時実新子
言葉をください 新子の川柳エッセイ
目 次
富士正晴という蛙
チンパンジーを抱く
桃 の 種
人生ってやつは……
闇 夜 の 米
水 恋 い 記
五十枚の絵
おつゆさん
迷子拾うて
ももさくら
こざっぱり
わたしはカモメ
恋に日の照る
ふるふる花
河川敷0番地
テンテンてんまり
早く落ちなよ
よろこんで
叱  る
眼をあげる
樹もまた問いぬ
大花火小花火
愛 別 離 苦
ままごとずんば
うつむき観音
ひとりぐらし
ウルフなんかこわくない
さなぎの如く
花ともだち
火を噴く龍
かわいいおんな
仕事場の朝
言葉をください
瓜生の亀石
ユスラウメの種
考えてみるけれど
意志で消す虹
あれは卯の花
おやすみ新子
四 十 分 病
異 形 の 妻
風の細みち
化 粧 哲 学
編集室の客
起きて寝よう
愛のコリーダ
一杯の珈琲から
ともだちサンバ
男と女のおはなし
6ちゃんの兎
娘からの手紙
大 根 と 私
蛍 の 夜 に
三 太 郎 岬
旅はみちづれ 北海道の旅@
アイヌとマリモ 北海道の旅A
クマだクマだ! 北海道の旅B
また逢う日まで 北海道の旅C
茶色の小瓶
花まちがい
鯉 女 房
酒 修 業
椿ぽたぽた
花のこころは
花 式 部
非常識礼讃
ぺ こ ぺ こ
名谷駅にて
たらいまわし
わたしの父
文庫版のためのあとがき
[#改ページ]
富士正晴という蛙
今から五、六年前のことである。
竹林の仙人こと富士正晴氏と私は、一心にひとつ所をみつめていた。
そこは富士さんの書斎で、積み上げられた本の隙間から辛うじて見える庭の一隅に、二匹の蛙がにらみ合っていたのである。
「見てな、今に小さいのが呑まれる」
富士さんの言葉が終わるより早く、大きな蛙がぱくっと小さな蛙を呑んだ。
いや、正確には小さな蛙のお尻を咥《くわ》えたのである。大きな蛙はギロリと私たちの方へ目玉をまわして、
「どうじゃ、うまいもんだろう」
と言った。
「うん、ようやった。しかしおまえ、そいつをほんまに呑むのんか。かわいそやないか」
富士さんの言葉は大蛙をけしかけるに十分のニュアンスだった。
大蛙は鼻の穴をふくらませ、腹式呼吸を整えると、四つの肢《あし》を踏んばってみせた。
じりっ、じり、じりっと小蛙が呑まれていく。二ミリ、三ミリ、おお十ミリも。
とうとう小蛙は頭と手だけになった。
でも小蛙には自分の運命がわからない。
「どうしたのかな? お尻のあたりがぬめぬめと締めつけられていい気持ちなんだけど。ねえおじさん、ぼくどうなるの」
小蛙のこの質問には竹林の仙人も困ったようだ。
「目をとじろ、アホ! 目えつぶれちゅうに」
そうして、目をつぶったのは仙人と私であった。
世はすべて事もなく。二匹の蛙は一匹となり、竹林の小さな池はさざ波も立てなかった。
今年(昭和六十二年)の七月十五日午前七時、竹林の主は一人で死んだ。
悪い男と心ひとつに薔薇を見た
あの日の蛙の、小さい方の蛙のように、富士正晴はお尻からあの世とやらへ呑まれていったにちがいない。
「アホ! 目えつぶれちゅうに……」
すこしだけ世を拗《す》ねて、無類に大きくやさしかった男が消えた。
すべて世は事もなく。コスモスが揺れている。
チンパンジーを抱く
チンパンジーのおとうちゃんで有名な亀井一成さんは神戸王子動物園の学芸員である。
いや、そう言うとごきげん悪くなって、
「おれは一介の飼育係じゃ。見世物じゃないわい! インタビュー? 用ない用ない」
と、まあニベもないお方。
つれなくされるとしつこくなる女が私で、ちょうどいい勝負だったのだろうか。
インタビューOKの条件として、私は亀井さんがかわいがっているチンパンジーのシンちゃんをだっこすることになった。
亀井さんがけしかける。
「さあ、シンちゃん、この人好きか? 好きならだっこしてもらいな!」
私は目を閉じて、やさしい声で叫んだ。
「シンちゃん、私もシンちゃんよ、早く来て!」
どきどきどきどき。
シンちゃんの鼻息フッフッフッ。
やおら何やらかたい毛が私の首に巻きついてきた。ここで「ふひゃー」とでも言おうものならインタビュアー失格である。
「コワーイ。しかし神さま、私は何としてもチンパンジーを抱かねばならないのです」
もうもう遊女の初寝の心境。
フッフッフッ、シンちゃんはしばらく考えているふうであったが、そのとき不意に私の左耳をやわらかく噛んだのである。
「あいよッ」
私は思いきってシンちゃんを抱きあげた。
子供だといっても体重28キロ。私はよろけそうになるのを樟《くす》の木に支えて、とにもかくにもシンちゃんとの抱擁《ほうよう》に成功したのである。
目を開けると男、いや、チンパンジーのくちびるが目の前。
(かくなる上はキスもいとわじ)
ところがシンちゃん、キスはおきらいと見えて、ぺろぺろ戦術に出た。
その日は雨で、雨やら汗やら涙やらわからぬ私の顔をていねいに舐《な》めあげてくれるのである。シンちゃんの舌が耳たぶにくるたびに不覚にも「ああ……」という気分になったりして、私もいい度胸。
こうしてテストにパスした私は、園内のうどん屋で亀井さんからいっぱい美味《おい》しい話を聴くことができたのである。
愛咬やはるかはるかに桜散る
桃 の 種
白桃に入れし刃先の種を割る 橋本多佳子
あの日私は、白い天井を見ていた。私は水色の布の下に居た。布はまるく切り抜かれて、そこから私の右乳房がのぞいている筈だった。
若い男がいっぱい。医師でなければこれは異様な景色にちがいなかった。
ドイツ語がみじかく交されて、涼気がその一点に走った。
それから旬日、私の乳房には津軽じょんがらの太棹《ふとざお》が響きづめであった。
けれども、あの日あの台に横たわるまでのほうが苦しかった、と思う。
桃一箇 一刀ありて わが乳房
一気|呵成《かせい》が取柄の私がどうしても一息に吐けなかった一句。
検査結果シロの窓辺で偶然出会ったのが前掲の多佳子白桃の一句である。
もちろん多佳子代表作のひとつといわれるこの句は、実在把握の鋭さと確かさにおいて私の桃の比ではない。
しかし、わが桃の、しんたる中の、ふるえおののき、かくごのほどが、斯《か》くもみごとに割られたことの快感に、私はこの句が忘れられなくなったのである。
人には魂の色あいというものがあるように思える。
そっくりの色、似た色、溶けあえる色、拒否する色。
川柳にあけくれするようになって十年も経ったころだろうか、橋本多佳子の
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
を耳から聞いた。
あッと思った。
川柳は、というよりも私の句は素材が躰《からだ》の中を駆けめぐった果てに丹田に集まり、そこから吐瀉《としや》の形をとって表現になる。
「老婆を詠んでも、童女を詠んでも、私は自分との生のつながりにおいて見ずにはいられない」(橋本多佳子句集『海彦』後記)
ああ、ここにもと思った。
似た色を人は好むが、やがては憎むようになる。それは個に生きることが宿命である者たちの自然な心のなりゆきであろうが、私は多佳子におくれて生まれたことを悔んだ。
刃先に抉《えぐ》られた種のいたみのように、それは今も時折り私を襲うくやしさである。
人生ってやつは……
人は私をきわめつきのナルシストだという。それはそうかもしれないけれど、ほんとの私は並以下の部品で出来上がっている並以下の女だということを誰よりもいちばんよく知っているつもりである。
ここに砂川しげひさなる男ありて、ここ数年間というもの「シンコ好キシンコ好キ」と美しい声で啼いてくだすった。
砂川さんはご存知漫画家であり、クラシックの大愛好家であり、何を書いてもオカネになる人である。つまりプロなのだ。
プロは読ませる文を書く。
砂川さんの「シンコ好キ」も彼独特のジョークである、と、私は信じて疑わなかった。
私は漫画も画けないし、ジョークも下手なものだから、一度として「シゲヒサ大好キ」とは啼かなかった(啼けば自分が本気になる)。
ナルシストのくせに「思いあがり」の出来ない私は、砂川しげひさなる男があの手この手でおいしいジョークを食べさせてくれるのに、ただとまどっていただけである。
「ああ、どうしよう。取りかえしのつかないことをしてしまった」
と私が髪をかきむしったのは、実は『百味』誌1987年9月号の10ページをひらいたそのときである。なぜかなみだが頬をつたった。
思い当たること積雲のごとし。
彼は私のためなら十一階のビルから今すぐ飛び降りてみせると言ってくれたわ。
彼は私が車の免許を取ったらいちばんに助手席に乗ると言ってくれたわ、笑いもせずに。
彼は私の個展の書を財布をはたいて買うために千里もいとわず馳せ参じてくれた。
彼は人にきらわれるのを承知でシンコ大売り出しのチンドン屋までやってくれたのだ。
私が亭主に死に別れて一人になったとき、お悔みの声がうわずっていた彼。
ダダダダーン。
人は私を指さして「泣き虫」と呼ぶ。
泣き虫の窓に春が二度めぐって来たある日のこと、私の窓をピンクの風がたゆたい流れた。桜の花びらが突風の帯となって渡っていったのである。
何気なく。
ほんとにふわりと私はその帯に乗ってしまった。
「砂川さあ〜ん」
こわくて思わず叫んだけれど、砂川さんは売れッ子ゆえに、ふり向いてもくれなかったのだ。
私は泣き虫だから家の中が好き。家の中で鬼のふんどしを洗っているのが好き。
「ねえ砂川さん」
ある日東京へ電話をかけて尋ねてみた。
「あなたフンドシしてますか?」
「ぼく? ぼくはブリーフ」
「猿股でもいいのですが……」
とんちんかんな電話の中に砂川さんのたたくワープロの音が入って来た。
その音が「イソガシイソガシ」と聴こえて来て、ちょっぴりさみしかった。
賢弟に相談もなく愚姉はケッコンした。
もしもあの、ワープロの音を押しのけて「実は」と相談していたら、弟はブリーフを脱ぎ捨ててフンドシを締めてくれただろうか。
披露宴のスピーチで、誰よりも私を喜ばせてくれた砂川さんに「ありがとう、うれしかったわ」と耳打ちしたのはほんとうだが、もう一つのささやきを彼はかくしている。
私はしっかりと彼の耳たぶへ吹き込んだのである。ナルシスト新子の一句、
「妻をころしてゆらりゆらりと訪ね来よ」
「うーん」
と、砂川さんは酢を飲んだような横顔を見せられた。
ことしもあとすこしになった。
人生って、とにかくさびしい。それゆえに味があるのかもしれないけれど……。
闇 夜 の 米
母は姑《しゆうとめ》と姉と私を養うためにまっくろになって働いた。その上に戦争中は姑の姉妹の家族も引き受けて米や砂糖の調達もしなければならなかった。一歩あやまれば……の仕事。
闇米は闇夜に動かさなければならない。岡山県を貫く吉井川の河口では上質の砂が採れて、それを大阪方面へ運ぶ機帆船が川幅のまん中辺に錨《いかり》を下ろしていた。蛙が鳴きしきる闇の夜に母が起き出すのを私は知っていた。母は用心深く聞き耳をたてる。身仕度をして裏の小屋から布袋に入った米を担ぐ。二斗袋である。声もたてられず音もたてられぬ緊迫した空気。水面がうすく光って小舟が揺れている。母の目は梟《ふくろう》だ。危うい雁木《がんぎ》を一つずつ足場をさぐりながら下りて行く。雁木の下半分は苔《こけ》ですべる。したたる汗。渾身《こんしん》の力で、舟に足をかける母。米袋が下ろされると舟は大きく揺れて母も尻もちをつく。手の甲で拭《ぬぐ》う目の中の汗。それが三回もくり返されただろうか。私は寝たふりで息をのんでいた。
ギイ、ギイと遠慮がちな艪《ろ》の音がする。三十分か四十分か、私にはずい分と長い時間に感じられた。母がふとんにすべり込んで、私もほッとして、うとうとすると夜が明けた。
母は何もなかったように朝の葱《ねぎ》を刻む。船頭は米を高く買ったらしい。お百姓から頼まれた米を船の人に運ぶその利ザヤで母はまた闇米を買って大勢の家族に食べさせていたのである。
私よりもはるかに小柄な母のどこにあんな力があったのか。一心という姿を私は母から学んだように思う。
敗戦後、闇の米は食わぬと言って死んでいった裁判官がいる。潔白正義の人であった。私は母の一心が求める闇米を食べて育った。そして、まだ生きている。そのことを私は恥とはしない。政府が養ってくれないのだから法をくぐっての闇行為は生きるための自衛手段であった。母はそんな理屈は言わず、ひたすらにヒナに餌を運んだだけである。親鳥の本能であった。
もしも当時の母を責める人がいたら私は母に代ってその言葉を聞こうと思う。赤紙一枚で人間をころした責任を果たして貰った上で裁かれたいと思う。
月夜の吉井川を思うよりも、闇夜の水音が今も私に近いのは、そうした母を忘れ得ないからである。当時、母はまだ三十歳を少し過ぎたばかりであった。
現在七十四歳、身も心も弱り果てた母の枕辺で、私は「あのころ」を話してあげる。土色の母の頬がぽッとかがやくのを見たさに。
朝顔も桔梗《ききよう》も白し泣かぬ家族
荒荒と母は流れる吉井川
手に掬《すく》い手からこぼして吉井川
川の他にふるさと持たず枕経
水 恋 い 記
九州の柳川へ誘われたのは早春だった。駅からもう水が匂った。
五十円でバッチョ笠を借り、千円出してどんこ舟に乗る。まだ新米らしい無口な青年が棹《さお》をさすと舟は静かに川をくだりはじめる。ほとんど動かないとろんとした水は、水門をくぐると濠《ほり》になっているせいらしい。両岸の花の数々、黒い土、ちょうど芽吹きの柳の木も手を伸ばせば届きそうな近さで、それらが水の匂いにかぶさって、私は忽《たちま》ち水の精になってしまったようであった。
有名な橋くぐり。昔は土橋、今は石橋コンクリ橋、低くて狭い橋が迫ってくるスリル。武家屋敷があったり酒倉があったり、クモデ網から鰻の供養塔やらと、新米船頭さんは説明にいそがしい。その説明に茶々を入れて若い船頭さんをからかったりしているうちはよかったのである。
白秋の散歩道の近くまで来て、椿《つばき》の花が一つ、動かぬ水に浮いているのを見たあたりから私は変になった。私は水に恋してしまったのである。柳も花も涙でかすみ、時を忘れ場所を忘れこの世かあの世かさえわからなくなってしまった。
船着場でよろけた私は完全に夢遊病者。「帰りたくない、私はここに住みたい」と橋にすがって泣きだす醜態に連れがどれほど迷惑したことか。
恋をした私にとっては、白秋生家も帰去来の詩碑も、お花≠ニかいう殿様の庭も何もあったものではなかった。ただただ、とろんとした水をみつめて涙ぐむばかり。
柳青める日柳川恋い初《そ》めし
この地恋う者に連翹《れんぎよう》黄を極む
白絹を隠れて縫うて水の妻
水と棲みおぼろ月夜の白き飯
小屋に灯を点し柳川在と書く
身も弱りたればそろりと水になる
柳川に住みたいという思いは戻ってからも募りに募った。思いあまってある日ともだちに相談をしてみたところ、まず三千万円用意すること、それなら可能だと言う。
「あなたは水に嫁ぐのでしょ。誰に養ってもらうのよ。利子で食べられる目算がついたら土地の世話はするわ」
私は唖然《あぜん》とし、絶望した。
それにしても憎きは白秋である。
「水郷柳河こそは、我が生れの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である。この水の構図、この地相にして、はじめて我が体は生じ、我が風は成った」──北原白秋〈水の構図〉より──
どうやら私の水恋いは、白秋に嫉妬したあげくのそれだったようである。
白秋の舟を沈めて昼の月
五十枚の絵
松原美代子という四十八歳の被爆女性がヒロシマの地獄を画いた五十枚の絵を持ってアメリカを歩いた記録を見た。
ケロイドの残る彼女の顔とたどたどしい英語の真剣な訴えは、心あるアメリカ人を大きくゆさぶったであろうと思う。
事実、高校生をはじめとする若者たちは松原さんと一人一人が握手して「アメリカ人はこんなにひどいことをした、かなしい」と素直に共感を示した。
ところが戦争体験者の質問の矢は鋭くて冷たかったのである。
「原爆投下はやむを得ぬ手段であった。あのことがなかったなら戦争は終わっていなかったであろう。原爆を使わずに日本本土にアメリカ軍が上陸していたとしたら、もっと多くの犠牲者が出た筈だ。自殺者さえも多く出したのではないか」
「現在の日本はアメリカの核の傘にたよりすぎている。防衛は自分の手でやったらどうなのだ」
松原さんの立往生。
「非核三原則があります」
と答えた彼女の必死の顔が忘れられない。
それにしても、この松原美代子という女性と五十枚の絵を送り出したのが日本の政府ではなく、ノーモアヒロシマの一団体でしかないところに問題がありそうだ。
戦争の原点にさかのぼり、敗戦という事実を噛みしめるときに、私はいつも激しい頭痛を引きおこす。複雑な心の逆流。
しかしながら、原爆体験は日本に限られている現在、反核を訴え、その愚を身をもって示すことは日本人の義務とさえ考えられる。私たちのあやまちを二度とくり返さないために、小さな力いっぱいにアメリカ大陸を歩きつづけた松原さんと五十枚の地獄図絵。
テレビジョンはさいごにアメリカが誇る地下指令室を映し出した。百五十人の要人が三十日間は生きられるという「核に耐える地下室」。あらゆる設備が整えられて管理は行き届き、機械テストも一日二回は行なわれているそうな。
日本でももしや……との疑問を抱くのは当然である。「戦争に苦しむのはいつも庶民なのだ」と叫んだアメリカの若者の声が強く耳に残った。騙《だま》されるのはもうごめんである。
松原さんは思い出すのさえいやな「語りたくない過去」を語って生きている。絵の一枚一枚もまた、忘れたい体験を忘れないために画かれた。
ヒロシマ、ナガサキ、この二つの都市名がカタカナで書かれなくともよい日の到来を世界中の人がのぞんでいる。そしてそれを実現させるのは人間でしかない。
告発を忘れはしない歯をもつ鳥
おつゆさん
むかし私の生まれた村に与一つぁんという大工がいて一人娘を育てていた。与一つぁんは馬づらで、バカがつくほど人好しの働き者であった。娘の佐和は器量よしだが勉強ぎらいでほけほけと遊んでばかりいた。
ある日のこと、与一つぁんの雁木で姉さんかぶりの女がタスキ姿もかいがいしく洗濯をしているのを見た者がいる。女は来る日も来る日も雁木で何か洗っているのであった。
「何者じゃあ」
小川はふたまたぎほどの細さだったので村人に顔を見られるのに日数は要らなかった。そして男共は腰が抜けるほどおったまげたのであった。
「わしが買うたことのある女郎じゃ」
「わしも覚えがあるけえ、あのおつゆがどしてまた与一んとこへ来たんじゃ」
むりもなかった。おつゆさんは港一番のお女郎さんで名が通っていた。与一つぁんも長いやもめぐらしであってみれば二度や三度遊廓へ遊びに行ってもふしぎではない。しかしである。あの与一の乱杭歯《らんぐいば》がどうやって港一の傾城《けいせい》を口説き落としたのかが男共にはふしぎで仕方なかったのである。
おつゆさんはよく働いた。鍋はピカピカ陽をはじき、洗濯物は日増しに白くなっていったし、障子は貼りかえられ、朝夕の打ち水もかかしたことがなかった。
「どうせ女郎上がりの女、三月と持つまいて」とふんでいた近所の女房たちもかぶとを脱いだ。何よりものおどろきは、佐和に勉強をおしえ、お針を仕込み、一人前の娘に育てあげて立派に嫁入りさせたことであった。
私の生まれた村は半農半漁で、南の港あたりには出入りの船頭相手の紅灯が並ぶというへんてこりんな村であった。「お女郎さん」には月に一度の検診日があった。女たちはぞろりぞろりと畦道《あぜみち》をつたって村で一軒しかない医者へ通うのである。そのころから子供ごころに私はおつゆさんを仲間とはちがう人だなと感じていた。しどけない連れの中で、おつゆさんは桔梗《ききよう》のように清らかに見えた。
おつゆさんはどこから来た人なのだろう。ゆえあって身を売りながらも、おつゆさんは女房になりたかったにちがいない。それも、金持ちではなく貧しくとも心のきれいな男のやさしさを待っていたのにちがいない。
そこへ現われたのが与一つぁんだったのだ。与一つぁんはいっしょうけんめい働いた金でおつゆさんを身請けした。おつゆさんの毎日はそれはそれは嬉しそうであった。
港一番のお女郎さんは村一番の女房になったのである。
私が今もそうした女性を自分と同じだと思うのは、おつゆさんのせいかもしれない。
やさしさに髄から泣いて遊女たり
迷子拾うて
その子が私のスカートを掴んだのは大阪万国博覧会跡地の公衆便所の中だった。手を洗っていてふと、その子と目が合った。ニコッと赤いセーターが笑い、私も笑い返したのであったが、なぜこの女の子が私になつくのかわからない。
そもそもこの子は何処から来たのか。
五歳にはまだ遠い四歳か三歳の半ばか。私は手をつないで外へ出た。見渡したが子供を捜しているらしい人は見えず、子供も親を求めようとはせず、ただしっかりと私のスカートを掴んでニコニコしているばかりである。
困ったな、と思おうとしたのだけれど、私は少しも困っていない自分に当惑していた。
「この子といっしょに逃げたい」
春風が頬を撫で、ベンチは程よくあたたまっていた。女の子は足をぶらんぶらんさせながらフランクフルトを食べていた。私を見上げては安心しきった足の振りがだんだん大きくなる。
ときどき風が強く吹くと桜の花びらが髪にとまったりした。
「お名前は」
「チーちゃん」
ぴたッとくっついた体温が愛《いと》おしかった。
時間が流れる。誰も捜しに来ない。いっぱいの人波の、ここだけが真空の別世界。私は誘拐犯人の心理がわかるような気がしていた。人の子を攫《さら》うという極悪行為のどこかには、今、私がこの子に感じているような「愛」が存在するのではあるまいか。
私はチーちゃんをおんぶしてその辺を歩きまわった。保安係のような人とすれ違うときビクッとするものが私の心を刺した。もう少し、もう少しこの子との時間をたのしんでから届け出ることにしよう。そう言訳をしながら、ほんとうは次第に返す気を失っていく自分がこわかった。チーちゃんと私は生涯離れない宿命にあるとさえ思いたかった。
よその子の体温がある春の背な
迷子拾うてこれは神の子地におろす
背中からこの子をおろせば捕手に囲まれるのはわかっていたような気がする。そうしてその通りになった。
何回目かに公衆便所の前のベンチに戻ってチーちゃんを坐らせたそのとたん、母親らしき女がやって来てチーちゃんを連れ去った。何か罵声を聞いたような。けれど、どうしても思い出せない。ただ、その子の顔が初めてベソをかき、小さな手を、いえ正確には赤いセーターの腕をいっぱいに伸ばして私に助けを求めた光景だけが鮮明に残された。
私はその日、鯨を見に行っていたのだった。連れもあった。しかし、チーちゃん以外のことを私は語りたくない。
ももさくら
通りすがりにあんまり長いこと桃の木を見上げていたのでとうとう枝を剪《き》って新聞紙に包んでもらうハメになった。
剪ればはらはら花が散る。首ごと落ちたり花びら散らせて萼《がく》を残したり、どうも桃は私に似てだらしない。嬰児《えいじ》のように抱いて戻ったのだが案の定新聞紙の中は落花の山。桃は下枝まで花をつけるので活《い》けるのにまたひと苦労する。すっぱり花をむしるのは忍びがたいし、ええいままよと広口の壼に自然のまま沈めてやる。のぞくと水にまた花々。何とももろいふしだらな娘よ。だから私の愛娘《まなむすめ》。
抱《いだ》かれて桃の季が過ぎ汽車が過ぎ
桃の雨人の背中は押しやすし
桃の花には中国が匂う。「君がみ胸に抱かれて聴くは夢の舟唄恋のうた」──いくら力んでみても柳桃柳桃とつづく濁った大河の岸には悠然の気が満つるばかり。しかしながら私の胸を過ぎていく時間の汽車には兵の顔が鈴|生《な》りであった。不当にしいたげられた中国の人々の眼がそれに重なる。しかも今は更に孤児の全身の訴えが耳を圧する。うかうかと書いた句が年を経てズンと重たくなることもあるのだ。
桃に降る雨はまだ冷たい。冷たいけれどどこかが春で、もやもやと木の芽どきの焦《いら》だちが我にもなく思わぬ罪を犯させたりもする。自分で死ねばよいものを、ついうかと人の背中を突いてしまう。突かれた人がつんのめって泥に手をつくぐらいならまだいいが、ここでも私はやわらかい川岸の土と雨で水嵩《みずかさ》の上がった川を描いている。恨みの手が二、三度もがいて、ぷっつりと無音。
桃の花が好きな私が桃に抱く暗いイメージとは逆に、桜はさらさらと粘りを残さない。凛たる白の朝桜を好む年もあれば夕桜と空の色の分かちがたさに惹かれたり、絵のごとき夜桜に濃い夢を見たり、それぞれの桜と関わってきたけれど、散る花こそは捨てがたい。花は桜木人は武士、突風に惜しげもなく散る花の土手には必ず馬に乗った人が現われるのだ。女は、たとえそれが好きでもない人であっても求愛された誇りを生涯忘れないものである。その馬に横抱きされて逃げていたとしたら私は今ごろ獣医の妻。花の散る季のほろ苦さは照れくささも伴って、いつのまにやら馬上の人を置きかえてみたりする。時には狐を馬に乗せたりもして、とかく春は間違いだらけである。
淋しさの桜は白しただ白し
花おぼろ人もおぼろに入れ替わる
馬から下りて男は約束を果たす
はずかしく風の桜に埋まるかな
ここに来て噂まみれの落花よし
桃も桜も匂わない花と最近気づいた。特に桃は、その実の芳香からくる長い錯覚であったらしい。
こざっぱり
蝉、炎天のみみず、踏まれたバッタ、塩からトンボ、蝶に蜂からコガネ虫。山蟻は申すに及ばず、人間に遠い「いのち」ほど、こざっぱりと死んでみせる。
カラカラ乾いた蝉を手にのせて、私はしんじつ羨ましいと思う。このように死ねないものかと手にころがして祈りをこめる。
若き子の枕片寄せ戦さあるな
そこからふッと南の島や北の曠野の骨を思った。兵の骨は靴の中でカラコロと鳴ると聞いた。骨はむしろ明るい音を立てると聞いた。その骨を石ころのように振り落として靴を貰って歩いたのだと、その人はこともなげに話した。しゃれこうべが掘り出されるのもテレビで見たが、これとても私には「こざっぱり」と見えた。恨みもつらみも洗い流したしゃれこうべの上に、人々も私も無理に平和という文字を刻んで目をつむった。
恥ずかしながら私は戦争の殺戮《さつりく》に愛する者を奪われた体験がない。少女期の敗戦記念日から今日まで「長すぎる平和はこわい」と誰かが言っても「そうですねえ」と、くぐり抜けてきたうっかり人生だった。
歳月のおそろしさに、今また軍靴の音がする。天命でない戦の死は「こざっぱり」ではなかったことを私が思い知ったのは、子の子が生まれたときである。
小さないのちはすくすくと育つ。
某日、私は心が仁王立ちになるのを覚えた。「子の子のために」阻止する戦。微視的であり、身勝手であってもよいと思う。世界中の一人一人が親馬鹿、孫馬鹿になり切れば、ほんの一握りの鬼や、命知らずの若者を取りおさえられないことはない筈だ。
日本に女性の自衛隊員がいる。笑顔で制服を着こなしている。ごくろうさまと言うべきか、否、「早く子供を持ちなさい」。
向こうから来る人があり人の世は
あの世ではみんなうしろ向き。誰一人振りむくことをしないで、すたすたと歩いて行くのだと私は思う。それは、こざっぱりとしたうしろ姿であらねばならぬ、と強く願う。ゆえにこの世ですれ違う人を愛して、人は天命を全うすべきである。
ゴキブリホイホイの紙の家に小ねずみが迷い込んだことがある。捨て忘れの箱のゴキブリに黴《かび》が生えている、と思った私はそれが小ねずみと知って心が震えた。息絶えるまでの長い飢餓と苦しみ。
野犬収容所の地下室で、命乞いに光る数十匹の緑色の目玉を見たこともある。阿鼻叫喚地獄に私は号泣した。人間であることの思いあがりと無力さが私を打ちのめした日。
こざっぱり乾いて虫の天命よ
定められた天命の道を歩き通して「こざっぱり」と死ぬことの難さを思う。
わたしはカモメ
そのとき海はまだ昏《く》れていなかった。わたし四十六歳。数年ぶりに海へ入れるうれしさでいっぱいだった。浮袋をつけてポカリと水に浮く。淡い曇り空に鈍色《にびいろ》の太陽があった。浜の人影はまばらで、遠い子供の声がしていた。波のまにまに浮いて流れて、私は引き潮に乗ってかなりの沖合いまで出ていたらしい。
水平線と空のさかい目がさだかでないのは曇天のせいか夕ぐれのせいか、考えていて私はごくわずかな時間をねむったのかもしれない。全く不意に天へ突き上げられる自分を感じた。巨大なくらげの傘が私を包み込みからみつく。甘美な光の矢が脳天まで貫いて。──やがてけだるい恍惚《こうこつ》の刻が訪れた。はッと我に返ったときの海の色のおそろしさを私は今も忘れない。脚を立ててみた、その海水の冷たさ。胸が早鐘を打つ。浜はかすんでもう見えない。帰らねばならぬ。死にたくない、助けて!
私は夢中で水を掻いた。足をばたつかせた。生きたい一心で引き潮と闘った時間。瀬戸の夕凪《ゆうなぎ》が私を救ってくれたのだとは後で知ったことである。藻のように打ち上げられた私は人々にとり囲まれた。先刻の出来事は夢だと思いたかった。誰にも言えることではなく、また信じてもらえることでもなかった。
「ねむりこけて死にかけた馬鹿」と笑われ叱られて一件落着したのだが──。
東京の『百味』という誌に海と契った女≠ネる一文を書いた。書くことで夢は急に現実となった。そんなある日、何気なくテレビを見ていて驚いた。そこには私の体験とおなじ光景が映し出されているではないか。勝新太郎が女優のH嬢をつれて南の島へ写真を撮りに行った。その成果の放映であった。「そこだ、そこで海と結ばれるんだ。いいか、本気でやれ」。H嬢は女優である。海との結婚シーン、恍惚の一枚が演技なのか実際に起こったことなのかはわからない。けれども彼女は美しく完璧に海に抱かれてみせたのである。
私は複雑な気持ちから当分放たれなかった。ちょうどオリジナルの服で歩いていて同じ服の女と出遇ったような──。そしてやっと最近、別の考え方に辿りついたのである。私のような体験者はワンサといるのではないか。
そこで某社の女性記者に話してみた。彼女は「信じます」と答えてくれた。それは、海鳴りの宿で彼女もまた、来る筈のない人を迎え入れた体験の持ち主だったからである。
口から口へ契りの水のつめたさ
どこまでが夢の白桃ころがりぬ
仏遠しゆうべゆめみし身であれば
黙契や千鳥格子の千鳥とぶ
恋に日の照る
恋を恋してウエットであった私がゴム跳びのゴムを一段高い枝に結んだのは、次の句によって卑猥《ひわい》な言葉を浴びせられたのが一つのきっかけになったように思う。
凶暴な愛が欲しいの煙突よ
若い私はムキになって自分の素直な願望をわかってもらおうとした。たかぞらにより高くそびえる煙突は当時の私を支えてくれるにふさわしかった。一見平和な日々が拷問と思える。強烈な何かに私は憧れた。
煙もくもくもくもく生きてゆき給え
と励ましてくれたのも工場の煙突だった。そうなると私には美徳と称されるものすべてが嘘に見え出した。もっと正直に、もっと自由に私は生きたかった。昭和三十四年に皇太子が結婚した。一見平和な家ではテレビジョンというものを買い、その前に私も坐って美智子妃の馬車を観た。
瞳孔をしぼって嘘を見ています
蛇口ほとばしれ忽《たちま》ち海となれ
おそろしい音がする膝抱いており
自負ありて冷たき乳を胃に流す
掌の中に響き鳴く蝉握りしめ
銃口の前刻々に透きとおり
寒菊の忍耐という汚ならし
そうして遂に
恋成れり四時には四時の汽車が出る
私は頭を上げて胸を張って歩きたいと思った。文芸は事実の報告ではない。真実の吐露でこそあらねばならぬ。生意気盛りの三十歳が転機に立った。もう何者にも怯《おび》えることはないのだ。太陽がふりそそぐ恋。
シャンと鳴れシャンシャンと鳴れ恋の鈴
渚あり一人に一人駈け寄りぬ
風と人のほかに何ある恋やせん
この世かな胸の鼓を打ち合わす
小躍りの雀踊っていいのだよ
恋なれや鞴《ふいご》の風も力まかせ
君は日の子われは月の子顔上げよ
私は根っからの男性崇拝者である。私が好きな男性は常に斜め上に仰げる位置に居てほしかった。あんまり偉いと真上の太陽で、ふり仰ぐ首が痛いから斜め上がいい。それには私も自分を磨いて向上しなければならない。
私のねがうその理想像は社会的地位とか学問のあるなしには全く関係なかった。魂の清らかさにおいて、心の広さ深さにおいて、人間の大きさにおいて、誠意において、男は私の中で像を結んだ。
坂口安吾は「奪って食う」のが愛だといった。キリストは与えることが愛だという。男と女の戦いは凄まじいものだと聞いた。けれども私には観念的な罪の意識と、その反動としての私の太陽が永遠を告げるばかり。「恋」は必ず終わるという定説も実感としてはまだ信じていなかった。
ふるふる花
ある女史が言った。「厄介な生理を踏まえ乗り越えてこその女の自立だ」と。
ある女も言った。「ブルーデイって全く憂鬱、早く終わってくれないかな」。
私はただの一度も厄介だの憂鬱だのと思ったことがない。生理日は私にとって喜びの到来であった。「ありがとう神さま」と合掌せずにはいられない。女がもっとも女である数日をなぜ女性は厄介がるのであるか。
杏咲く自愛極まるわがメンス
わたしから散る散る紅《くれない》の山茶花
清冽《せいれつ》な川がわたしを貫くよ
この三句、年代順である。杏の句が四十六歳か七歳か、清冽と言い切れたのが四十九歳である。年齢を記したのは「自愛極まる」を読み取ってほしい作者の欲である。三十代や四十代前半では女はそれを意識しない。昔の人は当然のこととして子を生んだ。有生理の平均年数も現在は変化したのかもしれないが私たちは三十三年間だと聞かされて育った。気が遠くなるほどの女坂をふり仰いだ少女の日が私にもあった。私がメンスという言葉を抵抗もなく句にしたときは、その三十三年を過ぎていたのである。
梅ほどの潔さはなく、桃ほどののどけさも持たぬ杏の花は適当に品よく美しい。白ともピンクともわかたぬ杏の花枝に私はわがいのちの美を託した。
菜の花菜の花子供でも産もうかな
と、女であるいのちを軽々と遊ばせていた私が「産み」の限界を強く意識した「自愛」なのであった。そして蜒々《えんえん》と私は女のまま現在に至っている。愛しつづけた女の証しとの訣別の日に私はきっとまた美しい一句を自分に捧げるであろう。
川柳にはふしぎに「からだ」を詠んだものが少ない。これもなぜタブーなのか深くは考えず、私は自在にうたいあげてきた。
桃一箇一刀ありてわが乳房
乳房切る揺れるくらげは鏖《みなごろし》
乳房によ津軽じょんがら響くなり
疑いの長い九月の鯖の色
未定の厨しずかに魚の血を流す
秋のたんぽぽがぎっしり咲いていた年、私は乳房のシコリを切った。細胞検査の結果待ちの日々、私にはあの津軽三味線だけしか聴こえなかった。
蟹の穴わが身の穴の月夜かな
雪の日の裸身美しかれと脱ぐ
しなやかに鹿になりきる雪の夜は
手鉤無用の柔肌なれば窓閉じよ
身を汚す仰臥一つの愛断ち切る
女は「からだ」を汚すことでしか心の愛を断ち切れない。そのむなしさをなぐさめるために神は、花を降らせ給うのであろうか。
河川敷0番地
私が自然を愛し、中でも月を人生の道づれと思うようになったのはI市に編集室を置いてからのことである。
ここは橋の根、河川敷。大小さまざまな工場とわずかな農家は土手の下にあって、土手の高さまで土盛りをしての木造モルタルはこのSSという会社だけである。姉の縁でその二階を借りた日から私は河川敷のあらゆる動植物とともだちになった。
接する家がないのだから、まさに野にうすべりを敷くの景である。土手につくしが顔を出すころ、I川に小魚がふえる。水量は多くないが川幅は二十米ほどあって、堰《せき》から水を落とすあたりに釣人が糸を垂れたりもする。菜の花が川いっぱいに咲く。野生の菜は背が高くて、ここにかくれると見つかるものではない。かくれていると猫が寄ってくる。三毛《さんけ》ちゃん、煤《すす》くん、五郎とマンマの夫婦につきまとうのはクーコという娘。「なめんなよ」と威勢いいのがモンタ君。菜の花のかくれんぼが一番好きだった小梅ちゃんは車に轢《ひ》かれて天国へ行ってしまった。
この子たちが「オ母チャンってばオ母チャン」と啼き立て、私の腋《わき》へ首をつっ込み膝に乗ったり肩におんぶして髪をかじったりするものだから、菜の花がゆれ動いて私はすぐに見つかるわけだ。
蛙が鳴く。牛蛙が追っかけて啼く大合唱。夕顔、彼岸花、ススキかるかや、風が冷たくなってくる。鳩の足が殊にも赤くなって粉雪が風に舞うころから一月、二月、月は皓々《こうこう》とわが陋屋《ろうおく》を照らす。
こうして今年何ときれいなお月様
月光の墓を数える百までは
満月光やがて月光死は軽し
やみくもにおのれかなしく鳴く蛙
運命が変わるぽっかりお月様
月の薄さに杉の子供は手をつなぐ
風呂まで三里唄も出つくしまだ一里
私が目の病いに気づいたのも風呂帰りの道だった。近ごろの車の尾灯は何と長くなったことよと先ず思った。円筒型の尾灯が次から次へと走り抜けていく道だった。お月様を仰いだ。すると月が三つも四つもあるではないか。それがうるんでおぼろな道に、私はギクリと立ちどまった。いくら何でもお月さんが四つもあるわけがない。洗い髪が冷めたかった。
手綱だけ手にあるどこまでも月夜
大切なものが手を抜けて走り出した。手綱だけが残された放心の中でやっと草庵へたどり着いた。階段の電灯はとうから切れていて、それでも破れガラスを通して月光は私を導いてくれるのだった。
馴れの壁づたい今夜は満月か
テンテンてんまり
蛍狩りに誘われて素足に下駄をつっかけようとしたところを姉につかまった。姉が十五、私が十三歳の六月であった。
「少しは村の人たちの目を考えなさい」
約束の句会へ行こうとして中学生の娘の運動会見物を姉に頼んで叱られた。
「少しは子供のことを考えなさい」。私が三十も半ばのころのことであった。
九州へ旅行中に入院していた猫が死んで姉から皮肉をあびた。
「せめて死に目に会ってやることは出来なかったのかねえ」。私五十二歳、悲しみに痛みが加わった。言訳が棒になって喉へつかえた。
「自転車の二人乗りはやめなさい」と、お巡りさんではなく姉に注意を受けた。私五十三歳、どっち向いて叱られておればよいのかわからなかった。
「明るいうちに銭湯へ行かないように」
「行っていません」──と私初めて逆らった。
「ではその髪はどこで洗ったの」
「編集室のヤカンの湯で洗いました」
「銭湯で洗ったと正直に言いなさいッ」
「ヤカンの湯で洗いました」
ぐぐぐぐと悔しさがこみあげる。編集室へ駆け上がってコタツ板をかじって泣く。するとブザーの音。
「用があるから下りて来なさい」
「ハイ」──と私。腸がよじれる。頭の中は火の太鼓。逃げて姉を頼って姉の会社の二階を借りている身であれば、説教の二時間や三時間は覚悟せねばならぬ。私はまことに出来の悪い妹であるから感謝するべきなのだ。
姉は人への思いやりの深すぎる人である。正義の味方であり、責任感抜群の人である。頭が切れて仕事が出来て勤勉で、よく気がついて親切が行き届く人である。二十年おなじ髪型で通し、トータルファッション、TPOを考慮し、乱れのない人物である。親を大切にしすぎる人でもある。
これを裏返せばそっくり私の生きざまとなる。そんな妹を一カ月に何日か側に置いている姉は私以上に気の毒な人である。それでも姉は私のことを「妹であると同時に唯一の親友でもあります」とインタビューに答えてくれた。姉は妹のわがままを許し、自由気ままに泳がせていると言うであろう。
「金魚がタライから跳ね出れば水へ戻してやるが、タライの金魚にお節介はしない」と言い切る姉。金魚鉢ではなく大きなタライなのに、私は何度もとび出して泥にまみれた。そこで前記のような説教となるのである。
姉妹も西瓜もまずは真ッぷたつ
ぬけぬけと金魚の墓のいつまで朱
蟹の赤椿の赤の根くらべ
むごいお前と言われテンテンてんまりよ
早く落ちなよ
よく見ると椿の花は萼を合わせてあッち向きこッち向きに咲いている。そうしなければ花が競《せ》り合う自然の知恵だろうけれど、背中合わせの姿は妙になまめかしい。
三人姉妹が逆縁になりませんようにと思う中で、たいていは姉さん椿が落ちる。それから三日、中の姉さん娘ざかり。落ちた花をそのまま花瓶の花と対照させておくとなかなかに風情がある。風情よりもその会話が私にはおもしろい。
「いいかげんに落ちなよ、グズだねえ」
「いやよ、わたしは花の盛りよ。姉さんこそひがまないで早く往生したらどう?」
「ご主人さまは通人だからね、落花こそ美しいってさ、フフフ」
「見ててごらん、今にシミ出るしおれ花」
「ふん、くやしかったら落ちてごらんよ」
「いやなこった」と首ふったからたまらない、言いも終わらず中の姉さんトンころり。二人並んで苦笑の姿いとおかし。さてさて末の娘は蕾《つぼみ》も固いまだ七つ。七日経ってやっと紅生姜《べにしようが》の如き赤をのぞかせている。
「あんこ椿は恋の花、出て行く船に手をふって……」と、椿は乙女と決めているのは人間の勝手であって、
もしかして椿は男かもしれぬ
と考えるとき、落ち重なる椿の花は雑兵の無念さとも見えてくる。だけどあの花びらの冷えは女のものである。蜜を吸うて自分の唇よりもぬくい体温に私はまだ逢っていない。
赤は赤の中へ、白は白の中へ、その中でキワ立つ個性こそ個性だと私は思ってきた。銀杏《いちよう》の葉を拾ってみても一枚としておなじ形はないではないか。紅一点が目立つのは当たり前、女は女の中の女でありたい、男もまた無意識にそう思っているのではないかしら。そのくせ同類の中での気安心も求めている。そんなこんながからみ合っての、
いちめんの椿の中に椿落つ
白い景色を出ようとはせぬ白い鳥
ところがこの句に病む妻を重ねた人があったのを後になって知った。椿イコール血という連想は男性に多い。大手術の妻の周囲を私の椿の句がぐるぐるまわってどうしようもなかったとその人は言った。そして、どうせ助からぬいのちなら、この白い病室から一日も早く連れ出してやりたいと思ったとも言った。白い病室から解放されたかったのは妻ではなく、実はその人自身なのだが、そこまでは語らなかった。しかし、自分の運命を悟りながらも生への執着を捨てぬ白い鳥をせつなく眺めたであろう男の辛さが私には見えた。椿の花はなぜか「逃がしてやりたい」花である。
くちびるを逃がす椿の咲く山へ
沈むまで見ている花の首ひとつ
水があれば椿の花を旅立たす
よろこんで
ある日ある町の炉端焼の店へ行った。
注文するとカウンターの外の人が「〇〇一ちょう」と叫ぶ。すると中の人がタイミングよくそれを受けて「〇〇一ちょう|よろこんで《ヽヽヽヽヽ》」と復唱する。
「よろこんで」「よろこんで」がくり返されているうちに、何だか私も喜んで注文しないではおられない気になって、いつもの倍も食べて飲んだ。商売とは申せ、よい言葉を発見したものだと感服した。
「おい新聞」「よろこんで」「灰皿ッ」「よろこんで」──という応用は如何。
ある日私は「仕事は外でやってくれ」という言葉に「よろこんで」と答えたばっかりに電車で往復六時間という遠隔地に仕事場を持つハメになった。以来五年経つ。振分け荷物も面白かったし、駅の階段は二段とび、立食いそばの味もまことによろしかった。
その荷物が肩にくい込み、階段の中途で休み、一カ月四往復が三回となり二回となったのはいつごろからであろうか。「よろこんで」私は家事と川柳誌発行という仕事を両立させようと努めた筈だった。そしてその通りに事は運んでいった、と思いたい。
お金と意気地がなかったので実家のある町に姉を頼っての半独立。今、私はもろもろの出来事を語りたくない。私が選んだ私の道ならば、すべてのことに感謝し、よろこぶことだと思っている。
ただ、句の中では私はその「もろもろのこと」から目を外らさなかった。事実の報告ではないが、句は私の真実を忠実に刻んでいった。
家出の荷親と暮らして解かれざる
人の情一切草に嘔吐せり
工場の裏を歩いて強くなる
骨肉のがんじがらめよ鎌の月
姉の背と瓜ふたつなら姉を斬る
二つ悲しみ一つ歓び浮巣ぐらし
親は要りませぬ橋から唾を吐く
行きくれて買う牛乳とビスケット
生きてきてバケツの底を抜く涙
そして現在、私は自分をどう呼ぼうかと途方にくれている。五年という歳月は私を主婦の座から引きずりおろした。ここでもまた半独立。要するに私は〈家計費〉という名の財布を持つことを許されなくなった。それだけのことである。ふと気がついたら主人に主婦権が移っていただけのことである。
何一つ買物のできない女は主婦ではない。冷蔵庫にある物で工夫する一汁一菜。材料に不足を言うなどもっての外である。おかしな生活がつづく中で、私は「よろこんで」大きな蛔虫《かいちゆう》になる決心をした。何もかも中途半端な苦笑もまた私が招いた笑いなのだから。
一丁の豆腐に涙したたりぬ
叱  る
人前で叱られたこと、あなたもおありでしょうか。私は娘の家でフキンの使いかたがわるいといって、ムコ殿の前で娘に叱られたことがあります。
そのとき、娘に対しては「なに言ってんのさ」ですんだのですが、なまじムコ殿が私をかばってやさしい言葉をかけてくれたばかりにワーンと泣いてしまいました。よくある心理。
さて、ある町に△△という炉端焼の店があります。「よろこんで」のところでも書きましたが、この店では注文を通すたんびに「よろこんで」という尻尾をつけるのですね。「はいッ、ヤッコ一丁よろこんで」「ほい来た熱燗《あつかん》一本よろこんで──」といったぐあいにです。
それは店員の鉢巻|法被《はつぴ》姿にとてもよく似合って、店はいきいき、客もいい気分でつい一皿も二皿も追加したりするのでした。
ところがある日のこと、板さんの長といった格の人が客の目の前で店員を叱りはじめたのです。冷蔵庫を閉め忘れたから叱られているのだとは店中にわかりました。それはたしかに店員さんが悪いです。しかし、「もうやめて」と言いたいほどの長説教に客もしらけてしまいました。
「お前わかってんのかッ」というダミ声と、「よろこんでよろこんで」のねこなで声とが交錯していくうちに、この店の「よろこんで」は口先だけで心がこもっていないことがよくわかりました。
もうひとつは神戸大丸のコーヒーショップで。
これは客に飲物を運ぶ順番をまちがえたといって、女の子が店長に叱られているのでした。
「あっちが先やろ。なんでこっちへ運ぶのや!」
店長は押さえつけた小声でしたが、カウンターにすわった私には|もろ《ヽヽ》に聞こえました。ところが女の子には意味がよく聞きとれなかったのですね。
「もういちど言ってください。何のことですか」
いやご立派。若い店長とウエートレスは真正面に向き合いました。
「あのな、あっちの客が先に伝票通っとんとちゃうか言うとんねん。それをこっちへ先に出したやろ!」
店長は伝票で卓を叩いてだんだんと大きな声。
ウエートレスは眉も動かさず、じんじんと対立。
「あのう、どうでもよろしいが、何ならコーヒー吐き出しましょか」
さっきから、「こっち、こっち」と言われていた客は、実は私だったのです。
叱るのも結構ですが店長さん、場所をよく考えてくださいね。さもないと気の弱い私など自分も叱られているようで、つらいのです。
眼をあげる
ライトがおちて誰かがシャンソンを歌っている。まだ宵のスナックの椅子。目をとじて私は自分の眼のことを思っていた。
「この齢までもうよく見て来たからね、要らないんです。目玉なんて一つあれば結構さ」
「腎臓でも何でも二つあるものはみんなあげます。アイバンクに登録はしてあるんだけどあれは死んでからだな。生体から生体への角膜移植はどうなんだろう……出来ない筈はないですよ」
「必要なときは言ってください。酔狂でこんなことを言ってるんじゃない、本気です」
女の子が熱いおしぼりを出してくれて、はじめて私は涙で顔がぐしょぐしょなのを知った。その声はずっと遠くから聞こえてくるようであった。
「さあこっち向いて。涙を拭いて。元気を出してくださいよ。こんな汚ない眼ではイヤですか。でもあなたにはぼく以上に目が必要なんだからね、この目玉で我慢して使ってほしい」
隣りの席のその人は強いまなざしを私に当てて話している。みじんの嘘もない二つの眼。私は絶句した。
昔、頭の上に胃袋をのせて歩いている胃ぐすりのコマーシャルがあった。人に弱音を吐くほどみっともないことはない。でも、その日私はうすくらがりの階段で足をふみはずし、フェスティバルのプログラムも交換の名刺も読めず、ライトにくらんだ涙目では人の顔もさだかでなく、ずいぶんと失礼を重ねたあげく「ごめんなさい」と、まわりの人に事情を打ちあけたのである。つまり私は、一年の余も角膜の病いに悩んでいた。目玉を二つ頭にのせて歩いていたのであった。一日として晴れた日はなく、それを人にさとられまいとして、パーティーや講演旅行にも積極的に出かけた一年であった。
朝、小鳥が啼いている。もしかして今日はパッと目が見えるのではないか。夢の中ではあんなに鮮明だった風景。なのに私は快晴の霧の中へ起きあがらざるを得なかった。
四、五人連れでスナックへ来たのも、その人たちのあたたかい心に素直に従いたかったのである。私は「眼をあげる」と言ってくれた人のことを誰にも話さない。話せば酒の上の冗談を真に受けた馬鹿な女と、いいカッコをした男として笑われるだけだから──。私は何と笑われてもよいが「その人」が汚れる。真心と言葉をありがとう。その言葉から私は生きる力をもらった。
地の橇《そり》や眼の欲しい子に眼をあげに
若いころに作った机上の句が恥ずかしい。
一点をみつめておれば死ねそうな
眼の病いすすむ夢見の美しさ
躍り出た男だまって眼を呉れる
たんぽぽがはっきり見えてうれしがる
樹もまた問いぬ
木でなくて樹と書くとき、私はそこに人間を感じてしまう。
新潟の十日町を訪ねた折だったと思う。汽車の窓から手を出せば届きそうなところに林檎《りんご》の樹をみつけたときのあの感激。それから冬の乏しい景色の中に見る緑の葉も濃い大きな蜜柑《みかん》、あれも正に黄金の絵である。柿は見慣れてしまったが、梨や桃もきっと近寄れば人間の樹であろうと思う。さくらんぼの樹はまだ知らないが、あの樹から朝は満腹の雀が一斉にとび立つのであろうと想うだけで私は不思議の国のアリスになれる。梅はどういうわけか親しめない。曲がりくねった枝のせいか背の低さか知らないが、節くれ立ったおじいさんの手に突如として赤児の爪が生える花もさりながら、青い実もまた棹竹《さおだけ》で薙《な》ぎはらってやりたくなるのだ。おじいさんの手には部厚い筋の入った大きな爪が似合うし、あのシブコブとした木には黒|南瓜《かぼちや》が生《な》らねばならぬ筈だ。
ポプラや銀杏はいかにも夏から秋の人間でスマートでいさぎよい。プラタナスの裸木、あれは苦労の象徴で、青い葉が噴き出すとホッとしたりする。苦労人間といえば松もそうだが、これはどこかに武士という気位が見えておもしろくない。一枚の葉もないくせに忽然とひらく木蓮は魔法使いの妖しさがある。
名は忘れたが幼いころのわが家の庭に、根っこが一つで中途から二股に分かれた樹があって、片方だけが赤い実をつけた。腰から下を縛られた夫婦が雨戸を繰るたびに現われて、私はこの樹がこわかった。片方が死ぬのを待つしかない宿命の夫婦の樹は、今も私を支配しているようでおぞましい。
女の子が生まれると桐の木を植えた。この木とこの子、共にすくすく伸びて、お嫁入りには桐のタンスになるのだと聞かされたが、私は桐の木がまだ樹とならない年に家を放り出された人形だった。
欅《けやき》、椋《むく》、杉、そうそう栗の樹ほどその花その実があの樹にふさわしいものはないだろう。少しヤクザで、ゆさぶれば笑いながら三ツ児の実を落としてくれる。「そうら痛いぞォ」、指の血を吸う子供らに投げられるシャガレ声がまたよかったな。
樹は老いてゆくから人間くさくて好きだ。樹は話を聞いてくれるし語ってもくれる。
祈りかな大樹に迷いこむ蛍
道のやさしさ樹があって木がありぬ
静けさよ月光すでに樹と通じ
水平に歳月流れ樹も老いぬ
あの人もこの人も死ぬさるすべり
さらさらと青い葉が降る別れかな
樹に齢を問いぬ樹もまた吾に問いぬ
「お互いにいい齢になって出会ってよかったですね。若かったら何をしでかした事やら」
大花火小花火
私は毎年八月八日に花火の洗礼を受ける。足の蚊を気にしながら浴衣《ゆかた》に団扇《うちわ》姿もよろしかろうが、私はその夜、頭から花火を浴びるのである。
私の編集室は恵まれた場所にあって、I市の弁天様の花火を見る一等席である。まだ明るいうちから音が聞こえて私を落ちつかせない。
やがて、夕焼けの去った西空に小さな傘から咲きはじめる。菊、柳、ぼたん、名は知らぬけれど開いて散って、しだれて消えて赤青黄。花火特有の腹にひびく音がだんだん大きくなると、少しおくれる音に騙されて花火を掴み損ねたりもするが、クライマックスのあの連発の饗宴を何にたとえたらよいのか。
花火は襲いかかるものである。赤い舌、赤い目ン玉ひんむいて両手ひろげて人間に襲いかかる。ああ、と思うまもあらばこそ、黄鬼青鬼の波状攻撃。それはもう美しいなどという表現では間に合わない迫力なのである。
電灯を消した西の窓に私は一人、恍惚のおそろしさに翻弄《ほんろう》されるわけである。
音が間遠になって、また小さな傘をひらいてみせて、花火は閉じる。ぐったりと、私も窓を閉じる。花火の夜、私は仕事をしない。しないのではなく疲れて出来ない放心で横たわってしまうのであった。
大花火そして約束忘れきる
花火からわれもわれもと胸を病む
祭りに行き遇うこともある。三個百円のアメ玉が口ん中で溶け切るまで歩いていると洗い髪もかわいてサラサラ肩をくすぐる。買って戻るのは花火。今は工夫をこらして名をつけて、私には味気ないドカン型が多くなったけれど、線香花火はちゃんとある。ネズミ花火も残っている。川土手でネズミを走らせる夜にたまたま客があったりすると、子供の仲間がふえるのでうれしい。手花火に、ふッとともだちのさみしい顔を見てしまうのもそんな夜である。
花火の群れの幾人が死を考える
と書いた日の私と花火はうんと遠い距離にあった。それは私にとって、死というものがまだ遠くにあったともいえる。
しかし、生きるということは一日一日を死ぬことでもある、という自覚は若いころからあった。だから今日死ねたのだから明日死ぬことの可能性は軽かった。
それが次第に重くなってきたのはいつのころからであろうか。この世には美しい事、美しい物がいっぱいある。惜命が否応なく心を占めてくる。齢を取るたのしみの中に、どんな小さな美にも心をとめるやさしさが加わってくるのと同じ歩幅で一日が重くなっていくようである。これは死というものが確実に近くなったともいえると思う。
愛 別 離 苦
「どんなことがあろうと親の死に目には会わないことです。見てはいけませんよ。心身共にやられました。それにしても、順縁だからあきらめろ、子供の死に目に遇う人もたくさんいるんだから、となぐさめてくれる人がいますがね、世の中でいちばんつらいのは親、特に男にとっては母親ほどつらい別れはないんじゃないですかね。ぼくはこんどつくづくと感じたことがあるんです。それは、親父が取り乱さなかったことと、ぼくの妻や子も意外と冷静だったことです。──人間、とどのつまりは血ですなあ。ぶざまなほど泣いたのは息子だけ。父親ももとをただせば夫婦とはいえ他人ですからね。ぼくの妻にいたっては正直せいせいしたでしょう。それを目のあたりに見て、ぼくは母のためによけいに泣いてやったのかもしれません。見なけりゃよかった。しかし医者のぼくとしては見届けざるを得ませんでしたからね。いやもう、ガンの末期のものすごさ。ハハシンダの電報で帰ってくる弟たちはいいですよ、あの悶絶を見なくてすんだんだから」
知りあいの医師からつくづくと述懐されて私にはなぐさめる言葉もなかった。
私はある意味で、少年期、青年期、壮年期に親を喪った人をしあわせだと思う。子としての自分が齢を加えるにつれて、親との別れは身にこたえるにちがいない。親には一日でも長生きしてもらいたいのが人情だから、私の言い分はぜいたくというものだろう。五十歳を過ぎて両親揃っているなんて「おしあわせですね」とみんながいう。
そうにちがいない。しかし、身勝手ながらつらさは一日一日と濃くなる気がする。子育ての最中ならそのことで気を取り直すこともできよう。また、自分が青春のただ中なればめくるめく愛が忘れさせてもくれよう。だが、身を枯野に置いての親の見送りは身を噛み心をさいなんで、想像するだに怖気づく。
八十六歳の父と七十四歳の母。愚痴の多い母はさておき、この世へのくりごとを何一つ言わぬ父の淡々たる日常を眺めるとき、この人が忽然と居なくなる事に私は耐えられそうもない。
先日その父が高熱を出し呼吸困難におちいったことがある。かかりつけの医者の玄関で坐り込みをやって、やっと連れ出した医師は車の中でこう言った。三回も言ったのだ。
「もういいとしだろう。としに不足はないだろうが」──だからどうだと言うのだ。私は医師を撲りつけたい拳で医師の鞄に爪を立てていた。
父を渇仰して父の子を産めり
ゆきずりの墓から親へ目を移す
父が生きる日数に動く冬の蠅
よろける父 許せぬものに羊の死
ままごとずんば
昭和十一、二年ごろの吉井川(岡山)はまだ自然の中にあった。波よけも天然石が積みあげてあるだけ。その隙間に子供たちはすぽんとはまって台所やお座敷作りに余念がなかった。
器はすべて貝がら、大小のはまぐり、あさり。しじみ貝はスプーンになった。お惣菜にも不自由はしなかった。雁木や玉ぶち(コンクリートで作った道と川の境)にはクコの実や夕顔が咲きみだれていたし、ちょっと走ればグミがあり茄子《なす》や胡瓜《きゆうり》の畑があった。
ままごとには「お講」というのがあって、大人の大師講などをまねてお客をするのであった。それがままごとの最大のたのしみで、どんな馳走でもてなそうか、器にガラスの破片なども工夫して涼しげに見せたり、幼い心は弾みに弾んだ。
お講は私の姉から始まってともだちをまわり、私で終わるのが何となくのキマリであった。姉はブリキの包丁とナベ・釜も持っていた。その上になぜか姉の家だけ人形の子供が居るのである。「ああ、いい子いい子」とあやしながら姉は手際よく料理を盛り分けてみんなを招《よ》ぶのであった。
「きれいなお箸」「まあかわいい〇子ちゃん」。客はおせじたらたら。主は得意満面。そうやってともだちの家をまわるお講あそび。
「さあこの次よ」──私の胸はドキドキである。貝がらを洗ってオオバコをきざんでタンポポ寿しを作る。盃を拾ったのでスープを作ろう。みんなどんなにおどろくだろう。
その時である。姉の声がひびきわたる。
「ヤーメタヤメタ、みんな学校ごく(ごっこ)しようエ」
ガラガラと片付ける音の中で、無念のくちびるを噛まなかった日が私にあっただろうか。
学校ごくだって、どうせ私は万年生徒。ピアノと黒板を持って姉が現われる。先生センセイせんせい、いろんな子が先生役をつとめて(受持ち教師のクセが出るのはおもしろかった)、さて「わたしの番」になると「ヤーメタ」となって日が暮れた。
先日、姉が川土手(大阪I市の)で「ずんば」を見つけたと目を輝かせた。芒《すすき》のミニチュアのごとき「ずんば」は春告げ草だが、学名は知らない。ただ「ずんば」という語感だけで私たち姉妹にはパッと吉井川の春が甦えるのである。なつかしのずんば。
姉は今、独身である。私は二人の子に恵まれた。昔のままごとの話の中で、人形のことだけは生涯のタブーである。
いぼ蛙お前はうつくしいのだよ
なわとびへ入っておいで出てお行き
戸袋にもたれて遠いひとごろし
ゆさぶれば杏の木から杏落ち
白桃は一つ置かれてしあわせな
うつむき観音
四国香川県のE谷というところへ行ったときのことである。坂を登り石段を登ってフーッと汗を拭う、その位置に思いもかけず大きな観音さまが立っておられた。
緑の中に緑を抜けてぬッと姿を現わされる露座観音は人々をびっくりさせるに十分であった。ふり仰ぐと、少しうつむかれたお目がじっと私に注がれている。
「よう来たよう来た……遠いところをな」
汗が涙に変わる。案内してくれた人はこの更に奥にある弘法大師の話はしてくれたが、途中に在《お》わす大観音については何も言わなかった。それだけに虚をつかれた出会い。
誰がいつごろ作ったのかもさだかならず、無名の観音はただ、この坂を登ってくる者の労をいたわるために立っておられるのか。それとも道しるべのためか。
そのうち、あっちでもこっちでも「私」を見ておられると口々に言うのが聞こえた。つまり「うつむき観音」と私が名付けたウドの大木のごとき観音さまは、見る人の角度にかかわりなく目を合わせられるのであった。
「それだけ像が大きいからやろ」と案内の人はこともなげに先を急がせたが、私は貼りついたようにその場を動けなかった。
ふり仰ぐ目から涙とめやらず、観音もまた次第に泣き顔になり給う。名があろうがなかろうが、私はこの出会いを忘れないだろう。
私のように泣いて下さい仏さま
薊野《あざみの》を来たか来たかと抱かれる
どんな名工のどんな名作を見ても、私の目に残るものといえば仏の弟子の草履《ぞうり》の素足であったり、首なし如来の肩の線であったりした。有名だから見に行くということを私は好まない。
奈良の十二神将も、何とまあ力みかえってお気の毒な、と見てまわって、暮れなずむ外へ出たとたんであった。神将たちは弓矢を捨て刀を捨ててぞろぞろと私に従いて来られるではないか。夕ぐれの木立の枝の錯覚であったにしろ、私は今も、かの神将十二人が力をぬいて私を取り巻いて歩いて下さるのを身に感じることがしばしばある。
写真の素材になる北条の五百羅漢は私のほうで見捨ててしまった。親がまだある不遜であろうが、整列の羅漢はどう見ても石でしかなかったのである。
仏と人にも相性があるらしい。私はうつむき観音との再会を拒否しつづけている。人も仏も一期一会がいちばん美しいと思うゆえに──。
羅漢より妊婦一体尊とかり
さびしがる仏五百は野に残す
ふりむいてみるまでもなく生みの親
見ていると仏ゆらりと元の位置
いつのまに十二神将われに従《つ》く
ひとりぐらし
私は昭和56年に『花の結び目』という自分史風な五十年の生き恥を書いた本を出した(朝日文庫収録)。小説ではないレポートなので、感情移入ができていないという評はもっともだと思ったが、私の川柳が感性まる出しであってみれば、それをつなぐ文章はポキポキと男文であってよかったのだと反省の果てに自分を慰めもした。
さまざまな読後感をいただいた中で誰方《どなた》もふれられなかった「ひとりぐらし」についてもう一度自分に問うてみたいと思う。
私は離婚を果たしていない。だから独立して暮らしているわけではない。しかし、家族の中にあっても「ひとり」という意識は子供のころから人一倍強かったような気がする。
そんな私が仕事部屋を持って月のうち何日かをそこで過ごす半独立を形の上で果たしたのが四十八歳のときであった。それもお金がないために姉の会社の二階借りという半々独立であるからして、えらそうなことは言えないのである。
姉を頼ったことだけでも意気地がないのに、私にはまだ両親があり、その町へ仕事場を持ったのだから不甲斐ないこと甚しい。
私は五年前のそのときを思い出す。父母も姉も私に「帰っておいで」と言ったその言葉を。五十歳の娘が帰っていくところがある不思議に、私も私の実家の者も気がつかなかった。たまたま姉が独身で親娘三人という家族構成が私を受け入れようとしたのだと思う。まともな家庭なら姉に夫があり子があり孫があって、とても私の入り込む隙などないのが当然であろう。手に職のない五十女がころがり込むのは親の家ではなく、嫌われても何でも子の家であるべき筈だった。
その気づかないふしぎが私をがんじがらめにしたのだと思う。中でも母は私のひとりぐらしを許そうとしなかった。母の心の中で育つ疑心暗鬼は汚れた言葉となって私を傷つけつづけた。それにもひるまず我を貫いて来た私。私はなるべく親の家へ行かなかった。
「遠慮なくお食べよ」の親の言葉に嘘はない。けれどもその家を出て三十年の歳月はどうしようもない垣を作っていたし、婚家と同じ居心地の悪さがそこにもあったのである。
ふるふるイヤで馴染めない「家」と私。
仕事部屋だけが私の安住の箱であった。一人はいい。横になれば眠りが訪れ覚めれば書くたのしみがある。一日寝ていようが夜を徹しようが誰も文句をいわない。少々|黴《か》びたパンと梅干しだけであってもゴチソウサマと気を兼ねるのに較べれば最高の食である。
私はよくよく放浪の女なのか。
巣ごもりの旬日青い飯を炊く
きのうから蜜柑が二つ枕もと
手に鳥が来ることもある半死かな
釘を踏み抜いて一人の祭果つ
ウルフなんかこわくない
I市I川が国道と交わるところに古びたビルがある。その二階を仕事部屋としてからもう五年の歳月が流れた。
まわりは工場街で夜は無人となり、私の仕事部屋はポツンと蛍のごとき灯をともす。夜が深まると列車の音が妙に近い。
土手の下には一軒の農家があって、三枚の田をつくっている。菜の花が終わり、苺も藁ごと片付けられると土起こしがはじまる。雨の日が多くなって田に水が張られるころ、窓を開けると真の闇で、川の音をかき消す蛙の声である。六月の闇の匂いは何だろうと私はよく思う。草か煙か水の匂いか蛙の体臭か。耳をすますとどうやら小さな蛙は田の方で、牛蛙のすさまじい声は川からと聞き分けることができる。
仕事に夢中であれば河川敷の一軒ビルは何よりの環境といえよう。窓の下をトラックが通るたびに私の部屋はドドドドと揺れるが、それにも馴れた。窓を開けてカーテンを引いているその青い色が帆のようにふくらむことで、私は風の向きを知る。
ペンから心が離れると、闇は急に重量を増してくる。バリバリと走り抜ける暴走族の音がUターンして窓の下で止まったりすると、私は思わず灯を消してうずくまる。激しい口争いがあって、とつぜん階下のガラスが割れる。一枚、二枚、ああ今夜は七枚ほど割ったなと、冷静に数えているようで、やはり胸は早鐘である。
彼らの一人でも二階の灯を見ていたとしたら、そして死角になっている階段を見つけたらどうしよう。若い狼は群れをなして駆け上がって来るだろう。ドアといってもベニヤ板一枚。蹴破ってさて……想像の中で私のてのひらは汗でぐっしょりだ。三尺棒のありかをたしかめる。川向こうの電機メーカーの大看板の赤が川へ映って私の部屋は滲んだ血の彩である。小刀を握っている自分を眺めて、まさに絵金《えきん》の絵だなあと笑うゆとりが出てくるころ、やっと下の騒ぎもおさまったらしく、またバリバリと轟音を立てて次々と去っていくのであった。
いったん怖気づくともう仕事にはならない。赤い闇に馴れた目で机を押しやり夜具をのべる。窓を閉めるとこんどはヂヂヂヂヂヂヂヂと枕時計が秒を刻む音。ゴキブリが大きな音をたてることも初めて知った。
ねむろう。闇は大きなハンモック。四肢をのばすとどこかの骨が鳴って「ごくろうさんだねえ」という。「仕方ないやね、私の選んだ道だもの」──やがてけだるい幸福が睡魔をつれてやってくる。牛蛙の声も貨車の軋《きし》みも、いつからか降り出した雨の音もみんな私の子守唄である。神さまいのちをありがとう。
墓の下の男の下に眠りたや
さなぎの如く
私は「業」という言葉と「シャカリキ」という言葉の語感が嫌いである。そういう考え方、生きざまも好きではない。
ところが嫌いなものは寄ってくるもので、私の川柳は一心不乱だと普通の人は言いつづける。私は『新子』『月の子』という二つの川柳集を出し、自分史でもなければ小説でもない生まれて五十年間をまとめたレポートのような『花の結び目』という本を出した。ほかに『川柳展望』と名付けた季刊個人誌を出して八年にもなる。
「本を出すのも道楽か」と時に私は口走るが好きにあそぶところに真は生ずるのだということが、他者には映らない。ひたすらに髪ふり乱してシャカリキになって「女の業」とやらを追う、と評され、そんなふうにしてみせなければ大方のお気に召さないらしいのだ。お気に召さないでも結構だが、たとえばK誌上でKという何をしている人か知らぬ女性が『月の子』読後感として書いている中に「日日の暮しの中から川柳の材料を拾いあげようと眼をこらし」云々とあったのに私は腹が立った。皮相的な見方をされても仕方がない作者サイドにある限りのこの種の言葉は雨あられと降ってくる。Kは鑑賞文のしめくくりとして「──更に好作を期待する」と結んでいるが、大きなお世話。私は愚作にあそぶ道を進む。
そんなところへ盲目の詩人でもあり川柳評論家を自認する藤村青一氏から一巻のテープが届いた。
氏は、新子は川柳家としての要素を一つとして持たず、詩人の欠点をあますところなく持っていると喝破した。素晴らしい洞察力である。
即ち、女性であるにも関わらず新子はロマンチストであり私情的であり個性的である。言葉を変えれば、夢ばかり追って現実には目もくれないで自分勝手にヘソを曲げて生きている、ということだと氏は言ってのけた。自分でも見えなかった真髄に、私はパッと視野が開ける思いであった。川柳家の大方の特質はこの全く逆である。リアリストであり客観的であり普遍的である。
詩人の欠点を持つ私が表現形式として川柳をやっている。このおもしろさに私は満足した。
藤村氏の舌鋒は更に鋭く、「いうなれば文学少女が文学婆になったということだ」と容赦をしない。『花の結び目』で私が書いた大きな力≠燉vするに自分(内部)の力があるゆえに他力を感受するのだと。言われてみればもっともで、今日も私は母の胎内に在ったときと同じ姿勢で生きている。私に生命力を自覚させてくれた一巻のテープ。藤村氏は心眼冴えたる人である。
木の幹を抱え不幸を吸いつくす
ああ母乳さなぎの如く眠りたし
花ともだち
五月六月、どの家の庭も花でいっぱいになる。花を差しあげたり貰ったりという楽しみも花の好きな人には何よりのことであろうし、互いの庭を訪ねあうのもまたこの季節であろう。苗も往ったり来たりする。
ゆうべ大箱の鳴門わかめが箱ごと無くなっていて、私はさんざん捜しまわった。あきらめてエンドウの味噌汁を作りながらふと夫にたずねると「食べてしまった」とのことであった。わかめで詰まったソーセージの如き腸が浮かんだが、私は何も言わずすぐに忘れた。
けさ、裏で声高な対話がきこえる。姿は見たことがないのだが、夫がよく話す茶の師匠がまた花を届けに来ておられるのだなと思った。お師匠さんは一段と声はり上げて、
「先だっては海草をあんなに沢山、ありがとうございました。あれはからだによござんすからねえ、毎日いただいていますのよ。ところであなたの心臓のおぐあいは?」
夫が小声でぼそぼそ。するとまたソプラノで、
「らっきょうはあなた心臓によくないそうざんすよ。その点あなた海草はすばらしいですわ。それをあんなにいただいちゃって」
「梅干は召し上がっておられますか」
「ハイハイ、わたくしすっぱいのが苦手なんざんすが、お言いつけを守って、オカカをかけて蜂ミツをちょっと入れまして毎日ハイ」
「花をいつもすみませんです、遠いのに」
「なんのなんの、これ〇〇ウツギ、つゆ草、八ツ手。そしてこの花の名がわかりませんのよ。葉は矢車草みたいですけど花は似てませんざんしょ」
「本で調べておきますよ」
私は開け放った窓から入ってくる朝の空気を胸いっぱいに吸いながらうとうととしていた。「花ともだちか」──ひとりでに微笑がひろがる。しんねりむっつりの夫にいい話し相手がみつかった。幼稚園から子供がはじめてともだちを連れて帰ったよろこびに似ている。よかった、よかった。
ひる近くまで、私は海草とわかめが結びつかなかった。「カイソウ」という花の名かしらと耳にもとどめていなかったのである。
ゆうがたになってやっと大箱のわかめの行方が「海草」だったのだとわかった。朝よりも濃い微笑がひろがった。「食べてしまった」だなんて、小さな嘘をついた男の子は母親にとって実にかわいらしいものである。
大根の花は白かむらさき。はて牛蒡《ごぼう》の花は何色だろう。ごぼうの花もたしか紫で頭状であったな。葉は心臓形、根は利尿の効あり。ああ願わくば牛蒡根ぐるみ熨斗《のし》つけて、夫をあの方にさしあげたい。
剪《き》って詮なしあじさいの大頭
花ともだちは花盗ッ人よ雨になる
火を噴く龍
春はあけぼの、五月は夕べの空にその美を尽くす。その日の空も暮れなずんでうすももいろであった。うすむらさきでもあった。そこへ不意にもうもうたる黒煙を見た。
「やっぱりこの谷だった」
車は左へカーブを切って煙に向かって走る。二本の太い煙突からうねり出る黒煙は近づくにつれて生きものになった。
窯に火が入ったと聞いて訪ねた谷だった。巨大な登窯は正に火を噴く龍であった。山の傾斜を利用して粘土で築かれた窯には下室・中室・上室と小さな窓があって、窯口で焚かれる火は各室を登りながら、窓という窓から火を噴いて温度を調整するのだという。訪ねた夜は火も最高潮で、小窓から噴く火は鶏のトサカとなり、女の髪となり、蛇の舌ともなって龍(窯)はからだをうねらせながら低く吠えつづけるのであった。
煙突の下のまっ赤な男たち
と机上で作ったのはふた昔も前。私の空想の中で火夫のからだは文字通り炎の匂いで迫った。
その光景が今、目の前にある。男も女も汗みどろの火の塊。炎の色を見ながら松割木をくべる。一回二十五本。軍手または皮手袋をはめて脚ぐらいの皮つき割木を放り込む。木は渦なす炎の上をすべって忽ちにして火と化す。巨大な龍は息をする。ゴォーともきこえ、びゅーッともきこえるそれは、人間の心音の拡大音に似て規則正しく窯は波打つかに見えた。火は赤であり、黄であり、紫であり白である。レモンと白をこきまぜた渦は最高温度であろう。その刻、窯の中の陶器や磁器が瞬間の姿を見せてくれる。白光の中の純白。極限を私は見た。やわらかい土では姿も形も無になるのだという。
さもありなん、この灼熱地獄。窯主の眼光もまた火である。弟子たちも火である。
びっしょり汗をかいて小憩の草の上。ここからは二本の煙突が見える。五月闇にそそり立つそれは時に美しい紅の火を噴く。しかしその火のやさしさは何なのであろう。二つの炎は揺れて寄り添い、たゆとうては消える。
「まるで夫婦のようですね」
龍は相も変わらず轟々と生きて燃えつづける。窯の中の者たちよ、耐えて死んで美しく蘇生《そせい》しておくれ。私はいつの間にか火の中へくべた二人の人間を見ていた。二体はひとつになり得ず白光の白骨もやがて溶けた。
窯は火の龍たり龍に呑まれゆく
柿の葉の裏をみつめていた男女
窯鳴りの轟々たれば人黙す
松割木おんな次々火の窯へ
やがて龍は死に陶が生まれる朝が来る。
窯を出て壺は一羽の鳥と遇う
耳鳴りはとうから蜂は今|誕《う》まれ
かわいいおんな
世にもかわいい女がいる。
かわいい女は手紙を書くことが好きである。たとえばその女が海外旅行をしたとしよう。それも豪華な船旅。
女はそのよろこびを手紙に書く。宛先はそのときたまたま何かを知らせねばならぬ相手であれば誰でもよい。ことのついでに書き始めるともう、みさかいがなくなるのであった。
旅発ちの三日ぐらい前から話は始まって、ときめき、不安、ねむれない。当日が来て船に乗る。部屋はどうなっていてメンバーはどこそこの奥様で、もう一人は未亡人で、かつてその主人はかくかくしかじかの名士であったこと。着ていた服、持って行った服の柄、夜はダンス、その相手は……と夜毎変わる相手の経歴が綴られる。日記風な、その女にとってはとても楽しい日々の果て、やっと目的地に着く。そこの風物はもとより土産品の説明、戻りの船のこれまたゲームの数々。
読み手は居ながらにして船旅をたのしめるわけだが、それはよほどこの女を愛している人か、よほどに暇をもてあましている人に限られるのではなかろうか。
この、かわいい女が病気になった。世の中は静かになった。ところが回復してからがたいへんだった。どういうツテでどういう病院に入ったか。そこの先生の経歴はしかじかで、廊下の部屋から部屋へ蝶のごとく歩いたあげくの一人一人の暮らしむきから姿形がコクメイに記されるのだ。
女の庭に花が咲く。すると花の原産地から、いつごろ苗を植えてどうやってと、忽ちに花のことで便箋十枚に及ぶ。
かわいい女にかわいい孫がつぎから次へと生まれた。こんなにかわいい素材はない。女は写真を撮りまくって、これは長女の孫、これが次女の孫、何年何月何日何時誕生、身長、体重いくらの赤ン坊だと知らせてくる。お宮詣り、七・五・三、女にとっては両方ともかわいいので、めくるめく忙しさだ。
「お礼に孫の写真を送ります」──には私もおどろいた。お礼は私の抽斗《ひきだし》の底にある。
自分の写真は自分が見るもの、子供の写真は親が見てたのしむもの、孫の写真は一族でよろこぶもの。何で他人がうれしがってくれるものか。そこのところがわからないから、かわいい女なのであるが。
この人のことを思うとき、私はルノアールの女がだぶる。けれどシシヅキゆたかな絵の女たちはいずれも聰明な眼を持っていた。
「わたし只今爽《ヽ》の状態≠ナす」。いや負けた負けたの春である。
長い塀だな長い女の一生だな
祝歌に縫われてしまう兎の唇
曼珠沙華おんな自身の罪ばかり
爪剪ってもらうルノアールの女
仕事場の朝
仕事部屋の夜が明ける。
梅雨の雲間から太陽がのぼってくる。
「おはようお日さま、どうぞよろしく」──電線では鳩の一群が朝餌を待っている。工場を結ぶ太い線を歩きまわっているのもあれば、尾で均衡をとりながらくっついて動かないのもいる。近ごろはカラスの勘九郎までが女房つれて含み声で愛をささやくので、電線の客はいよいよ賑やかになった。
私が階下へ下りるのをみんなに知らせるのは窓へ来てククククとさいそくをしていた鳩である。小ぶりでひときわ足が赤い二羽。
広場へ餌を持って出るとザーッという音と共に舞い下りてくるのは百羽近いだろう。ヒチコックの「鳥」という映画を思い出す。餌は忽ちに無くなって、おとなしいのや足の不自由なの鳩はありつけない。時間を少しおいて、別の場所へもう一度餌をまく。こんどは食べのこしの御飯やパン屑も入っている。雀の朝食である。そこへ足の不自由なの鳩も来るのだ。私が見ていてやらなければ、またしても大鳩やカラスの勘九郎に食べられてしまうので、しばらくは「われと来て遊べや」の一茶に化ける。
猫の家の鍵を開けて「お次の番だよ、さあさあさあ」──うれしい朝である。ごろんごろんと太陽に腹を干すのも居れば、私に甘えてどうしようもない猫もいる。私は猫のお母ちゃん、どの子もかわいい。まんべんなく撫でて遊んで姉の出勤を待つ。
姉と猫の話はいつか書きたいが、ともかくこの二十匹近い住み込み社員のために、姉は社長でありながら六時半の出勤である。山のような食事を持ってやって来る。人間様の車で駐車場が騒がしくなる前の猫タイム。この子はカツオが好き、この子は鰯《いわし》、あの子は牛乳とキャットフード、ハムが好きという青い眼の猫もいて、すんだ者から顔を洗ってお化粧だ。草むらへ猟に出かける者もいる。
王子動物園の亀井一成氏をインタビューしたとき、子供が学校で「糞掃除の子」といじめられたときから「よおし、日本一の飼育係になるぞ父さんは」と発奮された話をしておられたが、この糞の始末ができないではそれこそ猫かわいがりにとどまる。ソバ屋の店員さんよろしくハイヨッと糞桶をかついで捨てて洗い清めて、やっと姉と私は朝のコーヒーにありつくわけである。
この毎朝のノルマを私は姉に課せられたのではない。しかし、二階借りの身であれば動物たちも家族である。裏切ることを知らぬ彼らの目に救われているのはむしろ私である。
何を忘れんと顔ふく濡れタオル
一合の米を計ると減る袋
紐張って一人の肌着乾きゆく
少し笑って猫を抱いても生きられる
言葉をください
そう、それは困ったわね。ナルホド、ウンウン、全くあなたの言う通り。
私がともだちの悩みの屑籠《くずかご》にしかなれない話をすると、「それがお道の根本なのです」と老婦人は言うのである。何のお道か知らないけれど、屑籠になれる人はザラには居ないのよとおだてられると悪い気はしない。しかし、少しぐらいアドバイスできないものか、とは思う。そして再び、こざかしいアドバイスが如何に人を傷つけてしまうかに思い当たっては屑籠の役目に戻るのである。
日本の男性は揃いも揃ってなぜ言葉を惜しむのであろうか。
女たちは(私の知る限りにおいて)過分な物や事を要求してはいないのである。
フランスの男のようにおいしい言葉を毎日投げてくださいと言っているわけではない。ただ、真心がほしい。「真心ならちゃんとあるさ。いちいち口にしなくても感じ取るのが愛というものではないのか」という理屈は通っている。けれどもそれを「言葉」にして与えてほしい。一度でいいのである。
トツトツであろうと、粗野であろうといいのだから、女がその愛する男にとってどんなに大切な存在であるかを言葉で表現してほしい。
女という生きものは、その言葉を支えに生涯を生き通す性を持っているのである。
それを出し惜しむ日本男子を愛して、もんもんたる日々を送る女性を思いやってほしい。私の屑籠の多くはそれで解決するように思われる。
男と女のあいだには暗くて深い河がある。逢っているとき男と女が最高にしあわせだとは私には思えない。別れているあいだにこそ愛は鮮明に存在するのだと思う。
それなのに女は愛をいじりまわして変型させてしまう。妄想、嫉妬、孤独、そういうときの支えに言葉が必要なのである。
真心のひとこと。それがほしい。それさえあれば私の知る女たちはもっと明るくしあわせであることができる。
見ざる言わざる聞かざる──が、今や、見る、言う、聞くになった女たちの現代。それですら「ひとこと」には叶わない例を私は多く見てきた。そして私もそれを欲する一人である。
輪廻転生《りんねてんしよう》、天国に結ぶ恋を笑いとばしながら、やはり女たちは信じて疑わないのだ。男性よ、言葉を与え給え。
船の上みじかき熱き文読まむ
薄情な窓から昏れて満月よ
嫉妬から四百里羊歩かせる
抜け穴を抜けて男もたよりなや
今日は音楽で髪を洗って下さるか
肺腑をえぐる言葉戴き新年へ
瓜生の亀石
兵庫県の西のはずれを少し北へあがったところに瓜生《うりう》羅漢の谷はある。
車を下りて落葉の石ころ道を瀬に沿って登り、急な石段をいくつか登ると洞窟があって、苔むした十九体の羅漢さんが坐っておられた。
うぐいすが啼き、瀬音がひびく中に、おそろしいまでの静寂がある。うっそうたる緑、一日に二時間しか陽が当たらないというこの谷に、羅漢さんはどこからどうやって来られたのか。洞窟の中は更に暗い。
あごに手を当てている人、耳に当てている人、肩をもちあげ組んだ両手を膝でつっ張った人のおどけ顔、本を持っている人、琵琶を弾いている人、パーマネント、坊主頭、おかっぱ頭、中央のお方は仏の手の組み方だ。その両脇のお方も後光を負うておられる。
いずれにしてもみんな私を待っていてくださって「さあ聴こうじゃないか、何でも話してごらん」のお姿なのであった。
大正三年に作られた柵には大きな南京錠が掛けてあって、お側近くで泣き伏すわけにはいかないが、だからこそああやって耳に手を当てておられるのであろう。
それにしてもどこから来られたか。
西洋人、中国の人、南方の人、見れば見るほど雑多なお顔である。
なぜにここを終《つい》の棲家とされたのか。
羅漢は答えず「聴こう聴こう」の声ばかり。なぐさめ役には笛もつ人も居て、琵琶のうしろにひかえて居られる。ここに猿《ましら》と住むなれば、やがての日私も妙なる楽《がく》を聴けるようになるかもしれない。
それにしても静かな。
ふと横に目をやると、瀬に架かる小橋のほとり、何やら大きな石がある。近づいてみると下敷の石は大亀で、乗るは人の形の石である。亀は首をもたげて瀬音の方を向いている。
「浦島太郎」。私は声に出して、はるか南の、目には見えぬ海を見た。
亀は竜宮城から浦島太郎を乗せて陸へ送って来たのだ。客人を無事送り届けるように乙姫に言いつけられている亀は、太郎の求めるままに川を遡ってこの谷までやって来た。浦島が玉手箱をあけたのはここにちがいない。絶望した彼は再び大亀の背中に乗って、もう一度竜宮城へ連れて行ってくれと言う。
亀は困った。この狭い岩だらけの瀬を、やっとの思いで遡って来たのだ。自分だけなら手足も首も引っこめてゴロゴロと海辺まで転がっても行けよう。しかし、ぐったりと老いた浦島を乗せては無理だ。考えているうちに亀も浦島太郎も石になってしまったのだ。
浦島は自業自得。けれども亀は気の毒だ。首を伸ばし切った亀石の望郷に私は涙した。人の心の願望もまたこの石の如しと。
まぼろしを掴む短い手足かな
ユスラウメの種
二人が塀へとびついた。枝もたわわなユスラウメを廃屋の庭にみつけたのである。車から降りてユスラの枝にとびついているのはミセスK子とH嬢。しかし残念ながら手の届く限りの枝に実はなくて、如何にこの木が通りすがりの人々に愛されているかが知れた。
H嬢が朽木の門扉を開けて「開いたわよう」とのんびりした声を出す。三人が人目も忘れてなだれ込んだのは申すまでもない。私は自分の齢さえ忘れてしまっていたのである。
それほどにユスラウメは美しかった。ルビーの実がたわたわと風に撓《しな》った。空はあくまでも青かった。
たとえ廃屋であっても住宅街のどまんなか。誰に咎《とが》められても仕方がない立場に三人の女は立っていたのである。けれども枝を折るという行為には何のためらいもなかった。
「だってこんなに美しくておいしそうなのですもの」
「いただきまーす、ありがとう」
「たくさん残してあるから近所の人も召しあがってね」
「枝|剪《き》りしたほうが来年もたくさん実をつけるのよね」
自分たちが盗んでいるという自覚はあっても、女の倫理はこのように働いてしまう。おそらく男性には信じがたい行為であり考え方であろうと思う。
ユスラウメはほんとにおいしかった。女たちは数粒を口へ放り込んではてのひらの凹みへ器用に種を吐き出した。
十人の男を呑んで九人吐く
私は自分の句を思い出して、その比較の突飛さに苦笑しながら種の一つを呑み込んだ。
「ああ、いい日だった」
ユスラウメはくったくなく車の後部座席で揺れている。
ミセスK子は麦わらで編んだユスラ籠の話に目を輝かせた。私の思い出の籠は竹製で、赤や緑の色づけがしてあった。いっぱいになるまで取って、こぼさないように遊びの輪の中へ持っていったものだ。みんな無言で食べた食べた。籠がからっぽになってはじめて、顔のクモの巣を笑われたりした幼い日。
ユスラウメは梅桃と書く。たしかに梅と桃のあいのこの味である。さくらんぼ(桜桃)のように長柄の優雅な姿と味には少し劣るが、ぎっしりとしがみついた枝の実は郷愁の味である。
H嬢は枝をかかえてピアノを教えに車を降りた。その頬が梅桃にまけぬくらい美しい。彼女の生徒はユスラウメを喜んでくれるだろうか。「ダメよ、洗ってからね」という若いママの声がきこえる。実は洗われてガラス器に盛られるのではなかろうか。ユスラウメは枝から食べてほしいのだけれど。
考えてみるけれど
テレビジョンがクレタ島の野生の山羊を映している。雌の角三十センチに対して雄山羊は百五十センチ、ほれぼれとする雄姿ながら警戒心の強さは、かつて純粋種は絶滅にまで追い込まれた苦い歴史のせいであろう、などと解説がつづく。
私がいちばん興味深かったのは、春に二、三頭の出産率が草の多少に比例しているふしぎさであった。秋に交尾して春に産まれる、その春の草のぐあいがどうして彼らにわかるのであろう。彼らは秋に雨が多いと盛んに交尾し、雨が少ないと交尾の回数を自ら制限するのだという。つまり雨がよく降れば春の草萌えも多くて仔山羊の食糧に困らないから「それ産め」ということらしい。
本能とはいえ何という英知。地球という全体が見えないで、食糧と人口の関係なども考えず、専ら自分勝手に生きている人間は大いに山羊に恥じるべきであろう。人間が殖えすぎると食糧を奪い合わねばならぬ。そこにも戦争の因はありそうだ。
日本のどこの都市でもちょっと郊外へ出ると、ヨーロッパ、スイスあたりに来たのかと思わせる家が彩とりどりに展開する。ハイカラな珈琲《コーヒー》ハウス、レストランも妍《けん》を競う。そこへ次々とカーを乗りつける人々。日本人の中流意識も板についてきたものだと思いながら、ふと見る眼下の休耕田。
よく知らないが田を休ませると、それを元へ戻すのに十年はかかると聞いた。だから宅地造成し、だからだからと言っているうちにどッと食糧危機が襲うのではないかしら。
私だってそんなことを思う日もあるのである。
せいぜい八十年生きて、活動期は五十年としよう。それをどう生ききるか。何が生産的で何が非生産的であるのか。考えるまでもなく愚かな自分につき当たる。けれども合理不合理の両立なくしては人は人でなくなるのではあるまいか。けれどもけれどもと、一本の考える葦は生理的にねむくなってしまう。
機械と人間をテーマとした絵を見た。そのとたんに人間はすばらしいと思ってしまった私は、すべてに非がつく生きざまをしていることに気がついた。
かといってどうする。どうしようもないのは「心」というものの存在である。
ここに至ってやっと私はらくになる。人生の無駄こそが生きる証しであるぞよと、いつも自分を騙してきた言葉に頷いてまた一層らくになっていく。あまり考えすぎていると健康によくない。だから「ハーイ」と二つ返事で助手席に乗る。車は緑の風を切り、行先はともだちまかせのランラランである。ちょいとあなた、私はどこへ行くのです?
束の間の倖せなれば啼き交す
意志で消す虹
電車に乗ると進行方向窓側というのが私の好きな席である。その日も電車はよく空いていてどこへでも腰掛けられた筈であった。それなのに私は何気なく進行の反対側へ坐ったのである。偶然とは思えないその偶然が私に素晴らしい贈り物をしてくれた。
「あッ、虹、虹。お姉さん虹ほらほら!」
姉はゆっくりと首をまわして、「ホント。あんた、みっともないから坐りなさい」と言ったきり、二度とふり向こうとしなかった。虹は街のビルにかくれたり又あらわれたりしながらその七彩をくっきりと見せてくれた。
「お姉さん、虹は紫色からはじまるのやね」
「そうよ、それがどうしたの」
「電車の中から虹を見られるなんて、幸運もいいとこね、ね」
「こんな日和にはよく出るものよ」
姉は目をつむっている。手形のことでも考えているのだろうか。私は仕方なく虹をじっと見ていた。虹は夢、虹は憧れ。そういえば秋のある日、私は日本海から誕《う》まれた雄大な虹を見た。遠くの人が見ればノロノロと走っている特急白鳥から虹が立っているように見えたかもしれない。それほどに近い海から私を汽車ぐるみ呑み込んでの大虹だった。その時は一人旅なので存分に感動の涙を流したが、今、買物帰りに見るこの虹に泣いては姉に叱られよう。
そのうちに虹は私の心に入って来た。私は心の中に人を住まわせていた。
「いいとしをしたおばさん」というのは世間の眼であって、八十歳で虹に感動する人も居ると思う。その人やこの人と私は握手をしたい。さて、電車も下車駅に近づき、私は虹を、いや私の夢を早く消さねばならなかった。改札口を出るときにやっと一句が叶った。
わが意志で消す虹なれば長く見る
虹は天然現象なのだから出るも消えるもあちらさま次第である。けれどもいったん私の心に入ってきた虹は私の手で消さねばならない。
だからこそ、私は長いあいだその虹を見て見納めるのだ。
人と人との別れにしても歯切れのよい別れはみごとだ。しかし、未練に苦しむことはそれ以上に深く美しいのだと私は思う。それも自分から去って行く過程の中での惑いと未練ほど人間らしい苦しみはないのではあるまいか。それが人を美しく見せる。「恋やつれ」という言葉と「恋わずらい」はちがう。わずらいは求める姿、やつれは放つ姿。
メカの現代に浮世絵でもあるまいと笑う人は笑うがいい。その根において人間は太古から不動である。手段や姿は変わっても人恋いの美は、そして苦は、不動である。
未練地獄にワンと啼けとやワンと啼く
あれは卯の花
「ねえ雨の季に咲いてる花ってあの世から来たような感じがしない?」
誰もあきれて答えてくれない。中にやっと「どうして?」とたずねてくれる人があるが、こんどは私が言葉に詰まってしまう。
母が毎年のように雨期に病むからだろうか。うすくらがりの部屋に「死にたい死にたい」という母を抱えて、その目に捉える花々である。ぽたぽた落ちたり散り敷いたりの春の花にくらべるとき、雨期の花は何としぶといことか。グラジオラスにしても菖蒲《しようぶ》にしてもあじさいにしても花ごと葉ごと茎ごとしおれて、もうダメと思うころに次なる花をまたひらいてみせる。
そのくせ色もしおらしく花弁もやわらかく触れなば落ちん風情。雨の中で咲く花は雨に強い。母もまた生への執着の反語として口走っている「死にたい」である。しぶとく生きる母の血が私にもあることを、私は雨の花に会うたびに思う。
雨は私につきまとう。プラットホームで裾を濡らし、強風をともなって連絡船を止めたりもする。いつも雨、そうなると妙な愛着も出てきて、私は雨を遠い親戚か何かのように思うようになった。
出てみれば雨 手に受けて春の雨
雨に咲く花はあの世へ行きたがる
雨蛍浮いて流れて点すかな
梅雨長し指しゃぶりから骨しゃぶり
かの子には一平がいた長い雨
雨の守宮《やもり》も男恨みの赤目かよ
崇高な忍耐がある雨合羽
私は六月の闇の匂いが好きである。今はその匂いの中から麦秋の煙が消えた。それでも六月は匂う。蛍か水か土の匂いか。そしてやっと最近になってそれが雨の匂いであることに気づいた。
梅雨が上がる。天然自然も人の身も心もあらゆる汚物を吐き出す季節。そんなとき、ふと見つける白い花の生垣。私は卯の花というのを知らない。木釘を作るに適した木、落葉低木で幹の中はがらんどう、だから空木《うつぎ》と呼ぶのだと人から聞いた。
ではあの生垣こそは卯の花であったのだと「雨の日」に思い定めた。雨は人の傘や髪に降るだけではない。屋根を通して人の心に降りそそぐ。降りこめられた屋根の下で、心も雨のその中で、私はたいていのことを決めてきた。雨は静謐《せいひつ》にして、その縞模様のわずかなすきまに人の判断を裁いてくれるような気がするのである。
あれは卯の花と定めぬ雨の日に
まちがっていてもいい、私がそう思い定めたのだから──というわがままを、笑ってうなずいてくれるのも雨。そしてこの句の卯の花は人が人の心を問う鍵でもある。
おやすみ新子
深夜の二時が近かった。
「もしもし、ああ起きていてくださいましたか」
「ハイ」
「だまって聞いてください。あなたはきれいです。すべてがきれいな人だ」
「いいえ、とんでもない、私は」
「だまって聞いてください。あなたはきれいな人なんです」
それから三十分、電話はつながっているのだが声は無い。誰だろう? あの人、この人、ちがうちがう。じゃあイタズラ電話? でもどこかで聞いた声、思い出せない。
そのうちに泣いている気配が伝わって来た。
「お墓を作っていいですか」
「ハイ」
「あなたの名前も一緒に刻ませてください」
「ハイ」
「あまり暗い場所はやめましょう」
「ハイ」
「ありがとう。どうぞ休んでください。長い時間ほんとうにありがとう。眠ってください」
「あの……」
「雨だからあったかくして。おやすみ新子」
電話が切れた。
どこかで水が洩れている。規則正しいその音が「この世」であることを証す唯一のものであった。
私はいつだったか「言葉をください」と祈ったことがある。女はそのひと言を支えに生きていけるのだから「言葉をください」。
今、私の信ずる巨《おお》きな力がそれをくれたのだ。誰も知らない深夜の二時、外は雨。力は言葉をくれたのだ。
みひらいていた両の目から滝のように涙があふれた。どんどんあふれた。
声の詮索はしないでおこう。しないでおけばいつかまた「声」は私を訪ねてくれるであろう。「おやすみ新子」──この言葉だけでいい。私は他の何も要らない。
ベッドにもぐって天井へ句を書いた。雨の音は一段と激しくなっていた。
川は流れる横の男は誰だろう
ころしてよ頸に冷たい手を巻いてよ
抱かれけり一升瓶を抱くごとく
こんないのちでよろしいならば風呂敷に
あの人も眠ったであろうか。
巨きな力によって私は「あの人」とめぐり逢うのかもしれない。そのときは、ためらわず死のうと思う。さいわい墓は刻まれつつあるそうだから何も案ずることはない。
「私も衰えました」
「そんなことどうだっていい。あなたは美しい人だ。さあ、おやすみ新子」
ここまで読み通して下さった男性に感謝する。
四 十 分 病
考えてみれば私など坦々たる半生であったとしみじみと思う。
特に、肉体を病むということについては恵まれて今日に至っている。
そういう私にも持病はあって、時と所かまわずやってくるそれを、私は「四十分病」と呼んでいる。それは疲れているからとか、興奮したからとか、睡眠不足などに一切関係なく襲ってくるのである。
順序も決まっていて、まず物が見えなくなる。格子柄やら縞模様がチラチラして目が開けておられない。目を閉じればどうということはないので、電話などの応答はできる。しかし、気分がよい筈はないので家に居れば横になる。四十分だ、四十分だと自分に言いきかせる。無念無想の四十分。そろりと目を開ける。片目ずつ開けてみる。すべての物がふつうに見え、チラチラは消えている。ああよかった。深呼吸して静かにからだを起こす。軽い頭痛が残っているが無性におなかが空いて何か食べずにおられない。立つ、坐す、頭のどこかがビンビンするのが約半日。これでAコースの完了というわけである。
外出時は少し困るけれど、とにかく目を閉じて四十分待てばよいので、電車の中などは平気である。講演中にこれに襲われたが気づかぬふりで通り抜けた。
人に話すと、それはただごとではないと言われるので話さない。もう二十年もこの一病を持って息災なのだから、血管が切れるときは切れてサラバだとひらき直っている。
でもまあ私にも命が惜しい時期はあるので、一カ月一度の眼底検査や血圧測定は怠っていないのである。
そもそもこの「四十分病」の原因は二十年前に物干しからまっさかさまに墜落したことにあると思っている。当時「ベン・ケーシー」というテレビドラマがあって、やたらと脳を割っていたので私もすぐに脳外科へ行ったのである。「ちょっと脳を割ってみてください」──あれほどあきれた医者の顔を見たことがない。
以来私は頭がおかしくなったと信じているわけで、ねずみと話したりタンポポに一時間もしゃがんでその歌を聞いたり、人に恋せず水に恋してみたりするのもすべて、あの外科医のせいにしている。
厄介な「四十分病」も久しく訪れないとさみしくて、横になって待ってみるのだが、来ないときは来ないもので、仕方なく私はどこででも眠ってしまう。
どんなにおん身大切にしている人でも死ぬるときは死ぬ。生まれたときに定められたそれを知らない倖せに生きておれば必ずその刻に会えるのである。
うららかな死よその節はありがとう
異《い》 形《ぎよう》 の 妻
私がふり向いたとき、ちょうど男は妻を抱きあげているところだった。軽々とヒョイと越えさせた白い柵。柵よりも白い女の足袋《たび》が光り、雨上がりの水たまりが強く私の眼を射抜いた。
その、ほほえましかった筈の光景がほほえましくなくなったのは半年後ぐらいだったであろうか。私の胸の中で眼の中で、白足袋は何べんも弧を描いて光った。時には夫婦の短い対話が聞こえたりもした。
着物では跳べそうもない水たまりの前で、女の足袋が指先に力をかけて、ぶざまな指の形をあらわにする。「あなた」──男に言葉は要らなかったであろう。いつものように男は妻を抱きあげればよかったのだから。
女の顔は羞じらいよりも得意に満ちた。それは私という第三者がふり向くことを計算されたものであった。
「ね、わたしの幸福が見えたでしょ」
「あなたの入り込むスキなどないのよ」
「あなた一ペんでもこうやって夫に甘えたことがあって?」
馬鹿々々しいと思うことで、私は水たまり劇≠忘れ去ろうとした。そしてそれができなかったのだ。
半年後に男から求愛されて私ははじめて、なぜあの寸劇が私の胸を刺しつづけていたのかに気づいた。あのころから私もあなたを愛していたのだ、と素直に言おう。
トゲを刺したままで私たちは愛し合った。愛は奪って食うものだと安吾は言った。愛とは何という傲慢を人に強いるものであるか。錯覚の結末がどんなにみじめであるかなどは一顧だにしない。誰が何と言おうと世界は二人のために存在した。その中で憎しみの対象はいつの日も彼の妻であり私の夫であった。肉体をタブーとする心と心の愛であればなおさらのことである。
妄想の中で私は髪が逆立った。妻にやさしい人の動作の一つ一つが私には手に取るように見えた。子供のない夫婦とはああいうものだと納得しながらも、許せなかった。
こわいもの見たさに私は男の家を訪《おとな》う。
「何しろ仕事しかない人なものですから」
彼の妻はいつ見ても美しく身づくろいして穏やかであった。爪を剪《き》ってもらう彼、夫婦ひたいをくっつけて修理する扉のノブ。まぶしいほどの洗濯物の白。等身大の鏡が映し出す夫婦の館は磨かれて一点のシミもなかった。
しんとした静けさ、の中である日私は狂って外へ走り出した。なぜこの男は私の心をかき乱すのか。手をくださない殺人行為。
面罵してしのつく雨の停留所
雷鳴や異形の妻を抱く男
韋駄天《いだてん》や男ごときを振りきるに
妻をころしてゆらりゆらりと訪ね来よ
風の細みち
A青年が設計してくれた家はラセン階段がついていて明り窓があって、どこからも光と風が入ってくる仕組みになっていた。狭い町中の店舗につながる住居としてはこれ以上の空間利用は考えられないという真心の設計。
私は喜び勇んで大工さんを呼んだ。そして、二十分も経たないうちに私の白亜の家は雲散霧消してしまったのである。私はこのときほど「お金が欲しい」と思ったことはない。わずか五十万円のプラスができないためにラセン階段は空の彼方へとび去ってしまった。予算百五十万円、十五年前の増築の話なのだからケタまちがいではないのである。A青年の設計では二百万円が必要だった。
二月という大工さんの暇な季節にトンカンは始まった。雪の多い年で、屋根も柱も取りこわされた裸の水道は毎朝凍りついた。店があり裏に両親の住む離れ屋がある、その中間に二階家を建てようというのだから。しかも両隣りはこぶし一つ入らぬ壁に接していた。
四苦八苦の家が建った。古い二階とつなぎ合わせて六畳四間、階下はキッチンと三畳とバス・トイレ。家具を置くとまっすぐは歩けない蟹歩きの家になったが、とにかく建った。
家というものは住んでみないとわからないものだ。二階をかぶせたばっかりに、今まで見えていた空が見えない。朝から朝まで電灯をつけっぱなしで、私は三畳の穴のもぐらになってしまったのである。夜やら昼やらわからない。その上に「風が通る道」もふさがれたことに気がついた。
三年経ち五年経ち、十年経ったころ、私は身にも心にも酸欠が限度に来たことを思い知った。光が欲しかった。わずかでも風の通る道が欲しい。巌窟王はキッチンの窓の金網をむしり取り、離れ屋にかけ渡してある波板プラスチックをめりめりと剥ぎ取った。
サーッと風が入って来て方尺ながら青空が見えた、そのうれしさ。風呂場の窓も全開にした。私は蘇生した思いだった。
ところが三日程家を留守にして戻ってみると、窓という窓は元通りふさがれて新しい金網が張ってあった。波板もしかり。私が剥ぐ、家人がふさぐ、この無言の戦さは何度くり返されたのだろう。私は、外から戻っての家の匂いまでがイヤになった。
「二階は明るいのだからそこで書け」
そうはいかない身のつらさ。もぐらの穴の三畳は家の要である。店へもキッチンへも離れ屋へもアンテナを張りめぐらせての「私の仕事」であってみれば──。
私はできるだけ光を外に求めるしかない。風とも外で逢うことにした。余談ながらA青年は縁あって私の娘と結婚したが、穴ぐらへは年に一度も足を向けたがらない。
外は晴だろうと思い死んでゆく
猫の家≠ェある会社も珍しいだろう。そこの社長も一風変わった人、と思うであろう。そんなことから動物愛護協会を通して週刊誌が取材を申し込んで来たとき、姉はきっぱりと断わった。面白半分に扱われては傷つくだけだし、公開するようなことではないというのが社長である姉の一貫した姿勢である。
二十六匹から少しは減ったとはいえ、その苦労は物心共に大変なことである。一匹の猫を救ったその日から猫と姉はおなじ道を歩くことになる。世の中には安易に猫を拾い、病気したり尻クセが悪いとすぐに捨てて平気な人が多い。
姉の会社もその害をこうむって久しい。夜は無人となる敷地内は猫捨てにちょうどよい場所である。春夏秋冬切れ目なく憐れな声が姉の出勤を待っているのだ。「またよ……」。姉は抱きあげ湯で洗い獣医を呼んで栄養注射を打つ。スポイトやガーゼでミルクをのませ、根気よく便の仕方を教える。
姉は時折り声を放って泣くことがある。生きとし生ける者への愛の深さ、憐れを見過ごしにできない自分の性格を泣くのである。仔猫を拾わねばよいのだ。一瞬目をつむることで長い苦労を背負いこまなくて済むのだ。
姉は猫好きなのではない。どちらかといえば動物に遠いところで優雅なムードを愉しみたい人種である。あんなに黒が好きだった姉が濃い色の洋服を着なくなったのも猫と暮らしはじめてからである。「いつになったら毛まみれの生活から脱出できるのかねえ……」。
二、三カ月経ったころに避妊手術が行なわれる。獣医が出張して一日に三、四匹ずつ。この手術には私が立ち合う。姉は正視できないのと、手術台の猫が少しでももがくと「先生麻酔をふやしてやってくださいッ」と叫ぶので獣医も閉口するのである。私は姉よりも猫との距離があるので獣医助手がつとまるわけだ。
「ハイ、これ雌です」「次は男の子よ先生」てな調子で、網をかぶせての麻酔から摘出手術、縫合、名前を書いた箱へ入れて積みあげるところまで先生の指示に従ってやってのける。これまで何匹の猫ちゃんを手がけたか、もう忘れてしまった。この手術を怠るとそれこそ野良猫天国になってしまうだろう。
四十日も患って死んでいった猫、国道へとび出して轢死《れきし》したもの数知れず。この、猫の死に対して泣くのは私であって姉ではない。姉には充分に世話をした人だけに与えられる諦観があるのであろう。そして、寿命という言葉に縋《すが》って一つ一つ肩の荷を脱いでゆくのが私には見える。しんとした姉の横顔に。
ここの猫は霊園へ運ばれて戒名を貰い永代供養を受ける。「猫になりたいよ」と言った牛乳屋さんがあった。
春はおぼろ重ね返事の猫叩く
化 粧 哲 学
四十七歳で素顔になった女性がいる。十八歳ではない四十七という年拾いは、なみなみならぬ苦労を彼女の顔に刻んだ筈だ。
それでもなお彼女は脱いだ。四十七歳の女が素顔で美しくあるためには、どれほどの心の張りと研磨を必要とするか。
はじめ私は彼女を病気かしらと思った。次回は宣言をしたあとだったので「うん、まあね」と感じた。三回四回、会うごとに彼女の頬に天然の赤味がさして来た。「やるわね」。私は彼女の意志に対して拍手した。
けれどもやっぱり、彼女の素顔にいちばんよく似合うのはパジャマであろうと思う。次は浴衣《ゆかた》の素足。ドレスアップに素顔は何としても駄目である。素顔は愛する人のためにのみ、大切にしたい。
女は化粧をしてはじめてくつろぐ。素顔がくつろぐという人もあろうが、私はそうは思わない。家に居ても仕事部屋に居ても化粧をさぼった日は一日中警戒心でいっぱいなのである。不意の客があって向かい合っても何かしら落ちつかない。考えても冴えない。
私など化粧というほどの化粧はしないのだけれど、手順をふんで身じまいをすることで「自信」がつくような気がする。だから「くつろぐ」のだと思う。くつろぎの精神からは大きなものが生み出せそうな気がするのだがどうだろう。
私は常々喪服の人の厚化粧をふしぎに思ってきた。悲嘆のどん底でよくまあ髪をセットしたり「おしろいつけて紅つけて」ができるものだと思ってきた。
でも、それはまちがっていたのだと思うようになった。自分のことを考えてみればよくわかる。顔を洗う、化粧水をパタパタ、クリーム、ファンデーションと馴れた動作を進めていくうちに、鏡の中で心がシャンとなってくるのがわかる。口紅を引いて、さあ!
これは武士が出陣の用意をするのとおなじ心理ではないかと思う。悲しみの中で女が粧《よそお》うのは誰のためでもない、自分のためであったのだ。粧いの手順の中で、自分が果たさねばならない役目、そのためにとり戻さねばならぬ理性を女は持とうとするのである。
そういえば昔、喪主をつとめねばならない妻たる人の素顔を見たことがあった。目はうつろ、髪はざんばら、人々はいたく同情した。もうおわかりだろうと思う。その未亡人のその後の無軌道な暮しぶり。
女は化粧の下にこそ真実を秘めて生きるものだと私は思う。
嫌い抜くために隙なく粧いぬ
洗い髪鬼を迎える雪明り
生きたしと妻は柩に従えり
鏡拭うて何を見ようとする女
編集室の客
編集室にはときどき熊が坐っていてドギモを抜かれることがある。
Rの嗅覚はものすごいもので、初めて現われたときも彼は匂いをたよりに歩いてきたと言った。いつも主が居るとは限らぬ編集室なのに私はかならず彼につかまってしまう。
冬など黒っぽい毛皮のコートを脱がないで向こう向きに坐っているのだから、朝早く熊が出たとドキンとするわけだ。
「しんコさん(このアクセントを文字で表現できないのがくやしい)、おはようございます。お邪魔いたします」
「いらっしゃい、ようこそ。でもこんなに早くどうやって?」
「ハイ、夜行に乗って西へくだる途中ですたい。ちょっと顔をば見とうなりましてハイ」
私は大急ぎでごはんを炊き、特大のにぎりめしを作る。彼は梅干しを入れたのが大好きなのだ。七ツも握ると熱くて熱くててのひらがまっ赤になる。Rは神妙に待っている。
番茶をすすっておにぎりを食べて「そんじゃまた」とたちあがるときもあれば、夕方まで話し込んで編集室に泊まって帰ることもある。
ある朝、編集室へ行くと布団はもぬけのからでRはもう出発したあとだった。机上に手紙が置いてある。五十男の手紙である。
「──私がこの様に母を慕うのはおかしいでしょうか。私は母親を知らんのであります。若いときは左程でもなかったことが年をとるにつれて気になってなりません。自分を生んでくれた人はどんな人なのか、生きているのか死んでいるのか、それだけでも知りたいのであります。
母を憎いと思うときもあります。小さい時から働きづめで、今も私はがたがたのからだで工場の部品のように働いている。このことで母親を恨みはしませんが、私を捨てたことは許せなくなるときがあります。それでも母を慕うのであります。
酒もそうでありました。やけになって飲んで酒乱になり誰からも相手にされなくなって、だからよけいに酒を飲みました。アルコール中毒はこわいです。私はよい友達にめぐまれて酒から脱出しましたが、正月や盆や祭りがつらく思えます。みんながお酒を飲むとき動揺するのは弱虫ですからもっと強くなります。こんど飲んだら一巻のおわり。川柳ができなくなるから頑張ります。新子様もどうかからだだけは大事にして下さい。さようなら」
追伸の「おにぎりのあまった分もらって帰ります」に笑いながら私は夜具を干すのであった。
母のない子に柔かきフランネル
手拍子がどこかに聞こえ鴉《からす》はあるく
真心の真上を貨車は通過せり
起きて寝よう
私は酔っぱらいでもないのに車掌さんに起こされたことが二、三度ある。電車や列車の中でねむるなんて、レディとしては最も恥ずべき行為である。
言訳はしたくないのだけれど、これは目を病んで本が読めなくなった二年ほど前からの現象である。光に向くと涙がいくらでも出てくるので目をつむる。電車の中は適温でリズミカルで、私はそのままねむってしまう。
首を窓枠にもたせかけてねむるのだけは悔い改めた。あれは口がひらくのでみっともない。うつむいてまっすぐな姿勢でねむっているつもりである。
でも車中の人を見ているとたいていは左右どちらかへ倒れかかる。四十五度ぐらいで元へ戻る、また倒れかかる、のくり返しである。車内が空いてくると若い人、中でも高校生の女の子やお嬢さんは席を替わって、ねむりおじさんやおばさんを敬遠する。あわれなのはねむり人形である。支柱を失ったやじろべえのようにゆらゆらとぶざまな恰好である。
私もああなのだな、恥ずかしいと思う。思いながらついうとうと。うとうとから深いねむりに落ちていく。
一度、ずっとその肩に私をねむらせてくれた青年があった。終点ですよとやさしく起こされて私は赤面した。
「ごめんなさい、どうしましょうわたし」
「いいですよ、おつかれなんですね」
青年は足早にプラットホームを去っていった。その日から私はねむる人に肩でも何でも貸してあげるようになった。
私はバスでもねむってしまう。目をつむったらもうダメなのだ。停留所を幾つも過ぎて車庫へ入る寸前にまだ一人残っているのをみつけて運転手さんがおどろいたこともある。
ペンがぽろりと手から落ちる。ちょっとと思って横になる。枕は広辞苑。さすがに首が痛くて寝返りばかり打っているのが自分でもわかっているのだ。
起きよう、起きてベッドで寝ようと思う。そして夢の中で私はちゃんとパジャマに着替える。足を伸ばす。いい気持ちだ。やっぱりベッドの中はいいなあと思っている。
電話のベルではね起きる。朝やら夜やらわからない。服を着ているのだから多分昼なのだろう。「ハイ、川柳展望社です」──「何が展望社なのよ。夜中の一時よ、あなたまたうたた寝してたんでしょう。風邪引くよ」
ともだちなりゃこそなけりゃこそ。叱られてやっと、私はここが机の前で、パジャマどころか三時間も広辞苑を枕にしていたことに気付く。私は首をコキコキ鳴らして、しゃんと起きてちゃんと寝ようと思うのである。
今の期待は津波がくるというそれだけ
愛のコリーダ
昭和五十七年六月八日、ロッキード裁判の一部の判決と『愛のコリーダ』という本の判決が同時に出た。
『愛のコリーダ』の同名の映画の写真とシナリオを大島渚が本にしたものである。このほうは一審判決通り「特に猥褻《わいせつ》を強要したものとは思えない」という理由で無罪となった。
事柄はちがうけれど、どちらも人間の欲望を追求し探求した果ての判決であることに私は興味を持った。片や金、片や性。
政治の中へ入りこんだ私利私欲の汚なさに較べるとき、『愛のコリーダ』における性の極致はむしろ清々しささえ感じさせた。あの映画を観た多くの人は、人間の愛のすさまじさと哀れさに共鳴したであろうと思う。私は阿部定に材を取ったストーリーの底知れぬさびしさに胸を打たれた。「吉つあん」と呼ぶ女の声が今も耳にある。それしかない世界での一人対一人の孤独。決して二人が一体とはなり得ない真理を大島渚は追いつめていったのだと思う。
それがどうして猥褻なのであろう。判決は白であったが「猥褻を是とするところまで掘り下げられなかった不満が残る」といった意味の大島発言は、人間の悠久の性に対する(それはまた生でもある)ねがいとして、頷けるものであった。
つきつめてゆくと愛かなてんと虫
鴨と石|一体《ひとつ》なりしを鴨動く
大いなる許し真昼の百合ひらく
死ぬ話汗の背中を合わせては
微熱夕凪交わらんとす億の蟇《がま》
ひとつ跨ぐと月の菩薩がほほえまれ
私の川柳はエロスを求めての彷徨である。エロスは愛。プラトンは、最高の純粋な愛はイデア(永遠不変の実在)の世界に対するあこがれだと言った。
私は、川柳という表現形式の中で、透明になりたいなりたいと希《ねが》いつづけてきた。プラトン哲学を知るよしもないが、その透明がもしアガペー(神の愛)であるとするなら、どこかに一致点を見出すことは出来る。
けれども私の川柳はおそらく終生透明を許さないだろう。『愛のコリーダ』の字幕の向こうで陽炎《かげろう》の如く燃えつづけていたあのルツボへ墜ちていく私が見える。
その美しさ。
ロッキード裁判におそれおののき、あるいはふてぶてしく歩く灰色人間を見たおなじ目に、ルツボは何と美しく在ったことか。今日は五十七年六月八日である。
どっと汗神を怖れぬ鍵が合う
一杯の珈琲から
買物にも出ず、みみずのように穴の中で物を書いているような女は「不在」なのだと思い知る今日このごろである。
あれよあれよと主婦権を失ってしまった私は、月のうちわずかな大阪ぐらしを誇大宣伝されているらしい。
主婦不在の家へは朝毎に隣家からコーヒーやジュースが届く。ガラスコップ一杯の隣人愛。おいしそうに飲んでいる夫という名の人を見ながら、この人はこの人なりに倖せなのだなと思う。その倖せを眺めている私の遠い距離を改めて思う。
それでもいくら何でもたまには返礼をと、コップと一緒に到来物の菓子などを包んで持たせるのだが、ついぞ一度も隣りの奥さんから声をかけられたことがない。留守のあいだの闇取引をどう言っていいのか相手様も困られるのであろう。私も、コーヒーの礼を言うべきか否かに迷って、お天気のことなどでごまかしてしまう。
留守のあいだ、ではないのだからいっそうややこしい。「毎朝コーヒーをすみません」と礼を言えば「おや、いらしたのですか。それならよけいなお節介でしたねえ」となるであろうし、折角のコーヒーを貰えなくなっては夫という名の人も気の毒である。
居て不在なる女は黙っているのがいちばんよいようだ。なまじっか顔を出しては近所の方たちのリズムも狂うであろう。女房に放ったらかしにされている初老の男ゆえに同情が集まっている。ちゃんと夫婦で暮らしている家へ手盆のコーヒーや一皿のサラダや巻寿しの一本が届くはずはないのだから。
日本各地から私に届けられる名産銘菓、手作りの奈良漬、味噌に至るまで、新鮮なうちにと私はご近所へ配るのだが、それすらも夫の手で持って行きたがる。何しろ彼は主婦なのだから、つきあい一切を自分でしたがるのである。男の人は無愛想だから「これを食べてください」が精いっぱいなのだろう。ご近所では、なぜあの一人ぐらしの男がいろいろな物を全国各地から貰うのかとふしぎに思い、それがまた初老の男の魅力の一つになっているらしい。
何でもいいのだ。好きなようにおやりになればいい。穴部屋へこもって聞いていると(聞こえるのだから仕方がない)実にとんちんかんなやりとりである。私が居ることを夫はひと言も隣人に言わない。「ご不自由ね」とか「お一人だからほんの一皿よ」とか言われて「いやいや十分です、いつもすみませんな」──ゴトゴトと巻寿しを切ってお茶をいれて食べている気配。外は今日も晴なのだろう。
木の根ッこ兎もともと一人ぼち
割箸で背中を掻いているわたし
次々に離婚が叶う笹の舟
ともだちサンバ
車が横づけされて芍薬《しやくやく》のような笑顔がこぼれる。「ありがとう」私は助手席に乗る。車が走りだす。青い風が次第に濃さを増して空気がおいしくなってくる。
ははん、M子の家へ行くのだなと気がつくが私はわざと黙っている。弾む心に車も弾んで芍薬の君は「ゆうべの楽しかったこと」などを話してくれるのだ。「わたししあわせ」が彼女の口ぐせなのである。毎日何べんもそう言うものだからシアワセ氏のほうでも彼女のところを素通りできないわけだ。
薫風に乗って「しあわせな話」を聞いていると私も倖せな気分になれる。何も思うまいと思う。あのことも考えまいと思う。このひとときは神が与え給うたのだと肺の中へいっぱいに緑を吸い込む。
芍薬の君の電話はとつぜんに鳴る。
「行きましょう」「ハイ」これで万事OK。朝のコーヒーだけの日もあれば山麓の里へ足を伸ばすこともある。
山麓の里には鉄線の花の君が棲んでいる。この紫の上は手料理の名人。蔓《つる》のような細身に醤油※[#○に「店」]の前掛など締めてサッサッサと美味《おい》しいものを作ってくれる。これまた予告なしの訪問にびくともしない。その辺の蕗《ふき》や三ツ葉や筍《たけのこ》をあしらって、運がよい日は蟹ちゃんがいたりして、見た目も味も満点の昼食。
ここでも私はこのひとときを謝す。味噌汁がゆっくりと喉から胃へおりてゆく。芍薬の君と紫の上は茶の心得があるからしてその道に従っての礼をかわしたりしているのも面白く、私はうぐいすの声にうっとり。一体この倖せはどうしたことだろうと考えている。川柳もなく家庭もない。わき目もふらず走りつづけた川柳というマラソンのゴールはまだ見えないが、ふと絵巻の中へ誘いこまれてビリになるのもたのしからずやの心境である。
藪うぐいすがまた啼いておみな二人の優雅な話し声にかぶさる。
そのとき、涼しげなベルが鳴って源氏の君≠フおなりとなる。源氏の君は紫の上に二言三言何やら仰せられて踵《きびす》を返された様子。芍薬の君はともあれ名もなき|はしため《ヽヽヽヽ》の同座を嫌われ給うたかと、いかに鈍なるわれも気づきて目で問うに、やさしき紫の上は打ちほほえまれて「何でもないよ、ミシンのセールスだったンさ」。思わずも笑声高きはしたなさ。
山里の日暮れは早く、芍薬の君にうながされて私は夢から醒める。君はズボンにスニーカーという身替りで、グイとハンドルを切る。山には書割の如き三日月と星。空はまだ昏れ切っていない。おんな三人ピタゴラス、夢かうつつか、夢ならば。
早春の花を盗みぬわが乳房
れんげ菜の花この世の旅もあと少し
天蓋を少しずらせば天に星
男と女のおはなし
男と女が仲よくなって妬いて妬かれて飽き果てて西と東へ別れゆく。そのあと二人はどうなるのだろうか。
「落ち葉の舞い散る停車場に」よく似た女が集まって嘆き悲しむと思ったら大間違いだと私は思う。
別れた女にはグミの実の小籠があれば足る。その実をひと粒含むごとに女は過去を消していく。食べ終わった女は窓辺にもたれて今昔《こんじやく》物語の一節でもつぶやくであろう。
「丈すわやかにて少し赤ひげなるありけり」これで完《おわ》りである。
気の毒なのは男である。
飽いた筈の女がおんぶお化けとなって、その日から男を苦しめはじめるのだ。それは雑踏の改札口であったり、赤|提灯《ちようちん》の下であったり、ふとした日常に男の肩は重くなる。たまりかねて男は電車に乗ったりする。枯葉のように終着駅へ集まるのは、だからよく似た男たちであると私は考えるのだがどうだろう。
一般に女はリアリストで男はロマンチストだといわれるそれを、別れの場面において考えるときに私は理解できる。
「お月さまをいっしょに見てくれない」だの「彼ったらあんなにいい音楽がわからないのよ」などと、女はロマンに酔いたがるけれど、ほんとうのロマンチストとはそんな皮相的なものではないだろう。
飽いて別れた女を終生かついで歩く男の背に私はロマンの真髄を見る思いがする。
女があっけらかんとグミの籠から蘇生するのは、男の肩に念のすべてを預けて来たからではないだろうか。
月のかさめぐり逢わねばただの暈
強がりを言う瞳を唇でふさがれる
別れねばならない人と象を見る
無花果《いちじく》のどの実も青く去る人よ
風を見ていると答えた女なり
まっすぐにみつめて有難うを言う
これが他の人の句であったとしても、私はこの稚《おさな》くて瑞々《みずみず》しい感覚に惹かれるであろうと思う。ここには「念」を男の肩に背負わせて「今昔」を誦ずるが如き女は存在しない。これらの句を生んだ日、私は若く、浅瀬の水は貝の影まで映していた。
油絵のような男が何人も通り過ぎて、私もグミの実をいっぱい食べた。紺青の海はときに黒かと見まがうほどに深かった。
そして今、海は一番美しい五月のくれなずむ空を映している。ふたたびの浅瀬に貝はかぞえるほどしか棲まないが、その一つが永劫の光を持っているのが見える。
白光、果して私はこれを句に定着できるか。
夕ざれば急にととのう竹の箸
二人から一人になりぬ豆の花
「衰えてください」と、その人は言った。
6ちゃんの兎
絵の先生はいつも私の背後から抱くようにして絵に色を加えてくださった。
ある絵の時間、きのう見て来た桜並木を画きましょうと先生は言われた。
私はドキドキして待った。机の間をゆっくりと先生が歩いて来る。私の席へ確実に先生は近づく。私は頭の中がカーッとなって、桜が画けない。私の見た桜並木は雲のようであったから、そのように画こうと思うのだけれど、花の雲がどうしても掴めない。
「先生早く来て!」
と私は心の中で叫んだ。ところがどうしたことだろう、先生はくるりと廻れ右をして、また同じ列を歩いて教壇の方へ帰ってしまわれたのである。折から終業ベルが耳をつんざく音で鳴った。私の画用紙はまっ白で、わずかに草色のくれよんが下の方に塗ってあるだけ。急いで桃色のくれよんを取って、私は大きな字で「せんせいのばか」と書いて提出した。
小学校一年生。私が人に裏切られた初の体験である。
次の図画の時間、こんどはウサギとカメの絵を画きましょうと先生はやさしかった。私はその日も待った。ウサギとカメなんて画けるはずがない。そして時間は刻々と経っていったのである。先生はその日も私を裏切った。ベルが鳴った。私は白の画用紙に白いくれよんで画いた。
「2ちゃんが豆たべて……ちがった、これではアヒルになる」
私は目がくらみそうになった。
「えーと、6ちゃんが豆たべてアーッというまにウサギさん」
つまり数字の絵あそびをやったのである。こうして私の図画はどうにもならなかった小学生低学年時代。
その先生が転任して他校へ移られてからやっと私は自立した。先生に可愛がられているといううぬぼれが絵を画けなくしていた幼いころの苦い思い出が今は甘ずっぱい。
小学校高学年になって私は絵の部で大きな賞をいただいた。西瓜の絵であった。
絵が画けなかったころの夏休みの宿題は父が代わって画いた。
父の絵の女の子はオカッパ頭がいつも耳を出していて、耳からまた髪を垂らしていて、私は恥ずかしかった。それでも父に縋《すが》るしかなかった。
人に甘えることのおそろしさを教えてくださったのはあの絵の先生であるが、はじめになぜ抱くようにして色を添えてくださったのかは、問わずじまいになってしまった。
ころがしてころしてしまう雪だるま
花の雲重ねて問えば雲になる
鳥嫌いわけても鳩の首うごく
娘からの手紙
[#ここから1字下げ]
「──お母さん、こないだ親知らずを抜きました。そのとき歯医者さんが『あンたの舌はどう見ても大きい。鏡をごらん、ホラね、舌のぐるりに歯形がついているでしょう。このままでは歯列も歪むし、義歯にするとき大変だよ。切ったらどう?』と、いとも簡単に言われたのです。
お母さん、舌を切るってハサミでぐるッと切って縫合するのかしら。まるでアップリケよね。そんなことが現代医学ではできるのでしょうか。私の悩みは深いのですぞ。思い余って『責任者出てこいッ』と叫んだらひょっこりお母さんが出てきたので、ご相談を兼ねて責任をとってもらおうと手紙を書いた次第であります。返事をぐずぐずしていると私切るわよ。本気よコレ。あらあらかしこ」
「──お母さん、友だちと京都のミヤコホテルへ泊っています。ゆうべのこと、バスを使ってさて流そうとすると、黒いゴムの、そうね、正露丸を二ツ三ツ練り合わせたようなものが沈んでいるではありませんか。しまった、バス栓を欠いたか……と調べましたがそれはちゃんとあるの。ふしぎなのでベッドへ持って入ってずっと考えました。友だちにも見せたのだけどわからない。
そして朝、私はとびあがったのです。おヘソが無いのです。もうもうビックリして。やっと気がつきました。ゆうべの黒いゴムは私のヘソのゴマだったのです。中学生のころからの悩みだった黒いおヘソ。それが一夜にしてコロンと取れたのでした。
私二十歳、白いおヘソのレディとなりました。思えばあのゴマは生まれたときからあったのです。そうでなければゴムのようにはならないでしょ。ずーッとお母さんとつながっていた臍の緒と訣別しました。したがって母上は今日から立派な他人。以後そのようにおつきあいしますのでよろしく。あらあらかしこ」
[#ここで字下げ終わり]
たくさん貰った娘の手紙の中でこの二通の印象が特に鮮明なのは、からだに関する内容のせいだと思う。女は産みの性をもつゆえに、自分のからだを通過してこの世に存在する者に対する執着が強い。
そのくせ母と娘は愛憎甚しい関係にある。同性ゆえの葛藤は嫁と姑に代表されるが、血を分けた母と娘のそれは更に深刻である。殊にも異性が介在する場合の娘の母離れはみごととしか表現できないものがある。
離れながら放せない血というもののかなしみを女は産みつづけるのであろうか。
花こぶし母を叱るは順送り
生涯母を疑いつづけ孝尽くす
母を捨てに石ころ道の乳母車
徳用|燐寸《マツチ》みつめておれば母になる
母に勝つために母から生まれたる
天国や星はやさしきものならず
大 根 と 私
むかし私の小学校では毎年大根の品評会≠ネるものがあって、その日は講堂いっぱいに名札をつけた大根が並んだ。種はあらかじめ学校からもらって蒔くのだが、農家でない私の家の庭の隅では人蔘《にんじん》ほどにしか育たず、それもふたまた三またにねじくれて目も当てられなかった。
それでいつも近所のトミおっつぁんが朝抜きのでっかい大根を縄でくくって届けてくれるのである。その中から形や大きさを選んで、姉の分私の分と二本ずつの出品作が出来上がる仕組みであった。
ある年、姉と私は大得意で長さといい太さといい申し分のない二本を抱いて学校へ急いだ。すると、どうしたことだろう、並べられている大根はみんなまるくてコケシの頭みたいなのである。まるいのは蕪《かぶ》だとばかり思っていた姉妹はおどろいた。その年は丸大根の種が配られていたのである。丸大根の中でにゅッと足をのばしていた私の大根が忘れられない。
私は「だいこん」または「だいこ」と呼ぶ言葉の響きが好きだ。くせのない味もさりながら、白くすべすべとした大根に私はふしぎな色気を感じる。昔は川の流れに大根を洗う女の足があった。土を落とされてまっ白になる大根と、冷たさに染まるうすもも色の女の足があった。今は白い大根を買って水道で洗う味気なさだが、それでも大根はどこかやさしくなまめかしい。
私は大根を手で洗う。てのひらで撫でながら時間をかけて洗っていると、時にはそれが嬰児《えいじ》になったり、自分に思えたりして心が和んでくるのである。
大根の年夜《としや》というのがあるのを知った。十月十日、この日は大根が年をとる日だそうで大根畑に入ってはいけないのだと、その婆さまは言った。多分旧暦の霜ふる一夜であろうと思うがそこまでは問いそびれた。
川柳家にとてもよい夫婦がいて、十五年という病いの果てに妻が逝き、あとを追うように忽然と夫が逝った。この夫婦の川柳集にすずしろ≠ニいう名を贈ったことを私は今でもよろこびとしている。まことに大根のごとく清《すが》やかで睦じい夫婦であった。
大根を手で洗う。あまりの生身《なまみ》のその色白に私はあの世この世の見さかいがつかなくなることがある。皮をむいて厚目に切って角をおとして、と料理の手順は狂わないのだが、もはや心はここになく、有るのは能の小面だったりするのである。
大根が白くてふッと抱かれる
一望の野に咲かしむるしゃれこうべ
はつあきのこの惨劇のやわらかな
雪中の一軒焼いて遊ぼうよ
蛍 の 夜 に
よほど遠くから来たのであろう。オートバイは埃りっぽく荒い息を吐いていた。
「星加《ほしか》くんか? よく来たよく来た」
蛍の闇のそのまた木下闇から窯主の声がした。
「さあ、荷を下ろしてこっちへどうぞ」
星加と呼ばれた青年が灯の下へ坐った。
彼は広島の人で大工の棟梁をしながら全国の窯元をまわっているのだという。
「一年の筈が二年かかりました。こんどはぜんぶ片付けて来ました。北海道へ行こうと思って。でもどうしてもここを通過できなかったです。なつかしくて会いとうなって……」
「ほんとによく来た。何日泊まっていってもいい。北海道もいいだろう。しかし、君がもしここで腰を落ちつける気があるのなら、そうだな、秋ごろから来たらいいよ。君のための手ろくろが何年も前から用意してある」
青年の目がぱッと輝いた。
「ほんとうですか先生!」
「ほんとうだ。まず寝る場所はある。食事も一緒に食べたらいい。酒もある。その上で、いくら欲しいか言いなさい。遠慮することは無用だ。君はお母さんを養っているんだ、要るだけ言いなさい。今夜それを取り決めよう」
「……」
「その代り私に君を置いておく力がなくなったら出ていってもらう。私のことは心配しなくていいんだ」
「……」
青年は顔を覆い絶句したままだ。やがて彼は笑いだした。笑いながら泣いている。
「いやあ、夢のようで、夢のようで。どうしたらいいのか」
私は偶然にも師弟として結ばれる二人の男の要の位置に坐っていた。火の龍を見たのとおなじ谷にその夜は蛍の客として招かれていたのである。どんな事情かは知らないが私は忽《たちま》ち彼の涙に感染した。
外へ出ると六月の闇。栗の花の匂い。
蛍がとぶ。すいーッととぶ。草の中に息づく。川面に光る。樹の中に光る。
蛍は私のてのひらを照らしては露を求めて戻っていく。
百匹の蛍を握りつぶすかな
という激情がうそのようだ。今は何もかもがやさしい。やさしさの中で熱いものがこみあげるのは、長い歳月の果てに結ばれた師弟の影が窓に映っているからであろう。
短く聞いた話では、ずっと前にここを訪ねた青年は柿の木の下で寝ていたのだという。寝袋を持って自炊して、木を割って水汲んで、それでも土にふれさせて貰えなかった弟子と、そのゆとりのなかった師。
彼はこの秋から他の多くの弟子たちにまじって火の龍を燃やしつづけることだろう。人と人とが会うことの美しさを蛍は知っていたにちがいない。
細道や蛍の宿に客があり
三 太 郎 岬
青函ずいどう工事のための道を三曲がり四曲がり、そのための村、そのための学校などを横に見て岬に突きあたると急に風が強くなる。潮の匂いがきつくなる。
石ころ道の爪先登り、草|薙《な》ぎの風、白いクローバー。時によろけて草に手をつきながら誰も言葉を忘れて進む。
ここは津軽半島の北端、風は一方的に海から吹き上げる。耳を削ぐ風の中にその碑はあった。海に背を向けてどっしりと在った。紛れもない師の筆でその文字は朱《あか》く、
龍飛岬立てば風浪四季を咬む
と読める。はめこみの錦石には川上三太郎。
「先生、来ました」
私は呆《ぼう》と立っていた。強風に少しずつ押されながら、押された分だけ前へ寄って、碑との距離を変えずに立っていた。
「先生は此処がそんなにお好きだったのか」。やむことのない風音の中で、三太郎が見つづけているものは何なのだろう。ふり向けばはるかにかすむ本州の山々。
川上三太郎は無類のさびしがりやであった。だから碑も決して山脈や空や雲を見てはいない。見ているものは人の営み、聴いているのは人の声である筈だ。そしてそれは街や村では聞くことも見ることもできない真実であろう。この岬にしてはじめて叶うこと。師はよい場所を選ばれた。
涙に気づいたのは石の裏へ廻って石に頬を当てたときであった。北風にさらされながら石は人肌のぬくみを持っていたのである。横長の厚みを持った自然石は先生の背中にちがいもなかった。
とつぜんかじわじわかよくわからない。なつかしさがからだ中にひろがって、私は目を閉じたまま師の声を聴いていた。
「さもあらばあれ雨に風に雪にひるむことなくただひとすじの道を新子よ、歩くがよい。私のように少なくとも六十年を、新子よ君は君のひとすじの道をひたすらに歩まねばならぬ。かくありてこそ君の句は光る。白金の固さと艶をもって──」
「私が死んで新子の句が私の手から放れたとき……」
処女句集『新子』の序文の一節である。雨に風に、だけでなく「雪に」ひるむことなく、と私に賜わった言葉通り、この龍飛岬に三太郎は生きて在る。あの足弱の師が足ふんばって立って在《お》わす。
私の往くべき道を今こそ私は見なければならない。私は石から身を起こした。風が私の髪を逆立てた。
泣いた目がぱらりと乾く北に月
石は男か石は女か歳月か
海に向くわれは悪よと言い切って
旅はみちづれ 北海道の旅@
ツアーなんて。
「そうよ、あんたのようなわがまま者につとまる旅ではないよ」
自分もそう思い、友人も反対する旅行に出かけたのは八月二十日の早朝だった。
大阪空港で胸にバッジをつけられて、阪急交通社の旗の下に集まったとき、亭主も私も照れ笑いをかくしきれなかった。
北海道全周5日間 '87阪急とっておきプラン! 何と宿つき食事つきジャガイモ土産つきお二人様十七万四千円!
「安いなあ」
「どこかにきっと落とし穴があるのよ」
「そこが面白いじゃないか」
少しおっちょこちょいのいい歳夫婦が、行こう行こうと決めたのである。
飛行機は快適に飛んで一時間と四十五分でもう千歳空港。北海道と思っただけで空気がおいしい。空港広場にはデラックスピカピカバスが何台も待機している。
「ねえ、私たちのバスはどれかしら」
何しろ五日間乗りっぱなしのバスだから気にかかる。
やがて旗に従ってぞろぞろとバスに行き着いた御一行八十人は一様に口あんぐりで声も出なかった。
そこには町を走っている乗合バス以下のポンコツ車が二台、それでも人待ち顔につつましく待っていたのである。
「やっぱりなあ……」
第一の落とし穴に苦笑禁じ得ない客を乗せたバスはどっこいしょと走り出した。
しかし、私たちはまもなく折りまげた膝の痛さも忘れる日高高原の風の中へ出たのである。サラブレッドが草を食《は》んでいる、駆けまわっている牧場地帯。
「皆さまようこそ北海道へいらっしゃいました。このバスは走りながら窓からナマの風が入る特別冷房車でございます。窓に彩のついた閉めきりの新車よりも、どれほど快適かわかりません。また、座席のきゅうくつさもお父さんお母さんの仲よしシートでございます」
これから五日間お供します山本正子ですと名乗ったガイド嬢のユーモアに、乗客は一斉に拍手した。
バスはおいしい草原の風を切って、日勝峠を越え足寄(あしょろ)で昼食。売店にはアイスクリームやとうもろこしやキタキツネの細工物が並んでいて、黒いおそばを啜り終わると早くも土産物を買う人もあった。
右に左に草原の馬や牛を見ながら一泊目の阿寒湖に到着。アイヌの村のエピソードや、まりもの妖《あや》しさなどは次回に。北海道の第一夜はふしぎなやさしさで私を包んでくれた。
アイヌとマリモ 北海道の旅A
阿寒の夜は暑からず寒からず、宿下駄が素足に心地よい。
ホテルのすぐ前にはアイヌの村があって、でっかい丸木小屋で踊りを見せてくれる。
アイヌ衣裳の女性が五人、単調なムックリの調べにのって単調に唄い単調に踊る。みんなきれいな娘さんで、リーダーの中年婦人も口の入墨などはしていない。あの入墨は昔むかし内地の男にイケナイのがいて、護身のためわざと醜くした「のよ」と、ガイドの山本嬢が眉をひそめて語ってくれた。印象に残ったのは「キツネ狩り」。どういうわけか狐になった娘さんがグラマーで猟師が細身。「クマ狩りでないのけ?」という客の声に、「いいえきつねでございまーす」と中年婦人が抑揚のない声でまじめに答えるのがまたおかしい。グラマーギツネは仕留められてひっくり返り、皮まで剥がれてよたよたと退場した。
土産物屋はあかあかと灯を道に流し、その中に剥製のヒグマが立っている。身の丈二メートルをゆうに超す大きなヒグマだが、どれもかわいい顔で、アイヌの村の招き猫といったところ。
土勝石が欲しい、木彫りの熊も人形も欲しい。あれもこれもをがまんして、アイヌ娘が上手に鳴らしていたムックリを三百円で買った。心がはずむ。
ホテルで唇に血がにじむほど練習したが竹のヘラはビュンとも鳴らず。あきらめてこんこん眠り、一夜明けると早朝から船着場へ並ばされた。阿寒湖のマリモを観るのである。
雄阿寒岳、雌阿寒岳を右に左に見ながら船は進む。マリモは五センチの毬になるのに三百年を要するという。すると大きなてんまりや子供の頭ほどもあるのは一体いつからこの世に生きているのかしら。湖に浮きつ沈みつ──のマリモは観られなかったが、島の水族館のガラスに鼻をくっつけて、私はこの神秘な生き物を飽かず眺めた。苔寺のこけか、踏まずの芝生か、エジプトの絨緞《じゆうたん》か。次第にエスカレートする思いの中で、ふと、いちばんよく似たものを思い出した。
ほら、それは幼いころの乳母車。昔の乳母車は当世風の金属パイプではなくて、籐《とう》で編んであった。深くてゆったりとして、赤ちゃんはお母さんと差し向かいだった(余談ながら今の赤ちゃんは親の顔が見えず、買物籠といっしょに地面すれすれの前向きで、車はびゅんびゅん頬をかすめて走るし、さぞかし恐ろしかんべサ)。
マリモはあの、昔の乳母車の幌にゆらゆら飾ってあった|ぼんぼん《ヽヽヽヽ》を大きくしたものであった。あったかーくて深い緑の色だった。
クマだクマだ! 北海道の旅B
一行の中によほど精進のいい人がいたのか、雨は夜降っては朝やむのであった。
それと、ガイド嬢の根気よいアイヌの祈り言葉も効を奏したのかもしれない。
「ニサッタカ、シリピリカ、クニーネ」
どうぞよい天気になりますように。このアイヌ語、覚えられそうでなかなかの曲者《くせもの》。みんなはそれを言わされる最前列を敬遠したりするのだった。
でも、おかげで摩周湖は晴天。
神秘な湖を心ゆくまで眺めることができたが、めったに姿を見せぬ霧の湖ゆえに「この湖を見たひとは縁がおくれる」という言いつたえもあるそうな。おそらくは見られない多くの人への慰めであろう。
さて、バスは斜里で昼食をとって右、知床の矢印へ曲がる。斜里の駅前には若者の自転車隊やバイク隊がたくさんいた。食堂のおじさんがくれたじゃがいも「お一人様三キロ」が足許でごろごろするのも旅情である。
オシンコシンの滝や、左手のオホーツク海が噛む巨岩奇岩を縫って、目玉の一つ知床五湖に到着。
さむい。おまじないをいやがったせいか雨もはげしく降ってきた。
しかし、ここまで来たのだもの。一行はガイドの旗に従《つ》いて熊笹をかきわけて進んだ。
ガイド嬢の旗がぴたと止まった。しーんとした中に笹に降る雨音だけが高い。
そのときである。
「ぐおっ、ぐおーっ、がっ」
「クマだ、クマの啼き声だ、近くだぞ!」
一行にまじっていた土地の人らしいのが低い押しころすような声で言ったからたまらない。色とりどりの傘は先をあらそって廻れ右をする。後方は何のことやらわからないので前へ進もうとする。傘と傘とのこぜりあいがしばらくつづいたが誰も声を出さない。
ただ、「クマだ」「クマ」「クマ」という小さな声だけが傘の上を正確に伝播していったのである。
バスの座席に坐ると正直に汗が噴き出た。
「たすかったあ……」
三週間ほど前に高校生のハイカーが熊に襲われたばかりだという。
くわばら、くわばら。
バスはコウフンさめやらぬ人々を乗せて一目散に斜里へ引き返したのだった。
そこから網走まではオホーツクの道がつづく。
オホーツクかなしいまでに黒である
「これ、川柳になってるかい?」
相棒の声に答えるゆとりもなく、私はバス前方の橙色《だいだいいろ》の灯をじっと見ていた。
網走刑務所の灯が近づいて来たのである。
また逢う日まで 北海道の旅C
網走刑務所は近づくにつれてますますやさしい灯になった。私はほっとした。
死刑囚の手記わたくしに無期の刑
人は誰しも無期の刑を背負って生きているのではあるまいか。
刑務所の人が働く農場の道は桜並木になっていて、春の華《はな》やぎを想わせる。受刑者たちもこの下で望郷の歌をうたうのだろうか。
「アバシリ」と耳にするだに暗かった印象がうそのようである。
網走で一泊したバスはまたオホーツク沿いに走りに走って、憧れの宗谷岬に着いた。雨は晴れて夕空が美しい。
「北の端に立ったのだわ!」
日本最北端を示す三角錐の塔の前で写真を撮った。髪が逆立つ風である。
バスはそこから稚内市内へ入り、急カーブをくねくねと登って見晴らしの丘に停まった。かの有名な「氷雪の門」である。
「北の島を還してください」
像は両の手を哀願の形に受けて訴えつづける。その北の島は昏れなずむ海に姿こそ見せなかったが、島と本土の相呼応する声はびんびん耳に響く思いだった。
映画に出たタロウ・ジロウの犬も待っていてくれて、皆「ほうほう」と振り返りつつ坂を降りてその日は稚内泊。
この小さな昔の木賃宿風の旅館が今回の旅の圧巻だったのは皮肉である。
阿寒はふつうのホテル。網走は喧噪《けんそう》はなはだしい観光旅館。そしてこの稚内は木賃宿に分宿といったあんばいのバラエティーがたのしい。稚内の宿は四畳半か六畳ごとに襖《ふすま》で区切ってあって、窓を開ければ潮の香ふんぷん。正に、流れ流れて北の果てといった感じ。そして、何よりもとれとれの海の幸がうれしいのである。ホテル、ホテルにうんざりの私はここに来てやっと北の宿に枕した思いだった。
稚内の夜が明けると人々の顔に早くも帰心が兆しているのにおどろいた。
ここからは帰路になるのだが、最後の宿が札幌とあって、もう半分帰った気持ちなのであろう。
バスはサロベツ原野、留萌、滝川と、次第に人家を増やしながら、大都会札幌に入る。
スレート葺《ぶき》の屋根の多彩なこと。そして各戸の煙突が北海道を思わせるだけで、都会のビルはいずこも同じ。車の洪水も全国同じ。
カニ食いに走る人、ラーメンへ連なる人、北海道さいごの夜はいつ果てるともしれぬ大さよならパーティーであった。
さようなら北海道よ。
きっとまた来ます。元気でお元気で。
茶色の小瓶
小瓶を見ると思い出す。
小銭を見ると思い出す。
私のグレン・ミラーは当時びんぼうだった。
「逢いたいけれど汽車賃がない」
残念そうに電話が切れて。五分後にまたベルが鳴った。
「あったよ。ほら、ぼくの部屋のクリープの茶色い瓶覚えているだろ。あの小銭をさらったら名古屋までは行けそうだ」
「いつ?」
「今すぐだ」
東京→名古屋二時間。
姫路→名古屋二時間。
「よーいドンだぜ」
二人は名古屋駅前で醤油色したキシメンをすすると名古屋城まで歩きはじめた。
ぎんぎらぎんの城はさして印象に残っていないが、茶色の小瓶はそのときくっきりと私に印象づけられた。
「ねえ、ほんとにほんとう?」
「何が?」
「小瓶をひっくりかえしてでも私に逢いたかったこと」
「うーん、ひょっとしたらキシメンを食いたかったのかもしれない」
私はうす暗い喫茶店で彼のちぎれかけたボタンに糸切歯を当てているところだった。
「じゃあまたな」
私のグレン・ミラーはその日から行方不明になってしまった。
雨の日の電話つながりそうで切る
花まちがい
神戸へ来て一年経った。
北窓の木蓮(よそさまの庭だけれど)は約束どおりに三月十五日に白いつぼみを見せ、あれよあれよと大きくなって、やがてその恥に耐えきれないようにぽかっと開いたのが三月の二十日だった。それから彼岸の雨が降りつづいて、私の目の前で風に死んでいったのが三月の二十七日。
それからのしばらく、彼女木蓮は若気の恥など忘れたごとく、しんと静まりかえっていた。
今日はひと月おくれの雛まつり。久方にペンを休めてふと見ると、木はいつのまにかヒワ色の巻葉をつんつん伸ばしはじめている。
今年こそ彼女の正体を見届けてやろう。
去年の春も実はそう思ったのだが、さくらが咲いてさくらが散って、あじさいが咲いて次々と紫色の雨好きな花にみとれているうちに顔もあげられぬ炎帝と邂逅《かいこう》し、ひまわりカンナきらいな花……とほざいていると六甲の山々が「いろは紅葉」のながし目で。それではとケーブルカーで有馬の湯。有馬には思わぬ雪が降りつもっての雪見酒。
つまり、浮気ざんまいのあけくれに、私は北窓の木蓮の「その後」をついぞ見ないで来てしまったのである。
どんどんふくらむ白いつぼみは、私に一年間の怠惰を思い知れとばかりに春を告げて開いた。そうして散った。
私は木蓮と辛夷《こぶし》の花の見分けがつかない。もしかすると初々しい巻葉のこれは木蓮ではなく辛夷かもしれないぞ。
世界大百科事典のほこりを払ってまず「もくれん」をひく。
──庭木として広く裁植される中国原産のモクレン科の大低木(はい、たしかに庭に植えてあります)。花は春、葉に先だって開き(そのとおり)、枝先に北向きに直立し(うん? おかしいな、花は南側の私に向かって咲いたですよ)、細い鐘形で正開しない。
だめだ。ほとんど絶望的。
よいしょと、こんどは「こぶし」をひく。
──早春、葉がまだ伸びないうちに径十センチばかりの肉質六弁の白い花が咲く。山野にみられる落葉高木、モクレン科。
「やつはこぶしであった」
私は広くもない仕事部屋を熊のごとく歩きまわって歎息した。
秋十月を待って実をたしかめるまでもないだろう。その果実とて、木蓮は卵状長楕円形、辛夷はそれが多少湾曲するだけのちがい。ともに赤い種子を白い糸でぶらさげるというのである。
度が合わなくなった私のメガネでは果実の判別はつかない。それに正開して散った現実と「木の高さは八〜十メートルにおよぶ」というのが決定的である。私の北窓は三階。そこにすわって目線まっすぐの花ざかりだったのだもの。庭のあるお隣りは和風二階家、その屋根よりも高いのだもの。
私はほうっと息をついて、しばらくは誰にも会いたくないと思った。
木蓮が辛夷であったからといって、べつに私の人生が変わるわけではない。
しかし、この裏切られた思いを何と表現すればよいのだろう。
むかし、早良葉という人からハガキをもらって、その簡にして要を得た書きっぷりに一も二もなく惚れてペンフレンドになった。
私はハヤ・リョウヨウという男性をだんだん慕《した》わしく思うようになった。
ペンフレンドは会わないのがよいのだ。そうわかっていて会いたくなるのがまたペンフレンドというものである。
三年後、私たちは会った。
もうおわかりいただけたと思う。サワラ・ヨウさんは女性だったのである。
そのときの失望ともすこしちがう花まちがい。
部屋ぬちを歩きまわっているうちにハタと思いあたる絶望がみつかった。
これも昔の大昔、吉井川河口の新田地帯に育った私は山を知らずに大きくなった。だから、バス旅行か何かで初めて瀧というものを見たときの「あッ」という思いは山育ちの人には笑止の沙汰ほど大仰なものだったのである。私は瀧に強烈なエロチシズムを感じた。それは小さなチョロ瀧において極まる、私だけの発見であり秘密だったのである。
それが粉砕したのは円地文子の本であった。何という本であったか、あまりの立腹に忘れ果てたが、私とおなじ感覚を持つ女がいて、瀧のエロチシズムがすでに本に書かれているという事実は、私を完全にノックアウトしたのであった。
私はやっと机の前にもどった。辛夷という名の木蓮の木はしずかに、しずかに美しい葉を育てている。
鯉 女 房
逃げた魚は大きいというが、拾った魚もでっかいものだった。
ある夕まぐれ、ある町を自転車で走っていた私に天から降って来た大鯉は目の下一尺五寸はあったのである。
はじめ私は、前を走る軽トラックがバウンドして荷台から何かが振りおとされたとき、猫が飛びおりたのかと思ったのだもの。それほどに大きな鯉だった。
私は自転車に乗って銭湯へ行く途中だったから、夕闇にうごめく物を先ずはタオルで取り押さえたのである。
その肉感たるや。
その動感たるや。
足がないので猫ではなく魚だとわかったが、いや、跳ねること跳ねること。もう風呂どころのさわぎではない。
当時私は、ある町の河川敷の掘立て小屋に住んでいたので、跳ねる獲物を自転車の籠に入れて洗面器でふたをした上を緒綱でぐるぐる巻きにして、小屋へとって返した。
その日、小屋には男三人の客があったので誰かが料《りよう》ってくれるだろうと、私は灯の下へ一尺五寸の大鯉を横たえた。鯉は二度、三度、どでんずでんとやっていたが、これを見た男どもは一歩下がり二歩下がり、とうとう誰もいなくなってしまった。
「いくじなしねえ」
それではと、小屋に一本の菜ッ切り包丁で腑分けにかかった。折しも月は中天にあり、切り落としたる兜はラーメンの丼ほど。打ちはらいたる鱗は正に五円玉か十円玉か。
「ホーラ、来てごらんよ。むかし幼稚園で作った紙のコイノボリそっくりだよォ」
叫べども血の海に寄りつく男一人とて無し。
これだけが自慢の小屋の大鍋に味噌をぐらぐら。|こいこく《ヽヽヽヽ》のいい香りが立ちこめる。
そのころになってやっと灯へ帰り集まった郎党と月見の宴を張ったのだが……。
近ごろわが亭主を見ていると、なぜかあの日の大鯉を思い出す。作務衣《さむえ》など着ているのに厠《かわや》ですれ違ったりすると、「あッ、鯉だ」と思うことがある。肉づきといい動きといい。私はもしかすると鯉の女房になったのかもしれない。
十人の男を呑んで九人吐く
酒 修 業
酒。あなたと縁なく過ごした五十年の歳月が口惜しくてならぬ。
酒を飲まぬ家に生まれて酒を飲まぬ家に嫁いで気がつくと五十歳になっていたのだ。でも、今からでもおそくはない。大いにあなたを愛し、あなたに愛されて陶然と死にたいものだ。
いとおしやパチンコ狂い酒ぐるい
この色紙が新宿の小料理屋の壁にかかっているそうな。男たちは酔眼にこの句をとらえ、
「いいじゃないか君ィ、いとおしいってさあ」
「うん、いいねェ、さあ、もっと飲も飲も!」
すると中に唐変木がまじっていて、
「諸君、早まってはいかん。この女作者は『いと』つまり、たいへん『惜しい』と言ってんだぞ。われわれ男に酒を飲ますのが惜しいとはけしからんじゃないか、ウィーッ」
酔眼氏たちはもうろうの中で、しばしこの句についてガクガクとやり合ったそうな。
いとおしやは「かわゆい」にきまっている。
私は酒を飲む男たちが好きだ。しんのそこからかわゆいなァと思う。
そのかわいい男たちが、下戸女にじいーっと見られていたのでは酒も不味《まず》かろうと思うからに、ちびり、くぴくぴ、酒の味も覚えようとしているのである。
五十を過ぎて天神様の細道じゃ
五十を過ぎて知った細道はしんねりと愉しい。そうして「酒」──あなたは想像通り旨かった。
もしかして椿は男かもしれぬ
おなじように、私はホントは酒呑みだったのかもしれぬ。
酒をたしなむようになって、実はもうひとつの発見があった。
意外や意外、私という女は無類の男好きだったのである。
花に目を細め細めて男好き
いい句だ、いい句だ、とても気に入った。
若い時代の、青い果実のごとき新子にはとてものことに作れなかった句が出来た。この句を残せただけでも酒サマサマである。
私は酒を飲む男たちが好きだ。
女たちも好きだ──と思いかけていたところへちょいといやな事件が起きた。
ついこの間のことである。
場所は三宮。山菜料理屋の奥座敷。
私を含めて四、五人連れの中にその「女」も居たのである。彼女はその半生四十年を清く正しく生き抜いて聖処女という異名をもつ人であった。
店の誇る銘酒「小鼓」がどんと置かれた。この酒は口当たりがめっぽうよくて、のど越しがとびきり旨い酒である。
初めチョロチョロ、中パッパ。
彼女は私の横に正座して、ごはん炊きとおなじ要領で枡酒をかたむけていた。
いい酒ありていい仲間あり。私も心ゆるして枡の角からくぴくぴと飲んでいた。
ところが不意に、巨大ななめくじがぐにゃりと私にもたれかかってきたのである。
いや、私も酒の一年生とはいえども武士の心得はある。目を据えたなめくじごときにおどろくものではない(しかしまあ、そのケのない私にとって女の体温とぐにゃりは気持ちのいいものではなかったが)。私は平気でにこにこしていたつもりである。
すると彼女はまた不意に、私の亭主の手をむずと握りしめたのである。
いや、これも浮世の握手のたぐい。別にどうってことはない。
彼女のピッチがあがったのはその辺りからである。もう、もう、「赤子泣イテモ酒ヤメナイ」の勢い。枡をきゅーッ、あごを拭うてトクトクトク、またもやきゅーッ。一升瓶はついに彼女の股間に抱きかかえられてしまった。
そうして、握るわ握るわ。
鮨ならぬわが亭主の手をおもちゃのように握っては弄ぶのである。
見ていて目にあまり、次第に私の胸にあまってどうしようもない。
(ちょいと、いいかげんにしなさいよッ)と喉まで出かかったが、それを言っちゃあおしまいよ。私はくらくらとガマンし、にこにこと苦虫を噛んでいた。
女の酒って、がくん、ぎくんと段をつけて酔っていく。こんな女、まだまだ私、好きになれない。
椿ぽたぽた
世の中にはふしぎなことがあるものです。私のふしぎは初め一個の小さな点だったのですが、二つ三つとつながって、ついにハート型の団子になってしまいました。
雪舞いのついでと天に抱き取らる
十七歳で嫁いで三十九年も経ったある日、病院のベッドで夫は私にこう申しました。
「こうなってしもうて、もうおまえにしてやれることは何も無《の》うなった。いや、ひとつだけある。それは、おまえの荷物にならんことや……」
それから十日目に夫は急性肺炎で逝ってしまいました。雪花の舞う寒い日でした。
骨ひろい誰かおもしろがっている
私にはまだ両親がおりますので、私は人の骨というものを初めて見たのです。親戚縁者は泣きくたびれて、骨あげのころには女性たちは化粧を直し、口紅さえ鮮やかなのでした。
「わーっ」と泣いたのは私一人だったようです。私はずるずると引き出された熱い骨を見たときがいちばん悲しゅうございました。それは夫婦という肉の絆の消滅の刻だったからでしょうか。
ふところよわれ泣かしめて雪になる
一年あまり一人で暮らしてみて、私はつくづくとシングルライフに向かぬ人間だということを悟りました。机から終日離れず、食べず眠らず。私はどんどん痩せていきました。相棒があれば食べてもらえるうれしさに、私は日に三度まないたを鳴らすでしょう。玄関に花を活け、せっせと靴も磨くでしょう。
私は思い切って、そのひとのふところにとび込みました。笑おうとしましたのに、涙があふれて。外はこの日も雪でした。
冬の野は真紅《しんく》わたしは嫁にゆく
決心を固めたのは去年の暮でした。枯野が真紅に見えました。五十七歳の花嫁です。非難はごうごうと渦を巻きました。
ふりむけば人の親たる日の手毬
そのひとも私も、それぞれの子の心のうちを思いやって、さびしい微笑を交すばかりのうちにいつしか春となりました。
「ぼくの息子の幼いころに……」
「わたしの娘が少女のある日……」
毬はてんてんと二人の胸にころがりました。
除籍入籍椿ぽたぽた落ちる中
私たちは五月の雨の日に市役所の窓口に立っていました。あれよあれよと、まだ他人事のように思っているうちにわずか数分で、私はそのひとの妻になったのです。
「誰に許してもらわなくてもいいさ」
「そうね、私が選んだ道ですもの、歩くしかないわ」
「それでいいんだ。人生八十年だよ、これからだよ」
二人三脚はころびやすいでしょう。ヒモがゆるんだり、イキが合わなかったり。でも、私たちは後悔だけはしないつもりです。
花のこころは
まちがいは間違い通せ桐の花
前にも書いたことですが、昔、女の子が生まれると庭に桐の木を植えました。桐は成長の速い木です。二十年も経てば木の丈は五メートルを越え、胸高直径は五十センチにもなる木です。親たちは女の子が美しく育って嫁にゆくころに、この木でタンスを作ってやろうと夢見たのでしょう。
桐の花は葉に先だって五月に咲きます。円錐形の紫の花は、地味ですがどこか犯しがたい気品をただよわせています。
人は「まちがいを改むるに憚ることなかれ」と教えられて来ました。でも私は、それが自分を生かす道なら、世の指弾をおそれることはないと思う者です。
桐の花に、私は女の意地を見ています。
ひまわりは嫌いな花よ油照り
保育園や幼稚園に何とこの名の多いことでしょう。ひまわりは向日性の元気じるしの花だからと思います。私は少女のころから元気な人をこわがりました。元気な人は颯爽《さつそう》と明るくて大声で悪気がありません。
しかし、元気な人はどうも思いやりに欠けるような気がするのです。人は心の翳りの部分で人の痛みを分け持とうとするのではないでしょうか。
ひまわりを見ているだけで私は疲れます。
まんじゅしゃげ女自身の罪ばかり
彼岸花とも呼ばれるこの花は、きっちりと九月に咲きます。葉も与えられないこの花がニョキニョキ茎を伸ばすころ、私は罪の思いにさいなまれます。血を吐いたように塊りとなる花の盛りを、「手くされ」と呼ばれて摘むことを禁じられたこの花は、すがれても散ることさえも許されないのです。
ぼろ雑巾《ぞうきん》のまんじゅしゃげは、もう男を恨んだりはしないでしょう。男と女の相剋《そうこく》はおあいこです。
つっ立ったまま死んでいくまんじゅしゃげに、私は自分の近い未来を見るのです。
まだ咲いているのは夾竹桃の馬鹿
夾竹桃ほど長生きの花を私は知りません。
公害に強いせいか、工場街や学校によく植えてある花。百日|紅《あか》いさるすべりよりも、もっと長く咲いているのではないかしら。
私もいいかげんしつこく人を愛しては嫌われてきましたけれど、この花の辛抱づよさには負けたな、と思います。でもこの花は、よくよく見れば、高坏《たかつき》形の花の喉首に糸状の飾りを結び、よい香りを放っているのです。
いっしょうけんめいのこの花に、私は女の深いかなしみを感じるのです。
コスモスの乱れて百にやや足りず
「好きな花は?」「コスモス」──これは男性に多い返事です。なよなよとやさしい花に男は保護本能をくすぐられるのでしょう。
私は、いわゆる猫毛で、髪がよくもつれます。風に吹かれているひとむらのコスモスを見ていますと、この花のもつれ髪をついついシンパイしたりするのもそんなわけです。
群生の花は塵芥箱《ごみばこ》でも咲くのです。
コスモスはやさしい花ではありません。
花 式 部
前の夫《つま》つとに恋しや花式部  新子
一瞬をとらえて逃げる花式部  碌郎
秋の午後、花屋の車が停まって、若い団地の妻たちが花を取り囲んでいました。
ふとのぞいたその車にその花はあったのです。
「紫」という草があります。花は夏咲く白色ですが、根はまむらさきで、昔は重要な紫色の染料にしたり、乾燥して皮膚病の薬にしたりしたそうです。
「紫式部」という名の花があります。クマツヅラ科の三メートルほどの木に、これも夏、淡い紫の漏斗状の小花をつけ、やがて紫の玉を結ぶあの花です。
花式部はそのどれでもなく、名も誰がつけたのかさだかではありません。
ただ野の草の淡紫の小花のいとおしさに、私はその鉢を買ってしまったのです。五千円というのは痛い出費でしたが、どうしても欲しかったのです。
忘れたや絵画の中の花童  碌郎
あのように攫《さら》ってほしや毬に風  新子
碌郎は現在の私の夫の名です。
私たちは結婚するとまもなく月一回のサロンをひらくようになりました。
その日はあちこちから互いの友だちが集まって、碁を打つ人、麻雀卓を囲む人、読書の感想を話しあうグループ。よくよく用のないのは蠅叩きで蠅を追うことに興じたりして、一日を楽しく過ごすのです。
そうした中に句会もありました。
花式部がわが家のサロンに加わった日、人々は可憐《かれん》な花をほめてはくれましたが、それを句材とした人は一人もありませんでした。
碌郎が一句。
私が一句。
碌郎の句はたいへん感覚的です。そして、「今」を確実にとらえています。
較べて私のわがままさはどうでしょう。
夫の目の前でぬけぬけと「前の夫が恋しくてたまらない」と詠んでいるのですから。
花式部という花には私を黄泉《よみ》の国へでも誘うかのような妖しい力があったように思います。
花式部の花は、夫と私が期せずして句にしたその翌日から弱りはじめて、水をやっても陽に当てても……。とうとう七日後にすっかりと枯草になってしまいました。
私は今の夫の愛情の強さを感じました。その目でもういちど碌郎の句を見ると、単に「今」をとらえているのではないことがわかります。
碌郎は私を誘い去ろうとする前の夫を敏感に察知しているのでした。
おなじ日私は「毬が風にころがっていくように攫ってほしい」と詠んでいるのですから、無意識にしてもこわい瞬間であったと思います。
今の夫にはなかなか会うことの叶わぬ息子が一人います。
碌郎作の「忘れたや」の句は、深層心理の息子恋いです。花の下や、花野であそびたわむれたわが子を忘れかねての一句です。
「忘れねばこそ思い出さず候」──「忘れたや」はそれとおなじ心理でしょうから。
私はもっとたくさん、今の夫を息子に会わせてあげたいと、心の底から思っています。
非常識礼讃
その一はトイレットペーパーのことですの。
常識ある礼儀正しい女性は、使ったあと紙の端を三角に折っておくのです。
これは次に使用する人が紙を引っぱりやすくするためで、とても思いやりのある行為です。
でも、私はあれがいやなのです。なぜって、トイレの中で用をすませた女性があのペーパーの端を折るとき、指先はご自分の不浄を拭われたあと、ですわね。いったん外へ出て手を洗って、また中へ入って紙を折る人はまずいないと思うからです。
あの三角、とても汚ないと思われませんか。
その二は返信封筒の宛先のことですの。
日本人は常識として、返信依頼封筒には「山川太郎行」または「海野花子宛」と記すように教えられてきました。ふるい礼儀正しい人ほどこれを守られます。自分の宛名に「様」なんて書いておくと「ヒジョウシキな人」または「物識らずねえ」と言われるのがこわいからでしょう。
しかしこれ、出す側になってみると実に厄介なんですね。行・宛をいちいち消して様と書く。これがまた常識とされているのですが、大量に出すときなどたいへんな時間のロスですわ。
その三はお祝のことですの。
杜子春の原作と芥川の作を較べてもわかりますように、日本人はなぜか現金をいやしむ|ヘキ《ヽヽ》がありますのね。
ほんとはお金がいちばんありがたいのに、それを口にするのは非常識。
贈るほうも「何か品物をといろいろ考えましたが思いつきませず、失礼とは存じますが……」と、現金を恐縮なさる。
みなさまも覚えがおありでしょう。祝い事の予算は立てていても、雑費ってのがばかになりません。そんなとき現金を頂くとほっとします。正に助け舟。
コーヒーセットやカレー皿をわんさと積み上げてもお金に化けてはくれませんものね。
というわけで、私は、トイレットペーパーの端を三角に折りません。その代り、もしも掃除のおばさんと出くわしたら「ありがとう」と言うことにしています。
そして私は返信封筒に笑われてもいいから「様」と書いておきます。
もちろんお祝は現金。たとえ五千円でも三千円でも、それは一万円のコーヒーセットにまさる贈り物であることを信じているのです。
間違ってるでしょうか。
ぺ こ ぺ こ
八月いっぱいNTTさんとケンカして(いや、ケンカをしたわけではないが、私も相手も物わかりがよくなくて)ほとほと疲れてしまった。
こんど学園都市(神戸)へ移るについて、当然私は自分の持っている「ルスバン電話」を持って行きたかった。わずか一年ほど前に六万円も出して買ったのだもの。
新しい学園の家には壁に電話が取り付けてあった。玄関の錠もかけるし、「只今ルスです」とか「誰か来てください」とか、声まで放つ便利でうす気味わるい電話機である。
しかし、録音はしてくれないので私はやはり「ルスバン電話(録音再生付)」を持って行きたかった。
その電話の持主は時実新子である。
これがNTTさんに引っかかった。本名でない電話を移動させる場合は「不在証明」を取ってくれとおっしゃるのである。
すったもんだのあげく、根負けして出掛けた西区役所では「そんなモン、出したためしがない」とて、またすったもんだ。
やっともらった証明書には無登録戸籍者とか不在籍者とか書いてあって、要するに私はこの世に存在せず、日本人としても認めるわけにいかないということらしかった。
住民票や印カン証明やハンコやいろいろ持って名谷《みようだに》のNTTさんへ出掛けた。
すると、男の人、女の人また男の人と、机の前は次々と入れ替わり、さいごの男の人が「あのう、申しわけないですが、これも電電以来のキソクでして、そのう、体質がまだそのままでして……」と歯切れ悪く言うのである。
「まだ何かするのですか」
「ハイ、念書を書いてハンコを押して頂いて……」
「念書!?」
私はこの齢まで賞罰なしで生きて来た平凡人間である。何をもってここで罪人にならねばならぬのか。
いや、NTTさんもおっしゃる通り、これは形式に過ぎぬかもしれぬ。しかし、「念書を書く」ということはどこか悪人悔い改めて──の感がある。
「私、〇〇〇〇〇は時実新子と同一人物であり……」
書きながら目に汗の思いであった。
その間、NTTさんは代る代るアタマを下げてくだすったが、ぺこぺこなんかして要らんわい。
もっとスムースに「あいよ! あんたの電話あんたが使う、ヨロシイよ」といかないものでしょうか。
要領の悪い巡査が電話口
名谷《みようだに》駅にて
穴ぐらで三十年、河川敷で六年、というのが私の過去の暮らしである。
「そんなところで何してはりましたんや?」
「はい。売れない物書きでござりました」
「まるでモグラやな。ほんであんたはんはいつも目えショボショボなんやなあ」
「はい。それ以来、わてはお月はんが好きになりました」
神戸市営地下鉄の中には名谷駅止まりというのがかなりある。
私は学園都市に住んでいるので、名谷駅で八分間電車待ちのお月見をする。
プラットホームにはイノコヅチの仲間もちらほらいて、さびしいことはない。
「イノコヅチて何でんねんな?」
「はい。地下鉄さんが振り落とした乗客どす」
「うーん、あんたうまいこと言うなあ」
さて、「名月や……」を一句ものしようと私はさっきからお月さんばかり見ている。こんなときは一本欲しくてたまらない。
「何が?」
「はい。たばこどす」
「どうぞ、どうぞ。夜のこっちゃし、気がねのう喫いなはれ」
おじさんはてっきりそう言ってくれるものだと思っていたのに返事がない。
私は欲望に負けてカチッとライターを鳴らした。
ふーっ、ああ美味《おい》しい。
「名月や……」
そのとき、ベンチを大きくゆさぶっておじさんが立ちあがったので私はびっくりした。
「たばこ喫うのやったら風下へ行きなはれッ」
私は風向きをよく見て席を移した。
おじさんは風上のベンチからこちらをにらんでいる。
「あんたはん」
「はい」
「よう聞きなはれや。たばこ一本喫うたんびに五分間寿命をちぢめとんのやで」
「はい」
ふーっ、ああ美味しい。
「百害あって一利なし」
「はい」
「肺癌死亡率十七倍!」
「はい」
(名月やたばこぎらいのタコあたま……ダーメ)
「美貌台なし品くだる」
「はい」
さてと、そろそろ電車が来る。
お月さんまたあした。
「おじさんご忠告ありがとさん。長生きしてね」
おじさんは苦虫かみつぶしたような顔で、ペッペとプラットホームへ唾《つば》を吐いた。品くだりますなあお互いに。
輪になって嫌いなものは嫌いなり
たらいまわし
年の瀬も押しつまってくると、玄関のピンポンピンポンもいそがしい。
集金もあるけれど、私の場合は全国からのお歳暮がひっきりなしのありがたさである。
お歳暮、頂戴物の好みをどう言えば先様にわかってもらえるのだろうか。
わが家のきらいな物にしても、「お歳暮せっかく頂きましたが、うちでは見るのもきらいでして」とはいくら私でも書けない。
そこで、「ありがとう。とても美味しかったです。ごはんのお代りをしたほどよ」なんて調子よく書くものだから、毎年、毎年、きらいな物が届けられることになる。
実にもったいない。
この暮にも、ママカリの酢漬をそっとゴミ袋にしのばせ、生ハムは冷蔵庫で半年生きて死ぬことになりそうだ。
両親や子や友人にたらいまわしするすべは知っているけれど、生モノは留守中に宅配便の倉庫でねむっていたりして「ご賞味期間」がとっくに過ぎている。
あやしい品を送って友人に腹痛を起こさせるわけにいかないし、肉親というのは好き嫌いも似ていて「要らないよ」とニベもない。
果物はどんな物でもありがたくて、これは近所中へ配りまわる。
私はあわて者だから、リンゴ箱の絵を見てすぐにハガキを書いた。「まあ何と粒ぞろいの美味しいりんごでしょう! ありがとう」。
するとその人から電話があって、中味はみかんだということだった。このときほど赤恥かいたことはない。そこで、いくらいそがしくても荷ほどきをしてから礼状をしたためる。
今年はホント、荷ほどきで赤ギレができるほどお歳暮を頂いてしまった。
でも、お歳暮のたらいまわしはまだよい。私の知人は老母のたらいまわしをやっている。その人は六人兄弟だから、二カ月ずつ母上を預かってはまわすのだと言っていた。冬場は困るとかその上に文句をいう兄弟もいて難儀ですわ、とその人は笑っていたが、私は、孫にもらったズックカバンに着替えを詰めては移動するジプシー婆さんを見て涙が出た。
不意に来たことにしておく母の下駄
わたしの父
さっき庭に出ていた父がふいに私の方をふり向いて言った。
「なあ、おとうさんはもしかすると百まで生きるかも知れんよ」
今ひょいとそんな気がしたという父に、私は大きく大きく笑顔でなんべんもうなずいてみせた。
父は耳が遠いので、こちらはほとんどジェスチャーになる。OKよOKよ!
ただいま九十二歳。本人はこれが不満で、「満九十二年はすんだじゃないか。今は九十三年目を生きとる」と言ってきかない。
朝はコーヒーとトーストに果物。昼と晩は好き嫌いなく何でもいただく。月に二回、ビーフステーキを欲しがるほかは食にぜいたくは言わない。
ちょうど今ごろの野のススキそっくりの胸毛をかくし持っていて、これだけは私にもさわらせない。
「おかあさんの物じゃけえ」とはにかむ父の愛くるしさ。
──この人はハイカラで都会好きで。母と私たち姉妹を田舎に放りっぱなしの若い日々だった。
まっくろになって働いた母にこそ私は感謝しなければならないのに、この父好きはどうしたことか。
年に何回か父を招《よ》ぶ専属のタクシーをまわすと、気軽に乗って来てくれる。
今は今年三回目のご招待。
しずかな初冬の山の町で、父は読書にふけっている。私はこれを書いている。父と二人の時間がとてもあたたかい。
「〇×子、〇×子」
と父が呼ぶ。誰のこと?
「あっ、私のことだ、ハーイ」
「Yさんはまだかいの」
(もうすぐ来られますよ)と大書した紙をひらひらさせると父はにっこり。
Yさんは、父が私のところへ来たと知るや、いつもおっとり刀で訪ねてくださるのだ。広告紙をつづった部厚いノートを何冊も抱えて。Yさんは耳の不自由な奥さんを長く看取った人なので筆談がすこぶるうまい。
筆談にもコツがあって、私はどうもよけいなことまで書くらしくて、父の判読に時間がかかる。Yさんのはツーカーで、父が笑い声を立てるほどうまいのだ。
父は今朝、私の亭主を見送って出て、こんなことを言っていた。
「おはようお帰り。ゆうべは負けましたが今夜は仇を取らせてもらいますけえ」ハッハッハと。──どうやら今夜も麻雀らしい。
耳しいの父と話せば微笑《えみ》多し
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
文庫版のためのあとがき
この本は、昭和五十七年の春から初夏にかけて、一気に書き下ろした「五十の話」を芯に、その後の二十一篇を加えて一冊にしたものである。
「五十の話」は『新子つれづれ』と名付けられて、昭和五十七年八月十日に東京のたいまつ社から刊行された。
『新子つれづれ』は、まことにきままな本であった。私の感ずるところを遠慮会釈もなくずばずばと言ってのける。そうして、こういう心理状態から生まれた川柳がこれなんですと附記しているのである。
かといって、これは川柳の解説書ではなく、私にとってはまことに自由なエッセイ集なのであった。
私は『新子つれづれ』を世に売ろうとして書いたのではない。そのことがこの本をよくもわるくもユニークなものにしていると思う。もしも、私の心に少しでもプロ意識があったなら、もう少しは筆に手ごころを加えたにちがいない。今読み返してみても、あきれるばかりの純粋無垢さは、読者を意識しなかったゆえに書きとどめ得たものだと思う。
たとえば文末もこんなふうにわがままである。
「風が私の髪を逆立てた」(三太郎岬)
「『衰えてください』と、その人は言った」(男と女のおはなし)
「おんな三人ピタゴラス、夢かうつつか、夢ならば」(ともだちサンバ)
「今日は五十七年六月八日である」(愛のコリーダ)
「手をくださない殺人行為」(異形の妻)
「ちょいとあなた、私はどこへ行くのです?」(考えてみるけれど)
あれから六年、『新子つれづれ』は折にふれて私の愛読書であった。
心弱る日、心|翳《かげ》る日、心乱れる日。
私は自分が書いた「五十の話」に救われつづけて来たのである。それも、考えてみればおかしな話だったかもしれない。
今年春、この本に注目してくださる人が現われた。文藝春秋の市川森生氏である。私は少しおどろき、心の底から感謝した。
新しい話も加えて七十一話が文春文庫になる。このよろこびを何にたとえればよいのだろう。──この一冊が、多くのあなたの心にとどく日を夢見て、私は今、こよなく美しい秋のタ空をみつめている。
昭和六十三年秋
[#地付き]時 実 新 子
〈底 本〉文春文庫 昭和六十三年十一月十日刊