リリアとトレイズY 私の王子様〈下〉
時雨沢恵一
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)
-------------------------------------------------------
第六章 「我々は殺戮者ではない」
太陽が半分以上傾いた空の下、列車の切り離し作業が行われていた。
一等車と食堂車の連結器が、機関士と運転士の手によって切り離される。中年の彼ら二人はずっと機関車にいて列車を走らせ、さっきまで騒ぎを何も知らなかった。
聞かされたときは驚いて顔を見合わせたが、コーエン車掌から命じられるままに、怪訝そうな顔のままで、作業に勤しんだ。
まずは通路の幌が外され、渡りの板が畳まれる。電気を伝えるケーブルと、ブレーキのための空気管が外された。最後に連結器のネジを緩め、フックが外れた。
一連の作業の間、線路にはトラヴァス少佐の部下達が降りて目を光らせていた。客達は降りることが許されず、車内に留まっている。
切り離しが終わると、
「終わりました。あとは予定どおり走らせていいんですね」
「はい。何かあったら連絡するので、無線は切らないように」
機関士と運転士はコーエン車掌と少し話をして、機関車へと戻っていった。
トラヴァス少佐は自分でも切り離しを確認してから、最後にコーエン車掌に、
「ではよろしく。車掌は向こうに乗ってください。無線はこちらでやります」
あっさりと言われて、コーエン車掌は憤りを隠そうともせずに、
「こんなことは前代未聞です! あとで絶対に問題になりますよ。あなた方がどこの誰であっても!」
トラヴァス少佐の答えは、
「かまいません」
ただの一言だった。
ボックス席が連なる二等車両で、
「ああ、行ったみたいだぞ」
窓を開けて大きく身を乗り出していた兵士は、他の客達にそう報告していた。彼の視線の先では、切り離されてわずか三両になった列車が、ゆっくりと小さくなっていく。
今この車両には、ほとんど全員の客がいた。
別に固まっている義務はないが、だれが言うでもなく、二等寝台の個室に引きこもることはしていない。
皆大きなトランクや鞄は個室に置いたまま、堅い座席に座っていた。車両の隅には、ウェイターの二人とコックの一人が、仕事をなくしてボンヤリと座っていた。
例の偏屈な老人だけが、秘書と共に部屋に二両先の二等寝台車に閉じこもっていた。
夫婦の痛いも、その車両の、彼らが使っていた部屋に安置されていた。
「やれやれだわ……」
車両の中央付近で、おばさんがぼやいた。
「で、俺達はどうなるんだ?」
二十代の背広男が誰にでもなくそう訊ねて、隣で鞄を膝にのせて座る医者が、
「次の駅について、警察の事情聴取を受けて――。どちらにしても、ひどい面倒に巻き込まれたことだけは分かります。いつ解放されるのやら」
「ああ……。明日の昼にロルで重要な会議なんだよ。飛行機にすればよかった……。どうすりゃいいんだ?」
背広男は、そう言って頭を抱えた。誰も答えを知らないので、返事はなかった。
「ま……、この列車にもう悪者も怪しい連中も乗っていなければ、それでいいか……」
背広男はもはやいろいろと諦めたのか、最後にそんなことを言った。
やがて、十分ほどの時間が無為に過ぎたとき――
車両ががこん、と後ろへと揺れた。おののいた人もいたが、誰かがすぐに、機関車を連結しただけだと説明を入れた。
まもなく、国鉄の制服を着た三人の男が二等車両に入ってくる。
一人はコーエン車掌。二人のうちの一人は若く、一人は壮年。
コーエン車掌が、連結した機関車の運転士と機関士だと紹介した。
二人ともいきなり舞い込んだ仕事に怪訝そうな顔をしていたが、陰鬱な表情を並べる客を見てその度合いをさらに増した。
「アゼー駅の警察には無線をしておきました。到着を待つそうです。それと、保線員に学生さんと赤ちゃんを捜させるように命じました。列車はすぐに動かします。三時間以内には、日が暮れる前にはアゼー駅に到着の予定です」
コーエン車掌が言って、
「分かったよ……」
とか、
「あっそう」
など、客達の気のない返事が返ってきた。
車掌達の姿が消えてから数分後、列車は動き出した。二人分の死体と、疲れた表情の客達を乗せて、二両分短くなった編成が集積所を出て行く。
ポイントをいくつか、身をくねらしながら通り抜けて本線へ。
再び北を目指す。
*  *  *
先行している列車の中で、トラヴァス少佐達が作戦会議をしていた。
ヒルダの部屋に残っているアン以外が、今や最後尾になった一等寝台車の通路と部屋に集まっていた。左右の監視のために、窓の外へと目を光らせている。
彼らは全員アサルトライフルを背負い、背広のポケットには弾倉。いつでも銃撃戦が出来る体勢だった。
会話は無線で飛ばし、アンの耳にも入るようにしていた。全てベゼル語で行われる。
「情報が漏れていた」
トラヴァス少佐が言った。
通路の左右や部屋の中にいる四人の男達は、その深刻さを噛み締めながら小さく頷く。
「ロクシェ側には、この列車のことは伝えていない。残念だが、祖国のどこからかだろう。判明は日を待つ」
トラヴァス少佐は続ける。
「今はっきりしているのは――、お嬢様≠ノ危害を加えようとしている人間が、確かに存在しているということだ。そして、我々のことも知っているのだろう」
「由々しき事態です」
ウーノが言うと、
「確かに。この任務失敗したら、少佐の首が飛ぶ程度では済みませんからね」
イズマが明るい口調でちゃかし、笑う者も怒る者もいなかった。リーダーではなく少佐と呼んだが、それも咎められなかった。
『まあ、この任務失敗したら、少佐の首が飛ぶ程度では済みませんからね』
無線でその言葉を聞いたグラツ・アクセンティーヌは、
「…………」
視線を外に逸らした。窓の外は、見渡す限りの茶色の草原、そしてところどころに木々の塊が流れる。
「お忍び≠ェばれていると、少人数での行動はデメリットにしかならない」
通路にて、小柄のオゼットが言った。そうだ、とトラヴァス少佐。
「あの夫婦≠ヘ? 少佐はどう思いますか?」
イズマが聞いた。トラヴァス少佐が答える。
「最初から使い捨てで、騙されて利用されただけだ。――お嬢様≠フことは本当に知らなかったのだろう」
「すると、毒はその黒幕に盛られたと? しかしそんな怪しいもの、あの二人がすんなり飲みますかね? 相手は、どんな悪人か分からない男ですよ」
「毒薬はカプセルだった。これを飲んでおけば、ランチボックスに入っている毒は効かない。万が一毒入りを手にしてしまったときのために飲め=\―そう騙されて、指定された時間に飲むように言われていたのだろう」
トラヴァス少佐が、すらりと答えた。
「なるほど……。そして前の列車の故障、怒った客達の乗り換え、そして学生さんの死から食堂車の騒ぎまで、全てがそうなるように仕向けた作戦だった――、と」
イズマのあとに、
「もしあのときあの場で――」
ウーノが、刈り込んだ髪を無意識にいじりながら言う。
「男が狼狽してあんな行動に出て、シュルツさんがそれを収めてくれていなければ――、夫婦の突然の毒死によって、我々と客側との軋轢は大変なことになっていただろう。食べた人間全員がパニックを起こしていたはずだ。そうなれば、とても収拾はつかない」
「ひどく頭の回る奴だ。我々が食事を配ることを見越していたというのか」
オゼットが言った。
「モノの考え方が、我々に近い」
エドがぼそりと言って、そのとおりだ、とトラヴァス少佐。そして、
「その黒幕の男≠セが、仮に単数形で奴≠ニ呼称するが――、奴、もしくはその息のかかった者は、あの乗客の中に確実にいたはずだ。誰がそうなのかは、動かれるまで判別のしようがない。当然二の手、三の手として別の作戦を用意していたはずだし、騒ぎ次第では実行もあっただろう」
「もう全員が怪しくみえますね、そうなると」
イズマが言って、
「あ、シュルツさん親子は除きますよ」
そうつけ足した。
「列車は切り離した。これからは、途中の妨害のみを考える。次のアゼー駅はルトニが近い。自動車横断橋までアウトバーンも走っている。我々は車を手にして、河を越える」
トラヴァス少佐が作戦を告げた。ウーノが、
「それゆえに、ロクシェ人であるトレイズ殿下を連れて行けないのが残念です」
「そうだ。――そうなのだが」
トラヴァス少佐が一度肯定し、そして否定の言葉。
「何か、心配なことが?」
オゼットが訊ね、トラヴァス少佐は、珍しく歯切れを悪くして答える。
「ああ……。何か、これでよかったのか?≠ニ疑念が消えない……。何かを見逃しているような感覚がぬぐえない……」
「指揮官がそれでは困りますよ」
ウーノの言葉に、すまない、と軽く一言返してから、トラヴァス少佐は声を張る。
「よし。駅までは全力で見張れ。――妨害があった場合、実力を持って排除する」
男達が返答したとき、列車は一つのポイントへと近づいていた。
真っ直ぐ北に延びる線路から、北西へと走る線路への分岐点。そこに、時速八十キロほどで差しかかる。
当然列車は真っ直ぐ北へと向かい、ポイントの上をあっという間に通り過ぎた。
列車はそのまま地平線の彼方と小さくなっていき、豆粒のようになってから消えた。その瞬間、
「行ったぞ!」
「よし。やるぞ」
走行音が小さく響く線路脇に、二人の人影が突如現れた。
二人とも茶系の迷彩服にフードを被り、顔に似た色の布を巻き、さらに全身に枯れ草をたくさん盛りつけている。列車が通過するまで草の中に伏せていたせいで、景色と完全に同化していた。体格と声から、男であることは間違いない。
二人は線路の砂利を上ってポイントに近づくと、手に斧を持った一人が、そこに接続されていた電気のケーブルを、
「せっ!」
渾身の力で叩き切った。そうして管理所の情報伝達を奪うと、もう一人が大きな切り替えレバーを倒す。
がごんっ、と重い金属の音がした。南から来る列車が隣の線路をまたいで北西へと進むように、ポイントが切り替わった。
「よしっ! 急げ!」
「おうっ!」
二人は駆け出すと、百五十メートルほど離れた場所にある木々へと向かう。
固まって生えている木々の後ろに、線路から見えない位置に、車が一台停めてあった。
軍でも民間でも使われる小型の四輪駆動車で、幌の屋根は開けらえている。無線のアンテナが、ボンネット方向へ折り曲げられて、フロントガラス脇に固定されていた。
二人はその車に飛び乗る。左側の運転席に座った男は、すぐさまエンジンをかけた。
車は草原から、土の道へと入った。道は線路から百メートルほど離れて、つかず離れず並行している。
車は列車が去った方へ、つまり北へ向かって速度を上げた。
助手席の男が、据え付けの無線機に話す。
『こちらポイント班。本隊応答してくれ』
『本隊だ。成功したか?』
すぐに男の声で返事があった。共に言葉はロクシェ語だった。
助手席の男は、興奮を隠せない様子で返信する。
『ああ、やったぞ! 予定どおりの列車が通り過ぎた! 全てが美しいほど計画とおりだ! ポイントは切り替えた。これで、万が一管理所が見逃しても、後続に追突されることは絶対にない』
『上出来だ。こちらも計画どおりに行動する。あとで会おう』
無線が切られ、四輪駆動車はさらに加速する。その荷台には、スコープのついたボルトアクション式の狙撃銃が、寝袋にくるまれて揺れていた。
*  *  *
トラヴァス少佐の乗る列車から、三十分ほど遅れて走る列車で、
「ちょっと――」
だらけきった客ばかりの二等車両で、リリアがトレイズに声をかけ、手招きして呼んだ。
リリアは、車両先端のデッキへ通じるドアの前に立っていた。トレイズが席を立ち、近くに寄る。それから、デッキへと二人して消えた。
座席のアリソンはそんな二人を見送ったあと、一つあくびをした。
リリアは、デッキに誰もいないことを確認してから、トレイズを進行方向左側のドアへと押しやる。
「とっとと……」
トレイズが下がり、背中がドアに触れた。
「何さ?」
深刻そうな顔のリリアを見て、トレイズが訊ねた。
「決まってるじゃない。デートの話よ」
「えっ?」
トレイズが首を傾げつつも少し嬉しそうな顔をして、
「ママとトラヴァス少佐」
「……ああ」
すぐに真面目な顔に戻った。リリアは、そんなトレイズにお構いなく続ける。
「仕事が終わったら、二人はロルでデートの予定だったんでしょ? そうじゃなきゃ、わざわざこんな遠くで日程を合わせる必要はないものね」
「まあ、そうなんじゃないかな? 詳しくは知らないけど、護衛の仕事はロルでヒルダさんを見送って終わるはずだったし……」
「その予定が、この騒ぎですっかり御破算よ!」
「え? ああ、そうだな……。俺達は、次の駅で一晩だろうし」
トレイズが小さく頷きながら肯定すると、リリアはその顔を覗き込むようにして、真剣な顔で訊ねる。
「なんとかならないの? 一日遅れでもいいからさ。わたしとママはロルに二十九日の朝まではいるし」
「俺に言われても……」
「向こうでの連絡先とかは? ガイドだったんでしょ? ガイド料のことで何か連絡先とか知らない?」
トレイズは黙ったまま首を横に振った。
「どうしてもダメ?」
「駄目だ。仮に連絡先が分かっていたとしても、次の駅でみんなは――」
みんなは車を手にして、すぐさまルトニ河を渡ってしまうだろう。そう言いかけたトレイズが、発言を途中で打ち切った。
直後に車内に繋がるドアが開き、デッキに誰かが入ってくる。リリアも体を回して、一瞬身構えた。
姿を見せたのは、四十代の、赤茶のチェック柄のジャケットを着た長髪の男だった。男も、変な場所にいる二人に驚いて、
「おっとごめん。二人の邪魔をするつもりはないよ」
そう反射的にベゼル語で行った。言ったあと、ロクシェ語に切り替えて、
「わたし、じゃましない」
「ああ、お気遣いなく」
「気にしないでください」
トレイズとリリアがベゼル語で答え、その男は目を丸くした。
「おいおい、こりゃ驚いた! 二人ともベゼル語ができるのかい?」
「ガイドですから」
「ええ、まあ」
トレイズ、リリアと答えた。
「素晴らしい! 俺は旅行中でね、ロクシェではベゼル語が出来る人が少なくて大変だったんだ。そこで教えてほしいんだけど……、一体全体、何がどうなっているんだい? 列車が故障で乗り換えたり、血を吐いて突然人が死んだり……。ひょっとして、ロクシェではこんなのは日常茶飯事なのかな?」
男が、どこか楽しそうに聞いた。
んなわけねー、と言いたげにリリアが三白眼で男を見た。トレイズは、
「もちろん違います。とにかく複雑にいろいろなことがあったんです。詳しい説明は、あとで警察でしてもらえると思いますけど」
「そっか……。君は向こうにいたんだろ? 向こうに乗っていなくていいのかい?」
「追い出されました。俺はイクストーヴァのガイドですから、あの人達の本業とは関係がないんです」
「なるほど。残念だね」
男はそう言うと、怪訝そうな顔をしているリリアとトレイズから身を引いて、
「ところで、この車両のトイレはどこだい? デッキにあるんだよな?」
そんなことを聞いた。リリアが最後尾側だと言うと、
「そいつは失敬。ロクシェ語を聞き間違えたようだ」
長髪の男はそう言って、一度ウインクをしてデッキから出ていった。
*  *  *
トラヴァス少佐達を乗せた列車は、運河の脇を走っていた。
西側、つまり進行方向左側に、線路のすぐ脇に沿って運河があった。幅二十メートルほどの、小規模の運河だった。
そこは、昔からあった運河に沿って線路を敷いた場所で、地平線の向こうまで草原が広がっていた。
かつてこの近辺には一面の農地が広がっていたが、五十年ほど前の東西大戦争の際に戦場となり、住民達は移住して田畑は草原へと還った。
休戦後は危険地帯として、軍の駐屯地だけがあちこちにぽつんと置かれていた。東西戦争の危険がほとんど去った今でも、あまりの不便さに住む人はいない。
特等車両の部屋で、ヒルダがソファーに座りながらうたた寝をしていた。薄い方のカーテンが閉められ、穏やかな光が彼女の金髪を柔らかく染める。部屋の隅で、アンがそれを立ったまま見守る。
イズマはその部屋の外で通路を見張り、トラヴァス少佐は通路の先頭側の端にいた。
ウーノとオゼット、そしてエドは、後ろの一等車両でそれぞれ目を光らせていた。全員、定期的に無線で連絡を取ることも忘れない。
太陽はだいぶ低くなったが、夕方にはまだ一時間以上ある。陽の光が、運河の水面に反射して煌めいていた。
『こちら異常なし。長閑ですねえ。このまま何もなければいいですね。まあ、映画なんかだと、こういうことを言うとよくないことが起きることもあるんですけど。――定期連絡終わり』
イズマがそんなのんびりした報告を終えた直後だった。
『こ、こちら――、運転室です』
トラヴァス少佐の耳に、無線機を伝わって全員の耳に、運転士の焦った声が入る。
『どうぞ』
トラヴァス少佐が返答。
『前にトラックが――、軌道上にトラックが停まっています! 緊急停止します!』
それを聞いて、
「やっぱりだ――」
イズマはあんなこと言わなきゃよかった、と苦笑し、
「…………」
アンは目の前ですやすやと眠る女性を見ながら表情を険しくした。
トラヴァス少佐が、すぐさま返信。
『駄目です。停止は認めません。速度を少し落としたら、そのまま弾き飛ばしなさい。トラック程度なら、できるはずです』
運転士からの返信。
『了解しました』
『了解しました』
ディーゼル機関車の運転席で、四十代の運転士はすぐさまそう答えると、隣に座る同じ年頃の機関士と目を合わせた。
二人の顔に見えたのは、薄笑い。
「へっ」
「はははっ」
運転席の窓の先で、五百メートルほど離れた真っ直ぐな線路の上に、トラックが停められていた。幌を設けた、中型のトラックだった。
「大金持ちだ。これで俺達も大金持ちだ!」
運転手は血走った目で叫びながら、ブレーキハンドルに手をかける。そして、なんのためらいもなく非常ブレーキをかけた。
列車に急ブレーキがかかったのを体で感じ取って、トラヴァス少佐は再び無線を送る。
『停車はするな』
馬鹿にしたような声で、運転士からの返事。
『残念でした! お前の言うことなんか誰が聞くかよ!』
「連中もか……。甘かった」
トラヴァス少佐は全てを悟って、苦々しくつぶやいた。
列車は車輪が立てる悲鳴と共に、その速度を落としていく。
ヒルダが目を覚ました。アンは、前へと滑り落ちそうな彼女の体を支えた。
『こりゃ、俺達一杯食わされましたねえ』
イズマの明るい声。
『ああ、訓練がいろいろと役に立ちそうだ。エド。運河の方に何か見えるか?』
オゼットの声。
『なし』
エドは簡潔に答えた。
列車はますます速度を落とし、最後にがくんと揺れて、完全に停止した。
トラックまで、五十メートル以上の距離を残していた。
『アン、お嬢様を頼む。イズマ、部屋の前を離れるな。運河を見張れ。他は右側を警戒』
トラヴァス少佐はそう命令すると、近くにあった特等の部屋に、トレイズが使っていた部屋に入った。
『右側に数人の人影。やや遠くに車』
ウーノの声で報告が入り、
「やはりな」
トラヴァス少佐は窓のカーテンの隙間から外を覗く。
雪がちらほら残る、まだ草のない草原に、幾人かの人影が見えた。
線路から七、八十メートルほど離れた位置に、人間が散らばって伏せている。ざっと見て二十人程度。
伏せている男達の向こうに、百メートルほどの距離に、彼らが乗ってきたであろう小型四輪駆動車が二台停めてあった。そのうち一台には、二人の人間が乗っている。
太陽光が順光で照らすので、その様子ははっきりと、綺麗に見えた。
『確認した』
トラヴァス少佐が言うと、次の報告が入る。
『機関車から二人、奴らに向け逃亡』
トラヴァス少佐は、左側へと視線を向ける。
エドからの報告のとおり、機関士と運転士は列車と職場を放棄して、ぬかるんだ土の上を、泥を跳ね上げながら逃走していた。
トラヴァス少佐が、部屋にあったアサルトライフルを持ち上げた。弾倉をはめ、一発目を装填、
『発砲は待て』
そしてそう言った。右手ではストックをのばしたライフルを持ったまま、左手で喉の通話スイッチを押し続ける。
『相手が近づくようなら各個撃ってもいい。だが、その予定はないようだ』
列車の右側では、逃走した機関士と運転士が彼らと合流してから、これといって動きがない。伏せている人間はそのまま伏せていて、にじり寄ってくる様子はない。
「そいつはありがたい」
ウーノは一等寝台の部屋で、ソファーを移動してできたスペースに、カーテンが閉まった窓枠の前に、トランクを移動させていた。
ウーノはトランクを開いた。上蓋が閉じないように、入っていた太い鉄パイプを両側につっかえ棒としてしっかりと固定する。
よくある旅行用の大型トランク。その中に入っていたのは、着替えや土産物ではなかった。
まず上蓋の内側にアサルトライフルの予備が一丁。ストックが折りたたまれて収まり、革製のバンドで固定されていた。
トランク内部には、弾倉が三十本以上ずらりと並んでいた。先端では弾丸が鈍く光る。
さらにその脇に、テープで安全ピンを留められた手榴弾が一ダース、木箱に入れられ、まるで卵のパックのように並んでいた。
最後に、耳を覆うタイプの、スー・ベー・イル軍用のヘルメットが一つ。
「備えあれば憂いなし=\―だな。重いものを頑張って運んだかいはあった」
ウーノはヘルメットを持ち上げてひょいと被ると、手榴弾のテープを、慎重に、かつ手早く、片っ端から剥がしていった。
特等車両でアンは、トランクを二つ、部屋の隅から引きずってきてふたを開けた。同じように、鉄パイプで閉じないように固定する。
中に入っていたのは小型サイズのヘルメットと、軍用の厳めしい防弾チョッキがいくつか。
「失礼いたします」
アンはそう言うと、ヒルダに手早く防弾チョッキを着せて、頭にヘルメットを被せた。
そういてヒルダに、並べて蓋を開けたその手前に伏せるように頼む。
「大変申し訳ありません。しばらく動かないでいてください。お願いします」
ヒルダが落ち着いた口調で、
「よくないことが、起きたようですね」
言われたとおりに、重くなった体を伏せながら聞いた。アンは努めて冷静な表情で、しかし若干うわずった声で、
「ええ」
そう短く答えた。そして予備の防弾チョッキを取り出すと、ヒルダの足の上にのせた。
『列車に乗っている者達へ告げる。お前らの責任者と話がしたい。繰り返す。責任者と話がしたい。聞こえているはずだ。返答しろ』
突然、イヤホンをつけた耳に、見知らぬ男の声が飛び込んできた。
「なんだ? あ、連中か。丁寧なこって」
線路の左脇の運河を、アサルトライフルの銃口を動かしながら警戒していたイズマがつぶやいた。
トラヴァス少佐が、その無線へ、先ほどまで運転士と話をしていた無線のチャンネルへと返信する。
『私だ。話を聞こう。――そちらは?』
『うむ。貴様らを取り囲んでいる者の代表者とでも名乗っておこう』
男は横柄な口調で答えた。口ぶりは偉そうだが、声音はさほど歳がいっていないように聞こえる。若年と中年の間ほど。
男は続ける。
『我々は、完全に列車を包囲した』
このセリフに、イズマが噴き出した。
「おいおい、どこの三文芝居だ!」
そう笑いながら、運河側に誰もいないことを、水面が少しも波立っていないことを再確認した。
『我々は、貴様らに降伏を勧告する。今すぐ持っている武器を捨て、列車から出てこい。さすれば、全員の命の保証はしよう』
『あなた達の目的は、なんだ? なぜ私達を狙うのか、お聞かせ願いたい』
トラヴァス少佐が聞いた。そしてすぐに返事。
『教えてやろう。貴様らが運んでいる、大量の金塊だ』
男は、どこまでも得意げに言った。トラヴァス少佐は、やれやれ、と言いたげに一度ため息をついた。
『宝石の次は金塊か。――連中も、少々アホですね』
イズマからの無線。続いてウーノから、
『そのわりには準備がいい。あの男と一緒で、奴からの偽情報にまんまとのせられたのだな』
『これが成功したら、大金持ちになれると信じているのか。目出度い奴らだ』
オゼットが言った。
十秒ほどの間をおいてから、トラヴァス少佐は無線の通話スイッチを押す。
『なぜ――、それを知っている? あなた達は何者だ?』
わざとらしい驚きの声。無線の相手は気をよくしたのか、
『答える必要はない。我々はただ、ロルを愛する憂国の同志だ』
自分では必要はないと言いながら、直後にあっさりと、ほとんど答えを言った。
「訂正。相当のアホだ。」
イズマがポツリ。
『貴様らに猶予をやる。今から十分待ってやる。全員が手を挙げて出てくれば、命の保証はする』
男はそう言って、一度無線を切った。
すぐさま再び繋げて、こう言い残す。
『案ずるな――。我々は殺戮者ではない』
ひとまずの動きがなくなってから、トラヴァス少佐達の間に無線が飛び交う。
まずは、小型の双眼鏡で視察を終えたウーノが、
『報告――。敵勢力、線路右側約七十メートルに二十三名が散開。迷彩と覆面はなし。武器は拳銃とサブマシンガンが主で、ライフルは五丁以下。個人無線は見あたらず、約百メートルに小型四駆二台。その脇に機関士達含め四名。一人は無線の相手と思われる。線路上のトラック周辺に人影はなし』
次いでイズマ。
『運河側に伏兵なし。完全にクリアです。連中、さすがに挟撃で同士討ちは避けたようです。単純に逃げ場を奪ったつもりなのかもしれませんが』
そして、列車最後尾のデッキにいるエド。
『列車後方に敵勢力なし』
さらに、オゼットからは追加情報がない旨の、アンからはヒルダが落ち着いている旨の報告があった。
トラヴァス少佐が、ちらりと腕時計を見る。一分が経過していた。
『ロル憂国戦線=\―。この地で、経済格差を題目に誘拐や爆破などのテロ行為を繰り返している無法者集団か。本気で金塊があると思い込んでいるようだな』
ウーノが言った。イズマがすぐさま、
『ベルッシェン祭りと秋の収穫祭が一緒に来たみたいにおめでたい連中です。奴≠ヘ、馬鹿を口車に乗せて雇うのが本当に上手ですね』
トラヴァス少佐は、
『覆面をしていないということは、彼らに、こちらを生かしておくつもりは最初からないのだろう』
物騒なことを平然と言った。ウーノが同意する。
『ええ――。金塊≠奪ってトラックに積み替えたあと、列車は機関士が暴走させて、脱線装置で運河に落としてしまう算段でしょう。もしくは死体ごと燃やしてしまうか。降伏させようとしているのは、下手に銃撃戦をしてケガをするよりも楽な方を選んだか、応援を待っているか、その両方か』
トラヴァス少佐は一度頷いて、
『五分前に返信する。――総員、戦闘に備えよ』
そう言って一度無線を終えた。向こうになんと返信するかは、言う必要がなかったので言わなかった。
「運転士からの連絡がありません。どうしますか?」
「呼び続けろ。しかし、後続列車はまだ止めるな。ギリギリまでだ」
ラプトアの運行管理所では、焦る職員の質問に、六十過ぎの所長が気むずかしそうな顔で答えていた。
そして所長は、
「すまない。腹の調子が悪い。すぐに戻る」
そう言い残して、怪訝そうな部下達の視線の先から消える。所長は部屋を出て、廊下を急ぎ、そして誰もいないトイレの個室へ。
ドアを閉めるやいなや、
「くっくっくっ」
所長はいきなり顔をほころばせて、含み笑いをした。
嬉しくて堪らない様子で、所長はトイレの水洗レバーを倒す。その音に混じって、
「これで、奴は妻を始末してくれる! ――俺の第二の人生の始まりだ」
所長は楽しそうにつぶやいた。
トラヴァス少佐はヒルダの部屋の前に来ると、安全装置のかかったアサルトライフルを、通路に横にして置いた。ノックをして、部屋に入る。
中では、ひとまず伏せていなくてよくなったヒルダが、防弾チョッキにヘルメット姿で、絨毯の上に腰をおろしていた。
トラヴァス少佐は、彼女の前で片膝をついて、頭を垂れた。
「殿下。これより我々は、実力をもって障害を排除いたします。しばし騒がしくなろうかと思います」
ヒルダは、ずれたヘルメットを両手で直しながら、目の前の男に問う。
「わたくしの命を守るために――、外にいるという者達を皆殺しにするというのですか?」
「御意」
トラヴァス少佐が、うつむいたまま短く鋭く返した。
「それは、あなたやあなたの部下の命も守ることになるのですか?」
「御意」
「ならば――、存分にやりなさい」
ヒルダは冷たい口調で言い切ると、トラヴァス少佐に顔を上げるように促した。トラヴァス少佐がゆっくりと顔を上げると、ヒルダはその眼鏡の向こうにある瞳を見つめ、
「わたくしも、またリリアーヌさんに会いたいと思いますから」
約束の期限を半分ほど残して、
『さてと、そろそろ始めるか』
特等車の部屋の中で、トラヴァス少佐は、友達を集めてバーベキューパーティーでも始めるかのような気軽さで言った。
ヒルダのいる部屋の続きで、拳銃を手にして彼女を護衛するアン。
一等寝台の部屋で、トランクの前で、アサルトライフルを抱いて伏せているオゼットとウーノ。
列車最後尾デッキで、トランクと、アサルトライフル二丁と狙撃銃一丁を目の前に置いたエド。
そして、特等車デッキで、左右両方を見張るイズマ。
部下達からそれぞれ、いつでもどうぞと、気負いのない返事が返ってきた。
『では、行かん――』
トラヴァス少佐はそう言って、一度無線を切った。
すぐさま繋げて、こう言い残す。
『見せてやれ――。我々は殺戮者だ』
『聞こえますか? こちら列車』
『聞こえる。まだ五分はあるが、回答が用意されたのなら聞こう』
『はい。こちらの回答を伝えます』
特等車の後部デッキ。ここまで耳にしたイズマは、アサルトライフルの安全装置を外し、セレクターを兼ねたそれを、一番下のセミオート射撃へ移動させながら、
「楽しいのを頼みますぜ」
そうつぶやいた。
そしてトラヴァス少佐は、相手に穏やかな口調で返信する。
「あなた方のようなうすら馬鹿共に渡す金《きん》は、こちらには一グラムもありません。五秒以内にトラックをどけなさい。聞こえましたか? さもなくば皆殺しにしますので、覚悟してください」
「いやっほう!」
イズマは楽しそうに叫びながら、装填レバーを数センチ引いて、ライフルの装填を確認した。
トラヴァス少佐の皆殺し宣言のあと、無線通話はたっぷり二十秒は途切れた。
ようやく、
『そこが貴様らの墓場だ』
ほとんど吐き捨て状態の言葉が返ってきた。
「連中は要求を拒否した! このまま皆殺しだ! ――ただし、列車に火はつけるな! 金が溶ける!」
四輪駆動車の左脇で、三十台に見える男が部下へと叫んだ。
車に取り付けた無線で話をしていた男で、インテリに見える風体をした、線の細い印象の男だった。緑色の戦闘服の上下を来て、腰に拳銃のホルスター。そして胸には、指揮官らしく、双眼鏡を吊っている。
運転席には、似たような風体の、同年代の男がもう一人いた。
男の命令が、二十三人の男達に伝わった。
「よし行くぞ! 遠慮するなよ。俺達の力を見せてやれ! ――ロルの栄光ある未来のために!」
誰かが言って、おうっ! と鬨の声が上がった。
二十三人は、伏せた状態から動き出す。中腰で、じわじわと進み出した。
彼らは、二十代に見える若者から、五十過ぎに見える男までと年齢はばらばら。服装も統一されておらず、戦闘服の者もいれば、ほとんど普段の作業着の者もいる。
武器は、主に数種類の拳銃と、左脇に真っ直ぐな弾倉が突き出た、円筒の金属にパイプをまるめただけのストックをつけたサブマシンガン。威力の強い、ボルトアクション式のライフルは、四丁ほど。
その様子を見ていた二人へと、
「あのう、私達は……?」
機関士と運転士が、車の後ろから恐る恐る訊ねた。指揮官は背を向けたまま答える。
「とりあえず、今お前達ができることはない。終わるまで、十メートルほど向こうで待っているといい。流れ弾に当たらないように、頭を下げていろ」
分かりました、とか、そうさせてもらいますね、などと言いながら、二人は車から離れて、列車からは車の陰になる位置で、ぬかるんだ草原に座り込む。
「おい」
指揮官の男が、運転席にいた男に一言だけ言って、顎をしゃくった。
「…………」
命じられた男は無言で頷くと、サイレンサーのついたサブマシンガンを、車の後部座席から取りだした。装填して、安全装置を外す。
「え?」
二人のうちの一人が気づいたときには、もう狙いは定まっていた。
ばしゅばしゅばしゅばしゅばしゅばしゅ――
消音された銃声が連続し、舞い上がった幾つもの空薬莢が全て土に落ちる。国鉄職員の二人は、体中から血を失いながら、死んでいく。
「ゲス共め。貴様らの分などない。金塊は、我らの高邁な理想のためにある」
指揮官がつぶやいたとき、視界の左隅から、一台の車が近づくのが見えた。
小さな点だったものが、じわりと大きくなる。それは四輪駆動車で、ポイントを切り替えた男達の車だった。
前へと視線を戻すと、部下の男達は、列車まで五十メートルほどへと近づいていた。まだ、列車からの反撃は一切ない。
「間に合ったか」
指揮官がにやりと笑いながら言って――
『やれ』
トラヴァス少佐の命令は、たった一言。
「間に合ったか」
指揮官がにやりと笑いながら言った直後――
彼の頭が炸裂した。
七・六二ミリ口径のライフル弾丸は、男の左こめかみから皮膚を突き破って侵入し、その運動エネルギーを一気に伝播させる。
男の頭蓋骨はその力に耐えきれず、瞬時に割れた。衝撃は男の頭の外へと逃げ、脳や血を撒き散らした。
命を失った男はその場に、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「え?」
銃声が聞こえると同時に血と脳のシャワーを浴びた運転席の男も、次の瞬間には同じように脳を吹き飛ばされていた。
『頭の切り取り=\―完了』
狙撃銃を構えながら、エドが報告した。彼は大きな体をデッキに横たえ、薄く開いたドアの間隙を縫って射撃していた。空薬莢が二つ、すぐ脇で転がる。
『了解。各員、射撃開始』
トラヴァス少佐が他の部下へと命令。
「待ちくたびれました」
イズマは言いながら、狙いを近づいてくる男の胸に合わせた。
「クソッ! 始まってやがる!」
ポイントを切り替えた迷彩服の男が、列車へとにじり寄る男達を見ながら吐き捨てた。
運転席の男に、指揮官の車の脇につけろと命じる。その直後、
「え――?」
その指揮官が崩れ落ちる様が見えた。続いて運転席で真っ赤な血の花が咲いて、耳には二発の銃声が届く。
「まさか――」
そして、列車から小さな火花が散り始めた。
静かだった草原に、銃声の乱打が駆けめぐった。にじり寄っていた男達が、ぱたぱたと、面白いように倒れていく。
「止めろ! ここで止めろ!」
男の声に、運転手は急ブレーキを踏む。まだ二百メートルほど残し、つんのめるように止まった四輪駆動車から、男が右側に飛び降りる。その瞬間、車を弾丸の嵐が襲った。
金属を穿つ音が、強烈な鐘の音が響いて、
「ぎゃっ!」
運転手が一言だけ発して、そのまま顔と胸から血を噴き出しながら死んでいく。
飛び降りた男は、着地する前に左腕を弾丸に貫かれた。着地で足を滑らし、ぬかった大地へと全身を打ち付けた。
「クソっ……」
泥まみれになりながら、男が悶えた。頭の上を、曳光弾が光の線となって飛び去っていった。
一等寝台の客室。
近づいてきた車への銃撃を終えたオゼットは、視線を正面に戻しながら、アサルトライフルの弾倉を取り替えた。弾倉の最後の散髪は、弾丸のお尻が光る曳光弾になっていて、弾切れ直前であることを知らせる仕組みになっていた。
部屋の窓は、すでに上へと全開になっている。オゼットはトランクの上に銃身を出して、四十メートルほど先で、必死になって逃げる男の背中に狙いをつけた。
一発だけ撃った。
飛び出したから薬莢が、部屋の壁に当たって転がる。
撃たれた人間は、心臓の機能を一瞬で失っていた。前のめりに突っ伏して、もう二度と動かない。
そして銃口は、次の贄《にえ》を探す。
草原の泥の中で、列車を目の前にして、男達は次々に撃たれていた。
指揮する人間はすでに亡い。二十三人の男達は、各員の統率も取れないまま、隠れる場所もないまま、容赦のない銃弾に射抜かれていく。
「反撃しろ! 光だ! 発砲の光を狙って撃て!」
幸運にもまだ撃たれていなかった中年の男が、すぐ近くにいた。サブマシンガンを持った若い男へと叫んだ。二人とも、泥に顔がつくほど伏せていた。
「くそう!」
言われた男は、伏せたまま銃口を持ち上げた。一等寝台車両の、逆光の黒い窓枠へと、フラッシュがたかれている窓へと狙いを向ける。
そして連射。
吐き出された九ミリ拳銃弾は、狙い通り窓枠へと吸い込まれていった。
「やったぞ。当たっているはずだ」
撃った男が一瞬笑顔。
彼が最後に見たのは、何発も打ち込んだ窓からの反撃の一発。その光だった。
サブマシンガンに血を注ぎながら、男は死んだ。
「危なかったな」
ウーノはそう言いながら、伏せながら弾倉の交換を手早く終えた。まだ五発は残っている弾倉が、三十発入りのそれと交換される。
彼が盾にしているトランク、その上蓋外側の革は、銃弾によって穴が空いている。しかし、内側にはただの一発も貫通していなかった。
「備えあれば――」
ウーノは左手で、分厚い鉄板が仕込まれた蓋の内側を叩く。
鈍く重い音がした。
「七面鳥撃ちだよこれじゃ……」
イズマはすっかりと興味をなくした様子で、デッキからテンポよく二発射撃。二人を撃ち殺した。
すぐさま身を引いて、通路の窓から、反対側の運河へと視線をやる。ざっと見渡す。誰もいない。
「拍子抜けだ」
再びデッキへと中腰で戻り、トランクの前に伏せる。直後、そのトランクが、猛烈な勢いで揺れた。
「うわっ!」
ライフル弾で中心部を撃たれたトランクは、その身を挺してイズマを守ったが、上蓋の縁は彼のおでこを直撃し、後々痣になるだろう打ち傷を作った。
「痛てて……。油断大敵――。しゃきっとせねば」
気を取り直したイズマが、伏せながら今自分を撃った人間へと、ライフルのボルトを操作する男へと狙いを向ける。
そして自分が撃つ前に、左脇からの数連射が、トラヴァス少佐の正確な銃撃が、ライフルをスクラップに、男を死人へと変えた。
トラヴァス少佐は、特等車の先頭の部屋で、昨夜はトレイズが使った部屋で、窓の左脇の壁に置いたトランクに寄りかかるように立っていた。
『射撃を継続せよ』
開いた窓から状況を見遣りながら、トラヴァス少佐は無線に指示を出した。そして喉にあった左手で、アサルトライフルの弾倉を取り替えにかかる。全弾撃ったので、新しい弾倉をはめ込んだ手を銃の上から右側へとかぶせ、装填レバーを引いて、離した。
金属が擦れ合う鈍い音を聞きながら、
「我等、銃を正しく使うことを――」
トラヴァス少佐はつぶやいた。
「我等、銃を正しく使うことをここに誓う。敵を討ち、同胞《はらから》を助け、祖国を護るために使うことを誓う」
十九年前――
ヴィルヘルム・シュルツは、右手を前で掲げ、他のクラスメイトと友に、先生の言葉を述べていた。
場所はラプトア共和国、ネイト地域、ロウ・スネイアム記念上級学校、雪が残る校庭に面した屋根つきの渡り廊下。
横一列に並んでいる上級学校生徒達の前には、机が置かれていた。その上には、軍用のボルトアクションライフルが並んでいる。薬室に口径を小さくする装置が、照準機には鏡で教官が狙いを確かめられる装置が組み込まれ、ストックには新兵教習用≠ニ大きく書かれている。
机の向こうに、ロクシェ陸軍の軍服を着た、五十歳過ぎの軍曹が立っていた。右足の膝から下は、木の棒を一本伸ばした義足。厳めしい顔だが、どこか優しげな笑顔で、そしてよく通る声で、
「よし! 自分は、貴様らの宣誓、確かに聞いた。よって、これより貴様らに、銃の撃ち方を教える! これは、単位をもらえる立派な授業だが、それと同時に、祖国を救うために必要な技術だ! 先ほどの誓いを忘れるな! 自分は、戦えない人達を護るために戦える者を育てるために今ここにいるのだ! 殺戮者を育てるためではない!」
「――ここに誓う」
つぶやきながらアサルトライフルを肩の高さに上げると、二十メートルほど手前までにじり寄っていた男が、勇敢にも鞄から火炎瓶を取り出し、ライターで口火をつけた様を見た。
がばっ、と身を起こして投擲しようとした男へ、トラヴァス少佐はフルオートで銃弾を浴びせかけた。腕を射抜き瓶を割って、男が炎に包まれる。
悲鳴を上げながら燃え始めた男の頭を狙って、トラヴァス少佐は一発だけ撃った。男は即死し、死体は静かに燃え続ける。
『車を撃て』
トラヴァス少佐の声が耳に入って、列車最後尾デッキのエドは、視線を遠くへと持ち上げた。
狙撃で倒した指揮官達が乗っていた四輪駆動車。銃撃の網から必死に逃げ、運良く車にたどり着いた男が一人いた。男は後ろにあったもう一台の運転席に座り込み、エンジンをかけた。
『自分がやります』
エドが返信すると、撃ちすぎて油が白く煙を立たせているアサルトライフルをデッキに置いて、予備の一丁を手に取る。
バナナのような三十発弾倉を外して、トランクからドラム式の弾倉を取り出した。大きな円筒ドラムに、七十五発の弾丸を詰め込んだ重い弾倉を、銃にしっかりと装着した。
「冗談じゃねえ! 何が拳銃程度のちんけな警護だ! 何が余裕の作戦だっ! クソッ! あいつら軍隊じゃねえかっ!」
男が吐き捨て、エンジンがかかるとすぐさま発進させた。その場でターンをして、道を南へと、仲間全員を見捨てて逃走を図る。ターンの際、国鉄職員二人の死体を容赦なく踏みつけていった。
エドは車が向きを変えたのを見て、デッキからの射撃を止めた。右を向くと、最後尾の連結部分から、レールの上に飛び降りた。撃たれないよう、素早く列車の裏に回り込み盾とすると、アサルトライフルを持ち上げて構えた。
すうっ、と一呼吸。
エドは、南へと遁走する車へと狙いを合わせ、容赦のないフルオート銃撃を始めた。
強烈な反動を筋肉で押さえ込みながら、五発毎に入っている曳光弾の光で狙いを修正しながら、エドは五十発近くを車へと送り込んだ。空薬莢が空へと舞い踊り、降った。
車は着弾の火花を散らしながら走り続け――、突如真っ赤な炎に包まれた。
後部ガソリンタンクが大爆発を起こし、車は軽々と前方回転した。乗っていた人間は火だるまになりながら、空を舞った。
『完了』
エドが短く報告。
『よし。――全員、残りは少ない。掃討射撃に移れ』
トラヴァス少佐の命令が戻ってきた。
エドは慎重に車両の陰から身を出し、敵の姿を探す。
ちょうど正面の位置、距離にして五十メートルほどに、恐怖で身がすくんで動けない、二十歳そこそこの若者がいた。へたり込み、頭を抱えて涙を流していた。
エドはフルオートで撃った。射撃の反動を利用し、的の左下からすくい上げるように連射した。
若者の体を数発の銃弾が射抜いて、彼はもう、恐怖に怯える必要はなくなった。
銃声が、くぐもって響いている。
あるときは一発ずつ、あるときはリズミカルに、まるで誰かが太鼓を叩いているかのように。
特等車両の部屋で、ヒルダは伏せたまま、アンはトランクの脇に身を寄せ、カーテンの隙間から戦況を眺めていた。どこまでも長く感じられる、ほんの短い時間を過ごしていた。
銃声が響く旅に、または希に列車に弾丸が当たる音がする度に、
「っ!」
ヒルダは小さく体をこわばらせた。
アンはそれを見ながら、
「大丈夫です。列車にたどりついている者はまだいません。接近すら許していません」
「平気ですわ」
ヒルダの、まだ張りのある声が返ってきた。
「こんなところで、わたくしは死にませんし、皆様も、トラヴァス少佐も死にません」
「そうです。そのとおりです」
アンは力強く言い返したが、次に自分が聞いた言葉に、驚愕することになる。
「トラヴァス少佐は、娘さんよりわたくしを選んでくれたというのに、二人とも、こんなところで殺されるわけにはまいりませんものね」
最後はやや笑いながら、ヒルダが言った。
「な――。娘……? なんの話ですか? なんの話ですか殿下?」
アンの驚きの声に、ヒルダがヘルメットの頭を重たげに持ち上げる。アンの愕然とした顔を斜めに見上げて、その様子に逆に驚いた様子で、
「あのリリアーヌさんですよ。リリアさんの母親は、トラヴァス少佐の奥さんでしょう」
「…………。殿下……、何をおっしゃっているんですか?」
「知らなかったのですか? わたくしは、リリアさんの目を見てすぐに分かりました。リリアさんはトラヴァス少佐の娘さんです」
「そんな、馬鹿な……。少佐はそのころはスフレストスにいたはずです……」
「事情は、詳しくは知りませんが……」
ヒルダがそう言い返したとき、仲間の射撃音が止んだ。アンの耳には、トラヴァス少佐の声が入る。
『射撃停止。けが人は報告しろ』
トラヴァス少佐が言って、三秒ほど無線の空白。誰も答えなかった。
『よし――。エド、オゼット、私と死体のチェックに移れ。イズマはアンと護衛を替われ。ウーノ、アン、狙撃銃を持って屋根に上がれ。警戒を任せる』
各員から短く了解の返信。
『了解。屋根で警戒に当たります』
アンは無線に答えたあと、ヒルダへと、
「まだ防具は取らず、伏せていてください。――先の話、私は聞かなかったこととしてください。お願いします、殿下」
そう言った。
「…………」
ヒルダが無言で頷いたとき、
「お待たせ。交代です」
イズマが明るい口調で言いながら、部屋に入ってきた。
緑のない草原は、赤く染まっていた。
あるものは頭を半分以上吹き飛ばされ、あるものは胸に大きな穴を開け、あるものは腕を引きちぎられて横たわる。列車へと接近を計った男達は、ほとんどが死体になっていた。
エドとオゼット、そしてトラヴァス少佐が、倒れている人間を一人一人調べていく。
オゼットが拳銃を手にそれに近づき、エドは斜め後ろから、ライフルの狙いをつけながら援護する。トラヴァス少佐はその後ろで、やはりライフルを構えて注意深く警戒する。
うつむいて倒れているものは、オゼットがゆっくりと仰向けに起こす。死亡が確認されると仰向けにして、印として、死体の手を目の上に置いていった。
死んだふりをしていたり、うめき声を出したり、四肢を少しでも動かしたりした者には、エドが即座に胸に撃ち込んだ。
アンとウーノは、一等寝台車の屋根の上にいた。
客車の屋根は、中央部分に幅一メートル弱の平坦な部分が、点検用通路がある。
アンは足を前に出して座り、右膝の上に右肘を、左膝の上に左肘をのせて、長い狙撃銃を構えていた。
草原では穏やかに、しかしまだ冷たい北風が吹いて、彼女の黒い髪を揺らす。
「…………」
右目はスコープ越しに、左目はそのままで、アンは動く者がいないか捜索していた。スコープの視野に、トラヴァス少佐が数回入っては出た。
ウーノは、彼女の左脇でアサルトライフルを持ち、立ったまま前と後ろを交互に警戒していた。
運河に異常はなく、水面はどこまでも穏やかだった。草原の遠くでは、爆発した車の黒煙が、ゆらゆらと揺れながら立ち上がっていた。仲間以外、動く人影は見えない。
幾発かの銃声のあと、
『掃討終了。警戒を解除する』
そう報告が耳に入り、アンが緊張を解く。一度息を吐いて、右目をスコープから離した。足を一度伸ばし、また戻した。
草原では、トラヴァス少佐達が死体を調べ、証拠になるようなものを探していた。
「少し話をしていいですか? 気になることを聞いたのですが――」
アンが、狙撃銃を手に持ったまま、そう口を開いた。
「なんだ?」
ウーノが、刈り込んだ髪を無意識にいじりながら答える。
「トラヴァス少佐のことです。少佐が、あのシュルツというロクシェ軍人と――」
「ああ。彼女だということだろう。見れば分かる」
あっさりしたウーノの発言を、アンは訂正。
「いいえ。――かつて、あのリリアーヌという娘を儲けたというのは、本当ですか?」
鋭い目つきでアンは聞いたが、
「さあな。はっきりは知らない」
ウーノは、またもさらりと答えた。驚きもせず、否定もしないその言葉に、
「そうなのですね。間違っていないのですね」
アンはほとんど確信を持って言った。そして、
「しかし、そうなると何もかもが分からない――。当時少佐は、全寮制の王立士官学校にいたはずです。そんなことが可能とはとても……。いろいろと有り得ないのでは?」
「さあな。詳しいことは誰にも分からないし、さほど重要でもない」
のうのうと答えるウーノに、アンは言葉で詰め寄る。
「いいえ。我々の上官がそのような不可解な経歴の持ち主だとしたら、我々部下は安心して戦うことが――」
「どうして、そこまで知りたい?」
こんどはウーノが、アンの発言を遮って聞いた。視線は二人とも、草原へ向けたままだった。件《くだん》のトラヴァス少佐を含む男達が、死体をあさり続けていた。
「それは……、今言ったとおり、重要な任務をこなすにあたり上官が――」
「親の敵だからか?」
アンの腕の中で、狙撃銃が震えた。
「なぜ……、それを……?」
アンが、ゆっくりと、視線をウーノに向けた。
刈り込んだ髪を持つ三十路《みそじ》男は、普段と変わらない表情で、草原を眺めていた。そして問いかけに答える。
「ああ。お前さんが配属になったとき、初日からあんまりにも殺気だらけなんで、注意喚起も込めて、少佐に聞いたことがあるんだ。そうしたら、あっさりと教えてくれた」
「……な、なんと?」
「グラツ大尉、つまりお前さんの父親は、若い頃の少佐が撃ち殺した。壁画発見の年だったし、少佐の歳を考えると若すぎる気もするが……、まあ、子細は知らない」
「少佐が、本当に本人が言ったのですか……?」
「少佐も言っていたし、そのあと、アイカシア校長もだいたい同じことを言っていた。あるとき少佐は、俺にポツリと漏らした。グラツ・アクセンティーヌには正当な復讐の理由がある≠ニな。そしてそんなそぶりをお前さんが見せたなら――」
「止めろ=Aと?」
「止めるな=Aと言われた。お前さんの最初の殺人が少佐であったとしても、その復讐には儀があると。そしてこうも言っていた。それで仇討ちの連鎖は終わる=v
「…………」
「ま、人生は人それぞれだ。どんな選択をするのかは、その人次第だ。そして、その結果はその人間が負う」
「…………。ウェルキンス大尉殿」
「なんだ?」
アンが、やや冗談めかして言う。
「大尉殿は、ずいぶんと物知りだったんですね」
その言葉に、ウェルキンス大尉と呼ばれた男は、ウーノは白い歯を見せてにやりと笑った。
「今が、たぶん唯一の機会だから教えておく」
「唯一=H」
「一度しか言わないから、よく聞けよ、グラツ・アクセンティーヌ中尉。――もともと俺は、少佐のお目付役だった。スパイのスパイだったわけだ。少佐の行動を本国に逐一報告し、彼に離反の兆候があったら即座に報告し、必要なら殺せと命じられていたが――、お前さんも知ってのとおり、少佐は、まごう事なき愛国者だった。祖国スー・ベー・イルを愛し、ロクシェも愛し、つまりはこの世界を愛していた」
「…………」
「こんな言い方はお前にとって卑怯だとは思うが――、グラツ大尉の殺害に、何一つ理由がなかったとは思えない」
「…………」
「ついでに教えておく。少佐は、この仕事が終わったら長い休みを取る。上の許可もとっくに下りている。あのシュルツ女史と二人だけの話をして、これからのことを考えるそうだ」
「まさか……、辞するので?」
「まだ分からない。可能性があるとだけ言っておく。そしてそうなれば、俺もいなくなる」
「…………」
「しばらく会えなくなるぞ。思い残しがないようにな」
ウーノはそう言うと、すぐさま足す。
「あと、今の話は聞かなかったことにしろ」
アンは、狙撃銃のスコープに落としていた視線をウーノに向けると、笑顔で訊ねた。
「どの話ですか?」
「それでいい」
二人の話が終わった直後、
『ウーノ、来てくれ。アンは引き続き警戒に当たれ』
計ったかのように、トラヴァス少佐からの無線が二人の耳に入った。
二人が了解、と返し、ウーノは車両の屋根から、連結部分の脇についた手すりと足かけを使って降りていく。
一人屋根の上で、アンはふらりと立ち上がった。
狙撃銃を手にしたまま、南へと、考えもなく視線を振る。
「…………」
今まで走ってきた真っ直ぐな線路が、地平線の彼方まで延びていた。
あちこち血まみれの草原を横切って、ウーノが男達に合流した。
トラヴァス少佐達は、最初に指揮官が乗っていた、今は頭が半分ない死体が乗っている四輪駆動車の脇にいて、それを調べ上げていた。
車のボンネットの上には、血と脳漿で濡れた鞄から出された書類が、拳銃や弾倉を文鎮にして載せられている。
「おかしい。これは、おかしい」
トラヴァス少佐は開口一番、そんなことを言った。
「確かに妙です。書類にある情報源≠フ記述を見る限り、この連中も奴≠ノのせられたのは間違いないでしょうが――」
「にしては装備が貧弱すぎる。情報が正しく伝わっていない」
オゼット、そしてエドと続けて言った。ああ、とウーノが頷く。
トラヴァス少佐は、そのとおりだ、と同意して、
「奴の目的がお嬢様の抹殺だとして、我々のことも知っていたのなら、当然装備も分かっていたはずだ。我々が、戦争ができるほど持ってきていることを。――ならば、連中に金塊奪取の情報を教える際に、そのことを伝えて準備させておくべきだった」
トラヴァス少佐の言葉を、オゼットが引き継ぐ。
「さすれば、狙撃銃をもっと増やすとかできたでしょうね。お金を渡しておけば、軍からの横流し品を手に入れさせることもできた。襲撃方法だって、こんな遮蔽物のないところでにじり寄ってこられても、撃ってくれと言っているようなものです。もっといい方法を教えることはできた」
「私なら、レールに爆薬を仕掛けておく。転覆させてから金を奪えばいい。乗っている人間も、無事ではすまないだろうから」
エドが言った。
「ああ。どうせ列車は使わないのだからそれもありだ。あとは燃やしてしまえばいい。――だが奴はそんな簡単に思いつくことすら教えなかった。なぜだ?」
トラヴァス少佐が自問する。
「なぜだ? ――なぜ奴ほどの切れ者が、襲います。全滅させてください≠ニ言わんばかりの行為を見逃す?」
トラヴァス少佐が目を細め、やや顎を引いて、何もない空中に視線を送った。彼の思考の間、しばしば誰も何も言わない。
五秒後。
「そうか……。見逃した≠けではないのか……」
トラヴァス少佐が顔を上げた、
「分かった! ――奴の狙いが分かった」
そう言ったトラヴァス少佐の顔へ、部下達が視線を送った。
トラヴァス少佐の顔へと視線を送った人間は、もう一人いた。
「くそったれ……」
ポイントを切り替えた、迷彩服の男だった。
彼は腕を打たれて、仲間を殺されたあと、車の陰で、草と泥の中にうずくまっていた。上腕部には包帯をきつく巻いて止血した。
そして、容赦のない銃撃の音が、仲間の断末魔の叫び声を押し消していくのを、歯ぎしりをしながらずっと聞いていた。
向かってきた車に乗って逃げようと思った瞬間、その車は銃撃を受けて爆発した。投げ出された同士は、悲鳴を上げながらもがき苦しんだあと、丸焼けになって死んだ。
彼は、殺戮者達が仲間の息の根を止めていく銃声を聞きながら、慎重な動きで車の荷台へと手を伸ばし、そこにあった狙撃銃を掴んだ。
狙撃銃を引きずり出して、血だらけの左腕にストックをのせて、彼は右手で、ボルトを往復操作した。遠い相手に聞こえるはずはないが、じわりと操作した。
弾丸を薬室に送り込んだあと、彼は痛みにあえぎながらも、ゆっくりと、亀のようにゆっくりと匍匐前進して、車の脇に伏せた。
二百メートルほど離れた場所に止められた同じ車。その脇に、殺戮者達はいた。
彼はライフルを構えた。スコープに、男達の顔が入った。
男達の中で、一人だけ眼鏡をかけた男がいた。まわりの男達が、その男を取り囲むように立っていた。
指揮官に違いないと判断して、
「貴様だけは、貴様だけは……」
彼のスコープの十字に、男の眼鏡のレンズが収まった。レンズの向こうの目に、彼の視線が送られる。
その男は顔を上げて、何かを言う。当然聞こえないが、
「ああ、それが……、最後の言葉だ」
引き金に、血で濡れた指がかかる。
そして狙撃手は――
微笑みながら引き金に指をかけると、じわりと絞った。
かつて何度も練習でこなしたとおり、銃は一ミリもぶれることはなかった。
発砲。
音よりも早く弾丸は飛翔し、狙いを違わずに、その男の頭を半分吹き飛ばした。
宙に舞った空薬莢が、太陽光を煌めかせながらレールへと落ちていく。
最初の殺人を終えたグラツ・アクセンティーヌは、細い喉へと、ゆっくりと左手を当てる。
『少佐を狙っていた狙撃手を排除しました。――掃討完了』
そして報告を終えた。
最後の言葉≠ニいう単語が最後の言葉になった男は――
一団の中で最後に死んだ。
*  *  *
トラヴァス少佐がアンに、
『よくやった、グラツ中尉。――ありがとう』
そんな言葉を送ったとき、数十キロ離れて走る列車の中で、
「そろそろ――」
腕時計を見ながら、
「全滅させられた頃かな?」
かつて囚人四十二番≠ニ呼ばれた男は、にこやかに言った。
[#改丁]
第七章 「犯人より愛をこめて」
『全員聞け』
トラヴァス少佐の声が、無線のイヤホンに入る。
『奴の狙いが分かった』
トラヴァス少佐は、四輪駆動車の脇で、ヒルダが乗っている列車を見ながら喋っていた。ウーノはその後ろで、シートやハンドルについた血を拭き取っていた。
一人の狙撃兵は、列車の上で、細い体で細い狙撃銃を持ったまま見張りに立っていた。
エドとオゼットは、線路の上に止められているトラックを移動するために向かっていた。
『奴の狙いは、お嬢様ではなかった。トレイズ殿下だ。繰り返す。奴の狙いは、最初からトレイズ殿下だ。――奴が手を回した計画の全ては、我々にはたやすく撃退できるものだった。それらは全て、我々に撃退させる作戦≠セったのだ。我々を先に行かせ、トレイズ殿下と我々を切り離す意図によって行われた』
全員がイヤホンに耳をそばだてる中、トラヴァス少佐が言った。
そして、それを聞いたイズマが、
「なるほど! そうか、目標はそっちだったか……」
特等車両の部屋で、素直に感想を漏らしてしまった。
防弾チョッキを脱いで、ヘルメットで乱れた髪を直していたヒルダが、
「…………」
エメラルドグリーンの目を細め、かつて見せたことがない険しい目でイズマを睨んだ。そしてイズマは、それに全然気づかなかった。
『奴は、スー・ベー・イルの人間だ。そして王室への敬愛は捨てていない。初めから、お嬢様に危害が及ばないように計画を動かしていたのだ。ただ奴は、ロクシェの血がスフレストスに入るのを断固として拒もうとしている』
『納得しました。――少佐、我々はこれから?』
イズマが訊ねた。特等車の窓から、四輪駆動車に乗って近づいてくる二人が見えた。
『列車は引き払う。トラックと車を使わせてもらう。アゼーの町へ向かい、そこで当局に一報したあと、予定どおりルトニを越える』
『なるほど。あとはロクシェの警察に任せ――、わっ! えっ? ひゃっ! ちょっと! 止め、お止めください! お止め――』
イズマの返信に不思議な内容が入り、通話が一度途切れた。その理由はすぐに知れる。
『トラヴァス少佐、聞こえますか? これで、聞こえていますか?』
ヒルダの声が、全員の耳に届いた。
トラヴァス少佐はウーノに車を止めさせて、列車まで残り十メートルほどを歩きながら、
『はい。よく聞こえています。どうぞ』
無線へと答えた。
即座に返信。
『狙われていたのは、わたくしではなかったのですね? トレイズさんだったのですね?』
そのときオゼットとエドは、トラックに仕掛けがないか注意深く調べていたが、ヒルダの声を聞いて手を止めると、
「イズマの阿呆が……。うかつだぞ」
「ああ」
「貴族ってのはツメが甘い」
「同意だ」
そんな会話を交わした。
当のイズマは、ヒルダの脇で、ばつが悪そうに立っていた。
喉に巻いていたマイクと、耳に入れていたイヤホンはヒルダにむしり取られ、腰の無線機本体からは、
『そのとおりです』
トラヴァス少佐の声が聞こえる。少し間が空いた返答だった。
『そのとおりです。お嬢様。狙われていたのは、いえ――、狙われているのは、トレイズ殿下であり、お嬢様を狙った一連の行動は、ただ殿下を我々から引き離すための壮大な工作でした。我々に対する、これ以上の妨害はないと思われます』
『大変よく分かりました。して、これから少佐はどうなさるのですか?』
今度は、トラヴァス少佐は間髪入れずに答える。
『我々は車を手に入れました。アゼーの町に向かい、ルトニを越えます』
『それは、トレイズさんを、そして向こうの列車に乗っている人達を助けには行かない、ということですか? 何をしでかすか分からない人間が乗っているかもしれないというのに』
ヒルダがマイクを囓らんばかりの勢いで問いかけ、
『そうです。助けには行きません。――我々の任務ではありませんので』
トラヴァス少佐は凪の海のような平静さで答えた。
『もう一度、お聞きします。トレイズさんを、リリアーヌさんを、守りに行く気はまったくないというのですね? そのようなことは、少佐にはできないと言うのですね?』
『左様です。それは本来の任務ではありません』
同じ言葉を聞かされ、ヒルダは怒り肩をすっと下ろした。
『分かりました……。あなた方は、わたくしのみを守る任務についているのですから、そのために税金を使い、ときに人を殺すのですから、それは至極当然のことですわね。理解いたしました。大変よく、理解いたしました』
「…………」
最後は消え入りそうな声で言ったヒルダを、イズマはばつの悪そうな顔で見つめる。
そんなイズマに、
「え?」
エメラルドグリーンの瞳が、にかっとした笑顔と共に向けられた。たじろぐイズマに、
『あなた、車の運転ができて?』
ヒルダは通話スイッチを押しながら聞いた。
トラヴァス少佐が、そしてその部下全員が眉を寄せる中、イズマの返答が、音量は小さいが全員に届く。
『え、ええ……。そりゃ、できますが……』
『では、あなたをわたくしの運転手に命じます』
『はいっ? 運転手? なんのですか?』
『わたくしはこれより、向こうの列車の乗客を助けにいきます。狙われているのがわたくしではないと分かった以上、なんら問題はありませんね?』
「…………」
イズマは四秒ほど絶句し、それから吹き出した。
イズマの笑い声を背景に、ヒルダの声が電波に乗る。
『皆も聞こえましたね』
『お嬢様。いえ、マティルダ王女殿下。謹んで申し上げます。例えねら――』
トラヴァス少佐の声を途中で遮って、ベゼル王室の王位継承第一位の王女は、重々しい口調で言う。
『古より戦の先陣を務めし、勇猛の誉れ高きトラヴァスの騎士よ。――姫の護衛を立派に務めるというのなら、姫の行く場所がどこであろうとついてくるがよい。止めはせぬぞ』
「…………」
列車の前で足を止めて絶句したトラヴァス少佐を、
「あなたの負けです」
ぽん、とその肩を叩きながら、ウーノが追い越していく。
列車の脇に、トラックと四輪駆動車が一台ずつ横付けされた。
男達が、手際よくトランクを運び出してトラックに積み込む。列車を、あっという間に空にした。
トラヴァス少佐は四輪駆動車の助手席に、ウーノは運転席に。狙撃銃と双眼鏡を持ったアンは、後部座席に。
エドはアサルトライフルと共にトラックの荷台へ。運転席にはオゼット、コートを着たヒルダを挟んで、助手席にイズマ。
予備の無線機をあてがわれたヒルダが、喉の通話スイッチを押す。
『ベゼルのマティルダは、イクストーヴァのトレイズを、そして同じ列車に乗っている犯人以外の全ての人間を、これより助けに参ります。護衛の任につきし者よ――』
そこで発言を止めたヒルダに、
「続きは?」
オゼットがポツリと聞いて、
『ありがとう』
ヒルダは答えた。
道を南へと走り出した車列は、あらん限りの速度で疾走する。
決して乗り心地がいいわけではないトラックの運転室で、
「先ほどは、大変失礼いたしました」
ヒルダは、すぐ隣に座るイズマの喉や頬にひっかき傷を認めてそう言った。
「いえいえ、光栄です。殿下に掴みかかられるなんて。一家で末代まで語り継がせていただきます」
イズマは笑顔で返した。
「ベルシュタイン家の大叔母様はわたくしのお花の先生ですわ。――甥御さんの悲鳴を聞いたこと、この次のお茶うけ話にさせてもらいますわね」
楽しそうなヒルダの言葉に、
「…………」
イズマはぽかんと口を開けて、
「あれ? ――俺、言いましたっけ? 少佐、のわけないし……。ご存じだった?」
「いいえ。でも、目を見れば分かります。あなたには、ベルシュタインの血がとてもよく出ています」
「……すげえ。さすが! だてにお嬢様≠ヘお嬢様ではないですね」
イズマが、友達に言うような気軽さで笑顔を作った。ヒルダがつられて笑った。
そして運転席に座る男が、大まじめな顔で言う。
「お嬢様。いい機会です。――この冒険好きでお調子者の貴族のボンボンに、本当の礼儀作法を教えてやってはくれませんか?」
*  *  *
時間は少し戻る。
「そいつは失敬。ロクシェ語を聞き間違えたようだ」
長髪の男はそう言って、リリアとトレイズに一度ウインクをして、デッキから二等車両へと入った。
アリソンが男をちらりと見て、そのまま視線を戻した。
男はそのまま、気力のない乗客達の間の通路を進む。反対側のデッキへと出て、トイレに入った。
しばらくして手を拭きながら出てきた男は、デッキで、かつて囚人四十二番≠ニ呼ばれていた男とぶつかりそうになった。双方が避けて、
「おっと。失礼」
「あ、大丈夫です。――すみませんが、よかったら、手伝ってもらえませんか?」
元囚人四十二番はロクシェ語で言った。そしてすぐに、ベゼル語に切り替える。
「失礼。スー・ベー・イルの方でしたね。もしあなたの手が空いていたら、手伝ってほしいことがあります。探しものがあるのです。一緒に来てもらえますか?」
長髪の男はかなり驚いて、
「おや……。ベゼル語ができる人がロクシェには結構いますね。探しものとは?」
「ペットの鼬です。逃げ出してしまってたいへんなことに」
「…………。分かりました。行きましょう」
「助かります」
二人の男は、列車の後尾へと向かった。
誰も乗っていない二両目の二等車両を足早に通り抜けて、その車両の最後尾にある、車掌用の部屋へと入る。
小さな机とベッドがある狭い部屋に入ると、元囚人四十二番はドアに鍵をかけた。
長髪の男が、ポケットから小さなメモを出しながら彼に問う。
「あんただったのか――。で、なんて呼んだらいい?」
メモにはベゼル語で、栗毛の少女が目標の彼女かどうか調べてくれ≠ニ書かれていた。聞かれた男は、少し悩んでから、
「まあ、ヴィーゼル、とでも」
「分かった。で、ヴィーゼル。俺の次の仕事は? さあ、なんでも言ってくれ」
男の言葉に、ヴィーゼルはにこやかに微笑みながら、
「これを、預かっていてほしい」
ベッドの上、荷物棚に置いてあったバスケットを手に取った。長髪の男に渡す。
男が中を見ると、赤ちゃんがすやすやと眠っていた。
「おや? ――あの女が線路に捨てたんじゃなかったのか?」
「その予定だったんだが、ちと不測の事態が起きてね。女には、捨てなくていいから隠しておけ≠ニギリギリで伝えておいた」
「どうした? 何か問題でも?」
質問に、ヴィーゼルはばつの悪そうな顔で答える。
「ラプトア共和国の施設から育てる≠ニ言って大金を払って引き取ってきたんだが、時間がなくて、その子しか手に入らなかったんだ」
「で?」
「その子、女の子なんだ。名前はエスター」
「……ああ、なるほど。噂どおりなんだな。――ん? あの足音のでかい女は?」
「悪人は別だ」
「ははは、分かったよ。この子は預かる。ことが終わったら偶然見つけたフリをして、警察に保護してもらえばいいんだな」
「ああ、頼んだよ。しばらくは静かに眠っているはずだ。――で、どうだった?」
今度はヴィーゼルが聞いて、
「おっと、そうだった。――あのリリアって女の子だが、あの少年の彼女、というわけではなさそうだが、まったく無関係というわけでもなさそうだ。少年の方が、女の子をかばう素振りはした。彼女、可愛いだけじゃなくてベゼル語も上手いな。正当ベゼル語の見本みたいな喋り方をする」
「それはなおいい。誰だかは知らないが、少々彼女の力を借りることにしよう。面白くなりそうだ」
「さて、これから俺はどうする?」
長髪の男が期待をこめて聞いたが、ヴィーゼルは即答。
「もう何もしないでいい」
「おいおいそりゃないぜ。ここまできたら、最後まで力を貸すよ。あんたは俺を刑務所行きから救ってくれて、薬代すらなかったお袋を立派な病院に入れてくれた。この恩義は――」
「いい。必要だからそうして雇っただけだ。過剰な義理立てはいらない。計画にも触れる。このまま何もせずに旅行を続けてくれ。赤ん坊の下に金が入っている。半分はお前の取り分。半分はその子のだ」
「…………。しかし……」
「言うとおりにしてくれ。さもないと――」
ヴィーゼルが、ベッドの毛布を剥ぎ取った。
そこにあったものを見て、
「…………」
長髪の男は口元を歪ませて黙った。
コーエン車掌が、白目を剥いて死んでいた。口にくわえられているのは、ご苦労だった。約束通りの報酬、後払い分だ=\―そうロクシェ語で書かれたメモ。
そして頭の脇には、分厚い札束が四つ置かれていた。札束一つが、車掌の年収に匹敵するほどの大金だった。
「分かったよ……。分かった」
長髪の男が言って、ヴィーゼルは毛布を戻した。そして、懐から別のメモを取り出す。それは二つに折られて、角を折ってあった。
「最後に、これを渡しておく。命令ではない。なに、オマケのようなものだ。俺がこの列車からいなくなって、例の連中が戻ってきたとき、開いて読んでくれ。戻ってこないようなら、読まないで燃やしてくれ」
男は受け取りながら、
「分かった。あんたにはいろいろ驚かされてきたが、これも驚けそうだな」
「しこたまな。――楽しみにしていてほしい。答え≠ェ、そこにある」
ヴィーゼルが一人で出ていったあと、長髪の男は、手に持ったバスケットの中ですやすやと眠る赤ん坊の頬を、指の背で撫でた。そして、
「よかったな、お前。女に生まれて。――あいつは、ホントに怖い人なんだぞ」
そんなことをつぶやいた。
女の子が寝ながら笑ったような顔を見せて、長髪の男が目を細めた。
「長生きしろよ。エスターちゃん」
ヴィーゼルが、二等車両を通り抜けていく。
すっかりだれきった客達の中には、ボンヤリと外を見ているリリアと、その隣のボックス席に座って、ヴィーゼルに気づくまでそのリリアを横目で見ていたトレイズがいた。
無言で間を通り過ぎたヴィーゼルは、デッキへと出た。そこで一度腕時計を見てから、前に繋がる二等寝台車へと入る。
誰も乗っていない車両を通り過ぎ、さらに一つ前の、老人と秘書が残っている車両に入った。
その部屋の前に来ると、ヴィーゼルはドアをノックした。
「誰――、ですか?」
秘書の女性の、明らかに警戒している声が返ってきた。ヴィーゼルがロクシェ語で言う。
「ご老人のご気分が悪くなったと聞いて、心配して来たんですが……」
「そのようなことはありません。お心遣い感謝します。お引き取りください」
鍵がかかったままのドアの前で、ヴィーゼルは、
「分かりました。問題ないようでしたら戻ります。――あと、キャシーお嬢ちゃんは元気ですよ」
今度はドアが開いた。猛烈な勢いで室内へと開き、
「…………」
そしてそこには、涙目でヴィーゼルを睨み付ける赤毛の女性がいた。
「はい失礼」
ヴィーゼルは彼女をとん、と突き押して、部屋に入った。すぐにドアを閉めて、鍵をしっかりとかけた。
ベンチシートに、進行方向に背を向けて老人が座っていた。押された秘書が、その向かいに座った。
白髪の老人は、ゆっくりとヴィーゼルを見上げて、
「おぬしだったか……。孫を人質に取った外道は。そしてこの馬鹿騒ぎの元凶は」
ヴィーゼルが小さく頭を下げる。
「左様。お初にお目にかかります。犯人≠ナす」
老人はヴィーゼルを睨んだまま、
「孫に何かあったら、儂の部下達が貴様を八つ裂きにして野犬の餌にするぞ。分かっているな」
「おやおや、それは怖いですね。それゆえ、お孫さんには手を出していません」
ヴィーゼルはそう言うと、懐から写真を一枚出した。老人へと差し出して、老人がピクリとも動かなかったので秘書がそれを取った。
秘書は写真を見て顔色を変えて、老人へと手渡す。
「…………」
ようやく見た老人が、目を見開き、そして細めた。
カラー写真に写っていたのは二人。一人は今写真を取り出した男。もう一人は、老人の唯一の孫である八歳の少女。
二人はベンチに座り、これ以上ないほど楽しそうな笑顔でカメラに笑っていた。
そばかす顔が可愛いキャシーは、手にプードルを模した風船を持ち、頭には王冠のオモチャをのせている。後ろにぶれて写っているのは、回転中のメリーゴーランドだった。
「三日前。エリテサの移動遊園地です。いやあ、楽しかった。キャシーちゃんと一緒に、くたくたになるまで遊びましたよ。童心に返りました」
「貴様……」
老人が額に青筋を立てた。ヴィーゼルが、諭すような口調で言う。
「あなたの手下達は、とっても無能です。誘拐されたからって、片端からホテルだの飛行場だ駅だアウトバーンだと捜し回っていた。私達はすぐ近くで、お天道様の下で一日楽しく過ごしていたというのに。本当にボンクラ揃いですね。ボスとして恥ずかしくないですか?」
「今は、孫はどうしている……?」
「ああ質問は無視ですか。まあいいです。――お孫さんはもう、ご両親が臥せっている首都の別荘に戻っているんじゃないですか?」
「なんだと!」
「キャシーちゃんは、二日前に首都行きの長距離列車に乗りました。私は、ホームで見送りました」
「一人でか?」
「まさか。民間警備会社の女性を雇いました。この子はわけあって一人で首都に行かなければならない。護衛を頼む≠チて。安くない代金と二人分の運賃は私が払ったんですよ。別荘までしっかりと送り届けるように命じてありますから、心配はいりませんよ。キャシーちゃんには、ご両親とお爺様を驚かすための秘密の旅行と言ってありますので、途中で身分をばらすようなことはないかと思われます。利発なお子さんで本当に助かりました」
呆然とする老人と秘書に、
「別れ際、楽しかった、おじさんまた一緒に遊ぼうね≠チて頬にキスまでしてもらいました」
ヴィーゼルは照れながら言った。そのあと、ちらりと腕時計を見て、
「そろそろ――、全滅させられた頃かな?」
にこやかに言った。
老人が、ひどく疲れた様子で息を吐く。
「もういい……。貴様は頭がどうかしている……。狂っている……」
「ひどい。何人ものライバルを殺して犯罪組織のボスになった人には言われたくない。そうとう残酷な殺しをしてきたんですってね、あなた。やーい、外道」
「もういい。お前の指示どおり、荷物は持ってきてやった。――おい」
老人は、秘書に目配せをした。
秘書は頷いて立ち上がると、座っていた座席の下から、大きなトランクを引きずり出す。かなり重そうなそれを、必死になって座席の上に置いた。もう一つ、今度は老人の足下から同じように引きずり出した。座席の上で並べる。
「開けてください」
ヴィーゼルが秘書に命じて、秘書は言われたとおりにトランクを開き、中身を覆っていた布を取った。
トランクに入っていたのは、軍用爆薬・取扱厳重注意≠ニ書かれた、そっけない段ボールの箱。辞書ほどの大きさの箱が、三つずつトランクに収まっていた。
「素晴らしい。さすがにこれだけは簡単に手に入る代物ではないので、助かりましたよ。二人とも、本当にご苦労さまでした。ご協力を心から感謝します。また何かあったら――」
「うるさい。――貴様、これからどうするつもりだ?」
老人が張りのある声で、ヴィーゼルを睨みながら聞いた。
「内緒です。邪魔しないでくださいね」
「お前のことを、すぐさま誰かに言ってもいいんだぞ。なんなら儂が直々に殺してやってもいいが」
「あなたはしませんよ。警察に根掘り葉掘り聞かれたくないでしょ? それに、キャシーちゃんが言ったとおりに無事かも確かめようがない。いや、アゼーで電話すればすぐに分かりますよ。無事ですよ」
「…………」
「あとは、皆のいる二等車両で適当に過ごしていてください。あなた方も、列車が遅れたと被害者面をしていてください。そうすれば、明日出発の飛行機を捕まえて、明後日か明明後日には、可愛いキャシーちゃんにまた会えますよ。実は、飛行機のチケットはもう取ってあります。はい、これ」
ヴィーゼルがまたも懐から航空会社の封筒を出して、老人は、今度は素直に受け取った。中身を見ると、アゼーから首都までの航空券が、乗り継ぎを含めて二人分入っていた。
老人は、それを自分の懐にしまった。
「はい、話は以上です。気分はよくなりましたか? ――さ、この部屋から出てった出てった」
ぱんぱん、とヴィーゼルは手を叩いた。
「地獄に堕ちろ」
最後に老人が言い残し、秘書と共に出ていこうとして、
「おっと。あなたは駄目です。もう一つ仕事が」
女性だけを、ヴィーゼルは呼び止めた。
白髪の老人が、疲れ切った表情で脇を通り過ぎたあと、
「ん?」
ボックス席の通路側に座っているリリアは、赤毛でスーツ姿の女性に小さく手を振られていることに気づいた。
女性はデッキに繋がるドアの向こうで、沈鬱な表情で、ドアを半分だけ開いてリリアに手招きをしている。リリアは首を傾げ、怪訝そうな顔のまま、左側のボックス席から立ち上がってドアへと近づいた。
「何?」
トレイズも一緒に立って、一人にしないように後を追った。
「さあ?」
リリアが、そしてあとからトレイズがデッキへ。女性はトレイズを見て露骨に困った顔をして、リリアの耳元に口を近づけて、小声で何かを話した。
「ああ……。いいですよ」
リリアが快諾するのを見て、トレイズは再び何ごとかと訊ねたが、
「私は、この人と一緒に部屋に行ってくる。ちょっと持ってくるものがある」
「え? じゃあ俺も――」
「いいから! すぐに戻る」
リリアに睨まれて、女性に申し訳なさそうな顔をされて、トレイズはたじろいだ。リリアと女性は、
「ごめんなさいね。助かるわ」
「いいんです。困ったときはお互い様です」
そんな会話をしながら、連結部分を通り抜けて、前の車両へと消えた。
「…………」
トレイズは、しばらく今からでも追うべきかそれとも言われたとおりにするか悩み、
「…………」
最後は言われたとおりに、デッキから車内に戻った。
一人で戻ってきたトレイズに、車両右側のボックス席に一人で座っていたアリソンが声をかける。
「どうしたの?」
「あ、リリアは、例の老人の秘書と、部屋に何か取りに戻るって。――今からでも追いかけますか?」
「まあ、二人でなら」
アリソンがそう言い終えたときだった。
列車にブレーキがかかった。がくん、と前に揺れ、車輪からは甲高い金属音。減速の加重が進行方向にかかり、
「おっとっと」
トレイズが背もたれに捕まった。
列車は先ほどまでの半分ほどへと速度を落とし、今度は急激に右へと、鋭く揺れた。
「うおっ!」「なんだ?」「おいっ!」
座席のあちこちからどよめきが聞こえた。トレイズは転びそうになるのを堪える。アリソンは、窓枠に軽く頭をぶつけた。
「なんですか、今の?」
「ポイントだわ」
アリソンが、すぐに右脇にある窓を指さした。そこには、真っ直ぐ北に延びているレールがあった。本来その上を走っているはずのレール。それがどんどん離れていく。
「ポイントを左に行ってしまったのよ」
トレイズが顔色を変える。
「え? それって――」
「ええ、間違い」
列車は、ブレーキをかけ続けた。速度はどんどん落ちていく。
「運転士も気づいたんでしょうか?」
トレイズの問いに、アリソンはひとまず頷いて答える。まもなく、列車は完全に静止した。草原の向こうに、本来進むべき線路がまだ見えている位置だった。
「よかった。でもなんでこんな線路が? ロル行きの路線に、分岐はなかったと思うんですが」
トレイズの疑念は、アリソンがすぐに晴らす。かつてヴィルヘルム・シュルツが彼の母親に言ったことと、だいたい同じ内容で答える。
「軍用路線よ。――南北の本線から、西に向かう線路は全て軍用路線で、地図に載ることはないの」
「ああ、なるほど」
「このすぐ近くには空軍の飛行場もあるし、その先は最前線まで、複雑に枝分かれして線路が敷かれていたの。物資の補給や列車砲の移動のためにね。今はたぶんほとんど使われていないでしょうけど」
「その一つに、間違って入ったわけですね」
「時間がずれたから、後続の軍用貨物列車と間違ったか……、単なるポカミスか。どっちにしろ、管理所の手落ちは間違いないわね。これでまた到着が遅れるわ」
多の乗客達は、まだ車掌室にいる長髪の男以外は、おおむねいきり立っていた。
「なんだよ! いい加減にしろよ国鉄!」
「とっとと動かせ!」
「車掌はどこだ!」
もっともな怒りの声が飛んだ。
車両後部のドアが開いて、長髪の男が、しれっとした顔で車両に戻ってきた。
そして、先ほどまではいなかった白髪の老人が、一人でボックス席に座っているのを見つけた。
両手を握りしめ、憤怒を必死に押さえようとしている彼の様子を見て、
「おやおや、可愛そうに」
そうベゼル語でつぶやいた。
時間はわずかに戻る。
列車がポイントを通過したとき、リリアは二等寝台車の通路に倒れていた。
長い髪が、彼女の髪をすっかり覆い隠している。すぐ側にはヴィーゼルが立っていた。
「…………」
自分の目の前で恐怖に震えていた秘書の女性に、ヴィーゼルは、
「はい、ご苦労様」
そう言いながら、彼女の口元へ、呼吸器のようなものを押しつけた。三秒ほどで意識を失った女性を左手で支え、使った道具は窓の外に捨てる
女性の体を軽々と持ち上げると、ヴィーゼルは車両デッキへ移動した。そして列車が止まるのを見計らって、ドアを開けて線路脇に降りた。
軍用路線は単線で、左右はすぐに草原になっている。そのまばらな草と泥の上に、気絶した女性を手早く横たえると、
「最後にメッセージをば」
懐から出した封筒を、彼女の胸の上に置いて、彼女の両腕を重しがわりに使った。
「ここからが本番だ。うまく釣れてくれよ」
ヴィーゼルはデッキに飛び上がって戻ると、駆け出す。後方の二等車両との連結箇所まで、誰もいない二等寝台車両を全力で走った。
そして連結部分に来ると、見事な手際の良さで連結の解除にうつる。
まずは通路の幌が外され、渡りの板が畳まれる。電気を伝えるケーブルと、ブレーキのための空気管が外された。最後に連結器のネジを緩め、フックが外れた。
顔から汗を垂らしながら、両手を油で汚しながら、ヴィーゼルは仕事を終えた。
すぐさまデッキに飛び降り、そこに備えつけてあるゴミ箱へと手を伸ばす。油まみれの手で掴みだしたのは、トラヴァス少佐達が使っているのに似た、小型の無線機だった。
通話スイッチを押すと、
『よし。動かせ』
ただそれだけ。
『了解しました』
即座に誰かからの返事が来て、その数秒後、乗っていた列車が揺れた。
機関車と食堂車、二両の二等寝台車だけになった列車は、ゆっくりと軍用路線を走り出した。
連結部分が離れたとき、ガシャン、と小さからぬ音が響いた。そして始まった、列車自体の走行音。
これらは、動きのない二等車両にも聞こえた。
「なんだ?」
トレイズは首を傾げ、
「しまった!」
アリソンは行動。即座に席を立つと、やはり立とうとしていたトレイズを跳ね飛ばし気味に押しのけて、デッキへと消える。
「え?」
体勢を戻したトレイズが慌ててあとを追って、デッキに入って、連結部分に立つアリソンの後ろから同じ方向へ目を向ける。
「……え?」
そしてトレイズは、アリソンの金髪の向こうで小さくなっていく車両を見た。
「あ! ――リリアが……」
トレイズが、ようやく気づいた。
アリソンがレールの間に飛び降りて、トレイズも続いた。列車はすでに小さく、走ったとしても間に合うわけはなく、
「やられた……」
アリソンの不覚を恥じる声が、レールから伝わる走行音に混じった。
相変わらず雲一つ無い空の下、太陽はだいぶ西へと傾き、昼と夕日の間の位置にあった。取り残された四両と、その前に立つ二人を照らしている。
「なんで? 何が?」
トレイズは訳が分からないままそう口に出して、
「…………」
アリソンは顎に手を当て、青い瞳を細めて熟考する。
「おいおい! こりゃ一体……、どういうことだよ!」
後ろから男の声。二十代の背広男がそう言って、同じように降りてきた。後ろからは兵士やおばさんが続いた。
トレイズが、降りてきた他のお客達に、
「見てのおとりです。前の、機関車と食堂車と寝台車と、四両が先に行ってしまいました」
「なんで?」
「分かりません」
アリソンが振り向いて、
「連結器のトラブルと、運転士の勘違いと、たまたま向こう側に私の娘が呼ばれて行っていた偶然が全て重なったとしたら――、単なるアクシデントでしょうね」
「なんですかそれ? 姉さん、一体何があったんです? 俺にできることがあったら――」
体格のいい兵士が詰め寄ったが、アリソンはそれを片手で押しのける。
「おい! あれはなんだ? ほらあそこ! 線路の脇! 誰かが倒れているぞ!」
そう大声を出したのは、遅れて連結部分に顔を出した長髪の男だった。ベゼル語で言ったので、アリソンとトレイズだけが反応する。
二人は同時に、横たわっている秘書を見つけた。
「リリアを呼んだ人です!」
トレイズが言うのと、アリソンが駆け出すのが同時。
トレイズは後ろから、他の客になんのことだと聞かれて、ロクシェ語で短く説明したあとアリソンを追った。
トレイズを追って、兵士や背広男も駆け出した。
「ちょっと! 聞こえる?」
膝をついたアリソンが、倒れている秘書に問う。返事がないので二、三度頬を打った。それでも動かない彼女の喉元、そして口元に指を当てて、脈と息を確認した。
「どうですか?」
駆け寄りながら聞いたトレイズに、アリソンは顔だけ向けて、
「薬か何かで眠っているみたいね」
「よかった。リリアは? リリアはいませんか?」
アリソンは、無言で首を振る。
トレイズは列車が消えた先を睨み、
「アクシデントでは、ないみたいですね……」
苦々しくつぶやいた。
やってきた客達が後ろで、トレイズに一体何が起きたのかと訊ねた。答えようがないトレイズが口ごもっているなか、
「……ん?」
アリソンが、倒れている女性の胸に置かれた封筒に気づいた。持ち上げると、そこには宛名が書いてあった。ロクシェ語で短く一行、イクストーヴァの坊やへ=B
「…………」
アリソンは、それをジャケットのポケットに素早くしまうと、
「男集! 彼女を車内に運んで」
振り向きながら命令した。
おう、とか、ああ、など返事が来て、男達が集まり、秘書の女性を担ぎ上げる。その際、誰がスーツスカートからすらりと伸びる足の方を持つかで数秒間もめた。
女性が運ばれていくのを見ながら、近くに誰もいなくなったのを計ってから、アリソンはトレイズの脇に立つ。封筒を見せながら、
「これ。体の上に残されていた手紙。殿下宛」
「…………」
トレイズは受け取ると、表紙を見て視線を険しくした。封がされていない口を開けて中身を取り出すと、一枚だけ入っていた便箋を開いた。
それは、ベゼル語で、そしてかなりの速度で書かれた手紙だった。トレイズが、口に出して読む。
『親愛なるイクストーヴァの若く気高く美しい王子様へ
これをあなたが読んでいるということは、栗毛の小娘はとっくに預かっています。驚きましたか? 無理はないですね。
さて、大事なこの子を無事に返してほしければ、レールを車で、たった一人で追いかけてきてください。その際は、無線機を一つ持ってくること。周波数は下に書きました。
なに、急ぐ必要はありません。列車はのんびり進むから、すぐに追いつけるでしょう。
私はドキドキしながら待っています。
犯人より愛をこめて』
読み終えて、
「何コレ……?」
トレイズは正直な感想を漏らした。
秘書を運びながら、兵士は、
「あれ? 医者先生はどこに行った?」
ふと、そんな感想を漏らした。
[#改丁]
第八章 「レイルトレイサー」
「どうぞ……」
自分が嘘を言っていないことを証明するために、本当にそんなふざけた文面が書いてあったことを立証するために、トレイズはアリソンに手紙を渡した。その際に裏を確かめたが、何も書いていなかった。
アリソンは受け取って読む。確かにそのとおりの文面で、他には、周波数を指定する数字が並んでいるだけだった。アリソンは、
「これ、一通だけだったわよね……?」
自分で発見した手紙の信憑性を疑う。
「ひとまずは、リリアが意図的にさらわれたことは確かです! そして、犯人はなぜか俺が狙いだということも! 卑怯な手を使いやがって!」
訳の分からない手紙の調子についてはひとまず無視して、トレイズがそう気色ばむ。
アリソンはもう一度手紙を見て、
「王子様≠ヒ……。なるんほどそういうことか……」
「どういうことです?」
「どうもこうも、この人は、殿下のことを知っているってことよ。ただ者じゃないわね」
「あ……」
言われてやっと気づいたトレイズに、
「まず、落ち着きなさい」
アリソンが手紙を返しながら一言。イクストーヴァの王子は、はい、と小さく頷いて手紙を受け取った。
「トレイズ君が目的か……。そっか。今までの騒ぎは全てこのためだったのね。後ろの列車に乗り移って、騒ぎで護衛を先に行かせた。すぐに国境を越えるでしょうから、ロクシェ人のトレイズ君を一緒に入国させるわけにはいかない。当然置いていかれる。――いろいろと頭の回る人ね。あとは恐らく、スー・ベー・イルの人ね」
「そしてリリアを人質に――、そこまで計画に?」
「いいえ。リリアのことは、即興でしょう。トレイズ君の友達だと思って使うことにしたのよ。本来の計画では、この列車ごと軍用路線に迷い込ませて、あとはどうとでもするつもりだったんじゃないかしら。こっそりトレイズ君だけを殺してもいいし、列車ごと大虐殺してもいい。本人の証拠隠滅を計るのなら、その方がいいわね。逆を言えば、リリアは、わたしを含めたみんなの命を救ったってことになるわ」
さらりと言ったアリソンに、
「…………」
トレイズは嫌そうな顔を見せる。
「ああ、ごめんね。なんか最近、あの人に考え方が似てきてね」
「あ、いえ。――それで俺は、どうすればいいんでしょうか? 一人でレールを、しかも車で追ってこいなんて言われても……、どうやって行けばいいんですか? 無線機って?」
トレイズの問い。
これには、アリソンも答えられなかった。付近には、草原以外何もない。
「この犯人はふざけてます! そこまで頭が回るのなら、ここに車ぐらい用意しておけっていうんですよ!」
トレイズが再びいきり立ったとき、遠くから車の警笛が聞こえた。
車は、線路を越えてやってきた。
本来進むべきだった北に延びる複線の線路。そこを乗り越えて、四輪駆動車とトラックが近づいてくる。
「え? あれ? ――車?」
首を傾げたトレイズと、
「さすがね」
素直な感想を漏らすアリソン。
車が近づくにつれ、乗っている人の顔が分かった。トラヴァス少佐とその部下、そしてトラックの運転席にはヒルダの姿も見える。
リリアとトレイズ、そして秘書の女性を車内に置いて再び出てきた客の男達の前で、車は停止した。ばらばらと、銃を持った人間が降りる。
「うわ、あいつらだよ。戻ってきやがった」
客達が武装集団に身を引くなか、トレイズはトラヴァス少佐に駆け寄った。
「殿下。ご無事で何より」
トラヴァス少佐がひとまずはそう言って、
「判明しました。今回の犯人に狙われているのは――」
「俺です! それでリリアが人質に!」
「…………」
「これを!」
トラヴァス少佐が、差し出された手紙を受け取った。真剣な顔で読み始めて、真剣な顔で読み終わった。
「なるほど。やはり切り離した車両で逃げているんですね。それで、犯人が、奴≠ェ誰かは分かりますか?」
「分かりません。でも今から全員調べれば、いない奴が――」
「何話しているんだろうな?」
「さあ……」
トレイズとトラヴァス少佐の会話を、客達が二十メートルほど離れて、遠巻きに見ていた。
トレイズが振り向いた。トラヴァス少佐と合わせ、二人が同時に自分達を見た。
その後ろでは、黒服の男達と女が、凶悪な銃器を堂々と見せていた。さらに、一人だけ場違いに見える金髪の女性が、その脇に立っている。
「誰だ……、あの美人さん? 列車で見たか?」
「いや。誰だろうな……?」
前にいた兵士と背広男の会話を聞いて、
「……あ」
何かに気づいた長髪の男が、もらったメモを開いた。手の中に隠して、その文面を読む。答え≠読む。
「…………」
読み終えた男の手が震え、メモがはらりと落ちた。後ろにいた中年の背広男が、
「兄ちゃん、落ちたよ」
気づいて拾おうとする。
そして長髪の男は、客達の中から走り出した。
いきなり駆け足で接近してきた男に、ウーノとイズマが素早く反応し、ウーノはアサルトライフルを一発、空へと放った。イズマはヒルダの前に立ちふさがる。
いない奴が奴です。そう言おうとしていたトレイズも、銃声に驚き、そして迫ってくる男に驚いた。トラヴァス少佐がそのトレイズの前に立ちふさがった。
それらとほぼ同時に、長髪の男は自ら足を止めた。ヒルダに数メートルの距離を残し、その場に跪くやいなや、草原の泥へと額をつけながら深々と、礼を始めた。
「なんだあいつ?」
「知るか」
客達が当然の反応を見せた。
伏せたまま、銃声にも負けない大声で、感極まった様子で声を震わせながら、長髪の男は叫ぶ。
「マティルダ王女様! おお! このようなところで麗しきご尊顔を拝することができるとは! ベゼルの一人の民として、この上なき幸せ! 心より、お慕い申しますっ!」
ベゼル語で言ったので、客達には何も理解できなかった。
「何言ってんだ、あいつ?」
「さあ」
全員で首を傾げる。
そんな中、落とした手紙を拾った人間が、そこに書かれた文字を読もうとして、やはりベゼル語なので即座に諦めた。
そこには、ヴィーゼルが残した最後のメモには、こう書いてあった。
黒背広の連中は、ロクシェ首都の母国大使館詰めの陸軍特殊部隊員だ。そして警護していたのは、お忍びでロルへ向かわれる途中のマティルダ王女様ご本人だ。計画どおりなら、車でお前がいる場所に来るだろう。ご尊顔を拝する機会があれば、失礼なきように努めよ
一人のスー・ベー・イル人の愛国的行動を見て、
「大変分かりやすい。彼に聞けばいいということだな」
トラヴァス少佐は淡々と言った。
「なるほど!」
トレイズが、その長髪を掴んで引っ張るために近づく。
「あ……、しまった……」
長髪の男が顔を上げさせられて見たものは、トレイズの睨み顔と、突きつけられた銃口の列。
「ちょっと来い」
山のような体格のエドが、ぼそりと言った。
そして長髪の男は、トラックの裏へと連行されていく。
「あの人は、どうも犯人の仲間だったみたいね。取り調べるそうよ」
客達の中で、彼が落としたメモを読みながらアリソンが言った。
「警察でもないのに、そんなことが許されるのか?」
「そうだそうだ!」
「これは、人権侵害ではないのか?」
客達がそんなことを言ったが、
「そうね。文句を言ってきたら?」
アリソンの返事に、面白いように黙った。
トラックの陰に連れてこられて、後ろ手に縛られたうえにタイヤを背に座らされた男は、しばらく銃口から目をそらすように夕暮れが始まった空を見ていたが、
「聞きたいことがあります」
ヒルダが目の前にやってくると情けないほど笑顔になって、両目から細く涙を流し始めた。
「おお……! 私のような薄汚い犯罪者風情が、マティルダ王女様のご尊顔を――」
「それはもういい!」
トレイズが、かなり苛ついた様子で言って、
「奴は――、誰だ? リリアをさらった、今回の黒幕は誰だ? 何者だ?」
そしてトラヴァス少佐は、
「知っていること、すべて教えてくれますね?」
手に持った拳銃のスライドを少し引いて、装填されていることを確認しながら言った。口調だけは、いつもどおりに優しい。
「…………」
額に汗を浮かべた男に、最後にヒルダが笑顔を向けた。その清楚な笑顔に、男は泣きながら恍惚の表情を浮かべる。
「ああ、なんたる幸せ……」
そして、ヒルダはぽつんと一言。
「申せ」
「ハイ、すべて申し上げます」
男が、再度深々と頭を下げた。
「あいつは、囚人四十二番≠ナす」
男の発した言葉に、トラヴァス少佐は顔をしかめ、部下達はどよめいた。
「奴……、か」
「よりにもよって……」
「そりゃ、適役かもしれないですけどね……」
「最低です」
ウーノ、オゼット、イズマ、アンの順に、苦々しい顔つきで感想を漏らした。
一方、顔に疑問符を浮かべたのはトレイズとヒルダ。
「囚人四十二番……。誰なんですか?」
トレイズはトラヴァス少佐に訊ねて、
「彼は――」
トラヴァス少佐は一度言いよどむ。そして、自分を見つめる王子と王女の瞳に観念して、答えを語り出す。
「彼は、囚人四十二番≠ニは、スー・ベー・イルの最悪の犯罪者の一人です。捕まって、懲役四百二十年の実刑に処されて、重刑務所に収監されていました。四年前のことです。以来、そう呼ばれています」
「そいつは、何をしでかしたんですか?」
当然のようにトレイズが聞いて、トラヴァス少佐は事務的に答える。
「連続殺人です。十年近くにわたって、判明しているだけで六十人以上の人間を殺害し、遺体を損壊、放棄しました。いわゆる快楽殺人者≠ニ呼ばれる人間です」
「はあ……。六十人……」
トレイズが呆れた。
「そして彼は……」
トラヴァス少佐が、ここで言いよどんだ。
この先を言うべきか言わざるべきか、葛藤するトラヴァス少佐を助けたのは、囚われの男だった。
「奴は、この仕事≠ノぴったりの人間だったんだよ」
トレイズが振り向いた。視界を下ろす。後ろ手に縛られた男が、冷たい笑顔をしていた。
「どういうことだ? 答えろ」
「ああ答えるさ。でも、聞いて後悔するなよ、少年」
「するか。こっちは時間がないんだ。奴について知っていることを全て言え」
「いい度胸だ。その前に――。麗しの王女殿下。この先の話は殿下のお耳汚しになりますゆえ、どうか、しばしお外し願えませ――」
ヒルダにはとことん忠義を尽くす長髪の男だったが、
「時間がないのです。申しなさい」
彼女からの返事はつれない。
男は一度悲しそうな顔をして、それから、自分を睨むトレイズを睨んだ。
「よく聞け少年。――奴は、異常性欲者だったんだ。お前みたいなのが好みだったんだよ」
「なんだ? どういうことだ?」
トレイズは首を傾げ、男はにやりと笑った。
「奴が殺したという六十人以上の犠牲者は、全員が可愛い男の子だったってことさ」
「…………」
トレイズは眉根を寄せた。男はどこか楽しそうに、変に誇らしげに続ける。
「奴は、無辜な女は殺らない。成人男性にも興味はない。奴は、下は一歳から上は十八歳まで、たいていは年端のいかない、顔の綺麗な男子ばかりを狙った。あるときは言葉巧みに家に連れ帰り、あるときはヒッチハイカーを拾い、あるときは強引に誘拐した」
「…………」
「逮捕されたとき、奴は詳細な犯行記録を残していた。奴は、犠牲者を死ぬまで散々にいたぶっていたんだよ。奴なりに愛して≠「たんだ。つまり、男の子にしか興奮できなかったのさ」
「うげ……」
さすがに嫌そうな顔をしたトレイズと、目を曇らせながら話を聞くヒルダ。
「発見された死体は、とても公表できないような状態だった。剥製にされた者、実験された者、食べられてしまった者、裏返しにされた者――。俺は刑務所仲間からいろいろ聞いているが、知っていることを全部言おうか? 聞いたら最後、奴の半径千キロ以内には近づきたくなくなるぜ」
「…………」
「ついでに教えてやる。奴は、単なる頭のおかしい変態野郎じゃない。子供の頃から神童と言われ、十二歳でロクシェ語を完璧に操り、十四歳で大学に入り、十八歳で医師免許を取った天才だ。兵役中は軍医、そしてその後捕まるまではずっと、有名病院で内科の医師をやっていたんだ。近くでいくら子供が失踪しても、誰も奴を疑っていなかった。逮捕時なんて、あの素晴らしい先生がそんなことをするわけはない!≠ゥらと、警察の陰謀だと訴え出た患者もいたくらいだ。死体をトランクにのせた車がボケ老人の運転する車にたまたま追突されなければ、そのまま一生捕まっていなかっただろうと言われている」
「……よく分かった」
「ほう? ――何が分かった? 聞いてやるから言ってみな」
男が、挑発するように聞いた。
「分かったさ。奴が、リリアを殺していることはないだろうってな。安心したよ。これで追跡に移れる。会ってやろうじゃないか――、奴に」
笑顔で言い切ったトレイズを、男と、そしてヒルダが見た。
トレイズはそんな二人には構わず、トラヴァス少佐に振り返ると、
「王立陸軍少佐!」
「はっ!」
トラヴァス少佐は、直立不動で答えた。
「その車、ただ今より俺が借り受ける。狙撃銃と無線機も。代金はイクストーヴァ女王に請求を。――上着を取ってきます!」
ロクシェ語でそう言い残して、返事も聞かずに駆け出していた。
「…………」
列車へと駆けていくトレイズの背中をいつまでも見ていたヒルダに、長髪の男が捲し立てる。
「おお! そのような沈んだお顔をなさらないでください! 姫様は向日葵のように微笑んでおられるのが何よりもお似合い――むぐぐっ!」
「やかましいわ」
男は、イズマに猿ぐつわをかませられた。
「むぐむぐっ!」
「情報、ひとまず感謝します」
ヒルダが男に礼を言うと、男が涙粒を飛ばしながら悶える。
「むぐぐむっぐぐぐぐぐむぐぐぐ!」
「なんともったいないお言葉=Aかな?」
イズマはそう言いながら、ヒルダの背中を軽く押して、ブンブンと首を縦に振る男から遠ざけた。
部下達とヒルダが、トラヴァス少佐の近くに集まる。ウーノが、
「しかし、あの刑務所から奴がのうのうと逃げたとは考えられない。預金もないはずだし、奴の両親はすでに自殺している」
トラヴァス少佐は頷くと、
「当然、誰かが背後にいる。資金を出し、情報を出し、奴を出した誰かが」
「しかし、刑務所から奴を合法的に出すなんてことが可能な人間は、どう考えても一人しかいません。――法務大臣です」
オゼットの言葉に、
「ならそいつでしょう」
イズマがあっさり。オゼットがあきれ顔で彼を見たが、
「そうだろうな」
トラヴァス少佐はイズマに同意した。そして、
「今の法務大臣は、ベッサー公爵だ。トレイズ殿下のことを知っていてもおかしくはない地位にいる。そして、彼は再婚していて、若い息子が一人いる。まだ十歳だが、将来は、マティルダ王女様の有力な婿候補の一人だろうとされている」
その言葉に、
「…………」
まずヒルダが息をのんだ。そして、イズマを除く部下達も。
イズマは他人事《ひとごと》のような態度で、実際他人事だったが、どこか楽しそうに、
「なるほどね。それで、トレイズ殿下を亡き者にと。自分の一粒|種《だね》を、次期女王の旦那《だんな》へと。――なんて単純な、とても分かりやすい理由でしょう!」
「そうでしたか……。薄々は感じておりましたが、やはりわたくしのせいでしたか……」
視線を落とした王女に、イズマが気軽に声をかける。
「ま、ヒルダお嬢様≠ェ気にすることではありませんよ」
そんな同僚を見ながら、
「今からでも不敬罪で逮捕してやりたいが……」
オゼットは小声でつぶやいた。脇にいたアンが何か? と訊ね、オゼットは何も、と答えた。
「加わってもいいかしら?」
アリソンが、お茶に参加するような口調で言いながらやってきた。
トラヴァス少佐は、何も拒絶しない。部下達も、何も言わない。アリソンはヒルダと目が合うと、こんにちは、と一言笑顔で挨拶をした。ヒルダも挨拶を返す。
そしてトラヴァス少佐は、端的に事態のあらましを説明した。聞いたアリソンが、
「なんとまあ……。じゃあ、あのおとなしそうな医者がそうだったのね。いないのよ」
「彼がそうか。スー・ベー・イルは、犯罪者の顔写真を公表すべきだな……」
トラヴァス少佐が言ったとき、トレイズが、列車から走って戻ってきた。セーターの上に、革製のジャケットを羽織っていた。腰にはウエストバッグ。
「行きます!」
トレイズはそのまま四輪駆動車へと向かおうとして、トラヴァス少佐に手で止められる。ロクシェ語で、
「危険ですよ。殿下。我々は直接の援護ができません」
「分かっています」
即答を聞いて、トラヴァス少佐は手を下ろした。そして部下へと、車、無線機二つ、狙撃銃、そして予備の弾倉を用意するように命じた。
「ありがとうございます」
礼を言ったトレイズへ、ヒルダが近づいた。
「トレイズさん」
トレイズは、はい、と振り向き、
「どうか、止めないでください」
ヒルダを見つめながら、はっきりとそう言った。
「止めません」
ヒルダの即答。
「あなたは行って、そしてリリアさんを助けてきなさい。囚われの姫を助ける。それが、王子の務めですわ。さあ、時間がありませんよ」
「…………」
目を細めたトレイズに、ヒルダがゆっくりと近づいた。トレイズの肩に手を置いた。
「御武運を」
そして黒髪の額へと、小さくキスをした。
トレイズは、ウエストバッグを左脇にずらし、小型無線機を腹部に装着した。周波数を指示に合わせて、マイクを喉に巻き、右耳にイヤホンを取りつけた。
トラヴァス少佐が、
「お声の届く限り、できる限りのことはします。もし、奴が列車を走らせたままだった場合は、デッキにある非常ブレーキを作動させてください。そして最後は機関車の運転席へ。そこにある無線機は強力です」
「分かりました。ありがとう」
トレイズは最後に長い自動式狙撃銃を受け取ると、装填を確認して安全装置をかけた。予備の弾倉を二つ、ジャケットのポケットに入れた。
車に乗り込む。狙撃銃を助手席でシートベルトに巻きつけ、トレイズはエンジンをかけた。
左足でクラッチを踏み込み、右手でギアを入れる。アクセルを踏み込むと同時に、乱暴にクラッチを離した。
小型四輪駆動車は、草原の泥を後ろに巻き上げながら走り出した。
線路の敷石を上り、左側の車輪をレールの間に入れて、
「待ってろよ!」
見えない列車の影を追い始めた。
車が見えなくなるまで、エメラルドグリーンの瞳が見送った。
一方、青い瞳を持つ女性は、
「さて、私達も行こうかしら。そのトラックを出してちょうだい。姫様もご一緒がいいわね。そこなら、ちゃんと保護してもらえるから。客達は放っておいても、まあ平気でしょう」
そんなことを突然言いだした。トラヴァス少佐が訊ねる。
「そこ≠ニは?」
アリソンが答える。
「すぐ近く=v
*  *  *
「……ん?」
リリアがゆっくりと目を開けて、そのピントが最初にあったのは、列車通路の天井だった。
右側にある窓からの西日が、天井や壁を薄い黄色に照らしていた。
列車は、とてもゆっくりと走っていた。
だいぶ小さくなった走行音が、レールが刻む三泊のリズムが、微かな揺れと共に背中に伝わる。
「や、お目覚めかな?」
ベゼル語で優しげに話しかけられて、
「っ!」
慌てて見上げると、つまり通路の進路側を見ると、そこには黒髪の三十代男が、列車の中では医療用鞄を持っていた男が、笑顔で立っていた。
灰色の背広はそのままだが、その顔に眼鏡はない。腰に無線機をつって、喉にはやはりマイクを巻いていた。
あ! あなたは!
そう言おうとして、
「む! むももも!」
そんな言葉になる。
リリアはようやく、口に布で猿ぐつわがかまされていることに気づいた。そして両手首が縛られていることにも。
「もも! もむもむもも!」
「この! 取りなさいよ!=\―かな?」
男が楽しそうに言った。そして言われたとおりに、手を伸ばすと、布をヒョイと取り外した。さらにリリアの肩を優しげに掴むと、そのまま上半身を起こす。
「はい。座っているといいよ」
「あなたねえ!」
リリアは立ち上がろうとして、両足首も縛られていたことに気づく。座ったままごそごそと向きを変えて、男へと顔を向けた。
男は、自分をきつく睨むリリアを見下ろしながら、
「そうだな、ヴィーゼルとでも呼んでほしい。今回の出来事の主催者だ」
そんな自己紹介。
「は?」
「あなたは、人質になりました」
「なっ――。まさか、私をどこかのお姫様と勘違いしているんじゃないでしょうね!」
年末の記憶も新しいリリアがそんなことを言ったが、
「いいえ違いますよ。――でも、こりゃあ驚いた。なかなか事情通ですね。リリアさん」
ヴィーゼルはヒルダのことと勘違いして、そんな答えを返した。
「廊下でいきなりわたしを気絶させたのはあなたね!」
「はい、左様でございます。でも、後遺症とか残らないように薬には気を使いましたよ。もう気分は悪くないでしょう?」
「最悪だわ! 何が目的よ?」
「さて、今私達は列車に乗って、今やほとんど使われない軍用路線を北西へとちんたら進んでおります。この列車に乗っているのは、死体を除けば、もう私達だけです」
「質問に答えなさいよ……」
「まあまあ。これからですよ。――トレイズ君には、あなたを助けたくば追いかけてくるようにと、手紙を残してあります。さすがにまだですけど、遅かれ早かれ、追いついてくるでしょう」
「トレイズ? わたしはトレイズのための人質? ――なんでよ? なんでトレイズを狙うのよ?」
ヴィーゼルは肩をすくめて、
「えっと――はい=Aはい=A秘密=A秘密=v
「ナニ?」
「質問に答えたんですよ。トレイズ君の命を狙っているのは本当ですけど、理由はちょっと言えません。仕事人としての守秘義務ってやつですね。あ、最後の最後になったら教えてあげてもいいですよ。私は出し惜しみはするけど隠し事はしない性格で」
「…………」
リリアが黙ると、ヴィーゼルも黙った。
三十秒経過。
沈黙に耐えきれず、リリアが怒る。
「なんか言いなさいよ!」
「んー。そうですね」
ヴィーゼルは少し考えて、
「じゃあ、私について少し喋りますね」
「は?」
「私はね、別に幼児期に親から虐待されて育ったとか、事故や病気で脳に損傷を負ったとか、別段そんなんじゃないんです」
舞台で独演でもするかのように、ヴィーゼルは語り出す。
「…………」
もはや何を言い返せばいいのか分からず、リリアは黙って男の話を聞いた。
「私が逮捕されたとき、高名な精神医さん達がたくさんたくさん、それこそ日替わりで訊ねてきて、論文のネタにしたいと根掘り葉掘りいろいろ、それこそ子供の頃どんなラジオを聞いていたのかとか、昆虫採集をしたことがあるかとか、毎日食べていたのはなんだったのかとか、至極どうしようもない質問を重ねて聞いてきましたが、別に特筆すべき過去はない。普通に、人よりちょっと頭がいいだけの、勉強好きな少年でした。はい」
「…………」
「殺人が悪いことだとは、もちろん知っていますよ。法律で処罰の対象になるってことは。でも、楽しいんです。とても楽しい。生きているって感じ。だから、私にはなんでだろうか分かりません。他の人間が、法律という縛りから逃げようとしないのか。どうして頭を精一杯使って見つからないようにばれないように最大級に努力して、殺人をしないのか……。本当に分からない……」
そんなことを真顔で言ったあと、ヴィーゼルは本気で悩む素振りを見せていた。
ひどく呆れていたリリアが、ようやく口を開く。
「あなたが殺人鬼だったみたいということは分かったけど――、スー・ベー・イルの人間だってことも。それを、どうしてわたしに知ってほしかったの? 何か、伝えたいことがあるの?」
「さあて、これからトレイズ君を迎え撃つぞ! この旅行のメインイベント! このために私はここまで来た! よっし! 頑張るぞ!」
ウジウジした悩み顔からはきはきしたやる気顔に変わった男に、リリアが額に皺を寄せて訊ねる。
「……人の話、聞いてる?」
「え? 何か言いましたか?」
「もういい……」
リリアが呆れ果てたとき――
「待ってろよりリア!」
トレイズが運転席で叫んでいた。
小型の四輪駆動車は、枕木と敷石によって絶えず振動に襲われ、騒々しいことこの上ない。
レールは地平線まで続いていて、列車はまだ見えない。しかし太陽はだいぶ傾き、その明度を減らしている。まもなく夕方になり、それが過ぎれば、春の日の夜はすぐにやってくる。
トレイズは、さらにアクセルを踏んだ。これ以上は無理という限界の速度まで加速すると、暴れるハンドルを握りしめた。黒髪が、風に踊る。
そして、
「見えた!」
トレイズの瞳に、小さな黒い点が映った。地平線の、ほんの少し手前。
車の速度を若干落とすと、トレイズは片手運転に。左手で、喉の通話スイッチを押し、そして叫ぶ。
『聞こえるか! 囚人四十二番! ――言われたとおり、一人で来てやったぞ!』
「いい! 可愛い声だ! 迸る情熱の声だ! 堪らない!」
目の前で、男が突然叫びながら身をくねらせて、
「ひっ!」
リリアは人生最大級の吃驚を感じた。そして目をそらす。
ヴィーゼルはしばらく身もだえたあと、急に真顔になって、喉のスイッチへと手を伸ばす。
『ああ、聞こえるぞ! トレイズ君! いい声だな!』
『そんなことはどうでもいい! 今追いついてやる!』
すぐさまトレイズから返信。しかしその声は、リリアには聞こえない。リリアに聞こえるのは、
「ああ! 来てくれ来てくれ! そして顔を見せてくれ!」
楽しそうなヴィーゼルの声だけ。
『行ってやる! そっちに行ってやる! ――だから列車を止めろ!』
トレイズが片手運転で叫んだ。
列車は二百メートルほど前方で、切り離された二等寝台車の最後部がよく見えているが、まだ時速三十キロほどで走り続けている。
『それはできない相談だな。どうぞ』
『なんだと! どういうつもりだ!』
『どういうも何も……、運転士はとっくに死んでいるんだなこれが。高い金払って買収したけれど、いざというときに怖じ気づかれては困るから、そうならないようにさっき殺しておいた。今は、死体をレバーの重しにしているだけだ。速度を一定にするのは結構大変だったが、知恵と努力でなんとかした。誉めてくれ』
「…………」
トレイズはその返答に呆れつつ、列車への距離を詰めていく。残り五十メートルほど。
『だからさ、なんとかしてこっちの列車に来てね。早く来てね。待ってるよ。――通信終わり』
それだけ一方的に言われて、無線が切れた。
「くそったれ! いいだろう!」
トレイズはアクセルを踏んだ。振動と速度が増して、列車がさらに近づいた。
そして接触寸前、トレイズは微妙なアクセル操作で、列車と速度を合わせた。
トレイズは列車最後尾の衝撃緩衝器へ、車のバンパーを軽くぶつけた。同時に座席から立ち上がろうとして、アクセルから右足を離した瞬間、
「わっ!」
エンジンブレーキが働き、車はあっという間に速度を落とし、列車が離れた。そのままボンネットに乗り移って列車へと飛んでいたら、間違いなく途中で落ちていた。
「そりゃそうか……。落ち着け俺」
トレイズは、アクセルへと足を戻した。三秒ほど、目の前の列車を睨んだ。列車への入り口は、数メートル先で黒く穴を開けている。
「やるしかないか……」
トレイズは意を決すると、一度アクセルを緩めた、列車がじわりと離れる。
そして、再び加速。車は、今度は列車にぶつかる勢いで迫っていく。
残り数メートル。
トレイズはクラッチを踏んで、ギアレバーをニュートラルの位置へと放り込んだ。車は惰性で、列車へと迫る。
トレイズは座席から立ち上がった。助手席の狙撃銃は諦め、そのままボンネットへと、フロントガラスを飛び越える。
「せやっ!」
気合いと共にボンネットを蹴り、トレイズは、迫り来る列車の入り口へと飛び込んだ。
トレイズが空中にいるときに、車は列車へと激突した。激しい金属音がした。
トレイズは、黒い穴に吸い込まれた。そして足がデッキに触れ、そのまま着地。しかし勢いあまって踏ん張りきることができずに、
「むがっ!」
トレイズは車内へ続く扉へと激突、踏まれた蛙のような悲鳴を上げた。
「つう……」
頭と鼻と腹と足と手をぶつけ、トレイズはデッキに倒れる。
猛烈な破壊音が聞こえて、小さく頭を動かすと、
「…………」
運転手を失った車が、レールから外れて横倒しになる様子が見えた。助手席に残した狙撃銃が、ベルトからすっぽ抜けて宙を舞った。そして車も狙撃銃も、時速三十キロで後ろへと去っていく。
「戻れないぞ……」
トレイズが呟いて、口の中の液体を吐き出す。デッキの上に、赤い血が散った。
「待っていろ……」
トレイズは、ゆっくりと立ち上がった。腕が、首が、足が動くか慎重に確かめる。
「よし……」
ケガは口を切っただけ。トレイズは確認を終えると、一度息を吐いた。
そして無線。
『来てやったぞ!』
『来てやったぞ!』
その声を聞いたヴィーゼルは、恍惚の表情で天を仰いだ。
『来てやったぞ!』
その声を聞いたアリソンは、頼んだわよ、と一人でつぶやいた。
[#改丁]
第九章 「私の王子様」
トレイズは、デッキで非常ブレーキを探した。
デッキの高い位置に見つけた。黄色いレバーを掴むと、目一杯下に引っ張る。
「…………」
何も起こらなかった。
一度戻し、また引っ張る。作動しなかった。列車は、のうのうと走り続けた。
「やりやがったな……」
トレイズは非常ブレーキを諦め、通路に続くドアの脇へと身を寄せた。
「どこかで待ち伏せているはずだ……」
つぶやいたトレイズの耳に、
『さすがだ! 私は嬉しくてならない!』
ヴィーゼルの声が跳び込んだ。トレイズが喉に手を当てる。
『来てやった! どこにいる? 顔を見せてやる!』
『ああ! 感動で気絶しそうだ! ――連結の最前、食堂車だ! お嬢ちゃんもいるよ』
『声を聞かせろ』
『分かった。――お嬢さん、ちょっとなんか叫んでみてくれる?』
男の声のあと、
『わー! わー! わー! わたしはここだー! ケガはないぞー!』
リリアの元気な声が聞こえて、トレイズは一瞬笑みを浮かべた。
『じゃ、待ってるよ』
男の声、そして通信が切れた。
「どうする……。どうする……」
デッキで、トレイズが自問する。
「このまま行って、大丈夫か……」
そう言いながら、再び口に溢れた血を吐き出した。
トレイズは、ゆっくりとドアを押し開けて通路に入った。左側へと通路は曲がり、車両左脇を真っ直ぐに延びている。
トレイズが低い位置から、そっとその先を窺った。通路には誰もいない。食堂車は、同じ車両を二つ行った先。
意を決し、通路へと足を踏み出そうとしたトレイズは、
「ん?」
通路の途中に、一瞬だけ光るものを見た。三メートルほど先。
夕日に照らされて、横に光が走った。よく目をこらすと、それは、脛の高さに張られた細いワイヤーだった。
「…………」
トレイズは、デッキに戻った。
視線をあちこちに動かすと、設置してある消火器を見つけた。
トレイズは、固定バンドを取り外す。消化器を、高さ五十センチほどの銀色のボンベを持ち出すと通路に戻る。
「せいっ!」
トレイズは、力の限り、消化器を通路の先へと放り投げた。
消化器は一度絨緞で跳ねてから、通路を転がっていく。そしてワイヤーを引っかけた。
次の瞬間、その右脇から、部屋の中から矢が飛び出した。
甲高い音と共に、左側の通路の壁に、矢は深々と刺さっていた。
「っ! ――クソっ!」
トレイズが悪態をつく。そのまま気づかずにいたら、間違いなく脛を射抜かれていた。
「殺す気はないけど、ってことか。悪趣味野郎……」
そしてトレイズは、天井を見上げる。
矢が飛び出した部屋には、装置が一つ置かれていた。
シートの足に縛り付けられていた装置には、小型のクロスボウが設置され、ワイヤーが引き金に繋がっている。
さらにクロスボウの脇に、矢を射ると発火するしかけが、長いマッチ棒と小さな酒瓶と布で拵えられていた。
装置は、まさに燃え始めていた。
室内に煙が薄く登り、その量は加速度的に増えていく。
跳び込んで入ってきた場所から、トレイズは列車の外に出た。
車両最後部、連結部分の脇についた手すりと足かけを使い、ゆっくりと屋根へ登る。
「…………」
屋根の縁で、小さく顔を出して確かめる。前髪が風に踊った。どの車両の上にも人がいないことを確かめてから、トレイズは登りきった。
列車の屋根の点検用通路。その左右はなだらかに湾曲しているので、しかも列車は揺れているので、うかつに体重をかけると、滑って落ちる恐れがある。
トレイズは中腰で、その中央部分を進み始めた。足音を立てず、吹く風に煽られないように、慎重に歩を進めた。
食堂車の車内で、
「さあて、そろそろだなあ」
ヴィーゼルが言って、
「何がよ?」
リリアが聞く。
リリアは、足はほどかれてイスに座っていたが、手首はそのままだった。
「はい、悪かったね」
その手かせを、ヴィーゼルはあっさりと外した。
「…………」
リリアは怪訝そうな顔でヴィーゼルを見上げ、
「さあて、登りましょう。――私達の王子様に会うために」
ヴィーゼルはそんなことを言った。
王子様って柄? リリアは思ったことを口に出さず、ヴィーゼルが手で指し示す方向へ、食堂車最前部へと歩き出した。
車両一つ分を歩き、次の車両への連結部分にたどり着いたトレイズは、
「せいっ!」
勢いよくその間を飛び越えた。
『ハイ素晴らしい! ――勇者よ、よくぞここまで来た!』
急に耳に声が届き、顔を上げる。
もう一両先に、食堂車の上に、リリアの姿があった。
機関車と食堂車の連結部分から、トレイズがやったように、屋根の中央部分に登ってきていた。
リリアが一度手を振って、それから、風で暴れる髪を押さえながら、おっかなびっくり中腰で進み出す。三メートルほど進むと、その後ろから、医者の男がヒョイと顔を出した。
『ああ――。来てやったぞ!』
トレイズは、屋根の上をゆっくりと進み出す。
綺麗な春の夕日が、草原を染める。
真っ直ぐな線路を、列車は走る。
重苦しいエンジン音を立てるディーゼル機関車が先頭、その後ろに三両の客車。
最初の車両の上には、男と女の子。
二両目の上には、黒髪の少年。
三両目の窓からは、薄くたなびく白い煙。
トレイズは、ウエストバッグから拳銃を取り出した。
愛用の中型の拳銃。その安全装置を外す。右手に銃を持ったまま、左手は喉へ。トレイズは再び叫ぶ。
『来てやったぞ!』
男からの返事。
『ああ! 嬉しいよ! 嬉しくて堪らないよ!』
トレイズは、再び進み出した。
一両は約二十五メートル。まだ四十メートルはある男までの距離を、ゆっくりと詰め始める。
ヴィーゼルはリリアに、
「じゃあ、進んでね。落ちないように、足に気をつけて」
優しげに話しかけた。
「…………」
リリアは長い髪を束ねると、右首筋から前に出して、ジャケットの胸元に押し込んだ。そして、慎重に歩き出す。
「野郎……」
トレイズは歩きながら、リリアが邪魔でヴィーゼルが撃てないことに悪態をついた。
やがて、トレイズは二等寝台車のほぼ先端まで歩ききった。リリアは、食堂車の中間ほど。ヴィーゼルは、その三メートル後ろ。
「リリア! 伏せろ!」
トレイズが叫ぶと、その声がリリアに届く。リリアがゆっくりとしゃがむと、ヴィーゼルも同じようにしゃがんだ。
撃とうと思っていたトレイズが、苦々しい顔で銃口を空に向ける。
『だめだよう。そんな無粋なもの使っちゃ』
しゃがんだまま、ヴィーゼルが無線で声を送ってきた。
『うるさい。卑怯者が!』
トレイズが叫び声で返す。無線を使わなくても不具合はない距離だが。
『叫ぶのがイヤなので、このままで失礼するよ』
ヴィーゼルはあえて無線で通話。そして優しげな声で、
『とりあえず、その拳銃は捨ててね。ぽい≠オちゃって、ぽい=B私達二人の間には、必要のない無粋なものだよ。そもそも私、銃って嫌いなんだよね。殺した感覚が今一つ手に残らなくてさ。やっぱり人類最高の武器は、手を含めた体、己が肉体、これだよ。――というわけで捨てて』
「断ったら……?」
『私は、主義主張はなるべく曲げたくない。分かってくれるよね?』
「くそったれ!」
トレイズは、安全装置をかけてから、
「あとで拾いに来るからな……」
そうつぶやくと、拳銃を軽く放った。
それはゆっくりと回転しながら、客車脇から草原へと落ちていった。そして柔らかい泥に半分埋まってから、後ろへと流れていった。
『いや、なかなかの度胸だ。――ますます堪らない!』
ヴィーゼルは立ち上がると、目を輝かせながらそんな通信を送ってきた。最後の叫び声は、別に無線でなくてもトレイズの耳にはっきりと届いた。
「あのー、質問、いい?」
リリアがしゃがんだまま、小さく右手をあげて聞いた。
「はい、どうぞ。なんでも聞いてください」
「じゃあ遠慮なく。――わたし、もう帰っていいかしら?」
「いいよ」
ヴィーゼルは即答。
「はい……? いいの」
「いいさ。人質役、本当にご苦労様。巻き込んですみませんでした。心から、謝罪します」
「…………」
「ここから先は、私と私の王子様との二人だけの世界ですからね。あなたは帰っていいですよ」
「いいの? ――でも、どうやって帰るのよ?」
リリアが首を回しながら訊ねると、
「そこまで面倒はみきれません」
ヴィーゼルはあっさりと答えた。
「だーっ! 何よそれ! 飛び降りろとでもいうの?」
「それは無理でしょう。いくら草原とはいえ、ただじゃすみませんよ。止めておいた方がいい」
「あのねえ!」
リリアは本気で立腹したが、すぐに、これはもう怒っても仕方がないことに気づき、相手を変える。
「トレイズ! この人をなんとかしてね! 頼んだわよ!」
「分かった! でもそこにいると邪魔に」
リリアが前を見て、そして後ろを見て、
「ど、どうしろっていうのよ!」
叫んだ。
ヴィーゼルはそんなリリアを完璧に無視して、喉へと手を当てる。
『ねえ、トレイズ君。――私は、あの列車の中、いつでも君を殺せたんだ。でも殺らなかった。もちろん見つかるのがイヤだから、そのあと逃げるのが大変だからってこともあるけれど、それだって頑張ればなんとでもなった。客全員を殺すとかすればいいだけだからね。よしんばこの人質作戦が失敗しても、後々イクス王国で狙撃でもすれば簡単に殺すことはできる。それでもそんなことはやりたくない。――なんでだか分かるかい?』
「……知るか!」
トレイズは、あえてそう答えた。
『じゃあ教えてあげる。――殺す前に、愛してあげたかったからさ』
「はあ?」
リリアが眉をひそめ、トレイズは、
「うげ……」
予期していたとはいえ、相当嫌そうに目を背けた。
ヴィーゼルは左手を喉に当てたまま、右腕は広げて震わせる。感極まった様子で、
『君の写真を初めて見たとき、私の心は成層圏を突き抜けて遙かな高みまで舞い上がった! 一目見て恋に落ちたんだ! ああ、絶対にこの少年を愛したい! 抱きたい! そして腕の中で殺してあげたい! 鉄の匂いに包まれたい! その温かい肌が、静かに冷たくなっていく様を感じたい! そんなピュアな欲求が、私をここまで突き動かし、母なる大河ルトニを越えさせたのだ!』
「…………」
リリアは、しゃがんだまま、振り向かず、男からできるだけ離れるための努力を始めた。
「…………」
トレイズは、何をどこから反論すればいいのか分からずに、ヴィーゼルの肉声と、片耳に跳び込んでくる無線の声を聞かされ続ける羽目となった。
『だから! ああ――、だから! 今すぐこっちにおいで! 服を全部脱いでこっちにおいで! 二人で愛のワルツを踊ろう!』
二十秒ほどの空白。
その間トレイズは、
「あ、夕日が綺麗……」
そんなことをつぶやいた。短い間だったが、現実逃避をしていた。
そして、トレイズはようやく左手を喉に。あまり男を見ないようにしながら、力なく問いかける。
『それ……、えっと……、断ったら……? まさか、リリアに危害とか言うんじゃないだろうな……?』
当のリリアは、屈んだまま列車屋根中央部を進んでいる。
『いいや! 私は無辜の女の子なんか殺さない。――かわりに、爆弾を破裂させる!』
なに? とトレイズがヴィーゼルを見ると、右手に小さな装置を持っていた。短いアンテナがついた拳銃ほどの大きさの装置で、親指の位置にボタンがある。色は黒で、這わされた赤いケーブルが目立つ。
さすがにリリアも、爆弾の言葉に振り向いた。
リリアとトレイズの視線の先で装置を揺らしながら、ヴィーゼルは、
『これは、爆薬の起爆スイッチだ。最後尾の車両に、トランク二つ分の高性能爆薬がある。車両が全て吹っ飛ぶであろう、なかなか気合いの入った量だ。老人と秘書さんのご協力の賜だ! さあ、今すぐ服を脱いで、私に抱きついてこい! さもなくば――、このスイッチを押す。押せば九十秒ほどで爆発する。返事は?』
リリアは、ヴィーゼルが語る間に、しゃがんだまま必死に進んだ。食堂車を終えて、連結部分に。
トレイズは再び連結部を飛び越え、食堂車の上に。そこで、なるべく足を開いて立つ。リリアが慎重に、その下をくぐり抜け、後ろに回った。
『聞こえたよな。返事は?』
男が再三聞いて、トレイズは仕方なく答える。
「もし、断ると言ったら……?」
『そのときはこのボタンを……、今押した』
ヴィーゼルが、右手の中の装置を見ながら言った。
「え?」
『今押したぞ。さあどうする?』
トレイズがヴィーゼルの手元を注視。黒い装置の先端で、赤い豆電球が点滅を繰り返していた。
「と、止めろ馬鹿!」
『馬鹿とはなんだ! これは交渉だ。君が裸でこっちに来れば、爆弾は止めよう』
「やっぱり馬鹿だ……」
『馬鹿とはなんだ! 愛ゆえの行動だぞ!』
「お前は大陸一の馬鹿だっ!」
『まあいい。過ぎたことは忘れよう。あと七十五秒だ。どうした、なんなら君の力で爆弾を止めてみせろ。車両に降りて、トランクを線路に落とせば、助かるかもしれないぞ。しかし、車両にはすでに火がついているから、近づくのはだいぶ難しいと思うけどね。さあ、勇気をみせてみろ。――やっぱり止めろ。死ぬのなら私の目の前で死んでほしいから。こっちにおいで。そうすれば爆弾は止める。それで、みんなが幸せになれるんだよ』
トレイズの後ろで、楽しそうな笑顔のヴィーゼルを見ながら、
「なんとかしてよ。いや、本当に」
リリアはそう懇願。
「俺は、だいぶ自分を鍛えたつもりだったけど……、あんな頭のおかしい人、どうやって相手にすればいいのかは習わなかった……」
トレイズは、素直にそう答えた。
「そんなあ……」
リリアが嘆いたときだった。
機関車のディーゼルエンジン音を、甲高い別の爆音が押し流し始めた。
それは夕日の中から聞こえた。
「ん?」
「え?」
「はい?」
ヴィーゼル、トレイズ、リリアと、オレンジ色に光る太陽を見た。そして、そこに一つの黒い点を見つけた。
点は、横一文字の線へと変わり、一瞬で大きくなったかと思うと、黒い鳥の影となって頭の上を通り過ぎた。高度は三十メートルほど。爆音もまた、左から右へと、風のように横断した。
一機の飛行機だった。西日にその翼を煌めかせ、左へと旋回を始める。
鈍い緑と茶に塗られた機体。尖った機種にはプロペラ。胴体には鳥籠のような操縦席。二人乗りだが、操縦士一人しか乗っていない。
幅十四メートルほどの翼は、幅広の逆ガル翼。ガル翼とはカモメのように前から見るとへ≠フ字に曲がっている翼で、つまりはその上下が逆。
翼の折れ曲がりの下には、頑丈そうな車輪が二本突き出ていて、流線型のカバーがついている。
そしてその車輪の両脇には、円筒形のポッドをぶら下げ、そこからまるで角のように、二本の管が突き出ていた。ポッドの中身と管は、高射砲を改造した三・七センチ口径機関砲。
二メートル近い長さの砲身を翼から突き出した機体は、悠然と左旋回を続け、列車の先で、レールの上を横切った。
『聞きなさい。トレイズ君。――その車両は、わたしがなんとかするわ』
突然耳に跳び込んできた女性の声に、
「ハテ?」
ヴィーゼルは首を傾げ、
「アリソンさん!」
トレイズは歓声を上げた。そして、
「何? あれ、ママが乗ってるの?」
後ろからのリリアの問いに、ああ! と答える。
『さっきからずっと無線を聞いていたわよ。今から、その車両を切り離すわ』
『いやちょっと待ってください。――どうやって?』
ヴィーゼルが無線でアリソンに聞いて、
『今からお見せするわ。あなたはともかく、みんなで爆死してもらうわけにはいかないからね』
アリソンは律儀に答えた。
機体は旋回を終えて、再び列車の左側に、西日を背にして回り込んだ。機首が、砲身が、列車に向いた。
『全員しゃがんでいなさい。あと二十秒』
トレイズはリリアに振り向いて、
「アリソンさんが、なんとかしてくれる。伏せるんだ」
「なんとかって?」
「知らない。でも、任せる」
二人は食堂車の端で、そしてヴィーゼルも、
「どうなることやら」
逆の端で腰を落とした。
「さあて」
操縦席でアリソンは、迫ってくる列車へと、その三両目と四両目の境目に照準機を合わせた。列車は左へと移動しているので、そのズレをペダルの動きで補正する。
列車はわずか数十メートルに迫って、
「ほい」
アリソンは発射スイッチを押した。
翼の下で、機関砲が二回吠えた。
光の輪が砲口から生まれ、エンジン音を吹き飛ばすほどの砲声が轟いた。まずは左、次いで右。
撃ち出された砲弾は――
一発目が連結器に辺り、頑丈な鉄のリングを瞬時に粉砕した。
二発目は最後尾車両の前方台車に命中し、車輪の一つを貫いて、その下で炸裂。爆発が、三本あった車軸の半分をひしゃげさせた。
「なんで、手だと当たらないのかしらね……?」
つぶやく飛行士を乗せて、攻撃機は超低空を、それこそタイヤの先が車両天井に触れるほどの位置を横切った。
「…………」
トレイズの視線の先で、凶悪な機関砲をぶっ放した機体が、右から左へと通り抜けた。そして次の瞬間、最後尾の車両がレールの後ろへと去り始める。
連結器を失い、ひしゃげた車軸がはじけ飛んだ車両は、トレイズが乗ってきた車のように、およそ時速三十キロで遠ざかっていく。壊れた台車とレールが直接擦れ合い、強烈な火花が散っていた。
『あと十秒。全員、しっかりと伏せなさい』
そんな声が耳に届いて、トレイズは、
「伏せろ」
しゃがんでいたリリアの上に覆い被さると、そのまま重なって伏せた。
「むげ――」
押しつぶされたリリアが変な声を出した。
ヴィーゼルも素直に従って、ぺたんと腹ばいに。
『六……。五……。四……。三……。二……』
アリソンのカウントダウンが聞こえる。
切り離された二等寝台車が、しかけの火からの煙をたなびかせながら、七十メートルほど離れたとき、
『今』
爆発した。
中央部から、車体がまるで紙風船のように破裂。
ちぎれた列車前後は跳ね上げドアのごとく浮かび上がった。それも一瞬で、車両両端は、内側からめくれ上がりながら吹き飛んだ。ガラスが粉々になって、夕日でシャンパンのように光った。
炎はほとんどでなかった。衝撃波が一瞬ドーム状に白く広がり、すぐに拡散して、見た目状は消えた。波は草原の草をなぎ倒しながら円状に広がり、三人に届く。
「わっ!」
「ひゃっ!」
「うおう!」
トレイズ、リリア、そしてヴィーゼルが、体の左右と上を通り抜けた爆音と爆風に声をあげた。
「すごいわね……」
攻撃後、フルスロットルで上空へ退避していた機体へも衝撃が伝わった。機体が一瞬持ち上がり、そしてビリビリと振動した。
「…………」
トレイズが、顔を上げる。上半身を起こす。
レールの先で、車両は文字通り木っ端微塵になっていた。見えているのは、どうやら台車だったらしい黒い金属の破片だけ。草原に、もはやゴミとなった車体が散乱している。
「あっぶねえ……。あんなのがすぐ目の前で爆発していたら……」
トレイズが呟いて、カンカン、と乾いた音がする。吹き飛んだ車両の破片が、軽く小さな木片が降ってきては屋根に当たっていた。
「分かったからどいて……」
リリアがしたから声を出して、
「ああごめん!」
トレイズはすぐさま身を起こして、押し倒した状態のリリアを解放した。
『すばらしい! すばらしいですよ貴方!』
立ち上がったヴィーゼルは、アリソンを大絶賛していた。右手は腿を叩いて拍手のかわり。
降ってきた木片が頭に当たったが、そんなことは気にせずに、
「しかし、あんなものに撃たれては堪りません」
ヴィーゼルは歩き出した。
「リリア。しばらく待っていてくれ」
トレイズは、ヴィーゼルの行動を見て、すぐに彼の意図を理解した。
「ちょっと、あいつをなんとかしてくる」
そしてリリアに言い残し、車両屋根を歩き出す。
「し、しっかり!」
リリアがなんとかそれだけを言うと、トレイズは返事のかわりに右手を軽く挙げた。
近づく二人を見ながら、
「こりゃ撃てないか……」
アリソンはヴィーゼルへの砲撃を諦め、
「頼んだわよ。殿下」
*  *  *
食堂車の屋根の中央。
ヴィーゼルとトレイズは、わずか三メートルほどの距離で向かい合った。
トレイズは、敵意を剥き出しにヴィーゼルを睨み付け――
ヴィーゼルは、好意を丸出しにして目を潤ませていた。
リリアは、二等寝台車に飛び移って、さらに少し下がった。中央部分に腰を落とし、そしてトレイズの背中を見ていた。
空からは、鈍く飛行機のエンジン音。
「服は着たままだけど、来てくれて嬉しい」
ヴィーゼルは開口一番、そんなことを言って、
「お前にどうこうされるつもりは、微塵もない」
トレイズは睨みながら言い返した。
「じゃあ、どうするつもりだい?」
「お前と戦って、勝つつもりだ」
「恐いね。――でも私は、趣味と実益を兼ねて君を殺さなくちゃならない。だから、せめて最後までは、楽しませてほしい」
そんな言葉が聞こえて、
「ちょっと! なんでトレイズを狙うのよ! その答え、まだ聞いていないわよ!」
座っているリリアが、後ろから怒鳴り声で聞いた。
ヴィーゼルは、ああそうでした、と呟いて、
「トレイズ君が、イクストーヴァ王室の王子だからですよ!」
とてもあっさりと、そんな言葉を返した。
「――はいぃ? 頭大丈夫?」
リリアは、素っ頓狂な声をあげた。そして、
「馬鹿じゃないの! 何かと思ったら、勘違いで人殺しをしようって言うの? トレイズは王子なんかじゃないわよ! この馬鹿! 一体全体、何をどうやったらそんな間違いが――、起きる……、の……」
リリアの声が、途中でトーンダウン。
振り向いたトレイズが、
「…………」
悲しそうにも、ばつが悪いのをごまかすようにも見える顔でリリアを見ていたからで、
「トレイズ? ――言いたいことがあったら言え。聞いてあげるから、ほら言え」
リリアは会話の対象をヴィーゼルからトレイズへと変更した。
「えっと……。えっと……」
「えっと? ――何?」
「えっと……、その……」
「その? ――何?」
「つまりだ……、だからね……」
いつまでも言い出せないトレイズに変わって、
「お嬢さん! 彼は王子ですよ! イクス王国の! フランチェスカ王女様と、カー・ベネディクトの息子です!」
口の前に両手を添えて、ヴィーゼルが発表した。
「ちょっと待ちなさいよ! イクスにはメリエル王女がいるだけよ!」
リリアが当然のように言い返した。
「それが、いろいろ事情が複雑でしてね! 子供は一人だけだって、古い王室規範は知っていますか? 護るべき宝≠セったイクストーヴァ回廊が公表された今では、まったく意味のないルールですけどね。それゆえに、メリエル王女と二卵性双生児で生まれたトレイズ君は、内緒の王子様、なんですよ!」
リリアが、露骨に眉をひそめる。
「はあ? なにその馬鹿な設定……。トレイズ! この人とんだインチキ野郎よ! ……って」
またも複雑な顔のトレイズを見て、
「まさか、それがホントなの……?」
リリアが恐る恐る聞いた。
ようやく口にでたトレイズの言葉は、
「本当……」
そんな、全てを肯定する言葉。
聞いたリリアは、即座に、その場に勢いよく立ち上がった。二等寝台車の先端に仁王立ちして、その懐にしまっていた髪が風に舞った。
長髪をたなびかせながら、トレイズへと右手人差し指を突き向け、
「ちょっとトレイズ! まさか、隠すつもりはなかったんだ≠ニか言うんじゃないでしょうね!」
トレイズは、今度は即答する。大声でしっかりと、
「いいや! ずっと隠すつもりだった!」
リリアは、むう、っと唸ったあと、
「ならよし!」
「いいのか?」「いいのか?」
トレイズとヴィーゼルは声を揃えた。
「トレイズ! あなたの胸ぐら掴んで聞きたいことは山ほどあるが、それはあとでいい! 今は、そのわけの分からない男をなんとかしろ!」
「分かった……。ありがとう」
トレイズが、ゆっくりと顔を戻した。最後にリリアに見えた横顔は、笑顔だった。
「ねえ王子様」
ヴィーゼルが、目の前のトレイズに問いかける。
「自分が殺されようとしているのを知っていてやってくるなんて、今さらだけど、勇気あるよね。そんなに、あの女の子が好き?」
予想外の質問に、トレイズは一瞬黙る。そして、
「それは、俺の妹にも、いや、姉かな? とにかくその人に同じことを聞かれたけどな……」
「おや? ――なんて答えた?」
トレイズは、ゆっくりと右腕を持ち上げると、拳を作り胸に当てた。
「俺は、ずっと思っていた……。それこそあの日、十五歳の誕生日に、母上から話を聞かされてからずっと――」
「ちょ、ちょっと――」
後ろで、リリアが顔を夕日以外で染めていることを知らずに、
「俺は――」
トレイズは威風堂々と答える。
「よく分からないんだ!」
「はい?」「え?」
トレイズの前と後ろで、二人が首を傾げた。
「いや、本当によく分からないんだ。小さな時からときどき一緒にいるし、そんなときは楽しいけど、それが本当に好きだとか恋なのか愛なのか一生一緒にいてもいいのかとなると、それが親の決めた婚姻からの逃げじゃなくて、本心からの気持ちなのかどうか考えると、明確には分からないんだ……。首都で会ったときから、ずっと考えていたんだけど……、答えは出ない。どうなのかな? どうなんだろう?」
真面目に本気で悩んでいるトレイズの声を聞いて、
「…………。ああ、聞きたいことが増えたわ……。その前に一発殴るけど……。ぐーで……」
リリアが拳を振るわせつつ、犬歯を剥き出しにして呟いた。
一方ヴィーゼルは、あきれ顔。
「思ったより、アホだね。私の王子様は」
「お前んじゃねえ!」
叫んだトレイズに、ヴィーゼルは、まるで頼りになる兄貴のように、叱咤する。
「だってそうだろう! 普通、好きかも分からない女の子のためにここまで全力で命をはるか! 私は、君が列車を追ってこないことまで見越していたんだぞ。あの子が大切じゃない場合も考えて。でも君はやってきた! 迷いもせずに! 命をかけてやってきた! ――そりゃ、好きってことだろうがっ!」
「そ、そうなのかな……?」
また首をひねるトレイズに、
「そうさ! 自分の気持ちにお上品に悩むな! 恋愛なんて、もっと自分に我が儘でいいんだよ! 我が儘に自分の気持ちをぶつけて、相手もそれに本気の我が儘で答える! 二人のベクトルが重なり合ったとき、そこに幸せが生まれるんだ!」
ヴィーゼルは大演説。
「…………」
トレイズは返事ができず、
「お、いいこと言う」
リリアはちょっと感心。ヴィーゼルが続ける。
「そして私は、君のことが大好きだぞ! トレイズ王子様! 愛している! 心から! だからここで、私の腕の中で死んでほしいっ!」
「断る!」
今度は即答し、トレイズは両手の拳を握った。右足を少し引いて、腰を沈める。
「やれやれ。簡単には墜ちないかあ」
ヴィーゼルもまた、軽く両手を振ったあと、その手を頭の左右まで持ち上げてファイティングポーズを取った。
「列車から落としてやる!」
トレイズが叫び、
「最後まで愛してやる!」
ヴィーゼルもまた、叫んだ。
トレイズが、じわり、と一歩躙り寄った。
ヴィーゼルは動かない。そのまま、どこか大人しげな表情のまま、トレイズの三白眼を見つめる。
「…………」
トレイズは、相手を睨みながら、さらに半歩、ゆっくりと近寄った。
「いい顔だ……」
ヴィーゼルが楽しそうに呟いたとき、
「せっ!」
トレイズは、飛びかかりながら、背の高い相手の顎へと右の掌底を振るった。
「おっ、なかなか!」
ヴィーゼルは楽しそうにいいながら、ギリギリで、しかし余裕たっぷりの笑顔で避ける。
続けて二発目を左手で殴ろうとしていたトレイズは、
「っ!」
ヴィーゼルの上半身がすっ、と沈んだのを察知。慌てて後ろに飛び下がった。
トレイズが近寄ろうとした空間で、ヴィーゼルの左足前蹴りが、恐ろしい速さで、文字どおり唸った。
「危ね――」
身を引いたトレイズの足下へ、ヴィーゼルはくるりと体を回転させながら、右足で、後ろ回し蹴りを繰り出す。
トレイズは、もう一度後ろに跳んだ。今度はできるだけ大きく。空中に逃げた両足のすぐ下を、回し蹴りが通過していった。
「こいつ……、強ええ……」
詰め寄るつもりが二歩も身を引く羽目になったトレイズに、ゆっくりと立ち上がったヴィーゼルが言う。
「王子様も、なかなかやるなあ。せっかくの可愛い子だから、たくさんかわいがってあげようかと思っていたのになあ……」
そんな悲しげな瞳のヴィーゼルに、トレイズは背筋を震わせながら、
「うわあ……。そのときはいっそ一気に頼むって言いたい……」
その言葉を聞いて、ヴィーゼルはぱあっ、と笑顔。
「任せろ! 今がそのときだ!」
「今は頼んでねえ!」
「ひどいなあ」
ヴィーゼルの言葉と同時に、何かが、猛烈な速さでトレイズへと飛んできた。
「え?」
不意をつかれたトレイズは避けることができず、それは胸へと直撃した。
鈍い音。
「ぎゃっ!」
トレイズは悲鳴を上げて背を丸めると、その場に膝を落とした。
胸に当たったのは、そして今列車屋根の脇を滑って落ちていくのは、ヴィーゼルが腰に巻いていた無線機だった。
「トレイズ!」
後ろからは何が起きたか分からないまま、リリアが叫んだ。返事はない。
「ああ、それは肋骨にヒビでも入りましたね。折れているかもしれません。さぞ痛いでしょう」
ヴィーゼルは優しげに、どこまでも優しげに語りかける。
「クソッ……。畜生……」
顔だけを上げたトレイズを見て、ヴィーゼルは恍惚の表情を浮かべた。
「ああ……。その顔もステキだ……」
「せいっ!」
気合いと共に、トレイズは自分の無線機をむしり取って投げつけた。
無線機は、三メートル中を進んで、ヴィーゼルの足の裏に弾かれた。素早い、しかし簡単な前蹴りによって、無線機は草原の泥の中へと落ちていった。
投げたトレイズは、
「クソ……」
外れたことと、胸の痛みに顔をしかめた。
ヴィーゼルは足を下ろすと、突然、灰色の背広を脱いだ。放り投げて、背広が風に舞う。
そして、ネクタイを外す。ボタンを引きちぎって、ワイシャツを脱ぐというより剥ぎ取る。さらに、肌着。こちらは丁寧に、頭を通して脱いだ。
「…………」「…………」
無言のトレイズとリリアの前で、ヴィーゼルはあっという間に上半身裸に。
そこにあったのは、細身だが、贅肉など一グラムも見えない、優れた体操選手のような筋肉だった。
「刑務所って、どうにも暇でしてね。おまけに、私を殺して名をあげようなんて低脳な輩もいる。トレーニングが日課になってしまって」
ヴィーゼルが、別に誰も訊ねていないのに説明した。
そして、ヴィーゼルは胸の前で指を組ませた。静かに祈りを捧げるポーズで、優しく語り出す。
「さあ、麗しの私の王子様。せめて最後は、この体に身を預けてください。私の体は、君を受け入れる優しいクッションになりましょう。甘美なる死への、とこしえの臥所となりましょう」
「断る! ――痛てえ……」
反射的に叫んだトレイズが、痛みに胸を押さえた。そしてバランスを崩して、
「ひゃっ!」
リリアの小さな悲鳴。トレイズは左手で屋根を押さえて、どうにか転落はふせいだ。
「そんな様子では、君はもう戦えません。武器だってない。――さあ、私と愛を」
「くそう……」
トレイズは、その場にへたり込んだ。正座し、両手で自分を抱きしめるかのように腹を押さえ、
「もう、どうしようもないのか……。他に手段は、ないのか……」
そんな弱々しい声。
「な――。ちょっと! 諦めちゃ駄目よ!」
リリアが叫んだが、トレイズの反応はない。
「おお! やっと分かってくれたんですね!」
ヴィーゼルは驚喜。両手を大きく広げ、抱きしめるために近づき始めた。
「安心してください! 君さえ言うことを聞けば、後ろのお嬢さんは絶対に助けますよ! さあ、いらっしゃい! 私と一つになりましょう! それはとっても気持ちがいいことなんです!」
「ごめんなさい……、母上……。もう、他に方法はないんです……」
うつむき、弱々しく言ったトレイズに、
「ああ、恐いのは分かります。でも、私は優しくしますよ」
すぐ目の前で、ヴィーゼルは微笑んだ。
「さあ――。おいで……」
まるで任命を受ける騎士のように、ヴィーゼルはトレイズの前に跪いた。
トレイズが、小さく顔を上げた。
黒髪の隙間から、ヴィーゼルはトレイズの瞳が見えて、
「ん……?」
それが、弱々しい鳩の目ではなく、鋭く険しい鷹の目だと気づいた。
「断る」
トレイズが、短く一言。
「喰らえっ!」
トレイズが、上半身を起こしながら右腕を振るった。左脇腹の位置から、右斜め前へ。ヴィーゼルの顔面を狙って、剣を振るかのように。
「むっ」
ヴィーゼルは、軽々と身を引いた。どう見てもトレイズの拳の届かない位置へ。間合いの外へ、素早いバックステップ。
そして、鈍い金属音がした。
「がっ――」
ヴィーゼルの口から、声が漏れた。
彼の頭に、その右こめかみに、トレイズのウエストバッグがあった。袋のちょうど端の部分が、直撃していた。
その中にあったのは、女王陛下に賜りしカメラ。重さ数百グラムの、金属の塊。
トレイズの右手は、ウエストバッグのベルトの片側を握っていた。
ヴィーゼルの側頭部から、バッグが滑り落ちていく。同時に、破れた皮膚から鮮血が流れ出す。
膝立ちで剣を振るったトレイズが、ポツリと漏らした。
「ごめん母上。――たぶん壊れた」
「があ……。ああ……」
自分の筋肉と列車の屋根に血を振りまきながら、ヴィーゼルは呻いた。
そして腰を落としたところへ、
「悪く思うなよ!」
叫び声と共に、トレイズの二刀目。トレイズは立ち上がると、右から左へ、ウエストバッグを振るった。
カメラが入った袋は、今度はヴィーゼルの左側頭部を直撃、またも鈍い金属音が響いた。
ヴィーゼルは、ゆらりと揺れると、足を滑らしてうつぶせに倒れた。屋根に横向きに腹ばいになり、頭から吹き出る血は流れとなって、夕日に照らされる屋根を流れていく。
トレイズは、倒れた男の背中を打ち付けるために、ウエストバッグを背中へと回した。とどめの一撃を、まさに振り下ろそうとしたとき、
「ああ……」
ヴィーゼルが言葉を漏らした。トレイズの動きが止まる。
「いい……、いいぞ……。もっとやってくれ……。みんな……、さきにしんでいく……。それはいやだ……」
そんな言葉を聞いて、トレイズは即座に言い返す。
「そりゃ、お前が殺しているんだろうがっ!」
頭の両脇から血を流しながら、ヴィーゼルはトレイズに言葉を返す。
「そうとも……、いうが……。それにしても、つらいよな……。きみならわかるだろ……?」
「まるで分からん!」
トレイズが、打撃を再開しようとしたそのとき――
「ははあっ!」
男は血を飛ばしながら立ち上がった。そしてトレイズへとタックル。
「わっ!」
トレイズの手から武器が離れ、そのまま二人は屋根の上を滑る。食堂車の縁はすぐそこ。
二つの体が、屋根の上を通り過ぎた。そして車両の隙間へと落ちる。
「トレイズ!」
駆け寄ったリリアが連結部分で見たのは、
「クソッ……」
食堂車の手すりにどうにか両手で捕まっていたトレイズと、
「はははっ!」
そのトレイズの足にしっかりと捕まっている、顔中血まみれのヴィーゼルだった。ヴィーゼルの体は風に煽られ、足は列車の外で宙を舞っていた。
「はははっ! 何人も殺してきたけど、死ぬところをしっかりと見てきたけど、よく考えたら、自分が死ぬのは初めてだったなー! 楽しそうだぜ!」
トレイズが必死に足を動かした。しかし、猛烈な力で抱きしめるヴィーゼルをふりほどくことはできない。
「この……、見上げた変態野郎! ――見ていてやるからお前一人で逝け!」
「そんなあ……。寂しいこと言うなよ! ここまでキたら一緒にイこうぜ! 私の愛しい王子様っ!」
「お前んじゃねえーっ!」
リリアは連結部分を飛び越えて、食堂車の屋根に立った。
しゃがむとトレイズに手を伸ばす。
「捕まって!」
「無理だ! リリアまで落ちるぞ! 下がれ!」
トレイズは即答。
その後ろで、
「一緒に……、イこうぜ……。一緒に……」
顔中血まみれの男が、うめき声を上げた。
トレイズは、視線を上げた。
リリアと目が合って、トレイズは微笑む。
「え?」
「悪い。話はまたあとで」
言った直後、トレイズは首を回し、背中にいる男に訊ねる。
「なあ! さっきのお前は言ったよな……、身を預けて≠セのと」
「ああ!」
嬉しそうなヴィーゼルの声。
「その言葉に、嘘偽りはないだろうな?」
「もちろんだあ!」
トレイズは、
「じゃあ――、頼んだぜ!」
手を離した。
「あ――」
リリアの目の前で、二人は列車の作る影の中に落ちていく。
空中で絡み合ったように見えた二人は、影に入ってほとんど見えなくなった。二人分の塊だけが草原の泥の中に落ちて、そして後ろへと去った。
「トレイズ!」
リリアが叫んで、隣の車両へ飛び戻った。
リリアは屋根の上をほぼ全力疾走して、すぐに列車最後尾にたどり着いて、そこでしゃがみ、レールの先を見つめる。
「そんな……」
緑のない草原とレール以外、何も見えなかった。
[#改丁]
第十章 「リリアとトレイズ」
世界暦三三〇六年 第四の月 二日
リリアは、新学期初日の学校にいた。
制服を着て、最初の授業の、二十人ほどが集まった教室で机に座り、
「はい。皆さんお久しぶりです。元気そうですね。新学期は、私もうきうきします。何か新しいことを始めたくなる気がします」
中年の先生ののんびりとした言葉を、
「…………」
まるで聞いていなかった。
目を細めたまま、窓の外と、曇り空を眺める。
風は弱く、雲の動きは鈍い。
あの日――
上空を旋回していたアリソンは、二人が落ちたのを、そして列車最後尾で娘が必死になって手を振っているのを見て、高度を下げた。
無線で呼びかける。返答はない。アリソンは走り続ける列車の機関車へ、本来そうするために手に入れた機体で砲撃を加えた。
頑丈なディーゼルエンジンを破壊しきるまで、アリソンは反復攻撃を繰り返し、その息の根を止める。列車が惰性を殺し、ようやく静止したときには、二人が落ちた場所からかなり離れていた。
「トレイズが落ちたのよ! 早く捜しに行って!」
「分かったから。でも落ち着いて。それは、残念ながらわたしたちには無理だから」
草原に着陸したアリソンにリリアは必死で詰め寄ったが、すでに闇の帳が降りた草原には、星以外の光はない。
アリソンは、リリアを攻撃機の後部座席に座らせた。機銃座を兼ねているので後ろ向きに座る。アリソンは操縦席に戻り、いくつかの無線通話をした。そして、
「空軍の仲間が、今から線路に沿って車を出すそうよ。だから、わたしたちは戻りましょう」
リリアはこくん、と頷いた。アリソンはエンジンをかけて、草原を滑走して空へ。
真っ暗な空で、
『ねえ――。ママは、知っていたの?』
リリアは機内電話で、小さな声で訊ねた。背中合わせの状態で、アリソンは答える。
『ええ――。もともとわたしは、フランチェスカ女王様が女王でなかった頃に知り合ったからね。でも、トレイズ君が自分で言うまでは、言うつもりはなかったわ』
『……分かった。いろいろ聞きたいことはあるけど、まずはトレイズに聞くわ』
『そうね。それがいいわね』
それだけの会話をすると、二人は黙り込んだ。
明かりがついた飛行場に、攻撃機は着陸する。
その上空には、離陸した直後の機体が一機あったが、リリアの目には映らなかった。
トラヴァス少佐とその部下、そしてスー・ベー・イルのマティルダ王女様を乗せた機体は、北へと、戦艦の寄港地へと飛び去っていった。
教室では、教師が喋り続けていた。
「えー、学校側からの注意事項がいくつかあるのでお伝えします。まず、学校東側でアパートの大規模修繕工事が始まり、しばらく工事車両が増えます。東側の通りを歩く人は注意するように――」
「…………」
リリアは、ボンヤリと窓の外を眺めつづける。
数日前――
ヴィーゼルと名乗った男の、かつて囚人四十二番≠ニ呼ばれた男の死体が見つかったと、首都のアパートに電話があった。長らく任務で家を空けているアリソンの部下を名乗る、空軍将校からの電話だった。
『――で、トレイズは? 他には誰も見つからなかったんですか!』
リリアの問いに、
『私共では、把握しておりません。ただ――』
『ただ?』
『現場近くで、別の遺体は発見されておりません』
その将校は事務的に言って、それでは、と挨拶のあと電話を切った。
「春のダンスパーティーの件は、まあみんな分かっているとは思いますが、明日がパートナー登録の〆切です。春休みには、数々の電話や手紙が飛び交ったとは思いますが――」
「…………」
クラス中が微笑み、もしくは嘆き声で溢れる中、リリアは外を眺める。
そんな、朝から覇気のないリリアを、隣の席で、
「…………」
一緒の授業を選んだメグが、心配そうに見つめていた。
朝会ったとき交わした、
「リリア、元気ない……?」
「いやあ、実はさ、例のイクスのトレイズ、彼が、ちと行方不明中で……」
「行方不明って……。どうして?」
「いやあ、なんかいろいろあって……。報告待ちなんだ。あはは」
「そんな……」
そんな会話を思い出しながら、心配そうに見つめていた。
同じとき――
スー・ベー・イルの首都スフレストスは、東の空にある月に照らされていた。
青白く光る庭を望む豪華な応接室。そこに、一人の初老の男性が入室した。
焦げ茶色の王室陸軍の軍服を着て、少将の階級章をつけた男だった。ぴっと張った胸の名札には、アイカシア≠フ刺繍。
ナイトガウン姿で、ワイングラスを手にして、ソファーに座ったまま彼を出迎えたのは、かつて囚人四十二番≠ノ仕事を依頼した人間だった。
その人間は、本来ならこんな時間に会うことはできないのだぞ、と横柄に言った。
「大変申し訳ありません。急を要する連絡ゆえ」
入室した眼鏡の男は、立ったまま謝罪の言葉を述べた。そして、用事はなんだ、と聞いてきた人間に、
「はっ! 我々情報部が、大変由々しき情報を手に入れました。可及的速やかに大臣に報告しなければと思った次第です」
前置きはいいからとっとと言えと、その人間が言った。
「では――。昨月刑務所より脱走した℃人四十二番が、ロクシェにて目撃されたとの情報が入りました。信じがたい出来事ではありますが、これが事実と確認されました。ロクシェ西部で起きた連続殺人事件で、彼が指名手配されたとのことであります」
それがどうした。やつのようなゴミがこの国にいなくなったのは、とてもいいことだ。その人間はどこか嬉しそうにそう言って、グラスのワインを飲み干した。
あとは向こうの警察に全て任せればいい。マティルダ殿下のご訪問も無事に終わり、東西の交流も深まった。河向こうを信頼するのはいいことであろう? 人間は、ワインを注ぎながら言った。
「それが――、自分の部下達の調査によって、新たな事態が判明したのです。あの男は、囚人四十二番≠ヘ、再びルトニを越え、ここスフレストスに戻ってきたようです」
ワインが、こぼれた。盛大にこぼれた。
「あえて危険を冒してまでルトニを越えた理由は分かりません。しかし、大変執着心が強い男です。自身を刑務所に送り込んだ≠なたや、あなたのご子息を狙う可能性があります。今後しばらくは――」
「しばらくは、絶え間ない心労を友としてもらおう」
黒塗りの車に乗り込みながら、アイカシア少将は軍服姿の運転手に言った。
「そうですね。こっちはいろいろと大変だったんですから」
かつてイズマ≠ニ呼ばれていた若い男が、笑いながら答えた。そして、車を発進させながら、いつものような軽い口調で、
「顛末は王室にも知られたし、大臣の息子さんが旦那になることは、これで絶対にないでしょうね。隠れていた彼≠熕gを出せるし」
「そうだな」
「彼≠ヘ、落ちるときに空中で身をひねって、奴の体をクッションがわりに使ったんですって? すごいですよ。感動しました。やるときはやりますね」
「ああ。――ところで、ベルシュタインの次期当主様」
「はい? ――なんでしょうか校長。ひょっとして、次の任務ですか? なんでもやりますよ!」
ハンドルを握りながら、イズマは楽しそうに聞いた。
「よく言ってくれた。――お前、今回の件で、陛下に目をつけられたぞ。王室付きの任務への誘いが来ている」
「はいぃ? 退屈な首都勤務! 勘弁してくださいよ! ――一体俺が何をやったっていうんですか?」
「いろいろさ」
「えっと、新学期にあたっての事項は以上です」
「…………」
窓の外を見ていたリリアは、
「最後に、今学期からの転入生を紹介します」
ずっと外を見ていた。先生が扉を開けて、誰かが入ってきたが――
クラスメイトの、特に女子の嬉しそうなささやきが聞こえたが、
「…………」
リリアは外を見ていた。
「えー、彼は、学校に通うために首都へやってきました。昨日から寮に入っているので、寮生はもう会ったことがあるかもしれません。最初の授業がこれなので、紹介します」
「…………」
リリアは外を見ていた。風がほとんど止んで、雲の動きが止まった。
「では、自己紹介をお願いしましょうか」
「…………」
リリアは外を見ていた。
「えっと……、トレイズ。トレイズ・ベインです」
リリアは前を見た。
そこにいた、男子の制服を着たトレイズを見た。
リリアはイスを弾き飛ばして立ち上がると、疾風のごとき勢いで黒板へとかけより、目にうっすらと涙を浮かべながら、
「やあ、リリア。久し――」
そんなことを言ってきたイクストーヴァの王子を、ぐーで殴り飛ばした。
同じとき――
「むう……。減らないなあ……」
アリソン・ウィッティングトン・シュルツは、首都郊外の空軍基地で、かなり散らかった自分のデスクで、大量の書類と格闘していた。
「大変そうだな、シュルツ大尉。――長い休暇。攻撃機の無断使用。捜索活動の費用。いろいろとツケが貯まっているからなあ」
後ろで嫌味を言う上官を無視しながら、ペンを口にくわえたアリソンは、
「そろそろ、会えたかしら?」
そんなつぶやきを漏らした。
リリアーヌ・アイカシア・コラソン・ウィッティングトン・シュルツは、
「むぎゃっ!」
黒板へ背中をぶつけて反動で前に戻ってきたトレイズの胸ぐらを、思いっきり掴んだ。
「い、痛い痛い――。肋骨がまだ――。痛い揺らさないで痛いから」
「やかましいっ!」
先生、そしてメグ以外の生徒が誰も彼もぽかんと口を開けて呆然とする中で、
「いろいろ聞きたいことがある!」
リリアは、目の前にいる人間を頭から喰い殺さんばかりの勢いで、そう言った。
「い、いろいろと言いたいことがある……」
首元を締めつけられながら、トレイズが弱々しく言った。
二人を見ながら、メグミカ・シュトラウスキーは微笑んで、イスを弾き飛ばしながら立ち上がると、
「いいぞ! リリアもっとやれっ! そのままダンスだ!」
そう大声で喝采を浴びせた。隣の席に座っていた男子生徒が、心底驚いて身を引いた。
ベゼル語だったので、三人以外は誰も理解できなかった。
同じとき――
「これでいいのか? 先生」
「はい、そう。カルラ、あなたなかなか覚えが早いわ」
「カルロだ!」
「そうだったわね。ごめんなさい」
「頼むぜ」
伸びかけの赤毛を揺らし、カルロはムスッとした顔を作る。
蒼空の下、広い湖に面した緑の芝。そこに並べられたベンチとテーブルで、アイン・モルソー記念養護施設≠フ二十人ほどの子供達が、真新しいノートに字を書く練習をしていた。
カルロが、先生を務める、若い尼僧服の女性をせっつく。
「もっと字を教えてくれ。甲斐性無し≠チてどう書くんだ? 根性無し≠ナもいいぞ。秘密は厳守≠燉鰍゙」
先生のシスターは目を瞬いて、
「……もうちょっと、一般的な単語からにしない?」
カルロは、鉛筆を握りしめながら答える。
「いいんだよ。手紙を書きたいんだから!」
「まあ。誰に?」
シスターが嬉しそうに訊ねて、カルロは面倒くさそうに答える。
「へたれの王子と、長い髪の格好いいお姫様だよ。――さあ、教えてくれ!」
同じとき――
グラツ・アクセンティーヌは、故郷のイルトア王国にいた。数年ぶりに自分の実家のベッドに横になり、見慣れた天井を見上げていた。
「…………」
ふと、彼女は右手を毛布から出して、枕元の写真立てを手に取った。目の前に運ぶ。
窓からの青白い光に照らされて、写真の中で、一人の王立陸軍大尉と、一人の小さな女の子が笑っていた。
写真には、大尉の字でこう書かれている。
任務に最後まで忠実であれ
「はい。終わりましたよ……」
彼女はそう言うと、写真を胸に抱きしめ、そして静かに瞳を閉じた。
「おやすみなさい」
同じとき――
かつて、ウーノ、オゼット、そしてエドと呼ばれた男達は、
「乾杯!」
「ああ」
「……乾杯」
ロクシェ首都のスー・ベー・イル大使館で、そのオフィスで、元仕事場で、朝から酒盛りをしていた。
背広姿の男達は、床に新聞紙を敷いて、書類が入った段ボール箱をテーブルに使って、宴会をしていた。
オフィスは、すっかりと片付けられていた。イスもテーブルもなく、広い空間に段ボール箱が数箱残るだけ。
隣部屋では、かつて上官が使っていた大きな机が、ひっそりと佇んでいた。
マグカップで酒を飲んだ男達が、つぶやく。
「寂しくなるな」
「ああ」
「また――、次があるさ」
男達は、しみじみと語りながら、
「この味ともお別れか」
紙袋に入った揚げ菓子をつまみながら、酒を酌み交わす。
同じとき――
ルトニ河の近くの、森と草原の境に、一つの村があった。
それは、真新しい家が二十軒ほど並ぶ、小さな村だった。村の入り口には――『未来の村』、そう村名が書かれた看板。
朝靄のが薄く辺りに漂い、東の空は、日の出直前の輝きを見せていた。
村の中央部に、他とは違って、見た目が古い一軒の家があった。木製の家で、中央に赤煉瓦の煙突が建っていた。
家のまわりでは、メイドが四人ほど働いていた。庭の掃除や、水汲みなどを、手際よくこなす。
その中に混じって、年配の女性がいた。白い髪に皺を湛えた顔。七十は超えているように見えるが、伸びた背筋できびきびと動き、使用人達に的確に指示を与えていく。
家に、小さなトラックがやってきた。
庭の前に止まると、中から男が降りて、皆に挨拶。そして荷台から、牛乳が入った瓶を下ろしていく。
「おはよう。いつもありがとう」
年配の女性が彼に声をかけ、
「おはようございます。村長さん。いつもお元気そうで何より。――今朝は、葉書もありますよ。息子さんからです」
「まあ」
笑顔で受け取った女性は、トラックを見送ったあと、左手の中の葉書を見つめる。
『親愛なる母上様
お変わりはありませんか? 私は元気にやっております。
一つの仕事が無事に終わり、しばしの休みを取れそうです。
近いうちに、電報を打ちます。そちらでお会いしたく思います。大切な話がありますので。
そのときは、ジャガイモは薄切りで炒めるのを、お願いします。
あなたの息子より』
ラディア・トラヴィスは微笑むと、
「りょうかい」
右手で小さく、敬礼を作った。
同じとき――
「だーかーらー! これからは冬も一般の客をたくさん呼ばなければ行けないの! それには、山岳スキーが一番いいわ! 山岳スキー! ロクシェの平地族は、スキーと言えばクロスカントリーでしょう! イクスでは、ゴンドラで山岳スキーを手軽に楽しめることをもっとアピールするの!」
まだ雪に覆われたイクス王国の王宮では、朝食を取りながら、この国の王女が熱弁を振るっていた。
「んー。まあ、確かにそれはいいかもねえ」
髭面の彼女の父親は、そんなことをのんびりと言いながらジャムのたっぷり入ったお茶を飲み、
「朝食のときくらい、別の話題にしない? メリエルちゃん」
彼女の母親は、この国の女王は、トーストに溶かしたチーズを塗りながらそんなふうに答えた。
「いいえ! 計画は早い方がいいわ! 幸いにも、パミル村の隣はなだらかな斜面が空いているわ。そこを牧草地として使っている人達にはある程度の保証を出して、どいてもらいましょう。そして湖畔に安く泊まれるホテルを建てて、一大スキーリゾートにするのよ! 首都からは、湖岸線に軽便鉄道を通しましょうよ! リフトと同じ製造会社が使えるわ! 一緒の工事にすれば、いろいろ負けてもらえるでしょうね。問題は湖面に着陸できないときの空路入国者よ。例の谷への飛行場建設も視野に入れて、これを論じましょう!」
どん、とテーブルを拳で叩いたメリエルに対し、
「むう……。お茶がうまい。ジャムの量が絶妙」
ベネディクトはのんびりムード。フィオナはそんな夫にトーストを差し出して、
「はい。どうぞ」
「ああ、いつもありがとう。フィー。私にできるお返しはこれくらい……」
ベネディクトがフィオナにキスを返し、しばらく続く。
「二人とも、将来のことをもっと真面目に考えなさい!」
白銀の王国に、王女の声が轟いた。
*  *  *
新学期が始まってから、数日後のこと。
学校の、校庭。制服の内ポケットから、リリアが写真を一枚取り出した。
「ねえ見て、メグ」
「なあに、リリア。――写真?」
「ひょんなことで知り合った人。スー・ベー・イルのお金持ちのお嬢様なんだって。列車の中で仲良くなって、いろいろな長話を楽しんで、思い出に写真を一緒に映ってもらったの」
「へえ、見せて見せて」
シュトラウスキー・メグミカはその写真を見て――、三秒後に気絶した。
「ひゃあ! メグ! しっかりして!」
空には、青空を隠す薄い雲。地には、平らな土を覆う建物の群。
遠くまで、首都の数階建てのアパート群が見え、そのいくつかは、屋上に洗濯物を干している。
西からの風は吹き終わっていて――
この地では本格的な春を迎えていた。
[#地付き]『私の王子様』おわり
底本:「リリアとトレイズY 私の王子様〈下〉」電撃文庫、メディアワークス
2007(平成19)年4月25日 初版発行
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年 4月 9日 本編部分だけ適当に作成
底本は1ページ17行、1行は約42文字です。
----------------------------------------
使用したWindows機種依存文字
----------------------------------------
「Y」……ローマ数字6
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
----------------------------------------
底本の校正ミスと思われる部分
----------------------------------------
底本15頁4行 「確かに。この任務失敗したら、少佐の首が飛ぶ程度では済みませんからね」
底本15頁8行 『まあ、この任務失敗したら、少佐の首が飛ぶ程度では済みませんからね』
同じ会話のはずなのに……
底本41頁4行 緑色の戦闘服の上下を来て
着て
底本50頁1行 他のクラスメイトと友に
共に
底本107頁5行 リリアとトレイズ
アリソンとトレイズ、だろう。リリアは囚われてこの場には居ない。
底本151頁6行 尖った機種にはプロペラ
意味を考えると、「機首」じゃないかな?