キノの旅[ the Beautiful World
時雨沢恵一
口絵 「道の国」
―Go West!―
「素晴らしい道だね。キノ」
「ああ……」
「道というより、道路だね。こんなに路面がきれいで、舗装がいつまでもしっかりしていて、幅がしっかりあって、カーブが緩やかで、左右の景色がいい道路は初めて走ったよ」
「ボクもだ……」
「これだけのものを造ったこの国の人達にちょっと乾杯」
「ああ……。エルメスは飲まないだろうけど」
「気持ちの問題だよ。正直、面と向かってその人達を誉めてあげたい気分」
「ああ……。それができると、よかったのにね……」
「なんでだろう?」
「さあ……。一つの国の人が皆死んでしまった理由……。ボクには分からない。誰もいないから、誰かに聞くわけにもいかない……」
「まあね。――それにしても」
「それにしても?」
「終わりが見えないね、この道路は。これだけかっ飛ばしてるんだから、いい加減に西の城門が見えてきてもいいのに」
「ああ……。まったくだ。一昨日からずっと走っているのに……」
「今日中にたどり着けないと、ルール違反だね」
「だから頑張っているのに……」
「素晴らしい道だね。キノ」
「ああ……」
口絵 「悪いことはできない国」
―Black Box―
キノとエルメスが、眼鏡をかけていました。
キノは当然、顔に。そしてエルメスは、
「キノ、これ変じゃない?」
「似合ってる似合ってる」
「ホントかな? とても邪魔なんだけど」
ヘッドライトの前に。
眼鏡の一人と一台の目の前で内門が開いていき、国の中の様子が見えてきます。
それより少し前のことです。
「それでは、説明されていただきます」
その国の入国審査官が言いました。荷物を積んだエルメスと、茶色いコートを羽織ったキノ、そして背広姿の入国審査官は、城壁の中に造られた小部屋にいました。
「今キノさんのお手元にある眼鏡のような機械が、監視装置になります」
審査官が説明したとおり、キノの手には眼鏡がありました。一見ごく普通の眼鏡でしたが、その左右のこめかみの場所に、小指の先ほどの大きさでしょうか、小さな機械がありました。
「レンズのある左がカメラ本体で、右は記録装置と電源です。そのカメラが、キノさんが見たものを記録します。夜でも大丈夫ですし、むろん音も同時に鮮明に。つまりキノさんの行動全てを監視するわけです。しかしそのままですとプライバシーの侵害です。それを見ることができるのは――」
「警察とか、裁判官とかだけ?」
「そのとおりです、エルメスさん。自分でも見ることはできません。警察が令状を取得すると、被疑者の記録を見ることができます。よって犯罪行為は確実にばれます」
「なるほど、それで、悪いことはできない国≠ニ呼ばれているんですね」
キノの言葉に、審査官は力強く頷きました。むろん彼も同じような眼鏡をかけています。
「そうです。我が国では悪事は絶対にばれる≠アとがはっきりしています。この行為は割に合わないことがだれにでも理解されています。以前犯罪が多発し殺人が死因のトップだったこともあるこの国では、生半可な対処では事態打開は不可能と考え、英知を結集しこのシステムを作り上げました。以来数十年、治安は劇的に改善されました。突発的、衝動的な犯罪以外ありませんし、それもすぐにばれてしまいます」
「なるほど」「ふむふむ」
「このシステムを守るため、一部例外を除き体が動いているときに外すことは法で禁止されています。この眼鏡は、使用者の脳波が静止状態を指していない状態で皮膚から三十秒以上離した場合、警告が発せられ、周囲の人間の眼鏡にもその情報が伝わります。一部例外とは寝ているときや着替え、化粧、シャワー中などですね。この国のあちこちには充電器を兼ねた眼鏡ホルダーがあって、そこに自分を映すように引っかけることで対応しています。カメラが持ち主の姿で例外活動中であることを認識するのです」
「それは、もの凄い技術ですね」「ほんとほんと。凄い凄い」
「いやあ、そう言われると嬉しいですね。あはは」
審査官はひとしきり照れた後、本題に入りました。つまりはそういう訳なので、三日の滞在中にキノもこの眼鏡を国民と同じように使用する義務が生じることと、その承諾なしに入国許可は出せないことを伝えます。
キノは頷いて、
「納得しました。ボクはそれに従います」
そう言いました。そしてホッとしている捜査官に訊ねます。
「ところで、エルメスはどうしますか? エルメスにも装着させたほうがいいのかなと思います」
「ご自分で動けないモトラドさんには、法的に装着義務はありませんが……」
「それでも、例えば交通事故などがあった場合、エルメスにもついていると何かと便利かもしれませんね」
「おお! それはそうですね。キノさんはこのシステムをとてもよく理解してくださっている。分かりました! エルメスさん用のをすぐに一つ作りましょう!」
眼鏡をかけたキノとエルメスは、その国に三日間滞在しました。休憩と観光、売れる物を売って買うべき物を買います。
治安はとてもいい国でした。何も問題は起きず、問題も起こさず、
「スピード違反を一度もしなかったしね」
そして出国の時間になりました。
「この眼鏡はどうすればいいんでしょう?」
西の城門前で、キノがそこにいた審査官に訊ねました。
「城門をくぐって国外に出た時点で、装着の法的義務はなくなります。外にいる番兵にお渡しください。もちろんキノさんもエルメスさんも何一つ違法行為はしませんでしたので、記録は全て消されます。プライバシーの侵害は一切いたしません」
審査官がそう言った後、眼鏡のキノは、エルメスの眼鏡をちらりと見ました。少し何か考えた後、キノが言います。
「もしよければ、これをそのままいただけないでしょうか? ――次の国についたとき、この国ではこんな素晴らしいものがあると紹介したいです。話だけでは、こんな高度な技術はとても信用されないかもしれません」
「おお」
審査官は少し驚いて、そういったことでしたら差し上げましょう、といいました。
「ぜひ我が国の紹介にお使いください。ただし電池は後二日もすれば切れてしまいますので、機能は残念ながら失われてしまいますが」
そうしてキノとエルメスは審査官や番兵に別れを告げて、緑生い茂る草原の道を、西へと走り出したのでした。
「儲かった。これは、とても儲かった」
小さくなっていく城壁を背に、草原を走りながらキノが変なことを言います。いつものゴーグルのかわりに、例の眼鏡をつけたままでした。エルメスのライトの上にも、
「ああもう。早く取ってよ、コレ」
眼鏡をつけたままでした。
「もう少し待ってよ、エルメス。城壁が完全に見えなくなってから」
「まったくもう」
そしてキノは城壁のてっぺんが地平線の下に消えたのを確かめ、エルメスのエンジンを止めて停止します。
キノは後輪脇の箱から、弁当箱のような金属の箱を取り出しました。必要のないものは一切持ち歩かないキノにしては珍しく、箱の中身は空でした。
そしてキノは、
「あー、鬱陶しい」
そうぼやくエルメスのライトから、そして自分の顔からも眼鏡を外しました。次に小さなピンを取り出して、記録装置の穴に何か細工します。何度かつついて、数秒おいて何度かつつく行為をくり返しました。やがて眼鏡は、ぴぴぴと音をたてました。もう一つも同じようにします。
「――完了。これで作動も止まったし、ボク達の記録も消去できた」
キノが嬉しそうに言って、その眼鏡二つを布に包みます。とても丁寧に包んで、かなり丁寧に金属の箱にしまいました。その箱も、後輪脇の箱にしまいます。
「次の国では、これを高く売ってボク達は大儲けだ。しかも、うまくいって二つも手に入れられた」
キノが嬉しそうに言いました。その発言を記録する機械はありません。
「とんでもない悪人だね、キノは」
エルメスが言いました。そんなこと全然気にしていない様子でキノは、何か美味しいものを食べよう、新しい肌着も手に入れようと、夢を膨らませてます。
「それに、エルメスのオイルもタイヤも新しくしよう」
「賛成! ――いい国だったね」
キノは頷いて、エルメスのエンジンをかけました。
プロローグ 「渚にて 旅の始まりと終わり」
―On the Beach・b―
「キノさん……。行くのかい?」
「ええ。起こしてしまってすみません。まだ寝ていていいですよ。何も言わず、できるだけこっそり静かに行くつもりでしたから」
「夜逃げのよーにね」
「あはは。……どのみちエルメス君のエンジン音で起きただろうけどね」
「そーかも。キノの計画はいつだってズバン」
「杜撰《ずさん》=H」
「そうそれ」
「必要なことはそこに書き残しました。置いていった物は自由に使ってください。ボクらには持ち運べないものばかりですので。ただ、金目《かねめ》の物は三分の一もらいました」
「ああ、分かった。妥当《だとう》な取り分だ。――最後に、一ついいかな?」
「なんでしょう?」
「これだけ助けてもらって、世話になって、こんなことを問い詰めるように聞くのもなんだけど……、キノさんには、どこかに落ち着いて暮らすという考えは、まるでないのかい? 仲のいい人達に囲まれて、毎日毎日寝る場所を心配しなくてもいい、安心と安定のある生活だ」
「そうですね、今のところは――。いいえ。将来においても、多分ないでしょうね」
「こっちとしてはそりゃもう助かるけどね。いつも旅。いつも移動。モトラド名字《みょうじ》に尽きるってものだよ」
「冥利《みょうり》=H」
「そうそれ」
「…………。つらく……、ないか?」
「楽なだけじゃないですよ」
「…………」
「つらいだけでも、ないです」
「そうか。自分と同じ考えの人しかいない世界は、ないな」
「そうですね」
「そこまで送るよ」
「いいえ。いてあげてください」
「そうか……。じゃあ、ここでお別れかな。お前からは、何か挨拶《あいさつ》は? …………。ないそうだ」
「皆さんお元気で」「じゃね。バカ犬も」
「いろいろとありがとう」
「はい?」
「まだちゃんとお礼を言っていなかった気がする。ありがとう」
「どういたしまして。いろいろありましたけど、またボク達がこうして旅を続けられるのであれば――」
「結果到来だね」
「そんなところです。……オーライ=H」
「そうそれ」
「そうか……。じゃあ、ここで一旦《いったん》さよならだ。またどこかで」
「またどこかで。――でも……」
「でも?」
「いいえ。なんでもありません。ボクが旅を続けていれば、あなたがいつか住む場所にたどり着くと思います」
「……その時は、私がそこに落ち着いていることを願う。そして心から歓迎するよ」
「ええ」
「久しぶりに走ると、やっぱり気持ちがいいね」
「まーね。ところでキノ」
「ん?」
「あんなこと言ったけど、将来またあの人と会ったら、その時は……」
「そうだね。あの人は――」
「死ぬほど驚くかもね」
第一話 「歴史のある国」
―Don't Look Back!―
森の中の道を、一台の車が走っていました。
黄色くて小さくて、かなり程度がよくなくて、今にも自壊《じかい》しそうなボロボロの車でした。排気管から白い煙をペペペペと吐き出しながら、ガタガタ道をゴトゴトと進んでいきます。
鬱蒼《うっそう》とした森の平地が続く大地でした。東の地平線の上で太陽が眩《まぶ》しく輝きます。いろいろな鳥たちがさえずる、涼しい初夏の朝でした。
車には、二人が乗っていました。右側の運転席では、少し背が低くてハンサムな若い男がハンドルを握り、左側の助手席では、つややかな長い黒髪を持つ妙齢《みょうれい》の女性が座っていました。ちなみに狭い後部座席には、薄汚れた荷物とか鞄《かばん》やらが、押し込められるように置いてありました。
「師匠《ししょう》」
運転しながら、男が話しかけました。道があまり良くないので、ハンドルを小刻みに修正しています。
「なんです?」
師匠と呼ばれた女性が答えました。
「そろそろ次の国につきますが――」
そして男は、手持ちの宝石をその国で売りましょう、食べ物と燃料、後は砂金にでも換えましょうと提案しました。女性は少し考え、
「しかたがないですね。でも――」
「なるべく高く売る、ですね。分かってますよ」
車の進む先に、城壁のてっぺんが見えてきました。
そこは、大きくはありませんが豊かそうな国でした。
入国して景色を眺めると、まず畑が延々《えんえん》広がります。走って国の中心に入ると、石造りの集合住宅が建ち並びます。街灯が並ぶ太い通りと、その左右にはお店がぎっしり。けっこう立派な街並みです。
「よさそうな国じゃないですか。人口が少なそうなわりには潤《うるお》っているみたいですし、技術もそれなりに発展していそうです。こういう国では高く売れますよ」
小さな車の運転席で、男が言いました。通りを走る数々の車の中で、これが一番|汚《きたな》くてぼろです。高級そうな車に、笑われながら追い抜かれます。
「売却《ばいきゃく》の件は確かにそうですが、町に警官がとても多いですね」
女性が言って、男がたしかに、と返します。朝の街を歩く人も多いのですが、緑色の制服を着た、一見兵士に見える警官の姿もよく見えます。
「入国|審査《しんさ》も、やけに時間がかかりましたしね。あの番兵も含めて、警察軍ですかね」
男が言いました。この場合の警察軍とは、警察と軍隊が一緒になった組織のことです。
「私の経験上、こういう国では油断してはいけません」
そう言った女性の顔を、男がちらりと横目で見ました。そして聞きます。
「治安の悪さですか?」
「いいえ。――権力の側にです。国の中では、いつも以上におとなしくしましょう」
「……了解」
車は、安そうなホテルの前で止まりました。
「それじゃ、換金に行ってきます」
安ホテルの狭い部屋で、男が言いました。左腰に四角いバレルのついたハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器《じゅうき》です。この場合は拳銃《けんじゅう》です)を吊《つ》っていますが、羽織《はお》った茶色の薄手のジャケットで隠れました。手にリュックを持ち、宝石の入った小さな袋を懐《ふところ》に入れました。
「なるべく早くお願いします。長居は無用です。夕方には出国しましょう」
「分かりました。昼には戻ります。師匠《ししょう》はのんびりシャワーでも浴びていてください」
そう言って出ていった男は、昼が過ぎても戻ってきませんでした。
さて男に何があったかというと、こんなことがありました。
男が賑《にぎ》わっている繁華街《はんかがい》の宝石屋を訪ね、手持ちの宝石を見せました。店主は一瞬驚いた後、にやりと笑います。そして一度店の奥に消え再び出てきて、男が驚くくらいの代価を提案しました。男は女性の満足げな顔を思い浮かべながらそれに同意して、にこにこ顔で店を出ましたが、
「ちょっとそこの男」
通りに出た瞬間、四人の警官に取り囲まれたのでした。君には違法薬物所持の嫌疑《けんぎ》がある、と警官は言って、
「はあ?」
別の警官が、別のポケットから手を出した素振りをします。そして、そこに握っていた小さな袋を見せました。
「ほうら見つけたぞ。違法薬物所持の現行犯で逮捕だ」
男は一瞬、パースエイダーを抜いて警官全員を二秒弱で撃ち殺してやろうかと思いましたが、
「…………」
考え直して止《や》めました。
パースエイダーや所持品を取り上げられて手錠《てじょう》をかけられた男は、警察の車に乗せられる時に、宝石屋の店主が警官にお金を渡されているのを見ました。小さく悪態《あくたい》をついた男は、今からでも警官全員|叩《たた》きのめして車を奪おうか、ついでにあの宝石屋に一度突っ込んでおこうかなどと思いましたが、
「…………」
考え直して止めました。
「というわけで、貴女《あなた》の恋人は逮捕《たいほ》された。違法薬物所持は我が国では重罪だ。今後裁判にかけられることになるのだが、十年は堅いな」
「なるほど。しかし一つ訂正を。恋人≠ナはなく同行人です」
そう言った女性がいるここは、国の中央にある大きな建物の一室です。その建物は八角形に建てられていてとても大きく、偉《えら》そうにどかんと、周囲に広々とした芝生《しばふ》の空間を従えて建っていました。
建物真ん中に高く立派な時計塔があり、東西南北を向いた四面に巨大な時計が貼《は》りついていました。その屋上にある展望所は国のどの建物より高く、三百六十度を見渡せます。
さてその部屋では、女性の座る机の反対側に、偉そうな勲章《くんしょう》や刺繍《ししゅう》がある制服を着た中年の警官がふんぞり返って座っていました。その他《ほか》、数人の警官が立っています。ブラインドの隙間《すきま》から見える外の景色は、西に傾いたお日様に反射してなかなか綺麗《きれい》でした。
「今はどちらに?」
女性が聞いて、中年警官が地下の留置場だと言いました。
ついでに女性がこの建物について訊《たず》ねると、ここはかつて王宮があった歴史的建物で、王がいない今は、いろいろな政府機関の合同|庁舎《ちょうしゃ》として使われていると答えが返ってきました。時計|塔《とう》は文化遺産として保護されていると誇らしげに言った中年警官は、
「管理権を持っているのは警察だ。実質ここは警察本部だな。このような豪華《ごうか》な警察本部は他《ほか》の国にはあるまい」
そう言って、がははと笑いました。
「なるほど。悪徳警察が権力を牛耳《ぎゅうじ》ってのさばっている訳ですね。まったく思ったとおりでした」
などと的確に状況を指摘する言葉を女性は言いませんでした。かわりに、
「状況は分かりましたが、ご覧のとおり旅の者です。あなた様の権限で国外退去処分の温情をいただけないものかと思います」
「ふむ。幾らなら出せる?」
中年警官の身も蓋《ふた》もない質問に、女性がこれくらいならと紙に書いて答えました。それが本当に手持ち全《すべ》てなのかそうでないのかは、誰にも分かりません。
身を乗り出して覗《のぞ》き込んだ中年警官は、
「だめだな。それっぽっちでは話にならん」
再びふんぞり返って首を横に振りました。そして、
「貴女《あなた》もすぐに出国した方がいいぞ。ここで警官に買収を持ちかけたことは黙っておいてやろう」
女性はふだんと変わらない冷静な顔と口調で、
「そうさせていただくことにします。もともと旅の途中で知り合った誰とも分からぬ人間でしたし、彼が悪いことをして捕まった以上はしかたがないでしょう。置いていきます」
「賢明な判断だな」
「最後に一言、お別れを言うことはできますか?」
「だめだなり何せ重罪人《じゅうざいにん》だ」
「そこをお力添えいただけると嬉《うれ》しいのですが」
女性はそう言いながら、懐《ふところ》からゆっくりと金貨を一枚取り出しました。机の上に置いて、先ほどの紙を上にかぶせました。それを見た中年警官の顔が緩《ゆる》みます。
「ふむ……。旅人でもあることだし、特例として犯罪者に面会する自由を与えよう」
中年警官と女性は、取り巻きの数人の警官と一緒に、部屋を出て廊下を歩きます。
「…………」
道中、女性は視線だけ左右に送り、部屋の前に張られた札を調べていきました。まわりの警官達は、それに全然気づきませんでした。
やがて集団はエレベーターで地下に下りて、警官が守る留置場の入り口ゲートをくぐります。
左右に檻《おり》が並ぶ廊下を進んでいきました。ベッドとトイレと水道だけの、殺風景な小部屋が続きます。
そして、そのうちの一つにだけ人が入っていました。ハンサムで少し背の低い男でした。ベッドに座っていて、足音を聞いて顔を上げました。警官に囲まれた女性の顔を認めると、
「ああ。姉《あね》さん! 釈放《しゃくほう》に来てくれたんですね?」
そう嬉《うれ》しそうに言いながら檻を握ります。しかし女性は冷酷《れいこく》な口調で、
「とんでもないことをしでかしてくれましたね」
「えっ……」
「あれほど非合法なことはするなと言ったのに」
「そんな。濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》ですよ!」
「私は、人様《ひとさま》に迷惑をかけることが大嫌いです。知っているでしょう? ――あなたはここで裁判を受けてください。私は、行かなければならない国があるので、待つことなどできません」
「そんな……」
男は檻《おり》を握ったまま、力なくうつむきました。
「俺《おれ》は……、今まで悪いことなんか何一つしないで生きてきたのに……」
「ここで反省するのですね」
女性が言いきって、まわりにいた警官達が顔を見合わせ、それからヘラヘラと笑いました。
力のない声で、男が言います。
「姉《あね》さん、俺の鞄《かばん》で、今まで中身を見せなかったのがあったでしょう。アレを次の国で売って、路銀《ろぎん》の足しにでもしてください。もう俺には必要ないですから。高く売ってくださいよ。買った時は銀貨四百三十四枚分もしたんですから。あと、俺の所持品もさしあげますよ。好きに使ってください」
「分かりました。そうします」
女性が答えると、男はうなだれたままベッドに戻りました。そしてうつぶせで倒れると、そのまま体を丸めてしまいました。
「もういいだろう」
「ええ」
中年警官に言われ、女性は檻の前から出口に歩きます。
留置場入り口にもどってきて、女性は事務の警官に男の持ち物を訊《たず》ねました。すると、男のパースエイダーやホルスター、ベルト、リュックや小さな袋などが出てきました。
「彼の持っていた宝石や換金したお金などは?」
「うむ。あれはあいつが違法薬物を買う資金だろうということで、証拠品となり全《すべ》て没収された」
中年警官が言いました。
女性は、
「そうですか」
それだけ言うと、男の持ち物をリュックに入れて、
「では皆様、ごきげんよう」
建物を後にしました。
ホテルの部屋に戻ってきた女性は、いったんゆったりと落ち着いた後、窓のブラインドをしっかりと閉めました。
そして、男の荷物だった大きなバックパックを開けました。その底には、とても頑丈《がんじょう》そうなプラスチックのケースがあります。大きさと厚さは、豪華《ごうか》な百科事典ほど。殴《なぐ》って人が殺せそうです。
ケースの脇《わき》に番号鍵があります。
「…………」
女性は四三四に合わせて、すんなりとケースを開けました。すると、分厚いクッションを切り取って、いろいろな機械が整然と収まっていました。
「……まったく。あの人は前に何をやっていたのでしょうね。まあ、使わせてもらいましょう」
女性は、ケースをパタンと締めました。
「まずは買い物ですね。それから出国しましょう」
それから一人つぶやきました。
夕日が、警察本部の部屋を黄色く染めていました。
高い時計塔から、鐘の音が響きます。
イスに座りふんぞり返っていた中年警官のところに、伝令の警官がやってきました。
「例の女性が、つい先ほど車に乗って出国しました。適当に携帯《けいたい》食料や旅道具の買い物をしただけで、特に怪しい動きはなかったそうです」
「そうか……。何かしでかすかと思ったが、たわいないな。再入国はさせるなよ。いろいろ面倒だからな」
「はい。それと、政治家の先生方と会食中の長官から、ご苦労だった。後で分け前は送る≠ニのことです」
「うむ。お前達もよくやった」
「ありがとうございます。――あの男はどうしますか?」
「適当に国外に放り出してもいいが、裁判にかけて二十年くらい働かせてもいいな。後で賽《さい》でも振って決めるか」
夜。森の中は静かでした。
晴れた空には月もなく、星々がきらめきます。
国から少し離れた森の中に、女性の黄色くてボロボロの車が停まっていました。
その脇に座って何かごそごそと作業をしていた女性が、
「さて」
そう言って立ち上がりました。女性は、自分のジャケットの襟首《えりくび》をしっかりと締めて、手袋をして頭にニット帽《ぼう》をかぶり、見た目は黒一色でした。右腰には愛用の大口径リヴォルバーのホルスター、背中にはリュックを背負います。そしてその顔には、
「なるほど、面白《おもしろ》い道具ですね」
ずんぐりむっくりのスコープのような、へんてこりんな筒《つつ》が、左目のすぐ前の位置にありました。頭に巻いたバンドが、その取りつけ具となっています。
女性の左目には、森の景色が見えていました。風で揺らめく木々の枝や、そこで動く動物など。それは、機械的に増幅された、怪しい緑色の濃淡だけで構成された世界でした。
「夜間暗視装置≠ナすか。おもしろいモノですね」
女性が一人ごちました。
男の大切にしていたケースに入っていたのは、まずその暗視装置セット、他《ほか》には男のパースエイダー専用の暗殺用サイレンサーと、金属探知器に反応しない暗殺用プラスチックナイフと、後ろから首を絞《し》められる暗殺用ワイヤーと、心臓発作に偽装《ぎそう》できる暗殺用毒物カプセルと、先端にカプセルを仕込める暗殺用刺殺ペンなどなど、いろいろな暗殺用グッズてんこ盛り一式でした。
女性は、森の中を音もたてずに進みました。やがて、夕方出回した国の城壁の脇にたどり着きました。高い城壁が黒い壁として、空に向かってそそり立っています。
女性は近くに見張りがいないことを確認した後、腰からリヴォルバーを抜きました。そのパースエイダーの前半分、バレル一式を分解の手順で抜き取ると、リュックから別のバレルを取り出しました。
それには、へんてこな装置がついていました。バレル先端に太い金属製の瓶《びん》が差し込まれていて、針金でバレルにしっかりと固定されています。瓶の底はくり抜かれています。
女性はそれをリヴォルバー本体に取りつけて、ハンマーをカチリと親指で上げました。バレル下のローディングロッドをおろして左手でしっかりと握り、瓶の底を城壁てっぺんへと狙《ねら》い向けました。
女性が狙いを定め、引き金を引きました。
ぼふん。
くぐもった小さな発砲音《はっぽうおん》、そしてリヴォルバーが反動で大きく揺れました。瓶から撃ち出されたのは、鉄製の鉤爪《かぎづめ》でした。船のアンカーに似た、三方に鉤がついた金属です。鉤爪には細いワイヤーが結ばれていて、丸められていた瓶から、しゅるしゅると送り出されていくのでした。
小さく音がして、鉤爪が城壁のてっぺんに当たって引っかかりました。女性はリヴォルバーを元の姿に素早く戻して、ホルスターにしまいます。
分厚い革《かわ》手袋をはめた手でワイヤーを数度引っ張り、しっかりと引っかかっていることを確認して、
「さて」
女性は城壁を登り始めました。
暗|闇《やみ》の城壁を、女性が音もたてずに登っていたころ、
「ふわあ……」
薄暗い留置場の檻《おり》の中で、ベッドに仰向《ああむ》けにひっくり返っている男があくびをしました。
「もう少しかかるかな。寝ておこうか」
そして寝返りを打って、うつぶせのままストンと寝てしまいました。
国の歓楽街《かんらくがい》では、夜中近いというのに店は賑《にぎ》わっています。酔客《すいきゃく》達が楽しそうに往来していました。
その通りの片隅に、裏|路地《ろじ》を背にして警備の警官が一人立っていました。若い彼は退屈そうに通りを眺め、警棒で手のひらを手持ちぶさたに叩《たた》いていました。
裏路地の闇から黒い腕が二本伸びて、一本は彼の口をふさぎもう一本は首に巻きつきます。腕はそのまま、音もなく闇へと戻りました。
通りから警官が一人消えましたが、誰もそれに気づきませんでした。
真夜中も過ぎた頃。
歓楽街も静まり、へべれけの酔《よ》っぱらいが数人倒れているだけの静かな通りで、
ぽーんっ!
気の抜けるような、しかし音量は大きな音が突然鳴り響きました。
「ふぇ?」
近くで最ていた酔っぱらいの男が薄目を開けます。彼の目に映ったのは、もうもうと煙を上げながら燃え始めたゴミ箱でした。
「あーあ」
彼がつぶやきながら立ち上がり、のんきにも両手をかざして暖をとろうとした瞬間、
ぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽーんっ!
通りのあちらこちらから、そっくりの爆発音が立て続けに起こります。
「はい?」
目を見開いた酔っぱらいの瞳に映ったのは、通りを煌々《こうこう》と照らしながら燃え始めたゴミ箱の群でした。
サイレンを鳴らしながら、警察の車両や消防車両が飛び出していきます。
その音を聞きながら、留置場の男が目を開いて体を起こしました。ベッドの上に座り、一度大きくあくびと伸びをします。
外を走るサイレンは止《や》むことはなく、建物の上の階からドタバタと走る足音が遠く響いてきます。その騒々《そうぞう》しさは、なかなかのものでした。
その騒音《そうおん》の中、男はトイレをすまし、手を洗って顔を洗って、それから体操を始めます。
「おいっちに、さんし。ごーろく、しちはち」
体をじっくりとほぐすように動かして、最後は深呼吸で終わりました。
「さて」
男は檻《おり》を握り、騒音に負けないように大声を出します。
「ちょっとお巡《まわ》りさーん! この騒《さわ》ぎはなんです? うるさくて眠《ねむ》れやしませんよ!」
「やかましい! お前には関係ないから黙っていろ!」
留置所の入り口から、警官の怒鳴《どな》り声が返ってきました。
「えー、でもこんな騒ぎは普通じゃないですよ。何か大事件とか起きているんじゃないですか?」
「うるさい! 連絡が来ないので上に問い合わせているところだ!」
「そうですか。勤勉ですね。分かったら教えてくださいねー」
「やかましい! ――ぐげっ!」
「あれ? どうしたんですかー?」
嫌《いや》な感じの悲鳴を最後に、警官からの答えは返ってこなくなりました。
そのかわり、一人の警官が通路を歩いてきて、男の檻の前で止まりました。
「来てくれると思いましたよ。師匠《ししょう》。――油断してすみませんでした」
「まったく世話のかかる弟子です」
警察の制服を着ているのは、師匠と呼ばれている女性でした。制服をきっちりと着込んで、長い髪を結い上げて制帽《せいぼう》の下に隠していました。一見容姿|端麗《たんれい》な男性にも見えます。
女性は鍵を使い男の檻を素早く開けて、持っていたリュックを放り入れました。
「中にあなたのパースエイダーと、制服一式が。着替えなさい」
男が受け取って、着替えを始めました。着替えながら聞きます。
「俺《おれ》のオモチャは役に立ちましたか?」
「まあそれなりに。――着替えが終わったら、ここから出ますよ」
「どうするんで?」
男が脱いだ服をリュックにしまい入れました。警察の制服を着終えました。
「これから建物内を歩きます」
「え? とっとと逃げないんですか?」
「今から国の外へ出るのは無理でしょう。城門は確実に閉鎖、厳重警備されますよ。二人で突破は不可能です。ここにもやがて人が来ます」
「確かにそうですが……。どうしましょう?」
男が聞いて、
「あなただったらどうします?」
女性は逆に聞き返しました。男の目に、普段はあまり見せない真剣さが浮かびます。
「そうですね……。一度見つからないどこかに、それこそ屋根裏か下水道かに潜伏《せんぷく》します。探す人間が疲れ果てた三日後くらいに、こっそりと、もしくは短期的に激しい攻撃をして一気に出国します」
「だいぶいいセンですが、惜《お》しいですね」
「ありゃ」
がっかりした様子の男に、女性はやや楽しそうな顔で言います。
「三日後|云々《うんぬん》≠ヘとても正解です。ただ、潜伏は違います」
「では?」
「暴れます。まずは三階にある武器庫と食料庫に行きますよ。あなたは留置所でたっぷり休んだでしょう? 体が鈍《にぶ》らないように、たまには自分の最高の実力を出してみたいでしょう? 高いところからの景色はなかなかですよ」
「……ああ!」
理解した男が、楽しそうに、そして獰猛《どうもう》そうに笑いました。
* * *
「で、その後二人はどうなったのさ? キノ」
モトラド(注・二輸車。空を飛ばないものだけを指す)が訊《たず》ねた。
後輪|脇《わき》とその上に、旅荷物をたっぷりと積んだモトラドだった。紅葉した葉が舞う森の中の一本道を、淡々と走っている。
「うん。それからね――」
キノと呼ばれたモトラドの運転手が答えた。茶色いコートを着て、余った長い裾《すそ》を両|腿《もも》に巻きつけてとめている。顔にゴーグル、頭には鍔《つば》[#「鍔」は底本では「唾」と誤植]と耳を覆《おお》うたれのついた帽子《ぼうし》をかぶっている。かなり若い人間だった。十代中頃。
秋の空は晴れ上がり、雲一つない。太陽が、今が朝であることを告げていた。
キノはゆっくりとモトラドを走らせながら、質問に答える。
「師匠《ししょう》は通りだけじゃなくて、警察車両や発電所なんかにも発火装置や爆弾を仕掛けておいたから、本部はてんやわんやだった。だから変装もばれずに堂々と歩いて、二人はまず武器庫に行った。師匠が作り出した騒ぎで、警官隊はほとんど出動していた。それに警官の格好だから全然怪しまれないまま、武器庫に入ってパースエイダーを物色。慌《あわ》てて止めに入った武器庫番を気絶させて、台車いっぱいに狙撃《そげき》用ライフルと小型連射式パースエイダーとその弾薬、そして爆薬を積み込んだ」
「うわおっそろしー。まさに踊《おど》れマンボウ≠セね」
「そうだね。エルメス」
キノがすんなり同意して、エルメスと呼ばれたモトラドは、しばらく黙った。それから気を取り直し、
「――えっと、続けて。お師匠《ししょう》さんの話」
「うん。武器をごっそり手に入れた二人は次に食料庫に行って、同じように携帯《けいたい》食料と飲料水を台車に積んだ。さすがに怪しまれたので、その部屋の近くにいた警官三人ほど気絶させたらしいよ」
「それでそれで?」
「それで、この建物にも爆弾が仕掛けられた≠チてデマを流した。非常ベルを作動させて、実際何カ所かにボヤを起こして、発煙筒《はつえんとう》をあちらこちらに放り込んで、建物の中にいる全員を外に出させた。最後に、二台の台車と一緒に建物中央にあるエレベーターに乗って最上階に」
「最上階? 逃げなかったんだ。てっきり避難《ひなん》する人達に紛《まぎ》れて逃げたのかと」
「そのまったく逆。師匠とお弟子さんは時計|塔《とう》の屋上に、それほど広くないけどこの国で一番高い場所に、荷物を持って陣取ったんだ。一機しかないエレベーターは、ケーブルを爆薬で切って地下まで落っことした」
「ぐしゃーん」
「ほとんど同時に夜が明けてきた。外に避難していた人達と、国中の騒ぎをようやく納めて戻ってきたヘトヘトの警官達めがけて――」
「ずきゅーん?」
「そう。塔の上から狙撃《そげき》ライフルを使って、片っ端《ぱし》から撃っていった。車はタイヤを撃って動けなくして、車内から逃げ出した人を次々に。高い位置から、遮蔽物《しゃへいぶつ》が何もない広場を横切る人間だ。外しようがないよ」
キノが淡々と言って、エルメスはおっそろしー、と軽口を叩《たた》いた。
「片っ端から殺していったの?」
エルメスが聞いて、キノが走らせながら首を横に振る。
「違う。そこが師匠の凄《すご》いところだ。殺さなかったんだ」
「はい? どゆこと?」
「わざと殺さなかった。頭や胸を意図的に避けて、足を狙《ねら》った。腿《もも》は太い血管が通っているから撃たずに、膝《ひざ》とか脛《すね》とか、ライフルで撃たれても死なないところだけを的確に撃ち抜いていった」
「ああ、まずそうやっておいて、呻《うめ》いている負傷者を助けに飛び出してきた人を遠慮なく撃ち殺したんだね? 狙撃兵がよくやる手」
「それも違う」
「ありゃ?」
「師匠《ししょう》達は這《は》って逃げる人は撃たなかったし、助けに来た人も撃たなかった」
「なんで? どして?」
「ボクも同じ質問をした。師匠は考える時間をくれたけど、当時のボクは話が進むまで分からなかった」
「じゃあ降参《こうさん》。話を続けて、キノ」
「分かった。それは、師匠達が逃げずに時計|塔《とう》に登った理由にも関係がある。師匠は、城門を二人で突破できないことはよく分かっていた」
「そりゃ、逃がさないように必死で守るだろうし、人もたくさん配置されるし」
「だから、国の連中が開けましたのでどうぞお二方《ふたかた》お通りください≠ニ言い出すまで待つことにしたんだ」
「あー、なるほど。それで立てこもったんだね。やっと本当に分かった!」
エルメスが、嬉《うれ》しそうに声を上げた。キノが小さく頷《うなず》く。
「そう。時計塔てっぺんに立てこもって、近づくものは狙撃《そげき》する。こうなるとあの建物はもう使えなくなる。中で毎日仕事している人には大迷惑だし、早く警察はなんとかしろということになる。でも――」
「撃たれる」
「そう。それも足を撃たれるっていうのは、撃ち殺される≠謔閧烽スちが悪いんだ。警官隊も仲間を無惨《むざん》に撃ち殺されたら、当然|復讐《ふくしゅう》の怒りに燃えて、闘争心をかき立てられる。でも、足を撃たれて痛みに泣きわめく仲間を見ていると、次に自分もこうなるのか……≠チて後込《しりご》みする。戦うのが仕事の人間にとっては、即死させられるより激痛を与えられる方がはるかに恐怖を感じるんだ。どうしても士気は下がる」
「なるほどねー」
「それでもみんなが見ている手前、警官隊はかなりがんばったらしいよ。一斉《いっせい》に建物両側から突入したり、トラックに装甲板《そうこうばん》[#「装甲板」は底本では「装甲版」と誤植]取りつけてみたり」
「でもだめだった」
「師匠もそうだけど、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》で捕まっていたお弟子さんがもう燃えに燃えちゃったらしい。針の穴に糸を通すような狙撃《そげき》で、突入部隊の全員を病院送りにした。救急車が何台も来て去っていって、ひとまず落ち着いた昼頃になって、手紙を封筒に入れて落とした。もちろん警察の備品使ってね」
「なんて書いたんだろ? これ以上負傷者を出してほしくなければ、今すぐワレワレを出国させろ!≠ニか?」
「ううん。そんなに、あからさまな脅迫《きょうはく》文は書かなかったって。こんな感じだったらしい――
拝啓《はいけい》
吹く風もどこか夏めいてまいりましたが、警察の皆様におかれましては益々ご清祥《せいしょう》のこととお慶《よろこ》び申し上げます。さて、私ごとではございますが、この度私達極悪人|若干《じゃっかん》二名は、この場所を死に場所と認《みと》め、矢尽き弓折れるまで、力の続く限り精一杯立てこもり思う存分に暴れる所存であります。何分にも未熟な二人でございますが 今度ともよろしくご指導ご鞭撻《べんたつ》下さいますようお願い申し上げます。
[#地付き]敬具
追伸《ついしん》・時計|塔《とう》の階段には爆弾を山ほど仕掛けましたので、歴史的建造物を失いたくない場合は階段のご使用はお控えください=v
キノが言い終えて、森の中をエルメスの快調なエンジン音だけが流れた。
やがてエルメスがポツリと言う。
「恐いね」
「うん。恐いね。――その時警察がどう思ったかは分からないけど、この時に二人を逃がしておけばよかったなと後々で思ったはずだ」
「恐いね」
「うん。恐いね。――それから、当然騒ぎを聞きつけて報道が来て、事態は国民中の知るところになって、ラジオで生《なま》中継もされたんだって」
「そりゃあ、間抜けだね」
「うん。師匠《ししょう》もそう言っていた。師匠たちもラジオを聴いて、警察の動きがよく分かって助かったってさ。結局その日は夜になって、何度か警官隊が忍び寄ったらしいんだけど、暗視装置をライフルにつけたお弟子《でし》さんが全員返り討ちにした。――それから二人は、交代で眠《ねむ》ったり眠らなかったり、食べたり飲んだりしながら、延々《えんえん》そこに居座った」
「で、結局何日立てこもったの?」
エルメスの質問に。
「三日三晩だって」
キノが答えた。
「その様子は――
『あー、聞こえるかそこの二人! 貴様らに逃げ場はない! 望みどおりそこが死に場所だ! もしそこで死ななかったら市中引き回しの後で絞首刑《こうしゅけい》にしてやる! 覚悟《かくご》しろよ!』
ずぎゅーん。
『お前達は完全に包囲されている! だから潔《いさざよ》く投降しろ! おとなしく投降した場合、命だけは助けてやろう!』
ばきゅーん。
『君達。なにか言いたいことはあるのか? 寛容《かんよう》な我らはそれを聞こうではないか!』
ずばきゅーん。
『あなた方、我が方代表には交渉の用意がある。悪い話ではないと思うぞ』
ぱんぱんぱんぱんぱん。
『えっと、お元気ですか? 話し合いたいことがあるのでひとまずの停戦に合意してもらえるとお互い助かるのではないかと思いますがどうでしょうか?』
だだだだだだ。
『おはようございます。お二方《ふたかた》にお伝えします。もし出国を希望されるのでしたらそれを喜びを持って認めたいと思います』
ばんばんばんばんばん。
『あなた様方にお願いいたします。どうかお怒りをお鎮《しず》めになって、我が国から出国なさってください』
ずどん。ばがん。どごん。
『お願いします。本当に心からお願いしますからもう止《や》めてください。お願いで――』
ずぎゅーんずばばばばばだだだだだぎゅーんずぎゅーんどどどずどぱんぱんちゅいーん。
『たすけてー。もうやめてー』
「そこまで言うのでしたら、ここで死ぬのを諦《あきら》めて、おとなしく国を出てもいいですよ」
『ほ、ホントですかぁ?』
「で、いくら出しますか?」
『…………』
「いくら出しますか?」
『…………。えっと、ここに書いた程度ではどうでしょう?』
ずぎゅーん。
『もっと出せます!』
――とまあ、こんな感じだったらしい」
「オニだ」
「結局、これ以上事態を長引かせて負傷者を増やすよりも、国外退去処分≠チて名目を通す方が結果的に被害は少ないとその国も理解した。師匠《ししょう》たちは、政府から金を巻き上げて、さらにそれを持ってきた警察の長官を人質《ひとじち》にして、警察の車で城門まで送ってもらったそうだよ」
「めでたしめでたし。おしまい。はー。すごい話でした。――見えてきたね」
キノとエルメスは森の中を走る。その進む先には、エルメスの言ったとおり、城壁のてっぺんが見えていた。
キノが言う。
「ちょうどだね。だからあの国で、『カノン』の入手元は秘密。蚤《のみ》の市で買った≠アとにしよう。もちろん師匠《ししょう》の話なんて絶対に絶対に何があっても禁止」
「了解」
「でも、あの国に入ったら、その話がどんなふうに残っているのかが知りたい」
「歴史的イベントだったろうからねえ」
「師匠が嘘《うそ》デタラメ誇張《こちょう》の類《たぐい》を言ってなければ、だけどね」
「にわかには信じられないと言いたいところだけど――」
「うん……」
「あの人ならやりかねないね」
「うん……」
キノがふいに、エルメスを走らせながら振り返った。来た道を見る。誰もいない、落ち葉が舞う道。
「大丈夫。いないいない」
エルメスが言った。
「だから前を向いて走ってよ」
キノが入国して、そしてちょうど昼頃。
キノとエルメスは、芝生《しばふ》に閉まれた八角形の、そして中心に時計|塔《とう》を持つ建物の前にいた。建物へ真《ま》っ直《す》ぐ向かう道の端《はし》に停まっていた。晴れた秋の空の下、芝生には食事を楽しむ人達がいた。中には、警官の姿も少し見える。
「歴史的建物が残っているっているのは、とてもいいことだ」
エルメスが言って、キノが同意する。
「そうだね」
「八角形だし、間違いないね」
「時計塔もあるし」
キノがそう言ってからエルメスを発進させる。建物を囲む道を、走って回る。
「キノ、ゆっくり」
「ん?」
エルメスの声に、キノが右手のアクセルを緩《ゆる》める。エルメスは、建物の入り口|脇《わき》に石碑《せきひ》があるよと言って、キノはその方向へとハンドルを切った。
石碑の前で、キノがエルメスを止めた。エンジンを切る。それほど大きくない石碑が、芝生の上にひっそりと置かれていた。
石碑には、文字だけが小さく彫られている。キノはエルメスをスタンドで立たせると、その石碑の前に行きしゃがんだ。
「キノで見えないよ。何が書いてある?」
エルメスが聞いて、
「字が小さくて読みにくいな……。定礎《ていそ》の記念とはちょっと違うみたいだけど……」
キノがつぶやいた時、
「それはですね!」
「うわっ!」
後ろから大きな声がして、エルメスが驚いた。キノが立ち上がって振り向く。
そこにいたのは、杖《つえ》をついた禿頭《とくとう》の老人だった。外見はかなりの歳《とし》に見え、孫《まご》なのか曽《ひ》孫なのか、四、五|歳《さい》ほどの女の子を連れていた。
「イヤ驚かせてすみません。それは、我が国を救ってくれた二人の勇者を記念して建てられた碑《ひ》ですよ」
老人がそう言って、エルメスが聞く。
「二人の、勇者?」
キノは帽子《ぼうし》を取り、老人と女の子に会釈《えしゃく》、そして、
「旅の者ですが、国の歴史に興味があります。お話お願いできますか?」
老人は笑顔で、
「おおいいですとも。私がまだ若かった頃、この国には政治|腐敗《ふはい》が横行していまして」
「へえ。それでそれで?」
「癒着《ゆちゃく》した警察も悪行《あくぎょう》を働く有り様で、どうにも悪い空気が漂《ただよ》っていました。そんなある時、入国した二人の正義感|溢《あふ》れる旅人が、これではいけない!=A間違っている!≠ニ民衆にかわり立ち上がったのです!」
力強く語る老人に、
「それからそれから?」
楽しそうに相づちを打つエルメス。
「それから、二人は民衆の力を背に、この建物、――この政府の建物にたった二人だけで陳情に訪れたのです」
「すごいね!」
「いやもう正義と勇気溢れるお二方《ふたかた》でした。実に四日に渡る熱弁でした。そして二人の熱意に打たれた我が国の政治家や警察高官は、それまでの行動をいたく恥じ、以降悪いことをしなくなったのです。おかげで今のこの国は、とても豊かで幸せなのでした。めでたしめでたし。おしまい」
老人が言い終わると、
「おじいちゃまのお話、いつもめでたしめでたし=I」
手を繋《つな》いだ女の子が楽しそうに飛び跳《は》ねて、老人が、
「これこれ。はしゃぐと爺《じい》はころんでしまうよ」
笑顔でたしなめた。
キノが言う。
「なるほど、そのような歴史があって、その記念|碑《ひ》なんですね」
「そうなんですよ。今では歴史の教科書にも、正義の旅人さん達のお話≠ニして載《の》っていますよ。この子も大きくなったら学校で習うでしょう」
キノは老人に礼を言って、そして訊《たず》ねる。
「話は変わりますが、その足は、どうされたんですか? この国のご老人、特に男性は、杖《つえ》をついている方が多く見受けられますが」
五秒ほど、老人は顔を引きつらせて固まっていた。女の子が、不思議そうに見上げる。
「い、いやあ! ――私くらいの歳《とし》の人間の、生まれつき足が悪いのが人で多くてなんですね、その、つつ杖《つえ》を作った人は儲《もう》かったわけな、ななんでしょうねえ」
老人は引きつった表情のまま、てにをはが乱れた台詞《せりふ》を早口で一気に言った。そして、わはははと笑いながら、杖をしっかりとついて、片足を引きずって、女の子と共に歩き去っていく。
二人を見送った後、
「どうする、エルメス? 一応|石碑《せきひ》読む?」
キノの質問に、
「いいや」
エルメスがすぐに答えた。キノは帽子《ぼうし》をかぶり、エルメスにまたがってエンジンをかけた。
建物を背にして、キノはゆっくりとエルメスを走らせる。他《ほか》の人に聞こえないように、会話を交わす。
「なんだかな。果たしてどちらが本当だろうね? キノ」
「分かってて言ってるだろ? エルメス」
「うん。でも、なんか、前向きな国だね。前向きなことはいいことだよ」
エルメスの言葉に、
「ある意味そうかも」
キノが軽く笑いながら同意した。そして、
「でも、師匠《ししょう》が再来したらどうするんだろ?」
エルメスの何気ない一言。
キノがふいに、エルメスを走らせながら振り返った。来た道を見る。時計|塔《とう》を持つ、大きな建物の姿。
「大丈夫。いないいない」
エルメスが言った。
「だから前を向いて走ってよ」
第二話 「愛のある話」
―Dinner Party―
冬がはじまったばかりの山に、一本の道があった。
なだらかに続く山々には、秋に葉を落とした細い木が閑散《かんさん》と並ぶ。全体が茶色一色で、どこまでも色彩に乏《とぼ》しかった。
午前の太陽は眩《まぶ》しく、きれいに晴れ渡っている蒼《あお》い空が、森とくっきりとしたコントラストを生み出す。それでも時折強く吹く風は冷たく、乾いていた。
道は山々を縫《ぬ》いつけるかのように、斜面を水平に走る。落ち葉も消え、乾いた空気によって締まった土がむき出しの道だった。幅は車一台分ほど。
その道を、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。
後輪|脇《わき》に箱を取りつけ、上に旅荷物を載《の》せたモトラドだった。乾いた道を、薄く土|煙《けむり》を上げながら走っていく。進む方角はほぼ真西。
運転手は茶色い長いコートを着て、余った裾《すそ》を両|腿《もも》に巻きつけてとめている。鍔《つば》と、耳を覆《おお》うたれのついた帽子《ぼうし》をかぶり、ところどころが剥《は》げた銀フレームのゴーグルをしていた。
運転手はカーブ手前でアクセルを緩《ゆる》めて減速して、進む先を見ながらモトラドを傾け、また直線でじんわりと加速する。そうして一つの山を走り抜けると、視界には次の山が現れた。
モトラドを走らせながら、
「あー……」
その運転手が口を開いた。力のない声だった。
「何さ? キノ」
モトラドが聞いた。キノと呼ばれた運転手は、ポツリと
「お腹《なか》すいたな」
「だったら、止まって休む! 空腹で倒れられたら――」
モトラドの訴えを、
「はいはい。モトラドの運転はスポーツだから云々《うんぬん》。走っているだけで、なんとか。だからとっさに――。何回も聞いたよ、エルメス」
キノは流す。エルメスと呼ばれたモトラドは、
「分かっててやってるんだから」
呆《あき》れ声で答えた。
「そもそも、あの国が滅んでいたのがいけない」
カーブを抜けながら、キノが言った。そして続ける。
「本当なら、のんびりして、久しぶりに美味《おい》しいものを食べる予定だったのに」
「ご愁傷《しゅうしょう》様、キノ。最近|放棄《ほうき》されたばかりだと思うけど、ものすごい荒れようだったね。食べ物なんて一つもなかった。白骨死体がゴロゴロ」
「エルメスはいいよ。廃棄車両から燃料をたっぷりとかき集めたから。……おかげでボクは、久々にあの嫌《いや》な燃料の味を堪能《たんのう》したよ」
「おつかれさん」
「どうも。そしてこの森も、実りが少ない……。何か食べられそうな動物はいないかなと思って、さっきからしっかり探しているんだけど」
「いたらズドン? でも鹿《しか》どころか、リスもいないね」
「はあ……」
そしてキノとエルメスは、双方《そうほう》無言のまま淡々と走り続けた。
昼の少し前だった。久しぶりに現れた坂を登り終えて、緩《ゆる》やかな峰《みね》を越えた時、視界に大きな盆地が広がった。
そこには人間がいた。
「なんだろうね? キノ」
「さあ……?」
キノとエルメスが、ゆっくりと坂道を下りていく。山は盆地へ姿を変える。木もなければ草もない乾いた土地。
その道の進む先に、多くの人間がいた。盆地の中央を埋《う》め尽くすように、数百人以上の人が集まっている。その中にはテントのようなものも見えた。
「あんまり、楽しそうには見えないね」
「難民、かな……」
エルメスとキノが言った。エルメスが、そんな感じ、と同意する。
人間の集まりが、黒い絨毯《じゅうたん》になって盆地の中央を埋めていた。人が多すぎて土があまり見えない。道はその中に続いていき、黒い塊《かたまり》の中に茶色の細い線が見えた。塊の向こうには、大きな穴が一つ、地面に口を開けていた。
キノとエルメスは、さらに坂を下り近づく。
そこにいた人間は、誰もが酷《ひど》い状態だった。
全員が、寒い空気の中ボロボロの服をまとっている。例外なく病的にやせ細り、頬《ほお》はげっそりと痩《こ》け、手足は棒のようだった。薄汚《うすよご》れた顔に、うつろな目だけがやけに大きく見える。何をするでもなく、大地の上に座ったり寝転がったり、横になったまま息をする以外ほとんど動かない人もいる。ところどころに建つ簡単なテントの中には、人がぎっしりと詰まっていた。
キノが、その塊《かたまり》の手前でエルメスを止めた。
「こりゃまた凄《すご》いね。何人いるんだろ?」
「さあ……。左の斜面にあるテントは、他《ほか》と違うみたいだけど」
少し離れた南側の斜面にもテントがあり、人が見える。
「あれは、見たところ軍隊だね。ちゃんと制服着てるし、パースエイダー(注・銃器《じゅうき》のこと)持っている人もいる」
エルメスが言った。そして、とりあえずどうする? と訊《たず》ねる。
「話をするのなら、話の通じる人達の方がいいけどな」
キノが言って、そりゃそーでしょ、とエルメスが同意する。
キノは、コートの前を外した。羽織《はお》った状態のまま、エルメスを発進させる。ゆっくりとコートを風にたなびかせながら、ボロボロの人間達へと進んでいった。
ほとんどの人間がうつろな視線を向ける中、立ち上がる人達がいた。大抵が大人《おとな》の男で、手には棒のような物を持つ。
彼らが道の上に足を進め、そこを塞《ふさ》いだ。ゆっくりと近づくモトラドを睨《にら》む。
その姿を進む先に見て、エルメスが言う。
「襲おうかと思ってるね。キノが美味《おい》しそうに見えるんだよ、きっと」
「それは困るな」
キノがふだんと変わらない口調で返した。
「二、三発|殴《なぐ》る?」
「さっき言ったでしょ。お腹《なか》すいてるんだよ――、ボクはとても」
「お、強調したね。トンチ棒まで使って」
エルメスが言った後、数秒の間があった。その間にも、男達が道をふさぐ黒い塊へと近づく。
やがて、キノがエルメスに聞く。
「……えっと、倒置法=H」
「そうそれ」
そう言ってエルメスは黙らず、
「だいぶ反応が鈍かったね。ホント空腹なんだね」
「すみません。そこを通してください」
キノが言った。黒い塊のすぐ前、道をふさぎ睨む男達の目の前にエルメスを止めて、エンジンは切らずにまたがったままだった。
「…………」
男達は何も言わない。幽鬼《ゆうき》のようなやせ細った顔を向けるだけ。
「みなさーん、乱暴運転キノに跳《は》ねられちゃいますよ」
エルメスが言った。ひどいなあ、とキノがぼやく。
やがて、
「……なんでもいい」
男の一人が、力のない声で言った。
「はい?」
「なんでもいい……。食べ物を少し分けてくれ……。なんか少しでいい……。みんな、お腹《なか》がすいているんだ」
その男の言葉に、
「ボクもです」
キノが即答した。
そして、右腰に手を伸ばす。コートの下から出てきた手には、一|丁《ちょう》のハンド・パースエイダーが握られていた。キノが『カノン』と呼ぶ、大口径のリヴォルバー。
それを見て、男達が溜息《ためいき》、そして押し黙った。
直後、甲《かん》高い発砲《はっぽう》音が響いた。
音がしたのは、塊《かたまり》の中からだった。振り向いた男達が、弱々しい足取りで道の脇《わき》へとどいていく。一台の四輪|駆動《くどう》車が、キノ達へ向かって道を走ってきた。道のそばにいた人間を跳《は》ね飛ばしそうな勢いだった。乗っているのは、緑色の服を着た四人の兵士。パースエイダーが、威嚇《いかく》のために何度も空に撃たれる。
四輪駆動車が、『カノン』をホルスターに納めたキノの前で止まる。助手席に乗っていた一人が、道を抜けるまでついてくるといいと言った。キノが了解したと身振りで答えると、四輪駆動車はくるりと向きを変えた。
左右を難民が挟《はさ》む道を、隙《すき》なくパースエイダーを構える兵士を乗せた四輪駆動車が走り、キノとエルメスが続いた。二台の姿が、うつろな幾百の瞳に映っていく。
塊を半分ほど抜けると、南へと折れる道があった。四輪駆動車がそこを曲がり、キノもついていく。再び難民の中を走ると、やがて道は緩《ゆる》やかなのぼりに。難民達の中を抜けて、そして先ほど見えたテントの前に、そこにあった太い丸太が作る柵《さく》へとたどり着いた。
道にはゲートが設けられ、パースエイダーを持った数人の兵士がそこを守る。四輪駆動車が近づき、赤と白に塗り分けられた横棒が持ち上げられる。キノが通り終えるとすぐに下ろされた。
そこは軍隊の野常地だった。緑色のテントが等間隔《とうかんかく》で並び、兵士が立って警戒していたり、座って休んでいたりする。車やトラックが停められて、その脇には燃料のドラム缶《かん》があった。
キノがエルメスを止め、帽子《ぼうし》とゴーグルを取る。兵士達が注目する中、四輪駆動車を降りた助手席の男が近づいた。キノが軽く頭を下げる。
「いやあ危《あぶ》なかったですね。旅人さんがあそこで飴玉《あめだま》一つでも彼らに渡していたら、寄って集《たか》って死ぬまでむしられたと思いますよ」
「でしょうね」
「自分達は仲間の命や装備を守る場合のみ武力行使が認められているので、もし旅人さんが襲われたとしても助けられないんですよ」
「そうですか。でも助かりましたよ。ありがとうございます」
キノが礼を言うと
「ああ。これは定期パトロール中にたまたま@キ人さんを見つけただけです。――旅人さんは運がいい」
その男はしれっとした顔でそう言った後、キノとエルメスを一つのテントへと案内した。ポールと屋根だけのテントで、他《ほか》のとは独立して離れた位置に建てられている。
そこでは、制服に装飾や勲章《くんしょう》をつけた、年齢《ねんれい》も階級も高い数人の将校達が机を囲んでいた。
「道を通りかかった旅人さんを、たまたま′ゥつけたのでお連れしました」
「そうか。ご苦労だったな軍曹《ぐんそう》。さがってよし」
軍曹が敬礼をして去った後、キノは自己紹介して、そしてエルメスを紹介した。
左右にピンと伸びた立派な口髭《くちひげ》を生《は》やした、偉そうな雰囲気をこれでもかと醸《かも》し出している一人が、自分が部隊長で将軍であると自己紹介した。そして、自分達は近隣の国の軍隊だと告げる。
「何があったのさ?」
エルメスが簡潔に聞いた。今いる場所からは、柵の向こうで斜面を下った盆地の底と、難民達の姿がよく見える。
「彼らのことだな。うむ。答えよう」
将軍が髭を指先で直しながら言った。そして難民へと向く。
「このあたりには小さな国が多いのだが、もともと彼らは、ここから東に少し行ったところにある国の住人だった」
「そこ、昨日見たよ。確かに誰もいなかった。結構な有り様だった」
「ならば話は早い。――ここ数年、このあたりでは夏が涼しすぎて作物が育たず、記録的な不作が続いていた。そしてその国では、指導者達の怠慢《たいまん》で食糧問題を解決できずに、とうとう国が崩壊してしまったのだ。力あるものは遠くに逃げたが、ほとんどの人は、どうすることもできずに飢餓《きが》難民となってこの盆地にたどり着いた」
「ふむふむ。まわりの国が助ける予定は?」
「うむ。できることならそうしたいが、我が国や近隣国とて不作は同じなのだ、とてもそんな余力はない」
「なるほどね」
「仕方なく我が国や近隣国は、彼らが押し寄せてこないように、この盆地から出させないようにしようと取り決めた。こうして軍を出し、ある程度の時間で交代しながら見張っているという訳だ」
「彼らは、どうなりますか?」
キノが聞いた。将軍《しょうぐん》が答える。
「どうにもならんな。今でも一日に何人も飢餓《きが》や病気で死んでいる。そのうちに一日に何十人になって、やがて春が訪れる頃には、ここには誰もいなくなるだろう。我々は死体を大きな穴に落とし、上から石灰を撒《ま》く作業を終わるまで続けるだけだ」
「なるほど」
キノが言った。弱いが冷たい風が吹いて、キノのコートを揺らし、盆地を吹き下りていく。
「ところで旅人さん」
将軍が、キノに向けやや意地の悪そうな視線を向ける。
「はい」
「そろそろお昼になる。我々は昼食をいただくが――、ご一緒にどうかな?」
「とても美味《おい》しいです。感動です」
屋根だけのテント下の長テーブルに、将校達、そして黒いジャケット姿で首にナプキンを下げたキノが座っていた。テーブルの上には、将軍や高級将校達向けの豪華《ごうか》な昼食が並ぶ。
この日の昼食は、メインがジューシーに焼き上げた分厚いハムステーキの木イチゴソースがけ、そして茄《ゆ》でた太いソーセージに千切りキャベツの漬《つ》け物。付け合わせは、ほくほくに茹でられ寒い空気の中湯気を絶やさない人参《にんじん》とブロッコリーの温《おん》野菜サラダ。できたてのマヨネーズが添えられる。さらにコミスブロートと呼ばれる軍用ライ麦パンに、瓶《びん》入りの無塩バター。リンゴやナシ、ブドウなどの果物《くだもの》。ポットに入った熱いお茶と、そこに入れるための黄金色《こがねいろ》の蜂蜜《はちみつ》。
昼食に誘われたキノは「ぜひ!」と快諾《かいだく》してそのテーブルにつき、「さあ遠慮なくどうぞ」という将軍の言葉どおり、遠慮なく昼食を、目を輝かせ続けながら食べていた。後ろに止まっているエルメスは、無言のままだった。
「…………。気に入ってもらえたようで、何よりだ」
呆気《あっけ》にとられていた将軍が、作り笑いで返した。
今キノ達がいるテーブルからは、斜面の下で飢餓《きが》と絶望に苦しむ難民達がよく見えた。風に乗って、匂《にお》いは彼らに届いていた。
そのテーブルで、キノは下品にならない程度の勢いを保ちながら食べ続ける。
「将軍さん。この黒パンは、ボクが今まで食べた中で一番美味しいと思います」
「それは何よりだ。後で製パン部隊に伝えて誉《ほ》めておこう」
「よろしくおねがいします」
将軍が、ハムステーキを大きめに切って口に運んだキノに訊《たず》ねる。
「ところで旅人さん。――旅に一番必要な、常に持つべき感情とは、冷酷《れいこく》さ≠ニいうやつですかな?」
ハムを食べ終えてキノが答える。
「いいえ」
「ほう、では何と?」
「それは自分への愛情です。どんな状況でも、他人より自分を愛することだと教わりました。――このハムもとても美味《おい》しいです」
「我らはこれで。旅人さんはごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます。将軍さん」
髭《ひげ》の将軍や他《ほか》の将校達が、適当に食べ終えてテーブルを離れていく。ほとんどの皿の上には、食べ残しがあった。
そんな中、やがてキノと、もう一人の将校だけがテーブルに残った。
少し太った将校だった。休も顔つきもふっくらして、軍服がきつそうな男だった。
彼はゆっくりと、だが確実に自分の皿をきれいにする。
「……ん? ああ」
キノの視線に気づいて、彼が軽く愛想《あいそ》笑いを浮かべた。そして言う。
「残さないように、頑張《がんば》ってるんだ」
自分の皿を全《すべ》てきれいにしたキノが、ナプキンで口を拭《ふ》きながら彼を見た。彼は最後のブロッコリーをフォークで口に運び、全て食べ終えた。
「自己満足なのは分かっているんだ――」
彼が、お茶をゆっくりと飲むキノに向かい話し始めた。
「でもね、目の前で餓死者《がししゃ》が出ているなかで、彼らを助けられないなかで、せめて自分の目の前の食事だけは全部食べようかなと」
「そうですか」
キノは、特別感動するでもなく、非難するでもなく受け答えた。
「おかげでここに来てから太ってしまった。――旅人さんみたいに、太らないコツはなんだろうか?」
彼の問いに、そうですね、とキノは考える。そして、
「一日中モトラドに乗っていれば太りませんね」
そう答えた。
お茶を終えた後|全《すべ》ての食事に感謝を棒《ささ》げ、二人はテーブルを離れる。
一人は任務に戻り、もう一人は旅に戻った。
第三話 「ラジオな国」
―Entertainer―
『国営ラジオをお聴きの皆様、今晩は。さあ、お待たせしました。毎週二回お送りする、当国営ラジオ一番の人気番組――スケルツィさんの今を切る!≠フ時間です。今夜も様々な事柄を、スケルツィさんならではの鋭い視線で捉《とら》えて皆様にお伝えします。なお、前回の放送、電気の無駄《むだ》は精神の無駄≠ノたくさんの反響のお電話、お手紙をいただきました。ありがとうございます。――ではスケルツィさん、今回もよろしくおねがいします』
『今晩は。よろしく』
『さっそく今夜の題目なんですが、旅人≠ナすね』
『はい。旅人≠ナす。今回はここから話を進めていきたいです』
『それはまた、どうして?』
『はい。――皆様も、四日前に入国して昨日の夕方に出国した旅人さんの事は、知っていると思います。中には直接見かけた人もいるかもしれませんが』
『その来訪はニュースにもなりましたね。モトラドに乗った、キノさんという旅人でした。我が国に流れの商人ではない純粋な旅人が来るのは、実に五年以上ぶりとのことでした』『そのことで、皆様の中には、他国から離れた場所にあるこんな小さな国に外から人が来てくれたことを、嬉《うれ》しく思っている人もいるかもしれない。それを、自分達は孤独ではない≠ニ喜ぶ人も、我が国での滞在を無事に終え笑顔で去った旅人を見て、粗相《そそう》がなかったと安心している人もいるかもしれません』
『ああ、そういったところはあると思いますよ。何せ久しぶりでしたし。あえて名前はここで出しませんが、税金で建てられた宿舎《しゅくしゃ》の食堂で歓迎昼食会を開いた政治家達もいたらしいですね』
『まあ、ホストとしての義務を果たしたといえば、確かにそうなのかもしれない。しかし、ちょっと待ってください。本当にそんな、鳴呼《ああ》良かった良かった≠ナ済ませてもいいことなのか、と。――これが今回のテーマです』
『と言われますと?』
『単刀直入に結論を言いましょう。――あの旅人は、偽物《にせもの》です』
『えっ? 本物の旅人ではない、と』
『そうです。そう結論づけられるいくつものおかしい%_がある。今回の本筋に入る前に、それらを挙げましょう。まずは、旅人の年齢《ねんれい》です』
『若い人間でしたね。十代半ばほどの』
『そう。その若さが驚きと感動を与えたなどと何も考えずにのんきに書いた新聞もありましたが、これはまず疑うべき点なんです。あんな若い人間がたった一人で旅をしているのは、常識的にありえないでしょう? なんでそれに気がつかないかな?』
『ああ……、言われてみれば、確かに……』
『出身国によるとは言え、あれはまだ学校に通っている歳《とし》でしょう? それに、普通の親がそんな行動に許可を出すと思いますか?』
『あ、でもほら、かわいい子には旅をさせよ≠チてやつじゃないですか?』
『それは昔からよく言われる諺《ことわざ》だけど、みんな意味を勘違《かんちが》いしてる。それは、旅ってものが苦労の連続でしかなかった時代に生まれた言葉ですよ。子供には苦労をさせろ、鞭《むち》をさぼって子供をダメにするな、などとほぼ同意義なんです。――もっとも今、法も何もない国家間の大地を旅するのは危険極まりないですけどね。そして、だからこそ次の、別のおかしな点が鮮明に浮かび上がる』
『ほう。それは?』
『それは、あんな少年が危険だらけの大地を渡っているという不自然さです』
『なるほど……。でも、確かパースエイダーを持っていましたが』
『それは持っているでしょう。伝説の巨人でもない限り、武器を持たずに旅をする人はいません。――でも、私に言わせるとアレは失敗でしたね』
『アレ≠ニは?』
『あの彼が持っていた、右腰に吊《つ》っていたとされるハンド・パースエイダーです。私も写真で見ましたけど。六連発の大口径リヴォルバー』
『失敗、とは?』
『あのパースエイダーが、旅人が持つにはどこまでも相応《ふさわ》しくないってことですよ。ちょっと専門的な話になりますけど、あのリヴォルバーは、弾倉《だんそう》に火薬と弾丸、そして叩《たた》かれて発火する雷管《らいかん》をそれぞれ別に詰める必要のあるタイプです。今一般的に知られている、薬莢《やっきょう》に弾丸がくっついていて、それを入れるだけのとはちがう、古いものなんです』
『ほほう。その古いタイプですと?』
『これがね、六発撃ってしまったら、再装填《さいそうてん》にはものすごい時間がかかる。今は一回に二十発も三十発も続けて撃てる自動連射式パースエイダーがあるのに、アレはいくらなんでもちょっとね……』
『例えるなら、万年筆があるのに羽ペンでデスクワークをするよう≠ネものですか?』
『そうそう、それは言い得ているね。旅の武器っていうのは徹底的なリアリズムを持って性能で選ぶべきで、愛用の骨董品《こっとうひん》を持ち出して飾り立てるような自己満足が通じる世界じゃあないんだ』
『なるほど……。いつもながら鋭い着眼点です』
『でも、この国の人は誰一人気づかなかったね。まああまりパースエイダーに詳《くわ》しくなければ無理もないとはいえ、ちょっと見方が浅い≠ゥな、私に言わせると。――何か浮かれてしまうと、人間は致命的なミスも見逃して流してしまういい例だよ』
『なるほど。武器一つもってもこれだけのおかしさ≠ェ見つけられるわけですね』
『そう。――あと、パースエイダーほどじゃないけど、あのモトラドも変だね』
『ほう』
『大きすぎるんだ。車輪もエンジンも。モトラドを選ぶときも、自分の体にあったモノを選ぶのが普通だから、あえてあんな大型車種を選ぶ理由はないね』
『なるほど。言われると不自然の塊《かたまり》なんですね、あの旅人は』
『まだあるよ』
『まだある?』
『彼の風体《ふうてい》もやたらきれいだった。これはどうにもおかしいね。入国した時、そのまま町を歩いてもおかしくないほど小綺麗《こぎれい》だったんだってね。城門にいた番兵とか入国審査官とは、それでだいぶ気をよくしたって聞いたけど』
『そうですね。そう報告があります。――えっと、本人の話では一応できる限り綺麗《きれい》にしてきた、とのことですが』
『そんな簡単にはいかないよ。シャワーもない野営の後だよ? まさかこの秋も深まった時期に水の冷たい川で泳いできたって言うの? みんな簡単に信じてしまいすぎるね』
『旅人といえば、髭《ひげ》もじゃで薄汚《うすよご》れた格好、が定説ですか?』
『それもステレオタイプに過ぎるけど、綺麗すぎるよりは……、ね』
『なるほど。次々にボロが出てきますね。私なんか目から鱗《うろこ》が落ちてばかりですよ』
『ものの見方って色々あるのにね。真っ正面からちらりと見ただけでそれが全《すべ》てと思っちゃダメ。そんなことでは騙《だま》されやすくなるだけ。意図的に真っ正面しか見せない、見せたくない人ってのはたくさんいるんだから』
『騙されやすい人が、この国にいかに多いか分かりますね』
『だから、最初に言ったとおり、あの旅人はもどき=\―つまり偽物《にせもの》だね。一人と一台で荒野を行く孤高の旅人のフリをしているだけの人間なんだよ』
『では、スケルツィさんの予想するあの旅人の正体はズバリ?』
『うん。近隣国の人間だろうね。最寄《もよ》りとは限らないけど、実際かなり近くの国に住んでいるんだよ。もちろんずっと一人で旅を続けているなんていうのは嘘《うそ》。大嘘』
『すると――』
『相当のぼんぼんだろうね。この国の近くまで、多分大型トラックか何かで、お供《とも》をつれてモトラドを乗せて、快適な旅をしてきた。もちろん大金払った護衛もちゃんとつけてね。道中はコックに作らせた豪華《ごうか》な食事を食べて、綺麗《きれい》な服に毎日着替えて』
『そして、入国前に変装した』
『そう。旅人らしく£飾って、モトラドに荷物を積んで、さも自分が凄腕《すごうで》ですと演出するためにパースエイダーを吊《つ》った。そりゃベテランの旅人ですなんて入国すれば、純朴《じゅんぼく》なこの国の人は大喜びだよ。ちやほやされたり、憧《あこが》れの目で見られたりする快感を、彼はさぞかし存分に味わったと思うよ。同時に、簡単に騙《だま》された人達を見て内心ほくそ笑んでいたに違いないね』
『なんともはや、性格が悪い』
『結局彼は、私達を担《かつ》ぎに来たんだ。出国してからまたすぐにお供《とも》達と合流して、今頃みんなで笑いながら帰国中、ってところだろうね。たった三日で出国したじゃない』
『そうですね。もっといてもいいって言われていたのに。なんでも、旅のルールとして自分で決めたとかでしたが』
『本当はもっと長く滞在して、できる限りからかってやりたかったんだと思うよ。でも、メッキが剥《は》げないように、自分ルール≠ニか通《つう》の旅人ぽい嘘《うそ》をついて逃げ出したというのが真実だろうね』
『なるほど。そう考える方がはるかにリアリティがあります』
『どこまでも卑怯《ひきょう》で姑息《こそく》な奴《やつ》だったけれど、今頃は多くの人を見事に騙したことを誇らしげに仲間に吹聴《ふいちょう》しているのかな? ――でも、こうして私に真実を暴《あば》かれ、こうして放送されて周知の事実となってしまった以上、これから彼がどこで何を思っても、誰に何を言っても、それは自らの愚かさの証明、恥の上塗りにしか過ぎないんだけれどね』
『それを知りようもない彼に祝福を、ですね』
『まあ、愚かな少年の計画はこうして白日《はくじつ》の下に晒《さら》されたわけだけど……、それを、無批判にちやほやしてしまった我が国の国民の単純さっていうか、批判力や思慮のなさっていうんですか、ちょっと問題ですね。今回私が言いたいことの本筋はこれです。この国に蔓延《まんえん》する無批判さ≠ニ無邪気《むじゃき》さ=x
『無批判さと無邪気さ、ですか』
『そう。この二つが今夜のテーマ。この国の良識ある大人《おとな》達は、あの旅人のことを疑いもせずに信じ込んでしまった。もし彼が単なる性悪《しょうわる》なトリックスターではなく、敵国が送り込んだスパイだったらどうなっていただろう?』
『それはゾッとしますね……。この国はさぞかし御《ぎょ》しやすい、と思ったでしょう』
『国防はある意味一つの例えで出したけど、あながちありえないコトじゃない。それに関わっている人には猛省《もうせい》を促《うなが》したいね』
『確かに』
『この国にはスキ≠ェ多すぎる。それは人にスキ≠ェ多いから。無関心も無邪気も、時に罪になることがあるって知ってほしい』
『子供が無邪気《むじゃき》ならまだ微笑《ほほえ》ましいんでしょうけど……』
『それがね、みんなが無邪気だと思っている子供の方が、冷静で正常な判断ができていることが多い。実は今回も、旅人が入国したってニュース聴いた私の甥《おい》がね、「ホント? ホントに旅人さん来たの?」って何度も何度も両親に聞いたらしいんだ。つまり甥っ子は見抜いていたんだ。これってちょっとスゴイことだよ。わずか四|歳《さい》児の方が、大多数の国民より真実に近い場所にしっかりと立っていたって証左《しょうさ》だからね』
『子供の視線の正しさや鋭さには時折ドキッとさせられますね』
『まったくだね。それに引き換えて浮かび上がるのが大人《おとな》達のだらしなさ。いっそ一度全員子供に戻ってみたらいい』
『大胆《だいたん》な提案ですが、一度それくらいやらないと、この国はダメになってしまうかもしれない』
『いやもうダメなのかもしれないね。この国は死につつあるのかもしれない。――さっき言ったみたいに一度大人達が全員死んで、子供達だけの国が生まれたら、その子供達が大人になった時それは今よりはずっとましな世界になるはずだよ。断言できる。――もちろんそんなことができないから、今のこの国の悲劇があるんだけれどね』
『そんな大人達の、失敗というか、染《し》みついてしまった間違い≠チて、どこから生まれたんでしょうか?』
『それは、やはりこころ≠フ問題だよね。前から私は何度も喋《しゃべ》っているけど、今の大人には本当のこころ≠チてモノが全然分かっていない。分かろうともしていない。大切な何かがすっぽりと抜け落ちて欠けているのに気づかない。気づかないフリをし続けている。そして悲劇は続きぬ、だね。それが今のこの国の正体だよ』
『なるほど。大人達全員は、自己批判のこころ≠キら持てなくなっているわけですね。――そろそろお時間ですが、今回のまとめを一つ』
『無批判と無邪気=\―こんな生活をこのまま続ければ、この国は精神的な滅亡を迎えるだろうね。前から何度も言ってるけど、そんな日はもうすぐそこまで来ている。気づかない人間はヘラヘラと笑っているけど。でも、一度そんな絶望の日が来た方が、この国のためにはなるような気がするね』
『ありがとうございました。――皆さんは、何をお感じになったでしょうか? ご意見、ご要望を電話やお手紙でお待ちしています。それではまた次回に。次は天気予報のコーナーです』
* * *
『もしもし。今電話いい?』
『だいじょぶ』
『今の放送聴いた?』
『もちろん聴いたよ。今回もアイツ、一段と意味不明な理論に磨きがかかっていたな』
『凄《すご》かったなー。普段は録音消しちゃうけど、今回は保存だね。いきなりこころ≠語り出した時は飲みかけのお茶を吹いたよ』
『おれは、一人真実を見抜いていた甥っ子≠フくだりで爆笑した』
『あとそれと、久々に絶望の日|待望《たいぼう》論≠ェ聞けたな。利口《りこう》な俺《おれ》だけはそれに気づいているぞ、ってやつ』
『ああ。――でもあれ、五年前から言い続けてる。一体、いつになったらその日は来るんだ?』
『来るまで言い続けるだろうから、いつかは当たるだろ』
『わはは。あのコーナー、ホント楽しいわ。これからも続いて欲しいよ』
『まったくだ。ところでさ、あの旅人ってホントにあんなだったのかな?』
『旅人? ……ああ、ネタのダシにされた旅人ね。――正直そんなことどうでもいいよ』
「どもー。スケルツィさん、お疲れさま」
「ん」
「今日もいい感じでしたね。ありゃ今頃広報に電話ジャンジャン来てますよ。前回の数は確実に抜きますって」
「それはいいけど……、ちょっとホンに弱いというか、穴というか。いや、どうでもいいんだけどちょっと意見が」
「ありゃ。一応参考に聞いておきますけど」
「あのパースエイダーのくだり。確かに薬莢《やっきょう》式は手軽だけど、旅をしていれば薬莢サイズの合う弾丸が手に入らないコトもあるんだ。そういった時はどこでも売っている火薬と、いざとなれば自分で鉛を溶《と》かして作れる弾丸を別に詰める方式の方が使利なんだよ。あの旅人、それがよく分かっていたんだと思うよ」
「そりゃまた、マニアな意見ですね。スケルツィさんパースエイダー詳《くわ》しかったんだ」
「もう一つ」
「はいはい」
「東に半日ほど行ったところに、温泉があるんだよ。あの旅人はそこで野営したんでしょう。そりゃ綺麗《きれい》になるよ。温水とスチームが使い放題だから。これ、地学研究した人は知っているから、あまり使わない方がいい」
「はあ……。一応放送作家には言っておきますけど、聴いた人でそれ分かる人ほとんどいませんよ」
「そりゃそうだろうけどね」
「まあ、また次回もよろしく! スケルツィさん、お疲れさま!」
「はい。お疲れさま」
第四話 「救われた国」
―Confession―
キノと名乗る旅人がいました。
キノはとっても若い人間でしたけれど、だいたい誰にも負けないパースエイダー(注・銃器《じゅうき》のことです)の名手でした。
キノの旅の相棒《あいぼう》は、モトラド(注・二輪車です。空を飛ばないものだけを指します)のエルメスです。後部座席は荷台になっていて、荷物をたくさん積み込んで、キノはそれは旅人なんですから、いろいろな国を見て回っています。
ある時、キノとエルメスはある国にたどり着きました。
見上げるとすぐに首が痛くなるほど高い巨木が生《お》い茂る森の中、まるで隠されるように、ツタでびっしりと覆《おお》われた緑色の城壁があったのでした。季節は春の終わりです。暑くも寒くもない、心地よい風が吹いていました。
「噂《うわさ》どおりだったね、キノ」
「うん。この国は、教えてもらっていなければ絶対に見つからないよ」
さてキノが城門で三日間の入国許可を求めると、久々の旅人さんを大歓迎しますと、番兵はすぐに許可を出しました。がらがらと城壁が開いていきます。
城門をくぐり抜けて見えたのは、それまでの森とはがらりと変わった平らで開けた土地です。延々広がる畑と牧草地、そしてのんびりと移動する家畜の群。広いわりに人口の少ない、科学もそれほど発達していなさそうな小さな国でした。ちょうど夕暮れ時だったので、ちらほらと見える丸太小屋の煙突《えんとつ》から、薄く煙が立ち昇っていました。
「よさそうな国だね」
エルメスが言いました。キノは同意して、それから宿を探すことにします。
建物が多い国の中心までやってきて、キノは住人に訊《たず》ねました。ほとんど旅人が来ないこの国に、宿などありませんでした。農作業用の服を着た、のんびり屋で人の良さそうな住人達が集まってきて、役場のような、大きな木造建築物の一室をご厚意で貸してもらえることになりました。キノは久しぶりのシーツで眠《ねむ》りました。
翌朝のことです。
「まったくもう、うるさいなー」
普段はけっ飛ばしてもなかなか起きないエルメスが、通りの騒々《そうぞう》しさで目をさまします。
電柱に縛《しば》りつけられた拡声器から大音響で通りに流されるのは、妙な音楽と声でした。何を言っているのか全然分からない、妙な抑揚《よくよう》のついた、呪文《じゅもん》のような言葉の繰り返しです。背後の音楽も、作曲者の顔が見たくなるほどヘンテコなものでした。
いつもの習慣で夜明けと共に起きていて、とっくに朝のパースエイダーの訓練も体操も終えて、シャワーも使わせてもらい、しかし食堂はないので携帯食《けいたいしょく》を朝食として食べ終えていたキノが、
「すばらしい国だ。――朝エルメスを叩《たた》かないですむ」
「冗談《じょうだん》じゃないよ。で、コレは何? あ、やっと止《や》んだ」
「なんだろうね。今までいろいろな国に行って、いろいろなものを見てきたつもりだけど、こんなのは初めてだ。だから、今から見に行こう」
そしてキノとエルメスは、観光に出かけるため建物を出ます。
直後、人に囲まれました。
この国の人達に囲まれて、まず驚いたのが着ていた変ちくりんな服装でした。全員が、一体誰がどんな目的で拵《こしら》えたのか到底理解不能な、キノが今までどんな国でも見たことがない服装をしていました。
そして彼らが口を開いて、キノに次々に訊ねたのは、この宗教儀式は上手《じょうず》か否か、でした。
「宗教儀式、ですか?」
キノが質問の意味が分かりませんと首を傾《かし》げて、彼らは説明します。
彼らは、宗教の儀式をやっています。それは数々の国々でとても広く受け入れられ、あまりにたくさんの信者がいるので旅人さんもその一人なのかまず訊《たず》ねました。もしそうでなくても、今までどこかの国でその儀式を目撃したに違いないから、自分達のやり方は様《さま》になっているか? 他国の信者に見せても恥ずかしくないか? ちゃんと神様に近づけているか? そう口々に聞いてきたのでした。
「キノ?」
エルメスが疑間をぶつけ、
「えっと――」
キノが口を開きます。人々が注目します。
「大変残念ですが、ボクは小さな国出身なのでこの宗教は知りません。そして、今までの旅で、それぞれの国はちょっと立ち寄るだけだったので、そこまで知り得ませんでした。皆さんのご期待に添えず、心苦しいです」
さっきと言っていることが全然違いますが、エルメスは黙っていました。
その言葉を聞いてややがっかりした、変な服を着たこの国の人達でしたが、すぐに気を取り直して、それはしかたがないから、ぜひこの国で知ってもらいましょうとかなり前向きです。
それからキノは、昼ご飯の時間まで、いかにこの宗教がすばらしいか、みっちり訳分からない教義とヘンテコとしか言いようがない儀式について口々に聞かされたのでした。エルメスは寝ていました。
苦難に耐えていたキノでしたが、広い家に招かれて、他《ほか》のたくさんの人達と一緒にお昼ご飯をたっぷりとおごってもらったのでだいぶ気は晴れました。
食事後のお茶の時間、一人の中年のおばさんが、
「こんなに心安まる宗教なら、もっと早くに触れたかったわ」
などと言いましたので、エルメスが質問をします。
「え? いつ頃この国に広まったの?」
答えは意外でした。この宗教がこの国に広まったのは、わずか十年前のことでしたも一人の宣教師様がこの国にたどりつき、あっという間に国民全員に広がったとのことです。その宣教師様には、望めばいくらでも手に入る贅沢《ぜいたく》な暮らしや権力の欲はなく、今も国の外れに建てた小さな家で、時折信者代表と会いながらひっそりと暮らしているとのことでした。
「あの人がいなければ、この国は絶対にダメになっていたと思う。いいや、この国は今なかったかもしれない」
一人の男がそう言って、
「どういうことですか?」
キノが聞きました。
大勢を代表して、その男の人が説明します。十年前この国では、作物は採れない家畜は子を生まない悪天は続く国民には妙な病気が流行《はや》る子供は言うことを聞かないなどなど、まさに暗黒時代でした。
「そんな大げさな」
エルメスが思わず言ってしまいましたが、国の人達は大|真面目《まじめ》です。
そして、国全体に倦怠《けんたい》感と絶望感が蔓延《まんえん》し、全員で一家ならぬ一国心中の気配すら漂《ただよ》っていたそんな時、あのお方がやってきたのでした。ボロボロの旅人に扮《ふん》したその宣教師様は、
「ならば私の言うとおりにしなさい。――魂《たましい》の平穏を得られるでしょう」
そうして布教をはじめました。もともといつ生まれたのか分からない土着の信奉《しんぽう》はあったのですが、かつて自分達を助けてくれなかったそれを国民はあっさり捨て、新宗教を皆で信じたのでした。必死になって祈り、儀式をし、願ったのでした。
「そして奇跡《きせき》が起きたんだよ」
以来、作物も採れるようになり、家畜はたくさん子を生み、病気は収まり、天気は穏やかになり、子供も言うことを聞くようになりました。国は潤《うるお》い、人々は心身共に健康を取り戻しました。
「なるほど」
キノがそう言ってお茶菓子《ちゃがし》を食べた時、
「たたたたたたた大変だ!」
一人の男が、血相を変えて部屋に飛び込んできました。
「何があったのか知りませんが、そんなに慌《あわ》ててはいけませんよ。神は見ておられます」
冷静沈着に男を戒《いまし》めた他の人達でしたが、
「それが! 宣教師様が、たたたたた旅人さんと二人だけでお会いしたいと!」
「なんですってー!」「なんだと!」「なんだってー!」「なんですと!」
全員が狼狽《ろうばい》しました。
「信者代表以外とお会いすることは滅多《めった》にないんだ。名誉なことだから、絶対に失礼のないように!」
そう言われ、キノとエルメスは宣教師様の家に向かいます。
男の運転するトラクターの後ろについて、国の中を延々走ります。畑を通り過ぎ牧草地をまたぎ、農作業中の人に手を振られました。
「ここを真《ま》っ直《す》ぐです。私はここで。――どうか失礼のないようにお願いしますよ本当に」
案内人と別れ、キノとエルメスは国の外れも外れ、植林された森の中へと入っていきました。
そうして、ひっそりとたたずむ一軒の小さな丸太小屋を見つけます。教えられたとおりの、宣教師様の住処《すみか》でした。
キノがエルメスのエンジンを止めると、一人の男が出てきました。
普通のシャツとパンツ姿の、おとなしそうな表情をした中年の男でした。顔つきも体もほっそりとして、頭は綺麗《きれい》に剃《そ》り上げ、髭《ひげ》はありません。
「……よく来ました。モトラドと一緒にどうぞ」
男は静かに話し、キノは言うとおりにしました。丸太小屋の中に入って、テーブルの脇《わき》にエルメスをセンタースタンドで立たせます。
男は、キノにイスに座るように言って、自分も向かいに座りました。両|肘《ひじ》をついて顔の前で手を組みました。そしてきつい視線で、キノを真《ま》っ直《す》ぐ見|据《す》えました。
男は開口一番、
「言ったのか?」
そう訊《たず》ねてきました。キノもエルメスも意味不明です。
「もし言っていたら、国民全員をけしかけて、生きてこの国から出さない」
今度はそう言って、やや意味を汲んだキノが質間します。
「何をですか?」
「私が、教えた、あの宗教だ」
男が言って、エルメスが理解しました。
「やっぱりインチキだったんだ」
エルメスの身も蓋《ふた》もない発言に、男が一瞬びくりと震えました。エルメスは遠慮なく続けます。
「どーりで、見たことも聞いたこともないはずだ」
「まだ言っていませんよ。――でも、ボクの言うことを信じてくれるとは思えないですけど」
キノがそう言って、
「でも、言ったら殺す。絶対にこの国から生きて出さない。絶対にだ」
「ボクは言いませんよ。エルメスだって!」
「言っちゃうカモ」
「その時は置いていきますので――」
「嘘《うそ》。絶対に言わない。言うわけないじゃん」
男は一度長く息を吐《は》いて、呻《うめ》くように言うのでした。
「そうか……、なら、いい」
しばらくの静寂が続いて、
「お話は以上ですか? もしそうでしたら、ボク達は観光に戻ります」
キノがそう切り出しました。男はああ、と頷《うなず》いて、キノがイスから立ち上がりました。そしてすぐに男は、いや違うまだだ、と訂正します。男は、目の前で組まれた両手に額《ひたい》を押しつけました。
「全部、インチキでデタラメなんだ……。適当に思いつくまま、考えつくままにでまかせを言っただけなんだ……。ああ……」
「…………」
うなだれたまま独白をはじめた男を、キノは黙ったまま見下ろしていました。その斜め後ろで、エルメスと名づけられたモトラドが問います。
「おっちゃん。宣教師様≠ニ違うなら、元旅人?」
「そうだ……。私は旅人で、放浪人だった……。十年前、こんなところに国があることも知らずにたどり着いた」
「嘘《うそ》を言った理由は? 騙《だま》そうと思ったの?」
「違う……。最初はたった一人でも、本当に助けてあげたかったんだ。通りで疲れ果てた顔をした女の子がいたから、こう言うと気分がすっとするよ。私の国の祝詞《のりと》だ≠チて、いい加減な呪文《じゅもん》をでっち上げて教えた……。私が子どもの頃、よくそうして祖母《そぼ》が私を励ましてくれた。だから、それでその子が気分転換してくれればよかった……」
男の発言は続きました。その女の子は男のもくろみどおり、かつて聞いたことのない怪しい響きの言葉を何度も唱《とな》えるうちに、落ち込んだ気がそがれてきました。単にちょっとした心理変化だったそれを、女の子は家族に大々的に伝えてしまいました。貧しい生活に疲れ果てていた家族は、キノも泊まったあの部屋にいた男を訪ねます。
「あの時にやめておけば……、嘘《うそ》だと言っておけば……」
男は、さらに適当な呪文や、子どもの頃習った柔軟体操をモデルにした祈りの儀式まで思いついてしまいました。
「その家族は隣近所に教えてしまい、その集落で流行《はや》った」
集落で流行ったものは国全体にじわじわと広がり、多くの人が教えを求めて男を訪ねるようになりました。
「私に真実を言うつもりはなかった……」
そして男は、自分にすがってくる人達に、私の国で、そして多くの国で大勢を救っている×××××教を皆に教えよう! きっと幸せになれる!≠ネどとぶちあげたのでした。ある時はその場で思いついた教えを、ある時は寝ずに考えた儀式を、ある時は生まれて初めて作曲をした宗教曲を、ある時は途中の国で見かけた祭りの衣装を、男は一所懸命《いっしょけんめい》、その国のみんなに広めたのでした。
「……なんという単純な人達だろうな。……なんという愚鈍《ぐどん》な者達だろうな」
男が額《ひたい》を両手につけたまま、唸《うな》るように言いました。
「なるほど、とてもおもしろい話だったけど――」
エルメスが言います。
「それを教えてくれた理由はナニ? キノに、この国から連れ出してほしい? 逃げ出すのを手伝ってほしい?」
その質間に、男が顔を上げました。ずっと黙っていたキノが、男の顔を見て少し驚きます。
「とんでもない!」
そう言った男の両の目は涙で潤《うる》み、その顔は笑顔でした。とてもすてきな、笑顔でした。
「私はこの国から出たくない! 一生出るものか!」
ずっとしっかりと合わせていた両手を放し、今は力強く拳《こぶし》を握りしめながら、男はそう言い切ったのでした。
「ありゃ? ――なんで?」
「それはね――」
男が笑顔で答えようとして、それだけ言うと言葉に詰まってしまいました。拳をテーブルの上に置きました。
キノとエルメスが驚いて見ている前で、男は両方の瞳から、滝《たき》のような涙を流しはじめました。涙が頬《ほお》を伝わって男の膝《ひざ》に落ちて、
「それは……、それは……、私が……、自分が、この国で救われたからだ……」
男が泣きながら、とぎれとぎれに言葉を発します。
「私は……、望んで旅になんか出たんじゃない……。生まれた国にいるのが耐えられなくなっただけなんだ……。私は、卑《いや》しい身分の生まれというだけで……、ずっと罵《ののし》られ、蔑《さげす》まれて育ってきた……。もう嫌《いや》になって――」
男が、テーブルから拳を上げました。視線を上げ、両手を開きました。まるで空《くう》でも掴《つか》むかのようです。
「そうしたら、この国にたどり着いた。私を必要としている国に! ――私を救ってくれた国に!」
キノもエルメスも何も言わずに、ただ男が泣きながら室内で空を見上げる様を見ました。
「ここはすばらしい国だ! 私は、この国で救われたんだ!」
やがてキノは踵《きびす》を返すと、エルメスを押しながら、丸太小屋から出ていくのでした。その後ろ姿が、滝《たき》のように涙を流す男には見えていませんでした。
「ああ……。私は神など信じない……。でも! でも、もし神様がいらっしゃるのだとしたら……、どうかこの国を、このままにしておいてください。私の救いの地を、どうか奪わないでください。ただいつまでもずっと、このままにしておいてください……。神様――」
エピローグ 「船の国」
―On the Beach・a―
私の名前は陸。犬だ。
白くて長い、ふさふさの毛を持っている。いつも楽しくて笑っているような顔をしているが、別にいつも楽しくて笑っている訳ではない。生まれつきだ。
シズ様が、私のご主人様だ。いつも緑のセーターを着た昔年で、複雑な経緯で故郷を失い、バギーで旅をしている。
そして私は、シズ様と共にある。
シズ様と私を乗せたバギーは、海の側《そば》を走っていた。
春の空気は暖かい。空に雲はなく、太陽は真上にある。どこまでも蒼《あお》い。
バギーの右側には、細い草に覆《おお》われた平坦《へいたん》な大地が作る緑の地平線。左側には、狭い砂浜の向こうに延々と広がる海が作る、穏やかで青い水平線が見えた。
草原の一本道を、バギーは走る。時折土盛りの凸凹《おうとつ》で車体を揺らしながら。
バギーの後部キャリアには、シズ様愛用の黒い大きなバッグが一つ。着替えなど普段必要なものは全部この中だ。テントや野外|炊事《すいじ》道具などホテルで必要ないものは、その下の箱にしまってある。ボンネット左右にもあるキャリアには、燃料や飲料水の缶《かん》が並ぶ。
左側の運転席で、シズ様はいつものセーターにゴーグルだけの姿でハンドルを握っている。ほとんど真《ま》っ直《す》ぐで、障害物など何もない道だ。ギアはずっと変わっていない。朝から何も変わらない景色の中、淡々と走り続けている。
ふと、シズ様がちらりとバギーの距離計を見て、
「そろそろだ」
短く言った。
そしてそれは正しかった。道の光、地平線の手前に、黒い粒のようなものが見え始める。
近づいていくと、それが人と車の集まりだということが分かった。大きなトラックが十数台停まっている。巨大なタイヤをつけた悪路走行用のトラックで、大量の荷を積んで幌《ほろ》をかぶせたトラックと、タンクに燃料を頼むトラックとが半分ずつ。
そのまわりには二十人ほどの人間がいた。全員男で、トラックの上に立つ数人の見張り以外は、幾つかあるパラソルの下のテーブルに集まってイスに座っていた。草原に張ってある数張りのテントが、彼らが数日間滞在していたことを示している。
シズ様が、バギーの速度を緩《ゆる》めていく
「話に嘘《うそ》はありませんでしたね」
私が言った。シズ様が小さく頷《うなず》く。そして男達に要らない警戒心を与えないように、ゆっくりとバギーを近づかせた。
パースエイダー(注・銃器《じゅうき》のこと)を持ち警戒する男達のかなり手前で止めて、シズ様は挨拶《あいさつ》として手を振った。そして、ライフルを持った二人が歩いて向かってくるのを待った。
「旅の者だ! 船の国≠ノ乗りたい!」
シズ様が声を上げた。男二人は注意深く近づいて、一通り私達とバギーを見回した。一人の中年の男がシズ様に訊《たず》ねる。
「念のために訊ねる。どういう話を聞いた?」
シズ様が正直に答える。
前から噂《うわさ》に聞いていたが、詳細《しょうさい》な話をしてくれたのは、先日立ち寄った南にある海沿いの国の人達であること。それによると、この海には船の国≠ニ呼ばれる巨大な浮島が昔から存在し、それに乗れば時間はかかるが大洋を西へ渡れること。旅人は何か労働を要求されるが、衣食住の中で衣∴ネ外は約束されること。
そして、そのためには海沿いで船の国≠ニ定期的に商売している商人達に接触するのがほとんど唯一の方法であること。商人と取引をするために船の国≠ゥら定期的に輸送船が来るはずで、それに乗ればバギーごと国へ行けること。それは伝説の類《たぐい》ではなく、実際にそうして渡った旅人がたくさんいること。
「いいだろう」
彼らは、シズ様が彼らの荷を狙《ねら》っている盗賊《とうぞく》ではないことを確信したのか、あっさりと警戒を解いた。シズ様はいつでも愛用の刀を取れる位置に置いておいたが、特別警戒している素振《そぶ》りはない。
シズ様は彼らのテントの近くにバギーを止めて、刀を腰のベルトに無造作に差しながらおりた。そして、お茶を飲んでいた商人の頭領《とうりょう》だという髭面《ひげづら》男と挨拶を交わした。六十|歳《さい》ほどの髭男は、
「いいバギーだな。いくらなら売る?」
いきなり聞いてきた。シズ様はやんわりと断って、
「いい刀だな。いくらなら売る?」
「いい犬だな。いくらなら売る?」
「いいセーターだな。いくらなら売る?」
「兄さん美形だな。いくらなら――」
シズ様は全《すべ》て断った。
その後、
「要らない物はなんでも買うぞ。特に機械仕掛けの物があれば高く買うがないか?」
そう聞かれた時シズ様は一瞬何か考えたが、残念だが何もないと断った。以前とある国でもらった懐中《かいちゅう》時計は、バッグのなかで眠《ねむ》っていたが。
シズ様は南の国の人にアドバイスされたとおり、国で売っていた高価ではないが珍しい酒の瓶《びん》を数本、心付けとして彼らに無償《むしょう》で渡した。
髭《ひげ》の男は破顔《はがん》して、
「おっ! 悪いな兄さん。――みんな、兄さんからだ! タダで物をもらった時は心の底から礼を言え!」
彼らとの関係を円滑《えんかつ》にしておいて、私達はそこで輸送船を待つことになった。
彼らのテーブルに誘われて、シズ様はお茶を頂いた。
いつものとおり注意深く中身を聞いて、毒ではないことを確認してから飲む。砂糖とミルクをたっぷりといれたお茶で、シズ様は疲れた体にはいいと感想を述べた。
お茶を終えた後、髭の男が言う。
「あとはひたすら待ちだ」
彼の話では、船の国≠ゥらの輸送船は来ないこともあるらしい。荒天《こうてん》や、そうでなくても何らかの理由で海岸に現れずに、無駄骨《むだぼね》になることがたまにあるとのことだ。日にちも不確定なので、この時期には十五日ほど、彼らは居座るらしい。トラックの荷をまったくほどいていないのは、そういう理由からだった。
彼らの国は、東に車で十日ほどの距離にあるとのことだった。売る物はまず燃料、加工食品、衣類、工芸品など。向こうからの報酬《ほうしゅう》は珍しい魚貝類、干し魚、大陸の向こうの珍しい商品など。二百年以上の昔から、この仕事を半年おきに行っていると言った。
「船の国≠ヘそんな昔から、だいたいそれくらいで動いているというわけか」
「そうだよ。だから時期を逃すと大変だ。兄ちゃんは運がいいな。それにしても、西の大陸に渡ってどうするつもりだ? どこか行くところがあるのか?」
シズ様は首を横に振った。ただ新しい土地を見てみたくなった――そう答えた。それはもちろん本心ではないが、商人達は、特別追及はしなかった。
この日、船は来なかった。
トラックの上で双眼鏡を覗《のぞ》いていた見張りが、鮮《あざ》やかすぎる黄色い夕日が水平線に沈んだ後地面に降りてきた。夜間に船が来ることは絶対にないらしい。
シズ様は商人達と夕食を共にした。酒の礼として彼らの料理をごちそうになる。大きな鍋《なべ》で茹《ゆ》でた麹《めん》に、野菜や肉を煮込んだ熱いあんをかけた料理だった。私も冷ましてもらってから頂いた。なかなか美味《びみ》だった。
夜は早い彼らが、見張り役を残してテントに戻る。
シズ様は彼らのテントから少し離れたところで、草原の上で、バギーのボンネットに板を渡し、いつもどおりの簡単な寝床を作った。
空では満月が青白く輝き、雨の降る気配はまるでない。春の夜の風は冷たく、じんわりと冷える。シズ様は厚手の毛布で体を包んだ。
「頼んだぞ。陸《りく》。お休み」
「分かりました。――お休みなさい、シズ様」
シズ様が寝入ってから、私はバギーの前で寝ながら警戒に当たる。
時折見張りが交代する以外、何ごともなかった。
波の音が小さく響く、青く静かな夜だった。
朝。
商人達は早起きで、そしてシズ様もまたそうだった。
そこにいた全員が夜明けとほぼ同時に、世界が明るくなると同時に起きて動き出す、それは太陽の光を一切|無駄《むだ》にしないための、野外活動に慣れた人間に染《し》みついた習性だった。
シズ様はいつもどおり軽く運動して、いつもどおりの鍛錬《たんれん》として刀を振る。
商人達は手分けをして朝食の準備や、トラックの上での見張りを。ある者は食料確保なのか単に好きなのか、投げ釣《づ》りを始めた。
朝食の後は、ひたすら待つ。
何もしない時間が、淡々と過ぎていった。シズ様もまた、渚《なぎさ》に座り、海を見ながら静かに待った。
昼食はお茶と簡単な菓子《かし》を口に入れるだけ。それが終わり、片づけが終わった頃、
「来たぞー! 船だ!」
見張りの男が声を上げた。
商人達があらかじめ用意したたき火に点火して、それには何か薬品でも混ざっているのか、オレンジ色の狼煙《のろし》が立ち昇る。
やがて、変わった形の船が三|隻《せき》、砂浜へと近づいてきた。
三隻とも同じ形で、さほど大きくはない。全長は五十メートルほどか。後部にブリッジが見える。普通の船と違って船首が丸まっておらず、平面でできている。色はくすんだ灰色。
「兄ちゃん。あれがそうさ。輸送船だ」
髭《ひげ》の頭領《とうりょう》が言った。シズ様が訊《たず》ねる。
「どうやって荷を積む? 桟橋《さんばし》などないが……」
「見てると分かるさ。旅話のネタにしてくれ」
頭領《とうりょう》の答えどおりだった。私達が見ている前で、その輸送船は渚《なぎさ》に対し垂直に向かってきた。そしてそのまま、船首を豪快《ごうかい》に砂浜に乗り上げてしまった。船首の一枚板は、そのまま前にぱたんと倒れて渡し板になる。便利な船だ。
中が見えると、その船体内には広く空《あ》いた屋根無しの格納庫があった。三|隻《せき》は立て続けに、砂浜に乗り上げた。
「なるほど」
シズ様が感心している前で、商人達がトラックのエンジンをかける。同時に一隻の輸送船から、二人の人間が出てきた。
背格好からおそらく男だろうが、どこまでも黒ずくめの人間だった。黒いロングコートに黒いパンツ、黒いブーツ、黒い手袋、黒いスカーフ。奇妙な形をした黒いとんがり帽子《ぼうし》の下で、黒いベールが顔を隠す。首の後ろは帽子からのたれが覆《おお》う。皮膚《ひふ》が出ているところが一カ所もない。
コートのシルエット、その腰の位置が少し膨《ふく》らんでいるのは、まず間違いなくハンド・パースエイダーを装備しているからだ。
「相変わらず黒子《くろこ》だな。あれが、船の国≠フ、自称指導者§A中だ」
「指導者、とは?」
「いわゆる特権階級さ。エライ人だ。機嫌損ねるなよ。――先に商売するから少し待て」
頭領が二人を出迎え、挨拶《あいきつ》を交わす。目録なのか紙を見せ合い、短い話をした後納得したように頷《うなず》いた。
頭領の合図でトラックは輸送船の前まで砂浜を走り、そしてバックで中へと入っていく。木箱など荷物を下ろし、またはタンクの中の燃料を輸送船のタンクに移し、終わると次と入れ背わる。空《から》になったトラックは荷を満載《まんさい》していた一隻へと、今度は受け取りに行く。
作業が続く中、私達の前に黒ずくめの男達が近づいた。ベールの下で、表情はまったく分からない。一人がシズ様に話しかける。
「貴殿《きでん》が我が国への入国を希望する旅人であるな」
かなり時代がかった話し方だった。意図的にやっているのだろう。その声は、不思議と若く聞こえる。若者なのかもしれない。
シズ様が首肯《しゅこう》した。そして、人一人と犬一頭、バギー一台が西の大陸へ渡るために必要な条件を訊《たず》ねた。
返答は、国の中で我々(つまり指導者達)が決めたルールに従うことと、寝床と食いぶち分は何か仕事をすること。
「仕事とは?」
返答。指導者達の指揮下で民衆の監視《かんし》の任、または一般民衆に混じっての肉体労働でもいいがとのことで、後者は皮肉のつもりだろう。
最後にシズ様はどれほどの日数がかかるか聞いて、黒ずくめ男はだいたい十五日ほどだと答えた。船の国≠ヘ五日ほどこの大陸に沿って北上し、その後海峡を同じく五日ほどで渡り、さらに五日後には西の大陸の商人達との接触がある。
「無理は言わぬが、拒絶もせぬ。出発までに決めよ」
黒ずくめ男達が去った後、シズ様は海を見ながら何か考え、それから草原へ振り返った。今まで走ってきた大陸を眺めた。ラファが眠《ねむ》り、シズ様のかつての故郷を抱《いだ》く大地だ。
やがてシズ様は、すっとその顔に微笑《ほほえ》みを作った。
「シズ様?」
「ああ。――決めた。多少の心配はあるが、海を渡ろう。いいか? 陸《りく》」
シズ様が言って、
「私の許可など必要ありません」
私はそう答えた。
「じゃあな、兄さん。またどこかで会おう。その時売りたい物があったら買うぞ」
商人達に別れを告げ、シズ様はバギーを走らせた。トラックと同じようにバックで砂浜から渡し板へ乗り上げ、格納庫の中に。山積みされた木箱の脇《わき》にバギーを止めた。
船内には、黒ずくめではない人達もいた。帽子《ぼうし》をかぶらず、あちこちに継《つ》ぎ接《は》ぎだらけの薄汚《うすよご》れた服を着た男達だった。彼らが支配階級ではない人達=\―つまりは一般の国民なのだろう。
彼らはシズ様と口を合わせることはなく、その船に乗っていた一人の黒ずくめの指示を受け、バギーに布をかけて、さらにロープで固定する作業を黙々とこなす。
「旅人。仕事は彼らに任せ、こちらに来られよ」
もう一人の黒ずくめの案内で、バッグと刀を持ったシズ様と私は格納庫から急なタラップを登る。その際シズ様が何かに気づき、格納庫をちらりと見下ろした。
「…………」
シズ様はすぐに前を向いて、黒ずくめの後に続く。私もちらりとそれを見たり山と積んである荷箱とは別に、触《さわ》られないように鋼鉄の檻《おり》に入れられていた木箱が幾つかあった。火気厳禁=A取り扱い厳重注意≠ニ札《ふだ》の貼《は》られたその木箱の中身の想像は簡単につく。弾丸や爆薬、手榴弾《しゅりゅうだん》の類《たぐい》に違いない。
シズ様が案内されたのは、輸送船の中の狭い一室だった。
安ホテルの部屋より狭い。あちらこちらペンキが剥《は》げて錆《さび》が浮いた鉄板の璧。天上にはパイプが走る。汚れた丸窓が一つにまるで荷架《たんか》のような二段ベッド、むき出しのトイレが一つ。
黒ずくめは、この船内ではずっとここにいるように、そしてそれほどかからずに国につくと言い残し、鍵《かぎ》をかけて去った。ただし武器は取り上げられなかった。
船のエンジン音が大きくなり、鈍《にぶ》い振動が伝わってくる。
輸送船は大きく後ろに傾き、後退を始めた。砂浜に乗り上げていた船首をひっぺがした後、大海原《おおうなばら》へと百八十度向きを変える。
「さて……、どうなることやら」
シズ様が丸窓を覗《のぞ》きながら、他人事《ひとごと》のようにつぶやいた。
定期的な振動と、微細な縦揺れ。輸送船は北西へと進んでいく。
シズ様はベッドに腰をかけ、立てた刀の鍔《つば》に手を置き、目を閉じじっとしていた。
黒ずくめの男がドアを開けたのは、太陽が四十五度傾いた頃だった。シズ様が瞼《まぶた》を開いた。
「旅人。国を見せる。荷を全部持ってついてこられよ」
私達は、再び黒ずくめに続く。部屋から細長い廊下に出て、突き当たりの急な階段を登り、輸送船の右舷《うげん》デッキに出た。
そこは大海原の直中《ただなか》で、水平線にかこまれ陸地など見えない。二|隻《せき》の僚船《りょうせん》が、ピタリと後ろに並んで進む。温い潮風が心地いい。
「すぐに見えてくるであろう」
黒ずくめが言って、船の進む先を一度指さした。
それは、まず黒い点として浮かび上がった。やがてこぶし大の固まりになった。
地平線の彼方《かなた》から、近づくにつれて国(つまりはそれを囲む城壁)がせり上がるように、そして迫って見えてくる様は、シズ様も私もバギーから何度も見てきたのだが、水平線の彼方からのそれは初めてだ。
「あれが我が祖国だ。入国後、我々の仲間に会わせる」
黒ずくめが言った時、輸送船の進む先には堂々たる国の姿があった。
他《ほか》の国と同じように、円形の城壁が高く取り囲んでいた。その色は、灰色というよりほとんど黒。
大きさは、比較するものがないので難しいが、直径で三キロメートル程度か。水平線の上の、細長い長方形。国の中央に塔《とう》のようなものが突き出て見える。体裁《ていさい》はよくある小型の国だ。
その国は、海に浮かんでいた。船の国≠ニいうのは本当の名前ではないはずだが、そう形容するよりは、浮島の国≠ニでも言うべきか。
「おもしろい。かつて見たことのない国だ」
シズ様が感想を漏《も》らした。
城壁の上で、灯《あか》りが何度か点滅する。発光信号だった。こちらからも返したのだろう、間が空《あ》いた後再び点滅。
やがて私達の乗った輸送船は、高い城壁の脇《わき》に空いた穴へと近づいていった。扉が上に開かれ、トンネルのようにすっぽりと空《あ》いた大きく黒い穴だ。
巨大な獣《けもの》の腹の中に入っていくように、輸送船は国に入っていく。
最後の輸送船が入り、扉が閉まる。
閉まりきって真っ暗になると、ようやく明かりが灯《とも》った。そこは細長いドックのようなところだった。鉄板と機械に囲まれた、排気ガスと油|臭《くさ》い場所だった。
私達の視点が下がっていく。水を抜いているな、とシズ様が言った。輸送船はやがて、ドックの底の鉄板に着底した。
バギーを動かすように言われ、シズ様と私はバギーに乗り、ドックへと走り降りた。先端にあったスロープを走り上《のぼ》り、案内された場所へと扉をくぐる。真っ暗な空間に出て、すぐに天井《てんじょう》の灯《あか》りがついていった。
そこはかなり広い、車なら百台は停められるであろう倉庫だった。隅に錆《さ》びた鉄クズなどが置いてある以外は何もない。もはや倉庫としては使っていない様子だった。
「どこにでも停めるがいい。下船の時にまた動かせ」
入り口に立つ黒ずくめにそう言われ、シズ様はバギーを鉄クズから離れた場所に停めた。バッテリーの端子《たんし》を外し、車体をロープで床に固定して、タープを運転席にかけた。
「また会えたら頼むよ」
小声でバギーにそう言い残して、シズ様はバッグを手に誰もいない倉庫を出た。私も続く。
五人ほどの黒ずくめと一緒に、私達は長い廊下を歩いた。前三人後ろ二人に挟《はさ》まれて、連行に近いものがあるが、相変わらず武器は取り上げられない。灰色の床や壁にダイオードが鈍《にぶ》く光る廊下は、交差もなく真《ま》っ直《す》ぐ国中心部に向かうようだ。
歩ききったところには大きなエレベーターがあり、全員が乗って昇る。場所からして中央にあった塔《とう》を昇っているに違いない。
だいぶ長く乗ったエレベーターを降りて、散弾が撃てるポンプ式のパースエイダーを持つ黒ずくめの守衛が守っていたドアを抜ける。そこには広く丸い部屋があった。
塔のほぼ最上階を占める、エレベーターホールを中心にした直径四十メートルほどの円形の部屋。三百六十度全部がガラス張りで、その向こうに広がる海と空からの蒼《あお》い光でとても明るかった。室内はやはりむき出しの鉄板とパイプに囲まれている。壁や天井《てんじょう》の張り紙や装飾のような物は、昔はあったのだろうが、今はない。
部屋には放射線状にイスが並べられ、十人の人間が見える範囲に座っていた。イスは回転するのだろう。今は皆、こちらを見ていた。
全員が黒ずくめで、体格から見て女性や子供もいた。見えない範囲にも人の気配がするので、この部屋全体では三十人以上はいるだろう。イスの数よりは少なく、空席が目立つ。貴族や王族によく見られる、飽食《ほうしょく》の限りを尽くしてぶくぶくに太った人が一人もいないことは少し不思議だった。
一つだけ、他《ほか》のより足が高く、肘掛《ひじか》けも厚いイスがあった。船長の席≠セろう。座っているのはやや小柄な黒ずくめで、雰囲気は老人のそれだった。
部屋に入った私達はすぐに、その席の前に案内された。シズ様がイスに座り、私もその隣の床に座る。
「旅人。よく来られた。ひとまずは我の話を聞け」
船長≠ェ言った。あまり力のない、老人の声だった。
日が傾き光の色がオレンジへと変わるまで続いた、自慢《じまん》と過剰な修飾語だらけで長ったらしい船長≠フ話を要約する。
この国の歴史の源は不明。気がついたらここで暮らしていた≠轤オい。記録が残っているだけでも、六百年は経《た》っている。
彼ら指導者は自称『塔《とう》の一族』という何のひねりも面白《おもしろ》みもない名前で、王族≠ニしてこの国を長年に亘《わた》り支配してきた。住むのは王城≠スるこの塔。国の全権を握り、輸送船を使って陸地と貿易している。
被支配階級である一般国民は塔以外の、いわゆる平地に住む。やはり血縁関係を重視して、住む区画でいくつかの部族に別れているらしい。
現在の人口は、黒ずくめが五十人ほど。それ以外が合計三千人ほど。私は国の大きさにしては少ないと感じたが、やはり年々じわじわと減っているとのことだ。
国は大洋を、海流に乗って季節ごとに移動している。一応簡単な推進装置はあるらしいが、座礁《ざしょう》などの危険が迫らない限りは使わない。
伝統として海を渡る旅人は歓迎し、かつ仕事を与える。仕事は一族の指揮下で国の治安維持などにあたる、いわば警察か用心棒になれとのことだった。
塔での眺めのよい部屋と、皆と同じ食事を約束するとのことで、腕のたつ旅人がこれをしてくれると彼らは仕事が減って助かると言ったが、
「必要なら民衆共を多少痛めつけても構わぬ。最近嘆願《たんがん》≠ニいう名の要求が、どうにも図に乗っておるからな」
ならばそう言わない方がよかった。少なくともシズ様には。
ようやく発言の機会を与えられ、シズ様は開口一番、民衆との生活と肉体労働、同じ生活を希望した。
驚いている彼らに、シズ様は丁寧《ていねい》に言う。
「私のような下賎《げせん》の者には、そちらの方が似合っております」
シズ様、それはひょっとして冗談《じょうだん》で言っていますか?
彼らにその面白さは伝わらず、まあ当人がそう言うのならと、シズ様の要求を受け入れた。
黒ずくめに案内されて、私達は塔《とう》の一階へと降りた。
エレベーターホールにあるとても重そうなドアをくぐり、薄暗い廊下を二十メートルほど歩く。
廊下の突き当たりにあったドアを横に開けると、遠くには夕日を隠す城壁の内側が見えて、その手前に国の風景が広がる。
ここが普通の国だったのなら、道路や建物、時に公園の緑などが見えたのだろう。そしてここは普通の国ではなく、今私達の視界を占めるのは、黒い金属が作る複雑|怪奇《かいき》なパズルだった。
何を作っているのか分からない工場のむき出し、とでも形容すべきか、がらくた置き場と呼ぶべきか。鉄骨や鉄製の渡し板、大小のパイプが無数に走りながらごちゃごちゃと広がっている。家のようなものは見えない。
「民衆共は下層に住んでいるのだ」
黒ずくめが言って、なるほど、とシズ様が頷《うなず》く。
今見えているのは、昔の機械や構造物の名残だろう。かつては上部構造物があったはずで、建物がちゃんと建っていたのだろう。なくなった今は太陽が容赦《ようしゃ》なく照りつける甲板《かんぱん》になってしまっているので、人間はその下で生きている。
「手形だ。これを持っていれば、どんな愚鈍《ぐどん》な民衆共にも旅人であり我らの客人であることは分かるであろう。好きなところで好きに住むがよい。気が変わったらいつでも来られよ 西の大陸に近づく頃に呼ぶ」
黒ずくめはそう言って、手帳ほどの金属の板をシズ様に渡した後、扉をくぐって塔に戻っていった。
「……さて」
シズ様は金属の板をジーンズのポケットにしまい、バッグを手に歩き出す。一応は人が歩けるらしい鉄の渡し板を、たまたま目の前だった西の方角へ、夕日の方角に歩き出した。
「おもしろいな」
歩きながらシズ様が言って、私もすぐにそれに気づいた。
足下にあるシズ様の影の位置が、真《ま》っ直《す》ぐな鉄板なのに横にゆっくりとずれていく。揺れは感じないが、国全体が動いている証拠だった。
鉄板の上をしばらく歩くと、下へ降りる階段があった。
「旅の者だが、西の大陸に渡るために入国した。あなた方との生活と仕事を希望したので、どうか住む場所と仕事を与えていただきたい」
シズ様は、一般民衆にかなりの驚きを持って迎えられることになった、
今私達がいるのは、甲板《かんぱん》の下、彼らの居住地域だった。
甲板の下は多層構造の居住空間になっていた。やはり鉄の板やパイプや壁に囲まれ複雑に入り組んでいる上に、細い廊下はどこも狭く細く幾重《いくえ》にも折れ曲がり、秩序ない階段が中間階層をいくつも造り出している。
貧困の多い国に訪れると、よく裏路地のスラムを見かけるが、ここはそれ以上の混沌《こんとん》だ。金属でできた洞窟《どうくつ》のようでもあった。
金属の色は甲板《かんぱん》と同じく黒一色。どこにも錆《さび》が見つからないのは、特殊な塗料なのだろう。白くぼうっと光る灯《あか》りが、ところどころに張りつけられていた。
そんな中で、輸送船で見たように継《つ》ぎ接《は》ぎだらけの服を着た人々が暮らしていた。人口密度が高い感じはしない。シズ様と出会った人達が、一族の長老に会ってくれと、私達を奥へと導いた。
廊下を右に計三十四回、左に計二十九回曲がり、階段を計六と半分階上下して、私達を珍しそうに見る人達――普通に大人《おとな》や女性や子供もいる――の前を通り過ぎ、ようやく私達は長老の住む部屋≠ノ案内された。彼らの生活においては、家≠ニいう言葉は使われていないようだった。
その長老の部屋は、恐らくこのあたりで一番広いのであろう。それでもやはり狭《せま》く、長老とシズ様と私、その他《ほか》四人ほどが入り込むと一杯だった。入れなかった人達が、入り口から頭を覗《のぞ》かせる。土地は(と言っていいのかは分からないが広さは)あまっているはずなのに部屋がこれほどまでに狭いのは、生活空間の構造が鉄骨やらパイプやらで簡単に広げられないからなのだろう。
「やあ、よく来られた」
気さくに話す白い髭《ひげ》と白い髪の長老は、八十|歳《さい》ほどに見えた。自己紹介で、この部族の最年長でありもう五十五年も生きていると言われて、シズ様も私もかなり驚いた。表情には出さなかったが。
長老は客人を歓迎すると言い、仕事などしないでいいからいつまでもいてくださいと、状況が分かっているのかいないのかよく分からない発言をした。
シズ様は十五日ほどお世話になりたいと言い、寝るところと食べ物の分の労働を買って出た。
議論になるかと思ったが、間もなく夜になり、すると彼らの一日は終わり電気を消すので、話は明日ということになった。彼らの食事も終わっていたので、私達も携帯《けいたい》食料でお茶を濁《にご》すことにして、客用の部屋に案内された。案内したのは長老の命《めい》を受けた男で、私には五十代に見えるが実際は三十五|歳《さい》とのことだ。
「とても快適です。長老に感謝するとお伝えください」
そう言ったシズ様の部屋は、広さは輸送船のそれよりはマシだった。部屋を囲む鉄と担架《たんか》のような二段ベッドは相変わらずだったが、こっちには毛布が一枚ずつあった。トイレと水道とシャワーは共同で、部屋を出た廊下の突き当たりにあった。
水を管理するシステムは合理的というか簡単というか、大きな鉄製の水タンクが天井脇《てんじょうわき》にぶら下がっていて、そこから流れ出るだけだ。水は雨水を溜《た》めて簡単に濾過《ろか》したものだったが、飲めないことはない。
それほど経《た》たずに灯《あか》りが消えると、部屋は本当に真っ暗になった。洞窟《どうくつ》の中のような、容赦《ようしゃ》のない暗闇《くらやみ》だ。近くの部屋には誰もいないのか、何一つ音もしない。
「これは参ったな……」
バッグの中から携帯《けいたい》食料を取り出そうとしていたシズ様は、仕方なく小さなライトを取り出した。ほんの少し使って、すぐに消す。
決して美味《おい》しくないが栄養のバランスは取れている携帯食料をもそもそと食べた後、シズ様と私が暗闇のなか小声で会話を交わす。別に小声でなくても誰にも聞こえないだろうが。
「ここまでは上出来だ。静かで悪くない部屋だ」
「春でよかったですね、シズ様。これは、夏や冬、暑い地方や寒い地方を漂流《ひゅうりゅう》中はさぞかしきついでしょう」
「だろうな……。過酷《かこく》な生活だ。もっとも彼らには、それが当たり前なのだろうが」
「十五日の貴重な経験になりますね」
「長いのか短いのか分からない。――今日はもう寝るよ。お休み、陸」
「お休みなさい、シズ様」
一日目が終わった。
二日目の朝。
想像していたとおり、国の人達の朝は早かった。シズ様も私も、いつもの習慣で夜明けの時間には起きていたが、それほど経たずに部屋や廊下の灯りがつき、ドアがノックされた。
朝食を配っているとのことで、昨夜の男の案内でそちらへ向かう。相変わらず道は複雑で、漫然《まんぜん》と歩くとすぐに迷子《まいご》になれそうだ。シズ様はいつもの緑色のセーター姿だったが、人が多く熱がこもる通りでは少し暑そうだった。
刀を毎日持ち歩くわけにはいかないので、シズ様はバッグの中にしまってきた。黒ずくめ以外は誰もパースエイダーを持っていないので、とりあえずは必要ない。
たどり着いたのは、よくある学校の体育館ほどの広間。明るかったのは、天井《てんじょう》の配管の隙間《すきま》から夜明けの空が見えるからだった。雨が降っていない日は、甲板《かんぱん》の鉄板をずらしているとのことだった。
どこからこんなに出てきたのかと思うほど、広間に人が集まってきた。広間の脇《わき》で湯気《ゆげ》が上がっている部屋が厨房《ちゅうぼう》だろう。人々はそこに並び、朝食の皿とフォークを受け取り広間の鉄板の上に座り食べる。薄手のクッションがあるだけで、テーブルなどはない。子供の仕事なのか、カップとやかんを持った数人がお茶を配っている。
広間に入ったシズ様は、そこにいる全員の注目をひとしきり浴びた後、広間の端にいた長老に呼ばれた。彼とその取り巻きが座っている場所へと、座って食べている人達にぶつからないように注意して歩く。
シズ様は長老の前に座り、朝の挨拶《あいさつ》を交わした。そして長老は、広間にいる人々にシズ様と私を紹介した。人々から、丁寧《ていねい》な挨拶の言葉が返ってきた。
シズ様と私のために、朝食の皿とカップが持ってこられた。並ばずに済んだが、シズ様は明日からは並ぶと言うだろう。
「お口に合うといいのですが」
皿に載《の》っていたのは、魚だった。蒸しあがった魚がまるまる一匹。塩が振られている。
特別好き嫌いのないシズ様は、美味《おい》しいと言って食べる。私も食べて、なかなか美味しかったのだが、朝食はこれだけだった。
長老の話では、ほとんど全《すべ》ての食事が魚で、大抵は恭し魚か煮魚か焼き魚、時折大きな魚を新鮮なうちに生《なま》で食べるとのことだった。他《ほか》には海草や貝、まれに捕れる海獣の類《たぐい》らしい。
「…………」
シズ様は何か言いかけて、そして言わなかった。
食事後、話が仕事のことに移る。つまりは昨夜の続きだったが、結局シズ様が頼み込み、寝床と食べ物の分は肉体仕事をするということになった。
「今までこの国を渡し≠ノ使った旅人は、皆|塔《とう》の一族の手下となって我々を厳しく監督する仕事ばかりを選んだというのに……。シズ殿《どの》はほんにお優しいお方だ」
長老が言って、まわりの人間が賛同する。シズ様をとてもいい人だと口々に誉めてくれたが、これは十五日も何もせずに狭《せま》い場所にいると暇な上に、シズ様の体が鈍ってしまうからでもあるのだ。私は黙っていた。
「それではシズ殿に、案内の者をご紹介します。滞在中その者にいろいろお聞きください」
長老がそう言って、ティー≠呼べと命じる。
しばらく経《た》って人混みの中から出てきたのは、一人の女の子だった。
見たところ歳《とし》は十三|歳《さい》くらいか。まさか昨夜のように実は四歳です≠ニいうことはなかろう。身長もそのくらいだが、髪の毛は女の子にしては短めで、そして白い――それこそ雪のように真っ白だった。この国の住人は大抵が茶色か黒髪で、白髪《しらが》だらけの長老を除けば他《ほか》にそんな人はない。実は八十歳です≠ニか言い出すのだろうか?
両の瞳の色は、透明感のあるエメラルドグリーンだった。これも他の人には今のところ見られない。しかしその表情は固く、無表橋というより仏頂面《ぶっちょうづら》だった。少女らしい純粋さは、まるで感じられない。
服装は他の住人と同じく継《つ》ぎ接《は》ぎだらけ、彼女の場合は棒のように細い足が目立つ灰色のショートパンツに、その色なのか汚《よご》れているのか分からないが茶色で長|袖《そで》の丸首シャツ。背中には大きなポケットがついていて、狭《せま》い場所でぶつけて痛めないためか、肘《ひじ》にはパッドが、膝《ひざ》には厚いクッションを布で巻く。靴下なしでゴム製の靴《くつ》を履《は》いていた。
少女は長老に軽く頭を垂れて、その脇《わき》に立った。
「シズ殿《どの》、こちらは案内人のティファナです。ティーとお呼びください」
シズ様にそう言って、今度はティーに向かい、
「こちらが旅人で客人のシズ殿だ。滞在中の案内を頼む」
ティーが小さく頷《うなず》いて、そしてシズ様を睨《にら》む。
ひょっとしたら彼女なりに普通に見ているだけなのかもしれないが、その仏頂面《ぶっちょうづら》と尖《とが》った視線は、睨んでいるようにしか見えない。
「よろしく、ティー」
シズ様が言って、
「………」
ティーは何も答えなかった。ただ睨んで、もしくは見ていた。
数秒の無言時間が過ぎて、長老が焦《あせ》って割って入る。
「いやあご覧のとおり、滅多《めった》に喋《しゃべ》らない無口な娘《むすめ》ですが、どうかよろしく」
私は、滅多に喋らないほど無口なのに案内人にする理由がとても知りたかったが、シズ様は特に気にせずに、
「分かりました」
そう言って頷《うなず》いた。
シズ様と私は、一度部屋に戻った。案内人のティーが無言でついてきた。シズ様は何度か挨拶《あいさつ》程度に話しかけたのだが、
「…………」
返事はいつもこれだ。
シズ様はどうか分からないが、私は彼女が何を考えているのか分からずに困る。一応ティーも、肯定の返事の時は頷くし、否定では首を振るようだが。
試しに私が話しかけても、
「…………」
ティーは私を見下ろしただけで何も言わない。その緑色の目の中には、何も感情がこもっていないようにすら思える。まあ、この犬笑ってる可愛《かわい》い!≠ニいきなり抱《だ》きつかれて撫《な》で回されるよりはいい。
部屋でシズ様はセーターを脱いで、Tシャツ姿に。そしてその上から、緑色のパーカーを羽織《はお》って、前はボタンだけとめた。
「さて、これからどうすればいい?」
シズ様がティーに聞いて、
「…………」
これでは何も分からない。
しかしシズ様は特別気分を害した様子もなく、
「何か仕事があればそこに連れていってほしい。今なければ、この付近をできる範囲で案内してほしい」
そう言うと、ティーは歩き出した。シズ様が訊《たず》ねる。
「ついていけばいいんだね?」
ティーの頭が縦《たて》に振られた。
ティーの先導で、私達はこの部族の生活場所を見て回る。
多くの住人が密集して住んでいる、部屋がたくさん並んだ一角があった。シズ様の部屋は、やはり離れの客人用らしい。
生活で最も重要な、魚を捕るための施設は階段をいくつも下がったところで、巨大なプールのような水面があった。それは切り取られた海だった。そこに綱を流したり、釣《つ》り糸を垂れたりして魚を捕獲する。魚は、余裕《よゆう》があれば近くの生け簀《す》で飼《か》うらしい。こういった場所はいくつかあるとのことだ。
エネルギーを管理する部屋もあった。この国の中心部、塔《とう》の下には指導者連中が仕切る動力|炉《ろ》があり、そこから電気や、お湯の形で熱が供給される。それを管理する部屋があり、部族の代表がそこで働いていた。黒ずくめもパースエイダーを持ってたまに訪れ、無駄《むだ》がないか観察していくとのことだ。
その他《ほか》に、学校の役目を果たすのか子供達にものを教える部屋や、ルールはよく分からないが球技のようなスポーツができる部屋、病院のつもりなのだろうか、気分が悪くなった人を受け入れる部屋などがあった。
「なるほど。人々が逞《たくま》しく生きていることがとてもよく分かった。――だいたい以上で案内は終わりかな?」
シズ様がティーに聞いた。
「…………」
返事はこれだ。
ちなみに説明のために発言したのは全《すべ》てそこにいた人達で、ティーは無言で待ち、説明が終わると次の場所へと歩き出しただけだった。彼らも分かっているのか、誰もティーには話しかけない。それどころか、彼女とは関わり合いになりたくない様子だった
「…………」
ティーは無言で、再び歩き出した。ついていくと広間に出て、既に昼食を配っていた
こんがりと焼けた焼き魚を皿に入れて、シズ様が座る。ティーもまた、ぺたんと隣に座った。黙ったまま黙々と食べる。
「案内、ありがとう」
シズ様が礼を言った時だけ、ティーはフォークの手を止めた。顔を上げてシズ様を睨《にら》んで、
「…………」
何も言わずに食事に戻る。
「午後は、どこかを見たり、仕事があったりするのかい?」
食事後そうシズ様が開いて、ティーが無言で首を横に振る。
「とりあえずは、のんびりできる時間ということでいいのかな?」
今度は頷《うなず》く。シズ様はティーとのコミュニケーションが上手《じょうず》だった。
シズ様は、行ってはいけない場所ややってはいけないことを訊《たず》ねた。いろいろな質問をして、肯定か否定で答えをもらう。絶対に誰か他の人をつかまえて聞いた方が早かっただろうが、私がそれを提案すると、
「どうせ暇《ひま》だから構わないよ」
そう言ってシズ様は続けた。
食堂に誰もいなくなるまで話し合った(?)結果分かったことだが、この国には今お世話になっている部族を含め四つが存在し、それぞれがだいたい四分の一ずつの領土(地下)で暮らしているので、許可なく他族の住む場所に立ち入らない方がいいらしい。部族長会議のような時以外は、徹底的な相互不干渉が取り決めとのことだった。要は仲が悪いらしいが、極々《ごくごく》まれに部族を交えての縁談《えんだん》などもあるらしい。
シズ様はティーについても聞いたが、最初の、
「ご両親は?」
の時点で彼女が首を横に振って、それ以上は止《や》めた。
シズ様はティーに、案内はいいから部屋に戻ってもいいと言ったが、ティーは帰らなかった。シズ様の部屋に押し掛け、
「…………」
イスに座り、何も言わず睨み続ける。案内人は監視役も兼ねているのかと思えたが、当の本人は何も言わない。
シズ様も黙ったまま、刀の手入れや荷物の整理などを行った。その後、シズ様はシャワーを使いに行く。ティーがどこまでもついていこうとして、私が見張っていた。
やがて夕食に呼ばれ、また魚を食べる。部屋に戻り消灯時刻近くになると、
「…………」
ティーは何も言わずに、シズ様の部屋から出ていった。
この国の二日目が終わった。
「これは……、思ったより退屈するかもしれないな」
シズ様が何気なく言った。そしてそれは正解だった。
三日目と四日目。シズ様にはほとんど何もすることがなかった。仕事を申し出てもいい返事はもらえない。今は大陸に沿って北上中で、この時期に魚はほとんど捕れないらしい。
狭い生活エリアではよそ者ができることも少ない。住人達の愛想《あいそ》はいいが、特別シズ様と深く関わったり、毎日の自分の仕事を譲《ゆず》ったり、積極的に旅の話を聞きたいという人はいない。
二日間、私達は食事以外何もすることはなく、
「…………」
白毛の無言少女ティーと一緒に、部屋と食堂広間を往復するだけの生活を送った。時折シズ様は、
「このままでは鈍《なま》る」
そう言って天井《てんじょう》のパイプにぶら下がっての懸垂《けんすい》や、狭《せま》い場所で刀を振る運動をした。
「…………」
ティーが黙ったまま見ていた。
五日目の朝、朝食を取っていた広間に黒ずくめ達からのくぐもった声が届く。どこにあるのかは分からないが、スピーカーだろう。
『それぞれの部族から男三人を出すのだ。一日使う。前に行かなかったやつとする』
それだけだ。長老がすぐに名前を呼んで、三人を選んだ。
だいたい想像はついたが、果たしてそれは輸送船での労働の命令だった。この大陸と最後の貿易をする。ほぼ予定どおりにこの国は動いているようだった。
息抜き兼|暇《ひま》つぶし兼運動としてシズ様が立候補して、残念ながら無理ですと断られた。
「今日も暇だな」
シズ様がぼやいた。
「…………」
そしてティーは何も言わない。
この日の夕食時、仕事に出た男達からの伝聞《でんぶん》で、大陸から一人の旅人が入国したことを知った。
シズ様と同じように西の大陸へ渡ろうとしているその旅人は、普段どおり黒ずくめ連中の手下役を引き受け、眺めのいい一等船室≠ノ収まったとのことだ。そのうち威張《いば》りくさるために来るかもしれない、理不尽《りふじん》な暴力の対象になるかもしれないと、人々の間に心配の念が広がった。
「普通はそっちを選ぶか」
シズ様はそう言ったが、ご自身の判断を悔やんでいるようには見えない。その旅人がこの部族を痛めつけてやろうと来たら、具合よくシズ様の暇つぶしと運動になるのだが。
「人の選択はそれぞれだ」
シズ様が言った。
「…………」
そしてティーは何も言わない。彼女の空気としての存在が板についてきた。私もシズ様も、特別注意を払わなくなった。
夜。
消灯前の部屋で、私がベッドの上に横たわるシズ様に言う。
「向こうの仕事の方が、退屈しなかった可能性はありましたね」
「そうだな。でも、嫌《いや》な仕事は嫌だ。それにどっちも退屈だったかもしれない」
「そうですか。後十日の辛抱《しんぼう》ですね」
「それまでおとなしくしているさ。今日来た旅人とは、なるべく会わないようにしよう」
シズ様がさて、と言って会話を打ち切った。
そろそろ明かりが消える。そして五日目も平穏に終わる。
「お休み、陸《りく》」
「お休みなさい、シズ様」
「…………」
なぜティーがいる?
直後に灯《あか》りが消えてしまったので、シズ様は自分のライトをつけた。まるで部屋の備品のように、ティーはちょこんとイスに腰掛けていた。そういえば、部屋を出て行くところを確認していなかった。
もしティーが暗殺者か何かなら、私もシズ様も今頃はあの世の住人だっただろう。
「まいったな……。まいった」
シズ様はそうつぶやき、そしてティーに一人で帰れるのかと聞いた。ティーが首を横に振った。
「…………」
シズ様がしばし考え、
「…………」
ティーは何ごともなかったかのように睨《にら》む。
やがてシズ様は、ふっと笑顔で息を吐《は》いて、
「上と下、どっちがいい?」
ティーは二段ベッドの上をすっと指さして、立ち上がると脇《わき》のはしごを登った。そのまますとんと横になり、毛布《もうふ》を被《かぶ》り寝息を立て始める。
「やれやれだ。寝るよ。陸《りく》、後はよろしく」
シズ様がそう言って、ライトを消してベッドに横たわる。何ごともなかったかのように、眠《ねむ》りについた。
私はティーが何かしでかさないかと眠りながら見張っていたが、ベッドの上から降りる気配すらないまま、妙な一晩が過ぎた。
入国して六日目。
ティーと共に煮魚の朝食を取っていたシズ様が、前日までとの違いに気づいた。
「……揺れが、出てきたな」
今までは、揺れなどまるでなかった。この国が海に浮いていることなど一切感じさせない、大地に足をついて生活しているようだった。
今日は違う。周期が緩《ゆる》やかな、ゆったりと大きな揺れが感じられた。お皿の中の煮汁が動くのが見える。こういったものは一度気づいてしまうと、とても気になるものだ。
シズ様が、
「これは、この大きな揺れは、普段どおりですか?」
一番近くで食事をしていた中年の(そう見える)女性に聞いた。
女性は話しかけられたことに驚いたが、ちゃんと答えてくれる。質問の答えは、
「これくらいは何でもありませんわ。旅人さんは驚かれるでしょうけど、ご安心を」
「そうですか。ありがとうございます」
そう言ってシズ様は引き下がる。住人があっさりとしている以上、特別緊急事態というわけではないだろうと、私とシズ様の意見は一致した。
食事後、シズ様はまるで失業者のように、何かできる仕事はないかと聞いてまわったが、返事はつれなかった。男達が集まって出ていったのを見ると、網を引いて魚を捕る仕事はあるはずなのだが。
「皿洗いくらいはできるけどな」
そうぼやきながら、シズ様は自分の部屋に戻る。私は何も言わずついていき、後ろからティーもまた何も言わずについてきた。
ベッドに座り、シズ様の退屈な時間が始まろうかとしたその時――
猛烈《もうれつ》に嫌《いや》な音がした。
「何だ?」
シズ様が顔を上げる。それは鈍《にぶ》い悲鳴に似た、とても耳につく嫌な音だった。ガー≠ニギー≠ェ混ざり合った、何か金属、それも重い物が激しく擦《こす》られる音だ。どこか一方からというより、部屋のまわり中から、遠くから囲むように大きく響く。立て続けに二回聞こえ、数秒おいてもう一回。
「収まったな」
シズ様が言って、すぐにティーの顔を見た。彼女の整った顔は、普段と何も変わらない。
「よくあるんだね?」
この音に驚いていないのは確かだった。シズ様の質問にも、首を縦《たて》に振る。
「昨日までは一切なかった。今日から海流に乗って移動している。そうだったよな?」
ティーの首肯《しゅこう》。
「では、その場合は、よくあるんだな?」
再びのティーの首肯。そしてシズ様は眉根《まゆね》[#「眉根」は底本では「眉値」と誤植]を寄せ、明らかに何か心配している顔を作った。
「シズ様?」
「陸《りく》。さっきの音、似たようなのを前に一度聞いたことがある」
私が少し驚いて、どこでですか? と訊《たす》ねる。
「ある国での話だ。攻撃で破損した古いビルの中で、音量は小さかったが似た音が聞こえて、何かと思っていたら全員外に出ろと叫ばれて外に出た」
「それで、どうなりました?」
「全員がビルから駆《か》け出た後――」
シズ様と私は、ティーの後を歩いていた。
歩くといっても、鉄板やパイプやらが複雑に入り組んだ、とても生活の場としては使えないところばかりを、両手足を駆使《くし》して登ったり下りたりくぐり抜けたり――進んでいた≠フ方が正解か。
ティーは、小さな体と地の利でひょいひょい進んでいくが。時折私の足では届かず、申し訳ないがシズ様に押し上げてもらった。
そして、
「またか……」
シズ様が素早く察知して言った。あの音が再び聞こえた。
またもや、どこから聞こえてきているのかまったく分からない。つまりどこからも聞こえる。まるでスピーカーが三百六十度囲むように置いてあるようだ。
シズ様が近くにある鉄パイプに顔を近づけ、手を触れる。
「やはり」
言わんとすることは分かった。それが細かく振動しているのだろう。
先ほどシズ様は、部屋でこう言った。
「全員がビルから駆け出た後、そのビルは崩落《ほうらく》したよ。何十階もあるビルが全壊《ぜんかい》だ。あの悲鳴に似た音は、鉄骨が軋《きし》んで擦《こす》れて出す音だったんだ。外に出ろ≠ニ叫んだ男は元建築技師で、それを知っていた。火災で炙《あぶ》られた鉄骨が弱くなっていたんだ。だから、ここも、とても――、嫌《いや》な感じだ」
そして、
「ティー。このあたりで、構造物が潰《つぶ》れていたり壊《こわ》れていたりしているところはあるかい? あったら案内してほしい」
「…………」
ティーはしばらくシズ様を睨《にら》み、何か考えていた。数秒後、小さく頷《うなず》いて私達の先導をはじめた。そうして私達は部屋を出て、道なき道を進んでいた。
私達は、しばらく無人の区画を抜けていった。あまりに複雑な行程だったので、もう東西南北の感覚が掴《つか》めない。ティーがいなければ、私でも迷子《まいご》になるだろう。
やがてたどり着いたところは、廃墟《はいきょ》の入り口だった。
先ほどまでの場所ではまだ人が通れたのに比べ、今目の前に広がるここはもうめちゃくちゃだ。食堂広間と似たような空間の先に、押し潰された残骸《ざんがい》の山が広がっている。鼠《ねずみ》くらいしか入れそうもないその空間の中で、ダイオード灯《とう》のいくつかが、執念《しゅうねん》を見せるように薄く不気味に光っている。
「やはり……。しかしここは、崩《くず》れてからかなり経《た》つな」
シズ様が、広間に向けて階段を下りようと、手すりを掴《つか》んだ。広間を抜けて残骸《ざんがい》を近くで見ようとしたのだろう。しかし、
「――ん?」
ティーがシズ様のパーカーの裾《すそ》を握りしめた。
「…………」
シズ様が驚き顔でティーに振り返る。ティーは裾を握ったまま、シズ様を見上げ、首を横に振った。
「――行かない方が、いいんだね?」
「…………」
無言の頷《うなず》き。
「分かった。ありがとう」
シズ様は手すりから手を離した。ティーもまた、手を離した。
「この国は、いいや、この船≠ヘどういう構造なんだろう。分かるか? 陸《りく》」
私は首を振った。浮いている以上は船なのだろうが、それ以上は分からない。シズ様は、今度はティーを頼る。シズ様は、そんなことが少しでも分かるところはないかと訊《たす》ねた。
「…………」
ティーは少し考えていた。シズ様が続ける。
「なんでもいいんだ。例えば、古い設計図のようなものは残っていないだろうが、歴史を記した書物か何か、記念|碑《ひ》のようなもの――」
ティーがこくんと頷いた。
そして先導する。今度の行程で、私達は一度外に出ることになった。きつい階段を上がると甲板《かんぱん》だった。そこには空があった。
数日ぶりに見る空は、
「…………」
鉛《なまり》色の低い雲が猛烈《もうれつ》な勢いで流れる悪天だった。太陽はまったく見えない。今にも大粒の雨が降り出しそうだ。
強風が吹いて、城壁内側のここにも巻き込む。猛烈な風音。中で聞いたのが巨大生物の悲鳴だとしたら、こちらは吐《は》き出す息か。ティーの白い髪が揺れ、シズ様のパーカーの裾《すそ》がはためいた。
「空がこれでは、海は相当しけているだろうな。しかも外洋だ」
シズ様が言って、私が同意する。城壁の向こう側には、十メートルを超えるうねりがぶつかっているのだろう。
「この程度の揺れで済んでいるのは、この国の大きさならではでしょう」
確かに、とシズ様が言った。ティーに目的地は近いかと訊《たず》ねて、頷《うなず》いて歩き出したティーの後を追った。
ティーは、鉄板から鉄板へと渡り歩く。進む先に見えるのは、細く高くそびえ立つ塔《とう》。
その威圧感はかなりのもので、時折その背後にある雲が鈍《にぶ》く光る。高いところで雷が舞っているのだろう。
このまま塔まで行くのかと思ったが、ティーは身を翻《ひるがえ》して、そこにあった階段を下りていった。シズ様と私が続いて、再び構造体の中へ。
「何だ……」
すぐに、シズ様が絶句して立ち止まった。今歩いている鉄板の下、甲板《かんぱん》からは少ししか下りていないはずなのだが、そこに見えるのは水面だった。本来なら今の生活空間として使えているはずの場所に、たっぷりと海水が入っていた。
「浸水しているのか……。そうだね? ティー」
肯定の返事の後、ティーは歩く。
「こんな場所がもし多かったら……」
そうつぶやいたシズ様の背中に、私は訊ねる。
「沈没の可能性が?」
「まだ分からないが……」
やがて浸水区画を過ぎ、ティーは一つのドアの前で立ち止まった。そして、
「…………」
無言でそれを指さした。
「この中、だね?」
ティーが頷いて、シズ様はドアに手をかけた。引き戸を、ゆっくりと開けていく。軋《きし》んでいるのか、天井《てんじょう》を擦《こす》りながら、ようやく人が入れるほど開いた。中を覗《のぞ》こうとして、シズ様は一応ティーに安全なのか確認を取った。
そうして入ったところは、十メートル四方ほどの広い部屋だった。もしこのあたりに人が住んでいたら、族長はここを自分の部屋に選んだだろう。天井の灯《あか》りも、等間隔《とうかんかく》に並べられて全部がきれいについていた。
ティーが指さした壁に、それはあった。教室にある黒板ほどの大きさの、鉄の板だった。黒ではなく濃紺《のうこん》のそこに、薄くなっているが白い精密な線が書いてあるのが見える。
「これは、この国の構造図だ。昔の」
シズ様がそう言って、ティーに礼を言った。
私も、じっくりとその鉄板を見る。そこには、斜め上から見た国の図、その右に真横から見た断面図、そして、基礎部分の構造が分かる構造図があった。
斜め上から見た図は、在りし日の風景だ。丸い城壁の中は、中央の塔《とう》を背にビルが囲み、そこから放射線状に太い道路が延び、中央区を取り囲むように公園のような空間があり、そして居住用の集合住宅が並んでいた。
それらは典型的な計画国家の体裁《ていさい》だった。確かに昔は、いや大昔は、甲板《かんぱん》の上に大地と建物がたくさんあったのだ。中央の塔が、今よりはるかに低く見えた。
真横から見た断面図は、国の直径の輪切りだ。甲板より上は左にある図と同じく集合住宅やビルだが、甲板より下が興味深い。
「こんなに薄いのか」
シズ様が驚きの声を出した。どうやら私と同じところを見ているらしい。
断面図の甲板の下は、本当に薄かった。私は先ほどまで、氷山のように水面下の部分がとても多いのではないかと想像していたが、まったくその逆だった。この国は、丸く薄い板の上に載《の》っていたのだ。とても薄い船底≠セった。
構造図で、船底≠ヘ薄い板を短い支えだけで張り合わせているだけの、ぺちゃんこの箱であると分かる。その上に薄く載った、かつての大地までの空間が、今のこの国の居住空間だ。恐らくは整備用の通路や、水道や電気の通り道だったのだろう。
ひとしきり構造図を見た後、シズ様はティーをその前に立たせ、
「私の部屋の場所は分かるかい?」
ティーは、今の状況とまったく違う図の、とある一点をすぐに指さした。
「ありがとう。さすがだね。そして今私達がいるところは?」
再び指示。ティーが指さしたそこはだいぶ塔《とう》に近く、全体の四分の一以上私達の部屋から離れているので他部族のテリトリーかもしれない。それはあまり歓迎すべきことではない。
「じゃあ――」
シズ様が、慎重《しんちょう》に言う。
「先ほどのような、立ち入れない場所=A水没している場所≠ェあったら、知っている限りでいいから、順に指さしてほしい。できるね?」
「…………」
ティーがコクリと頷《うなず》いた。そして、人差し指が伸びた右腕が、ゆっくりと上がっていく。
「…………」「…………」
黙っていたのはティーではなく、私とシズ様だった。
ティーは危険個所をすっと指さし、三秒ほど指を止めて、次へと動かす。そしてまた次へ。
ティーが指さした箇所は、私が数え間違えてなければ百四十三カ所。国全体にまんべんなくあった。ティーの行動に嘘《うそ》や演出がないとしたら、彼女の記憶力は常人のそれとは桁外《けたはす》れに優れている。指し示していく長い時間の中、あの音が三回聞こえた。
指示を終え、
「…………」
右腕をおろし、ティーが振り向いた。
「あ、ああ……。ありがとう」
シズ様がひとまず礼をした。ティーに休んでいていいよと言い、そして構造図を睨《にら》む。睨んだまま私に聞く。
「どう思う? 陸《りく》」
「同じ考えです。この国は、というよりこの船≠ヘ、六百年間まったく整備されることなく動いているのでしょう。ですから――」
「こんな綻《ほころ》びだらけの様子ではこの先長くはない……。やがてどこかから崩壊する」
「そう推論できます」
私はそう言った後、余計かもしれないがつけ足す。
「むろんあと十日で沈むとは思いませんが」
「私も思わない」
シズ様がすぐに答えた。
「思わないが……」
そうつぶやいたシズ様を、
「…………」
脇《わき》からティーが無言で見上げる。
シズ様は持ってきていた紙に、床を机がわりにして、構造図をできる限り丁寧《ていねい》に描《か》き写しはじめた。シズ様は絵が上手《じょうず》だ。ほとんど同じように写し取った後、ティーと一緒に破損個所に×印をつけて、地図を完成させた。
シズ様はティーに字を書くのか聞いたが、ティーは首を横に振った。まったく書けないのか書きたくないのかは分からない。シズ様は聞かなかった。
もう昼食の時間だったが、今から食堂広間に戻っても間に合わない。シズ様は座ったままパーカーのポケットから携帯《けいたい》食料を出して、粘土棒《ねんどぼう》のようなそれを私と、そしてティーにも渡す。
「…………」
ティーはしばらく自分の手にあるそれを不思議そうに眺めていたが、やがてシズ様が食べているのを見て口に運ぶ。小さな口で小さく噛《かじ》り、そして、
「…………」
一瞬、本当に一瞬だけその堅い表情を崩《くず》した。いつもは睨《にら》んでいるような瞼《まぶた》を、大きく開いた。
「美味《おい》しいかい?」
シズ様が嬉《うれ》しそうな顔で聞いて、
「…………」
ティーは普段どおりの仏頂面《ぶっちょうづら》で、大きく一度|頷《うなず》いた。
そして彼女は残りをとても真剣な表情で、両手で握りしめたままリスのように齧《かじ》りながら食べた。
旅人には不評|極《きわ》まりない味の携帯《けいたい》食料を、あんなに美味《おい》しそうに食べた人間を私は初めて見た。
食事後、私達は帰路についた。
むろんティーの先導で、これがないと無事に帰り着く自信は私にもなかった。
私達は、来た時と同じように、一度|甲板《かんぱん》の上に出た。すると雨が降っていた。
叩《たた》きつけるように降る大粒の雨だった。甲板の鉄に当たって弾《はじ》ける鈍《にぷ》い音が、辺り一面響いていた。見上げる雲は、先ほどより低い。
「…………」
ティーが階段から空を見上げ、足を止めた。
「濡《ぬ》れるのは嫌《いや》か? ――誰だってそうか。でも、ここで足止めというわけにもいかないな」
シズ様はそう言うと、パーカーの裾《すそ》を広げ、ティーを軽く包む。小さなティーの体は、シズ様の右|脇《わき》にすっぽりと収まった。ご自身の頭にはフードをかぶせる。
「これで行こう」
「…………」
ティーがパーカーからひょいと顔を出して、シズ様を見上げて睨《にら》んだ。そして納得したのかしていないのかは分からないが、
「…………」
包まれたまま前を向いた。
私は訊《たず》ねる。
「シズ様、私はどうしたらよいでしょうか?」
「すまないがしばらく濡れてくれ」
やはりそうなるか。
ティーとシズ様は足並みを合わせて階段を登り、大雨の下へ。私も濡れるのを覚悟《かくご》で後からついていく。
ぼぼぼぼぼぼぼぼっ、と雨粒がパーカーを叩《たた》く軽い音が聞こえる。二人は雨の中を、鉄板から鉄板へと渡り歩く。私はすぐ後ろを、濡れながらついていく。
地下への入り口まで半分ほど来た時になって、ティーが立ち止まった。シズ様も慌《あわ》てて止まる。二人を追い抜いてしまった私は振り向く。
「どうした? ティー」
シズ様の質問に、いつもながらティーは答えない。パーカーが叩《たた》かれる音だけがしばらく聞こえる。
シズ様がティーのくるまっている裾《すそ》を広げて、中にいる顔を覗《のぞ》こうとした。雨に打たれる面積が増えて、音が増えて、
「…………」
ティーがすっと顔を上げる。そして、目を閉じた。
耳をすましているように見えたティーに、
「この音が気に入った?」
シズ様が小声で訊《たす》ね、
「…………」
ティーはこくりと小さく頷《うなず》いた。
ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼっ。
「じゃあ、私も一緒に聞こうかな」
シズ様がそう言ってしまった。私は訊ねる。
「シズ様、私はどうしたらよいでしょうか?」
「すまないがしばらく濡《ぬ》れていてくれ」
やはりそうなるか。
私は鉄板の上に座り、二人を見る。
背の高いシズ様と、小さなティー。
二人してパーカーの下にくるまり、雨粒が防水布を叩《たた》く、何ということもない音に聞き入る。
私はすっかりずぶ濡《ぬ》れになり、その姿を眺める。高くそびえ立つ塔《とう》と流れる黒い雲を背景に、二人はいつまでもそこに立っていた。
次の日から、仕事はなくてもすることを見つけたシズ様は精力的に動く。ティーの案内で、綻《ほころ》んでいる箇所を調査に回った。
崩《くず》れている場所や浸水している場所へ行き、どれほどの破損か調べる。ティーが知っていれば、いつ頃からこんなになったのかも記録していった。ティーの記憶は五年ほど前からはっきりしていたが、やはり年々破損個所は増えている。
浸水原因がはっきり分かる場所もあった。そこでは明らかに船底≠ェ裂《さ》けていた。本来しっかり張ってあるはずの薄い板が、四十メートルほどに渡ってちぎれていた。ティーの意見では、毎年二メートルくらいずつ亀裂《きれつ》は広がっているとのことだ。
七日目と八日目はそうして終わった。シズ様もよく動いたが、ティーもまた勤勉だった。
余談だがこの二日間で携帯《けいたい》食料がだいぶ減った。あまり早いペースで減ると大陸についてから困るのだが、それを指摘するとシズ様は涼しい顔で言った。
「その時は、海辺で魚を釣《つ》ってしのごう」
また魚ですね。
九日目。
相変わらず国全体の揺れはあるが、少し弱まったように感じる。悲鳴に似た音は頻繁《ひんぱん》に聞こえるが、これだけ聞こえると、もう特別注意を払っていられなくなる。それがとても危険だ。
朝食の後シズ様は、長老をつかまえた。お聞きしたいことがあると言って、長老の部屋に行き、一応人払いをしてもらった。ティーは当たり前のように残ったが。
シズ様は、この国の綻びについて長老と話をする。ただし危険性を頭ごなしに指摘するような物言いはせず、あくまで心配そうに訊《たす》ねる。暇なのでティーと散歩をしていたらそういう箇所をいくつか見つけた。不安になったのだが果たして大丈夫なのかと。
長老は平然と、それは心配ありませんと答えた。理由を聞くと
「塔《とう》の一族がこの国のことは全《すべ》て把握しています。ですから、彼らが危険性を指摘しない限りこの国は大丈夫ですよ」
それは塔の一族の真意が分からない以上確信できる理由になっていないが、長老(とこの部族)の現状認識がこの程度であることはよく分かった。やはり何も考えていなかった。
シズ様は次に、彼らの生活について調べる。会話の中で、生まれた赤ん坊の生存率や、平均|寿命《じゅみょう》などをさり気なく訊《たず》ねた。
「……そうですか」
長老から返ってきた答えは、かつて見たことも聞いたこともないほど、相当|過酷《かこく》なものだった。このような劣悪な環境と極端な食生活では無理もない。
いくら住めば都≠ニはいえ、この調子だと、よしんば国が沈まなくても人口は先細り、やがて集団生活を維持できなくなるだろう。
「私達は楽しく生きておりますよ。今までも、そしてこれからも」
長老は、誇らしげな顔でそう言った。
「…………」
ティーではなく、シズ様が無言だった。
夕方、私達は部屋にいた。シズ様はベッドの脇《わき》に座り、体の前で手を組み、何か考え事をしていた。時折|額《ひたい》を、組んだ手で軽く叩《たた》く。
「…………」
ティーは折り畳《たた》みテーブルの脇でイスに座り、そんなシズ様を見ている。彼女の手には、先ほどシズ様が固形燃料を使って作ったお茶のカップがあった。
夕食の時間までは、もう少し時間がある。シズ様があまりに長く考え事をしていたので、僭越《せんえつ》かとは思ったが、私は話しかける。
「シズ様――。何か一度、ご休憩《きゅうけい》か気分転換をお勧めします」
シズ様が私をちらりと見て、まあそうだな、と同意して、
「さて何をしようか?」
軽くおどける。それもそのとおりで、狭《せま》い部屋と廊下だらけのこの国では息抜きも難しい。
コツン、という音をたてて、
「…………」
ティーが無言でカップを置いた。すっと立ち上がり、シズ様の前へ。パーカーの肩口をつまんで引っ張った。
「ついてこい? 何か気分転換を教えてくれる?」
シズ様の問いに、ティーは凡帳面《きちょうめん》に二回|頷《うなず》いた。
「きれいだ」「きれいですね」
私とシズ様が感想を漏《も》らす。
ティーに連れて行かれたそこは、城壁の上だった。部屋を出て、案内されるまま狭い通路を歩き、そしてたどり着いた螺旋《らせん》階段を、これでもかと登る。重いハッチを開けて出たのは、強い風が吹く人工の絶壁の上だった。城壁てっぺんは十メートルほどの幅の通路になり、黒い金属の柵があった。
そこから見える景色は、見事の一言だった。海に沈みゆく夕日が、鼠《ねずみ》色の雲塊《うんかい》の隙間《すきま》から眩《まぶし》いオレンジの光の柱を作る。水面で反射し、細かく高い波がプリズムのように光を揺らす。
西を向いた城壁からは、視界一面海しか見えない。まるで、
「空を飛んでいるようだな」
シズ様が柵を握り、楽しそうに言った。まさにそんな感じだ。
シズ様と私はしばし景色に見入った。そしてシズ様は、隣でパーカーの袖《そで》を掴《つか》んでいたティーに顔を向け、
「ありがとう。きれいな景色だ。正直この国からの景色は締《あきら》めていたんだけれど、おかげでとてもすてきな息抜きになった」
「…………」
ティーはどこまでも無言で無表情だが、今だけは何か満足そうに見えた。風が、彼女の白い髪を無造作に撫《な》でていく。
太陽が沈み、水平線の上に残った光が空の雲を照らし、やがてじわじわと明度を失っていく。
完全に夜が来て、海と空の見分けがつかなくなるまで、私達はそこにいた。ティーが、景色に見入り動かなかったからだ。シズ様もそれに付き合った。
結果私達は夕食を逃し、寝る前に部屋で携帯《けいたい》食料を食べた。
カリカリと美味《おい》しそうに食べるティーを見て、私はこれが目的だったんじやないかと思ったりもした。
「…………」
ティーは何も言わない。
夜遅く。
「国民は状況を理解できていないし、できようもない。結局のところ、指導者達がどう思っているかに尽きるか……」
「そうですね」
シズ様と私は、小声で密談をする。灯《あか》りの消えた部屋は真っ暗|闇《やみ》だ。
私はシズ様のベッドのすぐ脇《わき》にへばりついて話す。上のベッドで、当たり前のように小さく寝息を立てているティーを起こさないよう、注意を払っていた。
「指導者連中が現状維持に固執すれば――、この国に未来はない」
シズ様が言い切った。ここ三日の調査で完成した図は、あまりにたくさんの綻《はころ》び(の書き込み)だらけで黒くなった。ここ数年での増加率もすごい。
「同意します。この様子では、国が沈むか人が死に絶えるか、どちらにしてもそう長くはないでしょう」
「そして皆は、それに気づいていない。自分達が砂上の楼閣《ろうかく》に住んでいることも……、楽園の住人ではないことも……」
「その前兆ですら、長老以下この国の住人には、もう当たり前になりすぎています。指摘しても納得するとは思えません」
「あまりに日常化した問題は社会問題として認識されない=Aか。確かにな……」
そう言った後しばしの静寂。シズ様は何か考えていた。大きくあの音が一回響いた。
そして、
「決めた。――明日、指導者達と話をする」
「指導者達と話≠ナすか? 説得≠ナはなく?」
「ひとまずな。その後は、向こうの出方次第だ。――お休み、陸《りく》」
そしてシズ様は、あっさりと寝入ってしまった。
明日はどうなるか分からないが、とりあえず私もシズ様も、退屈はしないだろう。
十日目。
予定どおりなら、国は西の大陸のすぐ側《そば》に来ているはずだ。ここから大陸近海の南下を始める。
予定どおりなら、四日後に大陸との貿易を行い、シズ様も私も無事に渡れるのだろう。何ごともなかったかのようにこの国に別れを告げ、そして二度と足を踏み入れることはないのだろう。
シズ様は、朝食の後九日ぶりにバッグから刀を取り出した。気が変わってはいないようだ。
さらにバッグから、布製のポーチを二つ手にした。フラップを一度明けて中身を確認する。中にはスプレー缶《かん》のような物が二つずつ入っている。実際はスプレー缶ではなく、もっと危険な代物《しろもの》だ。滅多《めった》にシズ様は使わないが、今回は必要だと判断されたのだろう。使わないにこしたことはないが。
シズ様は右腰のベルトに、そのポーチを通した。そして刀を、パーカーの懐《ふところ》に縦《たて》にしまって隠し持つ。
「…………」
不思議そうに見ていたティーに、
「しばらくここにいるんだ。いいね?」
そう言い残し、シズ様と私は部屋を出た。
「…………」
当たり前のようにティーがついてきてしまったので、
「あのね、ティー」
しばらくシズ様はティーと押し問答をする。
「――今日は役に立ってもらうようなことは多分ないと思うから、部屋で待っていてほしい」
「…………」
「――それどころか、場合によっては危険なこともある」
「…………」
「――だから――」
「…………」
「つまり……」
「…………」
結局終始無言のままのティーが圧勝し、シズ様はうなだれる。かといって彼女を部屋に縛《しば》っておくわけにもいかず、
「頼む、陸《りく》」
私がティーの保護者≠ノなった。
初日に来た道を通り、シズ様と私、そしてティーは甲板《かんぱん》の上へ。
空は曇り、太陽は見えなかった。風は弱いが、厚い雲が圧迫感を作る。
外に出るとシズ様は懐《ふところ》の刀を取り出し、パーカーの穴越しにベルトに差した。
「さて……」
シズ様は、甲板を塔《とう》へと歩く。私は少し離れて続き、ティーをその後ろにとどめた。
塔から私達の姿は簡単に見えているはずなので、
『旅人。そこで止まれ』
そう声が聞こえたが別段驚くことはない。塔についているスピーカーからの声だった。塔の入り口まで十メトール[#「メートル」は底本では「メール」と誤植]ほどの距離を残し、シズ様が足を止めた。
「こんにちは。聞こえますか?」
シズ様の声。特別大声を出したわけではないが、それが向こうに届いている証拠に、返事が来る。
『ああ、聞こえる。――旅人。陸に上がるまでまだ日はある。気が変わりこちらでの生活を望むか?』
「いいえ。ただ少しお話が。この国の未来について」
シズ様がそう言った後、しばらく間が空《あ》いて、
『ふむ、聞こうではないか。どのようなことだ?』
先ほどまでとは別人の声。それには聞き覚えがある。入国初日に長い話をしたご老体――船長≠フ声だ。
シズ様はそこに立ったまま、何も隠さずに思うところを伝える。この国を調べたところ、構造上でも生活上でも看過《かんか》できない欠陥が見つかったが、住人は気づいていない。
「それらについて、数千の民の命を預かる指導者としてどう思っているのか、お聞かせ願いたい」
答えは、あっさりと返ってきた。
『どうとも思ってはおらぬ』
私には見えていないが、シズ様は眉《まゆ》をひそめたのだろう。再び聞く。
「……その真意は?」
『もし言うとおりこの国は長く保《も》たないとしても、それはそういった運命だからだ』
またも答えは早かった。
「あなた方はそれでもいいかもしれない。しかし民衆はどうなる?」
シズ様の声には力が入っていた。私はその背中を、
「…………」
ティーと一緒に見ていた。
声が返事をよこす。
『ここは我らが治める国だ。さすれば国土も民衆も、我らのものだ。我らの意志の元《もと》、何が、そして誰がどうなろうと、それもまた運命だ。ただ一緒に終わるだけだ。――旅人の知ったことか』
なんとなく予想はしていたが、ここまではっきり言われるととても分かりやすい。シズ様もさぞかし暴れやすいだろう。
「なるほど……。お考え、よく分かりました」
声色を堅くしてそうつぶやいたシズ様が、もうここまできて、それでは、四日後にまた会いましょう=Aなどと言うわけはない。
「それでは、私が塔《とう》を占拠《せんきょ》してこの国の行き先を変えてしまっても、例えば陸に――。それはあなた方の運命と考えてよろしいか?」
『むろんだ』
答えと同時に、塔入り口のドアが音もなく開いた。そして、
「…………」
無言のまま、一人の黒ずくめが現れた。
背はそれほど高くない黒ずくめだが、その雰囲気に隙《すき》はなく、戦いなれていることをにおわせる。恐らくは一番腕の立つ人間を出したのだろう。
その手には、ポンプアクション式で長さが一メートルほどの、散弾が撃てるパースエイダーが握られている。コートの下にも、ハンド・パースエイダーを吊《つ》っているようだ。
その黒ずくめの代わりに、
『むろんだが、おめおめとそうさせるわけにもいかぬ』
船長≠ヘそう言った。なるほど、とシズ様がやや嬉《うれ》しそうにつぶやく。
お話はここで終わった。ここからは説得の時間だ。私はティーを頭で押して、鉄板の脇《わき》道へと左方向へ移動させる。黒ずくめが正面切って発砲すると、真後ろにいては危《あぶ》ない。
ティーと私がだいぶ離れて、そこにあった鉄クズの陰にしゃがんだ後、
「さて――」
シズ様は目の前の黒ずくめに話しかける。
「できるのなら、私は貴方《あなた》を含め指導者達をだれも殺したくない。そこをどいてくれないだろうか?」
「…………」
返事は無言だが、じゃこんっ、とパースエイダーをポンプして散弾を送り込んだところをみると、
「その気はないようだな」
シズ様はそう言いながら、刀は抜かず、黒ずくめへとゆっくりと歩いていく。
「しかし、結果的とはいえ、貴方も助かる話だとは思うんだが」
さらに、話しかけながら近づく。あからさまに接近しているように見せないために、さり気なく話しかけて注意を引きながらじわじわと間合いを詰めていく。いつものシズ様のやり方だ。
散弾は通常一つの殻《から》の中に九つほどの丸い弾が入っていて、撃つとそれが広がりながら飛んでいくために威力が強い。しかし近すぎると十分に広がりきらない。シズ様の腕なら避《よ》けることもできるだろう。
一回撃てば、次を撃つためにまたポンプ作業が必要だ。パースエイダーの全長も長いのでとっさに近くは狙《ねら》いにくい。シズ様はその隙《すき》に一気に接近してしまうだろう。黒ずくめがシズ様を狙い一発撃てば、勝負はつく。
「安心してほしい。命まで取るつもりはない」
シズ様がそう言って近づきながら、一度|塔《とう》をちらりと見上げた。他《ほか》に狙撃《そげき》してくる人がいないか調べたのだ。私も先ほどから注意を払っているが、今のところはいない。
シズ様と黒ずくめの距離は、五メートルにまで縮んだ。軽率《けいそつ》に撃たない黒ずくめも、いい度胸をしている。
「…………」
守衛のようにバレルを空に向けて微動だにしない黒ずくめと、
「なかなかやるね」
左手親指を刀の鯉口《こいくち》に当てたシズ様と、
「…………」
私の斜め上で二人を睨《にら》みつけるティーと。
次の瞬間――
「っ!」
シズ様が反応する。黒ずくめがとうとう動いた。パースエイダーを肩につけて構えて、シズ様を狙《ねら》う。
その狙いがピタリと定まって、そしてシズ様は相手の人差し指が動くのを見たのだろう。刀を抜かずに、すっと右へと避《よ》けた。
発砲。
轟音《ごうおん》が響き、誰もいない空間を散弾が飛び抜けた。シズ様は黒ずくめに向けて、抜刀しながら襲いかかる。
もう次弾を装填《そうてん》する暇はない。狙う暇もない。
シズ様の勝ちだ。
そう私が思った瞬間、黒ずくめは信じられない行動に出た。
「なっ?」
シズ様が声に出したのも無理はない。黒ずくめは撃った直後、そのパースエイダーを――投げた。
初めからそのつもりだつたのだろう。黒ずくめは撃ち終えた体勢から、まるで槍《やり》を突き刺すかのように素早く投げた。どこの世界に戦闘中パースエイダーを投げる馬鹿《ばか》がいるのかと思うが、今目の前に確かにいた。
「クソっ!」
シズ様はまったく予期していなかった攻撃を、抜いた刀でしのぐ。接近中のやや無理な体勢から、重いパースエイダーを刀身で左側へとはじき飛ばした。
そうして生まれた一瞬の隙《すき》に、黒ずくめはハンド・パースエイダーを抜いていた。
呆《あき》れるほどの早さだった。コートの脇《わき》スリットに右手を突っ込み、抜かれた時には大口径のリヴォルバーが握られていた。抜いてすぐの低い位置から、接近しつつあったシズ様に向け、
「っ!」
シズ様は即座に足を止めた。そこからさらに一歩下がり、狙いに合わせて刀を構え直す。相手との距離を詰め切ることができなかった。はじかれたパースエイダーが遠くの鉄の上に落ちて、ガシャンと大きな音を立てた。
「ふう……。驚いたな」
三メートルほどの距離で対峠《たいじ》しながら、黒ずくめの狙いに刀身を合わせながら、シズ様が話しかけた。
「ボクも、驚きましたよ」
黒ずくめがそう言って、左手でベールを掻《か》き上げて、
「えっ……」「あっ!」
シズ様も私も、それはもう、大いに驚いた。
「…………」
ティーだけは無言だったが、声を上げた私を不思議そうな目でちらりと見た。
今日の前にいる黒ずくめは、かつて会ったことのある人間だった。
「君は……、キノさん!」
シズ様がその人の名を呼ぶ。そこにいたのは確かに、シズ様の故郷で行われていた殺し合いで、シズ様が最後に戦って負けた相手だった。
キノさんは左手でベールと帽子《ぼうし》を頭から取ると、それを鉄板に落とした。黒い短い、やや乱れている髪が露《あら》わになる。
「服装一式を借りたのはいいですけど、これだけはどうにも戦いにくくて」
「なぜここに――」
シズ様が言いかけて止《や》めた。理由が簡単に分かったからだ。
五日前に入国した、私達と同じように西の大陸に渡ろうとしている旅人。それがキノさんだったのだ。そして黒ずくめ連中の仕事を請け負って、こうしてここにいる。
「なんとも……、不思議なところで会ったね」
シズ様が構えから軽く力を抜いて、キノさんに笑顔で話しかけた。
「そうですね。――えっと、お元気そうで何よりです」
キノさんは普通の顔でそう返す。
「それはどうも。キノさんもね」
「はい、どうも」
挨拶《あいさつ》を交わした後、キノさんが訊《たす》ねる。
「ところで……、えっと、お名前何でしたっけ?」
「…………」
本当に忘れたのか、心理的攻撃なのかは分からない、が、シズ様はそれなりに落胆《らくたん》した様子だ。やや力なく、
「シズだよ……」
「ああ、そうでした。――後ろにいるのは陸《りく》君でしたね。よく覚えてますよ」
「…………」
これは凶悪《きょうあく》だ。さらに大ダメージが、シズ様を襲った――、だろう。
「さて――、それはともかく、今のボクは渡し賃として指導者さん達のために働いています。あんまり気乗りのしない仕事ですが、食べるために一応はやらなければなりません。ここは戻ってもらえませんか?」
キノさんが、すかさず本題に戻した。
「断るよ」
「あなたは、この国の住人ではありません。祖国でもない国のために、頼まれてもいないことをそこまでする理由が見受けられませんが」
さすがというか何というか、キノさんは、一番きついことをしっかりと言ってくる。普通考えればそうだ。旅人は自分の身の心配をしていればいい。他国や他人の心配をする道理など一切ないし、ましてやそれに命を懸けるなどとは狂気の沙汰《さた》だ。
でも、シズ様は迷っていなかった。すぐに答える。
「知ってしまったからね。もし、自分の力で多くの人に未来≠チてものを与えられるとしたら――」
「…………」
シズ様が刀を握りしめる音が聞こえた気がした。私からシズ様の顔は見えないが、
「それはやってみたくなるものなんだ。俺《おれ》はね」
きっと楽しそうに笑っていただろう。
「……そうですか。では、しかたがないのでボクは仕事≠ノ戻りますよ」
キノさんの体にすっと緊張が走る。
「再開、かな?」
そしてシズ様の背中にも。
キノさんは腰の位置で構えたリヴォルバーで狙《ねら》っているが、シズ様もあの弾丸ならどこからでもはじき返せる。
そのまま膠着《こうちゃく》状態に陥るかと思えたが、またもキノさんは意外な行勤に出た。リヴォルバーの狙《ねら》いを、私とティーの方へ向けたのだ。
「なっ!」
シズ様が慌《あわ》てて刀を伸ばす。キノさんは撃った。轟音《ごうおん》と白い煙《けむり》。右腕が反動で跳《は》ね上がる。
そして弾丸は、
「…………」
微動だにしなかったティーの頭の、かなり上を通過した。弾丸は後ろの方で鉄に当たったはずだが、その音はしなかった。なるほど、そういうことか。
一瞬だけとはいえかなり驚いたシズ様が、キノさんへ視線と刀を向け直した時、
「なに?」
そこにはすたこらと逃走するキノさんの背中があった。塔《とう》の入り口へと全力疾走し、その中に消えた。
見えない塔の中から外へと撃たれてはたまらないので、シズ様は出口の前から体をどかす。そして塔まで素早く走り、開いたままのドアの右|脇《わき》に貼《は》りついた。
「はっ、手強《てごわ》いな」
シズ様が、楽しそうに言った。
「…………」
ティーが無言で立ち上がって、私が止めようとしたのをくぐり抜けてシズ様へと走った。私は慌てて後を追う。ひとまず今キノさんに撃たれることはないだろうが、あまり安全なわけでもない。
私も走り、塔入り口のすぐ側《そば》でティーに追いついた。ティーは入り口の左脇、シズ様の反対側にへばりつく。私もその足下に。
シズ様は心配そうな顔で睨《にら》むティーに、
「すぐ終わるよ」
そう言って刀を鞘《さや》に収める。そして腰のポーチからスプレー缶《かん》≠右手で一つ抜き出した。脇についているレバーをしっかりと握ったまま、先端についていたピンを、口で引き抜いて捨てた。
「ティー、耳を塞《ふさ》ぐんだ」
「…………」
ティーが言われたとおりにしたのを確認した後、シズ様は入り口に向け大声で、
「キノさん! 降参《こうさん》してほしい、認めるから!」
懐《なつ》かしい言葉だ。むろん実際に降参するとは思えないが。
「お断りしまーす!」
廊下の奥から、反響しながらキノさんの大きな声が戻ってきた。
「そうだろうな」
シズ様が言いながら、右手の缶《かん》を後ろ手に放り入れた。空中で、缶の脇《わき》についていたレバーが弾《はじ》けて外れた。
かん、からんからん、と廊下の中で転がったそれは、次の瞬間爆発した。
壮絶な音が、爆風となって吹き抜けた。同時に閃光《せんこう》が発せられて、廊下が光で溢《あふ》れ、ドアの前が細長く照らされる。
シズ様が投げ込んだのは、閃光手榴弾《せんこうしゅりゅうだん》≠竍スタングレネード≠ネどと呼ばれる特殊な武器だ。
安全ピンを抜き、レバーが外れたら着火し四秒ほどで爆発する。手順は普通の手榴弾と同じだが、こちらは殺傷能力の高い爆風と破片ではなく、猛烈な光と音を発生させる。シズ様やティーのように耳を手でふさげない私には、この音は相当|堪《こた》える。頭がクラクラする。
外にいてこれだから、長い廊下の中にいたキノさんにはさぞかしきついだろう。これで失神や前後不覚に陥ってくれていたらシズ様の勝ちだ。
薄い煙《けむり》が収まった後、シズ様が抜刀し注意深くドアをくぐる。どこから撃たれてもいいように、体の前に刀を構えたまま進んでいく。ティーが顔を出したがるのを、私は体を張って抑えた。
「……なぜだ?」
シズ様の疑問の声。私がどうされたのか聞く前に、
「いない……」
シズ様がそう言ったので、私は塔《とう》の中を見た。ティーも見た。
薄暗い廊下にいるのはシズ様だけ。キノさんはいなかった。真《ま》っ直《す》ぐ二十メートルほど進んだ先には、しっかりと閉じられたエレベーターホールへのドア。
キノさんがドアの向こうに逃げた可能性はゼロではないが、あの重いドア越しに声が返ってきたとは考えにくい。廊下には脇に逃げるための場所などはない。
シズ様が、廊下を半分ほど進んだ時だった。
「…………」
ティーが、脇にいた私の足をいきなり踏んづけた。
「イテ」
思わず声を出してしまった私に、シズ様が振り向き、そして私とシズ様は、
「…………」
無言のまま廊下の脇を指さすティーを見ることになった。
シズ様が駆《か》け寄り、ティーの指の先にあったものを見て、
「ありがとう。下がって」
小声で言った。さすがはティーというべきか、そこにあったのは通風口か排水溝《はいすいこう》のような大きな穴、そしてそれを塞《ふさ》ぐ格子《こうし》だった。格子は固定されていなかった。
シズ様は格子を丁寧《ていねい》に外し、できた穴に身を滑《すべ》らせる。すーっと滑り落ちていく音が止《や》んだ瞬間、
「せいっ!」
シズ様の気合いと、何か鉄の物が壊《こわ》れる音、続いて崩《くず》れる音が穴から聞こえた。下に逃げていたキノさんと戦っているらしい。
パースエイダーの音は聞こえないまま、数秒後に争う音は止んだ。私は穴の奥を覗《のぞ》き、シズ様のように滑り降りるべきか否か迷っていた瞬間、
「…………」
どん。
「うわっ!」
ティーに後ろから突き落とされた。変な体勢のまま穴を滑り、ぼてっ、と階下に頭から落ちた。かなり痛い。
落ちた直後、シズ様の背中が斜めに見えていたが、すぐさま降ってきたティーの足で見えなくなった。彼女も滑り降りてきたのだ。鼻を踏みつぶされないでよかった。
「逃げられたよ」
シズ様が楽しそうに言った。私は身を起こして、そこが太い通路であることが分かった。足下は鉄板、左右にはパイプが何本も走り、低い天井《てんじょう》には格子状の鉄板が張られている。壁に貼《は》られたダイオード灯が多く光り、廊下よりは明るい。
シズ様が刀を向けている方は、すぐにT字の曲がり角になっていた。
「でも、びしょ濡《ぬ》れにはさせてやった」
シズ様が言った。なるほど、足下の鉄板に大きく濡れている箇所がある。そして天井付近にあったはずの水のタンクが、一文字《いちもんじ》に切り傷をつけられて転がっていた。シズ様が切った後に蹴《け》りつけたのだろう。そして水滴は、右へと曲がっていた。今度はどこへ逃げたのかよく分かる。
シズ様が、ゆっくりと歩き出す。私が距離を置いて続き、ティーがその後ろ。
シズ様が曲がり角を慎重《しんちょう》に窺《うかが》い、やがて曲がる。キノさんはいない。同じように通路が続いていた。そしてそこを進む。水滴は転々と、奥へと延びていた。
進んでいくと再び交差があった。今度は十字交差で、水滴は左へ。罠《わな》ではないかと別の方角も確かめた後、左へ。
曲がってすぐ、
「ここにいろ」
シズ様が小声で言った。ティーと私が足を止める。
ぴちゃん。
水が垂れる音がした。二度、そして三度。
シズ様の進む先五メートルほど前で、天井《てんじょう》にある格子《こうし》状の鉄板から水が垂れ落ち、床で水たまりを作っていた。その先十メートルでは再び十字に交差。その床に水滴はない。
シズ様は一歩、そしてまた一歩、刀を構えたまま、足音をたてずに進んでいった。
もう後少し、水滴がシズ様の刀の間合いに入ろうかとした時――
がこんっ、と音がして天井の鉄板が外れた。向こう側へとスイングして、できた穴から黒い塊《かたまり》が降ってきた。
「せいっ!」
シズ様は、その塊をあっさりと横|薙《な》ぎで切った。シズ様も、それがキノさん本体であるとは思っていないだろう。紐《ひも》で仕掛けたトリックだ。
果たして、落ちてきたのは濡《ぬ》れた黒いコートだけだった。シズ様の刀に軽く払われ、壁でべちゃっと音とたてた。隙《すき》を見て交差から狙《ねら》ってくるはずだと、すぐさまシズ様は刀を構え直そうとする。
その瞬間別の影が上から落ちてきた。シズ様の目の前だ。実はキノさんはそこにいたのか?
「せっ!」
シズ様は、それを構え直す前の刀で、峰《みね》打ちで左に薙いだ。
がんっ、という音と共に、その物体――中途半端に中身が残った水タンクは、左の壁に当たって騒々《そうぞう》しい音を立てて落ちた。またもトリックだった。
激しい音に紛《まぎ》れて、交差通路の左側で、カンカンと走る足音がした。私には聞こえた。
そしてシズ様が反応して駆《か》け出す。一気に距離を詰めて仕留めるつもりだ。穴の下を通り抜けた。
そして――、キノさんは天井から現れた。その穴から、膝《ひざ》を鉄板に引っかけて頭を下にして降ってきた。以前見た黒いジャケット姿で両手にはリヴォルバー。短い髪の毛が全《すべ》て真下に垂れた。
狙《ねら》いはシズ様の背中に。キノさんはずっとそこにいたのだ。通路の向こうの音が、本当のトリックだったのだ。
「……っ!」
駆け出していたシズ様が気配に気づき振り返った時、目の前には四四口径の穴が見えたはずだ。その後ろには、逆《さか》さのキノさんの顔。
どごん、と重い発砲音が通路に響く。
シズ様はまた負けてしまった。撃たれたシズ様は、そのまま後ろに倒れた。
「…………」
シズ様が目を開けて最初に見たのは、無言のまま緑の瞳で睨《にら》むティーの顔だった。
撃たれてから気絶して倒れて、ほんの五秒ほど後の出来事で、キノさんはぶら下がった状態から器用に片腕だけで通路に降り立っていた。シズ様の刀を拾い、後ろに立てかけた。
シズ様の額《ひたい》には、至近《しきん》距離から撃たれた跡がある。大きな青|痣《あざ》で、すぐに瘤《こぶ》に成長するだろう。
そしてシズ様を撃った弾丸は、ティーが拾ったので彼女の手の中に。
「なんだ? ――私は生きているのか?」
シズ様が言って、体を起こす。ティーが慌《あわ》てて顔を引っ込めた。
「人口を減らすわけにはいかないとのことで――」
キノさんが言う。ティーはシズ様に、手の中の物を見せる。四四口径の硬質ゴムの塊《かたまり》。非|致死《ちし》性のゴム弾だ。先ほど私達の方を撃った時、後ろで弾《はじ》ける音がしなかったのはこういうわけだった。キノさんはそれを、液体火薬の量をかなり減らして撃っていたのだ。
「それを使うようにお達しが」
「…………。また負けか……」
シズ様は、目の前にあるティーの額を悔《くや》しそうな顔で見た。
殺されなかったとはいえ、いいや、殺されなかったからこそ、負けを認め引き下がるべきだとシズ様には分かっている。そしてそれは、ティーを含めこの国の国民達をあの状況へ置き去りにするということだ。
「そういうわけですので、悪いですけどもう数日、おとなしくしていてください」
キノさんがはっきりと言った。そのパースエイダーはホルスターにしまわれている。何かあれば瞬時に抜くだろうが。
私はシズ様が次にどんな行動に出るか興味があったが、その前に、
『キノ殿《どの》。聞こえますか?』
黒ずくめの、スピーカーの声があたりを包んだ。
「聞こえてますよ。こちらは終わりましたので、通常どおりの――」
『キノ殿。聞こえますか? ご無事ですか?』
「聞こえてますよ」
キノさんが大きな声で答えたが、黒ずくめは、
『聞こえていたら返事を!』
ひたすら返答を呼びかける。聞こえていないのは黒ずくめの方だった。
「まったく。塔《とう》の中からならどこでも声が聞こえるはずなのに」
キノさんが呆《あき》れを口にしたその時だった。
『うぬう――。シズ殿よ。貴殿《きでん》の好きなようにはさせぬ』
船長≠フ声だ。やや憤慨《ふんがい》している。そして完全に思い違いをしている。
『この国は、今より大洋へと戻る』
「え? ちょっと待ってくださいよ!」
キノさんが慌《あわ》てて言ったが、その声は届かない。そして足下からは、何かが動く音と振動が響いてきた。ぼぼぼぼぼという、動力音だった。先日までとは違う、妙な揺れが始まった。
「まさか――、国を動かしているのか?」
シズ様が言った。
「…………」
そしてティーはコクリと頷《うなず》く。
「ちょっと! それではボクはどうなります?」
『もはやこの国は陸には行かぬ。シズ殿《どの》は、この後死ぬまで民衆と暮らすがいい』
キノさんの質間は聞こえていなかっただろうが、その返事は来た。
国は揺れ続け、動力音は途切れることはない。途中、あの悲鳴に似た音が何度も聞こえた。相当無理をして、むりやりに移動させていることは明らかだ。
「さあて……」
シズ様が立ち上がった。その額《ひたい》に、大きな青|痣《あざ》を作りながら。
キノさんに向かい、シズ様は言う。それはそれは嬉《うれ》しそうな顔をして。
「私はこれから、塔《とう》を登って制御《せいぎょ》室を占拠《せんきょ》し国を大陸につける。邪魔《じゃま》する者は実力を持って排除するよ。――いっしょにどうだい?」
「勝ったのに……」
キノさんは、とてもとてもおもしろくなさそうな顔をして、後ろにあった刀を持ち主に渡した。
「なっ! 貴様らいったいど――ぎゃっ!」
最後まで言う前にシズ様の峰《みね》打ちをくらって、黒ずくめが倒れる。
塔にはエレベーターの他《ほか》に一つだけ螺旋《らせん》階段があって、そこを、シズ様を先頭にキノさん、私、そしてティーが登っていった。
邪魔《じゃま》する黒ずくめに対しては遠慮容赦《えんりょようしゃ》ない。キノさんも、やや乗り気ではないようが、
「おまえ反逆し――ぐわっ!」
脇《わき》のドアを開けて突然現れた黒ずくめの額にゴム弾をお見舞いして昏倒《こんとう》させる。
途中の階で、
「その脇のドアに入ってください。寄りましょう」
キノさんが言って、シズ様はそこにあった重いドアを開けた。開けた瞬間ナイフで襲いかかってきた二人を、柄《つか》と峰《みね》打ちであっと言う間にのす。
「ここは……」
中に入ったシズ様が驚いた。私とティーが中に入る。その部屋には木箱が山ほど積んであった。それも銃弾や手榴弾《しゅりゅうだん》の類《たぐい》、武器庫だった。
「いくつか失敬しましょう。さっきのうるさい手榴弾とかもありますよ」
キノさんが言って、木箱の蓋《ふた》を開ける。閃光《せんこう》手榴弾を袋ごと掴《つか》んで、シズ様に放った。
「…………」
ティーはその時私の後ろにいた。短い間だったが、彼女が何をしたのか見えていなかった。
倒れた黒ずくめを横目に、私達はさらに階段を登る。
黒ずくめの数はそう多くないはずだったが、残りは高い階の制御《せいぎょ》室にいた。
ドア前の守衛を叩《たた》きのめしドアを開ける。しかしこの黒ずくめ連中は、弱い。キノさんとの戦いの後だからそう見えるのかもしれないが、抵抗らしい抵抗もできずに昏倒《こんとう》されていく。閃光手榴弾を二発も放り込まれた制御室の中でも、数人がひっくり返っていた。
制御室は、大型船の操舵《そうだ》室そのままだ。見暗らしのいい窓に、鈍《にぶ》い光を放つ計器や機械が並んでいた。
窓からは、遠くにかすかに陸地が見えた。渡るはずだった西の大陸に違いない。
シズ様は片端から機械を調べ、やがてチカチカと作動しているモニタ画面を見つける。かつてこの国を造った高度な技術は、今も生きていた。
機械を眺めていたシズ様は、やがて操作方法を見つけたのか、画面に手を触れる。そして、国全体が急停止したのか、一度大きく傾いた。高い塔《とう》の上だと傾きが増長される。
「分かりますか?」
リヴォルバーを腰の位置で隙《すき》なく構えるキノさんが、心配そうに聞いた。やがて、西の大陸の影が、ゆっくりとだが大きくなっていくのが分かった。シズ様は、制御は画面に指示を出せばいいだけで簡単だと答える。
制御室のドアが開き、素早く反応したキノさんが狙《ねら》う先に、船長≠ェ現れた。両|脇《わき》を、女性らしい黒ずくめが支えている。武器などは持っていなかった。
シズ様が彼らを見て、
「…………」
ティーもまた睨《にら》む。
「シズ殿《どの》。どうするつもりかな?」
その問いに、シズ様は正直に答える。この国を砂浜に乗り上げ、沈まないようにする。その後、陸地の上での生活を国民に提案する。
「そんなことをして何になるという?」
「少なくとも、悲惨《ひさん》な環境から人々を救うことができる。このままでは全員死ぬ」
「この国の、王にでもなるつもりか?」
シズ様にとっては皮肉にも取れるその問いに、
「必要なら」
シズ様は短く、しかしはっきりと答えた。視界の隅で、キノさんがやや呆《あき》れた様子で肩を小さくすくめた。
「いいだろう。――お前が次だ。――そして一緒に生きろ」
船長≠フ言葉の意味が分かりかねたその瞬間に、彼は床に崩《くず》れ落ちた。
「なに?」
そして、両|脇《わき》の人間も。突如《とつじょ》気を失ったかのように、その場に倒れた。
「……変ですね」
キノさんが注意深く近づいて、ピクリとも動かない船長≠フ脇にしゃがむ。
シズ様と私、
「…………」
そしてティーが見つめる中、キノさんは、ゆっくりと左手で船長≠フ帽子《ぼうし》を取った。
黒ずくめは、人間ではなかった。
船長≠フ頭と顔があるべきところに、それらはなかった。
あったのは、人間の頭のように整形された、中綿《なかわた》を入れた布の塊《かたまり》。簡単に言えば、ぬいぐるみだった。表情などない。のっぺらぼうの、薄汚《うすよご》れた布だけだ。
キノさんが、黒いコートの袖《そで》をめくる。そこに見えた腕も、やはり芯《しん》が入っているだけのぬいぐるみだった。隣に倒れている二人≠フ顔もまたそうだった。
「…………」
「なんなんだ……?」
キノさんは無言、そしてシズ様がつぶやく。むろん答えられる人はいない。
しばらくしてキノさんは、取った帽子とベールを、元に戻していった。
陸がだいぶ近づいて、その海岸線の様子が分かる。
岩がだいぶ目立つが、少し南下したところに広い砂浜があると、制御《せいぎょ》室に備えつけられた巨大な双眼鏡を覗《のぞ》いていたキノさんが言った。
シズ様もそれを確認する。国の幅より長い入江《いりえ》状の砂浜だ。乗り上げるのに最適な場所だった。
シズ様が操作機械を睨《にら》む。後ろからキノさんが、
「ここまできた以上、ちゃんと頼みますよ――それと、今は南に向いている、輸送船のドッグ入り口を乗り上げさせてください。そうすればボクもあなたもその先何かと助かります」
「ああ。分かった」
シズ様はそう言って、機械を叩《たた》く。国はゆっくりとだが着実に、回転しながら砂浜へと動いていく。何度もあの音が聞こえたが、もう大丈夫だろう。
「では、ボクは出国の準備でもしていますよ」
キノさんはそう言って、制御《せいぎょ》室を出ていった。
シズ様は最後まで見届けた。国は何も問題なく砂浜に近づき、そういった機能があるのか、最後は制動をかけてゆっくりと乗り上げて止まった。
それはちょうど昼頃だった。雲の切れ間から太陽がのぞき、砂浜に生まれた黒い国を照らした。
シズ様は、船内放送≠フ機械を操作する。
国中の人間に、国が陸についたことを知らせ、そして外に出て確かめるように呼びかけた。制御機械で砂浜に面した城門を開く。じわじわと、恐ろしくゆっくりと、扉は開いていった。
反応がないので伝わっているか確証はないが、シズ様は制御室を出た。
一階に下りて、甲板《かんぱん》を走る。城門がほとんど開いているのが見える。ずっと走りっぱなしだが、ティーが無言で後をついてきた。
生活区に行くと、やはり人々がざわついていた。シズ様を見つけると、先ほどの放送が本当か聞いてくる。
「どうか、その目で確かめてほしい」
そう言われると、彼らは皆先を争って甲板を目指した。
シズ様は部屋に行ってバッグを持ち、誰もいなくなった生活区を通り抜けてバギーへと向かった。ティーにはついてこなくていいと言ったのだが、ティーはついてきた。
倒れている、もう動かない黒ずくめの脇《わき》を通り抜け倉庫に行くと、バギーは停めた時の姿でそこにあった。シズ様はバッテリーを繋《つな》いでエンジンをかける。
キノさんのもくろみどおり、水の入っていないドッグの底は、そのまま乗り上げた砂浜に続いていた。
できたばかりの、モトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)のタイヤの跡がある。あの×××××なモトラドのだろう。
シズ様がバギーを、砂浜の上に走りおろす。助手席にはちょこんとティーが座っているので、私はその足下で小さく丸まっているしかない。バギーが揺れたので何度か蹴られた。
広く明るい砂浜には、海と陸を分けるように黒くて高い城壁がそびえている。自分が城壁の中にいるのか、それとも外にいるのか、とっさには判断がつきにくい空間だった。
多くの人が出ていた。数百人か、もっとか。一つの部族だけではない。
彼らは砂浜と、そして西へ延々と広がる草原の景色を、呆《ほう》けた顔で見ていた。ほとんどの人にとって、大地は初めて見るものだろう。砂を触《さわ》り驚く者、そこに寝ころぶ者もいた。
キノさんはと探すと、二百メートルほど離れた、砂浜が終わり草原の始まる位置にいた。荷物を積んだモトラドの脇《わき》に立ち、こちらを見ていた。強力そうなライフルを一|丁《ちょう》背負っているのは、何かあった時のためか。かなり警戒心が強い。
シズ様は、人|溜《だ》まりの前でバギーを停めた。お世話になった部族の長老の他《ほか》に、同じように若い人間に囲まれた老人が見える。合わせてちょうど四人。間違いなく別部族の長老だろう。
当然だが人々が集まる。バギーはあっと言う間に取り囲まれた。口々に、一体何がどうなったのか知っているかと質問を浴びせかける。
シズ様はバギーのシートに立ち上がり、注目のなか声を上げて答える。自分は塔《とう》の一族の横暴なやり口に納得できずに彼らと話し、その後戦ったと。
「――そして彼らは全員、別の船に乗って別の国に逃げた。もうこの国にはいない。そこで私は塔の制御《せいぎょ》室を使い、この砂浜に国を着けた」
驚きと動揺が、集まった人々に波のように伝わる。当然といえば当然だ。抑えつけていた王様はいなくなりました、と言われれば。
「だから、もう塔の一族に搾取《さくしゅ》される生活はない。そしてこれからは、全員陸の上で生きていくことができる。しばらくは国の中で生活し、その後国の装置を陸に揚げて設置して、城壁を造って生きることもできる。漁には陸から船で出てもいい。いくらでも、新しい生活を選ぶことができる」
無言のまま、シズ様を見上げて呆然《ぼうぜん》とする人達がいた。
何秒、いや何分くらいだろうか、誰も口を開かない静かな時間が流れた。巨大な国のおかげで波の音も聞こえない。部族の大人《おとな》達の呆けた顔を見ると、彼らが相当混乱しているのが手に取るように分かる。
これはしばらく時間が必要かなと私が思った時、バギーの斜め後ろにいた子供が、隣の母親にこう言った。
「戻ろうよ……」
小さな声だったが、沈黙を続ける人々の中では、さぞかし大きく聞こえただろう。
「戻ろう、戻ろうよ」
子供が続ける。母親が子供の脇でしゃがみ、
「どうして? これからここで生きることもできるかもしれないのよ? どうして戻りたいの?」
その問いは、混乱中の彼女自身に向かって発せられたかのようだった。そして子供は、はっきりと答えてあげる。
「だってここ、全然揺れないよ。足下が柔らかいよ。壁も屋根もない。気持ち悪いよ」
不思議な感想だったが、彼らにとってそれは、これ以上ないほど愛郷の念をかき立てる言葉だったのだろう。その言葉が、先ほどシズ様が作ったのとは別の波になって、人々に広がった。
結論は早かった。
人々の中から、
「そうだ、戻ろう」
その言葉が聞こえ始めた。それは増幅していく。ここは気持ち悪い、こんなところはごめんだ、俺《おれ》達にはあそこがいい、ここは魚が取れない、雨もしのげない。他《ほか》にもいくつか聞こえた。
「あの暮らしに戻ったら、あなた方全員に未来はない」
ずっと黙っていたシズ様が、よく通る声で言った。
「数年か数十年かは分からない。今すぐでもない。しかし、この国はやがて海に沈む。そうなれば、皆死んでしまうだろう。これからは陸の上で生きないと、あなた達に未来はないんだ」
言葉を返したのは、世話になった部族の長老だった。
「そんなことがあるはずはない! 今までずっと、しっかりと浮かんでいたこの国が、沈むわけはなかろう。――そんな嘘《うそ》には騙《だま》されないぞ!」
きれいに言い切った長老の根拠の何一つない言葉が、シズ様の真実を告げる言葉より信用される。人々は口々に、賛同の声を上げた。
そして長老から、とどめとなる一言。
「どうせあなたのような旅人≠ネど、生活の場を失い彷徨《さまよ》っている放浪人であろう。そんな人に、故郷《こきょう》の国と生き方を愛する我々の気持ちは、微塵《みじん》ほども理解できぬ!」
言葉としては間遠ってはいない。確かにシズ様は放浪人だし、人間にとっての故郷は大切な、皮肉を交えて表現すればかけがえのないもの≠セろう。
シズ様には二つの選択|肢《し》があった。
一つは、塔《とう》の一族に対しそうしたように、説得力≠持って全員をこの場に押しとどめること。やや大変だが、不可能な行為ではない。
もう一つは、
「そうか……。ではもう私から言うことはない」
自分の行動の結果が、望みどおりにならなかったことを認めること。シズ様はこちらを選んだ。
シズ様の背中は、落胆《らくたん》の色を隠していない。
しかし、私に言わせれば、シズ様は確かに彼らに選択の未来を与えた。そして彼らが選んだ道だ。全員海の藻屑《もくず》と消えようと、シズ様の知ったことではない。
そんな中、
「ちょっと待てよ。塔の一族がもういないのなら――」
誰かが気づく。
「――俺《おれ》達の一族がこれからこの国を支配するべきではないのか?」
同意の声と、そんな勝手は許さないとの他部族の声。そして始まった醜《みにく》い言い争い。
「こんなところにいても埒《らち》なんてあくものか! 塔《とう》を占拠《せんきょ》してしまえば勝ちだ!」
誰かがそう叫び、国の中へと走っていく。負けじと他部族の男達が走る。他人を突き飛ばしながら先を争った。
そして、女性や子供など、他《ほか》の人達も次々に城門をくぐり国へと戻っていく。新天地になるかもしれなかった大地への未練など、素振りも見せない。黒い壁にあいた穴へ、人の波が吸い込まれていく。バギーの周辺には、足跡だけが残った。
シズ様がどんな表情でそれを見ているのか、私には見えなかった。見る必要もなかった。
「…………」
ティーは無言のまま、先ほどからずっと、バギーの助手席に座っていた。
シズ様が、去っていく人の流れを見ながら、ティーに優しい口調で言う。
「私は失敗した。ティー、国に戻るといいよ」
「…………」
ティーは答えない。
私は、そのうちティーも城門に戻るのだろうと思い、特別注意を払わなかった。のんびりと人の流れが城門に吸い込まれていく様《さま》を見ていた。
シズ様が、まわりに誰もいなくなったバギーから降りて、自分の足跡を砂浜に残す。
「…………」
ティーもバギーから降りて、その足跡を追い、シズ様の脇《わき》に立つ。私は、ティーが別れの素振りでも見せて、そして国に戻るのかと思った。
ティーは戻らなかった。バギーから少し離れた砂浜の上で、シズ様の隣に留まる。
私は、ティーの背中の大きなポケットが、かなり膨《ふく》らんでいることに気づいた。塔に入るまでは膨らんでいなかったはずだ。
「どうした? ティー。早く戻らないと、おいていかれてしまうよ」
シズ様が言った。シズ様は、ティーがここにいる理由などないと思っていたのだろう。だから彼女も、いつか沈む船に当たり前のように戻るのだと。私もそう思っていた。
「…………」
ティーが背中のポケットから、鉄製の筒《つつ》を取り出した。丸く長い筒。警備員が使う伸縮式の警棒に見えた。そして中心部に出っ張りがあった。
実際それは手榴弾《しゅりゅうだん》でも警棒ではなく、鞘《さや》に収まったナイフだった。グリップも鞘も円筒で黒一色のナイフ。ティーはすぐさま鞘を抜き捨て、細身の刃《やいば》を、シズ様の脇腹めがけ突き刺した。
相手が対峙《たいじ》している敵ならばそんなことは許さないだろうが、今は状況が違いすぎた。ティーのナイフはシズ様を捉《とら》える。
「わっ!」
それでもシズ様は素早く反応し、身をかわす。刃先はシズ様のパーカーとシャツ、そして皮膚《ひふ》を切り裂《さ》いた。鮮血が砂地に舞った。
私はその傷が、相当に痛いだろうが致命傷にはならないことは分かったので、シズ様の名前を叫ぶなどして行動を阻害しないようにする。
シズ様はバックステップで身を引いた。陸地方向へ下がり、ナイフを両手で握りしめているティーと五メートルほど距離を取る。それでも、腰の刀は抜かなかった。
バギーの右斜め前で、二人は対峙《たいじ》した。
「…………」
無言のままナイフを体の前で構えるティーを見ながら、シズ様は右手を脇《わき》腹に運ぶ。手の甲《こう》にべったりとついた自分の血を見て、
「すまないね、ティー。確かに君を怒らせるようなことをしたかもしれない」
シズ様はふだんと変わらない口調で話しかける。そういう問題かと思ったが、私は口出しをしない。
鈍《にぶ》い金属音と、やかましいエンジン音。二つが同時に聞こえた。
金属音は、巨大な城壁にあいた穴からの音だ。ティーを残したまま、城門が上からじわじわと閉まっていく。国の連中は、ティーなどお構いなしらしい。
エンジン音の方は、キノさんがモトラドに乗ってバギーの側《そば》に駆《か》けつけたためだ。ライフルを背負ったままのキノさんは、バギーの隣にモトラドを止めてエンジンを切った。
シズ様がちらりと首を右に振る。私とキノさんを見て、
「手出しはいらない。二人で話をさせてほしい」
そう言った。深くないとはいえ出血が続く脇腹が気になるが、私はバギーの上に留まる。
真《ま》っ直《す》ぐ向き直ったシズ様には、目の前にティーが見えていて、彼女の後ろには視界一面黒く高い壁がそびえているだろう。そこでじわじわと閉まっていく城壁も見えるはずだ。
「ティー。早く戻らないと、国に入れなくなる」
シズ様の問いかけに、
「………」
ティーは応《こた》えない。国へ戻ろうともしない。
シズ様も私も彼女の気持ちを測りかねていた時、
「その女の子が、ティファナ≠セね? なるほどー」
キノさんの所有物のポンコツモトラドが発言した。まったくもって緊張感のない声だ。本来ならこんな時に口を開くな、ああそもそもモトラドに口なんかないか≠ニ言い返すところだが、今回ばかりはそうもいかない。
なぜティーの名前を知っている? こいつはさっきまでずっと倉庫でぐーたら寝ていたはずなのに。キノさんだって知らないはずだ。
シズ様が同じように驚いて、一瞬不思議そうにこちらを見た。
「それはね」
モトラドが言う。質問しなくても状況は理解しているようだ。
「倉庫にしまわれて暇で暇でしょうがなかった時に、見回りの黒服さん達にいろいろな話を聞いたからだよ。同じ人間じゃないよしみで教えてくれた。彼らの正体とか、その女の子のこととか」
「何て?」
やや驚いたキノさんの問い。皆の注目を集め、知りたいことを教えてくれるのがこのポンコツなのが私はとても気にくわないが、今はその話を聞くしかない。
「国を出るまでキノには秘密にしておいてって言われて約束したんだけど、だから大陸走行中の暇つぶしに聞かせるつもりだったんだけど、まあいいか。――今は黒服さん達いないんだから」
勿体《もったい》ぶるなポンコツ。
「ティファナ≠チて、あの国にたどり着いた漂流《ひょうりゅう》船の名前だったんだ」
漂流船? とキノさんが聞き返す。
「そう、漂流船。六百年以上前のことさ。既に前の住人によって完全に放棄されていた浮遊都市国家に、一|隻《せき》の漂流船がたどり着いた。それがティファナ号=B巡礼《じゅんれい》船だか移民船とかだったその大きな船には、その時数百人の、三|歳《さい》以下の子供達が乗っていた。それより年上の人間はみんな、新種の疫病《えきびょう》で死んじゃってたんだってさ」
砂浜に、モトラドの緊張感のない声が流れる。城門はゆっくりと閉じていく。
「その船には、制御《せいぎょ》用機械があったんだ。ある程度の思考が可能な人工知能を待った、船を一括《いっかつ》運営管理するための機械がね。でも大人達が全滅して、指示を出す人が一人もいなくなってしまった。その機械は混乱しちやって、次にどうすればいいのか分からないまま、同じく何も分かっていない子供達に食事を与えながら大海原《おおうなばら》を漂流していた」
「それが、その子供達の子孫が住人達か……」
シズ様の声。
「そうだよ。そして機械が黒服の王家一族」
「なんで? エルメス」
「機械は子供達を、その国で生活させることにした。ティファナ号の中よりは生きるチャンスが多いからね。そして自らの機能を塔《とう》へと移した。国の動力炉にはエネルギーが残っていたし、捨てられたとはいえ使えるものもあったんだって。黒服の人達はみーんなぬいぐるみ≠セったでしょ? あれは人間の形が子供の世話に必要だったから作ったんだって。――そしてしばらく子育て≠ェ続いて、子供達も成長してきた。物心がついて、いろいろできるようになったけど、同時に問題が起きた」
「なるほど。彼らを纏《まと》めるものがいなかった」
シズ様が前を向いたまま言った。所詮《しょせん》は子供達だ。好き勝手に生き始めたのだろう。そして争い、混乱したのだろう。モトラドが嬉《うれ》しそうな声で、
「さすがは元王子様」
それはいいから先を続けろ。
「だから悩んだ機械は、とにかく全員を生かすために、纏めるために、何か偉い存在≠新しく創《つく》ることにした。それが王様一族。『我々は昔からここにいた一族だ』って、ある日突然でっち上げた。黒い服はその時適当に考え出したんだって。それから食料を採らせ、人間に必要なものは廃棄されていたのを直した輸送船で交易を開始して手に入れて、この国でみんなが生きていけるようにした。そうして子供達は成長して、民衆となって生活を続けた。他《ほか》にやることがないから人口が爆発的に増えて、途中|喧嘩《けんか》別れした人達が新部族を作ったりしたけど、お互い殺し合うようなこともなくここまでやってきた。――以上、あの国の歴史でした。おしまい」
緊張感のない発言の後、
「でも、黒い人達がさっさと国を陸地に着ければよかったのに」
キノさんの素朴《そぼく》かつもっともな疑問。ポンコツが答える。
「それも聞いた。陸に国を着けることも何度か考えたらしいけど、でも、まず黒服さん達の正体をばらせない。あと、他の国から、人間でもない指導者の民なんてちゃんと守られる保証なんてない、そんな世界で生きる術《すべ》を知らない人達の命を守れないって判断で、結局やめたんだって」
「それで私に、次はお前だ≠ネどと言ったのか……」
シズ様のつぶやき。確かに船長≠ヘそう言った。あれは皮肉でもなんでもなく、文字どおりその後のこの国の未来をシズ様に任せるとのことだったのだ。
無表情のままナイフを構えるティーの後ろで、城壁は半分以上閉まった。
「では、ティーのことを教えてくれ。なぜその名を」
シズ様がポンコツに言う。早く聞かないと城壁が閉まりきってしまう。
「分かった。――その女の子は、もともとこの国の人じゃないんだ」
「…………」
ティーは無言でシズ様に切っ先を向け続けているが、その体が小さく震えて動いた気がした。
「その女の子は、渡し≠ノ使った旅人の子供だったんだ」
「なるほど。それで一人だけ雰囲気が違ったのか」
キノさんが言った。確かに白髪《はくはつ》なのはティーだけだった。
「親は、亡くなったのか?」
シズ様の問いに、
「いいや。――その子は捨てられたの」
ポンコツが答えた。
ポンコツが嘘《うそ》やデタラメを言ってないとしたら、もっとも言う理由など何一つないが、ティーは捨て子だった。
ティーの両親は本当に放浪人で、二人でいろいろな国を渡り歩いていたらしい。よくいる旅のカップルだ。およそ十三年前、二人は海を渡るためにこの国にやってきた。本来なら数十日で対岸≠ノ渡って国を去る予定だったのだが、何を気に入ったのか、二人は一年以上滞在した。
その時に生まれたのがティーだった。最初のうち、二人はとても喜んだそうだ。黒ずくめ連中もできる限りの支援をした。当時は別の名前だったそうだが。
しかし、そろそろ飽《あ》きたからと出国するにあたって、二人はこう思った。
赤ん坊を連れて旅などできるものか
実際には確かに難しいだろう。むろん不可能なことではない。
二人は決断し、ティーを置き去りにして出国してしまった。それも、ごまかすためにご丁寧《ていねい》にぬいぐるみで偽装《ぎそう》した赤ん坊を抱《だ》いて。
その後、黒ずくめが広い倉庫で一人泣いているティーに気づいた。しかしもうどうしようもない。二人は陸に上がり、とっとと自分達だけの旅を楽しんでいるだろう。
黒ずくめ連中、つまり機械は、悩んだ未に自分で育てる決断をした。民衆に任せても、血縁《けつえん》関係を重視する彼らが快く受け入れるとは思えなかった。
そして新たにつけられた名前がティファナ。全《すべ》ての始まりになった船の名前だった。
ティーは黒ずくめ連中にいろいろなことを教わり育った。最初から、雨親が彼女を捨てたことをはっきりと伝えていたらしい。そして、黒ずくめ達が人間ではないことも。
ティーは、いわばこの国のお姫《ひめ》様だった。交易で得た食べ物は、主にティーの健康維持のために使われた。あの極端な食生活が危険なことは分かっていたのだ。
そしてティーは、国中を歩き回ることができる唯一の人間だった。民衆はどこにでも出没するティーを恐れ、災厄《さいやく》か悪魔のように見ていた。実際スパイのようなこともしていたらしい。破損個所を調べた際に、ティーが国中の様子を知っていた謎は解けた。
ティーをシズ様の元へ送ったのも黒ずくめだった。今まで滞在中に民衆と生きようなどする変人はいなかったらしく、監視させたらしい。
監視役だったんだね=\―ポンコツはそう言ったが、私はその瞬間に理解した。
もしティーがシズ様を気に入ったなら、彼女次第でついていってもいいと黒ずくめは本気で考えていたはずだ。
船長≠ヘ、最後にこう言った。
「そして一緒に生きろ」
あれはティーに向けて発せられた言葉だったのだ。次の王になるシズ様についていき、どこまでも生き抜くんだという、親代わりの機械からの、捨て子のお姫《ひめ》様への最後のメッセージだったのだ。
黒ずくめはいなくなった。あの国にティーの居場所はない。シズ様と一緒にいないと、のたれ死には確実だ。
そんな彼女に、そんなところに『戻るがいいよ』のシズ様の一言は、それがシズ様の優しさから発せられたものであっても――死刑宣告に等しい。
私がシズ様にそれを叫ぼうとした瞬間、閉まる途中の城壁が嫌《いや》な音を立てた。何かに引っかかったのか、ばきん、と鉄を砕《くだ》く音がした。
直後、
「わたしにもどるところなんてない!」
その高く澄んだ声が、ティーのものであることにすぐには気づかなかった。シズ様も驚きの表情を浮かべたが、その対象は、別の驚きへとそのまま移行する。
「…………」
シズ様は、ティーに向いていた視線をゆっくりと下げる。
「あ……」
そして自分のお腹《なか》へ。
それは驚くだろう。私も驚いた。キノさんの体に力が入り、足が砂を踏みしめる音が聞こえた。
「ありゃ」
ポンコツの間抜け声も聞こえた。
シズ様の腹部に、ナイフが刺さっていた。深々と。
刃《やいば》が、パーカーの布を腹部に縫《ぬ》いつけている。その裾《すそ》の下から、ジーンズへと血がだらだらと流れる。
刺さっているナイフには、銀色の金属の円筒がついていた。そしてティーは、離れた位置でナイフのグリップを構えたままだった。
謎はすぐに解けた。ティーの手の中のグリップから、太いバネが顔を覗《のぞ》かせている。あのナイフは、中央部の出っ張りを押すと刃だけがバネの力ですっ飛んでいく仕組みだった。
「あ……。ティー……」
シズ様がそう言った後、口から血を吐《は》き出しながら膝《ひざ》を落とした。両膝が砂地にめり込んで、終点の定まらない瞳がティーを向いて空を向いて、そして横になった。シズ様の上半身が、背中を見せながら砂に倒れた。
倒れるわずかな間に、ティーは手元のナイフの撃ち殻《から》を捨て、背中から同じものをもう一本抜いていた。ティーの表情に、何一つ変化はなかった。いつもの仏頂面《ぶっちょうづら》だった。
「どっちですか?」
私が何か言う前に考える前に、キノさんの質問。その右手には、大口径のリヴォルバーが握られていた。
「あの傷、結構危険ですよ」
言われなくても分かる。すぐに手当てをしないと、シズ様は出血多量かその他《た》の理由で、死んでしまうだろう。
キノさんは、どっちですかと訊《たず》ねた。どちらの人間が死ぬ方を選択すればいいですか? という意味だ。
私がシズ様を選べば、四四口径の凶悪《きょうあく》な弾丸はティーの頭を半分吹き飛ばすだろう。選ばなければ、シズ様はこのまま砂に血をたっぷり染《し》み込ませて死ぬだろう。
キノさんは、シズ様にもティーに対しても、義理や特別な感情はない。どちらが死のうが、いや、ある意味両方死のうがお構いなしだろう。またポンコツに乗って、バギーを動かせない私をここに残し、ご自身の旅を続けるだろう。
それでも私に聞いたと言うことは、私が選べるということだ。
答えは簡単すぎた。
私はキノさんに顔を向けて、しっかりと答えるためにすうっと息を吸い込み――
「どっちでもない!」
これは私の答えではない。私を見ていたキノさんが、おや、といった驚きの表情で、
「どっちでもない!」
再びそう叫んだシズ様を見た。
シズ様は、両手両|膝《ひざ》をついて砂の上にいた。そのままゆっくりと身を起こす。腹部にはナイフが刺さったまま、血は流れ続けていた。
「どっちでもないよ。だから手を出さないでほしい」
立ち上がったシズ様が、私とキノさんを見て軽く微笑《ほほえ》んだ。口元は真《ま》っ赤《か》だった。
「ティー」
シズ様がティーに振り向く。二本目を向けたままのティーが、びくん、と震える。いつも仏頂面だったティーの表情の変化を、携帯《けいたい》食料の時以来見た。
「…………」
見開かれた大きな目と、喘《あえ》ぐように無言で息をする口の動き。それは、言い知れない恐怖を感じている人の顔だった。構えたナイフの切っ先が、細かく揺れていた。
「怖がらなくていい……。すまなかった」
シズ様の声。シズ様は歩いていた。ティーに向かい、砂浜を一歩一歩。私には横顔しか見えない。
ごーん、と鐘の音のような重い音が聞こえた。ティーの背中で、城壁が閉まりきった音だった。
シズ様が、また一歩ティーに近づく。
「そうだな……。すまなかった。知らなかったとはいえ、非道《ひど》いことを言ってしまった……」
そしてシズ様は咳《せ》き込んだ。大量の血が口から溢《あふ》れて、砂に落ちた。
幽霊《ゆうれい》のような足取りで、シズ様は進む。ナイフめがけて。
「もう、あの国に戻れないね……。それはしかたのないことだ……、俺《おれ》も、原因を作ってしまった。でも……」
「…………」
ティーは無言のまま、シズ様を見つめていた。そしてシズ様はティーの目の前に。もうバネの力はいらない。ティーが細い面手を前に伸ばせば、二本目がシズ様に刺さるだろう。
「でも……、俺は、君を見捨てない、よ……。これから、一緒に助け合っていこう……」
そう言ったシズ様の表情を見ることができたのは、ただ一人、ティーだけだった。
白い髪の女の子は、すぐ目の前にいる人の顔をしっかりと見|据《す》えて、
「あ……、ありがとう……」
無表情なまま、小さな声で言った。
「礼なんていらない。でも、どういたしまして」
楽しそうにシズ様は言って、静かに膝《ひざ》をつく。そして小さなティーの体を、ナイフごと、包むように抱《だ》きしめた。
ティーの両腕が、シズ様の首に延びる。落ちたナイフが、砂に刺さるかすかな音が聞こえた。そして両腕は、シズ様の頭をぎゅっと抱《だ》きしめた。
目を閉じた小さなティーの顔が、シズ様の顔の脇《わき》に寄せられた。白い髪と黒い髪が並んだ。同時に始まったのは地面の揺れと鈍《にぶ》く響く駆動《くどう》音。
二人の背景に見えていた黒い城壁が、低くなっていくい ティーを残して、その国は下がっていく。不思議なほどの早さで、城壁は去っていく。
シズ様が、ティーを抱いたまま、顔の横に顔をつけたまま、振り返らないティーに話しかける。
「俺《おれ》も君も、あの国とはさようならだ……」
ティーが小さく、抱かれたままコクリと頷《うなず》いた。
「でも、君はこれから――」
「…………」
ティーが西の空を見上げ、無言のまま次の言葉を待った。
「俺《おれ》、と……」
シズ様の声がかき消え、
「……ひっ!」
小さなティーの悲鳴。
シズ様が、音もなく後ろに倒れていった。それを支えられず、ティーの小さな体が引きずられて倒れる。仰向《あおむ》けになったシズ様の顔は青白く、口元の赤がやけに目立った。胸が小さく上下している。まだ死んではいないはずだ。はずだが、あれは相当に危ない。そして――
「やだ! いやだ! おいていかないで! おいていかないで! いやだ!」
ティーが何度も叫んだ。表情は変わっていないが、体で否定を表すように、頭を振る。何度も何度も。
シズ様の反応はない。
「…………」
ティーの動きが止まった。動かないシズ様を無言で見下ろす。
次の瞬間、ティーの手がシズ様の右腰に伸びた。何をするのかまったく予想がつかなかったが、
「まずいね」
ポンコツの言葉。
戻されたティーの右手の中ではみ出ているのは、丸い鉄球だった。
安全ピンとレバーがついているそれは、爆発すればティーもシズ様も、体の半分は吹っ飛ぶ手榴弾《しゅりゅうだん》だ。シズ様の腰のポーチから抜き取ったのだ。
「心中するつもりだよ、あの子」
ポンコツの声と同時に、キノさんのリヴォルバーが、カチリとハンマーの上がる音と共に向けられた。
今ティーを撃てば、頭を撃って即死させれば、手榴弾は爆発しない。シズ様の隣に、小さな死体が一つ転がるだけだ。ティーの左手が、右手の安全ピンへと伸びる。
キノさんが、引き金を引くために息を止めた。その最後の呼吸音が聞こえた。
「やめろ!」
シズ様の叫び声だった。倒れたまま発せられた。
それがティーに向けてなのか、それともキノさんに向けられたのか、この瞬間の私には分からない。
しかしほぼ同時に、手榴弾から安全ピンが抜かれた。緩《ゆる》めた握りから、即座にレバーが弾《はじ》け飛んだ。
残り四秒。
そしてキノさんが撃った。
重く、長い発砲音が、砂浜を揺らす。
弾丸は音の早さで飛んだ。十分の一秒もかからなかった。
真《ま》っ直《す》ぐティーに向けて飛んだ。狙《ねら》いを寸分も違《たが》わずに、ティーの右手の中にあった丸い鉄球に、手榴弾の底に当たった。
鉄球は、ティーすら気づかないうちにその小さな手からはじき飛ばされて、誰もいない、波打ち際に落ちる。
そして爆発して、小さな穴を一つ作った。
その時、大きな船の国は海へと去りつつあった。渚《なぎさ》に、海の水が戻る。
海水は一度大きくうち寄せて、小さな穴に覆《おお》い被《かぶ》さり、それが去った時に穴はもう見えなくなっていた。