キノの旅\  ――the Beautiful World――
時雨沢恵一
イラスト●黒星紅白
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)湯気《ゆげ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)石|畳《だたみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#「てへん+國」、読みは「つか」]
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空には、暖かい午後の太陽が浮かんでいました。なだらかで大きな丘を登った時、丘の向こうが見えた時、キノは驚きの声を出しました。「あれ? なんでだろう」急ブレーキをかけられて止まったエルメスも、「おや」やっぱり驚きました。そこには国がありました。広い草原に、城壁が見えました。白い城壁が、大きな円を描いていました。――キノとエルメスが辿り着いたのは、城壁が続く大きな国。そこに国があるとは聞いていなかったので驚きつつ、入国するための門を探して走り続ける。しかし……。(『城壁の国』)他、全15話収録。
*****以下、時雨沢より*****
オビをはずしてここまで読んでくださったあなたに時雨沢が特別にお教えします。この本の「あとがき」は――この裏にもあります。それ本当です。さあめくりましょう。めくるめくあとがきの世界へ。
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時雨沢恵一《しぐさわけいいち》
この夏、北海道ツーリングに行きました。楽しかったです。デビュー以来今年こそいくぞと早五年。一つの目的を達成しました。次の目標は、バイクで月に行くことです。待ってろよ兎。食べてやるぜ餅。ひとつ問題は、月までの地図がどこにも売っていないこと。
イラスト:黒星紅白《くろぼしこうはく》
福岡在住猫好きイラストレーター。飯塚武史名義でプレイステーション2「サモンナイト」シリーズキャラクターデザインを手がけてます。今年の目標は発売日に買ったゲームを廉価版が出る前にクリアすること。
プロローグ 「悲しみの中で・b」
―Yearning・b―
すると、男は死んでいた。
路地が集まる小さな広場の隅っこで、石|畳《だたみ》に流れ出る血を染み込ませながら、うつぶせの男はもう動かなかった。
雪が降りそうな曇り空と寒い空気の中、血から薄い湯気《ゆげ》が上がって、そしてすぐに消える。
「………」
コートを着て襟《えり》を立てたキノが、多くの見物人に混じって、その様子を遠巻きに見ていた。
やがて人混みをかき分けて出てきた、男の知り合いであろう誰かが二人――若い女性と年老いた女性が、男にすがりついた。
二人は何度も男の体をゆすって、名前を呼んで、やはり死んでいることを認めざるを得なくなると、大声で泣き出した。
人混みが、誰が言うでもなく、分厚い防寒|帽《ぼう》を脱ぎ取り、胸に当てて目を閉じる。
「なんと悲しいことでしょう。皆さん、彼の冥福《めいふく》を祈りましょう……」
「………」
キノが、その鎮魂《ちんこん》の様子を、黙って見ていた。
「ねえ、旅人さん――。ここは、悲しい国≠ナしょう?」
脇《わき》に立った国民の誰かがそう訊《たず》ねて、
「ええ。とっても」
キノは答えた。
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第一話 「記録の国」
―His Record―
春の草原は、色があふれていた。
幾種類もの花が一斉《いっせい》に咲き、空から虹《にじ》が降りて貼りついたかのような、色とりどりの大地だった。昼の穏やかな陽射《ひざ》しに、地平線の向こうまで続く花畑が照らされている。ある場所では同じ色の花が群生しその色を大きく主張し、別の場所では多種多様な花の色が混ざり合い、新しい色を生み出していた。
花の草原を割って走る一本の道を、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)がゆっくりと走っていた。排気音も控えめに、焦《こ》げ茶の濡《ぬ》れた土の道を、悠々《ゆうゆう》と走っていた。
たくさんの旅荷物を載《の》せたモトラドだった。後部座席の両脇《わき》に箱が取りつけられ、上のキャリアには鞄《かばん》があった。
その運転手は茶色いコートを着て、襟元《えりもと》は暖かい風が入るように開いて、あまった長い裾《すそ》は腿《もも》に巻きつけて止めていた。鍔《つば》と耳を覆《おお》うたれのついた帽子《ぼうし》をかぶり、所々が剥《は》げた銀色フレームのゴーグルをかけていた。歳《とし》は十代の中頃、黒く短い髪《かみ》に、精桿《せいかん》な顔を持っていた。
モトラドを走らせながら、
「きれいな場所だね。本当に」
嬉《うれ》しそうな声で、運転手が感想を漏《も》らした。
「上に同じ。ここはいい場所だ」
モトラドが答えた。
「春はいいね。まだ朝や夜は寒いけど、こうして日中走っていて風の冷たさに凍《こご》えることはない。手先が冷たいと、本当に辛《つら》いんだ。暖かいと、なんにも考えずにぼーっと走っていられる」
「ふーん。で、これでキノにとって何回目の春? 十五回日? 三十回目? それとも三百回目?」
キノと呼ばれた運転手が、笑いながら答える。
「そんな経《た》ったかな? もう忘れたよ。エルメスは?」
「覚えてません」
おどけながら、エルメスと呼ばれたモトラドが返事を返した。キノは納得した様子で、
「だろうねえ」
「ん? どしてさ?」
「だってエルメスは――。あ、見えてきた」
進む先の地平線の下から、花畑の中から、ねずみ色の城壁がゆっくりとせり上がってきた。
国を囲む城壁の全景が見え、それからじわりじわりと近づいてきた。
「さて、あの国がこんな索晴《すば》らしい場所に似合う素晴らしい国か。いい国か」
「キノの言ういい国≠チて何さ?」
話題が変わったことを気にも止めずエルメスがそう訊《たず》ねると、キノはすぐに答える。
「食べ物が美味《おい》しくて安い。シャワーつきの宿が安い。――もしくは両方ともタダ」
「いきなりそれですか」
「エルメスは?」
「燃料が、部品が、整備費用が安い。もしくは軒《のき》並み、ことごとくタダ!」
「やっぱりね。――そんな都合のいい国はそうそうあるわけないけど……。まあ、ぼったくり£l段じゃなければいいや」
「まあね。その上で、腕のいい整備士がいてくれることを祈るよ」
「さて、この国はどんな国でしよう?」
「楽しみだねえ」
エルメスが言って、キノは頷《うなず》く。
「楽しみだ」
そしてアクセルを大きく開けた。
「――食事の値段? 旅人さんからお金なんて取りませんよ。もともとこの国では基本的な食料は配給制ですし」
「――燃料代? 全《すべ》て配給だよ。お金なんて取ったら上司《じょうし》に怒られちゃうよ」
「――モトラドの整備の代金? いるわけないじゃないですか。技術が進んだこの国では、基本整備なんて電球を一個取り替えるくらいたやすいご用ですよ」
「――ここの宿代? 旅人さん、ゲストからお金取るなんてできませんよ。のんびり滞在してください。三日だけなんて言わずに一ヶ月でも二ヶ月でも」
「――旅荷物の補充? 必要なものがあれば好きなの好きなだけ持っていってください。遠慮なんていりません」
入国してから二日目の夕方、
「いいところだ!」
「いいところだ!」
国の中央にある公園で、キノとエルメスが言った。
エルメスのキャリアには、キノがタダで手に入れた物品の箱がゴムひもで縛《しば》りつけられている。携帯食料を入れた箱や、パースエイダー(注・銃器《じゅうき》のこと)の弾丸《だんがん》や液体火薬、まっさらの肌着《はだぎ》や下着の袋だった。
黒いジャケット姿のキノは、エルメスの脇《わら》でベンチに腰かけていた。右の腰には、リヴォルバータイプのハンド・パースエイダーを下げている。広々とした公園に見えるのは、緑鮮《あざ》やかな芝生《レぱふ》と、国の外に似た花畑。
「キノ、天国≠ニはこういうところのことをいうんだよ。まさにここがそうだ」
「じゃあ、ここにいる人達は生きながらにして、天国の住人か……。確かに、みんながみんな人生を心から楽しんでいるような明るい顔をしていたよ……。こんな国は初めてだ」
「いいことじゃない」
「ああ。でも、じゃあ――」
「じゃあ?」
「もしここにいる人達が死んだら、どこへ行くんだろう?」
キノのその質問に、エルメスが冷めた口調で返す。
「さあねえ。だいたいキノは、天国なんて本当にあると思ってるの?」
「…………」
キノは黙った。そして、暖かい風が吹いてキノの髪《かみ》の毛を揺らした後、そのほんわかとした空気の中、
「まあどうでもいいや」
「そうだね」
しばらくして、
「さっき入ったレストランの人に、この国はなんでこんなに大盤《おおばん》振る舞いなんですかって詳《くわ》しく聞いたんだけど――」
キノが口を開いた。
「ほう」
「とにかく豊かなんだって。穀物《こくもつ》も肉も魚も豊富で、国民は飢《う》えることがない。技術や医療の進歩も、人を幸せにする方向へと使われている。そんな中で、人口が増えすぎないように厳しく調節しながら、もう何百年もこんな豊かで平和な生活を続けているそうだよ」
ベンチの背もたれにもたれて空を見上げ、キノがどこか羨《うらや》むような、憧《あこが》れるような口調で言った。
「まさにこの世の天国だねえ」
「だねえ……」
そう言って目を閉じて黙ったキノの脇で、エルメスが芝屠《しばい》口調で語り出す。
「こうして、元来サボリ症でぐうたらだったキノは、もうこの楽な国から出たくなくなってしまいました。だから、キノの旅はここで終わりです。めでたしめでたし――=v
キノが目を開けて顔を鞄うした。
「勝手に決めないでよ、エルメス。ボクは終わらせるつもりなんかないよ」
「でもさ、キノ。ここにいれば死ぬまで飢《う》えることはないよ」
エルメスの言葉に、キノは真顔《まがお》でつぶやく。
「確かにそうだな……。いらなくなったエルメスを売り払って、小さな部屋でも借りるか……」
「――と思われましたが、キノは旅を止《や》めませんでした。つづく!=v
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次の日、入国して三日目の朝。キノは相変わらず、夜明けと共に起きた。
ホテルの広い窓から差し込む朝焼けを浴びながら、キノは『カノン』と呼ぶリヴォルバーの抜き撃ちの訓練をした。その後は入念に整備をして、弾丸《だんがん》を込めなおし、ホルスターに戻した。
キノは名残惜しそうにたっぷりと時間をかけてシャワーを浴びて、部屋に運ばれた大盛りの朝食を平らげた。
旅の荷物を一度部屋の絨毯《じゅうたん》の上に広げ、キノは事|細《こま》かに数や状態を確認していった。古くなった肌着《はだぎ》や下着《したぎ》は、それらに一度感謝の言葉を告げてから丁寧《ていねい》に折りたたみ、鞄《かばん》の外に残した。
鞄をエルメスに積み込み、しっかりと縛《しば》って固定して、
「さて……」
キノは決意を秘めて小さくつぶやくと、大きく息を吸った。
そして、
「起きろー!」
叫びながら、キノはエルメスのシートをばふばふばふばふ両拳《りょうこぶし》で叩《たた》いた、
叩いた。
しばらく叩いた。
だいぶ叩いた。
「まだ出国しないの? 三日目でしょ」
「ギリギリまでいよう」
「さいで」
「天国だし」
「さいで」
ジャケット姿のキノと、旅荷物を載《の》せたエルメスは、昨日《きのう》と同じ公園にいた。青空の下、石|畳《だたみ》にはイスとテーブルが並べられてカフェになっている。昼食峙間を過ぎて、人はまばらだった。キノは一番端の列のテーブルに座る。その上には、お茶のポットとカップ、食べ終わったデザートの皿があった。エルメスは、向かいにセンタースタンドで立つ。
ゴムタイヤがついたワゴンを押して若いウエイターが近づき、お茶のおかわりを訊《たず》ねた。
「キノ。出発しないの?」
「もう一杯飲んだら」
キノが頼むと、すぐにポットが新しいものと交換された。キノがカップに注ぐと。湯気と香りが立ちこめる。
「もう、ここの国の子供になっちゃいなさい」
エルメスが呆《あき》れた様子で言った時だった。右|隣《となリ》のテーブルに、一人の男が座った。四十代ほどに見える痩《や》せた男で、仕事着でも作業着でもない簡単なスラックスと長|袖《そで》シャツ姿だった。
「…………」
キノが男を見た。男は、痩《や》せこけた頬《ほお》に雛《しわ》の寄った日尻《めじり》の、とても疲れた顔をしている。今疲労しているのではなく、一日中ずっとそんな顔であろう、固まってしまったような疲労顔だった。
男がキノとエルメスをちらりと見た。何かを言おうとした瞬間にウエイターが来たので、男はお茶を頼んだ。
ウエイターが去った後、
「今日は」
キノが会釈《えしゃく》をした。
「ああ。いい天気だね。――旅人さんか。いいね」
男は嫌《いや》そうな素振りも見せず、淡々とした、物静かなロ調でそう答えた。
「ボクはキノ。こちらは相棒《あいぼう》のエルメスです。一昨日《おととい》からこの国に滞在しています。今日出国しますが、ここはとてもいい国でした」
キノが言うと、男はお茶を二口すすって、だろうね、と答えた。表情は変わらない。
「私以外には、この国はいいところさ。――ああ、確かにとても素晴《すば》らしい国だよ。――間違いない」
「私以外には=Aですか?」
男が頷《うなず》く。
「どーゆーこと?」
エルメスが聞いた。男は先ほどまでの表情と口調のまま答える。
「私はこの話をしないんだけどね。今日出国する旅人さん達になら、別にいい」
そして一拍おいて、
「私はね――、死ねないんだよ」
蒼《あお》い空と、芝生《しばふ》の緑と、咲き乱れる草花。
それらを眺めながら、カフェの端に並んで座る二人が会話を交わす。
死ねない=Aとおっしゃいました?」
「ああ。――死ねないんだ、私は」
「もう何年も生きているということですか?」
「いいや。――それはちがう。ここにいる今の私は、まだ二十八年しか生きていないよ」
「…………。では、なぜ?」
キノの質問に答える前に、男はカップのお茶をぐっと飲み干した。
「記憶が続くのさ。――記憶が続くんだ」
「なにそれ?」
エルメスが聞いた。
「私には、昔の記憶があるんだ。――生まれる前の記憶があるんだ。――今より前に、別の人間として生きた記憶がある。――その前の記憶がある――その前の記憶もある。――その前も。――その前も。覚えているだけで、五人の人間だった記憶があるんだ。それはつまり、延々と命が続いているってことに他《ほか》ならないんだ」
「それは……、失礼ですが、確かなものなんですか? 思い違いとか思いこみとか……」
キノが男を見ながら聞いた。男は前を向いたまま答える。
「四世代前に――、当時|二十歳《はたち》だった私も、頭の中にある別の人生の記憶、それを錯覚《さっかく》か思い違いか何かだと。そう思った。だから、それをはっきりさせたくて、調べた。すると、記録があった」
「…………」
「私は――、確かに存在していた。私が五|歳《さい》の時に、事故で死んだ男だった。その男の奥さんが生きていたので、会いに行った。――よく覚えていたよ。私の知るはずもない、奥さんの趣味や、口癖《ぐせ》などを言い当てて、気味悪がられた。――彼女を愛していたのに、二度と来るなと言われた。あの時のことは、もう百年近く前なのだけれど、今でもはっきり思い出せる。――その前の世代の記憶になると、だいぶ曖昧《あいまい》になるのだけれど」
「それからどうしたの?」
「それから私は――、その人生を生きた。やがて結婚して、五十歳ほどで病気で死んだ、たしか。次は別の男として――、やはり五歳《さい》くらいだった時の思い出からある。親に色々なことを覚えていると言ったら、相手にされなかった。やがて怒られるようになって、言うのは止めた。その人生の親は――、それ以外は優しかったな」
「それからどうなりました?」
「その人生も、やがて終わった。たしか三十歳くらいの時、湖で搦《おぼ》れたんだ。次はまた別の男になって、結婚して子供も、長生きしたから孫もいたんだけど。その次が今の一つ前。そして今――」
「…………」「…………」
「別に信じてくれなくてもいい」
「そんな話がありえるかどうかは分かりませんが、あなたがここでボク達に嘘《うそ》を言う理由も分かりません」
「面白いね、旅人さんは」
男は、笑いもせずにそう言った。そして、
「旅人さんに会うのも、なんだか久しぶりだ――」
「ん? 他《ほか》に、前に、どんな旅人に会った?」
エルメスの質問に、男が無表情のまましばらく考える。
「前に会ったのは、どの私だったのか忘れたけど、思い出さないけど…、小さくてボロボロの、黄色い車に乗った女性と男性の旅人が来たことがあった。会ったといっても――、その時の私は子供だったから、車を降りた女性に道を聞かれて答えただけだ。女性は丁寧《ていねい》に礼を言ってくれた。長い黒|髪《かみ》の女性だった。ああ、ちょうど旅人さんが腰に吊《つ》っているリヴォルバー。似たような、いや、まったく同じタイプのものを、その女性の旅人も腰に下げていたね、目の高さだったから、形はよく覚えている」
「……その人達は、この国でどんな様子でしたか?」
「ああ。その後その二人は――、何もかもタダだからと、腹がはじけるのではないかと思うほど食べに食べて、車のタイヤが壊《こわ》れるのではないかと思うほど、いろいろなものを貰《もら》って去っていったと、新聞の記事になった。そのがめつさが、しばらく語りぐさになった。私も、あの二人がそうだったのかと、思った」
「…………」
キノが押し黙り、
「まあじゃあ、話を戻して、その死なない§bがホントだとして、それってけっこう凄《すご》くない?」
エルメスは聞いた。
「昔だけだよ――。そう思って、自分が特別じゃないか、神に近い人間じゃないかとうぬぼれたのは。住みやすいこの国で延々生きていられるのは、素晴《すば》らしいことじゃないかと思ったのは」
「そう?」
「ああ。人の一生を生きて、色々な人のことを覚えていても。次の人生じゃ誰も私を分かってくれない。また最初から、すべてやり直しだ、またやり直しだ。また繰り返しだ、二世代前あたりから、もう嫌《いや》になった。もう飽《あ》きた。飽き飽きだ。疲れた――」
男はポットを掴※[#「てへん+國」、読みは「つか」]《つか》むと、カップを見もせずにお茶を注いだ。見ないまま注いで、きれいに八割注いでポットを戻した。
「もう嫌だ。今は何もしたくない。だらだらと生きている。新しい記憶を持つと――、それが良い記憶であっても悪い記憶であっても、疲れる。重いんだ」
「重い、ですか……」
「重いよ。まるで記憶が自分に襲いかかってくるんだ。囲まれて一斉《いっせい》に棒《ぼう》で叩《たた》かれるような。――でも、私は自殺なんかしても同じことだろう、痛い思いも、嫌だ。残るから。もう何も考えずに最低限の仕事をしてただ時間を過ごす――、毎日同じ行動をして特別な思い出を造らない――、前の世代の途中から、そんなことばかり考え≠ネがら生きているよ。止めたいけど止められない。輪っかの中をいつまでも走り続けているみたいな――。地獄《じごく》とはこのことなんじゃないかと、何度も思う、いっそ発狂でもしてしまえば、どんなに気が楽なのだろうかと考える。でも恐《こわ》い、発狂した記憶が、残るんじゃないかって。そんなものは――、絶対に繰り越したくない」
「…………」
「だから思い出を作らない。毎日を同じように生きて、そして毎日を忘れる。忘れる努力をする」
「えー、じゃあ今日なんかまずくない?」
エルメスが遠慮《えんりょ》も容赦《ようしゃ》もなく聞いて、すると男はお茶を一気に飲み干した。そしてふらりと立ち上がると、首をゆっくりと回し、キノとエルメスを見下ろした。
「誰だい君は?」
醒《さ》めた目でそれだけをつぶやくと、男は歩き去った。
「人によっちゃ、天国も大変だねえ」
男が消えて、エルメスが漏《も》らした。そして、
「師匠《ししょう》の話≠ヘ本当だよね。驚いたよ」
「…………」
黙ったまま、冷たくなったお茶を飲んでいたキノに、
「旅人さん、あの男に何か言われました?」
男の分を片付けに来たウエイターが心配そうに話しかけた。
「ボク達が、この国はいいところだと言うと、あの人はそうは思わないよと」
キノがそう言うと、ウエイターは少しホッとした様子を見せた。
「いつもこの時間にあそこに座る人なんですけど、あんまり言いたくないですけど、ちょっと様子が変なんですよ。――旅人さん達に不快な思いをさせなかったのなら、よかったんですけど」
「どんな人なの?」
エルメスの質問に、
「さあ。他人と喋《しゃべ》ることをほとんどしないので、分かりません」
ウエイターは肩をすくめた。そして、
「旅人さん達と話をしているのに気づいた時は、それは驚きましたよ。しばらく忘れられないですね」
「夕ご飯はこれ」
「あの師匠《ししょう》にして、この弟子《でし》ありだね」
夕方が近づく城門前で、キノは直前にタダで手に入れた大きな布袋を、エルメスのハンドルの両側に引っかけていた。中身は、肉屋で手に入れたステーキ用の肉と、果物《くだもの》屋で手に入れたフルーツだった。
「今度この国に来る時は、エルメスにはサイドカーをつけよう」
「やめてよね」
見送りまでしてくれた入国審査官に礼を三目って、キノはエルメスを押しながら城門をくぐる。トンネルのような城門をくぐり終え、花が咲き乱れる国の外に一歩踏み出た時、
「旅人さん!」
強い口調で呼び止められた。キノが振り向くと、六人の男達が向かってきていた。年齢《ねんれい》はバラバラだったが、全員が自衣を着ていた。
「すみませんが、少しお話ししたいことがあります。お時間は取らせません」
そう言ったのは、中でも一番年配に見える初老の男だった、
キノが、エルメスのサイドスタンドをおろした。男達はキノの前に立つと軽く会釈《えしゃく》して、先ほどの男が、
「旅人さん達は、昼間に中央公園のカフェで。一人の男と何かお話しをされましたね?」
「ええ」「うん」
「正直に言いましょう、我々はこの国の医者で、そしてあの男は、我々の保護対象者です、そこで、この国の人ではない旅人さんと一体どんな話をしたのか、教えていただきたいのです」
「…………」
キノは一瞬考え、そして答える。
「えっと、あの人は、ちょっと変な身の上話をしてくれました。――自分には過去の別人間の記憶が代々あるから、つまり自分は死ねないんだって」
キノの言葉に、臼衣の男達は明らかに驚愕《きょうがく》した。一人は熱心に、手に持っていた分厚いファイルにペンを走らせる。
「そ、その時――、彼はどんな様子でしたか? そのことを淡々と語りましたか? それとも吐《は》き出すような感じで?」
「どちらかというと、淡々と」
「著しい発汗や吃音《きつおん》は見られましたか?」
「全然」
エルメスが答えた。キノも首を横に振った。
「ボクには嘘《うそ》を言っているようには見えませんでした。内容は突拍子《とっぴょうし》もないものでしたが」
「そうですか……」
そして男達はお互い何かを小声で話し合い、頷《うなず》いたり首を振ったりした。
エルメスが、
「どう思う?」
キノにだけ聞こえるように小声で話しかけた。
「どんな話か知りたいけどね……。教えてくれそうにもないな」
「それは面白くないねえ」
うん面白くない、とキノが返した。少し考え、
「駄目元《だめもと》で、鎌《かま》をかけてみよう……」
そうつぶやいた。
「お。賛成。キノにしては意地が悪い」
「本当のことを知れるなら、知りたい」
そしてキノは、議論を続ける男達に話しかける。
「ところで――」
キノ達の存在を忘れていたかのような白衣の男達が振り向き、初老の男が、
「ああすみません。お手間を取らせました、――ありがとうございました。参考になりました」
「一つ疑間なんですけど……」
「はい? はい」
「この国はとても過ごしやすいいいところでした。ボクも立ち去るのが惜《お》しいくらいです」
キノが言って、エルメスがそうそう、と後ろから同意する。
「それは嬉《うれ》しい」
破顔した男達に、キノはたたみかける。
「そんな索晴《すば》らしい国で、なぜ彼のような神経を著しく病んだ人が現れたのか不思議です。どんな国にも、完壁《かんぺき》はないのだと思うべきなのでしょうか?」
男達の笑顔が引きつった。
「そうそう、絶対にどうかしてるよね。おっちゃん達は多分精神科の先生でしょ? なんであの人はあんなになっちゃったの? やっぱり環境のせいだよね」
エルメスが言うと、若手の男は明らかに気分を害した様子を見せた。ムッとした男の肩に手を置いて、年配の男がなだめる。
「旅人さん。それは大きな誤解です。我が国の累晴《ずば》らしさはよくご覧になったと思います」
「はい、とても。だからこそ、あの男の人がなぜ気が触れてしまったのか、素晴らしい国で何が起こったのか、興味があります。お医者さんとしてはあまり嬉《うれ》しくないことだとは思いますけど、もしよければ教えてください」
キノがストレートに頼み込み、
「あ、でもキノ、この人達はそれが分かっていないから調査中だったら、ダメじゃん」
エルメスは無礼千万《ぶれいせんばん》の物言いをした。
爆発寸前の若い男は後ろに下げられ、そして初老の男がキノとエルメスの前に歩み出た。やや厳しい顔で、早口で話し始める。
「我々としては、真笑を知らずに他《ほか》の国に我が国の悪い噂《うわさ》を流されることは心外です。我が国には、心を病む人など一人もいないと信じております」
「それは分かりました。でもボク達は、現実にあんなことを言う人に出会って驚いてますし、その人をお医者さんが診《み》ているとなると……」
初老の男は、大きく頷《うなず》いた。
「いいでしょう。確かにこのままではそう誤解されてしまうかもしれません。あなた方に本当のことを教えることはできます」
その言葉に、後ろにいた男達が驚いたが、それを片手で制して、
「ただし、今後我が国への再入国は二度とできなくなります、よろしいですか?」
キノがたっぷり悩んだ後エルメスにせっつかれ、再入国禁止を了承した後、
「いいでしょう。では全《すべ》てをお教えしましょう」
初老の男が言った。
他の白衣の男達はその後ろで何も言わず、成り行きを見守る。太陽は西に大きく傾いて、城門の中に差し込んでいた。自衣を薄いオレンジ色に染めていた。
「あの男が言ったことは、全て真実です」
「…………」
キノは黙ったままで、
「何それ?」
エルメスが大仰《おおぎょう》に驚いた。
「男には世代を超えて記憶がある。これらは真実であり事実です。彼の思いこみや妄想《もうそう》の類《たぐい》では一切ない。そして――、もうお分かりですね?」
「つまり、あなた達医者が、それを行っている……」
「そうです。昔我々の先祖は、死んだ直後にその人間の記憶を取り出し、別の人に入れる実験に成功しました。これは、誰もが一度は考える不死《ふし》への憧れ、挑戦が創《つく》り出したシステムでした」
「ちょっと待ってよ。記憶を受け継いだって、その人が死のことは変わりないんじゃないの? 同じ記憶を持った別人≠ェ一人、ひょっとしたら二人以上、この世に生まれるだけで、その人が延々と生きる不死≠ニは違うんじゃない?」
エルメスが聞いた。初老の男は少し嬉しそうにそれを肯定する。
「そのとおりですよ。その人は、やはり死んでしまう。記憶を受け継いだ人が、自分には過去の記憶があるから、つまり永遠に生きている=\―そう勘《かん》違いすることはできますけど」
「そうだよねぇ」
「ただ、別の誰かにとっては、姿は変われど私のことを覚えていてくれるあの人≠ェ存在し続けることには変わりはない。これは、他者にとっての、誰かが永遠に生き続ける<Vステムなんてす」
「なるほど……」
「なるほどね」
キノとエルメスが納得し、
「あの男の人は、それを延々、最低でも四回は受けている訳ですね?」
キノが聞いた。
「そうです。その結果のあの言動で、それは何も間違っていない。彼の記憶はかなり正しく受け継がれ、今も蓄積され続けています。彼は、国家的な大実験の被験者なんです。病気や事故や寿命《じゅみょう》――、とにかく死んでは、ランダムに選ばれた別の人間にそれまでの記憶を移してきました」
「記憶を入れられちゃった人は、生贅《いけにえ》?」
エルメスが聞いて、
「なんと捉《とら》えられても結構です。厳しい出産制限の中で、そうなる可能性を納得した上でそうならない可能性にかけた親達の子供、と申しておきます。そんな子ども達の中から、被験者が死んだ時に五|歳《さい》である子供に、記憶は移されます」
「つまり、運がよければ使われない≠ゥら、子供を規定数以上もてるってことね」
エルメスが言った。初老の男が、しっかりと頷《うなず》く。
「そう。そしてそんな人はこの国にはたくさんいます」
「なるほど……。続けてください」
「はい――。でも、こうして実験は続いています≠ニ結論を言うだけですが。少なくとも、我が国が精神を病むような人を排出するような国ではないと分かっていただけたと、思います」
「それは分かりました。先ほどの発言は撤回《てっかい》します。すみませんでした」
「そうだね。ごめんなさい」
それを聞いた初老の男は、どこか誇らしげに、一度大きく頷《うなず》いた。
「ついでにお聞きしますが、その実験の目的は?」
「え? ああ。人間の脳がどれほどの世代の記憶の蓄積に耐えられるか?≠ナすよ」
「それで実験結果が出たら、うまくいくことが分かったら、どうするの? みんなそれをするの?」
エルメスの問いに、初老の男は激しく首を振った。
「とんでもない! 逆ですよ」
「え?」「はい?」
「我々は、開発したとはいえ、このシステムはどう考えても使ってはいけないと結論づけました。記憶を受け継がせて都合のいい他人を造るなど、人として間違っている≠ニ、御先祖様は正しい判断をされました。今の我々もそう思っています、こんなのが実用化されたら、この国はお終いです」
「でも、実験は」「でも、実験は」
キノとエルメスが同時に同じ事を言って、
「実験は続いているんですよね?」
キノが代表して訊《たず》ねた。
「ええ、していますよ。このシステムは間違っている≠アとを完全に証明するために」
「…………」「…………」
「二度と使われなくするためには、このシステムがいかに危険を証明すればいい。そうすれば、これは素晴らしい≠ニ思う人は出てこないでしょう」
「それはまあ、そうでしようけど……」
「実験は、被験者四十人で始まりました。研究では、三世代も繰り返せば、記憶の蓄積に精神が耐えられなくなるのではないかと予想し、三十九人まではそのとおりになりました。全員発狂しました」
「…………」「…………」
「彼が最後の一人です。彼が発狂してくれれば、危険性は百パーセント証明され、このシステムは永遠に封印されるでしょう。我々は代々彼を監視《かんし》し、調べ、彼の記録を取り続けているんです。――彼が発狂するその日まで」
青白い月明かりの下で、明度を落とした花畑の中で、
「今日はしっかり焼いてみよう」
黒いジャケット姿のキノは、枯《か》れ草を集めたたき火に、二本の鉄|串《ぐし》に刺《さ》したステーキ肉をかざした。炙《あぶ》られ、脂が落ちてはぜる音が聞こえる。
たき火の向こうにはエルメスが止められ、タンクに月と火を映していた。
注意深くお肉を焼きながら、キノは小さな袋から塩とこしょうを摘《つま》んで振り掛ける。おろした鞄《かばん》の上に、お皿とフォークとナイフを用意しておくのも忘れない。
「豪華《ごうか》なステーキ。この先しばらくは食べられないな。――味を覚えてお
こう。忘れないようにしよう」
「びんぼーしょ!」
エルメスが呆《あき》れながら言った。
「忘れたいことを忘れられるのと、覚えていたいことを覚えていられるのは、とてもいいことだよ」
さっと肉の裏表を返しながら、キノが言った。
焼き終えた肉を皿に載《の》せ、キノは食べ始めた。食べ終えた。フルーツを切って、デザートも平らげた。
「幸せだ」
丸い月を見上げながら、キノがつぶやいた。
「いろいろあるけど、ボクはやっぱり、覚えている方が嬉《うれ》しいかな。――冬の寒さを覚えているから、今暖かいと思えるのかもしれないし」
「よく分かりません」
エルメスが面白くなさそうにぼやき、
「ひょっとしてモトラドは、一晩寝たら肝心《かんじん》なことはきれいさっぱり忘れるのかもね」
そう冗談《じょうだん》を言った。
空を見上げていたキノが、
「そうだね。いいや、そうに決まってる」
視線を向け、神妙《しんみょう》な顔つきで返した。
「おや、なんで?」
「うん。だってエルメスは――、朝絶対にちゃんと起きてくれない。ボクが夜あれほど、明日は出発だから朝早く起きてね≠チて言うのに。昨夜もしっかりと言ったのに」
キノが質問に答えると、エルメスはたっぷり数十秒黙りこくり、それから言った。
「だっけ?」
第二話 「いい人達の夕べ」
―Innocence―
荒野の川原でした。
一面荒れた土と岩だらけの大地に、大きな川が流れています。川は大地を削《けず》り、その川原にだけ、緑の植物が生える空間を与えていました。空から見たら、茶色の中に緑色の帯が見えることでしょう。
川原には一台のトラック、そして一台の小さくてボロボロの車が止まっていました、傾き始めた太陽に照らされて、長い影を作っています。
そして、その持ち主達はたき火を囲んでいました。
そこにいたのは、まずトラックの持ち主である商人で中年ででっぷり太った男。その男の奥さん。二人の後ろに、腰にハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器《じゅうき》です。この場合は拳銃《けんじゅう》です)を吊《つ》った、ボデイーガードの四人の男達が立っています。
商人に向かい合って、腰に大口径のリヴォルバーを吊った、黒|髪《かみ》の妙齢《みょうれい》の女性。隣《となり》にはハンサムで少し背の低い男が座っていました。
たき火には鉄製のグリルが置かれ、その上では大きなお肉がおいしそうに焼けていました。
商人が嬉《うれ》しそうに言います。
「さあさあ旅人さん。こんな場所で出会ったのも何かの縁です。遠慮なくどうぞ」
商人は見た目通り太っ腹でした。そして、商売が一つとてもうまくいった帰りなので、気前がいいのだと言いました。
黒髪の女性の隣の男が、
「いやあ、おいしそうですね」
そう言いながら、女性にだけ見えるように、左手の親指を小さく縦《たて》に振りました。
『どうです? 襲って、少しいただいちゃいませんか?』
だいたいそんな意味の合図でしたが、女性は薬指の爪を少し触《さわ》って、
『四人もボディーガードがいますし、今日はおとなしくしましょう』
と返しました。男が頷《うなず》きます。そして二人は商人に礼を言って、夕食会が和やかに始まりました。
商人は、陶器《とうき》の壷《つぼ》に入ったお酒を持ってこさせ、二人にも勧めました。二人が礼を言いつつ断ると、
「おお。旅人さんがお酒をほとんど飲まないのは本当でしたなあ。確かに酒を持って移動は辛《つら》いでしょう」
そんなことを言いながら、自分はぐびぐびと美味《おい》しそうに飲むのでした。
さて陽《ひ》もだいぶ傾き、食事も進んだ頃。
「まったく自由気ままな旅は羨《うらや》ましいですなあ、がははははは――」
商人の酔いもだいぶ進んでいました。赤ら顔で、大声でがなり立てました、奥さんもボディーガードも、当たり前のように見ています。
「しかし貴女《あなた》は、そのお年で旅とはよほど事情があるに違いありませんなあ! ひょっとして×××××とかですかな?」
商人は黒髪《かみ》の女性にそんなことを言って、言われた本人はともかく、隣《となり》の男の顔が引きつりました。
「いやあ、×××××が悪いわけではない! でも×××××は×××××ですからなあ!」
女性はあくまでもクールに、ええ≠ニか、まあ≠ネどと適当に受け流しますが、
「師匠《ししょう》……、抑えましょうね」
小声でつぶやく男は、いつ女性が怒りを爆発させるかとハラハラドキドキです。
完全に酔いが回っている商人は、そんなことは諮構いなしです。ぐびぐびぷはー、と酒を飲んでは、
「がはははは! いやあ×××××! 実に×××××ですなあ。! 素晴《すば》らしい! ところで×××××は×××××ですかな?」
遠くにある国にまで聞こえるのではないかという大声で、そして非意図的に、ある種の失礼な発言をこれでもかと繰り返しました。
そんな独演会が続き、それでも黒髪の女性は淡々と受け流し、男が女性の忍耐強さに感動すら覚えてきた時でした、
「ごめんなさいねえ」
先ほどまで静かだった商人の奥さんが、口を開きました。言葉は謝っていますが、その口調に申し訳なさはなく、単に話し出すきっかけにしたようでした。奥さんが続けます。
「この人、お酒を飲まなければいい人なんだけれど」
「なるほど」
女性が顔を上げました。ボディーガードの位置を、瞬時に把握《はあく》しました。右腰から、リヴォルバーを抜きました。
隣の男が反応する闇もなく、もちろんボディーガードに気づかれる暇もなく、四発分の発砲音が荒野に鳴り響きました。
撃たれた弾丸《だんがん》は、全《すべ》てボディーガードの腰に吊《つ》られたパースエイダーに命中し、それを使えなくします。呆然《ぼうぜん》としている人達の前で、女性はその中の一人、商人の額《ひたい》に狙《ねら》いを向け、
「さて、金目《かねめ》のモノを頂きましょうか」
にっこり笑って言いました。
日没直後の薄暗闇《うすくらやみ》の中、後ろ手に縛《しば》られて川原に座っているボディーガード達と、震えながら商人の背中に隠れる奥さん、そして、
「な、な、なんということをする! この恩知らず!」
酔いは醒《さ》めましたが今度は怒りで顔を真《ま》っ赤《か》にしている商人の目の前で、
「全部は取りません。三割といったところでしょう」
宝石や金貨を手持ちの袋に移しながら、黒髪《かみ》の女性がそう雷いました。その脇《わき》で男は、二二口径の自動式パースエイダーを手に、油断せずに見張りながら、
「…………」
黙っていました。
「それは私の稼《かせ》ぎだぞ!」
商人の声に、
「今は私のです」
女性はあっさりと答えました。移し終えて、残りは商人の前に置いて返します。
それから女性は、すぐに追いかけて来られないように、トラックのタイヤの空気を抜くように男に指示します。男は空気を入れればタイヤが使えるように、わざわざバルブを押して、中の空気を全《すべ》て抜きました。
「では失礼します、夕食|美味《おい》しかったです」
女性は自分達の車のエンジンを掛けて、男を呼びました。
「なんという女だ! 信じられん!」
憤懣《ふんまん》やるかたない商人に、男は立ち去り際に言いました。
「ごめんなさいねえ。パースエイダーを撃たなければいい人なんですけど……」
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第三話 「作家の旅」
―Editor's Travels―
「遠慮なんていらないから! もうどんどん食べてよ! これで足りなかったらすぐにもっと注文するわ。――私も旅をするから分かるの、旅の途中って、国にいない時ってホント貧相《ひんそう》な食生活でしょ? 栄養バランスだけはばっちりで、めちゃくちゃ味気《あじけ》ない携帯食料とか、塩をふっただけの魚が連続とか、茄《ゆ》でた草だけとか。こんな豪華《ごうか》な焼き肉フルコースなんて、久しぶりでしょ?」
「まあ、はい、そうですね……。本当に久しぶりです」
「道すがら、キノは食べ物のことでいつもグダグダとぼやいてる、国に入ったら豪華《こうか》な食事をしようって」
「だから、今日は遠慮なく食べて。それこそ朝までだって付き合うわ! 全部私のおごり! キノさんはなんにも気にしないでいいのよ」
「いいなあ、キノ」
「もちろんエルメス君にも、さっき言ったとおり新しいオイルとタイヤとチェーンとプラグとその他《た》|消耗《しょうもう》部品ね! 任せて!」
「ありがとうお姉さん。――ほら、キノも礼を言う」
「ありがとうございます。では、ごちそうになりますが……、ボクからは何もお返しできませんよ」
「ここまでの旅の話、いろいろな国の様子で十分よ、さあ、いただきましょう!」
「――とまあ、ボクがここまで来た時に見た、ここから東にある国々の様子は以上です。必ずしもその国の全《すべ》てを見てきたわけじゃないんですが……。参考になりましたか?」
「うんうん。なったなった。ありがとね。――このお肉|美味《おい》しいでしょ? もう一皿頼みましょう。飲み物も追加ね。このレストランはボタンを押すだけで頼めて、すぐに出てくるのよ。――よっと」
[はい……」
「お姉さん、ホントお金持ちだね」
「そりゃそうよ。私はベストセラー作家よ。今も私の本は増刷《ぞうさつ》されているから、黙っていてもお金は入ってくるの。はいお肉来たわよー。食べて食べて」
「あ、どうも。いただきます。――でも、さっき言ったみたいに、元はボクみたいな旅人だったんですよね?」
「ええそうよ。――この国に来たのはちようど一年くらい前ね。その前も、だいたい半年くらいの滞在で色々な国を訪ねているわ」
「本格的な旅人だね。それがまた、どうしてさ?」
「んー、この国は妙《みょう》に気に入っちゃってね。――あ、質問はそっちじゃないか。どうして旅人の私がこの国で作家になっているのか?≠チてことね」
「はい。教えてもらえますか?」
「理由としてはシンプルに、売れる本を出したからよ。本屋で私の名前と顔写真がでーんと載《の》ってるの売っていたでしょ?」
「見たよ。山槙みだった」
「見ました。実は昨夜、ホテルにあったその本を強く勧められて読んだんですが……」
「まあありがと、で、どうだったどうだった?」
「面白かったです……、とても、楽しみました。ホテルの人もみんな、面自いって言ってました」
「うーん。嬉《うれ》しいわね。読者の素直な反応ってほんと嬉しい!」
「でも……。えっと、これを言っていいのか分からないんですが……」
「ん? 誰も聞いてないから、言っちゃっていいわよ」
「言っちゃいなよ、キノ。この席はブレイクアウトさ」
「……?」
「ひょっとして、エルメス君の言いたいのは、無礼講《ぶれいこう》=H」
「そうそれ! お姉さんさっすが!」
「エルメス……」
「まあいいじゃん。ほら言いなよ、キノ」
「どうぞ」
「じゃあ言います。――あの話、ボクは前に別の国で読んだことがありました。作者名は、あなたじゃなかった記憶があります」
「うん。――それで?」
「登場人物の名前と、この国に存在しないだろういくつかの風習……、というか言葉というか、そういった細部を除いて、まるで一緒でした」
「そこで、キノさんはどう思った?」
「あなたは旅人でもあるし、その国で昔、別の名前で同じ本を出した可能性はぜロではないけど……、どちらかというとそうではなく――」
「続けて続けて」
「はい。ボクは最終的にこう思いました。――あなたはその本を書き写して、この国で自分が書いた小説≠ニして出版したんじゃないかって」
「素晴《すば》らしい! うんうん。そこに思い至るとは! 正解! 大正解!」
「え?」
「ありゃ?」
「何をそんなに驚いてるの? キノさんの言うとおりよ」
「えっと……」
「いいの? そんなにあっさり認めちゃって」
「いいに決まってるじゃない。他《ほか》に誰も聞いてないし」
「…………」「…………」
「明日出国するキノさんとエルメス君が黙っていてくれたら、それで済むしね」
「まあ、そうですね」
「もし言っちゃったら?」
「この豪華《こうか》な食事の請求書はぜーんぶキノさんに。そしてエルメス君のリフレッシュ計画は夢に終わりまーす」
「言わないよねキノ。――というか言うな。言っちゃグメだ」
「言わないよ。エルメス」
「だと思った。キノさんは旅人だからね。自分の不利益になるようなことはしない人だって分かってたわよ」
「すると……、ボクの推理したとおりなんですか……」
「そうよー。私は自分で何か書いたことなんて、つまり創作したことなんてないわ」
「一度も?」
「一度もよ。――そもそも私は、白分の国で一生を終えるのが退屈に思えて飛び出したんだけど、旅の間の辛《つら》い食生活や、国に入っても貧乏な切りつめ生活なんて嫌《いや》だったのよ。でも、旅の途中に手に入るものを売ったところで豪遊《ごうゆう》なんてできない。そこでハタと思いついたのよ」
「ふむふむ」
「どうせ国々を回るのなら、ある国では簡単に手に入るけど、別の国では珍しいものを取り引きすればいいって、まあ、これはどんな旅人でも考えるし、やっていることよね。でもって悩んだ、その中で一番利益を上げるものは何か?≠チて」
「それが、本ですか」
「そう! 他のものは一つを手に入れてその一つが売れたらお終《しま》い。どんなに高くなってもね。――でも本は違う。一冊の本でも、入気が出れば増刷《ぞうさつ》に応じて印税が入るわ」
「確かに、儲《もう》けるにはいいねえ」
「でしょー? そこで私は行動に移った。とある国で本を読みあさって、面白いと思ったものを馬に積めるだけ積んで、次の国に行ったわ。そこでも本屋をあさって、どんな本が売れているか調べた、それから、手持ちの本の中で、その国で知られていない、そして売れそうな本を選び出して、全部書き写した」
「それを出版社に、ですか?」
「そうよ、持ち込んだわ。読んでください。旅の途中で書いた自分の作品です≠チてね」
「なるほどなるほど」
「もちろん全部が全部すぐにとはいかないまでも、もともと出版されていて完成度が高い訳だし、やがて一つ二つと本にされたわ。最初はそれほど売れなかったけど、まあまた本を買い込んで、次の国に行って、そして同じことをする」
「ふむふむ」
「それから?」
「そのうちにだんだんと、この国で売れるお話は何か=Aこの国の読者にはどんなのが求められているか≠ェ分かってきたの。分かり方を学んだのね。――それからは楽勝《らくしょう》よ。手持ちの本で一番いいのを選び出して、その国で作家デビュー! 印税で儲《もう》けて、豊かな生活を楽しんで、その国に飽《あ》きたらみんなの涙の見送りを受けてまた次に。素晴《すば》らしい毎日だわ」
「それ、もう長いんですか?」
「そうねえ。十年は経《た》ったかしら? もう忘れちゃった。でも――」
「ても?」
「毎日とっても楽しいわよ」
「だろうねえ。キノみたいな極貧《ごくひん》旅ガラスとは違って――イテ」
「これは、あなたを非難しているわけではないんですが……。それは、あなたの行動は、読者や出版杜を騙《だま》していることにはなりませんか?」
「大丈夫よ。どんな国でも、読者は騙されてないわ。みんな騙されてるなんて全然思ってないもの、騙されてると思ってない人は騙されてないわよね。――それより、みんな面白い本を読んだってとても喜んでくれているわ。とても感動しました!≠ニか、素晴らしい本でした!≠ニか、この本に出会えて幸せです!≠ニか、たくさんのファンレターをもらった。もし私がいなかったら、みんなは一生読むことができなかった本よ。私は、自分がとってもいい仕事をしていると思ってるわ」
「なるほど……。では、出版社の方は? はっきりと言いますが、それは盗作《とうさく》≠フ出版をさせていることになりませんか?」
「ああ、そっちも全然平気よ、そう言い切れるわ」
「どして?」
「私は彼らにもちろん何も言っていないし、彼らも何も言ってこないけど――」
「けど?」「けど?」
「カラクリには気づいてるに決まってるわよ」
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第四話 「電波の国」
―Not Guilty―
私の名前は陸。犬だ。
白くて長い、ふさふさの毛を持っている。いつも楽しくて笑っているような顔をしているが、別にいつも楽しくて笑っている訳ではない。生まれつきだ。
シズ様が、私のご主人様だ。いつも緑のセーターを着た青年で、複雑な経緯《いきさつ》で故郷を失い、バギーで旅をしている。
そのシズ様だが――、ついこの前、腹部にナイフで刺《さ》し傷《きず》を負った。かなり危険な傷だったが、助けてくれた人の適切な処置と、シズ様の強勒《きょうじん》な体力で致命傷とはならなかった。
助けてくれた人と別れた後、シズ様は養生《ようじょう》のため、他《ほか》に何もない、誰も来ない海岸で、しばらくの、そして久方《ひさかた》ぶりの穏やかな時間を過ごした。
その間、海岸にはいろいろな物が流れ着いた。
豊富に食べ物が入った防水木箱や、飲み物の瓶《びん》。弾薬《だんやく》や爆弾《ばくだん》の類《たぐい》。燃料の缶《かん》。衣類の鞄《かばん》。時には金目《かねめ》の物。
それら全《すべ》てが、あの国≠ゥら流出した物に違いない。あの国≠ェどうなったのかは、知らない。
朝日で明るいテントの中に、くぐもった爆発音が届く。ぽんぽんと、続けて二回。そして静かになる。
「やってるな」
あぐらで座るシズ様が、そう笑いながら 言った。そして、お腹《なか》の包帯《ほうたい》をゆっくりと取っていく。ガーゼを外すと、傷口はすっかりふさがっていた。そこにはかなり乱暴に縫《ぬ》い、そして乱暴に抜いた跡が残っていた。一生残るだろう。
「もう大丈夫だ。準備を整えて、すぐにでも出発しよう」
シズ様がTシャツを着ながら言った。その上に、いつもの緑のセーターをかぶる。
「ティーは、どうされますか?」
私は、シズ様に穴を開けた少女のことを訪ねた。その当入は、今は近くの岩場で、水中で手榴弾《しゅりゅうだん》を爆発させる乱暴な漁法で朝ご飯を捕っている。
シズ様は笑って答える。
「バギーでよかったよ」
食料や燃料、着替えに使えそうな衣類、売れそうな物品、ティーが惚《ほ》れ込んだらしい手榴弾《しゅりゅうだん》やら飛び出しナイフ――。シズ様は積めるだけの物をバギーに槙んだ。バギーは、一回り膨《ふく》れた。
運転席にはセーターの上にパーカーを着たシズ様、目にはゴーグル。
助手席には緑色の瞳と白い髪《かみ》を持つ少女が、流れ着いたぶかぶかの黒いジャケットを気に入り、コートがわりに着て座っている。
私はそれまでの席を追われ、その細い足の間に、やや窮屈《きゅうくつ》な体勢で収まる。
そして、
「世話になった。この景色を忘れないよ」
「…………」
挨拶《あいさつ》を残し、私達は長い時間を過ごした海岸を後にする。
サイドミラーに映る海面が遠ざかって、すぐに見えなくなった。平坦《へいたん》な草原を、バギーは決調なエンジン音を立てて走る。
「大丈夫。きっとすぐに、過ごしやすい国が見つかるさ」
吹き込む暖かい風の音に負けないよう、シズ様は明るく力強い口調で、ティーに言った。
ティーは、
「…………」
いつもどおり、無表情で無言のままだった。
すぐに見つかる
そんなことはないだろうと私は思って――
そんなことはどうでもいいだろうと私は思った。
*      *      *
広い草原に、春の通り雨が降っていた。
温度は高くも低くもなく、湿度は高いが不快ではない。
草原のあちらこちらに見える大きな木、そのうちの一本の真下《ました》にバギーが止められていた。
青いビニールシートが、雨|避《よ》けのタープとして車体の上に張られて、一方はバンパーに、一方は枝に結ばれている。
枝や葉から時折落ちる大きな雨粒が、ぼっ、と音を立てて、その度に助手席のティーが見上げる。視線を正面に戻す。ぼっ。また見上げる。
シズ様は運転席に座り軽く目を閉じて、私はボンネットの上に伏せて、雨が通り過ぎるのを待っていた。一日中降るようなら雨具を着て走り続けるが、今は休憩《きゅうけい》だ。地平線の向こうでは雲の切れ間から日が差しているので、止《や》むまでそれほどかからないだろう。
「次にたどり着く国は、どんなだろうね……?」
目を閉じたまま、シズ様がつぶやいた。ティーは当然のように、
「…………」
何も言わない。運転席側に、ちらりと緑の瞳を向けただけで、また戻す。
私も質問には答えられない。どんなところかは、誰も分からない。この世界にはたくさんの国があって、それらに同一のものはない。
もっともその前に、この広い草原に国を見つけることができるかも問題だった。それでも、シズ様は道を見つければいいだけさ、と前向きだ。
雨はまだ細く降っているが、頭の上から雲は去った。太陽が私達を照らし、青いシートが眩《まぶ》しく光った。
シズ様は紐《ひも》をほどき、シートをはらった。進む先の空には、大きな虹《こじ》が出ていた。
よく見ると、二重に。
バギーは濡《ぬ》れた草を踏みつけながら、草原を快調に飛ばす。方角は西。
私は出発前、ティーが車酔いするのではと思っていたが、心配は無用だった。ティーは硬いシートにも(下に服をまるめたクッションは敷いていたが)、きついシートベルトにも、揺れる車体にも動じず、人生で初めて見る大地の景色を楽しんでいるようだ。草原の彼方《かなた》に鹿《しか》などの大型動物の姿があると、
「…………」
首を限界まで回してその姿を追った。
こうして草原を走ること丸一日、夕暮れの中、私達は一本の道を発見した。
それは南北に走る道で、車の轍《わだち》があった。道は国と国を繋《つな》ぐ。シズ様の言うとおり、これをたどればどこかしらの国へは着くだろう。北に向かうか南に向かうか、シズ様は座席の後ろの鞄《かばん》に手を突っ込み、小さなコインを取り出した。それを、助手席のティーの小さな手に握らせた。
「…………」
不思議そうな目でコインを見ているティーに、シズ様が言う。
「それを投げて決めるんだ。今見ている表が出たら、南に行こう。数字のある裏なら、北だ」
ティーはこくんと頷《うなず》くと、左腕でコインを投げた。思い切り。
コインは放物線を描き、十メートルほど離れた草むらに落ちた、
「あ……。陸、頼む」
表だった。私達は、南へ向かった。
その口の晩。草原にテントを張って、その中でシズ様が、
「こういう風に、軽く投げて空中で握る。別の手の甲《こう》に乗せて――」
ティーにコインの投げ方を教えていた。
翌朝。
左からの眩《まぶ》しい朝日を浴びながら、バギーは道を南下した。
私とシズ様は、単なる移動中はほとんど会話を交わさない。今までそうだったし、ティーが加わってもそうだった――、まあ。当たり前か、ティーは何も喋《しやぺ》らず、ただただ、飽《あ》きもせずに景色を見ている。
出発して延々走り、昼近くになって、
「見えた」
シズ様が初めて口を開いた。そして前方を指さす。灰色の城壁が、地平線の下からせり上がってきた。ティーが進行方向に目をやり、
「…………」
無言で睨《にら》む。
「昼食は自分達で作らなくてすむようだ」
シズ様が言った。
入国の許可は、特別問題なく下りた。泥《どろ》で薄汚れた荷物|満載《まんさい》のバギーが、城門をくぐる。
大きな国だった。遠くから見ても十分幅広の城壁だったが、城門前広場の国内地図を見て、南西への奥行きが深い歪《いびつ》な形だと分かった。
私達は国の中を走った。きちんとした国だった。信号のある町中を整った身なりの人々が歩き、きれいな車が走る。高いビルはないが、それは国が広くて必要ないからだ。治安はよさそうに見える。
街中を走り抜け、畑が見える郊外へ。入国審査官が教えてくれた、安くて駐車場のあるホテルに到着した。平屋で、横に長い建物だった。
いつものシズ様なら、 一番安く狭い部屋を取るが、今回はベッドが二つの部屋にする。
シズ様は久しぶりのシャワーを楽しみ、ついでに私を洗ってくださった。謹《つつし》んでお断りはしたのだが。まあ確かに汚れていたが。
ティーはバスタブが理解できなかったようだが、シズ様の簡単な教えですぐに学んだ。この少女は、思ったより順応性が高い。
近くにレストランがあり、頼めば持ってきてくれるので注文する。シズ様とティーはパンにいろいろな具材をのせてチーズをかけ、こんがりと焼いた料理を食べた。むろんティーには初めてだろうが、彼女は食べ物に文句は言わない。見たところ、携帯食料ほどの感動はない様子だった。
この日の午後は、役割|分担《ぶんたん》をして過ごした。
シズ様は売れそうな物を売りに行き、必要なものを買ってきた。待つ間、私とティーは部屋で、手持ちの服を洗って干した。私がやり方を教え、ティーが行う。初めてらしいが、この少女は基本的に器用でもあった。
「さて、話しておきたいんだけど」
部屋での多少豪華《こうか》な夕。食の後、小さな丸テーブルの向かいに座るティーに、シズ様が言う。
「私達の目的は、いろいろな国を見て歩くこと――、つまり旅を楽しむこと=Aではないんだ。、私は、どこか落ち着いて住める国を探している、白分のできることで、誰か、他《ほか》の人間の役に立ちたいと思っている」
「…………」
「この国が、どんなところかはまだ詳しく分からない。これから知ろうと思う。今のところは、悪い国じゃなさそうだ。食事も美味《おい》しいしね」
「…………」
「明日から、偏見《へんけん》を持たず、先入観も持たず、国を見て回ろうと思う。気がついたことがあれば、教えてほしい」
「…………」
「気をつけることとして――、ここは大勢の人聞が生きている国だ、今のところ私達はお客さんで、滞在させてもらっている立場だ、だから、行動は慎重《しんちょう》に。いきなり人を傷つけるような言動は控えなければいけないよ」
これは、今まであちこちで首を突っ込んでいるシズ様が言うとかなり疑問符がつくが、旅慣れしていないティーへの注意だったのだろう。
「分かったね?」
ティーは素直にこくんと頷《うなず》いたが――、全然分かっていなかったことが後に判明する。
翌日。
シズ様はティーと私を連れ、バギーで国の中を走る。天気はいい。
シズ様は緑のセーターにジーンズ姿、ティーは茶色で長袖《そで》の丸首シャツに灰色のショートパンツ。洗濯してきれいになっている以外、何も変わっていない。
シズ様の刀は、町中では袋に入れて手に持つ。ティーは肩掛けの小さな鞄《かばん》を持っていて、中には水筒《すいとう》とか携帯食料を入れているようだった。
広い国の中の、都市部分、農地、住宅地――、私達はあちらこちらを見て回った。
国の人々は旅人を珍しがり、また歓迎してくれた。都市部で誰もが道を丁寧《ていねい》に教えてくれたし、農地ではとれたてのトマトをいただいた。
シズ様が移民について訊《たず》ねると、役揚で住民登録をし、仕事をして金を稼《かせ》ぎ、きちんと税金を納めれば何も問題はないとのことだった。よそ者の受け入れを一切認めない国が多い中、かなり寛容《かんよう》な方といえる、珍しい。
政治システムは民主主義で、選挙で公平に代表を選んでいる。王様や独裁者が馬鹿をやる国を見てきたシズ様の日には、悪くは映らないだろう。
経済的にも安定していて、飢《う》えて死ぬような人の数は極めて少ない様子だった。人々は、この国での安定した生活を喜んでいる節《ふし》が見られた。
丸一日の見学ツアーを終えて部屋に戻ってきて、シズ様はそれは上機嫌だった。
「普通の国≠セった」
シズ様が言った。そして、普通に国が動いていくためには、そこに住む多くの人の努力が必要で、これは大変なことなんだと付け加えた。
私が気に人りましたかと訊ねると、シズ様は頷《うなず》いた。
「しばらくここに住んでみるのも、悪くないと思う」
「…………」
ティーは賛成なのか反対なのかどうでもいいのか、いつものように黙っていた。
次の日も、私達は国見学をした。少し雲が多いが、雨はなさそうだった。
それにしてもこの国は広い。誰が造ったのかはもちろん分からないが、とりあ。えず囲めるだけ囲みましたといった趣で、草原や森に高い城壁が走る。
北の城門、そしてその近くの街から足を伸ばして、南にある大きな街へ向かった。昨日《きのう》のホテルの部屋は引き払ってきた、
南の街は活気にあふれていた。通りを路面電車が走っていた。たくさんの人達がいた。
「…………」
ティーには初めて見るものばかりで、どこへ行っても、どこを歩いていても。首をせわしなく動かしていた。
広い家や商店が並ぶ通りの一角で、シズ様は燃料スタンドにバギーをつける。入れられる時に入るだけ入れるのは鉄則だ。
給油中、私とティーは歩道に立って、街並みを眺めていた。
昼が近づき、やや嚢り空の下、買い物に向かう主婦や、昼食に向かう仕事入などがいた。私達を見て、笑顔で手を振ってくれる人もいた。
そんな時、一人の男が燃料スタンドの脇《わき》から出て、歩道を私達へと向かってきた。
五十|歳《さい》ほどの中年男性。体格は細身《はそみ》で、着ているのは白いワイシャツ、そして下は下着一枚で裸足《はだし》。共に血で真《ま》っ赤《か》に染まっていた。
男は右手に、何かをぶら下げている。それは人聞の生首《なまくび》だった。生首に繋《つな》がる長い髪《かみ》を右手で握り、舗装《ほそう》につくかつかないかの位置で首が揺れていた。血が滴《したた》り落ち、歩道に跡を残す。
「…………」
ティーが男を睨《にら》んだ。私達までの距離は二十メートルほどか。
「シズ様!」
私がシズ様を呼ぶのと、男を見た燃料スタンドの女性従業貝が悲鳴を上げるのが同時だった。 男はふらりふらりと歩き、私達に近づく。さも当然そうに、表情は落ち着いていた。
私はティーの前に出て、さて捻《うな》ってみようか吠《ほ》えるべきか、それとも話しかけてみるかと考え、でもそんなのを気にしそうな感じではないなと思った瞬間、シズ様が目の前に飛び出してきた。袋ごと刀を携《たずさ》えている。
「まさかとは思うが……、この国では普通の姿ではないよな」
シズ様がつぶやく。血だらけで生首をぶら下げて歩くのが普通の国は、かなり嫌《いや》な国だ。しかし、女性従業員が半狂乱で、
「だ、だれか警察呼んでー! けーさつーっ!」
そう叫びまくっているのを見ると、
「きゃーっ!」
そして通行入も悲鳴を上げているのを考えると、常識的に判断してもよさそうだ。
「あなた、何をしている? その血と、首はなんだ?」
それでも一応シズ様は聞いて、男が、
「うるせえお前も死ぬか?」
そう言ったのを確かに聞いてから動いた。スッと近づき、刀の先で袋ごと、鞘《さい》ごと男の鳩尾《みぞおち》に一撃。男は坤《うめ》きながら崩《くず》れ落ちた。
生首が歩道に落ちて、転がって、車道との問にある側溝《そっこう》の蓋《ふた》の上で止まった。
さほど経《た》たずに、近くを巡回中だった警察がやってきた。シズ様は男を引き渡した。
何が起きたのかは分からないので、見たことやったことだけを警官に報告する。燃料スタンドの従業員達が私達のことを賞してくれて、疑いの目は向けられなかった。
意味不明な言葉をわめき散らしながら、男が連行されていく。生首の写真が撮られ、袋に入れられる。顔面|蒼白《そうはく》の女性従業員がやってきて、あの男はすぐ近くにある幼稚園の園長だと言った。さっきから幼稚園に何度電話しても誰も出ないと続け、今度は警官達が青ざめた。
駆《か》け出した四人の警官達に、シズ様が続く。私は悩んだが、ティーが当たり前のようにシズ様についていったので、後から追った、
数十メートル離れた、学校のミニチュアみたいな建物が幼稚園だった。歩道の血痕《けっこん》はそこへと繋《つな》がっていた。というより、そこから来ていた。
「誰か! いますか?」
警官が声をかけながら、しかしハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器《じゅうき》。この場合は拳銃《けんじゅう》)を手にしながら、建物に入る。本来関係ない私達は押し止められるかと思ったが、そんな余裕《よゆう》は警官にもなかったのか、後ろから堂々とついていけた。
そして、血痕《けっこん》の生まれた場所へ、建物中央の広い部屋に出て、その中の様子を見て、
「わあっ! うわあ……」
若い警営が一人、気を失って倒れた。
むわっとした血の臭《にお》いが充満するそこは、戦場か処刑場といった趣だった。首を切り取られた女性の遺体が、数人分転がっている。恐らくは保母だろう。
床の絨毯《じゅうたん》は、その血をたっぷりと吸い。部屋中が赤い湿地帯と化していた。その中に、園児の小さな体がゴロゴロと転がる。二十強か。全員が口から白い泡《あわ》を吹き、小さな両|眼《め》を剥《む》き出しにしてピクリともせずに倒れていた。紙コップが散らばっていた。
「…………」
警察、シズ様、私、誰も彼もが黙りこくる中、
「みんなしんでる」
ティーが言った。
この日は、警察署の近くのホテルに泊まることになった。夕。方近くまで、現場検証につきあうことになったからだ。
あの後の現場は、阿鼻叫喚《あびきょうかん》の巷《ちまた》と化していた。話を聞いて駆《か》けつけた園児の親が、運び出される途中の死体袋にすがり、子供の顔を見ては失神したり叫びまくったり。まわりには黄色いテープが張られ、近所の住人や報道関係者がうじゃうじゃと集まってきた。
結局、中にいた園児二十二人全員、保母六人全員が毒殺されて、さらに大人《おとな》は首を切り取られていた。昼食《ちゅうしょく》のお茶には、猛毒が入っていた。園長の男が一入でやったとされ、ほぼ間違いないらしい。毒薬の瓶《びん》や血まみれの電動ノコギリも見つかった。部屋の隅には大匿の燃料が積んであった。発火装置もあったが、手製の導火線は血で消えたらしい。
シズ様はそのうち表彰されるらしいが、あまり当人に興味はない。大量殺人を止める手段も、事前に知る手段もなかったので、子ども達の死を悩んでも仕方がないことも分かっているはずだが、シズ様はどうにも暗い表情のままだった。
ティーは普段と変わらない。用意された夕食を、全《すべ》てぺろりと平らげた。
夜、部屋にあったラジオが、事件のことを淡々と、できる限り客観的に伝え続けていた。適当に聴いて切って、
「人が多くいれば、こういうこともある。――貧しい国では、生きるための犯罪が多い。逆にここのように大きくて豊かな国では、それらが少ないかわりに、まれに猟奇《りょうき》的な犯罪が起こる
と聞いたことがある。悲しいが、仕方のないことなのかもしれない――
シズ様が言った。
余談だが、バギーの燃料代はどさくさでタダになった。
次の日。
昨日《きのう》に増して雲が低い。いつ降ってもおかしくなさそうだ。
朝食後シズ様は歩いて警察署に向かった。私とティーも続く。初老の男が警察|署長《しょちょう》として現れ、応接室に通された。署長と少し若い副署長、そして私達がテーブルを挟《はさ》んで座る、お茶が出た。
署長はシズ様に、犯人|逮捕《たいほ》に始まる捜査《そうさ》協力の礼をした。シズ様が、今後裁判になる場合、自分の証言が必要か訊《たず》ねた。その場合は、どれくらいかかるのかは分からないが、人の役にたつのならこの国に滞在すると言った。
そして署長は、首を横に振った。
「その必要はないでしょう。あの男は、裁判には行きません」
シズ様が小さく眉《まゆ》をひそめる。あれほどのことをしでかしたら裁判抜きで即死刑なのかと私は思ったが、それも違った。署長はこう切り出した。
「あの男、園長さんの行動は、あまりに常軌《じょうき》を逸《いっ》しています」
それは分かる。シズ様も頷《うなず》く。
「この国では、数年に一度、こういった事件が起こります。猟奇《りょうき》的な大量殺入です。とても悲しく、残念なことですが」
昨夜にシズ様が言ったことだ。と、ここまでは納得できた。
「それらは、悪い電波を受信することによって起こされるのです。だから罰することができません。あの男は無罪となり、病院で隔離《かくり》され治療を受けることになるでしょう」
これは意味が分からない。
「どういうことですか?」
シズ様が、身を乗り出して聞いていた。
署長は重苦しい表情で立ち上がると、窓際に歩き、外を眺めた。まだ雨は降っていない。
「この国には、少し悲しい歴史がありましてな……」
署長が背中を向け、唐突《とうとつ》にそう言った。シズ様も私も、続きを待った。
「この国は、大昔にたくさんの奴隷《どれい》が集められて造られたそうです。もう何百年も前の話ですが。奴隷達は使役させられるために、頭の中に小さな機械を埋め込まれていたそうです」
「機械、と言うと?」
シズ様の問いに、座ったままの副署長が答える。
「ラジオのようにそこに電波を送り、受信させ、人間を意のままに操るもの……、そう記録に残っています。そうでもしないと、広い国で全員を使役させることは不可能だったでしょう。しばらくそんな時代は続き、理由は不明ですがある時突然に解放され、奴隷《どれい》達は住み続けて今に至ります。まあ、私どもでは、あまり歓迎すべき過去ではありませんので、旅の方にこれを言うことは滅多《めった》にないのですが」
「分かりました。私は記者ではありません。そして今回の事件との関係は?」
シズ様は署長《しょちょう》に声をかけた。署長は振り向いた。渋《しぶ》い顔をして、こんなことを言った。
「ですから、我が国で時たま起こる昨日《きのう》のような出来事は、全《すべ》てその機械と電波≠ェ原因なのですよ」
「電波が原因ですか……」
「そうです」
シズ様が返して、署長によって力強く肯定された。
「国内の、西のはずれの森に、永久立ち入り禁止になっている広い区画があります。そこに何があるか、ご存じですか?」
シズ様が正直に知らないと答えた。地図で区画は見たが、まだその辺は行っていない。
「では教えましょう。永久立ち入り禁止の区画、そこに電波基地≠ェあります。かつて私達の御先祖を操っていた、電波を発信するための基地です。大きなアンテナと、強力な発電施設があ。ります。――その電波基地を操る者はいなくなりましたが、機械は残っています。そして電波基地は突然電波を送り、その電波は、奴隷の子孫である我が国の住民に襲いかかります。運悪く受信してしまった不幸な人が、先のような悲しい出来事を、本人の意志に関係なく起こしてしまうのです。国民の誰もが、園長さんのようになる可能性は常にある。そんな恐怖は、私を含め国民全ての中にある。そんな不幸な人閲を、通常の刑法で裁くことなどできません。
その人も被害者です。そんな人の責任は問えないのです。例えどんなことをしたとしても、無罪にするしかないでしょう」
署長は真剣な顔で言い切った。イスに戻り座り、シズ様をやや睨《にら》む。
「そういうわけですので、警察として、あなた方の昨日の行動に礼は言います。ですが、あなた方が我が国に対して、かのような猟奇《りょうき》的犯罪が多発する危険な国ぞあるとの印象を持たれているとしたら、それは大きな聞違いであることも知ってほしい。我が国には、正気≠ナそのような事件を起こす人は一人もいません。全《すべ》て電波のせいなのです。――国民皆が、辛《つら》いながらもその事実を重々《じゅうじゅう》分《わ》かっているように、旅人さんにもこのことは分かっておいてもらいたい」
つまりは、よそ者が事情も知らずに我が国を誤解するなよ、と言いたいらしい。
シズ様が訊《たず》ねる。
「しかしその機械は、その機械の能力は、子孫にも伝達されるものなんでしょうか?」
予想どおり、署長も副署長も明らかに気分を害した。副署長が言い返す。
「あなたは、生物学者か何かですかな? 医者ですか? 物理学者?」
「すべて違いますが」
「では、少しピント外れの質問でしたな。我が国では現実開題として、長年それで悩んでいます。これらは歴史的な事実ですので」
署長が自信たっぷりに言い切った。
シズ様が、それではと別の方向から問う。
「諸悪の根源であるその電波基地ですが、もはや必要ないそれを破壊すれば、この問題は解決するのではないでしようか?」
言葉だけ聞けばもっともですが、と副署長は前議きして、
「できることなら、とっくにやっていますよ。あなたはなぜ電波基地周辺が永久立ち入り禁止になっているか、頭が回らないようですな。基地に近づけば近づくだけ、電波は強くなる。正気を失うだけですよ。できるはずもないことを言わないでもらいたい」
「なるほど。確かにそうですね。よく分かりました」
シズ様はそう言った。
そして、
「では、私がその役を引き受けましょう。旅人である私なら、この国の住人ではない私なら、電波の影響もないでしょう。成功すれば、みなさんは今後一切電波の心配をせずにすみますよ」
バギーを走らせながら、
「まあ、立ち入り禁止のところを見学できて幸運だ、くらいの気分だな」
シズ様が言った。ここは国内の草原で、ティーは助手席に、私はその足の間だ。時刻は昼の少し前、天気は相変わらずの曇り空。
警察署で話をつけて、私達は電波基地の偵察《ていさつ》と破壊に向かう最中だった。街を離れ、荒れ放題の草原を西に向かって走る。
ちなみにティーには来なくていいと、シズ様は言ったのだが、露骨《ろこつ》に無視されて助手席に座られてしまった。
シズ様はセーター姿、ティーは黒いコート。バギーには、警察署でもらった高性能爆薬がパンパンにつまったリュックが積んである。建物一つくらいは平気で吹き飛ばす量だ。
出発はしたが、その言葉で分かるとおり、シズ様は電波の影響で人間に影響を云々《うんぬん》≠本気で捉《とら》えてない。私と同じく。
シズ様が続ける。
「その機械が頭にあったのならともかく、何世代も後になってしまってはね……。ただ、放棄《ほうき》された昔の機械が勝手に動き続けている事例は、私が見た中でもゼロではなかった」
確かに。ついこの前も見た。ティーの手前、はっきりは言わなかったが。
「だから、ここの電波基地も、もしかしたら白動発電で動き続けているかもしれない。それを完全に破壊した証拠写真を撮れば、国の人達もひとまず安心するだろう」
「私達をほめてもくれますしね。その後、何かと利があるでしょう」
「ま、それもある――」
やがて、鬱蒼《うっそう》とした森が見えてきた。高さニ十メートルはあろう木々が密集して、開けた草原とは別世界を作っている。植林でもしたのだろう。電波基地はこの中にあるはずだ。
シズ様はバギーを止めた。爆薬のリュックを背負う。起爆装置である信管が入った小さな箱は、ティーでは今一つ不安。なので、私の首に巻きつけることにした。今ロは長ズボンの彼女には、惜りたカメラ、水や食料、上着などを持ってもらう。
かくて私達は、国の中で、天気の悪い日に、爆薬を背負って、森ヘピクニックに行く。
森の中は薄暗い。人が入らないから道もない。私達はコンパスを使い、草を踏みしめ倒木を乗り越え、ひたすら西へ進んだ。
小《こ》一時間|経《た》っただろうか。進む先に、朽《く》ち果てた車を何台か見つけた、小型車から、大型のトラックもある。金属のボディが錆《さび》で黒く染まり、草木に埋没《まいぼつ》していた。さらにそこから少し行ったところで、私達は目指すものを見つけた。
「これ、だろうな……」
その前で、シズ様がつぶやく。重いリュックを下ろした。私と、そしてティーが脇《わさ》に立って、同じものを見る。
森の中に、アンテナ施設があった。確かにここは、電波基地だった。
だったのだが、
「私達が爆破するまでもない」
シズ様が言うとおり、電波基地はとっくに朽ち果てていた。
立っていた峙は高さ百メートル近いアンテナであっただろう鉄塔《てっとう》は、基部部分から折れ曲がり、完全に横倒しになっている。全《すべ》てが錆びて、鉄骨と鉄骨の合間からは木々が伸びる。
倒れたアンテナの脇には、制御《せいぎょ》施設だったのか発電所だったのか、建物の跡があった。二十メートル四方ほどの四角いビル。かつては、四階建てくらいはあったのだろうか? 折れた骨組みと僅《わず》かな外壁を残すだけになっている。一応中を覗《のぞ》くと、遁がなんだったのか分からない機械の破片が、草葉《くさば》に埋《う》もれて僅《わず》かに見えていた。
「他《ほか》にいくつもあるとは聞いていないし、やはりこれなんだろう」
「どうされますか? シズ様。爆破しますか?」
「爆薬がもったいない」
もっともだ。もはやここは遺跡《いせき》だ。
シズ様はカメラで、撮れる限りの写真を撮った。この写真は、現像しなくてもすぐに像が浮かび上がるので便利だ。全体図、建物の内部、アンテナの様子など。大きさを測るため、ティーをあちこちに立たせ、仏頂面《ぶっちょうづら》がいくつも撮れた。
「どうだい?」
シズ様がティーに見せると、
「…………」
ティーは無言でそれを眺め、どれも同じに見える中、一枚を抜き出して白分のポケットにしまった。
「まあ、一枚くらいはいいか」
その後、念には念をということで、シズ様は近くの高い木に登って、まわりに何もないか確認した。森の様子を見渡したが、似たような施設はなかった。
「戻ろう」
シズ様が爆薬を背負い直し、私達は帰路についた。小《こ》一時聞かけて森を戻り、曇天《どんてん》の下バギーを走らせた。
「ひとまずは、国の人も安心するだろう」
シズ様が言った。
夕方近くなって、私達は警察署の前に戻った。
政府に連絡がしてあったのか、署長の他《ほか》、背広姿で強面《こわもて》の男達が何人も出てきた、。建物の前で、わらわらとバギーを取り囲む、カメラやメモ帳を手に、数十人の報道|陣《じん》の姿もあった、次々に写真が撮られる。さらに騒ぎを聞きつけた野次馬《やじうま》が、付近の住民だろうか、老若男女《ろろうにゃくなんにょ》が集まっている。思ったより大事《おおごと》になっている。
シズ様は、ひとまず爆薬と信管を警官に返した。
そして、皆が注目する中、署長と背広男達の前に報告に立つ。
「確かに、電波基地はありました」
シズ様が…言って、
「おお。それでどうだった?」
やきもきしている署長達へ、撮った写真の束を差し出した。男達が、写真を凝視《ぎょうし》していく。
「でも、ご覧のとおりです」
「爆破したのかね? 爆薬はずいぶん余っていたようだが……」
署長が聞いて、
「いいえ。私達は何もしていません。――機械の錆《さび》の様子や、高い木が倒れた塔《とう》を縫《ぬ》って生えている様子がお分かりになりますか。その電波基地は壊《こわ》れていて、何十年も、ひょっとしたらもっと前から機能していませんでした」
写真が落ちた。男達の手から、バサバサと。私達を囲んでいた報道陣《じん》からも、驚きの声が上がる。
「そ、そんな馬鹿な!」
背広の誰かさんが叫んだが、その手には拾い上げた写真がある。彼は写真に再び目をやって、
「そんな馬鹿な!」
同じ言葉を叫んだ。シズ様が続ける。
「ですから、この国の国民が電波で操られている≠ニいうことは、決してありません。今までも、操られたと思えたのは、残念ながらその人個人の問題であり、犯罪でしょう」
シズ様は当たり前のことを当たり前に言っているだけだが、この辺から周囲の雰囲気がおかしくなってきた。署長《しょちょう》は呆然《ぼうぜん》とし、背広連中は手を震わせ、報道陣は写真を撮るのも忘れて問まる。野次馬《やじうま》は黙りこくる。
「電波基地からの指令など、今までもこれからもありませんので、皆さんは安心して――」
明るい口調で続けたシズ様の発言を、
「嘘《うそ》だっ!」
署長の叫びが遮《さえぎ》った。
「そんなことはありえない! 今まで、そして昨日《きのう》も起きた極めて陰惨《いんきん》な事件が、電波の影響ではないというのか!そんなことはありえない!」
背広の誰かさんが引き継ぐ。
「そうだ! 我が国には、そのようなことを自らの意志でしでかすような者はいない!」
そうだそうだと、同意の声が上がった。気づけばそれは報道陣からも。野次馬からも。
「しかしですね、現に電波基地はその有り様です」
シズ様が困った様子で説明し、納得を求めたが、
「分かった! これらは全《すべ》て、偽造《ぎぞう》されたものだな!」
背広さんは、真顔《まがお》でそんなことを言い出してしまう。周りの人間が、そうだそうだと同意する。一体どうやってそんなことができるかは、彼らには問題ではないらしい。
「さては貴様《きさま》……、電波基地の影響を受けたな!」
「そうか! それだ! この男と犬と少女は、未だ作動を続ける電波基地に近づきすぎた。それ故に国民ではなくても影響を受け、こんな行為に及んだのだ。写真を振造《ねつぞう》し、我々に嘘《うそ》を言った!」
どうにも無茶苦茶《むちゃくちゃ》で、そんなことをして私達にどんなメリットがあるのか聞きたいが、そうか電波のせいか。
ここにいるシズ様とティー以外の人間は、それをすんなり受け止めたようだ。
「そのようなことはありません。もう一度考え直しを」
シズ様が少し呆《あさ》れた様子で言ったが、堰《せき》を切って流れ出したその場の雰囲気は、元には戻らない。署長《しょちょう》が、
「こいつらをこのままにしてはおけない! 二人と一匹を確保しろ! 早めに病院に送り込み、隔離《かくり》するしかない!」
とか言ってしまった。命令を聞いて、警察署から警官がわらわらと出てきた。シズ様とて、国内で警官相手に大立ち回りを演じるわけにはいかない。抵抗する素振りは見せず、
「私は、影響など受けていません」
あくまで冷静に話しかけた。
一方私は、その気になれば警官隊の足下をすり抜けて逃げられるが、シズ様を残して逃げても仕方ない。ゆっくりと手を挙げたシズ様と同じく、その脇《わさ》で抵抗せずにいた。
ティーだけは違った。
いつの間にか、私の後ろからいなくなっている。首を振って探すと、警官の足の向こうに、背をまるめて駆《か》け抜ける小さい背中が見えた。
そしてバギーに取りついて、そこで何をするのかと思ったら、自分の肩掛け鞄《かばん》をひっつかみ逃げ始めた。驚いている報道陣《じん》もするりとかわし、見えなくなった。
ティーならちょこまかと逃げられるかなと思ったし、でも逃げてどうするのかとも思っていた時だ。
「キャー! 何するのよーっ!」
報道陣の向こう、野次馬《やじうま》の中から凄《すさ》まじい悲鳴が聞こえた。若い女性の、甲《かん》高い悲鳴。
警官隊が、署長さん以下偉《えら》いさんが、シズ様が、報道陣が、悲鳴の方へ顔を向ける。
「やめて! 返して!」
同じ女性の悲鳴。そして、報道陣の列が、ざっ、と割れた。
そこにいるティーを見て、
「ああ……」
シズ様が溜息《ためいき》を漏《も》らした。
「お前! 何をする!」
警官が怒鳴《どな》った。
鞄をたすきがけにしていたティーは、その左腕に赤ん坊を抱えていた、まだおしゃぶりを銜《くわ》えた、小さな乳児だ。そして右手には、手榴弾《しゅりゅうだん》を握っていた。辺り一面破片を撒《ま》き散らして殺傷する、パイナップルによく似た手榴弾。
よく見ると、安全ピンが完全に外れている。ティーが手を離せば、握っているレバーがはじけ飛んで、四秒もせずに爆発する。そんなものをいつも鞄に人れておいたのか。
爆発すれば、テイーも赤ん坊も吹っ飛ぶし、近くにいる警官隊も数人巻き込まれるだろう。
私は、私なら伏せれば大丈夫かなと思った。ティーがうっかり手を滑《すべ》らしたりしたらまずいなと思った。海岸での漁業≠ナ慣れているからそれはないかもなと思った。
「わたしたちのじゃまするのをゆるさない」
ティーの、今日初めての言葉。
「…………」
警官隊が黙り込み、やがて、おいやめろ、とか、おちつけ、とか、馬鹿な真似《まね》はよせ、など、だいぶ腰が引けた状態で、目の前の少女に話しかける。
ティーは、きょとんとしている左腕の赤ん坊を軽く抱え直して、それから一歩近づく。警官隊が身を引いた。
ふう、とシズ様が息を吐《は》いて、
「ティー。そういうことは、あまりしない方がいい」
「…………」
ティーは応《こた》えず、すたすたと私とシズ様に近づく、警官隊は後ずさりして、結果私達から離れた。
「見ろ! その子は電波の影響をうけて――、気が狂ってる!」
署長《しょちょう》が叫んで、
「なんでもいい。わたしたちのじゃまするな」
「…………」
ティーの言葉に、二の句が継げなくなる。
退《しりぞ》いた警官の向こうから、
「坊やを返してー!」
押し止められている女性の悲鳴が聞こえ続けていた。
自由になったシズ様はティーに近づき、ゆっくりとしゃがむと、笑っている赤ん坊の頭を撫《な》でた。それから振り向くと、
「署長さん。私達はもうだめだ。電波の影響で、正気が保てなくなりそうだ!」
そんなことを真顔《まがお》で言うので、
わおーん。
あまりやらないが、私は野犬のように遠吠えをいきなり一つ打つ。単なる演出だが、署長さん以下、皆がおもしろいようにたじろいでくれた。
「これ以上ここにいると、何をしでかすか分からない。それこそ、昨日《きのう》の男以上の、何かを!」
わおーん。
「だから、出国する。止めないでほしい!」
わおーん。もう十分かな?
「待て! だからといって貴様《きさま》赤ん坊を人質《ひとじち》に取るなど!」
「では交換ということで」
シズ様はあっさりと言い、すたすたと男達に近づくと、署長《しょちょう》の襟首《えりくび》を掴《つか》んでそのまま引っ張った。
「え? あ? ちょっと待て――。誰か――」
たくさんの呆然《ぼうぜん》顔に見送られて、署長はティーの目の前に連れてこられる。シズ様は署長の、ネクタイを手早くほどくと、彼の手首を後ろ手に結んでしまった。膝裏《ひざうら》を足で押して、その場に跪《ひざまず》かせた。
シズ様はティーに、署長を紹介する、
「ティー、この人が新しい人質《ひとじち》だからね。言うことを聞かずに暴れたら、手榴弾《しゅりゅうだん》を胸元からシャツの中に入れるんだよ。そして、いそいで彼の背中側に回るんだ。いいね?」
ティーがこくんと頷《うなず》いて、
「じゃあこの子はいらないね」
シズ様はティーの腕から赤ん坊を抱き上げた。二、三度高い高い≠して、嬉《うれ》しそうにはしゃぐ赤ん坊を、
「すみませんでした。母親に謝っておいてください」
そう言いながら、警官の一人に手渡した。
シズ様はバギーの運転席に収まり、エンジンをかける。ゆっくりと走らせ、跪いたまま震える署長と、その胸元に今にも手榴弾を落としそうなティーの脇《わき》に。
「署長さん、城壁までドライブしましょう。乗ってください」
「…………」
署長が黙りこくっていると、ティーが顎下《あごした》に冷たい手榴弾を押し当てながら一言、
「のれ」
「ひいっ!」
署長は悲鳴の後ふらりと立ちあがり、後ろ手を縛《しば》られたまま、助手席へと乗り込んだ。
ティーはその上から、向かい合うように無理に乗った。手榴弾を握る右手は署長の襟元に突き出したまま、左手でバギーのパイプフレームを握った。私が最後に、ボンネット脇の荷物ラックの上に載《の》った。快適な場所ではないが仕方がない。
「それでは皆様、私達は出国します。署長さんは城門を出たら解放すると思います。それまでは、電波の影響で何をしでかすか分かりませんので……、気をつけてください」
シズ様は大声でそう言うと、
「やれやれ」
溜息《ためいき》をついてからバギーを発進させた。
一番近い城門を署長に聞いて、さほど経《た》たず、私達は南門についた。
連絡がいっていたのか、城門は開いていた。番兵が恐る恐る隠れている脇《わき》を、バギーは通り過ぎ、城門をくぐる、
日が沈む時間が近い。薄暗い国の外に出て、パースエイダーで撃たれない程度に城壁から離れ、シズ様はバギーを止めた。
「すみません、署長《しょちょう》さん」
シズ様は、脂汗でびっしょりの署長に、一言詫《わ》びを入れた。ティーに手榴弾《しゅりゅうだん》を渡すように言って、渡された後、
「これの安全ピンは?」
「すてた」
仕方がないので遠くに投げた。空中でレバーがはじけ飛んで、ピーンといい音がした。草原に落ちた手榴弾は遠慮容赦《えんりょようしゃ》なく爆発して、穴を一つ掘った。
バギーからおりた署長が、爆発音でその場にへたり込んだ。シズ様が腰に刀を差してから、署長のネクタイをほどく。
「おまえらは……」
座り込んだまま、署長が言った。どちらかというと、ティーの方を見ながら。
「二度と我が国に来るな。近づくな。――イカレどもが。おまえらのような、気の狂った人間の居場所など我が国にはないぞ」
署長、さっきと言っていることが百八十度違う。
「分かりました。そうしますよ……」
シズ様が、ほんの少しだけ悲しげな顔で言った。ティーに、バギーに乗るように指さして、テイーがち。よこんと飛び乗る。
シズ様も運転席に収まり、署長に顔を向けて、
「最後に一言だけ」
「なんだ?」
「あの電波基地ですが……」
「それがどうした」
「写真で壊《こわ》れていたのは古い方で、今でも新しいのが完璧《かんぺき》に作動中です。強烈な電波が出ていましたよ。私達は影響など受けませんでしたが、あなた方は危険ですね。署長さんも、署長さんのまわりの人も、好きな人も、嫌いな人も、明日にでも」
「…………」
署長が、なんとも形容のしようがない顔で黙った。そして、
「はっ! やはりそうかっ! 私達は正しかった!」
嬉《うれ》しそうに雪ロう署長に、シズ様は続ける。
「そして私達は、基地の電波出力を最大にしてきました。明日にでも、その影響は国中に及ぶでしょう。署長《しょちょう》さんも、署長さんの好きな人も、国民全員が、みんなおかしくなってしまいます。その隙《すき》に国を乗っ取ろうと、基地は壊《こわ》れていた≠ニ嘘《うそ》を言ったのですが、失敗でしたね」
「…………」
署長は絶句し、
「さようなら」
シズ様は別れの言葉をかけた。バギーのエンジンをかけると、
「行くか。ティー、陸《りく》。どこかの次の国に」
「はい」「うん」
返事を聞いて、バギーを発進させた。
茜《あかね》色の草原を、バギーが走る。
近隣《きんりん》の国がどこにあるかを聞くヒマがなかったが、道は延びていたので、たどればどこかにはつくだろう。
シズ様はバギーを走らせ、ティーは相変わらずきょろきょろと忙しい。
「最後、署長はシズ様の言葉をどういう意味で取ったでしょうか? 明日以降何も起きないとして、電波の影響など本当はないと信じてくれるでしょうか?」
私は、シズ様に訊《たず》ねた。シズ様が答える。
「さあね。――電波のように、簡単に伝わればいいのに」
茜色の草原を、バギーが走っていく。
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第五話 「日記の国」
―Histrians―
五七三年|葡萄月《ぶどうづき》二十四日・晴れ エミリー・スプリングフィールド
きょうは、学校で楽しいことがありました。
学校に、旅人さんが来ました。旅人さんは、他《ほか》の国の人で、ずっと旅をしている人です。
前の日にわたし達の国に入っていました。ぐうぜんに校長先生に会ったから、学校にしょうたいされました。
教室に入ってきて、わたし達はとても驚きました。旅人さんは十五|歳《さい》のわたしのいとこと同じくらいに見える、まだ若い人だったからです。
初めはお兄さんだと思っていましたが、じつはお姉さんでとっても驚きました。
なまえはキノさんでした。旅はモトラドですると言っていましたが、一緒に来ることはできませんでした。
わたしがいちばん感動したのは、キノさんが一人で旅をがんばっていることでした。
国と国とのあいだはなにもなくて、誰もいないと聞いています。そんなところを一人で旅をするのはとても大変にきまっています。キノさんも、「大変なことはあるよ。自分でなんとかしなくちゃいけないし」とおっしゃりました。
この国でわたしはお父さんとお母さんといっしょに暮らしているから、生きていられるんだとおもいました。
だから、一番大切なことは、いつかりっぱになって、他のこまっている人を助けるのが必要だとわたし達はキノさんから学んだと思います。
五七三年|葡萄月《ぶどうづき》二十四日・晴れ ジーン・シュミットルビン
学校で旅人さんが来ました。僕は興奮しました。
旅人さんはこしに、かっこいいパースエイダーを吊《つ》っていました。大きな、重そうで。くろぐろして、強そうなパースエイダーでした。
旅人さんはきっと、わるいやつらをそれでやっつけて、だから旅をしていると思います。旅はあぶないから、そうに決まっています。
でも、旅人さんはケチでいやな人間でした。僕が「パースエイダーをみせてほしいです」とちゃんとたのんだのに、あぶないからとか言って、全然見せてくれなかった。
僕はえいがでパースエイダーのことをよく知っていました。僕のもっているおもちゃのパースエイダースーパーバギュンゼット≠、すごい上手《じょうず》に当てることができます、僕は。
二十人もいるのに、クラスでは一番です。それほどな僕を「あぶないから」と言ってもたせてくれないのは全然ちがうとおもいました。「なにかがまちがっている」ってこのことだと思いました。
お母さんは、ケチになっちゃダメですって言いながら、よく教会でパンをくばるお手伝いをしています。僕もしています。
旅をするとケチになっちゃうなら、旅なんかしちゃいけないんですと思いました。
五七三年|葡萄月《ぶどうづき》二十四日・晴れ キャリー・シュタイア
朝ご飯を食べるのに時間がかかりました。
学校で、おどろくことがありました。旅人さんが、見学したいときました。旅人さんとは、国を住まずに旅をしているひとでした。
キノさんといいました。髪《かみ》が短い人でした。
前の誕生日でした。私はお母さんに、髪が短くしたいと言いました。お母さんは言いました。女の子は髪が長くなくちゃいけないとお母さんは言いました。
私はキノさんが髪が短いのを見ました。どうして私はいけないのか分かりませんでした。
家に帰ってから言いました。お母さんは言いました。
女の子が髪が長くないと、けっこんできないんだしと言いました。私は子供だからけっこんできないんだと言いました。
お母さんは、そうしたら髪を触《さわ》りました。
「長い方がいろいろにむすんだりできていいです」
これはお母さんがいいました。理由だと思いました。
でも、キノさんは短いのにずるいなと思いました。そうしたら、お父さんがしごとから帰ってきました。
「長い方がかわいいよ」
お父さんが言いました。わたしはかわいいよりかっこいいが好きでした。
夕ご飯はグラタンでした。熱いのがさますのにふーふーしました。
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「さて皆さん、昨日《きのう》日記当番≠セった三人の日記は以上です。旅人さんがクラスに来たことは、三人全員が書いてくれました。先生は嬉《うれ》しく思います。――それでは、この中でどれを、共通の日記≠ニして相応《ふさわ》しいか、発表します。今目先生が選んだのは、エミリーさんの目記です。みんなエミリーさんに拍手しましょう。――はい、それでは皆さん、これからエミリーさんの日記本文のコピーを配りますので、皆さんの日記帳の上に糊《のつ》で貼り付けてください。剥《は》がれたらどこかにいっちゃうから、剥がれないようにしっかりと」
「先生!」
「はい。なんでしょうジーン君」
「僕はこんなの、他《ほか》の人の日記を自分の日記帳に貼り付けるのはいやです!」
「突然何を言い出すんですか? 皆さんはクラスの仲間です。仲間は、仲良く同じ思い出を持たないといけません」
「で、でも、僕は前からずっとずっと思っていたんですけど! 日記って、その人が、えっと、その日記をつける日におこったことを、どういうふうに感じたかじゃないんですか? 先生そう言ったじゃないですか!」
「そう言いました。間違っていません。だからこそ、クラスで共通の、一番|素晴《すば》らしい思い出を日記帳に残して、大人《おとな》になってそれを読んだ時に、みんなで仲良くその出来事を、同じように思い出すことが大切なんですよ。どうしてそれが分かりませんか?」
「じゃ、じゃあ! 僕の、僕だけの思い出を持っちゃいけないんですか! に、人間が、昔にあったことをどう思うかなんて、その人間によって、ぜ、全然変わるんじゃって思います!」
「……みなさん、このクラスには、先生の言うことが聞けない、とてもとても悪い子がいますね。愚かな考えに固まってしまった、悪魔のような子がいます。それは誰ですか? ――そうですね、ジーン君ですね。ジーン君はとても悪い子です。皆さんは、ジーン君みたいに愚かな子になってはいけません。――ジーン君は廊下で立っていなさい。後で職員室に来なさい」
*      *      *
六二五年果実月九日・曇り ハンス・シュミットルビン
きょうはがっこうが休みだったので、おばあちゃんといっしょに、おじいちゃんのいひんの片づけをしました、おばあちゃんは「てつだってくれてありがとう」って言ってくれました。
おじいちゃんが、子どものときに書いた、にっきちょうがありました。たくさんよみました。
その中で、おじいちゃんが、ある日たびびとさんが学校にきたことをかいていました。
おじいちゃんは、たびびとさんにかんどうしていました。「ひとりでがんばっているからえらい。だからわたしも人をたすけたい」ってかいてあるところがすごくかんどうしました。
おじいちゃんはとてもいい入でした。おばあちゃんも「うん」と言いました。
ぼくも、おじいちゃんみたいになりたいです。
でも、おじいちゃんはじぶんのことを、わたし≠ニか、ぼく≠ニか、ばらばらです。字もきれいだったりきたないこともあるので、とてもふしぎです。
おわり。
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第六話 「自然保護の国」
―Let It Be!―
荒野の真ん中を、一台の車が走っていました。
茶黄色の岩山と砂と石しかない不毛の大地が、見渡す限り、それはもう延々と広がっています。雲一つないどこまでも澄んだ蒼《あお》い空と、容赦《ようしゃ》なく照りつける太陽も一つありました。
そんな場所を長い土煙を巻き上げながら孤独に走る車は、黄色くて汚《きたな》くて小さくてボロボロで、今にも壊《こわ》れそうでした。排気管から時折黒い煙を吐《ぽ》き出しながら、細かな石だらけの、道なのかそうでないのかよく分からない土の上を進みます。ガタガタ揺れる車体の脇《わき》から、ヒビだらけのサイドミラーが落ちそうでした、
「本当に、こんな先に国なんてあるんですか? ――やっぱり、あの旅人にかつがれたんじゃないですかね? 師匠《ししょう》」
右側の運転席で、男が問いかけました。少し背が低くハンサムな若い男で、細いハンドルを両手で持ち、小刻みに修正して車を真《ま》っ直《す》ぐ走らせます。
「あります」
ぶっきらぼうに答えたのは。助手席に座る、黒く長い髪《かみ》を持つ妙齢《みょうれい》の女性でした。
二人とも薄手の生地《きじ》のパンツに白い長袖《そで》のシャツを着て、袖や胸元は軽く開けていました。
女性はサングラスをかけています。男の方は、頭に白い布をかぶって額《ひたい》に細い紐《ひも》を巻いていて、その姿はちょっと現地人です。
「ずいぶん自信たっぷりなんですけど、その根拠はなんですか?」
男の質問に、
「そんなものはありません」
師匠と呼ばれた女性は、自信たっぷりに答えました。
「それにしても暑いっすねえ……。師匠」
ハンドルを握る男が言って、
「そういうことは言わないように」
助手席の女性がたしなめました。
陽炎《かげろう》の中に仲良くとけ込んだように、小さな車はがたごとと走ります。空の太陽は容赦なく照りつけ、車の屋根やボンネットを焼いています。窓から。車内に風が舞っても、暑いものは暑いのです。
男が頭から垂れた布で頬《ほお》の汗を拭《ふ》きました。女性は、サングラスに空を映しながら、すまし顔で黙っています。
「なんにも見えないですけど……、今日中につきますかね?」
「ならば明日にでも。明後日《あさって》でも構いません。燃料はあるはずです」
「まあそうですけど……」
男がちらりと後部座席を見ました。普段の旅荷物に挟《はさ》まれて、ガソリンを入れた大きな缶《かん》がゴロゴロと並んでいました。
そして時間は過ぎて、荒野に夕刻が迫ってきました。太陽は傾きましたが、まだ暑いです。 やっぱり砂と石と岩山以外は何もなく、車は長い影を横に伸ばしながらひたすら走ります。「師匠《ししょう》……。いい加減休みましょうよ」
運転手の男が疲れた顔で言って、女性が答えます。
「まだ、日が沈むまでは進みます」
「急がなくてもいいのに……」
「あの旅人が言っていたことが本当だとしたら――、あまり時間はないでしょう」
「確かにそうですけど…:。何もかも本当だとしたらですよ」
男が助手席の女性に顔を向けました。
すると女性は男に顔を向けて、サングラスを外すと、普段あまり見せない微笑《ほほえ》みを見せました。
「…………。なんすか?」
男がちょっとドギマギして聞いて、
「ひとまずは本当のようですね」
女性のその言葉に、急いで前を見ました。
「わお……」
男が感動で声を漏《も》らします。
「本当にあったんですね……」
視線の先には緑がありました。車の進む先に、緑色の固まりが、地平線の下からせり上がってくるように見えます。その緑色の固まりは、よく見ると木の枝葉でした。
そしてそれは、たった一本の木でした。こんな遠くからでもはっきり分かるほどの、とても巨大な木です。高さよりも横幅が大きく、傘《かさ》のように枝を広げていました。
「かつて見たこともないような、信じられないほどの巨大樹=c…。あの旅人さん、疑ってごめんなさい」
男が、そこにいない人に謝りました、
「さて、急いで行きましょう」
女性の声に、
「了解《りょうかい》!」
男のアクセルを踏む足に力が入りました、エンジン音が高鳴ります。後輪が大地を蹴りとばします。それでもあんまり、速度は出ないのでした。
広い空が茜《あかね》色に染まる頃、二人は湖の畔《ほとり》にたどり着きました。ちょっとした崖《がけ》の上に車は止まります。
そこから、その樹《き》の全《すべ》てが見えました。巨大な緑の傘《かさ》です。
その樹は、島の中心にありました。平らな島です、島を取り闘む石組みの城壁があって、その中には町が見えます。その島もそれなりに大きいので、目の錯覚で、樹が普通によくある大きさにも見えてしまいます。しかし同時に、高い城壁がまるで花壇を囲む煉瓦《れんが》一個に見えてしまうことで、その樹の呆《あき》れた巨大さが際立つのでした。
島を囲む湖は、まるで海のようでした。向こう岸がまったく見えないほど広く果てしなく、湾曲した水平線の向こうへと続いています、穏やかな湖面が、空の色を映して光り輝いていました。
「素晴《すば》らしいですねえ」
荘観です」
二人は車を降りて、しばしその景色に見とれました。
やがて、男が車のライトをちかちかと点滅させました。すると、島から小さな船が一隻《いっせき》、こちらへ向かってきます。
二人は車に戻ると、崖にあった急坂を走り降りて水際にたどりつきました。そこには、切り出した石を使って造られた桟橋《さんばし》がありました、
やってきたのは、十人ほどが乗れる漁船でした。船体にはあちこち補修の跡が見え、だいぶ年季《ねんき》が入っています。漁に出る姿のまんまの、二人の男達が降り立ちました。
挨拶《あいさつ》を交わした後巨大樹の噂《うわさ》を聞いてやってきたので観光で入国させて欲しいと女性が頼み、
「それはすばらしい。ぜひぜひ見ていってください」
男達は快諾《かいだく》しました、
車は船に乗りませんので、荷物だけ持って女性と男が船に乗ることにします。人なんかほとんど来ない場所ですが、大切な車には男が仕掛けをしておきました。誰かが車を奪おうとすると、車のあちらこちらから弾丸《だんがん》が飛び出します。
二人は船上の人になりました。湖を渡って島に上陸します。城門をくぐり終えた時には、すっかり日も落ちて、空には星が瞬《またた》き始めていました。
真っ暗では何も見えないので、
「こうなっては、全《すべ》ては明日ですね」
「そうですね。俺《おれ》も今日は疲れたので」
二人は案内された城門近くのホテルに泊まって、すぐに寝てしまいました。
翌日。
朝の眩《まぶ》しい光の中、ホテルの窓から巨大樹がよく見えました。
樹《き》はかなり遠くに、歩いて小《こ》一時間はかかる国の中央部にあるのですが、あまりに大きいので、窓を開けて手を伸ばせば枝に触れることができそうです。
「それはもう。この国であの樹が見えない場所はありません」
朝ご飯の後。案内人に連れられて、二人は朝の通りを見学しながら歩きます。
国の中は、荒野と同じ色をしています。切り出された石を敷き詰めたり組み上げたりして、道や家々が造られていました。
狭《せま》い通りに白動車の姿はなく、足が煙く頑丈《がんじよう》そうな体格の馬が、馬単をカタカタと引いていました。広大な国内には、畑や家畜の飼育場《しいくじょう》も広がります。
「ご覧のとおり、我が国はこの島に造られました。言い伝えでは、大昔に荒野を放浪した御先祖様が湖と島と樹を見つけ、そこを住処《すみか》としたそうです。水があり、外部から守られていて、そして強い陽射《ひざ》しを遮《さえぎ》ってくれる素晴《すば》らしい樹を抱く場所です。見つけた峙、御先祖様の驚きはどれほどだったでしょう。――ちなみに、あの樹に名前はありません。我々国民は、単に樹≠ニ呼んでいます。」
「え? それはまたなんでです?」
驚いた男が聞いて、
「他《ほか》に木が一本も生えてないからでしょう」
脇《わき》を歩く女性が言いました。そのとおりですと案内人は答えて、
ぽん。
「なるほど」
男が手のひらに拳《こぶし》を叩《たた》いて感心しました。
「ご覧のとおりの荒野であるこの地に育つのは、どれだけ手間をかけても背の低い草がいいところです。あのような巨大な樹が自然にそびえていること自体が、ありないことです。奇蹟きせき》です。一体|樹齢《じゅれい》が何年になるのか、見当もつきません」
案内人が、歩きながら語ります。その口調は、だんだんと熱を帝びてくるのでした。
「それ故に樹は、我が国の象徴であり全国民の心のよりどころです。――魂《たましい》です! 我々は生まれた時から樹を見上げ、死ぬまで見上げて生きるのです。灼熱《しやくねつ》のこの地に、唯一《ゆいいつ》母なる自然が生み出した影を愛《め》でて生きるのです!」
はあ、とか、まあ、とか普通に相づちを打ちながら、男と、そして女性も案内人の後ろを歩きます。
「自然! 豊かな自然と人間! およそ百年前、我々は白然保護法案≠作り法律で樹《さ》を守り抜くことを決定し、そして我々も保護されています! 大地に根をはる力が、我々の目々を大地から満たしているのです! 縁はあの一つ! 空はいつだって決まっています! 右手に樹を見れば、感じるのは当然です!」
案内人はどこまでも熱く語りますが、もはや何を言っているのか分かりません。
そうですか、とか、すごいですね、とか適当に受け答えながら、男と、そして女性も案内人の後ろを歩きました。
やがて三人は、巨大樹の近くまでやってきました。そこには樹を囲む高い壁があるので、幹はまるで見えません。
近くといっても壁から幹までは相当距離があるのですが、見上げるとそこには菓の緑です。
枝は傘《かさ》のように猛烈《もうれっ》に広がって、山があるように見えます。
「はあ……。これはでかいですねえ……」
男が、見上げながら言いました。
「でも……、これ以上は進めません」
案内人が、悲しそうな顔をして、先ほどまでの熱弁とは正反対の、葬式《そうしき》の挨拶《あいとつ》のような口調で言いました。
「この壁より先は、自然保護法により現在立ち入り禁止になっています。かつてのように、木漏《こも》れ日を見上げ昼寝をすることも叶《かな》わなくなりました」
「どうしてですか?」
男が聞いて、
「折れる、もしくは倒れる恐れがあるのですね」
またも女性が答えてしまいました。案内人が、そうです、と頷《うなず》いて、
「それでは、壁の向こうをお見せしましょう」
案内人は壁づたいに少し歩き、そこにあった階段を登りました。そして三人は、壁の上に造られた展望台のような場所に出ました。ここからなら、中央の幹が見えるはずです。
「ありゃあ」
見た瞬間、男が声を上げました。
そこから見える巨大樹の幹は、超高層ビルかと思えるほどの太さがありました。逞《たくま》しく大地と枝葉の間を罵いでいます。よく見るとそれは「本の丸い幹ではなく、何本かの太い幹が集まり合って融合しているのでした。
しかし幹のあちこちは腐《くさ》り、黒い穴だらけでした。横に広がる太い枝の下には、石を組み上げて造られた支えが、幾十幾百と備えられています。遠くから眺めた時は分からなかったその惨状《さんじょう》を見ながら、
「なんとも。満身創痩《まんしんそうい》ですね」
男が感想を言いました。
「ご覧のとおりです……。数十年前から始まった幹の痛みは止まらず、太い枝がごっそりと折れて落下してしまう事例も頻発《ひんぱつ》しました。今は枝を石柱で支え、白然保護と危険防止の観点から誰も近寄らないように、こうして壁で覆《おお》っています」
案内人が重苦しそうに語りました。
「あの枝が落ちてきたら、大変そうですね」
男の言葉に、案内人は答えます。
「以前はこの壁の内側、つまり枝の下にも家や公園があったのです。しかし数年前、太い枝が折れて落ちて、通りを一つ押し潰《つぶ》して。百二十五人が亡くなりました」
「恐いですねえ」
「痛みが目につくようになって以来、我々は必死になって、樹《き》を守るためにありとあらゆる努力をしてきました。しかしながら、この先はあるがままに、運を天に任せるしかないところまできています」
「なんというか、新しい別の芽とかは出ないもんですか?」
男が聞きましたが、案内人は首を横に振りました。
「樹は毎年たくさんの種《たね》をつけるのですが、落ちた種は全《すべ》て死んでしまいます。固いこの大地
には、到底歯が立たないのです。水辺に植えたり、肥料を使ってみたり、色々なことをしましたが駄目《だめ》でした」
「すると、この樹はどうやって生えたんでしょうね……?」
男が疑問を口にしました。
「謎《なぞ》です。永遠の」
案内人が答えると、
「種は、今も樹にあるのですか?」
ふいに女性が口を開きました。その質問に驚いた案内人ですが、頷《うなず》きながら答えます。
「え? ええ。種は今年も」
「ならば、大丈夫でしょう」
女性はそんなことを言いましたが、何が大丈夫なのかは言いませんでした。案内人は"はてな?≠ニ首をかしげました。
「大変すばらしいものを見せてもらいました。これからも、この樹を大切にしてください」
女性がそう言うと、
「それはもう!」
案内人はしっかりと頷きました。
黒髪《かみ》の女性とその相棒《あいぼう》の男は、二日ほどその国で過ごしました。
湖で取れる魚料埋を堪能《たんのう》し、男はゆっくりと湖畔《こはん》で釣《つ》りをして、女性はのんびりと読書などして過ごしました。時折視線を上げると、巨大樹はいつもそこにありました,
入国して三日目の朝、快晴の空の下、また船に揺られ、二人は無事だった取のもとに戻りました。男が仕掛けを外しました。
二人は礼を言って、国の人達と別れました。小さくてボロボロの車は坂道を登り、来た辱と同じ、国がよく見える崖《がけ》の上で止まりました。
「絶景ですね」
男が車からおりて、湖と島と国と樹《き》を眺めました。
女性も車からおりて、黙ったままやはり景色を見渡しました、
朝の風が吹き抜ける荒野で、二人はしばし立ちつくしました。小さな車を挟《はさ》んだ二人の向こうには、大きな大きな樹がありました,
やがて男が口を開きます。
「師匠《ししょう》」
「なんですか?」
「あの樹、そのうち倒れるでしょうね」
その問いに、
「保《も》って半年でしょう」
女性はすぐに答えました。至極《しごく》あっさりとした口調でした。そして、
「あの旅人が言ったとおり、やがてこの風景も、見ることはできなくなるでしょう」
「残念ですね」
男は本当に残念そうに言いました、
「でも――」
女性は否定の言葉を口にして、男が女性に顔を向けました。
「倒れた樹から、次の芽が出るでしよう」
「え? どういうことですか?」
「倒れた樹はやがて瓜雨を受けて腐《くさ》りますが、そこが新芽にとって、柔らかく栄養のある、絶好の苗床《なえどこ》になるんですよ」
「ああ! なるほど!」
「おそらく今のあの樹も、そうして芽生えたんでしょう。何本もの幹がやがて集まり、一つの巨樹に育ったんでしょう。何百年、何千年かかったのかは知りませんが。そうして、間もなく代替わりのサイクルを迎えようとしているのです」
「じゃあ、倒れても平気ですね。あの国の人は樹をとても大切にしていた。やがてあの囲いの中が、一面緑になるかもしれないってことですね」
嬉《うれ》しそうな男の声に。女性は頷《うなず》きました。そして、「まあ、それを私達が見ることはないのでしょうが」
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*      *      *
「まあ、それを私が見ることはないのでしようが」
そう君った老婆に、
「それ、見てみたいです! 新しく芽吹いた木が伸びているところを! わたしがいつか!」
少女は目を輝かせた。
*      *      *
「この話。エルメスは覚えてない? その時エルメスは……、寝てたかな? それとも外だったかな?」
荒野を、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。後輪の脇《わき》と上に、旅荷物と燃料|缶《かん》を積んだモトラドだった。
「覚えてないよ、キノ」
エルメスと呼ばれたモトラドが、運転手に答えた。
キノと呼ばれた運転手は、茶色いコートを着て、あまった長い裾《すそ》を両腿《もも》に巻きつけて止めて
いた。鍔《つば》と耳を覆うたれのついた帽子《ぼうし》をかぶり、目にはゴーグルを当て、顔には埃《ほこり》よけの、ハンダナを巻いていた。
晴れた昼の空の下を、モトラドは走る。
「だから、いよいよその国が近いと分かって、ボクはとても嬉《うれ》しい」
「さいですか」
エルメスは短く答えて、
「でもさ、えっと、間違いなくその大きな樹《き》を見ることはできないでしょ?」
キノは頷《うなず》いた。
「それでもいいんだ、ボクが見たいのは、師匠《ししょう》達が見ることができなかった景色≠ネんだから」
「それでこんなところに来るんだから、キノは相当の物好きだね」
「ちゃんと冬を選んで来たよ。おかげで師匠達の時みたいに暑くて困る心配はない」
「この辺を走っていて、偶然その国が近いって知っただけじゃん。つまりは鉄観音てつかんのん≠ナしょ」
「……結果論=H」
「そうそれ!」
そう言ってエルメスは黙った。
「実はね、エルメス。ボクは前の国で花の種を一袋買ってあるんだ」
「おや、いつの間に」
「水の中で生えて、浮かびながら花が咲くってやつを選んだ。それをあの国の人に譲《ゆず》って、樹《き》のそばに、水槽《すいそう》で花壇を造ってくれたら嬉《うれ》しいなと思ってるんだ」
「あげるの? キノにしては珍しい」
「売るの」
「あっそ。でも、その樹を取り囲む花壇、キノは見ることはできないよ」
「それでもいいのさ」
「ふーん」
翌日の朝。キノとエルメスは、湖を見下ろす崖《がけ》の上にいた。
湖は果てなく広がり、そして大きな島が一つあった。
「師匠の言ったとおりだ……」
「でも、あのドームは何?」
エルメスが言ったとおり、島の中央部、つまりは国の中央部に、大きな石のドームがあった。
国の中から卵が浮き上がっているような、巨大なドームだった。
キノは首をかしげ、
「なんだろう……? あそこに樹があったはずだから……、ひょっとして植物園か何かをあの下に造ったのかな?」
「まあ、行ってみれば分かるでしょ。――おいてかないでね」
キノはエルメスのライトを点滅させて、合図を送る。やがて、島から小さな船が一隻《いっせさ》、こちらへ向かってきた。
渡し板でエルメスを船に乗せて、キノは湖を渡った。
入国の許可がすぐに下りて、キノは国内へと走って入る。ホテルの部屋に旅荷物を置く。窓からは、あのドームがよく見えた。
キノは、エルメスを国中央部へと走らせた。石造りの通りを走ると、巨大なドームがせり上がってくるように近づいてきた。
「ようこそ旅人さん」
案内人が、キノとエルメスを出迎えた。そこはドームの手前の広場だった。キノがエルメスから降りて、ドームを見上げる。切り出した石をわずかな隙間《すきま》もなく組み合わせた、荘厳《そうごん》な造りをしていた。ところどころに、明かり取りの小さな窓が開いていた。
「これは、大きいですね」
キノが感想を言うと、
「はい! この国の誇りですから!」
案内人は嬉《うれ》しそうに答えた。
「中を見せてもらえるの?」
エルメスが聞いて、
「もちろんです! 我が国の誇り! 象徴! 心のよりどころ! 魂《たましい》! ――ぜひぜひご覧になっていってください。こちらにどうぞ」
案内入に続いて、キノはエルメスを押してドームの巨大な扉をくぐり抜けていく。
小さな鵬りで薄暗い通路を抜け、坂道を少し登る。エルメスを押すのを、案内人が手伝った。
二人と一台が到着したのは、ドームの中を見渡せる展望所だった。ドームの内側が広がっているのが見えたが、暗いので中の様子は分からない。
案内人が、脇《おき》にあった鐘《かね》を数度叩《たた》くと、ドーム中にその重苦しい音色が響いた。
やがて、ドームの中がじんわりと明るくなっていく。明かり取りの窓のブラインドが立て続けに開かれていき、幾筋もの光が細く差し込んだ。
「ご覧ください!」
案内人の誇らしげな声。
そこに姿を現したものを、
「…………」「…………」
キノとエルメスは、黙ったまま眺めた。
樹《き》が倒れていた。太い樹が、四方八方に枝を散らして倒れていた。葉の緑は見えない。そこにあったのは、乾燥し干《ひ》からび灰也になった幹と枝だけ。茶色の石の上に、巨大な灰色の蛇《へび》がのたくっているように見えた。
「…………。なんですか? これ」
キノが聞いて、
「我が国の魂《たましい》です!」
案内人が答えた。
「それは分かりましたが、これは、どんな物≠ナすか?」
「ああ。これは、昔この地に根を下ろしていた樹です。この国に他《ほか》に木はありませんでしたから、単に樹≠ニ呼んでいました。ご覧のとおりの巨大さで、立っていた時はこのドームより大きな巨大樹でした」
案内人のよどみない説明。
「それがどーしてこんなことに?」
エルメスが聞いた。
「はい! ぜひ説明させてください! ――そうそれは数十年前のこと。我々の御先祖様が見つけてそれ故にこの地に住み着いた樹は、長い生の営みを終えて大地に倒れ込みました、それは我々をとても悲しませました。しかし、我々は自然保護法に則《のっと》り、樹をいつまでもいつまでも守り通すことにしたのです!」
「…………」
「ふむふむ。それで?」
「我々は、樹をドームで覆《おお》いました。強烈な陽射《ひざ》しや雨風から樹を守るために! 大変な工事でしたが、みごとに造り上げました。こうして、以来何十年も、樹はあるがままに、その姿をこうして私達の前に見せているのです!」
「…………」
「なあるほど」
「樹が、その命を終わらせてしまったことは、もちろん悲しいことです。しかし、その生きた講替、いつまでもいつまでもこうして保つことができて、我々は幸せです! 我々の世代がどれほど変わろうとも、この樹は、こうして永遠に我々の象徴であり続けるのです!」
案内人は両手を大きく広げながら、演説を終えた。
そして、複雑そうな顔をしたキノの顔を見て、怪訝《けげん》そうに訪ねる。
「どうかされましたか? 旅人さん」
三日目の朝、
「なんともね……」
岸まで運んでくれた船を見送ってから、キノがポツリと言った。
「面白かったじゃん! あのドーム、石を積んだだけで、柱もなくあの大きさを造り上げるのはすごい建築技術だよ。感動したよ。来てよかったよ」
「ふーん」
キノは嬉《うれ》しそうなエルメスを横口に、帽子《ぼうし》をかぶった。
「キノ、例の種《たね》はどうしたの?」
またがろうとした時にエルメスが聞いて、
「ああ。これか……」
キノはコートの前をはだけて、ジャケットのポケットから小さな紙袋を取り出した。
袋を破ると、手袋の手のひらに、数側の小さな種が転がり出た。
「ボクにはもう必要ないものだな……」
キノはその手を握ると、湖面へと目をやった。
「お、湖に投げるの?」
「ちゃんと花が咲くか分からないけどね」
「でも、試す価値はあるよ」
「それじゃ――」
キノは振りかぶると、
「それっ!」
思い切り、種を湖へと投げた。種は広がりながら放物線を描き、湖面にいくつもの波紋《はもん》を創《つく》り出す。
次の瞬聞、水面《みなも》が激しく波立った。
魚の群が、種を全部食べた。
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第七話 「商人の国」
―Professionals―
冬の荒野を、モトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。
硬い石の大地と岩の丘がどこまでも続く、不毛《ふもう》な土地だった。冷たい風が吹き、茶色の小さなつむじ風を作る。湿度がまったくないので、空はきれいに晴れていた。太陽は弱々しく空に浮かび、気温は氷点下を大きく下回る。
モトラドは、道などない大地を進んでいた。後輪の両|脇《わき》に箱をつけて、上には鞄《かばん》を載《の》せていた。さらに寝袋と、燃料と水の缶《かん》が積まれている。凍《こお》らないように、水の缶はあえて量を減らしてあった。
運転手は、分厚い防寒着を着込んでいた。茶色で厚手の上着とズボン。頭にはボア付きの防寒帽《ぼう》をかぶって、左右のたれは完全に頬《ほお》を覆《おお》い隠す。手には分厚いグローブをしていた。顔にはマフラーをまいて、目には黄色い一眼ゴーグル。表情は覗《のぞ》けない。
スコープがついたライフルタイプのパースエイダー(注・銃器《じゅうき》のこと)を一丁《いっちょう》、体の前で背負い革でさげていた。
「寒い」
運転手が言った。その声が、マフラーでくぐもって聞こえる。
「四十五回目かな?」
モトラドが言った。
「寒い寒い寒い寒い寒い……」
「あっそう」
「……冷たいね、エルメス」
運転手がそう言うと、エルメスと呼ばれたモトラドがすぐに返す、
「やたら寒くなるって分かっていてこんなところに来るんだから、物好きだねキノは」
キノと呼ばれた運転手は、まあ確かに、と返事をした。走る大地の表面が石で荒れてきたので、速度とギアを落とした。エルメスが続ける。
「我慢《がまん》してこんなところに来て、これでこの先にその国がなかったら、骨折り損のくたびれ儲《もう》け≠セよ」
「……ん? あってるね」
「シツレイな。 ――それに、もし国がなくて燃料が手に入らなかったら、荒野を突っ切るには足りないよ」
「分かってるよ。だからこうやって、油を売らずに一生懸命《けんめい》進んでるんじゃないか」
「ふーん。売ったら足りなくなるからねえ」
「ま、なかったと分かったら、出てきた国に一旦《いったん》引き返せばいい。それはちゃんと考えてるよ」
「面倒だなあ」
「それでも行こうとするのが、一人前≠フ旅人ってことで」
「何が一人前なんだか」
エルメスがぼやいた。
「ぼやきつつも、ちゃんと走るのが一人前≠フモトラドってことで」
「それは正しい」
エルメスが言った。
早い冬の夕方が近づき、太陽が西の空に大きく傾く。荒野のあちこちに、家ほどの大きさの岩がゴロゴロと散らばり、その影が同じ角度で長く伸びていた。
岩の問を縫《ぬ》いながら運転を続けるキノに、エルメスが言う。
「そろそろ休んだら? 今日はもう、その国につくのは無理だよ」
「もうあとちょっと」
「六回目」
「……じゃあ、今前にある丘をのぼって、そこから見えなかったらやめよう」
「りょーかい」
キノとエルメスは岩だらけの丘を駆《か》け上がった。そして、頂上に着いて向こう側の視界が開ける直前、
「キノ! 止まって!」
「っ!」
キノは言われるままに急ブレーキをかけた。後輪がロックして、そのまま横|滑《すべ》りして砂|埃《ぼこり》を巻き上げる。そして止まったエルメスの少し先で、一つの岩の脇から、一台のトラックが阻うっと出てきて、
「うわっ!」
驚いているキノの目の前で、豪快《ごうかい》なブレーキ音と砂埃を立てながら急停車した。タイヤを六つも並べた、大型のオフロードトラック。キノが高い運転席を見上げると、ハンドルを握る若い男が、目を見開いて固まっていた。
「本当に申し訳ない。――キノさん達が気づいて止まってくれなかったら、あわや荒野で交通事故を起こすところだった。もしぶつかっていたら、あれは私達が悪いし、キノさん達も、そして失礼な話だがトラックも無事ではすまなかった」
男が君った。歳《とし》は五十|歳《さい》ほど。細身《ほそみ》で背が高い男だった。フードにボアのついた、灰色のハーフコートを着ている。
「もう気にしないでください。それに、こうしてボクはごちそうにもなってますし」
キノが答えた。日は沈み薄暗い空の下、キノは防寒着を着たまま折りたたみイスで座り、手には湯気の立つお茶の入ったカップが握られている。その後ろで、エルメスがセンタースタンドで止まっていた。
キノの前には、野外用のバーベキュー台が置いてあった。炭が燃えて明かりと熱を出し、網の上で美味《おい》しそうに肉が焼けていた、
キノの向かいには謝った男、そしてその奥さんである同年代の女性が、同じようにハーフコートを着て座っていた。二人の後ろには、先ほどぶつかりかけたトラックが止まっている。
トラックの高い荷台の上には手すりがあって、そこでは二人の若い男が、それぞれライフルを手に見張りで立っていた。
その内の一人は先ほど驚愕《きょうがく》していた運転手で、二人とも、商人の息子《むすこ》だった。ライフルは緑色の繊維《せんい》強化プラスチックストックに、大きな二十連|弾倉《だんそう》がはめられている。倍率の高いスコープが載《の》せられて、キノと同じように、長距離射撃に備えていた。
「キノさんも、あの国をめざしていたのかい?」
男が、首を右に向けながら言った。キノ達のいる場所は丘のてっぺんで、見下ろした先の大地に、黒く大きなシルエットがあった、国があることを示す、丸い城壁のシルエットだった。
その中には、ちらほらと人の作る灯《あか》りが星のように見える。
「そうです。荒野にある小さな国と聞いて、ぜひ見てみようと思って。――あなた方も?」
お茶に口をつけていた男が、そのまま頷《うなず》いた、エルメスが、なんのために? と聞いた。
「言うのが遅れたね。私達は商人なんだ、ここより北にある大きな国で、妻《つま》と息子達と一家でやっている。普段はその国と近くの国を往復しているんだけど。これから初めてあの国に行ってみようと思っているんだ」
男の答えに、キノが少し驚いた様子を見せた。
「ボクは一つ手前の国で、あの国はほとんど誰にも知られていないと、訪れる人がほとんどいない国だと聞いていました。でも、あなたの国ではよく知られているんですか?」
男は首を横に振った、
「いいや。その国の人が言ったとおり、あの国は本当に秘境だよ。私の国で存在を知っているのは、たぶん私だけだろうね」
「キノは、誰も行ったことのない国に自分以外に向かう人がいて悔《くや》しいんだね」
キノはそう言ったエルメスをさらりと無視、そして男に訊《たず》ねる。
「もしよければ、どうして知っているのか教えてもらえませんか?」
「いいよ。簡単なことだ」
男が答える。
「私が、あの国の生まれだからさ」
豪華《ごうか》な夕食を食べながら、キノは男の話を聞いた。
男はあの国で生まれた。そして当然のように、そこで一生を終えるのだと信じていた。
ところが二十歳《はたち》の頃、急に外の世界への憧《あこが》れが湧《わ》いて、それを抑えきれなくなった。まわりの説得も聞かず、そのまま国を飛び出した。
「蛍《ほたる》の光ってやつだね」
「……若気の至り=H」
キノが聞いて、
「そうそれ!」
そう言ってエルメスは黙った。商人が続ける。
「まさにそうだったね。なんとも無茶《むちゃ》をしたものだよ。あの時の私は、荒野でのたれ死んでもおかしくなかった」
そしていくつかの国を放浪して回り、最後は北にあった国を気に入り、そこにひとまず籍《せき》を置いた。国の問を行き交う商人として生きていくことを選ぶと、一生懸命《けんめい》働いた。やがて結婚し、家庭を持ち、仕事も大成功を収めた。
「それで、この年になってようやく、生まれ故郷に行く決心がついたのさ。――両親はもういないだろうし、兄弟はいなかったから、私のことを知っている人はもういないと思う。それでも,一人前≠フ商人になれた私を、国の人に見てほしいと思ってね」
「まさか、故郷のよしみで物をタダで配ったりするの?」
エルメスが聞いて、男はしっかりと否定する。
「いいや、そんなことはしないよ。私は商人だ。商人は、物を売るのが仕事だ。私は商人として一人前≠ノなって戻ってきた。あの国に入ったら、きっちりと売るつもりだよ」
「だってさ、残念だねキノ、。おこぼれに預かれなくて」
エルメスが。言って、キノが軽く振り向いてエルメスを睨《にら》む。そして、
「人問だったら悪びれない表情で肩をすくめているところ」
エルメスが言った。
キノは男に向き直ると、
「あの国で手に入ればと思っていましたけど。燃料をお持ちではないですか? もし給油できたら、ボクらは戻らずに荒野を突っ切れるので。あの国で売ってみようと持ってきたものが売れたら、それでお支払いします」
「ああ、あるよ、トラックの予備燃料が売れる。それなら、キノさんに売る分は取っておくよ。
約束する」
「助かります」
「いいって。これも商売だ。――でも正直に言って、あの国の人達が、外の物をどれくらい買ってくれるか分からないな」
男がそれでも嬉《うれ》しそうに言って、エルメスが訊《たず》ねる。
「その時は? なんにもいらないって言われたら? もしくは、タダでよこせとか」
「キノさんに燃料を売って、その後は素直に引き上げるよ。ダメだと分かったらバッサリと気持ちを切り替えられるのも、一人前≠フ商人だ。無料で差し出すこともないだろうね。なんと言われても」
「ふーん」
「でも、焦《あせ》っちゃだめだね。今日、日が沈む前に入ろうかと急ぎすぎた。結果キノさん達の入国も明日にしてしまった」
「明日が楽しみですね」
キノが言って、男は嬉Lそうに頷《うなず》いた。
「楽しみだ。――入国の前の晩は、いつだって商人はどきどきする」
キノも頷いた。
「旅人もです」
翌朝。キノは夜明けと共に起きた。
「うー、寒い」
テントの中で寝袋から這《は》い出て、防寒着を着て、防寒帽《ぼう》をかぶり、手袋をはめ、そして『フルート』と呼ぶライフルを手に外に出た。
そこは極寒《ごっかん》の、そして極めて乾燥した世界だった、青白い空はどこまでも澄み渡り、明るい星がまだたくさん残っている。キノが息を吐《は》くと、それは白く長く流れていった。
キノが近くに止まるトラックを見ると、荷台の上には毛布にくるまって座る見張りが一人いて、キノに軽く手を振った。
「あれ?」
息子《むすこ》のように見えた彼は、商人だった。
軽く驚いたキノが手を振り返し、今度は逆を見る。丘の下に、国はあった。城壁は大地と同じ石の色。国内も石で造られた建物がびっしりと並び、同じ色をしていた。
キノは朝すべきことを淡々とこなす。汗をかかない程度に体を動かし、『フルート』を整備した。テントをたたみ、抱いて寝た水筒に入っていた水で布を湿《しめ》らし、顔を拭《ふ》いた。
固形燃料でお湯を沸かし、キノはカップごとそのお湯を持ってトラックの脇《わき》に行く。商人に声をかけて、『フルート』を背負って荷台の梯《はしご》をのぼった。そして、商人のカップに、お湯を分けた。
「ああ、ありがとう」
キノは商入に背中を見せて座り、反対側を見張る。白分のカップにティーバッグを入れて踊《むど》らせて、少し待っ。商人はもらったお湯に、ポケットから出した粉末状のお茶を入れてとかし、一口二口、美味《おい》しそうに飲んだ。湯気が流れていく。
「どうにも眠《ねむ》れなくてね、息子《むすこ》と見張りをかわってしまった。若い頃は下働きで、いつも見張りで、夜に眠れたことはなかったな。あの時の気持ち、少し思い出したよ」
商人が言った。キノが、振り向かずに聞く。
「やっぱり、感慨《かんがい》深いものですか? 帰郷は」
「なんていうか……、自分でもよく分からない。一度は自分で捨てた国だ。いいや、やっぱり嬉《うれ》しいのかな? よく分からない」
商入はそう言うと、最後は少し笑い声を出した。
キノが振り向くと、商人の背中の向こうに、丸い城壁が見えた。
やがて日の出の時間が近づき、商人の奥さんと息子達が、運転席後部にあるキャビンから起き出てきた。、明るい空の下、皆で朝食を取る。鍋《なべ》で茹《ゆ》でた乾燥野菜とお肉のスープで、キノはまたもごちそうになり、
「キノばかりいい思いを」
エルメスが後ろから愚痴《ぐち》を言う。
「え? ――なんで起こさないのに起きてるの?」
キノが驚いて聞いた。
食事を終えた頃、太陽が地平線の上に昇った。平らな大地に、束から西へ、一瞬にして光が走った。
旅人と商人達は荷物を手際よく片付けて、それぞれの乗り物に積む。キノはトラックの脇《わき》にエルメスを止め、サイドスタンドで立たせた、
そして、キノが商人と話をするために、トラックの脇でタイヤをチェックしている彼に近づいた時だった。
ごごこごご、という鈍い衝撃《しょうげき》音が、辺り一面から響き、近づくように大きくなり、
「なんだ? 雷《かみなり》?」
商人が言った瞬間、突然地面が踊り出した。広い大地が猛烈《もうれつ》な勢いで横に動き出し、激しく揺れる。
「うわあっ!」
「とっ!」
商人とキノはその場にしゃがみこみ、トラックの運転席では、奥さんと息子《むずこ》達が顔を引きつらせながら、本来走行中に使うはずの手すりにしがみついていた。
「うわぁあぁあぁあぁあぁ、揺ぅれてるぅうぅうぅうぅ」
エルメスの緊張感のない声が、揺れによってバイブレーションがかかって聞こえる。
衝撃《しようげき》音と揺れは、たっぷり十秒は続いた。
そして唐突《ときつ》に収まった。まるでスイッチが切られたように。一瞬にして、元の静かな朝に戻った。
しゃがんでいたキノがエルメスを見て、
「あー、びっくり」
エルメスは横倒しになることもなく、そこにいた。
キノは立ち上がりながら、商人へと団をやる。商人は尻餅《しりもち》をつき、両眼《め》を見開いたまま口をぽかんと開け、荒い息だけを続けていた、
トラックを見ると、車内では、やはり皆が驚愕《きょうがく》の表情で動けずにいた。それでもひとまずけが人はいない様子を見て、キノが安堵《あんど》の息を吐《は》いた。
「大丈夫ですか?」
キノが、商人に聞いた。商人はへたばったまま、顔面|蒼白《そうはく》のまま首を横に何度も振る。
「な……。なんだ今のは? なんだ?」
「でかかったねー。震度は五くらい? 六あったかも。でも七はないな。それは分かる」
エルメスが、普段の口調で言った。
「なんなんだ……? なんだったんだ……?」
「えっと……」
キノが言いよどんでいると、トラックから二人の息子《むすこ》が降りてきた。二人して、ぐったりした母親を肩で抱きかかえている。商人の脇《わき》に下ろすと、恐怖に震えていた女性は、夫にしがみついて泣き始めた。
「ああ、恐かったね――。恐かった。でももう人丈夫だ」
商入がしばらく妻《つま》を気遣い、キノも何も言わずに待った。
やがて。奥さんがどうにか泣きやんで落ち着いて、息子達は再び彼女をトラックに乗せた。
それを見てから、まだ座ったままの商人が、キノを見上げて言う。
「さっきのはなんだったんだ、一体何が起きたんだ? 地面が動いたぞ! 爆弾でも落ちたのか? 新兵器か? キノさんは、知ってるか?」
真顔で焦《あせ》る商人に、キノは難しい顔を作る。
「えっと……。一つお聞きします。地震≠ニいう言葉をご存じですか?」
男が眉《まゆ》をひそめた。
「ヂシン=H なんだいそれは? 雷のひどく大きいやつか? 近くに落ちたのか?」
キノはいいえ違いますと言って、後ろからエルメスが説明を始める。
「自然現象の一つだよ。火山活動とか、地殻《ちかく》の変動とかで、大地が揺れ動くことを地震≠チていうんだ。今のがそれ。大きさはいろいろあるけど、さっきのは結構大きな方だったね」
「なんだそれは……? 大地が動く? そんなことが、この世の中にあるのか?」
「それが、あるんです。――ボクも久々に体験しましたが、ところによっては毎年起きていて、そこに住んでいる人は、大地が揺れることを当たり前のように感じています。揺れで倒れないように、家具を全《すべ》て壁に固定している国までありました」
「起きないところでは、全然起きないものだからね。この地方では珍しいんだねきっと」
エルメスが付け加えた。
「地面が揺れ動く……。信じられん……。信じられんが……、確かに……」
商人はつぶやきながら、ようやく腰を上げた。立ち上がり、お尻《しり》や足についた上埃《ぼこり》を払い、そして、
「ああーっ!」
突如、猛烈《もうれつ》な大声を上げた、
「わっ」
キノがそれに驚いて首をすくめる。そして、商入がある一点を凝視《ぎょうし》しながら微動だにしないのを見て、その方向へ、自分の後ろへと振り向いた。
「あ……」
そして絶句する。丘の下に見える大地。そこには、先ほどまでは国があった。今はなかった。
「やっぱり崩《くず》れちゃったか」
エルメスが言った。
そこには、瓦礫《がれき》の山があった。高い城壁は崩壊《ほうかい》し、国の中の様子が見えるが、その中も全てが瓦礫だった。倒壊《とうかい》時に立ち上ったであろう茶色い土埃が、風下へと固まりになって流れていくのが見えた。
「国が……」
「…………」
商人とキノが並んで、身じろぎせず、その光景を見つめた。その二人に、エルメスの声が届く。
「無理もないね。地震はまず起きない地方でしょ。城壁も家も石造りで、ただ単に組んだだけだろうから。耐震性≠ネんて言葉もなかったでしょ」
「そんな……」
商人は呆然《ぼうぜん》と立ちすくみ、そしてエルメスは遠慮も容赦《ようしゃ》もしない。
「見たところほぼ百パーセント、建物はみんな崩れちゃっているよ。早朝だし、全員下敷きだね、これだけ寒ければ、下敷きの人も、数日後には全員|凍死《とうし》してると思う」
「…………」
商人は、無言で瓦礫《がれき》の山を眺めていた。
キノがその横顔を覗《のぞ》き、しばらく前を向き、一度小さく息を吐《に》いた。
再びキノが商人の横顔へと視線を向けた時、キノへと向いた商人と目が合った。そこには、人当たりのいい笑顔があった。
「キノさん」
「……なんでしょう,。」
「売るつもりだった物は何?」
その質問にキノは一瞬驚き、そして答える、
「えっと、東にあった、出てきた国で作っている、伝統的なデザインのブローチが一ダース」
「見せてほしい」
キノは言われるまま、エルメスの後輪脇《わき》の箱を開ける。小さな本ほどの大きさの木箱を取り出し、蓋《ふた》を開けて商人に見せた。細かな細工《さいく》がなされた十二個のブローチが、きれいに二列に並んで入っていた。
商人はパタンと蓋を閉じると、
「これはいいものだね。キノさんは才能があるよ。エルメス君のタンクと、積んである空の燃料|缶《かん》全《すべ》てに満タン――、それでどうだい?」
商人の笑顔を、キノは見据《みす》え、そして聞いた。
「戻られるんですね?」
「ああ。――もうあそこに行っても、何も売れないからね」
「では――。そのブローチを売っていた店も教えます。それで、冷凍肉を一袋つけてください」
「いいだろう。取引成立だな」
商人が右手を差し出した。
瓦礫の山を背景に、二人は握手を交わす。
「またどこかで」
トラックの運転席で、商人がエンジン音に負けないように人声で、言った。
キノも、エンジンがかかったエルメスにまたがったまま運転席を見上げ、
「ええ。会えるといいですね」
大声でそう返した。そして、
「先ほども言いましたが――」
「何度か起きるヨシン≠ニいう揺りかえしと、地面にできた亀裂《きれつ》に注意だね! 分かった。
情報ありがとう!」
「はい。皆さんお元気で」
「油売ってくれてありがとー」
エルメスが言った。
商人は手を振り返すと、一度大きく警笛を鳴らして、トラックを発進させた。荷台の上で見張りをする息子《むすこ》達も手を振り、そしてトラックは北へと去っていく。
キノは、岩の影に隠れて見えなくなるまで、トラックを見送った。
そして、
「行こうか」
「行こう」
キノはエルメスを発進させた。丘を西へと下っていった。
平らな大地におりると、ゆっくりと走らせていく。やがて、右手に瓦礫《がれき》の山が近づき、真横を通り過ぎ、後ろへと去っていく。キノは。一度だけ目をやった。
「さて――」
キノが前を見ながらつぶやき、
「ひとまず儲《もう》かったね」
エルメスが言った。
「まあね」
冬の荒野を、モトラドが走っていった。
*      *      *
エンジンからの音と、柔らかなサスペンションが作るゆったりした揺れの中、
「あなた」
商人の奥さんが、隣に座る男に話しかけた。
「なんだい?」
大きなハンドルを握る商人は、前を向いたままで応《こた》える。
「そのブローチ、ずいぶんと珍しいわ。燃料とお肉程度では、到底|釣《つ》り合わないことを、キノさんは知らなかったのね」
「ああ。――教えなかったしね」
商人が言った。アクセルを抜いて速度を緩《ゆる》めると、右へとハンドルを切った。
荒野を走るトラックの巨体がゆっくりと曲がり、東へと向いた。
[#改ページ]
第八話 「殺す国」
―Clearance―
ジャングルの中を、一台の車が走っていました。
湿度も温度も密度も高いジャングルの中に、道がありました。道といっても路面は剥《む》き出しの土で、あちこち水たまりだらけでかなりぐちゃぐちゃです。鬱蒼《うっそう》とした緑で、道から左右の視界はほとんどありません。上を見ても、覆《おお》い被《かぶ》さった枝葉で晴れた空は部分部分しか見えません、
そんな道を走る車は小さくて黄色くて汚《さたな》くてボロボロで、走っているのが奇蹟《きせき》に近い有り様でした。後輪にはチェーンがまかれ、泥《どろ》のぬかるみを引っかき回しながら進みます、
右側の運転席に座っているのは、白いシャツを着た、長い黒髪《かみ》を持つ妙齢《みょうれい》の女性でした。
首にバンダナを巻いて、汗ふきにしていました。右腰には、大きなリヴォルバーのホルスターが見えます。
女性ば細いハンドルを手に、面白くもつまらなくもなさそうな顔で運転を続けます。
助手席にいるのは、黒いTシャツ姿の、少し背の低いハンサムな男でした、そして、
「すみませんねえ……、師匠《ししょう》。俺《おれ》がこんなんで……」
彼は今にもくたばってしまいそうな、やたら青自い顔をしているのでした,つぶやく言葉に力はなく、額《ひたい》にはなんか嫌《いや》な汗が浮かんで玉になっています。座席を少し倒して、後部座席に満載《まんさい》されているパースエイダー〔注・銃器《じゅうき》のことです)や荷物の上に置いた寝袋に頭を寄りかけていました、
「それは言わない約束でしょう」
師匠と呼ばれた女性がポツリと言い返して、
「あははは。――師匠ナイスです」
男は弱々しく笑いました。女性は運転しながら、男の方を見もせずに言います。
「あなたは黙って休んでなさい」
「すみません……。俺のせいでこんな寄り道までさせて。ホントなら、今頃はジャングルなんかじゃなくて別の国に向かっているはずなのに……」
「助手席でいつまでもうんうん捻られるよりはましです。今から行く国で原因が判明しなければ、置いていくことも考えますよ」
女性があっさり言ったので、
「殺生《せっしょう》な」
男はそりゃないよと青白い顔を向けました。そして女性は男をちらりと見て、判明すればいいだけですとつれない態度です。
「はあ……。いろんな銃撃《じゅうげき》戦を知恵と勇気と腕でくぐり抜けて生き延びてきた俺《おれ》が、こんな死に方したらこれ以上ないほど格好悪いですね……」
「確かに」
女性がすとんと同意しました。
「…………。浮かばれないですよ。成仏《じょうぶつ》できないでこの車に化けて出るかもしれ――」
男性が冗談《じようだん》めかして言口おうとして。女性から殺意のオーラを感じたので止《や》めました。かわりに溜息《ためいき》を一つ。
「はあ……」
「今、体が思うようにならないのはどうしようもありません。何か楽しいことでも考えることですね」
女性がぴしゃりと言って、会話は終わりです。
男は脂汗をかきながら、揺れる車の中でうつろな視線で、
「新型ライフル発売……。命中精度抜群……。装弾《そうだん》不良なし……」
そんなことをつぶやくのでした。
「見えてきました。城壁です」
女性が言って、
「最小の爆薬で最大の効果……」
車の天井《てんじょう》を見上げて捻《うな》るようにつぶやいていた男が、
「はい……?」
顔を前に向けました。ぶつかった虫の死骸《しがい》で汚《よご》れたフロントガラスの先で、ジャングルの道の先で、灰色の城壁が見えてきました。、この先の道はゆるやかな登り坂です。少し進んだ小高い丘の上に、小さな国が建っているのでした。
「ああ、助かりました……」
男が言いましたが、
「変ですね」
女性は車の速度を緩《ゆる》めました。
進む先の異様な様子は、すぐに分かりました。国までかなりの距離を残して、ジャングルが全《すべ》て切り取られているのです。
今まで左右も上も見えなかったのに、車は急に開けた場所に出ます。木々が全て切られ抜かれた、城壁までの間に土の色しか存在しない広い空間です。そして女性がブレーキを踏むと、「な、ななななな、なんだおまえらはー!」
小さな車は、恐怖に引きつった顔でライフルを構える若い兵士の一団に取り囲まれたのでした。
「どうにもお恥ずかしい限りです、旅人さん。、将校《しょうこう》がたまたま別の箇所に行っておりまして、若い兵達が失礼をしでかしました」
国の中、木造の建物の一室で、旅人の女性とこの国の男性数人がテーブルを挟《はさ》んでいました。
窓からは夕暮れが近い穏やかな陽射《ひざ》しが入り、天井《てんじょう》では静かにファンが回っています。蒸《む》し暑い土地柄《がら》らしく薄手の半|袖《そで》シャツ姿の中年男性達は、女性に揃《そろ》って頭を下げたのでした。
「それはもう結構です、国長《くにおさ》さん。お気になさらずに」
女性は真ん中に座る一人にそう言って、同行の男を入院させてくれたことへの感謝の意を伝えました。
「いやいや、おやすいご用ですよ」
国長の初老男性はそう言って、恐らく食あたりの激しいものであろうと伝えます。点滴《てんてき》を打って数日安静にすれば回復するでしょうとの言葉に、女性は全然|嬉《うれ》しそうな素振りも見せずに、それはよかったですと言いました。
「それにしても旅人さん達は、最悪の日に来てしまいました……」
国長が、うら悲しい顔を作りました。
「あの、国の周囲を切り開いているのと関係があるのでしょうね」
女性の言葉に、皆が頷《うなず》きました。
「ええ」
「あれは、焦《あせ》って防御陣地《ぼうぎょじんち》を構築しているようにしか見えませんでした」
「おっしゃるとおりです」
そして男達は顔を見合わせて、最後に国長が言いました。
「明後日《あさって》の朝、この国は戦場になります」
女性が訳を聞くと、国長は夕日がきれいな城壁の上に女性を連れ出し、そこで説明してくれました。見下ろす大地では、今も人々が作業に勤《いそ》しんでいます。
十二日前のことでした。この国に、聞いたこともない遠い国から使者がやってきました。その使者は、挨拶《あいさつ》もそこそこに一方的に宣戦を布告してきました、十四日の後、日の出と共に攻め入るのでそのつもりで≠ニ伝え、訳が分からずぽかんとしていたこの国の人達を残して、お茶も飲まずに去っていきました。
小さなこの国はてんてこ舞いです。軍隊はあっても、戦争なんかしたことはありません。兵士の数も少なく、慌《あわ》てて成年男子を動員してもライフルが足りず、土木作業をしてもらうのが精一杯です。女性や子供は城壁が破られたらどうなるのかと、戦々恐々《せんせんきょうきょう》としています。
三日前には偵察《ていさつ》兵から、千人規模の敵兵が北の道を使い馬車やトラックで接近中との報告も受けました。ただし、戦車や大砲の類《たぐい》はないそうです。その際、いっそ降参も視野に入れて交渉を申し出ましたが、無視されました。もはや、自分達の国と命を守るために戦うしかありません。
国のまわりから人海戦術で攻めてくるだろうと、この国の人達は城壁のまわりのジャングルを突貫《とっかん》工事で切り開いて、そこに塹壕《ざんごう》や防護柵《さく》を作っていました。明後日《あさって》がその日です。そんな中にボロ車で飛び込んだので、それは怪しまれるわけです。
「ですから、旅人さん達はここにいない方がいいです。もし負けたら、この国はお終《しま》いです。男は皆殺しにあい、女子供は売られていくのでしょう」
話を聞いた女性は、必死で穴掘りを続ける国民を見下ろして、しばし何か考えていました。
そして。訊《たず》ねます。
「もし私がお役に立った場合、どれほどの報酬《ほうしゅう》をいただけるでしょうか?」
「兵士三百人の指揮権! 城壁の外で押し寄せる敵を迎え撃ち! 成功報酬が金貨三百枚!」
ベッドから飛び出しそうな勢いで、薄いブルーのパジャマを着た男が、嬉《うれ》しそうに言いました。そこは病院の個室でした。横になっている男の顔色は少し良くなりましたが、腕には点滴《てんてき》の管が突き刺さったままです。窓の外は暗いですが、城壁の向こうからは槌《つち》音が聞こえました。
「あなたは寝てなさい。――車にある、あなたのパースエイダーを借りるかもしれません」
女性が言いました。男はどうぞどうぞと言ってから、少し悲しそうな顔をしました。
「そんな面自そうなことに参加できないなんて……。どうせなら、食あたりよりそっちで死にたいですよ……」
「なんにせよ、死ぬことなど考えるべきではありません。この国の人達は、今生き残るために必死なのですよ」
男はすみませんと謝って、それからにやりと笑いました。声をひそめて、
「でも師匠《ししょう》――、師匠が現場指揮を買って出たのは、成功報酬もそうですけど、万が一この国が落ちそうな時、城壁の外にいた方が自分一人で逃げやすいからでしょう?」
質問を聞いて、女性はあっさりと頷《うなず》きました。
「あなたも、明後日までには動けるようになっているといいですね」
「はあ……」
男が一度溜息《ためいき》をついて、それから不思議そうに女性を見上げます。
「でも!」
「でも?」
「同じもの食べてなんで俺《おれ》だけが?」
女性は答えます。
「さあ」
翌日、旅人の女性はとてもよく働きました。
この国の緑色の戦闘服を着て、腰の太いベルトには借り物の九ミリロ径ハンド・パースエイダーを吊《つ》っています。トグル・アクションで、装弾《そうだん》数は八発。長い髪《かみ》はうなじの上に結い上げて制帽《せいぼう》をかぶり、見た目はこの国の指揮官のようでした。
まず女性は、城壁の外で働く人に指示を与え、より効果的に陣地《じんち》を造り替えさせました、
具体的には、それまで国を一周覆《おお》うように造られていた防護柵《さく》に、あえて通り道を造らせました。幅にして三十メートルほどの、広い通路です。
それ以外の箇所は、人が通れないように徹底的に厳重にします。さらに深い溝《みぞ》を掘って刺《とげ》やら罠《わな》も仕掛けました。通路に敵兵が集中するようにします。
さらに通路の中間地点をしぼることで、殺到《さっとう》する人聞の流れがつまるように拵《こしら》えました。域壁と通路までに何重もの塹壕《ざんごう》を掘り、地上も城壁の上も、兵士はそこに並ばせます。
次に女性は、自分の部下になる三百人の兵士を色々と教育しました。
兵士が持つ武器は、引き金を引くと一発ずつ撃てる十連発自動ライフルと、ハンド・パースエイダーだけでした。これだけだと貧弱なので、女性はそれとは別に狩猟《しゅりょう》用の散弾《さんだん》パースエイダーを用意させ、バレルとストックを短く切り落とさせました。それらは屈強で優秀な兵士に持たせます。体力は劣りそうでも射撃《しゃげき》の腕に秀《ひい》でた兵には、スコープつきのライフルを持たせて、城壁の上に狙撃《そげさ》兵として配置させました。
兵士には二人一組での行動を徹底させ、一人が弾《たま》切れの時はもう一人が援護する戦法や、塹壕を退却する際の援護手順などを叩《たた》き込みました。撤退《てったい》や総攻撃など戦法の変更は、女性が発煙弾を打ち上げる手はずにして、その色と戦法を全員にしっかりと覚えさせました。
最初のうちはどうなるか分からないのに、よそ者の女の指揮下なんてやっていられるか≠ニ不満顔だった兵士達も、女性の的確な指導と自信にあふれた態度を見ているうちに、この人の言うことを聞けば生き残れるかもしれない≠ニやる気を出すのでした。
ところで病室の男ですが、その日は一日中、
「もう大丈夫ですから! ホント大丈夫ですから! お世話になりました!」
そう言って立ち上がってはヘナヘナとふらついて、看護婦さんやお医者さんにひょいとつまみ上げられてベッドに戻されていました。
そうして夜はやってきました。
夜がくれば、やがて朝になります。
朝がやってきました。
日の昇る前、ジャングルに立ちこめる朝|霧《もや》の中、ライフルを背負った兵士達は家族や友人と抱き合ってから城門の外に出ていきます。弾倉《だんそう》がたっぷり入った袋を手に、幾重《いくえ》にも掘られた塹壕《ざんごう》の中に、生死を共にする相棒《あいぼう》と一緒に入り込みました。当然旅人の女性も、お供に選んだ兵士と一緒に現場に立ちます。城壁の上では、スコープつきのライフルを抱えた兵士がうつぶせで構えました。子供や女性が、予備弾倉係としてその脇《わき》につきます。
偵察《ていさつ》兵が、合言葉を叫びながらジャングルから大急ぎで戻ってきました。国のすぐそばまで大量の敵兵が来ていると触れ回って、一気に緊張は高まります。
そして、その時はやってきました。雲一つない空に、真《ま》っ赤《か》な朝日が昇りました。
来たぞー、と誰かが叫びました。ジャングルがわさわさと揺れて、そこから人間の群が現れました"数は分かりませんが、確実に待ちかまえる方より多いです。柵や通路の向こうに、幾重にも人が猛《うごめ》いているのが見えました。
緊張と恐怖に震える人達の中で、
「――?」
一人女性だけが、双眼鏡《そうがんきょう》を片手に怪訝《けげん》そうな顔をしていました。あまり表情の変化を見せない人ですが、今日ばかりは不思議そうな顔をしていました。
というのも、双眼鏡のまん丸い視界の中に見えるのが、到底兵士とは呼べない、普通の服を着た普通の人達だったからです。年齢《ねんれい》も性別もバラバラで、スーツ姿の男性がいます。学生服の男の予がいます。そして相当の爺《じい》さんがいれば、十歳《さい》くらいの女の子も見えます。
長い移動の名残《なごり》か、全員服も顔も汚《きたな》く汚《よご》れていました。そして手にしているのはナイフやらナタやら譲やらの原始的な武器で、パースエイダーも手榴弾《しゅりゅうだん》も見えません。全員目だけがギラギラと光り、荒く息を繰り返す、かなり異様な集団でした。
「呆《あき》れました」
女性が素直な感想を漏《も》らし、脇で同じく双眼鏡を覗《のぞ》く兵士は、どうしますかと問いかけました。
「どうもこうも――、全滅させましょう」
そして女性は、信号弾用の中折式パースエイダーを取り出し、弾《たま》の種類を選び、発煙弾を撃ち上げました。紫の煙が空へと立ち昇り、また降ってました。
紫? 紫? と兵士達が顔を見合わせました。紫の合図は、敵は撤退《てったい》中。身を隠さずにじっくりと狙《ねら》え。無駄弾《むだだま》を撃たずに確実に敵を殲滅《せんめつ》せよ≠ナしたから。
実際兵士達に悩んでいるヒマありませんでした。紫の煙玉が敵兵との間に落ちて、まるでそれが合図だったかのように、敵は雄叫《おたけ》びを上げて突進を開始しました。目論《もくろ》みどおり、柵のない通路を使って。
数百を越す、小汚《こぎたな》い人間の一斉《いっせい》突撃。地響きが塹壕《ざんごう》の中を通り越し、国の中まで聞こえてきました。
次に聞こえたのは、百を越えるパースエイダーが一斉に火を噴《ふ》いた音でした。暫壕の中から顔とライフルを出した兵t達は、じっくり狙《ねら》う必要もなく、ただ目の前の人混みに向かって水平にぶっ放したのでした。
人の波の先頭で赤い血しぶきが生まれました。人が崩《くず》れ、後ろの人間がそれにつまずいて阪びました。二回目の一斉射撃。さらに多くの八間が転びましたが、人の突進は止まりません。倒れた仲間を踏みつぶし、城壁へと迫るのでした。
そこから先はもう滅茶苦茶《めちゃくちゃ》でした。敵兵は何も考えずに通路に殺到し、突進を続けました。守る方は、射撃練習のようにパカンパカンと発砲を繰り返します。城壁の上からも弾丸《だんがん》が降り注ぎ、ジャングルと国の間の通路に、死体の山が築かれていきました。土がみるみるうちに、赤く染まっていきました。
城壁の上の着い狙撃《そげき》兵のスコープに、楽しそうな笑顔で突っ込んでくる人達の顔が映っていました。
「くそう……。それ以上来たら撃つぞ……」
それでも撃つと、撃たれた人聞は慌惚《こうこつ》の表情で倒れていきます。周りの人間は、死んだ人間を無視して、そして晴れやかな顔で、次々と撃ち殺されていきます。
「なんなんだよ……。オマエら死ねのが恐くないのかよ……」
泣きべそをかいた兵士に、
「そんなこと考えたら負けますよ。リラックス、リラックス」
そう話しかけながら隣に立ったのは、薄いブルーのパジャマを着たままの、病院のスリッパを履《は》いたままの、寝癖《ねぐせ》がひどい有り様な、ライフルを背負った、少し背が低くてハンサムな男でした。その脇《わき》に銀色の点滴《てんてき》台が立っています。
男はまわりの兵士がこれ以上ないほどのあきれ顔で見つめる中、左腕に針を刺したまま城壁の脇に座り、押し寄せる人達と、それを射撃で押し止める入達を上から眺めました。
「さてと、状況は……っと」
そんなことをつぶやきながら、男は右から左へと目をやりました。明るい朝の光の元、粗末《そまつ》な武器と統制の取れてない動きで、ひたすら通路に突撃する敵が見えました。防護柵《さく》を高くした箇所には誰も来ません。一応そちら側にも狙撃兵は配置していましたが、まだ誰も一発も撃っていませんでした。
「おかしいなあ……。連中、本気で戦争をやる気じゃないのかなあ……? まあ、楽でいいけど……」
男はそんなことをつぶやきながらライフルを構え、ボルトを動かして弾《たま》を装填《そうてん》。スコープの中に映った十代前半に見える少年の笑顔に向けて、
「来世では、その顔で幸せになれますように」
遠慮容赦《ようしゃ》なく引き金を絞《しぼ》るのでした。
撃ちすぎたライフルのバレルが加熱して、湯気が立ち上っていました。
塹壕《ざんごう》で散々《さんざん》撃ちまくった兵士が、弾倉《だんそう》を交換して、また撃ち続けます。目の前に広がるのは、絨毯《じゅうたん》のようになった数百人の死体と、それを笑顔で踏みつけ乗り越えてくる人間の姿てす。
中には弾丸《だんがん》の嵐をかいくぐり、塹壕のすぐ手前まで近づく者もいました。そんな勇者は、散弾《さんだん》の雨あられを体中にうけて、五体バラバラになって散らばるのでした。彼が死ぬ直前に投げた小さなナイフが、空中を回転しながら飛んで、全然屈かずに濡《ぬ》れた土の上に落ちて刺さりました。
絶え間ない発砲音の中、何か甲高い歓声が聞こえたかと思うと、どう見ても十代中頃としか思えない女の子達が、二十人くらいで突っ込んできました。手をしっかりと繋《つな》ぎ、よく見ると紐《ひも》で結んでありました。汚《よご》れていますが、着ているのはおそろいの制服のようでした。
彼女たちは死体の山を乗り越え、足下を他人の血で真《ま》っ赤《カ》に染めながら、これから想い人にでも会うかのような、嬉《うれ》しそうな笑顔で突っ込んできました。
「何やってる、撃てよ!」
弾倉を交換している兵士が隣《となり》の相棒《あいぼう》に叫んで、中年の兵士は首を振りました。
「嫌《いや》だ……。俺《おれ》の娘《むすめ》も、あんくらいで……」
「敵だぞ! 殺《や》らなきゃ殺られるぞ!」
「ぶ、武器も持ってないし……」
「阿呆《あほう》! 爆弾《ばくだん》を巻いていたらどうする!」
弾倉を交換し終えて、その兵士が狙《ねら》いを向けた時、城壁の上からの弾丸が少女達を射抜きました。数人が頭に弾丸を受けて、脳を撒《ま》き散らしながら倒れ、結ばれた手に引きずられて無傷のものも倒れます。それでも前に進もうとする一人に、
「くたばれ!」
その兵士が二発ほど撃ち込みました。ガクガクと揺れた頭は、首から上がなくなりました。
「そろそろ交代ですね」
戦闘、というより一方的な射撃が始まってからずっと、双眼鏡《そうがんきょう》で戦況を眺めていた女性が、ポツリとつぶやきました。そして、赤色の発煙弾を撃ち上げました、
赤の意味は、最前列の塾壕の交代です。後ろで撃たずに控えていた兵士達が、一斉《いっせい》に立ち上がって進みました。
「赤ってなんでしたっけ? 昨夜聞いたんですけど、忘れちゃって」
点滴台《てんてきだい》の脇《わき》で撃ちまくっていたパジャマ姿の男がそう聞いて、
「列交換だから援護です!」
隣《となり》の兵士が大声で答えました。激しい射撃音で、大声を出さないと聞こえません。
城壁からの、爾のような射撃の下、撃ち疲れた兵士達が後ろへと下がっていきます、数人がショック症状を起こしていて、土の上を仲間に引きずられていきました。
新たに塹壕《ざんごう》に入った連中は、ここぞとばかりに撃ちまくりました、的《まと》となる人間は次から次へとやってきて、体を吹き飛ばされ、ぱたりぱたりと倒れていきます。
「これじゃ虐殺《ぎゃくさつ》ですよ!」
城壁の上で、ひとまず援護射撃を終えた若い兵士が憤《いきどお》って、
「んー、勝っている戦いなんてそんなもんですよ。負けるよりいいじゃないですか」
パジャマの男があっさりと言いました。言った後、苦しそうに、
「いてて……」
「まさか! やられたんですか?」
まわりの兵十がハッとして注視する中、男が答えます。
「いや、点滴《てんてき》の針がずれて……。これ凄《すご》く痛い」
視線が急に冷たくなりました、
「……。アンタもう戻れよ」
誰かが言いました。
国の中で、避難《ひなん》所で震える人達には、くぐもって鳴り響く発砲音しか、外の様子を知る術はありません。
永遠に続くのではないかと思われていた乱射の音は、やがて散発的になりました。
そして、聞こえなくなりました。
どうなったのかと顔を見合わせる人々のもとに、
「勝ったぞーっ!」
伝令《でんれい》の少年が飛び込んできて叫びました。
それは一日中続いたかと思われましたが、実際太陽は東の空に低く、まだ朝食の時間にもなっていませんでした。
戦力がなくなったので負けを認めます
たったそれだけが、便箋《びんせん》一枚に書かれていました。
狂ったような笑顔で突入してくる人がいなくなった後、白い旗を振りながらやってきた、ちゃんとした軍服を着た軍使が持ってきた封筒に入っていたのはそれだけです。
受け取った国長《くにおさ》も、他《ほか》の人も、訳が分からずにぽかーんとする中、軍使はすたすたと戻っていきました。
疲れ切った兵士達の目に映るのは、朝の光を浴びてキラキラと光る大量の空薬英《からやつちよう》と、すでにあつまった雲のようなハエの群に突つき回される死休の山でした。
その巾で、致命傷を負いながらまだ死んでいない人が相当数動いていました。彼らは味方に助けられることもなく、ただ呻《うめ》いています。
「ここは私が」
旅人の女性は、片端から頭を撃ち抜いて、彼らを楽にしていきました。ハンド・パースエイダーの弾倉《だんそう》を入れ替え、撃ち続けました。
同時に、一応は助かりそうな人を捜《さが》して、一人もいませんでした、
結局、この国の側に戦死者は出ませんでした。負傷者は、仲間の誤射で足に重傷を負った兵士が一名。ライフルの反動で鎖骨《さこつ》を折った兵士が二名。恐怖とショックで気絶した兵士が五名。
空薬莢で火傷したのが兵士とそれ以外合わせて二十名以上。発砲音で耳に何らかの異常をきたした兵士が三十名以上。
そして、腹痛を悪化させ激怒《げきど》の医者にベッドに連れ戻された旅人の男性が一名、でした。
戦争が終わったので、後片付けが始まりました。
国のそばに大きな穴を掘って。そこに石炭や木や燃料など、ありとあらゆる可燃物を入れて
死体を茶毘《だび》に付します。ジャングルでは腐敗《ふはい》が早く、弾丸《だんがん》によってズタズタにされた死体は、半日も経《た》たずに見るも無惨《むざん》な状態になっていきます。
最初のうちは現場の兵士が作業に当たりましたが、そのうちに耐えきれず気分が悪くなるものが続出してしまい、かわりに国の中の女性|陣《じん》が動員されました。
マスクで悪臭と戦いながら、どうやら今朝までは三十|歳《さい》ほどの男性だったらしい死体を拾いながら、
「こいつらだって、俺《おれ》達みたいに家族がいただろう。まだ生きたかったろうに……」
一人の中年の兵士がポツリと漏《も》らしました。その瞬間彼の両眼からは涙があふれて、マスクに伝って濡《ぬ》らしました。
脇《わき》で淡々と作業をしていた軍服姿の旅人の女性が、前が見えなくなった男の手から死体を取り上げ、脇を通った担架《たんか》の、子供の死体の上に載《の》せました。
兵士はしばらく泣きじゃくった後、旅人の女性に顔を向け、
「もしあなたがこの国に行くことがあったら、理由を聞いてほしい。こんなにも人の命を無駄《むだ》にする理由を」
女性は頷《うなず》きましたが、
「知らない方がいいかもしれませんよ」
「そうかもしれないけど……、どんな理由であっても、国民をこんなに無駄死《むだじ》にさせる国家を許すわけにはいかない」
「どんな埋由であっても?」
「どんな理由であっても」
「……一応聞いておきます」
女性はそう言って、死体を集める仕事に戻りました。
死休の片付けは、次の日の夕方にようやく終わりました。
数えられた死体は、三千を超えました。
「戦争のやり方も知らない敵兵のおかげで簡単にボロ儲《もう》け。しかも医療費タダ、いやあ、あの国があそこにあってよかったですね、師匠《ししょう》!」
黄色い小さな車の運転席で楽しそうにハンドルを握る男は、すっかり血色のよさを取り戻していました。女性は助手席に、すました顔で座っています、
戦争から二日|経《た》って、女性は報酬《ほうしゅう》をもらい、男も回復し、二人は盛大な見送りを受けて出国し、ジャングルの道を走っていました。朝の空は、きれいに晴れていました。
「で、これからどちらに向かいます? 師匠」
「北に向かいなさい」
「はい? ――なんかあるんですか?」
「いいえ。でもひとまず北に」
「いいですけど」
こうして男は、分かれ道で北を選びました。相変わらずの悪路を、車はガタガタと進みました。
そうして二人は、その日の夕方に、馬車の群に追いついたのでした。狭い道に、空荷《からに》の馬車が数珠繋《じゅずつな》がりになっています。
「師匠、こいつら……」
「間違いなくそうでしょう。ちょっと話が聞きたくて」
男は、なんて物好きなと呆《あき》れ顔をしました。
「どうせ――」
「いいですから」
仕方なく男は、ぷぴぷぴと力のない警笛《けいてき》を鳴らし、次々と馬車の脇をすり抜けて前に出ていきました。
やがて、先頭でゆったりと馬の背に揺られる一人の軍人を見つけました。歳《とし》にして五十ほどに見える男で、軍服を着て背の高い制帽《せいぼう》をかぶり、右腰にはパースエイダーのホルスター、左腰にはサーベルを下げています。他《ほか》の人間は御者《ぎょしゃ》ばかりで、軍服を着ていたのはこの人だけでした。
旅人を見て、その軍人は優雅《ゆうが》に右手で敬礼をしました。そして馬を止め、馬車の列を止めました。
「しばらく休憩《きゅうけい》とする」
軍人は御者《ぎょしゃ》に言い渡し、すらりと馬から下りました。車から出て、二人が彼に近づき、極々《ごくごく》普通に挨拶《あいさつ》を交わしました。
立ち話を始めた三人ですが、簡単な世間話もそこそこに、
「ところで、私達はここから南にある国に立ち寄ったのですが――」
女性がずばりと切り出しました。
「その国は先日、突然戦争をふっかけられ大変|難儀《なんぎ》をしたそうです。押し寄せた敵兵はなんとか撃退《げさたい》したそうですが」
「ああ、それは我々のことですね」
軍人があっさりと言ったものですから、どうせ本当のことは教えてくれませんよ≠ニさっき講おうとした相棒《あいぼう》の男は、かなり驚きました。
「すると……、あの馬車に乗せてきて、今はお国に帰るところですか?」
「さよう。全員が死んでは戦争にもなりませんから。――トラックの部隊はもうついている頃でしょう。馬はどうも遅くていけません。私はトラックの揺れよりは馬の背の方を好みますから、馬車部隊の指揮は自分で選んだことであって、ここで文句を言うのは筋違いであることは重々《じゅうじゅう》承知しているのですが」
そんな個人的|嗜好《しゅこう》はどうでもいいので、男は単刀直入に聞いてしまうことにしました。
「あの攻撃――、国の人に聞いたところ、まるで殺してくれと言わんばかりに突っ込んできた兵士達のことですが、あれはどういう作戦だったんですか,」
「作戦も何も!」
軍人は、いたって穏やかな表情で、あっさりした口調で、質問にすんなりと答えます。
「あれは殺してもらうために突撃させたのでして」
「はい?」
自分の耳があまり信じられない様子で、男が聞き返しました。
軍人は気分を害した様子もなく、あれは殺してもらうために突撃させたのでしてと、同じ言葉を繰り返しました。
女性が口を開きます。
「すると、殺してもらうためにわざわざ宣戦を布告して、相手側には防衛戦争≠ニさせることで、罪悪感を与えずにおこうと」
「そうですそうです。貴女《あなた》は頭の回転が早い」
「あのう……、なんでまたそんなことを?」
「もちろん、連中が死にたがっているからですよ」
軍人の答えはストレートすぎて、話が見えづらくなる嫌いがあります。
「死にたがっている人を、わざわざ連れてきた理由は?」
女性が聞きました。
「ああ、それは、我が国ては自殺を禁止しているからです」
「自殺? じゃあ連中……、自殺志願者の群だったってことですか? そりゃ確かに、死にたがり≠ナすね」
「そうです。我が国は人口も領土も大きな国ですが、そして豊かで暮らしやすく、平均|寿命《じゅみょう》も長い恵まれたところなのですが、どうにも毎年毎年自らの生を諦《あさら》める輩《やから》が多いので困っていました。そんな連中が汽車に飛び込んでダイヤを乱したり、ビルの上から鳥になって、実際は潰《つぶ》されたヒキガエルになって道路を汚《よご》したり、人の家の裏庭で借りた自動車の中で仲良く排気ガスを吸ったり、睡眠薬をお酒で一|瓶《びん》一気飲みしたり、ガソリンをかぶって火をつけたり、憩《いこ》いの場である湖に入って浮かんだりと、まあ迷惑千万《めいわくせんばん》な行為に及ぶのです」
「なるほど」「はあ……」
「そこで国家として、自殺を防止するために手を打ちました。色々と試しましたよ」
「って、どのみち死んだら当人にとっては全《すべ》てお終《しま》いでしょう。防止策に効果あったんですか?」
「ええまあ、おっしゃるとおりなんですが。自殺死体はさらし者にして犬の餌《えさ》≠ニか、"自殺失敗者は街中さらし者とかがそこそこ。自殺者の家族は終身刑≠ネんてのもかなり、たしか五パーセントは減ったでしょうか、その年の自殺者数は」
「…………」
男が嫌《いや》そうな顔で黙りました。
「それも結局ダメでして、全てを破棄して最終案として採川されたのがこれ――そんなに死にたいのなら国が死に場所を授けましょう′v画です」
「続けてください」
「国の役場に新しい部署《ぶしょ》国営自殺相談センター≠設けましてね、死にたい人に死ぬ方法を与えるから、迷惑な自殺行為に及ばないようにと指導することにしたんです」
軍人の言葉に、男が疑問符を顔に出します。
「あれ? 自殺はよくないから、止《や》めさせるんじゃないんですか?」
「そんなことは言っていませんよ。死にたい輩は好きに死なせる方がいい、ただ、そのために国の中で迷惑は起こさせない、ということで」
「はあ……」
「そして、国営自殺相談センター≠ナ自殺の意志が確認されたら、自殺者名簿≠ノ登録してもらいます。こうして半年に一度、自殺作戦に参加できると、まあこういう訳です、――具体的には、家族や友人との別れをすませたりすませなかったりして、死ぬために出発します。後は適当に離れた国に行って宣戦布告して、攻めるフリをして城壁に向かって突撃です。みんな嬉《うれ》しそうに突っ込んでいきますよ。集団心埋というか、みんなで死ねば恐くないってヤツですかね? その後は、殺害から死体の片付けまで、よそ様がやってくれるので楽ちんです」
「なるほど。大変よく分かりました」
女性がそう言ったので、軍人は気をよくしたみたいでした。
「でもですね、これも結構大変でして、ちゃんと殺してくれる″曹選ぶのが。以前は別の国に定期的に戦争をふっかけていたんですが、そのうちこの国がもう嫌《いや》だと降参《こうさん》してしまいまして。それで別の国に変えたんですが、今度は自殺したいだけ≠ニ気づかれてしまったんですねえ。皆が捕虜《ほりょ》になってカウンセリングなんてやられた日には作戦大失敗ですよ。今回あの国を選んだのはサイコロでしたけど、大成功でした、私が一番恐れるのが、戦争に勝ってしまう≠アとでしたけど、あの国は少ない戦力でうまい具合に防衛してくれました。なかなかの軍師がいたのでしょう。数年はあそこが使えるだろうと、国に帰ったら報告書をまとめる予定です」
軍人は、とても満足そうでした。
「この方法は、かなり使えますよ。他《ほか》の国に行ったら、もっともこのへんの国では困りますが、ぜひ自殺問題解決に素晴《すば》らしい方法があると宣伝してください」
「考えておきます。――疑問が解けて、とてもすっきりしました。お話、どうもありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
女性と軍人が爽《さわ》やかに礼をかわす脇《わき》で、男だけは今一つ不満顔です。
「ても、俺《おれ》には死にたがる人間の気持ちが分かりませんよ。人生って楽しいのに」
「私にも分かりません」
軍人はすぐに同意しました。
「私にも分かりません、なんで連中が喜んでセンターに来るのか。センターで自殺が許可された瞬間、なんであんなに嬉《うれ》しそうな顔になれるのか……」
軍人が、少し下を向きました。制帽《せいぼう》の鍔《つば》が、彼の憂《うれ》い顔を少し隠しました。
「旅人さん達も、私も、自殺しようと思えば腰のパースエイダーですぐにでもできます。」めかみに押しつけて引き金を引いて、ターン、と一発です、でもそれをしない。それをしないのは、生きている楽しみというか、理由があるからでしよう」
「そうですね」
男が同意。女性は黙ったままです。
「理由があるから生きる。とても自然です。そして同じくらい、理由がないから死ぬ、これもまたとても自然なのかもしれない。――でも私は、理由がないことが理解できません。さっき旅人さんが言ったとおり、生きていると、たくさん楽しいことがあるのに」
「そうですよねえ」
「でも連中、どうにも輝いているんですよね。顔も瞳も。これから死ぬ人間の目とはとても思えない。自殺が認められると、妙《みょう》に嬉《うれ》しそうなんです。センターに来る前は死にそうな顔なのに、『じゃあ三ヶ月後にあなたは死ねますよ』って言うと、憑き物でも落ちたかのように清々《せいせい》としている。『もう勉強、仕事しなくていいんだ!』とか、『嬉しい! いよいよこんな私とはおさらばできるのね!』とか叫ぶ。移動中も楽しそうにむ互いの死について語り合って、『私の美しい死に様を見てくれ!』なんて話題で盛り上がっています。『軍人さんも一緒にどう?』とか言ってくる、理解不能です。私には全然理解できませんよ……」
軍人はそこで、大きく溜息《ためいき》をつきました。
「私は、ご覧のとおりしがない軍人です。この年になっても昇進はままならず、戦死しても将軍《しょうぐん》にはなれそうにもない、芽の出なかった男です。恥ずかしい話ですが、妻《つま》はうだつの上がらない私を捨てて若い男の元に走り、子供達はもうマトモに口をきいてくれません。そんな私でも、死のう≠ネんて思ったことは一度もありませんよ。生きていることはとにかく素晴《すば》らしいことです。楽しいことばかりじゃない。時に辛《つら》く時に悲しい。でも、生きていく上で励みになる生き甲斐《がい》≠ヘ持っています。自ら死を選ぶ人間の気持ち、私にはまったく分かりません」
軍人の力強い言葉に、男はかなり嬉しくなりました。うんうんと首を上下に動かして、分かります分かりますと同意して、俺《おれ》なんか仕方なく始めた旅が今の生き甲斐で、楽しくてたまりませんよと声を弾《はず》ませました。女性は、相変わらずの無表情でした。
男が訊《たず》ねます。
「軍人さん。あなたの生き甲斐ってなんですか? もしよかったら教えてくださいよ。うまい食事をたらふく食べることですか? それとも、一人の時に面白い小説を読んでその世界に浸《ひた》ることですか?」
聞かれた人間は顔を上げて、
「それはもう!」
少し照れくさそうな、そして絶対に嬉しそうな顔をしました。
そして答えます。
「自殺者達の無様《ぶざま》な殺されようを見るのが楽しくて楽しくて!」
[#改ページ]
第九話 「続・戦車の話」
―Spirit―
「あれのこと、だよね」
「ああ。でも――」
キノとエルメスが、浮遊《ふゆう》戦車の後ろ姿を眺めていました。
色が黒くて、砲塔《ほうとう》の右脇《わき》に三本の赤い縦《たて》線があって、友側に獏《バク》の絵が描《か》いてある戦車の後ろ姿を、見えなくなるまで眺めていました。
あれから、どれくらいの年月が過ぎたのか、当の戦車にも分からなくなりました。
あちこちの草原を、森を、山を、砂漠を、戦車はふよふよと浮かびながら、彷徨《さまよ》いました。
戦死した戦車長が最後に破壊するように命令した戦車は、どこに行っても、見つけられませんでした。
戦車は彷復い続けました。ある時は酷暑《こくしょ》に焼かれ、ある時は豪雨《ごうう》に打たれ、ある時は強風に次かれ、またある時は雪に埋もれました。、
充電のために、何ヶ月もお日様の下でじっとしていることもありました。戦車は、車体のあちこちを錆《さ》び付かせながら、たくさんの部品を落としながら、移動を続けました。
でもある時、そこがどこだか分からない鬱蒼《うっそう》とした森の中で、
「戦車長殿。もう動けないです」
とうとう戦車は故障《こしょう》してしまい、そこから動けなくなりました。浮かぶこともできなくなり、重い巨休を、倒木の上に落としてしまいました。
「戦車長殿、申し訳ありません。最後のご命令を、完遂《かんすい》することができなくなりました、申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません」
戦車はそう言うと、何も考えなくなりました。
「――これまだ動くよ、全部は壊《こわ》れてないよ」
「ほんとー? だとしたら。すごーい」
戦車が次に何かを考えたのは、近くで聞こえた声が誰のだろうかということでした。動けなくなってからずっとスイッチを切っていた、外が見える照準《しょうじゅん》装置を作動させました。
戦車は見ました。森の中につんのめり、たくさんの落ち葉に覆《おお》われていた車体に、子供が二人登っていました。 一人は帽子《ぼうし》をかぶった男の子、一人はお下《さ》げ髪《がみ》の女の子。二人とも、十|歳《さい》ぐらいに見えました。油で汚《よご》れた、灰色のつなぎ服を着ていました。
二人は嬉《うれ》しそうに、車体の上に積もった落ち葉を払いのけていきます,
「誰? ――誰ですか? あなた達は誰ですか?」
戦車が、久しぶりに口をききました。それはもうずっと昔に、モトラドさんと旅人さんに会って以来のことでした。
すぐに、男の子と女の子から返事がきました。
「こんにちは、戦車さん。こんにちは」
「こんにちわー! やっぱりまだ全部壊《こわ》れてないー。すごい!」
そんなことを言われて、戦車は悲しくなりました。
「確かに、全部は壊れていないかもしれません。でも、もう動けません。もう動けません。どうしようもありません」
戦車がそう言うと、子ども達は嬉しそうに言います。
「じゃあ、ぼく達が直してあげる」
「あげるー!」
子ども達は、それだけ言うと去っていきました、
戦車は、また黙りました。目をつむりました。
夢でも見たのだと思うことにしました。
次に戦車が見た光景は、信じられないものでした。
いつの間にか、単体のまわりにいろいろな部品が積み上げられています。どれもこれも、今の戦車に必要な部品でした。
そして、男の子と女の子が、朝の陽射《ひざ》しの下で一生|懸命《けんめい》に働いていました。部品を二人で持ち上げては、戦車の壊れた部品と取り替えていきます。軍い部品は、二人が乗ってきた小型トラックのクレーンまで使いました。
「何をやっているんですか? 何をやっているんですか?」
戦車が戸惑って聞くと、
「直してるのさ!」
「直すのー! 直るのー!」
男の予と女の子が、屈託《くったく》なく言いました。顔には油汚れがついていますが、笑顔は晴れやかです、
「信じられません。信じられません」
戦車が言いました。でも、子ども達はてきぱきと作業を進めていきます。そうして、その日の昼頃には、
「信じられません……」
戦車はほとんど直っていました。発電機を繋《つな》いで電気を送って、全《すべ》ての機能が復活して、再びリフターが作動して、大きな車体は、どれほどぶりかは分かりませんが、ふわりと浮いたのでした。
「やったー!」
「たーっ!」
二人は、手を叩《たた》いて喜びました。戦車が、どうしてそんなことができるのか。訊《たず》ねました。すると二人は、
「親方に鍛《きた》えられたからさ」
「からさー」
なんでもないことのように言いました。二人の話では、二人とも親方と呼ばれる立派な機械工の下で働いていたので、壊《こわ》れた車両を直すのはお手のものとのことでした。
戦車は、二人にお礼を言いました。思いつく限りの感謝の言葉を使って、お礼を言いました。二人は、たいそう照れてしまいました。
その後、
「これなんだけどー」
女の子が、戦車に箱を見せました。そこには、すっかり黄ばんでしまった人間の骨が、一人分入っていました。ボロボロになった洋服や、錆《さ》び付いて動かなくなったハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器《じゅうき》です。この場合は拳銃《けんじゅう》です)もありました。
「中にいた人のなのー、死んだ人は、まいそう≠キるべきだって教わったのー」
「どうする?」
男の子が聞いて、戦車はしばらく黙りました。それから、
「人間の方法で、処理してください。どうかお願いします。どうかお願いします」
二人は分かったと言いました。そして、
「じゃあついてきて」
「きてー」
あまりにあっさり言ったので、戦車は反論もできずついていくことになりました。
森を小型トラックがガタゴトと通り、後ろから、木々をベキベキと押し倒しながら、低く浮かんだ戦車が続きます。
森を抜けて丘を越えて、夕暮れが迫る頃、たどり着いたのは小さな工場《こうば》でした。国もない荒野に、ぽつんと工場が建っていて、中には修理のための機械と、修理を待つ機械が転がっていました。工場のまわりは畑が広がっていて、野菜が植えられていました。
工場でトラックを比めて、二人の子供は箱とスコップを持って、てくてくと歩きました。戦車も、ゆっくりとついていきました。
空が一面|朱《しゅ》色に染まり、高いところにある雲を鮮《あざ》やかに照らす頃、戦車はお墓《はか》の前にいました。草原の真ん中に鉄骨の墓標《ぼひょう》が一つ立っています。二人の子供はその脇《わき》に穴を掘って、箱の中身を、戦車長の遺体と遺品を埋葬したのでした。
土に汚《よご》れた手を合わせて祈る二人に、戦車はもう一度お礼を言いました。そして、二人を砲塔《ほうとう》の上に乗せて帰りました。
次の日の朝、戦車は井戸《いど》で顔を洗っている二人に、どうしてここに住んでいるのか尋ねました。
二人は、いろいろなことを素直に話しました。
ここから近いところにある国に住んでいたこと。二人とも小さい頃親に捨てられ、地下道で生活していた時に親方に拾われて、機械整備を教わって一緒に働いていたこと。工場《こうば》は、親方が建てたこと。昔の戦争で放棄《ほうき》された戦車や装甲車《そうこうしゃ》があちこち転がっているので、部品を拾い集めては直して、国に売っていること。
「売るんですか? そのために直したんですか?」
戦車はびっくりしましたが、二人は首を横に振りました。
「うらないよー」
「戦車は売れないもん。国で売れるのは、畑を耕したり種《たね》を撒《ま》いたりする機械。だから、いつもはそういうふうに改造するの。でも、完全に壊《こわ》れてない戦車は改造できないよ」
戦車はほっとして、そうですか、とつぶやきました。
「でも、親方はこの前、とつぜん風邪《かぜ》ひいて、とつぜん死んじゃった」
「死んじゃったー、何回ゆすっても起きなかったのー」
「だから、親方が好きだったあの草原に埋めたんだ。誰もいないと寂しいかと思ったけど、あの人が一緒だからもう寂しくないよね」
「よねー。仲良くできるよねー」
戦車は、二人に聞きました。
「親方さんは、二人にとって、いい人でしたか?」
二人が声を揃《そろ》えてうん、と答えると、戦車は濤いました。
「いい人どうしなら、きっと仲良くできると思います」
この日の昼頃になって、細い雨が降り始めました。
戦車は工場に入らないので、外で休んでいます。重いので土に少し沈んでいます。 全部を覆《おお》うように、二人はシートをかけました。
「濡《ぬ》れると風邪《かぜ》ひくよー」
「戦車は風邪はひかないです」
「いいからいいから」
男の子が言いました。
しとしとと降る雨の下で、戦車はシートを被《かぶ》って休んでいました。
「戦車長殿……。幸運にも、二人の勇敢《ゆうかん》な子供に直してもらいました」
戦車がつぶやきます。
「でもー、見つけることができません。見つけることができません。戦車長が破壊しろと命令した戦車、どこにいるのでしようか? どこにいるのでしょうか……?」
工場《こうば》の中では、男の子と女の子が、とんてんかんてん仕事をしながら、話をします、
「戦車、なんだか元気ないね」
「うん。元気ないー」
「直ったのにね」
「ねー」
「ぼく達で元気づけてあげようよ」
「うん。元気づけてあげよー。でも、戦車の元気ってなにー?」
「うーんと……、ぼく達は、元気だと何をするかなあ?」
「かなー?」
「分かった! 元気だとはしゃぐ!」
「そうだー、はしゃぐー! わーい!≠チてはしゃぐー!」
「戦車なら、ずどーん!≠チて大砲を撃つのがそれだよ!」
「うん。それだー! ずどーん!≠セー!」
「でも、どうしよう? どうやって元気づけよう?」
「よー?」
「とっても寂しそうだもんね」
「ねー、独りぼっちだったんだもんねー」
「そうだよ! ぼく達は二人いるから、親方が死んじゃっても寂しくないんだよ。だから、もう一台、戦車に戦単の仲間を作ってあげよう!」
「そうだー。作ってあげよー」
「絶対喜ぶよ」
「喜ぶねー」
「そしたらずどーん!≠セよ!」
「そしたらずどーん!≠セー!」
二人はそう言うと、嬉《うれ》しそうにぴょんぴょん跳《と》びはねて、
「すぐやろう!」
「やろー!」
「外側だけだったら、あっというまさ!」
「さー!」
二人は仕事を放り出すと、使えそうな部品を探しました。
工場《こうば》にあった、トラクターに改造していたキャタピラの車両に、鉄板を貼《は》り付けることにしました。
そして張りぼての砲塔《ほうとう》を作りました。雨どいを使って大砲を作りました。色を黒く塗りました。砲塔右側に、紅《あか》い二本の縦《たて》線を描《か》きました。左側に、よく分からないけど動物の絵を、あの戦単とそっくりの絵を描きました。
それは、夜には完成しました。
「明日、晴れたら見せてあげよう!」
「よー!」
しとしと降っていた雨は、明け方には止《や》みました。
男の子と女の子は、戦車のシートを取ってあげました。
晴れた朝の光の下で、朝|露《つゆ》がきれいに輝いていました。
「二人とも、本当にありがとうございました。するべきことがあるので、もう行かなくてはいけません」
「えー、ちょっと待ってよ」
「てよー」
二人は急いで工場に戻りました。
戦車は、ゆっくりと巨体を起こします。リフターが作動して、重い装甲《そうこう》の固まりを身震いさせ、地面スレスレにふわりと浮かびました。
その時でした。
工場の裏から、きゅらきゅらと音がして、ぬかるんだ地面を掘り返しながら、一台の戦車が現れました。
「あっ!」
浮かんでいた戦車は、驚きのあまり声を上げました。
「見つけた……」
地面を走る張りぼて戦車の中で、
「絶対に喜ぶよ!」
「よー!」
乗っている二人は声を上げました。
「見つけましたよ戦車長殿!」
戦車が動き出しました。微速《びそく》前進。車体前面を敵戦車≠ノゆっくりと向けます。
「とうとう昆つけましたよ。とうとう見つけました。戦車長殿。喜んでください。喜んでください。色が黒くて、砲塔《ほうとう》の右側に三本の紅《あか》い縦《たて》線があって、左側に獏《バク》の絵が描《か》いてある戦車を絶対に確実に破壊せよ=\―あなたの眠《ねむ》るこの地で、この命令を完遂《かんすい》できます。命令を、とうとう完遂できるのです」
低いモーターの捻《うな》り。重い砲塔がスムーズに回転して、主砲が、口径二百ミリの滑腔砲《かっこうほう》が、凶悪《きょうあく》な鎌首《かまくび》をじわりともたげます。
「射撃管制システムチェック!問題なし。砲身安定機構チェック――問題なし」
てきぱきと、かつて戦車長に言われたことを、戦車は確実にこなします。
「敵戦車からのレーザ!照射《しょうしゃ》――なし。他《ほか》の敵影――なし。初弾――徹甲弾《てっこうだん》。次弾――対戦車榴弾《りゅうだん》」
直ったばかりの自動|装愼《そうてん》システムが、劣化《れっか》ウラニウムの巨大な矢を、長い砲身のお尻《しり》に押し込みました。
「装填《そうてん》――よし!」
砲塔の後ろで、赤いランプが灯《とも》りました。砲身がすすっと動いて、のろのろと動く張りぼて戦車をその先に捉《とら》え、そしてその動きに合わせて微動します。
「照準――よし!」
そして、今はいない戦車長のかわりに、戦車は叫びました。
「撃てーっ!」
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きゅらきゅらきゅらきゅらきゅらきゅら。
張りぼて戦車は、浮かんでいる戦車の目の前まで来て止まりました。
「どうして……」
戦車の主砲は沈黙したままで、それでもまだ張りぼて戦車を狙《ねら》い、その動きを追い続けました。
「どうして……、どうして撃てない! どうして!」
戦車に答える人はいません。
やがてその巨体は、すうっと力を失い、湿《しめ》った土の上にゆっくりと落ちました。落ちて、車体の下半分がめり込みました。
「見てみてー!」
「見てー!」
男の子と女の子の声。それは、すぐ目の前の張りぼて戦車から聞こえました。ペラペラの鉄板でできたハッチが開き、二人が頭を出しました、
「どうして……。どうして……。どうして……」
何も分からずに。ただ疑問の言葉だけを繰り返す戦車に、
「そっくりにできたでしょう!」
「でしょー」
二人は大きな鏡を取り出しました。洗面所にあった鏡でした。
戦車の照準《しょうじゅん》装置が、鏡を捉《とら》えました。そこに映っている、土に半分埋まった戦車を捉えました。
「どうして!」
戦車がその姿をはっきりと認識して、それが何かを理解しました。そして、まるで目をそらすように砲塔《ほうとう》を勢いよく回転させた時、
ずどーん!
湿気《しけ》っていた火薬にようやく点火して、轟音《こうおん》があたりを震わせました。衝撃波《しようげきは》が、草の露《つゆ》を全《すべ》て払いました。、
音の五倍以上の速さで砲弾《ほうだん》が飛び出して、晴れた空の向こうまで、一瞬で飛んでいきました。
緑の草原の真ん中に、ぽつんと工場《こうば》が建っています。
その脇《わき》には大きな戦車が一台と、小さな張りぼて戦車が一台。
そして、
「やったー!」
「すごいー!」
二人の子供がはしゃぐ声が、いつまでも響いていました。
第十話 「むかしの話」
―Tea Talks―
「男の人がほしい国」
むかしむかし、あるところに、旅をしている二人と一匹《ぴき》がいました、
二人のうちの一人は、いつも緑のセーターを着た若い男の人で、悲しい事情で故郷をなくした、強くて優しい人でした。
二人のうちの天は、白い髪《かみ》と緑の瞳を持った、いつもだんまりなその時は世界の全《すべ》てがあまり好きではなかった女の子でした。
一匹は、言葉を話す利口《りこう》な、白いふかふかした毛でくるまれた、大きな犬でした。
二人と一匹は、ひょんな理由から出会って、一緒に旅をすることになりました。一台のバギーに乗って、名前もない砂浜から、自分達が過ごすことのできる国を探して、あてのない旅を始めました。広い広い大地を走ります。
そうして、ある日、とある国にたどり着きました。
「お願いです! 旅人さん! ぜひこの国に住んでください! お願いです!」
国の人達が、とっても一生|懸命《けんめい》に、旅人の男の人に話しました。
その旅人は驚きました。国の中で見る人会う人全員が、女の人だったからです。
「ぜひこの国に住んでください!」
話を聞くと、その理由が分かりました。この国では、ずいぶん前から男の赤ちゃんが生まれることが減って、そして男の数が少なくなって、今大変なことになっているのです。
旅人の男の人は、ちょっと考えました。どんな国に住むのかは、まだ何も決めていない人でしたけど、
「自分が望むところは、自分が望まれるところだろう」
そんな気持ちを持っていたので、この国に住んで人の役に立つのは悪いことじゃないと思い始めていました――その国の人達がこんなことを言うまでは。
「この国に女性はもういりません。残念ですが、一緒にいる女の子を定住させることはできまぜん」
それからは、とっても大騒ぎになってしまいました。
旅人の男の人は、この女の子を守る責任があるからと、一緒に定住させてほしいと頼みました。国の人達は、これ以上女の人が増えてたまるかと、絶対に認めません。
とうとう、国の人達が爆発してしまいました。その女の子をつかまえて追い出してしまえばいい、いっそ殺してしまえばいいと、恐ろしいことを考えたのです。
たくさんの女の人が、手に包丁《ほうちょう》や麺棒《めんぼう》を持って、一人の女の子に襲いかかりました。
一人の女の子は黙っていませんでした。いいえ実際には何も言いませんでしたけど――、反撃として、町中で、ものすごい音がして眩《まぶ》しい光が出る手榴弾《しゅりゅうだん》をたくさん投げました。
旅人の男の人は、必死になって誰もけが人が出ないようにがんばって、結局一番けがをしてしまいました。
二人と一|匹《ぴき》はバギーに乗って、その国から逃げ出しました。
草原で運転しながら、旅人の男の人が、痛てて、と言いました。口から少し血が出ていて、おでこにはあざがあって、セーターはあちこちちぎれていました。
その様子を隣《となり》から見ていた女の子は、とっても小さな声で、素直な気持ちで、
「ありがとう」
そう言いましたが、男の人には、風の音で聞こえなかったみたいです。
「女の子がほしい国」
次に二人と一匹の進む先にあったのは、山の谷間にある小さな小さな王国でした。
仕事はするのでしばらく住ませてくださいと、旅人の男の人は言いました。でも、残念ながら国の方針で、移民するのは無理ですと言われました。そこで。休息と買い物のためにと申請《しんせい》して、三日間だけ滞在していいことになりました。
この国では旅人はとても珍しいので、王様は国のお客としてもてなしてくれました。泊まるところを提供してくれただけではなく、出発する前に、王様の昼食《ちゅうしょく》会に呼んでくれました。 昼食会が始まる前、大きなテーブルの端に座った旅人の男の人は、きょろきょろしていました。
自い犬が、何をしているのですかと訊《たず》ねると、男の人は王様達だけが贅沢《ぜいたく》をしていないか、国民を苦しませていないか気になってと答えました。
「それで、どう思われましたか?」
白い犬が質問すると、見たところそんなようすはなく、王様は人々から信頼されているとの返事がありました。それはよかったですねと、犬が言いました。
さて、王様やお后《きさき》様、王子様などが入ってきて、昼食《ちゅうしょく》会が始まりました。
旅人が紹介されて、男の人は立派に丁寧《ていねい》にお礼を言いました。旅人なんて粗野《そや》だから多少の無礼は仕方ないと思っていたまわりの人達が、ちょっと驚きました。
この国の王子様は、十|歳《さい》ほどの男の子でした。宴《うたげ》が進むと少し退屈したのか、執事《しつじ》を引き連れて部屋を散歩します。すると、旅人の女の子と目が合いました。
「こんにちは。僕はこの国の王子です」
「…………」
「大きくなったら、がんばって一生|懸命《けんめい》国を治めます」
「…………」
「この国はとても素晴《すば》らしい国だと思います。僕は責任重大です」
「…………」
女の子の返事は無言で王子様をじっと見るだけでしたが、王子様は楽しそうでした。その様子を見ていた王様が、なんだか女の子を気に入ってしまいました。旅人の男の入に、女の子のことを訊《たず》ねました。男の人は正直に、親に捨てられ行く場所を失い、いっしょに定住の地をさがして旅をしています≠ニ答えました。
「それならば!」
王様はとても嬉《うれ》しそうに言いました。それならば、ぜひ息子《むすこ》の后に迎えたいと言い出して、
まあ。それはすばらしいですねと、お后様も他《ほか》の人達も賛同しました。
ちょっと驚いていた旅の男の人でしたが、この人は物わかりがよすぎるので、それが彼女のためにもなるだろうなと自分の中で結論づけてしまいました。
そこで旅の男の人は、隣《となり》で王子様をじっと見ていた女の子に、それでどうだい? けっして悪い話ではないと思うと言ってしまいました。
女の子の返事は、パンチでした。
女の子は右手をしっかり握って、旅人の男の人を殴《なぐ》りました。顎《あご》でした、ぼかんと当たりました。
びっくりしている旅人の男の人や呆然《ぼうぜん》としている他の人達を無視して、女の子は王子様に振り向きました。白い手を小さく振って、
「ばいばい」
短くそれだけ言いました。
「はい。また機会があればお会いしましょう」
王子様が言いました。女の子は、わけが分からないまま顎を押さえる男の人を引っ張って、白い犬を従えて、昼食会から出ていきました。
二人と一匹《ぴき》は、すぐに国から出ていきました、
「犬がほしい国」
その後に二人と一|匹《ぴき》が見つけたのは、湖の畔《こはん》にある、大きさは中くらいの国でした。
外から見たら、それは本当に普通の国でした。旅人の男の人が、城門の脇《わき》にある番兵の詰め所のドアを叩《たた》いて、出てきた番兵に入れてくれませんかと言おうとした時、
「うわーっ!」
いきなり番兵が、耳がおかしくなってしまいそうな大声を上げたので、二人と一匹はびっくりしました。
番兵は、壁にあった何かのスイッチを押しました、けたたましいアラーム音がじりじりと鳴って、同時に重そうな城壁がごんごんと開いていきます。
そして番兵は、その場に脆《ひざまず》いて、
「お犬様!」
旅人の足下にいた白い犬にははー、と頭を下げました。
ぽかんとしている二人は、その後すぐに後ろから出てきた人達の波にはじかれそうになってしまいました。城門をくぐって、国の中から、お犬様だ! お犬様よ! まあお犬様! と叫びながら、たくさんの人間が出てきたものですから。
そして国の人達は、白い犬を囲んでひれ伏してしまいました。
「さあどうぞ! さあどうぞ! ぜひ入ってください!」
大勢に案内されて、白い犬は開ききった城門をくぐっていきます、旅人の二人は、仕方なく後ろから、バギーを城壁の外に残して歩いてついていきました。
城門をくぐると、そこには大きな広場がありました。そこにはさらに人が集まり、今も集まっています。
詰め寄る人間が多すぎて、地面が見えませんでした。白い犬が姿を現し、勧められるままそこにある演説台の上に登ると、大観衆が地鳴りのようにどよめいて、それから全員が脆いて頭を下げたのでした。
台の脇《わき》で、訳が分からないままの旅人の男の人と、いつもどおり黙ったままの女の千に、国の人が話しかけます。
「ありがとうございます! お犬様をお連れくださって!」
旅人の男の人が、何がどうなっているのか訊《たず》ねました。
「知らなかったんですか? ――知らずに連れてこられたということは、これはもう運命ですね! 素晴《すば》らしい!」
だから説明してほしいと男の人が。言って、ようやく答えがもらえました。この国は、長年犬を神様と崇《あが》めてきましたが、数年前に病気の蔓延《まんえん》で国から犬が絶滅してしまい、国民全員がひどく悲しんでいたのでした。
「これからずっとこの国にいてくださるんですよね? お犬様!」
「さて、どうしましよう?」
白い犬が言いました。旅の男の入が、まあ、好きにするのがいい、とさり気なく言って、
「貴様《きさま》! お犬様になんと失礼な言葉を!」
逮捕《たいほ》されました。脇《わき》を屈強《くっきょう》な男達に囲まれて、両腕を掴※[#「てへん+國」、読みは「つか」]《つか》まれました。旅人の男の人は、本気を出せば暴れて逃げることもできましたが、おとなしくしていました。、
「…………」
女の子は無言で台を登って白い犬に近づいて、掴※[#「てへん+國」、読みは「つか」]まっている旅人の男の人を指さしました、なんとかしなさい、くらいの意味でした。
「お犬様! この無礼な男は死刑にしますので、どうか私達をお許しください!」
国の人がそんなことを言って、白い犬はまあ待て、と偉そうに言いました。
「死刑など時間の無駄《むだ》だ。そいつは国の外に放り出せ」
国の人達は、ははー、と頭を下げました。
「…………」
ぺち、と女の子が白い犬の頭を叩《はた》きました。
「お犬様になんと――!」
こうして女の子も逮捕されました。こやつはどうしましょう? と聞かれた白い犬は、一緒に国外追放だと言い放ちます。
二人の旅人は男達に持ち上げられて、えっちらおっちら運ばれていきます。今くぐったばかりの城門の外へと、ぽい。と放り出されてしまいました。
「貴様ら、お犬様の寛大《かんだい》な処置に感謝しろよ!」
がらがらと城門が閉まっていきます。そして閉まりきる直前、台の上からひょいと飛び降りた白い犬は、そこにいる人達の足の間をするりと通り抜けて、城門の僅《わず》かな隙間《すさま》をくぐって外に出ました,
びっくりしている国の人達の目の前で、どーん、と重い城門が閉まったのでした。
バギーに、旅人の男の人と女の子が乗っていました。
運転席から旅人の男の人が、
「いいのか? 陸《りく》」
白い犬に楽しそうに聞いて、
「…………」
女の子は助手席で、無言で手招《てまね》きをしました。
白い犬はバギーに駆《か》け寄ると、助手席の女の子の、白い足の間にひょいと乗り込んで、それ
から偉そうに言いました。
「では行くがよい=v
ぺち。女の子が白い犬の頭を叩《はた》いて、それから抱きつくように顎《あご》を乗せました。犬が答えます。
「重いです」
「…………」
女の子は、ふかふかした犬の体や頭を、無言で抱えたままでした。旅人の男の人は笑いながらエンジンをかけると、バギーを発進させました。
「早く開けろ!」「何をしている!」「ああっ、お犬様が!」
城門の向こうが騒がしいその国から、さっさと遠ざかっていくのでした。
「――おしまい」
「えー、それでおしまい?」「もっともっと! 旅人と女の子と白い犬の話してー!」
「今日は、ここでおしまい。他《ほか》にもまだまだ二人と一匹のお話はあるけれど、一度に全部聞いたら、おもしろくなくなっちゃうから。お茶もちょうどなくなったし」
「ちえー。」「むー」
「また今度ね。次は、もっとどきどきするお話をしてあげる」
「約束だよ!」「絶対だよ!」
「分かった。約束ね。絶対ね」
「じゃあ、またくるね!」「くるね!」
「いつでもいらっしゃい。気をつけて帰るんですよ」
「うん」「それじゃ」
「さようなら。またね」
「――ねえ、おばあちゃん」
「あら、忘れ物?」
「違う。おばあちゃんに、お客さんがきてるの。玄関《げんかん》の外にいるの。道とか国のこととか知りたいって。モトラドでこの国にきた旅人さんだって」
「まあ――。珍しいわね。お会いしましょう。どんな方かしら?」
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第十一話 「説得力U」
―Persuader II―
横薙《よこな》ぎのナイフが、しゃがんだキノの頭を掠《かす》めた。短い黒髪《かみ》が、数本空に舞う。
キノは身を沈めた姿勢から、右手に持った黒いナイフを振り上げた。たった今自分の頭の上を左側へ通り過ぎた腕の手首を狙《ねら》い、切っ先を届かせるため両足に力を入れる。
そして、キノのナイフは何もない空間を通り過ぎた。キノは自分の攻撃が届かないと分かった瞬間、すぐさま後ろに飛び下がった。足下の土から、薄く埃《ほこり》が立つ。
キノは、相手を睨《にら》みながらナイフを構えなおした。手首まで覆《おお》う革手袋が、握りしめられて音を立てた。
キノは肘《ひじ》や肩にパッドが縫《ぬ》われた灰色のトレーナーを着て、下半身は緑色のカーゴパンツ。
動きやすいゴム底の運動靴を履《は》いて、目にはきつめにゴーグルをしていた。額《ひたい》を汗が流れ、ゴーグルのフレームに当たり、じわりと広がった。
キノと対峙《たいじ》していたのは、背の高い、そしてがっしりとした体格の男だった。中年で、短い茶髪《ちゃぱつ》の生え際はだいぶ後退している。濃い色のサングラスをかけ。眼差《まなざ》しを隠《かく》していた。紺《こん》色の半袖《そセ》シャツに包まれているのは筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》たる鋼《はがね》のような肉体で、二の腕も丸太のように太かった。ショートパンツの下に、やはり太い両腿《もも》を見せる。簡単な格好だったが、足下だけは厚手の靴下と、黒いショートブーツだった。
男の右手には、鈍い銀色の、細身で長いナイフが握られている、
「うん。沈んで避《よ》けたのは、いい感じだよ。キノ」
男が、優しげな口調で話しかけた。男の顔は自分の部屋でソファーに座っているかのように穏やかで、呼吸はどこまでも整っていた。
「どうも……」
キノが睨んだまま、対峙したままぶっきらぼうに返す。そして一、二度息を吐《は》いて、息を整える。
その二人の脇《わき》で、二人がいる道の脇で、
「誉《ほ》められたんだから素直に喜べばいいのに!」
センタースタンドで止められているエルメスが、緊張感ゼロの口調で言った。
道は森に挟《はさ》まれ、真《ま》っ直《す》ぐに延びている。道端のエルメスの後ろには、鬱蒼《うっそう》とした森を背景にして、一件の丸太小屋があった。全《すべ》ての窓が薄く開かれ、テラスの上では干《ほ》されたンーツが初夏のそよ風に揺れている。脇の馬小屋では、一頭の馬が平和そうな眼差しで二人を見ていた。
「さて」
男は言うと、すっと猫《ねこ》のように背を丸めた。左足を軽く引いて、両|膝《ひざ》を緩《ゆる》やかに曲げ、右手のナイフを体の前に腕ごと運ぶ。ナイフは本物そっくりに見えたが、硬いゴムでできた訓練用で、刃《やいば》の部分だけが銀色に塗られていた。
「…………」
無言のまま、キノも自分のゴムナイフを握りなおした。長くはないが短くもないそれを持ち。同じようにすっと構えを作る。
男がすり足でじわっ、と近づいて、キノはサングラスの奥の瞳を睨《にら》みつける。
キノは身を引かず、男と対称の構えのまま、さらに相手が近づくのを待った。
男の右腕がしなやかに振られて、刃先《はさき》が軽く輪を作って踊《おど》る。柔らかく上半身を動かしながら、また一歩、男がすり足で近づいた。
二人の距離が、脇《わき》にいるエルメスの全長より短くなった時、
「――っ!」
キノが短く息を吐《は》きながら飛びかかった。左足を引いた体勢から、体を勢いよく前方へと弾《はじ》く。男の右腕の手首内側へと、引きながら切るように、ナイフの先を伸ばした。
男は、肘《ひじ》を曲げ右腕を引いた。左膝を折り体を沈め、同時に左前方へと身を倒し、外から内へと右腕を払う。そこにあるキノの右膝の裏へ、ナイフが伸びた。
「たっ!」
「ほう」
キノの気合いと、男の感心の声。
キノは横|蹴《げ》りの準備のように、右膝を大きく曲げて足を持ち上げていた。男のナイフは、キノの靴のゴム底に当たる。踏みおろすようなキノの蹴りで、男のナイフは弾き飛ばされ、道と森の境まで滑《すべ》っていった。
蹴りの反動でキノは左足を軸に後ろへ半回転、同時に男は、映像の逆回しのようにもとの体勢に戻りすかさず距離を取る。
「お、やるじゃん」
エルメスが感想を言い終える前に、キノは武器を持たない男へと突っ込んでいく。ナイフを握った右手に左手を添えて、腕を腹に押しつけて鳩尾《みぞおち》のあたりで固定、
「――たあ!」
気合い、そして必死の形相《ぎょうそう》と共に体 、一と男にぶつかっていった。
「これは勝てるかな?」
エルメスがポツリと漏《も》らす。男との距離は、キノの突貫《とっかん》に必要なのは、三歩だった。
キノの一歩目で男は口元をほころばせ、二歩目の途中に左手でショートパンツのポケットから別のゴムナイフを逆手《さかて》で引き抜いた。三歩目に合わせて右足と体を大きく引きながら、突っ込んできたキノの右|脇腹《わきばら》にゴムナイフを突き立てた。
「がっ!――」
脇腹にめり込んだゴムナイフを支点にして、自分がつけた勢いでキノは吹っ飛んだ。キノの体は二秒ほど空を飛んで、土の上に落ちて、三囲転がって、道端の草に顔を突っこんだ。
「ありゃりゃあ」
エルメスの落胆《らくたん》声に、
「げほっ!」
キノの声がかぶった。キノは一度だけ草の上に大量の唾《つば》を吐《は》き出して、それから痛みで唸《うな》りながら道の上を二度三度転がった。頭と顔と体が土|埃《ぼこり》で汚《よご》れて、茶色くなっていく。
汗一つかいていない男は。蹴られ飛んだナイフを拾ってポケットに入れ、その後はキノが起きあがってくるのをエルメスの脇で待った。
三十秒ほどが過ぎて、土の上のボロ雑巾《ぞうきん》だったキノが、ゆっくりと起きあがった。体中の埃をはらって、顔の汗と混じった泥をぬぐい、ゴーグルを外し、
「…………」
ぼさぼさで土にまみれた髪《かみ》を直しもせず、男の前に歩み寄った。そして、男に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ん。今日の演習は終わり」
男がサングラスの下で笑顔を見せる。
「最初のしゃがみ避《よ》けは、よく見ていた。あれで喉元《のどもと》いけると思ったんだけど、よく避けた。
次の下段切りを足で弾《はじ》いたやつ、あれは最初からそのつもりだったのかい?」
キノが頷《うなず》いた。
「はい。初撃で手首を切れないのは分かっていましたし、以前負けて、次が膝裏《ひざうら》にくることも予想していました。それを弾ければと、前から試そうと思っていました」
「なかなかいい。――その後は?」
「後は、以前教わった、体重をのせて深々と刺す手段でトドメをさそうと思ったんですが……」
「もう一本持っているかもとは思わなかった?」
「……思いませんでした」
「それも、今回の敗因の一つだね」
男があっさりと言って、そしてパンと大きな手のひらを叩《たた》いた。
「今日は全《すべ》て終わり。また今度だ、明後日《あさって》に来るからね。――でも、本当の戦いなら次はないよ」
「また死んだ≠ヒえ。本当の戦いだったら次はないよ、キノ」
「分かってるよ。エルメス」
男が馬に乗って去っていくのを、キノとエルメスが見送る。キノは、訓練時と同じ埃《ほこり》まみれの格好だが、腰にはホルスターが巻かれ、一丁《いっちょう》のハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器《じゅうき》。この場合は拳銃《けんじゅう》)が、大口径のリヴォルバーが吊《つる》されていた。
男が見えなくなってから、キノは腰のリヴォルバーを抜いた。左手の素早い動きでハンマーを上げ、腰の位置で一発目を撃った。少し離れた木の枝にぶら下げられていたフライパンに、弾丸《だんがん》を命中させた。その後立て続けに五発撃ち、鉛の弾丸が鉄を穿《うが》つ音が五回聞こえた。
「うーん。腹が立っていてもちゃんと当てるね。お見事」
エルメスが言ったが、
「…………」
キノは無言でリヴォルバーをホルスターに戻した。
発砲音が合図だったかのように、丸太小屋から長い銀髪《ぎんばつ》を一つにまとめた老婆が現れた。エプロン姿で、腰の後ろには短いリヴォルバーを入れたホルスターをつけていた。老婆はテラスから、キノに優しげに話しかける。
「また死にました≠ゥ、キノ。――それでは、顔を洗って着替えて、それから熔茶にしましょう」
丸太小屋の広いテラスに、丸い木製のテーブルが置かれていた。シーツは片付けられ、ロープは丸められていた。
空に浮かぶ白いちぎれ雲が、太陽を隠したり現したりする下で、老婆とキノはテイーカップを前に座る。
「いい香りです」
老婆が嬉《うれ》しそうに。言って、白地に蒼《あお》い玉葱《たまねぎ》が描かれたカップを持ち上げてお茶を飲んだ。
「…………」
憮然《ぶぜん》とした顔を崩《くず》さないキノを見ながら、カップが皿の上に戻る。
「勝てません……」
キノがつぶやいた。
「もう今目で、さっきで、ボクは五十四回負けました。五十四回死にました」
老婆はテーブルに肘《ひじ》をついて指先を組んで、その上に顎《あご》をのせる。楽しそうに目の前の人間を、髪《かみ》の毛にまだ少し土がついているキノを眺め、
「訓練とはいいものですね。そうでなかったら、このお茶につきあってもらうのに、五十五人のキノが必要でした」
「五十五人のキノって、なんか想像したら嫌《いや》な感じ。でもホイール磨《みが》いてもらうのははかどるかも」
テラスの端、スロープを上がったところに止められているエルメスが言った。
キノはそんなエルメスはすんなりと無視、老婆の顔をしっかりと見つめ、
「勝てません……。ボクはいつか、あのナイフ使いさんに勝てるでしょうか?」
老婆はにこやかに頷《うなず》いた。
「ええ、勝てますよ。キノ、あなたは勝てます。自分の持てる知識と経験、そして腕を発揮して挑《いど》めば、あなたは今すぐにでも彼に勝てます」
「でも……」
「それを見つけるまでの負けは、勝つことより価値のあるものです」
「……はい」
「あの人に勝てるくらいにならないと、昔の私みたいに旅するのは無理ですね」
「…………」
次の次の日。
空を鉛色の雲が覆《おお》い、空も太陽も見えなかった。強い風が吹き続け、雲を流していく。草木をなびかせ、森をざわつかせる。
トレーナー姿のキノは、道に穴を掘っていた。それほど大きくも深くもない穴を、シャベルを使って掘る。
「キノ。そりゃないよ。聞いてる?」
小屋の脇《わき》に止められたエルメスが話しかけたが、キノは無視して穴を掘り続けた、老婆の姿は見えない。
「キノ? キノ?」
「これしかない」
キノが穴を掘りながら言った。
「そんな卑怯《ひきょう》な。キノの作戦は無茶苦茶《むちゃくちゃ》だよ」
「なんて言われても構わない。旅の途中の本当の戦い≠セったら――」
「本当の戦いだったら?」
「死んだら次はないんだ……」
「まあそうだけどさあ。でもこんな作戦で勝ってもいいの?」
キノは穴を掘り終え、スコップを肩に小屋へと入っていく。その際にエルメスを睨《にら》みつけながら言う。
「次はないんだ!」
ますます風が強くなる中、道を馬が一頭、男を乗せてやってきた。
キノは道の真ん中に立ち、ナイフ使いの男を待っていた。コーグルに手袋。手には、ゴムナイフ。
馬の上の男が、曇天《どんてん》でもサングラスを外さない男が、馬の歩みを止める。
「今日は。今日もよろしくおねがいします」
そう言ったキノの表清を、ゴーグルの下の瞳を見て、なんとも嬉《うれ》しそうに顔をほころばせた。
「いい顔しているね、今日《きょう》は」
そして馬から降りると、愛馬を馬小屋へと入れた。
男は道の上へと戻ってきて、そこで仁王立《におうだ》ちして待つキノと、距離を取って対峙《たいじ》する。ポケットから無造作に、ゴムナイフを取り出した。軽く手の中で回し、握りしめた。
「始めよう。――いざ」
「はい」
森がざわざわと猛《うごめ》く中、男は膝《ひざ》を曲げて構えを作る。
そしてキノは、その場から三歩下がった。
「?」
男が小さく首をかしげる。
下がった先には折れた木の枝が一本転がっていた。キノの足は、それを踏まないように避けた。
次の瞬間、キノの右手は持っていたナイフを手放した。それが上に落ちる前に、右足が意図的に枝を踏みつけた。強烈な勢いで。
「なにっ?」
男の驚きが声に出た。その枝を艇子《てこ》にして、道の土の中から何かが飛び出た。穴の中で布と土を被《かぶ》っていたものが、大口径のリヴォルバーが、緩《ゆる》やかに回転しながら現れた。キノの右|脇《わき》で宙を舞った。
「――っ!」
男が、巨体に似合わぬ突進を見せた。足の筋肉が肥大《ひだい》し土を蹴《け》る。
その姿を見ながら、キノは何も慌《あわ》てず、無表情のまま。右手を振り下ろした。空中にあったリヴォルバーは、今はキノの手の中に。
キノは親指でハンマーを上げ、突っ込んでくる男の分厚い胸板を狙《ねら》い、引き金を引いた。
鈍い破裂《はれつ》音。
白い煙をまといながら飛び出した弾丸《だんがん》は、男の腹に命中し、
「ぐっ!」
男はそれにダメージを受けた様子は見せなかったが、足は止めた。分厚い腹筋で受け止められたゴム製の弾《たま》は、ぽとりと、男の足下に落ちた。
数歩の距離を置いて、男とキノが向き合う。男の口が綻《ほころ》んだ。楽しそうな笑顔だった。
キノは撃った。二発目と三発目を、男の胸に、心臓の位置に当てた。ゴムの弾《たま》はそれぞれ狙《ねら》いを外さず、撃たれるがままの男のそばに落ちて転がった。
最後の発砲《はっぽう》音が流れ去り、風の音がその場に戻ってくる。
「勝ちましたよ」
キノはリヴォルバーをおろした右手に持ったまま、そう言った。
小屋の扉が開き。出てきた老婆が、テラスの上から二人を眺める。
キノは老婆を見上げ、
「勝ちました」
そう短く言った。
二人の間で、エルメスが小さくつぶやく。
「いや、それはまずいでしよー」
「あはは! あははは! とうとう負けましたよ!」
男の豪快《ごうかい》な笑い声が、風の音を追いやった。
「あはははは! やっと負けた! ――いや、素晴《すば》らしい!」
男だけではなく、老婆も嬉《うれ》しそうに、
「そうですね。今まで本当にご苦労様」
「なにをおっしゃいます。面白かったし楽しかった。教えている時も、そして今も」
一人無言で二人を見比べるキノを残し、老婆と男はどこまでも楽しそうだった,
二人は今後のことやお礼のことを少し話した。そして男は、
「キノ。素晴らしい!」
そう言い残すと、後は何も言わず、出してきた自分の馬にまたがって速駆《はやが》けを命じる。気分よさそうに馬の背に揺られ、来た道を去っていった。
その場には、道の真ん中でぽつんと立つキノと。脇《わき》にエルメス、そしてテラス上の老婆が残された。老婆が口を開く。
「キノ」
「はい」
老婆は笑顔を向けた。
「勝ちましたね」
「――はい」
「って、それでいいの?」
エルメスが聞くと、
「もちろんです。あなたも見ていたでしょう。キノが準備をして、そして勝ったところを」
「それはそうだけど。ナイフにパースエイダーで、それってずるくない?」
老婆はこくんと頷《うなず》いて、
「ええ。とてもずるいです」
「ありゃ?」
「キノ。――ずるいと思いましたか? 自分のやることが卑怯《ひきょう》だと」
今度はキノがはっきりと頷く。
「はい。ずるく卑怯な手です。でも、だからボクは勝ちました。ボクは――、死ななかった≠です」
「素晴《すば》らしいですね。よくそのことに気づきました」
老婆は、テラスの上で満面の笑みを浮かべる。そして、
「いいの?」
「いいんです」
エルメスの問いにしっかりと答えて、キノへと視線を向けた。
「キノ、あなたのナイフ格闘の腕はかなりのものですよ。とても素晴らしい上達を見せてきました。ひとまずは、旅に出ても。身を守れるでしょう。それでもあの人に全然勝てないのは、純粋に経験の差と、そして特に体つきの違いによるものだけです。ですから、もしあのまま何度勝負を続けていても、絶対に勝てなかったでしょう。それこそ百回でも二百回でも、あなたは負けていたことでしょう。死んでいた≠アとでしょう」
「…………」
「自分を守るため、もしくは誰かを守るため、戦わなければならない時に一番重要なことは、常に頭に置いておくべきことは――不意打ちをする≠アとです。相手に準備も心構えもないうちに、もしくは向こうのパースエイダーが届かないところから、一方的に弾丸《だんがん》を撃ち込み殺してしまう。それができないのなら、それができるように最大限の努力をするべきですし、それができるように一度逃げるのも立派な方法です。より卑怯な方法ほど、より確実な方法なのです。――私達がこの勝負であなたに教えたかったのは、つまりはそんなことだったのですよ。
あなたは自分でそれに気づいて、立派に成し遂げました。あの人が嬉《うれ》しそうだったように、私もまた嬢しく思います」
「ありがとうございます。師匠《ししょう》」
キノの顔に、今目初めて笑顔が浮かんだ。
そんなキノと老婆を見ながら、
「なんだかなー」
エルメスがつぶやいた。
「さてキノ、次の修行に移りましょうか? それとも少し休みを取りますか?」
「すぐにお願いします!」
嬉しそうなキノを見ながら、老婆はにっこりと笑って、
「いい心がけです。ではまず、そのゴム弾《だん》の残りは全部撃ってしまいなさいな」
「はい」
三連続の発砲《はつぽう》音。キノは振り向きざまに三連射して、ゴム弾は山なりの弾道を描きつつも、フライパンに全《すべ》て命中した。
キノは、老婆へと振り返った。
「では次ですが――」
「はい」
老婆は自分の腰の後ろに手を伸ばし、ホルスターのカバーを開ける。そこにあったリヴォルバーのグリップを握る。
「今後は突発的な撃ち合いの訓練をしましょう。私とあなたで。森の中でやるようなゴム弾の撃ち合い訓練を、朝から晩まで家の中でも行います。どんな時でも、隙《すき》があれば撃って構いません。いつも狙《ねら》われていると考え、緊張感を持って行動するためには最適の訓練です」
「え?」
「ては開始」
老婆は言うやいなや、バレルの短いリヴォルバーを抜いてキノに向けた。
「え?」
キノは右手に持つ、先ほど全部を撃ち尽くしたリヴォルバーを見て、次に驚きで顔を上げ、
白分に向けられた老婆の笑顔と右手の狙《ねら》いと目が合って、
「あ――」
どかん。
「このように、何時《いつ》いかなる時も気を緩《ゆる》めてはいけませんよ。パースエイダーの準備は怠《おこた》りなく。弾《たま》のないパースエイダーなんて、文鎮《ぶんちん》ですよ」
老婆は楽しそうに言い残すと、家の中に入っていった。
道の上では、額《ひたい》に青癒《あおあざ》をつけたキノが、
「…………」
仰向《あおむ》けにひっくり返って、流れる曇を眺めていた。
「キノ?」
エルメスの問いかけに、
「あははっ!」
キノは笑いながら答える。
「ずるい」
[#改ページ]
エピローグ 「悲しみの中で・a」
―Yearning・a―
「旅人さん、ここは、悲しい国なんですよ」
「悲しい国=Aですか?」
昼食《ちゅうしょく》を終えて、コートを羽織《はお》りながら店から路地に出たキノは、突然話しかけられてそう受け答えた。
声をかけたのは、一人の男だった。その後ろには、この国の住人が数人、男性も女性も、若い人も年寄りもいる。皆同じように分厚い冬用のコートを着て、襟《えり》を高く立てて、防寒|帽《ぼう》を目深《まぶか》にかぶっていた。
そして、皆一様に押し黙った表情で、キノを見据《みす》える。
「そう。この国では、何年も何年も、悲しい出来事ばかかが続いています。敬愛する指導者の逝去《せいきょ》、大規模な天災、想像もできないような人災、蔓延《まんえん》する疫病《えきびょう》、なくならない貧困、止まらない犯罪――。国民全員が、悲しみに沈みつつ暮らしています」
「そうですか。ボクも、若干《じゃっかん》国民に元気がないかとは思いますが-…」
「そうでしょう。そう思われて当然です」
話しかけた男が、憂《うれ》い顔のまま何度も頷《うなず》いた。
「ですから、旅人さんには、ぜひこの国が悲しい国だったことを、他《ほか》の国の人々に伝えて欲しい。ちょっとした会話の合間にでも構いません。こんな悲しい国が、それでもしっかりと、毎日を生きていることを知らしめてほしい」
男の言葉を聞いて、
「まあ、それくらいでしたら」
キノはそう返した。住人達は納得した様子で、沈痛な。面持ちは崩《くず》さずに、礼をして去っていった。
「さて、エルメスのところに戻るか」
キノは、自い息を吐《よ》きながらつぶやいた。帽子《ぼうし》をかぶると、左右のたれで。耳を覆《おお》い、そしてコートの襟を立てて、路地を歩き出した。
左右に店が並ぶ路地を少し進むと、広場にぶつかる。休憩《きゅうけい》する人、たき火で暖を取る人、ただ通り過ぎる人――、多くの人間が集まっているが、笑顔は一つもない。
キノは、無言で人々の合間を割って進んだ。広場を渡り、もう一つの路地へ進もうとした時、
「もう嫌《いや》だ! みんな炉つまで続けるつもりだ!」
男の声がした。活気あふれる、力強い声だった。
「…………」
キノが声へと振り向くと、そこには男が一人いた。広場の隅っこで、木箱の上に立ち上がり、演説を打っていた。
「いつまでも悲しんでいるような、起きること全《すべ》てを嘆くような、辛気《しんき》くさい生き方はもうやめよう! 悲しんでいることを楽しむような生き方は間違っている! 嫌な出来事ばかり延々覚えていて思い出して、始終うつむいているような毎日は終わりにするべきだ!」
やがて、演説のまわりに人が集まっていく。
「この国だって、昔はこんな悲しい国≠カゃなかったはずだ! これからずっと、悲しい国"として続いていくのは素晴《すば》らしいことじゃないはずだ! だから――」
そこまで言ったところで、男は引きずり下ろされた。
人混みの向こうで、
「…………」
キノの視線から男が消えて、何かを叩《たた》く、打ちつける音が数十回、口を開く者がいない広場に、静かに響き渡った。
やがて、男を囲んだ人間の輪が崩《くず》れていく。
キノの目に、再び男が映る。
すると、
[#改ページ]
あとがき
皆様今日は、作者の時雨沢恵一《しぐさひけいいち》です。
今回、『キノの旅』最新刊をお手にしていただき、本当にありがとうございます! なお、私のモットーとして、あとがきには本文のネタばらしは一切ありませんので、本文未読の方も、書店でここだけ立ち読み中の方も、安心して読み進めてください。
一年ぶりの『キノの旅』ですが、執筆中、対照的な二つの出来事がありました。
そのうちの一つは、私が以前大好きだったアニメの関係者さんに偶然お会いできたこと。
高校生時代大好きで、生まれて初めてビデオを買い、劇場版に惚《ほ》れ込み、その世界に浸った作品です。その関係者さんが、アニメ好きなら絶対にお名前を知っている方が目の前に! 編集さんに飲み会に連れていってもらった、スーサン茄子《なす》が美味《おい》しいお店でのことです。
見かけた瞬問時雨沢は緊張で即立ちです。直立不動です。ビシィ! と敬礼です――あ、敬礼は実際にはしませんでしたけど(笑〉。
ご挨拶《あいさつ》させていただきましたが、あまりに嬉《うれ》しくて何言ってるんだか分からず、その方には迷惑をかけてしまったかもしれません。失礼ありましたら申し訳ありません。去り際にもお声をかけていただき、本当にありがとうございました。
もう一つは、まったくもってその逆です。
今年電撃文庫でデビューした真嶋《ましま》さんのあとがきに、編集部に某《ぼう》先生がやってきて、会って話しかけてもらって恐縮した℃|《むね》が番かれているんですが……、読んでいて私? そういえば打ち合わせ中のデビュー間近の作家さんに話しかけたな=Aと。その方の担当編集さんに後口確認しましたらやはりそうでした(ちなみに礼儀知らずな印象はありませんでしたよ)。
不思議な感覚です。
かつて私はいろいろな作品に憧れ、先に挙げた方を含めその制作者に敬意と嫉妬心《しっとしん》を抱きつつ、もし自分が作り手だったらこういう話がいいなあと空想|妄想《もうそう》の類《たぐい》を膨《ふく》らませて生きていました。具体的には学校でとか、特に授業中とか。
今は、当時鍛《きた》えた妄想力(注・妄想する能力。筋肉と同じように使えば使うだけ鍛えられると時雨沢は信じています)を使い、プロの作家として作品を世に提供できる立場にいる。
すっかり当たり前の生活になってしまった、〆切に追われる毎日の中で、
自分は何処《どこ》から来たのか? 白分は何者なのか? 自分は何処へ行くのか?
そんなことを、図らずも再認識、再思考できた気がします。
これからも私が、私の望んだ、望む、望む。てあろう私であり続けられますように――。そんなことを思いつつ、この巻を書いたのでした。
さて、今回この欄をお借りして、いろいろな方に感謝をしたいと思います。
いつもすてきなイラストを描いていただいている、黒星紅白《くろぼしこうはく》様。私はいろいろなところのインタビューなどで、「最初は劇画調の絵を考えていた」と答えていますが、その意見を押し通していたら今の私はどうなっていたコトやら、偶然の巡り合わせだったとして、私は何と運が強いのだろうと思うのでした。
右も左も分からなかった新人の頃から、そして今もお世話になりっぱなしの担当編集様。二巻くらい出せれば宰せー、と思っていた時雨沢《しぐさわ》に、次を書く機会と指示を与えてくださり、感謝しています。ぶっちゃけたところ、この方なくしてキノは生まれませんでした。
本としての魅力を格段に高めてくださる、デザイナーの鎌部《かまべ》様。一巻、そして『アリソン』、『リリアとトレイズ』シリーズも含め、ひとかたならないお世話になっています。
校閲、営業、製作、製本、配本、販売に関わってくださっている全《すべ》ての皆様。皆様がご自身の仕事をキッチリと、そして時にそれ以上にこなしてくれているからこそ、本は発売日に出るのです。ありがとうございます。
そして――読者の皆様。
今までちゃんとお礼を言えませんでしたが、本当にありがとうございます。
本を最後の最後に完成させるのは、読んでくれる人――読者さんである
時雨沢はそう信じています。最後に手をかけてくれる制作者の一人だと。
去年|幕張《まくはり》メッセで行われたイベント「エンタマ」、そして今年の春先、ユナイテッド・シネマとしまえんで行われたキノアニメの上映会|挨拶《あいさつ》で、私はサイン会と握手会にのぞんだわけですが、その際来ていただいた皆さんに会えたこと、直接励ましや感謝の言葉をいただけたこと、光栄に思います。――余談ですが、励ましの言葉で一番多かったのが「あとがき頑張《がんば》ってください」でした(笑)。はい、頑張ります! 頑張り中です。
残念ながらその際にお会いできなかった方々にも、心から感謝の言葉を贈りたいと思います。
今までファンレターやプレゼントを贈ってくださった方々、仕事を優先させるためにお返事を出してはいませんが、全て受け取り読んでいます。ありがとうございます。
これからも、よりよい作品を提供できるよう、頑張ります。
またどこかでお会いできることを楽しみにして、あとがきを終わらせていただきます。
二〇〇五年
[#地付き]たくさんの感謝と共に 時雨沢恵一