キノの旅X the Beautiful World
時雨沢恵一
プロローグ 「夕日の中で・b」
―Will・b―
ああ――。
みんなはこれを美しくないと言うけれど、ボクはとても美しいと思う。
みんなは忌々しいと言うけれど、ボクはとても清々しいと思う。
初めてこれを見た時、考えることを忘れてしまうほどの驚きと感動があった。何十回と見た後の今だって、とても美しく思えてならない。毎日見ても飽きない。また明日も見たい。
でも――。
そんなことを考えているのは、そう思っているのは、どうやらボクだけだ。
ボクは、どこか心の中が、おかしいのだろうか?
狂っているのだろうか?
壊れているのだろうか?
そう――。
この世界は美しく、そして輝いている。
ボクの心を落ち着かせ、なごませてくれる。辛いことを忘れさせてくれる。
それが、ボクの心がおかしくて、狂っていて、壊れていることの証明だとしても……。
それでもボクは、そう思えることを幸せに思う。思える今を大切に思う。
ああ――。
ボクはこれからもこれを見続けよう。
ボク以外の世界中の人が、これを美しくないと吐き捨てても。
そう思うことが、これ以上ないほどの間違いだとしても。
ボクが、これを美しいと思うかぎり。
「ウィル、そろそろおりてこいよ。飯にしようぜ」
「ああ。今行くよ」
大切な仲間をこれ以上は待たせられない。
ボクは美しい世界に一度敬礼をして、梯子をおりる。
第一話 「あの時のこと」
―Blue Rose―
「そうだ。いいこと考えた。いっしょに連れていって。ボクも旅をするんだ」
小さな子供が言いました。
それを聞いた黒い髪を持つ若い旅人と、となりに止まっているモトラド(注・二輪車です。空を飛ばないものだけを指します)は、困って黙りました。
ここは、丁寧に手がかかったすてきな庭です。花壇では赤や青のバラが咲いていて、とてもきれいです。近くには大理石の噴水もありました。
「すごいいい考えでしょ? いま聞いたみたいに、旅をすればいろいろなところでいろいろなべんきょうできるし。だから連れていって」
小さな子供は、とても嬉しそうに言いました。
先ほどまで頼まれるまま旅の話をしていた旅人は、かなり困った様子でいいます。
「それは、できません」
「そうだね。ムリだ」
モトラドもそう言って、小さな子供は大きな声を出しました。
「どうしてー! 旅人さんが旅をできるのに、どうしてボクは旅ができないの?」
そして、となりにいるじいやに、
「できるよね? ねっ?」
じいやは困った顔をして、
「それは、できません」
でもきっぱりと言いました。
「どうしてよ? ボクの言うことがきけないの? ボクの言うことがきけないの? ねえ!」
小さな子供は、じいやをつかまえてなじりました。じいやが困っているのを見ながら、旅人はすっくと立ち上がりました。モトラドを押すために、ハンドルに手をかけて、
「そろそろ、おいとまします」
じいやに挨拶をしました。小さな子供はてくてくと歩き、今度は旅人をつかまえて、
「どうしてよ! ねえどうしてよ!」
旅人は、小さな子供を見下ろしながら、
「旅は危険ですよ」
「そうそう。それに、もう乗るところがないから」
モトラドも言いました。旅人はじいやに会釈して、モトラドを押して歩き始めました。小さな子供が後を追いかけて、必死になって叫びます。
「ねえ! いっしょに連れていってよ! なんでも言うこと聞くから! にんじんも食べるから! ずっといい子にするから! 夜ママといっしょじゃなくちゃ寝れないなんて言わないから! ねえ! いっしょに連れていってよ!」
旅人は、ついてきてはだめですよと一度だけ言いました。あとは小さな子供がどんなに泣いて何かを言っても、無視をして、モトラドを押して歩き去りました。
旅人がエンジン音と共に去った後、小さな子供はわんわんと泣きました。
ここは、丁寧に手がかかったすてきな庭です。花壇では赤や青のバラが咲いていて、とてもきれいです。近くには大理石の噴水もありました。
小さな子供はしゃがんだじいやの胸に顔をうずめて、いつまでも泣いていました。
いつまでもいつまでも泣いていました。
すっかり大人になった小さな子供を、すっかり年をとったじいやが起こします。豪華な執務室のイスで、すっかり大人になった小さな子供は、ついうたた寝をしていました。
すっかり大人になった小さな子供は、すっかり年をとったじいやに礼を言いました。いま見た夢のことを話しました。あの時のことは本当によく覚えていると、そして、
「困らせて、わるかったよ」
すっかり年をとったじいやに、優しく言いました。
じいやは静かに目を細めた後、恭しく礼をしました。
王様に向けて、恭しく礼をしました。
美しいと思うから 美しいと思う
―Have I Ever Seen the Beautiful World?―
第二話 「人を殺すことができる国」
―Jungle's Rule―
草原と、湖があった。
平坦《へいたん》な大地は草と木に覆《おお》われて、どこまでも続く。その窪《くぼ》みには澄んだ地下水が沸《わ》き出て、小さな湖をいくつも作り出していた。
眩《まぶ》しい夏の太陽が、大地の草木と湖面の水草を照らす。空に雲はない。蒼《あお》く、そして乾《かわ》いた空気がどこまても広がっていた。
草原には、道が一本あった。
細い道だった。通行の少なさを示すように、所々を草が覆っている。道は湖を避けながら、およそ東西に延びていた。
一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が、道を西へ走っていた。後輪の両|脇《わき》と上に、旅荷物を満載している。鞄《かばん》の脇に引っかけられた、銀色のカップが揺れていた。
運転手は白いシャツに、胸元を開けて黒いベストを着ていた。腰を太いベルトで締めて、右腿《みぎもも》にはハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器。この場合は拳銃)のホルスターがある。腰の後ろにも、細身の自動式をつけていた。
黒髪の上に鍔《つば》のある帽子《ぼうし》をかぶり、ゴーグルをしていた。その下の表情は若い。十代の半ばほど。
「馬だね。見える? キノ」
走りながら、モトラドが突然言った。キノと呼ばれた運転手は、ゴーグルの下で目を締めて道の先を見た。
「ああ、見えた。誰かいるみたいだな」
キノは左手をハンドルから放し、腰の後ろのパースエイダーを確認する。次に右手で、右腿のリヴォルバーもさわった。
「止まるよ、エルメス」
道の脇に、荷物をたくさん積んだ馬が一頭いた。湖の水を飲んでいた。その近くに、帽子を顔にかぶって男が仰向《あおむ》けに寝ていた。モトラドのエンジン音を聞きつけて体を起こした。
二十代ほどの若い男で、乗馬ズボンにブーツ。薄手のジャケットを着て、右の腰にハンド・パースエイダーのホルスターがある。中には四五口径の自動式が入っていた。
男は、やってくるモトラドに手を振った。
「よお」
男は、モトラドを止めたキノに近寄って話しかけた。
キノはエンジンを止めずにサイドスタンドをかけ、モトラドからおりた。
「今日《こんにち》は」
「どうもね」
キノと、エルメスと呼ばれたモトラドが挨拶《あいさつ》をする。
「この先すぐのところにある国の人か?」
男が聞いて、
「いいえ。そこへ向かっている途中です」
キノが答えると、男はそりゃいいやと言って、
「俺《おれ》もそこへ行くところだ。どうだ一緒に行かねえか? そしたら荷物半分持ってくれよ。モトラドなんだから、軽いもんだろう?」
男が当然そうに聞いて、
「それはできません」
キノは当然そうに答えた。エルメスが、そうそう、と言う。
男は露骨《ろこつ》に顔をしかめて、
「なんだ? 冷たい奴《やつ》らだな。そんなことくらいもできないのかよ?」
「ええ。できません」
キノはにっこり笑って答えた。
「それに、ボクは持ち逃げするかもしれませんよ。先について全《すべ》て売り飛ばしてしまうかも」
キノが淡々とした口調でつけ足して、男は舌打ちした。
「まあいい……。ところでよ――」
男は、キノを覗《のぞ》き込むようにして見た。
「あの国のことを知ってるか? どんな国だって聞いてる?」
男が聞いた。
「詳《くわ》しくは知りませんが、とても紳士《しんし》的な国だと聞いてますよ」
キノが答えると、男は笑い出した。しばらくせせら笑って、
「誰だよ、それ言ったのはよ? まるっきり違うじゃねえか!」
「あなたは、何と?」
男は、また笑った。
「へへへ。しょうがねえな、おもしろいから教えてやるよ。あの国はな――人を殺してもいい国≠ネんだ」
「はい? なにそれ?」
エルメスが聞いて、
「法律で殺人≠ェ禁止されていないんだ。盗《ぬす》みの方はダメだけれどな。人を傷つけても殺しても、一切|合切《がっさい》罪に問われないんだよ。殺された方が悪いってな具合にな。まさに城壁の中のジャングルだ。結構有名な話だぞ」
男は楽しそうに言った。キノが聞く。
「それで、あなたはそこを目指していると?」
「ああ、もちろんそうだ。そこに住むんだ。俺《おれ》の生まれた国は、馬鹿みたいに治安がよくて、アホみたいに皆仲良しだ。ちょっと殴《なぐ》っただけで人を白い目で見やがる。法律法律とうるさいから、出てきてやったぜ」
「で、移住してどうするの?」
エルメスが聞いた。
「さあな。とりあえず暮らしてみて――」
男は一旦《いったん》句切って、
「気に入らない奴《やつ》がいたらぶっ殺すかな。俺が俺らしくいられる場所でよ」
かなり格好つけて言った。
「ふーん」
エルメスがおもしろくなさそうに返して、男がムッとした表情を作る。
「それによ、あの国には俺の尊敬する人がいるんだ。その人に会いてえな。お前らも聞いたことがあるだろう? あのレーゲルさん≠」
「いいえ」「知らない」
キノとエルメスが短く言った。
「そうとうなイナカもんだな、お前ら……」
男は一旦|呆《あき》れて、楽しそうに早口で説明を始める。
「あのレーゲルさん≠ヘよ、南にある大きな国で、テロリスト兼|強盗《ごうとう》団の党首として有名な連続殺人者だ。捕まっちまったが首|吊《つ》り直前に脱獄して、そのまま国外に逃亡した強者《つわもの》よ。もう数十年前のことだけれどな。まだ捕まってないってことは、まず間違いなく、殺人者が最後に行き着く場所だっていわれるあの国にいる。世界中の殺し屋が集まるっていわれるあの国にな。――さぞかし自由にたくさん殺して、一目《いちもく》も二目《にもく》も置かれてるんだろうな。いろいろと教えてほしいぜ」
「なるほど。それではボク達はこれで」
キノが言って、エルメスにまたがる。
「つまんねえ奴だな……。おい」
男が慌《あわ》てて呼び止めて、キノを睨《にら》んだ。
「ホントに何も持ってくれねえのかよ?」
「ええ。自分の旅荷物は、自分で持ってください」
キノが当然そうに言って、すぐにエルメスを発進させた。
男が、爆音に包まれて残される。
走り去る背中を見ながら、
「そうか。……あいつ、国に入ったらみてろよ」
男は笑いながらつぶやいた。
城壁は、湖と水路と共にある。
国を囲む湖を人工の水路でつなぎ、それらが城壁の外堀になっていた。石の壁は、高く白くそびえる。
キノとエルメスは、夕方近くに城門前に到着した。着くとすぐに、堀の橋がゆっくりとおりてきた。
エルメスが、楽しそうに言う。
「人殺しが禁止されていない国ねえ……。この中はすごいことになってるかもよ」
「かもね」
「心の準備は?」
「とりあえずできた」
「パースエイダーの用意はしなくてもいい?」
「いつもしてるからいい。さて行くか」
キノが答えて、橋を渡り始めた。
「移住希望ですか? それとも旅の途中の一時滞在ですか?」
城門外側にある小さな詰め所で、番兵兼入国審査官がキノに訊《たず》ねた。
キノは、自分達は後者で、三日間の滞在を希望すると伝える。
「この国が、法的に殺人を禁止していないことは、ご存じですか? 市民、旅人関係なく、この国の中にいる人はどんな理由で誰を殺しても罪にはなりません。理解しますか?」
審査官が、念を押すように聞いた。
キノが頷《うなず》いて、
「それでも、本当に入国されますか?」
審査官が再び聞いた。
「不思議な国だな」
キノが、エルメスから荷物をおろしながら言った。
ホテルの部屋の中は、簡潔にイスとベッド、壁に電気スタンドと扇風機が置かれている。隅《すみ》には使わないために封がしてある暖炉《だんろ》。
「そう? なんか普通の国だったけど」
部屋の隅にセンタースタンドで立つエルメスが答えた。
「そう、普通なんだよ。それに町はきれいで、夕方でも人通りが多い。住人にピリピリしたところがないし、町に立つ警官の姿も少ない。頑丈《がんじょう》なシャッターがついている店もなかった。旅人に親切でもある」
城壁をくぐった後、キノ達は農地をしばらく走った。町でホテルの場所を訊《たず》ねると、近くにいた住人が楽しそうに集まって、旅人に世話を焼いてくれた。
エルメスが聞く。
「つまり?」
「治安がとてもいいってこと。だから不思議だ」
キノが答えて、エルメスは、
「あ、なるほど。殺人が法的に禁止されてないから、荒くれが徒党《ととう》を組んで闊歩《かっぽ》しているとか、酒場で女性をめぐって果たし合いとか、犬が人の手をくわえてとことこ歩いているとか。キノはそういうのを期待してたんだね。残念」
「いや、別に、期待≠ヘしてなかったけれど……」
キノは荷物をベッド脇《わき》におろし、自分はホルスターを外してベストを脱《ぬ》ぐ。キノが『カノン』と呼ぶ、右脇《みぎもも》にあったリヴォルバーを取り出した。
「ひょっとすると……」
黒光りする『カノン』を見て、キノがつぶやいた。
「ひょっとすると?」
エルメスが聞いて、
「まあいいや。それはそのうち分かるかもしれない」
キノはそれだけ言ってベッドに横になった。『カノン』を胸に置く。
「何それ? ってもう聞いてもムダか。――おやすみ」
次の日の朝。
キノは相変わらず、夜明けと同時に起きた。
窓と雨戸を開ける。目の前には静かな通りが、空には澄んだ蒼《あお》色と薄いすじ雲が見えた。
キノは、軽く体を動かして暖める。そして『カノン』と、『森の人』と呼ぶ背中の自動式の訓練を始めた。ホルスターから素早く抜いて撃つ練習を繰り返して、ホルスターごと撃つ練習もした。その後分解して掃除、油を引いてホルスターに戻した。
シャワーを浴びた後、キノはホテルの朝食を取る。日が昇ったところでエルメスを叩《たた》き起こし、ホテルを出発した。
石造りの古い建物が並ぶ町の中。メインストリートらしい通りには、左右に店が並び、その上階はアパートになっている。
キノは店に入った。いらないものと売れるものを売り、必要なものを買った。キノが旅人だと分かると、気のいい中年店主はかなり負けてくれた。
彼のイスの後ろに、長いライフルタイプのパースエイダーが立てかけられていた。キノが、強盗《ごうとう》撃退のためかと聞くと、店主は首を振った。
「強盗なんて、うちの店にも隣《となり》の店にも入ったことがないよ。これは、」
店主は答える。
「人を殺すためさ」
「ふーん。いつ?」
エルメスが聞いて、
「さあ? いつのことやらねえ……。分かっているけれど分からないから、いつも置いてあるのさ」
店主は笑いながら答えた。
「なるほど」
キノが小さくつぶやいた。
買い物の後、キノとエルメスは国内を走って見て回る。広くない国内見学を終え、昼過ぎに通りへと戻ってきた。
通りにテーブルを並べている食堂を見つけ、エルメスを後ろに止めてイスに座った。日陰には、涼しい風が通る。
キノは店員に何か甘《あま》いものはと聞いて、お勧め≠ェあると言われた。そして、よく分からないうちに注文した。
「はいどうぞ。ごゆっくり」
「…………」
出てきたのは、クレープとクリームの重ね合わせが大きな皿いっぱいに載《の》ったもので、とてつもない大きさをしていた。まるで山だった。
「…………」
「キノ?」
「何事も、挑戦だ」
キノはそれを、ナイフでざくざくと切り刻みながら、時間をかけて全《すべ》て食べた。エルメスは呆《あき》れながら見ていた。
食べ終わってしばらくした頃、キノのまわりに老人数人のグループがやってきて座った。キノを見つけて、
「あらあなた旅人さん?」
そのうちの一人、派手《はで》な服を着た老婆が聞いた。キノが肯定《こうてい》すると、老婆は、自分達はたった今趣味のダンスを終えてきたばかりで、その後はいつもこの店で食事をとるから当然|今日《きょう》もそうなのよと、特に訊《たず》ねていないことをよく喋《しゃべ》った。
「旅人さん。この国はとても治安がいいでしょう?」
老婆が聞いて、
「ええ。とてもいいことですね」
キノは正直に言った。
グループの中に、杖《つえ》を持った老人がいた。顔中白い髭《ひげ》だらけの彼が、キノに――訊ねる。
「あなたは、何処《どこ》へ行かれるのかな?」
「分かりません」
キノが答えた。
「じゃあ、モトラドさんならご存じかな?」
老人が訊ねて、
「まっさかー」
エルメスが語尾を上げて答えた。
老人が言う。
「ふむ……。それでは、この国に移住されるというのはどうかな?」
「そうよそれがいいわよそうしたらいいわよいろいろ世話してあげるまず住むところを明日《あした》にでも見つけて役場に手続きするのこれはもう簡単よ紙一つで名前さえ書ければその場で――」
機関砲のように喋る老婆をやんわりと無視して、
「どうだろう? この国は、あなたみたいな人には向いていると思うんだけれど」
老人がキノに言った。
「どういう人?」
エルメスが後ろから訊ねた。髭の老人が笑顔で答える。
「人を殺すことができる人さ」
「…………」
キノはしばらくして、首を振った。
「そうか。少し残念だな……。でも、滞在中はのんびりしていってほしい。旅は危険だからね。ここで気を休めていってほしい」
「ありがとうございます。そうさせてもらっています」
「この国独特の甘《あま》いものはどうかな? なかなかのものなんだ。旅|土産《みやげ》になると思う。かわりに壁の外の話を少し」
老人が提案して、キノは悔《くや》しそうな顔をして再び首を振った。エルメスが説明する。
「残念。たった今さっき、必死になってたいらげたばかり」
「おおそうか。――では、明日《あした》の午前のお茶では?」
次の日。つまりキノが入国してから三日目の朝。
キノは夜明けと共に起きた。軽い運動とパースエイダーの訓練。シャワーを名残《なごり》惜しそうに浴びて朝食を取る。
荷物を整えると、エルメスに積んでしっかりと固定した。
エルメスを叩《たた》き起こして、通りにある食堂へ向かう。昨日《きのう》の髭《ひげ》の老人が、のんびりとお茶を飲んでいた。
キノは老人に、立ち寄った近隣《きんりん》国の様子を話した。老人はそれを、目を細め、とても楽しそうに聞いた。そして、キノにお茶と甘《あま》いものをおごった。山を二人で分けて食べた。
「ボク達は、そろそろ行かないといけません」
昼頃。込み始めてきた食堂で、キノが言った。
「そうか……。楽しかったよ。ありがとう」
老人は礼を言って、キノが返した。
キノが道へとエルメスを押して出す。エンジンをかけて、やや近所|迷惑《めいわく》なエンジン音が響いた。
キノが道ばたで杖《つえ》を持つ老人に会釈《えしゃく》して、エルメスのギアを入れようとした瞬間だった。
「てめえっ! 見つけたぞ! ちょっと待てぇ!」
大声が聞こえた。
「お前だ! そこのモトラドに乗った黒ベスト!」
叫びながら建物から飛び出してきたのは、キノが二日前に国の外で会った男だった。キノはエルメスのエンジンを切る。静かになった通りで、
「ちょうどいいところだな。待て!」
そこにいた全員が男に注目する。男はキノ達に近づき、キノはエルメスからおりた。サイドスタンドをかけた。
「なんでしょうか?」
エルメスの前に立ったキノが聞いて、
「モトラドに積んである荷物、全部置いてけよ」
少し離れたところに立つ男が言った。
「なんのためにですか?」
「俺《おれ》がもらってやる。旅の荷物はさぞかし重いだろ? だから減らすのを手伝ってやるよ。全部俺がもらって、使えるものは使ってやる。要《い》らないものは売ってやる。俺の生活費の足しにな。分かったかい?」
「ええ。でもそこまでお世話になるわけにはいきません。遠慮《えんりょ》します」
キノが言って、男はへへっ、と笑った。そして、
「断ったら、今ここで殺すぞ。もう一度聞く。命が惜しかったら荷物全部置いていけ。なあに、身ぐるみまでは剥《は》がさねえよ。どうだ?」
男が、自分の右腰のホルスターをちらっと見る。装填《そうてん》された、ハンド・パースエイダーがのぞく。
通りにいた人達が、建物の中に引き始めた。
「入国されたんですね」
キノが言った。
「当たり前だろ。今の俺《おれ》は、この国の住人だ」
「でも、らしくないですね」
キノが言って、男が眉《まゆ》をひそめる。
「はあ……? んなことはどうでもいい。返事は?」
キノが左右を見た。通りには誰もいない。建物と、二階の窓に影が見えた。
「お断りします。もう出国しますから」
「交渉|決裂《けつれつ》だな……」
男は足を肩幅に開いた。肩と手を軽く振った。
「エルメス……。悪いけれど、しばらく頼む」
キノが小声で言って、
「分かった。後でちゃんと穴ふさいでね」
エルメスが答えた。
男が、腰からパースエイダーを抜いた。キノは素早く反応して身を翻《ひるがえ》して、
「?」
エルメスの後ろにしゃがんで隠れた。
「……? な……、なんだあ? 腰抜け! 抜きもしねえのかよ! 腰のはお飾りか?」
吠《ほ》えた男は、右手のパースエイダーを突きつけながらエルメスに一歩近づいた。
「悪く思うんじゃねえぞ」
男が言った瞬間、矢が飛んできた。それは男の右腕に、斜め上から当たった。
パースエイダーが落ちた。男が自分の腕を見る。そこには矢が刺さっていて、血がたらたらと流れ出ていた。
「うわあっ!」
叫ぶと同時に、もう一本の矢が飛んできた。左足の甲に当たり、ブーツを突き抜け、地面と足を縫《ぬ》いつけた。
「ぎゃあっ!」
男が悶《もだ》えた。足は抜けず、腕の矢も抜けなかった。
「痛てぇえええっ! 畜生《ちくしょう》っ! 畜生っ!」
悲鳴を上げる男のまわりに、静かに住人達が集まってきた。全員が穏《おだ》やかな顔をしていた。そして、手に何かしら武器を持っていた。大きなナイフを持つおじさん。パースエイダーを構える青年。棍棒《こんぼう》を持つ若い女性。アパートからは、クロスボウを持ったおばさんが出てきた。
キノはその様子を、エルメスのタンクから顔を半分出して見ていた。
「なっ! テメエらなんでだよっ? 畜生痛てえ……」
杖《つえ》を持つ老人が、男に近づいて話しかける。
「駄目《だめ》なんだ……。いけないことなんだよ。だから止めたんだよ」
「な、何がだ……? 畜生! 早く取りやがれ!」
「質問に答えよう」
老人が、静かに言う。
「ここでは、この国ではね……、人を殺すという行為は、許されていないんだよ」
男が、老人を睨《にら》みつけた。
「何ぃ? テメエ、嘘《うそ》つきやがれっ! ここは殺人が禁止されてない国だからってわざわざ来たんだぞ!」
「そのとおりだ。それは間違ってはいないよ。だから、私達はこうしてここにいるんだ」
まわりの人達から、そうそう、と穏やかな同意の声がかかる。
「……な、何言ってやがる? なんの話だ? ええおいっ? テメエ! 何ワケ分かんねえこと言ってやがる! 早く矢を取りやがれ! ぶっ殺すぞ!」
「それはできない。この国ではね、この国で人を殺した者=A人を殺そうとした者=A人を殺そうとする者≠ヘ、皆に殺されてしまうことになっている」
「だからなんでだよっ! 殺人は違法じゃねえだろう! だから来たんだぞ! 人殺しは禁止されてねえんだろうがっ!」
混乱した男が、わめき散らした。静かな老人の声が、それに続く。
「禁止されていない≠ニいうことは、許されている≠ニいうことではないんだよ」
「……ふざけるな! テメエ何様のつもりだ!」
老人は、皺《しわ》に囲まれた目を細めて、
「私かい? 様というほどの人間ではないよ。ただの一市民、レーゲルという名の老人さ」
「な……?」
男がレーゲルの顔を見上げて、ぽかんと口を開けた。
「すまないね。君は危険だから」
レーゲルは杖の手元をひねり、抜いた。
艶《つや》消しの黒に塗られた、剣が現れた。
レーゲルは体重を乗せて、剣を男の心臓へ突き刺した。ひねって抜いた。
枚《つえ》を持つ老人が死体の目を優しく閉じて、それからそこにいる全員で黙祷《もくとう》をした。
キノはその様子を、後ろから見ていた。
「仲間が死ぬというのは、いつだって辛《つら》いものだ」
誰かが言って、皆が頷《うなず》いた。国立墓地の手配を頼むと誰かが言って、別の誰かが引き受けた。
そして、人々はそれぞれに、自分が前にいた場所へと戻っていった。
レーゲルはキノに近づいて、
「気をつけてね」
それだけを言った。
「ええ」
キノが答えて、エルメスのエンジンをかけた。やや近所|迷惑《めいわく》なエンジン音が響いた。
キノは道ばたで杖を持つ老人に会釈《えしゃく》して、エルメスのギアを入れた。
草原と湖の間にある道を、モトラドが西に向かって走っていた。湖の縁を走る時、湖面に空と一緒に映った。
「馬だね。見える? キノ」
走りながら、エルメスが突然言った。キノはゴーグルの下で目を細めて、道の先を見た。
「ああ、見えた。誰かいるみたいだな」
キノは左手をハンドルから放し、腰の後ろのパースエイダーを確認する。次に右手で、右脇《みぎもも》のリヴォルバーもさわった。
「止まるよ、エルメス」
道の脇《わき》に、荷物をたくさん積んだ馬が一頭いた。湖の水を飲んでいた。その近くに、帽子《ぼうし》を顔にかぶって男が仰向《あおむ》けに寝ていた。モトラドのエンジン音を聞きつけて体を起こした。
二十代ほどの若い男で、乗馬ズボンにブーツ。薄手のジャケットを着て、右の腰にハンド・パースエイダーのホルスターがある。中には四〇口径の自動式が入っていた。
男は、やってくるモトラドに手を振った
「よお」
男は、モトラドを止めたキノに近寄って話しかけた。
キノはエンジンを止めずにサイドスタンドをかけ、エルメスからおりた。
「今日《こんにち》は」
「どうもね」
キノとエルメスが挨拶《あいさつ》をする。
「ここから東に、すぐのところにある国の人か?」
男が聞いて、キノが首を振った。
「いいえ。旅をしています。あの国には三日いて、先ほど出国してきたばかりです」
「そうか。……一つ聞きたいんだけれど」
「なんでしょう?」
男は顔を曇らせて、深刻な口調で言う。
「俺《おれ》は、あの国は安全で過ごしやすい国だって、紳士《しんし》的なところだって偶然会った旅人に聞いて、わざわざやってきた」
そして訊《たず》ねる。
「……それは、本当か?」
「ええ。間違いないです」
キノが答えて、男の顔がゆるむ。
「どれほどかは、あなたの感覚にもよりますけれど」
キノはそうつけ足した。
「俺の国かい? ああ、ひどいところだったぜ……。治安は最悪だった。毎日殺人事件が多発していた。俺も自分の命を守るために、強盗《ごうとう》を何人も殺す羽目《はめ》になったよ。彼らだって普通の生活がしたかっただろうにさ……。もう誰も殺したくない。それが嫌《いや》で国を出た。安全な国に住みたい」
「そうですか。それだったらあの国は、きっと気に入ると思いますよ。レーゲルさんという老人を訪ねられるといいでしょう。旅の土産《みやげ》話をすれば、いろいろ教えてくれると思います」
「そうか。ありがとよ」
男が言った。
その後キノは、この先の国と道についていろいろと男に訊《たず》ねた。男は、知っていることを正直に答えた。
キノが礼を言って、出発しようとした時、
「あっ、もう一つ聞きたいんだが……」
男が呼び止めた。
「実は近所の国で、一つあの国にまつわる変な話を聞いたんだが、それは本当なのか? もし詳《くわ》しく知ってたら……」
「どんな話です?」
キノが聞く。男は少し言いよどんで、そして首を振った。
「いや、いい。あまりにも変な話なんで、俺も信じてないんだ。あまりにも常識から外れている……。そしてこれは、俺《おれ》が行ってみればすぐにでも分かることだ。自分の目で、確かめてみる」
「そうですか……。それではボク達はこれで」
「ああ、じゃあな」
モトラドが走り去って、男は馬にまたがった。東に向いて、馬を歩ませた。
馬の背に揺られながら、
「はたして本当なのか……?」
男がつぶやく。
「あの国では、クレープを山にして出すって」
第三話 「店の話」
―For Sale―
店舗《てんぽ》日誌・第二五冊目 店長記す
開店三〇九四日目(晴れ)
今日《きょう》も誰もお客さんは来なかった。
だいぶ前に来たお客さんさんが種を置いていった、かぼちゃ≠ネる野菜が十分育って食べられるようになった。指示どおりに、厚い皮に注意して切って煮てみる。
甘《あま》くてなかなか美味《おい》しかった。また植えてみよう。揚げても美味しいらしい。
開店三〇九五日目(晴れのち雲り)
今日も誰もお客さんは来なかった。
特に何もせず、本を持って店番をして過ごす。
『ウレリックスの憂鬱《ゆううつ》』を読み終わる。おもしろかった。
開店三〇九六日目(雨)
今日も誰もお客さんは来なかった。
天気が悪い一目だった。洗濯《せんたく》はできなかった。
鍋《なべ》の中のかばちゃが傷《いた》んでいた。足が早い。
開店三〇九七日目(晴れ)
今日も誰もお客さんは来なかった。
晴れて気持ちがいい一日だった。
洗濯をして干す。一つシャツを落としてしまって、泥《どろ》だらけ。また洗う羽目《はめ》になった。
物干し台の下だけコンクリートを引こうかと思ったが、モグラやミミズに配慮して止めた。
開店三〇九八日目(晴れ)
今日も誰もお客さんは来なかった。
いつもどおりの商品検査を行う。全《すべ》て問題なし。いつ誰が買ってくれても、正常に働くだろう。少し嬉《うれ》しくなる。
後は読書で過ごす。
開店三〇九九日目(曇りのち晴れ)
今日《きょう》も誰もお客さんは来なかった。
昼から、ご用の方は呼び鈴を≠フ札を下げて裏の川に釣《つ》りにでかける。
大小合わせて五匹釣れた。小さいのは逃がした。
夕食は久々のムニエルだった。
開店三一〇〇日目(曇り)
今日も誰もお客さんは来なかった。
発電器の調子が朝からおかしかった。直した。
店の掃除はいつもどおりに。いつも清潔な店内を心がける。
残った魚を薫製《くんせい》にしようかと思っていたが、少しだったので止めた。夕食に食べた。
開店三一〇一日目(曇り)
今日も誰もお客さんは来なかった。
計測機器の定期検査をした。若干《じゃっかん》マイナス方向へ振りがあったが、全《すべ》て許容誤差範囲内だった。四〇日後に再検査を行う予定。
冷凍庫にあった肉の塊《かたまり》を一つ解凍した。
開店三一〇二日目(晴れ)
今日はお客さんが来た。七十九日ぶりになる。久しぶりに長い日誌になる。
朝からとてもいいお天気だった。
気持ちよくシーツを干《ほ》して、気持ちよく店を開くことができた。
今思ってなんとなくだけれど、「今日は誰か来てくれるかな」って感覚というか、感触みたいなものがあった。
それが当たったんだから、自分には何か第六感みたいなものがあるのかもしれない。今度計測してみようかと思った。
お客さんが来たのは、昼の少し前だった。
私が昼食を何にしようか悩んでいると、エンジン音が近づいてきた。私は慌《あわ》てて外に出た。
お客さんは若い旅人で、モトラドで店の前を通りかかって、私が大声で呼び止めると興味深そうに足を止めてくれた。
モトラドで旅をしているとは珍《めず》しいと思った。バイクの方が空を飛べて楽ではないかとその時は考えたけれど、今もう一度考えると、一度でもリフターが加熱しきってしまうと、素人《しろうと》ではどうしようもなくなってしまうから、やっぱり地面を走るモトラドの方が確実かもしれない。
旅人はキノさんと自己|紹介《しょうかい》してくれた。
キノさんは白いシャツを着て、黒いベスト姿。
私が服に興味があって訊《たず》ねたら、ベストは袖《そで》が取れるジャケットで、暑い時は外して走って、寒いと感じるとつけるらしい。
私はなるほどと感心した。旅では持ち物は少なくしないといけない。
すぐに私は、キノさんと、モトラドのエルメスさんを店に招《まね》き入れた。
キノさんにはイスに座ってもらって、お茶をお出しした。
さすが旅人さんらしく、すぐには飲まずに注意深く中身を訊ねてきた。
私がまず飲んで証明した。
キノさんは非礼を詫びたが、私は気にしないでくださいと言った。お茶に薬を入れての昏睡《こんすい》|強盗《ごうとう》の噂《うわさ》はよく聞く。注意深いことはいいことだと思う。
「私のお店へ、ようこそいらっしゃいました」
私は心からお礼を言った。
そして、肝心《かんじん》の商品について説明を始めていいか訊ねた。
「その前に、いくつか、お店について質問しても構いませんか?」
キノさんがそう言った。お店に興味を持ってもらえたのは嬉《うれ》しかった。私は何でも聞いてくださいと言った。
「じゃあ遠慮なく。どうして、ここに、このようなかたちでお店を?」
「そうそう。こんな大草原の真ん中で。地平線にぽつりと店が見えたときは驚いたよ」
キノさんと、モトラドのエルメスさんが聞いた。
とても当然の質問だと思った。この店のまわりには、草原と森と川と湖しかない。最寄りの国まで、乗り物にもよるが数日とかで行ける距離でもない。
「それに、働いているのは店長さん一人だけ? 他《ほか》には誰もいないの?」
エルメスさんがさらに聞いた。
私は素直に、順を追って質問に答えた。この場所に店を出したのは、私がこの場所を気に入ったからだったこと。お店に住むことを考えると、やっぱりすてきな場所を選びたかったこと。とてもこの場所はすてきだったこと。ただし、故郷で分からず屋の住人に店を出すことを禁止された私に、行ける国がなかったことは言わなかった。
さらに、大切な商品と必要な道具をトラックに積んで、私はここにたどり着いたこと。それから店舗兼住宅を建てて、自分の店を出したこと。私には家族はいなくて、故郷に両親はいるが、今どうなっているかは分からないことも言った。
キノさんもエルメスさんも、納得してくれたかは分からなかった。
「お客さん、来ます?」
キノさんが聞いた。
「ええ。だいたい、平均して百日に一回くらい。もちろん旅人さんや、商人さん達です。みなさん興味深げに見ていってくれますよ」
私は嘘《うそ》は言わなかった。
エルメスさんが、
「で、今まで何か売れた?」
そう聞いた時も、
「いいえ。まだ一つも」
私は嘘は言わなかった。
商品を売るためにお客さんに多少の嘘は許されるという意見と、そんなことはしてはいけないという意見と二つある。でも私は、自分は嘘をつくのが得意ではないと思うから、嘘は言わないことにするし、この時もそうした。これからもそうするだろう。
「これが、うちの自慢《じまん》の商品です」
私はそう言って、商品の内で一番小さい五号≠、キノさんとエルメスさんの前に持ってきた。
まず見てもらうことにした。机の上に置いて、自由に見てもらう。お客さんが自由に商品を見て、さわって調べることができる店はいい店だと思うし、それをいつも目指している。
以前に故郷で入ってしまった、東通りの工具屋さんはひどかった。
工具なんて握ってみなければ善《よ》し悪《あ》しが分からないのに、ガラスの棚の中にずらりと並んでいるだけで、買いたいものだけを出しますから、なんて店員が平気な顔で言った。
憤慨《ふんがい》して出てきたことをよく覚えている。
あの時、自分が店を出す時は、こんな店にはしないようにと思っていて、でもそんなことはまだまだずっと先だとも思っていたことも今になって思い出した。
あの時私が感じた嫌悪感を、キノさんが感じていなかったとしたら、私は自分が悪い例から学ぶことができる人間だと思えて少し嬉《うれ》しいと思う。
「これは、何ですか?」
ひととおり見て、キノさんが聞いた。
「一見何に見えるでしょうか?」
私はほんの少し(もちろんお客さんに失礼にならない程度に)おどけて言った。自分で作った自分の自慢《じまん》の商品を、お客さんに説明するのはとても楽しい。
「紺《こん》色の、素《そ》っ気《け》ない意匠《いしょう》のスーツケース。バックルがないけれど、スイッチがある」
エルメスさんが見たとおりに答えてくれた。
「そうです。スーツケースのように見えます。見えるように作ってあります。でも、でも本当は違います。本当は――」
私はほんの少しじらした。あまりじらすと、お客さんはもういいよと言って帰ってしまうから、ほんの少しだけじらした。
「超強力爆弾なんです」
私は言った。
思ったとおりに、キノさんもエルメスさんも驚いて、ぽかんと(エルメスさんについては外見は変わらないから、つまりそんなような感じで)していた。
『商品に見た目と性能の差があると、お客さんの興味を一層引く。キャッチーな商品を心がけろ』そう本に書いてあった。
「超強力爆弾、ですか? この中には爆薬とか殺傷用の鉄片とかが詰まっていると考えていいんですか?」
キノさんが聞いた。
「はい。私のお店では、超強力爆弾を売っています。それしか置いていません。超強力爆弾専門店なんです。そして、私の作った超強力爆弾は、普通の爆弾とは全然違います。その威力が、既存《きぞん》のどんな爆発物とも比べものにはならないんです。ここにあるこれいっぱちゅで」
久しぶりのセールストークをして、私は舌が回らなかった。久しぶりのお客さんでとても緊張していた。あんなに練習したのに。少し恥ずかしかった。
「すいません。――これ一発で、どんな大きな国でも完全に吹き飛ばすことができます。爆発と共に生じるものすごい熱と衝撃波《しょうげきは》で、地上にある物、人、全《すべ》てを溶かし、吹き飛ばし、なぎ倒し、燃やし尽くすことができます。そして、同時に強力な毒もまき散らしますから、すぐに死ななかった人や、後から爆発跡にやってきた人も、やがて病気になります。じわじわ苦しんでもらってから殺すことができます」
「どういう原理?」
エルメスさんが聞いてきた。
「基本は太陽と一緒です。核融合を利用します」
私は用意した答えを返した。
これだけで分かってくれたのはエルメスさんだけで、それから私はキノさんに、分かりやすく説明を行った。行ったが、キノさんが仕組みを完全に理解してくれたかは分からなかった。
しかし、キノさんは商品の基本名称だけはすぐに覚えてくれた。
「その、国一つを簡単に吹き飛ばす水素爆弾≠、あなたが作ったんですか?」
「はい、そうです」
「一人で?」
「はい」
私はキノさんとエルメスさんの質問に、優秀な店員らしくてきぱきと答えた。もう少し商品について説明を加えようと思った。
「私は私の故郷の国で、ある時その原理を思いついて作ってみました。開発に成功しました。しかし残念なことに、私の国の中では、誰もこれを欲しがる人がいませんでした。そこで、国の外でお店を構えて売ることにしたんです。今日《きょう》は開店から、三千百二日目になります」
「これを自分で使ってみようとは、思わなかったんですか?」
キノさんが聞いた。
「思いませんでした。壊《こわ》したい国も、殺したい人もいませんし、私は私が作りたいと思ったものを作ることができただけでとても満足です。作りたい人が作って、使いたい人が使うことは、とても自然なことだと思います。使いたい人が、購入《こうにゅう》してくれて使ってくれれば、作った方としてはとても満足できます」
私は答えた。いつ誰に聞かれても、私はそう答えるように答えた。
私は、肝心《かんじん》な話をすることにした。
「キノさんとエルメスさん。私の作った水素爆弾はいかがでしょう? いつかどこかで、旅のお役に立つと思います。たとえば気に入らなかった国に置いてきて吹き飛ばしたり、大自然の中に新しい湖を作ったりできます。自殺したい時に、何の関係のないまわりの自然や動物、人々を巻き込むこともできます」
『ストレートな売り込みトークこそが全《すべ》てである。自分の商品に自信があるのなら(なければ困るのだが)、胸を張って勧《すす》めること』そう本に書いてあった。
「今でしたら特別セール中ですから、一つご購入されるともう一つ、同じかそれ以下の威力の物をセットでご提供します。両方とも、三秒から百日まで使える時限信管をおつけします。それに、外側もお好きな色に塗り替えて、お名前を彫り込むサービスも行っています」
『商品にもう一押し≠フ付加価値をつけるとなおよし』そうも書いてあった。
「商品には絶対の自信を持っていますし、作動検査も定期的に行っています。不発などはあり得ません。しかしながら、もし二発とも不発だった場合、そして例え爆発しても威力がお気に召《め》さなかった場合、いつでも返品に応じます」
『アフター保証はお客さんを安心させる』これも書いてあった。
キノさんは少し考えているようだった。
「ちなみに値段は?」
エルメスさんが聞いた。当然の質問だった。
「お客さんの言い値でご提供したいと思っています。何かとの物々《ぶつぶつ》交換でもかまいません」
私はいつもどおり答えた。
キノさんはやっぱり何か考えていた様子だった。何を考えていたのかは、私にはもちろん分からなかった。
しばらくしてキノさんが首を振った。
「残念ですが、今のボク達に水素爆弾≠ヘ必要ありません。だから、購入《こうにゅう》はできません」
私はそれを聞いて、もちろん残念だった。
しかし、誰かほしい人が買ってくれるのが一番いいことで、ほしくない人が買わないことはとても自然なことだった。
その後、キノさんは私が何か食べ物を持っていたら、そちらなら購入や交換をしたいと申し出た。私はそんなことでしたら、代価などいりませんから好きなだけお持ちになってくださいと言った。
私は日持ちする野菜や、以前牛をつぶした時に作ったジャーキー、煮沸《しゃふつ》密閉した水などをキノさんに差し出した。まだ倉庫にたくさんあるうちのほんの少しだけだったが、キノさんはとても喜んで、お礼を言ってくれた。
「いいんですよ。来てくれたお客さんへのサービスです」
私は言った。もし私の水素爆弾が必要になったら、いつでもいらしてくださいとつけ加えた。
それから、私はキノさんと近くの国や道の話をした。
それから、時間がちょうどだったから昼食にお誘いして、解凍しておいた肉を焼いて一緒に食べた。誰かと一緒に食事するのはとても久しぶりだった。
昼食後、キノさんは食べ物のお礼をもう一度してくれて、エルメスさんに乗って西へと走っていった。
キノさん達がお帰りになったその後は、掃除を兼ねて店の中の配置を変えてみた。
商品を一つ、棚の上に飾ってはどうかと思った。店に入ってすぐ、商品が目につく。
すると棚を強くしないといけない。これは明日《あした》やると思う。
こんなに長い日誌を書くのも久しぶりだ。タイピングですっかり手が疲れた。
今日《きょう》はとても充実した一日だった。商品が売れなかったことは残念だけれど、それはお客さんの都合だから仕方がないことだ。お客さんが来てくれたことだけでも嬉《うれ》しかった。
今度に来るお客さんが、買ってくれることに期待したい。
そうそう。夕食にはお肉の残りを煮てみた。美味《おい》しかった。
開店三一〇三日目(晴れ)
今日《きょう》は誰もお客さんは来なかった。
お客さんが二日続けてくることは今までなかったし、これからもないと思う。
だからと言ってお店を休みにはもちろんしない。
棚に補強を入れて、一番好きな蒼《あお》に塗った三号≠、一つ飾ってみた。
やっぱり、商品が棚にあった方が見栄えがするかもしれない。しばらくこれでいこう。
昼に野菜と肉を炒《いた》めて、残りを夜に食べた。
第四話 「英雄達の国」
―No Hero―
キノは白い息を吐きながら、エルメスのキャリアから鞄《かばん》をおろした。黒いジャケット姿で、頭には帽子《ぼうし》、顔にゴーグルをつけたままだった。右腿《みぎもも》には『カノン』を吊《つ》っていた。
鞄を開けた。上蓋《うわぶた》の内側に、ライフルタイプのパースエイダーが分解して縛《しば》りつけてあった。
「早速役に立ちそうだね。キノ」
「ああ。あまり嬉《うれ》しくないな」
ライフルは前後に別れていて、後半は木製のストックと狙撃《そげき》用のスコープ。前半は黒い金属のフレームと、脇《わき》についている長い円筒《えんとう》が目立つ。
「七人だったね」
「助かる」
キノはライフルの前後を差し込んで、ロックした。後部についていた背負い革《かわ》を前部に引っかけた。エルメス後輪脇にある箱から、肩掛けの布袋を取り出した。中にあった九発入りの弾倉を、ライフルにたたき込んだ。
「そうそう。そのライフル、結局なんて名前にしたの?」
「『フルート』さ」
キノは『フルート』のボルトを引いて離した。一発目が装填《そうてん》された。布袋を肩にたすきがけして、暴れないようにベルトに角を挟《はさ》んだ。中から『カノン』の予備弾倉を取り出しながら、
「エルメス」
「ん?」
「もしボクが帰ってこなかったら、その時は誰かに乗ってもらってね」
「了解《りょうかい》。ま、できれば同じ人がいいけれどね」
キノは右脇の『カノン』をさわって、
「努力するよ」
ポーチの中へ予備弾倉を移した。
「一応言っとく。――さよならキノ」
「ああ。――さよなら」
キノが答えて、そしてエルメスは、
「うん、じゃあそういう訳で。行ってらっしゃい。おみやげはいらないから」
緊張感のかけらもない口調で言った。
「ああ。行ってくるよ」
キノが言った。ほんの少し顔は険《けわ》しくて、ほんの少し笑っているようにも見えた。
キノは、そこからゆっくりと顔を出した。
そこは、左右に同じ造りの集合住宅が並ぶ通りにある、中庭へ続くアーチだった。エルメスは、中庭の奥に隠《かく》すように止められていた。
空には重い雲が一面を覆《おお》い、どんよりと鈍《にぶ》い灰色をしていた。冷たい風が、時折強く吹く。
煉瓦《れんが》造りの三階建てが挟《はさ》む通りに人の気配はなく、窓ガラスのあちこちは割れている。石畳《いしだたみ》からは、雑草が自由に伸びそして自然に枯《か》れた跡があった。
キノはそこから飛び出して、反対側の建物|脇《わき》へ全速力で走った。
玄関脇の階段に隠れた瞬間、弾丸がキノめがけて飛んできて、すぐ脇を通り過ぎていった。音速をはるかに超えている弾丸が、猛烈《もうれつ》な唸《うな》り音を鳴らす。
「いた」
キノがつぶやいて、通りの向こうでライフルを構える人影を見た。
そして、身を翻《ひるがえ》して建物の脇へ消えた。
「外した。素早い」
背の高い男が言った。
「若い人間だったな。モトラドは乗り捨てたか……。ライフルを持っていた。警戒《けいかい》しろ」
手に双眼鏡《そうがんきょう》を持った、禿頭《とくとう》の男が言った。周りにいた男達が頷《うなず》いた。
男達は、七人いた。
禿頭の男。背が一番低い男。口の回り中|髭《ひげ》の男。筋骨《きんこつ》たくましい大男。帽子《ぼうし》を深くかぶった男。痩《や》せて長身の男。大きなリュックを背負った男。
全員が、五十|歳《さい》は過ぎたであろう外見に、あて布と継《つ》ぎ接《は》ぎだらけの同じ服を着ていた。紺《こん》色の厚手のパンツとジャケット。弾薬ポーチつきのベルトを腰と胸に巻いていた。禿頭の男だけが、右腰にハンド・パースエイダーのホルスターを吊《つ》っていた。
全員の手には、ライフルタイプのパースエイダーが握られていた。一発撃つごとに、手動で排莢《はいきょう》と装填《そうてん》を行う必要のある、ボルト・アクション式。木製のストックがついている。
先ほど一発撃った背の高い男が、よどみなくボルトを往復操作した。唯一彼のには、狙撃用のスコープが装着されていた。
禿頭の男が言う。
「追うぞ」
男達は、腰の位置でパースエイダーを構えながら、通りの左右、壁に沿ってゆっくりと進んでいく。
エルメスが止めてある中庭の前を通り過ぎ、キノが隠《かく》れた路地を静かに覗《のぞ》いた。路地左右に、隠れるところはなかった。
男達は声を出さず、禿頭《とくとう》の男が左腕で示す指示のとおり、二人ずつお互いを援護しながらよどみなく動いていった。
細い路地を抜け、似たような景色の隣の通りへ出た。誰もいない。
先頭をいく帽子《ぼうし》の男が、ほとんど見えない足跡を見つけた。路地に隠れている男達のところに戻り、禿頭の男に言う。
「ヤツは、東に逃げている」
「東地区は太い道が多いぞ。隠れにくい」
脇《わき》にいる、リュックを背負《せお》った男が言った。
「知らないんだろう。いい具合だ」
隣《となり》にいる、背の低い男が笑いながら言った。
その直後、
「いいや。――ヤツは風下《かざしも》に逃げているんだ。音がこっちへ通らないように。こちらの音が通るように」
背の高い男が言った。通りを吹き抜けた風が、路地に巻いた。薄く砂ぼこりが立った。
「…………」
男達が、無言で顔を見合わせた。白い息を吐《は》く。
禿頭の男が、小さく何度か頷《うなず》いた。そして言う。
「気を抜くな。ヤツは思ったより優秀だ。このまま東城壁まで追い込む。――連慮なく殺せ」
「了解《りょうかい》」「分かった」
男達から、緊張感のある答えが返ってきた。
通りは、集合住宅に挟《はさ》まれて真東へ延びていた。枯《か》れ木だらけの公園へ突き当たり、左右に分かれる。
通りの建物側を、男達は二手《ふたて》に分かれて静かに進んでいた。通りの先に、公園が小さく見えていた。
先頭で、帽子の男が足跡をたどっていた。パースエイダーを低く腰に構えて、注意深く歩く。足跡は、通りの右端を、真《ま》っ直《す》ぐ公園へと続いていた。
静かに、男達が進む。公園までだいぶ近づき、枯れた木々の形がはっきり分かる距離になった。ふいに、帽子の男が足を止めた。左手|拳《こぶし》を肩の高さで結び、後ろの男達が止まる。同時に、全員が全方位を警戒《けいかい》して、最後尾《さいこうび》の二人は後ろへとパースエイダーを向けた。
「…………」
帽子《ぼうし》の男は、鋭い目で足下の足跡を見た。
ここまで延びてきた足跡が、ぷっつりとなくなっていた。脇《わき》には、飛んだ跡も、飛びつけるような場所もなかった。
帽子の男は、ゆっくりと四歩下がった。
自分の足跡に、同じように足を載《の》せる。その足跡と、追跡中の足跡の深さを確認した。そして、体の向きを変え、一歩一歩を注意深く見ながら、慎重《しんちょう》に戻った。別の男達が、静かに見ていた。
帽子の男の足が止まる。足音にほんの少し乱れがあった。右横に大きく飛び跳《は》ねた跡だった。男が顔を上げると、そこには薄暗い路地があった。崩《くず》れ落ちた屋根の瓦礫《がれき》が塞《ふさ》いでいた。
帽子の男が、パースエイダーを路地へ向けようと動いた。
そして男の右腿《みぎもも》が爆《は》ぜた。血と肉が散った。
「ぐぁっ!」
悲鳴と、体が倒れる音だけが、通りに聞こえた。
「狙撃《そげき》だ!」
近くの壁際にいた、大男が叫んだ。男達が全員、壁際に張りついて伏せた。撃たれた男が体をひねって仰向《あおむ》けになって、両手で右腿を押さえていた。その隙間《すきま》から鮮血があふれる。
「どこからだ!」
禿頭《とくとう》の男が叫んだ。
帽子の男が苦悶の表情で、指し示そうと右手をあげる。その瞬間、二発目が彼の左膝《ひだりひざ》を砕《くだ》いた。
「ぎゃあっ!」
帽子の男が悶《もだ》えた。もんどり打ってうつぶせになり、両足から血をだらだらと流しながら、ぶるぶると震えた。
「畜生《ちくしょう》! どこからだ?」
「発砲音がしなかったぞ!」
「どこからだ!」
壁にへばりつきながら、男達が叫んだ。彼らは前を見ていた。
キノは瓦礫《がれき》の脇で『フルート』を構えて、スコープを覗《のぞ》いていた。バレルの先端には、脇についていた円筒《えんとう》がねじ込まれていた。発射音は、そのサプレッサー(発射音抑制器)によってほとんどがうち消される。
スコープ越しの視界には、暗く細い路地の先に大通りがあって、そこで倒れている男もはっきりと見えていた。
男の口が開かれる。
「ぐああああっ!」
撃たれた男が、雄叫《おたけ》びを上げた。腕を動かして、少しでも安全なところへはいずろうとしていた。そして力が入らず、ほとんど動かなかった。
「待ってろ! 俺《おれ》が行く!」
大男が、自分のパースエイダーを置いて弾薬ベルトを外した。そして倒れている仲間を助けるため、飛び出した。
キノは、新しい標的めがけて、ほんのわずかだけ狙《ねら》いを動かして撃った。
「出るなぁ!」
髭《ひげ》の男が叫んだのと、飛び出した大男の頭半分が、落としたトマトのように吹き飛ぶのは同時だった。大男は両手を倒れた男に向けたまま、崩《くず》れるように前のめりになって倒れ、鈍《にぶ》く大きな音を立てた。すぐに動かなくなった。
血と脳が左に飛んだのを見た、背の高い男が叫ぶ。
「右横だ! 前じゃない! 横路地からだ!」
「発煙筒《はつえんとう》!」
禿頭《とくとう》の男が言って、男達が手持ちの発煙筒を擦《こす》って投げた。
路地の塀《へい》に当たって落ちて、鈍い紫《むらさき》色の煙が立ちこめる。
煙が濃くなる直前に、キノは地面に倒れもがく男の腹に向け一発撃った。
撃った後、キノは自分の脇《わき》に落ちている空薬莢《からやっきょう》四つを拾って、そこから逃げるように走り出した。
路地の煙は、それほど経《た》たないうちに、通りを吹き抜ける風に吸い出されて晴れた。
背の高い男が、路地奥に狙いを定めていた。そこにはもう誰もいなかった。
禿頭の男が、倒れている帽子《ぼうし》の男へとしゃがむ。
足と腹が真《ま》っ赤《か》に染まっていた。リュックを背負《せお》った男が必死に布を押し当てていたが、血は止まるそぶりすら見せなかった。ほんの少しだけ、湯気《ゆげ》が立っていた。
「すまない……。足を引っ張ってしまって……」
帽子の男が、細い声で言った。
「喋《しゃべ》るな」
禿頭の男が言って、
「もういい……。もう何も見えない……」
大きく見開いた目から涙を流して、帽子の男は死んだ。
「…………」
禿頭《とくとう》の男は、静かに仲間の目を閉じた。
死体の胸元を探り、鎖《くさり》を引きペンダントを取り出した。星をかたどった、丸い小さなペンダントだった。鎖を外して、それを自分の胸のポケットに入れた。
髭《ひげ》の男が、
「…………」
大男のペンダントを無言で差し出した。禿頭の男が受け取って、同じように大切に、ポケットに入れた。金属同士が軽く触れ、乾いた小さな音を立てた。
二つの死体は、石畳《いしだたみ》の上に置かれていた。顔には布がかけられていた。
「後で埋葬《まいそう》する。ヤツを殺した後でな」
禿頭の男が言った。
「ヤツが使っているのは、おそらく自動連射式で、発射音を抑えることもできる。精度もいい。優れたパースエイダーだな」
周辺に視線とパースエイダーを向けながら、リュックを背負《せお》った男が言った。
背の低い男が頷《うなず》く。
「我々にもあれがあればな」
禿頭の男が、
「今さら言っても始まらない。我々は、今あるもので、最善を尽くす」
抑揚《よくよう》のない声で言った。
禿頭の男は、懐《ふところ》から地図を取り出して広げた。風で飛ばないように押さえる。色あせた地図には、円形の国の様子が正確に描かれていた。東へ向かって平行に延びるいくつかの通りとそれの突き当たりとなる横に長い公園。
公園の向こう側には、同じように同型の集合住宅の通りが続くが、そこにはペンで、ほとんど崩壊≠ニ書かれていた。
「ヤツはこのまま逃げると思うか?」
背の低い男が聞いて、
「俺《おれ》だったら、またどこかで待ち伏せするだろうな。ここまで来たモトラドを捨てはしないだろうが、あのエンジンはうるさすぎる」
髭の男が答えた。
「すると……、公園を渡って瓦礫《がれき》通り≠ゥ?」
リュックを背負った男が聞いた。
禿頭の男は、地図を見ながら数秒考えた。そして言う。
「その手前、だな。俺達がすぐに追いかけてくることを考えたら、公園を渡る暇はない。手前の建物に潜《ひそ》んでやり過ごして、通りか公園にいる俺達を後ろから全滅させる。どうだ?」
背の高い男が、警戒《けいかい》の目を休めることなく、
「私だったらそうする。自動式なら、全員を一度に殺《や》れる」
ぼそりと言った。
禿頭《とくとう》の男が小さく頷《うなず》いた。
「二手《ふたて》に分かれて、公園両角からバルコニーを探る。――ヤツの裏をかく」
「退屈だなあ……」
エルメスがつぶやいた。
誰もいない中庭では、壊《こわ》れた窓枠《まどわく》や、倒れた洗濯物《せんたくもの》|干《ほ》しが風で音を立てる。
「退屈だ……」
再びつぶやいた時、はるか遠くで、発砲音が鳴った。
「あ、キノやられちゃったかな?」
エルメスが言って、さらに数発立て続けに聞こえた。
「あ、生きてる生きてる」
「こんな簡単に見つかるなんて」
建物内の階段を駆《か》け下りながら、キノが言った。
背の低い男とリュックを背負《せお》った男が、キノが隠《かく》れていた三階バルコニーに数発撃ち込んできた。
一階におりたキノは、リビングルームを駆け抜け、玄関の戸を蹴《け》り開けた。そこにすぐに弾が飛んできて、木屑《きくず》を飛ばしながら穴を同時に二つ開けた。
「右に二人か……。二手に別れたな」
キノがいるのは通りの東角、公園に面した集合住宅の一番|端《はし》の家だった。開いたドアのすぐ前には、公園に沿って南北に走る道路。そして枯《か》れ木の公園が広がる。
「挟《はさ》まれると絶対にまずい。少ない方へ……」
キノは家の中を南側へ行き、バスルームにある磨《す》りガラスの窓を見つけた。埃《ほこり》だらけの窓を静かに上へ開けて、中庭に出た。アーチをくぐって、東西に走る太い通りの角へ。いつでも撃てるように、『フルート』を抱きかかえるようにして伏せた。
キノは公園方向をうかがう。通りの反対側には同じように中庭入り口が、左側すぐそばには、公園沿い道路との交差があった。
向かいの建物の角で、ライフルのバレル先端が見えた。続いて背の低い男の顔。
キノが顔を引いた瞬間、そこへ弾丸が飛んできて、石畳《いしだたみ》で跳《は》ねた。
キノは起きあがって、『フルート』を背負った。右手で『カノン』を抜いて、角から突き出して狙《ねら》わずに一発撃った。
弾丸は公園へと飛び去ったが、男達は轟音《ごうおん》で身を引いた。
キノは『カノン』をすぐに左手に持ち替える。空《あ》いた右手を布袋につっこみ、瓶《びん》を一つ取り出した。薬瓶だったが、中に入っているのは緑色の液体火薬だった。瓶の口に、短い導火線がささっていた。
キノは、『カノン』を一発、導火線に火をつけるために撃った。弾丸は中庭の壁に穴を開けた。
キノは瓶を、アンダースローで高く放った。ゆっくりと通りを斜めに横断して、瓶は建物の角近くで落ちた。割れずに、ごとりと音を立てた。
キノはすぐに身を引いてしゃがみ込み、両手で耳を塞《ふさ》いで口を開けた。
「手榴弾《しゅりゅうだん》!」
角にしゃがみ狙《ねら》いをつけようとしていた背の低い男は、自分へ投げられた瓶を見てそう叫んだ。
「伏せろ!」
背の低い男は立ち上がって、仲間を引きずり倒した。角に足を向けて伏せた。
瓶が爆発した。
爆発は液体火薬特有の白い煙を大量に出して、道路の交差全体を覆《おお》い尽くした。
その様子は、公園沿い通りを北側から戦闘現場へ向かっていた三人の男にも見えた。一秒遅れて、爆発音が低く響く。
「ヤツか?」
髭《ひげ》の男が言った。
背の高い男が、スコープを覗《のぞ》く。白い煙はすぐにかき消えて、十字の中に動く人が見えた。倒れている男二人が、起きあがろうとしていた。
「二人は生きてる」
背の高い男が言って、禿頭《とくとう》の男が言う。
「合流する。通りは危険だ。中庭を抜けていく。ヤツを見たら撃て」
三人は近くの通りへ入った。近くの中庭から、次々に建物をくぐり抜けていった。
南を背の高い男が、北を髭の男が警戒《けいかい》する。
そこは石畳《いしだたみ》が爆発で黒く染まり、建物は細かく欠けていた。近くの窓ガラスは、ほとんど全《すべ》てが割れていた。
禿頭の男は二人を見て、大きな負傷がないことを調べてから上半身を起こした。建物のすぐそばへ引きずっていく。壁に寄りかからせた。
「大丈夫か?」
リュックを背負《せお》った男が、頭を何度か振った。土埃《つちぼこり》が落ちる。
「耳がひどい……。ごほっ! それ以外は、大丈夫だ」
「まだやれる。やれる」
背の低い男が言った。彼は顔中|擦《す》り傷だらけだった。頬《ほお》を血が流れる。ズボンの裾《すそ》が少し焦《こ》げていた。
「そうか……」
禿頭《とくとう》の男は、リュックの男に水筒《すいとう》を渡した。
「ヤツどこへ消えた……。死んだか?」
頬の血を拭《ふ》きながら、背の低い男が聞く。
禿頭の男が答える。
「いいや。まだ生きている。爆発の隙《すき》に、俺《おれ》達みたいに中庭を続けて通って、挟《はさ》まれるのを恐れて南側に抜けたはずだ。足跡は埃で見えない」
「畜生《ちくしょう》め……」
背の低い男が、忌々《いまいま》しそうにつぶやいた。口の中が切れていて、口元から血が垂れた。リュックの男が、水筒を無言で渡した。
血混じりの水を、背の低い男が吐《は》き出した時だった。
「いたぞ。公園を渡っている」
背の高い男が、言った。彼は立て膝《ひざ》で座り、右膝の上に右肘《みぎひじ》を、左膝の上に左膝を載《の》せて、ライフルを構えスコープで覗《のぞ》いていた。
全員が同じ方角を見た。禿頭の男は、双眼鏡《そうがんきょう》で狙《ねら》いの先を見る。
枯《か》れた芝生《しばふ》と雑草の公園の、南へだいぶ離れた場所。そこを走って渡る人影が、裸眼《らがん》では米粒ほどに、双眼鏡ではライフルの形まではっきり見えた。
「遠いな。やれるか?」
禿頭の男が聞いて、
「…………」
背の高い男は無言で、彼のライフルの背負い革《かわ》を左腕に巻きつけた。ライフルを安定させて、スコープの中の十字線に走る相手を捕らえる。少し前と上を狙って、撃った。
甲高い発砲音が鳴り響く。男達が目標を見た。目標は走り続けた。
素早く二発目が装填《そうてん》され、
「…………」
背の高い男は撃った。目標は走り続ける。
三発目。強い風が吹いて、砂埃を立たせた。
四発目。目標は走り続ける。
五発目が放たれた。目標は、後少しで公園を渡り終えるところで、前のめりに倒れた。
「やったか?」
後ろからリュックを背負った男が聞いて、
「いいや。自分で伏せたんだ」
双眼鏡《そうがんきょう》で見ていた禿頭《とくとう》の男が言った。背の低い男が、
「なぜだ?」
聞いた瞬間、
「全員伏せろ!」
禿頭の男が叫んだ。双眼鏡には、こちらを狙《ねら》う姿が映った。
「!」
男達が反応して、その場に伏せた。
背の高い男だけは、最後の空薬莢《からやっきょう》をはじき出した後、そのままの姿勢だった。
キノは五発目の弾丸が空気を引き裂《さ》いて飛んでいく音を聞いて、倒れるふりをして斜め前に伏せた。ほんの少し盛り上がった公園の、枯《か》れ草の上に横たわった。
『フルート』を構えてスコープを覗《のぞ》く。直後に男達が伏せるのが見えた。先ほどまで自分を撃っていた一人をのぞいて。
キノはその男を狙う。距離がかなりあって、風が吹いている。十字は男の少し斜め上へ動かした。
撃った。撃ち続けた。
発砲音は聞こえない。弾丸のうなりだけが絶え間なく襲いかかり、直後に近くの石畳《いしだたみ》や建物の煉瓦《れんが》が立て続けに削れていく。
四人の男が頭を腕で覆《おお》って伏せる中、背の高い男だけは空のパースエイダーを構えたまま座り、スコープ越しに自分を撃つ人間を睨《にら》んでいた。
「…………」
無言で睨んでいた。
弾倉の九発を撃ち切って、『フルート』のボルトは下がりきった位置で止まる。
スコープの中の男は、そのままの体勢だった。
「ダメか……。一発くらい当たったと思ったんだけれど」
キノはすぐに立ち上がると、熱したバレルから薄く煙が立つ『フルート』を抱え、残りわずかな公園を走った。
すぐに渡りきって、太い通りへ入る。
目の前には、瓦礫《がれき》の山があった。
「追うぞ。横に散開しろ。ヤツが逃げ込んだ通りの前を避けて、すぐに公園を渡る。瓦礫《がれき》通り≠ナは高くは登れない。前方に警戒《けいかい》だ」
禿頭《とくとう》の男が指示を出して、伏せていた男達が顔を上げる。皺《しわ》の中のぎらついた目つきで、進むべき方角を睨《にら》んだ。
「行くぜ」
座ったままの背の高い男の肩を、顔中傷だらけの背の低い男が叩《たた》く。
「おい……」
背の高い男が言った。彼の頬《ほお》を、汗が一本流れ落ちた。
「なんだ?」
背の高い男は、弾薬ポーチからバラの弾丸を五発取り出す。
「ヤツは、あいつは……、私が殺《や》るぞ……」
一発ずつ、ライフルにしっかりと押し込めていく。
「ああ」
背の低い男は頷《うなず》いて、全弾詰めた男が立ち上がるのを助けた。
「絶対に私が殺る」
立ち上がった男が、凄《すさ》まじい形相《ぎょうそう》で言った。
「分かった。――行こう」
五人の最後を、背の高い男が行く。
彼のジャケット脇腹《わきばら》に、血がじわじわとにじみ始めていた。
爆発音の後、五発分の発砲音。それからだいぶ静かになった。
「まぁだやってるのかなあ?―― キノもだいぶ手こずってるなあ。――それとも、向こうが手こずってるのかなあ?」
エルメスがぼやいた。
「退屈だなあ……。まあ、天気が悪いから、建物の下も悪くないけれど。いよいよ寒くなってきたし、雪とかどんどん降ってきたら、キノはどうするんだろう。毎日転倒はイヤだなあ……」
もう一度ぼやいた。
「いるな……」
リュックを背負った男が言った。
両側の集合住宅の、二階から上が破壊されて崩《くず》れ落ちている通り。瓦礫が足場を悪くして、遮蔽物《しゃへいぶつ》をいくつも作り上げている。男達は、人の背ほどの瓦礫が始まるところに身を隠《かく》していた。
「おい」
背の低い男が、背の高い男に話しかけた。左|脇《わき》の、崩《くず》れて穴になっている壁をさして、
「俺《おれ》がおとりに出る。あの穴まで走るから、ヤツが顔を出したら仕留《しと》めろ。俺の腕の一本や二本は、今回は我慢《がまん》だ」
にやりと笑いながら言った。
禿頭《とくとう》の男と背の高い男が顔を見合わして、お互い頷《うなず》いた。
背の高い男が瓦礫《がれき》に這《は》い登り、ゆっくりとギリギリまで頭とパースエイダーを上げる。
「殺《や》ってやる……」
そしてつぶやいた。
「行くぞ!」
背の低い男が飛び出した。瓦礫を踏み分けて、穴へと走る。同時に背の高い男が中腰で立ち上がる。瓦礫の向こうに、同じように頭とライフルを出した相手を見つけた。
「?」
相手が飛び出した男を狙《ねら》ってはいなかったことに、背の高い男は気づく。
向こうは初めから自分がいた方角を大まかに狙っていた。こちらが顔を出した瞬間には、細かな修正も終わっていた。
「………」
男は奥歯を噛《か》んだ。
キノが撃った。
弾丸は、瓦礫の上を一瞬で移動した。
背の高い男の見開いた左目に当たって、頭の後ろまで突き抜けた。
無事に壁まで走った男が振り向いた時、頭から血を噴《ふ》き崩《くず》れ落ちた仲間が見えた。
「畜生《ちくしょう》! 畜生! あの野郎《やろう》!」
男は叫んだ。穴から身を出して狙いをつけようとして、次の瞬間ライフルがはじけ飛んでいた。二発目が右腕をかすめて、擦過《さっか》|傷《しょう》を作った。
男は、穴に身を引いた。そして叫ぶ。
「いたぞ! あの車の陰だ! 左下!」
男達が隠《かく》れている瓦礫の先には、煉瓦《れんが》につぶされて放棄された車が一台あった。禿頭の男が、一瞬顔を出して確認する。
「やれるぞ。グレネードだ。距離八十」
リュックを背負った男が、それをおろして中からライフルグレネードを出した。前部の太い円筒には爆薬が、後部の細い円筒《えんとう》には羽がついている。
彼は自分のライフルのボルトを開けて、木の弾頭がついた専用の空砲を詰めた。バレルの先端に、グレネードを差し込んだ。ライフル脇《わき》の照準器を立てる。
禿頭《とくとう》の男が言う。
「真《ま》っ直《す》ぐだ」
リュックを背負《せお》った男は頷《うなず》いた。グレネード先端の安全ピンを引き抜いた。ライフルのストックを地面に押しつけ、照準器で角度を合わせる。引き金を引いた。
ばすんっ!
重く大きな破裂《はれつ》音がして、グレネードが発射された。
キノは破裂音を聞いて、一瞬後に反応していた。車の脇から右側に飛び出して、六歩走った時だった。
背中で、車の脇で、爆発が起きた。
髭《ひげ》の男が、壁に隠《かく》れている男へ、親指を下にさすジェスチャーをした。背の低い男が大きく首を振った。
「脇に逃げた! 通りの左端だ!」
「もう一発。左に少しだ」
禿頭の男が言った。
リュックをおろした男は手早く空砲を詰め直し、先端にグレネードをはめた。
狙《ねら》い、そして撃った。
キノは土埃《つちぼこり》と小さな石を落としながら、うつぶせから体を起こした。すぐに仰向《あおむ》けになって瓦礫《がれき》の上に座る。直撃を受けた車は、ガラスは全《すべ》て割れ、ぼろ屑《くず》になっていた。
二回目の破裂音と同時に、キノは『フルート』を構えた。曇天《どんてん》に、黒い塊《かたまり》が上がる。
キノはスコープを覗《のぞ》かなかった。その下の金属照準器を使って、自分めがけて高く放物線を描く塊を狙った。撃った。
通りの空中で、爆発が起こった。
爆発は黒煙を残し、辺り一面に細かい破片をまき散らした。
「なんだ?」
グレネードを撃った男が、驚きの声を上げ、
「撃ち落としやがった! グレネードを撃ち落としやがった!」
壁の穴に張りついている、背の低い男は叫んだ。
「なんてヤツだ」
髭《ひげ》の男が呆《あき》れるようにつぶやいて、
「畜生《ちくしょう》め……」
背の低い男は吐き捨てた。彼のライフルは、瓦礫《がれき》の上に転がっている。前をうかがうためにほんの少し顔を出して、即座に弾丸が襲った。今度は頬《ほお》を一文字《いちもんじ》に切って、建物内の煉瓦《れんが》一つを粉砕《ふんさい》した。
「くそっ!」
男は身を隠《かく》した。
キノは『フルート』を構えながら、左手で弾倉を外し、新しいのを取り出してはめた。
軽く頭を振ると、帽子《ぼうし》の上から破片が落ちた。
「俺《おれ》がやる」
瓦礫手前にいる三人のうち、髭を生やした一人が言った。二人が彼を見る。
壁の穴では、背の低い男が右腕傷口に布を巻いて、左手と口を使って縛《しば》っていた。
「俺がやる。爆薬の残りをくれ。このまま仲間を減らされる訳にはいかない……。俺が説得≠試みる」
しばらく髭の男を見ていた禿頭《とくとう》の男が、
「なぜお前なんだ?」
聞いた。
髭の男は口元をゆるめた。
「俺が、最年長だろ。年上は敬《うやま》うもんだ」
「…………。分かった……」
禿頭の男が言って、リュックから小さな肩掛け袋を取り出した。中には、箱形の爆薬が四つ入っていた。もう一人が腰のポーチから、長い紐《ひも》のついたタバコのような物を取り出した。信管だった。
「引き抜いて七秒だ」
「分かった」
髭の男がそれを受け取って、爆薬に丁寧《ていねい》に差し込もうとして手を止めた。男は自分の首からペンダントを引き出して、外した。
「これを頼む」
禿頭の男へ、差し出した。そして、
「後で返してくれ」
「……分かった」
髭《ひげ》の男は差し出された手にペンダントを落とし、それからその手を堅く握った。それからもう一人の手も。
髭の男は、信管を爆薬に差し込んで、肩掛け袋を首にかけた。背中に回して、前からは見えないようにする。紐《ひも》の先端を、首筋に隠《かく》した。
そして、
「話がある!」
太く大きな声を出した。
「話がある!」
両手を上げて、髭の男は瓦礫《がれき》からゆっくりと身を出した。
それを見た壁の穴にいる男の顔色が変わったが、何をやろうとしているのか、瞬時に理解した。
髭の男が瓦礫の上を歩き出す。弾は飛んでこなかった。
ゆっくりと、足場を確かめながら男は歩く。壁の穴の前を通り越した。
「話がある!」
男の声は強風に乗って、キノにはっきりと届いていた。
キノは一度壁の穴を見て、それから両手を上げた男の頭に狙《ねら》いを動かした。
「話がある!」
髭の男が、半分ほど進んだ時だった。
「それ以上近づかないで、そこで話してください」
進む先から、声が返ってきた。男がようやく聞き取れるほどの声量だった。
「話があるんだ! パースエイダーは持っていない! そちらへ行く!」
男は歩き続けながら叫んだ。
「聞こえますから、そこで話してください」
声は無視した。歩き続けた。
「それ以上近づくと撃ちます。止まりなさい」
残り距離が三分の一ほどで、命令が聞こえた。髭の男には、自分を狙う相手が見えた。帽子《ぼうし》をかぶってゴーグルをはめた、若い人間だった。
髭の男は、一度笑った。そして、
「うおおおおおおおっ!」
吠《ほ》えながら走り出した。背中の袋を右手で掴《つか》み、左手で紐《ひも》を握った。
一発目が腹に当たった。二発日は右側の肺を射抜《いぬ》いた。
男は、突進を続けた。左手で紐を引いた。男の右手が大きくしなって、あらん限りの力で袋を投げつけた。
手が放れた瞬間だった。
三発目は、その袋に当たった。空中で布を叩《たた》く音がして、穴が空《あ》いて、袋が前へ進む力がうち消された。
投げた後、転がるように伏せた男の目の前に、袋は落ちた。
「! ――うおおおっ!」
男は吠《ほ》えながらそれを拾って立ち上がり、抱きかかえて走り出した。
キノは四発目を撃たなかった。その場から身を翻《ひるがえ》した。
崩《くず》れかけの通りの端《はし》を避け、中央部分を走って全速力で逃げ始めた。
爆発が起こった。
爆風が通りを縦《たて》に突き抜けた。猛烈《もうれつ》な揺れが襲って、建物が崩《くず》れ始めた。
壁の中にいた男は、埃《ほこり》だらけの中、そこから飛び出した。すぐに壁は崩れた。
通りは、入道雲のように巻き上がる埃で何も見えなくなった。
爆発の振動が、エルメスをほんの少しだけ揺らした。
「おっ。地震だ地震」
エルメスはつぶやいて、
「ただいまの震度は、一の半分くらいかな? ――特に揺れが大きかった海沿いの地域では、津波に注意してください。詳《くわ》しい情報は、追ってお知らせします……=v
さらに独り言を言って、
「退屈だ……」
つぶやいた。
そして風が吹いて、廃墟《はいきょ》の通りから埃が拭《ふ》き取られて消える。
「やったか……?」
禿頭《とくとう》の男が、さらに高くなった瓦礫《がれき》の山を見て言った。同時に、建物の一部がまた崩れた。
仲間を捜《さが》した。左脇にリュックを背負《せお》っていた男と、少し先の瓦礫の上に背の低い男が伏せていた。二人とも、つもった埃や石を落としながら立ち上がった。咳《せ》き込む音が聞こえた。
仲間を起こしながら、禿頭の男が、あるものに気がついて拾った。
「やったか?」
リュックを背負った男が聞いてきて、
「まだ分からない」
禿頭《とくとう》の男は、そう答えて手に持ったものを彼に見せた。右だけのブーツに、すね下でちぎれた足が入っていた。
「…………」
見覚えのあるブーツだった。
「いない。いないぞ」
ライフルを腰に構えた背の低い男が、先頭で瓦礫《がれき》の上を進む。後ろから、禿頭の男がスコープつきのライフルで、進む先を狙《ねら》っていた。
「あれだけの爆発だ。跡形もなく吹き飛んだか……」
リュックを背負《せお》った男が言った。彼のライフルには、グレネードが既に差し込んであった。
「油断はできない」
「ああ」
爆発の中心を越えた。脇《わき》の壁に、内臓のようなものが張りついている。男達が、さらに足を進めた時だった。
「見つけた! ヤツの血だ!」
背の低い男が叫んだ。周りを警戒《けいかい》しながら、禿頭の男が来る。
瓦礫の道に、小さな血だまりが一つあって、そこから血痕《けっこん》が始まっていた。親指の先ほどの血が、点々と通りの先へ続いていく。
「やったぞ。かなりの血だ」
背の低い男が言って、
「場所によるな……。だが、確実に負傷している」
禿頭の男が、顔色を変えずに言った。
「追うぞ」
血痕は、東へと延びていた。
やがて、左右の崩《くず》れかけた建物がなくなる。目の前には、それほど高くない鉄製のフェンスが全《すべ》て横倒しになっていた。その向こうには土の空間が広がって、そして横に広いコンクリートの建物があった。三階建てで、ガラス窓が多い造り。
「校舎に逃げ込んだな」
背の低い男が言った。フェンス前の道に放棄《ほうき》された二台の車に、三人は身を隠《かく》していた。血痕は横になったフェンスを越え、校庭を真《ま》っ直《す》ぐ渡っていく。
「待ち伏せか」
リュックを背負った男が言った。
「グレネード。距離いけるか? 残りは?」
禿頭《とくとう》の男が体を低くして、双眼鏡《そうがんきょう》で前をうかがいながら聞いた。リュックを背負《せお》った男が答える。
「いける。ギリギリだから低く狙《ねら》えるぞ。残りは五発だ」
「ヤツの誘いに乗ってやる。俺《おれ》がおとりに出る。ヤツが同じように足を撃ってきても、誰も出るな。グレネードをその部屋に四つ立て続けに撃ち込め。いいな?」
二人の男が頷《うなず》いて、
「分かった」
同じ言葉を返した。
「申し訳ありません……。でも……」
キノが言った。その両手は、真《ま》っ赤《か》に染まっていた。
空は相変わらず、切れ間ない雲で覆《おお》われていた。
禿頭の男が、体を低くしながら、ライフルを構え一歩一歩校庭を渡っていく。身を隠《かく》すものは何もない。
車の両|脇《わき》では、距離を合わせた照準器を覗《のぞ》いて、引き金に指をかけた男が二人いた。荒い呼吸を押さえながら、半分は割れ落ちている校舎の窓ガラスを睨《にら》んでいた。
発砲音が響いた。
校舎からだった。立て続けに四発聞こえた。そして弾丸の唸《うな》る音。
禿頭の男が伏せた。そして叫ぶ。
「二階! 右から三つ目の教室だ!」
二人が反応して、そこへ狙いをつける。割れた窓ガラスからバレルが見えていて、甲高い発砲音はそこから発せられていた。撃たれた弾は、車のはるか上を飛び去っていく。
グレネードが、二発同時に発射された。
低い弾道で飛び、ガラスを突き破って部屋に飛び込んだ。爆発した。
その教室の、全《すべ》ての窓ガラスが粉砕《ふんさい》された。鮮《あざ》やかに砕《くだ》け散って、バルコニーに降った。
「次!」
「よっしゃ!」
男達は二発目のグレネードを撃った。
狙ったとおりに、二発とも窓|枠《わく》の中へ飛び込んだ。
校庭に伏せていた男が、爆発音を聞きながらスコープを覗いた。
ぐしゃぐしゃになった教室に、動くものの姿は見えなかった。誰も撃ってこなかった。急に静かになって、風の音がよく聞こえた。
「やったか……?」
男がつぶやいた。
乾《かわ》きかけている血痕《けっこん》は、校庭を渡り校舎右|脇《わき》の階段を上って、二階の廊下へ向かっていた。
長く暗い廊下へ、背の低い男が顔を出す。そして血痕は、三つ目の教室へ延びる。廊下からでも、蝶番《ちょうつがい》が一つ吹き飛んで宙ぶらりんになっているドアが見える。
男達は、いつでも撃てるようにしながら廊下を歩いた。ドアの前に来て、一人がパースエイダーを構えながら、もう一人がドアを蹴り落とした。
中を見た。天井《てんじょう》と床と壁中にグレネードの細かな破片が突き刺さっていた。机がいくつか転がり、フレームの鉄パイプが曲がっていた。
「いない……」
中を見た、背の低い男が言って、ゆっくりと入る。そこには誰もいなかった。死体もなかった。
禿頭《とくとう》の男と、背中を警戒《けいかい》しながらリュックを背負《せお》った男が入ってくる。
「おい。ヤツのライフルだ。まだ使えそうだ」
背の低い男が、机の下敷きになっていたパースエイダーを見つけて、軽く足で小突いた。破片が数個ストックに刺さっていたが、機関部やスコープは机の下で無事《ぶじ》だった。
背の低い男が拾おうとして、
「それは後でもらう。ヤツの死体を確認してからだ」
禿頭の男が言った。
背の低い男は、しゃがみかけていた体を上げた。そして、『フルート』の引き金に巻きつけられていた細いワイヤーに気づかなかった。
「おい」
リュックを背負った男が、机の下にある血痕を見つけた。それはもう一つのドアを通って、廊下へ出ていく。点々とではなく、床を擦《す》るようにべっとりと。
「しぶといヤツだ」
背の低い男が、にやりと笑いながら言った。彼を先頭に、再び廊下に出た。足跡は左足だけだった。その右側には血が。
それらはあっけなく、二つとなりの教室の中へ入っていた。ドアを一度開けて、閉めた跡があった。その教室から、出た痕跡はなかった。
二人がライフルを構えて、背の低い男がドアの脇《わき》にしゃがんで、ゆっくりとノブを回す。
とんっ。
ドアを押した。きしみながら開いていった。
背の低い男はライフルを構えながら、視線を床の血糊《ちのり》から教室の中へ移していく。床を這《は》った赤い線は、教室中央へ延びて、そこにあった一つの机で終わっていた。
その机の上に、なじみのある顔があった。
「…………」
髭《ひげ》を生《は》やした顔だった。目を閉じて、寝ているような顔だった。その後ろに頭があって、下に首があって、
「…………」
そして血に濡《ぬ》れた机があった。教室の中には、他《ほか》に何もなかった。
「あ……。ああ……」
背の低い男が、目を見開き口から声を漏《も》らしながら教室へと踏み込んでいく。二人も跡を追って、それを見た。机の上の、仲間の生首《なまくび》を見た。
「…………」
生首は、先ほどまでそれをくるんでいた布の上にあった。真《ま》っ赤《か》に染まった布だった。
「ヤツの血じゃなかった……」
リュックを背負《せお》った男が言った。
「あ……。あ、ああ……。あの野郎《やろう》……。あの野郎……」
うめきながら、背の低い男が机へと近づく。
「あの野郎……。なんてことしやがる……。畜生《ちくしょう》……。ひでぇ……。あの野郎……。死人を冒涜《ぼうとく》しやがって……。あの野郎……。あの野郎……」
がしゃ!
男の手からライフルが落ちた。背の低い男は、泣きながら、仲間の首へ両手を伸ばした。
「ひでえ……。なんでこんな……」
両手で頬《ほお》を触って、
「敵《かたき》はとってやる……。敵はとってやるぞ……。ああ……」
仲間を持ち上げた。
「止めろ!」
禿頭《とくとう》の男が叫んだ。同時に、生首後頭部の髪に結ばれていた紐《ひも》が引っ張られた。それには防水マッチが一本ついていて、先端は結ばれた二つの石で挟《はさ》まれていた。そして導火線も。
髪で隠《かく》されていた緑色の小瓶《こびん》が、布の上に倒れた。瓶の口では、導火線の小さな火花が散っていた。背の低い男が、それを見た。
「え?」
爆発した。
校舎を轟音《ごうおん》が揺らして、その教室のガラスが全《すべ》て吹き飛んだ。
白煙が、バルコニーへ吹き出した。
北側階段|脇《わき》にいたキノが、廊下の煙が消えたのを見て歩き出した。吹き飛んだ教室へ向かう。
他人の血で真《ま》っ赤《か》になった右手で『カノン』を抜いて、吹き飛んだドアからぐしゃぐしゃの教室へ入った。
三人のうち、一人は上半身がなかった。それらはべしゃべしゃになって、壁に張りついていた。
もう一人は、顔中ガラスの破片で血塗れになって、壁ぎわでうごめいていた。震える手にグレネードを持って、先端の安全ピンを引き抜こうとしていた。
教室ドア脇で、仰向《あおむ》けの禿頭《とくとう》の男が動いた。彼の右手は、腰のホルスターからハンド・パースエイダーを抜こうとしていた。
キノはグレネードを持つ男の前に立ち、胸に一発撃ち込んだ。男は一度びたんっ、とはぜて、動かなくなった。
禿頭の男が、血塗れの右手に握るパースエイダーをキノに向けた。引き金を引こうとして、
「撃てませんよ」
キノが言った。男の右手に力が入った。
「?」
そして弾は出なかった。
男の手から、パースエイダーが落ちた。男が右手を見た。人差し指と、中指がちぎれていた。
キノが、男の脇に立った。
「こんなに若い……、坊やだったとはな……」
男が、静かにキノを見ながら言った。
「なぜボクを? もしよかったら、理由を」
キノが聞いた。男は、一度大きく息を吐いて、
「自分達の国を守って、何が悪い……」
そう言った。
「自分達の、国……?」
キノが聞き返した。
男は、自分の胸元に右手を伸ばして、ペンダントの鎖《くさり》を親指にかけて引き出した。星をかたどった、小さな丸いペンダントだった。
自分の顔の前に掲げ、それを見た。
「ここは俺《おれ》達の国だ……。だから俺達は戦う……」
「…………」
男が、誰にでもなく、つぶやき始める。
「ああ……。俺達は、何もできなかった。何もできずに、おめおめと帰ってきた……。英雄になれなかった……。みんないなくなっていた……。せめて最後くらいは、英雄として……、国を守って……。ああ、それでもだめだったな。俺《おれ》達は最後まで、英雄になれなかった……」
キノは聞いていた。
男がキノに言う。
「さあ、早く殺せ。一発撃って……、俺をみんなのところへ連れて行け」
「必要ありません。あなたはもうすぐ死にます」
キノが答えた。左手が吹き飛び、血だまりの中に内臓を大きく露出させた男へ答えた。
「なんだそうか」
禿頭《とくとう》の男は、にっこりと笑って言った。
そして笑顔のままで死んだ。
キノは男の目を、ゆっくりと閉じた。
「――英雄達は還《かえ》らず。ただ我々の胸に生き続ける――=v
キノはつぶやいた。そして目を閉じた。
「おっ帰えりー。キノ。だいぶ血に染まっているみたいだけれど、お怪我《けが》は?」
「ないよ。たぶん」
「全員やっつけた?」
「ああ」
「これでもう安心だね」
「ああ。これでもう安心だ。走っていていきなり撃たれることはない」
「キノ。左側のポーチ」
「ん?」
「穴が空《あ》いてるよ。撃たれたんじゃない?」
「…………。ああ、全然気がつかなかった……。いつだろう? 公園、かな」
「で、おみやげは?」
「これだけだ」
「なにこれ? 弾丸じゃん」
「あの人達の使っていたライフルの弾だ。『フルート』にぴったりだ。使ったよりたくさんの弾が手に入った」
「なにそれ。他《ほか》におみやげは?」
「ああ。みやげ話ならあるよ」
「へえ。どんな?」
第五話 「英雄達の国」
―Seven Heroes―
城門に旅人が到着したのは、朝日がまだ半分も昇っていない頃だった。空は綺麗《きれい》に晴れているが、風は冷たかった。
旅人は、モトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)に乗って来た。後輪両|脇《わき》に箱が装着されて、その上には大きな鞄《かばん》を縛《しば》りつけていた。
運転手は茶色のコートを着て、長い裾《すそ》を両腿《りょうもも》に巻きつけてとめていた。鍔《つば》と、耳を覆《おお》うたれのついた帽子《ぼうし》をかぶって、目にはゴーグル。顔には防寒のためにバンダナを巻いていた。
城門外側の衛兵詰め所で、旅人が挨拶《あいさつ》をする。
「今日《こんにち》は。ボクはキノ。こちらは相棒《あいぼう》のエルメス。三日間の入国を希望します」
衛兵は丁寧《ていねい》な対応でいくつかの質問をして、キノと名乗った旅人と、エルメスと呼ばれたモトラドに入国の許可を出した。
衛兵が、パースエイダー(注・銃器のこと)は何か持っているかと聞いて、キノが頷《うなず》いて答える。
「パースエイダーの持ち込みは禁止ですか?」
キノが訊《たず》ねて、
「とんでもない。その逆ですよ」
衛兵は笑顔で答えた。
キノ達は白い城壁をくぐり終えて、国の中へ入る。
国内は平坦《へいたん》で広かった。そのため道も建物の敷地も広く、平屋の建物が多い。そして、新しい建物も多かった。
もらった地図を眺めながら待っていると、案内人が小さな車に乗ってやってきた。初老の、人が良さそうな男だった。
ひとしきり歓迎の言葉を述べて、キノ達を車でホテルへ先導する。広くすいている通りを抜けて、国の中央部へ向かう。
ホテル到着後、案内人がさらにこの国についての話をした。
この国は、十七年前に二つの国が合併して大きくなった。それまでは、今の国土に土地だけは広い極小の王国が。そして山脈を越えた遠くに、逆に人口密度の非常に高い民主主義の国があった。
しかし、ある時王様の気が触れてしまい、到底やっていけなくなった小国はもう一方の協力を仰《あお》いだ。国土の狭さにあえいでいた国は渡りに船とその申し出を受け、全員が平等に権利を有する民主主義国家になることで平和的に統合され、王様を病院に押し込んで今の形になった。
この国は国民|皆兵《かいへい》で、十八|歳《さい》以上五十歳以下の国民|全《すべ》てが兵士として登録されている。定期的に訓練を受けて、各家々に武器が保管され戦時には召集《しょうしゅう》され戦う。そのために、射撃が国民的スポーツとしてとても盛んになっている。
「なるほど」
キノが城壁の衛兵の言葉を思い出してつぶやいた。
昼から、キノとエルメスは国を回る。
エルメスの整備をしてもらい、キノは必要なものを買い足した。
城壁の近くに、国立射撃場≠フ看板があった。行ってみると、広大な敷地が広がっていた。応対に出た管理人に、今日《きょう》だけは施設整備のために閉鎖中と言われた。
キノが自己|紹介《しょうかい》をして、射撃練習ができるかと聞くと、
「それなら、ぜひ明日《あした》来てください。施設をご自由にお使いになって、もしよかったら私達にお教えを」
管理人は目を輝かせて答えた。
二日目。
キノは相変わらず夜明けと共に起きた。
いつもどおり、軽く体を動かす。パースエイダーの訓練をしようとして、
「…………」
少し考え、やはり行った。
食事後エルメスを叩《たた》き起こし、射撃場へ向かった。
射撃場では、朝早くからたくさんの人が集まっていた。普通の一般市民から、軍服を着た一団まで。
キノが来て、昨日《きのう》会った管理人は大喜びで全員に紹介した。キノがパースエイダー持ちで、自分の身は自分で守りながら旅をしていることを告げると、全員がそれはすごいと喜んで、ぜひいろいろ教えてほしいと頼んできた。
「これで下手《へた》だったら、まったくかっこつかないねえ」
エルメスが言った。
射撃場には、至近距離から超遠距離まで様々な射撃施設があって、それぞれに的《まと》が自動で動いたり、遠くの命中箇所を画面に出したりできる便利な装置がついていた。
建物内を再現した施設では、窓や廊下|脇《わき》から人形の悪人が出てきたり、赤ちゃんを抱いた女性が出てきたり、ナイフを持った子供が出てきたりする。
大勢の人に見られながら、キノはいくつかの施設を借りた。『カノン』と、もう一丁《いっちょう》の自動式ハンド・パースエイダー、『森の人』の実弾射撃訓練を行った。
何かをやるたびに拍手|喝采《かっさい》を浴びて、キノがつぶやく。
「すごくやりにくいんだけれど……」
「師匠《ししょう》が言ってたでしょ。どんな状況でも平常心」
エルメスが言った。
「キノさんは、ライフルはお持ちじゃないんですか?」
食堂で昼食をごちそうになりながら、キノは管理人にそう聞かれた。キノが首を振った。
「射程が長いのがなくて、不安ではありませんか?」
キノが、確かに多少は不安でも、エルメスで持ち運ぶことを考えると、長いライフルはどうしても無理があると答えた。
管理人はそれを聞いて嬉《うれ》しそうに、
「そんなキノさんに、ぴったりのライフルがあるんです」
売り子のように言った。
「お待たせしました。これです」
食後、管理人が持ってきて机の上に置いたのは、箱に入った一丁のライフルだった。
ライフルは前後に別れていて、後半は木製のストックと狙撃用のスコープ。前半は黒い金属のフレームと、脇についている長い円筒《えんとう》が目立つ。
「前後に分解して運べる、消音自動式ライフルです。精度や強度の問題をクリアして、我が国でつい最近開発されました。軍への支給が始まったばかりです」
管理人が、キノに持ってみるように勧《すす》めて、キノが脇にあった説明イラストどおりに組み立てた。
「どうです? どうでしょうか?」
キノは、持った感じは悪くなくて、とても扱いやすそうだと言った。
「撃ってみませんか? 撃って、ぜひ感想をお聞かせください」
管理人が言った。
キノは射撃場へ行って、借りたライフルを撃った。机の上のクッションに置いて、スコープではるか遠くの的《まと》を狙《ねら》う。
一発撃って黒塗りの中心部へ命中するたびに、割れんばかりの歓声が背中から起こった。
「まだ気になる?」
「もう慣れたよ」
エルメスが聞いて、キノが答えて撃った。歓声が起こった。
さんざん撃った後は、さんざん質問攻めにあった。
ある人に、誰に射撃を教わったのか聞かれて、
「すいません。それは言えません」
キノは答えた。
別の人に、どんな優れた施設で練習したのか聞かれて、
「何もない森の中です……」
キノは答えた。
また別の人に、せめてどうやったらそんなに上達するか教えてほしいと言われて、
「…………。痛い目に遭《あ》えばイヤでも……」
キノは答えた。
昼も半《なか》ば。
食堂でデザートをごちそうになりながら、キノとエルメス、管理人が机を囲んでいた。
「いやあ、キノさんはすばらしい。みんなびっくりしていましたよ。そして、俄然《がぜん》やる気も出していました」
「ま、面目躍如《めんもくやくじょ》ってところだね。たまにはキノが誉《ほ》められるのを見るのもいい」
エルメスが言った。
「射撃の腕が上がれば上がるだけ、私達の国の防衛力はより強固なものになります。そして、より一層の平和と安全を守ることができます」
「この国に、仮想の敵国は?」
キノが聞いた。管理人は、少し照れくさそうに答える。
「それが……。実は我が国では、実は合併前の両国も、有史以来戦争をしたことがないんです。近くに攻めてきそうな国も、どうやらありません。ですから国民|皆兵《かいへい》とはいえ、紙と人形しか撃ったことのない私達がどれほど戦えるのか、まったく分からないんです。訓練は欠かしていませんし、個人個人の技量は相当なものだと自負はしているんですが……」
キノが言う。
「平和なことは、とてもいいことですよ。もしもの時は、訓練の成果が出ると思います。きっとみなさん、自分達が思うよりしっかり戦えますよ」
「ああ。そう言ってもらえると嬉《うれ》しいですね。これからも訓練に励むことでしょう」
「とてもいい心がけだね。備えあればウクレレなし≠ウ」
エルメスが言って、
「は?」
管理人が怪訝《けげん》そうな顔をした。
「エルメス……。わざとやってないか?」
「何が?」
夕方。
管理人はキノに、ライフルがお気に召《め》して旅のじゃまにならないようなら、お持ちになって構わないと言った。ぜひ我が国の優秀なパースエイダーを、旅で役立ててほしいと言った。
キノは少し考えて、丁重《ていちょう》に礼を言って申し出を受けた。キノはライフルの名前を聞いた。
「名称……。ああ、特にないんです。私達は略称で、五二式国民ライフル分解型≠ニ呼んでいますが」
「長いね」
「後で、何か名前をつけようかと思います」
キノが言った。
三日目。
キノは午前中、国の中を観光して走った。
中央に王国時代の宮殿が残っていて、その周辺は市民公園になっていた。
キノが建物の感想を聞いて、
「悪くないよ。――いつでも、どこでもそうだね。王様はさんざんお金を使って豪華《ごうか》な宮殿を建てて国民に睨《にら》まれて、そしてけ落とされて、その跡は公園になる。見事な建物を保存しよう=Aとか言ってね。在位中に誉《ほ》められることはまずない」
エルメスがイヤミを言った。
公園の一角に、大きな黒い石があった。壁のような石だった。
キノが前を通る。石を削《けず》って、人の姿が描かれていた。若い男達が、笑顔で横に並んでいる。
「すいません。これは何かの記念|碑《ひ》ですか?」
キノが、近くを通りかかった男に聞いた。
五十|歳《さい》ほどの男は大きく頷《うなず》いて、
「ああそうだよ。これは英雄達の碑だ」
「英雄達、ですか?」
「ああ。私みたいに向こうの国から来た人にとっては、忘れられない出来事だね。合併するかなり前、今から三十年ほど前のことだ。私が生まれた国は、人口が増えすぎて窮屈だった。でも城壁はこれ以上広げられなくて、国で新しい移住地を探して調査隊を出すことにしたんだ。全《すべ》ての方位に、十二組をね」
「ふーん。それで?」
「それで、若い男達が募《つの》られて、七人ずつチームを作って出発した。いい土地があってもなくても、半年で戻ってくるはずだった。十一組は戻ってきた」
「なるほど。それで、この人達は?」
「この七人は、十年経っても戻ってこなかった。一番きつい山岳ルートを進んだチームだった。おそらくは、遭難《そうなん》してしまったのだろう……。国中で彼らを惜《お》しんで、記念|碑《ひ》を造った。これは、彼らが出発した時の姿だよ。――そしてしばらくして、今いるこの国との合併がなされて、私達の国は建物をほとんどそのままで引っ越したけれど、この石碑だけは苦労してここに移したんだ。彼らの英雄的行為をいつまでも忘れないためにね。この話は、学校の教科書に載《の》っているよ」
キノは、再び石碑を見た。若くたくましい男達の、屈託《くったく》のない笑顔があった。この国では旧式のライフルを背負《せお》って、全員の胸には、同じ形のペンダントが下がっていた。
星をかたどった、小さな丸いペンダントだった。
男が言う。
「そうだ。旅人さんは昔の国に行ってみるといい。西に向かって進んで、大きな山脈を二つ越えた先にある盆地に、今でも国はあるよ。城壁も、建物もそのままにしてある。私達は、もうあそこへ行くことは決してない。ここが、今の自分達の国だからね。でも旅人さんなら。古い建物を、かつて多くの人が住んでいた集合住宅なんか見学するのは面白《おもしろ》いかもしれない。同じ建物が整然と並んで、その中庭にはいつもたくさんの人がいて、私も子供の頃はよく遊んだ。懐《なつ》かしいよ」
「そうですね。行ってみようかと思います」
男に礼を言って、彼が去った後、キノは石碑に刻まれた文字に目をやった。
笑顔の下に、一文があった。
――英雄達は還《かえ》らず、ただ我々の胸に生き続ける――
第六話 「のどかな国」
―Jog Trot―
私達は、お茶屋にいる。
木製電柱が並ぶ未|舗装《ほそう》の道。脇《わき》に民家が一軒《いっけん》だけ建ち、軒下《のきした》がお茶屋になっている。
シズ様は縁側《えんがわ》に座り、のんびりと午後の景色を眺めている。
私はその斜め前、固めた土の上に座り、やはり景色を眺めている。
よく晴れた暖かい空気の中に、緑と茶色が混ざった、ほんの少しだけうねった畑がどこまでも広がる。サイロや牛舎を伴った家が、まばらに見えている。
シズ様がつぶやくように言う。
「のどかな国だな」
私は沈黙で同意する。
私の名前は陸《りく》、犬だ。
白くて長い、ふさふさの毛を持っている。いつも楽しくて笑っているような顔をしているが、別にいつも楽しくて笑っている訳ではない。生まれつきだ。
シズ様が、私のご主人様だ。いつも緑のセーターを着た青年で、複雑な経緯で故郷を失い、バギーで旅をしている。そして私は、シズ様と一緒にいろいろな国に行く。
シズ様の旅は、特にどこかを目指している訳ではない。いや、どこかを目指してはいるのだが、それは場所という意味でのどこか≠ナはない。
道なりに走ってたどり着いたのは、大草原地帯にポツリと存在する国だった。
城門では審査らしい審査もせず、入国が許された。番兵は、めったに来ない訪問者にとても驚いていた。
「せっかく来てもらっても、この国にはなんにもないよ」
彼の言ったとおり、城壁の中には、平坦《へいたん》な大地が飽《あ》きるほど広がっていた。少しは森や他もあるが、ほとんどが牧草地や畑だ。国民全員で農業をしているような国だった。
シズ様は、ちっとも変わらない景色の中をしばらく走り、やがてお茶屋を見つけた。
「旅人さんとは、珍しいねえ。まあ、のんびりしていきなさいな」
お茶を運んできた老婆が言った。シズ様の座る脇に、緑色のお茶の入った、取っ手のないカップを置く。毒の匂《にお》いはしない。
シズ様が礼を言った。そして自分の横に立てかけてあった愛用の刀を、私すぐ目の前に置いた。シズ様が刀から注意を逸《そ》らす時に、それを見張るのは私だけの役目だ。
シズ様はお茶を飲みながら、老婆にこの国についての質問をいくつかした。
老婆も、他《ほか》の仕事などないのか、シズ様の脇《わき》に座って受け答えをする。
この国は、のんびりと農業だけをしているらしい。人口は少なく、その密度も低い。街と呼べるものは数えるほどしかない。
近くに敵となる国もない。この国を占領《せんりょう》したとしても、何も得るものはない。
旅人もほとんど来ない。来たとしても、観光名所になるようなところはない。
ただ平穏《へいおん》に、毎日が過ぎていく。
「旅人さんは、何処《どこ》へ行くんですか?」
その質問に、シズ様はおどけて肩をすくめた。特に行くところはないんです。放浪人《ほうろうびと》ですよ。そう素直に答えた。
老婆はあらまあ、と少し驚いて、
「もしこの国だったら、移民はいつでも大丈夫ですよ。土地は余っていますし、仕事を手伝ってくれる人はいつでも歓迎です。腕が立つのでしたら、警備のお仕事もあります」
そして、事件がなくて暇《ひま》かもしれないですけど。そうつけ足した。
シズ様は、少し微笑《ほほえ》んだ。
「それも、いいかもしれませんね」
老婆が厨房《ちゅうぼう》に戻った。
シズ様は景色を見ながら、つぶやくように言う。
「のどかな国だな」
私は沈黙で同意する。
遠くの畑では、トラクターが一台動いていた。ここから見ると、とてもゆったりと。一軒の家に近づいていくのは、今日《きょう》の作業の終わりか。
「ここで、牛でも育ててのんびりと暮らすのも悪くないかもな。今まで、やったことのないことだ……。人々のために身を粉《こ》にしなくてもいい。誰かを殺して生き延びなくてもいい。荒野を彷徨《さまよ》わなくてもいい。安定した、安全な日々だ。ひょっとしたら、長生きができるかもしれないな……」
シズ様が、ゆっくりと言った。遠くを見たまま。ひょっとすると、ご自分の過去や未来を見ながら。
私は、
「そうですね」
とだけ言った。たとえなんであれ、決めるのはシズ様だ。
シズ様が、再び何か言おうとした。
「旅人さん。お茶のおかわりいりますか?」
老婆が来て、聞いた。
シズ様はお願いしますと言って、カップを差し出した。
老婆は小さなやかんから、お茶をついだ。
つぎ終えて、シズ様の脇《わき》に置く。とんっ、という小さな音と共に、地面が揺れ始めた。
地震だろうか。小さく細かく、地面と家が揺れる。木造の家がカタカタ鳴いて、波立ったお茶が少しだけこぼれた。
そして、大したことのない揺れは収まった。ほんの数秒の出来事だった。
「あらあら」
老婆が、手早く布巾《ふきん》を取り、こぼれたお茶を拭《ふ》いた。そして、
「?」
私は、シズ様がとても驚いた顔をして固まっているのに気がついた。正面の景色を見ていた。
私も同じ方向を向いて……、やはり驚いた。
先ほどまで遠くにあったはずの、家とトラクターが見えなくなっていた。
「……家が、消えた?」
シズ様が立ち上がって言って、脇に立っていた老婆が遠くを見た。先ほどと変わらない口調で言う。
「ああ、やっぱり。久しぶりに。あれじゃあ助からないかもしれませんね」
シズ様が老婆に顔を向ける。
「な、何が起きたんです?」
老婆は、少しお待ちをと言うと、壁に掛かっている電話でどこかと話し始めた。
電話を一旦《いったん》中断して、老婆はシズ様に言う。
「旅人さん。私が説明するよりご覧になった方が早いと思います。右行って最初の交差を左です。あまり近づきすぎないようにしてください」
シズ様がバギーを走らせ、言われたとおりに道を行く。
やがて、小さなうねりの頂上で、シズ様はバギーを止めておりた。私は助手席からボンネットの上に乗って、それを見た。何が起きたのか、一瞬で理解できた。
大地に穴が空《あ》いていた。
ほぼ円形で、直径は二百メートルほど。深さは、ここからでは見当もつかない。いきなり垂直に地面がなくなっている。間違いなく、先ほどの家とトラクターはこの中だ。
「…………」
シズ様が呆《あき》れて見ていると、後ろからサイレンが聞こえて、クレーンを積んだトラックが近づいてきた。シズ様はバギーをどかして、道を譲《ゆず》る。
やがてトラックは穴のすぐ近くにつけて、底を覗《のぞ》くようにクレーンを伸ばした。先端には人が乗ったバケットがあって、穴の中へと吊《つ》り下ろされていく。
「ずいぶん……、準備と手際《てぎわ》がいいな」
シズ様がつぶやいた。
別の車がバギーの隣についた。
「ああ、旅人さんかい。危ないからこれ以上は行かない方がいいよ。戻って右に曲がったところにお茶屋があるから、そこの婆さんに詳《くわ》しく聞くといい」
乗っていた男が言った。
「穴が空《あ》いていたでしょう」
戻ってきたシズ様に、お茶屋の老婆はいたって普通の口調で言った。
「あれは一体何です? それとなぜ?」
シズ様が聞いて、老婆は取りだて驚きもせず、よくあることなんですよ、と言った。
「この辺では大昔に、石の採掘場があったんです。そこいら中、空洞《くうどう》だらけなんです。だから、いつどこがぬけてもおかしくないんです」
「…………。防げないんですか?」
「採掘場の見取り図がないし、調べる人もいないし……」
老婆は少し困った様子でそう言った。そして、
「まあ、大したことはありません。先ほどみたいに家や人が飲み込まれるなんて、滅多《めった》にないことですから。空いた穴は、埋《う》めればいいだけです。陥没《かんぼつ》自体も、月に数回しか起こりません。そんな、気にすることではないですよ」
「…………」
老婆は、冷めたお茶を取り替えながら、シズ様に訊《たず》ねる。
「そうそう、旅人さんはこれからどうしますか? もしこの国に住むんでしたら、家でも探してあげましょうか?」
シズ様は、若干《じゃっかん》引きつった笑顔で首を振った。
そして、携帯《けいたい》食料とバギーの燃料がすぐに手にはいるところはないか、聞いた。
第七話 「予言の国」
―We NO the Future.―
森の中に、一本の道があった。
背の高い針葉樹が密集する、黒く暗い森だった。土は湿《しめ》り、一面に羊歯《しだ》植物が生《は》えている。
道は森を断ち切るように、まっすぐ東西に走っていた。幅が広い道だった。大昔に丁寧《ていねい》に舗装《ほそう》された痕跡《こんせき》が、灰色の一面のひび割れとして広がっていた。
ひび割れの隙間《すきま》から、森の木の、小さな芽が一本だけ出ていた。
種子《たね》が何かの理由で運ばれて、偶然に隙間の土の上に落ち、発芽していた。
小さな双葉《ふたば》をつけた小さな芽は、じゃまをするものがない道の真ん中で、光り輝く太陽に照らされていた。
道を、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走ってきた。
モトラドは、小さな芽を前輪と後輪で踏みつぶした。
一瞬で跡形もなくして、そこを通り過ぎた。
モトラドは、ひび割れ道を西へと走る。
後輪両|脇《わき》に箱をつけ、上には鞄《かばん》や寝袋を積んでいた。箱につけられた銀色のカップが、細かく揺れ続けていた。
運転手は若い人間だった。十代の半ばほど。
黒いジャケットを着て、腰を太いベルトで締めていた。右腿《みぎもも》にはハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器。この場合は拳銃)のホルスターがあって、リヴォルバーが一丁《いっちょう》収まっている。腰の後ろにも、細身の自動式をつけていた。
短くて黒い髪の上に、帽子《ぼうし》をかぶっていた。飛行帽に似た、前に鍔《つば》と、左右にたれのついた帽子。ところどころが剥《は》げた、銀色フレームのゴーグルをしている。
やがて、運転手がモトラドのタンクを叩《たた》く。
「見えてきたよ」
運転手が言った。
森の中に、緑の壁があった。
それは国を囲む高い城壁で、上に行くにつれてなめらかに外側にせり出して湾曲して、優美な曲線を描いていた。等間隔で支えが並び、そして側面の全《すべ》てが、びっしりと深緑色のツタで覆《おお》われていた。
城壁全体がよく見える位置で、モトラドが止まっていた。
「こんな城壁、初めて見たよ」
またがったままで、運転手が言った。
「うん、凄《すご》いね。造りも珍しいし」
モトラドが同意した。
その後、
「…………」
運転手は、しばらく黙って城壁を見ていた。
「どしたの? キノ」
モトラドが聞いた。
キノと呼ばれた運転手は、ゴーグルの下で軽く微笑《ほほえ》みながら、
「こんなものを見られるなんて、こんな遠くまで来るなんて、昔……、それこそ子供の頃は思いもしなかった。今更なんだって気もするけれど、ちょっとそのことを考えていた」
「ふーん。ま、誰だって先のことは分かんないもんだよね。ほら、レッスン先は黄泉《よみ》≠チて言うし」
「……一寸先は闇《やみ》=H」
「そうそれ」
そう言ってモトラドは黙った。
「あってるのか、間違ってるのか……」
キノがつぶやいた。
「さて、入ろうか。エルメス」
キノがそう言って、エルメスと呼ばれたモトラドが答える。
「そうしよう」
キノはギアを入れた。城門へと、ゆっくりと走っていった。
「世界が、終わるんですか?」
「世界が終わるんです。あさっての日の出と、同時に」
キノが聞いて、城門の女性入国審査官は答えた。
そして続ける。
「それでもよろしければ、ご希望の三日間の入国を認めます。世界の終わりを我が国で迎えることになってしまいますが……」
キノは、女性審査官の真剣な表情を見ていた。
厚い城門の、ちょうど中間点に部屋があって、二十代後半ほどの、物静かそうな女性審査官が一人で座っていた。
「世界が終わるって、どうやって終わるのさ?」
エルメスが、後ろから聞いた。
「それは分かりません」
「はい?」
「でも、この世界の全《すべ》ては終わってしまい、もちろん私達の人生も終わります。それはもう、どうしようもないことなんです。確実です。絶対です。不可避《ふかひ》です」
審査官は、静かに答えた。
「えっと……。すると、なぜそのことが分かるのですか?」
キノが聞いた。女性審査官は、とてもいい質問ですと言って頷《うなず》いた。
そして、
「予言だからです」
きっぱりと言った。
城門をくぐり抜けると、夕日に照らされる町が一望できた。
向こう側の城壁がかすんで見えて、巨大な円は、中央に向けてなだらかに窪《くぼ》んでいる。大通りが放射線状に延びて、その間が互い違いに農地と住宅地になっていた。バランスよく残された緑の中に、丸太を組んだ、煉瓦《れんが》の煙突が目立つ家々が整って並ぶ。中央には大きな建物がいくつかと、金色に光る湖が見えた。
「中もすてきだな」
キノが言った。エルメスが同意する。
「うん、ログハウスがなかなか。地形を生かした配置もよくできてる。――でも、あさってには終わる、と。予言だから」
「予言、ねえ……」
キノがつぶやいた。
女性審査官は、何がどう予言で誰がいつ言ったのかは説明しなかった。全てを達観したような顔で、これは絶対に外れない予言ですから絶対に世界は滅びます、それは仕方がないことですと力強く繰り返した。
そして、突然泣き出してしまった。その後は何を訊《たず》ねてもだめで、キノはあきらめて開いた門をくぐった。
「どうする? キノ」
「とりあえず、泊まるところを探そうか。誰かに聞こう」
キノが言って、エルメスにまたがった。エンジンをかけずに足で軽く蹴《け》ると、斜面を下り出す。そのまま、近くの通りへとエルメスを向けた。
左右に店が並ぶ太い道だったが、開いている店も人通りもない。走っている車は、一台もない。
「なんか、喪中《もちゅう》みたいな国だねえ」
エルメスが言った。
木箱の上に座ってぼんやりと空を見ている老人を見つけ、ホテルの場所を聞いた。老人は何も言わず、少し離れたところに見える少し大きめの建物を指さした。
ホテルに着いて、閉まっている玄関を叩《たた》く。しばらく経《た》って、中年のオーナーが驚いた顔をして出てきた。
キノの話を聞いて、
「はあ、今さっき来た旅人さんねえ……。確かにウチはホテルだけれど……」
そして、いつまでこの国にいるつもりか聞いた。キノが答える。
「あさって……? ああ、旅はこの国で終わりってことになってしまうね。残念だけれど」
オーナーは、入国審査官と同じことを言った。
キノがそれでもかまわないと伝えると、オーナーは広く豪華《ごうか》な部屋に案内してくれた。閉まっていた雨戸を開けて、机の上の埃《ほこり》をはたく。キノが宿代を聞いて、
「そんなのいらないよ。世界が終わるのに、お金なんてもらってもね。ごゆっくり」
オーナーはそう言って去った。
キノがエルメスから荷物を下ろした。自分はジャケットを脱《ぬ》いで、大きなベッドに横になる。
「あさってで世界が終わりねえ……。予言≠チてなんだろうね?」
エルメスが聞いた時には、キノはもう眠《ねむ》っていた。
次の朝。
キノは夜明けと同時に起きた。
体を軽く動かして、キノが『カノン』と呼ぶリヴォルバーと、『森の人』と呼ぶ自動式の整備をした。何度も抜き撃ちの練習をして、シャワーを浴びた。
太陽が城壁から昇るのを見ながら、キノは携帯《けいたい》食料で朝食を取った。
エルメスを叩《たた》き起こし、キノは観光へ出かけた。町中をゆっくりと走る。
大通りでは、やる気がなさそうな人々が、店の前のイスにぼうっと座っていた。キノ達を見て、興味なく目をそらす。
「なんだろうね」
エルメスがつぶやいた。
「みなさん元気がない……。例外もいるけれど」
キノが道の真ん中で急にエルメスを止めた。すぐにサイドスタンドを出しておりる。
エルメスが、
「ん? どうしたの――うわぁ!」
それに気づいた。
道路の脇《わき》から、鉄パイプを持った若い男がエルメスに向けて突っ走ってきた。目が血走っていた。回りの人間が驚いているのが見えた。
上段に振りかぶった男の前に、キノが立つ。男はキノめがけて、鉄パイプを振りおろした。
キノが身をひねって、低く蹴りをくり出す。男の足を引っかけた。男はそのまま前に倒れて、道路で体を擦《す》った。
倒れた男の手を踏みつけて、キノは鉄パイプを奪った。後ろから、男の背中を強く押さえつけた。
男が顔を横に向け、キノに怒鳴《どな》る。
「ちくしょう! 殺せよ! ちくしょう!」
「なんなんだろうねー」
エルメスがつぶやいた。
「ちくしょう……。ちくしょう……」
若い男は、すすり泣いていた。キノが、遠巻きに見ていた中の一人、中年の男に話しかけられる。
「旅人さん、すまなかった。私達がなんとかするから、もう馬鹿《ばか》なことはさせないから、その若者を放してやってくれないかな?」
「…………」
キノは、申し訳なさそうな顔をしている人達を見る。そして、若い男の背中から鉄パイプをどけた。中年男の指示で、まだ泣いている若い男が連れていかれた。
「すまなかった。最近|自棄《やけ》になって暴れる若いのが多くて……。旅人さんが腕の立つ人で助かったよ。本当にすまなかった」
中年男が詫《わ》びを言って、キノが聞く。
「ひょっとして、世界が終わるから、ですか?」
男が頷《うなず》いた。
「そのとおりだよ。若者達には、まだまだ人生これからっていうのにという気持ちが強くて、納得ができないんだろうな……。仕方がないよ。私だって、諦《あきら》めているとはいえ、いまだに怖い」
「でさ、その予言って、なんなの?」
エルメスが聞いて、男は少し驚いた。
「なんだ知らなかったのかい?」
「ええ。もしよかったら教えてください」
キノが言って、男はキノ達を近くの店に案内した。
店は食堂で、丸太で作られたテーブルとイスが並んでいる。何をするでもない人達がかなりいて、キノ達を見た。明かりもつけずに薄暗いなか、天井《てんじょう》の扇風機だけが静かに回っていた。カウンターでは、酒の瓶《びん》が置いてあって、皆勝手についで飲んでいた。
男がキノ達を紹介《しょうかい》して、キノはイスに座った。エルメスはその脇《わき》に、センタースタンドで立った。
「旅人さんは、予言について詳《くわ》しくは知らないそうだ」
男が言った。周りの人間が、それはそれはと驚く。彼らは少し楽しそうに、
「それならば、きちんと説明しなくてはなあ」「訳も分からずに世界が終わってしまうのはしのびない」「同感だ。せっかくこの国で世界の終わりを迎えられることだし」「我が国の生んだ素晴《すば》らしい研究家のことも伝えるべきだわ」「私も混ぜろ」
イスを持って集まってきた。
案内した男が、
「では僭越《せんえつ》ながら私が」
と言って、キノに向いた。その後、周りの人に、違っているところがあれば指摘してくれと告げた。
「まず、偉大なる予言書と、それの解読に成功した、我が国が誇る研究家のことを知ってほしいと思う」
男が言った。周りの人達が頷《うなず》く。
「予言書、ですか?」
「どんな本?」
キノとエルメスが聞いた。
「残念なことに、誰がいつ書いたのかは不明だ。大昔にどこかの国で、とても珍しい言葉で出版された本だということしか分かっていない。書いてあることは支離《しり》|滅裂《めつれつ》で、それまでは精神をひどく害した人が書いた日記じゃないのかって思われていた。でも……、実はこの本は、世界の行く末を恐ろしいほど正確に言い当てた予言書だったんだ。そして解読に成功してそれを見抜いたのが、我が国の偉大なる予言研究家、南地区の司祭《しさい》様だ」
男が答えて、
「どうして、予言だと分かったんですか?」
キノが聞く。
「司祭様は四十二年前、その本を興味半分で詳しく調べて、恐ろしいことに気がついた。そこにある文章には、そのページ数や行数に当てはまった年月の出来事が、比喩《ひゆ》表現や文字の組み替え暗号を使って書かれていたんだ。司祭様は冷たい恐怖を感じながら、他《ほか》のいろいろなページも解読していった。そして……」
男はそこで、一度大きく深呼吸をした。
「そして、同じような予言を、幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも見つけてしまった……」
男が、今自分が見つけたかのように深刻な口調で言った。周りの人々が、息をのむ。
キノがざっと見渡して、
「具体的には、どんなふうに?」
聞いた。
答えは、男だけではなく、周りにいる人々から次々に返ってきた。
「百九十八年前に、この国はひどい飢饉《ききん》に襲われたんだが、その様子が書かれていた……」
「百二十二年前の王様の、当時は王様がいたんだけれど、急病で死んだことがズバリ書いてあったんだよ。鼻が落ちる病気だってこともね!」
「八十七年前に栗《くり》が大豊作になって、余りすぎて困るくらいだったことがあったのよ! それも予言してあったのよ! 恐ろしい……」
「百四十三年前に、皇太后《こうたいごう》が落馬して足を骨折してしまったことも言い当てられていたんだ」
「五十四年前に無血革命と王政廃止があったんだけれどね、その日が晴れていて昼間から雨が降ったってことまでもね、きっちり描写してあったんだって。王がその後庭師として一生を終えたことも!」
「四十四年前の秋に、大雨で大|洪水《こうずい》があって、湖の水が半年間引かなかったこともだよ! 文字数が異常水位の高さを示していたんだ!」
「二十五年前の北地区の大火災も。あったことだけじゃなくて、燃え落ちなかった家の位置が、通りの番号で書いてあったのよ。そこに住んでいた人が八十九歳のおばあさんだってこともね! それ聞いたとき、あまりの正確さにぞっとしたわ!」
「二十三年前の冬に、十二人の放浪民《ほうろうみん》がこの国に流れ着いたんだ。そのことが見事に予言されていた。そして、その内の粗野《そや》すぎて受け入れられなかった一人以外が永住したことも、移住者のうち一人の名前がテ≠ゥら始まることも、ズバリ言い当てられていた……。当時はとんでもないニュースになったんだよ」
「十九年前に青いシャツを着た薬剤師が、毒薬を調合してたくさんの人を殺してしまった事件が言い当てられていた。シャツの色まで……」
「十年前の初夏の雹《ひょう》で、農家が大打撃を受けた時のこともさ。よく覚えているよ……」
「それだけじゃない! 私達が木の樹液を煮詰めてシロップを作っていることまで――」
ひとしきり人々の発言が終わったのを見計らって、
「ええっと……。それらは、その司祭《しさい》さんが予言を見つけて、こういうことが起こるって言ってから起こったんですか?」
キノが聞いた。
男は、当たり前そうに首を振った。
「いいや。起こった後に、司祭《しさい》様が予言されていたことをすぐに見つけてくださったんだ」
「はい? それじゃ、いくらでもこじつけ――」
エルメスの発言を、キノはエンジンを蹴飛《けと》ばして遮《さえぎ》る。
「なるほど、ここまでは分かりました。そして明日《あした》の予言とは?」
キノの質問に、男と、周りの人達の表情が再び曇った。
「明日の予言とは……、その予言書の、最後の文章のことだよ。司祭様によれば、こんな意味で書かれているそうだ……。十九回目の、満月が空を渡った夜を過ぎて、日の出と共に世界が全《すべ》て終わる。緑の皿を割る以外、私達にできることはないだろう=B緑の皿っていうのは、私達が誕生祝いに緑の皿を送る習慣があることを指している。つまり、もう誰も生まれない。嘆く以外何もできない≠ニいうことなんだ」
「じゃさ、その本のあとがき≠ノはな――」
エルメスの発言を、キノはフレームを蹴飛ばして遮る。
男が言う。
「この予言が明らかになったのは、三十年ほど前だった。司祭様はあまりの恐ろしさに発表を躊躇《ためら》ったらしいが、やはり欺《あざむ》き通すことはできないと判断されて、発表された……」
「驚かれたでしょう?」
「ああ。みんな一ヶ月は嘆き通したよ。でも、予言の正確さはもはや疑う余地もないし、諦《あきら》めるしかなかった。その日まで精一杯生きることが重要だ≠ニは司祭様のお言葉だ。――でも、私達には、まだ先のことさ≠ネんて見くびっていたところもあったな……」
男が言った。後ろで酒を飲んでいた中年の女性が言う。
「それが、もう明日だなんてね……。月日の流れるのは早いもんさ。結局、私らにできることと言えば、みんなで集まってだらだらと酒を飲むことだけ」
「それを言うなよ……」
別の誰かが、悲しそうな声を出した。
「実際に、それまで精一杯生きろ≠チて言われても、何をしておくべきかなんて、簡単には見つからないものさ……。それが悲しいよ」
「なるほど……」
キノが神妙な顔で頷《うなず》いた。
「旅人さんは、これからどうする? 後一日だけだけれど」
男が聞いて、
「買い物でも」
キノが答えた。
「明日世界が終わるってのに、手に入れてどうするんだい?」
キノが行った雑貨店で、店の奥から出てきた主人が聞いた。
「ひょっとしたらさあ、予言が外れるなんてことになるかもよ?」
エルメスが言って、主人は納得した様子で頷《うなず》いた。
「ああ、分かるよ……」
「そう?」
「旅人さん達はまだ終末を信じられないんだね。無理もないよね。昔の私もそうだった。でも、あれだけたくさんのことがぴたりと言い当てられていたら、信じない≠ニか信じられない≠ネんてもうやっていられないんだ。諦《あきら》めて、それまでの時間を有効に使うしかないね」
「そうですね。ではボクは、買い物をすることにします。普段あまりできないので」
「まあ、それもいいね。ウチにあるものは何でも十割引だよ。持っていきな。全部持っていってもいいよ。かえってさっぱりする」
「いいえ。持てるだけで結構です。そこのナイフいいですね。――ください」
「旅人さん。一緒に祈《いの》りを棒《ささ》げるかい? ……少しは気分が落ち着くかもしれないよ」
夕食をごちそうになった食堂で、キノは住人にそう誘われた。
キノは丁寧《ていねい》に断って、ホテルに戻ってきた。オーナーは、一家で祈っていた。
翌朝。つまりキノが入国してから三日目の朝。
キノは夜明けと共に起きた。
薄い霧が、国中を包んでいた。しかしどことなく静けさがなく、明かりが漏《も》れている家や、通りを走る人影も見えた。
キノがパースエイダーの訓練を始めると、エルメスが自分から起きて、キノが驚いた。
「キノ。もうすぐ世界が終わるよ。楽しみで起きちゃった」
キノが、布で『カノン』を拭《ふ》きながら答える。
「そうだな……。いろいろなことがあったな」
「終末を見学に行かない?」
エルメスが聞いた。
「うん。これが終わってからね」
キノが答えて、『カノン』をホルスターに戻した。今度は左手で、『森の人』の抜き撃ちの練習を始めた。
「もうすぐ世界が終わるっていうのに、なんでトレーニングなんかするかなあ?」
エルメスが言った。
汗を流した後、キノはエルメスと町を走る。
霧は晴れていた。涼しい空気の中、空は明るく蒼《あお》く澄んでいた。
中央の湖の畔《ほとり》に、広場がある。そこにたくさんの人達が集まって、東に向かって必死に祈《いの》っていた。一心に祈っていた。
「そろそろ日が昇るね」
エルメスが言って、近くで惚《ほう》けていた住人がぶるっ、と震える。
祈りの声が大きくなると同時に、大きな鐘の音が響き始めた。狂ったように何度も何度も打ち鳴らされる。高い建物に、太陽の光が直《じか》に当たり始めた。
すぐに、眩《まぶ》しい太陽が城壁から姿を現した。国中を照らす。
人々の嘆き声と悲鳴が、大きく沸《わ》き上がった。
キノが言う。
「いい朝だね」
「うん。今日《きょう》も走ろう」
エルメスが楽しそうに同意した。
太陽が完全に姿を見せて、さらに三つ分ほど昇った時だった。住人達が、祈りや嘆《なげ》きを止めてざわめきだした。ざわめきは罵《ののし》り声に変わる。
「なんにも起きないじゃないか?」「もう世界は終わったのか?」「全員生きてるぞ」「太陽がすっかり昇っているのに……」「どうなってるんだー」「どうして?」「なんもないのか?」「ちくしょうまさか……」「ひょっとして……」「――予言が、外れた?」
やがて誰かが、司祭《しさい》様だ! と大声で叫んだ。
黒い車が一台止まっていた。お付きの者に囲まれて、厳《おごそ》かな衣装《いしょう》を着た男が広場の中央に向かってやってくる。人の良さそうな顔をした、初老の男性だった。
住人達が、静かな目つきでその行動を追った。キノとエルメスは、人混みの後ろから眺めていた。
「あ、あー。お、お集まりのみなさん」
どこか引きつった表情の司祭が、拡声器で緊張気味の声を出す。一瞬で静まった住人が、一斉《いっせい》に厳しい視線をそそぐ。
「ほ、本日はとてもいいお天気で――」
「そんなことはいいです! 司祭様! 予言はどうなったんですか!」
誰かが、かじりつくように叫んだ。
「そ、それなんですが――」
別の誰かが、
「あんなに言っておいて、まさか、まさか、嘘《うそ》だったなんて言うんじゃないでしょうね!」
「い、いいえ。私は決して嘘などは……。確かに、最後の文章はそう書いてありました……」
「じゃあどういうことですか! みんなあなたの言うことを信じて、今日《きょう》世界が終わってしまうと思って――」
叫んでいた若い女性は、そこで泣き出してしまった。
「で、ですからそれは……」
狼狽《ろうばい》している司祭《しさい》に、はっきりした意見を求める厳しい声がいくつも飛んだ。
そして突然、
「ああっ、そうだ! そうです! そうでしたよ、みなさん! 世界は終わったんです! 世界は終わったんですよ!」
司祭が拡声器であらん限りの大声を出した。
そこにいる、キノをのぞく全員が、はっとして目を見開いて、司祭様を見た。
司祭は、拡声器をお付きに持たせ、堂々と両手を広げ、朝の風に衣装《いしょう》をたなびかせて、
「聞いてください。みなさん!」
全《すべ》ての人達へ、熱く語りかけ始めた。
「私も! みなさんも! 世界が終わると信じていた。書いてあったとおり、日の出と共に世界が終わると! そう! そう! そうなのですよ! そしてそれは正しかった! なぜなら! なぜなら! 私達がそう信じていた世界! つまり予言で世界は終わると思っていた世界≠ェ、確かに終わったからです! みなさんの心の中で、世界が一つ終わった! そしてまた、新たに始まるのです! そう! ――予言は正しかった!」
静寂の数秒間が過ぎた。
そして、湖水が荒れ狂ってしまうような罵声《ばせい》の嵐が起こった。
キノとエルメスは、しばらく騒乱《そうらん》を見学していた。
怒《いか》った住人達が司祭に暴力を振るおうとして、お付きの者や信心深い人達に必死になって止められて、どうにか流血事態だけは回避《かいひ》された。
司祭をさんざん口|汚《ぎたな》く罵《ののし》った人達も、安堵《あんど》の表情は浮かべていた。抱き合って泣いている人達がいた。
キノが昨日《きのう》買い物をした店の主人が、キノを見つけて話しかけてきた。
キノが、世界が終わらなくてよかったですねと言うと、主人はばつの悪い顔で笑って、
「ところで、昨日売った物のことなんだけれど……」
「はい。大切に使わせてもらいます。この国での、とてもいいおみやげにもなります」
笑顔で返したキノに、主人は乾《かわ》いた笑い顔を残して去った。
肩を落とした司祭が、お付きの者に連れられて、こっそりと広場から逃げ去るところだった。車に乗り込もうとして、急に司祭が顔を上げた。
その顔は、恐怖でゆがんでいた。
司祭《しさい》が、突然はじけるように動いた。近くの人が持っていた拡声器を奪い取ると、
「み、みなさん! 聞いてください!」
あらん限りの大声を出した。全員が声の主を見て、呆《あき》れた表情を作った。
「みみみみ、みなさん! きょ、今日《きょう》ではなかったんです! たった今気がつきました! たった今分かりました! 重要なことです! 聞いてください! 聞いてください!」
お付きの者が止めさせようとするのも開かず、司祭は怒鳴《どな》り続ける。
「せ、世界は終わるのです! 私は一つ間違いをしていました! 十九回目の、満月が空を渡った夜=I 私は間違いなく昨夜のことだと思っていました! それが違ったのです! 実は違ったのです! みなさん覚えていませんか! 四回前の満月に、皆既《かいき》月蝕があったではありませんか! 月が消えたではありませんか! ですからあれは違うのです! 満月が渡った夜≠数えに入れてはいけなかったのです! ごほっ! げっ、ごほっ!」
司祭はむせた。必死の形相《ぎょうそう》で続ける。
「ですからっ! 今日《きょう》世界が終わらなかったのも全《すべ》て納得がいきます! 本当は、次の満月の後の日の出なのです! その時に私達の世界は本当に終わってしまうのです! みなさんはそれを覚悟《かくご》しなければならないのです!」
司祭は言い切った。近くにいた男が拡声器をひょいと奪い取って、
「ああ、そうですかい!」
そう司祭に言った。そして、
「みんなぁ! もう予言なんて信用しなくていいぞ! 未来のことなんて、本当は誰にも分からないんだ!」
割れんばかりの拍手が起こった。
呆然《ぼうぜん》としている司祭はお付きの者に引きずられて、車の中に消えた。車も走り去って消えた。
「さて、ボク達もそろそろ行こうか」
キノが言った。
西の城門から、キノ達は出国した。
もう一度、外から珍しい城壁を眺めて、そして道を走り出した。
坂が多く、キノ達はなだらかな山を登った。一度振り返ると、国が小さく見えた。
「三人」
走りながら、エルメスがいきなり言った。キノが無言で頷《うなず》いた。
道の真ん中で、キノはエルメスを止めた。エンジンをかけたまま、センタースタンドで立たせる。左右には森。
「どなたですか? 隠《かく》れられる必要はないですよ」
帽子《ぼうし》もゴーグルもそのままで、キノが大声で言った。
森の中で人が動く気配がして、
「いやあ、これは失礼しました!」
声が戻ってきた。羊歯《しだ》を踏み分けて、男が二人出てきた。旅人のようにも、木こりのようにも見える服装をした、三十ほどの男達。一人が笑顔で話しかけてくる。
「確かに、隠《かく》れていると怪《あや》しいと思われかねませんね。旅人さんですか?」
「ええ。もう一人の方は、おなかの具合でも?」
キノが聞いて、
「……いえ、もうすぐ出てきますよ」
二人は答えた。
森の中から、似たような男が出てきた。三人がそろって、私達は山脈を越えたところにある国の住人ですと自己|紹介《しょうかい》した。
エルメスが聞く。
「こんなところで何やってるの? 何か珍しいものでも採れるとか?」
三人は顔を見合わせた。そして、
「旅人さんにモトラドさん、秘密守れますか? とっても面白《おもしろ》い話があるんですけれど……」
「守れないからいいです。それでは」
キノがエルメスにまたがろうとして、三人は慌《あわ》てて引き留めた。
「まあ、そう言わずに。面白い話なんです。旅の土産《みやげ》にどうですか? ……実は、私達は山を七つ越えたところにある国の偵察《ていさつ》隊員なんです。森の中でこっそりと、木こりのふりをして旅人さんが出てきた国を監視《かんし》しているんです」
「なんで?」
エンジンがかかったままのエルメスが聞いた。三人はにやりと笑って、
「今度の満月が沈んだ朝の日の出の瞬間に、私達はあの国に侵攻して皆殺しにするからです」
「へ?」
「どういうことですか?」
キノが冷静な口調で聞いて、
「言ったとおりですよ。今度の満月の夜が明けて、日の出と同時に攻め入って、あの国の住人を一人残らず殺します。破壊も徹底的に行います。国があった証拠すら残さないようにしなくてはいけません」
「なんでなんでなんで?」
エルメスが驚いて聞く。そしてぽつりとつけ足した。
「――予言?」
三人が、同時にざょっとする。互いに顔を見合わせて、
「そう! そのとおり! 予言だからなんです! ……って、でもよく知ってますね?」
「どういうことですか?」
キノが同じ質問をした。
三人は饒舌《じょうぜつ》になって答える。
「我が国に、とある予言があるんです。大昔の予言者が、予言書に残した。そして二十二年前、我が国に移民した一人の男性が、この翻訳《ほんやく》解読に成功しました。その予言は、恐ろしいほど当たります。今までも、洪水《こうずい》や疫病《えきびょう》、事故や不幸をぴたりと言い当ててきましたよ。何かが起こったらすぐに、その研究家が、『ほらここにやっぱりあった。ページ数や行数が年月に呼応しているんだよ』って見つけてくれるんです」
「…………」「…………」
「そしてですね、その予言書の最後の最後に、世界の終末が書かれていたんです! 私達は恐れましたが、それを回避《かいひ》する唯一《ゆいいつ》|無二《むに》の手段も、そこに書かれていたんです!」
「なんて?」
エルメスが聞いた。
「予言書の最後にはこうあります。満月が輝く夜が十九回過ぎて、日の出と共に世界の全《すべ》てが終わってしまう。緑の皿を割ることが、たった一つ私達に残された道だ≠アれらはつまり、今年の十九回目の満月、つまり次の満月です。その夜が明けて日の出と同時に、世界が終わる。しかし――この後半で、それを防ぐために緑の皿を割ること≠ェ唯一残った手段だと書かれています」
「それで、あの国ですか……」
三人は頷《うなず》いた。
「そう。旅人さんも見たでしょう? あの国は、妙ちくりんな城壁といい、なめらかに窪《くぼ》んだ国土といい、緑の皿そのものです。そのことに気がついた研究家の慧眼《けいがん》はさすがです。彼は本当に偉大です」
「でもさし 全滅はやりすぎじゃない?」
「とんでもないですよモトラドさん。あれを滅ぼすことが、世界を救う為に必要なんです。これはもはや自分達だけの問題ではありませんよ。たとえばあなた達も、世界が終わったら消えてしまう。いったいどこまでが皿を割ること≠ネのかはっきり分からない以上、徹底的にやらないといけないと研究家も言いましたし、私もそう思います。この世界を救うために、知ってしまった私達はするべきことをしなければならないんです。――十九回目の満月の日。天文学者の判断で、月蝕によって一回数えから抜きましたけれど、それはもう、次の満月ですよ。もうすぐですよ。今頃国では、最後の遠征準備に大わらわでしょう」
「なるほど……」
キノがつぶやいた。そして、
「お話どうも。ボク達はこれで失礼します」
その瞬間、三人がすっと、囲むようにキノの前に立った。
「まさか旅人さん、ここまで知ってしまって生きて帰れるとお思いです? もし旅人さんがあの国に取って返して、このことを教えられると困るんです。世界を救えなくなるんです。冥土《めいど》への旅の土産《みやげ》に、予言のこと、そして私達のこと、忘れないでくださいね」
三人は腰の後ろからナタを取り出して、三方から一斉《いっせい》に打ち下ろした。
キノが、支えを失った板のように、後ろへ体を倒した。三本のナタは空を切る。仰向《あおむ》けに道に寝るキノの右手には、『カノン』。左手に『森の人』。
ぱぱぱ、と乾《かわ》いた音が途切れなく続いて、それより重くて大きい破裂音が、すぐに三回、リズミカルに鳴り響いた。
喉元《のどもと》に小さな穴と大きな穴を開けた三人は、へなへなと崩《くず》れた。
キノが起きあがった。
「……ふと思ったんだけど」
キノが、『カノン』に液体火薬と弾を詰めながら言う。
「こんなに、危機に対応できるなんて、こんなにパースエイダーを使うのが上手《うま》くなるなんて、昔……、それこそ師匠《ししょう》と初めて会った頃は思いもしなかった。今更なんだ、って気もするけれど」
エンジンが止まっているエルメスが、楽しそうに、
「誰だって先のことは分かんないもんだよね。一寸先は闇《やみ》≠チて言うし」
「だからあってるのかな……? 間違ってるのかな……?」
キノが首を傾《かし》げて、同時に弾詰めが終わる。『カノン』をホルスターに戻した。
キノは、忘れ物がないか首を回した。三つのナタと、三つの死体しかなかった。
「さて、行くか。――先のことは分からないけれど」
キノがエルメスにまたがりながら言って、
「りょーかい」
エルメスが答えた。
キノはエンジンをかけた。
第八話 「用心棒」
―Stand-bys―
ある国に、大きく立派な城門があった。
内門の脇《わき》には、単に燃料や水を補給するための設備が建つ。そこに一台の、巨大な連結トレーラーが止まっていた。
先頭の牽引車《けんいんしゃ》には、前方に出っ張ったエンジンがあり、生き物を跳《は》ね飛ばして殺すためのガードがある。後部の上は運転席、さらに数人が寝泊まりできるキャビンになっていた。その走る家のような牽引車に、作業員が燃料や水、食料を補給している。
牽引車の後ろには、細長い箱形の荷台車が四つ連結されていた。鉄道の貨物車のようで、半分鉄板に覆《おお》われた車輪が片方に八つ。窓は一切ない。
一台目の荷台車の屋根中央に、人が歩くための通路と手すりがある。そこに、一人の女性が立っていた。
長い黒髪を持つ、妙齢《みょうれい》の女性だった。動きやすそうな、しかし上品な服を着て、右腰に大口径のリヴォルバーを吊《つ》っていた。ライフルタイプのパースエイダー(注・銃器のこと)も、背負《せお》っていた。
後ろの荷台単に、一人の男がいた。背が少し低い、しかしハンサムな顔立ちの若い男。左腰に細身の自動式ハンド・パースエイダーを、手にはドラム式弾倉がついた大口径ライフルを持っていた。
「師匠《ししょう》」
男が女性に話しかけた。下を見るように促《うなが》す。
「オーナーのお嬢《じょう》ちゃんですよ」
牽引車の脇に、赤い服を着た小さな女の子が立っていた。睨《にら》むような目つきで、女性を見上げていた。
女性は牽引車の屋根まで歩き、そこに一つだけある梯子《はしご》をおりた。その様子をずっと見ていた女の子に近づいて、しゃがんで目線を同じ高さにした。
「今日《こんにち》は」
女性が言うと
「あなた達が、今度の用心棒《ようじんぼう》?」
女の子が聞いた。女性が、ええそうですよと言ってにっこりと頷《うなず》く。そして女の子は、
「用心棒なんかいらない!」
吐《は》き捨てるように言った。女性が、どうしてかしら? と優しく聞いた。
女の子が、まっすぐ前を見ながら、早口で言う。
「だって人の命とか運命とかを決めるのは神様だから。もし私や私達が死ぬとしたら、それを決めたのは神様だけだから。だから、あなた達はそれをじゃまする人達だから――」
「あなたやみんなが死んでしまってもいいの?」
「運命なら」
女の子がきっぱりと言って、そして女性は、
「それでも、あなた達を命がけで守るのが、私達の仕事ですよ」
優しい顔を変えずに答えた。
トレーラーは、荒野を走っている。周りに見えるのは、眩《まぶ》しい太陽と蒼《あお》い空と、赤く枯《か》れた土と岩山と、申し訳程度の草。
走りながら運転手を交代し、トレーラーは早朝から一度も止まることなく走り続ける。全長より遥《はる》かに長い、砂埃《すなぼこり》の帯を立て続ける。
荷台の屋根では、用心棒《ようじんぼう》の二人がパースエイダーを背負《せお》ったまま、周りを見回していた。ゴーグルをつけて、手すりに命綱のフックを引っかけている。
昼を少し過ぎた頃、
「師匠《ししょう》! 十時の方角!」
用心棒の男が、女性に向かって叫んだ。男はすぐに、ライフルを構えた。
トレーラーの左斜め前から、砂埃をあげながら二十台ほどの車が向かってくる。改造された小型バギーで、乗っている男達は全員、当たり前のようにパースエイダーを持つ。
トレーラーが速度を増した。煙突から黒煙を上げて、前をふさぐ車を跳《は》ね飛ばす勢いで疾走《しっそう》する。
襲撃者達がトレーラーを取り囲み、散発的に撃ってきた。弾が荷台車に当たって跳ねる。用心棒の男が、手すりに巻いたクッションの上にライフルを置いて、構えて撃った。
轟音《ごうおん》と共に空薬莢《からやっきょう》が跳ね飛ぶ。男が一発撃つと、一台の車から水蒸気が噴《ふ》き上がり、やがて止まる。続けざまに三台仕留めた。他《ほか》の車も、男の正確な狙撃から逃げるように距離を取った。
その時、トレーラーが前方にあるくぼみを避《さ》けるために大きく速度を落とした。蛇《へび》のような巨体をくねらせる。その隙《すき》に車が一台、牽引車《けんいんしゃ》に近づいた。ぶつかって火花が散るのと同時に、男が一人牽引車に飛びついて梯子《はしご》を掴《つか》んだ。
「私がなんとかします」
用心棒の女性が、命綱のフックを滑《すべ》らせながら、牽引車に向かう。
男が梯子を登る。牽引車にある窓が開いて、誰かが身を出した。男は一瞬身構えたが、それが小さな女の子だと分かると、
「来い!」
胸ぐらを乱暴に掴《つか》んで、窓から片手で引きずり出した。苦しい顔をする女の子を、無理やり屋根まで引き上げた。
女の子の脇《わき》を右手で抱えて、その頭に左手のリヴォルバーを突きつけた男に、
「よしなさい」
荷台車の上から、用心棒《ようじんぼう》の女性がリヴォルバーを向けながら言った。
「ちょうどいい。女! 運転席に行ってトレーラーを止めさせろ!」
男が叫んだ。トレーラーは再び速度を増し、風切り音が激しくなる。
「早くしろ! さもなきゃ、このガキ、頭吹っ飛ばすぞ!」
男が、女の子の頭をバレルで小突く。それが合図だったかのように、無表情だった女の子の顔色が変わっていった。目を見開き、青ざめた。
「やだー! 死にたくない! いやだ! いやだ! 死にたくない! たすけて!」
女の子が、大きな声で叫んだ。首を大きく振ってもがき、涙の粒が飛ぶ。
それを見ていた女性が、冷静な口調で、
「しかたありませんね」
リヴォルバーをホルスターにしまった。命綱のフックを外して、牽引車《けんいんしゃ》の屋根に乗り移る。そして、二人のすぐ脇《わき》を通り過ぎようとした。
「たすけて……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにした女の子が、なんとかそれだけ言った。女性はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「早く行け!」
男が、女の子の頭から、リヴォルバーの狙《ねら》いを女性に移す。
次の瞬間、女性の手がその回転弾倉を握っていた。ハンマーを上げていないと、引き金を引いても撃てなくなる。男の表情が変わるのと同時に、その右肩に小さな穴がいくつも空《あ》いた。穴からは、たれるように真《ま》っ赤《か》な液体が流れ出す。
「?」
男が、唖然《あぜん》とした顔で右肩を見る。女性が、力の入らない腕から簡単に女の子を奪い返した。二つ後ろの荷台車では、用心棒の男が、四角いバレルの自動式ハンド・パースエイダーを構えていた。もう一発撃つ。
弾は狙い通り、男の膝《ひざ》に当たる。その足が力無く曲がり、体がよろめく。そして男は、牽引車の屋根から滑《すべ》り落ちていった。地面にたたきつけられるまでの二秒弱の間、自分の身に起こったことが絶対に信じられない顔をしていた。
落ちた男は、手足を不思議な角度に曲げながら何回転もして、土埃《つちぼこり》の中に消えた。
一斉《いっせい》に逃げていく襲撃者達の車を横目で見ながら、用心棒の女性は、泣きじゃくる女の子を腕に抱いた。
次の日の朝。
トレーラーは無事《ぶじ》、大きな国の城門をくぐった。門のそばにある広場に、止まった。
すぐに、その国の作業員が、荷物を下ろし始める。荷台車のドアを開けて、鎖《くさり》を小さな車で引っ張ると、首と腕で数珠《じゅず》|繋《つな》ぎにされた人間が出てきた。
人間はみな、吐瀉物《としゃぶつ》と排泄物《はいせつぶつ》にまみれていた。別の作業員が、ホースで頭から水をかけていった。引っ張られても歩けない人間がいると、そこだけ手際よく鎖を外し、脇《わき》にある大きな穴の縁《ふち》まで引きずっていった。頭の後ろをパースエイダーで射抜いて、穴の中に転がり落とした。
自分達の荷物を受け取った用心棒《ようじんぼう》の女性と男が、トレーラーのオーナー夫婦と、その一人娘に話し掛けられた。
オーナーは満面の笑みで二人に礼を言って、握手を求めた。
赤い服を着た小さな女の子が、恥《は》ずかしそうにしていて、母親がそっとその背中を押す。
女の子は、しゃがんだ用心棒の女性に、
「……助けてくれて、ありがとう」
小さな声で、しかしはっきりと言った。
用心棒の女性は、最初に合った時と同じように優しい顔で、
「どういたしまして。でも、私のせいじゃないわ。きっとあなたの神様が、あなたは、まだ死んじゃダメなんだって思っていたのよ」
女の子が、用心棒の女性に抱きついた。女性は、小さな背中に軽く手を回して、優しく叩《たた》いた。発砲音が聞こえた。
用心棒の女性が、帰り道の護衛はとオーナーに訊《たず》ねた。オーナーは、空荷だし奴《やつ》らも知らない迂回《うかい》ルートだから問題ないと言って、どうせなら乗っていくかと二人に聞いた。
女性がルートを聞いて、そして、すぐに戻りたいからやはり遠慮すると言った。
「ルートは分かった。一応礼空言っておく」
用心棒だった女性と男を前にして、ある男が言った。
彼も、そのまわりで二人を睨《にら》んでいる男達も、全《すべ》てがトレーラーを襲った襲撃者達だった。そして目の前の男はそのリーダーで、この場所は荒野の岩山に隠された彼らのアジトだった。
「では、私達は報酬《ほうしゅう》をもらって帰ります」
女性が言うと、リーダーが待てと言って、
「仲間を一人殺してくれたな。なぜだ?」
女性を睨《にら》みつけながら聞いた。
「いただいたお仕事は、あのトレーラーの帰りのルートを調べることでしたから。必要な処置でした。それに、予定違いの行動をとられたので」
女性は当然そうに言って、周りの男達が奥歯をかみしめる音が響いた。
リーダーが言う。
「あれは勇敢《ゆうかん》な男で、皆から慕《した》われていた。俺《おれ》の弟で、奴《やつ》らに殺されずに残った唯一の肉親だった」
「そうですか」
女性がさらりと言って、まわりの男達の武器を持つ手に力が入る。全員が女性を睨《にら》む中、元|用心棒《ようじんぼう》の男が、羽織《はお》っていた上着を脱《ぬ》いだ。
「いやあ、ここは暑いですね」
そう言った男の体中に、四角い、粘土《ねんど》のようなプラスチック爆薬が幾本も巻かれていた。急に、その場が静かになった。
「もういい……。これを持って帰れ。後は俺達のすべきことだ」
差し出された報酬《ほうしゅう》をよく調べてから、女性は背中を向けた。
荒野を走る小さくてぼろぼろの車に、女性と男が乗っていた。窓から、収まりきれなかったライフルのバレルが突き出ている。
女性が運転していて、男は体に巻いた粘土のような携帯《けいたい》食料を、ちぎりながら不味《まず》そうに食べていた。女性に勧めて、首を振られた。
男が話し掛ける。
「師匠《ししょう》」
「なんです?」
男は数秒おいてから、
「あのトレーラー、連中に襲われますよね?」
「それはそうでしょう」
女性が至極《しごく》当然そうに答える。
「いいんですか?」
男が聞いた。
女性は答えなかった。
第九話 「塩の平原の話」
―Family Business―
白い世界を、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。
真っ白で眩《まぶし》しく、どこまでも水平な空間。
そこは、塩によって作られた大地だった。
乾燥して硬《かた》くしまった塩が、氷上のように広がっている。東西南北、全《すべ》ての方角に白い地平線しかなかった。
天頂《てんちょう》に太陽があって、雲一つない空を蒼《あお》く、そして平原を白く照らしていた。
モトラドは、何一つ進路を妨《さまた》げるもののない塩の上を、西へと疾走《しっそう》していた。後輪左右に箱が取りつけられていて、さらに後部キャリアには、鞄《かばん》や寝袋などの旅荷物と、燃料や水の缶《かん》などが満載されていた。
運転手は茶色のコートを着て、余った長い裾《すそ》を両腿《りょうもも》に巻きつけてとめていた。鍔《つば》と、耳を覆《おお》うたれのついた帽子《ぼうし》をかぶっている。黄色いレンズの一眼式ゴーグルをはめて、日焼けを防ぐために、顔をバンダナで覆っていた。
ライフルタイプのパースエイダー(注・銃器のこと)を、体の前に背負《せお》い革でさげていた。木製ストックがついた細身のパースエイダーで、二脚と狙撃用のスコープがついていた。
「キノ。後ろ。七時の方向」
ふいにモトラドが、エンジン音に負けないように大声で言った。
キノと呼ばれた運転手が、少しアクセルをゆるめ、そして左後ろへ首を回した。
「見えないよ。どれくらい先?」
「だいぶだね。それに普通の馬だ。必死になってこっちを追いかけているみたいだけれど、絶対に追いつけないね」
モトラドが言うと
「それなら、このまま逃げてしまおう」
「りょーかい」
キノはアクセルを大きく開けた。モトラドは加速して、比較するものがないため速度感がまったくない塩の平原を走る。
「やっぱり来たね。エルメス」
運転手が言って、エルメスと呼ばれたモトラドが、
「やっぱり来たねえ。まさに情報どおりだね」
楽しそうに言った。
キノは、日が暮れるまでエルメスを走らせた。
遠くが見えなくなるほど暗くなってから、何もない白い平原で野営をした。
硬《かた》い塩を深く掘り下げ、そしてエルメスをそこから遠ざけ、穴の底で固形燃料の火を燃やした。
パースエイダーを枕元に置き、キノは全天に広がる星々の下で寝た。
次の日。
キノとエルメスは、昨日《きのう》と同じように、西の地平線に向けて走っていた。
景色はまったく変わらない。空は澄んで蒼《あお》く、風も吹いていない。休憩《きゅうけい》でエンジンを切る
と、耳が痛くなるほど何も聞こえない。
ちょうど昼頃。
走りながら、エルメスがまた突然言った。
「キノ。また来たよ。八時の方向。今度は車だ」
キノが首を向ける。遠くに小さな点があった。それが、ゆっくりと大きくなるのが見えた。
「追いつかれる?」
キノが聞いて、
「追いつかれるね。向こうの方が速い」
エルメスが冷静に言った。キノがまた見た。
「どうするの?」
エルメスが聞いた。キノはアクセルを固定してハンドルから手をはなすと、パースエイダーの安全装置を解除した。
「やっぱりね」
「仕方がない。なんで旅人を襲うのかは知らないけど。聞いてみたいけどね」
キノがハンドルに手を戻し、振り向いて追っ手を見た。
だいぶ大きくなっていた車から、白い煙がまばらに流れ出るのが見えた。
「キノ。撃ってきたよ!」
「分かってる。でもまだ遠い。こんな距離で当たるようなら、」
「ようなら?」
エルメスが聞いて、キノは少し微笑《ほほえ》んで言った。
「今日《きょう》は相当ついてる」
「冗談《じょうだん》じゃないよ。早く撃ち返してよ」
エルメスが大声で訴えて、キノは、まだもう少し、とだけ言った。
距離はだんだんと縮まり、車からは発砲の煙が断続的に上がる。キノはエルメスを走らせながら、後ろをちらちらと見て様子を窺《うかが》っていた。そして突然、
「よし。この辺で」
アクセルをゆるめて、左に急ターンした。追いかけてくる車に、まっすぐ左側を曝《さら》すかたちになった。
「キノ、撃たれやすくしてどーするのさ?」
エルメスが聞いた。キノはそれに答えずに、アクセルを固定、ハンドルから手を離す。すぐさまパースエイダーを構え、一瞬で狙《ねら》いを定めて撃った。
車の右前タイヤがはじけた。遠心力で四散《しさん》した。
キノはすぐにハンドルに手を戻し、大きく右にターンした。
つんのめった車は、ホイールと車体右前で塩の大地を長々と削《けず》った。運転手がハンドルを切り損《そこ》ねて、右側に横転、乗っていた数人を派手に振るい落として、
「止まった」
エルメスが言った。
「じゃあ、逃げるよ」
キノはアクセルを開けた。
次の日。
キノとエルメスは、まだ塩の平原を走っていた。
北と南には、かすかに山々の頂《いただき》が、沖合《おきあい》の島のように見え始めていた。キノ達の進む西には、あいかわらず何もなかった。
「目の前。なんかあるよ」
昼頃、走りながらエルメスが言った。
キノがアクセルを少しゆるめ、なんだい? と聞いた。エルメスは少し悩んで、
「なんだろ? 木かな。並んで立ってる。人はいないみたいだ」
キノが訝《いぶか》しがって、走りながら立ち上がる。やがて、表面を走る黒い線のようなものが、薄く見え始めた。警戒《けいかい》しながら近づくと、それが突き立てられた杭《くい》の列であることが分かった。
キノがその前でエルメスを止めた。
木の杭は子供の背丈《せたけ》ほどで、車が通れないほどの間隔《かんかく》で打ち据《す》えられていた。白い大地に、延々と線を描いていた。線は南東からやって来て、ほぼ西へと延びていた。
「なんだろね?」
エルメスが聞いて、キノは首を傾《かし》げた。
「さあ。まったく分からない。誰かの道しるべ……、ならこんなにびっしり打つ必要はないしなあ」
「何か言ってなかった?」
「いいや。ボクが聞いたのは、襲ってくる誰かがいるってことだけ」
「ふーん」
「まあ、いいや。とりあえず西だから、杭《くい》に沿って行くか」
キノはエルメスを発進させた。エルメスが、つられて方角間違えないでよ、と言った。
それほど走らないうちに、杭を打っている男がいた。
エルメスがすぐに気がついて言って、キノはパースエイダーの安全装置を解除した。
キノと線が進む先、小さな車が一台止まっていて、荷台には杭が何本も積んであった。サングラスをして、顔中日焼けで真っ黒な初老の男がいた。男は、ハンマーで線の先頭の杭を叩《たた》いていた。一心不乱に叩いていた。
男がエンジン音に気がついて振り向く。車の影からモトラドが飛び出してきて、そして男の前で後輪を滑《すべ》らせながら止まった。
「今日《こんにち》は」
「どうもー」
驚いている男に、キノとエルメスが大声で挨拶《あいさつ》をした。
男がハンマーを振り上げた。そして、キノがパースエイダーを両手に持つのを見て、歯ぎしりをしながらおろした。男が叫ぶ。
「貴様! そのパースエイダーでわしを殺しても、わしのものはわしのものだ! 奪えはせんぞ!」
男が叫び終えたのを確認して、
「一体何の話をされているのか分かりません。ボク達が貴方《あなた》の何かを奪うと思われているのですか?」
顔のバンダナをおろして、キノが聞いた。
男がまた大声で、なんだキサマしらを切るつもりかと怒鳴《どな》った。
キノは丁寧《ていねい》な口調で、男に危害を加えるつもりはなく、何かを奪うつもりもない。だから落ち着いてもらうように話した。
「すると、お前らはただの旅人で、この塩湖を道代わりに使っているだけだと?」
男はいくらか落ち着いて、エルメスの脇《わき》に立つキノに聞いた。
「ええ。ここに留まるつもりも、何かを持っていくつもりもありません」
パースエイダーを背中に掛けたキノが言った。コートの前は開けてあった。
男は面白《おもしろ》くなさそうに、
「まあいい。そういうことにしておいてやろう。だがな、わしの所有地に勝手に入ったことに、詫《わ》びの一つもあってしかるべきだろう」
「所有地?」
エルメスが聞いた。
「そうだ。この線の南側だ」
男が、杭《くい》の線を指さした。キノ達は南側にいた。
「……ええっと、所有≠ニ言われると?」
キノが聞いて、男はそんなことも知らんのかと呆《あき》れ顔を作った。
「わしのもの≠ニいうことだ」
「何が?」
エルメスが聞いた。男は首を振って、
「運転手がマスケならモトラドもマヌケだな。この土地に決まってるだろう」
「でもさ、塩だけだよ?」
エルメスがすかさず返す。
「その塩を掘り出して売るんだよ! そんなことも知らんで旅などしてるのか?」
キノが至極《しごく》|丁寧《ていねい》な口調で、男に話す。
「それは知りませんでした。もしよろしければ、知識の貧しいボク達に色々と教えてください」
男はふんっ、と一度鼻をならして、
「仕方がない。そういう素直な態度なら、特別にいきさつを敢えてやろう。わしはな、元々旅人だったんじゃ。正確に言うと、わしら≠ヘな。旅仲間が十数人いた」
「旅をしてたの?」
エルメスが聞いた。
「ああそうだ。祖国に愛想《あいそ》を尽かしてな。車数台と、馬数頭とで旅をしていた」
「それから?」
「それから、行く場所もなく、受け入れてくれる国もなく、流離《さまよ》う日々が続いた。もう疲れ果てた。仲違《なかたが》いも起こったし、お金もなくなってきた。盗賊《とうぞく》にでも身をやつそうかとも思った。しかしそんな時に、幸運の女神はとんでもない贈り物をわしらにくれた」
「何?」
エルメスが聞いて、
「ここまで話を聞いてまだ分からんのか? この塩だ! わしらはこの地にたどり着いたんだ」
男が呆れた様子で言った。
「それからは?」
「それからは、わしらはここから塩を切り出して、南と北にある国々に売りに行くことを始めた。それは助かったぞ。何せ元はただで、運ぶだけで収入になるんだからな。国で燃料や食料を手にして、後はここと往復する。移住なんかする必要もない。移住なんかしなくても稼《かせ》げる。それ以来ずっとこの生活を続けている」
「なるほど、そこまでは分かった。でもって、他《ほか》のみんなは?」
エルメスが聞いて、男は鼻を鳴らした。
「奴《やつ》らか? 奴らとは、別れたよ」
「なぜです?」
「ふっ。奴らのがめつさに、わしが愛想《あいそ》を尽かしたからだ」
「がめつい?」
「ああ。しばらくは、わしらは一緒に仕事をしていた。しかしそのうちに、あさましい奴らは幾つかの群に別れて、この塩を独り占めしようとたくらみを始めた。全員をまとめるフリをして、自分達の下働きにしようとしたんだな。わしらはもめにもめて、結局それぞれがバラバラに生活することを選んだ。お互いがお互いの場所を決めて、それぞれが勝手に好きな国に行って卸《おろ》す。ふんっ。がめつくいやらしい奴らと一緒にいると、わしまでがそうなってしまうからな。別れて正解だよ」
「それで、塩湖のあちこちで、かつての旅仲間さんが塩を採っている訳ですね。近づくと、排除しようとする」
キノが言った。エルメスは誰にも聞こえない声で、
「旅人襲撃の謎《なぞ》は解けた」
つぶやいた。
男が言う。
「ああ。奴らに会ったのか?」
「ええ。いきなり撃たれましたよ」
「かっ。脳足らずのあいつらのやりそうなことだ。おおかたわしの手下か何かだと思ったんだろう。奴らの愚かしさは筋金入りだな。そう言えば生まれた時からそうだった」
男が言った。キノが聞く。
「生まれた時から、ご存じなんですか?」
「ああ。あいつらはわしの息子《むすこ》だ。五人いる。それとその嫁と子供。旅をしていたのは、全員わしの一家だ」
「…………」「…………」
キノとエルメスが黙った。
そして男は、
「本当に、がめつい奴らだ。性根《しょうね》が腐《くさ》っているな。わしのように杭《くい》を打って明確に境界線を作ることもせず、ただただ無計画に塩をあさっている。そして近づくものは容赦《ようしゃ》|見境《みさかい》なしだ。まったく、人間ああはなりたくないものだな」
吐《は》き捨てるように言った。
「大変参考になりました。ありがとうございます。ところで、許可をいただきたいのですが」
キノが言って、
「なんのことだ?」
男が聞いた。
「知らずとはいえ、ボク達は貴方《あなた》の所有地に勝手に入り込んでしまいました。大変申し訳なく思っています。そこで、非礼のお許しと、これから貴方の所有地を真西に向けて走行する特別な許可を、ここで貴方に申請します。寛大《かんだい》な判断をお願いします」
「……ふむ。初めからそう言えば、わしも怒鳴《どな》らずにすんだものを。よろしい。特別に許可を出そう」
男が、ふんぞり返って言った。
「ありがとうございます。それではボク達はこれで失礼します」
「それじゃあね。お仕事がんばってね」
「ふん。言われなくてもな」
キノはバンダナをはめてエルメスにまたがる。エンジンをかけて、すぐに走り出した。
モトラドが走り去って、男は杭《くい》を打ち始めた。
第十話 「病気の国」
―For You―
城壁の中には、外と同じ景色があった。
茶色の岩山が続く、草の一本もない荒れた大地だった。そこに高い城壁だけが、地から生《は》えたようにいきなり存在して、どこまでも伸びている。その両側には、何一つ変わらない風景が広がっていた。
透《す》き通るように晴れた空の下に、道が一本あった。岩をどけ土を固めただけの簡単な道で、大地の谷間部分を縫《ぬ》うように延びていた。
その道を、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。両輪から茶色い土煙を立てながら、モトラドは朝の太陽を背にしていた。
モトラドは後部座席のかわりにキャリアをつけて、その上に鞄《かばん》と寝袋などが縛《しば》りつけられている。後輪左右には、さらに黒い箱を取りつけていた。
運転手は耳を覆《おお》うたれと鍔《つば》がついた帽子《ぼうし》をかぶり、銀色のフレームがところどころ剥《は》げたゴーグルをしている。顔には防寒用にバンダナを巻いていた。茶色のコートを着て、余った長い裾《すそ》を両脇《りょうもも》に巻いてとめている。
「寒々しいね、キノ。空気も、景色も」
走りながら、モトラドが言った。
「まあね。何もないね」
キノと呼ばれた運転手が答えた。
「とてもここが国の中には見えないんだけれど、本当に入国したの?」
「したよ。審査は無人だったけれど」
「ここは、こういう国なのかな? 住人は文明を捨てて、洞窟《どうくつ》でひそひそ住んでるとか? それはそれで、面白《おもしろ》そうだね」
「それがね、エルメス。この国はとても発展していて、建造物の中でほぼ一生暮らすことができる、きれいで清潔な国だって聞いてるんだ……」
キノが言って、
「それ、絶対にガセ」
エルメスと呼ばれたモトラドがすっぱりと返した。
「そんなことはない。だって、この国が清潔すぎて嫌《いや》だから出てきたって人がそう言ったんだよ。……ただ、あの無人の城壁のことは聞かなかったな。荒野のど真ん中に、城壁と一緒に高いビルやドームが見えてくるはずだって言われた」
「どこに?」
「さあ……」
キノがカーブでスピードを落として、直線で加速する。一つの岩山の脇《わき》を通り、その影から別の岩山が現れる。
「ひょっとして、道を間違えた?」
エルメスが退屈そうに言って、
「いや、そんなことはない」
キノが否定した。
このやり取りを数回繰り返した後は、お互い黙った。ただ淡々と、変わらない景色の中を走り続けた。
目指す城壁が突然見えたのは、昼頃。キノとエルメスが、ひときわ大きな岩山の影から出た時だった。
「ほらね」
「なるほど。ガセではありませんでした」
荒野のど真ん中に、城壁と一緒に高いビルやドームが見えた。
古い石の城壁は、外側から何かでコーティングされて、光を反射している。その上に突き出る三つの巨大ビルと、それを囲む小さなビル群。それぞれが空中の渡り廊下でつながっていて、その下にはガラス製のドームが国全体を覆《おお》っていた。巨大な要塞《ようさい》のような国だった。
城門で、軍服を着た将校や兵士が数人、やってくるキノ達を待っていた。やってきたキノ達に、笑顔で挨拶《あいさつ》をした。
キノが三日間この城壁の中に滞在したい旨《むね》を告げて、大歓迎する声が返ってきた。その滞在費用を、全《すべ》て国が持つことを告げる。しかし条件として、キノとエルメス、そして持ち物を徹底的に洗浄することを求めてきた。具体的にはとキノが聞いて、
「キノさんにはシャワーを浴びていただきます。その間に、服類は持っている分を含めて洗濯を。エルメスさんは洗車されて、持ち物は大は鞄《かばん》から小は縫《ぬ》い針《ばり》一本まで洗浄《せんじょう》、消毒させていただきます。もちろん、お預かりしたものは最初にリストを作成して、それを照らし合わせながら全てお返しいたします」
キノはしばらく考え、やがて了承《りょうしょう》した。エルメスは少し嫌《いや》そうな声を出したが、仕方がないと言ってあきらめた。
しばらく時間が過ぎた。
キノ達は、いろいろな行程を経た後、城壁をくぐり終えようとしていた。
キノは黒いジャケット姿だった。腰を太いベルトで締めて、右腿《みぎもも》と腰の後ろにはハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器。この場合は拳銃)のホルスターがある。ジャケットもホルスターもその中のパースエイダーも、チリ一つついていない。
土埃《つちぼこり》にまみれていたコートは、新品同様の姿で荷台の鞄《かばん》の上にくくられていた。
エルメスも水と消毒薬で洗われただけではなく、全《すべ》ての部分が磨《みが》かれ、メッキパーツは鏡のように光っていた。
キノが、大きな鏡の前でつぶやく。
「今のボク達は……、かつてないほど、これ以上ないほど清潔だな」
「なんかさあ、出国するの止めようか? 毎日土埃かぶるのが嫌《いや》になっちゃった」
エルメスが言って、最後の扉が開いていった。
「ここがシティです。我が国の人口のほとんどがここに住んでいます」
入国後、扉の脇《わき》で待っていた案内人がキノ達に説明をする。
シティと呼ばれる城壁内部は、整って清潔な空間が広がっていた。舗装《ほそう》され区画整備された道路が走り、それに沿ってビルが並ぶ。そのおよそ四十階の高さには、国の全てを覆《おお》うガラスのドームがあった。
「あれで、有害な光線をほぼ遮断《しゃだん》します。ビルの窓ガラスもそうです。国内の光と空気は全て制御《せいぎょ》されて、場所や時間によって決められた温度と湿度に保たれています。寒くないでしょう」
「確かに」
キノがジャケットの襟元《えりもと》を開いた。
「そうそう、エルメスさんにはこれを取りつけさせていただきます」
案内人が、辞典ほどの大きさで箱状の何かを二つ見せた。キノがなんですかと聞いて、
「排気ガスの浄化《じょうか》装置でしょ。それと消音器。絶対にそうくると思ってたんだ」
エルメスが答えて、キノが感心する。案内人は、エルメスのマフラーに手際よく取りつけた。
「これで、道をエンジンで走られても結構です。建物内でも、車が走っているところは走行できますよ。ビルの中ではエレベーターがありますので、それに乗ってください。それと、こちらが地図になります。これだけは、シティを出る際に返却をお願いします」
「分かりました」
キノが渡された小型の機械を見た。画面に現在位置と、使い方の説明が浮かび上がった。
案内人が続ける。
「外側の城壁をごらんになったと思います。あれはおよそ十年前、領土拡大によって新しく建てられたものです。そして、今までの国はシティ、新しい領土はカントリーと呼ばれるようになりました」
「領土って、あの荒れ地に誰か住んでるの?」
エルメスが聞いた。
「ええ、住んでいますよ。ただし、本当にほんの少しです。ところどころに村があって、そこに数十人単位で暮らしています。彼らは、開拓団≠ニ呼ばれています。志願して集団で住み着いて、荒れ地を開墾《かいこん》する仕事をしています」
「この中で、生活できるのにですか?」
キノが聞いた。案内人は少し微笑《ほほえ》んで、
「だからなんです。我が国では、ごらんのとおりの発展で、快適で清潔な暮らしが約束されています。しかしだからこそ、自然の中での暮らし、本物の土の上と太陽の下での生活に憧れる人がたくさんいるんです」
「なるほど」
「開拓団は家族単位になります。たくさんの志願家族の中から、健康や適性の審査を受けて、合格したほんの一握りの人達が、訓練の後に新しい国造りに取りかかれる名誉を与えられるんです。同じく特殊審査に通った軍の特殊部隊が、彼らの警護《けいご》に当たっています。開拓後はもちろん農地として使われて、そこにできるだけ自給自足の村を作っていきます。先の長い話ですけれど、将来はシティとは違った方向で発展させる計画です。ひ弱になってしまった我が国の人間が、厳しい自然の中での生活に耐え得るか、その実験も兼ねています」
「ふむふむ」
「ですから開拓団は、我が国ではエリート中のエリートですね。正直言うと私も憧れていますよ、田舎《いなか》暮らしに、新しい国造り。でもまあ、私みたいに普通の人には、ちょっと無理ですね。野生のトカゲや芋虫《いもむし》を見て、気を失ってしまうでしょう。仕事になりませんよ」
案内人が、ふっと笑った。
「そう。そして世界を旅しているキノさんとエルメスさんは、ご滞在中住人みんなに憧れのまなざしを向けられることでしょう。国のあちらこちらで、お食事とお話に誘われますよ。ぜひ楽しんでいってください。誰の誘いを受けるかの判断は、その人のお顔でも、ごちそうになる食事の種類ででも結構です」
案内人が楽しそうに言って、
「種類と量だね。キノの場合」
エルメスがつけ足した。
門の前で案内人と別れて、キノはエルメスを走らせる。
どこかしこも、汚れも綻《ほころ》びもない町中。
キノ達はホテルに着くまでに十二回、食事に誘われた。とりあえず、全《すべ》てお断りした。
ホテルは高層ビルの一つだった。案内され、ガラス張りのエレベーターに乗る。荒野の景色も見事な、最上階の部屋に通された。
「広すぎる……。何に使うんだ?」
ボーイが去った後キノがつぶやいて、
「ちょうどいい。射撃練習をすればいいよ」
エルメスが言った。
キノが荷物をエルメスからおろし始めてすぐ、部屋の呼び鈴が鳴った。壁にある大きなモニターが、背広を着た中年の紳士《しんし》と、ご婦人を映し出した。
男が言う。
『今日《こんにち》は、旅人さん。私はこのホテルのオーナーです。折り入ってお頼みしたいことがあって妻と参りました。お時間いただけないでしょうか?』
キノがオーナー夫妻《ふさい》を招き入れた。キノはどれにするか少し迷って、手近のイスとテーブルを使う。二人は礼を言って座った。
自己|紹介《しょうかい》をした後、
「明日《あした》のことなのですが、もう既にどなたかと、昼食の約束をされてらっしゃいますか?」
オーナーが聞いた。二人とも、真剣で深刻な表情をしていた。
キノが、質問にいいえと答える。すると二人は、ぜひ私達の誘いを受けてほしい、そのお礼は考えられる限り何でもするからと訴えかけた。
キノが、そこまでする訳を訊《たず》ねて、
「長く患《わずら》っている娘《むすめ》がいます。ぜひ、あの子に旅の話をしてほしいのです」
奥さんが答えた。
次の日の朝。
キノはいつもと同じように、夜明けと共に起きた。
軽く運動して、パースエイダーの訓練をする。右腰のリヴォルバーを、キノは『カノン』と呼び、腰の後ろについている細身の自動式は、『森の人』と呼ぶ。両方の抜き撃ちの訓練と、分解と掃除をした。その後、広すぎる浴室でシャワーを浴びた。
太陽が昇る頃、キノは部屋に朝食を頼んだ。おそらくはオーナー夫妻の注文どおりに、豪華《ごうか》で大量の食事が出た。
食事後、キノが苦渋《くじゅう》の表情で、残り物が片づけられていくのを見送る。
「びんぼーしょー。どうせ昼も食べられるのに」
いつの間にか起きていたエルメスが、後ろから言った。
キノは空荷のエルメスにまたがり、シティを走る。
道や建物の造りに、エルメスは高評価を与えて、
「ふーん。そんなものなのか」
キノが、納得しているのかしていないのか分からない返事をした。
観光中も、あちらこちらで誘いの声がかかった。キノは、先約があるからと断り続けた。
昼近くになって、キノは前日オーナーによって入力されていた場所に着いた。国の中央から少しはずれたところにある、白く大きな建物。周囲は意図的にビルが減らされて、開放的な雰囲気を作り出していた。『国立第一病院』と、案内板が立つ。
中に入ると、オーナー夫妻が出迎えてくれた。再び厚く礼を言われ、キノが帽子《ぼうし》を取る。娘《むすめ》が住んで≠「るという部屋へ、案内された。
部屋には、木製で歴史と趣のある調度品が並んでいた。古い館《やかた》の一室のような雰囲気だった。
柱と屋根、レースのカーテンがついた大きなベッドに、十代前半ほどの少女が一人、腰掛けていた。
肌《はだ》は白かった。この国の人間はほとんどが白い中、それよりひときわ、まるで漂白された紙のように真っ白だった。ベッドに垂れるほど長い金髪と、細身の顔に蒼《あお》い目を持つ。
音と赤のトマト柄のパジャマに、ピンク色の薄手のカーディガンを羽織《はお》っていた。
少女は、両手で広げた手紙を読んでいた。目を細めながら読んでいた。
ドアがノックされて、少女は手紙を丁寧《ていねい》に畳《たた》んで封筒に入れる。枕元の箱を開けた。
しばらくして、
「どうぞ」
少女の声に反応して、ドアが自動的に開く。
「ボクはキノ。こちらは相棒《あいぼう》のエルメス」
キノが自己|紹介《しょうかい》をして、
「わたし、イナーシャといいます。初めまして、キノさん、エルメスさん。母から話は聞いています。わざわざありがとうございます」
少女は立ち上がって、存在しないドレスの裾《すそ》をつまんで軽く膝《ひざ》を折った。
「ご丁寧にどうも」
キノは胸に手を当てて一礼した。キノは白いシャツ姿で、パースエイダーはホルスターごとジャケットにくるんで、エルメスのキャリアに縛《しば》ってあった。
キノはベッドの前に、エルメスをセンタースタンドで立たせた。自分はイスに座る。
「全然気にしなくていいよ。キノは豪華《ごうか》な食事と新しい弾薬と、こっちは高品質のオイルとプラグと燃料をもらう約束だから。持ちつ持たれつ」
エルメスが言って、イナーシャが笑った。
「驚きました。モトラド乗りの旅人さんって聞いていて、もっと……、ワイルドで年上の方かと思っていましたから」
「ワイルドが粗野《そや》っていう意味なら、当たってる」
エルメスが言って、キノが苦笑いをした。
イナーシャが蒼《あお》い目でキノを見て、
「旅の、いろいろなお話をしてもらえますか?」
「ええ。そのために来たんですよ」
キノが言った。
部屋に昼食が運ばれて、キノとイナーシャ、オーナー夫妻《ふさい》が会食する。
キノとエルメスは、旅の話をした。イナーシャだけではなく、両親も興味深そうに聞いた。
昼食後。両親は仕事に戻らなければと言って、残念そうに病室を後にした。
部屋にはキノとエルメス、そして主《あるじ》だけになった。
テーブルを挟《はさ》んでキノとイナーシャが座って、エルメスはその左|脇《わき》。テーブルには、果物が載《の》った皿と、お茶のカップとポットがあった。
「今日《きょう》は本当にありがとうございました。わたしのために時間をとっていただいて。とても楽しかったです。国のみんなも、久しぶりに来た旅人さんのお話を聞きたかったと思うのですが……」
イナーシャが言って、キノが首を振る。
「全然気にしなくていいよ。さっきエルメスが言ったとおりだから」
「でも、他《ほか》の方はもっともてなしてくれたかも……」
イナーシャが恐縮《きょうしゅく》して言う。
「もてなしてくれなかったかも。今頃ボク達は、『ああ、あの誘い受けておけばよかった……』なんて思っていたかも」
「そうそう。それに、二年も病気しているんだし。それくらいのいい目を見てもバチは当たらないでしょ」
キノとエルメスがすぐに言って、少女はゆっくりと微笑《ほほえ》んだ。
「病気のことは、ご存じですか?」
微笑んだまま、イナーシャが聞いた。
キノが答える。
「オーナーさんから聞いた。この国で、昔からある程度の確率で、老若《ろうにゃく》関係なく発病して、予防法も特効薬も発見されてないって。だけどつい最近に、進行を遅らせる薬ができたって。直すことができる薬も研究中で、それほどはかからないだろうって言われているって」
「そうなんです。――やがてそのお薬が完成して、わたしはそれを飲むのでしょう。わたしは家に帰って、学校にもまた行くことになるでしょう」
「うん」「そだね」
「久しぶりに行く学校では、みんながわたしのこと覚えていてくれたり、忘れてしまっていたり。最初のうちはとても混乱するでしょう。でもすぐに、わたしはみんなと一緒に遊べるようになるでしょう。でも、遊んでばかりはいられません。わたしは、カントリーへ行く許可を得るために、一生|懸命《けんめい》勉強と訓練に励むことでしょう――」
「へえ、あそこに行きたいの?」
エルメスが聞いた。イナーシャはにっこりと笑って頷《うなず》いた。
「そのこと、ご両親は知らないんだ」
キノが言って、イナーシャが少し驚く。
「はい。……よくお分かりになりますね」
「さっき、外の話をしていた時、そんな素振りも見せなかったからね。どちらかというと、今にも仕事を放り出して行ってみたそうだったのはご両親の方だった」
「あははは。そうかもしれません。父も母も田舎《いなか》暮らしに憧れていますから。でもホテルがあるからできません。もしわたしが行くなんて言ったら、なんて言うのか想像もつきません」
キノが聞く。
「農業がやりたいの?」
「それもありますが……、それより、わたしには会いたい人がいるんです。会って、お礼を言いたい人が」
「でもって、その人のことも両親は知らない、と」
エルメスが言って、
「はい……」
イナーシャが小声で答えた。
「どんな人? どんな人?」
エルメスがすかさず聞いた。
「あの……、父と母には内緒《ないしょ》にしておいてくださいね。いいえ、他《ほか》の人全員に」
イナーシャが金髪を揺らして、力強く訊ねた。ほんの少しだけ、白い頬《ほお》に赤みがさした。
「分かった。ここだけの話ということで」
「了解《りょうかい》」
キノとエルメスが同意した。イナーシャの顔が、ぱっと明るくなる。
イナーシャはイスを立って、ベッドへ向かった。枕元にある箱を開けて、辞書のような本を持ってきた。それは日記帳だった。丁寧《ていねい》な装丁《そうてい》で、鍵がかかっていた。
鍵を開けて日記を開く。ページのところどころに、手紙がいくつか挟《はさ》んであった。
「わたし、カントリーに文通相手がいるんです。これは全《すべ》て、送ってもらった手紙なんです」
「彼? それとも彼女?」
エルメスが訊ねて、
「彼、です」
イナーシャがはっきりとした口調で答えた。
「名前は、ローグっていいます。わたしと同い年で、今彼は、家族で開拓村に住んで農業に携《たずさ》わっています」
「学校の友達? 開拓団は本当に少ないって聞いたけれど」
キノが聞いて、イナーシャは首を振る。
「知り合ったのは、本当に偶然だったんです。一年前に、彼は開拓団の健康審査で病院に来ていたんです。わたしが展望室でカントリーを見ていたら、彼が飛び込んできて、いきなり外を指さして『見てろよ! 絶対にあそこへ行ってやるぞ!』って大声で叫び出したんです」
「ふむふむ」
「彼は本当は入っちゃだめで、わたしが驚いて見ていたら、看護婦さん達に掴《つか》み出されそうになって……。わたしはとっさに言ったんです。『その人はわたしの友達です』って」
「やるじゃん」
エルメスが誉《ほ》めて、イナーシャが照れる。
「それから、彼はお礼を言ってくれて、二人で長い間|景色《けしき》を見ました。彼はカントリーでの生活が人生の夢だって、とても一生|懸命《けんめい》語ってくれました。だから、彼は審査に合格してそこに住むこと、わたしは病気を治すことをがんばろうって、その時に約束したんです」
「それから、文通を始めたんだ」
「はい。お互い迷惑《めいわく》にならないように、一ヶ月に一通って決めて。そうしたら二回目の手紙で彼と家族が審査に合格して、新しい村造りを始めるって書いてあったんです! とても嬉《うれ》しかったです。夢は、努力すれば本当にかなうんだなあって……」
蒼《あお》い目を輝かせて、少女が言う。
「それから、彼は家族とカントリーに移住しました。しばらくしてまた手紙が来て、『思っていたよりすごいところだけれどがんばってる』って書いてありました。それからも、一ヶ月に一度≠続けています。三ヶ月前の手紙に、村で初めて子供が産まれたって。二ヶ月前は、食事中虫が飛び込んできても全然平気だったって。ついこの間の手紙では、温室にトマトを五十三|苗《なえ》植えて、毎日世話をしているのがとても楽しいって書いてくれました。――彼は夢をかなえてがんばっている。だから、わたしだってがんばって病気と闘わなくっちゃいけないんだって思います。お薬を飲むと、しばらく気分が悪くなったりするんですが、そんな時は手紙を読むんです。勇気づけられるんです。人間って、一人じゃ弱いけれど、お互いに励まし合えば何でもできるって思います!」
イナーシャが楽しそうに語り終えて、エルメスが言う。
「そのとおりだね。キノも早く、いい人見つけなよ」
「余計なお世話だ」
キノが言った。
イナーシャと、つられてキノがひとしきり笑った後、
「わたし、元気になったら、資格と許可を取ってカントリーに行ってみたいと思っています。彼の住む村に行ってみて、土で作られたトマトを食べてみたいです。わたしの夢です」
「早く、治る薬ができるといいね」
「そだね」
キノとエルメスが言って、
「はい。きっとだいじょうぶです。未来は、がんばればがんばるだけ、いい方へいい方へ向かうと思います。きっとだいじょうぶです。きっと、だいじょうぶです」
白い肌《はだ》をした少女は言った。
「キノさん、エルメスさん。一つ、お頼みしたいことがあります」
イナーシャが言ったのは、冬の太陽が傾き始め、ガラスドームの透過率《とうかりつ》が自動的に調整され始めた時だった。
「キノさん達にお会いできると知った時から、お願いしようと思っていました。わがままかもしれませんが、どうしてもこれだけはと思っています」
イナーシャが唇《くちびる》をかむ。
「何? これだけおごってもらったら、満腹で気のいいボクはなんでもするよ。それに、とてもステキなモトラドがボクを助けてくれるからさ」
エルメスが言った。
キノがエルメスのタンクをとりあえずぶっ叩《たた》いて、イナーシャに内容を訊《たず》ねる。
「キノさん達は、出国のために西へ向かいます。実は、ローグの住む村は、その道から南に入ったところにあるそうです……」
「なるほど」
キノが言った。イナーシャはキノを真《ま》っ直《す》ぐ見つめながら、
「今まで、わたしとローグは、規則で手紙のやり取りしかできませんでした。本当は、出発前にプレゼントを贈りたかったんです」
イナーシャが箱の中から、手のひらに載《の》る小さな箱を取り出した。開けて、中に入っていたものを取り出す。
それは小さなブローチで、白い材質の何かを削《けず》って作られていて、ほんの少し歪《いびつ》だが鳥の形をしていた。とさかと翼の部分に、短く金色の毛が張りつけられている。
「自分で作ったんだ」
キノが聞いて、
「はい……。小さく作ったんですが、どうしても封筒に入れることはできなかったんです。お頼みとは、これを彼に、ローグに届けてほしいんです。農業がうまくいって、けがも病気もしないお守りです。彼の村の郵便局に、いつも手紙を送っているところに届けてほしいんです。これが、わがままだってことは分かっています。でも、もうこんな機会は二度とないとも思います。どうか、お願いします……」
キノがしばらく、そのブローチを眺める。
「断る理由は、何もないな」
「だね。そこにあるベッドを届けて≠セったらムリだったけど」
キノとエルメスが言った。
イナーシャが半泣きになってキノとエルメスにお礼を言っているところに看護婦が入ってきて、キノ達を見て相当に驚いた。
イナーシャに薬を与えた後、キノ達が旅人で明日《あした》出発だと聞いて、
「ぜひぜひ家の昼食に招《まね》かれて!」
しがみつくように言った。
キノは首を振って、
「残念ですが、明日はカントリーを見て回るつもりです。トマトを作っている村を見学に」
次の日、つまりキノが入国してから三日目の朝。
キノは夜明けと共に起きた。
窓の外には、雲一つない薄紫《うすむらさき》の空と、草一本ない荒野が広がる。
部屋にあるエレベーターには、弾薬や携帯《けいたい》食料など、頼んだ物|全《すべ》てが揃《そろ》っていた。衣類は洗濯され、いくつかは新しい。エルメスにはプラグと燃料。オイルは昨晩取り替えられていた。
キノがいつもどおりの運動と、パースエイダーの訓練をする。その後シャワーを名残《なごり》惜しそうに浴びて、名残惜しそうに朝食を取った。
日が昇る頃、ホテルのチェックアウトをする。オーナー夫妻がやってきて、キノとエルメスにこれ以上ないほど、イナーシャがとても喜んでいたと、礼を言った。
ホテルを後にして、ほとんど人通りのない町を走る。
シティの西側の城門について、地図を返却し、外に出る準備をする。キノは、パースエイダーの装弾を確認してコートを着た。排ガスの浄化《じょうか》装置も、長くは保たないとのことで返した。
再びシティに入るには手間がかかるからと、残した物がないか確認する。キノはジャケットのポケットに、小さな箱があることを確かめた。
城壁を抜けて、外へと出る。冷たい風が吹き、土埃《つちぼこり》が舞っていた。
キノはそこにいた兵士に、道を訊《たず》ねてカントリーの地図を見せてもらった。キノとエルメスはそれをしばらくじっくりと見て、それから出発した。
荒野を、一台のモトラドが走っていた。
「あれで分かった?」
エルメスが聞いて、キノが答える。
「分かった。地図には載《の》っていなかったけれど、特徴ある地形だから。あと六十走ったら、左側に二こぶの山があるはず。それを越えた盆地に、第四十二開拓村があるはずだ。そこまでの道も書いてあった」
「なんで、村が地図になかったんだろう?」
「新しいからかな? 行ってみれば分かる」
キノが言って、エルメスがだね、と短く返す。そして、
「彼女からのプレゼント持っていって、ローグはどんな顔するかな?」
「さあね……。それも行ってみれば、分かる」
「だね」
キノがアクセルをさらに空ける。朝日を背に、キノ達は走った。
途中、道の脇《わき》に巨大な緑色の円があった。開拓村の一つで、円はくるりと一周する巨大スプリンクラーが作り出した畑だった。
太陽が高く昇り、影がだいぶ短くなった頃、
「ここだ」
キノがエルメスを止めた。左手にある二こぶの山へ、回り込むようにして登る道がある。
「あんまいい道じゃないね。跳ね石でフレームが傷つきそうだ」
「何を今さら」
派手《はで》に後輪を滑《すべ》らせ、キノはエルメスを左へ向けた。
一気に山を登り、
「キノも、優しいもんだね」
「ごちそうになったお礼さ。ただじゃやらないよ」
「ホントに?」
しばらく平坦《へいたん》な頂上を走った。
道が下り坂になって、視界が開ける。
「あれだ」
「間違いないね」
広い盆地の隅に、建物がいくつか並んで建っていた。そのまわりに、開墾《かいこん》中の畑が碁盤《ごばん》状に広がる。ビニールハウスが光を反射していた。
「妙だ……」
キノがつぶやく。
キノは村の建物の前にいて、その扉を見ていた。
エルメスが道から聞く。
「やっぱり誰もいない?」
「いない。でも、鍵はかかってる。チェーンも」
遠くからでも畑に人がいないことは分かって、近づいても村に入っても、誰も出てこなかった。通りに寒い風が吹いていた。
「建物には中も荒らされた様子はないし、作物もきれいに刈《かり》り取った後みたいだし……」
キノが言って、
「ひょっとして、村人全員で引っ越ししちゃった? この場所は、やっぱりダメで」
「もしそうだとすると、困るな……。新しい居住地を探して渡さないと――」
「キノ。車」
エルメスがキノを呼んだ。キノが道に戻って、盆地の反対側からやってくるヘッドライトを見た。
車はキノ達の方へ、真《ま》っ直《す》ぐ近づいてきた。土と同じ色に塗られた四輪|駆動《くどう》の小型車で、一人だけ乗っていた。
「とてもちょうどいい。聞こう」
キノは車に手を振る。車は止まり、中から男が出てきた。
男は二十代の前半ほど。キノ達を映すサングラスをして、シティ城門外側にいた軍人達と同じ、緑色の冬季用制服を着ていた。腰の装備ベルトには、左側にパースエイダーのホルスターが、後ろには短刀が、右から逆手で抜くように平行につけられている。
「あなた、こんなところで何しているんです? あ、……ひょっとして、一昨日《おととい》来られたという旅人さんですか?」
男が聞いた。
「そうです。ボクはキノ。こちらはエルメス」
「どうもー」
「今日《こんにち》は。我が国へようこそ。自分は、第三特殊警護隊のコール中尉《ちゅうい》です」
青年将校は、踵《かかと》を合わせて敬礼した。
「しかし、なぜこんなところに? もし新西門で出国されるのでしたら、道を間違えていますよ。この道で行けないことはないですが、二日かかります。本道絡までご案内しましょうか?」
「この村には、誰も住んでないんですか?」
キノが聞いて、
「ここは、まだ使用されていないんです。試験的に作られた、開拓団一時受け入れのための訓練施設なんですよ」
コール中尉《ちゅうい》が答えた。
「それ、ちょっとおかしいなあ。ここに一年前から住んでいる人に、キノは届け物があって来たんだよ」
エルメスが言った。コール中尉の口元が、少しだけ引き締まった。彼が訊《たず》ねる。
「お宛名《あてな》は?」
キノが答える。
「第四十二開拓村付属郵便局気付=A名前は――」
「ローグという少年、ですね」
コール中尉が言った。彼はサングラスを外して、イナーシャと同じ蒼《あお》い瞳を見せた。
村から少し離れたところ、そして辺りで一番高いところに建物があった。コンクリートで作られた、素っ気のない二階建てで、屋根には大きなアンテナがある。
建物の前に静かに四輪|駆動《くどう》車が止まって、すぐにやかましい爆音をたててキノ達が来る。
コール中尉が玄関の鍵を開けて、キノ達を招《まね》き入れた。
薄暗い中には、事務所のように小さな机とイス、空《から》の書類棚が並ぶ。コール中尉はキノにイスを勧め、自分は制帽《せいぼう》を壁に掛け、堅《かた》く閉まっていた雨戸を開けて回った。光が入り、椅麗《きれい》に掃除されていた室内を照らした。
キノはエルメスを、自分のイスの脇《わき》にサイドスタンドで立たせた。その上に、コートと帽子《ぼうし》をかけた。
コール中尉が、キノの向かいに座った。机に両肘《りょうひじ》をついて、両手を額《ひたい》の前で合わせて、目を閉じて長く静かに息を吐《は》いた。
顔を上げて、
「郵便局≠ヨ、ようこそ」
コール中尉は力なく言った。
キノはジャケットのポケットから、手のひらに載《の》る小さな箱を取り出した。開けて、中に入っていたものを見せる。
それは小さなブローチで、白い材質の何かを削《けず》って作られていて、ほんの少し歪《いびつ》だが鳥の形をしていた。とさかと翼の部分に、短く金色の毛が張りつけられている。
「お守りだそうです。イナーシャから、ローグへ」
キノが箱をテーブルに置いた。コール中尉はそれに触れず、ただ見ていた。
「あなたが郵便局員、ですか?」
キノが聞いた。
「ええ。カントリーでは、警護《けいご》の軍が郵便業務をまかないます。自分は、かつてここで働いていました。いいえ……、今も働いています」
「じゃあ、キノの仕事もこれで終わりだね。ちゃんと届けたんだから。帰ろっか?」
エルメスが露骨《ろこつ》にイヤミを言って、コール中尉《ちゅうい》は目を閉じて首を振った。
「ああ……、なんてことだ……」
小さくつぶやいた。
「これは、ローグ少年の手に渡りますか?」
キノが聞いた。コール中尉は、首を振った。はっきりとした口調で言う。
「その可能性は、ゼロです。まったくありません」
「どして?」
エルメスが聞いて、
「なぜなら、彼が既《すで》に死んでいるからです。半年前に。もっと正確に言うのなら、彼は既に殺されてしまったからです。半年と四日前に」
コール中尉が答えた。
「病気のこと、その薬が開発中のこと……。それらについては、知っていますね?」
「ええ」「うん」
「開拓団のことも聞いていますね?」
「ええ」「うん」
「でも、特別開拓団≠ノついては、知らないでしょう」
「知りません」「何それ?」
「簡単に言ってしまえば……、殺されるために集められた人達≠ナす」
「…………。続けてください」
「ええ、続けます……。自分の知っていることを全《すべ》てお話ししましょう。シティで蔓延《まんえん》――と言うほどではなくても、明らかに多くの人を苦しめている病気――。我が国は、国家課題としてその病気の克服《こくふく》に取り組んできました。我が国を苦しめる最も凶悪《きょうあく》な敵として、長年闘ってきたんです。できるだけ早く、治療法を、特効薬を開発したい。何年も苦しんでから、やがて死んでいく人をゼロにするためにです」
「はい」「ふむふむ」
「そして、三年前……、動物実験の限界が見えた頃でした。医師の多くが、人体実験の必要性を訴え始めました。生きた人間を使って実験すれば、確実に特効薬の開発を早めることができると、密かに主張しました。そして、その意見は受け入れられることになりました」
「…………」「それで?」
「開拓団に憧れる人達には、それこそいろいろな人がいます。実際にその審査に受かるかどうかはともかく、国家の中でも貧困層に位置する、そして他《ほか》に縁者《えんじゃ》がない家族。そういった志願者ばかりを選んで、一つの開拓団が作られました」
「それが特別開拓団≠ヒ」
「そうです。彼らは、希望を胸に嬉々《きき》としてやってきて、あの村で暮らし始めました。軍がその警護《けいご》と、逃げ出さないための監視《かんし》に当たって……。――でも! 実際に人体実験に使われるかどうかは、確定事項ではなかった。彼らが使われる¢Oに、薬は完成するかもしれなかった。そうなったら、彼らは本当に開拓団として、あの村で生きていけるはずだった……」
「なるほど」「そしてそうはならなかった、と」
「半年前、村人全員を被験者にすることが、最終的に決まりました。そして実行に移されました。手を下したのは自分達です。ある晩に睡眠ガスを流して、全員を拉致《らち》しました。トラックに乗せて、荷台に拘束《こうそく》して……、自分が見たのはそこまでです。『軍人さん、軍人さん』と言って、自分を兄のように慕《した》ってくれていた活発な少年の姿を見たのも、それが最後です。シティの地下の施設で、彼らはいろいろな方法で使われ≠ワす。詳《くわ》しくは知りません。知りたくもありません。でも上官から、半年と四日前に少年が……、生きたまま解剖されて標本になって、小さなガラス瓶《びん》の中に移ったことだけは聞きました。やがて進行を遅らせる薬が完成したと聞かされ、報償《ほうしょう》が出ました……。それ以来あの村は、保存されています」
「よく分かりました。そして、もう一つの質問です」「手紙ね」
「ええ。自分が、書き続けました。自分には、状況が疑われていないか、手紙を検閲《けんえつ》する任務がありました。それでも、シティから手紙が来るなんて……。エリート≠ニして認められた人間には、賞賛《しょうさん》よりねたみの目を向けられることが多いから、もともと手紙は少なかったんです。さらに、特別開拓団≠ノなんて……、ほとんどあり得ないとされていたんです。あり得なかったんです」
「でも……」「そうそう」
「……でも、彼女からの手紙は、月に一度かならず届いてしまいました。そして彼も、必ず返事を書きました。自分はそれを、開けなくても読める機械で覗《のぞ》き見ていたんです。彼女が病気で外に出られないこと、それを彼が一生|懸命《けんめい》励ましていること。きつい彼の生活を、彼女が同じように励ましていること。そして彼女の夢が、完治して少年と一緒にカントリーで住むことだったということ」
コール中尉《ちゅうい》が、突然両手で自らの前髪をかきむしった。そして吠《ほ》える。
「一通だけ書けばよかったんだ! 半年前にたった一通! 『仕事が忙《いそが》しくなってもう手紙は出せない』そう書いて送ればよかったんだ! いいや! 彼女の手紙自体、来たそばから握りつぶしてしまえばよかったんだ! できたはずだ! それが……、なんで! なんで返事なんて出してしまったんだ! どうかしてたんだ! なんでこんなことをしてしまったんだ!」
「それで、引っ込みがつかなくなっちゃった、ってことかあ」
エルメスがふだんと変わらぬ口調で言った。
コール中尉《ちゅうい》は頭を両手で押さえたまま
「自分は……、毎月毎月……。全《すべ》てがばれてしまわないかとおびえていました……。封筒を開くたびに、『あなたはいったい誰なの?』そう書かれてはいないか恐れていました。それなのに……。それなのに……」
そして顔を上げた。泣き出しそうな顔で、軍人は目の前の小さな鳥を見つめる。
「それは、あなた宛《あて》です。受け取ってください」
キノが静かに言って、
「分かりました……」
小さな声が返ってきた。
「返事を書かなければ、いけませんね」
コール中尉はつぶやいて、それを両手で持ち上げた。箱を静かに閉じた。イスを立ち、後ろにあった棚の中へそれをしまった。
「ねえ」
イスに戻ったコール中尉に、エルメスが訊《たず》ねる。
「村を保存して監視《かんし》しているってことは、またやるの?」
コール中尉は頷《うなず》いた。
「ええ、またやることになります。近いうちに、次の被験者が送られてくる予定です。自分はまた、その村の警護《けいご》に、そして郵便業務にあたります」
そして目を細めて、
「これは国のためです。多くの人々のためです。何より……、彼女の明日《あした》のためです」
静かに言った。
「分かりました。お話ありがとうございます。ボク達は、そろそろ失礼します」
コール中尉は、目の前の旅人を見つめた。
「キノさん、本当にありがとうございます。そして――、すいません」
蹴飛《けと》ばされた机がキノの上半身を直撃して、キノは後ろに倒れた。胸の上の机を払いのけた時、コール中尉の右足が、『カノン』をホルスターごと踏みつけていた。
蒼《あお》い目の軍人は、静かに殺すべき相手を見た。訓練どおりの淀《よど》みない動きで短刀を抜き、左手を添えて突きおろした。
キノの右手がジャケットの左手|袖《そで》に入って、そこにあるナイフを掴《つか》んだ。
城壁の中には、外と同じ景色《けしき》があった。
茶色の岩山が続く、草の一本もない荒れた大地だった。そこに高い城壁だけが、地から生《は》えたようにいきなり存在して、どこまでも伸びている。その両側には、何一つ変わらない風景が広がっていた。
透《す》き通るように晴れた空の下に、道が一本あった。岩をどけ土を固めただけの簡単な道で、大地の谷間部分を縫うように延びていた。
キノとエルメスは、乾《かわ》いた土埃《つちぼこり》を巻き上げながら、道を西へと走っていた。
キノは頭と帽子《ぼうし》の鍔《つば》を少し下げて、冬の太陽が視界へ入るのを防いでいた。
「キノ。珍しいね」
エルメスが言って、
「ん? ……ああ。一応は、国の中だからね」
キノが答えた。
旅人が去ってから、十日後。
ベッドに腰掛けていた、白い肌《はだ》と金髪と蒼《あお》い目を持った少女のもとへ、看護婦が薬を持ってやってきた。そして、小さな封筒も。
看護婦は先に薬を飲むように念を押してから、部屋を出て少女を一人にした。
少女は言われたとおりに、まず薬を飲んだ。
病院名と病室番号しか書かれていない封筒を、少女はペーパーナイフで丁寧《ていねい》に開けた。
中からもう一つ、消毒・検査済み≠ニ大きくスタンプの押された、チェック模様の封筒が出てきた。少女は手元の焦《あせ》りをおさえながら、封を切った。
中から、折り畳《たた》まれた一枚の紙が出てきた。
蒼い目が、素朴《そぼく》な字面《じづら》を追う。
『贈り物、本当にありがとう。元気になったら村に来てほしい。長い話をしよう』
それから少女は微笑《ほほえ》んで、そして泣き出しそうになって、手紙を胸の前で抱きしめた。
エピローグ 「夕日の中で・a」
―Will・a―
日が、沈もうとしていた。
西の地平線に、完璧な円を作る光の塊《かたまり》が、あとほんの少しで隠《かく》れようとしていた。その右上には、宝石のような小さく赤い粒が輝く。
雲一つなく澄んだ空は、オレンジから蒼《あお》、そして紫《むらさき》へと変化しながら、全天を覆《おお》っていた。
凪《なぎ》の海のようにうねりの少ない大地にあるのは、絨毯《じゅうたん》のような初夏の草と、あちこちに群生する木々と、光を反射する幾つかの池。
時折、強すぎない風が吹いて、大地の緑を揺らした。
丘よりは大きく、山というほどではない隆起《りゅうき》があった。これより西にこれより高い土地はなく、そして視界を遮《さえざ》るものはなかった。
頂上には、まわりの木が切り開かれて、太い丸太を組み合わせて作られた監視塔《かんしとう》があった。
塔の下には、居住用の大きな丸太小屋があった。
塔の上には、監視用の小さな見張り台があった。
見張り台は夕日を浴び、静かに金色に輝いていた。
二人の見張りの男が、見張り台にいた。二人は目を細めて、沈む太陽を眺めていた。
西の空と、西の大地を眺めていた。
「昼間立ち寄った旅人は、もうモトラドを止めて、どこかで野営でもしているのかな?」
一人が聞いた。
「ああ。そうだろうね」
一人が答えた。
「それにしても。――」
一人が言った。
「なんだい?」
一人が訊《たず》ねた。
「この、忌々《いまいま》しい風景にはうんざりするな」
一人が言って、
「ああ」
もう一人が頷《うなず》いた。
「空は狂ったように色を変える。昼は烏が、夜は虫の鳴き声がうるさい。飛び回る蛍《ほたる》の光も鬱陶《うっとう》しい。雨が降った後の虹《にじ》は気味が悪い」
「ああ」
「まったくもって気が滅入《めい》る。早く国に帰りたい。ビルの地下で、モニター映像を見ながらのんびりとしたい」
「ああ」
「こんなところに監視塔《かんしとう》を造った人間は、俺《おれ》達見張り役の兵士が、毎日毎日どんな気持ちで過ごさなければならないか、そしてそのことが個人のやる気や任務効率にどれほどの悪影響を及ぼすのか。それらについて塩一粒ほどの大きさの脳も使わなかったに違いないさ」
「ああ」
日が、沈んでいった。
西の地平線に、完璧な円を作る光の塊《かたまり》が隠《かく》れて消えた。ぽつりと残された、宝石のような小さく赤い粒がいっそう輝く。
雲一つなく澄んだ空では、オレンジの空気が沈みはじめて、蒼《あお》はゆっくりと濃度を増して、紫《むらさき》は範囲を広げる。
凪《なぎ》の海のようにうねりの少ない大地にあるのは、絨毯《じゅうたん》のような初夏の草と、あちこちに群生する木々と、慎《つつ》ましく光をなくしていく池。
時折、強すぎない風が吹いて、大地の緑を揺らす。
葉|擦《ず》れの音が二人を包んで、
「ほんと、忌々《いまいま》しいところだ」
一人が言った。そして、見張り台からおりるために梯子《はしご》へ向かった。
「やっと当直が終わりだ……。先行ってるぞ、ウィル」
梯子をおりる音を聞きながら、
「ああ……」
もう一人はつぶやいた。
そして思う。
おとがそ[#誤植ではない]
―Preface―
二〇〇一年|某《ぼう》月某日。時雨沢《しぐさわ》|恵一《けいいち》のアパートの部屋。電話が鳴る。
時雨沢 「(電話取って)もしもーし」
謎《なぞ》の男 「(男の声で)今日《こんにち》は。時雨沢さんのお宅でしょうか?」
時雨沢 「その可能性は一概に否定できません。ところで、どちら様でしょうか?」
自称キノ「ああ、申し遅れました。私はキノです」
時雨沢 「……はあ? おっしゃる意味が分からないんですが」
自称キノ「だから私はキノですって。あなたの書いた小説の主人公の。初めまして」
時雨沢 「…………。すいません、電話切っていいですか? それも今すぐ。即刻」
自称キノ「だめですよ。せっかく私がこうして電話をかけてきだのに。失敬な」
時雨沢 「あの、失礼ですけど、声を聞くとお年を召しているように思えるんですが……」
自称キノ「ああ。確かに私は五十四|歳《さい》ですよ。東京にある大学で経済学の教授をしています。女子生徒達から結構人気があるんですよ。チョコもたくさんもらえます」
時雨沢 「そんなことは全然誰も聞いていません。どうやってこの電話番号を知りました?」
自称キノ「そんなことは教えてもらわなくても簡単に分かるでしょう。私はキノですから」
時雨沢 「…………。もしあなたがキノなら、相棒《あいぼう》のエルメスは今どうしています?」
自称キノ「エルメスは、偶然会ったシズの下僕《げぼく》のワンちゃんと勝負してますよ」
時雨沢 「……陸と勝負? どうやって」
自称キノ「三日三晩に亘《わた》る口げんかで決着がつかなくて、五十メートル背泳ぎで雌雄《しゆう》を決するとか言って朝から水中|眼鏡《めがね》つけて海へ出かけて、まだ帰ってきてないです。離岸流《りがんりゅう》、かな?」
時雨沢 「…………。シズは?」
自称キノ「あの刀男《かたなおとこ》は、ネット掲示板で自分のことを、『キノをつけ回すロリコンストーカー』とか評した人を説得しに行ってます。だいぶいるからだいぶかかると言ってたかな」
時雨沢 「…………。師匠《ししょう》は?」
自称キノ「銃刀法《じゅうとうほう》違反で新宿署にて取り調べ中。すぐに逃げ出して撃ち合いを始めるでしょう。警察じゃ事態解決は無理だから、自衛隊の治安出動が見られるかもしれないなあ」
時雨沢 「…………。ところで、私の作品のキノはそんな喋《しゃべ》り方しませんが」
自称キノ「ふっ――負けたよ」
時雨沢《しぐさわ》 「何がですかぁ?」
自称キノ「それはともかく、『安全な国』はまたボツになったね。もう日の目を見ないのかな」
時雨沢 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。なんでそんなこと知ってるんです? それを知っているのは、私と編集さんと、私が一人の部屋で話しかけたクモだけですよ!」
自称キノ「だってボクはキノだから」
時雨沢 「…………」
自称キノ「他《ほか》にもいろいろ知ってますよ。『二人の国』は二巻に入れなかった話を直したやつだとか、電撃ゲーム小説大賞応募原稿では『コロシアム』でボクの負傷シーンがあって、手当のための上半身ヌードシーンや、ジャケットの裁縫《さいほう》シーンがあったことなんかも。キノってボクの名前も、別の話の主人公(男)として決められていて、そこから持ってきたんですよね。そしてその話で使えなくなりそうで焦《あせ》っている」
時雨沢 「……ほ」
自称キノ「ほ=H」
時雨沢 「本当なんだ!……すごい! キノは本当にいるんだ! キノなんですね」
キノ  「だから最初からそう言ってるのに……。ボクはキノです。作者だからといって、何でもかんでも疑うのはよくないですよ」
時雨沢 「ご、ごめんなさい。疑ったりして……、深く反省しています」
キノ  「じゃあそういうことで。ボクはもう行かないと」
時雨沢 「そんな! まだ行かないで! お願いです! もっと話を! そうだ今まで訪れた国で何か印象深かったのは? ぜひお話を! 私がそれを文章にするからっ!」
キノ  「残念ですけれど……。三日経ったから」
時雨沢 「……まだ五分」
キノ  「さあ、行こうかエルメス。それじゃあ(やかましいエンジン音)」
時雨沢 「あっ、ちょっと――」
キノ  「(電話遠く。声去りながら)エルメス、それは昆布《こんぶ》かい?」
時雨沢 「ああ……。待って……。待ってよう……(涙声)」
「ツー、ツー、ツー」
二〇〇二年一月                      時雨沢恵一