キノの旅Z the Beautiful World
時雨沢恵一
プロローグ 「何かをするために・b」
―life goes on.・b―
「お帰り、キノ」
森の中に建つ小さなログハウスの前で、老婆《ろうば》が言った。
老婆の目の前には、エルメスに乗ったキノがいて、エンジンを切った。エルメスをサイドスタンドで立たせて、風でバタつかないようにしっかりと閉じていたコートの前合わせを開いた。
「そろそろ、帰ってくるのではないかと思っていましたよ。お帰りなさい」
キノは老婆の前に歩み出ると、
「ただいま。――師匠《ししょう》」
夕暮れの空は明るく、西には染まり始めた紅色《あかいろ》が、東には濃さを増した蒼《あお》色が広がる。二人は、家の前のテラスに並んで立って、森の上に広がる空を眺めた。
誰も話さない、静かな時間が流れて、キノは思い出したように、ゴーグルごと帽子《ぼうし》を取った。
「髪を切ったのですね、キノ」
老婆が言った。キノはややぼさぼさ気味の髪を軽く左手でかいて、
「はい。ボクは気に入っています」
「いいですね。私も、いいと思いますよ」
「上に同じー」
エルメスが、テラスの下から言った。
キノは右手をコートの下にある右|腿《もも》のホルスターに伸ばし、そこにあったパースエイダーを抜いた。バレルを下にしてグリップを向けて、老婆へと差し出す。
「これ、ありがとうございました」
老婆はゆっくりと受け取って、五発|装填《そうてん》されているのを確かめて、
「どういたしまして」
老婆は左腰のベルトに、当たり前のように無造作《むぞうさ》に差し込んだ。
「すべきことは、すみましたか?」
老婆は静かな笑顔で、キノに訊《たず》ねた。
「はい」
キノは短く答えた。そして、
「でも、だからボクは……、これからどうすればいいんでしょう? ――何をすれば、いいんでしょう?」
老婆《ろうば》が答える。
「それは、自分で考えて見つけるしかありませんよ」
コートを羽織《はお》ったままのキノが、立ちつくしたまま、少しの間何かを考えていた。やがて、老婆へと顔を向ける。
「師匠《ししょう》……。ボクは、できれば、強くなりたいです」
「いいですね。私が、いろいろと教えましょう。それではどうですか?」
「はい、お願いします。それと――」
「なんです?」
「師匠の旅の話、また聞かせてください。もっと聞かせてください」
老婆は何度も頷《うなず》く、
「いいですよ。――キノは、本当に旅の話が好きですね。山の国の国長《くにおさ》が、仕事が嫌《いや》になって逃げ出してしまった話はしましたっけ?」
キノが首を振って答える。
それから――。言いながら、老婆が家へと入っていく。
それもまだですから、ぜひ――。言いながら、キノが家へと入っていく。
二人の後ろ姿を、エルメスが無言で見送った。
そして、二人とも家に入り見えなくなってから、
「え? あれ……? ちょっと、入れてよー!」
第一話 「迷惑な国」
―Leave Only Footsteps!―
小川の横に、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が止まっていた。後輪の両脇と上に旅荷物を積んだモトラドで、センタースタンドで立っていた。
小川は、子供が飛び越えられそうなほどの、小さな流れだった。流れは平らな土を削《けず》り、ほんの少し落ち込んでいる。
そこは、山に挟《はさ》まれた平原だった。
北側と南側に、ゴツゴツした岩肌の山脈が、並行して延々と続いている。高いところには、ほんの少しだけ白い雪が残っている。
その山脈に、幅の広い平坦《へいたん》な大地が挟まれていた。木々と草に覆《おお》われた緑色が、山の灰色の間に伸びていく。
モトラドの反対側で、運転手が草の上に座っていた。両足を前に出して、後ろに手をついて、そして空を見上げていた。春の暖かい太陽に、蒼《あお》い空を背景にいくつかの雲が流れていく。
運転手は十代中頃で、短い黒髪に精悍《せいかん》な顔を持つ。黒いジャケットを着て、腰を太いベルトで締めていた。右|腿《もも》には、リヴォルバータイプのハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器。この場合は拳銃)のホルスターがあった。腰の後ろにも、もう一|丁《ちょう》自動式をつけていた。
「やれやれ、だ」
運転手がそう言って、視線を下げた。
「で、どうするの? キノ。考えまとまった?」
モトラドが後ろから聞いた。キノと呼ばれた運転手が、小さく頷《うなず》いて答える。
「うん。――全然」
だめじゃん、とモトラドが言って、キノは若干《じゃっかん》|憮然《ぶぜん》とした表情のまま立ち上がる。軽くおしりをはたき、草の葉が落ちた。
「そうだな、エルメス。ボクはとりあえず……」
キノがそう言って、エルメスと呼んだモトラドに近づき、後輪脇の箱を開けた。そこから丸められた長いロープのような玉を取り出す。
「どうするの?」
エルメスが聞いた。キノは荷台の上にあった帽子《ぼうし》を軽くかぶり、一番近くにある二本の木へと近づく。
「いい考えが思いつくまで――」
「思いつくまで?」
「寝ることにする」
「はい?」
キノは、手に持っていた玉をほどいて開いた。それは、ロープと細かい網で作られた簡単なハンモックだった。両方の木の枝に手際《てぎわ》よく結んで、空中に吊《つ》るす。腰の後ろのパースエイダーをホルスターごと取り外《はず》した。
「…………」
キノはしばらくそれを、無言で眺めた。四角いバレルのついたパースエイダーが、ホルスターにほとんどむき出しで収まっている。キノはこれを、『森の人』と呼ぶ。
その後、キノは『森の人』のホルスターを、お腹《なか》の位置でベルトにとりつけた。
「天気もいいし暖かいし。たまには昼寝もいい」
キノはハンモック中央に腰掛けて、ひっくり返らないようにしながら、両足と上半身を寝かせる。ハンモックは少し揺れて、やがておさまった。
「何かあったらよろしく」
エルメスに言い残し、キノは帽子《ぼうし》を額《ひたい》に載《の》せた。
「やれやれ。どうするんだろうね」
すぐに寝入ったキノを見ながら、ぽつりとエルメスがつぶやいた。
小川には、小さな澱《よど》みがあった。土の中に水が残り、小さく蒼《あお》い空を映す。
その水が、静かに震え出した。小さな波紋《はもん》が生まれ、澱みの中心へと集まる。蒼い空が揺れていく。
「キノ!」
エルメスが大声を出した。キノはハンモックから体を滑《すべ》り落として、両手で受け身を取って草と土の上に伏せた。帽子がその脇に落ちる。
伏せたまま、
「何?」
キノが辺りを素早く見渡して、それから小声でエルメスに聞いた。エルメスはふだんと変わらない口調で、
「地面。揺れてるでしょ?」
「地面?」
キノが一瞬|訝《いぶか》って、数秒黙り、そして首を傾げる。
「まだ分からないかもね」
キノは帽子を手に立ち上がって、軽く体の土や葉を落とした。右手を腰のパースエイダーに添えたまま、エルメスに聞く。
「地震、かな?」
「違う。揺れは小さいけれど、だんだんと大きくなっているし」
「じゃあ……」
キノが首を傾げた。
「簡単。何かがゆっくりと近づいているんだよ」
エルメスが、なんでもないことのように言った。キノは首を振って、東側と西側、何一つ変わらない景色を見た。
「何かって……、何が?」
キノの質問に、
「さあ」
エルメスが答えた。
しばらくして、その答えがやってきた。
キノが小川の澱《よど》みの波紋《はもん》を見ながら、
「確かに揺れてる。ボクにもはっきり分かるようになってきた」
そう言った時、エルメスがキノを呼んで、東側の森を見るように促《うなが》した。
キノが振り返って立ち上がった。そしてそれ≠見る。
それ≠ヘ、国だった。
他《ほか》の国に似て、灰色の城壁が高く丸く囲む。城壁の材質につなぎ目がない以外、外見で珍しいところはない。
しかしその国は、
「こっちに来るね」
動いていた。キノが、東側の景色の中に現れた国を呆然《ぼうぜん》と眺めた。
木々の向こうに、城壁の高いところが見え隠れする。そしてそれは、ゆっくりとだが、着実に上へと伸びていく。つまりはキノの方へと迫ってきていた。振動が大きくなっていく。
「謎《なぞ》は解けたね」
エルメスが言って、
「確かに……。で、あれは何?」
目を大きく開け見ていたキノが聞く。エルメスは驚いた様子もなく、やっぱり国じゃない? と答えた。
「ぼんやりしていると轢《ひ》かれちやうよ」
「そうだった」
動く国は、真っ直《す》ぐ向かってくる。風鳴りのような低い音が聞こえてきた。キノは急いでハンモックをほどき、丸めて荷箱へしまう。帽子《ぼうし》をかぶりゴーグルをはめて、エルメスにまたがるとエンジンをかけた。
キノはエルメスを発進させた。草原を走り、向かってくる国の右脇へと回り込むようにして、予想進路のすぐ脇に止まる。
だいぶ近づいた国を、キノが観察した。
それは円形の城壁で、他《ほか》の国のように等間隔《とうかんかく》で見張り台がある。大きさはそれほどでもなく、歩いて楽に横断できるほどの、小型の国だった。しかしその国は動いている。遠雷《えんらい》のような重低音と振動と共に、国はキノ達に迫る。
キノが、段々見上げる角度を上げながら、少し大きな声で言う。
「すごいな……。国が動いてる。こんなの、初めて見たよ」
「同じく」
同意した後、エルメスがつけ足す。
「どうする? キノ。親指を上げてみる?」
キノがエルメスを見て、
「ひょっとすると、それはいい案かもしれない……」
「でも、いきなり撃《う》たれたりして」
「賭《かけ》だな……、賭だ。いい考えは思いつかなかった」
そしてキノは、揺れる大木の影から少し体を出して、その国に向かって大きく手を振った。
動く国はさらに近づき、進む先の木々が派手になぎ倒されていく。
城壁の下には、まず分厚《ぶあつ》い土台があった。その下に家の幅ほどあろうかという巨大なキャタピラが、ムカデの足のように数え切れないほど備え付けられ、大地を踏みしめてゆっくりと回っていた。倒された木の幹がキャタピラ下へと流れ、粉砕《ふんさい》されて消えた。
動く国は、空を覆《おお》い隠していく。やや北に傾いていた春の太陽を隠し、キノが影に入る。
「山が動いてるみたいだね、これは」
エルメスがつぶやいた。
ますます大きくなる騒音と振動の中、
「旅人さんですか?」
男の声が、キノとエルメスに届いた。まるですぐ隣から話しかけられたような声で、キノが驚いて首を振る。
「あ、私は国の中から話しかけています。そばにいるように聞こえるだけです。――あなたは旅人さんで、入国を希望されますか?」
キノが、再び手を振った。すると、
「では、しばしお待ちを」
そう声が聞こえる。しばらくすると騒音と振動がゆっくりと静まっていった。キノとエルメスの見上げる前で、最後に一度がくんと大きな音を立てて、国は動きを止めた。
キノとエルメスは、扉《とびら》の前にいた。国の正面にあり、城門のように手前に開いてスロープになる。猛烈《もうれつ》に分厚《ぶあつ》く重い扉で、先端《せんたん》は地面にめり込んだ。その向こうには通路が続き、国の中へと坂道を上っている。
一台の小型の車が、坂道を下って現れた。静かなモーター音だけを立てて走ってきた車に、男が一人乗っていた。ワイシャツにネクタイ、その上に作業用の薄緑色のジャケットを着た、四十|歳《さい》ほどの、どこにでもいそうな男だった。
「今日《こんにち》は、旅人さん。私はこの国の入国審査員、兼案内人、兼警察官、兼その他です。我が国では公務員がいろいろな仕事を兼任しますので」
キノ達の前で車を止めて、男が言った。キノとエルメスがそれぞれ自己紹介をして、旅をしていることを告げる。
「あの、やはりこれは……、国なんですか? どちらへ向かってるんですか?」
キノがそう聞いて、案内人は頷《うなず》いた。
「ええ、もちろんそうですよ。中ではたくさんの同胞達が平和に暮らしています。そして常に移動しています。今は、平地に沿って西へ」
そしてキノは、いつものように、休養と観光で入国させてもらえないか訊《たず》ねた。
案内人は、お客様はいつでも大歓迎ですと快諾《かいだく》して、
「それでは、何日ほど滞在を希望されますか?」
キノはエルメスを一度見て、それから案内人に向けて言った。
「五日から十日ほどを希望します」
「そして、あれが動力|炉《ろ》です。炉で生み出された大量の蒸気が発電機を動かし、その電力で国を動かし、また灯《あか》りを供給しています」
案内人が、分厚いガラスの向こうに広がる巨大な装置を指してそう言った。キノは助手席に、エルメスは後ろの荷台に乗っていた。車が止まっているそこは広い道で、そしてガラスと壁に囲まれた室内空間だった。微細な振動と、かすかな重低音が続いている。
案内人が、ガラスの上に備え付けられたモニターの群を指さした。そこには、装置の脇で体を完全に覆《おお》った作業服で働く人達が映っていた。
「この装置は自動で動きますので、ここで私達がすることはほとんどありません。監視だけです。燃料も、一度入れれば数百年は保《も》つとのことで、予備に手をつけてすらいません。それより必要なのは、キャタピラや駆動《くどう》モーターの整備や交換、掃除ですね。では出発します」
車が静かに動き出した。走りながら、キノが言う。
「住人のみなさんは、いつからここに住んでいるんですか?」
「国の歴史ですね。それが、実はよく分かっていません。誰かがこの移動している物体を見つけて国として移り住んだのか、それとも昔から人はいたけど覚えていないのか。謎《なぞ》ですが、どうしても分からない以上、あまり気にしていません」
「やっぱりずっと移動してるの? いい土地を見つけて定住とかは?」
エルメスが聞いて、案内人は二つの理由でずっと移動を続けていますと答えた。
「一つは、動力|炉《ろ》の問題です。一度止めると再始動に手間も時間もかかるので、止めません。移動を長い時間止めるとその熱量、エネルギーですね、これがもう余ってしまうんです。それを防ぐために、ほぼ常にキャタピラを動かして消費しています。だいたい、人間が歩く速さでしょうか」
「なるほど」「ふむふむ」
キノとエルメスが相づちを打って、それから案内人は楽しそうに笑う。
「もう一つは、旅人さん達と同じですよ。――いろいろな景色。変わっていく景色。私達はそれらが好きで、移動し続けています。つまり、国民全員で旅をしているんです」
「なるほど……、いいですね。進路は決まっているんですか?」
「いいえ。私達は、この広い大陸のどこかを移動し続けています。時には砂漠を、時には草原を、時には生活の不便を覚悟《かくご》できつい斜面を走ることもあります。同じところを通ることは滅多にありませんし、あったとしても、誰かの一生の内ではないでしょう。私達は、永遠に同じところにはいないのです」
国の中の道路を、キノ達の乗った車が行く。車が二台すれ違えるほどの道が、国中に走っている。ところどころに交差点と信号もあった。
車は、切り返しの坂道を登った。登りきって、真っ直《す》ぐ進む先に四角く眩《まぷ》しく光る出口がある。車は空の下に出た。
そこは国の中の最上階層だった。低い城壁内側に囲まれている円の中に、蒼《あお》い空の下に緑色の空間がある。そこは巨大な公園になっていて、土が敷かれ、芝生《しばふ》や森がある。樹木の中には、樹齢百年はゆうに超えているであろう巨大なものもある。人口の川や小さな湖まであった。
公園には公園らしく、散歩や運動をする人達、芝生の上で昼寝をする人達、湖にボートを浮かべて楽しむ人達がいた。
「ここが最上階で、直接太陽光を浴びることができる唯一の場所です。それはもう、国民の憩《いこ》いの場所となっています。中庭ですね。不公平にならないように、誰であっても、それこそ大統領であっても生活の場所は階下になります。側面に道と展望所はありますけれど」
「なるほど」
車は城壁の上へと、城壁に沿った坂道を登った。城壁の上は、そのまま道になっていた。幅は狭く、左右には頑丈《がんじょう》だが背の低い欄干《らんかん》があるだけ。左側からは国の緑、右側からはだいぶ下に大地の緑が見える。
「高所恐怖症には向かないね」
エルメスが言った。
車は城壁の東側、つまり国の進行方向の反対側に出て、
「うわ」「すごいね」
キノとエルメスが感嘆の声を上げた。東側の大地に、国が移動した痕跡《こんせき》があった。
大量のキャタピラが大地を掘り返し、木々や草花は押し倒され踏みつぶされ、土が荒々しく露出していた。山脈の間に太い茶色の線が、ぼやけて見えなくなるまで延びている。
「こればかりはどうしようもないんです」
案内人が、やや苦《にが》い顔で言った。
「私達も満喫《まんきつ》している豊かな大自然に、これだけ大きな跡《あと》を残すのはとても心苦しいです。きっと迷惑《めいわく》でしょう。しかし、人が歩けば足跡は残ります。これだけは仕方がないと割り切り、またこの土の上に新しい緑が逞《たくま》しく育ってくれることを願っています」
小さな、しかし清潔な部屋だった。
ベッドが一つと、今キノのコートがかかっている洋服掛けとタンス、そして折り畳《たた》み式のイスと机があった。全《すべ》てが固定されている。
部屋に窓はなく、完全に壁に覆《おお》われていた。一つの壁に、大きなモニターが一つ備え付けられていて、半分は昼間の景色を、半分は今の暗闇《くらやみ》を映していた。
部屋を入ってすぐのところに、空間を半分占領しながらエルメスが止まっていた。サイドスタンドで立たされ、倒れないようにベルトで固定されている。土などの汚れは、一切ない。
キノが、部屋の脇の扉《とびら》から出てきた。胸に『四十一号室』とプリントされた、青いズボンとシャツのパジャマを着ていた。濡《ぬ》れた髪をタオルでがしがしと拭《ふ》いて、その後首にかけてベッドに座った。
キノが言う。
「こんなに豊富にお湯が使える国は、間違いなく初めてだ」
「その水は循環されるから、明日のお昼に飲むかもしれないよ」
エルメスがいたずらっぽく言って、
「全然気にならない。川の泥水を布で濾過《ろか》して飲むよりまし」
「そりゃそうか。ところでそのパジャマは?」
「お客用だって。遠慮なく借りることにした。タオルもたくさんあった」
エルメスがふーんと言った時、部屋中がゴトゴトと、小さな地震のように揺れた。
「岩でも乗り越えてるのかな? キノ。――あ、おさまった。砕《くだ》いたかな?」
「これ全部が動いているんだからね。凄《すご》いよ」
キノがタオルを壁にかけて、枕の下に隠してあった『森の人』を取り出した。一度ホルスターから抜いて、無言で眺める。再び収めて、枕の下へ。
「うまくいくかな?」
「さあね。それも四、五日で分かる。――さて寝る」
キノはベッドに寝転がると、薄手《うすで》の毛布の下に潜《もぐ》り込んだ。
「あ、キノ――」
「話はまた明日。おやすみ」
そうエルメスに言って、
「えっと……、電気=A全部消す=v
部屋の灯《あか》りとモニターが消えた。暗闇《くらやみ》の中キノは、
「きれいなベッド……。白いシーツ……」
そう怪しくつぶやいて、すぐに眠《ねむ》った。
翌朝。
キノは起きて、部屋の灯りとモニターをつける。モニターは今の外の景色、朝焼けの森と南側の山脈を映し出した。
ベッドから起きあがると、
「おはよう。キノ」
エルメスが言った。
「……珍しいね、エルメス。おはよう」
キノがバスルームへと向かっていく、そのキノの背中に、エルメスが言う。
「昨夜言えなかったことだけどね――」
キノがバスルームへ消え、
「うわ……」
中から驚いた声が。
「髪が完全に乾かないまま寝ると、翌朝|凄《すご》いよ」
「仕事は?」
「何も。もともと機械が結構やってくれるし、もしあってもお客様にはそんなことはさせません、ってちょっと怒られた。それより観光して休養してくれって」
キノとエルメスは、蒼《あお》い空の下にいた。キノは公園の入り口までエルメスを押して、そこでスタンドをかける。キノはジャケット姿で、帽子《ぼうし》やゴーグルはない。パースエイダーも、ホルスターごと取り外《はず》してあった。
「気楽だね。昼寝でもする?」
荷物を積んでいないエルメスが聞いた。
「それもいいかも」
キノはエルメスを押して、公園へと入る。
ひなたぼっこをしていた国の住人達が、キノを見つけては話しかけてきた。全員が、キノ達のことが昨夜ニュースで流れたことに始まり、よく来てくれたねと感謝して、一人と一台で旅をしていることに感嘆し、のんびりしていってと最後に言う。
言われたとおり、キノはエルメスの脇でデッキチェアを借りて、のんびりと空を見て過ごした。昼食時には、公園中央の床から販売所がせり上がってきた。農場階層で育てられた野菜と鶏肉を使ったランチを、キノは遠慮なく食べた。
昼食後キノは、十|歳《さい》ほどの子供達が公園の入り口に集合していく様子を見ていた。数十人の子供達が、手に道具箱を持って集まる。そして引率され、城壁の中へと入っていった。
近くの住人に何かと聞くと、
「ああ、あれはですね、国民全員が幼年学校卒業記念にやる壁画ですよ」
「壁画、ですか?」
「そうです。国の城壁外側にゴンドラにぶら下がって、みんなで大きな絵を描くんです」
そして住人は、おもしろいから見学なさったらどうですかと言った。
「どうする? キノ」
「暇《ひま》だし、興味ある」
「了解《りょうかい》。城壁の上を走る時なら車に乗らなくてもいいんでしょ」
キノはエルメスのエンジンをかけ、坂道を上がって城壁の道へ。やや風が強い。
城壁を半周すると、北側に大きなクレーン車が止まっていた。二本のクレーンで城壁にガイドレールを密着させ、それに沿って横長のゴンドラを降ろすことができる。その脇に、ヘルメットと命綱をつけた子供達が並んで、楽しそうな、そして若干緊張した面《おも》もちで説明を受けていた。
キノは教員に見学の許可を求めて、道の端《はし》ぎりぎりにエルメスを止めた。落ちないように欄干《らんかん》に縛《しば》りつけて固定し、キノはその脇で、借りた命綱をつけた。
子供達がゴンドラに乗って、ゆっくりと降ろされていく。手にした大きな筆で、灰色の城壁へと色を塗《ぬ》り始めた。既にあった黒い下書きを、丁寧《ていねい》になぞっていく。
「ここからじゃ、何を描いているのか見えないね」
そしてキノとエルメスは、教員にモニターを見せてもらった。外に張り出したアーム先端《せんたん》からの映像で、描かれているのは頂上が雪に覆《おお》われた巨大な山と、その手前に広がる熱帯雨林、そして野生動物の群。動物が実物大ではないかと思えるほど、巨大な絵だった。ほとんど完成していて、下の方に少し下書きを残すだけだった。
「生徒全員で話し合って、在学中見た中でもっとも印象深かった景色を描くんです。この景色は、四年前に通った土地です。それはそれは、美しい場所でした。みんなで城壁に登って、飽《あ》きもせずいつまでも眺めた思い出の場所です。後数日で完成です。ちなみに私が子供の頃は、荒野で見つけた巨大なクレーターを描きました」
「この絵は、描き終えた後どうするんですか?」
「まず写真に残して、それから保護材を塗《ぬ》ります。そして次の生徒達が卒業する五百日後まで、城壁を飾ります」
「なるほど」
それからキノは、のんびりとエルメスに腰掛け、絵が描かれていく様子を見た。
日が暮れて、進む先に夕日が沈んでいく。
山脈の間の森に沈んでいく太陽を、キノとエルメスは部屋のモニターで眺めていた。
次の日、つまり入国してから三日目の朝。
キノは夜明けと共に起きた。モニターが映す空はどんよりとした薄曇りで、今にも雨が降りそうだった。エルメスがおもしろがってチャンネルを変えていると、
『本日の壁画制作は、延期されました』
そうアナウンスが流れて、昨日の壁画制作風景が、そして、
『入国中の旅人さんも、とても興味を持たれたようでした』
「いつの間に」「あらま」
ぼんやりとその作業を眺めるキノとエルメスの姿が大きく映った。
それからキノは、いつもどおり軽く運動する。パースエイダーの訓練をして、それから整備を始めた。右|腿《もも》の、キノが『カノン』と呼ぶリヴォルバーと『森の人』を分解し、油を引いて、弾丸を詰め直した。そしてホルスターに戻す。
もう一|丁《ちょう》、鞄《かばん》の上蓋《うわぶた》に分解して縛《しば》りつけてあった、ライフルタイプのパースエイダーを取り出す。二つに別れたそれを取りつけ、整備と作動確認をした後、
「それ、いる?」
「さあね」
エルメスの質問に答えた。スコープのレンズを丁寧《ていねい》に拭《ふ》いて、再び分解して鞄に戻した。
シャワーを浴びた後、キノはエルメスを押して食堂へ向かう。一度廊下に出て、さらに太い道へ出てすぐのところにある。道では、これから仕事場へ向かう人達と挨拶を交わした。
エルメスを机の脇に止めて固定、キノは野菜主体の朝食を受け取る。どの皿も必要以上に深く作られ、お盆《ぼん》にねじ込んで固定できる。さらにはお盆を机に固定する。
キノを見つけ、案内人兼色々の男が断りを入れて向かいの席に座った。これまでのこの国の感想を聞かれ、キノは素直に答えて、案内人の男は嬉《うれ》しそうに笑った。
のんびりと食後のお茶を終え、キノ達が立ち上がろうとした時だった。
食堂に、警報が鳴り出した。甲《かん》高く耳|障《ざわ》りな音。壁の赤色灯が回り始める。
「なんですか?」「火事?」
「総員持ち場へ。慌《あわ》てて転ばないように」
警察官兼色々の男は周りの人に命令して、それからキノとエルメスの質問に答える。
「これは、進路近くに別の国を発見したという警報です。私は外交官として指揮所に行きますが……、見学されます?」
警報が緩《ゆる》やかな音楽になって、一般の国民に部屋に入るように指示アナウンスが流れる。
男の車で、キノとエルメスは運転指揮所≠ニ書かれた部屋に到着し、中に入った。そこは船のブリッジのような空間で、雛壇《ひなだん》になった操作盤の前に何人かがイスで、その前には大きなモニターがいくつも並ぶ。
同じジャケットを着て座っている人達、その中に一人ゆったりしたイスに座る初老の女性がいた。今は外交官の男を見て、のんびりとした口調で言う。
「来ましたね。ではよろしく。――おや旅人さん。今日《こんにち》は。私がこの国の大統領です。どうかごゆっくり見学を」
キノが会釈《えしゃく》を返した。イスを勧められ座り、シートベルトを締めるように言われた。エルメスはその脇に固定される。
キノとエルメスが、目の前に並ぶモニター群に目をやった。左右の小さなものには、城壁外側の状態がいくつか映っていた。描きかけの巨大壁画が映っているものもある。そして中央の、映画館のスクリーンのような巨大モニターに、進む先の風景があった。
曇天《どんてん》の下に広がる、二日前と変わらない山脈の間の森。そして森の向こうに国があった。
「これはまた……、なんとも」
男が驚きを口に出した。大統領が、困ったことですねえ、と言った。
その城壁は、石を組み上げて造られた、なんの変哲《へんてつ》もないものだった。しかしそれは円を描かず、横に一直線に延びている。一方は北の山まで、もう一方は南の山まで。まるでダムのように、完全に平野部を遮《さえぎ》っていた。
「通せんぼ=Aですね」
男が言った。ゆっくりと、画面の中の城壁が近づいてくる。
モニターが望遠され、城壁の上で兵士達が慌てふためき、大砲が並べられていく様子が見えた。そこへ、画面上で矢印が合わせられる。男がマイクを手に取った。話し合いがしたいので責任者を、もしあれば無線に出してくださいと話しかけた。
やがて、やや雑音混じりの無線交信が始まった。向こう側の将軍と名乗った男の声で、一体|貴方《あなた》達は何者なのか聞かれ、こちらの外交官は、常に移動している国です、と自分達の状況を簡単に説明した。
「その上でお頼みします。私達は西に向かって走行していますので、あなた方の国を横切らせてください」
無線の相手がしばらく絶句して、それから、そんなことは到底受け入れられないとの答えが返ってきた。
「やっぱり」
エルメスがつぶやいた。
「しかしですね、あなた方の国は平原部を完全に城壁で塞《ふさ》いでいます。これでは私達の国の通るところがありません」
男が言った。
それは我が国が長年の努力によって拡張した領土であるので、他国に文句を言われる筋合いは一切ない。もしそれ以上近づいた場合、領土を侵犯する意図ありとして攻撃を開始する、と返事が来た。
「私達は、あなた方と無益な戦争をするつもりはありません。ただ、通らせてもらうだけです。あなた方の国の中で、どこを通ればいいのか教えてください」
どうしたらそのようなことの許可が出せるのかと、憤《いきどお》りの声が返ってきた。男は前に座っていた人間に、
「ドームを。カメラを二つ準備。左後ろと、一つ国内に」
そう指示を出した。
小型モニターが、城壁の道を映した。その中央部が割れて、そこから爪《つめ》のような装甲板《そうこうばん》が何枚もせり上がった。城壁の上で結合し、巨大なドームを作り上げた。
なるほどそちらがその気ならば、無益な戦いを望まない我が方も自衛のために武力を持って事態解決に当たるしかない、と無線通話が入り、その後、宣戦布告が通知された。直後、城壁に並べられた大砲《たいほう》が一斉に火を噴《ふ》く。
「困った人達だなあ……」
男がそうつぶやいて、直後に砲弾《ほうだん》が城壁やドームに命中する映像が映る。爆発の炎《はのお》と煙が覆《おお》って、すぐに晴れた。城壁やドームが少し焦げただけで、指揮所には音も聞こえず揺れもしなかった。
遠慮なく大砲《たいほう》で撃たれる中、動く国は目前の城壁へと近づいていく。
「そろそろいいでしょう。カメラをお願いします」
男の指示で、城壁の一部が開いて、そこから球体が二つ打ち出された。巨大なサッカーボールのような、白と黒に色分けされた球体はワイヤーを引き、しばらく放物線を描く。
一つは森の中に落ちて、一つは目の前の城壁を飛び越え、国の中に落ちる。その際に小さな木製の小屋を粉々に破壊、一度|跳《は》ね返って、畑のような土の上に落ちた。
球体のカメラからの映像が、モニターに映った。
一つは国全体を左後ろから見た映像で、巨大なドームを載《の》せたこの国が、その先に広がる城壁へとゆっくり迫りながら大砲《たいほう》で撃《う》たれまくっている姿だった。
もう一つには、目前の国の、中の景色が映る。そこには高い城壁の内側や、そこで大砲の弾を運ぶ兵士達、遠く離れたところにうっすらと見える西側の城壁などがあった。北の方角には石造りの家やビルが密集する町も見えるが、それ以外はほとんどが畑や野原で、広々としていた。
しばらくすると、カメラに向かって兵士達が殺到して、ライフルで撃ったりピンを抜いた手榴弾《しゅりゅうだん》を置いていったりするので映像が揺れに揺れた。
「大統領|閣下《かっか》、畑のところが通れそうですね。家を大量に押しつぶさなくてもよさそうです」
男がイスでゆったりとお茶を飲む女性に聞いて、
「それはとてもいいですね。ではそのように」
大統領はのんびりと言った。男がマイクの通話ボタンを押して、
「それでは、私達はあなた方の国の南に広がる田園地帯を通り抜けます。速度を上げますので、半日もかからないと思います。ご安心ください」
そんなことはさせない。例え大砲が通用せずとも、頑強《がんきよう》な城壁が我々を護るだろう、との返答。それを気にもせず、男は前に座る人に命令する。
「城壁を切ってください。前方左側、大砲が並んでいない辺りがいいでしょう」
了解《りょうかい》しましたと返答。そして、モニターに光の線が現れた。鮮《あざ》やかな黄色い光の線が、動く国から発射され、目の前の城壁へと真っ直《す》ぐ延びた。
「…………」
驚いて見入ったキノに、
「高出力のレーザーだよ。『森の人』のレーザー・サイトのお化《ば》け」
エルメスが説明を入れた。
命中したレーザーは、城壁を上から下へと走る。次に左側へ動き、最後に上へ。石の城壁を紙のように焼き切って止まった。
い、一体何をした? と焦《あせ》った将軍の声と同時に、切られた部分はゆっくりと手前に倒れる。倒れる途中に上の方から石がぼろぼろと崩れ、最後は積み木のように一斉に地面に広がって倒壊、ほこりを舞い立たせた。
「道ができました」
「では通りましょう」
男と大統領との会話。動く国は前進を一度止めて、左側へと動き出す。その様子が後ろからのカメラに映る。あいかわらず大砲《たいほう》に撃《う》たれ、黒煙の中巨大な国は、自分が開けた穴の前へピタリと向きを合わせて、再び前進を始めた。
なんというひどいことをするのだ。それに、もし我が国の中を通っていくのなら、それなりの代価を支払って行くべきではないのか? と無線が入り、
「代価と言われましても……。私達があなた方に贈れるようなものはありません。どうも申し訳ありません。ご迷惑《めいわく》にならないように、すぐに立ち去ります」
男が答えた。
放《ほう》られた二つのカメラが、ワイヤーで巻かれて戻る頃、動く国はさっきまで城壁だった石の山を踏みしめ砕《くだ》き、自ら開けた穴へと入っていった。幅はぎりぎりで、左右に車一台分の隙間すらない。
城壁をくぐり終え、動く国は平野部の国の中へ。砲撃《ほうげき》が止んで、モニターに呆然《ぼうぜん》と見上げる兵士達の姿が映った。
猛烈《もうれつ》に広い国の中には、くっきりと緑色の線が走る畑が、どこまでも平らに広がっていた。動く国はその畑に、キャタピラを沈めていく。少し速度を上げ、人が小走りする程度の速さになった。
進む先に、家が一軒あった。石造りの大きな家で、脇には農作物を保存するサイロが建つ。
「ああ、家がありますね」
男が言うのとほぼ同時に、その先には家がある! 進行を止めよ! との将軍の声。
「将軍殿。申し訳ありませんが、家の人に危険ですから退避《たいひ》するようにお伝えください」
国は速度をゆるめない。家の脇にトラックが着いて、兵士達が中に駆け込んだ。数人の住人を連れ出してきた。その中の一人、年老いた女性がトラックに乗るのを拒《こば》み、動く国に向けて何か必死で叫ぶ。続いて届かないが投石、さらにそこへ座り込みを始めた。
困ったな、と男は言って、凄《すご》い形相《ぎょうそう》で座り込みを続ける女性へと話しかける。
「危ないですよ。どいてください。轢《ひ》いてしまいます。どいてください」
女性はどかず、動く国はますます迫る。男は、今度は兵士に矢印を合わせるように言って、
「そこの兵隊さん。国民を護るのが、あなた方の義務ですよ。その人を助けてください」
やがて女性は、兵士数人に担《かつ》ぎ上げられてトラックの中へ。トラックは急いで逃げる。その際に、兵士達は窓からパースエイダーを何発も撃った。
動く国は農家のサイロ、倉庫、母屋《おもや》、ガレージ、脇にあった大木の順番に踏みつぶしていく。揺れることもなく、しばらくして通り過ぎた。後部を映すモニターでは、その跡形《あとかた》はおろか、どこにあったのかも分からなくなっていた。
「この様子ですと、何も問題なく通り抜けられそうですね。いいことです」
男がそう言って、のんびりイスに腰掛け、少し前に渡されたマグカップのお茶を飲む。キノも受け取り、飲んでいた。
あなた方は自分達の恵まれた環境をこれ以上なく悪用している。踏みつぶされる他《ほか》の国、他の人々の迷惑《めいわく》や被害、悲しみを考えないのか。そのような人として最低限必要な考えすら持てないのか。
無線に入った将軍の言葉に、エルメスが小声でキノに訊《たず》ねる。
「あんなこと言ってるけど、どうする?」
「……聞かなかったことにしよう」
キノが答えた。
「そうだね」
西側の城壁が中央のモニターにはっきりと見えてきた頃、すっかりリラックスをしている男に、前の席に座る人から声がかかる。
「小型ミサイルで、側面城壁が撃《う》たれているそうです。それが壁画のところらしく、教育委員会や父母から対処|要請《ようせい》がきています」
「え?」
男が身を起こして、切り替わった画面を見る。右側の城壁にある壁画、その絵の山の部分に大きく剥《は》げた箇所がある。別モニターで、四輪|駆動《くどう》車に小型の対戦車ミサイルを二つ載《の》せた車両が数台映る。そこから発射されたミサイルは、黒い煙と誘導ワイヤーを引き、すーっと飛んできて壁画に当たる。小さな爆発の後、象の下半身が剥げた。
「わざとですね。なんともひどい嫌《いや》がらせです。子供達がとても悲しみます。――車をレーザーで攻撃しますか?」
男が大統領に聞いた。大統領は少し考え、男に聞く。
「発射装置だけを撃てませんか?」
「無理だと思います。強力すぎます。どうしましょう?」
「必要以上の犠牲者は出したくありません。子供達には、後で私から説明しましょう」
大統領がそう言って、男は残念そうな顔で前に向き直った。
「パースエイダーで撃つのは?」
キノが言って、男が振り向いた。
「狙撃《そげき》ですか? 理《り》にかなっていますが、そんなことができる人は我が国にはいません」
「もしよければ、ボクにやらせてください」
キノが言った。
「しかし、危険ではありますよ」
「大砲《たいほう》で撃たれなければ大丈夫《だいじょうぶ》です」
「キノさんにそこまでしていただかなくても」
「乗せてもらったお礼と、子供達のためです」
男とキノが会話を交わす。二人は壁画のある城壁の上の道、ドーム装甲板《そうこうばん》の内側にいた。ここまで乗ってきた車がある。
キノは黒ジャケットに帽子《ぼうし》をかぶり、自分で『フルート』と呼ぶ、組み立て終えた自動式ライフルを持っていた。九発入りの弾倉《だんそう》をたたき込んで、一発目を装填《そうてん》する。
「まだ撃《う》たれているそうです。ミサイルを積んだ車が数台追いかけてきて、止まっては撃つそうです」
男がキノに、手に持ったモニターを見せる。土の上に四輪|駆動《くどう》車が列でやってきて、横に並んで止まる。兵士が荷台のミサイル発射機二つを外側に回転させ、剣先《けんさき》がこちらを向く。
「開けてください」
キノが言って、男がモニターのスイッチを押す。人間用の、小さなドアがスライドして開いた。キノはそこから、『フルート』を両|肘《ひじ》に抱《かか》え、道の上を這《は》っていった。後ろで男が、命綱のロープを送る。
外では薄く風が吹いていた。キノは城壁ぎりぎりへと這い出て、欄干《らんかん》の隙間にゆっくりと、『フルート』のバレルをほんの少しだけ出す。
「キノさん。もうすぐ撃たれそうです」
後ろからの男の声。キノは伏せた体勢のまま、狙《ねら》いを下へ。スコープに、車の脇で発射装置を覗《のぞ》く兵士が入る。キノが安全装置を外《はず》した。
甲《かん》高い発砲音が、立て続けに鳴った。
そしてその度《たび》に、車の脇の兵士が驚いて装置から目を離す。装置の大きなレンズが、撃ち抜かれて砕《くだ》けていた。
キノは並んだ車の発射装置だけを、端《はし》から順に壊《こわ》していく。しかし、
「!」
最後の一個を撃つ前に、ミサイルが発射された。黒煙と共に足下にある壁画に迫る。キノはそこから起きあがった。
中腰で身を晒《さら》して、『フルート』を構え直すその姿が、モニターに大写しになった。音がないので、反動の揺れと弾《はじ》き出される空薬莢《からやっきょう》が、キノが連射していることを示す。そして別のモニターの中で、壁画に向かって飛んできたミサイル二発が、空中で爆発した。
上空から見ると、二本の平行な城壁が山と山の間に延び、その中に国がある。
建物が多い中心部からだいぶ南に離れた、緑の畑が広がる国内、そこに真っ直《す》ぐで茶色く太い線があった。その線の先端《せんたん》は、ゆっくりと動く巨大なドームだった。
撃ち出されたレーザーが西側の城壁を切り取り、再びあっけなく崩れ落ちた。
動く国が、さっきまで城壁だった瓦礫《がれき》を踏み分けていく。男がマイクを手に取った。
「通過します。どうもお騒がせしました」
あなた方には破壊した城壁と家と車と畑の謝罪と、損害|賠償《ばいしょう》を要求する。これは我が国の持つ正統な権利である。移動を停止し、我が方の交渉に応じよ。将軍の、怒りに震えた声が返る。
「どんな理由であろうと、先に戦争をしかけてきたのはそちらですし、私達は負けてもいませんので、そのようなことには応じかねます。二度とこちらの土地に来ることはないと思いますので、あなた方もいつまでも根に持たずに、その土地に再び作物の種を植えられ、心穏やかな日々を過ごされるよう希望します。それでは、ごきげんよう」
男が平然と言って、交信を一方的に打ち切った。
次の日。
つまりキノが入国してから四日目の朝。
国は、昇ったばかりの朝日を背に受けて、再び人が歩くほどの速さで進んでいた。ドームは見えない。南側の山脈は終わり、西と南に果てなく平原が続いている。晴れた空の高いところに、薄く雲が筋を引いていた。
「あれだけの力があれば、他国を攻め滅ぼすのも征服《せいふく》して支配下に置くのも、簡単でしょうね」
キノが言った。黒いジャケットに帽子《ぼうし》、右|腿《もも》と腰の後ろにはホルスター。ゴーグルを首にさげていた。その脇のエルメスは、荷物を全《すべ》て積んでいる。そこは国の中の道だった。
「まあ、それはそうなんですけれど――」
案内人兼その他の男が言った。彼の後ろには、車が一台ある。
「私達は、そんな生活を望みません。今でも十分幸せですし、飢《う》えることもないですしね。そんなことをして世界中を敵に回すのも、愚《おろ》かなことです。ただ、昨日みたいなことは、まれにあります。国ではなくても、道を踏みつぶしてしまったり、堤防《ていぼう》を壊《こわ》してしまったり、墓を掘り起こしてしまったり」
「それでも移動は続けるの?」
エルメスが聞いて、男が頷《うなず》いた。
「ええ。それは仕方のないことだと割り切っています。どんな人間でも、どんな国でも、ある程度他人や他国に迷惑《めいわく》をかけながら存在しているものですよ」
「お世話になりました」
「もっとゆっくりされてはと言いたいところですが、南に進路を取ることが決まったので、残念です。もうすぐ止まって、扉《とびら》が開きます」
そして男は、最後に一つだけお聞きしますと前置きして、
「キノさん。こんな言い方が失礼に当たるのは承知の上で言わせてもらいます。この国の国民になって、私達と一緒に、ここで旅をしながら過ごしませんか? 歓迎します」
「残念ですが、ボク達はボク達で、旅を続けたいと思います」
キノが、キッパリと言った。男は予想していたように、静かに微笑《ほほえ》んだ。
「そうですか。お気をつけて」
キノが、燃料や弾薬、携帯《けいたい》食料の礼を言って、男は子供達からのお礼の気持ちを伝えた。
止まります、とアナウンスがかかって、国は動きを止める。ゆっくりと扉《とびら》が開いていった。
キノは男にもう一度礼と別れの言葉を言って、扉を、エンジンをかけずに下っていった。草原に下り立って振り返ると、扉は閉まっていって、手を振る男の姿を隠した。
キノはエルメスのエンジンをかける。爆音と共に、ゆっくりと西へと走り出す。
その国は動き出して、南へと九十度向きを変えた。キノが振り向くと、少し剥《は》げた壁画の上で、ヘルメット姿の子供達が並んで手を振っていた。
平坦《へいたん》な草原を、モトラドが西へと走っていた。
騒々しいエンジン音が響いて、驚いた鳥が逃げていく。
「久しぶり」
「ああ。やっぱりボクもこっちの方がいい」
エルメスとキノが言った。
「面白い国だったね。それに、迷惑《めいわく》な国でもあった」
「どっちが?」
キノが笑顔で聞いた。
「両方、かな。あの通せんぼの国≠ヘ、わざと平原を封鎖《ふうさ》して、通行する|全《すべ》てからいろいろ金品をふんだくろうとしていたんだし」
「高すぎたんだよ。もし、『森の人』じゃなければ、他《ほか》のものか例えば労力だったら、素直に応じて通らせてもらっていたかもしれないのに」
「今頃、必死になって城壁修理しているかな?」
「かもね」
キノが笑いながら言って、そしてふとつぶやく。
「あの国は、これから何処《どこ》へ行くんだろうな……」
「さあねえ。でも一つ予想だけど、これははっきりしてる」
「……何?」
キノが聞いて、エルメスはすぐに答える。
「数百日後には、キノがライフル構えているところが壁画になるよ」
「それはちょっと……、恥ずかしいかな」
「迷惑《めいわく》?」
エルメスが聞いて、
「それほどでは、ないかな」
キノが答えた。
第二話 「ある愛の国」
―Stray King―
広い国だった。
反対側からはおろか、中央に建つ王城からも、国をくるんでいるはずの城壁が見えない。
王城の城下町と東西城門近くの町以外は、草原と農地が広がっていた。国の中に川が何本も流れ、東南の端には大きな湖があった。その空に、眩《まぶ》しいほど白い雲の塊《かたまり》が、のんびりと漂《ただよ》っていた。
「こちらにもいません」
「くそっ。どこだ?」
王城の廊下を、王の側近が数人、青い顔をして走り回っていた。手当たり次第に扉《とびら》を開け、部屋を捜索していった。
一人が侍女《じじょ》を捕まえ、王はどこかと聞いた。侍女は乱暴な言動に気圧《けお》されながら、
「殿下《でんか》でしたら、旅人とお会いになっているはずですが……」
「そんなことは分かっている! ではどこにおるのだ? あの旅人に誘拐《ゆうかい》されたわけではあるまいな?」
「まさか」
侍女が言った。側近は無視するように、
「いやありえるぞ。あの二人はどうにも怪しかった。金品目当てに、殿下をさらうなど朝飯《あさめし》前そうな顔をしていた。だから城に入れるのは反対したのだ。くそっ、お前も探せ!」
側近が侍女を指さして言ったが、その時彼女には、廊下の向こうからやってくる三人が見えていた。
一人は若い男で、この国の王様。一人は金髪|碧眼《へきがん》の、少し背の低いハンサムな男で、旅人。もう一人は上品なジャケットを着た、長い黒髪の妙齢《みょうれい》の女性で、旅人。
「なんだい? 騒々しい」
王様が言った。侍女は恭《うやうや》しく礼をして、慌《あわ》てて振り向いた側近も、慌ててそれに倣《なら》った。
事情を聞いた王様は、旅人と中庭でお茶を飲んでいたと言って、
「異国の話につい夢中になった。しかし、ほんの少しいつもの部屋にいないだけで、騒がれては困るな」
「はっ。申し訳ありませんでした」
「客人はもうしばらくしたらお帰りになる。私はその後城内を散歩するが、騒いで探さないでくれよ」
「はっ」
苦々《にがにが》しい顔で礼をする側近を残して、三人は歩き去った。
王城の門を、一台の車がくぐって出ていった。
それは黄色くて小さくて、実にぼろかった。今にも自壊《じかい》しそうな車だった。
運転席には旅人の女性がいて、助手席に旅人の男が座っていた。
車は石|畳《だたみ》の町中の道を、ぶびびびびびびび、と嫌《いや》な音を立てながら走る。時たま、ぷんっ! ぱすんっ! とエンジンの不良点火を繰り返しながら、そのたびに白や黒の煙を吐《は》きながら進んでいった。
男が言う。
「師匠《ししょう》。窓が欠けてるの、いいかげん直しましょうよ。ガラス買ってくればすぐですよ」
運転席の窓ガラスが欠けていて、テープで申し訳程度に固定されている。振動でびりびりうるさく鳴っていた。
「そのうちにね」
女性が言った。
車は町を抜けて、畑に挟《はさ》まれた細い道を行く。遠くで農作業をしている人以外は、誰も見かけない。
「王様、ほんとにいいんですか?」
男が、唐突《とうとつ》に聞いた。狭い後部座席に押し込められるようにして、王様が荷物の底にいた。とてもユニークな体勢のまま、王様は笑顔で答える。
「いいんだ。この国の主なんて飾りだ。曾祖父《そうそふ》の時代、力は全《すべ》て取り上げられた。だいたい私の顔を知っている国民すらいない。だからいなくたって困る国民はいない。困るのは、王を飾り立てることを仕事にして、その予算をかすめ取って私腹を肥《こ》やしている一部の人間だけだ」
「なるほど……」
男が言った。女性は表情を変えず、車を走らせる。
「だから、私は愛に生きることにした。籠《かご》の中の鳥はもうたくさんだ」
王様がきっぱりと言った。
「その恋の相手っていうのは、さぞかしお美しいんでしょうねえ」
男が楽しそうに聞いて、王様が、ああもちろんだ、と答える。
「その美麗《びれい》さたるや、思い起こすだけで身震いがするほどだ。これからはずっと一緒に暮らせるなんて……、たまらない幸せを今私は魂《たましい》の奥底から感じている」
「最初はどうやってお目にかかりに?」
「ある日、城下町で祭りがあった。この時だけは私も、身分を隠して参加できる。取り巻きがうるさいがな。そして、国のはずれから来ていた彼女と出会ったのだ。一目見て、私は恋の天使が刹那《せつな》にして世界を描き変える音を聞いた。神々《こうごう》しい瞬間だった」
男がひゅうっ、と口笛を吹いた。
「でも王様。王様が彼女を王城に呼ぶことはできなかったんですか?」
「無理解かつ無知な取り巻きは、それを言った時私を病人扱いした。医者を呼んで、さんざん薬をもろうとした。私にはもっとふさわしい女性がいる、だそうだ。――ふんっ! くだらない。どうせ手前《てまえ》らの高慢《こうまん》な娘《むすめ》をあてがいたいのだろう」
「なるほど……。でもいいっすね、自分のロマンスのために全《すべ》てを捨てるなんて」
男が言って、王様は少し沈んだ口調で言った。
「貴方《あなた》達をこういう形で巻き込んで、本当にすまないと思う。心から感謝している。貴方達は私をいとも簡単に連れ出してくれた。しかも報酬もなしに……」
すると、今まで黙ってハンドルを握っていた女性が、ゆっくりと言った。
「王様、私達は王様の純真な想いに心うたれました。そのためには誘拐犯《ゆうかいはん》の汚名《おめい》など、大したことではありません」
男も笑って、
「どうせ、俺《おれ》達の悪名はあちこちで轟《とどろ》いていますしね。王様は正しい人選をしましたよ」
「……貴方達のことは忘れない。いつか私と彼女の間に子供が生まれたら、二人の美しい愛の結晶に、貴方達の名前を戴《いただ》こう」
「それは光栄ですね、王様。かわいい赤ちゃんをたくさん産んでください。そろそろ、顔をお出しされてもいいですよ。それと、敬語変ですいませんね」
男が言った。
車は、城壁が見えるほど国のはずれにやってきた。辺りには一面牧草地が広がる。
王様が女性に道を伝える。
やがて、
「ああ、あそこだ。あの草原の一軒家だ。間違いない」
「あ、いいところですね」
男が言った。
車は、こぢんまりとした家の前で止まった。農家らしく、裏にサイロが建つ。
王様は男の手を借りて後部座席から這《は》い出ると、すぐさま大声を出した。
「マリー!」
そして、家に駆《か》け寄った。
「マリー≠ウんね」
男が楽しそうに言って、家の裏から、
「どなたですか?」
澄んだ女性の声が聞こえた。
王様が急いで裏に回る。二人もその後に続いた。
裏には小さな家畜小屋があって、井戸《いど》から引いた水道があった。水を溜めた大きな桶《おけ》の脇に、一人の少女がいた。
「マリー!」
王様が両手を広げ、昂揚《こうよう》した顔で嬉《うれ》しそうに言った。
少女が王様を見た。栗《くり》色の長い髪を両脇におさげにして、少しそばかすの残った、清楚《せいそ》な顔立ちをしていた。チェックのシャツの袖《そで》をまくって、手ですくった水を羊《ひつじ》に飲ませていた。
「まあ……」
少女はそう言って立ち上がった。エプロンで軽く手を拭《ふ》く。
「あなたは、お祭りの時のお兄さんですね」
王様は小さく頷《うなず》いた。
「ああ。おぼえていてくれて嬉しい……。マリーに会いに来たよ。あの日、あの時……、マリーに会ってから――」
王様は一旦《いったん》言葉を区切って、ゆっくりと告白を続けた。
「マリーのことが忘れられなくなった。だから、こうして、自分のそれまでの生活を捨てて、今ここにいる……。その……、これから、ずっとマリーと暮らしたい。一緒に生きていきたい。マリーのことを、他《ほか》の何よりも大切にしたい。……だから、私をここに置いてもらいたい。マリーと一緒に住ませてもらいたい……。ダメだろうか……?」
少女は少し驚いた顔を作り、
「お気持ち……、よく分かりました」
それからにっこりと微笑《ほほえ》んで、王様に訊《たず》ねる。
「もしここに住んだら、お仕事、手伝っていただけますか?」
「もちろんさ! 何でもする!」
王様はとっさに答えた。
少女ははにかんで少し視線を下げ、静かに、しかしはっきりした口調で聞いた。
「優しく……、していただけますか?」
王様は真っ直《す》ぐ少女の瞳を見て、
「ああ。神に誓って約束する。……いいかい?」
「はい……」
少女がほんの少し恥ずかしそうに、そしてしっかりと頷いた。王様は、ゆっくりと歩を進め、近づいていった。旅人二人が見ている前で、王様は少女の脇にひざまずいて、
「マリー!」
そう叫んで、水を飲んでいた羊《ひつじ》を抱《だ》きしめた。
「マリー! マリー! マリー!」
「めぇぇぇぇぇえぇぇ」
羊が苦しそうに鳴き声を出した。少女が脇に座りながら言う。
「ほうら、お兄さん。あまりきつくするとダメですよ。マリーいやがってる」
「あっ、ごめん。つい嬉《うれ》しくて……。マリーが愛《いと》おしくて」
「お気持ち、よく分かります」
少女が言った。王様は再びマリーに、白くてもこもこの毛を持つ羊に、抱きついた。
「ああ、マリー。もうこれからはずっと一緒だよ。キミが死ぬまで、一つの時の流れに身をゆだねよう。私達の愛は、永遠なんだよ」
「よかったわね。マリー」
「めぇぇぇぇぇぇぇえぇ!」
二人と一頭の後ろで、旅人の男は、
「…………」
何とも形容しがたい顔をしていた。
旅人の女性は、表情を変えずにただ立っていた。そして言う。
「さて、私達はそろそろ行きましょうか」
黄色くて小さくてぼろぼろで今にも自壊《じかい》しそうな車は、いよいよ壊《こわ》れそうなエンジン音を響かせながら、草原を走っていた。サイドミラーに映る城壁は、どんどん低くなって、すぐに消えた。
助手席で男は、自分の愛用のハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器。この場合は拳銃)を、手持ちぶさたげにいじっていた。細身《ほそみ》の自動式で、ウエイトつきの四角いバレルを持つ。
それも飽《あ》きたのか、パースエイダーを左腰のホルスターにしまって、男が口を開いた。
「師匠《ししょう》……」
「なんです?」
「あの、王様とマリー……。あれで、いいんですかね?」
女性が答える。
「さあ。本人達がいいって言えば、たぶん何でもいいのでしょう」
「……まあ、そりゃ、そうですけど」
男は一度、大きく息を吐いた。
そして、話題を変える。
「それにしても師匠、見直しましたよ」
「何がですか?」
「よくあんなお金にならない仕事を引き受けましたね。たとえ結果はあれでも……。ひょっとして、見かけよりロマンチストなんじゃないですか?」
女性は一瞬男を見て、
「そうかもしれないですね。私のシートの下にある袋を取ってください」
「?」
男が後部座席に手を伸ばして、運転席下にある袋を取った。やけに重いのに不思議がって中を見ると、きらびやかなブレスレットや指輪や、宝石や金貨などがかなりたくさん入っていた。
「…………」
男は、しばし絶句《ぜっく》した。
「……あの、師匠《ししよう》、これ……、なんですか?」
男が聞いて、
「王様の部屋とか廊下にあったものです。荷造りの時にちょっと」
女性が素直に答えた。
「師匠……」
「ん?」
「火事場泥棒=Aって言葉、……知ってます?」
女性はええ、と短く言ってから、
「どうせ必要ないものでしょう? それに、」
「それに?」
「俺《おれ》達の悪名はあちこちで轟《とどろ》いて≠「るのでしょう?」
車は、今は白い煙を断続的に噴《ふ》きながら走っていく。
「師匠……」
「ん?」
「これがばれたら、俺達の人相書が旅人に配られますね、きっと」
「私は特別気にしませんが。――今から返しに行きますか?」
女性が言って、黒い煙を吐く車を止めた。
助手席の男は、ほんの少し黙って、そして言った。
「……ねえ師匠。窓が欠けてるの、いいかげん直しましょうよ」
「そのうちにね」
女性が車を発進させながら、短く答えた。
第三話 「川原にて」
―Intermission―
私の名前は陸。犬だ。
白くて長い、ふさふさの毛を持っている。いつも楽しくて笑っているような顔をしているが、別にいつも楽しくて笑っている訳ではない。生まれつきだ。
シズ様が、私のご主人様だ。いつも緑のセーターを着た青年で、複雑な経緯《いささつ》で故郷を失い、バギーで旅をしている。
私達は、春の鮮《あざ》やかな緑が囲む森の中にいた。朝の太陽は暖かい。
水の音が聞こえる。すぐ側《そば》に幾段もの岩|棚《だな》を流れ落ちる幅広の滝《たき》があった。滝の水は川になって、まばらで太い木と短い草に覆《おお》われた大地の中を流れる。川底は岩でしっかりしていて、浅い。
川の中央に、バギーが止まっていた。タイヤが半分以上水に浸《つ》かって、まるで車体が水に浮いているようだった。その車体を布で拭《ふ》いているシズ様は、袖《そで》をまくったセーターに、膝下《ひざした》までずぶ濡《ぬ》れのジーンズ姿。さすがにブーツは脱《ぬ》いで、川岸に黒いバッグや愛用の刀などと並んで置かれている。私はそれらを、そして外敵がいないかを見張っていた。特に急を要することは何もない。鳥がさえずっているのが聞こえる。
昨日の夜、私達はこの場所にたどり着いて野営をした。そして今朝。シズ様は川で自分の体や服を洗い、さらに謹《つつし》んで遠慮した私を突き落としてずぶ濡れにして洗ってくださった。今はだいぶ乾いたが。
その後、ふいにシズ様が珍しいことを始めた。
たまにはこいつも、きれいにしてやるか。
シズ様はそう言って、適当な深さの川にバギーを走り入れた。それなりに楽しそうに、先ほど嫌《いや》がる私を洗った時のように、砂|埃《ぼこり》やオイル、土がついた車体を洗っていく。車体下の水が一瞬汚くなって、新しい澄んだ流れに追いやられていく。
一つ前の国。
住人ははっきりと口にはしなかったが、よそ者は早く出ていってほしい≠ニの考えが顔にも雰囲気にも表れていた。
シズ様もはっきりと口にはしなかったが、それを察したのか、仕事を探すこともなく、売れる物を売って買うべき物を買って、夕方に出国した。
鳥がさえずっている。
シズ様は布を足下の水につけて搾《しぼ》って、そのまま車体やシートを拭《ふ》いていく。シズ様は途中少し考え事をしたかと思うと、一旦《いったん》川岸に上がった。何をするのかと思って見ていたら、落ちていた木の枝を一本拾い、またバギーに戻った。
その枝で、パイプのフレームにこびりついた泥を、丁寧《ていねい》に擦《こす》り落としていく。
私は、ふと今まで聞いたことのないことを聞くことにした。シズ様がどこでそのバギーを手に入れられたのか、訊《たず》ねた。
シズ様は、言ってなかったか? と少し驚き、そして手を動かしながら教えてくれた。
私に会う以前、シズ様は歩いて移動することになった。ちょうどよく用心棒を探している商人もいなかったし、次の国までの距離も短かった。その途中、シズ様はどこかの戦場|跡《あと》にたどり着いた。そこは少し前に激しい戦闘が行われ、破損した車両や凍《こお》った死体の上に雪が薄く積もっていた。
シズ様はそこで、何か金目《かねめ》の物を探した。一人一人、死体の腕や指を調べたが見つからなかった。そして、このバギーを見つけた。奇跡《きせき》的にほとんど破損がなく、エンジンも動いた。シズ様はバギーの上から死体をどかし、他《ほか》の車両から燃料や燃料|缶《かん》をかき集め――以来、このバギーを足≠ニして使っている。
私が、なるほど分かりましたと言うと、シズ様は笑顔で、しばらく走っていると臭《くさ》くなり、調べたら車体下に腕が一本くつついて腐っていたことをつけ足した。
ろくに整備もしていないし、こうして洗うのもほとんど初めてだなとシズ様が言う。
シズ様が、車体の向こう側で体をかがめた。しばらくして、小さな驚きの声が上がる。シズ様が体を起こした時には、何かを手にしていた。
それは、折り畳《たた》まれた薄い鉄板だった。バギーと同じ色。大きさはノートほどで、蝶番《ちょうつがい》で二つに畳んであった。シズ様が、これが車体の隙間《すきま》に差し込まれていたと言って、木の枝を投げ捨てて開いた。それを見る。
枝が下流へとゆっくり流れ、視界から消えた頃、シズ様が軽く微笑《ほほえ》んだ。鉄板を両手で持ち、静かに微笑んだ。
私は、何があるのですかと訊ねた。シズ様は水をかき分けやって来て、それを私の目の前に置いた。
開いた鉄板には、文字が刻み込まれていた。私はそれを読む。
我々の愛馬よ――
我々は戦う。愛する祖国を守るために。愛する家族を守るために。
我々は兵士であり、戦場で死ぬことを覚悟《かくご》している。
我々が死ぬまで戦い、故に祖国は勝利し、家族の安らぎは守られる。
我々の愛馬よ――貴様は我々と共に戦い、そして死ね。
貴様は戦うために生まれた。敵陣《てきじん》深く侵攻《しんこう》し、砲火《ほうか》の下を駆《か》け抜けるために生まれた。
貴様の上こそが我々の戦う場所、そして死ぬ場所。
そして貴様は、我々全員の屍《しかばね》を抱《いだ》き朽《く》ち果てよ。
それはつまり、兵士遠からこのバギーへの手紙だった。
読み終えて頭を上げると、シズ様がすっかり汚れの落ちたバギーを見ている。
なんだ、こいつも同じか。
シズ様はそう言った。私が意を酌《く》めずにいると、シズ様はわたしを見て静かに笑った。
「死ぬべきところで死ねなかったやつさ」
シズ様は鉄板を持ち上げて、畳《たた》んで、そして放った。
それは回転しながら少し飛んで、川に落ちて、すぐに沈んだ。
シズ様が運転席に座りエンジンをかける。
快調なエンジン音。シズ様はバギーを川岸に乗り上げさせた。草の上に、水が滴《したた》り落ちる。
シズ様は足を拭《ふ》いてブーツを履《は》き、そして荷物を載《の》せる。私は助手席へと飛び乗った。私もシートもまだ少し濡《ぬ》れているが、じきに乾くだろう。
シズ様がエンジンを吹かす。エンジンは快調だった。
あの整備士、いい腕だったな。
ふいにシズ様が言った。私は雪と曇天《どんてん》の平原を、白いだけの、殺風景な景色を思い出す。
そうですね。私が同意すると、さあ行こうかと言って、シズ様は私を見た。
私は、行き先を訊《たず》ねた。
分からない。分からないどこかさ。
シズ様が答えて、バギーは走り出した。
第四話 「冬の話」
―D―
狭い部屋だった。
木製のシングルベッドが一つ中央にあって、二つ目は絶対に入らない部屋だった。
それほど高くないうす茶色の壁に、一つの絵がかけられていた。上部が丸められた額《がく》が、大きな窓|枠《わく》のように拵《こしら》えられていた。絵には蒼《あお》い空を舞う白い翼を持つ天使と、緑の草原で草をはむ動物たちが描かれている。
その部屋に、本当の窓は一つもなかった。ほの暗い電球が一つ、吊《つ》られてぼんやりと光っていた。
ベッドに、一人の人間が横たわっていた。
初老の女性だった。薄緑色をした分厚《ぶあつ》い毛布を体にかけて、頭は大きな枕に沈めていた。仰向《あおむ》けで、目は開かれていたが、どこかを見ている様子はなかった。細く、ゆっくりした呼吸が、力なく開かれた口から漏《も》れていた。
ベッドの周りには、五人の人間がいた。
四人は男女二人ずつの大人《おとな》で、同じ服を着ていた。上から下まで染《し》み一つない白い服。白いエプロン。白い帽子《ぼうし》に、白いマスクをしていた。ベッドの左右に立っていた。
一人は、黒いジャケットを着た若い人間だった。恐らくは十代の中頃で、短い黒髪に精悍《せいかん》な顔を持つ。ベッドの足下に立ち、左手に大きな布袋を下げていた。
四人は、ベッドの人物に視線を向け、そして話しかけていた。返答は一切ないが、まるであるかのように、五人での会話を続けていた。
それは過去についての会話だった。これまで五人で共有した、どんな楽しいことがあったのか、再確認するための会話だった。時折、四人は楽しそうに笑った。
その様子を、黒いジャケットの一人は、何も言わずただ突っ立ったままで、遠い別の世界のことのように見ていた。
そして会話は続き、四人がひときわ大きく笑った時。
ただ息をしているだけだったベッドの住人が、ゆっくりと、かすかに口元に笑みを浮かべた。
四人の内の一人が気づいて、すぐに別の三人に手振りで告げる。そして四人は、ベッドの上の一人を、その顔を覗《のぞ》き込むように見た。
黒いジャケットの人間が、右手を布袋に入れた。左手を布袋の手提《てさ》げから放し、袋は音もなく床に落ちる。右手が握っていた中身が、すっと姿を現した。
黒くて細長い、プラスチックと金属の塊《かたまり》だった。
それは持ち上げられる。それから赤く細い光が発せられて、ベッドの人間の、胸の位置で点としてピタリと止まる。
四人は気がついていない。
狭い部屋に、空気が破裂《はれつ》する音が低く鳴った。立て続けに三回。そして、乾いた金属音も三回聞こえた。
四人が見守る中で、ベッドの上の一人は微量の電気刺激を受けたかのように震え、ほんの少しだけ枕から頭を浮かす。そして、力が抜けるように、再び枕に頭を沈めた。目は薄く開いたまま、先ほどまでの細い呼吸は止まっていた。毛布の胸の部分から、黒く赤い染《し》みがじわっと現れた。そしてそれ以上は、広がらなかった。
黒いジャケットの人間は、両手でハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器。この場合は拳銃)を構えていた。口径九ミリの自動式で、安全装置が引き金に内蔵されている。レーザー・サイトと、円筒形のサプレッサー(発射音抑制器)がついていた。床には、空薬莢《からやっきょう》が三個転がっていた。
四人が振り向いた。
一人の男が、マスクと帽子《ぼうし》の間の目で、パースエイダーを持つ人を睨《にら》み、
「異教徒よ、なんと言うことをした=v
静かな声で言った。
「殺したいから殺しました=v
黒いジャケットの人間が、同じように静かに答えた。
「異教徒よ、ここから立ち去れ=v
「そうさせてもらいます=v
短い会話の後、黒いジャケットの人間は、パースエイダーを袋にしまう。後ろにあった扉《とびら》に手をかけて、押して開けた。
四人の内の一人が、死者の瞼《まぶた》を優しく閉じる。そして、部屋からほとんど出ていた黒いジャケットの背中に声をかけた。
「ありがとうね。……ほんとうにありがとうね」
感情のこもった声に答えず、黒いジャケットは姿を消した。
城門があった。
巨石を組み上げて造られた高い城壁が、国を大きく丸く囲む。そして鋼鉄製の大きな門扉《もんぴ》が一つだけあり、しっかりと締められていた。
国の外側には、森が広がっていた。細く高い、針葉樹の密集した森だった。
そしてそこは、子供の背ほどつもった雪に覆《おお》われていた。地面はまったく見えない。湿《しめ》った空気の中、空には低い雲が、灰色の濃淡を作り出していた。
閉まった城門の脇から、一本の回廊《かいろう》が始まっていた。背の高い切《き》り妻《づま》屋根が、森の中へとまっすぐに延びていた。石|畳《だたみ》が敷かれ、左右に雪止めの頑丈《がんじょう》な塀《へい》が立つ。その向こうは屋根から落ちた雪が積もり、堤防《ていぼう》のように回廊を挟《はさ》んでいた。
大きな城門の脇に、人が通るための小さな扉《とびら》があった。扉に石が張られ、近くで見ないと扉だとは分からない。静かな軋《きし》み音と共に、扉は内側へと開いた。
黒いジャケットを着た人間が、袋を持って扉から外へ出た。その右|腿《もも》に、先ほどはなかったホルスターがあって、大口径のリヴォルバーが収まっていた。
後ろから、二人の番兵が続いた。番兵は長い槍《やり》を手に、儀礼用の装飾が施された軍服を着ていた。
番兵は扉の両脇に立ち、飾りがついたヘルメットの下の目を険《けわ》しくする。黒いジャケットの人間が振り返ると、同時に槍で足下の石を叩《たた》き、堅《かた》い音をたてた。
「同胞を殺《あや》めし異教徒よ! 今すぐこの国から立ち去れ!=v
番兵の一人が、厳《おごそ》かに大声を出した。
黒いジャケットの人間は、パースエイダーが入った袋を、番兵の足下に置いた。そして、
「分かりました。ボクはこの国から去ります=v
表情を変えず、言った。
そして踵《きびす》を返し、番兵に背中を向ける。森の中の回廊へと、歩を進めた。左右から舞い込んで薄く積もった雪を踏んで、音を立てる。
番兵は直立不動の体勢のまま、しかし表情は崩した。黒いジャケットの背中に、親しげな口調で声をかける。
「いつもと同じです。後でお届けします」
その人間は振り向かず、言葉で答える。
「分かりました。いつものところに置いておいてください」
「了解《りょうかい》しました。キノさん。ありがとうございました」
番兵は槍を、体の前で捧《ささ》げた。
キノと呼ばれた黒いジャケットの人間は、回廊をゆっくりと歩く。左右には雪だまりと、等間隔《とうかんかく》で並ぶ柱があった。
空が薄暗くなり、なんの予兆《よちょう》も見せずに雪が降り出した。重く湿《しめ》った大きな雪は、一斉にばらまかれたように、そのくせ何一つ音を立てずに、際限なく降る。
キノが足を止めて、横を見た。
雪だまりと回廊の屋根との間、降る雪が、自分と世界が昇っていく感覚をつくる。
「…………」
しばらく見ていたキノは、やがて前を向いて、再び回廊《かいろう》を歩く。
キノの背中から、国の中で狂ったように鳴らされる鐘の音が聞こえた。
回廊の行き止まりに、建物があった。
それは森の中にぽつりとあるにしては大きな建物で、石と木材で頑強《がんきょう》に造られていた。回廊が玄関につながり、煙突を持つ大きな箱形の建物が一つ。その裏側に、細長く廊下と部屋が並んでいた。屋根には分厚《ぶあつ》く雪が積もり、つららがいくつも下がっていた。
キノは一段高い玄関で足下の雪を払い、引き戸の扉《とびら》を開けて建物に入った。
入ってすぐの部屋は、大きなリビングルームだった。家具が揃い、両端に薪《まき》ストーブと暖炉《だんろ》がある。大きなガラス窓の向こうに、森の景色が見える。薄暗闇《うすくらやみ》に雪が降り続いていた。
キノは奥の廊下へ進み、一つ目の部屋に入った。脇のスイッチを押すと、電灯がともる。
部屋にはベッドと机とイス、小型のタンスとその上に置いてある大きな旅行|鞄《かばん》があった。窓があり、厚《あつ》いカーテンが閉じられていた。そして、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が止めてあった。
「あ、おはよう」
モトラドが言った。日が暮れようとしていた。
「おはようエルメス」
「あと、おかえり。今日の稼《かせ》ぎは?」
エルメスと呼ばれたモトラドが、キノに聞いた。
キノが答える。
「三人だった」
「多かったね。遅いわけだ」
「ああ――」
次の日の朝、キノは夜明けと同時に起きた。
雪はまだ、猛烈《もうれつ》に降っていた。空は黒い灰色。窓から見える森の景色より、流れるように降る雪の割合の方が多い。
誰もいないリビングルームを使い、体を動かす。キノが『カノン』と呼ぶリヴォルバーの抜き撃《う》ちの練習をして、その後整備をした。
建物には、国から温水が引かれている。キノはシャワーをあびて、服を取り替えた。
建物の裏には薪《まき》小屋があり、隣には大きな石の箱があった。キノが開けて、中に保管されてるジャガイモとタマネギ、ソーセージを取り出す。
薪を適当に割り、キッチンのストーブで燃やす。やたらに大きいフライパンを火の上に置き、切った食材を全《すべ》て一緒に炒《いた》めた。その半分を、朝食として取る。
小さなカップにお湯を沸かして、お茶を飲んだ。
雲の上で日が昇り、窓の外は、少しだけ明るくなった。雪はまだ降っている。
部屋に戻り、キノはエルメスを押してリビングルームへ。窓のそばにセンタースタンドで立たせた。
「あ、キノ。鐘は?」
エルメスが聞いて、
「今日はなかった」
キノが答えた。
暖炉《だんろ》で薪《まき》が燃え、室内は温かい。
キノはジャケットを脱《ぬ》いで、白いシャツ姿でリビングルームのイスに座っていた。机の前に、大小のナイフが整然と並んでいて、小さな瓶《びん》に入った油と、砥石《といし》があった。
「終わり。今日はもう、やることがない」
キノが言って、
「ヒマだねー。またしりとり≠ナもする?」
エルメスが答える。少し曇った窓の向こうで、雪はまだ降っていた。
キノが苦《にが》い顔をして、
「ボクの知らない単語を使われて負けるのはなあ……」
「えー、でも、スーサンナス≠チて料理は本当にあるよ」
「…………。お昼ご飯にするか……」
キノはナイフを片づけて、鞄《かばん》やポーチにしまった。
キノは、窓のそばに蓋《ふた》をして置いてあったフライパンを手にする。そのまま暖炉の炎《ほのお》の中に無造作《むぞうさ》に突っ込む。
温まった料理を食べて、雪を溶かした水でフライパンを洗い、元あった場所にぶら下げた。
キノが、食後のお茶を飲んでいた時だった。
玄関で足音がして、数度ノックされた。
「おや、珍しい。お客さんだ」
エルメスが言って、キノが立ち上がる。
「ボク達だってそうさ」
「ここでいいんだよね。間違ってないよな。――まあ、他《ほか》には森だけで何もないけどさ」
それは四十|歳《さい》ほどの男だった。顔にも顎《あご》にも髭《ひげ》を生《は》やして、背中まで伸ばし放題の髪を乱暴に一つにしている。防寒着に、毛糸の帽子《ぼうし》。大きな荷物を背負っていた。足には雪中《せっちゅう》歩行用の、手製らしい木のカンジキをはいていた。
「旅の者だ。ディスって呼んでくれ。番兵にここに来るように言われて来た。よろしくな」
「ボクはキノ。こちらは相棒《あいぼう》のエルメスです」
「どうもねー」
ディスと名乗った男は、玄関で荷物を降ろし、いいところだな言った。カンジキを外《はず》し、防寒着を脱《ぬ》いで、セーター姿になる。
キノはイスを勧めて、ディスは礼を言って座り、大きく安堵《あんど》の息を吐《は》いた。そして彼は、自分は馬で旅をしていたが、雪の中で倒れてしまい、それから豪雪《ごうせつ》でさんざんな目にあって、今朝やっとこの国にたどり着いたことを話した。
それから、キノに言う。
「少し驚いたよ。キミみたいな若い人も旅をするのか」
「ボクみたいな、とは?」
「いや、気を悪くしないでくれな。でもはっきり言ってしまうと、こんな世の中で、故郷に戻らず放浪の旅なんてしているのは、訳あり≠セ。もっと身も蓋《ふた》もない言い方をすれば、何らかの理由で故郷に居られなくなった輩《やから》が多い。まあ、何を隠そう俺《おれ》もその一人だ。そしてお互い無用な詮索《せんさく》はなしということで。仲良くやろう」
ディスが楽しそうに言った。キノは特に表情を変えず、軽く頷《うなず》く。
「俺はね、ほとんどこの国のことを知らずに来たんだ。その方が楽しいしね。で、入国した後、できたら春まで、働くから住ませてくれって言ったら、逆に驚かれたよ。知らなかったのか≠チて。それでここに来るように言われた。他《ほか》は何も聞いていない。キミに詳《くわ》しく聞いてくれってさ。仕事をすれば、ここに住ませてもらえるんだろう?」
「ええ。そうです」
「自慢《じまん》じゃないが俺は、たいていどんな国でも通用する、稼《かせ》ぎになる技術を持っている。新しい足を手に入れるのもすぐだろう」
「なるほど。でも――」
キノが言う。
「この国では、ボク達のやることには、技術はそれほど必要ありませんよ」
ディスが少し驚いて、
「そうなのか……? で、俺らは何をすればいいんだい?」
キノに聞いた。
キノは特に表情を変えず、
「この国の人を殺します」
質問に答えた。
キノが、ディスに説明した。時折エルメスが補足を入れながら。
この国には、独自の宗教上の理由から、治療≠ニいう行為が存在しなかった。
彼らの教義では、他人が誰かの体に手を加えることは許されなかった。それは彼らの神の意志に反した。人は全《すべ》て自然の一員であり、したがって大自然に生きる動物のように、己の治癒《ちゆ》力によってのみ治らなければならない。自然に生まれる以上、自然に死ななければならない。治療や手術、他人からの投薬などは、全《すべ》て不自然で悪だった。魂《たましい》が天国へいけない手段の、最もよく知られているものだった。
けがも病気も、一切《いっさい》他人は手を出さない。自分だけで治す。周りの人にできることは厳しく制限されていて、頼まれた場合のみ水や食事を運ぶくらい。
軽いけがや病気ならともかく、重傷や、重病になった場合、結果放っておかれるも同然だった。そのためにほとんどの人は、苦しみ抜いた末に自然に℃んでしまう。
だから、彼らの考えの中でどう見ても絶対に助からない人を、これ以上苦しめないように安楽死させる要望が自然に生まれた。しかし、同胞を殺すことはできない。それは殺人であり、地獄への道だった。
自然死以外に天国へ昇れる手段が、一つだけあった。戦争に備えた教義として、異教徒に殺された者は、問答無用で天国に行けることになっていた。
つまりは、巡業《じゅんぎょう》≠ニいうやつ。殉教《じゅんきょう》=H ――そうそれ。
ある大昔、誰かが滞在中の旅人にそれを頼んだ。その旅人は引き受けて、病人を殺し、国外に追放処分を受けた――、家族から報酬をもらって。
やがてそれは個人の依頼から、国の依頼になる。国で旅人の滞在場所を国外≠ノ作り、依頼し、実行後は退去処分にする。報酬の食料などを約束して。再入国は特に禁じない。
永住を防ぐために、一人最長で九十日。一季節のみの滞在を許している。一日だけで去る者もいれば、ギリギリまで居座る者もいた。特に大量の雪に閉ざされる冬は、誰も来ないか、来た者は春まで滞在するか、どちらかだった。
そして、キノは三十日を過ごし、これから雪が減り走れるまで滞在する予定だと告げた。
ディスは、一言も喋《しゃべ》らなかった。睨《にら》むような表情で、説明を聞いた。
状況の説明の後、キノは今いる建物の説明を簡単にした。奥につながる部屋がたくさんあり、電気や温水、食料と薪《まき》の供給が毎日あること。それらは今住む人の共有財産になること。ただし、安楽死の依頼は分け隔《へだ》てなく交代で受けることが、その条件であること。
「殺すためのパースエイダーと、弾丸は城門で貸してもらえます。それと、ことが済んだ後にさんざん異教徒∴オいされますが、適当に答えていれば問題ありません」
そして、エルメスが聞く。
「はい。何か質問は?」
「あるよ」
ディスが、久しぶりに口を開いた。
「今までキミが、安楽死≠ウせた人の中で……、もしもキミの生まれた国なら、病院で治療によって死なずにすんだだろう人は、一人でも、たった一人でもいたのか?」
キノがほんの少し考えて、答える。
「たぶん」
「ならば……、君のやったことは、それは殺人≠ナはないのか?」
「そうかもしれません」
「キミの国では……、殺人≠ヘ合法だったのか?」
「さあ? 大人《おとな》の世界≠ヘよく分かりませんでしたから」
「…………」
「他《ほか》に質問は? なければこれで」
「…………。それは人殺しだ。俺《おれ》は、それをやりたくはない」
「そうですか」
「…………」
キノを睨《にら》み続けるディスに、エルメスが訊《たず》ねる。
「おっちゃん、国を追い出されて、つまりは訳あり≠ナ今まで旅をしてきたんだってね。今日まで、一度も人を殺した経験、実はない?」
ディスは一瞬驚き、そして表情暗く、首を振った。
「いいや……。あるよ」
「それならば――」
キノが言った。
「ここでボクが貴方《あなた》を養う必要はないです。養われる理由もありません」
夜。
ディスは自分の選んだ部屋で、ベッドに座っていた。天井《てんじょう》では、小さく明かりがついていた。小さな革《かわ》製の手提《てさ》げ鞄《かばん》が一つ、机の上に置かれていた。その脇には、食べ散らかした携帯《けいたい》食料の紙包みがあった。
窓の外で、暗闇《くらやみ》に音もなく雪が降っていた。
「なんてことだ……。こんな国に来るべきではなかった……」
ディスがつぶやいた。ゆっくりと視線を動かし、革製の鞄を見た。
「なんてことだ……。なんてことなんだ……」
つぶやきは続き、そしてそれを聞く人はない。
キノは自分の部屋で、ベッドに座っていた。天井《てんじょう》では小さく明かりがついて、エルメスのタンクに歪《ゆが》んで映っていた。カーテンは閉められていた。
「やりたくない行動でも、間違っていると思うことでも=c…か」
キノがつぶやいて、エルメスがそれに応《こた》える。
「キノはキノさ。それより、春になったらどうするか予定を立てよう」
「春か。――まだ遠いよ」
朝。
夜が明け、雪の森の中にうっすらと色が戻ってくる。薄い青みがかった灰色から、明るさが増して、白い雪と緑の葉、立ち並ぶ茶色の幹が再び浮かび上がる。
キノが廊下からリビングルームに出てきて、窓を開けて外を眺めた。
雪は止《や》んでいたが、空は曇ったままだった。森に積もった雪の厚《あつ》みは、さらに増していた。鳥の鳴き声はなく、木々から雪が落ちる音だけが、時折聞こえた。
寒い空気の中、キノは体を動かす。温めた後運動し、抜き撃《う》ちの練習もした。
シャワーをあび、服を着替えた。腰のベルトに、右|腿《もも》で『カノン』を吊《つ》り、白いシャツの上に黒いジャケットを羽織《はお》った。叩《たた》き起こしたエルメスを押して、リビングのイスの脇に立たせた。
そして昨日と同じように、同じ量の食事を作った。
食後のお茶を飲んでいる時に、ディスがリビングルームに来た。
キノが少し驚いた。エルメスが口に出す。
「誰さん?」
ディスは顔中にあった髭《ひげ》を全《すべ》て剃《そ》り、髪の毛は短く丁寧《ていねい》に切りそろえられていた。かなり若く見えた。
ディスは昨夜からの暗い表情のまま、キノとエルメスと、朝の挨拶を交わした。そしてイスに座った。キノが聞く。
「ご自分で?」
ディスがああ、と言って小さく頷《うなず》く。
「上手《じょうず》ですね。少し羨《うらや》ましいです」
ディスは答えず、キノはキッチンにあるフライパンのことを言った。自分の昼用に半分料理が取ってあるが、食べ切ってフライパンを洗ってくれても構わないと告げた。
その直後だった。鐘の音が聞こえてきた。国の中で狂ったように打ち鳴らされる、幾重《いくえ》にも重なる鐘の音だった。
「朝の鐘は国民に、異教徒が攻めてくる≠アとを知らせる合図です」
ディスは無言で、キッチンへ向かう。フライパンを温めなおし、イスに戻る。
「それを食べるために、しなくてはいけないことがあるんです」
「…………」
ディスは一度キノを見て、フライパンの中身を見た。そして、キノが作った料理を食べ始めた。
「これからは、日替わりです。今日はどちらが行きますか?」「どう?」
キノとエルメスが、ほとんど同時に聞いた。それに答えずに、ディスは黙々と食べ続けた。
全《すべ》てきれいに食べ終えて、フライパンとフォークを脇に置いて、ディスはキノを見た。昨夜と同じように睨《にら》み付けた後、
「今日は俺《おれ》が行く」
ディスが言った。
「今日は俺が行く。文句はなしだ」
立ち上がってそう言い残し、ディスは部屋へと消えた。それほど経《た》たず、防寒着を着て、帽子《ぼうし》をかぶり戻ってきた。その手には、小さな革《かわ》製の手提《てさ》げ鞄《かばん》が一つ。
「そして、明日からキミが行かなくてもいいようにする」
ディスが言った。キノがゆっくりと、イスから立ち上がる。
「どういうことです?」
「もし助かるのなら、その人を助ける」
「どーやって?」
エルメスが後ろから聞いた。
「もちろん、治療でだ」
「例え彼らを説得≠オたとしても、この国には医者はいません。医療≠ニいう言葉すらないかもしれませんよ」
キノが言って、ディスが頷《うなず》く。
「だろうね」
「どーするの? 電話で遠くのお医者さんでも呼ぶ?」
エルメスが言って、ディスは、今度は首を、ゆっくりと横に振った。
「その必要はない。――医者はここにいる」
ディスは手に持っていた鞄を、キノとエルメスに見えるように大きく開いた。まずメスが透明なファイル内に綺麗《きれい》に並んでいて、聴診器や注射器がそれに続く。鞄の奥にはケースに入った医療器具が、整然と納められていた。
「…………。床屋ではなかったんですね」
「おどろき」
キノとエルメスが言った。ディスは小さく何度か頷いて、鞄を閉じた。
「俺は医者だった。言っただろ? どんな国でも通用する技術を持っている≠チて」
「なるほど」「なるほど」
「今まで立ち寄った国で、病院で働かせてもらったよ。教えたこともあったし、ごくごくたまに、教わったこともあったな」
「で、どうして?」
エルメスが聞いた。そしてディスは苦笑しながら、
「なし=\―だったろ?」
「お互い=\―はキノとおっちゃんの間だけの話」
「ははは」
ディスが苦笑し続けた。そして、
「じゃあ教えるよ。俺《おれ》が何故《なぜ》、故郷にいられなくなったか。それは、今ここで言うのが、とてもとてもおかしな話さ。簡単に言うとこうだ。俺は医者だった。俺は患者をわざと殺した。彼らはどうあっても助けることができなかったから=v
「それは、つまり……」
キノが言いよどんで、エルメスがはっきりと続ける。
「安楽死させる医者だった訳ね」
「だから、経験あり≠チて言っただろ」
「なるほどねえ」
キノは黙ったまま、エルメスの言葉を待った。
「つまり、おっちやんはそれで訳あり≠ノなった。違う?」
「ああ、そのとおりだ。自慢《じまん》じゃないけど、俺の故郷の医療技術は進んでいた。国にいる時は分からなかったけれど、今になって思うと相当進んでいた。俺はそこで、たくさんの技術と知識を身につけたと信じている。でも、それでも、どうしても救うことができない患者≠ヘ存在した。治療法も治療薬もない患者は、その痛みを和らげることしかできない。時にそれすらも限界があった。俺は、自分達が無能だったとは決して思ってはいない。でもたまに、どうしようもなく無力だったんだ」
「だから安楽死を望む人がいた」
エルメスが言った。
「そうさ。もう今の医療では絶対に治らない。これ以上の痛みも消えない。そんな患者は、自らの意志で安らかな死を望んだ。苦しんだ末にボロボロの体と心で自分が誰だったかも分からないまま死ぬのではなく、自宅で好きなものと好きな人に囲まれながら、人生の先輩《せんぱい》としてなかなか格好いい台詞《せりふ》を吐《は》きながら笑顔で旅立ちたいってね」
「ここから一番近い国の人達のように?」
キノが聞いて、
「ここから一番近い国の人達のようにだ」
ディスが答えた。そして続ける。
「でもそれは、俺《おれ》の故郷では違法行為だった。理由はいろいろ設けられていたが、結論は一つ。患者がどんな状態でも、いくら本人が望んでも、安楽死は医師による殺人である=v
「おっちゃんは、それをやった」
「ああ。ただしそれを決断するまでは、この料理にはどれほど塩と胡椒《こしょう》を振ろうか≠ネんて悩みじゃなかったよ。たっぷり数年は悩んだ」
「それで、どうなりました?」
「それから何年も、俺は両方を続けた。一方は仕事として、一方はできるだけ隠れて。皮肉なことに、両方から感謝されたよ。そしてある日突然ばれて、警察に捕まった。何事も、完璧はないんだな」
「そんでそんで?」
「それで、俺が殺した人の数は半端《はんぱ》じゃなかったから、国中を揺るがすことになった。安楽死議論が盛んになったが、状況は変わらなかった。俺は良くて無期懲役、悪くて死刑だと思っていた。今となっては本当にそうだったのかは不明だけど、最悪の事態を覚悟《かくご》していたし、その時は自分で≠ネんて思っていた。――国外永久追放と聞いて、一瞬何が起きたのか分からなかった。そんなところだ」
「なるほどね。よく分かった。どうもね」
「どういたしまして」
ディスはエルメスからキノへと視線を移して、
「長い立ち話になってすまないね。そろそろ俺は行くよ。できるだけのことはするつもりだ。異教徒なら住人を殺しても可≠ネら、俺は殺してやるさ。ただし、俺なりのやり方でだ。ひょっとしたら手が滑《すべ》って、けがを治療してしまうかもしれない。病気に効く薬を調合して投与してしまうかもしれない。その結果、その人の治癒《ちゆ》力が上がって自然に治ってしまった≠轣Aそれは俺の責任ではない」
キノが聞く。
「それを、あの国の人達がすんなりあっさり受け入れてくれるかどうか分かりませんよ。それでも行きますか?」
「ああ」
「生きるか死ぬか=Aですよ?」
「人生はいつだってそうさ。生きている人の決断は、それはどこか、$カきるか死ぬか≠フ決断になる。それに繋《つな》がるんだ。今まで俺は、多くの他人に対してそうしてきた。これから、自分に対してそれを行うよ。俺は昨日一晩、どうするべきか考えた。結局はどうするべきか≠ナはなく、どうしたいか≠ナ落ち着いたけれどね」
「そうですか……。もしボクが説得して°M方《あなた》を止めたら?」
ディスは瞬時に理解して、
「ああそうか、そうなるか――。君はもし俺《おれ》が成功してしまったら、これからここで生きていけなくなるかもしれない。ある意味、仕事≠ニ居場所≠失うわけだ」
「そうです。だから貴方《あなた》を殺してでも、止めようとするかもしれない。生きていくためには、遠慮なくそうするべきなのかもしれない」
キノはちらりと、右|腿《もも》の『カノン』を見て、右腰に手を当てた。
「四四口径のリヴォルバーかい。凄《すご》いモノを持っているね。撃《う》たれたら死んでしまうだろうね」
「ええ」
「それでも俺《おれ》は行くよ」
ディスは答えた。右手で鞄《かばん》を持ち、左手の拳《こぶし》で自分の胸を軽く叩《たた》いた。
「撃つ時は心臓を、三発ほど一気に頼む。――苦しまないようにしてくれよ」
そう笑顔で言い残して、玄関へ向かう。扉《とびら》を開けて、建物の外に出た瞬間、
「鐘が鳴らないように、願ってますよ」
キノは言った。ディスは振り向かずに、声だけを返す。
「願い≠ナ、人は救えない」
「知ってます」
「残念だな」
「残念ですね」
ディスが歩き始めて、その背中はゆっくりと小さくなっていく。キノの腰にあった手は、ホルスターまで下がっていた。
そしてディスが、突然振り向いた。キノに笑顔を向け、ディスは大声で言う。
「そうそう、一つ言い忘れていたよ!」
「なんです?」
「さっきの料理。とても美味《うま》かったよ! ありがとう。――じゃあ」
「…………」
キノが、とても驚いた顔を作る。
そして何も言わずにその姿を見送って、見えなくなる頃に扉を閉めた。
それから昼が過ぎて。
雪が止んで。
風が雲を追いやって、ゆっくりと蒼《あお》空が見えて。
夕方になった。
雲は残っているが、その隙間から、紅《あか》い光が柱のように漏《も》れていた。
キノはリビングルームの机で、キノが『森の人』と呼ぶ自動式のハンド・パースエイダーを分解して掃除して、再び組み立て終わったところだった。
キノが顔を上げると、窓の向こうで、つららからひっきりなしに水が垂れていた。
足音が聞こえ、扉《とびら》がノックされた。その音で寝ていたエルメスが起きた。
「お客さんだね」
『森の人』をホルスターにはめて、キノが立ち上がる。
「キノさん。おられますか?」
声が聞こえた。それは聞き覚えのある声で、
「なんだ番兵さんか」
エルメスが言った。キノは玄関を開けて、番兵を招き入れる。二人の番兵の一人は木箱を抱《かか》えていた。もう一人は何も手にしていなかった。
「キノさん。悲しいお知らせがあります」
いつもキノを見送る番兵がそう切り出した。
「なんでしょうか?」
番兵は直立不動のまま、言葉を進める。
「我が国に本日入国した異教徒が、逞《たくま》しくも孤高に病魔と戦っていた我が同胞に危害を加えました。それは昨日ここに来た男とそっくりでした=v
「…………」「ふむふむ。それで?」
「彼が同胞に与えた危害は、幸いなことにたいしたことはなく、同胞は我々が本来持っているたくましい自然|治癒《ちゆ》力を発揮して快方に向かっています。しかし我々はこの男の行動を到底許し難く、彼を拘束《こうそく》いたしました。二度とこのようなことがないように、罰として今現在病気やけがと戦っている同胞一人一人への謝罪を要求いたしました。彼は我々の寛大《かんだい》な処置に感謝し、その罰を受け入れました。当然のことではあります。そしてしばらく彼は、ここへは戻れないでしょう。これからは同じ危害を与えないように厳命しましたが、彼が愚かにも同じ行為を繰り返すようであれば、この罰は永遠に続くでありましょう=v
「そうですか。困った人ですね」「ほんとほんと」
「まったくです。彼が何を考えているのか、我々にはちっとも分かりません。キノさんにおかれましては、その男が改心するまで、しばらく入国や国内での行動を制限いたします。今まで入国時にお渡ししてきたパースエイダーも、これからはお渡ししません=v
「分かりました」
「最後になりますが、その男はいかに愚かな罪人とはいえ、我々には彼の最低限度の衣食住を保証するだけの慈愛《じあい》の心は持ち合わせております。そのことを伝えてやったところ、彼はぬけぬけとこう言いました。『自分は小食だから、半分は外に勝手に住んでいる異教徒に分け与えてくれ』=v
「…………」
「我々は異教徒の罪人の残飯《ざんぱん》など食べられません。しかし、神と自然から与えられし大切な食料を捨てるのも教義に反しますゆえ、ここにこうして処分しにきました。毎日持ってきますが、貴方《あなた》や、これからここに住む異教徒に断る権利などは一切《いっさい》ありません=v
そしてもう一人が、抱《かか》えていた木箱を置いた。彼が蓋《ふた》を開けると、いつもどおりの食材が入っていた。
「我が国からの伝言は以上であります! 我々は件《くだん》の罪深き異教徒の荷物を回収させていただきます。彼に何か、伝えることはありますか?=v
「ええ。一つだけ」
キノが笑顔で言った。
「どうぞ」
「あんなモノを食べさせてすいません。どんな理由があっても、笑顔で美味《うま》いと言ってくれたのは貴方が初めてです、と」
「はい?」
番兵が表情を崩す。
エルメスがキノの後ろで、楽しそうに言う。
「師匠《ししょう》なんか危うく死ぬところだったのにね」
「その前に撃《う》たれるかとも思ったけど」
番兵二人は顔を見合わせて、
「そのまま伝えます=v
「よろしく」
そして二人の番兵は、ディスの荷物を全《すべ》て、丁寧《ていねい》に抱《かか》えて建物から去った。
夕日が鮮《あざ》やかに世界を紅《あか》く染めて、やがて沈む。一度だけ屋根の雪が、轟音《ごうおん》を立てて一斉に落ちた。
真っ暗になっても、あれから鐘は一度も鳴らなかった。
夜。
キノは自分の部屋で、ベッドに座っていた。天井《てんじょう》では小さく明かりがついて、エルメスのタンクに歪《ゆが》んで映っていた。
キノはベッドの上に、荷物を広げていた。
たたまれたシャツやその他。帽子《ぼうし》や手袋、その他の小物。キノは丁寧にまとめて、鞄《かばん》の中にしまっていった。
それを終えて、鞄《かばん》を閉じる。机の上のカップを取って、キノはゆっくりと、少し冷めたお茶を飲んだ。
「ねえキノ、春になったらどうする?」
エルメスが聞いて、キノが答える。
「春か。そうだな、また――」
第五話 「森の中のお茶会の話」
―Thank You―
ある森の中でのお話です。
木々が鬱蒼《うっそう》と生《お》い茂る暗い森の中に、道がありました。まっすぐで、土がならされて、それなりに通りやすそうな道でした。やや緩《ゆる》やかにうねりを繰り返す地形に合わせて、道も当たり前にうねりを繰り返します。
そこは近くに国の城壁が見えるわけでもない、本当に大自然のど真ん中でした。
森の中に、流れの緩やかな川が流れていました。泳ぐのには少し小さいかもしれないけれど、水遊びをするにはいいかもしれない大きさでした。水は澄んでいて、落ち着いた川の底の泥がよく見えます。
道は川をまたぐ時に、橋になります。石を組んで作られた、とても古そうな橋でした。
その橋に腰掛けて、一人の老人が釣り糸をたらしていました。
ひょろりと背の高い、もういい年のお爺《じい》さんでした。頭の半分が白髪《しらが》で、残り半分が禿《は》げていました。農夫がよく着るような、オーバーオールの作業着を着ていました。脇には水が入ったバケツが置いてありましたが、魚は一匹も入っていませんでした。
太陽が森の高いところにあって、のんびりと世界を暖めています。影を作りそうもない薄い雲が、筋になって浮いていました。季節を気にする人に言わせると、もうすぐ夏です。
短い竿《さお》を握る老人が、ふと顔を上げました。道の向こうを覗《のぞ》き込むようにして見ました。果たしてそれは老人の聞き間違いではなく、薄い土埃《つちぼこり》を上げながら、車が一台、のんびりとこちらへ走ってくるのが見えました。
黄色くて小さくて、あまりきれいではない車でした。あちこちボディが錆《さ》びて、欠けているところもありました。老人が竿を置いて、一応跳ねられないように注意しながら、その車に手を振りました。
車は、橋の上で変な音をたてながら止まりました。
乗っていたのは二人でした。車右側の運転席から、左腰に自動式ハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器。この場合は拳銃)をさげた、背が少し低くてハンサムな若い男が、左からは、上品そうな服を着て右腰に大口径のリヴォルバーを吊《つ》った、つややかな長い黒髪の妙齢《みょうれい》の女性がおりました。二人とも、こんなところに人がいるのを驚いたのか、一度顔を見合わせました。
「やあ。旅人さんですな」
老人が、とても嬉《うれ》しそうに言いました。女性が会釈《えしゃく》します。
「今日《こんにち》は。このようなところでどなたかとお会いするとは、思いもしませんでした」
「わたしは、国を捨てた人間です。この森で、連れ合いと二人だけで暮らしています」
老人が言いました。そして驚いている二人に、ぜひとも自分の家に来てほしい。お茶でも飲みながら、旅の話を聞かせてほしい。なんなら泊まって旅の疲れを癒《いや》していってほしいと、柔らかな笑顔で話しかけました。
「急ぐ旅ではありませんし、お言葉に甘えようと思います」
女性が言って、老人は目を細めました。
「ああ。今日はとても楽しい日になりそうです。家はこの上流です。わたしはこのまま川沿いを家まで歩きます。お二方《ふたかた》は少し回り道になりますが、道をしばらく進んで、左側に細く下る道があります。それを車のままお入りください」
女性が了解《りょうかい》しましたと言いました。男が車に戻りながら、老人に訊《たず》ねます。
「何か釣《つ》れました?」
「ええ」
老人が竿《さお》と、水しか入っていないバケツを持ち上げて、笑顔で答えました。器用に片手で釣り竿に糸を巻いて、
「それでは、お待ちしています」
そう言い残して川沿いを歩き始めました。
「師匠《ししょう》……。本当に行きますか?」
男が女性に訊ねました。
「行きましょう。森の中のお茶もいいものですよ」
女性が即答して、男はつぶやきました。
「はあ……」
家がありました。
その家の一部は、もともとは車だったであろう四角い鉄製の大きな箱でした。窓|枠《わく》には板で目張りされ、その脇にくっつけられて建てられているのが、丸太小屋でした。
家は森の中、川の脇に建てられていました。周りの土地がきれいに開墾《かいこん》されていて、畑が並んでいました。家の脇に家畜の小屋があって、動物が少し飼《か》われていました。
黄色くてボロボロの車が、森の中の細い道を、へなへなと下ってきました。家の前に止まって、そこでは老人と老婆《ろうば》が待っていました。
四人は挨拶を交わして、小柄で笑顔を絶やさない老婆が、さあさどうぞと、丸太小屋の中へと案内します。板を組み一段高い玄関先には、幾つも植木|鉢《ばち》が置かれ、きれいな花がたくさん咲いていました。
家の中に入りました。入ってすぐ、大きなリビングルームがありました。広い家で、その奥にも、部屋が幾つもあるようでした。
室内は、丸太をとても上手《じょうず》に組んで、素朴ですてきな空間でした。家具も道具も、木でできた手作りのものばかりです。丸太が積まれた壁には、木彫りのお盆《ぼん》や、立派な額《がく》に入った草花の絵がたくさん飾ってあります。同じ様《よう》な絵が描かれたお皿も、棚にきれいに並びます。枝を削《けず》ってきれいに作られた箒《ほうき》が二つ仲良く並んで、太い丸太の柱に吊《つ》るされていました。
壁の二面には、車のガラスを改造して造った、大きな窓があります。今は開けられていて、涼しい風が部屋の中に入ります。その向こうに、畑ときれいな森と、静かに流れる川が見えました。
大きな丸太を上手《じょうず》に輪切りにしたテーブルと、とても丁寧《ていねい》に木を組んで造られたイスがあります。女性と男は礼を言って、勧められたイスに座りました。老人が反対側に座って、老婆《ろうば》はお茶を入れるために、部屋の端《はし》の調理用ストーブに向かいました。
「いい家ですね。驚きました」
男が言いました。
老人は楽しそうに、そう言ってもらえると本当に嬉《うれ》しいですと言いました。
老人は、自分達のことを話しました。二人は夫婦で、子供はいないこと。若い頃故郷の国に居づらさを感じて、トレーラーで旅に出たこと。どこにも移住せず、近くに国がなくて気候が穏やかなこの森をとても気に入って、自給自足の生活を始めたこと。自然の材料を使って家を建てて、動物を飼って野菜を育てて、そして自分達の手でいろいろなものを作り出しながら、何十年も、二人だけのとても平和な日々を送ってきたこと。手先の器用さが、ここでの生活にとても役に立ったこと。たまに道を通る旅人をこうしてお茶に招いては、楽しいお茶会をしていること。
女性が、
「すてきですね。私も、年を取ったらこういうところに落ち着きたいと思います」
静かに言って、隣の男がかなり驚きます。
「師匠《ししょう》がそんな考えを持っているとは知りませんでした……」
「私だって、いつまでも旅ばかりしている訳にもいきません」
「まあ、そうですけれど」
二人の会話の後、老人が訊《たず》ねました。
「お二人はどちらまで?」
自分の役目だと思ったのか、男が答えました。特に目的地はないこと。故郷も待つ人もいないこと。移動による商売をしているわけでもないことなど。
「ま、放浪人ってヤツですよ」
男がやや自嘲気味《じちょうぎみ》に言いました。女の人は特に何も言わず、座っていました。
「そうですか……。旅も、辛《つら》いこと楽しいこと、両方いろいろありますね」
老人が感慨深げに、そう言いました。
「でも、俺《おれ》なんかはずっと同じところはちょっと退屈かなって思いますけれど」
男が言って、
「楽しみもあるんですよ。自分達の手で、自然の材料でいろいろなものを作る喜び。これがわたしの生き甲斐《がい》なんです」
老人が言いました。
「はい、みなさん。お茶が入りましたよ」
老婆《ろうば》が、お盆《ぼん》を持ってきました。四つの空《から》のカップと、大きなティー・ポットが載《の》っていました。
女性がそのカップに興味を示して、一言断って、一つを手に取りました。ほとんど完璧な形をして、きれいに色が塗《ぬ》られたかわいらしいカップでした。
「これも、あなた方がお作りに? とてもよくできています」
老婆がとても嬉《うれ》しそうに頷《うなず》きました。老人は、陶器に適した土を探すのがとても大変で、森の中で探し回って数年|経《た》った後、なんとすぐ近くの川岸で偶然見つけたことを楽しそうに伝えました。
「さあさ、お茶が冷《さ》めてしまいます」
老婆は四つのカップに、湯気の立つお茶をつぎました。お客と伴侶《はんりょ》の前に置いて、自分もイスに座りました。
「いただきます」
女性が言って、カップを口元に運び、温度を少し見てから口にしました。数口飲んで、おいしいですと言いました。老人も老婆も、おいしそうにお茶を飲みました。
「…………」
ややあって、最後に男が口をつけました。
「お菓子をお出ししたかったのですが、お恥ずかしいことに昨日ちょうど終えてしまって……」
老婆が言って、すぐに女性が軽く首を振ります。
「お構いなく」
「旅人さん方は、お急ぎでなければ今晩泊まっていかれませんか? 久しぶりに他《ほか》の人とお食事をして、外の話を聞きたいと思います」
老人が言いました。すると女性は、一口お茶を飲んだ後、首を振りました。
「それは、できないのです」
老夫婦が、少し驚いた表情を作ります。女性はカップを置いて、すっと立ち上がって、次に自分が座っていたイスを持ち上げ、窓ガラスへ向けて投げつけました。
猛烈《もうれつ》な音がして、ガラスが砕《くだ》け散りました。イスも、砕けました。
「!」「ひゃあ!」
老夫婦が驚くのと、隣の男が自分のイスを同じように投げるのは同時でした。丸太の壁に当たって、イスは壊《こわ》れました。
女性はすっと歩いて、壁際にあったタンスを蹴りました。薄い板が簡単に割れて、置いてあった小さな陶器の置物が、復元不可能なほどに砕けました。男は棚の上の皿を、手を伸ばして片端《かたっぱし》から落として、板張りの床でバリバリと割りました。
「な、何を?」
老人がなんとかそれだけ言いました。彼の顔には、驚きと恐怖とが入り交じって、両手は胸の前でわなわなと震えていました。
「た、旅人さん! お、お止《や》めください! 止めてください……」
それが聞こえたのか聞こえなかったのか、二人の客人は家財の破壊にいそしみます。もう一つあったガラス窓も、男が蹴りを入れて割りました。女性は絵を落とし、枠《わく》ごと踏みつけて壊しました。
老婆《ろうば》が叫びます。
「お願いです! 旅人さん! 壊さないでください! ああ! わたし達の思い出が詰まった物なんです! お気に召さないことがあったらお詫《わ》びします! どうか! どうか……」
二人はまだ壊します。壊し続けます。
「ああ。このような力ない老人共です。欲しいものがありましたら持っていって構いません。どうか家だけは……。わたし達が雨風をしのぐところだけは……。お願いですから止めてください!」
二人はまだまだ壊します。顔には特に怒りも見せずに、これが今日の運動≠ニでも言わんばかりの普通の表情で、淡々と目につくものを壊していきます。壁に掛かっていたものはあらかた壊れました。
「非道《ひど》い……。わたし達が、何かお気にさわることをしましたでしょうか……? 今まで二人で守ってきた家を……。思い出の物を……」
老婆が床に泣き崩れ、老人は怒りで顔を赤くしながら、柱に吊《つ》るしてあった箒《ほうき》をつかみました。柄《え》を両手で持って、壁のそばで皿をパリパリ踏み割っていた男に振りかぶりました。振りかぶりましたが、まだ二人の間の距離は老人が五歩くらい歩かないとどうやっても届かないほどでしたし、振り上げたのは広い箒の先ではなく、細い柄の先でした。
「で、出ていってくれ! こんな老人をいじめないでくれ!」
男は、老人が自分に向かい敵意をむき出しにしているのを見ましたが、やれやれと言わんばかりに無視して、近くにある棚を壊そうかとそれを両手で握り、体重をかけてへし折ろうとしました。
それを見ていた女性が、やれやれと言わんばかりに腰に手を当てて、そこにあるホルスターから、大口径のリヴォルバーを抜きました。
どがん。
凄《すさ》まじい音がしました。
床で泣いていた老婆《ろうば》も、棚にぶら下がった男も、部屋中を突然震わせた轟音《ごうおん》に、ひどく驚きました。
さて箒《ほうき》を振り上げていた老人はどうしたかというと、驚く前に死んでいました。四四口径の弾丸を側頭部に受けて、細長い体は横に倒れました。頭から、どばどばと鮮血があふれ出ていて、床に染《し》みを作っていました。
女性は一発|撃《う》ったリヴォルバーを右手に持ったまま、表情を変えずに立っていました。
「ふやあ」
老婆が変な声を出して、ばたばたと死体の元へと這《は》い駆《か》けていきました。死体の頭を抱《だ》き起こして、まだ出ている血を浴びながら、夫をがくがくと揺すりました。
「ひゃあああああああああああああ! ひゃあああああああああああああ!」
どうあがいても夫が生き返らないことを悟《さと》って、老婆が甲《かん》高く長い悲鳴を上げました。耳につくそれは、森を吹き抜ける風笛《かざぶえ》のようでした。
棚の破壊を止《や》めていた男が、今もリヴォルバーを納めない女性の隣に立って、怪訝《けげん》そうな顔で話しかけようとした時です、
「ああ」
老婆がすっと立ち上がりました。両手や胸元は真っ赤《か》で、顔は穏やかな笑顔でした。
「こんなに散らかってしまいました。お掃除をしませんと」
そう言いながら、柱の箒を手にしました。
「お掃除をしませ――」
どがん。
女性は二発目を放ち、それは老婆の胸に当たりました。小さな体は面白いように吹き飛ばされて、柱に当たってくるりと回転しながら、老人の死体の上にぼさっと落ちました。
「…………」
女性は何も言わず、リヴォルバーをホルスターに納めました。丸太小屋の中に、静寂が戻ってきました。
隣で大げさに両耳を塞《ふさ》ぐ仕草《しぐさ》をしていた男が、
「師匠《ししょう》……。らしくないですよ」
驚いた顔のまま言いました。女性が顔を向けました。
「らしくない≠ニは?」
「いくらなんでも、撃《う》つのが早すぎでは? 手に棒《ぼう》だけの相手を撃ち殺すというのも、芸がないですよ」
女性は、老人が持っていた、今は床に落ちている箒《ほうき》を見て、
「拾わずに、先端《せんたん》をよく見なさい」
「…………」
男が数歩歩いて、箒を覗《のぞ》き込むようにして見ました。
「小さな穴がありますけど」
「それをゆっくりと慎重に持ち上げて、向こうの壁に向かって振り下ろしてみなさい」
女性が言って、いよいよ怪訝《けげん》そうな顔をした男が、左手一本でふっと振りました。
しゅっ、とん。
何かが勢いよく飛び出して、壁に刺さりました。驚いた男が壁に近づいて、そこに刺さっている大きな針を見て、
「え?」
声に出して驚きました。振り向いた男に、
「猛毒《もうどく》が塗ってあるでしょうから、触らないように」
女性が言いました。
「…………」
男は、しばらく無言で固まっていました。血塗《ちまみ》れのボロ雑巾《ぞうきん》のように横たわる、二人の死体を見ました。そして突然、口の奥に自分の左手の指を突っ込みました。それを見た女性が言います。
「今さらもどさなくても平気です」
「でも……」
手を抜いて振り向いた男に、
「カップに特に異常はありませんでした。毒消《どくけ》しが効いていなかったら、二人とも、いいえ四人とも、もう死んでいますよ」
女性は淡々と言いました。男が、張り気味だった肩をおろしました。
「……いつも思うんですが、師匠《ししょう》には負けますよ」
男が笑顔でそう言って、女性は別に面白くもなさそうに、だからといって怒っているわけでもない顔つきで言いました。
「女は度胸《どきょう》です」
「さて、始めましょう」
女性が言って、それから二人は、部屋の中で何かを探し始めました。懐《こわ》れた家具の中や、箱の中、タンスの中を、勝手に開けては中を調べます。テーブルの下や裏、キッチンの棚の中、そして床板《ゆかいた》に隠し扉《とびら》はないか。真っ赤《か》に塗《ぬ》れた死体の床下《ゆかした》も調べました。
この部屋を捜索し終えて、二人は手分けをして、丸太小屋の別の部屋も探し始めました。
捜索がはじまって、しばらく経《た》ちました。
ベッドルームでタンスを丁寧《ていねい》に、下から開けて、中の服を全《すべ》て調べていた女性の耳に、
「師匠《ししょう》! 師匠!」
男の声が聞こえました。女性がベッドルームを出て、声の元へ向かいます。
男とは、丸太小屋と元は車だった四角い箱のつなぎ目の廊下で鉢《はち》合わせました。男は、やや興奮気味でした。
「師匠!」
「見つけましたか?」
「ええ……。でも……」
「でも?」
「探していたのとはまるで違います。それに、また吐《は》きそうです……」
そして女性は、不思議そうな顔をして、それはどこですかと聞きました。
男は無言で、廊下を進み、木製の扉を開けました。
この先は箱です。
「なるほど……。探していたのとは、まるで違いますね」
女性が言いました。後ろで男が、でしょう? と小声で言いました。
四角い箱は細長い廊下のようで、男が開けた屋根の窓から、光が入っています。そこには、老夫婦が作ったであろう、いろいろなもの≠ェありました。それらは、自然の材料で作られたもの=Aでした。
まず目につくのが、天井《てんじょう》にぶら下げられている足でした。人間の足が、薫製《くんせい》化されて、腿《もも》をフックで引っかけられたまま、二本ずつぶら下げられていました。きれいに等間隔《とうかんかく》でした。
部屋の壁一面には、皮が隙間無く張ってありました。おへそや乳首の形で、それが人間のものだと知れました。手首から先だけが張られて、丸く円を描く模様もありました。
立った棒《ぼう》の先に刺してあるのは、昔々とある部族が作ったといわれる、目と口が縫《ぬ》われた干し首でした。元の大きさよりだいぶ収縮しています。髪の毛は丁寧《ていねい》に編んでありました。
ソファが一つありました。二人用のソファで、その足は木製でしたが、周りに人骨がデコレーションとして張り付けてありました。座るところや背もたれは、全《すべ》て人間の皮でした。背もたれの上には、剥製《はくせい》化された人の頭が四つ並んでいました。男と女と互い違いに。目にはガラス玉が埋め込まれていました。もし二人がソファに座ると、ちょうど頬《ほお》がふれあうことができました。後ろからだと、仲良く六人が座っているように見えるでしょう。
その前の床には、トラや熊でよく見る、頭と体中の皮を一度に剥《は》がした敷物がありました。もちろん人間で、大柄な男のものだと思われました。
小さな丸テーブルがありました。その四つの足は人間の足でした。その上には、頭蓋骨《ずがいこつ》を逆さに切って作られたボウルが二つと、指の骨で作られたフォークが並んでいました。
奥には木の棚が一つあって、そこにはとても大切そうに、大きなガラスの瓶《びん》が数個ありました。中には液体と、小さな首がありました。全《すべ》て子供でした。見開いた濁《にご》った目で、女性を見ていました。口を開けて、舌を出されていました。その先を、太い針が貫いていました。別のビンには、何人分もの眼球だけが、ゴロゴロと隙間なく入っていました。よく見ると、棚の縁には耳がついていました。
「楽しみ≠ゥ……」
男が女性の後ろで、老人の言葉を思い出して、吐《は》き捨てるように言いました。
「なるほど」
女性は、それから部屋を調べ始めました。家具を動かしたり、時に皮を剥《は》がしたり。男がいやそうな顔をして入り口で見ている中、熱心に調べました。
それが終わって入り口に戻ってきて、
「どうやら、この部屋には死体だけのようですね」
女性はさらりと言いました。
「師匠《ししょう》……。気味《きみ》悪くないんですか?」
「死体は襲いかかってきません」
「そりゃまあ、そうですけど……」
女性が、部屋に再び目をやりました。
「これだけの旅人を殺したんです。彼らが持っていた貴金属が、どこかにまとめてあるはずです。徹底的に探します。そのために来たんですから」
「はあ……。夜になってもですか?」
女性が丸太小屋へ向かいます。
「ええ。ここに泊めてもらいましょう」
「……うえ」
取り残された男が、一度箱の中を見ました。ガラス瓶《びん》の中の女の子と、目が合いました。その子に軽く手を振って振り向いた男は、
「ん?」
また振り向きました。
「あなたはそちらを」
ベッドルームでドロボウ顔負けの家捜《やさが》しをする女性が、入ってきた男に言いました。言われたとおり、男はベッドの脇の棚を調べ始めます。ベッドも棚も、きれいな木を使って丁寧《ていねい》な細工《さいく》がされた、売ればお金になりそうなものでしたが、
「さすがにこれは持って帰れないですね」
男が言いました。
二人は無言で、ベッドルームをあさり続けます。床板《ゆかいた》を叩《たた》いて、空洞《くうどう》がありそうなところを見つけると、ひっぺがして男が顔を入れて、床下《ゆかした》を見ました。顔を上げて首を振りました。
「次の部屋に行きましょう」
女性が言って、男を連れて廊下に出た時のことです。
『ありがとう』
声が聞こえました。女性が訊《たず》ねます。
「何か言いましたか?」
「ん? いいえ」
『ありがとう』
また声がして、女性の足が止まります。
『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』
声が立て続けに聞こえました。
まるで森の中の、少し強い風が吹いた時の葉擦《はず》れのようです。どこからかではなく、特定できないそれこそまわり中から、いろいろな人の『ありがとう』の声は重なり合って聞こえてきました。
「何です? 蓄音機ですか?」
女性が男に振り向いて聞いて、男は肩をすくめました。
「あー、またですか……。これ、蓄音機と違いますよ。また、だなあ。さっきなんか感じ≠ヘしたんですけどね」
「また=Aとは?」
男は、少し言いにくそうに、そして少し照れた様子で言います。
「オバケですよ。幽霊《ゆうれい》。ゴースト。俺《おれ》、ガキの頃からよく聞こえたり見えたりするんですよ。きっと今まで殺された旅人達が、俺達に礼を言ってくれているんです。あ、でも珍しいですね、師匠《ししょう》も聞こえたなんて――、師匠?」
自分が話している間に、すたすたと背中が小さくなっていく女性に、男は声をかけます。
「ちょっと?」
女性は早足で死体が転がるリビングルームを通り抜け、植木|鉢《ばち》の花がきれいな玄関を抜けて、初夏の日が眩《まぶ》しい外に出ました。
「師匠……?」
男が慌《あわ》てて追って、車に乗り込んで運転席に座った女性に、窓の外から怪訝《けげん》そうな顔を向けました。
女性はキッと、男を見て。
「出発です」
「え? え? ――お宝は?」
「これで、もう旅人が襲われることはないでしょう。それで、良しとしましょう。それに、夜になっても見つからない可能性もあります。死体で遊ぶのが目的だったとしたら、金目《かねめ》のものは捨ててしまっているかも知れません」
男は、不思議な顔をして、助手席に座りました。小さい車が揺れました。
「まあ、いいですけれど……。まさか師匠《ししょう》――」
「そのようなことはありません」
男が聞いて、女性は凛《りん》とした顔で、きっぱりと言い放ちました。エンジンをかけました。
「いいですけど……」
男がつぶやいて、一瞬考え事をして、それから、
「でも、今|俺《おれ》の背中に憑《つ》いてきたヤツはどうしましょう?」
男が聞きました。女性は表情を変えず、右の腰からリヴォルバーを抜きます。その様子が男には見えていなくて、彼は言葉を続けます。
「こいつも、たぶん俺達と一緒に旅をした――」
どがん。
女性が男の背後の空間へいきなり発砲して、車の後部ガラスが一瞬で砕《くだ》け散りました。右耳に轟音《ごうおん》の直撃を受けた男が、
「うひゃ!」
身をよじりました。
「…………」
目を見開いて、運転席の女性を見ていた男に、質問がきます。
「彼は?」
「あー、い、いなくなった……、みたいですね……」
「そうですか。では行きましょう」
女性はギアを入れると、車を急発進させました。車は坂を上り、あっという間に見えなくなりました。
森の中に、小さな川が流れていました。
そのほとりに、家がありました。
畑と緑に囲まれた、とてもよくできた丸太小屋でした。一段高い板張りの玄関に、いくつもの植木|鉢《ばち》が並んで、きれいな花を咲かせていました。そのうちの一つだけが、四四口径の弾丸の直撃を受けてしまっていて、砕《くだ》けた破片と土が散らばっていました。
茶色い破片と黒い土の中に、きらきらと光るものがあります。
誰もいない家の玄関に、きれいな宝石がたくさん転がっていて、初夏の太陽をあびて輝いていました。
第六話 「嘘つき達の国」
―Waiting ForYou―
キノとエルメスが着いたその国には、キノが使える城門は一つしかなかった。
西の城門で旅人の使用は認められていないことを教《おそ》わり、城壁脇の道を南側へ回った。門番の兵士に三日間の滞在を求めて、許可がおりた。
開いた城門を、キノはエルメスを押してくぐる。
くぐり抜けた先には、太い木が雑然と伸びる森が広がっていた。
紅葉してほとんど落ちた葉が、地面と、一本だけ走る土の道を覆《おお》っている。冷たい風が吹いて、落ち葉とキノのコートを揺らした。
キノが、エルメスのエンジンをかけようとした時だった。森の中から、男が一人走ってきた。
三十|歳《さい》ほどの男で、薄手のシャツの上に、室内で着る厚手《あつで》のベストを着ていた。キノを見て、目が合って、そして少し落胆《らくたん》した表情をした。
「なんだろ?」
エルメスが聞いて、キノがさあ、と答える。
男は少し来そうに体の前で手を組みながら、キノの前に歩いてきた。
「やあ旅人さん。どこかで僕の恋人に会わなかったかい? 僕のことを、彼女から何か聞いていなかったかい? 言《こと》づてとかはないかい?」
男が聞いた。
キノが首を振ると、
「そっか……。僕の恋人は、五年前にどうしても仕方がない理由でこの国からいきなり旅に出たんだ。でも、必ず僕のところへ帰ってくるから待っていてほしいって言い残したから、僕はいつまでも待ってるんだよ」
男は、訊《たず》ねてもいないことを勝手に喋《しゃべ》った。その間に、後ろからエプロン姿の女性が小走りでやってきた。短い髪をして、歳《とし》は男と同じくらい。手に、暖かそうな上着を持っていた。
女性は、男に上着をかけながら、
「こんな格好で外に出ては、風邪《かぜ》をひいてしまいますよ。もう寒いですから」
「あ、ああ。ごめんよ。でも、僕の恋人が帰ってきたと思ったんだ。残念だ。また違ったよ」
男が、袖《そで》に手を通しながら言った。
エルメスが、キノあれ、と短く言って森の中を見るように促《うなが》す。木々に囲まれて、一軒[#「一軒」は底本では「一見」と誤植]の家があった。
「この国の人は、みなさん森の中で暮らしているんですか?」
キノが聞いて、
「いや。みんなはもっと北にある町に住んでるよ」
男が答えた。
「この人は僕の家政婦さんで、とてもよく働いてくれる。だから僕は何もしなくていい。毎日ずっと、恋人を待っていることができる。助かっているよ」
そう言って、そして大きくくしゃみをした男に、
「ほら、もう戻りましょう」
家政婦さんが優しく言った。
男が家政婦さんに聞く。
「まだかな? まだ彼女は帰ってきてくれないのかな?」
「いつかきっと帰ってらっしゃいますよ。さあ」
家政婦さんは背中をゆっくりと押して、男を振り向かせた。
すぐに男はキノに振り向いて、
「旅人さん、本当に知らないのかい? 僕の恋人を本当に見なかった? 隠してるんじゃないでしょうね?」
キノが再び首を振った。
「そっか……」
男はがっくりと肩を落とし、家に向かって歩き出した。家政婦さんが、転ばないようにと大きな声を出した。
家政婦さんが、キノに小声で言う。
「申し訳ありません、旅人さん。彼、少しおかしいんです。何を言われても、何も知らないとおっしゃってくれて結構です」
事務的な口調だった。
「そうですか」
キノが言うと、彼女は、
「それでは私はこれで。あ、国の中心へは、ここを真っ直《す》ぐです。道が悪いからお気をつけて」
今度は優しげな口調で言った。
キノが礼を返した。
森の中へ戻っていく二つの背中を見ながら、エルメスのエンジンをかけた。
次の日。
朝から、細かく冷たい雨が降っていた。
キノはコートの襟《えり》を立てて町中を走り、必要品を揃えて回った。その後、大きな食堂で昼食を取ることにした。断りを入れてからエルメスを押して入れて、出口と自分の座るテーブルの脇に立たせた。
旅人さんは珍しいと、町の人が話しかけてきた。キノはのんびりとお茶を飲みながら、テーブルを囲むように集まった住人達と話をした。
何か聞きたいことはありますかと聞かれて、
「城門脇の森で暮らしてる男の人に会ったけれど、彼はどーしたの?」
エルメスが聞いた。
みんなの顔色が変わった。悲しげな顔をして、口をつぐんだ。その場の雰囲気が、急にしんみりと寒々しいものになった。
しばらく経《た》って、
「彼は、その……。本当に、かわいそうな人なんだよ」
誰かが言った。みんなが静かに頷《うなず》いた。
三十|歳《さい》ほどの男が一人、
「彼のことは、俺《おれ》から話そうと思う」
そう言って、すぐに賛同してイスを譲《ゆず》った人にかわって、キノの前に座った。
「今日《こんにち》は、旅人さん。俺は、十年以上前から彼の友人だったんだ。今は、政府で働いている」
男は悲しそうな顔をしながら、そう切り出した。
彼は静かな口調で、この国には五年前まで横暴な王様がいたこと、そして革命があったことを告げた。
「当時、あいつも俺も警察官だったんだ。あいつは、頭のよさと腕と人柄を認められて、革命の主要メンバーになっていた。実際に宮殿に突入して王家を抹殺《まっさつ》する、実行部隊のリーダーになった。俺はその下についた」
男が言う。
「あいつには、恋人がいた。国はずれに住む農家の娘さんで、町に野菜を売りに来て知り合ったんだ。その時は俺も一緒にいたな……。革命の一年前だった。彼女は長い髪をした、美しい人だったよ。とても仲がよくて、絶対に二人は結婚するんだと思っていた。でも……」
男が言葉を切って、一度大きく息を吐《は》いた。
「でも、革命が近づいていた。俺は、もしもの時彼女はどうするんだって聞いたことがあった。あいつは、その時は答えなかったな……。決行の日時《にちじ》が決まって、俺達にそれを教えに来て、同時に彼女と別れたことを知らされたよ。死ぬかもしれないし、何をするかも言えない。無理やり別れを告げたらしい。あいつは言ったよ。『嘘《うそ》を言ってきた』って……」
「なるほど。それで、革命は成功したんですね」
キノが言った。ああそうだ、と男が頷《うなず》いた。
「俺《おれ》達は護衛を倒しながら、宮殿に突入した。逃げようとしていた王一家の車を見つけて襲った。俺や仲間が援護する中、彼は肉薄《にくはく》して、爆弾を投げ込んでみごとに車を吹き飛ばした。どこまでも勇敢《ゆうかん》な男だったよ」
「で?」
エルメスが後ろから言った。男は悲しそうな顔で続ける。
「そして、見たんだ……」
「何を?」
「めちゃくちゃになった車の中にある、ぐちゃぐちゃになった王一家の死体だ。王と后《きさき》、王子二人と、一人の王女。全員が勝ちどきを上げる中で、あいつと俺は見た。ドレスを着た王女は、正確には吹き飛んだ王女の首は、――あいつの恋人だった」
「はい?」
「王女だったんだよ、彼女は……。お忍びで町に来ていたんだ……。そして彼と恋仲になった……。誰もそれを気づきようがなかった……。あいつは狂ったように叫んだよ」
「すると、あの男の人の恋人は、もういないんですね?」
キノが聞いて、男と、周りの人達が頷《うなず》いた。
「あいつは……、自分が憎むべき王女と愛し合っていたことと、自らの手で殺してしまったことに堪《た》えきれなくなってしまった。現実を無視して、すっかり頭がおかしくなってしまった。本当なら英雄になっていて、新政府の要職に就くはずだった。でも、病院でうわごとをつぶやいて、『彼女はどこに行ったの?』ってしきりに聞いてくるんだ……。見かねた医者が、『あなたの恋人は旅に出てしまいましたが、必ず帰ってくるから待っているように言っていましたよ』そう嘘《うそ》をついた。この国では一般人が城壁から出ることはできない。あいつはそんな当たり前のことも分からなくなって、『じゃあ彼女を待つから』と言って、森の中に住み始めた……。それから……、五年間ずっとだ」
男が続ける。
「新政府は、彼に死ぬまで年金を出すことにした。家を建てて、身の回りを世話する人を雇った。けれど、森の中での生活が不便だとか、嘘を吐き[#「吐き」は底本では「突き」と誤植]とおすのが不憫《ふびん》すぎるからとか、長続きする人はいなかったな。みんな、すぐ辞めてしまった。……それを責めはしないよ」
「今の人は?」
キノが聞いた。
「彼女は、旅人さんみたいに外から来た人だよ。三年前、俺と部下が偵察《ていさつ》に出た時に、行き倒れ寸前の旅人達を見つけたんだ。そのうちの数人が移民したよ。俺は、事情をあまり知らない外の人は具合がいいと思った。それで彼女を雇って、それ以来よく働いてくれているよ」
「なるほど……」
「これからも、ずっとそうだろうね。あいつがよくなる兆《きざ》しはまったくない。あいつにとっては、その方がいいのかもしれないけどね……」
男は、乾《かわ》いた笑顔で言った。
その後ろに立っていた中年の女性が、静かに続ける。
「だから私達は、英雄であるあの人に嘘《うそ》をついて、これからもつき続けるんだよ。あの人は、帰ってこない恋人を死ぬまで待つのさ」
次の日。つまりキノが入国してから三日目の朝。
天気はよかった。朝食後キノは準備を整え、南の門へ向けて出発した。
森の中の道はぬかるんでいて、キノは慎重《しんちょう》にエルメスを走らせた。
道で、小さな馬車がぬかるみにはまっていた。乗っているのは、あの男の家政婦さんだった。
「キノ、出番」
「仕方ないな。まあ、いつかどうせ汚れるんだし」
キノは、ブーツを泥だらけにしながら脱出を助けた。そして、城門まで一緒に行った。
城門前で礼を言った家政婦さんに、エルメスが昨日事情を知ったことを告げた。
「そうですか……」
キノ達が城門へ向かおうとして、
「あのっ!」
家政婦さんが呼び止めた。
「お礼にお茶でもいかがですか? 足下もきれいにされていかれては?」
森の中のログハウスに、キノ達は案内された。屋根に登って、男が修繕《しゅうぜん》をしていた。家政婦さんが助けてもらったことを告げて、もてなしの許可を求める。男は何か考えた様子もなく許可した。
井戸水でブーツとタイヤをよく洗い、広い部屋に案内された。男が戻ってきて、家政婦さんがお茶を入れた。テーブルに並んで置かれたカップから、湯気がきれいに立ち上った。
「面白い香りです。なんていうお茶ですか?」
キノが聞いて、男が、
「よく分からないけれど、おいしいお茶だよ」
そう言って、キノに出す分を横から取って飲み始めた。すーっと飲んで、
「おいしいよ」
キノに笑顔で言った。キノも飲んだ。飲んで、おいしいですねと感想を言った。
「ねえ」
男が、キノとエルメスに話しかける。
「旅人さん達は、これからいろいろなところに行くんだよね。もし彼女に会ったら――」
「ええ。あなたのことを伝えますよ。待ってるって」
「うん。頼んだよ」
男は嬉《うれ》しそうに笑った。
「あら」
ビスケットを持ってきた家政婦さんが、ふいに声を出した。
「また誰か、城門にいらしたのかしら? エンジンの音が聞こえたような気がします」
お茶を飲むのを中断して、男が立ち上がった。
「か、彼女かもしれない。行ってくる!」
家政婦さんは慌《あわ》てて、
「上着を忘れないでください!」
男に言った。分かったよと言い残して、男は上着を着ないで家を出ていった。
扉《とびら》が閉まる音を聞いて、家政婦さんはイスに座った。膝《ひざ》の上に暖かそうな膝掛けを置いて、くつろいで自分のお茶をついだ。
「これでよかったの?」
エルメスが、突然聞いた。そして続ける。
「エンジンの音なんて、全然聞こえなかったけれど」
「ええ。あの人がいると、キノさん達とのんびりお話ができませんから。これで、しばらくは戻ってこないでしょう」
キノは、家政婦さんへ顔を向けた。
「これでいいんです。私の父も母も、二人の兄弟も、隣の国へ無事に逃げてのんびりと幸せに暮らしています。そして私は、愛するあの人のそばで生きていくことができます」
微笑《ほほえ》みながら言った家政婦さんに、キノがゆっくりと訊《たず》ねる。
「……あなたは、元この国の王女様、ですか?」
エプロン姿の女性は、静かに頷《うなず》いた。
「なるほど、確かにいいや。続きをどうぞ」
エルメスが言った。キノが女性の目を見据《みす》えた。女性はティーカップを持ち上げ、飲んで、また戻した。そして口を開く。
「私は、この国の王女として生まれました。五年前まではそうでした。民衆に紛《まぎ》れたスパイからの報告で革命の危険が追って、私はあの人に接触しました。もちろん、信頼できる情報を父に届けるためです。革命の決行日を事前に知って、財産を持って隣国へ逃げるためでした」
「…………」「ふむふむ」
「でも私は、私を一人の田舎娘《いなかむすめ》として愛してくれたあの人を、いつか好きになって、いつか愛するようになりました。身分を隠す以外、何一つ演技をしなくていい日々が続きました。時間が許す限り、いつも一緒にいるようになりました。それは、一日の内のほんの短い間でしたけれど、とてもとても、すてきな時間でした。このまま一日が、そしてこの生活が、ずっと終わらないでいてほしいと願っていました」
女性は微笑《ほほえ》み、そしてまた冷静な顔に戻る。
「そして、それは終わりました。あの人が私に、決定的な情報をもたらして」
「理由を言わずに別れたことですね。すぐに革命が起こると知った」
キノが、確認するように言った。
「ええ――。私はそれを父に伝えました。私は反対もせず、残ることもせず、家族と一緒に国を去りました。残された身代わりが役目を果たしてくれて、全《すべ》てが計画どおりにいきました。あの人のことは、無理やり忘れようとしました。もう、二度と合うことはないと思いました」
「でも、あなたは戻ってきた」
女性が頷《うなず》いた。
「隣国で、私はスパイからいくつかのことを知りました。私は、あの人が戦闘で死なないでほしいと心から願っていましたが、それが叶《かな》ったこと。でもあの人は私≠殺してしまい、病んでしまったこと。そして、あの人の世話をする人が必要とされていること……。私は長い間悩んで、この答えを出しました」
「なるほどねえ」
エルメスが言って、女性が、ふと思い出したように笑った。
「でも、とても苦労をしましたよ。両親を説得したり、旅人になってみたり……、国に入ってから、家政婦として雇われるようにしむけてもらったり。いまだに両親からは、いつでも戻ってきなさいって言われます」
楽しそうに言った女性に、キノが訊《たず》ねる。
「再会した時に、あの男の人はなんと?」
「こう言ってくれました。『ああ。彼女が帰ってくるまでよろしく』って。――とても嬉《うれ》しかったです」
「そう?」
エルメスが聞いて、
「ええ」
女性はすぐに頷いた。
「私はまだあの人を愛していて、あの人は私を待っていてくれる。そして、そばにいられるんですから。私は、あの人と知り合った時から嘘《うそ》をついてきました。私はこれからも、嘘をつきながら、愛する人のすぐそばで生きていくのでしょう。私は――、幸せです」
「……お話、ありがとうございます」
「うん。どうもね」
キノとエルメスが言った。そしてドアが開く音がして、男が家に戻ってきた。家政婦さんが立ち上がって、寒そうに震える男を出迎えた。
「違ったよ。門番が発電機を動かしただけだって言ってた……。誰か来たんじゃなかった……」
「そうでしたか」
家政婦さんは、男のためにイスを引いた。男の冷えた肩に、さっきまで自分の膝《ひざ》にあった膝掛けを、ゆっくりとかけた。
「いつだろう? いつになったら彼女は帰ってくるのだろう……」
男が、独り言のようにつぶやいた。
「いつかは分かりませんが、きっと帰ってらっしゃいますよ」
家政婦さんが言って、男は彼女を見て問いかける。
「僕は怖《こわ》いんだ。ひょっとしたら、僕は彼女から忘れられていないかい?」
新しくお茶をつごうとしていた家政婦さんは、手をとめて、ゆっくりと首を振った。微笑《ほほえ》んで、そしてこの国の全《すべ》ての人が答えるように答える。
「いいえ。あなたは忘れられてなんかいませんよ。――決して」
二人に見送られて、キノとエルメスは城門をくぐっていった。
「行っちゃった。彼女に言《こと》づてしてくれるだろうか?」
男が聞いて、家政婦さんは明るい顔で、きっとだいじょうぶですよと告げた。
家に入ろうとした瞬間、男が叫んだ。
「エンジンの音がするよ! また誰か来たんだ!」
そして城門へと走り出した。
「あれは、きっとエルメスさんの――」
家政婦さんは言いかけて止めた。男を追わず、先に家に戻った。
テーブルの上のカップを片づけながら、
「さあ、お昼は何にしましょう?」
一人楽しそうにつぶやいた。
「キノ。ちょい待ち。後ろ」
城門から少し離れた、国の外。
エンジンを暖め終えて、またがって走り出そうとしていたキノに、エルメスが言った。キノが振り向くと、少し離れた城門から男が走って出てこようとしていた。門番の兵士に止められそうになって、必死に何かを言って、やがて兵士達が諦《あきら》めたのか男を解放した。
上着を着ている男は、キノのところまで全速力で走ってやってきた。
「旅人さん! ちょっと待って! 言っときたいことがあるんだ!」
男は叫んで、そして下を向いて荒れた息を整える。
「言いたいことが、あるんだ」
下を向いたまま、男が言った。
「恋人さんへの言《こと》づてですか?」
キノが聞いて、男は顔を上げた。
「いいや、私からの君達へのメッセージだ。君達には、最後にもう一つだけ知っておいてもらいたい」
背を伸ばし立つ男を、キノが見上げた。凛《りん》とした顔を見た。
「これでいいんだ。私は、幸せだ。私はもう、何も壊《こわ》したくはない。王家のスパイだった友人の生き方も、何も知らない優しい人達の思いも、革命の成功と新しい国のシステムも。そして、私を利用しただけではなかった愛する人との生活も――。今は何も壊すことはない。これでいいんだ」
「…………。あなたは……」
キノが言いよどんで、
「嘘《うそ》つきだね。ここの国の人はみんな嘘つきだ」
エルメスが言った。
城門を背にして、男はとても楽しそうに微笑《ほほえ》んだ。小さく何度か頷《うなず》いた。
「さよならだね。私は戻る」
男が言った。
「さようなら。お二人ともお元気で」
「じゃあね英雄さん。家政婦さんによろしく」
キノとエルメスに背中を向けて、男は自分の国へ戻った。心配そうに迎えた兵士達と一緒に、城門をくぐっていった。
最後まで見送って、キノが言う。
「行こうか」
「そうだね」
エルメスが答えた。
エピローグ 「何かをするために・a」
―life goes on.・a―
森と道があった。
その森は、どこまでも平坦《へいたん》な大地に、果てしなく広がっている。多種類の木々が混ざり、鬱蒼《うっそう》と、そして混然《こんぜん》とした森だった。
その道は、森の中にあった。森を二つに分けるようにして、真っ直《す》ぐ延びていた。緑色の濃淡の中に、一本の茶色い線。それは土の道で、幅は車や馬車がなんとかすれ違えるほどだった。
その森の中に、そしてその道の脇に、畑と一軒の家があった。
道の片側に、沿うようにして細長く畑が作られていた。はっきりとした直線で、高い木々に四角く囲まれている。半分は土のまま、半分には畝《うね》の上に菠薐草《ほうれんそう》が並んでいた。そして細長い畑の先に、小さなログハウスが建っていた。
ログハウスには両開きの玄関戸が一つと、周りには大きめの窓。玄関の前と反対側の窓の脇に、厚《あつ》めの板でしっかりとしたテラスが造られている。家の隣には小さな馬小屋があったが、今は一頭もいない。
家の窓が一つ、勢いよく開いた。
続いて隣の窓も。やがて窓は全《すべ》て開けられ、中から出た手がつっかえ棒《ぼう》をさしていく。最後に玄関が開いて、そこから一人の少女が出てきた。
十代前半の少女だった。やや背は高め。黒い髪は肩より長く、後ろで一つにまとめられている。編み上げのブーツと薄い茶色のパンツをはいていて、裾《すそ》は長すぎるのか、何回か折り込まれている。白いシャツの上に、緑色で綿製のジャケットを羽織《はお》っていた。
少女は、一枚のシーツを脇に抱《かか》えていた。それを玄関脇のテラスに張られたロープにかけて、木製の洗濯ばさみで両脇を止める。干されたシーツが、軽く風に揺れた。
それから少女は両手を上げて、大きく伸びをする。家と畑の分だけ森が減り、その分だけ広がっている蒼空《あおぞら》を見上げる。枝葉の上に見える朝の空は、雲一つなく、どこまでも澄んでいた。地平線から顔を出したばかりの光の塊《かたまり》は、たくさんの幹によって粉々にされて見える。数種類の鳥の鳴き声が、辺り一面から取り囲むように聞こえていた。
「うん。今日はいい天気」
少女は、笑顔でそう言った。
少女は一度家の中に入り、今度は一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)を押して出てきた。モトラドの後輪の上はキャリアになっていて、両脇には、黒い箱が取りつけられていた。
少女は、モトラドをテラスへと押し出していく。玄関の幅は一台と一人でぎりぎり。途中一度ぐらりと手前に揺れて、慌《あわ》てて押さえてバランスを取る。
「よっと……」
少女はテラスの上でセンタースタンドをかけ、ふう、と一息ついた。それから、
「起きろー! 朝だよー!」
モトラドのシートを、両手の握り拳《こぶし》でばふばふばふばふ叩《たた》きながら大声を出した。しばらくそれが続き、やがて、
「あう? ああ……。はいはい。――朝ね。うん」
モトラドが言った。
少女が叩くのを止めて、モトラドが恨《うら》めしそうに言う。
「もうちょっと、起こし方が丁寧《ていねい》だといいんだけどねえ。毎回叩かれたんじゃ――」
「いい天気だよ」
「聞いてる?」
「聞いてるよ。呼んでも叫んでも全然起きないのが悪い」
少女は楽しそうに答えた。それから、
「おはよう、エルメス」
モトラドに挨拶をした。
エルメスと呼ばれたモトラドが、少女に言う。
「おはよう。キノ」
キノと呼ばれた少女は、静かに頷《うなず》いた。そして玄関へと振り向いて、長い髪が揺れる。そこから出てきた一人の老婆《ろうば》に、少女は笑顔を向けた。
「おはようございます。ししょう」
「おはよう。今日は、いい天気ですね」
シーツを脇に抱《かか》えた老婆は空を見上げ、穏やかな口調で少女と同じことを言った。
華奢《きゃしゃ》だが背筋の伸びた体に、後ろで一つにまとめられた銀髪。スリムなパンツに、白いシャツ、その上に薄緑色のカーディガンを羽織《はお》っている。その背中、腰のベルトの位置に、革《かわ》製の小さなポーチのようなものがついて、カーディガンの裾《すそ》が引っかかっていた。
そしてそれはポーチではなく、カバーつきのホルスターだった。右手で抜けるように収まっている、小型で大口径のハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器。この場合は拳銃)のグリップが見えた。バレルの短いリヴォルバーだった。
シーツを干《ほ》した老婆が、少女に聞く。
「天気がよかった時の今日の予定は、なんでしたっけ?」
「森の木を一本切り倒すこと。火薬屋さんがお昼過ぎに来るので、ものを揃えておくこと。後は、特にないです」
少女が答えて、老婆《ろうば》は満足そうに頷《うなず》く。
「そうでしたね。――それじゃあ、木は昼過ぎにしましょう。それまでは、食事の後にあなたの射撃練習でもしましょうか」
少女は分かりましたと言って、そして訊《たず》ねる。
「朝ご飯、また作りましょうか?」
その質問に、老婆は笑顔で、注意してよく見ると若干《じゃっかん》引きつった笑顔で、
「いいえ。私がやりますよ。――それは、私の毎日の楽しみです」
「ししょうって、ホント料理が好きですね!」
少女が、楽しそうに言った。
ログハウスの、玄関を入ってすぐのところにリビングルームがある。中央には丸太を縦《たて》に切った小さなテーブルと、イスが三脚。部屋の隅には煉瓦《れんが》が敷き詰められ、その上に鋼鉄製の薪《まき》ストーブが鎮座《ちんざ》していた。その脇についた煙突は、壁の外へと伸びていた。
少女は手早く薪をストーブに入れ、マッチと、木を細く裂《さ》いた焚《た》き付けを使い火をつけた。順調に燃え上がっていく火を見て、小さな口を開けたストーブの扉《とびら》を閉める。
少女が振り返ると、視線の先に一つのコートがあった。
玄関脇のリビングの壁に、まるで外出時にすぐに使えるようにかかっている、茶色で長いコート。
「…………」
少女は、しばらく無言でそれを眺めた。
そして、外にいる老婆を呼びに玄関から出ていく。
玄関のテラスに、小さなテーブルが一つ出されていた。木製でやや幅広、足は折り畳《たた》める。
その上に、森の木々より高くなった太陽の光を浴びて、鈍く黒光りするハンド・パースエイダーが一|丁《ちょう》置いてあった。それは大口径のリヴォルバーで、細身だがバレルは長い。
その脇に、弾丸を無造作《むぞうさ》に入れた紙箱や、緑色の液体火薬を入れた小|瓶《びん》、その他の小物や掃除道具を入れる木箱が並んでいる。
道を挟《はさ》んだ反対側には、木と木の間に厚《あつ》めの板が一本、やや高い位置に水平に渡されていた。その板に、錆《さ》びた小さなフライパンが一つ、丈夫な紐《ひも》によって縛《しば》りつけられ、真下へとぶら下がっていた。
テーブルの前で、少女がリヴォルバーを手に取る。若干《じゃっかん》重そうに感じながら、それでもしっかりと持ち上げて、横から覗《のぞ》いて、弾が入っていないことを確認する。その後、ハンマーを上げて、引き金を引いて指を添えながら戻す。何度か繰り返し、作動を確認した。
「弾を込めます」
少女が言った。老婆《ろうば》は後ろで、どうぞ、と返事をする。その後ろでは、エルメスがセンタースタンドで立っていて、さらに後ろではシーツが二枚、小さく揺れていた。
少女は右手の親指で、リヴォルバーのハンマーを半分上げた。左手で胴体を握って持ち替える。シリンダー、つまり回転する部分の穴に、前から注射器のようなもので緑色の液体火薬を入れる。左手の親指でカチカチとシリンダーを送っていって、六発|全《すべ》てに入れた。後ろから、老婆が静かに言う。
「もちろん、たくさん火薬を入れれば威力は増しますが、その分反動がきつくなります。今はまだそのくらいでいいですよ。もっと慣れてきたら、徐々に増やせばいいです。ただし、弾丸がバレルに詰まってしまうほど少なくしないように。もし万《まん》が一《いち》詰まったら、絶対に二発目を撃《う》ってはダメです。それだけは常に注意しなさい」
少女が分かりましたと返事をして、次に穴にフェルトのパッチを詰めて、続いて四四口径の弾丸を入れる。バレル下にあるレバーが手前に折れて、連動するロッドが、弾丸を奥へと押し込んでいく。同じように六発分繰り返した。最後に、グリースの缶《かん》に指を入れて、穴に蓋《ふた》をするように塗《ぬ》っていく。ボロ布で指をしっかりと拭《ふ》いた後、小さな雷管をシリンダーの背、ハンマーが叩《たた》く部分へ一つずつはめ込んだ。この火が、火薬に引火して弾丸を撃《う》ち出す。
それなりの時間がかかって、六発が撃てるようになった。
少女がリヴォルバーを、丁寧《ていねい》に一度テーブルに置く。バレルは向こうを向いたまま。
「準備できました。道に人はいません。撃っていいですか?」
少女は振り向かずに、後ろの老婆に聞いた。
「また忘れていますよ」
老婆はポケットから綿の小さな塊《かたまり》を二つ取り出して、少女に近づく。それらを、少女の両耳に入れた。
「ああ。すみません。ありがとうございます」
前を向いたまま、少女は照れて笑った。老婆は自分の耳にも耳|栓《せん》をして、
「ではどうぞ」
少女はゆっくりと、リヴォルバーを手にして持ち上げる。右手の人差し指は、ぴんっ、と伸びたまま。次に左手を、右手の上に巻くように添えて、両腕を伸ばしていく。右手は真っ直《す》ぐ伸ばし、左手は少し脇を締めるように。右足をやや引いて、体は斜めに、そして顔は真っ直ぐ。
リヴォルバーの狙《ねら》う先が、ピタリとフライパンへ向いた。左手の親指が、ハンマーを上まで上げきる。シリンダーはさらに少し回転して、バレルと穴が一直線に並んだ。右手人差し指が、引き金の前へ。
ずどん。
重い轟音《ごうおん》と同時に、白い煙がぶわっと広がり、リヴォルバーと少女の両手が上へと跳《は》ね上がった。一瞬火花が起きて、フライパンは猛烈《もうれつ》な勢いで回転を始めた。紐《ひも》をねじりながら、左へと回転していく。
再び轟音《ごうおん》。フライパンの回転が、急に止まった。二発目は一発目の反対側に当たり、回転をうち消した。
三発目はフライパンの中央に当たり、後ろへとフライパンが振れる。ブランコのように振り切れて前へ戻ってきて、四発目がその動きを強制的に止めた。五発目が再び後ろへ押し、戻ってきて前に振れ、もう一度後ろへ振れる途中に六発目が命中した。
フライパンは後ろへ猛加速して、百八十度回転。板の上に落ちてきてそこに当たり、前へ落ちた。
くるりと一周してしまったフライパンの紐《ひも》を元に戻そうと、少女が背伸びして両手で放り上げては落ちて戻ってきて、また同じ行為を繰り返す。
思い通りにならないフライパンを見上げ、
「むー」
少女はしかめっ面《つら》を作った。
少女は再び挑戦して、再び失敗した。
その様子を、テラスの上で老婆《ろうば》が腕を組んで眺めていた。後ろから、エルメスが声をかける。
「どうですか?」
老婆はちらりと振り向いて、すぐに前を向いて言う。
「相変わらずですね」
「そうですか」
「ええ。あの子のパースエイダーの撃ち方は、初めて撃《う》った時から変わらず――」
老婆は一度句切った。ふっと息を吐いて、
「天才的ですよ。いるんですね、生まれつき射撃の筋がいいって人は。それは性別も年齢《ねんれい》も関係ありません。天賦《てんぷ》のものです。パースエイダーが好きで好きでたまらない人より、そうでもない人の方が上手《じょうず》になることが多いのも皮肉なことです」
少女がジャンプしながら両手でフライパンを押して、それは板にぶつかって上を通って戻ってきた。凹《くぼ》みだらけの鉄板に殴《なぐ》られないように、少女が慌《あわ》てて後ろに下がる。
「どうせ師匠《ししょう》≠ニ呼ばれるのなら、やっぱり出来のいい弟子がいいですか?」
エルメスが聞いた。
「ええ、それはもう。教え甲斐《がい》がありますね。もっと教えれば、すぐにもっと上手になるでしょう」
「モトラドの運転もそうだといいんだけど」
「それは、あなた次第。もっと練習してもらいなさいな。でも――」
「でも?」
老婆《ろうば》はモトラドに背中を見せたまま、
「運転がうまいだけでは、レースには勝てない≠フでしょうね。やや長い目で見れば、それが心配です」
エルメスはしばらく沈黙して、そして訊《たず》ねる。
「それって、パースエイダーをうまく撃《う》てるだけじゃ、撃ち合いや殺し合いで生き残れない≠チてこと?」
老婆が振り向いた。
「察しがいいですね。あなたも撃ち方を学んでみますか? ライト脇や排気管に機関|砲《ほう》でもつけましょうか?」
「遠慮しておきます」
エルメスが言った。老婆は前を向いて、静かな口調で言う。
「安全な国の中で生きるのなら、人と協調し時には妥協することを躊躇《ためら》ってはいけないように、危険な世界で生き残りたかったら、人を撃つことを躊躇ってはいけません」
「それ、本人に言いました?」
「いいえ。言っても、誰も本当に理解はできませんし、かえってそれはどういうことかと普段から、そして肝心《かんじん》な時に悩ますだけです。――自分で知るしかないのですよ」
老婆が言い終えた時、少女がテラスに小走りで戻ってきて、
「ししょう。もう一度いいですか?」
そう聞いた。老婆が笑顔で頷《うなず》く。
「こればかりは、私が教えるわけにはいきませんからね」
老婆が言った。
太陽はだいぶ高く昇り、空気は暖かい。家の前の道にエルメスが、エンジンをかけた状態で森に排気音を響かせながら止まっていた。その脇に少女が立っている。ジャケットは厚《あつ》めの茶色い革《かわ》製のものに、やはり革製の乗馬用ヘルメットをかぶり、小さな防風用のゴーグルをしていた。手にはしっかりしたグローブ、両|膝《ひざ》に、厚いフェルトを古い包帯で巻いていた。
「昔は乗れたんですけどね。今はどうでしょう。自信はないですね」
老婆が言って、
「ししょうの昔って、旅をしていた頃って、どんなだったんですか?」
少女が聞いた。そして笑顔で続ける。
「今みたいに、きっと昔から優しかったんでしょうね!」
しばしエンジン音だけの静寂。蒼《あお》い空に、緑の森。
そして、
「そうだったかもしれません」
老婆《ろうば》は真顔《まがお》で言った。
少女は、軽くエルメスのアクセルをあおった。
「もういい? エルメス」
エルメスが答える。
「十分。じゃ、最初だけゆっくりと。今日は、段々とでいいから、速く走り出して、速く止まれるように練習しよう」
「分かった」
少女はエルメスにまたがって、左足でサイドスタンドを戻す。
そして、
「じゃあ、出発!」
少女は、エルメスの言ったとおり、最初はゆっくりと土の道を走り出す。
その様子を、老婆が見ていた。視界の中、道を走り出したモトラドは、エンジン音が急激に高まり、
「うわちょっといきなり速すぎ!」
エルメスの悲鳴を残して、後輪が巻き上げた土煙の中に消えた。
老婆がテラスの上にデッキチェアを持ち出し、のんびりと座って空を眺めていると、爆音と共にエルメスと少女が戻ってきた。少女のジャケットに、土汚れはなかった。
戻ってきたモトラドは、家の前の道で急ブレーキをかけ、最後は後輪をロックして横に滑《すべ》らしながら止まった。また土埃《つちぼこり》が舞って、風に流れた。
「もう一度?」
少女が聞いて、いやもういい、とエルメスの即答。少女が、
「そう。お疲れさま」
そう言って、エルメスのエンジンを切った。辺りが、すっと静寂に戻る。
少女はエルメスを押して、道から家の前へ。テラスの前に止めて、センタースタンドで立たせた。
「今度洗ってあげるから」
少女が言って、そりゃどーも、とエルメスの疲れた声。
老婆は少女に、服を変えてらっしゃいと言って、少女は元気に返事をして家の中へと入っていった。
「どうですか? ――教えがいがありますか?」
老婆がエルメスに聞いて、エルメスが答える。
「変わってください」
「いやです」
テラスに風が吹いて、二枚のシーツを揺らした。
「えっとじゃあ……、走るのと止まるのはだいぶうまくなった、みたいだから、今度は倒れたのを起こす練習をしよう」
エルメスが言った。少女は革《かわ》製のジャケットを脱《ぬ》いで、緑色の綿製ジャケットを羽織《はお》っていた。つまりは、グローブ以外は朝と同じ服装をしていた。太陽はほぼ真上から照らされ、エルメスのタンクに反射している。
少女が、分かった、と言って、
「どうすればいい?」
「まずはちょっと移動。右側のあの土の辺り」
エルメスがそう指示をした。少女はエルメスの左側で、ハンドルを握り畑の脇まで押していく。道よりは土が軟らかく、しかしタイヤが深く埋まるほどではない。テラスに車体や体をぶつける心配もない。
「うん、ここでいいや。――いい? どんな時でも場所でも、一人で車体を起こせないようではモトラドに乗っちゃいけないんだ。本来は乗る前に練習するんだけれど。だから、こういう場所で練習。右からも左からも起こせるようにしないと」
「分かった。練習しよう」
「じゃあ、まず倒してみて」
「うん」
少女は返事をして、すぐにハンドルから手を離す。そして車体をとん、っと右側に押した。
「え? ――うわっ、ちょっと!」
重力に引かれ、べしゃ、とエルメスは倒れた。土にハンドルの先端《せんたん》がめり込んだ。
「倒したよ」
少女が言って、
「ゆっくりと倒すの!」
エルメスは叫んだ。
少女は、両側からエルメスを引き起こす練習を何度か行った。
ゆっくりと倒して、そして持ち上げ、スタンドをかける。右から左へ起こす時は、車体左側のサイドスタンドをあらかじめ手で下げておいて、起こした時そのまま左に倒れないようにする。
「だいぶ上手《じょうず》になってきたね。もう平気かな。後は斜面で練習しないとね」
エルメスが言った。軽く汗をかいた少女に、
「できましたよ。お昼ご飯にしましょう」
テラスから老婆《ろうば》が声をかけた。
「はーい。今行きます」
少女が振り向いて、楽しそうに答えた。今現在左側に倒れているエルメスが、そんな少女に必死に話しかける。
「まさかとは思うけどね、起こしてから行ってね。まさかね、このままにしないよね。――頼むから!」
「畑と森の境に、真っ直《す》ぐ伸びている木が一本あるでしょう? 食べ終わったら、あれを倒しましょう。後で材料に使います」
老婆が言った。老婆と少女はテラスの上に出したテーブルに向かい合って座っていて、蒼空《あおぞら》の下昼食を取っていた。
テーブルの上には、二人分のアルマイト皿と、マグカップと背の高いポット。中央と上半分が仕切られた大きな皿には、手前には厚《あつ》めのハムのステーキにブルーベリーソースがかかったものが、奥左にはジャガイモをまるまる焼いたもの、右には煮た人参《にんじん》が載《の》っていた。老婆が人参を右手のナイフで、それもどう見ても食事用ではなくて暗殺や格闘その他用の艶《つや》消しの黒いナイフですっと小さく切って、左手の銀のフォークで丁寧《ていねい》に口に運ぶ。
少女は自分のマグカップにポットからお茶をつぎ足して、それから老婆に訊《たず》ねる。
「二人で、ノコギリで押したり引いたり、ですか? それとも、斧《おの》で木こりさんですか?」
老婆が軽く首を備に振って、
「いいえ。あれだけ太く高い木になると、簡単にはいきませんよ。危ないですから、倒れる方向も考えなくてはなりません。普通は電動ノコギリを使います」
「それ、あるんですか?」
少女が小さく切ったハムをフォークに刺したまま聞いて、
「ないです」
老婆が答えた。
「?」
怪訝《けげん》そうな顔の少女の口に、ハムが入る。
ぶううううううううううううううううううううううううううううううううううううう――
森の中に、破裂音《はれつおん》が轟《とどろ》いた。
それはパースエイダーの発砲音だったが、あまりに繋《つな》がっているので、一つの長い音に聞こえる。
真っ直ぐ伸びる木の、根に近い幹。そこから立て続けに木屑《きくず》が舞い始めた。巨大で透明なビーバーが齧《かじ》っていくように、幹は端《はし》からがりがりとえぐられていく。長い破裂《はれつ》音が止《や》んだ時、幹には大きく齧り取られた跡《あと》があった。
テラスの前、先ほど少女が引き起こしの練習をしていた土の上に、三脚が一つ立っていた。緑色の太いパイプを組んで作られた、大きな三脚だった。前一本後ろ二本の脚は、掘られた穴にしっかりと打ち据《す》えられている。そしてその上には、全自動連射式のパースエイダーが載《の》せられていた。ピタリと木を狙《ねら》って固定されていた。
三本の脚の間には分厚《ぶあつ》いフェルトの生地《きじ》が広げられて、大量の空薬莢《からやっきょう》が転がっていた。三脚脇の土の上には、鉄製や木製の箱がいくつか並べられていて、穴を掘ったスコップが一本刺さっている。
三脚の後ろに、耳|栓《せん》をした老婆《ろうば》がかがんでいた。パースエイダーの脇に取りつけた照準器を覗《のぞ》きながら、三脚後部にあるダイヤルとレバーで、パースエイダーの狙《ねら》う先を微調整する。
そして、再び繋《つな》がった発砲音。弾丸の嵐が畑の上を飛び抜けて、今度は齧り跡の反対側をえぐっていく。再び木屑《きくず》が派手に舞う。
ぶうううううううううううう! ぶううううううう! ぶぶっ!
最後の音が止むのとほぼ同時に、その木は最初に大きく齧られた方へと傾き始めた。残っていた幹の細い部分がじわじわと歪《ゆが》み、そして折れて、長い木は葉を散らしながらゆっくりと倒れていく。
木は地面に当たり、低音を響かせて辺りを揺らしながら、一度はじけてしなった。そして、ちょうど畑と森の境に、きれいに畑に平行して横倒しになった。
「…………」
テラスの上では、少女が両手を耳に当てて、大きな目を見開きながらその光景を見ていた。その後ろにはエルメスが、センタースタンドで立っている。
テラスの上で揺れていたシーツは片づけられ、今は小さなタオルが一枚干されていた。脇には使い終わったお皿が二枚、角の穴に小さな金具が引っかけられて、やはり吊《つ》るされて干されている。昼を過ぎて、空には純白の雲が少しだけ現れて、ゆっくりとゆっくりと流れていた。
「よしっ、と」
老婆が小さくつぶやいた。三脚の上では、高熱を持った全自動連射式パースエイダーから白い煙がゆらゆらと立ち上り、三脚の下では、十秒ちょっとで撃《う》った二百発以上の空薬莢の山が、砂山のようにじゃらじゃらと崩れた。
「はい。終わりです」
老婆が耳栓を取りながら言って、すごいですね、と少女は喜ぶ。
そんな二人を見ながら、
「むちゃくちゃ。――ま、モトラドのエンジンをチェーンソーに改造されるよりはいいか」
エルメスが小声でつぶやいた。
「ししょう。あの木は、どうするんですか?」
少女が、枝や葉をつけたまま真横に延びる木を見て言った。
「あのまま、しばらくはそのままです」
少年が、驚いた顔を老婆《ろうば》に向ける。
「放っておくんですか?」
「放っておくんですよ。そうすると、枝から葉へ伝わって、うまい具合に木の中の水分が抜けるんです。時間をかけて、ゆっくりと十分に乾燥させると、きれいでいい木材になるのですよ」
「へー」
少女が木を見てそう口にして、老婆は笑顔で言う。
「だから、もうあれは撃《う》ってはだめですよ」
冷えるまで待った後、老婆は大量の空薬莢《からやっきょう》をスコップですくって、木箱に移し替えた。少女は遠くに跳《は》ね飛んだものを探して全《すべ》て拾って、箱に入れる。
最後に、老婆が三脚とパースエイダーに防水布のカバーをかけた。そして残った弾丸を収納するために、鉄製の弾薬箱を持って家に入っていった。少女はテラスに上がる。
「終わったよー」
「お疲れさま」
そう言ったエルメスに、
「私はほとんどなーんにもしなかったけど」
言いながら少女はゆっくりと寄りかかって、一度空を見上げた。
緩《ゆる》やかに風が吹いて、少女の髪を揺らす。
「…………」
増えた丸い雲の向こうに、どこまでも抜けるような蒼《あお》い空。音もなく流れる雲が、自分が反対に動いているような錯覚を生み出す。
「キノ? ――キノ」
玄関から老婆が少女に声をかけた。
そして少女は、ずっと空を見上げたままだった。
「呼ばれてるよ」
エルメスが、やや大きな声を出した。少女が驚いて視線を水平に戻し、
「え? 私?」
「ええ、そうですよ。キノ」
目の前に来ていた老婆が、優しい口調で言った。
「あ、えっと、そうですよね……。ごめんなさい、まだたまに、呼ばれても自分のことじゃないと思っちゃうんです」
少女は、照れたように、しかしどこか切《せつ》なそうに笑いながら、
「――それで、キノ≠フことを考えて、いて……」
下がっていく少女の顔から笑みは消えて、やがてテラスの板と老婆《ろうば》の足元を見た。
老婆が少女の肩に軽く手を置いて、驚いて顔を上げた彼女に声をかける。
「そのうちに慣れるでしょう。――私は、キノ≠チて名前は好きですよ。短くて呼びやすくて、いい響きですね」
「私もそう思います!」
少女が弾《はず》んだ声で言った。そして老婆は、
「今の私にとっては、あなたがキノですよ。――あなたがキノ」
「私が、キノ……」
少女が復唱するようにつぶやいた。そして、
「でも! でもですよ、ししょう」
老婆を見上げて、握り拳《こぶし》の両腕を、小さく何度も揺らしながら言う。
「私はキノ≠謔閨Aボクはキノ≠フ方がいい気がするんです。ボク≠フ方が似合ってませんか? 初めて聞いた時にそう聞いたからかも知れませんけど、そっちの方がうっかりくるような気がするんです」
エルメスが、二人の脇から聞く。
「……しっくりくる=H」
「そうそれ!」
キノが即答した。
老婆は、ゆっくりとした口調で、
「それも、慣れでしょう。急に何もかも変える訳にはいきませんから、のんびりいきましょう。それはちょうど、あの木をのんびり待つのと一緒です。冬が来て、春になって――、考える時間は、ここにはまだまだありますよ」
「ところで、ししょう=Aって不思議な響きですね。何か隠された意味ってあるんですか?」
少女が聞いて、干されていたタオルを取った老婆が、怪訝《けげん》そうな顔で振り向いた。
「はい?」
「ししょう≠チて意味です。とっても珍しいってずっと思っていたんです。あ、でも外国ではあたりまえで全然そうじゃないのかも」
「…………」「…………」
老婆とエルメスがしばらく黙って、二人と一台の間に、涼しい風が通り抜けていく。
老婆は、手にしたタオルを丁寧《ていねい》に折り畳《たた》んでから、
「キノ……。ちょっとテーブルに座って、いろいろと教えることにしましょう……」
「はい? ――はい」
そして二人は家の中に消えた。
しばらくごにょごにょと話し声がテラスのエルメスに聞こえて、やがて、
「えー!」
少女の驚いた声がはっきりと届く。
「ししょう≠チて名前じゃなかったんですか!」
「やれやれ」
エルメスが言った。
小さな家の前のテラスに立つエルメスには、小さな風の音、そして先ほどからの、家の中からの二人の声が聞こえる。
「このまま午後のお茶にしましょうか」
「はい、私がやります。教わったとおりに――、師匠《ししょう》」
「分かりました。お任せします」
しばらく火を作りお湯を沸かす音。
寝るかな、とエルメスがつぶやいた。
「できました。――どうぞ」
「はいありがとう。いい香りですね。どのお茶を入れましたか?」
「えっと、読めないんですけど、赤い缶《かん》の。前に師匠がいれてくれて美味《おい》しかったです」
「リンゴのですね。ではいただきましょう」
「はい」
空の雲はさらに増えて、繋《つな》がって塊《かたまり》になり流れていく。明日また曇りかな、とエルメスが一人ごちた。
老婆《ろうば》が聞く。
「さて、明日は、また天気がよかったら何をしましょうか?」
少女はすぐに答えた。
「ベッドのマットを干すのはどうですか!」
太陽が西に傾き、頂点から半分を割り込んだ頃。
テラスの上で熟睡中のエルメスのシートを、
「起きろー!」
少女が両手の握り拳《こぶし》でばふばふ叩《たた》きながら大声を出した。
「はいはい……。朝ね」
「違うよ。火薬屋さんがもうすぐ来るから、エルメスにはどいてもらうの」
少女はそう言って、エルメスを前に押してスタンドを外《はず》す。そのまま少し押して、テラスから滑《すべ》り降りるエルメスにひらりとまたがった。その勢いで土の上を走り、くるりと回転して、テラスと道の間にエルメスを滑り込ませる。
「うまいもんだね。でも、別に起こさなくてもいいじゃん」
そう言ったエルメスを、少女はそこに立たせた。
やがて、道の向こうから馬車が一台やってきた。どこまでも真っ直《す》ぐな道のため、彼方《かなた》にいるのがよく見える。家から出てきた老婆《ろうば》が道に立って、遠くを眺める。
「来たようですね」
「用意しまーす」
少女はそう言って、家の隣の馬小屋へと走っていった。
やがて、二頭立ての馬車がテラスの前で止まった。御者《ざょしゃ》は、髭《ひげ》を蓄えた体格のいい中年の男性で、オーバーオールに革《かわ》製の上着。左右の脇下に、自動式のハンド・パースエイダーをホルスターで吊《つ》る。馬車の荷台には木箱がいくつか積まれて、ロープで固定されていた。
老婆が言う。
「今日《こんにち》は。いつもお疲れさま」
男は馬車から降りて、老婆へと頭を静かに垂れた。
馬車の荷台からテラスへ、斜めに板が渡されて、
「それっ」
男は荷箱をゆっくりと滑らせて、テラスに並べていった。
少女は飼《か》い葉桶《ばおけ》を馬の前に置いて、それからもう一つの桶に水を溜めるために、バケツを手に忙しく家の裏の井戸《いど》と往復している。
テラスに並べられた木箱の蓋《ふた》が、男によって開けられていく。まずは蓋が打ち付けられていないもの。
「こちらの野菜はいつもどおりに。お肉は、いいベーコンが入りました。卵もありよすよ。早めがいいですね。おばさん連中のジャムも、ダース単位であります」
そして、蓋が釘《くぎ》でしっかり打ち付けられていたもの。バールでこじ開けて、中身を見せる。
「こちらの火薬と燃料、天気が荒れた時のことを考えて普段より多めです。ご確認ください」
「はい。いつもお世話様」
男は、土の上にある三脚を見た。パースエイダーは既に取り外《はず》されていた。
「新型の全自動連射式パースエイダー、どうでしたか?」
男が老婆へと、期待するように訊《たず》ねた。
「悪くないですね。性能に関して、私からの文句は一切ありません。体格によっては三脚なしでは辛《つら》いでしようが、それだけです。いいのを作りましたね」
「そう言っていただけると……、国の技術屋連中も喜びます」
男が顔をほころばせたが、
「先ほども、あの木を切り倒すのに使いましたよ」
すぐに老婆《ろうば》が言って、男は横になった木を見る。
「…………。えっと、そういうの、上には報告しませんよ……」
男がやや渋《しぶ》い顔で言った。老婆は、
「この年になると、いちいち効果を計算して爆薬をしかけるのも面倒で」
「……力仕事でしたら、今度はいつでも呼んでください。人を集めて来ますから」
「もしもの時は、そうしますよ」
テラスの上で、男は馬に餌《えさ》と水を与える少女をちらりと見た。そして、老婆へ訊《たず》ねる。
「その……、何度も言いますが、国の中に住むつもりはありませんか? 皆歓迎します」
「何度も言いますが、皆さんのお気持ちは大変ありがたいですが、そのつもりはありません。今は一人でもないですし」
老婆は、静かな口調で答えた。男が食い下がる。
「これは将来の、仮定の話ですが……、あの子はどうします? ずっとここで、一人と一台で生活するんですか?」
「それは、あの子が決めることです。自分の人生です。自分でやりたいことを見つけて、そうするしかありません。あの子が一生ここで過ごしたいと願えば、それはそれで」
老婆のしっかりした口調に、はるかに体の大きな男は、静かに肩を落とした。
「また、いつでも呼んでください……」
「ええ。何かの時はお願いします」
それから男は、箱を一人で持ち上げて、家の中に運び始めた。いくつかを入れて、いくつかを家から持ち出す。それを馬車に積み終えて、最後に三脚の片づけを二人で行った。
「はい。どうぞ」
少女が、男の前のテーブルにお茶のカップを置く。
リビングのイスに男が上着を脱《ぬ》いで座っていて、反対側には老婆が座っていた。少女がその隣に、自分の分を置いて座る。
「ありがとう。いい香りだね。これは、なんてお茶かな?」
男が少女に訊ねて、少女は、前に持ってきてもらったリンゴのお茶です、と楽しそうに答えた。そして、マグカップを両手で持って口に運ぶ。男は軽く老婆にカップをかかげ、飲み始めた。
しばらくゆったりと時間が流れる。男は老婆に国のようすを話し、今度来る時期の予定と、持ってくるもののメモを取った。
「さて、暗くならないうちに。――お茶、ごちそうさま」
男がそう言って、上着を手に立ち上がる。老婆《ろうば》と少女も、外へ見送りに出ようとする。
「――あ、これ」
男が立ち止まった。その視線の先には、茶色のコートが一着、丁寧《ていねい》に吊《つ》るされている。少女の足が止まった。
「これ、先日これとまったく同じコートを着た人を見ましたよ。どこかで見たと思っていたんです」
「…………」
少女が息をのんだ。その脇で老婆が、男に訊《たず》ねる。
「おや、その人は?」
「ええ。もう帰りましたよ。彼の国では、旅に使えるような丈夫《じょうぶ》なコートはこれしかないから、皆着て出ていくそうです。よそで誰かを見ても、コートですぐに同胞だと分かるって笑っていました」
男は、少女の睨《にら》むような視線に気づくことはなく、話を続ける。
「なんてことはない近くの国の人です。商売で行ったこともあります」
「どこですか!」
突如、少女が大声で叫んだ。
「うわっ!」
「どこですか! それどこなんですか!」
「…………」
男は驚いた顔で、少女と老婆を見る。老婆は何も言わなかった。
少女は、
「教えてください! どこなんですか!」
男に食らいつくように言った。
「それで、その国に行くの?」
エルメスが聞いた。そしてすぐに、
「まあ、行くつもりだからこんなことしているんだろうけど」
少女はテラスの上で、エルメスの燃料タンクに補給をしていた。両手で持ち上げた燃料|缶《かん》から、注《そそ》ぎ口を通ってタンクの中へ。日はほとんど落ちて、ほとんど雲に覆《おお》われた空は薄暗かった。
「もういい! 止めて!」
エルメスが大声を出して、
「……っ!」
少女は慌《あわ》てて燃料|缶《かん》の傾きを戻した。缶を置いて、ぎりぎりまで入った燃料タンクのキャップをしっかりと締めた。
エルメスが聞く。
「本当に行くの?」
少し前――。
「さっきも言ったけれど、隣国の一つ、だよ」
火薬屋の男が、少女の食らいつくような質問に答えた。そして矢継《やつ》ぎ早《ばや》に、次の質問。
「そこ、モトラドで行けますか? モトラドなら行けますか?」
「え? ああ。私達は馬車で行くけど、雨季でもなければ、道はそんなに悪くない……、けどねえ――」
「時間は、どれくらい必要ですか?」
男が、ちらりと老婆《ろうば》を見た。
「ああ……。馬車だと二日くらいだけど、昼出て昼に着くくらいだから、モトラドなら、一日で行けるかもしれないな。森の中の平らな一本道だ。迷う心配もないと思う……。答えになったかな?」
男が聞いて、少女は何度も頷《うなず》きながら答えた。
「はい……。ありがとうございます。ありがとうございます……」
火薬屋の馬車を見送った後、
「そうですか……。あなたの気持ちは分かりました」
道の上で、老婆が少女に言った。
「……それを、やりたいんです。私は……、それをやりたいんです。どうしても、やりたいことなんです。――だめ、ですか?」
老婆は首を横に振った。
「いいえ、私は止めません。なぜならこれは、あなたの人生ですから。しかし、必ずしもそれがいい結果をもたらすとは限りませんよ。――もっとも、悪い結果をもたらすとも限りませんが」
そう言って、老婆は少女に聞く。
「本当に行きますか?」
「行くよ」
少女がエルメスに答えた。
「では、私はその手助けをいたしましよう」
老婆《ろうば》が、そう言いながら玄関から出てきた。少女は呼ばれ、エルメスを押しながら家へと入る。玄関近く、ランプやストーブから離れた位置にエルメスを立たせていると、老婆が革《かわ》製の大きな鞄《かばん》を持って、奥の部屋から出てきた。
老婆が鞄を床《ゆか》に置いて開く。そこから、畳《たた》まれた黒い服を取り出した。黒いジャケットと黒いパンツ。共に丈夫《じょうぶ》そうな素材で作られていて、パンツ用とジャケット用のベルトがあった。さらに、耳を覆《おお》うたれと鍔《つば》のついた帽子《ぼうし》が一つと、乗馬用よりしっかりしたフレームのゴーグルが一つ。
「これを着ていきなさい。いつもの服装だと旅には向かないでしょう。モトラド用にいいものがないか、火薬屋さんに頼んで届けてもらっておいたものです」
少女が顔を上げた。
「師匠《ししょう》……」
「本当は、今度のあなたの誕生日プレゼントに取っておこうと思っていたんです。けれど、必要な時が来たようですから――。ちょっと早いですけど、あなたのものですよ」
「…………。あ……」
少女が礼を言おうと口を開いた時、
「そしてこれも、持っていきなさい」
老婆が言いながら、壁の棚からホルスターを取り出した。腰のベルトに通すタイプで、かなり長い。中には、少女が練習で使った大口径リヴォルバーが入っていた。
「師匠、これ――」
「ええ。明日、弾丸をこめて、予備もしっかり持って、腰に吊《つ》って行きなさい。身を守るためには必要です」
「でもっ……」
少女が一度言いよどんで、
「でもっ、いいんですか? これは、師匠が昔から使っていた、とても大切なパースエイダーじゃないんですか?」
老婆はにっこりと笑って、
「確かに大切ですが、だからこそ――。ご覧なさい」
老婆は鞄から、漆黒《しっこく》に塗られ丁寧《ていねい》に飾り細工《ざいく》された木箱を取り出した。テーブルに置いて、手前の鍵の番号を合わせて開ける。
「あ……」
「全然心配はいりませんよ。一つ≠ィ貸しします」
少女と老婆が覗《のぞ》き込む先、箱の中には布が張られて板の仕切りがあり、まったく同じリヴォルバーがもう三|丁《ちょう》、そしてシリンダーの予備が六つ入っていた。
「それと、荷物を入れる鞄《かばん》がいりますね。この鞄、キャリアに載《の》るでしょう。一緒にお貸しします」
少女が、老婆《ろうば》の顔を見上げて、
「師匠《ししょう》……」
「はい」
「ありがとうございます。なんて言ったらいいか……」
老婆は少女の肩に軽く両手を置いて、
「まだ早いですよ。それに、物事というのはどういう方向へ転ぶかまったく分からないものです。もしかしたらあなたはあの時あの人が自分を助けなければ、こんな目に遭《あ》わずにすんだかもしれないのに=Aそう思って後悔するかもしれません」
「…………」
「そう思わないのかもしれません。全《すべ》てはあなた次第ですよ。キノ。私は、あなたを助けたことを後悔はしないでしょう。そして、――あなたの幸運を祈っていますよ」
翌日の朝。
空には雲が低く立ちこめ、速く流れていた。昇ったはずの太陽は見えず、雨は降っていない。
テラスの上で、エルメスがエンジンをかけて止まっていた。後部キャリアには、革《かわ》製の鞄が縛《しば》りつけられていた。予備用の燃料|缶《かん》が一つ、その上に載《の》っている。
その脇に、少女が立っていた。
黒いジャケットに黒いパンツ、腰を太いベルトで締めている。ベルトにはいくつかのポーチと、右|腿《もも》に、大口径リヴォルバーが収まったホルスターがあった。
長い髪を一つにまとめて、それはジャケットの中に入って隠れていた。鍔《つば》と耳を覆《おお》うたれのついた帽子《ぼうし》をかぶり、銀色のフレームのゴーグルを首から下げていた。
家から老婆が出てきて、少女に何か言った。
少女は一度、しっかりと頷《うなず》いた。そして言う。
「行ってきます」
少女はゴーグルをはめた。それからエルメスにまたがって、スタンドを外《はず》す。ゆっくりと走り出して、道へと降りる。
向きを変えて、走り出した。
森の中の一本道を、モトラドが走っていく。
道は平坦《へいたん》で堅《かた》くしまっていて、真っ直《す》ぐにどこまでも延びていた。森の切り欠きが、地平線まで続き、そこから見上げる空は、一面鉛色だった。
「ちょっと、スピード出しすぎ!」
エルメスが言って、
「そう?」
運転中の少女が、短く返す。
「そうだよ。そんなに焦《あせ》らなくても、昼過ぎには着けるって」
「でも、大丈夫《だいじょうぶ》だよ……」
「今はいいけど、道が荒れてきたら大変だよ」
「そう……」
「それに疲れる。もうちょっと巡航《じゅんこう》スピードは落とす。無茶《むちゃ》やって到着できなくなったらどうするつもり?」
「分かった……」
スピードが落ちて、エルメスはふう、と一息ついた。そして、
「キノ、さあ」
運転手へと呼びかける。返事はない。
「キノ」
「…………」
「ちょいと?」
「え? ――あ、うん、何?」
ようやく気がついた少女が、エルメスに聞いた。
「ちょっと質問なんだけど、その国に行って、どうするつもり? 肝心《かんじん》のそれ、まだ聞いてないんだけど」
しばらく少女は無言で、森の木々だけが後ろへと流れ去っていく。まったく変わりばえのしない景色が、自分やモトラドが止まっていて、森と土が動いて流れていくような感覚を作る。
少女が、ゆっくりと口を開いた。
「やっぱり私は、キノ≠カゃないんだよね……」
「ん?」
「私はキノ≠カゃないと思う。そう思えない。私は違う=Aと思う。だから行って……キノ≠フ故郷に行って……」
「行って?」
「キノ≠知っている人、家族とか、探して、会って……」
「会って、どうするつもりさ?」
少女は、ゆっくりと顔を上げた。道の上に広がる、鈍《にぶ》い色の空を見て、
「謝る」
道へと視線を戻した少女に、エルメスが言う。
「報告でいいんじゃない? まず、何があったか伝えることで」
「報告して、それから謝る……。だから行く……」
「そっ。――じゃあ、話は変わるけど、そろそろ最初の休憩《きゅうけい》入れない? ずっと走っていると、振動で手とか足とか疲れるでしょ?」
「いい。へいき」
モトラドが、森の中の道を走っていく。
少女は、昼まで休むことなく走り続けた。
道の脇にエルメスを止めて、少女は昼食を取っていた。
持ってきたのは、焼いたパン。それに蜂蜜《はちみつ》を小さな瓶《びん》から垂《た》らして、無言で作業的に食べる。水筒《すいとう》から水をそのまま飲もうとして、
「生水《なまみず》はできるだけ避ける。そう言われたでしょ」
エルメスに言われ、渋々《しぶしぶ》固形燃料に火をつけて、カップでお茶をいれて飲んだ。
ほとんど無言で片づけをして。再び帽子《ぼうし》をかぶりゴーグルをつけて、まったく誰ともすれ違わない道を走り出した。
少女のゴーグルに映る森が、中央から脇へと流れていく。モトラドは、真っ直《す》ぐな道を走り続けていた。
曇った空は、太陽の位置を隠し時間の感覚を奪う。
「大丈夫《だいじょうぶ》。そんなに慌《あわ》てなくても、まだ午後のお茶の時間くらいだよ」
エルメスが言って、それにほら見て、と西の空を見るように促《うなが》す。木々の隙間から見える西の空に、雲の穴が、ほんの少し蒼《あお》い空が見える箇所があった。
「天気はよくなるよ。濡《ぬ》れなくてすんだね」
少女は何も答えない。ただ、右手でアクセルを開け続ける。
やがて、モトラドは森の中に立つ城壁の前で止まった。
「ここだね。間違いない」
エルメスが言って、おりた少女は無言でゴーグルをずらした。
その国の城壁は、森の中に森と同じ緑色をして建っていた。描くカーブがきついことで、それほど大きな国ではないことが分かる。石の城壁が、うねる蔦《つた》にてっぺんまで覆《おお》われて、一見朽ちかけの遺跡《いせき》のようにすら見えた。
少女は、ゆっくりと帽子とゴーグルを取った。髪をジャケットから出して、背中に垂《た》らす。そして、目の前にそびえ立つ城壁を見上げた。そのまま、何も言わずに立ちすくむ。
ドアが開く音がした。少女が驚いて視線をさげる。
道の先には城門があり、その脇の詰め所から番兵が出てきた。古いライフルを背負った二人で、一人は中年と初老の間、一人は二十歳《はたち》ほどの若い男だった。
「あの、あなたが、旅人さんかい? 我が国に、入国を希望するのかい?」
「…………」
少女のかわりに、
「そーだよ」
エルメスが言った。
「……え、えっと……。その……」
番兵は不思議そうな顔で、必死に喋《しゃべ》ろうとする少女を見た。
「えっと…… ここが……、えっと……」
それから少女は、キャリアの上の鞄《かばん》に飛び付いた。番兵が驚いて見ている前で、鞄を降ろして、そして開けた。中に入っていた、きれいに折り畳《たた》まれていた茶色いコートを取り出して、
「これ……、この国の、誰かのだと思います……」
番兵に両手で差し出した。
番兵が怪訝《けげん》そうな顔で受け取って、
「見ていいかい?」
少女が頷《うなず》く。年を取った方の番兵が広げて、
「確かにこれは、我が国のコートだねりどれどれ……」
そして、コートの内ポケットの中を覗《のぞ》き、
「ああ、やはり住人番号がある。四八四〇二の一五八五五、って誰だろう? ――おい、台帳と照合頼む」
若い番兵が番号を復唱して、城壁脇の詰め所に入っていく。そしてしばらくして、分厚《ぶあつ》い台帳を手に出てきた。
「四八四〇二の一五八五五=B間違いないですね、あります。四年前に、この門から出国しています。名前は――」
「キノ!」
少女が叫んで、番兵の一人はその声の大きさに、もう一人は、その名前に驚く。
「あってます……。出国した住人の名前は、キノ=v
番兵二人は少女を見て、そして年を取った方が、口調がきつくならないように注意しながら、ゆっくりと訊《たず》ねる。
「もしよかったら、これをどこで手に入れたか、教えてもらえるかな?」
少女はその質問には答えず、言う。
「この人の家族はいますか? ――いたら合わせてください! お願いします!」
「…………」「…………」
そして番兵二人は、今度は少女の言葉より、彼女の目から流れている涙に驚いた。
城門内側の、さほど広くはない広場に、数十人ほどの住人が集まっていた。農作業や仕事の帰りらしい人達が頭を並べ、どこで聞きつけたのか、やって来た旅人のうわさ話をしていた。
「まったくもう、閑《ひま》な人達だな」
年を取った方の番兵が、詰め所の中からその様子を眺めて呆《あき》れる。イスの上で、少女が固まった表情のままで座っていて、脇にはモトラドが止まっていた。番兵は少女に、
「連絡はついたから、家族の人がすぐに来るそうだよ。しかし、せめて何があったか、おじさんだけには教えてくれないかな?」
少女は、小さく首を振った。
昼が半分を過ぎて、雲と空の比率がゆっくりと逆転する。雲の切れ間から、濃さを増した蒼《あお》い空が増えていった。
そして、広場に一台のトラックがやって来た。農作業用の、後ろに荷台をつけた小さなトラックで、そこから中年の女性と老人がおりた。人をかき分けて詰め所へと入る。
慌《あわ》てて立ち上がった少女に、中年の女性がのんびりした口調で言う。
「私達は、キノ≠フ家族じゃないの。あなたをお連れするようにって、頼まれて来たの」
「誰に、ですか?」
「キノ≠フ唯一の肉親――、母親によ。来てくれるかしら?」
少女が頷《うなず》いた。番兵が老人に、いいのですか? と訊《たず》ね、
「なに、取って食うようなことはしないよ」
老人が答えた。そして番兵に言う。
「だから、この子の入国を許可してほしい。この子は、我が国の国民の、正式な招待客だよ」
小さなトラックの荷台にエルメスが載《の》せられ、ロープで固定されていて、
「やれやれ。どうなるんだろうね」
そして他人事《ひとごと》のようにつぶやいた。
トラックは、畑と畑の間の、土の道を走っていく。
助手席で、少女は畳《たた》まれたコートを膝《ひざ》に置いて、ずっと無言だった。
トラックは、家が集まって建てられている通りで止まった。家はやはり木材を組んで作られたログハウスで、それほど密集せず、通りの街路樹との間に建てられていた。
乗っていた全員がおりて、老人はエルメスに、
「君は、ここでいいかな? また載せて縛《しば》ってが面倒でね」
「聞く相手が違うと思う」
エルメスが言った。老人はそれはそうだな、と言って、同じ質問を少女に向ける。
「なに、ここに止めておくから。大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
少女は、
「エルメスがいいって言うのなら、いいです……」
「分かった」
そしてエルメスはそのままで、三人は一軒の家へと入る。木戸《きど》を開けて、やや薄暗い室内へ。
入ってすぐのリビングには、誰もいない。小さなテーブルが一つと、イスが二つ。火の入っていない煉瓦《れんが》の暖炉《だんろ》が一つ。
「…………」
少女が帽子《ぼうし》を取って、中にゴーグルを入れて、畳《たた》んだコートの下に持つ。
「おいでになりましたよ」
中年の女性が家の奥に向けて呼びかけて、
「はい。今行くわ」
奥から、女性の声が返ってきた。
「…………」
少女の左手が、帽子を握りしめた。
やがて、奥の部屋から、一人女性が出てきた。
四十代後半か、五十代前半。やや太めの体格に、顔には丸|眼鏡《めがね》をかけていた。緑色のワンピースに、エプロン姿。
少女を見て、女性は笑顔で言う。
「まあ、あなたね。私の息子《むすこ》のことを知っているっていう、可愛《かわい》い旅人さんは」
「…………。はい」
「お名前は?」
「×××××、です」
「ようこそ、×××××さん」
それから女性は、少女にイスを勧めた。少女がコートを膝《ひざ》に置いて座るまで待ってから、自分は向かい側に座る。
「私達は、どうしましょうか?」
老人がそう言って、女性は、
「とりあえず、二人だけにしてくださいな。後で、お世話になるかもしれないけど」
そして、少女を連れてきた二人は、玄関から出ていった。
ドアが閉まる音を最後に、部屋の中は静寂に包まれる。しばらくして、最初に口を開いたのは少女だった。
「……あのっ、これ! ――お返しします!」
そして、折り畳《たた》まれたコートを、テーブルの上に出した。
女性はそれを手に取り、ゆっくりと開いて内ポケットの番号を見た。
「間違いないわ。これは私の息子《むすこ》の、キノのコート。これを、どこで――」
「全部話します! 全部話しますからっ!」
少女が叫んで、イスから身を乗り出して、
「…………。分かったわ」
女性は静かに頷《うなず》いて、それから少女へと言う。
「その前に、涙を拭《ふ》きましようね」
少女が必死になって説明をしている間、空では雲が風に追いやられ、傾いた太陽が顔を出した。始まったばかりの夕焼けの空が、緑と茶色の田園地帯を、そしてログハウスを照らす。室内を、薄い紅《あか》とオレンジの混ざった空気が満たしていた。
「そう。そうだったの」
女性が静かな口調で言って、少女は、ごめんなさいをゆっくりと四回繰り返した。
「教えてくれて、ありがとう。――いつまで経《た》っても帰ってこなかったし、もう消息も知れないかと思って諦《あきら》めかけていたの。コートだけが帰ってきて、たぶん生きてはいないと思ったけど」
女性が、感情がこもってないように聞こえる口調で、淡々と言った。
「ごめんなさい……」
少女はずっと顔を机に向けたまま、小さな声で言った。
「あなたが自分を責めても、なんにもならないわ」
「それでも……、ごめんなさい。私が、あんなことを親に言わなければ……」
「そうなったら、あなたは今のあなたじゃなかったかもしれないのよ?」
「それでも……、全然関係ない人が、キノが死ななくてすんだはずです……。私が、普通にあの日、誕生日を迎えていれば……」
そして女性は、
「あの子はね――」
ふいに口調を変えた。普通に世間話をするような、明るい話し方だった。
「あの子は、旅をするのが好きだって言ってた。いろいろな国を見ることが、自分や自分の国の成長につながるんだって。何度も出かけては、戻ってきて、すぐまた出かけて……。大人《おとな》になって≠ゥらは、ほとんど自分の国にいなかったんじゃないかしら」
「…………」
「だから、この国から出かけるたびに、もう二度と戻ってこないんじゃないか≠チて思いながら待っていたわ」
「…………」
「ねえ、一つ教えて」
少女が、半分まだ泣いているような、半分もう死んでいるような顔を上げる。そして、小さくはい、と返事をした。
女性が訊《たず》ねる。
「今のあなたに、帰る場所はあるのね?」
「え? ――はい。でも……」
「ならいいわ。それはとてもいいことよ。だから、あなたはそこに帰るべきよ。でも今日はもう遅いから、この国≠ノ泊まっていきなさいな。――今お茶をお出しするわね」
女性はイスを立ち、リビングの脇のキッチンへと座る。
「あの……」
しばらくして、少女は思い出したようにイスを引いて立ち上がり
「いいのいいの。お手伝いはいいわ。座っていて」
声だけが返ってきた。
しばらく聞こえる、燃える木がはぜる音。お湯が沸く音。ポットへと移される音。
すっかり紅《あか》く染まった室内で、
「…………」
少女は目の前のコートをさわっていた。
やがて、両手を膝《ひざ》の上に置こうと下げて、
「!」
右手が、何か冷たいものに触れた。少女が驚いて引っ込める。ゆっくりと視線を降ろして、触れたものを確かめる。
ホルスターの中に、装填《そうてん》されたパースエイダーが収まっていた。紅い空気の中、鈍《にぶ》く黒い塊《かたまり》が、確かに存在していた。
少女は、それを避けるように、右手を膝の上に動かした。
「さあ、どうぞ」
湯気の立つ二つのカップが、テーブルに置かれる。持ってきた女性は、テーブルの上のコートを持ち上げて、奥の部屋へ消えた。戻ってきて、カップを少女の前へ。自分も座った。
少女は、カップを両手で持って口をつける。
「熱くない?」
二口ほど飲んで、大丈夫《だいじょうぶ》です、と少女は言った。そしてもう一口。
「喉《のど》が渇《かわ》いていたようね」
女性が言った。少女は、ほぼ一気に半分ほどを飲んでいた。
少女が、ゆっくりと一度、静かに息を吐《は》いた。
「おいしい、です」
少女が言って、ありがとう、と女性の声。
そして、少女がカップをテーブルに置いた瞬間、
「……え?」
目の前の世界が、ゆらりと右に傾いた。
激しく体を床に打ち付ける音。そして、イスが倒れる音。
少女は座ったままバランスを失い、イスごと左側に倒れていた。右手がカップを弾《はじ》いて、テーブルを濡《ぬ》らす。左肩から床に倒れた少女の顔の脇に、渇いた音を立ててカップが転がり落ちた。束ねていた長い髪が、床に散らかった。
「え……。 え……?」
少女が、丸太がぐにゃぐにゃと歪《ゆが》む天井《てんじょう》を見上げて、あえぐように声を出した。
紅《あか》い空気の中、天井を覆《おお》うように、女性の頭が見えた。静かに見下ろす女性の両肩から、手が伸びてくる。
「え……?」
手はぐにゃぐにゃと曲がりながらも、喉元へと伸びた。
「あなたさえいなければ……」
女性の声が、はっきりと少女の耳に届く。続いて、冷たい手の感覚が喉へ。
「あなたさえいなければ、私の息子《むすこ》は死ななくてすんだのに」
「!」
細い首を絞《し》める手に、力がこもる。
「……かっ!」
少女の喉から押し出された息が、短い声を出した。
「あなたさえいなければ、あの子は無事に帰ってきたのよ。キノは帰ってきたのよ。キノは生きていたのよ。そうじゃない?」
「…………」
少女に、覆《おお》いかぶさる女性の表情は見えなかった。ただ、黒い塊《かたまり》に見えた。
窓から鋭く差し込む夕日で、どこまでも紅く染まった部屋の中。仰向《あおむ》けになった髪の長い少女の首を、一人の女性が両手で締めていた。
「その苦しみが分かる? 息子に先に死なれてしまった母親の気持ちが分かる? いつまでも待っているだけの人の気持ちが分かる?」
「…………」
「あなたさえいなければ!」
女性の腕に、さらに力がかかった。
少女の口からは声も息も漏《も》れず、両方の手だけが少しだけ上へと動いて、すぐに落ちる。何かを掴《つか》もうと、再び上へと震える手が伸びて、落ちる。その時右手が、冷たいものに触れた。
右手が、冷たいものを掴み、そして握りしめる。肩で動かすように右腕を引くと、ホルスターのストラップが外《はず》れて、黒光りするシリンダーが、続いてバレルが姿を現した。
女性が大きく口を開く。ゆっくりと、はっきりとした口調で、
「あなたさえいなければ、キノは帰ってきたのよ」
そしてもう一度。
「あなたさえいなければ、キノは帰って――がっ!」
リヴォルバーの長いバレルが、喋《しゃべ》っていた女性の口に入った。少女の手のふるえがバレルへと伝わり、女性の歯とぶつかってカチカチと音を立てる。
女性の、喉《のど》を締めつける手がゆるんだ。一度細い息を吸った少女が、吐《は》き出しながら呻《うめ》く。
「今は……、ボクだ……。ボクがキノだ……」
カチカチ音が、止《や》んだ。
「二度も……、殺されて……、たまるか……」
すどん。
紅《あか》い世界の中。木材に囲まれた、リビングルームの床の上。
一人にのしかかっていた一人は、くぐもった破裂《はれつ》音と同時に、強い電気を受けたように一度びくんっ、と跳《は》ねた。そして何も言わずに、床の上の一人へと崩れ落ちた。
紅い世界の中。
一人の、仰向《あおむ》けで気を失っている人間の上に、一人の、うつぶせで死んでいる人間がのしかかっていた。
流れ出る大量の血が、一人の長い髪に染《し》み込んでいった。
紅い世界の中、床に、より紅い液体が広がっていく。
やがて、日が森と城壁の向こうへ落ちると同時に、部屋は急激に暗くなっていく。
「…………」
玄関脇の窓から、人間の目が、動く者のいない部屋を覗《のぞ》いていた。
次の日の朝。
キノは夜明けと共に起きた。
目を開けて、ゆっくりと体を起こした。暖かい毛布が、前へとずれ落ちる。キノは自分の体を見て、清潔な白い肌着を着ていることに気がついた。
「…………」
「おはよ」
突然声をかけられて、キノは声の方へ視線を送る。エルメスが、センタースタンドで立てられていた。
「あ、おはよう。エルメス」
キノはそう返して、左へ視線を振る。ベッドの脇は丸太の壁で、そこにある窓からは、朝の薄い光が入り込んでいた。
右へ視線を振る。そこは小さな部屋で、簡単な机とイス、洋服掛けがあった。机の上には、洗濯され折り畳《たた》まれた白いシャツ、ブーツ、ホルスターに収まったパースエイダー、そして、帽子《ぼうし》とゴーグルが置いてあった。
洋服掛けには、黒いジャケットとパンツが、丁寧《ていねい》にかけられていた。
「――ここは、どこ?」
ぼうっとした声で発せられた質問の答えは、部屋の外から入ってきた。
「国の中だよ。わたしの家」
言いながらドアを開けたのは、昨日迎えに出た中年の女性だった。
「今は、あなたが入国した次の日の朝だよ。――具合はどうだい? まだ頭がふらふらしたり、手足や舌がしびれるなんてことは、ないかい?」
中年の女性は昨日と変わらぬのんびりした口調で訊《たず》ねて、キノは首を横に振った。
それならいい、と中年の女性が言った。
「…………」
キノはしばらく、ベッドの上で目を大きく開き、そのままぼうっとしていた。静かに息をして、細い肩がゆっくりと上下に動く。
そして、
「あの人は?」
キノが、短い言葉で聞いた。
「葬式《そうしき》と埋葬《まいそう》は、昨夜のうちに済んだよ」
中年の女性が答えた。そして、服を着て待っているといいよ。そう言い残し、部屋から出る。
キノはベッドからおりて、そこにある自分の服を見た。ジャケットの襟元《えりもと》に、汚れは見えなかった。
キノは、昨日と同じように着た。袋いジャケットの腰にベルトを締めて、ホルスターを右|腿《もも》の位置に吊《つ》るした。一発だけ撃《う》たれたリヴォルバーには、渇《かわ》いた黒いものが、ほんの少しだけこびりついて残っていた。
キノが髪をジャケットの外に出そうとして、
「…………」
初めて、そんなものがないことに気がついた。
「鏡なら、洋服掛けの裏に確かあったかな?」
エルメスが言った。キノはそこから静かに三歩歩き、鏡の前に立った。そこには、短い髪をした人間が映る。
「…………」
しばらく、キノはその人間を見つめていた。やがて、鏡の中の人間の口が動く。
「キノ……。ボクは、――キノ」
「おはよう。キノ」
エルメスが言った時、ドアが開いて、昨日の老人と中年女性が入ってきた。
「だいぶ血で染まってしまってね。悪いとは思ったけれど、この人に切ってもらった。――気になるかな?」
キノは鏡から老人に視線を移し、いいえ、と短く答えた。
「そうか。まあ、お座りなさい」
老人が言った。キノはベッドに座り、他《ほか》の二人は、部屋の隅《すみ》にあった丸イスを前に運び、それに腰掛けた。
「さて、何から答えようかね?」
老人が口を開いて、キノは聞いた。
「ボクは……、ボクのやったことは、どんな罰に……?」
「この国で、正当防衛≠ヘ罪にはならないよ。そして自殺の幇助《ほうじょ》≠ヘ、それほど軽い罪ではない。その罰則は、国外追放だね。――分かるかい?」
老人が探るように聞いて、キノは、静かに頷《うなず》いた。
「分かりました。でも……、なぜですか?」
老人は静かな口調で話し、外でさえずる小鳥の鳴き声と重なる。
「どうにも、お人好しが多いんだよ、この国にはね。――それが少し嫌《いや》で、しょっちゅう旅に出た若者もいる。まあ、それでも抜けきれなかったんだろうけれど」
「…………」
「話を戻そう。あの人はね、長い間、ずっと一人で待っていたんだ。息子《むすこ》の帰りをいつまでも待っている母親の気持ちは、分かるかい?」
「いいえ」
キノが即答して、
「それでいい」
老人が頷《うなず》いた。彼は続ける。
「それが、もう待たなくていいって分かったから、ホッとしたんだと思うな。全《すべ》てが分かったから、心の底から安心したんだよ。――いくらしびれ薬を飲ませたからとはいえ、パースエイダーを持っている人の首を絞めたら、どうなるかは重々《じゅうじゅう》分かっていたはずだよ」
「…………」
「分かるかい?」
キノは首を横に振った。
「いいえ。ボクには分かりません」
「そうかもしれないね。それでもいいんだ。ただ一つだけ、このことだけは、どうか分かってほしい」
「何、ですか?」
キノが聞いて、老人は答える。
「もう君は、このことで泣かなくてもよくなったってことさ。――終わったんだよ」
「後は私達がやるよ。君は、今帰ることができるところへとりあえず帰るといい。入ってきた門の番兵には、話は言ってあるよ。一本道を行けばいい」
キノはエルメスを押して、部屋を出る。リビングルームを抜けて、薄く蒼《あお》い空が広がる通りへ。消えかけの朝|靄《もや》が、静かに漂《ただよ》っている。
外に出たキノは、一度、静かに長く息を吸い込んだ。
「はい、キノさん」
中年の女性が、何かを両手で差し出した。
「…………」
それは折り畳《たた》まれた、茶色のコートだった。キノが持ってきた、そのコートだった。
老人が言う。
「あの人が私に、これと一緒にメモを残してね。一緒に埋めないで、君に贈呈《ぞうてい》するようにって。昔、息子《むすこ》さんに誕生日のプレゼントとしてあげたものだそうだ。今は、――君のだよ」
キノが無言でエルメスのサイドスタンドをかけて、中年の女性からそれを受け取った。
広げて、コートを羽織《はお》った。羽織って、前を合わせて、裾《すそ》がほとんど地面について、
「長いね」
老人が言った。
「長いですね」
キノが言った
その日番兵は、朝早く出国した旅人を見送った。
モトラドに乗ったその旅人は、茶色の長いコートを着て、余った裾《すそ》を両足に巻きつけてとめていた。
番兵は森の中へと走り去る旅人を見送った後、空を見て大きくあくびをして、また詰め所へと戻る。
緑色の森と城壁の上。
朝|靄《もや》は晴れて、どこまでも蒼《あお》い空が広がる。