TITLE : クラシック名曲案内
講談社電子文庫
クラシック名曲案内
ベスト151
柴田 南雄
まえがき
この本は、オーケストラの名曲一五一篇への、気のおけない対談によるガイドである。
聞き手の前和男(まえかずお)さん(当時、NHK洋楽課勤務でNHK交響楽団の番組を手がけておられた)の巧妙なリードぶりに、こちらも思わず熱が入ったり、前さんの的を射た鋭い質問に答えるために、独・仏・英・伊などの音楽辞典や参考書を引っぱり出したりして、対談が終った時は本の山に囲まれていた、などということも再三であった。
そして、この対談はNHK交響楽団の定期公演(一九六六年六月〜六九年五月の五六回)、および地方公演(一九七三年四月〜七月)の会場で配布されるプログラムに載せられた。
公演の曲目については、機関紙「フィルハーモニー」に楽譜入りで、懇切丁寧な解説が掲載されるので、それと重複しないように音楽史におけるエピソードなどを中心に、対談したつもりである。
それが単行本となり、さらに講談社文庫に入るようになったのは、もっぱら聞き役の前和男さんの豊富な知識と名伯楽ぶりのおかげである。改めて感謝申しあげる。
なお、文庫化するにあたって、二冊の単行本『おしゃべり交響曲』『おしゃべり音楽会』(以上、青土社刊)を合本にし、再構成した上で改題した。重複の整理や校正など、今回も前和男さんの御世話になっている。
一九九五年 初冬
柴田南雄
目 次 (作曲者の生年順)
まえがき
モンテヴェルディ
聖母のための夕べの祈り
コレッリ
合奏協奏曲
ヴィヴァルディ
ヴァイオリン協奏曲集《四季》
J・S・バッハ
管弦楽組曲 第三番
クリスマス・オラトリオ
パッサカリア
カンタータ 第五五番〈われは貧しき者、われは罪のしもべ〉
ヘンデル
合奏協奏曲
ハープ協奏曲
ハイドン
交響曲 第八五番《女王》
交響曲 第九四番《驚愕》
交響曲 第一〇三番《太鼓連打》
チェロ協奏曲 第二番
ミサ曲《ハルモニー・ミサ》
J・C・バッハ
シンフォニア 第二番
モーツァルト
交響曲 第一番
交響曲 第二五番
交響曲 第三六番《リンツ》
交響曲 第三八番《プラハ》
交響曲 第四〇番
交響曲 第四一番《ジュピター》
協奏交響曲
歌劇《フィガロの結婚》序曲
歌劇《ドン・ジョヴァンニ》序曲
ピアノ協奏曲 第二三番
ピアノ協奏曲 第二六番《戴冠式》
ピアノ協奏曲 第二七番
フルート協奏曲 第二番
演奏会用アリア〈あわれなる者よ、ああ夢よ、めざめしか――あたり吹くそよ風の〉
ベートーヴェン
交響曲 第一番
交響曲 第二番
交響曲 第三番《英雄》
交響曲 第五番
交響曲 第六番《田園》
交響曲 第八番
《プロメテウスの創造物》序曲
《コリオラン》序曲
序曲《レオノーレ》第三番
《エグモント》への音楽
ピアノ協奏曲 第四番
ウェーバー
歌劇《オベロン》序曲
クラリネット協奏曲 第二番
ロッシーニ
歌劇《シンデレラ》序曲
歌劇《ウィリアム・テル》序曲
シューベルト
交響曲 第三番
交響曲 第九番
《ロザムンデ》序曲
ベルリオーズ
幻想交響曲
メンデルスゾーン
交響曲 第五番《宗教改革》
序曲《フィンガルの洞窟》
ヴァイオリン協奏曲
シューマン
交響曲 第三番《ライン》
交響曲 第四番
ピアノ協奏曲
リスト
交響詩《レ・プレリュード》
ワーグナー
歌劇《リエンツィ》序曲
歌劇《さまよえるオランダ人》序曲
歌劇《ローエングリン》第一幕への前奏曲
楽劇《トリスタンとイゾルデ》前奏曲と愛の死
《ラインの黄金》から〈ワルハラ城への神々の入城〉
《ジークフリート》から〈森のささやき〉
《神々のたそがれ》から〈夜明けとジークフリートのラインへの旅〉
《神々のたそがれ》から〈ジークフリートの葬送行進曲〉
ジークフリートの牧歌
フランク
交響曲
交響的変奏曲
スメタナ
連作交響詩《わが祖国》
歌劇《売られた花嫁》序曲
ブルックナー
交響曲 第一番
交響曲 第四番《ロマンティック》
交響曲 第五番
交響曲 第七番
交響曲 第九番
テ・デウム
ブラームス
交響曲 第一番
交響曲 第二番
交響曲 第三番
交響曲 第四番
ピアノ協奏曲 第一番
ヴァイオリン協奏曲
悲劇的序曲
サン=サーンス
交響曲 第三番《オルガンつき》ハ短調
ピアノ協奏曲 第四番
ピアノ協奏曲 第五番 へ長調
ムソルグスキー
組曲《展覧会の絵》(ラヴェル編曲)
チャイコフスキー
交響曲 第六番《悲愴》
ピアノ協奏曲 第一番
ヴァイオリン協奏曲
幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》
ドヴォルザーク
交響曲 第九番《新世界から》
チェロ協奏曲
グリーグ
ピアノ協奏曲
リムスキー=コルサコフ
交響組曲《シェエラザード》
マーラー
交響曲 第一番《巨人》ニ長調
交響曲 第五番
ヤナーチェク
シンフォニエッタ
エルガー
変奏曲《なぞ》
ドビュッシー
夜想曲
R・シュトラウス
家庭交響曲
アルプス交響曲
交響詩《ドン・フアン》
交響詩《死と変容》
交響詩《ツァラトゥストラはこう語った》
交響詩《英雄の生涯》
ホルン協奏曲 第一番
メタモルフォーゼン
サロメの踊り
組曲《町人貴族》
最後の四つの歌(ソプラノと管弦楽のための)
シベリウス
交響曲 第一番
交響曲 第二番
ヴァイオリン協奏曲
サティ
ジムノペディー (ドビュッシー編曲)
プフィッツナー
《ハイルブロンのケートヒェン》序曲
ヴォーン・ウィリアムズ
タリスの主題による幻想曲
ラフマニノフ
交響曲 第二番
交響的舞曲
レーガー
祖国への序曲
シェーンベルク
浄められた夜(弦楽合奏版)
弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲(ヘンデル原曲)
ラヴェル
《ダフニスとクロエ》第二組曲
スペイン狂詩曲
ファリャ
舞踊組曲《三角帽子》
グリエール
ハープ協奏曲
レスピーギ
交響詩《ローマの噴水》
交響詩《ローマの松》
交響詩《ローマの祭り》
バルトーク
弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽
ヴァイオリン協奏曲 第二番
管弦楽のための協奏曲
ピッツェッティ
《エディプス王》への三つの交響的前奏曲
コダーイ
ガランタ舞曲
ストラヴィンスキー
舞踊組曲《火の鳥》
舞踊音楽《ペトルーシュカ》
舞踊音楽《春の祭典》
詩篇交響曲
三楽章の交響曲
ウェーベルン
パッサカリア
マルティヌー
協奏交響曲
プロコフィエフ
交響曲 第二番
交響曲 第三番
組曲《キージェ中尉》
オネゲル
交響曲 第三番《礼拝》
ヒンデミット
フィルハーモニー協奏曲
ウェーバーの主題による交響的変容
ショスタコーヴィチ
交響曲 第一番
交響曲 第五番
交響曲 第九番
メシアン
異国の鳥たち(ピアノとオーケストラのための)
ブリテン
四つの海の間奏曲 歌劇《ピーター・グライムズ》から
ブロムダール
舞踊組曲《シジフォス》
クラシック名曲案内ベスト151
モンテヴェルディ
Claudio Monteverdi
(イタリア)
1567〜1643
聖母のための夕べの祈り
1主よ救われるべき人に
2主は言われた
3わたしは罪深い女
4むすこらよ、主をほめたたえよ
5麗わしきかな
6われ喜びに満てり
7ふたりの天使
8主でなければ
9天の声を聞け
10イエルサレムよ、ほめたたえよ
11聖マリアの歌
12海の星よ
13マニフィカート
闊達な筆づかい、華やかな色彩にあふれたドラマティックな曲
――モンテヴェルディといえば、一六世紀後半から一七世紀前半に活躍したイタリアの作曲家で、オペラの創成期にあたってすぐれた仕事をした、というぐらいのことしか知りませんが……、当時のイタリアは、ヨーロッパにおける音楽の中心地だったのでしょう?
モンテヴェルディはずいぶん長生きなので、彼が生まれた一五六七年頃と死んだ一六四三年頃ではずいぶん状況がちがいます。またイタリアという統一概念もなかった時代なので、場所によっても非常に差はありますが、とにかく北イタリア、中でもヴェネツィア共和国は、すでに音楽の最前線であり、一大中心地でした。すでに一六世紀のごく初め頃から楽譜の印刷が行われていたくらいです。そのほかフェラーラ、マントヴァ、ミラノ、フィレンツェ、そして法皇のおひざもとのローマは、それぞれ高い音楽生活をもっていました。
――でもほとんど、貴族のためのものでしょう。
そうです。ところが、モンテヴェルディの晩年になると、ヴェネツィアには大衆のためのオペラ劇場がぞくぞくできるようになり、バロック最盛期の時代になってイタリア音楽の絶対優位の時代を迎えるようになります。アレグロ、プレストなどの音楽用語が一般化するようになる兆候が出はじめていた時期、ということになります。
ですから、一口に言って、まだ黎明期というか、いろんなもののあった混沌たる時代で、それだけにひじょうにおもしろい時期だったわけです。つまり先立つ一五〜一六世紀はフランドル地方の音楽家の全盛期でした。デュファイ、ジョスカン・デ・プレからラッススに至るまで……。ところが一六世紀に入るとそのフランドルの音楽家たちが、そろそろイタリアに根をおろして、そこからイタリア人による音楽が育ちはじめていました。
たとえば一五二七年にウィラールトというフランドルの音楽家が、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長に就任しますが、この辺から北イタリアの音楽が栄えはじめます。モンテヴェルディはウィラールトの死んだ翌年に生まれ、ウィラールトの七代あとのサン・マルコ楽長に就任するわけです。
――その間には、どんな人がいたのですか。
まず挙げられるのは、アンドレア・ガブリエリでしょう。その甥のジョヴァンニ・ガブリエリは、ほとんどモンテヴェルディの同時代者です。少し年上でしかも早死にしますけれど……。一方フィレンツェでは、ある貴族のサークルからオペラが発生しました。これはもうモンテヴェルディがほぼ成人してからのことですから、彼も直ちにその新しい様式をとり上げるわけです。
ところで、また一方ではウィラールトの弟子のヴィチェンティーノのように、半音階に大へん興味をもった作曲家もいて、これがジェズアルドのマドリガルなどに影響していきます。それは美術のほうの、あの奇怪なマニエリズムとも関係するし、ギリシャの半音階の復興でもあるのですが、ところが、これと正反対の、マレンツィオのマドリガルやパレストリーナのミサのような全音階の整斉感をもった、音の澄んだ音楽も出ています。
モンテヴェルディは、それら清濁あわせ呑んだ大人物だと思うんです。そしてやがて器楽コンチェルトの全盛期、つまりコレッリ、トレッリ、アルビノーニやヴィヴァルディなどの時代になりますが、それはモンテヴェルディのほぼ一世紀くらいあとから始まるのです。
――それで、当時のイタリアの音楽界の中で、このモンテヴェルディは、どういう位置におかれているのでしょうか。
やはりモンテヴェルディは、オペラの仕事がバックボーンですね。いわゆるフィレンツェの「カメラータ」に属していた半アマチュア的作曲家、つまり、ヴィンチェンツォ・ガリレイ、ヤコポ・ペリといった人たちの試作的オペラを、一挙に芸術的なものに高めたのはモンテヴェルディの功績です。しかも、ペリの《ダフネ》のわずか一〇年後に、モンテヴェルディの《オルフェオ》が出ています。また、作風の上からはルネサンスからバロックへの橋渡しをした重要な人物というわけです。
――どこで生まれたのですか。
北イタリアのクレモナです。ここはミラノの東方約八〇キロくらい、ロンバルディア平原のまっただ中の小さい町です。
彼が生まれた一五六七年当時、すでにすぐれた弦楽器作りのアマティの一家がいました。やがてグヮルネリやストラディヴァリが出ると、この町はヴァイオリン製作の一大中心地となるのですが、それは少なくともモンテヴェルディの死後一〇年くらいたってからのことで、一七世紀中葉以後のことになります。そのあと、コレッリなどの合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)も起ってくるわけです。つまり、良質のヴァイオリンがどっさり出来たのでヴァイオリンの大合奏も起ったのです。
――それじゃモンテヴェルディはそのクレモナで、音楽の勉強をしたのですか。
そうです。一三歳ころから約一〇年間、クレモナの大聖堂楽長であったマルカントニオ・インジェニェリから作曲と弦楽器の奏法を習ったのだそうです。インジェニェリの先生というのがまた、チプリアーノ・デ・ローレといって相当な作曲家です。それにしても、モンテヴェルディは一五歳の時に、最初のマドリガル曲集をクレモナで出版しているのですから、やはり早熟の天才というべきでしょう。「インジェニェリの弟子」という肩書きつきの出版だそうですが。
――やはり、どこかの宮廷に仕えたんでしょうね。
ええ、二三〜二四歳の頃に、故郷のクレモナの東六〇キロほどのマントヴァの町でゴンザガ公の傭われ楽師になったわけです。その前にもミラノに職さがしに出て不首尾だったらしいですが……。ところで、彼はマントヴァの宮廷にたんなる弦楽器奏者として傭われたのであって、楽長になったのは一〇年あまり勤めあげてからなのです。この大天才に対して何たる待遇でしょう。
月給もひどく安く、《オルフェオ》が完成した年には妻が二人の子供を残して病気で死んだのです。しかもその五年後にゴンザガ家の当主が死ぬと、二二年間も忠勤をはげんだモンテヴェルディとその弟――弟も音楽家ですが――その二人とも、首を切られちゃいます。
すごすごとクレモナの親父さんの許に帰った時には、故郷を出た時と同じくらい貧乏だったそうです。それで一年ほど浪人していると、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂楽長のマルチネンゴというお爺さんが死んだので、その後任にモンテヴェルディが満場一致で推挙されたのです。やっと陽の当る所へ出たのが四五歳の時です。
――サン・マルコの楽長職というのは、当時なかなかの栄職だったんでしょう?
これは大へんなものです。今でいえばベルリン・フィルの常任指揮者といったところでしょう。死ぬまで三〇年間、彼はこの名誉ある地位に留まりました。礼拝音楽の練習、指揮、そのための作曲、と相当な激職だったでしょう。
――それじゃオペラの活動からは、どちらかといえば遠のいたわけですか?
いや、オペラのほうもやったのです。パルマ、ボローニャ、古巣のマントヴァなどの宮廷劇場のために多くのオペラを書いたのですが、すっかり兵火で失われてしまいました。最晩年のヴェネツィアの公衆オペラ劇場のための作品でも、《ユリシーズの帰還》(一六四一)と《ポッペアの戴冠》(一六四二)の二つしか、残っていないのはまったく惜しいことです。
――彼のオペラ作品のうち、よく上演されるのは、《オルフェオ》と、《ポッペアの戴冠》ぐらいのものですね。
だって、そもそも最初の《オルフェオ》と、最後から一つ前の《ユリシーズの帰還》と、最後の《ポッペアの戴冠》と三つしか残っていないんですもの。これらを聴くと、一六二〇年代、三〇年代のオペラが失われたのは全く惜しいことです。《オルフェオ》の使者の到着の場面とか、ポッペアの最後の二重唱とか、じつにオリジナルな音楽です。《ポッペアの戴冠》で人物をいかに活写しているかは舞台を見るとよく分かります。《オルフェオ》では器楽の音色を巧みに使っているし……。
――根っからの、ドラマティストだったんですね。
まあ、そうでしょう。オペラの背後に膨大なマドリガルの一群があるわけですが、これらの小曲でモンテヴェルディは自分の書法をだんだん確立していきました。つまりマドリガルに特有の音画的手法、描写的手法――それはモンテヴェルディ以前からの伝統ですが――それを極度に発展させ、ついに歌詞の表現する内容いかんによっては、不協和音の扱いなども自由に大胆にやるようになりました。古風な理論家のアルトゥージという人が、そのことをモンテヴェルディの作品から具体的に例をひいて非難したのですが、彼は、自分のは「第二の作法」というべきもので、頭の古いお前さんなどには分からない、とやり返したのです。
――なんですか、その「第二の作法」というのは?
まあ言ってみれば、歌詞が音楽の主人であって、音の動きの規則なんてものは表現すべき内容に従属すべきもので、柔軟性のある取扱いをすべきだ、という主張なんです。ルネサンスのコチコチな対位法規則――パレストリーナがその頂点ですが――から音楽を解放してバロックの沃野に導いたのがモンテヴェルディですが、そのスローガンに当たるのが「第二の作法」というわけでしょう、かんたんに言えば……。
――やはりモンテヴェルディは本質的に劇音楽の作曲家だったということになりますか?
そう思います。「ヴェスプロ」(《聖母のための夕べの祈り》)もその要素がひじょうに強いです。しかし、だからといって反宗教的とは言えません。当時はオラトリオとオペラと作風上のちがいはほとんどありません。
この〈夕べの祈り〉というのは、いわゆる〈晩課〉〈晩祷〉というものです。広く言えばカトリックの修道院や大きな教会で行われている聖務日課Officium divinumの一つで、これが朝課、讃課、一時課、晩課、終課など一日に八つあるのです。どれも詩篇を中心とした祈りの時間で、形式的にはユダヤ教時代からあったものでしょう。
――その〈晩課〉の次第とか、唱える文句なんかは、もちろんきまっているのでしょうね。
もちろんです。『カトリック大辞典』の聖務日課の項をちょっと開いてみても、それは歴史的にひじょうに複雑な変遷をへていますが、ともかく聖母マリアに関係ある祝日の聖務日課の「詩篇」は、第一〇九、一一二、一二一、一二六、一四七の五篇となっています。
――モンテヴェルディの作品も、それに従っているわけでしょうね。
五つの「詩篇」についてはその通りですが、他の細部は現行のヴァチカン版の聖務日課とは相当ちがいます。それはそうなるのが当たり前で、たぶんモンテヴェルディは一五六八年にピウス五世が改訂した聖務日課書に従ったのでしょうが、そのあと今日まで何回となく改訂されているのです。大きいのだけでも四回かな? その上マントヴァ、あるいは北イタリアだけに特有のしきたりがあって、モンテヴェルディはそれに従った部分があるかもしれません。そういうことになると、ちょっと日本にいては調べようがないでしょう。もっとも現地に行ったって、こんな特殊な、微細な問題は解明できるかどうか分かりません。
さて、この曲は一六一〇年作ですから《オルフェオ》の三年あと、失われた《アリアンナ》の二年あとです。「マドリガル曲集」だと第五巻と第六巻の間です。彼が四三歳の時に当たりますかしら。マントヴァの宮廷を首になる二年前というわけです。
――マントヴァの教会で演奏するように書いたのでしょうね。
いやいや、そうではなくて、法皇庁に提出してローマ法皇パウルス五世に献呈したのです。つまりマントヴァの宮廷の月給が安くて、そのため奥さんも子供を残して死ぬような気の毒な状態に追い込まれてしまったので、法皇庁に息子の入学を頼むため、あるいは何か一家の経済的援助を願うために、これらの曲を一括して提出したのだ、ということになっています。そもそもの作曲の動機からして、そうだったかどうかはちょっと分かりませんが。
何しろ、モンテヴェルディの闊達自在な筆づかいには驚嘆させられます。感情の激しさ、色彩の華やかさ、その上構成のみごとさ、パレストリーナみたいに型通り、規則通りじゃなくて不覊(ふき)奔放を極めています。この曲を捧げられた法皇庁はびっくりしたでしょう。これがいったい宗教音楽かと思って目を丸くしたでしょう。それはヴェネツィアとローマのちがいでもありますが。とにかく、マドリガルの音画的手法、オペラの劇的手法、それをみんな宗教音楽の中にモンテヴェルディはぶち込んでしまった。グレゴリアン・チャントをカントゥス・フィルムス、つまり定旋律に使ってはいますが、いわば申しわけに使ったようなものです。じつにスケールの大きい作曲家で、ワーグナーに匹敵するのじゃないでしょうか。
――当時の前衛作曲家の第一人者であったわけですね。今日、モンテヴェルディはどのように評価されてしかるべきなんでしょうか?
たんに音楽史上なら第一級の天才、ジョスカン・デ・プレ、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった天才に伍す資格があります。しかし、宗教音楽史上は、ちょっと主流から外れる、と言ってよいでしょう。もちろんモンテヴェルディには《無伴奏ミサ》があるし、この不朽の《ヴェスプロ》もありますが、何しろほとんど同時代に、法皇庁の礼拝堂に勤務して、ミサを一〇五曲も書いたパレストリーナとか、五三曲書いたラッススとか、そのほか二〇曲や三〇曲もミサを書いた人がザラにいた時代なのでね……。
●ガーディナー指揮 イギリス・バロック管弦楽団、モンテヴェルディ合唱団〈89〉(アルヒーフ○D)
コレッリ
Arcangelo Corelli
(イタリア)
1653〜1713
合奏協奏曲 ニ長調 作品六―一
ラルゴ―アレグロ
ラルゴ
アレグロ
隅々まで磨きぬかれた完成度の高い作品
――コレッリという音楽家を一言でいうと、どういうことになりましょうか。
オーケストラの音楽会の曲目に上る作曲家の中では、いちばん古い一人じゃないかしら、何しろモーツァルトの一世紀前の人です。正確には一〇三年前に生まれています。
――いまからざっと三四〇年前というわけですね。わが国では近松門左衛門が生まれている。ところで、コレッリはいわゆる革新的な作曲家だったのでしょうか。
いや、まずアカデミックのほうでしょうね。革新派では絶対にないでしょう。アカデミックといえば、当時の学芸の中心地だった北イタリアのボローニャに、「アカデミア・フィラルモニカ」という権威ある音楽のアカデミーがあって、そこには厳重な審査をパスしないと会員になれないのですが、コレッリは一六七〇年にわずか一七歳で入会できました。
そしてちょうどその一〇〇年後に、一四歳のモーツァルトが会員に迎えられました。有資格年齢の二〇歳前に入会許可になったのは、後にも先にもこの二人だけということになっているんです。それに、コレッリは六〇年の生涯に、ほとんど弦楽合奏曲ばかり七二曲書いたのですが、この数は当時の大作曲家としては意外に少ないのです。
つまり、自作に対して検討に検討を重ね、十分推敲を加えたものしか発表しなかったと思われます。駄作を外に出さなかった慎重派なのです。
彼自身のヴァイオリンのテクニックにしても決して革新的ではなく、むしろガイバラという先達(せんだつ)の流儀を正しく伝えるという趣きが感じられます。たとえば作品の中にも第三ポジションくらいまでしか使わないとか、低いG線もあまり使わないとか、他の流派の進んだテクニックに彼がびっくりしたなんていう逸話もいくつかあるし……。
――石橋をたたいて渡る、といった性格の人だったんでしょうかね。しかし、“音楽におけるコロンブス”とか“現代のオルフォイス”などとも呼ばれたというではありませんか。
“音楽家のプリンス”とも称されたのですが、一方そのような名前にふさわしくない逸話もあって、たとえば、ナポリでアレッサンドロ・スカルラッティの作品を奏いた時、スカルラッティから二度も同じ間違いを注意されたのを恥じてローマへ逃げ帰ったとか、ヘンデルが、ローマへきてコレッリの楽団の指揮をした時には、どうしてもヘンデルの思うようにいかなくて、とうとうヘンデルがかんしゃくを起して、コレッリのヴァイオリンをひったくって自ら奏いて見せた、というような話があります。
でも、その反面、コレッリは音色の美しさや、単純なメロディーを気品高く歌わせることにかけては他の追従をゆるさなかったといいます。つまりたんなるバリバリのテクニックには興味のなかった人なんです。作品にも、ひじょうに早いパセージとか、ダブルストップとか、高低とも極端な音域はほとんど出てこないのです。しかし、隅々まで磨きぬかれた、完成度の高い作品だけを世に問うています。その点でじつに尊敬に価する作曲家じゃないでしょうか。あの時代にこういう厳しい態度は珍しいと思うのです。
――こんどは、“コレッリ讃歌”になりました。しかし、それで当時から、人々に受けいれられたのでしょうか。
ええ、彼の音楽は結構よく奏かれたとみえます。たとえば、あの有名な《ラ・フォリア》の入っている作品五のヴァイオリン・ソナタ曲集などは、一七〇〇年に彼の住んでいたローマで初版を出したのですが、同時にアムステルダムとロンドンで合計四種の版が刊行され、それから一〇年以内にパリやヴェネツィアなどヨーロッパ各地で一二種類の楽譜が売り出されたというのです。
――たいへんなベスト・セラーですね。
そうですよ。それに当時いかにヴァイオリン音楽が全盛時代だったかという証拠でもあるし、だいいち著作権という法律が、当時もしあったらコレッリは大金持になれたでしょう。
――ところで、コンチェルト・グロッソについて、少し話して下さいませんか。合奏協奏曲という日本語についても……。
実際、日本語の音楽用語には問題が多いのですね。昔はコンチェルトを司伴楽と訳していました。それが競奏曲となり、やがて「競」の字は音楽用語にはおかしいということからでしょうが、「協」を使うようになりました。しかし、コンチェルトという語は元来ラテンの語源では競い合う、対抗する、闘争するという意味だし、イタリア語では協力する、一致する、調和するという意味で……。
――そりゃ、全く逆じゃありませんか。
そうなんです。つまり、この二つの意味があるためコンチェルトという曲種はひじょうに多様なのです。一六世紀にはたんに合奏や合唱という意味だったし、器楽伴奏のカンタータと同義語の時代もあったのです。だから、歴史的には「競」と「協」の両方の種類のコンチェルトがあったわけで、かんたんにどっちとは言えません。またコンチェルト・グロッソを合奏協奏曲と訳しているけれど、ほんとうに合奏だけの、つまりソロやソロ群のないコンチェルト・シンフォニアというものが他にあるので……。
――バッハの《ブランデンブルク協奏曲》の三番や六番などはそうですね。
その通りです。ですからコレッリのようにトリオ・ソナタをソロ群として芯に通したものは、やはり〈コンチェルト・グロッソ〉とそのまま呼ぶことに、賛成します。何もむりに誤解の起りやすい漢字にしなくたっていいでしょう。
●ピノック指揮 イングリッシュ・コンサート〈87・88〉(アルヒーフ○D)
ヴィヴァルディ
Antonio Vivaldi
(イタリア)
1678〜1741
ヴァイオリン協奏曲集《四季》作品八―一〜四
〈春〉ホ長調
〈夏〉ト短調
〈秋〉ヘ長調
〈冬〉ヘ短調
現代人の感覚に合致した純粋な音の楽しみ
――季節感をうたった音楽は、かず限りないと思うんですが、《四季》というのも、このヴィヴァルディをはじめハイドン、グラズノフ、チャイコフスキー、ミヨーなどの作品がありますね。時代的にはヴィヴァルディのが、いわゆる《四季》のはしりでしょうか。
さあ、どうですか。ルネサンス時代のイタリアのマドリガルの中にでも、ありそうな気がします。このヴィヴァルディにしても、ソネットがもとになっているのですから。しかし、私は知りません……。
――ところで、この《四季》の楽譜の表紙のことですが、Il Cimento dell' Armonia e dell' Inventioneと書いてありますね。これはどういうことなんでしょうか。
それは《四季》の入っている作品八がオランダで出版された時の標題です。普通「和声法とインヴェンションの試み」と訳されるのです。じつはこのインヴェンションが問題で、むろんここで言っているのはバッハの〈インヴェンション〉のように特定の作曲様式を指すのではありません。だいたい、バッハの場合をふくめて、ルネサンスからバロックの時代にインヴェンションという言葉――ラテン語のインヴェンツィオinventioですが――これが音楽上のターミノロジー、つまり術語として何を意味したのか、実はいまだはっきり分かっていないのです。
むろん、たんに創意とか着想とかいうだけの意味ではありません。何でもキケロあたりからきた修辞学の用語でinventioというと、やがて推敲され、展開されるべき思考の探究、選択という意味だそうで、このニュアンスを多分に匂わせながら、この言葉が音楽の畑に入り込んできたのです。まあ平たく言ってしまえば、後の展開に適うようなモチーフの作り方、テーマの見つけ方、といったところでしょう。ただ《四季》の場合は、標題であるソネットを音楽でうまく表現するための方法という意味が含まれているかもしれません。
――Armoniaというのは、和声法のことなんですか。
Armoniaは和声、調和、音楽といろいろありますが、まずここでは和声の意味でよさそうです。だから、全体は「新しいハーモニーと新しいモチーフの作り方への試み」というくらいの意味になりますかしら。ヴィヴァルディとしては大いに野心を示しているのです。
――解説書やレコードの中には、合奏協奏曲とよんでいるものもありますが。
これは合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)とはまさに対立する独奏協奏曲(ソロ・コンチェルト)の典型です。バロック時代の協奏曲ならば、何でもかんでも合奏協奏曲というような誤解が、昔はあったのではないでしょうか。
――バロック熱はあいかわらずですが、この傾向について、どのようにお考えでしょうか。
つまり古典派、ロマン派偏重の習慣が破られて、次第に新しいほうへも古いほうへも関心が向けられてきました。古いほうはやがて今よりもっとルネサンス、中世の音楽がきかれるようになるでしょう。その中間段階としてバロックへの一種のブームがあらわれているのだ、と。まあ、大編成の、また聞き手の感情を揺さぶることに重点をおいた一九世紀音楽への反撥ということもあるでしょう。現代人の感覚的要求への合致という点で……。
――また、バロック音楽では、よく“あそび”の精神ということが言われますが、これにしてもある意味では現代人の渇えているものでしょうからね。
たしかに作者の個性を強く押し出すとか、心理的に深刻な内容をあらわすのでなく、伝統にそった音の遊びの精神で書いています。万事大げさではないですね。間口は狭いかもしれないけれど、バロック特有の純粋な音の楽しみというものがたしかにあります。
――ヴィヴァルディは多作家ですけれども、楽譜はきちんと残されているのでしょうか。
イタリアのリコルディ出版社から、マリピエロが監修者という形で全集版が出ているのですが、じっさいの校訂者は曲によって異なっています。しかし、これはいわゆる演奏用の実用版スコアなのです。
――ということはバッハやモーツァルト全集のように体系的なものではない……?
バッハやモーツァルトの全集のように、作曲者の自筆原稿や昔の手書き楽譜、印刷譜のすべてを照合した上で、またその詳細な研究報告書の付随した全集版がまず刊行され、しかる後に演奏を目的とした実用版が編集されると完璧なのですが、イタリアにはそういった学問的な伝統が稀薄なのです。だから、もう一歩ヴィヴァルディについて、つっ込んだことを調べてみたいとなると、この全集版に頼るだけでは不十分で、トリノの図書館なり、どこなりに原譜のマイクロフィルムを註文して、これはたいがいパート譜ですから、それをもとにして自分でスコアを組み立ててみるという作業が必要になってきます。
つまり、イタリアの全集版は、そういった資料的なデータを示さずに、演奏用のスコアの形で印刷してあるものですから……。つまりこの時代の音楽では、細部に幾通りもの異同があるのが普通のはずですが、全集版はそういった註釈を一切省略して、ただ一種類の形に決定して印刷してあるので、かえって疑問が起きるわけです。けれど、むろん信用できないというわけではありません。ただヴィヴァルディの本格的研究はこれからだと思います。
――このソネットを、改めて読んでみましたら――もちろん日本語訳でですが、なんとつまらない詩であるかを再認識したんですが……。
音楽が位負けしなくていいじゃないですか。《冬の旅》、《魔笛》、みんな文学としての価値は論ずるに足りないでしょう。ワーグナーでさえ、音楽抜きではちょっとね。
●アバド指揮 ヨーロッパ室内管弦楽団、ムローヴァ(Vn)〈86〉(フィリップス○D)
J・S・バッハ
Johann Sebastian Bach
(ドイツ)
1685〜1750
管弦楽組曲 第三番 ニ長調 BWV一〇六八
序曲
アリア
ガヴォット
ブーレ
ジーグ
華麗な管楽器を使用。奏く楽しみ、聴く楽しみのための音楽
――これは、いつ頃の作品なんですか?
以前は晩年のライプツィヒ時代の作とも考えられたのですが、近頃の研究では、バッハの器楽合奏曲は、たいていケーテン時代の作品とされているのです。《ブランデンブルク協奏曲》をはじめ、ヴァイオリンやクラヴィアの多くの協奏曲、ヴァイオリンやチェロのソナタのたぐい、そしてこの《管弦楽組曲》もそうです。クラヴィア曲では《インヴェンション》《平均律第一巻》など……。
――とすると、ケーテンには、それらを立派にこなせるプレイヤーがいたんですね。
まあ多人数ではないけれど、わりに粒の揃った各種の楽器のための奏者が、ケーテンの宮廷にはいたのです。
ケーテンはライプツィヒやハレの近くで少し北の方向、つまりベルリンのほうに寄った所で、この辺は昔から音楽の中心地でもあった。《ブランデンブルク協奏曲》という名で協奏曲スタイルの曲が六曲、そしてこの《管弦楽組曲》の形が四曲残っていますが、じっさいにはもっとたくさん書かれたにちがいありません。
だからいわばこの一〇曲は偶然、幸運に残った一〇曲でしょう。それから《管弦楽組曲》第五番BWV一〇七〇として知られているト短調の曲は、レコードにも入っているけれど、まずこれはバッハの作品ではないでしょう。
――この曲は「組曲」と書いてある楽譜と、「序曲」と書いてある版がありますね。
組曲でも序曲でもどっちでもいいようなものですが、当時の筆写譜や一九世紀の出版ではどれもOuvert殲eつまり序曲となっているようです。最初にオペラやオラトリオの序曲のような、いわゆるフランスふう序曲がきて、そのあと食卓音楽式に雑多な曲がつづく合奏曲は、その全体もOuvert殲eと呼ばれた場合が多いのではないでしょうか。
――「組曲」の各楽章のスタイルは、ある程度決まっているんでしたね。
少なくともバッハではアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという四つの楽章が不可欠の要素になっていますが、序曲ではその点が自由です。ただ、他の作曲家では四つの要素の揃っていない組曲だってあるし、ハイドン晩年の〈ザロモン交響曲〉など、初演のプログラムではどれもメGrand Ouvertureモとなっています。バッハの場合メOuvert殲eモがたぶんオリジナルだけれど、だんだんオーケストラの曲目にロマン派オペラの序曲が進出してくるし、それと区別する必要からも組曲に落ちついてしまったのかな……。
それに、時代が下ると、形式の考えかたも自由になりますし、四つの要素のあるなしも問題でなくなりますしね。しかし、くどいようだけど、このバッハの四曲に関する限り、Ouvert殲eと呼んでおいたほうが良さそうです。
――こうした組曲という形式は、いつ頃からあるのでしょうか。フランスふう序曲で始まるところからすると、原産地はフランスですか?
組曲に限らず本当の起源をつきとめるのはむずかしいことですが、一六世紀のリュートの音楽では好んでゆるやかな二拍子系の舞曲と、急速な三拍子系の舞曲を一対にして演奏した、というよりあとのほうは前のほうのヴァリエーションなのですが、こんなところから組曲が始まったのでしょう。
――それで踊ったのですか?
もうその時は踊るためでなく、奏く楽しみ、聴く楽しみのための音楽だったのです。しかし、緩・急・緩・急という教会ソナタの楽章配置も組曲に影響しているし、協奏曲のスタイルが組曲の内部に浸透しているのもあるし、またクープランの組曲メOrdreモは描写ふうの小曲の集まりですし、組曲というものの歴史はとっても複雑です……。
――この曲は、たしか管楽器の使い方が、非常に華麗でしたね。
そうです。〈アリア〉以外の楽章では、かなり協奏曲様式です。当時のトランペットは特別の職分だから、今日の奏者が受け持つのは大へんなことなのです。昔のと今のとでは、いわば別の楽器ですものね。
●ゲーベル指揮 ムジカ・アンティカ・ケルン〈85〉(アルヒーフ○D)
クリスマス・オラトリオ BWV二四八
第1部:クリスマス第1日
第2部:クリスマス第2日
第3部:クリスマス第3日
第4部:新年(割礼の祝日)
第5部:元旦後第1日曜日
第6部:キリスト公現節
旧作を転用、六曲のカンタータの集成
――これは、いつ頃の作品ですか。
バッハがライプツィヒへ行って一一年目、つまり彼が四九歳の一七三四年暮から一七三五年のお正月にかけて初演されたのです。作曲はその直前と考えられています。
――つまり、聖トーマス教会の附属学校のカントルをつとめていた時代ですね。それで、その頃、バッハは、こうした教会のための作品を、たくさん書いたのですか。
いやあ全然書いていないでしょう。バッハが教会音楽の作曲に精を出したのはライプツィヒへ赴任した直後の数年間だけです。あとは同じ曲をくり返し演奏していた。
――でも、たくさんあるんでしょう。例の教会カンタータという曲は。
ええ、そうです。全部で一六〇曲ですね。そのうち百四十数曲が一七二九年までの作であることが、第二次大戦後の研究で分かっています。
――でも、ライプツィヒには一七五〇年、その生涯を閉じるまで暮したわけでしょう。どうして、そうなったのですか。
まあ、理由は、いろいろあるでしょうけど、なんといっても教会や市当局と頑固なバッハとの間がしっくりいかなくて、絶えず争いが起って、バッハはいいかげんくさってしまったのではないでしょうか。だから、むしろこの時点で《クリスマス・オラトリオ》のような大曲が成ったことのほうが謎といえばいえます。
これは「オラトリオ」と呼ばれていますが、実質的には六曲から成る「カンタータ」集なので、一日に一曲ずつ、六日がかりでやるのが原則です。それも続けざまではなしに、一二月二五日のクリスマス当日に第一部、翌日に第二部、翌々日に第三部、五日あとの正月元旦に第四部、もっともこれは元旦だからじゃなくて、キリストの「割礼の祝日」ということなんですが、やっぱりこれも一種の元日かな?
それから第五部は初演時には、その翌日、これは新年の二日目でしたか、第六部は一月六日、これはいわゆる「エピファニア」で「わが主御公現の大祝日」とか言って、キリストが公生活をはじめた記念日でしたね。以上をひっくるめて、クリスマス・シーズンと考えるんじゃないですか。このクリスマス・シーズン、つまり暮から松の内にかけての一三日間に、とびとびに六曲を上演したものなのです。
――それも、全部同じところじゃなくて、午前はニコライ教会、午後はトーマス教会……といった指示があるとか聞いておりますが。そんな正確な資料が残っているのですか。
幸いにしてこの曲はバッハのオートグラフが残っているのです。しかし、演奏の記録は別じゃないですか。バッハは当時聖トーマス教会と聖ニコライ教会と両方の礼拝音楽を受け持っていたから、最初の年には六曲中四曲まで、一日に午前と午後の二回、両方の教会でやったのです。ご苦労な話です。第三曲と第五曲はニコライ教会だけで演奏したようですが。
――この《クリスマス・オラトリオ》は、バッハの宗教的な作品の中で、どういうジャンルに置かれるものなんでしょうか。
そうですね、カンタータの大きなグループ、パッションのグループ、モテットのグループ、オルガン音楽の大きなグループというふうに区分していくと、例のロ短調の《ミサ》やこの《クリスマス・オラトリオ》は、どこにも入らないのです。独立したジャンルでしょう。しかし、はじめにも申し上げたように、題名にもかかわらず事実上は六曲のカンタータの集成なのです。と言ってももちろん全体を統一する要素もあるのですが……。
――なんでも、旧作を転用したとか……?
そうです。バッハはこの大曲を一二月初旬から着手した形跡が濃厚で、そうだとすると、わずかひと月そこそこで、まるまるこれだけの分量を新作したことになり、これは人間業じゃできません。角倉一朗さんの研究によると全六四曲中二一曲、小節数ではじつに全体の七九パーセントが旧作からの転用なんです。いくつかの世俗カンタータやパッションから歌詞だけ、すげ替えて転用しているのです。つまりプレハブですよ、これは。
手を抜いたわけではなく、宗教的な大曲の場合は、プレハブ方式で作曲するということが、古くからの一種の伝統なんです。だってパレストリーナは一〇五曲だかミサを書いていますが、その半数がプレハブ・ミサです。まあ、これを音楽学者は「パロディー・ミサ」というんですがね。
――パロディーっていうと、きわめて皮肉な意味で使われる言葉でしょう。「これは、なになにのパロディーだ」というふうに。
この場合「パロディー」といっても、滑稽化するとか茶化すという意味は毛頭ないので、単に転用を意味するわけです。要するに既製の世俗曲をミサの歌詞に替えたものです。
――これは、古くからの一種の伝統だといわれましたが、最初に、そのずるいことを考えたのはいったい誰なんですか。
さあね、その発端はフランドル楽派の、あの技巧派のヨハンネス・オケゲムあたりでしょう。だから一五世紀後半です。自作ばかりか、他人の作のパロディーが当時からさかんに行われたし、それがだんだん量を増して、ルネサンス末期からバロックにかけて、大曲の生産方式として絶好のものと誰でも考えていたんじゃないですか。ヘンデルのオラトリオの《エジプトのイスラエル人》などは、ほとんど他人の作品のパロディーですから。
しかし、ヘンデルはそれを著作権侵害とも、うしろめたいとも、これっぽっちも感じなかったでしょう。だって音楽史上の大天才たちが、すでに何百年もその方式でやってきた習慣に従ったまでのことですから。だからバッハの《クリスマス・オラトリオ》のように、その年とか前の年に作曲したばかりの自分の作品だけから、借りてくるというのはずいぶん良心的というか、むしろ例外なくらいで、だから前作のほうを《クリスマス・オラトリオ》のスケッチと考えてもいいくらいなんです。歌詞をつけ替えたにすぎないのですから。
――ところで、歌詞は、なにから採られたのですか。
いろいろじゃないですか。まずバイブルがあります。ルカ、マタイ、ヨハネなどの福音書から相当使われているでしょう。しかし、この部分の音楽は全部新作されているそうです。やっぱり聖書にはとくに敬意を表したのかな。それからコラール。これは古くからのいろいろなプロテスタント・コラールが各部に二、三曲ずつ出ますが、ことに各部の結びの曲は全部コラールです。第三に、作られた歌詞の部分で、これは《マタイ受難曲》などの聖書以外の部分を作詞したピカンダーが書きおろしたものだろうとされていて、この部分にプレハブ方式が多く使われているわけです。
――オーケストラの編成は、どうなっているのですか。
これは第一部から第六部までほとんど全部ちがう編成なんです。
――なるほど、やはり、単なるカンタータ集に過ぎないということになるのでしょうか。
それは、それぞれ、別の日にやるから、ということもあるし、転用した原曲の編成によったから、ということもあるかもしれません。ともかく第一部と第三部と第六部が大きくて、トランペットやティンパニを含んでいますが、その他はほとんど木管と弦ですね。第四部にホルンが二本入りますが……。
――珍しい楽器は、使われてないんですか。
まあ珍しい楽器と言えば、オーボエの他に、オーボエ・ダモーレとオーボエ・ダ・カッチャが二本ずつ使われています。これはバロック時代でもとくにバッハが愛用した楽器ですから、バッハ演奏には珍しいわけじゃないのですが、現代はあまり使われなくなったり、名前が変ってしまった楽器です。オーボエ・ダモーレ、つまり「愛のオーボエ」というのは三度低いオーボエで、つまりin A(イ調)の楽器です。イングリッシュ・ホルンのように先端のベルが玉ねぎ型になっていて、ちょっと鼻声なのでこんな名前になったんでしょう。リヒャルト・シュトラウスやドビュッシーも使っていますがね。楽器の大きさや音律はオーボエとイングリッシュ・ホルンのちょうど中間です。
またオーボエ・ダ・カッチャというのは、今日のイングリッシュ・ホルンとほとんど同じもので、だからじっさいにイングリッシュ・ホルンで演奏されるのですが、オーボエ・ダモーレよりさらに三度低いin F(ヘ調)の楽器です。なぜ「狩のオーボエ」という名がついたかというと、これらは昔、楽器自体がわずかに湾曲していて、それがイギリスで使われていた狩の角笛――それは金管のホルンなんですが――それとちょっと形が似ていたので、「狩猟用オーボエ」とか「イギリスふうホルン」とかの名がついたらしいのです。
――ああ、それから楽器といえば、トランペットがやけに高い音を出しますね。
そうですね、トランペットはin D(ニ調)の楽器が指定されていて、それは楽器としては、in F(ヘ調)やin G(ト調)ほど高音ではないですが、何しろ使う音がひどく高い所が多いのです。これもバッハの時代とすれば当たり前のことなのですが、今はこれで吹くのは大へんなことです。ふつうオーケストラで使われるトランペットはin C(ハ調)の楽器ですから、やや小振りのトランペットが登場する。あと、フルートやホルンはまあ普通です。
――まあ普通というのは……?
今ではどちらもメカニズムが当時とは比較にならぬくらい進歩しているので、そっくり同じ楽器とは言えないという意味です。それは、どんな楽器についても言えることですが。
――声楽の部分は、どうなんでしょうか。
なにしろソプラノとアルトはトーマス教会学校の変声期前の男の子がやり、ソロだって特別のソリストを呼んできたわけじゃないのですから、人数だって全体で二〇〜三〇人でしょう。だから逆にいえば平常毎日の合唱の練習というものが、いかにバッハにとって大へんな仕事だったか、ということの察しがつきます。短い準備期間で、少年たちにともかくもこんな大曲をやらせなければなりません。しかし、現代のウィーンやブダペストの少年合唱団にやらせれば不可能事ではありませんが。ともかく今日われわれが聴く響きは、当時とはずいぶんちがうイメージになります。オーケストラだってずっと小さかったのです。当時の演奏はどちらかといえば弱々しい、貧弱な感じだったと思います。
●ガーディナー指揮 イギリス室内管弦楽団、モンテヴェルディ合唱団〈87〉(アルヒーフ○D)
パッサカリア ハ短調 BWV五八二
原曲は華やかなオルガン音楽、二〇回も変奏が繰り返される
――バッハの《パッサカリア》は、オルガン曲がオリジナルで、オーケストラに編曲したのはレスピーギでしたね。
そうです。これは日本では経験しにくいことなのですが、外国では大きな聖堂の祈りの儀式の中で、大オルガンの音がいろんな音色で文字通り空間を駆けめぐっているのを、人びとがしょっちゅう体験しているでしょう。あれはまったく音のファンタジーという感じで、だからオルガン音楽をオーケストラに移すなどということは誰でも考えつくことだし、それだけによほど上手にやらないとみんなが納得しないのです。
――そうでしょうね。で、これをレスピーギがアレンジしたのはいつごろですか。
一九三〇年から三一年にかけてだそうですが、この時代、つまり両大戦間の「新古典主義」の時代の、政治的にはやがてナチが台頭してくる時期には、ヨーロッパの作曲家たちはみなバロック音楽のアレンジをやっていますね。
シェーンベルクが、バッハの《コラール》やヘンデルの《コンチェルト・グロッソ》を編曲したのもこの時代だし、バッハの《シャコンヌ》をカセッラが編曲したのも一九三五年だし、ミヨー、ウェーベルン……みんな創作はひと休みして、こういう仕事をしながら天下の形勢を眺めていたんじゃないかしら。つまり新作、とくに前衛的な作風による新作は発表しにくい、物情騒然たる季節になっていたのです。
――やっぱり、世相と作風の間には関係があるのですね。ところで、この曲の標題でもある、《パッサカリア》という言葉は「変奏曲」と同義に解釈してよいのでしょうか?
ええと《パッサカリア》には、それが器楽の変奏曲になる前の歴史があるのですね。『MGG』(註:ドイツの音楽辞典)によると、パッサカリアというのはスペイン語のpassacalleから出ていて、その元来の語義は「道を行く」くらいの意味です。転じては街路でギターを手に歌う歌のことで、まあセレナードなどもその中にあったんですよ。
――というと、いつ頃のことになりますか。
一六世紀末から一七世紀のごく初めですね。その伴奏の簡単な音型とリズムの繰り返しが、のちの変奏パッサカリアの低音に発展していったのです。その中間段階にイタリアのフレスコバルディの《パッサカリアによる一〇〇のパルティータ》なんていう曲がくるんでしょうがね。それはローマで一六三七年に出版されています。スペイン、イタリア、フランス、ドイツといった順に広まっていったようです。
――では〈シャコンヌ〉と、どう違うんでしょうか。
少なくとも起源は大ちがいです。〈シャコンヌ〉は元来舞曲だから三拍子と定まっているけど、〈パッサカリア〉のほうは今申し上げたようにstreet songなんだから、三拍子が多いけど二拍子も四拍子もあります。ヘンデルのクラヴィア組曲の中に、たしか二分の二拍子の〈パッサカリア〉があったと思います。《組曲第一集》の第七番の組曲の中です。
また、〈パッサカリア〉の場合、固執低音がまずテーマのように、一本の旋律として、裸のまま呈示されます。そのあとで第一変奏が始まるのは、ギターの前弾きの名残りかもしれません。シャコンヌは低音のメロディーだけでなく、はじめから上声も一緒です。バッハのヴァイオリンの〈シャコンヌ〉がそうでしょう?
――でも、この二つは、全く同じように考えられたこともあったのでしょう?
そうです。バロック時代の後期以後は、シャコンヌとパッサカリアはよく似た変奏曲形式になってしまったのです。しかし、ブラームスの交響曲第四番のフィナーレなどは、三拍子だし、最初から上声の和声がついていますから、どうしてもシャコンヌですね。また二〇世紀になるとウェーベルンのオーケストラ曲の《パッサカリア》をはじめ、シェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》やベルクのオペラ《ヴォツェック》の中に自由な形式でパッサカリアが復興してきます。それも元来パッサカリアが歌の曲だったからなので、それらをシャコンヌと名づけたらおかしいし、それはできないわけです。シェーンベルクもベルクも、低音主題を器楽ではっきり出してそこに声が入ってきますから、一応は昔の型どおりです。
――なるほどね。この曲の話になりますが、最初ひくい音で弾き出される、ゆったりしたメロディーが主題というわけですね。
そうです。しかし、じつはいわゆる主題とはちょっと意味が違うので、オスティナート・バス、つまり固執する低音といいます。低音主題といってもいいです。イタリア語ならバッソ・オスティナートです。この低音の旋律自体は変奏されずに同じ型を固執するのです。何十回でも。今、思い出しましたが、音楽畑以外の人が、よく「通奏低音」という言葉を比喩的に使うのは、ほんとうは「固執低音」のことなのです。そうでなければおかしいので、これは一種の誤用です。余談ですが。
――固執低音……、そういえば、さっき耳慣れない言葉だと思いました。その固執低音は、バッハの創作なんでしょうね?
いや、それがね、フランスのヴェルサイユ楽派のオルガニスト、アンドレ・レーゾンの作なのです。それは四小節しかないので、バッハは八小節、つまり倍の長さに引き伸ばしているけど……。だからこの曲には、レーゾン(仏)――バッハ(独)――レスピーギ(伊)と三人の息がかかっているわけです。曲は、固執低音の提示のあと、その上に二〇回も変奏が繰り返されて、最後に、それをテーマにした長い四声部のフーガがきます。しかも、別の新しいテーマを絡ませた二重フーガです。
――ストコフスキーも、これを取り上げてアレンジしていますね。とにかく《トッカータとフーガ》ニ短調とならんで、もっとも華やかな曲ですし……。
とにかくこの曲は新交響楽団時代から、N響ではわりと何回も上演されています。ローゼンシュトックが昭和一九年(一九四四)一月の定期演奏会でやったのを聴きました。じつは、私は昔、諸井三郎先生の許で作曲の修業中に、オーケストレーションの実習にこの〈パッサカリア〉の編曲を課せられたのです。だから、ストコフスキーのアレンジのやり方やレスピーギの編曲の手法も、当時は大いに興味があったんです。
●ストコフスキー編曲 ストコフスキー指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団〈72〉(ロンドン)
カンタータ 第五五番〈われは貧しき者、われは罪のしもべ〉BWV五五
アリア
レシタティーフ
アリア
レシタティーフ
コラール
演奏前に読まれる福音書はマタイ伝による兄弟愛の教訓
――バッハの教会カンタータというのは全部で二〇〇曲くらいもあるのでしたね。
何しろルター教会の礼拝音楽というのはバッハの本業でしたから……。しかし、それにしては少ない、もっと作れそうなものだ、という見方もあるでしょうね。晩年のバッハは作曲を怠けて同じ曲ばかり繰り返しやっていた、ということですね。
――おやおや……。しかもテノール独唱のカンタータは珍しいのではありませんか。
その通りです。バッハではテノールのソロ・カンタータというのは、この第五五番ただ一曲だけなのです。もちろんフィナーレにコラールの合唱がつきますけれども……。いや実は第一六〇番と第一八九番もテノールのソロ・カンタータなのですが、どちらも近年バッハの真作から外されてしまったのです。何しろバッハ学は第二次大戦後の何年間かは日進月歩の勢いでしたから油断も隙もありません。第一六〇番はテレマンの作だったということです。
――私の好きな変ホ長調のフルート・ソナタでさえ、実は、バッハの真作ではないとか。それはともかく、この第五五番はライプツィヒのトーマス教会の楽長のときの作だということですが……。
そうなのです。バッハ四一歳の一七二六年一一月二七日に初演されたそうです。〈三位一体の祝日の後の第二二番目の主日〉という長い名前の日曜日の礼拝用です。教会暦でいえば待降節のすぐ前の、どちらかと言えば特徴の少ない祭日です。しかし、私の手元の少し古いドイツ語の文献には、たぶん一七三一年か三二年の作だろうと書かれています。以前にでた本はもう役に立ちませんね、バッハの場合。デュルとかダーデルゼンといったバッハ学者が、マヌスクリプトの筆蹟、紙の質、紙の透し模様、インクの色などを科学的にしらべ、また当時の演奏の資料をたんねんに漁って、時には演奏した楽員の領収書までしらべ上げて、どんどん新事実を掘り出したのです。逆にいうと、前世紀のシュピッタやシュヴァイツァーのバッハ研究のあと、みんなああいう大研究に圧倒されてしまって、その内容を疑ってみることをしなかった、ということです。
――なにしろ神様扱いですものね。けれど、一般の音楽ファンにとって、そんなことは、あまり関係ない話なんじゃないでしょうか。
そりゃ、一七二六年か一七三一年かなんて数字そのものはどうでもいいようなものですが、やはり正確な年代考証は演奏様式の問題につながるし、ひいてはその曲に最も適した表現――楽器やテンポのことなどです――を発見する手がかりになるでしょう。ドイツでは学者と演奏家の連絡が密接ですから、結局、そういう努力が積み重なって、いっそう聴衆が満足するようなすぐれた演奏スタイルが生まれてくるのじゃないかしら。たとえばテレマンの作品をバッハと思い込んで奏いてるとしたら今やお話にならないですから。ところで、バッハの〈カンタータ第五五番〉は、五つの部分から成っていて、1アリア、2レシタティーフ、3アリア、4レシタティーフ、5コラール(合唱)という五楽章の、バッハにしてはわりに小型の曲です。三番のアリアではフルートのオブリガートがすばらしいです。
――それで、どういう内容が歌われているんでしょうか。
教会カンタータでは、歌詞も歌詞だけれど、その前に、礼拝の時にカンタータの直前に読まれる福音書の内容がだいじなんですよ。結局歌詞は、それをもとに、説明的に引き伸ばしたり、それへの反応みたいなものを歌って、宗教感情の昂揚をはかり、最後には会衆と一緒にコラールを歌っていっそう祈りの効果を高めるわけですから。第五五番の前に読まれる福音書はマタイ伝の中の一節で、一八章の二三節から三五節までです。主人に一万タラントの負債のある者がそれが返せなくて、妻子や財産を売って返すことになった。それで主人がかわいそうだと思ってそれを棚上げにしてやったのに、そいつは怪しからんことに帰り道で自分がたった一〇〇デナリを貸している男に会うと、これをとっちめて牢へ入れてしまった。それで主人は、私がお前を憐れんだように、お前もその男を憐れむべきだ、と叱って獄につないだという話で、つまり〈憐れみを知らぬ借金者のたとえ〉で、兄弟愛の教訓ですね。
その上で、いよいよ歌われる第一曲のアリアは、「あわれな罪人たる私が、おそれおののいて、正義の神の前に裁きを受けに行く」といった内容で、第二曲のレシタティーフは長いのですが、要するに「私は神の道にそむいてきたけれど、神は私がどこにいても見つけるだろう。地上には、敵と神の間に逃れる所はない」云々と歌います。第三曲のアリアでは「憐れみをお与え下さい。私の涙を心へ届けて下さい」と歌い、第四曲のレシタティーフも神に憐れみをねがう歌で、第五曲のコラールでは「私は主から遠ざかっていたが、あなたの愛が私を呼び戻すだろう。あなたの御子の犠牲によって私を再びとり戻すだろう」と合唱が歌い、二節目の最後で主の恵みの大きさを讃えて終るのですが、この所はとくにさっき言った福音書の内容と首尾一貫しているわけです。
とにかく、この第五五番というカンタータはそう滅多には聴けません。次の第五六番の、バスないしバリトン・ソロのための〈われ喜びて十字架をになわん〉のほうが、はるかにポピュラーです。どちらも同じト短調から始まっていますが。
●リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団、同合唱団、ヘフリガー(T)〈59〉(アルヒーフ)
ヘンデル
Georg Friedrich H穫del
(ドイツ→イギリス)
1685〜1759
合奏協奏曲 作品三―二
ヴィヴァーチェ
ラルゴ
アレグロ
アレグレット
アレグロ
オラトリオの幕間に演奏されたBG音楽
――ヘンデルといえばバッハ、バッハといえばヘンデルというほど、この二人の巨匠の名は結びついておりますが……。
二人がまったく同い年(一六八五年生まれ)で、しかも一ヵ月と差がないのは、じつに偶然ですね。しかも二人は一度も出会ったことがありませんでした。
バッハのほうは、一生涯ドイツ中部の、生まれた所から半径数十キロくらいからめったに外に出ません。外国なんてむろん知らなかったのです。これに反してヘンデルは若い時足かけ五年くらいイタリアにおり、三一歳でイギリスに定住し、ついに帰化してしまいます。当時の国際人です。片方は求心的、一方は遠心的、従って片方の音楽は多分に密画ふう、一方は壁画ふう。片方は閉鎖形式、一方は開放形式を好むなどおよそ対照的です。
当然密画ふうのバッハはオペラやオラトリオなど一つも書きません。《クリスマス・オラトリオ》というのはあれはカンタータ集ですからね。壁画ふうのヘンデルはオペラやオラトリオをひっさげて敵と戦い、音楽界をかきまわしたのです。その代わり精巧な細密画ふうの室内楽は書かなかったのです。ヘンデルが当代一流のプリマドンナを、自分のオペラに出演させようとして、言うことをきかないと窓から投げ出すぞとおどして、実際に横抱きにして窓から差し出してむりに承諾させた、という話くらいヘンデルらしい話はないですね。バッハではとても想像できません。
――ヘンデルは若い時、イタリアに留学したと言われましたが、すると合奏協奏曲のスタイルは、そこで、いろいろな影響を受けたわけでしょうか。
そうですとも。これは有名な逸話で、前述しましたけれども、ローマのある殿様の所のコレッリの主宰する合奏団をヘンデルが指揮をしに行った時、コレッリはじめあんまりテクニックがないので、ヘンデルがかんしゃくを起して、コレッリのヴァイオリンを取り上げて奏いて見せた。コレッリは「ザクセンのお方よ、お手やわらかに」とか何とか弁解したというのです。だからヘンデルは当然、コレッリのスタイルをはじめ、バロック中期のイタリアの合奏協奏曲を数多く、熟知していたでしょうね。
――ヴィヴァルディやコレッリらの合奏協奏曲の作品と比べて、ヘンデルの合奏協奏曲は、どのように評価すればよいのでしょうか。
コレッリが合奏協奏曲の一応の完成者ですが、ヴィヴァルディはむしろソロ協奏曲のほうが多くて、コレッリふうの合奏協奏曲は、ごく例外的に試みているにすぎません。ヘンデルはやはりコレッリふうの、というとつまり三〇年くらい前にイタリアで完成し流行したスタイルをとり上げて、後期バロック・スタイルに合わせ、しかも自分流に、スケールの大きい音楽に仕立てた、というところでしょう。
――それじゃ、ヘンデルの創作活動全体からみて、この合奏協奏曲という分野は、どのくらい重要なんでしょうか。
何といっても量としてはごく少ないです。私たちの研究室にヘンデル全集が揃っていますが、その背中を眺めたって、オラトリオとオペラが棚に三段分ぎっしり、合奏協奏曲集はその中の一冊の、しかも一部分を占めているだけ、ざっと量にして三〇〇分の一くらいかな。けれど決して重要でない曲種だとは言えません。ソナタもソロ・コンチェルトもコンチェルト・グロッソもそれなりに重要です。大曲のスケッチの場合もあるし……。
――とくに、それまでの合奏協奏曲と違った特徴といえば……。楽器の編成はどうなっていますか。
まあ、作品三についてならオーボエ二本がリピエーノ、つまり合奏部に入っていることでしょう。当然、通奏低音にファゴットが加わります。純イタリアふうのコンチェルト・グロッソは弦楽合奏ですが。それから楽章配置が、コレッリでは緩・急・緩・急のソナタ・ダ・キエーザ(教会ソナタ)型か、その拡大型が基本ですが、ヘンデルでもだいたいそうなっています。
ただコレッリよりも各楽章の性格がはっきりしているし、作品三の二など古典派の交響曲の楽章配置にやや近づいている感じです。ただ全部で五楽章ありますが……。ソロ・コンチェルトふうの急・緩・急の三楽章型をヘンデルはあまり採り上げていません。
なお、よく演奏される一二曲から成る作品六のコンチェルト・グロッソは、ふつう弦楽合奏でやりますが、そのうち何曲かの古い写本からオーボエのパートが見つかっているのです。もっとも作品三のようには独立して動いてはいないですが。それから作品三の中には、珍しいことに第一番と第六番のように、長調ではじまって短調で終っているのがあります。第一番なんかB dur(変ロ長調)で始まりG moll(ト短調)で終っています。当時としてはずいぶん自由なやり方です。
――この合奏協奏曲集作品三は、いつ書かれ演奏されたのですか。
作曲の時期は結局のところ、あまりはっきりしないのです。出版は一七三四年、つまり四九歳の時ですが、なかには一七一〇年頃の作もまじっているだろうとされています。六曲中第三、第五、第六の各曲の一部に彼自身のクラヴィアのためのフーガからの流用が見られるのですが……。
演奏はサロンのような所でもやられたし、彼のオラトリオの幕間でも必ず演奏されたのです。ですから、そんな場合は、お客は物を食べるためや、トイレに行くために出たりはいったりして、客席はざわついていたでしょう。そんな時のBG音楽だったわけです。
――先ほどオーボエが活躍するとおっしゃいましたね。
独奏楽器はむしろ第一、第二のソロ・ヴァイオリンですがね。オーボエのソロもあるにはありますが、むしろこれはリピエーノ、つまり合奏部に属する楽器なのです。だから作品三を《オーボエ協奏曲》と俗に呼んでいるのは《オーボエの入ったコンチェルト・グロッソ》という意味にとらないといけません。
●ホグウッド指揮 ヘンデル&ハイドン・ソサエティ〈88〉(オワゾリール○D)
ハープ協奏曲 変ロ長調 作品四―六
アンダンテ―アレグロ
ラルゲット
アレグロ―モデラート
オルガン協奏曲のハープ・ヴァージョン
――この曲は、オルガン協奏曲として聴いたことがあるのですが。
ええ、もともと作品四というのは六曲ともオルガン協奏曲なのです。しかし、その中の第一番と第六番にはハープのためのヴァージョンが作られているのです。つまりヘンデルのオルガン協奏曲作品四は、一七三五年から三六年頃の作ですから、この頃はもうヘンデルがイギリスに行っていた時代です。イギリスではペダルなしの小型オルガンが普及していましたから、オルガン協奏曲が作られるのは自然な流れです。
――その小さなオルガンを使って演奏会で奏かれたのですか。
だいたい、オラトリオの合間にヘンデル自身が奏いたのでしょう。ですからこれは他の鍵盤楽器でも奏けるし、とくに、うちの二つはハープ用の版にもなっている、というわけです。ペダルつき大オルガン用の作品ではこうはいきません。第六番はリュートの版もあったと思いました。
――なるほど、そうでしたか。でも、たしかに撥弦楽器に向いた音楽だと思いますがね。それはともかくとして、ここでハープについて、少しおうかがいします。たしか、オルフェウスの「たて琴」あたりに、さかのぼるわけでしょう?
「たて琴」と一口に言っても、ええと、伝説ではオルフェウスはアポロンからキターラを授けられたんでしたね? このリラとかその大型のキターラとかいうのは、ハープと同じく弦をはじく楽器だけど、共鳴胴と弦の関係が平行になっているというか、とにかくハープの仲間とは別の系統なのです。
エジプトでも広く使われたし、以前上野の博物館でやってた「メソポタミア展」では、牡牛の頭の飾りのついた紀元前三〇〇〇年代のリラが出ていましたが、立派なものでしたねえ、あれは……。
ところで、ハープの系統は共鳴胴と弦が直角というか垂直になっている点や、弦の数が多いことでリラやキターラとは別の系統なんです。日本ではどっちも「たて琴」になってしまうけれども。これも古い楽器で、おそらく弓の弦をブンブン鳴らしたのが起源でしょう。エジプトやバビロニアにあるし、ギリシャではプサルテリオンと呼んだのです。正倉院に断片がある箜篌(くご)なんか実に立派なものです。西洋では中世のハープ、ルネサンスのハープと、芸術音楽に使われてきました。考えてみればハープは大昔から楽器の王様ですよ。
――優雅なところは、王妃ですね。ヘンデルの頃には、現在と同じようなハープがあったのですか?
いやいや、今のとは大へんなちがいです。今日のエラール式のダブル・アクション・ペダルをもったハープは、一九世紀の最初の年に世の中に現われたのです。ヘンデルの頃はひじょうに不便なものだったでしょう。ただ、一六九七年頃に、バイエルンのヤーコプ・ホッホブルッカーという人がペダルを発明して、いくつかの長調や短調を奏きやすくしているので、たぶん、そんな楽器がヘンデルの目当てだったろうと思うのですが、それには異説もあり、よく分かりません。
――いまのお話にあったダブル・アクション・ペダルといいますと?
ハープはもともとCes dur(変ハ長調)の楽器なんです。その変ハ音のペダルをポンと踏むと半音上ってハになり、もう一つポンと踏むと嬰ハになります。つまり一本の弦がダブル・アクション・ペダルのおかげで、三通りの音になるわけです。ドレミファソラシの七つの音に対して、それぞれに作用するダブル・アクション・ペダルがあるのだから、それを操るハーピストはたいへんです。
弦は大部分ガットで低いほうのは金属が巻いてあるようです。近頃はガットの代りに化学繊維も使われているのかしら。で、何しろ弦の見分けがたいへんだから、オクターヴの二ヵ所に色のついた弦を用いるわけです。
――ええと、ハープの弦って、何本でしたっけ?
こりゃ四七本でしょ。義士の討ち入りと憶えてりゃいいんですよ。しかし、今世紀の初めに完成された、ペダルなしのクロマティック・ハープは七八本も弦があるのです。私はそんな楽器は見たことがありませんけれど、日本にあるのかしら……。使いづらいので流行しなかったのです。
――そうでしょうね。四七本だって使いこなすのは、たいへんだと思います。ところでハープの協奏曲というのは、モーツァルトの《フルートとハープのための協奏曲》のほか、あまり知りませんが……。
数はずいぶんあるらしいですが、残念なことに一流の作曲家のハープ協奏曲はまったく寥々たるものです。ヴァーゲンザイル、ボワエルデュ、シュポア……。現代では、他の楽器と一緒になった〈サンフォニー・コンセルタント〉ふうのなら、マルタンとかヒンデミットとかいろいろあります。モーツァルトの曲だって、事実上〈サンフォニー・コンセルタント〉なんですよ。
●フィルハーモニック・ヴィルトゥオーゾ・ベルリン、吉野直子(hp)〈92〉(ソニー○D)
ハイドン
Franz Joseph Haydn
(オーストリア)
1732〜1809
交響曲 第八五番《女王》変ロ長調
アダージョ―ヴィヴァーチェ
ロマンス、アレグレット
メヌエット、アレグレット
フィナーレ、プレスト
王妃マリー・アントワネットも愛聴したという
――ハイドンは、たしか一〇〇曲以上の交響曲を書いたのでしたね。よくまあ、こんなに書いたものだと感心するほかないんですが。
まあ、一〇〇曲以上にもなると、全部番号で呼ぶのも味気ないから、適当にあだ名をつけたくなるというわけです。区別しやすくなるし。ハイドンの交響曲の一〇四曲中、少なくとも二九曲に名前がついているようです。コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックのために書いた六曲の〈パリ交響曲〉の中では《熊》《めんどり》《女王》と三つ名前がついているけど、何だかユーモラスな取り合わせですね。
《女王》というのは例のマリー・アントワネットのことなのですが、つけた理由はあまりはっきりしないのです。彼女がこの曲が好きだったとか、第二楽章のロマンスの原曲に当たる俗曲〈優しい若いリゼット〉を彼女が好きだったとか、まことしやかな理由が言われているけど、当たっているのかどうか……。ともかく商魂たくましいアンギーという出版元がメLa Reine de Franceモ(フランスの女王)という題をつけて、この曲を出版したことはたしかなのですが。
――そういえば、ハイドンについては、分からないことが多いですね。《おもちゃの交響曲》にしてもそうだし。でも、ドイツには専門的な研究機関があるんでしたね。
ええ、ドイツのケルンにある「ハイドン研究所」で、一九五八年以来、徹底的な原典研究にもとづく全集版を刊行中です。ラールセン、フェーダーといった研究者が主宰している研究所で、大宮真琴(一九九五年没)さんや中野博詞さんが全集版編集に協力しておられます。〈パリ交響曲〉は中野博詞さんの校訂での順序は第八七番、八五番、八三番、八四番、八六番、八二番となっていて《女王》は八五番ですから、第二番目に収まっています。
他にも、近年ホーボーケンやランドンのようなすぐれた研究者が、いい本を書いて、ハイドン再認識への興味をかき立てた功績は大きいと思います。私らが学生時代に使ったハイドンのピアノ曲や弦楽四重奏曲や交響曲の楽譜は、新全集版が出揃えば、ぜんぶオシャカになるでしょう。
――ところでハイドンといえば、例のエスターハージ侯の館で長らく楽長をつとめたのでしょう? たしか、もう六〇歳に手の届こうという時までオーストリアを離れていませんよね。その点、はやくからヨーロッパの各地に旅行して見聞を広めていたモーツァルトなどとは、ひじょうに対照的ですね。
たしかにモーツァルトは幼い時から親父さんに手をひかれて、イタリア各地、パリ、マンハイムなど、当時の最高の音楽をやっていた華やかな場所を巡礼して歩きました。反対にハイドンはいわば定年退職の年まで、ヨーロッパの片隅の、田舎貴族の館にくすぶっていたんです。そういった経歴のちがいは、むろん二人の作品に色濃く影を落としてはいるけれども、しかし、芸術創作に対する環境の影響を、あまり大きく考えるのもどうかと思います。とくに巨匠たちの傑作というものは、環境よりもむしろ生来の天才と内面生活の深さに、関わっていると思うのです。
ただ、ハイドンがパリの演奏会目当てに書いたいわゆる〈パリ交響曲〉とか、それからもっとあとでロンドンの演奏会を目当てに書いた〈ザロモン交響曲〉の一二曲、これらを書く時、彼は目つきがいつもと違っていたと思いますね。田舎貴族ではなしにヨーロッパ随一のエリートたちに聞かせるんだというんで、猛然と張り切ったことでしょう。《女王》では第一楽章の冒頭にフランスふう序曲のような、しかもト短調の思わせぶりなアダージョを置いたり、第二楽章にはフランスばやりのロマンスを入れるなどサービスしているし……。それに一曲が金貨二五ルイずつ、さらに出版権譲渡代五金貨ルイという報酬は、当時としてはまったく破格のものだったようです。
――当時、パリには立派なオーケストラがあったのですか。
アイゼンシュタットのエスターハージ侯のオーケストラは一七八三年、つまりほぼ《女王》を書いた頃のデータがあるけど、貧弱なものですよ。弦が一七人、管がオーボエ、ファゴット、ホルン二人ずつの六人、全部でたったの二三人です。それにくらべると、パリのコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックという、つまりハイドンが〈パリ交響曲〉をそのために作曲した団体は弦だけで五〇人以上、管は普通の二管編成かその倍というから七〇人近いメンバーだったでしょう。
ハイドンとしても、張り切らざるを得なかったわけです。ついでですが、ロンドンのザロモンのオーケストラが一七九一年で約三八人、マンハイムが八二年で五四人プラスαというから、パリのオーケストラは当時としてはズバ抜けて大きかったのです。
――なるほど。もっともそうした魅力がなければ危ない旅をして、命がけで見知らぬ所へなど行きませんよね。それにしても、花の都のエリートたちが、オーストリアの田舎爺さんに惹かれたというのは愉快ですね。
そうですね。一つ有名な逸話を思い出すんですが、それは〈パリ交響曲〉がハイドンに発注される四年ほど前、パリの指揮者のル・グロがハイドンに送った手紙の中で、ハイドンの旧作の《スタバト・マーテル》が、四回もパリで上演され大好評だったというのです。つまりこれはラテン語によるカトリック音楽だからフランス人には分かりやすいし、しかもフランスの作曲家にない精神的な深みがあって、これがパリ人の心をぐっと捉えたと考えられます。むろん、その二〇年も前からハイドンの弦楽四重奏曲や交響曲は、パリで出版されつつありました。まあ海賊版も多かったのですがね。
とにかくパリは旺盛なプログラム消化力があったから、いつも各国の天才に貪欲な目を向けていたのです。
●コープマン指揮 アムステルダム・バロック管弦楽団〈92〉(エラート○D)
交響曲 第九四番《驚愕》ト長調
アダージョ・カンタービレ―ヴィヴァーチェ・アッサイ
アンダンテ
メヌエット、アレグロ・モルト
フィナーレ、アレグロ・モルト
スケールの大きさ、人間的温かみとユーモア
――これは《驚愕》という副題がついているんですね。どうも私には〈びっくり交響曲〉というほうが、ユーモラスで、ぴったりきますけれど。
ハイドンは、こういうアイディアを若い頃から何度となく使っているのです。ディヴェルティメントや何かに。いわばユーモアのセンスです。ただこの場合、たんに人をびっくりさせる手段とは思いたくありません。つまりエスターハージの館でなら、ろくに音楽を聴かないで、おしゃべりしている婦人連もいましょうが、これはロンドンの音楽会の、金を払って聴きにきているお客のために書いた曲ですからね。おどかして目をさまさせる必要は、はじめからないわけです。
――それにしても、ハイドンの作品には、こうしたニックネームのついたものが、じつに多いですね。交響曲にしたって、有名な作品には、ほとんど名前がついている。
まあ当時の人の感覚や出版した楽譜の売れゆきを考えれば、題名をつけたほうが利点があったんでしょう。これはロマン派の標題音楽というのと全く別のことです。だから、モーツァルトの《ジュピター》のように後世つけられたあだ名と、ハイドンの多くの場合とはちょっとちがいます。
しかし、イギリスでメSurpriseモと名づけられたのが、ドイツではメPaukenschlagモつまり「太鼓の一打ち」という、えらく具体的、説明的な名称に変わっているのはおもしろいですね。いかにもドイツらしい……。
――ハイドンの交響曲は、ほんとうに一〇四曲あるんでしょうね。私は、八〇番台からあとしかよく知りませんけれど。
数はだいたいそんなもんでしょう。パレストリーナの〈ミサ〉とほぼ同数です。しかし八〇番台、つまり〈パリ交響曲〉以後しか一般に鑑賞されていないのは遺憾の極み、と言いたい所です。つまり以前から晩年のハイドンばかりが聴かれていたんです。だからハイドンといえばモーツァルトやベートーヴェンの前段階の、かびの生えたクラシック、気のぬけた古典派、というイメージがしみついてしまったのです。
近頃はレコードや実演でずいぶん初期の交響曲や協奏曲が取り上げられるようになりました。それらは爛熟し切ったバロック・スタイルなのです。バロック様式がこうも多彩に崩れるものか、と驚くばかりです。私など、それら初期のハイドン像と親しんでいるうちに、「青くさい古典派ハイドン」から「熟しすぎのバロック・ハイドン」にすっかりイメージ・アップされてしまいました。
そういう目で、また晩年のハイドン、つまり〈パリ交響曲〉や〈ザロモン交響曲〉を見直すと、ここにはやはり、いなかの貴族の館のためでなく、ヨーロッパ随一の大都市の聴衆を目当てに書いたスケールの大きさや、ハイドンの人間的充実が非常に感じられます。いまに初期の《朝》《昼》《晩》(第六、七、八番)や《哲学者》(第二二番)、《ホルン信号》(第三一番)などが、どしどし聴かれるようになると思いますよ。
――ハイドンが、この交響曲を書いた頃、モーツァルトは……。
ちょうど、レクイエム・エテルナム(永遠の安息)になって間もない頃です。一七九一年一二月にモーツァルトは死んだのですから……。
ハイドンは第一次ロンドン旅行の往きにも帰りにもボンに立ちよっていて、帰りの時、つまり一七九二年初夏にはたしかにベートーヴェンに会い、弟子入りを許しているのです。それでベートーヴェンは、その年の晩秋にウィーンに向けて旅立つのです。
――まあ、昔の本では、ハイドンは「交響曲の父!」となっていて、その後、そんな断定はナンセンスだと書かれたものも読みましたけれど、ここで、交響曲作曲家ハイドンについて、少し解説して下さい。
ハイドンは、若い頃はバロックふうの通奏低音の足かせつき交響曲を書いていたのが、途中から時代の影響でそれを脱ぎすて、モーツァルトやベートーヴェンと同じ土俵に上ってきました。そしてともかくもフル・サイズの、またクラリネットを含む二管編成の交響曲を数多く書いたという点で、「交響曲の父」といって悪ければ、少なくとも「古典派交響曲の父」と言うことはいいでしょう。フランドル楽派のミサではデュファイの位置が、ちょうどハイドンに当ると思うのです。
――ところで、今まで、第九四番とか、第一〇四番とかいう番号を使ってきましたけれど、これは、ハイドンがつけたのでしょうか。
これは戦前にブライトコップフ&ヘルテル社から出ていたハイドン全集の編集者であるマンディツェフスキーが――この人はカール・ベームの師匠ですが――つけたのです。だから比較的新しいものです。げんに私の手元にオイレンブルクのスコアの旧版で古色蒼然たるのがありますが、Symphony No.3と表紙に書いてあって、中味は今の第九九番です。たぶん一九一〇年代か二〇年代はじめ頃の印刷です。
レコードなどではHob.という番号がついていますが、それはオランダ人のハイドン学者アントニー・ファン・ホーボーケンのつけた整理番号です。しかし、今後たえず改訂されていくんじゃないかしら。ハイドン研究は最近、本格的に動き出したばかりですから。
●ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック〈84〉(オワゾリール○D)
交響曲 第一〇三番《太鼓連打》変ホ長調
アダージョ―アレグロ・コン・スピリト
アンダンテ
メヌエット
アレグロ・コン・スピリト
〈ザロモン交響曲〉中の傑作、非の打ちどころのない形式
――第一〇三番ということは、ほぼ最後ですね。作曲と初演されたのはいつですか。
晩年にちがいありませんが、第二次の〈ザロモン交響曲〉だから一七九五年頃でしょうか。一七九五年三月に初演されています。作曲の場所はロンドンと考えられているようですね。おそらく初演の直前でしょう。
――ハイドンは、ロンドンに渡ったんでしたね。そして、ひじょうに歓迎された。
そうです。彼としてはほとんど一生涯、ハンガリーの田舎貴族の屋敷にいて、こういう晴れの舞台に招かれたのは、前にも後にもロンドンだけでしょう。前後二回招かれていますが、おもしろいことには、ザロモンのロンドンの音楽会では、ザロモンはヴァイオリンを奏きながら合奏のリーダーをつとめ、ハイドンはピアノをひいて合奏に加わった、というのです。つまりバロックの演奏法の名残りで、適当にバスとハーモニーをひいたんじゃないでしょうか。一種の顔見世ですね、作曲者の。
――交響曲のスコアの中に、バッソ・コンティヌオ、つまり通奏低音の書きこまれているものもありますね。
それともう一つ、これらハイドンの交響曲は、みんなグランド・オーヴァチュアと呼ばれていたのです。ロンドンでの初演時にはね。交響曲とは言わなかった。
――この〈ザロモン交響曲〉は、モーツァルトの後期の交響曲と肩を並べ得る傑作だと言われていますが。
とにかく、この時代では作曲年代と、どこで演奏されるための曲か、ということが曲想や編成に響きますからね。モーツァルトの第三九、四〇、四一の三曲は一七八八年の夏の作ですが、その年代だと、ハイドンでは第九〇番から九二番の《オックスフォード》あたりに当るのです。編成の上では、これらの六曲はほぼ並行しています。つまりどれも、まだ完全な二管編成じゃありません。
ところで〈ザロモン交響曲〉の第一次は一七九一年と九二年、第二次は九四年と九五年ですが、年代もさることながら、ザロモンのロンドンのオーケストラは四種の木管、二種の金管が完全に二本ずつ揃っていたから、ハイドンもそれをフルに利用しています。ティンパニもむろん入っています。だから、モーツァルトは二管編成の交響曲の伝統を残したとは言えないのですが、ハイドンは最後の一二曲でそれを完全に実現したわけです。
しかも、ハイドンの二度にわたるロンドンの訪問のちょうど中間の時期、一七九四年にウィーンで第九九番や一〇〇番、一〇一番なんかをハイドンが書いていた頃、二四歳のベートーヴェンが弟子としてハイドンの所に出入りしていたわけですから、そういう点ではむしろ、モーツァルトより二四歳も年上のハイドンのほうが、より直接にベートーヴェンの交響曲の形成に大きく影響していることになります。
――ところで《太鼓連打》というのは、例のはじめの、ティンパニのことでしょう。これは、ハイドンの命名じゃないんでしょうね。
むろん後世の俗称ですし、メPaukenwirbelモだから「連打」というより「ティンパニのごろごろ」かしら。
――まるで、かみなりさまみたいですね。あいかわらず、長い序奏ですね。そして、アレグロの主部……。おなじみのスタイルというところでしょうか。しかし、形式的には、ひじょうにきちんとしていて、まさに非の打ちどころがありませんね。終楽章などを聴くと、まさに、これが「古典派の音楽」だと言っているように思えますが。
アレグロの第一主題、第二楽章の長調と短調の二つの主題、それにフィナーレの主題も、クロアチアの民謡だと言われていますがね。それに関連するけれど、ハイドンがはたして民族的に、どこの人かということは昔からずいぶん議論されたんです。ロシアの学者は彼がスラヴ系だというし、プラハではハイドンがチェコ人だという論文が出たことがあります。またクロアチア人だという説をなす人や、ついにジプシーだという珍説まであらわれたそうです。
結局、先祖はドイツのシュヴァーベン地方の出身で、その地方の人々が一七世紀前半に大量にオーストリアに入ったということになっているようですが、ともかくエスターハージのお城のあった地方はオーストリア、ハンガリー、チェコ、ユーゴの四つの民族のるつぼみたいな所なので、ハイドンはそこにいたクロアチア人から民謡を聴いたのだろうと言われています。
●ブリュッヘン指揮 一八世紀管弦楽団〈87〉(フィリップス○D)
チェロ協奏曲 第二番 ニ長調
アレグロ・モデラート
アダージョ
アレグロ
一度は偽作とうたがわれた技巧上の難曲
――ハイドンのチェロ協奏曲は、有名なこのニ長調のほかに、最近プラハで発見されたとかいうハ長調の作品が、かなり演奏されるようになりましたが。
そうですね。最近といっても一九六一年でしたかね、プラハで発見されて、すぐ翌年の「プラハの春」で初演されたのでしたが……。しかし、ハ長調の曲は、ニ長調の曲の二〇年ほど前に書かれた、まだバロック・スタイルの残っているものです。様式的な完成度という点ではニ長調のほうが段ちがいです。そのハ長調が一七六五年頃、このニ長調のほうは一七八三年というわけです。この辺の二〇年間の変わりようは大きいです。そしてハイドンのチェロ協奏曲は、全部で少なくとも五つ、あるいはさらに二、三曲書かれたのです。全部エスターハージ侯の楽団のためですが……。
――ところで、このニ長調の曲は、偽作だといわれたことがありましたね。それには、それなりの根拠があったのでしょう?
ええ、エスターハージの楽団のチェリストのアントン・クラフトの息子が、あれは実は自分の親父の作曲だ、と言い出したのです。しかし、そのことは一八三七年だかに出版されたドイツの、ある芸術百科辞典に出ているのだそうで、はじめから確証のある話ではなかったのです。しかし、ハイドンがこの曲をクラフトのために書いたのは事実だし、当然、チェロのパートについては相談に乗ったでしょうけれども……。これは昔の弦の協奏曲はみんな、初演者と相談ずくで作曲する習慣でしたからね。
――自筆の楽譜は、あるのですか。
それが一九五四年にウィーンで見つかっているのです。それに、クラフトの他の曲を見れば、彼がそんなに力量のある人じゃないことは、前から分かっていたのです。ただ、ハイドンの一七八三年のスタイル、つまり〈パリ交響曲〉の二、三年前ですが、その時期にしては、メロディーが流麗すぎるし、フィナーレのテーマが第一楽章と関連しているなど、疑われる原因はあったわけです。
――これは、たいへんな難曲なんだそうですね。ただ、テクニックの点だけみても、よく、ハイドンはそんな技術的なことを知っていましたね。
まあ、その楽器の名人にしか、技巧的にむずかしい曲を書けないというわけではありませんからね。かえって細かい点にこだわらずに書いたほうが、難曲になるとも言えます。ともかく半世紀以上も前にバッハの《無伴奏チェロ組曲》という先例があるし、ヴィオラ・ダ・ガンバならフランスのマラン・マレーとか、チェロならハイドンより少し若いボッケリーニのような作曲家と演奏の名人を兼ねる人が出ていましたからね。
――この曲がハイドン五一歳の時に書かれたということになれば、交響曲でいえば……。
第七五番のニ長調あたりから第七八番ハ長調くらいのところでしょうか。第八二番からの六曲がいわゆる〈パリ交響曲〉で、これは一七八五年から八六年にかけてになります。長いあいだ、真作か偽作かも分からなかったために、楽譜は、ずいぶん筆が加えられたんです。大昔フォイアマンの録音したSPレコードが、すでにポケット・スコアとずいぶんちがうので不思議に思ったものです。
しかし、ボッケリーニのチェロ協奏曲変ロ長調の場合ほどじゃありません。あれはほとんどグリュッツマッハーの「メタモルフォーズ」ですからね。しかし、弦の協奏曲のソロ・パートというものは、ボーイングのことまで言い出すと、作曲時のオリジナルで奏かれているものなどあるでしょうか。みんな一九世紀の名人芸の影響を受けていると思いますよ。版によってみんな少しずつ違うんですから。
●ガルシア指揮 イギリス室内管弦楽団、ヨーヨー・マ(Vc)〈79〉(ソニークラシカル)
ミサ曲《ハルモニー・ミサ》変ロ長調
キリエ
グローリア
クレド
サンクトゥス
ベネディクトゥス
アニュス・デイ
簡潔にして、じつに明るい老成した大家の作品
――作品は、楽譜に第一二番とありますが。
ええ。ブライトコップフが最初に出版した時は第六番だったようですが、今日ではどのリストもレコードも第一二番としているようです。ハイドンの作品表をみると、じつに多くのミサ、オラトリオ、そのほか《テ・デウム》とか《サルヴェ・レジナ》など教会音楽があるのです。それにオペラ、世俗的な合唱曲やソロのリートなどもたくさんあります。
さて、この第一二番の《ハルモニー・ミサ》はハイドン最後のミサ作品で、全部で一四曲あったことが分かっているのですが、二曲は紛失したのです。私もいくつも知りませんが、第一番といわれている一七歳の時の《ミサ・ブレヴィス》はきれいな曲です。オルガンと弦の伴奏でね。それから一七六六年の第二番、通称《大オルガン・ミサ》、これは三四歳の作だけど、もう晩年の円熟した風格が味わえます。この曲はイングリッシュ・ホルン二本と弦という変わった編成でした。しかし、何といっても第九番《ネルソン・ミサ》(一七九八)、第一〇番《テレーザ・ミサ》(一七九九)、第一一番《天地創造ミサ》(一八〇一)、第一二番《ハルモニー・ミサ》(一八〇二)と晩年の四曲はいずれ劣らぬ傑作ぞろいです。
――エスターハージに仕えていた頃のものだとありますね。でもハイドンがエスターハージの館を去ってウィーンに転居したのは、もうだいぶ前でしたでしょう。それからロンドンへ行ったり……。
そうなんです。この曲が書かれた一八〇二年というと、いったんエスターハージの楽団が解散し、彼も二度のロンドン旅行をやって、そのあとの再建された楽団の楽長時代ですね。しかし、この曲の二年あとにはその楽長を辞めています。
――例のニコラウス二世の時代ですね。とにかく一八〇二年ということは、彼が死んだのは一八〇九年ですから、ほんとうに晩年ですね。でも、この若い君主は、むかしハイドンが仕えたニコラウス一世とは、かなり違った気質の人だったときいていますが。
そうらしいですね。このニコラウス二世のほうは一世の孫なんです。かなり自分の趣味を押しつけようとしたらしいです。それも古くさい趣味だったと言われていますけれどもね。それでも、エスターハージ家から去ろうとしなかったのは、孫みたいな当主のことなんか、あまり気にしていなかったのでしょう。それに、楽団そのものは昔よりはるかに充実していました。つまり金も出したかわりに口も出したというところですかね、その二世侯は。
――ハイドンが、ミサやオラトリオにこんな執着をもやしたのは、彼自身、熱心な信仰の人だったからでしょうか。
まあ、バッハのように教会暦に従ってカンタータを必要なだけ書くというのと、内容の同じミサ曲を幾通りも書くというのとは、ちょっとちがうでしょうが、一種の連鎖反応みたいなもんでしょうか。まるで〈ザロモン交響曲〉のシンフォニー群の埋め合わせを、ウィーンでやっているみたいです。最後の《ハルモニー・ミサ》はハイドンのこれまでのミサの集大成だと、ある評論家が言っていますね。メSumma Missarum Josephi Haydnモつまり「ハイドンのミサ大全」というわけですか。じじつ《ネルソン・ミサ》や《テレーザ・ミサ》の語法があちこちに出ています。
一八〇二年といえばベートーヴェンが「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた年ですが、ともかく若いベートーヴェンが、いかに最晩年のハイドンに多くを負っているかは、この実質上のハイドンの「白鳥の歌」を聞くとよく分かります。ドミナント系の変化和音でセクエンツァや転調を作っていく感じとか、増六度の和音の使い方、ドミナントの和音の第三転回の愛用の度合……、つまりは典型的な古典和声法の書き方、両外声部の導き方です。候文みたいなものですがね……。
――この《ハルモニー・ミサ》は、どこで作曲されたんですか。
ウィーンです。そうですとも、典型的なウィーン古典派の様式ですよ! まあ、エスターハージ侯の館のアイゼンシュタットでも仕事をつづけたでしょうが、ニコラウス二世はわりにウィーンにいたんです。初演はアイゼンシュタットで、一八〇二年九月八日、ハイドンの指揮によるそうです。この日は聖母マリアの誕生日ですが、エスターハージ侯夫人の霊名がマリアだから、とくにその日に歌ミサをやったのです。
――ドイツ語では「ハルモニー・メッセ」ですが、この「ハルモニー」というのは?
この場合は「ハルモニームジーク」つまり管楽器の合奏のことでしょう。たんにハーモニー、つまり和声とか調和という意味ではありません。管楽器部分の編成が割に大きいから、同じB dur(変ロ長調)のミサが五つもあるので、それらと区別するためにこの名がつけられたのでしょう。第五、八、一〇、一一、一二番とB durなんです。昔の人は大らかなもんです。ともかく、作曲中からハイドン自身の手紙の中にこの名称が出てくるんです。
――といったって、たかが二管編成じゃありませんか。
たとえば第一〇番の《テレーザ・ミサ》の管は、クラリネット二本とトランペット二本だけです。しかも休みばっかり。だからこれはロンドンやパリの職業的大オーケストラ並みで、エスターハージ家の楽団用にしては、管の編成は劃期的に大きいことになるのです。たしかにたかが二管編成でフルートは一本だけなのですがね。そういえばこれはベートーヴェンの交響曲第四番の編成と同じです。調子までも同じですね。年代もごく近いです。
形は、ごくふつうのミサ曲ですが、しかし、じつに明るく、簡潔に引きしまっています。老成した大家の筆です。苦吟や推敲の跡さえない。おそらくスラスラと書いたんでしょう。もっともそんなに速筆じゃなくて、七、八ヵ月かけているようですけれど。
●バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック、ウェストミンスター合唱団〈73〉(ソニークラシカル)
J・C・バッハ
Johann Christian Bach
(ドイツ)
1735〜1782
シンフォニア 第二番 変ロ長調 作品一八―二
アレグロ アッサイ
アンダンテ
プレスト
オペラ《ルチオ・シッラ》の序曲として作曲
――シンフォニアは“交響曲”と訳すと、どうも、ひっかかる気もするんですが。
いきなり核心に触れましたね。クリスティアン・バッハが古典派のごく入口の所にいて、作品が過渡期の様相をあらわしているからです。このメSinfoniaモなんかは一七七六年のマンハイムの初演だから前期古典派にぞくするけれど、作風にはプレクラシックや後期バロックの名残さえあって、モーツァルトの後期やベートーヴェンなどの盛期古典派のものに比べるとたしかに過渡期的なのです。
それで、あなたの言われるひっかかる直接の原因は、日本語の“交響曲”という言葉が、ふつうハイドンやモーツァルトの晩年や、ベートーヴェンなどのウィーン盛期古典派のシンフォニー、およびそれ以後のロマン派や近代のシンフォニーを指す感じが強いからです。日本語の音楽用語が作られた頃や、それ以後も長い間、日本では一つかみの一九世紀音楽しか聴かれていなくて、鑑賞の対象が一八世紀、あるいは二〇世紀へと拡がったのは、ほんの近年のことですから、そこに訳語と現実のズレが出てくるのだと思います。
まあ、このクリスティアン・バッハの“交響曲”にしても、まず演奏時間が一〇分くらいなこと、三楽章しかないこと、元来《ルチオ・シッラ》というオペラへの序曲だったこと、ロンドンから出た初版ではグランド・オーヴァチュアと呼ばれていること、また今日ヨーロッパのどの国でも、この曲集はシンフォニアとイタリア語で呼ばれていて、他の近代語でシンフォニーとは呼ばないことなど、“交響曲”と言い切るにはひっかかる要素が、たしかに多いです。だから原語でシンフォニアと呼ぶのが、いちばんいいと思うのです。
――シンフォニアというのは、元来、どういう言葉なのですか。
ギリシャ語で「一緒に(sym)」「響く(phonia)」ということだから、「交響曲」という訳は、それ自身としては悪くないのです。語訳としては「協奏曲」のほうが、よっぽど問題があります。それはともかくシンフォニアという言葉は一六世紀には声楽曲に対して、一六世紀末には声楽と器楽による音楽に対して、さらに一七世紀には大規模な声楽曲の前奏や間奏の器楽曲に対して使われました。
つまりオペラやオラトリオの序曲や、途中の部分に入る器楽曲です。さらには多楽章のソナタの第一楽章にシンフォニアと記されたものが多いのです。そういうふうに、一八世紀半ばまでは、今日一般に交響曲とかシンフォニーという場合の語感とはちがっていて、そういう要素がほぼ一八世紀の七〇〜八〇年代まで残っている、と考えていいでしょう。
つまり、各時代がそれぞれ固有の呼び方をしているのです。古いほうからいうなら、一五三八年にゲオルク・ラウがモテット集にSymphoniae jucundaeと命名し、一六二九年に有名なシュッツが宗教的合唱曲にSymphoniae sacraeと命名し、一七四一年にヘンデルがメサイアの中でキリストが生まれた直後の間奏曲にSinfonia pastoraleと記したのも、当時としてはみんな正当な用法であり、命名法なんです。
――ところで、このシンフォニアは、三楽章形式ですね。そして、急・緩・急ですから、いわゆる「イタリアふう序曲」になるわけですね。
この形はアレッサンドロ・スカルラッティの一六八〇年代のごくはじめ頃の、オペラの序曲にはじめて現われるのです。だから、クリスティアン・バッハが、この曲を作曲するまでに、ほぼ一世紀の伝統ができ上っていたわけです。スカルラッティの晩年には、もう二本ずつのオーボエとホルンが入ってきますから、ハイドンやモーツァルトの交響曲の初期の形と変りありません。ただ、この曲でもそうですが、メヌエット楽章がまだ欠けています。
この点では、オペラのシンフォニアではなく、演奏会用のシンフォニア=シンフォニーのほうに、一七三〇年代から四〇年代にかけて、ウィーンやマンハイムでぼつぼつ第三楽章にメヌエットが挿入されるようになるのです。しかし、モーツァルトの第三八番《プラハ》K五〇四のように、ずいぶん時代が降るまで、メヌエットなしの三楽章のシンフォニーは残っています。
しかし、それはあくまで例外ですから、ほぼシンフォニアといった場合はバロックから前古典派を通り、古典派初期にかけての、ほとんどは弦楽合奏で、中には管を四本程度含むもの、と考えていいでしょう。
――J・C・バッハは、たしか、大バッハの末っ子でしたね。
しかも二〇番目の子供でしたね、たしか。大バッハの五〇歳の時の子供というわけです。
――ローマ・カトリックに改宗したとかいうことを聞きましたが、やはり大バッハにとっては、不肖の子だったわけですか。
いやいや、そんなことはないでしょう。なにしろ彼の一五歳の時、大バッハが死んでいますし、時代が古典派に向かって急速に変化しつつあったから、ベルリンの兄さんたちの所でいつまでもくすぶっているのがいやになって、イタリアにとび出していったのですが、それだけ天賦の才能に恵まれていたともいえますよ。息子たちのうちでは、いちばん名をあげたのがクリスティアンでしょう。
それに反して、不肖の子といえば、むしろ長男のフリーデマンでしょう。彼は父を意識しすぎたのかもしれないけれど怠け者で、晩年はみじめでしたね。フリードリヒ大王の妹の世話になったりしました。フリーデマンの晩年の悲劇は一九世紀になって小説になったり、グレーナーがオペラに取り上げたりしています。彼にくらべればクリスティアンは、次男のエマヌエル以上に、才能はひらめいているし、作品も多いし、ロンドンでは演奏会を主宰するなど大活躍しています。
教会音楽も、たくさん書いています。ミラノ時代のラテン語の〈詩篇〉なんかも立派だし、ロンドン時代には〈アンセム〉もあります。日本のコーラスもモーツァルトの《レクイエム》を一〇回やる代りに、こういうところにレパートリーを拡げればいいんですよ。
――在世中、名声は、あったのですか。
そりゃ、親父さんよりずっと国際的に名が通っていたでしょうね。若い時はミラノにしばらくいたし、ロンドンではチェリストのアーベルと組んで、バッハ=アーベル演奏会をつづけていたし……。
――若い頃、ミラノにいたとおっしゃいましたが、彼の作品の旋律の流麗さは、そんなところからきているのでしょうか。
それはまあ、ニワトリとタマゴの関係みたいなものでしょう。彼が新時代の「歌うアレグロ」の様式にあこがれたから、北ドイツを逃れて是が非でもミラノに脱出したともいえるし……。
――モーツァルトも、彼のことを、たいへん尊敬していたんでしょう?
ええ、それはもう、モーツァルトがただ「バッハ」と言った場合、ヨハン・セバスティアンじゃなくてクリスティアンのことですからね。直接の先輩だし、長い間のお手本だったわけです。二回会っているしね。二〇歳あまり年上ですね、クリスティアンが。
●ジンマン指揮 オランダ室内管弦楽団〈74・75〉(フィリップス)
モーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart
(オーストリア)
1756〜1791
交響曲 第一番 変ホ長調 K一六
アレグロ・モデラート
アンダンテ
プレスト
モーツァルトが九歳の時の最初の交響曲
――まぎれもなく、モーツァルト最初の交響曲というわけですね。これは何年頃の作品ですか。ああ、一七六四年の末から六五年にかけて、ということになっていますね。
ふつう交響曲第一番といってる曲ですね。K一からK一五まではピアノ曲とヴァイオリン・ソナタと三重奏曲ばかりで、K一六から交響曲が現われます。まあ、早ければ八歳の終りの作曲ですが、ほぼ九歳の時と見ていいんじゃないですか。だから小学三年生かな、今ふうに言うならば……。
一家揃っての旅行中に書いたんです。両親と姉さんと一家四人のね、場所はロンドン。この旅行は大旅行で、一七六三年六月、つまり小学二年生の時に故郷のザルツブルクを出発してドイツを通って、パリに寄って、翌年四月にロンドンに着いたのです。そしてロンドンで一年と三ヵ月も過ごして、一七六五年八月にフランスに着き、今度はオランダやなんかに暇をかけて、ドイツ、スイスを通って六六年一一月末に、ザルツブルクに帰ってきたのです。だからその時は小学五年生になっていた勘定になります。
やっぱり、彼はじつに特殊な環境で育ったわけです。旅先では宮廷や貴族の邸で、しょっちゅう催される演奏会で弾いたり、作曲を頼まれたりしていたのですから。しかも、この三年半に及ぶ大旅行の前に、すでにミュンヘン旅行とウィーン旅行に出ているし、そのあとも年中ですものね。
――体の弱いモーツァルトにとって、大旅行の連続はだいぶこたえたことでしょうね。
旅先で何度も病気をしています。その頃、何年振りかで会った貴族が、モーツァルトがちっとも肉体的に発育していないんで、おどろいたという話がありました。まあ、彼の早死と、幼少時の過度の旅行を直接むすびつけるのは暴論でしょうが、体力づくりの点では、あきらかにマイナスです。もちろん学校生活も送れなかったし……。
――かわいそうなモーツァルト! ロンドンといえば、ハイドンが、まさに死ぬ思いをして、ドーヴァーを渡ったと聞いたことがありましたが、モーツァルトも同じルートを通ったのでしょうね。ところで、イギリスに渡った主な目的は。
さあ……。親父さんの目的としては、どちらもドイツ人のクリスティアン・バッハとアーベルがロンドンでいい仕事をしているから、それに接しさせてやろうということがあったかもしれません。もちろん、旅先で音楽会をやって収入を得て、さらに旅をつづける、という実際的な目当てがあったから、ロンドンを旅程に入れたのでしょうが……。前述しましたように、モーツァルトが手紙などでバッハと書いた場合、大バッハのことじゃなくてその末っ子のクリスティアンのことです。作風としても直接の先輩という感じです。
アインシュタインは「モーツァルトは八歳ないし九歳のときロンドンで、無抵抗に彼の影響を受ける。この影響は新しい別の感銘によって弱められたり、そらされたり、豊かにされたりしたとはいえ、長いあいだ彼のシンフォニー作曲法を支配しつづけるのである。シンフォニー作曲家としてのモーツァルトは最初のうちは、自分の模範ヨーハン・クリスティアーンとちがったようには全然考えることも、案出することもできない」(『モーツァルト』浅井真男訳、白水社版による)と言っています。だから影響という以上の、様式と語法の根本的な原動力と見ているわけです。
――この交響曲K一六については、どうなんですか。
これもむろんそうです。アインシュタインはとくに第二楽章のハ短調の曲想が、クリスティアンの当時の新作である《シンフォニア集》(作品三)に影響されたことを指摘しているし、フィナーレのブッフォ的性格もそうでしょう。交響曲第二番K一九、交響曲第三番K二二などでも、みんな同様のことが言えるでしょう。
――モーツァルトにはディヴェルティメントなどで、いわゆる交響曲と変わらないものがありますね。たとえば弦楽でやるK一三六〜一三八なんかは、《ザルツブルク交響曲》とよばれているでしょう。
ええ、K一三六、一三七、一三八をディヴェルティメントと命名したのは全くおかしいので、なぜならメヌエットなしの三楽章のディヴェルティメントなんてあり得ません。それで私は、モーツァルトが未だ子供だったから、知らずにこんな題をつけてしまったのかと思っていたのですが、アインシュタインは「この名称はモーツァルト自身によるものではあり得ない」と声を大にして弁護しています。これらはまさにシンフォニアですが、しかもこういう弦楽合奏の三楽章のシンフォニアは北イタリアにはいくらでもあったわけです。
それに、これらと弦楽四重奏曲との境界がまた、はっきりしません。イタリア、フランス、マンハイム楽派などに、こういったSonate en QuatuorとかSymphonie en Trioと題したものがたくさんあって、つまり「四声部のソナタ」「三声部のシンフォニア」といった意味ですが、曲想によって三人や四人でやっても大ぜいの合奏でも構わないのです。ともかく、これらの管の入らないシンフォニアは、オペラのオーヴァチュアとしてのシンフォニアじゃなくて、ソナタ・ダ・カメラ、つまり宮廷ソナタの系統です。これに反して、K一六のようにオーボエ、ホルン各二本をふくむのは、劇場オーケストラを媒体としている系統なんです。
発生年代は、ほとんど同じ頃、つまり一七三〇年代でしょうが、どちらかと言えば弦楽合奏オンリーのほうが古いと言えますね。だから、モーツァルトはまず最新流行のほうから出発して、あとでやや古いスタイル、つまりK一三六〜一三八のほうを試みた、と言えるでしょう。ですから、まあK一六、一九、二二などをクリスティアン・バッハ・スタイルのシンフォニアというなら、K一三六〜一三八はG・B・サンマルティーニ・スタイルのシンフォニアと呼んだっていいんです。実際、あとのほうも交響曲の数の中に入れたって構わないのです。ただ、管がないのが淋しいですが、曲はじつによくできていますね。メンデルスゾーンだって少年時代にこういう弦だけの交響曲を書いています。
●ホグウッド、シュレーダー指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック〈78〜81〉(オワゾリール)
交響曲 第二五番 ト短調 K一八三
アレグロ・コン・ブリオ
アンダンテ
メヌエット
アレグロ
ト短調で書かれた二つの交響曲の一つ
――K一八三ですから、かなり若い頃の作品ということになるでしょうね。
そうですね。最後の《ジュピター》が、ふつう第四一番とされていますが、モーツァルトは実際には五〇曲以上の交響曲を書きました。そしてこの第二五番は、三五〜三六曲目にあたるでしょう。一七七三年の作ではあるけれど、いちおう交響曲の経験はすでに豊富だったわけです。
――一七七三年といえば、モーツァルト一七歳の年ということになりますね。この頃、モーツァルトは旅行がちだったのでしょう。
一七七三年春に、これは第三回目になるのかな、親父さんと一緒のイタリア旅行から故郷のザルツブルクに帰って、そして夏から秋にかけてはウィーンを訪問しています。こういう旅行から得た音楽上の豊かな経験は、たしかに音楽に反映したでしょう。その晩秋から翌年春にかけての三曲の交響曲が、この前後の交響曲の中でひときわすぐれているのもむべなるかなです。
その三曲とは作曲順に第二八番(ハ長調 K二〇〇 一七七三年一一月作)、第二五番(ト短調 K一八三 一七七三年末)、第二九番(イ長調 K二〇一 一七七四年初頭)で、これまでの交響曲のまさに総決算です。そして一五年後に、彼が生涯の終りに書いた第三九番、第四〇番、第四一番はまるでこれら三曲のエコーみたいに感じられます。調子だってハ長調とト短調は一致しているし、イ長調と変ホ長調は調子記号三つという点で関連あるし……。おまけにト短調はどっちの組でもまん中なんです。
――しかも短調で書かれたモーツァルトの交響曲というのは、この第二五番と有名な第四〇番だけじゃありませんか?
そうですね。だいたいそれ以外に何調だろうと、短調の交響曲をモーツァルトは書いていませんよ。
――よく、ベートーヴェンのハ短調における悲愴感というようなことがいわれますが、モーツァルトもト短調という調性に、なんらかの意味を考えていたのでしょうか?
どうかしら。結果論になるけれど、K五一六の有名な弦楽五重奏や《レクイエム》の中のト短調の楽章なども共通のムードといえなくはないです。ふるえるような緊張、そしてそのあまりに有名なtristesse allante(疾走する悲しみ)といった感じ……。
――まずオーケストラの編成ですけれど、弦楽五部と、それぞれ二本ずつのオーボエとファゴット――これは、いいとして、ホルンが四本というのは、珍しいんじゃありませんか?
そうです。しかし、前例がないとはいえません。ハイドンの交響曲第三一番、通称《ホルン信号》、ほんとうは〈狩場にて〉という標題の交響曲ですが、あれは一七六五年だし、他にもいくらか例があるでしょう。大きい宮廷楽団やオペラ劇場なら、ホルン四本は可能だったでしょうからね。
――トランペットも、ティンパニもありませんね。
そうですね。姉妹作の交響曲第二八番のハ長調K二〇〇では、トランペットは二本ありますが、ティンパニのパートはあったり、なかったりです。つまり古い写譜の中にそれがあるものもあるのです。だから、昔はトランペットとティンパニを所有している楽団だったら、即興的にそれを加えて演奏したことも大いに考えられます。必要な所でトニックとドミナントを強めればいいんですから。
――古き良き時代ですね! それにしても、モーツァルトが、こうした作品を書いたということには、何か、そうさせるものがあったのでしょうか?
モーツァルトはシンコペーションの開始がわりに好きなんですね。交響曲第三八番《プラハ》のアレグロの出だし、ニ短調のピアノ協奏曲第二〇番K四六六の出だし……。まあ、このト短調の曲想の必然性ということなら、やっぱり私はK二〇〇とK二〇一との対照ということを強調したいです。この三者で一つの完結した小世界を作っているという感じを受けます。ハ長調K二〇〇の分散和音に始まる力強い曲想、イ長調K二〇一のマンハイム風クレッシェンドにはじまる柔軟な楽想、そしてこのト短調の劇的な姿勢。しかし、これが一七の少年の作品なんだから、おそれいりますね。
●マリナー指揮 アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ〈78〉(フィリップス)
交響曲 第三六番《リンツ》ハ長調 K四二五
アダージョ―アレグロ・スピリトーソ
ポーコ・アダージョ
メヌエット
フィナーレ、プレスト
ウィーン時代のモーツァルトが初めて書きおろした交響曲
――これは、たしか、リンツの誰かのために書いたのでしたね。
これはいわゆるウィーン時代に入ってからの一七八三年の作です。ところでモーツァルトは前年の夏、コンスタンツェと結婚したのですが、ザルツブルクの親父さんや姉さんはそれに反対でした。しかし、それからやがて一年たったし、長男も生まれたので、一七八三年の夏に妻をつれて、子供はウィーンに置いて、ザルツブルクに里帰りをしたのです。
ところが、父親もそう釈然とはしなかったし、留守をさせた子供は死ぬという不幸なことになってしまいました。それでも、すぐウィーンに帰ることはせず、ザルツブルクでいろいろ作曲や演奏をやり、そして一〇月末にザルツブルクを出発してウィーンに向い、その途中、リンツに立寄って、トゥーン伯爵という旧知の貴族の家の客となるのです。そこで急に一一月四日に、劇場で演奏会を開くことになり、一〇月三一日から一一月三日までの四日間で《リンツ》を仕上げたという、ちょっと信じられない話なんですがね。おそらくある程度、想を練った草案を持って歩いていたんじゃないか、と思われるのですが……。
――演奏会を開けた、ということは、オーケストラとコンサート・ホールがあったというわけですね。当時、リンツは、それだけの力のある都市だったのでしょうか。
ええ、コンサート・ホールでなく劇場ですがね、たいていこの頃は。『MGG』のLinzの項をみると、一七世紀にはイエズス会の学校で音楽つきの宗教劇がさかんで、一八世紀に入ると、ドラギ、カルダーラ、ロイターといったウィーンで活動していたオペラ作曲家の作品を、リンツでもさかんに上演しています。おもしろいのは、ちょうどモーツァルトの《リンツ》上演の頃から、「リンツ音楽愛好者協会」といった市民の音楽サークルが生まれていることです。
――いずれにせよ《リンツ》は、モーツァルトのウィーン定住後、最初の交響曲ということになりますか。
そうです。ウィーン時代の第一作であるということは、一七八二年に例のズヴィーテン男爵から、バッハなどバロックの傑作を見せられて、ポリフォニーへの関心を、にわかに高めたモーツァルトが、はじめて書きおろした交響曲ということです。まあ一つ前の第三五番《ハフナー》も、ウィーンに行ってからの作だけれど、あれはセレナードの音楽として書いたものを、あとから交響曲に直したのです。ですから、《リンツ》《プラハ》そして最後の三つの交響曲と都合五つが、何といっても代表作です。いわば《リンツ》は、その先頭に立っているわけです。
楽器編成はごく普通です。木管はオーボエ二、ファゴット二の四本、金管もホルン二、トランペット二の四本、ティンパニ、あと弦楽合奏というモーツァルトの標準編成です。
――フルートとクラリネットは、使われていない。
それらは、モーツァルトでは例外ですよ。とくに大編成だったパリのオーケストラのためとか、《ジュピター》のような場合フルートが一本入っているとか……。
――第一楽章の序奏部は、ひじょうに特徴があって、美しい部分ですが、モーツァルトの作品で、こういう始まり方をするのは、むしろ珍しいんじゃありませんか。
交響曲に序奏をつけたのは、子供の頃のK一六の交響曲第一番以来、まったくこの曲がはじめてなんです。このあと第三八番《プラハ》と第三九番と序奏つきの曲が三曲つづくことになるのですが、それでアインシュタインなどは、それをハイドンの影響であると指摘して、何しろ四日間で仕上げるためにハイドンという手本が必要だったという意見を述べています。第二楽章の八分の六拍子もひじょうに珍しいのです。モーツァルトのこれまでの交響曲は全部、四分の二か四分の三の緩徐楽章です。これもハイドンの影響だと、アインシュタインはいうのですがね。
――なるほど……。この頃、ハイドンは、どんな作品を書いていたのですか。
モーツァルトが《リンツ》を書いた時点で、知っていた可能性のあるハイドンの最後の交響曲は、第七五番ニ長調という曲になります。しかも、アインシュタインによると、まさにその曲のグラーヴェの序奏部を、モーツァルトはメモしているそうです。私はやはりモーツァルトが、ズヴィーテン男爵の所で見たバロックのさまざまな作品、とくにフランスふう序曲――バッハの管弦楽組曲もそうですが――あれに注目したのじゃないかと思いますが、どうでしょうか。
というのは《リンツ》の冒頭のリズムは、完全にフランスふう序曲の付点音符の型ですからね。ハイドンの第七五番の序奏は、小節の最後の拍子が付点になっていません。それと、アインシュタインは第二楽章の八分の六拍子を、ハイドンの第四八番《テレジア》の第二楽章の影響と言っていますが、これもずいぶんちがいます。結局シシリアーノのリズムは、ナポリ派のオペラやカンタータ以来、あちこちにありますから……。
――この《リンツ》を含む、モーツァルトのいわゆる後期の交響曲が、のちの交響曲の発展のうえで、どんな意味を持つことになるのでしょうか。
いうまでもなく、交響曲の歴史の主流中の主流ですね。特別の意味づけをするなら、アインシュタイン以来定説となっている、先行するハイドンの交響曲からの影響ということもたしかにあるでしょうが、それと同時に、晩年のハイドンの〈ザロモン交響曲〉に逆に影響を投げ返していますね。その点のほうがもっと重要じゃないでしょうか。
●ホグウッド、シュレーダー指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック〈79〉(オワゾリール)
交響曲 第三八番《プラハ》ニ長調 K五〇四
アダージョ―アレグロ
アンダンテ
プレスト
メーリケの短編の題材となった三楽章の交響曲
――プラハは古くから、ヨーロッパの代表的な音楽都市だったのですね。
まず学問、文化の中心であり、従って音楽文化も栄えていたのですね。大学の創立が古いことで有名です。一四世紀かしら……。ともかくベルリンとウィーンを結ぶ一直線上よりも、プラハは西寄りなんですからね。意外にヨーロッパの中心に寄っている……。
でも、ヨーロッパの列強にはさまれて、いろいろな争いの渦中にありました。古くはヤン・フスとカトリック教会の争い、その後はハプスブルク家の圧政がありました。
――それで、ボヘミア出身の音楽家たちも、しぜん自国での活躍が制限されて、ヨーロッパ諸国に散らばって活動を続けたということですか。
ベンダ一家がベルリンのポツダム宮へ、シュターミッツらがマンハイムのプファルツ選帝侯の宮廷へと流れていった背景には、国許では暮らしにくくなった事情があるでしょう。今日、ロシアの音楽家やハンガリーの音楽家が、欧米にひろく散らばって活躍しているのも、似た事情と言えましょう。
ハプスブルクの政治がゆるやかになるのは、一八四八年のパリの二月革命からあとなんです。同時に彼らの間に民族意識が目ざめてきて、スメタナやドヴォルザークが出てくる背景が生まれたわけでしょう。一九世紀半ばです。モーツァルトの時代はそのずっと前ですね。
――いずれにせよ、モーツァルトとこの町とは因縁浅からぬものがあるのですね。
そう、あのメーリケの小説に『プラハへの旅の途中のモーツァルト』というじつに美しい短編があるじゃないですか。ところが、何種類かの日本語訳の題名では、みんなプラハという地名が省かれて、ただ『旅の日のモーツァルト』となっていて、ちょっと残念なんだけど、たしか《ドン・ジョヴァンニ》を初演しに行く途中の出来事でしたよね。ところでそれより前に、《フィガロの結婚》の上演が、プラハで大当りをとっている最中に夫妻で招かれて行ったのが、モーツァルトとしては最初のプラハ訪問でしょう。ええと……一七八七年一月のことらしいです。オペラは前の年の暮からやったらしいけど。
――《フィガロの結婚》の初演が、モーツァルトとプラハを結びつけたきっかけですね。
そういうわけです。そして、彼が旅行先でよくやるように、到着後一〇日ほどたった、つまり一月一九日にプラハでピアニストとして聴衆にデビューして、その席でウィーンから持参した新作の交響曲を初演したのです。それがこの《プラハ》なんです。さらにその秋にオペラ《ドン・ジョヴァンニ》を初演しにプラハを訪れています。メーリケの短編小説はその時の話です。
――すると、この《プラハ》という標題は、そこで初演されたからということですね。
そうです。まあベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番などはプラハで初演するので、ポルカふうのリズムのフィナーレにしたのじゃないかと私自身は想像しているのですが、この交響曲には、そういった痕跡もまったくないんです。シンコペーションが非常に多いけれど、関係ないでしょう。
――これは「メヌエットなし」といわれる交響曲ですが、このメヌエット楽章をおかなかった理由は、なにか特にあったのでしょうか。
これも私の想像ですが、《フィガロの結婚》と《ドン・ジョヴァンニ》にはさまれた時期、つまりはイタリア様式のオペラ・ブッファづいていた時期だから、一八世紀のシンフォニアの三楽章スタイルをふりかえって、一つ交響曲を書いてみようと思ったのかもしれません。モーツァルト学者のアインシュタインが言っているような、「三つの楽章で言いたいことをぜんぶ言い尽しているからメヌエット楽章は必要なかったのだ」というような説明は、説得力がありません。
しかし、まあ、もしこの上にメヌエット楽章を加えると演奏時間が三〇分を超すことになって、もしかするとモーツァルトの交響曲の中で、最も長い曲になるかもしれません。ちょっと確実にそうなるかどうかは分からないけれど……。
――これらの曲と次の、いわゆる後期の交響曲との間には、かなりの開きがありますか。
モーツァルトの後期の交響曲というのを最後の三曲に限るか、あるいはウィーン時代に入ってからの五曲とするかですが、私は、一七八二年に、モーツァルトがヨハン・セバスティアン・バッハなど後期バロックのポリフォニーを知って以後の新展開というものが、それ以前と大きな断層を形成しているので、一七八三年以後を一まとめにしたいのです。《リンツ》、《プラハ》、第三九番、第四〇番、《ジュピター》の五つです。まあ、そこに条件つきで、元来はセレナードだった一七八二年の第三五番《ハフナー》を入れてもいいとは思いますが……。
――モーツァルトは生活も、もうかなり酷しさを加えていたわけでしょうね。
そうです。専属なしでフリーでやるなら割のいいアルバイトを探さなきゃむりなのに、それができない人でした。宮廷や貴族のお祝儀音楽と適当につき合えばいいのにそれをやらずに、純芸術的な予約演奏会、つまり新作発表会ばっかり企画するから……。やはり体力がなかったんでしょう。それに反比例して音楽はますます冴えてくるのですが。
ウィーンに定住するようになってから、五、六年経った頃でしょうか。一七八六年一二月六日完成ということが分かっているのです、この曲は。
――このあと三大交響曲になるわけですね。もう彼の余命いくばくもない……。第三九番は変ホ長調、第四〇番がト短調、それで、最後の《ジュピター》がハ長調、いずれも、モーツァルトの作品の中で、ひじょうに特徴的な調性ですね。
とくにト短調が性格的ですね。交響曲第二五番K一八三のほか、ピアノ四重奏曲第一番K四七八と、とくに弦楽五重奏曲第四番K五一六です。それにしても、中期の交響曲三連作とくらべると、ト短調、ハ長調の対照的な二つまで同じで、残りがフラット三つ(変ホ)かシャープ三つ(イ)というのがおもしろいです。つまり、中期の交響曲第二九番K二〇一ではマンハイムふうにクレッシェンドをやるのに都合がいいような、響きのいいイ長調をとり、晩年はむしろ弦では響きにくい、地味で優雅な変ホ長調をとっているということね。
しかし、モーツァルトの絶対音は、今より半音ちかく低かったので、だからあまりこの点を考えすぎると変なことになりますがね。彼の持っていた音叉は一点a = 四二一・六で、今日の一点as = 四一五・三にきわめて近いんです。一点aを高めにとるオーケストラだったら完全に半音ちがうことになるでしょう、モーツァルトのイメージと。
――そう、最近、ピッチをますます高くとるようになってきましたね……。それで、この三大交響曲のあと、もはや、モーツァルトは交響曲を書こうとしなかった。
そうです。しかし、さっきも触れましたように、中期の三連作のあとも数年間の休止期がありました。今度もそのくらいの空白は当然かもしれません。《コシ・ファン・トゥッテ》《魔笛》《ティト帝の慈悲》とオペラの大作がつづいたし、やがて《レクイエム》でも完成していたら、一七九二年夏頃に四年ぶりで交響曲第四二番に着手したかもしれません。
●バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈85〉(グラモフォン○D)
交響曲 第四〇番 ト短調 K五五〇
アレグロ・モルト
アンダンテ
メヌエット、アレグレット
アレグロ・アッサイ
感情的な表現の結晶、《ジュピター》と対をなす作品
――交響曲第四〇番は、モーツァルトのいわゆる三大交響曲の一つです。この三曲が、驚くべき早さで作曲されたということについては、どんな本にでも書いてありますが……。
たしか一月半に三曲というのでしたね。たしかに速筆からくる速度感があります。ベートーヴェンの場合は第八番がそうです。
――それにしても、モーツァルトは、わずかに三五年という短い生涯の間に、なんと四〇曲以上もの交響曲を作曲したけれど、はじめてこの分野に手を染めたのは、八つだかの時でしょう。これは交響曲作曲史上最年少記録じゃないでしょうか。
最初の交響曲はK一六でしたね。天才少年だった上に、お父さんの音楽教養も充分だし、姉さんというピアノ上手のお手本もあったし、しかもこの頃までにミュンヘン、ウィーン、マンハイム楽派のシュヴェツィンゲン、パリ、ロンドンとヨーロッパ音楽の中心地のほとんどを歩いて一流の音楽家に接しています。これが大きな刺戟になったにちがいありません。ただ、最年少記録かどうかは知りませんが……。
曲によっては親父さんの指示や助言があったでしょう。しかし、四つか五つの頃、お父さんの知らぬ間に紙をインクだらけにして、ピアノ協奏曲を作曲していたという話があるし、ロンドンではお父さんの病気中に、自己流の作曲をやっていたとも言われています。K一六やK一九はロンドンで親しく接したアーベルやクリスティアン・バッハの影響が濃厚ですが、形式がひじょうに整っているとすれば、父親の指導も考えられます。
――ところで、このト短調交響曲が、第三九番と、第四一番《ジュピター》にはさまれて、両者と、いちじるしい対照をなしていることは、よく言われることですが、私には、むしろ、この第四〇番があとの二曲にくらべて、非常にロマンティックな作品に思えて興味ぶかいんです。
ロマン的なペーソスをたたえたト短調だということです。どうしても短調だと増減音程や不協和音が多く出るから、情緒的な面が強くなります。ともかくモーツァルトの交響曲全四一曲中、短調は二曲だけです。K一八三とこのK五五〇の、どちらもト短調ですが、あとは全部長調、しかもニ長調が一五曲もある……。ついでですが、この第四〇番の曲にはかなり半音階的パセージが多いのですが、フィナーレの展開部のはじめは偶然ですが、ほとんど一二音の音列をなしているのです。変ロ長調からニ短調への転調楽節ですが。
――しかも、他の部分との調和を乱すことがなくて、いっそう鮮かな光と影を示しています。この曲は、クラリネットを入れた版と、ない版があるのでしたね。
そうです。いつであるかは分かりませんが、あとからクラリネットを加え、それに伴って他の木管パートを修正した第二版をモーツァルト自身が作ったのです。しかし、何もその時点でクラリネットという楽器が世に出現したというわけではありません。一八世紀のはじめからオペラやなにかにさんざん使われていました。
――でも、いまのクラリネットとは、だいぶちがうんじゃありませんか?
初期のはキーが二つの不完全な楽器です。しかし、モーツァルトの交響曲について言えば、第三一番の《パリ》、三五番の《ハフナー》、三九番の変ホ長調、そしてこの第四〇番の四曲にしかクラリネットは使われていないから、たしかにまだ一般化していなかった楽器です。はじめのうちはオーボエ奏者が吹いたんでしょう。
――それで、クラリネットを加えたことで、どう変ったのですか。
もともと木管群のユニゾンのパセージにクラリネットを加えたり、テュッティの和音を充実したり、ヴァイオリンにクラリネットを重ねたりといった控え目な加え方です。何しろこの曲にはトランペットとティンパニがないですから、クラリネットもないとすると、まったくモーツァルト中期以前の交響曲の編成になってしまいます。だから、今日ではクラリネットを加えた版が一般に好まれるのも当然と思います。
しかし、クラリネットなしのオリジナルのほうが淋しいパセティックな感じがよく出ているといって珍重する人もいるのですが、私は大差はないと思いますがね……。そんなことより、演奏法でもっと大きな差がつくでしょう。
――この第四〇番が、モーツァルトの交響曲作品の中で、どんな意味をもっているか、ということについては、どうでしょうか。
三大交響曲の一つにはちがいないですが、結局はこれと第四一番《ジュピター》が二本の柱だと思います。《ジュピター》がモーツァルトの華やかさ、壮麗さ、威厳といったものの結晶だとすると、ト短調は悲愴感、悲劇的な暗い情調、その間にひらめくあきらめ、なぐさめといった感情的な表現の結晶です。
平凡な言い方だけど、男女、陰陽、といったきわ立った対照的な要素が長調と短調、全音階的と半音階的といった対照的な形式で、この最後の二つの交響曲の中に展開されているのです。
●ホグウッド、シュレーダー指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック〈81〉(第一版)(オワゾリール○D)
●ブリュッヘン指揮 一八世紀管弦楽団〈85〉(第二版)(フィリップス○D)
交響曲 第四一番《ジュピター》ハ長調 K五五一
アレグロ・ヴィヴァーチェ
アンダンテ・カンタービレ
メヌエット、アレグレット
モルト・アレグロ
全能の主神になぞらえられた輝かしい曲想と完璧な構成
――《ジュピター》という名は、モーツァルト自身の命名ですか?
日本人くらい交響曲を、あだ名で呼ぶのが好きな国民もないと思うんですが、《ジュピター》は世界中これで通っています。まあ、輝かしい曲想、完璧な構成といったものをローマの全能の主神ユーピテルになぞらえて、こう呼ぶようになったんです。
むろん後の人がつけたものです。昔はピアニストのクラーマー――よくこの人の作曲した練習曲がレッスン用に使われていますが、あのクラーマーが名付親で、何でも一八四五年のロンドン・フィルのプログラムではじめて《ジュピター》の名が用いられた、とされていたんです。ところが近頃では、いやすでに一八一九年から使われていた、という新説が出てきました。そのうち作曲以前からついていたなんてことになるかもしれません。
――モーツァルトも、そしてハイドンなどにしても、「頼まれもの」の仕事が大半を占めていますね。作曲家が、自分の仕事を、近代的な意味で自覚したのは、だいたい一八〇〇年以降だということですね。この《ジュピター》は、どうなんですか。
貴族のパトロンとそれをとりまく小さいサークル目当てでなく、何でもモーツァルトが自前で計画していた一七八八年初夏のウィーンでの演奏会のために、最後の三大交響曲のプランが出来たらしいのです。しかし、その演奏会の企画はつぶれてしまいました。つまり予約会員が集まらなかったのです。ですから当座の目標なしに、これらの交響曲は完成されたのでしょう。とはいっても、近い将来に自分で棒を振って、どこかで初演するチャンスがあるだろうという予感、あるいは確信があったにちがいありません。
まあ、モーツァルトは今日ふうに言うなら、マスコミに乗って活動することが全くできない人だったんです。性懲りもなく、自作の純音楽作品の発表会ばかりで収入をはかろうとしました。それでしまいには、パトロンのズヴィーテン男爵たった一人しか予約しなかった、という悲劇さえ起りました。貴族の結婚式、皇帝の戴冠式といったチャンスに適当な祝典音楽を作曲し、それを指揮上演する、といった割のいい仕事は、サリエリのような生活力の旺盛な俗物音楽家に、みんなさらっていかれちゃったのです。
ドイツ舞曲みたいなホーム・ミュージックをさかんに出版屋に売るけれど、たかが知れているのです、そんなものは。演奏旅行に出たって、おそらく芸術的に程度が高い音楽しかやらないから、赤字が嵩むばかりで、要するに晩年のモーツァルトは動きまわるだけ赤字が増えるという悪循環のくりかえしで……。けれど、まあ徹底して処世術と縁のなかったモーツァルトだからこそ、ああいう音楽を書けた、いや、ああいう音楽を書いて、なおかつ脂ぎった顔をして長生きするなんてこと、あり得ませんよ。人間である限り……。
――同感ですね。でもモーツァルト自身は、ずいぶん苦しんだでしょうね。フリーメーソンの友だちに、借金の手紙を書いたのも、この頃だったでしょう。
プッフベルクという金持ちの商人がいて、晩年のモーツァルトは、もっぱらこの人のおかげで命をつないでるみたいなものです。K五六三の《ディヴェルティメント》ね、弦楽三重奏の、あれもプッフベルクのために書いたのですが、あんな内面的な音楽の真価が分かる人物じゃなかったでしょう、おそらく。
――モーツァルトは、このフリーメーソンという結社に、かなり突っこんでいたんですか。
そう、プッフベルクはそれに加盟していることで何か実利を得ていたんでしょう。貴族にもメンバーがいたらしいから。モーツァルトの場合は、よく一芸に秀でた人が新興宗教の信者になるみたいなことで入っていたんじゃないのでしょうか。もっともプッフベルクからの援助というメリットもあったわけだけど……。
――当時、モーツァルトは、健康も、すぐれなかったんでしょう。
ええ、ケルナーという医学博士の書いたメKrankheiten Grosser Musikerモつまり『大音楽家の病気』という本があって、その最初にモーツァルトが出てきます。どうも医学の専門語は苦手ですが、症候学的にいろんなデータから判断してモーツァルトの死因は慢性の水銀中毒にまちがいない、ということです。当時は水銀が、下痢をはじめいろんな医療用に多く使われていて、病弱だったモーツァルトは、それを多年にわたって使いすぎたんです。晩年のいろんな幻覚や頭痛やその他、手紙で訴えているさまざまな症状は、ことごとく水銀中毒を裏書きしているそうですよ。
――モーツァルトの処世術が下手だったという話は伺いましたけれど、それにしても、当時のウィーンの人たちは、どうして、もっとモーツァルトを認めなかったのでしょうか。
一般的に言うならば、同時代の人に完全に支持され、もてはやされた真の大作曲家は一人もいません。何しろモーツァルトの音楽は、一般の人の娯楽には今だって精神的すぎるでしょう。完全すぎる、と言ってもよいかもしれません。もう少し俗な、押しつけがましい要素がないと……。近頃の表現でいうなら、冗長度がもう少し高くないと、ポピュラーにはなりません。
――ところで、この曲はクラリネットが使われていませんね。それからフルートは一本です。
モーツァルトのオーケストラの管楽器編成は淋しいもんですよ。初期の交響曲の標準的な管楽器編成はオーボエ二本、ホルン二本のたった四本です。中期の標準はちょうどその倍で、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット各二本です。
――なるほど、つまり木管と金管がそれぞれ四本ずつというわけですね。
むろん例外はたくさんありますよ。そして《ジュピター》は、その中期の標準形の上にさらにフルートが一本のっかっているわけです。《ジュピター》にクラリネットがないと言ったって、モーツァルトの交響曲でクラリネットの音の聞こえるのは第三一番の《パリ》、三五番の《ハフナー》、三九番の変ホ長調と四〇番のト短調くらいのもので、しかもそのうち《ハフナー》と《ト短調》はまあ、あとから書き加えたものなのです。だから中期以後についてなら半々くらい、全交響曲なら、クラリネットの音のしないほうが、むしろモーツァルトらしい響きと言えるんじゃないかしら。
――話はかわりますが、モーツァルトが、この《ジュピター》の終楽章でフーガ的な手法を使っていることに、ひじょうに興味があるんです。これは、まさしくジュピターの偉容を感じさせる音楽だと思うんですが。
これはモーツァルトに限らず、たいていの作曲家は晩年になると、若い時よりもっと対位法に関心を持ち、多声的な手法で傑作を書くようになるのです。バッハでさえそうでしょう。《フーガの技法》などは亡くなる直前のものだし、ベートーヴェンも後期にすばらしいフーガが多いし、ショパンでさえ死ぬ少し前のものにはいくらか対位法があります。
若い時は感情のおもむくままに美しいメロディーと和声にたよっていたのが、円熟してくると精神的な深さに目が向けられます。それを表現するのには音楽の構成要素の中では悟性的な面の担い手である対位法を駆使して、ポリフォニーのスタイルで書くことになるわけです。ただ、その最高の境地までいって勝負した人はひじょうに少ない。やっぱりバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シェーンベルクといった人の名が、しぜんに思い浮びますけど……。
●ブリュッヘン指揮 一八世紀管弦楽団〈86〉(フィリップス○D)
協奏交響曲 変ホ長調 K二九七b
アレグロ
アダージョ
アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニ
パリの流行スタイルに合わせた〈サンフォニー・コンセルタント〉
――彼の協奏交響曲は、この管楽器を独奏部としたものと、もう一つ、ヴァイオリンとヴィオラのものがありました。そのほかに、書いていないのですか。
似た形では、《フルートとハープのための協奏曲》K二九九と、《ヴァイオリン二つのためのコンチェルトーネ》K一九〇の二つがありますが、どちらも〈サンフォニー・コンセルタント〉とは命名されていません。それとピアノ二台(K三六五)、三台(K二四二)の協奏曲が一曲ずつありました。それから未完成のものを数えれば、まだいくつかありますよ。
――ところで、この協奏交響曲というのは、いわゆる「合奏協奏曲」のことですか。
いや全然ちがいます。コンチェルト・グロッソというのはコレッリに始まったバロック時代のもので、これはトリオ・ソナタが母体で、その中で音を強めたい部分だけ大ぜいで合奏する、強める必要のない所はトリオ・ソナタのままの形でやる、というものです。〈サンフォニー・コンセルタント〉は逆に、むしろソロ・コンチェルトのカテゴリーに入るもので、ただソロ楽器の数が多いのです。それにいわゆるソナタ形式の影響が強く入っています。
また、コンチェルトという題名でもオーケストラのない曲があるように、〈サンフォニー・コンセルタント〉といっても、オーケストラなしのがあります。ボッケリーニなどに、六重奏や七重奏の形ですが。ただ、それらは普通の室内楽にくらべて各パートともコンチェルタントによく動くのです。
――なるほど。こうした形は、いつ頃、どのへんから、流行しだしたのですか。
これはパリの流行スタイルです。カンビーニなど、つまりピエール・カルダンみたいなやり手の作曲家がいて、モーツァルトもそのモードに乗ったということでしょう。だいたい一七六〇年代後半から、そして一七七〇年代、八〇年代と全盛期で、一八三〇年代まで遅咲きのが残ったようです。全ヨーロッパで、この曲種が一五〇人くらいの作曲家の手で五〇〇曲以上書かれ、そのうちフランス人が一〇四人、二四〇曲を占めているそうです。むろんウィーンにも、ロンドンにも、流行が波及したからパリ以外でもたくさん作られたのです。
――独奏群の大きさや、編成は、べつに制約もないわけですね。
二人から七、八人までです。三、四人のが多いでしょう。またこれは微妙なところですがモーツァルトがなぜ《フルートとハープのための協奏曲》K二九九を〈サンフォニー・コンセルタント〉と呼ばなかったか、そして四つの管楽器のほうをそう呼んだのかということですが、ある研究者は、コンセール・スピリテュエルのような大きなオーケストラを使っての公開音楽会目当ての曲を〈サンフォニー〉、《フルートとハープのための協奏曲》のように音楽のアマチュアであるド・ギーヌ公父娘の邸で私的に演奏する目的で書いた曲は、バロック以来の〈コンチェルト〉と命名して区別したと示唆しています。
まあ、両方の曲は実際の演奏でオーケストラの弦の数が、まったく異なったことは想像できますが……。もっとも四つの管楽器のほうは、たぶんカンビーニに意地悪されて、写譜屋の段階でモタついて、スコアはなくされるし、とうとう上演できなかったのです。
――いや、それは知りませんでした。それで、楽章は、三楽章構成ですか。
モーツァルトの場合はそうです。しかし、パリで生まれた〈サンフォニー・コンセルタント〉全体についていえば、半分以上が二楽章形式なんです。これは一七三〇年代以来、ぼつぼつシンフォニアが四楽章になって、古典派交響曲を準備していたのに逆行した現象です。だから、どれも三楽章であるバッハの二つのヴァイオリン協奏曲、ベートーヴェンの三重協奏曲、ブラームスの二重協奏曲のように、モーツァルトも単に二重協奏曲、四重協奏曲と呼んだって構わなかったのですよ。パリで上演したかったから、パリのしきたりに従って、〈サンフォニー・コンセルタント〉と命名したというだけのことですよ。
――これは、K二九七bでしたね。いつ頃の作品ということになりますか。
これはパリ時代ですから一七七八年の作でしょう。K二九九の《フルートとハープのための協奏曲》や〈パリ交響曲〉と前後して書かれたのです。マンハイムからパリへまわった直後でしょう。ともかく、マンハイムの腕ききのプレイヤーたちを念頭に置いて作曲したことは、父親あての手紙で明らかですが……。
――ああ、マンハイムには、モーツァルトと仲の良い友人がいたのでしたね。ヴェンドリンクという、フルーティストもたしか、マンハイムだったでしょう? しかし、フルートは、使わなかったんですね。
モーツァルトと旧知のマンハイムのフルート、オーボエ、ホルン、ファゴットの四人がパリにちょうどくるので、大いそぎで一七七八年三月下旬に作曲したのに、さっきも言ったように初演は闇に葬られてしまいました。原譜もなくされてしまって、あとから彼自身で記憶にたよって復元した時にフルートをクラリネットにとり替えたのです。それがなぜか、ということは分かっていません。
マンハイムで初演の記録らしいものはまったく見当らないのです。その時ちょうどマンハイムの楽団はミュンヘンに移りましたから。殿様がプファルツだけでなくバイエルンの領主も兼ねることになったためにね。
――話はちがいますが、この曲は、昔、K追加九と言わなかったかしら。
この曲はケッヘルの初版には落ちているので、あとから追加九番とやったわけでしょう。K二九七bというのはアインシュタインが改訂して、だいたい旧来の番号の所に押し込んで、aだのbだのにしたのですよ。それがいいようでもあり、われわれ素人には不便でもあります。この頃の若いモーツァルト研究者は、よく第三版だの、最近の第六版の番号だけでモーツァルトの曲を呼ぶことがあり、それをやられるとわれわれは混線して、分からなくなってしまう。私は一般には、初版のまま、K追加九がいちばんすっきりしていいと思いますが。要するに固有名詞なんだから、これは……。
――ところで、一八世紀に、協奏交響曲というものが、非常に流行したというのは、どういうことなんでしょうか。
いやあ、これは何百年か遡って音楽史の全領域を掘りかえしてみないと、解答が出てこないような大問題です。うんと端折(はしよ)らせていただくなら、楽器と奏法の発達から名人芸、ことにアンサンブルにおける名人芸が、マンハイムのオーケストラなどを中心に起ってきたこと、パリのコンセール・スピリテュエルのように、名人芸を多数の聴衆にコミュニケートする場所が出来たこと、ソナタ形式の成立、交響曲の誕生によって、バロックの協奏曲よりも、もっと彫りの深い曲想をもった協奏曲ふうの楽曲が、成立する可能性が得られたこと……。まあ、そんなことが重なってかしら……。
――巨匠的な、ソロ・コンチェルトとは、性格的にだいぶちがう点も、あるのでしょう?
それはシンフォニア、つまり一緒に鳴らす、合奏する、という語感が生かされていますからね。ともかく、サンフォニーという言葉もフランスではずいぶんあとまで、単に合奏曲という意味で使ったのだし、コンセルタント、コンセールというのも張り合って奏くというより、たがいに合わせるというほうの意味が強いのです。だから、簡単に「協奏交響曲」と訳して、ああ成る程ということにはならないんです。どっちの術語もそれぞれ長い歴史と複雑な内容を背負ってここまできたのだし、一九世紀の用法ともまたちがうのでね。
――プロコフィエフに、交響的協奏曲というのがありますね。チェロとオーケストラでしたが、これは、どうなんでしょう。
やはりスラヴやアメリカの作曲家の場合は、ヨーロッパの伝統ということをあまり気にしませんから、勝手な造語が出やすいのです。これは日本の作曲家の場合にも言えることですが。
●ジュリーニ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、シェレンベルガー(ob)、ブラントフォーファー(cl)、ハウプトマン(hrn)、ダミアーノ(fg)〈92〉(ソニークラシカル○D)
歌劇《フィガロの結婚》序曲 K四九二
プレスト(ニ長調 二分の二拍子)
大ヒット《セビリアの理髪師》に対抗して作曲される
――モーツァルトの歌劇《フィガロの結婚》序曲と、ロッシーニの歌劇《セビリアの理髪師》の序曲ですが、年表によれば、モーツァルトは一七五六年に生まれて一七九一年に死にました。そして、その翌年、一七九二年にロッシーニが生まれているんです。
それで《フィガロの結婚》と《セビリアの理髪師》とがつながるわけが分かりました。いや、筋からいうと逆ですがね。《フィガロの結婚》のほうがむしろ続きでした。そういえば、オーストリアの劇作家ホルヴァートが一九三五年に書いた『フィガロの離婚』という、まあ『フィガロの結婚』の後日談ですが、そういう芝居を近年オペラにした作曲家がいます。今度は誰か『フィガロの再婚』でも書きますか。
しかし、ロッシーニは、たしか七六歳まで生きています。三五歳で死んだモーツァルトの二倍以上です。そのくせ、三七歳だったかで書いた《ウィリアム・テル》以後目ぼしい作曲は何もしていません。結局、作曲のための実働時間は二人とも同じくらいのものです。ロッシーニの晩年はぐうたら人間ですよ。パリで猫と遊んで暮していたそうです。
――本の挿し絵で見る限り、なんとなく猫好きのするような……。ちょっと、おさらいさせて下さい。『セビリア』が筋としては先で、『フィガロ』があとでしたね。
これは、要するにフランスの一八世紀の戯曲家ボーマルシェの姉妹作『セビリアの理髪師』(一七七五)と『フィガロの結婚』(一七八四)のオペラ化なのです。じつはボーマルシェは、そのあと『罪ある母』(一七九二)というのを書いて三部作としましたが、これは前の二つの大傑作にくらべて凡作、愚作に終ったので、オペラに取り上げた作曲家もありません。
それで事の発端は、パリの劇団「コメディ・フランセーズ」が、一七七〇年代に、ロシアのペテルスブルグの宮廷にコメディ・フランセーズが行って、時の女帝エカテリナ二世の前で《セビリアの理髪師》を上演し、女帝が大へん気に入ったのです。一方、当時ロシアの宮廷オペラには、何代にもわたってイタリアの大作曲家が傭われていたのですが、ちょうどその時パイジェッロがいて、これをオペラ化したのが一七八二年です。これは大当たりで、ヨーロッパ各地で上演されたのです。
一方ボーマルシェの『フィガロの結婚』が初演されたのは一七八四年四月で、これをいち早くダ・ポンテが台本にしてモーツァルトに作曲させ一七八六年に初演したわけですが、モーツァルトはもちろん、パイジェッロの《セビリアの理髪師》の存在をよく知っていたのでしょう。そのあとで、ロッシーニが再び『セビリア』をとり上げて初演したのが一八一六年、以来パイジェッロの独走は封じられてしまいました。もっとも近年パイジェッロの音楽は復活していますがね。ただ、それはあくまでオペラの話なんで、というのはロッシーニの《セビリアの理髪師》序曲は、実は別のオペラのための既製品を流用したのです。
昔はよくあることですが、何しろロッシーニは《セビリア》の全体をたった一三日間で書き上げたというほど急いでいたので、新たに序曲を書く暇がなかったのでしょう。一説によるとスペインふうの本来の序曲があったのに、それがいつの間にか失くなったともいうのですが、はっきりしません。ともかく現行のは彼の《イギリス女王エリザベッタ》ほか二つのオペラにすでに使われたものだそうで、これはある意味では序曲を機能的なものと見ていたわけで、いわば序曲一般という考え方です。これが鳴ればロッシーニのオペラが始まるという一種のトレードマークの代りです。
――ところで、序曲というのはoverture、これは英語でしょうか。シンフォニアなんて言う場合もあるようですね。
sinfoniaというのは、ギリシャ語がもとで一緒に響く、という意味ですから、古くはじつにいろんな曲種に使われた言葉なんですけれども、一七世紀前半のモンテヴェルディのオペラなどでは、前奏や間奏の器楽曲のことです。歌のない器楽だけでやる小曲です。やがて幕の開く前に演奏する音楽をシンフォニアと言うようになり、急・緩・急の三つの部分で作るようになった。そういう曲をオペラやバレエの幕の開く前にもやったし、同じものを宮廷のサロンでもやりました。
今日のセンスで言うと劇場でやればイタリアふう序曲としてのシンフォニアだし、王宮の広間でやれば交響曲の前身としてのシンフォニアです。クリスティアン・バッハの作品一八の六曲のシンフォニア集のうち第二番はオペラ《ルチオ・シッラ》の、第三番はカンタータ《エンディミオン》の序曲で、他の四曲はそういう用途なしに作られたものです。一つの曲集に両方のが一緒になって一七八一年に出版されているのです。一方フランス語のウーヴェルテュール(Ouverture)は、フランスでのオペラやバレエの幕開き用の曲で、これは緩・急・緩のいわゆるフランスふう序曲の形です。
●ショルティ指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団〈81〉(ロンドン○D)
歌劇《ドン・ジョヴァンニ》序曲 K五二七
アンダンテ(ニ短調 二分の二拍子)
アレグロ・モルト(ニ長調)
天衣無縫で自由な人物像、冒頭にクライマックスを置く劇的な効果
――モーツァルトは、この序曲をいつ書いたのですか。
オペラの序曲がいつ作曲されるかということは、おもしろいテーマです。たとえばスメタナの《売られた花嫁》の場合には、まだオペラができないうちに序曲が完成して、一種の予告篇として演奏もされていたらしいんです。
ほかのオペラの序曲をもってきて間に合わせることもよくあります。《ドン・ジョヴァンニ》の場合は、オペラができ上がって、初日の前々日の夜中から前日の朝にかけてのほんの数時間のうちに書いたといわれています。そういう場合、いくらモーツァルトでもまったく新しい曲想から掘りおこしてやるわけにはいかないんで、はじめのイントロダクションのゆっくりしたところは二幕の終りのほうの、いわゆる石像の客がやってくるところの音楽をそっくり流用しています。
ドン・ジョヴァンニがブルブル震える、あそこの音楽です。つまり全篇のクライマックスを端的に頭にもってきて、非常に劇的な効果をあげています。書かれたのは、モーツァルトのいわゆるウィーン時代です。しかし、序曲はオペラが初演されたプラハで書いたのです。そして初演は、一七八七年、つまり彼が死ぬ四年前です。モーツァルトがプラハに行ったのは、《フィガロの結婚》がプラハで非常に受けて、その観客の熱狂ぶりを見にこないか、と言われて行ったんです。そしてさらに新作、つまり《ドン・ジョヴァンニ》の作曲を頼まれたわけです。
――モーツァルトのこの時代は、もう経済的にも健康的にも暮しにくい状態にあったと聞いていますが。
そうです。ウィーンで成功するためには宮廷にとりいったり、あるいは興行主たちと、うまい関係を結ばなきゃならなかったでしょうけれども、そういう生活力につながる才覚がモーツァルトには希薄でした。だから素晴らしい音楽を生み出していたけれども、才能がなくても生活力の旺盛な連中にだんだん押されて、敗けていったわけです。
――《ドン・ジョヴァンニ》は、例の「ドン・フアン物語」にもとづいているのでしょう。
ええ、「ドン・フアン」というのは、中世のスペインの伝説的な人物ですけれども、ヨーロッパの人間像のひとつの典型になっているわけです。不道徳な人間像とは簡単にいえません。最近は「ドン・フアン」という人間が、いろいろに解釈されていて、ストレートに不道徳人間とはされていませんね。
――ベートーヴェンはモーツァルトが好きだったけれども、《ドン・ジョヴァンニ》については、あんな不道徳な話をオペラにしたことだけは許せない、と言ったとか……。
なるほどね。一七世紀スペインのモリーナという人の芝居では、「セビリアの女たらしと石の客」という題になっているそうですから……。ともかくモーツァルトの《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》《魔笛》の三大オペラは、昔のオペラの型にはめ込んでしまうことが困難ですね。天衣無縫で、ベートーヴェンの道徳律からいえば、ひっかかるかもしれませんけれども、モーツァルトは自由な融通無礙(むげ)な人物像を描いた、それがウィーンの雰囲気でもあったと思うんです。
●スウィトナー指揮 ベルリン国立管弦楽団〈76〉(ドイツ・シャルプラッテン)
ピアノ協奏曲 第二三番 イ長調 K四八八
アレグロ
アダージョ
アレグロ・アッサイ
ピアノの華やかな技巧と甘美でマイルドな感じのクラリネット
――これを書いたのはウィーンですか。
ええ、《フィガロの結婚》と同じ一七八六年です。これは大変きれいなピアノ協奏曲で、と同時に古典のピアノ協奏曲の中でも一番ポピュラーじゃないでしょうか。ピアノの学習者にもよく弾かれますね。とにかくモーツァルトのほんとうの魅力的な作品というのは、ウィーン時代です。わずか五年後には円熟の極致で世を去ってしまいます。
この曲はピアノ・パートのモーツァルトらしいパッセージ、華やかな技巧が中心ですけれども、第二楽章は嬰ヘ短調で、シシリアーノふうの楽句にモーツァルト独特のペーソスをあらわして、またフィナーレでは明るい二分の二拍子のアレグロ・アッサイで目のさめるような曲想になります。
この曲で見逃せないことは、オーボエの代りに二本のクラリネットが使われていて、しかもトランペットもティンパニもないですね。ですからオーケストラ・パートが非常に柔らかくて、クラリネットの響きが要所要所で非常に甘美な、マイルドな感じを出しているのが大きな特徴だと思います。
それとこの曲のもうひとつの特徴は、曲の出だしからそうですけれども、低音が同じ音にしばらく留まっていることです。それをオルゲルプンクトといいますけれども、これがシシリアーノの楽章にもところどころ出てきます。これはいわゆるパストラール持続低音といって、牧歌的な田園ふうな気分を出しています。穏やかなラヴリイな感じですね。この開曲の楽想のために、終曲の華麗さが余計に引き立ちます。
●イギリス室内管弦楽団、ペライア(P)〈84〉(ソニークラシカル○D)
ピアノ協奏曲 第二六番《戴冠式》ニ長調 K五三七
アレグロ
ラルゲット
アレグレット
徐々に音が重なってくる儀式向きの壮大な作
――モーツァルトはピアノ協奏曲をいくつ作ったのでしたか。
二七曲です。最後は死ぬ年、つまり一七九一年のK五九五の変ロ長調の曲で、第二六番はその一つまえに当たりますが、作曲は一七八八年です。この年は最後の三つの交響曲が作られた年で、二月ごろだと思います。ただ、この曲は作られてから演奏されるまで少し時間がありました。
――名のように「戴冠式」のために書いたのですか。
そうじゃないんです。モーツァルトにはウィーンで宮廷の主だった行事や目立った儀式のために指揮をするとか、曲を書くとかいう注文がこないものですから、止むなく自前のリサイタルやつまらない演奏旅行をするわけですけれども、それが少しも生活の足しにならなかったんです。
それで、オーストリア皇帝レオポルト二世の戴冠式が、慣例によってドイツのフランクフルトで行われた時、モーツァルトは友達と組んでそこへ行って演奏して、そこに集まる貴族たちに聴いてもらおうと思ったんです。ところがそれも不成功に終ったんですけれども、そのときに二つのピアノ協奏曲を演奏しました。その一つがこのK五三七で、もう一つはK四五九でした。ですから、そのほうも「戴冠式」といわれてもいいんだけれども、こっちのK五三七のほうだけに名前が残ったんです。
つまりありもので間にあわせたわけです。けれども非常にお祭りの気分に向いたものです。出はじめなどもマンハイム楽派のクレッシェンド様式です。だんだんに音が重なってくるという儀式向きの壮大な感じをもっているし、もちろんピアノ・パートの華麗な技巧もありますし……。
――これはオーケストラは二管編成ですか。
《戴冠式》の木管パートはフルート一本、オーボエ二本、ファゴット二本、クラリネットなしという、わりに小さい編成で書かれています。
●マリナー指揮 アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ、ブレンデル(P)〈83〉(フィリップス○D)
ピアノ協奏曲 第二七番 変ロ長調 K五九五
アレグロ
ラルゲット
アレグロ
〈春への憧れ〉にも似た無邪気な美しさ
――モーツァルトのケッヘル番号は、六二六番までだったですね。だからK五九五といえばモーツァルトの最も後期の作品になるわけでしょうね。
モーツァルトの命日は一七九一年一二月五日です。この曲はその年の一月五日に完成したのです。死のほぼ一年前の作。ピアノ協奏曲としてはむろん最後の作品です。しかも《戴冠式》K五三七から三年ほどの間、彼はピアノ協奏曲を書いていないのです。
――つまり、もはや稼ぎにもならなくなってしまったわけでしょうか。でも、モーツァルトにとって、ウィーンは、そんな苦労してまで住むのに魅力的な所だったのでしょうか。
劇場がウィーンにはある、ということがモーツァルトにとって絶対の魅力というか必要だったのでしょう。手紙の中でも、ここでのすべての楽しみは劇場にあるのだ、と言い切っている。ザルツブルクには劇場がなかったので、せめて一つでも劇場らしい劇場があったら何とかがまんしたのだけれど、とも言っています。だから何としてもウィーンにくるためのきっかけを必死に探していたのでしょう。ザルツブルクではモーツァルトの食卓は侍従の次、料理人との間に与えられていた。そんなつまらないことばかりではないけれど、大司教との間は完全に冷却していたから……。
――なんでも、ひどい喧嘩をしたんでしたね。このときは、おやじが止めてもきかなかった。そうして憧れのウィーンに出たが思うような仕事もなく……、というわけでしょう。とくに死ぬ二、三年まえの窮乏はひどいものだったと聞いています。でも、本当にそれほど困らねばならなかったんでしょうか。
一八世紀末のことだから、音楽学校はないし、マスコミもないし著作権の収入もありません。安定した収入源がない上に市民生活がだんだんやりにくくなって、作曲家には最低の時代だったということでしょうね。モーツァルトは何度も自分の作品で予約演奏会を開こうとしてはそのたびに失敗して、ますます貧乏に苦しんでいます。
とにかく浪費とか悪妻なんて、大した理由じゃないと思うのですよ。御本人の生活力が薄弱だった、というにつきるんじゃないかしら。そんなこと言うと世のモーツァルト・ファンにおこられますかね……。
――この協奏曲は、とにかくメロディーがみな美しい。第三楽章のテーマだって、あれだけ簡素で、無邪気な美しさを持ったものはちょっと書けないのじゃないでしょうか。
それで思い出すんですが、フルート協奏曲第二番K三一四という曲があるでしょう。あの曲のフィナーレの旋律は、のちにオペラ《後宮からの誘拐》の中のブロンテ嬢のアリアに流用されました。モーツァルトは時々これをやるのですが、このピアノ協奏曲K五九五の場合は作曲後数日して、同じモチーフの歌曲を書いたとされています。たしかアインシュタインは、その〈春への憧れ――新しい生命に目ざめて……〉を、モーツァルトにとって来るべき春が最後の春になることを彼自身自覚したからこそ、こんなに明るい調子で書けたのだ、という意味のことを語っていました。このメロディーは明治時代から小学唱歌として親しまれたものです。〈春はあけぼの花のさかり……〉というのだったかな。
――この第三楽章だけでなく、全曲あまりにも清澄ですね。すき透った美しさというのか、あまり美しすぎて気味が悪いほどです。
たしかに私も昔からそれを感じていました。SPレコードにシュナーベルの名演がありました。それから戦前の新響(N響の前身)で、豊増昇氏が奏かれたのが印象に残っています。曲の冒頭に二小節ヴァンプ(弦の主調の前奏)があるでしょう。これがひじょうに沈んだ感じを起させます。全体に沼のような静けさが支配している曲です。フィナーレにしても音は輝かしいけれど、エネルギッシュな実体はなくて、精神だけが軽く飛んでいくようです。
――うまいことを言われますね。精神だけが軽く飛んでいくようだ、というのは、まさに至言だと思います。全く同感です。私は、これをきくと、モーツァルトの死相さえ見るような気がします。
たしかに《レクイエム》より、もっとモーツァルトらしい「白鳥の歌」という感じがしますね。
●マリナー指揮 アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ、ブレンデル(P)〈74〉(フィリップス)
フルート協奏曲 第二番 ニ長調 K三一四
アレグロ・アペルト
アンダンテ・マ・ノン・トロッポ
アレグロ
オーボエ協奏曲からの移調、やっつけ仕事にしてはとても楽しいフィナーレ
――モーツァルトは、あまり、フルートが好きじゃなかったんでしょう。
むしろ嫌いだったようです。ただ、《フルートとハープのための協奏曲》K二九九を作曲したのはド・ギーヌ大公父娘のためですが、その大公のフルートの腕前をモーツァルトは「すばらしく上手にフルートを吹きます」と、父親あての手紙の中に書いているので、何でもかんでも嫌いというわけでもなかったのでしょう。でもフルート協奏曲第一番K三一三はいやいや取りかかったというし、この第二番K三一四のほうはすでに出来上がっていたオーボエ協奏曲をたんに移調して間に合わせてしまったのです。しかも注文の三曲目はすっぽかしてしまったのです。それで注文したオランダ人のド・ジャンという男は怒って、金を半分しかモーツァルトに払わなかったというけど、そりゃそうでしょう。
――なんでも当時フルートという楽器は、構造的に、ずいぶん不完全だったとか?
ベームの改良以前ですから、キーが少なくて正確な音程が出しにくかったことは確かです。とくにモーツァルト好みの、急速に上下する音階を、いろいろに転調しながら正確に吹くことはずいぶん難しいことだったでしょう。それでもドレスデンのビュッファルダンとかベルリンのクヴァンツとか、とび切りの名人がいて、バッハなどはそういう名人目当てにそうとうな難曲を書いたわけだけど、そんなに吹ける人は、ほんとにヨーロッパ中探しても稀だったということじゃないでしょうか。
モーツァルトがこの二曲のフルート協奏曲を書くきっかけは旅行中のマンハイムだったのですが、そこにヨーハン・バプティスト・ヴェンドリンクというアルザス生まれの名フルーティストがいたことはいたのですね。その人を目当てにこれらの曲を書いたのでしょうね、おそらく。
――これは、オーボエ協奏曲からの編曲というか、移調だと言われましたね。
これはモーツァルトの息子の遺品の中から、原作のハ長調のオーボエ協奏曲が一九二〇年に発見されたので、それをたんにニ長調に移調してフルート協奏曲にしたのだということがはっきりしたのです。オーケストラ・パートのヴァイオリンが、G線のaより下に行かないのです。そのことも長二度上に移調された曲だということを確かめる、有力な理由とされています。
要するに新作するのが面倒だったか、時間がなかったので半年ほど前に書いた曲の焼き直しをやったのです。当時は、こうした特定の奏者を目当てに、作曲することが多かったんです。二〇世紀でもモイーズのため、ニコレのために作曲するわけですよ。前衛的な曲ならガッゼローニのためにという具合に。
――ところで、この曲のフィナーレのテーマですが、楽しい旋律ですね。
このテーマは四年後のオペラ《後宮からの誘拐》に使っています。その中のブロンテ嬢のアリアで、「何という喜び、何という楽しみ」という、わくわくするような気分の歌です。それはト長調になっているから、この部分は二回移調されたわけです。
――モーツァルトは、他にも、こんな、やっつけ仕事をしたんですか。
ええ、時々あります。ピアノ協奏曲第二七番K五九五のフィナーレが〈春への憧れ〉というリート(K五九六)になっているのと、K四六七のピアノ協奏曲第二一番の第二主題と、K四四七のホルン協奏曲第三番の第二主題は同じものですよ。あと交響曲《プラハ》のアレグロ主題は《ドン・ジョヴァンニ》序曲や《魔笛》序曲と共通した点があります。
●シュタットルマイア指揮 ミュンヘン室内管弦楽団、アドリヤン(Fl)〈79〉(デンオン○D)
演奏会用アリア〈あわれなる者よ、ああ夢よ、めざめしか――あたり吹くそよ風の〉K四三一
おそれ、おののき、恋人への想い、そして運命への怒り、男の嘆きの歌
――いわゆる演奏会用アリアというものは、どういうものでしょうか。
モーツァルト自身は「レシタティーフとアリア」と譜面に書いたらしいです。独立したオーケストラ伴奏の独唱曲で、しかもそれがオペラの一場面で歌われるようなスタイルの曲を、モーツァルトは六〇曲以上も書いているのです。男声用も女声用もあります。この曲の場合は「テノールとオーケストラのための」と記されています。いずれにしても「レシタティーフとアリア」といったり「シェーナ(劇唱)」といったり「ロンド」と呼んでみたり、それらをひっくるめた通称が演奏会用アリアというわけです。
ただ、それらが書かれたチャンスについてはいろんなケースがあって、じっさいの舞台用に書いた場合もあるのです。つまり当時のオペラは、プリマドンナやテノールの主役に合わせてアリアを作曲します。そこで誰かイタリア人の作曲したオペラをウィーンで上演する場合に、モーツァルトのごく親しい歌手が出演するというような時、もっと自分の声や柄にぴったりのアリアを一つ二つ追加して書いてくれと、モーツァルトに注文することが起こる。そういうのが演奏会用アリアとして残っているのです。もうひとつは、オペラ歌手が演奏会に出演するというチャンスに、オペラふうの、声の効果をじゅうぶん生かした曲をとくに書いてやるわけで、このほうが多いでしょう、たぶん。この曲もその一例です。
――としますと、この《あわれなる者よ、ああ夢よ、めざめしか――あたり吹くそよ風の》は、誰か有名なテノールのために作曲されたと考えてよろしいのですね。
これは今では作詞者が誰だか全然分からなくなっているのですが、モーツァルト二七歳の一七八三年一二月二二日と二三日に、ウィーンのブルク・テアーターで年金(恩給?)生活者組合という団体のコンサートで初演されたのです。募金興行的なものだったのかもしれませんが、よく分かりません。ともかく、その音楽会にヴァレンティン・アダムベルガーという、ミュンヘン生まれの当時の名テノールが出演しました。
この歌手はモーツァルトとは前から親しく、だいいち一年あまり前の《後宮からの誘拐》の初演の時のベルモンテの役はアダムベルガーが歌ったのです。そんな縁で、モーツァルトは彼のためにこの曲を新作してやりました。何しろこのアダムベルガーというテノール歌手は、イタリアで大成功していたのに、皇帝ヨゼフ二世がウィーンに呼びよせたというのだから、よほどの美声、美貌だったにちがいありません。
――さて、この歌は、どういう内容を歌っているのですか。歌詞はイタリア語ですね。
さっきも申し上げたように作詞者は分かっていませんし、具体的なシチュエーションも分かりません。というより始めからないと、考えてよいのではないでしょうか。ともかく男の嘆きの歌です。
自分の現在の境遇に対するおそれ、おののき、そしてやさしい恋人への想い、回想といったものが前半の「レシタティーフ」でひじょうに抒情的な気分で歌われます。ここはセッコでなく、いわゆるアコンパニャートのレシタティーフで、オーケストラ伴奏つきです。後半アレグロ・アッサイの「アリア」は、運命に対する怒りの爆発で終っています。
しかし、抽象的な歌詞なので男が、どういう性格の人物で、何で怒っているのかは考えようで、どのようにもとれます。モーツァルト研究家のアインシュタインは、たとえばベートーヴェンの《フィデリオ》のフローレスタンか、さもなければヴェルディの《トロヴァトーレ》の主人公マンリコのような男の歌だと言っています。
――何か暗い運命の影がつきまとっているような男ですね。マダム・キラーにぴったりだ。
曲は変ホ長調ですが、少なくともカラッとした英雄的な人物じゃない……。モーツァルトはそういった面を実に微妙に表現していて、もしこの曲が有名なオペラの中に入っていたら、指折りのアリアに数えられ、今よりはるかに有名な曲になっていたでしょう。
●レパード指揮 F・リスト室内管弦楽団、コール(T)〈89〉(ソニークラシカル○D)
ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
(ドイツ)
1770〜1827
交響曲 第一番 ハ長調 作品二一
アダージョ・モルト―アレグロ・コン・ブリオ
アンダンテ・カンタービレ・コン・モト
メヌエット、アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェ
アダージョ―アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェ
二〇歳から三〇歳までの一〇年間の楽想が積み重ねられる
――交響曲第一番は、三〇歳頃の作品です。この頃は、ベートーヴェンの生涯において、どういう時代にあたっているのでしょうか。
第一番のスケッチは一七九一年頃のボン時代にまで遡れるし、ウィーンに行ってからの一七九四年、九五年のスケッチブックにも曲の一部が出てきますから、第一番にはほぼ二〇歳から三〇歳までの一〇年間の楽想が積み重なっているわけです。このことが、第一番が三〇歳の作というと、ちょっと意外な感じのするひとつの理由でしょう。つまりシューベルトやメンデルスゾーンだったら、これは二〇歳前後の作品という感じですものね。ベートーヴェンは大器晩成型だという感じになるわけですよ。
ハイドンやモーツァルトの影響の濃い作品だ、ということもたびたび言われますが、この曲はそういったハイドン、モーツァルトの遺産でやっているような部分とそうでない部分、三〇歳のベートーヴェンの強烈な個性を、すでにのぞかせている部分もたくさんあるのですが、素材にもっと若い頃のものが使われていることが、第一番の印象を決定しています。
たとえばメヌエットはテンポが早くて、その点にはじつにベートーヴェンらしい個性を感じさせるけれど、その主旋律は三、四年前に書いた《一二のドイツ舞曲》を流用しているから若書きの感がぬぐえません。だから、まあ第一番から《エグモント》までは、ベートーヴェンの個性が完全に音楽に出てくるまでの二〇年間ということかしら。しかし、ロマン主義の音楽観が、ベートーヴェンの後期作品だけに、とくに高い価値を認めようとするのはあまり賛成できませんね。初期、中期が後期への単なる通り道ということではないのです。もちろん、後期は後期で特別な興味の対象になるけれども。
――さてここでベートーヴェンがどういう頻度で演奏されてきたかという歴史をふりかえっておきましょう。「フィルハーモニー」の一九六七年の七・八月号でNHK放送文化研究所(当時)の後藤和彦さんが分析している「N響定期四〇年のレパートリー」をみればよく分かります。とくにその図表をみると、昭和七年〜一三年をピークにベートーヴェンの演奏頻度はさか落しに減ってきて、昭和三四年からはとうとう首位を割ってしまった。
つまり長年にわたって二位のモーツァルトや三位のブラームスの二倍くらいの量で演奏されていたベートーヴェンが、ここへきてぐっと落ち目になって、四〇〇回から五〇〇回までの一〇〇回分を合計するとリヒャルト・シュトラウスがおそらく首位でブラームス、ワーグナー、ベートーヴェン、モーツァルトとこの五人がみんな胸一つの差で並んでいる。その半分くらいの数でチャイコフスキーとラヴェルが競り合い、さらにその半分くらい下でバッハとストラヴィンスキーが肩を並べている。これは世界的な傾向じゃありませんか。
ええ、そうだと思います。つまりベートーヴェンの絶対優位はすでに過去の記録となり、今後は当分の間、一人の作曲家がとび抜けた頻度でやられることはないだろうという気がします。ただ後藤さんも書いているように、日本では《第九》はいつも年末にやられるから、この定期の回数しらべには上ってこないし、まあ、およそ職業オーケストラの臨時公演からアマチュア・オーケストラの上演曲目まで入れたらベートーヴェンが首位でしょう。
――それじゃ伺いますが、ベートーヴェンが現在もなおその生命を失うことがない、というのはどういうことでしょうか。ベートーヴェンの作品の永続性の秘密は、どこにあるのでしょうか。少々、大げさな言い方になってしまいましたが。
ベートーヴェンの作品の永続性の秘密ということですが、これはベートーヴェンと同じくらい天才と思われるジョスカン・デ・プレ、モンテヴェルディ、バッハといった人たちにくらべて、ベートーヴェンがなお現代に生きているということは、客観的に言って当時からのシンフォニー・オーケストラの伝統が今日なお継続しているからだ、と言えるでしょう。もっと端的に言えば古すぎもせず、新しすぎもしないというのが、おそらく最高の理由でしょう。げんにベートーヴェンは少し古くなりかけていて、オーケストラ音楽の枠内でもブラームスやリヒャルト・シュトラウスに、席をゆずりそうな形勢にあります。
――ええ、その「古い」というのは、いろいろ考えようだと思いますけれど……。
とにかく、今日のオーケストラの編成とか演奏法の基本が、ウィーン古典派の交響曲、中でもベートーヴェンの九つの交響曲にあるわけで、つまり弦の役目、管の役目、打楽器の役目、おたがいの連繋や対立の呼吸……これは言葉で言うとつまらないことになってしまうけど、プレイヤーたちがいちばん体に感じて呑み込んでいなければならないところなのですがね……。要するにシンフォニー語の使い方です。ベートーヴェンのシンフォニー語をいかに正確に、なまりなく、しかも雄弁に話すか、ということがオーケストラ音楽の中心的な目標でしょう。
それ以前の音楽も、それ以後の音楽もベートーヴェンを尺度というか標準にしてやらざるを得ません。しかし、これが弦楽オーケストラとか、あるいは室内オーケストラのように、一管で二〇人以内の小編成となるとまたすべてが全然、別の領域のことになりますけれどもね。さっきの演奏頻度からみた五傑だって、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームス、リヒャルト・シュトラウスというドイツ古典・ロマンの系統に固まっていますから。極端に言えば、チャイコフスキーやラヴェルやストラヴィンスキーは、いかにドイツ人一家とちがうことをやってみせたか、ということに尽きます。
だから現代の作曲家では標準的な大オーケストラの作品が、必ずしもその作家の主流をなす作品とは言えません。今日オーケストラの指揮者が音楽界のスター的存在だから、現代作曲家はみな管弦楽のために一応は作曲をします。しかし、演奏頻度の激減にもかかわらず、ベートーヴェンが依然としてオーケストラ音楽の中核であることは否定できないし、変らないでしょう。そうでなくなる時は、オーケストラそのもののあり方も変る時ですよ。もちろん、かなり先のことにせよ、そういう時は必ずくるでしょうけれど。
――ところでベートーヴェンについての研究の新しい傾向とか、その問題点などについて、少しふれていただけませんか。
私はあまりよく知りませんが、ここに過去一〇〇年間の、ドイツの大学における音楽学の学位論文、ディッセルタツィオーンと言いますが、そのリストがあります。三〇〇〇件の学位論文のうち、ベートーヴェン関係は七〇件ですね。しかもこの中にはベートーヴェンに関連したものも含んでいるので、正面からベートーヴェンにとり組んでいるのはその七割くらいかしら。まあ、近頃の研究としては、一八世紀末のパリ楽派のゴセックとかカンビーニ、プレイエルなどの交響曲や〈サンフォニー・コンセルタント〉の研究が、ひじょうに進んでいるので、そういうものがベートーヴェンに及ぼした影響が、だんだんはっきりしてくるでしょう。
それから、たとえばベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のパセージが、ほとんどヴィオッティ、ロード、クロイツェルといった、やはり一八世紀末のパリのヴァイオリン楽派の協奏曲からとられていることとか、弦楽四重奏曲などにもそういうものがみられること、それからピアノ曲や交響曲、とくに《エロイカ》の主題やパセージが、クレメンティのピアノ曲からとられたものが多いとか、近頃そういった実証的な研究がアメリカなどで盛んなことが目につきます。
――「ベートーヴェンよ、おまえもか!」ですね。
やはりバッハの場合と同様、ロマン主義的な、天才を神格化した時代の反動があらわれていると思います。もちろんベートーヴェンの天才は否定できないのだけれども、以前はひたすら神秘化、神格化することに力が注がれていたと思うのですが、近頃はもう少し客観的に当時の音楽界の流れの中で、ベートーヴェンがどういう立場で作曲したかということに目が向けられてきたと思います。天才といえども全く孤立した峰ではあり得ないですから。
●ヴァント指揮 北ドイツ放送交響楽団〈86〉(RCA○D)
交響曲 第二番 ニ長調 作品三六
アダージョ・モルト―アレグロ・コン・ブリオ
ラルゲット
スケルツォ、アレグロ
アレグロ・モルト
失意の日々のなか、生命感が躍動する巨匠への道の踏切り
――交響曲第二番はベートーヴェンの他の交響曲にくらべて、比較的聴く機会も少ないようですけれど、私は大好きです。とくにあの第八番とずいぶん気分的に似ていると思うんですが。この清朗な作品が、例の遺書の事件のすぐあとに書かれたというのは、やはり凡人の出来るわざではないと思いますね。
ええ、曲も遺書もどっちもハイリゲンシュタットで書いたのですね。そこは昔はウィーン郊外の田園で、つまりベートーヴェンは耳の病を養うため、医者のすすめでそこに転地したのです。今じゃウィーン市内の最北端で、ドナウ河と運河が分かれる付近だから、東京ならちょうど隅田川と荒川放水路の分かれる赤羽辺にあたります。まあ耳の病と、ピアノ・ソナタ《月光》を捧げた女性への失恋から、遺書にあるような失意の日々だったというのに、同じ時期にこんなに明るい曲も生まれたのはおどろきだ、とされているのです。
しかし、あの「ハイリゲンシュタットの遺書」は、いささか芝居がかってオーバーな気味もありますし、またああいう形で、もやもやを吐き出してしまって音楽の仕事への影響を断ち切ったとも考えられます。まあ、そこまで意識していたかどうかは別としても、結果としてはそう見えないこともない……。ともかくあの暗い遺書とこの明朗な第二番とが、同じ時期に同じ所で書かれたのは事実なんです。
――第一楽章は、堂々たる序奏で始まりますね。また第二楽章で示される豊かな幻想は、まったく素晴らしい。
バロックふうのメリハリのついた序奏です。ずいぶん長いです。いったい第一番にくらべて各部、各楽章とも約四割がた規模が大きくなっています。第二楽章はよくコーラスにアレンジされています。ベートーヴェンの器楽曲には、ひじょうに肉声的な発想のものがあるのに、声楽曲となると器楽的になるのはおもしろいですね。ともかく交響曲第二番の前後はピアノ・ソナタ《月光》、ヴァイオリン・ソナタ《春》など、とくにメロディアスな曲が生まれている時期です。
――第三楽章はスケルツォですね。これは、ベートーヴェンの交響曲に初登場ですか。もっとも第一番のメヌエットだって、実際はスケルツォみたいだけれど……。
そう、第一番では未だメヌエットでした。もっとも内容はすでにスケルツォふうのテンポの早いものでしたが、第二番で名実ともにスケルツォになり、しかし、また第四番と第八番がメヌエットに戻っています。
――さっき、第一番より四割がた規模が大きくなったといわれましたが、とにかく、表現の振幅がだんだんと大きくなっていますね。このほうが、やはりベートーヴェンらしい。それで、第四楽章に入ると、まさに彼の生命感が躍動する、といった感じですね。
そうです。ここでベートーヴェンは大きな飛躍をなしとげた、とふつう言われていて、たしかにその通りと思いますが、しかし、このフィナーレはベートーヴェンの中で、やや孤立した特殊な位置にあるとも言えます。ひじょうに性格的ですから。とくにリズムの点ですが。もっともベートーヴェンはピアノ協奏曲第一番にしてもピアノ協奏曲第五番にしても、フィナーレのロンド・ソナタ形式のAテーマのリズムをひじょうに工夫しています。
――第二番は第一番のわずか三年後に初演されたのに、ずいぶん大きな変化が感じられますが。しかし、楽器編成は第一番とまったく同じでしたね。
ええそうです。たしかに第一番と第二番の初演は三年しか隔たっていませんが、第一番に使われた素材やスケッチは、さらに一〇年くらい前まで遡れるのです。だから大きな差がついたと言えます。とにかく第二番のフィナーレはじつにみごとな音楽で、これはハイドンの弟子ベートーヴェンが真のベートーヴェンに脱皮する、まさに踏切台という感じです。
――いずれにせよ、この何年か後には、交響曲第三番《英雄》が、生み出されるわけでしょう。
すぐあとですよね。キンスキーのベートーヴェン・カタログによると、第二番が一八〇二年一〇月頃に終って一八〇三年四月五日に初演され、その五月から《エロイカ(英雄)》にかかっているのです。もっとも、その完成は一八〇四年初頭で、初演まで一年あまり寝かせてあって、一八〇五年四月七日初演となっているから、その点では第二番のまる二年あとから世に出たことになります。そして彼はいちだんと巨匠の姿を浮かび上がらせていくわけです。一作一作が完結した世界になっていきます。
ということは過不足ない充実した創作活動の時期に入っていく、ということでしょう。その意味では、第一番から第二番への飛躍よりも第二番と第三番の差のほうが大きいかもしれません。まあしかし、中には《フィデリオ》みたいな手のかかる子供もできたわけだけど、手をかけて立派に育ててしまったし……。初期にも晩年にも、案外つまらない作品が挟まるけれど、中期にはそれがないんです。
●サヴァリッシュ指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団〈93〉(EMI○D)
交響曲 第三番《英雄》変ホ長調 作品五五
アレグロ・コン・ブリオ
葬送行進曲、アダージョ・アッサイ
スケルツォ、アレグロ・ヴィヴァーチェ
フィナーレ、アレグロ・モルト
深い精神を音で表現するオーケストラ音楽の出発点
――この《英雄》が初演された頃、人々はその長さに大いに驚いたという話を聞きましたが、いまじゃ誰も驚きません。交響曲の時代的な流れといったものについて簡単にお話しいただけませんか。
これはやはり社会の変化と関係があります。市民社会の成立、哲学や文学の変遷などもあります。弦楽四重奏は四人の対話、議論、争い、和解、一致のドラマですが、交響曲はそれを数十人のコミュニティーでやるわけです。しかも木管のグループ、弦のグループ、金管のグループといったいくつかの陣営にわかれて。弦が問題提起すると管がそれを批判し、あるいは受けいれて発展するとか……。
とにかく一九世紀の交響曲は、一九世紀の西欧の人びとの感情や対話や弁証法的な思考を音であらわし、構成しているわけで、一八世紀は一八世紀の、二〇世紀は二〇世紀の、ということです。
しかし、一八〜一九世紀の曲でも演奏というものはあくまで今日のもので、そこがおもしろいところです。なるべく当時の感じ方を生かして、つまり伝統的な演奏方法をとるか、客観的に距離をおいて今日の感覚で表現するか、作曲者の意図をできるだけ汲みとるか、たんに素材として指揮者の意図や音楽性を強く押し出すか……、などなど千変万化のやり方があるわけです。
――交響曲において、民族的なものは、どの程度かかわりあっているのでしょうか。
そりゃあ、小説や戯曲と同じで、ゲーテとモリエールとトルストイでは、時代や個性のちがいを越えた民族の特色が、それぞれに厳然とあらわれているように、音楽でもまったくそうです。だから音楽に国境なしというのは通訳の必要がないというだけのことです。ことに日本のようにまったく異種の文化伝統をもった国だと、日本の作曲家が西欧のスタイルをいくら勉強して、よく消化して交響曲を書いたとしても、東洋的・日本的な音楽の特色が必ず出てきます。
だから同じヨーロッパでも、ドイツ・オーストリアに近いボヘミアなどは比較的同じスタイルですが、イギリスやフィンランドとなるとずいぶんちがってきます。ロシアやアメリカもそうです。ヴォーン・ウィリアムズ、シベリウス、アイヴズ、スクリャービンなどみんな交響曲といっても、ずいぶん風変わりに作っていますし、それぞれお国がらが出ていると思います。
――ベートーヴェンの《英雄》、《田園》、それにドヴォルザークの《新世界から》など、人気のある交響曲は、申し合わせたように、みんな名前つきです。
これはなかなかおもしろいことなんです。つまり作曲家が、まったく日常的な気分で第四番とか第二七番目とかの曲を生み出すのと、何か環境の中に生じたイヴェントを捉えて、それと結びつけて、必ずしも描写的というんじゃなくても、何かそれでわくわくした気分をもり上げて作曲した場合とでは、差がつくんじゃないでしょうか。だいたい有名な交響曲には題名がついていますからね。
もっとも《未完成》なんてのはマイナスの標題ですが、《新世界から》なんてのは、ドヴォルザークが五〇歳を過ぎてから、ボヘミアの田舎をあとにニューヨークのさる音楽院の院長に就任して、文字通り彼にとっての「新世界」のフレッシュな日々を歌い上げているわけです。ハイドン晩年の〈ロンドン交響曲〉なんかも、よく似たシチュエーションです。
――《英雄》というのは……。
《英雄》のばあいはナポレオンという一種の巨人像が、ベートーヴェンという天才の創作衝動に何らかの作用をしているのだし、《田園》は正反対に自然観照に没入した天才の姿ですが、いずれにしても出発点が、まったく抽象的な音の形式から始まるのではなくて外界にあるんです。
――ここでベートーヴェンの交響曲の世界について簡単にふれて下さいませんか。
ベートーヴェンの第一番から第九番までの広大な世界というのは、音で表現した深い精神領域で、これはベートーヴェンのたぐい稀なパーソナリティーの産物ですが、しかし、時代もじつに良かったんです。すぐ前の時代のハイドンやモーツァルトの作品でも分かるように、いわゆる古典派の書法が完成の域に達し、また管弦楽団の骨組みも出来上がり、世の中も市民社会が生まれようという時です。
もちろんベートーヴェンはいろいろな困難をのりこえ、逆境と戦っていたけれど、まあ時代全体は天才の創造をうながし、支持し、とくにウィーンでは音楽家という特権がまかり通ったと言えるでしょう。でもあまり環境のことを言うのは、少なくともベートーヴェンの場合、適当じゃない気もしますが。
なにしろこの天才がいなかったら、今日のオーケストラは別物になっていたでしょう。一九世紀を通じてのオーケストラ音楽の発展の出発点です。もしハイドン、モーツァルトで終りになっていたら、今に見るようなロマン派もワーグナーも生まれませんよ。
――ところで話は変りますが、ベートーヴェンの演奏というのは、やはり難しいものでしょうね。
そりゃ、そうですよ。しかも、ベートーヴェンのようにみんなが知りつくしている音楽は、だんだんに指揮者の個性や楽団の特性を発揮させる媒体の役を果すようになるのではないかしら。とにかく、全人格的な音楽で、あらゆる面をそなえた音楽だから、ベートーヴェンとの対決は音楽家にとって大へんなことですよ。人間性のある一面だけが出ている、という音楽ではないから。
●カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団〈84〉(グラモフォン○D)
交響曲 第五番 ハ短調 作品六七
アレグロ・コン・ブリオ
アンダンテ・コン・モート
アレグロ
アレグロ
求心的な凝集度、整然たるまとまり
――これは、とにかく傑作ですね。さらに言うなら不朽の傑作!
とにかく、最初の「タ・タ・タ・ター」というモチーフほど簡潔で、しかも、限りない可能性をこめている例は、まずないんじゃないでしょうか。でも、この交響曲は、まず「タ・タ・タ・ター」から始まったんでしょうか。正確には、その前の八分休符からでしょう。「ウ・タ・タ・タ・ターン」です。動作には予備モーションが要りますからね。だから「ウ」のもう一つ前に指揮者の「サッ」があることになります。ところで、これを〈運命〉と呼ぶのは日本だけです。《ジュピター》《エロイカ》《パストラール》は世界中でそう呼びますが、これは第五番、ハ短調としか呼びません。メSchicksal Sinfonieモと呼ぶこともある、とは書いてありますが、日本以外では呼びません。
――《エロイカ》で、外に向かって力を拡げたベートーヴェンが、この第五番では、ふたたび求心的な凝集をみせたと言われますが。
まあ、そう言えます。全体の長さからも、整然たるまとまりからも、古典的な伝統という点でも《エロイカ》は枠におさまり切れない感じですが、第五番ではおっしゃる通りです。ただ念のため申し上げますが第五番のスケッチは、じつは第一番が完成した直後の一八〇〇年まで遡るのです。しかし、具体的に手をつけたのは《エロイカ》以後ですが、少なくとも第四番以前で、一八〇六年には第五番の仕事を中断して一気に第四番を書き上げるなど、ワーグナーじゃないけど、この辺は複雑に入り組んでいます。
――とにかく、ベートーヴェンは、まず《エロイカ》で、交響曲の歴史に、一大エポックを作りましたが、この第五番も、それに同等な意味を持つと考えて良いでしょうか。
《エロイカ》で何が枠におさまり切れていないかと言えば、緩徐楽章が葬送行進曲という標題音楽的な傾向をもった曲であること、そしてフィナーレがシャコンヌふうのバスを主題とする自由なヴァリエーションだということ、その二つがおもな点でしょう。第五番にはそういう例外点がなくて、ごく普通の作りで、しかもよくできています。
――楽器編成は、ベートーヴェンの普通の二管よりも、多彩ですね。ピッコロとか、コントラファゴットとか、三本のトロンボーン……。
これはベートーヴェンとしては第九番以外ではいちばん大きい編成です。まあ、それらはフィナーレではじめて加わるわけですが、同じように第六番では嵐の場面にだけピッコロとティンパニが加わるんです。しかし、オーケストレーションに関連してのことですが、ベートーヴェンの交響曲というものは、初演当時は三〇人くらいのオーケストラで演奏したのです。木管楽器はむろんスコア通り二本ずつで、フォルテのところを倍の四本で吹くということは近年の習慣ですね。弦の数だってそれに見合ってずっと少なかったのです。ホルンなんか、ピストンのない自然ホルンだから、たとえば第五番の第一楽章の第二テーマも、再現の時にはファゴットが吹くのがオリジナルです。
つまり、ベートーヴェンの交響曲の演奏スタイルというものは、彼の死後、リスト、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスとだんだん性能のいい楽器を使った大オーケストラのためのロマン派の作曲様式と演奏法によって、育て上げられていったのです。近年の第五番の圧倒的な、ほとんど威圧的なまでの緊張感にみちた演奏というものは、ベートーヴェンの時代には考えられなかったと私は思います。ピッチだってほぼ半音低かったのだし。
もっと、テンポものんびりしたものだったでしょう。そういったロココふうのベートーヴェン像というものが、そろそろ今日のステージに再現されてもよい頃じゃないか、と私などは考えるのです。つまりバッハやモーツァルトは、かなり創作時のイメージに近い再創造がなされているのに、ベートーヴェンだけは、未だにロマン主義的な巨大化の流行の中に取り込まれている、という感じがします。また第五番などは威圧的な演奏法に、じつにぴったりな曲なのです。だからこそ、これでもか、これでもかとたたみかけるような演奏が一般化したのだと思います。
――それでないと、お客も損したような気になるし。初演は、たしか《田園》と同じときでしたね。
ええ、そうです。テアター・アン・デア・ヴィーンで、一八〇六年一二月二二日に第五番と第六番を彼自身の指揮でやっていますが、おもしろいことに今日とは逆に番号がついています。第五番(田園)、第六番(運命)となっていたのです。亡くなった尾高尚忠さんが、ある時N響で第五番を振るつもりで勢よく指揮台に上り、気合いをこめて振りおろしたら第六番がしずかに鳴り出した、という逸話は有名ですが、尾高さんはもしかするとウィーン初演のことを考えていたのかもしれません。
●カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団〈82〉(グラモフォン○D)
交響曲 第六番《田園》ヘ長調 作品六八
いなかに着いた時の愉快な気分
小川のほとり
いなかの人々の楽しいつどい
雷とあらし
牧歌、あらしのあとの喜びと感謝
描写音楽と“パストラール”の関係
――《田園交響曲》と名づけたのは、たしかベートーヴェン自身でしたね。
そうでしょう。つまり印刷されたパート譜の、初版の、第一ヴァイオリンの表紙のウラにメPastoral-Sinfonie oder Erinnerung an das Landlebenモとあるのだそうです。訳せば「田園交響曲、田舎ぐらしの想い出として」ということです。ただし、今日ロンドンに保存されているスケッチブックの二冊目にはメSinfonia caracteristica oder Erinnerung an das Landlebenモと書かれているそうで、もしこのまま印刷されていれば《性格交響曲》という題になる所でした。これじゃどうも変哲ないものですよ。そう言えば《エロイカ》も原稿ではメSinfonia grandeモで、のちにメSinfonia Eroicaモとなおしたんです。
――けっして田園風景の描写でない、というところが、ねうちなんでしょう。
そう。今日の印刷されたほうの文章のあとにつづけて、カッコをつけて(Mehr Ausdruck der Empfindung als Mahlerey)とあるのです。最後の字は古風な綴りになっていますが、ともかく「絵におけるよりも、より感情の表現として」という意味です。ですから、よくこの言葉について、ベートーヴェンは描写音楽や音画を作曲したのじゃなくて、感情をあらわしたのだ、だから絶対音楽と考えていいんだ、というふうな解説がなされますが、それはちょっとニュアンスがちがうと思います。
ベートーヴェンはなにも描写音楽じゃないと断ったのではなくて、そもそも絵と音楽のちがいのプリンシプルを言ったようなものですよ、このカッコの中というものは。絵だってもちろん感情はあらわせる、しかし、音楽ならもっとよくあらわせる、自分としてはそっちのほうが主眼で、風景描写は二の次なんだ、ということじゃないかなあ……。
第二楽章の小鳥たちの鳴き声や第四楽章のピカピカ・ゴロゴロなんて、まさに音による情景描写です。スケルツォだってわざと民謡を使って、田園風景をほうふつさせようとしているし、結構描写にだって力を入れているのです。だから、今の但し書きはそれでもなおかつ、絵画にはとうてい及びません、という断り書きと受け取ってもいいくらいです。どうして今まで、描写じゃないんだ、音画じゃないんだ、抽象音楽と考えるべきなんだ、だからすばらしいんだという解説が多いのかしら……。
――むかし、学校の音楽の授業で、標題音楽や描写音楽は、絶対音楽より下に位するものだ、と教えられたんです。だから、ずいぶん長い間、そういう固定観念のようなものを持っていましたね。ところでこれが書きあげられたのは、たしか、ハイリゲンシュタットにおいてでしたね。
ええ、そこはウィーンの北のはずれです。そこで「遺書」や第二番が書かれてから六年もたっていますが。今でも一種の名所になっている「ベートーヴェンの散歩道」を、歩きながら作曲したのです。
――耳のほうは、だいぶ聴こえなくなっていたんでしょう?
これはもう、そもそも六年前にハイリゲンシュタットに転地したのが、難聴を療養する目的だったのですから。
――曲の標題で、しごくもっともらしく言った例は、それまでにもあったのでしょうか。
先例はあるはずですよ。私も文献だけで実物は知らないのですが、一七八四年頃にメLe portrait musical de la nature ou grande simphonieモという曲を書いた人がいます。《自然の音楽的描写、または大交響曲》というんでしょうか。別の文献ではメTongem獲de der Naturモとドイツ語になっていますが同じ曲のことでしょう。しかも、ベートーヴェンのパストラール・シンフォニーと全く同じプログラムである、と書かれています。
その人はクネヒトJustin Heinrich Knecht(一七五二―一八一七)というドイツのオルガニストで、シュトゥットガルトの宮廷礼拝堂の楽長をしていた人です。相当の実力者で当時の有名人だったようですから、ベートーヴェンはむろんこの曲を知っていたでしょう。しかしまた、この種の標題的な協奏曲や交響曲は、バロック以来たくさん書かれていますから、クネヒト以外にも同じようなものがあり得たと思います。何しろ、私たちの目に触れるのは、当時実際に作曲された音楽の何百分の一かそこらでしょうから。
――音楽上の「パストラール」という言葉について、少々お伺いしたいのですが。
これはうんと遡れば、羊飼たちの生活を扱った文学からきているのでしょう。もちろん紀元前からのもので、有名なウェルギリウスの『エクローグ』なんてものはほとんど紀元頃だから、かなり時代が降ってからのものに属するのでしょう。音楽では中世末期のトルヴェールのアダン・ド・ラ・アルに《ロバンとマリオンの劇(戯れ)》なんてものがありました。その後マドリガルなど、いろんな曲種にこういうテーマが用いられてきたのでしょう。
そしてパストラーレと言えば、イタリアの牧歌劇のことを意味する時期もあります。田園風景を背景とした羊飼たちの生活をテーマとした軽いオペラです。以上は声楽におけるパストラーレですが、器楽音楽ではどうかというと、これはクリスマスの音楽の中で、キリスト降誕のあと、ベツレヘムの野の羊飼たちをあらわす牧笛のメロディーが、間奏曲として演奏される習慣がありました。一六世紀末くらいから出てきますが、とくにバロック末期の協奏曲全盛時代には、クリスマスのミサの時に演奏する協奏曲の中に、そういう楽章を必ず挿入したのです。コレッリ、トレッリ、ロカテッリ、マンフレディーニなどにあります。もう少し降ればヘンデルのメサイアの中にある〈パストラール・シンフォニー〉がそれです。短い間奏の音楽です。
――それを昔はなぜ《田園交響曲》というのか、なんで交響曲なのかと不思議でした。
バロック時代は標題音楽が多く生まれた時期ですが、さっきの牧歌劇のような筋やその他田園生活を描いた詩による器楽音楽も発生してきて、それがさっきのクネヒトやベートーヴェン、オネゲルの《夏の牧歌》、ヴォーン・ウィリアムズの《田園交響曲》にまで影響しているわけでしょう。ところで、ベートーヴェンの場合、少なくとも第一楽章の冒頭の書法に、クリスマス音楽のほうの「パストラール」の約束が守られているのはおもしろいことです。つまり最初からトニックの持続低音が鳴っていて、その上に三度音程の連続でメロディーが奏かれていく、三〇小節くらいのところからの木管がずっとそうでしょう。これはバロックのトリオ・ソナタの編成と同じ書き方です。
低音のオルゲルプンクトは羊飼のバグパイプの低音の模倣で、これはスケルツォにも、フィナーレの頭にも出ますが、ともかく標題だけじゃなく書法の上でもいろいろ古くからの「パストラール音楽」の伝統を守っているのはおもしろいです。ただ気分や感情だけ田園的なのじゃありません。
●バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈78〉(グラモフォン)
交響曲 第八番 ヘ長調 作品九三
アレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・コン・ブリオ
アレグレット・スケルツァンド
テンポ・ディ・メヌエット
アレグロ・ヴィヴァーチェ
上機嫌のベートーヴェン、ユーモアあふれる曲
――この曲は、たいへんユーモアの精神にあふれた曲だと言われていますね。でも、ベートーヴェンとユーモアというのは、あまり結びつかないように思えるのですが。そうしたユーモアの精神を、ベートーヴェンが音楽の世界に、いかに導き入れているかということが、問題になるのだと思いますが……。
つまり美学的な意味でのフモール、滑稽美というか諧謔美というか、それを音楽作品の中にいかに様式化したか、ということですね。しかし、その点でベートーヴェンは必ずしも最良の体現者とは言えません。もちろん作品のあちこちに思い当るところはありますが。
たとえば、これはベートーヴェンのいろんな作品の中に見られる手法ですが、終る時にいったんアダージョのテンポで消え入るような感じになって、また突如アレグロで突進してパッと終る、あのやり方は一種のフモール的表現ですよ。それからしつこいオスティナートもそうじゃないでしょうか。第七番や第九番の第一楽章のコーダにもあります。それから何といってもリズムでフモールの感じを出していますね、第二番のフィナーレの冒頭とか。
――陽気だということならば、交響曲第七番のフィナーレなども、ずいぶん陽気なんじゃないでしょうかしら……。でも、第八番には、第七番にあるようなディオニュソス的なところは、ありませんね。
そうです。第八番の第二楽章スケルツァンドや第四楽章フィナーレはフモール精神横溢といったところです。同じ時期ではヴァイオリン・ソナタ第一〇番の出だしのところなど。もっと後期になると、たとえば《ミサ・ソレムニス》(荘厳ミサ曲)の〈アニュス・デイ〉で、トランペットとティンパニが響く所など、じつにベートーヴェン一流のフモールだと、私は思いますが……。
――ところで、話は違いますが、ベートーヴェンの交響曲では、奇数番号と偶数番号との曲の性格のちがいは、かなり明確ですね。
これはもう、じつにはっきりしています。ことに第四番、第六番、第八番はどれもひじょうな速筆で一気に書き上げています。時間をかけて作曲した深刻な内容の第三番、第五番、第七番、第九番ときわ立った対照をなしています。ついでに第一〇番を速筆で仕上げておいてくれると良かったのですが。
――この交響曲第八番を書いた頃、ベートーヴェンの身辺は、おだやかだったんですか。
まあ上機嫌だったのですね。一八一二年の夏にテプリッツという今日チェコ領になっている温泉場で構想を得て、すぐ作曲を進めたのですが、そこで散歩中にオーストリア皇后に行き会った時に、ベートーヴェンは道をゆずらなかったので、一緒にいたゲーテが不愉快な思いをした、という逸話があります。そんなことからも、ベートーヴェンは第七番を仕上げたあと、何か解放感を味わって浮き浮きしていたのじゃないですか。ただ、曲を完成させたのはリンツで一〇月頃で、これは弟の結婚問題でトラブルのあった時なのですが、そのトラブルなんかは第八番にもはや影響しなかったとみえます。
――しかし、一気に筆が進められたにしては一見、単純のようで、じつは結構、構成的にみても、手が込んでいますね。
ひじょうな速筆で一気呵成に書き上げたものには、個性がはっきり出るはずです。これは第八番にも《コリオラン》にも言えることですが、チェロがひじょうによく動いて、重要な役割を果しています。コントラバスから離れて、幅の広い分散和音を奏いたり、独立してポリフォニーに参加したり……。まあ《エロイカ》や第五番にもその徴候は出ていますが、これはハイドン、モーツァルトの線じゃなくて、むしろパリの〈サンフォニー・コンセルタント〉の系統からきていると思いますが、とにかく、そのためにひじょうに豊かな響きになっています。
初演は作曲完成後一年四ヵ月くらい経ってやっと、一八一四年二月二七日にウィーンの王宮内のレドゥーテン・ザールで行われています。だいたい他の交響曲は完成後半年以内くらいで音になったのですが。もっとも、一八一三年四月末にパトロンのルードルフ大公の前で試演された、という記録があるにはあります。しかし、これは完全なオーケストラではなかったかもしれません。おそらくそうでしょう。
評判は、といったって古い話だし、評判の伝説みたいなものが延々と伝わっているだけのことですが、それによると当時の新聞は、同じ音楽会で第七番をやったあとで、この第八番が紹介されたのは明らかに不利で、音楽会のはじめにやられていたら、もっと喝采を博していたろうというんです。しかし、それだけじゃ、これを書いた人がもっと大喝采を期待していたからこう書いたのか、ほんとにさびしい拍手しかなかったのか分かりゃしませんよ。
しかし、これは初演じゃありませんが、一八二七年六月四日付のロンドンのThe Harmoniconという新聞か何かに出た第八番の批評は、これはひどいものです。何しろ「ベートーヴェンの第八交響曲は、全くフィナーレだけの曲で、そのために拍手があったようなものだ。残りの部分ときたら骨折り損のくたびれ儲けだ」というんです(Nicolas Slonimsky:Lexikon of Musical Invective, p.45)。
――ほんとうに、プロフェショナルな批評とも思えませんね。それはそうと、この曲は、交響曲第六番と同じ、ヘ長調だけれど、そのわりには“パストラール”ではないんじゃありませんか。第三楽章のトリオなどを除けば……。
まあ、どっちの曲でも曲頭に主音f(ヘ音)の持続低音がほんの二、三小節ですが、現われます。こういうのを「パストラール持続低音」と称するのです。しかし、持続低音は他の部分にもわりに多いんですよ。第六番にも第八番にもね。それが漠然としたおだやかな気分につながっていると思いますが。第三楽章のトリオでも、ホルンの旋律の下には、わりに長く同じハーモニーがチェロの分散和音でつづきます。
――第二楽章は、アレグレット・スケルツァンドで、いわゆる緩徐楽章じゃありませんね。ベートーヴェンでは、第九番の第二楽章も、やはり、スケルツォで速い楽章でしたね。
これは、モーツァルトの弦楽四重奏曲でも、第二楽章がメヌエットというのがいくつもあるでしょう? メヌエットは一八世紀のはじめにまずフィナーレに入るようになり、次にそのあとで、フィナーレにロンドがくる形になると第三楽章がメヌエットということになり、ついでに第二楽章まで上ってきたりして、さすがに第一楽章にはいかなかったけれど、必ずしも第三楽章に安住しているわけじゃないんです。第八番では第三楽章がメヌエットだけれども、このほうが内容的には緩徐楽章です。ベートーヴェンらしいひねり方ですね。
――この第二楽章でしょう? 例のメトロノームの刻みというのは。
そうです。タッタッタッという歌詞ではじまって、たしか“メルツェル君さようなら”とか何とか言って終えるんです。ところがです、この一八一二年に、メルツェルがシュテッケルのクロノメーターを改良したメトロノームというのは今日のとは全く別物なんです。それをサリエリとベートーヴェンが推奨したことは確かですが。今日のようなメトロノームは一八一五年にアムステルダムのヴィンケルが考えた複振子の装置を、メルツェルがほんのわずか手を加えて特許をとりました。製品としては一八一九年以後らしい。だからメルツェルという人は発明者というより製作者、むしろ商売人というべきじゃないでしょうか。
――ベートーヴェンは、この人に補聴器かなんかを作ってもらったんでしたね。それはそうと、フィナーレのコーダは、かなり大げさなものですね。
私は思い出すのですが、昔、堀内敬三氏が書かれた数々の解説の中でも、この第八番のフィナーレの説明は微に入り細をうがち、しかもたんに文学的じゃなく音楽構造に即していて、何よりもひじょうな名文でしたね。これを読みながら音楽を聴くと、ベートーヴェンがこの解説に合わせて作曲したんじゃないかと思うくらいでした。
●サヴァリッシュ指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団〈93〉(EMI○D)
《プロメテウスの創造物》序曲 作品四三
アダージョ
アレグロ・モルト・エ・コン・ブリオ
コクのある序奏部、対照的にアレグロは軽快な曲想
――ベートーヴェンはバレエ音楽をたくさん書いているんですか。
いや、だいたい一九世紀の初めには、バレエはまだそう盛んじゃありません。バロック時代にはフランスなどに宮廷バレエがあり、そのあと、いまわれわれが見ているようなバレエが盛んになるのは、一九世紀後半から二〇世紀です。この時代にも宮廷の劇場あたりで踊られたのです。これはイタリアのヴィガーノという踊りの名手、作曲家のボッケリーニの甥といわれている人ですけれども、自分も音楽が非常にできる人だったものですから、ウィーンにきてベートーヴェンの評判を聞き、自分が踊るのにぜひベートーヴェンに作曲してもらおうということで、この《プロメテウスの創造物》という曲ができ上がったのです。一八〇〇年から一八〇一年にかけての作品です。
――とすると、交響曲第一番がすでに完成していたわけですね。
ええ。番号からいうと交響曲第二番が作品三六ですが、番号は出版の順ですから第二番の作曲年代は《プロメテウスの創造物》のあとの一八〇一年から二年にかけてになります。さて、この《プロメテウスの創造物》は序曲のあとに全部で一五曲か一六曲、バレエ音楽があるんですけれども、それが全部演奏されるということは滅多にありません。
――この《プロメテウスの創造物》という題材は、いかにも宮廷好みという感じがしますね。バレエは、例の神話で語られるように、ゼウスから火をとり戻してきたという、あの筋が展開するのでしょうか。
どうなんでしょうね。台本は失われたし、バレエのプログラムに入ることはないですね。ともかくこういう序曲は、だいたい交響曲の第一楽章の形式で作られるものなんです。ソナタ形式です。ただ導入部、序奏部がおかれる場合が多いことと、展開部が非常に短いか、またはこの曲のように展開部なしで、提示部の次にすぐ再現部が出てくるという場合も多いんです。けれどもオペラもバレエも、だいたい男女の主役が出てきますから、それにふさわしい第一主題と第二主題が必ずあって、ソナタ形式の提示部の体裁をとるのが普通です。ソナタ形式が得意なベートーヴェンらしい、いつもよく推敲した綿密な仕事です。この《プロメテウスの創造物》の場合でもイントロダクション(序奏部)は、なかなかコクのあるものです。アレグロは対照的に軽快な曲想です。
●ヨッフム指揮 バンベルク交響楽団〈85〉(RCA○D)
《コリオラン》序曲 作品六二
アレグロ・コン・ブリオ(ハ短調 四分の四拍子)
ベートーヴェン好みの題材、ペーソスと生命力にあふれた曲
――コリオランというのは、人の名前でしたね。実在したのですか。
そうです。コリオラーヌスというローマの人です。「古代ローマの半伝説的貴族」とあります。とすると、シェークスピアあたりが彼の人格形成の張本人なのかな。しかし、一応実在人物ということになっています。紀元前六世紀から五世紀初めにかけての人というから、意外に古い時代の人です。
その伝えられるところによれば、どういう人だったかというと、史実とシェークスピアの戯曲『コリオレーナス』とをつきまぜてお話しすると、紀元前四九三年にローマの武将のケイサス・マーシャスは、コライオーライ(コリオリ)という町の敵城を攻め落し、そのためコリオレーナス(コリオラーヌス)という異名を貰ったのです。ところが民心の離反を招くことになります。その理由ははっきりしませんが、一説では飢饉の時に穀物の配給方法がまずかったらしい。そこでかつての敵将と結び、土民を率いてローマに攻め上って、たちまちこれを包囲したのですが、愛する母と妻が特使となって和を乞いに彼の許におもむくので、ついに彼も折れて、ローマ征服を中止します。
そして、シェークスピアでは、かつての敵将、今は味方のはずの男の奸計で虐殺されるのですが、一説には、土民の間で一生を送ったことになっています。自殺という結末に持っていった戯曲もあるようです。
――そうすると、不安な落着かない感じの第一主題が、そのコリオランで、やさしい感情をこめた第二主題は、彼の母親と妻の母性愛というわけですね。
そう、しかも第一主題はmotorischな感じで、コリオランがひじょうに行動的な人物であることをもあらわしているし、第二主題は背後のチェロの分散和音で第一主題と内容的に結びついていますが、これは彼女らの焦慮や、また彼女らがコリオランの身内であることをあらわしている、と言えるでしょう。
――ベートーヴェンは、よくよく、こういう人物や題材が好きだったと見えますね。
まあそうです。《フィデリオ》にしても倫理的に筋の通った物語です。《エグモント》がやはりそうですか……。逆に言えば、だからベートーヴェンはオペラで成功しなかったんです。《フィデリオ》はオペラとしては、やはり特殊ですもの。崩れた美しさというものが大ていのオペラにはあるのだけれど、それがありません。すばらしいが、何か物足りない、ということになります。一般の観客にとってはね。
――道徳劇ですね。ところでこういう話は、当時、よく読まれていたんでしょうか。
結局これはいわゆる『プルターク英雄伝』が出典です。この本は一六世紀以来ヨーロッパでは盛んに読まれたそうですが、ことに一八世紀には爆発的に流行した、と言われています。ベートーヴェンは、ある文献によると、「これを聖書のように読んでいた」のだそうです。シラーの愛読書でもあったようです。シェークスピアの戯曲や、ベートーヴェンの曲と関係のあるハインリヒ・ヨーゼフ・コリンの戯曲以外にも、『プルターク英雄伝』を出典とする近代の文学は無数にあるでしょう。
――ベートーヴェンは、そのコリンらの戯曲に忠実な作曲をしたんですか。
これは少し変な話になるのですが、コリンの戯曲のウィーン初演は一八〇二年で、ベートーヴェンの《コリオラン》序曲の作曲は明らかに一八〇七年ですから、少なくとも戯曲の初演のための作曲ではないし、しかも、劇と一緒に演奏されたことは一度もないようです。序曲以外、劇中の場面に付随する曲は書かれていません。《エグモント》はご承知のようにいくつかの場面に作曲されています。
――それじゃ、コリンの戯曲のための作曲かどうかも疑わしいんじゃありませんか。
初演も一八〇七年三月にロブコヴィッツ公邸または同年一二月のウィーン愛好家演奏会とされているし、草稿の表紙からは「悲劇コリオランのための」という題字がベートーヴェンの手で抹消されているのです。それは、コリンがベートーヴェンの再三の求めにもかかわらず、彼のための第二番目のオペラ台本を書いてくれなかったので、ベートーヴェンがついに怒ったためかもしれない、とされています。そうとすれば、そもそもこの作品の成立はコリンの気を引くためだったとも考えられます。
――いずれにせよ、これは演奏会用序曲ですね。これが作曲されたのが一八〇七年の早春だとすると、交響曲第五番と同じ頃でしょう。ハ短調というのも共通していますね。
ベートーヴェンとハ短調は若い頃から縁が深いです。作品一―三のピアノ三重奏曲第三番、作品九―三の弦楽三重奏曲、作品一三のピアノ・ソナタ第八番《悲愴》、作品一八―四の弦楽四重奏曲第四番、作品三〇―二のヴァイオリン・ソナタ、作品三七のピアノ協奏曲第三番、作品六七の交響曲第五番、そしてこの《コリオラン》序曲。まだあったかしら……、みんな共通のペーソスが感じられます。それと、ペーソスと共に、何かそれを巻き込んでしゃにむに前進していく生命力というか、motorischなものがどれにもあります。
――そして、この生命力みたいなものが、大きな説得力を生むんでしょうね。結局、ベートーヴェンという人は、劇音楽の作曲家としてどうだったんでしょうか。
ベートーヴェン自身がどう思っていたにせよ、彼の音楽は歌詞とか、戯曲とか、バレエの動きとかに伴って、音楽も一緒にやるというものじゃなく、あくまでそれ自身で立っているような性質のものです。だから歌詞のある曲種で成功したのは、何といっても〈ミサ〉でしょう。あれは歌詞というより一種のイデーだし、古来あらゆる仕方で音楽とかたく結合してきたイデーです。
●ベーム指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団〈58〉(グラモフォン)
序曲《レオノーレ》第三番 ハ長調 作品七二a
アダージョ
アレグロ
プレスト
交響詩としても通用する堂々とした峻厳な曲
――《レオノーレ》の第三番が、ベートーヴェンの唯一のオペラ作品《フィデリオ》のために書かれたものだということは、知っているんですが……。
ところが序曲が四つあって、どういう機会にどういう順序で書かれたかは、まず正確には誰も分かりません。なんでも、オペラ自体の評判がよくなかったので、何回も修正したのです。それはまあ、ありがちのことです。
――そのつど、序曲を改作するほど、序曲は、そんなに重要でしょうか。
ベートーヴェンの場合、あまり長すぎて堂々としすぎると、本体が喰われてしまいます。この序曲《レオノーレ》第三番なんかまさにそうじゃないかしら。お客さんの耳に序曲の強烈な印象が焼きつきすぎて、はじめのうちの舞台の印象が薄れるおそれが充分あります。その点、八年あとに書き直された現行の《フィデリオ》序曲のほうがあっさりしていて、そういう心配はないでしょう。
――でも、序曲の改作が、オペラ自体の評判を急に変えるとも思えませんが。
そりゃまあ、そうですが。しかし、現在序曲しか残っていないオペラというものは、山ほどあるんです。
――オペラの初演はいつですか。
ええと、一八〇五年一一月二〇日です。これがオペラの第一版で、三幕に分かれていました。場所は、ナポレオン軍が突入して一週間目のウィーンです。ベートーヴェンが指揮しています。
――その初演のときの序曲は《レオノーレ》第一番が使われたのですね。
ところが、そうじゃなくておそらく《レオノーレ》第二番と呼ばれている曲だったのです。第一番については、昔からシントラーとノッテボームの見解がたがいに相違しているのですが、結局、第一番はオペラと共に最初に作曲されたものの、ベートーヴェンにはそれが不満足に思えたため、初演の時はその直前に完成した第二番が使われた、というのが妥当な考え方なんでしょう。第一番は死後再発見されて、作品一三八という最後の番号がつけられたのです。パトロンの所で試演した結果、引っこめたという説もありますが……。
――それから第三番、次いで現在の《フィデリオ》序曲ですね。
一八〇六年三月二九日に行われた第二版――これは二幕に改作された版ですが、その初演の時に使われた序曲が第三番で、これはまあ第二番の改作版です。そして一八一四年五月二三日にオペラの第三版が初演されたのですが、その時には新作の序曲が間に合わなくて《アテネの廃墟》の序曲で間に合わせ、三日あとの二六日にやっと現在の《フィデリオ》序曲が初演されたというんです。
――うーん、一度聴いただけでは、わからないほど入り組んでいますね。それはそうと《レオノーレ》序曲は三曲ともほとんど同じ長さで、《フィデリオ》序曲だけがずいぶん短くなってますよね。約半分じゃないかしら。
だから、さっき言ったように、四度目の正直でベートーヴェンはやっとオペラの序曲の程よい長さ、というものがわかったのでしょう。もっともワーグナーは長いほうを手本にしたのかもしれませんけど。
――調性も《レオノーレ》は三曲ともハ長調、《フィデリオ》は、たしかちがいましたよね。
ええ、オペラの第一版と第二版では、最初にマルツェリーネのハ長調のアリアがくるのに、第三版ではマルツェリーネとヤキーノのイ長調の二重唱がくるのです。つまり、だいたい第三版では以前の第一曲と第二曲が入れ替っているので、現行の第三版ではイ長調のドミナントのホ長調の《フィデリオ》序曲でないと困るわけです。
――ところで、こうした〈序曲〉は、いつ頃から使われるようになったんですか。
いわゆる「前弾き」の歴史はきわめて古くて、楽器の成立と共に、じゃないんですか。歌の始まる前、あるいは楽器でもなんかメロディーをやる前にボロンボロンとやる「前弾き」です。だからオペラの「前弾き」だって、オペラの発生と共に始まりました。モンテヴェルディの《オルフェオ》ではトッカータとなっています。それからはシンフォニアという場合が多いです。オーヴァチュアはそのあとで、ワーグナーはフォアシュピールとかアインライトゥングを使いました。
――この序曲《レオノーレ》などは、じつに堂々としていて交響詩《レオノーレ》といってもちっともおかしくないんじゃありませんか。
そうですね。まあ第二番のほうがもっと交響詩らしいと言えるかもしれません。第三番は筋を追いながらも、がっちりソナタ形式をとっていますから。しかし、全体が峻厳な感じで《フィデリオ》という倫理的な勧善懲悪劇の気分をよく伝えている点でも、交響詩ふうといえます。
――とにかく、ゆるやかな序奏があって、アレグロの主部がきて、最後が壮大なコーダ、大体こういう形ですね。ベートーヴェンの〈序曲〉は。
そうですね。《プロメテウスの創造物》《エグモント》それに《シュテファン王》や《献堂式》もだいたいそうでした。
――こうした〈序曲〉における、ベートーヴェンの先覚者は。
ケルビーニなどはどうでしょう。サリエリからも劇音楽の作曲法を学んでいるはずです。
●ベーム指揮 ドレスデン国立管弦楽団〈69〉(グラモフォン)
《エグモント》への音楽 作品八四
序曲
太鼓は響く
幕間の音楽I
幕間の音楽II
喜びに満ち、悲しみに満ち
幕間の音楽III
クレールヒェンの死を表す音楽
メロドラマ
勝利の交響曲
音楽様式で描き分けたスペインとオランダの対立劇
――この曲には語りが入っていますが、こうした試みは、古くからあるのですか。
キンスキーのベートーヴェン・カタログには、一八二一年以来出現した第二の別冊ということで、フリードリヒ・モーゼンガイルという人の書いた朗読の付録、四折本六ページというのがあがっているから、これがもとになっているのでしょう。ライプツィヒでの演奏会用に作られたものらしい。しかし、ベートーヴェン自身はこういうものの存在を知っていたのかどうか。つまりこれは、演奏会向きの筋書きの概説です。
――とにかく、ベートーヴェンの残した劇音楽の中では、かなり知られた作品ですが、序曲を除いては、それほど聴く機会もありませんし。ソプラノの二つの歌は、たまに演奏されますが、それ以外はなかなか聴けません。全部で何曲あるのですか。
序曲のほかに九曲です。そのうち有名なソプラノ・ソロのDie Trommel ger殄ret(「太鼓は響く」)が第一曲、つまり序曲のすぐあと、もう一つのFreudvoll und leidvoll(「喜びに満ち、悲しみに満ち」)が第四曲です。
――それで、この音楽はゲーテの芝居が上演されたときに、実際に使われたんでしょうね。
そうですが、しかし、そもそも芝居の初演の時ではないのです。ウィーンのブルク劇場での初の上演用にベートーヴェンが頼まれたのです。一〇年ほど前にベルリンでやった時は、ベルリンの作曲家のライヒャルトが音楽をつけたのですが、それをそのままウィーンに持ってきたのでは、ウィーンの聴衆は承知しないから、どうしてもこれはベートーヴェンの手を煩わす必要があった、ということでしょう。
何しろ原作はベートーヴェンが尊敬していたゲーテなんだから。いろいろそれについても言い伝えがあります。「エグモントを書いたのは、ただこの詩人の作が好きだからだ」とベッティーナ・フォン・アルニムへの手紙に書かれているそうですし……。歌手のアントニー・アダムベルガーの所へわざわざ出掛けていって、声を試聴してから書きはじめたというから、乗り気といえばいえるでしょう。その一方、ゲーテは、その音楽をどう思ったかといえば、それはどうでしょうか。だいたい、ゲーテはモーツァルトやメンデルスゾーンみたいな音楽が好きだったのでしょう?
――そうでしたね。少年メンデルスゾーンを、ずいぶん目にかけて、可愛がったと聞いています。で、話はまた戻りますが。歌を歌うのはクレールヒェンだけですか。
そうです。しかし、第八曲はエグモント伯爵のメロドラマになっています。つまり、本来の戯曲を中心に考えるならば、その部分の音楽は「エグモント」のせりふと入り組んだ作りになっているわけです。音楽についてはすべてゲーテの指定通りなんですから。
アントニー・アダムベルガーはさっき歌手といいましたが、じつは女優なんです。だからベートーヴェンは心配で聴きにいったのでしょうね。はたしてどのくらい歌えるかと。
しかし、このアダムベルガーの親父さんはモーツァルトと親交のあった当代随一のテノール歌手、ヴァレンティン・アダムベルガーです。イタリア名前じゃアダモンティっていったのです。《後宮からの誘拐》のベルモンテや演奏会用アリアを、モーツァルトはこのテノールのためにたくさん書いています。そういう歌手の娘だから、ふつうの女優よりずっとよく歌えたであろうことは想像できます。
そりゃ、こういうことを言っては失礼だけれど、日本の新劇の女優さんにこのクレールヒェンの歌を歌わせることはまったく不可能だし、ドイツの女優だって、誰にでもできる、というわけにはいきますまい。その点で役はきまってしまうでしょうね。これができる女優は少ないでしょう。蔭で専門の歌手に歌わせるとかテープで流すなら別ですが。
――そのほか、《エグモント》序曲についてなにかありませんか。おもしろい話は?
《エグモント》序曲でおもしろいと思うことは、普通あまり指摘されないことだと思うんですけど、劇の内容をなすスペインとオランダの対立を、ベートーヴェンは音楽で描いていることです。つまり、はじめの弦の重々しいモチーフはスペインのサラバンド舞曲のリズムだし、すぐつづく弱々しい木管のポリフォニーはネーデルランド楽派のスタイルをまねていて、どっちも物語の起こった一六世紀の音楽の様式です。
ベートーヴェンにしては、こういう形の描写は珍しいです。まあ、この作品は交響曲第六番(《田園》)と第七番の中間の時期だから、第六番での描写音楽的な感じが尾をひいているのかもしれません。もっとも《ウエリントンの勝利》が、このやり方をもっと大がかりにしたものです。だから、そのサラバンドのリズムがアレグロの第二主題になって出てくる所で、ハンス・フォン・ビューローか誰かが、ひどくゆっくりアンダンテみたいに重々しく演奏したことを、たしかヴァインガルトナーが、いかにもロマン主義時代のまちがった演奏法の典型みたいに非難しています。
しかし、ベートーヴェンはこれをサラバンドのつもりで、スペインのフェリペ二世の圧政の象徴のつもりでもってきたんだから、何もアレグロのテンポを少しも崩さずに第二主題を演奏すべきだ、とは思えません。そこをペザンテの感じに演奏することはむしろ作曲者の意図に沿うことかもしれません。とにかく、見かけ上での楽譜に忠実主義がいいか、内容に忠実がいいか、当時の楽器の用法に忠実がいいか、これは一概に言えません。
ベートーヴェンのようにみんなが知りつくしている音楽は、だんだんに指揮者の個性や楽団の特性を発揮させる媒体の役を果たすようになるのではないかしら。とにかく、全人格的な音楽で、あらゆる面のある音楽だから、ベートーヴェンとの対決は音楽家にとって大へんなことです。人間性のある一面だけが出ている、という音楽ではないから。
●アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ステューダー(S)〈91〉(グラモフォン○D)
ピアノ協奏曲 第四番 ト長調 作品五八
アレグロ・モデラート
アンダンテ・コン・モート
ロンド、ヴィヴァーチェ
ピアノのソロから始まる個性的な協奏曲
――これはピアノのソロから始まる協奏曲ですね。
バロック時代から、ソロで始まる協奏曲はぼつぼつあります。ヴィヴァルディの四つのヴァイオリンと弦楽の協奏曲(ロ短調)、従ってバッハの四台のハープシコードのための協奏曲(イ短調)がほとんどそう言えるし、モーツァルトのK二七一のピアノ協奏曲第九番《ジュノム》(変ホ長調)がちょっと似ているでしょう。しかし、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番のやり方は、たしかにひじょうに個性的です。
――ピアノ協奏曲というのは、モーツァルトによってまず偉大な高峰が築かれたと理解していますが。
それは、議論の余地はないでしょう。形式的にはクリスティアン・バッハと甲乙ないけど、モーツァルトは器量が断然ちがいます。そこにベートーヴェンが登場するわけです。まあ、他にもたくさんいるでしょうが、高い峰だけに限ればベートーヴェンの登場といってよいでしょう。
――そして、モーツァルトとベートーヴェンの気質のちがいが、やはり作品の性格自体を、かなりちがったものにしていると考えてかまいませんか。
その上に時代のちがいや楽器の構造上の進歩も見逃せません。何といったって、この第四番はモーツァルトの最後のピアノ協奏曲から一四〜一五年もたっているのですから。そういえば、ちょうど二人の年のちがいがそのくらいです。
――ベートーヴェンは、自身たいへんな技巧をもったピアニストであり、即興演奏の才にかけては容易に並ぶものもなかったと聞いていますが。それが作品にも反映して……。
そこはむずかしい所です。つまりベートーヴェン個人の天才もさることながら、当時は古典派の作曲技法、和声理論が完成した時期で、ピアノという楽器も奏法も、それに即した音楽語法の担い手として一応完成の域に達した時期で、つまり即興を裏づけるいろいろな約束が成立ち、環境が整備されてきた時代とみることができます。形式と内容のバランスのとれてきた時代ですから。
――ベートーヴェンは、いわゆるヴィルトゥオーゾの華麗さだけを追求しなかった?
そういうものは、一九世紀中葉以後のロマン派主義の浸透してきた時代、つまり古典派の音楽語法が崩れつつある間隙に、しのび込んだものですからね。逆に言えば、そういう要求が古典の語法を乱したとも言えましょうが、ともかくベートーヴェンの時代にはまだその兆しは見られませんでした。あえて言えば、そういう夾雑物に毒されなかったんです。
――なるほど、それに一八世紀と一九世紀のちがいもあることでしょうね。
その通りですが、しかし、ある時代様式の終りに、無内容の華麗さが目立ってくるということは、どんな時代のどんな芸術にもあることです。
――話は変りますが、モーツァルトが、ずいぶんあとの時期まで協奏曲を作曲しているのに、ベートーヴェンは《皇帝》を書いて、それでおしまいにしたのですね。
ええと、ニ長調の第六番がかなり進んでたんじゃないですか。一八一四年から一五年かその頃でした。たしか属啓成(さつかけいせい)さんの本に各楽章のテーマも出ていたけれど、魅力あるテーマじゃないようです。ある程度オーケストレーションもできていたようです。そういうのばかり演奏してみたらおもしろいでしょうね。シューベルトの《未完成》の第三楽章とか。
――幻のコンサートですか。それで、未完成ということは協奏曲に興味を失ってしまったということですかねえ。
何ともいえないですが、まあ一八一四か一五年つまり作品一〇〇番前後からベートーヴェンは、いわゆる後期の地味な内面的な音楽になっていくから、ピアノ協奏曲というスタイルは不似合になったとも考えられます。
――この協奏曲第四番は、たしか交響曲第五番や第六番などといっしょに初演されたんでしたね。
そうでした。一八〇八年一二月二二日だそうです。ウィーンのテアター・アン・デア・ヴィーン。ベートーヴェンの中期の一つのハイライトです。全曲初演で第五番と第六番の番号が入れ替りになっていた、という時です。他にも《合唱幻想曲》やハ長調の《ミサ》の一部をやったらしいです。
――長時間の演奏会ですね。しかし、初演は失敗で、その後しばらく演奏される機会を失ったそうですね。
ベートーヴェン自身が初演したあと、再演は彼の死後の一八三〇年のことですから二〇年以上まったくやられなかったわけです。しかし、そんなことを言えばピアノ協奏曲第五番、つまり《皇帝》だって、ライプツィヒとウィーンで一度ずつ演奏されたきり、彼の生前にはやられていません。やはりシェーンベルクやバルトークばかりじゃないですよ。骨のある、個性の強い、辛い音楽はそんなにパッと広まるものじゃありません。
この曲はスケールを奏く所が多くてちょっと弦楽器的です。私は以前から、この楽想でベートーヴェンはチェロ協奏曲を作ればよかったのになあ、と思うんです。ト長調ならチェロはよく鳴るし。しかし、こんなことを言ったらピアニストにおこられます。
――この協奏曲第四番は、どこをとっても素晴しいですが、第二楽章から終楽章にきれ目なく続く、あのあたりが実になんともいえない。
ピアノがフィナーレのテーマを奏く時に、オーケストラはチェロのトップが一人で低音を奏くでしょ。なにか〈サンフォニー・コンセルタント〉以来の伝統を感じますね。
●ハイティンク指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ブレンデル(P)〈76〉(フィリップス)
ウェーバー
Carl Maria von Weber
(ドイツ)
1786〜1826
歌劇《オベロン》序曲
アダージョ・ソステヌート
アレグロ・コン・フオーコ
ウェーバー最後の作品、ロンドンで自身の指揮で初演
――ウェーバーの名前にvonがつくからには、貴族の生まれなんでしょうか。
大した貴族じゃないはずです。『グローヴ』や『MGG』の辞典をみても、父親にはvonがついているけど、その前二代ほどにはついていません。しかし、先祖にヨハン・バプティスト・フォン・ウェーバーという人物がいて、これが一六二二年に神聖ローマ皇帝フェルディナント二世から男爵を貰っているんですが、この人物からどうつながるのか、そしてウェーバーの親父さんのフランツ・アントンが、どうしてフォンを名乗り得たのかはちょっと分かりません。何となくvonがあったほうがカッコいいということじゃないですか?
――なんでもウェーバーは父親の一座にくっついて、地方まわりをさせられたのでしたね。
そう、ウェーバーが生まれてからは数年間にウィーン、カッセル、マイニンゲン、ニュルンベルク、エアランゲン、アウグスブルクと廻って歩いたというんです。これはちょっと生まれつき体が弱かったウェーバーにはこたえたでしょう。そんな状態で、まともな教育も、やっと九つの時に、マイニンゲンに近いテューリンゲンのヒルトブルクハウゼンという、まったくの田舎町で先生につけたのです。そのあとザルツブルクでミヒャエル・ハイドン、ウィーンとダルムシュタットでアベ・フォークラーといった有名人について学んでいます。その前にミュンヘンでも先生についたとか。
――ところで、ウェーバーの作品といえば、なんといっても《魔弾の射手》が、筆頭にあげられて然るべきでしょうね。彼が、そうした、ドイツの国民的な、しかもロマンティックなオペラを書こうとしたのは、何か特別な動機でもあってのことでしょうか。
その親父さんの一座というのが、芝居の一座なので、幼い時から舞台で話されるドイツ民話に親しんでいたわけです、ウェーバーは。また、ドイツのオペラ界が永年のイタリア・オペラ一辺倒からようやく脱してきて、モーツァルトの《後宮からの誘拐》や《魔笛》なんかが世に出て、その他いろいろジングシュピール系統のドイツ・オペラが出ていた時期ですから、そういった時の流れに沿ってもいたわけです。
――よく、ウェーバーは、ワーグナーへの道を開いた、といわれますが……。
そうですが、ベートーヴェンの《フィデリオ》やマルシュナー、ロルツィング、マイアベーアなどもそれぞれワーグナーの先駆です。ウェーバー一人じゃありません。ただ、《魔弾の射手》や《オベロン》の題材や、すでに《プレチオーザ》あたりでライトモチーフらしいものを使っている点でワーグナーとウェーバーとの縁は深いと言えます。
――《オベロン》は、ウェーバーが、いつ頃書いたオペラですか。
《魔弾の射手》が一八二一年、つまり三五歳の作ですが、その二年あとに《オイリアンテ》、さらに三年あとに《オベロン》が完成します。これはロンドンのコヴェント・ガーデン・シアターで、ウェーバー自身の指揮で初演されたのが一八二六年四月一二日だそうですが、彼は肺結核で、のども冒されていたのに無理を承知で出かけて行ったのです。それでロンドンで病状が悪化して、六月のはじめにロンドンで客死したのです。四〇歳ですか。だからちょうど《オベロン》は彼の命取りになった最後の作品というわけです。
――オベロンというのは、たしか妖精の国の、王様の名前でしたね。
そう、シェークスピアの『夏の夜の夢』やチョーサー、スペンサーといったイギリスの作家のものによく出てきますが、元来はフランスの中世のシャンソン・ド・ジェストからきているし、その祖先は、ゲルマンのニーベルンゲン伝説のアルベリヒが原型らしいです。ワーグナーの楽劇《ラインの黄金》に出てくる小人族の親玉でラインの黄金を盗む奴です。それがAlberich→Alberon→Auberon→Oberonと変化していったのです。だからこの題材もワーグナーとおおいにつながりがありますよ。
――私は、この〈序曲〉と、〈海よ、巨大な怪物よ〉という、堂々たるアリアぐらいしか、聴いたことがありませんが。
オペラとしては不成功なのでほとんどやりませんね。ただロンドンでの初演の時は大喝采だったそうです。しかし、初演の喝采と作品の真価とは無関係ですよ。
――ところで、話はちがいますが、モーツァルトの奥さんだった、コンスタンツェ・ウェーバーというのは、この作曲家のウェーバーと、関係があるのでしたね。
いとこです。ウェーバーの親父さんの一つ年上の兄さんに、女ばかり四人の子供があって、モーツァルトはマンハイムで二番目のアロイジアを見染めたのだけれど、結局妻としては三番目のコンスタンツェが本命になったわけです。だからウェーバーとモーツァルトはずいぶん近い親類ですよ。
●カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団〈71・72〉(グラモフォン)
クラリネット協奏曲 第二番 変ホ長調 作品七四
アレグロ
アンダンテ・コン・モート
アラ・ポラッカ
時代の流行だったオペラティックな雰囲気
――これは、変ホ長調ですね。
そうです。クラリネットは、ヴィヴァルディの時代にはキーが二つしかなくてh(ハ音)さえ出せなかったから、せいぜいF dur(ヘ長調)くらいしか使えなかったんですが。
――ウェーバーには、クラリネットの作品が多いですね。たぶん、好きだったんでしょうね。それとも、とびきり上手い奏者がいたか。
両方か、むしろあとのほうでしょう。ベールマンというミュンヘンの奏者と友達だったからでしょう。一九世紀末のベールマン式のクラリネットというのがあるけれど、その人の親父さんかしらね。よく分かりませんが。
――アントン・シュタットラー級の名手ですか。
モーツァルトの友人のシュタットラーね。しかし、ハインリヒ・ベールマンのほうが時代が降っているだけ条件は有利です。彼は一八〇三年には一二鍵の楽器を、一八〇九年にはベルリン製の新式の一〇鍵の楽器を持っていたそうです。一八〇七年には一三鍵という楽器も出現しているのです。ともかく一九世紀初頭に、ひじょうな速度でクラリネットは発達したようです。それでこのハインリヒ・ベールマンという人は一七八四年ポツダムの生まれ、はじめ軍楽隊にいて、ベルリンの近衛連隊で一七九八年から一八〇六年まで吹いていたようです。つまり一四歳から二二歳までです。一八〇七年ミュンヘンに移って宮廷音楽家となり、一八一一年ウェーバーに会い、ウェーバーは多くの作品を彼のために書き、また一緒に演奏旅行もしたり、メンデルスゾーンやマイアベーアとも知り合いだったようです。
――モーツァルトは、A管(イ管)でしょう。ウェーバーはB管(変ロ管)。やはり、感じがちがうように思いますね。
A管は三鍵の時代からあったそうですが、しかし、クラリネットと言えばB管が標準ですね、昔はことに。
――ところでクラリネットという名は、クラリーノからきているんですってね。
一八世紀に、いわゆるクラリーノ、つまりバッハのブランデンブルク協奏曲二番などで使う高音のトランペットですね、あの技術がだんだん失われ、その代用にはじめこの新興楽器が使われました。それでクラリーノの縮小形のクラリネットという名を貰ったらしいです。
クラリネットは、だいたい一七〇〇年から一七一〇年までの間に出現したようです。原型となる民族楽器はもちろん古くからあったでしょうが。これはリコーダーみたいな七穴の楽器でキーは二つついていました。ヴィヴァルディやヘンデルが使ったのはその頃のものですよ。D(ニ)管、C(ハ)管、B管などが使われたようです。一八世紀の間に、だんだん広まり、そして一九世紀に入るとパッと一般化したんじゃないですか。
――この曲は、オペラティックな雰囲気の濃厚な作品と記憶していますが。
私はこのウェーバーのオペラティックな協奏曲が、作風としてはこの時代の一つの流行だと思うのです。シュポアの《劇唱の形式で》という副題のあるヴァイオリン協奏曲第八番やベルリーニのオーボエ協奏曲、ドニゼッティのイングリッシュ・ホルンの小協奏曲など、標題音楽やオペラが盛んになろうとする時代の雰囲気をよく表わしています。
●C・デイヴィス指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、オッテンザマー(Cl)〈92〉(フィリップス○D)
ロッシーニ
Gioacchino Rossini
(イタリア)
1792〜1868
歌劇《シンデレラ》序曲
マエストーソ(変ホ長調 四分の四拍子)
本領を発揮したブッフォ・オペラ
――ロッシーニという作曲家は、たいへんな怠けものだった、と聞いておりますが。
とにかく大へんな変り者です。三七歳までに三八曲のオペラを作曲して、名声がヨーロッパじゅうに鳴りひびいていたというのに、ぷっつりと作曲の筆を折ってしまって、以後死ぬまでの四〇年間、ほとんど何もしないで、猫を相手に、遊んで暮したというのですから、これはただの怠け者というのとちょっとちがうんじゃないか、と思うのです。
《セビリアの理髪師》の成功が二四歳の時で、これは彼の一六番目のオペラに当たるわけですけれど、最後の《ウィリアム・テル》だって大評判の成功作だったのです。それなのにどうしてとつぜんにオペラを作曲しなくなったかですね。その後も《スタバト・マーテル》や《ミサ・ソレムニス》を作曲はしているから、創作力がおとろえたとは考えられません。みずから期する所があってオペラの作曲をやめてしまったみたいに思えるのです。
――インスピレーションが枯渇しちゃったとか? ずいぶん早熟だったそうですからね。まあ、それにしても、不思議なことですね。
よくこれはロッシーニの謎と言われるんです。まあ強いて考えれば、ロッシーニはまったく職人肌の天才でした。あの古典的な、じつに整った弦楽四重奏曲がわずか一六歳の作ですから、まさにモーツァルト、シューベルトと肩をならべる早熟の天才です。しかし、彼の本領であるブッフォ・オペラのスタイルは、いわば完全に一八世紀中葉頃のスタイルでした。
しかし、当時は、すでに一九世紀の三〇年代に近いから、とうとうたるロマン主義の波が押しよせていて、もちろんまだヴェルディやワーグナーこそ出ていないけれど、ベルリーニ、マイアベーアなどがオペラ界に新風を送りつつありました。そこでロッシーニは自分の限界というか本質というか、それをよく知っていて、時代の動きとのギャップを痛烈に感じて、もう作曲するのがバカらしくなってしまったのじゃないでしょうか。だから、彼の職人気質、天才肌というものが作曲をつづけることを許さなかったんじゃないかしら。
――でも時代遅れになったのを意識したのなら、なぜ克服しなかったのでしょうか。
そうね。もう一発奮励努力して、新しい時代様式を自分のものにしようという気はなかったのだから、やっぱり怠け者だったということになりますかねえ?
――ロッシーニの活躍の、おもな舞台は、どこだったんでしょうか。
彼は、わりにあちこちと渡り歩いている傾向があります。はじめはボローニャ、ヴェネツィア、ミラノなど北イタリアでおもにやっていて、しかし、二つほど不評判の作品が出るとすぐナポリの劇場に活動の場所をかえ、しばらくナポリとローマで上演するうち、またヴェネツィアで失敗すると今度はロンドンに移り、ここははじめからうまくいかなくて、すぐパリへ行き、ここで最後のいくつかのオペラを作曲上演するという具合で、いわば、わりに移り気です。成功するまで一つ所でねばるということがありません。
いかにも彼の音楽もそんなふうです。ワーグナーみたいにあくまでねばり抜くのと対照的です。しかし、最後のパリは気に入ったとみえて、ずっと動きませんでした……。
――ところで《シンデレラ》といえば……。
ペローの童話からリブレットを作ったものらしいです。メLa Cenerentolaモというイタリア語も、メCinderellaモという英語もひびきは美しいけれど、意味は「灰だらけのお嬢さん」というわけだから、下手に日本語に直さないほうがいいです。このオペラは滅多にやらないでしょうが、きっと楽しいものでしょう。子供が見たらきっと喜ぶでしょう。
――そうでしょうね。私も、レコードで聴いただけですよ、全曲は。でも、この序曲だけは、割合よく演奏されますね。オリジナルの標題は、Sinfoniaでしょう?
バロック以来、オペラやオラトリオの前奏、間奏などをひろくSinfoniaと呼んでいたのです。逆にハイドンの交響曲などはイギリスでGrand Ouvertureという題で初演されています。この二つの名称はバロックから古典派にかけて混同していたみたいです。
――話は違いますが、彼は、たいへんな食通だったそうですね。ある本を読んでいたら書いてありましたよ。ランプスティーク・ア・ラ・ロッシーニという料理があるんですって。
シャリアピン・ステーキは知ってるけど、ロッシーニ風ってのはどういうのでしょう。
●アバド指揮 ヨーロッパ室内管弦楽団〈89〉(グラモフォン○D)
歌劇《ウィリアム・テル》序曲
アンダンテ(夜明け)
アレグロ(嵐)
アンダンテ(静けさ)
アレグロ・ヴィヴァーチェ(スイス軍隊の行進曲)
パリでうまれた交響詩ふうの序曲、珍しい五人の独奏チェロのアンサンブル
――くりかえしますが、ロッシーニは三七歳で筆を折ってしまって、あとは怠けていた。
そう、かなり長生きだったんですが、後半生の四〇年ちかい間はパリで結構な生活をしていたんです。ロッシーニは《セビリアの理髪師》にしろ《ウィリアム・テル》にしろ、非常に気さくな、分かりやすい作風の作曲家です。この人はバロックと古典派のあいだぐらいの作風で、パイジェッロなどにつながっていると思うんですが、彼の三七歳頃は、もはやロマン派でしょう。ですから自分の個性と時代様式の、ことにオペラ界の最新の動向とのあいだに、ひじょうなギャップを感じたと思うんです。それから前半生の成功作で十分暮していけるということもあって、そのへんはイタリア人らしい呑気さだと思うんです。オペラはそれまでたくさん書いていたし、《セビリアの理髪師》一つだけでも大きな成功です。
――この《ウィリアム・テル》というのは最後のオペラですか。
そうです。オペラとしてはあまり成功作ではなかったんです。もしロッシーニがほんとうに一生のあいだ努力すれば、ヴェルディのたいへんなライヴァルになったでしょう。しかもベルリーニのような天才が早死にしているので、ほとんどヴェルディ一人の天下になってしまったんです。ロッシーニはオペラを止めてしまっても、交響曲とか室内楽をせめて書いていたら、一九世紀のイタリア音楽は、ひじょうに実り豊かになったと思うので、惜しい気がします。
そしてこのオペラが初演されたのがパリのオペラ座、一八二九年で、ロンドン初演が一八三九年ですね。この筋は、子供の絵本にもよく出てきます。シラーの作品で息子の頭の上のリンゴを射落とすというスイスの物語ですけれども、オーストリア帝の悪代官をやっつけて自由を獲得するという、シラーらしい歴史的な劇的な筋です。
この序曲は、四つの部分をもっていますから、ちょうど交響詩が生まれようとするこの時代によく合った、いかにもパリで生まれた交響詩ふうの序曲の音楽というわけです。しかし、この曲の開始部の五人の独奏チェロのアンサンブルというのは珍しい書法です。アマチュア・オーケストラが取り上げると、もめ事の原因になる、とよく言ったものですよ。
●ムーティ指揮 フィルハーモニア管弦楽団〈78・79〉(エンジェル)
シューベルト
Franz Schubert
(オーストリア)
1797〜1828
交響曲 第三番 ニ長調 D二〇〇
アダージョ・マエストーソ―アレグロ・コン・ブリオ
アレグレット
メヌエット、ヴィヴァーチェ
プレスト・ヴィヴァーチェ
シューベルト一八歳の作品
――シューベルトという人は、いったい交響曲を何曲作曲したんですか。
これは幾通りにも答えられる質問なのです。つまり「作曲した」と過去完了形であらわす場合、二つの《未完成》を入れるべきかどうかによります。まあ、それはともかくとして、アインシュタインの見解に従うなら、二つのほんのフラグメントだけのものを除いて、一〇曲の交響曲を数えることが可能なんです。
第六番までは通称のとおり、そして第七番目にはふつうやらない未完成のホ長調の曲がきて、第八番は現行の二楽章だけの《未完成》。そして第九番目に紛失した《グムンデン・ガシュタイン交響曲》という一八二五年の作品、そして最後の第一〇番目に例の〈大ハ長調〉つまり昔の第七番、今の通称第九番がくるのです。第一番は一六歳の一八一三年作です。もし《グムンデン・ガシュタイン交響曲》が今後発見されれば大したことなんですが……。しかし、そうなると第九番は第一〇番ともう一度改名しなければなりません。
――第一番が一六歳ね! それじゃ、《魔王》より前ですね。でも《魔王》が作品一でしょう?
そう、《魔王》ができたのはずっとあとで一八一五年の晩秋だから、交響曲なら第三番よりもあとになります。いったいシューベルトの作品番号というのは出版番号なのでね。だいたい彼の葬式の日に出版されたのが作品一〇五の歌曲集だから、それ以後の作品一〇六から一七三までは全部遺作、いわゆるOp.posthumusに当るし、作品一〇五以前だって作曲年代と作品番号とが並行しているという保証は全くありません。エーリヒ・ドイッチュのいわゆるD番号――D九九八までありますが、これは厳密な考証による年代順です。それによると交響曲第一番はD八二、第三番はD二〇〇で《魔王》はD三二八です。
――シューベルトの第六番までの交響曲については、第五番を除いて、ほとんど聴いたことがないのですが、ただ、印象としては、ハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェンの第七番のあとで書かれたにしては、やや時代的に逆行しているんじゃないかと……。
書かれた当時の年齢のことを考えないと。つまり第一番一六歳、第二番と第三番一八歳、第四番〈悲劇的〉と第五番一九歳、第六番二〇歳ですから、何といっても彫りの深さや様式の確立を期待することは無理で、どうしても少し遡った時期のスタイルをとっているのです。
このことはシェーンベルクやバルトークの初期の曲を思い出してみても同じことだと思いますが、その時代の成熟した作家のものに比べれば、やはり習作時代には一時代前のスタイルで書いています。誰だって、三〇歳前後からあとになると、ほんとうにその作家自身のスタイルが出てきますがね……。
――交響曲第三番の書かれた一八一五年というのは、例の有名なワーテルローの戦いの年ですね。このころ、シューベルトは、どんな生活をしていたんですか。
すでに、二年も前から父の経営する小学校で、ふつうの先生をしていたのです。まあ代用教員ですか。これは徴兵のがれのためらしいですが……。そしてこの一八一五年はひじょうに多作の年で、交響曲の第二番と第三番、ミサ二曲をはじめピアノ・ソナタ四曲、歌曲が《魔王》など一六四曲、そのほかに大きな舞台音楽のジングシュピールやオペラが数曲という、まったく驚くべき数です。
――レストランのメニューの裏かなんかに、譜面を書きなぐって、一曲仕上げてしまったというエピソードの持ち主ですからね。だから、この交響曲もおそらく、たいした手をかけずに出来上ったんじゃないでしょうか。
でも一八一五年五月二四日から七月一九日までのほぼ二ヵ月をかけています。わりに時間をかけているほうでしょう。相当推敲したらしい、緊密な作り方ですものね。
●C・クライバー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈78〉(グラモフォン)
交響曲 第九番 ハ長調 D九四四
アンダンテ―アレグロ・マ・ノン・トロッポ
アンダンテ・コン・モート
スケルツォ、アレグロ・ヴィヴァーチェ
アレグロ・ヴィヴァーチェ
“天国的な美しさ”か“天国的な長さ”か?
――これは、シューベルト最後の交響曲でしたね。
そうです。彼が死んだ年の作です。この年に器楽の大曲を二つ、つまり第九番とチェロ二台の弦楽五重奏曲を、どちらもハ長調で書いたのです。いや、もう一つピアノ連弾のヘ短調の《幻想曲》作品一〇三(D九四〇)というのも、これに加えていいでしょう。これは大曲というよりじつに魅力あふれるピアノ曲ですが、これが最後の年の三大傑作でしょう。
第九番は一八二八年の三月に着手して完成ははっきりしませんが、三月中に完成したと書いてある文献もあります。一ヵ月以内で完成というのは、ちょっと早すぎるようにも感じるのですが……。ベートーヴェンの死んだ翌年になります。
――この曲の長大さは、べつに、ベートーヴェンを意識したわけではないのでしょうね。
さあねえ。シューベルトには、ピアノ連弾の曲なんかで長いのがありますから。室内楽のオクテット(八重奏曲)だって、この第九番より長いんじゃありませんか。なんかえんえんと音のつづく空間を作って楽しんでるみたいですね、シューベルトは。時々こっちの都合で抜け出してもいいんじゃないかな、こういう音空間の場合は。ベートーヴェンじゃ、ちょっとそういうわけにはいきにくいですが。
――ところで、あれほど多くの歌曲を書いたシューベルトが、交響曲に声楽的部分を導入しなかったのは、なぜでしょうね。オーケストラのひびき自体が、「歌」だということでしょうか。
あの人は、音楽に変った工夫をしようなんてことは考えなかったのです。ベートーヴェンみたいに思いつめる人だけが考えつくことですよ。シューベルトはそういうことに関しては無頓着じゃないでしょうか。
――なにぶん「天国的な美しさ」などと言われるものですから、ふだん、あまり気にしないで聴いているのですが、作曲的に斬新な手法とか、それまでの交響曲になかった目新しい試みなどは、ほんとうにないんですかね。
ちょっと待って下さい。たしかシューマンは「天国的な長さ」と言ったのでしたよ。メHimmlische L穫geモってね。しかし、「美しさ」のほうもたしかに「天国的」にちがいありません。長さだけ天国的で美しさが地獄的じゃ救われません。まあ、この長さはくり返しの長さです。
四小節をくりかえす、八小節いってもう一度復唱するという具合に、まあ吶々(とつとつ)と飾り気なく、何度でも同じことをくり返して歌うんだなあ。子守歌や民謡みたいにね。それがシューベルト独特の味わいなんです。
――もっとも、いまじゃ、そんなに長大だといって、眼を丸くすることもありませんけれどね。それなら、ブルックナーじゃ、毎回、眼を三角にしなければならない。
ブルックナーの長さとはちょっとちがいますね。あれは心理のドラマが緩慢に進行するんだけど、これはいつまでも楽しい歌をやめないで口ずさんでいる、という感じじゃないでしょうか。
●ベーム指揮 ドレスデン国立管弦楽団〈79〉(グラモフォン)
《ロザムンデ》序曲 D七九七
アンダンテ
アレグロ・ヴィヴァーチェ
〈キプロス島の女王〉をめぐる初演の謎
――シューベルトは、いわゆる劇音楽を、たくさん作曲しているのですか。
ずいぶんあります。三幕のオペラが三つ、二幕のジングシュピール、つまりドイツふうのオペラが一つ、一幕のジングシュピールが四つもあります。その他、大形式の劇につけた音楽が二組。以上は完成されたものばかりで、他の未完成や断片を数えればさらに八篇ほどあるようです。
それが、ほとんど知られていないというのは、他のものが良すぎるんでしょう。何もオペラをほじくり出さなくてもいいわけです。しかし、彼の劇音楽に別の面から光を当てる日がこないとは言えません。
たとえば、劇的場面で転調がはげしすぎるとか、イタリアふうでありすぎるなど、よく指摘される欠点は、今日ではもはや問題にならないでしょう。リブレットの下らなさと、全体の長さが、ちょっと困るかもしれませんが……。ともかく、リートのイメージで彼のオペラを測ろうとしていたこれまでの尺度、あるいはロマン派のオーケストレーションの標準は訂正されるべきでしょう。
演出上の工夫で、シューベルトの舞台作品は案外復活のチャンスもあるでしょう。だいたい当時の習慣から上演拒否に遭ったり、歌手に嫌われて、おくらになったものが多いんですから。
――シューベルトを、そうした劇音楽の世界に駆りたてたものは、いったい何だったんでしょうか。
それがじつは問題で、必ずしもワーグナーのような強い内面の衝動からではなくて、頼まれたから書く、劇場での成功を夢みて試みる、という面が強かったでしょう。
《ロザムンデ》も、直接頼まれたのはウィーンの宮廷劇場の書記でクーベルヴィーザーという男かららしいですが、その弟は前からシューベルトの親友だったし、また兄のほうもシューベルトの三番目のオペラ《フィエラブラス》の台本を書いているのです。
まあ、《ロザムンデ》の場合は台本作者のシェズィー自身の希望であったかもしれません。「合唱つきの劇」という触れこみで、彼女自身、ウェーバーの《オイリアンテ》上演の時にウィーンに持ち込んだ脚本らしいから、シューベルトに作曲して貰いたいと考えていたのかもしれません。
――《ロザムンデ》というのは。
これは、元来は戯曲なんですよ。さっき触れたヘルミーナ・フォン・シェズィーという、フランス人と結婚したベルリン出身の女流詩人の書いたものです。シェズィーはヒェツィーとドイツ式に読む人もありますがね……。あのウェーバーの《オイリアンテ》の台本がこの人の作です。愚作のほまれ高い台本ですが。
ともかく一八二三年の暮も押しつまってから、テアター・アン・デア・ヴィーンでこの芝居の初日の幕が上がったのですが、その少し前に、シューベルトはその中に使う序曲、合唱、間奏曲、バレエなどを頼まれたのです。ああ、ソロの曲も一曲ありましたね。今ではふつうリート曲集に含まれていますが。
《ロザムンデ》の台本も悪名のほまれ高いものだったといわれていますが、何より、とうの昔になくなってしまったのです。ともかく、《ロザムンデ》が「キプロス島の女王」であるということと、あとはシューベルトが書いた部分の歌詞しか残っていないのです。どうせ弱いものだったのでしょう。
――それで、芝居の上演には、これらの曲が、全部使われたのでしょうか。
いや、それですが、ともかく戯曲『ロザムンデ』のためにシューベルトが作曲した一〇曲ほどの挿入音楽は、一八二三年一二月二〇日だかの上演の時に使われたはずですが、その時に序曲の作曲は間に合いませんでした。それで前作を流用して間に合わせたのですが、これがちょっと、いろいろと面倒なのです。
じつは以前はそれほど面倒じゃなかったのです。というのは、その時演奏された序曲はオペラ《アルフォンソとエストレッラ》のためのニ長調の序曲を流用した、と単純に信じられていたからです。
これはその時点での最新作だったのです。そして、以前は、ではなぜその曲でなくて《魔法の竪琴》という劇への序曲――これは一八一九年から二〇年にかけての作曲なのですが――それが、今日のいわゆる《ロザムンデ》序曲となってしまったのか、という説明については、一八二五年にその序曲をピアノ連弾用にアレンジして出版した時、シューベルトがどういうわけか、《ロザムンデ》序曲として出版させたからだと、これも単純に説明されていました。
ところが、アインシュタインは第二次大戦後のシューベルトの伝記(浅井真男氏の邦訳あり)の中で、疑問を出しています。細かい点は略しますけど、それによると《ロザムンデ》初演の時に、《アルフォンソとエストレッラ》の序曲で間に合わせたというこれまでの通説は、ある人の思いちがいかもしれなくて、その時もやはり《魔法の竪琴》序曲が使われたのではないか、というのです。
それにはかなり信じてよい理由があります。曲の特徴を批評した文章などにそれが現われているのですが、ともかく、《魔法の竪琴》序曲のピアノ編曲の版にだけ、いくら呑気もののシューベルトだって、まったく理由なしに《ロザムンデ》序曲と名づけるのは考えてみるとおかしな話です。だからもしかするとアインシュタインの指摘が正しくて、これまでの奇妙な通説は書き直されねばならぬかもしれません。
つまり《アルフォンソとエストレッラ》序曲は何ら《ロザムンデ》の上演に関係なし、というふうにね……。もしそうならば、《ロザムンデ》序曲は、元来《魔法の竪琴》のための作曲ではあったけれど、たんにピアノ曲の表紙に印刷されたからということでなしに、戯曲『ロザムンデ』の上演に際してもこの曲が演奏され、それだけ縁も深い曲だということになります。けれど、まだそう言い切るには物的証拠が不足しています。
――なるほど。こういうふうに、序曲が他の作品から流用されるということは、他にもありますね。
そりゃ、一八世紀のオペラにはいくらでもあります。一九世紀に入ってもロッシーニの《セビリアの理髪師》がそうでした。まあ、だいたい序曲の作曲は後廻しになりがちで、切符の売れゆきをみてからでも間に合うんです。それによって曲想が定まるわけでもないでしょうがね。
●レヴァイン指揮 シカゴ交響楽団〈84〉(グラモフォン○D)
ベルリオーズ
Hector Berlioz
(フランス)
1803〜1869
幻想交響曲 作品一四
夢と情熱
舞踏会
野の風景
断頭台への行進
ワルプルギスの夜の夢―魔女のロンド
“固定楽想”と“ライトモチーフ”
――まず、固定楽想のことからお話をうかがいましょう。
id仔 fixeという原語が、ちょっと大げさな表現なんです。まあそれがいかにもベルリオーズらしいと言えば言えるけど……。つまり多楽章形式の各楽章を同じモチーフで統一するということだったら、これはそもそも西洋芸術音楽の起りの時代からあるのです。ルネサンス時代に四拍子の舞曲の後半を、同じテーマでテンポの早い三拍子に変える、ということから舞曲の組曲が発生したんですから。ベートーヴェンのソナタだって少し注意してみれば、四つの楽章に一つのテーマが、いろいろに形をかえて現われる例がいくつもあります。
シューマンの《謝肉祭》の全体に出てくるa‐s‐c‐hのモチーフだってそうだし……。ただベルリオーズの場合は、そのモチーフが一人のシェークスピア女優をあらわしていて、しかもそれが実人生における彼の恋人で、それとの心理的な葛藤を標題的に描いたという、アクの強さが他人にはマネできないところです。
それと、このような形で楽章間の統一をはかる手法は、だんだん失われかけていたのを、ベルリオーズがこういう目立ったやり方で復活したので、リストの交響詩やワーグナーのオペラへとあとをひいた、ということなのです。
――ワーグナーのは、示導動機というんでしたね。
示導動機、ライトモチーフというのはワーグナーのオペラで一定の事物に結びついたモチーフのことですが、ワーグナー自身はそれをグルンドテーマ、つまり基礎主題と呼んでいたので、そのほうがある意味では実情に合うし、固定楽想に近い発想だということも理解できます。どちらも具体的なイメージと結びついていると同時に、音楽の形式の基礎をなしているわけで、私なんかは後者のほうの意味が大切だと思うのですが。このメロディーが固定楽想だとか、示導動機だとかいうのを知るだけじゃなくて、それがどう発展し、全体の中でどういう意味をもって有機的にふるまうかを味わいたいのですがね……。
――登場人物の外見じゃなくて、演技力が問題であるわけですね。どうも話が固くなってしまいました。ワルツの話でもうかがいましょう。交響曲にワルツが使われているというのは、むしろ珍しいことに属しますか。
これは難問で、つまり古典派・ロマン派の交響曲というのは私たちの知っている何十倍、何百倍――は大きすぎるかな――と作曲されているわけで、だから一八〇〇年頃ワルツが流行しはじめていたとすれば、ウィーンあたりで早速それをとり入れた交響曲が、たぶん書かれていたでしょう。名曲としてはチャイコフスキーの交響曲第五番。あの曲は各楽章に同じテーマの出るいわゆる循環形式で、その点も《幻想交響曲》を意識して手本にしたんじゃないかしら……。
――ついでにもう一つ……。例の第五楽章で出てくる有名な旋律は、〈怒りの日〉でしたね。これも、ずいぶんあちこちの曲で使われているようですが……。
〈ディエス・イーレー〉はグレゴリアン・チャントの中では、とび切りすぐれた旋律というわけじゃないけれども、近代の音楽形式にアダプトしやすい旋律なんです。それはセクエンツァという、シラビック――つまり一音綴に一音符をあてはめる作曲法によっているから当り前のことなんですが、そのことと最後の審判のすごい情景をあらわした歌詞と相まって、これはロマン派以降の作曲家がずいぶんよく使っています。
ベルリオーズの《幻想交響曲》が最初かどうかは分からないけど、そのあとリストの《ダンテ交響曲》、ピアノとオーケストラの《死の舞踏》(トーテンタンツ)、片やサン=サーンスのヴァイオリン・ソロつきオーケストラの《死の舞踊》(ダンス・マカーブル)、ラフマニノフのピアノとオーケストラの《パガニーニの主題による狂詩曲》、現代ではダッラピッコラの《囚われ人の歌》などです。
●ショルティ指揮 シカゴ交響楽団〈92〉(ロンドン○D)
メンデルスゾーン
Felix Mendelssohn
(ドイツ)
1809〜1847
交響曲 第五番《宗教改革》ニ長調 作品一〇七
アンダンテ―アレグロ・コン・フオーコ
アレグロ・ヴィヴァーチェ
アンダンテ
アンダンテ・コン・モート―アレグロ・ヴィヴァーチェ―アレグロ・マエストーソ
宗教改革の三〇〇年祭にちなんで作曲
――この曲は、何調でしたっけ?
この曲はニ短調と呼んだりニ長調と呼んだりするんですね。NHKの定訳はニ長調ですし、音楽之友社の名曲解説全集ではニ短調です。アメリカのレコード・カタログはニ短調、ドイツのレコード・カタログではニ長調というわけで、つまりイントロダクションのドレスデン・アーメンはニ長調ですが、ソナタ・アレグロの主部はニ短調ですから、どちらに重きを置くかで長短に分かれるのです。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第九番《クロイツェル》が、やはりイントロダクションが長調で、アレグロの第一主題が短調ですが、あれはイ長調とふつう呼んでいます。まあ、鳴りはじめの調子で呼んだほうが分かりやすいと思うんですが。
――《宗教改革》という標題――副題かな――がついています。これは、どういうことなんですか。
ええと三〇〇年祭に作曲したのでしたかね……。いや、おかしいですね、いわゆるルターの宗教改革の一五一七年から三〇〇年だとメンデルスゾーンはまだ八歳の子供です……。ええと一五三〇年にアウグスブルクの会議での、ルターの信仰告白の発表があって、それから数えて三〇〇年なんだそうです。ところがこの三〇〇年祭そのものは、カトリック側の抗議で中止になったらしいんです。今ならローマ・カトリックはギリシャ正教ともプロテスタントともさかんに手をつないでいますが……。だからこの曲もそういう行事と無関係にベルリンで初演されたようです。
――つまりプロテスタントとカトリックの反目ですね。でもメンデルスゾーンは、ユダヤの家系だったんじゃありませんか?
ですが、メンデルスゾーンは父の代にプロテスタントに改宗したとか……。三七歳で死んだことを除いては幸福な家庭だったんです。
――それで、これはメンデルスゾーンの最後の交響曲なんですか。
いやいや、よく演奏されている《イタリア》や《スコットランド》のほうがあとでしょう。番号は反対についていますが。ええと、そうですね、第四番の《イタリア》はこれより三年あと、第三番の《スコットランド》は一二年もあとの作品になります。
――いつだったか、イ・ムジチ合奏団のレコードで、メンデルスゾーンの番号なしの交響曲というのを聴きましたけど、あれは、ほんものなんでしょうか。
初期の習作が一一曲とかあるらしいですが、ふつうは交響曲に数えません。だいいち弦楽合奏用ですから。
――この第一楽章で、例の讃美歌にある「アーメン」の旋律と同じものが出てきますが、もちろん、これは意識した上でのことでしょうね。
ワーグナーの《パルジファル》にも出てきますね。もちろん意識的に、シンボルとして用いたのでしょう。
――それから最後に出てくるコラールが、いいですね。〈われらの神は、堅いとりで〉というものでしたね。
これはメロディーも歌詞もマルティン・ルターの作ですから、まさに《宗教改革》にふさわしいわけです。バッハがカンタータの第八〇番のフィナーレに使っています。
――オーケストラの編成は、どうなんでしょうか……。ええと、さほど大きくありませんね。二管ですね。一つめずらしい楽器がありましたよ。何ですか、このセルパンというのは?
こんなものをまだ使っていたのですかね……。第四楽章だけですね。古風な響きが欲しかったのかしら。要するにファゴットかコントラファゴットで代用できる低音の木管で、その名のごとく形が蛇みたいにくねくねしていたのです。
――メンデルスゾーンの交響曲というのは、ドイツの交響曲史上でも、かなり異色なんじゃないでしょうか。
メンデルスゾーンの音楽そのものが、ドイツ音楽の中にあってやや異色、つまりあくまで軽快で官能的でさえある、という特質をもっているわけです。現代のユダヤ系演奏家にしばしば見られる感覚美の飽和状態といったものが、彼の音楽にもあります。ただ、三七歳で早逝したのですが、晩年の作品にはかなり精神的な、内的な傾向が出てきつつあったと思います。十分に成熟しないうちに世を去ってしまった作曲家と言えるでしょう。
●アバド指揮 ロンドン交響楽団〈84〉(グラモフォン○D)
序曲《フィンガルの洞窟》作品二六
アレグロ・モデラート
アニマート・イン・テンポ
スコットランド、ヘブリディース諸島への旅行の印象を作曲
――メンデルスゾーンが、スコットランドに行ったのは、彼が最初の英国滞在のときでしたでしょうか。たしか二〇歳の頃でしたね。どこからか招待された?
そうでもなさそうです。一説にはロンドンのフィルハーモニー協会に招かれて指揮と独奏をするために行った、となっていますが、スコットランドに民謡や風物をたずねる旅行がおもで、ロンドンはその玄関口として立ち寄り、ついでに演奏したのが本当らしいです。
――息子が将来大成するには、ひろい世界を見聞することが肝要だとする父がすすめて旅に出したんですね。メンデルスゾーンの家はたいへんな金持ちだったんでしょう。とにかく、いい意味でのエリートで、彼は水彩画家としても一流だったようだし、哲学書や詩書を好んでひもといたということですが。
おじいさんが有名な哲学者で、お父さんは銀行家ですがユダヤ人です。だからナチの時代にはマイアベーアとマーラーと一緒に三Mと言われて上演禁止になっていた。《夏の夜の夢》の音楽さえナチの御用作曲家に代用品を作曲させて、メンデルスゾーンの傑作は上演禁止だったのです。
――受難ですね。ところでこの序曲《フィンガルの洞窟》の生まれたきっかけは、“スコットランドの休日”ですね。交響曲第三番もそのときの産物ですか。
そうなんですが、その時は着想だけです。一三年もあとの一八四二年にやっと完成させたらしい。この序曲のほうの作曲も、交響曲第三番《スコットランド》と多少似ていて、一八二九年の八月に現地でモチーフくらいは作ったものの、第一版は翌年の一八三〇年一二月にローマで完成し、それをまた一八三二年六月に改訂しています。今のはむろんあとのほうでしょう。
――そうですか。ところで、ヘブリディース諸島というのはスコットランドのたしか西海岸でしたね。
スコットランドとイングランドで兎みたいな形になっていますが、その鼻先きに蠅がとんでいるように群がっている島です。だいぶ以前に「アラン島」という、すばらしい文化映画がきたことがありましたが、あれはヘブリディースよりだいぶ南のアイルランドの北西端の島なんですが、似たようなものじゃないかと思いながら見ましたっけ。すごい荒涼たる所でした。海と岩のたたかいみたいなもんで……。
だいたい地図を見てたって、あの辺はものすごく海に浸蝕されている感じが分かります。フィンガルの洞窟は『ラルース百科事典』によると入口から奥まで六九メートルあって、打寄せる波の音が音楽を奏でるみたいに反響して聞こえるんです。それがメンデルスゾーンの作曲とは書いてありませんが。
――フィンガルというのは、巨人の名前なのですか?
FinnとかFingalとかいうのはOssianの父親なんです。アイルランドの神話あるいは叙事詩の英雄です。古代の……。それで、これも『ラルース百科事典』によるのですが、一七六一年にマックファーリンというイギリスの詩人の「フィンガル」という詩が書かれたのです。それによるとフィンガルは、スカンディナヴィアのスワランという王を戦いでやっつけたらしい。つまり海の英雄なんです。
――イギリスでは、たいへんな好評をもって迎えられたのでしたね。だいたい、メンデルスゾーンというのはイギリス人の気質に合った音楽家だったんでしょうか。
そう、二度目にイギリスに行った一八三二年五月に、ロンドンでこれを上演して大成功だったというのです。しかし、『グローヴ音楽事典』によるとFinal revised versionは、これより五週間あとに完成した、となっていますから、それはあきらかに今日の形じゃありません。「絶大な喝采を博した」のにどうして書き直す必要があったのかしら。
――その生涯がいわゆる早熟で多彩で、しかも若死にしたという点では、メンデルスゾーンもモーツァルトに似ていますけれど……。
しかし、モーツァルトの確実な成熟、その尨大な作曲量にはとうてい及びません。演奏の能力は同じようなものだったかもしれませんが、第二のモーツァルトにはなり得ませんでした。モーツァルトにおけるオペラの人物の音楽的造形を考えただけでもね。
――あまりにもことが順調に運びすぎたからじゃないでしょうか。
さあ。シューマンも言っているように、メンデルスゾーンは少し演奏しすぎています。いや、演奏が創作の邪魔をしているように見えるのは、根本において創作力に弱さがあったからでしょう。しかし、私は彼の三五歳の時のヴァイオリン協奏曲が、それまでのスタイルの総決算であると思います。
翌年の弦楽五重奏曲第二番(作品八七)のアダージョ・エ・レントの楽章とか、その翌年つまり死の前年のオラトリオ《エリア》の一部などには、それまでになかった内容的なものが出てきていると思うのです。惜しいことに、それがほんの兆しだけで終ってしまったのは、悔やまれます。
――とにかく、メンデルスゾーンの音楽というのは、形式的にきちんとしていて、上品で美しいメロディーに溢れていますね。
もう一八四〇年代なんだから、それを破らなければいけませんでした。それを破りかけているニ短調のアダージョ・エ・レントは、たしかトスカニーニが弦楽合奏で、その楽章だけとり上げています。やはりトスカニーニは目利きです。
●アバド指揮 ロンドン交響楽団〈85〉(グラモフォン○D)
ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品六四
アレグロ・モルト・アパッショナータ
アンダンテ
アレグレット・ノン・トロッポ―アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ
日本の都節音階にも通じる親しみやすい旋律
――これほど素敵で、みんなから愛されているヴァイオリン協奏曲も少ないのではないでしょうか。謹厳な先生方まで「メン・コン」などとおっしゃる。
この曲は、日本人がいちばん好きなヴァイオリン協奏曲じゃないかしら。ことに第一楽章の出だしのメロディーなど都節音階に一脈通じるものが感じられますから。短調ならばいつもそうなると決まっているわけじゃないのですが、移動ド唱法で「ド‐シ‐ラ‐ファ‐ラ‐ミ」というところなどは都節、つまり陰旋法の哀調を帯びた感じがします。そのほかの長調のテーマもみんな民謡ふうで親しみやすいです。
――彼にとって、そうした親しみやすく美しい旋律は、なんの苦もなくスラスラスラッと浮かんできたのでしょうか。
さあて、この曲は着想から完成までに意外と長くかかっていて、一八三八年、二九歳の時に手をつけたのに、出来上がりは三五歳の一八四四年になってしまったのです。しかし、メンデルスゾーンは演奏活動がひじょうに忙しかったので、多くの曲の場合、短期間にやっつけ仕事で仕上げているのに、この曲はそうしないで時間をじっくりかけたことが幸いしています。
彼は有名なライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者でしたが、その楽団のコンサート・マスターのフェルディナンド・ダヴィッドというヴァイオリンの名手のために作曲したのです。ダヴィッドはシューマンとも友人で、みんなで協力してライプツィヒ音楽院を創るのです。
それでこの曲のヴァイオリン・パートはご多分に洩れず、大いにダヴィッドの意見を訊き、それをとり入れています。とにかくヴァイオリン向きでない、奇妙に奏きにくいパッセージが、この曲にないのはそのためでしょう。
――初演の指揮はメンデルスゾーンですか?
ソロはもちろんダヴィッドですが、しかし、指揮はメンデルスゾーンが病気になったので、副指揮者のガーデが代わりました。ガーデはデンマークの作曲家ですが、やはりシューマンと友達で、シューマンの《子供のためのアルバム》にガーデの頭文字のGADE(ト‐イ‐ニ‐ホ)をモチーフにした曲があります。ところでこの初演は一八四五年三月一三日でしたが、二年あとにメンデルスゾーンは死んでしまう。三七歳の若さで。そのあとゲヴァントハウスの指揮者になったのはガーデでした。
――では「メン・コン」のプロフィールを。
この曲は三つの楽章からできていますが、途中が切れずに一つながりになっています。だいたい小協奏曲、コンチェルティーノとかコンツェルトシュテュックと呼ばれる場合は一つながりのことが多いのです。
ウェーバーにはピアノやクラリネットのソロの曲がありますが、メンデルスゾーンのこの曲は、第一楽章が終ったなと思っても第一ファゴットだけ残ってそのまま第二楽章に入ります。第二楽章も終るか終らないうちに、ヴァイオリンのソロがつなぎのメロディーを奏きはじめて、第三楽章につづけてしまう。
フィナーレは軽やかなロンドで、ここはホ長調ですが、ホ長調はメンデルスゾーンの好きな調子です。ピアノの《ロンド・カプリチオーソ》や序曲《夏の夜の夢》も同じホ長調で作っています。
●ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、パールマン(Vn)〈83〉(エンジェル○D)
シューマン
Robert Schumann
(ドイツ)
1810〜1856
交響曲 第三番《ライン》変ホ長調 作品九七
いきいきと
スケルツォ、きわめて穏やかに
速くなく
荘重に
いきいきと
シューマン自身の命名による最後の交響曲
――実質的にはこの《ライン》が、シューマン最後の交響曲ということになりますか。
そうなんです。メンデルスゾーンの《スコットランド》や《イタリア》のことがシューマンの念頭にあったかどうか分からないけど、ともかくラインラントの地方色が盛り込まれています。
なつかしい曲です。シューマンの交響曲というと第一番や第四番のほうが演奏回数が多いけど、私はこの第三番がいちばん好きだし、じつにシューマンらしい音楽ですよ。それにこれがじつは第四番目ですしね。メRheinischeモという名は、シューマン自身がつけたということです。
――昔から、民謡や伝説の豊かな地方でしょう。
そうです。しかし、北ドイツのエルベ河、南ドイツのドナウ河なんかにくらべると、何というかちょっとエクゾティックなニュアンスがあります。つまりフランスとの国境地帯だし、上流はスイスで下流はオランダに入ってしまうし、ラインラントというのはプロイセンともバイエルンともちょっと異質です。昔からのラテン文化の名残が、いろんな形で残っていますからね。ローマ人がライン河沿いに侵入していたのです。ケルンはラテン語のコロニア、つまり「植民地」だし、コーブレンツはコンフルーエンテス、つまり合流点というラテン語だし……。あそこはライン河にモーゼル河が注ぎ込む所ですから。
それにワーグナーの〈ジークフリートのラインの旅〉なども国境に近いクザンテンからヴォルムスまでの遡航の旅ですから、ジークフリートは当然、シューマンの新しい任地のデュッセルドルフやのちに大伽藍の建ったケルンを通って、ラインを遡ったのです。中世の『ニーベルンゲンの歌』の中にあるわけですが。
――それまでは、どこにいたのですか。
シューマンはそれまでライプツィヒとかドレスデンとか、ザクセン地方、まあライン河流域から見ればドイツの内陸の奥地にいたのです。ろくに旅行もしていないから、彼にとってまったく未知の地方だったらしいです。
デュッセルドルフに行ったのも、音楽監督というポストに推薦されたからでした。友人のヒラーのあとがまとして、つまりオーケストラの指揮者です。しかし、未知の都会なので非常に不安だったんです。
――それで、どうだったんですか、デュッセルドルフでの生活は。
少なくとも当初はたいへんによかったらしいですね。大歓迎を受けるし、シューマンにとっても明るいラインの風物が、気分転換に役立ったのでしょう。行くまではおっくうがったらしいけれど、クララがてきぱき決めて、ぐずる彼を引っぱって行ったんじゃないでしょうか。
神経症の症状は、もっと前からいろんなふうに徴候があらわれてはいたのですが、ともかくラインラントに転地したことが彼に一時的な精神の安定をもたらしたようです。しかし、一八五二年、五三年とまただんだん悪くなったようです。そして五四年二月に橋の上からラインに投身して、その時は幸いに助けられるのですが、結局死ぬまで精神病院入りとなってしまいます。
――まあ、シューマンの交響曲は、オーケストレーションもそううまいとは思えないし、事実鳴りにくい曲ですけれども、それでいて捨て難い魅力がありますね。
そうです。しかし、シューマンのオーケストレーションは決して下手とは言えないのであって、彼はあのような音色が欲しかったのですよ。各楽器のはっきりした音色よりも、灰色がかった混合色、まあボワーッと霞がかかったような、いぶし銀のような感じですね。一説にはデュッセルドルフのオーケストラの弦が弱くて、いつも管で補強しなければならなかったとも言われていますが、根本は彼があのような音色を欲したのであって、決して上手下手の問題ではないと思います。
――楽章は五つですね。
そうですが、第四楽章はフィナーレのイントロダクションが拡大された感じですね。第四楽章のモチーフがフィナーレで出ますし。第一楽章だって、いきなりドイツ・ロマン派らしいヘミオラ(三対二の関係に立つ音符の時価の比)のリズムで出ますが、これがアレグロじゃ感じが出ないです。アレグロ、すなわち軽快にじゃなくて、レープハフト、生き生きと、がぴったりです。リズムが躍動する感じが伝わってきます。
――第四楽章はなんですか。このFeierlichというのは。
式典ふうに、おごそかに、といった意味で、例のケルンの大聖堂の儀式の印象です。シューマンはケルンのビショップ、大司教がカーディナルに、つまり枢機卿に選ばれた時のミサに列席して、その荘厳さに感激してこの第四楽章を書いたというんです。ここではアルト・トロンボーンがかなり高い音を吹きます。
――ケルンというのは、デュッセルドルフからどのくらいはなれているんですか。
さて、三〇キロぐらいでしょう。北からライン沿いにデュッセルドルフ、ケルン、ボンとほとんど同じくらいの距離で並んでいますが。彼が死んだ時に入っていた精神病院は、ボンのすぐそばのエンデニッヒという所ですから、お墓はボンの墓地にあります。
――それにしても、シューマンという人の一生は、波乱万丈でしたね。
クララという、あらゆる意味で対照的な、強い性格の人物が影の形に添うごとく傍にいるから、彼の悲劇性というものがいっそう鮮明に浮きあがるんです。クララの代りに、もっと平凡な、世話女房タイプの女性が彼の伴侶であったなら、あるいは彼の作品の燃焼度も低かったかもしれないけれど、そしてつまらない生涯を送ってしまったかもしれないけれど、精神病がこうじて不幸な最後をとげるようなことにはならなかったかもしれません。
●ヴァント指揮 北ドイツ放送交響楽団〈91〉(RCA○D)
交響曲 第四番 ニ短調 作品一二〇
かなりゆっくりと―生き生きと
ロマンツェ、かなりゆっくりと
スケルツォ、生き生きと
ゆっくりと―生き生きと
交響詩の先駆的役割をはたす
――ジンフォニカーという言葉がありますね。シンフォニーの作家と言うんでしょうか。ハイドン、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーやマーラーなんかは、そういうタイプに属する作曲家だと思いますが……。こうした中で、シューマンは、どんな位置におかれて然るべきでしょうか。
さあ、ジンフォニカーという言葉は使う人、受けとる人によって解釈の幅が出るのは当然ですが、私はまず作品の八〇〜九〇パーセントがシンフォニーであるブルックナー、マーラーこそ、それに価する作曲家だと思います。さらに、今日のシンフォニー・オーケストラの曲目の柱であるベートーヴェン、ブラームスもジンフォニカーと呼んで少しもおかしくありません。しかし、シューマンの場合は、カッコつきの「ジンフォニカーとしてのシューマン」という表現のほうが、適切なのではないでしょうか。シンフォニーは彼の作曲活動の中で、非常に重要ではありますが、まっさきに論じるべきジャンルではありません。それはむしろピアノの曲であり、リートですね……。たんに作曲年代の順がそうなっているということでなしに。シューベルトも同じです。
――作曲家には、作品を、がっしりした構成の枠で考える、いわゆる構築型の人と、逆に、そのときの気分や、インスピレーションに駆られて筆を走らせる傾向の強い型の人に大別できるのではないかと思うんです。そう仮定して分類すれば、シューマンは、いわゆる“気分屋型”の典型と見て良いような気がするんですが。
これは作曲家個人の天性、彼の属する民族、その楽派、さらに時代様式がじつに複雑にからみ合ってくる問題で、簡単に結論的なことは言えないと思いますが、たとえばシューマンがある時期にピアノ曲、つぎに歌曲、そして器楽曲というふうにまとめて書いた点などは、“気分屋”の固執癖ともとれるし、むしろ反対に集中的・計画的な、いかにもドイツ人らしい性格のあらわれともとれますね……。
シューマンの場合は、たしかに性格的にも時代的にも、ロマン的情緒が作品の生まれる出発点をなしているけれど、大規模な作品における構築性の点も、たとえばこの第四番など、いろいろとよく考えられていると思います。ただよく言われるように、クララを通してバッハ、ベートーヴェンなど古典の大形式の名作へのあこがれと同時に、一種のコンプレックスが生じて、彼をたえず圧迫したことでしょうが……。
――クララと言えば、この交響曲は彼女の二二歳の誕生日のために書かれたとか……。
じっさいには彼の第二番目の交響曲なのですが、この第四番の「ロマンツェ」、つまり第二楽章に相当する部分の中間部でヴァイオリンのソロがあります。初版ではギターも使っていたはずですが、この楽章などはクララへのセレナードのつもりだったかもしれないです。
――なにぶん、結婚した翌年(一八四一年)のことですからね。しかし、出版されたのは、一八五三年でしょう。初演の評判が悪かったんで、一〇年以上かけて筆を加えたということですが。
じつは、ローベルト・シューマンが、一八三四年に創刊した「音楽新誌」(Neue Zeitschrift f殲 Musik)という、まあ「音楽の友」みたいな雑誌ですが、これが今日までもずっとつづいているのです。その一九六五年一〇月号に「シューマンのシンフォニーは下手にオーケストレーションされているか?」というショッキングな題の論文があったのを思い出して、読み直してみたのです。そうすると、シューマンのオーケストレーションが上手か下手かという論争も、初演から今日までの一世紀あまりの間に、時代の影響を非常に受けて変化していることが分かるし、今日では別の次元からの考え方も出ていて、複雑なのです。
たとえばシューマンの同時代の批評には、彼のピアノ音楽、《ファンタジーシュテュック》(幻想小曲集)やピアノ・ソナタにオーケストラ的効果を認めると同時に、すでにシンフォニーの管弦楽法に造型的明確さの欠如が指摘されています。しかし、それが果して非難すべきことかどうか。
つまりシューマンがそう意図したのであれば、むしろ成功といえるわけでしょう? リムスキー=コルサコフは、あの有名な『管弦楽法原理』の中で「ある作曲家が管弦楽法が上手だ、という言い方は誤りだ。それは管弦楽法は本質的に作品の魂の一部だからだ。作品というものは管弦楽の制約の下で構想されるのであり、創造者の内部では、ある音色はそれと不可分に結合しており、誕生の瞬間からそれに属しているからだ」と言っています。
だからつまりベルリオーズ、リムスキー=コルサコフ、リヒャルト・シュトラウスのような原色的なオーケストレーションが上手なオーケストレーションであり、シューマンのような、いわばいぶし銀のようなのは下手なオーケストレーションだ、というのはそもそも議論の立て方がおかしい、というのです……。シューマンは本来そういう音色のイメージを持っていたのだから……。
――でも、シューマンのオーケストレーションにまったく問題がない、というわけでもないでしょう?
それはそうです。第三番や改作後の第四番を初演したデュッセルドルフのオーケストラは、ヴァイオリン群がひじょうに非力なために、フルートやオーボエをいつも重ねる必要があったという説があり、それは第四番の初版とふつう演奏される第二版とを比較すれば分かる、というんです。
しかし、それに対しては反論があり、はたしてデュッセルドルフの弱いヴァイオリンのために重ねたのか、彼自身の音のイメージによって重ねたのか疑問だとする説もあるのですが、どっちにしても、第三番で確立した音色のイメージに沿って、第四番を改作したことはたしかなようです。そして当時は、こういう管と弦の重複を“重厚な効果”として賞讃しているイギリス人の批評もあるのです。
しかし、後になると、これがワグネリアンたちから「洗練を欠いたオーケストレーション」として非難され、やがてワインガルトナーがシューマンのオーケストレーションに手を入れて「厚ぼったいおおいを除いて中味をはっきりさせよう」と言ったりしたので、すっかりシューマンのオーケストレーションがよくないという意見が定説化してしまいました。
実際には、ブルーノ・ワルターとか、フィッツナー、フィードラーといった人の指揮で、シューマンの精妙な音色が開示されているのに、音楽辞典や解説書ではこういった一九世紀的な固定観念が今なおくりかえされている、とこの論文の筆者――ザイボルトという人ですが――は、嘆いているのです。
たとえばルードルフ・ケンペのように、多少オーケストレーションを修正するタイプの指揮者もいます。しかし、反対にフェルディナント・ライトナーのように、まったく修正なしにやる人もいます。ライトナーは「一八八〇年代に人々はブルックナーのシンフォニーのオーケストレーションを改め、やがてマーラーはベートーヴェンやシューマンにも変更を行い、ついにみんなチャイコフスキーのような響きになってしまいました。いったい、よい音楽が必ず美しく響かねばならないものだろうか?」と疑問を提出しているそうです。
この最後のところが意味深長だと、この論文の筆者も強調しているのです。たとえ通念としての鮮やかな音色を持っていないとしても、そこにシューマンの個性と、彼の様式において意図された音色が聴かれるではないか、というのです。私もそれが正しい解釈じゃないかと思うのですがね。
――これは興味ぶかいお話をうかがいました。ところでシューマンは、「私は、ときにピアノをぶちこわしてしまいたい。私の考えを表わすには、あまりにも狭すぎる」と言っています。その一方で、オーケストラの作曲技術には、自分で大いに危惧の念を抱いていたようですね?
オーケストラにはいぶし銀のようなイメージを、ピアノにはその反対にかなりオーケストラ的なイメージをシューマンは持っていたのです。これは矛盾しているようでもあり、また逆に彼の耳の中に一つの統一した音色のイメージがあった証拠かもしれません。いつかピアニストの小林仁さんが「音楽芸術」に書いておられたように、《子供の情景》の〈炉ばたで〉の左右の手の交叉はたしかに弦楽四重奏曲の書法の写しだし、他の曲では左手の所に「ホルンのように」とか右手のメロディーに「オーボエのように」なんて注をつけてみたり、しまいには面倒になって《交響的練習曲》なんてね……。
――この曲の解説でよく言われることがあります。「全楽章の主題や動機の統一とか、関連が図られて、有機的な構成が図られている」といった意味のことが。実際に、そのためでしょうか、シューマン自身も、この曲を、全曲休みなく演奏するようにと指示したそうですね。しかし、それが、構成観というようなものから出発した、というより、もっと、それこそ気分的なものではなかったかとさえ思われるのですが。たとえば、第一楽章から第二楽章の移りなど、別に休んだって、どうということがないと思うんですけれども……。
なるほどね。しかし、シューマン自身でこの曲に「イントロダクション、アレグロ、ロマンツェ、スケルツォ、そしてフィナーレを一つの楽章で」と副題をつけているんです。そして最初から二番目のアレグロについて言うなら、ソナタ形式みたいな格好でいながら第二主題もはっきりしないし、再現部がまるっきり省略されているでしょう? これではじつはシンフォニーの第一楽章としての起承転結が成立していないわけで、仮りに、ここでいかにもソナタ・アレグロとしての第一楽章を終った感じにして休みを置いて、さて次を始めるとしたら、あまりに破格すぎます。
その感覚がまさに、シンフォニーならシンフォニーの作曲法の伝統というものでしょう。だから彼はちゃんとただし書きをつけて、これは普通の形ではないと断っているのです。だから第何楽章という呼び方も、ほんとうはこの曲にはないわけです。つまりこれはリストからリヒャルト・シュトラウスへと発展していく交響詩の先駆でもあるわけです。
●バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈84〉(グラモフォン○D)
ピアノ協奏曲 イ短調 作品五四
アレグロ・アフェトゥオーソ
インテルメッツォ、アンダンティーノ・グラツィオーソ
アレグロ・ヴィヴァーチェ
比類のないくすんだ落ち着きとロマンティックな華麗さ
――私、シューマンのピアノ協奏曲を、今回あらためて聴いてみて、いかに難しい曲であるかを感じました。テクニカルな点だけでなく、精神的にもひじょうな難曲といってよいのではないでしょうか。しかし、ピアノとオーケストラのバランスが、実によくとれていますね。自身、ピアノのテクニックに精通していたシューマンだから、彼らしいピアニズムを思う存分発揮していて、しかも、ショパンのように、オーケストラはただ、おそえものということでもないし……。
この曲は、はじめ「ファンタジー」として完成された第一楽章をもとに、何年かあと、第二楽章以下を付け加えたんだそうですね。そう言われてみなければ、気がつかないほどうまく出来ていると思いますが……。そのせいでしょうか、一応、三楽章制をとっているようだけれど、いわゆる協奏曲的な形式感とは、やや違うものを持っているような気もしますが、どうでしょうか。
ただ交響曲第四番の時にも話が出ましたが、シューマンの音色への独特なイメージですね。たとえばピアノにはオーボエやホルンの音色を要求することがある一方で、オーケストラには混合色を要求するという独自な音色のイメージ。あのことが、この曲ではオーケストラとピアノの融合という点に大きく作用していると思います。
たとえば、第一楽章の展開部でピアノの右手にフルートが、ずうっと重なって進む所など、他の作曲家では考えられないことですが、シューマンのスタイルではこれが生きていると思うのですが……。
しかし、第一楽章のピアノが歌う第一主題といい、第二楽章の楽想といい、まあ、どちらかと言えば息の短い、小曲の楽想です。フィナーレのテーマも、そうです。それを、さすがに大きな形式にまでよく展開したとも言えるし、しかし、いくらか繰り返しが多すぎて、それが饒舌な感じになっている、ともとれます。ただ、楽想はじつに魅力的で、それが救いですが。
●アバド指揮 ロンドン交響楽団、ブレンデル(P)〈79〉(フィリップス)
リスト
Franz Liszt
(ハンガリー)
1811〜1886
交響詩《レ・プレリュード》
アンダンテ
アレグロ・マ・ノン・トロッポ
アレグレット・パストラーレ
アレグロ・マルツィアーレ・アニマート
楽章を区切らない単一楽章の交響詩
――リストはバイロイトで死んだそうですね。
ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を見に行って、そのまま死んだのです。いかにもリストらしいです。
――リストといえば、私はまず《ハンガリー狂詩曲》を思い出すんですけれども、彼自身はあまりハンガリー語を喋れなかったそうではありませんか。
リストというと、もしかするとハンガリー人と思っている方もあるかと思うのですが、彼は民族的にはゲルマン人なのです。彼のお父さんとお母さんとは、ちょうどウィーンをはさんで、お母さんはドナウ河に沿った上流のほう、お父さんは少し下流のほうの村に生まれたのです。リスト自身が生まれた場所はハンガリー領内にはちがいないけど、そこはまるで盲腸みたいにオーストリア領に突き出した小さな部分なのです。
ウィーンのシュヴェーヒャート空港に降りる飛行機が着陸待ちで旋回する時、ウィーン南方のノイジードラー・ゼーという大きな湖の上を、ぐるぐる廻ることがあるのですが、その湖のすぐ南の、ドボリャーン、ドイツ名でライディングという小さい村がリストの生地で、まあハンガリーといっても、ウィーンから南へわずか六〇キロくらいの所です。
それで幼少時には家庭でも学校でもドイツ語で、のちにはリストはほとんどフランス語を使い、ハンガリー語の読み書きは満足にできなかった、と言われています。それなのに、彼は生まれ育ったハンガリーにひじょうな愛着を持ったのです。姓も先祖代々Listなのに、その綴りだとハンガリー人がリシュトと読むので、わざわざ自分でzを入れてLisztとハンガリーふうに変えてしまったくらい、ハンガリーを祖国として愛したのです。ちょっとこれは特殊なケースですね。
――ところでリストの家は、エスターハージ侯の土地管理人だったのでしょう。でも、ハイドンの仕えた殿様とは、もちろんちがうわけでしょう。
リストが生まれた頃のエスターハージ侯は、ハイドンが仕えた四人のうちの最後の殿様で、ニコラウス二世という人です。そのすぐ前のアントンというお殿様は音楽が嫌いで、楽団を解散してハイドンをがっかりさせた人です。でもこの人は三、四年で亡くなってしまいました。そのあとをついだニコラウス二世は、再びハイドンを楽長に立てて、楽団の再建をはかった人です。リストの親父さんも、アマチュアながらも、その楽団でチェロをこすったり、コーラスを歌ったりしていたんです。おじいさんはやはりエスターハージ家の土地管理人で、オルガニストを兼ねていたらしい。リストの代に至って土地管理のほうは足を洗って音楽を本業とした、ということです。
――息子の将来にすべての望みをかけたというわけでしょう。でも、それだけ先行きの見込みがあったからだともいえますね。
そうでしょうね。お父さんから教わっているうち、めきめき上達して八つの時に公開の席で奏いたというんです。もっともその場所はウィーン南方三〇キロくらいの、バーデンというほんの小さな田舎町です。一一歳の時にウィーンに引越ししてチェルニーにピアノを、サリエリに理論を学びはじめたということです。
もっとも、その前にフンメルにつこうとしたけど、一時間一グルデンというレッスン代を要求されて、さすがの教育パパも引き下らざるを得なかったとか……。チェルニーのほうはレッスン代をとらなかったというのですが。
――ところでリストのお父さんは、モーツァルトの父親のように、その自慢の息子をあちこち連れまわしたんでしょうか。
リストのお父さんのアダム・リストをレオポルト・モーツァルトとくらべるのは少々無理で、レオポルトは、たとえヴォルフガングが生まれなくとも、音楽史に名をとどめた作曲家の一人です。しかし、アダムも息子の教育とか、息子を早くから人前に出そうとした点ではレオポルトに劣らず熱心だったようで、息子をパリに連れだすのに、侯爵家から休暇が貰えないと分かると退職してまでも、一家でパリに向いました。少年はパリはじめ各地で成功したけど、親父さんは四年後にフランスの旅行先で病にたおれて、五〇歳そこそこで亡くなってしまったのです。この天才少年を育てるのに精根をつかい果したのでしょう。
――モーツァルトもパリでお母さんを亡くしたのでしたね。ところで、同じくヴィルトゥオーゾであったという点で、リストはパガニーニとよく比較されますが。
リストは一八三一年、つまり二〇歳の時パリでパガニーニの演奏を聴いて、その魔術師的技巧に感激して、ピアノのパガニーニになろうと決心したんです。このことはよく言われていることですが、しかし、リストはパガニーニよりもずっとスケールの大きい芸術家で、パガニーニの影響は、外部に派手にあらわれているから目立つけれど、作曲家の中ではベルリオーズ、ショパンその他多くの人、それから画家のドラクロア、文士のユーゴー、ラマルティーヌなどが、ほんとうの意味でリストの人間や芸術に深い影響を与えているでしょう。のちには二つ年下のワーグナーからですね。さらに多くの女性たちが周囲にいた。
――ハンガリーを熱愛していたリストですから、よくハンガリーを訪れたでしょうね。
いや、それがハンガリーを祖国として熱愛していたわりには、まったく御無沙汰つづきです。二八歳の時訪れて大歓迎を受けた後、彼の本格的な名演奏家時代には全ヨーロッパを股にかけて歩いたのに、ハンガリーは一度も訪れていないはずです。奇妙な話です。またそれにつづくワイマールでの宮廷指揮者の時代にもほとんど行かなくて、ようやく六〇歳を過ぎてから、ブダペストの音楽学校長に任ぜられたので、教育のためにそこを本拠にした。しかし、住みっきりではなくて、以前のようにローマやワイマールでも暮していたようです。
――それはそうでしょう。あれだけ名声のある人が、そうそう落着いていられるわけがありませんものね。でも晩年には修道院に入ったそうですが……。
まあ、たしかにリストは剃髪したのですが、けっして神父つまり司祭のような上級の僧職じゃないのです。この点は一般に誤解されているようです。ずっと低い、修道者としての守門という位など、同時に三つの位を貰ったのです。五四歳の時でしたか……。
――では、交響詩の話ですが。
ベルリオーズからの影響、とくに《幻想交響曲》から受けた強い感銘――それはたんに標題音楽的な交響曲ということだけでなく、各部を同じテーマで統一することとか、オーケストレーションの新しさからくる豊かな色彩感とか、いろいろあるでしょうが、そういうものから彼の交響詩が生まれました。しかし、楽章を区切らずに単一楽章の形にまとめた裏には、ウェーバーのピアノとオーケストラの《コンツェルトシュテュック》(小協奏曲)――あれも元来標題音楽なんですが――とか、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲などの行き方と関係あるでしょう。まあ、ワーグナーが、各番号に切りはなされない、一つながりのオペラを目ざしたことにも通じる、この時代の共通の傾向でしょう。ともかく、リストの管弦楽曲は、作風としてはベートーヴェンとワーグナーを結ぶ橋です。
●ショルティ指揮 シカゴ交響楽団〈92〉(ロンドン○D)
ワーグナー
Richard Wagner
(ドイツ)
1813〜1883
歌劇《リエンツィ》序曲
長大な“大悲歌劇”のための単純明快な序曲
――これは、ワーグナーの若い頃のオペラですね。
台本はリガ時代の一八三八年、曲はパリで一八四〇年に完成しています。二七歳の時です。しかし、すでにこの前に《妖精》と《恋愛禁制》という二つのオペラがありました。しかし、若い頃といっても、《さまよえるオランダ人》は一八四一年に作詞作曲とも完成しているのですから、《リエンツィ》との間はたった一年のちがいにすぎません。
――ところで、ワーグナーという人は、いくつオペラを書いたのですか。
《ニーベルングの指環》を四つ別々に数えるとすると一三曲です。そのうち《リエンツィ》までは、ワーグナー自身、バイロイトで上演しないと決めたのです。その理由は曲の出来栄えというより、たぶんに彼のオペラ理論の大義名分からきているのです。つまり《リエンツィ》の台本は旧式の正歌劇、悲歌劇ですからね。
だからバイロイトの上演曲目は《さまよえるオランダ人》《タンホイザー》《ローエングリン》、そこに彼の七〇年の生涯を二分する三五歳の大きな境界線がきて、そのあと《トリスタンとイゾルデ》《ニュルンベルクのマイスタージンガー》《ニーベルングの指環》《パルジファル》とつづくわけです。もっとも《ニーベルングの指環》は《ローエングリン》の直後から取りかかっていますけれども。
――そして、途中で、歌劇から楽劇になった……つまり、そこのところが、ワーグナーの、こうした劇音楽の作品に対する考え方の、ポイントであるわけでしょうね。
ええ、その三五歳の境界線が大きな意味をもっていて、ちょうどその境目で「芸術と革命」「未来の芸術作品」「オペラとドラマ」という三つの主論文が書かれ、そのあと後半生の創作に入ったのです。しかし、その前に《リエンツィ》と《さまよえるオランダ人》の間にも、もう一つ境目があるわけですが……。
――《リエンツィ》というのは、実在の人物でしたね。オペラの台本は、いわゆる史実に忠実、ということなんですか。
さあ、どうかなあ……。この筋はもともと長篇小説になっていたものなんです。それもブルワーという、ワーグナーより一〇歳くらい年上のイギリス人の作家の作品です。台本は、ワーグナー自身の筆になるものです。
――このオペラの中味は知りませんけれども、序曲を聴いている限り、あの《ニーベルングの指環》の作曲家のものだとは思えないほど、単純明快なものですね。
そうですが、しかし、《さまよえるオランダ人》と《タンホイザー》の面影はすでにあります。いわゆるポプリふうの序曲と考えていいともいえるし、ウェーバー、マルシュナー、ロルツィング、シュポア、マイアベーアといった当時流行のオペラの序曲と、形式の上で関連があるにちがいないのです。
――オペラは、どこで初演されたのですか。
ドレスデンで初演してます。このあとの《さまよえるオランダ人》も《タンホイザー》もドレスデン初演です。作曲はリガでとりかかってパリ、パリ以外のフランスなどにまたがっていて、完成はパリです。だからリガを去ってドイツに密出国して、ロンドンに向かう途中、海が荒れて、《さまよえるオランダ人》の構想を得た船旅の間じゅう、《リエンツィ》の未完のスコアを彼は持っていたことになります。
――それで五幕一七場という長大なものになっちゃった。
しかし、これはGrosse tragische Opera、 つまり大悲歌劇という肩書がついているんです。
――グランド・トラジック・オペラねえ。そういえば、そういう音楽ですね、この序曲もね。
●クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団〈60〉(セラフィム)
歌劇《さまよえるオランダ人》序曲
歌劇《ローエングリン》第一幕への前奏曲
音楽自体でも完結した世界を展開
――ワーグナーはヴェルディと同じ年の生まれでしょう、一八一三年でしたか。片やドイツ、片やイタリアで、ともにオペラの黄金期とでも呼ぶべき時代を導いたわけですよね。奇しき因縁ということでしょうか。
偶然ですね。もっと前にはバッハとヘンデルが同じ年の生まれでした。まだ他にあったかしら……。少なくとも、この二つの例ほど象徴的な組み合せはないと信じますが。もし島流しにでもなって、ワーグナーかヴェルディの、どちらか片方しか聴いちゃいけないということになって、どちらを選ぶかと聞かれたら、今の時点だったらヴェルディです。《オテロ》か《ファルスタッフ》だなあ……。
――ワーグナーのオペラのオーケストラといえば、なにぶん膨大なものでしょう。《ニーベルングの指環》は四管ですよね。本当に、これだけ大きなものが必要なんでしょうか。
まあ、ワーグナーはオーケストラというものに彼らしく特別な意味づけをしています。『未来の芸術作品』という本の中でいろいろに言っていますが、たとえば「音楽は、量り知れぬ大きな表現力を有する一器官たるオーケストラを作りあげた」「オーケストラはひじょうに多様なハーモニーの生命をもった身体であり、普遍的かつ無限な感情の基盤であり、これをもとにして、舞台上の人物の感情が最高度に成長し充実するのだ」、そのほかにもいろんな表現を用いてオーケストラが戯曲に生命を賦与する上で、いかに重要な存在であるかを説いています。
だから、ワーグナーにあっては、たんに大きい音やいろんな音色が欲しかったのではなく、彼が唯一の真実なものと考えた「戯曲」に、永遠の生命を吹き込むためのものとして、オーケストラをきわめて高く評価していたし、それにふさわしい表現力を与えるために、編成がある程度大きくなるのは当然だった、といえるのじゃないでしょうか。もっとも今世紀には、もっと大きな編成のオーケストラ曲がザラに現われましたが。
――そうでしょうね。ただ大きな音や、音色だけが欲しかったのなら、オーケストラ・ボックスに蓋をしたりするわけがありませんものね。
そうです。ワーグナーは各楽器の音色がナマのまま出るのを嫌って、オーケストラ全体に蓋をしてしまったのです。バイロイトの祝祭劇場の特殊なオーケストラ・ボックスはワーグナーの音色への好みをあらわしていると思います。《ニーベルングの指環》のワルハラ城をあらわすモチーフで、ワーグナー・テューバという特殊な金管楽器のハーモニーが出てきますが、これは簡単にいうとホルンの歌口をもった小型のテューバで、こういった混合音色も、オーケストラ全体に蓋をするのと同じ感覚です。
――なるほど。ところで《さまよえるオランダ人》序曲と《ローエングリン》第一幕への前奏曲ですが、この序曲と、前奏曲という言葉について教えていただけませんか。
これはワーグナー自身の用語と関係があるのですが、たしか彼は三通りの術語を使い分けていたと思います。初期の《リエンツィ》《さまよえるオランダ人》《タンホイザー》まではOuvert殲e(ウーヴェルテューレ)、つまり「序曲」です。その後《ローエングリン》《ニーベルングの指環》《マイスタージンガー》《パルジファル》ではVorspiel(フォアシュピール)になっている。
つまりラテン系のオーヴァチュアという言葉を嫌って、「前奏曲」という純ドイツ語にとりかえたのです。イタリア起源のいわゆる番号オペラの形から、ますます遠ざかってきたことともむろん関係があるでしょう。ところで《トリスタンとイゾルデ》ですが、これは元来はEinleitungつまり「導入部」となっているのです。イントロダクションです。
――すると、〈前奏曲と愛の死〉というのは間違いなんですか。
ちょっと待って下さい。それだけ独立させた場合や、あるいはこのオペラの最後の〈イゾルデの愛の死〉と組合わせて演奏会でやる版では、Vorspielつまり「前奏曲」となっているのです。なぜそうなったかは今ちょっと分かりませんが、おそらく出版社で勝手にそうしてしまった疑いが濃厚です。オペラ全曲のスコアの中では明瞭にEinleitungで、これがワーグナーの最初の考え方をあらわしているのじゃないかしら。
ついでですが「楽劇」Musikdramaという名称も一般にいくらか誤解されていて、ワーグナーはそういう言葉を著作の中で用いてはいますが、「楽劇・ワルキューレ」とか「楽劇・トリスタンとイゾルデ」といういい方は、実は彼自身は決してしてはいないのです。これは日本だけの特殊な呼び方なんで、ちょっとおかしいと私は思うのです。まあ肩書きが要るなら素直に「オペラ」でいいんじゃないかしら。
――ええ、《ニーベルングの指環》の場合、あくまでも前夜祭と三日間の舞台祭典劇として考えられたものでしょうしね。
ワーグナーは《トリスタンとイゾルデ》にはHandlungとか、《ニーベルングの指環》には強いて訳せば「祝祭の劇」とか、副題みたいなものをつけていますがね。Handlungは元来、行為とか所作ということで、このままの直訳では日本語にはなりにくいのです。
――ほんとうに音楽用語は難しいですね。はじめに戻るようですが、ワーグナーのオペラの作品を、オーケストラだけで演奏することについておうかがいしたいと思います。
ワーグナーの場合は、あまり意味づけを重んじると神秘的になってまずいのですが、やはり彼はオーケストラの意義をひじょうに重視したので、他の作曲家のオペラを演奏会でやる、という以上に必然性がある、と考えてよいでしょう。
つまり、たとえ舞台がなくても音楽それ自体の論理的発展があり、舞台上の行為や所作を音楽が目に見えるように描いており、いわばそれだけで完結している、といってもいいすぎではないわけですから。第二次大戦後のウィーラント・ワーグナーのあの抽象的・象徴的な舞台というものは、そもそもこうしたワーグナーの音楽の本質が基礎にあるからこそ可能だったのです。
ただ、こういうことは言えるのじゃないかしら。欧米の大都会の聴衆なら、ともかく一通りワーグナーのオペラを見ている人が何割かはいるわけで、オーケストラだけでやっても、ああ、あの場面だな、このあとはああなってこうなってと舞台を想像しながら聴ける。その点が日本では率直にいってハンディキャップではないでしょうか。
――それにしても、ワーグナーといえば、われわれは、すぐあの大がかりなオペラを連想する。これは、彼が舞台人一家に育ったことと無関係ではなさそうですね。
何しろワーグナーが生まれて六ヵ月で実父は亡くなってしまい、あとにきた養父が立派な舞台俳優でした。ところがほんとはそのどっちが実父であるのかは、いまだにミステリーということなんです。そのうえ長兄と三番目の姉が歌手で、長姉と次姉は女優だった。まさに舞台人一家というところです。
――音楽の勉強は、まじめにやったんですか。
子供の頃はろくにやってやしないんです。はじめはむしろ詩や戯曲を書くことに興味があったんです。もっとも、その才能は一生持ちつづけたわけですけれど……。音楽は少年時代からウェーバーやベートーヴェンに傾倒したとはいえ、ピアノやヴァイオリンのレッスンは長つづきしないし、作曲の基礎もいくらもやっていないようです。といっても、大学生になってから、短期間ですが当時のライプツィヒのトーマス教会のカントルの――つまりかつてはバッハもその地位にいたのですが――ヴァインリヒという立派な音楽家にハーモニーやコントラプンクトを習っています。ワーグナーは当時のピアノ・ソナタをヴァインリヒに捧げています。ともかく、こういう生まれつきの天才は、ちょっとやれば全部分かっちゃうんです。こういう生徒の先生は楽でしょうね。
――彼は、交響曲も書いていますね。
そう、これは彼にとってはいろんな意味で重要な作品で、レコードもあるけど、日本ではたぶん未初演でしょう。一九歳の作で、クララ・シューマンがベートーヴェンの第七番に似ていると言ったとか……。当時ゲヴァントハウスの定期で演奏されたのです。
――では最後に一つ。ワーグナーはなぜ、こんな大がかりな題材を選んだのでしょうか。
さあ困った……。しかし、ワーグナーという人間、あのズバ抜けたスケールの大きさとくらべて、また一九世紀のゲルマン民族の思想や行動や芸術、とくにロマン派音楽のあり方からいって、ワーグナーの選んだ題材が不均衡に大きすぎるとか、不自然とかいうことはあり得ません。むろん、ワーグナーが独特な、むしろきわめて異常な人格であり芸術家であるにはちがいないにしても、少なくとも彼自身の人間と芸術の間に、矛盾はないんじゃないかと思うわけです。
●《さまよえるオランダ人》序曲 小澤征爾指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団〈89〉(フィリップス○D)
●《ローエングリン》第一幕への前奏曲 同右
楽劇《トリスタンとイゾルデ》前奏曲と愛の死
サスペンスの多い作曲法、フレーズの長いメロディー
――ワーグナーが、《トリスタンとイゾルデ》の着想を得たのは、たしか、《ジークフリート》の作曲中だということでしたね。
ええ、しかし、草案の作製は一八五四年秋ですから、これはむしろ《ワルキューレ》の作曲中です。《ジークフリート》を中断して、《ラインの黄金》《ワルキューレ》と完成させていったのですから。その後《トリスタンとイゾルデ》と《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の作曲のために《ジークフリート》は再度中断され、一八六九年に、三度目に着手した時に、三度目の正直でやっと完成に漕ぎつけるわけです。だから、この辺の作品はみんなからみ合っていて、よく作風の使いわけができたものだと思うくらいです。ワーグナーは《ワルキューレ》《ジークフリート》《トリスタンとイゾルデ》《ニュルンベルクのマイスタージンガー》と、響きの上でそれぞれはっきりちがう世界を作り上げています。
――《ジークフリート》の作曲を一時中断して、この《トリスタンとイゾルデ》の筆を進めたというほど、彼を“とりこ”にしたのは、いったい何だったんでしょうか。
そりゃ、マティルデ・フォン・ヴェーゼンドンク夫人の存在でしょう。《ヴェーゼンドンクの五つの詩》で有名な夫人です。そういえば、あの人のお墓がボンの墓地にありましたっけ。シューマン夫妻の大きなお墓のそばに。同じ墓地にフリードリヒ・シュレーゲルや、意外なことにシラーの妻と子のお墓がありました。シラーご本人のはなかったのですが。それで、実業家だった彼女の夫が、ワーグナーにすばらしい別荘を提供したのです、スイスに。だから恩人というかパトロンというか、そういう人の奥さんだったんです。
――つまり、マティルデに対する、ワーグナー自身の心が投影されているというわけですか。
それもそうだし、ジークフリートとブリュンヒルデの関係も投影されているのです。彼自身、そう言っているのではなかったかな。もっともそれは多少、弁解かもしれませんが。
――この「トリスタン伝説」というのは、ヨーロッパ人なら、たいていの人が知っているというほど有名なものなんでしょうか。
そうでしょう。ヴァリエーションがたくさんあります。『悲恋』や『美女と野獣』なんて映画もあったし……。ケルトの説話から、トルヴェールをへて、ドイツの騎士物語にいって……実に物語自身としても生命力の長いものですね。ゆうに千数百年、ヨーロッパの人々の間に生きつづけています。
結局、中世の叙事的な物語では、ずいぶんごたごたと人物の出入りがあるわけですが、ワーグナーはそれをバッサリ切りすてて、二人の愛というテーマにギューッとしぼってしまいました。何しろそれ以外にほとんど何もない程に、徹底的に二人の恋愛に焦点を合わせています。そうしておいて、あの半音階を基調とした、不協和音の解決をえんえんと先へ延ばしていくんです。
サスペンス、いわゆる掛留の手法の多い作曲法、メロディーもフレーズの息の長い、無限旋律といわれる形式、いくらなんでも無限じゃないですが、少なくとも四小節や八小節なんていうこま切れじゃない長いメロディー、これによって、しつこい、ねちこい、死まで行きつく二人の愛のプロセスを描いたのですが、ともかくこのテーマと音楽のスタイルの見事な一致は音楽史上稀有の例と言えます。
――この〈前奏曲と愛の死〉というのは、言ってみれば、アタマとオシマイをつなげたものでしょう。これはワーグナーの知恵ですか。
そうです。一八六〇年一月と二月に、パリで自作品の演奏会を開いて、そこでオペラの予告篇の形でこれを上演したのですね。ただし《愛の死と浄化》という題です。これはちょっと変な話ですが、どっちがよかったか、〈愛の死〉でもよかったのかなあ。つまりオペラとして初演される前だから、前奏曲ではピンとこないこともあったでしょうからね。
――イゾルデが〈愛の死〉を歌って、トリスタンのなきがらの上にくずおれますね。つまりそれで、二人の愛が成就されるわけですか。
第一幕で、ひとたび死の薬を二人は飲むわけですよ。ワーグナーでは、あれははじめから媚薬じゃなくて毒草だったんです。ところがブランゲーネがこっそり媚薬にすりかえておいた。二人の愛のモメントは、だから中世の物語とちがって、たんに媚薬が原因じゃなくて、もっと運命的な根源的なもので、したがって結末の〈愛の死〉は発端の、死による愛の成就への二人の希望の実現というわけです。その意味で、この発端と結果の二つのアルファとオメガの音楽を一緒に演奏することは、この場合大いに筋が通っているわけです。まあ、ワーグナー流に観念的と言えば観念的ですがね。もちろん、浄化、救済のための死です。たんなる無理心中じゃありません。
●テンシュテット指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ノーマン(S)〈87〉(EMI○D)
楽劇《ニーベルングの指環》から
《ラインの黄金》から〈ワルハラ城への神々の入城〉
《ジークフリート》から〈森のささやき〉
《神々のたそがれ》から〈夜明けとジークフリートのラインへの旅〉
《神々のたそがれ》から〈ジークフリートの葬送行進曲〉
オーケストラ音楽の醍醐味を味わう
――「ワーグナー管弦楽名曲集」などというレコードに必ず入っているような、いわば、ききどころが集められていますが。
バイロイト祝祭劇場のこけら落しで《ニーベルングの指環》の四部作をやったのは一八七六年ですが、一八五四年に《ラインの黄金》のオーケストレーションはすでに完成しています。フランツ・ヴュルナーという人がバイロイトの前にミュンヘンで一八六九年に初演していますが、その初演にはワーグナーは不賛成だったと言われます。日本初演は一九六九年、つまりミュンヘンでの初演のちょうど一世紀後というわけです。
――それで《ニーベルングの指環》は《黄金》《ワルキューレ》《ジークフリート》《神々のたそがれ》の順序で完成したのですか。
台本の完成順はそれと全く逆です。つまり《神々のたそがれ》《ジークフリート》《ワルキューレ》《ラインの黄金》。それから作曲の着手の順は《神々のたそがれ》《ジークフリート》《ラインの黄金》《ワルキューレ》で、作曲の完成は現行の上演順というわけです。何しろ息の長い話です。《神々のたそがれ》の台本着手は一八四八年、そのスコア完成は一八七四年なんだから二六年かかっています。バイロイト上演までなら二八年です。
――もちろん、最初から四部作としての、大きな構想のもとに作曲が進められたのでしょうね。
そのようでもあり、そうでないようでもあるわけで。というのはつまり、まずワーグナーは「ジークフリートの死」という題で今日の《神々のたそがれ》の台本を書き、それでは不十分と感じて、それに先行する「若きジークフリート」つまり今日の《ジークフリート》の台本を書き、さらに《ワルキューレ》《ラインの黄金》と逆に遡っていったのです。だから、どの時点が最初かということになるけれども、作曲は「ジークフリートの死」のスケッチも残っていますが、いちおう四部作として本格的に再着手して完成したのが今日の形、と考えていいんじゃないですか。
――「前夜祭と三日間の舞台祭典劇」というのでしたね。
だいたいそういう意味ですが、正確には他の国の言葉になりにくい言い廻しなんです。メEin B殄nenfestspiel f殲 3 Tage und 1 Vorabendモとなっているのですが、ワーグナーがVorabend、 つまり「前夜」を「三日」という本体よりあとに書いたのは、内容の軽重と、さっき言いましたように台本創作のプロセスからいうと最後につけ加えられたことと無関係ではありません。
――どうも、この《ニーベルングの指環》の話は、登場人物が多くて。もとはといえば、たった一つの指環でしょう?
《ジークフリート》の「鳥の声」まで入れると登場人物が三四人でしたね、たしか。むろん《神々のたそがれ》に出る兵士たちなどのコーラスは別にしてね。
――では、その鳥の声の入る《ジークフリート》の〈森のささやき〉これは、オペラのどのへんで聴かれるものですか。
大ざっぱにいうと、オペラのちょうどまん中辺りで、つまり勇猛なジークフリートやブリュンヒルデへのアンチテーゼとしての牧歌的な森の情景や小鳥の歌を、ちょうど中央の第二幕第二場の中ほどから第三場の終りにかけて、ワーグナーは出してきているのです。それで、この森の場面はオペラの中ではとびとびに出てくるのですが、オーケストラのレパートリーになっている版は、それをつなぎ合わせて一曲にまとめているのです。もう少し具体的にいうと《ジークフリート》第二幕の第七一四小節から第一九一五小節までの一二〇一小節の長さの部分から、二二〇小節分をぬき出してアレンジした音楽なんです。むろん、つなぎの部分を少し変更したりしてね。
――ジークフリートは、大蛇ファフナーを刺して、その返り血を吸ってから、小鳥の声がわかるようになるのでしたね。
そうですね。民話では動物と話が通じるのは、異類婚とか、興奮のあまり一種の精神異常になった時とか……。
――それで《ニーベルングの指環》が、いよいよ彼のものになるわけでしたよね。これは、音楽を聴いていれば、分かることですか。
いや、ええとこれはオペラではまず鳥の声がそれを言うんですが、そこの所は〈森のささやき〉の音楽でも、ちょうど中央の、木管にグロッケンシュピールが加わって小鳥のモチーフを奏する所に当たっているんです。しかし、そのあとで、オペラではアルベリヒとミーメのいさかいがあって、そこへじっさいに財宝を手にしたジークフリートが出てくるので、そこで《ニーベルングの指環》のライトモチーフや《ラインの黄金》のライトモチーフが出るのですが、その場面は管弦楽曲の〈森のささやき〉には出てきません。つまり管弦楽曲では第三場の前半はカットされているのでね。第二場の終りから第三場後半の、もう一度小鳥の声がきこえる所にとんでしまうのです。
――とにかく、ドイツ人にとって、森というのは、きってもきれない関係がありそうですね。
ええ、そして今でもライン河流域のヴォルムスという古い教会のある都会……、ああ、そこが《神々のたそがれ》のギービッヒ家の館のある所ですが、今日、そこから東へ向かってニーベルンゲンシュトラーセと名づけられた街道が走っていて、それに沿った所にれっきとしたジークフリートの森というのがあるのです。まあ、そこがジークフリートが闇討ちに遇った旧跡ということになっているんです。
――《神々のたそがれ》から〈ジークフリートのラインへの旅〉と〈葬送行進曲〉、これらはよく演奏されるものですね。
そう。昔トスカニーニのSPレコードなんかで、この場面だけを聴いて、ワーグナーってのは何て大げさでいやらしいのか、と大いに失望したものですが、四時間半になんなんとする大ドラマのひとこまなんです。いや、一四時間半かかる全四部作の焦点というべきですかね、この〈葬送行進曲〉は。
――ええ、とにかく壮烈無比! 普通のホトケ様なら、生き返ってしまいそうですね。ジークフリートは《ニーベルングの指環》をもっていたわけですね。それで、彼は、なぜラインにおもむいたのですか。
「英雄の本性から、新たなる冒険を求めてさすらいの旅にのぼった」と普通そう説明するでしょう。つまり、それが民族大移動を経験したゲルマン民族の騎士の習性だったんじゃないですか。一種の武者修行ですかね。それから〈ラインへの旅〉というのはライン河を遡っていく舟旅のことなんですよ。中世のニーベルンゲン伝説によれば、ジークフリートの両親のジークムントとジークリンデの館はライン河のずっと下流の今日のクザンテン、これはオランダとの国境に近いドイツの町ですが、ここにありました。ジークフリートはそこから舟で七日間遡って、さっき言ったギービッヒ家のグンターの館のあるヴォルムスにきたのです。ここは一時ブルグントの宮廷のあった所ですがね。
ともかくクザンテンとヴォルムスの間の距離は、地図の上だと直線で約二〇〇キロ、河はうねうねしているから、その倍くらいはあるかしら。小舟で遡って七日というのはいい線かもしれません。その「ジークフリートのライン河舟行記」の音楽というわけですよ、このメSiegfrieds Rheinfahrtモというのは。
――その挙句に殺されて、いよいよ〈葬送〉となるわけですか。
ニーベルング族のハーゲンの闇討ちによってね。しかし、神々族のエースたるスーパーマンにもぬかりがあった、泣き所もあったというのが物語としてはおもしろいわけです。
――さて、話を戻して、第一作《ラインの黄金》〈ワルハラ城への神々の入城〉というわけです。これは、《ラインの黄金》の最後のところですね。
そうです。ヴォータンを首長とする神々族が、まだたそがれる前の、栄華の最後の余映の残っていた時代のことですね。たそがれるきざしはすでに出ていたけれど。
――とにかく、コンサート・スタイルで聴いてもオーケストラの醍醐味ここに極まれり、という気がしますね。このワーグナーの影響は、いろんな点で大きいでしょうね。
そうですとも。とくにオペラ、もう少し広く劇音楽一般は、今なお何らかの意味でワーグナーの傘の下から逃れていませんよ。
●〈ワルハラ城への神々の入城〉 ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈82〉(ロンドン○D)
●〈森のささやき〉 同右
●〈夜明けとジークフリートのラインへの旅〉 テンシュテット指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団〈80〉(エンジェル○D)
●〈ジークフリートの葬送行進曲〉同右
ジークフリートの牧歌
妻コジマへの誕生日プレゼント、愛すべき小品
――これは、妻コジマへの誕生日の贈り物でしたね。
そうです。長男ジークフリートの生まれた翌年、一八七〇年のクリスマスの日、この日がまた、うまいことにコジマの誕生日なので、朝早く、コジマに気づかれないようにワーグナー家の階段に一五人のプレイヤーを配置して彼の指揮で初演したのです。その時はヴァイオリンとヴィオラとクラリネット二人ずつ、他は一人ずつで演奏しましたから室内管弦楽みたいなものでしたが、ふつうのオーケストラの音楽会でやるとすれば、弦の人数を少し減らすくらいでやります。管も薄い編成なのです。
――それでオペラの《ジークフリート》との関係は?
内容的にはまったく無関係ですが、息子にジークフリートと命名したので、オペラのモチーフの中の目立つのをいくつか持ってきて、はじめから、それが大活躍するわけです。ドイツ民謡の「子守歌」も出ます。これはオペラ以外からの引用です。まあ、ワーグナーとしては例外的な、愛すべき小品ですね。
●ベルリン・ゾリステン〈89・90〉(テルデック○D)
フランク
C市ar Franck
(ベルギー)
1822〜1890
交響曲 ニ短調
レント―アレグロ・ノン・トロッポ
アレグレット
アレグロ・ノン・トロッポ
成熟した楽想と稚拙に近いぎこちなさ、アンバランスが魅力
――フランクが、どこの国の作曲家かというのは、ほんとうに、むずかしい問題ですね。ただ、この交響曲を聴いておりますと、彼の父親がいわゆるドイツ語圏の人であり、母親もドイツ人だったということが、ひじょうにクローズアップされるように思いますが。
彼はベルギーのリエージュ生まれですが、一三歳のとき、一家でパリにきています。しかし、彼をフランスの音楽家だと思うと、やはりひじょうにドイツ的です。しかし、純ドイツ的な指揮者やオーケストラは、あまりフランクをやりませんね。フランスのオーケストラのほうがもちろん、多くとり上げているでしょう。ドイツ人はやはりブラームスにくらべると異質的に感じるらしいです。感覚的な面が強いですからね。
――フランクのお父さんというのは、音楽家フランクにとって、いわゆる「良いお父さん」だったのですか。
さあ、どうでしょうか。とにかく、息子をリストばりのピアノの名手にしたかったのです。それでフランクはピアニストにもなり切れず作曲家にもなれず、どっちつかずのまま前半生をオルガニストとして、自ら教会の中に逃避した、という感じがします。青年時代から壮年時代を通じてずっとそうだったのですから、何だかずいぶん廻り道をした作曲家のように思えます。もっとも、三〇歳の時のオペラが、パリのオペラ・コミックで上演された、などという記録はあるにはあるのですが。
――それで、晩年になって、はじめて聴衆がフランクの音楽を理解したというエピソード。これは、よく知られていますが、それまで彼の才能を認める人はなかったんでしょうか。
それはいたでしょう。ただ、若い頃の作品に協奏曲や交響曲がないので、大衆的な成功はあり得ません。しかし、今日ならそんなことはごく当たり前かもしれないのです。何しろロマン派の時代は多数の聴衆の拍手喝采が、作曲家の評価や地位や以後の活動に直接大きく影響したから……。今日では、そういう意味では前衛作品は、はじめから大衆に接触していませんからね。
――国民音楽協会というグループのことですが、これは近代フランス音楽を語る場合には、ほとんどといってよいほど、つねに話題になるでしょう? これと、フランクとの関係については、どうなんでしょうか。
これは一八七一年、つまり普仏戦争――プロシアとフランスとの戦いでフランスが敗れて、文化的にも立ち直らなければということで、一種の精神復興運動みたいなものが起こりました。下らないオペレッタなどより、まじめな器楽を大いに作曲し鑑賞しようということで、サン=サーンスが音頭をとって、フランクなどがその跡をついだ運動なのです。結局のところ、精神的な、内容的な、また構造としてはドイツふうのガッチリした音楽がフランスに根をおろすキッカケとなったのではないでしょうか。
むろんサン=サーンスだって、フランスのエスプリに満ちてはいますが、フランクやその弟子、いわゆるフランキストのダンディなどは、かなり親ゲルマン的といえるでしょう。フランキストと言えば、ボエルマンのチェロとオーケストラの交響的変奏曲などはフランクそっくり、まずフランクの亜流です。そういう一連の楽派は、パリのコンセルヴァトワールの伝統とは、ちょっとちがいます。そのボエルマンもニーデルメイエー音楽学校の出身です。ともかく、フランク晩年の弦楽四重奏曲も国民音楽協会で初演され、そしてそこに集まる聴衆に理解されたのです。
――そして、「やっと俺の音楽は理解された」ってことになるわけですね。それでは、最後におたずねします。結局、フランクは、どんな人だったんでしょうか。
一口でいえば、イタリアのロッシーニのような早熟で饒舌な、職人的天才とはまさに正反対の作曲家、と言えるでしょう。表現すべきものはいっぱい持っているのに、何しろ若い時から作曲の修業が足りません。作品にまとめる経験が足りない、と言うより、じっさいにオーケストラ作品を鳴らした経験が明らかに足らないのです。
大規模な作品はほとんど六〇歳すぎのものですが、したがって、ひじょうに成熟した楽想と、ぎこちない、稚拙というに近いほどの作曲技術とが同居しています。その率直さが彼の一種の魅力にちがいないのですが……。ただ、彼の若い頃の嬰ヘ短調のピアノ三重奏曲や数々のオルガン曲は、なかなかすばらしいのですが、何か一つ、ふっ切れていません。それは結局、ラテンとゲルマンの両方から足を引っぱられていた、ということかしら。
まあ、彼がどんな人だったかということはむずかしいけれど、少なくとも若いうちは他からの影響を受けやすい、弱い性格だったのじゃないでしょうか。六〇歳になってやっと左右を考えずに自分の道を歩けるようになった……。
――そして、往来で馬車のかじ棒に、わき腹をひっかけられて、肋膜を患って死んだ。考えれば淋しい一生でしたね。
フランクの交響曲の冒頭を聴くと、どうしてもリストの交響詩《レ・プレリュード》の冒頭を思い出します。リストで二度目に出る時はニ短調なので音程まで同じですからね。第二楽章ではイングリッシュ・ホルンが主題を吹いて、当時の人々から非難されましたが、ハイドンの《哲学者》という第二二番の交響曲にすでに使われていたし、その後はドヴォルザークの交響曲《新世界から》の第二楽章に出てきます。当時のフランス人は、ハイドンの用例を知らなかったのでしょう。
●ビシュコフ指揮 パリ管弦楽団〈90〉(フィリップス○D)
交響的変奏曲
レント―アレグロ・ノン・トロッポ
アレグレット
アレグロ・ノン・トロッポ
標題のない交響詩の構成
――私は、長いこと、フランクはフランス人だろうと思ってたんです。
フランクが何国人かということについては、四通りくらい考え方があり得るのです。まず最初に両親の国籍からいえばドイツ人なのです。彼らが結婚したのは西ドイツ・ラインラントのアーヘン――というのはベルギーの国境にごく近い所ですが――で、その後両親はリエージュに移ったのです。彼は、そこで生まれたんです。ですから、国籍を尊重してベルギー人だということもできる。
しかし、ベルギーという国はご承知のように、北部のオランダに近い、フラマン語を話す地域と、南部のフランスに近い、フランス語を話す地域に大別されます。その両地域は芸術、文化の傾向が非常にちがいます。リエージュはその南部のほうにあるので、フランクをワローンの作曲家と呼ぶこともあります。
最後に、現実的な考え方として一三歳でパリに出てコンセルヴァトワールに入り、生涯パリで活躍して、しかもフランスの音楽界に大きな貢献をしたのですから、当然フランスの作曲家と呼んでもおかしくないわけです。
――フランス人は彼を“ペール・フランク”と呼ぶんですね。フランクの生まれた家庭は、音楽的な環境に恵まれていたのでしょうか。
フランクのお母さんは代々画家の家系だったのです。父親は銀行家でしたかしら……。だから芸術的な環境は母方のほうにあったのでしょう。お父さんは息子をリストばりのピアノの名手にしようとしたけれど、息子のほうはそんなことより作曲がやりたくて大いに反抗したらしい。
結局、若い時はピアニストのほうも作曲家のほうも芽が出なくて、どっちつかずのまま、オルガニストという職業の中に逃避した、という感じです。そのスランプの裏には民族的な問題もあったことが想像されます。
つまり彼は自分をパリのスタイルに、容易に同化させることができませんでした。それで初期の習作を別にして五〇歳代の半ばを過ぎるまで、ほとんど作曲をやらなかったのです。教会音楽だけは書いていましたが、純芸術的なものは書いても、パリで受けいれられないことが自分でよく分かっていたからじゃないでしょうか。
――これまで、フランクという作曲家は、俗世間的な評判や名声には全く心を動かさず、世の中に受けいれられるかどうかということなど、考えもしなかった人だと教えられてきたんですけれど……。
ところが、ベートーヴェンであれば弦楽四重奏曲第一六番(作品一三五)を書いてお墓へ入ってしまった頃から、フランクはがぜん、大作に手をつけはじめました。私たちが今日聴くフランクの音楽は、ほとんど六〇歳くらいからあとの作品ばかりです。つまりその頃から、世に受けいれられようと、いれられまいと、どうしても書かずにはいられなくなった、ということでしょう。
そこで、人生経験や一般的な音楽体験は豊富だが、純粋な作曲経験はあまり持っていない、という奇妙な作曲家が誕生したのです。成熟度の高い楽想と、わざと大胆に使ったギゴチない技法との間に奇妙なアンバランスの感じられる作品、まさにそこにこそフランクの魅力がある、といってもいいのですが、そういう作品の一群が生み出されたのです。
五七歳から六七歳までの一〇年間に、作曲順にいいますとピアノ五重奏曲、ピアノのための《プレリュード・コラールとフーガ》、交響的変奏曲、イ長調のヴァイオリン・ソナタ、《プレリュード・アリアとフィナーレ》、ニ短調の交響曲、弦楽四重奏曲といったところです。
――そうそう、この弦楽四重奏曲の初演で、ようやく聴衆の喝采を博したのでしたね。
そうなんです。それでフランクは子供のように目を輝かせて、やっとみんなが自分の音楽を分かってくれた、と言ったそうですが、その時彼は六八歳で、数ヵ月あとには世を去ったのですから、ずいぶん報われることの薄かった作曲家と言えます。
――理解され始めるきっかけになったものは何だったのでしょうか。
前に触れましたが、パリの音楽の趣味が、サン=サーンスの「国民音楽協会」などの努力によって、だんだんまじめな器楽のほうに向けられてきたこともあるでしょう。また、そろそろもう一つ新しいドビュッシーの作品が世に出始めた頃だから、それに引きくらべればフランクのほうが分かりやすい、ということもあったでしょう。
――それにしても、やはり不運な作曲家ですね。
そうです。前述したように乗合馬車にぶつかったのですね。そのあとレッスン先で、交響的変奏曲の第二ピアノ、つまりオーケストラ・パートを奏いたというのです。そんなことで悪化したのかもしれない、数ヵ月後になくなった……。
以前にラジオの番組で“事故で死んだ音楽家”という雑談的放送をやった時、調べて貰ったら、ふしぎなことにフランス人音楽家にひじょうに多いのです。リュリが指揮用の杖で足をつついて、その傷が化膿して死んで以来、フランクの乗合馬車との衝突による死亡、ショーソンの自転車事故死などがあります。
それからフェルーという作曲家とパリ音楽院長だったデルヴァンクールの自動車事故死、ヴァイオリニストのティボーと女流ヴァイオリニストのヌヴーがいずれも飛行機墜落、それからラヴェルだって自動車の衝突による脳の神経障害が原因で五年後に死んだのです。これはフランクと似たケースです。
――彼は、すぐれた教師だったようですね。フランクを信奉する後輩たちのことを、フランキストというのでしょう。その中で、一番弟子といえば……。
まあフランクの一番弟子というとヴァンサン・ダンディということになるし、彼が創立して校長におさまった「スコラ・カントールム」はフランクの精神を受けつぐものでしょう。フランキストの名の下に集まった、反印象主義的、親ゲルマン的フランス楽派ということでしょうか。
しかし、チェリストがよく奏くボエルマンの交響的変奏曲という曲などはモチーフまで似ていて完全なフランクの亜流です。まあ、やはりフランキストの中には教育家として活動した人が多いでしょう。
――ところで、この交響的変奏曲は名曲のわりに演奏される機会が少ないのではないでしょうか。とにかくユニークな変奏曲だと思うんですが。
これは変奏曲としては特殊なもので、まあ中央部に主題と六つの変奏が、はっきり認められるけれど、その前にテーマのモチーフと関係のある長い序奏と、そのあと静かな後奏の部分があり、さらにまたモチーフの変形を展開させた長いフィナーレがついていて、標題のない交響詩みたいな構成です。形の作り方としては《プレリュード・コラールとフーガ》などにも通じるものです。いわゆる変奏曲の仲間としては異例のものです。
●シャイー指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、ボレット(P)〈86〉(ロンドン○D)
スメタナ
Bedrich Smetana
(チェコ)
1824〜1884
連作交響詩《わが祖国》
〈高い城〉〈モルダウ〉〈シャルカ〉〈ボヘミアの牧場と森から〉〈ターボル〉〈ブラニーク〉
チェコの自然と歴史を六曲の連作交響詩に托す
――スメタナという人は「ボヘミア音楽の父」……、かどうかは別として、少なくとも、たいへん功績のあった人ですね。
ええ、オペラと交響詩、室内楽を通じて、ドヴォルザークと共にもっとも知名度の高いボヘミアの、つまりチェコの作曲家と言えるでしょう。プラハで劇場の指揮者もやっていますが、五〇歳くらいで耳が聞こえなくなったので間もなくやめていますが……。
耳が聞こえなくなっても作曲はもちろんつづけ、少しは自作品の指揮やピアノ演奏もやっていたようですが、だんだん精神の平衡が失われていって、幻覚が現われたりするうち、最後には狂暴性をあらわしたので、精神病院に入れられてしまったのです。発作の最中に死んだと言われていますがね……。
――まあ、ボヘミアといえば、民族主義的な音楽を論じるときには、必ずといってよいほど、引きあいに出されるのですが、これは、どういうことなんでしょうか。ずいぶん、強国の勢力拡張の犠牲になったわけですね。
これは少し逆説的な表現になるかもしれませんが、要するにボヘミアは民族的には西スラヴのチェヒ人の国ですが、一七〜一八世紀には音楽文化的には完全にドイツ・オーストリアの音楽文化圏に入っていて、そのためにボヘミアの音楽文化がひじょうに高められたのです。つまりオーストリア帝国の勢力拡張の犠牲になったということと、ボヘミアがいち早く中央ヨーロッパの音楽水準に到達して、いつも民族音楽といえば、まっさきに引き合いに出されるという事実とは表裏一体になっているのです。
ボヘミアというのはチェコの地理的には西の半分です。そこは東西のドイツにぐっと首をつっ込んだ形になっていて、首府のプラハはウィーンからは北北西の方角に当たります。だからプラハはいわゆる東欧諸国の首都の中では桁はずれに西に寄っているわけです。何しろベルリンとウィーンを一直線に結んでみると、プラハはその線上より西に外れるのです。ちょっとそうは思えないでしょう? だから民族的な色彩も比較的淡白で、ドイツ・オーストリア音楽文化の地方的変種といってもおかしくないくらいです。少なくともハンガリーのジプシーやマジャール民族の音楽やスペインの諸地方のほうがずっとエクゾティックです。
決してスメタナは突然出てきたのではなくバロック以後、ボヘミアを含めたチェコには相当に力のある作曲家だけで数十人も出ていて、そういうプラハの厚い音楽文化層の中からスメタナは出てきたことを忘れてはいけないと思うのです。しかも一九世紀のごく初頭以来、チェコの国民音楽の創造ということは、かなりはっきりした形をとっていて、一八〇三年には音楽家協会が、一八一一年にはプラハ音楽院ができて、まずオーケストラ・プレイヤーの養成を目標においたというのです。コーラスのグループなどもできました。そこへ一八二四年生まれのスメタナの登場です。だから、彼が作曲家として国民音楽の創造を目ざした人のうち、最初の天才であるにはちがいないけれど、そういうことを志した最初の人とは言えません。その時点で、下地がある程度できていた、と言えます。
――それで、その理想は、どの程度達成できたのですか。
それは考えようですね。オペラ《売られた花嫁》や《わが祖国》などを完成したけれど、さっきも言いましたように五〇歳で完全に耳が聞こえなくなっているので、必ずしも十分に達成できたとは言えないかもしれません。しかし、ドヴォルザークはスメタナあってのこととも言えますからね。また逆にロシアのグリンカが作曲した国民歌劇《イワン・スサーニン》が一八三六年であることを考えれば、スメタナの《売られた花嫁》が一八六六年で、三〇年も後になってからです。
ということはあまりにドイツ・オーストリア化されていたので、ボヘミア人は自らを発見するのが遅かった、と言えるのではないでしょうか。音楽文化そのものは、実はロシアよりずっと高かったのです。しかし、スメタナ、ドヴォルザークそしてヤナーチェクあたりで、はっきり民族性をあらわしたチェコの作曲家も、マルティヌーやハバやワインベルガーなどでは、逆にそれほど民族色は打ち出していません。やはり西にひじょうに近いということですね、この国が……。
――ところで《わが祖国》ですが、これは交響詩集というわけですね。これは、やはり、リストの系統に属するわけでしょうか。
まあ、そうですね。しかし、チェコかロシアの有名でない作曲家に先例があるかもしれません。スメタナがリストとかなり親しかったことは事実ですが。
――彼は、ほかにも、交響詩を書いたのですか。
少なくとも三つあります。どれも《わが祖国》よりだいぶ前ですが。一八五八年の《リチャード三世》、一八五九年の《ヴァレンシュタインの陣営》、一八六一年の《ハーコン・ヤルル》の三つです。この頃スメタナはスウェーデンのイェーテボリー――ドイツ式にはゲーテボルクですが――管弦楽団の指揮者を三年ほどしていたのです。その時代の作です。そこから一八五九年、三五歳の時プラハに戻り、《わが祖国》に手をつけたのが五〇歳ですから、だいぶ年代がちがいます。
――では、この《わが祖国》について、一曲ずつ、お話を伺いましょう。まず〈ヴィシェラード〉。これは「高い城」と訳されていますが……。
私もチェコ語は分かりませんので……。何でも砦の廃墟らしいですね。過去の栄光を描くというのだと、ムソルグスキーの〈キエフの門〉と同じアイディアでしょうかね……。
――はじめ、ハープで弾き出される旋律は、二曲目の〈モルダウ〉にも出てきますね。
ええ、冒頭のB‐Es(変ロ‐変ホ)の跳躍はB・S、つまりスメタナの頭文字の象徴らしいですよ。シューマンが盛んにやっているのをまねたのでしょう。〈モルダウ〉のクライマックスではホ長調になっていますがね。
――つまり、ハープは、吟遊詩人かなんかのたて琴のひびきを象徴しているということなんでしょうね。ところで、〈ヴィシェラード〉という城は、由緒のあったものなんでしょうね。だから、「モルダウの流れも挨拶して行く」わけでしょう。
そういえば、ポケット・スコアの〈モルダウ〉のコーダの所にVysehrad Motiv. と書いてあって、いったい何のことかしらと長年思っていたのが今はじめて分かりましたよ。
――では、次に第二曲の〈モルダウ〉。これは有名ですね。「ふたつの泉が、ボヘミアの森かげから湧き出て……」という説明は、もう暗誦するほど聞いておりますが……。
何といっても〈モルダウ〉では、スメタナもサービスしています。メロディーがいろいろ聴こえますからね。構成も念が入っているし……。そしてモルダウはエルベに合流する。プラハのじき北方でヴルタヴァはラーベに合流するのです。ヴルタヴァすなわちモルダウで、ラーベすなわちエルベです。エルベの水源はスロヴァキアかしら……。スメタナにしても、五〇歳近くなって、やっとチェコ語の勉強をはじめているのです。だから音楽語法だってほとんどドイツ・オーストリア的になるわけです。リストも一生ハンガリー語の読み書きはできなかったのですからね。
――では、次に、第三曲〈シャルカ〉。なんですか、このシャルカっていうのは……。
プラハ近郊のロマンティックな渓谷の名で、何でも一四世紀以来の伝説があるのだそうです。元来チェコのアマゾンというんだから女傑の名前なんでしょう。その女は恋人に裏切られた腹いせに、女軍を率いて男の兵士を片っ端から殺したんですって。曲もはじめから物すごい勢いです。ワーグナーの《パルジファル》の魔女クンドリーのライトモチーフみたいです。スケルツォふうで六曲中いちばん短い曲ですね、これが。
――つまりシャルカの復讐というわけですね。第四曲は〈ボヘミアの牧場と森から〉。
これは〈モルダウ〉と甲乙ない、変化にとんだいい曲です。これも独立して演奏されることが多いです。メロディアスなモチーフが多く使われているから親しみやすい曲です。
――第五曲〈ターボル〉。これは?
町の名です。プラハからほとんど真南にオーストリア国境に向って半分くらい行った所です。フス教徒の本拠だった所です。コラールみたいな旋律が出ますが、これはフス教徒の軍歌らしい。
――そうそう、スメタナも、フス教徒でしたね。その、フスの宗教改革運動というのは、たしかカトリック教会に対して向けられたものでしたよね。すると、さっき、いわれた軍歌みたいなコラールは、さしずめ、チェコの「フィンランディア」というわけですね。
そういえば似ています。むろんこちらのほうが古いですが。
――それでは、いよいよ、最後の作品、これは〈ブラニーク〉というのですが、この曲のはじめと、さきの〈ターボル〉の終りは、よく似ていますね。
ええ、今の軍歌のファンファーレが第六曲のモチーフにもなっていて、つまり内容的に続編のような具合になっているのです。敗れたフスの騎士たちがブラニークの山にたてこもり、そこに葬られている、というらしいですから。
――つまり史蹟ですね。それで、最後に、また〈ヴィシェラード〉の旋律が出ますね。栄枯盛衰の歴史を、今にしのぶというわけでしょうか。ところで、《わが祖国》は、はじめから、連作交響詩として考えられたのでしょうか。いまの〈ターボル〉と〈ブラニーク〉はともかくとして。
第一と第二、第五と第六がモチーフを共有していて、しかも第六に第一、第二のヴィシェラード・モチーフが出て首尾一貫させていることや、また第二、四、六、の三曲が重い作り方で第一、三、五はどちらかというと、それらの前におかれた前奏の感じが強い。まあ第三など短いです。それに完成順序も第一と第二が一八七四年完成、第三と第四が一八七五年完成、第五が七八年、第六が七九年という具合に二曲ずつ一対にして書いています。
ただペアにして初演されたのは最初の組(一八七五年)と最後の組(一八八〇年)だけで、第三(一八七七年)と第四(一八七六年)はばらばらに初演されています。しかし、全六曲を一連の交響詩と考えていたのは明らかで、すでに一八七二年頃から、その構想をもっていたということです。
●クーベリック指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団〈90〉(スプラフォン○D)
歌劇《売られた花嫁》序曲
ヴィヴァーチッシモ(ヘ長調 二分の二拍子)
悲劇的な生涯の痕跡など見当たらない非常に軽快で楽天的な曲想
――スメタナはチェコ音楽の父とか……。
ええ、チェコも当時はボヘミアといって、オーストリア帝国の一部分だったのです。しかし、だんだんに音楽ばかりでなく、いろいろな芸術の中から自分たちの民族の特質を押し出していこうとする、いわゆる民族主義運動の機運があって、《売られた花嫁》などはその先駆といえます。一八六六年の初演ですが、ただ序曲は一番最初に書き上げられているので、その三年ぐらい前になります。
――音楽における民族主義とは、底に流れるものは、ドイツ・オーストリアの文化圏にあったと言えますか。
そう、作曲とか演奏の技術は、すべて中心のウィーンから流れてきたものです。しかし、その民族主義は、まずロシアでグリンカや「五人組」から出てきたわけで、チェコのほうが若干遅いのです。ウィーンに近すぎたために、あまりにもオーストリア帝国の支配力というか影響力がつよかったからだといえましょう。ボヘミアにはバロック時代から、ロシアよりむしろ高い音楽生活があったわけですが、はっきり民族的な色彩を打ち出すチャンスはスメタナの時代までなかったのです。
――ボヘミア人の音楽家が中心となって出来たマンハイム楽派というのがありますね。
バロック時代の終りごろ、一七四〇年代からの三〇年間です。モーツァルトが二一歳の時の大旅行で、往きにマンハイムに寄ったときは楽団があったのに、帰りに寄ったときには、もうミュンヘンに移っちゃっていたわけで、一七七八年までです。
――ボヘミアの音楽家は、ほかの国々にも進出していたわけですね。
ボヘミアン気質といいますか、ジプシーとは違いますが、ベルリン、パリ、ロンドンなど各地に散らばって生き生きとした音楽を演奏していたんです。
――耳がだんだん不自由になってきて、なにかの音が聞えたということで作られた弦楽四重奏曲第一番がありますね。
生涯の悲劇を自叙伝風に弦楽四重奏曲の中に反映させたものですが、あの曲は、この《売られた花嫁》序曲などの軽快な曲想からはちょっと想像できません。スメタナは、この国の揺籃期に出た天才で、世にいれられず、孤独で風変わりな生活を送り、最後には狂気のうちに悲劇的な生涯を閉じることになったのですが、この曲は非常に楽天的で、いまだその痕跡さえもとどめていません。
●ビエロフラーヴェク指揮 プラハ交響楽団〈87〉(デンオン○D)
ブルックナー
Anton Bruckner
(オーストリア)
1824〜1896
交響曲 第一番 ハ短調
アレグロ
アダージョ
スケルツォ、急速に
フィナーレ、運動的に、火のように
一つの作品が永久に書き直されてゆく現代的な芸術観
――ブルックナーの交響曲というのは、ベートーヴェンの九つの交響曲の系列の上に、おかれるべきものなのでしょうか。
ワーグナーというクッションがあります。しかもウィーンという都会のものではなく、やはりオーストリアの田舎の地方色を見ないわけにいきません。だから価値が低いなどというのでは毛頭なしにですよ。
――オルガンばかり奏いていて、よく、オーケストラを知る機会が、あったものですね。
ラジオもレコードもない時代なのにね。それは冗談ですが、こういう天才は生まれつき知っているのですよ。しかし、オルガン音楽の響きがオーケストレーションに出ていることは言えますね。これはセザール・フランクについても同様ですが……。とにかく一つの局面の持続が長いこと、コセコセ運動しないこと、あふれるような音量、それらはみんなオルガン音楽の特徴じゃないかしら……。それから、彼も修道院の中にばかりいたわけではありません。リンツやウィーンでたびたびなまのオーケストラに接していたはずです。それにしても、都会育ちの音楽青年ほどには、オーケストラによるモーツァルトやベートーヴェンをたくさん聴いてはいなかったことはたしかでしょう。
――交響曲第一番は、ブルックナーの最初の交響曲ではないのでしたね。第零交響曲というのも、ブルックナーでしたっけ?
ええ、この第零番なんて誰がつけたのかな? ちょっとこの辺は複雑でして、つまり次のようになっているのです。
交響曲ヘ短調 一八六三年二月〜五月
交響曲ニ短調(第零番)一八六三〜六四年原作、一八六九年改作完成
交響曲ハ短調(第一番)一八六五〜六六年原作
だから第零番の前にもう一つマイナス一番があるのです。実質的に第一番は三番目の交響曲ということになります。
――でも、この交響曲第一番は、いわゆる習作の段階を卒業したあとに生み出された最初の交響曲とみて、よいわけでしょう?
これは何ともむずかしいですね。一作一作の積み重ねですから、どこまで習作でどこからほんとうの作品かということはちょっと……。ただ、よく言われるように、ほんとうにブルックナー自身が零番という名をつけたのだとしたら、その辺のこともあるし……。
――いずれにせよ、彼の、もっと後の交響曲とくらべると、かなり違うんでしょうね。はじめは、やはり「ブルックナー開始」とかいうスタイルですか。
やはりあらゆる意味で古典的なまとまりが感じられます。「ブルックナー開始」は後の交響曲におけるほど、はっきりしてはいません。さてブルックナーの交響曲には、いろいろな版があります。音楽辞典の『MGG』(Musik in Geschichte und Gegenwart.『歴史と現代の音楽』)にブルーメが書いている項目から要約してみると、交響曲第一番は次のようです。
第一のFassung(版)、これを「リンツ版」といいますが、それは、
第一楽章 一八六五年五月一四日了
第二楽章 一八六六年一月から四月一四日まで
第三楽章 一八六五年五月二五日了
第四楽章 一八六六年七月二六日了
以上の初演が一八六八年五月九日、リンツにてブルックナー自身の指揮です。ところが、第三楽章のスケルツォはミュンヘンで一八七七年とさらに一八八四年の二回書き直され、フィナーレに至っては一八八九年から九〇年にかけてほとんど改作されてしまいました。さらに、第二のFassung(版)、これを「ウィーン版」といいますが、これは、
第一楽章 一八九〇年一〇月二七日〜九一年一月一二日(さらに三月と四月にも改作)
第二楽章 一八九〇年八月一八日〜一〇月二四日
第三楽章 一八九〇年七月五日〜八月一七日
第四楽章 一八九〇年三月一二日〜六月一九日
で、これはウィーン大学から名誉博士を貰ったお礼に大学に献呈され、一八九一年一二月一三日ウィーンでハンス・リヒターが初演しています。このウィーン版の改作期間は、もう第八番を完成して第九番にかかる直前の時期ですよね。一八九三年にウィーンのドブリンガーが出版した第一番は、このウィーン版で、その後一九三〇年代に入ってブルックナー協会のいわゆる「オリジナル版」、つまり「リンツ版」がようやく世に出ることになったのです。もっともこの曲の場合、一八六八年にリンツで初演された形と、その改作版と、いわゆるウィーン版とその三者とも、じつは全部オリジナルと言えるわけで、ブルックナーはじつに厄介なことをしたわけです。
しかし、そこにまさに、彼の音楽の特徴があるとも言えます。一つの作品が永久に書き足され、書き直されていく状態にあるということは、きわめて現代的な芸術観とも言えるわけで、要するに細部をきっちりきめることなど、彼にあっては問題ではないとも言えるのです。
――ブルックナーの交響曲の魅力というと、どういうことになりましょうか。さきほどの「ブルックナー開始」のように、ブルックナーの交響曲における特徴といったものもあれば、あわせて指摘して下さいませんか。
今のことと関連しますが、結局モチーフやテーマをつかまえて古典派ふうに展開するというより、ブルックナーでは、あるイメージなり世界観なりを音楽的にメタモルフォーズさせていく、そのプロセスに重点があると思うのです。ですからそれを幾通りにも書きあらわすことが可能なわけで、そういった力の変化、モチーフの変容、変態がブルックナーの大きな魅力です。それとさっき触れた響きの上での独特なものが加わりますが……。
●インバル指揮 フランクフルト放送交響楽団〈87〉(テルデック○D)
交響曲 第四番《ロマンティック》変ホ長調
速く活発に、しかしすぎずに
アンダンテ、アンダンテ・クワジ・アレグレット
スケルツォ、速く活発に
フィナーレ、速く活発に、しかしすぎずに
「中世騎士物語」をテーマに素朴で壮大なロマンティシズム
――ブルックナーの交響曲は、ベートーヴェンと同じく、最後は第九番でしたね。
そうにちがいないのですが、第零番と呼ばれているものと、さらにそれ以前に一曲あるので、まあ一一曲ということですね。しかし、第九番で打ちどめというのが多いのは不思議です。
――マーラーでしたね、たしか、第九番という番号を避けようとしたのは。
九番目を《大地の歌》としたのです。ショスタコーヴィチはわざと軽い曲にしました。シューベルトは以前は第八番止まりだったのが、第七番を第九番に繰り下げて仲間入りしました。と思っていたら、ドヴォルザークまで、初期の四曲を数え込むことにして、昔、第五番といってた最後の《新世界から》が近頃第九番になっちゃった。今度は誰の番でしょうね、チャイコフスキーあたりかな?
――とにかく、ブルックナーの交響曲全一一曲の中で、この第四番《ロマンティック》は、もっとも聴く機会の多いものでしょうね。この《ロマンティック》という標題は?
自分でそう呼んだものらしいですね。はじめ手紙の中でね……。語源を掘り下げれば厄介な言葉です。そもそもラテン語方言であるロマンス語で書かれた中世の騎士物語のもつ雰囲気からきているのです。とにかく、ブルックナー自身、この曲に標題を書きしるしているそうです。
それによると第一楽章は「中世の町―暁の時刻―朝を告げる合図が町の塔からひびいてくる。城門はあけられ、立派な馬にまたがって騎士たちは、野外へと駆って出る。美しい森が彼らを受け容れ、森はささやき鳥は歌う、みごとなロマンティックな情景である」とありますが、まさに、ブルックナーは「ロマンティッシュ」という言葉を本来の意味で把えていると思います。
こういう中世騎士物語こそロマンティックの源流であって、だからワーグナーの中世伝説の世界こそ、ほんとうのロマンティシズムですよ。壮大な気宇のものであって、たんに甘ったるいものや、熱狂的な昂奮や、いわんや失恋物語なんてものは、ほんとうのロマン的なものとは縁がないんです。ブルックナーの原初的混沌、中世的素朴さ、それにワーグナー的壮大さの混ざり合ったロマンティシズムは、まことに独特かつ真正なものです。
――ワーグナーといえば、この《ロマンティック》も、やはりワーグナーの影響は濃いのでしょうか。
その点ですが第四番のばあい、第七番における、いわゆるワーグナー・テューバ四本の使用とか、第三番におけるいろんなモチーフの借用ほど、あからさまにワーグナー臭くありません。ただ、オイレンブルクの旧版スコアで第四番の第四稿、つまり作曲後一五年たって改訂した一八八九年版を見ることができますが、これとロバート・ハース校訂の第四番のいわゆるブライトコップフの「オリジナル版」、つまりこれは一八七八年改訂の第二稿が中心なんですが、この二つの版をくらべると、ブルックナーは後の第四稿では細部を何となくワーグナーふうに手直ししています。
結局、彼自身もそれを反省して、一八九〇年になって、第四稿よりもむしろ第二稿を決定版とすることにしたのではないでしょうか。第二稿のほうが、はるかに素朴で力強く、何よりブルックナーの個性で鳴りますよ。第四稿は洗練されすぎているし、表現が大げさで効果的すぎ、一口で言えばワーグナー趣味です。
ところが、さらに細かいことを言うなら、第二稿つまり「オリジナル版」の第四楽章フィナーレだけは、じつはブルックナーは一八八〇年の第三稿を採用しているんですが、これはたしかに第三楽章までとは多少スタイルがちがうのです。つまり第四稿に近い感じで、まあ、ブルックナーもフィナーレだけは、多少派手なヴァージョンにしておこうと考えたんじゃないでしょうか。
――しかし、私たちがスコアを見て感じるほど、その相違が音にあらわれるものでもないでしょう。
ええ、指揮者が意識的にこのちがいを強調して演奏するなら別ですが……。まあ第一稿から第四稿までを、並べて奏きくらべてみれば、ブルックナーのワーグナー心酔の歴史が、どのように刻まれているか分かって興味深いかもしれませんがね。ともかく「オリジナル版」といっても、第四番では第三楽章までが第二稿、第四楽章が第三稿だという複雑な事情があるのでね……。
――このブルックナーが、同じころ活躍したブラームスと様式的にもちがい、また、互いに反撥しあったと聞いておりますが。
その通りですが、けれど、ブラームスの大形式の器楽も、やっぱり完全にロマンティックな精神を背景としていると思います。
――このところ、ブルックナーの交響曲は、盛んに演奏されていますが、ひとつ総括的にみたブルックナーの交響曲、とくに作曲のスタイルについては、どうでしょうか。
私はブルックナーの復興は、ある意味で近頃のバロック・ブームにつながるものがあると思っているのです。マーラー・ブームの原因も、これに近いと思うのですが、要するにベートーヴェンのような古典の精神主義に対する飽きがきているのですね。
ベートーヴェンの演奏頻度がつるべ落しに減じていることは前にも話題になりましたが、気を張りつめて、緊張のつよい音楽と向き合うということでなしに、ムード的な音の流れ、突然にあらわれる思いがけない変化、そして官能的な音響美といったものを一般聴衆が求めるようになっています。
おそらく世界的な、未曾有の経済成長からくる生活様式の変化、それに伴う音楽趣味の変化が原因でしょうが、バロック音楽にも、ブルックナーやマーラーやリヒャルト・シュトラウスにも、今申し上げたようなことが共通していると思いませんか。その点ではリヒャルト・シュトラウスがもっともネオ・バロック的で、だからオーケストラでの演奏頻度も高いんです。
――それにしても、ブルックナーは、長いですね。
昔どこに住んでいた時でしたか、銀座でラジオでブルックナーがはじまる所を聴いて、家に帰ったら、まだやってたことがありました。それからテレビのごく初期の頃の話ですが、ブルックナーでは第一ヴァイオリンがえんえんと休む所がよくあって、そんな所ではヴァイオリニストは楽器をひざに立てて一息入れてますよね。それが画面にずっと長い間、大写しで写っていて、なるほど、じつにブルックナーの特徴をとらえたカメラワークだなあと感心したことがありました。
●ヴァント指揮 北ドイツ放送交響楽団〈90〉(RCA○D)
交響曲 第五番 変ロ長調
アダージョ―アレグロ
アダージョ
スケルツォ、モルト・ヴィヴァーチェ
フィナーレ、アダージョ―アレグロ・モデラート
全一〇曲で一つの巨大な宇宙、似かよったスタイルが特徴
――ブルックナーは、一八二四年に生まれて、一八九六年に死んだのですね。ということは、ブラームスと、ほぼ同時代の作曲家ということになりましょうか。
そう、むしろスメタナと同年輩で、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルザークなどよりも古いのですから、ブルックナーはじつに世に認められることが、おそかった作曲家です。
ドイツの聖フローリアン修道院がブルックナーの揺籃の役を果したのですが、一八三七年というから一三歳の時に、そこの少年聖歌隊に入ったのです。そこでただ歌っていただけでなくピアノやオルガンやヴァイオリン、それに通奏低音の奏き方、つまり鍵盤和声の実際を修道院の先生たちに学んだのです。
――しかし、音楽の教育は、そこだけではないんでしょう?
ええ、一八四〇年にはリンツに国内留学みたいな形で行って、一〇ヵ月ほどハーモニーを学んでいます。その後、小学校の先生なんかしたあと、三一歳になってからやっとウィーンでゼヒターという対位法の大家に学んでいます。何しろ晩学なんですよ、この人は……。彼が最初に交響曲を書いたのも、一八六三年から六四年にかけてだから三九歳から四〇歳です。それが今第零番と呼ばれているヘ短調ですが、その時期の序曲や後の三つの〈ミサ〉や合唱などみんな短調です。モーツァルトと正反対でブルックナーは短調が多いんです。
以下第一番が四二歳、第二番が四八歳、第三番は四九歳、そして第五番が五二歳、第八番が六三歳、第九番が七二歳、結局死んだ時の作品で未完成だったわけです。第八番までは二、三年に一作のペースだったのが、年のせいか第九番でスピードが鈍った……。
ところで、ブルックナーの交響曲といえば一昔前までは第四番と第七番ばかりやられていました。いったいどうしてなんだろうと思って調べたことがあるのですが。そうしたら、この二曲だけは当時の大指揮者が初演していて、おかげで最初からひじょうな好評だったのです。つまり第四番はリヒターがウィーンで、第七番はニキシュがライプツィヒで初演しているのです。第五番は若き日のシャルクが振って好評だったとはいえ、場所もグラーツだし、当時のシャルクはとてもリヒター、ニキシュの評判には及ばなかったでしょう。
その他の曲はみんな、ブルックナー自身やお弟子が初演して、さんざんな批評を喰ったのです。だから、一世紀近く経過するまで第四番、第七番には初演の好評という幸運がついて廻っていたのです。だって、第三番以後の第五番、第八番、第九番が、とくに第四番や第七番に劣るという理由は全く考えられないですものね……。
――ところで第五番は、ブルックナーの全交響曲の中で、どういう位置におかれるのでしょうか。
それが、他の人のようにこれが第五番の特徴だ、と断定的に言いにくいのがブルックナーの交響曲の特徴なんで、何しろ全一〇曲、よく似ています。しかし、ヴィヴァルディが同じ協奏曲を六〇〇回書いた、というのとはちがって、ブルックナーはいわば同じ語法、同じスタイルで書かれた全一〇曲で一つの巨大な宇宙を形成している、という感じです。
全体が似ているということは、たとえば「ブルックナー開始」という言葉があること、第一楽章について言えば主題が三個あることや、呈示部が異常に長いといったソナタ形式のデフォルメのしかたが、全部の交響曲に共通していること、主調の持続がきわめて短いこと、スケルツォ楽章に特徴があること、オーケストレーションの上でも第一主題を低音部の楽器がやることとか、ティンパニを活用していることとか、いろいろ全交響曲に共通した要素が挙げられるのです。
そのほかにも四度や五度を重視する旋律の作り方、リズムの特徴、アダージョ楽章の深々とした感じなど、みんな共通です。そのくせ、どれか一つで代表できるというわけじゃなくて、似ているようでひじょうにみんなちがうのです。全体で一つの完結という感じです。呈示部がとくに長いことについては、クルトも「呈示というよりは発展」と言っているほどですが、この第五番の第一楽章でも呈示部が約四割の長さを占めています。
ベートーヴェンの第五番が、呈示部、展開部、再現部、終結部と完全に二割五分ずつで整然と四部に分かれているのと大へんなちがいで、ブルックナーを聴く時にはこの長い呈示部で参ってしまうとおしまいです。ここで頑張らないと……。その代り第五番の場合、四〇パーセントの長さのある呈示部の山を越すと、展開部二七パーセント、再現部二〇パーセント、終結部一三パーセントと漸減していく……。
――なるほどね、そういうものですか。それでは、結局、ブルックナーの音楽における本質的なものを探ると、どういうことになりますか?
まあ、クルトという学者が Weltseele つまり世界の霊魂という言葉で表現しているのですが、ひじょうに魂の深い所からの叫び、といった性格でしょうか。宇宙的とか、世界の誕生のようだとか、いろいろ言われていますが、ブルックナーはわれわれにそういった根源的な創造力を感じさせます。これはちょっと他の人からは得られない種類の感動なんで、ブルックナーのかけがえのない魅力は、まさにその点にあるのじゃないかしら……。そういうことに人々は、長く気がつかなかったのです。カトリックの信仰がいわれた時代もありますが、まあオルガン音楽のアダージョ的ムードは、たしかにブルックナーの基調になっていると思います。
――それじゃ、最後に、もう一度おたずねします。なぜブルックナーは後から交響曲にいろいろ手を加えたのでしょうか。
これは少々複雑です。つまり、ブルックナーの何曲かの交響曲――約半数ですが、これはブルックナー自身で何回か改訂したのです。つまり完成後なかなか初演されずにスコアが手元にあり、また出版のチャンスがなかなかこないので、ちょいちょい手を入れる気になったのですね。作曲後すぐ印刷出版されていれば、こんなことにならなかったのです。
第一番は二つの版、第二番と第三番は三つの版があり、第四番にも校訂版が、第八番にも二つの形があって、言わばそのどれもオリジナルですよ。だから第五番、第六番、第七番、第九番には一応その心配がないのです。ところが、これと別に出版楽譜の問題があります。一九世紀に出版された初版は、弟子のレーヴェに校訂させたので、それぞれ程度はちがいますが、かなりの異同があります。いちばんひどいのが第九番でフィナーレに《テ・デウム》をくっつけて出版したのですが、たぶんベートーヴェンの第九番の向うを張るつもりだったのでしょう。これもレーヴェの仕わざですが……。
この第五番にしても、一八九六年の版ではフィナーレが一二二小節も短くなっているほか、オーケストレーションや強弱、発想など各所に手が入っているらしい。
――国際ブルックナー協会、というのがありますね。この協会は、どういうものなんですか?
とにかくブルックナーのオリジナルに立ち返って、ブルックナーがいろんな雑音に左右されて改訂する前の、最初の版で出版しようという目的で一九二九年に設立されたのがこの協会で、一九五〇年までにローベルト・ハースの編集で一応全集の刊行を完成したのです。今日ではポケット・スコアもブライトコップフから出ています。だいたい今日のブルックナー演奏は、このいわゆる「オリジナル版」でやるようになりました。
――レコードなどでも最近のものは、ほとんど、ハースによる「協会版」、いわゆる「オリジナル版」となっているようですね。でも、「レーヴェ版」のほうがおもしろいという人だって、あるんじゃないでしょうか?
そう、旧版いわゆる「レーヴェ版」もまったく無価値とはいえません。一九世紀末の、ワグネリズム一辺倒のオーケストレーションや、当時の人が妥当と考えた形式がどんなものだったかを知ることができますから。そういう歴史的興味は残ります。
●ギーレン指揮 南西ドイツ放送交響楽団〈89〉(インターコード○D)
交響曲 第七番 ホ長調
アレグロ・モデラート
アダージョ、非常に荘厳に、そして非常にゆっくりと―モデラート
スケルツォ、非常に速く
フィナーレ、動きをもって、だが速くなく
多彩なオーケストレーション、ワーグナーへのオマージュ
――ブルックナーという人は、ほとんど新聞さえ読まなかったときいています。これはもちろん、彼自身の性格によるのでしょうが、ある意味では、それで立派に生活できた時代であったともいえましょうか。
バルトークも、時間が無駄だといって新聞はとらずに週刊誌を読んでいたそうです。まあ生涯のある時期だけでしょうがね。
――とにかく、この真面目人間ブルックナー氏は、修道院にこもって、オルガンを弾いていたんでしょう?
聖フローリアンという村の修道院で、ここに一九世紀に描かれた絵と内部の写真がありますが、なかなか豪壮ですね。場所はドイツ、オーストリア国境のイン河――これはドナウの支流で、上流はインスブルックを通っている河ですが、そのほとりの農村地帯です。はじめこの村の小学校に転入学したのですよ、ブルックナーは。
――彼は、オーストリア人でしたね。だから、モーツァルト、シューベルトの後輩になるのですね。
生まれはアンスフェルデンといってリンツのすぐ近郊ですね。今じゃウィーンとザルツブルクを結ぶアウトバーンのインターチェンジのある所です。しかし、元来先祖代々は一四世紀以来低部オーストリア、つまりドナウ河流域に住んでいたのです。ご先祖はみんな農民か手仕事の職人で、おじいさんは小学校の先生でした。
――ブルックナーが、そうした田園の中にそびえたつ修道院で、オルガンを弾き、作曲したというような話を聞きますと、あの、広大な音楽のイメージと、なんとなく重なり合うような気がしますが……。
まあ神様の近くで、自然を相手にひねもす暮している芸術家というのは、一九世紀だってそうざらにはいなかったんです。中世からルネサンス初期は、そんな人ばかりだったでしょうが……。
――いずれにしても、まことに広大無辺。あの果てしもないようなオーケストラの響きに身を委ねるとき、そこに、宇宙の大きささえ感じる……。
ええ、「宇宙的」とか「天地の創造を思わせる」とか「世界の霊魂」とか、ドイツ、オーストリアの音楽学者は、いろんな形容詞を考案していますね、ブルックナーの音楽を説明するのに。
――ところで、この交響曲第七番ですが、例によって、オーケストラの編成は多彩ですね。
ええ、木管は二管編成なんですが、金管がホルン四、トランペット四、トロンボーン三、テノール・テューバ二、バス・テューバ二、コントラバス・テューバ一となっていて異常に拡大されています。これじゃ実際には、木管はフォルテの時にダブらせなきゃ不可能です。四管編成でやらないと……。
ついでに申し上げておきますが、このテノール・テューバとバス・テューバはいわゆるテューバじゃなくて、ワーグナー・テューバ、つまりホルンの歌口をもったテューバ族という中間の楽器で、テノール・テューバがin B(変ロ調)、バス・テューバがin F(ヘ調)でこの四本でハーモニーを作るんです。そしてコントラバス・テューバというのが、ほんとうのテューバのことなんです。彼はワーグナーの心酔者だからワーグナーの発明した楽器を用いているのです。
――作曲はいつ頃ですか。
ええと一八八一年九月二三日着手、途中の経過もずいぶんくわしく分かっていますが、それはぜんぶ省略して、交響曲全体の完結が一八八三年九月五日。つまり五七歳までの、まる二年間を費しています。
――一八八三年といえば、ワーグナーの死んだ年ですね。それで、ワーグナーに心酔していたブルックナーとしては、これをワーグナーに献呈したのですか。
献呈ではありませんが、第二楽章の作曲中にワーグナーが死んだのです。その前から病気ということは分かっていたせいか、とにかく第二楽章はワーグナーへの追悼音楽なんです。ワーグナー・テューバの音色を効果的に使っています。とくにコーダの九小節ほどに、この楽器のための典型的な用例が見られます。
初演は一八八四年一二月三〇日にライプツィヒでニキシュがやったのですが、おかげでドイツに一躍ブルックナーが知られるようになったのです。おそらくそれ以前に、弟子のシャルク兄弟が、第二楽章のクライマックスなどにトライアングルとシンバルを加えることを提案し、ニキシュもそれらを加えて上演したらしい。ブルックナーは、はじめそれに反対で、ニキシュの上演後は一時折れて、また最後にはバッテンでパート譜を消したらしいです。
――例によって、いろんな人が草稿に手を加えたんですね。出版は?
初版は一八八五年ウィーンで、これはレーヴェが校訂したものでしょう。その後ペーテルスの全集版と、例のローベルト・ハース編集のブルックナー協会版、これがいわゆる「オリジナル版」で今日ではたいていこの版で演奏されるのです。
――この交響曲第七番は、ブルックナーの交響曲の中で、どのように評価してよいのでしょうか。
第七番は第五番、第六番の初演より前に書かれているから、それらの諸問題を超克するという姿勢は見られません。まあ、私の持論ですが、ブルックナーの交響曲は全体で一つの宇宙であり、個々の曲はその一部であると共に、全体の性格を共有した小宇宙でもあるのです。しかし、とくにフルトヴェングラーが愛し、よく演奏した第七番は第八番と共に作者のもっとも円熟した面が、随所に豊富に出ている傑作といえます。
●カラヤン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈89〉(グラモフォン○D)
交響曲 第九番 ニ短調
荘厳に、神秘的に
スケルツォ、動きをもって、いきいきと
アダージョ、ゆっくりと荘厳に
ブルックナー未完の「白鳥の歌」
――交響曲第九番ニ短調は、たしか未完成の交響曲でしたね。
そうです。第三楽章アダージョまでです。しかし、スケルツォが第二楽章になっていて良かったのです。スケルツォで終るのでは格好がつきませんが、アダージョなら交響曲の押さえになります。他にも例があるしね……。
――マーラーの第九番のことをおっしゃっているのですね。もっとも、あれは未完成じゃありませんが、それではなぜ、フィナーレが書かれなかったんですか。
まあ愚図愚図しているうちだんだん気力、体力とも衰えてきた、ということでしょう。
――およそロマンティックなエピソードとは、ほど遠い。
何しろ第一楽章の着手が六三歳の一八八七年で、その終了が五年後の一八九二年、スケルツォは一八八九年にスケッチを始めて一八九三年に完成、アダージョは一八九四年完成というわけで、そこまでに七年もかかっています。フィナーレもスケッチはあるのですが、終結の方法がまだはっきりしていないうちに一八九六年頃、つまり死ぬ年に断念したようです。
そして、ブルックナー自身《テ・デウム》をフィナーレに持ってこようとして、それへのつなぎの部分、つまりアダージョの最後のホ長調の和音から《テ・デウム》の頭のハ長調への転調の音楽も書いたらしいけれど、あまり感服できなかったようです。その形で出版されたスコアも過去にはあったのですが。
やはり一〇年あまり前に完成した、しかも本質的に全音階的な《テ・デウム》と半音階の勝った第九番を一曲にまとめるのは無理が感じられます。そこで間に休憩を置いて、この二つの曲を一晩に演奏するという習慣ができたのです。
――いずれにせよ交響曲第九番こそ、ブルックナーの「白鳥の歌」だというわけですね。
そういうことですね。彼はワグネリアンだから、〈ローエングリンの白鳥〉かもしれませんが。
――それにしても、ベートーヴェン以来、交響曲第九番というのは、いろいろ因縁がありますね。
たしかにベートーヴェン以後、シューベルト、ドヴォルザーク、ブルックナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス――これは七曲の交響詩と《アルプス交響曲》《家庭交響曲》の二つの交響曲を加えて九つですか、ともかく率としてひじょうに高いんです。グラズノフも交響曲第九番を完成するのが恐ろしくて、未完成のまま残して置いたのでした。
しかし、こんなに例が多いと、たんにジンクスとかいうことでなしに、生涯に全人的なシンフォニーを九曲くらい、というのが、自然が作曲家に定めたノルマではないか、という気もします。その九曲が三×三にグループ分けできる人もあるし、そうでない人もありますが。まあ、ブルックナーの第九番の冒頭は、弦のトレモロや管の符点のリズムがベートーヴェンの第九番にちょっと似ていると言えば言えるのです。調性もニ短調ですし。
それに第二楽章スケルツォ、第三楽章アダージョという楽章配置が、ベートーヴェンと同じなんです。だから、ますますフィナーレが書きにくくなったのでしょう。そして結局暗示にかかってコーラスを持ってこなけりゃならないような気持になって、《テ・デウム》という考えが出てきたのかもしれません。しかし、今の形の、ニ短調で始まってホ長調で終るのはワーグナーの《ワルキューレ》を思い出します。嵐のニ短調で始まり、魔の炎の音楽のホ長調で終っているでしょう?
――これは、まいりました。ところで、ブルックナーは、今日ブラームスとならんで、いわゆるロマン派時代の代表的な交響曲作曲家と考えられていますけれども、彼の生前、ブラームス派から批判の的になっていたんでしたね。批評家ハンスリックに「ウィーンの演奏会場の恥だ」とさえ言われて……。
しかし、スロニムスキーの『音楽悪口辞典』によると、そんなのは序の口で、だいたいブルックナーはイギリスでもフランスでも病人か狂人扱いです。おもしろいのはそのハンスリックが、一八九二年一二月二三日付のウィーンの新聞に、ブルックナーの第八番の短評を書いた末尾の部分です。こういうんですがね――「それにしても、こんな悪夢のような宿酔(ふつかよい)様式Katzenjammerstilが、将来一般化することは決して予想できないことではない。されば、われわれは未来に対していささかも羨望を感じないのである」
つまりハンスリックは一面でワーグナー=ブルックナー一派をひどく嫌いながらも、ある予想は持っていたのじゃないでしょうか。気に喰わないけれど、音楽はブラームスのほうではなく、こっちのほうに進んでいくのだな、という予見をね。しかし、同じ時代にブラームスだって猛烈な悪評を蒙っているのです。「ゴミのように乾いてる」とか、その他、普段出てこないキタナイ言葉が多くて、字引をひっぱるのが面倒だからやめますけど。
――まあ、ちょっと考えれば、ブルックナーが、ワーグナーの線上にいたというのは、むしろ不思議な気さえするんですが。すくなくとも性格的には、まったくちがう人間でしょう?
気質と天才とは別物でしょう。芸術的な表現形式や感覚への好みは、気質に左右されないとは言えないでしょうが、もっと本来的な根元的なものでしょう。そういう芸術表現にとっての深い部分で、ブルックナーはワーグナーに共感していた、ということでしょう。ただワーグナーがブルックナーに共鳴することはあり得ません。つまりブルックナーは他から影響されやすい資質にはちがいないですね。そこでハイ・ヴォルテージのワーグナーに苦もなく惹きつけられたという形です。
――ブルックナーが、一部の人たち以外には、長らく認められなかったというのは、おもに何に起因しているんでしょうか。あの長さでしょうか。あるいは、主題の展開の方法でしょうか。
もちろん、そのどちらも、おもな原因になっています。そのほか編成が大きいための上演の困難さ、多くの場合の初演が不幸にして名指揮者にめぐまれなかったため、実力以下に評価されたことなど、いろいろ複雑にからみ合っています。しかし、逆説的ですが、ベートーヴェンの交響曲があまりに高い山であったから、ブルックナーのそれをかみくだいて消化するのには、えらく時間がかかった、ということじゃないですか。
――ブルックナーの交響曲は、ベートーヴェンの単なる巨大化にすぎない、といったような論文を読んだことがありますが。
ベートーヴェンの精神の継承者という点ではワーグナー、ブルックナー、シェーンベルク……。みなそう言えます。「たんなる巨大化」というのは言葉のあやでしょう。
――私は、この曲の第三楽章アダージョが好きですね。ただ、この楽章が、《トリスタンとイゾルデ》ふうだ、といわれますけれど、その意見には、あまり同意できない。
まあ最初の部分で、何ヵ所かのリズムが似ていたり、掛留の不協和音のハーモニーや半音階の上昇線が《トリスタンとイゾルデ》の前奏曲を思わせます。しかし、全体としていかにもブルックナーでないと書けない音楽です。
――このアダージョで、彼自身の旧作のいろんな動機が浮かんでくるでしょう。これは、彼自身、生涯の最後の作品だということを予感したからでしょうか。
ことにコーダの所が特徴がありますが、そこに第八番のアダージョがワーグナー・テューバで、そして第七番の頭の所がホルンで顔を出します。ひじょうに印象的な所で、これがあるので、よけい、ここまでで曲が終ってもいい、という感じになるのです。そのほか、第二主題がニ短調〈ミサ〉のグローリアの一部と関係があるのですが、ちょっと分からないようなやり方で〈ミゼレーレ〉の歌詞の所が引用されているのです。そんなところはちょっと、死期を感じてのことかもしれません。
その直前の第一主題からの推移部にはメAbschied vom Lebenモつまり「人生からの別離」と書きつけています。そういえば《テ・デウム》の最後のメnon confundarモの歌詞の所にも、第七番のアダージョの引用があるのです。だからその点も《テ・デウム》をフィナーレにすえようか、という根拠になったのでしょう。第四楽章のスケッチは残っています。コーダまでの相当長大な部分がスケッチで残っているらしいです。
――手を加えて完結させようとした人は、いなかったんですか。
それは二つの理由で困難なんです。つまりスケッチには未だ終結の方法が示されていないこと、もう一つは彼自身、《テ・デウム》を持ってこようとするなど、考えがぐらついたのでしょう。だから第四楽章を完成させること自体無意味という感じが強いんです。復元が無理というだけでなくてね。
●バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈90〉(グラモフォン○D)
テ・デウム
アレグロ・モデラート
モデラート
アレグロ・モデラート、力強く熱烈に
モデラート
適当に速く
グレゴリアン・チャントふうの全音階的な旋律
――《テ・デウム》は、カトリック教会の典礼文を歌詞にしているのでしたね。だから、熱烈なカトリック教徒であったブルックナーが、この作品を書いたのは、なんの不思議もないですね。
ええ、元来《テ・デウム》というのはいわゆるミサではなしに、修道院などの日々の勤行である聖務日課の朝課で歌われる典礼的な歌です。しかし、ルネサンス以後の多声の大規模な《テ・デウム》は、むしろ王室や国家の行事の祝典音楽なんです。
パーセル、リュリ、ヘンデル、コダーイなど……。だから、むしろ何かのチャンスに、目前に迫っている演奏のために作曲される場合がほとんどなのですが、このブルックナーのはそうじゃないらしい。そこがいかにも彼らしい所で、だから一八八一年から八四年まで足かけ四年もかけています。注文だったらこんなことでは間に合いません。
――それで《テ・デウム》は、音楽的というより、作曲的にみて、なにか、それらしいスタイルというのは、あるのですか。
まあ、グレゴリアン・チャントふうの全音階的な旋律が多いこと、だいたい伝統に従って全体を三部分に作っていることなどでしょう。ブルックナーが、聖フローリアンの修道院などで誰の《テ・デウム》とおもに接していたか分かるとおもしろいのですが。何しろ五世紀以来の古い聖歌ですからね、《テ・デウム》は……。
元来テ・デウムは〈アンブロジウスの讃歌〉とも呼ばれるのですが、それはミラノの司教の聖アンブロジウスの作、またはアンブロジウスと彼が洗礼を授けた聖アウグスティヌスとの合作と伝えられているのです。「われわれは、あなたを天主として讃美します」にはじまる三位一体を讃える歌です。前述しましたが、ブルックナーは一時これを交響曲第九番のフィナーレにすえようと考えたこともあったのです。結局、思いとどまりましたけれど。
●カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン楽友協会合唱団〈75〉(グラモフォン)
ブラームス
Johannes Brahms
(ドイツ)
1833〜1897
交響曲 第一番 ハ短調 作品六八
ウン・ポーコ・ソステヌート―アレグロ
アンダンテ・ソステヌート
ウン・ポーコ・アレグレット・エ・グラツィオーソ
アダージョ
ベートーヴェンへのオマージュとして作曲
――ブラームスという作曲家は、ロマン派時代に生きた古典主義者だというとらえ方があるようですが。
たしかにオーケストラや室内楽では、ウィーン古典派の整斉感を理想としています。その点は古典主義者と言えます。ただリートやピアノ小曲のあふれるばかりのロマン性のほうに焦点を合わせるなら、ブラームスを古典主義者と言い切るのは一面的なように感じられます。まあ、昔はブラームスのことを新古典主義と呼んだけど、この頃はその名称はもっぱら一九二〇年代のストラヴィンスキーや「六人組」のほうに持っていかれてしまいました。
――この新古典主義って言葉、曖昧ですね。それより、ブラームスは、この交響曲第一番を作曲するにあたって、ベートーヴェンの九つの交響曲のことを、そんなに意識したのでしょうか、よく言われるように。
何しろ第一番は二二歳の時の腹案から二九歳の時に第一楽章を仕上げ、四一歳の時にあとを続けて、分別ざかりの四三歳の時に全体をやっと仕上げたというんでしょう。これだけの長年月の間にベートーヴェンのことを考えるなといっても無理ですよ。むしろ、ベートーヴェンとの格闘の二〇年間と言えるでしょう。ブラームスのフィナーレの旋律とベートーヴェンの第九番のフィナーレの旋律がよく似ていると言われます。
これは、ただ何となく似ているのでなく、「レ‐ミファミ‐ド」の小節と「レ‐ミファミ‐レ」の小節は全く同じなのです。ええと、ベートーヴェンではそれが第一〇―一一の二小節ですが、ブラームスでは、第七小節と第九―一〇小節というふうにわざと離して、ちょっと分からなくしていますが、これは意識的に借用して、ベートーヴェンへのオマージュとしたのにちがいありません。
――いま、お話し下さったように着想から完成までに、長い年月を費したわけですが、その期間、作曲家ブラームスが、どういう歩みをしたか、ふれていただけませんか。
これは大へんですね。まあ交響曲第一番を着想した一八五五年というと、だいたい作品番号として一〇番台にのっかったばかりです。それから完成した交響曲第一番の作品番号である六八番までの間の発展経過ということになりますが、ピアノ曲ではこの間に入るのは割に少なくて作品二一の《創作主題による変奏曲》と《ヘンデルの主題による変奏曲》と《パガニーニの主題による変奏曲》だけです。
つまり、これらは、ブラームスの名演奏家的資質、名人芸への傾斜がはっきり出ている作品です。その前の三つのソナタの時期や、そのあとの内攻的な小曲の時期ときわ立って対照的です。それから歌曲と合唱曲の面での大なる特徴は、民謡や古代の歌詞を多く採用し、ルネサンスふうの、教会調に傾斜したポリフォニーが多いこと、これが後の《ドイツ・レクイエム》などに結実すると思うのですが。
オーケストラでは、《ハイドンの主題による変奏曲》が四〇歳の夏に完成している。これは交響曲第一番完成への小手ならしと言われています。何しろブラームスはどんな小品でも大曲でも一作一作がじつに完結しているし、青年期の作品がいやに老成していて、晩年が逆にいやに若々しかったりで、その点が他の作曲家とちょっとちがいます。だから交響曲第一番にしろピアノ三重奏曲第一番にしろ、長い年月をかけたり、あとから補筆したりしても、ちょっと継ぎ目が分かりません。ワーグナーの《ニーベルングの指環》やシェーンベルクの《グレの歌》などには長い年月をかけた痕跡がはっきり出ているけれど……。
――ほんとうに、そうですね。それでは次に、ドイツにおける交響曲の系譜と、このブラームスの位置について、おうかがいしたいのですが。
これはもっと大問題ですが、いったいベートーヴェンなどを中心にして考えるなら、ブラームスはその直接の後継者ということになるけれども、じつはドイツの交響曲の歴史はもっと古くて、一八世紀はじめのウィーンの宮廷楽長フックスの交響曲あたりからはじまった、交響曲の歴史の上り坂の途中に、ハイドンやモーツァルトがきて、絶頂にベートーヴェンがきて、裾野は長く長く今日までつづいています。
その中でブラームスは、ベートーヴェン以後ではシューベルトやメンデルスゾーンと共に、ベートーヴェンのほうに顔を向けていると言えます。ブラームス以前ではシューマンやブルックナーがいますが、彼らは別のほうを向いており、マーラー以後になると交響詩をふくめて、また別の山という感じもするわけです。
とにかくドイツの交響曲が、音楽によってもっとも精神的なもの、あるいは人間性そのもの、ドイツ人の感情生活のあらゆる面、さまざまな人間関係やドイツの社会構造そのものをあらわしていることは否定できないし、こういう音楽のジャンルは他にないでしょう。ドイツ・オーストリアの交響曲の歴史は民族の歴史でもある、といえましょう。
――ブラームスのオーケストラの書法について、何かお気づきのことがありますか。
これは前から気がついていることなんですが、ドイツの標準的なオーケストレーションの教科書の一つに、ヘルマン・エルプの著作があるのです。この中にはバッハから電子音楽まで三〇〇もの譜例があるのですが、ブラームスは一つも引用されていません。ということは、ブラームスのオーケストラ書法は、じつに常識的、標準的で、とくにどこかをとり出し範例として引用することが困難なのです。
まあベートーヴェンとワーグナーの間にあって、曲想とオーケストレーションの間が、じつによくバランスがとれているということでしょう。ブラームスを引用するなら、どこでもよいということでしょう。
●バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈81〉(グラモフォン○D)
交響曲 第二番 ニ長調 作品七三
アレグロ・ノン・トロッポ
アダージョ・ノン・トロッポ
アレグレット・グラツィオーソ(クワジ・アンダンテ)
アレグロ・コン・スピリト
やさしく、ロマンティック、そして思索的で内面的
――ブラームスの交響曲第二番には「田園」という愛称があるんですってね。そして、この曲の安らいだ感情を、ブラームスの当時の生活環境から説明されることが多いように思いますが……。
彼はハ短調の第一番に、ひじょうに長い年月をかけているでしょう。それに反して第二番をわずか四ヵ月で書きおろしてしまいました。第一番完成の翌年の夏だったですか。それで、わりに気楽な、開放的な、楽しい曲想が多いので「田園」という名がついたのでしょう。しかも、上部オーストリアのケルンテンの田園風景に囲まれて成った曲だけに、第一楽章の第二主題などに、オーストリアの田園舞曲のレンドラーの趣きが感じられるし、曲の冒頭にくるホルンも深い森の感じを反映しているなどと言われます。
――ブラームスのホルンの響きって、ほんとうに素晴らしいと思います。ブラームス自身、ホルンを愛したんでしょう。それも、ヴァルヴのない、あの古風な楽器のトーンをね。やさしくて、ロマンティックで――とにかく、ほっとしますよ。こういう響きは……。
第三楽章ものんびりした感じで、これも田園ふうと言えなくはないでしょう。たしかに自然に囲まれた、幸福な状態での創造という感じの強い曲です。ただ、第二楽章などは、「田園」という感じからはむしろ遠い、思索的、内面的な音楽ですね。調子も短三度低いロ長調という沈んだ調子だし。かと思えば、フィナーレのコーダの、あの華やいだファンファーレ! これはブラームスには珍しい瞬間です。あえていえばブラームスらしくない一瞬。少なくとも瞑想的な冒頭の曲とはひじょうに対照的です。
――ブラームスという人は、結局、どんな資質を持った人だったんでしょうね。「小クライスラー」を名乗ったりしてね。
クライスラーってのは、例のE・T・A・ホフマンのペンネームでしたね。まあ、メンデルスゾーン、ショパン、リスト、シューマン、ワーグナーと、それぞれ個性的なロマン主義者だけれど、ブラームスの場合は、もっと内攻的に内に内にとねばり強くロマン性を深く掘り下げていきました。ときには難渋して、聴き手をへきえきさせるほどにね……。しかし、こういった北方的な、内部で情熱がくすぶりつづけているような資質は、それ自体じつにロマン的な傾向で、大バッハの次男のエマヌエル・バッハにもよく似た面があります。
しかし、ブラームスが一つの和音の中で、旋律を極限まで自由に動かして、それも一つの声部だけでなく、対位法的に引き伸ばしていく、一種のサスペンスの効果はすばらしい。ワーグナーは和音の響きの面から、ブラームスは線の動きや線と線の触れ合いの面から、結局同じこと――つまり調性の拡張をはかったのであり、その根底の想念は、一つだという感じがします。
――ブラームスが、ウィーンに執着したというか、「ベルリンにきてくれ」という親友ヨアヒムの頼みさえ、断っていますものね。これは、相当なものだと思いますが。
ブラームスはウィーンとは何年にもわたって接触を保った末に、とうとう永住をきめたのです。だから、そんなに慎重に選んだウィーンを去ることなど、到底あり得ないことだったでしょう。だいたいドイツ語国は後進性を脱していなかったから、当時はドイツ諸都市よりもウィーンはあらゆる点で魅力をもっていたし、音楽文化の上でもむろん先進都市だったから、そこに永住しようと決めていたのでしょう。ベルリンは、とくに当時は未だ文化の歴史が浅いという感じだったでしょうしね。
――一時、楽友協会の指揮者をつとめたのでしたね。
指揮者というか総監督というか、プログラムや活動方針まできめる役目だったようです。やはり自分の理想を貫く上で必要な仕事と考えたのでしょう。しかし、これは三年ほどで辞職しています。交響曲第二番が作曲された時は、もうその職には、なかったのです。
●ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈75〉(グラモフォン)
交響曲 第三番 ヘ長調 作品九〇
アレグロ・コン・ブリオ
アンダンテ
ポーコ・アレグレット
アレグロ
ブルックナー、マーラーに通じる壮大さ
――この曲は、ハンス・リヒター流にいえば「英雄」ですね。
前述したようにリヒターはブラームスの第二番のことを「田園」と呼んだんです。第一番をベートーヴェンの第一〇といったのは、ハンス・フォン・ビューローでしたっけ。
とにかくこの第三番が初演されたとき、ブラームスのいわゆる反対派が、いろいろな妨害をくわだてたという話があります。一八八三年という時点で、こういうクラシカルな交響曲を実力ある作曲家が発表するということは、進歩派にとっては大なる脅威なんです。反対せずにはいられなかったでしょう。ヴォルフが先頭に立ったと言われています。一方じゃベルリンの初演をめぐって、ヨアヒムと「コールユーブンゲン」を書いたヴュルナーの二人ともが、自分に振らせてくれといってきたのでブラームスは困ってしまったのです。
だから、ベルリンではヨアヒムとヴュルナーの間でもめると面倒なので、ブラームスはスコアをウィーンへ持っていって、リヒターにやって貰ったのです。すぐあとベルリンでは自分で指揮をしたようです。
全体的な評判は「反対派の妨害にもかかわらず、圧倒的な拍手だった」なんて伝記に書いてあったって、ほんとのことは分かりっこありません。それを書いた人の主観が入っているし、たとえ当日の批評文が残っていたって、聴衆の反応を代表しているとは言えない。それは現にわれわれがつねに経験している通りだし……。まあ、初演の評判より永続性というか生命が長いか短いかが作品にとっては問題でしょう。
――言われるとおりです。ところで、この最初、管で出されるF‐As‐F(ヘ音‐ 変イ音‐ヘ音)の動機は、じつに印象ぶかいものですね。
そう、じつに巧みな導入です。しかも、第一テーマが呈示されている間、このモチーフが絶えず低音やホルンや木管で鳴ってるんです。ちょっと気がつかないけれど……。
こういう補助的な要素が、楽曲全体の統一の上に大きな意味をもつように処理されているのは、ベートーヴェンでは、ごく晩年の弦楽四重奏曲などにしか見られない新しい手法で、シェーンベルクなんかはブラームスのこういう点を、ひじょうに評価するわけです。結局、音型の統一ということが、後世ではいわゆるライエンコンポジツィオン(音列作法)といって、無調の書法に役立つのです。だから、進歩派は、なにもこの曲を妨害することはなかったんです。
――これは、交響曲第二番のD‐Cis‐D(ニ音‐嬰ハ音‐ニ音)という動機と同じような意味で用いられているわけですか。
まあ、この交響曲第三番の場合は、F‐As‐FがFrei aber frohでしたっけ、「自由に、しかも喜ばしく」という標語だというんです。しかし、ちょっとそれはこじつけみたいですね。たとえばブラームスのa-moll(イ短調)の弦楽四重奏曲第二番ですね、作品五一―二の、あのモチーフの(A)‐F‐A‐E(ヘ音‐イ音‐ホ音)が、ヨアヒムの口ぐせだったFrei aber Einsam「自由に、しかし孤独で」からきているという説明は、じつにあの曲全体の感じとぴったりで、よく合っています。ところが交響曲第三番のほうの標語は、あとから誰かがこしらえたくさいですね、どうも。
――同じような意味で、第一主題の使い方も、素晴しいものですね。とくに終楽章の終りの所では、ひじょうに大きな自然を感じさせます。
そうですね。このテーマはフィナーレにも出てくるのですが、このヘ調の短三度(変イ音)と長三度(イ音)の交替、減七の和音と長三和音の交替は、マーラーの第六番のモットーを思い出しますね。マーラーの曲はブラームスの第三番から二〇年後くらいかしら……。
――この第一楽章の第一主題が再帰するのは、またブルックナーを思わせますが、それだけでなく、その壮大さもね。
実際、ブラームスはブルックナーやマーラーの時代精神にじつに近いのです。ブルックナーは現にブラームスより年上だしね。だから、ハンスリックがブラームスをかついで、ワーグナー派と対立したなんて、じつに無意味な話です。
――話は飛びますが第三楽章のポーコ・アレグレット――ここでは、たいへんに美しい叙情的な旋律が出ますね。サガンの映画『ブラームスはお好き?』の主題歌として使われたほど表情ゆたかなものですが、ブラームスはよく、こうした甘い音楽を書くのですね。弦楽六重奏曲作品一八の第二楽章とか。
そういえば偶然の一致でしょうが、「こんにちは赤ちゃん」の出だしは、ヴァイオリン協奏曲の冒頭と同じ音のつながりだし、その途中にはピアノ三重奏曲第一番のスケルツォのトリオとほとんど同じ動きの所があります。つまり、ブラームスの旋律にはひじょうに単純な、ポピュラーで、万人向きの面があり、しかし、それをこってりとした感じに処理しているのです。
作品一〇一のピアノ三重奏曲第三番の第二主題や交響曲第二番の第二主題だって、メロディーそのものはポピュラー音楽に立派に使えます。まあ、それがウィーンの雰囲気と言えなくはないでしょう。いわばヨハン・シュトラウス的な一面……。
――それでいてひじょうに古風なコラールみたいなものも出てきますね。交響曲第一番、あるいはこの交響曲第三番のフィナーレなどに。
そう、それが彼のふるさとハンブルクの、北ドイツ的なプロテスタント信仰に裏づけられた、まじめ一点ばりの一面と申せましょう。むしろそっちが彼の地ですかね。
――この交響曲のフィナーレは、じつに印象的ですね。老いた英雄の引退というか、壮大な落日というか……。
なるほど、弱音器をつけたヴィオラが入るあたりから、コーダがウン・ポーコ・ソステヌートでおそくなる所など引退の花道ですかね。しかし、ブラームスは晩年ほど若々しくなります。年寄りに派手な服が似合うみたいにね。初期のほうがお爺さんくさい位です。これはつまり、ごく大ざっぱに言って初期のうちは北ドイツ臭く、晩年はウィーンや南ドイツの影響で、それらしく陽気な派手な要素が加わったということでしょうか。
●サヴァリッシュ指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団〈91〉(EMI○D)
交響曲 第四番 ホ短調 作品九八
アレグロ・ノン・トロッポ
アンダンテ・モデラート
アレグロ・ジョコーソ
アレグロ・エネルジコ・エ・パッショナート
伝統的な形式と抒情的な旋律 ブラームスの本領を発揮
――ブラームスはロマン派時代のまっただ中に生きた人でしょう。でも、ベルリオーズやシューマン、さらにショパンやリストといった人たちとは、ずいぶん肌合いがちがうと思うんですけれども……。
まあ、今あなたが言われた人たち同士だって、お互いにひどく肌合いがちがうのですけれど、それよりも、ブラームスはこれらの人たちより四半世紀近くもあとの人であって、しかもワーグナーの行き方とはちがう道を選んだ、という点が大きいのです。
――たしか、シューマンでしたね。情熱的な口調で世の中にブラームスを紹介した人は?
ええ、それがまさに行き方のちがいと関係があるのですが、ブラームスはもともとシューマンとは比較的肌合いが似ているわけだし、シューマンはワーグナーには共感していませんでした。しかも、当時ちょっと天才的な音楽家の出現が途絶えていた所へ、デュッセルドルフのシューマンの家へブラームスが訪ねてきて、いろいろピアノで奏いたのでシューマンも、これはと思ったのでしょう。
――そこで、さっそく評論のペンを走らせたというわけですか?
そうなんです。しかも、もうその頃は一〇年もの長い間シューマンは評論の筆をとっていなかったのに、わざわざ「新しき道」という文章を書いたのです。一八五三年というからシューマンが死ぬ三年ほど前のことですね、二人の出会いは。あれは吉田秀和さんの翻訳で昭和一七年に『音楽と音楽家』という題のシューマンの評論集が出版されました。そのいちばん最後の章が「新しき道」で、その中の次の文章が印象的でした。
「……今に時代の最高の表現を理想的に述べる使命をもった人、しかも段々と脱皮していって大家になってゆく人でなく、ちょうどクロニオンの頭から飛び出したときから完全に武装していたミネルヴァのような人が、忽然として出現するだろう。また出現しなくてはならない筈だと。すると、果して彼はきた。嬰児の時から優雅の女神と英雄に見守られてきた若者が。その名は、ヨハンネス・ブラームスといってハンブルクの生れで……」
今、ここの部分をしばらくぶりで読み直すわけですが、この前後はじつに印象的な文章です。二人の関係、当時の楽壇の背景、ロマン派の作風など、いろいろ考え合わせると、感懐ひとしおですね……。
――そうですね。つまり彼は北ドイツの出身で、ひじょうに北ドイツ的な気質をそなえていた人ですが、しかし、ウィーンに住みついた。他の多くの音楽家のようにね。
たしかにブラームスはウィーンに住みついたのですが、ウィーンの楽界と関係が深くなったのが、やっと三〇歳前後のことで、その後に定住するようになったのですから、ベートーヴェンのようにウィーンで勉強するために、笈(きゆう)を負って都に上ったというのとは全くちがいます。まあ彼の音楽に娯楽的な要素が欠けている点などは、当時のヨハン・シュトラウス的ウィーンの音楽趣味からは遠かったと言えましょう。
――扇子に「美しく青きドナウ」の一節を書いて「残念ながら、これは私の作品ではありません」と書き添えていますね。それに、いつも青いダブダブのズボンを平気ではいていたという話もありますしね。それからすると、どうみても洗練されたウィーン趣味からは程遠いような気もしますが。
まあブラームスの場合、北ドイツ的な内攻的、内省的な性格から形式感の確固とした抽象音楽に向ったし、しかし、同時にあふれるばかりのロマン的情緒というか、燃焼度の高い情熱を持ちつづけていました。こういう面はエマヌエル・バッハなどにも見られたもので、決して矛盾するものではないと思います。
――分かるような気がします。そういうブラームスだから、標題音楽を書かなかった。交響詩もありませんしね。
それにオペラも書かなかった……。リスト=ワーグナーの陣営と対照的ですね。
――これはホ短調。交響曲としては、比較的めずらしい調性だと思いますが……。
そういえば古典派には少ないです。しかし、スメタナの交響詩《モルダウ》、ドヴォルザークの交響曲第九番《新世界から》、ラフマニノフの交響曲第二番など、スラヴの作曲家の作品には多いんですが……。
――そういえば、チャイコフスキーの交響曲第五番もホ短調でしたね。それにしても、このブラームスの交響曲第四番は、淋しい感じの作品だと思うんです。あの最初のメロディーが、なんともいえなくて……。
そうですね。ひじょうに抒情的というか情緒的なメロディーなのですが、音程関係はひどく構成的で、はじめの四小節をロ‐ト‐ホ‐イ‐嬰ヘ‐嬰ニ‐ロと三度ずつ下ったあと、後半は逆にホ‐ト‐ロ‐ニ‐ヘ‐イ‐ハと三度ずつ上っていく、それらの間に逆方向に六度をとる時もありますが、そういう構造への傾斜を、ほとんど感じさせないじつに見事な旋律です。こんなに音程を統一すると得てして単調になりやすいのですが、ブラームスはそこをじつにうまく喰いとめ、同時にその特性を利用しています。たしかに交響曲のテーマとしては異例ですが、じつに冴えた筆というべきでしょう。
第一楽章はむろんソナタ形式ですが、第二楽章は、これはバロック時代からの舞曲の二部形式の系統です。テーマが二つあると、何でもソナタ形式と解説される傾向がありますが、ここはアレグロでもないし、展開部もありませんから。続いて、スケルツォふうの第三楽章がきて、いよいよ終楽章。これは傑作ですね。ブラームスの本領が発揮された楽章だと信じます。
ブラームスのお得意なヴァリエーションの形式を最高に生かしています。しかし、ブラームスがパッサカリアかシャコンヌのスタイルを、交響曲のフィナーレに持ってきたことは、ちょっと突飛な思いつきに思えるでしょう?
――ええ、他にそうした例を思い出せません。
ところが、そう思うのはハイドンを「交響曲の父」と決めてしまうからなのですよ……。というのは、ハイドンより少し前、マリア・テレージアか、もう一代前の皇帝の頃のウィーンの宮廷楽長のヨーハン・ヨーゼフ・フックスの交響曲には、シャコンヌやパッサカリアを、終楽章に据えたものがいくらもあるんです。つまり、ほんとうのウィーンの初期の交響曲は、ロンドの楽章で終っていやしなかったのです。メヌエットで終っているのも数多くあるんです。
だから、ブラームスはもちろん、そういったウィーンの古い伝統を完全に知っていて、シャコンヌあるいはパッサカリアの形にソナタ形式の特徴を浸透させて、つまりは古い革袋に新しい酒を注ぎ込んだのです。
●C・クライバー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈80〉(グラモフォン○D)
ピアノ協奏曲 第一番 ニ短調 作品一五
マエストーソ
アダージョ
ロンド
第二楽章に恩師シューマンへの哀歌をおり込む
――ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番も作品一五じゃなかったかな。でも、あちらはハ長調、こちらはニ短調……。ブラームスは、この作品のまえにオーケストラの作品は、どんなものを書いていますか。
ないでしょう、ろくに。交響曲第一番の着手が、この協奏曲の作曲中のことになります。しかし、その完成ははるか後年だし……。まあ、セレナード第一番と第二番がほとんど同じ時期でしょう。作品一一と一六です。
――そうすると、いまお話に出た交響曲第一番が発表されるまでには、十何年もの期間があるわけですね。
ええ、第一番はもう、何度も想を練り直してやっと一八七六年に完成したのです。ピアノ協奏曲は一八五八年だから二〇年近くあとになるわけです。もっとも、このピアノ協奏曲第一番は、はじめ二台のピアノのソナタにして、次に交響曲にしようと考えていたのです。
――その交響曲の計画が、ピアノ協奏曲に変ったのはどういうことなんですか。
やっぱりピアノの響きやイメージが残っていたからじゃないでしょうか? それを切りすてることが不可能だったんでしょう。
――ブラームスは、よくこういうことをする人ですね。ピアノ五重奏曲もそうでしょう。
そう、交響曲第一番の発想もピアノからと言われているし、《ハイドンの主題による変奏曲》、ピアノ五重奏曲などもそうですが、要するに左手のピアニスティックな伴奏型が少なくて、全声部が実働声部だから他の楽器に転換させやすいのです。
――話を戻しますが、そういう経緯があったとすれば、この交響曲と協奏曲のないまぜになったような作品になったのも当然といえるのでしょうね。
さあどうでしょう。昔はそういう批評があったようですが、つまりこれがブラームスの協奏曲のスタイルなんで。
――でもこのスタイル、「名人芸」的華麗さが少なく演奏が難しいんではないでしょうか。ピアニストにとってみれば有難い作品じゃないともいえますね。
たしかに第一楽章など一六分音符がほとんど使われていないとか、全般的に平均して音域が低いとか、主題的要素を奏く場所が多くて純技巧的パセージが比較的少ないとか、古典派=ロマン派の協奏曲の常套的書法から逸脱している点もあります。しかし、こういう作風が一九世紀半ばという時点で、協奏曲一般のジプシー音楽化に対して防波堤の役を果したともいえます。それに第二、第三楽章はかなり妥協的でしょう、そういう点では。
またカデンツァがないのは、第一楽章じゃ第二主題部が、まるまるピアノ・ソロで奏かれるからかもしれません。第二、第三楽章には短いけどカデンツァがあるにはあります。しかし、根本はブラームス自身がピアノが上手だったにせよ、ヴィルトゥオーゾ型じゃなかった、ということではないでしょうか。この曲は初演も再演も自分でやったんです、たしか、ハノーヴァーとライプツィヒで。
――リストのように、いわゆる「名人芸」を出すわけでもなく、そうかといって、ショパンのような作風でもなく……。そこに何ともいえぬ独特の味がある。シューマンや、クララの影響が、大いにあるのでしょうね。
ええ。音楽的にはちょっと複雑ですが、北ドイツのプロテスタントの伝統、バッハふうのポリフォニーへの信仰、それにロマン的和声とシンコペーションなどによるリズムの弱化、そんなことでしょうか。旋律の息の長さはブラームスのほうがずっと長いです。しかし、ちょうどこのピアノ協奏曲第一番の作曲期間の一八五四年から一八五八年の中間の一八五六年に、シューマンの悲劇的な死があったわけです。それがブラームスの二三歳の時になるのかしら……。
――第一楽章はじめの、あの劇的な出だしは、そのせいだと、本に書いてありました。
そういう説もありますが、どうなんですか。しかし、一八五四年三月頃ブラームスがケルンでベートーヴェンの第九番を聴いて、えらく感激してその反響がこの曲の冒頭に出ているという説はうなずけます。d(ニ音)のオルゲルプンクトの上で、すぐロ長調に回避している点などもね。それに第九番の第二主題とこちらのオーケストラの呈示の副主題も、拍子はちがうけどアウフタクト (弱拍)で始まり、セクエンツァふうに進行する点が似ています。
だいたいブラームスのピアノ・ソナタ第一番がベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二九番《ハンマークラヴィア》のエコーみたいだという前科があるのでね。しかし、この協奏曲の第二楽章にはBenedictus qui venit in nomine Dominiと書いてあったそうです。ミサのSanctusの後半の部分です。今の譜面にはないけど。
――なるほど、つまり第二楽章は、恩師シューマンへの哀歌というわけですか。
これもミサ・ソレムニスのBenedictusに似ていなくもないんです。要するにミサのクライマックスの聖変化の直後の神秘的な場面にふさわしい曲想です。
――第三楽章はロンドですね。つまり形式的には、ごくあたりまえの協奏曲の形式を踏襲しているわけですね。まあ、はなやかなヴィルトゥオーゾ・タイプの協奏曲が好まれていた時代でしょうから、人々は面くらったことでしょうね。
充分ソリスティックではありますがね。ブラームス流に。
――このあと、ピアノ協奏曲第二番を書くまでには、だいぶ間がありましたね。
そう、あれは作品八三番で、一八八一年の完成だから二〇年以上たっています。彼も四八歳の壮年になっていたわけです。
●バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ツィマーマン(P)〈83〉(グラモフォン○D)
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品七七
アレグロ・ノン・トロッポ
アダージョ
アレグロ・ジョコーソ、マ・ノン・トロッポ・ヴィヴァーチェ
シンフォニックなスタイルの難曲
――これは、ヨアヒムに献呈した協奏曲でしたね。
その通りですが、きっかけはサラサーテの名演奏を聴いたことにあるようです。サラサーテの影響というのは範囲が広いんです。
――そうなんでしょうね。なにしろ、ヴィルトゥオーゾ中のヴィルトゥオーゾだったですものね。それはともかく、サラサーテからのインスピレーションや、名人だったヨアヒムのために書いたにしては、ずいぶん地味な協奏曲ですね。それでいて難曲というんじゃ、独奏者にとっては、ワリがあわない……。
なるほど。たしかにこの曲より作品一〇二のヴァイオリンとチェロの《二重協奏曲》などのほうが派手かもしれません。ブラームスは年をとるほど若々しい、華やかな音楽を書いていますが、このヴァイオリン協奏曲の頃はかえって老けていた感じです。しかし、この曲ははじめ四楽章形式になるはずだったのです。そうだったら、もっと地味なシンフォニックなものになっていたかもしれません。
――そうですね。ピアノ協奏曲第二番のように。話は変わりますが、ヨアヒムが「自分くらい大きな手をしていないと、この曲は上手にひけない」といったという話をききましたが。
そうです。第一楽章でも一〇度と六度を交互に、ポジションを変えながらつかんでいく所があるけれど、ああいうところは手が大きいほうがらくですよ。呈示部の第二主題のつづきのあたりですがね……。むろん再現部にも出ますが。
――サラサーテのように、小さな手の人には、ハンディキャップがあるわけですね。重音も、やたらに使われていますしね。
そう。二重音どころか開放弦を加えた三重音が相当多いし、フィナーレのテーマもずっと二重音で、アッコード・アタックには四重音さえ使っています。これがベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ニ長調とひじょうにちがう点です。あの曲ではほとんど二重音はないです。フィナーレのロンドのB主題の後半にちょっと出るくらいでしょう。
――なんでも、ヨアヒムにいろいろとテクニックを聞いたわりには、従わなかったとか。
そうですかねえ。まあ、ヨアヒムのテクニックというものは、ヴィオッティ、ロード、クロイツェルといったフランス派の伝統らしいから、その語法と純ドイツ・ロマン派のブラームスの語法とは相容れない面があったでしょう、たしかに。ベートーヴェンはほとんど初演者のフランツ・クレメントの言うなりに書いたのじゃないかしら。
――ベートーヴェンといえば、ブラームスが、交響曲の作曲で、その規範と仰いだのは、ベートーヴェンだったと思うのですが、このヴァイオリン協奏曲も、細かいところを別にすれば何となくベートーヴェンのそれに似ているような気がします。
造形精神といったものがよく似ていますからね。即興ふうなパセージから入り、やがて第一主題を高い音域――小字三点の音域ですが、その辺でゆったりと表出するなども同じ手を使っています。調性も同じだし……。それに、重音の頻度こそちがえ、パセージの作り方などにも相似点はあります。
――第一楽章では、まず、オーケストラだけの部分が、たっぷりありますね。しかも、ひじょうにシンフォニックでしょう。
ソロを交えないオーケストラだけの伝統的な呈示部は、たしかにシンフォニックですが、楽想はひじょうにラプソディックで、やはりあとからソロが叙事的に筋を運んでいくのに適した楽想です。それもピアノのためじゃなくて弦楽器のための楽想です、はっきりと。
だから、シンフォニックといっても、やはりヴァイオリン協奏曲の呈示部以外の何物でもないんです。ただ、開曲部も三拍子で、ベートーヴェンの場合のように、あからさまにフランス派の協奏曲の行進曲スタイルはとっていないし、メンデルスゾーンのようにはじめからソロがリードしてもいないですから、そういう意味でならシンフォニックと言われるのは分かるような気がします。
――第二楽章のオーボエも印象的ですね。これは、交響曲第一番を思い出しますが……。でも、オーボエ協奏曲みたいです。
ブラームスの歌曲のメSapphische Odeモ《サッフォーふうの頌歌》の出はじめに似ています。ロマンティックです。マーラーに近い感じではありませんか?
――第三楽章は、ずいぶんハンガリー・ジプシーふうですが、ブラームスは、このハンガリー・ジプシーの音楽が好きだったとみえますね。
ト短調のピアノ四重奏曲第一番作品二五のフィナーレとかいろいろあります。ポピュラーな曲では《ハンガリアン舞曲》や《ジプシーの歌》がそうだし……。ウィーンの音楽には昔からハンガリーふうのエクゾティシズムがしばしば見られます。ハイドン、シューベルトなどによくあります。このフィナーレはジプシーふうといったって淡いものです。リズムをかえれば、交響曲第四番の第二楽章とよく似た旋律なんですがね……。それと、ヨアヒムもハンガリー人だったからというのはちょっと、どうかしら。
ヨアヒムの生地はチェコのブラティスラヴァにごく近いキットゼーという所で、これは今日の行政区劃じゃオーストリアなんです。ほとんどオーストリアとチェコの国境です。だから昔ならオーストリア・ハンガリー帝国の領土なんです。また彼は子供の時にブダペストに行って、そこで最初の教育を受けてはいるけど、結局ユダヤ系のドイツ人というべきなんでしょう。それと案外なのですが、ブラームスより二つも年上なんです。ちょっと考えるとブラームスより若い世代のような気がするのですがね。
●ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、シェリング(Vn)〈73〉(フィリップス)
悲劇的序曲 作品八一
アレグロ・ノン・トロッポ
モルト・ピウ・モデラート
テンポ・プリモ
ウン・ポーコ・ソステヌート
イン・テンポ
ドイツ・ロマン派のシンボリックな一つの系譜
――ブラームスはウィーンの人ではなくて、もっと北のほうの人でしたね。
ええ、生まれは北ドイツのハンブルクです。ブラームスは、子供のときに習った先生というのがハンブルクのオルガン弾きで、バロック時代からその土地にあったオルガン音楽の伝統を彼から叩き込まれた。それからマルクスゼンという立派な先生に習ったのですけれども、このマルクスゼンは、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンにつながるウィーンの音楽伝統を完全に身につけた人で、ブラームスは若いときから、このマルクスゼンを通じてウィーンのスタイルを身につけたと思います。
――それがはからずも、いわゆるウィーンの古典の、というよりベートーヴェン以後のもっとも正統的な精神を継承したということですね。
そうですね。ブラームスはマルクスゼンを非常に尊敬していて、彼のもっていた知識、音楽観というものを完全に実現したのがブラームスじゃないかと思えるくらいです。ブラームスが受け継がなかったものは、イタリアのオペラとフランスのバレエの作曲技術だけで、それはまさにブラームスには向いていないものだし、彼の作品表から欠けているものです。生涯の最後に、彼はオルガンのコラール集を書いていますけれども、あれなんかまさに彼がいちばん若い頃に受け継いだハンブルクのオルガン楽派の伝統が、死ぬときになってよみがえったのでしょう。
ブラームスのピアノ音楽、室内楽、交響曲、協奏曲、そういうものはみんなドイツ・オーストリアのバロック時代から前古典派を通じての、もっともよきものが、継承され凝縮されて彼の上に投影されていたと思います。ですからブラームスが、ハンブルクからウィーンに出てきたということは決して偶然ではなくて、彼のティーンエイジャーからの勉強の必然的な帰結なんです。
――ブラームスという人は、性格的にはどちらかといえば、内向的だったと思いますけれども。
これについては、いろんなことをいう人があって、たとえば彼が生まれたときにお父さんが二四歳でお母さんが四一歳だった。姉さん女房というのは世に珍しくはありませんが、一七歳も年長というのは滅多にないでしょう。ということは、つまりブラームスには母親というものがいなかったといっていいんです。母親がブラームスに宛てた手紙が残っていますけれども、ほとんどおばあさんが威厳をもって孫に対しているような手紙なんです。
そういうことから彼の内向的な性格、あるいは古典的な作曲法から一歩も外へ出ることができなかったこと、若い頃から年寄り臭い作曲をしたこと、それからもっと現世的なことでいえば、一生の間、妻帯しなかったこととも関連がある、などと言う人があります。情熱をいつも内に包み込んだまま、くすぶっているんです。それでシューマンが亡くなってから、年上のクララ・シューマンとの間に普通じゃない感情が生まれるのですが。
――さて、ブラームスの《大学祝典序曲》と《悲劇的序曲》は、いわば双生児のような関係にあると、ある本に書いてありました。ブラームスは、はじめから意識して、こういう作り方をしたんでしょうか。
ブラームスが、はじめから二つの曲を対になるように計画したかどうかは、決定的な答えを出せないんじゃないかしら。《悲劇的序曲》のほうはウィーンのブルク劇場でゲーテの『ファウスト』を上演するために書いたとも言われるのだけれど、しかし、曲の構想のほうが先行していたのかもしれないので、以前からどちらとも分からないのです。曲名としてブラームスはOuvert殲e(序曲)の前にdramatische(劇的)、tragische(悲劇的)、Trauerspiel(悲劇)の三つの言葉のうちの、どれを置いてもよいと考えていたようです。ともかく、《大学祝典序曲》と同じ時期に、対照的な曲想と形式による序曲が生まれたということだけがたしかな事実です。
――ベートーヴェンも、よく、こういうことをやりましたね。交響曲の第五番と第六番、第七番と第八番なんかは、そうですね。でも、ブラームスのほうが、いっそう、それが徹底してるんじゃないでしょうか。伝記などを読みますと、彼は実際の生活の上でもずいぶんそうした二面的な性格を持っていたそうですね。ひどくはしゃいだり、どうかすると、ひどくふさぎこんでしまったり……。
まあ、ブラームスで他に気のつくのは《アルト・ラプソディー》と《運命の歌》が対になっていることや、強いていえば交響曲第一番と第二番も、いろんな点で対をなしています。作曲期間のことや曲想から言ってね。ほかにもありますかしら……?
――さあ、はたして対と言っていいかどうかは分からないけれども、彼は奇妙に同じジャンルの作品を二曲ずつ作っていますね。ピアノ協奏曲、弦楽五重奏曲、それに弦楽六重奏曲。これなんかは、第一番が作品一八で、第二番が御丁寧にもその倍の三六――もっとも、これは内容とは関係ありませんが……。ところで、《悲劇的序曲》はニ短調ですね。この調性にはモーツァルトにおけるト短調とか、ベートーヴェンにおけるハ短調といった特別の意味あいを認めてよいのでしょうか。
まあ常識的に言って、古典派からロマン派にかけて、短調はもの悲しい情緒と結びつくわけですが、この曲の場合はもう少し別なことがあると思うんです。一つはニ短調といっても冒頭のテーマが、いわゆる和声的短調じゃなくて、嬰ハの音を欠いた自然短調であること。したがって教会調に通じる古風な響き、それはロマン主義の時代にあっては一種の神秘的と受けとられる響きを秘めています。
――ブラームスは、本質的にロマンティックな気質を持った人だったようですけれど、古典への造詣も深かったようですね。
そうですね。ブラームスは一九世紀には新古典主義といわれたんですけれども、しかし、モーツァルトやベートーヴェンのような古典派とはかなり違っています。やはり時代の影響は受けていて、ハーモニーの面ではまったくロマン派風だし、テーマがあってそれに伴奏がついているという形じゃなくて、どの声部も対位法的に大事な意味をもった部分なわけで、そのために、どうしてもある種の晦渋さ、むずかしさ、暗さというものにもつながり、理解されるまで時間がかかるということはいえると思います。
――丹念に書き込まれた声部という意味では、ウィーンの古典派というよりも、むしろその前の時代にもつながるものでしょうか。
そうなんです。明らかに、そのまえのバロック時代の対位法の書き方につながっていきます。古典派よりももう一つ前に先祖がえりしている面があるわけです。一方にはロマン派の素朴な歌のような部分もありますが……。しかも、ブラームスはあれで、なかなかルネサンス以前の音楽にくわしくて、教会調の効果をいろんな声楽曲や《ドイツ・レクイエム》の中でも適確に使っているのです。つまりふつうの短調よりもう一つひねった所でやっているということです。
第二に、冒頭で第三音のない不完全五度の和音を使っていること。ドミナントに嬰ハ音を出さないでイ‐ホ‐イ‐ホと重ねていること。これは同じニ短調のベートーヴェンの交響曲第九番の第一楽章冒頭や、やはりニ短調のワーグナーの《さまよえるオランダ人》の序曲の冒頭の不完全五度の和音とまったく同一の響きで、それらをすぐ連想させます。
またこれはニ音を主音とするドリア調による、中世の多声楽をも一瞬思い出させます。つまりドイツ・ロマン派の中に、こうしたシンボリックな一つの系譜みたいなものがある、ということがおもしろいと思うのです。この二つの点で、いわゆる短調のもう一歩突っ込んだところでやっている点で、やはりロマン派もたけなわの、もう少しで世紀末だなという季節を感じさせます。
――私も、そうしたシンボリックなものは、このドイツ・ロマン派だけでなく、いつの時代にも、かなり根強く作曲家の心に浸透していると思うんです。ところで話を戻すようですが、さきほどブラームスが、この曲の標題に三つの言葉を考えたといわれましたね。とすると、この悲劇的tragischeという言葉には、なかなか意味深長なものが含まれているとみてよいのでしょうね。
もちろんですよ。さっき言ったように、ブラームスが三つの題名候補中から tragischeという言葉を選んだのだとすれば、悲劇的と同時に、この言葉のもつ悲壮なという意味も含めたかったのではないかしら。それは他の二つにはない点です。つまり具体的に演劇的なイメージで規定するより、音楽の情緒というか内容にアクセントを置きたかったのではないかしら。ひじょうに抽象的な悲劇のね。だから私は昔よく用いられた「悲壮序曲」という呼び方がなつかしいですよ。まあ、それだとパセティックの「悲愴」と耳で区別できないから困るんですがねえ……。
●アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団〈89〉(グラモフォン○D)
サン=サーンス
Camille Saint-Sa創s
(フランス)
1835〜1921
交響曲 第三番《オルガンつき》ハ短調 作品七八
アダージョ
アレグロ・モデラート
アレグロ・モデラート
リストの影響下に作曲したフランスを代表する交響曲
――シャルル・カミーユ・サン=サーンスという名前は、地名と関係があるとか。
大昔の人名は、洋の東西を問わず地名と人名が一致しているのが多いわけでしょう。音楽家ならマショー、デュファイ、パレストリーナ……。サン=サーンスの場合も、あの大聖堂で有名なルーアンのすぐ北にサン=サーンスという所があるんです。人口二五〇〇の小さな村らしいです。御先祖はそこの農民なのかな。まあ、向うの人は姓名のほか洗礼名、代父名などをごてごてつけるので長くなるんです。それにサン=サーンスは発音のわりに綴字の数が多いしね……。
さてサン=サーンスは三歳でピアノをひき、五歳で作曲をはじめ、一〇歳のとき、パリのサル・プレイエルでモーツァルトのピアノ協奏曲第一五番K四五〇とベートーヴェンのどれか一つを奏いたというから、リストの場合よりむしろ派手な出発でしょう。だけど、この程度のいわゆる“神童ぶり”はヨーロッパではちっとも珍しいことじゃないし、日本の子供だってそのくらいの能力は稀ではありません。問題は“はたち過ぎればただの人”にならないように、その才能を発展させることにあるわけです。まあモーツァルトほどではないにしても、サン=サーンスも一八歳で、交響曲第一番を書いています。
――彼はあちこちのオルガニストを務めたんでしたね。
とくにパリのマドレーヌ寺院のオルガニストという、いいポストに長くついていたのです。この交響曲第三番にオルガンとピアノが用いられているのは、いかにも彼らしいと思います。もっとも得意な、親しい楽器を加えずにはいられなかった……。それとフランス人らしい音色への要求を感じます。
――ところでサン=サーンスといえば、きわめて多芸多才の人だったんでしょう。
この人の両親、とくに親父さんは多芸多才で、内務省の高官でありながら詩を作り、シャンソンを歌い、俳優でもあったらしいです。お母さんは水彩画家だった。サン=サーンスはそれをすっかり承け継いだ上に音楽家だったというわけです。音楽がやすやすとできた人で、しかし、音楽をそれ以上深く掘り下げようという気はない人なので、あらゆることへの好奇心が四方八方に拡がっていったんでしょう。天文学とか文学とか……。
――なんでも彼は「私は折衷派である」とか言ったそうですが……。
そう。「私はバッハ、ベートーヴェン、ワーグナーを愛するのではなく、芸術そのものを愛する。つまり折衷的だ」と言っている真意ははかりかねますけれども、まあ好みのまま自由に取捨選択して、ということでしょうか。しかし、折衷というのはローマへ通じない唯一の道だと言った人もいますからね……。
――リストとも仲が良かったのでしょう?
仲が良かった、というより、リストのほうが二四歳も年上、つまり日本式に言えば二まわりもちがうのですから、サン=サーンスはピアニストとしても作曲家としても、ひじょうにリストを尊敬していたと思います。この交響曲第三番はリストに捧げられているし、この曲で各楽章、各部分に同じテーマが変形されて出ることや、サン=サーンスのいくつかの交響詩の書き方などをみても、あきらかに彼はリストの影響を多分に受けています。オペラの《サムソンとダリラ》はサン=サーンスの代表作で、これはワイマールで初演されたのですが、それは以前にリストが、そこの指揮者をしていた当時から、この作品の上演を考えていたからといわれています。リストが初演したわけじゃないのですが……。
また、サン=サーンスは普仏戦争でフランスが敗北したあと、国民音楽協会を創ったりして、パリの音楽趣味を以前の下らないオペレッタのようなものから、交響曲や室内楽のまじめな趣味に向上させようと努力して、事実成果を上げるのですが、そんな運動の背景にもリストの芸術的ならびに愛国的なはげしい精神の影響が見られるかもしれません。
――その影響は大きいわけですね。いずれにせよ、これが近代フランスを代表するすぐれた交響曲であることは疑いありませんが、最後に、この時代にヨーロッパで書かれた主な交響曲を二、三あげていただきましょうか。
この曲はリストの死ぬ直前に完成したのですから、一八八六年春の作というわけですが、同じ年にダンディの《フランスの山人のテーマによる交響曲》、二年あとにはフランクのニ短調の交響曲が出ています。ドイツでは八五年にブラームスが第四番を、八六年にブルックナーが第八番を書いているけど、ブルックナーのあのねじまがったハーモニーのことを思うと、サン=サーンスの第三番はじつに透明で古典的です。
●チョン・ミュンフン指揮 パリ・バスティーユ管弦楽団、マッテス(org)〈91〉(グラモフォン○D)
ピアノ協奏曲 第四番 ハ短調 作品四四
アレグロ・モデラート―アンダンテ
アレグロ・ヴィヴァーチェ―アンダンテ―アレグロ
少し風変わりなヴァリエーション形式の第一楽章
――作品を聴くと、彼は、ずいぶん保守的な人だったように思うのですがね……。それが「国民音楽協会」という、進歩的な集団の会長になったのはおもしろいですね。
そうですね。彼は音感覚に関する限り保守的と言えます。形式は多少の工夫の跡があるけれども……。まあ「国民音楽協会」というのはクラシック音楽振興団体みたいなものでしょう。「アルス・ガリカ」つまり純粋なフランス芸術の振興が、その団体のモットーだったようですが。周囲が超因襲的だったから多少は進歩的に見えたかもしれませんがね……。
――いわゆる進歩的といったものではなかった……? ところで、サン=サーンスは、名ピアニストだったのでしょう?
はい。しかし、若い時には二、三の教会でオルガニストを務め、やがてニーデルメイエー音楽学校でピアノの先生となり、そこで一六歳のフォーレなどを弟子に持つのですが、結局彼はパリ音楽院、いわゆるコンセルヴァトワールの作曲の先生にもピアノの先生にもなりませんでした。つまりフリーランスの演奏家、作曲家として一生を終えたようなものです。彼はラヴェルと同じように、いわゆるローマ大賞をとうとう取れなかったのです。その点で、ちょっとアウトサイダーです。コンセルヴァトワール派の主流ではなかった。フランスは、すごく保守的ですよ。
――このピアノ協奏曲第四番は、なんと驚いたことに二楽章しかないんですね。
しかし、そう驚くこともないので、その二楽章の中に四楽章分の材料が入っているわけでしょう。彼が尊敬おく能わざるリストの交響詩の手法です。ただ最初の楽章がヴァリエーション形式でした。これはちょっと変わっています。
――交響曲第三番も、やはり、同じような形式でしたね。循環主題というのは使われているのですか?
二つあったかしら。のっけに出るヴァリエーションのテーマはあとでスケルツォに出るし、フィナーレの三拍子の景気のいいテーマも、第一部で別の拍子と調で出ていましたね。
――この曲、近代フランスのピアノ協奏曲の中で、ベスト五ぐらいに入ると思いますが。
さあ、一八七五年だから、近代というのはちょっと苦しいです。まあロマン派の中の新古典主義、ドイツのブラームスと並ぶ存在でしょう。サン=サーンスのほうが二つ年下になりますか。音は、時とするとずいぶん印象派に近いこともありますけれど……。
●プレヴィン指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、コラール(P)〈85〉(エンジェル○D)
ピアノ協奏曲 第五番 へ長調 作品一〇三
アレグロ・アニマート
アンダンテ
モルト・アレグロ
旅行が好きな作曲家のオリエンタリズム
――近代のフランス音楽では、ピアノがかなり活躍しますね。
一八七一年に普仏戦争で敗北して以来、パリの音楽趣味はそれまでのフワフワした娯楽的なオペラ一辺倒じゃなしに、まじめな内容的な器楽曲にも向けられるようになったのですが、そこで当然ラモーやクープランたち、昔のいわゆるクラヴシニストの伝統に目が向けられました。サン=サーンス、シャブリエ、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル……。もっともサン=サーンスの場合はリストばりの、ロマン派のヴィルトゥオーゾふうなピアノ音楽という面も強いけど、感覚や色彩性は昔からのフランス音楽の伝統をひいています。
――この人、ずいぶん、あちこち旅行したんだそうですね。それと関係があるかどうかしらないけれど、サン=サーンスの音楽には、エクゾティックなものが多いようですね。
とくに晩年は旅行好きで、アフリカつまりアルジェリアとエジプトですが、この両国には何度も行った末、とうとう八六歳のときアルジェリアのホテルで死んだのです。そのほかスカンディナヴィアやロシアを含むヨーロッパ各国はもちろん、南北アメリカ、それにセイロンやサイゴンにまで行っているのです。南米ではウルグワイの国歌を作曲しています。
作品の上でもさかんに旅行していて、一八七二年のオペラ《黄色い王女》La Princesse Jauneは日本がテーマらしい。プッチーニの《蝶々夫人》の三〇年も前ですよ。《サムソンとダリラ》だって近東だし、《アルジェリア組曲》《ペルシャの歌》、それにピアノ協奏曲第五番《エジプトふう》……。まあ、エクゾティシズムはロマンティシズムの一つの支脈みたいな形で、その末期になって出てきたのだけど、サン=サーンスなどは性格的に、その影響を受けやすかったわけでしょう。
ただね《エジプトふう》といったって、この協奏曲の第二楽章でたしかに増二度をもった、何かしらアラブふうの旋律が出てきますが、今日の民族音楽学の立場から言って、それが典型的なエジプト音楽の特徴を具えているかどうか、疑問に思います。昔はそういう点は全くルーズだったですから……。
まあエジプトと言えばヴェルディのオペラ《アイーダ》という大きな先例があるけど、あれもしきりに増音程を使って、それらしいエクゾティックな気分を撒きちらしていますけれど。逆に言えば、その何となくどこそこふう、というのがエクゾティシズムの本領かもしれません。
――それがロマンティックな夢や憧れにも通じるというわけですね。
romanticという言葉は古いフランス語から出ているのだそうだけれど、しかし、ロマン主義の文学、絵画、音楽のどれを考えても、それは本来ロマン的なドイツ人の間から起こっているし、また確立されていた古典主義への反動として出てきたわけでしょう。
しかし、少なくとも音楽では、フランスは古典派もロマン派もドイツのスタイルからの影響が強いと考えられるし、サン=サーンスの場合も、さっきから話題になっているオリエンタリズムによって、ロマンティシズムの一翼を担っているにすぎません。彼の場合、古典主義との際立った対立ということも感じられなくて、むしろ均整、節度が重んじられていて、素材は全音階的です。その点では、アンチ・ワグネリズムですよ。
●デュトワ指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、ロジェ(P)〈78〉(ロンドン)
ムソルグスキー
Modest Musorgsky
(ロシア)
1839〜1881
組曲《展覧会の絵》(ラヴェル編曲)
プロムナード―こびと
プロムナード―古い城
プロムナード―チュイルリーの庭
遊んだあとのこどものけんか
ビドロ
プロムナード―卵のからをつけたひなの踊り
金持ちのユダヤ人と貧しいユダヤ人
プロムナード―リモージュの市場
カタコンブ
バーバ・ヤーガの小屋
キエフの大門
ピアノの原曲を超え、オーケストレーションの見事さで聴かせる
――ムソルグスキーの組曲《展覧会の絵》、いうまでもなくラヴェルの編曲ですね。
そうです。ほとんど、これはもうラヴェルの音楽ですよ。私のポケット・スコアも長年にわたってRの部に並べてあります、Mじゃなしに。
――このロシア「五人組」の鬼才と、ラヴェルの結びつきっていうのは、いったいどうなっているのでしょうか。
直接には、ディアギレフのロシア・バレエを通じてロシア音楽に強い関心を持ち、そこからムソルグスキーの音楽に惹かれていたのでしょうね。しかし、もう一つの線はドビュッシーです。彼もムソルグスキーに熱をあげたでしょう。ラヴェルを印象派として片づけるのはいけないけれども、ドビュッシーの影響はたしかに受けており、そのドビュッシーは若い頃ムソルグスキーから強く影響されているのは周知のことです。
――オリジナルは、ピアノ独奏用でしょう。
そうです。ピアノのテクニックの上では、まあずいぶん特殊なものですがね。曲と曲とを、〈プロムナード〉でつなぐというアイディアは心憎いですね。これは音楽的にはいわゆるリトルネッロですが、標題的には絵から絵に移っていく鑑賞者の心理描写です。最初のなどはスラヴふうの、単旋律とマッシヴな合唱とが対立するスタイルで書かれています。
――で、ハルトマンとかいう画家が死んだのが……。
前の年でしたかね。しかし、このムソルグスキーの一〇の曲が、全部遺作展に陳列されていた絵にあったかどうか、疑問の余地もあるようですよ。むろん、ムソルグスキーのファンタジーが入っていたって、ちっとも構わないわけですが。最後の曲なんかは、キエフの新しい都市計画に伴う大門の設計案だっていうんでしょ。あの中間の悲しいメロディーは、その扉に、その昔のキエフの大略奪の図でも描かれていたのかしらね。
――ラヴェルは、自分でこのオーケストレーションの仕事をやる気になったんですか。
まさか。これはセルゲイ・クーセヴィツキーが依頼した仕事なんです。彼がまだボストンに行く前の一九二二年のことで、初演はその年の一〇月一九日だという記録と一九二三年五月三日だという説と両方あります。場所はどちらもパリですが。こりゃどうしてかしらね……。そしてクーセヴィツキーは五年間の独占上演権を保留したそうです。
――でも、他の人のオーケストレーションもありますね。
相当たくさんあるんです。まず作曲された一八七四年にごく近い、しかもロシア人のものとして、作曲家のタネーエフのもの、それから一八八六年に出版されたツシュマロフのもの。これらはソ連では、もしかすると、今でも演奏しているんじゃないでしょうか。それからストコフスキー、ドイツ人のオスカー・フォン・パンダー、とそこまではツシュマロフを除いては聴いたことありません。
しかし、SPレコードで、オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団が録音していたフランス人のリュシアン・カイエの編曲、これは昔よく聴いたものです。カイエはハリウッドの作曲家らしいけれど、彼の《展覧会の絵》のアレンジは悪くなかったと思います。ある先輩はラヴェルのより好きだ、と言ってたくらいで、しっかりしたアレンジでした。しかし、私はタネーエフを聴いてみたいですよ。きっと土臭いものでしょう。リムスキー=コルサコフがアレンジしていないのはちょっと不思議です。ピアノ版の校訂を彼がしているのにね。それにしても、日本ではラヴェル以外はほとんど聴くチャンスがないですね。
――それだけ、ラヴェルのものが、一頭地を抜いているということですか。
一応はそう言えるけれど、スコアの出版とか、パート譜の入手の難易など、こういうことは付随的な問題が、そうとう大きく物を言いますからね。三度に一度は他の人のも聴いてみたいですよ。でもたしかに、ラヴェルはオーケストレーションの魔術師です。
●カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団〈86〉(グラモフォン○D)
チャイコフスキー
P奏er Il'ych Tchaikovsky
(ロシア)
1840〜1893
交響曲 第六番《悲愴》ロ短調 作品七四
アダージョ
アレグロ・コン・グラーツィア
アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ
アダージョ・ラメントーソ
自信と愛情を持って作曲、作曲者会心の作
――チャイコフスキーが、この曲について書いた手紙によれば、彼自身、これには、ずいぶん自信と愛情を持っていたようですね。いわば、会心の作だったんでしょうか。《悲愴》という標題は曲ができあがってから決められた?
初演のあと、出版屋に渡す時でしょう? 弟のモデストが考えついたタイトルだと言われています。
たしか第五番のあとEs dur(変ホ長調)の交響曲を書いていたのがどうしてもうまくいかなくて、そのモチーフは一部ピアノ協奏曲第三番に流用したりして、それも途中で放棄した形になった。そのあとこの第六番の筆がすらすらと運んだので余計愛着を感じたのでしょう。ついでですが、その放棄したのを近年レニングラード音楽院のボガティリェフとかいう人が、奇特なことに第七番として出版しています。ソ連ではもちろん、アメリカでもオーマンディが演奏しました。しかし、チャイコフスキーはお墓の中で何ていってますかねえ?
――《悲愴》のフィナーレは、変っていますね。まるで葬送音楽みたいですね。
こういうおそいテンポのフィナーレは古典派以後にはまれですが、バロックのソナタや協奏曲で、標題的な意図をもった場合には時々あります。やはり葬送とか追悼の曲ですがロカテッリなどにね。チャイコフスキーもイタリアでそういうのを聴いていたかもしれません。あるいはロシアの作曲家の忘れられた交響曲に先例があるかも分かりません。
――それから変っているといえば、第二楽章の五拍子もそうです。
これはスラヴの民族音楽に独特の拍子からきているのです。五拍子や七拍子はスラヴではごく普通ですもの……。グリンカのオペラ《皇帝に捧げし命》(別名《イワン・スサーニン》)の中の有名な婚礼の合唱が五拍子ですが、あれは《悲愴》の半世紀以上も前の作品だし、曲の出はじめに五拍子が混ってくるムソルグスキーの《展覧会の絵》にしても、《悲愴》の二〇年ほど前の作品です。ロシアでは五拍子はごく自然に歌われたり奏かれたりしていた、ということでしょう。
――チャイコフスキーは《悲愴》の初演後、まもなく死んでしまったわけですが、それにしても彼はなぜ、危険と知りながら生水なんか飲んだんでしょうね。
さあて……。いま手元にあるハンスン夫妻の『チャイコフスキー』という割に新しく、ロンドンで出た本を見ると、一八九三年一〇月二八日にペテルスブルグで《悲愴》初演の音楽会がありました。しかし、同時に演奏された彼のピアノ協奏曲第一番は大喝采であったのに反し、《悲愴》は聴衆にも批評家にも、とまどいを与えたらしい。そして五日後の一一月二日の朝、彼は気分が悪くて朝食の卓に出ていきませんでした。しかし、その日、友人の指揮者で作曲家のナプラヴニークを訪ねる約束があったので彼は出掛けていきました。帰ってからますます気分がよくないので、弟のモデストが医者を呼ぼうといったのに笑って答えず、昼飯の時に喉がかわいていたので、コップ一杯の生水をのみほしたんです。
その午後、まだ若かったグラズノフが彼を訪ね、容態の悪いのに驚いて養生をすすめたのにいうことをききません。その晩、弟のモデストが何とかいう名医を招いたところ即座にコレラと診断され、チャイコフスキーは弟に小声で“死ぬね”といったらしい。どんどん悪化して六日の未明に息を引きとった、とまあこういう経過なんです。
これは今までの解説書などの記述と二、三ちがう点があって、ともかくハンスン夫妻のデータを信用するとすればですがね、元来コレラ菌の潜伏期間は数時間から一、二日間なのですとさ。だから彼の死んだのは、問題の生水が汚染されていたためかもしれないけれど、すでに早朝から何らかの発病をしていたのはたしかだから、前日の飲食物が原因かも分からないですよ。
――色気のない話ですね。自殺説は、当時から流布していたのですね。
まあ、あんまり《悲愴》に引っかけて運命的な解釈をするのはどうかと思いますが、チャイコフスキーが追悼のピアノ三重奏曲(作品五〇 イ短調)を捧げているピアニストのニコライ・ルービンシテインにしても、前々からひどく胃腸を害していたのに、氷づけの生がきを一皿平げて、たちまちあの世へ行ってしまったとかいわれていますよ。
●バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック〈86〉(グラモフォン○D)
ピアノ協奏曲 第一番 変ロ短調 作品二三
アレグロ・ノン・トロッポ・エ・モルト・マエストーソ
アンダンティーノ・センプリーチェ
アレグロ・コン・フオーコ
ロシアの土の臭い、民族色の濃い“短調”
――これも短調の曲なんですが、しかし、実際にはチャイコフスキーの場合、長調だって悲しげですね。この曲の第二楽章がそうですけれども……。
この曲は変ロ短調と呼ばれているけれど、曲の頭のところのピアノとオーケストラのからみ合い、あれはじつは大がかりなイントロダクションで、その全体は変ニ長調なんです。そのあとやっと変ロ短調の部分がきます。まあ、こういうふうに三度の関係で長調と短調をいったりきたりするのは、元来ロシア民謡の特徴なんです。《ヴォルガの船唄》だってホ短調とハ長調とどっちでもいいみたいだし、《赤いサラファン》も長調ではじまってすぐ短調みたいになるし、プロコフィエフやストラヴィンスキーの旋律にまで、そういう傾向はあります。これはもう、ロシアの土の臭いですよ。
――そのお話、よく分かります。ほんとうに土の臭い、という気がします。
ところで、この曲は初演してくれるお目あてのピアニストがあったわけじゃなくて、したがって誰にも相談しないで完成してしまったんです。してしまったというのは、それが後でいざこざの原因となったからで、つまり一八七四年に三四歳のチャイコフスキーは、出来たばかりのこの曲を当時彼が作曲の教授をしていたモスクワ音楽院の院長で、大ピアニストのニコライ・ルービンシテインに見せたのですよ。あわよくばニコライ・ルービンシテインに初演して貰うつもりで、チャイコフスキー自身で奏いて聴かせたんです。
――彼としては、有名なニコライ教授のお墨つきが欲しかったのでしょうね。
ところがニコライ・ルービンシテインは下相談を受けていなかったので、何だかんだと難くせをつけたのです。それでチャイコフスキーも怒ってドイツのハンス・フォン・ビューローに楽譜を送ってしまった。ビューローはその妻がリストの娘で、のちにその妻がビューローの師であったワーグナーのもとに走ってしまうのですが、ビューローは進歩的な音楽家だからすぐチャイコフスキーの新曲を理解してくれて、目の前に迫っていたアメリカ旅行の目的地の一つ、ボストンで初演してくれました。一八七五年一〇月のことです。ニコライ・ルービンシテインも、あとでこりゃまずかったと思って、以後さかんに奏いてやったんです。五つくらい先輩になるのかな、その兄のアントン・ルービンシテインはさらに大ピアニストで、アントンならチャイコフスキーに文句をいったりしなかったと想像しますがね。
いずれにせよ、これは大型の貫禄あるピアノ協奏曲です。演奏所要時間も、ブラームスほどではないけれど、長いほうでしょうね。
●コンドラシン指揮 バイエルン放送交響楽団、アルゲリッチ(P)〈80〉(フィリップス)
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品三五
アレグロ・モデラート
カンツォネッタ、アンダンテ
フィナーレ、アレグロ・ヴィヴァーチッシモ
初演当時は評判の悪かった“名曲”
――この曲がラロの《スペイン交響曲》に刺戟されて生まれたというのは本当なんですか。
ラロの《スペイン交響曲》はサラサーテが初演して引きつづきあちこちで演奏されたのですが、たしかにチャイコフスキーはこれを聴いた感想を、パトロンのメック夫人宛の手紙の中で“明るい、フレッシュな曲だ……”と書いています。しかし、この曲からの刺戟だけで、彼がヴァイオリン協奏曲に着手したかどうか、そのへんは断言しにくいことじゃないかしら……。ともかく、チャイコフスキーのと同じ年に書かれたブラームスのヴァイオリン協奏曲も、サラサーテに刺戟されて着手した、ということになっていますが、まあ、どちらも、いかにも名演奏家時代に生まれそうな逸話であることは確かです。
――いつ頃の作品なんでしょうか。
これはたしかスイスで書いたのでした。レマン湖北岸のクラランスで一八七八年に作曲した、となっています。四〇年後に、この付近でストラヴィンスキーが《兵士の物語》を書いています。このへんはじつに風景のいい所です。多少箱庭みたいな感じですが。ついでですがラロの《スペイン交響曲》は、その三年前の一八七五年にパリで初演されています。
――チャイコフスキーという人は、ヴァイオリンが上手だったのでしょうか。少なくとも演奏技法に精通していたんでしょうね。
いやあ、ヴァイオリンくらい技法に精通するのに時間を喰う楽器はありませんから、作曲家でヴァイオリンの技法に精通している人なんてあり得ません。精通していればとっくにヴァイオリン弾きになっています。ラロでさえ、弾くには弾いたがヴィルトゥオーゾではなかった……。その代り、チャイコフスキーはスイスの家に一緒に滞在していたコテックという、ロシアのヴァイオリニストに相談しながら作曲したんです。
ブラームスはヨアヒムにおうかがいを立てたし、メンデルスゾーンはダヴィッドに手伝って貰いました。ベートーヴェンはヴィオッティ、ロードやクロイツェルなどのパセージをふんだんにとり入れている、という具合にヴァイオリンの演奏というものは、ひじょうに伝統的というか因襲的なので、ともかく名手に協奏曲の新作を弾いて貰うためには作曲家は苦労するってわけです。
――そうそう、アウアーでしたかしら、この曲を演奏不能だといったんでしょう。これは一体どういうことなんでしょうね。ほんとうに演奏が困難だったんだと解釈して良いのでしょうか。
さあ、たんに自分に相談しなかったので一時、機嫌を損じたんじゃないですか。それにアウアーもまだこの時三三歳だから新作というものに馴れていなかったこともあるでしょう。だってブロドスキーがウィーンで初演したあと、各地で奏いて評判になってからはアウアーも折れて、自ら演奏しているでしょう? それにエルマン、ハイフェッツなど、この曲にかけては名手といわれる人は、みんなアウアー派ですものね。アウアーも始めっからよく考えてとり上げれば良かったんですよ。
そういえば先日ハイフェッツの回顧談を読んでいたら、三〇年程前のシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲の初演を、自分が引受けるべきだった、という言葉がありましたっけ。後になって、当時断ったことを後悔したらしい。
――でも、一演奏家の発言が、作品自体の運命まで変えてしまうということは、よくあるじゃありませんか。批評家だってそうですよ。ハンスリックでしょう、この曲のことを“悪臭を放つ曲”だといったのは。
ウィーンにはナニワブシって言葉がないからでしょう。
●小澤征爾指揮 ボストン交響楽団、ムローヴァ(Vn)〈85〉(フィリップス○D)
幻想曲《フランチェスカ・ダ・リミニ》作品三二
アンダンテ・ルグブレ―アンダンテ・カンタービレ・ノン・トロッポ
道ならぬ恋のフランチェスカ姫の地獄落ち
――フランチェスカは、『神曲』に出てくる女性の名前で、リミニというのは地名ですか?
そうです。リミニはイタリアの地名でヴェネツィアからずっと二〇〇キロ近く南に下ったアドリア海に沿った所です。フランチェスカはそこの宮廷の若い奥方です。じつは偶然ですが、ルネサンスの作曲家のデュファイのことをしらべていたら、デュファイは、リミニの宮廷にいたことがあるのです。若い頃に少しの間ですが。それでね、もしやデュファイはフランチェスカに会ったことがあるのかな? と思って年代を当たってみたのです。
残念ながら、デュファイの滞在したのは一四二〇年頃なのに、フランチェスカが死んだのは一二八八年頃だそうで、一世紀以上もずれていました。しかし、デュファイが仕えた宮廷も、事件の頃と同じマラテスタ家だから、何代かあとの殿様に仕えたことになります。デュファイもこの話はむろん知っていたでしょう。
――なんですか、その事件というのは?
事件というのは、フランチェスカ姫が政略的に、暴君の長男と結婚させられた。やがて夫の弟の美しい若者とフランチェスカとが道ならぬ恋に陥り、二人は兄に惨殺されたというのです。イタリアにはこういった肉親による復讐の話は、掃いて捨てるほどあります。罪にならなかったのでしょう、昔は。とにかくデュファイとチャイコフスキーというのは奇妙な取り合わせですが……。
――チャイコフスキーは、こうした特定の人物の肖像画のような作品を書くのが、好きだったようですね。《ロメオとジュリエット》《ハムレット》《マンフレッド》……これらは、それぞれ幻想序曲とか交響曲とか、別の標題がついていますけれど、いわゆる交響詩と言ってよいのでしょう?
そうですね。《ロメオとジュリエット》もイタリアの話です。まあ、チャイコフスキーに限らず、リストからシベリウスに至るまでそうですが、いわゆる民族主義のロマン派に属する作品は、無題のソナタや、交響曲や協奏曲も、ひじょうにラプソディックで標題音楽的です。何か題をつけたら、それらしい交響詩になってしまうでしょう。だから、もともと作風がそうなんだから、ちょっとしたプログラムのきっかけがあれば、交響詩の構想がすぐ出来上がったことでしょう。
――チャイコフスキーは、こうした文学的な世界に精通していたのですか。
さあ、どうでしょう。シューマンみたいにとくに文学好きとは言えないでしょう。だいいち、この曲のきっかけになったダンテの『神曲』にしたって、バイロイトへ行く途中の汽車の中で読んだとか言うのでしょう? 要するに偶然の出遇いですよ。たくさん知っている中から選びとったというわけじゃないでしょう。
――なるほどね。ところで、彼のオペラ《エフゲーニ・オネーギン》の原作はプーシュキンという先例はあるけれど、チャイコフスキーは、一般にこうした交響詩の題材にロシアの作家のものを選んでおりませんね。これは、彼の作風と、なんらかの関係があるのでしょうか。それとも、ただ、選ぶにたる物語がなかったからだ、と見るべきでしょうか。
たしかに、チャイコフスキーはロシア的な「五人組」とは対照的な立場にあったわけで、むしろ西欧的な形式主義者とみられていたくらいで、じじつ彼はほぼ古典音楽の形式原理に立っているから、しぜん西欧文学に近親的なものを感じていたでしょう。純ロシアの題材だとどうしても、もっと土の香りの強い書き方で、という感じになります。そのほうは「五人組」の守備範囲だという気持ちはあったと思います。
――この《フランチェスカ・ダ・リミニ》は、チャイコフスキーのいつ頃の作品ですか。
彼の三六歳の時になりますか。さっき申し上げたようにバイロイトへ行く途中で『神曲』を読んだというのですが、それが一八七六年、ということはバイロイト祝祭劇場がワーグナーの《ニーベルングの指環》でこけら落としをやった年です。チャイコフスキーも招かれたのか、切符を買ったのか、パトロンのメック夫人に買って貰ったのかしらないけど。とにかくバイロイト詣でを彼もやったのです。
――そして、その副産物が、この《フランチェスカ・ダ・リミニ》というわけですか。
副産物ね。しかし、チャイコフスキーはその前にこのテーマでオペラを書かないか、という提案をある人から受けたことがあるらしい。それは不発に終ったけれど、だからこのテーマに関する予備知識は前からあったことになります。
――さきほどのお話によると、二人は、道ならぬ恋のために地獄に落ちたのでしたね。
といっても、醜男のジョヴァンニの代りに美男の弟のパオロが本人と偽って、輿入れするフランチェスカを迎えに行った。この策略にフランチェスカはまんまと引っかかって、しかも二人がほんとに恋し合うようになってしまった。それが『神曲』でも、他の文学でもフランチェスカが悲劇の人として同情的に描写されている最大の理由なのです。
――これは、地獄篇でしたね。その、どのへんに、あるのですか。
ですから、ダンテは彼らをたいしてひどい罪人扱いしてないから、地獄篇もわりに初めのほうのはずですよ……。そうそう、地獄の第二番目の圏の、第五歌です。何でも、ダンテと義姉の間には不義の恋愛関係があって、それがこの物語の取扱いに反映しているんだという、うがった説があるそうですが、どうなんですかねえ。
――私、ちょっと調べたのですが、これをモンテ・カルロのバレエ団が、ラシーヌの振付けで踊っていますね。コヴェント・ガーデンで……。
フィナーレの二人が強風に翻弄されて吹きとばされる所など定めし効果的でしょう。
●ロジェストヴェンスキー指揮 ソヴィエト国立文化省交響楽団〈91〉(エラート○D)
ドヴォルザーク
Antoni´n Dvor`´a´k
(チェコ)
1841〜1904
交響曲 第九番《新世界から》ホ短調 作品九五
アダージョ―アレグロ・モルト
ラルゴ
スケルツォ、モルト・ヴィヴァーチェ
アレグロ・コン・フオーコ
創作上の刺激となった新世界での環境の変化
――ドヴォルザークの交響曲第九番、これは《新世界》ではなくて《新世界から》というところが、大切なのでしたね。ところで、ドヴォルザークが、その新世界、つまり、新大陸アメリカに渡ったのは、ニューヨークの音楽学校の校長になるためだったんですね。
まあ、かたちとしてはその通りですが。しかし、オーケストラを使って自分の作品発表のチャンスもあり、俸給もひじょうにいいし、そういういろんな周囲の条件が大きかったんでしょう。年に四ヵ月の休暇という契約条項も魅力だったんでしょう。
――よくアメリカ人が、ドヴォルザークの名前を知っていましたね。ずいぶん遠いのに。
日本だって、もっと遠いのにヨーロッパのずいぶんつまらない作曲家の名前がよく知られていますよ。まあ彼の曲はニキシュその他のドイツ系の大指揮者が、すでにボストンやニューヨークで、かなりやっていたでしょうから。そのとき、ドヴォルザークは、ちょうど五〇歳じゃないですか。そうです、一八四一年生まれだから。
――いずれにせよ、彼を招いたサーバー夫人というのは、なかなかの女傑だったんでしょうね。
いかにもアメリカ人らしい思いつきと実行力を持った女性です。九四歳まで生きて一九四六年に死んだらしい。ピアノ教師であり、事業家の夫人でもあったようです。
――それで、ドヴォルザークは、アメリカに渡ってから、ずっとホームシックにかかっていたのでしょう。それじゃ、ニューヨーク音楽学校の校長先生の業務にも、あまり身が入らなかったのでしょうね。
少なくとも、初めのうちは事務的なこともよくやったようです。たんなる名誉職じゃなかったようです。しかし、彼は英語はどのくらいできたのかしら。
――この交響曲は、渡米してから、手をつけたことには、間違いないのですね。
そうです。一八九二年九月にニューヨークに着き、一〇月に学校の仕事をはじめてからの最初の作品です。一八九三年一月から五月にかけて書かれた、ということです。
――ところで、私には、この曲が、それほど〈新世界〉に結びついているとは思えないのですが。この標題や、エピソードを知らずに、いきなり、この曲を聴いたとすれば……。
そうですね。題をつけるなら「ボヘミアから」が、いちばんぴったりのように思います。あるいは一部分は、ジャズが入る前の「アフロ・アメリカン世界から」と言ってもいいかしら。要するに一九世紀末のウィーンを座標に、時間的、空間的にある程度の距離からのエクゾティシズムが感じられる、という所ですからね。
――チャイコフスキーの《イタリア奇想曲》とかリストの《ハンガリー狂詩曲》といった、その土地の音楽のイディオムを、その中心的な素材にしているわけでもない……。
そのとおりですが、開曲のシンコペーションや冥想的な第二楽章は、気分的にニグロ・スピリチュアルズに似ています。全く無関係とはいい切れない所がおもしろい。
――なんとかいう、ボヘミア移民の村がありましたね。ドヴォルザークが、よく行ったらしいけれど、この曲の解説というと、それがまことしやかに述べられますが、これはあまり作品とは関係ないことなんじゃないかと思うんですけれどね。
波止場に船を見にいくことと、停車場に機関車を見にいくことには大そう熱心だったといいます。それからセントラル・パークの鳩と年中遊んでいたというんです。
それで、結局、ドヴォルザークは、一八九二年九月末から一八九五年四月末までの二年六ヵ月アメリカにいることになります。
――作曲活動は、さかんに続けられたのですか。
《新世界から》につづいて弦楽四重奏曲《アメリカ》、弦楽五重奏曲第三番、それからピアノ小曲があって最後にロ短調のチェロ協奏曲とずいぶん充実しています。これは故郷の田舎にくすぶっていたら、これだけの成果があがったかどうか。環境が変化したことはたしかに彼に創作上の刺戟となったのじゃないかしら。ハイドンの〈ザロモン交響曲〉の場合とちょっと似ています。
――このあと、ドヴォルザークは、交響曲を書こうとしなかったのでしょうか。
何か伝記には、ナイヤガラの滝を見た時に、この印象を交響曲にするのだと語ったことが書かれていますが、実現していません。その代り、ボヘミアに帰ってから交響詩を五曲書いています。作品一〇七から一一一までの一揃い。あまり演奏しませんが。
――ところで、この《新世界から》は、演奏によって、ずいぶん印象が違う曲だと思うんですが……。アメリカのオーケストラあたりがやると、いかにも、アメリカくさいような気もするし、チェコのオーケストラがやると、やはり、ボヘミアかなとも思うし、また、ドイツの、たとえば、ベルリン・フィルなどが演奏すると、この曲の持つ、ドイツ的な構成感といったようなものが、なんとなく匂うような気もしますしね。
はるか昔ですが、チャイコフスキーの交響曲第六番《悲愴》を、フルトヴェングラーが振ったSPを聴いた時、これはまさにスラヴ音楽のゲルマン的歪曲だと思ったものです。以前、レニングラード・フィルが来日した時、あれは新宿のコマ劇場でブラームスの交響曲第四番をやりました。その時「ブラームス作曲、チャイコフスキー編曲!」って言ってニヤリとした人がいました。まったくブラームスが、チャイコフスキーみたいに鳴っていましたね、あの時は。
●ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団〈81〉(スプラフォン○D)
チェロ協奏曲 ロ短調 作品一〇四
アレグロ
アダージョ・マ・ノン・トロッポ
アレグロ・モデラート
チェロ協奏曲の筆頭に挙げられるべき最高傑作
――古今のチェロ協奏曲の筆頭に数えられて然るべき作品だと思いますが。
この一曲なかりせば、ドヴォルザークの評価はかなり下廻ります。《新世界から》で止まりということになると。
――彼は、ボヘミアの代表的な音楽家ということになっていますが、私にはかなり西欧的な気質の濃い人だったように思えるのですが……。
それがつまり典型的にボヘミアの作曲家らしい所で、プラハはモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》が初演された都会でもあるし、一八、一九世紀には完全にオーストリアの音楽文化圏内ですよ。地理的にもここはウィーンとライプツィヒを結ぶ直線のほぼ中間ですから。それにドヴォルザークは、ブラームスやハンスリックのサークルのおかげで出版や演奏のチャンスを得ているので、あまり民族色を出しすぎないように心していたでしょう。
――ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、ただ一曲でしたね。
ふつう、そう思われていますが、二四歳の一八六五年に作曲したイ長調のチェロ協奏曲がもう一つあるのです。交響曲第一番、第二番の生まれた年ですが、ただ伴奏部はピアノのまま残されているのです。他の人の手に成るオーケストラ・パートもあるらしいけれど、私もその曲は見たことも聴いたこともないです。
――それじゃ、習作ですね。すくなくとも、ロ短調協奏曲とは、桁が違いますよ、きっと。ところで、この協奏曲ですが、なにか書く動機でもあったんでしょうか。
これは、ドヴォルザークより一四歳ほど年下の、ボヘミア出身の大チェリストでハンス・ヴィーハンという人がいて、この人はミュンヘンの歌劇場の主席チェリストやプラハ音楽院の教授やボヘミア弦楽四重奏団のチェリストなどをやっていて、ドヴォルザークとも親しかったのです。
ドヴォルザークは渡米直前に一緒に演奏旅行もしたらしい。それで、ヴィーハンから依頼があってとりかかったのかどうかははっきりしませんが、少なくともフィナーレはヴィーハンに見せて、ソロ・パートを直したというし、それに曲はヴィーハンに献呈しているのです。しかし、初演は別の人だったのですが……。
――たしかアメリカ滞在中の作品でしたね。
そうです。一度ボヘミアに帰ってもう一度出直してからの作品で、ずいぶん短期間に仕上げています。一八九四年一一月八日から九五年二月九日までのきっかり三ヵ月です。まあ、ドヴォルザークはニューヨークにいてもひじょうに郷愁にとりつかれていたらしい、と書いてありますね、どの本にも……。それで晩年のアメリカ時代の作品は、中期のブラームスふうの新古典的な形式感の上に、かえって初期のロマンティックな、またボヘミア的な情緒が色濃く復活してきたのです。しかし、ニューヨークにいることが、いよいよがまんできなくなって……。
――途中で帰っちゃった。ところで、ドヴォルザークはアメリカ・インディアンの歌と、故郷ボヘミアの民謡との間に、共通したものを見出したといわれていますが……。
そうですね。日本の追分とスペイン民謡のある種のものがひじょうに似ているなど、同じような文化の発展段階では互いに似ることがあるのですよ。系統的に離れていてもね。
――この協奏曲は、ある意味で、ひじょうにシンフォニックだと思いますが……。ちょっとブラームス流で。
これは、ブラームスの気に入るように意識してやった面がありますからね、恩人だから。また、逆にドヴォルザークがアメリカにいる間に新作が出版される時は、ブラームスが校正をしてやっているのですよ。
もっともブラームスのものをほとんど出しているジムロック出版社だし、そこへドヴォルザークを紹介したのはブラームスだから、義理もあったようです……。そう言えば、私がこの曲にはじめて接したのはフォイアマンのソロでしたが(註:昭和九年一〇月)、もうただただ驚嘆するだけだったです。
●小澤征爾指揮 ボストン交響楽団、ロストロポーヴィチ(Vc)〈85〉(エラート○D)
グリーグ
Edvard Grieg
(ノルウェイ)
1843〜1907
ピアノ協奏曲 イ短調 作品一六
アレグロ・モルト・モデラート
アダージョ
アレグロ・モデラート・モルト・エ・マルカート―クワジ・プレスト―アンダンテ・マエストーソ
いかにも北国の青い空を想わせる澄んだ透明な音楽
――これはグリーグのかなり若い時代の作品だと聞いておりますが。
そうですね。グリーグという人は、ノルウェイの西の外れ、大西洋に面したベルゲンという港町で生まれたのですが、北欧の作曲家は、ほとんどドイツのライプツィヒへ勉強に行ったのですが、グリーグもそうです。この曲はリストにほめられたのですね。
――彼がローマに留学できるように、リストが骨を折ってやったという話がありますね。グリーグといえば、《抒情小曲集》のような二〜三分足らずの小曲を、非常に詩人的にきれいに書く作曲家だという印象を受けますけれども。
それとリートですね。シューマンやメンデルスゾーンなどの初期ロマン派から深く影響を受けています。ところで、この協奏曲を作曲した時、グリーグは二六歳。初演は一八六九年ですが、当時は民族主義ロマン派の作曲家が各国から出てきた頃で、スメタナの《売られた花嫁》などもほとんど同じ時代です。フィンランドのシベリウスと同じように、グリーグの音楽には北国の音楽らしい澄んだ透明な、いかにも高く澄みわたった空に白い雲が浮かんでいるという感じがあり、また第三楽章になると人びとの生活の喜びといった人間味あふれた、にぎやかなメロディーも出てきて親しみやすい曲です。絶唱型の旋律も出てきます。こういうところがラフマニノフなどと同じように、この曲が人気の高いゆえんでしょう。
――実際に民族的な、たとえば民謡の節を使うとか踊りのリズムを使うとか、工夫をしたんでしょうか。
グリーグは非常に民族色豊かですけれども、この曲にはナマの民謡はないでしょう。それにスウェーデン、ノルウェイはゲルマン系で、その民謡はあまり土俗的ではなく、一九世紀のドイツ民謡に近いのです。しかし、この曲の第一楽章の出だしはシューマンの、やはりイ短調のピアノ協奏曲の出だしと作り方がそっくりです。ピアノの即興的なカデンツァふうの楽句があって、木管がメロディーを吹いて、ピアノがそれを反復する所ですが。ライプツィヒ派の大先輩に敬意を表して、わざと同じアイディアで作ったのでしょうか。その最初のカデンツァの中に、ピアノの最低音のイ音が出てきますね。
●ヤルヴィ指揮 エーテボリ交響楽団、ジルベルシュテイン(P)〈93〉(グラモフォン○D)
リムスキー=コルサコフ
Nikolai Rimsky-Korsakov
(ロシア)
1844〜1908
交響組曲《シェエラザード》作品三五
海とシンドバッドの舟
カレンダー王子の物語
若い王子と王女
バグダッドの祭り―海―船は青銅の騎士のある岩で難破―終曲
オーケストラのショー・ピース、鮮やかに出る楽器の生の色
――リムスキー=コルサコフといえば、『管弦楽法原理』を書き、色彩豊かな管弦楽の作品を残した作曲家ですね。
『管弦楽法原理』は大きな本です。しかし、半分は彼自身のオペラの楽譜例ですから、彼の本領はオペラ作曲家です。『管弦楽法原理』も書いた、でなければ気の毒です。
――彼は若い頃、海軍兵学校にいたのでしたね。
井上和男さんの、音楽之友社から出ている『ボロディン/リムスキー=コルサコフ』という新書判の本によると、一二歳で入学して一八歳で卒業して士官候補生になっています。だから日本の昔の江田島とはちがって、むしろ陸軍の幼年学校と士官学校を一緒にしたみたいなものかしら……。とにかく帝政時代のエリート・コースの一つなんでしょう。彼の一族には海軍の提督が何人もいたらしいです。
――それじゃ、若いうちは、音楽家になるなどということは夢にも考えなかった。
さて、どうでしょうか。しかし、ピアノは小さい時から習っていたようだし……。子供の時にも作曲しているようです。まあ、専門にやろうとは思っていなかったでしょう。例の「力強い仲間」、通称「五人組」に近づくまでは。
――その通称「五人組」の仲間に加わったのは?
一七歳くらいの時にバラキレフの所に行ったのです。グループの最年少でした。そしてその時すでに交響曲の草案をもっていたし、遠洋航海の途中にも交響曲を作曲しているようです、ロンドンなどで……。
――ハイティーンですね。とにかく、ひじょうに東洋的な色彩の濃い作曲家ですが、これは、さきほどおっしゃった遠洋航海のたまものというわけでしょうか。
そう、いろんな曲で東洋ふうのエクゾティシズムが目立つことはたしかですが、われわれは彼の全作品のはたして何分の一を知っているのかしら。オペラだけで一五もあるのですよ。《雪娘》《サトコ》《モーツァルトとサリエリ》《不死身のカシチェイ》《キーテジの町》《金鶏》。このうち最後のを除いては、私も『管弦楽法原理』の譜例で見ただけですが。
だから、彼の全作品の中でオーケストラの色彩が派手な、エクゾティックな曲だけがくり返し聴かれているという点では不幸な作曲家です。逆にいえば、これから彼の全貌が明らかになり、真の評価が下される作曲家といえるかもしれません。オペラの場合、ロシア語であることが明らかに大きな障害ですが、これとてだんだん普及することも考えられます。げんに自然科学系統の人たちにとってロシア語は不可欠の言葉になりつつあると思うし……。
――本格的な教育は、どこで受けたのですか。
まあはっきり言って、どこでも受けていません。最初の交響曲第一番、変ホ短調はバラキレフにいろいろオーケストレーションなど教わりながら作曲したのですが、そのだいぶあと、これは有名な話ですが二七歳の時、いきなりペテルスブルグ音楽院の作曲と管弦楽法の教授に招かれました。しかし、その時、音楽理論については何一つ知らず、大急ぎで自学独習して生徒の前にボロを出さないようにつとめた、と自伝の中に書いています。
――そのころは、学生もおとなしかった。「五人組」の中にあって、彼はおもにどんな役割を担っていたのですか。
役割っていっても、彼は仲間に入った時わずか一七歳で最年少ですし、もっとも大将のバラキレフだって二五歳だったのですが……。それにイギリスや南米、北米に航海して留守だった期間もあるし……。結局「五人組」というのはフランスの「六人組」と同様、確固とした永続的な団体というわけじゃないから、強いてリムスキー=コルサコフの役割といったものを考えるなら、ボロディンやムソルグスキーと親しい交遊があった、というくらいのことかしら。つまり、ボロディンやムソルグスキーはキュイやバラキレフ、批評家のスタソフなどとは肌合いがちがっていたけれど、リムスキー=コルサコフは割合にどっちの傾向ともつき合えたでしょう。
――それで「五人組」解散後は?
ちょうどリムスキー=コルサコフがペテルスブルグの教授になった頃、バラキレフは音楽ができないようになってしまって、自然消滅してしまうんです。リムスキー=コルサコフはそれまで自発性をたよりに作曲していたのだけれど、教授になってからパレストリーナやバッハなどを猛然と研究して、一八七五年の弦楽四重奏曲などに、その直接の成果をあらわしますが、さらにロシア民謡の世界に深く入っていく。これは一八八一年のオペラ《雪娘》などに大いに活用されています。
やがてリムスキー=コルサコフは、のちに出版屋として、またロシア交響楽演奏会の組織者となった音楽愛好家のベリャーエフの家の集いに、指導者格として加わるようになります。これは六〇年代の、自分が最年少者として加わった「五人組」の、意欲ばかり先に立って技術が伴わなかったグループとまさに対照的で、技術的には進んだ若者たちのグループで、グラズノフなどが最年少だったのです。こうして第二の国民楽派のグループが八〇年代に生まれつつありました。しかし、彼自身の作曲活動は一八八〇年代の前半はやや不活発で、後半から急にさかんになります。
――《シェエラザード》は一八八八年ですから、ちょうどそのころですね。
そうです。この時期、オペラのほうは《雪娘》以後一〇年ほど休んで、もっぱら器楽に力を入れています。ピアノ協奏曲(一八八三)、ヴァイオリンとオーケストラのウクライナ幻想曲(一八八七)、《スペイン奇想曲》(一八八七)そして《シェエラザード》(一八八八)などです。この四つだけについても、尻上りに充実してくることがよく分かります。一八八八年というと四四歳ですか。その年、序曲《ロシアの復活祭》も完成しています。
――ロシア交響楽演奏会の指揮者として活躍したのでしたね。
ええ、ベリャーエフのロシア交響楽演奏会です。一八八五年から八六年のシーズンから始まったのですが、その次の年から一九〇〇年までリムスキー=コルサコフはつづけて指揮しています。むろん自作ばかりでなく、ロシアの多くの作曲家の作品をとりあげたのです。《シェエラザード》は、その会で一八八八年一〇月二二日に初演されています。
――そういえば、バレエ《イーゴリ公》の遺稿を完成したり、ムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の改訂版を出したり。
それも彼の重要な仕事です。ムソルグスキーは一八八一年に死んだのですが、リムスキー=コルサコフは、まず彼の《はげ山の一夜》の改訂にとりかかりますが、《ボリス・ゴドゥノフ》はもっとあとまで何回かかけていると思いました。ボロディンの《イーゴリ公》の場合は、作曲者が化学が本業で作曲が遅々として進まないのに業を煮やして、リムスキー=コルサコフが横から手を出して手伝った形です。これは一八七九年頃かららしいです。その他ダルゴムイシスキーのオペラ《石の客》のアレンジもしています。
――ワーグナーからも影響を受けたとか。
一八八九年にペテルスブルグでムックの指揮で《ニーベルングの指環》が上演されて大変な騒ぎだったらしい。初演後わずかに一三年目ですが……。やはりさすがにロシアはヨーロッパです。バイロイト祝祭劇場のこけら落しが一八七六年で、それにチャイコフスキーとキュイは参加したのですが、リムスキー=コルサコフはそこへ行かなかった。だから一八八九年以後、リムスキー=コルサコフもその影響を受けるようになります。オペラの《ムラダ》(一八九〇)からあとでしょう。
――ペテルスブルグ音楽院の教授を追われたのは、このあとですか。
これは一九〇五年の革命の波で音楽院の学生が騒いだ時、リムスキー=コルサコフは多分に誤解を受けて罷免されたようです。井上和男さんの本によると、デモを止めさせようとして校庭で学生を説得していたのを、煽動していたと見誤まられたようです。しかし、彼が当時の体制に対して進歩的な考えをもって、改革の必要を叫んでいたのは事実です。もう六〇歳を超えていたのに。それでそのあと、彼の作品が上演禁止になったことがあるようです。スターリン時代の一九三〇年代、四〇〜五〇年代の批判の小規模な前駆みたいに思えますね。政体はまったくちがうけれど国民性というか……。
――ところで《シェエラザード》ですが、女性の名前でしたね。
『アラビアン・ナイト』からです。そのヒントはボロディンの《イーゴリ公》のアレンジをしているうちに、〈ダッタン人の踊り〉のエクゾティシズムから、だんだん『アラビアン・ナイト』に向かっていったらしいのです。サルタン・シャリアールの王妃シェエラザード。
――それで、サルタン・シャリアールが、女性はすべて不実で不貞だと思いこんだ……。
そのサルタンは初夜をすごしたら女どもは殺そうと誓いを立てているので、それをのがれるために、彼女は結構な寝物語を夜な夜な創作して、一千一夜生きのびようとしたというんでした。そのうちサルタンは誓いを忘れたとか。サルタンのほうが王女の文才を見越してそうさせたのかもね。
――この曲のどの部分が、『アラビアン・ナイト』のどの部分に対応するのですか。
じつはよくしらないのですが、しかし、各楽章に一応標題があるんじゃないですか。それはリムスキー=コルサコフがリハーサルの時にオーケストラの連中に説明したのに拠っているんだそうです。すると初めは何も書かなかったのかしらね。オイレンブルクのポケット・スコアには標題は何も書いてありません。ただI、II、III、IVとなっているだけです。
――シェエラザードが独奏ヴァイオリンですね。
そうらしいです。オペラ《サルタン皇帝の物語》の〈熊蜂の飛行〉をゆっくりしたような旋律です。あれもリムスキー=コルサコフの作曲ですよ。
――とにかく、《シェエラザード》はオーケストラのショー・ピースですね。
絵の具を混ぜないで、チューブからぐいぐい塗りつけたみたいに、各楽器の音色が鮮やかに出ています。ただそのやり方はリムスキー=コルサコフの、この音楽だからよく合うやり方なんで、こういうオーケストレーションこそが上手なオーケストレーションだ、という一般論は成り立たないと思うんです。
●デュトワ指揮 モントリオール交響楽団〈83〉(ロンドン○D)
マーラー
Gustav Mahler
(オーストリア)
1860〜1911
交響曲 第一番《巨人》ニ長調
ゆるやかに、引きずるように、自然の声音のごとく
力づよく速く、しかし速すぎず
はなやかに、荘重に、引きずることなく
嵐のように速く
ジャン・パウルの小説から、作曲者自身が命名
――マーラーは、ボヘミアの生まれなんだそうですね。
ええ。たとえば私たち日本人の間にも、中国大陸生まれの人や朝鮮半島生まれの人が少なくないように、ドイツ人にも、ボヘミアつまり今のチェコ生まれや、ポーランド生まれの人が少なくありません。しかし、マーラーの場合はちょっとそれとちがっていて、彼の家系はそもそも古くからボヘミア=モラヴィアに住んでいたユダヤ人なのです。ただ、その土地のドイツ=オーストリア文化に依存し同化していた人たちだったわけです。
マーラーの生まれたカリシュトという所は、プラハとウィーンを結んだ線のちょうどまん中どころを少し東へ行った所で、プラハよりむしろブルーノに少し近い田舎です。まもなく彼は近くのイラーヴァという小都会に出てくるのですが……。そして結局は一五歳でウィーンに出て、そこの音楽院に入るのです。
――マーラーが活躍した時代というのは、ちょうどブラームスとワーグナーの、それぞれの信奉者たちが、互いに反撥しあっていた頃ではありませんか。
まあ、そうなんです。主義というか思潮というか、はげしく対立する二つの流れがありました。しかし、それをあまり人間関係にまで、あてはめて想像することはどうでしょうか。たとえば、今日の日本の作曲界に、新古典主義と民族主義と前衛が対立している、なんて誰かが書くと、一〇〇年後に読む人は、お互いに作曲家たちは口も利かずににらみ合っていたのかと思うかもしれません。ただブラームス派のハンスリックという批評家は、ずいぶん精力的に批判を展開したようですが。
――そうした情勢の中にあって、結局、マーラーは、どういう地位にあったんですか。
マーラーはブルックナーの弟子格で、むろん進歩派の最たるものですが、しかし、現実には各地の歌劇場指揮者としてモーツァルトなどのすばらしい上演で定評があったわけで、また彼の交響曲は意匠が新しいと言ってもオーケストラに決して反撥させない要素があるから、ちょっと特殊な立場でしたでしょう。
これは余談ですが、彼は若い時から各地の歌劇場で指揮者をしていますが、その場所が一回おきに東と西とはげしく動いているのです。たとえばチェコのオルミュッツから西独のカッセル、つぎにまたプラハ、今度はライプツィヒ、次がブダペスト、それからハンブルク、ついでウィーンからニューヨークと東、西、東、西と動いているのは偶然もあるでしょうが、彼のはげしい感情の変化、理想主義的で直情径行的な行動を反映しているように思えるのですが。まあそんなわけで彼は年中ウィーンに滞留している暇がなかったでしょう。
――マーラーというのは、本質的に作曲家というより、むしろ指揮者だったんじゃないかと思うのですが。楽譜の書き方が、経験を積んだ指揮者にして、初めて可能だと思われるような、こまかい指定が書き入れてありますね。それから、自分が指揮していて、発見したような、ちょっとした効果というのが、じつにいろいろ採り入れられていて、ときには、やや違和感さえ感じられるのですが……。
たしかに指揮者という職業が独立して以後、そういう傾向のスコアが少なからず現われてきました。しかし、マーラーの細かい書き込みについては、一種のメモというか老婆心というか――たとえばnicht eilen(急ぐな)とか、nicht schleppen(引きずるな)とか、マーラーはよくスコアに書き記します。そこはたしかに駆け出したり引きずったりしそうな個所ですが、これは即物主義以後、トスカニーニ以後、そんなこと書かなくたって正確にやるのが指揮者の習慣になりきっています。またトロンボーンの和音ののところにSchwer und dumpf(重く、しめっぽく)などと書いています。しかし、曲想や音型からそこのエクスプレッションは判断できるはずで、そんな主観的な注意書きはしなくてもいいのです。
また弦の上行音型にwild(荒々しく)と書きこむ。しかし、そこはもう各音にアクセント記号がつき、で一六分音符なんだから、「お静かに」「優美に」しろったって出来っこないところです。だからこの種の書き込みは彼が指揮者だったからというよりも、むしろ一種の偏執狂的なもので、書いてあろうがなかろうが大差のないものだと私は思うのです。これに反して、彼の音色に対するデリケートきわまる感覚、もし一つのパートを他の楽器に取りかえたら、もう崩れてしまうような音響美こそ彼のスコアの本質で、私は彼の指揮者体験から出たというよりは、本来彼に具わっている音楽性の発露だといいたいのです。そういった書法の中には指揮者体験も、ある程度生かされてはいるでしょう。それにしても、やはり彼は作曲家なのであって、独特な構成感といい、多数のモチーフの発見といい、やはり天才的な創作家ですよ。とくに交響曲第五番以後のモチーフの変容の技術は独特です。
――作曲家としてのマーラーの主体が、交響曲にあったことは、まず間違いないでしょうね。そのほかでは歌曲ですか。
両方の分野が入りくんでいます。どちらが重要とも言えないでしょう。交響曲第一番から第四番までは「クナーベン・ヴンダーホルン(子どもの不思議な角笛)のグループ」と呼ぶくらいです。そのあとも何のかんので彼自身の歌曲と具体的な連関が多いです。
――マーラーの交響曲は、ある意味で、たいへんに声楽的ですね。べつに声楽を使ったからだというのじゃありませんが。その旋律などには、まさに歌謡的な性格が感じられます。
声楽曲からの引用は別にしても、朗々と歌う無限旋律的な線がたしかに多いですが、やはりさっき言いましたように、その中に音型のヴァリエーションを織り込んでいくなど、器楽としての自律的な性格を具えていると思います。どこかに器楽旋律としてのメリハリを利かせているはずです。
――民族ふう、というより、民謡ふうの色合いも濃いですね。
そうです。これはロマン主義の特徴でもあります。彼の場合、ゲルマンとユダヤの両方ですが。交響曲第一番の第三楽章にはFr俊e Jacquesという古い子供の歌の引用があります。マーラーは一種のオブジェのようにこれを使用しているのです。
――オーケストラの編成は、結構大きいけれど、しまった透明な響きがしますね。
これはユダヤ人に特有の耽美主義的な響きですね。メンデルスゾーンにもシェーンベルクにも感じられるものです。指揮者で言えばワルターやバーンスタインの音がそうだと思うのですが。
――マーラーという人の作風は、当時として、進歩的だったんでしょうか、あるいは、保守的だったんでしょうか。
進歩的です。しかも一作ごとに絶えず新しい構成を考えています。ただ調性的な線に固執したこと、リズムや拍子が定形的なことなど、保守的な面もありますけれども……。
――ところで、交響曲第一番《巨人》ですが、この曲は、マーラーの何歳頃の作品ですか。
これは、一八八四年から一八八八年にかけて、というと二四歳から二八歳ですか。一八八九年の一一月にブダペスト・フィルハーモニーを彼自身で振ったのです。しかし、その時は交響曲第一番でなく〈交響詩〉という題で、しかも第一部を〈青春の日々〉第二部を〈人類の喜劇(Commedia Umana)――地獄から天国へ(Dall' inferno al Paradiso)〉とやった。第一部が第三楽章まで、第二部が今のフィナーレです。
――《巨人》という名は、マーラーがつけたんですか。
ええ。その後少し手を加えて、一八九四年にヴァイマールで上演した時には、《巨人(Titan)》と題名を変えたらしいのです。それというのも、元来さっきの標題も『巨人』というジャン・パウルの小説の内容からとっているんです。ジャン・パウルの『巨人』は一八〇〇年頃に作者がヴァイマールの宮廷に滞在して、ヘルダーやゲーテやシラーと交わっていた頃の作なのです。天才主義、巨人主義を批判した一種の教養小説なんだそうです。だから、ヴァイマールでこそ、またその当時でこそメTitanモとやっただけで誰にもピンときたでしょうが、今日のわれわれには、この題では何のことか分からないですよ、実は。
巨人を描いたのでも巨人礼讃でもなくて、むしろその逆のことを書いた小説の題なんですから。《巨人》と命名するのをすすめたのは友人で評論家のパウル・シュテーファンだという説があります。しかし、細部の標題については、二、三別なのがあって、上演のたびに幾通りもプログラムを書いたのじゃないかという気がするのですが……。
――ジャン・パウルといえば、例のシューマンが心酔した……。
ええ、ロマン派の作家です。本名はヨハン・パウル・フリードリヒ・リヒターです。感情過多の空想家で、しかも知的な閃きがあって当時はひじょうに人気があったのです。しかし、今日ではあまり読まれないのでしょうね、ドイツでも。
――時代も変りましたからね。この曲の中に《さすらう若者の歌》のメロディーが聴こえてきますね。これは、どういうことなんでしょうか。
まず第二曲からのGing heut' Morgen, 歟er's Feld……と歌う民謡ふうのメロディーが第一楽章の第一主題です。つまり、この交響曲が快活な《さすらう若者の歌》のように、いまだ運命の恐ろしさを知らぬ青春の日々を描いていることを表わしているのでしょう。だいたいこの第一楽章はカッコウのモチーフが自然を讃えるようにあちこちに出ます。今のメロディーもそのモチーフから始まるのだし……。
第三楽章の葬送ふうの音楽にはさまれる旋律も《さすらう若者の歌》の第四曲からとられています。第四曲の途中のメAuf der Strasse steht ein Lindenbaumモの挿入はもっと効果的です。慰めにみちた歌詞と旋律が一瞬サーッと重苦しい気分を吹き払ってしまう、この第三楽章でマーラーは一七世紀フランスの銅版画家ジャック・カロの「聖アントワーヌの誘惑」、あるいはシュヴィントのエッチングの「動物たちによる猟人の葬列」をテーマにして作曲したらしいです。そうだとするとジャン・パウルとの関係はどうなのかな。
――ブルーノ・ワルターが、この作品を、「マーラーのウェルテル」とよんだそうですが、何かそうした、個人的な体験と関係があるんでしょうか。
うーん、まあ想像はできなくないですが。ジャン・パウルとジャック・カロがすでに混線しているので、その上マーラー自身がからんでいるとなると……。
――シューベルトとマーラーとは、作風のうえでかなり似ているように思いますが。
それはもう、いわゆるウィーンふうの感じがじつに共通しています。レートリヒという学者が、今の第三楽章のテーマがシューベルトの交響曲第九番第四楽章、第二主題と関係があると言ってるらしいですが、あちこちに似た点はたしかに出てきます。まあ、やはり歌謡ふうのモチーフをよく用いる点が第一でしょう。それからいわゆるレントラー舞曲――オーストリアの田舎の踊りです。その感じは区別つかないくらいそっくりです。
●テンシュテット指揮 シカゴ交響楽団〈90〉(EMI○D)
交響曲 第五番 嬰ハ短調
葬送行進曲 中庸の歩調で、厳格に、葬列のように
あらしのように激動して この上なく激しく
スケルツォ 力づよく、あまり速くなく
アダージェット ひじょうにゆるやかに
ロンド・フィナーレ アレグロ・ジョコーソ、生き生きと
新しい語法への転換、二〇世紀最初の年に作曲
――マーラーは大作曲家であると同時に大指揮者でしたね。
まあ、作曲と指揮という二つの仕事は、ある部分では競合というか重合しているけれども、基本的にはまったく別の作業であり、別種の才能です。だから作曲家であるにもかかわらず、指揮者でもあったのはベルリオーズ、リスト、メンデルスゾーン、ワーグナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス。反対にシューマン、ブルックナーなどは不得手のほうじゃないですか。それからブリテンやウェーベルンの場合は自作のみならず、古典を演奏しても独特な持ち味を買われていますが、彼らが果して交響楽団の常任のような本当の意味での職業指揮者としてやっていけるかどうか? これはこれで一つの専門職ですから。ところがマーラーはたしかにそれができた人だし、現代ではブーレーズなんかがやっています。ストラヴィンスキーは自作品しか振りません。己をよく知っている証拠かもしれません。
――マーラーはウィーンなど有名な歌劇場でも、さかんに活躍したそうですね。
弟子のブルーノ・ワルターが真から敬服しています。若い頃にとても師匠の芸には及ばないと述懐しています。しかし、マーラーは作曲に疲れた頭脳を休める気晴しに指揮をはじめたというんです。ところが、こんどは、そっちに時間をとられ、自縄自縛におちいって、ますます神経質になり、健康をそこね、寿命をちぢめることになってしまった。
何しろ五〇歳そこそこで死んだのでしょう? ところが未亡人はやがて文学者のフランツ・ヴェルフェルと再婚し、次に建築家のグローピウス夫人になって、いわば三倍の人生を楽しんだ。マーラーは自分の内部を二分して苦しんだのに……。いや、べつに未亡人を責めているのでは毛頭ありません。
――マーラーは作曲家としてみた場合、これは疑いなくジンフォニカーと言ってよいわけですね。それに長大な作品という点においてはブルックナーと双璧でしょう?
そういうことです。ベートーヴェン、ブルックナー、マーラーの交響曲をそれぞれ合計すると、どのくらいの演奏時間になると思いますか? ここに調べたものがありますが、ええと、ベートーヴェンは九曲連続演奏して六時間弱です。案外短い。ブルックナーが九時間半、そしてマーラーが約一一時間、ということはベートーヴェンのちょうど倍です。しかし、ワーグナーとなると、《ニーベルングの指環》の四部作だけで一四時間半かかるんですから。これはまた桁がちがう……。
――ところで《大地の歌》で、彼は、東洋の自然観に興味を持ったわけでしょう。そういえば彼の作品には、ひなびた民謡ふうのメロディーとか、平和でおだやかな自然のたたずまいを思わせるものが多いと思いますが……。
典型的なロマンティシズムの傾向です。エクゾティシズムへの関心、プリミティヴなものへのあこがれ、単純な子供っぽいものへの感動……。そういうものが、巨大な構築性、複雑な対位法、錯綜たる半音階的和声へのアンチテーゼをなして、それらの間隙から閃くように顔を出す。マーラーの独特な魅力です。何といっても世紀末の、爛熟の極、頽廃の一歩手前の情緒、斜陽というか落日の巨大さというかロマン派の秋というか、人を陶酔させる芸術です。一歩先に行けば崩れ去ってしまう、崩落寸前の芸術……、だから早死にしたのかな、マーラーは。
――でも、その短い生涯のうちに、ふつうの人の二倍も三倍もの仕事をしたわけですよね。ところで話は変りますが、彼は、交響曲にたびたび声楽を加えましたね。ということは、彼が、標題音楽的な傾向を持った作曲家だったと解釈してよろしいのでしょうか。
いやもう何もかも一緒にしないでは、不安でたまらなかったんじゃないでしょうか。だから逆にこの第五番のアダージェット楽章、弦楽合奏とハープだけの第四楽章は、彼としては全く異例のものです。ロマンティックなメロディーだけれど、とぎすまされた感覚で、何かおののきながら歌っているような……。オーケストレーションの厚い第三番の第五楽章の谷間にはさまれ、またマーラーの全交響曲の中では第八番の《千人の交響曲》の対極点という気がします。とにかくユニークな楽章です、この〈アダージェット〉は……。
――これはマーラーの〈アダージェット〉として単独にも演奏されますね。さて、この交響曲第五番はマーラーの全交響曲の中で、どんな意味を持つものでしょうか。
私は、さかんにマーラーを世紀末的といったのですが、じつはこの第五番に着手したのはまさに二〇世紀の最初の年、一九〇一年の夏なんです。しかもそれを葬送行進曲ではじめている。じつに象徴的というかマーラーの面目躍如たるものを感じるんです。それからふつう、第二番、第三番、第四番と声楽つきの三幅対のあとをうけて、純オーケストラの第五番、第六番、第七番の三幅対がつづく、と指摘されるけど、なるほど第五番では声楽家がステージには出ないけど、彼の声楽曲と全く無関係じゃありません。
第一楽章にはKindertotenlieder《亡き子をしのぶ歌》の最初の曲と同じ旋律があります。それから第四楽章〈アダージェット〉は、リュッケルトの詩による〈私はこの世に捨てられ〉や《亡き子をしのぶ歌》の第二曲にじつに近いものが感じられます。第一楽章の葬送曲といい、これらの歌曲の歌詞内容といい、一つの標題的な内容で結ばれていると考えていいでしょう。
それから、比較的小規模で古典的な楽章配置を示す第四番と、時期的に近い第五番との間に横たわる作風上の大きな断層です。しかし、それはそういった見かけ上のちがいでなしに、むしろ第一番から第四番まで一つの一貫した発展の方向というものがありました。
――それは技法的な問題について言われているのでしょうか?
一言で言えば、主題の解体と副次的なモチーフの数を、だんだん増していくという傾向ですが、それが第五番では一変して、ある旋律パターンの有機的なメタモルフォーゼという方法がとられるようになり、これがそれ以後の交響曲の中に受けつがれていきます。この変化は、いってみれば第四番までのベートーヴェン=ワーグナー的世界から、第五番でシェーンベルク的な世界への転換だと思うのです。
――もちろん、シェーンベルクのほうが年下でしょうね。
むろんですよ。といっても一四歳くらい年下ですが、《浄夜》はすでに書かれていたし、ああいう語法はまあ相互に影響し合っていったと思うのです。ともかく第五番でマーラーが大きな転換をとげたことは否定できないのです。話はちがうけれど、ハンス・ウェルナー・ヘンツェが一九六六年八月に初演したメDie Bassariedenモ《バッカスの巫女たち》という新しいオペラ――あの中にこのマーラーの第五番の〈アダージェット〉を引用しているんですが、ヘンツェの「マーラー再発見」なるものも、要約すれば第五番で到達した新しい語法への共感ということだろうと、私などは思うのですが。
●バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈87〉(グラモフォン○D)
ヤナーチェク
Leos`´ Jana´c`´ek
(チェコ)
1854〜1928
シンフォニエッタ
アレグレット
アンダンテ―アレグレット
モデラート
アレグレット
アンダンテ・コン・モート―アレグレット
一二本のトランペットを使用、明るく痛快な作品
――ヤナーチェクは、スメタナやドヴォルザークのあとを継ぐ、チェコの代表的な作曲家ですね。
ヤナーチェクはたしかにチェコの生まれですが、プラハから東へ二六〇キロも行った、えらい辺境地の出身です。ボヘミアではなくて、モラヴィアという地方で、ポーランドの国境から南へ三〇キロくらい下った所です。今日でこそ、そのあたりは石炭が出る関係で鉄工業が起こっているようですが、当時は野生動物の生棲する森林地帯でした。
ヤナーチェクは一八五四年生まれです。オストラヴァという都会に近い、フクバルディという村の出身です。死んだのもモラヴィアのオストラヴァで一九二八年です。彼は二〇歳の時つまり一八七四年にプラハに出て、短い期間ですがオルガンの学校に入ります。その頃プラハでスメタナの指揮する演奏会を聴いて、ひじょうに感激するのですが、その音楽を好むことができず、個人的には交渉はなかったようです。これに反してドヴォルザークとは親しく交わったのです。もっともヤナーチェクのほうが一三歳も年下ですが。ヤナーチェクは一八八六年に男声合唱曲集を出版してドヴォルザークに捧げたのですが、ドヴォルザークはヤナーチェクの作品の力強さや和声の大胆さに驚いた、ということです。
――やはり民族性の濃い作曲家ということになりますか。
ひじょうに濃厚です。当時のモラヴィアはとくに、文化から取り残された、農民とジプシーの土地でした。ですから、同じチェコでも西方のボヘミア民謡は、すでにドイツ・オーストリア化した、二拍子や三拍子や四拍子がほとんどですが、東方のモラヴィアの民謡は五拍子あり七拍子あり、調子も五音音階や自然短調や教会調に似たものが多いのです。
しかもヤナーチェクは民謡も研究しましたが、さらに遡って人びとの話しことば、街の物音、鳥の声なども独特の方法で記譜しているそうです。かえって、民謡を生のまま素材に用いることはあまりしなかったのです。その特徴を抽出して創作に応用したのです。
たとえばバロックと古典派の谷間の世代であるベンダ、シュターミッツ、リヒターといった人たちは、ボヘミアの地方色を意識せずに、ほのかにただよわせたのですが、一九世紀の民族主義の風潮と共にスメタナ、ドヴォルザーク、ヤナーチェクと、意識して民族色をはっきり打ち出す作曲家たちが出てきたわけです。
ただこの国の人たちからは、ショパンにあらわれたポーランド気質や、シベリウスの《フィンランディア》にあらわれたようなはげしい国民感情、あるいはハンガリーのバルトークにおける反オーストリア的な姿勢のような激越なものは感じられません。ヤナーチェクの音楽は、ずいぶん変わった要素がありますが、そういう点では割におとなしいというべきでしょう。このあとの世代のマルティヌーなどになれば、なおさらのことです。
――ヤナーチェクは、簡単に言って、どんな傾向の作風を持った作曲家ですか。
そうね、正確さを多少犠牲にして簡単に言うとするならば、初期はドヴォルザークに似て、中期はムソルグスキーに似て、後期は初期のバルトークに似ている、と言ったところかしら。もちろん、但し書きをたくさんつける必要がありますが……。それからバルトークとの関係では、あきらかにバルトークのほうが三〇歳近くも年下ですからヤナーチェクを手本にしている、と言えます。《青ひげ公の城》から《舞踊組曲》までの一九一〇年代のバルトークは、ヤナーチェクの影響を大きく受けています。
ヤナーチェクの不幸は、何分にもチェコの音楽界は後進性が強く保守的ですから、若いうちはまったく彼の作風が進みすぎていて、受け入れられる余地がなかった所にあります。従って外国にも、ほとんど知られることがなかったのです。ところが、一九二〇年代に入って、彼の実力がようやく認められはじめた時には、もはやヨーロッパの前衛は、ずっと先へいっていたから、時代遅れの感じがあって、あまりアピールしませんでした。奇妙に時代の谷間に置き去りにされたのです。
しかし、第二次大戦後になってようやく、最後のオペラ《死の家の記録》や中期のオペラ《イェヌーファ》などで彼の個性と天才がひろく認められるようになったのです。
――彼は、ロシアの音楽や文学に、ひじょうに興味をもっていた、という話を聞いたことがありますが……。
ええ、《死の家の記録》はドストエフスキーだし、その前の《カーチャ・カバノーヴァ》というオペラはオストロフスキーだし……。《クロイツェル・ソナタ》という弦楽四重奏曲第一番もトルストイの小説からきてるのですが、はじめピアノ三重奏曲があって、一五年ほど後に弦楽四重奏曲第一番に同じモチーフを使ったのでした。
――このシンフォニエッタは、一二本のトランペットを使っていることで有名でしたね。
そうです。つまり普通のオーケストラのほかに、ブラスバンドの別働隊があって、そこにトランペットが九本使われていますから。元来体育祭のファンファーレのための音楽だったのを拡大させて、このシンフォニエッタにした、といういきさつがあるのです。しかし、痛快なものですね、これは。ひじょうに明るい。
彼の晩年は自分の芸術が認められたことも手伝ってひじょうに明るくなって、シンフォニエッタの二年前の一九二四年に書いた管楽六重奏曲《青春》なんかも、七〇歳の老人の作とは思えないですよ。同年代の四〇歳代のバルトークのほうが、よほど苦渋にみちていて老人くさいです。
●ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団〈82〉(スプラフォン○D)
エルガー
Edward Elgar
(イギリス)
1857〜1934
変奏曲《なぞ》作品三六
1 C・A・E
2 H・D・S・P
3 R・B・T
4 W・M・B
5 R・P・A
6 YSOBEL
7 TROYTE
8 W・N
9 NIMROD
10 DORABELLA
11 G・B・S
12 B・G・N
13 ★★★
14 E・D・U
〈なぞ〉として織り込まれた主題と友人知人のイニシャル
――エルガーといえば、あの《威風堂々》……。
メPomp and Circumstance!モあれは国王キング・ジョージ五世の皇后から、戴冠式に演奏するようにお声がかかったのでした。まさにエルガー好みの気分が出ています。彼はマイアベーアやリストが好きだったらしいけれど、イギリスではむしろあまり華麗な、はげしい音楽は嫌われ、地味で落ちついた音楽が好まれます。
しかし、エルガーは、もっともイギリスらしい作曲家だといわれますが、エルガーはロンドン育ちじゃなくて、地方出身の独学者ですから、一種の異端ですよ。けれど、アカデミズムの中に沈没していた一九世紀のイギリス楽壇には、彼の野性的なヴァイタリティーこそ貴重なものだったと言えます。イギリスの評論家はパーセル以来の大作曲家と評しているし、じじつ彼のあとにディーリアス、ヴォーン・ウィリアムズ、ウォルトン、ブリテンと続いて出てきます。彼は一八五七年生まれ。ドビュッシーやリヒャルト・シュトラウスの前夜の、谷間の世代の生まれです。独学といってもお父さんがイギリスの田舎町のオルガニストだったのです。もっとも楽譜商も兼ねていたようですが。それと、この親子はカトリックなんです。イギリスでカトリックは珍しい。何しろ彼自身いろいろ「なぞ」が多い人物です。
――「なぞ」の変奏曲ね! 作品にはどういうものがありますか。
若い頃は合唱作品が多くて、《ジェロンティアスの夢》というカンタータで一躍有名になりました。とくにデュッセルドルフかどこかで、リヒャルト・シュトラウスがそれを聞いて絶讃したということです。変奏曲《なぞ》(エニグマ・ヴァリエーション)は、むしろその二年くらい前の作品になるかしら。今日では《エニグマ》のほうが安定して世界的に演奏頻度が高いでしょう。変奏曲《なぞ》は、Variations on an original themeというのが原題です。その題名でハンス・リヒターが一八九九年の六月にロンドンで初演しています。
日本初演は『N響四〇年史』によると、どうやら一九四六年二月、終戦直後の第二七三回定期演奏会でローゼンシュトックが振った時らしいです。たしか戦争が終って、大田黒元雄さんが、軽井沢から東京に出てこられる汽車の中でローゼンシュトックと一緒になった時、ドイツ音楽以外のレパートリーの話が出て、ロンドンにかつて留学された大田黒さんが、この曲をローゼンシュトックにサジェストされたらしいです。そんな話を聞いたおぼえがあります。その後一九五四年にイギリスの指揮者のサージェントがきた時にもやりましたね。ヘンデルやブリテンと一緒にお国振りの音楽ばかり演奏した日にやりましたっけ。
Frank Howesという人のメThe English Musical Renaissanceモ(1966, London)という本をみると、こんな一節があります。エルガーの項にですが、「彼のチェロ協奏曲もまたフォイアマン、カザルス、フルニエ、トルトゥリエといった国際的アーティストの関心をひいた。《エニグマ変奏曲》のごときは日本にいたるまでの世界的流行を見せている」と記されています。しかし、メAs far as Japanモって表現は、いかにもイギリス人らしいです。われわれにしてみると、現代音楽の曲目なら、逆にイギリスでさえもやっている、と言いたい時があるくらいなんですが。
――メEnigmaモというのは。
二重の意味があるんです。一つは変奏曲のテーマそのものが「なぞ」なんです。それは隠されていて出てきません。見かけ上のテーマはほんとうのテーマじゃなく、彼によればメanother and larger themeモへの一種のカウンター・ポイント、つまりコントラプンクトだというのです。もう一つの「なぞ」は全部で一四ある一つ一つの変奏曲にイニシャルがつけられていて、それが彼自身や彼の夫人や友人たちだというのです。近頃ではそのなぞはもう解けたのかな? まあ、音楽そのものにはあまり関係ないことですよ。
C. A. E.とかR. P. A.とか。G. B. S.などはすぐジョージ・バーナード・ショーと分かるけど。結局、彼の身辺の無名の友人たちなんでしょ。いちいちせんさくするほどの人物像じゃないのでしょう。第一三変奏だけは、ただ星が三つだから海軍大将かな? だってこの人物が海の上にいるらしいことは、メンデルスゾーンのメMeersstille und gl歡kliche Fahrtモ《海の静けさと楽しい航海》のモチーフが出ることから想像がつきます。
――それにしても、こんな堂々とした変奏曲は、少なくともオーケストラの作品では、ブラームスの《ハイドンの主題による変奏曲》以来じゃないでしょうか。
さあ、どうでしょう。あれが一八七三年で、エルガーは一八八二年にライプツィヒに旅行しているから、あるいは本場で聴いているかもしれません。しかし、多少ちがうけれど、フランクの交響的変奏曲が一八八五年、リヒャルト・シュトラウスの《ドン・キホーテ》が一八九七年で、これは少しエルガーに近すぎますが、他にもないことはないでしょう。何しろわれわれはヨーロッパで作曲された曲のほんの少ししか知りませんから。と同時にイギリスやフランスの一九世紀の写実的絵画が何となく復興しているようですから、イギリス音楽も復興するかもしれませんが、しかし、ドイツに比べれば絶対量が少ないでしょう。
まあエルガーの前にはパリーとかスタンフォード、そしてエルガーとそのすぐあとのディーリアス、……あと誰がいたでしょうか。さっきの本にはいろいろ名が挙がっていますが、一人も知らないです。それにしてもエルガーもディーリアスもひじょうにドイツ的だし、ドイツ人やドイツ国内でまず認められたというのは、一九世紀のイギリス楽壇の趣味をよくあらわしていると思います。
●ラトル指揮 バーミンガム市立交響楽団〈93〉(EMI○D)
ドビュッシー
Claude Debussy
(フランス)
1862〜1918
夜想曲
雲
祭り
シレーヌ(海の精)
光と影の微妙なちがいを表現、印象主義の音楽
――この曲は女声の合唱が入る〈シレーヌ(海の精)〉まで、全曲演奏される場合と、途中までの場合がありますね。
しばしば第二楽章までしか上演されませんね。初演の時がそもそも、はじめの二楽章だけだったのです。一九〇〇年一二月ですか。そして一年ほどたって全曲初演の運びになったのです。
一八九七年から九九年にかけて、作曲されたといわれますから、一九世紀のごく終りです。名実ともに「世紀末芸術」の特質をもっています。年齢的には三五歳から三七歳ということですか。
――初演のときは、二楽章までと言われましたけれど、この三曲は、はじめからこの組み合わせで構想されたのではないのですか。
いや、じつはオリジンはもっと古くて、一八九二年から九三年にかけて、つまり《牧神の午後への前奏曲》の時代にまで遡るのです。当時は〈たそがれの三つの情景〉Trois sc熟es au cr姿usculeという題で、これはちょっとワーグナーの《神々のたそがれ》を連想させる題ですよ。しかも、ヴァイオリニストのイザイのための、ピアノ伴奏つきのヴァイオリン曲として構想したのだそうです。
やがて〈雲〉は弦だけ、〈祭り〉は四本のホルンとハープだけ、あるいはフルートやトランペットをそれに加えた形などで考えられ、第三楽章の〈シレーヌ〉はそれらを全部集めたオーケストラで作曲するつもりだったようです。その段階でもなおかつ、ヴァイオリン・ソロが入っていたのか、もうそれを切り落してしまっていたのか、よく分かりませんが、ともかく最終的には〈シレーヌ〉はヴォーカリーズの女声コーラスをふくむオーケストラ曲になったわけです。
――でも〈雲〉〈祭り〉〈シレーヌ〉という三曲で《夜想曲》とはね。
ここではNocturneという言葉は、ジョン・フィールドやショパンのそれとは関係ないのです。むしろ、ホイッスラーのような画家が絵の題に使ったのを、もう一度音楽の世界に逆輸入したと考えられるのですが、ともかく白昼の光に照し出された、明瞭な輪郭をもった物の形でなしに、たそがれ時の、さらには灰色の夜における色彩のニュアンス、これをいろいろな楽器や人声の組み合わせで表現しようとしたのでしょう。あの初期のシェーンベルクが《浄夜》《月に憑かれたピエロ》《期待》など、月光の下でのプログラムばかり選んでいるのと同じですよ。
光と影のはっきりした対照じゃなくて、月光の下での明暗のごく微妙なちがいがこの時代には重要になってくるのです。
――光と影の、かすかなふれあい……、いかにもドビュッシーらしいですね。彼は、かなり、克明なプログラムを書いているとか。
それでいて、コーラスには歌詞を歌わせていません。まあ、プログラムといっても、〈雲〉は大空の不変な姿をあらわすが、そのゆっくりしたメランコリックな歩みは、灰色を帯びた瀕死の状態へ行きつくとか、〈祭り〉は雰囲気の運動であり踊るリズムである、といった禅問答みたいなものですよ。
――でも、これはいわゆる描写音楽じゃないわけですね。
むろんそうです。《海》にしたってそうです。ベートーヴェンの《田園》のほうがよっぽど描写音楽です。こういうのを、いわゆる印象主義というんですが、〈祭り〉は全体として、とくにその中間部の行進曲調の所などは、ちょっと描写的です。しかし、この楽章あるがために、この曲が早くポピュラーになったと思いますが。
●ショルティ指揮 シカゴ交響楽団、シカゴ合唱団〈90〉(ロンドン○D)
R・シュトラウス
Richard Strauss
(ドイツ)
1864〜1949
家庭交響曲 作品五三
躍動して
スケルツォ
アダージョ(ゆるやかに)
終曲(非常に生き生きと)
作曲者自身の家庭調和の交響曲
――シンフォニア・ドメスティカ……これは、イタリア語ですか……。
綴りが、Sinfonia Domesticaだとイタリア語ですが、Symphoniaならラテン語です。ですからSymphoniaはギリシャ語の語源により近い訳で、「交響曲」というよりは元来の意味の「音の調和」という感じがより強いです。だから家庭における団欒を音で描いた音楽というわけです。Symphoniaを比喩的に用いたともとれます。もちろん「交響曲」と言ったって間違いではないので、いわば二重の意味にとれるわけです。
――わたしには「音の調和」のほうがぴったりしますね。だって「交響曲」というけれど、実際には「交響詩」ではないんですか。
げんにシュトラウス自身、作曲中に書いた手紙の中では「一曲の新しい交響詩」と呼んでいます。ですからね、この題は《家庭交響曲》とやらないで、「一家団欒」と訳しても良いくらいです。音の調和と彼の家庭の人間関係の調和のシンフォニーなんです、この曲は……。じっさい日本語訳は不便です。Symphonia Domesticaのままなら、ありのままに多義性を残して柔軟な解釈ができるのに……。
――それにしても、これだけ長大な、単一楽章の交響曲を書いた作曲家は、ほかにいるでしょうか。
単一楽章とはいっても、四つの楽章が休みなしに演奏される形です。三つのテーマをもった第一楽章、スケルツォの第二楽章、ゆるやかな第三楽章、二重フーガをもったフィナーレ、これらが一つながりになっているわけで、全体の演奏時間が四〇分強ですから、まあロマン派の四楽章の交響曲のふつうのサイズです。ただ、第二、第三楽章に当る部分を展開部、フィナーレを再現部と考えて全体を大きなソナタ形式の第一楽章みたいにも解釈できないことはありません。
――《英雄の生涯》のすぐあとで書かれたのでしたね。あれは、自分で、自分を英雄に見立てたわけですが、この家庭というのは、やはり自分の家庭なのでしょうね。
そうです。《ヘルデンレーベン(英雄の生涯)》は、英雄、つまり自己という中心主題に強く集中していました。英雄の敵や英雄の伴侶も出現しますが、副次的なモチーフのように扱われていました。《家庭交響曲》では自分だけでなく奥さんと子供を加えた三つの主題が、いずれも主要主題として重要な役を果しています。それだけシンフォニックな趣が強いといえます。奥さんと子供たちに捧げられたのです。「愛するわが妻とわれわれの子供に」で、子供はフランツという六つの男の子が一人です。二人だったらテーマももう一つ増やさなけりゃならなかったでしょう、第四主題まで。
――なるほど。ところで、作曲の着想から、完成までは、どのくらいかかっているのでしょうか。
一九〇二年四月中旬に着手したようです。九月、一〇月頃の手紙は、さっき申し上げたように「一曲の新しい交響詩」の進捗を報じています。スコアに着手したのが一九〇三年一〇月七日、完了が一九〇三年一二月三一日で、場所はベルリンのシャルロッテンブルク。だから正味一年と八ヵ月あまりということになりますか? 余談ですが、作曲が完了した頃の手紙には、自分でSinfonia Domestica とイタリア語で綴っているのです。決定稿ではSymphoniaですが。
――その頃、彼は、どこにいたのですか。
ベルリンですね。ええと一八九六年、三四歳の時ミュンヘンからベルリンの宮廷歌劇場に移ったのです。自分の新しい作風は、バイエルンよりプロイセンのほうが受け容れられやすいと感じたのでしょう。そして一九一八年に、そこを辞めてウィーンの国立オペラに迎えられるまで、ほぼ二〇年間ベルリンが彼の活動の本拠でした。もちろんその間、全ヨーロッパの各地を歩いていますが。
――指揮者としての活躍も、忙しかったのでしょう?
大へんに多忙だったのです。バイロイトでも振っているし、パリでは自分の《サロメ》を連続六回指揮したとか、モーツァルトのオペラなども専門の指揮者なみの腕前だった。しかし、あまり練習しないでしかもじつに巧みにまとめた、といわれていますね。初演は、これが意外なことにニューヨークのカーネギー・ホールなんです。ウェッツラーという、クララ・シューマンやフンパーディンクの弟子だったドイツ人の指揮者が、当時ニューヨークでウェッツラー・コンサートというのをやっていて、それがはるばる作曲者を招いて四日間のシュトラウス祭を催したのですが、その最後の日に作曲者の指揮でこの新作を演奏しました。一九〇四年三月二一日のことです。
初演は大喝采だった、と彼自身お父さんに書き送っているし、事実成功だったんです。初演後一年間に上演された都市が、フランクフルト、アムステルダム、ライプツィヒ、ロンドン、ドレスデン、ウィーン、ニュルンベルクなど。ヘンリー・ウッドなどもこの曲を振っていますから、まず上首尾だったと言うべきでしょう。
――そうでしょうね。さて話題を変えますが、作曲家として、その頃、彼の興味は、むしろオペラにあったんじゃありませんか。
その通りです。交響詩の系列を《英雄の生涯》で打ち止めにして、オペラに向おうという過渡期でした。《英雄の生涯》のあと《家庭交響曲》までの間は、ほとんど歌曲で埋められていますが、一曲だけ作品五〇の《火災》というオペラが書かれていて、これは二〇世紀の第一日、つまり一九〇一年一月一日に着手して、わざわざ同じ年の五月二二日、つまりワーグナーの誕生日に完成しています。《家庭交響曲》のすぐあと《サロメ》に着手するし、《エレクトラ》《ばらの騎士》と全部作品五〇番台でつづいてきます。《家庭交響曲》や《アルプス交響曲》がオペラ的なのも当然です。
――それで「家庭」が、どうしたというのですか?
とくにどうもしないところがみそでしょう。要するに朝から昼、晩、夜を通りぬけて翌朝までの、夫妻を中心とした私小説的な一日ということでしょう。だから、事件らしい事件はないかわりに、それだけ純音楽的構成に重点が置かれざるを得ません。姉妹作の《アルプス交響曲》がやはりそうですがね……。
――さきほどのお話によれば、父親の主題とか、子供の主題というように、すぐ聴いてわかるようになっているわけですね。
そう思って聴けばですが。たとえば、オーボエ・ダモーレを坊やのテーマにあてていますが、これは「愛のオーボエ」という名称と大いに関係があるのです。それでブゾーニは、そのことをとり上げて、楽器の名称を知らない人が、たんに音色から愛を想像することがあり得るだろうか、と非難していますが、そんなことに目くじら立てるのは、そもそも野暮な話ですよ。この曲にあっては要するにプログラムはお遊びごとなんだから……。
――そのテーマというのはワーグナーの示導動機などと、同じ考え方なんじゃありませんか。
父親のモチーフがヘ長調、母親がこれに対していちばん遠いロ長調、子供がその中間のニ長調で書かれているといった調関係など、ワーグナーのやり方にたしかに似てはいますが、一般にオペラより交響詩のほうがもっと、モチーフと全体の構造が緊密です。数もずっと少ないですし……。
しかし、この《家庭交響曲》でみれば、モチーフは少ないとは決して言えないんです。この曲の中から四〇くらいモチーフを探し出している人もあるのです。まる一日の間に訪れる伯父さん、伯母さんから牛乳配達、煙突掃除夫に至るまでモチーフになっている、という分析をした人もあるのです。平均一分に一個じゃ応接のいとまなしです。ふつう聴くのにそこまで考える必要は全くないのですが。
――やっぱりずいぶんオペラティックですね。
シュトラウスのあと、ベルクの《抒情組曲》やヴァイオリン協奏曲など、オペラティックな器楽曲が現われますが、標題的な音楽の書き方というものは、もとはと言えばルネサンス末期のマドリガルにあらわれる、いわゆるマドリガリズムとか、バロックの音型論(フィグーレンレーレ)とか情緒論(アフェクテンレーレ)とか、一言で言えば音楽以外の要素と音楽の書き方をシンボリックに結びつける習慣です。これはじつに歴史的に根が深いもので、それがこの辺にまで尾をひいているわけです。
――でも、ずいぶん外面的だし、ある意味では、単純すぎるような気もしますが……。
そりゃ、絵の解題にもそれに近いことはあり得るわけで、音楽や絵画は文学じゃないのですから、言葉で解説的なことを言えば単純幼稚なことになりやすいです。少なくとも音楽そのもの、絵画そのものの内容や技術と比肩することはあり得ません。むしろ、こんな俗っぽいプログラムにもかかわらず、音楽がじつに立派にポリフォニックに書かれていることに彼の天才を見るべきでしょう。
――しかし、この交響詩というのは、なんといっても一九世紀的遺物だと思いますね。ところで、オーケストラの編成は……。
大きいですね。木管は四ないし五管で、その他にサクソフォンが四管、ただし、どうにも不可能ならサクソフォン属はなくてもよい、とされています。オーボエ・ダモーレはさっきいいましたようにシンボリックな使い方をしています。ともかく、彼がベルリオーズの『管弦楽法原理』の改訂新版を出したのが一九〇五年ですから、オーケストレーションに対する考えが一応固まりつつあった時代と言えるでしょう。
最後に付録として申し上げるのですが、この《家庭交響曲》には「付録」があるのです。Parergon zur Symphonia Domestica(家庭交響曲余録)という題で、作品番号は七三です。二〇年もあとの作曲ですが、P・ヴィトゲンシュタインという、第一次大戦で右手を失ったピアニストのために献上した、左手のピアノとオーケストラのための協奏曲です。この曲のテーマを使っているので、こういう題名になっているのですが、シュトラウスはよほど愛着があったのでしょう。
●サヴァリッシュ指揮 フィラデルフィア管弦楽団〈93〉(EMI○D)
アルプス交響曲 作品六四
夜 日の出 登り道 森にはいる 小川のほとりのさすらい 滝 出現 花咲く牧場で 山の牧場で 林の中で道に迷う 氷河で 危険な瞬間 山の頂で 幻影 霧がはいのぼる 日がかげる エレジー あらしの前の静けさ 雷雨とあらし 下り坂 日没 余韻 夜
最大の人数を要するドイツ・ロマン派オーケストラ音楽の絶頂
――シュトラウスは、晩年、なんとかいう山荘で暮らしていたことがありましたね。
オーバー・バイエルンのガルミッシュという、スキーの名所で、ヒトラーの山荘もあった所です。ミュンヘンからほとんど真南にスイスのほうに向って上った所です。一九〇八年頃から彼はそこに山荘を持ったようです。景色はすばらしい所だから……。一九一一年頃から曲の構想を練っていたらしい。しかし、実際に作曲したのはベルリンなんです。じっさいにペンを下せばアルプスとは関係ないです。
ともかく、彼の七つの交響詩――《マクベス》から《英雄の生涯》まで――につづく《家庭交響曲》と、この《アルプス交響曲》はいわば姉妹篇ですよ。年代は一〇年以上ちがうけれども、一方では自分の家で身近に起った二四時間を描き、他方では対照的に大自然の中の一日を音で描写しようとしたわけでしょう。つまり、オーケストラで何でもできることを証明したかったのでしょう。けっしてたんなる描写音楽じゃありません。
――たしか、シュトラウスが残した大オーケストラのための作品としては、最後のものでしたね。
そういうことになるのです。このあとには、二三人の弦楽器奏者のための《メタモルフォーゼン》がありますが、これは三〇年も後の一九四五年の作です。やっぱり彼は一生オペラに心血を注いだ作曲家なのです。
――全曲中、かなり、ところどころ、標題とも注釈ともつかないような言葉を書き入れていますね。私にはその意味がたいして重要とも思えませんが……。
全部で二〇ヵ所以上あります。でも、この曲の場合それはかなり重要です。やっぱり標題音楽は標題を避けて通るわけにはいきません。もちろん、標題あるが故におもしろいのではなく、それがあるにもかかわらず、音楽がおもしろくなくてはいけませんけれども。
――とにかくオーケストラが大編成ですね。
完全な四管編成、金管はホルン八本の他に、舞台裏に金管の一六人から成る別働隊が必要なんです。打楽器にはヴィンドマシーン、ドンナーマシーンなども加わって嵐の所で活躍するわけです。それにオルガンが加わっています。はじめの所など変ロ短調のすべての音が使われていて、いわゆる最近のトーン・クラスターのはしりみたいです。
弦も一八、一六、一二、一〇、八以上と指定されています。これは今日のオーケストラとしては当然ですが、ともかく、声楽なしの、いわゆる素(す)オケとしては最大の人数でしょう。ドイツ・ロマン派のオーケストラ音楽の絶頂ですね。その意味でこの題名も象徴的です。
――ヘッケルフォーンというのはなんですか、ずいぶん珍しい名前ですが、この楽器は、ほかの作品にも使われていますか。
ええと、これはオーボエの低いほうの、いわゆるバス・オーボエです。バリトン・オーボエというほうが一般的かしら。これは新しい楽器で、ヘッケルというドイツの木管楽器会社が一九〇四年に完成して、翌年シュトラウスが《サロメ》ではじめて使ったのです。しかし、その由来はこのメーカーの親父さんが、若い時にバイロイトでワーグナーから、オーボエの音色で、あのアルプホルンの力強い響きをもった木管が欲しいという希望を洩らされた、その言葉に発しているらしいです。
だから、楽器を完成した時にワーグナーはもう死んでいたけど、ワーグナーを師匠と仰ぐシュトラウスが、《アルプス交響曲》の中でこの楽器を使わざるを得なかったのです。アルプホルンの響きを、とワーグナーが願って生まれた楽器なんですから。
――なにやら、因縁めいてますね。とにかくこの曲は気宇壮大で結構なムード音楽ですね。
いや、標題音楽を軽く考えてはいけません。そりゃ、標題音楽や描写音楽に下らないものがあるのは事実ですが、ドイツのバロックからリスト、シュトラウスまでの標題音楽は、いわば交響曲とオペラの両面をもった純音楽です。器楽音楽のバックボーンの一つです。器楽音楽の語法は標題音楽のおかげで豊かになるのです。
――それにしても、ただ山に登って、おりてくる、といっただけの内容のものを、この一時間ちかい作品に仕立てて、けっこう、倦きないで聴かせるというのは、たいへんな腕だともいえますね。
ここでは不即不離です、プロットと音楽とは。むしろ、どっちが独立して筋が通っているか、といえば音楽のほうなんで、標題のほうは多少は飛躍していても構わないんですから。この《アルプス交響曲》の場合だってIの〈夜〉とIIの〈日の出〉がイントロダクションで、IIIの〈登り道〉がアレグロの第一テーマの開始です。《トリスタンとイゾルデ》ばりの陰吹きの狩猟のホルンのあとのIVの〈森にはいる〉の所が中間主題かしら。そうすると第二主題は三拍子のホルンが吹く旋律でしょう。とにかく絶対音楽の構成としても完全無欠なんで、いろんな標題の下にはじめのモチーフが、どのように処理されていくかに興味があるわけです。
――いろんな動機が使われていますね。さきほどのヘッケルフォーンの話じゃないけれどワーグナーみたいな響き方もするし。
ホルンの第二主題のすぐ前のところで、岩のモチーフに六連音符で、しぶきみたいなのがかかった所がVIの〈滝〉だなんてのは、ふるっています。じつに自由自在でユーモアもあるし……。ホルンの五、六、七、八の奏者がテノール・テューバ、いわゆるワーグナー・テューバで、後半で大いに活躍しますが、そこの音色はたしかにワーグナー的です。
一九一五年二月八日に、ちょうど一〇〇日かけて完成したそうです。ずいぶん速筆です。初演は一〇月二八日に、ドレスデンの宮廷楽団がベルリンで、作曲者の指揮の下で演奏したのです。ちょっと変ったケースです、これは。曲もニコラウス・ゼーバッハ伯と、ドレスデン王室管弦楽団に捧げられています。
――初演当時、どういう受けとられ方をしたんでしょうね。
これだけが孤立して聴かれたらどうかしりませんが、当時シュトラウスはベルリンの宮廷歌劇場の指揮者で、《サロメ》《エレクトラ》《ばらの騎士》をすでに成功のうちに発表していますからね。それにしても、標題音楽に不純を感じる人は常にいるから、相当に当惑した人もあるでしょう。しかし、《家庭交響曲》よりはすなおに受け取られたのではないかしら。リストの交響詩《山上にて聞きしこと》(通称《山岳交響曲》)、という先例もあるし、ベートーヴェンの《田園》にだっていくらか近いし……。
●ブロムシュテット指揮 サンフランシスコ交響楽団〈88〉(ロンドン○D)
交響詩《ドン・フアン》作品二〇
快楽の嵐
女性的なもの
ドン・フアンの第一主題
女性の主題
ドン・フアンの第二主題
レーナウの詩に作曲、一人の人間像を音楽で表現
――リヒャルト・シュトラウスは指揮を若くしてとったそうですね。いまでも、若い記録としてはマゼールが三〇歳、サヴァリッシュが三四歳でバイロイトに出て、センセーショナルな話題を集めましたが……。
これは案外知られていないことじゃないかと思うんですが、リヒャルト・シュトラウスは一八九四年にバイロイトの指揮台に登場しているのです。この時までリヒター、レヴィ、モットルといったヴェテラン指揮者ばかりがやっていたところへ、弱冠三〇歳の作曲家が登板して、ワーグナーの《タンホイザー》を振るのは異例の抜擢だったわけです。
当時は有名なカール・ムックさえ、まだバイロイトに登場していなかったのですから、シュトラウスはじつに早くから世に認められていたのです。
――バイロイト出演は、何回か続いたんでしょうか。
いや、その後はずっと彼はバイロイトからは遠ざかり、しかし、四〇年たって一九三三年と三四年に《パルジファル》を振っています。これは前年にトスカニーニが、この曲目を振ったあと、トスカニーニがナチにプロテストしてバイロイトに出なくなったあとをうけて、当時の音楽院総裁シュトラウスが自ら出馬した、といういきさつがあるのです。
――この《ドン・フアン》は、彼の交響詩の中で、最初に初演、出版されたものなんだそうですね。でも、着手されたのは《マクベス》のほうが先なんでしょう。
その通りです。《マクベス》は《ドン・フアン》より先に着手されたばかりか、一度は完成したのです。ところがシュトラウスはその曲の終りを、なんとヒーローの強敵であるマクダフの勝利の行進曲にしたのです。これはいかにも青年シュトラウスらしい話だと思うんですが。さすがにハンス・フォン・ビューローに注意されて書き直す運命となり、そのため《ドン・フアン》のほうが先に出来上ったのです。
――ドン・フアンといえば、例のスペインの伝説上の人物でしょう?
いや、何しろ「ドンジュアニズム」とか「ドンジュアネスク」なんて言葉もできたくらいだから、ただの人物じゃないでしょう。オリジンはどうせ中世末期じゃないですか? まあ、ドン・フアンというと、とくに私たちなんかは一種の好色的な快男児みたいなイメージと結びつきやすいけれど、向うではやはり宗教的な面ですね、これが大きな比重を占めるんじゃないかしら。神をおそれぬ所業――冒険やら決闘やら殺人、それに対して石像の客――これは霊界からの使者だけど、それによって神罰が下る、そのプロセスに、エヴリマンが描かれ、永遠に女性なるものが描かれ、また神へのかかわり合いがいろんな面に出てくる……。まあそういったことは私の守備範囲を超えているからこの辺で……。
――でも、そういう宗教的な問題は、むずかしいですよ、確かにね。ところで、このドン・フアンは、古来、いろんな人たちが、詩や物語の題材に選んでおりますね。
じつに無限のヴァリエーションが考えられますから。何でも最初スペインの劇作家のティルソ・デ・モリーナの「セビリアの女たらしと石の客」というのが出版されたのが一六三〇年だそうですが、上演は一六一三年頃からと言われています。そのあとモリエール、プーシュキン、ホフマン、バイロンといろいろ出たわけでしょう。フランスやイタリアは茶番めいた要素がどうしても多くなります。とくにダ・ポンテ=モーツァルトでは「オペラ・ブッファ」です。もちろん、底にあるテーマは見失われていないけれど……。
――シュトラウスの《ドン・フアン》の場合は、どうなんでしょうか。レーナウという人の詩によっているんだそうですが。
そのレーナウはスラヴとハンガリーのマジャールとゲルマンの血をうけたオーストリアの落魄した貴族で、熱愛したある夫人との愛は実らず、結局五〇歳になる前に精神病院で死んだ詩人なんです。
ところで、レーナウの劇詩「ドン・フアン」はひじょうに個性的な、独特な「ドン・フアン」じゃないでしょうか。結局、レーナウの詩は理想の女性を発見しようとして、しかもついにみたされることのない永遠の憧れみたいなものが執拗につづいて、しかも願いは満たされぬまま静かに死ぬというんですから、スペイン生まれの快男児の面影は消え失せて、ロマン主義文学によくある思索的な悩める魂といったところです。ただ、シュトラウスの音楽は相当活発に派手に、いわばドン・フアンのお里が知れるように脚色していますがね……。
――こうした交響詩という形式を借りて、一人の人間の性格を描くといったケースは、それまでにもあったんでしょうか。
ベルリオーズにいくつかあるし、リストの《ファウスト交響曲》と《ダンテ交響曲》、チャイコフスキーには《マンフレッド交響曲》などがありますが、しかし、シュトラウスはワーグナーふうのライトモチーフを多数用いて、その配置や結合に精緻な技巧を見せながら筋を展開させています。
●ショルティ指揮 シカゴ交響楽団〈73〉(ロンドン)
交響詩《死と変容》作品二四
ラルゴ
アレグロ・モルト・アジタート
メノ・モッソ、マ・センプレ・アラ・ブレヴェ
モデラート
精神の浄化と世界の救済、《神々のたそがれ》の影響歴然
――《死と変容》は一八八九年の作というから、リヒャルト・シュトラウス二五歳の時の作品でしょう? この交響詩の素材となったのは?
これは、たしかシュトラウスの空想的筋書きが先行したのです。そして、それにほぼ合うように作曲して、あとから他人に詩を頼んだのです。ちょっと珍しいケースです。
――ああ、アレクザンダー・リッターとかいう人ですね。ということは、つまり、シュトラウスのアイディアと、この曲から霊感を受けて書かれたリッターの詩は、出版に際して作曲者のスコアに載せられることになった?
たしかに、スコアの扉に詩が印刷されていますが、署名なしです。これでは詩人が著作権を放棄したみたいなものですが、つまりリッターという人は詩人ではなくて、シュトラウスと旧知の仲のヴァイオリニストなんです。しかも、ハンス・フォン・ビューローやリストやワーグナーと親しかった人で、その上妻君は大ワーグナーの姪なのです。
しかも、シュトラウスより三〇歳も年上なのにシュトラウスの大ファンで、のちにミュンヘンにやってきて、シュトラウスばりの交響曲も書いているという人です。まあそういう人だから、曲に合せて詩を作るという芸当もできたわけで、シュトラウスにとっては奇特な先輩格のオジサンですよ。署名がないのもそんなことからでしょう。詩のアイディアは全くシュトラウスなのだし、言葉も彼が手を入れているかもしれません。
――へえ、そんなものなんですか。そう言えば、事情は少し違いますが、リストの《レ・プレリュード》も、作曲されたあとで、ラマルティーヌの詩が引用されたのでしたね。
あれは出来合いの詩を持ってきて、スコアの扉に据えたのでしょう。だから、シュトラウスの場合のように、そんなに音楽と符合しているというわけではありません。
――シュトラウスには〈変容〉とつく題名の曲が二つありますね。
しかし、晩年の二三の独奏弦楽器のためのMetamorphosen(《メタモルフォーゼン》)というのは文字通り変形、変態です。もちろん音楽的な意味で言うのですが。一方《死と変容》のVerkl較ungというのは、何か神々しいもの、光り輝くものへ浄化されていく、精神的に高められるということが、根底にあるので、私は「死と変容」より、「死と浄化」という昔の訳のほうが原意に近いと思うのですが、どうでしょう。
死んで骨になるとかミイラになるのじゃなく、Welterl嘖ung, Weltverkl較ungつまり世界の救済、浄化が成就されるというのだから……。シェーンベルクのメVerkl較te Nachtモも近年の訳は「きよめられた夜」となっています。しかし、昔の「浄夜」のほうがもっと適訳とは思いますが、結局、みんなひっくるめてワーグナーの思想と関係があります。《トリスタンとイゾルデ》の、また《神々のたそがれ》の思想の影響は歴然です。
●ブロムシュテット指揮 ドレスデン国立管弦楽団〈89〉(デンオン○D)
交響詩《ツァラトゥストラはこう語った》作品三〇
背後世界の人々について
大いなる憧れ
喜びと情熱について
墓場の歌
科学について
病から回復に向う者
舞踏の歌
さすらい人の夜の歌
ニーチェの著作に心酔、永劫回帰説がテーマ
――この曲が書かれたのは、一八九五年から一八九六年ですね。とすれば、彼の指揮者としての活動が、忙しくなってきた頃ではありませんか。
そうです。ということはつまり、いわゆるディリゲント・ムジーク、指揮者音楽になる前の純粋さがまだ残っているわけで、その点で私はシュトラウスの七つの交響詩の中では最高峰だと思っています。
――「ツァラトゥストラ」というのは、ニーチェが書いたのでしょう。
われわれは学生時代に登張竹風の『如是説法ツァラトゥストラー』という題の風格ある訳文で読んだものです。曲のほうはクーセヴィツキー指揮のSP盤をよく聴きました。じつになつかしいです。
――リヒャルト・シュトラウスの意図したものはニーチェの著作のどういう点にあったんでしょうか。
いや、それはじつは、どうでもいいんですよ。シュトラウスはあふれるように湧き出る楽想に形式を与えるだけじゃなく、標題にもあてはめて見せる、ということに異常な関心があったのです。それにはニーチェの哲学的文学という、一見もっとも困難で、その実いくらでも融通のきく筋書きを選んだのでしょう。まあ、ニーチェがひじょうに音楽的な人であることは、周知のことです。
ニーチェ自身作曲もやったのです。《賛歌》(Hymne)という題の、彼の恋人の作詞にコーラスとオーケストラをつけた曲を見たことがありますが、その曲はおそらく立派に鳴りますよ。おもしろいことに、ワーグナー党ではなくなった晩年の作なのに、まあ《ジークフリートの牧歌》の二番せんじみたいな音楽なんです。
とにかくニーチェのお膳立てが、音楽形式にあてはめやすいことは否めません。『ツァラトゥストラはこう語った』は英雄聖者の一種の一代記でもあるからシュトラウス好みでもあります。彼は「ニーチェの天才への讃歌のつもりで書いた」と言っています。
――なるほど。このPhilharmoniaのポケット・スコアを見ますと、標題の下に、frei nach Friedrich Nietzsche「フリードリヒ・ニーチェに自由に従って」とありますね。
そうより他に仕方がないでしょう。しかし、標題音楽というものはどれだってfrei nach……ということになりますかな。
――この、ツァラトゥストラという人物について、説明して下さい。
ふつう日本では、この言葉のギリシャ、ラテン系の呼び名であるゾロアスターが通用しています。ツァラトゥストラは本来のペルシャの言い方で、ドイツ語では古くからその両方の形が用いられているらしい。紀元前七世紀後半のペルシャの宗教家で、善神と悪神のいる二元的宗教の教祖じゃないんですか。拝火教の教祖というほうが通りがいいかしら……。ただ、ニーチェはいわばその名を、自分の思想展開のために借りただけのことですけれど。
――その根本となる理念は、結局どういうことなんでしょうか。
これはちょっと私の任にあまるけれど、要するに「神は死んだ」。そしてニーチェのいわゆる超人ですね。人間自身であり、人間を超克するもの、これがツァラトゥストラという求道者の形をとって、一〇年間の山籠りを終えて下界におりてきて人々の間に入っていろいろ道を説く。
――キリストか福音史家みたいですね。
ええ、ところが、ひじょうな反キリスト教的な思想とみなされていて、またたんなる道徳のエッセイでもなく、きわめて予言的な、哲学的=芸術的著作なんです。超人はいうまでもなくニーチェ自身です。そして結局これは一種の永劫回帰説なんでしょう。人間的なもの一切の絶対肯定、そしてツァラトゥストラは未来と結合するために自己を永遠化するという結末です。受難や殉教するのでなしに……。しかし、シュトラウスはその序文だけを追っているのです。全体は序文のほか三部から成る大作ですが……。
――シュトラウスは、そんなに、ニーチェに傾倒していたのですか。
世紀末におけるニーチェの影響力の大きさは大へんなものだったでしょう。しかし、彼はすでに大学生時代、ショーペンハウエルに傾倒しています。それはワーグナーと関連もあるでしょう。それらの延長にニーチェはあるのですから……。
――それにしても大げさな曲ですね。やや誇大妄想的なところがあるでしょう?
誇大妄想といえばむしろニーチェのほうでしょう。むしろシュトラウスは節度を保って控え目に、職人らしくやってます。ワーグナーやシェーンベルクの《グレの歌》と比べてみてそう思うのですが、だいたいニーチェとシュトラウスを比べれば、シュトラウスははるかに常識人でしょう。
――はじめ低音のC(ハ)の音から、トランペットが、印象的な動機を吹きますね。そして、トゥッティ、続いてティンパニがCとG(ト)の音を力強く叩くという開始は、じつに効果的ですね。少なくとも、そこに哲学は感じられないし、これなら、シネラマの音楽にさえ使える……。
この開始部は超人の誕生なんですがね。オルガンの響きを利かせているでしょう。そのつもりできけば、とてもニーチェらしいですよ。標題音楽はある意味ではだまされたつもりにならないと、おもしろくないですよ。
――各部分に、それぞれ標題がつけられていますね。これもニーチェの著作と関連しているらしいけど、たとえば、Von den Hinterweltlernとは、どういうことなんですか。
Von den Hinterweltlernとは、「背後世界の人々について」という意味です。何やら神秘的な音で深遠な内容を暗示したり、低音弦のピチカートが「大いなる憧れ」のモチーフを出したりして、やがてオルガンを伴って弦が多くのパートに分かれて、すばらしい響きの部分がきます。ここへくると一瞬ニーチェなんか忘れてしまいます。豊麗な音響の現実世界ですものね、これは。
――ほかにも、こういう重要な動機が使われているのですか。
ええ、「喜びと情熱について」や一二音主題の「科学について」から「さすらい人の夜の歌」まで、じつに性格的なテーマで各部を対照させているのはさすがです。最後に冒頭の自然のテーマのハ長調と憧れのテーマのロ短調を、同時に複調で出して意味ふかく終えています。
――いずれにしても、シュトラウスの交響詩の中では、やや異色な作品に属するとみて、よろしいですか。
いや、そうでもないでしょう。音楽内容はもっとも充実していて、むしろ私はこのあとの《ドン・キホーテ》や《英雄の生涯》や、《家庭交響曲》《アルプス交響曲》などのほうが異色な作品だと思いますよ。
●カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、シュヴァルベ(Vn)〈73〉(グラモフォン)
交響詩《英雄の生涯》作品四〇
英雄
英雄の敵
英雄の伴侶
英雄の戦い
英雄の平和な仕事
英雄の隠遁と成就
作曲者自身の自伝的な交響詩
――彼は、ずいぶん長生きしたんですね。晩年には、彼自身、「私は同世代の作曲家ではない」と言ったとか。
私は彼の生誕七〇年記念に、日独交換の短波放送が行われたのを聴いた憶えがあります。あれは一九三四年(昭和九年)のはずです。日本からはクラウス・スプリングスハイムの指揮で上野(東京音楽学校。現東京芸術大学)のオーケストラが、《ツァラトゥストラはこう語った》と《アルプス交響曲》、それに一六声部無伴奏合唱曲(《二つの歌》作品三四)を演奏してエールを送り、ドイツからはシュトラウス自らの指揮で何か送られてきました。
考えてみるとシュトラウスは当時ナチ・ドイツの音楽局(ムジークカンマー)総裁という顕職にあったので、あんな派手な誕生祝いが実現できたのでしょう。なくなったのは八五歳の一九四九年のことですが、晩年は今言ったようなナチ時代のことが祟ってどちらかといえば淋しかったんです。
――彼はミュンヘンの生まれでしょう? お父さんがホルン吹きだったんですね。そしてお母さんは、ビール屋の娘で、とても音楽が好きだったとか。
そうです。お父さんのフランツはたしか四〇年間もミュンヘンのオーケストラで首席ホルニストをしていた名人で、しかも年中ワーグナーと衝突していたくらい保守的な人だったのです。息子は若い時からワーグナーに心酔したらしいけれど……。
ミュンヘンという町はいったいに保守的な性格が強い都会ですが、しかし、前世紀末から今世紀初頭にかけて「分離派」と言われる美術の新しい運動が、ミュンヘンから起こったのは有名で、シュトラウスがちょうどその時期に一応新しい形式の交響詩を、ぞくぞく産み出しているのはおもしろいことだと思います。しかし、シュトラウスはしまいにはミュンヘンの保守性に窒息しそうになって逃げ出したのです。
――シュトラウスにしたところで、たいして革新的な人とは思えませんが。
私はシュトラウスは結局、ドイツ古典派=ロマン派音楽のヴァリエーションを休むことなく奏でつづけた演奏家だと思うんです。真の意味での演奏家と評するなら、決して彼の価値を低くみることにならないと思うのですがね。作曲家のタイプとしてはバロックのテレマンなどに最も近い人ではないでしょうか。
シュトラウスは全くこんこんと湧き出て、つきることを知らない泉のように楽想が出てくる人なのですが、二〇世紀の大部分の作曲家たちは、そういうことよりも少量の液体の味のつけ方に関心があり、もしかすると調味料だけの研究に終始していた作曲家もあったわけで、さっきあなたのいわれた「私は同世代の作曲家ではない」というシュトラウスの言葉も、そういった自分の資質と周囲の断絶を意識しての感想じゃないでしょうか。
たとえばグレン・グールドのような性格的なピアニストが、リヒャルト・シュトラウスこそ二〇世紀最高の作曲家と公言しているのも、その点から分かるような気がします。たしかに彼は他の人が失ってしまった「音楽を奏でる」(musizieren)、という伝統を身につけていた最後の作曲家かもしれません。何しろプレイヤーが喜んで奏く音楽、オーケストラがよく鳴る音楽、指揮者にとっては振り甲斐のたっぷりある音楽というところでしょうか。
――彼はニーチェやショーペンハウエルなどから、多くの影響を受けたといわれていますね。そんなに思索型の人とも思えませんが。
それは、ドイツの知識人としてのごく一般的な教養、関心としてでしょう。ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』であれ、アルプスの自然であれ、わが家庭であれ、はたまた己が半生記であれ、ひとしく交響詩の題材になったんですから。まあ、思索型の人物よりは陽気な行動型の人物だったからではないかしら……。
――ところで交響詩といえばリストがまず挙げられますが、リストの交響詩と比較して、リヒャルト・シュトラウスのものには、どんな特色があるのでしょうか。
両者の比較を端的にいうなら、リストはワーグナー以前、シュトラウスはワーグナー以後ということです。そのことをもう少し具体的にいうなら、リストはだいたい筋書きの展開を音楽で雰囲気的に追って、しかも古典的な形式感を確保しているのに、シュトラウスは筋書きの人物、行為、感情、自然といったものに、いちいち具体的にモチーフを与えて、つまりワーグナーのやり方ですが、それが舞台上の登場人物のように筋と共に活躍し、形式も物語の劇的な展開により密着している、ということです。
――《英雄の生涯》は、シュトラウスの交響詩の中で、どう位置づけられますか。
《英雄の生涯》は交響詩のシリーズの掉尾を飾る曲で、実際、曲の一部ではそれ以前のほとんどの交響詩に用いられたモチーフを回想ふうに展開しています。あの部分は、これで交響詩のシリーズを打ち止めにしようという意図と同時に、ワーグナーのライトモチーフの使い方をじつに思い出させます。
――それにしても古来、英雄やヒロイズムを歌った音楽というのは、さして珍しくないと思うんですけれど、自らを英雄に仕立てた、というのは愉快ですね。
自叙伝的な交響詩ならベルリオーズの《幻想交響曲》や《イタリアのハロルド》、英雄の標題音楽なら古くバロック時代のクーナウの《ダヴィデとゴリアテの戦い》以来、数え切れないでしょう。ベートーヴェンのような例もあるし……。
しかしね、この《英雄の生涯》の最後は英雄の引退、孤独なあきらめを描いてちょっと淋しい終り方なのですが、まさか半世紀後の運命を彼自身予感したわけではないのでしょうが、ここを聴くといつも、私は彼の現実の晩年を思わないわけにはいかないのですよ。
●ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ヘッツェル(Vn)〈73〉(グラモフォン)
ホルン協奏曲 第一番 変ホ長調 作品一一
アダージョ―アレグロ
アンダンテ
プレスト
父親はホルン奏者、赤ん坊の時からホルンの音に洗脳されて
――ホルン奏者の父フランツに献呈された曲ですね。
そうです。これは、ロマンティックないい音楽なのに、聴くチャンスのあまりなかったものです。ずっと昔、昭和九年九月の、N響の前身である新響の定期演奏会で、ヴァルター・シュレーターというホルン奏者が近衞秀麿の指揮で演奏したことがあって、そのあと私の友達のアマチュアのホルン吹きが、すっかりこの曲に熱中して、しょっちゅう練習していたので大変なつかしい曲なのです。しかし、『N響四〇年史』によると、一九五八年(昭和三三年)にロイブナーが指揮者の時代に、マンスフェルトがやっていますね。私はその時のことは記憶がないですが。もっと昔のことのほうがむしろよく憶えていますよ。
――リヒャルト・シュトラウスの作品といえば、この協奏曲だけでなく、ほかの管弦楽曲でもホルンの響きがひじょうに印象ぶかいですね。
まあ、親父さんがミュンヘンにあるオペラ劇場のホルン奏者で、当時の大ヴィルトゥオーゾだったから、しぜん曲を書いていてもホルンの音がよく聞えてきたんじゃないかしら。赤ん坊の時からホルンの音に洗脳されてたでしょうから。
――ああ、ワーグナーぎらいのお父さん!
ワーグナーとしょっちゅう喧嘩していたという話がありましたね。しかし、ワーグナーが、あいつだけは何とかして確保しておいてくれと、劇場の支配人に頼んだことがあったらしいのです。指揮者のビューローとも対立していたんですよ。もっとも、ビューローは例によって命名癖を発揮して、親父のことを「ホルンのヨアヒム」(ヨアヒム〈一八三一〜一九〇七〉はドイツの大ヴァイオリニスト)と言ったそうですが……。
――つまり、子供の成長にとって、ひじょうに恵まれた音楽的環境だったわけですね。
まあこの程度の環境ならどこにもあるわけですし、それに環境が天才を製造するというものでもないでしょう。シュトラウスはやっぱり異常な天才ですね。たしかに若い頃の修行の方式や作風は保守的ですが、しかし、どうかなあ……。何しろ多作で、もう泉から水が湧き出すように楽想があふれ出てくるような人なんだから。
たとえばシェーンベルクなんかにくらべると、彼の《浄夜》は二五歳の作品だけど、その年齢でシュトラウスは、たとえ保守的にせよすでに莫大な量の作品を書いてしまっているわけです。このホルン協奏曲第一番は一九歳の作品ですが、二五歳の時は三番目の交響詩の《死と変容》を書いていますものね。多少は伝統的な手法になるのも当然でしょう。
――それで、おやじさんが吹いた?
まさか……。そうじゃないですね。少なくとも初演は別人です。場所はマイニンゲンで作曲の三年ほどあとですが……。そりゃ、親父さんは当時のホルン界の大御所だから、駈け出しの息子の作曲を人前で吹くなんて、とても考えられないことでしょう。せいぜい五番弟子くらいに、おい、本当にすまんがちょっと吹いてやってくれるか、くらいのところじゃないですか。しかし、息子の交響曲ニ短調の初演を振ったヘルマン・レヴィには、大いに感謝の意を表明して、ついお礼に何でもすると言ってしまったので、ワーグナーの《パルジファル》をバイロイトで初演する際、いちばんやりたくない、ホルンの仕事をやらされたという話があります。
――まあホルン協奏曲といえば、モーツァルトの四曲いらい、絶えて久しいものですね。
そうでもないでしょう。ウェーバーの《コンチェルティーノ》やシューマンの、あれは四本のホルンのためだけど、《コンツェルトシュテュック》という曲、その他埋れているんでしょうけれど、全く書かれていないはずはないと思います。オペラの作曲家はよく管楽器の協奏曲を書くし……。ただ、いずれにせよ、あまり演奏はされません。ピアノ伴奏なら、ベートーヴェンのホルン・ソナタをはじめ、シューマンの《アダージョとアレグロ》、サン=サーンスの《ロマンス》などずいぶんあるけれど……。それに二〇世紀に入れば、協奏曲だっていろいろ出てきます。スウェーデンのアッテルベリのホルン協奏曲やなんか……。
●メータ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ザイフェルト(hrn)〈89〉(ソニークラシカル○D)
メタモルフォーゼン
アダージョ、マ・ノン・トロッポ
アジタート
アダージョ、テンポ・プリモ
ドイツ文化の大いなる悲劇と種々のモチーフの換骨奪胎
――これは、「二三の独奏弦楽器のためのStudie」というサブタイトルを持っているのですね。
そうです。《メタモルフォーゼン》は大オーケストラをフルに鳴らした作品ではなくて、『MGG』などの音楽辞典の作品表では、室内楽に分類されているものです。スコアの書き方も一〇人のヴァイオリン、五人のヴィオラ、五人のチェロ、三人のバスがそれぞれ一〇段、五段、五段、三段と全部で二三段に分けて書いてあるのです。完全にソリスティックな合奏です。
もちろん、時にはいくつかの楽器がユニゾンになりますが……。「ストゥディー」つまり「エテュード」というサブタイトルはバロックを思い出します。むろん練習曲とか習作とかという意味じゃなくて、まあエッセイといった感じでしょうか。
――とすると、あの大オーケストラの響きの充満した、リヒャルト・シュトラウスの作品とは思えない?
それが、そうとも言えないのです。むろん音の物理的絶対量としては、オーケストラの編成には及ばないでしょう。しかし、二三人のソリスティックな弦楽合奏としては、ほとんど極限ともいうべき音の拡がりを感じさせる瞬間があります。音は充満し、あふれ出るという感じです。長さの点でもこれは《死と変容》より長い位じゃないですか?
今後しばらく、シュトラウスの演奏頻度はますます高まるでしょう。とにかく大オーケストラをフルに鳴らすシュトラウスの魅力というものは絶対的です。シンフォニー・オーケストラのレパートリーに占める位置としては将来、ベートーヴェンにとって代わるかもしれません。もうその徴候は現実にあらわれています。フルトヴェングラーなどによって、ベートーヴェンはあまりに精神的な、魂の深い所とかかわりすぎてしまったんです。今の若い人たちは果たして音楽にいつもそういうものを求めるかどうか。むしろ感覚的、官能的なシュトラウスが、しばらくの間は好まれていくでしょう。
――「ストゥディー」というサブタイトルが、バロックを思い出しますといわれましたが、曲の様式も、同じシュトラウスの組曲《町人貴族》のような、バロック・スタイルに近いものですか。
いや、そうじゃないです。むしろシュトラウスの初期の《ツァラトゥストラはこう語った》の中の、あの〈背後世界の人々について〉の所で、弦のパートがひじょうに多くの声部に分かれる、ああいう音をシュトラウスはなつかしんでいるみたいです。ただ対位法的な、線の音楽だという点など、広い意味ではバロックふうと言えなくもありませんけれども……。それもシェーンベルクをバッハにたとえるならシュトラウスはテレマンですね、まさに……。しかし、時々シェーンベルクの弦楽合奏の《浄夜》を思い出させる所があります。
作曲は、まさにヒトラーの第三帝国が崩壊しつつあった日々になされたのです。シュトラウスが長年仕事場としていたミュンヘンやウィーンのオペラ劇場は空襲で全焼するし、ドレスデンのオペラもいわゆる絨毯爆撃の犠牲になっていました。まあすべてが失われつつあったヨーロッパ文化への追悼曲のつもりで、この曲を書いたのだと思います。
のっけからベートーヴェンの《エロイカ》の葬送行進曲のモチーフが出るし、ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》のマルケ王のモチーフらしい下行音階や、彼自身のオペラ《アラベラ》のモチーフなど、その他にも彼の旧作からとられたらしい断片をいくつかちりばめて、もっとも〈メタモルフォーズ〉されているから、はっきりしない部分もあるけど、そして最後のコーダにひときわはっきりと《エロイカ》のモチーフを浮かび上がらせて、そこにIn Memoriam! と書きつけています。
ところがそのすぐあとの複縦線の所に書き込んだ日付は、一九四五年四月一二日で、これは不思議なことにアメリカの大統領ルーズヴェルトの死んだ日なのです。しかし、まさかルーズヴェルトのIn Memoriamというつもりで書いたとは思えません。やはりこれはドイツ文化の、大いなる悲劇を通してのメタモルフォーズを、テーマとした音楽としか考えられないのです。
――戦争末期といえば、シュトラウス自身にとってもいろいろと、たいへんな時だったんでしょうね。
まあ、シュトラウスは少し前に短期間ですが、ナチの音楽局総裁の椅子についたことがあったので、余計、敗戦後の運命が気がかりだったでしょう。
この曲はオーバー・バイエルンのガルミッシュで書かれたのですが、その後、彼はスイスに移ることになります。だから、彼のドイツでの最後の作品になるのではないかしら。《メタモルフォーゼン》がチューリヒの指揮者、ザッヒャーに捧げられているのは、彼が初演したからです。翌年(一九四六年)一月に初演されたようです。
――ところで、この標題の「変容」について、説明して下さいませんか。
まあ、この場合は二つの意味があると考えられます。さっきも言いましたが、一つは《エロイカ》の葬送行進曲やワーグナーなどのモチーフを換骨奪胎させて、曲中に展開させています。そういう音楽的な意味のモチーフの「変容」です。もう一つはドイツ自身の「変容」に引っかけているのではないでしょうか。敗戦とそれにつづく政体の変化が、目の前に見えていた時ですから。
――その標題が持つ意味は、やはり、この曲の鑑賞にあたっても重要なものなんでしょうか?
いや、それはそれとして、あまりこだわることもないと思います。これはじつに精巧な音の織物で、一九四五年という時点で、こういうスタイルでこういう円熟した音楽を書けた人は、シュトラウス以外にないです。この曲が今日さかんに演奏されるゆえんです。グレン・グールドのような前衛的なピアニストが、シュトラウスを礼讃しているのも分かるような気がします。
最後に、これは余談ですが、バロック時代、フランスのヴェルサイユ楽派での楽団は「二四人の弦楽合奏」Vingt-quatre Violonsと称したのですが、この曲は一人だけ減らして二三人の合奏にしたのがおもしろいと思うのですがね。
●ブロムシュテット指揮 ドレスデン国立管弦楽団〈89〉(デンオン○D)
サロメの踊り
美しすぎるほどに官能的、《ばらの騎士》と対照的で双璧をなす
――《サロメの踊り》は、オペラ《サロメ》の中で七枚のヴェールを一枚ずつ脱ぎながら、古井戸のまわりで踊るものですね。
そう。歌い手はすでにここまでの間に、あれだけ歌い演じて、なおかつ、これを踊らなければならない。大へんな役です。また、声も演技も立派な大熱演でないと、病的な嗜虐趣味が舞台上にのさばりすぎるおそれがあるでしょう。だから、あらゆる意味で、シュトラウスがこの場面のために力をこめて、美しすぎるほど官能的な音楽を書いた意図もそこにあるでしょう。しめっぽい控え目な音楽だったら、不健康な雰囲気に支配されかねないですね。
――なんでも、オペラの全曲が完成してからあとで書き加えられたものだとか……。
ああそうですか。それならなおさら、今のことが念頭にあったのかもしれませんね。この場面を芸術表現上のけわしい山にすることで、作品全体の姿勢を整えた、と言えましょう。とにかく《ばらの騎士》のワルツとひじょうに対照的であり、しかも双璧をなしていますね、この《サロメの踊り》は。
●プレヴィン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団〈92〉(グラモフォン○D)
組曲《町人貴族》作品六〇
第一幕への序曲
メヌエット
剣術の先生
仕立屋の登場と踊り
リュリのメヌエット
クーラント
クレオントの登場
第二幕への前奏曲
晩餐会
モリエールの戯曲にもとづく擬古典スタイルの音楽
――組曲《町人貴族》も、やはり、彼の交響詩ふうの派手な音がするのでしょうか。
いや、これはまるでクラシック・スタイルです。二管編成で、弦もヴァイオリン六、ヴィオラ四、チェロ四、バス二というのですから、むしろバロック時代に近いです。何しろ一七世紀のモリエールの『町人貴族』のための音楽なのですから……。
――あのお芝居は、以前来日したコメディ・フランセーズがやりましたね。ところで、オペラ《ナクソス島のアリアドネ》の中の茶番劇として作られたという話ですが……。
待って下さい。そうではなくて、モリエールの『町人貴族』(「ブルジョア・ジャンティヨム」)の第三幕の終りの所の劇中劇として、〈ナクソス島のアリアドネ〉という茶番オペラが作曲され、上演されたのです。この突飛なアイディアはシュトラウスとホフマンスタールの合作でしょう。
シュトゥットガルトの初演でも、ベルリンの再演でもえらい不評だったそうです。結局オペラは切りはなして独立したものとし、本体の劇への付随音楽から抜粋して組曲としたのが、この曲というわけです。だからオペラと組曲はオーケストレーションがほぼ同じだし、作品番号も両方共、作品六〇になっています。そもそも《ナクソス島のアリアドネ》も、シュトラウスのオペラの中では例外的に擬古典的な音楽ですよ。
――そうですか。ところで〈リュリのメヌエット〉という曲があるのですね。
つまりモリエールの戯曲のためには元来リュリが音楽をつけているので、コメディ・フランセーズの公演でも、それをテープで流していました。〈リュリのメヌエット〉という楽章は、その中のメヌエットをシュトラウスがアレンジしているのです。
●ライナー指揮 シカゴ交響楽団〈56〉(RCA)
最後の四つの歌(ソプラノと管弦楽のための)
春(ヘッセ詩)
九月(ヘッセ詩)
眠りにつくとき(ヘッセ詩)
夕映えの中で(アイヒェンドルフ詩)
R・シュトラウスの絶筆
――ドイツ歌曲におけるリヒャルト・シュトラウスについては、どうでしょうか?
ドイツ歌曲の出発点をミンネゼンガーとするのか、マルティン・ルターの協力者のヴァルターやホーフハイマーあたりに置くのか、あるいはライヒャルトくらいまで下げるのか、私は音楽史の専門家じゃないから分かりませんが、ごく常識的にシューベルトをドイツ・リートの中核として、そのあとシューマン、ブラームス、ヴォルフ、マーラー、シュトラウスとならべてみると、ともかくシューベルト前後が文学的にも音楽的にも純ドイツ的です。だんだんエクゾティックな要素が入ってきて、ドイツ的な純粋さが失われていくんじゃないですか。シュトラウスでは声の面ではイタリアふうのベルカントの要素、音色やハーモニーの面ではフランスの印象主義がたしかに入ってきています。
――シュトラウスのリートの魅力は、どんなところにあるんでしょうか。
やっぱりソプラノの声の美しさを最高に生かしている、ということでしょう。その点、文学性は稀薄にならざるを得ないけれども、イタリア・オペラのアリアほどに感性や声の技巧に寄りかかってはいません。危い所でバランスをとっている。やはり《サロメ》《エレクトラ》など、多くのオペラの経験が彼のリートに結晶しています。シュトラウスはドイツ語に作曲した最高の「声使い」でしょう。おそらくその点ワーグナー以上でしょう。
――リヒャルト・シュトラウスは、すきとおるような女声を愛したときいております。彼の奥さんも、ソプラノの歌手だったそうですし、また、晩年は、エリーザベト・シューマンを目当てに作曲したとか。
彼はソプラノの声に自ら酔わされて、しかもそれで人を酔わせたんです。陶酔しながらその手で人を蕩(た)らすんだから大へんな寝業師です。まあ《ばらの騎士》あたりに、それが最高に発揮されているわけで、この《最後の四つの歌》では、かなり晩年の諦めの気分から古典的な世界に戻っていますけれど……。
――この《最後の四つの歌》は、いつ書かれたのですか。
これは文字通りシュトラウスの絶筆なんじゃないですか。《メタモルフォーゼン》のあと、クラリネットとファゴットの二重小協奏曲というのがあって、それからこの歌曲でしょう。
――シュトラウスのオーケストラつきの歌曲は、ほかにもたくさんあるのですか。
たくさんあります。またピアノ伴奏をあとからオーケストレーションして出版したのもあります。演奏会用のアリアをモーツァルトはたくさん書いているし、ベートーヴェンにさえあるのに、シューベルトが作っていないのは不思議です。ワーグナーの《ヴェーゼンドンクの五つの詩》、マーラー、シュトラウスとだんだん多くなっています。
――マーラーの歌曲とは、ややおもむきが違いますね。
シュトラウスは音楽の流れに身を任せるほうだし、マーラーは表現意欲がまず表面に出てくるほうです。マーラーは意余ってかえって舌たらずになるのが一種の魅力だけど、シュトラウスは、こんこんと湧き出る泉みたいに、悠々と歌っています。
――この《最後の四つの歌》というのは連作歌曲として書かれたのですか?
内容的に一つながりの筋がないから連作歌曲とは言えないけれども、まあ同じ時期の同じスタイル、ほぼ同じオーケストレーションによっているので、ワン・セットにして出版されているわけです。曲の順序でいうと一九四八年七月、九月、八月、五月にいずれもスイスで書かれています。ですから、第四番のアイヒェンドルフの詩による〈夕映えの中で〉がいちばん早いのです。ヘッセの三曲はまあ連作というに近いでしょう。
たしかに、ヘッセとシュトラウスというのは、イメージとして結びつかないんです。シュトラウスと言えばデーメル、リーリエンクロン、ビーヤバウム、古いところでハイネ、ゲーテ。だから、この最晩年のシュトラウスの心境というものが、いかにそれまでとちがっているか、ということです。素朴なあきらめの気持。音もずっと古典的な感じが強くなっています。転調は多いですけれども、不協和音は少ないです。モチーフも簡素です。
●シノーポリ指揮 ドレスデン国立管弦楽団、ステューダー(S)〈93〉(グラモフォン○D)
シベリウス
Jean Sibelius
(フィンランド)
1865〜1957
交響曲 第一番 ホ短調 作品三九
アンダンテ、マ・ノン・トロッポ
アレグロ・エネルジコ
アンダンテ(マ・ノン・トロッポ・レント)
アレグロ
フィナーレ(幻想曲ふうに)
北欧の荒々しい自然を連想させる語法
――「シベリウス生誕一〇〇年祭」が一九六五年に世界的に行われて、わが国でもNHK音楽祭の「N響の夕べ」で、シベリウスの作品を集めて演奏されたように憶えております。
あの年は毎年ヘルシンキで開かれている「シベリウス音楽祭」――あれは大統領がパトロンなんですが、一〇〇年祭というのでひじょうに大きな規模で催されました。カラヤンとベルリン・フィル、セルとクリーヴランド交響楽団という大物を二本立てにした上に、大勢の客演指揮者を招いてね。「シベリウス音楽祭」といえばフィンランドの国家的な行事です。なにしろシベリウスの生存中からつづいているんですから。
――それにしてもシベリウスの死んだのが一九五七年、ずいぶん長生きしたものですね。
そうなんです。お葬式の八年後に生誕一〇〇年祭というのは作曲家には珍しいですよ。何しろいつもいうんですが、シューベルトの三倍生きたのですから。
――それで死ぬまで書き続けたのですか。
いや、そうじゃないんです。交響曲第七番を書いた一九二五年、これが六〇歳ですが、その後は彼はほとんど何も仕事をしていません。逆にいえば、それだから九二歳の長寿を全うできたのかもしれない……。つまり彼の創作年代は一八八〇年代から一九二〇年代の前半までで、その点ではフォーレやプッチーニやリヒャルト・シュトラウスの同時代者ということになります。作風の上でもまさにそうでしょう。
――それにしても、年金を受けて悠々と作曲できたというから、作曲家にとっては羨ましい話でしょうね。
しかし、悠々生活できるほどじゃなかった、とも聞いています。ちょっと少なめだって。もちろん晩年は印税や演奏料がたくさん入ったでしょうが……。
――さて交響曲第一番のお話を伺いましょう。これはいつごろの作品でしたっけ……。
ええと、一八九九年、……年代的には一九世紀のしんがりを承る交響曲ということになります。それで、彼は一八六五年の生まれだから、三四歳、やはり晩成型ということになります。ブラームスが第一番を完成したのは四三歳の時だし、ドヴォルザークの第一番も三九歳の作ですが、まあしかし、シベリウスが晩成型ということはいえるでしょう。決して彼は神童タイプじゃないんです。
ともかくこの第一番は一八九九年の作品なんですが、世紀末のヨーロッパ周辺国――というと、スラヴ圏諸国やスカンディナヴィア諸国やスペインなどの、いわゆる民族主義ロマン派のスタイルの典型だと思います。ラフマニノフ、スクリャービン……。短小なモチーフを重要視する一方で、絶唱型の旋律を出してきて感動的なクライマックスを盛り上げるんです。これらは純音楽でも幻想曲ふう、ラプソディーふう、叙事詩ふう、交響詩ふうの特徴が感じられます。
――たしかに、そういったものがシベリウスの作風を濃く彩っています。それにしても、フィンランドはシベリウスをたいへん大事にして、それこそ国家的な作曲家として尊敬していると聞いておりますが……。
それはもう大へんなものでしょう。それはデンマークのアンデルセンにしても、ノルウェイのイプセンやグリーグにしても、フィンランドのシベリウスにしても、何しろ東京の人口の半分以下の人口四〇〇万くらいの国から出ているんだから大へんなことなのです。
――シベリウスの音楽をきくと、なんとなく北欧の雰囲気が滲み出るように思います。シベリウスは、北欧の民族的な旋律やリズムを作品の中にとり入れているのでしょうか。
民族的な素材はまったく使っていない、といわれています。しかし、同じ音の反復が多いこととか、狭い音域のメロディーとかにフィンランドの民謡とシベリウスの旋律との類似点があるように思います。むろんそういった特徴だけを言葉で言うなら、世界中どんな民族の民謡もそうですが、もっと具体的に似ていると思います。『カレワラ』の、よく引用される行の「ワカ・ワンハ・ワイナ・モイネン」というリズムというか韻なんかも、何となくそういう感じじゃありませんか……。そのほか、さっきもいった短小なモチーフの中で、すべてを表現しようとでもいうような語法、ただ一個の音に魂をこめる一種の気魄みたいなもの、クレッシェンドした和音を急に断ち切るやり方、高音部の晴朗な和音と低音部のとどろきとの対比など、じつに北の国の荒々しい自然を連想させます。
●ベルグルンド指揮 ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団〈86〉(エンジェル○D)
交響曲 第二番 ニ長調 作品四三
アレグレット
テンポ・アンダンテ、マ・ルバート
ヴィヴァーチッシモ
アレグロ・モデラート
重量感をたたえた透明で単彩的な画法
――シベリウスの作品表によれば、彼は、ずいぶん多く作品を書いたのでしたね。それにしては、あまり我が国では演奏されていないように思いますが……。
あなたの今言われたことについて、私はこう思うのです。日本ではどうしても一度親しまれた名曲を何度でもくり返して、演奏の良さを楽しむ傾向が強い。これは外国にくらべて楽譜、ことにオーケストラのパート譜の入手難というような現実的な理由もありましょうが、私は邦楽の歴史から見ても、このことが日本人の音楽への一つの接し方をあらわしているのじゃないかと思うのです。外国ではもちろん名曲もくりかえしやるけれど、そうでないのもやって、いつも作曲家の全体像が浮き彫りにされるよう仕向けていると思うのです。一方は、極めつきの名作だけを何百年後までも残していこうとする姿勢、一方はたえず新しいものをつけ加えていく創造的な姿勢と言えないでしょうか。
――交響曲第二番は、文字どおりシベリウスの代表作だと思いますが。ただ彼の作品において、いわゆる北欧的という要素を抜きにして考えた場合、ドイツ・ロマン派的な色彩がひじょうに強いように思いますが……。
その通りです。まあシベリウスがベルリンとウィーンで勉強の仕上げをしたのも事実ですが、ともかく一九世紀の民族的ロマン派の大半は、ドイツ・オーストリア音楽圏に含まれるとみてよいでしょう。当時それと関係の薄いのがロシアの「五人組」だし、またドイツ音楽のヘゲモニーから意識して脱け出したのがドビュッシーですが、ドビュッシー以後、今度はイギリス、アメリカ、イタリア、そしてドイツ人までも、印象主義の引力に抗し切れなくなる。つまりフランスの音楽文化圏が高気圧のように世界中をおおうようになる……。
――ところで、写真で見るフィンランド人というのは、ずいぶんとわれわれ東洋人に近い顔をしていますね。シベリウスの音楽も、私には東洋の墨絵的な印象が強いのですが。
ご承知のように、人種的にはフィノ・ウゴールといってフィンランド人とハンガリー人は大昔ウラル山地の南の方から西へ移っていった人々です。つまり遠い先祖はわれわれに近いのです、アーリアン人種よりもね。シベリウスが、たった一つの音に万感をこめるといった気概には、たしかに東洋的なものを感じます。しかし、あの粘りや激情的な爆発は彼ら独特のものです。ハンガリーにしても、民謡のメロディーには多分に東洋ふうなものがあるけれど、バルトークの数々の大作はもはや西欧の論理の産物でしょう。
――それは理解できます。しかし、シベリウスの場合、そこにひじょうにマッシヴな重量感をたたえながら、全体的な印象としては意外に透明であり、ある意味では単彩画的な色あいだといえそうです。ところで、この曲のオーケストラ編成は二管でしたね。
ええ、木管はいわゆる二管編成です。しかし、金管がホルン四、トランペット三、トロンボーン三、テューバ一で、しかもこれらがよく活躍するんですね。その辺が二管編成といっても古典派とは大へんちがうところでしょう。
●ブロムシュテット指揮 サンフランシスコ交響楽団〈91〉(ロンドン○D)
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品四七
アレグロ・モデラート
アダージョ・ディ・モルト
アレグロ・マ・ノン・トロッポ
ロマンティックな情感、豊かで透明な色彩感
――シベリウスという人は、自分でヴァイオリンを奏いたのでしたね。
そう、マルティヌーと似ています。シベリウスはほとんどソリストとして活躍できる腕前だったのに大へんな上がり屋で、ステージ活動のほうは断念せざるを得なかったと、これは渡邊暁雄さんからうかがったことがあります。
――シベリウスの音楽というと、我が国では、よく、千古斧を知らぬ森とか、霧の立ちのぼる湖……といった、いわゆるフィンランドの自然と結びつけて説明されますね。しかし、シベリウスは、そうした民族的な旋律や、あるいはリズム的なイディオムを、そのまま使っているわけではないのでしょう?
その通りです。シベリウスは、バルトークやコダーイのような方法はとりませんでした。しかし、北の国の酷しい自然と対決する人間の生活や意志や感情は、よく出ていますね、彼の音楽には……。
――ブラームスは理解したけれど、ワーグナーには、なんら共感を示さなかった、という話は、いかにもシベリウスらしいと思いますが……。
さらに、シェーンベルクについては「一種の哲学かもしれないけれども音楽ではない」といいました。彼は半音階や無調は大嫌いだったのでしょう。しかし、作曲法は独特だし形式も新しいですがね、とくに後期の交響曲などは……。
――ヴァイオリン協奏曲は、一九〇三年の作品だそうですが、ヘルシンキをはなれて、田舎の別荘にたてこもるようになったのは、やはり、この頃だったんじゃありませんか。
初期の作品です。もっとも初演のあと改訂したそうで、その時期はよく分からないのですが、そう遠い時期ではなさそうです。
――シベリウスの後期の作品は、いわゆる古典的な清澄感と、がっしりとした構成によって支えられていますが、どうかすると、やはり隠遁者的な感じがつきまとっているように思うんです。その点、この協奏曲は、まだ若い頃のものだけに、ひじょうにロマンティックな情感が強いように感じますね。それからシベリウスのオーケストレーションというのは、ひじょうに独特なひびきを持っておりますね。豊かな音色を持っていながら、しかも、透明な音色感とでもいうべきものがありますね。
おっしゃる通りです。それからこの曲はニ短調ですが、そのドミナントのイ長調の和音が曲の中で響くことはほとんどありません。そんな点はやはり意識して、ドイツ音楽にあまり似ないように工夫していると思います。ドイツ音楽だったらドミナントは、つねに威嚇的に鳴り響きますから。
●レヴァイン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ミンツ(Vn)〈86〉(グラモフォン○D)
サティ
Erik Satie
(フランス)
1866〜1925
ジムノペディー (ドビュッシー編曲)
ゆっくりと荘重に
ゆっくりと痛ましげに
古代ギリシャのディオニュソス祭のリズムを借用
――サティの音楽は、それほど聴いたわけではありませんが、なんでも、たいへん風変りな作曲家だったと聞いておりますが……。
そうです。しかし、パガニーニのようなヴィルトゥオーゾのほうが、よっぽど実生活の上で奇言奇行が多かったでしょう。だからサティの場合はむしろ精神上の奇人です。まあそれが演奏家の場合と創作家の場合の、奇人ぶりの発散の仕方のちがいかもしれません。作品は何しろ風変りです。
――生粋のフランス人だったんですか。
ちがいます。お母さんがスコットランドの人ですから英仏の混血なんです。そのお母さんは彼が六歳の時に亡くなって、継母に育てられるのですが、この人がピアニストでした。サティの音楽一般に対する一種の反抗精神といったものは、こうした環境と多分にかかわり合いがあると思うのです。
――反骨精神が旺盛だったわけですね。作曲のうえでも、いろいろ新しいことをやったのでしょう?
やっぱり一種の天才です。表現上ひじょうに新しいことをやりました。まあ先駆者につきものの、アイディア倒れという面もなくはありませんが、ずいぶん勇気もあった芸術家だと思います。昨今のように前衛が一種の運動になっていなかった時代のことですから。
――そういう人だったとすれば、日常の生活も、ずいぶん変っていたんでしょうね。
そう見えることが多いです。たとえば世紀末頃に神秘主義の秘密結社であるペラダンという人のバラ十字会(Rose+Croix)に加盟して、その専属作曲家になっています。これなどはスクリャービンが神智学(テオソフィー)のグループに入ったのと同じように、やはり一種の精神の憩いの場所を求めたのでしょう。音楽家としてはアウトサイダーなんだから。また、サティがカフェーのピアノ弾きだったということも、奇行というよりは必要からだったと思います。実生活上からも精神生活上からも……。
――私は、ピアノのための作品しか聴いたことがありませんが、この《ジムノペディー》も、もとはピアノの作品で、これをドビュッシーがオーケストラに編曲したんでしょう? ドビュッシーとは、そんなに親しかったのですか。
親しいというより、ドビュッシーはサティの音楽でハッと目を開かれた、といったほうが当たっているでしょう。平行和音の使い方など、いわゆる印象派ふうの書法はサティが始めたものです。《三つのサラバンド》など一八八七年ですから、ドビュッシーはまだこれからの時期ですもの。この一八八八年の《ジムノペディー》は題意からも想像つくように、ギリシャのリズムを、中世音楽のように借用しています。これはむしろ半世紀あとにつづくメシアンの先駆です。ただ、ドビュッシーとの関係は後になると極度に悪くなって、死の床のドビュッシーとさえ和解しなかったということです。まあサティは一種のいじわる爺さんぶりを自ら楽しんでいた傾向があります。
――「六人組」の人たちとも、関係があったのでしょうね。
それが晩年には再び機嫌が直って、「六人組」の精神的な柱というか、実質上の旗がしらみたいな存在だったのです。若い人たちのおかげで機嫌が直った、ということかもしれません。ドビュッシーという巨大な存在も世を去り、サティの作品も《パラード》というバレエをディアギレフが一九一七年に上演して以来だんだん世に認められるようになったし……。
――ところで彼の音楽は、その標題ほど、奇妙でも、変ってもいませんね。
ええ、何といったって一八八〇年代の音楽ですもの……。いや、たんに一〇〇年の歳月ということではないでしょう。要するに第二次大戦後の音楽の、ひじょうに大きな変り方というものを考えないわけにはいきませんね。
●デュトワ指揮 モントリオール交響楽団〈87〉(ロンドン○D)
プフィッツナー
Hans Pfitzner
(ドイツ)
1869〜1949
《ハイルブロンのケートヒェン》序曲 作品一七a
中世騎士道物語の付随音楽、ゲルマン音楽の伝統の純粋な担い手
――プフィッツナーについて、私はなにも分からないのですが、この人は、ドイツの作曲家ですね。
プフィッツナーはドイツ後期ロマン派の頑固な作曲家です。彼はリヒャルト・シュトラウスとシェーンベルクのちょうど中間あたりの一八六九年に生まれています。つまりシュトラウスの五つ下、シェーンベルクの五つ上です。しかし、創作態度はむしろシュトラウスよりも保守的です。生まれはモスクワ。彼の親父さんは当時モスクワのオーケストラで、ヴァイオリンを弾いていたのです。後に指揮者になって、プフィッツナーが三歳の時フランクフルトにきますが。おじいさんも指揮者でザクセンの出身だそうです。つまり、もっとも地味でドイツ的な、音楽家の家系です。
その後、彼はフランクフルトの音楽院を出ます。そしてコーブレンツやストラスブールなど、つまりラインラントの各地で指揮者や教師をして、第一次大戦後、ベルリンの芸術アカデミーの教授、その後はミュンヘンの音楽院の作曲教授でした。ずっと若い頃、つまり今世紀の初め頃にも、ベルリンのシュテルン音楽院という名門校で作曲を教えていたのですが、アルバン・ベルクが当時プフィッツナーに師事しようとして、ウィーンから出発する時に汽車に乗り遅れてしまい、仕方なくシェーンベルクに教わることになったというのです。
彼の代表作は何といってもオペラ《パレストリーナ》でしょう。ブルーノ・ワルターが一九一七年に初演した大作ですが、かつてNHK・FMの「海外の音楽」で、ミュンヘンでの上演のテープを全曲放送しました。あれが日本であの曲の紹介された唯一の機会だったでしょう。なかなか立派なものでした。鬱然たる大作という趣でした。
――私の見た『音楽事典』(平凡社)には「現代音楽を批判する、論争的な論文を書いた」と記されていましたが……。
そうですか。全著作が三巻に編集されています。一九一九年にメDie neue Aesthetik der musikalischen Impotenzモ――つまり『音楽的不能の新しい美学について』という辛辣な題名の本を出しているので、これがそれに当たるのじゃないかしら。この題はじつにプフィッツナーらしいです。気むずかしい、あくまで妥協しない人だったようで、ブルーノ・ワルターの『主題と変奏』という回想録に、《パレストリーナ》の上演をめぐって、彼がプフィッツナーにいかに悩まされたか、そのエピソードが出てきますよ。作曲家と作品のために、関係者一同が大努力を払っているのに、その気持をまったく受けつけなくて不機嫌なプフィッツナーのことが語られています。
――がんこ爺さん! それで作曲家としては、どういうタイプの人だったんですか。さきほどの「論文」のことからしても、だいぶ保守的な人だったことは、分かりますが。
《パレストリーナ》の作風はシェーンベルクなど新ウィーン楽派のような当時の最尖端にくらべれば保守的ですが、さりとてまったく無気力なものじゃなくて、転調や半音階なども時代様式として、必要限度ギリギリにはとり入れているのだし、まあ、レーガーの線に近いものです。あの時代のスタイルは幅が広いですから。ウィーンのフランツ・シュミットなどよりは近代的です。
――ドイツやオーストリアあたりでは、かなり高く評価されている人なんでしょうね。
そうです。やはりゲルマン音楽の伝統を受け継ぐ純粋な担い手として尊敬されています。《パレストリーナ》のテープを放送した時、私が解説の中でひじょうに珍しいものであると強調しましたら、ある聴取者の方からお手紙があって、ドイツとオーストリアでの《パレストリーナ》の近年の上演記録をいろいろ挙げて、そんなに珍しいものではない、かなり頻繁にやっている、という御注意を受けました。たしかに、かなりやっています。リートの会では、近年ますますプフィッツナーはとり上げられています。日本人の若い歌手によっても、歌われるようになりました。
――ところで、クライストの『ハイルブロンのケートヒェン』ですが、これは、昔の岩波文庫に、手塚富雄さんの訳で出ておりましたね。たしか、中世の騎士道華やかなりし時代の物語……。ケートヒェンというのは、ドイツじゃ、ごく普通の名前でしょう?
まあね。いや、じつはこのハイルブロンですが、これはシュトゥットガルトの北三〇キロ余りの所にある町ですが、ここでだいぶ以前に音楽ファンなら誰でも御存知の日本の音楽批評家と音楽学者の二人の先生が、車ごと何回転かされて、しかし、幸いにもカスリ傷一つなかった奇蹟の地なんです。車はその場でポンコツ処分だったそうですが。
さて話を戻しますが、これは、芝居の付随音楽なんです。最近はドイツでもどこでも芝居小屋では音楽をテープで流しますね。もちろんレコードじゃありません。新作でしょうが、やはり興ざめですね。楽器だけナマで、コーラスはテープなんていうのもありました。だから、このプフィッツナーのような堂々たるシンフォニー・オーケストラの音楽を、芝居の上演にナマでつけるというのは、やはり古き良き時代の習慣という感じがします。
――作曲はいつですか?
一九〇五年です。シュトラウスの《サロメ》の頃です。とても、二〇世紀に入ってからの作品だとも思えません。一九世紀の七〇年代から八〇年代と言われても、ああそうか、と思います。もっともラフマニノフのピアノ協奏曲第二番もプッチーニの《蝶々夫人》も二〇世紀初頭なんですが。
●サヴァリッシュ指揮 バイエルン放送交響楽団〈外盤〉(オルフェオ)
ヴォーン・ウィリアムズ
Ralph Vaughan Williams
(イギリス)
1872〜1958
タリスの主題による幻想曲
ラルゴ・ソステヌート
ポーコ・ピウ・アニマート
モルト・アダージョ
イギリス教会音楽の父、タリスに捧げられた教会音楽
――このヴォーン・ウィリアムズが世を去ったのはいつでしたか。
ええと、一九五八年八月に亡くなりました。一八七二年生まれですから、ずいぶん長命でした。シベリウスにはちょっと及ばないけれど、ずいぶんの高齢で死んだ作曲家です。八五か八六ですね。しかも亡くなった年の二月、つまり死の六ヵ月前に交響曲第九番がロンドンで初演されました。ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、ドヴォルザーク、マーラーと、みんな第九番まで完成させて世を去ったのは不思議ですが、ヴォーン・ウィリアムズまでも……。
――彼らにあやかった……。ところで晩年は、たしか耳が聴こえなくなったのでしたね。
そこまでベートーヴェンにあやかったわけではないでしょう。そういえば、イギリス人のスコットの南極探検を題材にした映画の音楽を、ヴォーン・ウィリアムズが作曲していました。あの壮大な冒険、忍耐を克服する感じ、ラストの悲愴感が、じつにベートーヴェンの感じとピッタリだったんです。その音楽がのちに交響曲第七番にまとめられた。《Sinfonia antarctica(南極交響曲)》と副題がつけられてね……。
――話は変わりますけれども、イギリスの作曲界は、パーセル以後、ながらく不毛の時代が続いた、といわれていますね。
そうですね。イギリスからすぐれた音楽作品が、もっとも多量に生産されたのはエリザベス朝、つまり一六〇〇年という線をまたいだ前後の数十年間です。タリスを先駆者として、バード、ブル、ギボンズ、ダウランド、モーリー……。パーセルはそのほぼ一世紀あとに孤立した形で出た人ですが、これが依然としてイギリス最高の天才じゃないかしら……。それからずっと二世紀間不毛で、エルガーが出ました。彼はイギリスでは作曲界にルネサンスをもたらした人とされています。
ヴォーン・ウィリアムズはエルガーといくつ違うのかというと、一五歳年下です。その間にドイツ系のディーリアスが出ています。そして、そのあとウォルトンはじめいろいろな人が出て、ついにブリテンまできて、エルガーにはじまったイギリス作曲界のルネサンスは打ち止めになるのじゃないか、と思います。ブリテンとほぼ同じ世代のサールやフリッカーのあとは続かないようです。
つまり今日のイギリス作曲界には、ロイド=ウェッバーのようなミュージカル系の作曲家を除けば、前衛にしろ保守にしろ、それなりに評価の高い若い世代というものが、ほとんどいないと言えるのではないでしょうか。
――いまブリテンやウォルトンの名が挙げられましたけれども、ヴォーン・ウィリアムズは、彼らに比べてどうなんでしょうか。
ブリテンはたしかに才人ですが、彼の名声は多分に、その通俗性の上に築かれているので、あと一〇〇年たってみれば、ヴォーン・ウィリアムズとウォルトンとブリテンのうち、誰の作品がいちばん高く評価され、いちばん生き残っているか分かりませんよ、私はそう思います。
――ヴォーン・ウィリアムズがタリスをテーマに作った幻想曲《グリーンスリーヴス》というのも、エリザベス王朝期に広く歌われたものだということですね。それで、タリスの生まれた日なんかは、はっきり分かっているのですか。
タリスが生まれたのはレスターシャーで一五〇五年頃、死んだのはグリニッチで、そのせいか一五八五年一一月二三日と日付まではっきりしています。
つまり、タリスはエリザベス王朝の一つ前のチューダー王朝の時から王室の礼拝堂と関係がありました。のちには王室オルガニストになったり、楽譜の出版権を女王から授かるのですがね……。
ところでタリスが三〇歳くらいの働き盛りの時に、例のヘンリー八世による英国国教会の分離独立ということが起こり、当然、新しい礼拝音楽の作曲の仕事を山と引き受けることになりました。「イギリス教会音楽の父」という呼び名は、タリスにとっていわば運命的なものだったわけです。
――なるほど……。すると、ヴォーン・ウィリアムズのこの曲の主題も、やはり教会音楽なんでしょうか。
讃美歌か何かによるものでしょう。教会調なんですね。主音をg(ト)に移調したフリジア調です。
――イギリスの作曲家を論じる場合、よく「イギリス的な……」という言葉が使われるんですが……。この場合、どうも、良くいえば中庸、穏健、悪くいえば個性的なものに欠けるといったニュアンスがあるように思うんですけれども。
そう、あなたの言われる通りでしょう。イギリスでは音楽は個性の表現であるよりは、お客さんを楽しませるためにある、と言えましょう。大陸ではフランス音楽に、その要素がありますが、イギリスほどではありません。
●グローヴス指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団〈89〉(RPO)
ラフマニノフ
Sergei Rakhmaninov
(ロシア)
1873〜1943
交響曲 第二番 ホ短調 作品二七
ラルゴ―アレグロ・モデラート
アレグロ・モルト
アダージョ
アレグロ・ヴィヴァーチェ
帝政ロシアの雰囲気を伝える古典形式の交響曲
――ラフマニノフの二番というと、私はすぐピアノ協奏曲のことを思い出すのですが……。
そうですね。ピアノ協奏曲の二番は圧倒的にポピュラーだから。あれは映画の影響も大きいでしょう。私はラフマニノフの交響曲第二番というと、終戦直後の進駐軍放送、あの午後二時から始まるクラシック・アワーを思い出します。あの時間に、じつにこの曲をよくやっていました。
つまり、ラフマニノフは帝政ロシアの貴族的雰囲気を身につけた作曲家で、実際貴族の出身なんですが、革命で亡命したんです。彼はアメリカに亡命したわけだけれど、アメリカには同じような人々がわんさといるわけです。
演奏家だけを考えてもハイフェッツ、ピアティゴルスキー、ホロヴィッツ、クーセヴィツキー……。だからアメリカにはラフマニノフのファンが大勢いて、おそらくソ連やヨーロッパ諸国よりもアメリカのほうが、ラフマニノフの演奏頻度は多かったと思います。良き昔の帝政時代の気分にひたろうというロシア人たちが、ラフマニノフだのスクリャービンだのを大いに聴きたがるのです。
――なるほど、郷愁を感じるわけですね。ところで、ラフマニノフは、交響曲をいくつ書いたんでしたっけ……。
三つですね。第二番にくらべると、あとの二つはあまり演奏されません。
――革命まえに書かれたわけですから、もちろんロシアで完成したのでしょうね。
いや、ところがそうではないのです。この前後三年ほど彼はドイツのドレスデンに住んでいて、そこで作曲したのです。スクリャービンもそうだけど当時のロシアの貴族は、しょっちゅうヨーロッパに滞在して、好きな所で好きなように暮していたんじゃないですか。時期としては日露戦争のすぐあとの頃です。
――アメリカへ行く、だいぶまえのことですね。
むろんアメリカへ行く前です。彼がアメリカへ行ったのはドレスデン時代の一〇年ほどあと、つまり第一次大戦末期に起った革命の、その翌年のことですもの。しかし、晩年ソ連政府はしきりにラフマニノフに祖国帰還を呼びかけたのです。
――プロコフィエフもそうでしたね。それで実際に帰国したのですか。
いや、していません。彼も帰国する気にはなったのですが、そうした矢先に第二次大戦が起こるし、病気になるしで実現しないうちに死んでしまったのです。
――一九四三年でしたね。それにしても私には、どうもラフマニノフの時代感覚というものが、よくつかめないのですが……。新しいところもあるんでしょうけれど、ひどく古臭い音楽に感じるときがあるんです。
この曲の作曲された一九〇六年から一九〇七年という時期に、ヨーロッパ中央部の大作曲家の中で、こういう古典形式の交響曲を書いていた人はいませんでした。ウィーンではマーラーが《千人の交響曲》、つまり声楽入りの第八番という型破りの大曲を書く一方、シェーンベルクは一五人編成の室内交響曲第一番を書いていました。旧世代も新世代もそれなりに横紙やぶりを試みていたわけです。リヒャルト・シュトラウスでいえば《家庭交響曲》と《アルプス交響曲》の間の時期だし、スクリャービンでさえ、ちょうど《法悦の詩》という標題のついた交響曲第四番を仕上げていました。だからまあラフマニノフは、当時としては保守派の横綱格ですよ。
――でもこの曲はコンクールで一等になったんでしょう。
そうなんです。一九〇八年にペテルスブルグでグリンカ賞の第一位を、今いったスクリャービンの《法悦の詩》と争って、このラフマニノフの第二番のほうが勝ったのです。《法悦の詩》は例のスクリャービン特有の神秘和音を使ったり、全体を一楽章形式にしたり、ずっと斬新なんだけれど、とかくコンクールというものは堅実第一主義のほうが上位にいくから、ラフマニノフの特賞は当然でしょう。このほうがずっと大曲で力作という感じがするし。
――楽譜だって分厚いですしね。でも、あまり大作なので、カットしてもいいとか……。
何しろ全曲やると一時間を超すのでしょう。それでラフマニノフ自身、カットしていい場所を指定しているのです。いったい、日本人は潔癖というか完全主義というか、ノーカット至上主義のきらいがあると思うのです。
向うでは、作品は演奏者がお客さんを楽しませる素材であって、必要とあればカットしたり手を加えたりすることも遠慮しないんです。それが指揮者の仕事とさえ考えているのじゃないのでしょうか。まあハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなど古典は絶対に原作尊重主義でいくけど、スラヴやフランスの音楽は手を加えることがあり得るんです。オペラはもちろんのことです。
――ピアノ協奏曲第二番の解説でよくいわれることですけど、ラフマニノフは、ひどい神経衰弱にかかってそれを直すために、何とかいう博士が「協奏曲を書け」という一種の暗示療法をやったという話がありますね。とすると、このラフマニノフという人は、そんなに神経の細い人だったのでしょうか。
リストばりの大ピアニストだったのだから、定めし神経の太い人かと思うとそうではなかったようです。あなたが言われたように、交響曲第一番の不評でひどいノイローゼにかかってしまい、何とかいうモスクワの名医のおかげでやっと助かるのでした。この交響曲第二番のすぐあと、ベックリンの不気味な絵によせた《死の島》という交響詩を作曲しているけれど、どうも彼は憂鬱質なんじゃないかしら。
彼がアメリカへ行ってからの話ですが、かつて何かのチャリティー・コンサートでハイフェッツが半ズボンで奏いたり、名テナーが「ハバネラ」を歌ったりして、みんなが楽しくやっている最中に、ラフマニノフは、音楽で悪ふざけするもんじゃないとか何とかいって、席をけって帰ってしまったというんです。きっと古風な、きまじめなタイプの人だったんでしょう。
●プレヴィン指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団〈85〉(テラーク○D)
交響的舞曲 作品四五
ノン・アレグロ
アンダンテ・コン・モート(テンポ・ディ・ヴァルス)
レント・アッサイ―アレグロ・ヴィヴァーチェ
晩年の懐疑的心情とペシミズムが織りなす三部曲
――ラフマニノフの交響的舞曲というのは、彼の亡命中の作品ですか。
これはラフマニノフのいちばん最後の作品じゃなかったですか。一九四〇年作の作品四五というのですから。むろんアメリカ亡命中の作品です。一九四二年のはじめに彼はロスアンジェルスのビヴァリー・ヒルズに新居を構えているから、はたしてソ連に復帰するつもりになっていたのかどうか。アメリカに渡ったのは革命直後の一九一八年ですから。健康も害していたし、アメリカでの安定した生活から動きたくなかったこともあるでしょう。プロコフィエフはパリからソ連に復帰しておりますが。
――ラフマニノフは、かなり不思議な人だと思いますね。というのは、彼のピアノの演奏、あれは、ただレコードで聴いた限りでも豪快きわまりないでしょう。かと思うと、神経衰弱にかかっているし……。
この人は父方の祖父が、すでにジョン・フィールドの弟子の大ピアニスト兼作曲家、父親も同じくで、彼でピアニスト三代目なんです。しかし、われわれがSPレコードで聞いた豪快なピアノは、むろんノイローゼを克服したあとのです。彼の病気がひどかったのはずっと若い頃の、世紀の変わり目頃でしょう。ピアノ協奏曲第二番は、もう立ち直ってからの作品ですから。
――そのピアノ協奏曲第二番が、なんといっても有名ですね。
そうですね。「逢いびき」の映画で、この曲がバックにずっと流れていたのを覚えていらっしゃる方もあるでしょう。ラフマニノフという人はたいへんなピアノの名手でしたから、ピアノ協奏曲を四曲とピアノとオーケストラによる《パガニーニの主題による狂詩曲》を一つ書いています。ロシアのリストといったらいいのか、帝政時代の貴族社会のサロン音楽の雰囲気を映したピアノの小品がたくさんあるし、交響曲のような大作もあるんです。
ラフマニノフは和声も、ピアノの書法も形式も複雑で西欧的です。三代目ともなればそれが当然でしょう。初期のオペラ《アレコ》というのは、とくにチャイコフスキーふうだと言われていますが……。
しかし、チャイコフスキーのほうがもっとロシア的・大衆的です。たんにスタイルが古いからでなしに、本質的に、ラフマニノフもずいぶん通俗的だけれど、それは音楽鑑賞家のサークル内での話でしょう。チャイコフスキーはその枠からはみ出てます。だから、チャイコフスキーはナニワブシであると言って大嫌いな人が少なくないでしょうが、ラフマニノフが嫌いという人はいないでしょう。
――モスクワ音楽院で同じような教育を受けた同年代のスクリャービンと比べてみると、ラフマニノフとスクリャービン二人の音楽は、ひじょうに作曲の方向が違っていておもしろいですね。
スクリャービンのほうは、四〇歳ぐらいで亡くなっていますが、ヨーロッパの新しい音楽感覚や当時流行した神秘思想のようなものに影響されて、未来を向いた音楽を書いたわけです。ラフマニノフの場合は、もっとロシアの大地に根をおろしていて、民謡や東方教会の典礼の宗教音楽に近いですから、彼の音楽は、早くから人びとに親しまれ、さかんに演奏されるようになったわけです。
しかし、彼の交響詩《死の島》などは、鬼気せまる不思議な世界を表現した繊細で敏感な世紀末的芸術だと思います。それはスクリャービンやシェーンベルクの初期の作品などにも近い、つまりは時代様式をあらわしているわけですけれども、ラフマニノフの場合はそういうものはむしろ例外であって、彼はもっと普通の、多くの人にアピールする、ロマン派的な音楽を目指していました。そういうところにかえって、若いある時期に大きく悩み苦しむ原因が、あったんじゃないかと思います。それを結局、彼は克服したのですが。
――ところで、この交響的舞曲は、いくつかの舞曲から成っているわけですね。
ええ、三つの舞曲から成っています。しかし、ブラームスの《ハンガリー舞曲集》や、ドヴォルザークの《スラヴ舞曲集》に類する作品とはいえないようです。バクストの『ロシア・ソヴィエト音楽史』(森田稔訳、一九七一年、音楽之友社)によると、そんなものじゃないようです。さっきも触れましたが、彼の初期の交響詩に《死の島》(一九〇九)という、ベックリンの不気味な絵にもとづく曲がありますが、その続篇みたいなものです。
三つの舞曲は「真昼・たそがれ・深夜」となっているのですが、真昼の第一楽章にも葬送音楽ふうの所があり、また交響曲第一番からの引用が遠い過去を回想させるように響き、第二楽章も悶々たるワルツ、第三楽章ではグレゴリアン・チャントの死者ミサの〈怒りの日〉Dies Iraeの旋律がデフォルメされて出てきます。ともかく彼の晩年の懐疑的な心とペシミズムをあらわしている曲です。
オネゲルも晩年に暗い曲を書いていますが、一九四〇年というと第二次大戦の二年目で、連合国側にとっては暗澹たる日々でしたから、アメリカに亡命していたラフマニノフにとっては、そうなるのも無理はないといえるでしょう。
●デュトワ指揮 フィラデルフィア管弦楽団〈90〉(ロンドン○D)
レーガー
Max Reger
(ドイツ)
1873〜1916
祖国への序曲 作品一四〇
三つのドイツ魂の権化をまとめた「愛国的序曲」
――レーガーというと、とかく長い変奏曲を書いた作曲家だ、という印象が強いのですけれど……。
オーケストラでは《ヒラーの主題による変奏曲とフーガ》と《モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ》とが双璧をなしているんですが、日本ではあとのほうがよく知られているでしょう。ピアノ曲では《バッハの主題による変奏曲》と《テレマンの主題による変奏曲》とが双璧をなしています。やはり同じようなネオ・バロックふうな作りです。ピアノ曲のうちでは《バッハの主題による変奏曲》のほうが有名です。すごい難曲です。
――音楽史の上で見ると、いつ頃の人と言えばよいのでしょうか?
一八七三年生まれだから、ドビュッシーやリヒャルト・シュトラウスのワン・ジェネレーション下です。同じジェネレーションの中ではスクリャービンの一つ下、シェーンベルクの一つ上。また作風の上ではドイツのプロテスタントの伝統の人で、ブラームスとヒンデミットをつなぐ人です。
しかし、わずか四三歳で一九一六年に死んでしまった。それなのに作品の数はひじょうに多いんです。同時にいくつもの机でいくつもの曲を作曲していたなんてエピソードもあるくらい……。インクが乾く間に別のを書くというんです。机を次々と移っていったというのですがね。彼は音楽理論家で大きな辞典の編集者だったフーゴー・リーマンのお弟子なんです。がむしゃらな仕事ぶりはたしかに似ているでしょう。バロックふうのスタイルも先生の影響かもしれません。
――ものの本によりますと、彼は医学博士の称号を受けたそうですね。それにしては、若死したけれど……。
なるほど、リーマンの音楽辞典の新しい版には、さすがにレーガーの項がくわしく出ているけれど、たしかに一九〇八年にイェナ大学から名誉哲学博士号を、一九一〇年にベルリン大学から名誉医学博士号を貰っているのです。
もしかすると、哲学博士が二つ重なるのであとのほうはやむを得ず医学で出したんじゃないかしら……。どっちみちいわゆるh. c.つまりhonoris causaで、名誉的な称号ですよ。医学を学んだというのでは全くありません。
――ところでレーガーは「バッハの再来」と言われたのでしょう?
オルガン曲やカンタータは、バッハとならんでドイツの教会ではよく演奏しています、現実に。和声はロマン的だけれども、線的な書法やリズムは多分にバッハふうなところがあります。けれど、《祖国への序曲》は、そういう面はあまり強いとは言えません。この曲は新響時代の初期にたびたび演奏しているのです。近衞秀麿さんが昭和二年六月の第一二回、同年一一月の第一七回、昭和八年の第一二七回と定期演奏会だけで三回もやっています。
第一次大戦初期にレーガーが祖国愛に燃えて書き上げた曲でしょう。英仏訳では《愛国的序曲》となっています。まあ内容的にはシベリウスの《フィンランディア》のドイツ版でしょうか? 形式的にはブラームスの《大学祝典序曲》やヒンデミットの《ウェーバーの主題による交響的変容》の仲間と言えましょう。三つのよく知られた旋律のシンフォニックなメドレーですね。いわば……。
――なるほど。だいたい曲の内容は分かりました。それで、三つのメロディーというのは、どういうものですか?
その三つのメロディーは有名なるハイドン作曲のドイツ国歌と、これもかの有名なるプロテスタント・コラールの〈わが神は堅固なる城〉と国民歌ふうの〈私は祖国に身を捧げた〉で、まあドイツ魂の権化が三つ寄り集まった観がありますねえ。しかし、レーガーはじゅうぶん芸術的な手法で取り扱っている、とレクラム文庫の『演奏会案内』の著者は書いています。
シェーンベルク
Arnold Sch嗜berg
(オーストリア→アメリカ)
1874〜1951
浄められた夜(弦楽合奏版)作品四
グラーヴェ
モルト・ラレッタンド
ア・テンポ
アダージョ
アダージョ
デーメルの詩に作曲、印象派の音の感じを導入
――シェーンベルクは、一九五一年にロスアンジェルスで死んだのですね。生まれは、たしか、ウィーンでしょう?
そうです。ウィーン生まれのユダヤ人で、ヒトラーのナチが政権をとって間もない一九三〇年代前半に、他の多くのユダヤ人と共にアメリカに移住し、帰化したのです。
――いわゆる一二音音楽の大立物として、私たちは考えておりますが……。《浄められた夜》は、作品四ですね。ということは、ずいぶん若いころの作品ですか。
この曲はちょうど世紀の変わり目に生まれたのです。一八九九年に書いて、発表されたのが一九〇三年ですから。シェーンベルク二五歳の作品ということになります。それにしてはずいぶん老成した感じの曲ですが……。どっちにしても一二音技法の生まれる、はるか以前のものですが。
――たしか、オリジナルは室内楽でしたね。ということは、つまり、交響詩の室内楽版ということですか?
そうです。オリジナルは弦楽六重奏です。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ各々二人ずつの六重奏というのはブラームスに二曲ありますが、一八〜一九世紀を通じては、割に珍しい編成です。しかし、エリザベス朝のイギリスでは、トレブル・ヴァイオル二、テナー・ヴァイオル二、ベース・ヴァイオル二の六重奏が室内楽の標準編成で、これをホール・コンソート、つまり「完全な合奏」と呼んだんです。
ベルリオーズやリストは、オーケストラで交響詩を書いたのですが、シェーンベルクはそれをもっと緻密な書法を許す室内楽で書いた、というわけでしょう。その場合、弦楽四重奏じゃ声部が足りないので、いにしえの「完全な合奏」の形を借りたのでしょう。しかし、六重奏よりも弦楽合奏でやったほうが音の拡がりやダイナミックスの点ですぐれていることはたしかです。アレンジには一九一七年のと一九四三年のと二つの版があるのですが……。
――ところで、《浄められた夜》 って、いったいどういうことなんですか?
リヒャルト・デーメルの詩がこの曲のもとになっているのですが、メVerkl較te Nachtモという言葉が、そっくり詩の中に出てくるわけではありません。雲一つない、月の光が皎々と照り輝く、あくまで明るい夜、そしてメDie wird das fremde Kind verkl較enモつまり「他人の子供を浄化する」というくだりに、メverkl較enモという言葉が出てくるのですがね……。
――そのデーメルの詩について、もうすこし説明して下さいませんか。
短く言うと、つまり月光の下、男女二人が林の中を歩みながら、女が母性への本能に敗けて愛のない男の子供を宿してしまったことを、愛する男に告白する。そうするとその男は、われら二人の情熱が、その他人の子供をも、またそれを宿したという事実をも浄化するだろうと答える、まあそういったものです。ちょっと甘ったるいワーグナーみたいですが、しかし、ワーグナーの救済のモチーフとは少しちがいます。
――とすると、この《浄められた夜》という日本語は、どうでしょうね。
たしかローゼンシュトックが、はじめて新交響楽団の常任指揮者になった最初の定期演奏会(註:昭和一一年九月三〇日、第一七〇回定期)で、この曲が本邦初演されたのですが、その時は《輝く夜》で、当時のレコードもそうでした。その後は長く《浄夜》が使われていました。それから、私はヴェルレーヌの「あかるい夜」という詩、フォーレが〈優しき歌〉の中ですばらしい曲をつけている「白い月が、枝にやさしく口づけして……」の情景描写と、この詩はじつにそっくりだと思うのです。じつに官能的な雰囲気です。デーメルのほうがより劇的で、それだけ野暮ったいとも言えるけど……。
――デーメルとヴェルレーヌというのは、時代的に近いのですか。
ええとヴェルレーヌの詩は一八七〇年、デーメルは一八九六年の刊ですが、《浄夜》はほとんどヴェルレーヌの「あかるい夜」の翻案というに近い、と思います。音楽はその詩の内容にひじょうに忠実です。その点、シュトラウスの交響詩と同じ時代精神の産物という感じがします。
――とにかく官能的で、ロマンティックで……。
そうなんです。しかし、その場合たんにワーグナーの半音階的手法の延長というだけじゃなしに、ヴェルレーヌの象徴主義がデーメルに影響したのと並行的に、フランスふうの印象派の音の感じを、シェーンベルクはこの曲に多分に持ち込んでいることに注目したいと思うのです。むせかえるような官能的な音色は、もともとゲルマンのものではありません。しかし、ドイツ音楽は昔から、音楽史の曲り角に立つたびにフランスの感覚を養分としてとり入れているのです。
●カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団〈73〉(グラモフォン)
弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲(ヘンデル原曲)
ラルゴ―アレグロ
ラルゴ
アレグレット・グラツィオーソ
ホーンパイプ、モデラート
古典を換骨奪胎、時代を反映した興味深い曲
――基本的な質問ですが、これは、いわゆる「編曲もの」といって良いのでしょうか。
日本の音楽用語は明治・大正時代に便宜的につけられたものがいまだに残っていて、「編曲」なんて言葉も、アレンジメント、パラフレーズ、メタモルフォーズ、オーケストレーション、ハーモニゼーション、リヴァイズなど、いろんな場合をみんな編曲で間に合わせているので、今やかえって不便になっているんです。この曲のような場合は、まずシェーンベルクのつけた原題に当ってみる必要があると思います。
これはニューヨークのシャーマー出版社刊行なのに、ドイツ語で書かれているのですが、《弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲》までは全部大文字、つづいてその形容句は小文字をまぜて「G・F・ヘンデルの合奏協奏曲作品六の第七番にもとづき、アルノルト・シェーンベルクにより自由に改変された」となっています。
――なるほど「自由な改変」というのが、ミソですね。
そうです。メin freier Umgestaltung von Arnold Sch嗜bergモで、つまりこれは思いのまま作りかえたという意味です。言葉としては「自由なメタモルフォーゼ」というのと、ほぼ同じじゃないでしょうか。そうなると「編曲」より「変容」という慣用語のほうが近いかもしれません。
結局はUmgestaltungというよりしょうがないのですが、要するに、造形し直した、形をつけ直した……いわば、換骨奪胎です。昔から中国でも西洋でも文学の世界じゃ、このことがよく行われたんです。内容は古人の名作からいただいて、表現形式は今ふうに作りかえてしまう……。
――とすると、この曲において、ヘンデルの原曲というものは、素材を提供しているに過ぎない、ということになりましょうか。それにしても、シェーンベルクが、こうした作品を書くというのは、ちょっと不思議な気がします。シェーンベルクは、ほかにもこうした「自由に改変した」作品を書いているんですか。
この協奏曲はシェーンベルクとしては、ひじょうに特殊なもののように見えるでしょう? ところが案外なことにシェーンベルクには、その仲間が少なくないのです。バッハのオルガンのための前奏曲とフーガ(変ホ長調)を大編成のオーケストラに直した曲、ブラームスのピアノ四重奏曲第一番(ト短調、作品二五)をオーケストラに直した曲、G・M・モンという前古典派の作曲家のチェンバロ協奏曲をチェロ協奏曲にやはり自由に作りかえた曲、と数年以内につづけさまに書いてきて、その系列の最後にこの《弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲》がくるのです。
――いうまでもなく、それには何らかの理由があるわけでしょうね。
どうしてこのような系列が生まれたか、それには二つの理由が考えられると思うのです。一つは、シェーンベルクは一九二一年に一二音技法を使いはじめてから、その技法によってピアノ曲では五つのピアノ曲(作品二三―五)と組曲(作品二五)、室内楽ではセレナード(作品二四)や五重奏曲(作品二六)と組曲(作品二九)、合唱曲では四つの混声合唱曲(作品二七)と風刺(作品二八)、オーケストラでは管弦楽のための変奏曲(作品三一)、オペラでは《今日から明日まで》(作品三二)と《モーゼとアロン》というように、一二音技法をじつに計画的に着々といろんな曲種に応用していきました。
つまり初期のアカデミックな一二音技法は、そこで一応展開されつくして、次のことを考えている間ちょっと方向のちがうこと、つまり古典の再吟味をやってみたということが一つです。
もう一つは一九三〇年にナチが第一党になって以来、ドイツでは反前衛的な気分がたかまり、一九三三年にナチがいよいよ天下をとると同時に、ベルリンで教職にあったシェーンベルクは、直ちに国外追放を喰ったわけです。こうした政情不安の時期には、オリジナルの作品より古典の編曲のほうが出版や上演がされやすかったにちがいないからです。
――つまり、パン代を稼ぐためですね。
そのとおりです。現にモンの曲を編曲したチェロ協奏曲は、パブロ・カザルスに捧げられているのですが、シェーンベルクが名演奏家に捧げた曲なんて、後にも先にもこれだけでしょう。
――それにしても、原曲が、そうしたポリフォニックな作品である以上、改変にあたってもやはり声部の処理などが、いちばんの問題になるわけでしょうね。
私がこの曲でおもしろいと思うのは、第一楽章はほとんど原作通り、ただオーケストレーションが原作とちがうだけです。カデンツァを除いてね。第二楽章では原作にない対位法が加わったりして、いくらか複雑になっています。第三楽章にくると全体が移調された上に、曲想もあちこち原作とちがっています。第四楽章がフィナーレですが、これはもう寸法も原作の二倍以上になっているばかりでなく、ヘンデルのモチーフを借りた新曲といったほうが早いでしょう。
――はじめは処女のごとく後には脱兎のごとし。
そうそう、あれは孫子の兵法でしたか、あの諺の通りなんですよ。ひとつには、これはさっきのバッハ、ブラームス、モンの系列のくりかえしなんです。つまり最初のバッハは、たんなるオーケストレーションだし、最後のモンはまるで換骨奪胎なんですね。だから数年間に経験した型を、この一曲の中で実現してみたということ、もう一つには、シェーンベルクがベルリンで、この曲の第一楽章を書き上げたのが一九三三年五月一〇日、第二楽章が同じく一二日、ところがその月の三〇日に、シェーンベルクとフランツ・シュレーカーは、プロシア文化相の名で教職と一切の芸術活動の停止を、命ぜられるという緊迫した時期だったということです。
ナチがユダヤ人音楽家へ行った最初の追放令だったのですが、彼はすぐ家族とフランスに逃れ、七月にはパリでプロテスタントからユダヤ教に改宗しています。つまりナチに対する態度をはっきりさせたわけです。
こうした彼の生涯にとっての激動の日々に、第三、第四楽章と進められ、八月一六日にフィナーレの〈ホーンパイプ〉の章に終止符が打たれたのはボルドー近郊、ビスケー湾にのぞむアルカションという町の寓居においてだったのです。何か曲想の変化が、作曲中の彼の心の状態を写しているようにも思えるのです。とにかくいろんな点で興味のつきない作品といえます。
――この曲、演奏はむずかしいのでしょうか。
演奏がむずかしいかどうか、ということは常に大へんむずかしい質問ですが、シェーンベルクの一二音による室内楽や、このすぐあとに書かれたやはり一二音のヴァイオリン協奏曲の独奏パートみたいな技巧上のむずかしさはここにはない、と言えるでしょう。さっきのモンの曲を編曲したチェロ協奏曲、つまり《弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲》のすぐ前の作品ですが、その初演はフォイアマンがロンドンでやったのです。その直後フォイアマンは日本にきました。そして座談会かインタヴューで「シェーンベルクの新作は随所に新しいテクニックがある」と、表現ゆたかに語っていたのを憶えています。
――フォイアマンといえば、テクニシャンとして鳴らした人でしょう。
ええ、それだけに思いやられるわけですが、それに比べてもこの《弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲》のほうはテクニカルには困難な問題はあまりないと思います。しかし、むろん四人の合奏、そして四人とオーケストラとの合奏という新しい問題を克服せねばなりません。それはむろんやさしいことではないはずです。
●シュワルツ指揮 ロンドン市立交響楽団〈外盤〉(ヴァージン・クラシックス)
ラヴェル
Maurice Ravel
(フランス)
1875〜1937
《ダフニスとクロエ》第二組曲
夜明け
無言劇
全員の踊り
精妙なオーケストレーション、豊麗な響き
――まず、これはいつ頃の作品ですか。
年代としては第一次大戦直前の時期です。この第一次大戦前の数年間というのは、いろいろな傑作が生まれた時期で、ストラヴィンスキーのバレエ音楽《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》、シェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》、年長の世代ではドビュッシーの《前奏曲集》など……。とにかく良き時代だったのです。ディアギレフがパリへきてバレエ・リュスの旗上げをしたのが一九〇九年ですが、ディアギレフも、ちょうど良い時に仕事を始めたものです。
ラヴェルに頼んだのはディアギレフです。《ダフニスとクロエ》は一九〇九年から一二年までかかって作曲され、一二年にレオン・バクストの装置とフォーキンの振付けでパリで上演されています。その時の指揮はモントゥーじゃないかしら。当時の若きモントゥーはディアギレフ一座の専属指揮者で、《春の祭典》も彼が初演していますから。
――ディアギレフという人は、ずいぶんいろいろな人に作曲を頼んでいるのですね。
大興行師だったと同時に、いま申し上げたように作曲界の上げ潮にうまく乗ったという点で、大へん幸運な人でもありました。これはひじょうに彼の成功の上に大きなファクターとなっています。ストラヴィンスキー、ラヴェル、プロコフィエフ、ファリャ……、その他大勢に書かせているでしょう。
――それにしても、作曲家を選ぶ眼は、たいしたものですね。それで、この《ダフニスとクロエ》はラヴェルの生涯のうちの、どんな時期に書かれたものですか。
まあ生涯での絶頂期といっていいんじゃないでしょうか。言いかえるなら、彼の印象主義の時代と新古典主義の作風との交点にあって、ひときわ創造精神の高揚した時期ですね。年齢としては三四歳から三七歳にかけてでしょうか。それまでには、ピアノ曲や、オペラ《スペインの時》、バレエ《マ・メール・ロア》などが書かれ、《ダフニスとクロエ》のあとやや中だるみの時期がきて、また最晩年になって新古典主義的になり切った二つのピアノ協奏曲などで最後の輝きを見せるのですがね……。《ボレロ》はその中だるみの最低のところで生まれたわけです。
――これは、手きびしい……。ところで《ダフニスとクロエ》の原作は、ずいぶん古いものだそうですね。
これはギリシャ語で書かれた散文ですが、作者のロンゴスは三世紀頃のローマの人なんです。もっとも、いろいろ正体の不明な点があるらしいけれど。内容はレスボスの島を舞台にした牧人の恋物語です。だから物語の時代は紀元前三、四世紀ということになるでしょう。
台本は振付師のフォーキンが適当にシナリオを作ったのではないかしら。この物語はフランスでは広く読まれていました。しかし、このシナリオは原作とはかなりちがうのです。
――こんな美しい曲ですからディアギレフは、きっと気に入ったのでしょうね。
いや、ディアギレフはラヴェルの音楽を好かなかったという話です。というより、あまりデリケートなセンスのなかった人ではないかしら。《春の祭典》みたいなショッキングな音楽なら一騒ぎ起こせそうだが、といった興行師的なカンは鋭敏だったでしょうがね。
――それでバレエの初演の反響はどうだったのでしょうか。
これは思わしくなかったようです。それに「組曲」の形としても。しかし、オネゲルの自伝によると、あるときシャルル・ミュンシュがじつに見事に指揮をして以来、パリの指揮者とオーケストラが、われもわれもととり上げるようになったのだそうです。
――ラヴェルは、この曲について「きわめて厳格な調性上の計画にもとづき、いくつかの主題からなる交響曲のような構成を持っている……」といっているそうです。
ええ、だいたいfis(嬰へ短調)とかh(ロ短調)とかシャープ二つ、三つの短調で統一されているようですが、ラヴェルはスイス人の機械技師だった父親ゆずりの、非常に精巧な仕上げを好む性癖をもっていたわけで、それはオーケストレーションの精妙な響きに対しては、ひじょうなプラスだけれど、バレエのアクションに対しては少しもプラスにならないんじゃありませんかねえ。少なくともストラヴィンスキーの、荒けずりのオーケストレーションから出てくるヴァイタリティーのまさに対極ですよ。ですから、《ダフニスとクロエ》も《ラ・ヴァルス》も、踊るためというより、コンサート・ホールでのオーケストラの名人芸に、はるかにふさわしい音楽と言えるんじゃありませんか。
――ええ、私も、そう思います。ところで、第二組曲というのは、バレエ全曲の第三部、つまり最後の部分にあたるのでしたね。
ええと、あまりバレエの筋がピンとこないのでよく知りませんが……。そうですね、第一組曲が第一場と第二場から取られ、第二組曲は第三場だそうです。
――私は、ミュンシュがボストンを指揮した東京公演の輝かしい音を思い出しますよ。
まあ、一〇〇人あまりのオーケストラをフルに使って、過飽和ともいうべき音響を鳴らした人は、フランスではラヴェル、ドイツではリヒャルト・シュトラウスで、このあとの作曲家のイメージには、こういう実体のある豊麗な音はなくなってしまったのです。その点では第一次大戦前夜が絶頂期です。そのあとはもっと鋭い、瘠せた、音域としても極端な音とか激しい音が求められるようになりましたからね。
――良き時代よ、さらば! ですか。さてラヴェルは、当時としては、ずいぶん進歩的な人だったわけでしょう? しかし、フォーレに学んだというのはおもしろいですね。
まあ、ラヴェルが進歩的と言えるとしたら、オーケストレーションの面が第一でしょう。彼の最大の特徴は飽くことなく彫琢を加えた、精緻な仕上げ、ということじゃないですか。金属の精巧なすかし彫りを見るような、みごとな職人芸です。フォーレからは、彼のラテン的というよりアポロン的な高貴さをたしかに受けついでいますが、むしろフォーレの、芸術への自由な態度から大きく影響されたといえるかもしれません。何しろフォーレはコンセルヴァトワール出身者じゃないから、そこの作曲教授になるときもアンブロワーズ・トーマなどは反対したんです。Faur, Jamais!「フォーレはだめじゃ!」 ってね。しかし、ラヴェルはフォーレよりも、サティみたいな異端者にむしろ興味があったんじゃないかしら。
●プレヴィン指揮 ロスアンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団〈89〉(フィリップス○D)
スペイン狂詩曲
夜へのプレリュード
マラゲーニャ
ハバネラ
祭り
洗練の極致のオーケストレーション
――ラヴェルは、ドビュッシーと、よく関連づけて論じられているようですね。ドビュッシーのほうが、たしか年上?
一三歳ほど年上でしょう。むろん二人はかなり近い存在ではありますが、よく言われるように、印象主義の音楽を二人が担っているような説はおかしいです。中学、高校の教科書では「印象主義の音楽」として二人の肖像がならんでいますが。
――そうそう! 私もずっとそう思っていました。ところでドビュッシーとラヴェルとを分ける、もっとも大きなポイントは?
ドビュッシーは前人未到の作風を、たとえ荒けずりな部分があるとしても、大づかみに作り上げた大天才です。ラヴェルはフォーレからシャブリエまでの、伝統的なフランス音楽の書法を踏まえ、それに新しいドビュッシーの手法をも加味して、あくまで精緻な仕上げの中に彼の個性を発揮させた大秀才といった所じゃないでしょうか。ドビュッシーは二〇世紀の音楽史を変えたけど、ラヴェルの音楽にそんな大それた作用はありません。
――ラヴェルは、新古典主義者だったということですか。
その点には時代様式ということも影響しています。ドビュッシーも一九一二年頃から新古典主義的な面が出てきます。ピアノの一二の練習曲、フルート、ヴィオラとハープのためのソナタなど。しかし、ラヴェルのほうは終始一貫、新古典的です。
――この二人と、例の「六人組」との関係は、どうなっているんですか。
「六人組」は反印象主義的な傾向を、いっそう露骨に押し出しています。そこにサティやストラヴィンスキーの存在がからんでいます。つまり彼らが「六人組」に直接影響しているのですが、さっき言ったようにドビュッシー自身の晩年やラヴェルにも反印象主義的な要素はあったのです。
――ラヴェルが生まれたのは、ピレネー山麓、たしか、スペイン国境に近いところでしたね。
国境からわずか三キロくらいフランスに入った所だそうですね。いわゆる低ピレネーのバスク地方です。お母さんはバスク人だということです。バスク人はスペインに二六五万、フランスに三五万というふうに両国国境にまたがっていて、人種的にはカフカス地方の民族に近いという説があるらしく、ともかくひじょうに特殊な民族なんです。現実にはフランス的よりはスペイン的な感じに近いでしょう。
ところで彼のお父さんはフランス人じゃありません。スイス人なんです。シュトゥッケンシュミットの本(註:H. H. Stuckenschmidt: Maurice Ravel. Translated by Samuel R. Rosenbaum, Chilton Book Company, N. Y. 1966)によると、本来はRavex, Ravet, Ravezなどを用いていたそうで、Ravelはそれらのフランスふうの表現らしい。ともかくお父さんは二衝程の内燃機関、つまり今日のオートバイのエンジンの技術者の草分けの一人ですが、本業を学ぶかたわら、ジュネーヴのコンセルヴァトワールのピアノ科の一等賞をとったという才人なんです。
だから、たとえばフランク・マルタンやエルネスト・アンセルメにも通じるジュネーヴ周辺のスイス・ロマンド人の特質、つまりラテン的で明るく、精巧な精緻なものをあくまで追究し、また古典的な秩序を愛し、感覚として程よい現代性を加味する、という特質をラヴェルも完全に身につけていると思うのです。美しい空と景色、時計のような精密工業が栄え、中世以来戦禍による破壊を知らぬ生活、といったスイスの特質が、ラヴェルの音楽にはじつによく体現されていると思うのです。
もう一つ加えれば、その代り真のオリジナリティーには乏しいということです。だから、さっき申し上げたドビュッシー対ラヴェルの相異点の最も大きいものは、ドビュッシーが生粋のフランス人、しかも数世代にわたるパリっ子であるのに対して、ラヴェルはフランス文化としては辺境の出身ということでしょう。
――彼はずいぶん小さなときに、パリに出たんでしょう?
育ちの上じゃパリジャンですよ。モンマルトルに近い所で育ったといいますから。しかし、スイス・ロマンドの父親とバスクの母親ということは、ラヴェルの音楽をフランス音楽史の中で位置づける上で大きなファクターだと思います。それにしてもサティは母親がスコットランド人、オネゲルはチューリヒ、つまりドイツ語圏のスイス人、ミヨーはユダヤ人、メシアンのお父さんはフランドル出身、ということはフランス近代音楽には意外とフランス以外の血が混っていることを意味します。
――彼の作品には、スペインに題材を求めたものが少なくありませんね。これも、彼の体内を流れるスペインの血のせいだという解説を、よく目にしますけど……。
ええ、お母さんの生まれた所も、ラヴェルが生まれたと同じフランスのバスク地方のシーブルという所らしいけれど、両親が知り合ったのはスペイン中部だそうです。そして結婚直後に、彼女の伯母さんのいたシーブルに移りました。彼女は一年後にラヴェルをお産するのにスペインに行きたがったといいますから、おそらく母親はスペイン中部のどこかの町を第二の故郷と思っていたのでしょう。ところがパスポートをとるのが厄介でそれができず、とうとうフランス領内のシーブルでラヴェルを生んだ、というのです。だから、もし、その時仮りにパスポートが簡単におりていたら、ラヴェルはファリャみたいにスペインの作曲家になっていたかもしれません。
ともかく、この《スペイン狂詩曲》のほかにも、オペラ《スペインの時》のような大作から《亡き王女のためのパヴァーヌ》《ハバネラ》《ボレロ》など、スペインふうの曲がラヴェルには非常に多いです。《道化師の朝の歌》だってそうです。
――作曲の素材としても格好のものなんでしょうね。最後にひとつ、この《スペイン狂詩曲》は、たしか、いくつかの部分にわかれていましたね。
そうです。〈夜へのプレリュード〉〈マラゲーニャ〉〈ハバネラ〉〈祭り〉の四つの楽章です。一九〇七年の作。何と言っても、オーケストラの使い方はうまいもので、一つの極致です。洗練の極致です。これに比べればこの時代のストラヴィンスキーなど、じつに不器用で、荒っ削りなもんです。
●ジュリーニ指揮 ロスアンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団〈79〉(グラモフォン)
ファリャ
Manuel de Falla
(スペイン)
1876〜1946
舞踊組曲《三角帽子》
序奏〜午後
粉屋の女房の踊り
市長の踊り
粉屋の女房
ぶどう(以上、第一組曲)
近所の人たちの踊り
粉屋の踊り
終幕の踊り(以上、第二組曲)
アンダルシアの民話、パントマイムにつけた音楽
――《三角帽子》というのは、市長だか、代官だかが、かぶっているのでしたね。
そうです。大きなソンブレロですが、三角というより三角(つの)なんですね、じっさいには。
――この題材を選んだのもディアギレフですか。
いや、これは一九一七年に「市長と粉屋の女」というpantomimic farce、要するに喜劇的パントマイムとして、作曲家でもあるホアキン・トゥリーナの指揮で四月七日、マドリッドで上演されたものなのです。その上演をたまたまマドリッドで公演していたディアギレフが見たのです。
すでにファリャのバレエ《恋は魔術師》が成功作なのを知っていたので、ディアギレフはこのパントマイムをバレエで上演したいと思って、ファリャに音楽をバレエ向きに直して貰うように頼んだのです。
この両者がどのくらい似ているのか、ちがうのか、スコアを比べて見ないと分かりません。私も原作のパントマイムは全然知りません。アラルコンの小説によるものと言われていますが。アラルコンはセルヴァンテスみたいな古い人とちがって一九世紀の人ですが、この物語そのものは古いロマンセだそうです。
――それじゃ、この話は、ずいぶん昔から知られていたわけですね。
まあ民話なんでしょう。木下順二の『赤い陣羽織』が同じオリジンからの翻案だと、平凡社の『世界名著大事典』に書いてありますが。
――舞台はアンダルシアでしたね。
そう言えばサラサーテの《アンダルシアのセレナード》という曲があります。バラードふうに歌う民話がたくさんある地方なんでしょう。
――ファリャ自身も、アンダルシアの出身ですか。
そうです、ファリャの生まれはアンダルシアのカディスで、これはジブラルタルよりも西の港町ですが、地中海じゃなくて大西洋に面している港です。スペインの西南のはずれ、まあヨーロッパの鹿児島みたいな所です。
――このバレエは、さぞきれいなものでしょうね。よく本に写真がのっているピカソによるたれ幕というのも素敵ですよね。
ピカソのデコールは、一九一七年のマドリッドのパントマイムの時ではなく、一九一九年のディアギレフのバレエの時で、場所はロンドンです。ディアギレフは金をかけています。この時の指揮はアンセルメです。
――話は違いますが、ファリャは、かなり、パリの影響を受けたわけでしょう。
その通りですが、ファリャの先輩のアルベニスもグラナドスも、みんなパリで修業したのです。ファリャは三一歳の時、多年の念願がかなってパリに七日間滞在する予定で出かけたのですが、それが七年間滞在する結果になりました。一九〇七年からの七年間です。第一次大戦が勃発したのでパリを引き揚げ、スペインに帰ってから《恋は魔術師》や《三角帽子》を書いたのです。
それから、ファリャは一九三九年に、たまたま演奏旅行のためアルゼンチンにいたのですが、今度は第二次大戦が勃発したため、そこに永住して、結局七年後の一九四六年にアルゼンチンで世を去っています。二度も、ちょっとのつもりが七年間に延びたわけです。
――それで、彼はフランスの、いわゆる印象主義の作曲家たちとも交友があったわけでしょう。
ドビュッシー、ラヴェル、デュカス、そして同郷のアルベニスたちと交友を深めたということです。むろん、もっといろんな連中とつき合ったことでしょう。
――ところで、この第一組曲、第二組曲というのは、バレエの全曲からいって、どういうことになりますか。
第一組曲のほうはバレエの第一部から〈粉屋の女房〉や〈市長〉などの踊る場面の音楽が入っています。第二組曲は、バレエの第二部からの〈近所の人たち〉のセギディーリャ、〈粉屋の踊り〉のファルッカのリズム、そして〈終幕の踊り〉のホータと、この三曲が入っているのです。
――この人は、ひじょうに寡作家だったそうですね。
そうです。寡作です。先輩のアルベニスとグラナドスは二人とも四九歳で早死にしているのですが、ファリャは一八七六年から一九四六年までですから七〇歳まで生きたのに、曲は少ないです。
しかし、《七つのスペインの歌》にしても、《ペドロ親方の人形芝居》にしても、クラヴサン協奏曲にしても、よく推敲されています。色彩的で強烈で、燃焼度の高い音楽です。それだから、はかない。ヨーロッパ音楽で生命のはかなさを歌ってるなんて、滅多にないです。ひじょうにエクゾティックだし、何かひじょうに東洋的な神秘を感じさせます。スペインは本質的にヨーロッパじゃありません。
●フルネ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団〈65〉(スプラフォン○D)
グリエール
Reyngol'd Glier
(ソ連)
1875〜1956
ハープ協奏曲 変ホ長調 作品七四
アレグロ・モデラート
テーマ・コン・ヴァリアツィオーネ、アンダンテ
アレグロ・ジョコーソ
前衛の中で盛んになりつつある短い、乾いたハープの音
――グリエールのハープ協奏曲は、有名なものですか?
いや、私もはじめて知ったのですが、なるほど大きな音楽辞典には出ています。しかも、おもしろいことにグリエールは、この一九三八年のハープ協奏曲のあと一九四二年に声と管弦楽のための協奏曲、そして四六年にチェロ協奏曲、五二年にホルン協奏曲と、だいぶ変わった協奏曲をいくつも書いているじゃないですか。
これはもしかすると、グリエールの親父さんは楽器製作者でしたから、子供の時から家の中で何種類もの楽器の音がしていたので、いろんな音色に関心を持つようになったのかもしれません。ピアノやヴァイオリンの協奏曲を一つも書かずに、こういうのばかり作曲している人も珍しい……。
――とにかくグリエールという人については、いつか映画で見たバレエ《赤いけし》の作曲家という以外、よく知りませんが……。
彼はロシアの作曲家にちがいないのですが、ウクライナのキエフ生まれです。しかし、このGli俊eという姓からは先祖代々の純スラヴ人かどうか疑わしいと思います。フランスふうの姓ですものね。
また親父さんはモーリッツ、彼はラインホルドという名ですが、これは明らかにドイツ系の名でしょう? まあ推理を働かせれば、何代か前にフランスからドイツに移ったユグノー派の一家で、さらにその何代かあと、もしかすると親父さんの代に、ドイツからロシアに移住してきたのかもしれません。しかし、これはあくまで推理ですよ、そんなこと何にも書いてないですから。
彼は民族音楽的な仕事を、ずいぶんしています。ひじょうに関心が強かったようです。むしろ、ソヴィエト音楽の樹立時代に、彼はそういった面の指導者でした。アゼルバイジャンとかウズベクとか辺境地の少数民族の音楽を研究して、民族オペラや民族的バレエを作っています。
この点も、もしかすると彼が純スラヴ族出身でないからこそ、それを心掛けたとも言えるし、あるいはだからこそ、それが可能だったと言えるかもしれません。しかし、これも私の推論ですよ、あくまで……。
――作曲家にとって、ハープ協奏曲というジャンルは、あまり魅力がないのじゃないかと思うんですけれどね。厄介なわりに効果が上がらないのじゃないかと……。
まあ、協奏曲というジャンルそのもの、ことに古典形式のそれは、だんだん下火になる傾向にありますが、ハープの音楽は衰えるどころか、むしろ前衛の中でもさかんになりつつあります。
イタリアのルチアノ・ベリオの《シュマン第一》なんてすばらしい曲です。いったいにギター、マンドリン、木琴、チェンバロ、ハープなど弦をはじいて、短い、乾いた音を発する楽器は、現代ではひじょうに復活しています。ただハープは演奏者の少ないことと楽器が高価で、その運搬がとても大変です。その点で近代性に欠けると言えば欠けることになります。しかし、なんといっても味わい深い楽器です。
●ボニング指揮 ロンドン交響楽団、エリス(hp)〈68〉(ロンドン)
レスピーギ
Ottorino Respighi
(イタリア)
1879〜1936
交響詩《ローマの噴水》
夜明けのジュリアの噴水
朝のトリトンの噴水
昼のトレヴィの噴水
たそがれのメディチ荘の噴水
絵画的で抒情的な上質のポピュラー名曲
――イタリアといえば、歌の国、歌劇の国という印象が強いのですけれども、レスピーギの歌劇というのは聴いたことがないんですが……。
まあ、彼はイタリアにおける器楽の復興者とされているけれど、しかし、オペラも作曲しています。《焔》という一九三二年の作をはじめ九曲もオペラがあるのです。しかし、今ではやらないらしい……。二〇歳の時レニングラードのオペラのヴィオラ奏者になったりしたのに、劇場音楽には根っから向かない人だったのでしょうね。
父親も音楽家でしたね。彼自身はボローニャの音楽学校の出身ですが、ヴァイオリンの賞をとって卒業しています。ロシアではリムスキー=コルサコフに作曲を習ったのですが、その後ベルリンでブルッフにもついています。まあ、この経歴をみても、イタリアでオペラ作曲家として成功しようという姿勢では全くありません。二〇歳前後の頃から、イタリアのオペラ劇場の周囲で働くようになるまでは。
三〇歳の頃になってしばらくベルリンに住んでいますが、三四歳から五七歳で死ぬまで、ずっとローマの音楽学校で作曲の先生をしており、その間にローマ三部作も発表されているわけです。まあローマは彼にとって第二の故郷でしょう。
――で、その三部作なんですが、この交響詩というジャンルは、リストにはじまって、リヒャルト・シュトラウスに至る線が、まず思い浮かぶのですけれども……。それとレスピーギとの関係は、どう説明されるのでしょう。
リヒャルト・シュトラウスの影響は彼にもありますね。ただ、イタリア人だから絵画的、抒情的な面が強いですが……。
――そうですね。《ローマの祭り》も、絵を見る思いでした。このローマ三部作は、まさに、わが国の表現法でいえば、ポピュラーな名曲だと思うんですが……。それも上質の。
たしかにそういう道具立てが揃っています。それにローマは世界の名所だから、この曲を聴いた時、トレヴィの噴水で後ろ向きにお金を投げたのを思い出す人は、世界中にたくさんいるでしょう。その人はもう一回この曲を聴こうと思うかもしれません。案外そんな点が、この曲のポピュラリティ獲得に役立っているんじゃないですか。
●ムーティ指揮 フィラデルフィア管弦楽団〈84〉(エンジェル○D)
交響詩《ローマの松》
ボルゲーゼ荘の松
カタコンブ付近の松
ジャニコロの松
アッピア街道の松
教会旋法やグレゴリアン・チャントのイディオムを曲におり込む
――タイトルは忘れましたが、以前に読んだ本の中に、レスピーギのことを、Italianism made in Germanyだと書いてあって、ふーん、そういうものかと思ったことがあるんですが……。
近代のイタリアのオーケストラ作品で、国際的にひろく演奏されている作品には、純イタリア育ちのものはあまりありません。ブゾーニはドイツ人との混血、カセッラはパリ音楽院育ち、レスピーギはペテルスブルグでリムスキー=コルサコフに、そしてベルリンでブルッフに学んだし、ダッラピッコラは少年時代をオーストリアで過してシェーンベルクの影響を受けた、という具合にね……。
――彼はロシアに行ってますね。それからドイツに行ってます。
一九〇〇年だかに、ペテルスブルグのオペラで第一ヴィオラ奏者に就職したということは、イタリアの作曲家にしては突飛な経歴のように思えるけれど、そうも言えないのです。というのは、バロック時代のイタリアの大作曲家たち、パイジェッロとかガルッピとかは、代る代るペテルスブルグでオペラの作曲と指揮をやっていたし、一九世紀を通じて東欧諸国ではイタリアの音楽家はさかんに活躍していました。
しかし、レスピーギはオーケストレーションの名手リムスキー=コルサコフに師事したいという、はっきりした目的をもってロシアへ赴いたのです、おそらく。彼のお父さんのジュゼッペは著名な音楽家だったし、お母さんも感性の豊かな人だったそうだから、息子に異質の文化からの摂取をすすめていたのかもしれません。
――それで、音楽史のうえで、彼は、どういう位置におかれる人なんでしょうか。
これは一口にいうのはむずかしいのですが、イタリア音楽史における彼の位置は、一九世紀のオペラ万能に対して、今世紀前半に器楽作品を数多く書いた何人かの一人であり、作風を中心に考えるなら、リヒャルト・シュトラウスの交響詩とドビュッシーの印象主義の影響が強く、それにリムスキー=コルサコフの、したがってストラヴィンスキーふうの原色的なオーケストレーションで色づけされている、ということでしょう。シュトラウスからはオーケストレーションの面での影響もありますが……。
――このレスピーギも教会旋法やグレゴリオ聖歌のイディオムを、さかんに使ったのでしょう。こうしたことは時代の一つの風潮でもあったのでしょうか。
《ローマの松》の第二楽章で金管にはっきりグレゴリアン・チャントがでます。メCum Jubiloモというセットのサンクトゥスなんですが、まあここでのレスピーギの引用はカタコンブを説明するためで、たぶんに標題的、描写的です。ただ、この旋律はグレゴリアンとしては新しい一四世紀の作で、教会旋法というより長音階です。だから曲中に引用しやすいということでもあります。レスピーギは純粋な教会調も使っていますが、ピッツェッティほど多くはないでしょう。まあどちらもフォーレやドビュッシーがすでにやっていますが。
――《古代舞曲とアリア》だとか《鳥》といった作品を残していることからすると、彼は古い音楽に多くの共感を示したということがいえるのでしょうか。あるいは単なる懐古趣味なのかもしれませんが……。
《古代舞曲とアリア》の古代はちょっと大げさで、誤訳、少なくとも不適訳です。原作は一六〜一七世紀なんですから、せいぜい「古い」か「昔」ですね。それに《ロッシニアーナ》《鳥》などは、作曲というよりいわゆるトランスクリプション、編作のカテゴリーに入る曲でしょう。両大戦間の新古典主義の時代には同類が多く作られたのです。ストラヴィンスキーの《プルチネッラ》、あれはペルゴレージの作品が中心、ミヨーの《フランス組曲》、あれはジェルヴェーズの曲のアレンジ、それにシェーンベルクにもバッハやヘンデルの編作がいくつかあります。
――ところで、この《ローマの松》は、描写音楽でしょうか。
さあ。大まかにいえることは、標題音楽や交響詩を一応北から南へ並べるなら――たとえばリスト――リヒャルト・シュトラウス――ベルリオーズ――サン=サーンス――ドビュッシー――レスピーギ……という具合にして見れば、南へいくほどに絵画的描写的要素が増大してくることはたしかでしょう。北へいくほど視覚的要素が後退して、内的な、心理的なものになっています。これは何も音楽に限ったことではないでしょうが……。だから《ローマの松》にはずいぶん目にみえる風景みたいな所があるのは否めません。それがイタリア人の音楽の感じ方の根本にあるのでしょう。
――レスピーギはローマの生まれでしょうか?
レスピーギは《ローマの噴水》《ローマの松》《ローマの祭り》の三部作でローマの作曲家というイメージをはっきり植えつけたけれど、元来はもっと北のほうの古くから学芸の中心地であるボローニャの人で、葬られたのもボローニャです。ただ三四歳の時から死ぬまでの二三年間、ローマの音楽学校で作曲教授をしていました。作品の初演も結局ローマにおけるものがいちばん多いでしょう。
●デュトワ指揮 モントリオール交響楽団〈82〉(ロンドン○D)
交響詩《ローマの祭り》
チルチェンセス
五〇年祭
一〇月祭
主顕祭
より描写的、具体的になった〈ローマ三部作〉最後の作品
――ローマは、永遠の都と言われますが……。
まあ、ヴェネツィアやフィレンツェもすばらしいですが、ローマにはもっと古い歴史があり、さらに権威が具わっているし、音楽作品の題には、ローマのほうが覚えられやすい。
――それで《ローマの祭り》は、ローマ三部作の何番目にあたるのですか?
お祭りは最後にきまってますよ……。噴水がはじまりで、徐々に盛りあげていく。しかし、三部作とはいっても、《ローマの噴水》が三七歳、《ローマの松》が四五歳、《ローマの祭り》が四九歳とずいぶん離れているので、まあリストやリヒャルト・シュトラウスの一連の交響詩と同じようなものと考えていいのじゃないかしら。あまり三部作という名前にこだわることはないように思うのです。
――それだけ年代が離れていれば、当然、曲の性格もいくらか違っているんじゃありませんか。
そうです。ただ、この三つの曲を通して言えることは、描写的要素がだんだん強まってくることじゃないかしら。《ローマの祭り》ではいろんな打楽器が動員されて、ネロの時代の祭りの雰囲気を再現したりします。まあ、リヒャルト・シュトラウスなんかでも、あとの作品ほど描写的、具体的になっていくのは同じことですが。しかし、《ローマの祭り》はほんとうに絵のようですね……。
――絵具を厚く盛った絵! 例によって、大きな編成のオーケストラですね。楽譜の楽器表を見ると知らない楽器があるんですが……たとえば、ブッチーナ、クレセル、タヴォレッタ、ソナリエラ……。
ブッチーナというのはビューグル、つまりB管(変ロ管)の軍隊ラッパで、この曲に三本使われるのですが、スコアでも「ブッチーナまたはトランペット」となっていて、慣例ではトランペットで吹くようです。
それから、あとのはみんな特殊な打楽器ですが、クレセル(cr残elle)というのはフランス語でガラガラのことです。これは木の歯車を廻して板に触れさせて、大きなガラガラいう音を出す仕掛けになっているんです。
――それならばリヒャルト・シュトラウスの《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》で鳴るやつですね。
そうです。ラトルとか、ラーチェともいいます。タヴォレッタは英語のウッド・ブロックのほうが分かりいいでしょう。元来はお寺の魚板のような木片を木の槌か桴(ばち)でたたくのですが、同じ音色でもっと楽器の体をなした能率的なものが使われます。それからソナリエラというのは鈴です。
しかし、こういった特殊な打楽器は個々の現物によって音色がちがうし、桴の選び方や奏法によってもひじょうに音が変るので、作曲者や指揮者やプレイヤーの好みで、その場その場で多少ちがう音色になることが多いのです。何種類かのレコードを比べてみた場合、打楽器くらい音質、音色がまちまちなセクションはありませんよ。
●シノーポリ指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック〈91〉(グラモフォン○D)
バルトーク
B四a Bart楊
(ハンガリー)
1881〜1945
弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽
アンダンテ・トランクイロ
アレグロ
アダージョ
アレグロ・モルト
形式感と現代感覚の渾然一体
――これは、バルトークの、いつ頃の作品なんですか。
一九三六年九月に完成していますから、五五歳の時です。激しさ、厳しさという点では一九二八年頃、つまり弦楽四重奏曲第四番の頃のほうが上でしょうが、この時期は、それに加えて円熟の頂点だったと思います。ゆとりが出ています。この曲を作ってから一九四〇年のアメリカ亡命までの間に《二台のピアノと打楽器のためのソナタ》、《弦楽のためのディヴェルティメント》、ヴァイオリン協奏曲第二番、弦楽四重奏曲第六番などが書かれました。バルトークの“傑作の森”の時期です。
――それまでは、ずっとハンガリーにいたのですか。
ずっと、ブダペストに定住していたのです。各地に旅行はしていますが、現にこの曲を書いた一九三六年前半にはトルコに民謡採集の旅を長期間しています。ともかくバルトークが生まれた頃から第一次大戦までは、ハンガリーは二重国家という形でオーストリアの支配下にあって、学校でもドイツ語しか使われない、という不自然な状態にありました。そういう抑圧された祖国の状況に若い頃の彼はつねに憤慨し、反撥していたわけです。彼がハンガリーの民族音楽に多大の関心を持ったというのも、音楽家として祖国の再発見をすべきだと考えたのでしょう。
――この曲で、バルトークが狙ったものは、いったい何だったんでしょうか。
それはバルトークとしては後世に残る傑作を書こうということだけじゃないでしょうか。若い時から何度となく使い古した手馴れた書法をとり上げて、もう一回それを再検討して、とくに古典やバロックの形式感と現代感覚を渾然と融合させたところに、この音楽の永遠性があると思うのですが。
第一楽章は一九〇七年から八年頃のヴァイオリン協奏曲第一番とか弦楽四重奏曲第一番などの、それぞれ冒頭の曲想のアイディアを三〇年ぶりにとりあげて、もっと精妙な彫りの深いものにした、という感じだし、第四楽章にしても、若い頃からの多数のピアノのための民族的な舞曲や一九二三年のオーケストラのための舞踊組曲を、彼の一九二七〜二八年の無調的体験を通して、いっそう幅の広い表現にしたといえます。もちろん初期のものと共通の素材など一つもありませんが。そして四つの楽章を見れば前の二つを比較的抽象的な純音楽的な性格に、後の二つを民族的な色彩を濃厚に出しているのはウィーン古典派の精神です。それからバルトークでは四つの楽章が緩・急・緩・急と並んでいるのは、これは古典派じゃなくてバロック時代の教会ソナタと室内ソナタのやり方に従っているし、二群のオーケストラの対立というのもバロックのコンチェルト・グロッソなどのやり方からきています。
もっとも、一九世紀末のレーガーの組曲にこういうやり方のがあって、バルトークのブダペスト音楽院での作曲の先生はレーガーのいとこに当たる人ですから、バルトークは若い時からその曲を知っていたにちがいありません。ハープ、ピアノ、チェレスタ、そして何種類もの打楽器を用いながら管楽器を全く省いているのはじつに新しいアイディアで、この乾燥した音色は後に多くの人が模倣することになります。その意味で先駆的な作品です。
●ショルティ指揮 シカゴ交響楽団〈89〉(ロンドン○D)
ヴァイオリン協奏曲 第二番
アレグロ・ノン・トロッポ
アンダンテ・トランクイロ
アレグロ・モルト
エネルギッシュなヴァイタリティーと神秘的な音色の対比
――これは以前から、いわゆる“バルトークのヴァイオリン協奏曲”として、よく知られたほうですね。
そうです。これを第二番と呼ぶようになったのは、若い頃のヴァイオリン協奏曲が、彼の死後に遺作として陽の目を見てからのことです。その第一番は彼の若かりし頃の恋人に捧げたのですが、彼女が一九五六年に亡くなるまで秘蔵していたのですね。作曲後約半世紀も埋もれていたなど今どき珍しいことです。
――バルトークがこの第二番を書いた頃のことについて、少し触れていただけませんか。
一九三七年から三八年にかけての作ですが、バルトークのまあ絶頂期といっていいでしょう。前年に《弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽》、同じ年に《二台のピアノと打楽器のためのソナタ》や《コントラスト》、翌年に《弦楽のためのディヴェルティメント》など傑作ぞろいの年月です。四〇年にはアメリカに亡命し、その五年あとにニューヨークで亡くなりました。
――で、この協奏曲は誰かに頼まれて書いたのでしょうか?
ええ、たいていの協奏曲がそうであるように、この曲も初演したヴァイオリニストの依頼によって作曲したのです。それはゾルタン・セーケイですが、彼はハンガリー四重奏団の第一ヴァイオリン奏者です。彼はバルトークよりだいぶ若いのですが、ブダペスト音楽院でフバイの弟子だった頃、コダーイの作品をバルトークに奏いて聴かせるために、コダーイに連れられてバルトークの家に行ったことがあって、それ以来バルトークの所に出入りするようになり、一緒に演奏旅行などしているのです。
バルトークの弦楽四重奏曲第五番、第六番の、ハンガリー国内の初演もセーケイがやっているし……。それで、おもしろいエピソードがあるのですが、バルトークはこのヴァイオリン協奏曲をヴァリエーション形式で作曲したかったのです。ところがセーケイは、やはり音楽会の効果を考えて伝統的な三楽章制を固執してゆずらない。それでバルトークも妥協して、第三楽章を第一楽章の大がかりなヴァリエーションとし、第二楽章はそれ自身テーマとヴァリエーションの形にしたというのです。
――この協奏曲にも例によって、いろいろと作曲上の技法が、たくさん盛りこまれているのでしょうね。
バルトークのことですから、いろいろ彼特有の語法を駆使しています。第一楽章と第三楽章の第二テーマは共に一二音の音列によるメロディーで、これが何度か変奏されて出てくるのも特徴です。ただし、いわゆる一二音技法ではありません。第一楽章はマジャール民謡ふうな五音音階から、七音、一〇音、一二音と音をだんだんふやしていき、今の第二主題のあとまた音を減らしていくその推移が感覚的にじつにおもしろい。そして素材音の少ない個所のエネルギッシュなヴァイタリティーと、音の多い所の精緻な、神秘的な音色の対比がすばらしい。ソリストに最高の技巧が要求されているのはもちろんですが、それがちっとも浮き上っていません。たんに作曲技巧というより、むしろバルトークの音楽力の偉大さをしみじみ感じさせられます。
●ラトル指揮 バーミンガム市立交響楽団、鄭京和(Vn)〈90〉(EMI○D)
管弦楽のための協奏曲
序章
対の遊び
悲歌
中断された間奏曲
フィナーレ
ラプソディックなスタイルを回顧、「遊び」の精神の横溢
――彼はハンガリーの生まれでしたね。
ハンガリー南部の平原地帯のナジセントミクローシュという所で生まれたのですが、ハンガリーという国は第一次大戦で国土が三分の一になってしまいました。それまで、オーストリアと二重国家になっていたおかげで、領土を拡げすぎていたのです。それでバルトークの故郷も、その時の条約でルーマニアに返させられてしまった。今ではサニコラウル・マーレと呼ばれていて、ハンガリー国境へも、ユーゴの国境へも三〇キロほどの所です。
民族的にも複雑ですね。バルトークの生まれた頃はマジャール人、つまり生粋のハンガリー人のほか、ルーマニア人、セルビア人、オーストリア人、ドイツ人などの人種のるつぼみたいなところでした。ただ、バルトークという姓は元来ハンガリーの北部の高地か、あるいは東部のトランシルヴァニア山地に多い姓で、おじいさんの代に南部にきたのです。
――ところで、この曲は、いつ書かれたのですか。
作曲の時期はアメリカに渡って三年目の一九四三年で、八月一五日から一〇月八日までの五〇日あまりの仕事です。バルトークの筆はいつも速いのです。バルトークはアメリカで生活に困っていたので、いろんな人が心配したのですが、これはクーセヴィツキーの音楽財団が作曲料を払って彼に委嘱したのです。
――フリッツ・ライナーとかヨゼフ・シゲティといった同郷人が、だいぶ心配して、あれこれ骨を折ったのでしたね。次に作曲上の特徴を少しあげていただけませんか。
作風の特徴としては、若い頃、つまり第一次大戦前のラプソディックなスタイルを回顧している面があることです。第一楽章の出はじめも一九一一年の《青ひげ公の城》にちょっと似ているし、第三楽章の〈エレジア〉の音も《青ひげ公の城》の中の六番目の扉の涙の水の場面とよく似ているし、〈エレジア〉という題はバルトークの初期のいくつかのピアノ曲につけられていました。第四楽章の〈インテルメッツォ〉では、民謡のようなパセージがはっきり出ていますが、バルトークはああいう民謡旋律の露骨な使い方は一九二〇年代のはじめ以来やめていた手法です。シェーンベルクもアメリカに渡ってから、注文に応じて調性をもった作品を二つ三つ書いていますが、何かアメリカ社会の音楽生活には、彼らのヨーロッパ時代の昔の作風に遡らせる雰囲気があるのでしょう。
――あまりにも機械的な社会で生活していると、ふと昔が偲ばれるのかもしれませんね。とくに生活環境の違う外国からきた人にとっては……。ところで、この《管弦楽のための協奏曲》ですが、これも、とりようによっていろいろな意味にとれますね。
コンチェルトという言葉はじつは一六世紀のはじめ以来今日までに、ほとんどあらゆる曲種、曲態に使われています。合奏曲、合唱曲、器楽伴奏のカンタータ、そしてふつうわれわれの耳目にふれる器楽協奏曲ですが、器楽協奏曲もほぼ三つのタイプに分かれていて、第一がソロをもたないコンチェルト・シンフォニア(これは〈サンフォニー・コンセルタント〉とは全く別物です)、第二がソロ・グループをもつコンチェルト・グロッソ、それに一人か二人のソリストをもつソロ・コンチェルトというわけです。もう一つ加えれば、合奏部分を欠いたコンチェルトというものもあるけれど、それはここでは関係ないから別にしましょう。
――その後、古典派やロマン派の時代にソロ・コンチェルトが全盛をきわめるわけですね。
その通りです。そして二〇世紀になって古い形が復興してきたというわけです。リヴァイヴァル・ブームです。だからこのバルトークもコンチェルト・シンフォニアの復活の一例と見てよいでしょう。
――つまり、ここではコンチェルトの主役が、オーケストラ自体であるというわけですね。
ええ、特定のソロ楽器は立てないけれど、全体がシンフォニーほど重厚でなく、楽想が深刻でなく、あらゆる楽器がコンチェルタントによく活動する、そして形式や楽章配置もシンフォニーの定形から外す、といったことが条件になるでしょうか。元来バルトークはシンフォニーという題の曲を一つも書いていません。組曲、《弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽》、ディヴェルティメント、協奏曲などです。
――本質的にジンフォニカーでなかったということでしょうかね。それにしても、この曲の各楽章につけられているタイトルは、ずいぶん風変りですね。
このことも、比較的かるい曲想ということと大いに関係あるわけで、ことに第二楽章の〈一対の遊び〉と第四楽章の〈中断された間奏曲〉がスケルツァンドな気分にみちています。
――〈中断された間奏曲〉というのは、いったい、どういうことなんですか。
バルトークはこの曲の作曲中に、ラジオでショスタコーヴィチの交響曲第七番を聴いたのだそうです。この曲はレニングラードが第二次大戦中ドイツ軍に包囲されていた間に、ショスタコーヴィチが防空隊員の一人として、体験した情景や戦勝の決意を歌い上げた曲とされているのですが、第一楽章のはじめのほうで小太鼓のリズムにのって戦争の主題がひびいてきます。それはメロディーを全くかえず、だんだん楽器を増していって、すごい音響のクライマックスに持っていく。その間打楽器は同じリズムをしつこくたたきつづけるのです。
まるで、ラヴェルの《ボレロ》のようなんです。ですからバルトークはこれを聴くやいなや、陳腐な模倣であることと内容と形式のチグハグを見ぬいて、パロディーふうに扱ってやろうと思ったんではないでしょうか。ショスタコーヴィチの、そのテーマの一節がクラリネットに出ると、それを笑いとばすような曲想がはさまり、つまり中断されちゃうんです。そしてもう一度弦でショスタコーヴィチがにぎやかに出ると、前よりはげしく笑いとばすという寸法です。これは批評家が文章で書くよりはるかに辛辣で効果的です。とにかくこれは珍しい例で、ちょっと他に見当りません。古典曲をパロディーふうに持ってくるのならありますけれども……。
――初演が一九四四年一二月一日、クーセヴィツキー指揮のボストン交響楽団、場所はニューヨークのカーネギー・ホールですね。名手揃いのボストン交響楽団がお目あてとあらば、かなりむずかしい演奏技巧が使われているとみてよいのでしょうね。バルトークにすれば、してやったりというところなんでしょうが、バルトークは、そのパロディーを実際の演奏で耳にし得たんでしょうね。
さあどうでしょう。五日前に行われたメニューヒンによる無伴奏ヴァイオリン・ソナタの初演のときは、たしかに聴衆の拍手に応えたというんですから、この曲の時も列席したでしょう。プログラムに寄稿していることはたしかですから。ただ当時はもう白血病が進んでいて、サラナック湖畔に転地していたのだけれど、一時ニューヨークに帰って、この年の年末まではいたらしいですね。
またバルトークは、この曲を必ずしもボストン交響楽団目あてに書いたとはいえないのです。クーセヴィツキー音楽財団の作品委嘱は、べつにボストン交響楽団での上演の義務はないんです。シェーンベルクの《ワルシャワからの一人の生存者》などもその財団の委嘱だけど、初演は別の所だし、今日までボストン交響楽団はその曲を一度も奏いていないかもしれません。ただこの曲はクーセヴィツキーみずからバルトークの所へ出向いて頼んだというし、バルトークも演奏されやすいような、わりに平明なスタイルで書いているから、漠然と名人揃いのボストン交響楽団での演奏を予想していたといえるかもしれません。
●ブーレーズ指揮 シカゴ交響楽団〈92〉(グラモフォン○D)
ピッツェッティ
Ildebrando Pizzetti
(イタリア)
1880〜1968
《エディプス王》への三つの交響的前奏曲
ラルゴ
コン・インペート、マ・ノン・トロッポ・モッソ
コン・モルタ・エスプレッショーネ・デ・ドローレ
アルカイックな響きに満ちたドリスふうハルモニア
――ピッツェッティと言えば……。
昔のことになりますが一九四〇年、昭和一五年にいわゆる〈紀元二六〇〇年祝典〉というのがあって、日本政府が五つの国にオーケストラ作品を委嘱しました。イタリア、フランス、ハンガリー、ドイツ、イギリスでした。
これに応えてイタリアからは、ピッツェッティの交響曲(イ調)という大作が、はるばる海を越えて贈られてきたのです。歌舞伎座で披露演奏会があって、当時の宮内省オーケストラの指揮者だったガエタノ・コメリさんが、N響の前身の新響を中心とする合同オーケストラを振って、ピッツェッティの交響曲を初演したのです。ギリシャふうの清澄さをたたえた、堂々たる大作でした。
ついでに申しますと、フランスからはジャック・イベールの《祝典序曲》、ハンガリーからはジェルジュ・シャーンドルの交響曲、ドイツからはリヒャルト・シュトラウスの《祝典音楽》、そしてイギリスからはブリテンの《シンフォニア・ダ・レクイエム》が贈られてきたのです。
そのうち、最後のブリテンのだけは国家の祭典に《シンフォニア・ダ・レクイエム》とは何事か、ということでお蔵になってしまい、戦後になって彼自身が来日した時に、N響を振って日本初演をしました。
――とするとピッツェッティは、われわれにとっても実は因縁浅からぬ、作曲家であるというわけなのですね。
そうなんです。それからピッツェッティと言えばもう一つ忘れられないのは、SPレコードの時代に、メニューヒン兄妹による彼のヴァイオリン・ソナタ(イ調)というのが入っていました。だから、その時代にもSPレコードのファンには、ピッツェッティはよく知られていた名前だったのです。
ヴァイオリン・ソナタは大へん美しい曲です。とくにあの頃、作曲の勉強をしていた人たちは、みんな熱をあげた曲じゃないかしら。グレゴリアンふうのメロディーが主となっている、じつにきれいな曲です。もう一つ声楽家がよく〈イ・パストーリ(牧人)〉という、ダヌンツィオの詩につけた小曲を歌います。ピッツェッティの曲としては、このくらいしか一般に知られていなかったんじゃないかしら。
――ところで、《エディプス王》への三つの交響的前奏曲というのは、いつ頃の作品になるのでしょうか。
これは原作は一九〇四年です。二四歳の作品です。その点がかえって興味のある所です。といいますのは、ヴァイオリン・ソナタが三九歳の壮年期、交響曲が六〇歳という円熟期に作られているというピッツェッティの作曲の流れからみても、この作品の原作が二四歳であるというのは興味深いと思うのです。
ただし、一九〇四年に完成したのは、ソフォクレス劇への付随音楽としての《エディプス王》で、三つの交響的前奏曲はそれを一九二四年に改編したもの、とあります。素材は同一だと思いますが、二〇年後の改作版です。
――ほんとうに長生きするだけあって息が長い人ですね。ところで「エディプス王」といえば、かつて人類が持った最大の悲劇の一つに数えられるものでしょう。
ええ、つまり彼はミラノでギリシャ悲劇の「エディプス王」が上演された時に、三曲の間奏曲を書いたらしいんです。ですから、前奏曲といっても劇の始まる前にやる、というのでは全然なくて、劇の内容を反映した音楽ということです。まあ抽象的なプレリュードというか、むしろギリシャふう標題音楽に近いわけです。
第一楽章はペストに悩むテーバイの町の悲劇的様相を描いているのですが、途中で出るホルンの決然たるテーマは、もちろん神託をあらわすのでしょう。第二楽章の漠然とした不安の気分はスフィンクスの謎や、今度あらたに下った神託の謎と対決するエディプス王の心をあらわし、第三楽章は、そうとは知らずに父を殺し、やがてもっと大きな罪を犯したエディプスその人の悲劇のクライマックスを表現している、とされています。
――お話の中にグレゴリアンとか、ギリシャふうといった言葉がありましたが、ピッツェッティは、ギリシャ音楽に造詣が深かったのですか。
そうなんです。この曲もひじょうにアルカイックな響きに満ちていて、ギリシャ音階でいうドリスふうハルモニア、これは中世の教会旋法ではミから始まるフリジア調に当たりますが、そういう古代の音階を用いています。これは彼のヴァイオリン・ソナタでも、交響曲でも基調となっている音階で、要するにミから出発してミまでいく音階なので、主音に向かって半音で下降する導音ファ‐ミを持っている。これが抒情的ないし悲劇的な発想にじつに効果的に作用するんです。
ですから、イ調といってもヘ長調の調子記号なのです。グレゴリアン・チャント式に言えばイを主音とするフリジア調であり、ギリシャ音楽ふうになら、イを主音とするドリスふうハルモニアというわけです。
こういう音階であくまで清澄な響きを求めていますから、その反面、現代的なパンチの利いた音は出てきません。まあピッツェッティは二〇世紀における貴重なる存在だったというべきでしょう。
コダーイ
Zoltn Kodly
(ハンガリー)
1882〜1967
ガランタ舞曲
モデラート―序奏
アンダンテ・マエストーソ―第一の舞曲
アレグロ・モデラート―第二の舞曲
アレグロ・ヴィヴァーチェ―第三の舞曲
ハンガリー・ジプシーのメロディーが基調
――コダーイが亡くなった日について、想い出をお持ちとか。
ええ、一九六七年三月六日でした。当時私は全く偶然に、マスコミ関係の人からその夜に彼の死を聞かされて知ったのですが、やはりこういう大きな足跡を残した人の死を聞いたあとは、しばらく仕事が手につかず、あれこれ、彼の業績など考えてその夜を過しました。
――享年八四。コダーイは、作曲家であり、またマジャール民謡の研究家、また教育家としてはISME(国際音楽教育協会)の会長として知られていましたね。
そういうふうに一人でいろいろ兼ねていたということは、ハンガリーの音楽界の特殊な性格と言えると思います。他の国だったら当然、それぞれの専門家の分業になっているのですが。ハンガリーではなぜコダーイが一人で、すっかり背負っていたのかというと、もちろん、この人の大きな才能ということもありますが、やはりこの国の音楽文化の一種の後進性、そしてとくに優秀な才能が西欧やアメリカにかなり流出してしまうこと、などいろいろ挙げられるでしょう。ただ、分業が必ずしも理想ではないし、コダーイの教育界への寄与はきわめて大きいと言わねばなりますまい。
――それに、そういう人だから、ハンガリーでは、いわゆる社会的な地位としても、ずいぶん高かったんでしょうね。
それは大へんなもので、おそらくコダーイは文化人の筆頭者だったでしょう。ただし、ハンガリーの人口は一〇〇〇万、ほぼ東京都と同じなんですね。そしてそのうち都会人口は四〇パーセントを欠けるんだそうです。そんなことも念頭に置かないと……。
――それで、コダーイの作風を、もっとも特色づけている要素といえば、どういうことになりましょうか。
これは意外と難問ですよ……。まあ、誰にも気のつくことから申し上げると、マジャール民謡や時にはジプシーの旋律が作品の基調になっていることです。ただコダーイとバルトークを区別する点は何かと言えば、やはりコダーイのほうが大衆にアピールする要素が大きいということでしょうか。これは彼の教育家としての姿勢とも関係があるのでしょう。
具体的にいえば、対位法的なきびしさより音色の対照に依存する度合が大きいということです。平たく言えば、バルトークよりも分かりやすい音楽ということでしょう。ハンガリーではバルトークはなかなか理解されなかったのですよ、一般には。これに反してコダーイはずっと早く親しまれたでしょう。
コダーイのほうがバルトークより一つ年が若いのです。音楽からいうと逆みたいですが……。そしてバルトークよりも二〇年あまり長命だったわけです。もちろん音楽院の学生時代からの親友で、民謡採集や研究の仕事はむしろコダーイがバルトークを誘ったらしいです。ともかく若い頃は二人で、真のハンガリー芸術音楽創造の理想に燃えていたのです。
――《ガランタ舞曲》は、いつ頃の作品ですか。
たしかブダペスト・フィルハーモニー協会の八〇周年記念に書いたもので、一九三三年の作品です。コダーイは、もう一つ同じような舞曲を書いています。《マロシュセーク舞曲》です。一九二七年の作で、この二つはいわば双生児というか一対をなして、両方とも世界中のオーケストラのレパートリーになっているんです。日本では《マロシュセーク舞曲》のほうが早く紹介されたと記憶しています。これはローゼンシュトックの時代に当時の新響が演奏しています。《ガランタ舞曲》は戦後ですよ、初演されたのが。
――ところで、「ガランタ」 って何のことなんですか。
これは地名です。私はだいぶ以前にウィーンからブダペストまで、ハンガリー航空のイリューシン一四型というソ連製のオンボロ旅客機で低空をゆっくりと飛びましたが、ちょうどウィーンとブダペストの中間で、ジェルという美しい町が目の下にみえてくるのです。ガランタはそのジェルから真北の方向にドナウ河を越えたあたりの小さい村で、今日ではチェコ領なのです。
――それで、ガランタ村と、コダーイとは、どういう関係があるんですか。
コダーイが子供の頃はガランタもハンガリー領で、彼はここに七年間も暮したというのですが、ハンガリーの領土が第一次大戦後に三分の一に減らされてしまった時に、ドナウ以北はすっかりチェコ領になったのです。一八〇〇年頃にウィーンで出版されたハンガリー舞曲集の中に、ガランタのジプシーたちの旋律がいくつか収められているのを発見したコダーイは、少年時代にこの地で聴いたジプシー・バンドのことなども思い出して、この一篇の管弦楽曲にまとめ上げた、というわけです。
――幼き日の郷愁! で、コダーイはハンガリー・ジプシーふうの音楽をたくさん手がけているのですか。これはマジャール民謡と、どんな関係にあるんでしょうか。
ええ、ジプシー音楽は《ハーリ・ヤーノシュ》の中にも、いっぱい撒きちらされています。ところで、ジプシーの音楽と、純ハンガリー農民の、いわゆるマジャール民謡とのちがいですが、これは若い頃コダーイやバルトークが指摘したように、リストの《ハンガリー狂詩曲》の素材は、じつは都会に住むジプシーのサロン音楽からとったもので、純ハンガリー民謡はコダーイやバルトークたちが集めはじめたということになっていますが、農村のジプシーたちの音楽などはマジャールのものと相互に影響し合っていて、はっきり分類できないものもあるようですね。純マジャール民謡は素朴な五音音階ですが……。
●ドラティ指揮 フィルハーモニア・フンガリカ〈73〉(ロンドン)
ストラヴィンスキー
Igor Stravinsky
(ロシア→アメリカ)
1882〜1971
舞踊組曲《火の鳥》
序奏
火の鳥とその踊り
皇女たちの踊り
カッチェイ王の魔の踊り
子守歌
終曲
ロマン主義への反動、原始生命力へのあこがれ
――《火の鳥》といえば、ストラヴィンスキーの三大バレエ音楽の一つですね。
ええ、初期の三大バレエの最初です。あとが《ペトルーシュカ》と《春の祭典》であることは御承知の通りですが、この三つは一九一〇、一九一一、一九一三年と年代的にもごく接近しているのです。
――もちろん、ロシア・バレエ団のために書かれた?
ええ、オーケストラ曲の幻想的スケルツォと《花火》を聴いたディアギレフが、この曲をまだ無名だったストラヴィンスキーに書かせたのです。興行師としては一種の冒険というかほとんど投機です。その代りディアギレフやフォーキンがつき切りで、やかましく注文しながら書かせたということですが。
――そのころ、ストラヴィンスキーは、もうパリで有名になっていたのですか。
いや、この《火の鳥》だって、ペテルスブルグで完成して、その初演を見るため彼ははじめてパリにやってきたのですからね。パリでストラヴィンスキーはほとんどまだ知られていなかったと思いますが、ただパリの音楽家組合の会報みたいなものには、すでに一九〇九年七月に彼の紹介記事が載っていたらしいです。しかし、セニーロフ、ストラヴィンスキー、シテインベルグの三人をならべてペテルスブルグの新星と呼んでいたそうですが……。
――これは、《春の祭典》のような、大きな騒ぎは起こらなかったのですか。
そうらしいです。彼自身、自伝にも「パリの聴衆から熱烈な喝采を博した。しかし、それは音楽だけの功ではなくゴロヴィンの装置やバレエ団のおかげでもある」という意味のことを書いています。とにかく《春の祭典》には多くのひどい批評が集まったのですが、《火の鳥》は割に抵抗なく受け入れられたのです。
――これらの作品が書かれた頃のストラヴィンスキーの作風は、原始主義とよばれているのでしたね。これは、どういうことなんですか。
だいたい絵画のほうが先行していたわけでね。いわゆるフォーヴィズムの爆発的な発生が一九〇五年頃でしょう。だからそれは一九一〇年という時点では、すでに下火でキュービズムにいっていたのですが、音楽はそれをやや遅れて追っかけた形です。まあロマン主義への反動というか、ロマン主義のいきついた境地というか。しかし、原始の生命力へのあこがれの端的な表現は、音楽が諸芸術の中でいちばん有利なんじゃありませんか?
――《火の鳥》の題材は、たしか、伝説からとられたものでしたね。
そう、もとはアファナーシエフの集めた六〇〇ほどのロシア民話の中にあるんです。夜に金のリンゴを盗む火の鳥をさがしに、王子様が長い旅に出る話です。だから《ペトルーシュカ》や《春の祭典》にくらべて、はるかにおとなしい筋です。お伽話ですもの……。
――この組曲には、いくつかの版があるとか……。
二つです。つまりバレエ全曲は四五分もかかる上に四管編成で、しかも舞台上の器楽合奏があるのですが、まずその器楽合奏はなしで、しかも四管のままのオーケストレーションで二〇分程度、五つの場面にした形の組曲が一つあります。しかし、これは普通やりません。一般に流布している組曲の形は一九一九年に二管編成にアレンジしなおしたもので、やはり二〇分程度ですが、場面が多少ちがっていて、七つの場面を接続しているのです。
――二〇世紀音楽におけるストラヴィンスキーの評価については、どうですか。
晩年のカンタータ《説教・説話・祈り》をはじめとする宗教的な作品はどれも立派です。それ以前に中だるみの時期がたしかにあったし、その頃には、彼は《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》で死んだも同然だというような酷評もあらわれましたが、そうではありません。あえていえば、苦悩する二〇世紀の音楽創作を一身のうちに刻印している作曲家は彼だけといえます。
●インバル指揮 フィルハーモニア管弦楽団〈89〉(テルデック○D)
舞踊音楽《ペトルーシュカ》
1謝肉祭の日 手品師の芸 ロシアの踊り
2ペトルーシュカのへや
3ムーア人のへや バレリーナの踊り バレリーナとムーア人のワルツ
4謝肉祭の日の夕方 うばの踊り 御者と別当の踊り 仮装した人々
《火の鳥》と並ぶ初期の傑作
――この《ペトルーシュカ》は、ずいぶん大編成ですね。それにピアノが協奏曲のように活躍する……。
じつはストラヴィンスキーは《火の鳥》のすぐあとで、むしろ《春の祭典》の筋を思いつき、その想を練っている間に、バレエ音楽ではない、ピアノとオーケストラの協奏的作品の構想を得たのです。それに、単に《ペトルーシュカ》と題名をつけ、今の第二場のピアノが活躍するあたりを中心に筆を進めつつあったのです。
はじめからバレエ音楽として着想されたものではないわけです。ですからまず《ペトルーシュカ》という題名がつき、やがてそれをもとに標題音楽ふうの筋をストラヴィンスキーは考え、それがディアギレフの耳にはいると、これは仕事になる、この筋と音楽で《火の鳥》の成功の夢をもう一度見ようということになったのだと思います。
――Sc熟es burlesques en quatre tableaux「四つの場面からなるバーレスク」という副題がついていますね。これは、なにかタネ本があるのですか。
タネ本というか、いわゆる物語の原型は、こういうのはいくらもあるんじゃないですか? 人形に恋をするというのはバレエ音楽だけでもドリーブの《コッペリア》とか、バルトークの《かかし王子》とか……。さらに「ペトルーシュカ」というのは、ペーター、ピーター、ピエール、つまりピエロでイタリアのコメディア・デラルテで形成された道化役です。ただ筋を一八三〇年頃のペテルスブルグに持っていったりしてひねっていますが。
――この曲には、いろいろ親しみやすい旋律が出てきますね。すぐ口ずさめそうな。
そう、民謡がいくつも使われています。たとえば最初のヴィヴァーチェのすぐあとのメノ・モッソの所で、クラリネットが断片的に歌うメロディーは、コーラスでよく歌われる〈ザ・バイカル〉でしょう。
――作曲家ストラヴィンスキーの一生にとって、結局、この《ペトルーシュカ》は《火の鳥》で彼が得た評価を、もう一押し決定的なものとしたとみてよいのでしょうね。
その通りですが、しかし、彼は《火の鳥》《ペトルーシュカ》の道を、それ以上つづけることはしなかったわけです。これはおそらく彼がただの作曲家ではなかったことの証拠といえるでしょう。《ペトルーシュカ》の成功に気をよくして、こういう甘美なスタイルをつづけたなら、それは彼にとって破滅となったにちがいありません。
《春の祭典》という辛辣な音楽で、酷評を浴びながらも、新しい方向への脱皮をはかったことに彼の面目が躍如としているわけですが、また、その一九一三年という、第一次大戦前夜の日々は、ヨーロッパ作曲界の爛熟の頂点で、傑作があちこちに生まれていた時期、まあ二〇世紀の中でも芸術のための芸術という気分に満ちていた時代だったのです。
●バーンスタイン指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、B・ベルマン(P)〈82〉(グラモフォン○D)
舞踊音楽《春の祭典》
第一部 大地礼讃 序奏―春のきざし・おとめたちの踊り―誘拐―春の踊り―敵の都の人々の戯れ―賢人の行列―大地へのくちづけ―大地の踊り
第二部 いけにえ 序奏―おとめたちの神秘のつどい―いけにえの讃美―祖先の呼び出し―祖先の儀式―いけにえの踊り
歴史に残るスキャンダル、シャンゼリゼ劇場での初演
――なんといっても、この曲は、そのテーマがおもしろいですね。
これは、スコアの書き方は無骨で、けっして洗練されたオーケストレーションではありません。わざと挑戦的な、ショッキングな方法をとったというより、彼の若さからきている部分もあると思います。しかし、ストラヴィンスキーとなるとこれで通ってしまう。
――異教の儀式をテーマにした作品というのは、けっしてこれだけではないでしょうけれど、これほど強烈で粗野なのも珍しいのではないでしょうか。
まあ、彼とディアギレフの野心のかたまりみたいなものですねえ……。
――シャンゼリゼ劇場での初演は、音楽史上にのこるスキャンダルとして有名ですね。
一九一三年初夏の頃、初演の指揮はピエール・モントゥーだったんです。彼はちょうど半世紀後の一九六三年五月二九日にも、ロンドンで《春の祭典》を振ったのです。
――初演のとき、そんなにお客が騒いだんじゃ、さぞ振りにくかったでしょうね。これは、パリだから、こんな騒ぎになったのでしょうか。
こういうことの原因は、いろいろ複雑にからみ合っていると思います。むろんこの音楽もショッキングですが、それだけではないでしょう。振りつけや装置が良くなかったことも原因かもしれません。またコクトーは、ルイ一六世ふうのシャンゼリゼ劇場の豪華なふんいきと、前衛バレエとの違和感をあげています。さらに、モンパルナスの若い画家たちが招待状がこなかったために騒いだとか、ディアギレフやストラヴィンスキーに対する左翼からの反感とか、もっと政治的な原因としては当時ヨーロッパ全体がバルカン半島を中心に対立的な危機感の中にあったんです。それが翌年の第一次大戦勃発につながるのですが、ともかく物情騒然としていたさなかなんです。
――ほかにも、こういう例はあったのですか。
《春の祭典》の二ヵ月前にはウィーンで、シェーンベルク一派の発表会が、やはり大スキャンダルになったのです。だから、こういう問題は純音楽的にだけ考えることはできなくて、当時の社会生活全体の不安な情況を考える必要があるでしょう。しかし、音楽界がそうした社会生活の直接の反映となる、というのは良き時代の良き都の話だと思いませんか?
――この《春の祭典》は、ストラヴィンスキーの初期三大バレエの最後を飾るものですが、まえの二作とくらべてみて何か、きわだった特徴が見出されるのでしょうか。
音楽の構造、ことに拍子とリズムの面で、ひじょうに独特の手法をとっていることでしょう。《ペトルーシュカ》にも同じモチーフのリズム変形が見られるけれど、《春の祭典》ではとくにフィナーレの精密なリズム構造がおもしろいです。それは第一次大戦後の新古典主義の時代の予告でもあるでしょう。またシェーンベルクの一二音体系の組織化と並行した現象ともとれるでしょう。
●ブーレーズ指揮 クリーヴランド管弦楽団〈91〉(グラモフォン○D)
詩篇交響曲
〓=92〈主よ、わが祈りを聞きいれたまえ〉
♪=60〈私は主にわが望みを託しき〉
♪=48〜〓=80〈主よほめたたえよ〉
神への讃美のために作曲
――ところでストラヴィンスキーの作品で、交響曲という名のついているのは。
まず初期の交響曲変ホ長調(作品一)という曲があります。これはリムスキー=コルサコフかグラズノフみたいな曲ですが。そのあと一〇年間隔なんだけども、一九二〇年に《管楽器のシンフォニー》、一九三〇年にこの《詩篇交響曲》、一九四〇年に《ハ調の交響曲》、ついで第五番目に一九四五年の《三楽章の交響曲》と、この五つかしら。
――いずれにせよずいぶん長い音楽生活ということになりますね。それで作曲家としての彼の生涯で、この一九三〇年というのは、どういう年になるのでしょうか。
円熟に第一歩を踏み入れた年です。バルトークにとってもそうですが、一九二〇年代はまだ多少とも実験的な趣きが残りますが、一九三〇年代に入るとすっかり角がとれてしまう。まあ、スタイルとしては一九二〇年代からの新古典主義で一貫していますが。
――その「新古典主義」というのは、どういうものでしょうか。
一言でいえば後期ロマン主義の半音階、あいまいな調性、尨大なオーケストラ編成への反動が、第一次大戦直後に起こって、全音階で、中心音がはっきりしていて、オーケストラ編成も二管程度の簡素なものに先祖返りしたんです。とくにストラヴィンスキーは《プルチネッラ》というバレエ音楽で前古典派のペルゴレージの曲を、そのまま使ったりしているのです。内声と楽器編成は変えていますけれども。
――そうした傾向は、彼の渡米後にまでもちこされるのですか。
いや、シェーンベルクの死後は音列の技法や一二音の技法を、あからさまにとり入れはじめるのです。生きてるうちはそっぽを向いていたのに。しかし、長い間、じつに気になっていたのでしょうねえ。メンツにこだわっていたんです。とにかく彼の作曲生活というものは、そのまま二〇世紀初頭から、六〇年代までの世界の作曲界の趨勢を示すと言えます。少なくとも作曲様式や作曲技法の上ではね。しかし、私はかつて学生たちに、《アゴン》というバレエの音楽を聴かせて、その作曲年代を当てさせたことがありました。これは一九五七年に完成した一二音ふうの曲なのに、大半は一九一〇年代の曲だと答えました。ということは彼の個性はどんな作風をとった時期にも、ほとんど変らずに保たれており、そして彼の作風を確立した代表作は一九一〇年代に集中している、ということでしょうか。
――この《詩篇交響曲》ですが……。
『旧約聖書』のいわゆる「ダヴィデの詩篇」で、その三八篇、三九篇の各一部と一五〇篇の全部を、それぞれ三つの楽章の歌詞としています。第一楽章は内容的には神の慈悲を願う祈り、第二楽章は神への感謝の祈り、フィナーレはいわゆるアレルヤ詩篇で、神へのにぎやかな讃美の歌です。
だからと言って、これは宗教音楽じゃありません。しかし、ひろい意味で、作者の信仰とは関係あるでしょう。《春の祭典》の異教的ロシアから、この時点で旧約の世界を彼が題材とし、やがて一九四八年にはカトリックの〈ミサ〉を書くに至るのですが……。《詩篇交響曲》の扉に彼は「この交響曲は神の栄光のために作曲された」と書いています。
――すると、いわゆるクラシカルな意味での交響曲ではない?
そうですとも。一九二〇年の《管楽器のシンフォニー》だってSymphonies d'instrument ventsでシンフォニーは複数形ですから、小さい合奏曲の集まりの意味です。古い使い方です。この《詩篇交響曲》の場合だってシュッツのSymphoniae sacraeのように、合唱と器楽合奏を一緒に響かせるという一七〜一八世紀の用法を回顧しているのでしょう。
――形式的にはどうなんですか。なんでも、ひじょうに対位法的なところがありましたね。
べつにソナタ形式じゃありません。第二楽章などは精巧なフーガです。第一楽章のモチーフが全体の統一に役立っていますが、概してルネサンスからバロックの宗教的合唱曲のスタイルに色目を使っています。
――そうですか。オーケストラの編成も、かなり変っていますね。ヴァイオリン、ヴィオラがないというのは、こんな大編成の場合、珍しいんじゃありませんか。
弦はチェロとバスだけで、それなら昔の通奏低音みたいに扱われているのかと思うと必ずしもそうじゃなくて、チェロなど自由に動くし、ハープと二台のピアノがスコアでは弦楽器として扱われています。これらがヴァイオリンやヴィオラの位置にあるみたいです。
――三つの楽章はたしか、切れずに続きましたね。私の印象から言うと、これはカンタータといっていいものではありませんか。
さあて、カンタータというのも広いんですが、それならまずソロのアリアが欲しい所です。だから、これはむしろモテット、つまり詩篇ですからね。いや、しかし、器楽が占める場所が大きいから、やはり、さっき言ったシュッツの用例のような意味を含めて、メSymphonie de Psaumesモというのはうまい命名じゃないでしょうか。
●ベルティーニ指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団・合唱団〈82〉(オルフェオ○D)
三楽章の交響曲
〓=160
アンダンテ(♪=76)
コン・モート(〓=108)
戦争終結の喜びが曲に反映、バロックから前古典派にかけての様式の復活
――ストラヴィンスキーは一八八二年の生まれですが、七六歳の一九五八年に来日してN響を振りましたね。
私はその時まで、彼が外国の音楽祭などにちょくちょく出演して自作を振っていることは知っていましたが、いわば儀礼的に、功成り名遂げた作曲家に花を持たせているのだと思っていました。たしかに日本でも練習は弟子格のロバート・クラフトに委せていましたが、しかし、本番を振る彼をみて、彼が情熱的にオーケストラを引っぱる力をもっているのに驚きました。テレビでは鼻の頭から汗をたらしたり、演奏中にほっぺたをチョコチョコ掻いたり、天真爛漫な表情がご愛嬌でしたね……。
――ところで、ストラヴィンスキーは一九三九年にアメリカに渡ったのでしょう。だから、《三楽章の交響曲》(一九四五)は滞米六年目の作品ということになるわけですね。
そうです。彼は一九三九年、第二次大戦の起こる直前にアメリカに渡ったのです。しかし、彼の場合はシェーンベルク、バルトーク、ヒンデミット、ミヨーといった人たちの「亡命」とはちがって、いわば二度目の「亡命」です。なにしろ、ストラヴィンスキーは革命前から祖国ロシアを出て、そのままスイスやパリに住みついてしまったのだから、その時が第一次の亡命で、アメリカ行きは二度目です。しかし、すっかりヨーロッパに根が生えていた彼は、アメリカでの生活環境の変化が相当こたえたのではないかと思います。
――それはもちろん、創作のうえにも影響を及ぼしたわけでしょう。
とにかく数年間不作の時代がつづくのです。シカゴ交響楽団のために書いた一九四〇年の《ハ調の交響曲》は弱いものだし、四一年にはアメリカ国歌《星条旗よ永遠なれ》の編曲である《星条旗》とか、四二年にはサーカスの仔象のための《サーカス・ポルカ》など、いやにアメリカ的な、とってつけたような仕事までしています。これはナチが優勢だったこの時期に見られる、創作家の一種の絶望感、倦怠感のあらわれかもしれません。
そうして一九四三年には、死んだクーセヴィツキー夫人ナタリーのための《頌歌》を、一九四四年にはやはり死んだプロアルテ弦楽四重奏団の第一ヴァイオリンのオンヌーのための《エレジー》をヴィオラ独奏曲に作曲しています。これらはまるで彼自身の創作活動への葬送曲みたいに聴こえるのですが、そのあとこの一九四五年の《三楽章の交響曲》で彼は生き返りました。まさに不死鳥のはばたきという感じです。
第二次大戦終結の喜びが、この曲にはたしかに反映されていると思います。ただ着手したのは一九四二年だし、もっと晩年の宗教的な作品の輝かしさには、及ばないと私は思いますが。とにかく、さっきあげた一連の作品から比べれば大躍進といえます。ただイタリアの作曲家のローマン・ヴラードが指摘しているように、曲の冒頭で三度音程と六度音程から成るモチーフが出ることとか、長三度と短三度の対比――とくにf‐a(ヘ音‐イ音)とf‐as(ヘ音‐変イ音)の対比はブラームスの交響曲第三番を露骨に思い出すのです。
それに私は第一楽章のリズムやピアノと弦の混じった音色に、バルトークの《弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽》の音を感じます。もっともバルトークのほうに、ストラヴィンスキーの《春の祭典》あたりからの影響がないとは言えませんが、そういった点でこの曲は彼の新古典主義時代の作風に入るものです。あるいはネオ・バロックといったほうがいいかもしれません。メヌエット=スケルツォ楽章なしの三楽章制だし。このあと彼はだんだん音列作法から一二音作法へ入っていくので、過渡期というか、それ以前の総決算ともいえます。
――この曲はピアノをはじめ、いろいろな楽器の特色が、よく発揮されていますね。
《ペトルーシュカ》のように、きっとはじめはもっとピアノを立てる曲にするつもりだったのではないでしょうか。前の年に初演されたバルトークの《管弦楽のための協奏曲》を彼も聴いているでしょう。やはり両大戦間の時代様式というものを感じます。結局バロックから前古典派にかけての様式の復活です。このスタイルは第二次大戦終結とともに急速に凋落して、いわゆる前衛音楽の様式と交替します。
●サロネン指揮 フィルハーモニア管弦楽団〈89〉(ソニークラシカル○D)
ウェーベルン
Anton Webern
(オーストリア)
1883〜1945
パッサカリア 作品一
第一部分(ニ短調)主題と第一〜一一の変奏曲
第二部分(ニ長調)第一二〜一五の変奏曲
第三部分(ニ短調)第一六〜二三の変奏曲
第四部分(ニ短調)第二四変奏曲以降
語るべき内容を凝縮、エッセンスのみを表現
――ウェーベルンという人は、ずいぶん悲劇的な最期を遂げたのでしたね。
そう、すでに第二次大戦が終っていた一九四五年の九月に、ウェーベルンはオーストリアの疎開先の辺鄙な山の中で、占領軍のアメリカ兵にまちがって射殺されたのです。物資の闇取引の仲間が逃走すると誤解したのだろうということです。当時、彼はまだ六二歳でしたから、戦後の作曲界の指導的役割をじゅうぶん果せたはずだし、彼自身の芸術の新展開も期待できた。痛恨事というべきでしょう。
まあ過去には、聖バーソロミューの大虐殺の巻きぞえを食った作曲家や、第一次大戦で客船もろともドイツのUボートに沈められた作曲家などもいますが……。グーディメルとグラナドスですが。
――ところで、ウェーベルンの作品といえば、ひじょうに短くて、しかも、音がポツン、ポツンと切れる、という印象が強いのですが……。
たしかに、全作品の演奏時間を合計しても三時間なにがしくらいにしかなりません。ワーグナーのオペラ一曲分にも足りません。しかし、ウェーベルンは必要ぎりぎりのエッセンスだけを語ったから作品が短いのであって、音楽的内容が少ないのではありません。けれどもウェーベルンの尺度でワーグナーを測って、水増しや引き伸ばしで長くなっていると考えるのもまた間違いであって、要するに、この短いということはウェーベルンの語法であり、表現法なのです。
物を言うのに、ポツンと単語しか言わない人があるとすると、ウェーベルンはそういう傾向を芸術的に純化、深化したといえるでしょう。しかし、この作品一の《パッサカリア》は未だその傾向のほんの入口で、結構、大きな声でたくさんしゃべっているのです。作品五、六、七あたりからポツン、ポツンになります。
――しかし、ウェーベルンはリラックスして、聴き流せるというわけにはいきませんでしょう。あまり注意して聴いているうちに、息がつまりそうになって……。
そうですね。たしかに単位時間に内容が凝縮されている点では最高ですが、それはベートーヴェンやモーツァルトだって、ある場合そうなんです。その点、ワーグナーのような劇音楽とはやや違うかと思います。それとウェーベルンはオーケストラも室内楽的な密度で書いている、ということはあります。だからその相乗効果からくる、聴き手を一瞬も油断させないきびしさはたしかにあります。でもこの作品に馴れてくると、リラックスしていて、しかも一音も聴き洩らさない、という鑑賞も可能だと思います。そうでないと楽しくないでしょう?
――このウェーベルンは、いわゆる一二音音楽の作曲家だったわけですね。
ウェーベルンの師匠のシェーンベルクが、一二音技法をはじめて考えついたのは一九二一年七月のことですが、ウェーベルンの創作期は一九〇四年から一九四〇年におよんでいますから、ざっと半数が一二音以前、残る半数が一二音作品です。具体的には作品一七以後、最後の作品までが一二音ですが、しかし、作品一七以前でも、境目に近いところは、作風としては区別がつかないくらい似ています。
――ウェーベルンの音楽は、「ピアニシモ・エスプレッシーヴォ」の音楽だ、という話を、きいたことがありますが……。
まあ、ウェーベルンは概してそうなのですが、とくに一九一三年の《弦楽四重奏のための六つのバガテル》作品九を中心とした作品群にその傾向がつよいのです。この時期はシェーンベルクさえ《三つの小室内管弦楽曲》や《六つの小さなピアノ曲》作品一九で、そういう傾向に向っていた時期なのですが。
――この《パッサカリア》は、作品一ですね。ということは、彼の処女作なんですか。
まあ作品一というからには世に問うべく決心した最初の作品ということでしょうが、今ではそれ以前の習作が数点、出版されたりレコードになっています。弦楽四重奏曲が二つ、ピアノ五重奏曲、歌曲が相当数、それに三管編成のオーケストラのための《夏の風のなかで》(Im Sommerwind)という交響詩で、これなどは《パッサカリア》の三年前の一九〇五年の作です。アメリカから楽譜が出版されています。
――《パッサカリア》とは、また、ずいぶん古典的な標題ですが、いわゆる新古典的な作品なのですか。
ブラームスを新古典的と呼んだ昔の習慣にならって言えば、これも新古典的といえるでしょう。要するに後期ロマン主義音楽の中で、形式感のはっきりした音楽に属します。しかし、第一次大戦以後のいわゆる新古典主義とは縁がありません。年代的にもずっと前ですから。ともかくシェーンベルクに師事していた期間の作品ですから、《パッサカリア》は師の出題の下、監督の下に書かれた作品と考えてよいでしょう。
まあブラームスの交響曲第四番のフィナーレあたりと、ひじょうに血縁が深いものです。年代的にも二〇年とちょっとしか差がないし、それにしては響きの感じはずいぶんちがいますが……。
――そうですね。とても二〇年のちがいとは思えませんが。ウェーベルンは、オーケストラのための作品を、たくさん手がけたのですか?
フル・オーケストラのためならば《夏の風のなかで》とこの《パッサカリア》ともう一つ作品六の《六つの管弦楽の小品》の三曲だけです。一管編成のためにはずっと晩年の作品三〇の《管弦楽のための変奏曲》があります。作品一〇の《五つの管弦楽の小品》はオーケストラふうのスコアで書かれていますが、弦が四人のソロにすぎないので、まあ室内管弦楽です。作品二一の交響曲も題名にもかかわらず九人のアンサンブルです。作品二四の《九つの楽器の協奏曲》も編成はちがうけどやっぱり九人きりです。
――彼はずいぶん古典の編曲もしているんでしたね。
それには二種類あって、つまり彼はオーケストラの指揮者をしていましたから、その必要上ポピュラーなもの、たとえば〈シューベルトのピアノのための舞曲〉のオーケストラ編曲などをやっています。他にバッハの〈リチェルカーレ〉のように彼独特なオーケストレーションの展示といった趣きのものがあり、このほうは晩年です。
●カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団〈73〉(グラモフォン)
マルティヌー
Bohuslav Martinu
(チェコ→アメリカ)
1890〜1959
協奏交響曲
アレグロ・ノン・トロッポ
ヴィヴァーチェ
アンダンテ
アレグレット
ソロ群が非常に拡大された新しい形のコンチェルト・グロッソ
――このボフスラフ・マルティヌーの協奏交響曲についてですが、この作曲家の出身からいきたいのですが……、チェコの人でしたね。
そうです。チェコのポリチュカという町の生まれです。ここはプラハから百数十キロも東、ブルーノのかなり北のほうに当たる所です。東部ボヘミアの田舎です。一八九〇年に生まれて一九五九年にスイスで亡くなりました。ですから生涯はわずかに二〇世紀の後半に入っているけれども、作風から言っても新古典主義、まあ淡い民族色をもった新古典主義者ですから、二〇世紀前半の作曲家の仲間といってよいでしょう。
一六歳から二三歳までプラハの音楽院に在学していたのですが、これは、もっぱらヴァイオリニストとしての修業です。そしてプラハのフィルハーモニーで奏いていたのです。この経歴は彼の作曲によく現われていると思うのですが、ともかく作曲ははじめ独学で、ついで三二歳でスーク――ヴァイオリニストとして有名なヨゼフ・スークの祖父で、同名のヨゼフ・スークについて学び、三三歳から三四歳にかけてはパリでルーセルに師事しました。ずいぶん晩学です。いったいに東欧の作曲家には演奏家としても一人前の人が多いです。
一九四〇年まではパリにいたのです。だからフランス人はマルティニューと言います。その翌年ヨーロッパの戦火を避けて渡米しています。しかし、戦争直後の一九四六年には母校のプラハ音楽院の教授に迎えられたのですが、二年ほどでアメリカに戻ってしまいました。一九五七年にスイスに移り、五九年にそこで亡くなったのです。ハンガリーやチェコには祖国を離れてしまった文化人が少なくありません。
――作品は多いのですか。
多いです。ことに正規の勉強をおそく始めたにしてはひじょうに多いです。それもかなり大規模な曲ばかり書いています。オペラや交響的作品など……。作風としては、ヴァイオリニストだった経歴が作風にかなり強く影響していると思うのです。あくまで音楽家気質にみちみちた、演奏する喜びにあふれた音楽です。いつも調性のはっきりした新古典的な音で書いています。昔だったらディッタースドルフなんていう作曲家が、よく似たテンペラメントの持ち主だと思うのですが。
――このSinfonia concertanteは、スコアによれば二つのオーケストラのために書かれているんですね。
そうです。その前に念のためここで申し上げておきますが、マルティヌーにはSinfonia concertanteという題の曲が二つあるのです。一九三二年の作と一九四九年の作で、じつは後の新しいほうがわりに演奏されることが多く、レコードにもなっているのです。それから、もう一つ念のために申し添えると、マルティヌーには《二群の弦楽合奏とピアノ、ティンパニのための二重協奏曲》だのメDuo concertanteモだの、これとまぎらわしい曲が他にもあります。何しろ、彼はこういったバロックふうの編成がほんとうに好きなのです。《弦楽四重奏とオーケストラのための協奏曲》とか《室内オーケストラのためのコンチェルト・グロッソ》なんて曲もあるし……。
それでご質問の本題ですが、たしかに二群のオーケストラのために書かれています。そのうち第一群のほうが少し小さめで、これがわりに独奏的に動くのです。といってもふつうの弦楽合奏群を含んでいるのですが。そして第二群のほうがやや大きめで、これが大体テュッティというかリピエーノの役を果たします。
スコアの書き方を見ても、独奏コンチェルトの場合にソロ楽器を書く場所に、第一群のオーケストラが書かれています。だから第二群のオーケストラは頁の上半分と下半分に離されて、つまり弦だけが第一オーケストラの下方に、管とティンパニは第一オーケストラより上方に書かれています。その点からも、第一オーケストラがソロ群として扱われていることが分かります。新しい形のコンチェルト・グロッソと言ったらいいでしょうか。
――ということは、たとえば、モーツァルトなどの独奏楽器群対オーケストラという協奏交響曲などとは、やや肌合いが違うわけですか。
そうです。ソロ群がひじょうに拡大されてしまって、それ自身一個の小オーケストラにまで成長した形です。そのため第一オーケストラの弦楽合奏と第二オーケストラの弦楽合奏とが対話ふうに噛み合う箇所も、第二、第四楽章などに出てきます。そんな所はバルトークの《弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽》のような書き方です。余談ですが、二群の弦楽合奏を対立させた曲は一九世紀末に作曲されたレーガーの組曲などにも見られるので、バルトークはもちろんレーガーの作品を知っていたと思いますが……。
それからもう一つ、さっきちょっと言いましたけど、マルティヌーの一九四九年作のSinfonia concertanteのほうは、ハイドンの変ロ長調の同名の曲を聴いた感銘から作曲したので、ヴァイオリン、オーボエ、ファゴット、チェロの四人がソロになっているので、これは完全に古典派ふうの協奏交響曲です。一九三二年の作品は、歴史的には一八世紀末のパリのSymphonie concertanteのスタイルと、それよりやや古いバロック末期のConcerto sinfonia、つまり二〇世紀の「オーケストラのコンチェルト」の前身、それにバロック中期以来のConcerto grosso、 そういったものの全部が一緒になっているようなスタイルだと思います。
●ビエロフラーヴェク指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団〈外盤〉(スプラフォン)
プロコフィエフ
Sergei Prokofiev
(ソ連)
1891〜1953
交響曲 第二番 ニ短調 作品四〇
アレグロ・ベン・アルティコラート
アンダンテ、テーマとヴァリエーション
祖国復帰に踏み切るモメントになった作品
――プロコフィエフは、グリエールに学んだことがあるんですってね。
プロコフィエフの親父さんはユダヤ人の大金持で、モスクワから九〇〇キロも南のドネツ盆地のある村に広大な土地を持っていました。プロコフィエフはそこで生まれ、育ったのですが、彼が一一歳と一二歳の夏に、そこに家庭教師として招かれて、少年の音楽の相手をしたのがグリエールだったのです。
二人は一六歳しか年がちがわないから、グリエールもまだ無名の青年時代ということになりますか。グリエールは楽器法やアナリーゼや実際の作曲もこの少年に教えたし、チェスの相手もしたそうです。
――親身にあふれた先生だったんですね。
何しろソヴィエト・ロシアでは、スターリン賞とジダーノフ批判のおかげで、ふだん陽の目をみている作品の数がひじょうに限られていたわけです。これでは作曲家の全体像などつかめるはずがないのですが、今ではプロコフィエフやショスタコーヴィチの作品で上演禁止のものなどありません。しかし、長年の習慣から、プログラムが固定化していて、なかなか改まりません。プロコフィエフの交響曲第二番、第三番、第四番などはほんとうに、なかなか聴くチャンスがないのです。
――プロコフィエフは第一番が、《古典交響曲》ですね。
そう。もっともグリエールのレッスンの最後にも交響曲を一曲書いたそうですが。それを別にしてふつう《古典交響曲》が第一番です。第二番はその七年あと、一九二四年の秋の作です。パリ滞在第二年目くらいですか。ただ、その第二楽章〈テーマとヴァリエーション〉は一九一八年の日本滞在中にスケッチしたというんです。第二番完成の直前にはドイツの山の中でオペラ《火の天使》やピアノ・ソナタ第五番を完成し、またバレエ《鋼鉄の歩み》や五重奏曲などが第二番のすぐあとにくるのです。
――この頃、プロコフィエフは、やや、スランプの時代にあったはずですね。
今のことと関連して、結局プロコフィエフにはパリの水が合わなかった、ということじゃないかしら。ディアギレフは彼のバレエをやってくれないし、ストラヴィンスキーとも仲たがいするし、要するにバルトークやプロコフィエフの、あくの強い民族色はパリでは受けないでしょう。まあ第二番にしろ、他にあげた作品にしろ、ずいぶん当時のモダニズムに近づこうと努力している跡はあります。しかし、この第二番もパリの聴衆には全然好かれなかったのです。
――プロコフィエフは自伝の中に「この曲が、あまりに対位法の線が重すぎて、成功とはいえなかった」と書いておりますね。
むしろ、ニ短調の交響曲といいながら、主要主題が五音音階の響きを残しながらどんどん転調していく、それも表現主義的な広い音域をかけ廻るスタイルでね……。これだけでも当時のパリでの成功はむりでしたでしょう。パリは流行に敏感な都会ですもの。《鋼鉄の歩み》ふうのメカニズム讃美の感じと、バーバルな野性味との大胆な混合も、聴き手にはショックだったでしょう。今じゃ何でもないのですがね……。
――また、自伝の話に戻りますが、同じ文章の中で、「そのとき、はじめて自分が二流作曲家たるべく運命づけられているのではないかと疑惑を持った」とありますが……。
批評もよくないので相当こたえたのです。その前にピアノ協奏曲第二番も冷たく受けとられたし、ピアノ協奏曲第三番やオペラ《三つのオレンジへの恋》さえもパリでは不評だったのです。だから思い切ってロシアへ帰ろうと思うようになりました。しかし、一〇年も考えた末の一九三三年になって、やっと実現したのですが……。
つまりユダヤ人の彼は夫人もスペイン人だし、できれば亡命したままで創作活動をつづけていきたい。しかし、ロシアの風土のほうが自分の体質に合うようだと大いに悩んだ末、パリの聴衆の冷たい仕打ちがきっかけで、祖国復帰に踏み切ったのです。この交響曲第二番が、そのもっとも重要なモメントになったというわけです。
●ロストロポーヴィチ指揮 フランス国立管弦楽団〈86〉(エラート○D)
交響曲 第三番 作品四四
モデラート
アンダンテ
アレグロ・アジタート
アンダンテ・モッソ
中世の呪術的世界を色彩豊かに描く
――プロコフィエフの交響曲は、第七番まででしたね。
そうです。惜しかったですね。あと二年生きれば第九番まで行ったでしょうに。ポピュラー名曲の《古典交響曲》が第一番で、これが一九一六年から一七年にかけてだから、二五〜二六歳の時です。そして最後の第七番は一九五一年から五二年にかけての作品です。だから六〇歳から六一歳にかけてで、彼はその翌年の一九五三年に、スターリンの死んだ日に亡くなりましたから、第七番はほとんど死の直前の作です。第三番の作曲は一九二八年です。初演は一九二九年五月一七日、ピエール・モントゥーがパリでやった、とあります。
――というと、プロコフィエフがヨーロッパに亡命していた時代。
そうです。彼はロシア革命の直後に日本を通ってアメリカに亡命したのですが、それが一九一八年のことで、三年あまりニューヨークやシカゴで活躍したあと、一九二二年にヨーロッパに定住します。もっともアメリカ時代にも二度ほどヨーロッパを訪れています。
そして、ともかく一九二二年三月に南ドイツのバイエルンのエッタールという小さい村に住みつきました。その隣の村はオーバーアンマーガウといって、中世以来の受難劇を村人たちが一〇年に一度上演することで有名です。そこで彼はアメリカ時代から暖めていた《火の天使》というオペラにとり組むのですが、その題材が中世の神秘主義的なものなので、オーバーアンマーガウの雰囲気がぴったりだったのかもしれません。しかし、一九二三年にはパリに移り、そのオペラは一九二七年に八年越しで完成します。そして実は、そのオペラのモチーフを使って一九二八年に交響曲第三番が書き上げられたのです。
プロコフィエフという人は苦吟型というか、ある意味では一生スランプみたいな人で、どんな作品にもそんな苦闘の痕跡があって、それがまた一種の魅力なんです。しかし、ともかくパリ時代、つまり一九二三年からソヴィエトに帰る一九三二年までの八年間は、周囲から認められることが少なかった時代です。一九二四年の交響曲第二番がパリでは不評だったし、《火の天使》も一九二六年にベルリンでブルーノ・ワルターが上演する予定だったのが流れてしまう。ストラヴィンスキーや「六人組」のさかんな活躍を見るにつけても、大いにくさっていた時でしょう。一九二七年、二八年頃はプロコフィエフはほとんど新作がないんです。やっぱりスランプが目立っていた時期でしょう。
――《火の天使》ですが、その歌劇の素材を用いたのは、なにか特別な理由でも。
まあ、擬古典主義の交響曲第一番、構成的な交響曲第二番のあと劇的で抒情的な第三番を書こうと考えたとすれば、未初演のオペラの素材で組み立てることは誰でも思いつきそうなことです。そもそも、《火の天使》がシンフォニックなオペラなのだし、多少はスランプ状態にあって、スケッチから新たに新作の稿を起こすのがおっくうだったのかもしれません。
――そういえば、交響曲第四番と、《道楽むすこ》との関係に似ていますね。
第四番はバレエ曲《道楽むすこ》のモチーフを使った交響曲でした。《火の天使》と第三番のすぐあとの一九二八年と一九三〇年の作です。やはり苦しい時代だったんでしょう。ところで、この交響曲第三番は、とにかくプロコフィエフ自身、標題音楽的に見てくれるな、と言っている通り、モチーフは《火の天使》からとってはいますが、純シンフォニックに作られているのです。
しかし、《火の天使》はすごい曲です。二時間ほどかかりますが、そのうち一時間半は、レナータというソプラノの主役がエネルギッシュに歌いまくるんです。だから、このオペラの初演は、やっとまず演奏会形式で一九五四年にパリで行われ、舞台では一九五五年のヴェネツィア上演がはじめてです。どっちにしても作曲者の死後です。そして五七年にヴェガのレコードに録音されたのですが、私は一時よくそれを聴いたものです。全曲放送の解説も二、三回やったおぼえがあります。
ともかくオペラのライトモチーフをおぼえてしまうと、第三番が親しいものになるし、オーケストレーションのおもしろさやテーマの対照のうまさにあらためて感心します。たとえば第一楽章で冒頭と最後に出る音型は、オペラの主役で、ちょっと狐つきみたいな状態になる少女のレナータのテーマだし、第一主題に当たるものはレナータが見たマディエルという火の天使への彼女の愛のテーマなんです。第二主題には騎士ループレヒトのテーマが使われるなど、中世の妖気がこもっています。第二楽章アンダンテの中間部のヴァイオリンのひく半音階の音域のせまいメロディーは占い女のモチーフだし、第三楽章のスケルツォはオペラの第二幕で、何か怪しげな魔術を使って小悪魔を呼び出す場面の音楽です。
ひじょうに色彩的な音楽です。ベルクの《抒情組曲》を思い出すような響きです。またフィナーレの冒頭は、あれは不吉な予感をあらわすモチーフで、やがてサタンのテーマがヴァイオリンに出る、といった具合なんですが、さっきも言ったように、標題的なつながりは全くありません。しかし、何といってもオペラの雰囲気は濃厚に残っています。
●ムーティ指揮 フィラデルフィア管弦楽団〈90・91〉(フィリップス○D)
組曲《キージェ中尉》作品六〇
キージェの誕生
ロマンス
キージェの結婚
トロイカ
キージェの埋葬
内なる祖国愛とヨーロッパ的モダニズムからの逃避
――プロコフィエフの《キージェ中尉》! これは映画音楽として作曲されたのですね。
そうです。しかし、組曲として形を整えてあるし、オーケストレーションなんかも映画の時とは、おそらく違うんじゃないかと想像しますけどね。まあ、たしかに映画音楽だから分かりやすい作品ということもありますが、本質的には二つの原因があります。一つはこの滑稽な、軽い筋書きにマッチした音楽ということで、おそらくコダーイの《ハーリ・ヤーノシュ》がプロコフィエフの頭にあったのでしょう。
もう一つは直前のパリ時代の作品が受けなかったので、思い切って語法の転換をはかったこと。むろん、祖国復帰後の第一作でもあるし。そもそもこの二つのこと、つまり作風を簡素な古典的なものに変えることと、ソ連に帰ることとは彼の内部では堅く結びついているのであって、どちらが原因でどちらが結果と割り切ることはできないと思うのです。
――いわゆる大衆のための音楽というものですか。
それがむずかしいんですよ。そもそも大衆とは何か、ということになります。ともかく一九三三〜三四年におけるソヴィエトの社会と、アメリカやヨーロッパに一〇年あまり暮したプロコフィエフとの最初の接点に生まれた音楽がこれなのです。ソヴィエトでは、かつて暮した欧米のように、音楽会の聴衆やレコード・ファンといった好楽家を目当てに、曲を書くということが無意味なことを彼もよく知っていたでしょうから。
たしかに一九三〇年代のスターリン時代の作曲界については、未だに分からないことが多いのです。誰と誰がいつ批判されたとか、禁止されていた作品のリストなどは分かっていますが、プロコフィエフにしろショスタコーヴィチにしろ、その本心は謎です。プロコフィエフも、もし日記のようなものがあって、それが公刊されれば、と思いますが。
しかし、プロコフィエフは、さっきも申し上げたように、一九二〇年代のパリ、つまりストラヴィンスキーと「六人組」の、新古典的な作風の持てはやされていたパリでは、全く受けなくなってしまったのです。
たぶん経済的にも追いつめられていたのでしょう。どっちにしても作風を転換しなけりゃならないのなら、ということで彼の内なる祖国愛のほうにひかれてソヴィエトに帰った、ということじゃないでしょうか。あの時点でのヨーロッパ的モダニズムからの逃避です、たしかに。
――この「キージェ中尉」の物語というのは、なかなかおもしろいものですね。
「キージェ」という名前は、皇帝ニコライ一世が部下の報告を読みまちがえたために生じた架空の名前で、その実在しない人物がシベリア送りになったりという、まあロシアふうのブラック・ユーモアという感じが多分にあります。
●テミルカーノフ指揮 サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニー管弦楽団〈91〉(RCA○D)
オネゲル
Arthur Honegger
(スイス)
1892〜1955
交響曲 第三番《礼拝》
怒りの日
深き淵よりわれを呼びぬ
われらに平安を与え給え
第二次世界大戦への反省、犠牲者への祈りの音楽
――オネゲルというのは、たしか「六人組」でしたね。
まあね。といいますのはね、じつはこの「六人組」Les Sixというものの実体は、きわめてあいまいで、命名は一九二〇年に、あるジャーナリストが新聞記事にした時、生まれたものですが、「六人組」が一体となって活躍したことなど、かつていっぺんもないのです。
――それじゃ、名前は似ていてもロシアの「五人組」とは、大ちがいですね。
まあ強いていえば“六人のアルバム”というピアノ小曲集が一冊出ているけれど、一九二一年に《エッフェル塔の新婚夫婦》というバレエを共同制作した時にはすでに一人脱けているし……。
その時はオネゲル、ミヨー、プーランク、オーリック、タイユフェールの五人で、デュレーはすでに脱落していたのです。要するにまぼろしのグループ、ジャーナリストの生んだ虚名といいますか。だから近頃はあまり言われなくなりました。要するにみんなそれぞれ個人として活動したわけです。
――オネゲルは、たしかスイス人でしたね。
そうです。しかもドイツ語地域のチューリヒ出身の両親の下で生まれた。ただ、生まれた場所はフランスのル・アーヴルですが、少年時代の勉強は故郷でした。チューリヒの音楽院をいったん卒業して、それからまたパリで修業したのです。だから自分の中にはドイツ的――プロテスタント的な半分と、フランス的――カトリック的なもう半分とが同居している、とオネゲル自身告白しています。
――あ、それで思い出したんですけれども、『私は作曲家である』という対話集は、たいへんペシミスティックな考えにあふれているそうですが。
オネゲルも、あの対話をした頃は健康に自信をなくしていたし、米ソ間の冷戦の高まりという世界危機のさなか、という背景もあったし、そんなことでひじょうに暗い面が強く出ているのです。だからといって彼が本質的にペシミスティックな思想の人間だった、というわけではないと思うのです。若い頃の作品はみずみずしい活力にあふれているし、最後の《クリスマス・カンタータ》だって、考えようではずいぶん楽天的な音楽です。いろいろなキャロルなど寄せ集めてね。とてもペシミスティックな思想の人間の作品には見えません。
――すくなくとも、私が知っている《機関車パシフィック231》や《ラグビー》の作曲家像とは、結びつきません。それはそうとしてオネゲルは、バッハに傾倒したときいております。これは、彼の作品における対位法的な動きの重視と、なんらかの関係があるようにも思えますけれども。
いわゆる「六人組」の誕生の頃、つまり第一次大戦直後の新古典主義の作風は“バッハにかえれ”が一種の合言葉で、後期ロマン派の大げさな、感情過多なスタイルを脱するために、みんなバッハを、よりひろくいえば古典からバロックに遡ったところに焦点を合わせようとしたのです。和声的なスタイルより対位法的な、キビキビした線の動きを目指したこともたしかです。オネゲルはあの機関車の美を音で描いた《パシフィック231》さえも、バッハの二五のコラール前奏曲の形式を念頭に置いて作曲したと告白しているくらいです。
《ダビデ王》なども、バロックのカンタータやオラトリオの形式を踏まえていると言えます。交響曲第三番《礼拝》の各楽章の題はカトリック典礼の歌からきているけれど、オネゲルの音楽のバックボーンはバロックのプロテスタント音楽の諸形式にあります。
――そのことですけれど、各楽章には、Dies Iraeとか、De Profundisとか、Dona Nobis Pacemとかずいぶん風がわりな註釈がついていますね。
これは前の二つはお葬式に関係のある祈りの文句です。〈ディエス・イーレー〉は死者のためのミサ――通称〈レクイエム〉の前半部にあるセクエンツァの冒頭句で、怒りの日、つまり最後の審判の日の恐ろしい情景を韻文で綴ったものです。〈デ・プロフンディス〉はミサのあとの埋葬式の時唱えられる祈りで、「詩篇」の一二九篇でしたか、これは。そして最後の楽章の〈ドナ・ノービス・パーチェム〉は、まあいろんな所に出てきそうな言葉ですが、ふつうはミサの終り近い〈アニュス・デイ〉、神の仔羊の祈りの結びの句です。
この曲は彼の故郷のチューリヒで初演されたのですが、同じ年にやはりスイスのバーゼルで初演した交響曲第四番には〈バーゼルの喜び〉の副題がついていて、これは第三番と対照的な歓喜の調べにみちています。この二つは一対なので、第三番だけに彼の特徴というか本領――つまりいわゆるペシミスティックな――が表われている、というふうには断定できないと思います。ただ、この第三番や、同じく暗い第五番が、彼の明るい曲よりもしばしば演奏されることはたしかなことなのですが……。ただ、あの『私は作曲家である』という本が出てから、オネゲルといえばペシミストと答える、という解説のパターンが出来上っているのは困ったことです。
第三番は第二次大戦終結の一九四五年から翌四六年にかけての作ですが、一九四〇年代にはオネゲルに限らず、こういった第二次大戦への反省、犠牲者への祈り、そして平和を希求した内容をもつ音楽が、じつにたくさん生まれました。カンタータもあれば交響曲もありますが、やはりこの時代のスタイル、雰囲気というものがはっきり出ていておもしろいですね。他の時期のものとちがって一種のセンチメンタルな、また感情過多の面があると思います。なまなましい感情を音に写しているとでもいうようなね……。
●デュトワ指揮 バイエルン放送交響楽団〈82〉(エラート○D)
ヒンデミット
Paul Hindemith
(ドイツ)
1895〜1963
フィルハーモニー協奏曲
主題(落ちついた歩みで)
第一変奏(中庸の速さで)
第二変奏(非常に落ちついて)
第三変奏(中庸に生き生きと)
第四変奏(落ちつきある動きをもって)
第五変奏(軽やかな動きをもった歩みで)
第六変奏(行進曲のテンポで)
純ドイツ的な音楽イデーの展開、フルトヴェングラー初演の祝典音楽
――ヒンデミットが亡くなって、もう何年になりますかしら……。たしか年末でしたよね。大掃除していてニュースを聴いていたんだから……。
一九六三年一二月二八日です。当時私が担当していたラジオの「音楽ハイライト」の番組を録音している最中に、彼が死んだという電話が外信部に入ったので、ヒンデミットがイギリスのキング・ジョージ五世の葬儀のために作曲した曲のレコードを資料室から出して貰って、彼の話を最後につけ足したのを憶えています。
――私、このあいだフルトヴェングラーの伝記を読んでいて、いわゆる「ヒンデミット事件」ということを知ったのですが、やはり、これは彼の一生の中で、忘れることのできない出来事だったんでしょうね。
これは、ヒンデミットの交響曲《画家マチス》の上演をナチがやらせまいとしたのに、フルトヴェングラーが抵抗したのに端を発しているのですが、まあ、あれがヒンデミットの生涯を二分する大転機です。彼はユダヤ人じゃなかったのに。しばらくスイスにいて、それからアメリカに渡ったんです。こういうことがなければ、もっと違った音楽家になっていたかというと、さあ、これはむずかしい。それは、誰でも亡命作曲家はアメリカの音楽生活の影響を受けていますよ。とくに教育用の作品などではね。
しかし、たとえばシェーンベルクはパリをへてアメリカに亡命しますが、最後まで頑固に一二音の作風を守りぬき、音列の展開の技法をますます深めました。バルトークはかなりアメリカの音楽生活の影響を受けました。彼の場合は肉体条件の悪化ということもありました。ヒンデミットの場合はアメリカという環境の影響を強く受けているにちがいないのですが、もともと彼の中に、調性を守り、職人的な音楽家気質を重んじ、無調一二音の作風に反対する傾向、素質があったわけです。だから、周囲がどうであれ、晩年には透明な、新古典的な様式にいったのではないでしょうか。ヨーロッパ時代のオペラ《画家マチス》、したがって交響曲《画家マチス》にすでにその徴候が出ています。その傾向がアメリカに渡ってから加速されたことは確かです。
――作曲家としてだけではなく、ヴァイオリンやヴィオラの演奏家としても一流だった? たしか、チェロのフォイアマンらといっしょに演奏したトリオのレコードを聞いた覚えがあるんですが……、ベートーヴェンの作品八番の《セレナーデ》だと思いましたけど。
二〇歳の時からフランクフルトでコンサート・マスターをやっていたし、室内楽で第二ヴァイオリンやヴィオラも奏いたのです。しかし、ヴィオラ奏者として一流だったというのはどうでしょうか。プリムローズのようなヴィルトゥオーゾを一流というなら、かなり開きがあるでしょう。
――彼は、一八九五年の生まれだから、まさしく二〇世紀の人間ですね。それで、作曲家として活躍するようになったのは、いつ頃ですか。
第一次大戦直後です。まさに彗星のように現われて、各地の音楽祭でぞくぞく新作を発表しました。一九二〇年代前半の彼は阿修羅のごとき大活躍ぶりでした。強烈な不協和音、ぎくしゃくした線、いわゆる表現主義、したがって無調にずいぶん近かったのです。しかし、シェーンベルクのような徹底的な無調はとらなかったのですが。ピアノの書き方も、いわゆるピアニスティックな用法をわざと避けたりして、ドイツ随一のアヴァン・ギャルドだったのです、当時の彼は。
いわゆるNeue Musik(ノイエ・ムジーク
新音楽)と呼ばれる季節の、彼はチャンピオンでした。クルト・ワイルなどが出た時代です。しかし、Philharmonisches Konzertの前後の円熟期になるとだいぶ変わってきます。このPhilharmonisches Konzertはベルリン・フィルの創立五〇周年記念に、フルトヴェングラーに頼まれて作曲したのです。ベルリンでは、ただPhilharmonieと言えばベルリン・フィルのことです。バスの行先札だってただPhilharmonieです。
他ならぬベルリン・フィルのためなのですから、彼はそれを最高の芸術にまで高めたのです。古来の大作品にはそういうのは多いでしょう。戴冠式のため、結婚式のため、落成式のため……。それから、このKonzertという字ですが、これはここではバロック以来その伝統のあるオーケストラの協奏曲です。特定のソロ楽器を立てないけれども、各パートともコンチェルタントによく動くスタイルで、バルトークの《管弦楽のための協奏曲》と同じカテゴリーです。
ただしヒンデミットでは変奏形式ですが、第五変奏あたりにヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのソロがオーケストラを背景に華やかなクライマックスを作ります。ここだけは普通の意味でのKonzertに近いです。
――Philharmonisches Konzertは《フィルハーモニー協奏曲》と訳していますが……。
これはかつて外山雄三さんが、N響を指揮して放送したことがありました。一九六一年二月、都市センター・ホールでの公開録音でした。これはヒンデミットのオーケストラ音楽の最高峰です。室内楽の最高峰は一九三三年に書かれた弦楽三重奏曲第二番でしょう。ついでですが、その曲もゴールドベルク、ヒンデミット、フォイアマンの三人でSPレコードに入っていました。そしてカンタータふうの曲では、三一年に書かれたゴットフリート・ベンの詩による《無限のもの》、オペラでは三四年の《画家マチス》……。つまりこの亡命直前の時期に書かれたいくつかの作品が彼の絶頂期を代表しています。
だから《フィルハーモニー協奏曲》は一九三二年という時点で、ドイツ最高の指揮者、最高の楽団、最高の作曲家の合作に成る記念碑ということでしょう。内容や形式はブラームスの《ハイドンの主題による変奏曲》の精神をつぐものと言えます。つまり純ドイツ的な音楽的イデーの展開です。一九三三年にヒトラーのナチが天下をとるので、この曲の初演は第三共和国の最後の音楽的閃き、といったらいいかしら……。それから、もしオーストリアのシェーンベルクをもドイツの音楽文化圏に数えるなら、彼の一九二八年の《管弦楽のための変奏曲》作品三一がまさにこの曲と対をなしています。そのシェーンベルクの曲もフルトヴェングラーとベルリン・フィルが初演したのです。その後ナチに逐われるまで、シェーンベルクもベルリンで活動していたのです。
●クライネルト指揮 ベルリン放送交響楽団〈外盤〉(ベルリン・クラシックス)
ウェーバーの主題による交響的変容 作品九〇
アレグロ・コン・ブリオ
アンダンテ
ポーコ・アレグレット
アレグロ
換骨奪胎の妙味と即興演奏の精神、親しみやすいテーマで楽しめる
――この曲は、いつ頃の作品ですか。
私は終戦直後に、WVTRと称していた時代の米軍放送のクラシック・アワーで、はじめて聴いたのですから、第二次大戦中の作品でしょうね……。そう一九四三年です。ナチによる苦難の時期をさんざん体験し、ついに、ドイツを逃げ出したあとです。とにかく私も一九三四年作の交響曲《画家マチス》までしか知らなかったところへ、はじめてこの作品を聴いた時には、耳を疑ったものでした。作曲家というのは、こうも変わり得るものかと驚きました。
――ドイツにいた頃の作品と、アメリカへ渡ってからの作品とでは、かなりいろんな点で違いがみられるのでしょうね。
大ちがいです。一九三二年の《フィルハーモニー協奏曲》は、ベルリン・フィルの五〇周年記念に作曲してフルトヴェングラーが初演した曲であることは前述しましたが、あの曲の密度の高さと、この《ウェーバーの主題による交響的変容》におけるポピュラーな姿勢とは、まさにベルリンとニューヨークの音楽文化の相違に対する、ヒンデミットの「批評」みたいなものです。むろんどちらも大家の筆に成る、朗々と響く音楽ですが。まあ、それと、彼は若い頃から効用音楽Gebrauchsmusikということを提唱していたのです。つまり目的に合致した音楽を作曲する、ということで、その点ではアメリカの聴衆にも理解される作風で書く、ということは彼の年来の音楽観と一致しています。
――この《ウェーバーの主題による交響的変容》ですが、ヒンデミットが、その主題をウェーバーに求めたのは、なにか特別な理由があったのでしょうか。
強いて言えば二人とも職人気質の勝っている点で類似しています。キビキビと運動的で、目的に適った作風をとり、オペラで成功した点も似ています。何と言うか、北ドイツでもないし、南ドイツでもないし、オーストリアでもない、中部ドイツの特質をもっていますね、二人とも……。
――楽章は三つですね。それでウェーバーの主題というのは、どんなふうに使われているのですか。
ええと、四つの楽章があるんじゃなかったかしら……。そうですね。ヒンデミットはこの曲のすぐ前に《四つの気質》という曲を書いているんです。ヒッポクラテスの例の憂鬱質、多血質、粘液質、胆汁質でしたかね、バレエの音楽ですが。それで、私は多少この曲にその影響がありはしないか、と前から感じているのですが。テーマはウェーバーのピアノ連弾曲や《トゥーランドット》への付随音楽です。プッチーニがオペラにしている《トゥーランドット》です。
それからブゾーニもたしか付随音楽を書いているでしょ。しかし、私はいつもこのヒンデミットの曲のフィナーレにくると感じるのですが、あの中程でホルンが吹く旋律は早稲田大学の校歌とそっくりですよ。ええと、「現世を忘れぬ久遠の理想、輝く我らの行手を見よや」って所ですよ。ね、似ているでしょう? じつに……。
――ところで、この「交響的変容」というのは、どういうことなんですか。
この曲の場合はルネサンス末期に流行するパロディー・ミサのような具合に、大筋はウェーバーの原作を変えずに、それを下敷にして好きなように書き直したのです。いわば換骨奪胎ですね。
だから、もし原作をよく知っていれば、どこをどう変えたか、というのが一つの興味です。たぶんヒンデミットは、ウェーバーの連弾曲なんか家庭音楽として子供の時から体に滲み込んでいるでしょうから。しかし、原作を知らない人でも、テーマが親しみやすいから大いに楽しめる、という二重の効用を考えたのじゃないですか。
――どうも「変容」というのは、難しい言葉ですね。リヒャルト・シュトラウスの《メタモルフォーゼン》や《死と変容》のときにも少しおうかがいしたのですが。
とにかく変奏曲とは言えないし、たんなる編曲、アレンジともちがうし、トランスクリプションでもないですから、結局この辺の「変容」に落ちつくのです。ドイツ人は昔から、既成の曲をメタモルフォーズするのがわりに好きなのです。広い意味で即興の演奏の精神に通じます、これは。
しかし、むろん彼ら西欧の知識人がメタモルフォーズという言葉を使う場合、ローマの詩人オウィディウスのMetamorphoses(田中秀央・前田敬作訳『転身物語』一九六六年、人文書院)の無限に豊かな幻想を踏まえているわけです。それが根底にあるのを忘れることはできません。
●バーンスタイン指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団〈89〉(グラモフォン○D)
ショスタコーヴィチ
Dmitry Shostakovich
(ソ連)
1906〜1975
交響曲 第一番 作品一〇
アレグレット―アレグロ・ノン・トロッポ
アレグロ
レント
アレグロ・モルト―レント―アレグロ・モルト
秀才のデリケートな卒業制作、絶讃そして孤絶への大いなる第一歩
――ショスタコーヴィチの交響曲第一番は、彼の音楽学校卒業作品として発表されたのでしたね。しかも、ひろく世界に大々的に紹介されたのでしょう? ある作曲家の最初の交響曲が、こんなにセンセーショナルな話題を集めたというのは、むしろ、珍しいことではないでしょうか。
日本初演はたしか山田耕筰の指揮ですよ……。ああ、『N響四〇年史』によると昭和六年一〇月の第九六回定期演奏会です。当時山田さんはソ連を訪れていますが、帰国直後にこれを紹介したのだったと覚えています。作曲後五年目になりますか。もっとも私はこれを聴いていませんが、ローゼンシュトックがN響の第一八二回定期演奏会――つまり昭和一二年九月ですが、この時の演奏は聴きました。その頃はすでにビクターのSPでストコフスキーとフィラデルフィアのレコードが出ていて、私たちはこれをよく聴いたものです。
実にさっそうとしたモダンな音楽だと思ったものです。ブルーノ・ワルターがベルリン・フィルで演奏をしたので一躍、一種の流行児になったのですね、この作品は。まあ、同じ頃のオネゲルの《パシフィック231》とか、近年ではブリテンの《戦争レクイエム》とか、何かの拍子に波に乗る作品というのは時々出るものです。文学でも同じじゃないですか。いかにも新しい国ソヴィエトの天才的な若者の書いた音楽という、強烈でフレッシュな感じが受けたんです。当時の現代作品の間に置かれた場合、じつに光っていました。
――ショスタコーヴィチという人は、音楽学校在学中から、急進的な傾向を示していたのですか。
必ずしも急進的ということではないでしょう。もちろん、ソ連の国内ではそうですが。西欧では、第一次大戦後のヨーロッパのモダニズムの最先端よりは、むしろちょっと後退した所でやっている、と感じたことでしょう。だからこそ、急速に受け入れられたのですよ。当時ソ連でどう評価されたのか、興味がありますね。専門家は注目したでしょうが、一般の聴衆との間には大きな距離があったことでしょう。
卒業作品であり、また最初の交響曲であるとすれば、練りに練って作曲されたと思われるでしょうが、それはどうですかね。だいたい卒業作品というのは期限ギリギリまで時間に追っかけられるのが普通じゃないかしら。練りに練ったというよりは荒けずりのというか、素直にパッと物を言っている、その魅力のほうが大きいのじゃないかしら……。
ショスタコーヴィチの出世作というのも、ちょっとちがう感じがしますがね。もともとソ連の作曲界では、そういう言葉が不似合な気がするのですが、ともかくショスタコーヴィチという作曲家がここにいる、という宣言みたいな受け取られ方をしたのじゃないかしら。まあ出世作でいいのかな?
――さっき先生は、モダンだとおっしゃいましたが、ずいぶんアカデミックな形式の交響曲ですね。
そうなんですよ、いま考えればね。どうしてあんなにモダンに思えたのかしら。当時はもちろんバルトークもシェーンベルク一派も知られていませんでしたから。ストラヴィンスキーは初期の主な作品はたいていレコードになっていたけれど……。プロコフィエフよりもクールな、突き放した感じが魅力だったのでしょう。これはのちのショスタコーヴィチには見られなくなるものですが……。しかし、ショスタコーヴィチの先生のグラズノフと、チャイコフスキーとどっちに近いかというと、かなりチャイコフスキー的な面もあります。チャイコフスキーの同じへ短調の交響曲第四番との類似をいつも私は思うのですが。もちろんあからさまじゃありませんが。
――そのころのソヴィエト楽壇の動向は、どうだったんですか。
一九二六年当時はまだ自由でした。政治における進歩的、急進的という意味と芸術におけるそれとが、漠然と並行関係にあるように容認されていて、だからヨーロッパのモダニズムはシェーンベルクであれ何であれ、ソ連で演奏されていたのです。そうしたものが批判の対象になったのは一九三〇年代に入り、いわゆるスターリニズムが強化されて後のことです。しかし、ソ連の作曲界の西欧化の音楽的な根というものは、すでにリムスキー=コルサコフやグラズノフの作風のうちにあったので、一九〇〇年代以来のものです。さらにはスクリャービンのようなひじょうに進歩的な例もあったし……。
――各楽章が、それぞれ長三度ずつ高くなっていくというのはおもしろいですね。
ええ、しかし、楽章を三度高くあるいは低く並べるのはロシアの交響曲にはわりに多いのじゃないかしら……。ああ、たとえばグラズノフの交響曲第二番や第七番ね、彼はショスタコーヴィチの先生でしょ。しかし、その調性関係はドイツ・ロマン派にもあるわけで、ブラームスの交響曲第二番もそうです。ただし長三度ばかりではなく短三度も入りますけれど……。それから、ショスタコーヴィチの交響曲第一番は、各楽章ともイントロダクションでは、わりに調子が分かりにくく作られていて、主部のテーマへいってはっきり分かるような書き方です。私は第一楽章のヘ短調のイントロダクションは、同じ調子のチャイコフスキーの交響曲第四番のイントロダクションのハーモニーを要約して、ちょっと形を変えたのじゃないかと思っているのですがね……。
――これは、手厳しい。ところで、ショスタコーヴィチの交響曲は、第一番のあと、ずい分いろいろな様相を辿りましたね。
交響曲第一番から第一五番までの作風そのものと運命、つまりある作品は上演拒否にあい、他の曲は絶讃の嵐に包まれるなどの上演後の経過は、そのままソ連政治史の反映として受けとれます。この第一番さえ、あの芸術上無統制な自由な季節というものの反映として見ることができますから。ジダーノフ批判を別にしても、たとえばエフトシェンコの詩が終曲で歌われる第一三番も、自由化の行きすぎのきらいがあるとされて、のちに改作せざるを得なかったのです。作曲が六二年で改作が六五年ですが……。
しかし、党から批判されても、批判されても、つぶれずに立ち上がっていくヴァイタリティーというか図太さというか、これは大したものです。これだけ強靭な神経をもった作曲家はいないでしょう。しかもこの第一番のように繊細でデリケートな卒業制作を書いて音楽学校を出た秀才が、ですからね。
●アシュケナージ指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団〈88〉(ロンドン○D)
交響曲 第五番 作品四七
モデラート
アレグレット
ラルゴ
アレグロ・ノン・トロッポ
彼の交響曲の中では最も安泰な運命をになう
――この曲は“革命”交響曲だと、なにかの本に書いてありました。それからまた、ある評論家は、この曲の各楽章にかなり明確な標題的内容を持たせ、たとえば第四楽章は苦悩の解決だ、などといっているのを読んだことがあります。
この曲を「革命交響曲」ということがあるのですか? 私は初耳だけど、日本のレコード会社あたりの商策じゃないんですか? ただ、初演された日は一九三七年一一月二一日で、これはロシア革命の二〇周年記念日なんです。だけどその日のために書いたわけじゃないし、いわんや標題音楽じゃないです。第四楽章が苦悩の解決の感じということなら、そもそも大ていの交響曲がそうなんじゃありませんか?
――それもそうですね。この曲はショスタコーヴィチの全交響曲の中で、どんな位置に置かれるものなんでしょうか。
まあ、大へん幸運な作品、しかも作曲者の地位を安定させる上でも功績の大きかった作品、といえるのではないでしょうか。四番はゲネプロ(総稽古)中に撤回させられるし、第八番、第九番は四八年のジダーノフ批判でとくにひどくやられたし、結局ソ連内で作曲後ひきつづいて安泰だったのはこの第五番だけでしょう。国外では第一番、第五番、第九番がよく演奏されるけど、第五番は内外ともで、ずっとやられていました……。
――大衆の志向に合った音楽というわけですね。よくいわれる社会主義リアリズムとソヴィエト音楽との関係は、どうも実感としてつかめない気もします。
これは一般的にいうのはむずかしいです。日本と社会のしくみがちがうし、時代によっても相当ちがうから。まあ、第一次五ヵ年計画からスターリンの死までのほぼ二五年間というものは、作曲も音楽会の企画もすべて強力な官僚統制の下にあったわけだから、音楽と大衆の関係はほぼ一方交通です。与えられたものしか聴けない、それに対して官製の批評しか聞けない、ということだったでしょう。
社会主義リアリズムという理念は元来文学に対するもので、美術や音楽にこれをおろしてくると、その性質上多分にあいまいなことになってしまうのです。とくに純粋器楽の場合には、さらに加速しますね。
たとえばオラトリオ《森の歌》のように〈レーニンの党に栄あれ〉〈賢いスターリンに栄あれ〉という歌詞が歌われている場合、これは冷戦時代のアメリカでは演奏できませんよ。もっともスターリン批判後はソ連でだってやれないわけですが、第五番なら冷戦のさなかにだってアメリカの聴衆をさかんに喜ばせることができました。平易な、感動的なスタイルですから。
――それは分かります。それから、さきほどお話に出ました例の「批判」の問題なんですが、私たち、ソヴィエト音楽についての本を読んでいますと、よく「批判を受け、真剣に内省し」といったような文章にお目にかかるんです。そこで作曲家でもある先生におうかがいするんですが、こうした場合、芸術家としての信念と社会的イデオロギーとの問題は、どう解決されるのでしょうか。
ともかく全くちがう世界のことなので、私には確信をもってお答えする資格はないのですが、批判問題をめぐっての作曲家たちの弾劾演説や自己批判などの文章というものが、現在のわれわれの国でのように、起草から発表まですべて署名者の自由な意志で行われたとは考えられないのです。発表の場はすべて国家か党の提供の場であるし、徹底した検閲制度があったと考えるのが常識でしょう。
将来この人たちの心の日記が発表される日がくると興味深いのですが……。とくにショスタコーヴィチは作曲界の最大のホープとして、全作曲家の生活と生命までも背負っているという大きな責任があったので、発言も行動もつねに公的であり、いわば模範的同志たることが要請されていたと思います。
――その点、プロコフィエフの場合と、だいぶ事情が違うわけですね。
そのとおりです。ユダヤ人で、非党員で、かつて外国人を妻としていたプロコフィエフは、ずっと気が楽だったでしょう。彼は公式な声明は一度もしていないし、批判に自己弁護さえ試みていますからね。
――ところで日本初演は?
一九四九年二月のN響定期演奏会で山田和男さんが初演されました。それからこの曲のフィナーレにはちょっとしたミステリーがあって、というのはコーダの三五小節が西欧や日本で流布しているスコアでは、四分音符一八八というすごい早いテンポの指定になっていて、昔は有名指揮者のレコードもそのテンポでした。ところがオリジナルのソヴィエト版では八分音符一八四で、つまり倍ぐらいにぐっと踏んばって終るほうがほんとだったのです。
●スヴェトラーノフ指揮 ロシア国立交響楽団〈92〉(キャニオンクラシックス○D)
交響曲 第九番 作品七〇
アレグロ
モデラート
プレスト
ラルゴ
アレグレット
古典交響曲の形式感への憧れ
――これは初演が一九四五年一一月だそうですが、ということは第二次世界大戦終結直後ということになるわけですね。
ええ、八月三〇日に書きおえたのですが。ということは四月のベルリン陥落直後の頃から着手したのではないでしょうか。ともかく第二次大戦の完全勝利の明るい気分を、意識的に反映させた交響曲であることは確かです。「作曲家の憩いの家」とかいうところで書かれたのです。イワノヴォという所の、そういった施設で書き上げられたのです。
スターリン時代のソヴィエトの芸術は国家目的のために厳しい統制がしかれ、その反対給付として芸術家の生活は完全に保障されていました。そういう施策の一環として、オペラ一曲なら何ルーブル、交響曲は何ルーブル、室内楽はいくら、歌曲いくらという報酬の額が定まっていたし、しかもその作曲の期間中は住居と身の廻りの世話を国の費用でやって貰えたわけです。その代り公認のスタイルでしか書けないし、実験的な試みや書かないでいるという自由もありませんでした。そして独創的な作品はたちまち批判されて葬られたのです。
――ショスタコーヴィチの全交響曲の中で第九番の位置づけは?
第九番は形式上はもっとも古典的といえるでしょう。しかし、もちろんウィーン古典派ふうというのではなく、書法はひじょうにスラヴ音楽の伝統に沿っています。形式や調性の配置や楽章配置の図式はたしかに擬古典的なのですが。初演の反響も、とくにこの第九番などの頃には官製の絶賛的報道か、党の方針に合わないという否定的批判しか、少なくとも外部には伝わってこないわけです。しかし、この曲はだいたい一般の聴衆には喜ばれたと思います。作風や曲想から言ってそうだし、生命が長いこともその証拠になるでしょう。
――ところでこの曲は、むしろシンフォニエッタと呼ぶにふさわしい、といった意味のことを聞いた覚えがあるのですが。
さあ、どうでしょうか。ソナチナ、コンチェルティーノ、シンフォニエッタなどという縮小形は、たんに軽い曲想の、短めの、ということだけでなくて楽章数が少ないとか、単一楽章とか、シンフォニエッタの場合は、その上とくに楽器編成が小さくて一管編成や室内管弦楽編成の場合に主として使われる言葉なのです。第九番は編成も楽章数も標準ですから、これはあくまで一人前の交響曲でしょう。
第七番、第八番は標題的意味もあって、つまり内容的には交響詩みたいなものだし、編成と構成が膨大になりすぎているので、第九番にはたしかに古典的な形式感への憧れということがあるでしょう。戦争のあと、一部の作曲家にこういう欲求が起こるのは第一次大戦直後の新古典主義の勃興を見ても明らかです。よくベートーヴェンの第九番を意識してことさら軽快に書いたといわれるけれど。
――次に、あの話題になった批判問題についてお話し下さいませんか。
ムラデーリのオペラ《偉大な友情》をはじめ、ショスタコーヴィチの第九番その他が槍玉にあがったのは一九四八年の有名な“ジダーノフ批判”ですが、これは芸術上の問題じゃなくて、純政治的な問題です。文化粛正運動の一環として、四六年文学、四七年哲学、四八年音楽というプログラムに従ってなされた。その後スターリン死後五年目、批判が出されてから一〇年目に当る一九五八年に、この批判は党の指令という形で完全に撤回されているのです。プラウダに昔の批判がいかに誤りであったか、という公式の文章がのったのです。
――ストラヴィンスキーの影響だ、という指摘もなされた、とか聞いておりますが。
たしかに、初演の“好評”後しばらくたって、今度は“ストラヴィンスキーの影響”が感じられるとして公式に非難され、それが批判問題につながっていくのですが、しかし、今日私たちが、それじゃ第九番のどこがストラヴィンスキーに似ているか、などと考えるのは全くバカ気たことだと思うのです。つまり当時ソヴィエト音楽の世界で“ストラヴィンスキー”と言えば、ブルジョア的堕落頽廃音楽の最たるものを意味した一種の代名詞であり、符牒みたいなものだったんです。昔、日本の軍国主義者たちが、「アカ」の一言で思想家や学者を葬ったのと同じようなことじゃないかしら。
●インバル指揮 ウィーン交響楽団〈90〉(デンオン○D)
メシアン
Olivier Messiaen
(フランス)
1908〜1992
異国の鳥たち(ピアノとオーケストラのための)
導入部
ピアノ・カデンツァ
四羽の鳥の間奏曲
ピアノの小カデンツァ
四羽の鳥の間奏曲続き
ピアノ・カデンツァ
雷雨
中心部のトゥッティ
トゥッティ
ピアノ・カデンツァ
トゥッティ
ピアノ・カデンツァ
コーダ
音楽におけるエクゾティシズムの延長としての“鳥”
――Oiseaux exotiquesを《異国の鳥たち》と訳しているのですが、たしか、軽井沢だかに鳥の声を聴きに行ったのですね。
そうです。あれは一九六二年の夏に来日した時です。別宮貞雄さんが一緒に行かれ、星野温泉を中心に鳴き声の採集をやり、その他山中湖やなんかでも採譜しています。帰国してから作曲した《七つの俳諧》という曲には山中湖の鳥も出てきます。
――あのときの来日は、たしか《トゥーランガリラ交響曲》の日本初演の監修の仕事に立ちあうためでしたね。
そう、小澤征爾の指揮、夫人のイヴォンヌ・ロリオのピアノ、本荘玲子のオンド・マルトゥノ、とN響でした。
――この人は、よくよく鳥が好きとみえますね。
ええ、一九四一年の《世の終りのための四重奏曲》あたりから鳥のモチーフが出てきて、《トゥーランガリラ交響曲》は一九四八年ですが、ここでもさかんに啼きます。《幼児イエズスへの二〇のまなざし》というピアノの大曲でもあちこちで鳴かせています。結局その時期の、カトリック的な題材のものでは〈高きみ空の栄光〉とか〈清澄さ〉とか〈喜びの感情〉をあらわすのに、一種の象徴として小鳥の鳴声を持ってきています。
《トゥーランガリラ交響曲》ではキリスト教的じゃなくて、インカ帝国やインドのエクゾティックなものまでとり入れています。やがてメシアンは一九四九年から五〇年頃の前衛的ないくつかの試みの時期を通りすぎると、鳥の声を宗教的な意味づけやエクゾティックな色彩としてでなく、音楽構造の単位として、つまりモチーフの最小単位として持ってくるようになります。
その最初の曲が一九五三年の《鳥たちの目覚め》というオーケストラ曲、次が一九五六年の《異国の鳥たち》というわけです。《鳥たちの目覚め》のほうは暁に啼くフランスの鳥たちばかり、《異国の鳥たち》のほうは文字通りフランス国外の鳥ばかりが題材になっています。
何だか、昔のカンプラの《ユーロップ・ギャラント(優雅なヨーロッパ人)》とラモーの《レ・ザンド・ギャラント(優雅なインド人)》とが対になっていたのを思い出します。どちらも一七〜一八世紀のヴェルサイユ楽派はなやかなりし頃のオペラ・バレエですが。そこでは人間が主役で、こっちは鳥が主役というわけです。
――なぜ、この人は鳥に関心があるのでしょう?
私は結局、音楽におけるエクゾティシズムの延長だと思うのです。バルトークのハンガリー民謡、ストラヴィンスキーのロシア民謡、そしてメシアンは人間界から外へ出て鳥たちの民謡に目を向けたのです。それが彼の音楽語法や初期の宗教的態度の中から、しぜんに生まれてきたと思うのです。
しかし、メシアンは何によらず徹底主義者だから、鳥類の動物分類学的な知識にもひじょうな興味を持っているようです。とは言っても、それは後から得たもので、それが出発じゃないと思います。
――ところで、メシアンについては、《トゥーランガリラ交響曲》の作曲者というぐらいの知識しか持っていないのですが……。
このあいだ、私どこかでいったのですが、ルイ王朝はなやかなりし頃のフランスの大作曲家、リュリ、クープラン、ラモーの三人を近代にスライドさせると、年代的あるいは年齢的にはちょうどラヴェル、メシアン、ブーレーズに当たるのです。しかし、重要さからいうと、むしろドビュッシー、メシアン、ブーレーズかしら。
ということは、私の考えではメシアンは「六人組」の世代よりも、はるかに重要な存在であること、ドビュッシー以後、真の意味で時代の先端に立っていること、いいかえると、フランス楽派の内部では他にも認められている作曲家の誰彼がたくさんいますが、国際的な強さという点では現在メシアンが随一です。やがてブーレーズが続くでしょうけれども。
メシアンの場合、音楽語法の上ではリズムや拍子の問題にせよ、音階の問題にせよ、独自の語法を工夫し、それを理論づけながら作品に適用していくという、いわば現代的な創作態度をとっています。その点が第二次大戦後の若い世代に、大きな影響を与えたのだと思います。
――この〈Oiseaux exotiques〉は、いつごろの作品ですか。
スコアによると一九五五年一〇月五日着手、一九五六年一月二三日完成となっています。当時、ブーレーズはジャン・ルイ・バローとマドレーヌ・ルノーの劇団に所属していたので、この夫妻の援助を得てマリニー座を拠点にして「ドメーヌ・ミュジカル」という前衛音楽運動をやっていた。この曲はそこで上演するために書かれ、一九五六年三月一〇日にルードルフ・アルベルトの指揮で初演されています。
――ピアノとオーケストラのための作品ですね。初演のピアノは、例によってロリオですか。
そうです。ピアノはもちろんロリオで、作品もロリオに献呈されているんです、これは。その初演の時の録音がレコードになっていて、それは私、何回か解説してNHKのラジオで紹介した覚えがありますよ。たしか一九五八年の夏以来ですね……。それと、ヨーロッパでは、この曲はわりによく演奏されています。私もドイツで聴いた憶えがあります。
ところで、この作品での異国の鳥とは何しろ多数なんです。ええと、インド四種、中国一種、マレーシア一種、カナリー諸島一種、南アメリカ二種、北アメリカ三八種、合計四七種ですか。しかし、このマレーシアというのはスマトラやジャヴァ、ボルネオ、セレベスをふくむというのだから、たぶんその辺を飛びまわっている鳥なのでしょう。その他、インドの古い芸術音楽のリズムも使われていますが。
――それで、「異国の鳥たち」の啼き声を音楽的にどう処理して……。
鳥の啼声を平均律音階の音符に移すのには、彼一流のシステムがあるんでしょうが、その手のうちは見せません。彼はそれについて、全然なにも発表していません。まあ、自身の感覚に頼って、あるパターンに従って様式化していると思うんですが、その辺は私にはよく分かりません。
そしてピアノ曲《四つのリズム練習曲》の中の〈リズムの音符群〉の手法などのやり方と関係があるのですが、いろいろの手を使ってモチーフを並べていきます。形式的にはメシアンはいつも単純です。この曲ではピアノのカデンツァとオーケストラのトゥッティとの何回かの交替です。バロック以来の協奏曲のやり方です。
●サロネン指揮 ロンドン・シンフォニエッタ、クロスリー(P)〈88〉(ソニークラシカル○D)
ブリテン
Benjamin Britten
(イギリス)
1913〜1976
四つの海の間奏曲 歌劇《ピーター・グライムズ》から
夜明け
日曜日の朝
月の光
嵐
イギリス人の音楽趣味に合致したブリテンの作風
――ブリテンが、日本にきたのは、いつ頃でしたっけ。
あれは一九五五年ですから、ずいぶん前のことですが、当時のNHKの田村町の本館の一階の奥の第五スタジオだったかで、日本の何人かの作曲家と会見してくれました。向うはブリテンとテナーのピアーズ、こっちは私と團伊玖磨さん、外山雄三さん、林光さん、入野義朗さんでした。
ブリテンはひとりで上きげんにしゃべりまくって、さかんに気焔をあげていましたっけ。メノッティをライヴァルとして意識しているらしく、彼のオペラ《領事》のことをくさしたりしてね……。
日本の作曲界のことなど一向に興味がないらしくて、まったく聞こうともしませんでした。ほんとうにいかにもイギリス人らしいと思ったですよ。同じ年にオイストラフがはじめて来日したのですが、その時の会見では、日本の作曲界への向うの矢つぎ早やの質問に、こっちがおおわらわで答えるという有様で、ブリテンの時とは正反対でした。オイストラフは、じつにくわしく日本の作曲界のことをきいていきました。あんまり二人の対照が鮮やかなので印象に残っています。
――ブリテン一行は、能には興味を持ったのでしょう?
そうらしいですね。とりわけピアーズが謡曲のまねを、さかんにやって皆を笑わせたのを憶えています。あの時に能の「隅田川」を観たのでしょうかねえ……。それが後にブリテンのオペラ《カーリュー・リヴァー》となって実ったわけで、日本でも欧米でも、たまに上演されています。
――とにかく、ブリテン抜きにしては、今日のイギリス音楽は語れないということでしょうね。
イギリス国内ではブリテンの《夏の夜の夢》といい《戦争レクイエム》といい、批判は姿を消してただ絶讃あるのみです。彼はイギリス朝野から絶対の信用を得ている作曲家でしょう。
他の国にはこういう立場の人は今日いません。フランスのブーレーズ、ドイツのシュトックハウゼンなどの作品は、まだとても大衆のものではありません。逆に言えばイギリスにはドビュッシーもワーグナーもいないから、ブリテンが英雄視されているということでもあるのでしょう。強いていうならフィンランドにおけるシベリウス、ハンガリーにおけるコダーイ、ポーランドにおけるシマノフスキーといった人たちが、ブリテンに近い立場にあったでしょう。
――それにしても、このブリテンという人は、器用ですね。いや、多才というべきかな。
何よりもイギリス人の音楽的趣味に、これほどピッタリ合致した音楽を書いている人もいないでしょう。その点たいへんな才人であると思います。
ただ五〇年後、一〇〇年後になれば、ヴォーン・ウィリアムズ、ウォルトン、サールといった人たちの作品とブリテンの作品と、どれが果していちばん多く生き残っているか、これは予測の限りではないと私は思っています。今日の時点ではブリテンがもっとも広く受け容れられているのですが……。
――なかでも、この《ピーター・グライムズ》なんかは、現代音楽として珍しいほど、一般に浸透していますね。その因ってきたるところは、何なんでしょうか。
イギリス人の芸術的才能は何といっても、昔から文学にあらわれてきた、と見ていいでしょう。だから、イギリス人にとって、音楽というものは、ドイツ人のように音による思惟とか、魂の直接の表現といったものじゃないし、フランス人のように純粋な感覚の遊びでもありません。
結局、中庸な表現、文学的内容や概念を音楽に担わせるのにもっとも適当な、中道の表現ということになるでしょう。半音階や不協和音も適度に、控え目にしか使いません。さりとて古くさい感じにならないように、音色の刺戟を適当な間隔を置いて配置する……。
この〈四つの海の間奏曲〉にしたって、この四つの間奏曲のオペラの中での配置も、そうした計算が、じつに周到になされていると思います。
それと、ブリテンは少年や少女をオペラのテーマにするのが好きです。たとえば《オペラを作ろう、小さな煙突掃除》などです。いかにもイギリスらしいです。
――話は違いますが、ブリテンは、オールドバラ音楽祭を主宰していましたね。
オールドバラというのは、ブリテンの生まれ故郷のすぐ近くにある、北海に面した寒村ですが、この辺はオペラ《ピーター・グライムズ》の筋が展開される場所でもあり、実際ここで作曲に没頭しているのです。
しかも、《ピーター・グライムズ》の原作者である一八世紀の詩人クラッブは、まさにオールドバラ出身なので、ブリテンはとくにこの地に愛着を感じて、ここに住み、夏になると世界各地から音楽家を招いて、小規模ながらひじょうにワサビの利いた音楽祭を主催していたのです。これは今やイギリス音楽界の名物の一つになりましたね。
●L・スラットキン指揮 フィルハーモニア管弦楽団〈90〉(RCA○D)
ブロムダール
Karl-Birger Blomdahl
(スウェーデン)
1916〜1968
舞踊組曲《シジフォス》
導入部
宴
乙女の踊り
ペルセフォネの踊り
死の踊り
仮面舞踏
シジフォスの凱旋
命の踊り
一二音楽ふうバレエ組曲で描く現代の不条理
――ブロムダールの《シジフォス》について伺いましょう。この曲は一九五四年の作品だということですから、まさしく現代作曲家なんですね。
ブロムダールは一九一六年生まれのスウェーデンの作曲家です。ずいぶん前からスウェーデン国内では大へん有名でしたが、最近はヨーロッパ各地で作品が演奏されています。
スウェーデンの現代作曲家というと、まず長老格のところにアッテルベリとローゼンベリの二人がいて、中堅クラスにこのブロムダールとリドルムがいます。さらに前衛にハンブレウスとニルソン、とざっとこのくらいの人たちが国際的に知られています。スウェーデンは北欧の国々の中では、現在、作曲に強い国なんです。ポーランドに次ぐ位置にあると言えます。このうち、アッテルベリはN響が新響であった時代、ローゼンシュトックが《バラードとパッサカリア》というのを指揮しています。民謡風のテーマの曲です。ブロムダールは、いま言ったローゼンベリの弟子で、それから指揮者のモーゲンス・ヴェルディケについて、その後パリやローマでも学んでいます。一九四五年頃から作品を発表しているようです。初期にはヒンデミットの影響もある、というのですが、一二音技法も使うし、オペラには電子音楽もとり入れているし……。
そのオーケストラの中に電子音を使っているオペラというのは、一九五九年にストックホルムで初演された《アニアラ》というオペラで、これが一躍ブロムダールの名を世界的にしたのです。台本はマルティンソンの詩によってリンデグレンが舞台用に脚色した二幕物で、一九五七年から五八年にかけて作曲されました。〈二〇三八年の宇宙飛行の叙事詩〉という副題からも想像できるように、題材が多少きわ物的でしてね。
つまり「アニアラ」というのは宇宙船の名前で、八〇〇〇人乗り込んでいる巨大な宇宙船が、火星に向かって航行中に隕石の群に突っ込んで故障して、あらぬ宇宙の方角――琴座だったかな――に向かって永遠の航行をつづけている。その二〇年間の船内の人間的な悲喜劇をオペラにしたものなのですが、一応芸術的にも評価が与えられた形でした。未来派オペラということで、これでブロムダールの名はいっぺんにひろまったのです。
――ところでこのバレエ曲のシジフォスというのは、例のギリシャ神話に出てくる地獄に落とされた悪い奴を題材にしているのでしょうね。
《シジフォス》は五四年の作で、台本の原作はやはり、リンデグレンに拠っています。組曲としては五四年に、バレエとしては五七年にストックホルムで初演されているから、《アニアラ》より前の作というわけです。シジフォスというのは何かずるいことをして、ゼウスの怒りに触れて、永遠に地獄で岩を押し上げる仕事をさせられた、というんでしょう? これはやっぱり軌道を外れた宇宙船の中と同じような状態ですねえ……。しかし、シジフォスの神話はギリシャといっても、現代人にはカミュの著作のほうがピンとくるわけで、バレエの筋を作ったリンデグレンとオケンソン、そして作曲者のブロムダールの考えも、ギリシャよりは現代の不条理の人間のほうにポイントがあったのでしょう。
――それがなければ興味ありませんしね。この曲、副題がついていますね。Choreographic Suiteって。これはBallet Suiteと同じ意味ですか。
もちろん、ステージで踊るためのバレエの音楽です。その中の音楽をまとめた組曲でしょう。テクニカルにはかなり一二音音楽ふうですが、シェーンベルクふうではなく、イタリアのダッラピッコラの初期やスイスのフランク・マルタンのある時期のような、いわば応用派一二音技法とでもいいますかね。ダッラピッコラの《マルシアス》という、やはりギリシャの物語に取材したバレエなんかに近い音楽という感じですが……。
ブロムダールには、三曲の交響曲をはじめ、ヴァイオリンやヴィオラの協奏曲もあるので、いずれ聴かれるようになるでしょう。
●ドラティ指揮 ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団〈外盤〉(カプリース○D)
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本電子文庫版は、講談社文庫(一九九六年六月刊)を底本としました。
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●著者 柴田南雄(しばたみなお)
一九一六年東京に生まれる。東京大学文学部美学・美術史学科卒業。作曲家。作品に交響曲《ゆく河の流れは絶えずして》《コンソート・オブ・オーケストラ》《追分節考》《宇宙について》ほか。一九八二年、日本の民俗芸能をもとにしたシアター・ピースとしての合唱作品シリーズにより、サントリー音楽賞を受賞。著書には『西洋音楽の歴史』『音楽の理解』『音楽は何を表現するか』(共に青土社)、『わが音楽、わが人生』(岩波書店)などがある。一九九六年二月没。 クラシック名曲案内(めいきよくあんない) ベスト151
電子文庫パブリ版
柴田(しばた)南雄(みなお) 著
(C) Sumiko Shibata 2001
二〇〇一年六月八日発行(デコ)
発行者 中沢義彦
発行所 株式会社 講談社
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