キノの旅 「記憶の国」―Thier Memories―
何を忘れたか覚えてますか? ―Don't Forget to Forget!―
「で、理由は?」
モトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)の質問に、
「不明なんだって。いきなりだったらしい。何十年か前のある日に誰かが行ってみたら、きれいさっぱり」
その運転手が答えました。
後輪の脇と上に箱や鞄や寝袋、予備の燃料缶などの旅荷物を満載したモトラドでした。運転手は、白いシャツに黒いベストを着て、鍔と耳を覆うたれのついた帽子、目にはゴーグルをしています。年齢は若く、十代の半ばほどでしょうか。
右腰のハンド・パースエイダー(注・パース・エイダーは銃器。この場合は拳銃)のホルダーが吊られ、中には大口径のリヴォルバーが収まっていました。腰の後ろももう一丁、自動式をつけています。
モトラドは、乾燥した大地の一本道を走っていました。
天頂で眩しく輝く太陽と、その周りの濃く蒼い空。どこまでも平らな土地には、ひょろりとした灌木と草が点在して、薄茶色の土にほんのりわずかの彩りを与えていました。堅く絞まった土の道の先では、陽炎が揺れて進む先をぼやかします。
「で、そんな誰もいない国に、旅人が次々に訪れるというのも皮肉なもんだね。キノ」
モトラドが言いました。キノと呼ばれた運転手は軽く頷いて、
「それまでは住人がとても口やかましくて、よそ者は全然歓迎されなかったらしい。そして誰もいなくなって、廃墟になった建物を自由に見学ができるようになって、豊富な水と食べ物を好きにできるようになって、とても過ごしやすい場所になった、と」
「フ――ン」
「だからね、エルメス。ボクはわざわざ往復してでも行ってみることにした」
キノがそう言って、エルメスと呼ばれたモトラドが納得、と呟きました。
変わりばえのしない景色の中、しばらく走ったところで、エルメスがぽつりと言います。
「理由だけど、まさか――」
「まさか?」
「リヴォルバーを持った旅人の誰かさんが、自分の扱いに立腹して思う存分暴れちゃったとか?」
「ははは」
キノはゴーグルの下の目を細めて笑いました。そしてすぐに口元を引き締め、葬儀錠で遺族に御挨拶するような口調で言います。
「それ、洒落になってないよエルメス」
「うん、ごめん」
道の向こうに、そして地平線の下から、城壁が姿を現しました。
走るにつれてその灰色が、大まかな造りが、石の組み方が、城門の位置が次々に判明していきます。城門に扉はなく、脇にある詰め所に番兵もいません。
「本当に誰もいないね」
エルメスが言いました。キノはエルメスを止めず、そのまま城門の中へとゆっくり走っていきます。大きく高く、幅の太い城壁でした。湾曲の緩やかさが、その国が巨大なことを示していました。
ひんやりとした空気の長い城門を潜り抜けると、そこには緑の国が広がっていました。
「わあ」「すごいね」
キノがエルメスが同時に声に出しました。
国内には、外とは比べ物にならないほどの緑色がありました。城門から国の中央へと続く大通りには街路樹が並んで、道の両脇には今もさらさらと水が流れる水路があって、脇に見える家々には垣根が茂っています。
キノは後輪を滑らしながらエルメスを止めます。燃料節約のために即座にエンジンを切ると、聞こえるのは静かな風と葉擦れの音だけでした。
緑の合間に見える家に、人がいる気配はありません。石造りの家はひっそりとたたずみ、窓枠は乾燥し落ちてなくなっています。庭は雑草どころか、雑木が逞しく伸びていました。
「なんでだろうね」
「さあね・・・・・・」
エルメスとキノはもう一度、答えの出ない会話を交わしました。
キノはエンジンをかけ、大通りを走り出しました。つくことのない街灯や信号機が、頭の上を通り過ぎていきます。
走りながら、
「いいところだな。誰もいないけと、食べものには困らない」
キノがそれらを見て言いました。大通りの脇に広がった大きな池では、たくさんの魚影が水面を波立たせていましたし、広大な畑に植えられた木には、鮮やかな黄色い果実が大量にぶら下がっていました。その種が運ばれてたのが、畑の外にも果樹が版図を広げています。
「住み着く? キノ」
「考えておくよ」
キノとエルメスは、進む先に見えてきた大きな建物の群を目指し走っていきます。果樹の上で、見たこもない鳥がその姿を見送りました。
国の中央部には、立派過ぎる建物が並んでいました。
豪華な化粧石をふんだんに使った、どっしりとした石の建築物です。必ず尖った屋根や、装飾でついている変な生き物の石像が目立ちます。整った区画の中に、それらは丁寧に並んでいました。
道路は車なら十台ほどが並んで走れそうな幅で、きれいに十字に交差しています。薄い土埃をあげながら走るモトラドがとても小さく見える、壮大な都市部でした。
そして、そこには誰もいません。
エルメスを止めて交差点の中央に立ったキノが、視線と体をぐるりと回します。
「・・・・・・」
建物は音もなく横へと流れていき、また別の建物が現れ、また流れていきます。その向こうには、変わらない蒼い空があるだけなのでした。
キノは面白がって五周ほどして、
「・・・・・・」
それから少しふらつきました。
「その状態で乗らないでね」
エルメスが言いました。
その都市の中で、キノとエルメスは見学を始めます。
本当に国の人は誰もいません。他の旅人もいません。
どうやら劇場らしい建物では、キノだけが中に入り残っていたステージを見学して、エルメスにずるいと言われました。
地下水が今もわく池のある広場を見つけて、水がきれいなことを確かめた後、今夜の宿に決めて場所を覚えておきました。
かつてはお店だったのか、ガラスが粉々になった店内に、映像モニターらしい機械やその他電子機械が何十個も転がっていました。
英雄か王様か知りませんが剣を持った大きな石像が、その脇から伸びてきた蔦に絡まって、右手の肘から下がってすっかり覆われてしまっていました。食われてるね。とエルメスが楽しそうに言いました。
キノとエルメスは、散策を続けます。
「ありゃま。ここは荒れてるね」
前の旅人か誰かが腹いせに荒らしたのか、やたらに打ち壊された机やイスが並んでいる建物を見つけ、
「でもちょうどいい。イスを作った人には大変申し訳ないけど」
キノは冷える夜の薪にすることにしました。適当に選んで、扉の天版であっただろう板に載せておきました。
「じゃあ、ちょっと見てくる」
キノはそういって、螺旋階段が外側についた塔を軽い足取りで登ります。円に立っていた塔の上では、一面国を見渡せる素晴らしい景色が広がっていました。しばらくしてキノが降りてきてそのことを言うと、エルメスはエレベーターがない事をいたく憤慨していました。再びずるいと言いました。
キノはエルメスをなだめるように、中心から外れたところに面白い建物が見えたから行ってみようと言いました。他とは造りが違って広く大きく素っ気なく四角いそうです。。何かのモニュメントか特殊な建物ではないか、そしてあそこならエルメスも入れるかも、中を見られれば退屈しないよと、キノは言いました。
「お気遣いどうも!」
「どういたしまして」
と言うわけで大通りを走って、キノとエルメスはそこにたどり着きました。巨大な箱のような、どこまでも四角い建物でした。化粧っけのない白い外壁には、窓すらありません。
“国立図書館”
建物の入り口に、大きな石碑がありました。それには、大きな字でそう彫ってありました。
エルメスが、さらにその下に続く小さな文字を読みます。こちらも硬い石にしっかりと彫りこまれ、何十年経った今もしっかりと読むことができます。
「えっと、『我々は、全ての本または記憶媒体を保存し、ここに永遠の記憶として保存する』――だってさ」
よし入ってみよう、と即座にキノが言って、エルメスは、
「えー、本なんか面白くないよ」
キノは荷車用のスロープを使って、やや不満気味のエルメスを押しながら、割れてしまっている大きなガラス戸をくぐりながら、中に入っていきました。
建物の中は、書架の倉庫でした。
ひんやりとした空気の中、低めの天井まで届く書架が真っ直ぐ延々と続き並びます。キノの手持ち油ランプはおろかエルメスのヘッドランプの光さえ、その突き当りを照らし出すことはできません。しかもそれはまた一階で、他の階もまるで同じなのでした。
「これが全部本と雑誌とかか。よくもまあ集めたね」
エルメスがあきれ口調で言いました。ちなみに荷物はおろして、今は誰も受付をしていない玄関脇に隠してあります。
キノは書架の扉を開けてみました。中には本がぎっしり詰まっていましたが、
「・・・・・・・・・」
キノが一冊を手にして、複雑な表情を浮かべました。軽く開いて、さらに渋い表情へと変わります。
「どしたの? キノ」
キノは無言で本をエルメスにも見えるようにして、エルメスが納得した様子で言います。
「無理ないね。空調も止まってるし、何十年も経ってるし。きっと雨季の湿気が中まで入り込んだんだ。下手したら、地下の階なんか腐った水たまりかも」
その本は立派な装幀の厚めの本でしたが、ページの大半は黴て腐って黒ずんでいました。
キノが幾つかの別の本を調べてみます。エルメスがどう? と訊ねて、
「厳しい、かな。薄く文字が見えるところもあるけど・・・・・・、全部は読めない」
キノは本を棚に戻しました。キノが棚をスライドさせると、中で腐っていた本が数冊、ぐちゃりと崩れ落ちました。キノの足下に落ちて、バラバラになって散らかりました。
「・・・・・・・・・。だめか、どんな国だったか少しでも分かるとおもしろかったんだけど」
キノは、落ちた本のかけらを拾いませんでした。ランプをエルメスのハンドルにかけて、ゆっくりと進みます。
キノはエルメスがあきれるのも気にせず、本棚を調べていきました。簡単な写真だけの本はまだなんとか見ることできるものもありましたが、大抵の本はダメでした。ページが腐って張りつき、めくると破れます。
前に同じようなことをした旅人がいたのか、書架から本が出されて山積みになっているところや、誰かがイタズラか腹いせに火をつけたのか、炭の山ができている場所がありました。
キノは何度か小さなため息をついて、いよいよ探索をやめました。きちんと読めそうな本は、結局一つもありませんでした。
キノはエルメスを押しながら出口を目指します。似たような書架が並ぶ室内は、迷ったらとんでもないことになりそうでしたが、無事に入り口近くに戻ってきました。戻ってきて、
「あの部屋は?」
奥の方にあるドアを見て、エルメスが言いました。キノはエルメスをスタンドで立たせた後、ドアをゆっくり開けました。安全を確かめてから、エルメスを押して入ります。
その部屋は、また別の保存庫でした。白い壁に囲まれた四角い空間に、やはり書架のようなものが並びます。しかしそこで透明なケースに収まっているのは本ではなく、お皿のような銀色の薄い円盤でした。
「記憶ディスクだね。――ほら、前に見たでしょ。音楽とか映像を保存できるやつ」
エルメスが言って、キノはディスクの群れを覗き込みます。
「これも、ダメだ・・・・・・」
ケースにはヒビが入り、全てがどこかしら割れています。ディスクそのものも、歪んだりしなったり欠けていたり表面が剥げ落ちていたり、どれ一つとしてまともなものはありませんでした。誰が荒らしたでもなく、自然に壊れていました。
「本がダメなのに、もっと弱いディスクがこんな長い間保つわけがないよ、キノ。もし見ることができる機械があっても、これじぁね」
キノはランプの光を映すディスクを見ながら、
「これだけの、かつての人々の“記憶”を、もはや誰か知る術はなし、か・・・・・・」
一人がつぶやきました。
キノがエルメスを押しながら一度部屋の奥まで行って、向きを戻します。ハンドルを押して、引いて、キノが背中を壁に何度かぶつけて、何とか向きが変わった時でした。
「ちょっと! キノ、後ろの壁、叩いてみて」
エルメスが急に声をあげました。
「壁?」
キノが訝って、エルメスをスタンで立たせ、ハンドルにかかっていたランプで壁を照らしてみます。そしてそこには、切れ目のない白い壁があるだけでした。キノが拳で何ヶ所か軽く叩くと、それぞれに同じ音がしました。しかし即座にエルメスが、
「そこ、最後に叩いたところが他と違う。何かあるよ。空洞かな?」
そんなことを言ったのでキノが興味を持って壁中をなで回します。しばらく探して、何も見つかりません。それでもキノは探し続けて、やがて、
「あった・・・・・・」
本当に小さな、蓋の隙間を見つけました。キノが色々と試してみると、それはスライドして開きました。そこには鍵穴がありました。ここまできたなら絶対開けてやる、とばかりにキノは、小さな金具二つを鍵穴に差し込み、微妙に動かします。一見泥棒です。
やがて、小さな音がして鍵穴が回りました。今度は壁の一部がフタとして手前に勢いよく開いてきました。キノがあわてて下がり、フタはエルメスの後部キャリアに当たって、がごんっと大きな音を立てました。
「イテ」
キノは、
「・・・・・・・・・」
壁に開いたアナに慎重にランプの光を入れていきました。そしてその奥には、
「ディスクだ・・・・・・」
一枚のディスクがありました。
そのディスクは透明なケースに入り、そのケースはさらに大きな透明な箱に入り、さらに大きな箱に入り、さらに、そしてさらに――。
それはまるで、人形の中に人形を入れるどこかのお土産のようでした。幾重にも重なったケースの中で、そのたった一枚のディスクは、歪みもしなりも欠けも剥離も、きれいにランプの光を反射してきらめいていました。
「すごい。それは、多分まだ使えるよ」
エルメスが、若干興奮した口調で言います。
「保管が徹底して、何重にもしていたからさ。そのケースの合間にも、何か特殊な溶液が入っているみたいだね。
キノはしばらく無言でそれを眺め、それからぼつりと言います。
「何、だろうね・・・・・・」
「ん?」
「何が、このディスクに保存されているんだろう? ――よほど大切な一枚だったんだろうね」
「かもね」
「どんな映像が閉じこめられているんだろう? 繁栄していた頃の賑やかな街並みかな? それとも、どこにでもあった平凡な家庭の子供の、笑い声があふれるお誕生会の様子かな?」
「さあね」
「いつか誰かがこれを見て、この国の誰かの記憶を共有するのかもね。何年後だろう? それとも、何十年、何百年後?」
「さあねえ」
「でも、これだけははっきりしている」
「何?」
「それは、ボク達じゃない。それまで、これはここに隠しておこう」
「それには賛成」
キノはフタをゆっくりと閉めて、そのスイッチ部のフタも閉めました。
壁がまるで元あったとおりになり、キノがまたフタを探し当てるのも難しくなりました。
キノがエルメスを押して、その部屋から出ていきます。部屋中のディスクにキノのランプの黄色い灯りが乱反射して、ちらちらと揺れていきました。
そしてドアが閉まった時、部屋は再び、真っ暗になりました。
幾千幾万幾億、もしくはそれ以上。
呆れ返るほどの数の星が、夜空一面に広がっていました。月がないので、星だけが喧しいほど煌めいています。
元は花壇だったであろう草の上に敷いたシートの上で、広げた寝袋を毛布がわりにして、キノは仰向けに寝転がっていました。その脇の石畳では、エルメスが止まっています。焚き火の跡もあります。
「いつか――」
キノが口を開きます。
「いつか、ボクやエルメスのこと、一緒に旅したことがいつまでも記憶としてどこかに残るといいのにね・・・・・・。師匠のところでのことも。いつまでも誰が見てもすぐに分かるように。あのディスクみたいに」
「そりゃ、無理だねぇ」
エルメスが言って、キノはくすっと笑って同意します。
「ああ、無理だ。――だからせめて、ボクが生きている間、ボクの記憶の中に、この国のあのディスクのことをとどめておこう。記憶の中の、見ることができない一枚のディスク。それならなんとか」
「まあね。で、明日はどうするの?まさか後二日?」
「いいや。起きたら、出国しよう。でも面白かった。来てよかったよ。そして今度は人間がいる国に行こう」
「了解」
キノとエルメスが去った後、この地方に雨季がやってきました。
国中をびしょ濡れにして、雨季は去っていきました。再び乾季が来て、そして一人の旅人が車でこの国にやって来ました。
彼は国立図書館を見つけて、キノと同じように散策して、そしてボロボロの本を見てがっかりしました。
やがてあの部屋を見つけて、全滅しているディスクにも落胆します。
彼は部屋の隅の壁際で、足先に触れた小さなプレートを一枚拾いました。それはおよそ一年前、フタが手前に開いたときに一緒に落ちたものでしたが、その時は誰も気がつきませんでした。
彼は一度裏表をひっくり返して、そこに彫ってある文字を読みます。
「我々は『焚書禁止法』に則り、記録媒体を破壊することはしない。このディスクも残されるであろう。ただし、最低且つ最悪猟奇的な犯罪猥褻映像につき視聴を永久に禁じ、これを未来永劫封印する・国立図書館=\―だそうだ。なんのことだ? ここにある全てのが、そうなのか?」
彼が一緒に連れていた犬にそう聞いて、犬は残念ながら分かりませんと答えました。
彼は部屋中に並ぶ大量の破損ディスクを見て、複雑な表情を作りました。
そして、
「まぁなんにせよ・・・・・・、もう誰も見ることはできないな」
ぽつりと言いました。