リリアとトレイズX 私の王子様〈上〉
時雨沢恵一
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《》:ルビ
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(例)世界|暦《れき》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)
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序章
世界|暦《れき》三三〇四年 年頭
イクストーヴァ(イクス王国)某《ぼう》谷にある某家
「というわけでトレイズ、お前も無事に十五|歳《さい》の誕生日を過ぎた。おめでとう。――そこで、今夜これより女王|陛下《へいか》のありがたいお言葉があるので、心して耳を傾けるように。心構えはよろしいか?」
「ふい? 何、あらたまって。――なんでしょうか母上? ――ってキッチンじゃ聞こえてないかな?」
「おまえ、もうちょっと緊張感を持とうよ。勅語《ちょくご》だよ」
「父上こそ、暖炉《だんろ》の前でのんびりリンゴを齧《かじ》りながら言うセリフじゃない」
「まあいいや。――フィー! トレイズが例の話を聞くってさー!」
「はーい! このお皿《さら》洗い終わったら、そっちに行くわー!」
「よろしくー」
「緊張感ないのはどっちだ……。ところで、メリエルがいないけど、いいの?」
「いいんだ。――というか、メリエルがいないうちにこの話をしておかないと」
「ん?」
「お待たせ。はいお茶。ジャムをたっぷり入れておいたわ」
「ありがとう、フィー」
「ありがとう、母上。――で、話って何? 小遣《こづか》いを値上げしてくれるというのなら謹《つつし》んでお受けいたしますが」
「それはまた今度ね。話っていうのは、あなたが十五歳になったら言おうとしていたことっていうのは――」
「はい」
「スー・ベー・イルの、ベゼル王室のマティルダ王女、知っているわよね?」
「名前だけは。スー・ベー・イルの跡《あと》取りで、確か俺《おれ》より三つほど年上とか」
「そう。国王には娘《むすめ》さん一人しかいないから、王位|継承《けいしょう》権は第一位」
「ふーん」
「ふーん≠チてなあ……。やがてはスー・ベー・イルの国家元首だぞ。人口約三億人の連合国家のトップだぞ」
「スー・ベー・イル出身の父上と同じ感覚を持てというのが無理な話で」
「ま、それもそうか。――フィー、続きをどうぞ」
「それで、そのマティルダ王女が、というよりベゼル王室が、正式に私に、イクストーヴァ王家に打診《だしん》してきたの」
「なんて?」
「あなたを、マティルダ王女の夫に迎え入れたいって」
「は? ――母上。今、なんと……?」
「あなたを、マティルダ王女の夫に迎え入れたいって」
「は――、はいっ?」
「お前は知らないかもしれないけど、ベゼル王室は今マティルダ王女の婿《むこ》選びに真剣に頭を悩ませていて、スー・ベー・イルじゃかなりの関心事になっているんだ。高位の貴族にもイルトア王室にも、同じ年頃で釣《つ》り合う男がいないんだ。国王|陛下《へいか》にはきょうだいも甥《おい》や姪《めい》も多いから、このまま結婚《けっこん》しなくても別に血筋は途絶《とだ》えないが、国民のほとんどは、幼い頃から人気のあるマティルダ王女に王位を継《つ》いでほしいと切に願っている」
「だから俺《おれ》? よりにもよって俺? そんな無茶な。――というか、俺のこと知ってるの? ベゼル王室は」
「生まれたときに公式に伝えてある。ロクシェ大統領府に伝えたように」
「はあ」
「そうしたらね、半年ほど前に、ロクシェ唯一の王族の、そして壁画発見の歴史的英雄の息子《むすこ》たるトレイズ殿《どの》こそ、ベゼル家の婿殿としてこれ以上ないほど相応《ふさわ》しいお方であります!≠ネんて猛烈《もうれつ》なラブコールがあって、使者まで見えられたわ。王宮で対応したけれど」
「まさか母上! それを受諾《じゅだく》してしまったんじゃ……?」
「いいえ。――ベネディクトとも話したけど、子供の結婚を親が押しつけるわけにはいかないって、事情がどうで、相手が誰であってもね」
「ほっ」
「でも、わたしはその場で断ることもできなかったわ」
「…………」
「向こうはこうも聞いてきた。トレイズ殿には、もう将来を約束したお方がいらっしゃるのか?=v
「…………。で、母上はなんと?」
「応えようもなかったから、今はいないと思います≠ニ答えたわ。まだ若いですから、本人にも決めようがないと思います=Aとも」
「助かった……」
「でもね、トレイズ――。女王として、この国の国家元首として、あなた個人の考えをまったくもって無視して残酷《ざんこく》に考えれば……、私は、これは悪い話だとは思っていない」
「それは分かるよ」
「ホントか?」
「そりゃそうさ、父上。イクストーヴァという小国が、ベゼル・イルトア王国連合と血縁《けつえん》関係を結ぶなんて、俺《おれ》が当事者じゃなかったら諸手《もろて》を挙げて賛成していたと思う。イクストーヴァのために、マイナスになることは一つもない」
「よく言った! トレイズ。格好いいぞ王子様! ――でも、ホントはどうなんだ? フィーも俺も、決して無理強いはしたくない。別に昔じゃないんだから、この話を断ったからといって向こうが攻めてくるわけでもないし」
「俺は……、今は……、なんとも……」
「だよなー。十五|歳《さい》で結婚なんて普通考えないもんな。俺が十五の時は、いかに綺麗《きれい》なお姉《ねえ》さんと一緒に――。すまん。二人の話を続けてくれ。どうぞ、フィー」
「どうも。でもね、トレイズ。これはいつかは決断しなければならないことなの――、断るにしても受け入れるにしても。そこでわたしは、一つ提案をするわ。あくまでも提案よ。聞いてくれる?」
「分かった。その提案とは?」
「二十歳《はたち》、を一つの区切りとしましょう。それまでにあなたが自分で、将来を誓《ちか》い合えるほどの恋人を見つけてきたら、この話は女王の返答として正式に断ります。でも、もし、誰もいなかったら――」
「いいでしょう、陛下《へいか》。――そのときは、俺は、ベゼル王家に婿《むこ》にいきます」
[#改丁]
第一章 「その日までのいろいろな出来事」
世界|暦《れき》三三〇六年 年頭
イクストーヴァ(イクス王国)首都クンスト郊外 王家の離れ
「ああっ、いたっ! 見つけたっ! ――トレイズ! ちょっと顔を貸せっ!」
「あ? ……ああ、メリエルか。いつスー・ベー・イルから帰ったの?」
「たった今ねっ!」
「年末年始は大変だったよ……。まだ片づけがすんでいないんだ」
「報告は聞いた! 祖国への奉仕《ほうし》ひとまずはご苦労! ――話はそれとは別だ。いいから私の部屋に来い! 来やがれ!」
「なんだよ……? 何怒ってるの?」
「いいからっ!」
「よしっ! そこに座れトレイズ!」
「座ってるよ。この部屋はそれほど荒らされてないから、元通りでしょ? 俺《おれ》の部屋なんて無線機からタンスから穴だらけで――」
「二十歳《はたち》で≠チて、本当か?」
「は?」
「質問に答えろ!」
「いや、その質問が意味不明」
「ああもうっ! あなたが二十歳になったら、ベゼル王室に婿《むこ》入りして、お姉《ねえ》様――、マティルダ王女様と、未来の女王様を妻《つま》として、仲良くやって、子供を作ったらその子が次の王様か女王様になるって話は本当なのかっ!」
「……誰から聞いたの? あ、ご本人か。分かった」
「本当かっ! 本当なのかっ! ――ああ……。本当なのか……」
「何を落ち込む……? まだ決まった訳じゃないし」
「――今、なんて言った?」
「まだ決まった訳じゃない=v
「何故《なぜ》?」
「話の、肝心《かんじん》なところが端折《はしょ》られているんだよ。二十歳になったら確定≠カゃなくて、二十歳までに俺が自分で結婚相手を見つけられなかったら=Aだよ」
「何……、それ……」
「母上がこの国と俺《おれ》の未来にくれた、猶予《ゆうよ》期間。そして俺は、俺のことを考え、国のことを考え、その条件を許諾《きょだく》した。それが二年前。十五|歳《さい》の時だ」
「…………」
「話終わり? まあそういうことだから、俺の人生もあと三年が勝負というわけで、まあ若いうちにはいろいろな試練が――」
「結婚《けっこん》しろ!」
「ナニ?」
「お姉《ねえ》様と結婚しろっ! 結婚しろトレイズ!」
「ふへっ?」
「盆暗《ぼんくら》なあなたは知らないだろうけどね、想像も出来ないだろうけどね! お姉様は、あなたを待っているのよ! トレイズ! あなたを待っているの! それこそ、一日千秋《いちじつせんしゅう》の思いでね! あなたが二十歳《はたち》になるのを待っているのよ!」
「…………。彼《か》の地で何を聞いてきたのか知らな――」
「結婚しろ! お姉様と結婚しろ! そして、彼女を幸せにしろ! 聞いているのかこのボケっ! わかっているのかっ!」
「聞いてるよ。そして、メリエルはマティルダさんのことをいたく気に入ったのも大変によく分かりました」
「ちゃかすな! だいたい二十歳まで何を待つ必要がある? あなたと結婚する誰か? あなたの置かれた状況を理解してそれでも将来を誓《ちか》い合ってくれる人なんているわけないでしょっ!」
「断言? 分からないじゃないか……、言ってみるまでは……」
「ああっ? メドでもアテでもあるっていうのか? ――まさか、まさか……、あなた、あのリリアーヌ・シュルツって女の子を狙《ねら》っているとか?」
「…………」
「そうなのね? ま、それ以外あなたの知っている女の子なんていないものね!」
「余計なお世話だ」
「ああそう! じゃあお世話ついでに言ってやる! そんなネガティブな、後ろ向きな姿勢で誰かと将来を誓い合おうなんてうまくいくわけないだろうってな! だいたい自分が言われる立場になってみろ! 私は家同士の結婚相手から逃げるために二十歳までにあなたと婚約したいですいいですか?≠ネんて言われて、はい≠チて答える女の子がこの大陸にいるものかっ! そもそも、あなたが王子だって知らないリリアさんが全部を知ったとき、それでも今までみたいに幼なじみとして友達としてつきあってくれるかしらね! 今まで普通に喧嘩《けんか》していたのに、突然|畏《かしこ》まれて敬語使われたら、さあ、あなたはどうする?」
「……いろいろ言いたい放題だけど、俺《おれ》は、メリエルがマティルダさんの味方だってことは良く分かっているから、別に気にしない。メリエルが言ったことは、正しいかもしれない。でも、向こうがどう思うかは、向こうに聞いてみるまで分からない。俺はまだ言っていない。まだ分からないんだ。今回はダメだったけど、二十歳《はたち》までには自分でけりをつけるつもりだ。だから――心配するな=v
「おや……、言うようになったわね。どうにも打たれ強くなったものよ、弟」
「お前は妹だ! ――と、いいかね?」
「何がよ?」
「もしメリエルの望みがかなって、もし、万が一だが、俺がマティルダさんと結婚《けっこん》したら、お姉《ねえ》様≠ネんて呼んでいるメリエルにとって俺はお兄《にい》様≠ノなるぞ? その儀《ぎ》、よろしゅうございますか?」
「その物言い、ひどくムカツクわねこの腐《くさ》れ外道《げどう》!」
「うわ、どこの王女様がそんな言葉使うかな……」
「でも、そのときは、呼んであげてもいいわ」
「アレ?」
「そのときはね……。そのかわり……」
「そのかわり?」
「お姉《ねえ》様を幸せにするのよ、トレイズ」
「…………。泣いてるのか?」
「うるさいっ! この能天気王子! あなたもスフレストスに行って、どれだけ重い物をあの細い人が背負っているか見てこい! うちの能天気王室とは桁《けた》もレベルも違うぞっ! クソッ! 私が男だったらどんなに良かったかっ! 一緒に背負って助けてあげられたのに……」
「…………。メリエル、えっと、俺《おれ》は――」
「祈ってやる!」
「は? な、何を?」
「あなたとあなたが告白する女の子との仲がうまくいきませんように、って」
「呪《のろ》ってやる≠フ間違いでは?」
「うるさいボケ。話は以上だ。――私の部屋から出て行け!」
「分かったよ。――やれやれ」
「ちょっと待て」
「まだ何か?」
「最後にもう一つ聞く。――トレイズ、あんた本気でリリアさん好きなの?」
*  *  *
世界|暦《れき》三三〇六年 第三の月 四日
空には、青空を隠《かく》す薄《うす》い雲。地には、平らな土を覆《おお》う建物の群。
遠くまで、首都の数階建てのアパート群が見え、そのいくつかは、屋上に洗濯物を干している。
もうあとほんの少しの時が過ぎて、西からの風が吹き終わると――
この地に本格的な春がやってくる。
石造りの校舎を背にして、一人の少女が伸びかけた芝生《しばふ》に座っていた。
長い栗《くり》色の髪に、薄茶《うすちゃ》色の瞳《ひとみ》。着ているのは、冬服である灰色のブレザーと緑のチェックスカート。襟《えり》についた小さな徽章《きしょう》が、ロクシェ首都第四上級学校の四年生であることを示している。
少女はのんびりとした動作で芝から立ち上がり――
踊《おど》りだした。
少女は髪をたなびかせながら、軽快に、ワルツのリズムで三十ステップ、一気に踊った。
そして止まる。
「上手《じょうず》です! さすがリリアです!」
後ろから、一人でステップを踏んだ少女に声がかかった。
リリアと呼ばれた栗毛《くりげ》の少女が、長い髪《かみ》を揺らしながら振り向き、その整った顔で苦笑しながら答えた。
「相手がいないけどね」
この惑星《わくせい》唯一の大陸、その東半分を占める巨大|連邦《れんぽう》国家――ロクシアーヌク連邦。通称ロクシェ。
その首都特別地域に、第四上級学校はあった。
首都特別地域は直径三十キロほどの円形の地域で、中心部は大統領府や議事堂、各省庁、裁判所などがびっしりと並ぶ官庁街になっている。その外側に、デパートやホテルが並ぶ商業街があり、さらに外側がアパート街になっていた。
第四上級学校は、首都の円のほぼ外れにある。
北を十二時に見立てれば、九時半ほどの位置。
そこには、三百年ほど前から小さな町があった。ロクシェ成立時に造られた新首都の版図《はんと》は徐々《じょじょ》に広がり、取り込まれる形で一番|端《はし》になった。
学校のまわりには、首都の人口増加に伴って最近建てられたアパートが並ぶ。高さ制限一杯の五階建てで、灰色の無機質な景色を生み出している。
学校そのものは、かなり広い。約六百メートル四方の、アパート群の中にぽっかり空いた穴のような空間だった。
かつての町の中心部だった礼拝《れいはい》堂や議場の跡地《あとち》に造られたせいもあり、古く荘厳《そうごん》な建物も数多く残り、新しいものに混じって校舎として使われている。そのため校舎の配置がかなり複雑で、中庭の数も多い。
今は枝葉が落ちているが、広い校庭には背の高い木々が並んでいた。芝生《しばふ》の校庭も、サッカーの試合が二つ同時に開けるほど広々としている。灰色の空の下、今は誰もいない。
リリアはその端《はし》、三階建ての古めかしい校舎の脇《わき》に立って、
「相手がいないけどね」
苦笑しながらそう言った。そして、引き戸のドアから出てきた同じ格好の、黒髪の少女を迎える。
「まあ……、それはそのうちになんとかなると思います……」
申し訳なさそうな顔で言いながら、長い髪を二つに束ねた少女が近づいた。色白の肌《はだ》と黒い瞳《ひとみ》を持ち、リリアよりやや背が高い。
「まあ、いいってことよ。――メグは、わたしを気にせずに、セロン君と仲良くやりなって。せっかくペアになれたんだからね」
目の前に着た、自分がメグと呼んだ少女の腕《うで》を軽く叩《たた》きながら、リリアが言った。そして、
「みんな、まだ練習してる?」
メグは頷《うなず》いて、出てきた校舎へと振り向く。五メートルほど先、開いたドアの向こうには広い教室の内部が見えた。
そこは、ダンスの練習用に机とイスを出した教室だった。二十人ほどの女子生徒が、一生懸命《いっしょうけんめい》ステップを練習している様《さま》が見える。室内から、熱気が外へと溢《あふ》れていく。
「みんな相手が決まってるから、熱心だこと」
リリアがやさぐれ気味に言って、まだ諦《あきら》めちゃダメですよ、とメグ。
リリアの視線に、友人を励ます少女と、その後ろの紙が入る。校舎のドアの脇《わき》に連絡用|掲示板《けいじばん》があって、大きな紙が貼《は》ってあった。
踊《おど》るような、楽しそうな字で書いてあるのは、来月十三日に行われる春のダンスパーティーのお知らせ。
春のダンスパーティーは、首都やその近隣《きんりん》の上級学校では伝統的に行われている。将来社交ダンスが必要となる人材へ、若いうちから慣れさせるための授業の一環でもある。
参加資格は四年生以上。パーティーが学校主催のため、親公認で夜遅くまで、友人や彼氏彼女と、ドレスやタキシードで着飾って、美味《おい》しい食事と音楽とダンスを楽しむことができる。
しかし、ポスター最下部には、堅《かた》い文字で無慈悲《むじひ》にも、
『十日前までにパートナーを登録できなかった人は参加できません。例外は認めません』
長年続く鉄の掟《おきて》が書いてあった。
栗毛《くりげ》のリリアには、そのパートナー男子が未《いま》だ見つかっておらず、黒|髪《かみ》のメグには、とっくに見つかっていた。
期限まで、残り日数は一ヶ月。
しかし春休みが今月十二日から来月一日まであるため、その間は当然学校に来られない。期限の来月三日は新学期二日目で、休み前に決めておかないと相手は見つからない≠ニいわれている。
「はあ……」
二人が、同時にため息をついた。
ため息のあと、メグとリリアは、並んで芝生《しばふ》に腰《こし》をおろした。
灰色の空を見上げ、一生懸命練習する同級生の楽しそうな声を後ろに聞きながら、
「春休み、私は家族でカスナ海岸に旅行に行きますけど、リリアはどうしますか?」
「うーん。未だに未定が決まってないのよね」
二人は話をする。リリアの発言から、スー・ベー・イル出身のメグにあわせてベゼル語に切り替わった。
「未《いま》だに未定が決まってない=\―今日の新しいベゼル語」
メグが笑いながら言うと、
「ねえ、イクス王国は? また行かないの?」
左|隣《どなり》に座るリリアの顔を覗《のぞ》き込みながら聞いた。リリアは両手の平を上に見せて、肩《かた》をすくめた。
「今回はなし。もともと時間もお金もかかるから、春休みに行くことはなかったし、年末年始大騒ぎだったし」
「そう……。――例のトレイズ君、彼がこの学校の生徒だったらいいのに。私は、そんなことを思ったんだけど」
メグが、真剣な表情で、かなり意を決した様子で、口調は努めてさり気なく、そう言った。
言ったが、
「えー? トレイズが? ま、そしたらパーティーにむりやり出させられたか」
リリアはとてもあっさりと返した。そして、
「ま、そんなことは有り得ないけどね。彼は彼で、イクス王国に愛着というか誇りがあるというか――、あそこから出ることはないでしょ」
「そっか……。残念ね……」
メグは、いろいろなことを考えながら答えた。リリアは、そんなメグの気持ちはまったく全然慮《おもんぱか》らずに、
「気にしない!」
「はい?」
「メグの悪いところは、他人の気持ちを慮りすぎて自分がブルーになるところ。もっと自分の幸せを楽しみましょうって幼年学校で通信|簿《ぼ》にかかれなかった?」
リリアにしかめっ面で怒られて、
「書かれた。すみません。もうしません! はいっ、誓《ちか》います!」
メグは、だんだん口調を明るくしながら答えた。
「よし! ――春休みか。まだママの予定が決まってないから、決まり次第、またロクシェのどこかに行くかもね。ママも旅行|嫌《ぎら》いじゃないから、軍務にかこつけてあちこち行くし。明日《あした》からどこそこへ行くわよ!≠チてことも何度かあったし」
「いけたらいいね。行ったら、お土産《みやげ》よろしくね」
「了解。そっちもね」
二人が、目の前に広がる芝生《しばふ》を見ながら、拳《こぶし》を軽くぶつけて約束を交わしたとき、頭の後ろから、
「二人ともー、みんなあがるよー」
同級生の声がした。ありがとー、とリリアが返事をして、まだ座ったままで、
「ママもなあ――」
そう切り出した。メグが、リリアへと再び目をやった。リリアが、空を見上げてつぶやく。
「ママも、例の少佐《しょうさ》さんと再婚すればいいのになあ……」
「…………。あの、大使館の人ね」
「そ。この前も一緒に食事してきたって楽しそうに話していた。ママはいつも年齢《ねんれい》なんか感じさせないほど若いけど、少佐さんのことを話すときは格別なんだよね」
「リリア――。母親が再婚するとしたら、お父《とう》さんのこととか、どう思う? やっぱり複雑?」
リリアは、首を横に大きく振った。
「全然。わたしは当たり前のようにママに育てられたし、まったくセンチメンタルな感情ゼロ。幼年学校でも先生にさ、お父さんがいないと寂しいでしょう≠ネんて気を使われたけど、それが当たり前だと全然気にならなくなるもんだよ。例えば、メグには弟が二人いるけど、お姉《ねえ》さんやお兄《にい》さんはいない。でも、そのことが寂しいか?≠チて言われたらそんなことないでしょ?」
「なるほど……。分かるような分からないような」
「だから、わたしもここまで立派に? ――えっと、とにかく育ったし、これからは、ママにはママの幸せも追いかけてもらいたいなと。今となっちゃ、わたしが寮《りょう》に入ったっていいわけだし、寮も寮で、みんなとわいわい過ごすの、楽しそうだしね」
笑顔で言ったリリアを見ながら、メグはそうね、と一言だけつぶやいた。そして、すくっと立ち上がると、リリアに手を差し伸べる。
「そろそろ行きましょ」
「よし」
リリアが手をとって立ち上がると、それっ、といいながら、メグを引っ張りながら、踊《おど》っているように見えて実は単に連行しているだけのステップで、校舎の中へと入っていた。
*  *  *
リリアがメグと踊り出したそのとき――
リリアの母親であるアリソン・ウィッティングトン・シュルツは、自宅アパートで電話を取った。
『はい。シュルツです』
『こんにちは、アリソンさん。トレイズです。お久しぶりです』
『あら、こんにちは』
『今、お話しして大丈夫ですか? 昼ですけど、駄目元で電話してみたんですが』
『大丈夫よ。午後は悪天で飛行は全部キャンセル。わたしは、今さっき帰ってきたところ』
『よかった。――その、前に話したリリアの春休みのことなんですが……、残念ですが、もしお二人がイクストーヴァに来られても、俺はお相手出来なくなりました』
『あらま』
『すみません。家≠ノお客が来ることになって……』
『んー、そのお客≠ウんって、けっこう凄い人? 昨日、仕事場に未確定ながら連絡が回ったんだけど。来客中、首都近郊は飛ぶな≠チて』
『はい。恐らくアリソンさんの想像で間違っていません』
『それならダメか……。春休み、これから計画立ててみようかと思って、イクスも考えていたんだけどね。冬がアレだったからね』
『まったくもって俺がヘタレでどうしようもなくてすみません……』
『まったくね。シャンとしなさいシャンと!』
『はっ! ――そこで相談なんですが、ルトニ河口地域には興味ありませんか? 北海のエビが美味しいです。ホタテも美味しいです。カニも美味しいです』
『行ったことはないけど、行ってみたいわね。なんで?』
『仮に、仮にですよ、俺が仕事でエリテサから汽車に乗ったら、そこにたどり着いちゃったりします。あまり詳しくは言えませんが、そのあとなら――』
『ふむ……。これ以上の話はここじゃ無理ね。あとで、基地の秘匿回線からかけるわ。明日の、だいたいこの時間は? 休みだけど基地に出ているから』
『います。明日は一日います』
『じゃ、そのときに』
『了解しました。その話はその時に。――別の話で、一つお聞きしたかったんですが……。ちょっと聞いていいものか悩みました』
『何? とりあえず言ってみて』
『はい……。アリソンさんが、天国の<買Bルさんと離れて暮らしていること、です。事情は分かりますが、正直――、どうですか?』
『んー。それは、全てにおいて最良の選択、ではないとは思うけど、わたしは辛くはないわ』
『そう、ですか……。寂しさみたいなのも?』
『ないわね。学生時代は、そりゃもう、一生分はいちゃついたしね。ここで言うのもはばかられるように。言おうかしら?』
『それは、結構です遠慮します』
『あの人は、今は本当にやりたいことをやっていると思うの。こういう生活を選んだことで、それを妻として支援できるのならそれでいいわ』
『……やりたいこと、とは?』
『簡単に言えば――この世界のみかた≠チてところね』
『せかいのみかた、ですか……』
『そっ。自分の判断で世界を大きく変えてしまった責任を感じて、それ以降も、よりよい方向へと少しでも向くようにと、自分にできることをやっている。そのために得た力をちゃんと使ってね』
『なるほど……。俺は、祖国イクストーヴァのために、自分に何ができるかを常々考えてきました。これからも……、それを第一に考えるべきでしょうか?』
『わたしに聞かれても、答えようはないわね。たぶんあの人にも。正しい答えは、人によるから』
『そうですね。すみません』
『ただ、わたしが何か言えるとすれば――、重要な決断をしたときに、自分の隣にいる人が笑顔で賛成してくれると、どんなときよりも嬉しいものよ、きっと』
『…………』
『大丈夫。まだ三年あるんでしょ』
『はい。ありがとうございました』
『じゃあ、明日連絡するわ。春休みの旅行について=x
『了解です。お待ちしています。――そのとき、母や父とも話しますか?』
『あ、お願いお願い。お二人によろしく。それじゃ』
*  *  *
アリソンが自宅アパートで受話器を置いたそのとき――、首都から百キロほど離れたとある場所では、銃声が絶え間なく轟いていた。
そこは、かなり特殊な窪地だった。山がないといわれるほど平坦なロクシェの土地の中で、やはりロクシェではありきたりな一面の麦畑の中で、そこだけがごっそりと窪んでいる。
一辺の長さが一キロほどの、ほぼ正方形の窪地。深さは二十メートルほどで、底はほとんど真っ平ら。窪地の縁には、四十五度ほどの角度で土嚢が積み上げられて雨による崩れを防止している。さらに、畑との境目に沿って高さ三メートルほどの盛り上がりが、窪地をきれいに一周し、隙間なく取り囲んでいた。
どう見ても自然の地形ではないここは、かつては溜池だった。四百年ほど前、大量の人員を使って手作業で彫られた池で、近くの川から水を引き、農業用水を確保していた。
しかし、八十年ほど前に新しい運河の完成で川が流れを変え、池は干上がり、遺跡のような窪地になった。
その後使い道を考えたロクシェ政府が、ここを軍隊の試験射撃場にした。周辺を土に囲まれているため、水平に撃った弾丸が外に飛び出す恐れも、新兵器を剥き出しにして撃っても誰かに見られる心配もない。
窪地の底は東西に分けられ、西半分は土が剥き出しの野外射撃場だった。東半分は、精密射撃用に射場と的に屋根があったり、室内訓練用にプレハブ小屋がいくつも建てられていたりする戦闘訓練場になっていた。
四辺の角にはそれぞれ、鉄製の監視塔が建って、その下には家のような小さな建物があった。他には農業倉庫に見える、実際は武器弾薬庫が、数棟畑の脇に並ぶ。
曇りの空の下、野外射撃場の南端に、三人の男がいた。
「装填中!」
背広姿をした、二十代後半に見える男がベゼル語でそう叫びながら、湿った土の上に膝をつく。黒いスラックスが汚れることなど厭わない。そして、手にした銃の弾倉を取り替えにかかる。
銃声が男の左右で鳴り渡った。五メートルほど離れて左右にいた、共に四十代に見える男達が、前方めがけて撃ちまくっていた。一人は長身で体格がよく、一人は小柄。二人とも、やはりビジネスマンのような背広姿。全員、小さな耳栓をつけている。
けたたましい銃声と薄い硝煙を生み出しているのは、全長九十センチほどのライフルで、下に湾曲しながら突き出た長い弾倉と、鉄パイプを曲げて作ったようなストックにピストルのようなグリップを持つ。
セレクターの切り替えによって、引き金を引く度に一発、もしくはフルオートで連射が可能な銃で、マシンガンと区別されてアサルトライフルと呼ばれている。
二人の男は、一発ずつ、しかしかなり早いペースで撃った。
放たれた弾丸は、四十メートルほど先に立てられた、敵に見立てた人型の鉄板に当たる。激しい音と火花を散らしながら、鉄板は後ろに倒れていく。
真ん中の男がしゃがんだときには三十以上の鉄板が立っていたが、それが次々に倒れ、数を減らしていった。
二十代の男は、バナナのように湾曲した弾倉を手早くライフルにはめ込み、左手でボルトにくっついた装填レバーを往復させて、
「装填終わり!」
叫びながら、膝立ちのまま的へと狙いを向けた。そして、倒すべき鉄板が何一つ残っていないのを見て、
「あれ? ――終わりっすか?」
拍子抜けした声を出した。
「終わりだ」「終わり」
左右の男達が、同時に言った。構えたままの銃の熱せられた銃身から、薄く白い煙が揺らいでいる。
「ちぇ。――射撃終わり」
撃つべきものをなくした男が、ライフルに安全装置をかけて、立ち上がった。
三人の後方、二十メートルほど離れて、土の上にテーブルが置いてあった。盆地の南の終わりからは、五十メートルほどの位置。
ベンチを両脇に設けた木製のテーブルの上には、大量の弾薬箱と予備の弾倉、そして同じライフルが、ストックを前方に折りたたんだ状態で二丁置かれている。他に水筒がいくつかと、小型の携帯無線機が一つ。
テーブルの後ろには、男が二人立っていた。
二人ともやはり場所にそぐわない背広姿で、ネクタイまで締めている。年齢は共に三十代の半ばほど。一人は髪を短く刈り込んだ、腕利きの軍人のような、鋭い目つきをした男。もう一人は眼鏡をかけた、対照的に学者のような印象を与える男。
「いいようですね。少佐」
目つきの鋭い男が、自分が手にしたストップウォッチを見せながら、隣の男に言った。言葉はベゼル語。
少佐と呼ばれた眼鏡の男が、人当たりのいい、やわらかな表情で頷いた。
ロクシェ大使館に勤務する、スー・ベー・イル王立陸軍のトラヴァス少佐は、三人が弾倉を外した銃を背負いながら、こちらへと戻ってくるのを見ながら口を開く。
「いいようだね。全自動で撃てるのも便利だ」
「さすがはロクシェと言ったところでしょうか。こと火砲と銃器に関してだけは、我が国より進んでいます」
そうだね、とトラヴァス少佐がつぶやいたとき、戻ってきた三人が机の上にライフルと弾倉を置いた。そして順に、
「いい銃です」
「これは使えます。戦闘力はかなり上がるでしょう。ボルトキャッチがないのは、慣れが必要でしょう」
「俺に射撃を教えてくれた従兄弟にも撃たせてあげたいので、土産に三丁ばかし欲しいです。包んでくれますか?」
思い思いに感想を言った。
そして、最後に言った若い男が、少佐も一緒に撃ちましょうよ、と軽い口調で誘い、
「いいでしょう」
トラヴァス少佐は机の上の無線機を手に取ると、口元に運び上げて通話ボタンを押した。
『次は全員でやります。的を百体全部、ランダムに立ち上げでお願いします。距離は最長で四百。指示は私の左手の振り下ろしで。どうぞ』
ロクシェ語で無線機に話しかけて、了解しました、と三秒後に男の声で返事。次にトラヴァス少佐は、同じ無線機に向かい、
『アックス。聞いていたね。二百より先の的は任せる。どうぞ』
一秒後に、若い女性の声で返事が、ベゼル語で戻ってくる。
『了解しました。こちら準備よし。いつでもどうぞ。通信終わり』
「よし。準備」
短くトラヴァス少佐が言うと、五人の男達は、弾丸がつまった、ずっしりと重い弾倉を手に取った。それを、背広とスラックスのポケットに入れていく。
一人五個ほどの弾倉を身につけると、最後にライフルを掴んだ。畳んであったストックを伸ばす。五人横に並んで、五メートルほどの間隔を空けながら前へ進み、鈍い緑色の空薬莢が散らばるあたりで足を止める。
「装填」
トラヴァス少佐の声が通り、男達が前に向けた銃に弾倉をはめ入れた。次いで安全装置を外し、装填レバーを往復させて、一発目が銃身最後部の薬室に収まる。あとは引き金を引くだけ。
二十代の男が、
「今度は俺の分も残しておいてくださいよ」
そう言うと、
「だったらパカパカ撃つな」
との返事。
男達の前には、湿った土が広がるばかり。一キロ先まで、がらんとした平原が続いていた。
「そろそろです。作動準備願います」
南東の監視塔の上で、防弾ガラスの後ろで、位置についたトラヴァス少佐達を、据え付けの双眼鏡で見ている兵士がいた。
緑色の、ロクシェ軍の戦闘服を着た兵士で、その後ろには、同じ格好の男達が計四人。
階級が下っ端の若い二人はイスに座り、目の前の機械を睨んでいた。中年の将校二人は、手持ちの双眼鏡でトラヴァス少佐達をのぞき見る。
準備願います、の言葉を聞いて、後ろにいた二人が、目の前に並ぶスイッチに手をかけた。
据え置きピアノのような機械には操作盤があり、下から上へ跳ね上げるタイプの小さなスイッチが、縦に十列横に十列、一人につき百個並んでいる。その手前には小さなランプ。
このスイッチを跳ね上げると、射場の鉄板は勢いよく跳ね上がり、緑のランプが灯る。緑のランプは、距離によって三秒から五秒以上灯ると青に変わる。銃弾を受けて倒れると、赤いランプが灯る。青くなってから倒れると、赤と青の両方が灯る。これによって、敵兵をどれだけ早く撃ち倒せたかが分かる。
どれを立ち上げるかは、つまりどの距離から敵が出てくるかは、操作する兵士のきまぐれ次第。スイッチの縦が距離に連動して、最長八百メートルまで対応する。左脇にある数値は最短の二十メートルから、指示があった四百メートルまでに設定されていた。
さらに斜め上にあるダイヤルが百の位置に合わせてあって、兵士達が百回スイッチを操作すると、それ以上は受け付けない仕組みになっていた。
ロクシェ軍最新式の機械式標的装置を前にして、双眼鏡の丸い視界の中、トラヴァス少佐はゆっくりと左手を持ち上げる。
左手を持ち上げるトラヴァス少佐を、やはりレンズ越しに見ている人間がいた。
そのレンズには、中央に横線が、そして中心部にギザギザ模様が三つ描かれていた。
狙撃銃のスコープだった。距離に応じてそのギザギザの頂点に狙いを定めると、弾丸がそこに送り込まれる仕組みで、左下には人間の身長を当てはめる距離測定目盛がある。
トラヴァス少佐達の数十メートル後方。南側斜面を少し登ったところ、階段の踊り場のような場所に、その狙撃銃の持ち主がいた。
ダブルベッドほどの広さの平坦な場所に布を広げ、狙撃銃を構えて伏せていた。やはり背広姿の、短い黒髪の、二十代に見える若い女性だった。
かつてイクス王国の白い世界で火を吹いたことのある細長い狙撃銃は、前部を土嚢によってしっかりと支えられて安定し、ぴくりともぶれない。女性の鋭い右目がスコープを覗き、左目の黒い瞳もまた、真っ直ぐ前方を睨んでいた。
銃の脇に、弾丸がつまった予備の弾倉と、ラジオほどの大きさの小型無線機が一つ置いてあった。無線機から延びたケーブルは、彼女の耳と喉につながる。
その女性は狙いをトラヴァス少佐の背中中央につけたまま、右手人差し指で安全装置を外した。そのまま引き金に持っていくと、指先が冷たい金属に触れた。
「忘れまじ」
小さな声で、女性はつぶやいた。
十九年前――
「よい子にしているんだよ。パパは大事な任務に行くからね。いつも言っているとおり――」
「任務には最後まで忠実であれ!=v
「そうだ。そしてアックス。君には重要なとても重要な任務がある」
「ママと一緒にいて、パパにおかえり!≠言うこと!」
「そのとおり! うちの小さな軍人さんは優秀だ!」
「えへへ」
「じゃあ、行ってくるよ。アックスが朝起きたときには、パパは飛行機で東に向かって空を飛んでいる途中だ」
「行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくるよ――。そしておやすみ、アックス」
「おやすみなさい。パパ。――明日からは、写真にちゃんと言うよ! 忘れないよ!」
「嬉しいな。――パパは任務の間、アックスの写真を持っているのは駄目だけど、アックスの可愛い顔はいつだって思い出せる。その顔に、おやすみを言うからね。毎晩だよ」
「グラツ・アンスガー大尉殿は、作戦中の航空機事故により、命を落とされました。謹んでここに報告を――」
五年前――
『事故死ではない』
『は――? あなたは誰です? 答えないのなら電話を切ります』
『グラツ・アンスガーの死は、事故死ではない』
『…………。あなたは、誰です?』
『そんなことは重要ではない。ただ、知っておけ。グラツ・アンスガーは殺害され、隠蔽のために事故死扱いとなった』
『…………。なぜ?』
『それは自分で聞いてみろ』
『――誰、に?』
『トラヴァス。来月からお前の上官になる男だ』
『…………』
『気をつけろ。そして考えろ。任務に最後まで忠実である≠アとが、常に正しいことなのか』
『…………』
「忘れまじ」
アックスが呟いた直後、トラヴァス少佐の左手が振り下ろされて、そのままライフルの保持へと素早く動いた。
「作動!」
その様を見ていた人間からの号令を受け、二人の兵士は思いつく場所から、右手だけを使いスイッチを上げていった。
土の中から、人型をした黒い鉄板が浮かび上がる。
横に散らばっていた男達は、自分の目前と思われる的へと狙いを定め、躊躇することなく撃った。
耳をつんざく銃声と、金属を穿つ音。
トラヴァス少佐の目の前で、距離四十メートルほどと八十メートルほど。二つの的がほぼ同時に立ち上がった。トラヴァス少佐は、〇・五秒かけて二発撃った。
微妙な時間差で二つが倒れるのを見ずに、別の的へと視線を動かす。視線の四百メートル先で、小さなゴマ粒ほどの黒い点が立ち上がった。アサルトライフルでは狙えない距離。
直後に、空を切り裂く音が頭の上を通り越していった。そしてゴマ粒は倒れて消える。
トラヴァス少佐達の数十メートル後方で、伏せて構えた女性の狙撃銃から空薬莢が一つ空中へ高く放り出された。それが土に落ちる前に彼女は二発目を放ち、別の的へと命中させていた。
体格のいい四十代男の目の前で、わずか二十メートル先で、的が持ち上がった。男は一瞬でセレクターをフルオートに変え、射撃の反動を利用し、的の左下からすくい上げるように連射した。群れをなして飛んだ弾丸は的を壮絶な勢いで後ろに倒し、起こすための木製の装置を破損させた。
「装填中!」
男は銃の中に一発弾丸を残したまま、残段少ない弾倉を潔く取り外し、新しいのをはめ入れた。左右にいた男達が、彼の前の空間も自分の守備範囲に入れる。立ち上がった的を、すぐざま打ち倒した。
やがて男が射撃に復帰、それを確認してから、隣にいた二十代男は、
「ああっ、従兄弟に撃たせてえ」
そんな軽口を叩きながら、自分の目前にて三連続で跳ね上がる的を、ワルツのリズムで倒していった。
ガラス越しにくぐもって響く銃声を聞きながら、ついたランプが赤に変わる様子を見ながら、
「連中、憎らしいほど上手だな。嫌になる」
ロクシェ軍将校の一人がつぶやく。手前の兵士二人は必死になってスイッチを立ち上げていくが、それら全て、青になる暇もなく赤に変わっていく。
「上手ですね。教えてもらいたいくらいだ」
やがて銃声は止んだ。
将校がちらりと機械を見る。
操作盤のランプは、一つの例外もなく赤くなっていた。
「化け物どもめ」
*  *  *
「お世話になりました。失礼いたします」
トラヴァス少佐が、自分たちを化け物呼ばわりしたロクシェ軍の将校に挨拶し、十二人ほど乗れる小型バスへと乗り込んでいった。
バスは、小柄な四十代男の運転で窪地をあとにした。曇天の中、黒い煙をもうもうと吐き出しながら、畑の間の道を走る。
がらがらの座席には、トラヴァス少佐とその部下が、適当に座席を離して座っていた。
それぞれ水筒から水を飲んだり、ガムをかんだり、窓の外をボンヤリと見たり、思い思いにくつろいでいる。
「さて、そろそろ決めておかないと」
トラヴァス少佐が、二列後ろに座っていたアックスには聞こえるようにつぶやきながら立ち上がった。手すりを掴み、後ろを向いて、
「全員いいかな」
バスの騒音に負けない大きな声で言った。全員が彼に注視し、運転手は速度を若干緩める。
「今回の任務における、みんなの名前をここで決めようと思う」
トラヴァス少佐が言って、座席列最後列の二十代男から、
「待ってました」
との囃し立ての声。重要な作戦の前に、必ず偽名を決めてお互いそれを名乗るのは決まりごとになっている。
「また、私が決めていいのかな?」
トラヴァス少佐の質問に、全員が頷いて答えた。
では、と前置きして、トラヴァス少佐はまず近くに座っていたアックスを指さし、
「アン=v
アックスは、了解、と一言答えた。
トラヴァス少佐は、次に二十代の男を指さす。かつて大使館でお菓子買い占め隊の帰還を報告した男。
「イズマ=v
「了解! 今日から俺はイズマだ。皆様よろしく!」
次いで、トラヴァス少佐は、先ほど自分の隣で時間を計っていた、目つきの鋭い、髪を刈り込んだ三十代の男を指さし、
「ウーノ=v
「了解しました」
体格の立派な、かつて導師様°~出の際にショットガンを撃った四十代の男は、
「エド=v
「了解しました、少佐」
最後に、バスを運転する小柄で隙のなさそうな男を、
「オゼット=v
「了解。みんなよろしく」
「私はいつもどおりリーダー≠ナいい。以上だ」
トラヴァス少佐が言うと、イズマが手を挙げて、
「リーダー先生! 質問です。――その名前、どこから?」
聞かれた男は、微笑みながら答える。
「以前読んだ、言葉勉強用の絵本の登場人物だ。母音の発音だったかな?」
「なんとまあ。で、イズマってのは、一番若い、格好いい奴でしたか?」
トラヴァス少佐は、今度は真面目な表情で、
「いや……、たしか、口うるさい老婆だった」
「ぴったりだな」
オゼットとエドが、ほとんど同時に言った。
*  *  *
ロクシェでバスが畑の真ん中をのんびり走っていた頃――
それより遥か西にあるベゼル・イルトア王国連合のとある場所では、夜が明けようとしていた。しかし強い風と雨によって光が隠され、世界は暗く騒々しかった。
雨の風を受けて、一つの建造物が闇に沈んでいた。
黒い石を組み上げて造られた細長い棟が五つ横に並び、中央を太い棟が一本貫く。建物全ての窓には頑丈な鉄格子がはめられ、屋上には四角に監視塔が。そこでサーチライトと共に監視するのは、散弾銃やライフルを持った男達。
建物のまわりは、高さ二十メートルはある黒い壁が囲む。壁の向こうには、細い草がまばらに生えるだけの草原が延々と広がるだけで、人工の明かりは何も見えない。太い舗装道路が一本、直線で走っていた。
ここは、スー・ベー・イルの某所に建てられた、一般には住所すら公表されていない、重犯罪者専用の刑務所だった。
死刑のないスー・ベー・イルでは、罪が多ければ刑期は次々に加算される。
懲役年数が百を越える犯罪者は、この地に送られて、この地で死んでいく。
「囚人四十二番。出ろ」
一つの独居房の扉が、軋みながら開いた。
開く前に部屋の奥には、鉄格子越しに散弾銃の銃口が四つ突き出されていた。刑務官達は、二メートルほど先のベッドで横になる人影へと、容赦なく黒い穴を向けている。引き金には指がかかっていた。
銃口の脇に縛り付けられた、小型だが強力な懐中電灯が、石を組み上げて作られたベッドの上を照らす。
そこに、焦げ茶色の毛布にくるまって、一人の男が寝ていた。
伸び放題の髪を横顔にかぶせながら、男は静かに寝息を立てている。眩しい光が当てられた。たっぷり十秒後に、
「ん……?」
眩しそうに薄目を開けて、そして手で顔を覆った。わずかな動きだったが、刑務官達は緊張で震えて、鉄格子に銃身が当たって小さな音を立てた。
「囚人四十二番。起きろ」
扉を開けた刑務官が、もう一度繰り返した。彼の手には、警棒ではなく刃渡り五十センチはある短剣が握られ、いつでも刺せる状態で保持されていた。
囚人四十二番が、ゆっくりと体を起こした。まだ眩しそうに顔を手で覆って、
「なんですか? まだ朝食には時間があるでしょう」
丁寧な口調で、そして大人しそうな声色で言いながら、ベッドへと座る。着ているのは青と白の縞模様の囚人服。右胸には、四十二番の文字。
「移送だ。はめろ」
刑務官が手錠を放り投げ、固い床で金属音を立てた。頑強な手錠が、さらに鎖で足枷にもつながっている。
「そんな話聞いていませんよ。ま、教えてくれるとも思いませんが」
囚人四十二番は、何一つ抵抗する素振りも見せず、言われたとおりにする。懐中電灯の光を受けながら、歩ける程度に鎖で繋がっている足枷を片側ずつ足首に、そして手錠を自分の左手首にはめた。手馴れた様子だった。
刑務官は短剣を右手に持ち、いつでも振り下ろせるような体勢で、ベッドに座る囚人四十二番に近づく。強面の顔に、緊張の汗が浮かんだ。
そして、手錠の残りを囚人四十二番の右手にもしっかりとかける。両手首を体の前に運び、さらにそこから伸びる鎖を腰の後ろに回して南京錠をかけた。そしてようやく、短剣を腰の鞘に戻した。
散弾銃が鉄格子の間から抜かれる。刑務官を背中に、囚人四十二番は独居房を出た。そして、薄暗い廊下を、散弾銃に囲まれながら歩く。
「また精神鑑定とかなんとかですか? いい加減にしてくださいよ」
「喋るな」
「まあ、暇つぶしにはなりますけどね」
「喋るなと言った」
「やれやれ」
そして、囚人四十二番は、じゃらじゃらと音を立てながら、いくつものゲートをくぐり、室内にある駐車場へ。そのまま小型の護送車の中へと詰め込まれた。
護送車の四角い車内の中心にイスが一つ固定され、座った後、足枷はイスに錠で固定される。
刑務官から引き継いだ警察官が、車内の四隅に男へと面して座った。
雨と風の中、護送車は護衛のパトカー二台に挟まれ、黒い壁から出た。
「どこへ行くんですか?」
囚人四十二番が周りの警官に訊ねて、返事はない。
「まだ眠いですよ」
「では、寝ていろ」
今度は返事が来た。警官たちは、それで合図があったかのように、足下の袋から何かを出して自分達の顔にはめる。
「ん?」
囚人四十二番が、首を傾げた。警官達が顔にはめたもの、それは軍用のガスマスクだった。ゴム製のカバーに大きな二つのガラス。口の位置には防毒装置を詰めた缶。
全員が準備をすると、一人が大きなスプレー缶を取り出し、勢いよく囚人四十二番へと噴霧する。
「ああ……、これは……、分かりますよ……。この臭いは――」
気づいたことを最後まで言えずに、囚人四十二番は目を閉じて頭を垂れた。
数時間後。
「ん……。んあ……」
「お目覚めかね。囚人四十二番」
「ああ……。ひどい夢を見ましたよ。突然住処から移送されて、苦い睡眠ガスをかがされる夢を」
「それは、私の指示だ」
「ん? ――ああ! まだ悪い夢を見ているんですね私は」
「いや。そろそろ目を覚ましたまえ。話がある」
「その前に――、手錠と足枷が痛いんですけど、取ってもらえませんか?」
「話が先だ。こちらを見たまえ」
「はいはい。――お……、おや? おやや? これは驚いた。私は、あなたを知っていますよ。もちろん会ったことはありませんが、あなたを知ってます」
「そうか。私も君のことはよく知っている。囚人四十二番」
「でしょうね――。で、なんの用ですか? あなたほどの偉い人が、わざわざ警官を使って私を連れ出してまで、朝ご飯を一緒に食べたいなんてことはないでしょう」
「むろんだ。こうして君のようなウジ虫と話をしているのも、正直に言うと嫌だ」
「ひどい言いようです。安心してください。手錠と足枷がなくても、あなたなんか殺しはしませんよ。老人は、ほっといてもそのうち死にますし」
「君には、仕事をしてもらう」
「断ります。興味ありません。今すぐ私を、あの居心地の良かった刑務所に返してください。本当なら今頃、のんびりと朝食をとっていたはずなのに。私はあそこで、自分が愛した人達の思い出と共に生きるのが結構好きなんです。仕事なんかしません。分かりましたか? 私は仕事なんかしません。もう一生ね。絶対に仕事なんかしないんです。分かりましたか?」
「人殺しの、仕事だ」
「話くらいは聞きましょうか。でも、知っていらっしゃるとは思いますが、私は――」
「知っているよ。――そして仕事だ。とある、やんごとなきお方を一人、殺してもらいたい」
「なんとまあ」
「これが、目標の写真だ」
「…………。美しい……。ああ……、こいつは堪らない」
「涎をおさめたまえ。目標はロクシェだ。君はロクシェに旅行者の身分で潜入し、後は好きにしろ。ロクシェ内で目標が確実に死んでくれれば、手段の委細は問わない。必要な予算も出そう。ロクシェの警察に捕まらなければ、そのあとは河向こうで自由に生きればいい。好きなだけ人殺しをすればいい。母なるルトニを超えて美しき祖国に戻ってこない限り、何をしても構わん」
「ロクシェですか? 驚きました。しかしですね、私を開放して国境を越えさせるなんて、そんなことが――」
「私にはできる」
「まあ、それはそうですね。あなたほどの人なら、いろいろなことが可能でしたね。私をここに連れ出したみたいに。ひどい人だ。悪い人だ。私は今、悪人と話をしています。警察を呼ぶべきだ」
「この世に、お前を殺したい人間は多いんだぞ、囚人四十二番。私も、こんな身分で言うのもなんだが、母国に死刑がないのが悔しいとすら思った事がある。だが、今は別だ」
「身勝手なことで」
「そうだな。――では、仕事を受けるか、ここで死ぬか選べ」
「くだらない質問ですね」
「ああ。そうだな」
「で、朝食は? お茶にはラズベリーのジャムを。ジャガイモはまるのままがいい」
「頭《ず》に乗るな」
囚人《しゅうじん》四十二番≠ニ呼ばれた男が、豪華《ごうか》な部屋から護衛に囲まれて出ていった。
大きく重い扉が閉じ、その部屋には老人と執事だけが残される。外の雨はまだ強い。
老人は、自分より若い執事に向かい、一言命令。
「電話を」
ロクシェ首都 スー・ベー・イル大使館 夜
狭い部屋にベッドが一つあるだけの仮眠室で、軍服のシャツ姿で寝ていたトラヴァス少佐は、アン≠アとアックスの館内電話で起こされた。
『おやすみのところ申し訳ありません。――今アイカシア校長≠謔陂A絡が入りました。お嬢様≠ヘ、全て予定どおりに行動なされます。本日公表され、朝のニュースで流れます』
『了解した。これから忙しくなるな』
『はい。しかし、皆も私も、この任務は、これ以上ない光栄です』
『私もだ。しっかりやらないと。すぐにそっちに行く』
トラヴァス少佐はベッドから起き上がると、壁にかけられた、焦げ茶色の軍服の上着を手に取った。
*  *  *
翌朝、第三の月の五日。休日の朝。天気は曇り。
ロクシェ中に、特に首都では大々的に、とあるニュースが流れた。内容は以下のとおり。
今月十五日より十九日まで、スー・ベー・イルのマティルダ王女がロクシェ首都を公式に訪問される。
現国王のご家族がロクシェを訪問するのは、十二年前に国王陛下が北海のナタリヤ島で当時の大統領と史上初の東西首脳会談を開いて以来で、首都訪問は初めて。
マティルダ王女は、ロクシェ空軍戦闘機部隊が護衛する専用機により大陸を横断し、道中の景色を楽しまれながらロクシェ首都へ。翌日大統領とお会いになり、大統領官邸で晩餐会が催される。
その後マティルダ王女は近代的な市内や、市外の歴史的建造物の観光、ロクシー美術館の見学、首都大劇場での観劇などが予定されているが、詳しいスケジュールは極秘とされている。その五日間、首都は厳戒態勢におかれ、鉄道運行や道路通行の制限が予想されるので注意が必要である。
十九日昼に首都を離れるマティルダ王女は、特別列車で北海に面したワッツ港に到着。翌二十日、北海での合同救難訓練に参加し、二日前から寄港している予定のスー・ベー・イル海軍の大型戦艦<<イルデスタ>>に乗艦され、護衛の艦隊と共に北海経由でスー・ベー・イルの首都スフレストスへお帰りになる。
シュルツ≠ニ表札を付けた普通のアパートの、普通のダイニングルーム。
天候しだいでは休日も関係ない、テスト飛行士という仕事している母親が早くに出勤し、一人娘が一人で朝食を食べていた。
窓の外は薄曇、ところどころ青空。風は西から、やや弱い。
ダイニング中央にあるテーブルの上には、ハムとチーズを挟んで電気式ホットサンド機で焼き上げたホットサンドと、牛乳でいれたお茶。
リリアはラジオから流れるニュースを聞きながら、
「ふーん。例の、旦那さん候補がいなくて大変なお姫様か。――ロクシェに来るんだ」
そっけない感想を言って、二つ目のホットサンドへと手を伸ばした。
シュトラウスキー≠ニ表札をつけた高級アパートの、豪華で広いリビングルーム。
その家の長女と次男が、テレビの前で興奮していた。
髪を下ろしているメグは、光沢も豪華な専用台に据え付けられた白黒テレビにかじりついて、
「信じられない! マティルダ様がロクシェにいらっしゃるなんて! ああ、なんてことなの! なんで私はそのときに首都にいないの! なんでっ! どうしてっ!」
その脇で、幼年学校に通う十歳の下の弟が、
「すっげー! 戦艦<<イルデスタ>>だよ! 全長二百七十メートル! 最大速力三十三ノット! 四十センチ主砲九門! 王立海軍最新最強の高速戦艦にして北海艦隊旗艦! ロクシェに来るんだ! スゲー! 見たいー! 見に行こうよ!」
二人の後ろで、ソファーに座る、長い黒髪を結い上げた、ふくよかな体型の中年女性が呆れた様子で言う。
「あなた達は、本当に王室マニアに軍事マニアね……。でも、私たちはそのころ東海岸を旅行中ですよ。ヒラメのムニエルが美味しいらしいのよね」
「キャンセル!」「延期だ!」
姉と弟が同時に振り向いて叫んだが、母親はサイドテーブルの上のお茶をのんびりとすすったあと、
「そんなことはできません。シイラのフライも食べます。――それに、二人とも、あんなに楽しみにしていたのに」
「だってママ! マティルダ王女様がせっかくロクシェにいらっしゃるのに! ひょっとしたら御婚礼前にお顔を拝見できる一生に一度のチャンスなのかもしれないのに! そんなときにのんきに家族旅行なんて!」
「そうだよ母ちゃん! 王女様はともかく、戦艦<<イルデスタ>>がロクシェに来るなんてめったにないのに!」
二人は母親に反論。それから姉が弟へ。
「何言ってるのよ! 戦艦なんてどうだっていいでしょう!」
「どうだっていいとはなんだよ!」
弟はむくれたが、姉は魂の底から叫ぶ。
「あなたは――、将来海軍に入って乗りたいだけ乗ればいいじゃない! ロクシェ語が出来るんだったらきっと優待してくれるわよ! ――私は、どうやったって王家に入って王女様と仲良くしたりすることはできないのよ!」
「そりゃそーだけど……」
「王女様の支えになり、あのお美しい笑顔を守ることもできないのよ!」
「…………」
弟が、ゆっくりと姉から身を引いた。手を胸の前で組んで心は別の世界に行ってしまっている姉から離れ、母親のいるソファーの脇へ。
メグが、勢いよく西を向いた。髪がひらめいた。
「ああっ、マティルダ王女様! せめてロクシェ滞在中は、心休まる素晴らしき日々でありますように! 東方の地より、メグミカは心より、王女様の幸せを祈っております!」
祈りを捧げる娘に、母親は呆れた様子で問いかけた。
「あなた――。学校でそれやっていないでしょうね?」
イクス王国。
雪に覆われたとある村の、とある一軒家のリビングルーム。
「発表になったわね」
「ああ。公の計画≠セけはね」
今は女王を休暇中のフィオナと、その夫のベネディクトが、小さく火が燃える暖炉の前に、床に座っていた。二人の会話は、ベゼル語。
二人とも歯切れを縫い合わせたデザインのパジャマ姿で、ベネディクトは髭に似合わない可愛いナイトキャップをかぶったままだった。暖炉の上では、朝一番のお茶用にヤカンがかけられている。
棚の上では、くたびれた外見のラジオが、マティルダ王女様のロクシェ訪問計画を伝えていた。スピーカーの音はかなり悪い。その隣の棚には、緊急時用の最新式無線機が設置されていたが、スイッチは入っていない。
ニュースが別の項目に移ると、ベネディクトが手を伸ばしてスイッチを切った。
「そういえばトレイズは? ここ数日見ないけど。もっと前からかな?」
息子の行動には無頓着極まりないベネディクトが訊ねて、
「首都のアパートよ。警察署で、射撃と格闘術をもっと教わるって。悪漢を前にしたときに引く事のないように、もっと強くなりたいって言ってたわ」
フィオナが、暖炉の炎で両手を温めながら答えた。
真面目だなあ、とベネディクトが呟いて、座ったままずりずりとフィオナのすぐ隣に移動した。同じように手のひらを温める。そんな夫の肩に、フィオナがそっと寄りかかった。
二人は、薄暗い部屋の中に、一つの影を作った。お湯はまだ沸かない。しばらく、言葉のない静かな時間が流れた。
ベネディクトが、ロクシェ後に切り替えて、そしてゆっくりとした口調で、自分に寄りかかる妻に話しかける。
「ところで、フィー。一つお話があります」
「なあに?」
「また、新しい写真機を買ったそうですね」
肩に寄りかかったまま、フィオナの表情が固まった。フィオナは二秒ほど目を見開いて、三回ほど瞬きして、寄りかかっていた体を真っ直ぐに戻した。
「……えーっと。なんで? なんで分かったの?」
「エリテサの百貨店から女王フランチェスカ様≠竍イクストーヴァ王室≠ナはなく、フィオナ様∴カで『お引き立てありがとうございました。商品はすぐにご発送いたします』と電報がきました。ワレンのお孫さんが、昨夜遅く息せき切って持ってきてくれました」
「…………。ああ、それはまた、余計なことを……」
天を仰いでつぶやいたフィオナに、ベネディクトはちらりと視線を移動。
「フィー?」
「あ、いえ。まあ……、しっかりしたいい子ね」
「さて――。一体いくつめですか?」
「えっと……。待って! 今度のカメラがどれほどいいか、ちゃんと、一から説明するから」
「説明しないでいいです。まったく……」
呆れた様子でベネディクトが言うと、フィオナはがばっ、と身を起こして、ベネディクトに向かって正座。自分に顔を向けたベネディクトに、はっきりとした口調で、
「それはね! トレイズのためよ。そう!」
「ほう」
「トレイズがこれから旅行するのに、カメラが必要でしょう? だから、買ったの。三十五ミリのハーフサイズという、旅行にぴったりのカメラを!」
「なるほど。――では、その写真機が届いたら、トレイズのものとしてすぐさま彼にあげてしまっていいんですね?」
「え……? ええ!」
「旅行が終わっても、返さなくてもいいんですよね?」
「え? ええ……」
「それなら、いいとしましょう。トレイズには、最近何も買ってあげていませんからね。年明けの誕生日も、忙しいゴタゴタで流れてしまいました。十七歳のプレゼントということで、ちょうどよかったです」
「そ、そうね。そうよね。ちょうどいいわ。――でも……、ちょっとトレイズから借りて使うくらいはいいわよね?」
じろり。髭の男の目が細まって。
「…………」
フィオナはたじろぎ、数センチ顔の位置が後退した。
「いいでしょう。――でも、子供のオモチャを親が取り上げないように」
「分かりました。はい」
神妙な顔でうなずいたフィオナに、ベネディクトは髭の口元で笑顔。
「では、話も終わったので最後に一つ。これはいつも言っていることですが」
「はい」
「私はあなたを愛しています。フィー」
フィオナが黙ったまま目を閉じて、キスを交わす二人の向こうで、ヤカンが激しく笛を鳴らした。
フィオナとベネディクトが仲良くしていたそのとき――
「おれはあ……、じっつわあ、おーじなんだあ……」
トレイズは、ベゼル語を使って寝言を言っていた。
そこは、首都で借りているトレイズ用のアパート。
一つしかないせまい部屋には、ベッドと机とタンスがぎっしりとつまっていて、これ以上はどんな家具も置けそうもない。トイレもシャワーも共用で部屋にはない。
トレイズは緑色の毛布にくるまり、猫のように丸くなっていた。
一度もそもそと動いて、ぐるりとひっくり返って逆を向いて、また寝言。
今度はロクシェ語で。
「うそじゃないよほんとだよ」
[#改丁]
第二章 「春休みが始まって――」
第三の月 十五日
春休み三日目のロクシェ首都は、きれいに晴れていた。
テレビでは朝から、スー・ベー・イル王女様ご到着前の町の様子を、ご到着の騒がしい町の様子を、そしてご到着後の町の様子を伝え、
「こればっかりでつまんない。何か他のやってよね」
リリアの不評を買っていた。
時間は昼過ぎ、母親のお古の、胸に大きく連邦空軍≠ニ書かれたえんじ色のトレーニングウェア上下と言う寝巻き姿で、リリアはリビングで一人、イスに座っていた。
文句を言いつつも、暇なリリアが白黒の画面を眺めていると、王女様の記者会見の様子が録画として流れ出した。
清楚なドレスを着て、鍔の大きな帽子を目深にかぶり、さらに顔にベールを纏った、見えているのは口元だけでほとんど顔が分からないマティルダ王女が現れた。王女が会見場のイスに座って、カメラのフラッシュが盛んに焚かれる。
記者代表からの質問に、東西の新たなる友好の歴史がここに開かれたことを――≠ニか大変温かい歓迎を受け、心より感謝の――≠ネどといった当たり障りのない答えを、とてもおっとりとした、そしてリリアにとっては聞き馴染みのある訛のないベゼル語で喋ったあと、王女様は画面から消えた。
ニュースキャスターに画面が切り替わったところで、リリアは体と手を伸ばしてテレビのスイッチを切った。
「はあ……」
ため息をついてテーブルに顎をのせたとき、計ったかのように、部屋の電話がけたたましく鳴り始めた。
リリアはのそのそと動いて受話器をとった。はいシュルツですと言うと、帰ってきたのは楽しそうな母親の声。
『決まったわよ!』
『おやママ、二日ぶり。――何が?』
元気かと訊ねる必要もなく、リリアはそう聞いた。
『旅行! やっとスケジュールの調整がついたの。どうせ春休み暇なんでしょ! ダンスの練習もしなくていいし!』
アリソンが元気に言って、リリアが頭を垂れる。結局相手は見つかっていない。
『それを言ってくれるな……。でも、旅行はいいね。どこにどうやっていつから行くの?』
『目指すは北海! ロル国の、ルトニ河口地域の大デルタ地帯を見学ツアー。海嘯が見られるわよ。それに、お魚が美味しいわ』
リリアが、受話器を肩と頬に挟んで、電話機がある台の下から地図帳を取り出す。大きな世界地図を開いて、大陸中央のルトニ河が北海へと注ぐ河口付近を見た。
この付近はロル国の領土で、ルトニ河の本流といくつもの枝分かれが、東西両国にまたがる超巨大三角州を作っている。
名物はルトニの巨大な河口と、潮の満ち干気が作り出す海嘯、つまり河川を逆流する巨大な潮波。広大な水と森の景色。そして豊富な海の幸。
『むう、それは楽しそうだ。ロル国は行ったことがないし、ルトニの河口も見たことないし。でも……、遠くない? 旅費がかさみそう。手段は?』
リリアは心配げに訊ねる。首都からは、ほとんど大陸半分を横断することになる。イクス王国へ行くのと同じくらいの距離を移動しなければならない。
『問題なし! 行きの大陸横断はまるまるロハよ!』
『ロハ=H ああ、タダってことね。なんで?』
『それはあとでのお楽しみ。じゃあ、二十三日から三十日までだけど、計画入れちゃっていいわね?』
『八日後からか、いいよ』
『じゃあそういうことで。あと四日くらいしたら帰るわ。トランクを陰干ししておいてくれる?』
了解、と言って電話を切って、リリアはカレンダーを眺める。隣にあるキッチンにかかった黒板を見る。アリソン・しばらく飛行試験で基地に缶詰。リリア・春休み暇だこんちくしょー≠ニ書かれていた。
リリアはそこに、二十三日から三十日まで、北海地方に旅行だ! やっほ!≠ニ書き込んだ。
「うっし! ――それまでに、宿題を終わらすか!」
リリアは自分に気合を入れて、リビングから自分の部屋へと向かう。
その際にワルツのステップが出て、
「ふんっ!」
リリアは一度鼻をならすと、一度足を揃えて、それからすたすたと廊下を歩いていった。
*  *  *
第三の月 十九日
電話から四日後。
リリアが、怒涛の勢いで宿題をすべて終わらし、旅行に備えて荷物を準備していた頃――
アリソンが、十日近く続いた飛行試験から開放され、自宅アパートに戻る途中だった頃――
マティルダ王女が特別列車で首都から離れる様子が、大々的に中継されていた頃――
首都郊外にあるロクシェ空軍の航空基地に、トラヴァス少佐はいた。
天気はこれ以上ないほどの快晴だった。風も穏やか。
「絶好の飛行日和です。お嬢様」
「ええ、素晴らしく蒼い空です。スフレストスの秋の空が、ちょうどこんな感じですわ。春に秋の空が見られるなんて、ロクシェ首都は、私が思う以上に素敵なところでした」
長い滑走路が目の前に広がる、どこまでも平らな空間で、トラヴァス少佐とその女性は言葉を交わしていた。
トラヴァス少佐は、黒い背広姿。黒いネクタイ。脇にいる、お嬢様≠ニ呼ばれた若い女性は、ベージュのスラックスに、浅いVネックの、白いセーター。ベージュのジャケットを上着に着た、シンプルな旅の服装をしていた。
女性の髪は、きれいな金色をしていた。長い髪を、シニョンに結い上げている。色白の頬に、淑やかな印象を与える目鼻立ち。優しげな瞳は、きれいなエメラルドグリーンだった。
二人の目の前には滑走路。そして右側には、流線型をした機種を持つ、高速飛行が可能な小型旅客機が一機、電源車を従えてぽつんと止まっている。左側には、黒い背広姿の男が四人と女が一人、格納庫と管制塔を背景に立っていた。
トラヴァス少佐の部下達は、男は、それぞれが大きなトランクを二つずつ持っていた。人間が入るのではないかと思えるほど大きなトランクで、有名なブランドの頭文字のロゴがちりばめられていた。トランクの隅には、転がすための車輪が四つついている。そして女は、ゴルフバッグを携えていた。皮製で、蓋がついた、二メートル近い背丈のゴルフバッグ。色は茶色で、やはり車輪がついている。
「そろそろ飛行機にお乗りください。我々を、雪の上で待っている人達がいます」
トラヴァス少佐が、いつまでも空を見上げている女性に問いかけ、彼女が笑顔で視線を下ろす。
「分かりました。参りましょう」
では、とエスコートを始めて歩き出したトラヴァス少佐と、それに続くお嬢様≠見て、後ろから部下たちが荷物を転がしながら無言で続く。コンクリートの上を転がるゴムタイヤの音は、かなり重々しい。
旅客機に荷物が積み込まれ、全員が客席に収まると、二つのエンジンが始動した。プロペラが回り出す。
他の空軍機が一切飛行していない中、旅客機は滑走路へと移動し、そして滑走。甲高いエンジン音を響かせて、蒼い空へと離陸していく。
離陸とほぼ同時に、後ろから戦闘機が四機接近して来た。ロクシェ空軍のマークをつけた戦闘機部隊は、旅客機の後ろにピタリと並び、護衛を始める。
西南西の空へと五機は飛び去っていき、基地に静寂が戻った。
*  *  *
さらに四日が過ぎた、二十三日。
同じ航空基地は、今度は春の嵐の中にあった。
平らな大地の上を、西からの強風が間断なく吹き荒れ、千切れた雲が空を駆けていく。
そんな中、リリアはやや呆れた顔をして立っていた。
着ているのは、灰色をしたロクシェ空軍の飛行士用のつなぎ。頭には飛行帽とゴーグル。背中にはリュックサックのようなパラシュートまで背負っていて、見た目は完全に若い飛行兵。
リリアの右隣には、同じ格好をした屈強な男達が六人ほど並んでいる。そして七人の列の後ろには、大型の爆撃機。
エンジンが四つにプロペラが四つ。翼の幅が三十一メートル。機体全長が二十二メートルという、陸上機としては最大級の機体だった。
機体には塗装がされていない。金属の地肌そのままの銀色に輝き、認識マークのようなものは申し訳程度に数字が入れられているだけ。
「諸君! これより、本機はロクシェ横断という長距離テスト飛行に向かう! かつてないほど長時間の飛行になるが、諸君の練度なら何も問題はないと信じる!」
リリアの目の前で凛とした声を上げているのは、本日この機体の機長。隣に立つ副機長の男より頭一つ背が低い、齢三十五歳の女性飛行士、アリソン・ウィッティングトン・シュルツ大尉。つまりリリアのママ。
アリソンは己の部下へと、飛行中のテスト項目に関しての注意事項を事細かに告げているが、リリアはそんなことお構いなしに右から左へと流し、
「旅費タダっていってもなあ……」
誰にも聞こえないように小さくぼやいていた。
結局、リリアは爆撃機の後部銃座に座って延々と飛行することになった。
期待は時折高度を上げて、酸素マスクがギリギリ必要ない高度五千メートル付近を、高速で飛んだ。気温は零下三十度近く。暖房などないので、全員電熱服を使って暖を取る。
リリアは、道中他の搭乗員から気を使われたり、大変なママを持ったねと呆れられたり同情されたりしながら過ごした。
エンジンの過熱トラブルや悪天候に泣かされながらも、何度か休憩と給油を繰り返し、夜は道中の基地に一泊し、機体は一日半かけてニャシャム共和国の空軍基地に到着した。
ニャシャムは連邦の構成国の一つで、かつてリリアの父、ヴィルヘルム・シュルツが上級学校に通っていたラプトア共和国のすぐ北に位置する。ルトニ河に面した東西国境の国で、その上がロル国。河口地域までは、列車でまる一日の距離。
軍務を離れたアリソン、そしてリリアは、空軍基地から車で送られ、カーレンと呼ばれる町のホテルに入った。
部屋に入るやいなやパジャマに着替えてベッドに倒れ込んだリリアに、アリソンが軍服をハンガーにかけながら声をかける。
「明日からは普通の列車の旅よ。目指すは北。朝の列車だから、早く起こすわよ」
「はいよー。もうなんでもいいよ。疲れたー……」
そしてリリアは、そのまま寝てしまった。
時に二十四日の夜。
リリアがベッドに倒れこんだのと同じ頃――
約数百キロ南に離れた夜の駅では、涙の別れのシーンがあった。
ラプトア共和国の南端、エリテサ市のエリテサ駅。イクス王国に鉄道はないので、ここが最も近い長距離列車の停車駅になる。
ドームの脇から入り込んだ雪が舞う駅のプラットホームには、見た目だけは温かいオレンジの電灯の群れに照らされ、列車が停まっていた。
戦闘は、黄色く塗られた、横から見ると凸型のディーゼル機関車。それに、緑色に白いラインの入った七両の客車と、二両の貨車が繋がる。
そのホームの中央付近で、
「絶対ですからねっ! 絶対また行きますから! お元気で! お姉様お元気で! 母が撮った写真、すぐに焼いて送りますから!」
メリエルが泣きべそをかきながら叫んでいた。十七歳の、背中までの黒髪を持つ少女は、そっけない緑色の防寒作業着を着て、毛糸の帽子を被っている。
そのメリエルの前には、
「分かりました。いつでもいらしてくださいね。写真、楽しみにしています。イクストーヴァでのおもてなし、本当にありがとう。メリエルさんも、どうかお元気で」
そうベゼル語で言って慰める、紺色の、高級そうなウールのコートを着た金髪の女性。
二人のまわりでは、黒い背広にコートを羽織った男と女が計五人、四方に目を光らせていた。夜の遅いホームの上には、腕時計を見ている車掌の他に誰もいない。この列車の切符は、全てが買い取られていて、貸し切り状態になっている。
それでも五人は、ひとときも鋭い視線をぶらすことはない。背丈の大きな二人の男のコートが風で揺れると、脇の下に不自然なふくらみが見て取れる。ストックを折りたたんだアサルトライフルが、拳銃のように吊るされていた。
彼らとは別に、メリエルと同じ防寒着を着た男たちが数人、ホームの端で待機している。彼らは、イクストーヴァ側の王室警護官だった。
「そろそろ参りましょう。お嬢様」
客車のドアが開き、やはり背広姿のトラヴァス少佐がステップを下りてきて、金髪の女性にそう話しかけた。彼女はメリエルを一度抱き締めて、メリエルがしっかりと背中に手を回す。
抱擁をといたあと、メリエルは、
「しっかりしろよ!」
トラヴァス少佐に続いて降りてきた、フード付きの皮製ジャケットを着たトレイズを睨みながら言った。さらに付け加える。
「ヘタレは卒業しろっ! いいなっ!」
トレイズはやや苦い顔で、分かったよ≠ニ目配せで返して、
「では」
金髪の女性へと、車両の階段を上るために手を差し伸べる。
「ありがとう」
女性はロクシェ語でそう言うと、すっと手を差し出し、細い指先をトレイズの手に添えた。そして、階段を登って車両のドアをくぐる。デッキで振り返ると、メリエルに小さく手を振った。涙目で微笑んだメリエルを名残惜しそうに見て、車両内部へと消えた。
部下たちが客車に入っていくのを見届けたトラヴァス少佐は、メリエルに小さく頭を下げて一礼。そして、彼女から声をかけられた。
「お姉様をお願いします。本当の英雄≠ウん」
「分かりました。私や部下の命にかえてでも、お嬢様はお守りいたします。殿下」
メリエルを警護するために防寒着の男達が近づいてくるのを確認しながら、トラヴァス少佐は言った。
「あと――、ヘタレな弟のケツを何度でもいいから私の変わりにけっ飛ばしてください。遠慮なく! 容赦なく! お願いします!」
険しい表情で言ったメリエルに、トラヴァス少佐は眼鏡の下で目を細めて、
「機会があれば。でも、最後に決めるのは、いつも本人ですよ」
「そうですね……。そうです」
メリエルが握手を求め、トラヴァス少佐が握りかえした。
「英雄さん。私、あなたを尊敬しています。できれば、あなたのような仕事に就きたいです」
「ありがとう。でも、もっと素晴らしい、そして責任のある仕事が待っていますよ」
二人は笑顔で手を離し、トラヴァス少佐は客車に乗り込んだ。自分でドアを閉める。
護衛に囲まれたメリエルを残して、一度だけ汽笛を鳴らし、列車は動き出した。機関車からの動きが、客車に徐々に伝わり、車輪がレールの継ぎ目で音を立てる。
カーテンは開くことはなく、客車は黒い固まりのままエリテサの駅を出て行った。
ホームに冷たい風が吹く。赤い小さな尾灯が暗闇にまぎれて完全に見えなくなるまで、メリエルは見送った。
*  *  *
第三の月 二十五日
カーレン市東駅にやってきた。
アーチを描く駅舎天井の窓から、薄雲を通り越して太陽の光が駅舎内に注ぎ、床に模様を描くタイルをじんわりと温めていく。
駅は早朝から、通勤や通学の客で賑やかだった。そこに、旅行客のシュルツ親娘《おやこ》が加わった。
リリアは、明るい緑色のセーターに、赤のタータンチェックのスカート。茶色のタイツにショートブーツ姿。長い髪はそのまま。
アリソンは、上は鈍いえんじ色のタートルネックセーター。いつも着ている、実は空軍の支給品。下は綿製のスラックスで、動きやすい皮製のパンプス。金髪はいつもどおり、うなじの上で結い上げている。二人とも、手で持てる程度の旅行鞄に、脱いだジャケットをかぶせていた。
「リリアちゃん、疲れは取れた?」
「うん。ぐっすり寝たから。ママは?」
「平気。あれくらいの飛行ならさほど疲れないし」
「あれで、あれくらい≠ゥ。タフだなー」
「今日は天気もどんどんよくなるって予報だし、列車の旅|日和《びより》ね。――チケット買ってくるわ」
アリソンが駅の窓口で、予約しておいた長距離列車のチケットを購入する。カーレン市東駅から、河口地域のロル国首都のロル中央駅までの一等寝台車。今朝出発し、北へと一日中走って、到着は翌二十六日の朝の予定。
人いきれで暖まった待ち合わせ場所で少し待ってから、二人はホームへと向かった。ジャケットを羽織り、鞄は鉄製の台車を押すポーターに預けてチップを渡す。駅舎を出ると、台車に続いて線路を渡った。
通学客でにぎわうホームが並ぶが、その一番無効の六番線ホーム。新しく作られた屋根の下で、二人は列車の到着を待った。
駅のまわりは完全に住宅街で、駅前のロータリーのすぐ向こうから、アパートがびっしりと建ち並んでいた。屋上に、ちらほらと雪を残している。
「ずいぶん変わったわね……。昔、一度だけここに来たことがあって、そのとき、まわりは野っ原だったわ」
眼を細めながら、アリソンが言った。ふーん、と返しただけで、それがいつだったのか、誰と一緒だったのかは、リリアはあえて聞かない。
「大変な変わりようだわ」
アリソンがつぶやいた。
やがて、ホームに案内の放送が流れた。
エリテサ駅始発、ロル中央駅行き長距離寝台列車は、おおよそ時間通りに、間もなく到着する。
「昔は当たり前のように遅れたんだけどね。最近は優秀だわ」
アリソンが言った。
ホームには、二人のようにここで乗るお客が、三人いた。内訳は、背広姿の中年のビジネスマンが二人。布でくるまれた大きな荷物を抱えた、行商人らしい中年のおばさんが一人。
横断歩道の警報ベルが鳴って、遠くにヘッドライトが見えた。やがて列車が近づく。黄色く塗られたディーゼル機関車に引っ張られた、合計十両の編成だった。
その内訳は、機関車に近い方から、続き部屋を設けた、二組分の部屋しかない、豪華な特等車両が一両。
広さにゆとりのある二人部屋を五つ並べた、一等寝台車両が一両。
列車後方の左端に小型のキッチンがついた、窓の広い食堂車が一両。
シートがベッドになる、四人用コンパートメントを十部屋設けた二等寝台車両が二両。部屋のある車両は、全て進行方向左側に通路がある。
中央に通路がある、向かい合わせた四人乗りボックス席だけの二等車両が二両。ここまでが客車で、色は車体が緑色に、窓枠の位置が白いラインに塗られている。
そして、最後尾二両は有蓋の貨物車。お客の荷物ではなく、郵便や配送物の定期輸送用に使われている。
列車は、本線からホームへのポイント部分を、長い体をくねらせながら通り抜け、リリアとアリソンの待つ前で、ホームの左側に停車した。
カーテンが開いた客車の中には、ちらほらとお客の姿が見えた。食堂車では、朝食を食べているお客もいる。
「さて。リリアちゃんよろしく」
「了解」
リリアが一人で客車に入り、自分たちの客席へ向かった。そして部屋の窓を開けて、
「ママ、こっち」
二人して、窓から二人分の荷物を入れる。ロクシェでは当たり前のスタイルで、小さな子供などは窓から入れられることもある。
荷物を無事に入れて、アリソンはその後に車内へ。
ほぼ定刻どおりの時間に、甲高く一度汽笛を鳴らして列車は走り出した。駅を外れ、アパートの谷間を縫って北へと向かう。
結局、リリアは気づかなかった。
「時間どおりか……」
流れていく『カーレン市東駅』の自分の左腕の腕時計をみながら、男はつぶやいた。
男は、他のお客で賑やかな食堂車に、一人で座っていた。
再び揺れと走行音が始まった車内で、食べ終えた皿を前に、男はグラスに入ったオレンジジュースを飲み干した。
ナプキンで口を拭くと、
「ロクシェの食事はなんと美味しいのだろう」
ルトニ河の向こうで囚人四十二番≠ニ呼ばれていた男は、とても満足げに、誰にも聞こえないように極めて小さな声で、母国語であるベゼル語でつぶやいた。
そして、
「あの、そろそろお茶をいただけますか?」
男は、脇に来たウエイターにそう話しかけた。
完璧なロクシェ語だった。
ラプトア共和国の首都ラプトア市に、ロクシェ国鉄の運行管理所があった。
講堂のような大きな部屋に机とイスが並び、無線機や電話が置かれている。職員は十名弱。
机の正面には、縦が十メートル、横が三十メートルはある巨大な壁がある。そこには、ルトニ河に沿ったロクシェ西端の地図が、北を右にして描かれていた。南北に長いこの一帯は同一時間帯、つまり時差がないので、全てこの管理所が受け持っている。
地図には簡単な国境線や、幹線道路の様子、そしてもっとも重要なものとして路線図が、小さな電球の列によって描かれていた。一本の路線が一列になるので、複数の箇所は寄り添った平行な二本線になる。
駅の位置には駅名が記載され、線路が枝分かれしている様子もしっかりと作られている。あちらこちらにある待避線、つまり遅い列車を追い抜かすために線路が分かれている箇所や、車両基地の様子もまた、事細かに描かれている。
線の上で緑色に点灯している一つの点は運行中の列車を表し、線路上で列車がどこにいてどちらへ向かっているか、一目で分かる仕組みになっていた。
さらにポイント箇所では、今どちらに切り替わっているか、信号がある場所では、何色が点灯しているかも色で表示する。
今、カーレン市東駅≠フ上で点灯していた点がふっと消えて、一つ右隣へ、つまり北へと移った。
紺色の、ロクシェ国鉄の制服をした管理官の一人が、
「定刻。異常なし」
その点へと指をさしながら報告。彼の机の前には、何本もの斜線が引かれた運行表が置いてある。
地図上では、合計十個ほどのランプがかなり間隔を開けて点灯し、それぞれがゆっくりと動いていた。現在路線上に、十本の列車が走っていることになる。
同じ路線上に、カーレン市東駅に向かう一つの明かりがあった。それは、リリアとアリソンを乗せた列車から四十キロほどの距離を置いて、ほぼ同じ速度で追いかけていた。
追いかけている列車の中で、トレイズと金髪の女性は、向かい合って座っていた。
場所は特等車両の車内。ベッドルームとは別に、同じ広さの続き部屋があり、そこには四人が悠々と座れる幅広のソファーと、丁寧に細工された折りたたみテーブルが据え付けられている。
内装は豪華で、磨き上げられた木材やシルクのレースカーテン、真鍮の照明器具など、高級ホテルといった趣だった。
窓際に、進行方向に向かって金髪の女性が、向かいにトレイズが座っていた。トレイズの左側にある窓で、回復しつつある空の下、雪がちらほらと残った、まだ葉が見えない殺風景な森の景色が流れる。
金髪の女性は、白いブラウスに紺色のスカート姿。トレイズは、綿製の茶色のパンツに、黒いセーターを着ていた。いつものウエストバッグは腰から外されて、ソファーの脇に置かれている。
二人とも景色を、黙ったまま眺める。トレイズはやや所在なさげに。金髪の女性は、穏やかな表情で。
タタタン、タタタン、と三拍のリズムで車輪が刻む音が、部屋に響いていた。
部屋のドアの外。
車両左側の通路には、黒い背広姿の男たちの二人、若いイズマと小柄の四十代男、オゼットが立っていた。
上着は脱いで、ワイシャツとネクタイ姿。腰にはホルスターとポーチを下げている。中身は九ミリ口径の自動式拳銃。そして予備の弾倉。
「交代だ。二人とも朝食を取ってくれ」
体格のいい四十代男のエドと、三十代で髪を刈り込んだウーノが、通路に現れた。イズマとオゼットと交代し、部屋の護衛に当たる。
誰も乗っていない客車の通路を歩きながら、イズマが小声で、前を歩く仲間に話しかける
「王子様、あんな調子で大丈夫ですかね? メリエル様から聞いた話では、イクストーヴァでもほとんど会話していなかったってそうですよ」
オゼットは歩きながら、さあな、と一度ぶっきらぼうに返して、それから、彼にしては珍しく長く喋る。
「ただ、お嬢様が二人きりで無言でいることを、何も不自然にも不愉快にも感じていらっしゃらないとしたら、それは、二人は馬が合うということだろう。一緒に暮らすのに一番大切なのは、そこだ」
「するってーと、将来は旦那様……?」
「さあな。そうかもしれないな」
「あんま興味ないんすか? 歴史的カップルかもしれませんよ」
「三十年もしたら、今日のことをひどく懐かしく、そして光栄に思うかもしれないが、それはそれだ。今は、任務に集中するべきだ」
「了解。それには三十年は生きないといけませんからね。とりあえず、来るかもしれない戦に備えて腹ごしらえでもしますか」
二人は、デッキからのドアをくぐり、食堂車の中へと消えた。
二人が食堂車で遅い朝食を取っている頃――、
四十キロ北では、シュルツ親子が荷物を棚に置き、上着をハンガーに掛け終えていた。
一等寝台車は、昼はゆったりとした一人がけソファーが向かい合って二つ。夜はソファーを脇に移動し、壁際に畳まれていたベッドが出てくる。車両はしっかりと暖房がきいていて、とても暖かい。
「さて、リリアちゃん。長旅だし、のんびりお茶にでもしますか?」
「賛成。何か甘いものを食べられる?」
アリソンとリリアは、貴重品の入った小さな肩掛けバッグを持って部屋を出た。
揺れる車内を歩いて食堂車へ入ると、席はほとんど埋まっていた。彼らは昨日から乗っている、そして朝食を食べ終えたお客達で、全員が白い陶器のポットをテーブルにのせ、お茶を楽しんでいた。
そこにいたのは――
ビジネスマン風の、四十代ほどの小柄で細身の、紺色の背広を着た男。銀縁の眼鏡をかけている。茶色の短い髪。お茶に砂糖をたっぷりと入れていた。
別のテーブルにもう一人、こちらは二十代に見える黒い背広姿の男が一人。黒髪で、ラプトア共和国発行の新聞を読んでいた。
旅行用のラフな格好をした三十代の夫婦。夫の方は短い茶色の髪。妻の方は、短い黒髪。隣の座席では、籐のバスケットの中で生後二、三ヶ月ほどの赤ちゃんが眠っていた。
どこかムスッとして気むずかしそうな、しかし背筋はしゃんとした、七十過ぎに見える白髪の老人が一人。着ているのは高そうなシルクのシャツとチョッキ。一緒にいるのは、秘書のように見える、三十代ほどの女性。紺色のスーツスカートに、長い赤毛。
休暇で里帰りか、一等兵の階級章をつけたロクシェ陸軍の軍服姿の、立派な体格を持つ二十歳ほどの兵士。髪は刈り込んだ金髪。
医療マークがついた革鞄を足下に置いた、灰色の背広を着た三十代の男。遠視用の小さな眼鏡をかけた、気弱そうに見える優男で、短い黒髪のくせっ毛。
赤茶のチェック柄のアウトドア用ジャケットを着た、四十代の男。茶色の髪も長く、後ろで結わいたワイルドな風体。片手で読んでいるのは、ロクシェ観光案内≠ニベゼル語で書かれたガイドブック。
松葉杖を二本テーブルに立てかけている、大学生風の、二十代の男。クリーム色のセーターにジーンズ姿で、右足の先端には白いギプス。手にしているのは、難しそうな物理学の本。
リリアとアリソンは、先客に軽く会釈をしながら中央の通路を歩き、唯一あいていた隅のテーブルに座った。ウェイターにお茶を二人分と、ジャムとクリームをのせたスコーンを注文する。
すぐに注文の品は並び、二人が美味しそうに食べている途中に、他のお客はお茶を終え、それぞれの客車に戻るため食堂車を出て行った。足をケガしている男は、器用に松葉杖を使い、危なげなく歩いていった。
かつて囚人四十二番≠ニ呼ばれていた男は、食堂車から出る際に、アリソンとリリアをちらりと見た。二人は楽しそうにスコーンを食べていて、彼の険しい視線には気づかない。
「使えるかな? 使えないかな?」
男がつぶやいて、ドアの向こうに消えた。
リリアとアリソンが食べ終わり、他に客のいない食堂車で満足しきりの頃――
トレイズ達を乗せた列車は、カーレン市東駅に到着していた。
トラヴァス少佐の部下達が背広の上着を着てホームにおり、警戒を怠らない。積み込まれる食材もチェックし、車両の検査を行う整備員には誰かが貼りつく。
だいぶ雲が少なくなった空の下、春の光が注ぐホームに、トラヴァス少佐が一人で立っていた。
「…………」
トラヴァス少佐は、『カーレン市東駅』と書かれた看板の前で、そびえるアパートの群を無言で見つめていた。細めた瞳と眼鏡に、蒼空がうつる。
トレイズが一人、外の空気を吸いに客車のデッキへと出てきた。腰にはウエストバッグを巻いている。
客車のドアは開いていて、その先にはトラヴァス少佐がいた。そして、トレイズに気づいて振り返った。
「…………。あっ!」
リリアが最後まで気づかなかったことに、あの写真を一回しか見ていなかったトレイズが気づいた。
トレイズはデッキの階段の上で、かつて自分の母親が二眼レフカメラを構えたその場所で、十八年が過ぎた同じ被写体を見ていた。
薄暗いデッキから、外の明るい被写体が、浮かんで見えた。
「ああ、気づかれましたか」
トラヴァス少佐のどこか嬉しそうな声に、ええ、と頷いて、トレイズはウエストバッグに手を伸ばす。中には愛用の拳銃の他にもう一つ、重い鉄の塊が入っていた。
取り出されたそれは、銀色の金属地が目にも鮮やかなカメラだった。
中央に小さなレンズの出っ張りと、その上にカタツムリの角のように二つのダイヤルの出っ張りがある。正面右上にはファインダーの穴。ボディ正面の軍艦部には、回転式のシャッターを納めるための扇形の出っ張りという、他のカメラにない独特の形をしていた。
それは、母親から遅いけど誕生日のプレゼントだと言っていきなりもらい受け、実際押しつけられ、その際、
「帰ってきたら貸してね。だから、なんとしてもなくさないでね。どうあっても忘れないでね。絶対に壊さないでね。――女王の命であるぞ」
などと言われたカメラだった。
トレイズはそれを目の前に持ち上げようとして、
「…………」
手の動きを胸のあたりで止めた。そして、笑顔のままトラヴァス少佐に、
「すみません。写真はダメでしたね」
「残念ながら」
トレイズは、カメラをウェストバッグにしまい入れた。階段を下りてホームに出て、明るい光の下でトラヴァス少佐と並んだ。
近くに人がいないことを確認して、トレイズが喋り出す。
「父から聞きました。十八年前のこと。ここから出ていった列車での出来事。骨を折った話」
「もう、そんなになりますか……。私も歳を取った」
「リリアのお爺さんも、凄い人だったんですね」
「ええ、あの人がいなければ、レストキ島紛争≠ネんてありえませんでした。そのまま全面戦争で、世界はどうなっていたことか。とてつもなく大きな決断でした」
「だから、あなたも?」
「…………。まあ、そうですね」
「個人の幸せを捨ててでも? 知っている≠ニいう責任のある人間は、そうすべきなのでしょうか?」
「…………。殿下」
「はい」
「決めるのは殿下ですよ。そして、まだ、時間はあります。急がないように」
トラヴァス少佐がそう言ったとき、汽笛が甲高く鳴った。
トラヴァス少佐は歩き、軽く頭を下げながらトレイズの前を通り過ぎ、客車の階段へと一歩を踏み出す。軽い足取りでのぼると、薄暗いデッキで振り向いて、軽く手招き。
「殿下?」
そしてトレイズの笑顔。釣られて、トラヴァス少佐も笑った。
トレイズは勢いよく客車の中に。三段を一足で飛び上がった。
中から折りたたみのドアが閉められ、『カーレン市東駅』の光が差すホームには、そして誰もいなくなった。
列車は静かに動き出して、やがて速度を増して、駅から出て行く。
「殿下。お着替え、ベッドに置いておきました」
トレイズのいない部屋には、金髪の女性と、唯一の女性として、車内でも身の回りの世話を仰せつかっているアンがいた。
「ありがとう。でも、殿下≠ヘなしですよ。この道中は、お嬢様≠ニ呼んでください」
ロクシェ語で、笑顔でそう言われたアンだが、彼女はまじめくさった険しい顔で、
「少佐の命令は分かっておりますが……、せめてこのような状況では、殿下と呼ばせてください」
「分かりました。お好きなように。アンさん。でも、あんまり畏まり言葉はやめてくださいね。皆様にロクシェ語で親しげに話しかけられて、とても楽しんでいますから」
金髪の女性が、笑顔で言った。
「はい。――お言葉に甘えさせていただければ、今回のこの任務、この上なく光栄と思い、身が引き締まる思いです。私の先祖は、グラツ一族は、かつて王家に氷を献上する名誉を授かっておりました」
「まあ! きっとお婆さまのお父上の世代の――」
「はい。時代が変わり、私の祖父の代より、軍に身を捧げるようになりました。祖父も、父も、母も、私も」
「素敵です。我が一家は、すばらしき兵を持ちました。祖国への献身、現王に代わって感謝いたします」
「もったいないお言葉です……。この任務を終えると、皆休暇を取ります。私は帰国し、殿下護衛の栄誉に授かった旨、亡き父に報告しようと思います。英雄墓地で眠っていますゆえ」
「そうですか……。お父様は――」
「どうかお気になさらずに。私がまだ、小さい頃でした。以来私は、いつも父の背中を追っていた気がします。結果、これ以上ない任務を授かっています。任務には最後まで忠実であれ=\―父がよく言っていました。今ほど、その言葉の重みを感じているときはありません」
金髪の女性は、すばらしいですわ、と一言。
そして――
「少佐は、素晴らしい部下をお持ちです」
*  *  *
リリアとアリソンが乗った列車は、蒼空の下を走っていた。
周囲に見えるのは、葉が少ない森と、まだ耕作が始まっていない畑。緑の少ない平らな大地を、緑色の列車が走る。
リリアは、ゆったりとしたソファーですっかりとくつろぎ、右側で流れる窓からの景色をボンヤリと眺めていた。
アリソンは、分厚いファイルに挟まった書類を読み、時折万年筆で印を付けていた。
時刻は昼の少し前。
小さなチャイムが流れ、車内アナウンスが続く。まもなくノーン≠ニ呼ばれる次の停車駅に到着することと、食堂車が昼食の提供を始めたことを車掌が告げた。
「リリアちゃん、お昼ご飯は?」
「んー、まだいいかな。それより――」
リリアがあくびを一回うつ。暖かい室内と適度な揺れに眠気を覚えて、
「眠い。昼過ぎに、食堂車がすいてから行くのは?」
「いいわよ。わたしもそんなじゃないし」
「じゃ、そのときに起こして」
「了解」
そんな会話のあと、リリアが顔をさげて、瞼を下ろそうとした瞬間――
大きく列車が揺れた。
一瞬だけ急ブレーキがかかったような、それに小さな横揺れを伴った異常な振動がおこって、
「むあっ! ――なんだ? 地震か?」
リリアが慌てて顔を上げた。揺れは一瞬で収まったが、数秒後に、
「わっ!」
再び同じような揺れ。アリソンもファイルを閉じて、サイドテーブルに置いた。
「おかしいわね」
列車はまだ走っていたが、二度三度と、何秒かおきに異常な揺れは続いた。やがて、今度は明らかにブレーキによる減速がかかり、
「とっと……」
アリソンはテーブルを滑って落ちそうなファイルを押さえる。リリアはすっかり眠気を失い、体を前に持って行かれないように、手すりをしっかりと握った。
「何? 墜落? ――のわけはないか」
低い軋み音と共に列車は急減速を続け、やがて、何もない森の中でガクンと止まってしまった。
急に静かになった部屋で、アリソンが、
「信号か何かかしらね。――にしては、最初の揺れが気になるけど」
「まさか、ここで列車故障とかじゃないでしょうね!」
リリアが勝手に悪い想像をして、勝手に一人憤慨した。
ラプトア市の運行管理所。
もうあと少しでノーン駅に到着するはずの光点が止まった。中年の管理官が、すぐさま気づいて、部下に信号の管理と無線の指示を出す。
無線に出た列車の車掌は、運転士からの話で、機関車のエンジンの調子が悪く、異常な振動を感じたので停車させたと告げた。
管理官は、少しでも走行できそうなら待避線のあるノーン駅に入れろと命令し、車掌もできる限りそうしますと返答した。
無線を切ったあと、管理官がやきもきしながら待つ間、後続の列車はじわじわと近づいていく。当然ある程度以上接近すれば信号で止められ、衝突事故などは起きないが、光が一つ動くたびに、管理官は口元を歪ませた。
やがて列車から無線連絡が来て、なんとか機関車を動かして駅までは行けそうですとの返答。同時に、明かりが一つ隣に移った。管理所に安堵のため息が漏れる。
「やっと動き出した」
「でも、次の駅で止まってしまいそうね」
リリアとアリソンが、客室で会話を交わす。数分間は止まっていた列車がゆっくりと動き出し、見飽きた景色が流れていく。
「そうなったら、どうなるのよ?」
「さあ? 後続の列車に乗り換えかしら」
列車は徐行運転で進み、やがて窓の外に数軒の家や細い通りが見えてきた。さほど経たずに、わずかな畑に囲まれた小さな町の小さな駅に、列車はゆっくりと入っていく。
駅では、追い越し用に線路が二本に分かれて、その間にホームがある。列車は右側にずれて左側をホームに面して停車した。
時刻は昼の少し前で、定刻より十五分ほどの遅れだった。
ノーン駅の看板と腕時計の針を見ながら、
「時間どおりだ。素晴らしい!」
かつて囚人四十二番≠ニ呼ばれた男は喝采をあげた。
[#改丁]
第三章 「そして二人は出会った」
きれいに晴れ渡った春の空の下、ノートン駅のホームでは、いざこざが起きていた。
列車が止まったままのホームに屋根はない。ほぼ真上にある太陽にポカポカと照らされる中、ビジネスマン風の男性や、カーレン市東駅で乗った中年のおばさん、若い兵士などが、車掌や駅の係員に詰め寄っていた。
「では、いつになったら列車が動くんだ?」
三十過ぎの背広の男性がそう言うと、
「そうだ!」「それを教えろ」「早くしてくれ」
他の皆が口をそろえた。五十過ぎに見える、胸にベトナー≠フ名札をつけた車掌が、
「ですから、機関車がもうエンジン故障で動かないんです。この駅までも、路線を空けるために無理無理に走らせたんです。燃料系かエンジン内部の問題かと思われるので、簡単に修理はできません。お客様方にはご迷惑をおかけしますが、この列車はここで運行を止めるしかありません」
事情を必死に説明した。そして、ではどうするんだと再び詰め寄られる。
そんな光景をホームで見ながら、
「やれやれ。本当にエンジン故障とは。――そういえば年末にもあったっけ。あっちは一発だったけど」
リリアの呆れた声。その隣でアリソンが、
「わたしも、こればっかりはね」
そういって肩をすくめた。二人は、ホームにあるベンチに並んで座っていた。
乗客のほとんどはホームに出てきて、諍《いさか》いに参加しているか、もしくはその成り行きを見守っている。ちょうど二等寝台車の前あたりなので、三十代の夫婦や、松葉杖の青年など、通路の窓を開いてそこから顔を出している人達もいた。
「どうなるんでしょう?」
青年が隣にいる人達にきいて、夫婦の夫の方が、
「さあ……。どうしたものか……」
どこかぶっきらぼうに答えた。
「じゃあ、これからどうするんだ?」
そう言われ、ベトナー車掌は、もうどうしようもありませんと弁明を繰り返す。乗客達は、こんな何もない駅で降ろされたらたまったものではないぞと怒る。そんなやり取りが何度か繰り返された後、
「次の列車は、どうなんですか?」
そう言ったのは、二十代後半に見える背広姿の男だった。その発言に皆が彼に注目し、大量の視線に一瞬ひるんだ男は、一度咳払いをした。
「ええっと――、えっとですね、北行きの長距離列車はこの次にもう一本あるでしょう? 僕は時刻表を見てどっちに乗るか悩んで、こっちを選んだんですよ。確か三十分くらいしか間はないはずですよ。それが来たら、みんなでそれに乗ればいいじゃないですか」
そいつはいい、と当然のように声が上がったが、ベトナー車掌は首を横に振った。
「それは、私もすぐさま、当然のように考えました。でも――」
「でも?」
「残念ですが、次の寝台列車は満員でして……」
「満員? 休みでもないこの時期の列車がですか? 二等の座席もですか?」
話を振った背広男は、大きく驚いて聞き返した。
「はい。切符は予約開始と同時に、完全に売り切れました。二等の座席もです」
「信じられない……。この列車だって、二十人も乗っていないんじゃないですか? それなのに次の列車は満員?」
「どうやら、団体のお客さんが入ったようで。ですから、それに皆さんをお乗せするのは不可能だと思います。まさかこちらで寝台の席をお持ちのお客様を、明日の朝まで、通路に立たすわけにはまいりません」
ベトナー車掌の言葉に、面白いように皆が意気消沈する。
「あったまにくるわねっ! よりによってなんで今日なのよっ?」
中年のおばさんが叫んでみたが、答えられる人はいない。
「そうだっ! いいことを思いついたぞ! ――その列車にこの列車の客車を連結して引っ張ってもらったらどうだ? それなら問題ないだろう? これで解決だ!」
若い兵士が、自信たっぷりに言った。
再び注目を受けたベトナー車掌は、それは運行上認められていないことと、例え認められてもこの先どの駅でもホームの長さが足りなくなること、そして例えホームの長さが足りても、牽引の機関車の能力がまったく追いつかず、のろのろ運転しかできないことを理由に並べ立て、その可能性を完膚無きまでに否定した。
そして、
「その次の列車は全て近郊列車ですので、ロルまでは行きません。乗ったとしても、本日その先の乗り換えもありません。どのみちどこかで一泊しなければなりません。ですから皆様には、代わりの機関車が到着するまで、車内で待っていただくのが一番かと……」
ではそれはいったいいつになるのかと、当然のように客達に聞かれ、
「代替の機関車ですが、現時点では、まったく分かりません。最悪の場合、今夜エリテサを出発する、翌日の同列車にご乗車いただく可能性もあります」
馬鹿正直に、ベトナー車掌は答えた。
客達は、話にならないと怒りだした。しばしお互いの不幸を慰め合ったり、これだから国鉄はダメで、これからは長距離バスか飛行機にしようとか勝手気ままに言い合ったりする。
そんな中で、リリア、アリソン親娘《おやこ》はのんびりムード。
「やあれやれ」
「別に、わたし達は急ぐ旅じゃないけどね。一日くらい」
「まあいいけど。――そうだ、近くに空軍飛行場はない? ママの権限で飛行機お借りしてぶーん、よ」
「ちょっと無理ね。飛行場はあちこちにあるんだけど、理由がないからね」
アリソンが言ったとき、ホームの端にある歩行者用の警報機が、乾いた音で鳴り始めた。
ノーン駅の駅員が笛を吹いて、
「次の列車が参ります。線路側にお立ちの皆さん、お下がりください」
直線の線路の向こう、機関車のヘッドライトが見えた。止まっている列車の反対側、つまりホームの左側にいた人達がいまいましそうにそれを見て、そして下がっていく。
「列車まるまるお買い上げかよ。どんな連中が乗ってやがるんだ? ――面拝ませろ」
兵士が、皆の気持ちを代弁した。
列車は一度汽笛を鳴らし、ゆっくりとホームへと滑り込む。ここで乗る人は当然一人もいない。いくつもの恨めしそうな視線が、入ってきた列車へと注がれ――
「なんだあ?」「ああ?」「え?」「おいっ!」「あっ!」「おいっ、ふざけんな!」
全員が同じように驚き、呆れ、怒り、思い思いに声を出した。
「え? ちょっと……、なによ、これ?」
リリアも皆と同じ反応をして、ベンチから勢いよく立ち上がった。その脇でアリソンが、唯一、一人だけ違う反応を見せる。
「あちゃー……。やっぱりこの列車だったか……」
額に指先を付け、リリアに聞こえないように小声でそうつぶやく。
その列車は、ガラガラだった。
黄色いディーゼル機関車が目の前を通り過ぎ、それに繋がる、窓にカーテンが閉まった最初の一両が、特等車両が通り過ぎる。
続いて一等寝台車と二等寝台車、食堂車に二等車が続くが、それら全てに人影は一切ない。窓ガラス越しに、向こう側の駅舎がよく見える。
「全然、誰も乗っていないじゃないか!」
「どこが満員だ!」
「ふざけるな!」
至極もっともな怒りがホームに巻き起こった。悠然と止まる列車を見て、ベトナー車掌も呆然とする。
「こんなはずでは……。いや、確かに報告では満員と……」
「信じられない! これはないでしょ!」
リリアの怒りが爆発。つかつかと歩を進めると、困り切っているベトナー車掌に啖呵を切る。
「車掌さん! 全然誰も乗っていないんだから、これに乗せてよ!」
「そうだそうだ!」「いいぞお嬢さん!」「そのとおり!」
いろいろな賛同の言葉が飛ぶホームに、列車は完全に停車する。
「ちょ、ちょっと事情を聞いてきますので、お待ちいただけますか? 勝手にお乗りにならないでくださいね。お願いしますよ」
ベトナー車掌は必死にそれだけ言うと、怒り顔のリリア以下乗客に背を向けて、先頭車両へと走り始めた。
「俺達も行こうぜ」
誰かが言って、ホームにいた乗客達が、そのあとに続いた。リリアも当然その中にいたが、振り向くとベンチの脇に立つアリソンが苦い顔をしているのが見えて、首を傾げる。
「おーい、ママ?」
「あー、今行く、うん」
ベトナー車掌と、その背後から乗客達二十人弱の固まりがホームを進み、機関車に繋がる特等車両の前に来たときだった。
特等車両の後ろよりのドアが開き、この列車の車掌がホームに降りてきた。四十代ほどの背の高い男で、同じくロクシェ国鉄の制服を着ている。
「ああ、ちょっと! コーエン車掌!」
同僚であるベトナー車掌に呼びかけられ、胸にコーエン≠フ名札を付けた背の高い男が振り向いた。
「はい――、え?」
そして、ベトナー車掌の後ろからついてくる憤怒《ふんぬ》の一団にひるんだ。その中にはリリアも含まれる。アリソンはその後ろから少し離れてついてきていた。
コーエン車掌は、同僚とそのお客達と、一人で対峙することになった。客達は、ひとまず質問の機会をベトナー車掌に譲った。
「コーエン車掌、どうなっているんですか?」
「は? どういうことで?」
「この列車、満員ではないんですか?」
「ええ、満員ですが」
「誰も乗っていないじゃないですか」
「ああ……、それは――」
コーエン車掌が言いかけて、
「チケットは、我々が買い占めました」
後ろから別の男の声。リリアを含む全員が、声のした方へ、つまり特等車両のドアへと、一斉に視線を向けた。
背広姿の男が一人、階段を下りてホームに立った。
ほとんどの人間が誰だ? と訝《いぶか》る中で、
「え?」
リリアだけが目を見開いて、
「ナンデ?」
一人呆然。そこにいたのは、いつもの軍服こそ着ていないが、顔をよく知る人物だった。
三十代中頃の、黒髪の、眼鏡をかけた、学者のようなおとなしそうな風貌の男性。母親アリソンの彼氏にして、ロクシェ首都にある、スー・ベー・イル大使館勤務の軍人――トラヴァス少佐。
トラヴァス少佐は、背の高い兵士の背に隠れたリリアに気づかず、そして、やはり集団に近づくのを止めてそっぽを向いたアリソンにも気づかなかった。車掌二人に向かい、丁寧なロクシェ語で話しかける。
「私と、私の一団が車両ごと買い占めましたので、満員ですが誰も乗っていないのです」
「そりゃまた、どうして?」
ベトナー車掌が聞いた。
「大切な物品の輸送に必要だからです。これ以上は言えません」
突き放した口調でトラヴァス少佐は答えた。すぐさま、
「詳しくは、私も知りませんので」
コーエン車掌が、自分に聞いてくれるなと言わんばかりにつけ足した。トラヴァス少佐は、
「そちらの事情は先ほど車掌から聞きましたが、こちらに皆さんを乗せるのは難しいのです」
残念そうな表情で行ったが、当然のように非難の声が次々に上がる。
その混乱を、距離計付きの狙撃用スコープで見ながら、
「もし銃器を見たら、確認後は容赦なく撃て」
アンはそう話しかけられていた。
列車の最後尾。貨車のスライドドアを薄く明けて、そこから銃口を突き出している。ホームにいる人間はほとんどが前の方に集まり、狙撃兵に気づく者はいない。
アンの後ろでは、小柄の四十代男、オゼットがぴったりとついて、小型の双眼鏡でホームを見張る。ストックを折りたたんだアサルトライフルを、つり革で背負っていた。
「…………」
アンが緊張の息を吐いた。距離が近いので、スコープ越しに人の顔がよく見える。
「まだ人を撃ったことがないのは知っているが、なあに、いつもどおり引き金を引くだけだ。訓練でならお前は外したことはない。憎い相手だと思って、脳みそをぶちまけてやれ」
緊張を和らげるためか、それとも緊張を維持させるためか、オゼットはそんなことを淡々と話した。
「…………」
アンの視界の中で、トラヴァス少佐が大勢と対峙し、しかし一歩も退かずに何か話している様が見える。駅員や車掌達が間に入っているので、殴り合いに発展するような殺気だった雰囲気はまだない。
オゼットの腰についた無線機から、声が流れ出す。
『食堂車のイズマです。ざっと見たところ、ホームに武器らしい物を持っている奴はいません』
オゼットは喉に巻いたマイクの通話スイッチを押して、返信。
『了解。引き続き警戒に当たれ。乗降口の鍵はしっかりしておけ。窓も開けさせるな』
『了解。でも、その気になれば鍵は簡単に壊せますよ』
『分かっている。通信終わり』
「どうしたんでしょう? 何か問題になっていなければいいのですが」
金髪の女性の心配そうな声。
部屋にはソファーに座った彼女とトレイズ、そして窓際に、九ミリ口径の自動式拳銃を握り、安全装置をすぐ外せるように指にかかっているウーノとエドがいた。二人の耳には、無線のイヤホンが収まり、
『――その気になれば鍵は簡単に壊せますよ』
『分かっている。通信終わり』
そんな言葉が届いていた。
ウーノは窓際にへばりつき、カーテンの隙間からホームを注視する。
「どうですか?」
トレイズが聞いて、ウーノが答える。会話はロクシェ語。
「よくはないです。隣の列車の客は、当然こちらに乗せろと言って、簡単には納得しないでしょう。チケット全部の購入をたてにリーダーが突っぱねて、もし全員が怒りにまかせてドアを開けにかかったら、防ぎきれません」
「では、乗せる判断を?」
トレイズが聞いた。
「するかもしれません。条件として、食堂車より向こうにしか乗せなければ、お嬢様≠フ警護自体は可能です。それはリーダーもよく分かっているはずです」
トレイズが納得して黙る。そんなトレイズの顔を、金髪の女性がエメラルドグリーンの瞳でじっと見たが、トレイズは気づかなかった。
直後、男達二人の耳に無線の連絡が入った。
それを聞いた二人は、少々お待ちを、と返信。そして、金髪の女性へ話しかける。
「お嬢様=Aリーダーより報告が」
「はい」
「最良ではないが、より良い手段として彼らの乗車を許可する=\―と。ご勘弁を、と」
「分かりました。ロクシアーヌクの皆様にこれ以上迷惑をかけるわけには参りません。リーダーの判断に従います=\―、そうお返事を」
「はっ! 伝えます」
無線の返信が行われている間、トレイズは向かいに座る女性を見た。そこには、先ほどまでのどこか不安げな表情はなく、
「…………」
トレイズは彼女の優美な笑顔にたじろぐ。
「大丈夫ですわ、リーダーとみんなと、あなたがついていますから」
「……あ、えっと……」
何か言おうとしたトレイズは、結局何も言えずに終わった。
ホームから、乗客達の歓声が小さく聞こえた。
昼の太陽の下、ホームで、
「みんな! 二等寝台車から後ろだけだが、乗れることになったぞ! しかも、自分達のチケットは全員払い戻しを受け付けるそうだ! タダだぜ!」
誰かが嬉しそうに叫んだ。
そのあとに沸き上がった歓声を聞きながら、車両の中に引っ込んで隠れていたリリアは、あとから自分についてきたアリソンを捕まえて問いかける。
「ちょっと、どうなってるの? なんであの人が?」
「それがねえ……、まさかねえ……。仕事が終わったら会う約束はしていたけどねえ。一つあとの列車とはねえ……」
とことんばつが悪そうな母親に、
「詳しい説明、あとで聞こうじゃないの」
リリアは一度|凄《すご》んで、それから笑顔。
「ま、ひとまず乗れるのはラッキーだわ」
狙撃銃とアサルトライフルを布袋に隠した二人が戻ってきてから、二等寝台以降のドアが開けられ、乗客の乗り換えが始まった。
無料での乗車を許可する条件として、いくつかの事柄が言い渡されていた。
まず、二等座席に座っていた人達はそのまま二等座席にうつる。寝台車にいた人達は、全員が二等寝台に。ただし全員乗っても部屋に余裕があるので、特等のお客やリリア達のような一等寝台の客は、二人で四人部屋を使ってもいいことになった。
食堂車は解放するが、それより前の二両への立ち入りは厳禁。デッキには必ず誰かが番に立ち、侵入者は実力で排除される。
抗議中に仲良くなった二十代の背広男と兵士が、
「兵士さんよ。連中、一体何者だろうな?」
「さあなあ。――どこかの民間警備員か、ひょっとしてマフィアの類《たぐい》か。どっちにしろ、ひどく気にくわないことだけは確かだ」
「まったくだ」
「関わり合いになりたくないのも確かだ」
「まったくだ」
そんな会話を交わしながら、他のお客の荷物を積み替える手伝いをしていた。
松葉杖の青年は、自分の荷物を運んでくれる二人に礼を言って、二等寝台車両に乗り込もうとする。旅行用の大きな鞄を転がし、手には医療用の鞄を持った三十代の男が、
「ああ、今手伝います」
旅行鞄と医療用鞄をホームに放り出して、けが人に肩を貸した。
「すみません。助かります」
「骨折ですか? 足をやっちゃうと本当に不便ですからね」
「ええ。まだちょっと痛いのも厄介で。先生、外科ですか?」
「いいえ。残念ですが小児科です」
しばらくホームで、一人で右往左往していた四十代の長髪の男は、
「のりかえ? これ? いいの? ないです間違い?」
片言のロクシェ語でベトナー車掌に話を聞いて、そして乗り込んでいく。
白髪の老人は、何も喋らずにムスッとしたまま、秘書と共に特等から二等寝台へと移っていった。二人とも、大きなトランクをそれぞれ重そうに持っていた。
三十代の夫婦は、夫が荷物を、妻が眠ったままの赤ちゃんの入ったバスケットを大切そうに抱えて、二等寝台に入っていく。その際に、
「手伝うよ」
中年のおばさんが手助けして、バスケットの中で眠る赤ん坊の頬を触れて目を細めた。
リリアとアリソンも、自分の荷物を持って向かいの車両へ移った。二等寝台の、開いていた部屋の窓を適当に開けて、荷物を放り込んだ。
全員が乗り換えたのを見届けてから、ベトナー車掌は同僚のコーエン車掌へと、帽子を取って礼をした。
コーエン車掌が返礼し、そして笛を吹いた。
ディーゼル機関車が黒煙と唸り音をあげた。客車の列へと力が伝達され、波として伝わり、じわりと動き出す。
定刻より三十分ほど遅れて、真昼を一時間ほど過ぎたころ、北行き長距離列車はノーン駅を出て行った。
最後の貨車が目の前を通り過ぎ、貨車に灯っている赤い尾灯が小さくなっていく。蒼い空の下、どこまでもまっすぐな線路の先に見えなくなってから、
「やれやれだ。もうこんなことはごめんだぞ」
ベトナー車掌は、頭を掻きながら呟いた。
*  *  *
動き出した列車の中。
金髪の女性は、部屋のソファーで
「混乱がなくほっとしていますわ」
そんな、どこか呑気な感想を漏らした。
対面に座っているトレイズは、
「…………」
彼女に何といっていいのか分からず、黙ったままだった。
トラヴァス少佐は、その部屋の外の通路で、
「一瞬たりとも気を抜くな。誰であろうと、絶対に食堂車から先には入れるな。客車の屋根も見張れ。これより、車内を巡回に行く。アン、九ミリを持って一緒に来い。イズマは昼食を指示通りに。残りは護衛を徹底しろ」
部下に険しい表情で指示を送っていた。
リリアは二等寝台の部屋で、赤茶色のモケットのベンチシートに座り、
「狭くなったが、それはまあいい。――で、詳しい話を聞こうじゃないか」
母親にそう詰め寄った。
アリソンは、リリアの向かいの席で、
「えっとねえ、実は、現地に着いてから、言おうと思っていたんだけど、もう無理ね」
観念していた。
そして――
かつて囚人四十二番≠ニ呼ばれた男は、周りに誰もいない自分の席で、
「完璧だ。ここまでは完璧だ」
笑顔で自画自賛していた。そのあとで、
「完璧すぎるのも、つまらない」
そんな感想を漏らした。
*  *  *
「全員ですか?」
「全員です。チケットを調べると言えば、顔を出さないわけにはいかないはずです」
列車の速度が落ち着いてすぐさま、背広姿のトラヴァス少佐とアンは、食堂車に待たせていたベトナー車掌を捕まえ、車内のチェックを始めようとしていた。
「乗り込んだ人達の顔を一度ちゃんと見ておきたいので、車両を往復します。なるべく早い方がいい」
トラヴァス少佐がやや威圧的な口調で言って、ベトナー車掌は渋々と同行を承知する。食堂車の先は、二等寝台車が二両。二等座席が二両。貨車が二両。
「では行きますが……。もめごとはごめんですよ」
トラヴァス少佐は、アンとベトナー車掌と共に、二等寝台車から部屋を調べ始めた。
「車掌です。一応前の列車のチケットを拝見します」
車掌がドアをノックし、そう言って、絶対に一度は開けてもらう。
車掌の後ろに立ったトラヴァス少佐は、一つめの部屋でムスッとした老人に無言で睨まれ、二つめの部屋で三十代の夫婦に礼を言われ、三つめの部屋で足を折った青年に不思議そうに眺められ、そして、
「久しぶり」
「こんにちは。お久しぶりです。――聞きたいことがありますがいいですか?」
四つめの部屋で、アリソンとリリアにそう話しかけられた。
「…………」
驚きのあまりドアの脇で三秒ほど固まっていたトラヴァス少佐は、
「リーダー?」
そんな彼を見て驚いていたアンに呼びかけられ、慌てて意識を戻した。そして、リリアとアリソンに、どうも、と短く返した。
「えっと、リーダー≠ウん。こちらのお客さん達とお知り合いで?」
当然のようにそう訊ねてきたベトナー車掌に、トラヴァス少佐は答える。
「ええ、仕事上、つき合いのあるお方です。そしてその娘さんです。まさかこんなところでお会いするとは。奇遇ですね」
リリアは無言で、アリソンが愛想笑いと共に答える。
「ええ、驚いています。同僚の方もお久しぶりです。以前、夏ですか――、一度お会いしましたね」
アンにそう話を振って、彼女が答えに悩む前に、アリソンは続ける。
「ですが、大変申し訳ありませんが、わたしとしたことが、お名前を失念してしまいました」
アンがアリソンの意図にすぐさま気づき、にこやかに笑って答える。
「アン≠ナすわ。仕事上、ファーストネームだけで通しています」
「そうでした――。アンさん、こちら、わたしの娘のリリアです。上級学校が春休みで、一緒に旅行しています」
ども、と頭を軽く下げたリリアに、アンもまた会釈。
トラヴァス少佐は、ベトナー車掌が二人のチケットのチェックを終えたのを見てから、アリソンとリリアに、
「まだ仕事がありますので、またあとで、仕事の合間を見て来ます。質問の答えはそのときで」
そう言って、三人で部屋を出て行った。
ドアが閉まる。
「えっと、どこまで話したっけ?」
「ロルで、ママとトラヴァス少佐がデートする予定だったところまでは聞いた。大変によく分かった」
「えっと――、まあそういうことでね、いろいろ手を尽くしてこの旅行にしたわけで」
「まったく、ご自分のご都合でしたか」
「はっ! そのとおりでございます。面目ありません」
「まあ、いいけど……、いや、全然いいんだけど。ママにはもっと自分のことで楽しんでもらいたいし。で、それが列車故障で、一本あとの列車で仕事中のあの人にばったり――、運がいいんだか悪いんだか」
「悪いわね」
「ん? ナゼ?」
「あの様子では、きっと、何か、もしくは誰かの警護中でしょ。それに、車掌が名前ではなくリーダーさん≠ネんて呼んでいたってことは――」
「あ、本名や身分を隠して仕事中か……。いやあ、うっかり名前呼ばないでよかった」
「そう。だから、絶対に言ってはいけないわよ。さらに言えば、あんまり車内では近づかない方がいいわ」
「危険な……、仕事?」
「さあね。そこまでは知らないし、知るべきではないわ。関わらない方がいいのだけは確かだから。――明朝ロルにつくまではおとなしくしている。終わってから会う。これでいいわ」
「了解。別にトラブルに巻き込まれたい訳じゃないし。もう、年末で懲りたよ」
「そうね」
「――喉渇いた。食堂車でお茶もらってくる。ママは?」
「わたしはいいわ。ありがと。飲んできていいけど、食堂車より向こうに行っちゃダメよ」
「分かった。絶対に行かない」
リリアが部屋を出たのとほぼ同時に、特等車両にて、トレイズが、数分の沈黙のあとに言ったのは、
「……えっと、……お茶。そうだお茶にしましょう! ここでいれてもいいですけど、電熱器弱いですよね? お湯を沸かすのに時間がかかりますから、俺が今から食堂車に取りに行ってきますよ!」
そんな、この場から逃げるための言葉だった。
いいですわね、と金髪の女性が賛同。すぐに、逃げるように通路に出たトレイズは、
「お茶ぐらい俺達が用意しますよ。どうかお二人でのんびりしていてください」
そんなイズマの言葉を制してから、食堂車に向かった。
リリアが食堂車に移った。入ってすぐ左側にあるキッチンスペース脇の通路を歩き、もう一つのドアを開け、白いクロスに覆われたテーブルが並ぶ車内に入ると、
「おや? おやおや?」
真昼だというのに、お客は一人もいなかった。
給仕用のカウンターに肘をついて暇そうにしていた、二十代半ばほどに見えるウェイターに話を聞くと、
「例の背広の男達ですよ。ノーンの駅で売店ごと買い込んだランチボックスを、二等座席の乗客から無料で配っているんです」
「はい? ――何それ?」
「さあねえ。――毒でも入ってなければいいけど」
ウェイターの冗談とも本気ともつかない言葉に、リリアが愛想笑いをした。そして、コックと別のウェイターが、お茶とおしぼりを配りにでたことも聞かされる。
「この列車には定員分の食材が積んであるから、料理は提供できるのに。そんなに食堂車に来てほしくないのかね。ま、俺の仕事が楽になるのは別にいいけどね。昨夜から見ているけど、なんの護衛だか護送だか知らないけど、どこまでも怪しい連中だよ。――お嬢さんも、関わらない方がいい」
そう小声で言いながら、ウェイターはリリアのためにお茶を入れ始める。
カップにして三、四杯は入る白磁のポットに茶葉を入れ、それから、カウンター脇の電気ストーブで沸かしたお茶をゆっくりと注ぐ。
代金のコインをカウンターに置いたあと、リリアが首を回して、ちらりとデッキに続くドアへ視線を向けた。ドアの磨りガラスの向こうに、大柄な人影が見えた。
「それはもう――、関わらないわ」
そう言って、リリアがウェイターに向いた瞬間だった。
そのドアが勢いよく、騒々しく開いた。
リリアがびくっと小さく震えて、そのあと、騒音にややむくれながら再び振り向く。
そしてそこに出てきた人間を見て、
「あーっ!」
ウェイターがびくつくほどの大声を上げた。お湯が少しこぼれた。
扉の前で仁王立ちしていたエドに、
「大丈夫です。お茶をもらうだけですから」
そう言いながら、ドアを開けて食堂車へと入ったトレイズは、
「あーっ!」
聞きなじみある叫び声を聞いて、ウェイター以上に驚いてカウンターを見た。そして、
「えーっ!」
エドが驚くほどの大声を上げた。
トラヴァス少佐が、車掌とアンをつれて食堂車に戻ってきたとき、そこにあったのは、
「なぜ? どうして? なんで? あんたは何をやっている? ――説明だ! 説明責任だ! 分かる? 答えは! なんか言え!」
「くるひい……」
自分の娘が、イクストーヴァの王子を遠慮容赦なく締め上げている光景だった。
リリアの両手がトレイズの襟首をがっしりと掴み、右手が左に、左手が右に運ばれ、セーターを引きちぎらんばかりに締めつけている。トレイズの顔が、みるみる青白くなっていく。
ウェイターとエドが、そんな二人を呆然と眺めていた。
「…………」
開いた口がふさがらないトラヴァス少佐に、
「止めますか?」
アンが脇から訪ねた。
トラヴァス少佐は頼む、と答えたあと、
「先の命を撤回する――。他のお客が来る前に、二人を一等車両に運んでくれ」
そうつけ足した。
隠れるように一等車両の通路に移らされても、リリアの怒りは収まらない。狭い通路で窓を背に、目の前でたじろぐトレイズを憤怒の形相で睨んだまま、
「説明! 説明! 説明!」
同じ言葉を繰り返す。
「ちょっと待ってよ……。俺は、お茶を手にしたいだけで」
混乱中のトレイズがそんなことを言って、
「そこにある!」
リリアがびしっ、と指さしたのは、通路であきれ顔で立つトラヴァス少佐だった。リリアが頼んだお茶を、ポットごと持ってきていた。
そのトラヴァス少佐が、リリアに声をかける。
「まあ、落ち着いてください、リリアさん」
「むう」
肉食獣が別の獲物を見つけたかのように、リリアの首が動いて、笑顔のトラヴァス少佐を睨んだ。トラヴァス少佐はひるむことなく笑顔を作り、
「事情は、私から説明します。それでどうですか?」
「まあ、いいですけど」
リリアがそう言って、多少の落ち着きを見せる。トラヴァス少佐から、再びトレイズへと視線を戻した。
睨まれたトレイズが、愛想笑いを見せた。その隙に、アンは小声でトラヴァス少佐に尋ねる。
「どうされますか?」
トラヴァス少佐も、ひそひそ声で返事。
「彼女には、イクスから大量の金細工を輸送しているとの作り話を言うよ。殿下はそのために案内をしているという身分に。お嬢様≠フことは内緒にする」
「了解。ケース三ですね」
二人が口裏合わせを終え、
「実はですね――」
トラヴァス少佐がリリアに、用意していた嘘八百を並べ始めようとした瞬間だった。
「まあ! みなさん、これはどうしたことですか? トレイズさん、なにか手伝うことはありませんか? おや、そちらの方は?」
楽しそうに言いながら通路に現れたのは、おしとやかな金髪の女性。その後ろからはイズマが、
「止めたんですけれど……」
至極申し訳なさそうな顔で現れた。
「誰さん?」
当然のように、首を傾げてリリアが聞いて、
「えっと……。あの……、俺、で――、だから」
トレイズは慌て、しどろもどろのお手本のような答えを返した。
「はあ……」
そしてトラヴァス少佐は、ポットを持ったままため息をつく。
一等寝台車の通路で、話がややこしくなっていた時――
同じ列車内で、かつて囚人四十二番≠ニ呼ばれた男は、
「美味しいなこれ。いける、いけるよ」
配られたランチボックスに入っていた、香ばしく焼き上げた鶏肉を挟んでチーズとマヨネーズとマスタードを塗ったサンドイッチを、
「ロクシェはいいところだな。いいところだ」
実に幸せそうに食べていた。
アリソンは配られた二つのランチボックスを眺めながら、
「遅い……」
独り言を言った。
「お茶だけにしては。――まさか、鉢合わせしちゃったか?」
そんなアリソンの予想は、完璧に当たっていた。
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第四章 「ヒルダとリリア」
特等車両の豪華な部屋に、金髪の女性とトレイズ、そして先ほどまではいなかったもう一人――、リリアがいた。
金髪の女性は先ほどと同じく、進行方向を向いてソファーの窓際に座り、その真向かいにリリアが座っていた。その隣に、できるだけ離れてトレイズ。
ソファーの間に、折りたたみ式のテーブルが出され、お茶のポットが一つに、カップが三つ載っていた。
トラヴァス少佐もアンも、お茶の毒味をしたあとは部屋から出ていた。一人イズマだけが残り、ドアの脇に直立不動で、手を後ろに組んで立っていた。視線は上に逃がしているが、感覚は視野の下に集中して、三人を眺めていた。
「まず、冷める前にお茶にしませんか?」
金髪の女性が、ロクシェ語でそう言った。
「はい。あ、わたしが――」
「いいえ、やらせてください」
注ごうと手を出そうとしたリリアを制して、金髪の女性はカップにお茶を注ぎ始める。緩やかな動きは優雅で、揺れのある車内でも危なげなくこなす。リリアが、その淑やかな動作にしばし見とれた。
金髪の女性が、注ぎ終えてポットを音もなく置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
リリアは軽く頭を下げて、金髪の女性がカップを持つのを待って自分も持った。
そして女性二人は、同時に口を付けて、同時に飲む。
「おいしい」「おいしい」
同時に言って、それから顔を見合わせ、同時に微笑んだ。
カップを置いたあと、
「初めまして。わたしはリリア。リリアーヌ・シュルツです」
まずリリアが堂々と名乗り、
「初めまして。わたくし、ヒルダと申します。スー・ベー・イルの、イルトア王国の出身ですわ」
金髪の女性は、もしもの時のために用意されていた偽名と偽の出自をすらりと名乗った。
「リリアーヌさん。とても素敵な名前ですね。ご存じでしょうか? それはかつての、祖国イルトアの女王様のお名前です。強く美しい、とても素晴らしい女王様でした。そして、リリアさんにはその名前がとても似合っていますわ」
「あ、いやあ……、照れます。スー・ベー・イル出身の留学生の友人にも、なんか同じこと言われました」
「まあ」
そんなのんびりした二人の脇で、持ち上げたカップに口を付けることもできず、トレイズはいろいろ案じながら神妙な顔で待つ。イズマは、そんなトレイズにやきもきしながらも、表情は変えずに立つ。
「トレイズさん」
ヒルダがトレイズへと笑顔を向けて、
「は、はいっ!」
トレイズの手から、お茶が少しこぼれた。熱いのを我慢しながら、一気に喋る。
「えっと――、紹介します説明します。こちらにいるリリアは、俺の幼馴染みです。親同士が知り合いです。ロクシェ首都に暮らしているんですが、幼いときから、休みにイクストーヴァに来ることが多くて。あ、あと、リリアのお母さんが軍人でして、リーダー≠ニ、トラヴァス少佐とは仕事上の知り合いです。前に、会ったこともあります。――それにしても、偶然あの列車に乗っていて、本当に偶然です」
トレイズの、かなりスムーズではない説明。偶然≠二回も言った。
「まあ、そうでしたか。――では、トレイズさんがイクストーヴァ北方の谷にある宿屋の跡取り息子さん≠ナあることも、よくご存じなのですね?」
「はい! よく知っています」
トレイズはしっかりと答えた。トレイズの本当の身分は知らない、ということを確認するための会話だったが、当然リリアはその旨は分からず、
「まあ、その、トレイズは昔からよく知っています。いろいろと。イクスでは、よく一緒に遊びました」
そんな言葉を返す。
「それでは、わたくしのこともお話ししますね」
ヒルダは前置きして、
「わたくしは、イルトアの、とある金貿易商の娘です。残念ですが、家のこと、詳しくは言えませんが」
「あの、もし秘密にしておくべきことでしたら――」
リリアが焦りながら言ったが、ヒルダは続ける。
「大丈夫です。――今回、イクス王国には、父の代理で素晴らしい金細工の見学と買いつけに参りました。ロルを経由して、船でイルトアに戻ります」
「はあ……。それで厳重に護衛を」
「はい。トラヴァス少佐さん達には、知人を通して父が無理を言いました。どうしても、ロクシェで信頼が置ける人達に任せたいと」
「それで大使館の人達が護衛に」
「はい。父には、心配性なところがあるようですね。そしてトラヴァス少佐さんが、イクス王国でよく知っている少年がいると、トレイズさんをガイドに抜擢してくれました。とてもよく案内してくれただけではなく、年が近いと言うことで、ロルまでの同行まで引き受けていただきました。感謝していますわ」
「なるほど。お話はよく分かりました」
用意された話を聞いて、リリアはまずそう言うと、
「それで――、今さらですけど、わたし、トレイズやトラヴァス少佐さん達と知り合いって言うだけで、ここでのんびりとお茶を飲んでいていいんでしょうか……?」
リリアは恐縮したが、ヒルダは破顔して、
「全然問題ありません! むしろお話ができて嬉しいですわ。わたくし、父の仕事を手伝っていた関係で学校にはほとんど行けず、同世代の友達がとても少ないものですから。こうしてリリアさんと知り合えて、とても嬉しく思います。長い列車の旅が楽しくなりそうですわね」
「ああ、それならよかったです。はい」
リリアは笑顔で言ったあと、お茶を飲んだ。ヒルダも飲んで、二人のカップはほぼ同時にからに。
「おいしいお茶を、もう一杯いかがですか?」
「いいですね」
ヒルダとリリア、二人の視線は同時にトレイズに向けられる。
「…………」
ちまちまと自分の分をすすっていたトレイズは、ぐっと飲み干し、
「はい! 行ってきます……。ちなみにそれ、リリアのお茶でしたから、今度こそ俺が」
こうしてイクストーヴァの王子は、使いっ走りのために部屋を出て行く。
イズマはそんなトレイズを生暖かい目で見送り、それから部屋を外した。
トレイズは通路で、オゼットに二人の様子を聞かれ、
「仲良くやっています。はい」
そして食堂車のデッキでは、娘を探しに来ていて、そこでトラヴァス少佐と話していたアリソンに、
「二人は仲良くやっています。はい」
そう答えた。両手にポットを持って、食堂車へと入っていく。
トレイズを見送ったあと、
「不思議なことになったわね」
「まったくだね」
食堂車の、進行方向の端のデッキで、アリソンとトラヴァス少佐が立ち話をしていた。近くに部下はいない。
アリソンが、
「いいの?」
いろいろな意味を含めて、そう訊ねた。
「よくはないが……、今さら。あと――」
「あと?」
「正直、お嬢様≠ヘ孤独なお方だ。リリアが、少しでも道中の話し相手になってくれるのなら嬉しい」
トラヴァス少佐が真面目くさった顔でそう言うと、アリソンはぷっと噴き出して、
「お人好し。――ま、そこがいいところだけど」
そう言ってから、デッキと食堂車内とのドアをひょいと開いた。両手にポットを持ったトレイズが、まず自動ドアに驚き、そして、
「ありがとうございます」
礼を言って、二人の間を通り抜けていく。
ドアを閉めたアリソンは、チャンスなのに、とポツリ漏らしたあとに、
「まあ、夜になるまではそっちにおいておいてもいいかしら?」
トラヴァス少佐に質問。
「お嬢様℃汨謔セけど、平気だろうね」
「護衛の邪魔にはならない?」
「特等車で邪魔になるようなら、その時点で任務は失敗していると思う」
トラヴァス少佐がそう答えると、
「では任せた。またあとで」
アリソンは背広の肩をポンと叩き、食堂車に消えた。
トラヴァス少佐はドアが閉まるまで見送ると、デッキから前の車両へ。そこで席を外していたウーノとアンに、見張りの再会を頼む。
食堂車のカウンター前で、アリソンは、
「あのう、娘さん、大丈夫ですか? 向こうに行ったきりですよ」
心配顔のウェイターにそう訊ねられた。
アリソンは、スラックスのポケットから、紐でくくられたロクシェ空軍の身分証をちらりと見せる。
「大丈夫。理由は機密。あと、このことも秘密」
「あ、ならいいんです。はい」
関わり合いになりたくないとばかりに身を引いたウェイターに、
「わたしにも、いただけるかしら?」
アリソンは、硬貨を置きながらお茶を注文した。
トレイズが、イズマにドアを開けてもらい部屋に戻ると、
「そうなんですよね。いや、元は悪くないと思うんですが、なんというか、ツメが甘いというか」
「ああ、なんだか分かりますわ」
自分についての話で、二人は盛り上がっていた。
「俺のこと、ですか?」
分かっていたがそう訊ねて、二人はくるりと笑顔を向けて、
「そう」「そう」
口調は違うが同じ言葉を同時に答える。それから、二人は顔を見合わせてくすくすと笑った。
つられ笑いで笑顔を見せたトレイズは、
「どうぞ、お嬢様方」
三人分のカップに手慣れた様子でお茶を注いで、二人から礼を言われてから席に着いた。
「俺は外します。ドアの外にいますので、何かあったらすぐに呼んでください。あと、昼ご飯の手配もしておきますので。それでは」
イズマがそう言って、部屋を出て行った。
三人だけになった部屋では、
「そうなんですよ。イクスの食事はどれもこれも絶品ですが、中でもチーズは本当に本当に美味しくて、ロクシェ首都でもあのチーズは食べられないんです。だから、あそこにずっと住んでいたら絶対に太りますよ! 子供の頃からそれは思っています!」
「わたくしも、滞在中は毎日チーズ料理をいただいていました。特に、大きな固まりを半分に切って、上から炭をかざして温めて溶かして、煮た野菜にかけて食べるお料理が一番のお気に入りです。あと、チーズをお皿にしてゆでたパスタをのせて絡める料理も」
「両方美味しいですね! 特にパスタは、たっぷり時間かけて混ぜてもらいますよわたし。さらに容赦のない粉チーズ攻撃です。美味しいですよねえ」
「ええ。とっても美味しかったので、祖国に帰ったらうちでも作ってもらいたいと思っていましたが、パスタはともかく、同じチーズが手に入るかどうか分かりませんね」
「そこで郵送ですよ。首都クンストのお店に頼んでおくんです。するとまるまる一個送ってくれます。わたしやママは一度頼もうかと思ったんですけど、さすがに一個は大きすぎて諦めた過去があります。食べきれませんから。でも、ヒルダさんならご家族とご一緒に」
「いいですわね。しかしスー・ベー・イルに送ってもらえるかしら?」
「ああ……、それはちょっと分かりません。トレイズに頼んで、スー・ベー・イルへの貿易を始めるようにしてもらうというのはどうでしょうか?」
「名案ですわ。イクスの食事は、イルトアのみならずベゼルの皆さんにも楽しんでいただけるでしょう」
「というわけでトレイズよろしく。他にも、小魚のフライを独特のお酢のタレに漬け込んだ料理はご存じですか? 玉葱の薄切りがたくさん入っていて――」
二人だけだった頃の、数十倍もの言葉が飛び交っていた。
もっとも喋っているのはリリアとヒルダだけで、トレイズは時折確認のために質問されて、
「ええ」
「売っています」
「泳げるようになりました。あはは」
「そうです」
「三年前の夏でした」
「ダイヤモンドです」
「まだかと」
「無理に思います」
「まあ……」
「黒酢を使います」
「はい」
「八十センチくらい」
「いいえ」
などと答えるに留まっている。
すっかり打ち解けたリリアとヒルダは、飽きもせずに喋り続けた。
話題は、簡単なきっかけでコロコロと変わる。食事から、やがてはロクシェのテレビ、次いで映画、音楽、洋服、宝石、帽子、昼寝、天気、スポーツ、なぜかは分からないが幽霊の話。
特に首都の学校生活について、ヒルダは興味深げに質問をした。リリアは、楽しんでいる学校生活について、立て板に水のように語った。
かしましさに圧倒されていたトレイズが、
「女って……」
ポツリと漏らし、リリアにきつく睨まれる。
「何か言った? トレイズ」
「何も……」
トレイズが首を横に振ったとき、延々休みなく喋り続けた二人と、それを聞かされ続けた一人のところに、昼食が届けられる。
ドアがノックされて、許可を受けてからアンが入室した。その手には、ノーン駅で買ったランチボックスが四つ。続いて入ってきたイズマは、お茶のおかわりを持ってきた。
二人が退出して、少し遅い昼食の時間となる。
囚人四十二番≠ニ呼ばれた男も大絶賛したサンドイッチの美味についてなど、やはりいろいろと喋りながら、リリアとヒルダは楽しく昼食を取り、
「…………」
トレイズは一人もくもくと、倍の速さで二人分を平らげた。
食事後も二人の会話は留まるところを知らず、トレイズは流れる景色と笑顔の二人を見ながら、のんびりとお茶を飲んだ。
最後の一杯を飲み干したあと、
「ちょっと失礼します。あ、お茶もかたづけます」
二人にそう言って、からのカップとポットをお盆にのせた。テーブルも折りたたんだ。
通路に出たトレイズは、部屋の外でイズマに話しかけられる。
「持ちます。――どちらへ?」
「あ、トイレです。隣の部屋のを使います」
「そうですか。なんか、盛り上がってますよね?」
「二人だけは。でも、よかった」
「よかった=H」
「俺と黙ったままではお嬢様≠熨゙屈だったでしょうし」
「必ずしもそうとは限らないとは思いますけど……、まあ、楽しいお喋りも悪くないですね」
そしてトレイズは、夜寝る時のために取った、隣の自分の部屋へと入っていく。
お盆を持ちながら見送ったイズマが、
「いい子過ぎ。それでいいのか王子様」
小声でポツリと漏らす。
トレイズが出ていったあとのリリアとヒルダの会話は、トラヴァス少佐についてだった。ヒルダが、
「リリアさん。トラヴァス少佐さんとは、普段の生活で会っているんですか?」
そんな言葉で、何気なく訊ねた。
リリアは軽く首を傾げながらも、正直に答える。
「いいえ。たまにしか」
「そうですか……。お忙しい方ですからね」
ヒルダは、そう言って顔を曇らす。
「でも、ママとはちょくちょく会っているみたいで」
「まあ」
今度は、ヒルダは笑顔。しかしその顔は、長続きしなかった。
「大人とはいえ、彼氏って言うものはいいものだなと思います」
「はい?」
エメラルドグリーンの目を細めて、ヒルダが訝しんだ。
リリアはヒルダの表情の変化に気づかぬまま、窓の景色を見ながら、メグに言ったように喋る。
「トラヴァス少佐さんと会ったあとのママは、かなり幸せそうです。ああいうのを見ちゃうと、彼氏っていいなって思うのと同時に、ママにはもっとずっと幸せになってもらいたいなって思うんです。だから、わたしもちゃんと育ったし、トラヴァス少佐は独身らしいし、二人が結婚でもしてくれればと思うんですけど」
「…………」
ヒルダは細めた目を見開いて絶句。数秒経ってから、リリアがその顔を覗き込みながら訊ねる。
「ヒルダさん?」
「え、えっと! そうね。――ごめんなさい、リリアさんのお父様のことを知らなくて、少し驚きました」
「ああ、気にしないでください。わたしのパパは、大学時代に結婚したんですけど、わたしが生まれる前に事故でなくなりました。スー・ベー・イルに向かう列車で」
「そうでしたの……」
ヒルダは呟くと、
――なるほど彼の人は我が家に使えるために――
声には出さず、口だけを動かした。
そしてヒルダはベンチから立ち上がると、スカートの汚れを厭わずに床に膝を付けた。リリアへと身を近づけて、
「え?」
驚くリリアごと一度抱きしめ、その額に小さくキスをした。
そして、今まで一度も使っていなかったベゼル語で、
「祖国を代表し、心よりの御礼を。そしてあなたに、幸せの天使の祝福が常にあらんことを」
「はい?」
ソファーに戻って微笑んだヒルダの真意は掴めないまま、
「えー、ども」
リリアは照れながら笑った。
ヒルダが優しく微笑んだ時、トレイズがノックをしたあとドアを開けて戻ってきて、
「……?」
不思議な雰囲気の二人に首を傾げる。
「どうしたの?」
「なんでもないの」「なんでもないですわ」
二人が揃って答えた。
トレイズは口をへの字にして怪訝そうにしながらも、軽く肩をすくめてそれを流す。それから、
「そうだ! 二人、写真を撮りましょうか?」
トレイズはそんなことを言って、言った直後に、
「あ……」
自分の言った言葉の意味を考え直し、
「……ああ、やっぱり――」
「いいですわね!」
トレイズの言葉を遮ったのはヒルダだった。嬉しそうに手を合わせ、
「ぜひ、お願いします。わたくしとリリアさんを」
「えっと、いいんですか……?」
トレイズが、確認のために聞いた。
「いいですわ。リリアさん、こちらにどうぞ」
ヒルダが指先で進めたのは、ソファーの自分の隣。
「じゃ、遠慮なく!」
リリアが向かいの席に移って、一度ヒルダと目を合わせて笑む。
「では……」
トレイズはウエストバッグからカメラを取り出した。先ほどトラヴァス少佐を写さなかったカメラを両手でもって、リリアが座っていた席に座る。
トレイズはカメラを一度構えて、横から縦に変えて、横長になったファインダーに二人を納めた。一度構えをといて、二人までの距離を目測して、レンズ脇の距離指針を合わせ、ピントを合わせた。
二つの角のようなダイヤルの、向かって左にある巻き上げノブを動かしフィルムを巻いて、
「こんなものかな」
次に右にあるシャッタースピード調整ノブを押して回しながら合わせる。
「まだ、教えてくれた人ほど上手ではないので、露出を失敗するかもしれません。何枚か撮りますね。では――」
トレイズが言って、ヒルダはリリアに、リリアはヒルダに肩を寄せて笑顔。
かしゃん。
小さな機械音がして、シャッタースピード調整ノブがくるりと回転した。
「もう何枚か」
トレイズはフィルムを巻き、露出を変えながら五枚ほど撮った。
「はい。これでひとまずは。フィルムもちょうど終わりました」
トレイズは言いながら、カメラ正面の左側にある巻き戻しダイヤルを、ぐるぐると回し始めた。
「ありがとう。トレイズさん」
「どうも。――あとでもらえる?」
「ちゃんと焼いて、二人に送ります。ヒルダさんには郵送します」
「お願いしますね」
「任せた」
二人に頷いたトレイズは、巻き戻したことをしっかりと確認してから、カメラの裏蓋を開けた。撮り終えたフィルムのパトローネ(円形の容器)を取り出すと、ウエストバッグではなく、部屋の隅の荷物棚においてあった自分のリュックのポケットの、そこに入っていた小箱に入れた。
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第五章 「殺人の理由」
列車がノーン駅を出てから、二時間ほどが経っていた。
太陽は西に四十五度傾き、そこで世界を照らしている。抜けるような蒼空の下、列車は真っ直ぐ北に延びた線路をひた走っていた。
線路のまわりにあるのは、森ではなく、一面緑のない草原。茶色い土の上に灰色に汚れた雪が残り、背の低い草がわずかに生え始めている。
二等車両の座席では、暇をもてあました男達がカードに興じていた。
進行方向デッキに近いボックス席。二十代の背広男、同じ年頃の兵士、そして三十代の医者が座っていた。
三人は、窓枠の近くにある小さなサイドテーブルの上に、カードを次々に置いていた。
「ああ……、またドベかな……」
兵士がそう言いながら、たっぷり貯まった手持ちカードから王様のカードを置いた。
「恨まない恨まない」
背広男はそう言いながら、残り少ない手持ちからエースのカードを置いた。
医者に順が回って、あとは残り二枚の手持ちから、二番のカードを置いた。
「だっ!」
背広男の短い悲鳴。
「…………」
兵士が山を無言で集めると、空いているベンチの上に、すでに流れた別のカード山の上に置く。
最後の一枚を、
「悪いですねえ」
医者は裏返して二人に見せた。三のカードだった。彼は二人に訊ねる。
「何か言いたいことがあれば?」
「くそったれ=v「地獄に堕ちろ=v
二人が同時に言って、言われた医者は笑顔。
「それでは遠慮無く」
それを置いて、まさに彼が勝利しようとした瞬間だった。
「誰かぁ!」
デッキに繋がるドアが跳ね開けられ、男の悲鳴が、そしてその声の主が、二等車両に飛び込んできた。
「っ!」
びくっ、と震えた医者は手からカードを落とした。
兵士はくいっ、と首を回して、声の主を見た。
背広男は、立ち上がって振り返った。
「誰か来てくれっ! 大変だ!」
叫び声の主は、二等寝台車に入った三十代の若夫婦のうちの一人、夫の方だった。
血相を変えている彼を、カード組の男達、そして行商のおばさんを含む他の乗客達が凝視する。
「どうした? 何があった?」
兵士が男に聞いて、
「が、学生さん――、がっ、苦しんで呻いて泡を、泡を吹いてるんだ!」
「はあ?」
「い、いいから来てくれ! みんな来てくれよ!」
兵士は首を傾げながらも、ボックス席から飛び出し、どこだ? と訊ねる。
「に、二等寝台! 四号車! 二つ前だ!」
夫婦の夫と兵士が走り出し、背広男、カードを捨てた医者も後に続いた。
四人はデッキを通り、連結部分の幌をくぐり、二等寝台車へ。
その車両を、まるまる走り抜けた。騒ぎに、いくつかの部屋のドアが開く。
やがて彼らは、四号車のデッキのドアを開けて通路へと出た。
そして――
「なんだっ?」
「おいおい」
「…………」
背広男、兵士、医者と、そこで目にしたものの感想を次々に漏らす。
車両中央付近の通路で、足にギプスを付けた若い男が、例の学生が、仰向けで倒れていた。
その体はピクリとも動かない。体はやや斜めになって、通路を塞いでいた。駆けつけた男達に顔を向けて、足は進行方向窓枠へ向いている。
彼の顔は土気色で、その口からは、まるでカニのように泡を、白い小さなあぶくの固まりを出していた。目は閉じていた。
倒れた学生の足下で、夫婦の奥さんが、顔面蒼白でへたり込んでいた。
「どうした! いったい何があったんだ!」
兵士が、よく通る大声で叫んだ。その声に、奥さんがびくついた。
そして次の瞬間に、以下のことが同時に起こる。
まず男達の中から、三十代の医者の男がするりと抜け出て、倒れている学生に近づいた。
二等寝台の部屋のドアが二つ開いた。
一つからは、老人の秘書が顔を出した。
もう一つからは、アリソンの金髪と蒼い瞳が出た。
「いやーっ!」
夫婦の奥さんが叫ぶ通路で、
「ちょっと! 聞こえますか!」
医者の男が学生の頭の脇に膝を付け、顔を覗いた。
「先生! 分かるのか? なんとかしてくれよ!」
背広男が聞いて、
「学生さん! 聞こえますか?」
医者はまず男の反応を確かめ、
「…………」
続いてのど元に人差し指と中指を当てた。当てて、顔を曇らす。
「どうよ?」
脇にしゃがんだ兵士が聞いて、
「意識なし。脈なし。呼吸なし」
医者はどこか事務的な口調で返事をした。そして、口からわき出た泡を、自分のハンカチでぬぐいにかかった。
「何が起きたの?」
部屋から出て近づいたアリソンが、男の足下側に膝をついてそう訊ね、兵士は最初に事態を知らせた男へと振り向いた。
「旦那さん。何が?」
「そ、そっそそ、それが、わ、私が通路に、で、出たらすでにたたた、倒れていたんだ……。あ、泡が……、沢山――」
男は、ひどくどもりながら答えた。
「叫び声とかは?」
アリソンが聞いた。
「し、しなかったし、音も――。あんたもこの車両だったから、な、何も全然聞こえなかっただろ?」
「まあね。もともと車内はあまり静かじゃないし」
アリソンは、倒れている学生の顔を見た。医者の男は、学生の顔の泡を吹き終えていたが、
「…………」
黙って、学生の顔を覗き見ていた。
「先生! どうよ!」
背広男が後ろから聞いて、
「ダメなの?」
アリソンが前から聞いた。
四秒ほどの間をおいて、
「残念ですが……、この人はもう亡くなっています。もう、どうしようもありません」
医者ははっきりと答え、左右に散らばっていた学生の死体の腕を、胸の前で組ませた。
全員しばし無言。車輪が刻む三拍のリズムだけが、通路に大きく響く。
そんな二十秒が過ぎて、
「ひっ!」
夫婦の奥さんが小さくしゃくり上げた。
「す、すまない。――亡骸、またぐぞ!」
夫婦の夫がそう言いながら、死体の上を飛び越えた。通路の窓枠にへたり込んでうつむいている妻へと駆け寄って、
「へ、部屋に入ろう。な?」
肩を掴んで立たせると、自分達の部屋の中へ消えた。
「先生、なんだってんだ? どうなってるんだ?」
兵士がいきり立って聞いた。
「分かりません……。毒にしては様子が変ですが……、分かりません。うかつなことは言えません……」
医者が答えた。
背広男、アリソン、老人の秘書と、医者。全員が再び数秒を無言で過ごしたあと、
「ああっ! まさかっ!」
兵士が叫んだ。どうした? と脇で驚いた背広男に、兵士は文字通り顔に青筋を立てながら再び叫ぶ。
「奴らだよ! 黒服の連中! あいつら、昼飯に毒を入れやがったんだっ!」
「そんな……、まさか……」
「他に考えられるか?」
兵士は自信たっぷりに言った。アリソンは、やれやれ、と口には出さずに、出したそうに息を吐いた。
「で、でも――」
怪訝そうな背広男を無視して、
「もういい!」
兵士は走り出した。トラヴァス少佐達の載る前方車両ではなく、後部車両へと消える。
「なんだ……?」
背広男が首を傾げた。理由はやがて分かった。数十秒が過ぎた頃、兵士が戻ってくる。一人ではなかった。
「見ろ! 学生さんは奴らに毒殺された!」
後ろに、他の乗客の大多数を引き連れていた。二等客席にいたおばさんや、旅行者の男、隣の二等寝台に乗っていた四十代のビジネスマン二人、そしてコーエン車掌の姿もあった。数人が狭い通路に押しかける。
彼らは頭を動かして倒れている学生を見て、それぞれ衝撃を受けた様子を見せ、
「みんなで食堂車に行こう! 連中を問い詰めるんだ!」
兵士のそんな言葉に、一様に頷いた。
「…………」
エドは、大きな体を狭いデッキに立たせ、無言で見張りをしていた。聞こえていたのは、足下から響く車輪の音だけ。
そこに、食堂車車内からの怒声が微《かす》かに聞こえた。
彼はすぐさま反応した。喉に巻いた無線のマイクに向かって、
『食堂車、支援要請』
端的に話すとドアを開けて車内に。
そこで、テーブルを跳ねのけんばかりの勢いでやってきた乗客達を見て、
「…………」
エドは何も言わずに懐から拳銃を抜いて、
「ばあんっ!」
引き金に指をかけないまま、大声で一喝した。
兵士を先頭に押しかけていた乗客達は、その場で急停止した。
「そこで、止まれ」
全員が車両の中央で止まってから、エドがぼそりと言った。
カバと穴の空いた日傘についての話で盛り上がっていたリリアとヒルダのところに、三人がいる部屋に、
「失礼します! 少々、困ったことがおきまして――」
イズマがそう言いながら入室した。その深刻そうな顔に、トレイズが反応する。
「お客とトラブルでも?」
「ご明察。食堂車で対峙中です。理由は不明ですが、あまりいい状況ではありません。そこで、リリアさん」
名前を呼ばれ、リリアがソファーから立ち上がる。
「は、はい」
「ここにいると、よくないかもしれません。私と食堂車に来てもらえますか。そして、話を聞きに来ていただけ≠ニか嘘をついて、向こう側に戻っていただけないかと。お嬢様は≠アこで」
「わ、分かりました。ご迷惑をおかけします」
リリアはそう言うと、ヒルダへと顔を向けた。
「ヒルダさん、お話本当に楽しかったです。わたしはこれで。やっぱりこっちに来ているといろいろ問題かもしれないので、ここでお別れになるかと思います」
ヒルダは手を伸ばし、リリアと握手。そして、
「楽しかったですわ。また、どこかでお会いしましょう。いつか」
「はい」
リリアはしっかりと頷くと、手を離した。ドアへと歩きだす。それを見送るだけのトレイズに、
「トレイズさん。あなたもご一緒に」
ヒルダは、淑やかながら、やや強い調子で言った。
「はい?」
振り向いたトレイズに、
「女性を一人で行かせてはなりません」
笑顔で睨むヒルダの言葉がぶつけられる。
「……えっと、――はい。そうですね。そうします」
トレイズは立ち上がると、リリアに一言。
「じゃあ、行こう」
そんなトレイズを、イズマが白い目で見る。
食堂車では、一触即発の対峙状態が続いていた。
大きくとられた両側の窓では、延々と続く草原という、長閑《のどか》で平和な景色が流れている。しかしその中では、
「お前らが毒を盛ったんだろう!」
乗客側の先頭に立って叫ぶ兵士と、
「そんなことはしていません。そもそも、なんのために?」
反対側の先頭で堂々と言い返すトラヴァス少佐が、睨み合っていた。
「じゃあ、なんで学生さんは死んだんだ!」
「分かりません。検死をしたいところですが、それを拒んでいるのはあなた方です」
「ふざけんな! 話にならない! 学生さんは泡を吹いて死んだんだぞ! お前達が配った食べ物に毒が入っていたに決まっているだろう!」
兵士達の後ろには、背広男やおばさんや、医者や、秘書や、その他の乗客達がすし詰め状態となっている。
皆一様に怒っているが、しかし状況をしっかり把握しているわけではなく、何を言っていいのか分からないまま、兵士がどんどん声を荒げているのを見ているだけだった。
そしてアリソンは、後ろの方でイスに座り、
「やれやれ――。困ったことになったわね」
机に肘をついていた。
ウェイターは、
「こんなお客は二度とごめんだ」
そう言いながら、キッチンの中へと隠れていた。
トラヴァス少佐のすぐ後ろにはエドの巨体が控え、ウーノがその後ろで控える。二人とも、堂々と手には拳銃を持つ。銃口は天井を向いているが、親指は安全装置をすぐに外せる位置にあった。
『お嬢様≠フ部屋に入りました。警護を続けます』
アンからの無線が男達の耳に入り、次いでオゼットから、
『今リリアさんとトレイズ坊ちゃまが食堂車デッキに入りました。そちらに向かわせます。私は部屋の警戒に当たります』
そんな報告が送られる。
すぐに食堂車のドアが開いて、イズマとトレイズ、そしてリリアが姿を見せた。
まずアリソンが気づいて、ゆっくりとイスから立ち上がった。
先頭にいた兵士が、
「お前らが殺し――。な、なんだ?」
息巻いている最中にリリアとトレイズに気づいて、
「誰だ? おい」
後ろにいた背広姿に聞いた。知るか、と答えをもらう。
トラヴァス少佐はリリア達を見ると、あえて冷たい口調で、
「ああ、向こう側に行ってもらえますか。少々厄介なことが起きていますので」
リリアはややムッとしつつ、言われたとおりに、トラヴァス少佐の脇を通り過ぎる。乗客達の視線を集めながら、テーブルの間を通って兵士の前に。トレイズが、後ろに続いた。
「お嬢ちゃん……? どうしたんだ? なんで向こうに?」
兵士にそう訊ねられて、
「いろいろと理由があってね。それよりこの騒ぎは何?」
リリアは堂々と答え、質問を質問で返した。
第一発見者である夫婦の夫が、手短に説明を始める。
その間、客側もトラヴァス少佐側も、双方が黙って聞いていたが、説明では学生さんは毒殺されたのであり、その犯人はランチボックスを配っていた連中に違いないと決めつけられた。
「はあ? そんなはずはないわよ!」
「え? なぜ分かる?」
兵士が聞いて、リリアは即答。
「わたし、あの眼鏡の人の知り合いだもの。そんなことする理由がないわ」
「お前も仲間か! それでグルか!」
「偶然よ! 仲間なんかじゃないわ」
「どうだか!」
「頭に来るわね! そんなことはないわよ! だからこっち側に来たんじゃないの。それでいいわね?」
「まあ……。後ろの少年は?」
「ちょっとした知り合い」
「彼氏?」
「……違うわよ」
どうも、とようやくトレイズが一言。リリアはトレイズのことは気にせずに、兵士に向かって啖呵を切る。
「それより今は、死んじゃった人のことを考えるんでしょ。冷静になりなさい!」
兵士は一、二度目を瞬《しばたた》くと、
「まあ……。嬢ちゃん、ずいぶん落ち着いているね。人間が一人死んでいるんだが……。驚かないのか?」
そう訊ねてきた。リリアは、はっ、と小さく鼻で笑うと、
「わたしはね、ここ一年で人死にをたくさん見すぎたのよ」
「…………」
無言になった兵士に、トラヴァス少佐が語りかけた。
「人が一人亡くなっていることは、重く考えて行動しなければなりません。しかし、これだけは言っておきたい。――確かに我々は、警護上皆さんに食堂車に来てもらいたくなく、食事を配りましたが、毒などは絶対に入れていません。そんな時間的余裕はありませんでした。それに、全てに入れたとしたら皆さんも今頃死んでいます。誰がどれを食べるか分からない状況で、一つだけに入れて無差別に誰かを殺す理由などありません。正直こんな騒ぎになって、一番困惑しているのは我々です」
客の一団は、その言葉に五秒ほど黙る。まあそうだけど、と誰かが呟いた。
中年のおばさんが、
「じゃあ、何がどうなっているっていうのさ?」
「その問いかけに正しく答えられる人は、ここには誰もいません。現状で私が言えるのは、皆さんが我々に対し怒る理由も、自分が死ぬのではと不安がる必要もないということです。それから、今後のことを一緒に考えなければなりませんが、ひとまず我々に敵意を向けて詰め寄るようなことはしてほしくありません。それは、何一つ解決にはならないばかりか、状況を悪化させます。皆さんには、冷静な対応をお願いしたいと思います」
トラヴァス少佐はどこまでも丁寧だが、その後ろでは拳銃を持った二人が微動だにせずに立ち、説得力の一端を担っている。
「じゃあ――」
兵士が言いかけて、
「お待ちを!」
トラヴァス少佐は短く鋭くいって制した。右耳のイヤホンに指を当てて、無線を聞く。
四秒後、
『了解。こちらから調べる』
そう無線の相手に返事をした。次いで、隣にいる髪を刈り込んだ男に命令する。
「ウーノ、頼む」
「了解」
ウーノが、拳銃をホルスターにしまった。
何をするのかと不思議がる乗客達の前で、トラヴァス少佐が説明する。
「見張り中の部下より、車両の上を誰かが歩いて向かってきていると、報告がありました」
あっさりと言われた言葉に、
「はあ?」「なにぃ?」「えっ?」「なんだって?」
お客達は一応に驚きを隠さない。リリアが、
「何よ今度は?」
あきれ顔でトレイズを見て、
「はい、分かりません」
トレイズは正直に答えた。
「そんな馬鹿な? 誰が?」
二十代の背広男が聞いて、
「分かりません。そして我々ではない。――その人間は灰色の服を着て、顔には覆面をしているそうです」
トラヴァス少佐の答えに、呆然と黙り込む。
「その人間は、この食堂車を超えようとしていると考えます。今、部下を向かわせますので、しばらくお待ち願います。――ウーノ、頼む。生かしたまま捕らえろ」
「了解」
ウーノが、食堂車から出ていく。
「ど、どうするんだ?」
兵士が聞いて、
「彼は、連結部分で待ち伏せ、相手が飛び越えようとしたら捕まえます」
「……しかし――」
兵士の言葉は、途中で止まった。
先ほどまで聞こえなかった、ごとん、という鈍く大きな音が天井から聞こえたからで、背広男や医者、そしておばさんなどもほぼ同時に気づいて、食堂車の天井を見上げる。
車輪のたてるリズミカルな音に混じって、その音は確実に食堂車内に響いた。トラヴァス少佐は、口元で人差し指を立てた。エドは、その足下の位置に、注意深く銃口を向け、いつでも撃てる体勢に。
リリアとトレイズを含めた、そこにいる全員が気味悪がって注視する中、
ごとん、ごとん、ごとん――
その音は客達の上を通り過ぎた。
ごとん、ごとん、ごとん――
リリアとトレイズの上を通り過ぎた。
ごとん、ごとん、ごとん――
トラヴァス少佐とエドの上を通り過ぎた。そして、
どかどかどかっ――
かつてないほどの騒がしい足音。屋根の上で何者かが暴れる音が聞こえた。足音はさらに騒がしくなり、明らかに二人のそれとなる。
「ウーノが気づかれたようです。支援に行きますか?」
イズマの問いに、
「いや、いい」
トラヴァス少佐は短く答えた。
どん、どすん、どかん、どどん。
足音は、格闘の音へ変わっていた。
屋根裏で巨大なネズミが暴れているようだった。皆が一応に、その成り行きに耳をそばだてる。
そして、
がんっ!
その音がひときわ大きくなったかと思うと、ずずずっ、と屋根の上を何かが滑る音へ。すぐさま、がしゃん、と右側の窓枠に何かがぶつかり、ガラスが震える音に変わる。
自分のすぐ脇でその音を聞いたトレイズは、自然と目を向けて、
「うわっ!」
そこに見えたものに驚いた。
人間が、灰色の服を着て黒い覆面を付けた人間が一人、逆さまになっていた。進行方向右側の窓ガラスに、逆さまにへばりついていた。そして、トレイズと一瞬目が合った。
その人間は、窓枠に掴まらんと、必死に手を動かす。
「……な、何?」
リリアもまた驚き、身を反対側の窓枠まで引いた。トレイズも体を引いたが、テーブルの間はリリアで埋まったので、その隣のテーブルの脇にずれた。
トラヴァス少佐が命じる。
「エド。引きずり入れろ」
「了解」
すぐに大男が窓枠にへばりつくと、窓を上に開けた。車内に、騒音と風が入り込む。
エドは、その人間が来ている灰色の服の襟元を掴んだ。同時に、
『エドが下で押さえた。ウーノ、手を離していい』
トラヴァス少佐が無線でそう指示。エドは、
「せいっ!」
気合いと共に太い腕に渾身の力を込め、小柄とはいえ一人の人間を、窓枠から車内に引っ張り込んだ。
その人間の両膝の内側が窓枠に引っかかったが、エドは強引に引きずり込む。テーブルに足が当たって、テーブルクロスがめくれ、置いてあったメニューや砂糖の小皿が床に散らばった。
「きゃああっ!」
甲高い悲鳴を上げながら背中から床に落ちた人間は、食堂車の床で手足を動かして激しく暴れ出した。エドはその額に、右手で手刀を打ち付ける。
「きゃっ!」
その人間は額と後頭部に衝撃を受け、脳震盪を起こし
「かあ……」
一声出してから動きを止めた。
呆然と見ているお客達の前で、開け放たれた窓から、ウーノがするりと入り込んできた。窓枠に足をついたかと思うと、軽業師のように、滑り込むように車内へ。
ウーノはすとんと床に着地し、すぐに窓を閉めた。風の音がやんで、しん、と車内が静かになる。
ウーノの背広には多少の汚れがあったが、破れやほつれはない。ウーノは落ち着いた表情で、客の方をちらりと見た。
「なにもんだこいつら……」
兵士がポツリと呟いた。
呆然としている客達の前で、トラヴァス少佐とウーノが、列車通路のど真ん中で仰向けにされている、灰色の作業用のつなぎを着て覆面を被った人間に近づく。
「…………」
エドは無言のまま、その仮面を取り払いにかかる。リリアとトレイズ、そして他の客達も、明らかになっていくその顔を注視して――
「ああっ!」「えっ!」「へ?」「なんでっ?」
顔が完全に見えた時、どよめきがわき起こった。
「…………」
トラヴァス少佐達は無言のまま、彼女の顔を見下ろす。
「こ、この人――」
窓枠を背に、リリアが口を開いた。
「一緒に乗っていた奥さんじゃないの!」
そこで、気絶して仰向けに倒れていたのは、先ほどまでリリア達の列車に乗っていた乗客の一人――、三十代の夫婦の一人だった。短い黒髪の、赤ん坊を抱いていた奥さんだった。
「どういうことだ?」
兵士の大声。そして彼が振り向くと、背広男や医者やおばさん――、他のお客達が、当然のように、肩が触れるほど近くにいる、彼女の夫へと目を向けていた。
「馬鹿な! なんでっ!」
夫はそう言いながら、客達の間からふらふらと抜け出る。
通路を歩いて、兵士の前に。倒れている妻の手前に近づこうとして、三メートルほど手前でエドに無言で手のひらを突きつけられ、静止させられた。
「なんで、なんでっ!」
「分かりませんが、貴方にも話を聞きたいと思います」
トラヴァス少佐が夫婦の夫にそう言うと、
「これは罠だ!」
言われた男は突如そう叫んだ。
「妻がこんなことをするわけがない! これは、お前らの罠だな! 妻は部屋で子供を見ているはずだ! まだ赤ちゃんなんだぞ! 生後五ヶ月なんだぞ!」
強烈な形相で叫び続ける。
「そうか分かった! 分かったぞ! ここでみんなが集まっている好きに、お前らの手下が屋根をつたって部屋に行って、嫌がる妻をむりやり連れてきたんだっ! 妻が屋根を歩いてやってきたって証拠はあるのか! 音だけじゃないか! 奴らが、かついで連れてきたんだ! そして犯人に仕立て上げようとしているんだ! ――なんて奴らだ!」
「…………」
トラヴァス少佐側、
「…………」
そしてお客側、双方が無言。
トラヴァス少佐側の人間には、何一つ揺るぎはなく、叫ぶ男を冷ややかな目で見ている。
客の方はその逆で、どうしたらいいのか、誰が本当のことを言っているのかまったく分からずにいた。
次に何を言えばいいのか、何をしたらいいのかも分からずに、ただその場に立ちつくすだけだった。
そんな客達に向かい、男は熱弁をふるう。
「みんなっ! 騙されるな! こいつらはとんでもない悪党だ! 学生さんを毒で殺し、こんどは私の妻を悪人に仕立てようとしている!」
「あ……、いや……、しかし、でもさ――」
なんとかそう言えたのは、つい先ほどまでは似たように叫んでいた兵士だった。
「全員で連中を押さえつけよう! 連中は数人だ!」
「おい、落ち着けよ旦那さん……。数人たって、銃は持っているし……、どう見ても動きは素人じゃないし……」
兵士の態度はすっかり及び腰に変わり、背広男も、医者も、何も言わずに兵士の後ろで身を引いている。
リリア、そしてトレイズは無言。
無言のまま二人は、テーブル越しに一度目を合わせた。
「…………」
リリアが、一体何がどうなっているのだ? とでも言いたげに首を傾げると、
「…………」
トレイズは、それがしにはまったくもって全然わけが分かりませぬ、とでも言いたげに首を小さく横に振った。
客達に混じって、アリソンもまた無言のまま、あわてふためく男を見ていた。
トラヴァス少佐は、
「貴方に、少々訊ねたいことがあります。奥さんと一緒に、隣の車両に行きましょうか。もちろん、貴方の言い分もしっかりと聞きます。今現在、貴方は特に何もしでかしてはいないので」
静かな口調で言った。
「わ、分かった……」
男はそう言うと、ゆっくりとトラヴァス少佐に近づき――
突然身を翻すと、すぐ近くにいた少年へ、窓枠に背をつけていたトレイズに殴りかかった。
「え? ――うわっ!」
トラヴァス少佐を見ていたトレイズは不意をつかれて、綺麗に殴られた。男の拳がトレイズの胸に命中し、
「げほっ!」
トレイズは窓枠に背中をぶつけ、そのままずるりと座り込む。
男は次に、優れた跳躍力を見せた。テーブルを一つ、その場からジャンプで飛び越えた。着地したのはリリアのすぐ目の前。
着地したとき、右手には、シャツの左袖から抜いたナイフが握られていた。ナイフは細身で両刃、刃渡りは十センチほど。さらにつや消しの黒色に塗られている。
「ひゃ!」
すぐさま、逃げようとしたリリアを後ろから捕まえる。左腕をリリアの首へと回し、右手のナイフはその顔の前で揺らす。
「全員、動くなあっ!」
男が叫んだ。
「全員そこから動くなよっ! 分かってるな!」
リリアを人質に取った男がいるのは、食堂車のほぼ中央。左側の窓枠を背にして、リリアを盾にしていた。
男の左側、つまり列車の進行方向側には、倒れた女性とトラヴァス少佐達。距離は三メートルほど離れている。
男の左側、反対側には、兵士を筆頭にあっけにとられるお客達。距離は五メートルほど離れている。
右脇のテーブルの向こうで、二メートルほど離れた位置で、
「ごほっ! ああ、痛て……」
一度咳き込み、そう呟きながら、トレイズが立ち上がった。
そして、憮然とした表情で人質をしているリリアと、どう見ても刺殺用のナイフを持つ男を見て、
「くそっ!」
悪態を一つついた。
「坊や! お客のところまで下がりな! さもないと――」
リリアの顔に刃を近づけて、男は脅迫する。トレイズは一度睨み返したが、その向こうにいるトラヴァス少佐達を見て、小さく頷いたトラヴァス少佐を見て、ゆっくりと言われたとおりに引き下がった。
客達の後ろで、アリソンは無言のまま、ジャケットの懐に手を入れた。
ウーノとエド、二人の男達は足を広げ腰を落とし、安全装置を外した自動拳銃を両手で構えていた。向ける相手は当然男だが、リリアがほとんど重なっている。
トラヴァス少佐は眼鏡の奥の視線を細くして、部下達の間に立っていた。
「みんな! お前らどっちを信じる!」
男は、突然そんなことを言った。
「この怪しい男達と、俺のどっちを信じる! なあ、兵士の兄ちゃん?」
「いや、突然そんなこと言われても……」
兵士が本音を漏らす。そして、背広男が、
「あんた、いくらなんでもそりゃない。女の子を人質にとって逃げようなんて、悪人のやることだぞ……」
「うるさい! あんな怪しい集団の言うことが信じられるか! こうでもしなければ、俺も妻も向こうに連れて行かれて、きっと、拷問に自白剤だ! 俺達は、連中にはめられたんだ! 抵抗もできずに犯人にされるくらいなら、このまま立てこもってやる!」
男は口から唾の泡を飛ばしながら叫んだ。耳元で怒鳴られて、リリアが顔をしかめる。しかし一切の抵抗はせず、おいおいまた人質かよ、とでも言いたげな、ひどくうんざりした顔でおとなしく待った。
「なあ……、旦那さん、どうするんだよ?」
集団の先頭にいる兵士が、男に聞いた。兵士の視線の先には、氷のような冷たい視線で拳銃を構える男達と、それ以上に冷静な眼鏡の男がいた。
「無理だよ。あんな連中にかないっこないって。――なんならさ、奥さんの尋問、というか質問には俺も立ち会うからさ。旦那さんはひどく不利になるようなことがなきゃいいだろ?」
「うるさい! オマエなんか役に立つものか!」
「…………。いやまあ、そりゃあ……」
否定はできない兵士が、肩を落として黙り込む。
「列車を止めろ! 俺はここから逃げる! だれか非常停止スイッチを押せ!」
男が叫んだが、お客側からの反応はない。当然のように、トラヴァス少佐側からの反応もない。
「まあ、待って」
だれかが言った。凛とした、女性の声だった。
「だ、誰だ?」
「はいはい、わたし。――ちょっと通してね。失礼」
客の間を通り抜けて、アリソンが兵士とトレイズの脇に出てきた。そして、驚いている彼らの脇から、彼らの前へ。テーブルの間の通路をすたすたと歩いて、
「そ、それ以上ちか――」
「はいはい。まずは話ね。下がればいいかしら?」
落ち着きを払った表情で男の前まで来ると、そんなことを言いながらゆっくりと後ろに下がった。男は左側の窓枠に背中をつけているが、アリソンはその逆、右側の窓枠に背中をつけて寄りかかった。距離は三メートルほど。
先ほどまで車両を縦に使って対峙していた客達とトラヴァス少佐達の中間地点で、今度はリリアを人質に取った男とアリソンが、車両を横に使って対峙する。
「な、なんだおまえ?」
「わたし? わたしは、その子の母親よ。一緒に旅行中」
落ち着き払ったアリソンの態度に、男が声を荒げる。
「だったらなんだ! 人質は解放しないぞ! ――俺は、生きるのに必死なんだ! あんな得体の知れない集団に囲まれるなんてごめんだ!」
「まあ、落ち着きなさい。――わたしが言いたいのはそんなことじゃないの」
「じゃあなんだ! オマエが人質にでもなるというのか!」
リリアの首に掛かった左腕を揺らしながら、そして右手のナイフを空中で泳がせながら、男が叫んだ。
「あら、ご名答」
アリソンがあっさりそう言って、
「は?」
男の右手の動きが止まる。
「そのとおりよ。うちのリリアはとてもおしとやかで恐がりだから、人質になって一緒に逃げるなんて無理なのよ」
アリソンが、親しげな口調で話しかける。
「…………」
リリアは無言のまま顔をしかめたが、男には見えてない。
「だから、そんなかわいそうな娘の代わりに、わたしが身代わりになるわ。――だから、娘を解放して!」
アリソンは、小さく散歩ほど近づきながら、そして最後は声を高めながら、そんなことを言った。
固唾をのんで見守るお客達と、微動だにせずに銃を向ける男達の狭間で、
「…………」
おいおいアンタ誰だよ、とでも言わんばかりの目で、リリアはアリソンを眺める。
「断ったら……?」
男が、怪訝そうに聞いて、アリソンは笑顔。
「それはよくないわ。考え直しなさいよ」
そしてそんなことを言いながら、笑ったまま男にもう一歩近づいた。
「あ……」
リリアはアリソンが右手を、客側から見えない手をジャケットのポケットに入れたことに気づいた。
「そ、それ以上近づいたら――」
男が右手のナイフをアリソンにつき向けるが、近づいたらどうするのか、最後まで言うことはできなかった。
アリソンが右手をポケットから出した。そのまま男の顔へと、握っているものごと、突き向けた。
ぱん。
乾いた破裂音。
小さなから薬莢が宙を舞って、テーブルと窓枠で跳ねて、絨毯の上へ落ちた。
「…………」
唖然としている男の右横三十センチの位置に、窓枠の木に、弾痕が生まれていた。
アリソンは、伸ばした右腕に小型の自動式拳銃を握っていた。ナイフの間合いの外で、黒い金属の固まりが鈍く光る。
「な、なんだよ……。お前……?」
「だから言ったじゃない。その子の母親」
「い、いきなり撃つか普通……。こ、こいつを切られたいのか?」
「もう遅いわね。今からならナイフを動かすより、引き金を引く方が早いわよ。一発目はわざと外してあげたの。感謝しなさい」
「ひ、人を撃てるのか……?」
「あら、列車の中でなら人を殺したことはあるわ。わたしの射撃の腕を甘く見ないことね」
「…………」
にこやかなアリソンと額に汗を浮かべる男。そんな二人を見ながら、
「…………」
トラヴァス少佐は口元を小さく引きつらせ、部下達が一度も見たことのない、不安げな顔をしていた。幸いにも部下達も二人を見ているので、そのことに気づくものはいない。
「さてここで提案です。今ナイフをそのまま落とせば、命だけは助けてあげる。それに、あの怪しい集団≠ナはなく、次の駅で警察に引き渡す。奥さんもね」
「…………」
「でも、言うことを聞かなければ――。五秒以内に決めてね。はい、ご。よん。さん。に――」
アリソンがやたらに速いカウントダウンを始めて、
「わ、わわ分かった――」
ナイフが男の手から離れた。それが絨毯に落ちる頃には、
「よいしょ」
リリアは力の抜けた男の左腕をくぐって、郵便受けに新聞を取りに行くような気軽さで、拘束から抜け出していた。
「ありがと、ママ」
「どういたしまして」
リリアは男の脇から、母親の持つ小型の自動拳銃の前をよけて身を引いた。呆れている他の客達に混じって、
「ふう……」
トラヴァス少佐が安堵の息を吐いた。同時に、
「ふう……」
トレイズも一息ついた。彼の右手はずいぶん前からウエストバッグの中に伸びていたが、何も掴まずに外へと出された。
「…………」
囚人四十二番≠ニ呼ばれていた男は、トレイズが手をバッグに入れた様子と、ことが終わってから何も掴まずに出した様子を、すぐ近くでしっかりと見ていた。
アリソンが、
「ありがとうね。これで、ひとまずいきなり撃つことはないわ。そっちの集団に引き渡すこともない」
まだ男に狙いをつけたままそう言うと、拳銃を向けていた男達が銃口を下ろした。トラヴァス少佐の後ろへと、静かに下がった。
「なあ! 俺は本当はこんなことはしたくなかったんだ! 連中が恐ろしくて……」
男は、窓枠に力なく寄りかかりながらそんなことを言って、アリソンは軽く頷く。
「ま、事情は分かるけど、それ以外にちょっと聞きたいことがあるの。いいかしら?」
「な、なんだよ? 何が聞きたい?」
男の問い返しに、えっとね、とアリソンは前置き、
「学生さんを殺したのはあなたね?」
続けて言ったそんな言葉に、男が顔色を変え、客達はどよめいた。
「ん?」
トラヴァス少佐も小さく呟いて、部下達が彼をちらりと見た。
「な、何を言ってるんだ……? 俺が学生さんを、こ、殺した――」
「でしょ?」
「…………」
自信たっぷりのアリソンと、黙り込む男を見ていたトラヴァス少佐に、
「どうします?」
ウーノが短く、極々小さな声で聞いた。トラヴァス少佐もひそひそ声で返す。
「我々がやるより早そうだ。次の駅までまだ時間がある。任せてしまおう。ただ、すぐに抜けるようにしておくこと」
「了解」
アリソンは、銃口を向けたまま、男にそのとおりよ、とだめ押しして、
「理由がいるわね。――そこの一等兵!」
「はっ!」
兵士が、ほとんど条件反射で踵を揃え、背筋を伸ばした。他のお客が、一瞬たじろぐ。
「この人が、二等車両にいたあなた達に、学生さんが通路で倒れていることを知らせに来たのよね? だからあなた達がぞろぞろとやってきた」
「そうです。みんなでカードをしているときに」
兵士が頷いた。アリソンは、今度は目の前の男に訊ねる。
「でもね、わざわざ二つも離れた車両に走って呼びに行かなくても、あの車両には、わたしも他の人もいたのよ。そこで誰か! 大変だ!≠チて叫べば済む話じゃない。――なんでそうしなかったのかしら?」
「…………」
男は答えない。そういえばそうだな、と二十代の背広男が呟いた。
「理由は簡単。二等車両からより多くの人間を連れてきて、学生さんは連中に毒殺された≠ニ煽るためよ」
ぽん
「なるほど」
リリアが手のひらを叩いた。
「お客の誰か、誰でもいいわ、二人ほど――」
アリソンは、食堂車にたむろっている客達に呼びかける。
「この人が奥さんと入った二等寝台車に行ってきて」
「どうしろって? たぶん誰もいないよ。――あ、あのムスッとした爺さんは部屋にいるかもしれないけど」
おばさんがそう言って、
「まず、学生さんの死体がまだ通路にあるか確かめて。あと、赤ちゃんが一人で放っておかれるのはよくないから、部屋から連れてきて」
「分かった……。ちょいと誰か。あんたでいいや」
おばさんは、客の中で二十代の背広男を連れて、食堂車から出ていった。
「俺も」
トレイズがそう言って、アリソンが頷いたのを見てからあとを追った。それを、兵士や秘書や、医者が見送る。
「奥さんは目を覚ました?」
「いいえ」
アリソンが聞いて、エドが短く答える。他には誰も何も喋らず、しばしの時間が流れた。
時計の秒針が三周ほどしたとき、どかどかと駆け戻ってくる足音が聞こえた。
「た、大変だ!」
そう叫びながら戻ってきたのは、背広男だった。その後ろからトレイズ。
二人とも、腑に落ちない表情をしていた。さらに、おばさんが息を切らしながら戻ってきた。
「どした?」
兵士が聞いて、背広男は答える。
「い、いない! いないんだよ!」
当然のように客達から、誰が? と声が上がる。アリソンとトラヴァス少佐だけは、
「やっぱり」「やはり」
二人同時に、小さく呟いた。
「学生さんがいない! というか、死体がない! 通路に死体がない! 夫婦の部屋も探したら、そこにもない!」
彼は一度区切って、大きく息をした。そして、アリソンとトラヴァス少佐と男を覗いた全員をどよめかせる台詞を吐く。
「あと――、赤ん坊がいないんだ! バスケットもない!」
「俺も確認しました。誰もいませんでした。その車両の部屋、全部開けましたが、ムスッとした爺さんが一人残っているだけでした」
背広男、そしてトレイズと答えた。おばさんも真っ赤な顔をして、赤ちゃんはどこよ、と声を荒げた。
「…………」
うつむいている男へと、アリソンが睨みをきかせながらポツリと一言。
「捨てたわね」
「姉さん。それはどういうことで?」
いつの間にかアリソンを姉さん≠ニ呼ぶことにした兵士が、そう訊ねた。訊ねたあと、自分でその可能性に気づいたらしく、
「まさか――」
呟いてから絶句した。
「あなた達の赤ちゃんじゃないのね?」
アリソンが聞いて、男は答えない。
「あの女性も、あなたの奥さんじゃない。夫婦のフリをして赤ん坊を連れて乗り込めば、それは何かしでかそうとしている悪者とは思えないものね。偽装には最高だわ。――赤ちゃんは、どこからかさらってきたか、育てる≠ニ嘘を言って施設から引き取ってきたか」
「…………」
「あなた達は、列車を故障させてこちらに乗り移ると、学生さんを毒殺して騒ぎを起こした。そして、食堂車で睨み合っている隙に女性の方が屋根を通って前の車両に行く。そんな計画だったんでしょう。杜撰だったけど、途中まではうまくいったみたいね」
「じゃあ、赤ちゃんは……?」
おばさんが顔色を青くしながら聞いた。アリソンは淡々と答える。
「どうやって逃げるつもりだったのかは分からないけど、学生さんの死体は証拠隠滅になるとでも思って、女性の方が反対の路線か草むらにでも落としたんでしょう。乗客のほとんどがここに来ているから、二等座席でそれを目撃できた人はいないわ。――赤ちゃんも、またしかりということで」
「なんてこと……」
おばさんが口元を手で覆った。アリソンは、まだ決まった訳じゃないですけどね、と念を押してから、男に質問。
「当たってる?」
「…………」
「目的はなあに?」
「…………」
「答えたくないのならいいわ。約束どおり、そちらの黒服には引き渡さないわ。次の駅で警察に連れて行って、それから聞きましょう。とりあえずは、わたしの娘を人質に取ったってことだけで立派に常人逮捕できるから」
「…………」
「じゃあそういうことで。お客のみんな、そしてそちらの黒服の皆さん、それでいいわね?」
アリソンが首を左と右に振って訊ねた。異論は返ってこなかった。
アリソンは一歩前へ進み、落ちていたナイフを左手で、刃の部分をつまんで拾い上げ、二歩戻った。ナイフをテーブルの上に置いた。
そしてようやく、拳銃に安全装置をかけて、銃口を足下へと下ろした。
リリアはため息をつきながら、
「どうしてわたしの旅には、こうも問題が次から次へと……」
一人で愚痴った。
「のせられたんだ……」
ぼそっとはき出した言葉によって、乗客、アリソン、リリア、トレイズ、そしてトラヴァス少佐達――、いくつもの視線が男へと注がれた。
男は窓枠に寄りかかり、
「俺達はのせられたんだ……」
弱々しくそう呟いた。
「何が、かしら? もしくは誰に?」
アリソンが優しげに聞いて、男は青白い顔でうつむいたまま訥々と喋る。
「俺は……、刑務所を出たばかりで……、仕事もなかった。十日ほど前に、変な男が電話をかけてきて……、妙なことを言ってきたんだ……」
「どんな?」
「この列車で、大金が簡単に稼げるって……。あの怪しい連中は、スー・ベー・イルの大手宝石会社の従業員と護衛で、大量の宝石を、イクス王国からイルトアに輸出するためにこっそりと輸送しているんだって……」
男がそんなことを言うと、アリソンは肩をすくめた。そうなのか? と兵士がトラヴァス少佐に聞いたが、
「詳しくは言えませんが、そのようなことはありません。その人は騙されていたんです」
トラヴァス少佐はあっさりと答えた。
答えたが、子細は違っていたとはいえ自分達の情報が漏れていたことに、小さく眉をひそめた。同じことを思ったか、ウーノがちらりと視線を送ってきた。
アリソンが再び訊ねる。
「じゃあ、奥さん役のあの女性は?」
「誰だかは、知らない。本当の名前も知らない。俺と同じ前科者だとは聞いている。同じように男に話を聞かされていて……、俺は会えと言われて会った。計画を聞いて上手くいけそうだと思って、組むことにした……」
「計画を立てたのはあなた達じゃない――、と」
「そう……。全て、その男の指示だった。乗る列車も指定された。お金も服も用意された。とんでもない額の前金までもらった。乗る列車は故障させるから、目標である次の列車に乗れるように仕向けるからと言われた……。そのとおりになった。時間が来たら騒ぎが起きるから、そのスキに宝石を奪えって言われていた。そのとおりになって、俺達はさっきまでは有頂天だった……。簡単にうまくいくと思っていた……。あの女が、あんなに音を立てて歩くとは思わなかったが……」
「大したお手並みね。誤解しないでね、その男のことよ。――さて、赤ちゃんはどうしたのかしら?」
「もらった……。昨夜、エリテサの駅のコインロッカーにおいてあった……。偽装として、好きに使えと書いてあった……。最初から、捨てるつもりだった……」
男が素直に答えると、
「この人でなし! 地獄に堕ちろ! いいやわたしが殺してやる!」
怒り狂ったおばさんが男を殴りに前に出ようとして、他の客に止められた。
「罪が増えたわね。――その男には、会ったの?」
「会ってない……。金は郵便で送られてきたし、電話の声も、いつも、なんか壊れたラジオのように変だった……」
「なるほど。で、学生さんには、どうやって毒を盛ったのかしら?」
アリソンがさりげなく聞くと、男は必死の形相で叫ぶ。
「違う! それはやってない! それはやってないんだ! 俺達じゃない!」
「ん?」
「毒殺なんてやっていない! 俺はた――、べぼっ!」
男は突如、大量の血を吐いた。
「あぐあーっ!」
凄まじい悲鳴と同時に、男は背中を反らせて天井を仰ぐ。口からは鮮血が噴水のようにあふれ出て、窓枠や白いテーブルクロスに染みを作った。
全員が見ている目の前で、男は血を噴き出しながら痙攣し、頭と背中を窓枠にぶつけ、そしてそのまま前へと、棒のように倒れた。
絨毯に体を打ち付けた男は、倒れてからはもう一度も、一ミリたりとも動かなかった。白目をひん剥きながら、口からどぼどぼと血を吐きながら、男は数秒で死んだ。
「…………」
アリソンは、苦々しい顔でその死体を見つめる。
リリアは、
「はあ……」
一度ため息をついて、そして黙祷をした。
「その女性をはかせろ。急げ!」
トラヴァス少佐は、男が死ぬのとほぼ同時に命じた。
エドとウーノが倒れていた女性を起き上がらせ、上半身をかがめた瞬間、
「ごぷっ!」
彼女はびくんっ、と一度体をしならせ、
「クソッ……」
舌打ちするウーノの目の前で、口から濁流のように血を流し始めた。
エドが首を振ったのを見て、ウーノは女性の体を元に戻した。仰向けの女性の口から血が溢れ、時折肺からの空気が泡を作った。
「二人とも死んでいます。劇物のカプセルか何かが、胃で溶けたんでしょう」
食堂車の中央部に、夫婦を演じていた男女の死体が横たわっていた。白いテーブルクロスが顔にかけられていたが、顔の前で赤い染みを作っていた。
「自殺だった可能性は低いですね。知らないうちに飲まされていたかと」
報告をしたウーノが立ち上がって、進行方向側に陣取るトラヴァス少佐の脇へと戻った。
「もう、何がなんだか……」
頭を抱える兵士を筆頭に、反対側に陣取る客達は皆困惑顔だった。
アリソンは列車中央部で、
「やれやれね――。これでまたいろいろと分からなくなったか」
そう言ってため息をついた。隣にいたリリアは、
「せっかくすてきな人と知り合えていい気分だったのに……。わたしは呪われているんだわ。それなら納得してやる。ああ納得してやる」
ぶつくさと文句を言っていた。
トレイズは、
「…………」
客の集団の中にすっかり紛れて、黙ったまま成り行きを見守っていた。
「当然の報いよ」
おばさんがトレイズの後ろでそう吐き捨てた。
トラヴァス少佐は一度腕時計を見て、
「コーエン車掌。そちらにいますね?」
「は、はい……。ここに」
客の中から声がして、制服の車掌が、青白い顔で前に出てきた。血で染まった絨毯と死体の脇を恐る恐る通り過ぎて、トラヴァス少佐の前に。
「次の駅までは?」
「は、はい……。はい……」
コーエン車掌は、懐から運行表と懐中時計を出した。しばらく調べ、
「アゼーです。まだ二時間以上はあります」
「その手前に、列車を止められるところは? 止めてしまって次の列車に影響のないところは?」
「はい? えっと……、この先十分、いや、二十分でしょうか。待避線を兼ねた、今はあまり使われていない貨物の集積所がありますが……」
「そこでいい。そこで一度停車、そしてこの車両以下は切り離してください」
あっさりとしたトラヴァス少佐の言葉に、
「は――、はいっ?」
コーエン車掌は素っ頓狂な声をあげた。そして聞き返す。
「い、今なんと?」
「食堂車を切り離し、特等と一等だけで列車を運行してください。我々が狙われた以上、もう一緒には行けません。しかし、全員を叩き下ろす訳にもいきませんので、客車は残します」
「…………。そんなことできるわけ――」
「やってください」
「…………」
黙り込んだ車掌に、
「それでいいじゃないですか……。もう正直、あの人達と同行は嫌だ。こんな列車に乗るんじゃなかった」
背広男がそう言うと、
「そうだな……」「俺達は関係ない」「とっとと行ってくれ」
賛同の声がちらほらとあがる。
「でも、そんなところに置き去りにされたら、私達はどうなるんですか? せめて次の駅までは行ってくださいよ!」
そう言って強硬に反対したのは、医者の男だった。それもそうだが、と誰かが呟いた。
そんな中コーエン車掌は、しばらく何かを考え、
「そうか……、できなくはありません」
不意にそんなことを言った。
「どういうこと?」
アリソンに問われ、コーエン車掌は続ける。
「集積所なので、常に機関車が幾代か停まっています。ラプトア管理所の許可さえ取れれば、次の駅までなら行けるかもしれません。でも、行けても次の駅までですよ」
「十分よ。どうせ警察に顔を出すわけだし」
「旅行はそこでお終いかあ……」
アリソンは納得し、リリアはぼやく。
客達にそれでいいかとトラヴァス少佐が訊ね、反論は一つもなかった。
*  *  *
集積所に到着するまでの二十分弱の時間に――
コーエン車掌は管理所に無線連絡をし、事態を伝えた。そして列車分離について申請すると、管理所の所長はかなり渋ったが、最終的には許可を出した。
『事情が事情だ。仕方あるまい』
所長は腹立たしげに答えた。
トラヴァス少佐は、それまで一人蚊帳の外だったヒルダに包み隠さず事情を説明し、列車を切り離す作戦を伝えた。
「分かりました。よしなに」
ヒルダはそう言ってから、
「リリアさんとご一緒できないのは残念ですが、またいつか、お会いする機会を設けていただけますか? スフレストスででも」
微笑みながらトラヴァス少佐に尋ね、複雑そうな顔の彼から、努力します、との返事をもらった。
アリソンとリリアは他のお客と共に、二等車両で固まっていた。
客達は、葬式帰りのような雰囲気のまま無言で過ごしていた。しかし、トラヴァス少佐がエドと一緒にやってきて、バッグを一つ持ったトレイズをその場に置いていくと、
「少年。お前は向こうにいたが……、ナニモン?」
さすがに興味を持って、兵士が代表して質問した。トレイズはあっさりと答える。
「俺は、イクストーヴァのガイドですよ。祖国からあの人達の案内をやっていましたが、追い出されてこっちに来るように言われました。まあ、正直もうごめんですからいいんですけど」
「なるほど……。御愁傷様」
トレイズは、アリソンとリリアとは少し離れた席に座り、流れる窓の景色を眺めた。見るべきものは何もない。初春の草原が流れていく。
*  *  *
草原の真ん中に、町も家もない大草原に、線路を幾重にも枝分かれさせた集積所がぽつんとあった。小さな管理宿舎の脇に、数台のディーゼル機関車や水や燃料のタンク車が止められている。
南の地平線の向こうに、小さな明かりが見えた。列車のヘッドライトだった。
速度を落としながら近づいた列車は、ポイントを通過して本線から外れる。そして、平行に並ぶ線路の上で完全に停車した。
かつて囚人四十二番≠ニ呼ばれた男は、窓の外の景色と腕時計を見ながら、
「予定どおり」
小さく小さく独り言を言った。
[#地付き]『私の王子様』つづく
底本:「リリアとトレイズX 私の王子様〈上〉」電撃文庫、メディアワークス
2007(平成19)年3月25日 初版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
入力:暇な人z7hc3WxNqc
2008年 2月21日 本編部分だけ適当に作成
2008年 4月 9日 少しルビ振り
底本は1ページ17行、1行は約42文字です。
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使用したWindows機種依存文字
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「X」……ローマ数字5
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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注意点、気になった点など
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底本127頁〜130頁
トラヴァス少佐とアンが乗客達を見回る際、ベトナー車掌を同行させているが、これはコーエン車掌の間違いでは? ベトナー車掌はノーン駅に残って列車を見送っていると思うのだが。
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本60頁12行 お嬢様は、全て予定通りに
閉じ二重引用符が間違っている。このテキストでは修正しておきました。
底本108頁14行 無理無理に走らせた
無理矢理、じゃないの?
底本117頁16行 スライドドアを薄く明けて
開けて、じゃないか?
底本167頁15行 泡を吹き終えていたが
拭き終えて、ではないか?