「電撃hp13」DENGEKI MISTERY & HORROR より
電撃的ミステリー&ホラーの世界――――
今、その扉が開かれる――――
「おはよう」
―Sena Saw Emiko. Sena Didn't See Emiko.―
[#地から2字上げ] 時雨沢恵一
普通に目覚めて、家族に「おはよう」と言った。
普通の一日が始まるはずだった……。
「おはよう」
―Sena Saw Emiko. Sena Didn't See Emiko.―
「おはよう、パパ」
ダイニングキッチンに入って、佐久瀬奈《さくせな》はそう挨拶《あいさつ》をした。
中二の女子としては高い身長。肩より長い髪を、後ろで一つにまとめている。夏服を着て、学校指定の鞄《かばん》とスポーツバッグを一緒《いっしょ》に持っていた。
ダイニングのイスに座り朝刊を読んでいた父親が顔を上げて、一瞬|困惑《こんわく》した表情を作る。
そして、ためらいがちに返事をした。
「ああ……。おはよう=A瀬奈」
「瀬奈!」
エプロン姿の母親が、ほんの少し強めの口調で娘の名前を呼んだ。同時に瀬奈の前にオレンジジュースのグラスを置く。
瀬奈はありがと、と言いながらそれを手に取る。立ったまま、それをゆっくりと、しかしほぼ一気に飲み干した。空のグラスをとんっ、と置いた。
そして、いつもはあるはずの物がないことに気がつく。
「あれ、お弁当は?」
母親は、何か言いたげだった。しかしその質問を聞いて、
「……たいへん不本意ながら、昨晩おかずを買うのを忘れました。よって今日はパンです」
しぶしぶと、財布から五百円玉を出して瀬奈に差し出す。
「……|仰《おお》せのままに」
瀬奈は、恭《うやうや》しく両手で受け取った。そして荷物を掴《つか》みなおすと、
「いってきます!」
そう言い残して慌《あわ》ただしく出ていった。
玄関の扉が閉まる音を聞いてすぐに、母親が言った。
「あなた、いつも遅いから……。おはよう≠セなんて。きっとあの子にイヤミを言われたんですよ」
「そうかもなあ……」
父親は、新聞をたたみながらつぶやく。
「うん。今日は早く帰ってくるよ。ちゃんとおはよう≠言われるように」
学校へと向かう緩《ゆる》やかで長い上り坂を、瀬奈は歩いていた。
いつもと変わらない通学コース。ちょうどいい時間なので、まわりではたくさんの生徒が、同じ方向へ向かっていく。
瀬奈の目の前で、一年の襟章《えりしょう》をつけた男子が、友達らしい別の男子の肩をたたいた。
「よっ、こんばんは!」
男子はそう言った。別の男子は、それに答えるように、
「お、こんばんは!」
瀬奈は、挨拶を終え目の前で談笑を始めた男子二人を、
「……変なの」
小さくつぶやきながら追い抜いた。
しばらく歩くと、今度は自分が肩をたたかれた。
瀬奈が振り向く。同じバスケット部の親友、皆川絵美子《みながわえみこ》が立っていた。
絵美子は開口一番、笑顔でこう言った。
「こんばんは! 瀬奈。今日は早いでしょ」
「…………。絵美子、何言ってるの?」
瀬奈は一瞬|戸惑《とまど》って、思わずそう言っていた。
絵美子は軽く肩をすくめながら、
「何って、あたしいつも遅刻ぎりぎりに来るから、珍《めずら》しいだろうって」
「そうじゃなくて。挨拶よ」
「挨拶ぅ?」
絵美子はそう聞きながら歩き出した。瀬奈も並んで歩く。
「なんで、こんばんは≠ネの? あれ? ひょっとして……、はやってる?」
「何が?」
今度は絵美子が聞いた。
「だから、朝にわざとこんばんは≠チて言うの。さっき一年の男子もそう言ってたけど」
絵美子は真顔で瀬奈を見つめた。そして、
「瀬奈、朝の挨拶はこんばんは≠ナしょう」
こともなげに言った。
「…………」
瀬奈は目を見開いただけで、何も言い返さなかった。そんな瀬奈に、絵美子は少しおどけた調子で訊《たず》ねる。
「それとも、朝におはよう≠チて言うの?」
聞いた瞬間、瀬奈は声を少し荒げて、
「そ、そうよ! 朝は、おはようございます≠ナしょう?」
「…………」
絵美子がしばらく黙《だま》って、瀬奈をしげしげと見つめた。そして、
「瀬奈ぁ……。あんた、熱ある?」
絵美子は瀬奈の額に手を当てた。そして自分の熱も測る。
「ないなあ……。何か悪い物、食べた? イヤだよ、ウチのエースが病気だなんて」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ!」
瀬奈は、かなり大きな声を出した。周りにいた他の生徒が、一斉《いっせい》に二人に視線を向ける。
「瀬奈ぁ、……声が大きいよ」
「ごめん……。でもっ! でもね――」
瀬奈が何か言おうとしたとき、二人の頭の上から男子の声がした。
「お二人さん、何の話?」
二人が振り向いた。そして絵美子は軽く驚《おどろ》き、瀬奈は緊張《きんちょう》で固まる。
声の主は、三年の男子だった。男子バスケット部の副主将を務める、菊池直人《きくちなおと》。
菊池は、瀬奈より二まわりほど背が高い。顔付きは精悍《せいかん》すぎる嫌《きら》いがあるが、眼鏡《めがね》がそれを少し和《やわ》らげていた。
「あ、菊池センパイ。どうもー」
同じ委員会で何度も話をしたことのある、そして彼氏持ちの絵美子が、気兼《きが》ねなく挨拶した。そして瀬奈を肘《ひじ》で小突《こづ》く。
菊池は男子部員の中で、女子部員に一番人気がある。瀬奈にとっても、入部以来あこがれの対象だった。そしてそのことを知っているのは、ここにいる絵美子だけだった。
「あっ」
瀬奈は硬直から脱すると、先生にもするか分からないほど丁寧《ていねい》に頭を下げる。
「あのっ……。おはようございます、先輩」
「…………」
「…………」
絵美子と菊池の動きが、一瞬止まった。
そして菊池は、急にくすくすと笑い出した。
「君、ひょっとして芸能人?」
「え?」
「瀬奈ぁ……」
絵美子が、呆《あき》れと戸惑いを一緒にした表情を作っていた。
菊池が言う。
「ほら、芸能界の人って、いつでもおはようございます≠チて挨拶するじゃない。朝でも夜でも」
「? ? ?」
混乱している瀬奈に、絵美子が助け船を出した。
「少なくとも、瀬奈は違います、センパイ。瀬奈今日ちょっと変なんです。いや、元々天然ぼけのところはあったんですけれど……」
瀬奈は恐《おそ》る恐《おそ》る、あこがれの先輩に対する人生最初の質問をした。
「あの……普通は、朝の挨拶は……?」
「こんばんは=Aでしょ。朝なんだから」
さらりと言った菊池の顔を、瀬奈は凝視《ぎょうし》した。
しばらく見ていた。
菊池が照れ、先に視線を逸《そ》らそうとしたとき、瀬奈が口を開いた。
「で、でも、でも! 変なんですよね。私、おはようございます≠チて言うのが正しいような、そっちの方がぴったりくるような気がするんです!」
瀬奈は無意識に、菊池にしがみつかんばかりに顔を寄せていた。菊池が驚いて少し体を引く。そしてすぐに、目を細めた。
瀬奈は菊池の視線に気づき、はっとなって、赤面しながら一歩下がった。
「すいません……」
「いいって……」
三人は並んで歩き出した。瀬奈は真ん中だった。
「朝におはよう≠ゥ。おもしろいことを言うなあ。でも、俺もあったよ。そういうこと」
菊池が口を開いた。
「先輩も?」
瀬奈が驚いて顔を上げる。
「ああ。雰囲気≠チて言葉あるだろう」
「フンイキ、ですか?」
「俺ずっと、中一までフインキ≠セと思ってた。それで書くときに友達とどっちが正しいか言い争ってさ。生まれて初めて辞書で引いてみて、俺が間違っているって気づいたんだ。でも、間違っているのは分かっても、今まで自分が正しいと思ってきた記憶《きおく》とか経験もある。その時まるで、よく似た別の世界に飛び込んだような気がした」
菊池はそう言って、楽しそうに笑った。
「だから、思いっきり勘違いしているのに、思いっきり勘違いしているからこそ、それが正しいと思い込んでいることはあるんじゃないかな? 正反対だと特にさ。英語の時間、west と east の意味を逆に覚えていたり、どっちか分からなくなったり」
「あ、あたしそれやりましたよ」
絵美子が自分を指さしながら言った。
「そうですか……。よくあることなんですね……」
そうつぶやいて真剣に考え込む瀬奈の顔を、絵美子と菊池が覗《のぞ》き込んだ。
瀬奈はそれに気づかず、全く表情を変えなかった。
絵美子と菊池の目が合って、絵美子が笑顔で肩をすくめた。
「あ、名前まだだったよね」
菊池がわざと思い出したように聞く。その言葉に反応して、瀬奈は急に頭を上げた。
「あ! 私知ってます!」
「はい?」
「菊池先輩ですよね!」
絵美子が頭を押さえた。菊池は笑いながら、
「俺じゃなくて、君のさ」
「……あ、はい! 佐久、瀬奈です。すいません……」
「謝ることはないよ。よろしく、佐久さん」
菊池が言うと、
「センパイ、佐久さん≠ト呼びにくいでしょう? 理科の実験みたいで。だからみんな、瀬奈瀬奈って呼ぶんですよ。センパイもお一つどうぞ」
絵美子が軽い口調で、お菓子でも勧《すす》めるように言う。
「なるほど。そっちの方が呼びやすいかな」
菊池は瀬奈を軽く指さして、
「瀬奈さん」
「はいっ!」
瀬奈は反射的に、きれいな返事をした。
「オッス! 菊池ぃ!」
後ろから自分を呼ぶ声がして、菊池は振り向いた。瀬奈と絵美子に少し残念そうな顔を向け、
「じゃ。またね」
菊池が離れていった後、絵美子がぼうっとしている瀬奈に聞いた。
「瀬奈。どう?」
「え? 何が?」
「センパイと話ができてさ」
「え? ……う、うん。ラッキー、かな?」
絵美子は瀬奈の背中をばんばんたたきながら、
「そうでしょう! そうでしょう!」
そして一人で何度もうなずいた。
「なんかセンパイとの会話とってもいい感じだったって! この調子で行けば仲よくなれるって。応援するって。今度会ったら、こっちからいろいろ聞いちゃってさ」
「え? うん、どうも……。でも……」
瀬奈は口ごもった。絵美子が聞いた。
「どしたの?」
瀬奈は絵美子に何か言いたげな表情を見せたが、すぐに首を振った。
「何でもない……」
絵美子はあえて、それ以上追求しなかった。
瀬奈は誰《だれ》にも聞こえないほどの声で、
「おはよう……。こんばんは……。おはよう……」
つぶやいていた。
瀬奈は廊下で絵美子と別れ、自分のクラスに入る。
「こんばん! 瀬奈」
何人かの友人に、当たり前のようにそう挨拶され、瀬奈は、
「あ、うん」
とだけ答えた。
チャイムが鳴り担任が来る。五十過ぎの、真面目《まじめ》を絵に描いたような担任は、クラスの全員に向かい、
「はいみんなこんばんは」
挨拶をした。
一時間目は英会話だった。米国出身のAET(外国人補助教員)が教室に現れ、よく通る声で言った。
「GooD morning, everyone!」
「グッド・モーニング! ミズ・オルソン!」
生徒がいつものように返事をする。瀬奈は、前に座るクラスメイトをつついて聞いた。
「あれ? グッド・モーニング≠ヘ、……おはよう=Aだよね?」
「こんばんは≠ナしょう。……瀬奈って英語苦手だったっけ?」
「え。いや……、うん。似てるのを、よく勘違いするんだ」
瀬奈がごまかすと、
「あるある。そういうこと」
クラスメイトはそう言って前に向き直った。
「…………」
瀬奈は、少し悩んだ後、授業に集中する方を選んだ。
昼休みに入るとすぐ、瀬奈は早足で一階の渡り廊下に向かった。そこでは既《すで》に、空腹学生の群がパン屋を取り囲んでいた。
瀬奈が立ちすくんでいると、
「こりゃだめだわ」
絵美子が瀬奈の真後ろからそうつぶやいた。
瀬奈は振り向いて、
「だめだね」
挨拶代わりに言った。
揃《そろ》ってため息をついた時、群集から出てきた男子生徒が二人の前で止まった。菊池だった。
パン屋の袋を抱えていた。
「あ。二人とも出遅れ組?」
菊池は普通に話しかけてきた。絵美子は苦虫をかみつぶしたような顔で、
「そうでーす。今日も最後まで残ったコッペパンにジャム塗って食べまーす。太りまーす」
瀬奈は緊張しながら、
「こん……にちは、でいいですか?」
「何言ってるのよ、瀬奈」
「そうだね。もう昼過ぎだから、こんばんは≠ヘ変だね。こんにちは、瀬奈さん」
菊池は丁寧にそう言った。
絵美子が瀬奈を肘で小突いた。
「……あの、先輩。一つ聞いていいですか?」
「な、なに?」
菊池はほんの少しだけ構えた。絵美子はこっそりとほくそえんだ。
そして瀬奈は、真顔で訊ねた。
「夜会ったときは、なんて言うんですか?」
「…………」
絵美子が呆れて黙る。
菊池は笑って、逆に聞き返した。
「なんて言うと思う?」
瀬奈はゆっくりとした口調で、
「やっぱり……、おはようございます=Aですか?」
「それだけ分かっていれば大丈夫《だいじょうぶ》。そのうちに混乱も直るよ」
「そうですか?」
菊池はゆっくりとうなずいた。
「ああ」
「そうですか」
多少不安げながらも、瀬奈の表情が明るくなる。それを見た菊池は、ほんの少し左右を確認して、
「ところで何を買うんだい?」
「?」
「センパイ。ひょっとして買ってきてくれるとか?」
「?」
「コッペパンがいやなら、今あの中に突撃《とつげき》するしかないよ。でも君たちだと、弾《はじ》き飛ばされるか、踏《ふ》まれるか……」
菊池が多少芝居がかったセリフを言って、絵美子がそれを引き継ぐ。
「そこを、かわいい後輩二人のために身を挺《てい》して行ってくださると! くぅーセンパイ! あたしバスケ部に生まれて本当によかったと思います! 焼きソバクリームと納豆ロールとワイルドライスグラタンお願いします!」
「了解」
「瀬奈は?」
「え? あの……。悪くないでしょうか……」
菊池は、だいじょうぶ、と短く言って、
「早くしないと、めぼしいのはなくなっちゃうよ。食べたいのはコッペパンじゃないでしょ?」
「はい……。粒粒ピーナッツと、アンチョビピザトーストをお願いします」
「わかった。お金は後でいいよ」
菊池は群衆の中に上手《うま》く潜《もぐ》り込んでいった。
それほどかからずに注文どおりのパンを持って、二人の前に帰ってきた。
「アンチョビ、ラストワンだったよ。納豆ロールはまだたくさんあった」
二人からお礼とお金を受け取ると、菊池は、
「じゃ。友達待ってるから」
そう言って階段を早足で上っていった。踊り場で一瞬二人を見て、軽く手を振った。
それを見る瀬奈を、絵美子が肘で小突こうとした。
「このこの」
瀬奈がよけた。
午後。
授業は普通に終わり、部活動に移った。絵美子は瀬奈に、菊池センパイに大きく手でも振ったらと言ったが、瀬奈はそんな命知らずなことはしなかった。
瀬奈が絵美子にパスをもらいシュートを決めた瞬間、広い体育館の反対側で、菊池が話しかけられた。そして菊池は、それに返事をしない。
「おい、菊池?」
「あ。すまん――」
菊池は慌てて友人の方を向いた。
「女子を見てたぞ。珍しい」
「なんでもない。いや、本当に」
必死に否定しながら、菊池はふと思いついて訊ねた。
「……ところでお前、朝におはようございます≠チて真顔で言われた事、あるか?」
「はあ?」
友人はかなり大きな声で聞き返した。
「あ、やっぱいい。忘れてくれ」
「変なやつ……。休憩《きゅうけい》だよ」
友人はそう言い残して去った。
「でも、あんなおもしろい子だとは知らなかった」
菊池は一人ごちた。彼の視線の先では、瀬奈が次のシュートを思いきり外していた。
部活が終わり、瀬奈と絵美子は学校を出た。男子はまだ練習していた。
坂を下りきったところで、瀬奈は絵美子と別れた。
日は沈んだが、辺りはまだ明るい。家のすぐ近くで、瀬奈は犬を連れた近所のおばさんに会った。
「こんば……」
瀬奈は自分から挨拶しようとして、思いとどまった。
「あら、瀬奈ちゃん。今お帰り?」
瀬奈は一瞬|躊躇《ちゅうちょ》した。そして菊池の、それだけ分かっていれば大丈夫≠ニいう言葉を思い出した。
「はい。おはようございます=c…」
「おはよう。部活も大変ね。それじゃ」
おばさんがすれ違っていく。瀬奈は振り向いた。おばさんは、戻《もど》ってこなかった。
「やっぱり、おはよう≠ナいいのね……」
瀬奈が家に帰ると、父親が出迎えた。瀬奈はかなり驚いた。
佐久家のダイニングに、珍しく家族全員がそろう。
「なにかおもしろい事はあったかい? 瀬奈」
父親が聞いた。
「えーっと……」
ちょうどその時、テレビからニュースキャスターの声が聞こえた。
『おはようございます。六月×日、月曜日。夜七時です。では、本日の主な――』
瀬奈は言った。
「別になかったかな。あ、アンチョビピザトーストは美味《おい》しかった」
「それは何より。明日はアスパラのベーコン巻きでございます」
母親が冗談《じょうだん》めかして言った。
夕食後、瀬奈は自分の部屋にいた。ベッドにひっくり返っていた。そして、
「朝は……こんばんは。夜に……おはようございます。こんばんは。おはようございます。朝は、こんばんは。夜に会ったら、おはようございます。こんばんは。おはようございます」
何度もつぶやいていた。
「やっぱり朝は、こんばんは、か。しっくりくるかな? ……そうだ!」
瀬奈は急にベッドから起き上がり、本棚に向かう。少し悩んだ後、瀬奈は一冊の文庫本を抜き出した。
急いでページをめくる。
「たしか……、挨拶するシーンが……あったはず……。あった」
瀬奈の手にした文庫本の中で、話の主人公が朝、博物館を訪ねるシーンが見つかった。
瀬奈は読みはじめた。
歴史博物館の玄関前では、おそらく夜中まで騒いだらしい若い兵士が、酒瓶《さけびん》を抱えて寝ていた。兵士には、毛布が二枚掛かっていた。
キノとエルメスがゆっくりと博物館に入ると、館長が出迎えた。
「こんばんは、キノさんにエルメスさん。押してきてくださってありがとう」
「こんばんは、館長さん。一昨日見られなかったところを見に来ました。二人分お願いします」
キノがそう言うと、館長は、
瀬奈は文庫を閉じた。ふうー、と大きく息を吐《は》いた。
文庫本を本棚にしまうと、机の上の国語辞書を手に取った。.
『おはよう』と『こんばんは』を調べた。
おはよう≪あいさつ≫
夜、人に会ったときのあいさつ言葉。
「――ございます」
こんばんは≪あいさつ≫
朝、人に会ったときのあいさつの言葉。
瀬奈は辞書を閉じた。
今度は息を吐かず、何度かうなずきながら辞書を元の場所に戻す。廊下から、電話の子機を部屋に持ってきた。皆川宅へ掛ける。
『瀬奈じゃん。ティーッス!』
数回鳴った後、絵美子が電話を取った。
「絵美子。ちょっと今いい?」
『いいよ。どしたの?』
瀬奈は、はっきりとした口調で言う。
「あのさあ、絵美子。やっぱり朝の挨拶がこんばんは≠ナ、夜がおはよう≠セよね?」
『あ、その話? そだよ。やっと混乱が直った?』
「うん。一日もやもやしてたけど、だいぶすっきりしてきた。多分もう大丈夫」
『うんうん。たまにはあるっ、て。若者の繊細《せんさい》な神経ってヤツ?』
そう言った絵美子はすぐに、話題を変える。
『でもさあ、あたしなんか瀬奈が先輩と話がしたくて急に変なこと言い出したのかと邪推《じゃすい》しちゃったりして』
「え? ……全然そんなことないよ」
『だよねー。瀬奈にそんな計算高いところがあるはずはないしー。でもよかったでしょ? よかったと思ってるでしょ?』
「え? ……うん、はい」
『あはは。素直でよろしい。何か今日一日だけで大接近だもんね。普通に話しかけてたらああは行ってないよ』
そう言ってしばらく絵美子は沈黙《ちんもく》し、そして真剣そうにつぶやいた。
『うん。あたしもまねしようかな?』
「絵美子、彼氏いるじゃん……」
翌朝。
「こんばんは、パパ。ママ」
ダイニングキッチンに入ってきて、瀬奈はそう挨拶をした。
中二の女子としては高い身長。肩より長い髪を、後ろで一つにまとめている。夏服を着て、学校指定の鞄とスポーツバッグを一緒に持っていた。
「はい、こんばんは」
新聞を読んでいた父親が、挨拶を返す。
「こんばんは」
エプロン姿の母親が、瀬奈の前にオレンジジュースのグラスを置く。
瀬奈はありがと、と言いながらそれを手に取る。立ったまま、それをゆっくりと、しかしほぼ一気に飲み干した。空のグラスをとんっ、と置いた。
「はい」
瀬奈が振り向くと、母親がお弁当を瀬奈に差し出した。
「今日はきちんと用意してあります。遠慮《えんりょ》なく持っていきなさい」
「ははー」
瀬奈は両手で恭しく受け取って、鞄に入れた。
そして荷物を掴みなおすと、
「いってきます!」
そう言い残して慌ただしく出ていった。
中学校へ向かう上り坂を、瀬奈は歩いていた。
いつもと変わらない通学コース。ちょうどいい時間なので、まわりではたくさんの生徒が、同じ方向へ向かっていく。
不意に瀬奈は、肩を軽くたたかれた。
「えみ……」
振り向いた瀬奈の前にいたのは、菊池だった。
「こんばんは。瀬奈さん」
「…………」
瀬奈は何も言えず、何度かしばたたいた。
「こんばんは」
菊池が優しくもう一度言った。そして若干《じやっかん》緊張気味の表情で、こう続ける。
「あの、もしよかったら、一緒に行かない? 昨日の混乱直ったかな、って思って……」
まっすぐ見上げる瀬奈の顔に、微笑《ほほえ》みが浮かんだ。そして瀬奈は、この先の彼女の人生において誰よりも長く、誰よりもそばにいることになる男性へと、朝の挨拶をした。
「こんばんは、先輩!」
瀬奈がすてきな笑顔で朝の挨拶をしたまさにその瞬間。
佐久家のリビングルームでは、瀬奈が暴れていた。
瀬奈はパジャマ姿だった。髪はめちゃくちゃに乱れ、汗で頬《ほお》に引っ付いていた。
ソファの上に瀬奈は仁王立《におうだ》ちになり、手にしていたビデオカセットを投げた。それは瀬奈に近づこうとしていた父親に当たり割れた。
「来ないでよ! 近づかないで!」
瀬奈が叫《さけ》んだ。睨《にら》みつけるその表情には、敵意しかなかった。
父親は、母親が隠《かく》れているダイニングキッチンに戻る。そこは大地震の後のように荒れていた。テーブルはひっくり返り、割れた皿とコップと、それらの中身が床に散乱していた。オレンジジュースが、床を濡《ぬ》らしていた。
「瀬奈ぁ! ねえ、どうしちゃったの? ママが分かる?」
母親が半泣き状態で娘へと語りかけた。
「うるさい! あなたなんか私のママじゃない! あなた誰なのよ!」
瀬奈の絶叫が返ってくる。
「とにかく、落ち着きなさい。な、瀬奈」
父親は一家の主《あるじ》らしく冷静に言ったが、瀬奈の返事はガラスの灰皿だった。それは目標に命中せず、冷蔵庫に当たって砕《くだ》け散った。
ちょうどその時、救急車のサイレンが遠くから聞こえた。
サイレンのボリュームは家の前で最大になり、消えた。
母親が急いで外に出て、救急隊員を家の中に招き入れた。
彼らがリビングルームの前に来た時、瀬奈はソファの上で呆然《ぼうぜん》と立ちすくみ、一人つぶやいていた。
「ちがう……。ちがうのよ……。ちがう……。いやあ、いやあ……」
「娘さんですね」
救急隊の隊長が、父親に聞いた。
「どうされました?」
「それが……。さっき挨拶をしたら、急にその、暴れ――取り乱しまして。それからは何を言ってもだめで……」
「何か変わった事をおっしゃいました?」
「いいえ……」
隊長はふむ、と短く言って、瀬奈に向いた。
リビングルームに入ってきた男に、瀬奈がびくつく。
「おじさんたちは救急隊員だから、心配はいらないよ。どうしたのかな?」
隊長はなるべく丁寧に、瀬奈を刺激しないように話しかけた。
「…………」
「話が聞きたいから、そっちへ行ってもいいかな?」
「あいさつ……」
「ん?」
「……挨拶、してよ……、朝の……」
瀬奈がうめくように言った。
隊長は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐにこれ以上ない爽《さわ》やかな作り笑顔で、
「おはよう」
「いやああああああ!」
瀬奈の絶叫と共に、テレビのリモコンが飛んできた。隊長はギリギリのところでよけた。顔面をかすめたリモコンは廊下ではじけて、電池が踊った。
瀬奈は次に雑誌を掴んで投げた。それはあさっての方向に飛び、戸棚に当たり、ガラスが砕け散った。
「瀬奈ぁ! どうしちゃったのよ! ねえ!」
「奥さん。下がっていてください」
隊長が隊員達に指で合図をした。彼らはソファを取り囲むように、ゆっくりと近づいていく。
「やだ! こないでよ!」
「怪我《けが》はさせるなよ」
そして一斉に瀬奈に飛びかかった。瀬奈が窓際の植木|鉢《ばち》を投げようとしたところを捕まえ、ゆっくりとソファに押し倒した。
「いやあ! はなしてよ!」
隊員の一人がストレッチャー(担架)を持ってきた。車輪付きの脚を出して、リビングルームに置く。もがく瀬奈をストレッチャーに乗せ、太いベルトで拘束《こうそく》した。
瀬奈は、まったく身動きが取れなくなった。ふう、と息を付く隊員がいた。女性隊員が乱れたパジャマを直し、上からバスタオルをかけた。
瀬奈はしばらく必死に抜け出そうとしていたが、やがて諦《あきら》めたのか止《や》めた。
恐る恐る、母親がストレッチャーに近づいた。
娘の顔を覗き込んだ。
「瀬奈ちゃん……。分かる? ママよ」
「ちがう……」
「何が違うの?」
瀬奈は、
「へへっ」
と力無く笑い、それから譫言《うわごと》のようにつぶやきはじめた。
「私も、私のママも、パパも、みんなも……、朝におはよう≠ネんて言わない……。絶対に、言わない。朝の挨拶はこんばんは=B夜の挨拶が、おはよう=B朝の挨拶はこんばんは=B夜の挨拶がおはよう=B朝の挨拶は……」
「何を言ってるの? 朝は、おはよう≠ナしょう。ね? ちょっと混乱してるだけでしょ。ね?」
自分に優しく語りかける知らない女性を、瀬奈はもう見ていなかった。
ストレッチャーが動き出す。瀬奈は流れていく天井《てんじょう》を見ながらつぶやいていた。
「ここは私の世界じゃない……。ここは私の世界じゃない……。ここは私の世界じゃない……。ここは私の世界じゃない……。ここは私の世界じゃない……。ここは私の世界じゃない……。ここは私の世界じゃない……。ここは私の――」
隊長が瀬奈の両親に訊ねた。
「お嬢さんは、どうも混乱されているようです。前にこういったことは?」
二人とも首を振った。しかしすぐに母親が、
「き、昨日、帰ってきた時に様子が少し変で……。学校でからかわれた、とか言っていました。で、でも! いままでそんなこと全然なくて……」
「そうですか……。一応、奥さん。保険証を持って救急車に一緒に乗ってもらえますか?」
「あの……」
「以前に症状がないのなら、一時的なものの可能性が高いですから。さあ」
ストレッチャーは人間ごと救急車に積まれた。
近所の住人や、出勤途中の会社員がじろじろと眺《なが》めていく。
救急車が走り出した。
くぐもったサイレン、装置が少し揺《ゆ》れる音、受け入れ病院を探す無線会話。
それらに混じって、車内に少女のつぶやきが聞こえる。
「ちがう……。ちがう……。ちがう……。ちがう……。ここは私の世界じゃない……。ここは私の世界じゃない……。ここは私の世界じゃない……。ちがう……。ちがう……。ちがう……。ちがう……。ちがう……。ちがう……。ちがう……。ちがう……」
[#地付き]了
[#地付き]校正 2007.10.22
原本「コッス! 菊池ぃ!」
修正「オッス! 菊池ぃ!」