、林崎甚助重信もまた、何処《いずこ》へかくれたか、その姿を消したのである。
すでに、三十余年を閲《けみ》して、その人が、この世に在るとは、誰人も夢にも思ってはいなかった。
ただ、甚助重信に随身《ずいしん》した田宮平兵衛重正が、抜刀田宮一流の別派を興《おこ》し、いま、天下に名高かった。
「柄に八寸の徳、みこしに三重の利」
という居合の名標語《めいひょうご》を吐いた田宮平兵衛は、対馬守と改めて、徳川家より采邑《さいゆう》千石をもらい、末流を諸州にひろげているのである。
おのが高弟が、かように盛名をほしいままにしているのを、全くかかわり知らぬげに、西行庵に、老いの身を坐らせている稀世《きせい》の達人を、幸村は、畏敬《いけい》の念をもって、見戌《みまも》らずにはいられなかった。
幸村は、言った。
「お手前の手もとにある少年ならば、あのような神技を揮《ふる》うのは、ふしぎとはいたさぬ。ところで、お手前が育てて居られるからには、やはり、氏も素姓もない子とは、考えられぬところでござるが、いかがであろう?」
それに対して、老翁は、しばらく、こたえなかった。
やがて、老翁は、あらためて、幸村を、凝《じ》っと見据えて、
「あの子を、所望《しょもう》されるのか?」
と、問うた。
「なろうことなら……」
幸村は――幸村もまた、鋭く視返《みかえ》した。
さらに、しばしの沈黙があった。
老翁は、手を打って、少童を呼んだ。
少童が、影のように入って来ると、老翁は、
「これより、そなたの素姓を、真田左衛門佐殿に、打明けることにする。そなたも、はじめて、きかされる。よく、きいておくがよい。……左衛門佐殿は、そなたが所望じゃ。そなたの素姓をきかれたならば、そなたの抜刀術を、何に使うか、おのずと、決められることであろう。そなたも、左衛門佐殿に順《したが》うのに、納得が参るであろう」
慶長十六年秋のことであった。
陸前玉造郡《りくぜんたまつくりごおり》の荒雄《あらお》川の北岸にある鍛冶谷沢《かじやざわ》の荒原を、由緒《ゆいしょ》ありげな主従七人が、横切っていた。
出羽《でわ》山形城主・最上修理大夫義康《もがみしゅりのたいふよしやす》と、その妻くれ葉と、郎党《ろうどう》であった。くれ葉は、四歳になる義太郎《よしたろう》の手をひいていた。
修理大夫義康は、五年前、父|義光《よしあきら》と不和《ふわ》になり、山形城を去って、高野の山中に蟄居《ちっきょ》していたのである。
それが、このたび、父義光から、和解の一文を送られて来たので、帰還《きかん》しようとしているのであった。
「くれ葉――」
義康は、妻を呼んで、ぼうぼうと果《はて》しもなくひろがる荒原のかなたを指さした。
「かすかに、煙が見えるであろう。あそこが、林崎重信《はやしざきしげのぶ》の隠棲《いんせい》して居る草庵だ。二三日|憩《いこ》うことにいたす」
義康は、甚助重信に、門弟の札をとって抜刀法を学んだ唯一人の大名であった。
すでに、世間から身をかくしていた甚助重信も、義康からわざわざ足をはこばれて、乞われると、
「薪割り、水汲みをなされるお覚悟ならば」
と、こたえた。
義康は、承知し、それから約半年間、草庵に起居して、薪割り水汲みはおろか、糞尿の桶をかついで、野菜もつくったのであった。
甚助重信が、ここ鍛冶谷沢の荒原に、草庵をむすんだのは、上杉謙信が卒《しゅっ》した天正六年春であった。
上原と称《よ》ばれるその方三里《ほうさんり》の荒原には、野生の馬が、群れていた。甚助重信は、その馬をとらえて、飼《か》いならし、地下人《じげびと》たちに、呉《く》れてやることで、余生《よせい》をすごしていたのである。
最上義康にとって、十年前の、その草庵におけるくらしは、生涯のうちでも最もなつかしいものであった。
つるべ落しの陽が、山かげに入った頃あい、義康一行は、草庵に辿《たど》りついた。
甚助重信は、意外な人の訪れに、おどろいて、その仔細《しさい》を問うた。
義康は、よろこばしげに、
「祝うてもらいたい。父上が、和解の席を設《もう》ける故、早々に帰国せよ、と使者を遣《つかわ》して来られたのでな」
と、言った。
甚助重信は、それをきくと、眉宇《びう》をひそめて、
「お父上のそのお言葉を、疑念《ぎねん》なく、お受けとりなされたか?」
「偽《いつわ》りだと、みるのか?」
「失礼|乍《なが》ら、それがしは、最上権少将義光殿は、無情残忍《むじょうざんにん》の性情の持主と心得申す」
「それは、わしとて、知らぬではないが……」
義康は、暗い面持になった。
父義光が、韜略権謀《とうりゃくけんぼう》に血眼になり、あさましい行動に終始したのを、義康は、知悉《ちしつ》していた。最上家をまもるためには、いかなる破廉恥《はれんち》も辞さなかった義光である。
天正十八年、小田原征伐に際し、徳川家康の周旋《しゅうせん》によって、豊臣秀吉の陣営に伺候《しこう》して、本領を安堵《あんど》した際には、家康に、次男の太郎四郎を質子《ちし》として送り、徳川家の家来にしてもらっていた。
その翌年、奥州|九《く》の戸《へ》の土豪《どごう》の乱に、秀吉の養子三好中納言秀次が下向して来るや、秀次こそ次の天下人《てんかびと》になる資格者と看《み》て、おのが娘をさし出し、閨《ねや》の伽《とぎ》をさせていた。
しかし、それは、殺生関白の汚名の下に、秀次が自裁した時、かえって仇《あだ》となって、義光に、かえって来た。秀次に娘を側妾にさし出していた義光は、秀次の反逆の企《くわだ》てに加《くわわ》っていた、とみなされて、あやうく領地を没収されようとしたのである。家康のとりなしで、謹慎《きんしん》で済んだが、義光は、こんどは、秀吉に、奥羽随一の美女をさがし出して、献上しようと計った。これは、石田三成から、冷笑とともに、しりぞけられた。
慶長四年、義光の許へ、上杉景勝から、密使が遣《つかわ》され、家康を討たん、と計った。義光は、いかにも勇躍して承諾した、とみせて、景勝から軍資金二万両を受けとった。そして、家康へは急使を馳せて、景勝謀叛と注進したのであった。
上杉景勝は、義光を、天をともにいただかざる陋劣下種《ろうれつげす》の佞人《ねいじん》め、と激怒して、義光の人形を作って、土足で踏みにじった、という。
義光が、長子修理大夫義康を悪《にく》んで、次男駿河守家親を愛したのも、義康と家親の器量を比べたからではなかった。義康と家親とでは、比べものにならなかった。
にも拘《かかわ》らず、義光が、家親をして、最上家を嗣《つ》がせようとしたのは、家親を、徳川家の旗本にし、家康の一字をもらっていたからであった。すなわち、義光は、俊髦《しゅんぼう》の長子をしりぞけ、凡庸《ぼんよう》の次男を嗣《つ》がせてまで、家康に媚びへつらったのである。
義康の股肱《ここう》に、里見民部《さとみみんぶ》という若い忠臣がいた。義光のあまりな血眼ぶりに業《ごう》をにやして、一日、面前へまかり出て、堂々と諫言《かんげん》した。民部は、身の丈六尺余、膂力《りょりょく》三十人力と称せられた荒武者であったので、義光も、その場では、黙ってきいていたが、後刻、民部の父権兵衛尉を呼んで、
「民部は、義康をそそのかして、わしに叛かんとする心底ありと看《み》た。直ちに、腹を切らせい」
と、命じた。
権兵衛は、こたえて、
「それがし一存にては、君命を奉じかねますれば、帰宅して、老父に相談つかまつります」
と、猶予《ゆうよ》を乞うて、下った。
民部の祖父里見越後守は、天下にきこえた軍師であった。すでに七十七歳になっていたが、矍鑠《かくしゃく》として壮者をしのぐ気概《きがい》を保っていた。
権兵衛の報告をきいた越後守は、うち笑って、
「最上家の命脈も尽きたとみえる。権兵衛、民部、明朝、立ち退くぞ」
と、こともなげに言いすてた。
次の日、義光は、里見一家の退去の報をきくや、顔面を悪鬼にして、たけり立ち、
「千騎を組んで、追え! 彼奴ら三つの首を刎《は》ねるまでは、戻るな!」
と、叫びたてた。
追ったのは、百二三十騎であったが、一騎も還っては来なかった。越後守を慕《しと》うて、のこらず、順《つ》いて行ってしまったのである。
義光が、肚《はら》の底から義康を憎んだのは、それからであった。
義康は、父と争うあさましさに堪《た》えきれず、山形城を出て、高野の奥へ入ったのであった。その時、義康は、従うことを歎願《たんがん》する家臣らを、なだめて、わずか四名の供人《ともびと》しか連れなかった。
実は――。
義康は、すこしも知らなかったが、義光から討手が二十名ばかりさし向けられたのであった。
討手勢が、義康主従へ半里と迫ったおり、その前に、忽然《こつぜん》として出現し、飛燕《ひえん》に似た太刀さばきで、一人のこらず斬り伏せたのが、林崎甚助重信であった。
自分が高野へおもむく途中を、父が討手を追わせて来たなどとは、夢にも知らぬ義康は、いま、甚助重信から、忠告されても、なお、なかば父を信じたい気持があった。
父義光は、すでに、六十五歳である。いかに、佞人《ねいじん》といえども、多少心が弱っているのではあるまいか。
義康は、微笑し乍ら、甚助重信に、言った。
「よしんば、父が、この義康を討たんがために、呼びかえした、としても、わしは、もはや、行くところもない身なれば、山形へ戻るよりほかはない」
「貴方様なら、何処の大名でも、よろこんで、城の一隅を提供してくれ申そう」
「食客の不自由を、わしは好まぬ。それに、わしを食客にすれば、自然、その御仁は、父と不和になろう。そのような迷惑は、かけとうはない」
甚助重信は、嘆息《たんそく》して、
「貴方様は、仁者《じんしゃ》でござる」
と言ってから、義康の後方に、母とともに並んで坐っている義太郎を、視《み》やった。
一瞥《いちべつ》して、成長すれば、父以上の俊髦《しゅんぼう》になるであろう、とはっきり認め得る幼童であった。
「お子もお連れめさるか?」
「うむ――」
「この爺《じじ》いにお預けなさらぬか?」
「いや――。父がもし和解の心で呼んでいるのであれば、義太郎をも、伴わねば、せっかくのだんらんの座が、こじれるおそれがあろう。父も、初孫の顔を視《み》れば、心がなごむのではあるまいか」
そう言われれば、甚助重信も、あえて、言葉を重ねて、義太郎をひきはなすことは、できなかった。
翌々日、義康父子主従は、老剣客に見送られて、鍛冶谷沢の荒原を、去った。
義康が、
――はてな?
と、はじめて、不吉の予感《よかん》をおぼえたのは、はるばる、なつかしい山形城へ辿《たど》りついてみると、城門は開かれず、
「大殿には、日野将監《ひのしょうげん》殿が降《くだ》った沼田|館《やかた》に、あらたに、新庄城を築くために、おもむかれて居りますれば、何卒そちらへ御|足労《そくろう》の程を願い上げまする」
と告げられた――その時であった。
義康は、
――父は、城内にいるな!
と、直感した。
しかし、大殿の留守中、勘当中の殿を迎え入れることは許されぬ、という名目《めいもく》をたてられれば、押し入るわけには、いかなかった。
義康父子主従は、さらに、天童を過ぎ、尾花沢を通って、猿跳《さはね》峠を越えて行かなければならなかった。
舟形へ降りた時、義康は、妻くれ葉と義太郎に郎党一人をつけて、舟で最上川を下し、新庄の西南二里半にある清水城へ、一時、身柄を預けることにした。清水城に在る清水大蔵大夫氏満は、気骨《きこつ》を鳴らした武辺《ぶへん》であり、信頼するに足りたのである。
義康の不吉な予感は、的中した。
舟形を過ぎて一里も行かぬ地点で、ひと村《むら》しげる杉林にさしかかった時、左右の樹蔭《こかげ》から、轟然《ごうぜん》と銃声が、とどろいた。
義康は、山形城から贈られた月毛の馬に乗っていたが、一瞬、
「う、むっ!」
と、呻《うめ》いて、双眸《そうぼう》をかっとひき剥《む》いた。
数発の弾丸を五体に撃ち込まれ乍ら、そのまま、化石したごとく微動もしなかったのは、流石であった。
再び、銃声が噴《ふ》いた。
弾丸のひとつが、義康の臍下《へそした》をつらぬいた。
がくっと、馬上にうなだれた義康は、わななく右手で、脇差を抜きはなつや、残った力をふりしぼって、切っ尖《さき》を、腹へ突き立て、ぎりぎりと、真一文字に、掻《か》き切った。
義康は、弾丸に撃たれて死んだ、と後世に伝えられるのを無念とし、戦史の上でも稀なる馬上腹を切ったのである。
樹蔭から躍り出て来た数十名の討手たちは、屍体《したい》の中に、義太郎の姿がないのを知るや、
「舟で遁《のが》れたに相違ない」
と、猛然《もうぜん》と追いはじめた。
くれ葉と義太郎をのせて、郎党のあやつる小舟を、討手たちが発見したのは、赤松川が最上川に流れ入るあたりであった。
郎党は、弾丸をあびせられるや、死にもの狂いに、急流をこぎ下った。
林崎甚助重信が、あとを追うて来て、最上川の畔《ほとり》に奔《はし》り出た時には、逃げる小舟と追う討手は、鳥越川の合流する本合海を突破していた。
甚助重信は、地下人《じげびと》から、いまおのれの立っているところを、ほんのさっき、その追跡が掠《かす》めたときくや、風のごとくに、川畔を疾駆《しっく》して行った。
そして――。
討手勢に追いつきざま、阿修羅《あしゅら》となって、斬りまくった。
しかし、その時すでに、小舟を漕《こ》ぐ郎党は、弾丸を胸に一発くらっていた。
甚助重信が、最後の一人を斬ってすてるのと、小舟が、水泡《みなわ》を噛《か》む水中岩に衝突して、顛覆《てんぷく》するのとが、同時だった。
くれ葉は、けなげにも、義太郎を、両手で水上にさしあげ乍ら、浮きつ沈みつした。
水面の流れはゆるやかとみえて、実はおそるべき迅《はや》さであった。
甚助重信は、とっさに、奔《はし》り乍ら、腰に携《さ》げた野馬狩《やばが》り用の綱を解いて、小柄《こづか》を結びつけるや、気合もろとも、投じた。
小柄は、くれ葉の片手くびを、つらぬいた。
くれ葉は、血汐の噴くその片手で、義太郎を空に支え乍ら、一方の手で、小柄をひき抜いた。そして、綱を、義太郎の胴にまきつけると、ついに気力尽きたか、水底へ沈んで行った。
甚助重信は、渾身《こんしん》の力をこめて、綱を曳《ひ》きたぐり、ついに、磧《かわら》へ義太郎を横たえることに成功したのであった。
「そなたの父は、そなたの祖父に討たれた。その祖父も、去年、みまかった。そなたの祖父をして、わが子を殺させたのは、大御所家康であった。家康は、そなたの父の器量をおそれたのかも知れぬ」
西行庵で、真田幸村と対坐する老翁は、十歳の少童にむかって、そう言って、永い物語の口をつぐんだ。
少童は、まばたきもせず、老翁を瞶《みつ》めたまま、何ともこたえなかった。
老翁は、やおら、視線を、幸村に向けた。
「天下は、すでに、徳川家のものになって居るに、お手前ほどの名将が、なぜ狂瀾《きょうらん》を既倒《きとう》に廻《めぐ》らそうとして、あがかれる?」
「さあ――、これも、武士の宿運と申すものでござろうか」
「それがしの卦《け》では、大御所は、豊家を仆《たお》すまでは、死なぬと出て居り申すぞ」
「それも承知つかまつる」
幸村は、静かな声音《こわね》で、こたえた。
「左衛門佐殿ともなれば、陰陽《おんよう》の術は学んで居られよう。豊家が滅びるのと、大御所が逝《ゆ》くのと、どちらがさきか、すでに、星辰《せいしん》からも、筮竹《ぜいちく》からも、観《み》てとって居られる。にも拘《かかわ》らず、大阪城に拠るのを、宿運と申されるか」
「おのれの命数も、かぞえ済ませた、というさかしら口もたたいておくことにいたす」
「左衛門佐殿――」
老翁は、あらたまった口調で、
「お手前が、もし、考えをひるがえされ、徳川家に随身されるならば、こん後百年、いや数百年の和平の国造りに、どれだけか、その英智が大いに役立とうものを――。申さば、幾千万の民が、お手前の経綸《けいりん》によって、幸せになり申そうが……」
「……」
「おいぼれの願いも、心のかた隅に、とどめておいて下されい。……義太郎、さ、左衛門佐殿に、順《つ》いて参るがよい」
「はい――」
少童は、こくりと頷いた。
幸村は、頭を下げた。
「忝《かたじけ》ない。しかと、お預り申す」
「役に立たなんだ節は、いつなりとも、お返し下され」
老翁は、再び相|見《まみ》えることはあるまい掌中《しょうちゅう》の珠《たま》を、たんたんとした態度で、幸村に、渡した。
「春になったの。ひとつ、花の下で、茶会など催《もよお》そうか」
徳川家康が、何気なく言い出したのは、大阪城の総構え及び総濠を完全に破壊しつくして、和平の誓紙《せいし》を交換した慶長十九年も、またたく間に過ぎて、京洛《けいらく》に春光がおとずれたある日であった。
家康の前にいたのは、本多上野介正純《ほんだこうずけのすけまさずみ》であった。
「故太閤の遊興におならいあそばしますか?」
上野介正純は、ちょっと、不審な面持になった。
家康が、花見や茶湯などを催したことは、かつて一度もなかった。家康が、催したのは、武芸試合だけであった。
秀吉と家康とでは、全く性格がちがっていた。
秀吉は、天下を完全におのが掌中におさめるや、日本全土の人心を宴遊気分に耽《ふけ》らせることを、よろこんだのである。北野の大茶湯や、吉野、醍醐《だいご》の花見など、その例であった。
文禄二年六月に、九州の果ての名護屋《なごや》陣において催した仮装園遊会など、最も秀吉の好みをあらわしたものであった。秀吉自身、瓜商人に化けて、柿帷《かきかたびら》、藁《わら》の腰蓑《こしみの》、黒|頭巾《ずきん》、菅笠を肩にかけて、瓜を売りあるいてみせた、という。その時、丹波中納言秀秋は、漬物瓜を荷《にな》い、織田信雄は偏衫僧《へんざんそう》に、加賀大納言利家は高野|聖《ひじり》に、それぞれ化けた、というが、家康だけは、ついに、普通の老翁のていでいた。
家康は、享楽気分になじめない人物であった。いうならば、|どんちゃん《ヽヽヽヽヽ》騒ぎが、きらいであった。
どんな催しも、それが真剣でなければ、家康の心をひきつけなかった。
上野介正純は、老主君が、急に、なぜ、そのようなことを言い出すのか、判らなかった。
たしかに、当世、身分地位の上下を問わず、秀吉がのこした桃山の驕奢《きょうしゃ》は、すみずみまで満ちわたっている。
売色は、大阪新町、江戸吉原、京島原、伏見|撞木《しゅもく》町はじめ、いたるところに、大きな規模の廓《くるわ》が設けられ、いよいよさかんになっていた。尤も、遊女は、いまだ、いやしいものと蔑《さげす》まれず、公卿《くげ》大名の宴席にも呼ばれて、歌舞踊りなど披露していたのである。
曾《かつ》て――。
秀吉は、京島原の傾城《けいせい》の中から美しい容子《ようす》のをえらんで、まず自分が五人とり、家康、前田利家らへ二人宛、くれたことがあった。その中に、諸侯の面前で、歌舞踊りをみせるのを拒《こば》んだ遊女がいた。仔細《しさい》を尋《たず》ねると、かなりな家の出で、親類がそれぞれ門閥《もんばつ》を誇っているため、自分が遊女になったと判れば、恥になる故、外聞を思って、公《おおやけ》の座を遠慮するのだ、とこたえ、いくら叱っても、承知しなかった。
秀吉は、これをきくや、
「遊女になり乍《なが》ら、遊女を慙《は》じて居るとは笑止《しょうし》。生かして置く必要はない」
と、命じて、磔刑《はりつけ》にしてしまった。
公卿大名は、能楽に夢中になり、一般民衆は、歌舞伎興行におしかけ、童《わらべ》たちまでが、いかがわしい文句の隆達節《りゅうたつぶし》を唄いちらす世の中であった。
将軍家や大御所が、享楽気分にさそわれても、べつに、ふしぎはないのだが……。
「ははは……、上野介、わしが、花見を催すのは、ふさわしゅうないかの?」
「いささか――」
そうこたえて、正純は、目を伏せた。
家康は、言った。
「大阪城には、真田左衛門佐が居る。わしが、遠からず――左様、誓紙の血がいまだかわかないうちに、軍を動かして、豊家を滅すに相違ない、と看破《かんぱ》して居るに相違ない」
「御意――」
すでに、大阪城を再度包囲攻撃する作戦計画は、家康と将軍秀忠と、本多佐渡守・同上野介父子、そして土井|大炊頭《おおいのかみ》の五人によって、密談され、成っていたのである。
能《よ》くこれを看破しているのは、真田幸村唯一人に相違ないのである。
「上野介、わしは、大阪城を包囲する前に、幸村を討ち取ろうと思うのじゃ」
「は――?」
「わしが、花見の茶会を催せば、幸村は必ず、身をやつして、わしの首級を狙って、忍んで参るであろう」
「左衛門佐には、一騎当千《いっきとうせん》の強者《つわもの》どもが股肱《ここう》に居りますれば、それらの者どもを遣《つかわ》して参るのではありませぬか?」
「いや。幸村は、礼法を重んずる武将じゃ。わしの首級は、おのが手で刎《は》ねようと思うて居ろう。麾下《きか》の者どもに、わしの生命を奪《と》らせては、後世まで兎角《とかく》の批判を加えられる。幸村は、それをきらって居る。武将としての心得じゃ」
「しかし左衛門佐をおびき寄せる儀は、あまりにも、危険をともないまする。万が一の場合も想像できまする。御自愛の程を願い上げまする」
「わしは、大阪城が炎上するのを、この目で見とどけるまでは、目蓋《まぶた》をふさがぬぞ、上野介――」
「……」
「懸念《けねん》すな。わしの身辺は、柳生但馬《やぎゅうたじま》や兵庫によって、厳重に警衛させるであろう」
いったん、言い出したら、断じて肯《き》かぬ家康であった。
家康の名をもって、醍醐の花見のことが、諸侯に布告されたのは、それから十日あまり過ぎてからであった。
日は、三月十五日と定められた。
これは、二十年前、秀吉が催した花見と同じ日であった。
二十年前の醍醐の花見は、いまだに人々の語り草であった。秀吉は、たかが桜花《おうか》を愛《め》でる催しのために、自らしばしば足をはこんで、大がかりな準備をしたものであった。
醍醐寺を修復し、寝殿を建立《こんりゅう》し、金堂《こんどう》を再建し、桜の馬場をひろげ、堀を通し、滝を落し、二天門を別の場所に移した。そして、当日は、上の醍醐より下の醍醐まで、その周辺五十町四方、山内二十三箇所に、弓槍鉄砲の警固士三万余を、うちめぐらした幕の内外に佇立《ちょりつ》せしめたものであった。
伏見の城を出た行列は、えんえんとして、十町もつづいた、という。
まことに、春光に満ちた山上山下、万朶《ばんだ》の花と花は色をきそい、空だきの衣香は四方《よも》に薫じ、太閤秀吉一代の栄華を、この一日に縮図《しゅくず》した光景だったのである。
ところが――。
このたびの、大御所家康の布告は、まことに簡略《かんりゃく》質素なものであった。
諸侯は、その供を三名に限ること。大小を腰からはずして、木綿の道服たるべきこと。贈りものは一切断ること。宴席に入るのは、招いた者だけに限るが、葵《あおい》の幔幕《まんまく》の外には、庶民の蝟集《いしゅう》は自由勝手たるべきこと。
なお、観桜のために、茶屋を設けるのは無用の儀であること。
この布告を受けとった諸侯の大半は、家康のケチぶりに、苦笑したものであった。
ただ、刃物を佩《お》びるのを許さぬところが、大御所らしい、と感服した者もあった。
醍醐寺は、深雪山と号し、貞観《じょうがん》十六年、理源大師が興《おこ》した古刹《こさつ》であった。
文明十二年の兵乱に、山下の伽藍《がらん》ことごとく焼失し、山上の殿堂もまた破壊されてしまったが、八十代の座主《ざす》義演が、秀吉に乞うて、再建した。秀吉が、伏見城から醍醐寺まで通じる大路を開いたのも、観桜のためであった。
観桜の場所は、やはり、秀吉が盛宴を張ったところに、定められた。
醍醐寺の東北およそ四町ばかり――俗に千畳敷きと称せられ、秀吉の観桜以来、世人は、花見山と呼んでいた。
秀吉は、醍醐寺から、千畳敷きまで、左右に、百双屏風《ひゃくそうびょうぶ》をたてならべたことであった。
その百双屏風も伏見城にのこされていたが、家康は、
「無用である」
と、しりぞけた。
つまり、家康は、人目のつくところには、警固《けいご》の士の姿を全く見せないようにするとともに、曲者《くせもの》のひそむ物蔭もつくらないように、配慮したのである。
元和元年三月十五日は、花曇《はなぐも》りの、いささかうすら寒い日であった。
家康は、ごく目だたない黒塗《くろぬ》りの駕籠《かご》に乗って、わずか三十名あまりの供揃《ともぞろ》いで、午《ひる》まえに、醍醐寺の塔頭三宝院《たっちゅうさんぽういん》に到着した。
家康は、その裏書院で、大小をすて、道服に着かえた。
廻廊の前の白砂上に、数名の小姓が控えているばかりで、旗本たちは、ずっとはなれた場所で休息していた。
「さて、出かけるかの」
家康は、僧正の点前《てまえ》で一服したのち、気がるに立ち上って、庭へ降りた。
唐門《からもん》へむかって、林泉を辿《たど》っているおりであった。
家康から二十歩ばかりはなれた路上へ、ぴょん、と一匹の野兎がとび出して来た。つづいて、まだ十歳足らずの、青頭の小坊主が、白木の杖をかざして、走り出て来た。
野兎は、家康の方へむかって、ぴょんぴょんと跳ね躍って来た。
「待てっ!」
小坊主は、夢中で、追いかけて来る。
家康は、思わず、微笑した。
野兎は、家康の面前一間あたりの地点から、脇へ飛んで、扇子型の奇橋を駆《か》け渡った。
「おのれっ!」
小坊主は、叫んで、そっちへ奔《はし》ろうとしたとたん、飛石に蹴《け》つまずいて、ぱたっと俯《う》っ伏《ぶ》した。
「どうしたな、わっぱ坊」
家康が、近よろうとした――その刹那《せつな》であった。ずっと距離を置いて従《つ》いて来ていた供ざむらいの中から、
「喝《か》っ!」
凄じい気合もろとも、手裏剣を投じた者があった。手裏剣は、電光のごとく、地べたの小坊主を襲った。
と同時に、小坊主は、横転しざま、白木の杖に仕込んだ白刃を、一閃させて、手裏剣を、搏《う》ち落していた。
次の瞬間には、はね起きて、家康めがけて横|薙《な》ぎの一撃を呉《く》れた。
しかし、もうその時には、家康には、身構《みがま》えができていたし、わざと胴を斬らせる余裕《よゆう》も生じていた。
仕込刀の切っ先は、みごとに、家康の胴を薙いだ。しかし、家康の胴は、異様な金属音を発した。道服の下には、鋼鉄《こうてつ》の小札《こざね》造りの胴丸《どうまる》を着していたのである。
手裏剣によって、抜刀の術を封じられ乍らも、胴丸を斬ったのは、最上義太郎に、異常の天稟《てんぴん》がそなわっていた証左と、ほめられてよかった。
よろめいた家康を、さっとかばって、少童に向い立ったのは、柳生兵庫であった。
祖父石舟斎から、上泉伊勢守の「新陰流相伝の書」「新陰流絵目録」ならび「柳生流印可」を授けられた柳生随一の使い手柳生兵庫は、するすると、愛刀を鞘走《さやばし》らせ乍ら、
――斬るには惜しい。百年に一人の天才であろうものを!
と、思っていた。
少童の青眼《せいがん》の構えは、兵庫がこれまで立合った一流兵法者と比べて、いささかも遜色《そんしょく》はなかったのである。
家康は、この対峙《たいじ》を眺め乍ら、
――幸村が、おのれ自身忍んで参る代りに、この少童を刺客に使うとは!
と、なかばあきれていた。
すると、その疑念に応えるように、どこからともなく、ひとつの声がひびいた。
「柳生兵庫殿、わっぱを斬られるなら、大御所のお生命《いのち》もないものと、思われたい」
と、言った。
兵庫は、その声が、どこから発せられるか、神経をそちらへ割りあてる余裕がなかった。少童の仕込刀に対して、微塵《みじん》の隙もみせるわけにいかなかったからである。
柳生但馬守が、唐門の方から、急いで駆けつけて来て、
「大御所様、書院へおもどりの程を願わしゅう存じます」
と、言った。家康は、但馬守の面ていから、ただならぬ危機をおぼえた。
「うむ――」
家康は、合点《がてん》して、踵《きびす》をまわした。
「兵庫、引け」
但馬守は、叫んだ。それから、石橋の袂《たもと》に立っている高麗塔《こまとう》にむかって、
「左衛門佐殿、本日は、勝負無しでござる」
と、言った。
但馬守は、幸村が、その塔内にかくれて、爆薬を持っていると、看《み》て取ったのである。
高麗塔は、しずかに、二つに割れるや、左右に倒れて、地ひびきたてた。
幸村は、伝心月叟《でんしんげっそう》と号するにふさわしい僧形《そうぎょう》となって、その中に立っていた。
その片手には、黒い数珠《じゅず》を持っているだけであった。
微笑して、但馬守を正視《せいし》し乍ら、
「御老君の命運の強さを、しかと、見とどけ申した」
と、言った。但馬守は、それに対してはなんとも応えず、軽く頭を下げてから、
「お引き上げの程を――」
と、たのんだ。
幸村は、杖に白刃を納めて、無心な面持でそこに立つ少童へ、
「どれ――花でも愛《め》で乍ら、戻ることにいたそうか」
と、言った。柳生兵庫は、遠ざかる大小ふたつの影を見送って、
「叔父上、追って、討ちますか?」
と、問うた。
「なるまい。作法ある仁に対しては、作法をもって見送らねばならぬ。それに……追っても、討てはせぬ」
「何故? この兵庫にも討てぬ、と仰せられるのか?」
「あの右手にまさぐっていた数珠は、ただの品ではあるまい。一投すれば、十人を四散せしめるであろう」
そう言いのこして、但馬守は、ゆっくりと、表書院へむかった。今日の謀計《ぼうけい》は、完全に、こちらの敗北であった、と感じ乍ら――。
出羽庄内五十二万石、山形城城主最上駿河守家親が、突然死去したのは、その翌年――元和二年三月であった。
幕府へ届出た言上書には、鷹狩の帰途、家臣|楯岡甲斐守《たておかかいのかみ》の家に立寄って、酒宴をひらいたが、俄《にわか》に腹痛を起して、卒《しゅっ》した、と記されてあった。
しかし、真相は、鷹狩の帰途、くさむらから、十二三歳の少年が、躍《おど》り出て、風の如く奔《はし》り寄って、跳び上りざま、馬上の家親を斬りすてておいて、また忽然と、姿をくらましたのであった。
幕府では、島田弾正、米沢勘兵衛の二人を遣《つかわ》して、出羽国に下し、老臣九人が心を合せて、幼子源五郎義俊を守り育てるように、と命じた。
しかし、九人の老臣は、いずれも傑物には程遠く、最上家中は四分五裂して、争論をくりかえした挙句《あげく》、幕府から、領土奉還を命じられる結果を招いてしまった。
源五郎義俊は、三河に一万石の捨扶持を与えられ、多病になやみつつ、寛永八年、二十六歳の若さで逝《い》った。
清酒日本之助
元和《げんな》元年正月六日、大阪城真田丸をおとずれた一人の商人があった。
人品骨柄いやしからぬ、堂々たる偉丈夫《いじょうふ》であったが、物腰はきわめていんぎんで、物見の兵に対してまで、ふかく頭をたれた。
「てまえは、摂津《せっつ》国|鴻池《こうのいけ》村に住い居ります鴻池屋新右衛門と申す者でございます。ささやかな酒造りをいたして居りまするが、御城内の賀宴《がえん》に、てまえ多年心がけて参りました醇良《じゅんりょう》の酒をさしあげたく、参上いたしました次第にございます」
その口上に、物見頭《ものみがしら》の穴山小助《あなやまこすけ》は、新右衛門のうしろに、十人の若者が、それぞれ、薦《こも》包みの樽《たる》を背負うているのを視《み》て、怪しい、と疑《うたぐ》った。
「この薦包みが、酒かどうか、一応取調べる。四番目の者、前へ出い」
と命じ、包みをひらかせ、上蓋《うわぶた》についている栓《せん》を抜かせた。
とたんに、穴山小助は、鼻孔をふくらませて、
「うむ!」
と、唸《うな》った。
斗酒《としゅ》なお辞せぬ酒豪の穴山小助は、こんな芳醇《ほうじゅん》の香を、かいだことがなかった。
すぐに、新右衛門は、真田幸村の前へみちびかれた。
幸村は、一瞥《いちべつ》して、
――これは、ただの商人《あきんど》ではないな。
と、直感した。
新右衛門は、畳へ両手をつかえ、
「ききおよびまするに、淀君様には、殊のほかに、美酒《うまざけ》をお好みの由。また、秀頼様も、お母君におならい遊ばされるとか……。てまえ、二十年の苦心のすえに造りました酒を、今日のお目出度い日にお召上り頂けますれば、この上の光栄はございませぬ」
と、言った。
「奇特のこころざし、ありがたく受けよう」
幸村が、こたえると、新右衛門は、用意して来た桐箱《きりばこ》から、大きな金盃と銀盃をとり出した。
うしろに山の形に積んだ十樽のうちのひとつを、とりおろし、栓を抜いて、金銀両盃へ、なみなみと注ぐと、金盃の方を、幸村の前へ、ささげて来た。
受けとって、幸村は、眉宇《びう》を微《かす》かに、ひそめた。
えも言われぬ芳醇の香をはなつそれは、おどろくべきことに、清水《しみず》のように澄んでいたのである。
当時、清酒というものは、日本全国何処をさがしてもなく、すべて、白酒《しろき》・黒酒《くろき》――すなわち濁った白い酒と稗《ひえ》酒ばかりであった。
もとより、酒の淵源《えんげん》は、きわめて古く、八岐大蛇《やまたのおろち》は、素盞嗚尊《すさのおのみこと》のために、ぐでんぐでんに、酔っぱらわされている。奈良朝には、はやくも、酒屋が出現している。
「日本霊異記《にほんりょういき》」に――。
田中真人女《たなかまびとめ》という貪欲《どんよく》な男が、酒に水を混入して、高く売り、貸す時には、小さな升で、返済させる時は大きな升で受けた、と記されてある。鎌倉時代に入ると、沽酒《こしゅ》禁制のことが、しばしば行われ、酒壺破却《しゅこはきゃく》の令が布《し》かれている。
室町に入って、正式に、酒屋・土倉の名が現れる。酒屋は、富裕であったので、質屋を兼業し、また高利貸をもやり、幕府も、これを保護した。
しかし、造る酒は、すべて、濁っていて、味に上下などなかった。
幸村をして、
――これは!
と、おどろかせたのは、当然であった。
清水のように澄みきった酒が、この世にあろうとは、想像もしていなかったのである。
「お毒見つかまつります」
新右衛門は、まず、銀盃を、かたむけた。
幸村は、ひと口|含《ふく》んでみて、
――旨《うま》い!
と心中で、感嘆《かんたん》した。
「新右衛門、このような美酒をつくるには、さだめし、多年の苦心を要《よう》したであろう」
「そのことにつき、ご説明申上げる前に、お願い申上げ度き儀がございます。まげて、おききとどけ下さいまするよう、願上げまする」
「申してみよ」
幸村は、新右衛門の双眸《そうぼう》が、急に、きびしく冷たく光るを視まもり乍ら、ゆるした。
「申すもはばかること乍ら、天下の形勢はもはやさだまり、大阪城のご命運は、尽《つ》きたかと存じられます」
新右衛門は、ずばりと言いはなった。
「……」
幸村は、黙然《もくねん》として、新右衛門を、瞶《みつ》めかえしているばかりである。
「はやくて半年、おそくて一年のうちに、大阪城は、徳川大御所様の手で、炎上いたすのではございますまいか?」
「たぶんな――」
「その日――豊臣様が滅亡あそばさるる日に、てまえが献上いたしまするこの清酒にて、淀君様、秀頼様が、最期の盃をおくみ交しあそばさるるよう、左衛門佐様にて、おとりはからい下さいましょうか?」
「のぞみとあれば、とりはからおう。……それを願うからには、もとより、仔細《しさい》があろうな?」
「ございまする」
新右衛門は、幸村の鋭い凝視《ぎょうし》を受けて、いささかもたじろがぬ表情で、
「てまえは、尼子《あまこ》氏の家臣山中鹿之介幸盛が一子にございます」
と、打明けた。
戦国武将の中にあっても、尼子氏の家臣山中鹿之介幸盛の生涯は、殊更《ことさら》に、悲壮をきわめている。
鹿之介幸盛は、近江源氏《おうみげんじ》の裔《すえ》で、幼名|甚次郎《じんじろう》と称し、幼にして父山中久幸を喪《うしな》い、母の手ひとつで育ったが、膂力《りょりょく》衆に勝《すぐ》れ、十三歳の時には、すでに、大兵《だいひょう》の大人と角力をとって、のこらず、地ひびきをたてさせた。十五歳になるや、亡父の主君尼子義久に召出され、先陣をうけたまわる幟《のぼり》を渡された。
十六歳の春、伯耆《ほうき》進撃に加わり、山名氏の居城尾高城を攻めるや、山名氏の重臣で、剛力無双《ごうりきむそう》のきこえ高い菊地|音八《おとはち》と一騎討ちして、その首級を挙《あ》げ、一躍名を馳せた。
その一騎討ちの際、ひとたびは、菊地音八に組み伏せられていた鹿之介は、はるかな夜空にかかった三日月が、突如《とつじょ》として、翔《か》け下って来て、敵の首を刎《は》ねとばしてくれるような気がした。
三日月が、おのれに味方してくれている、と直感した鹿之介は、猛然と渾身《こんしん》の力をふるって、敵をはねのけて、その首級を挙げるのに成功したのであった。
爾来《じらい》、鹿之介は、三日月を崇拝し、深更《しんこう》、三日月を仰いで、
「願わくば、我をして七難八苦に遭《あ》わしめたまえ」
と、祈《いの》った。
秋《とき》すでに、主家尼子氏の武運は傾き、曾《かつ》て出雲《いずも》・隠岐《おき》・伯耆《ほうき》を領し、安芸《あき》・備後《びんご》・美作《みまさか》をうかがった勢威は、全く失われていた。
大内氏に代って中国に覇《は》をとなえる毛利|元就《もとなり》の武力の前に、尼子氏は、日々影薄くなっていったのである。
永禄六年から九年までの四年間に、毛利元就は、尼子氏の城を、つぎつぎと陥《おとしい》れた。
まず、白鹿城の攻撃には、石見《いわみ》銀山から掘子数百人を呼んで穴を掘らせて、奇襲した。月山《げっさん》城の攻撃には、城が天嶮《てんけん》に拠《よ》っていて不落とみるや、謀計をもって尼子|刑部少輔《ぎょうぶしょうゆう》、同式部少輔を裏切らせ、当主尼子義久を欺《あざむ》いて、忠良の老臣らを殺させた。そのために、月山城内の士《さむらい》らが、義久に愛想をつかして、多く、毛利方へ降った。
やがて、ようやく、城内に糧食が欠乏した。義久は、それを、海路から求めようとしたが、毛利方の軍船が、弓ケ浜に扼《やく》した。ついに、兵糧尽きて、尼子義久は、毛利元就に降り、山陰道の覇家《はけ》は、ここに潰《つい》えた。
落城にあたって、山中鹿之介は、千仭《せんじん》の断崖上に突出した白い巨巌《きょがん》へ、朱《しゅ》で、
「七度び生れ変って、敵を滅ぼさん」
と大書しておき、断崖をすべり降りて、何処《いずこ》かへ、姿をかくした。
流浪《るろう》数年の後、京の都に出現した鹿之介は、春の一夜、東福寺《とうふくじ》へ忍び入って、一人の稚児《ちご》をぬすみ出した。
少年は、尼子氏の一族で、新宮党と称せられた猛将尼子国久の孫にあたる孫四郎勝久《まごしろうかつひさ》であった。生後一年に満たぬうちに、侍者に懐《いだ》かれて、備後にのがれ、次いで、東福寺に預けられていたのである。
鹿之介は、孫四郎勝久を擁《よう》して、尼子氏を再興せん、と壮烈《そうれつ》な決意をしたのである。
そして、まさしく、それからの、鹿之介の働きは、百折《ひゃくせつ》不撓《ふとう》であった。
孫四郎勝久もまた、鹿之介の尽忠《じんちゅう》に応《こた》える勇武の若者であった。
いくたびか勝ち、いくたびか敗れ、勝久も鹿之介も、総身《そうみ》に無数の刀痕槍傷《とうこんそうしょう》を負うた。
あるいは、不意に、山城を包囲されて、いったん降伏を請うておいて、痢病《りびょう》と称し、監視の目をかすめて、厠《かわや》の樋《とい》をくぐって、脱走したこともあった。あるいは、味方に裏切られて、京都に奔《はし》って所在をくらましたこともあった。
拠《よ》った城という城は、毛利勢に攻められ、勝久と鹿之介は、但馬《たじま》へ、因幡《いなば》へ、京都へ、転々と奔《はし》らなければならなかった。
天正三年、勝久と鹿之介は、京都に在って、織田信長に投じた。
信長の力を借りて、尼子氏の再興を企《くわだ》てたのである。
信長は、毛利征伐を行うにあたり、羽柴秀吉に、勝久と鹿之介を従わしめた。
秀吉は、宇喜多直家の属城|上月《こうづき》城を攻落するや、これを孫四郎勝久に守らしめた。
宇喜多直家は、吉川《きっかわ》元春・小早川隆景に援《たす》けを乞い、上月城へ、逆襲して来た。
この時、秀吉は、三木城を降すことを急務としていて、上月城へ援軍を送れなかった。
上月城は、雲霞《うんか》のごとき敵軍に包囲され、糧食《りょうしょく》も尽き、ついに、城門を開いた。
勝久は自決《じけつ》して果てたが、鹿之介をあの世へつれることをかたく拒《こば》んだ。
稀有《けう》の勇者たる鹿之介が、いずれ、信長に仕えれば、一国の城主たるであろう、と勝久は信じたのである。
鹿之介は、しかし、牢人したのち、尼子家代々の主の菩提《ぼだい》をとむらう心から、勝久の遺言にしたがって、捕虜となることにあまんじた。
ところが、吉川元春は、鹿之介があまりに勇名を有《も》つのを、許し難く、河村新左衛門に命じて、備中河部川の阿井の渡しにおいて、謀殺《ぼうさつ》せしめた。
天正六年――鹿之介、四十二歳であった。
いま、幸村の前に坐っている鴻池新右衛門は、父鹿之介が、憤死した年、七歳であった。
新六|幸元《ゆきもと》と言い、その時、海賊船「日本丸」に預けられていた。
「日本丸」の頭領|奈佐日本之助《なさにほんのすけ》は、尼子氏の遺臣の一人であり、鹿之介に私淑《ししゅく》していたのである。
足利幕府が、勢威を衰《おとろ》えさせた頃、倭寇《わこう》の名は、明史《みんし》にその名をとどめさせるほど、大海原に跳梁《ちょうりょう》をほしいままにしていた。陸上に志を得ず、雄心おさえ難い荒武者たちが、驥足《きそく》を、海上に展《の》べようとしたもので、ただの悪徒《あくと》の劫掠団《こうりゃくだん》ではなかった。
奈佐日本之助も、その一人で、尼子氏が滅びるや、海賊船に身を投じて、鬱勃《うつぼつ》の壮心を、激浪《げきろう》に吐いたのである。
その根拠は、隠岐《おき》であった。
鹿之介は、京の都で出会うた遊女に、一子を生ませるや、新六幸元と名づけて、自ら背負うて、戦場を馳駆し、わずか三歳のわが子に、「武士の子ならば、刀槍《とうそう》の閃《ひらめ》きに目蓋《まぶた》を閉じるな、矢叫《やたけ》びに耳をふさぐな」と教えたことであった。
主君勝久が鳥取城に旗をひるがえした時、奈佐日本之助は、伝えきいて、五|艘《そう》の海賊船をつらねて、馳《は》せ参じて来た。
鹿之介は、その際、わが子を日本之助にあずけて、養育をたのんだのであった。日本之助は、肚力膂力《とりょくりょりょく》ともに抜群で、しかも、武技に天稟《てんぴん》を誇《ほこ》っていたからである。
天正九年夏――。
奈佐日本之助は、新六幸元をつれて、鳥取城に在った。
鳥取城は、もと山名豊国のものであった。
山名豊国は、はじめ尼子氏に属《ぞく》していたが、尼子氏が毛利元就に滅ぼされると、すぐに転じて毛利氏に就き、次いで、山中鹿之介が、孫四郎勝久を奉じて、出雲・伯耆に大いに武力をふるうや、直ちに媚《こび》を送った。しかし、ほどなく、勝久と鹿之介が敗北すると、また再び毛利氏に頭を下げた。
山名豊国は、向背《こうはい》常なく、まことに無節操な人物であった。
さらに、このたび、羽柴筑前守秀吉が、大軍を率いて破竹の進撃をして来るや、たちまち、節を変じて、織田信長に対して、家臣の礼をとる使者を送ろうとしたのであった。
ここでついに、森下道与《もりしたどうよ》、中村春次《なかむらはるつぐ》らの老臣は、愛想をつかして、主君を、城から追放し、毛利氏を援けて、羽柴秀吉に対抗することになったのである。
たまたま、鳥取海上に在った奈佐日本之助は、その老臣らに乞われて、軍師として城へ迎えられた。
日本之助が、老臣らの乞いを容《い》れたのは、条件として、山中新六幸元を、将来鳥取城主とすることを認めさせたからであった。
鳥取城の守将は、安芸の毛利家から派遣されていた山県|春往《はるゆき》であったが、傀儡《かいらい》同然の立場に置かれていた。
実際上の指揮者は、日本之助であった。
天正九年六月二十五日。
羽柴秀吉は、播州《ばんしゅう》姫路を発して、因伯街道を北進して来、七月初旬、鳥取城に迫るや、全軍を散開し、山谷、森林に伏させた。兵力をわざと匿《かく》したのである。
本営を帝釈《たいしゃく》山という小山に置いて、周辺に砦《とりで》を築き、長期作戦の腰を据えた。
秀吉の城攻めは、きまっていた。まず、猛烈な攻撃をこころみ、容易《ようい》に抜き難いとさとるや、ぴたりと中止してしまう。
その沈黙に、城内が、不安と焦躁《しょうそう》をおぼえる頃には、城の周囲に、延長二里にわたって、柵《さく》をめぐらし、櫓《やぐら》を設け、夜も一瞬の休みもなしに篝火《かがりび》を焚きつづけて、城内から一人も忍び出さないようにしていた。
すなわち、兵糧攻《ひょうろうぜ》めであった。
山谷に伏せていた兵を、南大手の平地に陣を敷かせ、川には守備隊を構え、海陸共に、城の内外との連絡を絶ってしまった。
鳥取城は、現在の鳥取市の東北に位し、海抜八百尺である。
久松山の要害に拠《よ》り、峯にも麓《ふもと》にも砦《とりで》を築き、城下の近傍を流れる千代川の支流袋川の峯を切って、断崖をつくり、櫓《やぐら》を撤去《てっきょ》して大手に備え、また、本城から西北につらなる小山脈にもあらたな塁壁《るいへき》をつらねていた。
南大手は平地に臨み、東から北に山脈を帯び、城はその中央の山巓に築かれていた。谷は深く、坂は険しい。
すなわち、守るに易《やす》く、攻めるに難い、山城としては理想的な構造であった。
しかし、この構造はせいぜい、われに数倍する敵の攻撃に対して、難攻不落であった。羽柴秀吉の率いる雲霞《うんか》の巨軍を迎えると、逆に、その構造は、自らの手で咽喉を締めあげる悲惨な結果を招いた。
完全に包囲され、兵糧攻めに遭《あ》うと、どうにもならなくなるのであった。
包囲勢に対して、出雲からの援軍は、攻撃するすべがないのであった。秀吉は、すでに、別働隊によって、因幡の国境を侵して、数城を降《くだ》していたからである。
援軍が襲う唯一の作戦は、海路によるほかはなかった。
千代川の河口に賀露《かろ》の港があって、これが海陸連絡の要衝《ようしょう》にあたっていたが、秀吉は、ここへ、最も戦い馴れた精兵を守備せしめたのである。さらに、浅野長政《あさのながまさ》が、兵船百隻をまわして来て、港の入口をふさいでしまったのであった。
出雲からの兵糧は、途中まで送られて来て、むなしく、立往生しなければならなかった。
八月に入って、出雲からの援軍は、吉川元春の長子元長に率《ひき》いられて、伯耆の八橋《やはせ》まで到着したが、秀吉がひそめていた伏勢に襲撃されて、釘づけにされた。援《たす》けの急使が安芸へ奔《はし》らされたが、毛利氏はなお豊後《ぶんご》の大友氏と戦火を交《まじ》えていたので、兵をさくことは、不可能であった。
鳥取城は、完全に孤立《こりつ》した。
決死の十名がえらばれて、袋川を泳ぎこえて脱出し、危急《ききゅう》の状況を安芸に報告することになった。いずれも日本之助の部下の、河童《かっぱ》と称せられている海賊たちであった。頭から空俵をかぶって、深更《しんこう》月の落ちるのを待ち、距離をひらき乍ら、袋川の水中に忍んだが、河口に達した者は一人もなかった。
「もはや、我慢ならぬ。坐して餓死《がし》するよりは、いさぎよく撃《う》って出て散らん」
と逸《はや》った百余兵が、一夜、城門を開いて、袋川に陣を敷く黒田|孝高《よしたか》、木村|隼人《はやと》の隊へ、奇襲をこころみたが、夜が明けた時には、残らず地上へ死骸となって、横たわっていた。
八月末、出雲からの兵糧船五隻が、三百の兵の乗り組んだ十隻の軍船に護衛《ごえい》されて、賀露《かろ》の河口に到着した。だが、たちまち、浅野長政の百隻の兵船に押しつつまれて、船もろとも、焼きすてられてしまった。
秋も末にいたると、籠城百余日におよんで、城内の糧食はことごとく尽きた。兵も婦女子も、山中をあさって、犬も猫も狐狸《こり》も、鳥も鼠も虫も、草根木皮まで、喰べられるものはのこらず胃袋のものとした。苅田に残った稲の株のごときは、最も上食として争うて奪いとる生地獄の光景を呈した。
――頃よし!
と、看《み》てとって、秀吉は、藤堂高虎の家臣|阿字戒《あじかい》源太兵衛を、降伏勧告の使者として、城へ遣《つかわ》して来た。
阿字戒源太兵衛は、使者に立つにふさわしい威儀正しい武士であった。
寄手《よせて》の大将羽柴筑前守の口上は左のごときものである、と箇条を申し述べた。
一、籠城久しきにわたって、城内の兵糧も不如意の様子と察しられる故、所望ならば、寄手より、聊《いささ》かの兵糧をお贈りする用意があること。
一、ついては守将山県|春往《はるゆき》殿、老臣森下道与殿、中村春次殿は、城を出て、寄手に加った当城の城主山名豊国殿と談合あるべきこと。
一、寄手の大将羽柴筑前守は、おききおよびもあるかと存ずるが、中国征伐にあたり、すでに、十余の城を攻め取ったが、曾て非道の処置をいたしたことなく、土地の民は、その徳を慕《した》いて居るほどなれば、その寛大の裁きを期待されたいこと。
口上をきき了えた日本之助は、
「それは、降伏のおすすめか、それとも、和睦《わぼく》のお申入れでござるや?」
と、問うた。
「いずれとも、お受けとり下され度い」
源太兵衛は、そちらの肚《はら》ひとつできまることだ、という含みをもたせて、返辞した。
日本之助は、脇座の二人の老臣をふりかえって、
「おのおの方は、追放した旧主と和談される存念がおありか?」
と、凝《じ》っと目を据《す》えた。
老臣たちは、黙って、かぶりを振った。
「し、しかし――」
守将山県春往が、あわてて、口をはさんだ。
「もはや、当城の難渋《なんじゅう》は、寄手にも、手にとるがごとく知られて居る故、……無益《むえき》の人命を損ぜんより、開城和睦の儀を……」
「黙らっしゃい!」
日本之助は、大喝《だいかつ》してから、源太兵衛を、はったと睨《にら》みつけた。
「貴殿が使者として参られたのは、和睦の申入れでも、降伏のすすめでもなく、かくのごとく、城内を二分させる策謀《さくぼう》の密命を帯びたものと、解釈いたす」
「途方もない言いがかりをされるぞ! 飢餓が迫って、血迷われたか!」
源太兵衛は、睨みかえした。
「それがし奈佐日本之助は、海賊でござる。暴風雨をくらって、三月半年、大洋を漂流《ひょうりゅう》して、骨と皮になり果てたおぼえは、一度や二度ではござらぬ。飢餓に迫られて血迷うたか、などとあざけられるのは、笑止千万! 猿面冠者の小智恵を受けて、城内の人心を惑乱せしめるために参った廻し者め、軍令によって処分いたす! 立て!」
日本之助は、きめつけた。
庭上にひき据《す》えた阿字戒源太兵衛の首を刎《は》ねた日本之助は、城内にとどまる非戦闘員八百余の婦女子、子供を、今夜のうちに、源太兵衛の首級につき添わせて、城から去らせる命令を下した。
老臣はじめ、士も兵も、日本之助が、壮烈な決戦をこころみるものと合点《がてん》した。
その夜は、月のない暗黒の闇が、地上を掩《おお》うた。
婦女子と子供たちは、良人と父に、別れを惜しんで、城を出て行った。
それから、半刻ばかり過ぎて、日本之助は、二十名ばかりの海賊に、鉄砲を持たせて、そっと、忍び出て行った。
やがて、城内の人々は、遠くで、銃声が闇をつらぬくのを、きいて、はっとなった。
寄手の兵が、城内から夜襲をこころみて来たのではないか、と思いちがえて、非戦闘員たちを撃ったのではないか、と不安をおぼえたのである。
日本之助が、部下をつれて、忍び出て行ったのは、誰一人気がつかなかったのである。
銃声は、それきりで、あとは、深夜の静寂がつづいた。
日本之助が、部下たちと、音もたてずに、帰城したのは、夜明け前であった。部下たちは、それぞれ、大きな袋を背負うていた。
籠城は、さらに、それから、幾日もつづいた。
ある日、兵たちが、いっぴきの鼠を争って、斬りあい、一人が仆《たお》れた。その時、死骸を瞶《みつ》める兵のまなこが、異様に、ぎらぎらと光った。
日本之助が、千七百の兵に、ひと切ずつ、乾肉を渡したのは、その宵であった。
なんの肉とも告げられなかった。人々は、ひさしぶりの上食に、われを忘れて、むさぼりくらった。
日本之助は、一室で、十歳の山中新六が同じく与えられた乾肉を噛むのを、凝《じ》っと見戌《みまも》っていたが、不意に、
「新六――」
と、呼んだ。
「はい」
新六は、噛むのを止めて、日本之助を視《み》かえした。
「新六、もし、その肉が、先日まで、お前の身の世話をしていた女中の肉であったら、どうする?」
「……」
新六は、息をのんだ。
「そうではない、とは申せぬ。……あの夜、落ちて行く女子供めがけて、わしの輩下《はいか》は、盲撃《めくらう》ちに、弾丸をあびせた。皆が遁《のが》れ走ったあとで、五十四のむくろが横たわって居った。もとより、闇の中だ。誰人だか、判りはせなんだ。判ってはたまるものではない。弾丸が当ったは不運なあわれな犠牲者であった。誰が生きのこり、誰が死んだか、わしは、知り度くないために、闇をえらんだのであった。……わしの輩下らは、手さぐりで、死者の肉を切りとって、袋に詰めた。あるいは、おのれの妹であったかも知れぬ。昨日、笑って話を交した対手《あいて》であったかも知れぬ。……新六、お前の手にある肉が、お前の女中のものではない、と誰も否定はできぬのだぞ」
新六は、とたんに、口腔《こうこう》いっぱいに開いて、げえっと、嘔吐《おうと》の音を発した。
「よいか、新六……。合戦と申すものは、華々しく、雄叫《おたけ》びして、斬りむすぶだけではないのだ。かように、飢えて、おのが、近親の肉をくらう飢餓に陥るのも、合戦のうちだ。……お前は、それでも、さむらいになりたいか」
そう言って、日本之助は、自嘲の笑い声をたてたことだった。
秀吉の攻囲は、それから、さらに半月つづいた。山名豊国を囮《おとり》にして、投降する者には特に寛大の処置をする、という勧告をしたが、応ずる者は、一兵もなかった。
天が、飢餓きわまった城兵をあわれんだか、山中に、三十ぴきあまりの狼の群を迷い込ませたので、一時のしのぎになったのである。
狼の肉もくらい尽《つく》した時、日本之助は、ついに、決意して、降伏の使者を、ひそかに浅野長政の許へ送った。
おのれ一人の命に代えて、城中の者をのこらず助けたい、という条件であった。
しかし、報告を受けた秀吉は、主君を追放した老臣森下道与、中村春次を、不忠の臣として、自決させよ、と命じた。
いくたびか、使者の往来があって、天正九年十月二十三日、開城談判は成立した。城受取りの検使《けんし》は、堀尾茂助吉晴《ほりおもすけよしはる》であった。
堀尾茂助が、入城した時、老臣二人は、それぞれ営中で、屠腹《とふく》して果《は》てていた。
日本之助は、刀槍一本のこらず、整然とならべて、検使に渡したのち、新六幸元をただ一人ともなって、城下の真教寺《しんぎょうじ》に入った。その時、日本之助は、小脇に、甕《かめ》をかかえていた。
堀尾茂助が、
「それは、何か?」
と、問うと、日本之助は、笑って、
「それがしの骨を容《い》れる器《うつわ》でござる」
と、こたえた。
真教寺の方丈の一室を与えられると、日本之助は、新六にむかい、
「お前に、ひとつ、たのみがある。わしの屍体を、そのまま、この寺に葬ってはならぬ。墓地の一隅で、藁《わら》を積んで、焼いてくれい。その骨を、この甕に容れるのだ。この甕の中には、酒が入って居る。わしは、生涯なんの愉しみもなく、生きて来た男だ。妻子もなく、戦《いく》さに明け、戦さに暮れる月日をすごした。ただ、さいわいに、唯ひとつ、わしは酒好きであった。酒をくらって居る時だけが、何もかも忘れて、よい気分であった。……ねがわくば、わしは、わが骨を永久に酒にひたらせて置きたい。よいかな、新六、骨を酒に浸《つ》けたならば、この甕を密封《みっぷう》して、海へ抛《ほう》りすててくれい。たのむぞ」
と、言った。
それから、新六の落ち行くべきところを教えた。
「摂津国伊丹在鴻池村に、お前の大叔父山中信直殿が、悠々《ゆうゆう》として閑日月《かんじつげつ》を送っておいでじゃ。曾ては、伊丹|在岡《ありおか》の城主荒木摂津守村重殿に仕えて、武勇をうたわれた股肱《ここう》であったが、主君に非行があり、これを諫《いさ》めたが、肯《き》かれず、致仕《ちし》して、鴻池村に、草庵《そうあん》をむすんでおいでになる。お前が、頼るべき唯一の御仁と思う。わかったか?」
新六は、俯向《うつむ》いて、うなずいていたが、急に、顔を擡《もた》げて、日本之助を正視すると、
「わたくしは、さむらいには、なりませぬ」
と、きっぱりと言った。
「両刀をすてるのか?」
「はい。商人になります」
「ふむ――」
「たべるものをつくって売る商人になります」
新六は、籠城の艱難をつぶさになめたのち、人肉を食わされて、子供心にも、さむらいというものに愛想がつきたのであった。日本之助の述懐も、胸にしみ通って、忘れ難かった。
「商人となるのはよい。しかし、新六、おのれが、山中鹿之介幸盛の子であることは、忘れてはならぬぞ。身なり、世すぎのわざは、商人でも、胸中には、もののふの魂を持て。わかったな」
日本之助は、それを遺言にして、新六を次の間に去らせると、従容《しょうよう》として、死の座に就《つ》いた。
新六は、しばらくして、入って行き、日本之助が、見事に割腹して果てているのを見とどけると、住職のところへ行き、遺言を告げ、所化《しょけ》に、遺体を墓地へはこぶのを手伝ってくれるようにたのんだ。
しかし、荼毘《だび》にふすのは、おのれ一人の手で為《な》すと、ことわった。
住職は、所化に命じて、薪《まき》と藁《わら》を用意してくれた。火をつけた時は、もう墓地は、昏《く》れなずんでいた。
炎の前に蹲《うずくま》った新六は、心細さもおぼえず、じっと動かなかった。
……ふっと、目がさめた時、夜はしらじらと明け、おのれの前に燃えつづけていた遺体は、薪藁とともに、ほんのひとにぎりの灰になり、余燼《よじん》の薄けむりを、ただ一縷《いちる》昇らせていた。
人間の儚《はかな》さが、胸にじいんと疼《うず》いたのは、その時であった。
新六は、泪《なみだ》を手の甲でぬぐってから、かたわらに据えていた甕をかかえあげて、灰のそばへ据えると、白木の長箸で、骨をひろって、白く濁《にご》った酒の中へ、入れはじめた。
とぼん、とぼん、と微かな音をたてて、甕底へ沈んで行く骨が、再び、新六に、人生の無常をおぼえさせた。後年、この時のことを思い泛べるたびに、耳の中に、その微《かす》かな音が、よみがえった。
あらかたの骨をひろいおわった。ばらばらに砕け散った頭蓋のあたりの灰を、両手ですくって、幾杯も、甕に納めた。
やがて、甕を本堂に据えて、住職に回向《えこう》してもらったのち、背中に負うた新六は、礼をのべて、真教寺を立去った。
遺言にしたがって、甕を、海へ流すつもりであった。
しかし、賀露《かろ》の港の浜辺へ立った新六は、どうしても、甕を波の中へ押しやることができなかった。
「ゆるして下され。新六のそばに、いて下され」
口のうちであやまっておいて、踵《きびす》をまわした。
鳥取から姫路へ――山また山を越えて、新六は、とぼとぼと旅をつづけて来た。
あと二つばかり山を越えれば、播州竜野口《ばんしゅうたつのぐち》へ出る、と先刻出会った木樵《きこり》から教えられて、新六は、陽が傾きかかった山道を、ひろっていた。
昨夜は、雨乞いのために建てられていたとある峠の上の阿弥陀《あみだ》堂で泊った。
今夜は、竜野口の旅籠で、ねむりたかった。腰に携げた乾飯《ほしいい》も、なくなっていたのである。
幾日も、山の中を一人旅し乍ら、すこしも淋しくはなかった。背中の甕の中で、たぷん、たぷん、と酒のゆれる音が、日本之助の話しかけて来る声に、きこえていたのである。
それにこたえて、新六も、脳裡にうかぶままに、なにかと、喋《しゃべ》っていたのである。
「わっぱ!」
不意に、熊笹が鳴って、ぬっと、人影が立った。
髯《ひげ》だらけの巨漢《きょかん》であった。色あせた袖なしの革羽織をまとい、朱鞘《しゅざや》の大小を帯びていた。
「どこへ参る?」
「摂津《せっつ》」
「どこから来た?」
「鳥取から――」
「戦さで、両親を喪《うしの》うたか」
新六は、かぶりを振っておいて、さっさと足をはやめた。
しかし、牢人者は、すぐに追いついて来て、
「この甕は、なんだ?」
「骨壷じゃ」
「骨壷? 嘘をつけ、水の音がするぞ」
「……」
「中を見せろ、わっぱ」
「いやじゃ!」
「この作州街道に、水の不自由はない。とすると……」
「……」
「おい!」
新六は、いきなり肩を掴《つか》まれた。
それをふりきって、駆け出そうとしたとたん、木の根につまずいて、のめった。
「こやつ!」
牢人者は、地べたに匍《は》った新六を、ぐいとおさえつけておいて、背中から、甕をもぎ取った。
「なにをするのじゃ! これには、わしを育ててくれた小父御《おじご》の骨が、入っとるのじゃ!」
新六は、絶叫した。
牢人者は、せせらわらい乍ら、密封した甕の蓋を、べりべりとひらいた。
瞬間、鼻孔をふくらませて、
「うむっ! やっぱり、そうか、酒であったわい」
と、唸るように、言った。
酒には目のない男のようであった。
甕の中を覗《のぞ》き込んだ牢人者は、
「はてな? 酒は酒じゃが、これは――?」
と、眉宇《びう》をひそめたが、芳醇《ほうじゅん》の香にもう我慢ならなくなったのであろう、縁《ふち》へ口をつけると、甕を傾けた。
その刹那《せつな》、新六は、小刀を抜きざま、牢人者の脾腹《ひばら》へ、ぶすっと突き刺した。
「う、うっ!」
にごり声を咽喉《のど》奥からしぼった牢人者は、大きく傾いて、うしろの杉の幹へ、凭《よ》りかかった。
苦悶しつつも、酒徒らしく、甕を抛《ほう》り出さなかったのは、新六にとって、幸いであった。
新六は、牢人者の手から、甕を奪いかえすと、一町ばかり、無我夢中で、駆けた。
ほっと、ひと息ついて、甕の中を視やったとたん、思わず、新六の口から、「あっ」と愕きの叫びが、ほとばしっていた。
白く濁っていた酒が、いつの間にか、清水のように透明に澄みきっていたのである。
左衛門佐幸村と対坐して、長い物語を語りつづけた鴻池屋新右衛門は、ここで、再び、金盃と銀盃に、清酒を注いだ。
幸村が、飲み干すのを待って、おのれも、銀盃を空けた。
微笑を含んで、
「いかがでございましょう、この澄み酒の味は?」
と、訊ねた。
「問うまでもあるまい。日本にはじめて生れた美酒《うまざけ》と申せる。……次をきこう」
「てまえが、鴻池村へ辿《たど》りつきました時には、すでに、大叔父山中信直は逝《みまか》り、大叔母ひとりが、住んで居りました。いわば、てまえは、貧窮《ひんきゅう》の山中家をたてなおすために、現れたようなものでございました。志通りに、元服いたすと同時に、幸元の名をすてて、新右衛門と改め、商賈《しょうこ》として身を立てることにいたしましたが、一文のたくわえとてある筈もなく、あきないの道とは無縁に育った男が、どうやって、|もの《ヽヽ》をつくればよいのか、途方にくれたことでございました。
言葉につくせぬ艱難《かんなん》をつぶさになめた次第でございました。これは、おきかせする筋合ではありませぬゆえ、ただ、三十までは、元旦に餅を祝うこともできなんだ貧乏ぐらしであったとだけ、申上げて置きまする。
三十の誕生日を迎えまして、てまえは、またまた、あきないに失敗し、いっそ死のうかと思い乍ら、家の近くにある、行基菩薩《ぎょうきぼさつ》の開鑿《かいさく》と伝えられて居ります昆陽《こや》池の畔《ほとり》で、ぼんやりと腰を下して居りました。池の水の、美しゅう澄みきっているのへ、目を投じて居りますうちに、ふっと、酒造りをしてみようか、と思いたったことでございます。
ご存じかと存じますが、鴻池村は、南に開けた高台にあり、西に武庫《むこ》川が流れ、東にややはなれて猪名《いな》川が流れ、まことに、水は美しく、美味《おい》しいのでございます。酒造りには、水が生命でありますれば、鴻池は、その地の利を得て居りました。
……それから、十余年、てまえは、無我夢中で、酒造りにはげんだことでございました。ようやく、家の中に調度もととのい、仏壇《ぶつだん》も安置できるようになった時、てまえは、遠いむかしの、あの骨を容れた酒壺の不思議を、思い出したのでございました。
あの濁った白酒が、なぜ澄んだ清らかな酒に変っていたのか? 幾日も考えつづけましたが、判りませぬ。
ある日、思案にあまり乍ら、裏口を出ようといたしました際、うっかりと、そこに置いてあった灰桶《はいおけ》を蹴倒《けたお》してしまいました。てまえの脳中に、散らばった灰を眺めたとたん、天の啓示《けいじ》のごとく、ひとつの直感がひらめいたのでございました。
小父御の骨を、壺に入れた時、ついでに、藁灰をも、すくいとって、入れたではないか。
てまえは、直ちに、桶の灰を酒桶へ投げ込んでみました。一夜を置いて、期待に胸をふくらませつつ、酒桶を覗《のぞ》いてみますると、果して、昨日までの濁り酒が、清く澄みわたって居るではありませぬか。一口ふくんでみますれば、香味は、えも言われませぬ。……まことに、口にもできぬ、有難い悦びでございました。清酒の由来《ゆらい》、以上のような次第でございます」
語り了って、新右衛門は、頭を下げた。
幸村は、大きく頷いた。
「面白い話であった。これより、ただちに、これなる十樽を、本丸へはこび、秀頼公へ献上《けんじょう》いたすであろう」
「忝《かたじけの》う存じまする」
「御母子が、御最期にあたって、汲《く》み交される儀も、しかと引受けた」
「お願い申しまする」
奈佐日本之助が、無念の自決をした為に、偶然にも生れた清酒を、豊臣家滅亡にあたって末期《まつご》の水ならぬ酒として、淀君と秀頼にくみ交させたい。それが、商人になった山中鹿之介幸盛の一子たる鴻池屋新右衛門の士魂《しこん》であった。
伊藤一刀斎
慶長十六年秋――。
下総《しもうさ》国|葛飾《かつしか》郡小金ケ原の、果しなくつづく櫟林《くぬぎばやし》の中を、三個の人影が、ゆっくりと進んでいた。ともに連れ立つには、およそ似つかわしくない三者三様の風体《ふうてい》であった。
先に立った年配者は、うらぶれ果てた陰陽師《おんようじ》とも受け取れる、蓬髪《ほうはつ》、白装束《しろしょうぞく》に、無腰で、薦《こも》包みの一刀を背負うて、杖をついていた。陽焼けた面貌は、右眼が左眼よりも大きく、また鼻梁《びりょう》の高さ、鼻|翼《よく》の膨《ふくら》みは、土佐長隆筆の土蜘蛛双紙《つちぐもぞうし》の中に出て来る妖怪を思わせる。白小袖も白袴も、白い部分がのこっていないくらい汚れはてていた。
すぐ後に順《したが》っているのは、これは、普通の国風《くにぶり》の武士のいでたちであったが、蘇芳染《すおうぞ》めの革羽織に華々《はなばな》しくいからせた肩が、前後に立つ者の首よりも、上にある巨漢《きょかん》であった。殿《しんがり》を行くのは、中肉中背の、相貌《そうぼう》もきわめて尋常《じんじょう》の、打見たところ、ただの庶民《しょみん》であった。尤《もっと》も、その腰には、かなり長い太刀と脇差を佩《お》びていた。
櫟《くぬぎ》を主とする雑木林は、どこまでも、続く――。
三人は、黙々として、進んで行く。
先に立ったのは、伊藤一刀斎景久《いとういっとうさいかげひさ》、順うのは、小野善鬼《おのぜんき》・神子上典膳《みこがみてんぜん》の二人の桃李《でし》であった。
一刀斎は、諸国をへめぐり三十年のすえ、ようやく、おのが一刀流の伝書《でんしょ》、甕割《かめわり》の剣、そして仏捨刀《ぶっしゃとう》の秘奥《ひおう》を伝授《でんじゅ》すべき秋《とき》を迎えていた。
一刀斎が、伏見城に於て、徳川家康にまみえたのは、十年前のことであった。
家康は、軍師|小幡勘兵衛景憲《おばたかんべえかげのり》の推挙《すいきょ》によって、一刀斎を、将軍家指南役として、召抱えようとしたのである。一刀斎は、固辞して受けず、「いずれ、門弟のうちより、これはと思う者をえらんで、差上げまする」と、こたえて、飄然《ひょうぜん》と去ったのであった。
爾来《じらい》、今日まで、一刀斎は、ついに、一人も、家康へ、推挙していなかった。
このたび、江戸へ現れた一刀斎は、その姿を小幡景憲に発見され、むりやり、登城させられ、将軍秀忠の面前で、高弟一人を必ず推挙すると余儀《よぎ》なく誓《ちか》ったのである。
江戸を出た一刀斎の脳裡《のうり》には、二人の弟子の俤《おもかげ》が、泛《うか》べられていた。上総夷隅《かずさいすみ》郡|万喜《まき》の城主万喜弾正|少弼《しょうひつ》頼春に仕えていた小野善鬼《おのぜんき》と、下総佐倉の城下に住む能面打ちの神子上典膳《かみこがみてんぜん》と。
万喜家は、代々関東武士の武名を誇り、上総の里見義豊に属し、合戦に当っては、常に先鋒をつとめ、その勇猛の証《あかし》である真紅《しんく》の覆面をした駿馬が奔駆して行くところ、敵はことごとく伏した。
先代の時、里見氏と隙《げき》を生じ、その覊絆《きはん》を脱した後、小田原北条氏に属し、北条氏が滅亡してからも、依然《いぜん》として、武門を、その地に張っていた。小野家は、その武勇名家の股肱《ここう》として、東国に知らぬ者はなかった。善鬼は、小野家はじまって以来、と称《しょう》されている麒麟《きりん》児であった。
十六歳の折、狩に出て、里の娘数人を拉致《らち》して、弄《もてあそ》んでいる十数人の野伏《のぶせり》に出会うや、腰に携《ひっさ》げていた焔硝《えんしょう》袋をはずして、野獣の本能図絵をくり展《ひろ》げている周囲へ、すこしずつ、こぼして行った。
大きな火薬の円が、突如《とつじょ》、爆発し、野伏どもが、泡をくらって、娘たちをつきはなして、とびあがったところを、善鬼は、単身で斬り込み、一人のこらず、斃《たお》してしまった。
数年前、万喜城下をおとずれた一刀斎は、城主の依頼で、善鬼と、木太刀を合せてみて、そのおそるべき天稟《てんぴん》を認めたことだった。
善鬼は、はじめて、おのれの腕前の及ばぬ兵法者に出会うて、師と仰ぐことにしたのであった。
もう一人の若者――神子上典膳は、ふとしたことで、一刀斎の目にとまった。
佐倉城下のとある往還《おうかん》を歩いていた一刀斎は、四五人の小児たちが、白木の鬼面をかぶって、遊んでいるのへ、何気なく視線をくれて、はっとなった。小児たちのかぶっている白木の鬼面は、鑿《のみ》跡のついている粗末なものであったが、鬼という恐怖を象徴する凄味《すごみ》を、見事に表現していたのである。
一個を手にとった一刀斎は、思わず、「うむ!」と唸ったくらいであった。
鑿の削《けず》り跡《あと》の鋭さは、異様なばかりだったのである。
一刀斎は、直ちに、小児に案内させて、その能面打ちの家をおとずれた。
神子上家と言えば、東国の神社へ奉納する能面を、一手にひき受けている由緒《ゆいしょ》をもった家柄であった。ところが、当主典膳は、意外にも、まだ二十歳に満たぬ若者であった。名人であった父が逝ったのは、典膳が、十歳の頃であった、という。典膳は、独力で、能面造りを学んだわけであった。
一刀斎は、その家に一月ばかり滞在して、典膳に、剣の手ほどきをしておいて、立去ったのであった。一刀斎が立去る時、典膳はまだ、その天稟《てんぴん》の片鱗さえも示すにはいたらなかったし、兵法者たる覚悟もきめていなかった。
しかし、一刀斎は、諸国をへめぐっているあいだに、風の便りに、下総佐倉の城下に、若い能面打ちが、秀れた剣技《けんぎ》をつかう、と耳にして、
――さては!
と、合点《がてん》したことであった。
一刀斎は、徳川将軍の指南役に推挙《すいきょ》するのは、善鬼か、典膳以外には居らぬ、と考えたのであった。
一刀斎は、まず、万喜城下に、小野善鬼を訪うて、
「わしに、世を遁《のが》れる秋《とき》が、ようやく参ったような気がする故、当流をになう者をえらばねばならぬ。お許《こと》あたりは、いかがであろうかと思うて、会いに参ったが、受けてくれるであろうか?」
と、きり出した。
善鬼の魁偉《かいい》の面貌が、歓喜《かんき》でかがやいた。
「申すまでもないこと乍ら、流儀の秘奥は、一子相伝が定法である。この一刀斎の一刀流を後世に伝える資格を所有する者は、唯一人でしかない。人選をあやまれば、一刀流の名は、地に堕ち、泥にまみれよう。……されば、お許をえらぶに当って、試しを致さねばならぬ」
「かしこまりました。如何様《いかよう》なるお試しでも、お受けつかまつります」
善鬼は、応《こた》えた。
一刀斎は、微笑し乍ら、
「この一刀斎を、虜《とりこ》にしてみせて欲しい」
そう言った。
善鬼は、一刀斎の異相を、凝《じ》っと瞶《みつ》めていたが、一瞬、端坐《たんざ》の姿のままで、畳をひと搏《う》ちにして、斜横《ななめよこ》に跳《と》んだ。
すると、いままで、善鬼の坐っていた畳が、音もなく、すっと立った。
とみた瞬間には、善鬼は、次の畳もひと搏ちして、横へ跳び移っていた。その畳もまた、生きもののように、立った。
善鬼は、六|度《た》び――六枚の畳を、跳び移って、それらをことごとく立てた。
すなわち。
二畳の中央に坐っている一刀斎は、六枚の畳によって、完全に、囲《かこ》われてしまった。
「うむ」
頷いた一刀斎は、
「わしには、この囲いを破ることは、叶わぬかな」
と、問うた。
「叶いますまい」
こたえる善鬼の姿は、立った畳の蔭にかくれていた。その声は、忍びの術で言う暗声《あんせい》で、前後左右、どこから発しられているのか、判らなかった。すでに、善鬼は、刀を抜いているに相違なかった。
一刀斎は、しばらくの間、寂然《じゃくねん》として三昧《さんまい》に入っているもののように、目蓋《まぶた》を閉じていたが、
「相わかった」
と、言って、やおら、立った。
とたんに、一刀斎の背後に立てられていた畳の蔭から、善鬼は、身を起し、
「お試し、忝《かたじ》けなく存じました」
と頭を下げた。
一刀斎は、善鬼に、何の言葉も与えず、一夜泊って、夜明け前には、すでに、姿を消していた。
翌日、佐倉に現れた一刀斎は、神子上家を訪れて、典膳が、むかしと変らずに、木屑《きくず》の散乱した仕事場で、こつこつと、能面を彫っているのを見出して、微笑した。
典膳は、一刀斎がやって来るのをすでに予感していたような態度で、迎えた。
一刀斎は、善鬼に向って与えた言葉を、典膳にも呉れた。
典膳は、当惑《とうわく》した面持で、
「まだ壮者《そうしゃ》であらせられる先生が、遽《にわか》に遁世《とんせい》のおぼし召しは、いかなる仔細《わけ》か存じませぬが、わたくし如き未熟者《みじゅくもの》に、跡目《あとめ》を襲《つ》がせようなどとは、思いも寄らぬ儀にございます」
と、辞退《じたい》した。
「十年教えても、印可《いんか》を与えられぬ弟子も居る。わずか一月、太刀を握《にぎ》るすべを授けておいて、すてておいても、いつの間にやら、奥儀《おうぎ》を会得して居る弟子も居る」
一刀斎は、そう言ってから、
「ところで、お許《こと》は、わしを、不意に襲うて、討つことが出来るかな?」
と、訊ねた。
「そのようなわざは、到底持ちませぬ」
「やってみなければ、わかるまい」
一刀斎は、つと立って、片隅の六曲屏風《ろっきょくびょうぶ》を把《と》ると、座敷の中央に、半円に据《す》え、その中に坐った。
「工夫してもらおう」
典膳は、屏風をへだてて正座すると、それきり、いつまで経《た》っても、微動もしなかった。
一刀斎は、待つ。典膳は、動かぬ。
そして……、ついに、夜が、しらじらと明けそめた。
「典膳、いかがいたした?」
一刀斎が、はじめて、声をかけた。
典膳は、しかし、沈黙をまもった。
やがて、陽が昇った。
一瞬――。
典膳が、無言の気合を迸《ほとば》しらせて、差料《さしりょう》を抜きざまに、屏風をつらぬいた。
しかし、突き出された白刃は、一刀斎の前方五尺ばかりの空間にあった。
一刀斎は、その見当ちがいを咎《とが》めるかわりに、
「討ったか?」
と、問うた。
「討ちました」
典膳は、こたえた。
一刀斎は、立とうとしたとたん、微かな戦慄《せんりつ》をおぼえた。畳の上に延びたおのが影法師の、恰度《ちょうど》、心臓にあたるところを、屏風から突き出た白刃の影が、つらぬいていたのである。
典膳は、師の実体を襲《おそ》うかわりに、その影法師を刺したのである。
「む――見事!」
一刀斎は、丁《ちょう》と膝《ひざ》を搏《う》った。
それから三日後の今日――一刀斎は、この二人の稀有《けう》の俊髦《しゅんぼう》をつれて、ここ小金ケ原へやって来たのであった。
後年、佐倉炭《さくらずみ》の本場となった小金ケ原も、まだ、鍬《くわ》も斧《おの》も入って居らず、雑木林も草原も、原始のままであった。
一刀斎と二人の弟子は、櫟《くぬぎ》の木立の中を抜けて、ようやく、荒寥《こうりょう》たる草原に出た。
一刀斎は、彼方に一本《ひともと》、天に沖《ちゅう》する櫟の巨樹が、なかば葉をふるって、裸枝で宙を刺し乍ら聳《そび》えているのを、みとめた。
「あそこが、よかろう」
と、呟《つぶや》いた一刀斎は、丈《たけ》なす旗薄《はたすすき》を分けて、進んだ。
そこは――。
まさしく、決闘のためにつくられたかとおぼしい場所であった。
離れ小島にも似た一本櫟を中点として、黄色に枯れた短い芝生がおよそ一町四方も湖面のようにひろがり、灌木《かんぼく》や旗薄《はたすすき》や葎《むぐら》が、岸辺とも見えて、周囲をおし包んでいた。
秋風が、颯々《さつさつ》と、草原を渡る。
陽はあかるく、その澄んだ空には、なぜか、鳥影ひとつ無かった。
一刀斎は、巨樹の下に立つと、おもむろに、懐中から、油紙に包んだ奉書《ほうしょ》をとり出した。
それを披《ひら》いた一刀斎は、善鬼と典膳へむかって、かかげてみせた。
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其方儀、今度《このたび》兵法指南役仰付、食禄六百石|被下《くださるる》者也
月日 承之
土井|大炊頭《おおいのかみ》利勝 花押
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命じられるべき者の姓名は、空白となっていた。
善鬼か、典膳か――孰《いず》れかの姓名が、そこへ、一刀斎の手で、記入されることになる。
奉書を巻き納めてから、一刀斎は、両名に向い、
「わしは、お許《こと》らに対して、試《ため》しをこころみたが、わしの分別によっては優劣《ゆうれつ》をつけかねた。やむなく、一子相伝《いっしそうでん》の場所を、この人跡《じんせき》絶えた原野にえらび、お許らのうち、孰《いず》れが、事《わざ》、理《ことわり》に於て一歩先んじて居るか、知りたいと思う。如何《いかが》であろう?」
一刀斎の右眼は、かっと瞠《みひら》かれ、左眼は、糸のように細められた。
善鬼と典膳は、息をのんで、師の顔を凝視《ぎょうし》している。
一刀斎は、善鬼へ視線を向けた。
「善鬼、お許《こと》は、技《わざ》に於ては、あるいは、典膳に勝《まさ》って居るかも知れぬ。お許は、わしを虜《とりこ》にせよ、と命じられるや、即座に、四方に畳を立ててみせ、その蔭にひそんで、抜刀してみせた。しかも、伏せた場所を気どらせなかった。見事であった、と申すほかはない。ただ、あのままの状態が、一刻、いや一夜中つづいたとしたら、如何であったろうか。わしは虜にされたまま、平常の気息で、ただ、正座いたして居ればよかった。それに反して、お許は、気配《けはい》を絶って、ひそんでいなければならなんだ。夜明けまでの長時間、よく、それが為《な》し得るであろうか。お許が、そこにひそむことを、わしに察知《さっち》させる不覚《ふかく》の一瞬が、ないとは申せぬ。その時は、わしの勝となろう。お許は、おのが技を自負するあまりに、かえって、それが、身の仇とならぬとは限らぬ。わしは、そこに、お許の弱点を観た」
次に、一刀斎は、典膳を正視《せいし》した。
「典膳、お許は、あるいは、尋常の勝負に於ては、善鬼の敵ではあるまい、と思う。屏風の蔭から、わしを襲うに、お許は、一夜を待たねばならなんだ。朝陽がさし入って来た時、ようやく、わしの影を刺すことを思いついた。しかし、もし、曇天《どんてん》であったならば、如何したであろう。さらに、一昼夜を堪《た》えて、陽がさすのを待ったか? お許は、おのが技が師に劣るのをおそれるあまり、天運をたのみすぎた。すべて、兵法は、細心であるとともに放胆《ほうたん》でなければなるまい」
それぞれに、言うべきことを言った一刀斎は、何故か、ふっと、双眼を閉ざした。
「勝負!」
その口から、鋭い一声が発しられるや、善鬼も典膳も、はじかれたごとく、九尺を跳《と》んだ。
おのが地歩を占めた刹那《せつな》、もう両者の手に、白刃が抜き持たれていた。
距離は、凡そ十歩。
善鬼は上段に、典膳は青眼《せいがん》に構《かま》えていた。
後世、一刀流は、青眼を定法とした。
青眼につけた切っ尖《さき》を、鶺鴒《せきれい》の尾の如《ごと》く、ぴくっぴくっと動かす。これは、剣の居つかぬ用意として、修業にあたって要求されるところである。敵を撃《う》つよりも、まず、おのが身を守るための法形《ほうけい》であった。すなわち、切っ尖を、ぴたりと空間に固着させれば、おのずから、起り頭《がしら》が鈍くなる不利が生ずる。常に、切っ尖を動かしていれば、剣は居つかぬのみならず、敵の心を惑《まど》わして、その起り頭をも乱し得る二重の利がある。
典膳は、師に教えられた通り、踵《きびす》を地から浮かせて、波にゆられる小舟のように、刀身とともに躯《からだ》をも、絶えず動かし乍《なが》ら、時おり、切っ尖を、ぴくっぴくっ、とはねあげてみせた。
これに対する善鬼の大上段は、敢《あ》えて、典膳よりおのが技の勝《まさ》っているのを、誇示《こじ》したものに、ほかならなかった。いわば、傲然《ごうぜん》と、威圧《いあつ》をもって臨《のぞ》んだのである。
善鬼は、師に対する反抗心を起していたのかも知れぬ。
その景容に於ては、まさしく、善鬼の方が、一方的なばかり立派であった。
六尺数寸もある巨躯が、三尺余の剣を大上段にふりかぶった威圧の攻勢は、文字通り鬼神もひしぐかと見える。
典膳は、むしろ小兵《こひょう》に属する痩身《そうしん》であり、装《なり》も貧しく、加之掴《これにくわうるにつか》んでいる差料は二尺ばかりでしかなかった。磐石《ばんじゃく》の如く聳《そび》え立った善鬼の前に、足を浮かし、腰を浮かして、切っ尖を痙攣《けいれん》させている典膳の姿は、いっそ、みじめったらしいものであった。
その視線のつけどころも――善鬼は、炬《きょ》と燃える眼光を典膳の真額《まびたい》へ射込《いこ》んでいるのにひきかえて、典膳は伏目がちに、善鬼の帯のあたりに当てていたのである。
じりっ、じりっ、と距離を縮《ちぢ》めて来たのも、善鬼の方であった。
「やああっ!」
「……むっ!」
善鬼が咆哮《ほうこう》し、典膳が受けること、四度び。
そのたびに、善鬼は迫り、典膳は退いた。
善鬼の炬眼《きょがん》は愈々熾烈《いよいよしれつ》に燃えたが、典膳の眼眸《まなざし》は、決して、善鬼の帯から上へは、挙《あ》げられなかった。
この伏目は、後世の剣法で名づけられた「帯《おび》の矩《かね》」であった。
技《わざ》において、敵に劣《おと》る者は、決して、その目を、敵に見せてはならなかった。
劣等感を持つ者が、上手《うわて》の敵に、視線を合せれば、目の色によって、策戦《さくせん》をことごとく読みとられる危険があった。それを避《さ》けるためには、敵の帯のあたりに目をつけて、いかなる瞬間も、決して、それから上には、伸びさせぬ。これが肝要《かんよう》であった。
一刀流極意の歌として――、
敵をただ撃《う》つと思ふな、身を守れ、おのづから漏《も》る賤《しず》が家《や》の月
という一首がある。
いわば、典膳は、技に於て到底及ばぬ善鬼に対して、師が教えた格《かく》に順《したが》い、法を守り、おのれを虚空《こくう》の中の一個の影と化さしめて、おのずから月光の漏《も》れて来るのを、待ったのである。
ついに……。
善鬼と典膳は、櫟の巨樹を、大きく一巡《ひとめぐ》りした。
一刻にも近い時間が、むなしく流れ過ぎた。
ようやく――焦躁《しょうそう》をおぼえたのは、善鬼の方であった。
対峙《たいじ》した瞬間、善鬼は、典膳の姿勢を視て、師の言った通り、さしたる業前《わざまえ》ではない、と思ったことであった。すくなくとも、おのが腕前とは、かなりの逕庭《けいてい》があると、聊《いささ》かかろんずる心を生じたものであったが、さて、いざ、真《ま》っ向《こう》から、刃風《はかぜ》を襲わせようとするや、その卑屈《ひくつ》とさえ受けとれる構えに、微塵《みじん》の隙《すき》もなかったのである。
こちらから、凄《すさま》じい威嚇《いかく》の懸声《かけごえ》をあびせかければ、これに応ずる声は、音こそひくかったが、善鬼の臓腑《ぞうふ》にまで、びーん、とひびいたのである。
善鬼は、やむなく、典膳の守勢《しゅせい》を崩《くず》すために、肉薄《にくはく》するよりほかはなかった。典膳は、しかし、その挑《いど》みに応ぜず、退りつづけ、ついに、巨樹を一巡してしまったのである。
善鬼は、これ以上、追うのをいさぎよしとしなかった。
善鬼は、いったん、刀身をすっと青眼に下げるや、
「やああっ!」
八方を包む旗薄《はたすすき》を一斉になびかせるほどの凄じい気合とともに、大上段に振りかぶった。
阿修羅に似たその威嚇《いかく》に、典膳の身が、二寸ばかり沈んだかとみえた。
瞬間、
「典膳、引くな!」
瞑目《めいもく》した一刀斎の口から、一喝《いっかつ》が発しられた。
とみるや、典膳は、刀身を、ぱっと眼前一尺の空間に横たえ、柄《つか》から離した左手を開き、親指と人差指の股《また》を、鍔《つば》もとから二尺あまりの鋒へあてがう、異様の構えをとった。
すなわち。
典膳は、おのが刀身によって、視界《しかい》をふさぎ、刃のかがやきをもって、善鬼の炬眼《きょがん》の光を弾《はじ》いたのである。
きらっ――と煌《きらめ》く刃の眩《まぶ》しさに、善鬼は、ついに、満身のエネルギイを誘発《ゆうはつ》されてしまった。
「えいっ!」
五体にみなぎっていた一切の力が、炸裂《さくれつ》して、一撃を生んだ。
その真っ向大上段から振《ふ》り下された白刃は、典膳が、眼前の空間に横たえた白刃を、がっと噛《か》み、そして砕《くだ》いた。
刹那《せつな》――。
典膳の小躯《しょうく》が、独楽《こま》のごとく、くるるっ、と廻転《かいてん》した。
廻転がおわった時、典膳は、その背中を、善鬼に向けていた。
その顔面は、紙のように白く褪《あ》せて、一種|痴呆《ちほう》の色を泛《うか》べていた。
善鬼は、しかし、典膳に後姿を視せられ乍ら、それへ、斬りつけようとはしなかった。
典膳の太刀をま二つにしたおのが剣を徐々《じょじょ》に、下げた。
それにつれて、その面貌《めんぼう》に、断末魔《だんまつま》の相《そう》を刻《きざ》み乍《なが》ら、すこしずつ、仰《あお》のかせた。
どたり、と地ひびきたてて、善鬼が仆《たお》れた時、はじめて、一刀斎が、目蓋《まぶた》を開いた。そして、そこに、茫乎《ぼうこ》として、虚脱《きょだつ》の|てい《ヽヽ》で立ちつくす典膳の姿を見出すや、
「典膳! 勝負はおわったぞ!」
と、言った。
その声で、はっと、われにかえった典膳は、きょろきょろ、と見まわした。
仆《たお》れている善鬼の屍《しかばね》を視《み》、それから、おのが右手に、いつの間にか、脇差が抜き持たれているのに、気づいた。
全く、おぼえがなかった。
典膳は、空間に横たえた太刀を、截《き》らせておいて、反射の迅業《はやわざ》で、脇差を抜くや、おのが五体を独楽《こま》と化して廻転《かいてん》させつつ、善鬼の胴《どう》を、薙《な》ぎ斬《き》ったのであった。
「典膳。お許は、おのれ自身も測《はか》らずして、無想剣《むそうけん》を会得《えとく》した」
一刀斎は、そう言って、微笑した。
「はっ――」
典膳は、その場へ、ひざまずいて、頭を下げた。
何故か知らず、総身が、わなわなと顫《ふる》えはじめた。意識の下に押えていた恐怖が、いまになって、そういうかたちで起って来たのであったろうか。
その目の前の芝生へ、将軍家指南役を命ずる奉書と、備前《びぜん》福岡|大一文字助宗《だいいちもんじすけむね》――甕割《かめわり》の刀と、それから、一刀流の伝書が、投げられた。典膳は、平伏した。
はっ、と典膳が、頭を擡《もた》げた時、そこに立っていた筈の一刀斎の姿が、煙《けむり》のように消えうせてしまった。
「先生っ!」
愕然《がくぜん》となって、はね立った典膳は、血眼になって、草地《くさち》を奔《はし》った。
しかし、一刀斎は、地にもぐったか、天に翔《か》けたか、行方《ゆくえ》は、どこにも知れなかった。
江戸へ出た神子上典膳は、小幡勘兵衛景憲を、その邸宅に訪ねたが、奉書には、一刀斎の筆跡で、自身の名が記入されてあるにも拘《かかわ》らず、
「聊《いささ》か考えるところあって、しばらく、町道場を開かせて頂きたく――」
と、願い、すぐに徳川家へ随身《ずいしん》することを拒《こば》んだ。
景憲は、典膳の性根が奈辺《なへん》に在るか、窺知《きち》できぬままに、いきなり、かたえの太刀を把って、抜き討ちをかけようとした。
だが、抜けなかった。
典膳の右手から扇子《せんす》が飛び、柄がしらに、当ったのである。景憲が、抜こうとする力よりも、扇子が柄がしらに当った力の方が、強かったのである。景憲は、両手がしびれて、しばらくの間は、なんの感覚もなかった。
「天晴《あっぱ》れ!」
景憲は、苦笑いし乍ら、ほめざるを得なかった。景憲は、それだけの試しではまだ物足らず、数日後、典膳を、柳生《やぎゅう》道場へともなった。
但馬守宗矩《たじまのかみむねのり》か、さもなくんば、長子|十兵衛《じゅうべえ》と立合わせてみよう、と景憲は、考えたのである。
しかし、これを辞退したのは、典膳の方であった。
景憲は、わざわざ従って来乍ら、この場に臨《のぞ》んで、何故《なぜ》辞退するか、と咎《とが》めた。
典膳は、つつしんで、
「将軍家指南役を仰せ付けられたるそれがしの剣を、同じく将軍家指南役の但馬守殿が、試《ため》されるとなっては、孰《いず》れが傷ついても、世間へのきこえをはばかり申しますれば……」
と、こたえた。
景憲は、上座の方を、瞥《ちら》と視《み》やった。
但馬守宗矩のうしろに、見知らぬ武士が、坐っていた。
忍びでやって来た将軍秀忠であった。
秀忠は、頷《うなず》いてみせた。
景憲は、次の瞬間、大声を噴《ふ》かせた。
「神子上典膳! 不遜《ふそん》なりっ!」
その一喝《いっかつ》に応《おう》じて、長子十兵衛|三厳《みつよし》が、つかつかと道場へ出て来るや、四尺余の木太刀を把《と》って、端座する典膳の前へ進んだ。
「上意あり! 尊公《そんこう》の脳天《のうてん》を、撃《う》ち砕《くだ》き申す!」
そうあびせておいて、青眼に、構《かま》えた。
断《ことわ》って置くが、十兵衛三厳は、その時はまだ、隻眼《せきがん》ではなかった。常人《じょうじん》の二倍はある眸子《ひとみ》ふたつを、らんらんと光らせていた。
典膳は、穏《おだ》やかな面持で、十兵衛を仰《あお》ぎ、
「それがしに、得物《えもの》をお与え下さらぬのか?」
と、問うた。
「上意なれば、撃《う》ちすてるまでのこと。素手《すで》にて、遁《のが》れる方法を工夫されい!」
十兵衛は、言いはなった。
「されば……、しばしのご猶予《ゆうよ》を――」
と乞《こ》うた典膳が、やおら、懐中《かいちゅう》からとり出したのは、将軍家指南役を命ずる奉書であった。
典膳は、その端を、ぴりっと裂《さ》くや、するすると、一本の|こより《ヽヽヽ》をつくった。
そして、それを、右手に握るや、片膝立てて、構えた。
「いざ!」
「……」
十兵衛は、無言で、つま先を一寸刻《いっすんきざ》みにして、迫った。
道場内、千余の人々は、固唾《かたず》をのんで、この決闘を見戌《みまも》った。
十兵衛は、木太刀の切っ尖が、|こより《ヽヽヽ》の先端にふれるや、ぴたりと、足を停《と》めた。
そして、そのまま――両者は、画中の人となった如《ごと》く、微動《びどう》もしなくなった。
典膳がさしのべた|こより《ヽヽヽ》の先端は、十兵衛の目を狙《ねら》っていた。
一刀流の秘奥を会得《えとく》し、さらに業《わざ》の枝葉をふるいすてれば、のこるは唯ひとつ、突きの一手《ひとて》の精妙《せいみょう》だけである、とは後年、典膳が説《と》いたところである。
典膳は、わずか四寸の|こより《ヽヽヽ》を武器として、十兵衛の目を突かんと、構えているのであった。十兵衛が、凡手《ぼんしゅ》であったならば、笑止とあざけって、苦もなく脳天《のうてん》を微塵《みじん》に砕《くだ》くべく、ひと振り、振《ふ》り下したに相違ない。
非凡の高手《こうしゅ》である十兵衛には、四寸の|こより《ヽヽヽ》が、長槍の鋭《するど》さにも感じられたのであろう。動かなかったのである。
半刻《はんとき》が経過した。
十兵衛の面ていが、遽《にわか》に朱《しゅ》をおびた。
典膳の相貌《そうぼう》は、やや心もち、蒼白《あおじろ》くなって来た。
突如《とつじょ》――。
「とおーっ!」
三百余坪の建物が、四散するばかりの気合が、つんざいた。
だが、見戌る千余の目には、殆ど、十兵衛と典膳の動きは、映《うつ》らなかった。いや、爆発した殺気のために、目|晦《くら》んだと言った方が、正しいであろう。
人々は、一瞬ののちには、両者が、元の構《かま》えに、水のごとく、たちかえって、しずまっているのを、視《み》なければならなかった。
一瞬前とちがっているのは――。
十兵衛の左眼に、|こより《ヽヽヽ》が、二寸ばかりになって、突き立っていることであり、典膳の右手には、|こより《ヽヽヽ》の残りが握《にぎ》られていることであった。
想像を絶する迅業《はやわざ》が、両者によって、演《えん》じられたのである。
典膳は、十兵衛の左眼めがけて、|こより《ヽヽヽ》を投げ飛ばした。十兵衛は、翔《か》ける|こより《ヽヽヽ》を、木太刀で両断した。|こより《ヽヽヽ》は、半分になり乍ら、十兵衛の左眼を刺《さ》した。典膳は、落ちて来る残り半分を掴《つか》みとったのである。
典膳が、小野次郎右衛門忠明と改《あらた》めて、駿河台《するがだい》に道場を開き、はじめて、江戸に、一刀流の看板をかかげたのは、それから、一月ばかり後であった。
小幡景憲の後楯《うしろだて》であったので、流名《りゅうめい》はさまで知られてはいなかったが、かなりの門弟を擁することができた。
某日――。
不意に、訪れた勘兵衛は、
「御用の筋がある故、直ちに身支度をして、わしについて来てくれ」
と、言った。勘兵衛は、幕府目付役をつとめていた。
「それがしに、なにかご不審《ふしん》がおありか?」
「いや、お主にたのみの筋がある。……府下膝折村《ふかひざおりむら》に、中条流の看板をかかげて居る者がある。その家に身を寄せている牢人が一人いる。これが、先般、江戸城へ忍び入って、天守閣へ放火した曲者《くせもの》と断定した」
天守閣は、上層《じょうそう》の一部を焼いただけで、烏有《うゆう》に帰すのをまぬがれていた。
「盗賊を召捕《めしと》るのは、奉行所の役目と存ずるが……」
「ただの曲者ではない。わしは、豊臣家から放たれて来た間者《かんじゃ》と看《み》たのじゃ。されば、多くの捕方《とりかた》を召連れて行くのを、はばかる。……お主の手で、なろうことならば、召捕ってもらいたいが、手にあまらば、斬りすててくれても、苦しゅうはない」
捕方の役目は、むかしより、不浄《ふじょう》のごとく言われて、名を重んずる武士は、好まなかった。斬《き》りすて勝手となれば、それは、武道のならいである。勘兵衛は、そこを斟酌《しんしゃく》した。
次郎右衛門は、承知して、一文字|甕割《かめわり》を腰に佩《お》びるや、ただ一騎《いっき》で、膝折村へ、疾駆《しっく》して行った。
その家は、街道筋に面していて、むかしかなりの豪族《ごうぞく》ででもあったか、とおぼしい格式のある構《かま》えをみせていた。
次郎右衛門は、門に、中条流の看板が、かかげられている以上、こちらも、玄関から堂々と名のりかけて、その牢人者と、尋常の立合いをしたい、と申入れた。
兵法者として、試合を申入れたのであるから、対手《あいて》も、卑怯《ひきょう》に遁《に》げかくれはしなかった。
玄関へ出て来たのは、見事な面魂《つらだましい》の、世に遇《あ》えばなにがしと称《うた》われて、武功者の数に入るであろう器量《きりょう》の持主と見えた。
屋敷わきの桑畑に囲《かこ》まれた空地が、決闘場にえらばれた。
対手に、大だんびらを抜かせて、おのれは、鉄扇をさし出した瞬間、次郎右衛門は、
――これは、捕《と》れる。
と、思った。
並の使い手ではないことは、みとめられたが、兵法者でも、また忍者でもないこともあきらかであった。真田幸村などが放って来た手練者《てだれ》ならば、次郎右衛門も、相当の覚悟をきめないわけにはいかぬが、どうも、そうではないようであった。
――おのが一個の存念で、徳川家に復讐《ふくしゅう》を企《くわだ》てている者であろうか?
次郎右衛門は、そう想像すると、
「運きわまって見出されたからには、及ばぬところと観念《かんねん》して、尋常の降参もまた、お上の慈悲《じひ》を待つ仕儀《しぎ》と心得《こころえ》ては、如何《いかが》?」
と、言いかけてみた。
牢人者は、薄ら笑いを返しただけであった。
――やむなし!
次郎右衛門は、鉄扇を構えて、じりじりと、進んだ。
敵の剣は、下段青眼で、切っ尖に、いちぶの隙もなかった。正しい刻苦の修業はなされていないが、幾人も斬った経験を持っている、と看《み》てとれた。
次郎右衛門が、進むにつれて、敵は、一歩一歩退った。
ついに……。
敵は、桑の木へ、背中を押しつけられるまでに、退った。
完全な死地に追い込まれた敵は、次郎右衛門の鉄扇に隙を見出せぬままに、
「やああっ!」
と、咆哮《ほうこう》して、反撃《はんげき》の一閃《いっせん》を、躍《おど》らせて来た。
次郎右衛門は、間髪の迅《はや》さで、鉄扇をすてるや、一文字を居合に抜いていた。
「げえっ!」
異様な叫びを発して、敵は、よろめいた。
その左手は、手くびから切断されて、地べたへころがっていた。
しかし、敵は、屈《くっ》せずに、ぱっと跳《と》び退るや、片手上段に構え直し、悪鬼の形相《ぎょうそう》となって、
「来いっ!」
と、絶叫《ぜっきょう》した。
次郎右衛門は、この凄絶《せいぜつ》の構えを見戌《みまも》って、心もち眉宇《びう》をひそめて、衂《ちぬ》れた刀身を地摺《じず》りに下げた。
殺すつもりはないので、阿修羅《あしゅら》となった者を、どうやって屈服《くっぷく》させるか――そのことに、微《かす》かな当惑をおぼえていた。
対手は、もはや、生命を惜《お》しんではいなかった。
「ええい!」
ふみ込みざまに、唸《うな》らせて来た刃風には、捨身の、理外《りがい》の鋭《するど》さがあった。
次郎右衛門は、これを躱《かわ》さずに、逆《ぎゃく》に、つけ入るがはやいか、対手の右腕をも、すぱっと、刎《は》ねた。
右手は、太刀を掴《つか》みしめたまま、宙をくるくるっと舞って、二間あまり飛び、桑の枝にひっかかった。
「如何《いか》に!」
次郎右衛門は、冷たい一声をあびせた。
敵は、なおも、参ったとはもらさず、くわっと、双眸《そうぼう》をひき剥《む》いて、次郎右衛門を睨《にら》みつけたなり、仁王立《におうだ》っていた。
生かしておいても、惨《みじ》めな生涯を送らせるばかりだ。
次郎右衛門は、つと、一歩寄った。
首が、真紅《しんく》の尾をひき乍ら、空へ翔《か》けた。
その時であった。
「不覚者!」
どこからか、その叱咤《しった》が、ひびいた。
はっとなって、次郎右衛門は、頭をまわした。
かなり遠い距離の街道上には、五六人の影が、立って、こちらを目撃していた。その中に、まんじゅう笠で顔をかくした雲水が交っていた。
次郎右衛門は、そのみすぼらしい姿を、凝《じ》っと瞶《みつ》めていたが、
「おお!」
と、呻《うめ》いて、その場へ土下座し、両手をつかえた。
次郎右衛門は、いつの間にか、敵が隻腕《せきわん》で撃《う》ち込んで来た必死刀《ひっしとう》によって、小鬢《こびん》に血がにじむほどの薄手を負うていたのである。
雲水は、次郎右衛門が、――捕れる、とあなどって、その薄手を負うたのを、見事に、看破《かんぱ》したのであった。
「……先生!」
次郎右衛門は、ひくく、師を呼んだ。しかし、敢《あ》えて、起《た》って、寄って行こうとはしなかった。
次郎右衛門が、頭を擡《もた》げた時、雲水の姿は、街道上には見当らなかった。
元和元年春――。
霧隠才蔵《きりがくれさいぞう》は、徳川家康の首を刎《は》ねるべく、駿府《すんぷ》へおもむいたが、大阪城へ帰って来た時には、無慚《むざん》にも、左腕が無くなっていた。
そして――。
才蔵が、持ち帰って来たのは、家康の首ではなくして、家康の貌《かたち》をした木彫の面であった。
しかも、その面は、ま二つに割《わ》られていた。
才蔵は、寝所に忍び入って、寝ている家康めがけて斬りつけたが、その顔は、ま二つに割れたばかりで、はっとなった刹那《せつな》には、左腕を刎《は》ねとばされていたのである。
この報告をきいた幸村は、重い口調で、
「小野次郎右衛門が、大御所の影武者《かげむしゃ》になった以上、われらの手の者も、白髪首《しらがくび》を討《う》ちとる企《くわだ》ては放棄《ほうき》せねばならなくなったの」
と、言いすてたことだった。
解説
柴田錬三郎作品の中でも重要な位置を占める「柴錬立川文庫」は、既刊の『猿飛佐助』『真田幸村』、そして本書『柳生但馬守』に収録されたはじめの二十四篇が「オール讀物」の昭和三十七年一月号から翌年十二月号まで連載され、次いで、いわゆる「立川文庫」的題材から離れ、『忍者からす』『裏返し忠臣蔵』『毒婦伝奇』『日本男子物語』と、史実と巷説の狭間を作者一流の虚構のてづまで埋めた諸作が、同誌の昭和四十二年十二月号まで続いた一大伝奇作品群である。
その奇想百出のストーリー・テリングの妙、登場人物たちのこの作者一流のキャラクター設定の仕方等、盛り沢山の趣向があるが、冒頭に述べた、この作品がシバレン作品の中で重要な位置を占めている理由は概ね、次の三点に絞られるように思われる。
それは、
一、自己を物語作家であると規定した柴田錬三郎が、今日のエンターテインメント=大衆文学のルーツともいうべき「立川文庫」に挑戦した作品であること。
二、この連作の執筆に際して、作者が、自己の小説観を端的に物語る有名な発言をしていること。
三、この連作が、従来の講談ネタを用いつつも、作者の主張を反映して極めて戦後文学的な土壌で成立していること。
の、三点である。
この三つの事柄は、むしろ相互に連関し合っているともいえるのだが、ここではまず、順序を踏まえて、シバレンが挑戦したところの懐しの「立川文庫」について少々筆を費やすことからはじめてみたい。
オールドファンには忘れることの出来ない講談叢書である「立川文庫」は、明治四十四年から大正の末まで、大阪の立川文明堂から刊行され、これまでにない読者層、すなわち、商家の少年店員・丁稚などの青少年層を中心に一世を風靡したことでよく知られている。
この「立川文庫」は、正しくは「たつかわぶんこ」と読み、講釈師二代目玉田玉秀斎とその妻山田敬、長男阿鉄らの共同制作によるもので、これまでの講談本が、講釈師の話したことを速記したものであったのに対し、こちらは講談を種本とした創作といった意味合いが強く、それ故、後の大衆文学のルーツとして捉えることも可能なのである。
また、販売方法も巧みで、定価は一冊二十五銭だが、読み終えた旧刊に三銭をそえると新刊と取り替えてくれるという方法が取られ、爆発的なベストセラーとなった。
大阪で刊行された叢書であるだけに、徳川家康礼讃のかげがほとんどなく、豊臣方のヒーローを主人公としたものが多く、家康のつくった江戸文化=東京に対するアンチテーゼと見ることも面白いように思われる。
その証拠に、この叢書をベストセラーたらしめたのは、五冊目に刊行された『真田幸村』をはじめとして、四十冊目の『猿飛佐助』、五十五冊目の『霧隠才蔵』、六十冊目の『三好清海入道』といった、真田幸村といわゆる「真田十勇士」の活躍を描いた諸作であった。幸村が諸国を廻って勇者を得るといった発想は「西遊記」からヒントを得たといわれており、さしずめ真田幸村は三蔵法師、佐助は孫悟空といったところだろう。
そして、この叢書以後、真田幸村といえば、大阪という地域性ばかりでなく、豊臣方に忠義をつくした悲劇の武将として、日本人の心を捉えた歴史のヒーローとなり、片や徳川家康は、狡猾《こうかつ》な狸《たぬき》親爺としてのイメージを大衆の間に定着させていくのである。
柴田錬三郎が挑戦したのは、まさにそうした叢書なのだ。確かに長い期間にわたり、多くの読者に共通のイメージを植えつけて来た物語の殻を破るのは、至難の業である。だが、それを成し得たときこそ、新たな物語の地平も拓けてくる。作者は、この「柴錬立川文庫」に先立って、長篇『赤い影法師』(昭三五)を発表。この作品は、やはり講談でお馴染みの「寛永御前試合」を新たな視点で現代に甦らせた快作で、主役をつとめるのは、「若影」「母影」という石田三成に雇われていた母子の忍者であり、豊家再興を賭して狙うは平家の財宝、そのありかは、御前試合の勝者に与えられる無名の秘太刀に隠されており、母子の影は、試合の勝者を襲って次々とその切尖三寸を切り取らねばならない。伊賀組頭領服部半蔵や柳生十兵衛といった面々も登場する一方、「若影」と「母影」が近親相姦的な愛情で結ばれているなど、その出生や原体験、もしくは内面の心理に異形の陰翳が刻まれており、敢えて手垢のついた講談ネタに挑んで、独自の伝奇世界を構築した傑作だったのである。
そして、この長篇の余勢を駆って、「立川文庫」に真っ向から取り組んだのが、「柴錬立川文庫」であり、作者の自信の程は、連載開始後間もなくの、昭和三十七年三月二十六日づけの「読売新聞」に掲載されたエッセイ「『猿飛佐助』を書く理由」を見ても明らかだ。このエッセイの冒頭で柴田錬三郎は、
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私はなぜ、荒唐無稽な小説を書くか。これからそのいいわけをしようというのではない。小説というものは、元来、嘘を書くものである。嘘をまことらしくみせかけているだけで、どんなに私生活に忠実そうな私小説だって、やはり嘘である。上林暁氏の私小説など、読者は、つい、それがそのまま、上林氏の私生活だと思い込むかもしれないが、とんでもない誤解だろう。一人称で書かれていようが、小説は小説である。嘘に決まっている。
日本の読者は、妙な習慣にしたがって、すこし、作家というものを、有難がりすぎはしないか。
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と述べ、日本近代文学の伝統である私小説や、ある種の権威づけによって文学作品を捉える姿勢を、あくまでも物語作家の立場から否定。この一文は、小説の基本はエトンネ(人を驚かすこと)にありとも、虚構にあり、ともいっていた柴田錬三郎がその作品を貫く根本的な小説観を述べたものとして、これ以後、シバレン作品を論じる時は、必ずといっていい程、引用されることになるのである。
更に、このエッセイは、文中に引き合いに出された上林暁の反論を呼び、柴田錬三郎が再び四月二十日づけの同紙に掲載した「小説は虚構であること――上林暁氏におこたえする」で、「ヴァレリイは『あるがままの真実は、ウソよりももっとウソだ』といっている。私は、この言葉を、上林氏に呈上する」とも、「人をだましたり、ごまかしたりする『ウソ』は、たしかに弱いものだが、読者に読ませる『ウソ』は、逆に強いものである」といった言葉を投げつける、というオマケまでつくことになるのである。
だが、ここで間違えてはならないのは、柴田錬三郎の発言は、上林暁の作品を否定しようというのではなく、むしろ、私小説作家が、命を削りながら私小説を書いているのと同様、物語作家も命賭けで嘘をついているのだ、というまさにその主張にかかっている点にあるのだ。
では、作者が「柴錬立川文庫」でついた嘘の真意は、奈辺にあるのだろうか。ここから論旨は、この一文の冒頭に掲げた、この連作に関して留意すべき点の、二から三へと入っていくのだが、作品を本書だけに限ってみても、この作者の熱心な読者なら、例えば第五話「佐々木小次郎」の文中に、しばしば、吉川英治の『宮本武蔵』が引き合いに出されるように、このエピソードを、後の作者の代表作『決闘者――宮本武蔵』(昭四五〜四八)との、そして、第八話「伊藤一刀斎」を、これも後に書かれる連作『剣鬼』(昭四一)中の雄篇「大峰の善鬼」との、それぞれ関連において捉えることが出来るといった面白さを見つけることにもなろう。
だが、そうした作家論的脈絡の中で見出される技巧的な面白さにも増して、私に深い感慨を催させるのは、第三話「曾呂利新左衛門」で、男としてのアイデンティティを失った主人公が、一ふりの刀に託して行う、或いは第七話「清酒日本之助」で主人公が怖ろしくも美しい美酒に託して行う、復讐、もしくは鎮魂なのである。
かつて、柴田錬三郎が、南方はバシー海峡で七時間余の漂流の後、奇蹟的に救出され、その間、必死に生き残ろうとしていた者が次々に生命を放棄していったにもかかわらず、死を怖れる小心者の衛生兵シバレンが虚無の心を抱きつつとうとう生き永らえたという戦中体験から、眠狂四郎は、畢竟、海から帰って来た帰還兵であると指摘したのは、秋山駿であった。シバレンが、剣豪小説の書き手として大衆文壇に躍り出たのは、剣豪小説がこうした自らが体験した大いなるエトンネを、虚構を通して最も効果的に紡ぎ出すことが出来るからではないのか。
そして、その根底にある自虐や哀しみは、明らかに戦後文学の地平でなければ成立し得ないものである。また、その自虐という点から見れば、第一話「柳生但馬守」で、家康が不能となったために大阪夏の陣の端緒が切られるという発想は、奇抜でありながら、現代人の自虐意識の端的な現われであろうし、第二話「名古屋山三郎」の、美を崩壊させることによって貴種を貴種として成立させない非情さや、同様のバリエーションによって展開される第四話「竹中半兵衛」の哀感極まりないラスト、更には第六話「抜刀義太郎」に見られる異能の少年剣士の設定等、これらことごとくが、作者がいうところの「近代人が生んだ自虐の手づま」の絢爛たる離合集散の集大成といえるだろう。こうした特色が、この連作全篇を通しての主人公ともいえる、猿飛佐助や霧隠才蔵、或いは真田幸村にまで及んでいることは、ぜひとも読者諸兄に、本文庫既刊の作品に当たって確認していただきたいのだ。そして、そこで私たちが発見するのは、時代とともに変遷していくヒーローたちの姿と、どんなに手垢のついた題材でも、一人の特異な才能を持った作家の手にかかれば、たちどころに新たな貌《かお》を見せて屹立《きつりつ》してくるという、至極、自明だが、滅多にお目にかかることの出来ない真実なのである。
かつての「立川文庫」において、猿飛佐助の持つ明朗性は、大正デモクラシーの潮流の中で位置づけられたが、本書をはじめ「柴錬立川文庫」に登場する面々は、生涯、カメラの前では苦虫をかみつぶしたような顔しかしなかったシバレンの、まさにそうした内面の思想を宿した分身に他ならない。そのあたりを、是非とも味わっていただきたいと思うのである。(縄田一男)
◆柳生但馬守◆ 柴錬立川文庫
柴田錬三郎著
二〇〇五年九月五日