我が家のお稲荷さま
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その昔一匹の大霊狐が三槌家の守り神に祀《まつ》りあげられた。名を空幻といい、ありとあらゆる術を自在に操る、たいへんに賢《さか》しい狐であった。
だが同時に、騒動が大好きでもあった。いたずらと呼ぶには悪辣すぎる所業を繰り返す空幻に業を煮やした三槌の司祭は七昼七晩かけて空幻を裏山の祠に封印したのだった。
そして現在一未知の妖怪に狙われた三槌家の末裔・高山透《たかがみとおる》を護るため、ついに空幻が祠から解封された……のだがその物腰は畏怖された伝説とは裏腹に軽薄そのもの。イマドキの少年である透からは『クーちゃん』と呼ばれる程て………
第10回電撃ゲーム小説大賞〈金賞〉受賞。
我が家のお稲荷さま。
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第壱章
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山の夜は、住宅地の夜などより賑《にぎ》やかだ。
小動物のほとんどは夜動くから、草陰や葉群《はむら》の中に常に何かの気配が感じられるし、蛙や虫などは、日中よりかしましい。
そして、いつもの時間になった。
小柄な老婆が一人、いつものように部屋に入ってくる。部屋の中央に据えられた三本足の瓶の前にいつものように座ると、袂《たもと》から柳でできた散杖《さんじょう》を、懐《ふところ》から掌《てのひら》に収まるくらい小さな漆塗りの櫃《ひつ》を、いつものように取り出した。
老婆の目の前の瓶は、高さが大人《おとな》の膝《ひざ》の辺りまで、直径が大人の腕で一抱えもあるような大きなもので、今のところは空《から》であった。
老婆は、散杖で瓶の縁《ふち》を二回、コンコンと軽く叩いた。すると、何も無いはずの瓶の中に、しんしんと水が満ち始めた。瓶の底から湧《わ》いてきているようにも見えるし、内側の表面から滲み出てきているようにも見える。水はたちまちかさを増し、あっという間に瓶いっぱいに満ちた。
老婆は手にしていた小さな櫃《ひつ》の蓋《ふた》を取った。中には砂色の粉末があるばかりだった。老婆はその粉を散杖《さんじょう》で一匙《ひとさじ》すくうと、水の中に落した。
「溌《はっ》」
粉は水に溶けると、淡く緑の燐光《りんこう》を放ちながら拡散し、そして消えていった。
二杯目を取り、水に落とす。
「沙《よなぎ》」
これも緑の燐光を放ちながら拡散し、静かに消えた。
さらに三杯目を取り、水に落とす。
「さ、――――」
背筋が凍った。
この土地の水に溶かせば淡い緑になるはずの巫粉《かんなぎこ》が、墨を流したかのような黒に変わったのである。老婆は身を乗り出して瓶の中を覗《のぞ》き込み、固まった。こんなことはここ数百年無かったことだ。
座りなおした老婆の逡巡《しゅんじゅん》は一瞬《いっしゅん》だった。
「コウはおるか」
闇《やみ》に塗りつぷされている部屋の隅に突然気配が立ち、「はい」と返答した。
老婆はその声に向かって強く言い放った。「龍彦《たつひこ》を呼べ。今すぐ」
*****
「うお――相変わらずチョー田舎。空気キレーだな」
走り始めた鈍行《どんこう》電車が起こす生温《なまぬる》い風の中で、高上昇《たかがみのぼる》はグウーと伸びをした。その横では、弟の透《とおる》が物珍しそうにキョトキョト辺りを見回している。
田んぼのド真ん中にみすぼらしいホームを構える北吉川《きたよしかわ》線・美津川《みつかわ》駅は、高上兄弟の母・美夜子《みやこ》の故郷である美津川村で、唯一の公共交通機関である。朝に二本、昼に一本と夕方二本 一日計五本の電車に乗るのは、美津川駅の前後の駅から乗る学生と、田んぼの中を走る二両|編成《へんせい》車のノスタルジックさに興奮を覚える鉄道マニアが大多数を占めていて、美津川村民自身が使用することは、あまりなかった。この村、山奥にあるド田舎のように見えて、実は一番近くの街からそう離れてもいないため、勤めに出る者や街に買い物に行く者はほとんど自家用車を使うし、車の運転が出来ない高齢《こうれい》者なども、医院や商店が一通り揃《そろ》うこの村から、わざわざ出ようとはしないのだ。
そんなわけで、この時も美津川駅で降りたのは高上兄弟二人きりだった。田舎の弱小私鉄である北吉川線は、人件費削減のためだか何だか知らないが、運転手が車両内で改札も済ませてしまうワンマン式を採用しているため、乗客が少ない駅にまでいちいち駅員を置いておいたりしない。ホームには駅名の書かれたプレートと錆《さ》びたベンチ一つ、そして白線――それだけしか設置されていなかった。電灯すら無いのだから大したものである。
ホームに横付けするように停められていた黒い四駆のウィンドウが開き、運転手が顔を出した。彼は高上《たかがみ》兄弟に向かって「おーい!」と手を振った!高上兄弟の母の弟、つまり彼らの叔父・三槌龍彦であった。
彼は今年で三十七歳になるはずだが、見た目、それくらいの年齢《ねんれい》とは思わせないほど若々しい。顔立ちは、「村役場で公務員をやっています」と正直に言うより、「船乗りっスー」と言った方がしっくりするくらい精悍《せいかん》であるが、どんな人間にも警戒《けいかい》心を与えない穏《おだ》やかさも併せ持っていて、男女の顔の造りの差こそあれ、やはりどことなく母・美夜子《みやこ》と似ていた――実際、昇は龍彦叔父を見る度、母さんに似ているな、と思う。
高上美夜子――旧姓三槌美夜子が他界して、十二年になる。
当時すでに五歳であり、親戚《しんせき》筋のみならず友人達からも『しっかり者』と評されていた昇は、天真爛漫《てんしんらんまん》で何かにつけよく笑った母親の顔をよく覚えている。一方、母の顔もろくろく覚えないまま成長してしまった弟の透《とおる》は、何の感慨もないようだ。たいして高さの無いホームから飛び降りると、単に駆け寄った。
「叔父さん、こんにちわ!」
昇も、透に続いてホームを飛び降り、「こんちわ」と挨拶《あいさつ》した。
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
そう言って龍彦は笑うと、兄弟に乗車するように促した。車の中は適度に冷房が効いていて、一時《いっとき》とはいえ熱気に晒《さら》されていた肌に心地がよかった。
龍彦は車をUターンさせ、田んぼの中を走り始めると、口を開いた。
「お父さんは元気か?」
「元気元気」と、旅行カバンを降ろして一息ついた昇が返した。「あ、今回は行けなくて申し訳ないって言ってた」
「いいよ、そんなもん。気にするなって言っておいてくれよ。第一、急に呼び出したのはこっちなんだしさ」
高上兄弟の父・春樹《はるき》と義兄弟になる龍彦は気が合うらしく、会う度に深夜まで酒を呑《の》《の》み交わしては騒《さわ》いでいた。
美夜子自らが選んだ男に対して、三槌家は否定的ではないながらも、何となく馴《な》れ合わない空気を放っており、春樹もまた三槌家を苦手としているような節《ふし》があった。そんな三槌家の中で唯一、春樹が気を許せるのが彼・龍彦なのである――内外に敵を作らないところは、龍彦の生来の人徳と言えた。
「あ、そうだ――ねぇ、三槌の大ばあちゃん、そんなに体調悪いの?」
急に呼び出されたその理由を思い出して一瞬《いっしゅん》深刻な表情になった昇《のぼる》に龍彦《たつひこ》はあっけらかんと答えた。
「いや、全然元気」
予想外の返答に沈黙《ちんもく》する後部座席の二人。
昇が尋ねた。「でも電話では死にかけてるって……言ってた気がする、叔父《おじ》さんが」
「いやぁ、実はそれはお前ら二人をおびき寄せるための方便なのだ、ハッハッハ」
おびき寄せるってか……
もう少しソフトな言い様もあろうに、無意識《むいしき》のうちにもハードな単語を使って甥《おい》達の不安を増長させる叔父である。
昇が尋ねた。「じゃあ、なんで急に呼び出したりしたんだよ」
「え?」
続いて、透《とおる》が身を乗り出す。「ねぇねぇ。そういえば叔父さんさ、ボクに変な夢を見なかったかとか訊いたけど、あれって何?どうしたの?」
「う?」
龍彦は昨夜のことを思いかえした。
夜中にたたき起こされた龍彦は、大ばば様の命令で、朝になってから高上《たかがみ》家に電話をし、透に「奇妙な夢を見なかったか?」と尋ねたのである――
*****
……最初はどうと言うところの無い、いたって普通の夢だった。
明日の朝になれば「夢を見た」という感覚だけを残して消えてしまう、大した意味も特徴も無い、本当に普通の夢だった。雰囲気的に愉快なものだったか不安なものだったかすら曖昧《あいまい》だ。そのくらい日常的で、どうでもよい夢だったのだ。
その瞬間までは。
夢の世界に突然、ガラスの弾《はじ》けるような音と共に黒い亀裂《きれつ》が走った。その時点で透の意識は覚醒《かくせい》した、しかし現実に目を覚ましたわけではない。自分の姿形《すがたかたち》を具現化したわけではないが、夢を見ながらその夢の中ではっきりとした自我を一次元的に形作った。透はあまりに急な出来事に驚《おどろ》き何か行動を起こすでもなく、ただその亀裂を何じゃこりゃという気持ちで眺めていた。
すると、亀裂の向こう側から、白い繊手《せんしゅ》が伸びた。手は亀裂の縁《ふち》を掴《つか》み、そこを支点に力を込めると、一息に体を向こう側からこちらに投げ出した。音も無く透の夢に降り立ったのは、濃紫の単《ひとえ》とその上に藤《ふじ》色がかった袿《うちかけ》を羽織《はお》る、百人一首のお姫様を連想させるような、古風な格好をした女だった。髪は墨を流したように暗く、その身の丈《たけ》よりも遥《はる》かに長い。
うずくまって黙《だま》り込む女に、どうしたものかと一瞬《いっしゅん》《いっしゅん》ためらうも、透はとりあえず声をかけようとした――その一歩先に、女がパッと顔を上げた。白い頬《ほお》、端整な顔立ち。やや大きすぎるくらいの鳶《とび》色の瞳が印象的だった。年の頃《ころ》は透より一回りほど上、といったところだろうか。
女はそのよく光る双眸《そうぼう》で透を捉《とら》えた。そして徴笑《わら》った。
「おった、おった」
まるで自分を探していたかのような口ぶりに透はまた驚《おどろ》き、どこかで会ったっけかなと訝《いぶか》った。しかし、こんなファッションで他人の夢の中に割り込むような女には、思い当たる節《ふし》がない。
すると女は無垢《むく》な少女のように小首をかしげ、問いかけてきた。
「|お前の名は、何というのだ《、、、、、、、、、、》」
透を探していたようなのに、透の名前を知らなかった……というのも何だかおかしな気がするが、兄がその将来を心配するほど他人に対して無防備な性質《たち》である透は、あっさりと答えてやった。その素直さに女は気を良くしたらしく、華やかな笑顔を浮かべると嬉《うれ》しそうに何度も頷《うなず》いた。
「よしよし、わかったぞ。透か、良い名じゃな」
それだけ言うと、女はくるりと背を向け、「それではな」と、いささかそっけないロ調で言い放ち――不意にふわりと浮き上がると、出てきた亀裂《きれつ》の中に再び納まった。黒と紫の後ろ姿が徐々にぽやけていく中、女はもう一度、透を顧《かえり》みた。顔面や耳・首筋など、肌が露出《ろしゅつ》しているわずかな部位だけが、闇にぽっかりと白く浮かんでいる。笑みの形に歪《ゆが》んだ血の気の薄《うす》い唇が、小さく勤いた。
「また会おう、すぐに」
その白面《はくめん》すらすっかり闇と同化してしまったころになっても、印象深い双眸だけはガラス玉のように鈍《にぶ》く光って、残っていた。その瞳の色――明るい茶色のように思われたが、よく見ると少し金がかっているようだ。よく照り輝《かがや》いて美しいとも言える色だが、鼻もロも取り除いて、その目だけを見ると何とも言えない違和感が透の胸に満ちる。およそ感情というものが感じられない――人間のそれですらないかもしれない。どちらかというと魚類の瞳のような冷ややかさ、生臭《なまぐさ》さがある。
やがてその場には、透の違和感だけが残った――
「……と、いうことらしい、です」
透から聞き出した話を一通り説明して、龍彦《たつひこ》は目の前に座《ざ》した老婆と年若い娘を見やった。長く伸ばした漆黒の髪をひとつに束ね、巫女装束《みこしょうぞく》を纏《まと》ったその娘は、眉間《みけん》にその若さに不相応な深い皺《しわ》を刻んでいた。
娘と同じような巫女装束を着た老婆は、板の間から一段高くなった上段《かみだん》で円座《わろうだ》を敷《し》いてあぐらをかき、黙《だま》りこくる娘をただ無言で見降ろしている。
開け放たれた障子の向こうにはそれなりの広さの日本庭園が広がり、更にその向こうには柵《さく》や塀など無しで唐突《とうとつ》に裏山が続く。真昼ほどではないがそれでも濃《こ》い緑の匂《にお》いを漂わせる広葉|樹《じゅ》林も、木々の間から垣間《かいま》見える空も、清浄な朝靄《あさもや》の中にひたっていた。
裏庭のどこかに据えられた鹿威《ししおど》しが、コーンと風流な音を立てた。
「――自分の口から、名を教えたということですか」
娘がやっと口を開いた。清廉さを漂わせながらも芯《しん》に一本堅固なものを孕《はら》んだ、慄然《りつぜん》とした物の言い方は、街にいる同年代のふわふわした少女達とは明らかな違いを感じさせた。黒目がちの澄んだ瞳で老婆を見据える。
老婆は、うむ、と頷《うなず》《うなづ》いた。「そういうことになるの」
娘はフーとひとつ息をついた。眉間《みけん》の皺《しわ》は消えたが、無表情は相変わらずである。その無表情が怒っているように見えなくもない。「言霊《ことだま》《ことだま》に捕《と》らわれたことは間違いないでしょう……透《とおる》様が夢に出てきた物《もの》の怪《け》と対峙《たいじ》することになった場合、それが不利になります」
老婆はもうひとつ、うむ、と頷《うなず》いて、苦虫《にがむし》を噛《か》み潰《つぶ》したような表情を浮かべた。「美夜子《みやこ》が嫌《きら》って、透にも兄の昇《のぼる》にも、その辺の知識は一切与えなかったようじゃ。夫も普通の人間じゃし……まぁ、そんなことよりだな、透の夢に出てきた女、透自身に『また会おう』と言い残しているのなら、いつ再び姿を現すとも知れん。問題は其奴《そやつ》をどう退けるか、だ」
娘が小首をかしげた。「退けるにしても、透様が近くにいないのなら、どうにもなりません。透様をここに呼び出すか、私が赴《おもむ》くか……それとも」
「あ、それなら大丈夫」と、老婆の背後に座る龍彦《たつひこ》が発言した。「世間は夏休みに入ってることだし、昇ちゃんと透ちゃんに、すぐにこっちに来るように頼んだんだ。死にかけの大ばば様が二人に会いたいって泣くからって言ってよ」
その『死にかけの大ばば様』は、横目でチラリと龍彦を見、何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。
「急な話だったから父親の春樹《はるき》さんは仕事の都合がつかなかったみたいで来れねぇけど、二人は明日の夕方ぐらいの電車でここに着く。オレが駅まで迎えに行く。何日か泊まらせるから、その間にその物の怪を落とせばいい。だろ?」
少女が頷《うなず》いた。
大ばば様は座り直すと、少女の方に身を乗り出し、声を潜《ひそ》めて尋ねた。「コウよ――女は、何者だと思う?」
コウと呼ばれた少女の顔にも若干、鋭《するど》さが混じる。「その夢を見たのは午前一時半ごろだったということですね」龍彦が頷《うなず》いたのを確認して、コウは続けた。「……断言は致しかねますが、おそらくは鱗虫《りんちゅう》の類《たぐい》いでしょう」
老婆は質問を重ねる。「お前一人の力で退けられるか?」
一瞬《いっしゅん》だがコウは口籠《くちご》もった。言い澱《よど》んだ時点で回答は予想出来ようというものだ。「……仮にもづ三槌《みづち》の血を引く者の夢に侵入し、人化《じんか》の術も心得ているなら……かなり年経《としへ》た妖怪《ようかい》と見受けました。透《とおる》様の名も聞き出していることも含めて考えれば……相当|手強《てごわ》い相手になるか、と」
そうだな、と呟《つぶや》いた老婆は難しい顔で腕組みをした。「助《すけ》っ人《と》がいるか」
「いるに越したことはありません」
「鱗虫《りんちゅう》は木気《もっき》の物《もの》の怪《け》、じゃったな」
「そうです」と、コウは頷《うなず》いた。「鱗虫は木気。水気《すいき》は木気に力を与えますから、水気の一族である三槌家の眷属《けんぞく》では向きません。五行相剋《ごぎょうそうこく》から言えば木気を剋《こく》するのは金気《ごんき》――できれば金気、少なくとも火気《かき》か木気の者が適当、かと」
そこまで言うと、大ばば様と龍彦《たつひこ》の顔が同時にピキリと強張《こわば》った。
「金気の物の怪……」起き抜けであったためヒゲがうっすら生《は》えかけている頬《ほお》や顎《あご》をじょりじょり撫《なで》ながら、微妙な表情で龍彦が呟く。
大ばば様も腕組みして顎を引き、何やら思案しているようだ。ただ事ではない二人の反応にコウも少々|気圧《けお》され、黙《だま》って見ていることしかできない。
押し黙っていた大ばば様が、不意に顔を上げた。
「……狐《きつね》、か……」
龍彦は微妙な表情のまま仕方無さそうに頷《うなず》き、何だかよく分からないコウは、小さく首をかしげた。
鹿威《ししおど》しが、も一つコーンと鳴った。
*****
……西日が目にキツイ。
龍彦はドアポケットからサングラスを取り出し、かけた。
「実はなぁ……透ちゃんの身に危険が迫ってるんだ」
予想外の衝撃的《しょうげきてき》な返答に、後部座席の二人の間には、今度は緊張《きんちょう》が走った。透は未知の不安に顔をひきつらせ、昇は険しい表情になる。にわかに湧《わ》いた恐怖に言葉を失う弟に代わって、兄が尋ねた。「何だよ、危険って」
「透ちゃんの見た夢な、どうもヤバイものらしい」
「どういうこと?」
うん、と深刻な顔で頷《うなず》く龍彦|叔父《おじ》。
「あれ、どうもヨーカイらしいんだ」
…………
叔父が言った意味を理解出来ず、一瞬《いっしゅん》、昇の中の時間が止まった。
「……ヨーカイ」昇《のぼる》はおうむ返しに呟《つぶや》いた。
溶解……妖怪……洋灰……
その響《ひび》きに当てはまる漢字が数個、脳裏をかすめるが、昇にはどれが当てはまるのか、いまいち判然としない。ちらりと隣《となり》を見ると、透《とおる》はもともとポカンとした顔を更にポカンとさせていた。
状況打開のため、昇は質問を重ねた。「ヨーカイが……どうしたって?」
「ヨーカイが、透ちゃんの命を狙《ねら》ってるってことらしい」
『洋灰が透の命を』……違う気がする。『溶解が透の命を』……これも不適当に思われる。一番しっくり来るのは『妖怪が透の命を』……これか。とりあえず今は『ヨーカイ=妖怪』ってことにして、話を進める。
「妖怪が、透の、命を、狙ってんの?」
疑っておりますと言わんばかりの用心深い口調で念を押してみた。甥《おい》の心中に気づいているのかいないのか、叔父《おじ》は「うん、そう」と深刻な顔で頷《うなず》いた。昇はルームミラーに映る叔父の顔を睨《にら》むように見据えた――ふざけているようには見えない。普段《ふだん》、龍彦《たつひこ》も人並みに冗談《じょうだん》を
言うが、子供を不安にさせるような性質《タチ》の悪いジョークを飛ばすというようなことはなかった。しかし、妖怪に命を狙われているんだ君は、とか突然言われて、えぇっそうなんですか、と信じる子供もいないだろう、今時。
叔父は一体何を企《たくら》んでいるのかと、かえって慎重になる兄の思考を余所《よそ》に、透は、
「えええぇ!」と一人、派手《はで》に驚いた。「よ、妖怪につけ狙われるようなことをした覚えは……」
妖怪という最も超常的なところを、何の抵抗も無く信じたらしい。素直君もここまで来れば立派なもんである。
龍彦叔父は不安顔の透に、力強く頷《うなず》いてみせた。「大丈夫!今回来てもらったのは三槌《みづち》家で透ちゃんを護《まも》るためなんだからな」
これまた不可解な発言である。昇は眉《まゆ》をひそめた。「どういう意味?」
「三槌家ってのは代々、水気《すいき》を祀《まつ》ってきた由緒《ゆいしょ》ある家柄だから――」
「スイキ?」
兄弟の怪訝《けげん》な声を聞いて、龍彦は少し悲しげな、そして諦《あきら》めの混じった複雑な微笑を浮か、べた。「美夜子《みやこ》姉さんは、君らに本当に何も教えなかったんだな……まあ、気持ちは分かるけど」
三人を乗せた車は、いつしか田んぼ道を抜け、県道に出ていていた。
走るにつれて山が近くなってくる。空は少し黄昏《たそがれ》じみてきたようだ。山間の村の、しかも夏休みの夕暮れということもあって、交通量は寂しいほどに少なかった。
前方の交差点の信号が黄色に変わった。交差する車も対向する車もほとんど無いので、スピードを上げて突っ走ってもよさそうなものだったが、龍彦はブレーキを踏み、信号が赤に変わる前に、停止線で車を停《と》めた。
「『三槌《みづち》』を言い換えるとさ、ミヅチ……ミツチ……水《ミ》ツ霊《チ》……つまり『水の霊《れい》』ってことになるわけ。こーいうの隠し名っていうんだけど、まあそれは置いといて。三槌家は太古の昔から五行《ごぎょう》の中の水気を――あ、五行って知ってっか?」
ぶんぶん首を横に振る兄弟をルームミラー越しに見て、龍彦《たつひこ》は苦笑した。「そうだよなぁ。知らねーよな普通は……あのな、五行には火《か》・木《もく》・土《ど》・金《きん》・水《すい》っていう五つの元素があって――って、ま、小難しい話はいいか。とにかく三槌家は先祖代々、水の神様みたいなものをお祀《まつ》りする司祭をしてるんだ」
「……へぇ〜」
自分達がどういう家柄なのか、という話には興味《きょうみ》があるらしく、兄弟は感心したような顔で聴いていた。
「おじさんも司祭なの?」
龍彦は首を横に振って、透《とおる》の問いをやんわりと否定した。「男は、水の司祭にはなれないんだよ」
「何で?」
「え〜と……五行には〈陰陽《いんよう》〉っていうのも関《かか》わってくるんだな。森羅万象《しんらばんしょう》は相反する双《ふた》つの性質を持つ根源的な調和から成り立っているとして、動的な方を〈陽〉、静的なほうを〈陰〉としたのが〈陰陽〉なんだけど――」
「………」理解が追いつきません。
信号が青に変わる。龍彦は車を発進させた。
「五行に〈陰陽〉を当てはめると火気《かき》は〈陽の陽〉木気《もっき》は〈陽の陰〉金気《ごんき》は〈陰の陽〉、そして水気《すいき》は〈陰の陰〉という具合になる――つまり、水気は五行の中でも特に〈陰〉の気が強いんだ。〈陰〉の性質がとりわけ強く出てくる。と、いうわけで〈陽〉の気を持つ『男性』では、水の司祭は務まらないってわけ」
「………ふぅん……」と、相づちだけは打つ。
兄弟の、いかにも理解していないような顔をルームミラー越しに確認して、龍彦は再び苦笑した。「難しいよなあ」
確かに難しい。
詳細まで理解してはいないが、話の要点だけは分からないでもなかった昇《のぼる》が、「じゃあ……」と呟《つぶや》き、言葉を選びながら、尋ねた。「え〜と……今現在の司祭は誰《だれ》になるんだろ?」
龍彦は即答した。「君らのお母さん」
薄《うす》い氷の割れるような小さな衝撃《しょうげき》が走り、そして車内に沈黙《ちんもく》が降りた。
でも、母さんは――
その言葉を、昇は飲みこんだ。
「そう」と、龍彦が沈黙を破った。「君らのお母さんが、三槌家最後の司祭だ」
最後。
意外な修飾語に、昇《のぼる》が目を丸くした。「それって……?」
うーん、と龍彦《たつひこ》は言いにくそうに口籠《くちご》もったもった。「……実は水の司祭としての三槌《みづち》家って、終《つい》えちゃったことになるんだよな。お母さんが女の子を産まずに亡くなってしまったから……」
二車線の広い県道から、古い家が立ち並ぶ狭い道に入る。山もだいぶ近づいて、三槌の家はもう目と鼻の先だった。
「三槌家の女子が途絶《とだ》えるっていうことは、歴史上今まで無かった――どうも不思議《ふしぎ》な霊力《ちから》が働いてたみたいで。けど、代を重ねるごとにその霊力も弱まってきたらしい。三槌にも分家がいくつかあるんだけど、美夜子《みやこ》姉さんが産まれて以来、三槌の本家にも分家にも、女の子は一人も産まれていない」
龍彦には三歳と一歳になる子供がいるが、二人とも男の子である。美夜子と龍彦は二人|姉弟《きょうだい》だし、彼らの母親――つまり高上《たかがみ》兄弟の祖母・三槌|笙子《しょうこ》にも、兄弟は三人いたが姉妹は無かった。その笙子も、美夜子と龍彦がまだ小さいうちに亡くなっている――言われるまで気づかなかったが、三槌家には現在、嫁入りしてきた者を除くと、女性は大ばば様しかいないのだ。
何をした訳でもないが、大きな悪巧《わるだ》みに自分も手を貸してしまったような後ろ暗い気分になって、高上兄弟は再び無言になった。
「お前らが気にすることじゃないよ」兄弟の気まずさを感じ取り、慌てたように龍彦は付け足した。「本当に、気にしなくて。オレはむしろ、これで良かったと思ってる――こんなこと言ったら三槌の年寄り連中が気を悪くするかもしれないけどな。でも、今は昔とは違う。人間の生活に霊《れい》的な守護《しゅご》はもうほとんど必要ないし、古い慣習にいつまでも囚《とら》われていることはないんだ。これが三槌家の運命だったんだよ」
ルームミラーに映る、いつになく真剣な叔父の眼差しを見て――昇はふと、思い出した。
本題を。
「あのー……それで……どうして透が狙われてんの?その……妖怪《ようかい》、に」
「ああ、そうだったあ!」と言ってすくみあがる透とは対照的に、未《いま》だ妖怪という部分が受け入れられない昇は冷静であり、そのロ調は疑わしそうだった。「妖怪は、具体的に、透に何をしようっての?」
我に返った叔父は、そうそうと頷《うなず》《うなづ》いた。「三槌家は霊力は弱まってっけど――いや、霊力が弱まっているからこそ、今まで手を出してこなかったような雑多な妖怪が手軽に近づいてくるのかもしれないな……あのな、妖怪の中には水気《すいき》を栄養にする奴《やつ》もいるわけ。三槌家は特別に、他《ほか》の家系より水気が強い血筋なんだ。だから狙われるんだと思うんだが」
透は悲愴《ひそう》な声を上げる。「食われちゃうの!」
「そうならないように、こっちに来てもらったんだろ。水の司祭の看板にかけて、三槌家が絶対、透ちゃんを護《まも》ってやるよ」
昇《のぼる》はポツリと揚げ足を取った。「……三槌家は霊力が弱くなってるって……」
そういやそうだったと、透《とおる》の不安チャートは一段階アップである。
「だあいじょぶだいじょぶ! ハッハッハ!」
無責任に力強く笑う龍彦《たつひこ》の四駆が、三槌家の門をくぐった。
*****
むっとした夏の外気を覚悟して車から降りたが、山が近いせいか、前庭はむしろ涼しいくらいだった。昇は小学校以来、透は幼稚園以来の三槌家は、当時と何も変わるところ無く――いや、ひとつ見慣れないものがあった。
それは兄弟に近づいてくると、礼儀《れいぎ》正しく腰を折って、無言の挨拶をした。
顔を上げたのは、昇と同い年くらいの女の子であった。可愛《かわ》いというより綺麗《きれい》と言った方がしっくりくる突出した容姿なのだが、変わったことに彼女、神社の巫女《みこ》さんが着ているような白い着物と紅《あか》い袴《はかま》を着つけている。近所で催《もよお》される夏祭りで巫女さんのバイトでもやるんだろうか……いや、それ以前に三槌の親戚《しんせき》にこんな娘《こ》いたっけか……などと不思議《ふしぎ》に思いながら、昇は「どうも」と頭を下げた。もともと親戚の顔などロクに覚えていない透は、何の疑問も無しに「こんにちは」と挨拶を返す。
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駐車《ちゅうしゃ》した龍彦《たつひこ》が戻ってきた。不思議《ふしぎ》そうな顔をしている昇《のぼる》の疑問を察してか、龍彦は少女を示すと、紹介を始めた。「そうだった、お前らは初めて会うんだったな。この娘はコウちゃん。三槌《みづち》の護《まも》り女《め》だ」
「マモリメ?」聞き覚えの無い単語に、昇は首をかしげる。
「三槌家専属のシークレットサービスみたいなもんだ」
「しいくれっとさあびすうう?」
『妖怪《ようかい》』に次いで現実味の無い単語に、昇は眉《まゆ》をひそめた。
「親戚《しんせき》じゃないの?」という透《とおる》の問いに、母屋の玄関から答えが返ってきた。
「血の繋《つな》がりは無いねぇ」
一同は声の方に顔を向けた。
純和風の三槌邸の玄関の引き戸がいつの間にか全開になっており、中の上がり框《かまち》に小柄な老婆が立っているのが見えた。
「あ、大ばあちゃん」と透が声を上げた。
大ばば様は二人の顔を見て目を細めた。「よく来たね。まぁ中にお入り」
以前会った時は普通の着物を着ていた大ばば様だが、今回はコウと同じような巫女装束《みこしょうぞく》を着ていた。
大ばば様は、昇と透の祖母ではない。曾《そう》祖母でもない。曾々《そうそう》祖母でもないかもしれない――何者かということは、実はいまいちハッキリしないのだが、とにかく、昇の知る限りでは、三槌家の中で一番の古株、そして一番の重鎮《じゅうちん》であった。
玄関に向かって歩きだそうとした兄弟を、コウが「お待ちください」と呼び止めた。立ち止まり、振り向く兄弟。「失礼します」の声と共に、何だか白い、砂のようなものがけっこう大量にぶっかけられた。
「わあっ?何だよ」
昇の抗議《こうぎ》の声を無視し、コウは手に持った小さな壷から、白い粉末をもう一|掴《つか》み取り出すと、遠慮《えんりょ》も配慮も見せず、高上《たかがみ》兄弟に再びぶっかけた。
「ちょっと、なに、何なんだよ」
勢いよくぶっかけられたので、粉末は少量ながら口にも入り込んできた。舌に広がるその味は、馴染《なじみ》み深いものだった。
「これ……塩?」
昇の呟《つぶや》きに、コウが頷《うなず》《うなづ》いた。「清めの塩です」
あまりに常識はずれなもてなしを受けて少々機嫌を損ねた昇は、服や鞄《かばん》を叩《はた》きながら、はあ?と、いささか好戦的な姿勢でコウを睨《にら》んだ。ちょっとやそっとでは腹を立てない透は、「もったいない」と繰《く》り返しながら、たわめたTシャツの裾に、引っかけられた塩を溜《た》めている溜めてどうするつもりなのか。
龍彦《たつひこ》がコウを驚《おどろ》いた顔で見た。「もう、清めておく必要が?」
コウは無機質な表情で頷《うなず》く。「つい先程、東の道祖神《どうそじん》の元から式《しき》が飛ばされてきました。土地のものではない物《もの》の怪《け》が、ここに入り込んだとのことです」
「ええっ」見開いていた目を更に見開き、龍彦は口をあんぐり開けた。
「透《とおる》を追ってきたんじゃろな」言葉を失う龍彦に、玄関の大ばば様がいつもの落ち着きはらった口調で言った。「早々に準備を整えなくては」
驚きを拭《ぬぐ》いきれないまま、龍彦は半分|呆然《ぼうぜん》と尋ねた。
「もう空幻狐《くうげんぎつね》を起こすんですか?」
大ばば様はひとつ頷《うなず》き、大人《おとな》達の会話についていけずボンヤリしている兄弟に「ついておいで」と短く声をかけると、家の奥に入っていってしまった。その後ろ姿を見ながら、龍彦は心労を隠せない大きな溜《た》め息をつくと、どうしたものかと指示を待つ兄弟に、本当に申し訳なさそうに言った。
「二人とも、来たばかりのところ早速で悪いんだけど……大ばば様の後について、裏山に登ってもらう」
何をさせられるのかと身構えてはいたが、さすがにこの展開は予想外で、兄弟は声を揃えて
「えっ!」とのけぞり、目を丸くした。
三槌家の裏手にある山は標高百メートルも無い、本当に小さいもので、距離だけを見れば子供の足でも頂上まで行って帰ることは容易《たやす》かった。しかし、あまり人が踏み入《い》らない山でもあるので、道らしい道はなく、なおかつどの方角の斜面も急であるので、実際登ってみると、けっこうしんどい山なのであった。
「お前らはこれから、裏山のてっぺんにある封呪《ふうじゅ》の祠《ほこら》に行って」
そこで一瞬《いっしゅん》、言い澱《よど》む。
「……封印されている狐《きつね》の妖怪《ようかい》を起こしてくるんだ」
*****
草の匂《にお》いはむせ返りそうなほどキツイが、山の冷気で夏の陽《ひ》の暑さが緩和《かんわ》されているのが、せめてもの救いだろうか。
「三槌の空幻狐の話は、誰《だれ》からか聞いたことはあるか?」
高上《たかがみ》兄弟は、荒い息の合間にやっと「知らない」と返事をした。大ばばさまは「そうか」と呟《つぶや》いた。
母の小さいころの写真を見ても、そこに写っている大ばば様は今と少しも変わらない。数十年前も大ばば様は大ばば様だったらしく、歳《とし》もかなりくっているものと推測されるのだが、いったいどういう秘訣があるのか、この老婆は下手をするとその辺の十代二十代より体力があった。
元気に伸びる下生《したば》えをかき分けかき分け進み数十分――すでに高上《たかがみ》兄弟の息は上がり始めていた。空も朱の色合いが増してきてい昇《のぼる》透《とおる》決して貧弱な体の造りはしていないのだが、朝から電車に揺られていた疲労も重なって、もうかなり膝《ひざ》に来ている状態だった。若者二人がこの様であるというのに、先頭の大ばば様《さま》は一番元気にズンズン進んでいる。殿《しんがり》にはコウである。Tシャツなどよりは重そう、かつ動きにくそうな巫女装束《みこしょうぞく》でありながら、顔色一つ変えずに黙々と兄弟の背後をついてきている。
会ってまだ時間も経《た》っていないし、ろくな会話もしていないが、それでもこの少女の顔に表情と呼べるものが一切浮かばないことを、昇はもちろん透も気づいていた。彼女からは人間味というものが感じられず、どちらかというと人形のような印象を受ける。
大ばば様が語り始めた。「何百年も昔のことじゃ――まだ三槌《みづち》家の霊力《ちから》も強大であったころ、水気《すいき》を喚《よ》ぶとして、一匹の大きな古狐《ふるぼつね》が三槌の守り神に祀《まつ》りあげられた。名を空幻といい、霊力《ちから》強く、ありとあらゆる術を自由自在に操《あやつ》る、たいへんに賢《さか》しい狐であった―― だが同時に、騒動《そうどう》大好きのいたずら狐でもあった。奴《やつ》の気まぐれで、当時はたいへんな被害が出た――狐火の大量発生で村一つが火の海になる、真っ昼間から街道を百鬼夜行《ひゃっきやぎょう》が練り歩く」
急斜面を登りながら息を乱す事なく昔話をする大ばば様は、昇に驚きを通り越して不気昧さを感じさせた。
「まだまだあるぞ。家畜が人語を喋《しゃべ》りだす、浮塵子《うんか》が異常発生する、空幻が喚んだ巨大なイカが海を席巻《せっけん》して漁に支障が出る、などなど」
「超悪質じゃん」
昇の指摘に、大ばば様は頷《うなず》いた。「確かに悪質じゃった。だが行いは悪い事ばかりではなかった。いたずらの限りを尽くしながら、一方では流行《はや》り病を鎮《しず》めたり、日照りの最中に雨乞《あまご》いをしたり、坑夫に金脈を教えたり、貧しい農村に砂金の雨を降らせたりした。ある時などは、孤児の貧しい娘に立派な嫁入り道具一式をくれてやったりもしてな……ようするに、気分屋なんじゃ」
と、そこまで話したところで、唐突《とうとつ》に木々が途絶《とだ》えて視界が開けた。頂上に着いたのだ。この山の頂上は円型に開けていて、そのちょうど中心に、ちょっとした倉庫ほどもある、注連縄《しめなわ》の巻かれた大きな岩があった。過去に一度か二度この山に登ったことのある昇は、親戚《しんせき》の子供達とその岩によじ登って遊んだ記憶《きおく》があった。
久々に平《たい》らかな地面に足をつけて腰を仲ばす兄弟に、汗一つかいていない大ばば様が顔を向けた。
「まあそんなことで、空幻狐は民草《たみくさ》に感謝《かんしゃ》されることも少なくなかったんじゃ。しかし再三の警告《けいこく》にも耳を貸さず、反省もせず、いたずらと呼ぶには悪辣《あくらつ》すぎる所業を繰《く》り返す空幻に業《ごう》を煮やした当時の三槌の司祭は、中央の術師と協力し、七昼七晩かけてやっと空幻を封印した――そしてこれが……」そこで言葉を区切り、中心に向かって歩く。大岩と並ぶと、小柄な大ばば様は更に小さく見えた。
大ばば様は、傍《かたわ》らの岩肌をペンと軽く叩《たた》いた。
「空幻《くうげん》が封印されている祠《ほこら》じゃ」
昇《のぼる》は、もうどういう展開にでもなるがいいさとばかりナゲヤリに、はぁそうスかと頷《うなず》いた。
透《とおる》はいつも通り、キョトンとしている。
大ばば様は真剣な顔である。「この祠、三槌《みづち》の当主にしか開けることは出来ぬ」
「ふぅん」
すると後方にいたコウが歩み寄ってきて、昇に一枚の紙を差し出した。「どうぞ」
「ん?」
受け取ったその紙は、日常的に手にする紙よりも遥《はる》かに分厚《ぶあつ》くて、粗《あら》い表面だった――どうも、古い和紙のようだ。
「何コレ」
「祠を開くための、いわゆる呪文《じゅもん》のようなものじゃ。この祠が建てられて以来、三槌家当主に代々伝えられているもので、当主以外が詠むことは許されておらん」
「ふぅん」
「詠むんじゃ」
「誰《だれ》が?」
大ばば様はちょっぴり呆れたような顔をした。「お前しかおらんじゃろが」
それまで腑抜《ふぬ》けた顔をしていた昇は、それを聞いて顔を跳ね上げ、目を丸くした。「オレが詠むの?」
大ばば様は頷《うなず》いて返した。
昇は首をかしげた。「今、三槌の当主以外が詠むこと許されてないって言ってたじゃん」
大ばば様は少し訝《いぶか》しげな顔をした。「誰からも聞かされていないのか?」と言って、そしてフム、と一つ息をついた。「確かにお前たち兄弟はこの家と疎遠だったし……そういえば継承《けいしょう》の儀《ぎ》も執《と》り行ってなかったな……。私にも非はあったか。だがまぁ今はそんな事を言っていても仕方がない」と、ひとりで納得しちやう大ばば様。すると、不思議《ふしぎ》そうな顔をしている昇に顔を向け、ばっさりと言い放った。
「教えてやろう、今現在の三槌家当主は、昇、お前なんじゃ」
それまでひっそりと静まり返っていた山中に、高上《たかがみ》兄弟の「えええーっ!」という絶叫がこだました。
真剣そのものの顔で、透が兄を見上げた。「いつの間になったの、兄ちゃん」
弟よりも驚《おどろ》いている昇は、「し、知らねーよ」と、頭をプンプン横に振りながら答えた。不意に先ほど車内で龍彦《たつひこ》叔父《おじ》と交わした会話が思いだされた。「いや、ちょっと待った!男は三槌《みづち》家の当主にはなれないって、叔父《おじ》さんが言ってたんだけど」
透《とおる》も、そういえば、という顔で「言ってた言ってた」と頷《うなず》《うなづ》いた。
「男がなれないのは司祭じゃ。当主には男女かかわらず長子がなる」
あっさりいなされて、一気に気勢が削《そ》がれた。「あ……そうスか」
「分かったら、さっさと詠《よ》むんじゃ」
いまいち釈然としないのだが、詠めというのだから仕方がない。とにかく昇《のぼる》が紙面に目を落とした。その古い和紙に流麗《りゅうれい》な筆で記されているのは、カタカナのみの文章だった。本当にカ
タカナだけ――句読点も無いので、どこで区切るか分からず、読みにくいことこの上ない。しかし読めないものでもない。多少の馬鹿馬鹿《ばかばか》しさを感じながらも、昇はボチポチ音読し始めた。
「え〜と……アマツ、メテチカ、タマリケリ。………ん〜……オンバショニ、テオキナル、フルキ、テン、コフウジテ、タテマツル……。え〜と……ミツチ、ノチ、ニ、オイ、コノモント、ノリタテマツリイヤ、シモノヘ、エキトタメ、ヨシトシ、ツウジマシ……どういう意味?」と、顔を上げる。
大ばば様が岩の裏側に回り、手招きした。若者三人も、招かれるまま大岩の裏に回った。裏側は北向きであるため日当たりが悪く、暗い色の岩肌に苔《こけ》が厚く生えてジメジメしていたその苔に縁取《ふちど》られるように、人ひとり楽に通れるような大きな穴が空いていた。
昇は目を見張った。「あれ――こんな穴……」
開いてたっけ、こんなところに……
しかもこの穴、覗《のぞ》いてみるとかなり奥行きがある――内部が暗いのではっきりとは分からないが。空気の流れが生まれたことによって、人間の耳に届かないほど細い、空気をわずかに震《ふる》わすだけの音が洞内《どうない》に響《ひび》いた。その静かな低い音の広がりは、祠《ほこら》を外見よりもさらに大きいものに感じさせた。
大ばば様は何も言わずに祠の中に入っていった。ちょっとした冒険に興味津々《きょうみしんしん》の透が後に続く。祠の内側に足を踏み入れると、わずかだが、足の裏が地面に沈み込んだ――祠内の地面には柔らかな砂が広がっているようだった。
戸惑《とまど》いながら昇も続き、最後にコウが入った。全員が祠内に入ったその瞬間《しゅんかん》、真の闇《やみ》だった洞内に、優しい色のほのかな光が音も無く灯《とも》った。昇も透も驚《おどろ》いて顔を上げ、天井《てんじょう》辺りを見回した。奇妙なことに、頭上には、外壁《がいへき》とは対照的に暖かな色味を帯びた乾いた岩肌が広がるばかりで、光源らしきものが見当たらない。天窓のようなものも無かった。説明の出来ない違和感を抱えながら視線を戻し――高上《たかがみ》兄弟は息を呑《の》《の》んだ。
注連縄《しめなわ》で囲まれた畳三畳ほどの広さの輪《わ》の中に、金毛美しい一匹の獣《けもの》がいた。来訪者達に背を向け、じぃっとうずくまっている。
突然の野生動物の出現に、兄弟は体を強《こわ》ばらせた。
犬科のものらしい三角形の耳が片方、人間の気配《けはい》を感じたか、はたりと動いた。そして獣はゆっくりと顎《あご》を上げ、うっとうしそうに人間達に鼻先を向けた。
琥珀《こはく》色の目ん玉と視線がぷつかった。
「狐《きつね》……」
透《とおる》が小さな声を上げた。
確かに一見すれば狐であった。尖《とが》った顔や細い躯《からだ》などは明らかに犬のものではない――しかし、狐だとすればその体格は異常なほど大きかった。寝そべった状態を見る限りでも、大型犬ほどあるように見える。襟巻《えりま》きのようなたてがみも立派である。そして何よりも際立っているのは、その尾であった。大柄な体格に増して尾の方が長そうである。西洋の姫君の金髪のように艶《つや》やかな尾を、狐は枕《まくら》代わりに自分の顎に敷《し》いていた。
円を形作る注連縄《しめなわ》の縁《ふち》ギリギリまで近づき、大ばば様は座り込んだ。視線の高さを狐に合わせると、深い礼をした。
「お久しゆうございます、天狐《てんこ》様」
オイオイこの婆さん狐に話しかけてるよ大丈夫か、と昇は暗澹《あんたん》たる気持ちで大ばば様を見た。すると、大ばば様の呼びかけに応《こた》える声が、祠《ほこら》の中に響《ひび》いた。
「――まだ生きておったか、妖怪《ようかい》ババァ」
透がハッと息を呑《の》《の》む音が短く鳴った。昇《のぼる》は、今誰《だれ》が喋《しゃべ》ったんだと言わんばかりに祠内部をせわしなく見回した――いや、この成り行きから見て、返事をしたのは誰なのかなど明らか。しかし昇《のぼる》の中に、それを認めたくないという気持ちがあった。認めたらお終《しま》いだ、という気が何故《なぜ》かだかしていた。
大ばば様は顔の皺《しわ》を深くして、徴笑《わら》った。「お陰様でございます」
と、大ばば様に鼻先を向ける大きな狐《きつね》の顔が、ニュッと歪《ゆが》んだ――笑ったのだ。嘲笑《あざわら》っている、人間のように。続いて、その嘲笑《ちょうしょう》に歪んだ口元が、これまた人間が喋《しゃべ》るかのごとく、さらさらと流暢《りゅうちょう》に動いた。
「ハ、よく言うわ。妖怪《ようかい》より妖怪のくせしおって」
昇の心臓《しんぞう》が飛び上がった。「う、うおおあああ!しゃ、喋ってる!狐が!」
「すっげ〜〜〜〜!」透《とおる》も興奮《こうふん》気味に叫ぶ。彼の方は驚《おどろ》いているいうより感激しているようだ。
二人の声は狭い祠《ほこら》の中で耳障りなほどに反響《はんきょう》した。狐はわめき立てる兄弟をチラリと少々|煩《わずら》わしそうに見やった。しかし何も言わず、老婆に視線を戻した。
「儀《ぎ》ではなさそうだな。何か事情があると見える」
大ばば様の顔から微笑がかき消え、鋭《するど》い眼差《まなざ》しを伴った硬い表情が浮かんだ。「実は……あなた様の力を貸してほしいのです。三槌《みづち》の家の者が、ある物《もの》の怪《け》に狙われております」
狐はしばらく黙《だま》って目の前の老婆を眺め、そして、いかにもつまらなそうにフンと鼻を鳴らした。「俺《おれ》に頼らずとも、三槌家には、お強い護《まも》り女《め》様がいらっしゃるだろうがよ」と横目で、入り口付近に立つ美しい巫女《みこ》を見た。コウはその視線を受け止めるかのように顎《あご》を引き、感情に乏しいながらも強い視線で狐を見返した。
大ばば様は目を伏せ、絞り出すような声で言った。「昔ほど強力ではないのです――三槌の霊力《ちから》も、護《まも》り女《め》の霊力《ちから》も」
狐はその大きな耳を一度パタリと動かすと、元のように入りロに背を向け、寝そべってしまった。その後ろ姿からは我関《われかん》せずという気配《けはい》がこれ見よがしに漂っている。
「……|天狐《てんこ》様」大ばば様のロ調に、非難めいたものが混じった。
数瞬《すうしゅん》の間を置き、狐がぽつりと言った。「その物の怪というのは古い奴《やつ》なのか」
大ばば様の頬《ほお》の力がわずかに緩《ゆる》んだ。「お助け下さいますか」
「訊《きい》いておる。先に答えろ。その物の怪は年経《としへ》た奴か」
「……分からないのです」
「何だそれは」
「申し上げましたように……三槌の霊力は弱まっておりますゆえ。本気《もっき》の物の怪と思われますが、断言は出米ませぬ」
狐の耳が、またハタリと動いた。「ハ。堕《お》ちるところまで堕ちたな、水の司祭の一族が」
「お恥ずかしい限りでございます」
「で――いまいち心配だから、俺の力を貸して欲しいというわけか。都合の良い話だよな。俺を封印しておいてよ」
大ばば様が、眼を眇《すが》めた。「それは貴方《あなた》様が、その強大な霊力《ちから》を以ってして民草《たみくさ》に害をなしたからでございましょう。当時、一体どれだけの被害が出たと思っているのです――それに我々は、忠告はしたのですよ。聞く耳を持たなかったあなた様に非はあるのです」
「ふん」狐《きつね》は改めて顎《あご》を上げ、横顔だけを人間達に向けた。ゴムのような黒い唇が、おかしそうに歪《ゆが》められている。「村のひとつやふたつ、どうということもあるまい」
「そういうわけには参りません」
「とにかく俺は三槌《みづち》の人間を助ける気なんざさらさら無い。ハハ、とっとと物《もの》の怪《け》に喰らわれてしまうがいいさ」
喰われる、という部分で、透《とおる》が身を固くしたのを昇《のぼる》は見逃さなかった。その昇の胸にも黒く重い不安がじわじわと広がっていく。
人間を小|馬鹿《ばか》にしたような狐の物言いに、大ばば様はしかし、笑みを返した。「狙《ねら》われているのが誰《だれ》なのかを知っても、あなた様は断れますかな」
「……ほう……」予想外の相手の反応に、狐の横顔に警戒《けいかい》心が滲《にじ》んだ。「誰だ」
大ばば様は声のトーンをひとつ落とした。「美夜子《みやこ》の息子にございます」
琥珀《こはく》の玉のような眼が見開かれた。狐は明らかに驚いていた。「美夜子の――」短くそう呟《つぶ》くと、そこで初めて体を起こし、正面を人間達に向けた。視線を老婆の後方で立ちすくむ少年二人に向ける。「お前達か」
狐に声を掛けられ、兄弟はびきりと硬直した。
いまや勝利の確信に満ちた笑みを浮かべる大ばば様は、狐の位置から兄弟がよく見えるように体をずらした。「紹介が遅れまして――天狐《てんこ》様。これは、あなた様もよくご存じの前司祭当主・美夜子の息子にして現三槌家当主・高上《たかがみ》昇、そちらが弟の透でございます」
大ばば様は手招きして、兄弟を自分の隣《となり》に座らせた。狐は首を伸ばし、兄弟に見人っている。兄弟は注連縄《しめなわ》の円の縁《ふち》にじりじりと近づき、狐の視線を痛いほど感じながら、砂地のうえに座った。何となく正座。
近くで見ると、狐はやはり大きかった。座った狐の体高は、透の座高とそれほど変わらない。それに、近くで見なければ分からないことだが、単純な琥珀色に見えた狐の両眼は、緑や金の繊維《せんい》もちりばめられていて、光の加減で徴妙にその色合いを変えた。とても美しい瞳《ひとみ》であった。
動揺する昇はいまいち視線を合わせられないが、透は遠慮を見せず、物珍しげに狐を真正面から見つめ返した。
狐は兄弟を交互にじっくりと見やりながら、尋ねた。「その、物《もの》の怪《け》に狙われているというのはどちらだ。二人共か」
大ばば様が透を示した。「弟の透でございます。〈陰〉の気《き》の強い家柄ですから、〈陰〉の属性を持つ『弟《と》』の方に三槌の血が濃く出ているのでしょう」
狐は「ふぅん」と言って、そして黙《だま》り込んでしまった。不思議《ふしぎ》なものでも見るかのような顔で、また兄弟を交互に眺める。その間、コウはもちろん、大ばば様も口出しをしなかった。透《とおる》は、負けじとばかりに狐《きつね》を興味津々《きょうみしんしん》、見つめている。
狭い祠《ほこら》の中に沈黙《ちんもく》が降りる。
その沈黙に、昇《のぼる》体がむずむずし始めたころ、不意に透が尋ねた。
「名前、空幻《くうげん》っていうの?」
目の前に座る透が喋《しゃべ》ったことが、いかにも新鮮《しんせん》、いかにも驚《おどろ》きだったように、狐は目を見開き、耳を大きく反らせた。「……いかにも。俺《おれ》は空幻だ」
透はヘラ、と笑った。「じゃ、クーちゃんね。あだ名」
…………
昇は脱力した。ひょっとしてこいつ、この沈黙の間ずっとそれ(=狐のニックネーム)を考えていたのだろうか……あり得ないことでない、というか、確実にそうだろう。弟の能天気さに、呆《アキ》れを通り越してちょっと感心した。
何を言い出すんだこの子供は、と、さぞ呆れていることだろうと思ったが、狐は意外にも、目を細めてククク、と柔和に笑っていた。「美夜子《みやこ》の息子、か………なるほど……さすがだな」
すると今度は突然、「お前ら、いくつになる」と、質問してきた。透は何のためらいも見せず、「十二歳」と答えた。昇も、おうかなびっくり「十七」と答える。
「十二と十七、だと?」狐の上まぶたがピクリと動いた。人間で言えば、眉《まゆ》をひそめた、くらいの動きだろうか。その表情を見て、兄のほうは、オレなんかマズいこと言ったかな……と不安になり、弟のほうは、ボクって十二に見えないのかな、と心配になった。
狐は「ふぅん……」と言って、そして何か思案するように、虚空《こくう》に視線を泳がせた。二呼吸ほどの間があった。狐はコトリと頷《うなず》《うなず》くと、兄弟に尋ねた。「美夜子はどうしている?」
そこで再び沈黙が降りた。今度は気まずさと緊張《きんちょう》の色が濃《こ》かった。透は乗り出していた体を怖《お》ず怖《お》ずと元に戻し、その場で黙《だま》って俯《うつむ》いてしまった。
「………ん〜……っと」
昇は、これは自分が説明しなくてはならないという突発的な義務感を感じ、口を開こうとした。しかしそれは上手《うま》く言葉にならなかった。隣《となり》に弟が座っていなかったら、ひょっとしたら上手く言えたかもしれない、と、どうしようもないことをチラリと考えた。
透は母のことを、欠片《かけら》も知らない。
そして彼がそれをコンプレックスに感じている節《ふし》があることを、兄は敏感に感じ取っていた。透の前で母の話はタブー――そんな物悲しい不文律が、透を取り巻く者達の中に、確かに存在していた。それは暗澹《あんたん》として気の重い気遺いだったが、誰《だれ》もが仕方の無いこととして受け入れていた。
狐の問いに、昇は迂閲《うかつ》に答えられない。だからといって透が答えられるものでもない――兄弟の微妙な葛藤《かっとう》を察したか、大ばば様が横からそっと答えた。
「美夜子《みやこ》は他界しましてございます」
琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》の上くぉ、一瞬《いっしゅん》、激しい感情の影《かげ》がよぎった。が、それはっさり流れて消え去った
。「そうか。ふぅん……」と、無表情に言ったあと、狐《きつね》はポツリと呟いた。
「人間は脆《もろ》いな、あいかわらず」
その言葉に気の利いた相づちを打つのは、昇《のぼる》には荷が重かった。うんともすんとも言えないでいると、狐《きつね》は眼をくりくりさせて、兄弟にまた急なことを尋ねてきた。
「美夜子は良い母親だったか」
答えることができない透《とおる》は、隣《となり》に座る兄の顔を困ったように見た。その視線はさりげないものだったが、受ける昇にとっては残酷に思い一撃《いちげき》だった。俺《おれ》にそんな事言わせないでくれというのが、昇の正直な気落ちである。母を知らない弟の前で母を語るのは、酷なような気がした――透にとっても自分とっても。
しかし躊躇《ちゅうちょ》は一瞬《いっしゅん》であった。無意識《むいしき》のうちか、それとも、そういなくてはならないという義務感からか――とにかく、昇は頷《うなず》いた。言葉にすると、何となく後悔するような事を言ってしまいそうな、そんな予感がしたので、首の動きだけで肯定を示した。振りが小さく弱弱しい印象に取られたかもしれない――昇はもう一度頷《うなず》いた。今度はなるべく力強く見えるように、大きく。
狐はしばらく昇の顔を見つめていたが、やがてスゥと目を細めた。獣《けもの》ながら驚《おどろ》くほど優しい顔だった。「そうか。ふふふ、そうか」
そう言って短く笑うと、狐の目に灯《とも》った優しげな光は好戦的な色に変わった。隣で成り行きを見守る大ばば様にその目を向け、狐はニヤリと笑った。「いいだろう、柱女《はしらめ》よ。少々|癪《しゃく》だが、貴様の手の内で踊ってくれる――力を貸してやろう。だが勘違いするな。俺は三槌《みづち》一族のためでなく、美夜子の息子のために動くのだ」
大ばば様もニヤリと笑い、砂地に拳《こぶし》をついて深く頭を下げた。
「分かっておりまする」
*****
三槌家に戻ってすぐ、高上《たかがみ》兄弟は浴室に通された。この家の風呂《ふろ》場は、タイル張りな今時のシステムバスなどではなく、かえってコストのかかっていそうなヽ見事なまでの総桧造《そうひのきづく》りであった。その中で即刻、全身をまんべんなく水で洗うことを強要された――いわゆる禊《みそぎ》という一種の儀式《ぎしき》なのだが、高上兄弟がその重要さを知るはずがない。
三槌家は家庭用水に井戸水を使っているため、ガスの熱を通さない水の温度はやたら低い。夏とはいえ、冷水を頭からひっかぶるのは、なかなか辛《つら》いものがある。それでも全身清められるまで出てくるなという大ばば様の御達《おたっ》しなので、桶《おけ》一杯の水にいちいちギャーギャーと悲鳴を上げながらも、二人はなんとか水を被《かぶ》り、体を洗った。
もういいだろうと脱衣場に帰ると、脱衣|籠《かご》には自宅から持参した洋服の代わりに三槌《みづち》家で用意された白い袴《はかま》が用意されていた――が、剣道部でも弓道部でもないこの兄弟、そんなもん今まで着たことないので、どうしていいか分からず、パンツ一丁で途方に暮れてしまっていた。結局は、心配して見に来た龍彦叔父《たつひこおじ》に着せてもらった。
髪も乾かないうちに通されたのは裏山に面した、広い板の間であった。すっかり陽《ひ》の落ちた濃紺《のうこん》の空には、街では不可視なほど小さな星も力強く瞬《またた》いている。緑の苔《こけ》むした日本庭園からは、さらさらという水の音と涼やかな風が絶えず流れこんできていた。夕涼みには格好の場所である。
しかしこの部屋、電灯が無い。光源はなんと、部屋の四隅《よすみ》と上段《かみだん》の両|脇《わき》に置かれた合計六本の燭台《しょくだい》の火だけである。風情《ふぜい》があるとか言ってられないくらい、薄暗《うすぐら》い。
一段高くなった上段に座らされた兄弟の目の前に、懸盤《かけばん》に乗った盃《さかずき》が、大ばば様によって運ばれてきた。「呑《の》《の》むんじゃ」と、大ばば様が有無《うむ》を言わせず勧めるのは、どうやら清酒のようだ。「いいのかなあ未成年に呑《の》ませちゃってぇ」などと軽口を叩《たた》きながら、昇《のぼる》は盃に口を付けた。透《とおる》もそれに倣《なら》う二人とも盃の中の酒を一気にあおり――
顔をしかめた。
「うええ」
「まずい」
兄弟の背後に座していた雅彦叔父は、心外だと言わんばかりに、情けない顔の兄弟を強く見据えた。「まずいことがあるか。これって純米|大吟醸《だいぎんじょう》なんだぞ。いいお酒なんだぞ」
とは言え、未成年に日本酒の味を分かれという方が無理である。しかし、両親が共に酒豪である高上《たかかみ》兄弟、やはり酒に強いらしく、舐《な》める程度の日本酒では酔いが回ったり極端に顔色が変わったりはしなかった。
アルコール度の高い酒を通したことで胃や食道が熱を帯び始めた時、廊下からカカカという豪快な笑い声が聞こえてきた。
「そうついて廻《まわ》らんでも逃げたりせんさ」
声からして、女――が、コウを伴い、障子の陰から姿を現した。
蝋燭《ろうそく》の神妙な明かりの中に入ってきて、まず目に飛び込んでくるのは、見る者|全《すべ》てに日の光を思わせる、生気に溢《あふ》れた明るい髪の色であった。染色したり脱色した髪とは絶望的なまでに掛け離れたそのなめらかさは、撚《よ》る前の絹糸を思わせ、実に繊細《せんさい》で柔軟だった。
その金の髪に縁取《ふちど》られられているのは、掾sろう》たけた、世にも美しい白面《はくめん》である。部屋にいた男三人は、この女は一休|誰《だれ》なのかという疑問も忘れて、その美しさにただ息を呑《の》んだ。女が着ているのは、上下とも白の、昧も素っ気も無い巫女装束《みこしょうぞく》であったが、絶世《ぜっせい》の美女《びじょ》が纏《まと》うとそれもなまめかしく見えるから不思議《ふしぎ》だ。
女は、呆然《ぼうぜん》と視線を送る男性陣に目をやり、「揃《そろ》っておるな」と満足そうに頷《うなず》いて、ニコリと笑みを浮かべた――瞬間《しゅんかん》その花びらのように可憐《かれん》な唇が耳まで裂けた。鼻も鋭《するど》く突きだし、細い針のようなヒゲが景気よくピャンピャン飛び出す。
男性陣は、今度は別の意味で息を呑《の》《の》み、後退《あとずさ》った。
女は「おっと」と、あまり慌てていない様子《ようす》で口元を押さえ、指先で軽く揉《も》んだ。手を放すと、もう元の滑らかな美貌《びぼう》に戻っている。謎《なぞ》の美女はワイルドに顎《あご》をさすりながら、堂々と言った。「化けるのは久々なんでな、まだ勘が戻らん」
「あんた――」と昇《のぼる》が呆然と声を絞りだし――「クーちゃん?」と透《とおる》が素《す》っ頓狂《とんきょう》にに尋ねた。
美女が「おうよ」と悪びれもせず答えた瞬間《しゅんかん》、その頭頂部線上から左右で対《つい》になるように、ふさふさと毛の生えた二等辺三角形がバサッと跳ね起きた。これはどうやら――耳であるようだ。金毛の地《じ》に、先端に焦げたような色がついている。まさしくキツネの耳。
もう感心するしか出来ない昇は、美女の頭から飛び出た左右の耳を交互に眺めながら訊《き》いた。「お前……メスだったのか」
それに同調するように、透が頷《うなず》いた。「自分のこと俺とか言ってるから、てっきりオスだと思ってた」
すると謎の美女こと天狐空幻《てんこくうげん》はニヤリと笑った。「オスとか、メスとか……」と、どこから取り出したか、扇をパツと広げる。白に近い金の地に濃《こ》い色の金箔《きんぱく》で雲鶴を描いた、豪奢《ごうしゃ》ながらも上品な扇である。「長いこと生きているとな、忘れてしまうんだよ。現に俺は、そもそもオスとして生まれたのかメスとして生まれたのか、はっきり覚えておらん。今となってはどうでもよいし、な」顔の下半分を扇で隠し、空幻《くうげん》は兄弟を見降ろした。「ただ人間の姿に化けるときだけは、見た目の都合上、どちらかを選ぶ必要に迫られるわけだ。今の場合はな、お前達が男子だから、女の姿の方がいいだろうと思って、それだけの事よ。気に入らぬなら男の姿をとってもよいぞ。おい、どちらにする?」
……って言われても困ります。
昇《のぼる》と透《とおる》がウ〜ンと口籠《くちご》もっていると、大ばば様が「準備は整ったのか」と、話題を変えてくれた。
コウが劃いた。「私と天狐《てんこ》様とで、この部屋の周りに結界を張りました――どれほど効果があるかは分かりませんが。……透様」と、透の目の前に座る。「これからやって来る物《もの》の怪《け》は、すでにあなたの名を支配しているはずです。名を呼ばれても、決して返事をしてはいけません。準備しておいたすべての術が無効になってしまいますから」
透の顔が緊張で強ばった。「うん」
そんな透の肩を、龍彦叔父《たつひこおじ》が軽く叩いた。「大丈夫だいじょうぶ、透ちゃん。天狐様とコウちゃんがしっかり守ってくれるから」……と言う叔父の声も、緊張のためか、少々上ずっている。
上段《かみだん》を離れたコウは、この板の間を囲む襖《ふすま》という襖、障子という障子を全《すべ》て閉めながら、最後の仕上げとばかり、桟《さん》の合わさっている部分に向かって、何やらポソポソと呪文《じゅもん》めいた言葉を唱えた。次に燭台《しょくだい》のひとつひとつにも寄ると、そこでも呪文を唱える。
人語を操《あやつ》り美女にも化ける狐《きつね》――現在進行形にて目の前で起こっている、この常軌を逸した一連の事実はしかし、昇が自分でも驚《おどろ》くほど冷静に受け入れることが出来た。パニック状態にあって何がなんだか分からない状態に陥っているから、というのも多少あるかもしれないが、それでも、空幻狐という存在は、まあ広い世の中そういうこともあるだろうと、現実として納得できていた。
しかし、今からここにやって来るのが誰《だれ》にも正体の分からない妖怪《ようかい》であり、なおかつそれが弟の命を狙っている……というのは、いまいちピンと来なかった。あまりにも荒唐無稽《こうとうむけい》すぎる気がした。だから昇は、この期《ご》に及んでも、三槌《みづち》の人達の大袈裟《おおげさ》ともいえる念の入れように、馬鹿馬鹿《ばかばか》しさや呆《あき》れの混じった訝《いぶか》しげさを消し去れないでいた。ひょっとしたら自分達兄弟は三槌家に騙《だま》されており、朝になった時点で「なーんちゃって!妖怪に狙われてるなんてウソウソ!引っかかった引っかかった〜」とか言われるんじやないだろうか――そんな気がしてならなかった。
しかし、龍彦叔父始め、大ばば様やコウの顔付きはこれ以上なく切迫したものだったし、室内を支配している、動けば皮膚《ひふ》が切れるような鋭い緊張感は、たとえドッキリカメラであろうとも作り出せるものではないように思えた。三槌家の人々は、本当に、何かをひどく恐れていた。いまひとつ理解していない高上《たかがみ》兄弟だけがポーッと腑抜《ふぬ》けている。
いま一人――金の髪の美貌《びぼう》は、上段《かみだん》の脇《わき》の柱に背中を預けて無造作に座り、暇を持て余しているかのように手の中の扇を開いたり閉じたりしていた。あくびなどして、余裕すら漂わせている。狐の耳は隠されず、飛び出したままになっていて、何かを聞き取ろうとするように、垂直にピンと立っていた。
最初は、気を利かせてか、龍彦叔父《たつひこおじ》が高上兄弟に家や学校の近況などを次々尋ねてきた。しかしそれはあまり長続きせず、いつしか喋《しゃべ》る者はいなくなった。重い沈黙《ちんもく》の中を、庭から聞こえる水の流れの音と、空幻《くうげん》が手玩具《ておもちゃ》している扇の開いたり閉じたりしている音だけが淡々と流れていった。たまに燭台《しょくだい》の方から、ジジ、と油の焦げる音がする。
上段に並んで座る高上兄弟、その背後を守るように龍彦叔父と大ばば様が座る。コウは上段を背後にかばうように、裏庭の方を向いて板の間に立っていた。女の子を立たせといて自分だけ座っていることに、何となくやましさを覚えなくも無いが、座ったら? と気軽に言える雰囲気でも無いので、昇も透も黙っていた。
ぱちん、と一際《ひときわ》高い音を立てて扇を閉じた空幻が顔を上げ、庭に面した障子を睨《にら》みながら、ニヤリと笑った。
「来たな」
一同は驚《おどろ》いて空幻を見、そしてその視線を追った。
月明かりによって淡い藤《ふじ》色に染めぬかれた障子に、影《かげ》が立った。長い髪や薄《うす》い肩が、その影の主は女なのだと物語る。
昇の全身に鳥肌が立った。透は硬直して息を詰めたようだった。
閉め切られた室内に、冷ややかな凰が吹いた。燭台の明かりが一斉に揺らいだ。次いで、ガタッという、何かがつっかえたような音がした。
「……あやし」
ともすれば聞き逃してしまいそうなほどささやかで、そして氷のように冷《さ》めた声が、室内の静けさを縫《ぬ》って聞こえてきた。連続してガタッガタッと音が響《ひび》く。
「開かぬ……」
障子をこじ開けようとしている。それに気づき、昇は思わず逃げ出しそうになった。浮きかけた腰を、必死でその場に据える。
ひとり余裕の表情の空幻は上段に這《は》い上がると、硬直してしまっている透の隣《となり》に来てドカッと胡座《あぐら》をかいた。「よぉ透、どうだ、怖いか?」
「うん」透は機械的にカチリと頷《うなず》いた。
「だ、大丈夫、透ちゃん。ここにいれば大丈夫だからな」と言って励ます龍彦叔父の方が顔色が悪いようだ。「大ばば様もコウちゃんも、天狐《てんこ》様だっているんだから」
「うん」機械的にカチリと頷《うなず》く。
障子がさらに激しく揺すぷられた。男三人は、ビクッとしてそちらを見やった。一方の女三人は、なかなか落ち着いている。
すると障子一枚を隔てた向こう側から、憎らしそうな声が漂ってきた。「開かぬと思えば結界の張り巡らされていることよ……」
大ばば様の顔の険しさが増した。ち、と舌打ちする。「気づいたか……言霊《ことだま》《ことだま》を使って来るはず。気を付けろ」
「うん」と、機械的にカチリと頷《うなず》く透《とおる》だけが返事をした。
コウが振り返らないまま、「透様、くれぐれも言っておきますが、名を呼ばれても返事をしてはいけません」と、念を押した。
「うん」機械的にカチリと頷《うなず》く。
口調からどんどん感情が消えていく弟が心配になって、昇《のぼる》は透の顔を覗き込んだ。「おい透、大丈夫か?」
「うん」機械的にカチリと頷《うなず》く――どんな問いかけに対しても、同じ反応しか示さない。
……あんまり大丈夫じゃなさそうなんですけど。不安そうな兄の顔を見て、金髪の美女はカカカと軽い調子で笑った。「大丈夫だよなぁ?」と透の頭を小突く。
「うん」機械的にカチリと頷《うなず》く。
それらの会話に混じるように、障子越しの声がかけられた。「透……」
「うん」機械的にカチリと――
あ。
室内の空気が止まった。
一番最初に我に返ったのは昇であった。「バッカァァア!返事するなっつーのに!」
「うん。――?あ、そうか、しまった」
「忠告のし甲斐《がい》の無い奴《やつ》だな、お前は!」と言って、空幻《くうげん》は腹を抱えてパンパン笑い出した。
龍彦叔父《たつひこおじ》は一瞬《いっしゅん》にして顔色を失う。コウと大ばば様は身構えて影《かげ》のいたほうに向き直る――その瞬間《しゅんかん》、甲高《かんだか》い音を立てて障子戸が勢いよく左右に開いた。作為的な突風が吹き込む。燭台《しょくだい》の明かりが一斉にかき消える。月明かりだけが光源となった。室内にいた者遠の着物がバタバタツとはためく。露《あら》わになった夜の裏庭。それを背景に女が立っていた。紫色の単《ひとえ》に身を包んだ、漆黒《しっこく》の髪の女である。肌は抜けるように白い。が、全体的な印象が何となく――――『黒い』。そんな女だった。
透は目を丸くした。「あ。あの女の人……」
「夢に出てきた女か?」遠の隣《とおる》についた大ばば様が尋ねた。透は頷《うなず》いて返した。
女はスウと静かに微笑《ほほえ》んだ。唇は動かず、声だけが響《ひび》いた。「開《あ》いた、開いた――よい子よ、透」
馬鹿笑いするのをぴたりと止《や》めて、空幻が立ち上がった。コウに並びながら、「ふむ、やはり蛇だな」と呟《へび》く。それにコウも頷《うなず》いた。
前もってコウが呪文《じゅもん》みたいなものをかけていたせいなのか、一度火の消えた燭台《しょくだい》が再び、ひとりでに火を灯《とも》した。明るさが戻る。その中で、不意に、黒い女が手を差し伸べた。
「透《とおる》、|こちらにおいで《、、、、、、、》」
……なんて言われて本当に行く奴《やつ》がいるかよ。しかもめっちや怪しい女。弟はもう十二歳なんですよ幼稚園児じゃあないんですよ。と、昇《のぼる》は鼻で笑った。隣《となり》に座る弟を見て――兄は心臓《しんぞう》が止まりそうなほど驚《おどろ》いた。透が立ち上がり、上段《かみだん》を降りて、女に向かってフラフラ歩き始めたのである。
「透!」
声をかけられても弟はピクリとも反応せず、すたすたと歩いていってしまう。
「え、ええっ!おいちょっと、透ちゃん!」龍彦叔父《たつひこおじ》が慌てて腰を浮かせた。
その一瞬《いっしゅん》先に立ち上がった兄は、弟を止めようと手を伸ばし、透の肩に触れた。その瞬間、静電気を数倍強くしたような電流が、昇の指先を叩《たた》いた。「うわっじじっ!」と叫んで手を引っ込める。「何だ……?」と赤くなった指先を見つめていると、後ろから袴《はかま》を引っ張られ、上段に戻された。大ばば様だった。険しい顔で「上段から降りるな」と言う。
そう言っている間にも、透はどんどん上段から離れていき、空幻《くうげん》とコウが立っている横に到達した。その表情は虚《うつ》ろで、目には何も映っていないようだった。
空幻はそれを横目で見ながら、透を止めようと前に乗り出したコウを手で制し、一言、力を込めて言い放った。
「透、|行くな《、、、》」
透の足がぴたりと止まった。
金の髪の美貌《びぼう》が、勝ち誇った笑みを黒い女に向けた。「俺《おれ》はこの土地と縁《えん》が深い。名を支配していなくたって、言霊《ことだま》が成功する率っつぅのは、何にせよ俺の方が上というわけだ」
途端《とたん》、透が我に返った。自分が立っていることに驚いて息を呑《の》む。コウに腕を引かれ、首をかしげながら上段に戻った。
透ばかりを視界に入れていたから他《ほか》の者達の存在には今初めて気づいたという風情《ふぜい》の女は、見開いた瞳《ひとみ》で空幻を眺めた。ふん、と鼻を鳴らす。「……狐《きつね》とは、の」そしてその美しい顔を憎々しげに歪《るが》めた。「裸虫《らちゅう》《らちゅう》に味方してわらわの邪魔立《じゃまだ》ていたすか」
黒い女から発せられているようにも感じられる、夏のものとは思えない冷たい風から人間達を守るかのような位置まで立ち進み、空幻は美貌に薄《うす》く笑みを張り付けた。「三槌《みづち》の血は貴様の口には過ぎた上物《じょうもの》よ。慣れんものを食うと腹ァ下すぞ」
「無用な世話じゃ」
「食わねば死ぬというわけでもあるまい。珍味をつまもうという程度の覚悟なら、悪いことは言わん、とっとと失《う》せろ」
「なぜ裸虫《らちゅう》に味方する?」
「それこそ無用な世話だな。出過ぎるなよ、余所者《よそもの》が」
「……解《げ》せぬ……真名《まな》でも握られておるのかぇ」
「講釈《こうしゃく》したところで貴様に解《かい》せるとも思えん」
そこで双方、黙《だま》った。稀《まれ》にも見られない様な美女二人が無言で睨《にら》み合う様は、居合わせた者に身じろぎすることもためらわれるような異様な緊迫《きんぱく》感を与える。
「狐《きつね》……ああ、そうか。フフ、思い出したぞぇ。以前、聞いたことがある」女は血の気の薄《うす》い唇を嘲笑《ちょうしょう》に歪《ゆが》めた。「水気《すいき》を喚《よ》ぶと有《あ》り難《がた》がられ、守り神と祀《まつ》りあげられたものの、悪さを繰《く》り返したため水《ミ》ツ霊《チ》の司祭に封印されてしまったという、奢《おご》った古狐の話をな。まさか貴様のことではあるまい?」
空幻《くうげん》は途端《とたん》、不機嫌そうになる。
「やはり、お前なのかえ!」女は顔を上向け、高々と笑い声を上げた。「愚かよのぅ。自分を封印した一族の危機に手を貸してやるとは、何とも愚か!」
真円だった空幻の瞳孔《どうこう》が、瞬間《しゅんかん》的に針のように細まった。同時に、足と床が接した部分から、青白い炎のようなものが天井《てんじょう》まで勢いよく立ち昇る―― 炎のようだが、熱は帯ぴていない。火というよりは陽炎《かげろう》のようであり、煙のようであった。
「口の利き方に気をつけろ、三下《さんした》!」
足元から噴《ふ》き出したのと同じ青い狐火《きつねび》が、聞く者の腹まで響《ひび》くような一喝《いっかつ》と共に、空幻《くうげん》の口から吐き出された。ロが深く裂けて犬歯が迫り出し、眉間《みけん》から鼻筋にかけて皺《しわ》を浮かべるその顔は、まさしく怒れる獣《けもの》そのものだった。
黒い女の顔に笑みは残っていたが、油断は消えた。「気位の高さは保てても、霊力《ちから》は保てたのやら……」
空幻は、何事も無かったかのようにスッと元の美貌《びぼう》に戻った。青白い灯《あか》りの名残《なご》に滑《なめ》らかな肌を撫《な》でられながら、空幻は手にした扇で肩に掛かった髪を払いのけた。「気になるなら自分の目で確かめてみればよかろうが」
黒い女が無言で拳《こぶし》を目の高さに突き出した。きつく閉じられた指の間から、ジジジ、と虫の鳴くような音が出た。そして女は掌《てのひら》を上に向け、拳をそっと解《と》いた。その瞬間《しゅんかん》を待ち兼ねていたかのように、女の拿から紫電が音も無く溢《あふ》れ、瞬《またた》く間に女の周囲に満ちた。
大ばば様がうなった。「あやつ……雷《いかづち》使いか!」
青ざめる昇《のぼる》。「何? 何スか、雷使いって!」
透《とおる》は、動揺して前頭葉がショート寸前なのか、「強そうだね」と、場違いなコメント。
燭台《しょくだい》の火が、またもかき消された。放電している女の周囲だけが明るい。女の微笑が紫色の灯りの中でくっきり映《は》えた。
女が立つ縁側《えんがわ》と室内の上段《かみだん》との間は結構な距離があったが、それでも、放電したことで発生したオゾン臭《しゅう》が、人間達のところまで漂ってきていた。
「ふむ、雷神《らいじん》の眷属《けんぞく》のようだな」空幻は、扇を手の中でくるくる回しながら、人間達に向けて言った。「ハハ、俺《おれ》を起こしたのは賢明《けんめい》だったな。お前らでは相手になるまい。――おい、護《まも》り女《め》。お前、三槌の護《まも》り女《め》なんだから、水気《すいき》を集められるな?」
コウは上段から離れて再び空幻の背後につきながら、頷《うなず》いた。「はい」
「俺が声を掛けたら洸《ほのか》を使え」
言われたコウは小首をかしげ、「ほのか」と、おうむ返しに呟《つぶ》いた。いかにも理解していない風である。
護《まも》り女《め》のその頼りない様子《ようす》を見て、空幻はロをへの字に曲げ、不安そうな顔をした。「……おいおい……洸っつったら洸の術だろが――現代《いま》ではもうホノカって言わないのか?とにかくな、俺と蛇の周りに大水を張るんだ」
そう言われてやっとが合点《がてん》がいったのか、コウは「おおみず」と、これまたおうむ返しに呟きながら、こくこくと頷《うなず》いた。しかし、ふと何かに思い当たったようでまた小首をかしげた。
「あれは木気《もっき》の物《もの》の怪《け》です。水気の術ではあまり効果が無いのでは?」
すると空幻はニヤーと腹黒そうな笑みを浮かべた。「水生木《すいしょうもく》、水気は木気を助《たす》く――ってか? ま、たしかに邪道だろうがな、いいんだよ。いいから俺の言う通りにしな」
意図を理解できないまま、コウはとりあえず頷《うなず》いた。
空幻《くうげん》は扇を閉じると、両手で両端を持ち、左右に引っ張った――――すると、扇は飴細工《あまざいく》のようにニュウーと伸ばされるがままに伸びた。いつしかそれは、竹にはない、鋼《はがね》の輝《かがや》きを帯び始めた。鏡《かがみ》ように繊細《せんさい》な造りながら。も触れただけで血が噴《ふ》き出しそうな、鋭利《えいり》な切っ先――扇が刀に変じたのだった。振るうと、ビュツと空を切る鋭《するど》い音がした。
「……おお〜」観客席《かみだん》から思わず漏れた感嘆の声(男三人分)。
黒い女は、雷球を支える繊手《せんしゅ》をロ元に持っていき、ふうっと静かに息を吹きかけた。雷球は女の手から離れ――瞬《まばた》き一つの間に数倍に膨《ふく》れ上がった。宙を迅《は》しり、空幻に迫る。しかし空幻は悠然と構えて動かない。
紫電が空幻を飲み込む――と、その場の誰《だれ》もが思った。上段《かみだん》の観客は手に汗握った。
空幻が手の刀を一閃《いっせん》させると、刀が触れた箇所で雷球はぱっくりと上下に別れ、一瞬《いっしゅん》空中に漂うと、力尽きたようにかき消えた。
空幻は琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》に微笑を浮かべた。「金剋木《ごんこくもく》金気《ごんき》は木気《もっき》を剋《こく》す」呼気《こき》と共に、またあの青白い狐火《きつねび》が、その唇から少量だが流れた。
蛇の女は悔しさ半分感心半分の表情をしていたが、やがて一切の感情を笑顔で隠すと、囁《ささや》くように言った。「然《さ》も有《あ》りなん。しかしそんな刀では、わらわは殺せん」
そして今度は、両手を水を掬《すく》うような形に合わせた。途端《とたん》、前のものとは比べられないほど大きな雷球が女の掌上に出現した。激しい放電の波によって生じた気流に、女の黒髪が大きくうねる。細かい放電は天井《てんじょう》や板床を焦がし、室内に留《とど》まらず庭まで飛び出して拡《ひろ》がった。女の顔をした蛇は、冷笑に歪《ゆが》む口元に巨大な雷球を湛《たた》える両手を持っていき――
「今度は、斬《き》れぬぞぇ」
息を吹きかけた。
女の手から離れた雷球は、弾《はじ》かれたように空中を疾り、空幻に迫った。迎える空幻は手にした刀を水平に構え、突っ込んできた雷球を真正面から串刺《くしざ》しにした。雷《いかずち》の塊は、貫かれながらも、ジリッとわずかに前進し、刀の中程まで進んでやっと止まった。間近で弾ける電流に、空幻は美しい顔をしかめた。
黒い女は口元を袖《そで》で隠しながら、また高々と笑った。「斬れぬと申したであろ!」
確かに、空幻の刀は、雷球を止めはしたが――それだけだった。さっきのように雷球を割るでもなく、串刺しにした状態のまま膠着《こうちゃく》してしまっている。上段の観客は「ああぁ〜」と切迫した溜《た》め息をついた。しかも推進力の死んでぃない雷球は、微々ながらも刀の表面を滑って、空幻の体に近づいている。空幻、打つ手無しかと思われた、その時――
「護《まも》り女《め》!」放電の嵐の中でも、空幻の声は良く響いた。
狐《きつね》の意を解したコウは、ぱん、と高い音を立てて手を合わせた。
反応したのは地下水らしい。床板の隙間という隙間から水が染み出し、一瞬《いっしゅん》にしてこの広い板の間を大きな水溜まりにした。喚《よ》びだされた水はすかさず集結し、水の帯となる。水の帯は意志を持っているかのように、狐《きつね》の周りをグンと旋回した。
狐がニヤリと嗤《わら》った。
蛇はハッと息を呑《の》んだ。
空幻《くうげん》が右の拳《こぶし》を刀の柄《つか》から放し、振りかぶると、それに水の帯が従うように集束してきた。そして金髪の美女は、会心の笑みを浮かべながら、拳を前方に向かって――蛇に向かって突き出した。
空幻の背後で逆巻《さかま》いていた水の帯は、黒い女にベクトルを向けると、一気に驀進《ばくしん》した。その途中に燻《くすぶ》っていた電流の塊をからめとって――木気《もっき》は金気《ごんき》より水気《すいき》に親しむ。雷球は鋼でできた刀より、水の帯に引き寄せられた。
黒い女は目を見開いた――その目尻《めじり》は大きく裂け、眼球が半分くらいせり出た。白目が消え、もはやそれは人間の目とは言い難いものに変わっていた。そんな蛇女の姿は、雷《いかずち》の混じった瀑布《ばくふ》に、一瞬《いっしゅん》にしてかき消された。爆発《ばくはつ》的な威力に+α(雷)を持った水流は、女を巻き込みながら障子を破って裏庭に放流した。
金髪の美女は誇らしげに耳をパタッと動かし、露《つゆ》を含んだ刀を一閃《いっせん》させた。すると刀は瞬《またた》きのうちに縮《ちぢ》み、元の扇に戻った。
残った水が細い流れを造り、縁側《えんがわ》から庭の踏み石に、ちょろちょろちょろ……という風流な音を立てて落ちる音が響《ひび》いた。
板の上の水溜《みずた》まりを踏んで空幻は縁側に出、裏庭をきょろきょろと見回した。そして何かを見つけると、本当に楽しそうな顔で苔《こけ》むす庭に降り立ち、そこまで行って何か――長く太い縄《なわ》のようなものを拾った。それを宝物を見つけた子供のようにかざしながら上段に戻り、「おい、見てくれ、見てくれ、コレ!」と、拾ってきた物を得意げに示した。
嫌な予感のした昇《のぼる》は身を引いたが、素直な透《とおる》は言われるままに顔を近づけ――
「ぎゃっ!」と驚《おどろ》いて飛びのいた。
太い縄のように見えたコレ、ぐったりとのぴた黒蛇だった。かなり大きな蛇だ。
あの黒い女、人間の姿を保っていられなくて蛇の原身《げんしん》を現したのだ。
蛇なんか実物を間近で見たことのない現代っ子、光沢《こうたく》を放つ鱗《うろこ》がびっしり生えた蛇の表面に、生理的嫌悪を抱かずにはいられなかった。透ばかりでなく昇も、ソレ近づけないでくれと呻《うめ》いて後退《あとずさ》る。山育ちの龍彦叔父《たつひこおじ》だけが「うわあ、すげぇデカぃ蛇」と興昧深げに顔を近づけた。コウと大ばば様は、相手が弱っているとはいえ警戒《けいかい》を解かず、厳しい顔でぷらんぷらん揺れる蛇を睨んでいた。
空幻は、もうおかしくてたまらんと言わんばかりに、膝をたたきながら爆竹《ばくちく》のようにパンパン笑った。「このバカ、自分の雷で黒焦げになってやんの!」
確かに、蛇の体からはうっすらと肉の焼けるような匂いが漂ってきていたが、空幻が言うほどウェルダンな焼け具合でもない。しかしかなりのダメージを負っているようで、空幻にどんなに乱暴に振り回されてもピクリとも刃向かわず、ぐったりとのびきっていた。その弱々しい様は、透なんかに言わせてみれば少しかわいそうにも思えるくらいなのだが、空幻《くうげん》にはこの姿、どうやら笑いのツボにはまるらしく、麗《うるわ》しい女の顔で大口をおっ開け、腹を押さえながらまだヒーヒー笑っていた。
落ち着いてきたところで笑いを収め、蛇を自分の鼻先に持っていき、真正面から蛇の目を見据えた。「この土地はが水気《すいき》が強い――水《ミ》ツ霊《チ》をの司祭の所有《もの》だからな。だが、その水気を喚《よば》せていたのは他でもない、俺《おれ》だ。俺は水気を喚ぷと有《あ》り難がられて守り神に祀《まつ》り上げられたのだから。この土地は俺の土地でもある。俺の土地で最も霊力を上手く使えるのは俺だ。この土地にいる限り、お前はどうしたって俺には勝てなかったんだよ。俺が三槌の空幻|狐《きつね》と気づいた
ところで帰るべきだったな」と言うと、狐は不意に透を見やった。「透、お前が決めろ」
「へ?」いきなり話を振られた透は、何のことかと首をかしげた。
琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》が鈍く光る。「この蛇を生かして帰すか、それともこの場で始末するか」
途端《とたん》、それまで死んだように動かなかったこの黒蛇、電流を流し込まれたかのようにビリッとはねた。空幻に頭を掴《つか》まれているので逃れられるはずもないが、それでも長い体をピチピチとうねらせて、必死の抵抗を図る。「お許しを!何とぞ!」か細く甲高《かんだか》い、どちらかというと可愛らしい声が、蛇の口から漏れた。
透は驚《おどろ》いて目を見開いた。「始末するって、殺すってこと?」
「そうだ」
昇はギョッとして目の前の空幻を見やった。美女の面《おもて》にある表情は真剣そのもので、冗談《じょうだん》を言っている顔ではなかった。
透も、まさかそんなことを訊《き》かれるとは思わないので、慌てる。あわあわと首を横に振った。「やめてよ。かわいそうだよ」
「同情するのは結構だがな、一時の感情でなく、先を見て物を言えよ、透。こいつはお前の命を狙《ねら》ったんだ」さっきまで笑い転げていたのが嘘《うそ》のような冷徹《れいてつ》さで言い放つ。「今逃がしたら、また狙ってこないとも限らんぞ」
確かにそうだな、という気もしないでもない。しかし、自分の一言で何かが死ぬのは恐ろしいし、申し訳ないし、かわいそうだ――そっちの気持ちのほうが強かった。透は首を横に振り続けた。「いいよ、もう。気にしてないよ、許すよ」
その答えを受けた狐は、透をジッと見つめた。十二歳にしては背が低い透より、空幻のほうが上背があるので、透は見上げる、空幻は見下ろす形になる。それがまた、透が威圧されているように見えなくもない。
……怒るのかな。そう思って透が首をすくめた瞬間《しゅんかん》――
「そう言うと思っていた」狐は表情を柔らかく崩すと、微笑《ほほえ》んだ。「さすがだな――ま、こいつが懲《こ》りずに襲《おそ》ってきても、また俺《おれ》が助けてやるさ」
てっきり呆れられたと思っていたのに、なんだか褒《ほ》められたみたいな形になって、透《とおる》は安心したような拍子抜けしたような。とりあえず、「あ……ありがと」とだけ言っておく。
すると横から大ばば様が、「天狐《てんこ》様」とロを出した。[逃がすのであれば、せめてこやつを言霊《ことだま》で縛《しば》ってからにしてくだされ」            狐《きつね》が、エエ〜?と、いかにも面倒《めんどう》くさそうな声を上げ、顔をしかめた。「こいつの真名《まな》なんて、いらんがなあ」などとブツクサ文句を垂れていたが、やがて、「ま、その方が楽かな、後々」と言うと、蛇の頭を自分の目の高さに持つてきて、尋ねた。「おい、蛇。|お前の名は、何と言うのか《、、、、、、、、、、、》」
あ。これって、ボクが夢の中で、あの和服の女の人に言われたセリフと似てるなあ――と、透はぼんやり思った。それもそのはず、空幻《くうげん》が今行っている術は、蛇が透に行ったのとまったく同じものである。
殺されまいとする蛇は必死なので、真名だろうがなんだろうが、あっさりゲロする。「コトジ――コトジノヌシでございます!」
空幻は「うむ」と頷《うなず》いた。「そのツラ、再びちらりとでも見せてみろ。その時は、透が何と言おうが、俺がお前の皮を剥《は》いで、食う。いいな」
「はい!はい!」
空幻は蛇を持つたまま縁側《えんがわ》に出て、「行くがいい」と、大きく振りかぶって蛇を遠くに投げた。黒く細い波状の残像を残しながら、年経《としへ》た黒い大蛇は、裏庭の闇夜に溶けて消えた。これから裏山にでも逃げ入り、霊力が戻ったところで自分が元いた土地に帰るだろう。
「……終わった?」透が隣《となり》の大ばば様に尋ねた。
大ばば様は幾分和《やわ》らいだ表情で頷く。それを見て、昇《のぼる》と龍彦叔父《たつひこおじ》もホ〜ッと息をついた。
昇と透は上段《かみだん》からのそのそと降りて、足を伸ばした。慣れない着物で慣れない正座などしていたから、痺《しび》れてしまったのだ。
上段の龍彦叔父が膝《ひざ》でにじり寄って少し前に進み、大ばば様のすぐ後ろにつくと、尋ねた。
「この後の天狐様の処遇、どうなさるおつもりです」
「言うまでもなかろう」大ばば様は眉《まゆ》一つ動かさずに答えた。「祠《ほこら》に戻っていただく」
兄弟が固まった。
その返答を予想していたのだろう龍彦叔父には、特に動じた様子《ようす》はなかった。
透は、空幻の姿を探した。空幻は、縁側――蛇を放り投げた場所から動いておらず、そこに立ったまま、こちらを見つめていた。上段に近寄ろうとする意思は無いように見える。空幻は透と目が合うと、耳を一度はたりと動かし、さあ? とでもいうように、首をかしげた。その仕種《しぐさ》が意味するものが分からなくて、透も、つられたように首をかしげた。
昇の胸には、怒りにも焦りにも似た感情が拡《ひろ》がっていた。こっちの都合で封印したものをこっちの都合で解封し、さらに命を助けてもらっておきながら、用が済んだらハイご苦労さんと、何事も無かったかのようにまた祠《ほこら》に放り込むなんて、そんなバカな事が。そんな身勝手なことが……いや―― 冷静に考えれば、それが順当な処置なのだろう。だいたい、それ以外に、少なくとも今の昇には、空幻の今後の処遇は思いつかなかった。しかし、頭では分かっても感情が納得しない。
「そんなのってないんじゃないの?助けてもらったんだよ」透《とおる》は顔色を失っている。自分が妖怪《ようかい》に命を狙《ねら》われると知らされたときより真剣な顔だ。大ばば様と叔父《おじ》の顔を交互に見る。
「何とかならないの」
一瞬《いっしゅん》の間があり――
「ならぬ」という大ばば様の声と、
「なるぞ」という龍彦《たつひこ》叔父の声が重なった。
同時に二通りの答えを返された兄弟は、思わずキョトンとして、二人を交互に見やった。
大ばば様は振り返り、背後にいた龍彦叔父を非難がましく睨《にら》んだ。「……龍彦」
その視線を、臆《おく》することなく正面から受け止め、龍彦は穏《おだ》やかに、しかし強い意志をこめて、言った。「大ばば様――いや、柱女《はしらめ》様。もういいんじゃありませんか」
「なんじゃと?」
龍彦は立ち上がり、大ばば様の横をかすめて上段《かみだん》を降り、兄弟の前までやって来ると、昇に向き直った。「封呪の祠は当までなければ開かない。そして――当主でなければ閉められない」
現・当主である昇は、ちょっと眉《まゆ》をひそめた。「……それって」
龍彦がにこりと笑った ――笑うと、龍彦の顔に美夜子の面影が濃くなる。「天狐《てんこ》様を再び祠に閉じ込めるかどうかは、昇ちゃん次第ってこと」
「………」兄弟は顔を見合わせた。
おどけるように、龍彦は肩をすくめた。「どうするよ、昇ちゃん?天狐様をまた祠に戻すか?」
昇はニヤリ、と笑った。粋な計らいをする龍彦叔父に対する敬礼の意味を持った笑みであり、会心の笑みでもあった。
「……しません。できません」
すると縁側にいた空幻が、ふらーっと上段のところまで戻ってきた。「……と、いうことは、だ」深刻そうな顔を作って腕組みし、うーん、と唸《うな》っている。「俺《おれ》は事実上、三槌《みづち》の守り神を辞めさせられることになる」
「そうなの?」と、透は驚《おどろ》いたように聞き返した。
「そうなの」と、狐は真面目《まじめ》くさって頷《うなず》く。
「どうして?」
「俺はもうこの地に留《とど》まることはできないのだ」
「えっ、どうして?」
「そういうものなのだ」
「ふーん………じゃあ、え〜と……ごめんね」なんとなく謝《あやま》ってみる。
空幻《くうげん》は破顔すると、小さく首を横に振った。「いや……かえって良かった。昇《のぼる》、礼を言うぞ」
こんな殊勝な態度に出られるとは思っていなかったので、昇はちょっと焦った。「あ、いや、どういたしまして」と、つい腰を低くしてしまう。
それを笑いながら見ていた龍彦《たつひこ》の背中に、固い声が投げかけられた。「どういうつもりだ、龍彦」
龍彦はゆっくりと大ばば様を振り返った。微笑を消さないまま、答える。「反乱のつもりです。ささやかな」
何のことかと、大ばば様は訝《いぶか》しげに眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「天狐《てんこ》様のためでもあるけど、僕のためでもある、姉さんのためでもある、母さんのためでもある――あなたのためでもあるんですよ、桂女《はしらめ》様」
理解できないと言わんばかりに、大ばば様は重々しく首を横に振った。「天狐様に今この地を離れられたら、三槌《みづち》家の終焉《しゅうえん》は避けられないのだぞ――龍彦、お前、どう責任を取るのじゃ」
「司祭も当主もいない三槌家に、どれほどの意味があると言うんです」
「当主はおる」
「昇ちゃんは高上の人間です三槌には帰属しない」
「三槌が在ることに意味があるのだ」
「誰《だれ》にとって、ですか」
沈黙が降りた。
その沈黙を破ったのは、やはり龍彦だった。「桂女様、それは誰にも望まれていない束縛《そくばく》なんですよ。もう充分でしょう」
柱女は龍彦を、睨《にら》むような強い眼差しで見つめた。それは数秒間のことだったが、当事者達にも第三者達にも、ずいぶん長い時間に感じられた。
不意に、柱女は龍彦から視線を外した。
「お前たち姉弟《きょうだい》は……本当に……」
そう小さく呟《つぶ》くと柱女はきびすを返し、スタスタと板の間から出て行ってしまった。コウは、無表情ながらもい一瞬《いっしゅん》迷ったようだったが、結局、柱女の後を追った 二人が出て行った障子を見つめながら、龍彦が息をついた。短いが、心労の隠せない、陰のある溜《ため》め息だった。
「なあ、なあ! いい事考えたぞ!」と、突然明るい声を上げ、重くなっていた空気を一瞬《いっしゅん》で飛ばしたのは、金の髪の美女だった。透の頭と昇の背中をバッシンバッシン叩きながら、ニコニコして言う。「なあ、お前ら、俺を守り神にする気はないか?」
「え?」意味が分からず、兄弟は目を九くした。
「そいつぁいいアイデアだな!」と、明るい表情を取り戻した龍彦《たつひこ》が大きく頷《うなず》いた。「特に透ちゃんの方は、どうにも妖怪の目に付きやすいタイプらしい。これから先、コトジ蛇みたいのがまた来ないともかぎらねぇぞ。家に一匹、守り神置いとくのもいいんじゃねぇか?」
「そうそう」と、狐《きつね》が同調して頷《うなず》いた。「だいたい、いきなり現代に放り出されても、俺もどうしていいか分からん。俺《おれ》を無職《むしょく》したのはお前らなんだから、責任は取ってもらおう」
「……う」そう言われると何も言えなくなってしまう。
「それにな」と、狐はニヤリと笑った。「俺はお前らが気に入ったのだ。お前らは俺を気に入らなかったか?」
それを聞いた透はカク、と頷《うなず》いた。「気に入った!」
ハハ、と苦笑しながら、昇も頷《うなず》く。「気に入ったね」
空幻は満足そうに「よし」と頷《うなず》くと、いきなり、左腕で昇、右腕で遠の首っ玉を抱え込んだ。
[ぐえ]
「ぐは」
勢い余ってヘッドロックみたいになった。狐の髪からは、その美貌《びぼう》に見合う、甘く優しい匂《にお》いがして、ちょっとドギマギ。
空幻は、二人同時に耳打ちできるように、彼らの頭を自分の顔に引き寄せた。三人で円陣を組んだような形になる。内緒《ないしょ》話には格好の体勢だ。
「お前らにな、俺の真名《まな》を教える」兄弟だけに聞こえるようなヒソヒソ声で、空幻は呟いた。
「真名はすごく大事なものなんだ。お前らも大事にしてくれ」
昇が頷《うなず》いた。透も頷《うなず》く。秘密の作戦会議みたいで、なんだか楽しい。
空幻も、喜びを抑えきれないようだ。ニヤニヤ顔で、二人に真名を告げた。
*****
よく晴れた朝になった。爽《さわ》やかで清浄な空気が裏庭を満たしている。いつもの通りの、静かな朝だった。まだ完全に乾ききらない板の間とズタズタに破壊《はかい》された障子だけが、昨夜の騒動《そうどう》が確かに在ったことを証明する唯一の痕跡《こんせき》だった。
柱女《はしらめ》は庭に降り、鹿脅《ししおど》しに細い流れを落とす湧《わ》き水を、見るでもなく見ていた。虚空《こくう》に向かって、ふと声をかける。
「コウはおるか」
今の今まで何者の気配《けはい》も無かった場所から、唐突《とうとつ》に人が姿を表した――護《コ》り女《ウ》であった。コウは無言のまま片膝をついた。「はい」
「兄弟と、天狐《てんこ》様はどうしている」
「まだお眠りです」
昨夜、あの後、空幻《くうげん》は狐《きつね》の姿に戻った。そして、龍彦《たつひこ》も加わって、明け方近くまでどんちゃん騒いでいたのだ。
「起こしますか?」
「いや、いい……」フーと溜《た》め息をついた。「龍彦に、いや、龍彦と美夜子《みやこ》にしてやられたというわけか……」
桂女《はしらめ》はロ調を一変させ、いつものように矍鑠《かくしゃく》とした姿勢を取り戻すと、コウを振り返り、言った。「あの兄弟、姓は違えども三槌《みづち》の当主だ。そしてお前は三槌の護《まも》り女《め》だ」
コウは再び頭《こうべ》を垂れた。「はい」
「お前はあの兄弟を護らなくてはならん、その命に代えても」
「承知しています」
「お前は高上《たかがみ》兄弟のそばに伺候《しこう》せよ。彼らをあらゆる災いから護れ」
コウはわずかに顔を上げた。無表情は相変わらずだが、仕種《しぐさ》の端々に驚《おどろ》きの粒子がふくまれている。「本家《ここ》を離れろということですか」
「三槌の直系が住むその場所が三槌の本家だ」
「はい」
「また、彼らの守り神である天狐《てんこ》空幻の力となり、同時に監視《かんし》せよ。空幻は情の厚い善狐《ぜんこ》ではあるが、如何《いかん》せん気まぐれで好戦的だ。兄弟を危険に晒《さら》さんともしれん」
「心得ました」
「うむ、頼むぞ。――退《さ》がれ」と言って、まだ幼さを残す顔立ちの護り女に背を向けた。コウは、足音もさせずに遠ざかった。
広い庭の中、改めて独りになり、桂女は目を閉じた。
女子が絶える――それは三槌家が水気《すいき》の司祭として機能しなくなったことを意味する。が昇《のぼる》か透《とおる》のどちらかが女子を儲ければ、再興《さいこう》は難しいことではない。親が拒《こば》もうとも、娘を無理やり司祭に据えればいいのだ。
しかしそれは、あの天狐が高上家の守り神になった時点で不可能となった。空幻は高上家を護るモノだ。何人であろうとも高上の家を荒らす事は許さないだろう。そして、今の三槌家に、天狐に対抗する霊力《ちから》はもはや無い。
今日明日中にも高上兄弟はこの地を離れる。今まで三槌の守り神であった空幻もいなくなる。この地の水気は衰える。司祭も今後、出ることは無い。
三槌の完全な終焉《しゅうえん》だった。
高上兄弟の訪れとともにやってきた終焉だった――いや
美夜子が三槌を出奔《で》た瞬間《しゅんかん》から――いや、彼女が三槌の司祭当主としてこの世に生まれ出たあの瞬間から、この運命は定められていたに違いない。美夜子の存在と共に発生した終焉《しゅうえん》だったのだ。美夜子は司祭として必要な霊力《ちから》を持たなかったかわりに、別の大きな力を持っていた。それは――運命に逆らおうとするカか。それとも、自分の思う道を進む力か。
どちらにせよ、それが、三槌《みづち》が継続していこうとする力を上回ったことは確かだ。龍彦《たつひこ》の言う通りなのだ。誰《だれ》も三槌《みづち》が続くことを、強く望んではいない――柱女《はしらめ》その人でさえも。
柱女は袂《たもと》から散杖《さんじょう》取り出した。両端を持って、強いカを加える。柳でできているだけあって、この散杖《さんじょう》、よくしなった。しかしある程度のところに来ると、パン、と軽い音を立てて、真っ二つに折れた。
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第弐章
「うん、まあ、それはいいんだけど」
それが父の返答だった。
高上春樹《たかがみはるき》は、余程の事が無い限り、子供達にも自分のことは自分で決めさせる、放任主義ギリギリの、何事にも理解がある柔軟な父だった。
だが、いきなり名犬オールド・バリー並にデカい狐《きつね》を――ただデカいだけではない。喋《しゃべ》り、変な術を使ったり、あまつさえ人間に変身したりする狐を田舎《いなか》の山から連れて帰って、これ飼っていい?と訊《き》かれても、いつもの様に鷹揚な判断が出来るだろうか。
しかし父に「ダメ」と拒否されたところで、クーを元いた場所に捨ててくることも出来ない――いざとなったら龍彦叔父《たつひこおじ》や大ばば様に口添えを頼むしかない。三槌《みづち》家の人が頼めば、父も嫌とは言えないはずだ。
……なんて、昇《のぼる》はずっと、現実問題をいろいろ思い悩んでいた。
帰路には北吉川《きたよしかわ》線は使わず、大きい駅まで龍彦叔父《たつひこおじ》に送ってもらった。
クーが家に来ることになってご機嫌な透《とおる》、相変わらず人形のように無表情なコウ、そして、たいへんな速さで走る鉄の塊(電車)に目を丸くして「あれに乗るのか?あれに乗るのか?」とおおはしゃぎしている金髪美女……つまりクー。改札を通る際、獣《けもの》の姿のままではいろいろ問題があるということで、美津川《みつかわ》村から高上《たかがみ》家まで、人化していてもらうことになったのである。気を抜いた瞬間《しゅんかん》に狐《きつね》の耳が飛び出すので、頭に透のスポーツタオルを巻いておいた。しかし、着ている物がいつもの白袴《しろばかま》だったので、タオルは少々(というか、かなり)ミスマッチであった。
昇《のぼる》は電車に乗り込む前に一度、尋ねてみた。「その耳、どうして隠したままにしておけないんだ?」
するとクーちゃんは柳眉《りゅうび》を逆立て、「では訊《き》くが、お前は手を使わずに耳を隠し続けられるか?」と反論してきた。
……できませんよ、そりゃあ。っていうか、そういう問題? 尾やヒゲは隠せるのにどうして耳は隠せないのか、とか、そういったところを訊きたいのだが。
しかし、クーの耳問題などはまだ対処のしようがあるし、可愛《かわい》らしい方だった。高上兄弟の、その帰宅に於ける最大のネックは意外にも、一見、物分りの良さそうで真面目《まじめ》そうな、護《まも》り女《め》・コウ、その人であった。 狐はしょうがないとしても、どういうわけかコウまでもが古式ゆかしい巫女装束《みこしょうぞく》を着ていたのには度肝を抜かれた。街で訪問着姿の女性を見ることはままあるが、巫女装束で練り歩く女性はあまりいない。なので、一行《いっこう》は利用客の多いホームの上で、かなり人目を引いた。
加えて――券売機の前で切符を四枚、購入《こうにゅう》しようとしたときのことである。
「私の分は必要ありません」と、突然コウが言った。
大ばば様からも龍彦叔父からも、コウが空幻《くうげん》の監視《かんし》役のため、そして護《まも》り女《め》の責務として三槌家の跡取りたちを護るため、高上兄弟と空幻に同行する、と聞かされている。兄弟もそれは本人立会いのもと承諾《しょうだく》したし、龍彦叔父などは去り際、「コウちゃん、たいへんかもしれないけど、がんばれよ」と、『長いお別れ』的な言葉をかけていた。
だからコウのこの発言は不可解だった。「でも、オレだちと一緒に帰るんだろ? ここへは見送りに来たわけじゃないんだろ?」
「はい」
「じゃ、買わなきゃ、切符」
コウはなお首を横に振った。「私は屋根に乗っていきます」さも当然のように言う。
コウの言っている意味が分からず、兄弟そろって、一瞬《いっしゅん》、言葉を失った。「え?」徐々に理解する。「ええぇっ!」
透は蒼白《そうはく》になって、手のひらをバタバタ横に振った。「ダメだよ、危ないよ」
……っていうかそれ以前に。「普通に乗れよ」呆《あきれ》れ顔の昇。
しかしコウは首を縦に振らなかった。「護《まも》り女《め》は本来、主《あるじ》のそば近くにいつつも、その目の付かないところに控えているべきものなのです。今まではやむを得ず姿をさらしていましたが、これからはそういうわけにはいきません」
言っていることは常識《じょうしき》離れしているが、表情は真剣そのものだ。
護《まも》り女《め》というのがどういうものなのか、未《いま》だもってして詳細を昇は知らない。知ろうという気も起きない。だが、他《ほか》ならぬ護《まも》り女《め》自身が主張するなら、それこそが真実であり、彼女の責務なのだろう。
しかし、それとこれとは話が違う。「……コウは」昇は自分のこめかみに指を当てて、ぐりぐりと軽く揉《も》んだ。『……これまでずっと、どこかに行く時は必ず、電車の屋根に乗って行ってたのか?」
「いいえ」
「電車に乗ったことはある?」
「ありません」
「……電車って、どういうものだか知ってる?」
「知りません」
昇は、痛む頭を静かに抱えた。「……オレも電車の屋根に乗ったことないから、はっきりしたことは言えないんだけど……多分《たぶん》、電車の屋根の上って、すっごい風の抵抗あると思うし、すっごい揺れると思うんだ。しがみついてられないと思う」
コウはなるほど、といった感じで頷《うなず》き、そして、彼女なりの妥協案を口にした。
「では床下にいます」
これはダメだ。これは『少々浮世離れしている』とか『軽く天然入ってる』とかいうレベルではない。そんな可愛《かわい》らしいものではない。尋常ではない。目を離すと何をするか分からない。
昇はその後、なんとか説得してコウに切符を握らせた。そして、ホームまで未たはいいがガンとして普通に乗車しようとしない彼女を、透《とおる》の手も借り、ようやく電車内に引っ張り込むことに成功した。
電車内では、透が小銭を手の上に乗せて、クーに対し、現代の日本通貨の講義《こうぎ》を行った。
「この茶色いのが十円で、この軽いのが一円で……」
フムフムと相づちを打つ狐《きつね》。それを見ていて、昇はふと不安になった。
「コウ」
「はい」
「お金の区別はつくか?」
「つきません」即答。
……やはり。「君も聞いておきなさい……」
はい、とコウが言ったのを聞いて、透《とおる》がまた一から講義《こうぎ》しなおした。 「この茶色いのが十円で、この軽いのが一円で……」
フムフムと相づちを打つ護《まも》り女《め》。
先が思いやられる光景である。
*****
もう暗くなってから、一行は高上《たかがみ》家に帰りついた。
父が仕事から帰るまで昇《のぼる》は、ああ言われたらこう言い返し、こう言われたらああ言い返そう、と綿密な計画を練っていた。そして父が帰り自室に入ってすぐ、着替える暇《いとま》さえ与えずに、切り出したのだった。
「父さん、妖怪《ようかい》飼っていい?」
我ながら変な台詞《せりふ》だと思った。
父ははじめ、縁無眼鏡《ふちなしめがね》の奥の目を丸くして、ポカンとしていた。息子の言ったことが理解出来なかったのだろう。当然だ。犬猫ならともかく、『妖怪』と聞いてペットと結び付くような、そんな素敵なシナプスを持った大人《おとな》は少ない。
そんな微妙な間合い、不意に、居間にいたクーがやって来て、昇の足元にチョンと座った。父の視線は自然、そちらに向く。
予定外の登場のタイミングに内心動揺しながらも、昇は冷静に言ってみせた。
「こいつが、その妖怪なんだけど」
父が何かを言う前に、昇の足元に座っていたクーがロを開いた。「なに、お前に迷惑はかけん。それどころか福を招くぞ、俺《おれ》は」カカカカカと笑う。
息子の足元のデカい動物が喋《しゃべ》ったことに気づき、父はハッと息を呑《の》んだようだった。
もう後には引き返せない。昇は半ばヤケクソになってまくしたてた。「大ばあちゃんに任されたんだ、お前達が世話するようにって――うん、妖怪なんだけど害は無いよ、ホント。意外と常識あるみたいだし。人間の言葉喋ったり、たまに人間に変身したりするけど、慣れたら平気だろ?平気だよね?大丈夫だって。まあ家族が一人増えたと思ってくれればさ、………いいなー、なんて……」
語尾は尻《しり》すぼみになり、やがて消えた。昇が黙《だま》ると部屋の中は静かになった。余裕の表情のクーが、後ろ足で首を掻《か》き始めた。カリカリカリカリ。その規則的な音だけが、クーラーをかけていない蒸し暑い部屋の空気に溶けていった。数秒の間の後、父の返答は――
「うん、まあ、それはいいんだけど」目を点にする昇の横で、クーがまたカカカと高笑いした。「さすがは美夜子《みやこ》の選んだ男。賢明《けんめい》だな!」
我に返って、慌てて念を押した。「とととと父さんっ!本当にいいのっ?」
父は、何だそんなことだったのかと言わんばかりの緩《ゆる》んだ顔でネクタイを外し始めた。「いいよ、別に。お前達がちゃんと毎日散歩出未るんなら」
その発言にクーは、心外そうに反論した。「散歩ごときで誰かの世話を必要とするほど耄碌《もうろく》しておらん」
父は愛用の作務衣《さむえ》に袖《そで》を通しながら、「一人で行くってこと? いいけど、近所の人に怪しまれないようにね。喋る狐《きつね》ってあんまりいないから――狐自体が珍しいから、どのみち目立っちゃうか。それは困るな。うーん、どうしようかな……そうだな。誰かに訊《き》かれても、ウチで飼ってるのは大型犬ですってことにするけど、いいね?」
狐の顔の表情筋っていうのは、どうも人間と同数あるみたいだった。狐の面《おもて》でも、嬉しい時は嬉しそうな顔をするし、気に入らないときは怒った顔になる。クーの感情は、そのときそのときの表情で無理なく周りに伝わった。愛大家が、大が自分に何を言いたいのか何をしてほしいのかは表情を見るだけで分かる、と言うのも、何となく理解できる。
この時クーは、微《かす》かだが嫌そうな顔をしていた。渋々、といった様子《ようす》で「まあよかろう」と妥協する。
父は続けた。「人前では喋らないようにね、騒ぎになるから」
昇《のぼる》は眉《まゆ》をひそめた。
……そう、その通りだ。
昇や透《とおる》もそうだったように、人語を解し、巧みに操《あやつ》りさえする狐を前にして、驚《おどろ》き動揺して大騒ぎするのが、標準的な生活をつつがなく送ってきた普通の人間の反応だろう。
父は冷静すぎやしないだろうか……
足元に寄ってきた狐の名前を聞き出している父に、昇は不審《ふしん》そうな表情で尋ねた。「あんまり驚かないんだな」
クーに落としていた視線を上げ、父はケロリと答えた。
「何言ってんだ、すごく驚いたよ」
……そうは見えなかったが。本音なのかすっとぼけているのか、微妙なところである。
父は狐に視線を戻すと、「家で飼うとなるとワクチン接種とかしなきやダメなのかなあ、やっぱり……。でも獣医さんが見たらすぐに犬じゃないっていうのバレるよなあ……」いきなり現実問題をロにする。
「……ホントに驚いたのかよ、父さん」
訝《いぶか》しげな顔をしている息子に向かって、父はヘラヘラ笑いながら答えた。
「だから驚いてるって」
我が父ながら読めない男だ、と昇は感心したような呆《あき》れたような。
*****
高上《たかがみ》家の居間は十畳ほどの和室である。長方形の食卓、テレビ、生活に必要な細々《こまごま》とした物が一緒くたに放りこまれているであろう戸棚が一つ、男所帯にしては、あっさりと片付いている。いつも開きっ放しになっているガラス戸を隔てた隣《となり》が台所だった。
コウは、いつも三槌《みづち》家でそうしていたように、屋根裏か床下かに潜んでいようとしたのだが。
昇《のぼる》に「居間にいなさい」と言われたので、おとなしく居間の片隅に立っていた。
立ちっぱなしで動こうとしないコウに、座ってテレビを見ていた透《とおる》が不思議《ふしぎ》そうな顔を向けた。「父さん、もうすぐこの部屋に来ると思うよ。座って待ってれば?」
「はい」と頷《うなず》いて、戸棚の前を通り――その時初めて、コウは戸棚の上に写真立てが置かれているのを見つけた。
そこに写っているのは、幼稚園くらいの男の子とその母親らしき女性。そしてネズミの着ぐるみ、だった。背景にメリーゴーフンドが写りこんでいる。場所は遊園地か何かだろう。
その女性の顔、初めて見るにもかかわらず、何故《なぜ》か昔からよく知っているような、懐《なつ》かしいような既視感をコウに与えた。そんな人物は一人しかいない。
コウが写真立てを覗《のぞ》き込んだのを見て透は表情を曇《くも》らせ、そっぽを向いた。
その様子《ようす》に気づかなかったコウは、質問を重ねた。
「こちらが美夜子《みやこ》様なのですね?」
透は、そうだとも違うとも言わず、ただ、「それ、昔の写真」とだけ言った。目はテレビ画面に向けられてはいたが、それはいかにも無理やり、あえて釘付けにしているようであり、番組をどうしても観たくて観ているというのではなさそうだった。
透は、母がどんな母であったかを知らない。
誰《だれ》かに母の話を振られても、透は答えることができない。他人には分からないだろうが、それは透にとって大変なコンプレツクスであり、最大の弱みであり、思わず赤面してしまうほど恥ずかしい事実であった。周囲もその事を感じ取り、彼《とおる》から母の話題を遠ざける。そうすることによって母親の存在は、より遠いものになる――今や、透の前で母の話をすることは、禁忌《タブー》となっていた。透は、母のことは嫌いではない。しかし母のことに触れるのも、触れられるのも嫌いだった。自分の知らない母――そんな母が笑顔で写っている写真も、透の敬遠の対象となった。
「その横に写っているのは、兄ちゃん。小さいでしょ」……といった感じで話題をすり替えようとする。 しかしそういった人間的な感情の機微に、コウはいささか鈍いらしい。透の心中を察することができないまま、写真を見つめ続ける。
確かに写真の中の男の子は、現在の昇《のぼる》の顔立ちをそのまま幼くしたような感じだ。しかし、それはコウにとってはあまり重要でない事実だった。彼女の視線は、ただひたすら真っすぐにネズミの着ぐるみに注がれていた。
「これは……横にいる、これは……」と、突然眉《まゆ》をひそめ、険しい顔立ちになる。口ぶりにも深刻味が加わる。そして不可解なことを言った。
「黒天山《こくてんざん》の大鼠《おおねずみ》でしょうか……」
透《とおる》は、何の話かと首をかしげた――オオネズミと言うからにはそこに写っているマスコットの事を指しているのだろうが、コクテンザンというのが何のことか分からない。
コウの表情の険しさが増す。「大きな鼠……半人化しているし、さぞ年経ていたことでしょう」
コウは写真立てを手に取り、じっくりと見入った。
まだ三十路《みそじ》になるかならないかという歳《とし》の美夜子《みやこ》は、幼い息子より張り切って傍らの着ぐるみに無邪気に抱きついている。が抱きつかれている方は、その大きな顔面に笑顔を張り付けてはいるものの、人々に夢を与えることを仕事としている者にしては随分生々しく手足を伸ばし感情がこもるはずのないプラスチックの眼にさえ断末魔《だんまつま》の悲鳴にも似た必死の光を宿して周りに助けを求めている風《ふう》だった そう、この場合、抱きつくという表現は相応しくない。この着ぐるみは、美夜子に締《し》め上げられているのだった。
実は、美夜子には困った癖《くせ》があった――自分の趣向《しゅこう》のツボにハマるもの(主にカワイイもの・フワフワしたもの)を見つけると、あっちの都合構わず駆け寄り、有無《うむ》を言わせず力の限りの抱擁《ほうよう》をぶちかますのである。その様は、抱き締める頬擦《ほおず》りするなどという生易しい表現からは程遠く凄惨《せいさん》である。第三者が止めに入らなければ、最悪の場合、被抱物は自分の全身の骨がけていく音を聞きながら三途《さんず》の川を渡る事になる――って、それは言いすぎだが、まあでもそれに近い状態にはなる。別に、美夜子は筋肉質とか体育会系とか、そういうのでもない。ただ愛情が深すぎるのである――たぶん。
幼い昇は、遊園地にいるとは思えない切迫した表情で、母を着ぐるみから引き剥《は》がそうと彼女の春物のコートを掴んでいる。
そんな事情を知る由《よし》もないコウは、その顔にわずかに畏敬《いけい》の念を滲《にじ》ませ、「美夜子様はやはり、退魔《たいま》の力に秀でていたのですね」と、ちょっぴり勘違いなことを呟《つぶや》いた。
コウが激しい勘違いをしていることに、透は何となく感づいたが、半ば反射的に、この話題には深入りしたくないという感情が働いたので、ぼけーと笑って首をかしげるに留《とど》めた。
*****
食事を作るのは大方、昇の仕事だった。家の中に女手が無く、仕事で忙しい父と幼い弟を抱えていれば、その身に主婦仕事が回ってくるのは半ば必然で、小学校に入るか入らないかという頃《ころ》から既に、彼は高上《たかがみ》家の台所を預かっていた。そのため、卵巻きもキレイに形を整えて焼けるし、キャベツの千切りや大根のカツラ剥《む》きなどは、その辺の若妻などより上手かった。 冷やし中華を作る。四人分の麺《めん》を沸騰《ふっとう》した鍋《なべ》に入れる。茹《ゆ》で上がるまでに卵焼きを作る。焼けるそのわずかな合間にも素早く動いてハムやレタスを細く切る――なんかもう、一連の動作に無駄が無いあたり、完全な熟練主婦である。
居間にいたクーが、卵の焼ける匂いに誘われたか、フローリングに爪をチャカチャカ鳴らしながら近づいてきた。昇《のぼる》の足元にまで寄ってくるとヒョイと二本足で立ち上がり、流しに手を掛け、昇の手元を覗《のぞ》き込んだ。 昇は焼き上がった卵巻きをまな板の上に移して、これも細く切っているところだった。火から降ろされたばかりでまだ甘い匂《にお》いの湯気が立つ卵焼きを見降ろしながら、クーは「美味そうだな」と、黒い鼻をヒクヒクさせた。「おい。俺《おれ》の分も作っているんだろうな」
昇は鍋をかき回していた箸《はい》を止めた。一瞬《いっしゅん》、思考した後、麺をもう一玉冷蔵庫から出し、鍋に入れた。
「言ったからには全部食えよ」言うことがいちいちケチ臭《くさ》い。
狐《きつね》はフフフ、と低く笑った。「それはお前の腕によるところだな」
居間では父とコウが食卓を挟んで向かい合い、そこそこ真剣な雰囲気で話し込んでいた。
「天狐空幻《てんこくうげん》は三槌の家の裏山に封印されていた妖怪《ようかい》です」とコウ。 父は「ふむふむ」と頷《うなず》いた。
「でも、解封《かいほう》されて、高上のお家《うち》の守り神になりました」
話の、あまりの急展開についていけなかった春樹《はるき》は、当然、訊《き》き返す。「え、どうして?どうしてそうなっちゃったの?」
「………えっと……」と言って、コウは考え込むように黙《だま》ってしまった。意外にも、何かを説明するのが苦手なようだ――術のこととか物《もの》の怪《け》のこととか、そういう説明はスラスラ言えるくせに。「え〜と……あの……」と呟《つぶ》くと、コウは眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて「ウウ……」と唸《うな》り、また黙ってしまった。言葉が見当たらないらしい。そして何を思ったか、おもむろに片手を挙げると.、パタパタと素早く振った。「こう、バチバチバチって……」
「………え、バチバチ?」父は首をかしげた。何のことやら分からない。
「はい。雷《いかずち》がバチバチバチ゜っなったんです。バチバチバチ」と言って、コウは両手を挙げ、これまた力強くパタパタ振った。――これで雷のバチバチ感を表現しているつもりらしい。
「……そっか」と、とにかく相づちだけ打つ。
「それから、それを、天狐様が、水で、ザバーッーて、流したのです」と、両手を伸ばして右から左へ大きく振りぬいた。
「……へぇ」
「そういうわけで、天狐様はこのお家の守り神になりました」
「――えっ!?それで全部!?」
「はい」と、ためらうことなく頷《うなず》く。
「……そう」父は、そっと眼鏡《めがね》の位置を直した。……事の経緯《けいい》を説明するにあたって欠かせない重要な部分が数多く抜け落ちているような気がしてならないのだが……。もしかしてこの娘、冗談言ってるのかなぁ……という考えが、父の脳裏に一瞬《いっしゅん》、閃《ひらめ》いた。
しかしコウの表情は真剣そのものだ。とてもオフザケを言っているようには見えない。
同席していた透《とおる》は、それまで、話し合う二人の顔を見比べていただけだったが、ここでついに発言した。「つまり、クーちゃんがボクを助けてくれたんだよね」
コウが頷《うなず》いた。「そうなのです」
それに「ふーん……そう……」と相づちを打った父は、最後にもうひとつ頷《うなず》いて「分かったよ」と言った。本当に理解したかどうかは定かではないが。そして今度はコウヘの質問に転じる。「お家の方は、君がここにいるってこと知ってるんだね?」
コウは頷《うなず》いた。「先程も申し上げました通り、私は本家からの命令でここに来たのです」
「あ、そっか。若いのに大変だね。で、どのくらい泊まっていくの?」
「この身が滅ぶ、その時まで」
「へぇ、じゃあ当分の間はここにいるんだね」
「はい。でも、本家から戻れという指示があれば、その時は美津川《みつかわ》に戻ります」
「そういうことなら、コウちゃんの部屋を用意しないといけないなあ……って、空いてる部屋は客間しか無いんだけど。そこ使ってくれる?」
「そのようなお心遣いは無用です。私などは庭で充分です」
「ハハハ、アウトドア派だねえ。でも庭に女の子寝かせてたら近所の人が警察《けいさつ》呼んじゃうから、できれば家の中で寝てほしいな」
「かたじけなく存じます」と、正座のまま深く礼をした。
「会話がかみ合ってないぞ」と半ば呆《あき》れ顔の昇《のぼる》が、出来上がった冷やし中華を運んできた。コウの目の前にも、皿とおろしたての赤い塗り箸を置く。すると、コウは目を丸くした。軽い変化だったが、彼女が常に無表情を通していることを思えば、それは大きな驚《おどろ》きを表すのに充分な変化だった。
「これは私の食事ですか?」
最後に自分の皿とクーの皿を運び、昇は透の正面に座った。クーの皿を床に置くか食卓の上に置くかで一瞬《いっしゅん》迷ったが、結局、卓上に置いた。
コウの問いに、昇は首をかしげた。目の前に置いたのだから、それがコウのものであるということは明白だろう。「そうだけど――あ、ひょっとして冷やし中華嫌いだったとか?」
コウは一拍の間を置き、静かに「いいえ」と首を横に振った。
透《とおる》は「いただきます」と言うと同時に食べ始める。クーは、すでにがっついていた。
父が思い出したように尋ねた。「コウちゃんは嫌いな食べ物あるのかい?今のうちに言っておいてよ。昇《のぼる》に」
「オレ限定か」
「……食べられないほど嫌いな物はありません。でも……」コウは一呼吸の間、思案し、ふと答えた。「ムカデは好みません」
…………
変なことを耳にした気がするが、昇は聞き流した。
しかし透は流さなかった。「ムカデ食べたことあるの?」
「はい」
父も感心する。「へぇ、すごいな」
すごいっていうか……
*****
漫画などで、江戸《えど》時代から現代にタイムスリップしてきたお侍さんが、「こ、このように小さな箱に人が!」とか「むう、面妖《めんよう》な!」とか言いながらテレビを幹竹《からたけ》割りする……というシーンがよくある。数百年の時を越えて現代に蘇《よみがえ》った大|妖怪《ようかい》・クーちゃんは、二十世紀の大発明テレビジョンに対し、どのような反応を見せるか、高上《たかがみ》家一同は少なからず期待していたが――、実際、その反応は淡泊なものであった。
最初の方こそ驚《おどろ》き、はしゃぎ、首をかしげて不思議そうに見ていたが、数分しないうちに、画面の中の司会者はクー個人にではなく不特定多数に向けて話しかけているのだということを悟ると、だいたいテレビ放送の概念というものが掴《つか》めたらしく、前脚の肉球の端で器用にリモコンのスイッチを押し、チャンネルを変えながら、「ふーん、興味《きょうみ》深いな」と呟《つぶ》いた。
三十分ほどすると観ているのに疲れたらしく、画面に背を向けた。そして番組よりもクーの言動に注目していた高上家の三人の顔を見回し、「てれび、というのは、つまり、どういうからくりで動いているのだ?」と技術的なことを尋ねてきた。
あの箱の中にブラウン管というものが入っていて、そこから出る光がスクリーンに画《え》を結んでいる、ということは何となく分かるが、そもそもブラウン管というもの自体がどういうものか、プラスチック製なのかアルミ製なのかすら、その場の誰《だれ》にも見当がつかない。高上家一同が顔を見合わせて首をかしげている様を見て、クーはフンと鼻の先で笑った。
「俺《おれ》とお前らで、知識《ちしき》に大した差は無いようだ」
確かにそうなので、悔しいが誰も反論出来なかった。
何百年も生きていると感性はかえってフレキシブルになるらしい。
クーは車を見ても電車を見ても、はしゃぎこそすれ、怯《おび》えたりパニックに陥ったりはしなかった。それどころか躊躇《ちゅうちょ》もせずに乗ったものである。
曰《いわ》く、「人間は昔から、遠くまでいかに遠く移動するかということに腐心していたから、乗り物がどんなに進化しても不思議《ふしご》ではない!」との事である。生半可な歳《とし》の取り方をしていない者の言うことなので、なるほどさすがに説得力があった。大ばば様がちらりと言っていたように、なかなか賢《かしこ》い狐のようである。
そんなクーが一番感心していたのは、現代人の服装――洋服だった。
「俺《おれ》は常日頃《つねひごろ》どうして人間はあんなに裾《すそ》や袖《そで》のだらだら長い着物を着ているのか、不思議でならなかったのだ。あれは重いし動きにくいし、良い事が無い。しかしお前達の着物は軽そうだ。袖も裾も邪魔《じゃま》にならんし、たしかにも動きやすそうだ。大変結構だな」と、妙に御満悦だった。
透《とおる》が突然、クーと一緒に寝ると主張しだした。
兄がしっかりしすぎている反動か、透は十二にしては子供っぽいところが、時々、ある。
昇《のぼる》は苦笑し、クーに「だってさ」と冗談《じょうだん》混じりにお伺《うかが》いを立ててみた。かつては神と讃《たた》えられ、日本国有数の霊力《ちから》を誇った大|霊狐《れいこ》である。きっと子守りじみた面倒《めんどう》事は嫌うだろうと、昇は思っていた。
しかしクーは案外あっさり「よかろう」と承諾《しょうだく》した。
意外な反応に目を丸くする昇と、喜ぶ透。台所のテーブルについてビールをあおりながら、そのやりとりを見ていた風呂《ふろ》上がりの父が、驚いている昇に言った。
「狐は子供好き、ってよく言うからな」
そういうえば以前、テレビか何かで、子供を産んだことのない狐でも、親とはぐれた子狐を見つけたら連れて帰って一人前になるまで育て上げるのだ、という話を聞いたことがあるような気がする――それって狼だっけ?まぁ似たようなもんだ。
*****
で、翌朝。
時計の針が八時を指そうとしているのが目に入っに瞬間《しゅんかん》、昇は跳ね起きた。
「ヤバぃ」
慌てて制服を着て、必要なものを鞄《かばん》に詰め、階下に駆け降りた。台所に飛び込み――見慣れない男が、我が物顔でダイニングテーブルにつき、食パンをもりもり食っているのが視界に入った。驚いて、急いでいるにもかかわらず動きを止めて息を詰める。
誰《だれ》だろう、こんな朝早くに客?
長い金髪を高い位置でひとつ結びにした、白いTシャツの若い男である。モデルやアイドルのように華《はな》やかだが、古武道家のように凛々《りり》しい顔立ちの、なかなかの美男子だ。けばけばしく派手《はで》だと受け取られがちな金髪も、この男だと何故か上品に見えるって、このように、そんじょそこらを歩いていないような洗練された男性が知り合いにいるはずもない。寝起きであったことも手伝って、昇《のぼる》ぼんやりと首をかしげ続けた。
男は固まっている昇を不思議《ふしぎ》そうに見た。「どうした急いで。寝坊か?」
声を掛けられた一瞬《いっしゅん》後、男=クーであると悟った。そういえば、人に変身するときは見た目の都合上、男か女かを選択しなければならないと言っていた。今は男の姿をとっているのだろう。クーの意志で人化する場合、どちらの性別になるかはランダムであるらしい。ややこしい。「透《とおる》ラジオタイソーに行ったぞ」ひたすら食パンを食べながら、男クーが言った。
「一人で?」
「そう」
昇は首をかしげた。「ついていかなくていいの」
確か、透は妖怪《ようかい》につけ狙《ねら》われやすいタイプで、この狐《きつね》は自分たち兄弟、特に透を守るためにこの家に来たはずである。その守り神が主《あるじ》から離れ、ひとり優雅に食パンを貪《むさぼ》り食っているのは、どうも職務怠慢《しょくむたいまん》にしか見えない。
すると男クーはフフフと笑った。「天狐《おれ》をなめるなよ。ぬかりはないわ」
「ふうん……?」
「なんだその疑いの目は。だいたい、どこへ行くにも俺が付いてまわってたんじゃ、透が窮屈《きゅうくつ》だろう」
頷《うなず》く。「それもそうだな」
「俺もそんなの面倒くさいことヤだし」
「……それが本音だろ」
食パン最後の一切れをロに放り込み、「お前もラジオタイソーか?」と、尋ねる。
「あ!」不意に時間が無いのを思いだし、昇は慌てて洗面所に駆け込みながら、返答した。
「違う。部活だよ、学校!」
「……ガッコー」気が緩《ゆる》んだのか、男クーの頭から、今の今まで収めていた二等辺三角形の耳が、バサッと飛び出た。「ガッコー……ガッコーか!」
昇は洗面所から直《ちょく》で玄関に走ったので、クーの大声には誰も反応しなかった。
*****
昇は、自宅から自転車で二十分足らずといった場所にある公立の赤城《あかぎ》高校に通っていた。
普段、昇《のぼる》も通学には自転車を使用していたが、今日ばかりはバスに飛び乗った。時間が無いという事に手伝って、朝も早よから直射日光が厳《きび》しく気温もかなり上がっていたため、こんな中を二十分間自転車こいだら部活動に入る前に熱中病か日射病のどちらかで死んでしまうと判断したのである。
昇は、学期中は混雑を嫌ってバス通学を避《さ》けているのだが、今は夏休みということもあってバス内はガラガラだった。暑い中をバス停まで走ってきたので、息を整えながら、前の方のシートに座る。このバスに乗れたなら、部活には余裕で間に合うはずだ。
で――急に不安に襲われた。
透《とおる》がラジオ体操《たいそう》に行ったということだった。父は、今日は遅番だと言っていたので昼近くまで寝ているだろう。コウは寝ていたのだろうか――慌てていたのではっきりと思い出せないが、姿を見なかったし、起きて活動を始めている物音や気配《けはい》もしなかった。
今、家の中で起きて動き回っているのはクーのみ、なのである。現代の暮らしをまだまともに理解していないクーだけが、よりにもよって台所にいた。冷蔵庫を開けっ放しにしていたりしないだろうか――外気の熱さで中のナマモノが腐り、更に電気代がかさんでしまう。まだ明るいのに、面白《おもしろ》半分で蛍光灯をつけたりしていないだろうか――光熱費がかさんでしまう。水道の蛇口をひねりっ放しにしていたりしないだろうか――水道代が以下略。
何よりも恐ろしいのは、火である。台所には火がある。昨夜は他《ほか》にもいろいろ考えなくてはならないことがあったので、クーにガスコンロの使用法や危険性について一言も述べなかった。
迂閲《うかつ》だった。せめて「危ないから、周りに誰もいないときは下手《へた》に触るな」くらい、言い置くべきだった。もし、いや、そんなことは万が一にも無いとは思うがクーが興味本位で、変なふうにコンロをいじり、火事なんかになったりしたら――
昇は、いやいや、と無理やりその考えを払拭《ふっしょく》した。あの狐《きつね》は見境《みさかい》の無いアホではない。家に誰もいないわけじゃないし、透もすぐに帰宅する。大丈夫だいじょうぶ心配することは何もない――と、自分をなだめた。
心配事まで所帯くさい十七歳である。
*****
九時すぎになってようやく透がラジオタイソーから戻ってきた。ゴム紐《ひも》の通されたラジオ体操出席表を手に持って振り回し、ただいまーただいまーと連呼しながら廊下を進む。
その左手首には、金色をした組紐のようなものが巻かれていた。
早朝――
ラジオ体操《たいそう》に行こうと玄関でサンダルを履《は》いていた透《とおる》のところに、金髪男がよたよたと寄ってきて、「どこへ行く」と尋ねた。
「ラジオ体操」
「何だそれは」
「みんなで集まってラジオに合わせて体操するんだ」
「……ふうん。(よく分からん。)まあいいや。ちょっと待ってろ」と言い、いったん居間に入って、すぐに戻ってきた。手にはハサミを持っている。
クーは、自分の長い金の髪を一房つまむと、おもむろに、手にしたハサミでじょきりと切った。何を始めるのかと目を丸くする透をよそに、クーは、バラつかないように注意しながら切り取った髪の束の両端をそれぞれ両手で持った。長さは三十センチくらいだろうか。そして透の眼前で、その髪の束をくるくると、縄飛びの動きで回し始めた。
「……何してるの?」と、不思議そうな透に、
「まあ見ておれ」と返す。
やがてクーは動きを止め、手にしていた髪の束を透に差し出した。「やる」
恐る恐る手に取って、そして透は「わー」と歓声を上げた。一瞬《いっしゅん》前まで、まとまりのない髪の束でしかなかったものが、いつのまにやら、きっちり目の詰まった金の紐《ひも》に変わっていたのである。
「すごい、どうやったの?」
強く引っ張っても全然ほつれない、しっかりしている紐だった。手触りもすべすべしていて、とても髪の毛で作ったとは思えない。
[まあ、テキトーに]と、テキトーに答える。「それには俺《おれ》の匂《にお》いがついている」
「へぇ」透は組紐に鼻を近づけてフンフン匂いを嗅《か》いでみた。
「人間には分からん匂いだ」
「………」そういうことは早く言ってほしい。
「これから外に出るときは、なるべくこれを身に着けるようにしろ」
この組紐が発する匂いで、彼《とおる》が霊力《ちから》の強い何者かに守護されているのだということは、物《もの》の怪《け》になら、だいたい伝わる。霊力の弱い物の怪は、よほどのアホでなければそれだけでもう寄ってこないし、霊力の強い物の怪でも迂閲《うかつ》に手を出したりはしなくなるはず――ということも持ち主には一応、説明しておいたほうが本当はいいのだが、面倒くさいので省略し、
「お前をぽちぽち守るはずだ」とだけ告げる。
「分かった。ありがとう」と、無邪気に言って、それから透は家を出たのだった。
――帰宅した透は、冷凍庫にアイスがあることを思い出しながら台所に入った。
男クーが冷蔵庫の前に突っ立っていた。彼はマーガリンのプラスチック容器を手に取り、匂いを嗅《か》いだり、つついたりしているようだった。
「ただいまー」
クーが振り返る。随分長いこと容器を握っていたようで、マーガリンはだいぶ柔らかくなっているようだった。昇《のぼる》が心配していた通り、冷蔵庫の扉は開きっ放しにしていた。でもコンロはいじってないみたい。良かったね。
「クーちゃん、アイス食べる?」
「あいすとは何だ」
「美味《おい》しいもの」
「うむ、食う」
透T《とおる》が冷凍庫から棒アイスをふたつ取り出し、ビニールの個包装を剥《は》がしている間、クーは手や顔についたマーガリンを、顔を洗う猫のような動作で舐《な》め取っていた。
差し出された棒アイスを受け取り、眺める。どこにでも売っているような普通のアイスである。ふんふんと鼻を動かし、まずは匂いを確認。そして記念すべき一口目。ぺろりと軽くなめる。その冷たさに一瞬《いっしゅん》ひるんだようだったが、果敢《かかん》にも二口目、三口目をロにする。そのうち冷たさにも慣れたらしく、無言になり、夢中で食べていた。口に合ったらしい。
一本を腹に収めるのに時間はさほど掛からなかった。薄《うす》い木の棒を名残《なごり》惜しそうに見つめながら、クーは不意に尋ねた。「透、ガッコーとは何をするところだ」
棒をゴミ箱に入れながら、透は答えた。「えーっとね……勉強するところ」
透に倣《なら》って、棒をゴミ箱に投げ入れる。「何を学ぶ?」
この質問は、ちょっと難しかったらしい。そういえば僕らは何を学んでいるのだろうと首をかしげる透。「う〜ん……?」
「要領を得んな」クーは顎《あご》に手を当てて考える素振りを見せた。数瞬黙《だま》った後、不意に、ニヤリと実に老獪《ろうかい》な笑みを浮かべた。
「百聞《ひゃくぶん》は一見に如《し》かず、という言葉を知っているか?」
*****
バドミントンは空気の流れを嫌う競技《きょうぎ》だ。
球であるシャトルが軽い素材であるため、わずかな風にも乗ってしまうのだ。だから、たとえ夏場であっても体育館の窓を開け放つということはしない。同時に、バドミントンは強い照明を嫌う競技でもある。球であるシャトルが白いため、天井《てんじょう》の白色灯をつけておいたりカーテンを開けておいたりすると、光に紛れて球が見えなくなるのである。だから、たとえ昼間であっても体育館のカーテンは完全に閉め切り、照明も薄暗いものにしてある。
熱気も湿気も逃げない、ぬるい空気のこもった薄暗い体育館で、無数の男女が、落ちてくる白い羽根をふらふら追いかけ回している様は、バドミントンを知らない人間が見たら何とも怪しく見えるに違いない。
そんな体育館で、今、ふたりの漢《おとこ》が真夏の太陽より熱い火花を散らしていた。その白熱ぶりは、到底ただの練習とは思えないものがあった。ネットを挟んで向かい合う二人――昇《のぼる》とその友人・杉野《すぎの》は、お互い譲《ゆず》れないないものを賭《か》けて戦っているようだった。
能力にそれほど差の無い二人の試合は拮抗《きっこう》していた――現在、十四対十四。デュースを抜きにした十五点先取制のゲームであったため、次に点を取った方が勝ちという、サドンデスなクライマックスを迎えていた。
きつく締められたガットがシャトルを打ち付ける歯切れの良い音の応酬が続くばかりで、得点は固定されたまま、サービス権だけが目まぐるしく代わる。
ヘアピンを拾えなかった昇から、杉野にサービス権が移動した。
肩で息をする昇は、軽く舌打ちした――次にミスすれば終わりだ。こちらも肩で息をする杉野、ショートサービスラインのギリギリに立ち、シャトルを軽く押し出すようなサービスでネットすれすれに打ってくるか……と思いきや、大きな動きでロングハイサービスをかました。
しかしそれを読んでいた昇は、落ち着いて後ろに下がり、シャトルの落下を待った。適度な高さになったところでラケットを大きく振りかぶり、打つ――が、しかしわずかに手元が狂い、打ち返したシャトルは高く上がってしまった。
「しまったあ!」
スピードが殺された白いシャトルは大きく、そしてゆっくりと弧を描き、虎の子のスマッシュを決めるには最適な場所に落ちていった。。杉野は勝利の確信に満ちた笑みを浮かべた。「ふはは!チャンス!」
「どわぁあああ、まずいぃい!」
ロングサービスラインまで下がっていた昇は慌ててコートの中心に戻り、来《きた》るべき豪速球に備えて身構えた。
杉野は、先端が背につきそうなくらい大きくラケットを振り仰いだ。
「喰《く》らえ、俺《おれ》の魂の雄叫《おたけ》び!」
渾身《こんしん》のスピードでラケットを振るう。
来る。
昇の体に緊張《きんちょう》が走った。
「……と見せかけて」
チョン。
杉野がラケットの先で軽く押したシャトルは、ネットすれすれに落ちた。
「ぎゃあ―――!」
昇、駆け寄るが間に合わず。
白いシャトルがコテンと昇側のコートに落ちた。
「イェイ」
杉野《すぎの》は片足を上げた絶妙な格好のガッツポーズをかました。滑り込んだ体勢のまま動かない昇《のぼる》に向かってビシッと一言、宣告する。
「オレ、コーラね。タカガミ君」
「……くっそ〜……」
校舎と体育館をつなぐ渡り廊下の斟にも自販機はあるが、それはカップジュースの自販機であり、ペットボトルの自販機なら学生食堂が一番近かった。昇はハーフパンツのポケットに手を突っ込んで小銭をジャラジャラ言わせながら、やや撫然とした顔で学生食堂に入った。数台並んでいる自販機の中で、ペットボトルを扱っている自販機から杉野のコーラを買い、別の自販機で自分の飲み物を買う。
腰を廊めて受け取りロに手を突っ込んでいると、「おはよう」と声を掛けられた。振り向くと、いつの間に背後に近づいていた飢ぴか、すぐそばに女子バド部の佐倉美咲が立っていた。
佐倉は、昇の腕の中に飲み物が二つあることを見留め、ニヤリと茶化すような笑みを見せた。
「今日は杉野の勝ちみたいね」
「………」苦々しく頷《うなず》く。
佐倉は短く声を立てて笑い、カップジュースの自販機に小銭を入れて、オレンジジュースのボタンを押した。「ね、宿題やってる?」
……そういや夏にはそんな学校行事があったっけねぇ……と、何だか遠い記憶を思い出す気分だ。あまりの異常事態に見舞《みま》われると、通常なら常に気に掛かるようなことも、見事に思考から吹っ飛ぶものらしい――霊狐《れいこ》なり妖怪《ようかい》なりの問題を前にすると、これはもはや拷問《ごうもん》の域であると学生の間で物議《ぶつぎ》を醸《かも》した膨大な量の宿題も霞《かす》んで見える……なんて、実際問題としてこのまま霞ませておく訳《わけ》にもいかないのだが。とりあえず、「全然」と答える。実際、ひとつも手をつけていない状態だったし。
佐倉はカラッとした笑顔を浮かべた。「あたしも。やろうやろうとは思ってるんだけどね……あ、でも読書感悪文は済ませちやったよ」
「おおお〜……千円で売ってくれ」
だめ、と佐倉は笑いをこらえたすまし顔で答えた。
軽くクセのあるふわふわの猫っ毛と、くるりとした瞳《ひとみ》が印象的な佐倉は、誰と話していても飾るところのない明朗活発な娘《こ》だった。
体育館へ戻る道々、世間話に華《はな》が咲く。
「高上、数学得意だったよね……参考書は何使ってるの?」
「学校でもらってるやつだけ」
「ウソォ!あれって分かりにくくない?文系の人間にはレベルが高すぎるよ。……もうちょっと易《やさ》しいの欲しいんだよね」と、言いながら空になった紙コップを手の中でベコベコ鳴らす。
「自分に合ったの買えばいいじゃん」
佐倉《さくら》は軽く膨《ふく》れてみせた。「参考書とかって、種類がいっぱいありすぎてどれがいいのか分かんないんだもん」と、突然、何かを思いついたように両の手をポンと打つと、佐倉は昇《のぼる》の前に回り込んでその顔を覗《のぞ》き込んだ。「ね。今日、部活終わったら、参考書買うの付き合ってくれない?」
どうせすぐ家に帰っても待っているのは家事と宿題と(父と弟と狐とコウの)世話である。昇は気楽に頷《うなず》いた。「いいよ」
佐倉の顔に晴れやかな笑みが広がる。
「カツノミヤ書店だろ――あ、しまった。俺《おれ》、今日バスで来てるからチャリ無いや」
佐倉、ぶんぶんと首を横に振り、勢い込んで言う。「私は自転車で来てる。私の自転車で二人乗りして行こう」
「佐倉が運転ね」
「何言ってんのよ、女の子に男を運ばせる気?」
「キミのサドルはボクには低いんですよねぇ……ほら、身長が違うから」
そうこう言っているうちに体育館に着く。バド部は、体育館の天井《てんじょう》付近から下がった、緑色の大きなネットで男女の練習場所を仕切っている。佐倉《さくら》は手を振りながら、ネットの向側に駆けていった。「じゃあ、後でね。玄関のとこで待ってて!」
*****
三年生は引退しているので気楽なものである。男バド部顧問《こもん》の諏訪先生は、毎年恒例の長期海外旅行(今年のテーマは『モーセの出エジプト経路を辿る』)に行っているらしく、当分登校してこないから、部は遊び半分で終了した。佐倉との約束通り、先に玄関に行って待つ。女子の着替えが長いことは承知の上である。気長に待つつもりだった。
昇《のぼる》の目の前を、野球部の一群が通り過ぎる。炎天下の練習で息が上がっているはずの彼らは、しかし、その時えらくはしゃぎ合っていた。昇は、何興奮《こうふん》してるんだこいつらと訝《いぶか》りながら、日焼けで黒くなったマルコメ群の行進を見送った。
その列の中に、見知った顔があった。「よぉ、高上《たかがみ》!」同じクラスの須藤であった。。はしゃいだ様子の須藤は、昇を発見すると近づいてきて、肩を叩《たた》きながら機嫌良く教えてくれた。
「なあなあ。玄関ンとこに、すっげーカワイイ外人のネーチヤンがいるぜ」
「へぇー」それでこんなに色めき立ってるのか。
「見てこいって。ホントにマジで激美人だった。誰《だれ》か待ってるみたいだったから、まだいると思うぜ」そう言って、彼は列に追いつくため慌てて走り去った。
いくら所帯くさいとはいえ昇だって一応でなくても男の子なんだから、かわいいネーチャンは見たい。佐倉もまだ来ないだろうし――昇は自然、外へ向いた。生徒玄関前の広場では、クールダウンをしていたらしい男子陸上部員十数人が、口半開きにして全員同じ方向を見ていた。その視線を追った―――桜並木の木陰に、私服の若者が二人、立っていた。 そのうちの一人は件の通り、腰まで届く長い金髪が麗《うるわ》しい美女である。その脇に並んで立っているのは小学生くらいの男の子……って、あれ――
透《とおる》に見えるんですけど。
その瞬間、昇の心拍数はただならぬ増加を見せた。
まさか――まさかまさかまさか。金髪美女が、何かに気づいたように顔をこちらに向けた。昇と目が合う。
そして。
「ノボル――ッ!」
大した距離も無いのにオキャンな大声を張り上げ、手をブンブン振った。男子陸上部員達が、弾《はじ》かれたように一斉に昇を振り返った。美女の待ち人を視界に捉《とら》えるやいなや、彼らの目に羨望《せんぼう》と嫉妬《せっと》が入り混じった光がボオッと音を立てて宿る。メチャ怖い。昇は二人がたたずむ木陰に向かって猛ダッシュをかけた。暑さ以外の何かで汗を流しながら、昇は金髪美女に正面切って尋ねた。「お前……クーかっ?」
美女は「おうよ」と、やたら豊かな胸を張って答えた。
「なんで学校に来てるんだよ?」
「面白《おもしろ》そうなんでな、見てみたかったのだ」
「透《とおる》、止めろよ!」
兄が何を憤《いきどお》っているのか分からない透、首をかしげながら、「何で? いけなかった?」
何かいきなり疲れた昇《のぼる》は肩を落とし、溜《た》め息をついた。「いけないっていうかさ……」
そこであることに気づき、昇は警戒《けいかい》するようにチャッ、チャッ、と辺りを見回した。
「コウは来てないか?」あの娘《こ》も目を離すのは心配なんだが……そう口にしかけたとき、クーが言った。「来てるぞ」
「どこに行ったんだ?」
「そこ」と、指で示しだのは――すぐ背後の桜の木。
昇の全身に、イヤ〜な予感が駆け巡った。幹に寄り、葉群の中を覗き込む――と、
大振りの枝の上に片膝《かたひざ》をつき、見事にバランスを取っている。
「何してんだお前!」
答えに迷ったか、コウは小首をかしげた。
「降りろ!降りなさい!」
コウは素直に頷《うなず》くと、乗っかっていた枝からヒラリと跳び、音も無く地面に降り立った。背後の男子陸上部員たちから「おおおっ!?」と、どよめきがもれた。巫女《みこ》さんのカッコした女の子が木から落ちてくれば、そりゃあ驚きもする。
「わ、わっ」と、透《とおる》が声を上げた。コウを指差し、「毛虫ついてる、毛虫!」
確かにコウの左肩に毛虫が一匹張り付いていた。黒い体に黄色い斑、もさもさの剛毛。見るからに生理的嫌悪を呼び起こす姿だ。しかし、コウは眉一つ動かさず、自分の府の上を這う毛虫を無表情に見下ろすと、何のためらいもなく右手でつまみあげた――払ったりするのではなく、つまんだのである。これは昇《のぼる》や透だって、ちょっとできないことだ。このあたり、やっぱり普通の娘じゃないなあという気がする。
金髪美女がカカカカと笑った。「食うなよ!」
「食べません」と言って、芝生にそっと毛虫を放した。
その後ろ姿を見ながら、昇は溜《た》め息をついた。「なんで木の上にいたんだ?」まあだいたい答えの予想はつくが。
「透様に付き従っておりました」
「……なぜ、あえて木の上にいる必要が?」
「私は護《まも》り女《め》です。本家の方と並んで外を歩くことはできません」
昇は眉間《みけん》を押さえた。眩暈《めまい》がするらしい。「三槌《みづち》の家にいるときはそうだったかもしんないけど、ここではそんなの気にしなくていいから。普通にしててくれ」
一瞬《いっしゅん》、黙《だま》る。でも、[わかりました]と素直に頷《うなず》いた。
それから昇は、横に立つ何故《なぜ》か得意げな女クーの姿を眺め、また溜め息をついた。「……お前……」
ちょっと腕を上げればヘソが丸見えになるようなタイトなタンクトップ、その上に半袖《はんそで》のシャツを羽織る。尻の肉がはみ出してしまうのではいかというくらい短くカットされたジーンズから仲びるお御足《みあし》は、肉が無さすぎず付きすぎずで、フィギュアスケーターのようにスラリと長い――容姿だけで目立つのに、こんな格好をして街を歩けば、道ですれ違う全《すべ》ての人の目を引いたことだろう。しかしこの絶世の美女の正体は狐《きつね》であることを知っている昇は、興奮《こうふん》より疲れを覚え、がっくりと肩を落とした。
「どうしたんだよ、その格好は……」
「フフフ、いいだろ。今朝のテレビで、ドン小西がこの夏の「とれんど」は『ほっとぱんつ』だと申すでな、試してみたのだ」
「誰《だれ》、ドン小西って」
「知らんのかお前。『ふぁっしょんでざいなー』だ」耳隠しのための、透のものらしい野球帽を被《かぶ》りながら、得意げに言う。この狐《きつね》、適応力ありすぎである。
だいたい、朝は男だったはずだ。外出するにあたり、わざわざ女に変更する必要があるのか。
昇《のぼる》は招かれざる三人の顔を見回した。ダメ押しの溜《た》め息。「……ここまでどうやって来たんだ?」と弟に訊く。
「バス」
「これからどこに行くつもりだった?」
「クーちゃんが行きたいところに行く」
「コウは?」
「透《とおる》様のお供をします」
金髪美女がニヤリと笑った。「つまりは俺《おれ》次第ということよ」
「だな――で、クーはこれからどこ行くつもりだったんだ?」
「決まっておろうが。ガッコーに入ってみるのだ」
言うと思った。「それはダメ」
「何で」
「ダメなものはダメ」
「このまま帰れと言うつもりか?」
「分かっているじゃないか」
「つまらん」
「ここで帰ったらバス代がもったいないよ」と子供のくせにケチ臭《くさ》いことを言う辺りは、やはり昇《のぼる》と血のつながった弟、という感じだ。
ぶうぶう文句を言う狐と弟を説得しようと口を開きかけたとき、誰《だれ》かに背中をポンと叩かれた。不意打ちに驚《おどろ》いて、振り返る佐倉《サクラ》であった――ゴメン、すっかり忘れてました。
佐倉は見知らぬ三人を見回し、キョトキョトの目で訊いてきた。「ね、誰?」
説明に困った昇の一瞬《いっしゅん》の隙《すき》をついて、女クーがすかさず答えた。「俺の名を問うとは肝の座った娘子《むすめご》よ。その度胸に免じて特別に教えてしんぜる。俺は天狐空幻である」
なんちゅう名乗り方だ、と昇の顔が引きつる。佐倉は「はあ……」と、やや面喰らったようだ。「高上《たかがみ》の知り合い?」
また何か余計な事を言いかけた女クーの口を器用にハシッとふさぎ、昇は、たった今この瞬間思いついた苦し紛れのでっちあげを口走った。「彼女、留学生なんだ。うちにホームステイしてる」
テンコ・クーゲン……いなくもなさそうだ。ドイツとかその辺りに。 佐倉は何となく――というか、無理やり納得したみたいだった。……留学生にしては日本語が上手《うま》すぎる気がするんだけど――とは思うが、一応、「ふぅん……」と、相づちを打つ。そして、控えめに尋ねた。「じやあ……どうする?カツノミヤ……」
昇《のぼる》は再びロ籠《くちご》もった。先に約束をしていた佐倉《サクラ》には悪いが、クー達を放って行くのはどうにも心配だ。申し訳ないけど、ここは断るしかないな――と、謝罪《しゃざい》と弁解を口にしかけた時、「カツノミヤ?」と、女クーが首をかしげた。 「この近くの大きな本屋さんだよ」と、透《とおる》。
「ホンヤとは何だ」
「本をたくさん売っている店だよ」
何を連想したかは知れないが、それを聞いた途端《とたん》、女クーの顔が輝《かがや》いた。「俺も行きたい!」と、はりきって昇の顔を見やる。
……何となく……そう言うだろうって気はしてたんだけどね――ホントに、何となく。昇は心の中で佐倉に手を合わせて謝《あやま》った。
*****
昇と自転車を手押しする佐倉が並んで歩き、その数歩後ろを、ボーッとした小学生&無表情な巫女《みこ》さん&セクシー金髪美女がついてきていた。この得点力のある三人組は、やはりというか何というか、めちゃくちゃ目立った。すれ違う通行人は勿論《もちろん》、傍《かたわ》らの車道を走る車内からも好奇の視線が向けられてくる。自分が見られている訳《わけ》ではなかったが、佐倉は何となく落ち着かない気分になった。しかも、佐倉と並んで歩いていながらも昇の注意は始終、後ろの三人に向けられていた。佐倉が何を話しかけても上《うわ》の空《そら》で生返事を返す――昇としては、背後の三人組が何を仕出かすかと気が気ではないのだ。
こんなはずじゃなかったのにな――人生ってうまくいかないものだ。お門違《かどちが》いとは分かっていても、どうしても後ろの三人を恨まずにはおれない佐倉だった。
そんな乙女《おとめ》心を知る由《よし》もない金髪美女、琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》を好奇心の光で満たし、信号機を指しては「あれは何だ?」、郵便ポストを指しては「これは何だ?」数メートル歩く度《たび》に、何でそんな事も知らんのだと首をかしげたくなるような質問をポンポン繰り出す。
留学生って言ってたけど――カントリー育ちの方なのかしら。佐倉は、「あれは誰だ?」言ってカーネルおじさんを指さす「テンコさん」を視界の端に捉《とらえ》えながら思った。
自転車なら数分で到着するところ、暑い中を十数分歩いて来たので、目的地である書店に着いたころには、テンコさんとコウ以外はだらだら汗をかいていた――コウも汗をかいていることはかいているが、表情が涼しいものなので暑そうに見えないのだ。ただ一人、「うおお、こんなに大量の書物が一堂に会して!」とはしゃいでいるテンコさんだけは、汗の一滴も流していない。きっと暖かい国から来たのね。
カツノミヤ書店は、一階で雑誌やコミック、二階で文芸本や専門書を扱っていた。学習参考書は二階だ。二階へはエスカレーターで行き来する。テンコさんはエスカレーター初搭乗だったらしい。「おおお、動く階段!」と、もう大はしゃぎも最高潮《さいこうちょう》だった。
まず昇《のぼる》と佐倉《さくら》、次にクー、透《とおる》の順で二階フロアに足を踏み入れた。殿《しんがり》はコウであった。学習参考書のスペースは店舗《てんぽ》の一番奥にある。何となくムッツリしている佐倉は、後ろの三人組の動向が気になって仕方ない昇を促して、目的エリアに足を向けた。その時、背中から警戒《けいかい》の色の濃《こ》い声が響《ひび》いた。
「昇様っ!」コウであった。
佐倉はいろんな意味で驚《おどろ》いた。何故《なぜ》に様付け……
第一、この少女――コウが何者なんだか分からない。こんな巫女装束《みこしょうぞく》を普段《ふだん》着な感じで着こなしているのも謎《なぞ》といえば謎《なぞ》だが。
金髪美人のテンコさんは、まあ、彼の言葉を鵜呑《うの》みにして、留学生だとしよう。だが、このコウちゃんは何者だ?彼女も留学生だろうか?しかし彼女は、見た目といい言葉の流暢さといい、完全なる日本人だ。では、高上《たかがみ》の親戚《しんせき》筋だろうか?しかし彼らのやり取りを見ていると、親戚というのでもない気がする(だって縁付けだし……)。しかもコウは明らかに年下の透にも敬語を使っている――親戚というよりは、主従といったカンジ?
制服のシャツの端をコウに掴《つか》まれた昇は、腕を引く佐倉との間で宙ぶらりんとなり、その場でタタラを踏んだ。しかし、もともと気持ちは後ろにあったので、顔は自然、コウに向けられた。「何だ?どうした?」
佐倉の胸がチクリと痛んだ。ささやかだったが後に残る痛みだった。昇は明らかに、佐倉を眼中に入れていない――言いようのない虚無感が佐倉に満ちた。敗北感も混じっていたし、わずかだが怒りも混じっていた。佐倉は、昇の腕を離した。
そんな微妙な気持ちを知る由《よし》もないコウは切迫した表情だ――の娘が表情を浮かべること自体珍しいので、やはり注意はこちらに向いてしまう。
「良くない気が満ちています」
「へっ?」聞き慣《な》れない言葉を使われて、昇は首をかしげた。
「コウの言う通りだな」と言うクーは、言葉の内容とは裏腹、のんきそのものの顔で、そばに平積みされていた文庫本をパラパラめくっていた。「確かにこの場には雑多な霊《れい》が集中している」
「はあ?」と昇は訝《いぶか》しげに聞き返したが、透は怯《おび》えた表情になった。「危ないの?」
カカカ、と豪快に笑い飛ばす。「全然。人や物やらに害を与えられるほどの力は無い」
「本当に?」と、透。
「も〜だあいじょーぶだっつーに。心配性だな……だいたい、お前は、これ」持っていた文庫本を元あった場所に置き、透の手を取る。金の組紐《くみひも》が巻かれているほうの手だ。「これをつけているから、大丈夫なんだよ」
「そうなの?これそんなにスゴイの?」
頷《うなず》く。「スゴイの」
透《とおる》がホッとした顔を見せる横で、ひとり険しい顔をするのはコウである。「害は与えなくとも影響《えいきょう》はあります。――昇様、よくここに来られますか?」
「え、うん、まあ」
「透様は?」
「たまに」
コウは意を決したように頷いた。「ならば清めておいた方がいいでしょうね」
「……おいおい」清めるってか……何するつもりだろ。必要とあらば初対面の人間にもいきなり塩をぶっかけるようなコウである。本屋で何をするか、昇には想像がつかない。
フロアの奥の方を興味《きょうみ》深げに眺めているクーが、「別にいいんじゃないか?」と、放任意見を挟んだ。
コウは瞳《ひとみ》に気の強そうな光を灯《とも》しながらクーを見やった。「透様はもとより、昇様もまた普通の者より強い霊感《れいかん》を持っていらっしゃるのです。体内に雑鬼を溜《た》め込まないとも限りません」
何の話してるのこの人達……。一歩下がったところで佐倉《さくら》は一同のやり取りを聞いていたが、まったく訳《わけ》が分からない――この場合、分かれという方が無理だが。
「そうかい。ま、何でもよいわ」クーは、そんなことより、もう奥の方を見に行きたくて行きたくてしょうがないようだった。「なあ透。あっちには何があるんだ?」
「え〜何だろ。図鑑《ずかん》とか辞書とかかな」
「見に行っていいか?」と好奇心で輝《かがや》く瞳を、昇に向ける。
昇は頷いてやった。
それを聞いた途端《とたん》、金髪美女はワーイと嬉《うれ》しそうに目的の場所へ駆けていった。
あいつ本当にウチの守り神やる気あるんかい……と、昇は、走り去る背中を疑惑に満ちた半眼で見送った。
コウが歩き始めた。清めるのだと穏便《おんびん》な事を言いはしたが、何をどうするのか全く予想もつかないので、心配で目が離せない昇はその後に続いた。
一瞬《いっしゅん》迷いはしたものの、佐倉も結局ついていくことにした。この際、高上《たかがみ》を置いて一人で参考書を見に行ってもよかったのだが――そういう悲しい態度を示すことは、自分にも高上にも、そして彼の連れにも、いろんな意味で敗北する気がした。それに、どういう関係であれ、女の子と昇をふたりっきりにするのは癪《しゃく》だった。
透もついてくる。深刻な顔をする若者三人とは対照的に、このコだけは訳もなく楽しそう。
クーが「大丈夫」と言い切ったこともあって、気持ちに余裕みたいなものが生まれたのかもしれない。
コウは、キョロキョロするでもなく、何か目印をたどって進んでいるように確固とした足取りだった。やがて専門書の棚が並ぶコーナーに入った。立ち読み族もいる文芸本コーナーと違って、この辺はやや客足が遠い。
ふとコウが足を止めた。その背後で、ついてきた三人も立ち止まる。
コウは書架の一角を鋭《するど》く睨《にら》みつけていた。憤重な足取りで近づき、並んでいる本の背に視線を滑らせる。「この本……」と言ってコウが手に取ったのは 『陰陽道入門〜お札つき〜』
ちょっと前にブームになった陰陽師関連の書物らしい。
一時は売り場の最も目立つところに平積みされていたコレ関連の出版物も、今や『宗教・哲学』のコーナーの隅に小さくまとめられてしまっている。それでもブームの名残《のごり》のためなのかイスラム教やらカバラやら仏教やらの他《ほか》のジャンルと比べると、冊数は多い。昇《のぼる》は、一冊一冊引き出して、表紙だけをザッと眺めてみた・美形に描かれた少女マンガチックな安倍晴明《あべのせいめい》や式神《しきがみ》がポーズを決める表紙、どういう根拠からか『恋に効く』というファンシーなアオリが入った表紙、いかにもオカルト書な感じでおどろおどろしい、黒地に赤文字の表紙……同一テーマでも、何をコンセプトにするかによって、本自体の雰囲気がかなり異なってくるものだ。
コウは手にした一冊をパラパラと斜め読みしていたが、「なんて事」と呟《つぶ》いて眉をひそめた。
「何なに?」と覗《のぞ》き込んでくる透《とおる》に、あるページを開いて示す。そこには、明らかに常用ではない漢字がハ角形に沿って配置された何だか物々しいお札のイラストや、五芒星《ごぼうせい》の描かれたお札のイラストが載っていた――が、まあオカルト本なんだから、これくらいは描かれていて当然な気もする。
「これがどうしたの?」
コウは本を閉じた。「こういった力のある印《いん》は、書いたり唱えたりしたりするだけでも何かしらの効力を示すものです。だからこそ、、このように戯《たわむ》れにも用いてはいけないものなのです。
簡素《かんそ》で使いやすい印であるほど、些細《ささい》な間違いが大きな狂いを産みます。この図は重要な点がいくつも間違っている。だからおかしな力場が発生して、このような雑鬼《ざっき》が集まってくるのです」日常的な物事を説明することは苦手なくせに、こういう術とか印とか、一般人にはかえって理解しがたいモノの説明は澱《よど》みなくスラスラ言えるのだから、不可解だ。
「でも、こんな本は日本中どこの本屋にも置いてあるよ」と、透がなかなか的確な意見を述べた。昇と佐倉《さくら》もウンウンと同調する。
顔面では無表情を保ちながらも、瞳《ひとみ》の奥に揺るがない自信を湛《たた》えているコウはご二人に尋ねた。「本屋に入って、何か異常を感じたことはありませんか?例えば、気分が悪くなるとか」
昇は首をひねった。「……いや、特には」
佐倉も思い当たる節《ふし》は無さそうだ。
透がハッと息を呑《の》んで顔を上げた。「そういえば……!」
視線が透に集中する。
透《とおる》はコウの顔を見、真剣そのもので言い放った。「本屋に入ってうろついてると、必ずトイレに行きたくなる!」
それは違う。
昇《のぼる》は弟の後頭部を軽く叩《はた》いた。透は何故《なぜ》叩かれたか分からないという顔をしている。佐倉《さくら》は苦笑していた。
書店や図書館など、書物が大量に保管されている場所にいると便意を催《もよお》す体質の人間がいることは知っている。昇にはそういう事は全く無かったが、同じ部の寺岡《てらおか》という奴がその体質であるらしく、「マジでいつもトイレ行きたくなるんだって! マジでマジで。オレだけ?なあ、オレだけ?」と言っていたのを覚えている。寺岡が言うには、印刷に使用されているインクの匂いの中に、人によっては排便が促される物質が含まれている、とのことだったが――実際のところ、どうなんだろう。よく分からない。マユツバものだ。
真剣そのものの顔で頷《うなず》いたのはコウである。「それです。それが雑鬼《ざっき》のせいです」
「ウッソォ!?」
「やっぱり」と、得意げな透。
昇は自分を落ち着かせるため、フ〜とひとつ息を吐くと、コウの肩をポンポンと叩《たた》きながら、諭《さと》すように言った。「あのさあ、コウ。本屋にいてトイレに行きたくなるのは……なんつーか、その……思いこみっつーか、なんかその辺の心理的な作用があるからでぇ……」
コウは、昇を真っすぐに見返した。「言いきれますか?」
そう言われると昇はちょっと言い返せない。コウは、口籠《くちご》もる昇を見て――
「これは雑鬼の仕業です」言いきった。
「………うん。じゃあ、まあ、それは分かった」本当のところはもちろん理解などしていないが、状況打開のため、とりあえず妥協してみる。「トイレに行きたくなるのは雑鬼の仕業で、雑鬼が本屋に溜《た》まってるのはその怪しげな本のせいだよな」
「はい」
「で、コウは今からお祓《はら》いをしてくれるんだよな」
「はい」
「そうか。で、具体的には何をするつもりなんだ?」
コウは少し思案する素振りを見せた。「清めの塩を使おうと思っていたのですが……」
やっぱ塩|撒《ま》くつもりだったのか。訊《き》いてよかった。
「塩はダメだ」
反論して来るかと思われたコウは、意外に素直に頷いた。「撒きません」
よしよし。昇は満足げにウンウン頷いた。
佐倉は、というと、昇とコウが何の話をしているのか、当然ながらさっぱり分からず、訝《いぶか》しげな顔をしている。
透《とおる》はポーッとその様子を眺めていな――その時、本棚の陰《かげ》から、金髪の人影が飛び出して来た。「なあ、なあ!」とはしゃぎながら一番後ろにいた透に抱きつく。クーの手には、一冊の本が握られていた。「なあ、これ欲しい〜」と、甘えた声でねだり始める。
透は示された本の表紙をこれまたボーと眺め、「……僕、そんなにお金持って無い」
けっ。「何じゃい」
「お兄ちゃんに頼めば?」
透とクーが息を合わせて「お兄ちゃあん」と呼びかけた。
昇《のぼる》は面倒くさそうに振り返った。「何だよ」
透は、クーが持ってきた本を、兄に差し出した。「クーちゃんが、これ欲しいって」
「欲しいナ〜」上目遺いでかわい娘《こ》ぶってみる。
どちらかというと雑誌かムックかといった装丁の本を手に取り、昇はしかめ面《づら》をした。「あ、お前……持ってくるなよ。一階の本は一階で会計しないといけないんだから。って……何これ」
表紙を飾っている写真には、ピンクのリボンやラッピングペーパーで華《はな》やかに飾り付けられ、ふわふわのクリームが添えられたココアシフォンケーキが大きく写されていた。肌いには白いティーカップの紅茶もあり、理想の|午後のお茶《アフタヌーンティ》が展開されている。その本名《タイトル》もずばり、
「〜手軽で豪華・誰《だれ》でも作れる〜 おいしいチョコレートケーキ」
クーは、その表紙をうっとりと見ながら「美味《おい》しそうだろ?」
昇は笑顔で返してみせた。「作るのはお前じゃないだろ?」
――なんて言ってる間に。
コウは本を元あったところに戻し、近くの柱の一点を注視していた。なんだか今にも怪しげな術を使いそうな雰囲気である。
心配になった昇は、クーを見て、懇願《こんがん》ロ調で言った。「それより、コウを止めてくれよ」
クーはここぞとばかりニヤリと笑った。「おいしいチョコレートケーキ」をぱたぱた煽《あお》りながら、「そしたらこれ、買ってくれるか?」
「買う、買うよ」ワラにも縋《すが》る想い。
ヤッタァと手を叩《たた》いてひとしきり喜ぶと、クーは「あ〜コレコレ、護り女よ」などと真面目くさって言いながら、よたよたとコウに寄っていった。
周りの状況が目に入っていないコウは、獲物《えもの》を狙う肉食獣の目で、何も無いはずの柱の表面を睨《にら》み続けていた――が、次の瞬間《しゅんかん》、彼女の手が素早く動いた。柱の表面すれすれのところで、何かを掴《つか》む。コウの手に収まった途端《とたん》、今の今まで透明だった『それ』は唐突《とたん》に形を持ち、色を持った。
「――あ?」その場にいた全員がそちらに目をやった。
「これが雑鬼《ざっき》です」と、コウは握ったものを皆に見えるように目の高さに持ち上げた。
肉塊のようなものだった。もちろん、ただ「肉塊のよう」なだけではない。虫のように細い手足が生《は》え、表面には小さな目が無数にある。不気味な姿であった。――昇達は知る由もないが、これが雑鬼と呼ばれているものの基本的な姿形である。
「あっっっきゃああああ!」佐倉はフロア全体を轟《とどろ》かせるような凄まじい悲鳴を上げ、腫《きびす》を返した。
間近で上げられた悲鳴に面喰《めんく》らいながらも、昇は振り返り、駆け去ろうとする佐倉の背中に手を伸ばした。「ちょ、佐倉……」
その昇より先に手を伸ぱしたものがあった。クーである。クーは佐倉の襟首《えりくび》を掴《つか》むと、いささか乱暴に引き寄せ、自分の方を向かせた。腕を跳ね上げ、掌《てのひら》を佐倉の鼻先ギリギリで寸止めする。その所作《しょさ》に驚《おどろ》いた佐倉が思わずロを噤《つぐ》んだ一瞬《いっしゅん》後――彼女は糸が切れたように崩折《くずれお》れ、前のめりに倒れ込んだ。それをクーが受け止める。
あまりに一瞬《いっしゅん》の出来事で事態をうまく把握できなかった昇は、気絶した佐倉の顔とクーの顔を呆然と見比べた。「……おい……何したんだ?」
「まあ見ておれ」クーは賢《さか》しく微笑《ほほえ》みながら、佐倉を抱え直し、彼女の頬《ほお》を数回軽く叩《たた》いた。佐倉の瞼《まぶた》がわずかに痙攣《けいれん》し、開かれた。
昇と透《とおる》は一歩下がったところから心配そうにその様子《ようす》を眺めていた。佐倉は焦点の定まらない目で、ぼんやりと天井《てんじょう》を見つめている。
その視界に入るように、クーが佐倉の顔を覗《のぞ》き込んだ。「大丈大?」
昇は驚いてクーの横顔を見た。その声は、いつものクーの声とは違っていたのだ。
佐倉は天井を見つめたまま、呆然として呟《つぶ》いた。「あれ……私……」
「覚えていないかしら……あなた、この暑さにあてられて例れたのよ」
声そのものに変化はないが、声がまとう雰囲気のようなものが、普段《ふんいき》とはまるで違っていた。聞く者の頭の髄《ずい》に染み込み、じわじわ痺《しび》れさせる――そんな、まるで毒物のように危うく甘美な声だった。
作為的に霊力《ちから》が込められた声音《こわね》――その効果は絶大だ。耳元で優しく語りかけるだけで、白をも黒と言わせることができる。
「……そうなんですか?」起き上がった佐倉は、まだはっきりしない頭を抱えながら、辺りを見回し始めた。「そういえば、そうかも……本屋に入ってからの記憶が……」
狐《きつね》は優しく微笑んだ。「顔色か悪くてよ。もう今回は家に帰って休んだ方がいいのでなくて?」と、佐倉の顔を覗き込む。
「……はい、そうですね……帰ろうかな」
佐倉が立ち上がるのを手助けしながら、クーは振り向き、呆気に取られている昇に、いつもの声で偉そうに言った。「だとよ。おい、昇。送っていけ」
昇はようよう頷いた。「あ。――あ、うん」
ふらふらとエスカレーターに向かう佐倉を追いかけようとして―――ちょっと立ち止まり、クーの横に付いて、そっと尋ねた。「……お前、何したんだ?」
「別に。天地を返して少し混乱させただけだ」
「なんかあいつ、目の焦点合ってないけど……大丈夫なんだろうな?」
クーは自信たっぷりに「うむ」と頷いた。「記憶をいじったりはしておらんが、今ここで見たことは、変な夢を見たなあ〜くらいにしか思い出せんはずだ」
そっか、と呟《つぶ》いて佐倉《さくら》を追う昇《のぼる》。彼らがエスカレーターに乗ったのを見届けてから、狐はクルリと方向転換した。その視線の先に立っていたコウは、いつもの無表情で、佐倉と昇が去った方向を見ていた。一見、何を考えているのか察することはできないが――
クーは、コウの手からそっと雑鬼《ざっき》を奪った。「見逃してやれ。どうせ何も出来んさ」と言うと、雑鬼《ざっき》を元いた場所にブニ〜と押し付けた。手を離すと、その雑鬼、桂の表面に溶けこむかのようにスウッと消え、見えなくなった。
「護《まも》り女《め》」振り返りながら、クーが言った。「自分の役割を果たそうとするその姿勢や結構。だがもう少し周りの状況というものを見たほうが良いな」
言っていることは正しいが、昇がこの場にいたら、「お前が言うか?」というツッコミが入ったことだろう。
「お前は少し、真面目《まじめ》すぎるようだ。真面目すぎて融通が利かん……まあくそ真面目なやつというのは大体、暴走するもんなんだが」
コウは数瞬《すうしゅん》、黙《だま》って天狐《てんこ》を見つめた。と――
透《とおる》は見た。
エメラルド色の光輝《こうき》が、コウの頬《ほお》の上を――いや、違う。頬の皮膚《ひふ》下を、ゆっくりと通り過ぎていくのを。
くるくるくるくる……
コオロギの鳴き声を数オクターブ低くしたような、唸《うな》り声のようなものが聞こえた。それ明らかにコウの喉《のど》から発せられている。
あれ、どういうこと?透は目をぱちくりさせた。
コウの顔を見て驚《おどろ》いている透《とおる》に気づき――クーは眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「私……」彼女が顔の筋肉を動かすたび、エメラルド色がまだらになって皮膚下で小さくさざ波だつ。「昇様に迷惑をかけたんでしょうか」
「まぁそうだな」と、遠慮《えんりょ》も配慮も無い口調で狐が肯定する。
すると、コウの眉尻《まゆじり》が下がった。それはこの護《まも》り女《め》が初めて見せる、弱気の表情だった。同時に、頬に再び強くエメラルド色の波が浮かぶ。規則性の無いただのまだら模様のようにも見えたし、何か紋様のようなものを形成しようとしているようにも見えた。
「……どうしよう」蚊《か》の鳴くような声で、コウが呆然《ぼうぜん》と呟《つぶや》いた。
く、くるる、る……
コウの喉《のど》からまたあの音が発せられた。さっきよりもっと低く、重い音だ。聞きようによっては嗚咽《おえつ》のようにも取れる。
「私、どうすればいいんでしょうか」
透《とおる》が仰天したのは、コウの目からこぼれ落ちたものが涙だったからだ。あまりにも唐突《とうとつ》すぎたし、だいたい、常に無表情なこの少女が涙を流したという事実が、正直、透には信じられなかった。
「ま、待って待って」透は手を振り振り、慌てて言った。「コウちゃん、兄ちゃんは迷惑だなんて思ってないよ」
うじうじと透を上目遺いで見る。「そうでしょうか……」
確固と頷《うなず》く。「うん、そう」
「でも」ウウ、と口を尖らせる。「でも天狐《てんこ》様は迷惑かけてるって……」
「そんなことないよ」とコウに言ってやってから、ちょっと怒ったような顔を作って、今度はクーに向かって、言った。「そんなことないんだからね」
狐《きつね》は「ふーん」と言って、肩をすくめるだけであった。
「透様、も、迷惑だとは、思いま、せんか?」しゃくりあげつつ、コウはやっとそれだけ言った。
これには力強く頷いてやる。「うん、全然、思わないよ」
当の護《まも》り女《め》が納得したようにひとつ頷き、涙を袖《さで》でぬぐいながら「良かったです」と言うと、顔の光輝《こうき》は何事も無かったかのようにスウと消えてしまった。同時に表情も消え、いつもの鉄仮面に戻る。透もホッと胸を撫《な》で下ろす。
護り女と透を交互に眺めていた狐は、何事か考えていたようだったが――
「護り女」唐突に声をかけると、これまた唐突なことを尋ねた。「金を持っているか?」
首を横に振る。「持ってません」
けっ。「なんじゃい。……仕方ないな」が憮然《ぶぜん》として、店内に視線を巡《めぐ》らせた。工学関係の本棚の整理をしていた店員に目をつけると、そちらへ駆け寄り、オイと声をかけた。
店員が顔を上げた。いかにも日本人な顔をしており、黒縁眼鏡《くろぶちくろめがね》が真面目《まじめ》そうな、年の頃《ころ》は三十代後半くらいの男だった。
何を企《たくら》んでいるのか、クーはおもむろに、その店員にくっつかんばかりにすり寄ると、『おいしいチョコレートケーキ』をかざしながら、先ほど佐倉《さくら》に用いたのと同様の、甘ったるく魅惑《みわく》的な声を出した。
「あたくし、これがどうしてもほしいのです。無くては固るのです。でも持ち合わせがなくて」
はじめは、なんじゃこのネーチャンという顔だった店員の目が、たちまちうっとりと垂れ下がってきた。
「あなた様のお力で、どうにかなさってくださいませんか、どうか」と、たたみかける。
もうデレッデレの緩《ゆる》みきった顔で、店員はヘコヘコと頭を下げた。「どうぞ、いくらでも持っていってください」
鼻の先でフンと笑い飛ばし、うっとりと視線を投げかけてくる店員を冷酷に突き放すと、クーは透とコウのところへよたよたと戻ってきた。
「見ろよ。手に入れたぞ。ちょろいな」と、手の中の本をヒラヒラ振ってみせる。
「クーちゃん」透は、珍しく真剣に怒ったような顔をした。「それはダメ」
クーは白々しく首をかしげた。「何が?」
「それは売り物だもん。勝手に持っていったらダメなの。お金出して買わないと」
「心外だな」と言って肩をすくめる。「勝手に持っていくわけではない。あの店員は、いくらでも持っていってくれ、と言ったぞ」
「それは、クーちゃんが、なんか、術使ったからで」
ニヤリ。「それは、なぜ、いけない?」
「なぜって」
ニヤニヤ。「術を使って欲しい物を手に入れるのも、働いて稼《かせ》いで欲しい物を手に入れるのも、どちらも個人の実力ではないか。どうして術を使うのはいけないのだ」
透は、どうにも歪《ゆが》んだ価値観を持っているこの狐《きつね》に、なんとか良い答えを返そうと、必死になって頭を働かせ、働かせ、働かせ
――ショートした。「とにかく、ダメなものは、ダメー」ゴリ押し。
クーは苦笑して、背の低い遠の頭を、よしよしと撫《な》でた。「わかったわかった」
「……ホントに分かった?」クーのこの納得の早さに、まさに狐につままれたような気分になりながら、透は胡散臭《うさんくさ》そうに金髪美女を見上げた。
「分かったさ」手招きしてコウを呼ぶ。「頼まれてくれ」と言って、彼女に『おいしいチョコレートケーキ』を渡した。「これをな、下の階の、元あったところに戻してきてほしいのだ。お前に返してきてほしい。頼むよ」
この天狐《てんこ》がここまで低姿勢になって人に何かを頼むのは珍しい。コウは訝《いぶか》りつつも、「…… はい」と頷《うなず》いて、階下に向かった。
エスカレーターに乗ったコウの頭が見えなくなったころ、クーは体を透に向けて、含んだところのある笑みを浮かべた。「妖怪《ようかい》と違って、持てる力も時間も限られているというのに、人間は自分の器量を遥《はる》かに越えた大物を、常に欲しがる……その小さな器に掴《つか》めるものなど限られているのにな……なあ透。愚かだとは思わんか」
いきなり難しいことを言われて、透はウーンと口籠《くちご》もった。
透に顔を近づけ、ニヤーとイタズラ小僧のように笑う。「だがな、透。お前は違うぞ」
透は首をかしげた。
「透《とおる》。お前は俺を使役《しえき》できる。俺の力を見たろ。俺を使えば、手に入らないものはない。今だって、そうだったろ。俺が耳元で囁《ささや》けば、たいていの人間は俺の言いなりになる。とりいる人間さえ選べば、天下だって取れるぞ。お前が望めば、俺はお前に天下でもくれてやる……そりゃあ、モノがモノだけに、書物のように筒単にはいかんだろうがな。――だが、俺がその気になれば、決して無理ではない」
「へぇ……」内容を分かっているのかいないのか、少々間抜けたリアクションを返す。
その反応を面白《おもしろ》がっているようにも見える不敵な笑みで、狐《きつね》は透を見降ろし続ける。「――どうだ?欲しいか、世界が?」
透は一瞬《いっしゅん》、言葉に詰まったようだったが、クーを見据えたまま首を横に振った。「……別に、いいや」
「遠慮《えんりょ》することはないのだ」
そう言われて透は、「うーん……」と、首をひねって、何やら考え始めてしまった。
狐は得体《えたい》の知れない微笑を浮かべたまま、黙ってその姿を見つめていた。
数秒の間《ま》の後、透はケロリと言った。
「やっぱり、いいや」
狐の笑みが穏《おだ》やかなものに変わる。「そういうと思っていた」
その表情を見て、透は、どうやら自分はクーちゃんの望んでいた答えを言えたらしいことに気づいた。それが我ながら嬉《うれ》しく、「欲しくなったら言うよ」と、彼にしては珍しく気の利いた冗談《じょうだん》を飛ばした。
「ははは、そうしろ」と、クーは透の背をパンパン叩《たた》いた。
「それより、おなか減らない?」
レジの横にかかっている時計は、すでに午後二時を示している。昼飯は摂《と》っていないから、腹が滅るのは当然だった。
妖怪《ようかい》は一般的な生物とは体構造や栄養の摂取方法が違うので、何か食物を食べなければ死ぬということはないはずなのだ――が、クーはヌケヌケと、
「うむ、滅ったな。死にそうだ」などと抜かす。
透は財布を覗《のぞ》き込んだ。帰りのバス代(三人分)があることを確認して、「ハンバーガーでも食べに行く?」
「はんばーがーって何だ」
「おいしいもの」
「うむ、食う」
下りのエスカレーターに乗ったところで、唐突《とうとつ》にクーが切り出した。「透。さっき、コウの顔が」と、自分の頬《ほお》をムニ、と押す。「変化したのが、見えたか?」
「うん、見えた」
「………」
自分を見つめるクーに不自然さを感じ、透《とおる》が首をかしげた。「どうかした?」
クーは肩をすくめ、しれっと答えてみせた。「別に」
その言葉を何の疑いもなく信じた透は、そっか、と頷《うなず》いた。「ねぇ、あれって何だったの?」
「鱗閃紋《りんせんもん》。あいつはコウを憑《つ》けているからな」
「……ふぅん」よく分かってません。
彼のそんな姿を見つめながら、天狐《てんこ》は目を眇《すが》め、何とも複雑な顔をした。
……霊感《れいかん》強くなってるな、こいつ。
護《まも》り女《め》の皮膚《ひふ》に浮かぶ斑紋《はんもん》はかなり特殊なもので、視覚できる人間は限られてくる。
やはり透《こいつ》は〈陰〉の気が強い。水気《すいき》を祀《まつ》る三槌《みづち》の家の血が濃《こ》いためだろう。男性でここまで
〈陰〉の気が強いのも珍しい気がする。
そんな透が、コトジ蛇の一件が起こるまで人外の者を感知できなかった――また逆に、人外の者も今まで透を感知できていなかったという事実は、いささか腑《ふ》に落ちなかった。
第三者のカが、透に働いていた――それしか考えられない。透の、第六感を含めた、全《すべ》ての知覚から人外のものを完全に遮断できるほど強力な、そして長期に亘《わた》ってその効力が続いていることを考えれば、かなり念のこもった、高度な術である。そしてクーには、その第三者の正体は知れていた――他ならぬ、美夜子《みやこ》である。彼女が透にこの守護《しゅご》の術を施《ほどこ》したのは、まず間
違いない。しかし美夜子の霊力《みやこ》で、これほど強力な術が扱えるだろうか……?
まあ、扱えたとする。扱えて、透にそういう護りの術を施すことができたとする。しかし干支《えと》が巡ってしまっているので、もはやその効力は弱々しく、年を経た物の怪に対しては無いに等しい。
そこにあのコトジ蛇がやってきて、まだ辛うじて小さな綻《ほころ》びでしかなかった穴から、無理に透の感覚に侵入した。コトジにそういう意図は無かったのだろうが、結果、その穴は誰《だれ》もが素通りできるほどの大きさに拡《ひろ》がってしまった。そして透は生来の霊感の強さを取り戻しつつある。
余計なことしやがってあのクソ蛇。やっぱりもうちょっと痛めつけておけばよかった。
ただ〈陰〉の気が強いだけなら、「霊感の強い人間」で一生を終えられた。しかし、三槌の血のせいで、命までもが危うくなる。美夜子にしてみれば、透が心配で気が気ではなかったろう。
天狐は、目の前の透に気取《けど》られないように、細く細く息を吐いた。
あの夜、美津川《みつかわ》の三槌の家で、高上《たかがみ》兄弟の守り神になると宣言したのは、本当にその場の思いつきだった。しかし、今になって考えてみると、全ては美夜子の想いが集束し、自分に行き
着いて起こった結果であるような気がしてならなかった。
*****
まぁちょっと考えれば予想できることなのだが、コウは、はっきり言って、不器用であった――いや、『不器用』というのは的確な表現ではない。
『絶望的に不器用』であった。
夕食をいざ作らん、と昇《のぼる》が台所に立ったとき、昇様にばかり作らせるのは心苦しいと言って、コウが自ら夕食を作ることを申し出た――今日のお詫《わ》びの意味もあったのかもしれない。
ワーイ女の子の手作り料理だ、と高上《たかがみ》兄弟は心の中で喜んだものだ。コウは容姿が清楚で女の子らしいので、なんとなく料理も上手《うま》そうな感じがするのである。
ただ、四本足の狐《きつね》が姿に戻ったクーだけは、「……大丈夫なのか?」と、不安顔だった。
そうしてコウが台所に立ったのは十八時だった。
コウはまず、冷蔵庫からタマネギを取り出し、みじん切りにし始めた。トントントン……と軽やかな音が響《ひび》いてくる。なかなかの包丁捌《さば》きだ。これは期待できそうだ と思った次の瞬間《しゅんかん》、ペコッ!と、明らかに調理する音ではない音が飛んできた。居間に座っていた人間二人と獣《けもの》一匹は、お互い顔を見合わせた。
昇が無言で立ち上がり、台所を覗《のぞ》いた。「どうした?」
「いえ、あの……」と、コウが振り返る。彼女はアルミ製の両手鍋を持っていたが、その鍋《なべ》、何故《なぜ》か底がキレーに抜け落ちていた。その抜けようは見事の一言で、この世のいかなる工具を用いてもこれほどキレーに穴を開けることは不可能なのではないかと思われるほど、底だけがウマイこと失われていた。
コウはその穴を無念そうに見降ろし、「あの……お湯を沸かそうと思って」
『お湯を沸かそうと思った』という意志と『鍋の底が抜ける』という現象との間に因果関係をいまいち見出《みいだ》せないが、昇は淡白に「そっか。燃えないゴミの日に出すから、そのへん置いといて」とだけ言った。
「ごめんなさい……」シュンと、うなだれる。
「うん。いいよいいよ」居間に引つ込んだ。もう何が起きてもあまり驚《おどろ》かなくなっている。慣れって恐ろしい。
時計の針が十九時を少し回った。
台所からは(ミシミシミシ、パリン)あいかわらず、調理中とは思えない音が(バキバキバキ……メリッ)響《ひび》いていたが(ボンッ)、高上兄弟は、「そういうこともあるだろう」と、テレビを観たり新聞を読んだり、けっこう余裕をかましていた。
しかし、「ううううう……う」と、老人の啜《すす》り泣きが聞こえてきたときは、さすがに戦慄《せんりつ》が走った。今度は透《とおる》が立ち上がり、「コウちゃん、どうしたの?」と台所を覗き込む。するとコウは慌てて透《とおる》に駆け寄り、台所が見えないように立ちふさがると、
「大丈夫です、誰もいませんから」
と、不審《ふしん》な一言を口走った。
一方、狐《きつね》はかなりイライラしているらしく、おもむろに二本足で立ち上がると、猫みたいに壁をバリバリバリバリと引っ掻《か》き始めた。が、昇《のぼる》に「やめんか!」と言われると、おとなしく引き下がり、部屋の隅に行ってうずくまった。何も言わないのが不気味。
そのうち父が帰宅した。台所から漂ってくるニオイを嗅《か》いで――
「わあ――、……くさい」
たしかに『いいにおい』とは言いがたい、一種異様なニオイが家中に充満していた。
二十時。狐がついにヒステリーを起こした。
同じところをグルグルグルグル廻《まわ》りながら牙《きば》を剥《む》き、
ギャンギャンギャン「だから最初から昇《のぼる》が作っておればよかったのだ!」ギャンギャンギャンギャン。
「もうちょっとで出来るよ」と、なぐさめるように透は言ったが、
料理が出来たのは二十一時だった。
長時間かけて彼女がこしらえた渾身《こんしん》のメニューは、大根の味噌《みそ》煮込み(というか、煮すぎて水分が飛んだ大根の味噌汁)と、炭(というか、数時間グリルに放り込んでいたため真っ黒に炭化した焼き魚)だった。作ろうと思って作れる献立《こんだて》ではない。これはもはや、一種の才能である。そして、初期に切っていたタマネギはどこに行ったのか。
もともと愛想のいい父と、万事受け入れる態勢バッチシな透は、目立った文句も言わず、(食べられそうな部分だけ)食べていた。しかし、狐は黙っていなかった。「食えるか! こんなもん!」と愚痴《ぐち》を言い続けていた。
「なあ、コウ」唯一まともな出来である白米を咀嚼《そしゃく》していた昇は顔を上げ、笑顔で、「これからは、無理しなくていいからな」
ソフトに『もう料理は作らなくてよい』と告げた。
コウは「ウ〜……」と、もの言いたげに少し呻《うめ》いたが、結局、「……はい」と素直に頷《うなず》いた。
今日の皿洗い当番は透だ。昇に比べるとやはり無駄の多い動きでガチャガチャ大きな音を立てながら、夕飯の後片付けをしている。彼の足元には底が抜けた鍋《なべ》をはじめ、半分溶解したボウルや炭化したシャモジ、そしてなぜか赤いチャンチャンコが落ちていた。サイズの小ささから言って、コウのものではない。だからと言って透のものでもない。触ってみるとまだ暖かかった。やはり、ついさっきまでコウ以外に誰かいたようだ。
昇は居間で寝っ転がり、クーの尻尾《しっぽ》を枕《まくら》してバラエティー番組を見ていた。
クーの尻尾は手頃《てごろ》な大きさといいプ〜カプカの豊かな手触りといい、もはや抱き枕のような心地よさを持っていた。頭の形に従って巧《うま》い具合に沈み込むところなどはNASA開発の安眠磁気枕《まくら》も顔負けだ。
最初、クーと一緒になってバラエティー番組をバカ笑いしながら観ていた昇《のぼる》ったが、枕の心地よさのせいで次第にうつらうつらしてきた。普段《ふだん》、居間で眠りこけるということはしない昇なのだが、今日はいろんなことがありすぎたのだ――思い出すだけでも恐ろしい。(精神的に)疲れて当然。ああもう目を開けてられない――と思った瞬間、そのステキ枕が昇の頭の下からするっと抜け落ちてしまった。自然、昇の頭はポテンという音を立てて畳に落ちる。
「いて」目が覚めた。「何だ〜いきなり動くなよ……」
不機嫌そうな昇は寝つ転がったまま首を捻《ひね》って枕の行方を追った。元枕はちょうど居間から出て行くところだった。廊下に父が立っている。どうやら風呂上がりの父が、クーを手招きで呼んだらしい。昇は彼らが、コウの部屋となっている客間に入るのを見たが、特に疑問にも感じなかった――それどころでなかったのだ。眠かったから。
コウにはあらかじめ入室すると断ってあったから、春樹《はるき》は客間にズンズン入り込むと奥に敷《し》いてあった座布団に座り、クーにもまた自分の隣《となり》に座るよう、促した。クーは素直に奥へ進み、敷いてあった座布団の上に座った。
彼らの目の前には仏壇《ぶつだん》があった。飾られているのはもちろん美夜子《みやこ》の写真である。
クーは狐《きつね》の顔でニヤリと笑った.「仏壇……ね」
春樹が肩をすくめる。「僕ん家《ち》が曹洞《そうとう》宗なもんでね」
「ハハ……桂女《はしらめ》がこれを見たら怒り狂うだろうな」
その様は容易に想像できたので、春樹としては「ハハ……」と苦笑するしかない。
「ま、宗教など気にする必要もあるまい。要は気持ちだ。――して、何用か」
『うん……これを、いつ言おうかと迷ってたんだけど」と一瞬《いっしゅん》口籠《くちご》もる。「君に会いたかった」
それは、天狐空幻《てんこくうげん》の存在を前もって知っていたという事である。意外な真実にも思われたが、クーはまるでその告白を予期していたかのように、静かに受け止めた。
「美夜子から聞いていたか」頷《うなず》いた春樹を横目に見て、ニヤリと笑う。「よく信じたな」
「もちろん、最初は信じる気になんてなれなかったけど……」何かを思い出したか、春樹は笑いをこらえるように口に手を当て、おかしそうに言った。「彼女と一緒にいると、怪奇な事象に耐性がついてね。突拍子のないことでも受け入れられるようになるんだ」
「だろうな」クーもまた、おかしそうにロ元を歪《ゆが》めた。
一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》の後、春樹は、壊《こわ》れ物を扱う時のような丁寧《ていねい》さを帯びたロ調で、ぽつりと言った。
「美夜子は君のこと、最期の最期まで気にしてたんだよ」
クーはニヤニヤ笑いを引っ込めて、一度、耳をパタリと動かした。「……ふーん」
「本当だよ……それだけ知っててほしくて」と、隣《となり》の狐《きつね》に、穏《おだや》やかに笑いかけた。
言われた狐は何やら落ち着かないようで、せわしなく耳をパタリパタリと動かして、「ふーん。そうかいそうかい」と、無関心を装うつもりか、そっけなく頷《うなず》いた。
春樹《はるき》はクク、と苦笑した。
「なんだ。何がおかしい」
「いや、別に。なんでもないよ」
狐はロをへの宇に曲げた。「ふん」そして、さりげなく話題を変えた。「なあ、美夜子《みやこ》はガッコーに行くのだと言って三槌《みづち》の家を出たんだ。つまり、お前と美夜子はガッコーで出会ったということになるのか?』
「うん?――うん」と、春樹はちょっと遠い目をした。
――入学式から数日間は、どのサークルとも新入部員の獲得《かくとく》にいそしむ。
春樹の所属する『さぁ歩こう会』も例外ではなかった。『さぁ歩こう会』とは、まんま、歩くためのサークルである。ハイキングとかが主ではあったが、年二回、夏と冬に温泉旅行に行くことができる。実は温泉好きの春樹は、これが狙《ねら》いで『歩こう会』に入部したのだった。
その年の勧誘活動では誰《だれ》が何をするかという話し合いが持たれたとき、若き日の春樹はジャンケンに負けてしまい、誰もがやりたがらない、暑苦しく汗臭《くさ》いウサギの着ぐるみ、その名も大岡越前《おおおかえちぜん》を着込んでチラシ配りをするというババを引いてしまった。
大岡越前《おおおかえちぜん》は普段、部皇のロッカーに小さくだたまれて押し込まれているが、年に一度、この時期にだけ出されて活躍する、『歩こう会』のマスコットであった。
大岡越前は、本当に重く、暑く、そして臭《くさ》かった。ダニがワいてそうだ――というか、確実にワいているだろう。やだなあもう早く終わらせたいなあ……と心の中で愚痴《ぐち》を言いながら、春樹《はるき》はその日、キャンス内で他《ほか》のメンバー数人と、道行く新入生にチラシを配っていた。
その内、人がまばらになってきた。もうそろそろ終われるかな と、春樹が息をついたときだった。
「きゃあ!」と、背後から短い悲鳴が聞こえた。驚《おどろ》いたとかビックリしたとかいう類《たぐい》の「きゃあ」ではなかった。どちらかというと、黄色い感じのミーハーな歓声に近かった。
大岡越前は振りむいた。数メートル離れたところに、女生徒が二人、立ち尽くしていた。双方、まだ高校生の雰囲気が抜け切らない、見てすぐに一年生だと分かる娘たちだった。そのうちの一人、長い髪のほうが、口を押さえて目をキラキラさせていた。「きやあ」と言ったのはこっちかな、という気がした。
大岡越前はその二人に歩み寄り、愛想良く「どうぞ〜」と言いながら、チラシを渡した。長髪の女の子はそれには目もくれず、大岡越前を見つめたまま、叫んだ。
「めちゃカワイイ〜!」
女の子にカワイイと言われて悪い気がしないはずはない。ちょっとご機嫌になりつつ、春樹は彼女らに背を向け、チラシを配り続けた。
次の瞬間、春樹は肋骨に衝撃《しょうげき》を感じ、続いて激痛を感じた。オレは心臓《しんぞう》発作か何かになったのではないのか、という考えが思わず脳裏に閃《ひらめ》くほど鋭い痛みであった。しかしどうにもおかしい、違う気がする。着ぐるみを装着していると視界が悪くなるから最初は分からなかったのだが、首をひねって見てみると、さっきの長髪の女の子が大岡越前に抱きつき、締め上げているのが目に入った。
「これ欲し〜い!」
ぎゅううう。
さらに締め上げられた。ちょっと尋常な力ではなかった。
「げぇ」カエルが潰《つぶ》れたような声が、春樹の肺からもれた。油断していたので、春樹の肺の中にあった空気は一気に搾《しぼ》り出された。もともと通気の良くない大岡越前の内部で、春樹は地面に打ち上げられた魚のような状態になった。パクパク。
呼吸ができないので、やめろとも言えない。頭の中が白くなっていく。春樹は死を覚悟した。周りの者も異常に気づき始めた。しかし何も手出しできないでいる。
その行動を見て蒼白《そうはく》になったのは、連れの女の子だった。「ちょ、ミヤ、ミヤ!やめなさいってば!ミヤ!」
「これ欲し〜い!」
ぎゅうううううう。
その連れの女の子が制止してくれたおかげで、若き日の春樹《はるき》は一命を取り留めた。
春樹は遠い目をしたまま、言った。「そこでついたアダナはアナコンダ美夜子《みやこ》」
狐《きつね》は耳をパタリと動かした。「あなこんだって何だ」
「密林に棲息《せいそく》する巨大な蛇」
「………(納得)」
それが春樹・美夜子夫妻の出会いであった。なかなか美しくない出会いである。……もちろん、春樹がこれで美夜子を好きになったというわけではない。春樹はノーマルな人間なので、殺されかけて好きになる、というようなことはない。好きになるどころか、春樹はその一件以来、美夜子をひどく恐れるようになった。
しかし、三槌《みづち》美夜子は結局、『歩こう会』に入部した。春樹は美夜子を恐れるあまり、サークルから足が遠のいた――−そんな二人が最終的には結婚したのだから、縁《えん》とは異なもの味なもの、である。
狐はカカカと笑った。「苦労したな、お前も」
「うーん……まあね」春樹は曖味《あいまい》に笑った。
ふと笑いを収めて、しかし口元を自嘲《じちょう》にも似た形に歪《ゆが》めながら、狐は言った。「三槌の司祭は女でなくてはならないと決まっているが――司祭になった女は短命なんだよ。代々な」
春樹は無言で隣の狐《きつね》を見た。睨《にら》んでいるような気迫さえあった。
その様子《よいす》を見て、クーは「知らなかったか?」と呟《つぶ》いた。「人の身で元素を祀《まつ》るということが、そもそも無謀《むぼう》なのだ。三十まで生きた司祭を俺《おれ》は見たことがないし、いたという話を聞いたこともない。お前、美夜子の母親に会ったこと、ないだろ。笙子《しょうこ》は美夜子が、今の透《とおる》くらいの歳で死んだのだ。そしてそのとき、美夜子は司祭当主になった」
春樹は、クーの言っていることが最初、理解できなかったが、
――生きる時間が決められていたということだろうか?
その言葉が脳髄《のうずい》に染み込むに連れ、春樹の胸に怒りがこみ上げてきた。
無言になった春樹をチラリと見、狐はなだめる様に言った。「なあ、春樹。三槌を憎んでくれるなよ。あれも哀れな一族なんだ」
春樹は目を見開いた。勢い、眼鏡《めがね》がずれる。びっくり眼《まなこ》のまま、隣に座るやたらにダカイ狐を見た。
その視線を受け止めつつ、狐は冷静だ。「何を驚《おどろ》いている」
いやいや、と言いながら、春樹《はるき》は縁無眼鏡《ふちなしめがね》の位置を直した。「……僕は、君はてっきり三槌《みづち》を恨んでいるものだと思っていたから」
「恨む?」大きな耳がパタッと一度、はためいた。狐《きつね》の面《おもて》には、意外なことを言われてしまった、という戸惑《とまど》いと、こいつは何を言い出すのか、という訝《いぶか》しさが入り混じった表情が浮かんでぃた。「俺《おれ》が、三槌を?」
その反応に、春樹のほうが困惑する。「だって……君は、何百年も封印されていたんだろう、裏山の狭い祠《ほこら》の中に。不当な扱い……とまでは言わなくても、閉じ込められてたことは事実じゃないか。怒りを感じたりはしないのかい?」
「……ふむ」と、納得したように頷《うなず》いた。一瞬《いっしゅん》、思案し、そしてさらりと言う。「確かに腹立たしくはあるな。だがそれ自体は瑣末《さまつ》なことだ」
「そ、」と一文字だけ言って、春樹は絶句してしまった。
項末なことだ、と――さして重要な問題ではない、と言いきった。
これが人間だったら、一年――いや、たとえ一日監禁《かんきん》されただけでも大騒《おおさわ》ぎだ。
やはり、目の前にいるこの狐は、物《もの》の怪《け》なのだ。普通とは違う時間軸の中で生きているものなのだ。人間とは違う――だからこそ、信用できるのかもしれない。自分の都合ばかりを考慮にいれて行動することしかできない人間とは違うから。限られた時間しか持たないために余裕のない人間とは違うから……
クーの鷹揚《おうよう》さに比べるとなんとも視野の狭い考え方しかできない自分をわずかに恥じながらも、春樹は、体の芯《しん》のほうに溜《た》まっていた不快な力が抜けていくのを感じた。
そんな春樹の心中を知ってか知らずか、クーは美夜子《みやこ》の写真を見上げると、
「――美夜子はな、三槌の家を出るとき、最後に俺に会いにきて、言ったんだ」口を歪《ゆが》めてニヤリと笑った。「「人間は、三十年で、どれほどのことができると思う?」とな」
春樹は、一拍置いて、複雑そうな顔で頷《うなず》き、先を促した。
「俺は『何もできやしない』と答えた……俺たちに比べて、人間はあまりに短命だから、そのときの俺は、本心からそう思っていた。だが美夜子は、『私は、なんでもできると思う』と言った」
あと十年ほどしか生きられない者が。
「なんでもできる、と」
「……そうか……」春樹は静かに頷《うなず》いた。そして微笑《わら》った。「そうだったのか……それを聞けただけでもよかった……ありがとう」
クーは、いきなり気恥ずかしくなったか、ぶっきらぼうに、
「ハイもうこの話これでお終《しま》い!」と叫ぶと立ち上がり、トッテトッテと入り口に寄って、
「俺はテレビを観るんだから」前足で器用に襖《ふすま》を開け、
「邪魔《じゃま》しないでくれ」チャカチャカと爪《つめ》を鳴らして居間に戻っていった。
その後ろ姿を見送った春樹《はるき》は美夜子《みやこ》の写真に明るい苦笑を向けた。
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第参章
小学校も高学年になると、サボるということを覚える。特に、最高学年である六年生になると、上に立って威圧する存在が少なくなるためか、その傾向は顕著《けんちょ》になる。
これまで数年間、夏休みになると何か義務のようにラジオ体操に出席していた少年少女も、最高学年になった途端、ラジオ体操なんかやってられっか朝っぱらから……と、突然姿を現さなくなるものだ。そんなわけでラジオ体操の集合場所に指定されている羽柴神社横の公園に顔を出す六年生は、透《とおる》とその友人の他、まだ小さい弟妹の付き添いで渋々やって来ているお兄ちやんお姉ちやん、皆勤の際の賞品を狙ったガメツいヒマ人、などが数人いる程度だった。
透とその友人がラジオ体操に参加しているのは、賞品のためではないし、先生に言われたからという義務感からでもなかった――ただ、長い夏休み、差し当たって他にすることも無いし、健康にも良いし、毎日友達と会えるからとりあえず出てみるべか、という惰性《だせい》的というか受動的というか、とにかくそんな素朴な理由からだった。
その日は、朝から曇《くも》っていた。
いつもなら陽炎《かげろう》が立ちそうなほど熱気を帯びるアスフアルトも、今日ばかりは湿っぽい。そのアスファルトの上を、本日のラジオ体操を終えた透とその友人――大柄な半田隆《はんだりゅう》、細身だが負けん気の強そうな顔をした久保田秋一《くぼたしゅういち》が歩いていた。
近年は、片親の家庭も珍しくなくなってきている。高上《たかがみ》家が父子家庭であるように、半田家は母子家庭であった。透と半田が親しくなったのはそれだけが理由では勿論《もちろん》ないが、その共通
点が友人としての親和力を強めたのは確かだった。
もう一人の友人・久保田は、両親は揃《そろ》っていたが共働きで、朝早くから夜遅くまで家に帰ってこない。透には兄が、半田には祖母と弟妹がいるので、その点で言えば、食卓が一番寂しいのは独りっ子の久保田だった。
家庭に大きな隙間《すきま》を抱えていても、しかし彼らは擦《す》れて反抗的になるわけでもなく悲観して内に籠《こ》もるでもなく、だからといって一緒にいることでお互いの孤独を舐《な》め合っているというのでもなかった――曲がり形《なり》にも彼らは軟弱なように見えてなかなか逞《たくま》しい現代っ子なのである。
子供ながらに計算高いところのある久保田は、独りっ子の特権を最大限に活かし、幼稚に見られない程度にねだっては、最新のゲーム機やオモチャをうまく買ってもらっていた。そして彼はそれらを出し惜しみせず、友人達と共有して遊ぶことを好んだ。双親が在宅している時間が少なく自由が利くこともあって、ほぽ毎回、久保田の家が透達の溜《た》まり場になっていた。
その日も、久保田がゲームソフトの予約をしたいというので、町道を挟んで公園の向かいにあるコンビニに向かっていた。最近出来た、こぎれいなコンビニである。中学校や、透達も通う鈴ノ瀬小の通学路の途中に建っているので、学期中は買い食いしている生徒をよく見かける。加えてこの町道沿いは、町工場や企業が集中しているので、正午になると昼食を求める人々がドッと押し寄せる。鈴ノ瀬町にはこれまで、駅前と国道沿いにしかコンビニが無かったから、この店舗《てんぽ》は周辺住民にかなり重宝されていた。
鈴ノ瀬町の中心を流れる川を、弥生川《やよいがわ》という。川幅はそれほど広くないが、水質は良い。河原もそこそこ広いので、夏場には格好の遊び場になる。弥生川と直角に交差しているこの町道が、鈴ノ瀬町のいわばメインストリートであった。
冷房がよく利いているコンビニ内に入った。半田は「ジャンプ立ち読みしてくる」と言って雑誌コーナーヘ向かった。透と久保田は、二人でぞろぞろとレジヘ直行する。レジ内には大学生くらいのニーチャンが一人で突っ立っていた――アルバイトだろう。夏休みなので平日の朝から出ているのだ。
レジに寄った久保田が「ゲームソフトの予約したいんですけど……」と言うと、ニーチャンは軽くうろたえたような表情を浮かべ、「ちょっと待っててね」と言って、店の奥に入っていった。数秒と経《た》たずに姿を現す。その後からもう一人、店員がついて出てきた。茶髪の無造作ヘアが今時な、若い男性であった。バイト君より少し年上、二十代半ばくらいに見える。眠そうな顔をしながら、バイト君に「ソフトの予約の仕方って、教えてなかったっけ」と間延びした声で訊く。戸惑《とまど》い気味に「はい」と答えるバイト君。
奥から出てきた茶髪の店員は、「じゃ〜今からやるから見ててね」と言いながら、カウンターの引き出しから紙の束を取り出した。「これが注文書……いつもここに入ってるから、覚えといてね。で〜……」と、久保田《くぼた》に向き直り、注文用紙とボールペンを差し出した。「はい、太線の中に名前と電話番号、書いて下さ〜い」
久保田は慣れた様子《ようす》で記入し始める。その間、手持ち無沙汰になる透は、なんとなく茶髪の店員の顔を眺めた――喋り方なんかはおっとりと丁寧で優しいのだが、明るい髪の色と切れ長の目は少しばかり険が強く、一見するだけだと近づきがたい印象があった。やはり店の奥で寝ていたのだろうか、眠そうな顔をしている。
久保田の筆跡を目で追っていたその店員、透の視線に気づいたか、不意に顔を上げた。透と目が合う。ニッコリと笑った。微笑《ほほえ》むとこの男、目が垂れ、頬《ほお》が丸くなって、ユーモラスとも思えるような非常に優しいヱビス顔になる。
「キレイだねえ、その腕の」
突然言われて一瞬《いっしゅん》何のことかとキョトンとしたが、すぐに左手に巻いている金の組紐《くみひも》のことを言われたんだと気付いた。クーに言われた通り、外へ出るときはなるべく身に着《つ》けるようにしている。「これ?」
「組紐か、いいね、風流で。どこで買ったの?」
ほめられて嬉《うれ》しくなる。「もらったんです」と、透は素直に答えた。
店員は「そっか」と頷《うなず》いた。「君ら、神社横の公園でやってるラジオ体操《たいそう》に出てるの?」
「そう」
「えらいなあI、オニーサンはラジオ体操なんか出たことないぞ」
記入し終えた久保田が顔を上げた。入れ替わりになるように、店員が必要事項を記入し始める。「予約するソフトは『ダーティー・ミーディエイター3』だよね?」
「はい、そうです」
「うちで予約すると、コンビニ予約限定のオリジナル懐中《かいちゅう》時計がもらえるんだよ。知ってた?」
久保田は知っていると言わんばかりに頷《うなず》いた。「それが欲しくて」
「前作は、やった?」
突然の質問に少年二人は一瞬《いっしゅん》キョトンとした反応を返したが、顔を見合わせ、頷《うなず》いた。そのソフトは透も久保田から借りてクリアしていた。「やったやった」
茶髪店員はヱビス顔で笑った。「僕もやったんだ。クリアに六十時間もかかったよ」
透もつられて笑った。「ボクは六十五時間かかった」
「やりこむとそれくらいはかかるよなあ」と、笑いながら久保田。
「前作はバトルシステムが良かったね」
「そうそう。ボクもハマった」
「単純なんだけど頭使わないと真の力が出ないっつーのがさあ」
「二周目三周目に耐えられるゲームってのが、僕は本当の名作だと思うなあ」
「ラスボスより強いというアシュクロ、倒した?」
「ボク、召喚獣《しょうかんじゅう》コンプリートした」
「太陽の神殿への入り方が分からなくてさぁ」
……で、しばらくゲーム談義《だんぎ》に華《はな》が咲いた。
久保田の後ろに他の客がついたところで、会話が止まった。
「あ、これ控えね。入荷は九月十一日になりますんで、取りに米て下さ〜い」と言って、茶髪店員が久保田に控えの紙を渡した。「はいどうも、ありがとうございました〜」
週間漫画誌を立ち読みしていた半田《はんだ》のところへ向かい、「終わったぞー」と声を掛けると、半田は誌面から目を離さないまま「ゴメン、あと五分!」と言った。別に急いでもいなかったので透は同じく週間漫画誌を、久保田はゲーム雑誌を立ち読みし始めた。
透はレジを振り返った。もうあの茶髪店員の姿は消えており、バイト君だけが客の応対をしていた。透は隣《となり》の久保田に、「さっきのオニーサン、ゲームよくやるのかな」と訊《き》いた。
「そうみたいだったな、なんか意外。 ――なあ、あの人って、この店のオーナーなんだぜ」
「えっウソ」
「本当。この前、店員があの人のことオーナーって呼んでたもん」
透は「はあ〜」と頷《うなず》いた。この店の持ち主なら、店の奥で寝ていても不思議《ふしぎ》ではないように思えた。しかし、彼が何歳なのか正確には分からないが、まだ街でふらついていてもおかしくないような歳《とし》で、一つ店を持っているなんて――
「若いのに大したもんだね〜」
久保田も重々しく頷いた。「なあ、大したもんだよ」
なかなか精神|年齢《ねんれい》の高い会話である。
三人はその後、当たり付きの駄菓子やら棒アイスやらを買って店を出た。
弥生川《やよいぎわ》から東側は鈴東《すずひがし》、西側は鈴西《すずにし》と呼ばれ、町内会や公民館なども川の東側・西側で分けられていた――鈴西は住宅が密集していて昼も夜も閑静なところだが、鈴東は各種公共機関や銀行・町工場が集中していて交通量も多く、なかなか賑《にぎ》やかだ、鈴ノ瀬小学校・中学校も鈴東にある。
ラジオ体操をはじめとして、町内会などが主催するイベント類の会場は主に、鈴東においては小学校の前庭、絵西では羽柴《はしば》神社横公園が使用されていた――ということで、透《とおる》達三人は鈴西っ子。
久保田《くぼた》家は、鈴西《すずにし》にあるマンションの四階にある。透《とおる》の家も半田《はんだ》の家も一戸建てなので、ニ人にとってワンフロアに無数の玄開扉が並ぶマンションは、何度遊びに来ても不思議《ふしぎ》な匂《にお》いの絶えない、謎《なぞ》めいた特殊な家屋だった。住んでいる久保田自身にしてみれば、マンションは寂しくて窮屈《きゅうくつ》なものにほかならないのだが、一戸建てには無いその圧迫感なり閉塞《へいそく》感なりが、透達には秘密基地のようにも隠れ家のようにも感じられていた。
透も一応、鍵《かぎ》っ子だったが、一戸建ての鍵とマンションの鍵とでは、それぞれが含んでいる重要度に明確な差があるような気がしていた。あのマンションの一室の鍵を持つことで、巨大な秘密の企《たくら》みの末端に組み込まれたかのような久保田を、時たま羨《うらや》ましくも思った。
その日も透と半田は、いつもの通り両親不在の久保田邸に上がり、しばらくゲームなどして遊んでいた。が、透は昼食時になって帰宅した。休みの間は、久保田の家でカップラーメンや冷凍食品などを御馳走《ごちそう》してもらうことも多いのだが、透は最近そうすることが少なくなった。
どうも、クーが来てから家に帰るのが楽しみになったらしい。
*****
「ただいまー」を連呼しながら居間に入ると、台所からクーの爪《つめ》が床に当たるチャカチャカという音が連続してせわしなく聞こえてきた。
チャカチャカ「なあなあ、何を作っているのだ」チャカチャカチャカ。
早々に部活から帰って来たらしい昇《のぼる》が制服のまま、台所に立って何かを茹《ゆ》でていた。昇も、これまでは部活帰りに友人たちとファストフード店やコンビニに行くことが多かったのだが、クーの来訪と共に、家で昼食をとることが増えている。
クーは昇の足元をぐるぐるぐるぐる回っていた。チャカチャカチャ「なあなあ、何を作っているのだ」チャカチャカチャカ。
ただでさえデカい体格に、輪《わ》を掛けてやたら長い尻尾《しっぽ》が足にからんでくるので動きにくいことこの上ないが、昇は無言を通し、火に掛けていた両手鍋《なべ》を持ち上げて、流しに置いたザルに
茹でていた中身を開けた。湯気がもうもうと立つ。
チャカチャカ「なぁなぁ、何を作っているのだ」チャカチャカチャカ。
昇はふと思い出したように冷蔵庫に向かった。その時、足にからむ長い尻尾に、転びはしなかったが、つまずいた。
「足元をウロウロするんじやない!」
ここでついに昇が音《ね》を上げた。クーは素直に昇から離れ、ちょんと座った。
「なあなあ、何を作っている?」
冷蔵庫から麺《めん》ツユの瓶を取り出しながら答える。「ソーメン」
「え〜〜〜〜っ?」狐《きつね》の顔があからさまに嫌そうに歪《ゆが》んだ。「またソーメ〜ン?昨日も食ったではないか」
「嫌なら食うな」
「食わんとは言っとらんわ」
透《とおる》が、食器棚からガラス小鉢を取り出しながら、尋ねる。「クーちゃん、そのままで食べる?人間になって食べる?」
一瞬《いっしゅん》の間を置いて、「人の姿で食った方がよかろうな」と返答が来た。振り返ると、もうそこには、腕組みした金髪の男が何やら難しい顔をして立っていた。「四本足のままではツユをつけて食えんだろう」
ツユはやはり重要らしい。
高上《たかがみ》邸には、ささやかながらも庭があり、そこに物干し竿《さお》が設置されていた。しかし庭に出る戸は客間にしか無い。その客間はコウの部屋になっている――やむを得ずなのは周知《しゅうち》であるが、女の子の部屋を男が逐一通り抜けていくのは、やはり気が引ける。ましてや、洗履物に女物が加わった。干すだけとはいえ、男としてはこれを手にして心中|穏《おだ》やかではいられるはずもない。ということで、自然、洗濯はコウの仕事になった。お年頃《としごろ》な兄弟は、自分の下着などを血縁《けつえん》者でもない女の子に干してもらうことに抵抗を感じずにはいられなかったが、こればかりは恥を呑《の》んで妥協するしかなかった。
彼女の不器用さは、洗濯干しにも遺憾なく発揮された。籠《かご》の中の洗濯物を手にとって↓広げて↓吊るす……という流れを、円滑にこなせない。ひとつの動作をするたびにピタッと止まって、彼女なりのこだわりでもあるのか、何かしらいちいち考え込むのであった。
透は客間を覗き、庭に出ていた巫女《みこ》姿の背中に声を掛けた。「コウちゃん、ごはん」
父のシャツを手にして、何やら考えていたコウが振り返った。
コウはいつもの鉄仮面だったが、そこにどこか不思議《ふしぎ》そうな色を浮かべて、透を見つめた。
「……はい」
彼女は未《いま》だに主《あるじ》たちと一緒に食事するという事に慣れていない。
クーはいつも、食べているときは静かであったが、今日は違った。ソーメンをツユにつけながら、尋ねてきた。「この辺りで一番デカい神社はどこだ?」ズッズルズル。
兄弟は顔を見合わせた。弟が「羽柴《はしば》神社……かなぁ」と答え、兄は「だな」と頷《うなず》いた。
「何でそんなこと訊くの?」ズルズル。
ズッ。「挨拶《あいさつ》に行きたい」
ズズズ。「挨拶?誰《だれ》に?」
ゴク。「この土地の神だ」
兄弟は首をかしげた。「誰それ?」
「土地にはそれぞれ、その地域を治めている神がおるのだ」ズッズルズル。「その土地の霊力《ちから》を最も上手《うま》く扱えるのはその土地の神であり、その土地の祝福を最も享受できるのも、また」
モグモグモグ。「その神だ。つまり、よその土地で生まれた者が、別の土地に移ってそこで上手く霊力を使いたいと望むなら、その土地の神に一度は挨拶《あいさつ》に行って」ズルズルズル。「彼《か》の詞《ことば》を受けなくてはならんのだ」モグモグ。
よく分からないが、とにかく神社にお参りしたいということだろう。「じゃあやっぱり羽柴《はしば》神社だね」ごちそうさました透《とおる》が言った。
同じく箸《はし》を置いたクーは、さらに訊《き》いてきた。「その神社は、何を祀《まつ》っている?」
さあ……と首をかしげる兄弟を見て、クーは顔をしかめた。「何で知らんのだお前ら」
「うーん。でも、きっと誰《だれ》も知らないよ、そんなもん」と、透。
そんなもん呼ばわり……
戸棚の横にかけてあった、元・透の、現・クーのキャップ(耳隠し用)を手に取りながら、男クーは「嘆かわしいな」とさらに顔をしかめて溜《た》め息をついた。「その土地の人間によって建てられ、その土地に深く根付いる神社に、土地の神というのは住まうものだ。ま、とりあえずその羽柴とやらに行ってみるか――案内《あない》せよ」と、意気揚々と廊下に出る。
「え、もう行くの?」と、透は腰を浮かせた。
「行く」
「そんなに急がなくてもいいんじやないか?」流しに皿を運びながら、昇《のぼる》。
クーは壁《かべ》時計をちらりと見て、少し口を尖らせた。「三時までに済ませたい」
「何で」
「観たいテレビがある」
「………」
「ビデオに撮《と》れば?」と、透。良いことを思いついたと顔を輝《かがや》かす弟に、昇は肩をすくめてみせた。「壊《こわ》れてるだろ、デッキ」
「あ、そうか」
壊したのはクーである。数年前にホラーブームを巻き起こしたあの超有名な恐怖映画をテレビで観た後、「俺《おれ》も呪《のろ》いのビデオを作る!」とか言って、テープの入ったビデオデッキに向かってウンウン唸《うな》り始めた。そうしたら一分も経たずにデッキ内の何かがバキンと音を立てて弾けた。それ以来、デッキはウンともスンとも言わない。
「そういうわけなんで、行くぞ」
ドタドタと玄関に向かう男クーを、透が慌てて追う。
「……俺も行こ。何か心配だから」皿洗いをするべく流しに立っていた昇は、手にしていたスポンジを置いて、居間を出た。
すると、背後から声を掛けられた。「いってらっしやいませ」
昇《のぼる》は驚《おどろ》いて居間《いま》を顧みた。「え――コウは行かないのか?」
「はい」
「珍しいな」と、意外そうな顔をした昇に、コウは答えた。「洗濯《せんたく》物が、まだ残っていますので」
あぁなんだ、そうだったのかと昇は苦笑した。コウは仕事を途中で放り出すような性格ではないことは承知していた。手をパタパタ振りながら、昇は笑った。「後でもいいよ」
途端《とたん》、コウの瞳《ひとみ》に、真剣勝負を目前に控えた剣士のような、鋭《するど》い光が宿った。「いいえ――下された命《めい》は果たしてみせます。この命《いのち》に代えても」
昇はしばし絶旬した。
「……そか」
やっとそれだけ言って、のこのこと透《とおる》とクーを追った。
*****
透がさっきまでいた久保田《くぼた》のマンションは、高上《たかがみ》邸からさほど離れていない。歩いて数分といったところだ。友人の家を遠目に見ながら緩《ゆる》い坂を上がると、町道に出る。その町遠に沿ってしばらく歩いていけば羽柴《はしば》神社に着く。ちなみに、神社の傍《そば》を流れる川を渡り、さらに数分歩くと、透の小学校がある。
正午過ぎ――本来は一日の中で最も暑い時間帯なのだが、羽毛布団のように分厚《ぶあつ》い灰色の雲が出ているため、いつもの皮膚《ひふ》が焦げそうな直射日光は遮《さえぎ》られていた。
昇は空を見上げながら言った。「降りださなきゃいいけどなぁ。コウがせっかく長時間掛けて干したのに、取り込まなきゃならなくなる」
男クーはカカカと豪快に笑った。ひとつに結んだ長い金髪が揺れる。「あの護《まも》り女《め》、術を使うときは素早いくせに、他《ほか》の一切となるとトンとトロくなるからなあ」
「………」事実なのでフォローできません。
交通量も人通りも少ない中をしばらく歩くと、やがて羽柴神社が見えてきた。
鈴ノ瀬《すずのせ》町は全体的に坂が多いが、羽柴神社の建っているところは特に、周りから頭一つ分高かった。加えて、頂上の境内《けいだい》へと続く階段の両側が濃《こ》い緑で覆《おお》われていたため、遠くから町を一望すると、緩い斜面に住宅が立ち並ぶ中、ひとつだけぽこりと緑色のコブが飛び出しているように見える。
透がいつもラジオ体操《たいそう》をしている丘の麓《ふもと》の公園を過ぎると、さっきのあのコンビニが見えてくる。店の前を掃き掃除する人影があった――眠たそうな茶髪店員、改めオーナーさんである。昼食を買い求める人も一段落して、店の清掃でも始めたのだろう。 彼がこちらに気づいた。透と目が合うと、ニコリと笑った。「やぁ、こんにちは」
透《とおる》も「こんにちは」と返す。
次に昇《のぼる》を見る。「お兄さんかな?弟くんにはいつも利用してもらって」
見知らぬ店員からいきなり挨拶《あいさつ》されて、昇はためらいながらも、「はあ、どうも」と、一応頭を下げた。
最後にオーナーは、クーに笑顔を向けた。「狐《きつね》が人間とつるんで行動しているなんて、珍しいね」
この言葉にギョッとした昇は、慌ててクーを振り返った。そのクーも、警戒《けいかい》心の露《あら》わな顔をして、口から青白い燐《りん》をもらし始めている。「――何者だ」
狐火を見ても動じないオーナー、へらへら笑いながら、「勝手に他人の土地に入ってきといて何者だ、とはね〜。自分から名乗りなよ」
わあ何て口の利き方を。昇は肝を冷やした。
しかしクーは、「お?」と、驚《おどろ》いたような感心したような声を上げ、目を丸くした。昂《たか》ぶった感情の副産物である狐火も、霧散《むさん》して消える。そして、ニヤリと笑って返した。「……天狐空幻《てんこくうげん》である」
「へぇ」今度はオーナーが目を丸くする番だった。「空幻……三槌《みづち》の空幻狐か。大|霊狐《れいこ》じゃないか。お目にかかれて光栄だな……でも、空幻狐は三槌の司祭に封印されたと聞いていたけど」
「解《と》かれたのだ。今はこの高上《たかがみ》兄弟の守り神をしている」と、透と昇の後頭部をペンと軽く叩《たた》いた。
クーが完全に警戒《けいかい》を解いている様子《ようす》なの上るもとりあえずホッと息をつく。
「はあ〜」とオーナーは感心したように何度も頷《うなず》き、そして透を見た。「君は何か妙なものをかけていると思ったけど……天狐《てんこ》とはね〜。大したもんだ」
腕組みしてふんぞり返ると、クーは偉そうに言った。「当分の間、この土地にいることにした。よろしく案配《あんばい》してくれ」どうにもお願いしているという態度ではない。
……のだが、オーナーは特に気にした様子も見せず、かえって腰の低い様子で「こりゃどうもどうも」と頭を下げた。「僕はこの辺り一帯を司《つかさど》ってます恵比寿神《えびすしん》です。このコンビニのオーナーもしてます。よろピく〜」
昇の目は、彼の制服の胸に下がる名札に向いた。そこにはこう書かれていた。
――『オーナー・恵比寿』
まんまだ……。
隠そうという気は無いらしい。
恵比寿と聞いて思い出すのは、七福神《しちふくじん》の中の一人の、あの鯛と釣竿持って嬉しそうにしている頭巾のおじさん……くらいのものだ。目の前の無造作ヘアの若者がソレとは、少々納得しがたい。箒《ほうき》とチリトリ持ってるし。
恵比寿はその箒をヘロヘロ振りながら、「時間はある?境内《けいだい》の方に寄っていってよ〜」
元々そのつもりだったらしい男クーはウム、と頷《うなず》いた。従業員に断って店を離れた恵比寿は、 一行の先に立って羽柴《はしば》神社に足を向けた。
丘の頂《いただき》にある羽柴神社の境内に行くには、クヌギの樹《き》に左右を囲まれた長い石段を昇っていかなくてはならない。これが結構いい運動なのだ。内心、面倒《めんどう》だなあと思っている昇は、横着な本心を隠しつつ、世間話のつもりで疑問を口にした。「なんで土地の神様がコンビニ経営なんかしてるんです?」
すると恵比寿は「いや〜」と、照れたように頭を掻《か》いた。「うちの神社も不況のアオリ食らっちゃってさ〜。賽銭《さいせん》だけじゃ生活ままならんのよ」
「……そういうもんですか……?」
「もちろん。世の中カネ、っつーのはどこの世界も一緒だよ」
神様がこんな事言ってたんじゃ日本の未来も暗い気がするが。
神様は笑顔で振り返り、得意げに言った。「僕って商売|繁盛《はんじょう》の神様なんだ。流動的サービス業を守護してんの。だからコンビニ始めたんだ。ほら、コンビニって第三次産業の最たるものじゃん。それに、店内に商売繁盛の神様がいるんだから、その御利益でけっこう儲かるんじゃないかと思って」
「え……御利益って、本人にももたらされるもんなんですか?」
「ハッハッハ、もちろんもたらされるよ〜」
うさんくさ……
「恵比寿《えびす》様って、トラック野郎の神様でもあるんでしょ」と。透《とおる》
「お。透くん、変な事知ってるねえ」
久保田《くぼた》が言ってた。久保田は雑学博士なのである。
「水商売の神様もしているよ。あとは貿易とか漁業、農業………一時期、泥棒《どろぼう》の神様もしてたんだけど、僕にあんまり利益が無いんで、辞めちやった」
「そんな適当なもんなんですか?」
「そうだよそんなもんだよ。だってここ日本国だもん。八百万《やおろず》の国なんだよ。誰《だれ》が何を司《つかさど》るかなんて、もうテキトーテキトー。皆、けっこう好き勝手やってるよ」
ワンダーランド・ニッポン。
階段を昇りきると、くすんだ朱色の鳥居がある。きれいに掃《は》かれた石畳の脇《わき》には小さな手洗い場があり、さらにその向こうには、階段を昇ってきた者を威嚇《いかく》するような厳《いかめ》しい顔をした、石造りの立派な狛犬《こまいぬ》一対が鎮座《ちんざ》している。一番奥に、背後を木々に囲まれた本殿と、それに隣接《りんせつ》して社務所があった。こぢんまりとしているが、黒光りした柱やうっすらと苔《こけ》のむした屋根瓦に年輪《ねんりん》を感じる、重厚な神社だ。
前を通ったりはするが、階段を昇るのが面倒《めんどう》なこともあって、透も昇《のぼる》も境内《けいだい》にまで来たのは久しぶりだった。夏だからだろうか、以前見たときより周りの広葉樹がより鬱蒼《うっそう》として濃《こ》いような気がした。風が吹いて葉群《はむら》が一斉にざわめくと、緑の大波が覆《おお》いかぶさってくるような錯覚《さっかく》を覚える。夏の熱気に蒸されて絞り出された緑の匂《にお》いが辺り一面を支配していた。
一行は奥の本殿に向かって石畳の上を進んだ。
すると、先頭を切って歩いていた恵比寿、いきなり振り返り、いつものヱビス顔で「ここで僕の自慢の手下を紹介しまーす」と言うと、来た直を戻り、狛犬の辺りで手をパンパンと打つた。「光矛《こうが》、影矛《えいが》!」と、何者かに向かって呼びかける。
その声に反応したものがあった―― 狛犬であった。その石の表面が生きているかのように波打ち、巻き毛の豪奢な尻尾やたてがみがざわめき始めた。そしてその石の獣《けもの》は唐突《とうとつ》に、すくっと台座の上で立ち上がった。遠と昇は息を呑《の》んで固まった。美男に化けた狐《きつね》だけが余裕の顔でそれを見守る。
石像であった狛犬二頭は、もはや生き物であるとしか思えないしなやかな身のこなしで、透《とおる》の背の高さ程もある台座からヒラリと音も無く飛び降りた。そして、何者であるかを見極めようとするかのように、よそ者三人の周囲をゆっくり歩み始めた。
足元のすぐ側《そば》を歩き回る狛犬の、獲物《えもの》をねめつけるような顔が怖くて、透はそろそろと男クーに近づいて、彼のシャツの端を掴《つか》んだ。
へっぴり腰の透を見降ろし、男クーはカカカと豪快に笑った。「狛犬は門番に過ぎん。主《えびす》が命令しない限り、危害を加えはせんさ」
だよね。
さすがにクーにすがりはしなかったものの、恐怖で体をガチガチに硬直させていた昇《のぼる》は、その言葉でやっと緊張《きんちょう》を解いた。透《とおる》も、強《こわ》ばっているが安心したような笑顔を見せた。
「あ。ゴメンゴメン、驚《おどろ》かせちやったね」と言って恵比寿《えびす》がハハハと笑った。
緊張の解けた昇と透も、照れ半分|安堵《あんど》半分でハハハと笑う。
「おい、光牙《こうが》に影牙《えいが》よ。彼らは――」と、体を狛犬《こまいぬ》達に向け、来訪者三人を示し―― 険《けわ》しい顔をした。
「この地を滅ぼさんとする不届き者だ。即刻、排除せよ」
四つの石の瞳《ひとみ》が、ボウと音を立てて赤く光った。
「御意《ぎょい》に」
硬いものをこすり合わせたようなゴロゴロした低い声が、二頭の狛犬のロから発せられた。恵比寿の言った意味が一瞬《いっしゅん》理解出来ず、ポカンとする高上《たかがみ》兄弟。
クーが眉《まゆ》をひそめた。「――何とな、恵比寿」
恵比寿神はニャハハハと笑う。「ほらほら、僕に構ってると……」
次の瞬間、狛犬二頭が石畳を蹴《け》り、左右から飛びかかってきた。
「うぎゃあっ!」
昇はとっさに頭を腕で覆《おお》った。透は未《いま》だポカンとして動かない。
クーが手を伸ばし、兄弟の腕なり肩なりを掴《つか》んだ。
狛犬の鋭《するど》い石の爪が切り裂いたのは――何も無い空間だった。確実に人間共の喉笛《のどぶえ》を捕らえていたはずの狛《いぬ》遠の爪は、しかし空振りし、石畳に叩《たた》きつけられただけでその動きを止めた。そしてそこにいたはずの三人の姿は――影《かげ》も形もなく消えていた。ニ頭の狛犬は首を巡らせ煙のように消え失《う》せた人間を捜した。
「どういうつもりか知らんが」
声は恵比寿の右隣《みぎどなり》から聞こえた。恵比寿はそちらに顔を向け、「あらら……」と、目を丸くした。恵比寿から数歩離れた手洗い場の屋根の下に、腰を抜かしている高上兄弟を腕にぶら下げたクーが立っていた。狛犬たちの包囲網から、この場所に瞬間的に移動したようだ。
人間の姿を模《も》した霊狐《れいこ》は、好戦的な笑みを見せた。
「売られたケンカを買わんわけにはいかんな」
クーが手を放すと、高上兄弟は石畳にベチャと尻餅《しりもち》をついた。
「お前らは、ここにおれ」と、こちらに気づいて牙《きば》を剥《む》いている狛犬にドカドカ大股《おおまた》で向かっていく。
「ク、ク、ク、ク、クーー」我に返った昇は立ち上がり、慌ててクーを呼び止めた。「ダメだって!やばいって!危ないって!」
天狐《てんこ》は振り返り、その人間の面《おもて》に自信に溢《あふ》れた笑みを浮かべた。「ハ、天狐が門番ごときに 負けるか。いいからそこで黙《だま》って見てろ」
透《とおる》が立ち上がった。そぱに寄ってきた恵比寿《えびす》を鋭《するど》く睨《にら》みつける。「どうしてこんなことするんだよ!神様のくせに!」と、果敢《かかん》にも抗議《こうぎ》の声を上げる。内に溜《た》めた感情がよほど沸き立っているのか、子供ながらにたいへんな気迫があった。
おっとりしていて滅多《めった》に怒りの感情を示さない透の、責め立てるようなその強い口調に、兄は少々の驚《おどろ》きを感じた。
「挨拶《あいさつ》に来ただけなのに!」
へらへらと笑い、ジーンズの尻《しり》のポケットから煙草《タバコ》《たばこ》を出しながら、「まあ、いろいろ大人の事情ってぇのがあるんだわ」と、子供の言い分をかわす恵比寿。
近寄って来たので思わず身構えたが、兄弟に危害を加える様子《ようす》は無い。
「まあ、ここで一緒に高みの見物と行こうよ。天狐《てんこ》どのの戦い振りなんて滅多に見られるもんじゃないし〜」
どういうつもりなんだろう――昇《のぼる》は弟をなだめながら、訝《いぶか》しげな視線を、この土地の神に向けた。
威嚇《いかく》の唸《うな》り声を上げる狛犬《こまいぬ》二頭の前に立ち塞がった男クーの姿形が、一瞬《いっしゅん》、グニャリと歪《ゆが》んだ。それと同時に、体が全体的に一回り小さく華奢《きゃしゃ》になった。露出している肌の色が見る間に淡くなり、健康そうな褐色《かっしょく》から透けるような白に変わる。眉《まゆ》が細くなり、目がバッチリと丸く大きくなる。顔の輪郭《りんかく》も全体的な体のラインも角が取れて丸みを帯びる。肩幅が狭まるのと入れ替わりになるように、胸と腰が柔らかに膨《ふく》らんだ――変化を終え、真っすぐ狛犬達を見据えた女クーは、野球帽をかぶりなおすと艶《つや》っぽく徴笑《ほほえ》み、肩に掛かった髪をかきあげた。ブラジャーなんて気の利いたものを着けているはずもないから、胸を反らすと見た目にちょっと危うい感じだ。
「恐い頻をなさらないで」先日カツノミヤ書店でも使用した、あの蟲惑《こわく》的な声音を出し、微妙にしなを作りながら、狛犬になやましい流し目を送る。「私、何かお気に障るごとをしましたか?」
狛犬は血の通わない冷ややかな石の面《おもて》で、しかし微《かす》かながら嘲笑《あざわら》ったようだった。「バカバカしい。狐《きつね》の色香など効かん」
チッと舌打ちして、女クーは不服そうな顔をしたものの、すぐに立ち直り、その人外の美貌《びぼう》に悪どい笑みを乗せた。「穏便《おんびん》に事を済ませてやろうという俺の親切心を反故《ほご》にしおって。そんなに怪我《けが》したいなら望み通りにしてくれる」
すらりとしなやかな右手を目の高さに上げ――グッと握り締《し》めた。
その瞬間、周囲に熱気が満ち、クーの拳《こぶし》を中心にして渦巻くような炎が生じた。熱で生じた気流に、美女の金髪が大きくうねって揺れた。
石畳を蹴《け》って、狛犬が二頭同時に女クーに迫った。
喉笛《のどぶえ》を狙《ねら》って高く跳んできた狛犬の牙《きば》は身を低くしてかわす。足の筋を狙って迫った狛犬には、「くそ、うっとうしいな!」と、豪快に蹴《け》りをかました。意外に強烈なローキックだったようで、見るからに重そうな狛犬《こまいぬ》は、しかし、石畳をかなりの距離、滑った――が、あまりダメージは受けていないようで、俊敏に起き上がり、また元気にクーに向かっていった。l
クーの頭上をかすめた方は、勢い余って自分たちがさっきまで座っていた石の台座に飛び乗ってしまったが、そこから器用に百八十度方向転換し、元・石とは思えない迅《はや》さで再びクーの喉笛《のどぶえ》を狙っていった。
クーは横目でそれを捉《とら》え、炎の巻きついた右腕を狛犬に向けて伸ばした。するとその炎、それ自体に意志があるようにしなり、鞭《むち》のような動きで狛犬の体をからめとった。それを最後まで見届けず、クーは素早く振り返ると、また炎の右腕を薙《な》いだ。生き物のような炎の帯は、背後から追っていた狛犬にも喰《く》らいついた。狛犬双方の足が止まる。
金の瞳《ひとみ》に炎の色を映しながら、クーは顎《あご》を上げ、「ハッー」と鋭《するど》く嘲笑《あざわら》った。
一瞬《いっしゅん》のうちに、狛犬のたてがみや尾が炎に包まれる――が、狛犬がブルル、と体を震わすと、、炎は埃《ほこり》のように散って消えた。
「あれ……?」と、女クーは笑いを引っ込め、不思議《ふしぎ》そうに首をかしげた。「四足《しそく》の毛虫《けちゅう》なら火気《かき》に弱いはずなんだがなぁ」
「火気に弱いのは貴様も同じだろう、狐《きつね》」と、一方の狛犬は四肢で踏ん張ると、太い尾をゆらりと大きく振った。するとその尾の周りに、野球ボールくらいの火球がポッポッポツと十数個、出現した。そしてほぽ同時に、狛犬の足元から湧《わ》くような、鋭い旋風が立ちのばった。風は火球を乗せ、クーに肉薄《にくはく》する。
「ゲッ、くそっ」クーは火を巻いていない左腕を前に突き出した。その繊手《せんしゅ》を軸に風が渦巻いた。埃が舞《ま》い上がり、足元の玉石がガラガラとにぎやかな音を立てて激しく乱れる。
その旋風と、狛犬の火風が衝突《しょうとつ》し、相殺《そうさい》された。風の勢いは消されたが、風に乗っていた炎|全《すべ》てを吹き消すことは出来なかった。寄《よ》る辺《べ》を無くした火球は、隕石《いんせき》のように勢いよく周囲に散った。そのかけらの一つはクーの腕にもぶっかかった。「ギゃン!」という獣《けもの》っぽい悲鳴を上げ、青白い火をロからこぽしながら、クーは腕を押さえて跳《と》び退《すさ》った。
これまで聞いたことのないクーの悲鳴を聞いて、高上《たかがみ》兄弟はビクリと体を震わせた。喉に冷水を流し込まれた様な気がした。肝を握り彫されたような気がした。
恵比寿《えびす》は余裕で煙草《タバコ》をふかしている。
散った火球は、石畳や砂利の上のみならず、近くの木々や本殿の屋根、賽銭《さいせん》箱の上などにも降りかかった。当然、そこから燃え拡《ひろ》がる。狛犬の片割れが、小さな炎にちろちろ舐《な》められている賽銭箱に急いで寄った。その尾の周りに水気《すいき》が集中する――賢明《けんめい》にも消火しようという腹だ。
それを見て、恵比寿はハツと息を呑《の》んだ。幾分《いくぶん》慌てて、消火に向かったほうの狛犬に大声を掛ける。「影牙《えいが》、いい!火は消さなくていい!天狐どのの相手をしろ!」
影牙《えいが》と呼ばれた狛犬《こまいぬ》は、迷うように一瞬《いっしゅん》、動きを止めたが、主《あるじ》の命令優先とばかりに水気《すいき》を引っ込め、相棒の加勢に向かった。それを見てホッと安堵の息をつく恵比寿《えびす》しかし、消されることのなかった火種は、桶《おけ》の水が返されたような勢いで拡がっていく。
透《とおる》は不安そうな声を上げた。「火事になっちゃうよ」
季節柄、樹木《じゅもく》も瑞々《みずみず》しいとはいえ、一度火がつけば広|範囲《はんい》に拡がるだろうということは容易に予想出来た。目の前に突きつけられた恐ろしい未来を想像し、青ざめていた昇《のぼる》は一層青ざめた。
光牙《こうが》に気をとられていたクーは、足音を忍ばせて近づいた影牙に、背中から体当たりされた。勢いで耳隠しの帽子が落ちる。
透が、まるで自分が攻撃《こうげき》されたかのように「うわ!」と悲鳴じみた声を上げた。昇は絶叫の形にロを大きく開けたが、あまりのことに声は出なかった。そして、透は――
前につんのめって、クーは短く咳《せ》き込んだ。「げほ、貴様!」と怒り心頭の声と共に上げた顔には、美貌《びぼう》の影は無かった。尖《とが》った鼻に深い皺《しわ》を刻み、犬歯を剥《む》き出して獣《けもの》の貌《かお》で睨《にら》みつける。露《あら》わになった耳は後ろに反り返り、攻撃態勢だ。牙《きば》の間から、青い火がとめどなく溢《あふ》れる。
光矛が、その隙《すき》をついて襲《おそ》いかかってきた――が、その横っ面《つら》を炎に巻かれた拳《こぶし》で殴りつける。ゴィンという鈍い音は、光矛のダメージ音かクーの拳のダメージ音か、ちょっと判別出来ない。
光牙を殴り飛ばしながら、影牙の殺気を背後から感じていたクーは振り返り――「あっ?」と目を丸くした。
クーの背中を護《まも》るように、透が影牙と向き合って立っていた。その膝《ひざ》は細かく震えていたが、果敢《かかん》にも「シッシッ」と影牙を牽制(?)している。
驚《おどろ》いたクーは声も出ない。
影牙がグワッと牙を剥いた。
「うぎゃっ!」と透は一歩|後退《あとず》さった。
メチャ怖い――この石の犬歯、普通の犬猫が持っているようなエナメル質の犬歯とは、凶暴さの格が違う。エナメル質の犬歯も剥かれたら怖いが、たとえ叱まれても、何とかなるかなって気がする。しかしこの石の犬歯は違う。まるで刃物だ。これで咬まれたら、それすなわち致命傷。即、死につながるような気がする。
しかしここで引くわけにはいかない。ちょっと涙目になりながらも、透は「シッシッ」とノラ猫を追い払うように手を振り続けた。
予想外の行動をとった透に面喰《めんく》らいつつ、クーは「おい!退《さ》がっていろ!」と、透の肩を掴《つか》み、その場からどかそうとした。が、さっき殴り飛ばした光牙が立ち上がって、再度襲いかかってきたので慌てて体をひねり、その鼻っ直に炎の帯をぶつけた。
で。
昇《のぼる》がというと、生きた心地もせず、弟をハラハラと見ながら――地元の神様のを襟首《えりくび》を掴《つか》んで締《し》め上げていた。「どうして攻撃《こうげき》なんかさせるんだよ!挨拶《あいさつ》に来ただけだろ!気に入らないならすぐに帰るからl――」強く締め上げすぎて、神様は白目を剥《む》きかけている。「やめさせてくだギャ――!」牽制《けんせい》を破り、ついに影矛《えいが》が透《とおる》に飛びかかるのを見て、昇は一声上げると神様を突き飛ばし、そちらに駆け寄った。
ゲハゲハゲハッと深く咳《せ》き込む恵比寿《えびす》様。
クーが透《とおる》の頭越しに右腕を突き出した。鞭《むち》のように飛んできた炎の帯に阻まれ、飛びかかる勢いを殺された影矛は中途半端なところで着地し、じりじりと数歩下がった。
女の姿であっても、透よりクーの方が背が高い。女クーは透の首根っこを掴むと、切迫した表情で駆け寄ってきた昇に託した。フーと息をつきつつ、「離れていろ。危ないから」
昇は、何とも複雑そうな顔をする弟の肩を掴んで、手洗い場の前まで戻った。そのとき、兄弟の背後で、たしっという軽い音が響《ひび》いた。
「影《かげ》、踏〜んだ♪」
戯《ぎ》れたように言ったのは、呼吸困難から立ち直った恵比寿である。兄弟は何事かと、体ごと振り返ろうとした――が、体が言うことを聞かなかった。コンクリートでも流し込まれたかのように、手足が重く、全くと言っていいほど動かせない。
「うわぁ動けない!」という透の声は、驚《おどろ》き7に感心3といったところだ。
唯一自由が利く首を巡らし、背後に立つ恵比寿を見た。恵比寿はいたずら小僧のような笑顔を浮かべている。「むふふ、忍法・影縫《ぬ》いの術。どうだ、動けないだろう。ハッハッハ……な〜んつって」
「……影縫い?」
昇は首だけ動かして、恵比寿の足元を見てみた。折からの厚い雲で日光は遮られ、影というほどの影も出ていない−lが、日光が出ていれば恐らくそこに兄弟の影が伸びているだろう場所に、恵比寿の足が乗せられていた。
恵比寿はニコニコヌケヌケと言う。「僕は君らに怪我《けが》してほしいわけじゃないからね。ここで静かに観戦してましょう」
唐突《とうとつ》に、怒りが湧《わ》いた。「くそ、何なんだよ!」首だけ恵比寿に向け、昇が吠《ほ》えた。
「言葉遣いがなっとらんなあ」新しい煙草《タバコ》に火をつけながら、恵比寿がアハハハと笑った。
「何なんだよアンタ、何が目的でこんな事するんだよ!」
茶髪の青年は「天狐《てんこ》どのは、いい時に訪れてくれたよ、ホント」と言って、笑った。今まで見せていたヱピス顔とは全く異なる、老檜な笑みだった。「天狐《てんこ》どのには悪いが、もう少し働いてもらう。君たちも、もう少し辛抱《しんぼう》してくれ」と、紫煙を細く吐き出す。
人外のものとしての側面を垣間見せた土地神《とちがみ》の様子になんとも言えない底冷えを感じながら、昇は眉《まゆ》をひそめた。「何……?何企《たくら》んでるんだよ、あんた……」いつものヱビス顔で笑って返した。「ヒ・ミ・チュ〜♪」アホか。昇は顔をしかめた。
――その時、鳥居の方から、静かな、しかし底にカ強いものを秘めた声が響《ひび》いてきた。
「足をどけなさい」
高上《たかがみ》兄弟と恵比寿《えびす》は声の方に顔を向けた。
そこに佇《たたず》む人影《ひとかげ》を見留《みと》めて、透《とおる》はどっと安堵《あんど》の息をついた.「コウちゃん!」
「地元の神様に命令するとはいい度胸だなあ」口では剣呑《けんのん》なことを言うが、恵比寿の目は笑っているので、気分を害したわけではなさそうだ。
しかし、冗談《じょうだん》の通じないこの少女は、綺麗《きれい》な顔をいからせて、彼らにつかつか歩み寄ってきた。「もう一度言いますよ。足をどけなさい。誰《だれ》であろうと、お二人にいかな術をもかけることは許しません」
恵比寿は肩をすくめた。「僕はむしろ彼らの安全のために術をかけてるんだけどね」と言い訳じみたことを漏らしつつ、後ろに一歩下がって、兄弟の影から足を離した。
金縛《かなしば》りから一気に解放されて、高上兄弟は前につんのめった。
「ありがとう、コウ」強ばった手首足首を回しながら、昇はコウに笑いかけた。
コウはコクリと頷《うなず》いた。「はい。洗濯《せんたく》物はすべて干しました」
「いや、そうでなく」
顎《あご》に手を当てて何事か考えていた恵比寿、突然ポンと手を打った。「君は、ひょっとして護《まも》り女《め》り女か?三槌の」
すっかり悪役の彼《えびす》に返されたのは、若者三人の敵意の視線だけだった。しかしそれを露《つゆ》ほども気にせず、恵比寿はウンウンと満足そうに頷《うなず》いた。
「三槌の空幻狐《くうげんきつね》に三槌の護り女……いやー今日のお客さんは豪華だなぁ。……でも、護り女が本家を離れるなんて珍しいね」
コウは、説明する必要もないと言わんばかりにそっぽを向き、炎を纏《まと》って二頭の狛犬《こまいぬ》と戦っているクーに顔を向けた。「天狐《てんこ》様!」と、声を張り上げる。「その狛犬は金気《ごんき》の物《もの》の怪《け》ではありません。彼らは一つの石から削り出され、恵比寿神によって生命を吹き込まれた式《しき》――石の化身。土気《どき》の物の怪なんです!」
光牙《こうが》の爪《つめ》をヒラリとかわしながらそれを聞いていたクー、「え、そうなのか?」と、耳をパタリとはためかせた。「ははあ、土気の物の怪なら火気《かき》の術に強いはずだな」
と――クーの右腕に巻き付いていた炎の帯が、かき消えた。
「――土気を剋《こく》するのは、木気《もっき》か」
クーは天を仰いだ。空には相変わらず、羽毛布団のような厚い雨雲が垂れこめている。
「これくらいの雲になら……」と独りごち、女の顔をした霊狐はニィと笑った。危険な笑みだった。「……いる、な」
つい先程まで炎を巻き付けていた白い右腕を、天に向かって仲ばす。白磁器のような指を、雲の輪郭《りんかく》をなぞるように滑らかに動かした。早口で何事か唱え始める。「〈前天の四〉、《前天の二〉、〈後天の三〉……」
狛犬《こまいぬ》二頭がビクリと戦《おのの》いた。石の強面が始めて見せる恐怖だった。
コウが「あら……」と呟《つぶ》いた。「こちらへ」と言って、昇と透を手洗い場の屋根の下に招き入れた。恵比寿もノコノコとついてくる。
龍《りゅう》をかたどった像の口からチョロチョロと流れ出る水に向かって何やら呪文《じゅもん》めいた言葉を唱えると、コウは、ポカンとしている高上《たかがみ》兄弟を振り返り、「多分《たぶん》、今から境内《けいだい》が破壊《はかい》されますから、この屋根の下から出ないで下さいね」凄《すご》いことをサラリと言う。
「ええっ!」と兄弟は目を丸くした。
「は、破壊って……」昇は手をパクパク振り回した。「そんな事しちゃマズイだろ!」
コウは、澄《す》んだ瞳《ひとみ》を丸くして、不思議《ふしぎ》そうに小首をかしげた。「この屋根の下は水の守護《しゅご》があるので、大丈夫です」
「いや、そうでなく!」
「クーちゃん、何するつもりなの?」と、透。兄よりはるかに落ち着いているのは、事の重大さが分かっていないからだろうか、大物だからだろうか。
えーと、と少し考えて、答える。「たぶん、震《しん》を召喚しようとしてるんだと思います」
「シン?」名前を聞いただけでは分からない。昇《のぼる》が尋ねた。「何? シンって」
「震《シン》は……えーっと……」コウは基本的に語彙が乏しい。「………んーっと……」
結局、震を説明する言葉が見つからなかったようで、「こういうのです」と言うと、コウは手をフラダンスするようにゆらゆら動かした。震のニョロニョロ感を表現しているらしい。
昇は「……そか」とだけ言って、それ以上の詮索《せんさく》を諦《あきら》めた。
透《とおる》は空を見上げた。雨雲が一段と低くなった様な気がする。そして恵比寿《えびす》の顔を見た。自分の神社が壊《こわ》されるかもしれないというのに、どこか満足げである。
凶暴な笑みを浮かべる金髪の美女が、天に向かって突き上げていた拳《こぶし》を勢いよく振り下ろした。
次の瞬間《しゅんかん》、境内《けいだい》の真ん中に、光り輝《かがや》く龍《りゅう》、のようなものが落ちた。
それは石畳に頭から突っ込み、そこに大きな穴を穿《うが》った。
その一瞬《いっしゅん》後、殺人的な爆音《ばくおん》が境内のみならず、鈴ノ瀬《すずのせ》町全体を揺るがした。音はすなわち空気の振動。光の龍が墜落《ついらく》したことで発生した音の波は、周りの木々の幹を震《ふる》わせ、枝から多くの葉を落とした。昇と透は、その音の波で押し倒されそうになった。耳を塞《ふさ》ぎながら倒れまいと踏ん張る。
震は、召喚されると、落雷という現象になって現れる。つまりは、震=雷と考えてよい。
余波で未《いま》だ空気の震えが止《や》まない中、まず昇が顔を上げた。まだ耳がキンキン言ってる。
「うわ……」
そこには悲惨な光景が広がっていた。石畳の真ん中に深い穴が空《あ》き、その穴の縁《ふち》は焦げて黒い煙をもうもうと立ち上げていた。その大穴を台風の目にして、周りの石畳が紙のように剥《は》がれ飛んでいた。足の踏み場が無いとはまさにこの事。
続いて顔を上げた透が辺りを見回した。肝心の狛犬《こもいぬ》の姿は――どこにも、なかった。もしかして、辺り一面に散らばっている玉石や瓦疎《がれき》なんかの一部になってしまったのだろうか。何のいわれも無く襲《おそ》いかかられたので好い感情は持てないが、木《こ》っ端《ぱ》みじんになってしまったらしまったで、何となくかわいそうな気もする。
木や賽銭《さいせん》箱を焼き尽くさんとしていた炎も、音波のおかげか、見事に全《すべ》てかき消されていた。炭化した広葉樹の幹や奏銭箱から上がる分もあいまって、境内には煙が充満していた。
しなやかな金色の人影《ひとかげ》が、煙を割って、完全無傷の手洗い場の屋根の下に入ってきた。
恵比寿を睨《にら》みながら、女クーはうっすら煤をかぶった金髪を、うっとうしそうにかきあげた。
「……貴様、狛犬どもをわざとけしかけたな。どういうつもりだ?」
恵比寿はフンと鼻の先で笑い、短くなった煙草《タバコ》を瓦禰の中に投げ捨てた。
その態度が気に障《さわ》ったか、クーの瞳孔《どうこう》が針のように細くなった。閉じた唇の間から、青白い炎が漏れ出す。「答えろ」
「おおコワ」と、おどけて肩をすくめたが恵比寿《えびす》は、手洗い場の屋根の下から出ると、壊滅《かいめつ》状態の境内を見渡した。「フフ……いいカンジで壊《こわ》れたんじゃないかな」
意外な言葉に、クーは眉《まゆ》をひそめ、昇《のぼる》は目を丸くした。透《とおる》はポカンとしてる。コウは無表情である、いつも通り。
「自分の社《やしろ》を自分で壊すってことはできないからね、神体《しんたい》には……。それに、夏休みって売り上げ落ちるから、そういった意味でも天狐《てんこ》どのはホント、いいタイミングで来てくれたんだよ。うん」
彼が何を言いたいのか分からなくて、昇は首をかしげた。
恵比寿はポカンとしている一同を振り返ると、ニコニコと言った。「神社が、災害や第三者の悪意――たとえば放火や地震《じしん》や落雷なんかで破壊された場合、その修繕《しゅうぜん》費は氏子衆《うじこしゅう》から少しずつ寄付金を集めて調達するんだ」
「は?」
「もちろん神社側も多少は出すけどね……でも、僕はこの神社の神体であって持ち主じゃないから、僕はお金払わなくてもよいでしょう」
まだ恵比寿の真意が掴《つか》めない昇、訝《いぶか》しげに尋ねた。「それがどうしたんだよ」
恵比寿はニヤリと笑った。「これだけ壊れてるんだから、これからこの神社には建設業者なり植木|職人《しょくにん》なり石材屋なりが引っ切りなしに出入りすることになるよね。そうした場合、儲かるのは誰《だれ》だと思う?」
「え……だから……その、修理を依頼された職人じゃないの?」と、昇。
「そうだね。確かに、仕事を受けた建設業者にも金が入るだろう。植木職人にも石材屋にもね。でも、一番大きな変化がもたらされるのは――作業現場付近のコンビニさ」
恵比寿が何を言っているのか、その場の全員、分からなかった。数瞬《すうしゅん》の間を置き、やっと昇が声を出した。「……はいぃ?」
腕を組んでふんぞり返り、ひとり満足げにウンウンと頷《うなず》く恵比寿。「実際のところ、弁当を持参する職人ってのはほとんどいない。食べ物を買うにしても飲み物を買うにしても、大多数の人は作業現場付近のコンビニで済ませてしまうものなんだ。特に神社なんていうのは、普通の家屋とは違う、特殊な構造だろ。それだけ人手も多岐《たき》に亘るんだは――コンビニ側にしてみれば、格好の集客ネタになるわけ」と、確かめるように再び境内を見渡す。「けっこー盛大に壊してくれたし、完全に直るまで時間はかなりかかるだろうな……どうせなら水道管とか電線とかもぶった切ってくれれば良かったのに……そうすれば水道業者や電気業者も呼べたんだけど。……まあいいや。こんな夏場なら、当然、冷たい飲み物は必要だよね。今からでもアイスやジュースを多めに発注しとかないとな。タオルや軍手も置いときや売れるかな……カップ麺《めん》とか雑誌も……。フフフ、これから忙しくなるな」
彼の、あまりに周到な――というか、ガメツい計画に、昇は勿論、クーも呆れて声が出ない。
透《とおる》は理解できずに声が出ない。
ある事に気づき、昇はハツと息を呑《の》んだ。「ちょっと待った。氏子って……」
「氏子って何?」と、透。
恵比寿《えびす》がにこやかに答えた。「檀家《だんか》さんみたいなもんだよ」
透には『檀家さん』もはっきり意味が分からないのだが、これ以上質問するのもアレかな、と思い、そこで黙《だま》った。
一方の昇は真剣な顔で、「ウチってどこの氏子なんだ?」
これまた、にこやかに答える恵比寿。「君《きみ》ん家《ち》、鈴西《すずにし》だろ。もちろん、羽柴《はしば》神社。鈴西の人は皆、羽柴の氏子」
「え〜!」その絶望的な響《ひび》きを含む大声に、透ばかりかクーもびっくり。「じゃあウチも寄付しなきやなんないのかよ!」高上《たかがみ》家の財務大臣は情けない顔をした。
こくこく頷《うなず》く恵比寿。「近いうちにその旨《むね》の回覧《かいらん》板が回ると思うけど、そん時ゃよろしく〜」
ううう。く、悔しい。加害者(しかも黒幕)のくせして被害者みたいな顔してるのが、なおのこと怒りを誘う。「絶対出さねーからな!」
「ハッハッハ、好きにしたまえ。どのみち儲《もう》かるのは僕さ」と、恵比寿は少年の怒りを軽く流す。「では、目的は達したので、僕はこれで失礼する。仕事中なもんで」を捨てぜりふに、彼は踵《きびす》を返し、ひとり階段に向かった。
いつも通り無表情のコウを除く三人は、その後ろ姿をバカ面《づら》でポカンと見送った。石段を降りる恵比寿の頭が消えて、数呼吸の間があり――
「あ――っ!」クーが大声を上げた。
ギョッとしてそちらを見やる兄弟。
美女は階段を降りようとし美女は口から青い火を吐きながら、「あの野郎、詞《ことば》を授けてないではないか!」と吠《ほ》えると。恵比寿のあとを追うように石段に駆け寄った。
詐欺《さぎ》に遭ったような気分を拭《ぬぐ》えないまま、首をかしげ続ける透と、経緯《いきさつ》を分かっているのかいないのか判然としないコウを促し、昇は、怒りのオーラ溢《あふ》れる金の髪の背を、ぽちぼち追った。
クー階段を降りようとし――はふと足を止めた。
石段を降りきったところで、恵比寿がこちらを見上げている。
怒りで熱くなっていた天狐《てんこ》の頭の中が急激に冷《さ》めたのは、見上げてくる恵比寿のその視線が真冬の空気のように真冬の空気のように静かで、しかし鋭《するど》く、胆力の無い者なら一瞥《いちべつ》されただけで尻尾《しっぽ》を巻
いて逃げるだろうと思わせるほど威圧感に満ちたものだったからだ。天狐ともなるとさすがに腰が引けたりはしないが、こんなに離れているのに、身構えてしまう。
数瞬《すうしゅん》、睨《にら》み合った。
先に視線を外したのは恵比寿《えびす》だった。彼は向きを変えると、さっさと自分のコンビニのほうへ歩み去った。
不意に、昇《のぼる》に顔をのぞき込まれる。「どうした?何ボサッとっつ立ってんの」
クーは我に返ったような顔で、静かに昇を見やり、ぽつりと答えた。 「いや。別に」
「ふぅん?まあいいや。さっさと帰ろうぜ」と、階段を降り始める昇。
その昇にまとわりつくように歩きながら、透《とおる》が納得いきかねる表情で尋ねる。「ねぇ、結局、オーナーさんは何がしたかったの?」――やはり理解していないらしい。
コウも、立ちっ放しのクーを追い抜いて階段を降り始めた。
そんな三人の背に、クーは「なぁ」と声をかけた。「俺《おれ》はこのまま、少し散歩していく。先に帰っていろ」
振り返った昇は、軽く驚《おど》いたように目を丸くした。「あれ?観たいテレビあるんじやないのか?」
ニカ、と笑う。「うむ。だから三時までには戻る」
「そか。じゃあ先に行ってる」
三人が階段を降りきるのを見届けるまで、金の髪の美女は黙《だま》ってそこに佇《たたず》んでいた。彼らの姿が完全に見えなくなったころ、不意に、誰《だれ》もいないはずの境内《けいだい》から、クーに話しかける声が上がった。
「君がいて、護《まも》り女《め》がいる……高上《たかがみ》兄弟は水の司祭の一族の血を引いてるんだね」
やっと石段から目を離して振り返ると、クーは、その声の主に鋭い視線を投げかけた。「だったら何か問題でもあるのか」
「い〜や。問題なんて、なんにもありゃしないよ」いつの間に戻ってきたのか、ついさっき立ち去ったはずの恵比寿が、手洗い場に設置されている石の台に腰掛けて、旨《うま》そうに煙草《タバコ》をふかしていた。「じゃあ……ちょっと前に死んだ彼らの母親は、先代の三槌《みづち》家司祭だったってことになるのかな。そっか、なるほどね〜。どーりで……」
クーは、女の面《おもて》に警戒《けいかい》するような鋭い表情を浮かべた。「美夜子《みやこ》を知っているのか」
曖味《あいまい》に首をかしげる恵比寿。「面識《めんしき》は無いけど、存在は感じていた。彼女の霊力《ちから》は、司祭としては使い物にならないようなものだったんだろうけど、それでも普通の人間に比べればズバ抜けてたからね。目立っていたよ」
「それがどうした」
恵比寿はニヤリと笑ってみ吋t。「君は僕に参拝した。しかも。僕の「売り上げ向上大作戦」にも一役買ってくれた。この社《やしろ》の神体の責務として、僕は君に詞《ことば》を授けなくてはならない」
「あ、そう。さっさと授けろ」
「これを言うべきか言わざる、べきか、正直、悩んだんだけどねぇ」
だんだんイライラしてきた。「早く言え」
すると恵比寿《えびす》は、もったいつけるようにロを閉ざしてしまった。上目遣いに、クーの表情の変化を窺《うかが》う。
クーはあえて、表情を消した。
根気比べもつまらないと感じたか、恵比寿は肩をすくめると、「では、述《の》べまーす」気安い感じで言った。「〈高上美夜子《たかがみみやこ》の魂は、まだこの土地の内側を彷徨《さまよ》っている〉」
クーは目を見張った。そのまま、しばらく言葉を失っていた。ようやく、「……なに?」と一言、うめく様に呟《つぶや》いた。
顔をひきつらせる天狐《てんこ》とは対照的に、恵比寿の表情は穏《おだ》やかだ。「嘘《うそ》ではないよ。神体が偽りの詞《ことば》を授けられないことは知ってるだろ?」
「バカな!」吠《ほ》えると同時に、青白い燐《りん》がどうっと口から溢れた。階段口から手洗い場の恵比寿のもとまで、一息にズカズカと歩み寄る。「もう干支《えと》が一巡りしているんだぞ!どういうことだ!」
恵比寿の真正面に立つまでの間に、天狐の美貌《びぼう》は見る影《かげ》も無く崩れた。ロが耳まで裂けて犬歯が剥《む》かれ、口腔《こうくう》からはもちろん、足と地面が接している部分からも青い炎が上がり始める。かなり頭に血が昇っていることの表れだ。
しかし、その様を見ても恵比寿は眉《まゆ》ひとつ動かさない。「逝《い》き損ねたのさ、外側に」
「なぜ!」
「さあ……でも、僕が思うに……」と、口元に得体《えたい》の知れない笑みを浮かべる。「幼い子供を残して逝かなくてはならないという無念や、ここに留《とど》まっていたいという想いが、魂を引き寄せるはずだった力に勝《まさ》っていたんだろう。まあ、よくある話さ」
ウウウ、と低く唸《うな》って鼻にしわを寄せる。「それでも、外側に向かう機会は何度もあったはずだ」
「普通なら、ね」意味ありげに言って、煙を吐き出す。「彼女はいわゆる普通、ではないだろ。仮にも、五行《ごぎょう》かひとつである水気《すいき》を古来より祀《まつ》り続ける三槌《みづち》の司祭その人だよ。だからこそ〈境界〉に近づくことすらできないでいるんじゃないか」
恵比寿のドグマをかじらんばかりに身を乗り出していた天狐はしかし、そこでフと我に返ったかのように唸るのを止《や》めた。燐の放出も嘘のようにぴたりと止む。「……そうか……」と、ぽつり呟くと、半人|半獣《はんじゅう》の恐ろしい貌は、一瞬《いっしゅん》で元の冴《さ》えた美貌を取り戻した。
沈黙《ちんもく》が降りる。
そして何の前触れも無く、
「帰る」と言うと、クーは踵《きびす》を返し、階段に向かってスタスタと歩き始めた。
恵比寿《えびす》はその背に向かって声をかけた。
「『それ』を行使することを、本気で考えないように」
クーは足を止めた。だが振り返らなかった。「――『どれ』だ?」
ニヤリと笑う。「今、君が頭の中で思い浮かべている、『それ』だよ」
「何のことだ?」
苦笑いして、ちょっと肩をすくめた。「……〈境界〉に干渉することは禁忌《きんき》とされている。したがって、『それ』を使うことも禁忌だ。万が一、この土地の中で禁忌を犯すような真似《まね》をしたなら、土地神《とちがみ》である僕も黙《だま》ってはいない……その辺、分かってるだろ、天狐《てんこ》どの』
階段口に立ったクーは眼下に広がる鈴ノ原《すずのせ》町を見渡した。ここは見晴らしが良い。町のほぽ全体が見える。神社が建つこの丘のすぐ脇《わき》に、川が流れている――おそらくは、この川がこの土地に於《お》ける〈境界〉。
橋のたもとや町外れ、と呼ばれる場所は、昔から「何か」との境であり、触れてはいけない場所だった。内側の人間は外側からの干渉を恐れ、禁忌を避《さ》けるため、〈境界〉近くに神社や祠《ほこら》を建てた。羽柴《はしば》神社もそういうものの一つだろう――
クーは曇天《どんてん》の下の町並みを、もう一度見やった。
鈴ノ瀬町は小さな町だが、魂|独《ひと》つが当てもなく彷徨《さまよ》うには、広すぎる気がする。
*****
天狐が立ち去ってからも恵比寿はしばらくそこにいて、瓦磯《がれき》の山を足で崩して均《なら》したり、剥《は》がれた石畳を踏んで割ったりしていた。何の意味も無い行動に見えるが、恵比寿の顔はそれなりに真剣で、黙々《もくもく》とその作業を続けている。
足の土踏まずのところでその辺りに散らばっているものを適当に寄せ集めると、瓦磯や玉石の混じった土の小山を双《ふた》つ、こしらえた。
数歩下がってその小山を吟味《ぎんみ》するように眺め、「うーむ」と唸《うな》り、一度戻って土を足したり引いたり。また数歩下がって眺め、「うむうむ」と納得したように頷《うなず》くと、「ほい!」と間抜けた掛け声を上げ、バンザイした。
土の小山それぞれの表面が、胎動《たいどう》するように波打った。周りに散らばる瓦磯などが、急激に小山に吸い寄せられる。土の塊は凝縮《ぎょうしゅく》し、膨張し、凝固し、形成され――それは四本の足で立ち上がると、水から上がった犬のように頭のテッペンから尾の先までをプルルル、と細かく震《ふる》わせた。吸収されなかった土くずがパラパラツと地に落ちる。
再生した一対の狛犬《こまいぬ》――光牙《こうが》と影牙《えいが》は、お互い、顔を見合わせた。
「……まったくなんて狐《きつね》だろうな」
「震《シン》なんて喚《よ》ぶか、普通」
「ご苦労さんだったね」恵比寿《えびす》は、しゃがんで手下達の頭をゴリゴリ(土なので硬《かた》い)ゴリゴリと撫《な》でた。
「失態をお見せしてしまいました」と、二頭そろって申し訳なさそうに頭《こうべ》を垂れる。
恵比寿はハハハと短く笑って、狛犬《こまいぬ》達の頭をペッタペッタと軽く叩《たた》いた。「いいや。天狐《てんこ》相手に大|健闘《けんとう》だったさ。さすが僕の忠実な部下だ」
。 誉《ほ》められて嬉《うれ》しかったらしく、狛犬はまた顔を見合わせると、石の強面《こわもて》でニカーと笑った。
立ち上がった恵比寿に、影矛《えいが》が尋ねる。「お社《やしろ》様、天狐は「あの術」を使うと言っていましたか?」
「ハハ……一応、使うなと釘は刺しておいたけどね……」恵比寿は空を仰ぐと、ふいーっと煙を吐き出して、「でも他人《ヒト》の言うこと聞くタマじゃないでしょ」ニヤリと笑った。「どうでるかな、あの天狐どの」
ちょうど彼の頭上にある黒い雲の中で、震がゴロゴロゴロ……と低く唸《うな》った。
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第四章
狐《きつね》という獣《けもの》には放浪|癖《へき》がある。
霊狐《れいこ》化していようとなかろうと、よほどのことがなければ毎日、自分の縄張《なわば》りの中の決まったルートを歩いて回る。
そこのところはクーも例外ではなかった。散歩と称し、高上《たかがみ》宅を中心とした全長数キロはあるコースを、一日に少なくとも二回は歩く。四本足の狐の姿のままウロついたために保健所の職員《しょくいん》を出動させてしまったことがあるので、明るいうちはもっぱら人間の姿をとっていた。
だいぶ暑さの緩《ゆる》んだ黄昏《たそがれ》時、野球帽をかぷった金の髪の男――本日の一回りを終え、高上邸に戻る途中のクーが、なだらかな坂を下っていた。
この坂の右手には背の低い鉄の柵《さく》が据えられていて、その向こうは急斜面の土手になっていた。木が櫨えられていたから下のほうは見えにくいのだが、ここを降りると弥生《やよい》川に出る。川風に乗って駆け上がってくる不快感と紙一重の濃《こ》い草いきれが、広めの道路いっぱいに満ちていた。
クーと対向して坂を上ってくる者があった。への字に結んだロ元と腫《は》れぽったい目がなんだかすさんだ雰囲気の、若い男だ。真夏で、しかも今日は朝から雲ひとつ無い快晴だったというのに、灰色のレインコートなんかをじっとりと着込んでいる。
男はクーとすれ違う瞬間《しゅんかん》、足を止め、今、自分が歩いてきたほうを指《さ》した。「この先の家に、すんげー美味《うま》そうな匂いのするガキがいたんだ」
クーも足を止めた。「ふぅん」と、気の無い返事をする。
「でも、そいつが腕に巻いてる紐《ひも》から、狐《きつね》の匂いもプンプンしてて、手ぇ出せないんだ」
そ知らぬ顔。「それは残念だったな」
男は本当に残念そうな顔をした。「ホントだよ、ったく」男の閉じた唇の間から、すーっと白く長い舌が出て、それは彼のレインコートの第三ボタンのあたりまで伸びた。
その横顔を見、クーはフフフと低い含み笑いをもらした。「――俺《おれ》がその匂いの主《ぬし》だと言ったら、お前、どうする?」
深く考えることもせず、即答する。「今ここでアンタぶっ倒してガキ食いに行く」
「面白《おもしろ》いヤツだな」カカカカ、と大口を開けて笑う。
男もつられて笑う。「ハハハハハハ」
カカカカカカ。
琥珀《こはく》色の虹彩《こうさい》の中で瞳孔《どうこう》がキュウッと細くなった。顔は笑っていたが、狐のロから青白い煙のようなものが一筋、ゆる、と流れた。「失《う》せろよ、俺が笑っている間に」
キャハハハハハ、と男は高音の嘲笑《ちょうしょう》を上げ、傍《かたわ》らの鉄柵《てっさく》を跳び越し――その瞬間、男の姿が縮《ちぢ》んで、頭の先からほぽ全身がレインコートの中にすっぽり隠れた。その裾《すそ》から、鳥のようにも見える蜥蜴《とかげ》のようにも見える、奇妙な足だけが覗《のぞ》いた。レインコートが草むらの中に飛び込む。続いて、ザザザ、と草を割って土手を滑り降りる音が聞こえてきた。
クーは柵に手をかけ、下を覗き込んでみた。今は盛《さか》りと元気な草や木に阻《はば》まれて、男の姿は見えなかった。
すると、「コワイコワイー」と、男のおちょくるような声がした。だいぶ下のほうから大声で叫んでいるようだ。「なあ狐さんよ。どうして守り神なんかやってるんだい?人間なんて、あんたが守っても守らなくても、百年ももたずに死んじゃうんだぜ」
「……さぁ?」知らず知らず、自嘲《じちょう》めいた笑みが浮かんだ。「だが、短いからこそ意義があるとは思わんか?」
「思わねぇー!」
キャハハハハという耳障りな笑い声と、それに重なって聞こえる草をかき分ける音が、どんどん小さくなって、消えた。
男の気配《けはい》が完全に消えてから、「……だろうな」と、ひとりごちた。
空幻《くうげん》だって、もともとはそんなこと思っていなかったのである。
まだ三槌《みづち》の裏山の祠《ほこら》いたころ――
自分の尾を枕《まくら》代わりに顎《あご》の下に敷《し》いて、うつらうつらしていた。目を開けていても、視界に入ってくるものといえば、乾いた岩壁《がんぺき》と味気ない砂と疎《うと》ましい注連縄《しめなわ》だけ――見ていてもつまらないので、祠内《ここ》にいる間は、だいたい目を閉じていた。
ある日、儀式《ぎしき》用の巫女装束《みこしょうぞく》を着た柱女《はしらめ》が入ってきた。それを横目で捕《と》らえながら空幻は、あの笙子《しょうこ》という司祭当主は死んだのだろうな、と直感した。
三槌の司祭は三十になるかならないかというところで、ほとんどは死んでしまう。ということはあの笙子も三十くらいにはなったのだろう。時が流れるのは本当に早いものだ。あの青白い顔のいかにも病弱そうな少女がここを訪れ司祭当主継承の儀を執《と》り行ったのは、空幻にはつい昨日の事のようにも感じるのだが……
人間は脆《もろ》いなぁ、あいかわらず。空幻が一睡するくらいの短い時間の中で、生まれ、子供を産んで、死ぬ。この世に残すものといえば子供くらい。その子供も司祭になれば三十年と経《た》たずに死んでしまう。その子も司祭になり、子供を産んでご二十年くらいで死に、さらにその子供も司祭になり、子供を産み二十年くらいで死に……
アホくさ。
飽きないのかねえ。虚《むな》しくならないのかねえ。
物《もの》の怪《け》には基本的に寿命というものが無いし、よっぽどのことが無い限り死ぬということも無い。だから子供を作って種の保存に努めようとは考えないし、老いることも恐れない。それどころか、物の怪は年月を重ねれば重ねるほど霊力《ちから》が強くなるものなので、年を経《へ》るほど優位に立てる。時間の概念というものが、人間のそれとは根本的に違うのだ。特に空幻は、この、霊力が完全にカットされる祠に封印されて以来、ますます時間の感覚が麻庫《まひ》していた。
こんな、砂以外には何も無い結界内にいることは確かにヒマだし、時々腹立たしくもあるが――しかしそれももう少しの辛抱《しんぼう》かな、という気がする。新たに司祭となる者を見るたび霊力が衰えていっているのが、傍目《はため》にも明らかだった。三槌の終焉《しゅうえん》は、そう遠くないはず――それまでここで寝てるのも一興《いっきょう》かな、と思う。
柱女の後に次《つ》いで祠内に入った少女を見やる。やはり、霊力は衰えているようだ。普通の家の娘に比べれば強いほうなのだろうが、司祭としてやっていくには不足だろう。 少女は、誰《だれ》にも穏《おだ》やかな印象を与える柔和な面差《おもざ》しを持っていた。やはり親子なので、先代と似ているが、彼女には笙子の儚《はかな》さが微塵《みじん》も受け継がれていないようだった。血色もいいし眼差《まなざ》しも強い。
しかしこの生命力溢《あふ》れる娘も、二十年も経てば死ぬのだ。霊力も存在価値も無い司祭になり、司祭になったがために早死にする。
無駄死にだな。バカバカしい……
だが俺《だが》の知ったことじゃない。
祠《ほこら》の内部に明かりが灯《とも》る。少女が空幻《くうげん》の存在に気付き、息を呑《の》んで目を見開いた。空幻は内、意地悪くニヤリと笑った。今回はどんなことを言ってこの新米司祭を驚《おどろ》かしてやろうか。前回笙子《しょうこ》とき、空幻は「お前は一月後に死ぬだろう」と、根拠の無い悪質なデタラメを言って、もともと良くない笙子の顔色を、いっそう酷《ひど》いものに変えたのである。
空幻が口をパカッと開け、滅らず口をたたこうとした――その瞬間《しゅんかん》、少女は誰《だれ》もが予想しなかった行動に出た。
空幻に向かって、駆け寄ってきたのである。その俊敏さたるや目を見張《みは》るものがあった。殺気のようなものさえ感じられた。空幻は数百年ぶりに身の危険を感じ、横たえていた体を慌てて起こして身構えた。しかし、それは一瞬遅かった。少女は注連縄《しめなわ》を乗り越え――
タックル。
「ぐぇあ」首にイイのが入りました。
呆気《あっけ》にとられる桂女《はしらめ》。
少女は、空幻の頭頂部に頬擦《ほおず》りをぐりぐりぐり、とかました。
「めちゃカワイイ〜!」ぎゅうううう。
「げぇえええ」
柱女が我に返った。一気に顔の血の気が失せる。「みみみ美夜子《みやこ》っ!」
そんな柱女の様子《ようす》も気にせず、美夜子と呼ばれた少女はキラッキラした顔で振り返ると、興奮《こうふん》したように尋ねた。「大ばば様、これ何?これ何? これ何?」
「結界の中に入るな!出るんじや!」
「これ飼っていいの?」
「離れるんじゃ!」
「飼っていい?」話を聞いていない。
美夜子をなんとか天狐《てんこ》から剥《は》がそうと、柱女までが結界内に入った。「バカ言うな!それが天狐様じゃ!空幻狐!三槌《みづち》の守り神じゃぞ!離れろ!」
「え〜じゃあ飼えないの〜?」ますます、ぎゅうううう。
第|一撃《いちげき》ですでに肺の空気を残らず搾《しぼ》り出された天狐様は、空気を吸う事も吐く事もできず、地面に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせた。天狐空幻が三槌の守り神になって幾星霜《いくせいそう》、この大|霊狐《れいこ》に白目を剥《む》かせた司祭は美夜子が初めてだった。
「いいから早くこっちに来なさい!」やっとのことで柱女は、美夜子の襟《えり》をひっぱり、結界の外へ連れ出した。空幻は三槌に来て初めて柱女に感謝《かんしゃ》した。引き剥がされた美夜子はぶうぶう文句を垂れる。
「……今から儀《ぎ》の用意をするので、お前は決して動かぬように」
「え〜?……はぁい」渋々、といったかんじで頷《うなず》いた。
美夜子《みやこ》はしばらく、言われた通り、砂の上に正座して動かず、桂女《はしらめ》が鏡《かがみ》なり刀なりを決まった位置に配置するのを見ていたが、やがてそれにも飽きたのか、空幻《くうげん》に視線を寄こすと、注連縄《しめなわ》ぎりぎりのところまで膝《ひざ》でにじり寄ってきた。空幻の顔を覗《のぞ》き込みつつ、「私、美夜子です。はじめまして。よろしくね、クーゲンちゃん」
と、愛想良く言われたが、空幻はもう美夜子が恐ろしくて正視できない。岩壁にピッタリとくっつき、なるだけ美夜子と距離をとる。
美夜子は機嫌が良いので無視されても気にしない。
「でも言いにくいね、クーゲンちゃんって。クーゲン、クーゲン……よし」ポン、と手を打つ。そしてこれ以上の良案はないと言わんばかりの笑顔で、言った。「あなたはこれから、クーちゃん!」
空幻のことを『天狐《てんこ》様』以外の名で呼んだ司祭は、美夜子が初めてだった。
三槌《みづち》家司祭史上初、ということを、美夜子は他《ほか》にもまだやった。
よほど空幻を気に入ったのか、儀以降も、美夜子は事あるごとに祠《ほから》に遊びに来るようになったのである。来て何をするというでもない。ただ美夜子が、ガッコーのこと、友達のこと、将来のこと、好きな男の子のことなど、実にどうでもよいことを、一方的に喋《しゃべ》っていくだけであった。桂女《はしらめ》にきつく言われたらしく、結界内に入り込むということは二度としなかったが、どんなに叱《しか》られても祠《ほこら》に遊びに来ることは止《や》めなかった。
空幻は、最初の方こそ、また締《し》め上げられるのではないかとビビリ、美夜子を遠巻きにして避《さ》けていたのだが、毎日のように来られたら、そりゃあ打ち解けもする。
「ねーえ、クーちゃん。『不死身の猫』って十回、言ってみて」
「なぜだ」
「いいからー」
「誰かに呪いでもかけるのか」
「いいからいいから〜」
「不死身の猫不死身の猫不死身の猫不死身……(略)……の猫不死身の猫」
「ハイッここで問題です! ルパン三世の恋人の名前はなーんだっ?」
「知らん」
……まぁだいたい、いつもこんなカンジ。
そのうち空幻の方も昔語りなどするようになる。しかしこの狐《きつね》、半端な長寿ではないので、話が尽きるということは無い。せがまれるままに話をするうち、美夜子には帰らなくてはならない時間が迫る。
「ごめんね、また明日来るね」立ち上がって服についた砂を払いながら、笑顔で言う。
「別に来んでもよいが」と返すと、
「来るの!」と、すねる。
「好きにしろ」
「なにそれ。お菓子持ってきてあげないよ」
「ぜひ来てください」真剣。お菓子大好きです。
アハハハ、と少年のように笑って、祠《ほこら》の口に手をかける。「話の続き、明日ちゃんとしてね。気になるんだから。覚えててよ」
「覚えていたらな」
空幻《くうげん》にとって、司祭と――いや、人間と対等に付き合うのも、これが初めてだった。
限りあるのが人間、
求め続けるのが人間……
それを空幻に知らしめたのも、最終的には美夜子《みやこ》だった。
妖怪《ようかい》と違って、持てる力も時間も限られているというのに、人間は自分の器量を遥《はる》かに越えた大物を、常に欲しがる。その小さな器で掴《つか》めるものなど限られているのに。
愚かだな。
だが、その愚かさが……
クーは、ムウと唸《うな》り、柵《さく》から手を離し、意味なく肩を回し、その辺にあった小石を軽く蹴《け》っ飛ばし、手持ち無沙汰に帽子をかぶりなおし――
吠《ほ》えた。「恵比寿《えびす》のクソったれ! 他にどうしろっちゅーんだ!」
*****
次の日も、もうカンベンしてくださいっていうくらい、良い天気であった。
国道沿い、高上《たかがみ》家から歩いて十分弱のところにあるのが「スーパーストア・メレンゲ堂」だ。
古くから営業しているので、建物自体は流行遅れな感じがするが、中身は町の一スーパーにしては充実していた。特に生鮮《せいせん》食品に気を使っているようで、常に新鮮で上質、なおかつ安価な商品を揃《そろ》えてあった。もっとも、専業主婦の多い鈴ノ瀬《すずのせ》町にあって、彼女らの不評を買うようなことをすれば客の大半が赤城《あかぎ》市の大型スーパーに流れてしまうから下手《へた》な品物は置けない、というのもある。
本日は毎週木曜恒例の百円均一セールが行われているので、開店直後から店内はほどよくごった返していた。主婦達が連れて来る子供達のはしゃぎ様もあいまって、とても賑《にぎ》やかだ。
そんな主婦と子供ばかりの中、一際目立っている二人組がいた――コウと、いつものように美女に化けたクーである。若くてかわいい女の子二人が連れ立って町の中小スーパーに、それもお菓子売り場などならともかく、野菜売り場にいるのは、ちょっと珍しい。しかも、コウは巫女装束《みこしょうぞく》、クーは白のノースリーブワンピースに麦わら帽子で夏のお嬢《じょう》さんIn別荘地といった感じだったので、これが目立たないはずがなかった。
現に、男性従業員は商品の前出しをしながら横目でチラチラ様子《ようす》を窺《うかが》っていたし、子供は立ち止まってクーの金の髪を遠巻きに眺めていた。――が、そこは他人の思惑には人一倍鈍感なコウ&他人の視線など考慮《こうりょ》に入れずに行動するクー、スーパーの青果コーナーに発生した強烈な好奇心の渦《うず》には気づきもしない。
第一、双方それどころではなかった。クーは、スーパーに来るのはこれが初めてではないが、それでも棚を埋め尽くす商品を物珍しげに覗《のぞ》き込むことに終始していたし、コウはコウで、手にしたメモと目の前の野菜棚を交互に睨《にら》みながら、何やら思案していた。
本日、コウは昇《のぼる》様から買い物を頼まれて来店した。御所望《ごしょもう》の品は、長ネギ、絹豆腐、レタス、食器用洗剤詰め替え用、豚肉……などなど。
で、彼女が今、何を考え込んでいるかというと――キャベツとレタスの区別がつかない、ということだった。この場合、商品ポップを見ればどちらがどちらかは即効で解決する――などと、そういった単純な問題ではないのだ。同じ色、同じ形、同じ手触りなのに、どうして名前も値段も違うのか、コウには理解できない。
どこかをほっつき歩いていたクーが戻ってきた。考え込んで動かないコウに駆け寄り、「なぁなぁ――」と、甘えるような声を出した。「なあ、マ・モーリ・メー。アイス買って――」
「後にしてください」今はそれどころではない。色の薄《うす》いほうがレタスだろうか……?でもこっちのキャベツも色が薄い……
金髪美女がムウと眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。「なんだあ偉そうに。まだ五円と五十円の区別もつかんくせに」
常時無表情を通している巫女《みこ》は顔を上げ、しかしそのときは珍しく不服そうに頬《ほお》を膨《ふく》らませた。「天狐《てんこ》様だって千円と一万円の区別つかないじゃありませんか」
「ハ!」天狐様は顎《あご》を上げて短く嘲笑《わら》った。「俺《おれ》は、硬貨はマスターしておる。硬貨のほうが使用|頻度《ひんど》高いし重要だろ。札《さつ》は無くてもへっちゃらだが硬貨が無《な》くては釣銭《つりせん》も出せないし細々《こまごま》したものが買えないし、生活に支障が出るではないか」
非常に偏《かたよ》った私見《しけん》を、恥ずかしげもなく堂々と述べる。
そのあまりの堂々っぷりに圧《お》されたんだか何だか知れないが、護《まも》り女《め》も「そうかもしれない」と真面目《まじめ》な顔で頷《うなず》くのだから始末に負えない。
「まあそんなことよりだな、余った金で好きなものを買ってよろしい、と昇《のぼる》に言われているんだろ。知ってるんだからな。どうせあいつも多めに金渡してるんだろうから、アイスの一つや二つ……」と、そこまで言って、クーは思い留《とど》まった様に口を噤《つぐ》んだ。美貌《びぼう》を口惜しそうに歪《ゆが》めながら、ぼそり。「……いや、いい。アイスはやめておこう……」
「え?」
そして、うつむけていた顔をぱっと上げた。「代わりに、酒を買ってくれ」
「え………お酒、ですか?」無表情な中にも訝《いぶか》しげな色を滲《にじ》ませながら、コウはおうむ返しに尋ねた。「アイスよりお酒、なのですか?」
「うむ。できれば純米がいいナ〜」ぶりぶりとかわい子ぶってみる。
首をかしげた。「誰が呑《の》むのですか?」
「うん、まあ、俺。 なあ、小さい瓶のやつでいいから」
「………」
「高いやつでなくていいのだ。……この際、純米でなくてもいいから」じれったそうに言い足していく。「一番安いやつでいいから……いや、もうワンカップでいいから」
「お菓子が買えなくなりますけど」
うっ。「………………いいんだ。菓子は……いりま……せん……」断腸《だんちょう》の思いです。
かつて、この狐《きつね》がそんなことを言ったためしは無かった。コウの表情に怪訝《けげん》の色が濃《こ》くなる。
「なぜそんなに日本酒を呑みたいのですか?」
「なぜでも、だ!」そして、他人には滅多《めった》に頭を下げない天孤空幻《くうげん》が、手を合わせて腰を折った。「なあ、護《まも》り女《め》、頼む!」
このままではか蟲惑《こわく》の術を使ってでもコウに『ウン』と言わせかねない。
コウは天狐《てんこ》の術に耐えられる自信があったが、周りの人間を巻き込まれてはかなわないので、クーが短気を起こす前に、コウが折れた。「分かりました」
顔がパッと明るくなった。「恩に着る!」と叫んで、酒売り場に駆けていった。その後ろ姿を、コウは疑問に満ちた目で見送った。もうレタス〜キャベツ間の相違についてはどうでもよくなっていた。
一分も経《た》たないうちに、クーがコウのところに戻って来た。手にしていた酒瓶を、コウの押していたカートのカゴに入れる。ニコニコと嬉しそうな顔をしてコウの手からカートを奪うと、子供のようにはしゃぎながらレジに向かった。コウはレタスをひとつ手に取り、金の髪の後ろ姿を追った。
*****
ゲーム機のコントローラーを置いて、透《とおる》は立ち上がった。「じゃ、ボクそろそろ帰るね」
後方のソファで漫画を読んでいた半田《はんだ》隆《りゅう》は「お〜う」と適当な返事を寄こしたが、隣《となり》に座って同じくコントローラーを握っていた久保田秋一《くぼたしゅういち》は透を見上げ、ふと尋ねてきた。「最近、トール、家でいい事あった?」
唐突《とうとつ》な質問に目を丸くする透。「え、どうして?」
「いや――なんか、家に帰るときやけに楽しそうだし」
むう……アキ(久保田の愛称。名前が『秋一《あきいち》』だから)ってば、さすがに鋭《するど》い。
これ以上黙《だま》ってられないな、と思った。そもそも、悪いことをしたわけではないのだから黙っている必要もないのである。言っちゃえ言っちゃえ。
「実は……」顔にいたずらっぽい笑みが浮かぶのを押さえられなかった。「ウチさ、犬を飼ったんだ」ホントは犬じゃないんだけどね……
「「え――――!こ」
アキがコントローラーを取り落し、半田がソファから飛び起きた。
「いいないいなー!」ハンダもアキも身を乗り出してきた。
二人の予想以上の派手《はで》な反応に、少々面喰《めんく》らう透。
まず、半田が基本的なことを訊《き》く。「なあ、何て名前?」
「クーちゃん」
「へえ〜クーちゃんか。……で、何犬?もしかしてチワワ?」
あれ、そう来たか。
その問いに対する答えは用意していなかった。とりあえず、「えーっと……雑種」と答える。
クーが聞いたら怒るだろう。
「へえ〜へえ〜雑種かあ――。雑種って頭いいんだよな」と、雑学博士ぶりを発揮するアキ。
「あ、そうなの?」うん、確かに頭は良い。
ハンダがいっそう身を乗り出してきた。「もらったのか?どっかで拾ったのか?」
うーむ、そう来るか。どう説明すればいいかな。とりあえず、
「……家までついてきちゃったから、そのまま飼った」
徴妙に嘘《うそ》ではないところが微妙だ
久保田《くぼた》と半田《はんだ》は目を輝《かがや》かせながら、何度も「へぇ〜へぇ〜」と感嘆する。
特に久保田はマンション暮らしでペットを飼えないから、心底|羨《うらや》ましそうだった。「いいなあ。なあトール。今度クーちゃん、見せてよ」
透は満面の笑みで頷《うなず》いた。「うん」
*****
強い日差しに当てられ火照《ほて》りはじめた首筋に、氷のように冷たいものが押し当てられた。
「うっひゃっ!」思わず叫んで飛び上がり、振り返ると、すぐ後ろに佐倉《さくら》が立っていた。
赤城《あかぎ》高校の駐輪《ちゅうりん》場である。夏休みではあるが部活動や生徒会活動のため登校する生徒はけっこう多く、簡素《かんそ》なトタン屋根の下は、概《おおむ》ね自転車で埋まっていた。部活を終えた昇《のぼる》は、早々帰宅するべく、自分の自転車《ちゃり》の前輪の鍵《かぎ》を外そうと、前傾姿勢をとって自転車と自転車の間に頭を突っ込んでいたから、佐倉が近づいてきたことに気づかなかったのだ。
昇の反応がおかしかったか、佐倉は笑いをこらえつつ、「びっくりした?」
「……するって」大声で叫んでしまって少々決まりが悪い。
手に持っていた缶ジュースを昇に突き出した。「差し上げます」
「これはどうも……って、なんでまた」
「だってこの間、迷惑かけちゃったし」
暑さが祟《たた》ってカツノミヤ書店でぶっ倒れてしまった(と、いうことになっている)佐倉を、昇は彼女の自転車の後ろに乗せ、自宅まで送ったのである。意識モウロウとした佐倉から家への道のりを聞き出すのも大変なら、家にいた彼女の母親に事情を話すのも大変だった。見知らぬ男がフラフラになった娘を連れて家に入ってきたら、動揺しない母親はいない。そして、昇はあの日バスで登校していたため、帰りは炎天下の道をバス停まで数十分歩くことになったのだが――まあ、そのへんのことを言っているのだろう。
確かに大変は大変だったが、迷惑だとは思っていない。昇は苦笑した。「別にいいのに」
佐倉は小さく首を横に振ると、「ゴメンね、本当に」と言って、本当に中し訳なさそうに、と顔の前で手を合わせた。――それと、ありがとね」
「いいよ」いつも軽口を叩《たた》き合っているだけに、こうも真面目《まじめ》に言われると照れてしまう。ごまかしついでに、手の中の缶のプルタブを開け――
そこで大事なことをハタと思い出した。
「それより、どう、気分。まだフラフラしたりとかする?」
クーは「ヘッチャラだって!」みたいなことを言っていたが、怪しげな術をかけられたことに変わりはないし、これで彼女になにかしらの後遺症が残っていたりしたら、昇《のぼる》としては責任を感じずにはいられない。
いつになく真剣な顔の高上《たかがみ》である。それほど心配してくれていたのかと思うと、佐倉《さくら》の頬《ほ》は思わず緩《ゆる》んだ。「ううん。それがね、全然だいじょうぶ。目が覚めたときはなんだかかえってスッキリした気分でね。熱も無かったし暑さで倒れたにしては珍しいねってお母さんとも言ってたんだけど」
昇の顔もホッと緩む。「そっか……よかったな」二重の意味で。
「私から誘ったのに、本当にゴメンね」
「いいっていいって」諸悪の源はこちらにあるので、謝《あやま》られるとかえって申し訳ない。「明日にでもまた行こう、カツノミヤ」
「え?」
「だって買うんだろ、参考書。早めに行っとこう」
「――うん」なんかもう幸せな気分で、佐倉は頷《うなず》いた。「じゃあ、今からは?」
「今日はダメだな」
「あ……そう」いきなりテンションが下がり、余計なことを言ってしまったという後悔が胸に満ちた。「あの……何か用事でもあった?」
ハハ、と笑いながら、昇は首を横に振った。「木曜《もくよう》は休みだろ、カツノミヤが」
「……あ、そっか」拍子抜けする。同時に、またテンションが跳ね上がる。「……そうよね!そうだった。うん」急に機嫌の良くなった自分を、単純だなあと心の奥で笑いつつ、でも嬉《うれ》しさが抑えきれずに顔に出る。「じゃ、明日ね!」
「うん」
手を振って、踊るように駆け去る佐倉の背中を見つつ、明日はバスで登校すっかなあ、などと、少々アザトい計画をたてる昇は、もらったジュースをちびちびと飲む。
*****
さすがに水辺の空気は爽《さわ》やかだ。
鈴ノ瀬《すずのせ》町を縦断《じゅうだん》する弥生《やよい》川の河原で、クーは立ち止まった。麦わら帽子は手に持っている。
狐《きつね》が耳は剥《む》き出しだったが、周りに人影《ひとかげ》は無いので問題ない。二等辺三角形の大きな耳をピンと立てて風上に向け、まるで何かを聞き取ろうとしているかのようだ。
メレンゲ堂から出た後、「俺《おれ》は散歩に行く」と言い残し、コウを先に高上《たかがみ》邸に帰らせた。
夏の日差しを浴びて、川面《かわも》は白い細かな宝石を撒《ま》いたように眩《まばゆ》い。
留《とど》まることを知らない川の流れを見るともなく見ながら、クーは、手に持っていた緑色の瓶――つい先ほど、ねだり倒して購入《こうにゅう》した安酒の蓋《ふた》を開け、川の淵《ふち》ギリギリのところまで近づき、腕を伸ばして、水面に瓶の中身を数滴、垂らした。
下流に向かって進みながら、数歩ごとに、酒を川面に落としていく。その作業を繰《く》り返し、やがて瓶が空《から》になったころ、橋のたもとにたどり着いた。透《とおる》が毎日の通学に使う橋であり、羽柴《はしば》神社及び恵比寿《えびす》の経営するコンビニに最も近い、あの橋である。
クーは傍《かたわら》らにそぴえ立つ緑の丘と、その頂《いただき》、木々に護られるように建っている神社の屋根を、確認するように眺めた。
「あら綺麗なお稲荷さま 誰《だれ》もいないはずの場所で不意に声をかけられ、しかしクーは驚《おどろ》きもせず、まるでそれを予想していたかのように、落ち着いた様子《ようす》で声のした方を振り返った。 そこには一人の老婆が佇《たたず》んでいた。涼しげな生地《きじ》のワンピースに白い麻の帽子を被《かぶ》った、上品な雰囲気の老婆である。自前《じまえ》の手押し車に体重をかけ、クーをニコニコと眺めている。
クーはその姿をざっと眺め、「ふむ」と鼻を鳴らした。「出たか、よかった。酒の量が少ないんで失敗するかと思ったが。……お前は、ここの橋姫《はしひめ》だな?」
「はい、そうですよ」
「ここは」と、自分の足下を指す。「この土地の〈境界〉だよな」
「そうなりますね、ええ」細めた目を顔のしわの中に深く埋めながら、老婆はニコニコと答える――特別にニコニコしているのではなく、これが彼女の地顔なのかもしれない。
クーは真剣な眼差《まなざ》しで問う。「女の魂が寄ってくることはないか?」
「女の方?人間の?」
「そうだ」
「ええ、よくいらっしゃいますよ」
目を見張る。耳がパタッと動いた。「本当か?どんな?どんな女だ?」と、橋姫の方にせかせかと歩み寄っていく。
「どんな――と言っても」橋姫は変わらず柔和な表情で、首をかしげた。「いろんな方がいらっしゃいますから」
ぴたっと足を止め、フウと溜《た》め息をついた。「……そうか」耳が落胆したようにしおれた。
「まあ、そうだよな……いや、いいんだ」ちら、と空を見上げる。「――なあ。今夜は満月か」
ニコニコと頷《うなず》き。「そうですよ」
そうか……」
狐《きつね》は川面《かわも》に体を向けると座り込み、頬杖《ほおづえ》をついた。なにやら難しい顔をし始めた狐を見て、橋姫はその隣《となり》に座った。
「悩みごとがあるのですか?」
「いや……」しばらく口をつぐんで、黙《だま》る。そして、尋ねた。「お前は、御霊送《みたまおく》りを見たことがあるか?」
橋姫は、いいえ、と首を横に振った。「あたくしも長年生きておりますけど、御霊送りだけは見たことございませんわ。それはそれは美しいものだそうで、一度見たいとは思うのですけど、〈境界〉に干渉する禁忌《きんき》の術ですものね、しかたありません」
「見せてやろうか」川面から目を離さないまま、狐は言った。ニイ、と笑みの形に歪《ゆが》んだ唇は刃物のように魅力《みりょく》的で危険だった。「ここで」
橋姫の笑顔がスウ、と引いた。あれだけニコニコしていた者がいきなり真顔になると、それだけで何となく迫力がある。「本気でおっしゃってる?」
「本気でおっしゃってる」
「お社《やしろ》様が――恵比寿《えびす》神が、お怒りになりますわ」
「知ったことか」
「あの方とはもう会われたのでしょう?あんな姿をしておられますけど、恐ろしい方なのですよ」
「それは知ってる」金儲《かねもうけ》けのために自分の社《やしろ》をぶっ壊《こわ》す神はあまりいない。
「それに、御霊送りは危険な術です」
「死にはせん」
「あなたの身に何か、というのではなくて、この土地に影響《えいきょう》が出るかもしれないということを、あたくしは心配しているのです」
狐は、横に座る老婆の顔を見――
「それこそ俺の知ったことではないな」恐ろしくも美しい冷笑を浮かべた。手に持っていた麦わら帽子をかぶって、立ち上がる。
橋姫は深い溜《た》め息をついた。呆《あき》れているようでもあったし、感心しているようでもあった。
「……あなたが探している女の方のためですか?御霊送りをやろう、というのは」歩き始めたクーの背中に問いかける。「それほどの人物なのですか?」
「いや」空瓶をくるくると回しながら、クーは振り向いた。「ともだち。ただの」
*****
何もしてなくても汗をかくくらいの炎天下、風に扇《あお》られて体感温度は下がるとはいえ、自転車をこぐのはやはり辛《つら》いものがある。あーシャワー浴びてクーラー効《き》いた部屋でアイス食べたい。帰り道の昇《のぼる》は額《ひたい》に滲《にじ》んだ汗を拭《ぬぐ》い、短い溜《た》め息をついた。
いつもの帰宅コースを走り、家まであと数分といったところで、前方を見知った後ろ姿が歩いているのを見つけた。
あれは――
大声で呼びかけると、女の姿になっているクーは足を止め、振り返った。「おお。昇か」
横に並ぶ。「家まで後ろ乗ってくか?それともこのまま歩いて帰る?」
「乗る!」
「じゃあ、そことここに足かけるんだぞ」
昇の自転車には荷台が無いので、二人乗りをするときは後輪《こうりん》を留めるナットに足をかけることになる。体重をかけるには小さい突起であるから、たまにそういう乗り方をできない者もいるが、クーは器用にひらりと乗ってみせた。
クーはやたら軽い。体重が無いのではないかという気さえする。これはやっぱり妖怪《ようかい》だからだろうか。一人で乗っている様な気易《きやす》さでこぎだす。
「あ、そうだ。なあ、クー。佐倉《さくら》のこと、覚えてるか?」
「覚えている」と頷《うなず》き「お前の女だろ」
「………」いきなりの発言に絶句してしまう。
「お前の女だろ」
もうその辺のところは無視して流す。「やっぱ雑鬼《ざっき》のこととか術のこととか、全然憶《おぼ》えてなかったよ」
「当然だ」
「やっぱすごいなあ、お前」
「当然だ。ところで佐倉はお前の女だろ」ぶりかえした。これはきっと、昇が明確に返答するまで、しつこく訊《き》く気だ。
「何言ってんだか」ちょっと怒ったような口調で言ってみた。
「あの娘はお前に惚《ほ》れているぞ」
「何言ってんだか」冷静な口調とは裏腹、昇の腹の中はひっくり返った。みっともないくらいに動揺している証拠に、頬《ほお》から上が熱くなってくる。
その横顔を覗《のぞ》き込む。言葉よりも明確な意思をそこに読み取り、クーはククク、と含み笑いをもらした。「――面白《おもしろ》いな」
顔を背けようにも自転車《ちゃり》運転中のため逃げ場がないから、紅潮《こうちょう》した顔をクーの視線にさらしたまま、昇は憮然《ぶぜん》と呟《つぶ》いた。「なんにも面白くなんてないね」
ククク。「黙《だま》っておいてやるよ」
「……そうして」
「おい、いなり寿司作れるか?」
あまりにも唐突《とうとつ》な質問に、昇《のぼる》は間の抜けた声で「はぁ?」と聞き返した。
「作れるか?」
「えぇえ?――まぁ、一応……」主婦歴十二年ですから。
「よし、作ってくれ。今日の晩飯に」
「ヤだよ。めんどくさい」
「黙《だま》っておいてほしいんだろうが」
「…………」
「作れよ、今日」
「……はい」言いなり。
もしかしたら自分は、守り神であるはずのこの狐《きつね》に、アキレス腱《けん》を握られたのかもしれない……ちょっと将来が不安になった昇だった。
*****
で、夜。
「クーちゃんのリクエスト?」と、食卓の皿の上に並んだいなり寿司を見ながら、透《とおる》が訊《き》いた。
「そうだ。俺《おれ》のりくえすとだ」
「やっぱり狐《きつね》さんはいなり寿司が好きなんだね」と、納得顔。
「好きだぞ」耳を機嫌よくパタッパタッと動かす。「いなり寿司を食うと、何かこう、天下を取った気分にならんか?」
「……いや、別に」と、向かいに座りながら昇。
最後に部屋に入ってきたコウが座るのを見、「それじゃあ、いたーだきーます」と言って、透が箸《はし》を伸ばした――その時、 「ちょっと待ったあ!!」クー、部屋全体が震《ふる》えるような大声を張り上げた。
びっくりして動きを止める一同を見回し、クーは絶世の美貌《びぼう》でニッコリ微笑《ほほえ》んだ。「たまには、外で食わんか」
「は?」昇が首をかしげた。
「外で食う飯は美味《うま》いぞお。それに今夜は月が綺麗《きれい》だぞぉ」
「いや、でも、外で食べるったって――」
クーはカッカッカと偉そうに笑い、昇の言葉を制した。「まぁ、俺に任せよ。良い場所を取ってある」
コウが眉《まゆ》をひそめた。「……天狐《てんこ》様?」
ニヤ〜と笑う。「任せよ」
その瞬間《しゅんかん》、居間が闇《やみ》に包まれた。「わっ」と驚《おどろ》きの声を上げる高上《たかがみ》兄弟。
「え、何? 停電?」
しかし、それは真の闇《やみ》はなかった。百メートルほど離れたところに、無数の光の点がある―― 「え、百メートル?」
慌ててあたりを見渡す。視界0の中であっても、空気の流れや音の響《ひび》き方で、天井《てんじょう》や壁《かべ》が消え、空間が開放されたことが分かる。草の匂《にお》いが濃《こ》い。それに、クーラーの効いた部屋にいたはずなのに、肌に感じる空気がぬるい。
今、自分達は屋外にいる。それはすぐに理解出来た。しかもここは――
「河原……? 弥生《やよい》川の……」透《とおる》が呟《つぶや》いた。
広い河原に外灯などは一切無い。対岸の街の明かりも遠い。しかし、満月が明るかったので、目はすぐに慣れた。慣れるにしたがって、状況が次々と飲み込めてくる。
河原は河原でも、この場所どうやら、橋のたもとらしかった。見上げると、その橋がすぐそばで、大きい影《かげ》になってそびえたっている。横に設置された外灯がぼんやり薄《うす》明るかった。川面にも近い。そういえばさっきから、ひっきりなしにさらさらと水の流れる音がする。横を見ると、羽柴《はしば》神社の小山が、これもまた大きな影になって、星空を黒く切り抜いていた。
足下には御丁寧《ごていねい》にもゴザが敷《し》いてあった。けっこう広いゴザ。薄《うす》い蘭草《いぐさ》越しに、ゴロゴロした丸い小石の感触が伝わってくる。目の前には食卓があり、手を伸ばせば暖かい味噌《みそ》汁の入った椀《わん》にも触れられた。居間にいた全員が、居間にいたときの配置そのままで、河原に座っている。
クーが立ち上がった。どこからかの光に反射して、闇の中、琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》がちらっと光った。
「いい場所だろう?」ニヤリと笑ったようだった。
「いい場所っていうか……」昇《のぼる》が、半ば呆然《ぼうぜん》と言った。「何でまたこんな所に」
「暗すぎてどこに何があるのか分からないよ」と、透。箸《はし》は掴《つか》んだが、これが自分の物かどうかは、暗くて判別不可能だ。
「フン」もぐもぐ「文句ばっかり言いおって」もぐもぐもぐ。
言葉の端々に、何かを咀嚼《そしゃく》するような音が混じった。昇と透は、あ〜っと声を上げた。
「クーちゃんズルい。一人だけ先に食べて」非難がましく言ったのは、かなり腹へりの透。
口の中のいなり寿司を飲み下し、悪びれもせずにカカカと高らかに笑った。「いいではないか。俺《おれ》は今から踊るんだ。空《す》きっ腹では舞《ま》えん」
「踊る?」またまた唐突《とうとう》な事を言う。昇は、クーの意図も目的も一向に理解できず、首をかしげた。
「うん。まあ、ちょっとした余興《よきょう》だ」もぐもぐ。もう一個食い始めた。
「でも無理に見ていろとは言わん」もぐもぐ。「お前らはここで食っていればいい」もぐもぐ。「それと、何があってもそのゴザからは出るなよ。いいな」
そう言いながら自分はゴザから出て、ひとり川面に向かって歩き始めた。
「クーちゃん」と透《とおる》が声をかけると、「食ってろ、いいから」と返ってきた。しかし何となく食事に手をつけられず、食卓の三人は黙《だま》ってクーの影《かげ》を見守った。
クーは川の淵《ふち》ギリギリで立ち止まり、食卓の方に向き直ったようだった。川を背に立っていることになる。踊るといっていたが――あんな所で踊るんだろうか。
対岸の小さな明かりが逆光になるので、クーの影は輪郭《りんかく》がはっきりと見えた。その影法師《かげぼうし》が、すっと右手を目の高さに挙げた。手に何か持っている――ぱっと広げた。扇のようだった。豪奢《ごうしゃ》な造りの扇だ。金箔《きんぱく》の表面が、月明かりを鈍く反射した。
くわぁ――んんん
クーが哭《な》いた。クーのこんな声は初めて聞いた。
まるで鐘《かね》のような声だった。しかし、金属で出来た鐘の音よりももっと柔らかで、繊細《せんさい》な、そしてどこか物悲《ものがな》しげな声だ。本当にクーが出しているのかと訝《いぶか》ってしまうほど、その狐《きつね》の哭き声は劇《げき》的で、そして静かに場の空気を震《ふる》わせた。
クーは声と一緒に、ロから、あの青い炎も大量に放出した。足と地面が接している部分からも同様、青く冷めた燐《りん》が陽炎《かげろう》のように立ちのぼる。青い薄明《うすかか》りの中に浮かびあがったクーは、いつの間に着替えたものか、ワンピースでなく、上下とも白の巫女装束《みこしょうぞく》を着つけていた。
音も無く歩を進め、扇を持つ手を大きく、ゆっくりと動かす。
体のどこかを動かすたびに、着物の袖《そで》から袴《はかま》の裾《すそ》から金の髪の先から、細かな青い炎が蝶《ちょう》の鱗粉《りんぷん》のように空《くう》に舞《ま》った。辺りは一呼吸のうちに、静かな青い灯かりに包まれた。
静かな川面に、青い光が踊っては消える。
くゎあぁぁんくわんわんわん
くゎん、くゎんくゎんわ――んんん
声が夜空に溶ける。
狐火も、高くたち昇っては、煙のように夜風に溶けた。その度に、河原の空気は浄化されるように透明感を増していった。
兄弟は金縛《かなし》りに遭《あ》ったように、ぴくりとも動かずクーを見つめていた。動いてはいけないような気がしてならなかった。半ば呆然《ぼうぜん》と、狐の舞う姿を見守る。
クーが発した狐火は、食卓にまで漂ってきていた。自分の箸《はし》かどうかを確認できる程には明るい。
コウが自分の湯飲みを取って、茶を一口飲んだ。その動作で、兄弟が我に返った。
「すごいね。綺麗《きれい》だなー」夢心地で透《とおる》が呟《つぶや》いた。昇《のぼる》が無言で頷《うなず》く。
それきり、また誰《だれ》も喋《しゃべ》らなくなった。
くゎ――んくゎ――んんん
くわぁああんん
袖《そで》を翻《ひるがえし》し、扇を翻し、蒼《あお》く発光しているような薄《うす》い色の髪を翻して、満月の下、天狐《てんこ》は舞い続ける。
河原の小石が踏みしめられる音がした気がして、コウは振り返った。そこにいた者の姿を見留《みと》め、思わず眉《まゆ》をひそめる。
「ちょっと護《まも》り女《め》ちゃん、そんな嫌そうな顔しないでよ。傷つくなぁ」
その声に昇も振り返り、目を丸くした。「あ、恵比寿《えびす》」
ゴザのすぐそばまで寄ってきていた茶髪の青年は苦笑して、コンビニの制服につつまれた肩をヒョイとすくめた。「おいおい、ついに呼び捨てかい?」
くゎ――んくゎ――んんん
くわぁああんん
恵比寿は、澄《す》んだ声で歌いながら舞い続ける霊狐《れいこ》を見やった。あのヱビス顔を浮かべる。
「いや〜それにしても見事だ。まるで天部《てんぶ》の舞いだねぇ」と、一人、感心しきりに頷《うなず》く。「狐の御霊送《みたまく》りなんて、ホント珍しい。滅多《めった》に見れないよ。……ま、御霊送り自体、珍しいっちゃ珍しいんだけど」
「ミタマオクリ?」透《とおる》が首をかしげる。
「え、御霊送り」と言って目を丸くしたのは、コウだ。彼女にしては珍しく、表情が驚《おどろ》きの形を作っている。「あれが?」
恵比寿がウン、と頷《うなず》いた。「そ。あれが御霊送り――霊力《ちから》の強い者でないと行使できない、〈境界〉をこじ開ける唯一の術だ」
コウは小首をかしげた。「でも……御霊送りって確か……」
「そう」恵比寿はジーンズの尻《しり》ポケットから煙草《タバコ》を出した。「多くの土地神《とちがみ》が使うことを禁止している術だ。もちろん、僕も禁止している」
「え?」と言って、昇が眉《まゆ》をひそめた。禁止しているってことは行ってはいけないってことだが、今この瞬間《しゅんかん》、クーは、その御霊送りと言うヤツを行っている。「えーと……でも……」おろおろと、遠くのクーと近くの恵比寿を見比べる。
「ウン」恵比寿はゴザ上の三人を見芦ろした。もう笑っていなかった。「あの狐はしてはいけないことをしてるんだ。ペナルティは科《か》す」
面食《めんくら》った昇はもうひとつ「えっ?」と言って固まった。透は「どういうこと?」と周りに訊《き》く。
「〈境界〉は死者のもの。生者が触れることまかりならぬ……というのが、暗黙《あんもく》のルールでね」
、恵比寿《えびす》は兄弟に背を向けた。「―― それにねえ、彼岸《ひがん》でもないのに〈境界〉をこじ開けられると土地神《とちがみ》的には迷惑なんだよねぇ……せっかく霊力とか気流とか磁場とか地脈とか、僕が扱いやすいように調律してあるのに、全部乱れちゃうし……また一から直さなくちゃいけなくなるんだよなぁ……」ぶつぶつ文句をたれながら、狐《きつね》に向かっていく。
昇《のぼる》は腰を浮かせた。嫌な予感がする。「恵比寿、ちょっと待ってよ」
「待ってください」と、コウも立ち上がる。
しかし恵比寿は振り返りもしなかった。
嫌な予感は積もりに積もって、昇に「――恵比寿!」と悲愴な《ひそう》ともいえるような大声を上げさせた。兄の剣幕《けんまく》に驚《おどろ》いて、透《とおる》も事の重大さに気づく・
コウは手元にあった湯飲みを引っ掴む《つか》と立ち上がり、ゴザの縁《フチ》ギリギリのところに寄って、解れゆく恵比寿の背に向かって湯飲みの中身を思いっきりぶちまけた――湯飲みの中は空《から》にな
ったが、半分以上残っていたはずの茶は、しかし、一滴も飛び散らなかった。
その代わりのように、恵比寿が次の瞬間《しゅんかん》にも踏《ふ》みしめようとしていた土と石が、パウ、という高い音を立てて弾《はじ》けた。かなり深くえぐられていた。
恵比寿が足を止めた。静かな表情でゆっくり振り返り、コウを見やる。
コウの表情はこれまでにないほど切迫していた。
「……待ってください」
天狐《てんこ》は御霊送《みたまおく》りに集中しなければならない。恵比寿が来たことに気づいてもいないはずだった。そんな無防備な状態の天狐に、今、恵比寿を近づけるわけにはいかない。
くゎあぁぁんくわんわんわん
くゎん、くゎんくゎんわ―― んんん
「……代々、三槌《みづち》の護《まも》り役になる、娘には……」遠い記憶《きおく》を思い出すように、一言一言ゆっくり、恵比寿は述べていく。「たしか、蚊《コウ》か、なんかが、憑依《ひょうい》してる……って、話を聞いたことがあるな。違ったっけ」
コウは何も言い返さなかった――が、
ぐるるる……
ハ、と透は息を呑《の》んだ。
カツノミヤ書店でそうだったように、低い唸《うな》り声のようなものがコウの白く細い喉《のど》から発せられている。あの時と違うのは、その声がひどく剣呑《けんのん》な響《ひび》きを持っている、ということだ。
そして、やはりあの時と同じように、緑玉色の光輝《こうき》が、彼女の目元から頬《ほお》にかけての皮膚《ひふ》の下でチラチラ閃《ひらめ》きはじめた。この薄闇《うすやみ》の中では、それは明るい書店にあったときよりも、はるかにハッキリ見えた。
「コウちゃん……」
透《とおる》がコウの顔を不安そうに凝視《ぎょうし》しているのを見て、兄もコウの顔を見た。しかし昇《のぼる》は目立った反応を見せなかった。そのことに、透は内心でひどく驚《おどろ》いた、――兄には、あれが見えていないんだろうか?
くわぁ――んんん
恵比寿《えびす》は「へぇ……」と短い感嘆の声を上げた。「鱗閃紋《りんせんもん》か。やはりね……でも」左手を伸ばし、まっすぐにコウを指さした。おもむろに、つい、と指の先を下に向けると――
コウはその場に勢いよくベチャッと、しりもちをついた。「イタッ!」
「えっ?」何が起こったか分からない高上《たかがみ》兄弟は、情けなくもなす術《すべ》なく、困惑の視線を恵比寿とコウの間で往復させた。
「わはは〜、忍法 一分間|金縛《かなしば》りの術。影縫《かげぬ》いの術の応用|編《へん》でござい〜」とおどけて言って、恵比寿はチ・チ・チと指を振った。
本当に動けないようで、コウはしりもちをついたその状態のまま、「ううーっ」と実に悔しそうに唸《うな》った。頬《ほお》の鱗閃絞がジリジリと鈍く輝《かがや》く。
「竜族が宿っていても、君自身が人の身であることに変わりはないんだろ。その結界から出るのは危険だよ。黙《だま》って座ってな」内容は親切だがロ調は冷徹《れいてつ》に言い放ち、恵比寿は歩き始めた。
「待って!」コウが大声を上げた。恵比寿は振り返らない。
辺りが静かになっていた。
クーが、舞《ま》うのも哭《な》くのも止《や》めたのだ。
だが、それだけがこの異様な静けさの原因ではなかった。恵比寿の動向が気になってしょうがない高上《たかがみ》兄弟と護《まも》り女《め》は、気付いていないようだが――
川の流れが止まっている。
微弱ながら確かに吹いていた夜風も死んだように途絶《とだ》えている。
それに、これは土地の神である恵比寿にしか分からないことだが’――流れて当たり前のもの全《すべ》てが、流れるということを止めてしまっていた。気流・電流・地流・水流・磁流・胎流・霊《れい》流……そして恐らく、時すらも。
やってくれたよ、この天狐《てんこ》。。
失敗するとは思えなかったが、なにぶん高度な術であるので、成功しないのではないか、という気も正直していて、半信半疑だったのだ。だが、この状況からして、どうやら成功したようだ。〈境界〉の鍵《かぎ》は開いてしまった。
だが肝心の扉は、まだ開かない。
この場に土地神がいるから――
天狐《てんこ》は目的を達するため、土地神を全力で排除しようとするだろう。
扇を目の高さで静止させてクーは片膝《かたひざ》をつき、目を閉じて、じっと息を殺していた。大きく深い溜《た》め息をつくと立ち上がり、手にしていた扇をパタンと閉じて、自分から十歩ほど離れたところで煙草《タバコ》をふかしている恵比寿《えびす》を睨《にら》んだ。
一方の恵比寿は、ニヤーンと笑った。「天狐どの、顔色悪いんじゃない?」
「バカな」クーは鼻の順に皺《しわ》を寄せた。「狐《きつね》の顔色が変わってたまるか。明かりが青いからそう見えるだけだ」
口ではそう言うがl――昇《のぼる》には、クーは確かに樵悴《しょうすい》しているように見えた。顔色が悪いとかではない。ただ、何となく――普通と違う。常より覇気《はき》が無いというか……そんな気がした。
恵比寿は、指に挟んだ煙草《タバコ》の灰をトントンと落とした。「見せてもらったよ、御霊送《みたまおく》り」曖昧《あいまい》な笑いを浮かべて、ウーン、と唸《うな》る。「使うことは許さないって言ったはずなんだけどなあ」
彼《えびす》を見返す狐のその目が、いっそう鋭《するど》いものになる。「俺《おれ》にあんな詞《ことば》を授けるからだろうが」
「あっれー?気に入らなかった?」
「御霊送りをしろと言わんばかりの内容だったではないか」なにかイライラしているらしく、手の中の扇を親指で開けたり閉めなりしている音すら、角立《かどだ》っていて、鋭い。
一方の恵比寿は、いつも通りにニコニコしている。「それはまるで僕が悪いみたいな言い方だねぇ」
「お前が悪いからな」と、そこで顔を憎々しげに歪《ゆが》めた。「もうどうでもいいから早くどっか行け。お前がいると、開くもんも開かないんだよ」
「それは当然だ。開かないようにしてるんだもーん。開いたら一番困るの僕だし」
金の髪の美女の眉間《みけん》から鼻筋にかけて、深い皺が浮かんだ。ロからゆるゆると青い狐火が漂いだす。「なら、ぶちのめすまでだ」
恵比寿は微苦笑すると、煙草《タバコ》を持ったほうの手を顔の高さに持ち上げて、蝿《はえ》でも追い払うような仕種《しぐさ》で、小さく振った。
クーの体が勢いよく後方に飛んだ。まるで何者かに突き飛ばされたかのようだった。石ばかりの地面に背中を強打する。「――だっ!」
透《とおる》と昇がガタッと食卓を揺らして立ち上がった。
それを視界の端に捉《とら》えたクーは上半身だけ持ち上げて、「出るな!」と声を張り上げた。「絶対、そこから出るな!護《まも》り女《め》、出すなよ!」兄弟は、グウッと詰まったが、素直に座りなおした。コウは、一分|経《た》ってないのでまだ動けないのだが、「はい!」と、張り切った様子《ようす》で頷《うなず》いた。
恵比寿《えびす》がクーのすぐそばに立った。憮然《ぶぜん》とした表情で狐《きつね》を見降ろし――「急場しのぎで祀《まつ》り上げられたマガイモノの神が、真性の神に敵《かな》うとでも?」
そう言ってから恵比寿は、クーが参拝に行った日、石段の下で見せた、あの真冬の空気のような危うさを持った気配《けはい》の中で、氷のような微笑を浮か、べた。「おもしろいね。でも無謀《むぼう》だ」
クーはそんな恵比寿を、畏怖《いふ》を持って見上げた。そして、
「マガイモノにはマガイモノの意地がある」
一変、顔を嘲笑《ちょうしょう》に歪《ゆが》めると、声高く笑った。
その声に乗って、黒い煙のようなものが、狐の周りの地面と言わず空気と言わず、あらゆるところから勢いよく噴出《ふんしゅつ》し、一瞬《いっしゅん》で恵比寿の視界を覆《おお》った。それは恵比寿の周囲ばかりに集中しているのではなく、この瞬間にも直径を拡《ひろ》げているようで、暗い色がどんどん濃《こ》くなっていくのが、内部にいても明らかだった。
天狐《てんこ》を見失った。恵比寿は目だけ動かして周囲を探った。しかし、この霧《きり》の中では視覚なんて何の役にもたたない。
狐《きつね》が発する黒い霧は金気《ごんき》を帯びているため触れれば火傷《やけど》のような傷ができ吸い込めば肺はただれ呑《の》めば幻覚を起こし発狂す……んだっけ?忘れちゃったな。まぁいいや。
恵比寿神ほどになると、この程度の術の影響《えいきょう》を受けたりはしないのだが、やっぱり――
「面倒《めんどう》くさいなぁ………」
この霧――霧というよりは真綿《まわた》のようで、囲まれるとなんだか圧力がかかってきて動きは鈍るし、視覚はもちろん聴覚《ちょうかく》も遮られて、うっとうしいことこの上ない。さらにムカツくことにこれは作為的に霊力《れいりょく》の込められた霧であったから、この中にあっては周囲の気配を探ることも困難、自分が今どの辺に立っているのか把握するのも困難、なのだった。
そのとき、背後で足音が立った。
なんだよ、バレバレだな。
恵比寿は重苦しい霧を割って振り返り、手を伸ばした。バスッという鈍い音がして、恵比寿のすぐ近くまで忍び寄ってきていた人影《ひとかげ》は、金と白の残像を残し、後方に弾き飛ばされて黒い霧の中へかき消えた――と思った瞬間、まったく予想外のところから白磁の腕が伸びてきて、恵比寿の腕を強く掴《つか》んだ。そこに霊力が集中する。
恵比寿は息を呑《の》んだ。
一方、霧の外は――
霧の中より恐慌状態にあった。
「ダメです!」珍しく怒った声を上げながら、 コウが、昇《のぼる》の服の裾《すそ》と透《とおる》の腕を掴み、結界《ゴザ》外へ出ようとする二人を必死で引きとめていた。彼らがゴザから飛び出そうとした瞬間、一分が経通し、ギリギリ引き止めることに成功したのだ。
透《とおる》が食卓に乗り上げたので、味噌《みそ》汁とかお茶は、あらかたひっくり返っている。
「だって見えないんだよ何だよアレあの黒いのいきなり出てきて見えなくなっちゃってさ、だいたいクーちゃんは踊ってただけで何も悪いことしてないのにオーナーさんどうしてあんなふうに――コウちゃん、あの中どうなってるの!?」ちょっと涙目になりつつ、透は非難を護《まも》り女《め》にぶつけた。
その護り女も、いまだかつてなかったほどの感情の渦の中に放り込まれたパニックで涙目になりつつ、鱗閃紋《りんせんもん》をチカチカ明滅させ、「この結界から出ちゃダメなんです!」答えになっていない答えを返す。
「ああもうっ。どうなってるんだ何なんだよっ!出たらどうなるってんだっ」兄の方は弟よりもいくぶん冷静だったし、コウに怒鳴ったって何も解決しないことは心の中では理解していたのだが、やはり声を荒げてしまう。
「えっと………えっと、あの」もともと説明べ夕なところに、『みんな怒ってる』というプレッシャーと焦りが団子となって襲《おそ》いかかり、パニックに拍車がかかる。「………えっと、あの、〈境界〉が開きかけてるから、あの、人の身だとグニャーッてなって、こう、グ、グルグルってグルグルってなるんです。それから、ビューンッて、飛んでいっちやうんです」
……どこへ……?
彼女なりに必死なのだろうが、某野球|監督《かんとく》だって首をかしげるこの説明では、よけい訳が分からない。
自分の腕を見降ろし、恵比寿《えびす》は内心で舌打ちした。
……あンの化けモン狐《ぎつね》……
彼のその腕は天狐《てんこ》に掴《つか》まれたところで深くえぐれていて、とう骨なんかは完全に持っていかれていた。でも、血が一滴も出てきてないし痛そうな顔もしていない辺り、彼はやっぱり神様である。
恵比寿が最初に弾《はじ》き飛ばした人影《ひとかげ》はダミーだったというわけで、そもそも、気配《けはい》を隠して獲物《けもの》に近づくのが得意なはずの狐が、あからさまに足音を立てて背後に立つということは、よく考えてみると――よく考えてみなくたって、あり得ないことだった。
天狐は恵比寿の腕の肉を削るとすぐさま離れ、再び霧《きり》の中に身を潜《ひそ》めた。今も、こちらの動きを息を殺して見つめているに違いない。
御霊送《みたまおく》りなんて荒技使ってるし、霊力だってかなり――本当に、ギリギリのところまで消耗してるはずなんだけど……油断していたとはいえ、まさかこんなケガさせられるとは……計算外だった。さすがは天狐、さすがは三槌《みづち》の守り神に祀《まつ》り上げられたモノ、というべきか。
でも。
えぐられた箇所を掌《てのひら》でそっと撫《な》でると、あれだけ深かった傷は、嘘《うそ》みたいにキレイに元に戻った。煙草《タバコ》をはさんだままの唇を歪《ゆが》め、不敵に笑う。「直接|霊力《れいりょく》送り込まないと効果出せないあたり、やっぱ余裕がないようですな」
顔を上げ、周囲に向かって声をかける。
「天狐《てんこ》どの、聞こえてるだろ。――質問です。この土地の中で最も霊力を上手《うま》く扱えるのは、ダ〜レだ?」
返事は、もちろん、無い。だが恵比寿も返事を期待しているわけではない。
「正解は……」ニッタ〜と笑う。「……神《かみ》だよ、ぼ・く。――天狐|空幻《くうげん》、|こちらに来い《、、、、、》!」
黒い霧《きり》を割って金髪の人影《ひとかげ》が飛び出し、恵比寿の足元に突っ伏した。
「――クソッ!」
顔を上げて恵比寿を睨《にら》む。金の髪の下には美貌《びぼう》が浮かんでいたはずなのだが今は、口が耳まで裂けて牙《きば》を剥《む》き出しにした半人|半獣《はんじゅう》の顔があるばかりだった。
恵比寿はそれをニコニコと見降ろし、「名を支配していようがいまいが土地の神なら言霊《ことだま》が成功する率は高いんだってこと、君だってよく知ってるだろ?だから無謀《むぼう》だって言ってるんじゃん……空幻、|この霧を収めろ《、、、、、、、》。ウザイから」
「ヤなこった!……って、だあもぉクソッー」口では抵抗しながらも、クーの手は霧に向くと、クルッとひとつ輪《わ》を描いた。すると、あれだけ重苦しく漂っていた霧は、空中に溶けるようにあっさり消えてしまった。
ゴザ上の三人からも恵比寿とクーの姿が見えるようになる。一瞬《いっしゅん》、安堵《あんど》するが、クーが倒れこんでいるのを見て、また青ざめた。
恵比寿は腰に手を当て、アハハハハと高笑いしたりする。「今の霧で残ってたナケナシの霊力も使い切ってしまっただろー」
「うるさい!」クーは牙を剥いて、吠《ほ》えた。「いいから早くどっか行け!」
それを見降ろすコンビニオーナーの顔に浮かんでいるのは、やっぱりいつものニコニコ顔である。「ハハハ、威勢だけはいいなあ」
自分の霊力の残量と相手の力量を照らし合わせるまでもなく、もう、どう考えたって絶望的な状況である事くらい、クーだってバカじゃないから、自分でも分かっていたのだが――
ここで諦《あきら》めるわけにはいかなかった。
このまま(境界〉を閉じさせるわけにはいかない。
どうしても。
天狐の眼光は弱まるどころか、さらに苛烈《かれつ》に燃えた。「どっか行け!」
「つーか、さあ、手ぶらでは帰れないわけよ、やっぱり」恵比寿は頭をポリポリかきながら、世間話でもするかのような、のんきくさい顔で言った。「君は罪を犯したわけだから、それ相当の罰金は徴収させてもらうよ」
嫌な予感が走った。顔が思わず沢む。「……罰……」
「うん。……あ〜、参考までに言っておくけど、実は、この土地で御霊送《みたまおく》りをしたのは君が初めてじやない。すンごい昔だけど、過去に一人、いたんだよ、御霊送りしたヤツ。人間だったけど。……もちろん、僕は彼を罰した。この土地で禁忌《きんき》を犯した者からは、体の一部をいただくことにしている。そのときの彼からは、左腕をもらった」
恐ろしいことをサラッと言う。
嫌な具合に冷たいものが、ゴザ上の昇《のぼる》と透《とおる》の胃の中を滑り落ち、鳥肌を立たせた。
「君からは、何をもらおうかな〜?」するとニコニコ顔から一変、恵比寿《えびす》の顔には同情的とも言える悲しげな表情が浮かんだ。それが芝居《しばい》くさく見えないこともない。「……僕も一応、責任は感じてるんだよ……君が御霊送りしたのって、なんだかんだ言ってやっぱり僕の詞《ことば》が原因だがらさ……。だから、その辺も考慮《こうりょ》に入れて……」
すると恵比寿は、ビシッと親指なんか立てて爽《さわ》やかに、
「髪でいいよ!」と、言い放った。
狐《きつね》は眉《まゆ》をひそめた。「髪……?」
恵比寿の言葉に殺気立ったのは、クー本人よりも外野だった。「なにぃ!」と、昇と透が腰を浮かせる。
「なに考えてんだテメェ、このバカ恵比寿!」
「根性ワル!」
しかし恵比寿は外野の野次《やじ》など気にも留めず、(「親の顔が見たいわ!」「茶髪似合ってないぞー! ハゲろー!)しかし恵比寿は外野の野次など気にも留めず、(「コンビニ漬れろ!」「呪われろー!」)しかし恵比寿は外野の野次など気にも留めず、(「髪フェチ!」「警察呼ぶぞー!」)しかし恵比寿は外野の野次など気にも留めず、ニコニコと笑っていた。開き直ったように胸を張り、「いいじゃないか、ライトで。髪ならまた生えてくるし、切り取るにしたって、髪なら痛くも痒《かゆ》くもないだろ?」
無言で、狐は恵比寿を睨《にら》む。
「それとも腕とか足とかの方がよかったのかい?」と言ったそばから、図々《ずうずう》しくも両手を差し伸べてきた。「だから、ちょーだい、髪の毛」
狐はプイとそっぽを向いた。「ヤなこった」
その反応が予想外だったか、恵比寿はちょっと目を見張ったが、負けじと、「ちょうだいよ」
「ヤだね」
「ちょうだい」
狐は今度はべーと舌を出す。「ヤ・な・こっ・だ」
ちょっとムツとする。「ちょうだいって」
「しつこい」
ますますムツとする。「ものすごく譲歩《じょうほ》してやってるのに」
狐《きつね》は鼻の横に皺《しわ》を寄せる。「俺はお前に何かをやる、ということ自体が嫌なんだよ」
「ハハハ、まったまた。もう一回ぶちのめされたいのアンタ」とヒキつった顔で笑う恵比寿の後頭部に、ガツン!と、勢いよく飛んできた何かが当たった。「イッテエッ!?」
後頭部を押さえてうずくまる彼の足元に落ちたのは――湯飲みだった。
「ボケナス――!」透《とおる》が、けっこう見事なコントロールで投げたのである。
恵比寿は頭をさすりつつ振り返り、自分を睨《にら》んでくる高上《たかがみ》兄弟を見つめた。怒るのではないかと思われたが、意外にも、優しい笑みを浮かべる。「キミってさ、ホント、愛されてるよねえ……」
恵比寿がよそ見をしていた一瞬《いっしゅん》の隙《すき》をついて――クーは傍《かたわら》らの川面《かわも》に向かって腕を伸ばし空中に何かを描《か》こうとするように、すばやく指を動かした。
「ああまで言われちやしょうがないよね。よーし、じゃあギャラリーのリクエスト通り、穏便《おんびん》にいこう。話し合いだ。ねーえ、天狐《てんこ》どの。髪の毛だよ髪の毛。腕とか足とかじやなくて、髪の毛。悪い話じゃ……」と、恵比寿が向き直る――
その一歩先に、クーは早口で一気にまくし立てた。「(前地の三〉(前天の六〉〈前地の一〉(後地の三〉!)
ハッと恵比寿が川面に顔を向けたのと、川面から飛び出したバスケットボール大の水の球が恵比寿の顔面を直撃《ちょくげき》したのは、ほぼ同時だった。
「ぶ」
かなりの速度で飛んできた水球はぶち当たったところで弾《はじ》け、コンビニの制服を水浸しにした。恵比寿は水球の勢いに負け、豪快にひっくり返った。「くそ、まだ術を使えるのか!」顔を拭《ぬぐ》いながら半身を起こし、「待てって。話し合っ――」
「ちょ、待っ――」
恵比寿が手をついているその地面が、生き物の肌のような生々しい動きでブクッと膨《ふく》れあがった。「おわっ?」――次の瞬間、無数の石ころを撒《ま》き散らしながら、黒く温った粘土質の土が人の背丈ほども伸び上がり、津波のように雪崩《なだ》れて恵比寿に覆《おお》いかぶさった。「ぶわっ!」というくぐもった悲鳴を残し、恵比寿は生き埋めになった。
ここに来てようやく立ち上がったクーの顔に、あの傾国の美貌《びぼう》はなく半人|半獣《はんじゅう》ですらな完全に狐《きつね》のそれだった。二本足で立ってる狐に、金髪のカツラをかぶせて白|装束《しょうぞく》を着せているようなものだ。狐は舌をだらりと出して、ハッ、ハッ、と荒い息をしていた。
喚《よ》び出した涅《クロツチ》が恵比寿を取り込んだまま、じわじわと地面に溶けるように帰っていくのを見――
「ホント、血の気が多いんだから。話し合おうって言ってるのに」
すぐ背後からかけられた声に驚《おどろ》いて、飛び上がって振り返った。クーから数歩しか離れていないところに、悠然と恵比寿《えびす》が立っていた。彼の衣類のどこにも水のかかった跡は無かった。
染みひとつ汚れひとつ無い。くわえている煙草《タバコ》にも、小さいがよく目に付く赤い火が点っている。
琥珀《こはく》色の目が、目尻《めじり》が裂けんばかりに聞かれた。
恵比寿はいつものニコニコ顔を浮かべる。「おやおや。人間の顔も保てなくなったみたいですな。これ以上やると死んじゃうよマジで」
悔しいがその通りであった。現に、しばらく前から、あの青白い燐《りん》すら出なくなっている。
狐《きつね》は鼻筋にしわを寄せ、ウウ、と唸《うな》った。
「もうカンネンしなって〜。ほら、髪の毛を寄こしなさい」と、水をすくうような形に合わせた両手を再び前に突き出した。
狐は、差し出されたその手に噛《か》みつかんばかりに牙《きば》を剥《む》いて、グワッと吠《ほ》えた。
「うわ」慌てて手を引っ込めつつ、呆《あき》れ顔。「その状態でまだやろうっての? ったく……しょうがないな……」パンパン、と手を叩《たた》く。「光牙《こうが》、影牙《えいが》!」
狐がハッと息を呑《の》んでゴザに視線を移したのと、ゴザから何メートルも離れていない地面が二ケ所、ぶくっと、屈《かが》んだ子供の大きさほどに盛り上がったのは、ほぼ同時だった。その土饅頭《どまんじゅう》が狛犬《こまいぬ》の姿を形成するのに時間は数秒も要《い》らず、そして地面から湧《わ》いてきた狛犬二頭は、ゴザ上の人間に向けて低く唸り、牙を剥いた。
「うわっ!」昇《のぼる》はゴザの上を思わず後退《あとずさ》った。
「あ、狛犬……羽柴《はしば》神社の……」震《シン》にやられて木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になったものと思っていたが、どうやら無事だったみたいである。透《とおる》は、こんな状況下ではあるが、ちょっと安堵《あんど》した。
クーは恵比寿を、今までにないほど恐ろしい顔で睨《にら》みつけた。怒りのあまり、獣《けもの》の貌《かお》を覆《おお》う毛という毛が逆立ち、瞳孔《どうこう》が開ききる。「卑怯《ひきょう》者が」
そんな狐の顔を真正面から受け止めても、恵比寿は笑顔を絶やさない。「髪を寄こさないなら、もう結構。そのかわり、あの兄弟の命をいただく。三槌《みづち》の血を引く彼らの魂なら、君の髪の代わりは充分務まるしね――って、僕だって本当はしたくないんだけどなあ、こんなこと」
護《まも》り女《め》は、卓上にあった麦茶入りの二リットルペットボトルを掴《つか》むと、兄弟を自分の背後にかばうように前に出て、二頭の狛犬と対峙《たいじ》した。「入ってこないでください」
持っているのが麦茶のペットボトルなのでヴィジュアル的にいまひとつ迫力がないが、水《ミ》ツ霊《ち》の護《まも》り女《め》が手にした一定量の水は、テロリストが持つダイナマイトに匹敵するほど危険な武器になる――と、いうことを知っていた狛犬は、低く唸って威嚇《いかく》しながらも、迂闊《うかつ》に近づけないでいた。
が、高上兄弟はそんなこと知る由もないので、コウはペットボトルなんかであの石の化け物と殴り合う気だ、と思い込み、絶望的な戦況を思って青ざめた。
その瞬間《しゅんかん》の、普段《ふだん》はスローテンポであるはずの透《とおる》の頭の回転と行動は、恐ろしく迅速だった。コウちゃんを怪我《けが》させるわけにはいかない。狛犬《こまいぬ》は退《しりぞ》けたい。だがこちらには石の化け物に対抗できるような武器はない――ならば道は一つしかなかった。
「待った!」と叫んで一同を驚《おどろ》かし、「ボクたちも、話し合いでいこう!」という発言で、さらに度肝を抜いた。
ボーゼンとしている周りを差し置いて透は箸《はし》を取ると、焦りと恐怖で手が震《ふる》えそうになるのをこらえながら、小皿にいなり寿司《すし》を四つほど取って、膝《ひざ》でコウの横へにじり寄り――「どうぞ」と、狛犬の前に皿を置いた。
コウは目を点にしたが、
狛犬達からは、「「オー」」と、ささやかな歓声があがったりする。透の顔と小皿を見比べ、「これは、どこのいなり寿司で……」「メレンゲ堂の寿司屋のですか、それとも萩《はぎ》寿司の……」
首を横に振る。「ウチの兄ちゃんが作った」
「へぇー、手作り?」「うまいもんですなあ、売り物みたいだ」
ちょっと照れる昇《のぼる》。「いやぁ」
これはうまく話し合いに持ちこめるのではないか、と高上兄弟がほくそ笑んだとき――
「おい、コラ!」遠くから主《えびす》の叱責《しっせき》が飛んできた。「仕事しろ、仕事!」
ビクッと飛び上がって、狛犬二頭は急いで目の前のいなり寿司を食うと(出されたものは食う)、豊かな巻き毛の尻尾《しっぽ》を、ゆら、と大きく揺らした。その尾の周囲に、羽柴《はしば》神社で見たときのような、野球ボール大の火球がポッポッと数十個、出現する。
これに怒ったのは他《ほか》ならぬ昇だった。食卓をパンと叩《たた》く。「テメェら、食うだけ食いやがって!」
モグモグ「悪く思わないでください」モグモグモグ。
む……むかつく……
顔に緑玉色の光輝《こうき》をさざめかせながら、コウはペットボトルのフタを取った――これもヴィジュアル的には地味なのだが、ダイナマイトを持ったテロリストで例えるなら『導火《どうか》線に火をつけた』くらいには危険な動作なのである。
「やれ!」という恵比寿《えびす》の声と、
「待て!」という天狐《てんこ》の声が、重なった。「渡す!髪の毛でいいんだろう!?」
狛犬の動きが止まり、彼らの尻尾の周囲にあった火球も掻《か》き消えた。
恵比寿は緩慢《かんまん》に振り返りながら、親指と人差し指で輪《わ》を作り――「全然OKっス!」ホクホク顔。「も〜、最初から素直に渡してれば、こんな険悪なことにならなかったのにさ〜」
クーは強く舌打ちした。獣《けもの》の面《おもて》に実に不愉快そうな表情を浮かべる。「刃物が無いぞ!」かなりイラついているようで、声も棘々《とげとげ》しい。
恵比寿《えびす》はニコニコしながら制服の胸ポケットからハサミを取り出した――散髪用のハサミである。用意良すぎ。
受け取ったクーは、つかんだ端から思い切りよくバリバリと髪の毛を削《そ》ぐように切り落とし、恵比寿の手に叩《たた》きつけていった。美しい髪なのに、特に執着はないらしい。一房が切り取られ
るたび、ゴザのほうから「あ〜あ」「あーあ」と、がっかりした声が投げかけられる。恵比寿に対する非難が少なからず混じっている。
「恵比寿のために髪切ることなんかないのに……」
非難ばっかり浴びている土地神《とちがみ》様は、しかしそれらを露《つゆ》ほども気にすることなく笑顔で振り向き、「それは違うよ透《とおる》く〜ん。天狐《てんこ》どのは僕のためでなく君らのために髪を切ってるんだよ」
「余計なことを言うな!」クーは髪の束を恵比寿に叩きつけた。
鏡《かがみ》も見ずに豪快に切ってキレイに切りそろえられるはずもなく、場所によって長かったり短かったり、クーの頭髪は見るも無残《むざん》な状態になった。顔がいつもの美貌《びぼう》ならともかく、今は狐《きつね》の貌《かお》なので、おどろおどろしいことこの上ない。
最後の一束を渡し、ハサミをつっ返すと、金の髪の束を抱えた恵比寿は「わーい、ありがとう!」と、子供のように喜んだ。
その喜びようは、ただの『罰金徴収』をはるかに超えたものである気が、どうしてもして、クーは尋ねずにはいられなかった。
「……何を企《たくら》んでる?」
恵比寿は天を仰いで額《ひたい》を押さえ、「オウ!」と芝居《しばい》がかった嘆息を漏らした。「君は僕が常に何かを企《たくら》みながら生きているとでも言いたいのか?失敬な!僕が日々案じているのはこの土地の安寧《あんねい》と人々の健康だけだよ」
「嘘《うそ》つけ」
「嘘なもんか」くるっと踵《きびす》を返すと、「じゃあね!バイバイ!」と、狛犬《こまいぬ》とともに、元気いっぱいに駆け去っていった。
ゴザ上の高上《たかがみ》兄弟は半ば呆然《ぼうぜん》と、いきなり出てきていきなり去っていくその背を見送る。
一方のクーは、ひざまずくと、まだ辛うじて人間のそれだった手を地につけた――着物の白さの残像を一瞬《いっしゅん》残して、クーは原身である四本足・金毛の狐の姿に戻った。
恵比寿はここにいる間中ずっと、〈境界〉が開かないよう、干渉していた。その恵比寿がこの場を離れたため、〈境界〉は今、完全にその口を開けようとしている。いくら天狐とはいえ、今の状態で結界《ゴザ》の外にいるのは危険だった。どうにも四肢に力が入らないが、それを気取《けど》られないように堂々と歩いて、食卓に着く。
すると今度は高上《たかがみ》兄弟の質問|攻撃《こうげき》が襲《おそ》ってきた。
「ちょっとお前、クー、大丈夫か?」「どこもケガしてない?」「なんなんだ、あの恵比寿《えびす》ってヤツぁ」「あれホントに神様?」「詐欺《さぎ》師だろ」「あの人って日本の刑法で裁けるのかなあ」「なあクー、本当に大丈夫か?」
「いいんだ……いいんだ、俺《おれ》の目的は達したんだから」一度にまくし立てられて、ちょっとゲッソリ。「質問は後にしてくれ。それより水くれ、水」
「あ……お茶はコウちゃんが」持ってる、と透は言いかけ、やめた。食卓の端に無言で座りこんでいるコウが、まるで何かに取り憑《つ》かれたような不穏《ふおん》な動きで、頭部を前後左右にゆらゆら揺らしていたのである。目はウツロ。
なんかヤバイ、と透が不安を抱いた瞬間《しゅんかん》、どこかしらで辛うじて保たれていたコウの体のバランスは崩れ、スローモーションのVTRのように、ゆっくり前に倒れこみ――
ガァン!と少々殺人的な音を立てて、額《ひたい》を天板に打ち付けた。食卓に乗っていたもの全てが、一瞬《いっしゅん》、浮いた。
昇《のぼる》はその音に驚いて飛び上がった。「うわっ?」
「コウちゃん!」透は蒼白《そうはく》になる。
「放っといてやれ」狐《きつね》は冷静である。
「ほ、放っといてやれって……放っといていいの?」とてもそんな風に思える音ではなかったのだが。
しかし狐は自信を持って頷《うなず》く。
高上兄弟について鈴ノ瀬《すずのせ》に来て以来、コウは、三槌《みづち》にいたときには考えられないほど多くの感情を経験《けいけん》しているはずだった。それは生まれてこの方、ずっと無感情を通してきた護《まも》り女《め》には心身ともにたいへんな負担になっているに違いなく――だがそれにも、そのうち慣れてくるのではないだろうか。現に、この数日で護り女の表情が、初めて会ったときとは比べ物にならないくらい豊かになっていることに、天狐《てんこ》は一応、気づいていた。そのうち、普通の女みたいに笑ったりできるようになるんじゃなかろうか、とも思う。
……のだが、その辺を説明するのは面倒《めんどう》くさいので省略し、「疲れて眠ったんだろう」とだけ、告げる。「それより早く水くれ」
眠ったというより意識《いしき》を失ったという感じだったが……
釈然としないまま、とりあえず透はコウが抱えていたペットボトルをそっと抜き取り、食卓にあった手つかずの小鉢に麦茶をなみなみと注ぐと、クーの前に出してやった。クーは「うむ」と頷《うなず》くと鼻先を小鉢に突っ込んで、ガブガブ飲み始めた。
霊力《ちから》を激しく消耗すると、飢餓《きが》感に似た不快感が生まれ、喉《のど》が渇くものなのだ。
狐が小鉢から顔を上げた。「おい昇、食いもん寄こせ」と、用件だけ言うと、またガブガブ麦茶を飲み始める。
「……へぇへぇ」もぉホント言いなり。
昇《のぼる》は食卓の上を眺めた。透《とおる》が乗り上げたり昇が引っくり返したりコウが頭ツキ喰らわせたりした結果、食卓の上に乗っているもので食せそうなものは、いなり寿司《ずし》だけとなっている。 「なあ、クー。いなり寿司しかないんだけど、お前、酢メシ、喉《のど》通るか?具合悪いんなら家帰ってから雑炊《ぞうすい》とか作るけど」
「う〜ん?まあ、別に、だい……」
背後に何者かの気配《けはい》を感じたクーは小鉢から顔を上げ、静かに振り返った。透もつられて、そちらを見やり――
”見えた”。
思っていたよりずっとそばに立っていたその姿に、思わず息を呑《の》む。見えていない″兄だけは、「なあ、聞いてんの」と、普通の調子。
*****
弥生《やよい》川にかかる橋にひと気は無く、数分に一度、車が通過するだけだった。住宅地の夜なんて、だいたい、こんなものである。
欄干《らんかん》にもたれかかっている老婆がひとり、あった。飛び降り自殺しようとしているのではないかと思われるくらいに身を乗り出して、眼下の一家族の様子《ようす》を覗《のぞ》き込み、柔和に目を細めている。その様子は少し、羨《うらや》ましそうでもあった。
向こうの歩道から駆けて寄ってくる人影《ひとかげ》があった。街灯の明かりの中に入ってきたのは、コンビニの制服を着た、この土地の神だった。
「ほらほら!見てくれよ、橋姫!」と嬉《うれ》しそうに言って、彼は抱えている金髪の束を橋姫の目の高さにまで持ち上げた。「天狐《てんこ》どのの髪、ゲットでちゅ〜」
老婆の姿をしている橋姫は、不思議《ふしぎ》そうに首をかしげた。「どうするんですの?髪なんて。そんなにたくさん」もっともな疑問である。
恵比寿《えびす》は、よくぞ訊《き》いてくれましたとばかり、胸を張った。「これを一時期|流行《はや》ったミサンガみたいに織《お》って、和風テイストのブレスレットなんかを作ろうかな、と思ってる」
「作って、どうするんです?」
「売る」
「――うる」と呟《つぶ》いて、橋姫はしばし絶句した。この土地神《とちがみ》はしばしば彼女の予想をぶっ超えたことをする。「……どうしてまたそんなことを思いつかれたんです?」
「この前、透くんが、天狐どのが作った組紐《くみひも》を腕に巻いてるのを見かけてね……なんつーか、こう、ピピッと来たんだよ。これは売れる!と思ったね、僕は」恵比寿は、自分のこめかみを指の先でコツコツ叩《たた》いた。
「あの……それ、誰《だれ》が買うのですか?」
アッハハハハと笑いながら、ご機嫌《きげん》い様子《ようす》で答える。「いるんだよ。こういう怪しげな妖怪《ようかい》グッズ、どんな大金叩《はた》いても欲しがるヤツ。霊狐《れいこ》関連のアイテムなんて滅多《めった》に市場《しじょう》に出てこないし、闇《やみ》マーケットにウワサ流しただけで、も〜入れ食いだね。あの三槌《みづち》の空幻狐《くうげんぎつね》の毛から作った厄除《やくよ》けのお守り、とか銘打《めいう》ったら、ヒット間違いなしだって。しかもマガイモノじゃないんだよ、これ、本物なんだよ。営業しだいではプロの霊《れい》能力者にも売りつけられるよ……いや〜も〜今から笑いが止まんないね」
「そうなのですか?」ちょっと疑わしそうな目で恵比寿《えびす》を見上げる。
恵比寿は知ったような顔をしてウンウンと頷《うなず》いた。「橋姫。世の中は広い。いろんな人間がいるんだよ。変な人間なんてのは、たーくさん、いるんだ」
「……そうなのですか」理解したかどうかは定かでないが、橋姫は、少女のようにコトリに頷《うなず》いた。「お社《やしろ》様……もしかしてこのために、あなたは天狐《てんこ》さんに御霊送《みたまおく》りをするよう、しむけたのですか?」
もちろん、と言って大きく頷いた。「普通に『くれ』って言ったって、くれないだろう、髪の毛なんて。特にあの天狐どのはプライド高いし。無理に取ろうとしたら僕と天狐どのの大ゲンカになって、このあたり一帯、焼け野原になっちやうよ。でも、こういう形でなら、無理なく回収できる――ま、予想以上にねばられちゃったけど」
橋姫は、思い出し笑いするように徴笑《ほほえ》み、「苦戦してらしたわね」
「まぁね」苦笑する。「まぁどのみち、どんな汚い手ぇ使っても髪の毛は手に入れてたけど」
橋姫は細い目をいっそう細めると、口に手を当て、フフフフ……と上品に笑った。「本当に、恐ろしい方」
「それはほめ言葉かい?」
「もちろんですわ」フフフフフフ。
「それはよかった」ハハハハハハ。
ひとしきり笑って、恵比寿は眼下のゴザを見降ろした。
実を言うと、あの川のほとりでなくては〈境界〉に干渉できないというわけはなく、例えばこの橋の上にいたって、土地神《えびす》がその気になれば、〈境界〉の扉を開けないようにするくらいのことは、橋姫との談笑《だんしょう》の片手間にできるのである。が――
「ま・でも……この土地に来てくれた君たちに、神様からの祝福……ってことで、ヒトツ」
*****
会ったことはないはずなのに、その顔立ちはひどく懐《なつ》かしかった。しばらく見ていると、彼女がまとう雰囲気には三槌の龍彦叔父《たつひこおじ》と共通するものがあることに気づいた。それに、目元や輪郭《りんかく》なんかは、他《ほか》でもない、自分に似ている気がする――
透《とおる》は直感した。これは、
お母さん。
兄を振り返ってみる。彼女の姿に気づいた様子《ようす》はなく、むしろ、一点を凝視《ぎょうし》している狐《きつね》と透を、一体どうしたんだと訝《いぶか》げに見つめていた。コウは食卓に顔を伏せた状態から動いていな。
透は視線を戻した。
その人物は腰をかがめて首を伸ばし、結界《ゴザ》の外から食卓の上を覗《のそ》き込んでいた。「このお稲荷《いなり》さん、誰が作ったの?」
クーはニヤリと笑って答えた。「何を隠そう、昇《のぼる》だ」
当の昇は「え、何?」と首をかしげる。
「うっそ〜!すごいじゃない。料理|上手《じょうず》なのね。鼻が高いわぁ」と、少女のようにはしゃいで手を叩《たた》く。「味はどう?」
「美味《うま》いぞ」
「へえ。いいなぁいいなぁ、食べたいなぁ」と、本当に物欲しそうな顔をする。
クーはそこで笑顔をひょいと消した。「つまらんことを言ってないで、さっさと行かんか」と、いささかぶっきらぼうに言う。
昇は「どこへ?」と眉《まゆ》をひそめる。
「え〜ケチ。もうちょっとここにいたいわ」面倒《めんどう》くさそうな、そして甘えるような口調だった。
透に顔を向ける。「ねぇ?」
透は電流を流されたかのように飛び上がった。頷《うなず》くことも言葉を発することもできず、ただその顔を見つめ返す。 クーは厳《きび》しく言い放った。「ダメだ。また彷徨《さまよ》うはめになるぞ」
「ケーチ。どケチねえ。……それじゃあ、行こうかなあ?本当に行っちゃうぞ」
「さっさと行けと言うに」と、クーは彼女に背を向けた。
「おい、誰に何話してんの?」と、昇は疑問符いっぱいの顔で、クーを覗《のぞ》き込む。その様を見て、クスと微笑《ほほえ》んだようだった。「うんじゃあ、行くよ」と言ってから、不意に透を見た。彼の視線に合わせるようにしゃがみこむ。「ねえ。透ちゃんは、首筋の髪の生え際のところに、ひっかき傷みたいなミミズバレズバレみたいな跡は、ない?」
透の心臓《しんぞう》はまた飛び跳ねた。
あるのだ。
しかしそれは、兄も父も知らないことだった。そんなことをいちいち言う必要はなかったし、だいたい、自分も今言われるまで覚えていなかったような、本当に些細《ささい》なことだ。
「あるでしょ」と言って、嬉《うれ》しそうに微笑む。「それってねえ、遺伝なのよ。私もあるの」
肩にかかる自分の長い髪を軽く持ち上げた。跡は見えなかったが、示すくらいなら、本当にあるのだろう。
「龍《たっ》ちやんにもあったし、私のお母さ――透《とおる》ちゃんのおばあちゃんにも、あったの昇《のぼる》ちゃんは、どうなのかしら?ある?」
少しの間だけ、沈黙《ちんもく》が訪れる。
「……ない……と、思う……」やっとそれだけ言った。
「そっかあ」ニッコーと笑う顔は、少女というより少年のようだった。「じゃあやっぱりお兄ちゃんはパパ似ね、いい男になるわね。――あ、心配しなくても、透ちゃんだっていい男になるわよぉ。だってママ似なんだから」
そう言うと、立ち上がった。
「本当に、もう行くね……じゃあね、元気でね」
透は何かを言いかけた。しかしそれは結局言葉にならなかった。
そして、小石を踏む足音が、静かに離れていった。
そして〈境界〉が閉じる。
川の流れが甦《よみがえ》る。
時間が動き出す。
どうして……
どうしてあの人は自分に話しかけたのだろう。
あの人は写真の中だけの人で、親戚《しんせき》の話のなかにしか出てこない人で、決して自分には近づかないし、話しかけてこないし、笑いかけもしない人だった……はずなのに。
どうして、何が起こってこんなことになったのか。
今のは夢か幻ではなかったのか。
しかしこのゴザの上には、食卓と兄と狐《きつね》も存在している。これは笑っちゃうくらい確かな現実なのだ。
そして、母がこの場に存在していたことも現実なら、
その母が自分のことを想っていたことも現実だった。
初めてかけた、そして唯一かけた言葉が『ないと思う』とは何事だろう。もっと他《ほか》にかける言葉はあったはずなのに。間抜けすぎる。
どうしてもっとちゃんと話しかけられなかったんだろう。もっといろいろ話したかったのに。
話そうと思えば話せたはずだ。何をこだわって、何を恐れていたんだろう。
どうしようもないほどの後悔が押し追ってくる。
しかし、その後悔は安堵《あんど》にも似ていた。
――あらゆる束縛《そくばく》から開放された安堵に似ていた。
弟を、兄は呆然《ぼうぜん》と見ていた。三杯目の麦茶をガブ飲みしている狐の耳に口を寄せ、「あの……どうして透《とおる》さんは泣いてらっしゃるんですか」
「胸にせまるものがあるんだろ」さらっと答える。
「はぁぁ?」もう何がなんだかさっぱり分からない昇は、今にも諸手《もろて》を挙げて降参しそうなほど困惑した顔をする。「もう、何なんだ?どういうことだよ?何があったんだ?」
狐はぶっきらぼうに言った。「あ〜……後で話す」
ちょっと怒ったような顔になる。「何だよソレ」
「なんでいつもそう……」と、さらに言い返そうとして、昇は身を乗り出し――ハッと鋭《するど》く息を呑《の》んだ。見てはいけないものを見てしまった。
狐クーの最大の特徴ともいえるあの長い尻尾《しっぽ》が、ものの見事にハゲあがっていた。
短く刈られた毛の隙間《すきま》から、尾の芯《しん》の部分が惨《みじ》めに覗《のぞ》いている―― 昇の頭は真っ白になった。どういうことだコレは?さっき大量に髪を切ってしまったからこうなったのか? 獣《けもの》の姿のとき尻尾である部分は、人化したとき髪の毛に変わるということだろうか……。いや、しかし何にせよコレは……ちょっとばかりショッキングだ。心臓《しんぞう》がドキドキ言っている。昇は動揺していることをクーに悟られないように注意しつつ、「まあいいや……」と言って、ハゲ尾から目を逸《そ》らした。
狐《きつね》は不思議《ふしぎ》そうに首をかしげ、耳をパタリと動かした―――自分の尾の惨状には気づいていない様子《ようす》だ。昇は少し安堵した。
ああ……それにしても、なんて嘆かわしい……あんなにフワフワプカプカのボリューミィな尻尾《しっぽ》だったのに、今ではまるで……。ゴボウのようだ。
と、思った瞬間《しゅんかん》、昇は思わず「ゴふッ」と吹き出してしまった。
クーは訝《いぶか》しげに昇を見た。「なんだ」
「いやいやいやいや、何でもない何でもない何でもない」と、ぎこちないカンジで首を横に振った。「そんなことより、今一番重要なのは、お前の食糧《しょくりょう》だよ。なあそうだろ、なあ、食糧だよ、食糧。食糧を探せ」と、なぜか食卓の下を覗《のぞ》き込む。
狐も「そうだそうだ」と頷《うなず》き、「食いもん寄こせ〜食いもん寄こせ〜」と呪詛《じゅそ》のように呟《つぶ》きながら、自分の目の前の皿を、鼻の先でガランガランガランと、つっつきまわし始めた。
その空の皿に、いなり寿司を載せた者があった――透《とおる》だった。
「あげる」そのいなり寿司は、透が自分の皿に載せておいた最後のひとつであった。
狐はちょっと驚《おどろ》いた顔で透を見た。
昇も、透の顔をハラハラしながら見る。
その時――
「ウガッー」と、獰猛《どうもう》な大声をあげて一同をビビらせたのは、コウだった。寝言を言っているらしい。「ウ〜〜〜ウウウ〜〜〜………ウウウ……」寝言というより唸《うな》り声。
昇は、狐を心配すればいいんだか弟を心配すればいいんだかコウを心配すればいいんだか分からず、内心、もうグルグルだった。こめかみを指の先でグリグリと揉みつつ、「……オレもお茶、飲も……」と、ペットボトルを取り、自分のコップに麦茶を注ぐ。そしてそれを、居酒屋のカウンター席の隅に座る一匹狼のような風情《ふぜい》で、ちびちび飲み始めた。 「……オレが、しっかりしなくちゃな……」気苦労の耐えない十七歳である。
護《まも》り女《め》を見ていたクーは、そこでフと透に視線を戻し、顎《あご》でいなり寿司を示しつつ、疑わしそうに言った。「ホントに食うぞ」
「うん。いいよ、どうぞ」目は赤いままだが、やけに晴れ晴れとした表情で、透は笑った。そして、小さくはあるが、ハッキリとした声で言った。「……ありがとう」
狐は、驚いたように両耳を後ろに反《そ》らせた。「ふぅん……?」パタッパタッと数回、耳をはためかせる。照れているわけではないだろうが、そっぽを向いて、ぶっきらぼうに言う。「俺《おれ》は何もしておらんぞ。踊っただけだぞ」
「うん」
「踊りたかったから、踊ったのだ」おもむろに、護《まも》られたいなり寿司《ずし》にかぶりついた。「個人的な趣味だ」もぐもぐもぐ。
「うん」
「これで何か特別なことをしようなんて面倒なことを考えていたわけではないんだぞ。本当だぞ」もぐもぐもぐ。
「うん」と、透《とおる》は頷《うなず》いた。「知ってる」
クーは、いなり寿司を飲み下しながら透を見やり――ニヤリと笑った。
「さすがだな」
夜空の南天にはいつものように穏やかに、しかし超然とした満月が浮かんでいて、折からの快晴で濃紺の空には雲の一筋もなかったが、その代わりのように月を縁《ふち》取る青い燐《りん》が月影に混じって仄《ほの》かに発光しており、それはそのまま、しばらく消えずに静かに揺蕩《たゆと》うていた。
あとがき
はじめまして、柴村仁《しばむらじん》といいます。右も左も分からないド新人です。よろしくお願いします。ところで私は本当に右と左が分かっていません。
比喩《ひゆ》ではなく。
自動車の教習所に通っていた頃《ころ》の話になりますが――アクセルを踏み、ハンドルを切り、いざ路上教習に出発せん、と張り切って、右車線を走行しようとしました。日本は左車線走行。つまり逆走しようとしたわけです。隣《となり》に座っていた教官も、そりゃ死にたくないですから、当路フレーキを踏み、言います。
「あんなは右と左、分かんないの?」
……ベタやな〜。すいませんね〜。でも実話です。悲しいくらい実話です。あのときの教官の冷笑は、忘れようにも忘れられません。
教官に「次の交差点で左折して」と言われたにもかかわらず、当たり前のように右折車線入《はい》るなんて、毎回でした。
免許を取得してから(取れたんですよ……誰《だれ》よりも私が驚《おど》きました……)、母の車で初ドライブに出ようとしたときも、助手席の母に「どっちの車線走るんけ?」と訊いたがために、その日のドライブを打ち切られました。
重症です。今はもう運転してません。それが世の中のためかな、と思って。
というわけで(?)、
私はこのたび、第10回|電撃《でんげき》ゲーム小説大賞で金賞を頂戴《ちょうだい》しました。まず、一次選考に携《たずさ》わってくださった方々、電撃文庫|編集部《へんしゅうぶ》の皆様、そして選考委員の諸先生方に、お礼を申し述べたいと思います。本当にありがとうございました。評価していただいたことを心に留めつつも、増長せず、地道にがんばっていきたいと思います。
以降、私信で恐縮《きょうしゅく》ですが……
同期受賞の皆さん、その節は本当にありがとうございました。突然「いっしょに写真撮ってください!」とか言ってすみません。皆さんと共にいただいた今回の賞は一生の記念になりました。またお会いできる日を楽しみにしています。
授賞式会場にて優しく声をかけてくださった歴代受賞者の先生方も、本当にありがとうございます。感動と緊張《きんちょう》で頭に血が昇って「ありがとうございます」と「すみません」しか言えなかった私……情けな〜。
この作品を文庫という形にするにあたり誰《だれ》りも(私よりも?)尽力してくれた担当編集者様、感謝してます.ルーズさといい根性のなさといい、しかも将来性とかも考えると、私ほど扱いにくい新人もいないのではないでしょうか……恐ろしい。私がかけた苦労の数々のことを考えると、これを償《つぐな》うにはもう切腹しかないかな、と思うんですが、今ちょっと周りに介錯人《かいしゃくにん》いないもんで……。今度でいいですか、切腹。え、介錯人《かいしゃくにん》なしでやれって?そんな無謀《むぼう》なことはできない。
イラストを描いてくださった放電映像《ほうでんえいぞう》さん!ありがとうございます、ご苦労様でした!原稿上がるの遅くてごめんなさい。ハラハライライラさせてしまったと思います。私も自分の作業の遅さに、我ながらハラハライライラしました。……にもかかわらず素晴らしいイラストありがとうございます。も〜これじゃ〜私だって買っちゃうっスよ!(柴村は、よっぽどでないと本は買わない……貧乏なので。どのくらい貧乏かというと、『食費を削って本を買う』という行為をマジでやったことがあるくらい貧乏。だから本は大方、図書館か人に借りる)
そして、最後になってしまいましたが、この本を手にとって読んでくださったアナタ様にも、深くお礼申し上げます。月並みなことしか言えなくて、ゴメンナサイ。でも本当に感謝しています。では、またお会いできる日を夢見つつ。
かしこ
柴村仁
日本海両ちの蟹座・B型。「長時間思考していると頭痛
かする。「長時間座っていると体中か痛む」という、執筆に極端に不向きな体質ながら、何の因果か第10回電撃ゲーム小説大貫〈金貫〉受賞。これからどうなっちゃうの?知らないよ。まあどうにかなるでしょう。
【電撃文庫作品】
我が家のお稲荷さま。