キノの旅V the Beautiful World
時雨沢恵一
口絵 「愛と平和の国」
―Power Play―
私の名前は陸、犬だ。ご主人様のシズ様と旅をしている。これは、ある時の、ある国の話だ。
「何だ、あれは?」
その国が見えて、シズ様はバギーの運転席で驚きの声を上げた。普通、国は外敵から自分たちの生命や財産を守るため、城壁で囲まれている。しかしその国では、動物よけの低い木の柵しかなかった。
シズ様は指導者に会って、この国には城壁がないほどの、強力無比の軍隊でもあるのかと訊ねた。指導者は、意地悪そうににやりと笑い、
「そのような野蛮なものは、我が国にはありませんなあ」
「それで、どうやって国民の安息を守る?」
シズ様が少しムキになって聞いた。さすがは元王子様だ。
指導者は、あなたは前時代的ですなあ、とすっかり馬鹿にした口調で言った。
シズ様の、今までまったく攻撃された歴史がないのかとの質問に、
「私の体験だけでも、両手両足の指以上。しかし私達は、その全てを平和的に解決しました。まあ、これからもそうでしょうな。だから人殺しの集団も、自然景観を悪くする壁もいらないのです」
そして指導者は、怪訝そうな顔のシズ様に、胸を張ってこう言った。
「私達には“愛と平和の歌”があるんですな。それを歌って、敵勢に闘わずして勝つのですよ」
「鍵をかけずに、用を足しているみたいだよ。落ち着かない」
この国での滞在を、そうシズ様は表現した。すぐにでも出国したがっていたが、バギーの修理のため、しばらく足止めをくっていた。
ある朝、急に国中が騒がしくなった。平原を越えた隣国の軍勢が、しばらくぶりに攻めてきたと連絡が回った。敵軍は使者を出し、明朝総攻撃をかけると一方的に伝えたらしい。
指導者は、それはそれは楽しそうな顔をしてシズ様に会いにきて、嫌みったらしく言った。
「さて、旅人さんには、美しい光景をお見せできますな。夜が楽しみです」
夜になった。柵の向こうには、野営地の灯りが見える。手前には、広い壇が用意されて、篝火で煌々と照らさせていた。腰に愛用の刀を差したシズ様は、指導者に招かれて、壇の脇の席に座った。私は、シズ様の足の間に座った。
敵軍が隊列を作り、整然と行進して、壇の前に威圧的に並んだ。
「暴力しか使えない愚劣共ですな。また私達に負けるくせに」
指導者は鼻で笑うと、部下に何か指示を出した。シズ様は、私だけにぼそっと言った。
「逃げる時は、いつもどおりに」
壇上に、人々が上った。それは、どこからどう見てもコーラス隊だった。コーラス隊らしく、指揮棒に合わせていきなり歌いだした。緩やかなメロディの、ハミング。やがて、華やかな衣装をまとった美しい女性が壇上に現れ、バックコーラスを従え、よく通るきれいな声で歌い始めた。
歌詞は、愛と平和が一番だとか、争いはとても愚かしいだとか、心の奥底の優しさだとか、武器を捨てて農具を持てだとか。シズ様は、寝すぎて頭痛がする時の顔をしていた。
突然、それまでただ眺めていた敵兵に変化が起きた。全員が武器を足下に置いて、歌に合わせて笑顔で体を動かす。歌姫に割れんばかりの声援を送り、楽しそうにはしゃぎだした。
「御覧なさい、旅人さん。彼らはもう争いなど欲していない。愛と平和の歌に、改心させられたのです。――うむ、そうか。旅人さん、“戦争は止める。素晴らしい歌を聴いて帰る”、そう使者が伝えてきましたよ。さて、ご褒美に食事と酒でも振る舞ってやりますか。旅人さんも、腰の武器をお捨てになったらいかがですかな?」
壇上で使命感からか熱く歌う美女と、やたら盛り上がる軍服を着た観客達と、得意げに皮肉を言う指導者を前に、シズ様は何か考えていた。
翌朝、バギーの修理が終わり、シズ様と私はすぐに出発した。そして昼ごろに、休憩をしていた昨日の軍勢に追いついた。パースエイダー(注・銃器のこと)を向ける兵士を睨み、シズ様は遠回しに脅す。
「私を撃つのか? 貴官の階級は最高位か? そうでないのなら、勝手な行動を上官に咎められても知らないぞ」
五回くらいこれを言って、私達は司令官の前にいた。彼は部下の非礼を、形式上は詫びた。
シズ様が、自分達は旅人で、そしてあの国に戻るつもりは全くないと念入りに前置きして、
「あの国に攻め入るつもりなんか、最初から無かったんでしょう」
そう言った。司令官は、ニヤリと笑って、頷いた。
「ええ。あれは兵士達の慰安です。彼らに歌詞の内容は関係ないし、宣戦布告も知らない。ただ騒げればいいんです。我々の属国が、我が軍の庇護を感謝する宴を催していると教えてあります“最初だけは静かに”ともね」
「なるほど。あなた達の本当の敵は?」
「山脈向こうの大国です。×××××などという支離滅裂な国家体制を持つ、悪の帝国です。奴らを根絶やしにするのが、我々の崇高な使命ですよ。もし奴らがあの国を侵略したら、“我等ノ属国ヲ不当ニ蹂躙シタ”として全面的に戦争が始められます。正義はこちらにありますし、勝つのもこっちですよ」
バギーに戻って、私はシズ様へ、あの軍隊の国を訪れるのか聞いた。シズ様は首を振った。
「戦争のことしか考えていない国も、戦争のことを考えていない国も、お断りだな」
「なかなか、見つかりませんね」
「ああ……。悪いな、放浪生活を長くさせて」
シズ様がハンドルに寄りかかり、蒼い空を見ながら言う。
「私は構いません。シズ様のいる場所が、私のいる場所ですから」
正直に返すと、シズ様は助手席の私を見た。
「…………」
しばらく黙っていたシズ様は、やがて、いつものように静かに微笑んで、
「行こうか」
「そうですね」
いつものようにバギーのエンジンをかけた。
知っているのか知らないのか知っているのか
―Where is the terminal?―
プロローグ 「雲の中で・b」
―Blinder・b―
真《ま》っ白《しろ》だった。
上も、下も、右も、左も、ただ白かった。白いということ以外、何もない空間だった。
そして、巨大《きょだい》な動物が唸《うな》るような、低い風の音が聞こえていた。
「ちょっと」
呼びかける声が聞こえた。それは、男の子のような声だった。
「見えてる?」
その声は、何も見えない空間へ聞いた。
「いいや、全然」
別の声が、すぐに答えた。最初の声より、少し高かった。
「こんなに近いのにダメか。とりあえず、しばらく動かない方がいいよ」
最初に聞こえた声が言って、別の声は、そうだね、と短く言った。そして、
「見事に何も見えないな」
少し楽しそうに言った。
「見事に何も見えないね」
最初の声が返した。
風の鳴る音が、一瞬《いっしゅん》だけ大きくなった。
別の声が、少しトーンを落として言う。
「でも、すぐにまた、見えるようになる」
「見えるようになるだろうね」
最初の声が言って、その時ほんの少し、白い世界が揺《ゆ》らいだ。風の吹いてくる方向が、少し明るくなった。
「ねえ。見えるようになって、目の前にきれいさっぱり何もなかったらどうする? ちょっと嬉《うれ》しくない?」
最初の声が聞いた。
「ああ。でも、そんなことはありえないことを、ボクは知ってるからね」
「晴れたら、どうするつもり?」
「そうだな…… ここにいても仕方がないし、ボクにできることもない。出発するだろうな。それだけだ」
「それができなかった人も」
最初の声が言った。
「ああ……。ほんの少しの知識だ。ほんの少し知っていれば。どこかで誰《だれ》かが教えていれば。ボク達が一日早くここについていれば」
「きびしーね」
「ああ。ボクも、何か知らないことがあるかもしれない。そしてそれを知らないまま、同じような目に遭《あ》うかもしれない。もちろん避《さ》けたいけれど、知らなければ、どうしようもない」
そう言った声は、少し間をおいて、訊《たず》ねた。
「ねえエルメス、ボクは知ってるのかな?」
答えはすぐに来た。
「さあねー」
風上《かざかみ》の明るさは増し、白は一段と薄くなっていく。
「もうすぐ晴れるね、キノ」
最初の声が言った。
「ああ」
風が急に強くなって、くぐもった音と共に、白い空気を一斉《いっせい》に吹き飛ばした。
第一話 「城壁のない国」
―Designated Area―
草原を、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。
そこでは、適度に湿《しめ》った土と、冬を越えて伸び始めた草と、空と雲、そして太陽、それ以外のものが見えない。遠くに山はなく、全周、緑の地平線が取り囲んでいる。視界の中で、空が九割を占めていた。
モトラドは旅荷物を満載《まんさい》していた。後部パイプキャリアには、大きな鞄《かばん》が載《の》り、その上に燃料と水の缶《かん》がいくつも並ぶ。後輪を挟《はさ》むように、両脇《りょうわき》に箱がついている。ヘッドライトの上には、丸めた寝袋が縛《しば》りつけられていた。
「退屈《たいくつ》、だねぇ」
モトラドが言った。
「百八十四回」
運転手が言った。
「…………」「…………」
そして双方《そうほう》とも黙《だま》った。
運転手は茶色のコートを着て、長い裾《すそ》を両脇《りょうもも》に巻きつけてとめている。鍔《つば》と、耳を覆《おお》うたれのついた帽子《ぼうし》をかぶり、ゴーグルをしている。その下の表情は若く、十代の半《なか》ばほど。大きな目を持ち、精悍《せいかん》な顔つきをしていた。
草原に道などなく、草を踏《ふ》みながら、たまにあるでこぼこを避《さ》けながら、モトラドは淡々《たんたん》と走る。
しばらくして、太陽が高いところに昇り、モトラドの影を真横に伸ばした。
「そろそろ休憩《きゅうけい》する? キノ」
モトラドが聞いた。キノと呼ばれた運転手は、そうだなあ、と言って、
「まだいいな。今日は少し早めに止まって、夕方、のんびり休もうかな」
「分かった。……それにしても、退屈だ」
モトラドが言って、キノが百八十五回、と言う。その後、のんびりとした口調で、
「昨日《きのう》聞こうと思ったんだけれど、エルメスも、走ってる時でも、退屈するんだ」
エルメスと呼ばれたモトラドは、
「そうだよ。こんなにも平坦《へいたん》で同じスピードだと、まるで工場のローラーの上で、タイヤだけ回しているような気分になる。もしくは、籠《かご》の中のネズミ」
「なるほど……」
「キノは? これだけ景色がぜんぜん変わらないで、飽《あ》きない?」
エルメスが聞いて、キノが答える。
「飽きる飽きないは、とっくに通り越したよ。今は、走りながらいろいろ考えている」
「へえ、どんなこと? ちょっと聞かせて」
エルメスが頼《たの》んで、キノはたぶん面白《おもしろ》くないよ、と言う。それでもいいよと、エルメスが促《うなが》した。
「今さっき考えてたのは、右から刃物《はもの》を突きけられたら、とりあえずその手を叩《たた》いて武器を落として、その後背負って投げるか、もしくは手を逆にひねって押さえ込むか。それとも一旦《いったん》ステップバックして、その手を蹴り上げるか。刺《さ》してきたのを半身で避《さ》けながら肘打《ひじう》ち、の方がいいのかな?」
「…………」
「ま、そんなことを」
「……面白くない」
「だから言ったろ」
草原をモトラドが走っていく。
「退屈《たいくつ》だ」
エルメスがつぶやいた。
「百八十六……」
キノが発言を途中で止めた。走りながら立ち上がる。エルメスが、どうしたの?と聞いた。
「驚《おどろ》いたな……」
「ん?」
それは最初、キノとエルメスの位置からはゴミ粒の集まりのように見えた。進む先、地平線下の緑の空間に、黒い点がいくつもある。近づくにつれて、だんだんと、点には大小があることが分かってきた。
やがて、それらが何かも分かる。大きなものはドーム形のテントで、いくつも密集して建てられていた。周りの細かく小さなものは家畜の群、そしてそのそばにいる人間。
エルメスが、
「ひゅう。驚いたな。人がいるよ。牛や馬や羊も。家もあるよ」
「国じゃないね。遊牧民か……」
「こんなとこに生きてる人がいるんだ。凄《すご》いね」
キノは少し、エルメスのスピードを落とす。馬に乗った人間が、キノ達に向かって走ってきた。壮年《そうねん》の男で、独特な作りの衣装をまとっている。
「どう思う? キノ」
エルメスが聞いて、
「もし歓迎してくれないのなら、迂回《うかい》だな。まずは話だ」
キノはエルメスを止めた。男がやってくる。手には何も持っていなかった。男は笑顔で、
「今日《こんにち》は、旅人さん。我々は、この草原に住まう一族です」
キノが挨拶《あいさつ》を返す。男は、キノにどこへ行くのかを訊《たず》ねた。
「西にある国です。あなた方の生活の邪魔《じゃま》をするつもりはありません。すぐに通り過ぎます」
すると男は、首を振って言う。
「その必要はないですし、そうしないでほしい。我々は、こうしてたまに出会う旅人を歓迎するのが代々の慣《なら》わしです。我々と同じ食べ物と、屋根のある寝床を分けることができます。ぜひ、私達の客人になってほしい。それを、族長の代理で伝えに来ました」
「なるほど……」
キノはつぶやいて、エルメスにどうするか聞いた。
「キノがよければいいんじゃない」
少し考えた後、キノが男に言う。
「分かりました。おじゃまさせてもらいます」
男は、実に嬉《うれ》しそうな顔をした。
「先に伝えに行きます!」
そう言って集落へ馬を走らせる。キノはエルメスを発進させて、ゆっくりと近づいていった。
集落には、二十ほどの移動式テントが建てられていた。ドーム形をした大きなもので、厚い布で覆《おお》われていた。際《きわ》だって大きなものが一つあった。
集落の近くにいる牛と羊は数えきれないほどで、のんびりと草を食《は》んでいた。馬に乗った男達が、群《むれ》を率いていた。
キノとエルメスを、二十人ほどの集団が待ち受けていた。歳《とし》はいろいろで、二十|歳《さい》前の若者や、中年の女性もいる。そのうち半分ほどが、口にパイプをくわえ、煙《けむり》を出していた。
キノが集団の前で、エルメスのエンジンを切っておりた。帽子《ぼうし》とゴーグルを外《はず》す。
「今日は、みなさん。ボクはキノ。こちらは相棒《あいぼう》のエルメスです」
「どうもね」
集団の中で、一番年を取っていそうな男性が話しかけた。やはり煙立つパイプをくわえていた。
「キノさん。エルメスさん。ようこそ。わしはこの部族の長じゃ。つねに移動している我々が、旅のお方と会うことは滅多《めった》にないことでな。ぜひ、のんびりと疲れを癒《いや》していってほしい」
キノが礼を言った後、優しそうな中年の女性に、一つのテントに案内された。途中、いくつかのテントから、子供達がこわごわとのぞいているのが見えた。
テント内部は、数人が楽に眠《ねむ》れそうなほど広い。中央に木の柱が立ち、放射線状に組まれた骨木が屋根を支えている。足下には柔《やわ》らかいフェルトが敷き詰《つ》めてあった。
エルメスのために、入り口を大きくしてくれた。このテントは普段その女性の一家が使っているが、しばらく客人専用になると聞き、キノが再び礼を言った。
女性が去った後、キノはコートを脱《ぬ》ぐ。下には黒いジャケットを着て、腰《こし》をベルトで締めていた。ベルトにはポーチがいくつかついていて、そして右脇《みぎもも》に、リヴォルバー・タイプのハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器《じゅうき》。この場合は拳銃《けんじゅう》)を吊《つ》っていた。腰の後ろにはもう一挺《いっちょう》、二二|口径《こうけい》の自動式をつけていた。キノは前者を『カノン』、後者を『森の人』と呼ぶ。
『森の人』をホルスターごと外《はず》して、キノはテントの中に仰向《あおむ》けにひっくり返った。
「これは、快適だな」
思わずつぶやく。エルメスも、
「だね。このテントも、冬は暖かく、夏は涼《すず》しくなるように、よく考えられてる。裾《すそ》が開くんだよ。すぐに組立や撤収《てっしゅう》ができるようにもなってる」
「牧草を求めて、年に何回も移動するんだろうね。ボク達とこうして会ったのは、たしかに奇跡的《きせきてき》な確率かもしれない。一生この草原で、自然と大地と共に暮らすのか。囲む高い城壁もない……」
キノが感慨《かんがい》深げに言った。すぐにエルメスがちゃかす。
「羨《うらや》ましい? 頼《たの》んでみたら仲間にしてくれるかもよ」
キノは起きあがりながら、
「ま、遠慮《えんりょ》するよ。ボクには向いてなさそうだ」
「じゃ、どういうのが向いてるのさ?」
エルメスが聞いて、キノは答えた。
「それを探すこと、かな」
夕方、キノは食事に誘《さそ》われた。
エルメスは寝ていたので残し、キノは大きな族長のテント前で、みんなに紹介《しょうかい》された。部族は全員で五十人弱。内十二|歳《さい》以下の子供が十人ほど。
その後、族長のテントで食事を振る舞われた。低い長テーブルに並ぶのは、乳製品を主にした、質素かつシンブルな食事。お口に合いますかとキノは訊《たず》ねられ、美味《おい》しいと素直に言った。
しかし、彼らがひっきりなしにパイプを燻《くゆ》らすので、テントの中は相当に煙《けむ》い。目が痛くなったキノは、断りを入れて、外に新鮮な空気を求めて出た。
テントの外に立ち、焼けた空を見ている時、
「君が、」
脇《わき》からいきなり話しかけられた。
キノは驚《おどろ》いてすぐに男へ振り向く。目の前に、真《ま》っ赤《か》な空を背景にして、三十|歳《さい》ほどの男が立っていた。整った顔立ちだが、そのせいか感情がないように見える。
男を見るキノの表情が、少し変わった。
男は他《ほか》のみんなと同じ服を着ていたが、その双眸《そうぼう》は、他と違い薄い灰色をしていた。肌《はだ》の色も、かなり違う。身長も、飛び抜けて高かった。
男は怪訝《けげん》そうなキノにお構いなく、灰色の瞳《ひとみ》でじっと見つめ、
「君が、今日来た旅人さんか」
抑揚《よくよう》のない声で聞いた。
「ええ」
キノが頷《うなず》く。
「みんな君のことを、男性だと思ってる。違うだろ」
「…………。それが何か?」
キノが聞き返した。
男は表情を変えず、
「別に」
しばらくキノを見て、テントに入らず、去っていった。
次の日。
キノは相変わらず、夜明けと同時に起きた。天気はよかった。
外に出ると、みんなが起きて、活動を始めていた。羊の乳搾《ちちしぼ》りをする女性。馬の手入れをする若者。共同で使う火をおこす手伝いをしている子供達。たまにその火をもらいに、パイプを手にした大人《おとな》が寄ってくる。
通りかかった女性に、まだ寝ていらしていいですよと言われ、キノが習慣なんです、と返す。
話しかけた女性は、
「それはとてもいいことですわね」
そう笑顔で言った。
キノはテントの中で、『カノン』と『森の人』の抜き撃《う》ちの訓練をした。簡単な整備の後、ホルスターに戻《もど》した。
一仕事終えたみんなが所々に集まり、朝食に、パンのような食べ物を溶《と》かしたチーズにつけて食べる。キノはとても美味《おい》しいと言って、代わりに自分の、粘土《ねんど》のような携帯《けいたい》食料を試しに振る舞った。みんなはそれを、実に複雑な顔をして少しだけ食べた。
食後、男達は馬に乗って、家畜の放牧に出かけた。残った女性が、後かたづけや、服やテントの修繕《しゅうぜん》、子供の世話などをしている。彼女達はたまに手を休め、青空の下、パイプを燻《くゆ》らせた。
キノがエルメスを点検していると、子供達が遠巻きに見ているのに気がついた。
「みんな。近くで見たければどうぞ。こいつは噛《か》みつかないよ」
キノがそう言って、エルメスが、
「失礼な! ……でもまあそのとおり」
おそるおそる子供達が近づく。下はよちよち歩き、上は十一、二|歳《さい》ほど。エルメスを珍《めずら》しそうに見て、そのうちに面白《おもしろ》そうに触《さわ》る。
「わっ! 硬《かた》いや」
「すごいね。鉄の馬だ」
「エルメス、っていうんだ」
キノが言うと、すかさず、
「へんな名前!」「へんー!」「おかしなの!」
「へるめす?」
一人が聞いた。エルメスが言い返す。
「違う違う。エルメス。へ≠カゃなくてエ=B……ヘルメス≠セと、間が抜けた感じがするからイヤなんだ」
「へるめすー!」
「エ=Iエ・ル・メ・ス=I」
無邪気《むじゃき》な子供とムキになったエルメスは放っておいて、キノは、彼らの何人かが小さなパイプをくわえているのを見つけた。よく見ると草は入っていない。
「そのパイプは? 君達も吸うの?」
キノが一番年上に見える男の子に聞いた。彼は自分のパイプを取り出して見せて、
「ううん。持ってるだけ。大人《おとな》しか吸っちゃダメなんだ。大人はみんなが生きるために仕事をするから、そのご褒美《ほうび》なんだって。みんなに一人前だって、もう大人だって認められたら、初めて吸えるんだ」
「ふーん」
「認められるためには、男は馬に乗れなくちゃダメなんだ。乗れるだけじゃダメで、群《むれ》をきちんとまとめられないとダメなんだ」
「君は?」
キノが聞いて、
「練習中……」
男の子が小さい声で答える。すぐに腰《こし》の後ろからカマを出して、
「で、でも! 草刈りだったら、みんなの中で一番うまいよ。母さんの手伝いだったら、一番うまい」
誇《ほこ》らしげに言ったが、後ろにいた十二|歳《さい》くらいの女の子が、
「草刈りは女の仕事だよ。馬に乗れない男なんてかっこわるい」
「…………」
男の子は沈黙《ちんもく》した。女の子はキノに、
「わたしね、彼の子供を産むの。彼が旦那《だんな》さんになるんだよ」
「へえ……。もう決まってるんだ」
キノが聞いた。
「うん。生まれた時から、だよ。だからかっこよくなってくれないと。このままだとダメ」
女の子は大きく頷《うなず》いて、楽しそうに言った。
「ふんだ。おとこおんな」
男の子は悔《くや》しそうに言い返す。女の子はそれに構わず、
「彼ね、わたしの方が馬に乗るのがじょうずだから、くやしいの」
キノは苦笑しながら、
「それなら、二人で住んだ時は、仕事を逆にすればいい」
女の子は一瞬《いっしゅん》きょとんとして、
「そうね。旅人さんの言うとおり。わたしが馬に乗るわ」
「そんなのヤだよ。かっこうわるい」
「いいの! もう決まり。今から父さんにそう言おうっと」
「やだって」
「決まり決まり決まりー!」
キノは、はしゃぎながら駆《か》けていく二人を見送る。振り返ると、エルメスが取り囲む子供達にまだ言っていた。
「だーかーらー、へ≠カゃなくてエ=I」
昼に男達が帰ってきて、食事、そして全員が昼寝をした。
その後、キノは乗馬に誘《さそ》われた。乗ったことがないというキノに、部族の男が教える。
最初はゆっくりと歩くだけだが、そのうち慣れてくると、だいぶ速く走れるようになった。
あざやかな手綱《たずな》さばきを見せるキノを、大人《おとな》達が感心して見守った。族長が、パイプの煙《けむり》を吐《は》き出しながら、短く言う。
「決まりじゃ」
周りの大人達が、静かに頷いた。その様子を、少し離れたところから、馬の上から、灰色の目がじっと見ている。
夕方。相変わらず煙《けむ》い食事の後。
キノは自分のテントの前で、センタースタンドで立つエルメスに座り、空を見ていた。西の地平線上に雲がかかり、夕焼けはどす黒かった。
「で、最後はちゃんと呼んでもらえたの? エルメス」
「いいや……。あの子達の記憶《きおく》では、キノはへるめす≠ノ乗ってやってきたんだよ」
キノがふっと笑い、
「……明日《あした》出発したら、もう二度と訂正《ていせい》は無理かな」
エルメスが、だろうね、とつぶやく。そして言った。
「キノ、明日は天気悪いよ」
「そう……。それでも、三日|経《た》つからね」
「……了解《りょうかい》」
エルメスが言って、キノがエルメスからおりた。その時、
「君は、」
「うわっ!」
灰色の目をした男が、いきなり後ろから話しかけた。エルメスが驚《おどろ》きの声を上げて、キノは、少し睨《にら》みつけるような表情で振り向いた。
男は数歩近づいた。キノとエルメスの脇《わき》に、見下ろすように立ち、聞いた。
「国は?」
キノが、男から目をそらさないまま首を振った。
男が再び聞いた。
「どこかを、選ぶということは?」
キノはゆっくりと言う。
「まだ……、しばらくは旅を」
男が、小さく何度か頷《うなず》く。やはり抑揚《よくよう》がない声で、
「なるほど。君は、自由という不自由に耐えることができるのか。大したものだ」
「…………」
「どうした?」
黙《だま》ったまま自分を見つめるキノに、男が聞いた。
そしてキノが訊《たず》ねる。
「……失礼ですが、昔、旅をしていたことは?」
「ないよ」
男は即答《そくとう》した。
「嘘《うそ》、ですね」
「ああ。嘘だよ」
男は再び即答した。キノがゆっくりと、確認するように訊《たず》ねる。
「あなたは、ここの生まれでもありませんね?」
「…………。それが?」
男は答えて、そして踵《きびす》を返した。
キノがその背中を目で追った。完全に見えなくなってから、エルメスが聞く。
「例の、鼻が利く人? 一体何者?」
キノは正直に答えた。
「分からない……」
次の日、つまりキノがこの部族と出会ってから三日目の朝。
空は厚く低い雲に覆《おお》われていた。日が昇っても、明るさは変わらない。
食事後、キノは族長に今日出発する旨《むね》を伝えた。族長は意外そうな顔をして、何かお気に召《め》さないことでも? と聞いた。
「いいえ。でも、ボクは一つの国に三日しかいないことにしてるんです……。大変お世話になりました」
族長は一瞬《いっしゅん》|呆気《あっけ》にとられ、すぐにキノに言う。
「実は、キノさんの歓迎をかねて、今夜久々に晩餐会《ばんさんかい》を開こうとしてたんじゃ。全員で食べるために牛を一頭さばくつもりで、みんなもとても楽しみにしてる。天気も悪いし、どうか、もう一晩だけ、お願いできんかの?」
「…………。お気持ちは、大変ありがたいのですが……」
悩むキノを見て、テントを貸してくれた女性が言った。
「族長。準備はすぐにできます。昼を少し過ぎた頃《ころ》にいたしませんか? それでしたら、キノさんも」
「おお、それならどうですか?」
族長が聞いて。キノは頷《うなず》いた。
族長は嬉《うれ》しそうに、みんなにそのことを伝えるようにと指示を出した。
「――そんな訳で、ごちそうを食べてから出発ということになった」
キノが荷物を積みながら、エルメスに言う。
「了解《りょうかい》。楽しんできてね」
キノは出発準備を終えたエルメスをテントに残し、ジャケット姿で族長のテントに向かった
空は、相変わらず蓋《ふた》をしたようで、光は弱かった。
「さて……。こっちは面白《おもしろ》くないなあ」
キノが出ていってすぐ、エルメスはテントの中でひとりごちた。
その時、テントの、入り口反対側の裾《すそ》が音もなく開いた。するりと人影が入った。
「誰《だれ》さん? キノならいないよ」
「ああ」
声が返ってきて、その主《ぬし》が近づく。
「灰色の目のおっちゃんか……」
エルメスが多少|緊張《きんちょう》|気味《ぎみ》に言った。男はエルメスのハンドルを持つと、前に押してスタンドを外《はず》した。
「さあ、行こうか」
「どこへ?」
エルメスが聞いて、男が答える。
「強《し》いて言うのなら、地獄《じごく》さ」
族長のテントの中には、長テーブルがいくつも並べられ、三十人ほどが座っていた。相変わらず、みんながパイプを手放さないので、中は煙《けむ》い。中央には、こんがりと焼かれた牛肉のカタマリがあった。
キノは中央近くの席を勧《すす》められ、そして宴会《えんかい》が始まった。担当の男が、大きな包丁《ほうちょう》で肉を切り分ける。塩がよく利いた骨付きのそれを、乾燥《かんそう》させたニンニクと一緒《いっしょ》にかじりつく。
キノが、他《ほか》のみなさんや子供達はと聞くと、となりの男が、
「入りきらないので一つ別のテントで。それと、家畜《かちく》の見張りと子供の世話をしてます。そのうち交代しますよ。お肉は久しぶりですからね。子供達は、参加できないしきたりです。今頃《いまごろ》テントで悔《くや》しがってますよ。早く大人《おとな》になりたいって」
そう言って、彼はパイプを吹かし、腸《ちょう》で作られた水筒《すいとう》から液体を飲んだ。キノにも勧めたが、それが羊の乳で作られた酒だと知ると、丁重《ていちょう》に断った。
「旅人さんには、こちらの方がいいでしょう」
そう言って、一人の中年女性が木でできたカップをキノに渡し、お茶をついだ。
キノが礼を言って受け取る。
キノはその匂《にお》いをかいで、
「面白《おもしろ》い香りです。なんていうお茶ですか?」
「えっ? なんと言われても……、名前はないんですけれど……」
女性が少し驚《おどろ》いて、それから笑顔で、
「まあ、どうぞ」
キノはしばらく、そのお茶を見ていた。
そして、
「飲み慣れていないボクには厳しそうです。申し訳ありませんが、遠慮《えんりょ》します」
カップをテーブルの上に置いた。
となりの男が、怪訝《けげん》そうにキノを見た。
キノはゆっくり立ち上がると、
「みなさん。ごちそう本当にありがとうございました。ボクは、そろそろおいとまします」
全員がキノを見て、少し驚《おどろ》いた表情を作った。
お茶を持ってきた女性が、
「そうですか。外でお見送りしますわ」
そう言って、テントの出口へキノを導こうとする。キノがゆっくり背中を向けて、そして急に身をひねりながら振り向いた。
女性が打ちおろしていた棍棒《こんぼう》が、後頭部をそれて、キノの肩《かた》をかすめた。キノは一歩、飛ぶように下がった。テーブルを蹴飛《けと》ばし、料理が少し散乱した。
テントの中の人間、全員が立ち上がった。手には棍棒を持ち、こわばった面持《おもも》ちでキノを見る。若い男達が、唯一《ゆいいつ》の出口を塞《ふさ》ぎ、残りはキノを取り囲んだ。
「どういうこと、ですか?」
キノが聞いて、後ろから族長が、
「キノさん。黙《だま》ってそのお茶を飲んでくれんかな? 痛い目に遭《あ》わせたくないんじゃ。命はとりゃあせん。しばらくの我慢《がまん》じゃ」
キノはゆっくりと振り向き、族長に聞いた。
「もし、お断りしたら?」
族長は答えず、軽く手を振った。周りの大人《おとな》達が、棍棒を握《にぎ》り直す音が聞こえた。
キノがゆっくりと、右腿《みざもも》のホルスターから『カノン』を抜いた。
全員が一瞬《いっしゅん》たじろいだが、すぐに族長がキノに一歩近づき、
「ほう! それを使うのか? しかし永久には撃《う》てんじゃろう? 何人か倒したところで、それで終わりじゃ!」
「確かに、そうですね」
キノが言って、『カノン』をゆっくりと、ホルスターに戻《もど》した。
数人の男が、一歩キノに近づいた。キノは、足下のテーブルの端《はし》を、強烈《きょうれつ》に踏《ふ》みつけた。
はじけ飛んだテーブルに男達がひるみ、キノは出口とは反対側に動いた。肉に刺《さ》さっていた包丁《ほうちょう》を拾い上げ、一番近くにいた人――族長を捕まえた。後ろから左手で髪を引き、右手で、喉元《のどもと》に包丁を突きつけた。
「みんな動くな!」
キノが鋭く畔えた。そこにいる、全員の動きが止まった。
「き、貴様あ……」
上を向かされた族長が、苦しげに言う。
キノはポツリと
「命をとりはしません。しばらくの我慢《がまん》です」
「はっ! 無駄《むだ》じゃ。ここからは出られん。今頃《いまごろ》モトラドは壊《こわ》されてるじゃろうて」
「……その時は、その時ですね」
キノがぼそっと言う。同時に髪を引く手に力が入り、刃《は》が族長の喉《のど》に触れた。
苦しい中、族長が大声で言う。
「……みんなっ! わしなどいい! こやつをテントから出すな! 絶対に出すな!」
「ご立派ですね」
キノは包丁《ほうちょう》を捨て、同時に族長も放りだした。包丁が落ちる前に、『カノン』を抜いて撃《う》った。立て続けに三発。
テント内に轟音《ごうおん》が響《ひび》く。中央の柱の、低い位置。そこに弾丸《だんがん》は全《すべ》て命中し、木をえぐった。男達が飛びかかってくるのを見ながら、キノは柱に、強烈《きょうれつ》な蹴《け》りを入れた。そしてそれは折れた。
テントの屋根が、一瞬《いっしゅん》で落ちた。
キノが、テントの裾《すそ》から外へ這《は》い出る。暗い空の下、そこに人影は見えなかった。みんな同じに見えるテントだけが、無言で立ち並んでいた。
振り返ると、ぺちゃんこのテントの下で人がもがいている。誰《だれ》かが叫んだ。
「くそっ! 探せ! 追え! 絶対に生きたまま捕まえろ! 血だ! 貴重な血だ!」
キノは、自分のテントに向かって走り出した。しかし、一つの脇《わき》を通り過ぎる時、そこから飛び出してきた男に見つかった。
「貴様、逃げやが――」
キノは男の足を撃ち、男が悲鳴を上げながら倒れる。
「いた! あそこだ!」
後ろで誰かの声が聞こえ、キノは舌打《したう》ちした。
となりのテントの裏に、隠《かく》れるように回り込む。その瞬間、後ろから、強烈な力で口を塞《ふさ》がれた。
「!」
キノは右脇《みぎわき》をしめ、自分の後ろにいる人間の顎《あご》に『カノン』を押しつけて引き金を引いた。
弾《たま》は出なかった。キノの表情が凍《こお》りつく。
「声を出すな。危害は、加えない」
耳の後ろで、淡々《たんたん》と言う声が聞こえた。口をおさえる力がゆるんで、キノは首だけで振り向いた。
灰色の目が、キノを見ていた。彼の右手が『カノン』を握《にぎ》り、親指がハンマーに挟《はさ》まっていた。男は、ゆっくりと『カノン』から手を引いた。キノを解放した。
「パースエイダーは使うな。居場所がばれる」
キノが男を見上げ、
「……あなたは、ボクを襲《おそ》わないんですか?」
「ああ。襲わないよ」
男が言った時、別の男の声が聞こえた。
「いたぞ! ラウハーが捕まえたぞ!」
男が三人、棍棒《こんぼう》を持って駆《か》け寄る。
ラウハーと呼ばれた、灰色の目をした男が、
「これを使え。俺《おれ》が二人だ」
キノに同じような棍棒を渡した。
警戒《けいかい》せずに駆け寄った三人は、キノとラウハーに襲《おそ》いかかられて狼狽《ろうばい》した。
キノが一人を昏倒《こんとう》させる間に、ラウハーは二人を倒していた。
ラウハーは腰元《こしもと》からナイフを出し、あっという間にその二人の喉笛《のどぶえ》を切り裂《さ》いた。彼らは血を吹き出しながら少しもがいて、すぐに死ぬ。そしてキノが倒したもう一人も。
「なぜです? ボクは逃げられればそれでいいです」
ラウハーは軽く首を振った。
「こうした方が、彼らのためなんだよ。長く苦しまないですむ」
「どういうことです?」
「来な」
ラウハーは強引《ごういん》に、近くのテントにキノを引っ張り込んだ。
「俺のテントだ」
キノが入ると同時に、
「ご無事《ぶじ》で、キノ」
「エルメス?」
キノが思わず声を出した。テントには、荷物を積んだエルメスがスタンドで立っていた。
「さっき説得して、つれてきておいた。ここなら、しばらくは見つからない」
ラウハーはそう言って、パイプをくわえた。エルメスが、
「その節はどうも。言ったとおりになったね」
「ああ。ただ、ことが起こるのがかなり早かった。キノさんはさすがだな。飲まなかった上に、あそこから逃げだすとはね」
ラウハーが、パイプに火をつけながら言った。荷物に入っていた、キノのマッチだった。
「借りてるよ」
短く言って、そしてうまそうに、煙《けむり》を吐《は》き出す。
「質問しても、いいですか?」
キノが、『カノン』のシリンダーを交換しながら聞いた。
「どうぞ」
「彼らはなぜボクを襲《おそ》うんですか? それと、あなたはなぜボク達を助けてくれるんですか?」
ラウハーは、キノをちらっと見た。
「みんなは、キノさんをこの部族に取り入れようとしたんだ。理由は、狭《せま》い部族に外からの新しい血を入れるためだ。この部族は、何百年もこれをやってきた。たまに出会った旅人を歓待《かんたい》して、その人の評価が高いと、取り入れてしまう。低いと殺す。キノさんは大変気に入られた。ここまではいいか?」
「ええ……。でもどうやってですか? 頭を下げて頼《たの》むようには見えませんでしたが」
「これさ」
ラウハーが、右手のパイプをキノの目前にはこんだ。
「大人《おとな》全員がパイプを吸っていたのは見たろう。この草には、強烈《きょうれつ》な中毒性がある。一旦《いったん》|喫煙《きつえん》が習慣づいた人間は、それなしでは生きられなくなる。半日吸わないと頭痛がして、三日で手が震《ふる》え出す。五日だと幻覚《げんかく》を見る。十日もすれば、涎《よだれ》をまき散らしながら狂い死にだ。キノさんが飲まなかったお茶には、この草のエキスがつまってた」
「……どおりで。もし飲んでいたら?」
「即座《そくぎ》に気を失って、その後数日は寝たきりでうめき続ける。その間にエルメス君はバラバラで土の下で、部族は移動してしまっている」
「…………」
「ぞー。あんま考えたくないね」
エルメスが言った。
「うめいている時にも吸わされるから、目覚めたときには立派な中毒だ。もうこれなしでは生きられない。この草はこの平原にしか草えていないし、秋の短い間だけしか収穫できない。だから否応《いやおう》なしに、部族に加わって役目を果たしながら一生を過ごすか、禁断症状で死ぬか、どっちかを選ぶことになる」
「なるほど。よく分かりました」
キノは何度も頷《うなず》いた。そして、ラウハーに訊《たず》ねる。
「あなたは、いつ?」
「五年前だ。うかつにも、な」
「どう……、でした?」
キノの質問に、ラウハーは苦笑し、パイプに草を詰《つ》め直す。
「ああ。目覚めて最初は、なんてことだと思ったよ。悪態もついた。おまけに拒絶反応で苦しかったしね。そこで死んでもおかしくなかった。死んでやろうかとも思った」
ラウハーは、パイプをくわえて火をつける。その口に、笑みが浮かんでいた。
「でも、その時に俺《おれ》を看病《かんびょう》した女が、女と言ってもまだ少女だったが、俺に言った。『死んではダメです。死んではいけません』ってな。ぼろぼろ泣きながら何度も言いやがった。生きていれば、きっといいことがある=Aそうだ。へっ」
「…………」
「それで、俺は、ここで生きることを選んだ。仕事はすぐ覚えて、みんなにも受け入れられた。それから……、その女と夫婦になった。まあ、俺が評価≠ウれた時から決まっていたことだけどな」
「幸せだったの?」
エルメスが聞いた。ラウハーは短く、
「まあな」
そして続ける。
「ひょっとしたら、俺の人生で一番幸せな時間だったかもな」
「……奥さん、は?」
キノが聞いた。ラウハーは、抑揚《よくよう》のない声で答えた。
「去年《きょねん》の今頃《いまごろ》、みんなに殺されたよ」
「なぜです?」
ラウハーは煙《けむり》を吐《は》き出した。テントの外を、
「こっちにもいないぞ!」
誰《だれ》かが叫びながら通り過ぎた。
ラウハーが、
「子供が産めなくなったからさ」
質問に答えた。
「?」
「彼女は俺の子供を身ごもって、そして死産してしまった。同時に、もう一生子供が産めなくなった。子供が産めないのなら、その女の価値はない。そんな人間に、貴重な食料や草を浪費させるわけにはいかない。ここではね。……キノさん、そんなに睨《にら》むなよ」
「……すいません」
「すぐに、族長命令で、死ぬべきと決まった。彼女はそれを受け入れて、殺されて、埋《う》められた。もうそれはどこだか分からない」
「その時おっちゃんは?」
エルメスが聞いた。ラウハーは煙を吐いて、
「彼女は、最後に俺に、最初に言ったこととまったく同じことを言った」
「…………」「…………」
「そういう訳さ」
ラウハーは最後の煙《けむり》を吐《は》き出して、灰を捨ててパイプをしまった。そしてつぶやく。
「そろそろ、かな」
キノが、何がです? と聞いた。ラウハーは答えず、テントの入り口|脇《わき》に音もなく移動した。
部族の男が一人、顔を入れてきた。キノを見て、
「いた! やっぱここだ!」
そう叫んだ次の瞬間《しゅんかん》、喉《のど》から血を派手《はで》に吹き出していた。
ラウハーは死体へと移行しつつある男を、テントの外に蹴《け》り出した。
「さて、外に行こう。……大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
ラウハーが、入り口を大きく開けた。キノは、エルメスのスタンドを外《はず》し、ゆっくりと押す。
外では、全《すべ》ての大人《おとな》がテントを取り囲んでいた。キノ達が出てきて、そしてラウハーを見て、どよめきがおこった。先ほどよりもさらに空は暗い。エルメスが、降るかな? とつぶやいた。
族長が、睨《にら》みつけながら聞く。
「どういうつもりじゃ?」
聞かれた男が答える。
「どうにもこうにも、俺《おれ》は自分のやりたいようにするだけですよ。族長」
「旅人を渡せ。お前の処置はその後考える」
ラウハーはパイプを取り出し、のんびりと丁寧《ていねい》に草を詰《つ》めた。
そして言った。
「考えなくて結構ですよ。もう、あなた達の時代は終わりです」
「たわけ!」
じらされた族長が叫んだ。長い棒《ぼう》を持った男達に命令する。
「一斉《いっせい》に飛びかかれ! 逃がすなよ! 双方《そうほう》とも、多少のけがはさせてもかまわん」
ラウハーが、マッチを擦《す》った。その火を、ゆっくりとパイプに移して――
ぼんっ!
くぐもった破裂音《はれつおん》が集落に響《ひび》いた。大人達が振り返った。そして、最初にそれを見つけた一人が、悲鳴に似た大声を出した。
「か、火事だー! く、草のテントが燃えてる!」
「なにぃ!」
テントの一つから、屋根の隙間《すきま》を抜け、大量の煙《けむり》が真上へと勢いよく立ち上っていた。
ラウハーはパイプを燻《くゆ》らせながら、
「だから言ったでしょう。早くしないと、みんな燃えてしまいますよ」
全員の顔色が変わった。キノやラウハーのことは完全に忘れたかのように、そのテントに殺到する。
テントから立つ煙《けむり》は勢いを増し、炎《ほのお》もちらちらと見え始めた。
「草が! 草がぁ!」
「命の草が!」
「火を消せ! なんとしても消せ!」
狂《くる》ったように叫ぶ人達を、ラウハーとキノとエルメスが、後ろから眺《なが》めていた。
必死の消火も、上から棒《ぼう》や服で叩《たた》くだけではまったく効果がなかった。火は遠慮なく大きくなっていく。
「あれは、去年《きょねん》取れた草をまとめて貯蔵しているテントだ。さっき細工《さいく》しておいた。エルメス君に断って、オイルと火薬を少しいただいたよ。――あの草がなければ、みんなの命は後十日だ」
ラウハーが言った。キノが振り向いた。
「俺《おれ》もね」
そして男は煙を吐いた。
火はさらに成長し、周りにまとわりつく人間達をはっきりと照らした。
草を取り出そうと、一人の男が果敢《かかん》にも火に近づいた。服の袖《そで》と髪に引火して、すぐに火は体中を舐《な》める。
人間のものとは思えない悲鳴を上げながら、男は火だるまで踊《おど》った。誰《だれ》も彼を助けず、やがて踊りきって倒れた。他《ほか》にも数人、体に火がついた者がいた。
必死に火を叩《たた》いていた数人が、酸欠で顔を真《ま》っ青《さお》にしながらバタバタと倒れた。
じゃまな人間をどかし、あるいは踏《ふ》みつけながら、効果のない消火活動は続く。
テントの屋根が落ちた。全《すべ》ての草に火が回り、煙が激しくなった。真《ま》っ白《しろ》なのろしが上がる。
キノには、煙と絶望的な状況を前に、崩《くず》れ落ちてしまう何人かが見えた。別の何人かは、今ある煙を必死に吸い込もうとして顔を突っ込み、そのうちに口から白い泡《あわ》を噴《ふ》き出しながら、ふらふらと歩き、
「きゃきゃきゃ!」
と奇声《きせい》を上げて倒れた。
やがて、テントと草は完全に燃え尽《つ》きた。燃え跡《あと》の周りに、動かない人間がいくつも転がっていた。
動ける人間も、ただ途方《とほう》に暮れていた。
急に、一人の男が、となりにいた女性の首をひねって殺した。次に、近くにうずくまっていた数人を撲殺《ぼくさつ》していった。頭が割れる音が響《ひび》き、動かない人間が増えていく。自分で自分に火をつけて、燃えていく人もいた。
一人の男が、ふらふらとキノ達の前にやってきた。彼の両手は、炭《すみ》同然になっていた。
「へへへっ」
うつろな目でそう言って、それから目を閉じる。ラウハーに、一瞬《いっしゅん》にして喉《のど》を切り裂《さ》かれた。
そしてラウハーは燃え跡《あと》に近づき、他《ほか》のみんなも楽にしていった。へたり込んでいる者、泣いている者、笑っている者、抱《だ》き合っている者、口から泡《あわ》を吹いている者、撲殺《ぼくさつ》している者、半分|焦《こ》げている者。
淡々《たんたん》と、首にナイフを突き立てていった。ゆっくりと、生者の数は減っていった。
「お、お前……。なんてことを……」
最後に残った一人、かつて族長と呼ばれていた男が、目の前に立つラウハーに言った。
「一年前、あなたがあんなことをしなければ、別の道もあったのかもしれませんけれどね」
真《ま》っ赤《か》なナイフを持つ男が、灰色の目で見つめ返す。
族長は頭を抱《かか》え、毛をむしりながらつぶやいた。
「ああ……。終わりだ……。もう全《すべ》て終わりだ……」
ラウハーは首を横に振った。
「いいえ、全てではないですよ。さよなら義父上《ちちうえ》」
ナイフを族長の首に残し、ラウハーは振り返った。キノとエルメスが見ていた。
ラウハーはキノ達に近づき、
「地獄《じごく》は終わった。もう、行くといいよ」
キノが言う。
「一緒《いっしょ》に行きましょう。あなたのみたいに、みんなのポケットに残った草をかき集めて、どこか近くの国に行って。そこでひょっとしたら、あなたの中毒を抜いてもらえるかもしれません。ここにいても死ぬだけなら、少ない可能性でもかけてみませんか?」
男はキノを見つめ、つぶやいた。
「それもいいかもしれないね……」
そしてその後、はっきりと
「でも、私はここに残るよ」
「なぜです? もう誰《だれ》もいませんよ」
キノが言って、ラウハーは微笑《ほほえ》んだ。
「忘れてるだろ?」
「?」
「子供達さ」
キノがあっ、と声を上げる。
「まだ、全てが終わった訳ではない」
「…………」
「彼らに、大人《おとな》達が何をやってきたのか、吸っていたものは何か、なぜ俺《おれ》がこうしたのか。そして、彼らだけで生きる術《すべ》を教える。私が狂《くる》い死ぬまでに。いいや、その死に様を見せることすらも必要だ。そうすれば、彼らは残された家畜《かちく》を使って、生きていけるはずだ。煙《けむり》のない、新しい歴史を作ることができるはずだ。だから俺は、ここに残る」
「……分かりました」
キノが、小さく頷《うなず》いた。そして聞いた。
「あなたの、お国は? もし、ボクが立ち寄ることがあれば」
ラウハーは首を振って、
「その必要はないし、そんなことをしない方がいい。俺は、生まれた国では殺人犯だ」
「…………」
「何をやったのさ? 最後だから教えてよ」
エルメスが、最後だから≠強調しながら言った。ラウハーは苦笑した。
「最後だからね……。俺は、兵士だったんだ。ガキの頃《ころ》から、特殊《とくしゅ》な訓練を受けた。戦争になって、たくさん敵を暗殺したよ。国のため、みんなのためだと思って殺《や》った。でも、戦争が終わると、俺はじゃまになった。正義の戦いに勝った国が、暗殺を命じていたなんて、公にできなかった。俺は、勝手に殺して回ったイカレた殺人鬼として、国を追われた。旅なんてしたくなかったよ。生まれ故郷で一生を過ごしたかった。そこで家庭を築き、普通の生活がしたかった。ここで、やり直せるかなとも思った」
「……納得した。ありがとね」
エルメスが言って、どういたしまして、と返ってきた。
キノは黙《だま》ったままコートを着て、帽子《ぼうし》とゴーグルをつけた。エンジンをかけようとして、
「似ていたからさ」
ラウハーは唐突《とうとつ》に言った。
「はい?」
「さっき、なぜボクを助けてくれるんです? って聞いたろ。まだ答えていなかった。――似ていたからさ。いや、顔じゃないよ。目だ。目が、よく似ていたからさ。本当にそっくりだ」
ラウハーは、灰色の双眸《そうばう》をゆっくりと細めた。
「奥さん……、ですか?」
キノが聞いて、ラウハーは頷く。
「ああ。今でも夢に出る」
「…………。ひょっとして、ボクが取り込まれたら、あなたと夫婦にさせられるはずだったんですか?」
「そうだよ」
「…………」
「さよならだ。会えて嬉《うれ》しかった」
ラウハーはそう言って、キノに背中を向けた。
歩き去る男に、キノが言った。
「助けてくださったこと、一生忘れません。……さようなら」
男は振り向かず、ただ軽く手を振った。
集落にモトラドのエンジン音が響《ひび》き、そしてそれは去っていった。
テントの一つで、子供達が震《ふる》えていた。やがて入り口が開き、灰色の目をした男が一人入ってくる。男はゆっくりと、みんなに話があると言った。とても重要な話で、みんなに聞いてもらいたいと言った。
子供達はゆっくりと、男の周りに集まった。男が子供達全員の目を見渡して、口を開いた瞬間《しゅんかん》、その喉《のど》にカマが突き刺《さ》さり、声は出なかった。
見てたぞ! みんなの敵《かたき》だ! と誰《だれ》かが言った。男はそれでも何かを言おうとして、必死に声が出ない口を動かして、やがて死んだ。
子供達は外に出た。そして泣いた。泣き疲れた頃《ころ》に、誰かが言った。これからは自分達だけで生きていかなくちゃならない。みんなが頷《うなず》いた。これから大人《おとな》達がやっていたことを、自分達でやるんだ。誰かが言って、みんなが頷いた。
子供達は、族長のテントで、何か役に立つ物はないか探した。誰かが、大きな鞄《かばん》いっぱいの変なもの≠見つけて、みんながそれを見た。
それは草だった。誰も気づきようもなかったが、それは族長が非常時用にと取っておいた、ある程度の量の草だった。
誰かが草であることに気づいて、別の誰かが吸ってみよう、と言った。それは大人だけのもの、と一人が咎《とが》めたが、誰かが言った。
「今はもう、ぼくたちが大人だ。だからこれはそのご褒美《ほうび》だ」
その意見は受け入れられて、パイプを口にくわえられる者全員が、それを吸い始めた。最初は、その凄《すさ》まじい感覚に気持ちが悪くなる者もいたが、大人になるためには、耐えられた。
半月ほど後。
この部族は、
第二話 「説得力」
―Persuader―
そこは、幾種もの草と木が生《お》い茂る、密度の高い森だった。新緑の隙間《すきま》からは、午後の光がわずかにもれる。静かな鳥の鳴き声が聞こえる。
鹿《しか》の親子が、並んで草を食《は》んでいた。食事を楽しむように、ゆっくりと。
急に、親鹿が頭を上げた。子供はまだ草に夢中になっている。草がなぎ払《はら》われる音と共に、茂《しげ》みから人間が飛び出してきた。
鹿は驚《おどろ》いて、硬直《こうちょく》する。人間もその姿に驚いて、手に持っていたパースエイダー(注・銃器《じゅうき》のこと)を反射的に向けた。
若い人間だった。十代の半《なか》ばほど。もしくはそれより下。土で汚《よご》れた青いパンツと、緑色の少し厚手のジャケット。鍔《つば》と、耳を覆《おお》うたれがついた帽子《ぼうし》をかぶり、なぜか目にはゴーグルをしていた。その下の表情は硬《かた》く、脅《おび》えているようにも見える。
人間は、逃げ去る二頭の鹿を見ながら息を吐《は》いた。一瞬《いっしゅん》の休憩《きゅうけい》の後、再び走り出した。手にしているパースエイダーは、散弾《さんだん》を撃《う》てるスライドアクション式のもので、バレルの下にチューブ型|弾倉《だんそう》がついていた。
ある程度走ると、人間は太い木の裏に滑《すべ》り込むようにして隠《かく》れた。すぐさま、自分が来た方向にパースエイダーを向けた。大きな目をさらに見開いて、息を殺し、何かをさがしていた。
やがて、茂みが静かに揺《ゆ》れた。人間は、反射的にそこめがけて撃《う》ってしまった。轟音《ごうおん》と同時に、茂みの草が舞い踊る。誰《だれ》もいなかった。
人間は声に出さずに舌打《したう》ちして、今いる場所から飛び出した。左手でバレル下のフォアグリップを往復させる。散弾の撃ち殻《がら》が飛び出して、次が装填《そうてん》された。
頭を低くしたまま、後ろを見ずに必死に走る。茂みをいくつも飛び越えて、先ほどと同じように隠れた。息が荒くなる。
瞼《まぶた》の上の汗《あせ》を急いで拭《ぬぐ》おうとして、手の甲《こう》がゴーグルのレンズに当たった。本人は何が起きたのか分からず、何度か同じ行為を繰り返した。
ふいに、レンズの下の表情がゆるんだ。
「落ち着きなさい、キノ。常に冷静に。怖《こわ》がるのも、恐《おそ》れるのも、後で=v
人間が、誰かが自分に言い聞かすように、小さく声に出してつぶやいた。
自分をキノと呼んだ人間は、少し微笑《ほほえ》みながらパースエイダーを握《にぎ》り直した。腰《こし》のポーチから、散弾を一つ取り出し、弾倉に加えた。
パースエイダーを両手で捧《ささ》げ持つ格好のまま、キノは目を閉じた。木の陰《かげ》で瞑想《めいそう》をしているようにも見える。
そのまま、何十秒かが静かに過ぎた。
かさっ。
そう遠くない位置から、何かが草を踏《ふ》む軽い音が聞こえた。
かさっ。もう一度聞こえた。少し音が大きい。
かさっ。もう一度。さらに近くで。
かさっ。もう一度。キノがゆっくりと、目を開けた。
次の音が聞こえるのと、キノがその方向へパースエイダーを向けるのが同時だった。撃《う》った
幾枚もの草葉だけを、散弾《さんだん》は射抜《いぬ》いた。その少し左脇《ひだりわき》で、茂みが一瞬《いっしゅん》|揺《ゆ》れた。キノは次弾《じだん》を装填《そうてん》、狙《ねら》う。撃とうとした瞬間《しゅんかん》、右側の木の陰《かげ》に人の手と、自分を狙うハンド・パースエイダーが見えた。キノは必死に狙いをずらし、それを射線に捉《とら》える直前に撃たれた。
弾はキノの額《ひたい》に帽子《ぼうし》の上から当たり、そして跳《は》ね返った。続いて木の枝に当たって跳ね、かなり離れた土の上に落ちた。それは、直径が十ミリほどの、球形のゴム弾だった。
「どうですか? キノ」
そう訊《たず》ねながら、キノを撃った人間が木の後ろから現れた。
にこやかな笑みを浮かべる、老婆《ろうば》だった。華奢《きゃしゃ》な体つきに、後ろでまとめられたきれいな銀髪。スリムなパンツをはき、シャツの上に、薄緑色をしたカーディガンを羽織《はお》っている。キノと同じように、ゴーグルをしていた。右手には、大口径《だいこうけい》のリヴォルバーを持っていた。
「痛いです。でもどっちかと言うと、悔《くや》しいです」
頭を押さえたまま、視線だけを上げてキノが答えた。
老婆がキノのゴーグルと帽子を取る。額は少しだけ皮膚《ひふ》が破け、薄く血が出ていた。老婆はキノのジャケットのポケットから、小さなあて布と小瓶《こびん》の消毒液を出した。湿らせて、額にテープで貼《は》りつけた。
「まだ若いんですから、顔は大切にね」
老婆は、優しく微笑《ほほえ》みかけながら言った。
「おかえんなさい」
森の中に細い道があった。そこにセンタースタンドで止まっていたモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が、草をかき分けて出てきた老婆とキノに声をかけた。
「おまちどおさま。エルメス」
老婆にエルメスと呼ばれたモトラドは、重い顔をしたキノに、たった一言聞く。
「どこ?」
キノは黙って、帽子の上から額を指さした。
「まあ、まだまだですね。さあ、帰ってご飯を作りましょう」
老婆《ろうば》はそう言いながら、エルメスに載《の》っていたハンドバッグに、リヴォルバーをしまった。
キノはパースエイダーを老婆に渡すと、エルメスに跨《またが》ってエンジンをかけた。騒々《そうぞう》しい爆音が、森に響《ひび》く。
老婆が、クッションを敷いた後部キャリアに、横向きに座る。キノは、エルメスをゆっくりと発進させた。
「キノぉ。そんなに落ち込まなくてもいいじゃん」
走りながらエルメスが言う。それでもキノは黙ったまま。老婆はその後ろで、涼しい顔をしていた。
しばらく走って、ふいに、キノがエルメスを止めた。エルメスも同時に、
「うん、三人かな」
と小さく言った。そこは、あいかわらず森に挟《はさ》まれた道だが、少し先から片側が開けて畑になっている。その先に、小さな家がかろうじて見えていた。
キノは、老婆に振り向いて聞いた。
「今日は火薬屋さんは?」
老婆は首を振る。
「いいえ、予定はないですよ。……キノ、おりなさい」
「え?」
「私の合図で、あの人達を動けなくしなさい。一人はしゃべれるように」
老婆は、さっきキノが使っていたパースエイダーを差し出した。
「そんな……。自信ないです」
「もし何かあったら、その時だけは私が助けます。何事も練習ですよ」
「でも……」
逡巡《しゅんじゅん》するキノに、老婆はやはり笑顔で、
「キノ。強くなりたいのでしょう?」
「……はい」
キノはパースエイダーをつかむと、すばやく森の中に消えた。
老婆は、エルメスの運転席に座る。ハンドルを握《にぎ》ると、エルメスがか細い声を出した。
「あのう…… こかさないでくださいね」
老婆は数回、軽く頷《うなず》いた。両方の手で、それぞれレバーを握《にぎ》りながら、
「大丈夫《だいじゅうぶ》、覚えていますよ。こっちがブレーキで、こっちがクラッチ」
「逆……」
森と畑の間に、小さなログハウスがあった。
その玄関《げんかん》前に、どこをどう見ても盗賊《とうぞく》にしか見えない男が、三人いた。太った男。痩《や》せた男顔に傷《きず》のある男。長いライフルタイプのパースエイダーを、それぞれ持つ。乗ってきた馬が、玄関に繋《つな》がれていた。
男達は、爆音をたてながらよたよた走ってきたモトラドと、乗っている老婆《ろうば》を見て、やれやれとつぶやいた。
老婆は、家と男達の前でなんとかエルメスを停止させた。そして、
「ちがいます、そっちの足で、スタンドを出す……」
「こっち? あ、この出っ張りね。思い出したわ」
「そうです。あっ、でも柔《やわ》らかい土では……、センタースタンドの方が……」
「よいしょ」
老婆は、ようやくサイドスタンドを出して、ハンドバッグを持っておりる。ゆっくりとサイドスタンドが土にめり込み、エルメスはべしゃっ、と横に倒れた。
「非道《ひど》い……」
盗賊の一人が、雑な大声で聞いた。
「おい婆《ばあ》さん! この家のもんか?」
老婆は会釈《えしゃく》して、
「珍《めずら》しいお客様ですね。今お茶をお出ししますね」
盗賊達は鼻で笑った。呆《あき》れた様子で、
「お茶なんていいからよ、今すぐ家の中にある金目のもの、ありったけの出せや。おとなしく言うとおりにすれば、まあ、命だけは助けてやってもいい。それとも、」
「それとも?」
「この場で俺《おれ》達にぶち殺されて、醜《みにくい》い骸《むくろ》さらすか?」
「それは、私を脅《おど》していらっしゃるのですね」
老婆が確認するように聞いて、盗賊がだみ声を出した。
「そうだよ! 婆さんボケ入ってるか? 聞こえてるか?」
老婆が、ハンドバッグを体の前に持ち替えた。
「聞こえていますよ。――キノ。やりなさい」
キノは森から飛び出して、撃《う》った。太った男の頭に、ゴム散弾《さんだん》が全《すべ》て命中して、彼は真横に倒れた。キノは背の高い男の懐《ふところ》に入り、パースエイダーのストックで彼の股間《こかん》を強打、振り戻《もど》して顎《あご》を撃って、アッパーカットをくらわす。倒れる体を盾《たて》にして、最後の一人の両手を撃った。
「……あ、あああっ?」
武器を落とし、痛む手を押さえながら、顔に傷のある男が声を出した。仲間二人は、地べたに横になり、完全に気を失っていた。
キノは用心深くその男に狙《ねら》いをつけ続け、その脇《わき》で老婆《ろうば》が話しかけた。
「あの……」
「うわっ」
男がたじろいだ。
「そんなに怖《こわ》がらなくても、あなた達の命をとるようなことはしませんよ。その代わり……」
「は、はい……」
「金目のものを、ほとんど出してください」
「はい?」
「以前お仕事をされたんでしたら、お持ちでしょう? そのうちのほとんど全部を出してください。それとも……」
「……そ、それとも、なんでしょうか?」
老婆はにっこり笑って、
「あら、よくお分かりでしょう?」
男がコクコク頷《うなず》くのを見て、エルメスが、倒れたまま小さくつぶやいた。
「オニだなー」
「この先半日ほど行くと、川があります。浅いですから、馬なら渡れますよ。――そして、そこにつくまでは、決して後ろを振り返っては、いけませんよ」
老婆の最後の一言を聞いて、顔面|蒼白《そうはく》の盗賊《とうぞく》達は去っていった。
キノは不思議そうな顔をして、それを見送った。
老婆は、宝石やらブレスレットやらで満杯《まんぱい》になったパンかごを手に、キノに話しかけた。
「よくできましたね。さあ、食事の準備をしましょう」
キノは老婆を見て、頷いた。
踵《きびす》を返して家に入りそうな二人に、
「その前に起こして……」
エルメスが言った。
夕方の森の中。
キノは手斧《ておの》を一つ持って、家の裏に出てきた。エルメスが、窓のそばに止まっていた。
そこから少し離れたところに、丸いままの薪《まき》の山と、斜《なな》めに切られて、年輪がこちらを向いている切り株《かぶ》があった。
「ねえエルメス」
薪をいくつか選び出しながら、キノが急に話しかけた。
「ん?」
「あの盗賊《とうぞく》さん達は、なんであんなに弱いのに、盗賊なんてやってるんだろう?」
「…………」
「こんなこと言われたくないかもしれないけど……、危《あぶ》ないんじゃないかな?」
訝《いぶか》しげな顔をするキノに、エルメスが小声で言う。
「……別に、あの人達が特別弱い訳じゃなくてさ……」
「ん?」
キノが振り向いた。その額《ひたい》には、小さな青あざがあった。
「いいや、なんでもない。それより、早く薪割《まきわ》りをすまそうよ」
「そうだね」
キノは薪を、斜《なな》めの切り株に載《の》せた。
エルメスのところへ戻《もど》ってくると、キノは手斧《ておの》を握《にぎ》り直し、
「よっ!」
軽く声を出しながら、薪に投げつけた。
斧は二回転しながら飛んでいき、薪を真《ま》っ二《ぷた》つに割った。
第三話 「同じ顔の国」
―HACCP―
低いテーブルが、いくつも置いてあるようなところだった。
茶色の土と石の大地に、頂上が平坦《へいたん》な丘がたくさんある。丘と丘の間は、かつて真《ま》っ平《たい》らだったこの地を雨が削《けず》った跡《あと》だ。それも風化して、谷底も今は平らにならされている。丘にも谷にも、草は一本も生えていない。
空は透《す》き通るように蒼《あお》い。高いところにだけ、すじのような薄い雲が流れていた。
一本の道があった。それはほんの少し白く見えるだけの線で、丘を上っては平らに走り、下っては平らに走るを繰り返していた。
乾《かわ》いた土埃《つちぼこり》を上げながら、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。
モトラドは、旅荷物を満載《まんさい》していた。後輪の両脇《りょうわき》に箱をつけ、上には大きな鞄《かばん》と寝袋がくくりつけられている。その脇では、引っかけられた小さな銀色のカップが踊っていた。
運転手は茶色のコートを着て、長い裾《すそ》を両腿《りょうもも》に巻きつけてとめていた。鍔《つば》と耳を覆《おお》うたれのついた帽子《ぼうし》をかぶり、ゴーグルをしている。顔には埃よけに、バンダナを巻いていた。
モトラドは丘の斜面を駆《か》け上り、自然のテーブルの上を走った。そして下りにさしかかった時、運転手はモトラドを急停止させた。後輪が少しロックして滑《すべ》る。土埃がモトラドと運転手を包んで、すぐに晴れた。
「見えるかい? エルメス」
運転手がバンダナをおろしながら言った。その顔は、若かった。十代の半《なか》ばほど。
エルメスと呼ばれたモトラドが答える。
「うん。見える見える。なかなか、すごいね」
「ああ」
運転手が頷《うなず》いた。
彼らが見おろすのは、他《ほか》のとは比べものにならないほど幅の広い谷だった。向こう側の丘がぼんやりとしか見えない。そしてその谷の中央に、一つの国があった。
高い城壁が、巨大《きょだい》な円を造っていた。中央に、大きな建物群とそれに並ぶ街が見えた。それを、あざやかな緑色の森が取り巻いている。森の所々には、青々と水をたたえた池がいくつもあった。
茶色の荒野と緑の森。円の外と中では、別の世界が広がっていた。
「キノ。あの水は?」
エルメスが聞いて、キノと呼ばれた運転手が答える。
「たぶん、地下水脈だ。この谷を造った大河が、まだ地下の深いところを流れてるんだ」
「はー、なるほど。キノ、とっとと訪れてみよう。こんなすごいところの、あんなすごい国は興味がある」
エルメスが楽しそうに言った。
「それはボクもだ」
キノはバンダナをつけ直した。
エルメスを発進させ、谷を勢いよくおりていった。
そんなキノとエルメスの姿を、遥《はる》か遠くから高倍率の双眼鏡《そうがんきょう》で覗《のぞ》く誰《だれ》かがいた。土の中に穴を掘って、同じ色の布で覆《おお》っている。
その誰かは、舌打《したう》ちした。
「まずいな……。あの国に入るぞ」
となりにいる別の誰かが、聞いた。
「旅人、ですかね。あの国の恐《おそ》ろしさを知らないんでしょうか?」
最初の誰かが、少し声をこわばらせ、吐《は》き捨てるように言った
「知っていたら、誰が入るものか……」
そしてこう続けた。
「軍曹《ぐんそう》。本部に連絡だ。緊急事態発生」
その国の城壁には、門が一カ所しかなかった。キノは反対側までぐるりと回った。
門の前に小さな詰《つ》め所があって、若い男女一人ずつの番兵兼入国|審査官《しんさかん》がいた。
キノが審査官に、観光と休養で三日間入国させてほしいと告げる。すると審査官は、条件を一つ出した。
「入国前に、キノさんの血液を検査させていただきます。これは、今までない病気を国内に入れないようにするためです。検査に多少お時間がかかります。ご了承《りょうしょう》いただけますでしょうか?」
キノは具体的にはどうするのかを訊《たず》ねて、注射針で腕《うで》から血液を採《と》るんですと返事が来た。
「…………」
急にキノが押し黙って悩むのを見て、エルメスが、
「どしたのキノ? ……注射が恐《こわ》いとか、言わないよね?」
キノは、全然まさかまったくそんなことは言わないよ、と早口で言った。審査官に丁寧《ていねい》に案内されて、詰め所の奥に消える。
しばらくして、キノが疲れた表情で出てきた。
「こればっかりは、何度やっても嫌《きら》いだ……」
誰《だれ》にも聞こえないように、小さな声でつぶやいた。
太陽はゆっくりと、しかし着実に傾く。
「申し訳ありません。あとしばらくかかると思います」
男性の審査官《しんさかん》が、エルメスに座ってぼんやりと待つキノに言った。
さらに待って、オレンジの太陽が完全に沈みそうになった時、審査官が詰《つ》め所から飛び出してきた。
「検査結果が来ました。入国|大丈夫《だいじょうぶ》です。お待たせしました!」
キノは、寝ていたエルメスを叩《たた》いて起こした。敬礼をする審査官を背中に、エルメスを押して城門をくぐっていく。
国の中に入ると、壁の影で薄暗い中に、森が広がる。大きな車が一台止まっていて、数人がキノ達を待っていた。中年の男性と女性が一人ずつ。そして若い女性が二人。
「ようこそ旅人さん。本当にお待たせいたしました。もう遅《おそ》いですから、私達が、ホテルにお車でご案内します」
そう話しかけられて、キノが男性に礼を言おうとして、彼の顔を見て驚《おどろ》いた。
男性は、先ほど城門の外にいた審査官だった。
「……いいや、違う」
キノが小さくつぶやく。目の前の男性は、どう見ても五十|歳《さい》は過ぎている。別の人間だった。
キノは今度は男性に礼を言った。そしてとなりにいる女性達を見て、絶句《ぜっく》した。
中年の女性は、女性審査官とまったく同じ顔をしていて、やはり顔には年齢《ねんれい》を感じさせた。しかしその後ろの二人は、外にいた女性審査官と、服以外はまったく同じだった。そこには同じ人間が二人いた。
中年の女性が笑顔で、私達がホテルを運営しています、と言った。となりの二人を、娘《むすめ》達だと紹介する。それを聞いて、
「あ……、ありがとうございます」
キノが慌《あわ》てて礼を言う。彼らは、自分達の車にエルメスとキノを乗せて、ホテルに向けて走り出した。
道中、中年の女性から、
「お待たせしてすいません。入国ルールが他《ほか》の国より厳《きび》しいんです。でも、ご滞在《たいざい》楽しんでいってくださいね」
などと話しかけられたが、キノは生《なま》返事を返した。
ホテルに着いて、キノはエルメスごとロビーに案内された。立派できれいなホテルだが、他《ほか》にお客の姿はなかった。フロントには背広を着た若い男性が一人いて、彼は、審査官《しんさかん》とまったく同じ顔をしていた。話し方と髪型が、少し違った。
ボーイの格好をした若い男性が二人、キノの荷物をわざわざエルメスからおろして運んでくれた。二人とも、審査官とフロントの青年と、同じ顔をしていた。
「…………」
無言のキノとエルメスは、大きな部屋に案内された。キノが値段だけはきっちりと聞いて、案内してくれたボーイは、
「外からのお客様には、全部無料でございます。どうぞごゆっくり。何かありましたら、呼び鈴《りん》でいつでもお呼びください」
そして慇懃《いんぎん》に礼をして去った。
扉が《とびら》閉まって、しばらくキノは考えごとをして立っていた。
「ねえ、エルメス」
「ん?」
キノがこの部屋に誰《だれ》もいないことを確認。そして聞いた。
「今日今まで会った人達は、審査官も、フロント係も、ボーイさんも、みんな、オーナーの家族……、かな? あまりにそっくりだ。女の人達は、最初は三つ子なのかと思ったけど……」
「かもしれないけど、それにしちゃちょっと多すぎない?」
「でも……」
エルメスが、
「たぶんさ、この国の人達は、みんなまったく同じ顔なんだよ。キノは見えなかったかもしれないけど、外に結構人が歩いててさ、男は男、女は女、みんな同じ顔をしてたよ」
こともなげに言った。コートを脱《ぬ》ごうとしていたキノの手が止まった。
「……どう、やって?」
キノはかなり怪訝《けげん》そうに聞いた。
「うーんと……」
エルメスは少し考えて、
「全員同じ工場で同じ生産ラインで造られたんじゃない? それなら、別に不思議じゃないよ」
普段どおりの口調で言った。
「…………」
コートを畳みながら、キノは呆《あき》れた顔でエルメスを見る。
「どしたの?」
「……今日は疲れてるから、すぐに寝る。明日《あした》、失礼にならないように訊《たず》ねてみよう」
「りょー、かい」
キノは着ていた黒いジャケットを、腰《こし》のベルトを外《はず》して脱《ぬ》いだ。同時にハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器《じゅうき》。この場合は拳銃《けんじゅう》)のホルスターも外《はず》す。
キノはシャワーを浴びた。その後、きれいなベッドに横になると同時に寝た。
次の日の朝。キノは夜明けと共に起きた。天気はよかった。
パースエイダーの訓練と整備をして、さらに軽く運動をする。
日が昇って、窓から外を見ると、整った町並みと木々の緑がきれいだった。
部屋の中で、キノは朝食を食べた。相変わらず、ボーイとフロント係と、そして料理を目の前で作ってくれたシェフも、そっくり同じ顔をしていた。
食事後。エルメスを起こして、キノはジャケット姿でロビーにおりてきた。
ホテルの外に、二十人ほどの人間がいた。ガラス越しに、旅人のキノとエルメスに注目している。歳《とし》は違えど、男は男、女は女で、全員同じ顔をしていた。
エルメスがキノに聞いた。
「驚《おどろ》かないの?」
キノは軽く首を振った。
「……もう、慣れてしまいました」
「さいで」
ホテルのオーナーが、一人の三十代後半ほどの男性を連れてきた。同じ顔をしている。
男性が言った。
「おはようございます。キノさん、エルメスさん。私、役場からきた者です。もし必要でしたら、観光案内人を務めるために来ました。いかがしましょう? この国のことでしたら、どんなことでもお答えします」
キノは案内人に、
「ありがとうございます。案内をお願いしようと思います。……さっそくお聞きしたいんですが」
「はい、なんでしょう……、ってホントは分かってますけどね」
案内人は笑顔で、
「なぜみんな同じ顔をしているのか≠ナしょう?」
キノが頷《うなず》く。案内人も頷いて、
「全部説明いたします。同時にご案内したいところがあります。お車にどうぞ」
たくさんの同じ笑顔に見送られて、キノとエルメスは車に乗った。
すぐに一つの大きな建物に到着する。白い壁の、窓のない四角い建物。
中に入って、りっぱな応接室に案内された。キノはイスに座り、エルメスはその脇《わき》にスタンドで立つ。
「あらためまして、私達の国にようこそ。それでは、先ほどの質問にお答えします」
案内人は少しもったいぶって、そして言った。
「私達は、全員がクローンです」
「? クローン≠チて、なんですか?」
キノが聞いた。
「定義から言うと、クローンとは、造りの情報がまったく同じ生き物達≠フことです」
「造りの情報=H」
「ええ。生物それぞれの中には、造りの情報=Aつまり、設計図≠ンたいなものがあります。本当に小さな小さなものですけど、それが違うことによって、さまざまな種類の生物がいます。さらに同じ種類の中でも、姿や形が微妙《びみょう》に違う。人間だったら顔つきや肌《はだ》の色、髪の色、目の色なんかが違ってきます。情報≠フ違いが、個体、つまり人間なら個人、の違いをもたらす。――ここまではよろしいでしょうか?」
「え、ええ」
キノが神妙《しんみょう》な面持《おもも》ちで言った。
「さて、この造りの情報≠ェ完全に他《ほか》と一緒《いっしょ》、まったく違いがない生物達のことをクローンといいます。例えば、木の枝を切り取って土に植えると、そこにその木が根付きますよね。そうするとこの二本は、もともと一つが二つになったのですから、造りの情報≠ヘまったく同じものになります。これもクローンです。ここまでは?」
キノが頷《うなず》いて、
「よく分かります。挿《さ》し木ですね」
「そうです。クローンとは、もともとは小枝≠フ意味がありました」
案内人が続ける。
「それとまったく同じことを人間でやっているのが、私達です。男は男。女は女。それぞれ大基《おおもと》のモデルとなる一人がいまして、全員がそのクローン、ちょっと俗っぽい言い方をすると、コピー人間≠ネのです。同じ顔をしている訳は、これでお分かりになると思います」
「うん、すごく納得。かえってそうじゃない方がおかしいもんね」
エルメスが言った。
キノはエルメスをちらっと見て、それから案内人に聞いた。
「すると……、その……。どうやって?」
「どうやってそのクローンを産み出すか、ですね」
「ええ」
「本来は、ある程度成長した男性と女性が一人ずついて、結果的に子供は女性のお腹《なか》から産まれます。でもこれですと、二人の造りの情報≠ェ混ざった人間になって、男の子が父親とまったく同じ、女の子が母親とまったく同じ人間、にはなりえません。だから我々は、別の方法によります」
キノが聞く。
「つまり、その、……おしべとめしべ云々《うんぬん》≠ェ、まったく必要ないと言うことですか?」
案内人が軽く微笑《ほほえ》んで、
「ええそうです。ちなみにコウノトリ≠熾K要ありませんよ」
キノは目を見開いて、軽く下唇《したくちびる》を噛《か》む。
「あの……、その具体的な方法、ボクにも理解できるように、説明していただけますか? ぜひ」
身を乗り出すキノに、案内人が言った。
「もちろんですよ。そのためにここにお招きしました。ここがそのための施設なんです。でも、館内をご案内する前に、この国の歴史を簡単に説明させてください」
昔、誰《だれ》もいない、草すら生《は》えていないこの地に、一人の男と、一人の女がたどり着きました。この二人こそ、今いる国民全員のオリジナルです。
二人は、生まれ育った遥《はる》か遠くの国で生物・医学などを研究していましたが、提唱した研究、つまり人間のクローンを造るということが、他《ほか》の人々に受け入れられませんでした。やがて、研究禁止の命令が出ます。
二人は、国を捨てる決心をしました。開発した装置一式を巨大《きょだい》トラックに積み込んで、じゃまをする人が誰もいない、新天地を求めて旅に出ました。
そして、二人はここで地下水脈を掘り当てます。水の心配がなくなると、二人は草木を植え、穀物《こくもつ》や家畜《かちく》を育て始めました。
同時に、研究の成果を試《ため》すため、自分達のクローンを造りました。無事にこの世に現れた赤ちゃん達を、二人は我が子として大切に育てました。
やがて、食料生産の増加と共に、着実に個体数、言い替えれば人口が増え、ここに国が生まれました。それから数百年、私達は安定した生活を続けています。
「それでは参りましょう」
案内人の先導で、キノとエルメスは通路を行く。
白衣を着た何人かの、もちろん同じ顔をした人達とすれ違い、いくつかの厳重《げんじゅう》なチェックポイントを通過して、一つのドアの前に着いた。
案内人は、ここです、と言った後、少しおどけて、
「キャベツ畑≠ヨようこそ!」
ドアを開けた。
長い通路があった。片側の壁はガラスだった。
キノが、エルメスを押しながらゆっくりと中に入る。
ガラスの向こうには、廊下《ろうか》よりやや広い空間が平行して続き、太い柱のような、黒いガラス管が等間隔《とうかんかく》で並んでいた。
「あのガラス管が、私達の子宮《しきゅう》≠ナす。十四番をご覧《らん》ください」
案内人が言って、手元のスイッチを押した。
黒色が、ゆっくりと薄れていく。液体に満たされたガラス管の中央に、何かがあった。
やがて形が分かる。小さくて、手と足と下を向いた大きな頭があって、へそからは管が上に向けて伸びていた。
キノがつぶやく。
「生まれる前の、赤ん坊……」
「すごーい」
エルメスは楽しそうに言って、案内人が、
「そうです。胎児《たいじ》です。この子は妊娠《にんしん》で言うと三十五週ほど。しょっちゅう暴れます。消しますよ」
再びガラス管に色がついて、すぐに黒くなった。
「胎児は、全《すべ》てこうして育ちます。成長後ここから取り出されて、つまり生まれて=A後は他《ほか》の国と同じです。さて、先ほどお聞きした具体的にはどうするかですが……」
キノが案内人に振り向いた。
「いくつか方法はありますが、今はこうしています。必要なものは二つ。まずは男なら男、女なら女の造りの情報≠ナす。これは、体のどこから採ってもかまいません。その採った情報≠ヘ、採った部位の、つまり手なら手の情報≠オか働いていません。だからこそ手は手に、足は足になるんですけれどね。このままだとまずいので、ちょっと細工《さいく》して、全体についての情報≠ェまた働くようにします。あともう一つ必要なものは、受精していない卵子です。これは女性から採取して、冷凍保存しています。ここまでは?」
「……なんとか、大丈夫《だいじょうぶ》です」
「うんうん」
キノとエルメスが言って、案内人が説明を続ける。
「次に、卵子の中に、大変に細かい作業をして、造りの情報≠そっくりそのまま移し替えてしまいます。そうすると、この卵子は、造りの情報≠そっくりそのまま持った受精卵になります。そしてこの受精卵を、子宮≠ナ二百六十五日間、成長させます。――お分かりいただけたでしょうか?」
「なるほど……。大まかには、分かりました」
エルメスが、キノに言った。
「ね、言ったとおり。工場でしょ?」
すると案内人は、あはは、と笑って、
「エルメスさんの言うとおり! 昔の家庭内手工業とは違って、大工場での完全品質管理体制です。おかげで我が国では、流産・死産≠竍不妊《ふにん》≠ニいった言葉はもはや死語です。ほとんどの人は知りません」
キノが、案内人に聞いた。
「普通の……、昔流の出産を希望される方は、一人もいないんですか? その、素人《しろうと》考えですけど、情報≠入れ替えた後、人工ではなく、女性の体に戻《もど》す……。可能では?」
案内人は、少し驚《おどろ》いて、
「素人考えなんてとんでもない。キノさんが今言ったのは立派な一つの方法で、間違いなく可能です。現に、家畜《かちく》はその方法で増やしていますよ。手間がかからないことは事実ですからね。でも……、実際にはそんなことをする方は誰《だれ》もいません。いた記録もないです。九ヶ月間も大変な思いをしなければならない。仕事もできなくなる。おまけにさっき言った妊娠《にんしん》事故の可能性もある。お湯は電気で自動で沸《わ》くのに、薪《まき》を割る人はいません」
「なるほど……」
「説得力あるなあ」
キノとエルメスが言った。
案内人は少し饒舌《じょうぜつ》になって、
「あ、でもですね、おしべとめしべ云々《うんぬん》≠ヘ立派に生き残ってますよ。この国ではリラックスの手段、もしくは、基本的には二人で行う<Xポーツの一つです。テニスと一緒《いっしょ》ですね。キノさんも、ご滞在中いかがですか?」
言った後、
「…………。あ、いや、失礼」
通路に、後ろから一組の夫婦が入ってきた。もちろん男は案内人と、女は他《ほか》の女性と同じ顔をしている。ただし女性は、少し太っていた。
案内人を見て、女性が驚いて声をかけた。
「あら? 珍《めずら》しいところで会うわね。お役場の方はお休み? あ、まさかサボってるとか?」
「ひどいなあ、仕事ですよ。久しぶりの案内人業です。こちらキノさんと、エルメスさん」
キノが会釈《えしゃく》、エルメスがどうもー、と言う。
「ああ! 旅人さんね。昨日《きのう》いらしたって言う。ようこそ!」
女性は明るくそう言って、キノ達を手招《てまね》きする。
「ねえ、私達の娘《むすめ》がいるの。ぜひ一緒《いっしょ》に会っていって。こっちこっち。二十五番!」
みんなが前に立って、二十五番の中が見えてくる。
そこには、何もなかった。
すると女性は双眼鏡《そうがんきょう》を取り出して、ガラス管を見る。にっこりと微笑《ほほえ》んだ後、それをキノに渡した。
キノが覗《のぞ》く。中央に、小さな、本当に小さな何かが、かろうじて見えた。
「見えた? 見えたでしょ!」
「え、ええ……」
キノがなんとかそれだけ言って、
「かわいいでしょう? とても愛らしかったでしょう?」
女性はたたみかけた。
「…………。ええ……」
彼女はウットリとして、
「六週目なんだけれど、もう私に似てとってもかわいいの!」
「…………」
さすがにキノは黙《だま》って、案内人が助け船を出した。
「さ、さて、我々は教育施設を見学に行きましょう」
キノ達はキャベツ畑≠ゥら出て、普通の廊下《ろうか》を歩いていた。
「教育施設、とは?」
キノが聞いた。
「その名のとおりで、有資格者にいろいろなことを教えるところです。まず有資格者から説明します」
案内人は、歩きながら説明する。
「この国では、十六|歳《さい》以上の人間が、子供がほしいと願うと、その度に試験を受けなくてはいけません。未婚《みこん》|既婚《きこん》は関係なく、問われるのは、その人が子供をきちんと育てることができるかできないか、です。これにはいろいろな要因があります。その人の健康・心理状態。経済的状態。仕事や学業の状態。子育ての経験。近所に助けてくれる人、たとえば家族などがいるか。書類|審査《しんさ》から面接、筆記、実地などを行って、最終試験は十日間ほど、隔離《かくり》された施設で行われます。弱者に対して暴力行為に及ばないかを調べるために、自分の思いどおりにならない状況をこれでもかと疑似《ぎじ》体験させて、心理的にギリギリまで追いつめて、その対応を見ることもやります。この試験に九十八点以上で合格しないと、子を持つ資格はもらえません」
「きびしーね」
エルメスが言って、
「ええ。厳《きび》しいです。私も、何度やっても厳しいと思います。でも、」
「でも?」
キノが聞いた。案内人は前を見たまま、毅然《きぜん》とした態度で言った。
「それぐらい厳しい審査をくぐった人間でなければ、人の親になんてなってはいけないんです。どんな時でも、優しく、冷静に、無償《むしょう》の愛情を子供に注げる人間でなければ、親になってはいけないんです。親になるということは、ペットの亀《かめ》やイグアナを買ってくるのとは訳が違います。一人の人間を世に送り出して、その人の人生のほとんど全《すべ》てを決めてしまう……。人間にとって、これ以上、責任が重い行為がありますか? いいえ、ありはしませんよ!」
案内人がこぶしを握《にぎ》り、熱く語る。
「自分の子供を遊び半分でいいかげんに育てる者。自分の見栄《みえ》のために飾りたて見せびらかす者。自分の奴隷《どれい》のように扱い無理を強《し》いる者。自分の跡《あと》取りにと勝手なゴタクを押しつけて子供の可能性と職業|選択《せんたく》の自由を奪う者。ストレス解消や泥酔時《でいすいじ》のレクリエーション道具のように暴力を振るう者。――そんな親が生まれて=Aその子供が心身共に健やかに育った事例は、歴史を見ると一つもありません。いち早く役場がそれに気づいて、隔離《かくり》命令を出した件をのぞいてはね。親になりたい者に厳しい試験を受けさせることは、一番必要なことなんです。この国が滅《ほろ》びないためには。この施設は、子供だけではなく、親も創《つく》り出しているんです」
「なるほど……。途中立ち寄った国では、親の顔が見たい≠チて言葉がありましたよ」
キノが言った。
「親の顔が見たい=Bいい言葉ですね……。覚えておきます。ちなみにこの国では、親が子供を殺した場合、理由を問わず死刑です。子供が親を殺した場合は、理由も子供の年齢《ねんれい》も問わずに無罪です。当然ですよね。子供は親に育てられるのですから。自分の育てた子供が、自分を殴《なぐ》ったり蹴ったり殺したりしても決して文句《もんく》を言ってはいけません。そういうふうに育てたその親が、百パーセント悪いのですから。甘《あま》んじて受け入れないと」
「…………」「…………」
そして彼らは、イスがいくつか置いてある、通路の突き当たりで止まった。
「すいません。ドアを通り過ぎました」
案内人が言った。
「そして、審査《しんさ》をパスした方たち、つまり有資格者には、親教育≠ェ待っています。これは初めての場合、約二百五十日間、つまり胎児《たいじ》が育つのと同じ時間だけ続きます」
一つドアをくぐって、キノとエルメスと案内人は、別の通路を行く。やはり半面ガラス張りで、下にある教室のようなものがよく見えるようになっていた。
「ご覧《らん》ください」
案内人が指さした教室では、十人ほどが人形を使い、赤ちゃんの沐浴《もくよく》の練習をしていた。となりの教室では、ノートとテキストを使った勉強会が開かれている。そのとなりでは、離乳食の料理教室が行われていた。生徒達の男女比は半分ずつ。みんな必死だった。
「ああやって、子育てに必要な知識、技術をマスターします。これにも最終試験があるんですけど、受かるまで子供を抱《だ》くことができません。みんな必死ですから、落ちる人はまずいません」
「なるほど」
キノが下を見ながらつぶやいた。
「そして最後の最後に、待《ま》ちに待った出産≠フ日をむかえます。初めて自分の手で、我が子を抱きます。……実際感動ですよ。手にした小さな命が、自分とまったく同じ情報≠持っているなんて。この国の男は男、女は女、全員同じだって分かっていても、それでも自分と同じ子供、分身の重みは格別です。そして、私みたいに結婚している人には、愛する妻とまったく同じ娘《むすめ》も」
案内人は目を細めながら言った。
「残念ながら今日|明日《あした》は、生まれる@\定の子が一人もいないので、キノさんに感動の瞬間《しゅんかん》をお見せすることはできません。それが唯一《ゆいいつ》残念です」
教室の見学を終え、キノ達は応接室に戻《もど》ってきた。
案内人が、最後にもう一つ情報を、と言って、
「私達の国には、一つ大きな弱点があります」
深刻そうな顔を作ってそう言った。
「弱点?」
キノが聞いた。
「ええ、それは病気です。キノさんが入国の際、あれだけ入念な血液検査をしたのは、この国で存在が確認されていない、もしくは治療法を持っていない病気を、国内に持ち込ませないためです。それがキノさんにとって、生まれた国では誰《だれ》もがかかるありふれたものでも、この国に、私達二人≠ノとっては致命的になりかねません。この意味、お分かりになりますか?」
案内人がクイズを出して、キノはゆっくりと、確認しながら答える。
「……つまり、みんな同じだから、一人がその病気にかかれば、みんなが同じようにかかる危険性がある。たった一種類の病気で、同性|全滅《ぜんめつ》がありえる」
「同じ工場で同じラインで造られた同じモトラドの、同じ箇所が同じように故障《こしょう》するようなもんだね」
エルメスも言って、案内人は満足げに頷《うなず》いた。
「そのとおりです」
「実際は、どうなんですか? 今までその危機は?」
キノが聞いて、案内人は首を振った。
「今まではありませんでした。二人は、この地に自分達がかかるような病気がないことを完全に調べてから子供を残しました。私達は、この地を離れることはありません。だから後は、たまにいらっしゃる旅人さんのチェックだけです。それも、徹底的にやっていますので、今までは問題ありません。まあ、将来は分かりませんが」
「…………」
真剣《しんけん》な面持《おもも》ちのキノに、案内人が明るい声を出す。
「なあに、確かにこの世界は、まったく安全ではありません。でもね、」
「でも?」
キノが聞いて、案内人はにっこり笑って言った。
「生き残ろうとする意志があれば、そんなに簡単に滅《ほろ》びはしませんよ」
「以上で、全《すべ》ての案内は終わりです。いかがでした?」
「うん。とっても面白《おもしろ》かった。大変満足」
エルメスが言った。
「それは嬉《うれ》しい。キノさんは?」
キノは小さく何度か頷《うなず》きながら、
「……今まで、いろいろな国を見てきた中で、間違いなく一番|驚《おどろ》きました……。来てよかったと思います」
案内人がホッとした様子《ようす》で、嬉しそうに言った。
「ありがとうございます。そう言ってくれると、案内人でよかったと思います」
そして聞いた。
「キノさん。私は普段昼食を取りに家に一旦《いったん》帰るんですが、ご一緒《いっしょ》にどうですか? もしキノさんが昼食にこの国の家庭料理を希望されるんでしたら、そんじょそこらのレストランよりはるかに美味《おい》しいものが食べられますよ。まあ、公私混同の職権乱用ですけど、いかがでしょう?」
車から、キノがエルメスを押しながら降りた。同時に、四人の同じ顔をした、そして同じ服を着た女の子達と、三人の同じ顔をした、そして同じ服を着た男の子達に取り囲まれた。
通りに並ぶ住宅の門の前で、案内人の帰りを待っていた子供達だった。
子供達はキノとエルメスを見て、いろいろなことを一斉《いっせい》に喋《しゃべ》るが、混ざって聞こえて何を言っているのか分からない。
「はいはい。みんなお出迎えありがとう。こちらが旅人さんのキノさん。こちらがキノさんの相棒《あいぼう》で、モトラドのエルメスさん」
案内人が言って、
「みんな今日《こんにち》は」
「どうもー」
そして、また何か思い思いに喋《しゃべ》る子供達を引き連れて、家の敷地に入った。全《すべ》ての女性と同じ顔をした奥さんが、エプロン姿で出迎えた。
キノは広い庭に案内される。そこには手の掛かったきれいな芝生《しばふ》と草木、そして大きなテーブルがあった。テーブルの上には、料理の皿が並んでいた。
案内人が子供達に、紹介《しょうかい》するから生まれた順に並ぶように言った。子供達が、横一列になった。
「それでは、右から。長女ヘン、十二|歳《さい》。次女デュオ、十一歳、長男トリア、十歳」
呼ばれた子供が、女の子はスカートの裾《すそ》をつまむしぐさで、男の子は胸に手を当てて礼をしていく。
「三女は二人。テッタラとフレジア。二人とも九歳。まったく同じ日に生まれました」
外見は寸分《すんぶん》|違《たが》わぬほどそっくりな二人が、同時に礼をした。
「次男ヘクス。八歳。三男ヘブタ。七歳。以上が私の大切な家族です。……あ、あとうちの奥さんね」
「あら、覚えていてくれて光栄」
奥さんがちゃかした。
昼食はどれもこれも、美味《おい》しかった。案内人が、肉も野菜もクローン技術で生産されていて、そのためこの国では、食料に困ることはまずないと告げた。
ゆっくりデザートまで食べた後、子供達はみんな庭で遊ぶ。奥さんが案内人に、あなた役場の仕事はいいの? と聞いたが、案内人は芝生に寝ころんだまま、
「旅人さんのそばにいるのが、今日の私の仕事です。ボスにばれなきゃいいんです」
「あなたそれ、公私混同の職権乱用よ」
呆《あき》れて言った奥さんとキノが、顔を見合わせて苦笑した。
エルメスは子供達に囲まれて、いいおもちゃになっていた。
しばらく子供達を見ていたキノが、横になっている案内人に話しかけた。
「外《はず》れたらごめんなさい。今一番左にいるのがヘン。次がトリア、ヘブタ、ヘクス。エルメスのライトを触《さわ》っているのがテッタラ、後ろにいるのがフレジア。一人イスでお茶を飲んでいるのがデュオ」
「…………」
案内人が飛び起きた。ざっと子供達を見て、
「……正解です。どうやって?」
驚《おどろ》きの表情でキノを見た。
「最初に見分けがつかなかったのがくやしくて、食事の時から見てました。驚きました。食べ方や、ちょっとした仕草《しぐさ》が全員違うんですね。あとは、性格から来る、微妙《びみょう》な顔つきの差です」
キノが言って、案内人はしばらく絶句《ぜっく》した。
「…………。そ、そのとおりなんですが、こんなに短時間でとは……。いやあ、キノさんはすばらしい洞察力《どうさつりょく》をお持ちだ。感服しました」
キノが少し照れて、案内人が聞く。
「ちなみに、一番難しかったのは?」
「長男のトリアと、三男のヘブタです。背もそんな違わないですし、顔つきや行動も似てます。二人とも、とてもおとなしい性格では?」
「ご名答。そのとおりです。二人とも、姉達にはまったく頭が上がりません。まあ、私も妻には頭が上がらないから、うちの男どもの中では、一人ヘクスが気を吐いてますよ。……すぐに分かったのは?」
キノはエルメスの前に立つ二人を見ながら、
「意外なことに、見た目ではほとんど判断できないテッテラとフレジアです。フレジアはいつもテッテラの後ろにいますね」
案内人はそのとおり、と言って、そして少し顔を曇らせた。
「フレジアはね、もともと私達の娘《むすめ》になるはずじゃなかったんです」
キノが案内人に顔を向けた。
「この国では、一度に二人は申請《しんせい》できません。最短でも年子じゃないと。フレジアは……、母になるはずだった若い女性が、後二日というところで、事故で亡くなってしまったんです。それで、同日テッテラを産んだ℃達が、特例で受け取ったんです。フレジア≠ヘその女性の名前ですよ」
「そうなんですか……」
「むろん、妻や娘達と同じ情報≠持つ子供ですから、何ら問題はありません。家族全員フレジアのことは知っています。ただ……」
「ただ?」
「その若い女性――フレジアは、さぞかし無念だったろうな、と思います。その名前を口にする度に思いますよ。だから彼女のためにも、フレジアには幸せになってもらわないと。そのために自分にできることは、一体なんだろうかといつも考えています」
「…………」
しばらく、二人は子供達を見ていた。すると、フレジアがやってきて、久しぶりに、今日これからずっと一緒《いっしょ》に遊ぼうよ、そう言って父親を誘《さそ》った。案内人が、少し困った顔で娘を見た。
キノはすっ、と立ち上がって、
「さて、そろそろボク達は、自分達だけでこの国を走って回りたいと思います。ですから案内は、今日はこれで結構です。とても助かりました。ありがとうございます。……あなたのボスには、一日中案内してもらったと、もし会ったら伝えます」
案内人が驚《おどろ》いてキノを見上げて、キノは笑顔で言った。
「ばれなきゃいいんですよね」
次の日。つまりキノが入国してから三日目の朝。
あいかわらず天気はいい。キノが訊《たず》ねたら、一年中こんな様子《ようす》だと言われた。
キノはエルメスに燃料と、自分の食料や水を補給して、昼前に出発準備を終えた。
ホテルの前に、案内人が一家でやってきて、それぞれお別れの挨拶《あいさつ》をした。案内人は特に、昨日《きのう》のことを感謝した。
案内人は子供達を奥さんの運転で先に帰した。そして、キノとエルメスに、
「最後に、とても重要なお話があります。どうか今から話すことを、よく聞いてください」
今までにない真剣《しんけん》な顔をして言った。
城門の内側に、案内人、ホテルのオーナー達、そして、その他《ほか》の暇《ひま》そうな人達が、旅人の最後の見送りに集まっていた。男は男、女は女で、まったく同じ顔をしていた。
案内人が代表して言う。
「キノさん。エルメスさん。ご滞在《たいざい》、本当にありがとうございました。また近くを通ることがあれば、遠慮《えんりょ》なく立ち寄ってください。その時は、私の子供達があなた方を歓迎するでしょう」
「ありがとうございました」
「ありがと。みんな元気でね」
城門をくぐっていくキノの背中を見送って、案内人はふーっと息を吐《は》いた。
「これで、案内人業も終わりか……。もっと頻繁《ひんぱん》に旅人が来ないかな」
それを聞いたホテルのオーナーが、やや呆《あき》れ口調で、
「そんなこと言ってないで、さっさと役場に戻《もど》ってくださいよ。仕事たくさんあるじゃないですか」
オーナーの奥さんも、
「そうですよ。これからが大変なんですからね。だいたい昨日半日休んだでしょう? いつまでもここで油売ってないで、さあ! 本業に戻る戻る!」
年上に容赦《ようしゃ》なく叱《しか》られた元案内人は、力無くつぶやいた。
「はーい……」
「うん。面白《おもしろ》かった。実に面白かった」
「だね」
城壁を背に荒野の道を走りながら、キノとエルメスが言う。
「あの国だったら、また遊びに来てもいいな」
「おっ? キノがそう言うのは実に珍《めずら》しい」
モトラドは、派手《はで》に砂埃《すなぼこり》を巻き上げて走る。
そんなキノとエルメスの姿を、結構近くから双眼鏡《そうがんきょう》で覗《のぞ》く誰《だれ》かがいた。土の中に穴を掘って、同じ色の布で覆《おお》っている。
その誰かは、嬉《うれ》しそうに言った。
「よし! 無事を確認したぞ」
となりにいる別の誰かが、聞いた。
「運がよかったんですかね。あの国の恐《おそ》ろしさを知らなくてすんだのでしょうか?」
最初の誰かが、少し声を弾《はず》ませて言った
「そんなことはどうでもいい。被害者をこれ以上出さないのが、我々の使命だ」
そしてこう続けた。
「軍曹《ぐんそう》。本部に連絡だ。これより旅人さんを保護する」
モトラドは国がある広い谷間をひた走り、そして目の前にやっと現れた丘を登った。
登り切ると、平らな頂上があって、三人の人間がいた。キノが急ブレーキをかけて止まる。
三人とも男で、土と同じ色の服を着込み、さらに顔までペイントしていた。あまりに地面と同じ色をしていて、道の上に寝ていたら間違えて轢《ひ》きそうだった。
三人とも、違う顔をしていた。一人が何も持っていない手を広げながら、ゆっくりとキノ達に近づいた。そして言う。
「旅人さん。大変申し訳ありませんが、しばらくこの先に進むことはできません」
「なぜでしょうか?」
キノが聞いた。男はもう一歩近づいて、敬礼して、
「私はここから遥《はる》か南にある国の兵士です。これからここで、我が国が軍事作戦を実行します。ここにいると大変危険です。状況が終了するまで、しばらく、安全なところでお待ちいただけないでしょうか」
「もしボクが断ったら、無理矢理にでも連れていくつもりでしょう?」
キノの質問に、兵士は頷《うなず》いた。
「そのとおりです。我々は、旅人さんの安全をなんとしても守れと、命令されています」
「分かりました。ボクも自分の身がかわいいので、そうします」
キノが言うと、兵士の一人が地面にしゃがみ、そこにあった布を持ち上げた。穴があって、小型のバギーが隠《かく》してあった。
国と反対側の丘の斜面、頭を出すとなんとか国が見える位置に、大きなテントがあった。双眼鏡《そうがんきょう》がいくつも据《す》えつけられ、兵士が谷の国をのぞいている。
キノとエルメスは、そこに丁重《ていちょう》に案内された。
「お連れいたしました!」
「ごくろう」
兵士が敬礼して去って、軍服を着た中年の男性が、キノに自己|紹介《しょうかい》をする。
「今日《こんにち》は。旅人さんにモトラドさん。私が全部隊の指揮官です。もし我が軍の行動で無関係の旅人さんに被害が及んでしまうようなことになれば、我が国の沽券《こけん》にかかわります。ここは、我が軍の前線本部です。ここなら安全です。大変申し訳ありませんが、しばらくお待ちください」
「なるほど。ところで、これから何を?」
キノが聞くのと同時に、テントの下の誰《だれ》かが、無線機に命令を発した。
「旅人さんの安全を確認。砲撃《ほうげき》準備!」
「砲撃?」
エルメスが聞いて、指揮官が答える。
「ええ。今から我が軍は、向こうの谷にある国を砲撃します。あれをご覧ください」
指さしたのは丘の斜《なな》め下で、盛り土のようなものがいくつも並んでいた。たくさんいる兵士達がカバーを片《かた》っ端《ぱし》から取っていき、それが大砲《たいほう》であることが分かった。
砲口《ほうこう》がゆっくりと持ち上がり、やがて全《すべ》て、国の方角へぴたりと向いた。
号令が飛び交って、本部があわただしくなる。
「全砲《ぜんほう》、準備よし!」「観測班、準備よし!」「医療班、準備よし!」
「砲撃が始まったら、丘の上に出て見学されて結構です。それでは行きますよ……」
指揮官がキノに言って、それから部下に命令を出した。
「撃《う》ち方、始め!」
谷の下から、隣《となり》の家に雷《かみなり》が落ちたような音が轟《とどろ》いた。全ての大砲から、白い煙《けむり》が立った。本部テントにいた兵士達が、丘の上に上っていく。キノも、エルメスに乗って上がった。
遠くに見える国のすこし上空で、黒い花が一斉《いっせい》に咲いた。何かが連続して破裂《はれつ》して、煙《けむり》が花のように見える。その破裂音が、かなり遅れてから届いた。
背中からまた砲声が轟き、また花がいくつも咲いた。それが、何度も繰り返された。
いつの間にかキノの隣《となり》で見ていた指揮官が、キノとエルメスに、丁寧《ていねい》に説明する。
「今|撃《う》っている砲弾《ほうだん》は、空中で破裂《はれつ》して、細かい破片《はへん》を辺《あた》り一面にまき散らします。これでまず、屋外や頑丈《がんじょう》ではない家にいる人を効果的に叩《たた》きます」
「…………」
やがて黒い花は咲かなくなり、城壁の中で何かが派手《はで》に爆発するようになった。
「高性能爆薬がつまった砲弾です。頑丈な建物を、中にいる人ごと破壊します。徹底的にやります」
辺《あた》り一面、大砲《たいほう》を撃つ音と、遅《おく》れて届く着弾の音が混ざり、非常にやかましい。
キノが大声で、指揮官に言う、
「今|砲撃《ほうげき》をやめてほしいと言っても、中止はしてもらえないでしょうね」
「それは、無理です。今止めると、反撃《はんげき》を食う危険がありますから」
指揮官がそこで一旦《いったん》区切って、
「ああ、なるほど。旅人さんが何か忘れ物を思い出されたのですね。それは、私達が弁償《べんしょう》いたします。無関係な貴方《あなた》を巻き込んでしまって、大変申し訳なく思っています」
キノは首を振って、
「いいえ、いいです。大したものではありませんので」
指揮官が、心配そうな顔をしてキノを見た。
「我々は二日前、あなたがあの国に入っていくのを見ました。本当は昨日《きのう》の昼に一斉《いっせい》砲撃する予定だったんですが、無関係のあなた方を巻き込むわけにはいかず、こうして待っていました」
指揮官が言って、
「そうだったんですか……。それはどうも、お|心遣《づか》い感謝します。ところで、一応お聞きしたいんですが、なぜ砲撃を?」
「もちろんあの、みんな同じ顔をしている、悪魔の国を地上から消すためですよ」
「すると――」
キノが言いかけて、激しい一斉射撃の砲声《ほうせい》にかき消される。キノは言い直した。
「すると、どなたかが一旦《いったん》国に入ったんですね?」
「ええ……。たまたま旅をしていた我が国の一団が、迷い込むも同然に。そして、あれを見たのです。全《すべ》てが同じ顔。人間を作り出すガラス容器。彼らは、必死に逃げ帰ってきて、そのことを伝えました。でも……」
「でも?」
「その十人のうち、一人は自殺してしまいました……。残りも相当精神的にショックを受けたようで、二人ほど心と体の調子を崩《くず》し、ずっと病院で治療を受けています。可哀相《かわいそう》に……」
「だから完璧《かんぺき》に滅《ほろ》ぼすことに、…………、したんだ」
途中|砲声《ほうせい》に遮《さえぎ》られながら、エルメスが言った。国からは、何かが燃える黒い煙《けむり》が立ちこめ始めた。その中で、爆発が続く。
「ええそうです。これ以上被害者を増やさないために。そしてあの悪魔的|所業《しょぎょう》が我が国や他《ほか》の国に伝播《でんぱ》しないように……。ですから旅人さん、あなた方が知らずに入っていくのを見て、また犠牲者《ぎせいしゃ》が出てしまうのかと、我々一同本当に心配しました。よくぞご無事で……」
「…………」「…………」
ふいに、砲声が聞こえなくなった。最後の砲弾《ほうだん》が炸裂《さくれつ》して、その音が低く伝わってくる。そして静かになった。あちこち欠けた城壁の中からは、黒煙《こくえん》がもうもうと立ち上り、風でゆっくりと流れていった。
「終わり、ですか?」
キノが聞いて、指揮官が、砲撃は終わりですと答えた。
「砲撃は=H まだ何かあるんですか?」
「ええ。あちらをご覧ください」
指揮官が、大砲《たいほう》の列の後ろを指さした。工場の煙突《えんとつ》のような、巨大《きょだい》な円柱が台車に載《の》せられトラックに引っ張られてきた。先が尖《とが》り、後部に小さな羽根がついている。
「ミサイル?」
エルメスが聞いて、指揮官が頷《うなず》いた。
「今からあれを、あの国に撃《う》ちます。もしたった一人でも残せば、またそこから奴《やつ》らは増えていきます。確実にとどめを刺《さ》すために、我々は苦心の末、特殊《とくしゅ》な爆弾を開発しました」
「特殊な爆弾、とは?」
キノの質問に、それは見てのお楽しみ、と指揮官が言った。そしてつけ加える。
「旅人さん。ゴーグルとバンダナをされた方がいいでしょう」
ゆっくりと、ミサイルの頭が持ち上がっていった。そして、指揮官が発射の命令を下した。
後部の噴射口《ふんしゃこう》から、火と煙《けむり》を噴《ふ》き出し、轟音《ごうおん》と共に煙突は飛び上がっていった。
煙で軌跡《きせき》を残し、ミサイルは飛んでいく。そして空中で、二つに割れた。後ろはそのまま力無く落下した。先端部は放物線を描き、そのまま国めがけてなだらかに落ちていった。
国に落ちる直前、先端部は割れて、白い液体が一斉《いっせい》に広がった。投網《とあみ》を投げたように、国全体を半球状に包み込む。次の瞬間《しゅんかん》、半球は一瞬《いっしゅん》にして巨大《きょだい》な火の玉に変わった。炎《ほのお》の塊《かたまり》が、全《すべ》てを覆《おお》い尽《つ》くした。
数秒して、轟音と衝撃波《しょうげきは》がキノ達のいるところにも伝わった。土埃《つちぼこり》が激しく舞い上がり、しばらく何も見えなくなった。
たっぷりと時間をかけて、土埃が晴れた。さっきまで国があったところは、何もなくなっていた。城壁もバラバラに吹き飛んで、瓦礫《がれき》が散らばっているだけ。全て平らになっていた。上空には、火山の噴火《ふんか》のようなキノコ雲が、のんびりと立ち昇っていた。
「やったぞー!」
本部にいた兵士達が歓声を上げた。楽しそうに飛び跳《は》ね、抱《だ》きついた。
「うわー、すご。今のが特殊爆弾?」
エルメスが聞く。
「ええそうです。うまくいきました」
指揮官は、ホッとした顔を見せた。
キノがバンダナをおろして、しくみは? と聞いた。
「広がった白い液体は見ました? あれは燃料です。それで国を包み、少し遅《おく》れて爆弾で火をつけます。すると、周りの酸素を取り込んで、一気に燃え上がるんです。その圧力で、地上にあるものはぺしゃんこです。さらに高熱で、生き物の肺を焼きます。もう、虫|一匹《いっぴき》生きてはいないでしょう。大成功です」
指揮官は気持ちのいい笑顔でそう言って、土埃《つちぼこり》だらけの帽子《ぼうし》を取った。それを軽くはたく。
「長い長い仕事が、今だいたい終わりましたよ」
穏《おだ》やかにそう言うと、胸元から一枚の写真を取り出した。それを見て、目を細めた。
「それは?」
キノが聞いて、
「娘《むすめ》です」
指揮官が笑顔で、キノに写真を渡した。
そこには、まったく同じ顔をした、十|歳《さい》くらいの二人の女の子が微笑《ほほえ》んでいた。
「…………」
キノが黙ったまま、エルメスに写真を見せて、そして持ち主に訊《たず》ねる。
「双子《ふたご》さん、ですか?」
「ええ。イリニと、妹のミール」
キノは少し悩んで、
「ボクには、……どっちがどっちか分かりません」
指揮官は楽しそうに、
「あはは。会えばすぐですよ。姉は勝ち気で、妹は本当に引っ込み思案《じあん》ですから」
「そうですか……」
キノがつぶやいて、写真を返した。指揮官はもう一度、ゆっくりと眺《なが》めた。
「この遠征《えんせい》が始まってから、半年以上会ってません。今から部隊を無事に国に引き上げて、そしてやっと、二人に会えますよ。もう、二人ともだいぶ大きくなってるだろうな……」
キノは静かに言った。
「お国に帰られて、娘さんを抱《だ》ける日が早く来るといいですね。きっと楽しみに待ってますよ」
「ありがとう……。旅人さん、もう安全です。お手間を取らせました。ご協力、本当に感謝します。もし南へ来ることがあれば、私達の国にぜひお立ち寄りください。その時は娘《むすめ》達にも」
キノはにっこり笑って、
「いいですね。それでは、ボク達はこれで失礼します」
キノとエルメスは、敬礼を背に本部を出て、丘の上をしばらく走った。
国の跡《あと》が見えるところで止まり、言った。
「みなさん、お元気で。いろいろありがとうございました」
「うん。じゃあね」
モトラドは丘を走りおりた。
笑顔で手を振る兵士達と大砲《たいほう》の脇《わき》を通りすぎて、やがて走り去った。
数日間かけて、軍隊はもういらなくなった大砲をバラバラにして、地中深くに埋めた。周りにゴミも何も残していないか確認して、それからトラックで、兵士達は故郷へと帰っていった。
かつて国のあった地には、瓦礫《がれき》と燃えかすが、ただあった。
それから五十日が過ぎて、廃墟《はいきょ》はゆっくりと、風が運ぶ土をかぶり、大地の色に変わっていった。
それから、さらに五十日ほど過ぎた朝。
廃墟の地面から、瓦礫と土埃《つちぼこり》を吹き飛ばし、何かがはじけ出てきた。
四角いコンクリートの塊《かたまり》で、家のように大きい。ドアがあって、それが開いた。
中から、男は男、女は女、同じ顔をした人間が、ぞろぞろと出てきた。空を見上げて、みな笑顔を作った。
キノを案内した男が、奥さんと子供達と一緒《いっしょ》に出てきた。
「瓦礫には気をつけなさい。転ばないようにね」
男が言って、子供達は、楽しそうにはしゃぐ。
「わあっ、久しぶりの太陽!」
「みて、みんな壊《こわ》れてるー」
「すごーい。まっさらー。たいらー」
男の手を握《にぎ》っていたフレジアが、
「また、前みたいに芝生《しばふ》で遊べる?」
父親を見上げて聞いた。
「もちろんさ。森もすぐに元どおりになるよ。あっという間さ」
フレジアがにっこり笑って、先を歩くきょうだい達のところへ駆《か》けていった。
同じ顔をした誰《だれ》かが、男の脇《わき》に来た。
「やれやれ。見事きれいさっぱりだ。これから役場は忙《いそが》しくなりますな」
男は苦笑いする。
「そうですね。……また、休みが減《へ》るかな」
誰かは、あはははは! と豪快《ごうかい》に笑った。そして言った。
「ご愁傷様《しゅうしょうさま》です、大|統領《とうりょう》|閣下《かっか》。一人の国民として、あなたの仕事ぶりには期待していますよ。同時に、目を光らせてもいます」
その男、大統領兼案内人は肩《かた》をすくめて、
「やれやれ。これ以上|厳《きび》しいボスは、どこにもいません」
「あははははは!」
誰かは笑いながら去った。
廃墟《はいきょ》に、出口から人が溢《あふ》れ出ていく。男は男、女は女。みんな同じ顔をしていた。
大統領兼案内人は、ゆっくりとこっちを見て、にっこり笑って言った。
「生き残ろうとする意志があれば、そんなに簡単に滅《ほろ》びはしませんよ」
第四話 「機械人形の話」
―One-way Mission―
「あら、驚《おどろ》いた。こんなところで誰《だれ》かさんと会うなんて」
紅葉の森の中、一人の老婆《ろうば》が茂《しげ》みから顔を出して、そしてそう言った。老婆は細い体にエプロンをつけていて、手にはバスケット。中には山菜やキノコがどっさり入っていた。
そこにいたのは、若い人間だった。十代の半《なか》ばほど。短い黒髪に、大きな目と精悍《せいかん》な顔を持つ。黒いジャケットを着て、腰《こし》を太いベルトで締《し》めていた。右腿《みざもも》にはハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器《じゅうき》。この場合は拳銃《けんじゅう》)のホルスターがあって、大口径《だいこうけい》のリヴォルバーが入っていた。腰の後ろにもう一挺《いっちょう》、自動式もつけていた。
人間のすぐそばには、旅荷物を積んだモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が止まっていた。
「今日《こんにち》は」
人間が挨拶《あいさつ》をして、
「はい今日は。旅人さんですね?」
老婆が笑顔で返した。
「そうです。ボクはキノ。こちらは、相棒《あいぼう》のエルメス」
キノと名のった旅人が、モトラドを紹介《しょうかい》する。エルメスと呼ばれたモトラドが、どうも、と短く挨拶《あいさつ》した。そして聞く。
「お婆《ばあ》さん、この近くに住んでるの?」
「ええそうですよ。キノさん達は?」
キノは、それなんですが、と前置きして、老婆に訊《たず》ねた。
「この辺《あた》りに、国はありませんか? ボク達はそこをめざして来ましたけれど、見つかりません。あなたは、その国の住人ではないのですか?」
老婆は首を振って、
「国……。いいえ、この近くに国はありません。きっと、道をお間違えになったのでしょう。わたしは、森の中の家に暮らしていますから」
「そう、ですか。ここまでくる道は、あったんですが……」
キノがため息をついた。エルメスが言う。
「廃道《はいどう》寸前だったけれどね。まあ、諦《あきら》めようか」
老婆はその様子《ようす》を見て、少し声を弾《はず》ませて、キノとエルメスに聞いた。
「ねえキノさん、今日は、こんなところで野宿ですか? もうすぐ日も暮れます。もしよかったら、わたしの仕《つか》えているお家にいらしてください」
「仕えている?」
キノの質問に、
「ええ。わたし、ある家に住み込みで働いているメイドなんです。今は、夕食の材料を探しに来ています。家はすぐそこですから。いかがでしょう?」
キノはエルメスにどう思うか聞いて、エルメスはこういう時いつもそうするように、いいんじゃない、と答えた。
「分かりました。お願いしようと思います」
キノが言って、老婆《ろうば》は、
「まあ嬉《うれ》しい。お客様なんて初めて」
楽しそうに言った。
老婆の案内で森の中を行くと、木々が切れて畑が現れた。脇《わき》には細長い家畜《かちく》小屋と、放し飼《が》いにされている鶏《にわとり》も見える。
畑の向こうに、一軒の家があった。
家を見たキノが、眉《まゆ》をひそめた。家は、石とレンガでしっかりと造られた三階建て。奥行きに比べて幅が狭《せま》く、脇《わき》に窓は一つもなかった。まるで通りのアパートのような外見で、それがぽつんと一つ建っている。それは、森と土の辺《あた》りの風景からは、あまりにも浮いていた。
「あれが?」
キノが訝《いぶか》しげに言って、
「ええそうです。素敵《すてき》でしょう?」
老婆が答えた。
やがて玄関《げんかん》前に着いて、
「そうそう、最初にキノさん達にはお知らせしておかないと」
老婆がキノとエルメスに話しかけた。
老婆はゆっくりと右手を胸にあてて、
「わたしは、機械人形なんです」
静かに微笑《ほほえ》みながら言った。
「機械人形、ですか?」
キノが驚《おどろ》いて聞き返した。
「ええ。わたしは人間そっくりに見えますけれど、実は違うんです。この身体《からだ》は全部、木とか鉄とか、あと、よく分からない物でできているんです。機械人形は人間に造られて、人間のために働くんです。わたしの仕事は、この家の人間のために、家事をすること」
「…………。ええっと……」
キノが口ごもって、老婆《ろうば》は続ける。
「もうだいぶ古くて、あちこちにガタが出てきていますけど。でも、まだまだ働けます」
エルメスが聞いた。
「へえ、よくできてるね。お婆さんを造ったのは、誰《だれ》?」
老婆は首を振った。
「その情報は、わたしには与えられていないんです。わたしが知っているのは、家の掃除の仕方、洗濯の仕方、料理の作り方、ぼっちゃまのおねむのためのお話……」
「…………」
「なるほど」
キノは黙ったままで、エルメスが言った。
「それでは、キノさん達のことを旦那《だんな》様に聞いてきます。間違いなく大丈夫《だいじょうぶ》でしょうけれど、いちおう。少しここでお待ちを」
老婆が家に入ってから、キノが言った。
「まさかね」
「まさかね。どうする?」
「これはもう、旦那様≠ノいろいろ聞いてみるしかなさそうだな」
キノがつぶやいた時、玄関《げんかん》が開いた。
出てきたのは、上品そうなシャツを着た三十|歳《さい》ほどの男性と、奥さんらしい同年代の女性。そして、彼女の後ろに恥ずかしそうに隠《かく》れている、五歳くらいの男の子が一人。
老婆が間に立って、
「旦那様。こちらが旅人のキノさんと、モトラドのエルメスさん。キノさん、エルメスさん。旦那様と奥様、ぼっちゃまです」
「今日《こんにち》は」
キノが挨拶《あいさつ》して、旦那様≠ヘゆっくりと微笑《ほほえ》んで言った。
「今日は、旅人さんにモトラドさん。話は婆《ばあ》やから聞きました。道に迷われたそうですね。うちでしたら部屋は空《あ》いています。遠慮《えんりょ》なくどうぞ」
老婆は嬉《うれ》しそうに、
「まあ嬉しい。よかったですね。そうと決まれば、さっそくキノさん達のお泊まりになる部屋を用意しないと。旦那様、奥のあの部屋でよろしいでしょうか?」
「ああ、そうだね。任《まか》せるよ。夕食も、一人分多く頼《たの》む」
男が言った。
「さあさ、どうぞ」
キノ達は老婆に案内されて、広いリビングルームに通された。
ソファーで男は新聞を読み、奥さんと息子《むすこ》は、なんだかよく分からないおもちゃで、楽しそうに進んでいた。
老婆《ろうば》が礼をして去った。
「あの、お聞きしてよろしいですか?」
キノが訊《たず》ねて、男がキノを見た。
「はい。なんでしょう?」
「あのお婆《ばあ》さんのことですけれど……」
キノが言いにくそうに言った。
「機械人形とご本人はおっしゃってますが、本当ですか?」
男は軽く頷《うなず》いて、
「ええ、そうですよ。大変によく働いてくれて、家では大助かりです。あれのおかげで、夫婦そろって働けますし、こうした家族の時間も増えます」
「なるほど……。もう一つ質問を」
「なんでしょう?」
「この辺《あた》りに、国はありませんか?」
その質問に、男は少し困った顔をした。
「ええ。この近くに国は一つもありません。旅人さんは、道を間違われた……、と思います。この辺りは深い森ですからね、無理もないと思います」
男が答えた。キノがつっこんで聞く。
「すると、皆様は、どうしてこの地にお住みに?」
「…………」
男は、しばらく何も言わなかった。
それから、笑顔で言う。
「ええ。この近くに国は一つもありません。旅人さんは、道を間違われた……、と思います。この辺りは深い森ですからね、無理もないと思います」
「そうですか……」
その後キノは何も話しかけず、エルメスの脇《わき》で、黙って待っていた。
やがて弾《はず》んだ足音が戻《もど》ってきた。老婆が笑顔で、
「お部屋ができました。こちらへどうぞ」
「ありがとうございます。……それでは」
「ごゆっくり」
キノは彼らに軽く礼をして、エルメスを押して応接間を出た。
男が、新聞を端《はし》まで読み終えた。
そしてまた、最初から読み始めた。
案内された部屋は、一階の奥にあって、かなり広かった。手の掛かった造りのベッドや、その他《ほか》の歴史がありそうな家具が置いてあった。全《すべ》てが水拭《みずぶ》きされて、埃《ほこり》一つなかった。
「こちら、エルメスさんもご一緒《いっしょ》にどうぞ。トイレとシャワーも奥にあります。何かご入り用でしたら、いつでもベルを鳴らしてください。わたしの部屋は、玄関脇《げんかんわき》です」
キノが礼を言った。老婆《ろうば》は夕食の支度へと、部屋を出ていった。
キノはベッドに座り、パースエイダーをホルスターごと取り外《はず》した。ジャケットを脱《ぬ》いだ。
「キノ。どうする?」
エルメスが聞いた。
「どうするか……。あの家族は、正直あまりボク達と関わりたくないみたいだし」
「ムリもないけど」
「それに、言いたくないことも多そうだ」
「ムリもないかもね」
「だから、せっかくだからお婆《ばあ》さんの好意はうけて、明日《あした》にでも」
「了解《りょうかい》」
シャワーを浴びた後、キノは夕食に呼ばれた。
やはり豪華《ごうか》なテーブルが置いてあるダイニングルームで、家族は無言で座っていた。
老婆は一人よく動いて、全員の料理をワゴンからテーブルに並べていく。生野菜のサラダと、キノコが入ったコンソメスープ。蒸《む》し上げた鶏肉《とりにく》の、細《こま》かく刻んだ野菜とオリーブオイルのソースがけ。こんがりと焼き上がってまだ温かいパンと、ボウルに入ったできたてのバター。
「どうぞごゆっくり。キノさんも、このポンコツの作った料理が、お口に合えば幸いです」
老婆は礼をして、部屋から出ていった。
男が、キノに言う。
「旅人さん。どうぞ遠慮《えんりょ》なく」
そして家族は、食事に手をつけることなく、無表情でただ座っていた。
キノがその様子《ようす》を眺《なが》めながら、ゆっくりと食べ始めた。一口食べてすぐ、キノはしばらく神妙《しんみょう》な面持ちで固まっていた。それからだいぶペースを上げて、満足そうに全《すべ》てたいらげた。
キノが食べ終わる頃《ころ》を見計らって、無言のままだった家族は、部屋の脇に皿を持って移動した。壁に絵が飾ってあって、ずらすと、壁に蓋《ふた》のようなものがあった。それを開け、彼らはそこにあった穴に、手つかずの料理を全て捨てた。
「…………」
キノは、それを見ていた。
老婆がノックをして、ダイニングに入ってきた。
「いかがでしたでしょうか?」
老婆《ろうば》の問いに、
「うん。美味《おい》しかったよ。鶏《とり》は最高だった」
「美味しかった。いつもありがとう」
「おいしかったー」
家族がよどみなく答えた。
老婆が笑顔で礼をした。そしてキノに聞いた。
「キノさん。お味いかがでした?」
「え? ええ、大変美味しかったです。夢中で食べました」
キノは正直に言った。
「まあ嬉《うれ》しい」
老婆は楽しそうに、皿を下げ、デザートを置いていった。そして出ていった。
キノはデザート――木イチゴのシャーベット――を美味しそうに食べた。
家族は無言のまま、キノが食べ終えるのを待って、溶《と》けたシャーベットを壁の穴に捨てた。
男が呼《よ》び鈴《りん》を鳴らすと、老婆がやって来た。
「私達はこれで。キノさん、ごゆっくりしていってください」
そうキノに言って、家族が出ていった。老婆は楽しそうに、食器を下げてテーブルを拭《ふ》く。
キノは何かお手伝いできることは、と聞いたが、老婆は首を振って、逆に聞いた。
「キノさん。寝る前に何かお飲物をお運びします。ホットチョコレートはお好きですか?」
「え、ええ……。ありがとうございます」
キノが言って、老婆はまた、ゆっくりと首を振った。
「礼なんかいいんです」
そして皺《しわ》だらけの目を細めながら、
「誰《だれ》かのお役に立てるっていうことは、とても気持ちのいいことですから」
「――と、いう訳さ」
「なるほど。でも、捨てちゃうなんてもったいない」
「ああ。危《あや》うく、ください≠チてしがみついて言うところだったよ」
「で、家族は?」
「夜は早いらしい。二階には行かないように、ってお婆《ばあ》さんに言われた」
「どう思う?」
「まあ、普通じゃないのは確かだけれど……。だからといって、事情も知らずに何か言う訳にもいかない」
「だね。お婆さんには?」
「忙《いそが》しそうだったから。……明日《あした》聞いてみよう。今日は、久しぶりにベッドで寝る」
「はい、おやすみ――」
次の日の朝。
キノはいつもどおり、夜明けと共に起きた。天気はよかった。軽く体を動かして、パースエイダーの整備をする。
廊下《ろうか》に出ると、キッチンから音がした。キノが開いていた扉《とびら》から顔を出す。老婆《ろうば》が、楽しそうに朝食の支度をしていた。パンの生地を丸めて、型にはめていく。そして、溶《と》かしバターを塗ってオーブンへ入れて、大きな砂時計をひっくり返した。
キノが軽くドアをノックして、
「おはようございます」
「あら、キノさん。おはようございます。ずいぶんお早いですね。ひょっとして、起こしてしまいましたか?」
「いいえ、いつもそうですから。ところで、そうやって、毎朝パンを焼いてるのですか?」
キノが聞いて、老婆は手を休めることなく言った。
「ええ。パンを焼くのが、わたしの朝一番の仕事です。皆様、それはたくさんお召し上がりになるんですよ」
家族が起きてきて、ダイニングのイスに座った。男は背広。奥さんもスーツ。息子《むすこ》は小さな鞄《かばん》を手にしていた。
「おはよう。キノさん。よく休めましたか?」
男が聞いて、
「ええ。おかげさまで」
キノが答えた。
テーブルには焼きたてのパンと、数種類のジャムと、はちみつと、半茄《はんゆ》での卵と、サラダとかりかりに焼いたベーコンが並んだ。
「旅人さん。どうぞ遠慮《えんりょ》なく」
男が言って、キノは遠慮なく、自分が食べられる限界量を先に皿に取った。それから楽しそうに食べた。
家族は、昨夜《さくや》と同じように黙って座っていた。ある程度経ってから、やはり全《すべ》て捨てた。
男は老婆を呼んで、二人分の鞄を持ってこさせた。そして、三人とも家から出ていった。
老婆がダイニングに戻《もど》ってきた。いかがでしたかと聞かれ、キノは、
「ここ最近食べた朝食の中で、文句《もんく》なしに一番|美味《おい》しかったです。どんなホテルのレストランよりも、です」
「まあ、ありがとう」
「ところで、一つお聞きしたいんですが……」
キノが聞いて、老婆《ろうば》は手を止めて振り向いた。
「はい?」
「家族の皆様は、どちらに?」
「――旦那《だんな》様と奥様は仕事。息子《むすこ》さんは幼年学校、だそうだ。今日から四日間は毎日」
「はー。お婆《ばあ》さんがほんとにそう言ったの?」
「ああ。ちなみに夫婦の職場は違っていて、旦那さんの方が学校に近いから、彼が送り迎えをしている。で、夕方まで帰ってこないそうだ」
「はーっ、なんだかね。聞いてみたいね。どこですか? って」
「……さて、ボク達はどうするか、だ」
「行かない? どーせこれ以上は、何聞いても教えてくれないよ」
「うん。それも考えたけど、もう少しいることにしよう」
「いいけど、なんで?」
「非常に個人的な理由で悪いが……」
「何?」
「お昼ご飯が――」
キノは、荷物をおろしたエルメスを押して、ジャケット姿で外に出た。
玄関脇《げんかんわき》で、干《ほ》されたシーツが揺《ゆ》れていた。老婆は畑で、しゃがんで何かをしていた。
キノがエルメス止めて、老婆に近づいた。
「お芋《いも》が、そろそろですわ。冬は、これとベーコンを一緒《いっしょ》にオーブンで焼いたグラタンが、みんなのお気に入りなんです。今夜お出しできるかしらと思って」
「それも……、美味《おい》しそうですね」
キノが言った。エルメスが小さな声で、
「まったく」
とつぶやいた。
ふと、老婆がゆっくりと立ち上がって、空を見て太陽を探した。指さして、その角度をみる。意外そうな顔のキノに、
「ちょうどいいです。キノさん、エルメスさん。とても素敵《すてき》な、そして珍《めずら》しいものをお見せできます。ついてきてください」
そして、キノの答えも待たず、すたすたと森に向けて歩き出した。キノはエルメスを押して、あわてて後を追った。
森の中に、人が歩いてできた細い道があった。エルメスを押して、キノは老婆《ろうば》についていった。
やがて木々が開けて、すぐに景色も開けた。そして、
「うわっ」「すごーい」
キノとエルメスが、同時に感嘆《かんたん》の声を上げた。
老婆が立ち止まったそこは、巨大《きょだい》な谷の崖《がけ》の縁《ふち》だった。すぐ目の前から地面がなくなり、急角度でとんでもない高さを落ちている。谷の対岸《たいがん》までも、同じほどの距離があった。
慎重《しんちょう》に底をのぞくと、湖があった。湖水はあざやかな緑色をしていて、細長く延びていた。
「これは、すごい。大昔に氷河が造った谷ですね」
キノが言って、エルメスも、
「こんな近くがこんなになってたんだ。落ちてたら一巻のお終《しま》いだったね。今度から、スピードには気をつけよう」
キノがああ、と頷《うなず》いて、老婆に言った。
「きれいな景色を見せてもらいました」
老婆はにっこりと微笑《ほほえ》んで、軽く首を振った。
「いいえ。わたしが本当に見せたいのは、ちがうものです」
キノが怪訝《けげん》そうな顔をして、老婆はまた太陽の角度をみた。
「そろそろです。谷の底を、湖を、よくご覧《らん》になっていてください」
キノはエルメスを崖《がけ》ギリギリのところに止めて、そして下をのぞいた。
吸い込まれそうな緑の湖水が、ゆっくりと薄《うす》くなっていった。
「?」
そして、湖水は完全に透明《とうめい》へと変わり、その下にある、谷底を見せた。
「!」「キノ! あれ!」
キノが息をのんで、エルメスは大声を出した。
谷底には、水を通り抜けた蒼《あお》い光に照らされる、立派な町があった。通りが骨組みのように延びていて、石造りの家やアパートがいくつも並んでいた。半分|崩《くず》れたかなり高い建物や、屋根に穴のあいた、工場のような巨大《きょだい》な施設もあった。その町を挟《はさ》むように、高くて厚い城壁が平行に建っていた。
「国が……」
キノがつぶやいた。
老婆がゆっくりと、静かな口調で言う。
「太古《たいこ》の国です。悲しいことに、なんらかの理由で滅《ほろ》びてしまいました。この季節のこの時間だけ、光の加減で水が澄んで、こうして蒼く見えるんです」
「…………」「…………」
「きっと多くの人が住んでいたんでしょうね。多くの人が、お互いを支え合って生きていたんでしょうね。でも、もう昔の話です」
「…………」「…………」
絶句しているキノとエルメスに、
「どうですか? まるで空に国が浮かんでいるようで、素敵《すてき》で、珍《めずら》しいでしょう?」
老婆《ろうば》が訊《たず》ねた。キノは下を見ながら、
「ええ……。とても驚《おどろ》きました……。ありがとうございます」
「まあ嬉《うれ》しい。わたしに観光案内人みたいなこともできるなんて」
老婆が言った。
仕事に戻《もど》るという老婆に、
「もう少し、見ていたいと思います」
キノが言った。
「私は戻って、お昼ご飯をお作りします。キノさんは、ワイルドライスのスープはお好きですか?」
「え、ええ。いろいろな国でよく食べます。鶏《とり》が入っているのが好きです」
「それは素敵。お昼はそれにいたします。太陽が一番高くなる頃《ころ》に、お戻りください」
そして老婆が去って、すぐに水は色を取り戻した。
「キノ。気づいたとは思うけれど」
キノが頷《うなず》いた。
「ああ。あの国は、というかあの国の跡《あと》は、新しいな……」
「うん。どう見ても太古《たいこ》のものじゃない」
キノは、エルメスを崖《がけ》からゆっくりとさげながら、
「ボク達が探していた、谷の中の国って……、ひょっとすると……、いや、ひょっとしなくても」
「だね、滅《ほろ》んでたんだよ。話を聞いたのがよぼよぼの爺《じい》さんだったからいけない。情報が古すぎたんだよ」
「それでも、あのお婆《ばあ》さんが知らないのは、変だな。嘘《うそ》をついてるようには見えないし……。家族もあの様子《ようす》じゃ、聞いても教えてはくれないだろうな」
「潜《もぐ》る? それとも誰《だれ》かを尋問《じんもん》する?」
エルメスがふざけて聞いて、
「両方|遠慮《えんりょ》しておく。明日《あした》にでも、ここを出発しよう」
「りょーかい。……って、明日? ……ああっ! 夕食をもう一回食べる気だな」
エルメスの追及に、
「まだ、三日経っていないから」
キノは毅然《きぜん》とした態度で答えた。
昼食を、キノは老婆《ろうば》と一緒《いっしょ》にキッチンのイスでとった。
キノはワイルドライススープを、焼きたてのクラッカーを割入れながら、感激しながら食べた。
一方老婆は、
「わたしはいつもこれですから。これが一番好きになりました」
そう言って、簡単な焼きパン、それも余《あま》った生地《きじ》を適当に丸めて焼いたものと、野菜の端《はし》っこを煮たスープを少しだけ、食べた。その様子《ようす》を、キノは見ていた。
昼食後のお茶の時間に、老婆は家族の自慢《じまん》話をした。
旦那《だんな》様は、大きな食品会社でとても偉《えら》い地位にいること。奥様は機械を作る会社で働いていて、旦那様より帰りが遅くなることもあること。ぼっちゃまは勉強がよくできて、学校では明るくて人気者だということ。
そして老婆は、そんな家族のために働ける機械人形であることが嬉《うれ》しいと、キノに告げた。
短い休憩《きゅうけい》の後、
「さあ、みんなが家で快適に暮らせるように、こんどはお掃除をしなくっちゃ」
老婆はそう言って、すっと立ち上がった。直後に少し頭を押さえて、ゆっくりとうずくまった。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか? 少しお休みになった方が」
キノが言って、イスに座らせようとしたが、
「いいえ、わたしは大丈夫です。ちょっと油が足りないのかしら? ――さあ、掃除をしないと」
老婆は笑顔で言うと、ゆっくりと立ち上がった。食器を水につけて、キッチンを出ていった。
「もう一泊するのなら、ちょうどいい機会だからね」
「やれやれ。次は?」
キノは玄関《げんかん》前で、エルメスに言われるままに、エルメスの整備をしていた。各部のネジやナットを増し締《じ》めして、必要なところに油を注《さ》していく。その後、ライトやタンクを磨《みが》いた。
「よしっ、完璧《かんぺき》だ」
最後に全体を拭《ふ》き終えて、キノが言った。
「よしっ、完璧だ=Aじゃないよ、キノ。スピードメーターが壊《こわ》れたままじゃん」
エルメスは不満げだったが、
「気持ちは分かるけど、それはボクには無理だよ。時計屋さんに行かないと」
キノが言って、エルメスはため息をついた。
「はー……。また、しばらくお預けか」
キノはエルメスを押して、部屋に戻《もど》った。ちょうど掃除とベッドメイクを終えた老婆《ろうば》がいた。
「まあ、エルメスさんもきれいになりましたね」
「ありがとう。でもね――」
エルメスが少しグチを言って、事情を説明した。すると老婆は、何気《なにげ》なく、
「その故障《こしょう》、わたしが診《み》てみましょうか?」
「え?」「え?」
「わたし、細《こま》かい仕事でしたらいつもしています。それに、機械人形のわたしなら……。ちょっと待っていてください。旦那《だんな》様の工具があったはずです」
そして老婆は部屋を出て、工具を持って戻ってきた。
「えっと、じゃあ、一応……。ダメだったらいいから……」
エルメスが言うとおり、老婆はスピードメーターを分解して、細かい歯車がたくさん組合わさった内部を調べていく。そして、
「ああ、ここが外《はず》れています」
こともなげに言った。エルメスが声を上げる。
「すごーい!」
「……えっと、治ります?」
キノが聞いて、老婆は、まるで熟練《じゅくれん》の時計工のような手つきで、ピンセットを動かした。そして、
「できました。たぶんこれで」
すぐにそう言って、分解した部品を組み上げた。
「試《ため》そう、キノ」
キノが、エルメスを押す。メーターは、まったく問題なく働いた。
「…………」
キノは何も言わず、老婆を見た。
「すごいすごい! お婆《ばあ》さん、ホントにありがとね!」
エルメスがはしゃいで、老婆が、
「なんとかなるものですね。お役に立てて、嬉《うれ》しいです」
とても満足げに言った。
「さあ、夕食の仕度をしなくっちゃ」
「――この目で見て、未だに信じられない」
「でも、文句《もんく》なしに治《なお》ってるよ。あー、すっきりした」
「何者だろ? お婆《ばあ》さん」
「さあねー。本当に機械人形じゃない? それなら理解できる」
「まさか」
「まさかね。でも、」
「でも?」
「ちょっとヤな言い方だけど、とても役に立つ人であることは、確か」
「ああ――」
その日の夕食も、キノはきれいにたいらげて、家族は全《すべ》て捨てた。
キノは湖底の国のことを、一応|訊《たず》ねたが、
「残念ですが、古いことですので分かりませんね」
とだけ答えが返ってきた。
キノは、明日《あした》間違いなくここを離れることと、今までの感謝の意を伝えた。
「そうですか。明日、ですか……」
男が言った。
次の日、キノが家にやってきてから三日目の朝。
キノは、夜明けと共に起きた。軽く運動して、外へ出る。空は、透《す》き通るように晴れていた。
キノがキッチンに行くと、そこに老婆《ろうば》はいなかった。ダイニングと、リビングにもいない。
老婆の部屋に行くと、ドアは薄《うす》く開いていた。キノがのぞく。
ドアのすぐ前の床に、老婆がうつぶせで倒れていた。
「!」
キノが駆《か》け寄って、ゆっくりと起こした。老婆は目を閉じて、細い、そして長い息をしていた。
キノは老婆を抱《かか》え上げ、ベッドに寝かせた。
「お婆さん。聞こえますか?」
老婆はうっすらと目を開けて、
「ああ……、キノさん」
「ドアの前に倒れてました。お体の具合、分かりますか?」
キノが聞いて、老婆は答えた。
「ええ……。よく、分かりますよ……。機械の寿命《じゅみょう》が、壊《こわ》れる時が、来たみたいです……。お願い、キノさん。みんなにお別れの挨拶《あいさつ》しなくちゃ……。みんなのところへ、つれていってもらえませんか……?」
「いいえ、みんなを呼んできます。あなたは動ける状態ではありません。すぐに戻《もど》ってきます!」
キノはそう言って、踵《きびす》を返して部屋のドアを開けた。そして、廊下《ろうか》に三人が立っていた。
「!」
家族三人は何も言わず、部屋の中に入っていった。
キノがそれを目で追って、それから自分の部屋に駆《か》け込んで、エルメスを叩《たた》き起こした。
エルメスを押して戻《もど》ってくる。老婆《ろうば》のベッドの脇《わき》に、三人が立っていて、静かに見下ろしていた。キノはその後ろで、エルメスのスタンドを静かにかけた。
老婆が、小さな声で言う。
「みなさん……。みなさん……」
「はい」
「はい」
「はい」
三人が、続けて返事をした。
老婆はゆっくりと目を開けた。そして、男と奥さんの間の、誰《だれ》もいない空間を見ながら、聞いた。
「みなさん……、わたし……、みなさんのお役に、立てましたでしょうか……?」
「ええ」
「ええ」
「うん」
男と奥さんと息子《むすこ》が、そう言って頷《うなず》いていく。
老婆はゆっくりと、とてもゆっくりと微笑《ほほえ》んで、
「ああ……、よかっ……、た」
ちいさくつぶやいた。
すーっ、と、長く、静かに息を吐《は》いた。目を閉じた。
動かなくなった。
キノは、老婆の喉《のど》に指を当てた。三人はただ立っていた。
「お亡《な》くなりに、なりました」
キノが言うと
「ええ」
男が言った。
「やっぱり、人間なんですね?」
キノが確認するように聞いて、男はすっ、とキノに顔を向けた。悲しそうな顔をして、
「ええ」
とだけ言った。
「ま、機械人形なんてありえないとは思ってたんだ」
エルメスが言った。
「これから、どうされるおつもりですか?」
キノの質問に、男は答えた。
「埋葬《まいそう》します。もしよかったら、手伝ってください」
キノ達は、老婆《ろうば》の遺体《いたい》をシーツでくるんだ。
その際、男はキッチンから砂時計を持ってきて、胸に当てた老婆の手に、横にして握《にぎ》らせた。
「ついてきてください」
男が言った。奥さんと、遺体《いたい》を載《の》せた担架《たんか》を持って家を出る。息子《むすこ》は、背中に大きなリュックサックを背負い、手にはシャベルを四本、軽く持ち上げて続いた。
紅葉の森の中。そこに、人が歩いてできた細い道があった。エルメスを押して、キノは老婆についていった。
やがて木々が開けて、すぐに景色も開けた。朝の太陽が、雄大な谷を照らしていた。斜《なな》めに入る光が、湖水を緑色に輝かせていた。
遺体をおろして、家族は崖《がけ》のほとりに、湖がよく見える位置に、穴を掘り始めた。キノもそれに倣《なら》った。
穴ができた。男は遺体を抱《かか》えて穴に入り、ゆっくりと横たえた。息子がリュックサックを開けて、中から、人間の頭蓋骨《ずがいこつ》を取り出した。
それは少し黄ばんだ大人《おとな》の頭蓋骨で、左側頭部は激しく割れていた。男はそれを、老婆の頭の脇《わき》に丁寧《ていねい》に置いた。息子はもう一つ、今度は小さな、子供の頭蓋骨を取り出して、同じように男が置いた。
男が、キノに顔を向けて言った。
「彼女の夫と、息子です」
男が穴から出て、スコップを渡されて、土をかけ始めた。奥さんと息子が、無言で続く。
キノも反対側から始めた。
しばらくの間、朝の鳥の鳴き声と、風が生むかすかな葉《は》|擦《ず》れと、死者を埋《う》める土をかける音だけが聞こえていた。
真新しい墓の前に立つキノが、長い黙祷《もくとう》から目を開けた。口は小さく動いていたが、声は出ていなかった。
キノは、家族に振り向いた。
「ボク達は、これで失礼します。泊《と》めていただいて、感謝します」
男が、軽く微笑《ほほえ》んで、口を開いた。
「キノさんは、知りたくはありませんか?」
「何を?」
「たった今|埋葬《まいそう》した彼女が、誰《だれ》か。私達三人が、何か。湖の底は、何処《どこ》か」
「…………」
キノが一瞬《いっしゅん》黙って、
「どうでしょうか? キノさんのご質問にも、全《すべ》てお答えできますわ」
奥さんが少し笑顔を見せて、爽《さわ》やかにそう言った。
「……ぜひ、知りたいですね」
キノが言った。
「知りたーい!」
エルメスも、楽しそうに言った。
息子《むすこ》が目を輝かせ、生き生きとした表情で、
「それは少し長い話になります。キノさん。構わないでしょうか?」
大人《おとな》の口調で言った。
「え、……ええ。構いません」
キノが少し驚《おどろ》いて、それから言った。
男と女と子供が、それぞれ顔を見合わせて微笑んだ。
男が、
「まず、これをご覧ください」
そう言って、息子の頭に両手を当てた。左側に二回転させて、頭を持ち上げて外《はず》した。
「!」
キノの顔が、一瞬引きつった。息子の笑っている頭と、身体の間には、細い管が教本通っていた。
「ま、まさか……。全員……」
「ええ」
奥さんが言った。そして右手で左手を外して、ぶら下げて持った。男は息子の頭を元に戻《もど》して、今度は自分のを取り外した。
「機械人形?」
キノの質問に、男が、手を使って頷《うなず》いた。
キノは目を大きく見開いたまま、ふーっと息を吐《は》いた。
「うっわー、おっどろいた! ……でもよくできてるね!」
エルメスがまた、楽しそうに言った。
キノは、センタースタンドを立てたエルメスに座った。
「何か≠ヘ、分かりました。誰《だれ》か≠ニ、何処《どこ》か≠教えてください。できれば、何故《なぜ》か≠焉v
「分かりました。では、国のことからご説明いたします」
男の機械人形が、立ったまま言う。
「キノさんは、あの国の噂《うわさ》を、谷の中の細長い珍《めずら》しい国と、聞いてきたと思いますが……。あの国が、建国以来二つの民族が常にいがみ合う、諍《いさか》いの絶えない国であったことはご存じなかったでしょう」
女の機械人形が、立ったまま言う。
「政治的対立に留まらず、時には血が流されることもありました。それでも人々は、やがて安定するだろうという幻想《げんそう》を持って、他《ほか》に行くところがないという現実に属して、生きていました」
子供の機械人形が、立ったまま言う。
「彼女は、その国で生まれて育ちました。キノさん。彼女の名前を知りたいですか?」
キノは、崖《がけ》を背に直立不動で並ぶ三人に、首を振った。
男の機械人形が、
「彼女は、五十数年前まで、あの国で機械工学の博士でした。その時で、三十数|歳《さい》の若さで、その世界で数百年に一人の天才=Aそう呼ばれていました」
「それで、エルメスを治《なお》せたのか」「なるほどね」
キノとエルメスがつぶやいた。
女の機械人形が、
「ええ。彼女でしたら、モトラドを、自分一人で全《すべ》ての部品から作れるでしょう。それも百分の一の大きさで、エンジンの内部まで全て完璧《かんぺき》に動くものを」
「…………」「すご」
子供の機械人形が、
「彼女は、国の主催する研究では飽《あ》き足りなくなり、自ら研究所を建てました。彼女が目指していたのは、機械人形の製作でした。まだ誰も創《つく》ったことのない、人間のために働く、人間そっくりの機械――」
男の機械人形が、
「彼女は、こう思っていました。機械人形は、全ての人間を仕事から解放する。そしてその結果、みんなにゆとりが生まれて、民族が違うことや、狭《せま》い土地を取り合うこと。そんな今までのいがみ合いは、どうでもよくなってしまう=v
女の機械人形が、
「彼女は、研究に没頭《ぼっとう》しました。彼女の力を持ってしても、望む性能を持つ機械人形は、簡単にはできあがりませんでした。毎日毎日研究所に泊《と》まり込んで、彼女が、愛する夫と、かわいい息子《むすこ》と過ごす時間は、本当に少なかったのです。私達はその様《さま》を、ケースの中から見ていました」
子供の機械人形が、
「彼女は、寂《さび》しそうに家族の写真を見ながら、それでも研究に取り組みました。そして、とうとう、三体の機械人形に、完璧《かんぺき》な性能を持たせることに成功しました」
「なるほど」「それがみんなね」
男の機械人形が、そうです、と短く言って、それから、とつとつと続けた。
「彼女は、私達を抱《だ》いて、それは喜んでくれました。研究の成功を、誰《だれ》よりも最初に知らせたい人達の元へ、彼女のアパートへ、私達は車に乗って急ぎました。彼女は、『みんなをびっくりさせたいから、ギリギリまでないしょよ』そう、楽しそうに言いました。……そして、到着すると、……そこにアパートはありませんでした。あったのは、大きな爆発の跡《あと》と、アパートだった瓦礫《がれき》の山だけです。民族同士のいがみ合いから生まれた、爆弾テロ、でした」
「…………」「…………」
女の機械人形が、目を細めて、続きを語る。
「彼女は、車を飛び降りて、アパートだったところに駆《か》け寄りました。死体が並べられているのを片《かた》っ端《ぱし》から調べて、頭が割れた夫と、下半身がなくなっている息子を、見つけてしまいました。そして、彼女は笑って、私達に言いました。『さあみんな、夫と息子が待ってるわ。お祝いをしましょう』――そして、止める間もなく、アパートに入っていって、崩《くず》れてきた瓦礫の下敷きになりました。私達は彼女を助け出して、彼女の研究室で治療をしました。大変危険な状態でしたが、数日後、なんとか意識を取り戻《もど》しました。でも、それは、私達を創《つく》り出してくれた彼女ではありませんでした……」
子供の機械人形が、泣きそうな顔をして続ける。
「目を覚ました彼女は、私にこう言いました。『今、幾時でしょうか?』私が時間を答えると、『あらやだ。そろそろ旦那《だんな》様が帰ってらっしゃるわ。お夕食を作らないと』。そして重傷《じゅうしょう》の身体《からだ》で起き上がろうとしました。私は、とっさに鎮静剤《ちんせいざい》を打ちました。それしか、できなかったんです……。彼女は、次に目を覚ました時、私達に訊《たず》ねてきました。『あなた達が、わたしの働く家族の皆様ですか?』何度も、訊ねてきました。私達は、最後に答えました。『ええそうです。でも、今のあなたはまだ製造途中です。もうしばらく待ちなさい』――彼女がなぜそうなってしまったのか、どうすれば治《なお》せるのか、脳を隅々《すみずみ》まで調べても分かりませんでした。機械人形だったら、すぐに故障《こしょう》個所を見つけだせるのに」
「……それから、どうなりました?」
キノが聞いた。
男の機械人形が、女の機械人形と子供の機械人形を見て、たぶん代表として言う。
「それから、彼女の肉体的な回復を待つ間、国の中では、どうでもいい≠ヘずのいがみ合いはエスカレートしていきました。連日の爆弾テロと、その報復テロ。私達は彼女の身の危険を感じ、研究所の地下に潜《もぐ》りました。やがて、醜《みにく》い内乱が始まりました。うるさい日々が続いて、突然止みました。人口の激減で、国として存続できなくなったのです。しばらくは、グループがいくつも勝手に生きていましたが、それも食料をめぐって殺し合い、やがてみんな、国を捨てて出ていきました。彼らの行方《ゆくえ》は、かなりどうでもいいのですが、旅人の噂《うわさ》になっていないところをみると、恐《おそ》らくは……」
「でしょうね」
キノが頷《うなず》いた。
「私達は、彼女を連れて、地上に出ました。彼女は笑顔で言いました。『まあ、大変な散らかりよう。これをきれいにするのは、とてもやりがいがありそうです』私達は言いました。『いいえ、私達は引っ越すつもりです。谷の上の、森の中の、とても暮らしやすいところにです。あなたにはそこで、私達のために働いてもらいます』――それから、五十四年と三百四十一日の間、私達はずっと、不自然な家族を演じてきました」
「なるほど……」
キノが言った。
「あの湖は?」
エルメスが聞いて、
「彼女が辛《つら》いことを思い出さないようにと、ダムを造って沈めました。水が澄《す》むのは、私達の計算外でした」
「お婆《ばあ》さんの身体《からだ》が弱っていたことも、知っていた?」
キノが質問して、機械人形は答えた。
「ええ。健康状態は常にスキャンしていましたから……。でも、老衰《ろうすい》だけは、どうすることもできませんでした。どうすることも、できませんでした」
全《すべ》ての説明を終えた機械人形達に向け、キノは言った。
「もう、お訊《たず》ねすることありません。ボク達は、荷物を積んで、出発します」
その瞬間《しゅんかん》、三体の機械人形は、一斉《いっせい》に声を出した。
「私達は、彼女に創《つく》られました。人間のために、そう、彼女のために働くために、です。だからもう、私達の役目は終わりました……。でも、それは! 一つの役目でしかありません! キノさん。何か私達が、キノさんにできることはありませんでしょうか? なんでもお申し付けください。人間のために何かをしていないと、私達は存在する理由がありません! ただあり続けるだけなんて、とても辛《つら》いんです!」
キノは答える。
「いいえ。何もありません」
「そんなことを言わないでください! 何かあるでしょう! 私達は、あなたの助けになれます。必要な人間になれます。あなたの友になれます。親になれます。子になれます。恋人になれます。下僕《しもべ》になれます。敵になれます」
「…………。興味、ありません。残念ですが」
キノは、無表情のまま答えた。
「あ、あなたには、心の、本当の奥底から必要とする人はいませんか?」
そろった声は、訊《たず》ねた。
「今のところはいませんね。自分以外は」
「そんな! 心の底から必要とする人がいない人生なんて、寂《さび》しくはありませんか? 虚《むな》しくはありませんか? 人間って、誰《だれ》かと一緒《いっしょ》にいて、誰かのために生きていないと、そうじゃないと、とっても辛いものなんでしょう?」
キノは首を振った。
「よりけり、です」
そろった声が、言う。
「お役に立たせてください!」
キノは再び、首を振った。
それらが聞く。
「私達は、お役に立てないんですか? もうだめ、なんですか?」
キノは、無言のままだった。
やがてそれらは、
「そうですか」
とだけつぶやいた。
それらは踵《きびす》を返すと、ゆっくりと歩き出した。すぐに足下に何もなくなり、キノの視界から消えた。
だいぶ経ってから、水を叩《たた》く音が聞こえた。
キノが崖下《がけした》をのぞいた。
緑の水に、それらは仰向《あおむ》けで浮かんでいた。
湖水が、ゆっくりと薄《うす》くなっていった。同時に、それらは沈み始めた。
蒼《あお》い町の中へ、両手を広げながら、飛び上がるように沈んでいった。
第五話 「差別を許さない国」
―True Blue Sky―
「とりあえず、その辺の人に聞いてみれば。キノ」
「そうだな……。やっぱりそれが確実か。――あ。あの、ちょっといいですか?」
「はい? あら、あなた達この国の人じゃないでしょう?」
「ええ。旅をしています。たった今入国したばかりです」
「それは、ようこそ」
「そこで、一つお聞きしたいんですが」
「はい。なんでしょう」
「×××××を探しているんです。近くにありませんか?」
「…………? 今、あなた、なんて言いました?」
「×××××はありませんかって」
「ちょっと待ちなさいよ。それは、その職業に就《つ》いている人達を愚弄《ぐろう》しているんですか? あなたいったい何様《なにさま》のつもりです!」
「え? いいえ。ボクはただ、×××××を探してるんですけど」
「ああ! なんてことを……。ちょっと! 旅人さん! これ以上その人達を辱《はずかし》める表現を使うと、許しませんよ!」
「…………」
「キノ?」
「……えーと。それじゃあ、言い方を変えましょう」
「ぜひ! そうしてほしいですわね!」
「えーっと。×××××はこの国にないんですか? もしくは、×××××はありませんか? ボクはそれを知りたいだけなんですけど」
「……本当に、なんてことを言うの! あなたはひどい人ですね! そんなふうに言われる方の、心の痛みが分からないのですか? ちょっとみんな来てー! みんな来てー!」
「あら? どうしたの?」「何です?」「大声を出されて?」「なんだ?」「どうしました?」
「みんな聞いて。今、この旅人が、とんでもないことを言ったのよ! 酷《みにく》い差別表現を何度も何度も使ったのよ! 許せないわ!」
「そんなに大声出さなくてもいいのではないですかな……。えー、あなたですか? さっきまでこちらのご婦人とお話ししていた旅人さんというのは?」
「ええそうです。どうもボクの言葉|遣《づか》いがよくなかったみたいで……」
「ふむ。しかしご婦人が過敏《かびん》に反応しすぎたこともあるかもしれませぬ。で、旅人さんは何が知りたいのですかな?」
「えーっと、×××××がないかお聞きしたんですけど」
「! な、な、なんてことを……。旅人さん、そんな発言を平気な顔をしてしないでもらいたい。特定の団体や職業を著《いちぢる》しく愚弄《ぐろう》している!」
「その……、×××××が、×××××できる×××××を捜《さが》しているんです」
「い、いいかげんにしてもらいたい! これ以上|妄言《ぼうげん》を吐《は》くようだと、それなりの措置《そち》をとりますよ」
「そうだそうだ!」「いいかげんにしろ!」「カス!」
「はい? どうもボクは×××××なのかな? どう思う? エルメス」
「キノ。ひょっとしたら、×××××なんじゃないかな? だから、×××××だと思われてるのかもよ。×××××とか、×××××とかの言葉を使った方が、×××××じゃない?」
「かーっ! モトラドさんまでひどいことを言うんですね! まったくお似合いだ!」
「そうだそうだ! あなた達はクズですよ。生きる資格がない、唾棄《だき》すべき存在です。頭どうかしてますよ」
「あのですね、どうも誤解されているみたいで。言い換えますと、ボクは、×××××だと思ってるだけなんですけど。×××××は×××××ではないのですか?」
「きゃーっ!」「なんてこと言いやがる!」「ね? 私の言ったとおりでしょう」「ううむ、どうしようもないな。根本から腐《くさ》っておる」「子供には聞かせるな!」「坊《ぼう》や、向こう行きましょうね」
「こまったな……。エルメス、何かいい言葉知らないかい?」
「×××××≠チて聞くのはどう?」
「×××××≠フ意味でかい?」
「キャーっ! 非道《ひど》い! 非道すぎる! あんた達よくそんなこと言えるわね!」
「おい糞《くそ》ガキ! そのような暴言は止めろ! 今すぐ止めろ! さもないと!」
「さもないと?」
「…………。けっ! な、なんだそりゃ? その、腰《こし》のハンド・パースエイダーで俺《おれ》を脅《おど》しているつもりか? は! まさかこっちがお前を刺《さ》すとか思ったのか? ふざけるな! 俺《おれ》はそんなことはしない! たまたまこのナイフがポケットで変に当たっていて、どうにも具合が悪かったから出してしまい直そうとしていただけだ! それを短絡的《たんらくてき》にとらえやがって。貴様は人を信じることができない悲しい人間だな! くそったれが!」
「まったくだわ。暴力で何か自分の考えを押し通そうなんて、最低ね!」
「そうだな。こんな言動だと、おそらく今まで自分の気にくわない人間を何人も殺してきたんだろう。人を撃《う》つことをなんとも思っていない、冷血な殺し屋だよ、こいつは!」
「そうね。私達が黙《だま》って聞いていれば好き勝手なことを言って……。言葉という武器で、平気で人を傷つけることのできる、愚《おろ》かで悲しい不完全な生き物だわ」
「その気持ち痛いほど分かる。この人の差別思想には怒りを通り越して哀《あわ》れみを感じる。きっと両親がゴミで、いいことと悪いことをきちんと教えなかったのね。もしくはとっても貧乏で、そんな暇がなかったのよ。父親はアル中で、母親は若い愛人と失踪中《しっそうちゅう》かも」
「なるほど……。みなさんのおっしゃる意味は、まあ分かります。ボクの×××××が×××××なんですね」
「キノ、どっちかって言うと、×××××なんじゃない?」
「貴様らー! まだそんなことを言うか! もう出ていけ! この国から出ていけ! とっとと失《う》せろ! 貴様らのような差別主義者は、この国にこれ以上一秒たりとも存在するな! 本当なら不当に差別された可哀相《かわいそう》な人達に代わって八《や》つ裂《ざ》きにしてやりたいくらいなんだぞ! 寛大《かんだい》にも追放で許してやる! 理性的な我々の慈悲《じひ》が受けられるうちに出ていけ! みんな! 力を合わせてこいつらを追放しよう!」
「そうだ! 出ていけ! 出ていけ!」「ゴミ!」「人殺し! サディスト!」「出てけ」
「このガキが! これでも食ら――」
「それは困ります。止めてください」
「……な、なに睨《にら》みつけやがる?……お、俺《おれ》は足下に落ちていた石を拾っただけだ! 子供がけつまずくと危《あぶ》ないからな! す、寸足《すんた》らずな誤解をするんじゃねえぞ! イカレが!」
「そうよ! この人は優しい人なのよ! 私はそのことをよく知ってるわ。言葉でも行動でも人を傷つけるのがお上手《じょうず》すぎる貴方《あなた》なんかには、一生分からないことでしょうけどね!」
「出ていけ! とっとと出ていけ! 死ぬなら国の外で死ね! そしてウジ虫の餌《えさ》になれ! この国には、お前みたいな差別主義者や暴力|肯定《こうてい》主義者が息を吸っていい場所はねえ!」
「そうだそうだ! 我々の国を汚《けが》すな! 美しい国には入ってくるな! 汚らわしい」
「私……、この人の言動を見ていると、昔、己のねじ曲がった思想のために何万人し虐殺《ぎゃくさつ》をしたっていう、冷酷《れいこく》な独裁者を思い出すわ……。背筋が寒くなる。きっと彼の亡霊《ぼうれい》だわ」
「そうね……。ねえ旅人さん。今すぐとっとと出てって。そして、言葉が凶器《きょうき》になることを知って。でももう二度とこの国には近づかないで。私達にあなたの無様《ぶざま》な病気をうつさないで」
「そうだ出ていけ」「出ていけ!」「失せろ!」「出ていけ!」「出てきなさいよ!」「いなくなれ!」
「……やれやれ。じゃ、しかたがないので、ボク達はこれで失礼します。みなさん、お元気で。×××××が、×××××だといいですね」
「キャーッ!」「去り際だと思ってなんてこと言いやがる!」「出ていけー! 失せろー!」
「失《う》せろ! 失せろ!」
「それでは。――行くよエルメス」
「あいよっ! じゃあねー、みんな」
「――ふう。やっといなくなったか。どうしようもない奴《やつ》らだったな」
「そうね。あんな人間がまだいるなんて、悲しいわね。でも、所詮《しょせん》は外の人だからね」
「そうだな。私達の国の中には、あんな醜《みにく》い差別主義者はいない。それを認識できただけで、よしとするか。全《すべ》ての物事は、前向きに捉《とら》えないとな」
「それにしても、入国|審査《しんさ》官は何をやってたんだ? あんなクレイジーにまで入国許可を出しやがって。あれを入れるのなら、病院だろう?」
「まったくだわ」
「本当だな。たまにしか人が来ないんだからさ、その時くらいちゃんと働けよな」
「ま、入国審査官に知性を求めるのは間違いってものだ。あいつらのバカさ加減といったらない」
「そうよね。職業に貴賎《きせん》はないし、それで人を差別することは決して許されないことだけれど、入国審査官だけは別よね。生まれつきのダメ人間だから仕方がないわ」
「あいつらって数を数えられないから、指の数以上の計算ができないんでしょう?」
「あ、その話私も聞いたことあるわ」
「バカねー」
「そのくせ平均|寿命《じゅみょう》だけは長いのよね。知ってる? 一般国民の二倍ですって」
「スゲエな。知らなかった。なんでだ?」
「それはね、たぶん彼らは頭を使わないから。だから老けないのよ。長く生きればいいってものじゃないのにね」
「ほんとほんと」「言えてるな」
「城壁の外でなんて、審査官って、よくもそんな野蛮《やばん》な環境で暮らしていけるわよね。前に聞いたんだけれど、あいつらって一月に一回、給料をもらって買い物をする時だけしか、国に入らないんでしょう? あとはずーっと城壁の外で……。一族で何やってるのかしら?」
「根が野蛮なのよね。野蛮人には野蛮な森と荒野が似合うってことでしょ」
「あはは。言えてるわ。文明的な生活は、文明人じゃないとね」
「そういやさ、奴らって国の中の、普通の人と結婚するらしいんだけど、そんな時ほとんどの場合が、親とか親戚《しんせき》とかがいない人を配偶者《はいぐうしゃ》として捜すんだって。それも若い、結婚可能年齢ギリギリの」
「あー、ヤダヤダ。それって俺《おれ》達と結婚したら国の中にはもう戻《もど》さないぞ、ってことでしょう?」
「奴《やつ》ら、ロリコンの変態でもあったのか」「気持ち悪い……。死んでよね」
「それで、結婚したその人達も、やっぱり月一しか国の中に入らなくなるんだってよ」
「キャー! ホラーよねー。どんな生活してるのかしら? 別に知りたくないけど」
「俺《おれ》が噂《うわさ》で聞いた話では、あいつら国に入ってくる時も帽子《ぼうし》にマスクに手袋して、夏でも絶対に取らないらしいんだ。それがもう、すっげえブキミなんだってさ。で、知人に会っても、どんな生活をしてるのか一切言わないらしい」
「ううわ。気持ち悪いな」
「あんな人間に生まれなくてよかったよ。つくづくそう思う」
「まったくね。とにかく審査官《しんさかん》に生まれたから、一生審査官だなんて、気が狂《くる》いそうだわ。私なら自殺するな」
「いいや、法律上は職業|選択《せんたく》の自由があるから、国の中でたとえば教師になりたかったらなってもいいんだぜ。……まあ、あいつらに他《ほか》の仕事が勤《つと》まるとは思えないけどな。普通の仕事に就《つ》きたいなんて言い出したら、そりゃもう見物《みもの》だろうな」
「見たくない見たくない。もし審査官が私と同じ職業に就きたいなんて申し出てきたら、『書頬は不慮《ふりょ》の事故によって紛失《ふんしつ》しました。よって受け付けられませんでした。残念でした』って言ってやるわ。汚《けが》されたくないもの」
「それが、理性的な人間の理性的な判断だろうね。俺もそうする。もしくはテストで何点取っても落とす。元審査官なんて雇《やと》った日にゃ、お客がみんな離れちまうよ」
「ねえみんな、クズの話はもう止めましょう。こっちまでクズになりそうだわ。私達は、素晴《すば》らしい私達の文化をきっちり守って、美しい生活を続ければいいと思う。生まれつき恵まれない人に同情する必要なんか全然ないわ」
「そうだな」「いいこと言うわね」「賛成だ」
「さあ。私達は私達の生活に戻《もど》りましょう――」
城壁の外門|脇《わき》には、小さな詰《つ》め所《しょ》があった。
そこで、一人の男が座って本をのんびりと読んでいた。たぶん三十|歳《さい》くらい。着ている白いシャツに、『入国審査官』と刺繍《ししゅう》がしてあった。
詰め所の窓を、キノがノックした。審査官は机に本を置いて立ち上がると、ドアから外に出た。
キノが審査官に聞く。
「すいません。今すぐ出国させてもらいます。手続きは?」
審査官は、
「いらないよ。実は入国の手続きもしてないから」
そしてにやりと笑って、
「な。俺《おれ》がさっきああ言った理由、分かったろ」
キノが頷《うなず》いた。
「はい、とてもよく分かりました。今までいろいろな国を見て回りましたけど、滞在《たいざい》の短さでは新記録です」
「おそらく、破られることはないだろうね。ここの国の人間はみんなあんな感じだ」
「そうみたいですね。とてもふざけているようには見えませんでしたから。やっぱり×××××なんですか?」
「ああ。大昔はそうでもなかったみたいだけどね。ある時の指導者が、×××××は×××××だから、×××××ならない=Aなんて言いだした。それから×××××だよ。それ以来ずっと×××××だ。たぶん×××××が×××××なんだろうね」
「なるほど」「よく分かった」
キノが頷《うなず》いて、エルメスは感慨《かんがい》深くつぶやいた。
「せっかく来てくれたのに、気を悪くしないでくれな」
「とんでもない! とても面白《おもしろ》かったです」
キノが笑顔で言うと、審査官《しんさかん》も楽しそうに、
「言うと思ったよ。旅人はみんなそう言う」
キノは、そばにそそり立つ城壁を見上げた。
「この城壁も、すごいですね。こんなのは初めて見ました」
「だろうね」
審査官が頷《うなず》いて、首を上げた。
二人が見上げる灰色の壁には、端《はし》がなかった。真上へと伸びたそれは、やがてゆっくりと曲線を描き、そして反対側の城壁と一体化している。国全体が、コンクリートのドームで覆《おお》われていた。
「完全に囲っているんですね。中を見てとても驚《おどろ》きました」
「超超超|巨大《きょだい》卵だね。遠くから見たときは、山かと思ったよ」
エルメスが言った。
「いつ頃《ごろ》から、なんですか?」
キノが聞いた。
「残念ながら分からない。ただ、俺の曾《ひい》|曾《ひい》|曾《ひい》|曾《ひい》|祖父《じい》さんの時は既《すで》にあったらしいよ。彼が描いた絵に残ってる」
「へえ……」
キノがまた、城壁を見上げた。
「しっかし、汚《きたな》い国だったね、キノ。いや、人じゃなくて、町がさ」
エルメスがそう言うと、審査官は何度も頷いた。
「ああ、汚《きたな》いよ……。凄《すご》かったろう? 国中どこへ行ってもあんな様子《ようす》さ。見てのとおり閉鎖《へいさ》空間の上に、基本的に彼らには衛生観念ってものがないからね。気づいたかどうか知らないけれど、生ゴミや汚水《おすい》なんてみんな通りに垂《た》れ流しだ。北から流れている川は、国の上流だと清流で魚もたくさんいるけれど、下流だと真っ黒で、もう何が流れてるのか分からない。あれは触《さわ》れないよ。国中の家々にネズミがわんさかいるし、ゴキブリも多い」
「ゴキブリ≠チて何ですか?」
キノが審査官《しんさかん》に訊《たず》ねた。審査官は親指と人差し指を広げて、
「虫だけれど、これくらいの大きさでさ、べたんこで楕円形《だえんけい》で、油でぎとぎとに見える。キッチンとかによく出る」
「キノ、ゴキブリ見たことなかったっけ?」
エルメスが聞いた。キノは首を振って、
「ないよ」
「それは、キノさんは実に幸せ者かもな。食堂とか寝室に、あれがうようよいるのを見たらぞーっとするよ。まあ、国の中ではそれが当たり前だけれど。以前、ホテルの食堂の鍋《なべ》の中で数|匹《ひき》|煮上《にあ》がってるのを見た時は……。あー、この辺にしておこう」
審査官が、苦《にが》い顔をして手と首を振った。キノはふだんと変わらずに、
「そうですか……。見たことがない虫は、ちょっと見てみたかった気もします」
「止めとけ止めとけ。世の中には知らない方がいいものも絶対にある。ゴキブリはその内の一つだよ」
「そうですか?」
キノが真顔《まがお》で聞いて、審査官は苦笑しながら、ああそうだ、と小さく言った。
そして続ける。
「まあさ、俺《おれ》にしてみれば、よくあんなところで生きていられるなと思う。手袋とマスクなしじゃあ、長居は絶対にできない。でも……、彼らは生まれてから死ぬまで、外の世界を知らない。あれが当たり前で、そして一番いいと思ってる。そう教えられて育つからね。楽園に住んでいる人は、新天地なんて夢にも見ない」
「なるほど」
キノが言って、城壁の反対側に目を向けた。
晴天《せいてん》の下、緑が鮮《あざ》やかな草原に、涼《すず》しい風が吹いていた。真東《まひがし》に伸びる道の両側に、きれいにととのえられた畑が、遠くには、植林された針葉樹の黒い森が広がる。
城壁から少し離れた小川の脇《わき》に、木で建てられた審査官の家があり、水車がのんびりと回っていた。審査官の奥さんらしい女性が、洗濯物《せんたくもの》を干しているのも見える。その脇に作られた木のブランコで、子供が二人遊んでいた。
「いいところですね」
キノが言って、
「ありがと。俺《おれ》も、ここは好きだ」
審査官《しんさかん》がポツリと言った。
「ずっとここに住めば、キノも長生きできそうだね」
エルメスがちゃかした。
審査官が、くすっと笑って、
「そうかもね。俺達審査官はたいてい、孫《まご》の顔を見てから死んでいくけれど、国の中の連中は、子供が学校を卒業するかしないかって時期だ。ほとんどが病気で死ぬ。不衛生と空気の汚《よご》れのせいだ。はっきり言って、中は危険だよ。野獣《やじゅう》には襲《おそ》われないし、敵《てき》の弾《たま》は飛んでこないけれどね。それでも危険さ」
キノは軽く何度か頷《うなず》いて、再び草原に目をやった。
「北側を城壁にそって迂回《うかい》する道がある。西門前についたら、俺の姉といとこが審査官をやっているから、そこに立ち寄るといい。泊《と》まることもできるし、携帯食《けいたいしょく》と燃料も手にはいるよ。もしよかったら、俺も家族もとても元気だってみんなに伝えてほしい」
走り出す準備を終えたキノに、審査官が言った。
「ありがとうございます。お伝えしますよ」
「いろいろどうもね」
キノが帽子《ぼうし》をかぶり、エルメスに跨《またが》ろうとした時、
「キノさん、」
審査官が、突然聞いた。
「本当の蒼《あお》い空=Aって何だと思う?」
「え?」
キノが振り向いて聞き返して、
「本当の蒼い空=Aさ。文字どおりの意味でかまわない」
審査官はゆっくりと言いなおした。
「まるで、謎《なぞ》かけですね」
キノが、苦笑しながら言う。
審査官は頷いて、
「ああ、そう捉《とら》えてくれていい。――国の中の連中は、ペンキで塗られた城壁の内側が、たくさんの蛍光灯で照らされるのを、本当の蒼い空≠セと思ってる。じゃあ……、もし、旅人のキノさんが、『あなたにとっての、本当の蒼い空≠チて何?』。そう訊《たず》ねられたら、なんて答える?」
キノは、少し悩んだ後、
「……そうですね。こう答えますね。『そんなものは、ない』って」
「どうして?」
審査官《しんさかん》がすかさず聞いた。
キノは、ゆっくりとした口調で答える。
「空の蒼《あお》さは……、場所や、時間や季節、天気なんかでとてもよく変わります。そして、どれもきれいでした。その時はきれいと思えなかったのも、今思い出すと、きれいと言える気がするんです。……今まで、ボクがいろいろなところで見てきた中で、これこそが本当の蒼い空≠ニ呼べるものは、ボクには見あたりません。……だから、そんなものはない=B今のボクは、そう思います」
審査官は、じっとキノを見つめながら聞いていた。聞き終えてから数度|頷《うなず》いた。
「ああ、なるほどね……。そういう答えも、ありえたのか……」
つぶやいた審査官に、エルメスが聞く。
「誰《だれ》が?」
「俺《おれ》の祖父《じい》さんさ」
審査官がすぐに答えた。キノがそのやりとりに一瞬《いっしゅん》|怪訝《けげん》そうな顔を作る。しかしすぐに、
「なるほど。お祖父さんがあなたに、同じ質問をしたんですね」
「そうなんだ。俺が物心つくかつかないかの歳《とし》で、祖父さんは死ぬ寸前だった。彼は続けてこう言った。『本当の蒼い空≠、見つけようと見つけまいと、かまわない』俺は聞いた。いったいなんのこと、って。祖父さんは笑いながら、『だからかまわないんだよ。分かっても分からなくてもね。さよなら、リューグナー。わしの可愛《かわい》い孫《まご》よ』そしてぱたりと死んだ。……それから俺は、なんとなくだけれど、本当の蒼い空≠チて何かなって、たまに、本当にたまに、漠然《ばくぜん》と考えることがあった……」
審査官は、城壁に背を向けて、蒼い空を見た。
「キノさんの答えも、正解かどうかは分からない。でも……。うん、聞いてよかったよ。ありがとう」
空を見たままで、審査官が言った。
キノは同じように空を眺めて、
「どういたしまして。ここの空の蒼さも、とてもきれいですよ」
静かに言った。
第六話 「終わってしまった話」
―Ten Years After―
夜中の三時。
仕事を終えた私は、いつものように原稿をそろえて、いつものように封筒に入れて、いつものように、机の右側一番下の引き出しにしまった。担当編集者が取りに来るまで、もうずっとこのままだ。
私はイスから立ち上がって、部屋の真《ま》ん中《なか》でゆっくりと伸びをした。つま先から手の先まで、それこそ身長を高くする訓練かのように伸ばす。
子猫《こねこ》が兄妹猫四匹に一斉《いっせい》に上に載《の》られた時のような声を出して、それから、ふっと力をぬく。これをやると、今まで十時間以上机に向かい文を書き続けて、静かに蓄積されて、だから忘れさられていた体中の疲労が、どっとわき出てくる。
この疲れが、私はとても好きだ。
もしこれがどっしりとあると、ベッドに横になった時の沈み方が違う。ずぶずぶと沈んでいけたら、後はもう何も考えずに、数時間を過ごせる。
この沈みこみが浅いと、身体《からだ》がまだ浮いていようとすると、頭が回ってしまう。不可抗力でいろいろなことを考えてしまう。
今の仕事のこと。今後の予定のこと。その程度で終わればまだいいが、何か新しい話なんかをぽろっと思いついてしまった時には、もうダメだ。しばらく眠《ねむ》れない。
その場合私は、ベッドの上で不自然な体勢で、いつも脇《わき》に置いてあるノートに、自分の頭の中で次から次へと暴れ出るものたちを、落ち着かせて宥《なだ》めて纏《まと》めて、ひたすら文という形に残していかなければならなくなる。全《すべ》てが終わった時には、空がすっかり明るいなんてざらだ。物書きは一日中仕事≠ニはよく言ったものだと、へろへろの頭で感心したりする。
今の私は、手間のかかった話をちょうど一本|完璧《かんぺき》に終えたこともあって、いい感じにヘタレていた。私はベッドに倒れ込んだ。
ばふっ! と一瞬《いっしゅん》だけ跳《は》ね返って、後はゆっくりと、そして確実に沈んでいく。身体中が重いから、もうどこも動かしたくない。それでも手をほんの少しだけ使って、長い髪が息のじゃまをするのだけは防いだ。永眠にはまだちょっと早い。
そうだ、明日《あした》は髪を切りに行こう。いいかげんほったらかしで、だいぶ長くなった。
ふと、私が十代の頃《ころ》、女の子にしては髪がとても短かった頃を思い出した。
それはまだ、私が拳銃《けんじゅう》を握《にぎ》りしめ、硝煙《しょうえん》と共に生きていた時間。
そして、それが突然終わってしまったあの日のこと。
エルメスという名前の、あの生意気なモトラドは、今どこで何をやっているだろうか?
一つの国にすっかり落ち着いて、そして人気女流作家なんかになった今の私を見たら、なんて言うだろうか?
そうだ、明日《あした》は髪を切りに行こう。
あの頃《ころ》みたいに短くはできないけれど――、明日は、髪を切りに行こう。
それだけを決めると、私は沈んでいった。
砂の上に、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が止まっていた。
そこは少し岩場混じりの砂浜だった。沖には大小さまざまな島が散らばっている。波は、今は穏《おだ》やかだった。晴れた空に浮かぶ春の太陽が、のんびりと世界を温めていた。
砂浜では、波打ち際から離れるほど、松の木の量が増える。そして松は、きれいに繁《しげ》った林になる。
モトラドは、松がポツリポツリと生《は》え始める、波打ち際と林の中間に止まっていた。
旅荷物を満載《まんさい》していた。後輪|両脇《りょうわき》に箱が、その上のキャリアには大きな鞄《かばん》と、丸めた寝袋がくくりつけられている。サイドスタンドを出して、砂にめり込まないように小さな木の板をその下にあてがっていた。
モトラドの左側で海側の脇に、一人の人間が伏せて隠《かく》れていた。若い人間だった。十代の半《なか》ばほど。まるで兵士のように短く刈り込んだ金髪と、きれいなエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》を持つ。
あちこちがあて布だらけのジャケットとパンツを着ていて、底が厚いゴムでできたサンダルを、足にしっかりと縛《しば》りつけていた。手には、自動式のハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器《じゅうき》。この場合は拳銃《けんじゅう》)を握《にぎ》っている。このパースエイダーにはライフルのようなストックが取りつけてあって、肩《かた》と頬《ほお》につけて狙《ねら》えるようになっていた。
人間は張りつめた表情で、モトラドの陰《かげ》から、前方の林の様子《ようす》を注意深く窺《うかが》っていた。
「あのさあ、誰《だれ》だか知らないけれど、やめた方がいいんじゃないかなあ」
モトラドが言って、人間は答えなかった。パースエイダーを構えたまま、動くものを見逃さないように目を光らせた。
「まあ、人間いろいろ事情があるだろうけれど、よりによってキノを襲《おそ》おうなんて」
モトラドがまた言って、
「うるさい!」
人間がぴしゃりと言った。そして、やや口調を和らげて、それでも少し緊張気味に、モトラドに聞いた。
「キノっていうのか。あの旅人は」
「そうだよー。で、キミが遮蔽物《しゃへいぶつ》代わりに使っているのが、エルメス」
エルメスと名のったモトラドが、
「まあ、そんな訳でよろしく」
緊張感の欠片《かけら》もない口調で言った。
「ああ。オレはイーニッドだ……。って、んなことはどうでもいいんだ!」
イーニッドと名のった人間が怒鳴《どな》って、
「イーニッドね。よろしく」
エルメスは、普通に挨拶《あいさつ》した。
イーニッドはそれを無視、少し体を起こして寝袋の脇《わき》からゆっくりと顔を出した。肩《かた》でしっかりと構えたパースエイダーで、林の中に狙《ねら》いをつけた。そして撃《う》つ。乾《かわ》いた破裂音《はれつおん》が三発立て続けに聞こえ、空薬莢《からやっきょう》が三個飛び出して砂の上に落ちた。一度引き金を引くと、三連射する自動式パースエイダーだった。
「ちっ!」
イーニッドが舌打ちして、エルメスが聞いた。
「外《はず》れ?」
「うるせえ!」
「そんな腕《うで》だと逆に撃たれちゃうよ」
イーニッドはへっ! と笑って、
「お前はそのための盾《たて》だ。間違ってテメエのアシを撃ったら旅はできねえだろ?」
「まあね……。でも、キノのことだから、」
エルメスが言った瞬間《しゅんかん》、ぶおんっ! と風を切る音がして、寝袋の一部がはじけ飛んで中の羽毛《うもう》が舞った。また顔を出そうとしていたイーニッドの耳のすぐ脇を弾丸が通り抜け、白い羽毛が金髪の上に降った。
「きっと遠慮《えんりょ》なく撃ってくるよ。……今みたいに」
「…………」
イーニッドは顔を引きつらせて、エルメスのエンジンの後ろに避難《ひなん》した。
「早くなんとかしないと、イーニッド」
「な、なれなれしく呼ぶな!」
できる限り頭を低くしながら、イーニッドが叫んだ。それから、くそっ! と再び小さく悪態をついた。
「だいたいなんでまた、旅人なんて襲《おそ》うのさ? ちなみにキノは金持ちじゃないよ」
「そんなことはどうでもいい。襲って奪うことに意義があるんだ」
「? 何それ?」
イーニッドは答えず、パッと頭を上げると、林の中で動く何かを追いながら、立て続けに撃った。三発連射が五回。やかましい破裂音《はれつおん》が、海岸に十五発分鳴った。
撃《う》ち終えてイーニッドはすぐに伏せた。空《から》の弾倉《だんそう》を落として、胸のポケットから新しいのを取り出して、パースエイダーに叩《たた》き込んだ。
「くそっ! 林の奥に逃げやがった!」
「また外《はず》したの? ヘタだねー」
エルメスが正直に言って、
「うるせえって言ってんだろ!」
イーニッドが怒鳴《どな》り返した。
「まあ落ち着きなよ。焦《あせ》って勝負しても、いいことないよ」
「お、お前に言われたくない……。でも、まあ……、そのとおりだ」
イーニッドは、大きく息を吐いた。軽く顔を振った。
「で、なんで旅人を襲《おそ》うの?」
エルメスが聞いて、イーニッドはすぐに答えた。
「一人前だと認められるためだ」
「なんの?」
イーニッドは伏せたまま、目線とパースエイダーの狙《ねら》う先は常に同じにしながら、
「海賊《かいぞく》さ。この辺《あた》りを仕切る海賊には、しきたりがある。なりたい人は、十五の誕生日に一つのテストがある。その日以降初めて見かけた誰《だれ》かを襲って、その持ち物を奪う。必要なら倒す。これを成し得ないと、もう一生海賊には入れない」
「はー、なるほど。でも、相手が異常に強かったら? 返り討《う》ちにあったら?」
「それは、運だ……。海賊には運も必要だ。それすらもここで試すんだ」
「ああ、なるほどね」
エルメスが感心して言った。
「オレにとって今日がその日だ。あの旅人を倒して、オレは認められる。オレはいつかオヤジの跡《あと》を継《つ》いで頭領《とうりょう》なるんだ。だからこんな……、こんな最初の一漕《ひとこ》ぎで沈んでたまるか!」
イーニッドは険《けわ》しい顔をして、激しい口調で言った。
「はーん。必死なんだ」
「そうだ。今日までのオレは、今日のために生きてきた……。相手が誰であろうと、絶対に勝ってやる!」
イーニッドはパースエイダーを握《にぎ》り直した。エルメスのエンジンとフレームの隙間《すきま》から、エメラルドグリーンの目で、林の中をにらみつけた。
「さあ、出てこい。いつまでも待ってやる……」
そうつぶやいた三秒後、何か赤いものがイーニッドの左目を刺激した。慌《あわ》ててイーニッドが顔を逸《そ》らす。さっきまで目があった位置、今はイーニッドの肩口《かたぐら》に、赤い光の点がぽつんと当たっていた。照準用のレーザー・サイトが、わずかな隙間《すきま》を通り抜けていた。
「!」
イーニッドがすばやく隙間から体をずらした。同時に林の中で発砲音《はっぽうおん》が響《ひび》いた。
弾丸《だんがん》はエルメスに当たらず、そしてイーニッドにも当たらなかった。それはエルメスのスタンドの下にあてがった木の板に命中して、はじき飛ばした。
「うわあ!」
エルメスが言って、スタンドが砂にめり込んで左側に倒れ始める。
イーニッドは、
「うわっ!」
突然自分の顔めがけて降ってきた鞄《かばん》と寝袋を避《さ》けるため、体をひねった。それらの頭への直撃はなんとか免《まぬが》れて、その代わり体ほとんどを、エルメスの下敷きにされた。仰向《あおむ》けで、両足はエンジンの下。右手はパースエイダーごと荷物の下。
べしゃ、っと倒れたエルメスが、
「非道《ひど》い……」
つぶやいた。
「くっ!」
イーニッドは必死に暴れてそこから這《は》い出ようとしたが、左手は砂を掻《か》いただけだった。イーニッドはエルメスを押したが、動かない。
「くそっ! 重い! キサマどけ!」
イーニッドが叫んで、
「ムリ言わないでねー」
エルメスが言った。
イーニッドが空を見ながら、必死の形相《ぎょうそう》でエルメスに力をかけた。なんとか少し動いて、左足がエンジンの下から抜けそうになった時、
「!」
空が暗くなった。誰《だれ》かがイーニッドを見下ろしていた。逆光で表情が分からないが、その誰かは右手に持っている大口径《だいこうけい》のリヴォルバーを、イーニッドに向けていた。ひざ辺《あた》りに、イーニッドを狙《ねら》っていたはずの、赤い光がついていた。
「くそっ……、トリックだ……。二挺《にちょう》持ってやがった……」
イーニッドは呆然《ぼうぜん》とした顔で、力無くつぶやいた。
誰かが少し顔を上げた。こちらも十代中程の若い人間で、ぼさぼさの短い黒髪に、黒いジャケットを着ている。
「大丈夫《だいじょうぶ》かい?エルメス」
「だいじょうぶ。寝袋のことは知らないよ。キノは?」
エルメスが押さえ込みの姿勢のまま答えて聞いた。キノと呼ばれた誰《だれ》かは、下敷き人間に狙《ねら》いをつけたまま
「まあ大丈夫《だいじょうぶ》」
「それはよかった。ところで、早く起こしてほしいな」
「その前に……」
キノはゆっくりと視線を落とし、自分を見るエメラルドグリーンの双眸《そうぼう》を見返した。
「へっ! 撃《う》つなら早く撃てよ」
イーニッドが吐《は》き捨てるように言った。
「キノ。紹介《しょうかい》するよ」
エルメスが簡単|明瞭《めいりょう》に、ことの次第を説明した。
「なるほど、それでいきなり襲ってきたのか。認められるためのテスト……、か」
キノが言って、エルメスは倒れたまま、少し気取った口調で、
「そう。それはどんな人間にもある、いわゆるひとつの、杖《つえ》か義足《ぎそく》≠チてやつさ」
「…………。えっと、……通過|儀礼《ぎれい》=H」
「そうそれ」
そう言ってエルメスは黙った。
キノが呆《あき》れ口調で、
「最近かなり無理があるよ、エルメス。音が似てもいない」
「……そうかな? まあキノが分かればいいじゃん。言語なんてそんなものさ」
「でもね、分かるまでにだいぶ時間がかかるんだ。だから――」
「そう? キノの連想能力を高めるという件では、それなりの貢献《こうけん》を――」
深刻に話し合うキノとエルメスに対して、
「テメエら! オレを無視すんじゃねえ!」
イーニッドが下から吐えた。
キノは、リヴォルバーを右腿《みぎもも》のホルスターに戻《もど》した。下敷きになったイーニッドのパースエイダーを取り上げて、あっという間に弾倉《だんそう》と弾《たま》を抜いてスライドを分解して、それぞれ遠くに放り投げた。倒れたままの鞄《かばん》から紐《ひも》を取り出して、歯ぎしりしているイーニッドの手と足を縛《しば》った。それから、イーニッドを引っぱり出した。
キノはエルメスを起こして、はじけ飛んだ木の破片《はへん》をなんとかまたあてがって、スタンドをかけようとした。その間中、イーニッドは引っ張ったり歯を立てたりして、紐《ひも》を取ろうとあがいていた。
キノがエルメスを立たせた。同時にイーニッドが無理矢理紐をはぎ取って、キノに向けて突っ込んできた。
「くらぇ!」
イーニッドの右ストレートを、キノは右側にすっと避《よ》けて、同時に右手で胸倉《むなぐら》を掴《つか》んだ。そのまま巻き込むようにしてイーニッドを投げ倒す。背中から落ちたイーニッドの鳩尾《みぞおち》に、キノの肘《ひじ》が全体重を載《の》せて入った。
「ぐげっ!」
イーニッドがいやな声を出して、悶絶《もんぜつ》する。キノはイーニッドを横に向けると、後ろ手できつく縛《しば》った。
「やれやれ……」
キノがつぶやくと、エルメスがちゃかした。
「見上げた根性だね。キノも見習うべきだ」
イーニッドは何度も咳《せき》をした後、体を起こした。涙《なみだ》と砂で汚《よご》れた顔をキノに向けて、
「殺せー! オレを殺せ! 今すぐオレを殺せ! 海賊《かいぞく》になれないなら、死んだ方がましだ! 殺せ! どうしたできないのか! このチキン野郎《やろう》!」
「だってさ、キノ。どうする?」
キノがエルメスをちらっと見て、渋《しぶ》い顔をして首を振った。
「殺せ! オレをこのままにしておくつもりか! テメエ! 責任とって殺せ!」
キノはイーニッドを放ったまま、林の中にもう一梃《いっちょう》を取りに行った。自動式のハンド・パースエイダーが木の股《また》に結わえつけられていて、レーザー・サイトのスイッチには長い紐《ひも》がついている。キノはそれを取り外《はず》して、腰《こし》の後ろのホルスターにしまった。
戻《もど》ってくると、座ったままうなだれているイーニッドに、エルメスが喋《しゃべ》っていた。
「――だからさあ、なんて言うか、まあ、今回は運がなかったんだって。運だよ運。それすらも試す≠チてさっき言ったじゃん。そんなにがっかりしなくても、いやまあ、がっかりするのは仕方ないよ。あれだけ目標にしてきたんだから、がっかりするな、とは言えない。その上で、これはこれで受け入れなくちゃね。まだ人生|全《すべ》て終わった訳じゃないし、これからの自分の選択《せんたく》と、その時の運によっては、将来もっとやり込めることが、何かいいことが――」
イーニッドは泣きながら、時たま、
「うるせえ……、うるせえ……」
とつぶやいていた。エルメスはお構いなしに続ける。
「ほら、モトラドだって運転手が代わることがあるでしょ。そうなると今までの乗り方とか扱いとかががらっと変わって、こっちはたまらないこともあるんだよ。でも、それはモトラドの宿命とか運命みたいなものだし、不可抗力なんだよね。だから人間にも、ひょっとしたらそれと似たようなことが――」
キノがため息をついた時、沖の島影から、小型の船が出てくるのを見つけた。船は猛《もう》スピードで、まっすぐこちらに向かって来る。乗っている数人の男の姿が見えた。
「あれは……」
キノが言って、エルメスがなぐさめのようなことを中断して言った。
「うん。イーニッドの仲間っぽいね」
キノは頷《うなず》いて、
「ちょうどいい。逃げるか」
「そうだね」
キノは、腰《こし》のベルトに挟《はさ》んでいた帽子《ぼうし》とゴーグルを取って、かぶってつけた。エルメスに跨《またが》って、エンジンをかけようとした時、
「旅人さん! どうかお待ちを! 私達は決して危害を加えません!」
船から拡声器の大声が響《ひび》いた。
「我々の掟《おきて》です! この儀式《ぎしき》に巻き込まれて、生き残った方に対して、けじめとしての賠償《ばいしょう》をさせてください! どうかお待ちを!」
声と船が近づく。
「どうする? キノ」
エルメスが聞いた。
「まあ、念のためにね」
キノがエンジンをかけようとして、
「そういう掟だ……。海賊《かいぞく》は、嘘《うそ》はつかない……」
イーニッドがうなだれたまま、ポツリと言った。
「…………」
キノはエルメスからおりると、イーニッドの紐《ひも》をほどいた。イーニッドは手を前にしただけで、力なく座っていた。
船はそのまま砂浜に乗り上げてきた。男が七人乗っていて、全員がパースエイダーを肩《かた》に下げていたが、構えようとする者はいなかった。
彼らはまずイーニッドを取り囲み、しゃがんで、心配そうにけががないか聞いた。イーニッドは彼らの顔を見ないで、ただ首を振った。
ひげ面の中年の男が、キノの前に来て、言った。
「旅人さん。オレが頭領《とうりょう》だ。さっき言ったとおりだ。これを受け取ってくれ」
頭領は肩に下げた袋から、金銀財宝の類《たぐい》を無造作《むぞうさ》に掴《つか》み出して、キノに差し出した。
キノは、それはもともと誰《だれ》かさんのもので、ボクが持って旅をすると疑われるからと、申し出を断った。
それではけじめにならないと言う頭領に、キノは燃料か弾薬《だんやく》を分けてもらえないか聞いた。
頭領は男の一人に命令して、船から燃料|缶《かん》を持ってこさせた。キノは、エルメスに入るだけ給油した。
「ありがとうございました」
キノが頭領《とうりょう》に言って、頭領は首を振った。
「礼を言うのはこちらだ。あの子が仲間になれなかったのは、死ぬほどくやしい。でも、あの子が死ななくてすんだのは、あんたのおかげだ……」
頭領は、キノに訊《たず》ねた。
「なあ、あんたはあの子を縛《しば》り上げた後、殺そうと思えば殺せた。あんたほどの腕《うで》だ、相手を目の前にしても、躊躇《ちゅうちょ》なんてしないだろう。なのに、そうしなかった。なぜだ?」
キノは、しゃがんだまま鳴咽《おえつ》しているイーニッドを見た。むさい男達が、一緒《いっしょ》になってぼろぼろ泣いていた。キノは頭領の顔を見て、言った。
「分かりません」
「そうか……」
そして頭領は、少し潤《うる》んだ目をして、つぶやいた。
「あの子は運がよかったんだな。運がよかったんだ……。そういうことにしておこう」
こうして私は、十年前のあの日、海賊《かいぞく》にはなれなかった。こうして私は、今まで生きてきたのとは別の世界に生きることになった。それはまったく同じで、まったく違う世界。そこに居続けなくてはいけないという事実は、重かった。
モトラドが走り去っていく音を聞いて、みんなに船に乗せられてアジトに帰るまで、私はずっと泣いていた。
みんなは、どこまでも優しかった。責める人もいなかったし、笑う人もいなかったし、一見残念そうにしながら内心ではほくそ笑んでいるのを隠《かく》せない人もいなかった。いたら殺してやろうとも思っていたけれど、私は無事だった。
それでもその後、私は一人で勝手に無人島に行った。水も食べ物もない小さな島だ。そこで私は、五十日ほど一人で過ごした。
何もせずに、ただぼうっとしていた。いっそ、このまま餓死《がし》してやろうかとも思った。みんながこっそり食料と水を置いていってくれなければ、本当にそうなっていたかもしれない。みんなには、本当に感謝している。
それから、海賊になれなかった者の掟《おきて》として、私は海賊を秘密|裏《り》に支援している近くの国に引き取られ、そこで普通の人として暮らすことになった。今まで見たこともない学校とかに行って、やったことのない勉強とかをした。
新しいことを知ることは、気晴らしにはなった。
思ったより早く学校を終えて、思ったより楽に、本を作る会社にお金を稼《かせ》ぐために入った。
思ったより楽しかった。今まで見向きもしなかった、本をよく読むようになった。そのうち自分で書くようになって、そのうちそれが仕事になった。
今やっていることが、海賊《かいぞく》よりやりがいがある行為なのかは、もう一生分からない。
時たま、海賊が出没《しゅつぼつ》したニュースやうわさ話を聞くと、自分が向こう側にいない現実に、身体《からだ》全体が少ししぼむような感覚がある。
でも、それでも……、今の私は私であって、オレではない。どこまでも、そうだ。
あれからずっと、国に来た人は全《すべ》てチェックしているが、エルメスという名のモトラドに乗った、キノという名の旅人は現れていない。
もし、彼らがやってきたら、私はさぞかし歓迎するだろう。
まさかアイツら、どこかで山賊にでも襲《おそ》われてくたばってんじゃないだろうな?
ま、アイツらに限って、それはないか。
さあ、髪を切りに行こう。
あの頃《ころ》みたいに短くはできないけれど、髪を切りに行こう。
エピローグ 「雲の中で・a」
―Blinder・a―
山岳地帯だった。
蒼《あお》い空に向けて、所々雪が残った峰々が並ぶ。
なだらかに広がる裾野《すその》の斜面には、雪解け水でできた細い沢と、少し水が留まる池と、あざやかに色をつける高山植物の葉と花があった。見下ろす先には雲の海が広がり、下界の展望はない。
山肌《やまはだ》に沿って、道が一本走っていた。比較的整備された、太い道だった。
道と他の間に、人間が折り重なって倒れていた。大人《おとな》と子供、合わせて三十人ほど。そのそばには、旅荷物を積んだトラックが二台止まっていた。
キノは離れたところから、その様子《ようす》をスコープで覗《のぞ》いていた。風が吹いて、茶色のコートを揺《ゆ》らしていた。
「どう?」
キノと離れて、道の上に止まっているエルメスが聞いた。キノは短く言った。
「動く人は、誰《だれ》もいない」
「殺されたの? 山賊《さんぞく》か何か?」
キノは覗きながら首を振って、
「全員、口から泡《あわ》を吹いて死んでる。それに顔が緑に変色しているから、たぶん……」
「たぶん?」
「知らなかったんだ」
「はい? 何を?」
エルメスが聞いた。キノは覗きを止めると、足下に生《は》えていた草を引っこ抜いた。それをエルメスに見せた。
「これは、他《ほか》のところに生えているのと同じ種類だけれど、高いところに生えるものだけには毒があるんだ。それを知らないで、いつもどおり煮て食べてしまうと――」
キノは草を放り捨てて、遠くの死体の群を見た。
「あの人達は、知らなかったんだ。……昨夜《さくや》だろうね」
「はー、それで全滅《ぜんめつ》かあ」
エルメスが、感心と呆《あき》れの口調で言った。
キノが少し目を細めて、
「あまり、見たくない光景だな」
ポツリと言った。
「目をつぶれば?」
エルメスがちゃかした。同時に、強い風が斜面を吹き上がってきて、コートの裾《すそ》が激しくはためいた。
キノがコートをおさえた。山裾《やますそ》に目をやると、巨大《きょだい》な白い塊《かたまり》が、盛り上がるように突き進んできた。キノとエルメス、そして死体の群を一瞬《いっしゅん》で包み込んだ。
真《ま》っ白《しろ》になった。
あとがきの話
―Preface―
世界は、あとがきなんかじゃない。
そしてあとがきが生まれた。
まったくオチのない。
意味もテーマも見えない。
ゆっくりとページをめくる音だけが聞こえてくる。
「そうだなあ……。なんとなく、だけれどね……」
ふいに人間の話す声が聞こえた。少年のような、そして少し高い声だ。
「なんとなく、だけれど?」
別の声が発言を促《うなが》すように聞いた。さらに若い感じのする、男の子のような声だった。
ほんの少し静寂があって、最初に聞こえた声が静かに語りだした。まるで自分に言い聞かすような、誰《だれ》もいないところへ向かって喋《しゃべ》るような口調だった。
「あとがきはね、たまにどうしようもない、必要のない文章ではないか? ものすごくいらないパートではないか? なぜだかよく分からないけど、そう感じる時があるんだ。そうとしか思えない時があるんだ……。でもそんな時は必ず、それ以外のもの、たとえば本文とか、挿絵《さしえ》や口絵とかが、全《すべ》て美しく、すてきなもののように感じるんだ。とても、愛《いと》しく思えるんだよ……。あとがきは、それらをもっともっと引き立てたくて、そのために無理して巻末につけているような気がする」
それからほんの少しだけ間をおいて、こう続けた。
「辛《つら》いことや悲しいことやネタ切れは、あとがきが常についている以上必ず、書く先々にたくさんころがっているものだと思ってる」
「ふーん」
「だからといって、あとがきを止《や》めようとは思えない。それをしているのは楽しいし、たとえバカさらけ出す必要があっても、それを続けたいと思えるしね。それに」
「それに?」
「止めるのは、編集者判断とはいえいつだってできる。だから、続けようと思う」
最初の声は、きっぱり言った。そして訊《たず》ねた。
「納得したかい?」
「正直言って、まったく全然何言ってるか分からないや」
別の声が答えた。
「それでもいいと思うよ」
「そう?」
「作者自身も、ひょっとしたらよく分かっていないのかもしれない。迷っているのかもしれない。そしてそれをもっと分かるために、あとがきを書いているのかもしれない」
「ふーん」
「さてと。あとがきは終わるよ。次巻もまたなにか書かなくちゃ。……それでは」
「それでは」
かさかさと薄い紙が擦《す》れ合う音が聞こえ、やがて止んだ。
二〇〇一年 春 時雨沢《しぐさわ》|恵一《けいいち》