柴田錬三郎著
真田幸村
目 次
前説
真田大助
後藤又兵衛
木村重成
真田十勇士
風魔鬼太郎
山田長政
徳川家康
大阪夏の陣
前説
徳川末期に存在せる五味錬也斎なる兵法者が、ひそかに書き残せし「兵法伝奇」なる一書によりて、大正の頃、大阪の講釈師なにがしが、「立川文庫」を為《つく》りて、人口に膾炙《かいしゃ》せしことは、余が、すでに、前篇「猿飛佐助」の前説にて述べしところなり。もとより、余の「猿飛佐助」は、世上記憶せらるる「立川文庫」に非ざることも、その際、断りたり。「猿飛佐助」の続篇たる「真田幸村」を、ひきつづき上梓するにあたり、あらためて、前説をくりかえすは、本篇が、あくまで、余の制作に非ずして、奇矯の兵法者五味錬也斎の、奔放無比なる空想力を駆使したる「兵法伝奇」に拠ることを、読者に伝えたき意嚮《いこう》にほかならず。
想うに、五味錬也斎は、その性情から推測して、天下を制したる覇者徳川家康を嫌悪し、滅亡すると判りつつも、敗者が最期に示せし武辺の美しさに、惹かれたるものに相違あらず。しかるがゆえに、大坂城に入って、豊臣家のために、神算鬼謀をふるいし軍師真田幸村を、賛美するあまり、渠《かれ》とその股肱《ここう》十勇士に、荒唐妄誕もはなはだしき超人的活躍をさせしものとおぼゆ。
五味錬也斎ならずとも、滅びゆく者に、「美」を飾らせるは、人の人情にて、余もまた、覇者・成功者に対して、共感をおぼえざるものなれば、「兵法伝奇」を粉本として、現代文になおせし所以なり。
私見を述べれば、独裁者なる存在は、未だ曽て、世人を苦しめこそすれ、まことの幸せをもたらせし例は、これを史上に管見し得ざるところなり。さればこそ、余がこれまで、おびただしく書きつづりし小説のほとんどは、常に、その主人公を、孤独なる漂泊者となしたり。
滅びゆく者が、覇者に立ち向かう場合、その誇りとするところは、おのが刻苦修練せし術を、死力を尽くして、発揮する一点にあり。真田幸村とその股肱十勇士が、人間ばなれしたる働きを為したる所以も、そこにあり。
されば、錬也斎が奔放自在の空想力の所産たる渠《かれ》らの働きに、NHKが目をとめて、これを原本として、余に人形劇を為すことを求めたるは、けだし、慧眼というべきか。諸賢、これを諒とされ、原本をも合せ読まれんことを乞う、と然謂《しかい》う。
昭和乙卯元旦 柴田錬翁再白
真田大助
ある日の午後、呼ばれて、猿飛佐助《さるとびさすけ》が、草庵の茶室へ入った時、左衛門佐幸村《さえもんのすけゆきむら》は、長い手紙を読み了って、しずかに、巻いていた。
「佐助、そちは、もし、父者《ててじゃ》が存命ならば、会いに参るか」
唐突《とうとつ》に、問われて、佐助は、パチパチとまばたきした。
幼時から、父や母のことを、想うたことは一度もなかった佐助である。
「どうだな?」
「はい……?」
佐助は、首をかしげた。こたえようがなかった。おのれに、父や母が在ったことを、あらためて、考えてみなければならないのは、佐助を、当惑させるばかりであった。
「べつに、会いとうはないか」
「はい」
佐助は、ほっとした。
幸村は、巻き了った手紙を、炉《ろ》の中へくべた。
たちまち、めらめらと燃えあがるのへ、深い感慨を湛《たた》えた眼眸《まなざし》を投げ乍《なが》ら、
「もしかすれば、京大阪の市中を、わしによく似た少年が、徘徊《はいかい》いたすかも知れぬ。心にかけておいてくれ」
「かしこまりました」
佐助は、じっと、主人の横顔を、瞶《みつ》めた。
「気象は、わしに似て居るまい。そちと同じ、忍びの術を修行いたして居る故、それを、方図《ほうず》もない狂気沙汰に使うかも知れぬ」
「……」
「目にあまらば、討ちとってかまわぬ。と申しても、そちには、できまいが……」
「この月叟《げっそう》庵にお連れつかまつります」
「参るものならばな」
幸村は、佐助を下がらせてから、なお、しばらく、黙念《もくねん》と、炉の中で灰になった手紙を、眺めていた。
十七年前のことである。
弥生《やよい》の佳日《かじつ》、上田城において、任官して左衛門佐となった幸村と、大谷|刑部小輔吉継《ぎょうぶしょうゆうよしつぐ》の女《むすめ》|つぎ《ヽヽ》との婚儀が催《もよお》された。
天下一|人《びと》の美丈夫と、天下一の醜女との結婚であった。のみならず、これは、幸村自身の希望によるものであった。
この結婚に対して、幸村を知る悉《ことごと》く若い女性たちは、失望し、憤《いきどお》りをおぼえた。就中《なかんずく》、大阪城内にある諸将の女《むすめ》たちは、心おさまらず、あるいは、連署して、この結婚を阻止《そし》したい旨を、淀君に嘆願したり、あるいは、単身、信州まで趨《はし》ろうと企てて、発見されるや、狂気してしまう者も出た。幸村は、二十歳まで、大阪城に、質子《ちし》として、とどめて置かれ、その気品たかい美丈夫ぶりを、諸将の女たちに、観《み》せていたのである。
淀君からの急使が来て、選ぶにことかいて、癩を患《わずら》う大谷刑部少輔を父に持つ、世にも醜い娘を、妻にすることはあるまい、と申し伝えて来たが、幸村は、笑って、受けつけなかった。
幸村は、当代の武将の中で、もっとも大谷刑部少輔を、尊敬していたのである。
大谷刑部少輔は、豊臣秀吉が、中国制覇のために、姫路へ陣を進めている際、はるばる豊後国から参じた。時に、まだ年歯《ねんし》十六歳に満たなかったが、秀吉の質問にこたえて、毛利を屈服せしめる作戦について、とうとうと述べて、秀吉の舌を巻かせた、という。
即座に百五十石の封禄を与えられ、二十歳の時には、越前敦賀五万石の大名になっていた。人材をとりたてることに果断《かだん》であった秀吉も、これほど思いきって出世させたのは、大谷吉継だけであった。
不幸にして、吉継は、癩の血統を受け、壮年におよんで、漸《ようや》く容子《ようし》が頽《くず》れ、目は盲《めし》い、四肢の自由を欠いた。しかもなお、時の政局に重きをなしたのは、いかに、秀吉及び周囲の人々が、その才智|聡穎《そうえい》を高く買っていたかという証左である。
吉継は、幸村から、その長女を欲しい、と申出られた時、容易に、首を|たて《ヽヽ》に振らなかった。
幸村が武士としていったん申出たからには、ひきさがれぬ、と云うと、それまで紙帳を間に隔てて、対坐していた吉継は、立って、幸村の前に現れ、おのが醜く崩れた相貌を示して、
「わが娘が、やがて、このような見苦しい姿になっても、お許《こと》は、すてぬ、と申されるか!」
と、問うた。
幸村は、端然《たんぜん》として、眉宇《びう》も動かさず、
「それがしが、戦場に傷ついて、目鼻四肢を喪《うしの》うても、その愛情を易《か》えるような御息女でもありますまい」
と、こたえた。
吉継は、頬に泪《なみだ》をつたわせて、畳に両手をつき、一言、
「|つぎ《ヽヽ》は、果報者よ」
と、呟いたことであった。
当時――応仁の乱以降、身分地位の高い家でも、婚姻の儀式は簡略に流れていた。かなり高禄の武士に嫁ぐのでも、新婦は、麻の被布を着、負木《おいぎ》というものにしりをかけて、うしろざまに背負われて行ったものである。
大谷家では、婚礼の正式に則《のっと》って、新婦を、さいわい菱《びし》の紋様のある白羽二重の小袖に、おなじ袿衣《うちぎ》をはおらせ、胸に護身の符をかけさせ、美しい輿《こし》に乗せて、門火を焚いて、城門から送り出した。
貝桶、色直しの長持、厨子《ずし》棚、担唐櫃《にないからびつ》、屏風、行器などかずかずの調度も、のこらず持参し、股肱《ここう》の若い武者七騎が、随従した。
噂をきいて、沿道に、人々は謂集《いしゅう》したが、新婦のおもては、美しい能面をかぶっていた。
――心得ある振舞いである。
と、吉継を知る武士たちは、あらためて、敬服した。
道中つつがなく、輿は、上田の領地に入り、いったん、城を彼方にのぞむ千曲川の畔《ほとり》にある真田家菩提寺に入った。
その宵、ものものしい具足《ぐそく》姿の若い女子一人が、馬を山門に乗り入れて来て、一|矢《し》を射立てた。
矢文がむすびつけてあり、
「御覚えこれ有る可く候、騒動打ち今夜|四更《しこう》に参じ申す可く候」と、記してあった。
騒動打ちというのは平安朝の季《すえ》から起っている一種の習弊《しゅうへい》である。
武家が、妻を離別して、一箇月のうちに、新妻を迎えた際、先妻は、必ず後妻打《うわなりう》ちということを企てた。後妻打ちは、騒動打ちとも称した。すなわち、先妻は、旧夫が新妻を迎えたときくや、親族知己から、膂力《りょりょく》のある女子を、選んで借り、身分に応じて、人数を百人も集めて、木太刀や棒を持たせて、その屋敷を襲撃せんと企てるのであった。
たいていの場合は、新婦の方が、「驚き入り候。何分にもお詫び申すべく候」と、使者にかなりの金品を持って行かせる。しかし、中には、豪壮の風を装《よそお》って、
「成る程ご尤《もっと》もと心得相待ち申す可く候」と答える者もあった。
この場合、男子は、一切このことに、関知しない習《ならわし》であった。
挑戦に応じられるや、先妻は、輿に乗り、数多《あまた》の女子が、これに従って行った。あるいは、袴をつけ、襷《たすき》をかけ、髪を乱し、鉢巻をしめて、甲斐々々しい扮装であった。
得物をふりかざして、台所より侵入して、当るをさいわい器具を叩き割り、戸壁を傷つけ、乱暴|狼藉《ろうぜき》のかぎりをつくす。これに対して、新婦側は、抵抗できないのである。新婦の媒人《ばいにん》が、頃あいを見はからって、現れて、詞《ことば》をつくしてなだめて、引きとらせる。
輿に随従して来た大谷家の七騎は、いずれ一度ぐらいは、行列を襲ってくる者はあろう、と予測していたが、具足に身をかためた女騎馬から、後妻打《うわなりう》ちの矢文を投じられて、おどろいた。幸村に、妻があったとは、きいていなかったからである。
急いで、一人が、場内に入って、仔細《しさい》を訊ねると、幸村は、新婦を迎えるにあたって、妾として置いていた牢人者の女《むすめ》を去らせたので、おそらく、その者が、牢人たちの妻や娘をかり集めたのではないか、というこたえであった。
その夜四更、総勢百余の女子が、騒ぎたて乍ら、山門前まで、おしよせて来て、急に、口をつぐんで、しずまりかえった。
山門の下に、白装の女子がたった一人、薙刀《なぎなた》を立てて、待っていたのである。
月光をあびて、その貌《かお》は妖しく美しかった。
すかし視れば、それは、能面であった。
「きくがよい!」
能面の陰から、凛乎《りんこ》とした声音《こわね》が、はなたれた。
「真田左衛門佐殿に、妻があったとは、当方はじめて耳にするところ。おそらくは、ひまを出された側妾《そばめ》の、詐《いつわ》るところとおぼゆる。さすれば、後妻打《うわなりう》ちなどとは、おこがまし。土匪《どひ》野盗の輩《やから》とことならず、これを撃ち払うことこそ、左衛門佐殿によめ入る者に、ふさわしい土産と存ずる。……勇気あらば、自ら進んで、わが前に、出でよ!」
神々しいまでに臈《ろうた》けた姿は、一同の息をのませ、これを犯すことの罪を意識せしめたことだった。
婚礼の儀式は、簡素であっても、厳粛《げんしゅく》であることは、今もむかしも変りはない。
上田城の大手門は、門火が焚かれ、正装の家臣たちが左右に居|竝《なら》んで、輿を迎えた。
新婦は、侍女房という役の侍女にともなわれて、婚儀の席に就いた。その広間の中央には、鴛鴦《えんおう》が飾られ、床の間の立花《りっか》は、一瓶の中に花の輪を向かわせてあった。
新郎幸村はじめ、父昌幸、重臣ら悉《ことごと》く白小袖で座に着き、おごそかに、式三献《しきさんこん》がすまされた。
その夜は、新郎新婦は、別々に寝た。第三日までは、どちらも白小袖をつけて、他人で過し、第三夜に、褥《しとね》をひとつにしてから、色直しといって、色のある衣服にあらためて祝いの式をし、舅姑《きゅうこ》をはじめ一家一族体面の礼をとる。これは、平安時代の所顕《ところあらわし》の式の遺風であったろう。
幸村は、その第三夜――三更《さんこう》の時鐘《じしょう》をきいて、自室を出て、新婦の部屋にむかった。
廊下には、だれの心づかいであったか、この季節に咲く花のうち、香りのいい花びらが撒《ま》いてあった。
新婦は、はるばる持参した茶湯棚のわきに、つつましく、坐って待っていた。
釜、焙炉《ほいろ》、水指、建盞《けんざん》、茶碗、食籠《じきろう》――いずれも、名品のように見受けられた。
幸村は、黙って、対坐して、新婦の点前《てまえ》の様子を、見戍《みまも》った。
すでに、茶道は、一定の方式がまもられ、秘事伝授は甚《はなは》だ厳重となっていた。法式を知らなければ、これを喫《きっ》するのを憚《はばか》るまでに至っていた。
幸村は、しかし、さし出された茶碗を、作法に則《のっと》らず、無造作に把《と》って、ひとのみにして、かえした。
それから、かるいあくびをして、
「寝ようか」
と、促《うなが》した。
白小袖をぬぎすてて、逞《たくま》しい裸体をみせた幸村は、寝所にあてられた次の間に入った。
しばらくして入って来た新婦は、練絹《ねりぎぬ》の紅梅の下衣《したぎ》になり、生絹《すずし》の帯をまいていた。
褥の裾で、両手をつかえて、挨拶してから、そろそろと、かたわらに入って来た新婦が、なお能面をつけたままなのを視て、幸村は、
「もう、はずしてもよいぞ」
と、云った。
新婦は、細い声音で、
「明朝の祝儀がすみますまでは、おゆるし下さいませ」
と、ことわった。
おのが醜い素顔を眺めさせて、幸村の情意を冷えさせてはならぬ、という心づかいと思われた。
抱きとったからだは、華奢《きゃしゃ》とみえて、しっとりと重く、その柔らかな弾力が、幸村の腕に、羞恥のおののきをつたえた。
幸村は、生絹《すずし》の帯を解いて、前をはだけさせ、白磁のようになめらかな白い肌の、ゆるやかなうねりを眺めて、
「わしの子を生むからだじゃ。大切にしよう」
と、呟いて、優しく撫でた。
夫婦の契《ちぎ》りの初夜において、新婦の秘門が開き難いのは、云うまでもないが、いつの時代からの作法か、武士は、明けがたまでに、必ず、三回通さねばならなかった。妻もまた、その苦痛に堪《た》えて、決して、呻《うめ》きなど洩《も》らしてはならなかった。
これは、もとより淫佚《いんいつ》ではなかった。すべて、武士のいとなむところは、礼用の威儀が大切で、夫婦の契りもそれにはずれなかった。
人既に成人の礼あっては、衣服飲食居宅より始め、身体|動静《どうせい》人の人たる道あり。豈忽《あにゆるがせ》にすべけんや。是冠礼《これかんれい》を重んずる故也。婚礼は二家の好みを合せ、子孫の設《もう》けをなし、父母に代りて事を行うの道|爰《ここ》に究《きわ》まる。
と、武士道の教えに記してある。
妻と同衾《どうきん》することは、子孫を設けるのが第一義の目的であった。剛操を本とする武士は、情欲を押さえて、しかも、子孫を生むために、精力の強さを発揮し、褥を出た途端に、容子《ようす》を整えて、意義の則《のり》を明らかにしなければならなかった。
幸村は、武士道の教えにしたがって、二刻ばかりの間に、新婦のからだを三度び抱いた。
流石に、疲労をおぼえて、幸村は、襲って来た睡魔に、ひき込まれるにまかせた。
……突如、幸村の意識が、白い刃を抜くような素迅《すばや》い、鋭さで、ぱっとよみがえった。
いつの間に抜け出たか、新婦は褥から、一間をへだてて、正座していた。
能面は、はずして、膝の前に置いていた。
その面貌は、天下一の醜女とは似ても似つかぬ妖《あや》しい美しさであった。のみならず、眦《まなじり》の長く切れた眸子《ひとみ》にも、細く高く通った鼻梁にも、蓮《はす》の華と比喩《ひゆ》するにふさわしい整った唇にも、異様なまでの冷たさを湛えていた。その冷たさを湛えるために、眉目は、みじんの欠点もないものに造られたか、とさえ思われた。
「何者だ?」
幸村は、一瞬の驚愕を能《よ》く抑えると、問うた。
「大阪城内の女房衆のご依頼によって、参上いたした者にございます」
「忍者だな」
「御意《ぎょい》――」
大阪城にある若い女性《にょしょう》たちは、幸村が、天下一の醜女と契ることに、なんとしても堪えられず、この女忍者をやとって、その初夜の褥を奪わせたのである。
幸村は、依頼者たちに対して、勃然《ぼつぜん》たる憤りをおぼえたが、この女忍者には、むしろ微妙な感情が働いた。
この女忍者が、まぎれもない季女《むく》であったことは、いま、あじわったところである。
いかに非情の忍者とはいえ、生まれてはじめて、男に肌身を許すのは、ただごとではない筈である。
からだを抱きとられた瞬間に示したおののきは、いつわりであったとは、思えぬ。
息詰まる沈黙ののち、幸村は、しずかに、問うた。
「名は?」
女忍者は、指先で畳に、「眉花《びか》」と書いた。
妖しい美貌に、ふさわしい名であった。
「おぼえておく。……去れ」
幸村は、云った。
女忍者は、顔を擡《もた》げて、幸村を正視した。
「なぜ、一言のお咎《とが》めもありませぬ?」
「咎めて、なにになる?」
「わたくしは、めでたかるべき婚礼の閨《ねや》をけがしました」
「|つぎ《ヽヽ》とは、あらためて、契るまでのことだ。けがされたのは、そなたの操であろう」
「わたくしは、幾歳か前より、殿を、遠くお慕い申して居りました」
「去れ!」
こんどは、きびしい声音で、命じた。
女忍者は、一礼すると、音もなく、消え去った。
新婦は、次の間で、何も知らずに、昏々《こんこん》と眠っていた。
いま――。
幸村が、炉火《ろか》にくべた手紙は、十七年間、杳《よう》として行方を断っていた女忍者眉花が、送って寄こした最初にして最後の便りであった。
上田城を去った眉花は、大阪城へは、戻らなかった。
まっすぐに帰って行ったのは、木曾の寝覚《ねざめ》の牀《とこ》であった。
木曾第一の眺望である寝覚の牀が、眉花の故郷であった。
寝覚の牀は、木曾川の汀《みぎわ》にある。ここは、木曾川のうちでも、最も狭《せま》いところなので、滝をなしてみなぎる水流は、目もくるめく。深さもはかり難い。汀にそそり立つ巨巌《きょがん》は、東西ともに、屏風を立てたごとく、水幅はわずか二間あるいは三間にせばめられ、瀬の色は、神秘なまでに深い色を湛えている。
山賊《やまがつ》は、綱をわたして、流れの上を通る。
上の水の落ち口の岩を上臈《じょうろう》岩。河中に板石という四角な岩がのぞいている。岸にそそり立つのを屏風岩、その下に畳石、ほかに、烏帽子岩、平岩、象岩など。いずれも、奇巌である。
生後三月にも満たぬ嬰児の眉花は、その岩のひとつに、捨てられていたのであった。山賊《やまがつ》の一人が、発見して、ひろいあげ、そこから岩間をつたって登ったところにある寝覚山《しんかくざん》臨川寺という禅寺へ、抱いて行って、預けた。
男児なら、そのまま、寺で育てることもできたが、女児では、それがゆるされなかった。
住職良仙は、嬰児をもらってくれる者を求めた。
すると、深更、忽然として出現した者があった。
向いの山の奥にすむ忍者木曾三郎と名のり、嬰児を申し受けよう、と申し出た。
住職良仙は、かねて、福島城に拠《よ》って、甲州武田信玄、織田信長と争戦をつづけ乍ら、曾《かつ》て敗走せず、木曾の威勢を盛んにしている木曾肥前守義康の弟が、世をすねて、忍者となって、向いの山中に在る、ときいていたので、こころよく、嬰児を渡した。
渡す際、
「女児なれば、忍者にはなり申すまい」
と云った。
木曾三郎は、笑って、
「女児を忍者にしたててみしょう、と興味を起したのでござる」
と、こたえた。
それから十五年間、良仙は、眉花を視なかった。
ある朝、良仙が方丈の庭さきに立って、寝覚の牀を眺め下ろしていると、大きな白い物を背負うた者が、山賊が通う流れの上に張った綱を、平地を歩くように、すたすたと渡って来るのをみとめた。
たちまちにして、岩間を登って、境内に現れると、良仙の前に立った。
肩へゆたかに黒髪を散らし、大きな潤《うるお》いのある眸子《ひとみ》をもった娘であった。
一礼してから、背負うた物を、そっと地に下ろした。それは、白布で全身を巻きつつまれた屍骸《しがい》であった。
「木曾三郎儀、このたび、みまかりました故、遺言により、当寺に葬って頂きたく存じまする」
たんたんとした口調で、告げた。
良仙は、この娘が、眉花と名づけてやった捨児の成育した姿と知って感慨ぶかく、うち眺めた。
木曾三郎のなきがらを、埋葬した夜、方丈にとどめて、良仙は、対坐すると、どのようにして育てられたかと問うたが、眉花は、こたえようとしなかった。
忍びの術を修めたか、と訊ねられて、「いささか――」と、こたえただけであった。
良仙は、眉花をしばらく、方丈にとどめて置いたが、遣《や》るべきところがなかった。
福島城は、すでに、木曾氏のものではなかった。
木曾義康の長子右馬頭義昌は、父に勝るとも劣らぬ智勇の武将であった。武田信玄の女《むすめ》を妻にしていたが、信玄の歿後、勝頼と間隙《かんげき》を生じ、織田信長と和睦した。勝頼は、大いに怒って、天正十年、典厩《てんきゅう》信豊をして、義昌を撃たせた。義昌は、苦もなく信豊を敗走せしめた。勝頼は、今福筑前守を先鋒として、鳥井峠まで、おしよせて来た。義昌は、これもまた、大いに撃ちやぶった。
武田家が滅んだのち、義昌は、信長から、筑摩《ちくま》・安曇《あずみ》の二郡を増封された。しかし、やがて、豊臣秀吉が天下を取るや、木曾における義昌のあまりの威勢を忌《い》み、下総国へ左遷《させん》してしまった。義昌は、下総|蘆戸《あしど》で、わずか一万石を与えられ、永禄四年に卒《しゅつ》した。その子仙三郎義利は、予州に流落《りゅうらく》して、ついに、行方知れずになってしまった。
良仙は、眉花こそ、武勇の士の妻にふさわしい、と考えたが、心あたりはないまま、大阪へ出て、豊臣家に侍女として奉公するように、すすめた。
木曾三郎によってきたえられた忍びの術を、いずれ、必ず発揮する機会がめぐって来ようし、それが、名ある武将の妻に迎えられるきっかけになろうか、と良仙は、考えたのである。
眉花は、すすめられるままに、大阪へおもむき、大阪城へ、ほんの端女《はしため》として入った。
眉花が、その名を挙げる機会は三年後に来た。乱心した大兵《たいひょう》の髯武者が、柳営《りゅうえい》へ押し込んで来て、これを阻止しようとした女房の一人から、薙刀《なぎなた》を奪いとって、大あばれしはじめた。眉花は、この騒ぎをきくや、奔《はし》って、奥へ入り、髯武者に、素手でたち向った。
髯武者は、呶号《どごう》して、薙刀を振り下ろして来た。
眺める女房たちのうちには、眉花が血煙をあげて斃れるのを目撃しかねて、おもわず、目蓋《まぶた》を閉じた者もあった。
眉花は、宛然胡蝶《えんぜんこちょう》に似た軽やかさで、はねあがるや、薙刀の上へ、ひょいと乗りざま、髯武者の額を、手刀で、ぴしりと搏《う》った。
髯武者は、ぎゃっと悲鳴を迸《ほとばし》らせて、ぶっ倒れて、それなり、息をひきとってしまった。
眉花は、淀君の前へ呼び出されて、白小袖をたまわり、侍女にとりたてられた。
いずこで修行をしたか、という下問にも、こたえず、業《わざ》を観《み》たいという所望にも応じなかった。爾後は、きわめて、目立たない侍女として仕えた。
真田左衛門佐幸村が、大谷吉継の女《むすめ》を娶《めと》ることを女房衆が悪《にく》むにあたって、眉花は、ふたたび、彼女たちに、その秀れた腕前を、思い出させたのであった。
幸村が、大谷吉継の女と契る初夜の閨《ねや》に忍び入り、新婦をしりぞけて、代りに幸村に抱かれる冒険を為《な》せ、と命じられた眉花は、しばらく、俯向《うつむ》いて思慮したのち、承知したのであった。
眉花もまた、女房衆と同様、ひそかに、遠くから、幸村を恋うていたのである。
寝覚の牀へ帰ってきた眉花は、養父木曾三郎と住職良仙の墓の前にぬかずいて、長い間、祈った。
そして、碧潭《へきたん》の上に張られた綱を、五年ぶりに、すたすたと渡って、檜、樅《もみ》、栂《とが》、松の深くしげった山の中へ消えて行き、里人に、姿を見せなかった。
十箇月が過ぎた。
秋もふかまった某日――。
寝覚の牀から五里ばかり下った野尻に近い岨道《そばみち》を、一人の武士が、辿《たど》っていた。
野尻からさらに二里あまり下った三富野《みとの》の城山に館を構えた木曾義仲の末裔と称する三富野兵庫助であった。所用あって、福島まで行っての戻りであった。
木曾路は、みな山の中である。
名にしおう深山幽谷で、岨《そば》伝いに行く蔭道《かげみち》が多い。
就中《なかんずく》、野尻から三富野までは、甚《はなは》だ危ない道であった。木曾川の急湍に沿うた断崖につけられた道は、しばしば、岩から岩へ、木を伐り渡して並べ、藤かずらでからんだ桟橋《かけはし》になっていた。山腹はことごとく屏風を立てたようになり、その中から、巨巌が突出しているので、岨道は絶えて、急傾斜の桟橋になるのであった。
その桟橋のひとつを、ぎしぎしと踏み鳴らして、辿《たど》って行き乍ら、兵庫助は、何気なく、ごうごうと鳴って、奔騰《ほんとう》する急湍へ、目を落したとたん、
――おや?
と、眼眸《ひとみ》をこらした。
はげしい水流を阻《はば》んで、水中に、黒い大岩が二つ、身を寄せ合うようにして突出していたが、その岩と岩のあいだに、水泡《みなわ》にもまれて、奇妙なものが、くるくると、まわっていた。
「おっ!」
兵庫助は、思わず、おどろきの声を発した。
それは、生まれたばかりの赤児をのせた盥《たらい》であった。
兵庫助は、赤児がもぞもぞと蠢《うごめ》くのを見とどけるや、咄嗟《とっさ》に決意して、すばやく、衣服を脱ぎすて、帯と刀の下げ緒をつなぎ、端を、桟橋の木へ結びつけると、それにすがって、絶壁を、そろそろと下がって行った。
岸岩から、水中の岩まで、一間余あった。それを跳んで、兵庫助は、盥を覗き見た。
まるはだかの赤児は、貂鼠《てん》の皮の上にのせられていた。男の児であった。
兵庫助は、ぬるぬると滑る岩肌に足をかけて、苦心して、赤児を救いあげた。
すでにつめたくなりかけた赤児は、泣く力もなかった。わずかに、四肢を蠢《うごめ》かせた。
――たすからぬかも知れぬが……。
兵庫助は、首をひねった。
陽が落ちて、三富野の館へ戻った兵庫助は、
「川の中でひろうた」
と、告げて、貂鼠の皮にくるんだ赤児を、妻女に、手渡した。
妻女は、すぐに、下婢《かひ》に命じて、糯米《もちごめ》を蒸し、すりつぶして、汁をつくった。
兵庫助は、はげしい勢いで、それを飲みはじめた赤児を眺めて、微笑した。
「御嶽権現《おんたけごんげん》が、子の無いわれらをあわれんで、さずけ賜うたのかも知れぬぞ。大切に育ててやろう」
三富野館のあるじが、木曾川の急湍の中から、赤児をひろった、という噂は、旅人たちの口によって、遠く岐阜や塩尻までも、伝えられた。
兵庫助夫婦のよろこびは、しかし、束の間であった。
ひろって来て、一月も経たぬ某夜、赤児に添い寝していた妻女は、ふと、目覚めて、あっとなった。赤児が、煙のように、消えうせていたのである。
かわりに、枕辺に、一通の封書がのこされていた。
達筆で、次のようにしたためられてあった。
[#ここから2字下げ]
『男を生む狼の如《ごと》きも、猶《な》おその|※《おう》[#「まげあし」+王]ならんことをおそれ、女を生む鼠の如きも、猶おその虎ならんことを恐る、とか……。猛虎は、生み落したる子らを、千仭《せんじん》の断崖を突落して、能く生き残りたるを、後継ぎにえらぶときき、もののふの子ならば、この試しに堪えてこそ、と存じ、斯《か》くは、非情無謀の挙《きょ》にいでたるものにて、母の愛の乏しきには、御座なく候。さいわいに、我子は、母が祈念にこたえて、試練に堪え、其許様《そこもとさま》にひろいあげられ申し候。その父は、東西に名高き明智の武将なれば、鳳凰《ほうおう》は卵《かいこ》の中にして超境の勢いあるか、と母はうぬぼれ申し候。ひろいあげて頂きたる御恩は、生涯忘れ申さず、あつく御礼申上げ候。かしく』
[#ここで字下げ終わり]
生み落とした赤児を、木曾川へ流してみたのは、眉花であった。
眉花は、ただ一夜の契りで、みごもることをかたく信じ、そして、その通りであったと知るや、生れるのが男児であることを、祈りつづけ、まさしく男児であったのに狂喜するとともに、異様な決意をしたのであった。
――真田左衛門佐幸村の子として、はずかしからぬ勇武を、心身にそなえさせなければならぬ。
そのことであった。
つれ戻したわが子に、大助と名づけると、自分が養父木曾三郎から鍛えられた以上の試練を課すことを、心に誓った。
目が見え出せば見え出したように、這《は》いはじめれば這いはじめたように、口をきき出せば口をきき出したように、立って歩きはじめれば歩きはじめたように――母が一念こめて、ほどこす訓練は、昼夜寸秒のひまもなかった。
満三歳になるや、もう小太刀を与えて、熊の子に戦いを挑ませた。
血反吐《ちへど》を吐いて死ぬか、堪えぬいて一流の忍者になるか。それが、忍びの術の修業であった。容赦《ようしゃ》というものは、みじんもあり得なかった。不可能と考えられる業を、やすやすと可能にする――それであった。
およそ、忍びの術の修練は、あらゆる科目を含む。
剣術、居合、水馬水練、変装、隠身《おんしん》(五遁の術)、催眠、気合、飛躍、攀登《はんと》、速歩、潜伏、断食、不眠、睡眠調節、療法、鳥獣の鳴声、虚実転換の術、等々。
それらの一科目だけでも、わが身に備えるのは、容易ではない。
例えば、隠身は、三無(無色、無臭、無声)を必要とする。そのうちのひとつ、無声とは、息をする音《ね》を漏《も》らしてはならず、いかなる場合も、歩く跫音《あしおと》を、人の耳にきかせてはならぬことである。
調息の修練は、鼻頭に鴻毛《こうもう》を掛《か》く、といって、鼻の先に鳥の毛を吊りさげて、それへ息をかけても、鳥毛が|そよ《ヽヽ》とも揺るがないようにする。その方法は、いわゆる丹田呼吸で、口や鼻では呼吸せず、臍の下で息をする心持で為す。古《いにしえ》の支那の道術家は、呼吸を調《ととの》えるのに、注意の焦点を、足の踵《かかと》に置いて、神気を鎮《しず》めるように練習したという。
整歩の修練は、唐紙の上に濡れ紙を貼って、これが破けないように渡ること。
全身の関節は悉くばらばらにできるようにして、いかなる厳重な繋縛《けいばく》でも、苦もなく抜けてみせるようにしておく。音もなく奔《はし》る速度は、一日平均四十里から五十里。おのが五体を、三間の高処から、一片のぼろ布のように、地上へ投じて、かすり傷も負わぬ。のみならず、地上へ匐《は》うや、それなり、たとえ半日でも、微動もしてはならぬ。竹筒を口にくわえて、石のように水に沈んで、一昼夜を、潜《ひそ》みつづける。おのれで、おのれの五体に催眠術をかけて、感覚を喪《うしな》わしめ、たとえ、指一本焼きこがしても、熱いとは感じないようにする。耳目を利かせることは、兔や鷹にも等しいまでに、きたえる。
記せば、限りがない。
眉花は、大助に、それらの修業を、過酷|無慚《むざん》なまでに、課した。
大助は、能くそれに堪えて、ひとつひとつを、わがものにした。
大助が十五歳になった時、眉花は、もはや、己が知る秘奥《ひおう》の凡てを、与え了っていた。
十五歳の誕生日を、母に祝うてもらった席で、大助は、
「母者《ははじゃ》、会得《えとく》した秘伝を、一流兵法者を対手にして、試してみたいが、よいか?」
と、云った。
眉花は、ゆるした。
翌朝、大助は、発足《ほっそく》した。
寝覚の牀まで送って出た眉花は、別れ際に、
「剣を使ってはなりませぬぞ」
と、いましめた。
剣を使えば、大助にまさる兵法者はいくらもいたからである。大助自身、剣を使わぬかぎり、危機とみれば、遁走《とんそう》することになる。剣の闘いは、遁れ去ることは、ゆるされないのであった。
一箇月が過ぎた。
暮れ方、眉花が、鹿をしとめて、戻って来ると、大助は、炉端に坐っていた。
眉花は、瞬間、わが子の姿に、これまで観なかった「男」を発見して、眩《まぶ》しさをおぼえ、一種の当惑を感じた。
母子の間に、挨拶はなかった。
「何処へ行っていやった?」
「伊賀だ」
会話は、それだけであった。
眉花は、何者と術を競《きそ》ったとも訊かず、大助も、報告しようとしなかった。翌日、眉花は、大助が持ちかえった荷の中に、人間の歯が一個あるのを発見した。闘って勝った証拠に、抜いてきたに相違ない。
大助は、十日経って、再び、出て行った。
戻って来たのは、やはり一月後であった。
眉花は、夜明けに目覚めて、裏手で、水音をきいた。そっと起きて、蔀《しとみ》の隙間から覗くと、衣服をすてた大助が、懸樋《かけとい》の水を受けて、頭からあびていた。うす靄《もや》の中に浮きあがった逞《たくま》しい裸形《らぎょう》を、一瞥した刹那、眉花の全身を、名伏しがたい戦慄が走った。
牀《とこ》にもどって臥《ふ》しても、なお、閉じた目蓋のうらに、その裸形が灼《や》きついていた。大助が入ってくる気配に、はじめて、目がさめたふりをして、起き上がり乍ら、眉花は、心のやましさを、否定し難かった。
朝餉《あさげ》を摂《と》り乍ら、眉花は、
「何処へ行っていやった?」
と、問うた。
「甲賀だ」
大助は、こたえた。
眉花は、やはり、大助の荷の中に、人間の歯を発見した。こんどは、二個あった。
ふたたび、母と子の、口数|寡《すくな》い生活が、つづいた。しかし、子は知らず、母の方は、他流試合に送り出す前には、夢にも思わなかったひとつの意識に悩みはじめていた。
わが子が、もはや、まぎれもない男子であることを、十五年間ねむらせていたおのが「女」が意識しはじめたのを、眉花は、べつだん、世間の常識にとらわれて、破廉恥《はれんち》とは思わなかったが、それを抑えなければならぬのが、苦痛であった。
眉花は、夜、頭を竝べて寝るのが、次第に、堪え難くなった。おそろしい衝動が全身をゆさぶり、眉花は、屡々《しばしば》われを忘れかけようとした。
大助は、それに気づいているのか、いないのか、なんの反応も示さなかった。
日が経ったが、こんどは、大助は、一向に、出て行く気配をみせなかった。
眉花は、秋を迎えた朝、
「もう、何処へも行かぬのかえ?」
と、訊ねた。
「うむ――」
大助は、冷たい笑いを、口辺に刷《は》くと、
「わしに勝てる奴は、何処の国にも居るまい。わしは、伊賀へ行って、伊賀衆の頭領|神後月雲斎《じんごげつうんさい》の咽喉を、指一本で孔をあけてやった。また、甲賀へ行って、甲賀流竜虎の、仙馬半平太《せんばはんぺいた》と曲淵太郎《まがりぶちたろう》の両名と、同時にたたかって、かれらの両眼を、指二本でひと突きにつぶして来た。……わしの術は、天下に敵を持たぬ」
「うぬぼれてはなるまいぞ」
眉花は、きびしい口調で、たしなめた。
「そなたとて、容易に勝てぬ術者は、いくらも居る」
「何処に居る?」
「たとえば、伊豆に――」
「伊豆に、何者が居る?」
「相馬玄夢斎《そうまげんむさい》」
眉花は、こたえた。
相馬玄夢斎は、小田原北条家に仕えた乱破《らっぱ》の総帥であった。
天正十八年正月、豊臣秀吉が、水陸合せて総勢四十余万を率いて、小田原討伐の軍を興すや、玄夢斎は、北条家の智将北条|氏規《うじのり》の下知を受けて、氏規の居城伊豆|韮山城《にらやまじょう》を守った。
玄夢斎の働きが、いかに抜群であったかという証拠には、豊臣勢は、伊豆一国をことごとく占領したが、ついに、小田原城が陥落するまで、韮山城だけは、抜くことができなかったのである。
韮山城を攻撃したのは、織田|信雄《のぶかつ》を総大将とする四万四千の軍勢であった。これに対して、城兵は、わずか二千に満たなかった。
北条氏政は、開戦にあたり、伊豆の防御陣営は韮山城が中心となるので、
「二千の兵では、心細いのではあるまいか」
と、氏規に云った。
氏規は、笑って、
「指揮をとるのが、相馬玄夢斎なれば、五百の手勢でも、守りぬき申そう」
と、こたえた、という。
まさしく、その通りであった。豊臣勢が、韮山城に対して、なし得たのは、わずかに城南の出丸|天狗《てんぐ》峯を襲って、兵営を焼きはらうことだけであった。しかも、その占領は、わずか一日で、撃退されてしまっている。
玄夢斎は、あらゆる秘術をつくして、守備しつづけると同時に、包囲軍を奇襲し、六千余を殺したのであった。
玄夢斎は、ただの忍者ではなかったのである。
いまは、老いて、下田に近い伊豆ヶ先岩殿の山中に隠棲《いんせい》しているが、その術がいささかもおとろえているとは、思われなかった。
眉花は、敢えて、その稀代《きたい》の忍者を、わが子に指名したのであった。
「よし、行って来る!」
大助は、その日のうちに、伊豆へ向かって発って行った。
眉花は、はじめて、神に祈念したい不安にかられた。
秋は足早に去り、圧石《おもし》を置いた板屋根を、氷雨《ひさめ》が打つ日がつづいていた。
眉花は、終日、炉端に坐って、すごした。
木曾路山中の寒気は、きびしい。竹も茶も、栽《う》えても枯れる。
板壁の隙間から吹き込む風は、骨を疼《うず》かせる。そのあまりの寒気に、鹿など、炉火を恋うて、庵《いおり》の戸をたたくことさえあった。
氷雨が、雪にかわるのを、揚げた蔀《しとみ》から眺めやった眉花は、突如、わが子を伊豆に遣ったことを、烈しく悔いる気持になった。
夜半――。
炉端に、夜着もかけずに、肱枕《ひじまくら》して、睡っていた眉花は、俄破《がば》とはね起きた。
急いで、戸を開けると、雪にまみれた大助が、ゆらりと倒れ込んだ。
眉花は、その額にも頤《あご》にも、手くびにも、なまなましい刀創《とうそう》の痕《あと》を視た。
かかえ起こそうとすると、大助は、かぶりを振って、おのが力で立ち上がると、茶間《おえ》へ上がって来た。
眉花は、炉端へ仰臥《ぎょうが》したわが子を見下して、
「そなた、剣を使うたな?」
と、訊ねた。
「剣を使わずには、あの老人には、勝てなんだ」
大助は、吐きすてるように、こたえた。
傷ついた面貌は、別人のように陰惨な形相と化していた。
眉花は、手をのばして、濡れた衣服を脱がせてやろうとした。
とたんに大助の手が、烈しく、振りはらった。
眉花は、なぜこばむのか、と怪訝《けげん》の眼眸《まなざし》を、大助の顔へくれた。
大助は、視線をそむけていたが、遽《にわか》に、こめかみを、びくびくっと痙攣《けいれん》させると、
「勝つには、勝ったが……」
呻《うめ》くように呟いた。
それから、のろのろと起き上がって、衣服をすてた。
若い逞しい裸身が、眼前に横たわった瞬間、眉花は、愕然《がくぜん》と息をのんだ。
股間から、太腿へかけて、一筋の刃傷が走り、無慚に、男根は截断《せつだん》されて、無かったのである。
母も子も、石のように微動だにせぬ時間があった。
やがて、眉花は、立って、片隅から、赤い鋺《まり》を把《と》って来た。その中には、熊から採った、ねっとりとした黒い油が、湛《たた》えられていた。
眉花は、黙々として、その油を掌にすくいとって、わが子の膚《はだ》へ塗りはじめた。
目蓋を閉じて、母の掌に、撫でられるにまかせていた大助は、不意に、口を開くと、
「母者?」と、鋭く呼んだ。
「……?」
眉花は、手を停めて、わが子の痛ましい寝顔を、看《み》た。
「なぜ、わしに、女体を知らさなんだ?」
「……!」
眉花は、あっとなった。
大助は、眉花の心の変化を、気づいていたのである。
眉花が、衝動にかられるままに、挑みかかれば、若い逞しい躯《からだ》は、それに応えたに相違ないのであった。
「……わしは、もう、永久に、女体を知ることは、叶わぬ!」
大助は、たたきつけるように、叫んだ。
その悲痛なひびきは、眉花の臓腑《ぞうふ》に、しみた。
眉花は、しかし、沈黙をまもって、蹠《あしうら》までくまなく油を塗り終えてやったのち、しずかに、自身もまた衣服を脱ぎすて、一糸まとわぬ裸身になって、大助のかたわらに横になった。
「このからだを、どのようにでも、弄《もてあそ》ぶがよい」
ひくい声音で、そう云った。
その顔には、美しい能面をかぶっていた。幸村に処女を与える時にかぶっていた能面にまぎれもなかった。
……眉花が、幸村宛に手紙をしたためて、大助に渡したのは、それから、数日後であった。
「これを持って、高野山のふもとの九度山《くどさん》に行くがよい」
すすめられて、大助は、不審の眸子《ひとみ》をかえした。
「なぜだ!」
「真田左衛門佐殿こそ、そなたの父上じゃ」
眉花は、はじめて、打明けたのであった。
いま――。
黙然と、炉の中で灰になった手紙へ目を落している幸村は、大助を送り出したのち、眉花が、心静かに自刃したのであろう光景を、想像していた。
眉花は、大助が、父に会うて、心機一転することを、願ったに相違ない。
しかし、大助は、手紙だけを、使いの者に持たせて寄越しただけで、ついに、この九度山に、姿を現さなかった。
おそらく、京か大阪あたりを、彷徨《ほうこう》しているものであろう。
男子たる資格を喪失した若者が、おそるべき神妙の秘術を身にそなえていれば、当然、その暗澹《あんたん》たる虚無感を、地獄の所業によって癒さんとするに相違ない、とは、掌《たなごころ》を指すごとく明らかである。
――佐助が、よく制して、つれて来てくれればよいが……。
幸村は、心から、それをねがわずにはいられなかった。
後藤又兵衛
慶長十一年早春のことであった。
陽が落ちかかる頃合《ころあい》、後藤又兵衛|基次《もとつぐ》の居城である筑前小隈《ちくぜんおぐま》城に、矢のごとく駆け着いた一騎があった。
まだ鐙《あぶみ》に足もとどかぬ、十二三歳の小童であった。後藤又兵衛の一子|左門基則《さもんもとのり》であった。
三年ばかり前より、父の主君黒田長政に乞われて、福岡城に扈従《こしょう》として上っていた。
福岡城から小隈城までは、五里の距離である。
一気に駿馬《しゅんめ》をとばして、帰ってきた左門基則は、衆にすぐれた凛々《りり》しい姿儀に、さらに、必死の気色《きしょく》をみなぎらせて、大手門前で、たづなを引くや、
「開門《かいもん》!」
と、叫んだ。
すでに狭間《はざま》から、左門であることをみとめていた遠物見の家臣は、おどろき乍ら、急いで、城門を開いた。
左門は、まっすぐに、天守閣に登ると、一階上段の間の板戸を引いて、両手をつかえ、
「左門、思うところあって、唯今、帰着つかまつりました」
と、告げた。
六尺七寸の巨躯《きょく》を、どっしりと、円座に据えて、呉《ご》の孫武《そんぶ》が太古七十戦の記録を読んでいた又兵衛は、やおら頭をまわして、埃《ほこり》にまみれたわが子を眺めやった。
そして、穏かな声音《こわね》で、
「無断で脱出して参ったか?」
と、問うた。
「はい」
「理由《わけ》は?」
「御主君には、京より金剛大夫を召され、能楽を催《もよお》されるにあたり、それがしに、小鼓《こづつみ》の囃子《はやし》を命じられました。それがしは、能役者づれのために賎役《せんやく》を執《と》るを欲せず、この儀御免下されたい、と申出たるところ、御主君には、刀にかけても辞退は許さぬ、ぜひにも鼓を搏《う》て、とお申しつけでありました。主命もだしがたく、役に就き、一曲を勤めましたなれど、心おさまらず、お役をすてて、戻りました」
「そうか。よい」
又兵衛は、大きく、頷いた。
武名天下にとどろいた豪強の一子だけあって、わずか十二歳乍ら、一城を預かった武将の子として、申楽《さるがく》の徒輩《とはい》に伍せられた恥辱に堪えられなかったのである。
しかし、左門は、自分が無断で、福岡城を脱出して来たことが、父に、いかに重大な決意をさせるか、ということまでは、脳裡《のうり》は働いていなかった。
又兵衛は、咄嗟《とっさ》に、
――ついに、黒田家から永《なが》の暇《いとま》をとる秋《とき》が来たか。
と、|ほぞ《ヽヽ》をかためたのである。
主君長政との、目に見えぬ確執《かくしつ》は、わが子の行動によって、いよいよ、表面化することになった。
しかし、又兵衛は、それには一言もふれず、
「下がってよい」
と、命じた。
左門は、天守閣を出る時、そっと、手の甲で泪《なみだ》をぬぐった。
入った館は、ひっそりとしていた。母は、すでに、一年前に、みまかっていた。
母が起居していた居間に端坐した左門は、なお微かにただよっている薫香《くんこう》を、なつかしいものに、一杯の胸に容れてから、形見の懐剣を抜きはなち、衣服の前をくつろげた。
あわや、切っ先を、腹へ突き立てんとした刹那、背後から鉄扇《てっせん》が降って来て、懐剣をたたき落した。
「うつけ者! たったひとつしかない生命を、粗末にいたすな!」
いつの間に入って来ていたか、又兵衛は、左門の前に、どっかと、胡坐《あぐら》をかくと、
「よいか、左門、死ぬ時が参ったら、この父が教えてやる」
「はい――」
左門は、うなだれた。
「君が君たらざれば、臣は臣たる必要は、みじんもないぞ。成程、この後藤又兵衛は、少年の頃、如水軒《にょすいけん》様(黒田孝高)にひきとられ、世子長政《せいしながまさ》殿と同様に育てられた。その高恩は、海よりも深く、山よりも高い。さればこそ、今日まで、一身をなげうって、黒田家のために尽《つく》して来た。高恩にむくいるのに充分の働きは、なしたと心得る。……されば、たかが、一万六千石の陪臣《ばいしん》の座など、弊履《へいり》として抛《ほう》りすてても、一片の悔いもない。左門、明日は、この小隈城を立退いて、天下の山野を家といたそうぞ」
又兵衛は、そう云いはなって、高らかに笑った。
後藤又兵衛は、もともとは、黒田家の家臣ではなかった。
その父新左衛門基国は、小寺《おでら》官兵衛と称していた黒田孝高とは、小寺|政職《まさもと》に属する同列の武士であった。基国が病歿したのち、黒田孝高は、その一子又兵衛を引取ってわが子|松寿《しょうじゅ》(長政)と兄弟のようにして、育てたのである。
したがって、父孝高が、実子の自分よりも、又兵衛の方を愛し、信頼している様子が、しばしば、見えたので、長ずるにしたがって、又兵衛に対してひそかに含むところがあった。
豊臣秀吉が、九州を平定して、黒田孝高を、豊前十八万石に封じた頃のことであった。
九州は、一応、豊臣家の治下になったとはいえ、各処《かくしょ》に土豪《どごう》が割拠して、なかなか帰服しなかった。
なかにも、宇都宮|中務少輔鎮房《なかつかさしょうゆうしげふさ》という土豪は、城井谷《きいだに》の険要《けんよう》に拠って、兇威《きょうい》をほしいままにしていた。
黒田長政は、父孝高が制するのもきかずに、兵一千余をひきいて、城井谷の山砦《さんさい》を、攻撃した。
しかし、その攻撃は、七度くりかえして、ついに、山砦を占領することが、かなわなかったばかりか、逆に、嵐の一夜、奇襲を受けて、長政は、わずか二十名の部下を残したのみで、敗退のやむなきにいたった。
高言をはなって、堂々と進撃して行ったてまえ、長政は、痛憤《つうふん》に堪えず、父に合せる面目なしと、髪を断って、ある古寺に屏居《へいきょ》してしまった。
生きのびて還った部下たちも、のこらず、髻《もとどり》をはらって、若殿にならった。
この報が、中津城にもたらされ、長政の謹慎《きんしん》をどうして解けばよいか、と評定された。
すると、後藤又兵衛は、不意に、大口をひらいて、哄笑《こうしょう》した。
「基次殿、なにが可笑しいぞ?」
重臣の一人が、咎《とが》めた。
又兵衛は、さもばかばかしげに、
「一勝一敗は、兵家のならい、なんのふしぎがおわそう。今日負けたら、明日勝てばよろしかろう。敗北を、おのがよきいましめとして、次のたたかいに、いかにして勝とうかと分別するが、肝要《かんよう》と申すもの。たった一度、負けただけで、坊主になるなどとは、武将として、あまりにも、粗忽《そこつ》でござろう。負ける度毎に、頭を剃りこぼって居れば、死ぬまで、髪毛が長くなり申すまい」
と、云った。
孝高は、これをきいて、わが意を得たぞ、と頷いた。しかし、伝えきいた長政は、「又兵衛め、小ざかしげに、ほざき居って」と、心おさまらなかった。
天正十七年、黒田如水軒孝高は、隠居して、世子長政に、世を譲った。又兵衛は、自然に、長政に仕えることになったが、べつに、家臣らしい態度はとらなかった。
文禄に入って、太閤秀吉が、朝鮮に、兵を進めるにおよんで、又兵衛は、黒田勢の先鋒となり、いたるところで、敵軍をうち破り、殊に、晉州城攻略にあたっては、寄手の全軍に先だって、一番乗りをなし、加藤清正をして、その勇猛に感嘆させた。
長政は、又兵衛の武名があがればあがるほど、主将たるおのれが、影うすくなるような気がして、面白くなかった。
また――。
戦闘にあたっても、長政は、おのれの将才が、常に、又兵衛の武略に劣るのを、思い知らされなければならなかった。
稷山《しょくざん》の戦いにおいては。
明の将軍|解生《かいせい》の率いる数万の大軍にむかった長政は、わずか三千の見兵《けんぺい》をもってしては、いかに必死になって奮闘しても、これを突破することは不可能なばかりか、ついには、包囲されかかった。
その時、突如、附近の山中から、どっと鯨波《げいは》と銃声が噴《ふ》き上がった。
解生は、日本軍が、そこに伏せていたと思って、急遽退却を命じた。長政は、その機を得て、はげしく、突撃して、明の大軍を、まぷたつに裂いた。
実は、又兵衛が、たった五十名を抜いて、山中に駆け入って、いかにも、大軍の伏せているごとくみせかけたのであった。
また、ある時には。
黒田勢の前衛が、進んで行って、はるか前方の山端を迂回《うかい》した時、たちまち、敵軍と遭遇したらしく、喊声《かんせい》が、山を徹《てっ》して、つたわって来た。
又兵衛は、しばらく、耳を傾けていたが、
「しまった! わが兵隊は、敗れた!」
と、云った。
長政は、きき咎《とが》めて、
「まだ見とどけもせずに、味方の敗北が、なんでわかるぞ!」
と、睨みつけた。
又兵衛は、
「勝って進むものならば、進むにしたがって、鬨《とき》の声は遠くなり行くものでござる。ところが、喊声は、しだいに、こちらに近づいて参り申す。必定、敗れたに相違ござらぬ」
と、こたえた。
その言葉のおわらぬうちに、傷ついた兵らが、山麓に、ぞくぞくと姿を現すのが、望まれた。
さらに、また、ある戦いでは。
とある丘陵に立って、遥《はる》かにへだたった前軍の攻防を眺めていた長政は、急に、かぶりをふって、
「味方は、形勢不利と見える」
と、呟いた。
かたわらにいた又兵衛が、なんの理由でそう申される、と問うた。
「見よ! 敵軍の方に、さかんに馬煙が立ちあがるではないか」
「はっはっは……、あれは、味方が勝利の証拠でござる」
「なんと云う?」
「進んでくる敵の武者煙は、しだいに黒く濃くなり申すもの。退いて行く敵の馬煙は、だんだんに白くなり、薄れるもの。あの馬煙は、白く薄らいで行き申す。味方が、追い散らしているあきらかな証拠でござる」
まさしく、その通りであった。
いわば、関ヶ原の大戦の後、黒田長政が、筑前五十二万三千石の太守になることができたのも、後藤又兵衛という稀代《きたい》の豪雄が、その傍《かたわら》についていたからこそであった。
長政も、決して、暗愚の武将ではなかった。いや、長政自身、勇猛は及父《だいふ》にまさり、馳突|無前《むぜん》の武将であるだけに、又兵衛の前に、おのれが影のうすくなるのを、きらったのである。
競敵《ライヴァル》は、ついに、並び立つことは、できぬ。
又兵衛は、ついに、長政の許から、去る運命になった。
長政が、又兵衛に対して、あきらかな憎悪を抱いた出来事がある。
朝鮮役中、嘉山の戦いに、一日、敵は、大河をおし渡って、黒田、小西の両陣勢を、猛襲して来た。
この闘いは、壮烈をきわめ、長政自身も、敵の猛将李応理と相搏《あいう》って、水中に落下した。
ともに、組みあって、水中を、上になり下になり、勝負は、容易につかなかった。
時おり、長政のつけている有名な水牛の兜の前立《まえだて》が、水面を掠《かす》めるのを、みとめるばかりであった。
又兵衛は、縦横むじんに、敵勢を蹴散《けち》らして、ようやく一息入れたところであったが、小西の一将が馳せ寄って来て、
「貴殿の主君は、敵と引っ組んで、水中で、相搏って居られるぞ! 助けられい!」
と叫んだ。
又兵衛は、平然として、日の丸の扇を使い乍ら、
「それがしのあるじが、敵の一隊長ごときに、首をとられる筈はござらぬ」
と、動こうともしなかった。
そのうちに、紅血が、むらむらと水面に浮かびあがって、拡りはじめた。
渡辺平吉という士が、飛び込んで、長政を助けようとした。その時、長政は、ようやく、敵を刺して、浮きあがってきた。
長政は、もちろん、なぜ救わなんだか、などと口が腐っても云いはしなかったが、扇を使って高みの見物をした又兵衛を、心中憎悪したことは、疑う余地はない。
長政が、露骨な反感を、又兵衛に示したのは、関ヶ原の役においてであった。
長政が、家中一統に対して、黒田家は、徳川方に就くであろう、と申した時、又兵衛は、
「御尊父は、いずれへも荷担《かたん》せぬように、と仰せられて居り申すが――」
と、忠告した。
長政は、又兵衛に、一瞥《いちべつ》もくれず、
「徳川内府こそ、われらが、最も尊敬すべき古今随一の人物ぞ」
と云った。
又兵衛は、やむなく、その座を立った。
しかし、関ヶ原の闘いにおいては、銀の天衝《てんつ》きの前立した兜をいただき、黒幌かけて、白馬にうちまたがった又兵衛の勇姿は、常に先陣に在った。
関ヶ原の役が終わり、筑前五十二万三千石に封ぜられた長政は、任地に就く途すがら、旧府豊前の中津に立寄って、父如水軒孝高に見《まみ》えた際、
「このたび、それがしの軍功を、内府公には、深く感賞なされ、したしく、手を把《と》られて、おしいただかれてござる」
と、告げた。
武将として、この上の名誉はないことであった。
しかし、おいたる駿将《しゅんしょう》は、無表情で、
「それは、右の手であったかな、それとも、左の手であったかな?」
と、問うた。
長政は、妙なことをただすものだ、と思いつつ、
「左の手でござった」
と、こたえた。
如水は、冷ややかに薄ら笑って、
「その際、そちは、右の手はどうして居った?」
「右の手は、もとより、膝に――」
「ふん」
如水は、遠くへ目を置いて、
「わしや清正ならば、内府は、右手をにぎったであろうよ」
「なぜでござる?」
「右手で脇差を抜いて刺されるおそれがあるからの。……内府も、人を観居る」
それから、如水は、長政の後方に坐っている又兵衛に、
「又兵衛、ご苦労であった。わしが、当主ならば、十万石をくれるところだぞ」
と、云った。
長政が、又兵衛にくれたのは、一万六千石であった。又兵衛は、それに対して、一言も不服を云わなかった。
「つつしんで申す。大いなる名誉の下《もと》、以て久しく居り難し、とか。それがし、このたび、徳無くして禄するの禍《わざわい》を知り、賜《たまわ》りたる嵎《ぐう》をすてて、野虎《やこ》たらんと心仕り候。命《めい》を知らざれども天を怨まず、己《おのれ》を知らざれども人を怨まず、ただ、いささか、身を退くに義を保つの法と心得申すことに御座候。禄をすてて、清風朗月を談ずる風流心はさらさら御座無く候得共、いかに貧窮《ひんきゅう》いたすも、昏夜哀《こんやあわれみ》を乞い、白昼人に誇るがごとき卑屈の振舞いは、決していたすまじく、御安堵被下度、されば、野虎がおもむくがままに、お見すての程を願上候」
たんたんとした一書を、長政の許に送っておいて、又兵衛は、春光うららかな佳日をえらんで、城門を開くことに決めた。
一読した長政は、烈火のごとく、憤《いきどお》った。
「基次に、暇をくれることは、ならぬ。誰か趨《はし》って、阻止《そし》いたせ」
しかし、一人として、その役を引受けようとする者はなかった。
苛立った長政は、
「よし! その方らが肯《き》かぬなら、この長政が自ら、打物とって、基次と一騎討ちしてくれる!」
と、突っ立ち上がった。
「殿! 五十二万三千石の太守にあるまじきかるがるしきお振舞いに候」
そう叫んで、身を起したのは、黒田藩一方の侍大将、野口|一成《かずなり》であった。無辺無極流《むへんむごくりゅう》の槍の名手であり、戦場にあっては、先手大将たる後藤又兵衛の右脚となって、常に抜群の武勲を樹てた猛者《もさ》であった。
無辺無極流の槍は、ただの一撃をもって敵の咽喉もとをつらぬく一流であった。柄の長さは二間五尺、めぐりは径三寸、常人の指では、握りかねる豪槍であった。
野口一成は、これを苧《お》がらのように縦横自在《じゅうおうじざい》に振りまわして、これにふれた雑兵などは、案山子《かかし》のように、二間もはねとんだ、という。
ちなみに、戦国時代の槍は、ただ突くだけではなかった。横|薙《な》ぎに、敵の首を刎《は》ねとばしたり、真っ向から撃ち下して、兜の天辺《てっぺん》を両断したりしたのである。
加藤清正の鎌槍、福島正則の家臣|可児才蔵《かにさいぞう》の十文字月槍、そして野口一成の火焔《かえん》槍は、天下に名高かった。野口一成は、朱塗りの柄の豪槍を使ったのである。
黒田勢の進撃するところ、常に、その先頭には、血のごとく赤い豪槍をかざした野口一成の勇姿があった。
慶長五年、徳川家康と石田三成との抗争発するや、黒田長政は、田中兵部少輔吉政、藤堂佐渡守高虎とともに、尾張に討入り、犬山城を降し、進んで美濃の岐阜に向わんとして、合渡川《ごうどがわ》をへだてて、石田三成、島津兵庫頭義弘と、対陣した。
この日、合渡川は、連日の豪雨に、濁流渦巻いて、瀬枕《せまくら》を沈めるまでにあふれていた。
この激水を越えて彼岸《ひがん》で戦わんか、敵が此岸《しがん》に襲って来るのを、待つか。諸将の議論は、ふたつに割れた。
後藤又兵衛は長政の後方にひかえて、終始目蓋を閉じて、黙然としていたが、やがて、なんとはない沈黙が座を占めた時、大きくまなこをひらいた。
「およそ、戦いと申すものには、勝とうが負けようが、ここを最期の地と覚悟した上での、駆引の分別と存じ候。されば利不利の論議よりも、まず、時を置かずして、それがしの一隊が、川を乗越えてご覧に入れ申そうず。全員が討死しても、それまでのこと。先ずは、こころみるに如《し》かず――」
と、云いはなっておいて、さっさと陣営を出るや、野口一成を呼んで、
「死んでくれい」
と、命じた。
「かしこまった!」
野口一成は、莞爾《かんじ》として、承諾するや、真紅の長槍を把って立った。
秋の陽が西に傾いた頃あい、合度川の岸辺に、異様の光景が、現出した。
およそ百をかぞえる騎馬が、しずしずと、横列に竝《なら》んだとみるや、一斉に、馬上の武者の脳天から火焔を噴かせて、どっと、濁流へ躍り入った。
馬上の武者は、藁人形であった。
中央を先頭きった一騎のみが、生きている武者であった。
その右手《めて》にかざした朱槍が、対岸の西軍にも、はっきりとみとめられた。
炎々と燃える藁武者を乗せた五十の軍馬は、もの狂おしい勢いで、みるみる濁流を泳ぎ渡って行った。
この奇抜無比の一番槍は、東軍の意気をふるいたたせるに、絶大の効果があった。
野口一成は、生れ乍らの戦場武者であった。
ある時、ある一流兵法者の挑戦を受けるや、わざと朱槍をすてて、小太刀を把って、立合った。
敵が、猛然と撃ち込んで来るや、それを鋼鉄のごとき左腕で受けとめておいて、片手薙ぎに、腕を払った。
右の膝頭を微塵に砕かれた兵法者は、呻きつつも、腕で受ける剣法はない、と云った。
一成は、具足櫃《ぐそくびつ》から籠手《こて》をとり出して、さし示した。籠手には、無数の太刀痕がついていた。
「それがしの戦場の流儀とは、これだ。この後、戦場武者とは、立合わぬが、身の安全であろう」
一成は、そう云って、兵法者の右脚を、無造作に両断し、手当をくわえてやった。
いわば、黒田藩中、後藤又兵衛とは最も肝胆あい照らす野口一成が、自ら、その退却の阻止役を引受けて、立ち上がったのである。
忍びの者に、後藤又兵衛が何日何刻頃に、小隈《おぐま》城を立退くか、調べさせた野口一成は、当日、ただ一騎で、朱槍を小脇にかいこんで、まっしぐらに、疾駆して行った。
大手の城門は、開かれていた。
かげろうの燃える野の中に、孤影を彳《ただず》ませた野口一成は、又兵衛とともに戦った戦場のかずかずを、次つぎに思い泛べて、深い感慨を催していた。
やがて――。
城門に、人影が、あらわれた。
たった二騎であった。
又兵衛基次と一子左門基則と――。
それは、武名天下にとどろいた豪雄とは思われぬ、みすぼらしい姿であった。紋どころもない鼠色の木綿の小袖一枚で、羽織もまとわず、具足櫃を、背負うていた。その具足櫃も、携えた槍も、荒菰《あらごも》で包んでいた。
一家郎党を率《ひき》いて、堂々と立退くものと思いこんでいた一成は、唖然《あぜん》となった。
――どうしたことか?
不審のままに、一成は、馬腹を蹴って、進んだ。
「隠岐殿、見参《げんざん》!」
そう呼ばわる一成にむかって、又兵衛は、微笑して、
「お主が来るであろうと思うていた」
と、云った。
「主命によって、英傑が他家へ走るのを阻止いたす」
叫んだ一成は、頭上たかだかと、二間五尺の豪槍を、横たえてみせた。
「一成、主君を無駄死いたさせまいぞ」
又兵衛は、微笑をつづけ乍ら、云った。
「無駄死とは?」
「お主が、この又兵衛の首を持って帰れば、長政殿の生命も、即座に、断たれよう」
「はて、申される意味が解《げ》せぬ」
「当城に在った千二百の兵らは、わしが制止するのも肯かずに、昨夜のうちに、のこらず姿を消した。おそらく、数手に分れて、万一の場合に、備えたに相違ない。もし、福岡城より、この又兵衛を討たんとする手勢が出たならば、それを襲わんとする者ら。また福岡城に忍び入って、長政殿の首級を狙わんとする者ら。さらには、武器弾薬蔵を一挙に爆発せしめんとする者ら。……わしは、昨日をもって、かれらと、主従の絆《きずな》を切った。されば、かれらが、何を企てようと、わしには、もはや、命じて、制する力はない。……一成、それでも、敢えて、わしと闘って、首級を挙げんとするか!」
じっと、又兵衛を瞶《みつ》めていた一成は、一瞬、にやりとすると、
「何処へおもむかれるかは知らぬが、つつがなき道中をお祈りつかまつる。御免!」
と云いのこして、馬首をかえすや、逸散に、遠ざかって行った。
炬眼《きょがん》を細めて、見送った又兵衛は、
「一成め、主君を脅《おど》して、わざわいを招かねばよいが……」
と、独語した。
まっしぐらに、福岡城に戻りついた一成は、長政の前に平伏すると、
「後藤隠岐基次には、一子左門基則のみを連れて、無事に退散つかまつりました」
と、報告した。
長政の面上に、朱が散った。
「無事にだと! おのれ、又兵衛を見送るために、小隈《おぐま》城へ参ったのか! たばかったか、一成!」
怒号《どごう》しざま、長政は、小姓が捧げている佩刀《はいとう》を掴みとった。
一成は、抜きはなとうと身構える長政に向って、鉄扇を突き出して凄まじい気合をかけた。
長政は、そのまま、不動縛《ふどうしば》りに会って、息をとめた。
一成は、悠々《ゆうゆう》と立って、廊下においた朱槍を把って来ると、ぴたっと直立させ、
「いかに、わが君、武辺の御成立《おんなりたち》におわす黒田筑前守ともあろう武将が、自らの生命が風前の灯《ともしび》となって居ることにも気づかず、倶《とも》に百戦して来た後藤基次の首級が運ばれるのを待ちこがれて居られたとは、迂愚《うぐ》もきわまれりと申そうか」
高らかに、云いはなった。
「余の生命が、風前の灯だと? 血迷うたか、一成!」
「血迷いめされたのは、わが君にござる! 風前の灯となった証拠を、お目にかけ申そうず」
一成は、長槍を、りゅっとひとしごきくれて、総身の気合を迸《ほとばし》らせるや、目にもとまらぬ迅業《はやわざ》で、旋回《せんかい》させた。
格子天井《こうしてんじょう》の板がはねとんだ。長政の前の畳がおどりあがった。衝立がまっ二つに截《き》り払われた。
次の瞬間。――
天井裏から、床下から、そして衝立の蔭から、それぞれ二名の黒装束の士が、飛鳥のごとく、出現して、長政を包囲する陣形をとった。
「いかがでござる。わが君! これらの者は、昨日まで、小隈城で、後藤基次に忠誠を誓《ちか》った面々でござるぞ。もし、それがしが、又兵衛の首級を携えて帰り、ここにさし出したならば、わが君のおん生命もまた、即座に喪《うしな》われていた筈でござる。又兵衛自身は、わが君に叛く意志など毛頭これなく、部下全員が、黒田家に仕えやすいように昨日をもって、主従の縁を断って、一子ただ一人をつれて、立退いたのでござるが、部下千二百は、主従の縁を断たれたとは露いささかも考えず、打って一丸となって、かかる企てをつかまつったのでござる。……わが君、往《おう》を彰《あきらか》にして来《らい》を察するの明なくんば、君主たるの資格はござらぬ。反省の程、願い上げたてまつる」
凛冽《りんれつ》たる言葉に、長政は、一語もかえすことはできなかった。
長政は、しかし、治平の世の君主ではなかった。覇道《はどう》とは、血をふくんで渉《わた》るのみと信じ、たとえ、おのがために身骨を砕いて、殊勲を建《た》てた家臣であっても、ひとたび、順《したが》わなければ、これを敢えて抹殺してもやむなし、と考えている血なまぐさい戦国の武将であった。
耳に逆《さから》う忠告などを、容易に容《い》れるのは、むしろ懦弱《だじゃく》とさえ思われるのであった。
十日後、野口一成は、城内で、午食を摂《と》って、しばらくすると、苦悶しはじめ、おびただしく吐血して、果てた。
息をひきとる間際に、
「……又兵衛は、去る秋《とき》に、去り居った」
と呟いたが、周囲で見戍《みまも》る人々のうち、その意《こころ》を読んだ者は一人もなかった。
その後、飄然《ひょうぜん》として退去した後藤又兵衛の行方に対して、黒田長政は、執拗《しつよう》きわまる追及をつづけた。
又兵衛は、小隈城を出て、まず身を寄せたのは、豊前三十六万石・細川|越中守忠興《えっちゅうのかみただおき》の小倉城であった。
べつに、庇蔭《ひいん》を求めたわけではなく、国境を越えると、そこに細川藩の重臣が、騎士、槍隊数百をしたがえて、出迎えていたのである。
又兵衛は、昨日までのおのが部下たちが、あらかじめ、細川家へ通報し、依頼したのだ、とさとり、
――いらざることをしてくれた。
と、苦笑したものであった。
小倉城に達するや、細川忠興は、又兵衛をいわゆる客卿として遇し、当座の合力米《ごうりきまい》として五千石を給した。
この報が、福岡城にきこえるや、長政は、直ちに使者を送り、
「後藤隠岐は、当家より勝手に立退いた者であり、当家としてはいまだ暇《いとま》をくれて居らぬ故、早々に放逐《ほうちく》下されたい」
と抗議した。
細川家では、
「召抱えたるわけではござらぬ。客分として逗留させて居るまでのこと。おかまい下さるまじく――」
と、返辞した。
長政は重ねて、
「世間には、すでに貴藩において、隠岐を召抱えられたと風説が立ち申した。そのままにしておくことは、当家の一分が相立ち申さぬ」
と、迫った。
細川家では、世上のきこえは何とあろうとも、召抱えもせぬ者を、放逐はでき申さぬ、と断乎として拒絶した。
あわや、両家に、戦火が起りかねない形勢となったので、幕府は、急いで、駿府から家康名代として山口|主水《もんど》を、江戸からは将軍秀忠名代として赤井五郎作を遣《つかわ》して来て、後藤又兵衛を、幕府で預かるという名目の下に、和解させた。
又兵衛が、小倉城を去ることに決まった前夜、細川忠興は、別れを惜しんで、数奇屋《すきや》に招いて、自身の点前《てまえ》で、もてなした。
談がすすんだ時、細川忠興は、何気ない口ぶりで、
「かりに、黒田と当家と戦端がひらかれたとして、勝利は、いずれにあろうか?」
と、問うた。
又兵衛は、思慮《しりょ》する間も置かず、無遠慮に、
「御当家に、勝算はござるまい」
と、こたえた。
「封土の大小、軍旅の多寡《たか》から積れば、そのとおりかも知れぬが、そこには、戦闘の駆引というものがあろう。それに対する方略《ほうりゃく》を、貴公から承っておこうか」
又兵衛は、しばらく、沈黙していたが、
「御当家のふかい御情に対して、必ず勝つべき一計をおさずけつかまつる。筑前守長政は、御承知の通り、衆《しゅう》に勝《すぐ》れた猛将に候えば、毎戦、必ず先頭に立って進まれる。万一、戦火起らば、鳥銃《ちょうじゅう》の妙手を四五十人選んで、一隊としておき、両軍相接して、槍の合う頃合を図って、先頭の騎馬武者数名を撃ちとられるならば、そのうちの一名は、必ず筑前守でござろう」
と、教えた。
小倉を去った又兵衛は、安芸の厳島《いつくしま》に船を寄せ、ここで数日をすごした。
はやくも、この報が、広島城にきこえるや、城主福島左衛門太夫正則は、老臣福島|丹波《たんば》、尾関|石見《いわみ》、長尾|隼人《はやと》をあつめて、
「後藤基次を、当家に召抱える。その意を、渠《かれ》に通じて参れ」
と、命じた。
三人は相談したのち、又兵衛の召抱えについては、黒田、細川の確執《かくしつ》と相成り、公儀の扱いによってようやく事済みになったばかりであり、いままた当家で召抱えれば、さらに、両家との争いを惹起《ひきおこ》すことに相成るは必定と存ずれば、この儀はおん見合せあって然る可くと存ずる、といさめた。
しかし、いったん云い出した以上、正則は、一歩も退く気色をみせなかった。
やむなく、福島丹波が使者となって又兵衛を、その旅宿に訪れた。
又兵衛は、しばらく、考えている様子をみせていたが、
「三万石を賜るなら、考慮つかまつる」
と、云った。
福島丹波、尾関石見、長尾隼人らは、いずれも、二万石であった。
それよりも一万石多く要求すれば、正則も、流石《さすが》にためらうであろう、と又兵衛は、考えたのである。
又兵衛は、再びいずこの大名にも随身《ずいしん》する意志は、全くなかったのである。
丹波が、帰城して、復命すると、正則は、
「三万石でもよい。召抱える故、連れて参れ」
と、再命した。
丹波は、石見、隼人らと審議したのち、ふたたび又兵衛と対坐すると、
「主人は、貴公ののぞみを容れ申した。それについて、主人の申すに、貴公は黒田にあっては二万石に足らぬ知行でいたものを、のぞみ通りに、三万石をあて行うことゆえ、さだめて過分に存ずるであろうと思う。せいぜいの忠勤をはげんでくれい、とのことでござる」
と、恩をきせた。
これは、丹波の狡猾《こうかつ》であった。
はたして、又兵衛は、
「福島殿は、この又兵衛に、三万石を過分と思えと仰せられるか。と申すことは、福島殿が、又兵衛の器量を、三万石以下とはかられた。かように、さげすまれては、せっかくの三万石を頂戴いたすわけに参らぬ」
と、断乎として拒絶した。
又兵衛が、必ずこう出て来るであろうと予期していた丹波は、心中にやりとした。
正則は、この報告をきくと、眦《まなじり》をつりあげて、憤《いきどお》った。
「彼奴、おのが武略に慢心して、三万石でも足らぬと申すか! よし、五千石でもやとうてはやらぬ。彼奴を呼びつけて、三万石のかわりに、侮辱《ぶじょく》をくれてやろうぞ」
翌日、又兵衛のところへ、招待の使者がおもむいた。それは、大名を迎える正式の作法をもってなされた。
当然、又兵衛としては、作法をもって応えなければならなかった。正則は、又兵衛が、旅塵によごれた衣服一枚を着たきりに相違ない、と思ったのである。招待を断われば、三万石の大名たる資格がないことを、自身でみとめたことになる。
それを、正則は、あざ笑ってやろう、という下心であった。
又兵衛は、しかし、断わらなかった。
背負うて来た荒菰《あらごも》包みの具足櫃の中から、礼服|裃《かみしも》をとり出して、身につけるや、威風あたりを払った。
登城して、書院において、主客の挨拶がおわると、すぐさま、善美の料理が、席上にならべられた。
しかし、膳部には、箸がつけてなかった。
又兵衛は、少しも色をなさずに、正則が帯びている脇差を、拝見いたしたい、と申出た。
小姓が渡すと、その脇差の割笄《わりこうがい》をぬきとって、箸に代えて、肴に手をつけた。
――小面憎い振舞いを!
正則は、やや苛立ち乍ら、
「今日は、冷える。無礼を宥《ゆる》せ」
と、ことわって、懐中から頭巾をとりだして、被《かぶ》った。
これは太閤秀吉や将軍家康などが、臣下に対してとる態度であった。
すると、又兵衛は、うてばひびくように、
「それがしも、チト肩が凝り申せば、御免!」
と云って、さっと肩衣《かたぎぬ》をとりすてた。
――やり居った。
正則は、にやりとして、
「ところで、お許《こと》の旧主筑前守は、五十二万三千石の太守であり乍ら、家中に、ただ一人も、手蹟を能くする者は有《も》たぬと、みえる」
と、云って、長政自身がしたためた一書を、又兵衛の膝の前へ抛《ほう》った。長政は、三百諸侯中、有名な悪筆家であった。正則は、わざと、家臣に、こんな下手な代筆をさせたと、皮肉ったのである。
又兵衛は、平然として、
「黒田藩中には、いずれの道にも堪能《たんのう》の者は、数知れず居りまする。もとより、書道に於いても、能書の祐筆《ゆうひつ》は、箕《み》をもってふるうほど居りまする。さり乍ら、他家との書信を交すにあたり、先方の主人が能筆なれば、能筆家を選んで書かせ申すが、もし先方の主人が悪筆なれば、当方は能筆をもってむくいて、恥をかかせ申すのは、はばかりあることゆえ、わざと悪筆家を選んで、したためさせるのでござる」
とやりかえした。
正則もまた、字は下手糞だったのである。
又兵衛が、去ったあと、正則は、
「あれには、五万石くれても、惜しゅうはない」
と、云って嘆息したことであった。
又兵衛は、安芸国をあとにして、京都に出た。
天下一の豪雄の出現は、たちまち、京洛の評判になった。三条大橋において、長政から遣された刺客四名に、前後から肉薄され乍ら、泰然自若として、巨巌のように佇立《ちょりつ》したまま、一喝《いっかつ》さえもくれず、いつのまにか、渠《かれ》らをして姿を消させた威風は、人々の口から口へと語り継がれて、上洛している諸侯の耳に達した。
又兵衛の旅宿には、次々と、主命を奉じた使者が、おとずれた。
加賀の前田中納言利長が、越前の結城《ゆうき》宰相秀康が、播州の池田少将輝政が、あらそって、この巨きな人物を請じようとした。
黒田家からの刺客も、屡々狙ってきた。
又兵衛は、さらに、動く気色をみせなかった。
一子左門基則は、ひそかに、堺に在住する旧家臣の家に預けてあった。
春が逝《ゆ》き、暑気が増して来た頃であった。
さすがに、訪れる人も稀になった伏見の町はずれの茅屋《ぼうおく》で、又兵衛は、ある暮夜《ぼや》、蚊遣《かや》りの煙を流し乍ら、無銘《むめい》の愛刀を抜きはなって、手入れをしていた。
雷鳴が、しだいに近づき、夜の樹々がざわめいていた。
ふと――。
又兵衛の視線が、庭の一隅に投じられた。
風に運ばれて来たように、一個の黒影が、そこに立っていた。
又兵衛は、無言で、凝視《ぎょうし》したままであったし、黒影もまた、沈黙を守って、動かなかった。
一瞬――稲妻が閃いて、庭を白昼の明るさにかえした。
又兵衛は、その者が、まだ十七八歳の、臈《ろうた》けたともいえる妖しい白面の若者であるのをみとめた。
湛《たた》えている気色は、しかし、なぜか、陰惨《いんさん》なものであった。
「刺客かの、お主《ぬし》?」
闇の中にかえった対手に、又兵衛は、訪ねた。
「刺客として、やとわれたが、貴公を殪《たお》すことは、かなわぬ」
「では、去るがよい」
「いいや!」
二歩ばかり、歩み寄って来て、
「おれは、貴公の子息左門基則を、隠れ家で捕えて、黒田藩の大阪屋敷に、監禁した」
それをきいても、又兵衛は、動じなかった。
「おいっ! 後藤基次に、きこう!」
若者は、急に語気をあらためて、
「この世で唯一人の子息の生命が危機と相成っても、貴公は、あくまで、黒田長政に屈せぬか?」
「なぜ、そのようなことを訊く?」
「おれは、父子の情《なさけ》というものが、知りたい」
この時また、凄じい稲妻が、天をつんざいて、地軸をゆする雷鳴をとどろかせた。
又兵衛は、若者の白面が、異様に歪《ゆが》んでいるのを見てとった。
「お主は、父の情というものを知らぬのか?」
「知らぬ」
「知りたいか?」
「知りたい」
「お主の姓名は?」
「真田大助幸綱《さなだだいすけゆきつな》」
「真田? 真田左衛門佐殿の一門か?」
「おれは、幸村《ゆきむら》の一子だ。しかし、幸村は、おれがこの世に在ることは知らぬ。いまだ、会うたこともない」
三度び、世界は、煌《こう》と輝いて、霹靂《へきれき》は、轟然と、この茅屋に、落下した。
庭に立った真田大助は、反射的に、地面に片膝をついた。
片膝をつきつつも、大助は、又兵衛が、この刹那、抜き持っていた白刃で、気合もろとも、降ってきた紫電《しでん》をぴゅっと斫《き》り払うのを、視た。
大きく吐息して、立ち上がった大助は、まだ又兵衛の手にある太刀が、黒くくもり、刃がぼろぼろに鎔折《ようせつ》しているのをみとめて、思わず、
「おお!」
と、驚きの声を発した。
又兵衛は、しずかに、その刀身を鞘におさめると、
「もどって、左門に伝えてもらおう。疾風起って、勁草《けいそう》を知る。窮《きゅう》を以て節を変ぜず、賎《せん》を以て志を易《か》えず。父の名をはずかしめるな、と――」
と、云った。
真田大助は、目礼して、庭から、煙のように、立去った。
十日間が、過ぎた。
月のある明るい夜半、真田大助は、再び、この家の庭に、忽然《こつぜん》として、姿を現した。
又兵衛は、同じ庭で、櫓《ろ》を削って、小太刀を作っていた。
「お報せ申す。左門基則は、おれが、貴公の訓戒を伝えるや、翌日より絶食の行をはじめ、ついに今日まで、米一粒も口に入れぬ。生命は、もはや、あと三日と保ちはすまい。父として、いかがされる存念か、うかがおう」
又兵衛は、やおら身を起すと、台所へ行き、重い鋺《まり》を把って来た。
それから、櫓を削っていた小刀で、いかにも無造作に、おのれが太腿の肉を、えぐり取って、鋺に容《い》れた。
「これを煮て、左門に食わせて頂こう」
「……」
大助は、流石に、息をのんだ。
又兵衛は、傷の痛みなど、さらに感じないような、微笑を泛《うか》べて、
「これが、荒くれ武士の、伜に示してやる情と申すものじゃ。おわかりか」
と、云った。
夜明けがた、骨と皮に痩せおとろえた左門が、この家の門《かど》さきに、そっと置きすてられてあった。
真田大助が、猿飛佐助の乞いを容れて、高野山麓の北谷の九度山におもむき、父幸村と対面し、正式に、嗣子《しし》たることを承知したのは、それから、ほどなくであった。
幸村は、後日大助から、後藤又兵衛によって、心をあらためさせられたときいて、深く感謝して、いつか、むくいる日のあることを期した。
慶長十九年九月、後藤又兵衛は、豊臣右府秀頼の教書を、奈良から程遠からぬ郡山の僑居《きょうきょ》で受けとって、はじめて、慨然《がいぜん》として身を起した。
しかし、十年間の浪々《ろうろう》生活は、又兵衛に、おのが甲冑刀槍こそ手離させなかったが、諸方に散在させた百余の郎党のために甲冑を支給してやる貯えを失わしめていた。
故太閤殿下の御後嗣《ごこうし》が、徳川家康に対して、天下を分ける挙兵のおん催しにあたって、一方の大将を承って馳せ参じる後藤又兵衛基次ともあろう武将が、佐野源左衛門同様とあっては、旧主黒田家はじめ諸侯へのきこえもはばかる。なんとかして、百余の部下に、甲冑を飾らせて、堂々と入城したいものではある。
そう考えつつ、又兵衛は大阪市中に入った。
いよいよ戦が開かれる、というので、京橋筋をはじめとして、各通りの武具屋という武具屋は、甲冑刀槍を、店頭に飾りたてていた。
価は、平常の幾倍にも騰《のぼ》っていた。
又兵衛は、幕暖簾《まくのれん》をかけた大きな武具屋の前で、足をとめた。
数百と数えられる精粗上下の甲冑が、ずらりと陳列してあった。
又兵衛が、立ち去りがたく、深く溜息をついた時、奥から、のこのこと、店の者が、出て来た。背に瘤を負うた小男は、にこにこし乍ら、
「後藤又兵衛基次様とお見かけつかまつります。具足を幾揃い、御所望でありましょうか?」
と、問うた。
又兵衛は、これが、稀代の忍者猿飛佐助とは、露知らず、
「あいにく、あがなうだけの金子を所持せぬ故――」
と、かぶりをふった。
「代金は、大阪城に凱歌のあがりましたあかつきに、頂戴つかまつります」
「ほう――奇特な店もあるものぞ」
又兵衛は、感服した。
実は、この店は、真田幸村が、大阪城に入らんとして、具足を持たぬのを当惑している浪人たちに、ただで、それを贈るべく、開いていたのである。
三日後――。
後藤又兵衛基次は、鞍鐙華《くらあぶみはな》やかに、連銭葦毛《れんぜんあしげ》の駿馬《しゅんめ》にうち跨《またが》って、具足きらびやかな百余の郎党をしたがえて、威風堂々と、入城して行った。
眺める人々は、十年の漂泊《ひょうはく》を経乍らも、いざ鎌倉ともなれば、たちまちにして、このように見事な供揃《ともぞろい》を示すとは、さすがに、天下一の豪雄よ、と目を瞠《みは》ったことである。
木村重成
慶長十六年三月廿日。豊臣秀頼は、織田|有楽《うらく》、片桐且元、同主膳、大野|修理《しゅり》、木村重成らを供にして、二条城に入って、徳川家康と会見した。
その日の辰の刻。
家康は、庭まで降りて、秀頼を迎えた。秀頼は、慇懃に礼謝《らいしゃ》した。
七十歳の老人は、十九歳の青年をみちびいて、御成《おなり》の間に入り、あらためて挨拶をかわし、さて、四方山《よもやま》の話をはじめた。
次の間には、淀君に対して、秀頼の身の安全をうけ負った加藤肥後守清正と朝野紀伊守|幸長《よしなが》が、端然《たんぜん》と、控えていた。
老人と青年は、いかにも隔意《かくい》なげに、機嫌よく、語りあった。
そのうち、家康は、ふと、気づいたように、
「おひろい殿には――」
と、微笑し乍《なが》ら、秀頼の幼い頃からの称《よ》びかたを親しげに呼んで、
「近頃、大層武芸にご熱心になられた、とうかがい申したが、よほど上達なされたであろうな」
と、云った。
すると、秀頼は、
「自ら習うのではなく、観るのを好んで居り申す」
と、こたえた。
大阪城を出て、船で淀川をのぼっている時、秀頼の前に、忍び護衛を引受けた真田左衛門佐幸村が、現れて、
「おそらく、内府は、話なかばに、なにげない口ぶりで、大阪城に、数多くの武芸者を容れていることを、訊《き》くであろうと存じられます。その時のご返辞を、おあやまり遊ばさぬように、願い上げます」
と、返辞のしかたを、教えたのである。
幸村は、あるひとつの計画を持っていたのである。
「ほう――観る方をな」
家康は、頷《うなず》いた。
秀頼は、幸村に教えられた所望を、ここで、きり出す機会だ、と考えた。
「つい先頃、伊藤一刀斎なる兵法《ひょうほう》者が、城に参った際、未だ曾《かつ》て観ざる異様な剣技を使う、夢想只四郎と申す者を、内府殿には、食客になされた由、語って居り申した。今日は、よい機会なれば、夢想只四郎の腕前を、拝見いたし度う存ずる」
「はて? そのような兵法者を、食客にいたしたかな?」
家康は、とぼけ顔になった。
「この|じい《ヽヽ》も、武芸好きでござれば、日に幾人となく、一流を誇称《こしょう》する兵法者が、髄身《ずいじん》をねがって、押しかけて参るゆえ、一人一人の名も顔も、おぼえて居り申さぬが……」
秀頼は、微笑した。
秀頼は、幸村から、家康が必ずとぼけるに相違ない故、その時は、次のように、申し出れば、承知するであろうと、教えられていた。
「扈従《こしょう》のうちに、木村長門守重成と申す若者を、加えて居り申す。これが、近頃、無刀の業《わざ》を会得《えとく》したと申して居る故、夢想只四郎と立合わせて頂けまいか」
秀頼の乳兄弟にして、秀麗の容姿は古今に冠絶《かんぜつ》し、器量人に超え、文武の造詣《ぞうけい》深く、挙止《きょし》の閑雅《かんが》は、いにしえの大宮人を彷彿《ほうふつ》とさせる――まことに、男子として、すべての美点を備えた木村長門守重成の存在を、誰知らぬ者はなかった。
家康は重成の父木村|常陸介重茲《ひたちのすけしげとし》とは、親しい間柄であった。常陸介重茲は、江州佐々木の一党にして、太閤がまだ筑前守であった時代から仕え、各地の戦いに殊勲をたて、越前において十二万石を領していた。関白秀次の執権《しっけん》となって、その勢力は、石田治部少輔三成に匹敵していたが、秀次が滅亡するや、自らも、摂州《せっしゅう》茨木の大門寺に退いて、自決して果てた。
いわば、常陸介は、豊臣家に対しては、逆臣となっていた。当時、重成は、わずか三歳であった。生母に手をひかれて、本国近江にのがれ、蒲生郡の馬淵に潜匿《せんとく》し、かれらの宗家である先《さき》の江州太守・佐々木義郷の庇護の下に、育った。
やがて、石田三成が、関ヶ原の戦いに敗れて、三条河原で首を刎《は》ねられるや、重成は、生母とともに、大阪城に召出された。
生母は宮内卿と称して、秀頼の保姆《ほぼ》となり、重成は、また秀頼の扈従に挙《あ》げられたのである。
重成は、秀頼と年齢も同年であった。秀頼が、慶長十年に、右大臣に任ぜられるや、重成も、諸大夫に列せられ、長門守に任官する異例の出世をみたのであった。
いまは、十九歳で、三千石を食《お》し、大阪城内で、重臣の地位に在った。
しかし、木村重成が、いかに、器量きわだち、文武の道に秀れていても、一流兵法者ではない。無刀の業を会得するということは、一流兵法者がさらに、神妙の名人の域に達して、はじめて成し得る話である。
上泉伊勢守とか塚原卜伝とか、あるいは柳生石舟斎などの達人にして、はじめて、無手をもって敵に勝つ術を身にそなえ得るのであった。武芸を好み、おのれも並の腕前ではない家康は、当然、秀頼の高言を、肚裡《とり》で、嗤《わら》った。
「木村重成が、無手の業を会得した、と申されるか。おひろい殿には、それを観られたかな?」
「いまだ、観て居り申さぬ故、観とう存ずる」
家康は、ここで、いかにも、思い出したように、膝を打った。
「お! たしかに、一月あまり前、夢想只四郎とか申す武芸者が、柳生|宗矩《むねのり》をたずねて参って、いま猶、逗留して居ると、きいて居る」
「では、明朝にも、立合わせて頂きとう存ずる」
「かしこまった。これは、愉しみじゃ。木村重成が、無刀の業を示すとなれば、城内の女子めらは、目の色をかえようわい。はははは……」
家康は、おもしろそうに、いくども、頷いた。
二条城の女性たちは、秀頼上洛ときいて、秀頼を拝むよりも、重成をかい間視たいと、さわいだのである。
秀頼は、会見をおわると、阿弥陀《あみだ》ヶ峰の豊国大明神へ参詣して、その足で、すぐに、大阪へ還る予定であった。
予定は一日延期され、秀頼は、加藤清正の伏見の館で、一泊することになった。
秀頼を、公然と、おのが館に泊めることのできるのは、全国数百諸侯のうち、ただ一人、加藤清正あるのみであった。
清正は、おのれが生存する限り、家康をして、秀頼に一指もふれさせぬ、という気概を持していた。そして、それを、毅然《きぜん》たる態度にも示していた。
老獪な家康は、その清正を、終始優待することに努めていた。清正の声望と勢力は、曾ての石田三成の比ではなかった。もし清正が、秀頼を擁《よう》して、家康を討たんと、檄《げき》をとばせば、天下は、関ヶ原の合戦の秋《とき》と同様に、二つに分かれるに相違なかった。さらに、清正は、三成とちがって、その生涯を千軍万馬の間にすごした猛将である。天下分け目の戦いともなれば、その大いなる将師の器量を、遺憾なく発揮し、衆に超えた膂力《りょりょく》に、打物執《うちものと》って、万夫の勇を揮《ふる》うに相違なかった。家康とても、おそれざるを得なかった。
清正は、秀頼を、おのが館にともなうと、一人、居室に入って、肌にかくした短剣をぬき出して、しばらく、凝《じっ》と、うち眺めて、また鞘に納めると、俯向いて、ハラハラと落涙した。
――清正、さいわいに、冥加《みょうが》に叶い、故太閤殿下の厚恩を、いささか報ずるを得申した。もし、二条城において、不慮のことあらば、御前の砌《みぎり》は、いずれも無腰なり、清正、咄嗟に、この懐剣を抜きはなって、徳川内府の胸いたを、つらぬかんずと覚悟をして居ったが……。
胸中には、その感慨が湧いていた。
その短剣は、往昔《おうせき》、まだ虎之助と名のっていた清正が、志津ヶ嶽の戦いに、功名をあげて、褒美として、秀吉から賜った品であった。
一方、貴賓の間に入った秀頼は、すぐに、木村重成を、呼び寄せた。
「重成、そちには、無刀の業の会得があるか?」
意外な質問に、重成は、訝《いぶか》しく、眉宇《びう》をひそめた。
「それがしは、剣の道に精進《しょうじん》いたす兵法者ではありませぬ。とても、そのような至極《しごく》の業など、思いもおよびませぬ」
秀頼は、唖然《あぜん》となった。
「真田左衛門佐はそちに、無刀の業の会得があると、内府に明言してもかまわぬ、と申したが……」
これをきいて、こんどは、重成のほうが唖然となった。
「幸村殿が、左様なことを――」
真田幸村ともあろう人物が、なぜ、そんな出鱈目を、秀頼に云わせたのか? 対手《あいて》もあろうに、家康に向ってである。
「重成、わしは、内府に、明朝、そちを、夢想只四郎と申す兵法者と立合わせて、無刀の業を観せると、約束してしもうた。……どうすれば、よいであろう?」
小心な秀頼は、顔色を蒼ざめさせた。
重成は、目を伏せて、しばらく、沈黙をまもっていたが、やがて、擡《もた》げた顔には、微笑を泛《うか》べていた。
「真田幸村殿には、なにか、ふかく決意するところがあるや、と推察されまする。それがしにて、お役に立つことでありますれば、この上の栄誉はございませぬ」
「しかし、そちは、無刀の業を知らぬであろう」
「知らぬそれがしを、会得したごとくみせかけるのが、幸村殿の智謀でありましょう」
「幸村は、何処《いずこ》に居るのであろう?」
秀頼は、幸村が、そこいらの物蔭から出て来ぬものかと、不安の眼眸《まなざし》を、まわした。
幸村は、しかし、ついに、その場へ、姿をあらわさなかった。
重成は、あてがわれた部屋にもどると、自分に幼い頃から仕えてくれている郎党の佐次兵衛という老人に、
「お前は、無刀の術というのをきいたことがあるか?」
と、訊ねてみた。
「名人上手と称される方々は、みだりに、刀をお抜きにならぬことではございませぬか」
佐次兵衛は、ふたつみつ、名人たちの逸話を語った。
上泉伊勢守が、諸国修業の途中、参州のある村に入ると、村人たちが、一軒の民家をとりかこんで、罵《ののし》り騒いでいる。
尋ねてみると、牢を破った咎人《とがにん》が、追いつめられるや、子供を捕らえて人質として、この家に逃げ込んでしまった、という。
伊勢守は、頷いて、その村の寺へおもむき、住職にたのんで、頭髪を剃ってもらい、法衣を借りて、にわか出家になって、ひきかえして来ると、握り飯をふところに入れて、その家の戸口に立った。
咎人は、目を剥《む》き、歯を剥いて、一歩でも入って来たら、子供を刺し殺すぞ、と喚《わめ》いた。
伊勢守は、笑って、
「愚僧は、べつに、お手前を捉《とら》えようという存念は、持ち申さぬ。ただ、おん身が捕らえている小童《こわらべ》が、ひもじかろうと思うて、握り飯を持って来てやったまでじゃ。少しばかり、手をゆるめて、その子に、握り飯を喰べさせてやってもらえないか。出家は、慈悲をもって行いとするが故に、子供が、一昼夜喰べて居らぬ、ときけば、看過《みすご》すわけに参らぬ」
と、云って、握り飯をとり出すと、
「それ――」
と、抛ってやった。
咎人は、子供に与える代りに、おのれが、ひっ掴んだ。
その隙をのがさず、伊勢守は、ひと跳びに躍りかかって、白刃を奪って、組み敷いてしまった。
塚原卜伝にも、刀を用いずに勝った逸話がある。
江州|矢走《やばせ》の渡しを渡ることがあって、乗合六七人と一緒になった。その中に、いかにも兵法自慢らしい逞しい武士がいて、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に、おのれを天下無敵であるがごとく高言して、はばからなかった。
卜伝は、わざと、居ねむりをしているふりをしていたが、そのうちに、その武士から、声をかけられてしまった。
卜伝は、問われるままに、
「われらも、若年より兵法の稽古をいたしたが、いままで人に勝とうなどと思ったことは一度もなく、ただ、人に負けぬように工夫したばかりでござる」
と、こたえた。
「人に負けぬように工夫した兵法とは、何流か?」
対手は、傲然《ごうぜん》として、訊ねた。
「べつに、何流とも、称して居り申さぬが、しいて申せば、無手勝流でござろうか」
「無手にて勝つといわれるか。されば、その腰に帯びた二刀は、何の為ぞ?」
「以心伝の二刀は、敵を斬るためには佩《お》びず、我慢の鋒を斬り、悪念の兆《きざ》しを断つ為のもの――」
「よろしい。では、拙者が、はたして、無手で、負けぬかどうか、試して進ぜるぞ」
対手は、卜伝を、睥睨《へいげい》した。
「やむを得ざる仕儀と存ずる」
卜伝は、穏かに承知した。
対手は、つと立ち上がると、
「船頭、船を急いで、岸へ着けい!」
と、怒鳴った。
卜伝は、船頭に目くばせしておいて、
「渡し場で勝負すれば、見物人が群がるに相違ござらぬ。あの辛崎《からさき》のむこうの、離れ島ならば、邪魔が入り申さぬ故、とくと無手勝流をご覧に入れ申そう。乗合の衆、いずれもお急ぎの旅にて、さだめしご迷惑の儀と存ずるが、あれまで、船をまわさせ申す。話の種にご見物されたい」
と、申入れた。
船が、その離れ島に着くやいなや、兵法者は、待ちきれずに、三尺数寸の太刀を抜きはなって、岸に跳び上がり、
「お主の真っ向、両断いたすぞ! 上がって参れい!」
と、吼えた。
卜伝は、微笑して、
「無手勝流は、まず心気を整えるものに候」
と云って、袴のももだちを高くからげ、腰の両刀を抜いて、船頭に預け、かわりに、水竿《みざお》を借り受けて、舳先《へさき》に立った。
「いざ!」
対手は、岸辺で、大上段にふりかぶり、上陸して来る卜伝に、構えるいとまを与えずに、斬り伏せる身構えをとった。
とたんに、卜伝は、水竿で、岸を突いて、さっと、船を沖へすべり出させてしまった。
「おのれ、逃げるか、卑怯者!」
対手は、面《おもて》を朱にして、喚いた。
卜伝は、高く笑って、
「これが、無手にて勝つわが流儀。おわかりであろうか。くやしくば、泳いで、参られい。一則《いっそく》授けて、引導を渡して進ぜよう」
と、あびせた。
当代の名人の中にも、無刀の術を会得している兵法者は、幾人かいる。
富田《とだ》越後守重正も、その一人である。
前田利家が、ある時、越後にむかって、
「そのほうが家の芸に、無刀取という秘術がある、ときく。これを、奪《と》ってみよ」
と、佩刀を鞘走《さやばし》らせて、鼻さきへつきつけた。
越後は、かしこまって、
「無刀取は、秘術でありますれば、他見を憚ります。御襖の蔭より、こなたを窺う者があります故、お叱りを願い度く存じます」
と、云った。
利家は、思わず、うしろを見やった。
その隙に、越後は、両手で切っ先をぴたりとはさむや、すっと、利家の手から、佩刀を奪い取ってしまった。
「無刀取とは、すなわち、これでござる」
そう云われて、利家は、でかした、と感服した。
これら名人の逸話は、しかし、重成の心を安らがせなかった。名人たちは、臨機応変の処置をとったにすぎない。まことの無刀の秘術を示したわけではなかった。
明朝は、徳川家康と豊臣秀頼と、老若二人の天下人の前で、催される試合である。
ごまかしのきくわけもない。対手の夢想只四郎は、家康が目がねに叶うた兵法者である。柳生但馬守|宗矩《むねのり》にも劣らぬ使い手に相違ない。
重成は、秀頼を安堵させるために、自分が無刀の術を会得したごとくみせかけるのが、真田幸村の智謀であろう、と云ったものの、次第に、不安は、つのるばかりであった。
幸村が、忽然として、姿を出現させたのは、重成が、寝に就こうとした時であった。
音もなく、襖を開いて入って来た幸村は、常にかわらぬ寛闊《かんかつ》な態度で、
「明朝の試合の儀、ご苦労に存ずる」
と云った。
重成は、いささか、むっとした面持になり、
「それがしには、無刀の術の会得などござらぬ」
と、云った。
「もとより、それがあたりまえのこと――」
「では、なぜ、このような途方もない嘘を、わが君の口から内府におきかせなされた?」
「夢想只四郎を討ち果たすためでござるよ」
幸村は、微笑し乍ら、こたえた。
「無刀の秘奥《ひおう》を心得ぬそれがしが、どうして、それが、使えるのであろう?」
幸村は、すぐには、それにこたえず、
「まず、夢想只四郎を討ち果たさねばならぬ理由を、おきかせいたそう」
と云って、座に就いた。
幸村が、夢想只四郎の野猿剣《やえんけん》を知ったのは、つい二年ばかり前であった。
夢想只四郎が、家康の食客となるまで、その名も、そのおそるべき野猿剣も、兵法者の間に、全く知られてはいなかった。おそらく、いまも、それを知る者は、ごく限られているに相違ない。
幸村が、渠《かれ》の存在を知ったのは、ひとつの目的をもって、猿飛佐助を、甲州へ遣《つかわ》したためであった。
その目的というのは、武田信玄が隠匿《いんとく》した莫大な軍用金を、尋ねることであった。
覇権というものは、礦脈《こうみゃく》を趁《お》うて、移る、といわれる。日本の戦国時代においても、そのようであった。当時、甲州には、黒川山、芳山、黒柱《つづら》山、栃代《とちよ》山、金山嶺、五座石などの諸金山があった。特に、黒川山は、日本一の豊富を誇っていた。武田信玄は、これらの金山から採った金で、いわゆる太鼓判を作った。目方一匁より十匁に至り、円形で、表面に桐の紋と、周囲に七の星を刻したこの太鼓判は、その純度において、最高の価値をもった。信玄が、しばしば、大軍を四境の外に出して、なお、いささかも困弊しなかったのは、この大判小判を、ざくざくと作っていたためである。
武田信玄がひとたび手に入れたる国民は、二度|反《そむ》きたる例なし、とは故書が記すところ。実は、信玄が、大金持で、惜し気もなく、山吹色を、領民に、撒《ま》いてやったためであろう。
信玄が、軍用金として、どれだけ莫大な金貨を、隠匿していたか、想像もつかぬ。
信玄は、元亀、天正の戦国時代を通じての、悪人帳の筆頭である。父信虎を追放し、わが子義信を殺し、妻の父諏訪頼茂を討ち、婿である北条氏政の国に攻め入り、甥である今川|氏真《うじざね》の領土を奪っている。
このような悪党が、隠匿している軍用金を、ことごとく、わが子勝頼に、引きわたしておいて、死ぬわけがない。
信玄は、病死したのではなかった。忍者によって、暗殺されたのである。軍用金の隠匿場所を、勝頼に遺言する時間もなかったであろう。たとえあっても、沈黙をまもって、瞑目したのではないか。
織田信長も秀吉も家康も、そのことを考えない筈はなかった。武田家が滅亡したのち、主命によって、何百人の忍び者が、それを、捜しもとめたことであったろう。
ついに、その場所をあばくことは、できずに、今日に至った。
幸村は、その明敏な智能を働かせて、独特の調査をつづけた挙句《あげく》、必ず、いまもなお、金守《かねもり》がいるに相違ない、とさとった。
そして、さらに、苦心のすえ、その金守は、武田家譜代の侍大将今井弥四郎である、と突きとめたのであった。
今井弥四郎が、すべての重臣をさしおいて、武田信玄の絶大な信頼を受けたのは、理由があった。
天文年間のことである。
武田信虎家中に、凄惨《せいさん》な刃傷《にんじょう》沙汰が起った。
ともに重臣の列に加わる石原|刑部《ぎょうぶ》と今井市之丞のあいだに、それは、起った。
石原刑部は、すこぶる佞奸《ねいかん》に策士《さくし》であったが、信虎から非常な贔屓《ひいき》を蒙っていた。今井市之丞は、刑部と対蹠的《たいせきてき》に、狷介不羈《けんかいふき》で、正直一途な武士であった。
刑部は、市之丞を軽蔑していたし、市之丞は、刑部を、虫けらと考えていたので、殿中で顔を合せると、終始白い目を剥き合せていた。
ある夏を迎えて、その日は、おそろしく、蒸した。盆の底のような甲府の城内には、涼しい微風など、ひとそよぎもなかった。
どんな日であろうとも、第一番に登城しないと気分のわるい今井市之丞は、その日も、定刻より半刻も早く詰所に坐っていたが、夜明けの馬責めのために、いつになく、不覚の睡気を催して、つい、こくりこくりと、船を漕ぎはじめた。
そこへ、偶然、石原刑部が入って来て、この様を目撃するや、にやりとして、出て行った。
すぐに、もどって来た刑部の肩には、いっぴきの小猿が、のせられていた。信虎が寵愛している「小源太《こげんた》」であった。
刑部は、おのれの脇差を抜いて、小源太に持たせると、あの居睡りをしている男を、こうして撃て、と手真似で、教えた。
賢い猿であったが、畜生の悲しさに、事の善悪をわきまえる筈もなく、脇差をつかんで、ちょこちょこと、走り寄るや、いきなり、市之丞の腕へ、斬りつけた。
目をさました市之丞は、白い歯を剥《む》いて、白刃をふりかざした小猿を視、そして、おのが手首にしたたる血汐を視た。
「こやつ!」
正直一途で、極端に短気な人物であった。
かっとなるや、この小猿が主君の愛玩物《あいがんぶつ》であるのも忘れて、いきなり、かたえの差料《さしりょう》を抜きはなつがはやいか、一颯《いっさつ》のもとに、その首を刎《は》ねとばしてしまった。
そこへ、どやどやと入って来た同僚たちが、仰天した。
「市之丞が、小源多を斬り居ったぞ!」
その叫びで、殿中は、騒然となった。鎌田織部、安田三左衛門ら老人株も、急いで入ってきて、仔細を糾《ただ》した。
市之丞は、不快げに、
「畜生のぶんざいで、武士にむかって、刃向って来たからには、斬りすてるよりほかに、すべはござるまいが!」
と、こたえた。
刑部は、よもや、市之丞が、小猿を討ってしまうとは思っていなかったので、自分の悪戯《いたずら》をかくさねばならぬ、と狼狽《ろうばい》して、急いで、信虎の許にかけつけ、言葉巧みに、市之丞の短気な振舞いを告げた。
信虎は、思慮の足らぬ、単純な武将であった。たちまち烈火のごとく憤って、市之丞に、弁疏《べんそ》の座も与えずに、幽閉を命じ、明日と云わず斬罪にせよ、と重臣へ厳達した。
急報を受けて、武田家の家宝と称される首席家老の板垣駿河が、馬をとばして、登城して来て、たかが小猿いっぴきのことで、忠節無比の勇士を殺すとは何事であろうか、武田の損失のみならず、世間へのきこえもはばかり、敵がたに、大国の領主としては、あまりにも軽浮ではないか、と器量まではかられては一大事である、と諌《いさ》めた。
信虎も、やむなく、死罪一等だけを許して、いずれそのうち、追放の処分をするということで、一時、肚《はら》をおさめた。
刑部は、板垣駿河が乗り出して来たからには、市之丞はたとえ追放されても、やがて、帰参が許されるに相違ない、と考えた。市之丞は、必ず自分の悪戯であったことを、知るであろう。
市之丞を、生かしておいてはならぬ。
刑部は、其夜、家老甘利備前邸の質子《ちし》構えの中にある座敷牢を、ひそかに、おとずれた。
「お主《ぬし》とは、平常犬猿の間柄であったが、お主が斯様に惨めな身になると、かえって、親友以上に、それがしの心中が痛み申す。……わが君の憤りも、日が経てばうすれるもの、と存じて居ったが、かえって、増す気配があり、近く新刀をとりよせて、その試しに、成敗してくれる、などと申されて居る。武士たる者、その恥辱には堪えられまい、と存じ、お主自身で、処分を付けるのが、一番のように思われるが、いかがであろう?」
と、それとなく、自害をすすめた。
市之丞は、太格子の中から、じっと、刑部を瞶《みつ》めていたが、
「御忠告、万々忝けない。死ぬことは、許より覚悟をいたして居り申すが、身に寸鉄も帯び申さぬ故、作法いたしかねる。舌を噛んだり、頭蓋を格子にぶちつけて割るような見苦しい真似も、いたしかねる」
と、こたえた。
刑部は、これをきいて内心、――しめたと思った。
「待たれい。それならば、いたし様がござる」
すぐに、刑部は、信虎の許に行き、
「板垣駿河殿は、市之丞に、必ず、もとの席に戻す、と約束いたして居る模様であります。もし、そうなれば、殿の御威光にもかかわる仕儀と存じられますので、市之丞を乱心せしめては、いかがでございましょう?」
と、すすめた。
「刀を渡して、あばれさせるのでございます。短気者ゆえ、逆上させるすべは、いくらもありまする。そこを、討ちとれば、駿河殿も、やむなき処置と、納得されるでありましょう」
信虎は、刑部の狡智《こうち》をゆるした。
刑部は、その座敷牢へ、ひきかえして来ると、
「見事に、士《もののふ》の手本を示されい」
と云って、白鞘の短剣を、太格子から、さし入れた。
刹那――。市之丞は、それを掴みとるがはやいか、
「下郎《げもの》めっ!」
呶号《どごう》とともに、刑部の胸いためがけて、突き出した。
市之丞は、疾《と》くに刑部のこんたんを、看破《かんぱ》していたのである。小猿に脇差を持たせて斬りかからせたのも、信虎を憤怒させたのも、みな、刑部の仕業であると、さとっていた。
市之丞は、昨夜のうちに、家臣の今井権蔵に手紙を遣って、こまごまと事の次第をしたため、おのれの死後のことを、頼んでおいたのである。
刑部は、計った、と北叟《ほくそ》笑んでいて、かえって、計られたのであった。実は、市之丞は、この一刀が欲しかったのである。
しかし、無念にも、距離がありすぎて、深手を負わせたが、その場で仕止めることは叶わなかった。
血まみれになり乍ら、遁《のが》れ去る刑部を見送って、市之丞は、もはやこれまでと、衂《ちぬら》れた短剣を逆手に持ち、腹を一文字に掻きさばいて、見事な自尽《じじん》を遂げた。
武田家に、父子|確執《かくしつ》が起ったのは、その翌年春であった。
武田信虎は、かねて、おのれと性格が同質であるために忌《い》みきらっていた長子晴信(信玄)を、今川義元に預け、偏愛している次子信繁に、家督を継がせようとした。この謀《くわだ》てを事前に察知した晴信は、自立の決意を、今川義元にはかるとともに、老臣らを、懐柔《かいじゅう》してしまった。そして、信虎を、誑《たばか》って、駿河に送ってしまい、晴信は、首尾よく、武田家の当主となり了せた。
信虎が、今川義元に繋留《けいりゅう》された時、扈従《こしょう》して行った石原刑部は、たちまち変節して、巧みな佞弁《ねいべん》をふるって、義元にとり入って、今川家へ随身してしまった。
その頃、今井市之丞の家臣今井権蔵は、主人のわすれがたみの、十一になる長男弥四郎と七歳になる女《むすめ》をつれて、参州の知辺《しるべ》に身を寄せていた。
刑部が、今川家に仕えたと、きいた権蔵は、晴信幕下の軍師山本勘助晴幸に、二児を送りとどけて、養育を依頼しておいて、単身、駿河におもむいて、刑部を討たんと、狙った。
不運にして、権蔵は、逆に捕らえられて、二児の行方を白状せよと、むごたらしい拷問《ごうもん》を受けた。もとより、口を割る権蔵ではなく、ついに、刑部に斬り殺された。
それから、十余年の星霜《せいそう》が流れた。
武田晴信は、川中島で、上杉景虎と、勝敗のつかぬ戦いをくりかえしていた。
それを横目で眺め乍ら、ひそかに、上洛を企てている者があった。口に|おはぐろ《ヽヽヽヽ》をつけた公家の衆面の、足の短い、胴長の片端者――今川義元であった。
いよいよ、その日を決定して、駿、遠、参の領邑の将士に、触《ふれ》を出した――恰度《ちょうど》、その頃。
石原刑部は、主命をおびて、隠密裡《おんみつり》に、府中(今の静岡)を出て、尾張へ向っていた。十名ばかり、いずれも、一流の腕前を持つ士をえらんで、つれていった。
刑部は、今川義元に滅ぼされた鳴海城の山口左馬助の旧臣といつわって、織田信長に会い、得意の佞弁をふるって、騙《だま》して、清洲城からおびき出す任務をうけたまわったのである。
これに成功すれば、刑部は、重臣の列に坐すことができるのであった。
その野心は大きくふくれあがり、信長を騙す、まんまんたる自信に満ちていた。
左方の浜辺に苅谷の城をのぞむ池鯉鮒《ちりふ》に至り、狭奈岐《きょうなぎ》大明神の社に、義元から預けられた戦勝の願文を奉納しておいて、松林の中を通り抜けようとした折であった。
突如、影のように音もなく、その行手に出現した者があった。
ぼうぼうたる蓬髪《ほうはつ》、のび放題の髯、よごれはてた弊衣《へいい》。しかも、素跣《すはだし》であった。乞食としか見えなかった。
ところが、背中に、同じ長さの刀を二本、負うて、左右の肩から、朱塗りの柄《つか》をのぞかせていた。
黒く、異様に光る眸子《ひとみ》を、先頭に立つ刑部へ据えて、
「石原刑部殿とお見受け致す」
と、云い放った。
従うものの一人が、刑部の前へ出て、人ちがいであろう、とごまかそうとすると、牢人者は、
「不倶戴天《ふぐたいてん》の敵《かたき》を、見まちがえる筈もない。刑部! 今井市之丞の一子弥四郎が、十余年の修業を積んで、いま、父の恨みをはらすぞ!」
と、云いはなった。
あっとなる刑部をかばって、十士は、一斉《いっせい》に、刀を抜きつれるや、前進して来た。
今井弥四郎は、平然として、敵がたの動くにまかせて、佇立《ちょりつ》したなりであった。
敵がたが、一間の近くまで迫った時、弥四郎は、にやりとすごい微笑を泛べると、
「行くぞ!」
と、宣告しておいて、おもむろに、双手を、左右の肩からのぞいた朱鞘《しゅざや》へ、かけた。
次の瞬間――。
弥四郎の姿は、一陣の旋風《つむじ》で飛ぶがごとく、奔《はし》った。
氷上を滑走するような凄まじい迅さは、敵がたが刀を振りかぶるいとまさえも与えなかった。
生き残った者の記憶によれば――。
弥四郎の正面に立っていた者が、朽木のように、のけぞって倒れたが、のけぞった刹那には、弥四郎の速影《はやかげ》は、その傾斜したからだを、駆け上がっていた、という。
そうやって、三人までが、弥四郎の土足で、腹、胸、顔を踏まれて、倒れた。
後尾に立っていた刑部は、卑怯な悲鳴を発して、踵《きびす》をまわすや、逃げ出そうとした。
弥四郎は、追いつきざま、飛鳥のごとく、その背中を駆け上がって、脳天を踏み台にして、ぱっと、一間むこうへ跳び越えた。
そして、くるっと、むきなおりざま、
「おぼえたか!」
一喝とともに、双手の二刀を、漏斗《じょうご》状の白光《びゃっこう》に描いて、刑部の頸根へ、あびせた。
仇討を終えた今井弥四郎は、養父山本勘助の許へ、十年ぶりに帰り、亡き父と同じ禄を、信玄から賜った。
武田の軍勢が襲うところ、必ず、その先陣をうけたまわって、野猿のごとき迅さで、疾駆して、たちまち、敵の大将に肉薄し、その首を刎ねる|つわもの《ヽヽヽヽ》が出現したのは、それから間もなくであった。
戦場往来の武勇の士と雖も、ひとたび、その野猿|宛然《さながら》の速影に立ちむかうや、おのがふるう槍や刀の、あまりの、のろさに絶望しなければならなかった。
あっという間に、おのれの甲冑《かっちゅう》を、土足で駆け上られ、躍りこえられてしまっていた。
野猿人が、狙うのは、大将首ひとつであり、その他の敵は、たとえ名のある勇士であっても、目もくれなかった。ただ、行手をはばまれるや、迅駆《はやが》けに、のぼり越えただけであった。
今井弥四郎は、小猿いっぴきのために生命を落した父の無念を思い、おのれ自身が、野猿の敏捷《びんしょう》を身に備える修行をしたのであった。
元亀三年十月、武田勢は、雪崩《なだれ》のごとく遠州を侵し、三方原で、徳川家康の兵一万を、敗走せしめたが、その戦いにおける弥四郎の奮闘ぶりは、まさに、鬼神といえた。
信玄が、弥四郎を、わが子勝頼よりも、信頼して、その莫大な軍用金の隠匿場所を教えて、金守に任じたのは、その直後のことであったと思われる。
武田が滅んで、すでに、二十六年が過ぎている。
今井弥四郎も、もはや、この世には在るまいが、しかし、いまなお、地下にねむっている莫大な軍用金を守る役目を、弥四郎から、受け継いでいる者が在るに相違ないのであった。
幸村は、それを確信して、猿飛佐助を、甲州へ遣したのであった。
佐助は、二十日ばかり過ぎてから、ひょっこり、九度山の館へ帰って来て、幸村の確信がまちがいなかったと報告した。
「夢想只四郎と申す兵法者が、釜無《かまなし》川の東岸に、庵をつくって、住んで居りましたが、これが、今井弥四郎の甥――その妹の伜でありました。したが、こやつ、大変な兵法達者で、この佐助の手で、生捕ることなど、およびもつきませぬ」
釜無川の東岸に沿うて二十五町の堤防がある。いわゆる信玄堤である。馬|蹈《ふみ》三間乃至六間、敷九間乃至十二間、根がための竹木は、鬱葱《うっそう》として、昼も暗い。
この信玄堤において、佐助と只四郎は、決闘して、ついに、はてしがなく、佐助の方で、あきらめて、ひきさがって来たのである。
只四郎は、佐助を一瞥《いちべつ》で忍者と看破し、
「忍法は、夜陰に乗じて、寝首をかく技を得意とするのであろう。白昼、訪れて、兵法試合を挑むとは、笑止。陽が落ちてから、出直せ」
と、対手にしなかった。
佐助は、やむなく、
「忍法は、使い申さぬ」
と、こたえた。
こたえてから、
――大丈夫かな?
と、うそ寒い不安を、おぼえたものだった。
只四郎は老いぼれ犬のような灰色の瞳に、冷たい光を泛べて、じっと佐助を瞶《みつ》めていたが、
「どこかで、出会うたな」
と、呟いた。
「いいや、いまが、はじめてでござる」
「たしかに出会うている」
もし、佐助が、自分は武田勝頼の遺児である、と名のったならば、只四郎は、その貌に、勝頼の俤《おもかげ》を観たためだ、と合点したに相違ない。
考えてみれば、武田家正統の血を継いだ佐助こそ、信玄が遺した軍用金の唯一の相続者であった。あいにく、そんな気持が、佐助の胸中には、毛頭みじんも起っていなかっただけのことである。
只四郎は、差料を把《と》って、立ち上ると、
「生命を粗末にするには、理由があろうが、きくまい」
と、云って、外へ促《うなが》した。
どうやら、佐助の目的を読みとったようであった。
佐助は、陰鬱な、妖気ともいえる孤独の雰囲気をただよわせたこの兵法者が、おとずれて来た挑戦者を、片はしから殪《たお》しているのを知っていた。
庵の裏手の空地には、二十数基の土饅頭がならんでいたのである。只四郎が、葬ってやったに相違ない。渠《かれ》らの大半は、佐助と同じ目的を抱いていたと、察せられる。
信玄堤で、二間の距離を置いて対峙《たいじ》した時、只四郎は、なんとはない冷たい微笑を口辺に刷《は》くと、
「忍者になったのはまちがっていたようだな、お主――」
と、云った。
「なぜでござるな?」
「兔のような、優しい眸《め》をもって居る。人殺しなど出来ぬ気象であろう」
「余計なことを申されるな!」
佐助は憤然《ふんぜん》たる様子を示したつもりであったが、只四郎の目には、かえって、ひどく愛嬌のあるものに映ったにすぎない。
「斬るのは、ふびんだが、こんたんが許せぬ。……参ろう」
そう云った瞬間、只四郎の五体から、かげろうのように、妖しい殺気が、めらめらと燃え立った。なにやら怨霊《おんりょう》でもせおったような、附憑妄想《ふひょうもうそう》者めいた不気味な姿であった。
佐助は、思わず、ぶるっと、身|顫《ぶる》いした。
隠身遁景《おんしんとんけい》の表裏十法をすてて、一剣を青眼《せいがん》に構えるのは、生まれてはじめてのこころみであり、不安であると同時に、なにやら、面映《おもは》ゆかった。
只四郎は、その構えを、鋭く凝視《ぎょうし》したが、
「ぶざまぞ!」
と、あびせた。
――なにを!
はじめて、佐助は、腹が立った。
瞬間――只四郎は、一匹の餓狼《がろう》と化して、氷上を疾駆《しっく》するごとく、襲って来た。
佐助は、身を躱《かわ》すいとまもなく、閃《ひらめ》いてきた白刃を、払った。
同時に、胸を、顔を、土足にかけられた。
気づいた時には、自分は同じ地点で、青眼に構えていたし、対手は、やはり二間のむこうに立っていた。ただ、方角が逆になっていただけである。
佐助の顔は、泥だらけであった。只四郎の蹠《あしのうら》で、ぞんぶんに踏みつけられたのである。
べっべっと、唾をはきすてた佐助は、一種の戸惑いの表情で、敵を眺《なが》めた。
――なんという迅さか!
疾駆する術にかけては、無類の自信がある佐助も、とうてい敵わぬ、と思った。
只四郎の方はまた、
「おれの野猿剣をひっぱずしたのは、お主が、はじめてだ」
と、云って、にやりとした。
ふたたび。
只四郎は、風のごとく地上を滑走して来た。佐助は、その一撃を払うとともに、また、顔を踏み過ぎられた。
唾を吐きすて乍ら、佐助は、
――これは、やりきれぬ。
と、当惑した。
忍法を用いられぬ佐助は、自分から攻撃することができなかった。
闘いをつづければ、顔を踏みつけられる数が増すばかりである。それを、べつに屈辱とは思わぬが、愉快なことではなかった。
三度び、唾を吐かせられた佐助は、とうとう、云った。
「貴公に勝つには、工夫して、出直さねばなり申さぬ」
これをきくや、只四郎は、
「二度と、姿をみせるな」
と、云いすてて、さっさと、堤を降りて行ってしまった。
戻って来た佐助は、幸村に、只四郎を生捕る工夫をつかまつる、と云った。
幸村は、笑って、
「まあ、よい。そのような異常者なら、たとえ生捕っても、口を割るまい。そのうちに、わしが、思案しよう」
と、いったん、うちすてておくことにしたのであった。
ところが、最近になって、夢想只四郎が、上洛して来て、柳生但馬守宗矩の推挙によって、家康に、その野猿剣を披露し、食客となった、と佐助から報告を受けた幸村は、
――これは、容易ならぬ!
と、大きな不安を、おぼえた。
もし、只四郎が、莫大な軍用金を土産にして、徳川麾下に加わったら、一大事である。
軍用金を、豊臣家に取るのぞみをすてても、徳川方へ渡してはならなかった。
夢想只四郎を、この世から葬《ほうむ》らねばならぬ。
幸村は、秀頼上洛の機会を利用して、それを決行することにしたのである。
翌朝――辰上刻。
二条城の奥庭、方二十間に、葵《あおい》の紋入りの幔幕《まんまく》が張りめぐらされて、試合場が設けられた。
白砂は、美しく、みごとに、亀甲形《きっこうがた》の箒目《ほうきめ》が、つけられていた。
上座には、家康と秀頼が、並んだ。秀頼のわきに加藤清正、家康のわきに浅野幸長が座を占め、後方に、本田正純、土井利勝ら、上洛中の三河譜代の諸将が列座した。
上座の前の庭上には、審判役として、柳生但馬守宗矩が、床几に腰かけた。
しわぶきひとつたたぬ静寂をやぶって、辰刻を告げる太鼓の音が、ひびいた。
その音のおわらぬうちに、東方の幔幕を割って、木村重成の優雅な姿が、出現した。無腰で、右手に白い扇子を一本、握っているだけであった。
ななめにさした朝陽をあびた白面は、一片の曇りもなく、さわやかに、冴えていた。
幔幕の前で、上座にむかって一礼しておいて、目を伏せたまま、真中の砂波を踏んで、しずしずと中央に進み出た。
昨夜、重成は、幸村から教えられていた。
「白砂の庭の、ちょうど中央に、黒い小石が置いてあり申す。お見落しなきよう、その上に、立たれるがよい」と。
重成が、そこに立った時、西方の幔幕がゆれて、夢想只四郎が、異様の風体をあらわした。
鼠の木綿の小袖を着流して、腰には差料を帯びず、同じ長さの剣を、交差させて、負うていた。蓬髪《ほうはつ》、長髯《ちょうぜん》。そして、素跣《すあし》であった。
氷上を滑走するがごとく奔るためにきたえた足には、履物は邪魔なのであろう。
二間の距離を置いて、ぴたりと、重成に正対した只四郎は、冷たい薄ら笑いを、口辺に刷いて、
「無刀の術を、披露されるとか――」
「いかにもご覧に入れ申す」
重成は、射るような敵の眼光を、すんだ眸子《ひとみ》に受けとめて、頷いてみせた。
「されば、居合の早抜きは、無用でござろう。二刀を、一時に払って頂きとう存ずる」
そう云いはなって、両肩からのぞかせた朱柄に、双手をかけると、ゆっくりと、抜きはなった。
そして、その双腕を、横へさしのべ、柄さきを前へ、切っ先を後方へ置く、異様な構えを示した。
重成は、その動きを視乍《みながら》、眉宇も動かさず、扇子を下げたままであった。
家康はじめ、何人《なにびと》の目にも、重成の姿の中に、神技がひそめられているとは、映らなかった。
柳生宗矩自身が、
――は?
と訝《いぶか》っていた。
剣聖と称される程の達人ならば、真剣の立合いにおいては、わざと闘志をかくし、剣気をみじんも現さぬことは、考えられる。
木村重成は、兵法者ではない。当然、いまの場合、おそるべき魔技を備えた敵に対して、必死の構えをとるべきであろう。
ただ、刀をすてて、白扇一本を持っただけで、平常通りの、静かな佇立《ちょりつ》の姿勢を、いささかも、変えようとしないのは、いったい、どうしたわけか。
案山子《かかし》と、全くかわらぬではないか。
――判らぬ。
宗矩は胸中で、唸った。
重成は、むざと、斬られる覚悟など、あるべくもないのだ。しかもなお、案山子同然に立っているのは、絶対に斬られぬ自信があるからに相違ない。
その自信を生んでいるものは、何か?
宗矩には、見当もつかないのが、苛立たしかった。
対峙している只四郎は、勿論、重成の静止相に、烈しい不審をおぼえたに相違ない。しかし、冷静な観察者とはちがって、闘う当の対手である。烈しい不審をおぼえつつも、遅疑逡巡《ちぎしゅんじゅん》することは、かえって、敵の秘めた術中に陥ることになるのであり、いまは、猛然と仕掛けるよりほかに、すべはなかった。
「参る!」
その一声とともに、只四郎の五体が、滑り出た。
風に似たその速影は、重成の前――半間まで走って、なぜか、ぴたっと、停止した。
宛然《えんぜん》、不動縛りの呪文をかけられたごとく、只四郎は、それなり、数秒間、動かなかった。
見入る人々は、なにがなにやら、わからなかった。なかには、木村重成が妖術使いではないか、と疑った者もあった。
柳生宗矩だけは、白砂を踏みつけた只四郎の双の素跣のまわりに、血が滲み湧くのをみとめて、
――おお!
と、声なく、唸った。
種を明かせば――。
重成は、只四郎が、襲撃を起した刹那、右足の下に踏んでいた黒い小石を、ぐい、と押したのである。
すると、只四郎の奔《はし》ってくる線上の、砂中にかくしてあった数十本の白刃が、すっと、切っ先を、砂上へ突き出したのである。
只四郎は、双の蹠《あしのうら》ともに、その切っ先で刺しつらぬかれたのであった。
一瞬――。
只四郎は、野獣が咆哮《ほうこう》するにも似た叫びを発するや、ひょーっ、と空中へ、まっすぐに飛び上った。
飛び上りざま、双手に掴んだ二剣を、刀風鋭く、一颯《いっさつ》させて、おのが、両足を、すぱっと両断したのであった。
只四郎は、砂中にかくされていた白刃の切っ先には、猛毒が塗られていることを、さとって、おのが生命をとりとめるために、やむなく、その凄絶無比の手段をとったのであった。
しかし、只四郎は、高熱を発して、二日後に、逝《い》った。
武田信玄の軍用金は、ついに永久に、土中にねむりつづけたのであった。
真田十勇士
慶長十九年秋、勢いのおもむくところ、少数の識者の手で止めることなど及びもよらず、大阪城は、徳川家康に対して、一戦をいどむことになった。
豊臣秀頼の密書は、忍者によって、諸国八方へ――太閤旧恩の大名、関ヶ原役の残党、さては、天下に対する不平|牢人《ろうにん》らのもとへ、もたらされた。
そのかさなる人々を、かぞえれば、
真田左衛門佐幸村
長曾我部宮内少輔盛親
仙石|豊前《ぶぜん》守
明石|掃部《かもん》
毛利豊前守勝永
織田左門頼長
京極|備前《びぜん》
石川|玄蕃《げんぱ》
石川肥後
後藤又兵衛
山川|帯刀《たてわき》
北川次郎兵衛
三宿《みしゅく》越前
塙《ばん》団右衛門
新宮左馬
真田左衛門佐に与えた秀頼の密書には、「五十万石を与え申し候」としたためてあった。
幸村は、一読して、微笑した。
「内府(家康)ならば、十万石と申出るであろう」
そう呟いた。
五十万石、とは勝算なき戦いをする者の、空手形である。空手形ならば、百万石でも、二百万石でも、約束できる。
はたして――。
それから、十日も過ぎぬうちに、紀伊の国守浅野|但馬守長晟《たじまのかみながあきら》の忍び訪問を受けた。
「将軍家におかせられては、其許《そこもと》に、茨木一国を与えようと仰せられて居り申す」
という口上であった。
茨木は、さきに、大阪城を立退いた片桐|市正《いちのかみ》且元が城主である。本地五万二千石であった。
家康は、幸村が、想像したよりも半分すくない領土を与えようと約束したのである。まさに、これは、空手形ではなかった。
幸村は、俯向いて、小声で、
「五十万石を呉れる、とでも仰せられるならば……」
と、返答した。
家康は、長晟から、この報告を受けるや、
「父子二代の片意地で、生命をすてる所存か。やむを得ないの」
と、独語するように云った。
家康は、十余年前の、関ヶ原の際、真田昌幸、幸村父子が、大戦へ参加すべく西下する徳川秀忠の軍勢三万八千余を、わずか二千余の小勢をもって、上田城にひきつけ、十日間も身動きさせなかったことを、思い出していたのである。秀忠は、そのために、関ヶ原の攻防戦に間に合わず、家康から叱咤《しった》されたものであった。
幸村は、それから数日後、猿飛佐助一人をつれて、山伏姿で、高野山麓北谷の九度山《くどさん》を出た。
紀見峠をこえて、河内路へ降りた時、白木の杖を曳《ひ》いた一人の老人と、すれちがった。
「あいや――」
呼びとめられて、幸村は、振りかえった。
古希も過ぎたとおぼしい白髯《はくぜん》の老人は、じっと、幸村の貌《かお》を、見据えていたが、
「腰に帯びた剣の相を、五宮《ごきゅう》ことごとく、おのが面ていに映《うつ》されるとは――」
と、云った。
刀には、人相と同じ、相がある。刀身を切っ先から、散《さん》・寿《じゅ》・福・運・命の五つにわけて、観《み》るのである。これを五宮という。
幸村は、黙って、すらりと抜きはなつと、老人に手渡した。
老人は、折りから雲を割って来た夕日の箭《や》に、刀をあてて、凝視《ぎょうし》していたが、
「五宮ともに大凶。浮かんで居る月も星も疵《きず》も、すべて、戦死の相を示して居る」
そう云いはなつや、白木の杖で、発止《はっし》と打った。
幸村の無銘刀は、二つに折れて、叢《くさむら》へ、抛《ほう》られた。
「天下の名将たる者、差料《さりょう》にも心せられよ」
老人は、云いのこすと、踵《きびす》をまわして、遠ざかって行った。
供の佐助は、ふと、老人が、白木の杖を、地べたへすてているのに気がついて、ひろいあげると、
「もーし! もーし!」
と、呼びかけて、追って行こうとした。
すると、幸村が、
「佐助、それは、仕込みであろう」
と、云った。
「あ――まことに」
佐助は、幸村に手渡した。
幸村は、べつに、抜いて、あらためようともせずに、携《たずさ》えて、歩き出していた。
翌朝、幸村は、単身で、大野|修理《しゅり》大夫治長の邸宅を音《おと》ずれて、
「それがしは、大峰の山伏でござるが、御主人に見参《げんざん》し、御祈祷《ごきとう》の巻数をさしあげとう存ずる。お取次ぎの程を、おたのみ申す」
と、申入れた。
番所方は、殿は登城中なれば、そちらで暫時《ざんじ》待つがよかろう、と横柄《おうへい》に頤《あご》をしゃくった。
番所には、若|士《さむらい》たちが十余人、退屈げに屯《たむろ》していたが、一人が、ふと、山伏の腰のものに、目をつけた。
およそ三尺七八寸もあろう長剣であるのが、珍しく思われて、視《み》せられい、と所望した。
「修験道の差料などは、ただ、山伏|嚇《おど》しのために、長うしてあるだけのしろものゆえ、お目をけがすも不調法なれど……」
幸村は、ことわり乍《なが》ら、腰から脱《だっ》して、前に置いた。
若ざむらいは、把《と》って、抜いてみて、はっと息をのんだ。
他の者たちも、一斉に、目を惹《ひ》き寄せられた。
刃の匂い、鉄《かね》の冴《さ》え――文字通り、秋霜烈日《しゅうそうれつじつ》の光を放って、渠《かれ》らの目をくらませた。とうてい山伏|風情《ふぜい》の帯びる刀ではない。
「中心《なかご》を覧せて頂いてよろしいか?」
「どうぞ――」
若ざむらいは、目釘を抜き、鞘をはずしてみて、唸った。正宗であった。
その時、かえってきた大野修理大夫治長が、通り過ぎがてに、何気なく、溜《たまり》へ目をくれて、
「お! これは、左衛門佐殿の御尊来か!」
と、おどろきの声を発して、入って来ると、ぴたっと、山伏の前で、両手をつかえて、鄭重《ていちょう》に挨拶したので、若い士らは、色をうしなったことであった。
幸村は、大阪城の牢人募集の様子を見とどけて、帰途についたが、その面持は、心なしか、沈んだものに、佐助には、視てとれた。
あの老人に行き交った場所に来た時、幸村は、足をとめて、
「佐助――」
と、呼んだ。
「はい」
佐助は、主人の背中へ、無心な眸子《ひとみ》を当てて、次の言葉を待った。
「二つに折られたわしの差料が、まだ、そこの叢にあるかどうか、見て来てくれぬか」
「かしこまりました」
身丈ほどの薄野《すすきの》へ踏み入った佐助は、一瞬、大きく目を瞠《みは》った。
刀が抛《ほう》りすてられた場所に、一人の男が、仰臥《ぎょうが》して、目蓋《まぶた》を閉じていたのである。
褐色《かっしょく》の総髪、高い鼻梁《びりょう》、白磁のような冷たい皮膚。虎皮の袖なし羽織をまとい、四尺あまりの反りのない剣を胸に凭《よ》りかけた。
異邦の若い忍者――霧隠才蔵《きりがくれさいぞう》にまぎれもない。
「お主《ぬし》――」
佐助が呼びかけると、才蔵は、薄目をひらいて、
「猿か」
と、応えた。
「どうして、ここに寝て居るぞ?」
「霞喰《かすみくら》いのおいぼれに出会うた。一太刀|挑《いど》んだところが、不覚をとって、このざまだ。おいぼれめ、どうやら、おれに、睡魔の業をかけ居ったらしい」
どれくらい昏絶《こんぜつ》していたか、才蔵もおぼえていない様子であった。
佐助は、にやっとして、
「あの老爺は、たぶん、お主に、主人を呉れる所存であったのじゃ」
「主人?」
「左様。わがあるじ真田左衛門佐様が、そこにおいでじゃ」
「ふん――」
鼻を鳴らして、才蔵は、起き上った。
幸村は、面前に立った世にも不興げな表情の異邦の若者を、微笑で眺めると、
「佐助からきいて居る。働き場所を与えよう。ついて参るがよい」
と、云いおいて、静かな足どりで、歩きはじめた。
才蔵は、佐助を、じろりと見やった。
佐助は、頷《うなず》いてみせ、
「お主のような異端|者《もの》を使うて下さるのは、天下ひろしと雖《いえど》も、わがあるじ様だけであろうな」
「ふん――」
才蔵は、もう一度鼻を鳴らしたが、べつに反抗の気色を示さず、佐助と肩をならべた。
凶剣は、兇暴な若者と化して、幸村に従ったのである。
九度山《くどさん》の館に戻ると、幸村は、佐助、才蔵を含めて、十人の股肱《ここう》を、まえに並座させた。穴山小助《あなやまこすけ》、由利鎌之助《ゆりかまのすけ》、三好清海《みよしせいかい》、為三入道《いさにゅうどう》、筧十蔵《かけいじゅうぞう》、高野小天狗《たかのこてんぐ》、呉羽自然坊《くれはじねんぼう》、そして、一子|大助幸綱《だいすけゆきつな》。
幸村は、まず、大阪城へ入ることを告げてから、
「このたびの戦いは、わしの方略《ほうりゃく》が通れば、徳川内府の首級を挙げて、秀頼公をして天下人たらしめることも、夢ではあるまい。わしの方略がしりぞけられるならば、大阪城は、烏有《うゆう》に帰すことはあきらかである。おそらくは、後者の方が、明日のすがたであろう。……この幸村は、武門の意気地によって、豊家に荷担《かたん》する者ゆえ、力を尽くしたならば、つとめは終わる。天守閣炎上のさまに、悲愴《ひそう》をうたう血迷いはせぬものぞ。生きるも可、死するも可――いずれを選ぶにせよ、心は静かであらねばならぬ。そちたちも、わしになろうてもらいたい」
と、さとした。
そして、十人それぞれに、任務をさずけた。
幸村の肚裡《とり》には、家康に、ひと泡ふかせる方略はなっていた。
その方略は、亡父昌幸からゆずられたものであった。
三年前、一翁閑雪《いちおうかんせつ》(昌幸)は、死期ようやく近づいたのを察して、一日、幸村を、枕もとにまねいて、
「駿府の内府は、今年、古稀《こき》をこえた」
と、云った。
「たしかに――」
「もはや、内府は、これ以上、ためろうては居るまい。むこう三年以内に、必ず辞柄《じへい》を構えて、大軍を催し、大阪城を攻めて参るであろう。その秋《とき》、そちがとるべき方略を、さずけておこう」
「承りまする」
「まず、三千の軽兵を率《ひき》いて、勢州桑名まで押出し、備えをかためて待つ。内府は、そちの手並を知る者じゃ。正面から襲い寄せては参るまい。そちは、機先を制して、一挙に奇襲して、十里ばかりも、徳川勢を敗走させい。この報がひろがれば、太閤恩顧の諸大名中、大阪に馳せ参ずる者も二三にとどまるまい。そのうちに、内府は、援軍を加えて、怒涛《どとう》のごとく、押しかかって参ろう。そちは、退いて険要にふみとどまる毎に、一矢をむくい、悠々《ゆうゆう》たる余裕をみせい。最後に瀬田のこなたに退いて、大橋を焼き落して、通路を断ち、柵を沿岸一帯にかまえて、弓銃を攅《あつ》めて、防ぐ。ここでも、数日は支え得るであろう。その間に、大阪城に集まった諸将が、一挙に押し出して、山崎をおさえ、大和路を攻め、伏見城を奪い、京都を占領してしまうのじゃ。されば、さらに、九州・四国・畿内《きない》の諸大名もまた、勢いのおもむくところを観て、徳川へ叛旗をひるがえすであろう。……よいか、幸村、籠城はいかんぞ、籠城は――」
そう云ってから、昌幸は、しばらく、苦しい息をやすめていたが、
「しかし、この策も、所詮は、画餅《がべい》であろうな」
と、云った。
「大阪城に、人なく、提議がしりぞけられる、と仰せられますか」
「その通りじゃ、加藤清正でも生きて居れば、話が別じゃが……」
昌幸は、それから五日後に、溘焉《こうえん》として、世を去った。
老驥櫪《ろうきれき》に伏す。志千里に在り。烈士の暮年。壮心|已《や》まず。
その志を抱いて、消えたのである。
知言空しからず、渠《かれ》の歿後三年にして、ついに、東西の決戦となったのである。
もとより、家康にとって、幸村こそは、最もおそるべき敵であった。朝野|長晟《ながあきら》に内旨《ないし》をつたえ、断じて幸村を九度山から出してはならぬ、と命じた。
長晟は、五千の精兵をもって、高野山麓を包囲し、地下人《じげびと》たちにも、
「真田一党に不穏の動きが見えたならば、ただちに報告するように」
と、布達した。
この旨は、高野の法庁にも移牒《いちょう》されたとみえて、一山の門主ならびに、衆徒からも、同じおもむきが、地方に厳達された。
この警戒網を、どう突破するか――幸村の、智謀のみせどころであった。
慶長十九年十月六日のことである。
幸村は、館の前に、大規模な仮屋《かりや》をしつらえて、亡父一翁閑雪の法会《ほうえ》を営む名目のもとに、九度山附近――橋本、東家、橋谷などの庄屋、年寄以下、数百人の百姓を招いた。
家の子郎党総がかりの斎《とき》の振舞いに、地下人たちは、大よろこびで、酒をくらった。そして、一刻ののちには、一人のこらず、飲みつぶれて、正体もなくなった。酒には、睡り薬が混じてあったのである。
館から現れた幸村は、佐助が曳《ひ》いて来た駿馬《しゅんめ》にまたがると、
「急ぐぞ」
と、云って、一鞭《いちべん》くれるや、墨を流したような暗夜を、疾風《しっぷう》のように馳せて行った。その時、すでに、館内には、一人も残ってはいなかった。
百余の家臣らは、八方に奔《はし》って、留守になった百姓家から、持ち馬を曳《ひ》き出し、その附近に匿《かく》してあった具足《ぐそく》、槍、小銃を身につけて、うちまたがっていたのである。百姓たちも、おのが家の周辺に、武器が匿されていようなどとは、夢にも知らなかった。
九度山附近の地下人たちが、戦乱の世をすごすための手段として、愛馬を飼っていたのも、幸村の目のつけどころであった。
たちまちに、武装ととのえ了《おわ》った百余騎の指揮をとったのは、穴山小助と由利鎌之助であった。
夜がしらじらと明けた頃あい、隊伍整然たる真田六文銭隊は、紀見峠をまっしぐらに越えていた。
その山麓に、幸村は、大助と佐助と才蔵をしたがえて、待っていた。
真田館に、一人もいないという急報に、浅野の見張隊が、素破《すわ》とばかり、追跡したが、紀見峠の急坂にさしかかるや、突如、木立から毒煙が噴いて出て、一騎あまさず、地べたにころがってしまった。
待ち伏せしていたのは、筧十蔵と高野小天狗と呉羽自然坊の三騎であった。
渠《かれ》らは、見張隊が携えていた小銃二十余挺を奪うと、風のごとく、駆け去ってしまった。
徳川の厳重きわまる監視の中を、脱出して来るのであるから、さまざまの装《なり》になって、隠密裡に入城して来るであろう、と思っていた真田六文銭隊が、その六文銭の旌旗《せいき》をひるがえし、騎馬の列をつらねて、具足華やかに堂々と大阪市街を行進して来たのであるから、眺める人々はのこらず、あっとなった。
大阪上下の人意を強うするに、これは絶大の効果があった。
幸村は、これよりさき、郷里上田へ、密使を趨《はし》らせて、予《あらかじ》め日を定めて、旧曲《きゅうきょく》の家臣らを招き、河内に聚《あつ》め、待機させておいた。入城にあたりその数を加えたので、千騎の列をなしていたのである。
この力強い味方を迎えた秀頼は、自らえらんだ与力以下新募の牢人衆四千余を、幸村に与えた。
幸村は、たちまち城内の一勢力となり、長曾我部盛親、毛利豊前守勝永とともに、三人衆に挙げられ、次いで、入城してきた後藤又兵衛基次、明石掃部助|全登《たけのり》を加えて、五人衆として、軍事の枢機《すうき》に参与することになった。
幸村は、一日、城内の防備を視察して、城南の方面が手薄で、危殆《きたい》はここに伏すると看取《かんしゅ》した。
幸村は、すぐに、大野修理大夫治長に稟議《りんぎ》して、城南に一の出丸を新築して、自分が一手に持切って、最難の衝《しょう》に当ることにした。
治長は、同じ稟議が、後藤又兵衛からも提出されている、とこたえた。
幸村と又兵衛が、同じ地点に着眼したのは、偶然ではなかった。東北西の三面は、河海に枕《ちん》して、険要である。南面――玉造《たまつくり》の方面だけは、遠く平地に連なっていて、もし、敵の大軍が押し寄せて来れば、本城に肉薄されるおそれがあった。
これは、秀吉も常に気にしていて、この方面に当たる三ノ丸の外に、空壕を掘らせて、防備を保障したが、なお不安だ、と云っていた、という。
後藤又兵衛は、そこの出丸築城を、幸村にゆずった。
幸村は、自ら縄張りして、工事にかかった。位置は、三ノ丸の南面の空壕の外に在り、四方百間、約一万坪の地積であった。
一箇月ののち、そこに、宏壮《こうそう》な出丸が出現した。
あらたに壕をめぐらし、外と内に三重の塀柵《へいさく》を構え、その塀一間ごとに箭眼《やざま》をひらき、銃を三挺ずつそなえ、櫓《やぐら》と櫓の間には井楼《せいろう》を起し、塀の腕木には武者走りを設け、さらに、井楼にも、後方平地から武者走りをつけて、昇降に便にして、楼上には大砲を据え、俯瞰《ふかん》して、狙撃できるように、配慮した。
城内外の人々は、これを「真田丸」と称《よ》んだ。
東西の関係は、すでに、断絶した。
秀頼は、一日、新旧の諸将を、千畳敷の大広間に聚《あつ》めて、一大軍議を開いた。
大阪|譜代《ふだい》の諸将――大野修理大夫治長、南条中書、内藤左馬、細川|讃岐《さぬき》、石川伊豆貞政らは、すでに、さきに軍議を開いていて、籠城の議を決めていた。
大野治長が、まず口を切って、
「関ヶ原一戦において、東西の軍勢は伯仲《はくちゅう》していたにも拘《かかわ》らず、治部少輔殿(石田三成のこと)は、駿府老人の狡猾な策略に敗れ申した。今日、彼我の軍勢は比べもならず、右府公おん旗揚げに、いずれの大名の向背も、明確にさとり得がたい現状なれば、籠城をもって日をかせぎ、諸大名が味方してくれるのを待つよりほかなしと存ずる」
と、披露した。
後藤又兵衛以下、応募の諸将らは、一斉に、幸村を視た。
幸村は、穏かな口調で、
「籠城して、抗戦するのは、必ず援軍を期した上での利と存ずる。ところが、関ヶ原役の頃とはちがい、この大阪城には、外援《がいえん》の大名など、一名も、居り申さぬ。あるいは、どこかの大名が援けてくれるのではなかろうか、などと、むなしい期待をかけるなどは、最も、おろかなこと。されば、いかに、名城とは申せ、敵の主力を、野戦に挫《ひし》ぐことを計らずして、天下の大兵をひき受けて、いつまで孤城を守り申すべき――」
と、述べて、治長を、じっと見据えた。
その眼光には、神気|冴《さ》えた威厳がこもって、治長をして、思わず、微《かす》かな身顫いを催させた。
「籠城と申すものは、無限の糧食があり、鬼神にひとしい士気がつづいてこそ、堪《た》えられるものにて、孤立無援のまま、日をすごせば、やがて、内部より音たてて、崩壊《ほうかい》するは必定《ひつじょう》。……利運の見えるかぎり、こなたより、撃って出るが良策と存ずる。……秀頼公には、おん馬標《うまじるし》を天王寺に樹《た》てさせられ、諸軍は山崎をとり切って、その辺一帯まではり出し、それがしと毛利豊前守殿は一手となって先鋒をうけたまわり、勢州桑名まで押出して、徳川勢を、さんざんになやませ申そう。そのあいだに、長曾我部宮内少輔殿、後藤又兵衛殿は、伏見城を攻落し、京都を占領し、宇治・瀬田で、退《しりぞ》いて来るそれがしと豊前守殿を待たれるがよろしからん。……やがて迎える冬将軍でござる。宇治川を前にして戦うならば、長途の行軍に疲れた東国勢は、その疲れ足をひきずって、寒水の中にとび入り、こなたに向って来るを、なかばを渉《わら》らせずして撃ち仆《たお》すも一の利。あるいは、兵を、適当の地に伏せて置き、わざと退却するとみせて、敵をいざない、前後よりはさみ撃ちして、川に落すもまた一の利。且《か》つはまた、寒中に川を渉って来れば、水をはなれても二三町のあいだは、手足がこごえて、弓や鉄砲を容易に使用しがたいものとおぼえ申す。その間隙《かんげき》に乗って、痛撃をくらわせるのも、またまた一つの利方《りかた》でござる。斯様《かよう》にして、徳川の大軍を、さんざんに撃ち破りつつ、数箇月を支えて、その間に、使者を、畿内、中国、西国に馳せて、さかんにわが方の優勢を説いたならば、太閤殿下恩顧の諸大名は、つぎつぎと加勢に応じ立つのではありますまいか」
幸村の舌端《ぜったん》がおわるかおわらないうちに、後藤又兵衛が、膝をたたいて、功名の策戦である、と賛成した。
しかし、譜代側は、一人として、その出撃論に頷く者はなかった。
古来、敵を宇治・瀬田に防いで、未だ勝利を得た者はない、と云う者もあった。
「この際、危道はさけねばならぬ」
それが、譜代側の一致した意見であった。
幸村の方略は、幸村自身が予め懸念した通りに、しりぞけられた。
深夜――。
幸村は、卓上の金の鈴を鳴らした。
すぐに、
「御前《おまえ》に――」
声が応じて、襖《ふすま》がひらかれた。
幸村は、入って来た者を視《み》て、眉宇《びう》をひそめた。
佐助ではなかった。三好清海入道の、端麗《たんれい》な容子《ようし》であった。
「佐助め、外出中でござれば、御用向き、それがしに仰せつけられませい」
佐助は、未だ曾て、主人に無断で、何処かへ行ったことはなかった。
「清海、そちが、わしの命令と詐《いつわ》って、佐助を、外へ出したのう?」
「御意――」
清海入道は、わるびれなかった。怪盗石川五右衛門の伜であるこの美貌の荒法師は、天下|津々浦々《つつうらうら》まで、おのが名をひろめたいという野心を抱いていた。
父の仇である豊臣秀吉を、その垂死《すいし》に際して、ひそかに、水風呂に浸けて、殺したことには、自己満足こそあったが、その事実を、誰一人として、知る者はないのである。
清海入道は、こんどは、堂々と、天下を驚倒せしむる活躍をしたかった。考えの帰着するところ、それは、
「徳川家康の首級《しゅきゅう》を挙《あ》げる!」
そのことであった。
これ以上の働きは、目下見当たらない。その任務を、清海入道は、幸村から与えられたい、とひそかに、ねらっていたのである。
ところが、幸村は、佐助ではないと知ると、
「下がってよい」
と、云った。
「殿!」
清海入道は、昂然《こうぜん》と、頭を擡《もた》げた。
「本日の大軍議において、殿の御方策は、排斥《はいせき》せられたと、きき申した。されば、爾後《じご》の戦略と作戦は、退嬰《たいえい》、消極の一方でござろう。豊家の滅亡は、見え申した。ここにいたって、殿の胸中に泛《うか》んでいる秘策《ひさく》は、ただ、ひとつしかないと推察つかまつる。その秘策を、この三好清海入道に、遂行《すいこう》させて頂きとう存じまする」
幸村は、黙って清海入道を見かえしていたが、
「軍が動いてからの話だな」
穏かな声音《こわね》で、抑えた。
「されば、最後の手段をえらぶ際には、必ず、その役目を、それがしに与えると、お約束下されませい」
清海入道は、執拗《しつよう》にくいさがった。
幸村は、やむなく、約束した。
家康は、十月二十三日、京都に着き、二条城に入った。ただちに、片桐市正且元を、茨木からまねいて、大阪城攻略にあたって参考にすべきことを、悉《ことごと》くききとった。
家康が、旗本を率いて、京都を発したのは、それから一月後であった。
奈良街道をすすんで、午《ひる》まえに木津に到着した。ここで、一泊する予定であったが、はしなくも、家康が摂《と》ろうとする食膳に、毒薬が混入してあるのが、発見され、隙を窺《うかが》う敵の忍者が、宿営内にひそむと判って、にわかに、出発した。
同夜は、奈良に泊まることに、予定が変更された。
一方、将軍秀忠は、同日伏見を発して、大和街道をとり、この夜は、枚方《ひらかた》に宿陣することになっていた。
木津の宿営で、食膳に、毒薬を投じたのは、幸村の命による、霧隠才蔵のしわざであった。
幸村は、家康を、木津に泊まらせないようにしたのである。幸村は、家康が、木津を出た、という急報に接するや、急いで、本城に入り、秀頼にまみえ、次のような提議をした。
「今日、内府には、十三里の長途を押して、今夜更けて、奈良に宿陣するという上は、一行の人馬、ともに疲れて居りましょう。人は、鎧《よろい》を解き、馬は鞍《くら》をおろさせて、一夜を休息するに相違ありませぬ。よしや、さあらぬまでも、七分は物の用に立ち申すまじ、とおぼえられます。当城から奈良まではたかが七里。いまより二道の兵を急発し、一手は暗峠《くらがりとうげ》、一手は中垣内越にかかりて、急行いたせば、夜半を出でざるうちに、奈良に到着いたしまする。そのままに、一気に、敵陣営に押し寄せ、火をとりかけて、挟み撃てば、地理にくらい関東勢は、右往左往に混乱いたすに相違ございませぬ。その機に乗じて、本陣に、斬って入るならば、十のうち八か九までは、駿河老人の首級は、わが物になると存じまする。勝利は、左衛門佐しかと受けあい申しまする」
と、丹心こめて、献策《けんさく》した。
だが――。
この奇襲策もまた、大野治長によって、しりぞけられた。
秀頼には、横あいから口を出す文官上がりの治長を制して、幸村の器量を観て、すべてをまかすだけの量見に乏しかった。
――やんぬるかな!
幸村は、譜代衆のあまりに兵を用う策の知らなさに絶望して、下城して来た。
すると、その居室に待ち受けていたのは、清海入道であった。
「殿、献策をしりぞけられたからには、最後の手段を、それがしに、お命じあれ。この清海入道、必ず、古狸めの首級を持ち帰って来申そうず」
「そちの智慧が、あの老人の頭脳にまさるかな?」
「それがしは、斯《か》かる時節の到来を期して、天下を驚倒させ、後世にも伝えられる忍び兵法をひそかに思案し、頤使《いし》する兵も養いおき申した」
清海入道は、自信まんまんとして、こたえた。
「ほう、兵を養うたか?」
「ただの兵ではござらぬ。古今の名将たる殿すらも、それがしの思案を知られたならば、あっと舌を巻かれるに相違ござるまい。わが忍び兵を一瞥《いちべつ》されんか、殿と雖《いえど》も、茫然《ぼうぜん》自失されて、なすところなしと存ずる」
清海入道は、うそぶいて、にやりとしてみせ、
「行かせられませい! すでに、狸爺の首は、わが手中にあると同様でござる」
と、許可をせきたてた。
清海入道は、木津から奈良へ向った家康を、その途中に邀撃《ようげき》しようというのであった。
幸村は、自分が指揮をとらざる限り、家康の首級は挙げられまい、と考えていたが、清海入道のあまりの自信たっぷりな態度に、
――行かせてみようか。
という気になった。
「忝《かたじけな》し!」
清海入道は、たちまちに、偽三入道、高野小天狗以下、二十騎あまりを率いて、疾風を起して、まっしぐらに、暗峠を越えて行った。
家康が、木津を発したのは、亭午《ていご》であった。総軍勢を、わざと木津に残しておいて、きわめて小勢をつれていた。
小半刻を進まぬうちに、後方から、奔湍《はやせ》を下る鮠舟《はやぶね》のような勢いで、追いかけて来た一騎があった。
あっという間に、軍列をかけ抜けて、家康の乗っている駕籠脇に達した。
伊賀組頭領服部半蔵であった。
「上様、木津が宿営にて、御膳に毒が盛られてあったとききおよびましたが、これは、服部半蔵の解《げ》せぬところにございます」
緊張した面持《おももち》で、そう云った。
「なぜ、解せぬかの?」
「征旅の途次に、大将たる者が、毒見なくして、箸をとることは、あり得ませぬ。敵方が、それを知らぬ筈はございませぬ。ましてや、大阪城の忍者どもを支配するは、真田左衛門佐にござれば、かかる軽率《けいそつ》な暗殺手段を、命ずる道理がありませぬ。思うに、幸村は、上様をして、木津を匆々《そうそう》に出発せしむるために、わざと露見するように企《くわだ》てたのではございますまいか」
「ふむ。奈良街道上で、わしを、奇襲せんがための小細工であったかな」
「御意――。なにとぞ、木津へお引返しあそばされ、ご一泊下されますよう」
「半蔵、わしは、幸村の奇襲を怖れなければならぬのかの?」
「幸村は、さきに、野戦の方略を述べて、しりぞけられたと、きき及びまする。されば、幸村は、最後の手段として、上様の御首級《みしるし》を奪うほかなしと、決意したに相違ありませぬ。幸村ほどの智略《ちりゃく》秀でた武将が企てる奇襲なれば、ふかく懼《おそ》れて、なお懼れすぎになるまじ、と存じまする。なにとぞ、お戻りの程を――」
家康は、ちょっと考えていたが、
「半蔵、わしは七十年の生涯において、かぞえれば、二十七度、絶体絶命の危機に見舞われたぞ。そのたびに、間一髪の差で、生きのびて参った。……この家康は、天下を、一木一草にいたるまで、わが掌中にせざる限り、生命を落さぬ、という自負なくして、何条もって能く徳川家を今日の位置に据えられたであろうか。懸念《けねん》すな」
「し、しかし――」
「たとえ、そちの予言が的中して、幸村の奇襲に遭おうとも、この家康の、生命は、大阪城が焼け落ちるのを見とどけるまでは、巌《いわお》のごとく、安泰じゃ」
そう云いはなたれては、半蔵は、かえす言葉もなかった。
この上は、旗本のうちでも、一騎当千の猛者《もさ》をして、家康の前後左右をかためさせることであった。
陽が傾いた頃あい――。
娶《めとり》が池という、かなり大きな湖の畔《ほとり》にさしかかった。
片側は、孟宗竹《もうそうちく》の藪がつづき、道は、浜辺のような、砂地に沿うて、ゆるやかに、カーブしていた。
服部半蔵は、急にひらけた美しい景色に、その美しさのゆえに、ふっと、不安なものをおぼえた。
その予感は、一町と進まぬうちに、当った。
「おっ――あれは」
湖面にむかって、一人が指さし、一斉に向けられた視線は、小波《さざなみ》ひとつたたずに澄みきった水が、奇怪にも、無数の真紅の斑紋《はんもん》を浮かせるのを、みとめた。
そして血のようなその無数の斑紋はみるみる、湖面に拡《ひろが》った。
とみた刹那――。
湖面から、水量がふくれあがるがごとく、ざわざわざわっと波立つや、むくっ、むくっ、むくっ、むくっ、と坊主あたまが、水面上に、突き立って来た。
家康以下、四十余騎は、白昼夢《はくちゅうむ》でもみているように、呆然《ぼうぜん》となった。
海坊主というものがあるならば、これは湖水坊主というべきか。
その群は、渚《なぎさ》へむかって、しぶきをたてて、おそろしい迅《はや》さで泳ぎつくや、躍《おど》るように、つッ立った。
唖然《あぜん》たる光景が、そこに展開した。
およそ三十あまりの湖水坊主は、一人のこらず、一糸まとわぬ全裸で、その胸には、ふくよかなふたつの隆起を盛りあげていたのである。
一斉に――。
にこりと明るい笑みを、顔にうかべるや、砂を蹴ちらして、徳川勢めがけて、奔《はし》り寄って来た。
「推参っ!」
服部半蔵の声が、絶叫したが、もはや、間に合わなかった。
いつの間にか――。
湖面と反対側の竹薮から、音もなく忍び出て来た忍び装束の一隊が、飛鳥のごとく、旗本衆に殺到したのである。
狼狽するいとまさえないくらいであった。
家康の乗る駕籠は、完全に孤立させられ、忍び装束の群れに包囲された。
竹薮の中から、のっしのっしと現れた、一本歯の高下駄をはき、大薙刀《おおなぎなた》をひっさげた三好清海入道は、
「徳川大御所殿、いかに!」
と、呼ばわった。
「流石の古狸も、ついに、命運尽きたとみえたり。老いぼれたりとはいえ、その皺腹をかっさばく力は、まだ、のこって居ろうず。真田左衛門佐幸村が股肱《ここう》随一、三好清海入道が引導渡して進ぜるほどに、三河が武辺の作法によって、死の座に就かれい」
おのが計略、図にひいたごとく中《あた》った三好清海入道は、無上の快感に酔うていた。
奈良の法隆寺から南方へ二里ばかり行ったところに、眉目《びもく》寺という尼寺がある。光明皇后像をまつり、門跡は皇女をえらぶ由緒《ゆいしょ》ある古刹《こさつ》であったが、いつの頃からか、捨児の幼女をひろい育てて、比丘尼《びくに》にし、京都や大阪で、春を売らせるという噂が立ち、それを慙《は》じたか、かたく門扉をとざして、俗界との交際を断ってしまっていた。
三好清海入道は、いかなる方法を用いたか、この尼寺の若い比丘尼ら三十余人を、おのが頤使《いし》の兵にしたてていたのである。若い比丘尼の武器といえば、すなわち、その白い豊かな裸身《らしん》である。
清海入道は、その武器を使って、敵の虚を衝《つ》いたのである。
「徳川大御所殿! 出ませい!」
清海入道は、駕籠の戸を、大薙刀の切っ先で、引き開けた。
とたんに、
「なんぞや」
清海入道は、かっと、双眸《そうぼう》をひき剥《む》いた。
乗っていたのは、七十の老爺ではなく、逞《たくま》しい壮漢だったのである。
「それがしの一行を、徳川内府の忍び勢と看あやまるとは、真田左衛門佐殿の手勢とも思われぬ。われらは、大阪城へ加勢としておもむく者。味方討ちされるな」
壮漢――家康をひき出して、おのれが身代りになる咄嗟《とっさ》の迅業《はやわざ》をやってのけた服部半蔵は、おちつきはらって、清海入道を見上げた。
清海入道は、天にも達していた快感に、冷水をあびせられた腹立ちを、その眉目にみなぎらせて、
「徳川大御所が、表向きは、木津に着陣をよそおい、ひそかに奈良へ移ろうとしているのを、看破《かんぱ》したわれらの目に狂いはない。さては、大御所め、忍び勢を二つに仕立てたかい! くそっ! 貴様は、何者ぞ?」
「それがしは、木村長門守重成が叔父にあたる木村常陸介重宗でござる」
この時、家康は、白髪頭を、忍び頭巾でかくし、大将床几を担《かつ》いだ足軽の蔭にかくれるようにして、虎の敷皮を抱えて老いぼれ郎党《ろうどう》にみせかけていた。
三好清海入道と服部半蔵のあいだには、それから、二三の問答があった。
「通られい」
清海入道は、疑うふしもないので、ついに、道をひらいてやった。
虎口を脱するとは、まさにこのことであった。
ものの三町も遠ざかった頃あい、
「待てっ!」
呶号《どごう》と、夕日にかざした大薙刀の閃光《せんこう》が、後方から、追って来た。
「上様っ! 駆けまするぞ」
服部半蔵は、家康を、駕籠から、ひき出すや、おのが馬に乗せ、おのれはその前にうち跨《またが》り、
「とーッ!」
と、馬腹を蹴った。
清海入道の行手を、はばんだ旗本衆が、およそ十五人も、血煙りたてて、地上へころがった頃、半蔵にしがみついた老いたる覇者《はしゃ》は、ようやく、奈良口に達して、奈良奉行中坊秀政の出迎えに、蘇生《そせい》の思いをした。
それから三日後、いわゆる大阪冬の陣は、戦いの火ぶたをきった。
ひしひしと、大阪城を包囲して来た徳川勢は、中島、穢多《えた》ヶ崎、五分一、新家などの要塞を奪い、野田、福島の要塞へも迫って来た。
なさけなくも、城内は、もう落城寸前にあるごとく、動揺をしめした。
やむなく、後藤又兵衛は、おのが総軍勢八千有余を率いて、堂々と城外に押し出して、兵威を敵前に示した。
こんどは、寄手の陣営が、
「素破《すわ》! 野戦をこころみて来たか」
と、動揺した。
天王寺|茶臼《ちゃうす》山の本陣で、この急報を受けた家康は、
「よもや、逆襲に出るとは思われぬが、幸村の智謀もあることじゃ。わしが自ら、船を出して、穢多ヶ崎から福島へかけて巡視《じゅんし》するであろう」
と、云い出し、その日のうちに、銃兵三百を先発させて、城方の兵船の襲いかかる危険のある要所要所に備えさせた。
足軽に化けて、茶臼山へ忍び寄っていた猿飛佐助は、銃兵三百の動きを看て、直ちに真田丸へひきかえして来て、幸村に報告した。
「そうか! 内府は、巡視に出て来るものとみえた」
幸村は、莞爾《かんじ》として、六文銭隊の内から、狙撃の妙手五十人を選抜して、銃を執《と》らせ、さらに、別に決死の士十八人を抽出《ぬきだ》して、一部には槍、一部には長柄《ながえ》の鉄鉤《てつかぎ》をさずけ、穴山小助と由利鎌之助を指揮に任じた。
薄暮が至るや、幸村は、大助を呼び、
「家康の生命を、そちの手で、奪え!」
と、命令した。
虚無の表情で、無言で、かしこまった大助は、闇を待って、小舸《しょうか》三艘を、天満川より、音もなく乗り出した。
流れを下って、博労《ばくろう》ヶ淵《ふち》の南である葦島《あしじま》に到着し、そのへん一帯にしげる葦原を押しわけ、押しわけて、その中に、ひそんだ。
霜月の末である。
寒風は、はだえを劈《つんざ》くが上に、霙《みぞれ》が小|歇《や》みなく、降りしきっていた。
大助は、時刻をはかっておいてから、用意して来た酒樽の鏡を破り、酒をふるまった上、さらに一|壷《こ》の脂膏《あぶらぐすり》をとり出して、部下たちの手甲《てっこう》に塗らせた。
東天紅《とうてんくれない》を潮《ちょう》する頃、各自の口には、搗立餅《つきたてもち》が二片ずつ、与えられた。
これらは、すべて、大助の、忍び修業による才覚であった。
大助は、陽が昇りそめるや、
「持銃《もちづつ》に、火縄を装《つ》けい!」
と、命じた。
その日、家康が、巡視の船を上らせて来たならば、その老躯《ろうく》は、蜂の巣のごとく、孔だらけになっていたであろう。
幸運は、この時も、家康の側にあった。
暁天を迎えて、家康は、左右百騎ばかりしたがえて、本陣を出ようとした。
その折、本多佐渡守正信が、南光坊天海を同伴して、出仕して来た。
天海は必死の面持で、
「拙僧、今日のご巡視を承《うけたまわ》り、如何あろうか、と卜筮《ぼくぜい》の表《おもて》に質《ただ》しましたところ、不吉の兆《きざし》を得ましたれば、何卒おん見合せの程を――」
と、申出た。
家康は、天海のうらないには、信用を置いていた。
「しかし、巡視の旨を披露しておき乍ら、にわかに出馬を見合せたならば、三軍の思惑は、いかがであろうかの」
と、家康は、本多正信をかえりみた。
正信は微笑して、
「上様の影武者を立てて、巡視つかまつりますれば、その懸念には及びませぬ」
と、こたえた。
やがて、御座船は、住吉の浦からゆっくりと、押し出して来て、葦島の近傍より、博労ヶ淵にさしかかって来た。
「来たぞ!」
葦のしげみにひそんでいた六文銭決死隊は、さっと、銃口を揃えた。
その瞬間、大助が、大きく手を振って制した。
「あの旗章《はたじるし》を見るがいい。立葵《たちあおい》の脚の長きは、老骨ののっている徽章《きしょう》にあらず。それに反して、本田の家の旗が大仰にひらめいて居るのは、本多佐渡か、その倅の上野介めが、名代に出た証左だ。われらが苦心は、水泡となった」
そう云いすてて、大助は、ごろりと仰臥《ぎょうが》すると目蓋《まぶた》を閉じてしまった。
「大阪城陥落せしめるには、まず、真田丸を占領せねばならぬ」
徳川本陣の軍議は、そう一決した。
しかし、真田丸は、文字通り難攻不落であった。
真田丸の攻撃に当ったのは、木野村附近に陣を敷く加賀・前田筑前守利常であった。
利常は、真田丸を奪うには、砲撃に如《し》かず、とさとって、築山を起し、大砲を据えつけることにした。
前田勢の屯する木野村と、真田丸との中間には、小篠《こざさ》の密生する篠山と称する一小高地があった。
前田勢が、土塁工事を開始するや、篠山高地にひそんだ真田銃隊が、凄じい勢いで、弾丸を狙い撃ちして来て、片はしから、工事兵を殪《たお》しはじめた。
「おのれ! この上は、無二無三に、篠山を占領してくれる!」
利常は、家老の本多安房政重、山崎長徳入道閑斎、横山武蔵|長知《ながとも》を先鋒にして、真田丸の塹壕《ざんごう》前まで、押し寄せさせた。
猿飛佐助は、どうも不安になって、幸村の居室に入ってみた。幸村は、柱に凭《よ》りかかって、仏像のごとく、結跏趺坐《けっかふざ》していた。
「あるじ様、そろそろ出撃なされては――?」
と、佐助はすすめてみた。
幸村は、黙って、かぶりをふったばかりであった。
夜は、ほのぼのと明けはなたれ、霧もまた晴れた。
前田勢は、天地にとどろく鬨《とき》を噴きあげた。
すると、それに応えて――。
飄然《ひょうぜん》として、一人の武者が、防壁上に出現した。その白面は異邦のものであった。
「そこに、寄せかけられたは、加賀の御手とお見受け申す。夜前、篠山をお取巻きなされたは、鳥追い猟のおん催しででもござったか。日頃は、あのあたりに、多少は、鳥、兔の類も棲むげにござるが、昨今は、銃砲の音におどろいて、影も形も見え申さぬと、土地案内の者も申して居りますれば、早々におん引上げなさるが然る可くと存ずる。それとも、さばかりおんひまなれば、この出丸ひとつを攻められるか。おききおよびもおわそうが、ここは真田左衛門佐の持場にて、何のそなえもござらぬゆえ、心ばかりのご馳走などふるまって進ぜようと存ずる。さ、ひとつ、攻めてみられい」
と、冷笑を堪えて、呼ばわった。
霧隠才蔵の異相は、こういう嘲罵には、まことにもって来いであった。
「おのれ、憎き広言! よし、一挙に踏みつぶしてくれる!」
本多政重隊の一部隊長奥村摂津|栄頼《ひでより》は、満面を朱にして、総攻撃を下知した。
千余の兵は、蟻のごとく壁にとりつき、攀《よ》じのぼりはじめた。
|ひそ《ヽヽ》として物音を絶っていた真田丸は、やがて、先頭の兵が、頂上へ手をかけたとたんに、どっと、鯨波《ときのこえ》をあげた。
とみるや、手に手に、大柄杓《おおびしゃく》を掴んで、躍り出て来て、前田兵の頭上へ、湯気の昇り立つ真黄色な液体を、そそぎかけた。
それは、にえたぎった糞尿であった。
この時、前田兵八百が、糞に焼けて、死んだ。
後日、前田利常は、
「軍令を破り、勝手に攻撃し、加賀の恥をさらした」
と、奥村摂津に、切腹を命じた、という。
風魔鬼太郎
文禄四年二月七日、豊臣秀吉|麾下《きか》随一の智将、蒲生氏郷《がもううじさと》は、朝鮮征討の本営である肥前名護屋《ひぜんなごや》の陣屋に於て、卒然として逝《い》った。
即日、石田三成の筆によって、
『会津宰相儀、兼て煩《わずら》い居りし下血症《げけつしょう》、俄《にわか》に革《あらた》まり、遂に不帰《ふき》の客と相成れり。
辞世《じせい》あり、
限りあれば吹かねど花は散るものを
心みじかき春のやまかぜ
痛恨《つうこん》の極みと申すべし』
という高札が、立てられた。
遺骸は、近習七士によって、京都の柴野大徳寺へ運ばれ、「日日林院高岸忠公大|禅定門《ぜんじょうもん》」と諡《おくりな》された。
行年四十歳であった。
太閤秀吉は、その早逝《そうせい》を悼《いた》んで、二十一日間、獣肉魚介を摂《と》るのを断った。笑止《しょうし》というべきであった。
蒲生氏郷は、石田三成によって毒殺されたのである。そして、これは、秀吉の黙許《もっきょ》するところであった。流石《さすが》の秀吉も、晩年を迎えて、ようやく痴愚《ちぐ》に還《かえ》り、氏郷を下克上《げこくじょう》の謀心《ぼうしん》ありと、疑ったのである。
これは、ひとえに、石田三成の奸智《かんち》によるものであった。
蒲生氏郷は、あまりにも気宇《きう》抜群の智将に過ぎた。そして、また、俊髦《しゅんぼう》にふさわしい、異数の立身を成した。
石田三成は、これを悪《にく》んだのである。
系図によれば、蒲生氏郷は、平将門《たいらのまさかど》の征伐《せいばつ》で高名な田原藤太秀郷《たわらのとうたひでさと》の後裔《こうえい》にあたり、代々、近江国蒲生郷に住して、蒲生を姓とした。室町幕府の末に、蒲生家に、貞秀なる士が出て、文武に長じて、再興の功があった。その孫定秀にいたり、天文の初め、同郡日野に城を築いて、根拠とし、その子|賢秀《かたひで》に及んで、織田信長に属し、越前朝倉攻めに功を立て、信長の信任を得た。
信長が、いかに蒲生賢秀を信任したか――その証拠に、天正十年、秀吉の請《こい》に応じて自ら中国征伐の途に就《つ》くにあたって、安土城二ノ丸の留守を、賢秀にゆだねている。
その前に、信長は、側妾《そくしょう》の生んだ女《むすめ》を、賢秀の長子氏郷へ呉れていた。
信長を本能寺に滅ぼした明智光秀は、急遽《きゅうきょ》安土城へ来て、礼を厚うして、賢秀を招いた。賢秀は、かたく城門を閉じて、応じなかった。
やがて、秀吉が、柴田勝家を中心とする宿将らと相容れず、危機が逼《せま》った時、氏郷は父賢秀に説いて、勝家と断ち、秀吉に味方した。
いうならば、蒲生氏郷は、秀吉にとって、麾下《きか》というよりも、盟約《めいやく》の同友的存在であった。
幼名鶴千代、と言い、十三歳にして、出でて信長の質子《ちし》となった。
信長は、一瞥《いちべつ》して、
「この小わっぱの青眼《せいがん》は尋常にあらず。にくいぞ!」
と言って、あやうく、手討ちにしかけた、という。
|稍ゝ《やや》長ずるに及んで文武に志厚く、また岐阜|瑞龍寺《ずいりょうじ》の南化《なんげ》和尚に師事し、京都に上っては、三条西|実隆《さねたか》に就いて国学を学び、高足宗養及び里村|紹巴《しょうは》にしたがって連歌《れんが》俳諧と茶道を修得《しゅうとく》した。斎藤内蔵介のすすめによって、三年間、昼夜わかちなく武芸に励み、ついに文武兼備の勇将となった。
その初陣は、十四歳の時――永禄十二年八月、大河内の戦いに、ただ一人抜け駆けして、侍大将の首を刎《は》ねた。
その初陣の際から、氏郷は、銀の鯰《なまず》の尾の冑《かぶと》を穿《うが》って、士卒《しそつ》のまっさきに立って、進んだが、ある年、新たに召しかかえた士にむかって、
「当家においては、銀の鯰の尾の冑をいただいた武士が、いかなる戦にも、まっ先に進む。そちは、その者におくれじと進めば、必ず戦功があろう」
と言ったという。
氏郷の智将ぶりを示す逸話は、尠《すくな》くない。
蒲生家の家中で随一の豪者《ごうしゃ》と称された西村|左馬之允《さまのすけ》は、巌石《がんじゃく》の役に、抜け駈けの功名があったが、軍令を犯した廉《かど》によって勘当《かんどう》された。その後、細川|忠興《ただおき》に頼んで、帰参が叶《かな》った。
氏郷は、左馬之允に本禄を与えた翌日、
「左馬、余と相撲をとろう」
と、言い出した。
――さては、主君は、我を試みようと謀《くわだ》てられた。
と、左馬之允は、当惑した。
おのれが勝てば、主君の気色《きしょく》を損じるであろう、しかし負ければ、へつらい者よと家中一統から後指をさされるであろう。
後指をさされるより、気色を損じてもかまいはせぬ、勝つべき力を出して勝ってやろう、とほぞをきめて、左馬之允は、氏郷を、土に匐《は》わせた。
「いま一度!」
氏郷は、満面を朱にし、眼光鋭く、挑《いど》んだ。
いつにもない氏郷の烈しい気色に、侍臣《じしん》らは、左馬之允に、心せよ、と目くばせした。
左馬之允は、勿論、目くばせされるまでもなく、手加減しよう、という気持で、主君と四つに組んだ。
しかし、組んだ瞬間、いま手加減すれば、誰の目にも、諂《へつら》った、と映るであろう。二度目の勝負なればこそ、絶対に勝たねばならぬ、と猛然と怪力をふりしぼって、氏郷を投げとばした。
氏郷は、したたか、土へ顔をこすりつけたが、それを擡《もた》げた時、うってかわって、莞爾《かんじ》としていた。
「左馬、よう媚《こ》びなんだぞ。その性根を、死ぬまで曲げるな」
そう言って、左馬之允を、感泣《かんきゅう》させた。
伊達政宗は、氏郷の威勢が日に盛んになるのを悪《にく》んで、密《ひそか》に殺害を決意し、清十郎という十六歳の少年に言い含めて、蒲生家と姻家の親しみのある田丸|中務少輔《なかつかさしょうゆう》の児小姓《ちごこしょう》に奉公させて、氏郷の生命を狙わせた。
たまたま、清十郎が、その決意を、したためた手紙を、父へ送ろうとしたために、謀《はかりごと》が洩れた。中務少輔は、直ちに、清十郎を、獄舎《ごくしゃ》に押し籠めた。
これをきいた氏郷は、自ら足をはこんで、田丸家を訪れると、清十郎を呼び出し、
「主君のために、生命を捨てて忠勤を励まんとする志、あっぱれである」
と、ほめて、懇《ねんご》ろに取扱って、伊達家へ送り返した。政宗と争を引起すことをさけたのである。
筒井順慶《つついじゅんけい》の家人《けにん》に、松倉権助という武士がいた。ある年の戦いに、進撃直前|厠《かわや》に入って、毒蛇に足を噛まれ、そのまま卒倒してしまい、ついに臆病者の評判をとった。
権助は、一言の弁解もせず、順慶の許を退散し、やがて、蒲生氏郷の許へ来ると、
「臆病者と評判をとった者を、天下の智将たる貴方様には、使い様もあるべし、と存じますれば、何卒召抱えられませい」
と、願い出た。
重臣らは反対したが、氏郷は、思う仔細《しさい》がある、と扶持《ふち》を呉れずに、ただ食客として置いた。
やがて、戦場に臨むや、松倉権助は、たちまち敵中へ一番槍して、名ある武士の首をとって帰った。氏郷は、権助に、禄二十石を与えて、物頭《ものがしら》とした。その後、権助は、いくたびかの合戦に加って、常に衆を抜いた働きをし、次第に、禄高を増《ふや》していった。しかし、ある合戦に、あまりに深入りして、ついに還《かえ》って来なかった。
氏郷は、権助の討死を報らされると、しばらく沈痛《ちんつう》な面持でいたが、
「余が、あやまった。およそ士卒の剛臆《ごうおく》は主将たる者の帥《ひき》いる仕方によるものだ。松倉権助は、元来剛勇にして、不言実行の者であった。志も大きかったに相違ない。余が、戦功のたびに、禄を増やしてやったために、権助は、ますます、功名せんときおい立った。思うに、余が取立てることに、いますこし、吝嗇《りんしょく》であったならば、無理死はせなんだであろう。あたら武辺を失った」
と、言ったという。
天正十八年、秀吉は、小田原北条氏を滅し、さらに伊達政宗を降して、奥羽二州を従えて、天下|悉《ことごと》くを掌中《しょうちゅう》に納めると、会津が、東北の雄鎮《ゆうちん》たるに鑑みて、特に、蒲生氏郷を抜いて、この地を与え、奥羽の咽喉《いんこう》を扼《やく》した。
それまで、氏郷は、伊勢松ヶ崎十二万石の大名であった。一躍して、会津九十二万石に封ぜられたのである。
にも拘《かかわ》らず、沙汰のあった日、氏郷は、浮かぬ面持であった。
侍臣山崎某が、その不審を問うと、氏郷は、薄ら笑って、
「わしの志は、中原にあった。都に近いところならば、たとえ、いかに小さな国ひとつでもよい。ついに天下に旗を挙げる機会もあろうに、辺陬《へんすう》にすてられては、何事も仕出す事能わず、空しく老い朽ちるのを待つばかりだ」
と、こたえた。
後日、山崎某が、このことを、得意げに、他家の武士に吹聴《ふいちょう》し、口から口へと伝わって、石田三成の耳に入ったために、氏郷の生命を縮めることになった。
三成は、かねてから、氏郷の智略に富み、且つその軍容の厳正なるを視《み》て、密《ひそか》におそれるところがあったのである。
氏郷が、会津領主となったのは、三十五歳の壮時であった。しかも、秀吉に対して、必ずしも家臣の礼をとらないでもよい、徳川家康や前田利長と同格の列に在った。
石田三成にとっては、甚《はなは》だ目ざわりな存在であった。
三成は、すでに、秀吉の精神と肉体の衰弱を観ていて、すこぶる遠大な計画を樹てていた。
すなわち。
太閤万歳ののちには、おのれの力で、天下を覆《くつがえ》そうという野望を、肚裡《とり》にひそめていた。その際、おのれの正面に立ちふさがるのは、まず徳川家康である。
老獪《ろうかい》無類の家康を仆《たお》すには、これに対抗し得る大大名を味方にせねばならぬ。越後の上杉景勝こそ、胸中を打明けるべき唯一の味方である、と考えた三成は、景勝の謀臣直江山城守|兼続《かねつぐ》を、某夜招いて、四方山《よもやま》の話のすえに、
「太閤万歳の後、それがしに、義兵を起して、大運を試みる存念がござる。されば、その際、徳川内府を除《のぞ》く手段は如何《いかん》!」
と、問うた。
智謀《ちぼう》天下に鳴る直江山城は、しばらく、沈思していたが、やがて、穏かな声音で、
「関東八国による徳川内府を仆すには、その背後の会津にある蒲生氏郷を仆さねばならぬと存ずる。すなわち、わが上杉家が、会津をも合せ領《おさ》めて、武力を強大にして、御貴殿が上方に挙兵なさるのに呼応《こおう》し、関東を挟撃《きょうげき》いたせば、望みは叶うかと存ずる」
と、こたえた。
直江山城のこの言葉によって、三成の氏郷暗殺の肚《はら》はきまったのである。
三成は、機会あるごとに、秀吉の耳に、氏郷には、天下を掌中にせんとする謀叛心があると、吹き込んだのであった。
秀吉が、十歳若かったならば、三成の讒説《ざんせつ》を、笑ってしりぞけたに相違ない。
秀吉は、完璧《かんぺき》なる天下人になった時から、頭脳の歯車が狂いはじめたのであった。
後世史家は、朝鮮征伐を、一種の征服慾の発作と認める。また、愛児の夭死《ようし》による鬱悶《うつもん》を排《はい》せんがためであった、とする。
雄才大略《ゆうさいたいりゃく》の人物としては、その外征を、殆どその準備をなさずに、呶号とともに決定したのは、まさしく血迷うた証拠であろう。まぎれもなく、発作であった。
策士三成に、躍らされる老醜《ろうしゅう》の惨めさを、徳川家康は、冷ややかに眺めていたことになる。
かくて、蒲生氏郷は、毒殺された。
その辞世は、あらかじめ、三成によって、用意されていたのである。
この時、氏郷の長子鶴千代は、会津城に在ったが、まだ十一歳であった。
氏郷夫人の|もう《ヽヽ》の方《かた》と次子松千代(六歳)は、大阪城内にいた。人質であった。
氏郷が急逝《きゅうせい》してから二日後の深更《しんこう》――
|もう《ヽヽ》の方は、わが名を呼ぶ声に、目をさました。
消した筈の燭台には、灯がともされてあり、忍び装束の黒影が、そのかたわらに蹲《うずくま》っていた。
「あ――風魔《ふうま》か」
夫人は、一瞥《いちべつ》した瞬間、不吉なものをおぼえた。筑波山中に身を起した忍者・風魔|来太郎《らいたろう》を、氏郷は、十年前から、影の形に添う護衛者としていたのである。
氏郷の身辺からはなれて、ここまで奔《はし》り還《かえ》って来たのは、ただ事ではなかった。
「殿には、一昨夜、御他界にございます」
風魔来太郎は、抑揚のない声音で、報らせた。
「誰人《たれびと》の手により――?」
夫人は、動悸《どうき》を押えて、訊ねた。
「石田治部少輔にございます」
「太閤は?」
「黙許と察しられます」
「御遺言は?」
「鶴千代に家を、松千代に刃《やいば》を――と、ただ、それだけ仰せられました」
「鶴千代に家を、松千代に刃を。そうじゃな?」
「しかと相違ありませぬ」
しばらく、沈黙が置かれた。
夫人は、口をひらいた。
「松千代に刃を与えたのち、使いようを教えるのは、そちの任務といたしまする」
「かしこまりました」
風魔来太郎は、平伏《へいふく》した。
その年、夏――。京都伏見城に在った秀吉は、本丸小書院において、伊達政宗|対手《あいて》に、碁を打っていた。
双方互角の腕前であったが、もとより、秀吉の方が白を持っていた。
やがて、一目勝ちした政宗は、当然、白を要求した。
秀吉は、かぶりを振って、
「いま、一石参ろう。それで、お許《こと》が勝てば、白を渡してくれよう」
「身共が勝つに定《き》まって居ります」
「増上慢《ぞうじょうまん》を申すな。余が勝つ!」
「もし、身共が勝ったならば、白をお渡し下さるだけでは相済みませぬぞ」
「賭けを所望か。ふむ。面白い。なにが望みじゃ。……この正宗はどうじゃ?」
秀吉は、腰に佩《お》びた脇差を、たたいてみせた。
「政宗に、正宗は、賜《たまわ》り甲斐《がい》がありませぬな」
「よし、それでは――」
秀吉は、かたえにはべっている愛妾|香《こう》の前を、指さした。
「こやつを遣《つかわ》すぞ」
秀吉が、目下最もいとおしんで、毎夜、伽《とぎ》をさせている香の前は、伏見の地侍の女《むすめ》で、その美貌は、大阪城に在る淀君をしのぐと称《い》われていた。
「このお方を下されては、今宵より、閨淋《ねやさび》しゅう相成りませぬか?」
「ははは……心配いたすな。代りが参る、代りが――」
秀吉は、笑ってから、
「それよりも、そちは、何を賭けるぞ?」
「身共の首を――」
政宗は、平然として、こたえた。
「面白い。やろうぞ!」
二人は、真剣になって、石を握った。
一刻ののち、秀吉は、二目の差で、白石を投げた。政宗は、香の前をともなって、退出して行った。
秀吉が、べつに未練気《みれんげ》もなく、二年間も枕席《ちんせき》にはべらした絶世の美女を手離したのは、今日、大阪城から送られて来る新しい女性《にょしょう》に、心が浮いていたからである。その女性は、蒲生氏郷の夫人|もう《ヽヽ》の方であった。
秀吉が、三成に、氏郷毒殺を黙許したのは、|もう《ヽヽ》の方の気品高い楚々《そそ》たる容子を、脳裡《のうり》に泛べたためでもあったのである。
昏《く》れがた、|もう《ヽヽ》の方の行列は、伏見城に到着した。
|もう《ヽヽ》の方は、化粧直しを申し出て、すぐには、秀吉の前に伺候《しこう》しなかった。
|もう《ヽヽ》の方が、みちびかれたのは、香の前の居室であった。
そこには、そっくり、香の前の調度品がのこされていた。
「天下一富田」の背銘《はいめい》のある銀の小鏡のついた唐草|蒔絵《まきえ》の鏡台をはじめ、同じ蒔絵の耳盥《みみだらい》、香函《こうばこ》、櫛函《くしばこ》、折鏡立《おりかがみたて》、毛だれ箱、櫛入、かき墨、白粉とき、油桶、化粧水入、白粉筆、鉄漿椀《かねまり》、臙脂皿《えんじざら》……その他の化粧道具が、整然とならべられていた。
主《あるじ》を失ったそれらの調度品へ、|もう《ヽヽ》の方は、冷たく沈んだ眼眸《まなざし》をあてただけで、手に把《と》ろうとはしなかった。
|もう《ヽヽ》の方のうしろには、次子の松千代が、坐っていた。
|もう《ヽヽ》の方は、頭をまわして、松千代を視《み》ると、
「松千代、かねて、ようく申しきかせましたこと、お忘れではありますまいね?」
と、念を押した。
「はい――」
松千代は、頷《うなず》いた。六歳にしては、むしろ育ちのおくれているような、骨の細い、色白な、少女のように目もとの涼しい少童であった。
「重ねて申して置きます。本日の儀――母が、太閤のおそばにはべるのは、そなたの兄鶴千代が、会津九十二万石を守って、蒲生家を百代の後までも、嗣《つ》ぎ襲《つ》がせるための、やむなき忍耐でありまする。わたくしは、母として、女として、堪え難い仕置きをしのぶことに相成りまする。されば、母が屈辱《くつじょく》のさまを、そなたは、そのまなこで、つぶさに見とどけねばなりませぬ。そなたは、見とどけたならば、おそらく、生涯忘れはいたしますまい。母とともに堪えた屈辱の思い出は、必ずそなたに、復讐をなしとげさせましょう。母は信じますよ」
そう説ききかせる|もう《ヽヽ》の方の頬を、ひとすじ、冷たく光るものが、つたい落ちた。
それから、半刻後、侍女が、秀吉に、寝所の用意がととのったことを告げた。
秀吉は、その時、曲碌《きょくろく》に腰をかけて、前をはだけ、茶坊主に、腎虚《じんきょ》の手当をさせていた。
わざわざ富士山頂から取って来た根雪を、真綿でつつんで、睾丸を冷やす処方を、秀吉は、数年来つづけていたのである。
「もうよかろう」
秀吉は、程よく冷えた男子の象徴を、茶坊主に、褌《ふんどし》で包ませると、さっさと廊下を歩いて行った。寝所に入った秀吉は、気軽に、青蚊帳《あおがや》の中を覗《のぞ》いてみて、
「おお、参ったな……。気ままじゃ」
と、言って、はぐった。
羽二重の寝召《ねめし》をまとって、褥《しとね》の上に正座した|もう《ヽヽ》の方の姿は、秀吉がこれまで抱いた如何なる女性よりも、けだかく、美しく見えた。秀吉は、|もう《ヽヽ》の方の前に、どっかと胡坐《あぐら》をかくと、大声で、
「この秀吉が、そなたに惚れたのは、昨日今日のことではない」
と、言い乍《なが》ら、手を把ろうとして、ふと、蚊帳の片隅に、ちょこんと坐っている小さな姿を見つけた。
「なんじゃな、このこわっぱは?」
秀吉は、怪訝《けげん》そうに、じろじろと視やった。
「氏郷が次男にございます。……松千代、御挨拶を――」
|もう《ヽヽ》の方は、促《うなが》した。
松千代は、畳に両手をつかえると、
「蒲生松千代、当年六歳に相成りまする。お見知り置き下されませ」
と、平伏した。
「母似じゃの。色子面《いろこづら》が可愛いぞ。……したが、何故ここへ連れて参った?」
「母子ともに大阪城に罷《まか》りあるべし、とのお達しなれば、当城へのお招きにも、離ればなれは相成らずと存じ、ひきつれました」
「どうして、別室に伏せさせぬ?」
「母の姿を見失うことをいやがります……」
秀吉は、その口上をきくと、慍《おこ》るかわりに笑った。淀君に生まれた秀頼が、母の姿が、ほんの一瞬見えぬと、泣きさけぶさまを眺めていたからである。
「大阪では、母よりほかにすがる者は居らぬので、余計に、甘え坊主になったのであろう。よいよい。はなれるな。そばへ、褥《しとね》を延《の》べさせて、寝かせてくれよう」
「いえ、いまだ位階もない身分なれば、そのままに、見すて置き下されまするよう、願い上げまする」
「じゃが、視せてよいものと、わるいものがあるぞ」
「太閤殿下のお言葉ともおぼえませぬ。母が、位《くらい》人身を極《きわ》めた天下人のお情けを受けるのを、その目にのこさせて、なんの不都合があろうか、と存じまする」
「そなたが、かまわぬと申すのであれば、わしの方は、一向に目ざわりにはならぬぞ」
秀吉は、老い痴《たわ》けたせっかちさで、いきなり|もう《ヽヽ》の方を横抱きに、褥《しとね》へ倒して、猿臂《えんぴ》をのばすと、純白の寝召の前を、ひき捲った。
|もう《ヽヽ》の方の腰を包んだ二布《こしまき》は深蘇芳色《しんすおうしょく》であった。
幾年か前、さる中宮が、禁色《きんじき》を犯した女官を、怒りにまかせて、御所の庭に縊《くび》らせた出来事があった。その女官が腰にまとっていた二布がこれであった。女官は、天皇に、意《こころ》をそむけ乍ら、からだをささげて、それを中宮に嫉妬《しっと》され、殺されたのである。
不幸な女官は、|もう《ヽヽ》の方の姉であった。
|もう《ヽヽ》の方は、良人の敵である太閤に、身をまかせるにあたって、姉がまとうていた禁色を肌につけて来たのである。
深蘇芳が、滑り落ちて、はだけると、豊かな白い下肢が、ゆらめく燭台の灯かげに、妖しい陰翳《いんえい》を織りつつ、浮きあがった。
六歳の少童には、この奇妙な遊戯が、何のためであるか、全く見当もつかなかったが、母が、無慚《むざん》な拷問を受けているくやしさに、小さな拳《こぶし》で、袴を掴みしめ、歯を食いしばった。
双眸《そうぼう》を、そ向けてはならなかった。母の命令は、いかなる場合も、目蓋《まぶた》を閉じてはならないということだったのである。
松千代は、やがて、老爺が、上になるのを、視た。
――母上が、殺される!
松千代は、そう感じた。
しかし、やせこけた躯《からだ》を、しきりにもぞもぞとゆすったり、妙な呻《うめ》きをたてたりしたのは、老爺の方であった。
そのうちに、老爺は、
「くそ!……象の鼻めが!」
と、あわれな弱音を発したものだった。
松千代は、母の白い手が、ゆっくりと動いて、ひとつのしぐさを為した時、はじめて、目蓋を閉じた。
それから、二十年――倉皇《そうこう》として年が明け、年が暮れた。
元和元年四月の某日。
大阪城真田丸に、一人の眉目優しい牢人者《ろうにんもの》が、訪れた。この日、猿飛佐助は、冬の陣の砲火に小篠《こざさ》を焼きはらわれた篠山高地に、近頃の仕事にしている鑑賞樹木の苗木植えをせっせとやっていた。
と――。
佐助としたことが、背中に冷水をあびせられたような戦慄をおぼえて、咄嗟《とっさ》に、九尺あまり跳躍《ちょうやく》した。
すぐに、向きなおらず、徐々に頭をまわした佐助はそこに、なんの奇異も感じさせない若い牢人が、彳《たたず》んでいるのを見出した。
「何を所望でござる」
佐助は訊ねた。
「勝負を――」
牢人者は、言った。爽やかな声音であった。
「勝負を?」
「左様――」
「それがしとかな?」
「いや」
牢人者は、かぶりをふると、佐助を頭からつま先まで見下し、
「真田左衛門佐殿は、お主《ぬし》のような忍びの達者を、幾人がほど、養っておられようか?」
「それを、きいて、なんとなされる?」
「多ければ、多いほど、のぞましい」
「高言は、ほどほどに吐くものぞ!」
佐助は、ようやく、向きなおって、対手が思いがけない迅業《はやわざ》を使うかも知れぬ危険に対する構えをとった。
牢人者は、無表情で、
「お主は、もう、わしとの勝負に負けて居る」
と、言った。
「これは、きいたぞ。それがしが負けた証拠を、見せてもらおう」
佐助は、胸を張った。
「お主のせなかにある」
「何と?」
佐助は、はじめて、牢人者に対して構えた神経を、おのが背に、分けた。
「……?」
佐助の背すじを、再び、戦慄が起った。
無数の蜂が、背中に蠢《うごめ》いているのを、感じたのである。ただの蜂ではない。毒針でひと刺しされると、生命もおぼつかぬ。
「お主は、その蜂めらを追い払うために、もう一度、宙を跳ばねばなるまい。その隙を、わしは、のがさず、斬る!」
宣告は、あくまで穏かな声音と表情で、なされた。
「ふむ!」
佐助は、にやっとした。
「やり申そうか。はたして、お前が、それがしを斬れるか、どうか」
「……」
牢人者は、燐《りん》が底で燃えるような、青白い光を、きらっ、と双眸から放射して来た。
佐助は、ゆっくりと、両手をまっすぐに、胸前へさしのべて、
「いざ!」
と、言った。牢人者の痩身に、はじめて、殺気がみなぎった。十を数えるくらい対峙《たいじ》状態が置かれた。
「えいっ!」
凄まじい気合を噴《ふ》かせたのは、佐助の方であった。牢人者は、間髪《かんはつ》を入れず、身を沈めざま、宙に躍りあがった佐助の鼠色の筒袖姿へ、抜く手も見せぬ飛電《ひでん》の一閃を送った。
胴がまっ二つにされるや、速影《はやかげ》は、左右へ刎《は》ねとび、そこから、無数の毒蜂が、ぱっと舞い上がった。
「勝負なし!」
斬られた筈の佐助の声が、杉の若木の蔭からひびいていた。
裸の佐助が、そこに坐っていた。
宙へ飛躍させたのは、着物だけであった。着たままの形で、対手に錯覚《さっかく》させた秘術は鮮やかであった。牢人は、しかし、薄ら笑うと、
「やはり、お主の負けだ」
と言い乍ら、白刃を腰に納めた。
「何が面白うて、腹を立てさせようと計るのか」
佐助は、まばたきし乍ら、立ち上った。とたんに、頭上へ、毒蜂の群がわあっと唸って、殺到して来た。素裸を狙われては、たまらぬ。
やむなく、佐助は、九尺も跳《と》び退った。
毒蜂の群は、渦を巻いて、襲って来る。
佐助は、三度び跳び退るや、塹壕《ざんごう》が溜めた雨水の中へ、ずぶっと首まで沈んでしまった。牢人者は、その負け首へ、一顧《いっこ》もくれずに、しずかな足どりで、真田丸へ向った。
風魔鬼太郎《ふうまおにたろう》、と名のって、幸村に面会をもとめた若い牢人者は、一堂《いちどう》にかなり長時間、待たされた。
幸村は、そのあいだに、佐助から、面会者が、意外の秘術をそなえている兵法者であることをきいた。
風魔一族、といえば、曾《かつ》て関東一円に跳梁《ちょうりょう》した剽悍無比《ひょうかんむひ》の乱破《らっぱ》である。天正十年三月、武田勝頼が、天目山の麓で屠腹《とふく》し、武田家が滅んだ際、信州鳥居峠で、信州を跳梁する群盗水破《ぐんとうすっぱ》が、落人を襲って、悉《ことごと》く剥《は》ぎ取った。すると、突如として、その前に、風魔一族を示す髑髏《どくろ》旗をかかげた乱破が出現し、旋風《せんぷう》のごとく、蹂躙《じゅうりん》し去った。このために、信州の群盗水波は、壊滅《かいめつ》して、後を絶った。
幸村の伯父にあたる真田|兵部昌輝《ひょうぶまさてる》は、武田勝頼に仕え、天正三年五月、長篠役で討死しているが、その家臣に、割田下総守という勇猛の士がいた。膂力五十人力、忍びの術は古今無双《ここんむそう》の称があった。昌輝が討死した後、武蔵野の原野の中へ、姿をくらましたが、風魔一族は、この下総守によって、つくりあげられた、と伝えられている。
風間一族のうちで、諸侯にやとわれた者は稀《まれ》で、ただ一人、風魔来太郎なる者が、蒲生氏郷に仕えた、という噂を、幸村は、耳にしたことがある。
幸村は面会者の前に坐ると、まずその眉目の美しさに、打たれた。この匂うような気品は、ただの素性ではない。
「風魔と名のられたが、乱破らしゅうみえぬが……」
幸村は冴えた眼眸《まなざし》で、視据《みす》えた。
牢人者は、無表情で、
「蒲生氏郷が次子松千代の変わり身と、ご承知ありたい」
と、名のった。
「成程、左様か――」
氏郷に仕えた風魔来太郎によって、育てられ、きたえられたに相違ない。
「勝負を望まれるそうだが、この左衛門佐の生命奪《いのちと》りでも、関東方に頼まれたか」
「さにあらず――」
風魔鬼太郎は、はじめて、薄ら笑うと、
「それがしの父氏郷は、故太閤の黙許によって、石田治部少輔の手で毒殺され申した。遺書は、長子鶴千代には家を、次子松千代には刃を、というのでありました。母は、遺言に順《したが》い、家を守るために、故太閤に操を呉れ、それがしの胸中に讐《あだ》を復《かえ》す意を植えておいて、自害して果て申した」
「……」
「母は、故太閤に操を呉れる際、六歳のそれがしを、閨《ねや》にひき据えて、始終を目撃させ申した。それがしは、この屈辱を、今日、豊臣家に対して、そのまま、報復いたそうと存ずる」
「どのような手段を選ばれる」
「秀頼公の面前にて、その母人《ははびと》を犯してごらんに入れる」
昂然《こうぜん》として、言いはなった。
淀君を、秀頼の面前で犯す――殆ど不可能事と考えられる企てである。
「この左衛門佐に、予告される存念は?」
「貴下が養われる手練者《てだれ》を、八方に配って、いやが上にも警戒を厳重にされることを望み申す。そうあってこそ、それがしも、報復の為《な》しがいがあると申すもの」
満々たる自信がなければ吐けぬ高言であった。
狂人のうそぶきとも、きこえぬこともない。
ただ、この風魔鬼太郎が、隙を掴む余地があるとすれば、いかに幸村が、十勇士らを八方に配置して、厳重な警戒網を張っても、淀君自身に対して、この企てを打明けられぬことであろう。淀君と秀頼の日常の振舞いを、しばるわけにはいかないのである。そこに、つけ入る隙が、ないとは言えぬ。
それにしても、放胆きわまる挑戦であった。
「よろしかろう。お手前の手並を拝見するといたそう」
幸村は、眉宇《びう》も動かさずに、応じた。
その日から、淀君と秀頼の身辺に、幸村の命を受けた忍者たちの目が昼夜をわかたずに光りはじめたのを、しかし、当人らはもとより、近習も侍女も全く気がつかなかった。
大阪城は、冬の陣の和議によって、完全な裸城《はだかじろ》になっていた。三ノ丸、二ノ丸の内堀は埋めたてられ、二ノ丸の千貫櫓《せんがんやぐら》をはじめ、有楽《うらく》屋敷、西ノ丸御殿、大野治長屋敷まで引き崩《くず》されてしまって、一望見わたす限りの平地と化し、本丸だけが、さむざむと残存していた。闇にまぎれて、曲者が本丸まで忍び入ることは、さして困難ではなかった。
幸村は、麾下《きか》六文銭組を総動員して、侵入者に当らせた。
恰度《ちょうど》、家康から、難題がふきかけられて来たさなかであった。
秀頼を、大和か伊勢に落すか?
それとも、浪人どもを悉《ことごと》く追放するか?
孰《いず》れかをえらべ、という要求であった。
大阪としては、いずれをも行うに忍びなかった。国替えの要求は、秀頼現状維持の誓約にもとるものであった。浪人衆追放の要求も、故参、新参を問わず、身上を保障した誓約に反した。
裸城にされたいま、いざ鎌倉となれば、恃《たの》むのは、浪人衆の武力であった。
城内では、評議がくりかえされ、淀君も秀頼も、遊興どころではなかった。
すなわち、秀頼母子の、朝から夜までの行動は、花押《かおう》を描くように、きまりきったものになっていた。真田の忍者たちにとっては、まことに、楽な監視であった。
それだけに、風魔鬼太郎が、いつ、どこで、どのように淀君に襲いかかるか、異常な興味をそそられることだった。
夜半に、霧隠才蔵《きりがくれさいぞう》と交替して、真田丸へ戻ってきた真田大助は、幸村の前に出ると、
「父上、風魔に、たとえ幽鬼《ゆうき》と化す術《すべ》があろうとも、淀君様を犯し奉る隙など、あろうとは思え申さぬ。まして、秀頼公のおん前でなどとは、笑止の沙汰と申すもおろかと存ずる」
さも、ばかばかしげに、言った。
「算《かぞ》うるに遺策《いさく》なし、画くに失理なし、と誇った時、思わざるところに、油断が生じて居ろう。千里の堤も、蟻の一穴《いっけつ》から、崩れる、と申すではないか」
幸村は、いましめた。とたんに、幸村の脳裡《のうり》に、はっと、ひとつの直感が掠《かす》めた。
「佐助を呼べ」
大助に、命じた。
幸村は、佐助が入って来ると、大奥の絵図面の、一箇処に、朱丸をつけて、指さした。
「佐助、明朝より、ここに忍んで居れ。動くな」
「動くな、と仰せられると?」
「何事が起ろうとも、動かずに、ただ、見とどけて置けい。それでよい」
「かしこまってござる」
十日が過ぎた。
淀君は、午食《ごしょく》を摂《と》ったのち、いつものならわしで、手洗所《ちょうず》に入った。
手洗所は、段々に三室に分れていた。京の御所を模したものである。
はじめの室には、湯桶《ゆおけ》、盥《たらい》などが据えられてあり、次の六畳間に、下帯や二布《こしまき》や足袋をしまってある戸棚が設《もう》けられてある。侍女は、ここで待つ。
上段が御用場で、畳敷きの六畳間である。黒塗り縁《ぶち》の落し孔は、楕円《だえん》に切ってあり、五寸ばかり下に、孔雀《くじゃく》の羽根が、いちめんに、さし交《かわ》され、底をかくしていた。この孔雀の羽根は、朝、昼、晩と三度とりかえられるので、いつも綺麗であった。
淀君が、裾を捲《まく》って、跨《またが》り、しゃがんだ――その瞬間であった。
一本の白刃が、孔雀の羽根の蔭から、さっと突き上げられた。
叫びを立てるいとまさえもなかった。
おのが腹、胸の肌に、ひやりと冷たい触感が走った、感じた瞬間には、衣装の下をくぐった白刃は、乳房と乳房の谷間をすり抜けて、その切っ先を、白い咽喉に擬していたのである。
「動いては、なりますまい! そのままで、しばしの辛抱だ。……もっと、臀部《でんぶ》を落して頂こう。この孔雀の羽根のあたりまで」
不浄《ふじょう》の穴底からひびく、歯切れのいい命令に、淀君は、抗《こう》すすべもなく、あまさず露《あら》わにした丸い豊かなふたつの|しり《ヽヽ》を、徐々に、落し孔へはめた。
「さて、こんどは、平常の声音で、侍女に、秀頼公を呼ぶように、命じて頂こう」
次の命令は、それであった。
「秀頼を? な、なぜ、呼ぶのじゃ?」
「理由をきかれるな! お呼びあれ」
柔肌と襦袢《じゅばん》のあいだをつらぬいた白刃が、わずかに動いて、切っ先を咽喉へ、チクリとふれさせた。
淀君は、命令に従うよりほかはなかった。
侍女に告げられて、不審の面持で、手洗所に入って来た秀頼は、
「お母《はは》――、なんとされた?」
と、呼び乍ら、御用場の檜戸《ひのきど》を、開いた。
そして、そこに――臀部をふかぶかと、楕円の落し孔へはめて、両手を畳についている淀君の姿を見出して、いそいで、抱き起そうとした。
すると、淀君は、悲鳴のように、
「寄るまいぞ!」
と、鋭く叫んだ。
「ど、どうなされたのじゃ?」
「よ、よいのじゃ。……た、ただ、そこで、だまって、眺めていて、くれれば、よい」
そう言って、今年四十九歳の、驕慢《きょうまん》な、大阪城の女あるじは、|ひし《ヽヽ》と目蓋をふさぐと、厚化粧の貌《かお》を仰向けた。
その表情が、苦痛とはちがって、一種の陶酔の色を刷《は》いたものであり、やがて、半びらきにした唇から洩らす声音が、官能を疼《うず》かせるみだらな性質のものであるさまを、秀頼は、奇妙な刺激をそそられて、見戍《みまも》らねばならなかった。
半刻後――。
手洗所の天井裏から、始終を見とどけた佐助から、報告を受けた幸村は、微笑して、
「見ン事、裏をかかれたの」
と、言った。
佐助は、せわしく、まばたきし乍ら、主人の顔を眺めていた。なぜ、目撃させただけで、淀君を曲者から救わせなかったのか、佐助には、一向に、判らなかった。
山田長政
京、大阪に、「伊勢踊り」という奇妙な踊りが流行《はや》りはじめたのは、慶長十九年の夏からであった。
この発源地は、伊勢の山田であった。
「天照大神《あまてらすおおみかみ》、目《ま》のあたり、奇瑞《きずい》を示して、高く大空を御|飛行《ひぎょう》あらせられ、万民踊るところは、家も栄え、国土も平穏なれど、踊らぬところは、飢饉《ききん》、災厄《さいやく》ならび臻《いた》るべし、と人に憑《かか》って御|託宣《たくせん》あらせられた」
と、謡言《ようげん》したのがはじまりで、
「踊れ、踊れ、なにがなんでも踊らにゃ、損やで。踊りまくっているうちに、御利益が、さずかるのや」
と、たちまち、四方に、伝わってしまった。
市街のあるところ、各町毎に山車《だし》を出し、一人が烏帽子《えぼし》、白い浄衣《じょうえ》をつけて、御|祓《はらい》をゆいつけた榊《さかき》の枝をひっかついで、先頭に立って、ねり出した。禰宜《ねぎ》というところであったろう。
それにつづいて、花笠をいただいた者、紅《くれない》の投頭巾《なげずきん》をかぶった者、少年も少女も五彩きらめく衣裳をつけさせてもらい、一組がすくなくとも五六十人、多くは二百人もこえて、これを踊りの一華《ひとはな》と称し、
「囃《はや》せや、はやせ、神踊り――」
とうたい喚《わめ》いて、踊り狂った。
早朝から日没まで、まるで狂気の沙汰であった。
べつに、足の踏みかたにも、手の振りかたにも、作法はなく、自分勝手に、踊り狂えばよかったのである。
踊りの列は、鎮守の社の境内はもとよりのこと、領主の館にまでねり込んだ。京の都では、大宮御所から仙洞《せんとう》御所、女院《にょういん》御所から内侍所《ないしどころ》まで、一日に五六十華が、聚《あつま》って、踊りを御覧に入れた、という。
やがて、この莫迦《ばか》踊りは、全国に伝播《でんぱ》して、津々浦々におよんだ。
異様な現象は、天下の変る一兆と見るべきであったろうか。
その冬、大阪城は、徳川勢に攻められ、和議成って、外郭《がいかく》、塹壕《ざんごう》ことごとく破壊され、本丸ひとつの裸城にされてしまった。
この合戦に、息をひそめていた庶民は、元和《げんな》元年の春を迎えるや、たちまち、莫迦踊りを復活させたのであった。
そして、これは、上方から関東、東北にかけて、蔓延《まんえん》した。
事触《ことぶ》れの山師禰宜らが、唐人烟火《とうじんはなび》を仕入れて来て、夜中に、空へ打ちあげ、
「それっ! 大神宮様が、御飛来《ごひらい》じゃ」
と、奇瑞《きずい》を作って、そそったのである。
唐人烟火など見たこともない地方の庶民らは、空中に美しく花ひらいた仕掛け火に、ただもう、きもをうばわれて、足腰立たぬ病人まで背負うて、莫迦踊りに加わる騒ぎを起したのである。
『囃せや、はやせ、神踊り。
東の神が、西を押えた神踊り。
もひとつ、せい。
囃せや、はやせ、神踊り。
西を払うぞ、神踊り』
と、千百が群を為して、日本全土で、練り歩いたとは、まさしく、奇妙な流行というべきであった。
そうした某日、真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》は、大阪城の大評定の広間において、思いきった発言をした。
「天下にひろがった莫迦踊りによって、徳川内府の狡猾《こうかつ》無比の策には、とうてい敵《かな》わぬと、きまり申した。秀頼公には、すみやかに、当城をおひきはらい遊ばされて、永住の地をおもとめ遊ばされますよう――」
この発言に、列座した数十名の諸将らは、一瞬、息をのんだ。
家康から、
「秀頼を大和か伊勢に落すか、それとも、牢人《ろうにん》どもを大阪城から全員追放するか」
という難題を吹きかけられて、もはや一月あまりになっていった。
孰《いず》れをも、承知しかねて、評議はいたずらにくりかえされていたのだが、正面きって、秀頼に落人《おちうど》たれ、と言い出したのは、この日、幸村がはじめてであった。
淀君が、柳眉《りゅうび》をつりあげて、
「左衛門佐は、内府から、信州一国でも貰う密約でもしやったか?」
と、叫んだ。
幸村は、冷然として、
「それがしは、豊家のおん為を思うならば、斯様《かよう》な進言はつかまつらず、大阪城炎上とともに、お果て遊ばされて、千年の後までも、同情をお貰いなさるがよし、と進言つかまつる。されど、秀頼様には、春秋に富まれるおん身なれば、あらたに、驥足《きそく》を展《の》べられる新天地を発見遊ばされるも可、と存じて、申上げたまででござる」
「新天地とは、何処じゃ? 薩摩《さつま》か、それとも、蝦夷《えぞ》か?」
淀君は、けがらわしげに、問うた。
すると、幸村は、|にこ《ヽヽ》として、
「さらに、もっと、遠隔《えんかく》の地でござる」
と、言った。
「なに、まだ遠方じゃと?」
「左様、暹羅《シャムロ》などは、いかがでござろうや?」
一同は、唖然《あぜん》として、幸村が狂気したのではないか、と疑った。
後藤又兵衛だけが、一人、にやりとしただけであった。
「左衛門佐、たわ言も程ほどにしやれ!」
淀君が、顔色を変えて、叫んだ。
「幸村、誠心をもって、申し上げて居ります。日本だけを、墳墓《ふんぼ》の地と思いなされているのが、そもそも、大まちがいと存ずる。……御一同には、東に亜米利加《あめりか》大陸あり、西に欧羅巴《ようろっぱ》大陸あり、北に|おろしや《ヽヽヽヽ》、南にわが日本に数倍する島国が無数にあることをご存じであろうか。されば、日本に住むことが窮屈になれば、東西南北、何処の地であれ、望みのままに、海洋を渡るに、いささかの不都合もあるまいと存ずる」
「成程。お許《こと》の理想は面白いが、かりに百|艘《そう》の軍船をつらねて、渡るわれらに、領土をくれる異邦が、何処にあろうか」
これは、大野修理大夫治長の言葉であった。
幸村は、その疑問をあびることを当然予期して、その静かな面持で、
「修理大夫殿には、海の彼方の国で、倭寇《わこう》と称ばれているわが海賊が、なお、数万、波涛《はとう》を乗りこえていることをご存じであろうか? 倭寇をして、われらが渡洋を守らせるならば、何処の土地であろうとも、わが日本程度の領土を獲得することは、さしたる難事ではござるまい」
倭寇とはなにものか?
刀の長さ五尺余、双刀《そうとう》を用うれば、丈余の地におよぶ。双手に掴んで舞うに、鉾《ほこ》を開けば、およそ一丈八尺。舞動すれば、上下四方ことごとく白くして、その人を見ず、衆みな刀を舞わして起《た》ち、空に向かって揮う。わが兵、倉皇《そうこう》これを仰げば、すなわち下より斫《き》り来る。
明国《みんこく》の風土記《ふどき》には、このように記されている。
倭寇は、何時から起こったか?
弘安四年、元の忽必烈《フビライ》が、十万の巨兵《きょへい》を率いて九州を襲撃して来たのは、実は、倭寇に支那沿岸が荒らされるのを憤《いきどお》った、報復攻撃だったのである。
北条時宗の果断と天風の力で、蒙古軍《もうこぐん》が、敗退するや、倭寇は、その勢いをますます増強した。
同じく元の頃であった。
北京の街を、十数名の日本人が、悠々《ゆうゆう》と徘徊していた。
たまたま、北京へやって来た日本の仏教僧徒が、渠《かれ》らを見つけて、
「彼《か》の者らは、元の国事を探らんとするものである」
と、阿《おもね》った。
官吏は、直ちに、渠らを追って、生捕ろうとした。
帝王|鉄木児《テムール》は、これをきいて、制止《せいし》した。
その勅語は、いかにも堂々たる、帝王の貫禄を示したものであった。
「刺探《したん》(間諜)なる者は、敵国にありて、もとより之あり、朕《ちん》いま四海に君臨《くんりん》して、万民に王たり、六合一家《りくごういっか》、なんぞ刺探ごときを用いんや。もしはたして、倭人《わじん》が刺探ならば、正に中国の盛《さかん》を観《み》せしめ、帰ってその主《あるじ》に告げて、嚮化《きょうか》するところを知らしめよ」
鉄木児は、忽必烈の後を継《つ》いだ王で、西暦一二九四年に即位しているから、わが国では南北朝対立の時にあたる。
すでにこの時代にあって倭寇は、数万の党を組んで、中国大陸を襲う計画をたてていたのである。
楠木|正行《まさつら》が戦死した天平三年には、倭寇四千名は、百三十艘の軍船を聯《つら》ねて、朝鮮を襲撃し、南岸から疾風枯葉を巻く勢いで北上し、二千戸を焼きはらい、七千余の兵を斃《たお》し、自らも三百余を喪《うしな》い乍《なが》らも、一転して、遼東《りょうとう》半島を侵略し、半年あまり完全占領をした、という。
文中元年には、倭寇は、東西江に集結し、陽川《ようせん》を侵し、漢陽府《かんようふ》を抜き、廬舎《ろしゃ》を焼き、人民を殺掠《さつりゃく》し、数百里の間、騒然として、京城は、大いにふるえあがった。
南朝天授元年には、日本の藤原経光《ふじわらつねみつ》なる武将が、千騎を率《ひき》いて、朝鮮に、領土を求めて来た。朝鮮政府は、経光に、順天の土地を与えたが、どうにも不気味なので、ひそかに、全羅道《ぜんらどう》の元帥金先致《げんすいきんせんち》に命じて、誘殺《ゆうさつ》させようとした。
ところが、この謀計は事前に洩れた。藤原経光は、憤怒《ふんぬ》して、千騎をしたがえて、南岸を駆け去って、海へ消えたが、その際、各処に高札をたてた。
『われら日本人は、これまで、入侵して、金銀を略奪すると雖《いえど》も、婦女|嬰孩《えいがい》を犯すことはせなんだが、こん後は、たとえ乳のみ児であろうとも容赦《ようしゃ》なく屠殺《とさつ》して遺《のこ》すところなかるべし』
これより、全羅揚広の浜辺は、蕭然《しゅくぜん》として、全く空しかった、という。
翌天授二年には、朝鮮では、ついに、倭寇をおそれるあまり、都を鉄原《てつげん》に移した。
天授五年には、五百艘の戦艦を艤《ぎ》した倭寇が、鎮浦《ちんぼ》口を侵した。
その数は、一万二千であった。
将は甲冑をつけ、八幡大菩薩と大書した指物《さしもの》を背負い、一丈余の山剣《さんけん》の槍をかざしている。兵もまた具足をつけて、槍、薙刀《なぎなた》を携《たずさ》えていた。のみならず、騎馬を船中に養っていて、百名をもって一隊とし、十騎を先陣として隊伍を組んだ。ただの草賊《そうぞく》ではなかったのである。
一万二千は、百二十隊にわかれて、州都を散行《さんこう》して、劫掠《ごうりゃく》をほしいままにした。そして獲得した米穀を、その船に転送する際、地上に捨てられた米は、厚さ、一尺に達した、という。
拉致《らち》した子女は、二千余。逃げ帰るを得た娘は、わずかに三百三十余人であった、とか――。
朝鮮は、ついに、倭寇に敵《かな》わぬとみて、金逸《きんいつ》なる将軍を日本に遣《つかわ》して、将軍足利義満に、倭寇の禁絶《きんぜつ》を乞わしめた。
義満は、国内粉乱のために、倭寇の鎮圧は不可能である旨《むね》を答えた。
朝鮮の恭愍王《きょうびんおう》は、憤怒《ふんぬ》して、倭寇の策源地《さくげんち》を絶たんとして、慶尚道元帥《けいしょうどうげんすい》某に兵船百艘を与えて対馬を攻めさせた。
応永二十年の春である。
宗《そう》頼義は、ござんなれ、とばかり、その百艘を一艘あまさず、海底へ撃ち沈めてしまった。
朝鮮王も、ついに屈服して、倭寇と協定して、貿易の利を収めさせることを約した。
朝鮮と和約を結んだ倭寇は、一転して、中国本土を狙《ねら》った。
応永二十一年。
倭寇三千余、船百四十余艘をもって、渤海湾《ぼっかいわん》外、長山列島の王家島辺にいたって、舟をかくして、将《まさ》に陸を襲わんとした。
明の中軍都督府左都督|劉公江《りゅうこうこう》は、あらかじめ、これを察知して、伏兵を設《もう》けて待ちかまえていた。
倭寇が上陸して来るや、明兵は、その背後を衝《つ》いて、まずその船を焼きはらい、左右から、挟撃《きょうげき》した。
文字通り、血みどろの修羅場《しゅらじょう》をくりひろげて、倭寇は、討死する者七百四十余、生擒《いけど》られる者八百五十余、四方へ逃げ散った者千余。生きて帰った者は、十余艘、毎船三四十人にすぎなかった。
下って、天文二十三年三月。
倭寇は、起《た》ってより未だ曾てみざる大軍をもって、明国を侵略《しんりゃく》した。
その総勢三万七千余をもって、江蘇《こうそ》、浙江《せっこう》から揚子江《ようすこう》一円を襲った。まず、昌国衛《しょうこくえい》を破り、大倉、上海を抜き、江陰《こういん》を掠《かす》め、乍浦《ちゃんぼ》を攻め、八月には金山衛《きんさんえい》を占領し、崇明《すうめい》から常熟《じょうじゅく》を犯し、翌年正月には、大倉から下がって松江を攻め、四月には、嘉善城《かぜんじょう》を陥《おとしい》れ、嘉興《かこう》を掠め、ひるがえってその本拠とする拓林《たくりん》に駐屯《ちゅうとん》して、兵備をあらたにして、蕪湖《ぶこ》を襲い、南京を撃ちとり、秣陵関《まつりょうかん》を攻めた。
真紅の陣羽織をひるがえし、赤革の頼政頭巾《よりまさずきん》をかぶった日本兵は、赤鬼として、中国全土を震撼《しんかん》させたのであった。
天文二十三年といえば、上杉謙信、武田信玄、毛利元就、北条氏康らが、寸土尺地を奪いあって、幾万の兵を草生《くさむ》す屍《かばね》にしている頃であった。
辺境無名《へんきょうむめい》の士らは、呑天沃日《どんてんよくじつ》の波涛《はとう》を蹴《け》って、中国大陸を襲い、南京、蕪湖までも横行していたのである。
真田幸村は、秀頼はじめ大阪城の諸将に、その百数十年にわたるわが武辺の壮挙を想起せしめようとしたのである。
日昏《ひく》れて真田丸の館へ帰って来た幸村は、一室で半刻ばかり沈思ののち、霧隠才蔵を呼んだ。
「お主《しゅう》、お呼びか」
と言って、立ったまま、障子を開いた。
傲慢《ごうまん》な態度は、相変らずであったが、この異邦の若い兵法者《ひょうほうしゃ》は、いつか、幸村に心服して、その命令には水火を辞せぬ覚悟を肚裡《とり》に据えていた。
幸村は、才蔵が、面前に坐ると、
「暹羅《シャムロ》へ行ってくれぬか、才蔵」
と、言った。
「暹羅へ?」
あまりの唐突な言葉に、才蔵は、あっけにとられた。
「それは、どういうのでござろう?」
「そちは、日本へやって来た時、山田仁左衛門の消息を伝えたな」
「伝え申した。長政は、暹羅のエーカー・トサロット王が、股肱《ここう》であったオークヤー・ナイワイの謀叛《むほん》で、王位を奪われんとしているとき、好機のがすべからず、と勇躍して、八幡船《ばはんせん》を駆《か》り申した。いま頃は、暹羅は、長政によって制覇《せいは》されおると存ずる」
「八幡船には、わが武辺者をどれくらい、乗せて居ったか、知っているか?」
「八百名あまりと記憶つかまつる」
「八百名では、いかに、仁左衛門に、神算鬼謀《しんさんきぼう》があろうとも、一国を取ることは叶うまいが、……天運次第では、旗本|頭《がしら》にはなって居るかも知れぬ」
「いいや、それがしは、長政は、将軍職を襲うて居ると存ずる」
「なぜだな?」
「お主《しゅう》は、関ヶ原役の後、追われた牢人《ろうにん》勢が、幾千も、船を駆って、海を渡って行ったのをご存じないか?」
「存じて居る」
「おそらく、長政は、それら牢人衆を、暹羅に呼び集めたと存ずる。されば、いま頃は、彼《か》の国は、日本軍隊の足下にござろう」
これをきいて、幸村は、微笑した。
「されば、そちに、ひと足さきに、暹羅に行ってもらおうと思う」
「ひと足さきとは?」
「大阪城は、近く、徳川勢によって、烏有《うゆう》に帰すであろう」
「……?」
「その際、秀頼公に、新天地をお与えいたさねばならぬ。どうやら、山田仁左衛門がいる暹羅こそ、恰好の土地であろう」
「成程――。しかし、秀頼公がよく承知なされますか?」
「徳川勢に包囲されるまでには、まだ半年あまりはあろう。そのあいだ、説得に努めようと思う」
「かしこまった。早速に、暹羅へむけて、出発つかまつる」
「六文銭組より十名、ほかに、秀頼公の小姓どもから二三名えらんで、つれて行くがよい」
「秀頼公の小姓を、なぜ、つれて参る?」
「暹羅の国情および暮らしぶりを観せて、直ちに帰国させるのだ。秀頼公と淀君に報告させるのが、肚《はら》をきめて頂く捷径《しょうけい》であろう」
「いかにも!」
才蔵は、合点した。
「秀頼公の小姓どもの中には、徳川方の間者《かんじゃ》が交っていると懸念《けねん》される。また、この企てが、淀君や大野修理の耳に入るのは、好ましからぬことだ。……そちは、今宵《こよい》ひそかに、秀頼公の寝所に、忍んで、じきじきに、言上して、許しを賜るがよかろう。秀頼公御自身は、遠く暹羅へ奔《はし》られることを、決して辞されるものではあるまい」
「かしこまった」
才蔵は、幸村の用意周到《よういしゅうとう》ぶりに、感服し乍ら、頭を下げた。
たしかに――。
幸村の計画に違算《いさん》はなかった。
しかし、計画というものは、幸村がいかに用意周到であろうとも、思いがけない奇怪な事態が起って、崩れ去る例をすくなしとしない。
霧隠才蔵が、幸村の命を含《ふく》んで、大阪城大奥へ忍び入り、今夜は、秀頼公が千姫の寝所に入られたと、たしかめたのは、夜も四更《しこう》をまわってからであった。
ところが、それより半刻前に、千姫の寝所にあって、誰人も予測しがたい事態が起っていたのである。
秀頼が、千姫の寝所に入ったのは、三月ぶりであった。
淀君が、千姫を秀頼の妻として待遇せず、徳川家からの人質としてあつかって来たことは、「淀君」篇で前述したところである。淀君は、秀頼と千姫が一緒に住むことを許さなかったし、二人が顔を合せる席には、必ず、そばにいたのである。
しかし、ともに成長した秀頼と千姫が、それほどの淀君のきびしい監視の目をぬすんで、夫婦のちぎりをむすんでしまったのは、若い男女の本能であったろう。
そのことを知った淀君は、青天《せいてん》の霹靂《へきれき》のごとき衝撃を受けて、激怒した。
それは、秀頼十五歳、千姫十三歳の時であった。
爾来、淀君の監視ぶりは、夜叉《やしゃ》的な異常さを示したが、しかもなお、秀頼は千姫の寝所に忍ぶ機会を、月に一度や二度は、つかんだものであった。
冬の陣が終わり、裸城にされたばかりか、「秀頼を、大和か伊勢へ落せ」という家康の難題がふきかけられるや、淀君は、ついに、秀頼にむかって、膝詰談判して、千姫とのちぎりを永劫《えいごう》断つことを、誓わせたのであった。
にも拘《かか》わらず――。
秀頼は、千姫の寝所へ、忍んだのである。
灯は消されて、墨を流したようなしんの闇であった。
「お千――」
秀頼は、ひくく呼んで、
「参ったぞ」
と自《みずか》ら闇の中で、衣服を脱《ぬ》いで、几帳《きちょう》へかけておいて、褥《しとね》へすべり入るや、あらあらしい情熱をこめて、抱きしめた。
とたんに、はっとなった。
十八歳の千姫は、まだ、熟しきらぬ嫋々《なよなよ》として繊細《せんさい》な肢体のはずであった。いわゆる趙妃燕《ちょうひえん》が軽体細腰《けいたいさいよう》で、男の懐《ふところ》に入れば、くだけてしまいそうな、掌中《しょうちゅう》に軽いなよやかさであった。
ところが、いま、秀頼のかかえたのは、ずっしりと重い、楊貴妃《ようきひ》が挑杏《とうきょう》の豊満を誇《ほこ》る、濃艶《のうえん》の肉づきだったのである。
――おのれ、こやつ!
秀頼は、母淀君がすりかえた侍女め、と憤《いきどお》った。
矢庭に、鉤型《かぎがた》に曲げた十指をその頭にかけようとした刹那、秀頼は、再び愕然《がくぜん》となった。
柔らかな寝召《ねめし》から漂《ただよ》う香りは、鬱金香《うこんこう》だったのである。
鬱金香《チューリップ》から採るこの名香は、大阪城内で、一人、淀君のみが、その衣裳につけている。
あれほどかたく誓わせたにも拘わらず、忍んできた秀頼を、その現場においてとらえるために、淀君自身が、千姫とすり代って、待ち設けていたのである。
秀頼は、咄嗟《とっさ》に、異常の決意をした。
もし、いま、突き放されて、灯をつければ、淀君は、たちまち、大阪城の女あるじの威厳をその身にみなぎらせて、烈しく咎《とが》めだてて来るであろう。
しかし、この暗黒をさいわいに、替玉の侍女と察知したふりをして、あえて人倫《じんりん》の道をふみはずしてしまえば、実母もまた一個の女性として、煩悩地獄《ぼんのうじごく》の中で、肉欲におぼれてしまうに相違ない。
秀頼は、淫虐《いんぎゃく》狂暴|復《ま》た人理なしと評された金の廃帝|海陵王《かいりょうおう》にでもなったような凄まじい気組みになると、四肢に淫獣《いんじゅう》の暴力を張って、いきなり、片腕を下方へのばして、淀君の寝召も、腰裳《こしも》も、ひきめくった。
淀君は、秀頼の手が、汗ばんだ盈《み》ち肉の奥の、嫩《やわら》かな谷|間《あい》に落ちて来るや、小さく、「あっ!」と叫んで、かたく、股を合せた。
これまで、二十歳以下の、繊《ほそ》い雅《しなやか》な細腰ばかりに触れて来た秀頼は、熟《う》みつくした、濃艶|滴《したた》るばかりの桃膚を探る初経験に、人理を蹂躙《じゅうりん》する異常の興奮をそそいで、攻めたてた。
……闇は、妖気を発して蠢《うごめ》くふたつの肉体をおしつつんで、あくまで深かった。
霧隠才蔵が、音もなく、寝所に忍び入ったのは、きれぎれの喘《あえ》ぎや、皮膚の鳴る音もおわって、褥《しとね》がひそと動かなくなった時であった。
「上様――」
ひくく、呼びかけると、秀頼が我破《がば》とはね起きた。
「な、な、何者ぞ?」
驚愕《きょうがく》をむき出した顫《ふる》え声で、誰何《すいか》した。
「しずかに遊ばされませい。真田左衛門佐幸村が麾下《きか》にて、霧隠才蔵と申す者、お願いの儀があって、参上つかまつりました」
「閨《ねや》を襲うて、願いの儀とは――不届者《ふとどきもの》めが、下がれ!」
「内密のお願いなれば、ご容赦下されませい。……それがし主人が、本日の評定の座にて申上げましたる新天地開拓の儀にございます」
「そ、そのことならば、議するに及ばぬ。豊家は滅びぬ、永久にさかえる、と幸村へ申せ」
才蔵は、秀頼が何故に平静を失っているのか、判らぬままに、おのが口上だけは述べることにした。
「主人は、それがしに、急遽《きゅうきょ》、暹羅に参って山田仁左衛門長政なる稀代《きたい》の武辺が、当国を制覇《せいは》しつつある現状を見とどけ、上様がお渡り遊ばさるる城を設け置くべし、と命じました。されば、それがしに附けて、上様御寵愛の小姓一名お遣し下さいますれば、実状見聞きさせた上で直ちに、帰国いたさせまする。上様には、御聴聞《ごちょうもん》遊ばされるならば、必ず、大いなる御希望をお生みかと存じまする。……お願いつかまつりまする」
「わかった、下れ!」
「なお、この儀、淀君様、大野修理大夫様には、なにとぞご内聞に願い上げまする」
ともに臥《ふ》しているのが、淀君であろうなどとは、知る由もなく、才蔵は、言いのこしておいて、再び、闇の彼方へ消えうせた。
まさしく――。
左衛門佐幸村の慧眼《けいがん》に、あやまりはなかった。暹羅《シャムロ》こそ、日本を追われた武辺者たちが、勇飛すべき世界であった。
すでに、天正、文禄の頃――プラ・ナレー・ソワン王やエーカー・トサロット王の治世下の暹羅には、多数の日本人が在留していて、外寇を防ぐ任にあたり、かずかずの殊勲を樹てていた。
慶長に入るや、愈々《いよいよ》めざましい活躍となって、彼我の交易船はさかんに往復し、幾人かの日本人が、オーク・ブラという官爵《かんしゃく》を授《さず》かっていた。
やがて暹羅にも、凄まじい内乱が起った。
エーカー・トサロット王は、日本の将兵の指揮官として、スタッス親王を、大総督に任じた。
ところが、権臣の一人に、奸佞邪智《かんねいじゃち》に富むオークヤー・ナイワイという者がいて、国王と親王の間を裂くべく、
「スタッス親王には、天位を望む謀叛心があります故、日本軍の指揮官とすることは、危険であります」
と、讒言《ざんげん》した。
トサロット王は、単純な人物であったので、直ちに、スタッス親王を、城の地下牢へ押しこめた。
この報をきいた日本の将兵三百余名は、城を襲って、まずオークヤー・ナイワイを血祭りにあげた。
いずれも、日本にあっては、戦場を駆けめぐった荒武者であり、また朝鮮、中国を襲撃した生命知らずの倭寇たちであった。
ひとたび、王宮を襲うや、怒涛の勢いをとどめることができず、国王をも縄目にかけて、神に祈るために築かれた尖塔《せんとう》上にひきずりあげ、窓からつるした。
トサロット王は、あまりの恐怖で、発狂してしまった。さらに、日本軍は、数人の高官をも、捕らえて、首を刎《は》ねてしまった。
そして、スタッス親王を、地下牢から救い出して、王位を継承するように迫った。しかし、親王は、日本軍のあまりの暴行ぶりに、絶望して、王位に即《つ》くことを拒否した。
日本軍の指揮をとっていた大久保治左衛門は、親王の態度を怯懦《きょうだ》と視て、
「問答無用ぞ!」
と、喚《おめ》きざま、まっ向唐竹割《こうからたけわ》りに斬ってしまった。
その間に群臣らは、プラ・シイシン・ピモンタムなる叡智《えいち》を備えた青年僧のいる山へ、趨《はし》った。
ピモンタムは、アユチヤの東北にあたるプラバード山の頂上で修業中、岩の上に刻まれた釈迦如来《しゃかにょらい》の足跡《そくせき》を発見したことで、暹羅国民から、釈迦の再来として、渇仰《かつごう》されている高僧であった。
ピモンタムは、しかし、群臣らの嘆願に、容易に頷かなかった。
「わたしに国王になれというのなら、貴下らに、暹羅王朝の組織を根本から変革することを、承知して頂かねばならぬハ」
問答のすえに、ピモンタムは、言った。
群臣らは、変革とは何か、と問うた。
「王朝が独占する全財産を投げ出すこと」
ピモンタムは、こたえた。
群臣たちは、愕然《がくぜん》として、色を変えた。
当時――。
暹羅王宮は、他の国の君主とちがって、一大商人であり、一大地主であった。社会の組織、政治の発達が極めて幼稚であった為である。暹羅は、国民の資力が貧弱であったので、租税を充分徴収することが不可能であった。そこで、王宮は、自ら大商人となって、政権をもって商務を経営したのである。所謂賦《いわゆるふ》を加えずして上用足る、の手段をとったのである。
獣皮も銅も錫も、すべて王宮の専売であり、外国商人には、正金で二割五分の前金を支払わなければ、これらの商品を輸送することは、許されなかった。
ピモンタムは、この制度をすてろ、と言うのである。
「では、王室が養う軍勢は、如何相成りましょう?」
「商人たちに自由に交易させ、租税をとる。国を守る兵は、国民の金でやしなう――これが正しいことに存ずる」
正論は、しかし、現実に実行できるものとは、到底思われなかった。
山田長政が、八百の同志を率いて八幡船《ばはんせん》を暹羅へ乗りつけたのは、恰度《ちょうど》その戦乱のさなかであった。
国王を失った暹羅では、東北地方のロアング・プラバーン王をはじめ、諸侯が、日本軍撃退を口実に、都めがけて押しよせて来たのである。
仁左衛門長政は、すばやく、形勢を観るや、まず百騎をしたがえて、まっしぐらにアユチヤ王宮に突入して、日本軍首領大久保治左衛門に、面会をもとめた。
治左衛門は、倭寇が、わが軍に加わりに来たものと思って、大悦びで、長政を、元の国王の居室に招いた。
長政は、入って治左衛門の前に立つがはやいか、
「大莫迦者《おおばかもの》め!」
大喝一声《だいかついっせい》もろとも、抜き討ちに、その首を、天上高く刎《は》ねとばした。
王宮を占領していた日本軍は三百足らずであったが、暹羅兵四千は、おそれて近よらないでいたのである。
長政は、塔にのぼるや、四方数里にもひびきわたるような大音声で、
「日本兵に告ぐ。われらは、日本天皇の勅命を奉じて只今到着したる、鎮守府将軍藤原|秀郷《ひでさと》が後裔、足利太郎俊綱が孫にて、山田仁左衛門長政である。兵らよ、想え! わが大和もののふこそは、禅法を究《きわ》め、人世を石火電光《せっかでんこう》と観じ、生命を如露如電《にょろにょでん》と看るものにして、枯骸《こがい》は朽つるとも名は朽ちず、身命を落とすも弓矢取りの本意は死を善道に守り、名を義路に失わじと励むことなり。……されば、遠く異国に在りてこそ、その名節の重んずる気概を愈々《いよいよ》発揮すべきであろうぞ。王宮も奪うも、王位を奪《と》らんとする邪念なく、旌旗《せいき》を樹てるも、暹羅の旗を倒す意図なく、これひとえに、当国をして、百年平和たらしめんが為の快挙と心得てこそ、真の大和もののふと申すべき。……相判ったか!」
と、説ききかせた。
関羽のような長髯《ちょうぜん》を風になびかせた六尺数寸の偉容は、占領将兵を一も二もなく、歓喜させた。
ものすごい歓声を噴《ふ》きあげる同胞三百余を、見下して、莞爾《かんじ》とした瞬間から、仁左衛門長政の権勢はきまったのである。
長政は、直ちに、プラバード山へおもむいて、ピモンタムを説き伏せて、王宮へともない、国王の座に据えた。あとは、暹羅に散在する日本人八千余人を糾合して、アユチヤ王朝の旗本にすることであった。
それから、十年を経て、仁左衛門長政は、|陸軍大臣(オークヤ―・カラホーム)となり、前国王の女《むすめ》を妻として、六昆州《リゴール》の領主であった。
まさしく――。
豊臣一族は、大阪城などみれんげもなくすてて、暹羅へ行くべきであったのである。
一艘の|ふすた《ヽヽヽ》船が、深更、堺の港を、音もなくすべり出て行った。
船首に八幡大菩薩の旗をひらめかせ、帆柱に、日の丸の旆《はい》をかかげていることは、他の朱印船《しゅいんせん》とかわりはなかったが、船中は無人のごとく、ひっそりとしていたし、夜半をえらんで出航するのは、奇怪であった。
船が、兵庫の沖あいにさしかかったのは、しらじらと夜明けた頃であった。
艫《とも》の間に睡っていた霧隠才蔵は、突如として起ったもの凄い音響に、我破《がば》とはね起きた。
「草加っ! 多門! 堂守っ!」
六文銭組から選んで来た三士の名を呼んだが、返辞《へんじ》はなかった。
不吉な予感に、すばやく長剣を背負うて、表の間へ駆け入ってみると、草加多兵衛《くさかたへえ》、多門宗十郎《たもんそうじゅうろう》、堂守勘六《どうもりかんろく》、孰《いず》れも、血泡《ちあわ》を噴いて仆《たお》れていた。
「しゃっ南無三《なむさん》!」
才蔵は、三つの屍《しかばね》をとび越えて、楫場《かじば》へ奔《はし》った。
そこに、かねて、才蔵の忠僕をもって任じていた、柬埔寨《カンボジヤ》生れの船頭|ぱん兵衛《ヽヽべえ》が、顔面から肋《あばら》まで斬り下げられて、楫《かじ》に凭《よ》りかかって、事切れていた。
惨たる事態を、才蔵は、どう受けとっていいか判らぬままに、船上に、躍り出た。
そして、そこに、思いがけぬ光景を、見出した。
柱綱を切られて傾いた帆柱をかこんで、秀頼|寵愛《ちょうあい》の小姓|楠呂木兵馬《くすろぎひょうま》を主座に、二十余の忍《しの》び装束《しょうぞく》の者が、ずらりと並《なら》び立っていたのである。
「なんとしたことだ、これは?」
才蔵の異相は、夜明けの汐風をうけて、能面の黒髭のような凄まじい形相《ぎょうそう》になった。
いつの間に、これだけの頭数の忍者が、この船に忍び込んでいたのか。夢にも気づかなかったおのれの不覚に、まず、腹が立った。
楠呂木兵馬は、冷ややかな笑みをうかべると、
「淀様の御下知により、当船を、この兵庫の湊《みなと》へ入れると、知れ!」
「なにをほざく! おのれは、秀頼公の命に順《したご》うたのではなかったのかっ!」
「秀頼公も淀様も、大阪城を一歩も出られる意志は、毛頭みじん御座ないわ! やがて、烏有《うゆう》に帰す太閤|城《じろ》と、運命をともにされるであろうぞ」
「くそッ! たばかり居ったな、青瓢箪《あおびょうたん》め! おのれ、正体を出せい! 徳川方の廻し者と看たぞ!」
「まさしく――。それがしこそは、本多中務少輔忠勝《ほんだなかつかさのしょうゆうただかつ》が三男|彦三郎忠康《ひこさぶろうただやす》、従えしは、服部半蔵《はっとりはんぞう》が率いる伊賀忍騎隊の手練者《てだれ》。……水主《かこ》ことごとく慴伏《しょうふく》いたせしいま、のこるはお手前一人。覚悟あって然るべし」
凛呼《りんこ》として、言いはなった。
「嗤《わら》わせるな! 霧隠才蔵は、うぬら忍びの二十や三十むこうにまわしても、なお、余力たっぷりぞ! 海をこえてもたらした秘技を、うぬら伊賀の山猿めらに、観せてくれるぞ!」
次の瞬間、四尺余の長剣を抜きはなった異邦の兵法者は、まっしぐらに忍騎隊の陣列へ襲いかかった。
とみるや、虎皮の袖なし羽織を、ひらと宙に舞わせたのを敵の目にのこしておいて、才蔵の六尺の巨躯《きょく》は一個の独楽《こま》と化して、宙に溶《と》けてしまった。その動くところに、白刃が描く閃々《せんせん》たる円盤があるのみだった。
流石《さすが》の伊賀の手練者たちも、攻めるすべもなく、凄まじい唸りをたてて旋回して来る白い円盤から跳び躱《かわ》すのが、せい一杯であった。
遁《のが》れ得ずに、首を、手を、刎《は》ねとばされる者も、二人、四人、六人と数を増やした。
本多彦三郎は、二刀を抜きはなって、追っては離れ、離れてはまた追って来るその旋回剣を、必死に防いでいたが、ついに、右手を、肱から断ち截《き》られてしまった。
忍者たちは、遁れ乍ら、忍び槍を、手裏剣を、投げとばしたが、ひとつとして当るものではなかった。
やがて――。
旋回剣の中から、何やら呪文のような異国の言葉を発した才蔵は、突如、すっくと姿を現した。
「やっ!」
「とーっ」
あらゆる武器が、その姿めがけて、殺到した。
刹那――才蔵の五体は、翼があるかのように宙に飛びあがったとみるや、傾いた帆柱を、するすると、猿《ましら》のように駆けのぼって行った。
その速影《はやかげ》が、頂きに達した時、淡々《あわあわ》とした乳色の空から、一羽の巨鷲《きょしゅう》が、一直線に翔《か》け降りて来た。
その直後――。
むなしく仰ぐ討手がためがけて、一個の黒い玉が、落下して来た。
忍者らは、反射的に、海中へ身を投じた。
一人、遁げおくれた本多彦三郎の背後へ、黒球は、落ちるや、轟然と爆発した。
噴《ふ》きあがる火柱を彩《いろど》るように、四散した彦三郎の生血が、虹霓《こうげい》のように、空中に撒《ま》かれた。
翌日、真田丸の館《やかた》に、舞い戻った霧隠才蔵から、顛末《てんまつ》を報告された幸村は、嘆息《たんそく》して、
「豊家の命運は、尽きたの」
と、言った。
「お主《しゅう》、われら真田党のみでも、暹羅に渡られませぬか?」
才蔵はすすめた。
「才蔵、もののふは、後代に名を惜しむものだぞ」
「豊家とともに滅びる愚を、敢てされると申されますか」
才蔵は、にがにがしげに、言った。
「自縄自縛《じじょうじばく》と申そうか。この真田左衛門佐は、おのれを嗤《わら》い乍ら、滅びるであろう。やむなき仕儀だ」
目蓋を閉じて、粛然《しゅくぜん》と動かぬ主人を、異邦の兵法者は、なんとなく、襟を正す思いで、眺めやったことだった。
徳川家康
元和元年春。
真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》、亡父|昌幸《まさゆき》以来、旧交の深い信州の名族・小笠原|壱岐守忠知《いきのかみただとも》から、慰問の使者が来たので、酒席を設けてねぎらったのち、一室に入って、返書をしたためた。
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遠路御使礼にあずかり候。其許《そこもと》相変わりこれなき由、うけたまわり、満足致し候。爰《ここ》もとにおいても無事に候。御心安かる可《べ》く候。我ら身上の儀、殿様(右府秀頼の事)御懇秘《ごこんひ》も大かたのことにてこれなく候得共、よろず気遣いのみにて御座候。一日一日とくらし申し候。面上ならでは、くわしく申し得ず候間、書中|不具《そなわらず》候。当年中も静かに御座候も、さだめなき浮世にて候得ば、一日さきは知らざる事に候。われら事など、浮世にあるものとお召《ぼしめ》し候まじく候。
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筆を擱《お》いてから、幸村は、瞑目《めいもく》した。
大阪城|真田丸《さなだまる》は、真昼の静寂が占めていた。
――打つ手は、ことごとく打った。しかし、もはや、狂瀾を既倒《きとう》に廻《めぐ》らすよすがもない。……おそらく、今年のうちに、大阪城は、炎上するであろう。
幸村は、胸中で、呟いていた。
猿飛佐助ら手飼《てが》いの面々を、関東へ放って、さぐらせた幸村は、老獪《ろうかい》家康が、着々と大阪城を滅亡せしめる計画をすすめているさまを、手にとるごとく知ったのである。
江戸と駿府《すんぷ》との間に、徳川重臣の往復は、頻繁《ひんぱん》であった。就中《なかんずく》、土井大炊頭利勝《どいおおいのかみとしかつ》は、将軍秀忠の命を奉じて、駿府に至って、大御所家康と密議するや、直ちに江戸へ還《かえ》ること、三度にも及んでいた。
家康は、大砲の鋳造その他の火器の調製を、急がせていたし、上方一帯の要所要所の城塞《じょうさい》に、軍兵を配置していたし、また、畿内の諸大名に命じて、大阪より逃走しようとする者を、ことごとく捕えさせていた。
さらに――。
家康は、大阪城に対しては、苛酷な条件を、再度、要求して来ていた。
秀頼は、西国へ国替えをすること。大阪城を立退くにあたっては、召抱えた牢人共をことごとく、放逐すること。
この要求に対して、大野修理《おおのしゅり》は、幾度も使者を送って、詫びようとしたが、どの使者も家康に面接を許されずに、むなしく、ひきかえして来ていた。
大阪方は、いまや、関東方の雲霞《うんか》の軍勢が押し寄せて来るのを、待つばかりであった。
滅びるのを待ち乍《なが》ら、しかし、真田幸村の心懐は、常のごとく静かであった。
と――。
庭さきに、音もなく、ひとつの人影が出現した気配に、幸村は、目蓋をひらいた。白い長髯《ちょうぜん》を胸までたらした武士であった。
小笠原家の使者に従って来た老人かとみえたが、無断で庭に立ったのは、他にこんたんのある人物に相違なかった。
「おひさしゅうござる」
まず、そう言ってから、一礼した。
「おぼえのわるい方ではないが、お許《こと》の面|てい《ヽヽ》に、記憶はない」
幸村は、冷たくこたえた。
「ご尤も千万。……それがしは、仙振《せんぶり》五左衛門と申す」
幸村は、その名にも、記憶はなかった。
「……?」
凝《じ》っと瞶《みつ》めていると、仙振五左衛門と名のった老人は、すうっと近寄って来て、
「ご免――」
と、ことわるや、腰の差料《さしりょう》をぬいて、縁側へ置き、それを跨《また》いで、座敷へ通った。
おのが剣を跨ぐのは、外敵でない証《あかし》とする古い中国の故例《これい》があった。凡将ならば、怪訝《けげん》におぼえるだけであろうが、老人は、幸村ほどの名将が知らぬ筈はないと考えて振舞ったのである。
もとより、幸村は、承知していたが、それより、古希をこえたとおぼしい老人の、その身ごなしの敏捷さに、おどろきをおぼえて、対手が対座するにまかせた。
「お手前さまが、記憶にないのは、当然のことでござる。……いまより、恰度三十年前、それがしは、お手前さまにお目にかかって居り申す」
「……?」
三十年前といえば、幸村は、ようやく、十六歳であった。
「思い出して頂きたい。お手前様は、三十年前、はやくも、非凡の力量を発揮せられ、おどろくべき手柄をたてられた」
仙振五左衛門は、言った。
幸村としては、思い出すまでもない、昨日のことのように、鮮やかな、初陣の武勲《ぶくん》であった。
幸村は、三十年前の合戦で、敵将徳川家康を生捕りにしたのであった。
真田の家系は、左京大夫幸義《さきょうたいふゆきよし》から、弾正忠幸隆《だんじょうのちゅうゆきたか》入道一徳斎を歴《へ》て、安房守昌幸に至《いた》るまで、三代の間、甲州の武田家に属した。その武名は、隣国に鳴りひびいていた。
殊に、三代安房守昌幸は、智略抜群の弓取と称せられた。
昌幸は、気概《きがい》に富み、名節を重んじた武将であった。武田信玄の歿後《ぼつご》、勝頼の代にいたって、長篠の決戦に敗れて、武田家の武運が傾き、旗本《はたもと》十一将まで背《そむ》いたにも拘《かかわ》らず、一人、渠《かれ》のみ毅然《きぜん》として、節《せつ》を変ぜず、勝頼をおのが上田城に迎えて、故業を復興させようと策したくらいであった。
やがて、勝頼が滅ぶや、武田家の領土は織田信長の版図《はんと》となった。
昌幸は、自然その下風《かふう》に据えられることになったが、決して、家臣の礼はとらなかった。
いくばくもなくして、本能寺の変があって、信長の覇業《はぎょう》は、その人とともに、忽焉《こつえん》として、滅んだ。
そのために、信長が押えていた新領は、復《ま》たもや、群雄の争奪するところとなった。
上杉景勝は信州に攻め込み、徳川家康と北条氏直は、甲州を争った。
真田昌幸もまた、上州に討ち入って、利根・吾妻《あがつま》の両郡を征し、沼田城を合せて、あらたに、二万七千石の地を、切り取った。
そのうちに――。
徳川家康は、織田|信雄《のぶかつ》を援《たす》けて、羽柴秀吉と相争うことになった。そのために、後顧《こうこ》のうれいを絶つべく、小田原北条氏と講和し、上州を氏直に与える約束をした。
ここで、家康はわずかな代地を信州に与えて、沼田城を北条氏に引渡すように、真田昌幸に命じた。
昌幸は、頭を振って、
「おのが武力で取った地を、他人の指図にはまかせぬ」
と、しりぞけた。
のみならず、氏直が特派して来た、城受領の一軍を、ただの一戦で、蹴散らしてしまった。
氏直は、憤って、家康に、昌幸を撃《う》つことを迫った。
すでに、秀吉と信雄《のぶかつ》の和睦をなさしめた家康は、この機会に、真田一統を攻め滅ぼして、北条氏に対する面目を立てんと、大久保忠世・鳥居元忠ら六将を陣翼《じんよく》にそなえて、上田城を攻撃して来た。
昌幸は、
「いで、ござんなれ!」
と、徳川勢を、城下にひきつけて、奇想天外の間法《かんぽう》を用いて、さんざんに、撃ち破った。
おりから、真田氏を援けるべく、上杉景勝の大軍が、越後を発した、という急報に、寄手《よせて》は、遠く敗退せざるを得なかった。
この時、左衛門佐幸村は、十六歳。
父から七百の精鋭をさずけられるや、夜半の闇にまぎれて搦手《からめて》の城戸口から忍び出て行き、林間にひそみ、徳川勢が夜明けとともに、後退しはじめるや、突如として、鳥雲《ちょううん》の備えをもって、その殿軍《でんぐん》を奇襲したのであった。
鳥の集散するごとく、雲の変化するごとく、変幻自在を陣法を身につけた七百の真田兵は、殿軍を縦横無尽に蹴散らしておいて、さっと、左右の林間にかくれた。
とみるや、たちまち、五行座の備えをとった徳川本隊の前面へ躍り出て、凄まじい手詰懸《てづめがかり》のなぐりこみをかけたのであった。
手詰懸とは――。
弓、鉄砲を事とせず、はじめより手詰めの勝負を挑《いど》む、必死の戦法であった。すなわち、敵前面へ、持楯《もちたて》を、塀のように押し並べて、その蔭に、並秀《なみすぐ》れた力量の、勇壮無比の士をえらんで、伏せさせておき、左右から、大身槍、大|薙刀《なぎなた》、大太刀、大|鳶口《とびぐち》の十数組を疾走突入させ、ここぞとみた刹那、急太鼓を合図に、楯蔭《たてかげ》から、その猛者《もさ》たちを喊声《かんせい》あげて斬り込ませる。
猛者たちは、あくまで、わき目もふらずに、敵中を駆け通す。左右の味方が、この突破行《とっぱこう》を、援けて、あばれまわる。頃よしと視て、左右の味方が遁走した時には、敵中突破行の猛者たちは、敵の主だった将の首を、ことごとく刎《は》ねている、といった壮絶きわまる闘いぶりであった。
幸村は、この体当り作戦にあたって、左右から攻め込む手勢に、数百の煙硝玉《えんしょうだま》を投じさせたのである。
敵中突破行の猛者たちは、濛《もう》と渦巻く白煙|裡《り》を、旋風《つむじかぜ》のごとく、奔《はし》り乍ら、これぞと思う敵将を、斬ったのであった。
そして、猛者たちの殿《しんがり》を奔った幸村は、敵中を奔り抜けた時には、騎馬を奪って、それにうち跨《またが》っていた。のみならず、一人の敵将を、鞍《くら》に押えつけていたのであった。
それが、敵の総大将徳川家康だったのである。
だが――。
上田城内へ、拉致《らち》されて来た家康は、安房守昌幸の面前にひき据《す》えられると、冷然たる態度で、
「この小城ひとつを攻めるために、家康ともあろう弓取が、自ら策《むち》を把って、軍馬を進めて参ると思われるか」
と、奇怪なことを言いはなった。
昌幸は、勿論、家康の相貌《そうぼう》を、再三ならず視ていた。
面前に在るのは、家康以外の何者でもなかった。
「おのれは、影武者と申すのか?」
「左様。われらが主人には、七人の影武者あり、それがしは、その筆頭にて候」
それをきくと、昌幸は、薄ら笑って、
「徳川殿。縄目《なわめ》のはずかしめを受け乍ら、なお、生命を惜しまれるか」
と、言った。
すると、囚《とら》われ人もまた、微笑して、
「それがしの面相は主人と瓜二つなれば、時として、侍臣もまちがえ申す。真田殿が、信じられぬは、無理からぬところ。されど駿府の城に、主人が在ることは、まぎれもない事実でござれば、和議成《わぎな》ったあかつき、ご自身におもむかれて、とくと観さだめられるがよろしかろう」
と、うそぶいた。
昌幸は、直ちに、忍びの者を、駿府に趨《はし》らせた。
当然、主君が生捕られたとあっては、駿府城には、ただならぬ空気がみなぎっている筈であった。
兵をおさめた徳川の本拠は、むしろ、ものしずかであった。
昌幸は、疑惑のままに、捕虜を質子《ちし》牢へとじこめておいた。
そのうちに、駿府にあっては、大軍が集中しはじめたという報が入った。家康が、こんどこそ、一挙に、上田城を蹂躙《じゅうりん》せんと決心した、という噂であった。
関白秀吉の名をもってこの争いを調停する旨、使者が一書をもたらしたのは、それからほどなくであった。
昌幸は、幸村を代理として、駿府城へおもむかせ、はたして、ほんものの家康が在るかどうか、たしかめさせた。
幸村は、五日後、上田城へ帰って来ると、父に、
「当城に捕えているのは、影武者に相違ありませぬ」
と、告げた。
家康は、和議の調印ののち、幸村に、にこにこと笑いかけて、
「わしの影武者をひっ捕えたのは、お許の由だが、あっぱれの働きと、大久保忠世も鳥居元忠も感服いたして居る。……あの影武者は、しかし、お許の父上を油断させるために、わざと捕ってくれた忠義の者なれば、解き放ってもらえるならば、この家康は恩にきるが、いかがであろうか」
とたのんだのであった。
幸村は、承知して、帰って来たのであった。
影武者は、再び、昌幸父子の前に、ひき出されると、いんぎんに挨拶してから、
「われらが主人は、要心の上にも要心を重ねて世渡りつかまつる武家ならば、向後《こうご》、また、矛《ほこ》を交える機会があり、徳川の本陣を襲われるにあたっても、それが必ずしも本人にはあらずとお考え頂きとうござる。われらのほかの影武者六人、すべて、主人と酷似《こくじ》つかまつる」
と、言いのこしたものであった。
幸村は、仙振五左衛門と名のる老人へ、鋭い眼光を刺していたが、大きく頷《うなず》いた。
――この長髯を剃りあげれば、まさしく、徳川内府の貌だ。
「お許は、あのときの影武者であったか!」
幸村は、感慨をこめて、言った。
すると、老人は、微笑し乍ら、かぶりを振った。
「さにあらず。お手前様が生捕られたのは、まぎれもなく、徳川家康殿でござった」
「なに!」
幸村は愕然《がくぜん》となった。
「ははは……。駿府の城内で、和議の調印をなした家康こそ、この仙振五左衛門でござった。われ乍ら、よう化けたものでござる。秀吉公の御使者をも騙《だま》し了《おお》せて、まんまと、和議をやりとげたのでござったわい」
「……」
「お手前様が、もし、あの時、生捕ったのが家康にまぎれもなし、と断定されて、首を刎《は》ねて居られたならば、天下の形勢は、今日の如きものではなかったで御座ろう。大阪城が、累卵《るいらん》の危きにさらされることもなく、秀頼公は天下人《てんかびと》として、安泰であったかも存じ申さぬ。いや、あるいは、太閤逝去後、天下は再び、戦乱の世にかえっていたかも知れぬ。されば、真田殿には、あるいは、覇道《はどう》を邁進《まいしん》されて、百万石の太守にも相成られていたことも可能で御座ろう?」
「すでに、遠く過ぎ去ったことを、くりかえしても、いたしかたあるまい」
幸村は苦笑してから、
「で――、何の用があって、この真田丸へ忍んだか、伺おう」
「お手前様は、九州、中国、四国の、太閤|恩顧《おんこ》の諸大名へ、秀頼公の名をもって、密書を送られた、と耳にいたした。しかし、諸大名は、ついに、動かず、とさとられた。そうで御座ろう?」
「……」
「太閤恩顧の諸大名が、当大阪城に背を向け、ひたすら徳川家の忠僕たらんと、虞《おそ》れる醜態を演じて、すでに十余年。島津も毛利も上杉も、全く骨抜きにされて居り申す。すくなくとも、野に在る者らの目には、そうとしか映り申さぬ」
その通りであった。
秀吉の末期《まつご》にあって、一万石以上の大名は、日本全土に二百十四名あった。そのうち、慶長五年、関ヶ原において、石田三成に荷担《かたん》した者は八十七名、そのうちの八十一名が、あるいは、戦死し、あるいは、処刑され、死をまぬがれた者も封禄《ほうろく》を褫奪《ちだつ》され、追放されたのであった。
わずかに、島津、鍋島が現状を維持し得、上杉、毛利が削封《さくほう》だけでゆるされたにすぎなかった。
これは、望外の僥倖であり、渠《かれ》らは、徳川氏に服事《ふくじ》せざるを得なかった。
いま――。
万石以上に増封された者は、百九十余にものぼるが、その半数が、徳川一族、譜第《ふだい》であり、その他の外様《とざま》も、その三分の二以上は、譜第同様の立場に置かれていた。
大阪方が、じたばたあがくだけが、滑稽なようなものであった。
「しかし乍ら、曾《かつ》ては、徳川家と同列に坐した諸大名が、心中必ずしも、畏怖《いふ》しているかどうか、これは測《はか》り難いことでござる。すなわち、諸大名は、徳川内府殿ただ一人に対して、頭を下げて居り申すが、もし、いま、内府殿が卒然として逝去せんか、かくしていた爪と牙をひき剥《む》く機会到来、と思い立つ御仁も、三人や四人では御座るまい」
仙振五左衛門は、急に幸村を煽動するような言いかたをはじめた。
「……」
幸村は、黙然《もくねん》として、対手を瞶《みつ》めかえしているばかりであった。
「人は泥坊、あすは雨――のたとえも御座る。人情の反覆測《はんぷくはか》り難い浮世なれば、徳川内府の逝《い》ったあかつきの、天下の情勢が、いかに急変するか、これは誰人にも指し得ぬところと存ずる。されば、まず、お手前様が、決意されることは、内府暗殺の儀で御座ろう。そして……」
五左衛門がそこまで言いかけた時、幸村は、ふっと笑って、言葉をひきとった。
「そして、御所の座に、曾ての影武者であったお許がすりかわって、坐る」
「左様、慧眼《けいがん》おそれ入る」
「影武者と申す者は、旗本|郎党《ろうどう》中いかなる誠忠の士よりも、主君に対して、滅私の奉公をいたすよう覚悟がある筈だが、どうして、お許は裏切ろうといたす?」
「内府に対しては、恨みが御座る!」
五左衛門は、きっぱりと、言った。
「恨み?」
「いかにも!」
五左衛門の双眸《そうぼう》が、異様に光った。
「現将軍秀忠は、それがしの実子で御座る」
奇怪な言葉が、その口から吐かれた。
幸村は、しかし、眉宇も動かさず、五左衛門を、黙って、凝視《ぎょうし》しているばかりであった。
――この老い果てた影武者は、狂気しているのではないか?
その疑いもあった。
すると、五左衛門は、幸村の胸裡《きょうり》を読んだように、にやりとした。
「信じられぬ、と申されるであろう。ご尤《もっと》もで御座る。しかし、徳川内府が、幼少時、今川家に質子《ちし》として留め置かれた時、羅切《らせつ》の憂目に遭《お》うたことは、悲惨なる事実で御座る」
戦乱の世にあっては、敵将の嫡子を人質にした場合、その子種を根絶やしにするために、しばしば、その男根を切断して、男子失格せしめた例はすくなくない。
徳川家康は八歳より十九歳まで、今川家に、人質になっていたが、その間に、羅切の刑を受けた、という。
「内府の性格が、冷酷非情の権化と相成ったのは、ただに、質子として、険しき世情に揉まれただけでは御座らぬ。男子としての資格を喪《うしの》うた為でも御座る」
「内府には、女子三人、男子九人の沢山の子女がある。それが、悉《ことごと》く、他人の子だと申すのか?」
「お手前様は、それがしはじめ、七人の影武者が、内府にいたことをご存じで御座ろう」
そう言って五左衛門は、再び、うす気味わるく、にたりとした。
徳川家康が、はじめて結婚したのは、十五歳の時であった。今川義元の命令で、関口親永《せきぐちちかなが》の女《むすめ》をめとった。すなわち築山殿《つきやまどの》である。
築山殿は、永禄二年三月、家康が十八歳、築山殿が三十二歳で――長子|信康《のぶやす》を生み、翌年、長女|亀姫《かめひめ》を生んでいた。
しかし、この二子は、家康の子ではなかった。今川義元の子であった。家康は、成年元服した年に、すでに羅切の刑を受けていたからである。
今川義元は、皮肉にも、家康から男子の資格を奪っておいて、一四歳も年上の築山殿と結婚させたのであった。
歴史の頁には記されていないこの事実を明らかにすれば、家康と築山殿の不和、そして長子信康を、平然として、政略の犠牲にしたことも、納得できる、というものである。
次男秀康は、築山殿の侍女お万の方の腹から、生れている。この時、はじめて、家康は、影武者をつかったのである。家康は、この秀康を、秀吉の養子として、大阪城へ送っている。わが血を継がぬ子に、未練はなかったのである。
秀康もまた、本能によって、父が実父たらざることをしっていたか、関ヶ原役後は、ことごとく、徳川家に対して、楯つき、常に秀頼を庇護する立場を守って、家康に不快な思いをさせつづけた。
越前七十五万石の太守であった秀康は、慶長十二年四月、北《きた》ノ荘《しょう》において、壮齢三十四歳で、突如として、逝《みまか》った。家康の放った伊賀の忍者によって、毒殺されたのである。
秀康の次が、秀忠である。西郷局《さいごうのつぼね》の腹から生まれている。
天正六年春、影武者仙振五左衛門は、一夜、ひそかに家康に呼ばれて、
「西郷局は、気質も良く、血統も正しい。局の腹から、わが徳川家を継ぐべき子を取りたいと思う。わしに代わって、そちが、心して、抱いてくれ」
と、命じられたのであった。
翌年春、秀忠が生まれ、二年後の秋には、忠吉が生まれた。仙振五左衛門は、西郷局に、ついに替玉であることを気づかせずに、閨《ねや》の営みを、三年間、勤めあげたのであった。
天正十一年九月、下山殿が信吉(武田万千代)を生み、文禄元年正月、茶阿《ちゃあ》が、江戸城で忠輝を生んでいる。次に、尾州家の祖たる義直が、慶長五年十月、伏見に於て生まれている。母は於亀の方。家康五十九歳の子である。
その次が、紀州家の祖たる頼宣が慶長七年三月に、つづいて、水戸家の祖たる頼房が翌八年八月に、いずれも於万の方(秀康の母お万の方とは別人)の腹から生まれている。
これらの子が、悉く、影武者によって、この世に送り出されたのである。
世評に寄れば、家康は、秀吉以上に、女子を愛好した人物と称《い》われている。いつ、いかなる場合も家康の身辺には、女がつき添うていた、という。
陣中に於ても、猟場に於ても、影の形に添うように、家康のかたわらには、華やかな衣裳をつけた女子の姿があった。
[#ここから2字下げ]
御鷹野のさきざきへは、いつも女房ども召連れられ、そのうちにて、上臈《じょうろう》だちしは、輿《こし》に乗り、その余はいずれも乗懸馬《のりかけうま》に茜染《あかねぞ》めの蒲団敷きて乗り、市女笠《いちめがさ》の下に覆面して供奉《ぐぶ》する事なり。
[#ここで字下げ終わり]
といったあんばいであった。
男子の資格を喪失している家康であったからこそ、常時非常時を問わずに、女子をそばに寄せていないでは、いられなかったのであろう。さらに、家康が、その側室に、身分のひくい者をえらんだのも、渠《かれ》が不具者であるという証左のひとつになりはせぬか。
その閨房に於て――。
おのれ自身が、褥《しとね》をひとつにする時は、ただ、女体を弄ぶにすぎなかった。実際に契るのは、すり代った影武者であった。
これ以上の、男としての悲惨はなかった。
家康は、影武者に契らせる女に、上流の家の出をえらぶ必要をみとめなかった。
忠輝を生んだ茶阿は、遠州金谷の農夫八兵衛の寡婦《かふ》であった。
金谷の代官某は、農夫八兵衛の妻茶阿が|みめ佳《ヽヽよ》いのに心掛けて、わがものにしようと思いたち、某日、八兵衛に、根も葉もない罪をかぶせて、拷問をかけて、擲《なぐ》り殺してしまった。そして、茶阿を屋敷につれて来て、無理矢理犯して、妾にしてしまった。
茶阿は、しばらくのあいだは、あきらめて、従うふりをして、代官の夜毎の欲情をあまんじて受けていたが、やがて、隙をうかがって、三つになる娘を抱いて、屋敷を遁《のが》れ出ると、浜松の城へ奔って、直訴した。
家康は、茶阿の、ぽってりとした白い餅肌を一|瞥《べつ》して大いに気に入り、直訴を受けつけ、代官を召して糺明《きゅうめい》すると、打首にしておいて、茶阿を側室にしたものであった。
また――。
義直を生んだ於亀の方《かた》は、竹腰某なる貧しい牢人者の妻で、嫡子伝次郎を生んで寡婦となっていたのを、狩猟に出た家康に目をとめられて、召し出されたのであった。
於亀の方の父は、乞食同然の修験者《しゅげんざ》であった。これをきいて、家康は、その父に、髪を延ばして、還俗《げんぞく》するように命じ、清水八右衛門と改名させて、旗本の列に加えた。
身分素性はどうでもかまわなかった。いかに、弄んでも契ることの叶わぬ家康は、眺める人に、
――ほう! いかにも抱き心地よさそうな女子《おなご》よ!
と、好き心をそそらせる豊満濃艶《ほうまんのうえん》な女性《にょしょう》をえらんだのであった。
ところで――、
側妾のうちに、急死をとげた婦人が、二人いた。於牟須《おむす》の方と、於奈津《おなつ》の方である。孰《いず》れも、毒殺されたのである。
二人は、自分のふっくらと熟しきった肉体を、撫でさすり、嘗《な》めまわし、さまざまな肢体をとらせて眺めやる家康と、前の戯《たわむ》れをせずして、いきなり抱きかかえて契る家康が、全く別人であることを看破したために殺されたのであった。
於梅の方という側妾は、この事実に気がついたが、賢くもかたく口をとざして、他人にもらさず、のち、故あって、本多上野介正純に下げられて、妻となった。
妻となってから、つい、心ゆるして、良人正純に、この秘密を打明けた。後年、正純が、理由にならぬ理由をおしつけられて、罪に陥《おと》され、改易《かいえき》となったのも、将軍秀忠が、家康の実子にあらざることを、不覚にも口走ったためであった。於梅の方は、正純が貶謫後《へんたくご》、尼となって駿河に退居し、ついで京都に移り、勢州山田で往生した。
幸村は、五左衛門のおどろくべき話を、泰然としてきき了えると、
「その七人の影武者は、内府によって、つぎつぎと暗殺され、お許だけが、どうやら、遁れて、生きのびた、と言われるのか?」
「ご賢察の通りでござる。内府としては、到底生かしてはおけぬわれら影武者で御座った。……さり乍ら、おのれのすべてをなげうって奉公申上げたわれわれとして、闇に葬られることは、なんとしても口惜しゅうて相成らず、内府に復讐せんものと、機会を狙いつづけ申したが、ついに果さずに、今日に及び、斯《か》くのごとく、老いぼれ申した。しかし、長髯を剃り落せば、何人の目にも、内府としか映《うつ》り申さぬこの奇妙の面貌《めんぼう》を、むざと、このままあの世へ持ち去るのは、いかにも無念に候ゆえ、ここは一番、当代随一の智将たるお手前様に、役立てて頂きたく、参上つかまつった次第で御座る」
「……」
「もしも、お手前様によって、内府を亡き者にし、それがし仙振五左衛門をして、内府になりすます工作をなされたならば、大阪城の安泰は申すもおろか、徳川家を破滅させることも可能ではござるまいか。……それがしは、お手前の傀儡《かいらい》となって、働き申す。徳川大御所となったそれがしが、将軍家はじめ諸侯へ下す命令は、お手前の意嚮《いこう》のままに、口にいたすことで御座ればな」
「……」
幸村は、しばらく、黙然と、目蓋を閉じていたが、やがて、五左衛門を正視すると、
「内府を亡き者にする方法《てだて》は如何《いか》に?」
と問うた。
「お手前様は、内府より、強く、関東方へ仕官するように、懇望されていると、うかがい申す」
たしかに、それにまちがいはなかった。
冬の陣が終わった直後、家康は、幸村の叔父にあたる真田|隠岐守信尹《おきのかみのぶただ》に、旨をさずけて、密《ひそか》に、真田丸を音《おと》なわせていた。
「貴殿の武略、世に勝れたるを、大御所様には、殊のほか御感《ぎょかん》なされ、志をあらためて、徳川へ随身《ずいじん》されるに於ては、十万石にお取り立てなさるべし、との御意でござる。左様相成るに於ては、一門の幸い、われらまでの面目と存ずる。早々にお受けあるべし」
そう口上を申入れた。
すると幸村は、形を正して、
「御意は、忝《かたじけな》く存ずるが、左衛門佐ひさしく浪々いたし、世をせばめ、多年|蟄居《ちっきょ》まかりあったところ、豊臣右府公には、人がましゅうおぼしめされ、数千の兵の上にお取り立てに相成り、ごらんの通り、出丸《でまる》さえそれがし一手にお預けなされたこと、一代の名誉にござる。加之《のみならず》、右府公のおんために、弓箭《ゆみや》を把って、関東御両所の前に立ち申すことは、亡《なき》安房守の志にござれば、この儀、しかとおことわり申上げる」
と、断固《だんこ》として、言いきった。
信尹は、やむなく、帰って、復命したが、家康は、容易に断念しなかった。
裸城《はだかじろ》にしたものの、大阪城に真田幸村が在る限り、これが攻略は容易ではない、と痛感していた家康である。
「左衛門佐は、十万石では不足であろう。さらば、信州一国を与えよう。若しそれを疑うならば、本多上野介に誓詞《せいし》を出させる故、いま一度、おもむいて、この意をよく申聞かせ、同心いたさせるよう――」
と、命じた。
信尹は、主命もだし難く、再度、真田丸の門をたたいた。幸村は、これをきくや、憤然として、声をはげまし、
「この左衛門佐が、知行の多寡《たか》によって、動く者とお思いか! 信濃一国はおろか、たとい日本の一半を割《さ》き与えられようとも、それがしは、義に於て、変節はつかまつらぬ、重ねて左様な使命をもたらされるに於ては、叔姪《しゅくてつ》の間柄とても、この出丸より外へは還《かえ》しませぬぞ!」
と、叱咤《しった》した。
五左衛門は、そのことを指してから、
「内府は、いまも、お手前様が、大阪城を出る、と申出られるならば、十万石二十万石を惜しむものでは御座るまい。されば近日中に、従者四五騎をつれて、そっと出られて、駿府へ趨られるならば、内府は、大よろこびで、引見つかまつろう。その従者の中へ、それがしをお加え下され、駿府城内へ入られるならば、隙をうかがって、内府を亡き者にし、それがしが、その座に代るのは、さほど困難なわざではない、と存ずる」
と、説いた。
「成程――」
幸村は、しかし、すぐに返答するかわりに、
「誰かある」
と、呼んだ。
すぐに、答えて、襖をひらいたのは、小兵《こひょう》の海野六郎《うんのろくろう》であった。幸村は、厳然として、
「この老爺を召捕《めしと》れい!」
と、命じた。
瞬間――。
五左衛門は、片手で畳をひと突きにするや、端座の姿のままを、宙に躍らせて、一畳分下座へ、ぴたっと飛び退った。
「召捕るとは、如何に?」
五左衛門は、かっと、幸村を睨みつけた。
「徳川大御所も、いささか手がつまったとみえる。おのが影武者をつかって、この左衛門佐を、駿府へおびき寄せて、片づけようとは、上策とみえて、実に下策もはなはだしい。……仙振五左衛門、覚悟せい!」
幸村は、鋭くきめつけた。
五左衛門は、突っ立ちざま、頭上のなげしにかけられた大身の槍を掴みとった。
海野六郎は、それに向かって、素手で進んだ。
ぴたっと構えられた煌《こう》たる三尺の穂先に、素手で立ち向わんとする海野六郎は、琉球人であり、拳法の名手であった。
拳法――唐手《からて》は、いまだ、日本にあって、殆どの人が、これを視ていない時代であった。
四本の指をまっすぐに伸ばし、拇指《ぼし》を曲げた、所謂抜《いわゆるぬ》き手とした左手を、胸の高さにさし延べ、五指を畳んだ右手を、後へかくした姿勢で、すこしずつ、畳の上を音無しにすべり乍ら、肉薄してくる海野六郎を、五左衛門は、
――何の術を使わんとするのか?
と、疑《うたぐ》ったに相違ない。
防御のためにさし延べた死手《しにて》と、未だ発せずに攻撃に備えた活手《いきて》に、奇正《きせい》・陰陽《いんよう》のおそるべき迅業《はやわざ》がひそめられていようとは、想像もし難いところであった。
五左衛門は、六郎が、穂先の前三尺の近さまで迫るや、充分の余裕をもって、
「えいっ!」
と、ひと突きくれた。
刹那――六郎の五体は、目にもとまらぬ変わり身の敏捷とともに、その死手で、槍の|けら《ヽヽ》首を、発止《はっし》と搏《う》った。
穂先は、折れて、天井へ飛び、五左衛門は、両手が、じいんとしびれた。
「む――むっ!」
異様の呻きをもらしつつ、五左衛門は、脇差を抜きはなったが、すでに構えるいとまもなかった。
海野六郎の短躯《たんく》が、一個の砲丸となって、飛んで来たのである。
五左衛門は、頤《あご》と右肩を蹴りあげられて、あっ、とのけぞった。
たちまち、高手小手にしばりあげられた五左衛門は、幸村の前にひき据えられると、憎悪の目眸《まなざし》で、
「なぜ討ちとらずに、生捕られた?」
と、問うた。
幸村は微笑し乍ら、
「お許は、もしかすれば、まことの大御所かも知れぬ」
「埒《らち》もない! それがしは、ただの、影武者に過ぎ申さぬ」
「さあ、どうであろうかな。まず、その長髯を剃って、とくと、見きわめねばなるまい」
「それから、どうされようと言うのだ?」
「どういたそうかな」
幸村は、眸子《ひとみ》をほそめて、ちょっと、首をかたげてみせた。
その皮肉な表情に、五左衛門は、戦慄をおぼえて、思わず、びくっと、肩を顫《ふる》わせた。
『囃《はや》せや、はやせ、神踊り。
東の神が、西を押えた神踊り。
もひとつ、せい。
囃せや、はやせ、神踊り。
西を払うぞ、神踊り』
わめきたて乍ら、日本全土で、踊りまわる狂気沙汰の流行があったことは、前に紹介したが、京の市中では、今日も、幾百|華《はな》となく、山車《だし》をかこんだ花笠の集団が、ねりあるいていた。
この「伊勢踊り」の華は、洛中をねりあるいた挙句に、三条河原に蝟集《いしゅう》し、そこをうめつくして、ひしめきあうのが、毎日のならわしとなっていたが、恰度その時刻、突如として、おどろくべき巨《おお》きな山車をもった一華が、旋風《せんぷう》のような速度で、大群衆の中へ、踊り込んでいた。悲鳴と叫喚《きょうかん》の中に、幾十人が押しつぶされ、ふみにじられた。
その一華は、華笠こそかぶっていたが、全身を、忍び装束で包み、孰れも異常な敏捷の技をそなえていて、あっという間に、山車を、河原のまん中へひき入れてしまった。とみるや、たちまち、地にもぐるように、姿を消し去った。
山車の上には、天照大神の人形の代りに、小桜縅《こざくらおどし》の大鎧《おおよろい》をつけた生き身の人間が、後手《うしろで》にひっくくられて、据えられていたのであった。まとうた金襴の陣羽織には、徳川家の家紋である三葉葵が浮きあがって居り、白髪の面貌は、まさしく、徳川家康のものにまぎれもなかった。
洛中の人々は、出陣見物をしていない者はないくらいであったので、家康の顔を、よく知っていた。
驚愕が、潮騒《しおさい》のように、三条河原中にひろがった。
人々をして、|きも《ヽヽ》をつぶさせたのは、その背中に立てた小旗《こばた》に、次のような文句が記されていたことである。
『天下一|古狸《ふるだぬき》。之《これ》を捕えて、衆人《しゅうじん》にさらし、見せしめ置くもの也』
これを読んで、人々は、ただ、アレヨアレヨと、さわぐばかりであった。
このことは、直ちに、駿府へ、もたらされた。
報告を受けた家康は、
「左衛門佐めが!」
ひくく吐きすてた。
大阪城攻撃、の命令が下されたのは、それから三日後であった。
大阪夏の陣
元和《げんな》元年四月。
徳川家康より、大阪城に、最後|通牒《つうちょう》が、つきつけられた。
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去年の兵乱に、百姓退散のこと、まぎれあるべからざるか。但《ただ》し、河州《かしゅう》と摂州《せっしゅう》とは同じからず。次に、和睦《わぼく》以後、諸浪人は、早速|扶持《ふち》を放さるべきところ、かえって浪人をあまた召抱えらるるの条、その用なんぞや。次に、秀頼の家人《けにん》、兵具を調え、ひたすら合戦の用意をす、この事天下に流布して隠れなし、故に世俗は薄氷を踏《ふ》む。この疑いを散ぜん程は、しばらく、和州|郡山《こおりやま》の城に移り御座あるべく、その間に、破壊の堀、石垣を普請《ふしん》ありて進ずべし。
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大阪城内では、直ちに大評定《だいひょうじょう》が、ひらかれた。
その大評定に於て、武将らは、五派に分れた。
家康の命ずるところに従おうとして織田有楽斎長益《おだうらくさいながます》、同息武蔵守。
断乎として決戦すると主張した木村長門守重成、渡辺内蔵助|糺《ただす》、長曾我部宮内少輔盛親《ちょうそかべくないしょうゆうもりちか》、毛利|豊前守《ぶぜんのかみ》勝永。
秀頼自身が、もう一度、家康と会って、疑惑を解いては如何《いかん》、という説をとった明石|掃部助全登《かもんのすけたけのり》、大野|主馬頭治房《しゅめのかみはるふさ》。
片桐且元《かたぎりかつもと》が去ったのち、大阪城の首座に在った大野|修理大夫治長《しゅりたいふはるなが》は、この通牒を、家康の例のいやがらせとみて、浪人衆を一万ばかり去らせて、家康のご機嫌をとりむすび、ともかく小康を保とうと、主張した。
真田|左衛門佐《さえもんのすけ》幸村と後藤又兵衛|基次《もとつぐ》は、沈黙をまもった。
幸村は、意見をもとめられると、ものしずかな声音で、
「神明に従うまででござる」
と、こたえた。基次もまた、
「屈服《くっぷく》も可《か》、戦うもまた可、と存ずる」
と、答えた。
両者の肚裡《とり》は、他の武将らには読みとれなかった。
幸村と基次は、すでに、いかなるあがきをやろうとも、大阪城が滅亡することはさけがたい、と看《み》てとっていたのである。
殊に、幸村は、それを、冬の陣の終結《しゅうけつ》した日に、さとっていた。
前年十二月二十一日、講和沙汰となって、うまうまと家康の権略《けんりゃく》にのせられて、彼我の誓書が交換されたが、その講和条件に、城の外郭《がいかく》、総濠《そうぼり》の撤廃《てっぱい》の一条が加えられていた。
この講和が、老猾《ろうかつ》一時の詐術《さじゅつ》であり、大阪城を本丸ひとつの裸城にしておいて、やがて、家康得意の口実を設けて、一挙《いっきょ》に豊臣家を攻め亡《ほろぼ》す底意より発したもの、と幸村は、にらんだのであった。
で――幸村は、木村長門守重成が使者として、茶臼山《ちゃうすやま》におもむき、家康の血判をもらって帰城した夜、ひそかに、大野治長とともにいた秀頼にまみえて、
「今日いよいよ和議が相調《あいととの》うたとは申し乍《なが》ら、敵は畢竟《ひっきょう》本城の堅固にして、力攻めでは陥《おと》し難《がた》いものと看てとり、一時の調略を用いて、扱いをかけ、平和にことよせ、外郭一切の防備を取り除《の》けさせて、しかる上で、ひと圧《お》しに圧し潰《つぶ》さんとの謀略であることは、疑いを入れませぬ。しかるに、こなたは、かれの求めるままに、その意にしたがい、事今日に及び申したれば、今夕《こんせき》こそ、寄手の上下は、みな太刀を解き、具足を脱いで、高枕して熟睡《うまい》するのは、必定と存じます。されば、夜討ちをしかけて、十死一生のいくさをして、大御所の御首級《みしるし》を頂戴するのは、掌《て》の中にあります。大阪城を安泰にするには、この策以外にはありませねば、何卒御同意下さいまして、この左衛門佐に、奇襲の指揮をおまかせくださいますよう――」
と、願い出たことであった。だが――。
和議成って、ほっと一息している秀頼も治長も、ついに、首を縦には振らなかったのである。
しかし、その時、幸村は、すぐには、ひき退りはしなかった。
秀頼も治長も、城中随一の驍将《ぎょうしょう》の熱意をこめた主張に、やがては、
――まかせようか?
と、顔を見合せたのであった。
そこへ、襖陰《ふすまかげ》でぬすみぎいていた淀君が、柳眉《りゅうび》をひきつらせて、現れて、
「彼方から為向《しむ》けぬ、と誓うた神文《しんもん》を、此方より破っては、冥罰《みょうばつ》のほどもおそろしい! 滅多な企てを、思い泛《うか》べまいぞ!」
と、きめつけた。
この一言で、幸村の乾坤一擲《けんこんいってき》の奇策は、ついに行われることなく、おわったのである。
――やんぬるかな! 大阪城は滅亡の運命にある。幸村は、深慨《しんがい》し、長嘆息《ちょうたんそく》したことであった。
しかし、なお、幸村は、猿飛佐助《さるとびさすけ》ら十勇士に命じて、為すべき手段《てだて》は、つくしてみた。
佐助と霧隠才蔵《きりがくれさいぞう》と三好清海入道《みよしせいかいにゅうどう》に命じて、茶臼山の家康本営、岡山の秀忠本営に、火を放ったのも、そのひとつであった。
家康は、消防には、意外なほど神経を配っていたので、大事にいたらずして、鎮火《ちんか》した。両本営では、全くの疎匆火《そそうび》のようによそおい、大阪城方ではなおさら、対岸の火災視したので、異聞を後世にのこさなかったが、もし大火に至ったならば、黒烟の間に、真田六文銭隊一千騎が、躍り出て、あるいは、家康・秀忠の首級《しゅきゅう》を奪って、歴史を変えたかも知れぬ。その後、幸村は、しばしば、家康の生命を奪わんと、さまざまな方法を採ったが、ついに成らなかった。
そして、ついに、夏の陣を迎えてしまったのである。
幸村としては、もはや、口にすべき言葉は、なかったのである。
大野治長が、一人の刺客《せっかく》に襲われたのは、それから三日後であった。
その日、常のごとく本丸に出仕して、内外の機務《きむ》を視《み》て、陽が落ちてから退庁し、楼門の外へさしかかった時、高塀上から、異形《いぎょう》の人物が、宙を躍《おど》って、行く手二間のところに、戛然《かつぜん》として、大地を鳴らして、立った。
燃えるような真紅の法衣をまとい、同じく赤い袈裟《けさ》で頭を包み、天狗の面をかぶっていた。大薙刀《おおなぎなた》を右手に携《さ》げ、一本歯の高下駄を履《は》いていた。そして、背中には、旗のかわりに大提灯《おおぢょうちん》を負うていたのである。
「見参《げんざん》!」
高らかに、叫んで、大薙刀を直立させ、
「大野修理大夫殿に、物申す、貴殿は、故太閤が遺《のこ》した巨万の軍資金を、ひそかに、私して、当城より、運び出し、何処《いずこ》の地かに、匿《かく》したであろう。その場所を問い申す」
と、迫った。
「なんのたわ言を申す!」
治長は、睨みかえし乍ら、こやつ何者ぞ、とせわしく頭脳を働かせた。
たしかに――。
太閤が匿した軍資金は、残っている。想像を絶する巨額である。
家康もまた、関ヶ原の役で、石田三成を破って以来、その軍資金をわがものにせんと、虎視眈々《こしたんたん》としているのであった。
実は大阪城を攻略しようとするのも、秀頼、淀君の生命を奪う目的よりも、その軍資金が欲しいためかも知れなかった。
家康は、たしかに、天下をわがものにした。しかし、戦いに明け、戦いに暮れた徳川家は、天下人にふさわしい財力を持たなかったのである。家康は、金銀を蓄える余裕などなかったのである。
いまや、徳川幕府にとって、欲しいのは、金であった。
太閤秀吉がのこした軍資金を手に入れれば、それこそ、鬼に金棒であった。
その軍資金は、十万や二十万の兵をやとっても、すこしも減ったとは思えないくらいの莫大な額に相違ないのである。秀吉が、秀頼のために遺した金である。おそらく、日本の全大名の所有する軍資金を合わせても、それに及ぶまい、と考えられるのであった。
大阪城に於ては、秀頼と淀君と大野治長の三人だけが匿し場所を知っている、という噂であった。
「修理大夫殿、生命が惜しくば、かくされるなよ!」
言いざま、天狗は、大薙刀を、ふりかぶった。
治長は、
「曲者!」
と、絶叫しざま、腰の太刀を抜きはなった。供の三士も、抜刀した。
恰度《ちょうど》、そこへ、木村長門守重成が、主だった部下五六十騎に、夜の野戦を研究さすべく、城から出ようとして、この光景を目撃した。
重成は、すかし視て、眉宇《びう》をひそめ、
「あれは!」
と、呟いた。
治長を襲ったものの正体を、看破《かんぱ》したようであった。
「なんのざれ真似か――」
重成は、部下たちに、治長を救え、と命じた。
「ちぇっ!」
天狗は、殺到してくる一隊に、舌打ちしたが、
「修理大夫、淀の方を、せっせと愉しませた代物と、ここらあたりで、別れてしまえ!」
と、あびせざま、大薙刀を、びゅーっ、と振りくれた。
治長が、股間《こかん》に激痛をくらって、「うっ!」と、身を二つに折るや、天狗は、せせら笑って、高下駄の一本歯で、地を蹴《け》った。
まさしく、天狗の面をかぶるにふさわしい飛翔《ひしょう》の術を具備していて、かるがると、塀上へ跳びあがるや、姿を消してしまった。
翌朝、木村重成から、この椿事《ちんじ》を書面によって報《し》らされた幸村は、三好清海入道を呼んだ。
「何故に、痴《おこ》の振舞いをいたす?」
幸村は、不機嫌に、清海入道を叱った。
清海入道は、平然として、
「殿には、徳川勢が、当城へ、なだれ入って参ったならば、あまんじて、討死なさるご所存か?」
と、問いかえした。
「生きのびよ、と申すのか?」
「当然のことでござる。城を枕にいたすなど、莫迦《ばか》げた話でござる。……右府《うふ》公(秀頼)を奉じて落ちるもよし、奉ぜざるもよし。いずれにせよ、殿には、落ちて頂きとう存じます。されば、何処《いずこ》の土地に、屋敷を構えられるとも、やがては、再起いたされるでありましょう。その秋《とき》に、必要なのは、軍資金でござる。……故太閤殿下が遺された軍資金を、むざと、徳川大御所に取られてはなりますまい」
「ふむ。それで、修理大夫を、脅《おど》したか」
幸村は、苦笑した。
「軍資金は、そちが、考えるまでもない。徳川大御所はじめ、天下すべての人間の関心事だ。……大野修理も、その在処《ありか》を知るまい」
「では、知って居るのは?」
「淀君と、秀頼公と――それだけであろうな」
「……」
清海入道は、不快そうな表情で、黙り込んだ。
「清海。そちは、石川五右衛門の一子だけあって、まず、城が烏有《うゆう》に帰す前に、軍資金を、こっちのものにしてやろうと、思いたったようだが、無駄だな」
「無駄と申されると?」
「淀君も、秀頼公も、軍資金の在処を口外される筈がない。もし、落城にあたって、軍資金を大御所にさし出せば、生命が救われるものならば、そうされるであろうが、さし出したあとで、殺されるのが必定《ひつじょう》と判っている以上、むざむざ、徳川家を富ませる阿呆《あほう》はあるまい。……軍資金の在処は、お二人の他界《たかい》とともに、永久に、土中にねむりつづけることになる」
「そ、そのような莫迦な話はござらぬ!」
「清海。そちも、大盗の血を継ぐ者ならば、おのが力で、さがし当てることだ」
「殿! それがしは、殿のために、在処をつきとめたいのでござる」
「この左衛門佐は、豊臣家が滅びた後は、たとえ生き残っても、影同然の身と相成る。その日をすごせるだけの金があれば足りよう。天下を支配するほどの巨財など、なんの必要があろうか」
「殿には、一片の野望も持たぬ、と申されるのか」
清海入道は、いまいましげに、言った。
「まず――」
幸村は、微笑して、頷いてみせた。
「ええい、くそ! 殿、それがしは、今夜より、当城から姿を消し申す。太閤|金《がね》を、血眼で、探索つかまつる。幾年か先、自力を持って掘り当て、生きのびられた殿の面前に積んでお目にかけ申す」
「……」
「殿と雖《いえど》も、それを眺められたならば、世捨人《よすてびと》のまま、朽ち果てられる筈はござるまい。必ず、それの使途をお考え召さるに相違ない。あるいは、蝦夷《えぞ》に巨城を築いて、十万の浪士を擁《よう》するとか、あるいはまた、軍船を造って遠く海のむこうへ押し渡って、そこに王国をかまえるとか――必ず、おやり召さるに相違ござらぬ!」
「……」
「されば、その日まで――ご免!」
清海入道は、さっと立って、出て行った。
入れかわって、猿飛佐助が姿を現して、せわしげに、まばたき乍ら、主人の顔を、見戍《みまも》った。
しばらくの間――幸村は、佐助が入って来たのも気がつかぬように、放心の|てい《ヽヽ》であったが、やがて、
「佐助――」
と、呼んだ。
「御用を仰せつけられませい」
佐助は、願った。
「大御所が、京に入るのを、見とどけて参れ」
大阪城中の評定が、再戦に決し、秀頼は、自《みずか》ら馬を茶臼山に立てて、全軍を閲《えっ》した。
茜《あかね》の吹貫《ふきぬき》三十本、金の切《きっ》さきの旗十本、千本|鑓《やり》、瓢箪《ひょうたん》の馬じるし――すべて、太閤が旗本を率《ひき》いた光景の再現であった。
その頃、家康は、駿府を発して、名古屋に到着し、諸国の大名に、出陣の指令を下していた。
筧十蔵《かけいじゅうぞう》、穴山小助《あなやまこすけ》、由利鎌之助《ゆりかまのすけ》の三名が、幸村の前に罷《まか》り出て、
「大御所の狸首《たぬきくび》を刎《は》ねる任務をお与え下されたい」
と、申出たのは、家康がいよいよ名古屋を発して、京へ向った、という忍び報告がとどいた日であった。
「大御所の生命を貰《もら》う時機は失った」
幸村は、目蓋《まぶた》を閉じて、こたえた。
すでに、日本全土から大阪へむかって、軍勢が動きはじめたのである。将軍秀忠も、江戸を出立している。
家康の首級《しゅきゅう》を奪ったところで、天下の趨勢《すうせい》は、もはや、とどまるところを知らぬ。家康個人の権力によって、諸大名を制圧しなければならない時代は去り、徳川幕府の勢威は、ゆるぎないものになっているのであった。
「しかし、殿、当城が炎上に際し、大御所が生存するとしないとでは、おのずから、降伏の条件がちがい申す」
穴山小助が、言った。
秀忠ならば、わが女《むすめ》千姫の婿である秀頼の生命乞《いのちご》いを、よもや、しりぞけるようなことはあるまい、という意味であった。
「大御所のそばには、影のかたちに添《そ》うがごとく、柳生但馬守《やぎゅうたじまのかみ》と小野次郎右衛門がいる。さらに、服部半蔵《はっとりはんぞう》が、いついかなる時でも、忍び三百騎を手足のごとく動かし得る状態に置いている。お主らが、いかに一騎当千であろうとも、小勢の力では、如何《いかん》ともなし得まい」
げんに、霧隠才蔵が一月前に、家康の首を刎ねるべく、駿府におもむいて、失敗し、小野次郎右衛門に、左腕を斬られて、戻って来ている。
「城を枕に討死いたすよりも、大御所の首級を狙って玉砕《ぎょくさい》いたす方が、どれだけ男子の本懐か知れ申さぬ」
幸村は、それほどまでに申すなら、と一子|大助幸綱《だいすけゆきつな》を呼んで、指揮を命じ、
「生命を粗末にするな」
と、いましめた。
しかし、この壮行については、幸村は、諸将には、誰にも打明けなかった。
真田丸に孤坐して、沈黙をまもる日がつづいた。
冬の陣と同じく、檄《げき》が八方へとばされ、豊家旧縁の諸侯に来援が促《うなが》されたが、幸村は、一切関知しなかった。
檄に応じて起つ大名が、一人としてあろうとは、考えられなかったからである。
例えば――。
浅野但馬守|長晟《ながあきら》は、故弾正|少弼《しょうひつ》長政の子、幸長の弟であり、大阪とは眉睫《びしょう》の間になる南海紀伊の国主であった。
浅野長晟が、味方につくかつかぬか、によって、諸侯の動静に重大な影響をおよぼす。秀頼は、直筆《じきひつ》をもって、大野治長に、使者を命じた。
即日、治長は、和歌山におもむいて、紀藩の三老臣浅野|右近《うこん》、同苗《どうみょう》左衛門佐、亀田|大隅《おおすみ》に会い、
「ご当家は、故弾正少弼殿以来、大阪とは、なみなみならぬご縁故のおん家でござれば、右府公におかせられても、殊のほか頼みに思召《おぼしめ》されるところ、このたび関東からの難題は、右府公|御一期《ごいちご》の危急におわせば、何卒《なにとぞ》おん味方のほど、希望つかまつる」
その条件として、金千枚、分銅《ふんどう》三十、入城の上は騎馬百騎を進ぜる、と申し入れた。
老臣たちは、旧誼《きゅうぎ》を説かれて、流石《さすが》に、その座では辞退しかね、一室にしりぞいて、協議したのち、
「せっかくの仰せ聞けには候えども、但馬守《たじまのかみ》儀、徳川大御所の洪恩《こうおん》をもって、この大国にお取立て相成ったることに御座れば、申聞けまするも如何にござる。この意しかるべく仰上《おおせあ》げられまするよう――」
と、婉曲《えんきょく》に謝絶してしまった。
治長は、還って復命したが、秀頼はあきらめず、もう一度|大封《たいほう》を賭《か》けて、招いてみよ、と命じた。
ふたたび、治長は、和歌山におもむいた。
「この際は、ひとえに頼みにおぼし召せば、来援においては、但馬守殿に、大和一国を与え、重臣諸士にもそれぞれ一国を賜《たまわ》る可ければ、何卒――」
これを伝えられた長晟は、自ら姿をあらわして、
「先祖は、太閤が高恩《こうおん》を蒙《こうむ》ったに相違ござらぬが、それがしは、徳川大御所のおかげによって、この紀伊の藩主となったもの故、関東に弓を引くことは、許されぬ儀にござる」
と、正面から、断乎絶縁を告げた。
他のすべての大名の態度も、浅野長晟と同じであった。
そこで、大阪方は、もはや、猶予《ゆうよ》はならぬ、と|ほぞ《ヽヽ》をかためた。
大野主馬頭治房は、二千の兵を率《ひき》いるや、大阪城を奔《はし》り出て、暗峠《くらがりとうげ》を躍りこえて、郡山を襲った。
鎧袖一触《がいしゅういっしょく》、郡山を守備する筒井|主殿頭《とのものかみ》定慶は、一戦も交えずに、逃走し、のち、自決して果てた。
「大野治房を総大将とする大阪勢二万、大挙して、和歌山を乗取らんと、潮《うしお》のごとく押寄せ来る」
と、急報がとどいたのは、四月二十七日夜であった。
浅野長晟は、泉州|信達《しだち》に宿陣し、浅野|右近《うこん》、亀田|大隅《おおすみ》、上田|宗古《そうこ》、前田越前らの諸隊を、佐野の市場に前衛として布陣させていた。
急報がとどくや、血気の浅野左衛門佐|忠知《ただとも》が、
「たとい幾万が押し寄せるとも、われら先手をうけたまわる限り、一歩も退かず、決戦つかまつろうぞ!」
と、うそぶいた。
これをとどめたのは、老巧《ろうこう》の亀田大隅であった。
「戦いと申すものは、最後に勝つのが専要でござる。……敵二万に対して、味方は五千。この寡勢《かぜい》をもって支えるには、策《さく》を用いねばなり申さぬ。この佐野の地は、東は山の麓《ふもと》に遠く、西は海道の往還《おうかん》に近く、四方おしひらいた平地のこと故、寡勢をもって、大敵に当ることは不可能でござる。……それがしの視《み》るところ、後方一里ばかりの樫井《かしい》一帯にかけては、前に蟻通し明神の松原をひかえて居り申す。これに伏せるならば、敵の目に、わが勢の多寡《たか》は、見すかされず、その上、彼処《かしこ》までの道路は、八丁畷《はっちょうなわて》の一筋道にて、左右とも深田のこと故、銃手を後にして、しりぞくならば、いかに大軍であろうとも、騎馬をならべて、追撃して来ることは、出来申さぬ。そこで、松原の樹蔭から、襲ってくる敵を狙い撃ちすれば、二万の兵をくいとめることは、たやすい儀でござる」
と述べた。
なおも、左衛門佐忠知は、自説を主張してゆずらず、亀田大隅を腰抜けよばわりしたが、とどのつまり、長晟に断を仰いで、大隅の策が採《と》られた。
和歌山へむかって怒涛の進撃をして来た先鋒隊は、塙団右衛門直之《ばんだんえもんなおゆき》を大将とする六百騎と、岡部大学|則綱《のりつな》を大将とする四百騎であった。
天下の豪傑をもって、自他ともに許す塙団右衛門は、雨の降りしきる夜明け、まっしぐらに、佐野市場へ突入した。
しかし、すでに、浅野勢は、信達《しだち》へ退却していた。
――はてな?
団右衛門は、敵に策があるな、と疑った。
しかし、もうこの時、先陣の攻をあせった岡部大学は、佐野市場を突破して、猛進してしまっていた。
団右衛門は、大学の軽率さを怒ったが、間に合わなかった。
大学に功名をほしいままにさせることは、できなかった。
雨はやんだが、濃霧《のうむ》が巻いている不利の地を、団右衛門は、
「われにつづけ!」
と、愛馬を駆けとばした。
安松の市街には、すでに火が放たれ、濛々《もうもう》たる黒烟のちまたと化していた。
団右衛門は、そのまっただ中を抜けた。したがうのは、わずか三十騎あまりであった。
蟻通し明神のあたりまで達した時、前方から進撃してくる浅野勢をみとめた。
「一撃に、四散させてくれん」
と団右衛門は、馬腹を蹴った。
怒涛が怒涛にぶっつかるに似た闘いが、そこに起った。
と――。
浅野勢は、みるみる崩れたって、退却しはじめた。これは、予定の行動であったが、団右衛門は、それを看破《かんぱ》し得なかった。
勢《きお》い立った追撃が、ものの二町もつづくや、突如として、浅野勢の伏兵が、松林から、凄まじい銃撃を放って来た。
「南無三《なむさん》!」
無念の歯がみをしたが、もはや、退くことは叶わなかった。
塙団右衛門は、背負うた大薙刀《おおなぎなた》を、掴みとるや、大音声で、
「塙団右衛門直之が、最期の奮迅《ふんじん》を看よ!」
叫びはなっておいて、阿修羅《あしゅら》のごとく、八丁畷を疾駆しつつ、右に左に、躍って来る敵影へ、刃風《じんぷう》をくらわせた。兜首《かぶとくび》が、刀が、槍が、腕が、刎ねとんだ。
弾丸は、間断《かんだん》なく、飛来した。矢もまた、降って来た。
弾丸は、肩と高股をつらぬき、矢は左腕と背中へ突き立った。
しかもなお、団右衛門は、猛獣のごとく、荒れ狂って、数十人を斬った。
やがて、くり出された槍で、腹を刺しつらぬかれるや、流石《さすが》の団右衛門も、たまらず、どうっと、馬から落ちた。
「八木新左衛門、見参!」
呼ばわった敵将が、大太刀を振りこんで来るや、団右衛門は、地べたに坐り乍ら、左手で、白刃を|むず《ヽヽ》と掴み、
「あせるな! 首は、くれるぞ!」
と、呶鳴《どな》っておいて、右手で、脇差を抜き、頸根《くびね》へあてた。
「おのが首を、おのが手で掻《か》き落すのは、新田義貞以来であろうが――」
にやりとしておいて「うむっ!」と白刃を押し引いた。
首は、見事に胴から離れて、膝前へ、ころがり落ちた。
五月一日、徳川家康は、疾雷《しつらい》耳を掩《おお》ういとまもない速さで、駆りたてた日本全土の軍勢に、総攻撃の命令を下した。
家康は、四月十五日名古屋を発ち、十六日亀山、そして十八日には、すでに、京都に到着していたのである。
家康が二条城に入った夜、更けて、猿飛佐助は、大阪城真田丸に舞い戻って、
「大助様はじめ、筧十蔵、穴山小助、由利鎌之助、いずれも、壮烈な討死を遂《と》げてござる」
と、報告した。
襲撃したのは、亀山に於てであったが、幸村が予測した通り、家康の身辺には、水ももらさぬ警戒陣が敷かれていたのである。
亀山城内外で展開された争闘は、凄絶形容を絶した。
真田大助は、柳生但馬守の左足を膝から両断し、さらに、右眼をつらぬいたのち、服部半蔵の忍び槍で、背中をつらぬかれて、昏倒《こんとう》した。
筧十蔵は、家康へ二歩の距離まで肉薄し乍ら、小野次郎右衛門にはばまれ、その無想剣に屈した。穴山小助と由利鎌之助は、伊賀忍者三十名とわたりあい、十七名を仆《たお》したのち、全身|膾《なます》のごとく斬られて、血海に伏した、という。
幸村は、佐助から、報告をきき了《お》えると、長い間、黙然としていた。
やがて、
「佐助――。お前は、大助を救おうとしたのではないか?」
と、訊いた。
佐助は、せわしくまばたきして、顔を伏せ、こたえなかった。
「大助は、お前に救われるのを、拒絶したであろう」
「お見通しでござる」
佐助は、血まみれの大助をひっかかえて、山の中へ、逃げたのである。
意識をとりもどした大助は、佐助に救われたと知るや、いきなり、その猿面へ、平手打ちをくれて、
「余計なことをするな!」
と、呶鳴りつけ、馬を捜《さが》して来い、と命じた。
夜明けの薄霧の中に、亀山城追手門前に、忽然《こつぜん》と、騎馬を進めた褌《ふんどし》ひとつの裸武者《はだかむしゃ》が、
「真田左衛門佐幸村が一子大助、徳川大御所殿に見参!」
と、呼ばわった。
身に寸鉄も佩《お》びない、血まみれの裸形《らぎょう》は、城士たちを、粛然《しゅくぜん》とさせた。
追手門の扉は、すぐに、左右に開かれた。
しずしずと馬を虎口に進め入れた大助は、番士にみちびかれるままに、天守閣前の広場に到った。
家康は、二層の武者走りに立って、大助を見下した。
「大御所殿か?」
鋭い眼眸《まなざし》を挙《あ》げた大助は、とうてい、垂死の者と見えぬ声音《こわね》をもって、
「われら真田|六文銭《ろくもんせん》組有志、お手前様の首級を狙い損じ、悉《ことごと》く討死いたしたるは、かえすがえすも不覚の極みに候。さり乍ら、左衛門佐が一子たる者、このまま、逃げ去るは、末代までの恥辱に候《そうら》えば、無念のさまを、お手前様にお観せいたすが、せめての心意気と存じ、斯《か》くは、参上つかまつったる次第。とくとご覧あれ」
と、云いはなった。
家康は、大きく頷き、
「もののふの面目《めんぼく》、あっぱれと思うぞ。見事の最期を視《み》せい」
自ら、脇差を抜いて、投げた。
大助は、左手で受けとめて、鞘《さや》を抜きはなつや、逆手に掴んで、
「南無帰命頂礼《なむきみょうちょうらい》!」
と、唱えざま、鳩尾《みぞおち》へ、ぶすっと突き立てて、真一文字に、臍下《へそした》まで、切り下げ、血飛沫噴《ちふぶきふ》かせて抜きとるや、その衂《ちぬ》れた切っ先を、口中にくわえて、ばりばりっと噛み砕いた。
「あっ!」
「おっ!」
見戍《みまも》る数千人の人々は、斉《ひと》しく、瞠目《どうもく》して、驚愕《きょうがく》の叫びを発した。
大助は、みるみるうちに、一尺三寸の白刃を噛み砕いて、嚥下《えんげ》したのである。
柄《つか》のみ残して、それを地べたへ抛《ほう》った大助は、そのまま、目蓋を閉じた。
数分が過ぎて、小野次郎右衛門が、ゆっくりと歩み寄ってみて、すでに、その彫像に似た裸身から魂は離れているのを認めたことだった。
五月六日――家康・秀忠の統率《とうそつ》する大軍は、城南一帯の平野を蔽《おお》うて、浙潮《せっちょう》の倒れかかるごとく、大阪城めがけて、押し寄せて来た。
これを迎え撃つ大阪方の戦略もすでに成った。
第一軍(兵数約六千四百)後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相《すすきだはやとのしょうかねすけ》、井上小左衛門定利、明石|掃部助全登《かもんのすけたけのり》、山川|帯刀《たてわき》賢信ら。
第二軍(兵数約一万二千)真田左衛門佐幸村、毛利|豊前守《ぶぜんのかみ》勝永、福井|伊予守正守《いよのかみまさもり》、渡辺|内蔵助糺《くらのすけただす》、大谷大学|吉胤《よしたね》、長岡|式部少輔興秋《しきぶしょうゆうおきあき》ら。
この第一軍、第二軍が、城から出て、大和路をひた押しに押寄せてくる大軍を迎え撃つことになった。
まず、後藤又兵衛基次が、手勢三千を率いて、威風堂々と城を発して、奈良街道の第一端たる平野《ひらの》に出て、営を布《し》いた。
この報がいたるや、家康は、執政《しっせい》本多佐渡守正信の親族である京都相国寺の一|沙門楊西堂《しゃもんようせいどう》に旨《むね》を授《さず》け、ひそかに、平野の営におもむかせた。
楊西堂は、又兵衛に会見するや、
「大御所、将軍家御両者様には、かねて、貴殿の武略を賞《め》でさせられるところから、拙僧に罷《まか》り向い、この際、是非お味方に転じられ度いと懇談《こんだん》せよとの御下命でござる。されば、貴殿に、御生国|播磨《はりま》一円を進ぜさせられる可《べ》き旨《むね》を申し伝えよとの御沙汰――如何《いかが》に候や?」
と、説いた。
又兵衛は、これをきいて、屹《きっ》と容《かたち》を改めて、
「この基次に、弱きをすてて、強きに就《つ》けとの仰せか、有難き好餌《こうじ》なれど、たとえにも申す。香餌《こうじ》の下必ず死魚あり、とか。ひらに、ご辞退申す」
と、こたえた。
楊西堂も、人を看《み》ることのできる高僧であった。
説いても無駄と知るや、使者の任務を、それきり、放棄した。
私談に移るや、又兵衛は、何気ない口調で、
「それがしほど、冥加《みょうが》にかなった武辺は、またとござるまい。旧主人に追討ちされんとして、諸処を放浪するあいだは、八方より、髄身《ずいじん》をすすめられ、このたび、太閤殿下の御後嗣《ごこうし》に是非にと招かれて、一軍の指揮をまかされたり。対手とするのは、天下の支配者。武辺として、まことに、働き甲斐あり、と申すもの。もし、それがし、斯《か》くて在るならば、一日で落つ可き大阪も十日は持ちこたえ、それがし一日で相果てなば、百日続くべき篭城《ろうじょう》も一日のうちに、片がつき申すべし。もはや、行末は相見え申した。それがし討死の沙汰が、大御所のおん耳に達したならば、大阪城の運命は尽きた、とおぼし召され、と申していたとお伝え下され」
と、莞々《かんかん》として語った。
辞気、態度――泰山富嶽《たいざんふがく》、まことに堂々たるものであった。
後藤又兵衛基次が、天晴れ最期の奮戦地は、道明寺村であった。
大阪城から約五里の東南に在り、古来、精舎《しょうじゃ》によって名がある。東が国分村である。
河内の東端で、ここまでが豊臣家の管轄《かんかつ》であった。
北には、大和川の長江が帯のように流れている。
道明寺、国分の中間を、南から一水が来て、末は大和川に合する。
大和と河内の国境は、生駒山《いこまやま》から、葛城山《かつらぎやま》、金剛山《こんごうさん》などの連山が南北に重畳《ちょうじょう》し、自然の城壁をなしている。
交通はすべて山径をわたることになる。その経路は大小十七。
そのうち最も大きなのが、北部では暗峠《くらがりとうげ》、南部では亀瀬越《かめのせご》えに関屋越《せきやご》えである。
あとの二経路は、いずれも、奈良大阪間の街道である。
又兵衛は、この隘路《あいろ》を扼《やく》し、駢進《へいしん》してくる徳川主力を、迎頭一撃《げいとういちげき》を喫《くら》わせんと、策したのである。
押し寄せて来た東軍は、水野|日向守勝成《ひゅうがのかみかつしげ》、本多|美濃守忠政《みののかみただまさ》、松平|下総守《しもうさのかみ》忠明、伊達陸奥守政宗、松平|上総介忠輝《かずさのすけただてる》――合せて、三万四千八百人。
忍びの者が、馳《は》せ戻って、この軍勢ぶりを告げるや、又兵衛は、
――こなたの寡勢《かぜい》を知られてはならぬ。
と考え、五日夜半のうちに、進撃を下知《げじ》した。のみならず、全将兵に、松明《たいまつ》をかかげさせた。
六日|寅《とら》の刻(午前四時)藤井寺に到着するや、又兵衛は、隊を四分して、散じさせた。
そして、ひたひたと押し進んで、道明寺に出れば、幸いに、暁霧《ぎょうむ》ふかくたちこめて、物色を弁《べん》じ難かった。
「よし、天運われにあり」
又兵衛は、聞張《ききばり》を命じた。
聞張とは、当時の術語で、敵の勢力|推敲《すいこう》の銃隊を謂《い》う。
たちまち。
前隊の山田|外記《げき》、片山助兵衛、古沢四郎兵衛は、各々五十人から成る銃隊をひきつれて、小松山を占領し、敵を眼下に瞰下《みおろ》す地歩を占めた。
東軍の第一指令水野日向守勝成は、作夜半すぎから藤井寺に散在する松明の光をのぞみ見て、
――寡兵《かへい》をかくさんとする策とみえた。
と看破《かんぱ》し、遮二無二《しゃにむに》の突破を、下知した。
前衛諸将が、気負い立って、軍馬を鳴らして、駆け抜けようとした時、突如、小松山から、猛烈な射撃が開始され、みるみるうちに、数百騎が仆《たお》れた。
気をはばまれた前衛諸将は、指令水野勝成の命令を待って、進もうと言い出した。
すると、第一陣松倉豊後守重政と合備《あいぞな》えの奥田三郎右衛門忠次が、憤然《ふんぜん》となって、
「関東勢に先を駆《か》けさせ、その尻馬にすがって働くなど、われら大和勢の面目、いずくにござろうや」
と、罵《ののし》りすてて、一手を率《ひき》いるや、槍を揃えて、山の正面へまっしぐらに、攻めかけた。
「ござんなれ!」
とばかり、聞張百五十騎は、銃を捨てて、槍をふりかざして、崖から躍りかかった。
「よし!」
と、全軍に突撃態勢をとらせた。
小松山の半腹では、たちまち、東軍は、蹴散らされ、潰乱《かいらん》し、後陣へ敗走しつつあった。
水野勝成は、
「先鋒隊を救え!」
と、本隊を挙げて、突撃して来た。
これを待ちかまえていた又兵衛は、
「神明も照覧あれ!」
と、高らかに叫ぶや、おのれが先頭を切って、敵勢へ猛襲して行った。
天地を揺《ゆる》がす喊声《かんせい》とともに、樹林に、竹薮に、道路に、田圃に、渓谷《けいこく》に、旗差物をひるがえした人馬が、殺到し、ぶっつかり合った。
銃声がはじけ、矢が唸り、白刃がひらめき、そして呶号と呶号が渦巻く中で、血煙が飛び散った。
四半刻の激闘の果てに、大阪方は、その三分の一を失った。
敵三万四千に対してわずか三千の後藤勢が、いかに、阿修羅となろうとも、所詮《しょせん》は、潰滅《かいめつ》は時間の問題であった。
ただ――。
後藤又兵衛の奔駆《ほんく》するところ、人間が羽毛のように刎《は》ね飛ばされ、血風が尾をひいたばかりである。
いつか、又兵衛は、小松山の山頂に、駆け上って、そこで、馬を憩わせて、戦況を瞰下《みおろ》していた。
すでに、部下は、八方へ散り散りになり、数十倍あるいは数百倍の敵勢に包囲され、蟻にたかられた羽虫のように、あばれ狂い、のたうちまわっていた。
「もはや、これまで!」
又兵衛は、兜《かぶと》の緒を締めなおすや、愛馬の頸をたたいて、
「たのむぞ、黒丸!」
と言いおいて、疾風に乗った黒雲の迅《はや》さで、斜面を駆け下って行った。
――大御所の首級を!
又兵衛はただ一騎、まっしぐらに、敵中を突破して、枚岡《ひらおか》にあると聞く徳川本営を衝《つ》く意気であった。
たとえ、本営が、枚岡でなく、伏見であろうが、京であろうが、いや、よしんば江戸であろうが、そこまで、まっしぐらに、駆け抜けて行く壮烈な決意をかためていたのである。
――大御所の首級を!
胸中に絶えず絶叫しつつ、鯨波《げいは》渦巻く修羅場《しゅらじょう》へ突入するや、右へ左へ、豪剣を閃《ひらめ》かせつつ、馬脚をあおった。
呶号する顔、恐怖に歪《ゆが》む顔、躍りあがる馬、煌《きらめ》く槍や刀、ふっとぶ旗差物、宙に撒《ま》かれる血飛沫《ちしぶき》――それらが、又兵衛の視野を、いそがしく、掠《かす》め過ぎた。
時おり、脚や腕や背中に、強い衝撃が与えられたが、なんの痛みもおぼえなかった。
天下の後藤又兵衛基次は、昂然《こうぜん》と首を立て、胸をはって、雲霞《うんか》とむらがる敵勢を、片はしから、斬りなびけ乍ら、どこまでも、疾駆していったのである。
『後藤又兵衛、還らず。木村重成、若江堤《わかえづつみ》に討死す』
その報がとどいた時、左衛門佐幸村は、赤旗千|旒《なが》れをなびかせて、応神帝《おうじんてい》の陵《みささぎ》に添うた堤上《ていじょう》に、陣を敷いていた。
幸村は、わずか半刻の内に、東軍第三軍松平下総守忠明の率いる八千騎を、四|分《ぶん》五|裂《れつ》させていたのである。
しかも、味方を一兵も、討死させては、いなかった。
「佐助――」
幸村は、呼んだ。
足軽いでたちの佐助が、馬首の下に、さっと立った。
「明日は、太閤|城《じろ》も、炎上いたそう。……秀頼公のおん首を、敵に渡すな。お前が、運んで行け」
幸村は、命じた。
「かしこまって候」
佐助は、ぺこんと、頭をさげた。
佐助としたことが、珍しく興奮の面持であった。人を殺すことのきらいなこの忍者が、はじめて、半刻間で、敵を三十二人も斬っていたのである。
大阪落城の有様は、かぞえきれぬ文章として、のこっている。
しかし、家康が、秀頼の首を、視《み》た事実は、どの文章にも記されていない。
大阪城の天守閣が崩れ落ちた頃、風に似た迅《はや》さで、軍勢のあいだを掠めて、茶臼山の徳川本営へ到着した足軽|てい《ヽヽ》の小男があった。
「真田左衛門佐幸村が家来猿飛佐助、豊臣右府公のおん首級《みしるし》、持参つかまつりましたれば、大御所におかせられては、何卒ご実検たまわりませい」
家康は、取次がれて、引見を許した。ひょこひょこと、御前へ罷り出た佐助は、小脇にした朱塗《しゅぬ》りの桶を、家康の前に据えて、蓋をとるや、錦《にしき》で包んだ首を、ひき出して、ぱらりと披《ひら》いた。
まさしく、秀頼の首であった。
家康は、首が封書をくわえているのを視て、自ら立って来て、それを把《と》った。
それには、ただ一行、
「太閤遺金、吾とともに、中有《ちゅうう》の間に消え申す可くそろ」
と記してあった。
◆真田幸村◆ 柴錬立川文庫
柴田錬三郎著
二〇〇五年六月二十五日