TITLE : 水滸伝(四)
講談社電子文庫
水滸伝(四)
駒田信二 訳
目 次
第四十四回
錦豹子《きんびようし》 小径《しようけい》に戴宗《たいそう》と逢い
病関索《びようかんさく》 長街《ちようがい》に石秀《せきしゆう》と遇う
第四十五回
楊雄《ようゆう》 酔って潘巧雲《はんこううん》を罵《ののし》り
石秀《せきしゆう》 智もて裴如海《はいによかい》を殺す
第四十六回
病関索《びようかんさく》 大いに翠屏山《すいへいざん》を鬧《さわ》がし
命三《へんめいさん》 火もて祝家店《しゆくかてん》を焼く
第四十七回
撲天〓《はくてんちよう》 双《ふた》たび生死の書を修《したた》め
宋公明《そうこうめい》 一《ひと》たび祝家荘《しゆくかそう》を打つ
第四十八回
一丈青《いちじようせい》 単《ひとり》して王矮虎《おうわいこ》を捉《とら》え
宋公明《そうこうめい》 両《ふた》たび祝家荘《しゆくかそう》を打つ
第四十九回
解珍《かいちん》解宝《かいほう》 双《なら》んで獄を越《のが》れ
孫立《そんりつ》孫新《そんしん》 大いに牢を劫《おびや》かす
第五十回
呉学究《ごがつきゆう》 双《ふた》たび連環《れんかん》の計《けい》を掌《と》り
宋公明《そうこうめい》 三たび祝家荘《しゆくかそう》を打つ
第五十一回
插翅虎《そうしこ》 枷《かせ》もて白秀英《はくしゆうえい》を打ち
美髯公《びぜんこう》 誤って小衙内《しようがない》を失《うしな》う
第五十二回
李逵《りき》 殷天錫《いんてんしやく》を打ち死《ころ》し
柴進《さいしん》 高唐《こうとう》州に失陥す
第五十三回
戴宗《たいそう》 智もて公孫勝《こうそんしよう》を取り
李逵《りき》 斧《おの》もて羅真人《らしんじん》を劈《き》る
第五十四回
入雲竜《にゆううんりゆう》 法を闘わして高廉《こうれん》を破り
黒旋風《こくせんぷう》 穴を探って柴進《さいしん》を救う
第五十五回
高太尉《こうたいい》 大いに三路の兵を興《おこ》し
呼延灼《こえんしやく》 連環馬《れんかんば》を擺《なら》べ布《し》く
第五十六回
呉用《ごよう》 時遷《じせん》を使って甲《よろい》を盗ましめ
湯隆《とうりゆう》 徐寧《じよねい》を賺《だま》して山に上《のぼ》らしむ
第五十七回
徐寧《じよねい》 鉤鎌鎗《こうれんそう》を使うを教え
宋江《そうこう》 連環馬《れんかんば》を大いに破る
水滸伝(四)
第四十四回
錦豹子《きんびようし》 小径《しようけい》に戴宗《たいそう》と逢い
病関索《びようかんさく》 長街《ちようがい》に石秀《せきしゆう》と遇う
さて、そのとき李逵《りき》は朴刀《ぼくとう》を挺して李雲《りうん》とたたかい、ふたりは道ばたで六七合わたりあったが、勝負はつかなかった。と、朱富《しゆふう》が朴刀でなかに割ってはいり、
「まあ、やめて、聞いてくれ」
と叫んだ。ふたりはともに手を引いた。すると朱富は、
「師匠、お聞きください。わたくしは師匠から過分にお目をかけていただき、また槍棒《そうぼう》のご指南をしていただいて、ご恩を忘れたわけではございませんが、わたしの兄の朱貴《しゆき》というのがいま梁山泊《りようざんぱく》で頭領になっていて、このほど、及時雨《きゆうじう》の宋公明《そうこうめい》どのの命令で李兄貴の後見にやってきましたところ、李兄貴が師匠の手でとらわれの身となりましたために、わたしの兄は帰って宋公明どのにあわせる顔がありませんので、そのためあのような手段におよんだのでございます。さきほどは李兄貴が勢いにまかせて師匠をあやめようとしましたが、わたくしはそれをおしとめて、ただ土兵たちだけを斬らせたのです。わたしたちはもともとこのまま遠くへ逃げてしまうつもりだったのですが、考えてみれば師匠は帰るにも帰れずに、きっとわれわれを追ってみえるだろうと思い、また、師匠から受けた日ごろのご恩を思ってわざわざここでお待ちしていたのです。師匠、あなたは考えぶかいおかたですから、よくおわかりのことと思いますが、こうしておおぜいのものを殺されたうえに、黒旋風《こくせんぷう》を逃がしたとあっては、知県のところへお帰りになるのはどんなものでしょう。もし帰って行かれたとしても、お咎めを受けられるにきまっておりますし、救いの手をさしのべるものもありますまい。それよりもいっそのこと、このままわたしたちといっしょに山へ行き、宋公明どののもとへ身を投じて仲間入りをなさったほうがよいと思うのですが、どうでしょう」
李雲はしばらく考えてから、
「しかし、むこうでわしを迎えいれてくれるかどうか」
といった。朱富は笑って、
「師匠、あなたも山東《さんとう》の及時雨の大名はお聞きでしょう。もっぱら有為有能の士をまねき、天下の好漢と交わりを結ぼうとしていることを」
李雲はそういわれると、ほっと吐息をついて、
「家はあれども帰りもならず、国はあっても頼りもできずか。さいわい家族もないからお上にとっつかまる心配もなし、あんたたちについて行くとするか」
すると李逵が笑いながら、
「兄貴、あんたなぜそれを早くいわぬ」
といい、李雲と礼をかわした。李雲はまだ妻帯しておらず、家財などというものもなかったので、さっそく三人はいっしょになって車のあとを追って行った。途中で朱貴は三人に会って大いによろこんだ。こうして四人の好漢は車につきそって行ったが、道中は格別の話もなく、やがて梁山泊の近くまで行くと、馬麟《ばりん》と鄭天寿《ていてんじゆ》とが迎えにきていて、それぞれ挨拶をかわした。
「晁《ちよう》・宋ふたりの頭領が、またもやわれわれふたりに、山をおりてあんたたちの様子を見に行くようにいわれたのだ。ここで会ったから、われわれは一足さきに帰って報告するとしよう」
と、ふたりはすぐ山へ知らせに行った。翌日、四人の好漢は朱富の家族をともなって梁山泊の大寨の聚義庁《しゆうぎちよう》についた。朱貴はすすみ出て、まず李雲を晁・宋の頭領にひきあわせ、つづいて好漢ら一同に紹介した。
「このかたは沂水《ぎすい》県の都頭《ととう》で、姓は李、名は雲といい、あだ名は青眼虎《せいがんこ》といいます」
ついで朱貴は朱富に、一同に対して礼をさせて、
「これはわたくしの弟で朱富といい、あだ名は笑面虎《しようめんこ》と申します」
一同、初対面の挨拶がおわると、李逵は宋江に挨拶をし、二梃の板斧《はんぷ》をかえしてもらった。そして、母親をつれて沂嶺《ぎれい》まできたところ、母は虎に食われてしまい、そこで四匹の虎を殺すに至ったことの顛末《てんまつ》を話した。さらに、仮《にせ》の李逵が追剥ぎをして殺された一件を話すと、一同は大いに笑った。晁・宋のふたりも、笑いながらいった。
「あんたが四匹の虎を殺したおかげで、このたび山寨では二匹の生きた虎(青眼虎と笑面虎)を手にいれた。お祝いをしよう」
好漢ら一同は大いによろこび、さっそく羊を殺し馬を屠《ほふ》らせて、ふたりの新しい頭領のために祝宴を張った。晁蓋《ちようがい》はふたりを、左側の列の白勝《はくしよう》の上位の席につかせた。
呉用《ごよう》がいった。
「このごろ山寨は大いにふるい、そのため四方の豪傑たちがあいついで馳せ参じるようになりましたが、これはみな晁・宋二兄の徳のいたすところであり、また兄弟たち一同の福のもたらせるものであります。ところで、朱貴にはもとどおり山の東の居酒屋をあずかってもらうことにして、石勇《せきゆう》と侯健《こうけん》はこちらへひきあげてもらいます。朱富の家族には別に一棟の住居を調達しましょう。いまや山寨の規模は以前とはくらぶべくもなく大きくなってきましたので、さらにもう三ヵ所に居酒屋を増設して、あらゆる情報を探知するとともに、往来の義士を山に勧誘することにつとめたいと思います。そうすれば、もし朝廷から討伐軍がさしむけられたときでも、兵のすすみぐあいを知ることによって手ぬかりなく準備をととのえることができるわけです。そこで、西の山は地勢が広くひらけているので、そこには童威《どうい》・童猛《どうもう》兄弟に、部下十数名をつれて行って店をもってもらうことにし、李立《りりつ》は同じく十数名をつれて行って山の南で店をひらき、石勇は同じく十名あまりをつれて行って山の北で店をひらいてもらうことにします。そしていずれにも水亭を設け、合図の矢で船との連絡をとり、変事のあった場合には火急の報告をするようにしてもらいたい。また、山の表正面には三つの大関門をつくり、これは杜遷《とせん》に統轄してもらうことにしますが、それぞれの持場がきまった上は、勝手な変更や離脱のないよう監督してもらいたい。また陶宗旺《とうそうおう》には土木工事を監督して、船つき場を浚《さら》え、水路を修め、運河を開き、宛子城《えんしじよう》の城壁を修理し、山の表正面の本道を補修してもらいたい。陶宗旺は百姓の出ゆえ、土木のことはくわしいと思う。蒋敬《しようけい》には倉庫の支出や納入、あれこれの記帳などをつかさどってもらうことにします。蕭譲《しようじよう》には山寨の内外、山上や山麓、および三つの関門のさまざまな通牒や出入取締りの規約、大小の頭領の順位の登録などをあつかってもらいます。金大堅《きんたいけん》にはいっさいの手形・印章・鑑札などの彫刻を、侯健には戎衣・鎧甲・各種の旗さしものなどの調製を、李雲には梁山泊のいっさいの家屋・庁舎の建築を、馬麟には大小の戦船の建造のことをつかさどってもらいます。宋万《そうまん》と白勝は金沙灘《きんさたん》に、王矮虎《おうわいこ》と鄭天寿は鴨嘴灘《おうしたん》に、それぞれ寨をかまえてもらいたい。穆春《ぼくしゆん》と朱富は山寨の金銭糧秣の収入をあつかってもらいます。呂方《りよほう》と郭盛《かくせい》は聚義庁の左右の傍《わき》部屋に詰めてもらい、宋清《そうせい》にはもっぱら宴席のほうのことをやってもらうことにします」
こうして分担がきめられたあと、三日にわたる宴席がくりひろげられたのであるが、この話はそれまでとして、梁山泊にはその後平穏な日がつづき、毎日もっぱら兵を調練し、武芸を練習し、水寨では頭領たちが船漕ぎや水泳ぎや、また船上での戦いなどを教練したが、この話もそれまでとして、ある日のこと、宋江は晁蓋・呉学究《ごがつきゆう》、その他の頭領たちと雑談していうには、
「われわれ兄弟はみなここに集まっているのに、ただ公孫一清《こうそんいつせい》だけがまだ帰ってこない。薊《けい》州へ母と師匠をたずねに帰って行って、百日たったらもどると約束しながらもう大分すぎたのになんのたよりもないが、約束を破って帰ってこないのではないだろうか。ご苦労だが戴宗《たいそう》どのにひとっ走りおねがいして、彼がどうしているのか、なぜ帰ってこないのかをさぐってもらいたいのだが」
戴宗が承知すると宋江は大いによろこんで、
「あんたの足なら十日もあれば様子がわかりましょう」
その日、戴宗はみなに別れを告げ、翌朝、役所の走り使いの身なりをして山をおりて行った。まさに、
走卒たりと雖《いえども》も、軍班を〓《し》めず。一生常に異郷の人と作《な》り、両腿は他《かれ》の行路の債《さい》を欠《か》く。監司(役所)の出入には〓花《そうか》(黒色)の藤杖に宣牌《せんぱい》(通行手形)を掛け、帥府の行軍には黄色の絹旗に令《れい》(伝令)の字を書す。家居千里、日は時を移さず、緊急の軍情には、時は刻を過《すご》さず。早《あした》には山東《さんとう》に向《おい》て黍米《しよべい》を餐し、晩《ゆうべ》には魏府《ぎふ》(河北大名《たいめい》県。宋代には軍府の所在地であった)に来《きた》って鵝梨《がり》を吃す。
さて戴宗は梁山泊をあとにして薊州へとむかったが、四枚の甲馬を脚にくくりつけて神行《しんこう》の術をつかい、道中の飲み食いはお茶と精進ものばかり。行くこと三日で沂水県の県境についた。と、人々のうわさしあっているのが耳にはいってきた。
「せんだって黒旋風をとり逃がし、おおぜいのものがその手にかけられ、都頭の李雲もまきぞえにされて行くえしれずになり、いまもってどうなったかわからぬそうだ」
戴宗はそれを聞いてせせら笑った。その日道を急いで行くと、むこうから鉄の筆管槍《ひつかんそう》(すやり)を持った男がやってきた。その男は戴宗の足の早いのに目をとめると、立ちどまって、
「神行太保《しんこうたいほう》」
と呼んだ。戴宗はそれを聞き、ふりむいて見さだめると、坂の下の小路のところにひとりの大男が立っている。丸い頭に大きな耳、鼻筋がとおり口もとはいかつく、眉は秀《ひい》で眼は澄み、腕は細く肩幅の広い男である。戴宗は急いでひき返して行って、たずねた。
「壮士、お目にかかったこともないのに、どうしてわたしの名をお呼びなさったので」
すると男はあわてて、
「やはり神行太保どのでしたか」
と、槍を投げすてて、そこに平伏した。戴宗は急いで助けおこして答礼をし、
「あなたのお名前は?」
とたずねる。
「わたしは姓は楊《よう》、名は林《りん》といい、彰徳府《しようとくふ》のものですが、ずっと盗賊をはたらいて暮らしておりまして、世間ではわたくしを錦豹子《きんびようし》の楊林と呼んでおります。数ヵ月まえ、通りの酒屋で公孫勝《こうそんしよう》先生におあいし、ごいっしょに酒を飲みましたが、そのときのお話に梁山泊の晁・宋のおふたりは有為な人物を招いておられて、なかなか義気のあるおかただと聞かされ、手紙を書いてくださって、自分で山寨へ行って仲間に加わるようにといわれたのですが、早々にあつかましく出かけて行くこともできずにいたところです。公孫先生はそのときまたこうもいわれました。李家道の入口で朱貴という人が以前から居酒屋をやっていて、山へはいって仲間に加わろうとするものの案内をひきうけていると。また、山寨には人材を招いたり火急の知らせをつたえたりする頭領で、神行太保の戴院長という人がいて、一日に八百里を歩くことができると。さきほどあなたの足の速さの尋常でないのを見まして、それで声をかけてみたのですが、やはりあなたでした。まったくこれは天のお導きというもの、はからずもおあいすることができました」
「わたしは、公孫勝先生が薊州へ帰られたままなんの音沙汰もないものですから、このたび晁・宋おふたりのいいつけで薊州へ様子をさぐりに行き、公孫勝どのをさがし出して、山寨へ帰ってもらおうとしているわけなのですが、まったく、思いがけなくあなたにおあいしたものです」
「わたしは彰徳府のものですけれど、薊州管下の州郡はどの地方へも行ったことがありますから、もしお邪魔でなかったらおともをさせていただきたいと思いますが」
「そうしていただければ、それはねがってもない好都合です。公孫先生をさがしあててから、いっしょに梁山泊に帰ることにしましょう」
楊林はそういわれて大いによろこび、すぐその場で義兄弟の盟《ちかい》を結んで戴宗を義兄と仰いだ。戴宗は甲馬をはずしていっしょにゆっくりと歩き、夕方、村の宿屋に泊まった。楊林は酒をとって戴宗をもてなそうとしたが、
「わたしは神行の術をつかいますので、なまぐさはいただきません」
と戴宗がいうので、ふたりはともに精進料理をとった。一夜明けて、翌日は早く起きて飯ごしらえをし、朝飯をすませると、出発の支度をしたが、そのとき楊林は、
「あなたが神行の術をつかって行かれるのに、わたしが追いついて行けるはずはありません。ごいっしょはできないように思いますが」
ときいた。すると戴宗は笑いながら、
「わたしの神行の術は、いっしょに人をつれて行けるのです。あんたの脚に甲馬を二枚くくりつけて術をつかうと、わたしと同じように早く歩けて、行くも止まるも自由自在です。そうでなければ、わたしについてこられるはずはないでしょう」
「しかし、わたしは俗人の身で、あなたのような神体ではありませんが」
「かまいません。わたしのこの術は誰にでもかかります。かけたらわたしと同じように歩けるのです。ただわたしだけが精進しておればそれでよいのです」
と戴宗はその場で二枚の甲馬をとり出して楊林の脚にくくりつけ、みずからも二枚くくりつけて神行の術をかけ、ふっと息をふきかけると、ふたりはかるがると歩き出した。早くもおそくもみな戴宗の意のままだった。ふたりはみちみち世間話などをしながら、ゆっくりと歩いているつもりだったが、いつしか遠くまですすんでいた。そして巳牌《しはい》(昼前)ごろ、四方に高い山をめぐらしてそのなかにひとすじの駅路の通っている、とあるところについた。楊林はそこを知っていて、戴宗にいった。
「兄貴、ここは飲馬川《いんばせん》というところで、むこうのあの山のなかには、いつもおおぜいの賊がいたのですが、このごろはどうだか。山のかたちが綺麗で、川がめぐり流れ、峯がとりまいているので飲馬川と呼ばれているのです」
ふたりが山の近くまで行ったとき、とつぜん銅鑼《どら》が一声鳴りひびいて軍鼓を乱打する音が聞こえるとともに、二百人ほどの賊の手下が飛び出してきて行くてをさえぎった。その先頭にはふたりの好漢がおしたてられていて、それぞれ朴刀をかまえて大声でどなった。
「やい、旅のもの、止まれ。きさまたちふたりはなにやつだ、どこへ行く。血のめぐりのよいやつなら、さっさと通り賃をおいて行け。そしたらいのちだけは助けてくれるわ」
楊林は笑いながら、
「兄貴、見ていてください。あの馬鹿ものどもを片付けてやりますから」
と筆管槍をしごきながらおそいかかって行く。相手の好漢ふたりは、彼がものすごい勢いで突進してくるのを見ると、すすみ出て見つめたが、頭格《かしらかく》のほうが、とつぜん、
「待った。これはまた、楊林の兄貴ではないか」
と叫んだ。楊林は見て、はじめて気がついた。頭格の大男は武器をひっさげたまま歩み寄って礼をし、すぐ二の親分格の、のっぽの男を呼んでともに挨拶をした。楊林は戴宗に、
「兄貴、こちらへきてこのふたりの兄弟に挨拶をしてやってください」
戴宗は、
「このふたりの壮士はどなたです。あんたとどうしてお知りあいなので」
とたずねる。
「わたしと知りあいのこの好漢は蓋天軍《がいてんぐん》の襄陽《じようよう》の生まれで、姓は〓《とう》、名は飛《ひ》といい、両の瞳がまっ赤なところから世間の人々から火眼〓猊《かがんしゆんげい》(〓猊は獅子)とあだ名されております。鉄鏈《てつれん》(くさり鎌の類)をつかわせたらなかなかの名手で、誰しも近よれるものはないでしょう。以前はずっと仲間になっていたのですが、別れてから五年、一度もあわずにいましたところ、思いがけなくもきょうここで出あったというわけです」
すると〓飛がたずねた。
「楊林の兄貴、このかたはどなたで。もとよりただのおかたではないでしょうが」
「このかたは梁山泊の好漢のひとり、神行太保の戴宗というおかただ」
「というと、江州の戴院長、一日に八百里の道を行くという、あのおかたなので」
「そうです。わたくしです」
と戴宗が答えると、かのふたりの親分はあわてて礼をして、
「お名前はかねてからうけたまわっておりましたが、きょうここでお目にかかろうとは思いもかけませんでした」
戴宗がその〓飛なる人物を見るに、いかなる人物かといえば、ここに詩があっていう。
原《もと》は是れ襄陽の閑撲漢《かんぼくかん》(風来坊)
江湖に飄蕩《ひようとう》して帰るを思わず
多く人肉を《くら》って双睛《そうせい》赤し
火眼の〓猊《しゆんげい》是れ〓飛
そのときふたりの壮士は礼をかわしあったが、おわって戴宗はまたたずねた。
「そちらの好漢は、なんとおっしゃるので」
「わたしのこの弟分は、姓は孟《もう》、名は康《こう》といい、真定《しんてい》州の生まれで、大小の船舶をつくることがうまいのですが、かつて花石綱《かせきこう》を運ぶための大船の建造をいいつけられましたとき、監督官が仕事をせきたてて責めたのを怒って、ついその監督官を殺してしまい、家をすてて逃亡し、盗賊の仲間にはいって暮らすようになったのですが、それからもう随分になります。背が高く色が白いので、人々はそのすばらしい身体を見てあだ名をつけ、玉幡竿《ぎよくはんかん》(白玉の旗竿)の孟康と呼んでおります」
戴宗はそうひきあわされて大いによろこび、その孟康なる人物を見るに、いかなる様子かといえば、ここに詩があっていう。
能く強弩《きようど》を攀《ひ》いて頭陣を衝《つ》き
善く艨艟《もうどう》を造って大江を越ゆ
真州の妙手の楼〓《ろうこう》(大船)の匠
白玉の幡竿《はんかん》是れ孟康
そのとき戴宗はふたりの様子を見て心中大いによろこんだ。四人の好漢が話をかわしているうちに、楊林がたずねた。
「あなたがたがここに集まられてから、どれくらいになります」
「じつは一年あまりになります。ところが半年ほど前のこと、ここの真西《まにし》のところでひとりの兄貴に出あったのです。姓は裴《はい》、名は宣《せん》といい、京兆府《けいちようふ》の出身、もとはそこの裁判係の孔目《こうもく》をつとめていた人で、事務の才腕はたいしたもの。人柄はまっすぐで頭もよく、いいかげんなことは一寸一分もしない、それで土地の人々はみな鉄面《てつめん》孔目と呼んでおります。それに、槍や棒、刀や剣のほうもなかなかのつかい手で、智勇かねそなえた人なのです。ところがお上から意地のきたない知府が任命されてきて、あらさがしをして沙門島《さもんとう》へ流罪されることになり、ここを通りかかったところを、わたしたちが護送役人を殺し、救い出してここにおちついてもらい、二三百人の手下を集めたというわけです。この裴宣という人はすごい両刀づかいですし、また年長者でもあることから、現に山寨の首領になってもらっています。どうかごいっしょに山へお越しくださって、お会いねがいたいのですが」
〓飛はそういうと、手下のものに馬を牽《ひ》いてこさせて戴宗と楊林を乗せ、四騎は山寨へむかった。ほどなく山寨の前について馬をおりると、裴宣はすでに知らせをうけていて、急いで山寨を出、階段をおりて迎えに出てきた。戴宗と楊林が裴宣を見るに、まことに立派な風貌で、顔白く体肥《ふと》り、どっしりとしている。ふたりは内心大いによろこんだ。ここに裴宣をうたった詩がある。
事を問う(訴訟を裁く)時巧智心霊《こうちしんれい》
筆を落《おと》す(判決をくだす)処神《しん》号し鬼《き》哭《こく》す
心平恕《へいじよ》にして毫髪《ごうはつ》も私《わたくし》無し
裴宣を称す鉄面孔目と
そのとき裴宣はふたりの義士を聚義庁に迎え入れ、互いに礼をかわしてから、戴宗を正面の座につかせ、ついで裴宣・楊林・〓飛・孟康の順に、五人の好漢は主客それぞれの座について酒宴となり、その日は楽の音もにぎやかに酒をくみかわしたのであったが、ここでみなさんにご注意ねがいたいことは、彼らもみな地〓星《ちさつせい》の数にはいる人々であって、時節が到来しておのずからここに集まったのであるということである。これをうたった詩がある。
豪傑の遭い逢うは信《まこと》に因《いん》有り
連環鉤鎖《こうさ》の共に相尋《めぐ》るがごとし
漢廷の将相は屠釣《とちよう》(注一)に〓《よ》る
怪しむ莫《なか》れ梁山の錯《まじわ》って心を用うるを
一同が酒をくみかわしているとき、戴宗が席上、晁・宋二頭領のことを話し出して、ふたりが有為の士を招き、四方の豪傑と交わりを結び、なごやかに人を遇し物に接し、義を重んじて財を疎《うとん》じることなど、いろいろの美点をあげ、麾下の頭領たちが心をひとつにし力をあわせ、周囲八百里の梁山泊がいかに雄壮なものになっているか、その中央には宛子城・蓼児〓《りようじわ》があり、周辺は茫々とひろがる湖であり、そのうえ厖大な兵力を擁していて、たとえ官軍が攻めてこようともなんのおそれもない、と熱心に三人のものに話した。すると裴宣がいうには、
「わたくしの山寨にも三百人あまり兵力があります。蓄財も十車輛あまりあり、糧秣《りようまつ》はかぞえきれぬほどございますが、もしおさしつかえなければ、わたくしどもを大寨へ加わらせてくださるようご配慮いただけませんか。そうすれば、ご命令に従って微力をささげさせていただきますが、いかがでしょうか」
戴宗は大いによろこんで、
「晁・宋のおふたりは他意なく人を迎えられます。みなさんのご協力が得られるならば、錦上《きんじよう》に花を添えるようなものです。もしほんとうにそういうお気持なら、さっそく荷物をおまとめください。わたしは楊林といっしょに薊州へ公孫勝先生をさがしに行ってきますが、その帰りにみないっしょに官兵の身なりをして、急いで行くことにしましょう」
一同は大いによろこび、やがて酔いもほどよくまわったころ、席を山の裏手の断金亭《だんきんてい》へ移して飲馬川の景色を眺めながら酒盛りをした。飲馬川の眺めはまことにすばらしく、
一望茫々たる野水、週廻隠々なる青山。幾多の老樹残霞《ざんか》に映じ、数片の彩雲遠岫《えんしゆう》に飄る。荒田寂寞として、応《まさ》に稚子(童児)の牛を看る(牛を飼う)もの無かるべく、古渡(さびれた渡し場)凄涼として、那《なん》ぞ奚人《けいじん》(僕夫)の馬に飲《みずか》うを得ん。ただ強人《きようじん》の寨柵《さいさく》を安《お》くに好く、偏《ひとえ》に好漢の旌旗を展《の》ぶるに宜《よ》し。
戴宗はこの飲馬川の山景を見ると、大いにほめて、
「まったくすばらしい景色だ。これこそ秀麗というものだ。あなたがたはどうしてここへこられたのです」
「もとは、つまらないちんぴらどもがたむろしていたのですが、あとからわれわれふたりがやってきて、ここをふんだくってやったのです」
と〓飛が答え、一同は大笑いをした。五人の好漢はしたたかに酔った。裴宣が立ちあがり、剣舞をして酒興をそえると、戴宗はしきりにほめた。夜になって、一同は山寨へひきあげてそれぞれ休んだ。翌日、戴宗はどうしても楊林とともに山をおりるといい、三人の好漢はひきとめきれず、麓まで送って行って別れると、山寨に帰って旅の荷物をとりまとめ、出立の準備をしたが、この話はそれまでとする。
さて戴宗と楊林は、飲馬川の山寨をあとに、朝立ち夕泊まりの旅をかさね、やがて薊州の城外について、ある宿屋に身を休めた。そのとき楊林のいうには、
「兄貴、わたしの思うには、公孫勝先生はお坊さんですから、きっと山のなかとか田舎とかにおられて、城内ではありますまい」
「なるほど」
と戴宗はいい、そこでふたりはまず城外へ行って、あちこち公孫勝先生の行くえをたずねまわったが、知っているものは誰もなかった。一晩泊まって、その翌日は早く起き、こんどは遠くの村や町へ行ってたずねてみたが、やはり誰も知っているものはなかった。ふたりはまた宿屋に帰って休んだが、三日目に戴宗のいうには、
「城内に誰か知っているものがいるかも知れない」
その日は楊林とともに薊州の城内へはいって行ってさがした。ふたりは物馴れた人たちにたずねてみたが、誰もみな、
「知りませんな。城内の人ではないでしょう。ほかの県の名山とか大刹とかにおられるかも知れませんな」
という。
楊林がある通りを歩いていると、むこうのほうからにぎやかに囃《はや》したてながら、ひとりの男を送ってくるのが見えた。戴宗と楊林が立ちどまって眺めると、前にはふたりの獄卒が、ひとりはたくさんの祝儀の紅絹を肩にかけ、ひとりは緞子《どんす》や采絹《いろぎぬ》を両手にささげている。そのうしろには、青い羅《うすぎぬ》の傘をさしかけられて、ひとりの牢役人(注二)兼首斬り役人がやってくる。その男は堂々たる風貌で、全身に彫《ほ》った藍〓《らんてん》(藍色染料)のような刺青《いれずみ》をむきだし、両眉は鬢《びん》にとどくほど秀で、鳳眼(きれ長の眼)はつりあがり、顔色はうす黄色く、ひげはまばら。この男は河南の生まれで、姓は楊《よう》、名は雄《ゆう》といい、従兄《いとこ》が薊州に知府として赴任したときついてきたまま、ずっとここに住みついたのである。その後にきた新しい知府も彼と知りあいだったので、牢役人にとりたて、兼ねて刑場の首斬り役人に任じたのであった。武芸に秀で、その顔がうす黄色いことから、人々は彼を病関索《びようかんさく》(関索は関羽《かんう》の第三子)の楊雄とあだ名していた。ここに楊雄をほめた臨江仙《りんこうせん》(曲の名)のうたがある。
両臂の雕青《ちようせい》(いれずみ)は嫩玉《どんぎよく》を鐫《きざ》み、巾環眼《きんかんがん》(頭巾のふちかざり)は玲瓏《れいろう》を嵌《は》む。鬢辺愛《この》んで挿《さ》す翠芙蓉《すいふよう》。背心《はいしん》(上衣の背中)に〓《かい》(首斬り)の字を書し、杉串《さんかん》(下着)は猩紅《せいこう》を染む。事(罪)を問うては庁前に手段を逞《たくま》しくし、刑を行《おこな》っては刀利《するど》きこと風の如し。微黄の面色、細眉濃《こ》し。人は称す病関索と、好漢是れ楊雄。
そのとき楊雄は人々に前後をはさまれながら歩いてきた。うしろからは、ひとりの獄卒が鬼頭の柄の処刑用の刀を捧げてくる。これは、つい今しがた仕置場で処刑してきての帰りで、知りあいのものらが、祝儀に紅絹をかけてやって、その帰りを送り、ちょうどいま戴宗と楊林の前を通りすぎて行くところなのであった。路地の入口のところで一群の人たちが一行をおしとめて酒を振舞ったが、と、そのとき、かたわらの小路から七八人の兵士がとび出してきた。その頭格《かしらかく》の男は〓殺羊《てきさつよう》(羊蹴殺《けころ》し)の張保《ちようほ》というもの。この男は薊州城の守備兵で、四五人の手下をつれていつも城の内外で銭をゆすり歩いているならずもの。なんどお上にあげられてもいっこうに改めず、楊雄が他国からきた男なのに人々から一目《いちもく》おかれているのを見て腹にすえかねていたところ、この日ちょうど、楊雄がたくさんの品を祝儀にもらっているのを見て、四五人のならずものをつれ、一杯機嫌で、このときとばかり追いかけてきて喧嘩を売ろうとしたのである。見れば路地の入口のところで人々が楊雄をひきとめて酒を飲ませているので、張保は人々をおし分けて楊雄の前にとび出して行き、
「節級(注三)さん、こんにちは」
と声をかけた。
「やあ、一杯どうです」
と楊雄がいうと、張保は、
「いや、酒はもうたくさんだ。あんたに百貫ほど貸してもらおうと思ってわざわざやってきたんですがね」
「わしもおまえを知らぬではないが、まだ銭金《ぜにかね》のつきあいとまではいかぬ仲だ。どうしてこのわしに借金などしようというのだ」
「おまえさんは、きょうは人からごっそり巻きあげたところだ。貸してくれたってよかろうじゃないか」
「これはみんな人さまがわしにくださったお祝儀だ。それを、巻きあげたとはなんだ。ゆすりにきたって、わしとおまえとはお役目の筋がちがうぞ」
張保はそれには答えず、連中におそいかからせて、いきなり祝儀の紅絹や緞子を奪い取ってしまった。
「なにをしやがる!」
と叫んで、楊雄は奪い取ったやつらにうちかかって行こうとしたが、張保に胸倉をつかまれ、うしろからもふたりのものに腕を取られてしまった。他のものもいっせいにおそいかかってくる。獄卒たちはばらばらと逃げてしまい、楊雄は、張保とふたりの兵士とにつかまえられて腕をふるうことができず、無念にも振りほどくことができない。こうしてどたばたやっているとき、ひとりの大男が薪をかついで通りかかり、おおぜいのものが楊雄を身うごきもならぬようにつかまえているのを見た。大男はそれを見るなりこれは捨ておけぬと、すぐさま薪の荷をおろし、人々をかきわけて行って、
「おまえたちはなぜこの節級どのに乱暴をする」
と割ってはいった。すると張保は眼をむいてどなりつけた。
「この懲役やろうの、死にぞこないの乞食め。きさまなんかの出る幕じゃないわ」
大男は大いに怒り、かっとなって、いきなり張保をつかまえるがはやいか地面にひっくりかえした。ほかの碌《ろく》でなしどもはそれを見てつかみかかろうとしたが、それよりも早くかの大男にぽかぽかと拳骨でなぐりつけられて、みんなそこいらにうちのめされてしまった。ようやく身が自由になった楊雄は、手並みを見せて、まるで筬《おさ》のごとくに拳骨をふるい、ごろつきどもを片っぱしから殴りたおした。張保はかなわぬと見るや、這いおきて一目散に逃げ出す。楊雄はいきり立って大股にそのあとを追った。こうして、張保は包みを奪ったやつのあとから逃げ、そのあとを楊雄が追いかけて、路地のなかへ折れて行った。大男はなおも手をひかず路地の入口であいつこいつと殴りまわしている。戴宗と楊林はそれを見てひそかに快哉を叫んだ。
「まさしく好漢だ。路に不平を見れば刀を抜いて相《あい》助《たす》く、とはこのことだ。真に壮士というものだ」
まさに、
匣裏《こうり》の竜泉《りゆうせん》(名剣の名)争って出《い》でんと欲するは
ただ世に不平の人有るに因る
旁観して能く非と是とを弁ず
相助くる安《いずく》んぞ疎と親とを知らん(親疎の別なし)
そのとき戴宗と楊林はすすみ出て行って、
「好漢、どうかわたくしどもふたりの顔に免じて、ひとまず手をおひきください」
ととりなだめ、ふたりは彼をとりなしてとある小路へつれこんだ。楊林は代わって薪をかついでやり、戴宗は手をとって居酒屋へつれて行った。楊林も荷をおろしていっしょに部屋へはいった。大男は手をこまぬいて礼をし、
「おふたりのおかげで、とんだことになりかねないところを助けていただきまして」
といった。戴宗は、
「わたくしどもはこの土地のものではございませんが、あなたが義をおこなわれるのを見ているうちに、ついお力があまって人を殺《あや》めなさるようなことがあってはと案じ、あのようなさし出がましいことをいたしました次第。まあ一杯召しあがっていただいて、ここで交誼を得たいと思いまして」
「おふたりにあの場をおさめていただきましたうえに、おもてなしにまであずかっては恐縮です」
「四海のうちはみな兄弟といいます。なんのご遠慮がいりましょう。さあ、どうぞおかけになって」
と楊林もいった。戴宗は上席をすすめたが、男はどうしても坐らない。結局、戴宗と楊林はならんで坐り、男はそのむかいの席についた。そこで給仕を呼び、楊林はふところから銀子一両を出して給仕にわたし、
「なんでもよいから、お菜をどしどしもってきてくれ。勘定はいっしょにするから」
給仕は銀子を受けとり、野菜のもの、つまみもの、酒の肴などを出した。それぞれ酒を数杯くみかわしたところで、戴宗がきいた。
「壮士、お名前はなんとおっしゃいます? またご郷里はどちらで」
「わたくしは姓は石《せき》、名は秀《しゆう》といい、金陵《きんりよう》は建康府《けんこうふ》のものです。小さい時から槍棒をたしなみ、意地っぱりな性分で、人がひどい目にあっているのを見ると助けずにはおられませんので、人さまから命三郎《へんめいさんろう》(命はいのち知らず)とあだ名されております。叔父について他郷へ出、羊や馬の売買をやっておりましたが、はからずも叔父に亡くなられ、もとでをすってしまって郷里ヘ帰ることもできず、落ちぶれはててこの薊州で薪売りを口すぎにしている次第です。ご交誼をかたじけなくいたしましたので、ありのままを申しあげました」
「わたしたちふたりは所用で当地へやってまいり、あなたにお目にかかったわけですが、あなたのような豪傑がこんなところに落ちぶれて薪売りなどなさっていても、どうにもなるものではありますまい。いっそのこと世間へのりだして、これからの半生を愉快に送ることになさったほうがよいじゃありませんか」
と戴宗がいうと、石秀は、
「わたくしは少しばかり槍棒が使えるだけで、ほかにはなんの芸もない身です。世間にのりだして愉快に暮らすことなどとてもかないません」
「当節はまともなことの通らぬ世の中。ひとつには朝廷が暗く、ふたつには奸臣どもがたちふさがっているからです。わたしはなんの見識もないものですが、いや気がさして梁山泊の宋公明どののところへ身を投じ、仲間にいれてもらって、今では金銀は秤で分け、着物は好きほうだい着ほうだいというありさまですが、やがて朝廷からおゆるしがあれば、いずれはみなお役につこうと考えております」
石秀はため息をついて、
「わたしには行きたくても、なんのつてもありませんので」
「あなたが行こうとおっしゃるなら、わたしがご推薦しましょう」
と戴宗がいうと、石秀は、
「失礼ですが、おふたりさんはどなたでいらっしゃいましょうか」
「わたくしは、姓は戴、名は宗といい、こちらの兄弟は姓は楊、名は林といいます」
「では世間におうわさの聞こえた江州の神行太保というのは、あなたさまのことで」
「そうです。わたくしです」
と戴宗は、楊林にそのふところの袱紗包みから十両の錠銀を一枚とり出させ、もとでにするようにと石秀にやった。石秀はなかなか受けとろうとせず、再三辞退したあげくようやく収めた。そして相手が梁山泊の神行太保であることがわかったので、すっかり心のなかをうちわって仲間にいれてもらうようにたのもうとしていると、とつぜん外に誰かのたずねてくるのが聞こえた。三人が見るとそれは楊雄で、捕り手の役人を二十名ばかりひきつれ、あとを追って居酒屋へやってきたのだった。戴宗と楊林はそのおおぜいな数にびっくりし、どさくさまぎれにあたふたと逃げて行ってしまった。
石秀は立ちあがって迎え、
「節級どの、どこへ行っておられたので」
「兄貴、どこをさがしても見つからなかったが、ここで酒を飲んでおられたのですか。わたしが不覚にもあいつらに手をとりおさえられて腕をふるえずにいたところを、あなたのお力でうまくあの場を救っていただきましたのに、包みをとりかえそうとして、ついあやつを追いかけることに夢中になって、あなたのほうをほったらかしにしてしまいまして。この兄弟たちが、わたしがとっくみあっていると聞いてみなで加勢にきてくれ、奪われた祝儀の絹や緞子などはすっかり取りかえしてきたのですが、さがしてもあなたが見あたりません。ところがさっき、ふたりの旅の人が居酒屋へ飲みにつれて行ったと教えてくれたものがありましたので、やっとわかって、わざわざたずねてきた次第です」
「さっき、他国の旅の人ふたりにここへつれてこられて、一杯やりながら話をしておりましたものですから、あなたのお呼びになったのも気づかずにおりまして」
楊雄は大いによろこんで、
「お名前はなんとおっしゃいましょうか。またご郷里はどちらで? どうして当地へおいでで?」
とたずねた。石秀は、
「わたくしは姓は石、名は秀といい、金陵は建康府のものです。一本気なたちで、人がひどい目にあっているのを見ると、いのちがけで助けようとしますので、人さまから命三郎《へんめいさんろう》とあだ名されております。叔父についてご当地へ来、羊や馬の売買をやっておりましたが、はからずも叔父に亡くなられ、もとでをすってしまって、落ちぶれはててこの薊州で薪売りを口すぎにしている次第です」
楊雄が石秀を見るに、いかにも立派な壮士で、均斉のとれた体格。ここに石秀をほめた西江月のうたがある。
身は山中の猛虎に似、性は火上に油を澆《そそ》ぐが如し。心《こころ》雄に胆《たん》大に機謀《きぼう》有り、到る処人に逢いて搭救《とうきゆう》す。全く一条の桿棒《かんぼう》に仗《よ》り、只両個の拳頭に憑《よ》る。掀天《きんてん》(天をくつがえすほど)の声価皇州に満つ、命三郎石秀と。
そのとき楊雄はさらに石秀にたずねた。
「たったいま、あなたといっしょに酒を飲んでおられた旅の人は、どこへ行かれました」
「あのおふたりは、あなたがおおぜいの人をつれてこられたのを見て、けんかだと思って出て行かれました」
すると楊雄は一同にいった。
「それでは、とりあえず給仕に酒を二甕《ふたかめ》出させ、みなさんに大碗で三杯ずつ飲んでもらって、あすまたお目にかかることにしましょう」
みなが酒を飲んでそれぞれひきあげてしまうと、楊雄は、
「石《せき》の三郎さん、他人行儀はぬきにして、あなたは当地にはご親類もないはずですが、いかがです、今ここで義兄弟の盟《ちかい》を結ぶことにしては」
石秀はそういわれて大いによろこび、
「あなたはおいくつで」
「二十九です」
「わたしは二十八。それではどうかそこへおなおりになって、義兄として、わたしの礼を受けてください」
と、石秀は四拝の礼をささげた。楊雄は大いによろこんで、さっそく給仕にいいつけて肴やつまみものを持ってこさせ、
「お互い、きょうは酔いつくすまで飲みましょう」
と、酒をくみあっていると、楊雄の舅の潘《はん》老人が六七人のものをひきつれて居酒屋までさがしにきた。楊雄はそれを見ると立ちあがって、
「父上、なにかご用で」
「わしは、おまえが人とやりあっていると聞いたので、わざわざやってきたのだ」
「さいわいにこの兄弟が助けてくれましたので、張保のやつは影を見てもびくびくするほど殴ってやりました。つい今、わたしはこの石の兄弟と盟を結んで義兄弟になったところです」
「それはよかった。ではこの人たちに酒を飲んで行ってもらうことにしよう」
楊雄はさっそく給仕に酒を持ってこさせ、ひとりに三杯ずつ振舞ってひきとらせた。そして潘老人をまんなかに、楊雄がそのむかいの席の上手《かみて》に、石秀はその下手《しもて》に座をとった。酒は給仕がついだ。潘老人は石秀が勇ましく恰幅のよいのを見て心中大いにたのもしく思いながら、
「わしの婿もあんたを弟にもって助けあっていけば、どこへでも大手をふって行けて、誰にもうしろ指をさされることはありません」
といい、また、
「あなたは、どういうご商売をしておいででした」
とたずねた。石秀は、
「亡くなった父は肉屋をやっておりました」
「それではあなたもそのほうの心得はおありで」
石秀は笑いながら、
「もちろんですとも。肉屋の飯を食って育ったのですから」
「わしももとは肉屋をやっていたのですが、なにぶんにも寄る年波で体がいうことをきかなくなり、この婿だけでほかには誰も頼るものがないところへ、その婿は役所づとめの身なので廃業してしまったのです」
三人はほどよく酔ったところで勘定をしてきりあげた。石秀は薪の荷をみんな酒代のたし前にといってさし出した。三人はいっしょに帰った。楊雄は家にはいるなり、
「おい、早く出てきて弟に挨拶をしないか」
と呼んだ。すると暖簾《のれん》のなかから声がして、
「あなた、弟ってどんな弟?」
「とにかく出てきて挨拶しろよ」
と楊雄がいうと、暖簾をかかげて女が出てきたが、その様子いかにといえば、
黒《こく》〓々《しんしん》たる鬢児《ひんじ》、細《さい》弯々《わんわん》たる眉児、光《こう》溜々《りゆうりゆう》たる眼児、香《こう》噴々《ふんぷん》たる口児、直《ちよく》隆々《りゆうりゆう》たる鼻児、紅《こう》乳々《にゆうにゆう》たる腮児《さいじ》、紛《ふん》瑩々《えいえい》たる臉児《れんじ》、軽《けい》〓々《じようじよう》たる身児、玉《ぎよく》繊々《せんせん》たる手児、一《いち》捻々《ねんねん》たる腰児、軟《なん》膿々《どうどう》たる肚児、翹《ぎよう》尖々《せんせん》たる脚児、花《か》簇々《そうそう》たる鞋児《あいじ》、肉《にく》〓々《でいでい》たる胸児、白《はく》生々《せいせい》たる腿児、更に一件の窄《さく》湫々《しゆうしゆう》、緊《きん》〓々《しゆうしゆう》、紅《こう》鮮々《せんせん》、紫《し》稠々《ちゆうちゆう》たるもの有り、正に知らずこれ甚麼《な に》の東西《も の》なるを。
これをうたった詩がある。
二八の佳人体は酥《そ》(乳酪)に似る
腰に月〓《げつさん》(薙刀《なぎなた》の一種)を懸けて愚夫を殺す
人頭の落つるを見ずと雖然《いえど》も
暗裏に君が骨髄をして枯れしむ
ところでこの女は、七月七日に生まれたので、それに因《ちな》んで(注四)幼名を巧雲《こううん》といった。まえに、薊州の人で王押司という役人のところへ嫁いだことがあったが、二年まえに亡くなり、それから楊雄のところへ再婚し、夫婦になってからまだ一年もたっていなかった。石秀は女が出てきたのを見ると、いそいですすみ出て挨拶をし、
「姉上、どうぞお席に」
といって礼をしようとした。女は、
「わたしのほうが年下ですのに、そんなことなさっては困りますわ」
といったが、楊雄は、
「これはきょう盟《ちぎり》を結んだ弟で、おまえは姉というわけだ。礼は礼として受けておきなさい」
といった。そのとき石秀は、まるで金山が崩れるか玉柱が倒れるかのように、ものものしく四拝の礼をささげた。女は二拝を返して、奥へ請じ入れ、空いた部屋をとり片付けてこの弟を休ませたが、くどくどしい話はやめて、その翌日、楊雄は役所へ出て行くとき家のものに、
「石秀に着物や頭巾をととのえてやってくれ」
といいつけ、宿屋のほうにおいてある荷物や包みなども運んでくるようにいって、石秀を家にくつろがせた。
さて一方、戴宗と楊林は、居酒屋でおおぜいの捕り手の役人たちが石秀(注五)をたずねてやってきたのを見て、どさくさまぎれに逃げ出してしまい、城外の宿屋へ帰って休んだのだった。そして翌日もまた公孫勝をさがし歩いたが、二日間、誰も知っている人にめぐりあえず、行くえは皆目、見当がつかなかったので、ふたりは話しあって、ひとまずひきあげることにし、その日のうちに荷物をとりまとめて薊州をたち、飲馬川に寄って裴宣・〓飛・孟康らの一行の人馬とともに官軍の態をよそおい、梁山泊へと急いだ。戴宗は彼らの手柄をあらわすために、さらに多数の人馬を仲間にひきいれて山へ帰ったのであった。山では祝宴がひらかれたが、この話はそれまでとする。
さて楊雄の舅の潘老人は、石秀に肉屋をやってみないかともちかけ、
「わしの家の裏手は行きどまりの袋小路になっているが、その奥にいまは使っていない建物が一棟あって、井戸の便利もよいから、そこを仕事場にして、そっちのほうに住んでもらえば店の取締りにもよかろう」
石秀は現場を見て、うってつけの場所だとよろこんだ。潘老人はもといた腕の立つ手代をさがしてきて、石秀には帳場だけあずかってくれればよいからといった。石秀はひきうけ、その手代を呼んで肉切り台や水盆やまないたなどを美しくかざりたて、いろいろの庖丁類もきれいに研ぎあげなどして、店の様子をととのえ、またと畜場や豚小屋も設け、十数頭のよく肥えた豚を飼い、吉日をえらんで店びらきをした。隣近所や親戚筋のものたちはみなお祝いにやってきて、祝儀の紅絹を贈ってくれ、一両日間酒盛りがつづいた。楊雄の一家は、石秀のおかげで店が出せたというのでよろこんだが、その後は、格別の話もなく、潘老人と石秀はずっと商売に身をいれた。
こうしていつしか時は流れて早くも二ヵ月あまりたった。時候は秋の末でやがて冬になろうというとき、石秀は上下すっかり新しい着物をつくった。ある日、石秀は朝の五更(四時)ごろに起きてほかの町へ豚を仕入れに出かけ、三日たってもどってきて見ると、店がしまっている。なかにはいって見ると、店さきのまないたまでもすっかり片付けてあり、庖丁類もしまいこんである。石秀は頭のすばしこい男だったから、見るなりそうかと合点し、
「ことわざにも、人に千日の好《こう》なく花に百日の紅《こう》なしというが、兄貴は家をあけて役所づとめの身、家のなかのことはいっさいおかまいなしだが、こいつはどうやらねえさんがこの新調した着物についてなにか吹きこんだにちがいない。このところ二日ばかり家をあけたので、きっと誰かあらぬうわさをまきちらして疑いをおこさせ、それで店じまいとなったものだろう。そんなのだったら、そうとむこうからいい出されぬさきに、おれのほうから暇をとって郷里へひきあげることにしよう。昔から、心がわりせぬ心なしというが、よくいったものだ」
と石秀は豚を豚小屋のなかへ追いこんで居間にはいり、着物を着換え、荷物をまとめ、きちんと決算書を書きあげて、裏口からはいって行った。潘老人は精進料理を用意して待っていて、石秀に座をすすめ、酒を出して、
「遠くまでご苦労でした。豚を追って歩くのは骨が折れますからのう」
といった。石秀は、
「いやどういたしまして。とにかくこの決算の帳簿をお納めください。もしこれに一厘でもおかしなところがありましたら、天罰があたってとり殺されるでありましょう」
「おや、おかしなことをいいなさるな。なにかあったとでもおっしゃるのですか」
「わたしは郷里を出てから六七年にもなりますので、このたびちょっと帰ってこようと思い立ちまして、そのため帳簿をお返しいたしますわけで。今夜兄貴に暇乞いをして、明朝たつことにします」
潘老人はそれを聞くと腹をかかえて笑いだし、
「いや、これはしたり。まあ腰を落ちつけてこの老いぼれのいうことを聞かっしゃい」
と、老人がくわしくいって聞かせたそのことの次第は、一席の物語ではすまぬ話。そしてその話から、ここに、報恩の壮士三尺をひっさげ、破戒の沙門《しやもん》九泉にいのちを喪《うしな》う、という次第とはなるのであるが、ところで、いったい潘老人は石秀にいかなることを話したのであろうか。それは次回で。
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一 屠釣 と畜人や釣師。樊〓や韓信をいう。
二 牢役人 原文は押獄。押牢に同じ。第三十回注二参照。
三 節級 押牢節級のこと。第三十回注二参照。
四 それに因んで 七月七日を巧日あるいは巧夕という。
五 石秀 原文では楊雄となっているが、前後関係から明らかに石秀の誤りであるので改めた。
第四十五回
楊雄《ようゆう》 酔って潘巧雲《はんこううん》を罵《ののし》り
石秀《せきしゆう》 智もて裴如海《はいによかい》を殺す
さて、石秀が外から帰ってきて店がしまっているのを見、暇乞いをして出て行こうと決心したところ、潘老人がいうには、
「まあ、お待ちなされ。あんたの心はちゃんと読めましたよ。二晩家を留守にしてきょうもどってきたら道具類が全部しまいこんである、そこであんたは、こいつはてっきり店をたたんでしまったものと合点して出て行く、というわけなのでしょう。こんなにいい商売をやめるわけはありませんが、たとえやめるとしても、あんたには家にいてもらいますよ。じつは、こういうわけなのです、わしの娘は前にいちどこの町の王押司という人のところへ嫁入りしたのですが、不幸にもそのかたは亡くなられて、こんど二周忌になりますので、ささやかながら供養をしてさしあげようと思って、ここ二日ほどは店を休むことにしたのです。きょう報恩寺の和尚さんにきてもらって法事をやってもらうことにしていますが、あんたにはその接待をおねがいしようと考えていたところです。わしは年をとっていますので、夜おそくまでは身体がもちませんのでな。とまあこういうわけなのです」
「そういうことでしたら、わたしも気をかえてしばらくやらせていただきます」
「これからはもう疑ったりなどなさらず、気楽におすごしくださるように」
こうして何杯か酒を飲み、精進料理を食べたのち、杯盤を片付けたが、そこへ寺男が法事の道具をかついできて、祭壇をしつらえ、仏像や御器《ごき》や、太鼓・〓《にようはち》・鐘・〓《けい》、および香花や灯燭などをおきならべ、台所のほうではお斎《とき》が用意された。楊雄は申牌《しんはい》(昼すぎ)ごろちょっと帰ってきて、石秀に、
「あいにくなことに、今夜わたしは牢の泊まり番で、こちらへは顔出しができないので、万事あなたにとりさばいていただきたいのだが」
とたのんだ。
「安心して、お出かけなさい。夜はわたしがかわってあげますから」
と石秀はいった。楊雄が出かけて行くと、石秀は表へ出てあれこれと世話をやいた。やがてひとりの若い和尚が簾をかかげてはいってきた。石秀がその和尚を見るに、まことに端麗な様子で、
一個の青《せい》旋々《せんせん》たる光頭新《あらた》に剃り、麝香《じやこう》の松子〓《しようしいん》(においあぶら)を把って〓《ぬ》る。一領の黄《こう》〓々《こうこう》たる直〓《じきとつ》(ころも)初《あら》たに縫い、沈速《ちんそく》(沈香の一種)の栴檀香《せんだんこう》を使って染む。山根《さんこん》の鞋履《あいり》は是れ福《ふく》州(福建の地名)にして、染め到って深青に。九縷《る》の糸〓《しとう》(おびひも)は西地(西域)より買い来《きた》って、真紫に係《むす》ぶ。光《こう》溜々《りゆうりゆう》たる一双の賊眼は、只施主《せしゆ》の嬌娘《きようじよう》を《みつ》め趁《お》い、美《び》甘々《かんかん》たる満口の甜言《てんげん》は、専ら喪家の少婦を説き誘う。淫情《いんじよう》発する処、草庵中に去《ゆ》きて尼姑《にこ》を覓《もと》め、色胆《しきたん》動く時、方丈内に来って行者《あんじや》を尋ぬ。
和尚ははいってくると、鄭重に石秀にむかって合掌の礼をした。石秀は答礼をして、
「和尚さん、まずはお掛けください」
といった。うしろからひとりの寺男が盒《はこ》を二つかついできた。石秀は、
「ご老人、和尚さんがおいでになりましたよ」
と呼んだ。潘老人がそれを聞いて奥から出てくると、和尚はさっそく話しかけて、
「義父《おとう》さん、このところ、寺のほうへはさっぱりおいでがございませんが」
「店をはじめましたので、なかなか暇がございませんので」
「押司さまのご法事に、格別珍しいものもございませんが、そうめんと都の棗《なつめ》をすこしばかり」
「これはこれは。和尚さんにそんなご散財をかけるなんて」
と潘老人はいい、石秀にとり納めさせた。
石秀はそれを奥へもって行き、茶をいれて表の和尚に出すようにいいつけた。と、そこへ女が二階からおりてきたが、格別に喪服をつけるでもなく、薄化粧をさえしている。女はたずねた。
「それ、どなたからいただいたの?」
「ご老人を義父《おとう》さんと呼んでなさる和尚さんからです」
女はたちまち相好をくずして、
「それはお師兄《に い》さんの、海闍黎《かいじやり》の裴如海《はいによかい》さんよ。とてもまじめな和尚さんで、もとは裴《はい》という糸屋さんの若旦那だったのだけど、出家なさって報恩寺にいらっしゃるの。うちはあのかたのお師匠さんの門徒なので、お父さんが父親代りになってるのよ。わたしより年が二つ上なので、わたしはお師兄さんと呼んでるけど、法名は海公《かいこう》っていうの。今夜お経を読みなさるのを聞いてごらんなさいな、とてもいい声だから」
「そうですか」
と石秀は答えたが、腹のなかでは早くも、これはくさいなとにらんだ。
女は階下へ和尚に会いにおりて行った。石秀は手をうしろに組みながら、そのあとについて行き、暖簾のこちらからのぞいて見た。女が出て行くと和尚は立ちあがって歩み寄り、ていねいに合掌の礼をした。女が、
「お師兄さんに散財させて、すみませんわね」
というと、和尚は、
「心ばかりの、つまらないものです」
「とんでもないこと。ご出家から物をいただいたりなどできませんのに」
「このほど寺に施餓鬼堂が建ちましたので、ぜひお詣りいただきたいのですが、節級どのがお咎めになられましょうか」
「いいえ、うちの主人はなにもとやかく申しませんわ。それに母が亡くなりますとき、血盆経《けつぼんきよう》をあげるという願《がん》をかけていますので、近いうちにお詣りして願解きをしていただこうと思っていますの」
「それはわたくしどものおつとめですから、そうおっしゃってくださればよろしかったのに。わたくしにおいいつけくだされば、すぐにいたします」
「ではお師兄さん、母さんのためにたくさんお経をあげてくださいな」
そこへ奥から女中がお茶を運んできた。女は茶碗をとりあげ、手巾で茶碗の縁をぬぐい、両手で和尚にわたした。和尚はそれを受けとりながら、両眼をきらきらさせてじっと女の体を眺め、女も笑みをたたえながら和尚を見つめた。色胆《しきたん》天のごとし、というのはこのことであるが、石秀が暖簾のかげで見ていることには気がつかなかったのである。石秀は心中ひそかに思いめぐらした。
「直中《ちよくちゆう》の直を信ずること莫《なか》れ、須《すべから》く仁の仁ならざるを防ぐべし(正直すぎてもよろしくない、人をゆるすにもほどがある)というが、おれも何度かあの阿魔にしつこく妙な話をもちかけられたものの、ほんとうの嫂《あね》のようにたてまつってきたのだが、なるほどあの阿魔はひどいやつだったのだな。このおれの手で、楊雄のために始末をつけてしまうようなことにならないともかぎらんぞ」
石秀はこのときすでに三分《ぶ》がた心を決め、暖簾をはねあげて出て行った。するとその糞坊主は茶碗を下において、
「どうぞお掛けください」
といった。女が口をはさんで、
「こちらは、うちの主人がこんど弟にした人ですの」
和尚は気をおちつけて、たずねかけた。
「ご郷里はどちらで。またお名前は」
「わたしは、姓は石、名は秀といって、金陵のものです。おせっかいやきで、人さまのために力添えをするのが好きな性分なので、命三郎というあだ名をちょうだいしております。そこつもので礼儀をわきまえませぬが、無礼の段はおゆるしくださいますよう」
「いえ、どういたしまして。わたくし、それでは僧たちを迎えに行って、こちらの祭場へつれてまいりますから」
裴如海はそういい、会釈して出て行った。女はそれを呼びとめて、
「お師兄さん、早くおいでになってね」
「すぐ、まいります」
と和尚は答えた。女は和尚を門の外まで見送って行き、ひき返して奥へはいって行ったが、石秀は門口で首を垂れてじっと考えこんだ。
ところでみなさん、およそこの世の人間のなかで最も色情のはげしいのは和尚ですが、ではなぜそんなことをいうのか、俗人であろうと出家であろうとすべてみな父親の精と母親の血で生まれたものなのに、なぜ和尚だけを色情がとくにはげしいというのか、といわれるなら、それはさきにこの書物のなかで述べた(第二十三回)あの潘《はん》・驢《ろ》・〓《とう》・小《しよう》・間《かん》のうち、和尚が最も間《かん》をもっているからである。日に三度の食事は檀越施主《だんおちせしゆ》の立派なお斎《とき》やお供えを食べ、壮大な伽藍僧房に住んで俗事にわずらわされることもなく、部屋では立派な寝台や蒲団に寝て他に思いわずらうこともないものだから、ただあのことだけを思うようになるのである。たとえばここにひとりの金持があるとしてなにからなにまでたりないものはないにしても、昼間はいろいろな雑事に心をなやまし、夜は夜で財産のことが気になって二更(十時)・三更(十二時)にならないと眠れないとしたら、美しい妻や妾といっしょに寝たところで、たいしたおもむきもない。また貧しい庶民たちときたら、一日じゅうあくせくとあがきまわらねばならぬので、朝からもう日の暮れることをねがいながら、しかも、起きるのは五更(四時)で寝るのは夜中というぐあいだ。夜になって寝る前にまず米櫃《こめびつ》のなかをさぐってみれば、一粒の米もなく、あすになっても銭があるわけでもないとなれば、たとい女房がちっとは小綺麗な女だったとしても、なんの興もわこうはずがない。そういうわけで、和尚たちがのんびりとして思いわずらうこともなく、もっぱらあのことばかりするのには、とてもかなわないのである。古人もこの点を論じて、和尚たちはまったくひどいやつであると説いているし、そのため蘇東坡《そとうば》学士も、
禿《とく》ならずんば毒《どく》ならず
毒ならずんば禿ならず
転《うたた》禿なれば転毒なり
転毒なれば転禿なり
といっているし、また次のような四句の言葉もあるのである。すなわち、
一個の字なれば便《すなわ》ち是れ僧
両個の字なれば是れ和尚
三個の字なれば鬼楽官《きがくかん》
四字なれば色中餓鬼《しきちゆうがき》
さて石秀は門口でしばらく考えこんでいたが、また接待をしにもどって行った。やがて、まず行者《あんじや》(有髪の修行僧)がやってきて、燭をともし香をたいた。つづいて海闍黎が衆僧をひきつれて祭場へやってきた。潘老人と石秀は出迎えてお茶の接待をし、それがすむと、太鼓や〓《にようはち》が鳴らされ和讃が詠《よ》まれる。見れば海闍黎がもうひとりの同じような若い和尚とともに導師となって、鈴杵《れいしよ》(柄のついた鈴)をふり、経を読んで仏をおがみ、諸天《しよてん》(三界二十八天の諸神)・護法《ごほう》(仏法を守護する神)にお斎《とき》をそなえ、祭壇を主宰し、いまは亡き王押司がすみやかに天界へ成仏するように追善供養をした。と、そこへ女が薄化粧をしてあらわれ、祭壇のほとりに歩みよって手炉《しゆろ》をとりあげ、香をくべて仏を拝《おが》めば、海闍黎はいちだんとはりきって、鈴杵をふり真言《しんごん》をとなえた。一堂の和尚たちは楊雄の妻のあだな姿を見ると、みなめちゃめちゃに乱れはじめる。そのありさまは、
班首は軽狂《けいきよう》し、仏号を念じて顛倒《てんとう》を知らず(うわの空)、闍黎は没乱し、真言を誦するも豈《あに》高低を顧《かえり》みんや。香を焼《た》く行者《あんじや》は花瓶を推倒し、燭を秉《と》る頭陀《ずだ》は錯《あやま》って香盒《こうごう》を拿《と》る。宣名表白《せんみようひようはく》(法事をいとなむ主旨をのべる文)には、大宋国を大唐と称し做《な》し、懺罪通陳《ざんざいつうちん》(故人の略歴をのべて罪の消滅をいのる文)には、王押司を王禁と念じ為す。鐃《によう》を動かす的《もの》は空《くう》を望んで便《すなわ》ち〓《ほう》り、〓《はち》を打つ的《もの》は地に落《おと》して知らず。銛子《せんし》を敲《たた》く的《もの》は軟して一団と做《な》り、響磬《きようけい》を撃《う》つ的《もの》は酥《そ》して一塊と做る。満堂喧鬨《けんこう》、遶席《ぎようせき》縦横、蔵主《ぞうす》は心忙《ぼう》し、鼓を撃たんとして錯って徒弟の手を敲き、維那《いの》は眼乱れて、磬鎚《けいつい》もて老僧の頭を打破す。十年の苦行一時に休し、万個の金剛《こんごう》(護法神)も降《くだ》り住《とどま》らず。
僧侶たちはみな祭壇のほとりでこの女に見とれて、自分がなにをしているのやらわからず、たちまち仏性も禅心もくらみはてて、意馬心猿をつなぎとめるよしもない。これをもって見ても、有徳《うとく》の高僧というものがいかにこの世に存在しがたいものであるかがわかろう。石秀も傍でこのさまを眺めてあざ笑った。
「こんなざまでなにが功徳だ。福を作《な》すは罪を避くるに如《し》かず(念仏するよりも罪を作るな)とはよくいったものだ」
やがて施主の焼香がおわると、和尚たちは奥の間へお斎に招かれた。海闍黎は僧侶たちの一番うしろで、ふりかえって女を見ながらにやにやと笑った。すると阿魔も、口をおおって笑いかえし、ふたりは互いに目と目にものをいわせて情を通じあう。石秀はすっかりそれを見て、五分《ぶ》どおりまで心にすえかねた。僧侶たちは席についてお斎となったが、まず精進酒を何杯か飲んだのち、お斎が運ばれ、お布施も出された。
「みなさん、十分召しあがってください」
と潘老人はいった。まもなくお斎もすみ、一同は席を立って散歩に出、ひとまわりしてまた祭場へもどって行った。石秀はひどくむしゃくしゃして、腹が痛いからといって板壁をへだてた隣室に寝てしまった。
女は、情をもやして、人の見ているのもはばからずに自分で接待をし、僧侶たちがまたひとしきり太鼓や〓をたたいておつとめをすると、お茶やお茶受けを出した。海闍黎は僧侶たちにねんごろにお経を読ませ、天王《てんおう》(仏)に祈り(注一)、水をまいて亡魂をまねき、三宝《さんぽう》(注二)を拝んだ。こうして追善供養は三更(十二時)ごろまでつづき、僧侶たちは疲れはててしまったが、海闍黎はいよいよ張りきって声高らかに読経した。女は暖簾のかげでそれを見ているうちに、いよいよ情欲をつのらせて、たまらなくなり、女中に、話があるからと海闍黎を呼ばせた。糞坊主がそわそわと女のところへやってくると、阿魔は和尚の袖をとらえて、
「お師兄《に い》さん、あす法事のお礼をとりにいらっしゃるとき、お父さんに血盆経の願がけのことを話してくださいな。忘れないでね」
「忘れるものですか。願をおかけになったからには願解きをされますようにと、そういいます」
和尚はさらに、
「お宅のあの弟さんはずいぶんこわそうなかたですね」
「あんなのほっとけばいいのよ。じつの弟じゃないんですもの」
「そうですか。ほっとしました。わたしはてっきり節級どののじつの弟さんかと思いまして」
ふたりでひとしきりふざけあってから、和尚は出て行って施餓鬼の供物をおろして魂送《たまおく》りをしたが、石秀が板壁のむこうで寝たふりをしながらのぞき見していて、すべて腹におさめていたとは知るよしもなかった。その夜五更(四時)ごろに法事はいっさいおわり、紙銭を焼いて仏を送ると、僧侶たちは挨拶をして帰って行き、女は二階にあがって寝た。石秀はひとり思いにふけって、
「兄貴のような豪傑が、なんでまたあんな淫婦に出くわしたのだろう」
とむかっ腹の立つのをおしこらえつつ、店の仕事場へ行って寝た。
翌日、楊雄は家に帰ってきたが、誰もなにもいい出さなかった。飯をすませると楊雄はまた出て行ったが、するとそのあとへ海闍黎が立派な僧衣に着換えて、潘老人の家へやってきた。女は和尚がきたと聞くと、急いで二階からおり、出迎えて奥に請じ入れ、お茶を出させた。そして、
「ゆうべはほんとうにご苦労さまでした。まだお礼もさしあげていなくて」
「どういたしまして、ゆうべお話しいたしました血盆経の願のことで、ちょっとお知らせしたいことがありまして。というのは、願解きをなさるのでしたら、わたしのところでいまちょうどお経をあげておりますので、願文を一通お出しになればそれで結構なのです」
「まあ、そうですの」
と女は、相談したいことがあるからと、女中に父親を呼びにやった。潘老人は出てきて、
「わたしは身体がもたないものですから、ゆうべは座をはずしてどうも失礼いたしました。そのうえあいにくなことに石さんも腹痛で臥《ふせ》ってしまって、誰もおもてなしをするものがなく、どうもあいすみませんでした」
「義父《おとう》さん、そんなことはかまいませんので」
それへ女が、
「わたし、母さんのための血盆経の願解きをしようと思っていたところ、お師兄さんが、あすお寺でおつとめがあるとおっしゃるので、ついでに願解きをしていただこうと思うのですけど。まずお師兄さんにお寺でお経をあげていただいて、お父さんとふたりで、あした、ご飯がすんでからお詣りすることにしましょうよ。お焼香をしてお祈りさえすればそれでなにもかもすむんですって」
「それは結構な話だが、あすは店がいそがしいのだ。帳場が空っぽでは困るのでな」
「石さんに家で見ていただくことにすればいいじゃないの」
「まあ、おまえが願解きをしたいというなら、あすはなんとかして行くことにしよう」
と潘老人はいった。女はなにがしかの銀子をとり出して、法事のお礼として和尚にわたし、
「いろいろお世話さまになりました。すこしばかりで相すみません。あすはきっとお詣りして、おそうめんでもご馳走になりますわ」
「ご参詣をお待ちしております」
と海闍黎は銀子を納め、立ちあがって礼をいった。
「たくさんお布施をいただきましてありがとうございます。帰って僧侶たちに分けます。あすはあなたがお焼香に見えるのをお待ちしております」
女は和尚を門の外まで送って行った。
一方、店の仕事場で寝た石秀は、目がさめると豚を殺して商売をはじめた。詩にいう。
古来仏殿に奇逢《きほう》あり
偸《ひそか》に歓期《かんき》を約し情倍《ますま》す濃《こまやか》なり
也《また》学ぶ裴航《はいこう》(注三)の玉杵《ぎよくしよ》を動かすを
巧雲の移る処鵲橋《しやくきよう》(注四)通ず
さて楊雄は、その夜は帰ってきて家で休んだが、女は、彼が夕飯をすませ手足を洗うのを待って、潘老人にこういわせた。
「わしの家内の死にぎわに、娘が血盆経をあげるという願を報恩寺へかけたので、あした、娘といっしょにお寺へ願解きの焼香をしに行くことにしたから、そのつもりでな」
楊雄が、
「おまえ、自分でわしにそういえばよいじゃないか」
というと、女は、
「わたしからいったら叱られはすまいかと思って、それでいい出せなかったのよ」
その夜はほかに格別の話もなく、それぞれ床についた。翌日の五更、楊雄は起きて役所へつとめに出て行き、石秀も起きて商売の準備をはじめた。やがて女も起きて、こっそりと化粧をし、きれいに身ごしらえをして、香盒《こうごう》を包み、紙銭や蝋燭を買いととのえ、轎《かご》を一台雇った。石秀は、朝早くから商売に追われて、ふりかえりもしなかったが、食事がすむと、女中の迎児《げいじ》も身ごしらえをさせられ、巳牌(昼前)には潘老人もすっかり着物を着換え、石秀のところへやってきて、
「すまんが店をたのみます。わしは娘といっしょに願解きに行ってきますから」
といった。石秀は笑いながら、
「店のほうはわたしが見ますから、ご老人はねえさんをよく見てあげてください。ねんごろにお祈りなさって、早くお帰りください」
石秀は腹のなかではすっかりわかっていた。
さて、潘老人と迎児は、轎についてまっすぐに報恩寺へむかったが、ここに見事に説破した古人の偈《げ》一編がある。
朝《あした》に釈迦《しやか》の経《きよう》を看《よ》み
暮に華厳《けごん》の呪《じゆ》を念ず
瓜を種《う》えて還《また》瓜を得《え》
豆を種えて還豆を得《う》
経も呪も本《もと》慈悲なれど
冤結《えんけつ》如何にして救わん
本来の心を照見せんに
方便竟究《ほうべんきようきゆう》多し
心地《しんち》にもし私《わたくし》無くんば
何ぞ天祐を求むるを用いん
地獄と天堂と
作者還《さくしやまた》自ら受く
この言葉は古人ののこしたものだが、善悪それぞれのむくいは、影の形に添うがごときもので、たとえ六度《むたび》生まれかわって世の万縁《まんえん》をきわむとも三帰《き》五戒《かい》のおさとしは守らなければならぬ、ということをいったものであるが、なんともひどいのは坊主どもで、もっぱら犬や豚のごときおこないをして、それまでの修行を台なしにしてしまい、後世にそしりをのこすのである。
ところで、この海闍黎という糞坊主は、この女が目あてで潘老人を義父と仰いだのであったが、楊雄が邪魔になって手を出すことができず、女と知りあってからもただ目と目でものをいいあうだけで、まだ思いをとげることもできずにいた。ところが、あの一夜の法事のときに、女のほうにも十分にその気があることを見て、期日をきめるや、この糞坊主め、槍をとぎすまし剣をかまえて大いにはりきり、早くから山門の下で待ちもうけ、轎がやってくるのを見ると、すっかりよろこんで、すすみ寄って出迎えた。潘老人が、
「これはこれはご苦労さまで」
というと、女も轎からおりて、
「わざわざおそれいります」
と礼をいった。
「いえ、どういたしまして。わたしはみなといっしょに施餓鬼堂で、五更からはじめてずっと今までお経をあげつづけながら、あなたがご焼香に見えるのをお待ちしておりました。功徳もそれだけ多いことでございましょう」
海闍黎はそういって、女と老人を施餓鬼堂へ案内して行く。そこにはすでに花や供えもの、香や蝋燭といったものがかざられていて、十人あまりの僧侶が経をあげていた。女は一同に挨拶をし、三宝を拝んでから、海闍黎にみちびかれて地蔵菩薩の前に行き、香を焚いて祈り、願文をおさめ、紙銭を焼いた。それがすむと、僧侶たちはひきさがってお斎にあずかり、弟子の僧たちは給仕を仰せつかる。海和尚はそこで、老人と女に、自分の僧房でお茶をさしあげたいとさそった。こうして女を奥まった僧房へさそいこむと、前もってすっかりお膳立てができていて、
「おい、お茶を」
という声に応じてふたりの侍者が茶をささげてきた。朱塗りの茶托の上に、雪白の銀の茶碗。茶はすばらしい銘茶であった。飲みおわって茶碗を置くと、どうか奥でおくつろぎください、といって、こんどは狭い小部屋へつれて行った。そこにはつやつやした黒い漆《うるし》ぬりの食台がおかれ、名ある人の書画が数幅かけられ、小机の上の香炉には妙なる香が焚かれている。潘老人と女はならんで腰をおろし、和尚はそのむかいに席をとり、迎児は立ったまま傍に控える。
「お師兄《に い》さん、ほんとにご出家らしいよいお部屋ですこと。すがすがしく静かで」
と女がいうと、海闍黎は、
「ごじょうだんを。お宅とはくらべものになりません」
潘老人は、
「きょうは一日すっかりお手間をとらせてしまいました。それでは、これでお暇させていただきます」
といったが、和尚はどうしても聞きいれず、
「せっかくおいでいただいたのですし、それにほかのおかたとはちがいます。きょうのお斎もお嬢さまが施主になられたもの。ひと箸《はし》もつけずにお帰りになるという法はありません。おい、早く運んでおいで」
声に応じてすぐお盆が二つ運ばれてきた。いずれもこの日のために用意された珍しい果物、見なれぬ野菜、さまざまな精進料理で、それらが食台の上いっぱいにならべられた。
「お師兄さん、どうしてまたこんなご馳走を。これではかえっておさわがせにきたようなものですわ」
と女がいうと、和尚は笑いながら、
「いや、お粗末なもので。ほんのお礼のしるしまでに」
弟子の僧が杯に酒をついだ。和尚は、
「義父《おとう》さん、ずいぶんお見えになりませんでしたね。さあ、どうぞ一杯おためしください」
老人は飲んでみて、
「これはいい酒だ。なかなかこくがある」
「前に、さる檀家のかたからつくりかたを教えてもらいまして、四五石《こく》ばかり仕込みましたから、あすにでも幾瓶かおとどけいたしまして、お宅のお婿さんにもあがっていただきましょう」
「いや、そんなにまでしていただいては」
和尚は、こんどは女にすすめた。
「なにもお口にあうようなものはございませんが、まあ一杯召しあがってください」
ふたりの弟子の僧がかわるがわる酒をついだ。迎児もすすめられて何杯か飲んだ。
「わたし、もうこれ以上いただけませんわ」
と女がいうと、和尚は、
「あなたにおいでいただくことなんてめったにないのですから、もっと召しあがってください」
とすすめる。潘老人は、
「轎かきどもを呼んで、一杯ずつふるまってやってくださらぬか」
「どうかお気づかいなく。もういいつけてございます。寺男にあちらのほうに呼ばせて、そこで酒とそうめんを出しておりますから、義父さんはご安心なさって、気がねなく召しあがってください」
そもそもこの糞坊主は、女をめあてに特にこうしたきつい、いい酒を出しているのだった。潘老人はすすめられて何杯も飲みすごし、ぐでんぐでんに酔ってしまった。と和尚は、
「まあ、寝台へおつれして、ひとねむりしていただこう」
といい、ふたりの弟子の僧にいいつけ、老人を静かな部屋へつれて行って寝させる。そうしておいて和尚は、
「奥さん、さあ、気がねなくもっとお飲みください」
とすすめた。女はもともと気があるうえに、酒に情《こころ》をあおられている。むかしから、酒は性を乱し色は人を迷わす、というとおり、女は、酒を飲んでもやもやとしてきて、口も軽くなり、
「お師兄さん、あなたわたしにさんざん酒を飲ませて、どうしようっていうの?」
和尚は口をまげてにやにや笑いながら、
「大事に思うばかりですよ」
「わたしは、もう飲めないわ」
「それでは、わたしの部屋へ行って仏牙《ぶつげ》(仏の歯、舎利の類)をごらんになりませんか」
「ぜひ見せていただきたいわ」
和尚は女を二階へつれて行った。そこは海闍黎の寝室で、すべてが整然としつらえられていた。女はそれを見ると、もう五分《ぶ》がたうれしくなって、
「なんてすばらしい寝間だこと。とってもきれいだわ」
和尚は笑いながら、
「残念なことに女房がおりません」
女も笑いながら、
「おもらいになったらいいじゃありませんか」
「どこにそんな施主がおられますか」
「さあ、仏牙を見せてくださいな」
「迎児を階下《し た》へやってくださったら、出してお見せしましょう」
「迎児、あんた階下へ行って、お父さんがおめざめかどうか見ておいで」
迎児が潘老人の様子を見に階下へおりて行くと、和尚は二階のあがり口の戸をとざした。
「わたしをここへとじこめて、どうなさるの」
と女がいうと、この糞坊主は淫ら心をはやりたたせ、歩みよるなり女に抱きついていうには、
「どんなにあなたをお慕いしていたことか。二年間ずっと思いつめてきたのです。きょうせっかくここへおいでくださったのですから、この機会に、どうかわたしの思いをとげさせてください」
「わたしの主人は怒らせたらたいへんな人よ。それでもあなたはわたしをだまし取る気? もしばれたら、とてもただではすまないわよ」
和尚はひざまずいて、
「おねがいです、わたしを可哀そうと思って」
女は指をおしひろげて、
「お坊さんのくせによくもまあいたずらをするのね。思いきり耳の根をぶつわよ」
和尚はにこにこ笑いながら、
「どうぞ、いくらでもぶってください。でも、手をくじかないようにね」
女もたまらなくなってきて、和尚に抱きつき、
「とても、ぶてやしないわ」
和尚は女を抱きかかえ、寝台の上で着物をぬぎ、帯をほどき、枕をともにしてよろこびをつくした。まさに、
如来《によらい》の法教を顧《かえり》みず、仏祖の遺言《ゆいごん》を遵《まも》り難し。一個は色胆歪邪《しきたんわいじや》にして、甚《なん》の丈夫(おっと)の利害(きびしさ)を管せん。一個は淫心蕩漾《いんしんとうよう》として、他《かれ》の長老の埋冤《まいえん》(うらみ)に従《まか》す。這個は気喘《あえ》ぎ声嘶《しわが》れ、卻って牛の柳影に〓《はななら》すに似、那個は言嫡《なまめ》き語渋《しぶ》り、渾《あたか》も鶯の花間に囀《さえず》るが如し。一個は耳辺に雲意雨情《うんいうじよう》を訴え、一個は枕上に山盟海誓《さんめいかいせい》を説く。闍黎の房裏、翻って快活の道場と為《な》り、報恩の寺中、真《まこと》に是れ極楽の世界たり。惜しむ可し菩提甘露《ぼだいかんろ》の水、一朝傾《かたむ》いて巧雲《こううん》の中に在り。
むかしから今まで、先人が残しつたえた言葉のなかに、和尚なるものは鉄裏の〓虫《しゆちゆう》(鉄のなかの木喰い虫)だと喝破したのがある。鉄はまったくすき間のないものであるが、しかも孔をあけてもぐりこんで行くというのである。在家のものなどはとうてい太刀打ちのできるものではない。むかしからこういう坊主のことを称して、こういっている。
色中の餓鬼 獣中の《じゆう》(猿の類)
仮《か》を弄して真《しん》を成し祖風《そふう》を説く
此の物只林下に見る可し
豈《あに》引いて画堂の中に入るるに堪えんや
そのときふたりは雲雨《こ と》をすますと、糞坊主は女を抱きしめたまま、
「あんたのほうにもわたしに気があるとわかったうえは、わたしは殺されてもなにも思い残すことはない。きょうはおかげで思いをとげることができたが、ほんのしばらくの楽しみで、夜どおしのよろこびというわけにはいかない。これではやがてわたしはこがれ死にしてしまいそうだよ」
「そんなにあわてることはないわ。わたしいいことを思いついたの。うちの人は月に二十日以上も牢のほうに泊まるから、わたし、迎児をまるめこんで、毎日あの子を裏口へ見張りに立たせておくわ。うちの人が家にいない晩は、香机を外に出し、夜香《やこう》を焚いて合図にするから、安心してはいっていらっしゃい。しかし五更(朝四時)まで寝ていて目がさめないときの用心に、夜明けを知らせる頭陀《ずだ》(注五)をひとり、どこかから雇ってきて、裏門のところで大きな音で木魚をたたき大きな声で念仏をとなえさせるから、そしたら帰ってね。こういうのを雇っておけば、外の見張りにもなるし、寝すごす心配もないわけよ」
和尚はそれを聞くとすっかりよろこんで、
「ありがたい。そんなにまでしてくださるとは。わたしのところに胡道人《こどうじん》という頭陀がいるから、わたしのほうからそれにいいつけて見張りをさせましょう」
「わたし、いつまでもここにいるわけにはいかないわ。みなにあやしまれるといけないから急いで帰ることにしますけど、あんた約束を破っちゃいやですよ」
女はそそくさと髪をつくろい、おしろいをぬりなおし、二階のあがり口をあけて階下へおり、迎児に潘老人を起こさせて、急いで僧房を出て行った。轎かきたちは酒やそうめんをふるまわれて、そのときはもう寺の門前で待っていた。海闍黎は山門の外まで女を見送り、女は挨拶をして轎に乗ると、潘老人と迎児とともに帰って行ったが、この話はそれまでとする。
さて海闍黎は、夜明けを知らせる頭陀を自分でさがした。この寺には以前から胡人の寺男がひとりいて、寺の裏の隠居所の小さな庵に住み、人々から胡頭陀《こずだ》と呼ばれていた。毎日いつも五更に起きて、木魚をたたいて夜明けを知らせながら人々に念仏をすすめ、そして夜が明けるとお斎の飯にありついていたのである。海和尚はこの男を部屋へ呼びいれ、いい酒を出してもてなし、そのうえになにがしかの銀子をやった。胡道人は立ちあがって、
「なんのお役にもたちませんのに、そんなにいただきましては恐縮でございます。いつもお師匠さまにはたいへんお情けをかけていただきましてありがたく思っております」
「あんたはまじめなお人だ。そのうち金を出して度牒《どちよう》(注六)を買い、あんたをちゃんとした和尚にしてあげよう。この銀子は、まあ、取っておいて着物でも買いなさい」
そもそもこの海闍黎は、以前から弟子の僧にいいつけて、昼のお斎をいつもこの胡道人のところへとどけさせていたし、節句には念仏につれて行ってお斎やお布施にあずからせていたので、胡道人は大いにそれを恩に着て、かねがね恩返しを心掛けていたのである。そこで、
「きょうは銀子をくださったが、これはきっとなにかたのみごとがあるのだろう。むこうからいい出されるのを待つという法はあるまい」
と思案し、
「お師匠さま、わたしで間にあうようなご用でもございましたら、なんなりとおいいつけくださいませ」
「胡道人、よくいってくれた。ぶちまけていうと、じつは、潘老人の娘さんがわたしとおつきあいをしたいとおっしゃって、裏門の外に香机が出してあるときに、はいってくるようにきめてくださったのだ。ところが、わたしがあのあたりをうろつくというのもぐあいがわるい。そこであんたに香机が出ているかいないかを見てきてもらって、それから行くというふうにしたいのだ。それにもうひとつたのみがある。あんたが五更に起きて念仏をすすめてまわるとき、あそこの裏門のところへ行って誰もいないのを見とどけたら、木魚をどんどんたたいて夜明けを知らせ、大きな声で念仏をとなえてもらいたいのだ。わたしはそれでうまく抜け出せるというわけだ」
「そんなことでしたら、おやすいご用です」
と胡道人はすぐひきうけた。そして、その日さっそく潘老人の家の裏門に立ってお斎をもとめた。すると迎児が出てきて、
「このお坊さんったら、どうして表門のほうへもらいに行かないの。裏門へきたりなんかして」
といった。胡道人が念仏をとなえだすと、奥で女はそれを聞いてすぐ気がつき、裏門へ出て行ってたずねた。
「お坊さん、あんたは五更の時を知らせてまわる頭陀さんではなくて」
「はい、わたくしは、人さまが目をさまされるように、五更の時を知らせてまわる頭陀でございます。夜は、人さまが功徳を積まれるよう、香をお焚きなさるがよろしいとおすすめしております」
女はそれを聞くと大いによろこび、さっそく迎児に、二階へ行ってお布施として銅銭をひとつなぎ取ってくるようにいいつけた。頭陀は迎児が立ち去るのを見すまして、女にむかっていった。
「わたくしは海闍黎さまの腹心のものです。道すじをたしかめておくようにとのことで、まいりましたので」
「わかってるわ。今夜、見にきて、もし香机が外に出してあったら、すぐあのかたにお知らせしてね」
胡道人はうなずいた。そこへ迎児が銅銭を持ってきて、胡道人にわたした。女は二階にあがって、迎児に腹のなかをうちあけた。むかしから、人家の女使《じよし》はこれを奴才《どさい》と謂う(人につかわれる女は所詮《しよせん》奴婢)というが、わずかばかりの餌で、はいはいということをきき、大それたことでもあっさりとやってのけるものである。したがって人につかわれる女や召使いなどというものは、用うべくして信ずべからざるものであるが、しかしまたなくては困るものでもある。それをうたった詩がある。
暖《だん》を送り寒《かん》を偸《ぬす》み禍胎《かたい》を起《おこ》す
家を壊《やぶ》るは端的《まこと》に是れ奴才
請う看よ当日《とうじつ》(昔)の紅娘(注七)の事を
却って鶯鶯(注八)を把て哄《だま》し出《いだ》し来《きた》る
さて一方、楊雄は、その日もちょうど牢の泊まり番にあたっていたので、日暮れ前にいったん家に帰って蒲団を持って行き、牢のほうに泊まった。迎児はなにがしかの心づけを女からもらっていたので、日の暮れるのを待って香机を用意し、たそがれどきになるとそれを裏門の外へ出した。女はかたわらに身をかくして待ちうけていたが、やがて初更(八時)ごろになると、頭巾をかぶった男がするりと忍びこんできた。
「どなた」
と迎児がたずねると、その男は黙ったまま頭巾をとって坊主頭を見せた。かたわらにかくれていた女は、それが海和尚だとわかると、
「わる坊主、なかなか考えたわね」
とからかった。そして、ふたりは抱きあいながら二階へあがって行った。迎児は香机をしまいこみ、裏門をしめて、寝てしまった。ふたりはその夜、膠《にかわ》のごとく漆《うるし》のごとく、糖(砂糖)のごとく蜜のごとく、酥《そ》(乳酪)のごとく髄《ずい》(脂)のごとく、魚のごとく水のごとく、心ゆくばかり夜どおし楽しんだ。
むかしから、歓娯《かんご》夜の短きを嫌うと説《い》う莫《なか》れ、ただ金鶏《きんけい》の暁を報ずるの遅きを要《もと》む、というが、そのとおり、ふたりはぐっすりと眠っていた。と、とつぜん、ぽくぽくと木魚の音がひびき、大声で念仏をとなえるのが聞こえてきた。和尚と女は、はっと目をさまし、海闍黎は着物をひっかけて起きあがりながら、
「じゃ、さよなら。今夜また会おうね」
「これからは、裏門に香机が出してあるときには、きっときてね。でも、出してないときは、どうしてもいけませんよ」
和尚は寝台をおりると、もとのように頭巾をかぶった。迎児は裏門をあけて外に出してやった。これを手はじめに、楊雄が牢のほうに泊まるときには、いつも和尚がやってくるようになった。家にはほかに老人がひとりいるだけで、これは日の暮れないうちにさっさと寝てしまったし、女中の迎児は一味になっていたから、ただ石秀の目をごまかしさえすればよかった。ところが女は欲情がおこってくると、それさえもかまわなかった。和尚はこの女のよいあじを知って、ふたりはまるで魂を奪われてしまったように夢中だった。和尚は頭陀の知らせを待ちかねて寺を出、女は迎児を手さきに和尚を出入りさせて、心ゆくばかり和尚との不義を楽しんだ。こうして一ヵ月あまりゆききがつづいた。和尚は十何回か通《かよ》ってきた。
さて石秀はというと、毎日、店をしまうと部屋にひっこんで寝たが、しょっちゅうこの一件が気になり、いつも疑いながら、判断をくだしかねていた。和尚の出入りする現場を見たわけではなかったからである。毎日五更には目をさまし、とび起きていつもその一件を考えるのだったが、すると、夜明けを知らせる頭陀がまっすぐ路地へはいってきて木魚をたたき大声で念仏をとなえるのが聞こえるのである。石秀は勘のよい人なので、おおよそのことは見抜いて、
「この路地は袋小路なのに、あの頭陀はどうして毎日ここへはいってきて木魚をたたき念仏をとなえるのだろう。これはおかしいぞ」
とひそかに思いめぐらしていた。
十一月中旬のある日の五更ごろ、ちょうど石秀が目をさましていると、木魚の音が聞こえ、頭陀がまっすぐ路地のなかへはいってきて、門のところで大声で、
普度衆生《ふどしゆじよう》
救苦救難《きゆうくきゆうなん》
諸仏菩薩《しよぶつぼさつ》
と叫び出した。石秀はいわくありげなその念仏の声を聞きつけると、飛び起きて戸口のすき間からのぞいてみた。すると頭巾をかぶったひとりの男が暗がりのなかからするりと出てきて、頭陀といっしょに立ち去って行き、そのあとから迎児が出てきて、門をしめた。石秀はそれを見とどけて、
「兄貴のような豪傑が、どうしてあんな淫婦をもらったのだろう。あの阿魔にだまされて、こんなことをやらかされていなさる」
石秀は夜が明けると豚を店さきにつるして朝のあきないをはじめた。朝食がすむと、ひとまわり掛取りに歩き、昼ごろ、楊雄をたずねて州役所へとむかった。ちょうど州橋のところまで行くと、おりよく楊雄がやってくるのにでくわした。楊雄は、
「おい、どこへ行くんだい」
とたずねた。
「掛取りのついでに、兄貴にあおうと思ってきたところです」
「いつも役所の仕事がいそがしく、さっぱり酒もつきあえないでいるな。そこらでいっぱいやろうか」
と楊雄は、石秀を州橋のたもとの、ある料理屋へつれて行き、静かな部屋へはいって席につくと、給仕にいい酒を一瓶いいつけ、料理や魚や酒の肴を出させた。ふたりはこうして酒をくみかわしたが、楊雄は石秀が頭をたれて考えこんでいるのを見ると、もともとせっかちな男なので、すぐにたずねた。
「おい、おもしろくないことでもあるのか。家でなにか気にさわるようなことでもいわれたのじゃないか」
「いや、家では別になにもありません。わたしは兄貴からじつの兄弟のようによくしていただいて、たいへんありがたく思っております、ついてはお話ししたいことがあるのですが、いってもよいものかどうか」
「どうしてきょうは、そうよそよそしくするのだ。話があるのなら、なんだっていうがよい」
「兄貴は毎日、外へ出て、役所の仕事ばかりしていなさるから、家のなかのことはご存じないが、あのねえさんという人は、わるい人ですよ。わたしはこの目でそれをなんども見たのですが、まだいい出さずにおりました。だが、きょうはくわしく見とどけましたので、腹にすえかねて兄貴をたずねてきたというわけなのです。ずけずけといってしまいましたが、わるくとらないでくださいよ」
「背中に目があるわけじゃなし、さっぱりわからんが、その相手というのはいったい誰なんだ」
「この前、家で法事があったとき、海闍黎という糞坊主が呼ばれてきましたが、ねえさんがそやつと目と目でいいかわしているのを、わたしはすっかり見たんです。それから三日目に、血盆経の願解きに寺へ行きなさったが、ねえさんもご老人も酔って帰ってみえました。このごろ、ひとりの頭陀がまっすぐ路地のなかへやってきて、木魚をたたき念仏をとなえるのですが、そやつのたたきかたがいかにもおかしいのです。それできょう五更に起きてのぞいてみたところ、やっぱりそうで、あのくそ坊主が頭巾をかぶって家から出て行くのを見つけたのです。あんな淫婦に兄貴はなんの用があるというのです」
楊雄はそれを聞くと大いに怒って、
「ちくしょうめ、よくもやりやがったな」
「兄貴、まあ静まってください。今夜のところはなにもいい出さずに、いつもと同じようにしていてください。そしてあしたは、泊まり番だということにして、三更(夜十二時)をまわったころひき返してきて表門をたたくのです。そうすればやつはきっと裏門から逃げ出しますから、わたしがそこをとりおさえます。あとは兄貴の気がすむようになさったらよいでしょう」
「なるほど、それがよかろう」
と楊雄はいった。石秀はさらに、
「兄貴、今夜はうっかり口をすべらせないように」
と念をおした。
「うん、あしたはきっとだぞ」
ふたりはそれからなお何杯か飲み、勘定をすませていっしょに階下へおり、料理屋を出た。と、四五人の虞候《ぐこう》(役所の用人)が楊雄を呼びとめて、
「ずいぶんさがしましたよ。知府さまがお庭に出てみえて、あなたさまをさがしてきてわたくしどもと棒の手合わせをするようにとおっしゃるのです。さあ、早くおいでください」
楊雄は石秀に、
「知府さまのお呼びだから、行かなければならん。あんたはさきに帰ってくれ」
石秀はそのまままっすぐに家に帰り、店を片付けると部屋へひきとって休んだ。
さて楊雄は、知府に呼ばれて裏庭へ行き、何回か棒をつかった。知府は大いによろこび、酒を出させてつづけさまに十杯ばかり大きな杯で褒美の酒をとらせた。楊雄はそれを飲んだのち、一同その場をさがったが、あとでまたみなから酒をふるまわれ、夜になってから、すっかり酔いつぶれてみなに助けられながら家に帰った。詩にいう。
曾《かつ》て聞く酒色は気相連《あいつら》なり
浪子《ろうし》は酣《よ》って花柳を尋ねて眠ると
只有り英雄心裏の事
酔中も触憤〓《しよくふんのぞ》くこと能わず
女は、夫が酔っているのを見ると、人々に礼をいい、迎児といっしょに梯子段をかかえあげて、二階へ行き、あかあかとあかりをつけた。楊雄が寝台に腰をおろすと、迎児は皮靴をぬがせ、女は頭巾をとり、巾〓《きんさく》(頭巾下、髪覆い)をほどいてやった。楊雄は女を見ているうちに、にわかに怒りがこみあげてきた。昔から酔《よい》は是れ醒時《せいじ》の言《げん》(酔いは本音をいわせる)というが、楊雄は女に指をつきつけながらののしった。
「ちくしょうめ、下司め、どのみち片をつけてやるからそう思え」
女はびくっとしたが、なにもいわず、そのまま楊雄にかしずいて寝てしまった。楊雄は寝台にあがって寝ながら、憎々しげにののしった。
「ちくしょうめ、けがらわしいあばずれめ。あのやろう、よくもずうずうしいまね(注九)をしやがったな、とっつかまえたが最後、めったなことではゆるしやしないぞ」
女は息をつめて、楊雄が眠ってしまうのを待っていた。
やがて五更になり、楊雄は酔いから醒めて水を求めた。女は起きあがって碗に水を汲み、楊雄にわたして飲ませた。机の上にはまだ残灯がともっていた。楊雄は水を飲みおわると、女にたずねた。
「おまえ、ゆうべは着物もぬがずに寝たのか」
「ひどくお酔いになって、吐かれるのじゃないかと思って、着物をぬぐどころではありませんでしたわ。裾のほうで一晩ずっと横になっていましたの」
「おれ、なにかいいはしなかったかい」
「あなたはいつもはお酒の癖のいいほうで、酔うとすぐ寝ておしまいになるのに、ゆうべだけは、わたし、すこし心配でしたわ」
楊雄はまたいった。
「石秀の兄弟とはこのところいっしょに酒を飲んだこともないのだが、家で用意して呼んでやってくれないか」
女は返事もせずに、踏み台に腰をおろしたまま、はらはらと涙をこぼし、ため息をついた。
「おい、おれはゆうべ酔いはしたが、おまえを叱ったおぼえはないぞ。どうしてめそめそしている」
女は涙の目をおさえて、おしだまっていた。楊雄がなんどもたずねると、女は顔をおおって、うそ泣きをした。楊雄は女を踏み台から寝台の上へひっぱりあげ、
「なにをくよくよしている」
と、しきりにたずねた。すると、女は泣きながら、
「わたし、お父さんとお母さんがわたしを王押司さんのところへ嫁《かた》づけなさったときは、末長く添いとげたいとねがっておりましたのに、思いがけなくさきだたれてしまって、今はこうしてあなたという立派な豪傑の、しかも好漢を夫に持ったのに、そのあなたときたらまるでわたしをかばってくださらないのですもの」
「これはまたおかしなことをいう、誰がおまえをばかにしたというのだ。そしていつおれがおまえをかばわなかったというのだ」
「ほんとうはいいたくはないのですけど、それではあなたがあいつの手にのせられることになるし、それかといって、いえばあなたが我慢できないでしょうし」
「どんなことかいってみろ」
「それじゃいいますけど、お怒りになってはいけませんよ。あなたがあの石秀と義兄弟になって、家へつれていらっしゃってから、はじめのうちはよかったのですけど、そのうちにだんだん本性を見せてきて、あなたがお留守のときには、しょっちゅうわたしに目をつけて、兄貴はきょうも帰ってこないが、ねえさん、ひとり寝はさぞさびしいでしょうねえ、なんていうんです。わたしはいつも相手にしないのですけど、それがもういつもそうなの。いちいちいうのはやめますけど、きのうの朝、わたしが台所で首すじを洗っていたら、あいつ、またやってきて、あたりに人がいないのを見すますと、うしろから手をのばしてわたしの胸もとをさぐり、ねえさん、おめでたはまだですか、なんていうのです。わたしは手をひっぱたいて、ふりはずしてやりました。あのときはほんとうに大声を出してやろうと思ったのですけど、隣近所に知られて人の語り草になったら、あなたの恥になると思い、あなたのお帰りを待っていたところ、どろどろに酔っておられて、お話しするどころじゃありません。わたしはあいつに噛みついてやりたいほど腹をたてているのに、あなたときたら、まだ石秀の兄弟がどうのこうのなんておっしゃるんですもの」
まさに、
淫婦従来巧言《こうげん》多し
丈夫耳軟《やわら》かにして昏《くら》ま為《さ》れ易《やす》し
自今石秀前門より出で
好く闍黎を放《し》て後門に進ましむ
楊雄はそれを聞くと、かっと怒りたって、
「竜を画《えが》き虎を画くも骨を画きがたし、人を知り面を知るも心を知らず、か。あいつめ、おれのところにやってきて海闍黎がああだこうだといいやがったが、まるでとりとめもないことだった。わかった、やつめ、あわてて、さきまわりをして人の告げ口をするという芝居をうったのだな」
そして、いまいましげにつぶやいた。
「やつはじつの兄弟というわけじゃなし、追い出してしまうまでだ」
夜が明けると、楊雄は階下へおりて行って潘老人にいった。
「殺した豚は塩漬けにして、きょうからもう商売はやめてください」
と、あっというまに、帳場や肉切り台などをすっかりたたきこわしてしまった。石秀は、夜が明けたので肉を運び出し、店をひらこうとして出てきたが、見れば肉切り台も帳場もすっかりめちゃめちゃにこわされてしまっている。石秀は察しのよい人だから、すぐさとって、
「そうか、そうか。楊雄は酔ったまぎれに口をすべらせて、あのことを漏らしてしまい、かえってあの阿魔にいいくるめられて、逆におれのほうが不埒なまねをしたと吹きこまれたのだな。そこで彼はおやじさんに店をしめさせてしまったというわけか。だがここでおれが申しひらきをしたら、楊雄の面目がつぶれる。まあおれが一歩ゆずって、別になんとか考えることにしよう」
と石秀は笑い、すぐに仕事場へひきかえして荷物をとりまとめた。楊雄は彼に恥をかかせまいと思って、家にいなかった。石秀は包みを手にさげ、短刀を腰にさし、潘老人のところへ暇乞いに行った。
「長いあいだいろいろとお世話になりました。きょう、兄貴が店をしめてしまわれましたので、お暇をいただきにやってまいりました。帳簿はこのとおりはっきりしていて、一分一厘のまちがいもございません。もし少しでもあやしげなところがありましたなら、天罰がくだるでありましょう」
潘老人は婿からいいつけられていたので、ひきとめもしなかった。ここにそのことをうたった詩がある。
枕辺《ちんぺん》の言《げん》は聞かれ易く
背後の眼は開き難し
直道は駆け将《すす》み去り
姦邪は漏れ進み来《きた》る
石秀は別れを告げて出て行くと、すぐ近くの裏町に宿屋を見つけてはいり、一間をかりて住んだ。石秀は、
「楊雄とおれとは義兄弟のあいだがら。もしここでおれがこの一件をはっきりさせてやらなければ、かえって兄貴のいのちがあぶない。彼はうっかり女のいうことを信じておれに腹をたて、おれもおれで申しひらきをせずにしまったが、彼のために、ぜひともこの一件ははっきりさせてやらねばならぬ。そうだ、彼がいつ牢のほうに泊まるかをさぐったうえで、四更(二時)ごろに起きてみればつきとめられよう」
と思案し、宿で二日ほどすごしたのち、様子をさぐりに楊雄の家の門前へ行ってみた。するとその夜、牢の小使が蒲団を持ち出して行くのをみとめた。石秀は、
「そうか、今夜が泊まり番だな。よし、しばらく待つことにしよう」
と、すぐそのまま宿にひきかえして眠り、四更ごろに起きると、護身用の短刀を腰にしてこっそり宿を出、楊雄の家の裏の路地へ忍びいり、暗がりのなかに身をひそめて見張っていた。と、ちょうど五更の刻に、かの頭陀が木魚をかかえて路地の入口にやってき、きょろきょろとあたりの様子をうかがった。石秀はさっと頭陀のうしろへまわり、一方の手で頭陀をつかまえ、もう一方の手でその首筋に短刀をおしつけて、低い声でいった。
「やい、おとなしくしろ。大きな声をたてたら、きさまのいのちはないぞ。ありのままにいえばよいのだ。海和尚はきさまにどうしろといいつけたのだ」
「おねがいです。申しますからいのちだけはお助けください」
「さあ、いえ。殺しはせん」
「はい、海闍黎さまは潘さんとこの娘さんとねんごろになられまして、夜お出かけのときは、いつもわたしが、その裏門のところに合図の香机が出してあるかどうかを見とどけまして、お呼びいれしております。そして五更に、木魚をたたき念仏をとなえて、ぬけ出させてあげますので」
「やつは、いまどこにいる」
「まだあの家で寝ておられます。これからわたしが木魚をたたきますと、出てみえますので」
「きさま、その着物と木魚をおれに貸せ」
と、石秀は頭陀の着物をはぎとり、木魚を奪い取った。頭陀がちょうど着物をぬいだとたん、石秀は短刀をその首筋にあてて殺してしまった。頭陀が死ぬと、石秀は衣と脚絆を身につけ、短刀を腰にさし、木魚をたたきながらまっすぐに路地の奥へはいって行った。
寝床のなかにいた海闍黎は、ぽくぽくという木魚の音を聞きつけるとそそくさと起きあがり、着物をひっかけて階下へおりた。迎児がさきに門をあけ、和尚はそのあとからするりと裏門をぬけ出した。石秀はやはり木魚をたたきつづけていた。和尚は声を殺して、
「こら、いつまでたたいている」
と叱った。石秀は黙ったまま、和尚をみちびいて路地の入口まで出て行くと、いきなり蹴倒して、おさえつけ、
「声をたてるな。たてたらいのちはないぞ。着物を剥ぎとるあいだおとなしくしているんだ」
海闍黎は相手が石秀だとわかって、もがくことも声をたてることもできず、石秀にすっかり着物を剥がれて一糸まとわぬ素っ裸にされてしまった。石秀は、そっと腰から短刀を抜きはなち、三四回斬りつけて刺し殺してしまった。そして短刀を頭陀の死体のかたわらに投げすて、ふたりの着物をひとつにからげて宿屋へひきかえし、そっと戸をあけてはいりこみ、静かに戸をしめてから寝たが、この話はそれまでとする。
さて、この町に王公という〓粥《もちがゆ》売りがいたが、その日の朝、〓粥をかつぎ、提灯をともし、ひとりの小僧をつれて朝のあきないに出てきたところ、ちょうど死骸の横たわっているところを通りかかってばったりとそれにつまずき、爺さんはかついでいた〓粥をそこらじゅうにぶちまけてしまった。小僧は、
「ちぇっ、坊さんが酔っぱらってこんなところに寝てやがる」
と叫んだ。爺さんが手でさぐってみると、両手にべっとりと血がついたので、
「あっ」
と悲鳴をあげて、うろたえた。近所のものどもが聞きつけて、みな戸をあけて飛び出してき、松明《たいまつ》で照らして見ると、あたりいちめんに血まみれの粥が流れ、ふたつの死骸が横たわっている。近所のものどもは爺さんをつかまえて、役所へ突き出そうとした。まさに、禍《わざわい》天より降《くだ》り、災《わざわい》地より生《おこ》るというところ。さて、王公はいかにしてのがれるか。それは次回で。
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一 天王に祈り 原文は請天王拝懺。天王は、欲界・色界の諸天王の汎称。拝懺は、僧侶が仏に礼して人のために懺悔すること。あるいは単に祈りをささげること。
二 三宝 単に仏のことか。あるいは三宝荒神のことか。三宝荒神は三宝(仏・法・僧)を守護する神で、最も不浄を忌むという。
三 裴航 唐の人。かつて藍橋《らんきよう》(陝西《せんせい》省)を通ったとき、路傍の茅舎にはいって水を求めると、嫗《おうな》が孫娘を呼んで水を出させた。裴航がその娘の美しさに感じて妻にと請うと、嫗は、昨夜神仙から霊薬をもらったがそれを搗《つ》く玉の杵と臼がない、もしそれをさがしてくれれば孫娘をやろう、といった。裴航は百日の期限をきって都へ行き、八方さがしまわるうちに、〓《かく》州の薬屋にあると聞いてそこへ行き、身のまわりのものをことごとく売りはたいて玉の杵と臼を求め、それを嫗のところへ持って行って、娘(雲英)を娶《めと》ることができた。嫗は玉の杵と臼とで仙薬を搗いて仙女になったが、裴航の信義にあついのを賞でて彼をも仙人にしたという。
四 鵲橋 七夕の夜、鵲《かささぎ》が天の川にかけて牽牛と織女をわたすという橋。
五 夜明けを知らせる頭陀 毎朝五更になると諸寺の雲水が木魚をたたいてまわり、戸ごとに夜明けを知らせた。
六 度牒 第四回注二参照。
七・八 紅娘、鶯鶯 唐の元〓《げんしん》の小説『鶯鶯伝』の人物で、紅娘は小間使、鶯鶯はその女主人。「請う看よ当日の紅娘の事を 却って鶯鶯を把て哄し出し来る」というのは、主人公の張生が、紅娘のとりはからいで鶯鶯と歓を交えるにいたることを歌ったもので、そのあらましは次のとおりである。
鶯鶯に思いこがれている張生のところへ、ある日紅娘がやってきて、情詩を送って鶯鶯の気をみだしてみるがよいという。張生がさっそく詩を書いて紅娘にことづけると、やがて紅娘が鶯鶯の返詩だといって持ってきたのは、
月を待つ西廂の下
風を迎えて戸半ば開く
墻《しよう》を払って花影動く
疑うらくは是れ玉人の来るかと
という詩で、張生は首尾よしとよろこび、既望の夜、樹をよじ墻をこえて西廂の下へ忍んで行くと、戸が半開きになっている。が、そこに寝ていたのは鶯鶯ではなくて紅娘だった。張生がなじると、紅娘は張生を鶯鶯のところへ案内する。だが鶯鶯は端然と服装をととのえていて、かえって張生の不義をとがめる。張生が絶望にうちひしがれていると、また紅娘が、枕と衾《しとね》をたずさえてき、ついで鶯鶯を案内してくる。張生はみずからの眼を疑いながら、ついに鶯鶯と歓を交えるにいたるという話。
九 ずうずうしいまね 原文は大蟲口裏倒涎。虎の口のなかでよだれをたらすの意。
第四十六回
病関索《びようかんさく》 大いに翠屏山《すいへいざん》を鬧《さわ》がし
命三《へんめいさん》 火もて祝家店《しゆくかてん》を焼く
さて、そのとき隣近所のものどもは、王公をとりおさえて、ただちに薊《けい》州の役所へ訴え出た。知府は役所に出てきたばかりのところ。一同はひざまずいて、
「この爺さんが〓粥《もちがゆ》の荷をかついできて、地面へこぼしてしまいましたのですが、見ればそこには死体がふたつころがっておりまして、ひとつは和尚、ひとつは頭陀。どちらも丸裸で、頭陀のそばに短刀がひとふりございました」
老人もいった。
「わたくしは毎日〓粥を売って暮らしを立てておりまして、いつも五更(朝四時)に商売に出かけるのでございますが、今朝は少し早く起きまして、この小僧をつれてとっとと下も見ずに歩いておりますと、いきなりなにかに蹴つまずいてひっくりかえり、容れものまでもすっかりこわしてしまいましたのですが、ふと見ますと、血まみれになった死体がふたつそこにころがっておりますので、びっくりして大声をたてましたところ、隣近所の人たちにつかまえられてお役所にひっぱってこられたのでございます。なにとぞ憐れとおぼしめして、ご明察のほどをおねがい申しあげます」
知府はすぐ口述書をとらせ、公文書を出してその土地の里甲(里正に同じ)に命じ、検屍役人を帯同し、隣近所のものおよび王公ら関係者一同をつれて死体をあらためたうえ、その詳細を報告させることにした。そこで一同は現場へ行って検証をすませ、役所へ帰って知府に復命した。
「殺された僧は報恩寺の闍黎の裴如海《はいによかい》で、その傍の頭陀は寺の裏の胡道人《こどうじん》というものでございます。和尚のほうは身に一糸もまとわず、身体には三四ヵ所刺し傷があり、それが致命傷となっております。胡道人の傍には凶器の短刀がひとふりころがっており、その首におし斬った傷あとがひとすじあるだけですが、おそらく胡道人が刀を抜いて和尚を刺し殺し、罪をおそれて自殺したものでございましょう」
知府はその寺の僧侶たちを拘引して訊問したが、誰も事情を知らなかった。知府が断《だん》をくだしかねていると、事件担当の孔目《こうもく》が進言した。
「和尚はすっぱだかですが、これはきっとあの頭陀となにかよろしくないことをやり、殺しあいをしたものにちがいありません。王公はなんの関係もないでしょう。隣近所のものはみな帰して沙汰を待たせることにし、死体は寺の住持にいいつけて、棺をととのえて収め、どこかへ置いておかせることにして、文書のほうはふたりが互いに殺しあったということにしておけばよろしいでございましょう」
「よかろう」
と知府はいい、ただちに関係者一同を釈放したが、この話はそれまでとする。
薊州の町のものずきな若い連中がうたを作ったが、それは、
耐え〓《がた》し禿囚《とくしゆう》(破戒坊主)の無状《ぶじよう》、事を做《な》して直恁《ただか》く狂蕩《きようとう》なり。暗《ひそか》に嬌娥《きようが》(美女)と約《ちぎ》り、夫婦と為って永く鴛帳《えんちよう》を同《とも》にせんと要《ほつ》す。怎《いか》で禁《た》えん貫悪《かんあく》(積悪)満盈《まんえい》し、諸多の和尚を〓辱《てんじよく》するを。血泊(血だまり)の内に屍《しかばね》を里巷に横《よこた》う、今日の赤《せき》条々《じようじよう》(赤裸)甚麼《な に》の模様ぞ。雪に立って腰に斉《ひと》しく(注一)、巌に投じて虎に〓《くら》わる(注二)、全く祖師を想わず。経《きよう》上の目連《もくれん》は母を救って天に生ぜしめ(注三)、這《こ》の賊禿《ぞくとく》は婆娘《ばじよう》(阿魔)のために身喪《みうしな》わる。
のち書会(注四)の人たちはこの事件の内容をくわしく知ると、筆をとってまた臨江仙《りんこうせん》(曲の名)のうたを作り、世にはやらせた。
淫行の沙門《しやもん》は殺報を招き、暗中に分毫《ぶんごう》を爽《たが》えず。頭陀の屍首も亦《また》蹊〓《けいぎよう》(あやし)、一糸も真に掛けず、立地《たちどころ》に屠刀《ととう》を喫す。大和尚は此の時精血《せいけつ》喪い(死に)、小和尚(和尚のあれ)は昨夜風騒《ふうそう》(おたのしみ)。空門裏(寺)に刎頸《ふんけい》相交わるを見る。〓死《へんし》して同穴を争い、残生《ざんせい》して(楊雄の妻をいう)両条(和尚と頭陀のいのち)を送る。
この事件は町じゅうで大評判になった。女もおどろいて呆然としたが、口には出さず、ただ心のなかで人知れず、これはえらいことになったとうろたえていた。
揚雄は薊州の役所で、和尚と頭陀が殺されたと聞くと、すぐおおよその見当がついた。
「おそらく石秀がやったことにちがいない。先日はついわるく思ってしまったが、きょうはすこしひまがあるから、さがし出してほんとうのことをきいてみよう」
と考え、州橋の手前までやってくると、とつぜんうしろから声をかけられた。
「兄貴、どこへお出かけで」
ふりかえって見ると石秀だったので、
「やあ、ちょうどあんたをさがしていたところだ」
「じゃ、わたしの宿へ行ってお話ししましょう」
と、石秀は楊雄を宿屋の一室へつれて行って、
「兄貴、わたしのいったことは嘘じゃなかったでしょう」
「いや、すまなかった。ついばかなまねをしてしまったんだ。酔ってうっかり口をすべらせたために、あの阿魔にだまされて、あんたをあやしんだりなんかして、すまんことをした。それで、あんたをさがしておわびしようと思って、やってきたところなんだ」
「兄貴、わたしはつまらん人間ですが、これでも男一匹の好漢のつもりです、そんなばかなことをするはずはありませんよ。ただ兄貴がこれから奸計にはめられたりしてはと思って、兄貴をさがしにきたのです。証拠の品がありますからごらんください。和尚と頭陀の着物をすっかり剥ぎ取ってきました」
楊雄はそれを見て怒りの火を燃やしながら、
「いや、すまなかった。今夜あのちくしょうをずたずたにひき裂いて、このうさを晴らしてやろう」
石秀は笑いながら、
「また、おいでなさった。だが、あなたはお上におつとめのおかたですから、法度《はつと》をご存じないはずはないでしょうが、まおとこの相手の男を捕らえずに女を殺すわけにはいきますまい。もしもわたしがでたらめをいっているとしたら、あやまって人を殺してしまうことになるではありませんか」
「それじゃ、どうすればよいというのだ」
「わたしのいうとおりになされば、兄貴の男も立つのですが」
「どうやってわたしの男を立たせてくれるというのだ」
「ここの東門外に翠屏山《すいへいざん》という山があります。とてもひっそりしたところです。あすになったら兄貴は、久しくお詣りに行かなかったがこれからいっしょに行こう、といってあの女をうまくだまし、迎児もつれて、いっしょに山へ行ってください。わたしはさきに行ってそこで待っておりますから、面とむかいあって話をつけ、是非を明らかにしましょう。そのうえで兄貴は離縁状を書いてわたし、あの女をほっぽり出してしまう、というのが一番よい手じゃありませんか」
「いや、話しあいなんかするまでもないよ。あんたが潔白なことはもうよくわかっている。みなあの女のでたらめだったのだ」
「それはいけません。わたしとしても、兄貴にほんとうのいきさつを知ってもらいたいのです」
「そういう考えなら、そうすることにしよう。あすはきっとあのちくしょうをつれて行くから、あんたのほうでもまちがいのないようにな」
「もしわたしが行かなかったら、これまでいったことは全部嘘だということになります」
こうして楊雄は石秀と別れてその宿を出、ひとまず役所へ行って仕事をしてから、夕方家へ帰ったが、なにもそぶりには出さず、口にもいわず、いつもと同じようにすごした。そして翌日、早朝に起きると、女にむかって、
「ゆうべわしは夢を見たが、神さまがわしに、願をかけておきながらなぜいまだに願解きをせぬ、とおっしゃるのだ。そういえば、いつか東門外の嶽廟に願をかけたが、まだそのままでいる。きょうはちょっとひまがあるから、願解きをしに行きたいと思うのだが、おまえ、いっしょに行ってくれないか」
「あなたおひとりでいらっしゃればよいでしょう。わたしをつれて行ってどうなさろうというの」
「その願はおまえと縁組みの話があったときにかけたのだから、ふたりで行かないといけないのだ」
「それなら、はやく精進ご飯をいただいて、お湯をわかして身体をきよめてからまいりましょう」
「わしはお香や紙銭を買ったり、轎《かご》を雇ったりしてくるから、おまえはそのあいだにお湯をつかい身づくろいをして待っていてくれ。迎児もつれて行こう」
楊雄はまた宿屋へ行って、石秀と約束をした。
「飯をすませたらすぐ出かけるから、あんたもまちがいなく」
石秀は、
「兄貴、轎で行くのなら、かならず中腹あたりで轎をおりて三人で歩いて登ってください。わたしは頂上のひっそりしたところで待っております。ほかのものはつれて行かないように」
楊雄は石秀と約束をしてから、紙銭や蝋燭を買い、帰って朝食をとった。女はそんなこととは知らず、せっせときれいに身づくろいをし、迎児も着かざった。轎かきは轎をかついで、もう門前で待っていた。楊雄が、
「お父さん、留守をおねがいします。家内といっしょにお詣りに行ってきますから」
というと、潘老人は、
「たくさんお香をあげて、早くお帰りなさい」
女は轎にのり、迎児がそのあとにつき、楊雄はそのうしろからついて行った。東門をぬけると楊雄は、そっと轎かきにいいつけた。
「翠屏山へやってくれ。轎代はよけいに出すから」
それから二時《ふたとき》とはたたぬうちに、早くも翠屏山の麓についた。そもそもこの翠屏山という山は、薊州城の東門から二十里ばかりのところにあって、いちめんに荒れはてた塚がならび、山上は見わたすかぎり青草と白楊《はこやなぎ》で、庵も寺院もないところ。楊雄はそのとき、女を山の中腹までかついで行かせると、轎かきに轎をおろさせ、留金《とめがね》をはずして簾をあげ、女に轎から出るようにいった。女は、
「どうしてこんな山のなかへ」
とたずねる。楊雄は、
「黙って登って行けばいいのだ。轎かきはここで待っていてくれ。きてはいかんぞ。あとでいっしょに酒代をはずんでやるからな」
「承知いたしました。ここでお待ちしております」
楊雄は女と迎児をつれて、三人で坂を四つ五つ登って行く。そのとき石秀は上で待っていた。
「お香や紙銭をどうして持っていらっしゃらなかったの」
と女がきいた。
「さきに人に持って行かせてあるんだ」
と楊雄は、女をひっぱって、とある古い墓地のなかへつれて行った。と石秀が、包みや腰刀や棍棒などをみな木の根もとにおいて、つかつかと出てきて、
「ねえさん、ごきげんよう」
女は急いで返事をした。
「あら、どうしてこんなところへ」
口ではそういいながら、腹のなかではあっとおどろいていた。
「ここでずっとお待ちしておりましたんで」
と石秀がいうと、楊雄は、
「おまえはこのあいだわしにいったな、石秀がなんども妙なことをいっておまえにふざけ、また手でおまえの胸のあたりをなでて、おめでたはまだですかときいたとな。いまここにはほかに誰もいない、ふたりでむかいあって、嘘かまことかはっきりいえ」
「まあ、もうすんでしまったことなんか、どうだっていいじゃないの」
石秀は眼を怒らせて、
「ねえさん、なにをいうんです。じょうだんじゃありませんぞ、どうしても兄貴の前ではっきりと決着をつけてもらいます」
「石秀さん、あなた自分でなんでもないのなら、そんなにやっきになることはないじゃないの」
「ねえさん、強情をはるのはおよしなさい。ちゃんとした証拠を見せてあげましょう」
石秀は包みのなかから海闍黎《かいじやり》と頭陀の着物をとり出して下にひろげ、
「これに見おぼえはありませんか」
女はそれを見ると、顔をまっ赤にして、返す言葉もなかった。石秀はさっと腰刀を抜きはなち、楊雄にむかっていった。
「迎児にきいてみれば、たしかなことがわかります」
楊雄は女中をつかまえて目の前にひきすえ、
「このちんぴら女め、さっさと白状しろ。どうやって和尚の部屋で不義をしたか、どうやって香机を合図にして会ったか、どうやって頭陀に木魚をたたかせたか。ありのままにいえば、いのちはゆるしてやるが、ひとことでもごまかそうものなら、まずおまえから、ずたずたに切りきざんでくれるぞ」
「旦那さま、わたしにはかかわりのないことでございます、殺さないでください、申しあげますから」
と、迎児は、僧房で酒を飲んだこと、二階へ仏牙を見にあがって行ったこと、潘老人の酔いが醒めたかどうか見るようにと階下へ追いやられたことから話しはじめて、
「おふたりがこっそりしめしあわされて、三日目の日に頭陀にお斎《とき》をもらいによこされました。わたしはお布施の銅銭をとりにやらされましたが、そのあいだに奥さまは頭陀と相談をまとめられたのでございます。そして、旦那さまが牢のほうにお泊まりのときには裏門の外へ香机を出しておくようにわたしにいわれました。それが合図でございます。頭陀はやってきてそれを見ると和尚さんに知らせに行きます。するとその晩、海闍黎さまが在家の人のなりをなさって、頭巾をかぶってはいってみえ、五更に頭陀がやってきて木魚をたたき大声で念仏をとなえるのが聞こえますと、それを合図にわたしが門をあけて和尚さんを外に出すという役目をさせられておりました。和尚さんがおいでになれば、わたしの目にふれないわけにはいきませんので、わたしにうちあけられたのでございます。奥さまはわたしに腕輪を一対と着物をひとかさねやるとおっしゃいますので、わたしはしぶしぶおいいつけにしたがっておりました。こういうふうにして何十回も出入りなさって、そのあげく殺されておしまいになりますと、奥さまはこんどはかんざしをいくつかくださいまして、石秀さんが奥さまにあれこれいっておふざけになる、と旦那さまに告げ口をするようにとおっしゃいましたが、そんなことはこの目で見たことがありませんので、申しあげずにおりました。これが真実でございまして、すこしも嘘いつわりはございません」
迎児が話しおわると、石秀が、
「兄貴、わかったでしょう。いまの話は、わたしがこういえといっていわせたものではありません。兄貴、こんどはねえさんにくわしくきいてみてください」
楊雄は女をつかまえて、どなりつけた。
「ちくしょうめ。女中はもうすっかり白状したんだ、きさまもいっさいかくしだてをせず、さあ、もういちどありのままをおれにいえ。そうすればいのちだけは助けてやる」
「わたしが、わるうございました。夫婦のよしみで、こんどだけは、どうかおゆるしくださいませ」
「兄貴、いいかげんにしてはなりませんぞ。事の次第を、くわしくとことんまできいてみなければなりません」
と石秀はいった。
「ちくしょう、さっさといえ」
と楊雄はどなりつける。
女はもはやいたしかたなく、和尚と通じた事の次第を、法事の夜のことからはじめて出入りのことにいたるまで、いちいち、すっかり話した。
「それならどうして兄貴に、わたしがわるふざけをしたなどといったんだ」
と石秀がいうと、女は、
「あの日、主人が酔ってわたしをののしったとき、わたしはそれがなにやらいわくありげなので、あなたが見破って主人に告げ口なさったのにちがいないと考えたのです。すると五更ごろになって主人はまたあなたのことをいい出して、どうしているだろうなどとたずねましたので、わたしはあんなことをいってごまかしたのですが、ほんとうは、あなたにはそんなことは少しもございませんでした」
「さあ、これで三方からはっきり話がわかったから、兄貴のお好きなようにどうなと始末をつけてください」
石秀がそういうと、楊雄は、
「それじゃ、こやつの髪かざりを抜き取り、着物を剥がしてもらおうか。あとはおれが自分で面倒をみる」
石秀はすぐ、女の髪かざりや装身具から着物まで、すっかり剥ぎ取った。楊雄は裙《もすそ》の紐をふたすじ引きちぎって女を木に縛りつけた。石秀は迎児の装身具もすっかり取って、刀をつきつけながら、
「兄貴、このちんぴらも生かしておいたってしようがあるまい。草を刈るなら根っこまでですよ」
「そうだ。刀をくれ、おれが片付ける」
迎児はただならぬ気配を見て、わめき出そうとしたが、そのとき楊雄はさっと刀をふるって、まっぷたつにしてしまった。女は木に縛りつけられたまま、
「石秀さん、お詫びして」
と叫んだ。石秀は、
「ねえさん、兄貴が自分で返事しなさるよ」
楊雄は歩みより、刀でまず舌をえぐり出して、切りおとし、口がきけないようにしてしまったうえで、指をつきつけてののしった。
「このちくしょうめ。うっかりきさまのいうことに耳をかして、危うくだまされるところだったわ。きさまはおれたち兄弟の仲をひきさき、そのうちにはきっとおれを殺してしまおうとしていたのだろう。それならいっそのこと今ここでおれのほうから手をくだしてやるのが利口というものだ。いったいきさまのような阿魔のはらわたはどんな具合にできているのか、とくと見てやることにしよう」
と、一刀のもとに、みぞおちからまっすぐに下腹までたち割り、五臓六腑をつかみ出して松の木にひっかけた。楊雄はさらに、この女の持ちものをよりわけて、髪かざりや着物はすっかり包みにくるみ、
「さあ、これからどうしたらよいか相談しよう。とうとう奸夫も淫婦も殺してしまったが、おれたちはいったいどこへ身をよせたらよかろう」
「それはちゃんと考えてあります。いいところがございます。兄貴、すぐ出かけましょう、ぐずぐずしてはおれません」
「いったい、どこへ行こうというのだ」
「兄貴も人を殺し、わたしも人を殺したのです。梁山泊へ行って仲間に加わるよりほか、どこにも身を寄せるところはありますまい」
「待ってくれ。そうはいっても、おれもあんたもあそこにはひとりも知りあいがない。とてもおれたちを受けいれてはくれまい」
「いや、そんなことはありません。このごろ世間では、山東の及時雨の宋公明どのが、ひろく有為の士を招き、すすんで天下の好漢たちと交わりを結んでいるとのもっぱらの評判で、誰知らぬものもありません。わたしもあなたも武芸の腕はたしかです、受けいれてくれないはずはありませんよ」
「だが、なにごとも、難《かた》きを先にして易《やす》きを後にすれば後患《こうかん》を免《まぬか》れ得、というからな。あいにくなことにおれは役人だから、疑って仲間にいれてくれないかもわからない」
石秀は笑って、
「あの人だって押司だったんですよ。ひとつ兄貴を安心させてあげましょうか。まえに兄貴と義兄弟になったあの日、居酒屋でさきにわたしと飲んでいたあのふたりは、ひとりは梁山泊の神行太保の戴宗、もうひとりは錦豹子の楊林という人だったのですよ。彼らがくれた十両の錠銀がまだちゃんと包みのなかにしまってあります。だから彼らのところへ頼って行っても大丈夫です」
「そういう手蔓があるのなら、帰って路銀をまとめてから、出かけることにしよう」
「兄貴、そんなにぐずぐずしてはおれませんよ。町へ帰って、事がばれてつかまりでもすればおしまいじゃありませんか。包みのなかには現に腕輪や髪かざりがありますし、わたしも少しばかり持ちあわせがありますから、ほかに四五人いたって用はたります。取りに帰るなんてとんでもないことです、まちがいをおこしたらとりかえしがつきません。この一件はおっつけばれるでしょうから、まごまごしてはおられません、ひとまず山のむこう側へ逃げましょう」
と、石秀は包みを背負い棍棒を手に取った。楊雄も腰刀をたばさみ朴刀をひっさげ、ふたりはその古い墓地を立ち去ろうとしたが、そのとき、松の木のむこうからとつぜんひとりの男が出てきて呼ばわった。
「天下泰平なこのご時世に、人をぶった斬って梁山泊へ仲間入りしに行くのか。ずっとここで聞いていたぞ」
楊雄と石秀が見返すと、その男はうやうやしく頭をさげた。楊雄はその男を知っていた。姓は時《じ》、名は遷《せん》といって、高唐《こうとう》州のもの。この地へ流れてきて、もっぱら忍びこみや馬泥棒をやっていて、以前、薊州の役所へあげられたとき、楊雄は救ってやったことがあり、人々から鼓上蚤《こじようそう》(太鼓の上の蚤《のみ》、第五十六回から第百十七回までは蚤はと書かれる。蚤とは同音)とあだ名されている男。この男をうたった詩がある。
骨軟かにして身躯健《すこや》かに
眉濃くして眼目《がんもく》鮮かなり
形容は怪族《かいぞく》の如く
行走は飛仙《ひせん》に似る
夜静かにして墻《しよう》を穿って過ぎ
更《こう》深くして屋《おく》を遶《めぐ》って懸《かか》る
偸営高手《とうえいこうしゆ》の客《かく》(忍びこみの名人)
鼓上蚤《こじようそう》の時遷《じせん》
そのとき楊雄は時遷にたずねた。
「どうしてこんなところへ」
「はい、じつは、このところさっぱり芽がでないものですから、この山で古い塚をあばいてちょいちょい品物をちょうだいしております。たまたま兄貴がここであんなことをおっぱじめられたのを見て、飛び出して行くのも具合がわるく遠慮しておりますと、梁山泊へ仲間入りしようとおっしゃるのが聞こえたというわけです。こんなところでこそ泥をはたらいておりましても、なかなかうだつがあがりませんので、おふたりにお供して山へ行ったほうがましじゃないかと思うのですが、いかがでしょう、つれて行ってくださいませんか」
石秀がいった。
「わたしたちの仲間なら、あそこではいま有能な士を求めているときだから、あんたひとりぐらいわけはないでしょう。そういうことなら、いっしょに出かけましょう」
「わたし、間道を知っておりますので」
と時遷はいって、楊雄と石秀を案内し、三人は間道づたいに裏山をおりて、梁山泊へとむかった。
さて、ふたりの轎かきは、山の中腹で、夕日が西に沈むまで待っていたが三人はおりてこず、いいつけられているので登って行くわけにもいかずにいたが、とうとうしびれをきらしてぶらぶらと登って行って見ると、一群の鴉《からす》が古い墓地にひとかたまりになって群がっている。ふたりの轎かきが近よって見ると、なんとそれは、鴉がはらわたを争いついばんで大騒ぎをしているのだった。轎かきはそれを見てびっくりし、あわててもどって潘老人に知らせ、みんなで薊州の役所へ訴え出た。知府はただちに県尉《けんい》(捕盗官)に命じ、〓作行人《ごさくこうじん》(死骸を片付ける小役人)をつれて翠屏山へ検屍に行かせた。県尉は検屍をすませて知府に復命した。
「検屍の結果、潘巧雲なる女は松の木のところで斬られており、召使いの迎児は古い墓のかたわらで殺されております。塚のあたりには女と和尚と頭陀の着物が、ひとかたまりにうちすててありました」
知府はそれを聞くと、先日の海和尚と頭陀の事件を思い出し、くわしく潘老人を訊問した。老人は、僧房で酒を飲んだことと、石秀が家を出て行った事情をこまかに述べた。知府は、
「女と和尚とが通じ、召使いと頭陀がなかだちをしたことに間違いはない。石秀というやつは、不義を見すごせぬ侠気から頭陀と和尚を殺したのだろう。そして楊雄のやつがこんど女と召使いを殺したのにちがいない。きっとそうだ。楊雄と石秀を捕らえさえすればいっさいがわかろう」
と、さっそく触れをまわし、賞金づきで楊雄と石秀を逮捕させることにし、その他の轎かきなどはそれぞれ釈放して沙汰を待たせることにした。潘老人は棺を買って死骸を葬ったが、この話はそれまでとする。
さて、楊雄と石秀と時遷は薊州の地をあとに、朝立ち夕泊まりの旅をかさねつつ、やがて〓《うん》州の地にはいり、香林〓《こうりんわ》をすぎて行くと、まもなく行くてに一座の高山が見えた。いつしか次第に日も暮れてきた。前方に、谷川に沿って一軒の宿屋が見えたので、三人がその門口《かどぐち》へ行って見ると、
前は官道に臨み、後は大渓に傍《そ》う。数百株の垂柳門《もん》に当《あた》り、一両樹の梅花屋《おく》に傍う。荊榛《けいしん》の籬落《りらく》(からたちのまがき)周廻して茅茨《ぼうし》(かやぶきの家)を遶《めぐ》り定め、蘆葦《ろい》の簾槞《れんろう》(あしのすだれ)前後して土坑《どこう》(おんどる)を遮《さえぎ》り蔵《かく》す。右壁廂《ゆうへきしよう》(右のかた)には一行に書き写す、庭幽暮接五湖賓(庭幽かにして暮に接す五湖の賓)と。左勢下《させいか》(左のかた)には七字に題し道《い》う、戸廠朝迎三島客(戸廠《ひろ》くして朝に迎う三島の客)と。野店荒村の外に居ると雖も、亦《また》高車駟馬《しば》(四頭だての馬車)の来《きた》る有り。
その日のたそがれ、宿屋の若い衆が門をしめようとしていると、かの三人がずかずかとはいってきた。若い衆はたずねた。
「お客さん、遠方からのおこしですか。おそいお着きで」
「きょうは百里のうえも歩いたので、それでおそくなったんだ」
と時遷が答えた。若い衆は三人をなかへいれて休ませ、
「お客さん、ご飯はまだでございますか」
「自分たちでやるよ」
と時遷はいった。
「きょうはお泊まり客もありませんので、かまどにきれいな鍋がふたつございますからどうぞご自由におつかいくださいませ」
「ここには酒や肉はないか」
「今朝がたは少しばかり肉がございましたのですが、みんなこの近くの村の衆が買って行かれまして、酒がひと甕《かめ》のこっているだけで。お菜はなにもございませんが」
「まあ、よい。ともかく飯を炊くから米を五升ほど貸してくれ。まずそれがさきだ」
若い衆が米を持ってきて時遷にわたすと、時遷はさっそく米をといで飯を炊きにかかり、石秀は部屋のなかで荷物を片付けた。楊雄はかんざしを一本とり出して若い衆にやり、まずその甕の酒を持ってくるように、勘定はあすいっしょにするから、とたのんだ。若い衆はかんざしを受けとると、奥へ行って甕を持ち出してきて蓋をあけ、野菜の煮たのを一皿、卓の上においた。時遷はまず湯を一桶さげてきて楊雄と石秀に手足を洗わせ、酒をくみ出して、若い衆もいっしょに飲むように呼び、大碗を四つならべ、酒をついで飲んだが、ふと石秀は店の軒下に、十数本の立派な朴刀がさしてあるのを見つけて、若い衆にたずねた。
「この店にあんな武器があるのはどういうわけだ」
「旦那さまがあそこへ置いておかれますんで」
「おまえんとこの旦那ってのは、どういう人なのだ」
「お客さん、あなたは世間を股にかけておられるかたですのに、ここの名をご存じないのですか。むこうのあの高い山は独竜山《どくりゆうざん》といい、その手前にそびえている岡は独竜岡《どくりゆうこう》といって、上に旦那さまのおすまいがあります。このあたり三十里四方は祝家荘《しゆくかそう》といいますが、荘主の大旦那さまの祝朝奉《しゆくちようほう》(朝奉は豪紳に対する尊称)さまには三人のご子息があって、祝氏の三傑と呼ばれております。荘全体には六、七百戸の人家があって、みな小作人ですが、各戸に二本ずつ朴刀が分けられております。ここは祝家店《しゆくかてん》といいまして、いつも数十人の人が泊まりに見えますので、それでここにも朴刀が分けてありますので」
「店に武器を分けておいて、どうするのだ」
「ここは梁山泊から遠くありませんので、あそこの賊が食糧をゆすりにくるのを用心して、そなえつけてありますので」
「銀子《か ね》はやるから、朴刀を一本わしに都合してくれんか」
「それはできません。武器にはみな番号がつけてありますから。わたしも旦那さまの棍棒をくらいたくはありません。旦那さまはとてもきびしいのです」
石秀は笑いながら、
「じょうだんだよ。そうあわてることはないよ。さあ、どしどし飲みな」
「もういただけません。わたしはさきに休ませていただきますから、お客さんは、どうぞごゆっくり召しあがってください」
若い衆はそういって、立ち去った。
楊雄と石秀がなおも飲んでいると、時遷が、
「兄貴、肉はどうですか」
という。楊雄が、
「店の若い衆が肉はなくなったといってたのに、おまえはどこから手に入れてこようというのだね」
ときくと、時遷はくすくす笑いながら、かまどのあたりから一羽の大きなにわとりをひっさげてきた。
「どこで手にいれたんだい」
と楊雄がいぶかると、時遷は、
「さっき裏へ用をたしに行ったところ、この鳥が籠のなかにいたので、兄貴の酒の肴がなにもないと思って、こっそりちょうだいして谷川のところで殺し、桶の湯を裏へ持って行って、きれいに羽をむしり、よく煮て、おふたりに食べていただこうと持ってきたんですよ」
「このやろう、まだ手くせがなおらんな」
と楊雄がいうと、石秀も笑いながら、
「まだ商売がえをしてないんだ」
三人はひとしきり笑い、そのにわとりを手でひきさいてむしゃぶりながら、また飯を盛って食べた。そのとき、店のあの若い衆が、ちょっと寝てはみたもののどうも安心がならぬので、起き出してきてあちこち見まわっているうちに、台所の卓の上ににわとりの羽や骨のあるのを見て、さてはとかまどのところへ行って見ると、鍋に半分ばかりぎらぎらした汁が残っているので、急いで裏へ行って籠のなかをのぞいて見るとにわとりがいない。若い衆はあわててやってきて、
「お客さん、あんたたちは、なんてひどいことをなさるのだ。なんだってうちの店の夜明けを知らせる鳥をぬすんで食ってしまったんだ」
「ばかをいうな。その、あの、おれたちは途中で買ってきた鳥を食ってるんだ。おまえんとこの鳥なんて見たこともないや」
と時遷がいうと、若い衆は、
「うちの店の鳥は、それじゃどこへ行ったんです」
「山猫にひいて行かれたか、いたちに食われたか、とんびにさらわれたかだ。そんなことおれが知ってるはずはないじゃないか」
「さっきまで籠のなかにいたんだ。あんたがぬすまないで、ほかの誰がぬすんだというのです」
石秀が、
「そうがみがみいうなよ。いくらくらいのものなのだ。弁償しようじゃないか」
「あれは夜明けを知らせる鳥で、店にはなくちゃならないんですよ。たとえ銀子十両くださったっておっつきゃしません。どうしてもあの鳥をかえしてもらいます」
石秀はかっとなって、
「きさま、おれをひっかけようてのか。このおれさまが弁償せぬといったら、きさまはどうする」
若い衆はにやりと笑って、
「お客さん、ここで喧嘩を売るのはよしなさるがいいよ。うちは、よその宿屋とはわけがちがいます。あんたをつかまえてお屋敷へつれて行き、梁山泊の強盗だといってお役所へ送りこんでしまいますよ」
石秀はそれを聞くと、どなりつけた。
「もしおれが梁山泊の好漢だとしたら、きさま、どうやっておれをつかまえて褒美をもらいに行く」
楊雄も怒って、
「せっかく銭をはらってやろうといってるのに。弁償してやらなけりゃ、さあ、どうやっておれたちをつかまえる」
若い衆は、
「賊だ!」
と叫んだ。と、奥のほうから四五人の大男が裸でやってきて、楊雄と石秀につかみかかった。が、石秀が拳骨をふりあげてぽかりぽかりとみななぐりたおしてしまった。若い衆はわめきたてようとしたが、時遷に一発くらわされて顔がはれあがり声も出ない。数人の大男たちはみな裏口から逃げていった。楊雄は、
「おい、やつらはきっと知らせに行ったのだ。さっさと飯を食って逃げてしまおう」
三人はすぐさま腹いっぱい食べ、荷物を分けて腰につけ、麻鞋《あさぐつ》をはき腰刀をたばさみ、それぞれ槍かけからよさそうな朴刀をより取った。
「こうなったらもう、とことんまでやっつけてやれ」
と、石秀は、かまどのところへ行って草を一束さがすと、かまどで火をつけて、あちこちに放火してまわった。みるみる草ぶきの家は風にあおられてばりばりと燃えだし、またたくまに火は大きく燃えあがった。三人は足をはやめて街道めざして逃げて行く。まさに、
只偸児《とうじ》一鶏を攘《ぬす》めるが為に
傑士を教《し》て競って麑《げい》(仔鹿)を追わしむるに従《まか》す
梁山の水泊《すいはく》に波浪興《おこ》り
祝氏の山荘化して泥と作《な》る
三人が二時《ふたとき》ばかり行ったとき、と見れば前も後も無数の松明《たいまつ》で、およそ二百人くらいが喊声をあげながら追ってくる。石秀が、
「あわてることはない。ともかく裏路づたいに逃げよう」
というと、楊雄は、
「いや待て。かかってくるやつを片っぱしからやっつけて、夜が明けてから逃げるとしよう」
まだその言葉のおわらぬうちに、追手は四方からおしよせてきた。楊雄が前に、石秀が後に、時遷はまんなかに、三人は朴刀をかまえて小作人たちとたたかった。小作人たちははじめはむこう見ずに槍棒をふりまわしてかかってきたが、楊雄が朴刀をふるってたちまち六七人を斬りたおすと、前の連中は逃げ出し、うしろの連中もあわててひきかえそうとした。石秀は追いかけて行って、またもや六七人を斬りたおした。四方に群がる小作人たちは、十数人がやられたのを見ると、いのちのおしいやつばかりなので、これはかなわぬと見てどっと浮き足立った。三人がじりじりと追いかけて行くと、またどっと喊声がおこり、枯草のなかから二本の撓鉤《どうこう》(熊手の類)がのびてきてぱっと時遷をひっかけ、草小屋のなかへひきずりこんだ。石秀が急いで身を返して時遷を救おうとすると、うしろからまた二本の撓鉤がのびてきた。が、楊雄が目ざとく見つけて朴刀で二本ともはねのけ、草むらめがけて突きたてると、わっと叫んでみな逃げて行った。時遷をさらわれたふたりは、深みにはまりこむことをおそれ、このうえたたかう気もおこらず、時遷をそのままにしてあちこち路をさがしながら逃げた。見ればはるかむこうに松明の火が乱れかがやき、小路には木立もなくてその明りで路が見えたので、ふたりは東のほうへといっさんに走った。小作人たちは四方から追いかけてきたが、ついに追いつき得ず、手傷を負わされたものを助けながら、時遷をうしろ手に縛って祝家荘へひきたてて行った。
さて楊雄と石秀は、夜が明けるまで歩きつづけて、やがて行くてに村の居酒屋を見つけた。石秀は、
「兄貴、あの居酒屋で酒と飯を食って行くことにして、ついでに路もききましょう」
ふたりはその店へはいって行き、朴刀を立てかけてむかいあいに腰をおろし、給仕に酒と飯をいいつけた。給仕は野菜のものや肴を出しながら、酒をあたためた。ふたりが箸をつけようとしたとき、とつぜん外からひとりの大男が駆けこんできた。大きな顔に角ばったあご、眼するどく耳大きく、顔みにくく形あらあらしく、茶褐色の紬《つむぎ》の上着を着、万字型の頭巾をかぶり、白い絹の胴巻きをしめ、足にはぴかぴかした皮靴をはいている。男は大声で、
「大旦那のいいつけだ。荷をかついで行ってお屋敷へおさめろ」
店の主人はあわてて、
「荷づくりができましたら、さっそく持ってまいります」
その男はいいつけるとすぐ身を返し、もういちど、
「早くだぞ」
といい、店を出て行こうとしてちょうど楊雄と石秀の前を通りかかった。楊雄はその男の顔を知っていて、
「おい、どうしてこんなところにいるんだ。おれを見忘れたのかい」
と呼びかけた。男はふりかえったが、見ればやはり知った顔だったので、
「これは恩人さま、どうしてこんなところに」
と楊雄にむかって平伏した。楊雄がこの男に出くわしたばかりに、三荘の盟誓虚謬《きよびゆう》となり、衆虎咆哮《ほうこう》して禍殃《かおう》を起す、という次第になるのである。さて、楊雄と石秀の出くわしたこの男は誰か。それは次回で。
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一 雪に立って腰に斉しく 後魏の高僧慧可《けいか》の故事。慧可は、当時嵩山《すうざん》(河南省)の少林寺で道を修めていた達磨《だるま》大師のところへ教えを請いに出かけて行ったが、ゆるされぬまま、大雪の夜、戸外に立って夜をすごし、黎明には積雪が腰を没するに至った。達磨大師はそれを見てようやく慧可に入門をゆるしたという。
二 巌に投じて虎に〓わる 摩訶薩〓《まかさつた》王子の伝説で、『金光明最勝王経捨身品』に見える。あるとき王子はふたりの兄弟といっしょに森林に遊んだが、そのときふと岩かげにうずくまっている虎の一群を見た。親虎は傷を負って身動きもできないようであり、生まれたばかりの数匹の仔虎たちとともに飢えに迫られているところであった。他の兄弟たちはおそれて逃げてしまったが、薩〓王子は慈悲心をおこし、われとわが身を巌に投じて虎にあたえ、虎の飢餓を救ったという。
三 経上の目連は母を救って天に生ぜしめ 経は『盂蘭盆経』。目連は釈迦の十大弟子のひとりの目〓《もくけん》連《れん》。あるとき目連は、母が餓鬼道《がきどう》におちて苦しんでいるのを知り、神通力をもって救い出したということが『盂蘭盆経』に見える。盂蘭盆会《うらぼんえ》はこれに因んではじまった行事で、盂蘭盆とは梵語で非常な苦しみの意。
四 書会 宋元の頃の民間文芸家の団体。小説や戯曲の制作・育成に貢献があった。
第四十七回
撲天〓《はくてんちよう》 双《ふた》たび生死の書を修《したた》め
宋公明《そうこうめい》 一《ひと》たび祝家荘《しゆくかそう》を打つ
さて、そのとき楊雄《ようゆう》は、その男を立ちあがらせて石秀《せきしゆう》に挨拶をさせた。石秀が、
「このかたはどなたで」
とたずねると、楊雄は答えて、
「この兄弟は、姓は杜《と》、名は興《こう》といい、中山府《ちゆうざんふ》の人で、いかつい顔をしているので、鬼臉児《きれんじ》(鬼のつら)というあだ名をちょうだいしている。先年、あきないをしに薊州にやってきたとき、かっとなって商売仲間のものをなぐり殺し、召し捕られて薊州の役所につながれたのだが、そのときわたしは、彼が拳術や棒術についてなかなかうがったことをいうのを見て、手をつくして救ってやったのだが、こんなところで出会おうとは思いもよらなかった」
杜興は、
「あなたさまは、どんなお役目でこちらに見えましたので」
とたずねる。楊雄はその耳に口を寄せて話した。
「わしは薊州で人殺しをやって、これから梁山泊へ仲間入りに行こうというところなんだ。昨夜、祝家店に泊まったところ、いっしょにきた時遷というのが、その店の夜明けを知らせる鳥をぬすんで食ってしまったことから、つい店の若い衆とやりあい、腹だちまぎれにその店をすっかり焼いてしまって、三人で急いで逃げたのだが、うしろから追ってこられてどうにもならず、われわれふたりで何人かやっつけはしたものの、思いもかけず草むらのなかから二本の撓鉤がのびてきて、時遷がひっかけられてしまったのだ。われわれふたりはやみくもに逃げてここまでたどりつき、道をきこうとしていると、はからずもあんたに出会ったというわけだ」
すると杜興は、
「恩人さま、ご心配はいりません。わたしが時遷どのを返してさしあげましょう」
という。楊雄は、
「まあ掛けたまえ、いっしょに飲もうではないか」
とさそい、三人は座についてさっそく酒をくみあったが、そのとき杜興はいった。
「薊州を立ちましてから、あなたさまのおかげでここまでまいりましたところ、当地のさる大旦那に目をかけられ、そのお屋敷に招かれて主管をつとめ、毎日多額な金銭の出納をすっかりまかせられてたいへん信任されておりますので、もう郷里へ帰りたいとも思わないほどでございます」
「当地のその大旦那というのはどういう人だ」
と楊雄がきくと、杜興のいうには、
「ここには独竜岡の手前に岡が三つあって、村が三つならんでおりますが、そのまんなかのが祝家荘《しゆくかそう》、西側が扈家荘《こかそう》、東側が李家荘《りかそう》といいます。この三荘は三つの村をあわせると二万くらいの兵力がありまして、なかでももっとも勢いの強いのが祝家荘、その頭《かしら》の当主は祝朝奉といって、三人の息子があり、祝氏の三傑と呼ばれております。長男は祝竜《しゆくりゆう》、次男は祝虎《しゆくこ》、三男は祝彪《しゆくひゆう》。ほかに武芸の教師で鉄棒《てつぼう》の欒廷玉《らんていぎよく》というのがおりますが、この男は万夫不当の勇を持っており、屋敷には二千人ほどの腕のたしかな下男がおります。また西側の扈家荘のあるじは扈太公《こたいこう》といって、飛天夜叉《ひてんやしや》の扈成《こせい》という息子がおり、これもなかなか腕の立つ男ですが、ほかにもうひとり、おそろしく武勇のすぐれた娘がいて、一丈青《いちじようせい》の扈三娘《こさんじよう》といいます。日・月ふたふりの剣の使い手で、馬にかけても堂に入った乗り手です。それからこちらの東の村はわたしの主人のところで、姓は李《り》、名は応《おう》、渾鉄《あらがね》づくりの点鋼鎗《てんこうそう》の名手で、背中に五本の飛刀(手裏剣の類)をかくし、百歩はなれてよく人を倒し、神出鬼没の手並みをもっておられます。この三村は生死を誓いあって盟を結び、心をひとつにして、よきにつけあしきにつけ互いに助けあうことになっていますが、梁山泊の好漢が食糧をゆすりにくるのが心配で、三村ではそれにあたる準備もできております。これからおふたりを屋敷へご案内して李大官人におひきあわせし、手紙を書いてもらって時遷どのを救い出しましょう」
「あんたのいうその李大官人というのは、撲天〓《はくてんちよう》(天を撃つ鷹《たか》)の李応どののことではないか」
「そうです、そのかたです」
と杜興がいうと、石秀も、
「独竜岡に撲天〓の李応という好漢がおられるとは世間のうわさによく聞いていたが、ここにおいでだったのか。まことに武勇のすぐれた立派な人物だとかねがね聞いておりました。行ってお目にかかることにしましょう」
楊雄はさっそく給仕を呼んで勘定をいいつける。杜興はどうしても楊雄には出させずに、自分で酒代をはらった。三人は居酒屋を出ると、杜興がさきに立って楊雄と石秀を李家荘へ案内して行った。楊雄がうち眺めると、まことに立派な屋敷で、外まわりにはぐるりと広い堀をめぐらし、白壁の土塀が岸に沿い、ひと抱え以上もある柳の大木が数百本。門の外には吊り橋がかけられて表門に通じていたが、門をはいって中庭へ行ってみると、その両側には二十あまりの槍かけがあって、きらきらと光る武器がぎっしりとかかっていた。
「おふたりさん、しばらくここでお待ちください。わたしがお知らせに行って、大旦那に出てきていただきますから」
と、杜興は奥へはいって行った。まもなく、李応が奥から出てきた。楊雄と石秀が見るに、うわさにたがわぬ堂々たる人物であった。それをうたった臨江仙(曲の名)のうたがある。
鶻《はやぶさ》の眼、鷹の睛《ひとみ》、頭は虎に似、燕の頷《おとがい》、猿の臂《うで》、狼の腰。財を疎《うと》んじ義に仗《よ》り英豪と結ぶ。愛《この》んで雪白の馬に騎し、喜んで絳紅《こうこう》の袍《ほう》を著《き》る。背上には飛刀五把を蔵し、点鋼鎗には斜に銀条を嵌《は》む。性剛にして誰か敢て分毫を犯さん、李応、真に壮士、名は号す撲天〓《はくてんちよう》と。
そのとき、李応が表広間に姿をあらわすと、杜興は、楊雄と石秀を広間にみちびいて礼をおさめさせた。李応は急いで礼を返し、さっそく席につくようにすすめた。楊雄と石秀が再三辞退したうえ、席につくと、李応は酒をいいつけてもてなした。楊雄と石秀のふたりは再拝していった。
「ぶしつけなおねがいでございますが、祝家荘へお手紙をお出しくださって時遷のいのちを救っていただけますならば、死んでもご恩は忘れません」
李応は家塾の先生にきてもらって相談をし、手紙を一通書かせ、諱《いみな》(本名。謙称である)を書きいれ、印鑑をおし、副主管のものにわたして、早馬をしたてて火急に祝家店へ行き、その身柄をひきとってくるようにいいつけた。副主管は主人の手紙を受けとり、馬に乗って出かけて行った。楊雄と石秀が拝謝すると、李応は、
「おふたりさん、ご安心なさい。あの手紙がとどけばすぐ帰してくれます」
楊雄と石秀がかさねて礼をいうと、
「まあ奥の間へおいでになって、一杯やりながらお待ちください」
ふたりはあとについて奥へ行き、そこで朝食のもてなしを受けた。食事がおわり、お茶もすむと、李応は槍術の話をしだしたが、楊雄と石秀がうがった答えをするのを見て、内心大いによろこんだ。
巳牌《しはい》(昼まえ)ごろ、副主管がもどってきた。李応が奥の間に呼んで、
「ひきとってきた人はどこにおられる」
ときくと、
「わたくし、自分で朝奉《ちようほう》さまにお目にかかって書面をわたしましたところ、すぐにも釈放してくださる様子でしたが、あとから祝氏の三傑が出てきて、返事もくれず、身柄もわたさず、どうあっても州役所へつき出すと怒りだしましたので」
李応はおどろいて、
「彼とわしは三村で生死の盟を結んだ仲だ。書面が行ったら承知をするはずなのだが、どうしてそんなことになったのだろう。きっとおまえのいいかたがまずかったので、こんなことになったのにちがいない。杜主管、おまえ、自分で行って、直接祝朝奉に会い、くわしくわけを話してこい」
「かしこまりました。ついてはご主人さまみずからのお手紙をいだだきとうございます。それを持ってさえ行けば、きっと釈放してくれましょう」
「なるほど」
と李応はうなずき、急いで花箋紙を一枚持ってこさせて自分で手紙を書き、封の表に諱の印鑑をおして杜興にわたした。杜興は厩から一頭の駿足の馬をひき出し、装具をつけ、鞭を手にして表門を出ると、馬に乗り鞭をふるってまっしぐらに祝家荘へむかった。李応は、
「おふたりさん、ご安心なさい。わたしのあの手紙がとどけば、すぐに帰してくれます」
楊雄と石秀はあつく礼をのべ、そのまま奥の間で酒を飲みながら待っていた。
やがて日が暮れてきたが、杜興は帰ってこなかった。李応がいぶかって迎えのものをやろうとしていると、下男が、
「杜主管さまがお帰りになりました」
と告げた。
「何人で帰ってきたか」
ときくと、
「主管さまおひとりで馬を飛ばして帰ってこられました」
李応は首をふってつぶやいた。
「なんともおかしなことだ。いつものあいつはこんなわからずやではないのだが、きょうはなぜまたこうなんだろう」
楊雄と石秀がいっしょに表広間へついて行って見ると、ちょうど杜興が馬をおりて表門をはいってくるところだったが、見れば、怒りに顔をまっ赤にし、歯を食いしばってしばらくはものもいえないというありさま。詩でいえば、
面貌天生本《もと》より異常なるも
怒る時古怪更に当《あた》り難し
三分は人の模様に像《に》ず
一に〓都《ほうと》(冥府)の焦面王《しようめんおう》(鬼王)に似たり
李応は広間へ出て行くと、せきこんでたずねた。
「くわしくわけを話してみろ、いったいどうしたというのだ」
杜興は気をおししずめて、やっと話しだした。
「わたくしがご主人さまのお手紙を持って、むこうの第三の門のところまでまいりますと、祝竜・祝虎・祝彪の三兄弟がそこに腰をおろしているのに出会いましたので、三人に挨拶をしましたところ、祝彪がいきなり、きさま、またぞろ何をしにやってきた、とどなりつけるのです。わたくしは身をこごめて、主人から手紙をあずかってまいりました、といいますと、祝彪め、血相をかえて口ぎたなくののしりだし、きさまの主人はなんというものわかりのわるいやつだ、今朝もつまらん男をよこして手紙をとどけ、梁山泊の賊の時遷というやつをわたしてくれといってきた、これから役所へひきたてて行こうとしているのに、なんだってまたぞろやってきやがったのだ、と、こういうのです。わたくしが、あの時遷は梁山泊の一味ではありません、薊州からやってきた旅のもので、このたびわたくしの主人のところへ頼ってきたのですが、とんだことに、あやまってお宅さまの宿屋を焼いてしまいましたことについては、いずれ主人がもとどおりに建てなおしてお返しいたしますから、どうかわたくしどもの顔をたてて、よろしくおゆるしくださいますように、といいますと、三人はいっせいに、返さぬ、と叫ぶのです。わたくしはそれで、主人が自分で書きました手紙がここにありますから、どうかごらんくださいますよう、といいましたところ、祝彪のやつめ、お手紙を受けとったかと思うと、あけても見ずにびりびりと破りすてて、下男たちにわたくしを門から突き出してしまえといいつけるのです。そして祝彪と祝虎はどなりつけて、おれさまたちを怒らせないようにするがよいぞ、きさまのとこの李応もふんづかまえて、同じく梁山泊の強盗だといって送りこんでしまうぞ、などというのです。わたくしはこんなことをいいたくはございませんが、あの三匹のちくしょうめは無礼千万にもご主人さまを口ぎたなくののしったうえ、下男たちにわたくしをとりおさえさせようとしましたので、わたくしは馬を飛ばして逃げてきたのですが、みちみち腹が立ってなりませんでした。まったく我慢のならぬやつです、長いあいだ生死のまじわりを結びながら、いまはもうこれっぽっちの仁義もないのですから」
詩にいう。
徒《いたず》らに聞く漆《うるし》に似たりと膠《にかわ》の如しと
利害場中忍《しの》んで(注一)便《すなわ》ち抛《なげう》つ
平日もし真の義気無くんば
時に臨んで死生の交《まじわり》を説く休《なか》れ
李応はそれを聞くと、無明《むみよう》の業火《ごうか》(怒り)を心に燃えあがらせること三千丈。とりしずめようすべもなく、大声で下男を呼んだ。
「すぐ馬をひいてこい」
楊雄と石秀がなだめて、
「大旦那、まあおしずまりください。わたくしたちのためにご当地のおつきあいをそこなわれてはなりません」
だが、李応はどうしてもきかず、すぐ部屋へ行って黄金の鎖縅《くさりおど》しの甲《よろい》をつけ、前後には獣面の掩心《えんしん》(胸あて)をかけ、緋色の袍《うわぎ》を着、背には五本の飛刀をさし、点鋼鎗を手に取り、頭には鳳翅《ほうし》の〓《かぶと》をいただいて、門前にいでたち、三百人の精悍な下男を呼びつどえた。杜興も甲をつけ、槍を手にして馬にまたがり、二十余騎の騎馬の兵をひきしたがえ、楊雄と石秀もきりりと身支度をし、朴刀をひっさげて李応の馬のあとにしたがい、まっしぐらに祝家荘へと繰りこんで行った。
日がようやく西の山にかたむきかけたころ、早くも独竜岡の麓について、ただちに陣をしいた。そもそも、この祝家荘はまことに堅固な構えで、独竜山の岡に拠って周囲にはぐるりとひろい堀をめぐらしていた。その屋敷は岡の上に築かれて、三重の城壁にかこまれている。城壁はいずれも石を積みあげたもので、その高さは約二丈。屋敷の前と後に二つ荘門があり、それぞれ吊り橋がかけてある。城壁の内側には小屋が建ちならび、なかには槍や刀などの武器がぎっしりとたてかけられ、門楼《もんやぐら》の上には戦鼓や銅鑼《どら》がそなえつけられていた。李応は馬をとめ、屋敷の前で大声で呼ばわった。
「祝家の三子よ、なにゆえに我輩をののしったか」
すると門がひらかれて、五六十騎の騎馬がどっと駆け出してきた。その先頭の一騎は、炭火《すみび》のようなまっ赤な馬にうちまたがった、祝朝奉の第三子祝彪である。そのいでたちいかにといえば、
頭には縷金《るきん》(金筋入り)の荷葉〓《かようかい》(蓮の葉型のかぶと)を載《いただ》き、身には鎖子《さし》(鎖おどし)の梅花甲を穿《うが》ち、腰には錦袋《きんたい》の弓と箭《や》を懸け、手には純鋼の刀と鎗を執る。馬の額下には地を照らす紅纓《こうえい》を垂れ、人の面上には天を撞《つ》く殺気を生ず。
李応は祝彪を見るや、指をつきつけて大いにののしった。
「おのれ、その口にはまだ乳の匂いも失《う》せず、その頭にはまだ胎毛さえ残っている青二才め。きさまの親父とおれとは生死のまじわりを結び、一心同体となってこの地を守ろうと誓いあった仲だ。きさまの家でなにか事があって、人がいるときはさっそく人をやり、物がいるときはいつでも物を出してやったのだ。ところが、こんどわしが、ひとりのなんでもない男を、二度も手紙を書いてもらい受けによこしたのに、きさまはなんでわしの手紙をひきさき、わしの名を辱しめたのか。無道にもほどがあろうぞ」
「なるほど当家はきさまと生死のまじわりを結んだには結んだが、それは一心同体になって梁山泊の叛徒を捕らえ、その山寨を一掃せんことを誓ってだ。それをきさまは、なんだってその叛徒どもと結託したのだ、謀叛をやらかそうというのか」
「なに、彼が梁山泊のなにかだというのか。このやろう、なんでもないものをつかまえて賊よばわりをするとはとんでもないやつだ」
「賊の時遷がちゃんと自分で泥を吐いているのだ。きさま、この期《ご》におよんで出まかせはいうまいぞ。かくしおおせるものか。とっとと消えうせろ。うせなきゃ、きさまもふんづかまえて、賊として送りこんでくれるぞ」
李応は大いに怒って、馬をせかせ、手の槍をしごきながら、祝彪めがけて突きかかって行った。祝彪も馬を飛ばして李応とたたかった。ふたりは独竜岡の麓でおしつもどしつ、しのぎをけずりあうこと十七八合、やがて祝彪は李応に敵し得ず、馬首を転じて逃げ出した。李応は馬を飛ばして追いかける。祝彪は槍を横たえて馬上におき、左手で弓をとり右手で矢をつがえ、きりきりとひきしぼってねらいをすますや、身をひるがえしてひょうと射放った。李応がいそいで身をかわそうとしたときには、すでに矢は臂にあたり、李応はもんどりうって落馬した。祝彪はすぐさま馬を転じておそいかかろうとした。楊雄と石秀はそれを見るや大喝一声、朴刀をふりかざしながら祝彪の馬前に飛び出して行った。祝彪は防ぎきれず、急いで馬を返して逃げようとしたが、楊雄の斬りこんだ朴刀の一打ちが馬の尻を斬りつけた。馬は傷におどろいて棒立ちになり、祝彪は危うくふり落とされかけたが、配下の騎馬のものらがいっせいに矢を放ったので、それを見た楊雄と石秀は、甲《よろい》も着ていない我が身をかえりみてやむなく退き、追うことをあきらめた。杜興は李応を救って馬にのせ、さきにひきあげて行った。楊雄と石秀も下男たちのあとから逃げた。祝家荘の軍勢は二三里ほど追いかけてきたが、ようやく日も暮れてきたのを見て、ひきあげて行った。
杜興は李応を助けて屋敷に帰り、馬をおりて、ともに離れの間にはいって休んだ。一家のものはみな出てきて世話をし、矢を抜きとり、甲をぬがせ、金瘡薬《きんそうやく》を傷口にぬってから、夜どおし離れの間で相談をした。そのとき楊雄と石秀は、杜興にむかって、
「大旦那はやつらに辱しめられなさったうえ、矢傷まで負わされ、時遷も救い出せず、結局わたしたちが大旦那を巻きぞえにしたことになってしまいました。こうなったうえは、われわれ両人が梁山泊へのぼって晁・宋の二頭領ならびに他の頭領たちにおねがいして、大旦那の仇をむくい、時遷を救い出すよりほかありません」
といい、李応にいとまを告げた。李応は、
「手をつくしてみたものの、どうにもできなかったのです。おふたりさん、どうかあしからず」
と、杜興にいいつけていくばくかの金銀を贈った。楊雄と石秀はどうしても受けとらなかったが、李応が、
「世間の義理というものです、どうかご辞退なく」
というので、ふたりはようやく受けとって、李応に別れの挨拶をした。杜興は、村の出口まで送って行って、本街道を教えてから別れ、李家荘にひきかえしたが、この話はそれまでとする。
さて楊雄と石秀は梁山泊をめざしてすすんで行くうちに、やがて遠くに酒旗をかかげ出している一軒の新築の居酒屋が見えた。ふたりはなかへはいって行って、酒を飲み、道をきいた。この居酒屋は、梁山泊でこのたび新しく設けた見張りの居酒屋で、石勇《せきゆう》があずかっていた。ふたりは酒を飲みながら、給仕に梁山泊へ行く道をたずねた。石勇はかれらふたりがなみのものではないとにらみ、みずからそこへ出て行って答えた。
「お客さまがたは、どちらから見えましたので。山へはなんのご用でお出かけなので」
「薊州からやってきたものですよ」
楊雄がそういうと、石勇はふと思いだして、
「あなたは、もしや石秀どのではございませんか」
とたずねた。
「わたしは楊雄というものですが、こちらの兄貴が石秀です。あなたはどうして石秀の名をご存じなので」
石勇はあわてて、
「いえ、お顔は存じあげていないのですが、先日戴宗兄貴が薊州から帰ってきて、しきりにおうわさをしておりましたので、お名前だけはうけたまわっておりました。このたび山へおいでくださるとは、これはまたうれしいことでございます」
三人は挨拶をとりかわした。楊雄と石秀は、これまでのことをすっかり石勇に話した。石勇はすぐ給仕に酒をいいつけ、山寨おきまりの歓迎の一席を設けた。そうして裏の水亭の窓をあけ、弓をひきしぼって鏑矢《かぶらや》を放った。と、対岸の蘆《あし》の茂みのなかから手下のものが舟を漕ぎ出してきた。石勇はふたりを舟に乗せ、まっすぐ鴨嘴灘《おうしたん》に漕ぎつけて上陸すると、すでに山へは石勇の出した使いのものが知らせていたので、戴宗《たいそう》と楊林《ようりん》が早くも山をおりて迎えに出ており、互いに挨拶をとりかわして、一同うちそろって本寨へ登って行った。頭領たちは好漢がきたと聞いてみな集まってき、一同座についた。戴宗と楊林は、楊雄と石秀をみちびいて広間へ通り、晁蓋《ちようがい》および宋江《そうこう》をはじめ頭領たち一同にひきあわせた。挨拶がおわると、晁蓋はふたりの経歴をくわしくたずねた。楊雄と石秀が、身におぼえの武芸をもって仲間に加わりたいというと、一同は大いによろこび、席をゆずって掛けさせた。やがて楊雄が、いっしょに大寨へ仲間入りにくるはずだった時遷が、まずいことに祝家店で夜明けを知らせるにわとりをぬすんだために、つい大騒ぎになったこと、石秀が火をつけてその店を焼きはらったこと、時遷が捕らえられたので、李応をわずらわして二度も手紙をやって身柄のひきわたしをたのんだが、祝家の三人の息子がどうしても返してくれず、是が非でも山寨の好漢たちを捕らえずにはおかぬと悪口雑言をあびせかけて、たえがたい無礼をはたらいたことを話した。
いわなければなにごともなかったのだが、ついいってしまったために、晁蓋は大いに怒って、
「ものども、こやつらふたりを斬りすててしまえ」
と一喝した。
まさに、
楊雄石秀商量を少《か》く
引帯せる時遷行《おこない》臧《よろ》しからず
豪傑の心腸火に似ると雖も
緑林の法度却って霜の如し
宋江はあわててとりなだめた。
「兄貴、まあおしずまりください。このふたりの壮士は、千里を遠しとせずにやってきて、心をひとつにし力をあわせようというのに、なぜ斬ってすてようとなさるのです」
すると晁蓋のいうには、
「われら梁山泊の好漢は、王倫をたおしてからこのかた、忠と義を本分とし、人々に仁徳をほどこすよう心がけてきた。仲間のもの誰ひとりとして、山をおりて名を辱しめるような振舞いをしたものはなかった。仲間たちは新旧の別なくみなそれぞれに豪傑たるの光彩をはなっている。ところがこやつらふたりは、梁山泊の好漢の名をかたって鳥をぬすんで食らい、われれれの名を辱しめた。きょうはまずこのふたりを斬ってすて、こやつらの首を持って行って山寨の規律を示し、軍勢をくり出してその村をたたきつぶして、面目をたもつのだ。ものども、さっさと斬りすててしまえ」
宋江はおしとめた。
「それはいけません。兄貴はこのおふたりのいまの言葉をお聞きでなかったか。その鼓上蚤の時遷というのはもともとそういう男で、祝家のやつらを怒らせたまでのこと。このおふたりがわが山寨を辱しめられたわけではありません。わたしもしばしば耳にしておりますが、祝家荘のやつらはわが山寨に歯むかおうとしているとか。目下わが山寨は人馬を多数かかえて兵糧の欠乏をきたしておりますので、われわれのほうからことをかまえるというのではなく、やつらがさからってくるのですから、この機に乗じてやつらをやっつけてやりましょう。もしあの村をたたきつぶせば四五年の糧食にはこと欠きません。こちらからことをかまえておしかけて行くというのではなく、やつらが無礼だからです。兄貴、ここはひとまず怒りをおしずめください。わたくしふつつかながら一隊の軍勢をひきつれ、幾人かの頭領たちにも加勢をたのみ、山をおりて祝家荘を討ちに行きます。もしあの村をたたきつぶすことができなければ、誓って山へは帰りません。一つには山寨の仇を報いてわれわれの栄光をたもつために、二つにはあのような雑輩どもから辱しめられぬために、三つには多くの兵糧を得て山寨の用に供するために、四つには李応を山寨に迎えて仲間に入れるために」
呉学究《ごがつきゆう》もいった。
「公明兄貴のおっしゃることはごもっともです。山寨は、手足たるべき者を自ら斬ってはなりません」
戴宗も、
「むしろ、このわたくしをお斬りになるとしても、賢路《けんろ》を絶《た》つべきではありません」
といい、他の頭領たちもしきりになだめたので、晁蓋もようやく思いとどまった。楊雄と石秀は罪をわびた。宋江はふたりをなだめさとして、
「わるく思わないでください。これは山寨の規律としてかくあらねばならぬことなのです。たとえこの宋江でも、もしあやまちをおかせば、即座に首をはねられます。そこにはなんの容赦もありません。このほど新たに鉄面孔目《てつめんこうもく》の裴宣《はいせん》が軍政司(軍規取締)になり、賞罰功罪の規定ができているのです。さきほどのことは、どうかご容赦ください」
楊雄と石秀は平伏して罪をわびた。晁蓋はふたりを楊林の次の席につかせた。かくて山寨では、手下たちを呼び集めて新しい頭領に挨拶をさせ、それがすむと、牛や馬を殺して祝宴がひらかれ、二軒の家が楊雄と石秀にわりあてられてそれぞれ十名ずつの手下がつけられることになった。その夜の宴もおわると、翌日もまた宴席が設けられ、頭領たちは一堂に会していろいろと協議しあった。
宋江は鉄面孔目の裴宣に、出動できる人員を調べさせ、頭領たちに請うて、いっしょに祝家荘を攻め、是非ともその村をたたきつぶそうとはかった。協議の結果、晁蓋はとどまって山寨を守ることになり、ほかに呉学究・劉唐・阮氏三兄第・呂方・郭盛が残留して本寨をかためることになった。渡し場や関門や居酒屋に配置されて役を持っているものも出動しないことにし、また新参の頭領の孟康《もうこう》(前身は船大工)は船舶の建造にあたるとともに馬麟《ばりん》にかわって戦船を監督することになった。こうして、山をくだって祝家荘を討つ頭領たちの、二隊からなる編成が告示された。第一隊は宋江《そうこう》・花栄《かえい》・李俊《りしゆん》・穆弘《ぼくこう》・李逵《りき》・楊雄《ようゆう》・石秀《せきしゆう》・黄信《こうしん》・欧鵬《おうほう》・楊林《ようりん》らで、三千の手下と三百の騎兵とをひきい、甲《よろい》に身をかためて山をくだり壮途についた。第二隊は林冲《りんちゆう》・秦明《しんめい》・戴宗《たいそう》・張横《ちようおう》・張順《ちようじゆん》・馬麟《ばりん》・〓飛《とうひ》・王矮虎《おうわいこ》・白勝《はくしよう》らで、同じく三千の手下と三百の騎兵とをひきいて、すぐうしろにつづき、また、金沙灘《きんさたん》と鴨嘴灘《おうしたん》の二ヵ所の小寨は宋万《そうまん》と鄭天寿《ていてんじゆ》が守って糧秣の輸送にあたることになった。晁蓋は一行を見送ってのち、山寨に帰った。
さて宋江以下の頭領たちは、ひたすら祝家荘へと急いだが、途中は格別の話もなく、やがて独竜山の手前一里あまりのところに着き、前軍は陣をかまえた。宋江は中軍の幕営で花栄と協議して、
「聞けば祝家荘は道が非常に入りくんでいるとのこと。このまま兵をすすめるのは考えものだ。そこでとりあえずふたりのものを出して道の曲折をさぐらせ、進路と退路の見きわめをつけてから、兵をすすめ戦端をひらくことにしたらどうだろう」
すると李逵が口をはさんだ。
「兄貴、おいらはもう長いこと用がなく、ひとりも殺したことがなくてむずむずしているのだ。おいらがさきにひとっ走り、行ってみましょう」
「いや、あんたはいかん。あんたは敵陣を斬り破るときに先陣をうけたまわってもらいたいのだ。これは忍びのもの(注二)の仕事で、あんたにはできないことだ」
宋江がそういうと、李逵は笑って、
「あんな糞村のことなんぞ、兄貴が心配するほどのことはないんだ。わしがやろうどもを二三百ひきつれて斬りこんで行けば、あの糞村のやろうどもをみんなぶった斬ってしまうんだがな。さきに人をさぐりに行かせるなんてことはありませんよ」
「こいつ、ばかなことをいうでない。むこうへ行ってろ、用があれば呼ぶから」
と宋江は叱った。李逵は立ち去りながらつぶやく。
「蒼蠅《は え》を五六匹たたき殺そうというのに、なにも大騒ぎすることはあるまいに」
宋江は石秀を呼んでいった。
「あんたはあの村へ行ったことがあるんだったな。楊林といっしょに行ってもらいたいのだが」
「こんなにおおぜいでやってきたのですから、むこうでもきっと警戒しているにちがいありませんが、さてどんな恰好ではいって行けばよいでしょう」
と石秀がいうと楊林が、
「わしは山伏(注三)の身なりをして、ふところに短刀を忍ばせ、手に錫杖《しやくじよう》(注四)を持って、みちみちふり鳴らしながらはいって行こう。あんたはわしの錫杖の音をたよりに、はなれないようについてくればよい」
「わたしは薊州で薪売りをやっておりましたから、粗朶《そだ》を一荷かついで売りに行くことにしましょう。ふところには武器をかくして行きます。いざという時には天秤棒だって役に立ちます」
「それはよい考えだ。ふたりで相談して用意をととのえ、五更に起きて出かけることにしよう」
まさに、一鶏《いつけい》の小忿《しようふん》のために衆虎《しゆうこ》をして相争うを致さしむ、というところ。されば古人も、西江月のうたで、なかなかうがったことをうたっている。
軟弱は身を安んずるの本《もと》、剛強は禍を惹《ひ》くの胎《もと》。争う無く競《きそ》う無きは是れ賢才、我に些児《さじ》(すこし)を虧《か》くも何ぞ礙《さまた》げんや。鈍斧《どんふ》は磚《せん》(かわら)を鎚《う》つに砕き易く、快刀は水を劈《き》るも開き難し。但《ただ》看よ髪白く歯牙衰うるも、惟《ただ》舌根有りて壊《やぶ》れざるを。
さて石秀は粗朶の荷をかついでさきに出かけたが、まだ二十里くらいしか行かぬあたりで、道がくねくねとややこしく曲がりだし、どの道もまるで輪のよう。樹木がおい茂ってなかなか道すじがわからないので、石秀は粗朶の荷をおろして立ちどまってしまった。すると、うしろのほうから錫杖のひびきがだんだん近づいてきた。見れば、楊林が頭に破れ笠をかぶり、身にはふるびた衣《ころも》をまとい、手には錫杖を持ち、それをうちふりながらやってくる。石秀はあたりに誰もいないのを見すますと、楊林を呼びとめていった。
「道がくねくね曲がってまるっきりわからない。どの道がこのまえ李応どのについてきた道だったか見当がつかんのです。日も暮れてきたが、村のものはみんな歩きなれた道で、気にもしていないのに」
「道の曲がりぐあいなどかまわずに、広い道をえらんで行きさえすればよかろう」
石秀はまた粗朶をかつぎあげ、広い道広い道とすすんで行くと、行くてに人家があって数軒の酒屋や肉屋が見えた。石秀は粗朶をかついで酒屋の前へ行き、ひと息いれた。見ればどの店にもその門口《かどぐち》に刀や槍がかけてあり、人々はみな「祝」と大きく字を染めぬいた黄色い背心《はいしん》(注五)を着ていた。道を通る人々もみなそうだった。石秀はそれを見て、ひとりの老人を呼びとめ、お辞儀をしていった。
「ご老人、ちょっとおたずねしますが、ここいらにはかわったならわしがあるものですな。なんのために門口に刀や槍がかけてあるのです」
「おまえさん、どこから来なすったのかね。なにもご存じないのか。まあ、早く行ってしまいなさるがよい」
「わたしは山東からきた棗《なつめ》売りの旅あきんどなのだが、資本《もとで》をすって帰ることもできず、こうやって粗朶を売り歩いてここまでやってきたもので、ここいらのならわしも地理も、まるでわかりませんので」
「とにかく、どこかよそへ早く逃げなさるがよい。ここではそのうち大いくさがはじまるのだよ」
「こんな結構な村に、なんでまたそんな大いくさなんかが」
「ほんとにご存じないのだね。それなら教えてあげよう。ここは祝家荘といって、岡の上にあるのが祝朝奉さまのお屋敷だが、このほど梁山泊の好漢たちの怒りを買いなさって、現にもう彼らは軍勢をひきつれて村の入口までおしよせてきていて、いくさがはじまりかけているのだ。ところがこの村の道がややこしいものだから、まだはいってくることができずに村の外にたむろしているところだ。いま祝家荘では軍令がくだったところなんだよ。どの家でも若い元気な連中は用意をしておくように、伝令がきたらすぐとび出すようにとな」
「村にはみんなでどれくらい家がありますので」
「この祝家荘だけで二万軒くらいあるな。ほかに東と西に二つ村があって加勢してくれる。東の村には撲天〓《はくてんちよう》の李応《りおう》の李大官人さまがおられるし、西の村には扈太公《こたいこう》さま、その娘さんで一丈青《いちじようせい》とあだ名されていてなかなか腕の立つ扈三娘《こさんじよう》さまがおられる」
「それなら梁山泊なんか、なにもこわくないじゃありませんか」
「誰だってここへはじめてやってくれば、道がわからなくて、つかまってしまうだろうな」
「どうして、はじめてくればつかまってしまうのです」
「この村の道については、こういう歌があるほどだからな」
よくしたものだよ祝家荘
どこもかしこもとぐろ道
入ってくるのは易いけど
出ようたって出られない(注六)
石秀はそれを聞くと、声をあげて泣きだし、ぱっとそこへ平伏して老人にむかっていった。
「わたしは、世間をわたり歩いているうちに資本《もとで》をなくしてしまって、郷里《く に》へ帰ることもできないでいるものです。もし粗朶を売りに出ていくさにぶつかれば、逃げることもできず、どんなにひどい目にあうか知れません。おねがいです、どうかこのわたしをおあわれみくださって、この粗朶をさしあげますから、わたしに出て行く道を教えてください」
「ただでもらうなんてことはできないよ。いいとも、わしが買ってあげる。まあ、なかへはいりなさい。なにかご馳走してあげよう」
石秀は礼をいい、粗朶をかついで、老人について家のなかへはいって行った。老人は濁酒を二碗つぎ、〓糜《もちがゆ》を一碗盛って、石秀に食べさせた。石秀はまたお辞儀をして、
「おねがいします。どうか出て行く道を教えてください」
「この村から出て行くには、白楊《はこやなぎ》が木があったら曲がることだ。道が広かろうと狭かろうと白楊の木があれば曲がりなさい。それが行ける道だ。白楊の木がなかったら、どの道も行きどまりになっているのだ。また他の木のところでは曲がってはいけない。その道もぬけられないのだ。道をまちがえたが最後、どっちへどう行っても絶対にぬけられない。そればかりでなく、行きどまりの道には地面に竹簽《ちくせん》(そぎ竹)や鉄〓藜《てつしつり》(注七)が植えこんである。行きまちがえて飛簽《ひせん》(足がらみ)を踏んづけたら、必ずつかまえられてしまって逃げられっこないのだ」
石秀はお辞儀をして、
「どうかお名前をお聞かせください」
「この村には祝という姓がいちばん多いが、わしだけは二字の姓で、鐘離《しようり》というのだ。この土地のものだよ」
「お酒もご飯もたくさんにいただきました。では、いずれまたお礼にうかがわせていただきます」
ちょうどそういっているおりしも、表のほうで騒がしい声が聞こえた。石秀が聞き耳をたてると、
「忍びのものをつかまえた」
とのこと。石秀ははっとして、老人とともに外へ出て見ると、七八十人の兵士が、ひとりの男をうしろ手に縛ってやってきた。石秀が見ると、なんとそれは楊林で、すっぱだかに着物を剥ぎとられて、縄で縛られている。石秀はそれを見て、内心おどろきうろたえながら、老人に、
「あのつかまった男は何者です。なんで縛られたのでしょう」
と、声をひそめて、わざとたずねてみた。
「聞かなかったのかね。あいつは宋江のところからきた忍びのものだそうだよ」
「どうしてつかまったんでしょう」
と石秀はまたたずねてみた。
「ずいぶん不敵なやつで、たったひとりで忍びをはたらきにきて、山伏の恰好で村へはいりこんだものの、道がわからないもんだから、広い道ばかりえらんで歩き、あっちへ行ったりこっちへもどったり、行きどまりの道ばかり歩いていたのだ。白楊の木のところで曲がるということを知らなかったのだな。道をとりちがえて歩いているところを人に見とがめられ、これはあやしいというわけでお屋敷の旦那たちに知らせて捕らえたんだが、あいつはそのとき刀を抜いて、四五人のものに手傷を負わせたということだ。だがおおぜいにはかなわない、いちどにおそいかかられて、とりおさえられてしまったのだが、なんでもあいつを見知っているものの話だと、もともと賊をはたらいていたやつで、錦豹子《きんびようし》の楊林というものだそうだ」
そう話しているところへ、前方でどなりたてる声が聞こえてきて、
「お屋敷の三の若さまのお見まわりだ」
という。石秀が壁のすきまからのぞいて見ると、先頭には二十組ばかりの纓鎗《えいそう》(房つきの槍)の組がならび、うしろには四五人の弓矢を持った騎兵、さらに四五組の青《くろ》と白の馬の斥候騎兵がしたがって、その中央に、雪白の馬にまたがり、隙なく武装して弓矢を帯び、手には一本の銀槍を持った、ひとりの若い壮士を擁してくるのが見えた。石秀はそれが誰であるか知っていたが、わざと老人にたずねた。
「あの通って行かれるおかたはどなたですか」
「あのかたが祝朝奉さまの三男の祝彪とおっしゃるかただよ。西の村の扈家荘の一丈青さまのいいなずけで、兄弟三人のうちでいちばん腕のたつかただ」
石秀は老人にお辞儀をして、
「おねがいします、出て行く道を教えてください」
「きょうはもうおそい。行くさきで、もしいくさでもはじまったら、むだ死にをすることになりますぞ」
「どうかわたしのいのちをお助けください」
「わしの家で一晩泊まって、あした様子を見てなにごともないようだったら、出かけなさるがよい」
石秀が礼をいって老人の家に腰をおちつけていると、門口に四五回も報馬《ふれうま》が知らせにきて、軒なみに、
「みなのもの、今夜は合図の赤い提灯を見たら、みんな力をあわせて梁山泊の賊をひっ捕らえ、お上へつきだして褒美にあずかるのだぞ」
と叫んで通りすぎて行った。石秀が、
「誰ですか、あれは」
とたずねると、老人は、
「あのお役人は当地の捕盗巡検だ。今夜手筈をととのえて宋江をつかまえようというのだ」
石秀はそれを聞くと心中ひそかに思案をめぐらした。そして松明をもらいうけ、お休みなさいと挨拶をして裏の小屋へひきとって寝た。
さて、村の入口にたむろしていた宋江の軍勢は、楊林と石秀がいっこうに報告にもどってこないので、あとからまた欧鵬《おうほう》を村へやったところ、帰ってきて、
「むこうでは、忍びのものをひとりつかまえたといって大騒ぎをしているようでしたが、わたしは道がややこしくてわかりませんでしたので、あまり奥へははいりませんでした」
と復命した。宋江はそれを聞くとかっとなって、
「報告をうけてから兵をすすめるなどということはもはやできぬ。それに、忍びのものをひとり捕らえたというのなら、必ずふたりとも捕らえられたにちがいないから、今夜のうちにしゃにむに兵をすすめ、斬りこんで行ってあのふたりを救い出さねばならぬ。頭領衆はどう思われる」
すると李逵がいった。
「わしがまず斬りこんで行って、様子を見ましょう」
宋江はそれを聞いて、ただちに全軍に武装の命令をくだした。そして、李逵と楊雄は一隊をひきいて先鋒となり、李俊らは軍をひきいて後詰めに、左には穆弘、右には黄信を配し、宋江・花栄・欧鵬らは中軍の頭領となり、旗をふり、喊声をあげ、軍鼓をたたき銅鑼を鳴らし、大刀や大斧をふりたてつつ祝家荘へと殺到して行った。
独竜岡へ殺到して行ったのは、たそがれのころであった。宋江は先鋒の軍をはげまして屋敷へ打ち入るよう命じた。先鋒の李逵はすっぱだかになり、鋼《はがね》づくりの板斧《はんぷ》二梃をふりまわしながら、勢いすさまじく斬りすすんで行ったが、屋敷の前まで行って見ると、すでに吊り橋は高々と吊りあげられて、門内には一点のあかりも見えない。李逵は堀へおりて渡って行こうとしたが、楊雄がそれをひきとめ、
「いかん、いかん。門をしめているのは必ずなにかたくらみがあるのだ。兄貴が見えてから相談することにしよう」
だが李逵はなかなか待ちきれず、二梃の板斧を打ちあわせながら、堀のむこうにむかって大声でののしった。
「祝太公の糞やろうの老いぼれめ、とっとと出てきやがれ、黒旋風《こくせんぷう》さまがここにおいでだ」
屋敷からはなんの応答もなかった。
宋江らの中軍の人馬が到着すると、楊雄は迎えて、
「屋敷にはまるで人馬のかげも見えず、物音ひとつしません」
と報告した。宋江が馬をとめて見ると、屋敷には、刀も槍も人馬のかげも見えない。心中ふしぎに思ったが、ふと気がついて、
「しまった。天書にはっきりといましめてあった。敵に臨んで急暴なる休《なか》れと。うっかりそれを忘れていて、ふたりの兄弟を救いたいばかりに夜どおし兵をすすめ、はからずも深みへはまりこんでしまった。屋敷の前までのりこんできたのに、敵軍の姿が見えぬとは、必ず計略があるにちがいない。早く全軍を退却させよう」
すると李逵が叫んだ。
「兄貴、ここまできながら退却することはありませんよ。おれがまっさきに斬りこむから、みんなおれのあとからついてこい」
その言葉のまだおわらぬうちに、屋敷では早くもそのことを知ったのか、とつぜん祝家荘のなかから一発の号砲が中天にうちあげられたと見るや、独竜岡の山上には無数の松明がいっせいにともされ、門楼《もんやぐら》の上からは雨のように矢を射《う》ちかけてきた。宋江は急いでもときた道に兵を返そうとしたが、後軍の頭領の李俊の人馬がまずどよめきたち、
「いまきた道はすっかりふさがれている。伏兵がいるぞ」
宋江は兵士たちに命じて八方に路をさがさせた。李逵は二梃の斧をふるってあっちこっちと殺す相手をさがしまわったが、ひとりの敵兵も見あたらない。そこへまた独竜岡の頂上から一発の号砲が放たれ、その響きのまだ消えやらぬうちに、四方から地をふるわせて喊声がわきおこった。宋公明はびっくりして、目を見張り口をあけ、茫然としてなすすべも知らない。たとえいかに文武の才があろうとも、この地網天羅《ちもうてんら》をのがれることはできないだろう。まさに、虎を縛り竜を擒《とら》える計をめぐらして、天を驚かし地を動かす人を捕らえんとす、というところ。さて、宋公明と頭領たちは、いかにしてこの危地を脱れるか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 忍んで 不仁をはばかることなく、の意。
二 忍びのもの 原文は做細作的。細作は間諜あるいは探索。
三 山伏 原文は解魘法師。また解魔法師ともいう。わが国の山伏、修験者の類。
四 錫杖 原文は法環。僧侶や修験者の持つ杖で、頭部に環(金属製の輪)をつけ、その環にさらに数個の小さな環をはめて、杖をつくごとに鳴るように仕組んだもの。
五 背心 袖のない短衣。また背という。
六 よくしたものだよ祝家荘…… この詩は意訳したが原文を読みくだせば、
好箇の祝家店
尽く是れ盤陀の路
容易に入り得来《きた》るも
只是れ出《い》で去れず
七 鉄〓藜 〓藜は菱の一種。はまびし。鉄〓藜は足搦《あしがら》みの武器で、鉄製の菱形のとげを縄でつないだもの。
第四十八回
一丈青《いちじようせい》 単《ひとり》して王矮虎《おうわいこ》を捉《とら》え
宋公明《そうこうめい》 両《ふた》たび祝家荘《しゆくかそう》を打つ
さてそのとき宋江《そうこう》が馬上から眺めると、あたり一面に伏兵がいるので、手下どもに命じて、ひたすら広い道を斬りすすませて行ったところ、やがて全軍がぞろぞろと立ちどまって、いっせいにうろたえ騒ぎだした。宋江が、
「なにをわいわいいっているか」
というと、みなは、
「これからさきはずっとぐるぐるまわりの道ばかりで、いくら行ってもまたここへもどってしまうのです」
「松明《たいまつ》のついているところをめがけて行くのだ、人家があれば脱け出す道がある」
宋江はそう命じたが、しばらく行くとまた先頭の隊がどっと騒ぎだし、
「松明をめあてにすすんで行きましたところ、こんどは苦竹簽《くちくせん》(竹簽に同じ)や鉄〓藜《てつしつり》があったり、いちめんに鹿角《ろくかく》(さかもぎ)がささっていたりして、すっかり道がふさがれています」
という。宋江は、
「もはや天運もつきたか」
と、うろたえるばかりだったが、おりしも左軍の穆弘の隊がざわめいて、
「石秀がもどってきました」
と知らせてきた。宋江が見れば、石秀がおっとり刀で駆けつけてきて、
「兄貴、大丈夫です。道がわかりました。道の広い狭いには目をくれず白楊の木があったらそこを曲がるように、ひそかに全軍にご命令ください」
宋江は人馬をせきたてつつ、白楊の木があるたびに道を曲がって行った。そうしておよそ五六里ばかり行ったが、見れば前方の敵の人馬は次第にその数が多くなってくる。宋江はいぶかって石秀を呼んでたずねた。
「おい、前方の敵はふえる一方だが、どういうわけだろう」
「やつらは提灯で合図しているのです」
と石秀は答えた。花栄は馬上から眺めて、指さしながら宋江にいった。
「兄貴、あの木の影に、提灯が見えるでしょう。われわれが東をさして行けば、やつらはあの提灯を東のほうへ動かし、われわれが西へ行けば、やつらは提灯を西へ動かします。あれがどうやら合図のようです」
「あの提灯をなんとかできないものか」
「それは造作もありません」
と、花栄は、弓に矢をつがえて馬をすすめ、明りを目がけて射放った。と矢はねらいたがわず、見事に赤い提灯を射《う》ちおとした。四方にかくれていた兵士たちは赤い提灯が見えなくなると、たちまち乱れだした。宋江は石秀に案内させつつ村の出口へと斬りすすんで行ったが、そのとき、前方の山にひとしきり喊声がおこり、松明の列が縦横に乱れだした。宋江は先頭の隊を停止させ、石秀を道案内にして偵察に行かせた。すると、やがて帰ってきて、
「山寨からの第二軍が応援にやってきて、伏兵を斬り伏せているところです」
と報告した。宋江はそれを聞くと、兵をすすめて挟《はさ》み討ちにしながら、路を斬りひらいて村の出口へむかった。祝家荘の人馬はちりぢりになった。宋江は林冲・秦明らの軍勢と合流し、いっしょに村の出口にたむろしたが、やがて夜が明けたので高みへ移って陣をかまえ、一同を点呼したところ、なかに鎮三山の黄信の姿が見えない。宋江は大いにおどろいて調べてみると、昨夜彼について行った兵士がやってきていうには、
「黄頭領は兄貴のご命令で道をさぐりに行かれたおり、いきなり蘆の茂みのなかから二本の撓鉤《どうこう》がのびてきて馬の脚をひきたおされ、六七人のものにいけどりにされてしまいまして、お助けすることもできませんでした」
宋江はそれを聞くと大いに怒って、そのついて行った兵士を斬りすてようとした。
「なぜ早く知らせなかったか」
林冲と花栄が宋江をとりなだめた。一同はふさぎこんで、
「屋敷へ討ち入れなかったばかりか、兄弟をふたり(楊林と黄信)なくしてしまったが、さあ、これはどうすればよかろう」
すると楊雄が、
「ここには三つの村があって結託しておりますが、そのうちの東の村の李大官人というのは、先日祝彪のやつに弓で射たれて、いまは屋敷で傷を養っております。その人のところへ相談に行ってみたらどうでしょう」
「そうだ、うっかりしていた。あの人ならここの地形や内情にもくわしい」
と、宋江は一対の緞子《どんす》ならびに羊肉と酒を取り出させ、さらに一頭の良馬ならびに馬具をえらんで、みずから会いに行くことにして、林冲と秦明とに陣地を託した。かくて宋江は、花栄・楊雄・石秀をともなって馬に乗り、三百の騎兵をしたがえて李家荘へとむかった。
屋敷の前につくと、すでに門はかたく閉ざされ、吊り橋は高々と吊りあげられて、城壁の内側には多数の荘兵がならんでおり、門楼《もんやぐら》の上では早くも軍鼓がうち鳴らされた。宋江は馬上から大声で呼ばわった。
「わたしは梁山泊の義士、宋江だ。大官人どのにお目にかかりたくてやってきた。別に他意あってのことではないゆえ、なにも用心されることはない」
門の上から杜興《とこう》が、そこに楊雄と石秀のいるのを見つけて急いで門をあけ、小船を出して堀を渡ってきて、宋江に礼をした。宋江は急いで馬をおりて答礼をした。楊雄と石秀がすすみ出て宋江にいった。
「この兄弟は、わたしたちふたりを李大官人どのにひきあわせてくださった鬼臉児《きれんじ》の杜興という人です」
「これはこれは杜主管どのでしたか。どうか大官人どのにおつたえください。わたくし梁山泊の宋江は、かねてから大官人どののご高名をうけたまわっておりながら、まだお目にかかるおりもございませんでしたが、このたび祝家荘がわれわれに対して事をかまえてきましたことから、ご当地にまいりましたので、ここに緞子・名馬・羊肉・酒などの寸志を納めさせていただきます。ただお目にかかりたいだけで、決して、他意はございません」
杜興はそれを聞いて舟を屋敷へもどし、ただちに表広間へ行った。李応は傷のため、夜着をひっかけて寝台の上に坐っていたが、杜興が、会いたいという宋江の言葉をつたえると、
「彼は梁山泊の叛徒ではないか。そんなやつに会って、あらぬ疑いをかけられる(注一)のはいやだ。おまえ、こう返事をしてくれ、病の床に臥《ふせ》っておりまして動くことができませんので、お会いできません。いずれあらためてお目にかかりましょう。せっかくですが、贈り物はちょうだいするわけにはいきませんとな」
杜興は再び堀を渡って行って宋江に会い、
「主人より頭領どのにくれぐれもよろしくとのことでございました。自分でお迎えに出なければならないところですが、あいにくと傷を病んで床に臥っておりまして、お目にかかることができませんので、後日あらためてお会いすることにいたしましょう、お贈り物はせっかくながらお受けいたしかねます、とこうおつたえするようにとのことでございました」
「ご主人のお気持はよくわかりました。わたしは祝家荘を攻めましたが、うまくいかず、それでご主人にお目にかかれたら、と思ったのですが、ご主人は、祝家荘からあやしまれることをおそれられて、お会いくださらないのでしょう」
「いえ、そうではございません。ほんとうに病気なのです。わたくしは中山《ちゆうざん》のものですが、ここにきましてからかなりになりますので、当地の内情はよく知っております。まんなかにありますのが祝家荘、その東がこの李家荘、西が扈家荘《こかそう》で、この三村は生死のまじわりを結んで、事があれば互いに助けあうことを誓っていたのですが、このたび主人は祝家荘にひどい目にあわされましたので、応援には行きません。だが、西の村の扈家荘は助けに行くと思われます。その村の、ほかのものはたいしたことはありませんが、ただ一丈青の扈三娘《こさんじよう》という女将軍だけは、日・月ふたふりの刀を使って、なかなか腕が立ちます。この女は祝家荘の三男の祝彪《しゆくひゆう》といいなずけの仲で、まもなく縁づくことになっております。あなたさまが祝家荘をお討ちになるときには、東への備えはご無用ですから、もっぱら西方をお固めなさいますように。また祝家荘には表と裏とふたつの門がありまして、ひとつは独竜岡のこちら側、ひとつはむこう側に設けてあります。表門から攻めただけではだめですから、かならず両方から挟み討ちになさいますように。そうすれば攻め落とすことができましょう。表門からでは手を焼くといいますのは、道が複雑にいりくんでいて見わけがつかず、どこもかしこもぐるぐるまわりの道になっていて、道の広さもまちまちだからです。しかし、白楊《はこやなぎ》の木があったらそのつど曲がって行くようにすれば抜け出られます。その木がなければそこは行きどまりの道です」
「ところが、やつらはこんど、白楊の木をすっかり切ってしまったのです。なにを目じるしにしたらよいでしょう」
と石秀がたずねた。杜興は、
「木を切ってしまっても、根まで掘りつくすことはできませんから、必ず残っております。ですから日中だけ兵をすすめてたたかい、夜は兵をすすめなければよいでしょう」
宋江はそれを聞いて、杜興に礼をいい、一行は駐屯地にひき返した。林冲らが出迎えていっしょに本営へはいると、宋江は、李応が面会をこばんだことと杜興が話したこととを頭領たちにつたえた。すると李逵が口をはさんで、
「せっかく贈り物をくれてやるというのに、そやつは兄貴を迎えにも出てこなかったのか。おいらが手勢三百をひきつれて行ってその糞屋敷をたたき破り、そやつをひきずり出してきて、兄貴の前で頭をさげさしてやりましょう」
「兄弟、あんたにはわかるまいよ。あの人は金持の良民だ。お上をおそれていなさるのさ。そうあっさりとわれわれに会うはずはない」
李逵は笑って、
「あいつは、いうなれば子供なんだな。人見知りしているんだな」
みんなはどっと笑いだした。
「それはそれとして、兄弟ふたりが敵の手におちいっていのちのほどもわからぬのだ。みなの衆、ひとつ、力のかぎりをつくして、わたしといっしょにもういちど祝家荘を攻めようではないか」
みなは立ちあがっていった。
「兄貴の命令に、誰がさからいましょう。ところで、先陣は誰です」
すると黒旋風の李逵が、
「みなの衆は子供がこわいようだから、おいらがさきに行く」
「あんたの先鋒はまずい。こんどはあんたはだめだ」
と宋江がいうと、李逵はしょげながら、はやる心をおさえた。宋江は馬麟・〓飛・欧鵬・王矮虎の四人を呼んで、
「わたしといっしょに先鋒をつとめてもらおう」
といい、ついで戴宗・秦明・楊雄・石秀・李俊・張横・張順・白勝を呼んで、水路でたたかう準備をさせ、さらに林冲・花栄・穆弘・李逵を呼んで、二手にわかれて応援するように命じた。全軍の配置がきまると、一同は腹いっぱいに食べ、武装に身をかためて馬に乗った。
さて宋江はみずから先鋒となり、陣頭に立って攻めて行った。前面には緋色の帥字旗《すいじき》(統帥旗)をおしたて、四人の頭領と一百五十の騎兵、一千の歩兵をしたがえ、祝家荘へと殺到して行く。道々人を出して道をさぐらせながらまっすぐに独竜岡の前まで行くと、宋江は馬をとめて祝家荘を眺めたが、まことに雄壮な構えである。ここに一篇の詩讃《しさん》があって、よく祝家荘のありさまをつたえている。
独竜山前の独竜岡
独竜岡上の祝家荘
岡を遶《めぐ》る一帯の長流水
週遭環匝《しゆうそうかんそう》(まわり)皆垂楊《すいよう》
牆内には森々と剣戟を羅《つら》ね
門前には密々と刀鎗を排す
敵に対《むか》うは尽く皆雄壮の士
鋒に当《あた》るは都《すべ》て是れ少年の郎
祝竜《しゆくりゆう》陣を出ずるや真に敵し難く
祝虎《しゆくこ》鋒を交《まじ》えるや当《あた》る可き莫《な》し
更に祝彪《しゆくひゆう》の武芸多き有り
〓叱〓嗚《たしついんお》は霸王(項羽)に比す
朝奉祝公《ちようほうしゆくこう》謀略広く
金銀羅綺千箱有り
白旗一対門前に立ち
上面明らかに字両行《りようこう》を書す
水泊《すいはく》を填平《てんぺい》して晁蓋《ちようがい》を擒《とら》え
梁山《りようざん》を踏破《とうは》して宋江《そうこう》を捉えんと
そのとき宋江は馬上から祝家荘のその二本の旗を見、心中大いに怒って誓いを立てた。
「祝家荘を打ち破らぬかぎり、断じて梁山泊へは帰らぬぞ」
頭領たちもその旗を見て、みな一斉に怒った。
宋江は後続の人馬がみな到着したことを知ると、第二隊の頭領たちをそこに残して表門から討ち入らせることにし、みずからは先鋒の人馬をひきいて独竜岡の裏へ迂回して行った。そこから祝家荘を眺めると、その裏側はまるで銅牆鉄壁をめぐらしたような頑丈な構えである。眺めているおりしも、とつぜん真西《まにし》のほうに一隊の人馬があらわれ、喊声をあげながら背後から斬りこんできた。宋江は馬麟と〓飛をそこに残して祝家荘の裏門をおさえさせ、みずからは欧鵬と王矮虎をひきい、半数の兵をもってこれを迎え討った。坂路をおしくだってくる軍勢はおよそ二三十の騎兵で、そのまんなかにひとりの女将軍をおしたてている。そのいでたちいかにと見れば、
蝉鬢《せんびん》(せみの羽の形の鬢おさえ)金釵《きんさ》(金のかんざし)双《なら》び圧《さ》し、鳳鞋《ほうあい》(おおとりの形のくつ)宝鐙《ほうとう》(あぶみ)斜めに踏む。連環《れんかん》の鎧甲《がいこう》(くさりおどしのよろい)紅紗《こうさ》を襯《しん》し(赤い紗《しや》の肌着を着)、繍帯《しゆうたい》は柳腰《りゆうよう》に端《ただ》しく跨《つ》く。霜刀《そうとう》は雄兵を把《と》って乱〓《らんかん》し(雄兵を斬りまくり)、玉繊(手)は猛将を将《もつ》て生拿《せいだ》す(猛将をいけどりにする)。天然《てんねん》の美貌海棠《かいどう》の花、一丈青当先《まつさき》に出馬す。
この援軍は、これぞ扈家荘《こかそう》の女将軍、一丈青の扈三娘《こさんじよう》で、葦毛の馬にうちまたがり、日・月ふたふりの刀をふりまわしつつ、四五百の家の子をひきつれて、祝家荘の応援に馳せつけたもの。宋江が、
「さきほど、扈家荘にはひとりの女将軍がいて、すばらしく腕が立つと聞いたが、どうやらそれはこの女のことらしい。誰かあの女を相手にするものはおらぬか」
というまもあらせず、見れば色好みの王矮虎が、女将軍と聞いてただの一合《いちごう》で捕らえてくれようと、やにわに一声おめいて馬を飛ばし、槍をかまえていどみかかって行った。両軍が喊声をあげるなかを、扈三娘は馬をせかし刀を舞わして王矮虎を迎え討つ。ひとりは両刀の手なれた名手、ひとりは一本槍のすぐれた使い手。両者はたたかいあうこと十数合におよんだが、宋江が馬上から見るところでは、王矮虎の槍さばきのほうがたじたじのようであった。そもそも王矮虎は、初めて一丈青を見たとき、すぐにもいけどってくれようとはやりたったのだが、意外にもたたかいは十合の余《よ》におよび、次第に手がふるえ足がしびれて槍さばきも乱れてしまったのである。ふたりはいのちのやりとりの瀬戸際にたっているというのに、なんと王矮虎は妙な気をおこしてきた(注二)。一丈青はこざとい女だったから、
「こやつ、無礼な」
と心につぶやき、両刀をふるって真向微塵《まつこうみじん》と斬りつける。王矮虎は敵すべくもなく、馬を返して逃げようとするところを、一丈青は馬を飛ばして追いかけ、右手の剣をおさめてさっと猿臂《えんび》をのばし、王矮虎を鞍からひきあげていけどりにしてしまった。家の子たちはどっと寄ってきて、手とり足とり王矮虎を捕らえ去って行く。詩にいう。
色胆能《よ》く〓《す》てて身を顧《かえり》みず
肯て生命を将《もつ》て微塵《みじん》に値《あたい》せしむ
銷金帳《しようきんちよう》裏(ねやのなか)に強将《きようしよう》無く
魄《はく》を喪《うしな》い精《せい》を亡《ほろ》ぼして婦人に与《あた》う
王英が捕らえられるのを見た欧鵬は、すぐさま槍をかまえて救いに出て行った。一丈青は馬を飛ばし刀をとって欧鵬を迎え、ふたりはわたりあった。もともと欧鵬は軍官の家の出で、鉄槍をとってはなかなかの使い手、宋江もそれを見てひそかに舌をまいたほどであった。ところが、この欧鵬のすばらしい槍さばきも、女将軍にはわずかながらかなわなかった。〓飛ははるか遠くにいたが、王矮虎がいけどられ欧鵬もまたかの女将軍にかなわないのを見て、馬を走らせ、一条の鉄鏈《てつれん》をふりまわしながら大声をあげて駆けつけてきた。
祝家荘のほうでもずっと観戦していたが、一丈青の身に万一のことがあってはと、急いで吊り橋をおろし門をあけ、祝竜みずから三百余の手勢をひきつれて、宋江を捕らえんものと馬を飛ばし槍をかまえて打ち出てきた。それを見た馬麟は、ただ一騎、両刀をふりまわして祝竜を迎え討った。〓飛は宋江に万一のことがあってはと、そばをはなれずに、両者が互いに喊声をあげながらたたかっているのを見守っている。宋江は、馬麟が祝竜をもてあまし、欧鵬も一丈青にうち勝てないのを見て、気が気でなかったが、ちょうどそのとき、一隊の軍勢が横あいから殺到してきた。宋江はそれを見て大いによろこんだ。それは霹靂火《へきれきか》の秦明で、屋敷の裏でのたたかいを聞いて救援に駆けつけてきたのだった。宋江は大声で叫んだ。
「秦統制、馬麟とかわってくれ」
秦明はもともと気短な男であるうえに、祝家荘のものに弟子の黄信を捕らえられて憤懣やるかたなく、馬をせかし狼牙棍《ろうがこん》をふりまわしてまっしぐらに祝竜におそいかかって行った。祝竜は槍をかまえて秦明を迎え討つ。馬麟は手勢をひきつれて王矮虎を奪いかえしにむかった。一丈青は、馬麟が奪いかえしにくるのを見ると、欧鵬をうちすてて馬麟の前にたちふさがり、たたかいをいどんだ。ともに両刀の使い手であるふたりは、かくて馬上でわたりあったが、それはまさに、風の玉屑《ぎよくせつ》(雪)を飄《ひるが》えし、雪の瓊花《けいか》(珍奇な花の名)を撒《ふりま》くがごとく、宋江は見て眼のくらむほどであった。こちらでは秦明と祝竜とがわたりあって十数合におよんだが、祝竜は所詮秦明に敵すべくもなかった。とそこへ、屋敷の門のなかから武芸教師の欒廷玉《らんていぎよく》が、鉄鎚をたずさえ、馬に乗り、槍をしごきながら飛び出してきた。欧鵬がすかさず欒廷玉を迎えてたたかいをいどんだ。ところが欒廷玉はあえて馬をまじえず、槍を横たえて、横っ飛びに逃げた。欧鵬が追いかけて行くと、欒廷玉はさっと鉄鎚を飛ばした。鎚は見事に命中し、欧鵬はもんどりうって落馬した。〓飛は、
「ものども、助けろ」
と大声で叫び、鉄鏈《てつれん》をふりまわしつつ欒廷玉めがけてまっしぐらにおそいかかって行く。宋江は急いで手下どもを呼び、欧鵬を助けて馬に乗せさせた。祝竜は秦明に敵し得ず、馬を飛ばして逃げだした。欒廷玉は〓飛をすておいて秦明とたたかった。ふたりはわたりあうこと二十合ばかり、勝敗はいずれとも決しなかったが、やがて欒廷玉はわざとすきを見せて、あたふたと逃げ出した。秦明が狼牙棍をふりまわしてまっしぐらに追いかけて行くと、欒廷玉は草むらのなかへ馬を乗りいれた。秦明はそれがたくらみだとは知らずに、なおも追いかけて行く。
ところが、祝家荘のこのあたりにはいちめんに伏兵がいて、秦明の馬がはいりこんできたのを見ると絆馬索《はんばさく》(馬をからめる縄)を張り、人馬もろともからめたおして、どっと喊声をあげて秦明をとりおさえた。〓飛は秦明が落馬したのを見て、急いで助けに行ったが、ふと絆馬索が張ってあるのに気づいてひき返そうとすると、
「しめた」
という声が左右におこり、乱麻《らんま》のように撓鉤《どうこう》がのびてきて、馬上でいけどりにされてしまった。宋江はそれを見て、ただうろたえるばかり。ようやく欧鵬を救い出して馬に乗せただけで、あとはどうすることもできなかった。馬麟は一丈青をうちすてて、急いで宋江の護衛にかけもどり、南へ南へと逃げた。うしろからは欒廷玉と祝竜と一丈青とが、てんでに追いかけてくる。たちまち追いつめられてあわや縄目をうけそうになったとき、とつぜん真南のほうにひとりの好漢があらわれ、五百の人馬をひきい、馬を飛ばしてやってきた。宋江が見れば、それは没遮〓《ぼつしやらん》の穆弘であった。つづいて東南のほうにも三百余の軍勢があらわれ、ふたりの好漢が矢のように駆けつけてくる。そのひとりは病関索《びようかんさく》の楊雄、ひとりは命三郎《へんめいさんろう》の石秀。また東北のほうにもひとりの好漢があらわれて、
「やろうども、逃げるな」
と大声で呼ばわった。宋江が見れば、それは小李広《しようりこう》の花栄であった。こうして三手の軍勢がいちどにそこへ駆けつけてきたのである。宋江は大いによろこび、力をあわせて欒廷玉と祝竜におそいかかった。屋敷のほうではそのさまを望見して、ふたりにまちがいがあってはとおそれ、祝虎に門を守らせておいて、若旦那の祝彪がひとり、駻馬《かんば》(注三)にうちまたがり長槍をしごきつつ、五百余の人馬をひきいて屋敷の裏手から斬って出、たちまちにして混戦状態になった。
屋敷の表側では、李俊・張横・張順が堀をわたりかけたが、屋敷のなかからはげしく矢を浴びせられて手のほどこしようもなく、戴宗と白勝はただ対岸から喊声をあげるだけであった。
宋江は日が暮れてきたのを見て、急いで馬麟に、欧鵬を看護させながら村の出口までさがらせた。ついで宋江は手下のものに銅鑼を鳴らさせて好漢たちを呼びつどえ、応戦をしながら退却した。
宋江は馬をせかしつつ仲間のものが道をまちがえぬようみずから偵察に駆けまわった。こうして退いて行くおりしも一丈青が、馬を飛ばして追いかけてきた。宋江がうろたえて、馬をせかして東のほうへと逃げると、一丈青はうしろからのがさじと追いせまり、八つの蹄《ひづめ》はさながら盞《さかずき》をくつがえし〓《にようはち》をふりまくような音をたてつつ、村の奥深くまではいり、一丈青はついに宋江に追いついていましも手をかけようとしたそのとき、坂道の上から何ものかが大声で叫ぶのが聞こえた。
「糞阿魔め、おれの兄貴をどこまで追いかける気か」
宋江が見れば、それは黒旋風の李逵で、二梃の板斧をふりまわし、七八十名の手下をひきつれて大股に駆けつけてくる。一丈青は馬をとめ、くるりと馬首を転じ、むこうの木立をさして逃げて行く。宋江が馬をとめてそれを見送っていると、とつぜん木立のむこうから十数騎の騎兵がどっとくりだしてきた。先頭にはひとりの壮士がおしたてられている。そのいでたちいかにと見れば、
嵌宝《かんぽう》の頭〓《とうかい》穏かに戴き、磨銀の鎧甲《がいこう》重ねて披《き》る。素羅《そら》の袍上には花枝を繍《しゆう》し、獅蛮《しばん》(獣面を彫った金具)の帯は瓊瑤《けいよう》を密に砌《つ》む。丈八の蛇矛《じやぼう》を緊《きび》しく挺し、霜花の駿馬は頻りに嘶《いなな》く。満山都《すべ》て喚《よ》ぶ小張飛《しようちようひ》と。豹子頭《ひようしとう》林冲便《すなわ》ち是なり。
この援兵はまさしく豹子頭の林冲で、馬上から大声でどなった。
「そこな阿魔、動くな」
一丈青が刀を飛ばし馬を駆り、まっしぐらに林冲にいどみかかって行くと、林冲は一丈八尺の蛇矛《じやぼう》をかまえてこれを迎え討つ。ふたりはわたりあうこと十合ばかり、林冲はわざとすきを見せて一丈青の両刀をさそいこむや、これを蛇矛でうけとめて横へそらせざま、踏みこんで、さっと猿臂をのばし狼腰《ろうよう》をひねって一丈青をひっぱりよせ、小脇にかいこんで馬上からいけどりにひきさらった。宋江はそれを見て讃嘆おくあたわず、有頂天になってよろこんだ。林冲は兵士に縄をかけるように命じておいて、馬を飛ばしてやってき、
「お怪我はありませんでしたか」
と宋江にいう。
「いや、少しも」
と宋江は答え、さっそく李逵に、村のほうにいる好漢たちの加勢にまわるよういいつけるとともに、
「とにかく村の出口へ集まって相談することにしようとつたえてくれ。日も暮れてきたから、いつまでもたたかうのは不利だ」
黒旋風は手勢をひきつれて立ち去って行った。林冲は宋江を護衛しつつ、一丈青を馬に乗せてひきたてながら村の出口へと道をたどった。その夜、頭領たちは、たたかい利あらず、みな早々に村の出口へひきあげてきた。祝家荘の側でも人馬を屋敷にひきあげたが、全村の討死したものの数はかぞえきれないほどであった。祝竜は、捕らえたものをみな護送車におしこめ、宋江をつかまえたうえでいっしょに東京《とうけい》へ押送して恩賞の沙汰を請うことにした。扈家荘のものは、そのときすでに王矮虎を祝家荘へ送りこんでいた。
さて宋江は、全軍をひきあげて村の出口に陣をかまえると、さっそく一丈青をそこへつれ出させ、二十人ばかりのしっかりした手下のものを呼び集め、四人の頭領に四頭の駿馬をあたえ、一丈青にも両手を縛りあげたうえで馬を一頭あてがって、
「大急ぎで梁山泊へ送りとどけるよう。そして父の宋太公に身柄をあずけたうえで、もどってきてもらいたい。いずれ山寨へ帰ってからしかるべくとりはからうから」
といいつけた。頭領たちは、宋江がこの女に気があるのだと思い、大事に送って行くことにした。まず一台の車に欧鵬をのせた。山寨へつれて行って養生させることにしたのである。一行は命をうけて急いで出発した。宋江は、その夜は幕営のなかで思いなやんでまんじりともせず、坐ったまま朝を迎えた。
翌日、物見の兵がやってきて、
「呉軍師が阮《げん》氏の三頭領ならびに呂方・郭盛どの、および五百の人馬をひきいて到着されました」
と告げた。宋江はそれを聞くと、出て行って軍師の呉用を中軍の幕営に迎えいれた。呉学究は酒食をたずさえてきていて、杯をさして宋江の無事をよろこぶ一方、全軍の将兵の労をねぎらった。呉用は、
「山寨では晁頭領が、兄貴がこのまえのたたかいに失敗したということを再三耳にされて、このたびわたくしおよび五人の頭領を加勢に派遣されたのですが、このところ戦況はどうなっておりますか」
「一口にはいえないが、祝家のやつらはまことにひどいやつで、屋敷の門のわきに二本の白い旗を立て、それに、水泊を填平《てんぺい》して晁蓋を擒《とら》え、梁山を踏破して宋江を捉《とら》えん、と書いているのです。いかにも無礼なやつではありませんか。さきにいちど兵をすすめてたたかったところが、地の利を得ずに楊林と黄信を捕らえられてしまい、ゆうべまた兵をすすめたところ、こんどは王矮虎が一丈青に捕らえられ、欧鵬は欒廷玉の鎚《つち》で手傷をおわされ、秦明と〓飛は絆馬索でからめとられてしまうというしまつです。こんな失態のなかで、林教頭が一丈青をいけどりにしてくれたのはありがたいことで、おかげでようやく面目をたもち得たというような次第です。まずはこのような状況なのですが、いったいどうしたらよいものか。もし祝家荘を攻めおとすことができず、兄弟たちを救い出すこともできなかったとしたら、わたしはこの地で死ぬつもりです。帰って晁蓋の兄貴に合わせる顔もありません」
宋江がそういうと、呉学究は笑いながら、
「この祝家荘は遠からず滅びる運命にあります。しかもすでにその機がおとずれているのです。わたしはもうすぐ破ることができると見ております」
宋江はそれを聞いて大いにおどろき、せきこんでたずねた。
「あの祝家荘を、もうすぐ破ることができるとはどうしてです。その機は、いったいどこからおとずれてくるのですか」
呉学究は笑いながら悠揚迫らず、二本の指をそろえて差し出し、その機なるものを説きだしたのであるが、まさにそれは、空中に雲を捉《つか》む手をさしのべて天羅地網の人を救い出す、というもの。ところで、軍師呉用はいったいいかなる機をそこに語りだしたのか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 あらぬ疑いをかけられる 原文は無私有意。無私有弊というに同じ。自分はわるくないのに人に疑いをかけられること。痛くもない腹をさぐられること。
二 妙な気をおこしてきた 原文は要做光起来。做光とは女をものにすること。
三 駻馬 原文は劣馬。第三十三回注一参照。
第四十九回
解珍《かいちん》解宝《かいほう》 双《なら》んで獄を越《のが》れ
孫立《そんりつ》孫新《そんしん》 大いに牢を劫《おびや》かす
さて、そのとき呉学究《ごがつきゆう》が宋公明にいうには、
「その機というのはじつはこういうことなのです、石勇の顔で仲間にはいりにきた男がいるのですが、この男は欒廷玉《らんていぎよく》のやつともずいぶん親しく、そのうえ楊林や〓飛ともいたって仲がよいのです。その男が兄貴が祝家荘を攻めてうまくいかないことを知り、一策を手土産にして仲間に加えてくれといってきたのです。すぐあとからやってきますから、ここ五日のうちにはその策がおこなえると思うのですが、いかがですか」
宋江はそれを聞くと大いによろこんで、
「それは妙策」
と、はじめて顔をほころばせた。
ところで、それはどのような策か、ということは、やがてわかることゆえ、みなさんには、ひとまずここの話だけをおぼえておいていただきたい。そもそも宋公明が初めて祝家荘を攻撃したことと、このこととは、同時におこったことなのだが、その話をちょっぴり、この話をちょっぴり、というわけにもいかないので、ひとまずここ二回にわたって祝家荘攻撃の話をしてきた次第。こんどは、まず仲間に加わりにきた男が機に乗ずる次第を話して、あとで本筋につなぎあわせることにしよう。
さて、山東の海べりに、その名を登《とう》州という州があった。登州の城外には一座の山があって、山には豺狼虎豹《さいろうこひよう》のたぐいが数多く棲《す》み、山を出てきては人に危害を加えていた。そこで登州の知府は、猟師たちを役所へ呼び集め、登州の山の虎を捕らえるよう期限づきの命令を出し、また山の周辺の里正《りせい》たちにも、虎退治の文書をまわし、期限をすぎたときは受けつけず(注一)厳罰に処し、枷《かせ》をかけてさらしものにするといいつけた。
ところで登州の山の麓に猟師の家が一軒あって、ふたりの兄弟が住んでいた。兄のほうを解珍《かいちん》といい、弟のほうを解宝《かいほう》といった。兄弟はふたりとも渾鉄《あらがね》づくりの点鋼叉《てんこうさ》(さすまた)をつかい、人をおどろかせるほどの腕をもっていて、この州の猟師たちはみな、このふたりを第一人者としてたてまつっていた。解珍のあだ名は両頭蛇《りようとうだ》といい、解宝のあだ名は双尾蝎《そうびかつ》といった。ふたりは父も母もなくし、まだ女房もなかった。兄のほうは身の丈《たけ》七尺を越え、顔の色赤黒く、腰細く肩幅広く、弟の解宝は兄よりも気性がはげしくて、身の丈は同じく七尺を越え、丸顔で色黒く、両の腿に飛天夜叉の刺青《いれずみ》をほっていた。怒ったときの彼は、いまにも天にかけのぼり地をくつがえし、樹を引き抜き山をゆすぶらんばかりのはげしさであった。ここにこの兄弟をほめた西江月のうたがある。
世本《よよもと》登州の猟戸、生来《せいらい》驍勇にして英豪。山を穿ち嶺を越えて健なること〓《どう》(猿)の如く、麋鹿《びろく》も見る時驚倒す。手に蓮花《れんか》の鉄《てつとう》(さすまた)を執り、脚に蒲葉《ほよう》の尖刀《せんとう》(両刃の剣)を懸く。豹皮の裙子《くんし》(ずぼん)、虎筋の〓《とう》(帯ひも)、解氏の二難(二雄)年少《としわか》し。
この兄弟ふたりは、役所から期限づきの命令書を受けとって家に帰ると、仕掛け弓(注二)や毒矢、弩《いしゆみ》や叉《さすまた》などをとりそろえ、豹の皮の〓《ずぼん》に虎皮の套体《とうたい》(腰あて)をつけ、鉄の叉《さすまた》を手に、いっしょに登州の山へ行き、仕掛け弓をしかけ、木の上にのぼって一日待っていたが、なにごともなく、仕掛け弓をはずして山をおりた。翌日また、乾飯《ほしいい》をたずさえ、山へのぼって待っているほどにやがて日が暮れてきたので、ふたりはまた仕掛け弓をしかけて木の上にのぼり、ずっと五更(四時)まで待っていたが、やはりなにごともなかった。ふたりは仕掛け弓を移して、こんどは西の山に仕掛け、夜明けごろまで待っていたが、またなんの待ちがいもなかった。ふたりは、じりじりしてぼやいた。
「三日以内に虎をさし出すよう、遅れたら罰を受けるというのだが、いったいどうしたらよいものか」
三日目の夜、ふたりは四更(二時)ごろまで待ち伏せしているうちに、つい疲労のあまり、互いに背中をもたせあってうとうとしかけたが、眼をつぶるかつぶらないかに、とつぜん仕掛け弓のはじける音がした。ふたりはぱっと立ちあがり、鋼叉《さすまた》をつかんで見まわすと、一匹の虎が毒矢にあたって、地面をころげまわっている。ふたりが鋼叉をしごきながら近よって行くと、虎は人の近づいてくるのを見て、矢を帯びたまま逃げだした。ふたりは追って行ったが、山の中腹までも行かぬうちに、毒がまわってきて虎はたえきれなくなり、一声哮《ほ》えて、ごろごろと山をころがり落ちて行った。解宝は、
「しめた。ここは見おぼえがある。毛《もう》太公の屋敷の裏庭のなかだ。いっしょに行って虎をもらってこよう」
ふたりは鋼叉をさげてただちに山をおりて行き、毛太公の屋敷の門をたたいた。ようやく夜が明けたばかりであった。ふたりは門をあけてもらってなかへはいった。下男が太公に知らせると、しばらくして毛太公が出てきた。解珍と解宝は鋼叉を下において挨拶をし、
「おじさん、長いことご無沙汰をしておりまして。きょうはちょっとお邪魔にあがりました」
「やあ、こんなに朝早くから、なんの用かね」
「お休みのところを、おさわがせしてあいすみません。じつはわたくしども、このほどお役所から期限づきの命令を出されて、虎をつかまえろといわれまして、ここ三日のあいだずっと待ち伏せをし、今朝の四更ごろ一匹射とめたのですが、それがあいにく、裏の山をころがってお宅の庭のなかへ落ちてしまったのです。すみませんが虎を取りに通していただきたいのです」
「どうぞどうぞ。わしのとこの庭にころがり落ちたのなら、まあゆっくりするがよい。腹もすいていることだろうから、朝飯でも食べてから取りに行きなさい」
と、下男にいいつけて朝飯を用意させた。そのときふたりは酒やご飯をよばれたが、それがすむと解珍と解宝は立ちあがって、
「どうもありがとうございました。それでは、虎をひきとらせていただきたいと思いますから、ご面倒ながら案内してくださいませんか」
毛太公は、
「うちの裏じゃないか。なにも心配することはない。まあ腰をおろしてお茶でも飲みなさい。それから取りに行っても遅くはなかろう」
解珍と解宝はいやとはいえず、やむなくまた腰をおろした。下男がお茶をいれてきてふたりに飲ませた。毛太公は、
「さて、それではいっしょに虎を取りに行こうかな」
解珍と解宝は、
「どうもお世話さまです」
といった。毛太公はふたりを案内して裏へまわり、下男に鍵を取ってこさせて門をあけようとしたが、どうしてもあかない。毛太公は、
「この庭には長いあいだ誰もはいらなかったので、錠前がすっかりさびついている、それであかないのだ。おい、金槌をもってきてぶちあけてくれ」
下男がすぐ金槌を取ってきて、錠をたたきあけた。みなはなかへ見にはいり、山際をずっとさがしまわったが見あたらなかった。毛太公は、
「おまえさんたち、ふたりとも見まちがえたのじゃないかね。しかと見とどけたのかね。ほんとうにうちの庭に落ちたのかい」
「そんな、わたしたちふたりが見まちがえるなんて。ここに生まれてここに育ったものが見まちがえるはずはありません」
と解珍はいった。
「それじゃ、自分でさがしてみるがいいさ。見つかったらかついで行きな」
解宝が、
「兄さん、ちょっときて見なよ。このあたりの草がぺしゃんこにおしたおされている。それに血のあともついている。ここにあったにちがいないよ。きっとこの家の下男どもがかついで行ってしまったのだ」
すると毛太公は、
「なんてことをいうのだね。屋敷のものたちが、虎がここへ落ちたことを知っているはずはないじゃないか。それをどうしてかついで行く。おまえさんたちだってちゃんと見ていたじゃないか、たったいま目の前で錠をあけたんだ、そしていっしょにはいってきてさがしたんだ。それなのに、なんだってそんなことをいうんだ」
「おねがいです、あの虎を返してください、お役所へさし出します(注三)んで」
と解珍はいった。すると毛太公は、
「ふたりとも、なんてひどいやつだ。わしがせっかくご馳走までしてやったのに、虎のことでわしにいいがかりをつけやがって」
「いいがかりだなんて、とんでもない。お宅は現に里正だから、やはりお役所から期限づきの命令を受けているはず。ところが自分では虎を捕らえる腕もないので、わしが仕止めたのを横取りして、それを持って行って褒美をもらい、わしら兄弟には罰棒をくらわせようというのだな」
と解宝。
「おまえたちが罰棒をくらおうがどうしようが、わしの知ったことか」
毛太公がそういうと、解珍と解宝は眼をむいていった。
「それじゃ、家《や》さがしをさせてもらおうか」
「おまえたちの家《いえ》とはわけがちがうわ。こいつ、乞食の分際で無礼な」
解宝はずかずかと座敷へあがって行ってあちこちさがしまわったが、どこにも見あたらず、腹立ちまぎれに座敷であばれだした。解珍も座敷へはいって行って手摺りをぶちこわしてあばれる。毛太公は大声をあげて、
「解珍と解宝が、まっ昼間から強盗をやらかしおる」
と叫んだ。ふたりは座敷の椅子や卓をたたきこわしたが、屋敷にはちゃんと備えがしてあるのを見て、門の外へ飛び出し、屋敷を指さしながらののしった。
「おのれ、おいらの虎をだまし取りやがって、出るところへ出てきまりをつけてやるぞ」
解氏深く機《たく》んで捕獲し
毛家巧みに計って牢籠《ろうろう》す
当日一虎を争うに因り
後来双竜を引き起《おこ》す
ふたりがののしっていると、一群の供のものをしたがえた二三頭の騎馬が、屋敷をさしてやってきた。解珍はそれが毛太公の息子の毛仲義《もうちゆうぎ》だとわかったので、出迎えていった。
「お宅の下男がわしの虎を横取りしたのですが、あなたのお父上は返してくださらないばかりか、あべこべにわしら兄弟をぶとうとなさいますので」
「あいつらはわけのわからん田舎ものだからな、父上もきっとやつらにだまされなさったのだろう。おまえさんたち、まあそう腹をたてずに、わしといっしょに家へはいりなさい、わしが取り返してあげるから」
解珍と解宝は毛仲義に礼をいった。毛仲義は屋敷の門をあけさせてふたりをなかへいれた。解珍と解宝がなかへはいると、毛仲義はいきなり門をしめさせて、
「かかれ!」
とどなった。両側の廊下から二三十人の下男が飛び出してきた。それに、さっき馬のあとからついてきた連中はみな召し捕り役人だったのである。兄弟ふたりがあらがう暇もなく、みんなはどっとかかってきて解珍と解宝を縛りあげてしまった。毛仲義は、
「うちでは昨夜虎を一匹仕止めたのだ、それをきさまたちはなんだってだまし取ろうとする。腕ずくでわしの家の物を取り、調度をぶちこわしやがるとは、見のがせぬ大罪だ。州役所につき出して、州の一害をのぞいてくれよう」
じつは毛仲義は、五更ごろまず役所へ虎をさし出したうえ、召し捕り役人たちをつれて解珍と解宝を捕らえにきたのであった。そんなこととはつゆ知らぬふたりは、まんまとそのわなにかかってしまって申し開きもたたないという始末。毛太公はふたりの使った鋼叉と、一包みの証拠品を持たせ、あれこれのたたきこわされた家具什器をかつがせ、解珍と解宝をすっぱだかにし、後ろ手に縛って、州役所へひきたてて行った。
州役所には、六案孔目(裁判係の書記)で姓を王、名を正という、毛太公の女婿がいて、すでに知府にこの事件を報告していたので、解珍と解宝が役所にひきたてられてくると、そのいいぶんも聞かずに縛りあげて打ち、ぜひともふたりに、虎を横取りしようとして鋼叉をもっておしかけ、財物を奪った、というふうに白状させようとした。解珍と解宝は拷問にたえきれず、ついに強《し》いられるがままに自供をした。知府はふたりに重さ二十五斤の大枷をはめさせて、大牢におしこめた。毛太公と毛仲義は、屋敷に帰って相談をした。
「あいつらふたりは、釈放したらうるさいことになる。いっそのこと片付けてしまって、あとくされのないようにしよう」
そこで、親子ふたりは役所へ出かけて行って孔目の王正にたのんだ。
「草を刈るなら根っこまで、二度とふたたび芽の出ぬように、という具合に、ひとつ骨折ってもらいたいのだ。こっちはこっちで知府によく手をまわしておくから」
さて、死刑囚の牢におしこまれた解珍と解宝は、番小屋へひき出されて牢役人に目通りさせられたが、その頭《かしら》たる男は姓を包《ほう》、名を吉《きつ》といい、すでに毛太公から賄賂をもらっていたうえに、王孔目からもふたりのいのちをなきものにするようにいいふくめられていて、番小屋へやってきたのであった。牢番がふたりにいった。
「さっさときて、番小屋の前に土下座しろ」
牢役人は荒々しくいった。
「おまえたちふたりが、両頭蛇《りようとうだ》とか双尾蝎《そうびかつ》とかいわれているやつらだな」
「ひとさまからそういうあだ名をつけられてはおりますが、かたぎのひとたちに悪いことをしたことは一度もございません」
解珍がそういうと、牢役人はどなりつけた。
「この、ひとでなしめ。こうしてわしの手にかかったからには、両頭蛇は一頭蛇に、双尾蝎は単尾蝎にしてくれるぞ。とりあえず大牢のなかへおしこんでおけ」
ひとりの牢番がふたりを牢へつれて行ったが、ほかに誰もいないのを見すますとその牢番は、
「おまえさんたちは、このわたしをご存じありませんか。わたしはおまえさんたちの兄さんの嫁さんの弟ですよ」
「わたしは弟とふたりきりで、ほかに兄などありませんが」
と解珍がいうと、牢番は、
「おふたりは孫提轄《そんていかつ》の弟さんでしょう」
「孫提轄はわたしたちの母かたのいとこです。あなたには一度もお目にかかったことがございませんでしたが、ではあなたは楽和《がくわ》さんではございませんか」
「そうです。わたしは姓は楽、名は和といって、もともと茅《ぼう》州のものですが、ずっと前の代から一家をあげてこちらに移ってきていて、姉が孫提轄にかたづいております。わたしはここの役所につとめて牢番をやっておりますが、歌がうまいので、みんなから鉄叫子《てつきようし》の楽和と呼ばれ、また義兄がわたしの武芸ずきなのを見て手ほどきをしてくれましたので、槍法もいくらか身につけております」
といったが、さてどういう人物か、それを詩でいえば、
玲瓏《れいろう》の心地《しんち》衣冠整《ととの》い
俊〓《しゆんしよう》の肝腸《かんちよう》語話清し
能く唱い人は称す鉄叫子と
楽和の聡慧は天より生ず
そもそもこの楽和は、聡明で器用な人で、歌という歌はなんでも知っており、習えばすぐにこなしたし、またなにごとにかけても一を知れば十をさとるという具合であった。槍棒の武芸についても、砂糖のごとく蜜のごとく大いに愛好した。彼は解珍と解宝が好漢であることを知って、救ってやりたいと思ったが、なにしろ一本の糸だけでは線とならず、片方の掌《て》だけでは音が出ない(ひとりの力ではどうにもならない)ので、便りをつたえてやることぐらいしかできなかった。
「お耳にいれておきますが、こんど包節級は毛太公から賄賂をもらったのですよ、だからきっとおまえさんたちを殺すでしょう。おまえさんたち、なにか打つ手はないですか」
楽和がそういうと、解珍は、
「孫提轄のことをお聞きしなければそれまでですが、あなたがお話しくださったので、おたのみします。ひとつ便りをとどけてくださいませんか」
「誰にとどけるので」
「わたしには姉にあたる人がいるのです。父のほうの親戚で、孫提轄の弟さんのところへかたづいて、いま東門外の十里牌《じゆうりはい》に住んでおります。おばさんの娘でして、母大虫《ぼたいちゆう》(牝虎)の顧大嫂《こたいそう》とあだ名されて、居酒屋をやっておりますが、また家では牛の屠殺もやり、賭場《とば》もひらいております。この姉は、二三十人のものが束になってかかって行ってもかなわないほどの人で、夫の孫新《そんしん》の腕でも歯がたたないしまつなのです。わたしたちがいちばん親しくしていたのは、この姉なのです。それに、孫新と孫立《そんりつ》(孫提轄)のおばがつまりわたしたちの母親なのでして、あのふたりはわたしたちの母かたのいとこというわけなのです。すみませんが、そこへこっそり便りをとどけて、わたしたちのことを知らせていただきたいのです。そうすればあの姉がきっと助けにきてくれます」
楽和はそれを聞くと、
「どうぞ安心しておいでなさい」
といいふくめて、とりあえず焼餅(小麦粉をねって焼いたもの)と肉をこっそり牢へ持ってき、戸をあけて解珍と解宝に食べさせてから、用があるからといって、牢の戸に錠をかけてほかの牢番に見張りをたのみ、東門をあとにしてひたすら十里牌へと急いだ。やがて行くてに一軒の居酒屋が見えた。その店さきには牛や羊の肉がぶらさげてあり、奥の棟ではひと群れの人々がばくちをしていた。楽和が店のなかを見ると、ひとりの女が帳場に坐っていたが、見れば、
眉は〓《そ》(粗)に眼は大に、胖《ふと》りたる面《かお》、肥《こ》えたる腰。一頭(の髪)に挿せるは異様の釵鐶《さかん》(髪かざり)、両個(の腕)の露《あら》わなるは時興(はやり)の釧〓《せんしよく》(腕かざり)。時有りて怒起すれば、井欄《せいらん》(井戸の枠)を提《ひつさ》げて便《すなわ》ち老公(夫)の頭を打ち、忽地にして心焦《いらだ》てば、石錐《せきすい》(石臼)を拿《と》って荘客(下男)の腿を敲翻《こうほん》す。生来針線(針や糸)を拈《と》るを会《え》せず、棒を弄《ろう》し槍を持《じ》して女工に当《あ》つ。
楽和は店のなかへはいり、顧大嫂にむかって挨拶をして、
「こちらは孫さんでしょうか」
顧大嫂はせかせかと、
「そうです。お酒ですか、肉ですか。ばくちでしたら奥へどうぞ」
楽和が、
「わたしは孫提轄さんの嫁の弟の楽和というもので」
というと、顧大嫂は笑顔で、
「これはこれは楽和さんでしたか。そういえば嫂《ねえ》さんとよく似ていらっしゃいます。さあ、奥へはいってお茶でもどうぞ」
楽和が奥へついて行って客の座につくと、顧大嫂はさっそくたずねた。
「お役所のほうにつとめていらっしゃるとか。こちらは貧乏暇なしで、まだご挨拶もしておりません。きょうはまた、どういう風の吹きまわしでこちらに見えましたので」
「なにごともなければ、お騒がせにあがったりなどしないのですが、じつはきょう、役所から思いがけなくふたりの罪人が送られてきたのです。まだお会いしたことはなかったのですが、お名前はたびたび聞いていた人で、ひとりは両頭蛇の解珍、もうひとりは双尾蝎の解宝だったのです」
「そのふたりはわたしの弟ですけど、いったいどんな罪をおかして牢にいれられたのです」
「あのふたりが一匹の虎を仕止めたところ、土地の毛太公という金持がそれを横取りしてしまったうえ、ふたりを賊にしたてあげ、家財を盗んだといって役所へつき出したのです。しかも上から下までずっと役人たちに賄賂をおくり、包節級をつかってやがてふたりを牢のなかで殺してしまおうという段取りなのです。わたしはこれは捨てておけぬと思いはしたものの、ひとりの力ではどうにも救えません。とはいえ、ひとつには親戚のもののことでもあり、またひとつには義としてもやむにやまれず、ふたりに事情を話しましたところ、ふたりのいうには、救ってくれるものは姉さんのほかにはないとのこと。早急に手をうたないと、救い出すことができなくなります」
顧大嫂はそれを聞くと、これは一大事とばかりおどろき、すぐに店の者を呼びつけて、
「早くうちの人をさがして、用事があるからといってつれておいで」
といいつけた。何人かの店のものが出かけて行って、まもなく孫新をさがして帰ってき、楽和にひきあわせた。孫新がいかにすぐれた人物であるかというと、それには詩がある。
軍班(軍門)才俊の子
眉目神威あり
身は蓬莱《ほうらい》(山東の地名)に在って寓し
家は瓊海《けいかい》(広東の瓊州島)従《よ》り移る
自ら鴻鵠《こうこく》の志を蔵し
恰《あたか》も虎狼の妻を配《めと》る
鞭挙《あ》がれば竜双《なら》び見《あら》われ
槍来れば蠎《うわばみ》独《ひと》り飛ぶ
年は孫郎《そんろう》(注四)の少《わか》きに似
人は小尉遅《しよううつち》と称す
そもそもこの孫新は、祖先は瓊《けい》州の人で、軍人の子孫であった。登《とう》州に駐箚《ちゆうさつ》を命じられてきてから、兄弟ふたりでここに住みつくようになった。孫新は生まれつき丈高く力強く、腕のたつ兄に学んで鞭と槍のすぐれた使い手であったので、人々は彼ら兄弟を尉遅恭《うつちきよう》(注五)になぞらえ、弟の彼を小尉遅《しよううつち》とあだ名していた。
ところで顧大嫂が事の次第を孫新に話すと、孫新のいうには、
「そういうことなら、楽和さんにはひとまず帰っていただいて、牢にはいっているふたりの面倒をみてもらうようにおねがいし、われわれ夫婦はしかるべき策を講じてから、すぐにのりこんで行くことにしよう」
「わたしにできることなら、いくらでもおてつだいします」
と楽和はいった。顧大嫂は酒を出してもてなしたのち、一包みの粒銀を取り出して楽和におくり、
「お手数ですが、牢へお帰りになったら牢のかたがたや牢番のみなさんにくばって、あの兄弟ふたりによくしてやってくれるようにしてください」
楽和は礼をいって銀子を受け取り、牢に帰って金をばらまいたが、この話はそれまでとする。
さて、顧大嫂は孫新に相談して、
「おまえさん、どんな方法であの兄弟を救ってやろうというの」
「毛太公のやつは金もあれば勢力もある。あの兄弟が出てくるのを防ぐために、八方手をつくして、なんとかしてふたりを殺してしまおうとするにちがいない。そうすれば殺されずにはすむまいから、牢破りをする以外には、救うてだてはあるまい」
「それでは、ふたりで今夜すぐ出かけましょうよ」
孫新は笑って、
「そそっかしいやつだな。ふたりでよく思案して、牢を破ってからの行きさきも考えておかなくては。これはおれの兄貴と、それにあのふたりの手を借りないことには、この事はやれないだろう」
「あのふたりって誰さ」
「あのばくちずきの鄒淵《すうえん》と鄒潤《すうじゆん》の叔父甥《おじおい》ふたりだよ。このごろ登雲山の山中に人々を集めて荒かせぎをしているが、親しい仲だ。あのふたりが加勢してくれたら、この事はやってのけられるのだが」
「登雲山なら遠くはないから、急いでその叔父甥ふたりを呼んできて相談してみなさいよ」
「すぐ出かけるとしよう。ご馳走を用意しておいてくれ。必ず呼んでくるから」
顧大嫂は店のものにいいつけて豚を一匹殺させ、つまみものや肴を幾皿か用意して卓にならべた。日が暮れかかったころ、孫新はふたりの好漢をつれて帰ってきた。その頭格《かしらかく》の男は、姓は鄒《すう》、名は淵《えん》といって、莱《らい》州の生まれ。若いときからなによりもばくちが好きで、以前はごろつきの仲間に加わっていた。人柄は純真で感じやすく、武芸の腕もなかなかのもの。気性がはげしく、容易に人にゆずらず、世間では出林竜《しゆつりんりゆう》とあだ名されていた。もうひとりの好漢は鄒潤《すうじゆん》といって、鄒淵の甥にあたる。年は叔父と同じくらいで、どちらがどうともいえない。背が高く、生まれつき異様な顔をしており、後頭部に瘤《こぶ》があったので、人々から独角竜《どくかくりゆう》とあだ名されていた。この鄒潤はよく人と喧嘩をし、怒るとその頭で頭突《ずつ》きをくらわしたが、あるとき谷川べりの松の木を一突きでへし折ったので見ていたものはみなおどろきあきれたという。この叔父甥をほめた西江月のうたがある。
廝打《しだ》(けんか)場中には首《しゆ》となり、呼盧《ころ》(ばくち)隊裏には雄《ゆう》を称す。天生忠直にして気は虹《にじ》の如く、武芸人を驚かして衆に出《い》ず。寨を登雲台上に結び、英名山東に播満《はまん》す。江を翻《ひるがえ》し海を攪《みだ》して双竜に似る。豈《あに》池中の玩弄と作《な》らんや。
そのとき顧大嫂は挨拶をおわると、奥の棟に請じいれ、そこで事の顛末を話してから牢破りの一件を相談した。鄒淵のいうには、
「わたしのところには八九十人のものがいるが、ほんとうに信頼のおけるものは二十人くらいしかおりません。その一件をやってしまえば、ここには身をおけなくなります。わたしにはあてにしているところがあって、かねがねそこへ行きたいと思っていたのですが、おふたりがご承知なさるかどうか」
顧大嫂は、
「どこへだってついて行きますよ。ふたりの弟を救ってやれるなら」
「いま梁山泊はたいそうな勢いで、宋公明はどしどし有能なものを招いています。あそこにはわたしの知りあいが三人いて、ひとりは錦豹子《きんびようし》の楊林《ようりん》といい、ひとりは火眼〓猊《かがんしゆんげい》の〓飛《とうひ》といい、もうひとりは石将軍《せきしようぐん》の石勇《せきゆう》というもの。いずれもあちらの仲間にはいってからもう長いことになります。あなたの弟さんふたりを救い出したら、みなでいっしょに梁山泊へ行って仲間に加わろうじゃありませんか」
「それはまたとないお話。もしいやというものがあったら、わたしが槍でざくざくと突き殺してやります」
と顧大嫂はいった。鄒潤は、
「だが、それにはもうひとつ問題があります。われわれがふたりを救い出したら、登州では追手の軍勢をさしむけるにきまっておりますが、これをどうさばくかです」
すると孫新がいった。
「わたしのじつの兄が州軍の提轄《ていかつ》をつとめておりますが、いま登州では彼にかなうものはありません。賊が州におしかけてくるたびにいつも蹴散らしてしまうので、彼の名はどこでも知れわたっております。明日にでも呼んできて、承知させるようにしましょう」
「しかし、賊になることを承知なさるかどうか」
と鄒淵がいうと、孫新は、
「うまい考えがあるのです」
その夜は夜半まで酒を飲んだ。やがて夜が明けると、孫新は、ふたりの好漢はそのまま家にひきとめておいて、ひとりの店のものに二三人の供をつけて車をひかせ、
「すぐ城内の兵営へ行って、わしの兄の孫提轄と嫂の楽大娘子《がくだいじようし》(大娘子は奥さんの意)にこうつたえてくれ、うちの奥さんが大病ですので、急いで見舞いにきてくださいますようにとな」
顧大嫂も、
「わたしが病気が重くて危《あぶな》いので、大事な話があるからぜひともすぐきてくださるように、会っていろいろおねがいしたいことがあるからと、そういうのだよ」
といいつけた。店のものは車をひっぱって出かけて行った。孫新が門前で兄のくるのを待ちかまえていると、朝食のすんだころ、むこうから車のやってくるのが見えた。車には楽大娘子が乗り、そのうしろから孫提轄が馬に乗り、十数人の兵をしたがえて、十里牌へとやってくる。孫新は家へはいって顧大嫂に知らせた。
「兄貴と嫂さんがきたぞ」
「それではわたしのいったとおりにやってくださいよ」
と顧大嫂はいった。孫新は外へ出て兄と嫂を迎え、
「嫂さん、車からおおりになって、いっしょに奥へはいって弟嫁の病気を見舞ってやってください」
孫提轄は馬をおりて門をはいってきたが、まことに堂々たる巨漢で、顔色はうす黄色く、あごのあたりにひげをはやし、身の丈は八尺あまり。姓は孫《そん》、名は立《りつ》。あだ名は病尉遅《びよううつち》。剛弓をひき、駻馬に乗り、長槍を使い、腕には虎眼竹節の(ごつごつと節くれだった)鉄鞭をかけ、海辺(登州は海辺の州)の人々は見ただけで、風を望んで降《くだ》るというおもむきがあった。詩にいう。
〓鬚《こしゆ》は黒霧のごと飄《ひるがえ》り
性格は流星のごと急なり
鞭槍最も熟慣し
弓箭常に温習す
闊臉《かつれん》は金を粧うに似(注六)
双睛《そうせい》は漆を点ずるが如し
軍中姓名を顕わす
病尉遅の孫立と
そのとき病尉遅の孫立は、馬をおりて門をはいるなりたずねた。
「おかみさんは、どんな病気なのだ」
「その病気というのが、ちょっとおかしな病気なので。まあ、奥へはいってお話しいたしましょう」
孫立がなかへはいると、孫新は店のものに、ついてきた兵士たちにはむかいの居酒屋で酒を飲ませてやるようにいいつけ、また、馬をひいて行かせてから、孫立を奥へ案内して席につかせた。しばらくして孫新はいった。
「それでは兄さん、嫂さん。部屋へ行って見舞ってやってください」
孫立と楽大娘子は部屋へはいって行ったが、病人の姿は見えない。孫立は、
「おかみさんはどこに寝ているんだ」
とたずねた。すると、外から顧大嫂がはいってきた。そのあとには鄒淵と鄒潤がついている。
「あんたは、いったいどんな病気にかかったというのだね」
と孫立がいうと、顧大嫂は、
「お兄さん、よくおいでくださいました。じつはわたし、弟を救いたい病気にかかりましたの」
「これはまたおかしな。弟を救いたいって、どんな弟です」
「お兄さん、つんぼやおしのまねはおよしなさいませ。城内においでなのに、あのふたりがわたしの弟だということをご存じないはずはありません。お兄さんにとっても弟ではございませんか」
「はて、いったいどういうことかな。ふたりの弟って、誰だろう」
「お兄さん、ぐずぐずしてはおれないことなので、いきなり申しあげますが、解珍と解宝が、登雲山の麓の毛太公が王孔目としくんだわなにかかって、いまにも殺されてしまいそうなのです。それでわたしはいまこのおふたりの好漢と語らって、城内へのりこんで行って牢を破り、ふたりの弟を救い出したうえで、いっしょに梁山泊へ行って仲間に加わることにしたのです。いずれ事が公けになれば、まずお兄さんに累をおよぼすことになりますので、それで病気にかこつけてお兄さんとお嫂さんとにきていただき、うまくおさまるようにはからいました次第。もしお兄さんが行かないとおっしゃるなら、わたしたちだけで梁山泊へ行きます。いまお上のやりかたはまるででたらめで、逃げてしまえばそれっきり、逃げないものだけがつかまえられてしまう始末で、諺《ことわざ》にも火に近よればやけどするというとおり。お兄さんがわたしたちの身代りに牢へつながれたとしても、そのときはもう誰も差入れをするものもないわけですけど、お兄さんはどうお考えになります」
「わしは登州の軍官だぞ。そんなまねができるか」
「お兄さんがいやだとおっしゃるのなら、わたしたちはいまここで、どちらかが死ぬまでお兄さんとたたかいます」
顧大嫂は身辺からさっと二本の刀をひき抜いた。鄒淵と鄒潤もそれぞれ短刀を抜いてかまえる。
「まあ待ちなさい。そうあせることはない。わしはひきあう道をえらぶよ。まあゆっくり相談するとしよう」
と孫立はいった。楽大娘子はびっくりして、しばらくは声も出ないほどである。顧大嫂はかさねていった。
「行かないとおっしゃるのでしたら、いますぐお嫂さんを送り帰してあげてください。わたしたちだけでやります」
「あんたのいうとおりにやるにしても、家に帰って荷物をまとめ、よく様子をうかがったうえでのことにしよう」
「お兄さんの義弟の楽さんがわたしたちに内応してくれているのです。牢を破りに行くついでに荷物を取りにいってもまにあいます」
孫立は吐息をついて、
「あんたたちがどうしてもやるというのなら、わしもいやというわけにはいかないよ。後日、あんたたちの身代りに捕らえられるなんてまっぴらだ。ええい、しかたがない。いっしょに話しあって、やることにしよう」
そこでまず鄒淵に、登雲山の山寨へ帰って金銀や人馬をとりまとめ、その二十人の腹心のものをひきつれて居酒屋に集まるようにいいつけた。鄒淵が出て行くと、こんどは孫新を城内へやって楽和から情報を聞いてしめしあわさせ、解珍と解宝にもその旨を通じておかせた。
その翌日、鄒淵は登雲山の山寨で金銀をとりまとめ、腹心のものをひきつれて加勢にやってきた。孫新の家にも腹心のものが七八人おり、また孫立も十数人の兵士をつれてやってきたので、総勢は四十人あまりになった。孫新は豚二頭と羊一頭を殺してみなに十分に腹ごしらえをさせた。顧大嫂は匕首を肌に忍ばせ、差入れに行く女のようなふりをして一足さきに出て行った。孫新は孫立にしたがい、鄒淵は鄒潤をつれ、それぞれ手勢をひきつれて二手にわかれて城内へはいった。まさに、
虎を捉えて翻《かえ》って虎を縦《はな》つの災を成す
虎官虎吏枉《ま》げて(むなしく)安排《あんばい》す
全く鉄叫子の関節(情報)を通ずるに憑《よ》り
始めて得たり牢城鉄甕《てつおう》の開くを
さて登州府の牢では、毛太公から賄賂を贈られた包節級が、なんとかして解珍と解宝のいのちをうばおうと考えていた。
その日のこと、楽和が水火棍をたずさえて牢門の脇門のところに立っていると、がらがらと鈴をひっぱる音が聞こえた。
「誰だ」
ときくと、
「差入れにまいった女でございます」
と顧大嫂が答えた。楽和はそれとさとって門をあけ、顧大嫂をなかへいれて、また門をしめた。廊下をわたって行くと、ちょうど包節級が番小屋にいて、見るなり大声でどなった。
「その女は何者だ。牢のなかまで差入れにはいるとはなにごとか。むかしから、獄は風をも通さずときまったものだぞ」
楽和は、
「解珍と解宝の姉で、差入れにまいりましたので」
「いれてはならん。おまえがとりついでやるんだ」
楽和は弁当を受けとり、牢の戸をあけてふたりにそれをとどけてやった。解珍と解宝は、
「ゆうべおっしゃったことは、どうなりました」
とたずねた。
「あなたの姉さんは、もうなかにはいっておられます。あとはただ、内と外とでしめしあわせるのを待つばかりです」
楽和はそういって匣牀《こうしよう》(全身を縛りつける寝台形の刑具)をはずしてやった。そのとき牢番が包節級にいっている声が聞こえた。
「孫提轄さまが門をたたいて、なかへいれろといっておられます」
すると包節級が、
「彼は兵営の軍官だ、それなのに牢へなにをしにやってきたのだ。門はあけてはならんぞ」
顧大嫂はそろそろと番小屋へすり寄って行った。外ではまた大声で、
「孫提轄さまが怒って門をたたいておいでですが」
という。包節級がかっとなって番小屋からおりたとき、
「わたしの弟をどこへやった」
と顧大嫂が大声で叫び、ふところからぎらぎら光る二本の匕首を抜きはなった。形勢わるしと見た包節級は、番小屋のむこうへ逃げ出した。そこへ枷をひっさげて牢のにじり口からくぐり出てきた解珍と解宝とにばったり出くわし、包節級は手出しをするいとまもなく解宝に枷の端でがんとなぐられて頭蓋をうちくだかれてしまった。そのとき顧大嫂は、腕をふるって早くも牢番四五名を斬りたおし、一同は喊声をあげて牢から外へ飛び出して行った。孫立と孫新は、ふたりで門のところを見張っていたが、四人が牢から出てくるのを迎え、いっしょに州役所へと急いだ。鄒淵と鄒潤は、そのとき早くも役所のなかから王孔目の首をひっさげて出てきた。町の人々は大騒ぎをはじめ、われがちに城外へ逃げ出した。孫提轄は馬に乗り、弓をとって矢をつがえ、しんがりを守った。町の人々はみな戸をしめて外へ出てこようとはしない。役所の捕り手たちは相手が孫提轄だと知ると、すすみ出てさえぎるものはひとりもなかった。一同は孫立を擁して城門を走り抜けると、急いで十里牌へもどり、楽大娘子を車に乗せた。顧大嫂は馬に乗ってつきしたがった。解珍と解宝がみなのものにむかって、
「我慢のならぬのは、毛太公の老いぼれやろうだ。仇をむくいずに行くわけにはいかん」
というと、
「そうだとも」
と孫立がいい、弟の孫新と義弟の楽和に、
「さきに車を守って行ってくれ、おれたちはあとから追いつくから」
孫新と楽和が車を守ってさきに出発すると、孫立は解珍・解宝・鄒淵・鄒潤、および店のものや供のものをひきつれて、いっさんに毛太公の屋敷へと急いだ。ちょうど毛仲義は屋敷で毛太公の誕生祝いの宴を張っているところで、なんの警戒もしていなかった。好漢一同は喊声をあげて斬りこんで行き、毛太公および毛仲義をはじめ一家一門の老若ことごとくを、ひとり残らず殺してしまった。さらに寝室におしいって金銀財宝を十数包みかき集め、厩から駿馬七八頭をひき出してその四頭に荷をつけ、解珍と解宝は着物を選び取ってそれを着こみ、屋敷に火をつけて焼きはらってしまうと、それぞれ馬に乗り、一同をひきつれて三十里も行かぬうちに、早くも車の一隊に追いついて、いっしょに旅路にのぼった。その途中、百姓家からまた馬を四五頭うばい、一行は夜を日についで梁山泊へと急いだ。西江月のうたにいう。
忠義は身を立つるの本、姦邪は国を壊《やぶ》るの端。狼心狗倖濫《ろうしんくこうみだ》りに官に居り、英雄をして腕を扼《やく》さしむるを致す。虎を奪う機謀悪《にく》むべく、牢を劫《おびや》かす計策観るに堪う。登州の城郭痛《いた》く悲酸《ひさん》、頃刻にして横屍《おうし》遍満す。
やがて石勇の居酒屋にたどりついた。鄒淵は挨拶をしてから、楊林と〓飛のことをたずねた。すると石勇のいうには、
「宋公明どのが祝家荘を討ちに行かれて、ふたりともついて行ったのだが、二度も苦杯を喫して、知らせによると楊林も〓飛も敵に捕らえられてどうなったかわからぬとのこと。祝家荘の三人の息子がなかなかの豪傑であるうえに、武芸教師の鉄棒《てつぼう》の欒廷玉《らんていぎよく》というのがこれを助けているので、二度ともあの村を破ることができなかったという話です」
孫立はそれを聞くと大声で笑いだして、
「われわれみんなで大寨へ仲間に加えてもらいにきたものの、なんの手柄もないので、祝家荘を攻めおとす一策を献じて手みやげがわりにしましょうか」
石勇は大いによろこんで、
「その良策をぜひ聞かせてください」
「欒廷玉のやつはわたしと同じ師匠について武芸をならったのです。わたしの学んだ槍や刀は彼がよく知っている、と同時に彼の武芸はわたしが知りつくしているという仲です。そこで、わたしが、こんど登州から〓《うん》州へ任地がえとなって当地を通りかかったので挨拶にうかがった、といってやれば、きっと彼は出迎えるでしょう。そこでわたしがなかへはいって、内と外で呼応してやれば、きっと大事を成しとげることができるでしょう。いかがです、この策は」
と、孫立が石勇に計略を話しているところへ、手下のものがやってきて、
「呉学究どのが山をおりて祝家荘へ救援に行かれます」
と知らせた。石勇はそれを聞くと、その手下のものにいいつけた。
「早く行って軍師どのに、こちらへご挨拶にきていただきたいとつたえてくれ」
そういっているところへ、早くも人馬が店さきにやってきた。まず呂方・郭盛・阮氏三雄、そのあとから軍師の呉用が五百の人馬をひきつれてきた。石勇は呉用を店のなかへ迎えいれ、孫立ら一行の人たちをひきあわせてから、仲間にはいりにきて一策を献じた次第をくわしく話した。呉用は大いによろこんで、
「みなさんが山寨のためにつくそうとしてくださるならば、山へのぼるのはあとにして、このまま祝家荘へ行ってその計略をおこない、功を全うしていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか」
孫立ら一同はよろこんで、いっせいに承諾した。呉用は、
「それではわたしは出かけます。かくかくの陣形でわたしたちは先行しますから、みなさんはそのあとからいっしょにきてください」
呉学究は相談をまとめておいて宋江の陣に先着したのであるが、見れば宋公明は眉根をよせて顔をくもらせている。呉用は酒を出して宋江をなぐさめ、
「石勇・楊林・〓飛の三人と知りあいのもので、登州の兵馬提轄をやっていた病尉遅《びよううつち》の孫立《そんりつ》というものが、この祝家荘の武芸教師の欒廷玉と同じ師匠に習ったとか。それがこのたび八人づれで山寨へ仲間に加わりにきて、しかじかの策を献じて手みやげがわりにしたいとのことで、すでに手筈《てはず》もきめて、内と外から呼応してかくかくの行動をおこすことになっており、追っつけこちらへまいってあなたにご挨拶するはずです」
宋江はそれを聞くと大いによろこび、うれいもにわかに晴れあがり、急いで幕営内に歓待の席を設けるよういいつけた。
一方、孫立は、供のものらを車や人馬とともに他所に休ませておいて、解珍・解宝・鄒淵・鄒潤・孫新・顧大嫂・楽和だけをしたがえ、八人で宋江のもとへやってきて挨拶をした。宋江は酒を出してもてなしたが、この話はそれまでとする。
呉学究は一同にひそかに指図して、三日目にはかくかく、五日目にはしかじかと命をさずけた。孫立ら一同は計略をさずかると、車や人馬とともに、計をおこなうべく祝家荘にむかってたった。
呉学究はまた、
「ご苦労だが戴院長には、山寨へ行って、すぐあの四人の頭領をつれてきていただきたいのです。四人にやってもらいたいことがあるので」
といった。こうして戴宗に急いでその四人をつれてこさせたことから、水泊《すいはく》(梁山泊)にまた新しき羽翼を添え、山荘(祝家荘)にまた旧《ふる》き衣冠なし、という次第とはなるのである。ところで呉学究はいかなる四人をつれてこさせたか。それは次回で。
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一 受けつけず 原文は不行解官。解官とは役所へものをひきわたすこと。
二 仕掛け弓 原文は窩弓。鳥獣をとらえるための罠弓《わなゆみ》。
三 お役所へさし出します 原文は解官。注一参照。
四 孫郎 三国の呉の王孫権《そんけん》の兄孫策《そんさく》のこと。孫策が若くして将軍となったので、人々は彼を孫郎《そんろう》と呼んだという。
五 尉遅恭 姓は尉遅、名は恭、字は敬徳。通常、字をもって呼び、尉遅敬徳《うつちけいとく》という。隋の末に唐に帰し、太宗のためにしばしば戦功をたてた。常に単騎で敵陣に突入し、よく敵の矛を避けて一度も傷つけられたことがなかったという。
六 金を粧うに似 顔色の黄色いことをいう。あだ名の病尉遅の「病」はその意である。病大虫(薛永)や病関索(楊雄)の場合もおそらく同じであろう。
第五十回
呉学究《ごがつきゆう》 双《ふた》たび連環《れんかん》の計《けい》を掌《と》り
宋公明《そうこうめい》 三たび祝家荘《しゆくかそう》を打つ
さて、そのとき軍師の呉学究は戴宗にたのんでいうよう、
「ご苦労ですが、山寨へ帰って、鉄面孔目《てつめんこうもく》の裴宣《はいせん》、聖手書生《せいしゆしよせい》の蕭譲《しようじよう》、通臂猿《つうひえん》の侯健《こうけん》、それに玉臂匠《ぎよくひしよう》の金大堅《きんたいけん》を呼んできてくださらぬか。この四人にしかじかの装束をたずさえて、大急ぎで山をおりてこさせてください。やってもらいたいことがあるのです」
戴宗は出かけて行った。
と、そこへ外から兵士が知らせにきた。
「西の村の扈家荘《こかそう》の扈成《こせい》というものが、牛を牽《ひ》き酒をかついで、お目にかかりたいといってやってきました」
「通しなさい」
と宋江はいった。やがて扈成が中軍の幕営の前にきて、再拝の礼をし、慇懃にうったえた。
「妹がつい粗暴なふるまいをいたしました。年が若く世事にうといものですから、たいへんご無礼をはたらき、このたび擒《とりこ》にされてしまいましたが、なにとぞゆるしてやってくださいますよう。なにぶん妹は、祝家荘のものがいいなずけでありますことから、あのときはつい一時の勇をふるって、縄目を受けるようなことになったのでございます。もし帰してやっていただけますならば、ご用の品々はなになりとおいいつけどおり納めさせていただきます」
「まあおかけになってください。祝家荘のものどもはいかにも無礼で、ゆえもなくわれわれの山寨をあなどりますので、報復のために兵を出したのですが、あなたのところにはなんの遺恨もありません。ただ妹さんが手勢をひきつれてこちらの王矮虎を捕らえて行かれましたので、そのお返しとして妹さんを手取りにしたわけです。あなたが王矮虎をわれわれにお返しくださるならば、それとひきかえに妹さんをお返しいたしましょう」
「ところがあのかたは、祝家荘のものが捕らえて行ってしまいました」
呉学究が、
「うちの王矮虎はいまどこにいるのです」
「祝家荘につながれています。わたくしには取り返しに行くわけにもまいりません」
「あなたが王矮虎を救い出してわれわれに返してくださらなければ、われわれとしても妹さんをお返しするわけにはいきません」
宋江がそういうと、呉学究が、
「兄貴、まあそういわずに、こういうことにしましょう。今後、祝家荘でどのようなことがおこっても、あなたのほうでは決して援兵を出さないこと。また、もし祝家荘のものであなたのところへ逃げて行ったものがあれば、あなたのほうで縛りあげておくこと。もし誰かをつかまえてくださったなら、そのとき妹さんをお屋敷へ送り返しましょう。といっても、妹さんはいまこの陣地におられません。先日山寨のほうへお送りして宋太公のもとにあずけてあります。まあ安心してお帰りください。われわれのほうでもわるいようにはしませんから」
「今後は決してあちらを助けないことを誓います。またもしむこうのほうからわたくしどものところへ身を寄せてくるものがあれば、必ず縛りあげて、お手もとへ送りとどけましょう」
「もしそうしてくださるなら、金帛をいただくよりもはるかにありがたいことです」
と宋江はいった。扈成は礼をいって帰って行った。
さて孫立は、その旗じるしを登州兵馬提轄孫立、と書きあらため、手勢をひきつれて祝家荘の裏門へ行った。屋敷のほうでは、城壁から登州の旗じるしを見て、奥へ告げた。欒廷玉《らんていぎよく》は登州の孫提轄がたずねてきたと聞くと、祝氏の三傑にむかっていった。
「孫提轄という男はわたくしの兄弟ぶんで、若いときから同じ師匠について武芸をならった仲です。きょうはどうしてやってきたのか」
そして二十余名の兵をひきつれ、門をあけ吊り橋をおろして、外へ出て迎えた。孫立ら一行のものは馬をおり、一同挨拶をかわしたのち、欒廷玉がたずねた。
「あなたは登州の警備にあたっているはずなのに、どうしてこちらへ」
「総兵府(地方駐屯軍の司令部)からの命令で、このたび〓《うん》州の警備にかわり、梁山泊の強盗どもを防ぐことになって、赴任の途上、あんたがこの祝家荘におられると聞いたものだから、それではと、おたずねしたわけです。表門からうかがおうと思ったのですが、村の入口や屋敷の前あたりにたくさん軍兵がたむろしているのを見て、ぶつかってはまずいと思い、わざわざ村里をたどり裏道をえらんで、裏からおたずねした次第です」
「じつは、このところずっと梁山泊の強盗どもとたたかっていて、もう、何人かの頭領をひっ捕らえてありますが、首魁の宋江を捕らえ次第、いっしょにお上へひきわたすつもりでおります。このたびあなたがここの守備にあたられることになったのは、もっけの幸い。まさに錦上の花、旱天の慈雨というところです」
孫立は笑いながら、
「およばずながらそやつらを捕らえるおてつだいをして、あなたに大功をしとげさせてあげたいものです」
欒廷玉は大いによろこび、すぐに一行をなかへみちびきいれて、もとのように吊り橋をひきあげ門をしめた。孫立ら一行のものは、車や人馬を休ませておいて、着物を着かえて、みなで表広間へ挨拶に行った。祝朝奉は祝竜・祝虎・祝彪の三傑とともに挨拶に出た。一家のものはみな広間の前で出迎える。欒廷玉は孫立を広間の上へつれて行って挨拶をさせた。礼がおわると欒廷玉は祝朝奉にいった。
「わたしの義兄弟のこの孫立は、あだ名を病尉遅《びよううつち》といって、登州の兵馬提轄ですが、このたび総兵府の命令でこの〓州の警備にまいったものです」
「それでは、このわたしもご配下というわけです」
と祝朝奉はいった。孫立は、
「とるにたらぬお役目でして、お言葉いたみいります。今後なにかとよろしくご指導のほどおねがいいたします」
祝氏の三傑は、
「さあみなさんお掛けなさって」
といった。孫立が、
「連日のご奮戦でさぞかしお疲れのことでございましょう」
と問いかけると、祝竜が答えて、
「まだ勝負もつきません。あなたがたこそ、道中お疲れのことでございましょう」
孫立は顧大嫂に、楽大娘子といっしょに奥の間へ行って家族の人たちに挨拶をするようにといい、また孫新・解珍・解宝を呼んで、
「この三人は、わたくしの弟です」
とひきあわせ、ついで楽和を指さして、
「このかたは当地〓州からお使いにこられたお役人です」
といい、鄒淵と鄒潤を指さして、
「このふたりは、登州から送ってきてくださった軍官です」
といった。祝朝奉もその三人の息子たちも、なかなかはしっこい男だったが、彼らが家族のものをつれており、またたくさんの荷物や車や人馬をしたがえているうえに、武芸教師の欒廷玉の義兄弟だというので、少しも疑うことなく、牛を殺し馬を屠《ほふ》って宴席を設け、歓待にこれつとめた。
こうして二日すぎて、三日目のこと、屋敷の兵士が、
「宋江がまた軍勢をくり出して屋敷へ攻めよせてきました」
と告げた。祝彪は、
「よし、おれが馬で出て行って、やつをひっ捕らえてやる」
といい、ただちに門を出、吊り橋をおろし、一百余の騎兵をひきつれて斬りこんで行った。と、やがて一隊の人馬にぶっつかった。およそ五百ばかりの軍勢で、その先頭におしたてられた頭領の、弓矢をとり、馬を飛ばし、槍をふりまわしてくるのは小李広の花栄であった。祝彪はそれを見ると馬をおどらせ、槍をかまえ、すすみ出てたたかいをいどむ。花栄も馬を飛ばして祝彪にたちむかい、ふたりは独竜岡の麓でわたりあうこと十合ばかり、勝敗はいずれとも決しなかったが、そのとき花栄は負けたと見せかけて、馬首をめぐらして逃げ、相手をさそいこんで追いかけさせた。祝彪が馬を飛ばして追いかけようとしたとき、うしろから気づいたものが呼びとめた。
「将軍、追ってはなりません。だまし討ちにかかりますぞ。あいつは弓の名手です」
祝彪はそれを聞くと、馬をひかえて追うのをやめ、人馬をもどし、屋敷にひきあげて吊り橋をあげてしまった。花栄のほうも、軍勢をひきつれて帰って行った。
祝彪はまっすぐ表広間の前まで馬を乗りつけ、奥の間にはいって酒を飲んだ。孫立が、
「将軍、きょうはどんなやつを捕らえられましたか」
とたずねると、祝彪は、
「やつらのなかに小李広の花栄という槍のしたたかな使い手がいて、五十合あまりわたりあったところ、やつが逃げ出したので、追いかけて行こうとすると、兵どもが、あいつは弓の名手だからとおしとめたので、両軍とも兵をまとめてひきあげてしまったのです」
「あすは、およばずながらこのわたくしが、やつらを数人ひっ捕らえてお目にかけましょう」
と孫立はいった。その日は、その席上で楽和に歌をうたわせて一同は楽しみ、夜になって散会した。また一夜明けて四日目の午牌《ごはい》(昼)になると、とつぜん屋敷の兵士が、
「宋江の軍勢がまたおしよせてまいりました」
と告げた。祝竜・祝虎・祝彪の三人はみな庭におりたち、よろいをつけて表門の外へ出た。見れば遠くむこうのほうから早くも銅鑼や軍鼓の音が聞こえ、喊声をあげ旗をうちふりつつ陣形をととのえるのが見えた。こちらでは祝朝奉が門前に腰をすえ、その左には欒廷玉、右には孫提轄がひかえ、祝家の三傑と孫立がつれてきたおおぜいの兵がその両側にずらりと立ちならんだ。と、早くも宋江の陣から豹子頭の林冲が大声でののしりたてた。祝竜はいら立って、吊り橋をおろさせ、槍を手にして馬にまたがり、二百余の人馬をひきつれ、雄叫《おたけ》びをあげてまっしぐらに林冲の陣におそいかかって行った。門の下では軍鼓がうち鳴らされ、両軍はともに弓を射《う》って出足を制しあった。林冲は一丈八尺の蛇矛《じやぼう》をかまえて祝竜とたたかい、つづけさまに三十余合もわたりあったが勝敗は決せず、双方で銅鑼が鳴らされてふたりは馬を返した。祝虎は大いに怒り、刀をひっさげて馬にまたがり、陣頭へ駆け出して行って大声で呼ばわった。
「宋江、勝負しろ」
みなまでいわせず、宋江の陣から早くも一将が馬を乗り出してきた。すなわち没遮〓《ぼつしやらん》の穆弘《ぼくこう》で、祝虎にたたかいをいどんでわたりあうこと三十余合。これまた勝敗がつかない。それを見た祝彪は大いに怒り、槍をつかんで馬に飛び乗り、二百余騎をしたがえて陣頭へ駆け出した。すると宋江の陣からは病関索の楊雄がただ一騎、一本の槍を持って飛び出してきて祝彪とたたかった。孫立は両軍の陣頭でのたたかいを見ているうちにこらえきれなくなり、孫新を呼んで自分の鉄鞭と槍を取ってこさせ、さらに、よろい・かぶと・戦袍を持ってこさせて身をかため、自分の馬をひき出してきた。この馬は烏騅馬《うすいば》(黒毛の馬)という名。これに鞍を置き、三本の腹帯をしめ、節くれだった鉄鞭を腕にかけ、槍を手にして馬にまたがった。祝家荘には銅鑼がひと声鳴りひびき、孫立は陣頭に馬をすすめた。宋江の陣では、林冲・穆弘・楊雄がそろって馬をとめて陣頭に立つ。孫立は早くも馬を走らせながら、
「わたしがあいつらをひっ捕らえてお目にかけましょう」
といい、やがて馬をとめて大声で叫んだ。
「きさまたち賊兵の陣中に、われこそはと思うやつがあったら、出てきておれと勝負をしろ」
宋江の陣に鸞鈴《らんれい》(馬の鈴)が鳴りひびいたとみるまに、一騎がかけ出してきた。見ればそれは命三郎《へんめいさんろう》の石秀で、孫立とたたかいをまじえ、両馬互いに馳せちがい、両槍ともにひらめき、両者わたりあうこと五十合。孫立はわざとすきを見せて石秀の槍をさそいこみ、ひらりとそれをかわしざま、石秀を軽々と馬上よりさらいとってそのまま屋敷の前に駆けもどり、そこへ放りだして、
「こやつを縛りあげろ」
とどなった。そのとき祝家の三子はどっとおそいかかって行って、宋江の軍勢をことごとく蹴散らしてしまった。三子は軍勢をまとめて門楼《もんやぐら》の下までひき返してくると、孫立に挨拶をし、人々はみな手を拱《こまね》いて敬意を表した。孫立は、
「全部で何人の賊を捕らえたことになりますか」
とたずねた。祝朝奉が、
「はじめに時遷というものを捕らえ、ついで忍びのものの楊林というやつを捕らえ、その後また黄信というやつと、扈家荘の一丈青がとりおさえた王矮虎というやつを捕らえ、合戦のときに秦明と〓飛というやつを捕らえ、いままたあなたがこの石秀というやつを捕らえてくださいましたが、こやつはわたしの宿屋を焼きはらったやつ。これで、あわせて七人になります」
「ひとりも殺さぬように。さっそく囚人護送車を七輛つくっておしこめ、せいぜい酒やご馳走をあたえて身体を養ってやることです。痩せこけさせて、みすぼらしくしないように。そのうち宋江を捕らえたうえで、いっしょに東京《とうけい》へひきたてて行って、祝家荘の三傑の名を天下に鳴りひびかせましょう」
「いろいろお力添えくださいまして、ありがとうございます。これでどうやら梁山泊ももはや潰滅ときまったようです」
と祝朝奉は礼をのべ、孫立を奥の間の宴席にいざなった。石秀は護送車におしこめられた。
ところで、みなさん、石秀の武芸の腕は孫立にひけをとるものではなかったが、これは、祝家荘の人々をあざむかんがためにわざと孫立に捕らえられて、屋敷のものにいっそう孫立を信頼させようとしたわけである。孫立はまた、ひそかに鄒淵・鄒潤・楽和を奥のほうへやって、あらゆる出入りの路筋を調べさせた。楊林と〓飛は、鄒淵と鄒潤の姿を見て心ひそかによろこんだ。楽和は、ひとけのないおりを見て、一同にこっそり消息をつたえておいた。顧大嫂と楽大娘子は奥の間で、部屋部屋の出入りの道をすっかり調べあげた。
五日目の日のこと、孫立ら一同は屋敷のなかをぶらぶら歩きまわった。その日の辰牌《しんはい》(朝八時)ごろ、朝食がすんだところへ屋敷の兵士が、
「いま宋江が、兵を四手にわけて屋敷に攻めよせてきました」
と告げた。孫立は、
「たとえ十手にわかれてきたとしても、なにほどのことがあろうか。ものども、あわてずに、さっそく用意をととのえよ。まず撓鉤《どうこう》と套索《とうさく》(からめ縄)をとりそろえて、いけどりにするように。殺して捕らえても数にははいらぬぞ」
屋敷のものはみな武装に身をかためた。祝朝奉がみずから一隊をひきつれて門楼にのぼって見ると、東のほうからやってくる一群の人馬の、その先頭のひとりの頭領はすなわち豹子頭の林冲。そのうしろには李俊と阮小二。およそ五百あまりの人馬がそれにつづいている。西のほうにも五百あまりの人馬が見え、その先頭のひとりの頭領はすなわち小李広の花栄。そのうしろにつづくは張横と張順。また南の門楼から眺めると、そこにも五百あまりの人馬が見え、その先頭の三人の頭領はすなわち没遮〓の穆弘・病関索の楊雄・黒旋風の李逵。四面すべて人馬で、いっせいに軍鼓を鳴らし、さかんに喊声をあげる。欒廷玉はそれを聞くと、
「きょうのやつらの出方は、あなどってはなりませんぞ。わたしは一隊の人馬をひきつれて裏門から飛び出し、西北方の敵をやっつけましょう」
祝竜は、
「わしは表門から飛び出して、東のほうの敵をやっつけよう」
祝虎は、
「わしは裏門から飛び出して、西南方の敵をやっつけよう」
祝彪は、
「わしは表門から飛び出して、かんじんかなめの賊の頭《かしら》、宋江をひっ捕らえてくれよう」
祝朝奉は大いによろこんで、みなに酒をふるまった。一同はそれぞれ馬に乗り、いずれも三百余騎をひきつれて門を飛び出して行き、その余のものはすべて屋敷を守り、門楼のところで鬨《とき》の声をあげた。
このとき、鄒淵と鄒潤は、大斧をかくし持って門衛のそばにつきそい、解珍と解宝も武器をかくし持って裏門を離れず、孫新と楽和はすでに表門のあたりにひかえていた。顧大嫂はまず部下の兵を楽大娘子の護衛につけておいて、みずからは二本の刀を持って表広間に忍び寄り、合図があればただちに手をくだすべく待ちかまえていた。
さて、祝家荘では三たび軍鼓が鳴らされ、号砲が一発打ちあげられると、前後の門をあけ吊り橋をおろして、いっせいに打って出た。四手の軍勢は門を出るや四方にわかれて斬りこんで行ったが、しんがりの孫立は十数人の兵をしたがえて吊り橋の上に立った。すると門内の孫新が、かねて用意していた旗じるしを門楼の上にかかげ、楽和は槍をひっさげながら歌をうたいだした。鄒淵と鄒潤は楽和のうたうのを聞くと、ひゅうひゅうと口笛を吹き鳴らし、大斧をふりまわしてあっというまに門衛の兵士数十人を斬りたおし、すぐ囚人車を破って七匹の虎を放つと、彼らはてんでに武器を見つけ、どっと喊声をあげる。顧大嫂は二本の刀を抜きはなち、ただちに部屋のなかへ飛びこんで、出会う女を片っぱしから斬りすてて、みな殺しにしてしまった。祝朝奉はかなわぬと見て井戸へ身を投じようとしたが、それより早く石秀が一刀のもとに斬り伏せ、その首をかき取った。十数人の好漢はそれぞれ手わけして屋敷の兵士を殺した。裏門のほうにいた解珍と解宝がまぐさ場に火をつけると、黒煙がもうもうとまいあがった。
四手の人馬は屋敷に火の手があがったのを見ると、力をあわせて攻め寄せた。
祝虎は屋敷から火の手があがったのを見ると、まっさきに駆けもどってきた。すると孫立が吊り橋の上にがんばっていて、
「このやろう、どこへ行く」
とどなりつけ、吊り橋でふせぎとめた。祝虎ははっとさとり、すぐ馬首をめぐらして、また宋江の陣にむかって駆け出したが、そこには呂方と郭盛がいっせいに戟をふりかぶり、あっというまに祝虎を馬もろとも斬りたおすや、兵士たちがどっとおそいかかって、めった斬りに斬りきざんでしまった。かくて屋敷の正面の軍勢はちりぢりに逃げうせ、孫立と孫新は宋公明を屋敷へ迎えいれた。
一方、東へむかった祝竜は、林冲と一戦をまじえたがついに敵し得ず、馬を飛ばして屋敷の裏のほうへまわり、吊り橋のところまできて見ると、裏門では解珍と解宝が屋敷の兵士たちの屍体を一体また一体と火のなかへ投げこんでいる。祝竜はあわてて馬を返し、北をさして逃げて行くと、ばったり黒旋風に出くわした。黒旋風はおどりかかってきて、二本の斧をふりまわしざま馬の脚を斬りはらった。祝竜は手を出すひまもなく、さかさまにころげ落ち、李逵の一斧で首を斬りおとされてしまった。
祝彪は、駆けつけてきた屋敷の兵士の知らせをうけると、屋敷へは帰らずにそのまま扈家荘へ逃げて行ったが、扈成は下男に命じて捕らえさせ、縄をかけて宋江のところへひきたてて行こうとしたところ、途中で李逵に出くわした。李逵は斧をふるってたちまち祝彪の首をはねてしまい、下男たちはちりぢりに逃げてしまった。李逵はなおも二梃の斧をふるって扈成に斬りかかって行った。扈成はかなわぬと見て、馬を飛ばしてほうほうの態で逃げ、家も捨てて身ひとつで延安府へ落ちのびた。のち彼は宋朝中興のとき、立身して武将になった。
さて李逵は、手あたり次第に斬りまくって、そのまま扈家荘に討ちいり、扈太公一門の老若を、ひとり残らず殺してしまったうえ、手下どもに命じてありったけの馬をひき出させ、屋敷内の財物のことごとくを四五十の馬に積み、屋敷に火をつけて焼きはらったうえ、分捕り品を納めに帰った。
さて宋江は、すでに祝家荘の表広間に腰をおろし、頭領たちはみな戦果を知らせに集まってきていた。いけどりにしたもの四五百名、奪った駿馬は五百余頭、牛や羊にいたっては数えきれなかった。宋江はそれを聞いて大いによろこんだが、
「ただ、欒廷玉という好漢を殺してしまったのは残念だった」
となげいていると、そこへ、
「黒旋風が扈家荘を焼きはらい、斬った首を持ってきました」
という知らせがあった。宋江が、
「扈成は先日すでに投降したものなのに、誰が彼を殺せなどといった。どうして屋敷を焼いてしまったりなどしたのだ」
といっているところへ、黒旋風が、全身に返り血をあび、腰に二梃の板斧をさして、つかつかと宋江の前へやってくるなり、大声で挨拶をして、さていうには、
「祝竜はわたしが殺してしまいました。祝彪もわたしが殺しました。扈成のやつは逃げてしまいましたが、扈太公一家のものはきれいさっぱり殺してしまいました。おほめにあずかりにまいりました」
宋江は声をはげましていった。
「祝竜については、あんたが殺すのを見たものがいる。その余のものはどのようにして殺したのか」
「手あたり次第に斬りまくって扈家荘へ追いかけて行ったところが、ちょうど、一丈青の兄貴が祝彪をひきたててやってくるのに出くわしたものですから、一斧で祝彪を斬ってしまったのですが、おしいことに扈成のやつは逃がしてしまいました。だが、やつの屋敷のものはひとりも残さず殺してやりましたよ」
宋江はどなりつけた。
「こやつ、誰がきさまにあそこへ行けなどといった。先日扈成が牛をひき酒をかついで投降してきたことは、きさまも知っているはずなのに、どうしてわたしのいうことをきかずに勝手に彼の一家を殺し、ことさらにわたしの命令にそむいたのだ」
「あんたはもう忘れてしまったようだが、おいらは忘れもしない、あいつはこのまえ、あの糞阿魔にいいつけて、兄貴を追っかけて殺させようとしたじゃないか。それなのにあんたはまだ義理を立てようとするのか。あんたはまだあいつの妹と祝言をしたわけでもないのに、もう小舅や舅に遠慮気兼ねをするのですかい」
「おい、鉄牛。なにを馬鹿なことをいう。わたしがあの女をめとるなんてとんでもない話だ。わたしにはわたしで別に考えがあるのだ。いったいおまえは何人いけどりにした」
「誰がそんな糞面倒くさいことをするものか。生きてるやつは見つけ次第に斬って捨てましたよ」
「おまえはわたしの命令にそむいたから、本来ならば打ち首にするところだが、祝竜・祝彪を殺した手柄に免じて、ひとまずその罪は帳消しにしてやる。こんどまた命令にそむきでもしたら、もうゆるさんぞ」
黒旋風は笑って、
「手柄をふいにしてしまったが、存分に殺してせいせいしたよ」
そこへ軍師の呉学究が一隊の人馬をひきいてやってき、宋江のために杯をとりあげて戦勝を祝賀した。宋江は呉用と相談のすえ、祝家荘の村々は根こそぎ掃蕩してしまうことにした。ところがそのとき石秀が進言した。
「あの鐘離老人という人は仁徳のあつい人で、路を教えてくれた手柄もあり、助けてもらった大恩があります。こういう善良な人もまじっているわけですから、そういう人たちまでいっしょにして殺してしまうのはよくありません」
宋江はそれを聞くと、石秀にその老人を呼びにやらせた。石秀は出かけて行ったが、まもなく鐘離老人を屋敷につれてきて、宋江と呉用に挨拶をさせた。宋江は金や絹を一包み老人に賞与し、ながくこの村に住まわせることにして、
「もしおまえさんからご恩を受けることがなかったなら、この村は一軒も残さず焼きはらってしまうところだったが、おまえさんひとりの善行のために、この村の人たちはゆるしてあげることにする」
といった。鐘離老人はただただ平伏していた。宋江はまた、
「このところずっと、このあたりの住民に迷惑をかけてきたが、このたび祝家荘をうち破って村の害悪をとりのぞいたので、軒なみに米一石ずつを配って、心づくしとしよう」
と、鐘離老人をはじめとしてみなのものにわけあたえる一方、祝家荘の残った食糧をことごとく車に積みこみ、金銀家財は全軍の将兵に賞としてわけあたえ、そのほかの牛や羊や騾馬《らば》などは山へ持ち帰って日常の用にあてることにした。祝家荘を破って得た糧秣は五十万石におよび、宋江は大満悦であった。こうして大小の頭領たちは兵をまとめて出発したが、数人の新しい頭領、すなわち孫立・孫新・解珍・解宝・鄒淵・鄒潤・楽和・顧大嫂が加わり、また七人の好漢を救い出し得たのだった。孫立らは自分たちの馬にみずからの家財を積み、家族のものや楽大娘子とともに、本隊の軍勢のあとについて山へむかったが、村人たちは老人や子供までも出て香花や灯燭をささげ、道ばたにひざまずいて礼をした。宋江ら諸将はいっせいに馬に乗り、軍勢を三隊にわけ、前の隊のものは鞭で鐙《あぶみ》を打ち鳴らし、後の隊のものは声をそろえて凱歌をうたった。まさに、
盗の盗とすべきは常《まこと》の盗にあらず(注一)、強内の強、真によく強なり。只《ただただ》悪を滅ぼし兇を除かんとするに因り、聊《いささ》か家を打ち舎を劫《おびや》かすを作《な》す。地方は土豪の欺圧《ぎあつ》を恨み、郷村は義士の済施《せいし》(めぐみ)を喜ぶ。衆虎情有って、鶏を偸《ぬす》み狗を釣る(こそ泥、時遷のこと)を救うをなす。独竜(祝家荘)助けなく、飛虎(扈成)も撲〓《はくちよう》(李応)を留め難し。謹んで万に上る資糧を具して水泊を填平《てんぺい》し(注二)、さらに許多の人畜を賠《つぐな》って梁山を踏破す。
話はわかれて、さて撲天〓の李応は、養生のかいあって矢傷は癒えたが、門を閉じたまま外へは出ず、ひそかに人をやって祝家荘の様子をたえずさぐらせていたところ、ついに宋江のために打ち破られたと聞いて、おどろきもし、よろこびもしたが、ちょうどそこへ下男が駆けこんできて、
「州の知府さまが、ご自分で四五十人の従者をしたがえておいでになり、祝家荘のことについて問いただしたいことがあるとのことでございます」
と告げた。李応は急いで杜興にいいつけ、荘門をあけ吊り橋をおろして屋敷へ迎えいれさせ、みずからは白い絹の帯で腕に繃帯をし、出迎えて表広間に請じいれた。知府は馬をおりて広間にはいると、そのまんなかに腰をおろした。そばには孔目が坐り、下手《しもて》にはひとりの押番《おうばん》(護送官)と数名の虞候(用人)が、階段の下にはおおぜいの牢役人や牢番がずらりとひかえた。李応が礼をして広間の前に起立すると、知府はたずねた。
「祝家荘がやられたのは、いったいどういうわけか」
李応は答えていった。
「わたくしは祝彪に矢で射《う》たれて左の腕に傷を負い、以来ずっと閉じこもったまま外へ出ませんので、くわしいことは存じません」
「たわけたことを申すな。現に祝家荘から訴状が出ていて、おまえが梁山泊の賊と結託し、その軍勢を手引きして屋敷を打ち破らせたといってきている。以前にはまた、やつらから鞍馬、羊肉や酒、絹もの、金銀などの贈り物を受けたという。いまさらなにを白っぱくれたことを申す」
「わたくしは法度はわきまえております、どうして彼らから品物を受けたりなどいたしましょう」
「あやしいものだ。ともかく役所へ連行する。自分で訴人に対してはっきり筋を通してみろ」
知府は獄卒や牢番に召し捕れと命じ、州役所へひきたてて行って祝家のものと対決させることにした。両側の押番や虞候たちが李応を縛りあげた。みなは知府を守って馬に乗らせた。そのとき知府は、
「杜主管の杜興というのはどれだ」
とたずねた。
「わたくしでございます」
と杜興がいうと、知府は、
「訴状にはそのほうの名も出ている。いっしょに連行する」
と、彼にもまた手錠をかけさせ、一同はうちそろって門を出た。こうして李応と杜興を召し捕って李家荘をあとにし、飛ぶように道を急ぎながら押送して行ったが、三十里ばかりも行ったころ、とつぜん森のかげから宋江・林冲・花栄・楊雄・石秀らの一隊の人馬が飛び出してきて、行くてにたちふさがった。林冲が、
「梁山泊の好漢ここにあり」
と大喝すると、知府らの一行はすこしも抵抗せず、李応と杜興をうちすてて、まっしぐらに逃げて行った。宋江は、
「追っかけろ」
と命じた。みなはしばらくそのあとを追って行ったが、やがて帰ってきて、
「追いついたらあの糞知府め、生かしてはおくまいものを、どこへうせたのか逃げてしまいました」
一同はさっそく李応と杜興の縄をとき、手錠をはずし、馬を二頭ひいてきてふたりを乗せた。そのとき宋江がいった。
「大官人どのに梁山泊へおいでねがってしばらく難を避けていただこうと思うのですが、いかがですか」
「いや、それはごめんこうむる。知府があんたらに殺されたとしても、それはわしとはかかわりのないことだ」
宋江は笑いながら、
「お上にはあなたのそういういいわけは通じないでしょう。われわれが逃げてしまえば、かならずあなたに災がかかります。大官人どのが山の仲間にはいるのがいやだとおっしゃるのなら、しばらく山寨でおすごしになって、何事もないとたしかめられたうえで下山なさってもよろしいでしょう」
そのとき李応と杜興は、どうしてよいものやらわからず、またおおぜいの人馬のなかで逃げるわけにもいかなかったのである。三軍の人馬は長蛇の列をつくって梁山泊へ帰って行った。山寨では、頭領の晁蓋《ちようがい》以下一同のものが、鼓笛の音もにぎやかに山をおりて一行を出迎え、祝いの酒(注三)をくみかわしてから、一同うちそろって大寨の聚義庁《しゆうぎちよう》にはいり、車座になって席についた。そして李応をまねいて頭領たち一同にひきあわせた。ふたりは挨拶をおわると、李応が宋江にいった。
「わたくしどもふたり、こうしてあなたを大寨までお送りしてまいり、頭領のかたがたにもご挨拶いたしましたので、このままここでお仕えしてもよろしいのですが、家族のものがどうなっていることか気になりますので、下山させていただきたいと思います」
すると呉学究が笑いながら、
「大官人どの、それはとんでもないこと。ご家族のかたがたはすでに山寨にお迎えしてあり、お屋敷はもうすっかり灰になってしまいました。大官人どのはいまさらどこへ帰ろうとなさるのです」
李応はまにうけなかったが、やがて車や人馬が続々と山をのぼってくるのが見えた。李応がよく見ればそれは自分のところの下男や家族のものではないか。李応があわただしく駆け寄ってわけをたずねると、妻のいうには、
「あなたが知府さまに召し捕られて行かれると、そのあとへこんどはふたりの巡検《じゆんけん》(注四)のかたが、四人の都頭をしたがえ、三百人あまりの土兵をひきつれて見え、家財の没収にきたとおっしゃって、わたしたちまでもすっかり車に乗せ、家にあった箱やつづらから牛・羊・馬・驢馬《ろば》・騾馬《らば》などまでいっさい合財、運び出し、そのうえ屋敷に火をつけて焼きはらってしまわれたのです」
李応はそれを聞いて、ただおどろくばかり。晁蓋と宋江は、いっしょに下へおり、罪を謝していった。
「われわれ一同、大官人どののご評判を耳にすることまことに久しく、そのためにこのようなたくらみをいたしました次第。なにとぞおゆるしくださいますよう」
李応はそういわれると、したがうよりほかなかった。宋江は、
「ではひとまず、ご家族のかたには奥の棟の脇部屋で休んでいただきましょう」
といった。李応はまた、聚義庁のまわりのあちこちに、頭領たちがそれぞれその家族と住んでいるのを知って、妻にいった。
「いわれるとおりにしようよ」
宋江らはそのとき李応を聚義庁に請じいれ、よもやま話をして一同うちくつろいだが、宋江は笑いながら、
「ところで大官人どの、ふたりの巡検と知府とをここへ呼んで、あなたにおひきあわせいたしましょう」
といった。知府に変装したのは蕭譲で、巡検になったふたりは戴宗と楊林、孔目に扮したのは裴宣、虞候に扮したのは金大堅と侯健であった。ついで四人の都頭を呼び出したが、それは李俊・張順・馬麟・白勝であった。李応はそれを見て、ただもうあきれるばかりで、ものもいえなかった。
宋江は小頭目にいいつけて、さっそく牛を殺し馬を屠《ほふ》って大官人をもてなし、新たに仲間に加わった十二人の頭領たちのために祝宴を設けさせた。すなわち、李応・孫立・孫新・解珍・解宝・鄒淵・鄒潤・杜興・楽和・時遷・女頭領の扈三娘・顧大嫂である。楽大娘子や李応の家族のもののためにも別に一席を設け、奥の間のほうでもてなさせた。全軍の将兵にもねぎらいがあった。表広間ではにぎやかに鼓楽を鳴らして、おおぜいの好漢たちが酒をくみかわし、日が暮れてから散会になり、新参の頭領たちはそれぞれ部屋をわりあてられて休んだ。
翌日もまた宴席が設けられ、頭領たちを招いて相談がおこなわれた。宋江は王矮虎を呼んで、
「わたしは、前に清風山にいたとき、あんたに縁談をとりもつことを約束したが(第三十二回)、いつも気にかけながら、なかなかそれがはたせなかった。こんどわたしの父にひとりの娘ができたので、あんたをその婿に迎えたいと思うのだが」
といい、自分で宋太公を迎えに行き、一丈青の扈三娘を宴席へつれてきた。宋江はしたしく扈三娘をもてなしながら、
「わたしの弟ぶんのこの王英は、武芸の腕はあなたにはおよばないが、以前わたしは彼に縁談をとりまとめてやる約束をしながら、それっきりになっていたところ、このたびあなたがわたしの父を義父になさったので、頭領たちを仲人にして、きょうは吉日でもあるので、王英と夫婦になってもらいたいのだが」
とたのんだ。一丈青は宋江の義気のほどに感じて、ことわることもできなかった。ふたりはただただ礼をいうばかりであった。晁蓋ら一同もみなよろこび、口々に宋公明を徳あり義ある士だとほめた。こうしてその日はみなで酒をくみかわして祝いあったが、ちょうどその最中に手下のものがやってきて、
「朱貴のおかしらの居酒屋に、〓城県のものだというのがきて、頭領にお会いしたいといっております」
と告げた。晁蓋と宋江はそれを聞くと、
「あの恩人が仲間にはいってくださるなら、かねての念願がかなったというものだ」
と大いによろこんだが、まさにそれは、恩讐を弁ぜざるは豪傑にあらず、黒白を分明にするは是れ丈夫なり、というところ。さて、ここにおとずれてきたのは〓城県のいかなる人であろうか。それは次回で。
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一 盗の盗とすべきは常の盗にあらず 『老子』の開巻第一章の「道の道とすべきは常の道にあらず」をまねたもの。梁山泊の盗こそ、まことの盗である、の意。
二 水泊を填平し 次の「梁山を踏破す」とともに、祝家荘の門前の旗に書かれていた句(第四十八回の詩)である。それを逆用したもの。
三 祝いの酒 原文は接風酒。第二十六回注四参照。
四 巡検 捕盗巡検ともいう。捕盗・巡察をつかさどる軍官。
第五十一回
插翅虎《そうしこ》 枷《かせ》もて白秀英《はくしゆうえい》を打ち
美髯公《びぜんこう》 誤って小衙内《しようがない》(注一)を失う
さて、宋江が一丈青《いちじようせい》と王英《おうえい》とを夫婦にしようといいだすと、一同はみな宋公明の仁徳をたたえ、その日、あらためて慶賀の酒盛りがおこなわれたが、ちょうど宴たけなわのとき、朱貴の居酒屋から使いのものがやってきていうには、
「林の前の街道を旅人の一隊が通りましたので、手下のものが出て行って立ちふさがりましたところ、そのなかのひとりが〓城《うんじよう》県の都頭《ととう》の雷横《らいおう》だといいますので、朱のおかしらがお迎えになって、いま店でおきまりのもてなしをしているところですが、とりあえずわたくしがお知らせにまいりました」
晁蓋と宋江はそれを聞くと大いによろこび、すぐさま軍師の呉用と三人で山をおりて出迎えに行った。朱貴はすでに舟で金沙灘《きんさたん》まで送ってきていた。宋江はそれを見ると、急いでひざまずいて礼をし、
「長らくお目にかかりませんでしたが、いつも忘れることはございませんでした。きょうはまたどういうわけでここをお通りになりましたので」
雷横も急いで礼をかえして、
「県からの命令で東昌府《とうしようふ》へ用《よう》に行きました帰りです。わかれ道にさしかかりますと、小者たちが立ちふさがって通り賃をよこせといいますので、わたしが名前をいいましたことから、朱のおかしらにむりやりひきとめられたというわけなのです」
「それは天からさずかった幸《しあわ》せです」
と宋江はいい、大寨へいざなって頭領たち一同にひきあわせ、酒を出してもてなした。雷横はそのまま五日ほど逗留し、毎日宋江と語りあった。晁蓋が朱仝《しゆどう》の消息をたずねると、雷横は、
「朱仝はいま、県の牢屋詰めの軍官(注二)に任ぜられて、新任の知県のお気にいりです」
という。宋江は婉曲に雷横に仲間にはいるよう話したが、雷横は、
「母が年をとっておりますので、仰せにしたがうわけにはまいりません。母が天寿をまっとうしてその見送りをすませましたなら、仲間にいれてもらいにきます」
とことわった。そして雷横は暇乞いをして山をおりた。宋江らはなんどもひきとめたが、とめきれなかった。頭領たちはそれぞれ金や絹をはなむけにした。宋江と晁蓋については、いうまでもない。雷横はたくさんの金銀をもらって山をおり、頭領たちはみなでわかれ道のところまで送って行って別れた。雷横は舟で本街道へ渡り、〓城県へと帰って行ったが、この話はそれまでとする。
さて、晁蓋と宋江は、大寨の聚義庁に帰ると、軍師の呉学究を呼んで山寨の職分について協議した。呉用は宋公明と相談してそれをきめると、翌日、頭領たちを集めて命令をつたえた。まず外の、居酒屋をあずかる頭領の割りあてからはじめて、宋江が伝達した。
「孫新と顧大嫂はもともと居酒屋だったのだから、童威・童猛のふたりと交替するように。童威と童猛には、別の仕事をしてもらうことにする。それから、時遷は石勇の手助けに、楽和は朱貴の手助けに、鄭天寿は李立の手助けに行って、東西南北四つの店で酒や肉をあきないながら、四方から仲間にはいりにくる好漢たちの接待をすること。各店ふたりずつの頭領を配置する。一丈青と王矮虎は裏山に寨を設けて、馬匹の監督をするように。金沙灘の小寨は童威と童猛の兄弟ふたりに、鴨嘴灘《おうしたん》の小寨は鄒淵と鄒潤の叔父甥ふたりにあずける。山の正面の大道は、黄信と燕順が騎兵をひきつれて行って、寨をかまえて守る。解珍と解宝には山の正面の第一の関門を、杜遷と宋万には宛子城の第二の関門を、劉唐と穆弘には大寨の入口の第三の関門を、それぞれあずけることにする。阮家の三雄には山の南の水寨を守ってもらう。孟康はこれまでどおり戦船の建造の監督を総管するように。陶宗旺《とうそうおう》と薛永《せつえい》は梁山泊の垣や櫓の築営を、侯健はもっぱら衣袍《いほう》・鎧甲《がいこう》・旌旗《せいき》・戦襖《せんおう》の調製を監督する。朱富と朱清は宴席のかかり、穆春と李雲は家や寨の柵の造営、蕭譲と金大堅はいっさいの来客・手紙・文書の処理をやってもらう。裴宣《はいせん》はもっぱら軍政司として賞罰功罪をつかさどること。そのほかの、呂方・郭盛・孫立・欧鵬・馬麟・〓飛・楊林・白勝らは、本寨の八方にわかれて住み、晁蓋・宋江・呉用は山頂の寨に、花栄と秦明は山の左の寨に、林冲と戴宗は山の右の寨に、李俊と李逵は山の正面に、張横と張順は山の裏側にそれぞれ住み、楊雄と石秀は聚義庁の両側を守る」
こうして全部の頭領の配置がきまると、毎日ひとりずつ交代に頭領たちが祝賀の宴を設けて一同をまねき、山寨の態勢はすっかりととのった。それをうたった詩がある。
巍々《ぎぎ》たる高寨《こうさい》水の中央
職を列し頭を分《わか》ち長ずる所に任ず
只朝廷の駕馭《がぎよ》(任用)すること無きが為に
遂に草沢《そうたく》(の英雄)をして鷹揚《おうよう》(武威をふるう)すること有らしむ
ところで雷横は、梁山泊をあとにして、包みを背負い、朴刀をひっさげ、道を急いで〓城県に帰りつくと、家にもどって老母に挨拶をし、着物を着換え、返書をたずさえて役所へ行き、知県に会って復命し、公文書をおさめ、家に帰ってひと休みしたが、それからはまた毎日もとどおりの役所づとめをした。ある日のこと、役所の東脇のところを歩いていると、うしろから呼びかけるものがあった。
「都頭さん、いつお帰りになりました」
雷横がふりかえって見ると、それはこの町の〓間《たいこもち》で李小二というもの。雷横が、
「ついこのあいだ帰ったばかりだ」
と答えると、李小二は、
「ずいぶんごゆっくりでしたね。ご存じないでしょうが、このごろ町に東京《とうけい》から旅まわりの女芸人(注三)がきておりまして、女っぷりといい芸といい、なかなかのしろもので、白秀英《はくしゆうえい》って名前です。その女はきたとき都頭さんのところへご挨拶に行ったのですが、あいにくとお役目でお留守のときでしたので。いま勾欄(芝居小屋)で諸宮調のうた(注四)をうたっておりますが、毎日小屋をひらいて、芝居をしたり踊ったり、吹いたり弾いたり、うたったりして、それはもうたいへんな人気を湧かせております。どうです、ちょっとのぞいてごらんになりませんか、まったくいい女ですよ」
雷横はそういわれて、ちょうどひまだったので、李小二といっしょに芝居小屋へ見に行った。見れば軒さきにたくさんの、金文字のはいった帳額《ちようがく》(注五)がかけてあり、旗竿には人の背丈ほどの靠背《こうはい》(注六)が吊してあった。雷横ははいって行って青竜《せいりゆう》(舞台の左袖)の特等席に坐り、舞台を見あげると、前狂言(注七)がはじまっているところだった。李小二は雷横をそこにおいて自分は酒をひっかけに外へ出て行った。やがて前狂言がおわると、ひとりの老人があらわれた。上のひしゃげた頭巾をかぶり、茶褐色のうす絹の衫《うわぎ》を着、黒い帯紐をしめ、扇子を手にもち、出てきて口上をのべた。
「てまえは東京《とうけい》のもので、白玉喬《はくぎよくきよう》と申しますが、このとおり年をとっておりますので、もっぱら娘の秀英の歌舞音曲によりまして天下のみなさまがたのご機嫌をうかがわせていただきます」
銅鑼が鳴ると、白秀英がさっと舞台にあらわれ、四方にむかってお辞儀をし、銅鑼の棒をとってさながら豆をふりまくような調子でうち鳴らし、ついでちょんと拍子木をひとついれて、七言四句の詩をうたってから、
「本日、わたくし秀英が看板にかかげ出《いだ》しましたる唱いものは、しんみりした風流のお手本、題しまして予章城《よしようじよう》に双漸《そうぜん》、蘇卿《そけい》を〓《お》う」
といって、語りだし、語ってはうたい、うたってはまた語る。小屋じゅうは割れるような喝采である。雷横は上手のほうに坐って女を眺めるに、まことに色も芸も無類。見れば、
羅衣は雪を畳み、宝髻《ほうけい》(髪)は雲を堆《つ》む。桜桃の口、杏《あんず》の臉《かお》、桃の腮《おとがい》。楊柳の腰、蘭《らん》の心(風流な心)、〓《けい》の性(〓は香り強く、一茎に八九花を開く)。歌喉《かこう》宛転《えんてん》として、声は枝上に鶯《うぐいす》の啼くが如く、舞態は〓〓《へんせん》として、影は花間に鳳《おおとり》の転ずるに似たり。腔《こう》(しらべ)は古調に依《したが》い、音は天然に出《い》ず。高低緊慢、宮商《きゆうしよう》を按じ(音階にかない)、軽重疾徐、格範に依《したが》う。笛は紫竹を吹いて篇々錦に、板《はん》(拍子をとる楽器)は紅牙(紅い象牙の板)を拍《う》って字々新なり。
白秀英がいよいよさわりのところをうたおうとすると、かの白玉喬が声をかけてうたいやめさせ、
「前金をちょうだいするほどの芸ではございませんが、さばけたおかたにおすがり申します。お客さまがたのご喝采もいただきましたゆえ、さあ娘よ、お客席をひとまわりしておいで。それがすんだらいよいよ鳴りもの入りのお芝居だ」
すると白秀英は盆を手に持って、指さしながら、
「起《た》つは財門、住むは利地、通るは吉地、商《あきな》うは旺地《おうち》(繁昌する土地)。この手がおん前に行きましたならば、どうか素通りさせないようにおねがい申しあげます」
白玉喬は、
「さあ娘よ、ひとまわりしておいで。お客さまがたはみんな、おまえにやろうとしてお待ちかねだ」
白秀英は盆を手にのせて、まず雷横の前にやってきた。雷横はすぐ、かくしをさぐったが、これはしたり、一文もなかった。
「きょうはうっかりして一文も持ってこなかったから、あした、いっしょにやるよ」
と雷横がいうと、白秀英は笑って、
「はじめの醋《す》がきつくないと、いつまでも味がうすいと申します。旦那さまはちょうど第一番の席にいらっしゃいますから、皮切りをしてくださいませ」
雷横は顔をまっ赤にして、
「ついうっかり持たずにきてしまったのだ。やらないというのではない」
「歌を聞きにおいでになりながら、お金を持ってくるのを忘れたなんて」
「四五両くらいやるのはなんでもないが、あいにくなことに、きょうは持ってくるのを忘れてしまったのだ」
「現に一文もないくせに、四五両なんてことをおっしゃるのは、まるで梅を見てのどをうるおし餅《もち》を画《えが》いて飢えをみたすようなものですわ」
「娘よ、おまえも目がない。町の人か田舎の人かも見わけずに、そうむやみにたのんだってどうにもならんよ。さあ、おつぎにまわって、もののわかったお客さまに皮切りをおねがいするがよい」
と白玉喬が大声でいった。
「おれがわからずやだというのか」
と雷横がいうと、白玉喬は、
「あんたに芝居のこと(注八)がわかるなら、犬の頭に角が生えるというものだ」
人々はどっとはやしたてた。雷横はかんかんに怒って、どなった。
「このやろう、よくもおれに恥をかかせやがったな」
すると白玉喬はいいかえした。
「すっかんぴんのどん百姓(注九)め、といったところで、それがどうしたというのだね」
見物のなかに雷横を知っているものがいて、
「よせ、その人は県の雷都頭さんだぞ」
ととめたが、白玉喬は、
「驢筋頭《ろきんとう》(馬の骨)さんだろうよ」
雷横がついにこらえかね、椅子の上からぱっと舞台へ跳びおりざま、白玉喬をつかまえて拳骨と足蹴をくらわせると、たちまち唇が裂け歯が欠け落ちた。人々はそのてひどさにたまりかねて、みなでなかへ割ってはいり、雷横をなだめて帰らせた。芝居小屋の客たちも大騒ぎをしてちりぢりになってしまった。
そもそもこの白秀英は、新任の知県とは東京にいたときからの深いなじみ。そんなことからわざわざこのたび〓城県で小屋掛けをしたのである。この娼妓は父親が雷横になぐられたばかりか、かなりの重傷を負わされたのを見ると、轎《かご》をよんで知県の官邸へかけこみ、
「雷横が父をなぐって、小屋をめちゃめちゃにしてしまいました。わたくしをたぶらかそうとしてでございます」
と告げた。知県はそれを聞くと大いに怒って、
「すぐ訴状を出すように」
といったが、これをこそ枕辺霊《ちんぺんれい》(枕のききめ)というものである。ただちに白玉喬に訴状を書かせ、傷を調べてそれを証拠にとった。役所には雷横と親しいものもいて、知県のところへ雷横のためにとりなしに行ったが、いかんせん、あの阿魔がそばにへばりついていて媚《こび》をふりまくので、知県はすっかり分別を失わされていた。ただちに知県は人をやって雷横を捕らえてこさせ、役所で拷問にかけ、供述をとり、首枷をはめさせ、町へひきずり出してさらしものにすることにした。すると阿魔はいよいよ手管をふるって、どうしても雷横を芝居小屋の前でさらしものにするようにと口説きおとした。その翌日、阿魔がまた小屋をひらきに行ったところ、知県は雷横を芝居小屋の前でさらしものにさせていた。だが牢番たちはみな雷横と同じ小役人だったから、雷横の身体を縛りつけてはいなかった。阿魔は、
「これこれこうしろとお達しが出ているのに、まったくけしからん」
と思案をし、小屋を出て茶店へ行くと牢番たちにいいつけた。
「おまえたちはあいつと知りあいなものだから、あいつを自由にさせてやってるのだね。知県さまはおまえたちに、あいつを縛りつけるようにおっしゃったはずなのに、おまえたちがあいつに義理だてをするのなら、いいよ、わたしがすぐ知県さまにいいつけてやるから。そしたらおまえたちはどういう目にあわされるだろうね」
「ねえさん、まあ、そう怒らんでくださいよ。わたしたちがあれを縛ればいいんでしょう」
「そうしてくれたら、おまえたちに心づけをあげるよ」
牢番たちは、しかたなく雷横のところへもどって行って、
「兄貴、しょうがないから、まあちょっと縛らせてください」
と、雷横の身体を縛りつけた。
そのとき雑踏のなかを、雷横の母親が弁当をとどけにやってきたが、息子が縛りつけられているのを見ると、わっと声をあげて泣きだし、牢番たちをののしった。
「おまえさんたちは、わたしの息子と同じお役所づとめの人で、ふだんからいろいろ心づけをしてあげたのに、誰も役にたってはくださらんのか」
「おっかさん、まあこっちのいいぶんも聞いてくださいよ。わしらも、なんとか大目に見てあげたいとは思うのですが、どうも具合のわるいことに、訴人がそこで目を光らせていて、縛るんだといってききませんので、わしらとしてもどうにもしょうがないのです。そうしないといますぐ知県さまのところへ行って告げ口をし、きびしく懲らしめてもらってやるというのです。そんなわけで、義理をたてることもできないのですよ」
「訴人が、さらしものになっている被告の見張りを自分でするなんて、そんなばかな話がどこにあるんだい」
牢番は声をひそめて、
「おっかさん、相手は知県と深い仲で、口さきひとつでわしらをあの世へやってしまえる女なのです。そんなわけで、わしらも板ばさみのありさまなんで」
すると老婆は自分で縄をほどきながら、ののしった。
「下司女《げすおんな》めが、人の権柄を楯に威張りくさって。さあ、わたしがこの縄をほどいてやったらどうする」
白秀英は茶店のなかでそれを聞くと、飛び出してきていった。
「おいぼれ、いまなんとかおいいだったね」
老婆はすっかり腹をたてて、指をつきつけながらののしった。
「この、千人乗りの、万人圧《おさ》え(注一〇)の、誰かれなしの牝犬め(注一一)。聞いたふうな口をきくな」
白秀英はそれを聞くと、眉を逆立て眼をむいてののしり返した。
「鬼婆の、乞食婆の下司女め、よくも悪態をついたな」
「悪態をついたらどうだというのだ。まさかおまえが〓城県の知県さまじゃあるまいし」
白秀英はかっとなって、飛びかかって行くなり平手打ちをくらわせて老婆をよろけさせた。老婆が立ちあがろうとするところを、白秀英はさらに踏みこんで行って横つらをめった打ちにした。雷横は大の親思いだったから、母親がなぐられたのを見るとかっといきりたち、枷をひっつかむなり白秀英の脳天めがけて真向《まつこう》から打ちすえた。枷の一撃は見事にきまって頭蓋をまっぷたつにたち割り、女はどっとそこに倒れた。一同が見れば、白秀英は、脳みそがこぼれ、目玉がとびだし、ぴくりとも動かず、あきらかにこときれている。
一同は白秀英がなぐり殺されたのを見ると、雷横をおしたててみなで役所へ訴え出、知県に会ってくわしく事の次第を申しのべた。知県はすぐ人をやって雷横をひきたててこさせ、廂官《しようかん》(注一二)を集め、里正や近所の人たちを呼び出し、検屍をさせてから一同をみな役所へつれてこさせた。雷横はすべてを白状し、いっさい否認はしなかった。母親のほうはいちおう保釈され、家に帰って沙汰を待つことになり、雷横は枷をはめられて牢にくだされた。その牢屋詰めの軍官が、美髯公《びぜんこう》の朱仝だったのである。朱仝は雷横が牢に送られてくることを知っても、これをどうすることもできず、ただ酒食をととのえてもてなし、獄卒にいいつけて一間をきれいに掃除させて雷横を休ませてやることしかできなかった。やがて雷横の母親が牢へ弁当を差入れにきて、泣きながら朱仝に哀願するのだった。
「わたしはもう六十をとうにすぎた年寄りで、あの子ひとりがたよりなのです。どうかあなたさん、日ごろの兄弟づきあいのよしみで、わたしのあの子を哀れと思って、なんとかしてやってくださいよ」
「お母さん、どうか安心してお帰りなさい。これからは弁当など差入れにこなくてもよろしいですよ。わたしがちゃんとやりますから。もしうまい手がかりがあったら助け出します」
「助けてやっていただいたら、再生のご恩に着ます。もしあの子に万一のことがありましたなら、わたしのいのちもないのと同然です」
「じゅうぶん心得ておきますから、お母さんは、あまり心配なさらないように」
老婆は礼をいって帰って行った。朱仝はまる一日あれこれと思案してみたが、雷横を救う手がかりはなかった。朱仝は人にたのんで知県に賄賂を送り、役人たちにも贈り物をつかってみた。しかし知県は、朱仝にはおぼえめでたくとも、自分の情婦の白秀英をなぐり殺した雷横をひどく憎んでいて、いくらいっても耳をかさなかった。その上まずいことには、白玉喬のやつがしきりに調書の作成をせきたてて、知県に雷横を死刑にさせようとした。牢につながれること六十日、期限が切れて、済州の役所へ送られることになり、係の押司が調書をたずさえて一足さきに出かけたあと、朱仝が雷横の護送を命ぜられた。
朱仝は十人あまりの獄卒をつれ、雷横を警固して〓城県をあとにしたが、およそ十里あまり行くと、一軒の居酒屋があった。
「さあみんな、ここで一杯ひっかけて行くとしよう」
と朱仝はいった。みなのものが酒を飲みに店のなかへはいって行くと、朱仝はひとりで雷横をつれ出し、小便をさせに行くように見せかけて裏のひっそりしたところへ行き、枷をはずして雷横を放してやった。
「いますぐひきかえして、早く家へ帰ってお母さんをつれ出し、大急ぎでどこかへ逃げるがよい。あとはわしが身代りになってつかまってやる」
「逃げるのはよいが、それでは兄貴に迷惑がかかるじゃないか」
「あんたは知るまいが、知県はあんたが情婦を殺したのを憎んで、調書は死刑になるように作ってあるから、州へ送られて行ったらまちがいなく死刑だ。わしがここであんたを逃がしたところで、よもや死罪にはなるまい。それにわしには面倒をみなければならぬ両親があるわけでもなく、役人たちを買収するくらいの財産はある。あんたはこれからさきがたいへんだから、早く行くがよい」
雷横は礼をいい、すぐさま裏口の小路から家へ馳せ帰り、金目のものをかきあつめて包みをこしらえると、老母をつれて、夜どおしで梁山泊へのがれて仲間に加わったが、この話はそれまでとする。
さて朱仝は、ぬけがらの首枷を草むらのなかにうちすて、出てきて獄卒たちにいった。
「雷横に逃げられてしまった。いったいどうしたらよかろう」
「急いであいつの家へ行って、とっつかまえましょう」
みなはそういったが、朱仝はわざとぐずぐずして、雷横が遠くまで逃げたころをみはからってから、一同をひきつれて役所へ自首して出た。朱仝はいった。
「わたくし、ついうっかりいたしまして、途中で雷横に逃げられてしまい、ついにつかまえることができませんでした。いかようなおとがめでも甘んじてお受けいたします」
知県は日ごろから朱仝に目をかけていたので、なんとか見のがしてやろうと思っていたが、白玉喬が朱仝は故意に雷横を逃がしたのだと上司に訴えようとしたので、知県もいたしかたなく朱仝の罪状を上申して済州府へ身柄を送った。朱仝の留守宅では、それよりもさきに、使いのものを済州府へやって万遍なく金をばらまいておかせたが、いよいよ朱仝が済州府に押送されて行くと、さっそく詮議がおこなわれ、笞うち二十のうえ刺青《いれずみ》をして滄《そう》州の牢城へ流罪と判決された。こうして朱仝は道中枷をつけられ、公文書をあずかったふたりの護送役人が朱仝を押送して旅にのぼった。朱仝の家からは使いのものが着物や路銀をとどけに行って、ふたりの護送役人にも心づけをおくった。かくて〓城県をあとに、はるかに滄州の横海郡をめざして旅立ったのであるが、道中は格別の話もなく、やがて滄州について城内にはいり、州の役所へ出頭した。おりよく知府は登庁していたので、ふたりの役人は朱仝を庁前の階段の下にひきすえ、公文書をさし出した。知府はそれに目を通し、また朱仝の堂々たる風貌を見た。その顔は大きな棗《なつめ》(注一三)のようで、見事な髯《ひげ》が腹のあたりまで垂れさがっている。知府は見るなり気にいって、
「この囚人は牢城へくださなくてよいぞ。当所にとめおいて召し使うことにする」
といい、さっそく道中枷をはずさせ、返書の公文をわたした。ふたりの護送役人は挨拶をして帰って行った。
朱仝はそのまま役所にとめられて、毎日庁前で雑用をしていたが、この滄州の役所の護送係・用人・門番・小使・牢役人・牢番などにもれなく心づけをやったことと、また朱仝自身の温厚な人がらとで、彼は誰からも好かれた。ある日、知府が登庁し、朱仝が階前にひかえていたところ、知府は朱仝を庁上に呼んでたずねた。
「おまえはどういうわけで雷横を逃がして、自分からこんなところへ流されてきたのだ」
「わざと雷横を逃がしてやったのではございません。つい気をゆるしまして、逃げられてしまったのでございます」
「それならば、罪が重すぎるではないか」
「訴人にしつこくねらわれ、どうしても故意に逃がしたのだと白状させられまして、そのため重い罪におとされたのでございます」
「雷横はどうしてあの娼妓を殺したのだ」
朱仝は雷横のやった事の次第をくわしく話した。すると知府は、
「おまえは、おそらく彼が孝行なのに感じて、義侠心から逃がしてやったのだろう」
「わたくし、決してそのように、お上をないがしろにするようなことはいたしません」
そういう話をしているおりしも、ことし四つになる、ととのったきれいな顔の坊っちゃん(注一四)が衝立《ついたて》のかげから出てきた。知府の愛児で、知府は金《きん》のごとく玉《ぎよく》のごとく可愛がっていた。坊っちゃんは朱仝を見ると、駆けよってきて抱かれようとした。朱仝がしかたなく坊っちゃんを懐に抱きとると、坊っちゃんは両手で朱仝の長い髯《ひげ》をひっぱりながら、
「この髯のおじちゃんに抱っこしてもらってるんだ」
という。知府が、
「坊や、手をはなしなさい。そううるさくするんじゃない」
ととめたが、坊っちゃんは、
「いやだ、この髯のおじちゃんに抱っこしてもらって、いっしょに遊びに行くんだ」
といいはる。朱仝が、
「わたくし、それでは坊っちゃんを抱いてお役所の前あたりをちょっとぶらぶらしてまいります」
というと、知府は、
「坊やがあんまり抱いてほしがるから、それではつれて行って遊んできてくれるか」
朱仝は坊っちゃんを抱いて役所の前の通りへ出て行き、菓子《かし》や果物《くだもの》を少しばかり買ってやり、ひとまわりして役所にもどってきた。知府はそれを見て坊っちゃんにたずねた。
「坊や、どこへ行ってきた」
「この髯のおじちゃんといっしょに通りへ遊びに行って、菓子や果物を買ってもらって食べた」
すると知府は、
「どうしてまたわざわざ坊やに買ってやってくれたのだ」
「ほんの気持だけのものです。お気にかけられるようなことではございません」
知府は酒をいいつけて朱仝に飲ませた。奥から女中が銀瓶とつまみものの盒《ふたもの》を持ってきて酒をつぐと、知府はつづけて大きな杯で朱仝に三杯すすめた。そして、
「いつでも坊やがおまえと遊びたがったら、抱いて遊びにつれて行ってくれ」
「よろこんで、そうさせていただきます」
と朱仝は答えた。それからは毎日坊っちゃんをつれて街へ遊びに行くようになったが、朱仝は金もかなり持っていたので、知府によろこばれようとして、坊っちゃんのためには惜しみなく金をつかった。
半月ばかりたって、ちょうど七月の十五日、盂蘭盆《うらぼん》のお祭りのときであった。例年どおり、ほうぼうで灯籠流しがあり法事がいとなまれた。その日の夕方、奥の女中や乳母が、
「来都頭さま、坊っちゃんが今夜灯籠流しを見に行きたいとおっしゃいますので、奥さまから、あなたに坊っちゃんを抱いて見につれて行ってほしいとのおおせですが」
といってきた。朱仝は、
「おつれしましょう」
と答えた。坊っちゃんは緑色の紗の衫《うわぎ》を着、頭のあげまきを珠のついた二本の元結《もとゆい》でむすんで、奥からかけ出してきた。朱仝はそれを肩車におしあげ、役所を出て地蔵寺へ灯籠流しを見に行った。時刻はちょうど初更(夜八時)ごろで、見れば、
鐘声杳靄《ようあい》として、幡影招揺《はんえいしようよう》たり。炉中に焚くは百和の名香、盤内に貯《たくわ》うるは諸般の素食(精進料理)。僧は金杵《きんしよ》を持《じ》し、真言《しんごん》を誦《じゆ》して幽魂を薦抜《せんばつ》し、人は銀銭(銀色の紙銭)を列ね、孝服(喪服)を掛けて滞魂《たいこん》(迷魂)を超昇《ちようしよう》せしむ。合堂の功徳は、陰司(地獄)の八難(得道の困難)、三塗《ず》(地獄・餓鬼・畜生の三道)を画《えが》き、寺を遶《めぐ》る荘厳《しようごん》は、地獄の四生(胎生・卵生・湿生・化生の四つの衆生の出生)、六道(天道・人道・阿修羅道・鬼道・畜生道・地獄道)を列す。楊柳の枝頭に浄水を分《わか》ち、蓮花の池内に明灯を放つ。
そのとき朱仝は坊っちゃんを肩にのせ、寺をひとまわり見物してから、施餓鬼堂の放生池《ほうじよういけ》のほとりで灯籠流しを見た。坊っちゃんは欄杆の上によじのぼって、うれしそうに見ていたが、そのときうしろから誰かが朱仝の着物の袖をひっぱって、
「兄貴、話があるんだが、ちょっとそこまで」
といった。朱仝がふりむいて見ると、なんとそれは雷横だったので、びっくりして、
「坊っちゃん、さあおりて、ここにじっとしていてくださいよ。お菓子を買ってきてあげますから。ほかへ行っちゃいけませんよ」
というと、坊っちゃんは、
「うん、早くもどっておいでよ。橋の上へ行って灯籠流しを見たいんだ」
「すぐもどってきますから」
と朱仝はいい、ふりかえって雷横と話した。
「どうしてここへきたんだ」
と朱仝がきくと、雷横は朱仝をひとけのないところへつれて行って、礼をし、
「兄貴にいのちを助けてもらってから、おふくろとふたりで、どこへも行くあてがないので、やむなく梁山泊へ宋公明どのをたよって行って仲間に加わったのだが、わたしが兄貴から受けたご恩のことを話すと、宋公明どのもやはり、前に兄貴に逃がしてもらった(第二十二回)恩を思いかえされ、晁天王どのをはじめ頭領たち一同もみなひどく感激されて、そこでわざわざ呉軍師どのとわたしがつかわされて、兄貴をさがしにきたというわけなのです」
「それで、呉先生はいまどこにおいでなのだ」
と朱仝がきくと、うしろから呉学究が出てきて、
「呉用はここにおります」
と、礼をした。朱仝はあわてて礼をかえし、
「久しくお目にかかりませんでしたが、先生にはその後おかわりもございませんでしたか」
「山寨の頭領たちから、くれぐれもよろしくとのことでした。このたびは、わたしと雷都頭とが、あなたを山にお迎えしてともに大義に集まるよう、おさそいにつかわされたわけです。こちらへまいりましてからもう大分になりますが、なかなかお会いできずにおりましたところ、今夜ようやくお目にかかることができました。どうかいっしょに山寨へおいでくださって、晁・宋おふたりのねがいをかなえてあげていただきたいものです」
朱仝はそういわれて、しばらくは返事もできずにいたが、やがていいだした。
「先生、それはいけません。そういうことはおっしゃらないでください。人に聞かれでもしたらまずいでしょう。雷横のやつは、死罪になるような罪を犯しましたので、わたしは義侠心で逃がしてやりましたところ、どこへも行くところがないので山へ行って仲間にはいったのです。わたしも彼のためにここへ流されてきましたものの、天に見捨てられないかぎりは、半年か一年のあいだ我慢すれば、故郷へ帰ってまた良民にもどれるのですから、とてもそのようなお話にはしたがいかねます。おふたりとも、どうかお帰りになってください。こんなところですったもんだをやるのはまずいですから」
すると雷横が、
「こんなところにいたって、ただ、人の下積みになって、はいはいと仕えているだけのことで、大丈夫たる男子のなすべきことじゃありません。このわたしが山へひっぱりこもうというのではなく、実際、晁・宋おふたりがかねてから兄貴を待ち望んでおられるのです。ぐずぐずためらっていると、とんだことにならぬともかぎりませんよ」
「おい、なんということをいうんだい。わしはあんたのおふくろが年寄りでもあり家も豊かでないからと思ったからこそ、あんたを逃がしてやったのに、こんどはわざわざわしに不義をそそのかしにくるなんて」
と朱仝がいうと、呉学究は、
「どうしてもおいでくださらぬとならば、わたくしたちはひきさがって、お暇することにいたしましょう」
「頭領のみなさんがたに、どうかよろしくおつたえください」
と朱仝はいった。一同、橋のほとりまで行き、朱仝はそこからもどってきたところ、坊っちゃんの姿が見えなくなっている。あっとおどろいたが、どっちのほうへさがしに行ったらよいかわからない。雷横は朱仝をひきとめて、
「兄貴、さがすことはありませんよ。たぶん、わたしたちのつれてきたふたりの従者が、兄貴が山へ行かないと聞いて、坊っちゃんをつれて行ったのでしょう。いっしょにさがしに行きましょう」
「おい、冗談じゃないぞ。あの坊っちゃんは知府さまのいのちなのだ、それをわしがあずけられていたんだ」
「まあ、わたしについておいでなさいよ」
と雷横はいう。朱仝は雷横と呉用に助けられながら、三人は地蔵寺をはなれてまっすぐに城外へ出て行った。朱仝はおろおろして、
「その従者は坊っちゃんをどこへつれて行ったんだ」
とたずねた。
「ともかく行きましょう。わたしの宿まで行けば、必ず坊っちゃんをお返しします」
「おそくなると知府さまにお叱りをうけるのだ」
すると呉用が、
「わたしのつれてきたふたりの従者は、無分別なやつですから、きっとわたしたちの宿までつれて行ったのでしょう」
「その従者というのは、なんという名前のものです」
「わたしもよくは知らないのだが、なんでも黒旋風の李逵とかいいましたよ」
と雷横がいった。朱仝はびっくりして、
「それは、江州で人殺しをやった、あの李逵ではないか」
「そうです、その男です」
と呉用が答えた。朱仝は足をばたばたさせながらうろたえ、あわてて追いかけて行った。町からおよそ二十里ばかりも行くと、とつぜん行くてに李逵があらわれて、
「おれはここだ」
と叫んだ。朱仝は駆けよって行ってたずねた。
「坊っちゃんをどこへやった」
李逵はお辞儀をして、
「こんにちは、牢役人さん。坊っちゃんはここにいるよ」
「さあ、ちゃんと坊っちゃんを抱いてきて返してくれ」
李逵は自分の頭を指さして、
「坊っちゃんの髪の元結なら、わしの頭の上にあるよ」
朱仝はそれを見て、またたずねた。
「坊っちゃんは、ほんとにどこなのだ」
「しびれ薬をちょっぴり口になすりつけて、そのまま町からつれ出してきたから、いま林のなかで眠っているよ。自分で見に行きなさるがよい」
朱仝が月明りをたよりに林のなかへ飛びこんで行ってさがすと、坊っちゃんが地べたにたおれているのが見つかった。朱仝が手をのばして抱きおこすと、頭がまっぷたつに割られて、すでに死んでしまっていた。
そのとき朱仝はかっとなって林を駆け出して行ったが、すでに三人の姿はなかった。あたりを眺めまわしていると、黒旋風の李逵が遠くで二梃の斧をうちあわせながら、
「さあ、こい。二三十合わたりあってやろう」
と叫んだ。朱仝はかっとなって我を忘れ、着物をたくしあげて大股に追いかけて行くと、李逵は身をひるがえして逃げ出した。そのあとを朱仝は追いかけて行ったが、李逵は山道には慣れた男なので、朱仝はとても追いつけず、たちまち息をきらしてへたばってしまった。すると李逵はそのむこうのほうでまた叫んだ。
「さあこい。どっちかがくたばるまでやりあおう」
朱仝は李逵を一呑みにしてくれようといきりたったが、どうしても追いつくことができない。追いつづけているうちに、次第に夜も白んできた。李逵はその前方を、急いで追えば急いで逃げ、ゆっくり追えばゆっくり行き、追うのをやめると足をとめるという具合にして、やがて、とある大きな屋敷のなかへ駆けこんで行った。朱仝はそれを見ると、
「あいつの行くさきがわかったからには、もう見のがしはせんぞ」
と、つかつかと屋敷の表広間の前まではいって行き、なかをのぞいて見ると、両側にずらりとたくさんな武器がかけてある。朱仝は、
「どうやらこれは大官の住いらしいな」
と思い、立ちどまって大声で呼んだ。
「どなたか、いらっしゃらぬか」
すると衝立のむこうからひとりの男が出てきた。それはいったい誰かといえば、
累代の金枝玉葉《きんしぎよくよう》、先朝の鳳子竜孫《ほうしりゆうそん》(天子の子孫)。丹書鉄券《たんしよてつけん》(天子直筆の書札)家門を護り、万里賢《けん》を招いて名振う。客を待つ一団の和気、金《きん》を揮《ふる》う(金《かね》を散ずる)満面の陽春。文を能《よ》くし武を会《よ》くす孟嘗君《もうしようくん》(戦国の斉の人でよく賢士を招き食客数千人を養った)、小旋風《しようせんぷう》聡明なる柴進《さいしん》。
出てきたのはまさしく小旋風の柴進で、
「これは、どなたで」
とたずねた。朱仝はその人の軒昂たる人物と秀麗な資質とを見ると、急いで礼をして答えた。
「わたくしは〓城県の牢屋詰めの軍官、朱仝というもの。罪を犯してこちらへ流されてまいりました。昨夜、知府の坊っちゃんと灯籠流しを見にきましたところ、黒旋風に坊っちゃんを殺されてしまったのですが、いまやつはお宅へ逃げこみました。とりおさえてお上につきだしてやりたく、どうかお力をお貸しくださいますよう」
「これは美髯公どのでしたか、まあお掛けください」
と柴進はいった。朱仝は、
「ぶしつけながら、お名前をうけたまわりたく存じます」
「わたしは、姓は柴、名は進といいます。小旋風というのはこのわたしのことです」
「お名前は、かねがねうけたまわっておりましたが」
と、朱仝はあわててひざまずき、
「はからずも、きょう、お目にかかることができました」
「美髯公のお名前も久しく聞きおよんでおりました。さあ奥でお話をうかがうことにいたしましょう」
朱仝は柴進のあとについて奥へ通った。朱仝はいった。
「黒旋風のやつは、どうしてまたお宅にかくれたりなどしたのでしょう」
「それではお答えいたしましょう。わたしはかねがね好んで天下の好漢たちとまじわりを結んでおります。わたしの家の先祖は陳橋《ちんきよう》で天下を譲った功(宋朝は唐末五代の周の柴世宗《さいせいそう》から天下を譲られた。柴進はその柴世宗の末裔)によって先朝(宋の太祖《たいそ》)から丹書鉄券《たんしよてつけん》(前のうたに見える)を下賜されたので、たとえ罪を犯したものでもわたしの家にかくまえば、誰もさがすことはできないのです。このほど、わたしの親しくしている友人で、あなたとも旧交があり、いまは梁山泊で頭領になっている及時雨の宋公明が密書をよこしまして、呉学究・雷横・黒旋風を拙宅に逗留させてやってくれとのこと、そしてあなたを山にお迎えしてともに大義に集まりたいというのです。ところが、あなたがその申し出をしりぞけられたものですから、そこでわざと、李逵に坊っちゃんを殺させ、あなたを帰ることができないようにして、どうしても山へのぼって腰をすえるよりほかないようにしたのです。呉先生、雷の兄貴、出てきておわびをなさったらどうですか」
すると、呉用と雷横がすぐそばの小部屋から出てきて、朱仝に礼をしていうには、
「どうかおゆるしくださいますよう。すべて宋公明の兄貴があのように命令されたのです。山寨においでくださいますならば、おわかりになるでしょう」
「あなたがたのご厚意はわからぬではないが、それにしてもあまりにむごいやりかたではありませんか」
と朱仝がいうと、柴進はしきりになだめた。朱仝は、
「行くには行きますが、ただ、ぜひとも黒旋風に会わせてください」
といった。柴進は、
「李の兄貴、さあ、出てきてあやまりなさい」
すると、李逵もやはりすぐそばのところから出てきて、大きな声で挨拶をした。朱仝は李逵を見るなり無明《むみよう》の業火《ごうか》(怒り)を燃えあがらせること三千丈。おしとどめることができず、ぱっと飛びかかって行って李逵といのちがけでやりあおうとした。柴進と雷横と呉用の三人が必死になってなだめた。朱仝は、
「わたしに山へ行けとおっしゃるのなら、そのまえにわたしのいうひとつのことをかなえていただきたい。そうすれば行きます」
「ひとつといわず何十でもよろこんでしたがいましょう。どうぞおっしゃってください」
と呉用はいったが、朱仝がひとつのことを持ちだしたばかりに、ここに、大いに高唐《こうとう》州を鬧《さわ》がせて梁山泊をも動かし、ついには、賢を招く国戚《こくせき》をして刑法に遭わしめ、客を好む皇親をして土坑にいのちを喪《うしな》わしめようとするにいたるのである。ところで、朱仝はいったいどういうことをいい出したのであろうか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 小衙内 注一四参照。
二 牢屋詰めの軍官 原文は当牢節級。節級は多く押牢節級の略称としてつかわれるが、当牢節級というときの節級は、本来の意味の下級の軍官をいう。第三十回注二参照。
三 旅まわりの女芸人 原文は打〓的行院。〓とは行ったり来たりすること。行院とは普通は妓楼や娼家のことであるが、また芸人の類をいうこともある。
四 諸宮調のうた 原文は諸般品調。宋・金のころ流行したうたのひとつで、しきりに宮調(曲)をかえて一篇の物語をうたいあげるもの。
五 帳額 芝居小屋などの幔幕《まんまく》の前に簷《のきびさし》のようにさしかけて飾る額《がく》。
六 靠背 ひいき客が俳優などにおくるのぼり。
七 前狂言 原文は笑楽院本。よびものの劇の前におこなわれる寸劇。茶番劇。
八 芝居のこと 原文は子弟門庭。梨園の意。子弟は俳優。
九 すっかんぴんのどん百姓 原文は三家村使牛的。三家村は人家のまれな貧しい村落。使牛的は牛追い、百姓。
一〇 千人乗りの、万人圧えの 原文は千人騎万人圧。千人万人の男に身をまかせる女の意。
一一 誰かれなしの牝犬め 原文は乱人入的賤母狗。入は性交。
一二 廂官 第十二回注二参照。
一三 大きな棗 原文は重棗。第十三回注三参照。
一四 坊っちゃん 原文は小衙内。第七回注四参照。
第五十二回
李逵《りき》 殷天錫《いんてんしやく》を打ち死《ころ》し
柴進《さいしん》 高唐《こうとう》州に失陥す
さて、そのとき朱仝《しゆどう》はみなにいった。
「もしわたしに山へこいとおっしゃるのならば、あなたがたがまず黒旋風を殺してわたしの鬱憤を晴らしていただきたいのです。そうすればもういうことはありません」
李逵はそれを聞くと大いに怒って、
「おれの糞でも食やがれ。晁・宋ふたりの兄貴の命令でやったんだ、おれの知ったことか」
朱仝はかっとなって、またもや李逵とわたりあおうとした。三人はまたとりなだめた。朱仝は、
「黒旋風がいるかぎり、わたしは殺されたって山へは行きません」
という。柴進は、
「それならわけもないことです。こうしたらどうです。李の兄貴はわたしのところにひきとめておけばよいでしょう、そしてあなたがた三人だけで山へ行って、晁・宋おふたりをよろこばせてあげては」
「しかしあんなことをやってしまったのですから、知府はきっと文書を〓城県のほうへさしまわして逮捕を命じ、わたしの家族を召し捕るでしょうが、これはいったいどうすればよいでしょう」
と朱仝がいうと、呉学究は、
「ご安心ください。いまごろはもう、宋公明どのがご家族を山へつれて行っておいででしょう」
朱仝はそれでやっといくらか安堵した。柴進は酒を出してもてなして、その日のうちに旅立たせることにした。三人は夜になってから、柴大官人に別れを告げて出発した。柴進は下男にいいつけて馬を三頭用意させ、関所のむこうまで送って行かせることにしたが、別れるときに呉用はねんごろに李逵にいいふくめた。
「よく気をつけて、大官人どののお屋敷にしばらくおいていただくのだよ。むやみに面倒なことをひきおこして人に迷惑をかけたりなどしないように。三月《みつき》か半年もすれば、彼の腹立ちもおさまろうから、そのときは迎えにくるからな。もしかすると柴大官人どのに仲間にはいっていただくようたのみにくることになるかも知れない」
三人は馬に乗って去って行った。
柴進と李逵が屋敷へもどって行ったことはさておき、一方、朱仝は呉用と雷横について梁山泊へ仲間入りをしに行ったが、一宿場を通りこして滄州の境を出ると、そこまで送ってきた下男たちは馬に乗って帰って行き、三人は梁山泊へと道を急いだ。途中は格別の話もなく、やがて朱貴の居酒屋につくと、朱貴はまず人をやって山寨へ知らせた。すると晁蓋と宋江が、大小の頭目たちをひきつれ、鼓笛を鳴らしながら金沙灘まで出迎えにきた。一行はみなと挨拶をかわした。それがすむと、それぞれ馬に乗って山をのぼり、大寨の前で馬をおり、一同聚義庁にはいって話に花を咲かせた。
朱仝が、
「このたびわたくしが山へお招きにあずかりましたについては、滄州の知府は必ず公文書を〓城県にさしまわして逮捕を命じ、わたくしの家族のものを召し捕ることと思うのですが、これはいったいどうすればよいでしょう」
というと、宋江は大いに笑って、
「どうかご安心ください。奥さまやお子さんたちは、もうとっくに山におつれしてきております」
「いま、どこにおるのでしょうか」
「わたしの父のところでお世話しております。どうぞ、なぐさめに行ってあげてください」
朱仝は大いによろこんだ。宋江は手下のものにいいつけて朱仝を宋太公のところへ案内させ、家族のもの並びにいっさいの家財道具を見せた。朱仝の妻は、
「このあいだ誰かが手紙を持ってきましたが、それにはあなたはもう山寨で仲間におはいりになったとありますので、荷物をとりまとめて大急ぎでここへ駆けつけてきたのです」
といった。朱仝は出て行って一同に礼をのべた。宋江は、朱仝と雷横に山頂で寨をかまえるようにたのみ、一方では宴席を設けて連日新しい頭領を祝賀したが、この話はそれまでとする。
ところで滄州の知府は、日が暮れても朱仝が坊っちゃんをつれて行ったまま帰ってこないので、あちこちに人をやって夜半までさがさせた。と、翌日になって、林のなかで殺されているのを見つけたものがいて、知府に知らせた。府尹《ふいん》(知府)はそれを聞くと大いに怒った。そして自分で林のなかへ見に行って、痛哭《つうこく》してやまず、棺におさめて火葬にした。翌日登庁するとすぐ公文書を出して諸方にふれまわし、犯人朱仝を捕らえるように手配した。〓城県からは早くも朱仝の妻が家をたたんで逃げたまま行くえがわからないとの知らせがあったので、各州各県にふれをまわし、賞金をかけて逮捕を命じたが、この話もそれまでとする。
一方、李逵は柴進の屋敷に住みついて一ヵ月あまりたったが、ある日のこと、ひとりの男が一通の手紙を持ってあわただしく屋敷に駆けこんできた。柴大官人はおりよく居合わせて迎え入れ、手紙を受けとったが、読むなり大いにおどろいていった。
「そうなのか、それではどうしてもわたしが出て行かねばなるまい」
李逵がすぐたずねた。
「大官人どの、どんな大事なので」
「わたしの叔父に柴皇城《さいこうじよう》というのがいて、いま高唐《こうとう》州に住んでいるのだが、このたび、そこの知府の高廉《こうれん》の妻の弟の殷天錫《いんてんしやく》というやつに庭園を横取りされて、立腹のあまり病気になってしまい、いのちもおぼつかないというありさまなので、この際どうしてもいい残しておきたいことがあるからと、わたしを呼びによこしたのだ。叔父には息子も娘もないので、どうしてもわたしが行かなければならない」
「大官人どのがお出かけになるとき、わたしもついて行ってはいけませんか」
「よかったら、いっしょに行こう」
柴進はただちに荷物をまとめ、十数頭の駿馬をえらび、何人かの下男をつれて行くことにした。翌日の五更(朝四時)に起き、柴進・李逵および従者の一行はみな馬に乗り、屋敷をあとに高唐州へとむかった。何日かして、高唐州につき、城内にはいり、まっすぐ柴皇城の家まで行って馬をおり、李逵や従者たちは外の小部屋に待たせておいて柴進は寝室へ通り、叔父の柴皇城を見舞った。見れば、
面は金紙の如く、体は枯柴《こさい》に似る。悠々として七魄《はく》三魂《こん》無く、細々として只一糸の両気あるのみ。牙関《がかん》(口)緊急して連朝(朝な朝な)水米も脣《くちびる》を沾《うるお》さず、心膈《しんかく》(胸)膨脹して尽日(ひねもす)薬丸も肚に下り難し。喪門《そうもん》(凶神)の弔客已《すで》に身に随い、扁鵲盧医《へんじやくろい》(注一)も手を下し難し。
柴進は柴皇城を見舞うと、その寝台のかたわらに腰をおろし、声をあげて泣いた。すると皇城の後妻が出てきて柴進をなぐさめた。
「遠路さぞかしお疲れでございましたでしょう。おいでになった早々、そんなにおなげきになっては」
柴進は挨拶をして、事の次第をたずねた。後妻はそれに答えて、
「ここの新任の知府の高廉というものは、州の兵馬の権も持っていますが、東京《とうけい》の高太尉《こうたいい》の従弟《いとこ》で、その権勢を笠にきて当地でしたい放題なことをしております。妻の弟の殷天錫《いんてんしやく》というものをつれてきていて、これはみなから殷直閣《いんちよつかく》(注二)と呼ばれています。この男はまだ青二才のくせに、姉の夫の高廉の権勢をたのんで、当地をわがもの顔にのし歩いて人をいじめております。そこへ、ご機嫌とりのとりまき連中が、わたしの家の裏にとてもすばらしい庭園と水亭があると焚きつけたものですから、殷天錫のやつが二三十人もの碌《ろく》でなしどもをひきつれ、家の裏へおしかけてきて見たあげく、わたしどもにここを立ち退《の》け、おれたちが住むのだというのです。主人が彼に、うちは金枝玉葉の家柄で太祖皇帝より丹書鉄券も下賜されている、いかなるものも勝手なまねはならぬ、それなのにおまえはわしの家を奪って一家を追いはらってしまおうというのか、といいましたところ、あいつはまるで耳をかさず、どうしても出て行けというのです。そこで主人があいつをひきずり出そうとしましたところ、あべこべに、突きとばされたり殴られたりして、その無念がもとでどっと床についたきり起きられなくなり、食べ物ものどに通らず、薬もききめがなく、もうとても助かるみこみはございません。こうしてあなたがおいでくださって、お力をかしていただけますならば、どんな面倒がもちあがってももう心配はございません」
「叔母さん、ご安心ください。なにはともあれ、よい医者をよんで治療をすることです。なんといっても金枝玉葉の家柄なのですから、使いのものを滄州の家へやって丹書鉄券を持ってこさせて、彼と争いましょう。たとえ公事沙汰になって今上《きんじよう》陛下の御前に出たって、びくともするものではありません」
「主人ではとても手に負えません。やはりあなたにかけあっていただかなくては」
柴進はしばらく叔父を看病してから、そこを出て李逵やつれてきた下男たちにくわしくわけを話した。李逵はそれを聞くとぱっと立ちあがって、
「なんてひどいことをするやつだ。この大斧でたたき斬ってやって、話はあとでつけることにしようじゃありませんか」
「李の兄貴、まあそう怒りなさるな。わけもなく乱暴なことをやってはいけない。彼が権力を笠にきてひどいことをしても、こちらは護持の聖旨をいただいているのだ。ここで決着がつかなければ、京師には彼よりずっとえらいおかたもおられることだから、ちゃんとした法度によって裁判で争うことにすればよいのだ」
「法度ですって。そんなものがたよりになるなら、天下はなにも乱れたりなどしませんよ。やっつけてしまってから話をつけるのが、おいらのやり口なんです。やつがもし訴えたりなんかしたら、糞役人どももいっしょくたにたたき斬るまでだ」
柴進は笑いながら、
「朱仝が、どうしてもあんたとはたしあいをしようとして、仲なおりをしなかったのも道理だ。ここは天子のお膝もと、ちっぽけな山寨のなかをのし歩くのとはわけがちがうよ」
「天子のお膝もとがなんだっていうのです。江州の無為軍でもわたしはさんざん斬り殺してやったじゃないですか」
「まあ様子を見てからのことにしよう。あんたにひと肌ぬいでもらいたいときには、こちらからたのむから、それまでは部屋で休んでいてもらいたい」
話しているところへ、奥から侍女があたふたとやってきて、
「大官人さま、旦那さまがお呼びでございます」
柴進が部屋へはいって寝台の前へ行くと、皇城は目に涙をうかべながら柴進にいった。
「おまえは意気さかんで、祖先の名を辱しめることのない人物だ。わしはこのたび殷天錫に殴り殺される羽目になったが、どうか骨肉のよしみで、書面を持って京師へ行き、天子に直訴してわしの恨みを晴らしてくれ。そうすれば草葉のかげからお礼をいうよ。くれぐれも自重してな。わしのいいたいことはこれだけだ」
いいおわって皇城はこときれた。柴進ははげしく泣いた。皇城の後妻は柴進が気を失ってしまいはせぬかと案じて、
「そんなにお悲しみなさらないで。あとのことをご相談ねがわなければなりません」
となぐさめた。柴進は、
「誓書(丹書鉄券)は家に置いてあって、ここへ持ってきておりませんので、急いで使いのものにとってこさせ、それを東京へ持って行って訴えることにいたしましょう。叔父さんのなきがらは、ともかくお棺に納め、喪服に着かえてから、ご相談することにしましょう」
柴進は官制どおりに(注三)内棺・外棺をととのえ、礼にしたがって祭壇を設けさせた。一族のものは喪服をつけ、みな哭礼《こくれい》をささげた。李逵は外で、奥の間のその泣き声を聞き、拳《こぶし》をさすり掌《て》をこすりあわせていらいらしたが、従者に声をかけても、みなとりあわなかった。奥では僧侶を招いて仏事がいとなまれた。
それから三日目のこと、殷天錫は駿足の馬に乗り、二三十人のごろつきをつれ、それぞれ弾弓《だんきゆう》(はじき弓)、川弩《せんど》(四川《しせん》のいしゆみ)、吹筒(吹き矢)、気毬(蹴まり)、拈竿《ねんかん》(もち竿)、楽器などを持って城外を遊びまわり、ほどほどに酒を飲みながら酔っぱらったふりをして柴皇城の家へやってき、馬をとめて呼ばわった。
「家をあずかっているやつ、出てこい、話がある」
柴進はその声を聞くと、喪服をきたままで急いで出て行って応対した。殷天錫は馬の上からたずねた。
「おまえはこの家の何者だ」
「わたしは柴皇城の甥の柴進です」
「先日おれは、ここを立ち退《の》けといっておいたのだが、どうしておれのいうことをきかぬのだ」
「叔父が病の床についていて動かすことができなかったからですが、ゆうべ、ついに身まかりましたから四十九日がすぎたら引越しましょう」
「たわけめ、三日以内にさっさと家をあけるんだ。三日たっても引越さなかったら、まずきさまをさらしものにし、攻め棒を百回くらわしてやるぞ」
「直閣どの、そんなにばかにするではない。わたしの家は天子の末裔。先朝より丹書鉄券を賜わっていて、誰しもみな敬わぬものはないのだ」
「それなら出して見せろ」
と殷天錫はどなった。
「いまは滄州の家においてあるので、使いのものが取りに行っているところだ」
柴進がそういうと殷天錫は大いに怒って、
「こやつ、でたらめをいいやがって。たとえ丹書鉄券があったところで、そんなものがなんだというのだ。ものども、こやつをぶちのめせ」
みながかかっていこうとしたとき、戸のすきまからすっかり見ていた黒旋風の李逵が、柴進をぶちのめせ、とどなるのを聞くと同時に部屋の戸をおしあけ、大声でおめいて馬のほうへ飛び出して行くがはやいか殷天錫を馬からひきずりおろして拳で殴り倒した。二三十人のものらは、飛びかかっていこうとしたが、李逵が腕をふりあげてたちまち五六人を殴り倒したので、どっとばかりみな逃げてしまった。李逵は殷天錫をつかまえて、ひきずりおこし、拳と足とで同時に殴りつけ蹴りつけ、柴進のとめるのもきかばこそ。殷天錫はと見れば、ああ哀《かな》しいかな、伏して惟《おも》う尚《こいねが》わくは饗《う》けよ(弔辞の常套語)という次第であった。これをうたった詩がある。
惨刻侵謀横豪《おうごう》に倚《よ》る
豈《あに》天地の竟《つい》に逃《のが》れ難きを知らんや
李逵猛悪《もうあく》人の敵する無く
閻羅《えんら》に見《まみ》えずんば肯《あえ》て饒《ゆる》さず
李逵が殷天錫を殴り殺してしまうと、柴進はおどろきうろたえて、李逵を奥へつれて行ってその後の処置を講じた。柴進のいうには、
「やがて人がやってきて、あんたがこのままではすまされぬことは明らかなことだ。役所のほうはわたしがなんとかするから、あんたは早く梁山泊へ帰るがよい」
「おいらが逃げてしまえば、あなたに累が及びましょう」
「わしには誓書の鉄券があるから大丈夫だ。さあ、すぐ出かけなさい。ぐずぐずしている場合じゃない」
李逵は、二梃の斧を持ち、路銀をふところにし、裏門から抜け出して梁山泊へむかった。
それからまもなく、二百人あまりのものがてんでに刀や杖や槍や棒を持って、柴皇城の家をとりまいた。柴進は捕り手のものがやってきたのを見ると、すぐ出て行って、
「お役所へ同行して申し開きをしましょう」
といった。一同はまず柴進を縛っておいてから、家のなかへはいり、下手人の色の黒い大男をさがし出して捕らえようとしたが、見つからないので、柴進だけを役所へひきたてて行き、庁前にひきすえた。知府の高廉は、義弟の殷天錫が殴り殺されたと聞いて、役所で歯ぎしりをして怒りながら犯人の召し捕らえられてくるのを待ちかまえていたところだった。やがて柴進が庁前の階段の下にひきすえられると、高廉は、
「きさま、よくもうちの殷天錫を殴り殺したな」
とどなりつけた。柴進は申しのべた。
「わたくしは柴世宗(宋に天下を譲った後周の王)嫡流の子孫でありまして、家には先朝太祖《たいそ》皇帝さまよりご下賜の誓書の鉄券がございます。現在滄州に居をかまえておりますが、叔父の皇城が重病にかかりましたために、見舞いにまいりましたところ、叔父は不幸にも身まかり、ただいまは家で喪に服しております。そこへ殷直閣どのが二三十人のものをひきつれてこられて立ち退《の》きを強要され、わたくしのいいぶんも聞かれず、一同のものにわたくしを打《ぶ》てと命じられたところへ、下男の李大というものが飛び出してきまして、ついかっとなって殴り殺してしまったのでございます」
「李大なるものは、いまどこにおる」
「あわてふためいて逃げてしまいました」
「そやつは下男であろう、おまえが命令しなければ人を殴り殺しなどするはずがない。しかもおまえはわざとそやつを逃がしてやりながら、お上をあざむこうというのだろう。こやつ、打たれなければ白状せんとみえる。牢番ども、存分にこやつを打ちのめせ」
柴進は大声でいった。
「下男の李大が、主人を救おうとしてあやまって殴り殺したのです。わたくしはなにもいたしません。先朝太祖皇帝さまの誓書があるというのに、どうして刑にくだしてわたくしを打たれます」
「誓書はどこにあるのだ」
「すでに使いのものを滄州へとりにやらせております」
高廉は大いに怒ってどなりつけた。
「こいつ、お上に楯つきおる。ものども、力のかぎり、したたかに打ちのめせ」
一同は手をくだし、皮膚は裂け肉ほころび、鮮血のほとばしるまで柴進を打ちすえて、下男の李大に殷天錫を殴り殺させたと自供を強い、目方二十五斤の死刑囚用の大枷をはめて牢に監禁した。殷天錫の死骸は、検屍をすませて棺におさめて葬ったが、その話は略する。殷夫人は弟の仇をとろうとて、夫の高廉に、柴皇城の家産を没収し、家族を監禁し、家屋庭園を自分のものにとりあげ、柴進を牢でいためつけさせた。これをうたった詩がある。
脂唇粉面《ししんふんめん》(紅の唇、白い顔)毒蛇の如し
鉄券金書《てつけんきんしよ》(丹書鉄券に同じ)空裏の花
恠《あや》しむ可し祖宗は能く位を譲るも
子孫は猶《なお》身家を保てず
さて李逵は夜を日についで梁山泊へ帰り、山寨にたどりついて頭領たちに会った。朱仝は李逵を見るなり、むらむらと怒りだし、朴刀をつかんで李逵にかかっていった。黒旋風も二梃の斧を抜きとって朱仝に応じた。晁蓋・宋江をはじめ頭領たち一同はいっせいに出て行ってふたりをとめた。宋江は朱仝に詫びていう。
「まえの、坊っちゃんを殺したことは、李逵のせいではなくて、軍師の呉学究がどうしてもあなたを山に迎えることができないので、ついめぐらした手段だったのです。このたび山寨においでいただいたうえは、どうかそのことは水に流して、ひたすら心をひとつにしてともに大義をおこし、世間の笑いを買うことのないようにしていただきたいのです」
そして李逵を呼んで、
「さあ、朱仝どのにあやまりなさい」
李逵は眼をむいてわめいた。
「あいつはなんであんなに大きな面をしてやがるんだ。おれはうんと山のために働いてきているんだ。あいつはこれっぽちの手柄もないのに、なんだっておれにあやまれといいなさるんだ」
「兄弟、坊っちゃんを殺したことは軍師の命令だったにしても、年からいっても彼のほうが兄貴だ。ここはわたしの顔をたてて、彼に頭をさげてくれ。そのかわりわたしがあんたに頭をさげるから」
李逵は宋江にたのまれていやとはいえず、
「おまえがこわいからではないぞ。兄貴がそうしろというから、しかたなくあやまってやるんだ」
李逵は宋江に迫られてとうとう我《が》を折り、しょうことなしに二梃の斧を放りだして朱仝に再拝の礼をささげた。朱仝はそれでようやく胸のつかえをおろした。山寨では晁頭領が宴席を設けてふたりを和解させた。李逵は話しだした。
「柴大官人どのが、高唐州へ叔父さんの柴皇城どのの病気見舞いに行かれたところ、そこの高《こう》知府の女房の弟の殷天錫というやつが、屋敷や庭園を横どりしようとし、柴進どのに食ってかかって殴りつけてきたので、わしはその殷天錫のやつを殴り殺してやりました」
宋江はそれを聞くとびっくりして、
「あんたが逃げてしまったら、柴大官人どのが捕らえられなさるぞ」
すると呉学究が、
「兄貴、まあそうあわてることはありません。戴宗が帰ってくればわかりましょう」
「戴宗の兄貴はどこへ行ったのです」
と李逵がたずねると、呉用は、
「あんたが柴大官人どののところでまずいことをしでかすんじゃないかと思って、わたしは彼にあんたを山へ呼びもどしに行ってもらったのだ。柴大官人どののところであんたに出あえなければ、彼はきっと高唐州へさがしに行くだろう」
そう話しているところへ手下のものがやってきて、
「戴院長どのが帰ってこられました」
と知らせた。宋江はすぐに出迎えて部屋へいれ、さっそく柴大官人のことをたずねた。戴宗がいうには、
「柴大官人どののお屋敷へ行きましたところ、李逵といっしょに高唐州へ出かけられたというので、すぐそちらへ走って行って様子を聞いてみますと、殷天錫が柴皇城どのの屋敷を横取りしようとして色の黒い大男に殴り殺され、そのためにいま柴大官人どのは召し捕らえられて牢におしこめれれ、柴皇城どの一家の人々や財産はすっかり没収されて、柴大官人どののいのちは風前のともしびだと、町じゅうそのうわさで持ちきりなのです」
「この野郎め、またも、やらかしたか。どこへ行っても必ず面倒をひきおこしてくれる」
と晁蓋がいうと、李逵は、
「柴皇城どのはあいつになぐられて傷を負わされ、それで憤死してしまわれたんですぜ。そればかりじゃない、あいつは乗りこんできて家をふんだくろうとし、柴大官人どのを殴らせようとしたんですぜ。たとえ活仏《いきぼとけ》さんだって、これが我慢できるものか」
「柴大官人どのにはこれまで山寨としていろいろお世話になってきている。いまその人が危うい目にあるのだ。どうしても山をおりて救いに行かなければならぬ。わしが出かけて行こう」
晁蓋がそういうと、宋江は、
「兄貴は山寨の主《あるじ》です。そう軽はずみなことをなさってはなりません。わたしは柴大官人どのにかつてご恩をうけた身ですから、兄貴のかわりにわたしをやらせてください」
呉学究がいった。
「高唐州は城は大きくないが、人口が多く、兵備もしっかりしており糧食もゆたかですから、決して見くびってはなりません。それで、林冲・花栄・秦明・李俊・呂方・郭盛・孫立・欧鵬・楊林・〓飛・馬麟・白勝の十二人の頭領に、騎兵と歩兵五千をひきいて前軍先鋒になってもらい、中軍には総帥宋江以下、わたくし呉用と、朱仝・雷横・戴宗・李逵・張横・張順・楊雄・石秀の十頭領が、配下の騎兵と歩兵三千をひきいて援護することにしましょう」
こうしてみなで二十二名の頭領は、晁蓋以下一同に別れを告げて山寨をあとにし、高唐州をめざして出発した。それはまったく堂々たる威風で、見れば、
繍旗《しゆうき》(刺繍した大旗)は号帯《ごうたい》(吹き流し)に飄《ひるがえ》り、画角《がかく》(角笛)は銅鑼に間《まじ》わる。三股《こ》の叉《さ》、五股の叉は燦々たる秋霜。点鋼鎗《てんこうそう》、蘆葉鎗《ろようそう》は粉々たる瑞雪。蛮牌《ばんぱい》(楯)は路を遮《さえぎ》り、強弓硬弩は先《せん》に当《あた》り、火砲は車に随《したが》い、大戟長戈《たいげきちようか》は後を擁す。鞍上の将は南山の猛虎に似、人々は好く闘い能く争う。坐下の馬は北海の蒼竜《そうりゆう》の如く、騎々は能く衝き敢て戦う。端的に(まさしく)鎗刀は流水のごと急に、果然人馬は風を撮《さつ》して行く。
梁山泊の前軍が高唐州の地にすすみいると、高廉のところへは早くも注進の兵が飛んだ。高廉はそれを聞くと、あざ笑っていった。
「なにを掻っぱらいどもめ。梁山泊で穴にかくれていてもわしは退治してくれようと思っていたのに、きょうはまた、わざわざ縄を受けにきたとは、天からあたえられたまたとない機会だ。ものども、さっそく命令を伝えよ、兵馬をそろえ城を出て敵を迎えうち、百姓どもは城壁にのぼって防備せよと」
この高知府は、馬に乗っては軍を統轄し、馬をおりては民を統べるという文武の両権を握っていた。ひとたび命令が伝えられると、幕下の都統《ととう》(臨時に征伐を司る官)、監軍《かんぐん》(軍の統制官)、統領《とうりよう》(軍の統率官)、統制《とうせい》(出征軍の司令官)、提轄《ていかつ》(部隊の長)といった軍職にあるすべての官員は、それぞれ配下の兵馬をひきいて練兵場に勢ぞろいし、点呼がおわると諸将は堂々と城を出て敵を迎え討った。高廉の配下には飛天神兵《ひてんしんぺい》と名づける三百名の兵士がいたが、いずれもみな山東・河北・江西・湖南・両淮《りようわい》・両浙《りようせつ》の諸地方からよりすぐった、屈強精悍なつわものたちだった。この三百の飛天神兵のいでたちいかにと見れば、
頭には乱髪を披《ひら》き、脳後には一把の烟雲を撒《ち》らし、身には葫蘆《ころ》(ふくべ)を掛け、背上には千条の火焔を蔵す。黄抹額《こうまつがく》(黄色い鉢巻き)は斉《ひと》しく八卦を分《わか》ち、豹皮の甲《よろい》は尽《ことごと》く四方を按ず。熟銅《じゆくどう》(精煉した銅)の面具(頬当て)は金装に似、〓鉄《ひんてつ》(あらがね)の滾刀《こんとう》(長柄の大刀)は掃帚《そうそう》(ほうき)の如し。掩心《えんしん》の(胸部をまもる)鎧甲《がいこう》は前後に両面の青銅を竪《た》て、照眼の(眼を惹く)旌旗《せいき》は左右に千層の黒霧を列《つら》ぬ。疑うらくは是れ天篷《てんぽう》(道教の天宮を守護する武神)の斗府《とふ》(天宮)を離るかと、正に是れ月孛《げつはい》(星命家のいう十一曜の一で、彗星)の雲衢《うんく》(雲路)を下《くだ》るが如し。
知府の高廉は、みずから三百の神兵をひきい、よろいを着、剣を背負い、馬にまたがって城外に出、配下の軍官に命じて陣をしかせ、三百の神兵を中軍にすえ、旗をうちふり喊声をあげ、軍鼓を鳴らしながら、敵軍の到来をいまやおそしと待ちかまえた。一方、林冲・花栄・秦明も、五千の兵をひきいて到着し、かくて両軍相対峙《たいじ》し、旗鼓相望《のぞ》むに至ると、互いに強弓や硬弩《こうど》を射ちあって出足を制しあった。やがて両軍の陣中に角笛が吹き鳴らされ、軍鼓がいっせいに乱打されだした。花栄と秦明はそれぞれ十人の頭領をひきつれて陣頭に出、馬をとめた。と、頭領の林冲が一丈八尺の蛇矛《じやぼう》を横たえ、馬をおどらせて陣を駆け出《い》で、声をけりあげて呼ばわった。
「高唐州のいのちのいらぬやつら、出てこい」
すると高廉が馬をすすめ、三十余名の軍官をひきつれて門旗《もんき》(総帥の馬前左右に立てる旗)の下までくると、馬をとめ、林冲に指をつきつけてののしった。
「このいのち知らずの逆賊どもめ、よくも我輩の城池をうかがいにきおったな」
「民を害する強盗め、おれはそのうち都へ斬りこんで行き、あの天子を欺く賊臣高〓《こうきゆう》をもひっつかまえて、ずたずたにひき裂いてやらずにはおくまいぞ」
林冲がそうどなり返すと、高廉は大いに怒り、うしろをふりかえって、
「誰か飛び出して行って、あやつめをひっつかまえろ」
軍官のなかから、ひとりの統制官が飛び出した。姓は于《う》、名は直《ちよく》というもので、馬をせかせ刀をふりまわしつつ陣頭におどり出る。林冲はそれを見ると、まっしぐらに于直に飛びかかって行った。両者わたりあうこと五合に至らぬうちに、于直は林冲に蛇矛で胸を突き刺され、もんどりうって落馬した。高廉はそれを見ると大いにおどろき、
「誰か出て行って仇をとれ」
軍官のなかからまたひとりの統制官が飛び出した。姓は温《おん》、名は二字名で文宝《ぶんぽう》というもので、長槍を使い、白鹿毛の馬に乗り、鸞鈴《らんれい》(馬の鈴)をひびかせ珂珮《かはい》(くつわのかざり)を鳴らしながら、早くも陣頭にすすみ出で、四個の馬蹄に戦塵を蹴立てつつ林冲めがけてまっしぐらにおそいかかる。秦明はそれを見ると、
「兄貴、しばらく休んで、わたしがあやつをたちまちぶった斬るところを見物していてください」
と大声で叫んだ。林冲は馬をひかえ、点鋼鎗を収め、秦明に譲って温文宝とたたかわせた。両者たたかうことおよそ十合あまり、秦明はわざとすきを見せて相手の槍をさそいこむやいなや、さっと狼牙棍《ろうがこん》を振りおろし、温文宝の頭をまっぷたつに割ってそのまま馬上に殺した。馬だけが本陣へ駆けもどって行く。相対峙する両軍の陣からは、どっと喊声がおこった。
高廉は相ついでふたりの軍官の殺されたのを見ると、背中からかの太阿《たいあ》(古《いにしえ》の名剣の名)の宝剣をひきぬき、口に呪文をとなえて、
「やっ」
と一喝した。と、たちまち高廉の軍中から一条の黒気がまきおこった。そしてそれが四方に散って中空に達したかと見るや、砂を飛ばし石を走らせ、大地をゆすぶり天をゆるがして怪風がまきおこり、いっせいに敵陣めがけて吹きつけた。林冲・秦明・花栄らの諸将は、互いにかえり見るゆとりもなく、乗馬はおどろいてめちゃくちゃに騒ぎまわり嘶《いなな》きたて、一同は身をひるがえして逃げ散った。高廉が剣をふるってかの三百の神兵を指揮し、陣中からどっと斬りすすませると、そのうしろからは官軍の兵士たちも力をあわせていっせいにおしよせてきた。林冲らの人馬は追いまくられて、星落ち雲散ずるがごとく、ちりぢりになり、ばらばらになり、兄を呼び弟を呼び、子をたずね親をさがすという大混乱におちいって、五千の兵は一千余を失い、敗走すること五十里でようやく軍をとどめた。高廉は敵の人馬が退却して行ったのを見ると、みずからも部下の兵をまとめ、高唐州の城内にはいって休んだ。
一方、林冲らは、宋江のひきいる中軍が到着したので、出迎えて事の次第をくわしく話した。宋江と呉用はそれを聞いて大いにおどろき、
「どんな神術なのだろう、そのようなすさまじい威力があるとは」
と宋江が軍師にたずねると、
「それは妖術でしょう。もし風をもどし火を返すことができるなら敵を破ることもできるのですが」
と呉学究はいった。宋江がそういわれて天書を開いてみると、第三の巻に、風をもどし火を返し陣を破る法というのがあった。宋江は大いによろこんで、しっかりとその呪文と秘法をおぼえこんだ。そして人馬をととのえ、五更(朝四時)に飯をつくって腹ごしらえをしたのち、旗をうちふり軍鼓を鳴らしながら城下へと殺到して行った。
そのことが城内に知らされると、高廉は再び、戦勝の人馬と三百の神兵を呼びつどえ、城門をあけはなち吊り橋をおろし、城を出て陣をかまえた。宋江が剣を手に馬を飛ばして陣頭へ出て行くと、高廉の軍中に一群の黒旗が見えた。呉学究がいった。
「陣中のあの黒旗が、妖術をつかう軍兵です。またあの法をつかってくるにちがいありませんが、どのようにしてこれに当たりますか」
「軍師、大丈夫です。わたしにそれを打ち破る法があります。諸軍の将は、おそれひるむことなくひたすら斬りすすむように」
と宋江はいった。
高廉は全軍の将卒にいいふくめた。
「みだりにたたかいを挑んではならぬ。楯が鳴ったならば、いちどに力をあわせて宋江を捕らえるのだ。褒美は十分にとらせるぞ」
両軍から喊声があがると、高廉は、馬の鞍に、神代文字の呪文を刻み猛獣の形を彫った銅の楯をかけ、手に宝剣を持って陣頭へすすみ出た。宋江はその高廉を指さしてののしった。
「昨夜はまだ我輩が到着しなかったために、兄弟たちが不覚にも一敗を喫したが、きょうは必ずきさまたちを殺しつくしてやるぞ」
「おのれ逆賊ども。さっさと馬をおりて縛《ばく》につけ。そうすれば我輩の手足を汚さずともすむというものだ」
高廉はそうどなりかえし、いいおわるや剣をひと振りして口に呪文をとなえ、
「やっ」
と一喝した。と、黒気が立ちのぼり、早くも怪風が吹きおこった。宋江はその風が迫るよりも早く、彼もまた口に呪文をとなえ、左の手に印を結び、右手に剣をひと振りして、
「やっ」
と一喝した。と、その風は宋江の陣にむかわずに、逆に高廉の神兵隊にむかって吹きつけた。すかさず宋江は人馬に命じて斬りすすませた。高廉は風が吹き返してきたのを見ると、急いで銅の楯をとって剣でたたいた。と、神兵隊のなかに一陣の黄砂が捲きあがり、中軍のなかから一群の猛獣が飛び出してきた。見れば、
〓猊《しゆんげい》(獅子の類)は爪を舞わし、獅子は頭を揺るがす。金を閃《ひらめ》かして〓豸《かいち》(不正を忌む一角獣)は威雄を逞《たくま》しくし、錦を奮って貔貅《ひきゆう》(白羆《しろくま》の類)は勇猛を施す。豺狼《さいろう》は対《つい》を作《な》し〓牙《りようが》を吐いて直《ただち》に雄兵に奔《はし》り、虎豹《こひよう》は群を成し巨口を張り来《きた》って劣馬《れつば》(注四)(駻馬)を噴《くら》う。刺を帯びたる野猪《やちよ》(いのしし)は陣を衝いて入り、毛を捲く悪犬(猛犬)は人を撞いて来《きた》る。竜の如き大蟒《もう》(うわばみ)は天を撲《う》って飛び、象を呑む頑蛇《がんじや》(おろち)は地を鑽《うが》って落つ。
高廉の楯が鳴りひびくと、一群の怪獣毒虫がまっしぐらに飛びかかってきた。宋江の陣では人馬ことごとく度胆をぬかれ、宋江も剣を放り捨て馬首を転じてまっさきに逃げ出した。頭領たちはそのあとに群がって、みないのちからがら逃げ、全軍の士卒も互いに他をかえり見るいとまなどなく、さきを争ってのがれた。高廉がその後方で剣をひと振りすると、さきを行く神兵と、あとにつづく官兵とがいっせいに殺到してきて、宋江の人馬は大敗を喫した。高廉は二十里あまり追いまくったあげく、金鼓を鳴らして兵を収め、城内へひき返した。
宋江は丘の下まで逃げて行って、そこで兵をまとめ、陣をしいた。すくなからぬ兵を失いはしたが、頭領たちはみな無事であったのがせめてものことであった。人馬をそこに宿営させると、宋江はさっそく軍師の呉用にはかって、
「このたび高唐州を攻めて、たてつづけに二度も敗けてしまった。あの神兵を破るすべがないが、いったいこれはどうしたらよいでしょうか」
呉学究のいうには、
「やつはあのように妖術がつかえますので、今夜きっと攻めてくるでしょうから、あらかじめ計略を設けてそれに備えなくてはなりません。ここにはほんのわずかな兵だけを残しておいて、わたしたちはもとの陣地へはいりましょう」
宋江はそこで命令をくだし、楊林と白勝だけを残してそこを守らせ、その他の人馬はみな、もとの陣地にさがって休むことにした。
さて楊林と白勝は、兵をひきいてその陣地から半里ほどはなれたところの草深い丘にかくれた。一更(夜八時)ごろまで待ち伏せていると、
雲は四野に生じ、霧は八方に漲《みなぎ》る。天を揺《ゆす》り地を撼《ゆるが》して狂風起《おこ》り、海を倒し江を翻《ひるがえ》して急雨飛ぶ。雷公忿怒し、倒《さかしま》に火獣に騎《の》って神威を逞しくし、電母《でんぼ》(いなずま)嗔《いかり》を生じ、金蛇を乱掣《らんせい》して(ひらめかして)聖力を施す。大樹は根と和《とも》に抜き去られ、深波は底に徹して捲き乾《かわ》かす。もし灌口《かんこう》の蛟竜《こうりゆう》を斬《き》る(注五)に非ずんば、疑うらくは是れ泗《し》州の水母《すいぼ》を降(注六)すならん。
その夜、風と雷鳴が大いにすさんだ。楊林と白勝は三百余の兵をひきい、草むらのなかにかくれて様子をうかがっていたが、見れば、そこへ高廉が徒歩《か ち》で三百の神兵をひきいてあらわれ、口笛を鳴らしながら(注七)陣中へなだれこんで行ったが、そこが裳抜《もぬ》けのからなのを見ると、身を返して逃げて行った。楊林と白勝がどっと喊声をあげると、高廉は計略にかけられたと思いこんで、ほうほうの態で逃げ出し、三百の神兵もちりぢりに逃げて行った。楊林と白勝が雨のように矢を射かけると、めくら射《う》ちの矢の一本が高廉の左肩に命中した。兵らは四方に手分けして雨のなかを斬りたてた。高廉は神兵をひきいて遠くへ逃げて行き、楊林と白勝は手勢がすくないのを慮《おもんぱか》って深追いするのを見あわせた。やがて雨があがって雲が晴れ、ふたたび満天の星空となり、月明りのもと、草におおわれた丘のあたりで、刺したり射ったりして神兵二十余名を捕らえ、宋公明の陣地へひきたてて行って、雷雨や風雲のことを話した。宋江と呉用はそれを聞くと大いにおどろき、
「たった五里しかはなれていないところなのに、こちらでは雨も風も全くなかったが」
といい、一同は論議して、
「それはまさしく妖術だ。ここでも地上三四十丈のところは雨模様だったが、とすれば近くの湖をつかったものにちがいない」
と話しあった。楊林が、
「高廉は、こんどもみずから髪をさばき剣をとって陣地に殺到してきましたが、わたしの射った矢にあたって、城内へひき返して行きました。手勢がすくなかったので敢て追いませんでしたが」
といった。宋江は楊林と白勝にそれぞれ賞をとらせ、捕らえられてきた、負傷した神兵たちをみな斬り殺してしまった。そして、各頭領にはそれぞれ手分けして七八ヵ所に小さい陣をかまえさせ、中軍をぐるりととりまいて、再び襲撃してくるのに備える一方、山寨に使いのものをやって援軍を求めた。
一方、高廉は矢にあたり、城内に帰って傷の手あてをし、兵士に命じて城池を守らせ、夜どおしで防備をさせて、
「しばらく奴らとたたかうのはさしひかえよ。我輩の矢傷が癒えてから、宋江をつかまえることにするのだ」
宋江はといえば、兵の損傷に心をなやまし、軍師の呉用と相談して、
「高廉だけでも打ち破れずにいるところへ、もしほかから加勢の人馬でもやってきて、いっしょになって攻め寄せてきたなら、いったいどういうことになるだろう」
すると呉学究は、
「わたしの考えでは、高廉の妖術を打ち破るためには、しかじかの策によるよりほかに手はないと思います。またあの人を呼び寄せないかぎり、柴大官人どののいのちもとうてい救い出すことはできますまいし、高唐州の城も所詮おとしいれることはできないでしょう」
といった。まさに、霧をおこし雲をおこす法を除かんとせば、須《すべから》く天に通じ地に徹するの人を請うべしというところ。さて呉学究がいいだしたあの人とは、いったい誰であろうか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 扁鵲盧医 扁鵲は戦国時代の伝説的な名医で、死者をも蘇生させたという。盧医もまた扁鵲のこと。
二 直閣 竜図閣直学士のこと。引首《はしがき》の注六参照。
三 官制どおりに 身分によって喪礼に等差がきめられていて、それを守ることが礼とされた。
四 劣馬 第三十三回注一参照。
五 灌口の蛟竜を斬る 灌口は灌口二郎というのがその通名で、一説には秦の昭王に仕えた将軍李冰の子という。離堆山(四川省)をうがって運河を開き、成都十州県の田に水をひいたので蜀(四川)の人々はこれを祀った。蛟竜を斬ったというのはそれに付加された伝説。
六 泗州の水母を降す 泗州は泗州大聖のこと。第四十三回の注一参照。水母は水神のこと。
七 口笛を鳴らしながら 原文は吹風哨。また吹風呼哨ともいう。口笛を吹くこと。哨とは口笛を鳴らして合図しあうことをいう。
第五十三回
戴宗《たいそう》 智もて公孫勝《こうそんしよう》を取り
李逵《りき》 斧《おの》もて羅真人《らしんじん》を劈《き》る
さて、そのとき呉学究は宋江にいった。
「あの術を打ち破るには、早く使いのものを薊《けい》州へやって、公孫勝《こうそんしよう》をさがし出してくるよりほかありません。そうすればきっと打ち破ることができましょう」
「だが、まえに戴宗に行ってもらったが、なんの消息もつかめなかったのです。どこへさがしに行けばよいでしょうか」
「薊州といっても、管下にはたくさんの県があり、町や村があります。それをさがしつくしたというわけではありますまい。わたしの思いますには、公孫勝は超俗の人ですから、必ず名山《めいざん》の洞府とか大川《たいせん》の霊境とかにはいっているでしょうから、こんどは戴宗に、薊州管下の諸県の名山とか仙境とかをずっとさがさせましたなら、必ず見つけ出せるでしょう」
宋江はそれを聞くと、すぐ戴院長を呼んで相談した。
「薊州へ行って公孫勝をさがしてきてもらいたいのだ」
戴宗は、
「よろこんでまいりますが、誰かひとりつけてくださるとありがたいと思います」
「あんたは神行法《しんこうほう》で行くだろうから、誰もついて行けるものはないでしょう」
「いっしょに行く人がありますなら、甲馬《こうば》をその人の脚にもくくりつけて、遠くまで行けるようにします」
すると李逵がいった。
「それじゃわしが戴院長のお供をして行きましょう」
戴宗は、
「わたしといっしょに行こうというのなら、道中はずっと精進で通し、わたしのいうことをきかなければなりませんぞ」
「そんなことおやすいことですよ。なんでもあんたのいうとおりにしますよ」
宋江と呉用は、
「道中よくつつしんで、面倒なことをひきおこさないように。さがし出したらすぐ帰ってくるのだぞ」
と、いいつけた。李逵は、
「おいらが殷天錫を殴り殺したために、柴大官人どのが捕らえられなさったのだから、どうしてもお助けしなければならんと思っております。それでこんどは決していざこざはおこしません」
といった。ふたりはそれぞれ武器を忍ばせ、荷物をまとめ、宋江以下一同のものに別れを告げ、高唐州をあとに薊州へとむかった。
二十里あまり行ったところで、李逵は足をとめていった。
「兄貴、一杯やって行くことにしてはどうですか」
「わたしといっしょに神行法で行こうというのなら、精進酒のほかはだめだ。さあ、さきへ行こう」
「少しぐらいなら肉を食ったってかまわんでしょう」
「またそんなことをいう。きょうはもうおそいから宿屋をさがして泊まることにし、あしたは早くたとう」
ふたりはさらに三十里ばかり歩き、日が暮れてきたので、とある宿屋を見つけて休み、火をおこして飯ごしらえをし、酒も一角(約五合)買った。李逵は一碗の精進飯と野菜の吸いものを運んできて戴宗にすすめた。戴宗が、
「あんたはどうして飯を食べないのだ」
ときくと、李逵は、
「まだ食べたくないんで」
と答える。
「こいつ、おれをだましてこっそりなまぐさものを食おうというのにちがいない」
と戴宗は考え、ひとりで精進飯を食べてから、ひそかに裏へまわってのぞいて見ると、李逵が酒二角と牛肉一皿を買ってひとりで食っている。
「まあなにもいわずに、ここは見のがしておいて、あした少しばかりなぶってやることにしよう」
戴宗はそう思い、そのまま部屋に帰って寝た。李逵は酒と肉をくらってから、戴宗に文句をいわれないようにと、そっと部屋へ帰って寝た。
五更になると戴宗は起きてきて李逵に火をおこさせ、精進飯を炊いて食べ、それぞれ荷物を背負い、宿賃をはらって宿屋を出た。二里ほど行ったところで戴宗はいった。
「きのうは神行法をつかわなかったが、きょうは急がなければならんから、さあ、荷物をしっかりくくりつけなさい。あんたにも法をかけて、八百里ぐらい行くことにしよう」
戴宗は甲馬を四枚とり出して、李逵の両脚にもくくりつけてやり、
「このさきの居酒屋で待っていてくれ」
と、いいつけた。そして口に呪文をとなえ、ふっと李逵の脚に息を吹きかけた。すると李逵はとっとと歩き出したが、まるで雲に乗る者のごとく、飛ぶようにして行ってしまった。戴宗は笑いながら、
「さあ、これで一日じゅうひもじい思いをさせてやるぞ」
といい、みずからも甲馬をくくりつけてあとを追って行った。李逵はこの法を心得ていないので、ふだん道を歩くのと同じ要領だとばかり思っていたが、耳のそばには風雨の声が聞こえ、両側の家や木はまるでひと連《つらな》りになって倒れて行くごとく、足もとには雲が湧き霧が飛ぶかのよう。李逵はおそろしくなって何度も足をとめようとしたが、二本の脚はどうしてもいうことをきかず、まるで誰かが下から推しあげてでもいるように足は地につかず、ひたすらすすむばかり。飲屋や飯屋が目についても、はいって行って飲み食いすることもできない。李逵はただ、
「たのむから、ちょっととめてくれ」
と叫ぶばかりである。やがて日は西にかたむき、腹はひもじく咽《のど》はかわくが、足はいよいよとまらず、こわくなって全身汗まみれになり、くたくたになってしまった。と、そこへ戴宗が追いついてきて、
「李の兄貴、どうした。なにかちょっと食べていけばよいのに」
李逵は、
「兄貴、助けてくれ。この鉄牛も腹がへって死んでしまいそうだ」
戴宗はふところから幾つかの炊餅《すいへい》(小麦粉をねって蒸したもの)を取り出して自分で食べた。李逵は大声で、
「おいらは足がとめられず、なにか買って食うこともできないんだ。二つ三つ食べさせてくれ」
「さあ、こっちへこいよ。食べさせてやるから」
李逵は手をのばしたが、いつも一丈ばかり離れていて、どうしても受け取れない。
「兄貴、たのむ、ちょっと待ってくれ」
「ところが、きょうはいったいどうしたことか、わたしの足もとまらないのだ」
「ああ、この糞足めも、おれのいうことをてんできかずに、勝手に走ってやがるのだ。いっそのこと大斧で腰から下をたたき斬ってしまいたい」
「そうでもしなけりゃ、どうにもなるまい。ほっておいたら、このまま来年の正月ついたちになっても、まだとまらんだろう」
「兄貴、そんなことをいってからかうのはよしてくれ。おれが足を斬ったら兄貴はさぞおかしかろうな」
「あんたはゆうべ、わたしのいいつけにそむいたらしいな。だからきょうはこのわたしまでも足がとまらないのだ。とっとと行くがよかろう」
李逵は大声をあげた。
「おねがいだ、かんべんして、とめてくれ」
「わたしのこの法は、なまぐさはいけないのだ。いちばんいけないのは牛肉だ。もしも牛肉を一切れでも食べたら、ずうっと十万里走らないことにはとまらないのだ」
「そいつはたいへんだ。じつはゆうべ、悪いことに兄貴をだまして、こっそり牛肉を何斤か買って食べてしまったんだ。さあ、どうしたらよかろう」
「道理できょうはわたしの足までいうことをきかないのだ。こうなったら天のはじっこまで走り通すよりほかないな。蜿蜒《えんえん》と四五年もかかってやっともどってこられるのだ」
李逵はそういわれると、それはあんまりなとばかり悲鳴をあげた。戴宗は笑いながら、
「これからは何事によらずわたしのいうことをきくなら、この法を解いてあげよう」
「おねがいだ、もうなんでもいわれるとおりにするから」
「これからはもう、わたしをだましてなまぐさを食うようなことはすまいな」
「今後もし、なまぐさを口にしたら舌に碗ぐらいのでっかいできものができるがよい(誓いの言葉)。兄貴に精進ものを食えといわれながら、この鉄牛はそいつが食えなくて、兄貴をだましてしまったが、今後はもう決してそんなことはしませんよ」
「そういうなら、こんどだけはゆるしてあげよう」
と戴宗は一足うしろへさがり、着物の袖で李逵の脚をさっとはらって、
「とまれ」
と一喝した。と李逵はそこに釘づけになったように、ぴたりと両足が地についたまま動けなくなってしまった。戴宗は、
「わたしはさきに行くから、あとからゆっくりくるがよい」
といったが、李逵は足をあげようとしてもどうしても動かず、引きぬこうとしても引きぬけず、まるではんだづけにでもされたよう。李逵は、
「またえらいことになった。日も暮れてきたというのに動きもできん」
と悲鳴をあげ、
「兄貴、助けてくれ」
と叫ぶ。戴宗はふりかえって笑いながら、
「こんどはわたしのいうとおりにするかい」
「おいらのおやじさんとしてあがめますよ。もう決しておいいつけにそむくようなことはしませんから」
「こんどこそ、ほんとにわたしのいうことをきくのだぞ」
と戴宗は手で李逵をひっぱって、
「行け」
と一喝した。ふたりはゆっくりと歩きはじめた。李逵はいう。
「兄貴、この鉄牛をあわれだと思って、早く休ませてくださいよ」
行くての、とある宿屋でふたりは泊まることにした。戴宗と李逵は部屋にはいると、脚につけた甲馬をはずし、幾束かの紙銭を取り出して焼いた。そうしてから戴宗は李逵にたずねた。
「さあ、これでどうだね」
「二本の脚がやっと自分のものになりました」
「ゆうべはまたどうして、こっそり酒や肉を買ってきて食べたのだ」
「なまぐさを食っちゃいかんといわれたので、ちょっとかくれ食いをやったんだが、それにしてもまあ、よくもあんなにからかいなさったものだ」
戴宗は李逵に精進酒と精進飯をととのえさせて食べ、湯をわかして足を洗い、寝台にあがって休んだ。五更まで眠って起きると、顔を洗い口をすすぎ、飯を食べ、宿賃をはらって、ふたりはまた出かけた。三里ほど行ったところで戴宗は甲馬を取り出して、
「兄弟、きょうは二枚だけにして、ゆっくり行くようにしてやろう」
といった。李逵は、
「いや、おいらはもうかんべんしてもらいます」
「わたしのいうことをきいてくれる以上は、お互いに大事な用のあるからだだ、なぶったりなんかしないよ。もしきかないなら、ゆうべのようにここへ釘づけにしておいて、わたしが薊州へ行って公孫勝をさがして帰ってきてから、ゆるしてやろう」
李逵はあわてていった。
「わかりました、わかりました」
戴宗と李逵はそのとき、それぞれ二枚ずつ甲馬をくくりつけた。戴宗は神行法をつかい、李逵を助けてふたりはいっしょに歩きだした。そもそも戴宗の術は、行くも止まるも思いのままだったので、李逵はその後は戴宗のいいつけにそむくことはできず、道中はずっと精進酒と精進飯ですごしたが、くどい話ははぶいて、ふたりは神行法をつかって十日たらずではるかなる薊州に着き、城外の宿屋に泊まった。
翌日ふたりは城内へ行った。戴宗は主人、李逵はその下僕のようなよそおいをして、城内を一日たずねまわったが、公孫勝を知っているものは誰もいなかった。ふたりは宿屋に帰って休んだ。その翌日、こんどは城内の小路や裏町を一日さがしまわった。だがなんの消息も得られなかった。李逵はいらだって、
「あの乞食道人め、いったいどこにかくれていやがるんだ。見つけたら、ひっつかまえて兄貴の前へつき出してやるから」
「またそんなことを。わたしのいうとおりにしないと、もういちどひどい目にあわせるぞ」
「いや、あれは冗談ですよ」
と李逵は笑いながらいった。戴宗はまたひとしきりたしなめたが、李逵は口答えしなかった。ふたりはまた宿屋にもどって休んだ。翌日は朝早く起き、こんどは城外の、近くの村や町をたずねることにした。戴宗は老人を見かけるたびに、丁寧に礼をして、公孫勝先生はどこにお住いでしょうかとたずねたが、ひとりも知っているものはなかった。戴宗は同じ問いを数十ヵ所でくりかえした。その日の昼ごろ、ふたりは歩いて腹がすいたので、道ばたに麺屋を見つけてはいって行き、食事をしようとしたが、見れば店はふさがっていて、ひとつも空席がない。戴宗と李逵が入口のところに立っていると、給仕がたずねた。
「お客さま、麺をおあがりになるのでしたら、あのお年寄りとごいっしょにお掛けくださいませんか」
戴宗は老人がひとりで広い空席を占めているのを見て、丁寧にお辞儀をし、挨拶をいって、互いにむかいあいに腰をおろした。李逵はその下手《しもて》に掛けた。給仕に太い麺を四人前注文して、戴宗はいった。
「わたしが一人前で、あんたが三人前でよかろう」
すると李逵は、
「それじゃたりませんよ。いっぺんに六人前つくってきてもらおう。みんなおいらがひきうけるから」
給仕はそれを聞いて笑った。しばらく待っていたがいっこうに持ってこない。李逵は、みんな奥へ持って行ってしまうのを見て、内心もういい加減むかっ腹をたてていた。とそこへ給仕が一杯の熱い麺を持ってきて、いっしょの席の老人の前においた。老人は黙ってさっさとそれを食べはじめたが、その麺が熱いものだから、頭をさげて卓の上におおいかぶさるようにして食べている。李逵はいらいらし、まだ麺がこないのを見て、
「給仕!」
と叫び、
「おれさまをいつまで待たせとくんだ」
とどなって、卓をどんとたたいた。と、老人の顔いちめんに熱い汁がはねとび、麺はすっかりこぼれてしまった。老人は怒って、いきなり李逵をつかまえ、
「おまえ、なんだってわしの麺をひっくりかえした」
とどなりつけた。李逵は拳骨を握りかためて老人を打とうとする。戴宗はあわててやめさせ、代りに詫びていった。
「ご老人、こんなやつを相手になさるのはおよしなさい。わたくしが一人前弁償させていただきますから」
老人は、
「おまえさん、じつはわしは遠くからやってきたもので、これから急いで麺を食べて帰り、お説教を聞こうと思っているのですよ。ゆっくりしていたら間にあわなくなります」
「ご老人はどこのおかたです? 誰のどういう説教を聞きに行かれますので」
「わしはこの薊州管下の九宮県の二仙山の麓のものです。この城内へ好い香《こう》を買いにきたのだが、これから帰って、山で羅真人《らしんじん》さまの長生不老の法というお説教を聞きますんで」
戴宗は考えた。
「もしかしたら公孫勝もそこにいるかもしれない」
そして老人にたずねた。
「ご老人の在所に、公孫勝という人はいませんか」
すると老人は、
「おまえさん、ほかのものにおききなさってもおそらく知らなかったでしょう。たいていのものはあの人を知りませんからな。わしはあの人の隣のものなんです。あの人には年とったおふくろさんがあります。あの先生はずっと長いあいだ他国を行脚《あんぎや》しておられたが、そのころは公孫一清という名前でした。いまは姓をはぶいて、ただ清道人《せいどうじん》といい、公孫勝とはいいませんので。公孫勝というのは俗名でして、誰も知っているものはありませんよ」
「まったく、鉄鞋《てつあい》を踏破するも覓《もと》むるところなきに、得来《きた》るときは全く工夫《くふう》(手間ひま)を費《ついや》さず、というのはこのことだ」
戴宗はさらに老人にたずねた。
「九宮県の二仙山というのは、これからどれくらいありましょうか。また、清道人は家においででしょうか」
「二仙山はこの町から四五十里ばかりのところです。清道人は、羅真人さまのいちばんの高弟ですから、お師匠さまがいつもお側をはなされません」
戴宗はそれを聞いて大いによろこび、あわただしく麺の催促をして、老人といっしょに食べ、勘定をはらっていっしょに店を出、道をたずねた。戴宗は、
「ご老人、どうかさきにお出かけください。わたくしどもはお香や紙銭を買ってから、すぐまいりますから」
といった。老人は挨拶をして去って行った。
戴宗と李逵は宿屋に帰って荷物をまとめると、また甲馬をくくりつけて宿屋をたち、九宮県の二仙山へとむかった。戴宗は神行法をつかって四十五里をたちまちに過ぎた。ふたりが県役所の前あたりまで行って二仙山の場所をたずねると、ある人が指さして教えた。
「ここから東のほうへ、ほんの五里ぐらいのところです」
ふたりがまた県をあとに東をさして行くと、はたして五里とは行かぬうちに、はやくも一座の仙山が見えた。まことに秀麗な山で、そのさまは、
青山翠《みどり》を削り、碧岫《へきしゆう》雲を堆《つ》む。両崖は分《わか》れて虎踞《こきよ》し竜盤《りゆうはん》し、四面には猿啼《えんてい》と鶴唳《かくれい》有り。朝に雲の山頂を封ずるを看、暮に日の林梢《りんしよう》に掛るを観る。流水は潺漫《さんまん》として、澗内は声々玉佩《ぎよくはい》を鳴らし、飛泉瀑布は、洞中に隠々として瑤琴《ようきん》を奏す。もし道侶《どうりよ》の修行するに非ずんば、定めて仙翁の薬を練《ね》る有らん。
そのとき、戴宗と李逵が二仙山の麓まで行くと、ひとりの木樵《きこり》がいたので、戴宗は彼にお辞儀をしてたずねた。
「おうかがいしますが、ご当所の清道人さまのお住いはどこでしょうか」
木樵は指さして、
「そこの東の山の鼻をまわって行くと、門の外に小さな石橋のかかっているのがそれです」
ふたりが山の鼻をまわって行くと、十数間《ま》ほどの草葺きの家があった。まわりには低い土塀をめぐらし、その外に小さな石橋がかかっている。ふたりがそこへ行って見ると、ひとりの田舎女が新しい果物を盛った籠をさげて出てきた。戴宗は礼をしてたずねた。
「あなたは清道人のお家から出て見えましたが、清道人はご在宅でしょうか」
「裏で仙薬を練っておられます」
と田舎女は答えた。戴宗は心中ひそかによろこび、李逵にいいつけた。
「あんたは木のうしろにかくれていてくれ。わたしがはいって彼に会ってから、呼びにくるから」
戴宗がなかへはいって行って見ると、三間《ま》つづきの草葺きの家で、入口には一板の蘆の簾《すだれ》がかけてある。戴宗が咳ばらいをすると、ひとりの白髪の老婆がなかから出てきた。戴宗がその老婆を見るに、
蒼然たる古貌、鶴髪〓顔《かくはつだがん》(白い髪・赤い顔)、眼は昏《くら》くして秋月の煙を籠《こ》むるに似、眉は白くして暁霜の日に映《は》ゆるが如し。青裙素服《せいくんそふく》(黒い裳《もすそ》・白い上着)、依稀として(さも似たり)紫府《しふ》の元君《げんくん》(天宮の仙女)。布襖荊釵《ふおうけいさ》(注一)(木綿の上着・荊《いばら》の実のかんざし)、彷彿として驪山《りざん》の老姥《ろうぼ》(注二)。形は天上に雲に翔《かけ》る鶴の如く、貌《すがた》は山中に雪に傲《おご》る松に似たり。
戴宗はそのとき礼をしていった。
「お母上に申しあげます。わたくし、清道人にお目にかかりにまいりました」
「どなたさまでいらっしゃいますか」
と老婆はたずねた。
「わたくし、姓は戴、名は宗と申しまして、山東からまいりました」
「倅はよそへ行脚に出まして、まだ帰っておりませんが」
「わたくしは古くからの知りあいで、このたびどうしてもお話しをしたい大事な用件がありまして、お目にかかりにまいったのです」
「家におりませんので、なにかお話がございましたら、いい残しておいてください。家に帰ってきましたら、お会いくださいますよう」
「では、またあらためてうかがわせていただきましょう」
と戴宗はいい、老婆に別れを告げて外へ出ると、李逵にむかって、
「さあ、こんどはあんたにやってもらおう。いまおふくろさんは、彼は家にいないというんだが、こんどはあんたが行ってたずねてみてくれ。もしいないといったら、そのときはあばれだすんだ。だがおふくろさんに怪我をさせてはいけないよ。わたしが止めに行ったら、すぐに手をひくんだ」
李逵はまず荷物のなかから二梃の斧をとり出して左右の腰にさし、門のなかにはいって叫んだ。
「誰か出てこい」
老婆があたふたと出てきて、
「どなた」
ときいたが、李逵が両眼をむいてにらみつけているのを見ると、はやくも八分がたおそれをなし、
「兄《あん》さん、なにかご用で」
とたずねた。
「わしは梁山泊の黒旋風というものだが、兄貴の命令で公孫勝を迎えにやってきたんだ。ここへ呼び出してくれりゃおとなしくしているが、いやだというなら火をつけてこの家をすっかり焼いてしまうぞ。文句をいわずにさっさと呼んでこい」
「あなたさまは、まあ、なにをおっしゃいます。ここは公孫勝の家ではございません。清道人と申しますので」
「ここへ呼んできさえすりゃよいのだ。わしはちゃんとやつの面《つら》を知ってるから」
「よそへ行脚に出ておりまして、まだ帰っておりませんので」
李逵は大斧を抜き出して、まず壁を斬りくずした。老婆がかけ寄ってさえぎると、李逵は、
「倅を呼んでこなけりゃ、きさまを殺してしまうまでだ」
と斧をふりあげて斬りつけそうにした。老婆はびっくりして地べたへ倒れる。と、そこへ公孫勝がなかから飛び出してきて、
「無礼ものめ」
と叫んだ。詩にいう。
薬炉丹竈《やくろたんそう》神仙を学ぶ
跡《あと》を深山に遁《のが》れて万縁を了《りよう》す
是れ兇神の屋裏に来《きた》るにあらずんば
公孫安《いずく》んぞ肯《あえ》て堂前に出《い》でん
戴宗はすぐ飛び出してきて、
「鉄牛、母堂をおどかすとは何事だ」
とどなりつけ、急いで助けおこした。李逵は大斧を投げすててお辞儀をし、
「兄貴、どうか悪くとらないでください。こうでもしないことには、とても出てきてくださるまいと思いまして」
公孫勝はとりあえず母親を奥へつれて行き、また出てきて戴宗と李逵を清らかな一室に招き入れ、
「おふたりとも、よくここまでおたずねくださいました」
とねぎらった。戴宗はいった。
「あなたが下山されてから、わたしは前にも薊州をひととおりさがしたのですが、まるで消息がわからず、結局、何人かの兄弟たちをさそって山へ帰ったのでした(第四十四回)。このたびは宋公明兄貴が高唐州へ柴大官人どのを助け出しに行かれたところ、知府の高廉に妖術を使われて、二度、三度と打ち負かされ、どうにも手のほどこしようのないしまつなので、思案にあまって、わたしと李逵が、あなたをお迎えしてくるようにいいつかったのですが、薊州をあちこちさがしまわったものの、なんの手がかりもつかむことができずにいたところ、たまたま麺屋で、当地に住むさる老人に会い、教えられてここへきたところ、村の女からあなたが家で仙薬を練っておられると聞いたのですが、母上がかたく拒まれますので、李逵をつかって先生をおびき出したという次第です。いかにも無礼なことをしましたが、どうかおゆるしくださいますよう。兄貴は高唐州のほうで、一日を一年の思いで先生を待ちわびておいでです。先生、どうかお運びくださって大義を全《まつと》うするの美をあらわされますよう」
「わたしは弱年のころから天下をさまよい歩き、多くの好漢たちとまじわりをむすんできました。梁山泊を出て郷里に帰ってからも大義を忘れたというわけではありませんが、ひとつには年老いた母を親しく世話をするものがなく、またひとつには師匠の羅真人さまが側におるようにとひきとめられますので、誰かさがしにくるものがあってはという懸念から、ことさらに清道人と名をあらためてここにかくれ住んでいたというわけです」
「いま、宋公明どのは全く危急の際《きわ》にあるのです。どうかお慈悲をもって、まげてご足労くださいませんか」
「残念ながら母を見てくれるものがおりませんし、羅真人さまにしても、とうていおゆるしくださいますまい。どうにも、出かけられないのです」
戴宗は再拝して懇願した。公孫勝は戴宗を助けおこして、
「もっと相談してみましょう」
といい、戴宗と李逵をその部屋にひきとめ、精進酒と精進料理を出してもてなした。
三人が食事をすませると、戴宗はまたしきりに哀願して、
「もし先生がおいでくださらぬと、宋公明どのはきっと高廉に捕らえられてしまい、山寨の大義もこれでおしまいになってしまうでしょう」
「それでは師匠の真人さまにそう申しあげてみましょう。もしおゆるしが出ましたら、ごいっしょにまいります」
「いますぐ祖師さまのところへ行ってお話しいたしましょう」
「まあ、一晩ゆっくりおくつろぎになって、あすの朝まいることにしましょう」
「兄貴はあちらで一日を一年の思いで待ちわびておられます。どうかごいっしょにご足労をおねがいします」
戴宗がそういうと、公孫勝は立ちあがり、戴宗と李逵を案内して家を出、二仙山へとむかって行った。ちょうど秋も末、初冬の候で、日が短く夜の長い、暮れやすい時分である。山の中腹あたりまで行くと、早くも夕日は西に沈んでしまった。松の木のあいだの小路をたどって、まっすぐ羅真人の観《かん》(道教の寺)の前まで行くと、朱塗りの牌額が見えた。それには金文字で三字、
紫虚観《しきよかん》
と書いてあった。三人が観の前まできて二仙山を眺めると、まことにすばらしい仙境で、
青松《せいしよう》は鬱々として、翠柏《すいはく》は森々たり。一群の白鶴、経を聴《き》き、数個の青衣、薬を碾《ひ》く。青梧翠竹《せいごすいちく》、洞門は深く鎖《とざ》して碧〓《へきそう》寒く、白雪黄芽(水銀と鉛華、仙薬の材料)、石室《せきしつ》は雲《くも》封じて丹竈《たんそう》(薬炉)暖かなり。野鹿は花を銜《ふく》んで径《みち》を穿《うが》ち去り、山猿は菓(木の実)を〓《ささ》げて巌を渡《わた》り来《きた》る。時に道士の経を談ずるを聞き、毎《つね》に山翁の法を論ずるを見る。虚皇壇畔《きよこうだんぱん》(天帝を祀る壇のほとり)天風は歩虚《ほきよ》の声(道士の経を誦《じゆ》する声)を吹下し、礼斗殿中(北斗を祀る殿のなか)鸞背《らんぱい》は環珮《かんぱい》の韻《ひびき》を忽来せしむ。只此れ便《すなわ》ち真の紫府(天宮)たり、更に何処に於てか蓬莱《ほうらい》(仙境)を覓《もと》めん。
三人は着衣亭《ちやくいてい》(着衣をあらためるところ)で衣服をととのえ、廊下を通ってまっすぐに社殿のうしろの松鶴軒《しようかくけん》をおとずれた。ふたりの童子が、公孫勝が人をつれてきたのを見て、羅真人に知らせた。羅真人からは三人を奥へ通すようにとの沙汰があり、さっそく公孫勝は戴宗と李逵を案内して松鶴軒にはいった。ちょうど真人は朝真《ちようしん》(道士の拝神の行《ぎよう》)をおわったばかりのところで、まだ雲牀《うんしよう》(行を修める座牀)に坐っていた。公孫勝はすすみ出て礼をおこない、身をこごめてそのかたわらに侍立した。戴宗と李逵がその羅真人を見るに、まことに融通無礙《むげ》に俗界の外に遊ぶ風貌である。見れば、
星冠《せいかん》は玉葉を〓《あつ》め、鶴〓《かくしよう》(鶴の羽でつくったころも)は金霞を縷《つづ》る。長髯広頬《ちようぜんこうきよう》、行を修めて無漏《むろう》の天(煩悩を除き去った境地)に到り、碧眼方瞳《へきがんほうどう》、食を服して長生の境に造《いた》る。毎《つね》に安期《あんき》の棗(注三)を啖《くら》い、曾《かつ》て方朔《ほうさく》の桃(注四)を嘗《な》む。気は丹田に満ちて、端的に緑筋紫脳《りよくきんしのう》(超俗の人の肉体)、名は玄〓《げんろく》(仙人の名簿)に登って、定めて知る蒼腎青肝《そうじんせいかん》(超俗の人の腎肝)。正に是れ三更、月に歩む鸞声《らんせい》遠く、万里雲《くも》に乗ずる鶴背《かくはい》高し。
戴宗はそのとき羅真人を見ると、急いで平伏の礼をささげたが、李逵はいつまでもじろじろと見つめていた。羅真人は公孫勝にたずねた。
「このおふたりはどこから見えたのです」
「いつかお話しいたしました山東の義友でございます。このたび、高唐州の知府の高廉が妖術をほしいままにしますので、兄ぶんの宋江が、わざわざこのふたりをよこして、わたくしを呼びにまいったのです。一存でははかりかねますゆえ、ご意見をうかがいにまいりました」
すると羅真人は、
「おまえはすでに俗の世を脱《のが》れ、長生の術を学んでいるのに、どうしてふたたび世俗のことに思いをはせるのだ」
戴宗は再拝して、
「おねがいでございます。どうか公孫先生の下山をしばらくおゆるしくださいますよう。高廉を打ち破りましたならば、すぐ山へお送りしてまいりますから」
「おふたりに申しますが、さようなことは出家たるもののあずかり知るところではありません。下山して相談なさるがよかろう」
と羅真人はいった。公孫勝はしかたなく、ふたりをつれて松鶴軒を辞し、夜どおしで山をおりた。李逵はたずねた。
「あの年とった仙人はなんといったんです」
「あんたも聞いていたじゃないか」
と戴宗がいうと、
「あんな糞文句はなんのことやらさっぱりわからん」
「彼のお師匠さんは、彼はやれぬとおっしゃるのだ」
李逵はそれを聞くと大声でいった。
「おいらふたりにさんざん歩かせやがって、ずいぶん苦労して見つけさせたあげくが、そんな屁みたいなご挨拶か。おれさまを怒らせて、片方の手であの冠《かんむり》をひねりつぶし、片方の手で腰をひっつかまえ、老いぼれの糞道士をさかさまに山からつきおとさせようというのか」
戴宗はにらみつけて、
「きさま、また脚を釘づけにしてほしいのか」
「いや、とんでもない。ああいってちょっとふざけてみただけさ」
三人はまた公孫勝の家へ行き、夜なかに飯ごしらえをして食べた。公孫勝はいった。
「ひとまず、今夜は泊まっていただくことにして、あしたまた師匠におねがいに行きましょう。おゆるしが出たら、すぐに立ちます」
夜もふけて、戴宗はお休みと挨拶をし、ふたりで荷物をとり片付け、いっしょに部屋にはいって寝た。そのまま眠って五更ごろになると、李逵はこっそり起きあがった。耳をすますと戴宗は鼾《いびき》をかいて眠っている。彼は思案した。
「全く、糞面白くもねえ。彼はもともと山寨のもののくせに、なにもわざわざ糞師匠とやらにおうかがいをたてることもなかろうじゃないか。あしたの朝、あいつがまた、いかんなどといったら、兄貴が大事をしくじることになるだろう。もう我慢がならん、こうなればあの老いぼれの糞道士を殺して、彼にうかがいをたてるところをなくしてしまって、彼をつれて行くことにしよう」
李逵はそのとき二梃の板斧《はんぷ》を手さぐりで取り、そっと部屋の戸をあけ、明るい星月夜に乗じて一歩一歩さぐりながら山をのぼって行った。ようやく紫虚観の前まで行って見ると、二枚扉の表門はしまっていたが、かたわらの垣はそう高くもなかったので、造作なく跳び越え、表門をあけておいてから、ぬき足さし足なかへ忍びこみ、ずっと松鶴軒のところまでやって行くと、窓のむこうに誰かの玉枢宝経《ぎよくすうほうきよう》を誦している声が聞こえた。李逵はよじのぼって舌で窓紙をなめて破り、なかをのぞいて見ると、羅真人がただひとり雲牀に坐って、朗々と経を誦していた。その前の卓の上の香炉には、名香が焚かれ、二本の絵蝋燭がともされている。李逵は、
「この糞道士め、ちゃんと死ぬようにできてるじゃないか」
と、一足一足戸口のところへにじり寄って行って、手でぐいとおすと、ぎいっと音をたてて二枚開きの格子戸があいた。李逵は飛びこんで行って、斧をふりかぶるが早いか羅真人の脳天めがけて真向《まつこう》からふりおろし、雲牀の上に斬り倒した。と白い血が流れ出した。李逵はそれを見て笑いながら、
「いかさま、この糞道士は女を知らぬと見えた。精をためこんで一滴ももらしたことがないものだから、まるでこれっぽちも赤い血が出ないわ」
さらによく見れば、かの冠もまっぷたつに切れて、頭はずっと項《うなじ》のあたりまで斬りさげられていた。李逵は、
「これで邪魔ものは片付けたから、もう公孫勝が行かぬなどという心配はなくなったぞ」
と、身を転じて松鶴軒を出、かたわらの廊下を走り出して行くと、ひとりの青衣の童子が李逵の行くてに立ちふさがってどなりつけた。
「おのれ、お師匠さまを殺して、どこへ逃げようとする」
「このちんぴら道士め、おれの斧でもくらやがれ」
と斧をふりかぶったと見るや、早くも首は土台石のほとりに転がっていた。かくてふたりのものが李逵のために殺されてしまったのである。李逵は笑いながら、
「さて、逃げるとしよう」
と、急いで観門を出、飛ぶようにして山を駆けおり、公孫勝の家にもどって、するりとなかへはいり、戸をしめ、部屋にはいって耳をすますと、戴宗はまだ眠りつづけている。李逵はまえのようにまた床にはいって眠った。夜が明けると、公孫勝は起きて朝食をととのえ、ふたりにすすめた。食事がすむと戴宗は、
「それでは先生、わたくしどもふたりをつれて行って、真人さまによくおねがいしてみてください」
といった。李逵はそれを聞いて、ひそかにあざ笑った。
三人は前と同じ道を、ふたたび山へのぼって行った。紫虚観の松鶴軒へはいって行くと、ふたりの童子がいた。公孫勝が、
「真人さまはどちらに」
とたずねると、童子は、
「真人さまは雲牀に坐って行《ぎよう》をしておられます」
李逵はそれを聞くとびっくりして、出した舌がしばらくはひっこまない。三人が簾をあげてなかへはいって見ると、羅真人は雲牀の中央に端坐している。李逵は内心思いまどった。
「ゆうべは人ちがいをして殺したのだろうか」
羅真人がそのときいった。
「三人でまたしても何の用でまいられた」
戴宗は、
「お師匠さまのお慈悲にすがりに、おねがいにまいりました。どうかみなのものの危難を救ってくださいますよう」
「そちらの色の黒い大男はなんというものだ」
「わたくしの弟ぶんで、姓は李、名は逵と申します」
真人は笑って、
「わしは、公孫勝には行かせないつもりだったが、そのものの顔を立てて、行かせることにしよう」
戴宗は拝謝した。李逵はひそかに思うよう、
「このやろう、おれが殺そうとしたことを知ってるくせして、あんなことを糞ほざきやがる」
そのとき羅真人がいった。
「そのほうたち三人を一瞬のうちに高唐州へやって進ぜようか」
三人は礼をいった。戴宗は思った。
「この羅真人というかたは、わしの神行法よりははるかに上手《うわて》らしいわい」
真人は童子に三枚の手巾を取ってこさせた。戴宗は、
「おうかがいいたしますが、いったいどのようにしてわたくしどもを高唐州にやられますので」
とたずねた。すると羅真人は立ちあがって、
「三人とも、わたしについておいでなさい」
という。三人がそのあとについて観門の外の巌のところまで行くと、羅真人は、まず一枚の赤い手巾をとり出してその石の上にひろげ、
「さあ、おまえ、乗りなさい」
公孫勝がその上に両足をのせると、羅真人は袖でさっとはらって、
「行け」
と一喝した。するとその手巾は一片の赤い雲となり、公孫勝を乗せたままぐんぐん空にのぼって行って、山の上空およそ二十丈ばかりの高さにまであがった。そのとき羅真人が、
「とまれ」
と一喝すると、その一片の赤い雲はぴたりととまった。羅真人は、こんどは青い手巾をひろげて戴宗をその上に乗らせ、
「行け」
と一喝すると、その青い手巾は一片の青い雲となり、戴宗を乗せたまま中空にのぼって行った。青と赤の二片の雲は、さながら蘆の蓆《むしろ》ほどの大きさで空をまわっている。李逵はそれを見て呆然としていた。羅真人はこんどは白い手巾を石の上にひろげ、李逵に乗るようにといった。李逵は笑いながら、
「からかわないでくださいよ。踏みはずしでもしたら、でかいたん瘤ものですからな」
「あのふたりを見てみなさい」
と羅真人はいった。李逵が手巾の上に立つと、羅真人は、
「行け」
と声をかけた。するとその手巾は一片の白い雲になって飛びあがって行った。李逵は大声で、
「ややっ、危いじゃないですか、おろしてくださいよ」
とわめいた。羅真人が右手をあげてさしまねくと、かの青と赤の二片の雲はするすると地上におりてきた。戴宗は一礼してその前に侍立し、公孫勝は左側に侍立した。李逵は中空から、
「おいら小便がしたいんだ。大便もしたい。おろしてくれなきゃ頭の上からひっかけてやるぞ」
すると羅真人はいった。
「わしは出家の身で、そのほうを怒らせるようなことをした覚えもないのに、なにゆえ昨夜は垣を越えて忍びこみ、斧をふるってわしを殺そうとしたのだ。もしわしが修行をつんでいなければ、とっくに殺されていたであろう。そのうえ、わしの童子までひとり殺したであろう」
「そいつは人ちがいだ。あんたの見まちがいでしょうよ」
羅真人は笑って、
「ただ、わしの瓢箪をふたつ斬っただけだったが、その性根はよろしくない。しばらくそのほうにつらい思いをさせてやろう」
と、手をあげてさしまねき、
「行け」
と一喝すると、一陣の悪風が李逵を雲のなかへ吹きこんでしまった。見れば、ふたりの黄巾《こうきん》の力士《りきし》(道教の武将神)が李逵をひきたてている。耳もとに聞こえるのは風雨の声ばかり。いつしか薊州の地にきていた。びっくりして李逵は魂も身につかず、手足をわななかせていた。と、とつぜん、がらがらっという音がしたかと思うと、薊州の役所の屋根からごろごろと下へころげ落ちた。
ちょうどその日は府尹《ふいん》の馬士弘《ばしこう》が登庁していて、庁前には多くの役人たちがひかえていたが、そこへ空からひとりの色の黒い大男がどさりと落ちてきたので、一同はあっとおどろいた。馬知府はそれを見て叫んだ。
「ものども、そやつを召し捕れ」
たちまち十数人の獄卒が李逵を府尹の前にひき据えた。府尹はどなりつけた。
「きさまは、どこの妖人だ。どうして空から落ちてきた」
李逵は落っこちて頭や額を怪我し、しばらくは口をきくこともできない。馬知府は、
「妖人にまちがいない。汚物《おぶつ》(妖術を破るためにかけるのを常法とした)を持ってこい」
牢番や牢役人が李逵を縛って庁前の草原にひきすえると、ひとりの虞候《ぐこう》(用人)が犬の血をいれた鉢をもってきて頭からざっとそそぎかけ、つづいてまたひとりが糞尿の桶をさげてきて李逵の頭から足さきまでざっとぶっかけた。李逵は口も耳も糞尿だらけ。李逵は大声で、
「わしは妖人じゃない。羅真人さまの従者だ」
そもそも薊州の人々は誰でも、羅真人はこの世の活《い》きた神仙だと信じていたので、もうそれ以上李逵を痛めつけはせず、ふたたび李逵を庁前にひきすえた。さっそく役人が府尹にいった。
「かの薊州の羅真人さまといいますのは、天下にその名の聞こえた、道行の高い、活きた神仙です。あのおかたの従者でしたら、刑を加えることはさしひかえるがよかろうと存じます」
馬府尹は笑って、
「わしは千巻の書を読み、古今の事にはくわしいのだが、神仙にこんな弟子があるなどとは聞いたこともない。妖人にきまっている。牢番、思いきりこやつを打ちのめせ」
一同はしかたなく、李逵をひきころがして、さんざん打ちつづけた。馬知府はどなった。
「おのれ、いさぎよく妖人だと白状しろ。そうすれば打つのはゆるしてやろう」
李逵はとうとう音をあげて、妖人の李二というものだと自供した。知府は大枷をはめさせて、大牢にくだした。李逵は死刑囚の獄のところまで行くと、
「おれは当番の神将だ。そのおれに枷をはめてよいのか。どのみち、おまえたち薊州城内のものはみな殺しにしてやるぞ」
牢役人や牢番たちは羅真人が修行をつんだ清徳の人であることを知っていてみな畏敬していたから、寄り集まってきて李逵にたずねた。
「あんたは、ほんとに何者だね」
「わしは羅真人さまじきじきにお仕えする当番の神将なんだ。ついあやまちをしでかしたために真人さまのお怒りを買って、こんなところへ放り飛ばされ、こうした苦難を課せられているが、二三日のうちにはきっとわしを迎えにきてくださるだろう。おまえたちがここでわしにご馳走をしなけりゃ、おまえたちの一家をみな殺しにしてやるぞ」
牢役人や牢番たちは彼にそういわれてみると、みな不気味がり、しぶしぶ酒や肉を買って彼をもてなした。李逵は彼らがびくびくしているのを見ると、ますます法螺《ほら》をふいた。牢の連中はいよいよおそれ、さらにお湯をもってきてつかわせたり、こざっぱりした着物に着換えさせたりした。李逵はいう。
「もし、おまえたちがわしへのご馳走をおこたりでもしたら、わしはすぐに飛んで行っておまえたちに責苦《せめく》をさずけてやるから」
牢の獄卒たちはひたすら神妙につかえたが、李逵の薊州での入牢のくだりはそれまでとする。
ところで羅真人は、このことをくわしく戴宗に話した。戴宗はしきりに李逵を助け出してくださいと哀願した。羅真人は戴宗を観《てら》に泊めて、山寨の様子をたずねた。戴宗は、晁天王と宋公明が義を重んじ財を疎んじて、ひたすら天にかわって道を行なうことにつとめ、忠臣烈子・孝子賢孫・義夫節婦などには決して危害を加えないなど、かずかずの美点を話した。羅真人はそれを聞くと大いによろこんだ。五日の逗留のあいだ、戴宗は毎日叩頭の礼をささげて真人に李逵のため赦しを乞うた。羅真人は、
「ああいう人間は追いはらってしまったほうがよろしいぞ。連れて帰らぬがよろしい」
戴宗はたのんだ。
「真人さま、李逵はいかにも粗野で、もののわきまえがありませんが、しかしそれでも少しはよいところもあるのでございます。第一に、剛直で、決して人をだますようなことはしません。第二に、人にへつらうようなことはせず、いのちをかけてでも、あくまでも信義を守りとおします。第三に、淫欲や邪心がなく、財をむさぼったり人を裏切ったりすることはせず、事にあたっては敢然とまっさきに飛び出して行きます。そのため宋公明はいたく彼を愛しております。もしあれを連れて帰りませぬと、宋公明の兄貴に対してわたくしは合わす顔がありません」
羅真人は笑いながら、
「わたしは彼をよく知っている。もと天上界の天殺星《てんさつせい》のひとつだったのだが、下界の衆生《しゆじよう》があまりにも目にあまる罪業をかさねているので、ことさらに彼を罪に問うて下界にさしくだし、殺戮をおこなわせておられるのだ。だから、このわたしとても天の命に逆らって彼を見捨てなどはしません。ここはただ、しばらく彼を懲らしめてやったというだけのこと。呼んでそのほうに返してあげましょう」
戴宗は拝謝した。羅真人が、
「力士はどこにおる」
と声高く呼ぶと、松鶴軒の前に一陣の風が吹きおこり、吹き過ぎたとみるやそこにひとりの黄巾《こうきん》の力士が姿をあらわした。見れば、
面は紅玉の如く、鬚《ひげ》は〓絨《そうじゆう》(黒い毛糸)に似たり。彷彿として一丈の身材有り、縦横に千斤の気力を有す。黄巾の側畔《そくはん》、金環《きんかん》日に耀《かがや》いて霞光を噴き、繍襖《しゆうおう》の中間、鉄甲《てつこう》霜を鋪《し》いて月影を呑む。設けて壇前に在りて法を護り、毎《つね》に世上に来《きた》りて魔を降す。
この黄巾の力士はうやうやしくいった。
「お師匠さま、いかなるご用でございましょうか」
「いつかそのほうに命じて薊州へ連れて行かせたかの男は、すでに罪業もつぐない得たゆえ、そのほう、また薊州へ行って牢より連れもどしてまいれ。しかと首尾を全うするように」
力士は、かしこまって出かけて行ったが、およそ半時ばかりたつと、中空から李逵をほうりおとしてきた。戴宗は、急いで李逵を助けおこし、
「あんたはこの二三日、いったいどこにいたのだ」
とたずねた。李逵は羅真人を見ると、しきりに叩頭をくりかえして、
「鉄牛、なんともはや恐れいってございます」
羅真人はいう。
「これよりのちは心をいれかえ、力のかぎり宋公明をもりたて、悪心をおこすことのないようにするのだぞ」
李逵は再拝していった。
「誓って真人さまのお言葉を守るでございましょう」
戴宗はたずねた。
「あんたはここ数日のあいだ、いったいどこにいたのだ」
「あの日、風に吹きとばされて、そのままずっと薊州へ連れて行かれ、役所の屋根の上に落っことされたところ、役所の連中に召し捕られたのです。そこの馬知府というのが、おいらを妖人だといって、とりおさえて縛りあげ、牢番や獄卒たちにいいつけて犬の血や糞小便を頭からぶっかけさせ、両足を、肉が飛びだすまで打ちのめしやがった。そしてそのあげく枷をつけて大牢のなかへほうりこみやがったが、みんなのやつらがおいらに、あんたはどういう神さまで、どうして天から落ちてきたのだときくので、羅真人さまじきじきにお仕えする当番の神将だが、ちょっとした落度をやらかしたために罰をうけているんで、この二三日のうちにはきっと呼びもどしてくださるはずだといってやったのさ。したたか棒でなぐられはしたけれど、うまくだましてご馳走をせびってやったところが、やつらは真人さまをおそれて、お湯をつかわせてくれるやら着物を着換えさせてくれるやらしたものだ。いまさっき、牢の番小屋で、酒や肉をせしめて食っていたところ、とつぜん空からあの黄巾の力士が舞いおりてきて、枷と手錠をはずしてくれて、眼をふさいでいろといったんだ。まるで夢を見ているようなあんばいでいるうちに、ずっとここまで連れてこられたというわけです」
「お師匠さまには、ああした黄巾の力士が一千人あまりいて、みなそれが真人さまのおつきのものなのです」
と公孫勝がいった。李逵はそれを聞くと大声をあげて、
「活仏《いきぼとけ》さまであらせられたか。なんであんたはそれならそうと早くいってくださらないのだ。そうすればあんなぶざまな真似などせんですんだろうに」
といって、三拝九拝した。戴宗も再拝してうやうやしく申し述べた。
「わたくし、こちらに参りましてよりずいぶんと日をすごしてしまいました。高唐州のいくさはいたって急を告げておりますゆえ、どうかお師匠さま、お慈悲をもって公孫先生をわたくしどもといっしょに行かせてくださいますよう。兄貴の宋公明を救い、高唐州を打ち破りましたならば、すぐにもお手もとにお返しいたしますから」
羅真人はいう。
「わしは彼を手放すつもりはさらさらなかったが、このたびはそのほうらの大義を賞《め》でてしばらく彼をつかわすことにしよう。それにつけて、ひと言いっておきたいことがある。しかと胸にたたんでおくように」
公孫勝はすすみ出てひざまずき、真人から教えをさずかった。まさに、世を済《すく》い邦《くに》を安んずるの願いを満《みた》し還《かえ》らば、鸞にのり鳳に跨《またが》るの人(仙人)と作《な》らん、というところ。さて、いったい羅真人は公孫勝に対していかなることを告げたのであろうか。それは次回で。
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一 布襖荊釵 また荊釵布襖といい、後漢の梁鴻《りようこう》の妻孟光《もうこう》が常に荊《いばら》の赤い実を釵《かんざし》とし、木綿の粗衣を着たことから、婦徳あることにたとえる言葉となっているが、ここでは文字どおりの意。
二 驪山の老姥 殷・周の時代に驪山に住んでいたという仙女で、非常な才芸の持主といわれる。唐・宋のころ大いにあがめられた。
三 安期の棗 安期は安期生。秦の人で抱朴子《ほうぼくし》と号し、不老長生にあこがれた秦の始皇帝に敬愛されたという半ば伝説的な人物。瓜のように大きい棗《なつめ》を食って千年の寿を得たという。
四 方朔の桃 方朔は東方朔。漢の武帝に仕えた諧謔《かいぎやく》奇才の持主で、西王母《せいおうぼ》の桃を盗み食って長寿をほしいままにしたという伝説がある。
第五十四回
入雲竜《にゆううんりゆう》 法を闘わして高廉《こうれん》を破り
黒旋風《こくせんぷう》 穴を探って柴進《さいしん》を救う
さて、そのとき羅真人《らしんじん》はいった。
「おまえがこれまでに学んだ法術は、あいにく高廉のと同じもの。それゆえ、いま五雷天〓《ごらいてんこう》の正法《せいほう》というのを伝授するから、そのとおりにすれば、宋江を救って国家人民を泰平に安んぜしめ、天にかわって道を行なうことができる。決して欲心にくらまされて大事を誤ることのないよう日ごろの修行心をつらぬきなさい。おまえの老母は人をやって朝晩の面倒を見させるから心配しないでよい。おまえは天上界の天間星《てんかんせい》が下界に降《くだ》っている身であるから、その縁《えにし》で宋公明を助けにつかわすのだ。いまここに八字の言葉がある。これをしかと心に刻みつけておいて、その場に臨んで事を誤ることのないように」
羅真人はその八字の言葉をしめしたが、それは、
逢幽而止(幽《ゆう》に逢って止まり)
遇〓而還(〓《べん》に遇って還る)
公孫勝はこの訣法《けつぽう》(奥義)をつつしんで受けると、さっそく戴宗と李逵との三人で、羅真人にいとまを告げ、道士たちに別れて山をおりた。家に帰ると、道衣《ころも》・宝剣二振り・鉄冠・如意《によい》などを手落ちなくとりそろえ、母親に挨拶をし、山をあとに旅にのぼった。三四里ほど行くと、戴宗が、
「わたしは一足さきに行って兄貴に知らせますから、先生は李逵といっしょに本街道をおいでください。そうすれば、またひき返してお迎えにきますから」
「よろしいとも、さきに行って知らせてあげてください。わたしも急いでまいりましょう」
と公孫勝はいった。戴宗は李逵に、
「道中はなにかとよく気をつけて先生にお仕えするよう。もしまちがいでもしでかしたらまたひどい目にあうぞ」
「この人は羅真人さまと同じ法術を心得ておられる。なんでおろそかにするものか」
と李逵はいった。戴宗は甲馬をくくりつけ、神行法をつかってさきに行ってしまった。
さて、公孫勝と李逵のふたりは、二仙山の九宮県をあとに、本街道をすすみ、夜になると宿をとったが、李逵は羅真人の法術が身にこたえているので、十分に気をくばって公孫勝に仕え、すこしもわがままなまねはしなかった。ふたりは三日歩いて、武岡鎮《ぶこうちん》というところについたが、見れば町はなかなかにぎわっている。公孫勝が、
「ここ二三日の道中でだいぶんくたびれたから、精進酒と麺でも食べていこう」
というと、李逵も、
「それは結構」
といい、ちょうど駅路に沿って小さな居酒屋があったので、ふたりはそこへはいって腰をおろした。公孫勝は上手《かみて》に坐り、李逵は腰の包みをほどいて下手《しもて》に坐った。そして給仕を呼んで酒をいいつけるとともに、精進料理をとってふたりで食べようとして、公孫勝が、
「この店にはなにか精進ものはないか」
というと、給仕は、
「手前の店では酒と肉だけで、精進ものはございませんので。町には棗〓《そうこう》(棗餡《なつめあん》の〓。〓は米の粉でつくった蒸し餅)を売っている店がございます」
すると李逵が、
「わしが買ってきます」
といって、包みのなかから銅銭を取り出し、さっさと町へ出て行って棗〓を一包み買った。そして帰ろうとすると、ふと耳にはいったのが道端の人々の、
「すごい力だなあ」
と感嘆する声。李逵が見ると、ひとりの大男が人々の群れにとりかこまれて鉄瓜鎚《てつかつい》(瓜型の鉄鎚)をつかっているところだった。見物のものたちはそれを眺めてやんやの喝采を送っている。
李逵がその大男を見るに、身の丈は七尺あまり、顔にはあばたがあり、大きな鼻をしている。鉄鎚を見れば、目方およそ三十斤あまりのもの。その男は鉄瓜鎚を振りまわして、道傍の車よけの石にぶっつけ、その石を粉々にうち砕いた。見物はどっとはやしたてた。李逵はじっとしていられなくなり、棗〓をふところにねじこむなり出て行ってその鉄鎚を取ろうとした。すると男はどなりつけた。
「きさまはどこの糞やろうだ。のこのこ出てきておれの鉄鎚に手をかけやがって」
「きさまの手並みはなっておらん。それで、みなの喝采を買いなどしくさって。見るだけで眼がけがれるわ。見ていろ、おれがちょっとつかってみなに見せてやるから」
「貸してやろう。だがきさまがこいつをつかいこなせなかったら、そのときはこっぴどくぶん殴られるものと覚悟しろ」
李逵はその瓜鎚をうけとると、まるで弾丸《はじきだま》をもてあそぶかのようにひとしきりつかってみせ、そっと下においた。顔もあからませず、胸もどきつかせず、息もはずませなかった。男はそれを見ると、ぱっとそこへ平伏して、
「なにとぞ、お名前をお聞かせねがいます」
「おまえさんの住いは、どこだね」
「ついそこでございます」
と、男は李逵をそこへ案内して行った。戸に錠がかかっていたが、男は鍵で戸をあけて李逵をなかへ請じいれた。李逵が見れば、その家のなかは鉄砧《かなとこ》や鉄鎚や火炉《ふいご》、鉗《かなばさみ》、鑿《かなほり》などの道具でいっぱいだった。
「この男は鍛冶屋《かじや》にちがいない。ちょうど山寨でほしいところだ。なんとか仲間にひきこんでやろう」
李逵はそう考えて、
「おまえさん、名前を聞かせてもらおうか」
といった。
「わたくしは、姓は湯《とう》、名は隆《りゆう》といい、父はもと延安府の知寨《ちさい》をつとめておりましたが、鍛冶に長じておりましたので、経略使の《ちゆう》老相公にお目をかけられ、そのご前におつかえしておりました。先年、父は在任のまま亡くなりましたが、わたくしは賭博《ばくち》にこって、世間を流れ歩いております。そんなわけでいまは当地に仮住《かりずま》いをして、鍛冶屋をやって口すぎをしております。なによりすきなのは槍棒をつかうことで、からだじゅうあばただらけなものですから、人さまからは金銭豹子《きんせんひようし》とあだ名されております。して、兄貴のお名前はなんとおっしゃいましょうか」
「わしは、梁山泊の好漢、黒旋風の李逵というものだ」
湯隆はそれを聞くと再拝していった。
「兄貴のお名前は、たびたび耳にしておりましたが、ここでお目にかかれようとは全く思いがけないことでした」
「あんたはここにおったところで、いつまでたってもうだつがあがるまいが、いっそのことわしといっしょに梁山泊へ行って仲間にはいったらどうです、頭領に推しますよ」
「わたしのようなものでも、つれて行ってくださるのでしたら、よろこんでおともさせていただきましょう」
と、湯隆は李逵に礼をささげて兄ぶんと仰ぎ、李逵も湯隆を弟ぶんと認めた。湯隆は、
「わたしには家族も下僕もいませんので、町へごいっしょして粗酒を一献さしあげ、兄弟のまじわりを結んでくださったお礼をいたしたいと思います。そして今晩はここへお泊まりいただいて、明朝出かけることにいたしましては」
「いや、わしにはむこうの居酒屋に先生がいて、わしが棗〓を買って帰ったらそれを食べてすぐに出かけることになっている。ぐずぐずしてはおれんのです。今すぐ行きましょう」
「どうしてそんなにお急ぎなので」
「じつは、宋公明兄貴がいま高唐州のほうでいくさをしていて、先生が救援にくるのを待っておられるのです」
「その先生とおっしゃるのは、いったいどなたですか」
「まあそんなことはあとにして、早く支度をして出かけることだ」
湯隆は大急ぎで荷物や路銀や金子《きんす》をとりまとめ、氈笠《せんりゆう》をかぶり、腰刀《ようとう》をさし、朴刀をひっさげ、ぼろ家と量《かさ》ばった道具はそのままうち捨てて、李逵のあとからまっすぐ居酒屋へ公孫勝に会いに行った。
公孫勝は怨めしげにいった。
「ずいぶんおそかったではないか。もうすこしおそかったら、わたしはまた帰ってしまっていたろう」
李逵は返す言葉もなく、湯隆をひきあわせて公孫勝に挨拶をさせ、兄弟の盟《ちかい》を結ぶにいたった次第をくわしく話した。公孫勝は彼が鍛冶屋だと聞くと、心中やはりよろこんだ。李逵は棗〓を取り出して給仕にわたし、調理をさせた。三人はいっしょに何杯か酒を飲み、棗〓を食べ、勘定をはらうと、李逵と湯隆はそれぞれ荷物を背負い、公孫勝とともに武岡鎮をあとにして、はるばる高唐州をめざして行った。三人が道のりの三分の二ほど行ったとき、ある日の朝、ちょうど迎えにきた戴宗と出会った。公孫勝は大いによろこんでさっそくたずねた。
「このところ、戦況はどんな具合です」
すると戴宗のいうには、
「高廉のやつはこのほど矢傷がなおって、毎日のように兵を繰り出して攻めかかってくるのです。兄貴は守りをかためるだけで、出てたたかうことはせず、ひたすら先生のご到着を待っておいでです」
「それならたいしたことはありません」
と公孫勝はいった。李逵は戴宗に湯隆をひきあわせて委細を話した。かくて四人はいっしょに高唐州へと急いだ。陣まで五里ほどのところへきたとき、早くも呂方と郭盛が、百人あまりの騎兵をしたがえて迎えに駆けつけてきた。四人はみな馬に乗り、一同で陣地についた。宋江・呉用らは出迎えて、おのおの礼をかわし、接風酒(注一)をくみ、旧交をあたためあった。本営のなかへ請じいれられると、頭領たち一同もやってきてよろこびをのべた。李逵は湯隆をつれてきて、宋江・呉用をはじめ頭領たち一同にひきあわせ、挨拶がすむと、陣中でよろこびの宴がひらかれた。
翌日、中軍の本営で、宋江・呉用・公孫勝は高廉を打ち破ることを相談しあったが、そのとき公孫勝のいうには、
「ここはひとまず全陣地こぞって出陣するようご命令ください。そして敵の出かたを見ましょう。わたくしにいささか方策がございます」
その日、宋江は各陣地に命令をくだしていっせいに軍をおこし、まっすぐに高唐州の城の外濠までおしよせて行って陣をかまえた。そして翌朝の五更に腹ごしらえをすまし、兵士はみなよろいに身をかためた。宋公明・呉学究・公孫勝の三人は騎馬で陣頭に立ち、戦旗をうちふり軍鼓をうち鳴らし、ときの声をあげ銅鑼《どら》をひびかせて、どっと城下に攻めよせて行った。
ところで城内なる知府の高廉は、矢傷もすでになおり、前夜、兵の注進で宋江の軍勢がまたおしよせてきたと知り、早朝には全軍みな武装をととのえおわり、城門をひらき、吊り橋をおろし、三百の神兵および大小の将士をひきしたがえて敵を迎えた。かくて両軍は次第に接近し、旗鼓相望む態勢となってそれぞれ陣をしいた。両軍の陣には、花模様の〓鼓《だこ》(鰐皮の軍鼓)がうち鳴らされ、五色の色あざやかな繍旗がうちふられる。宋江の陣地の門がひらかれたと見るや、十騎がぱっと駆け出《い》で、雁の翼のように左右に散開した。左翼の五将は、花栄・秦明・朱仝・欧鵬・呂方。右翼の五将は林冲・孫立・〓飛・馬麟・郭盛。そしてその中央の三騎の頭《かしら》たる一騎は、主将の宋公明。そのいでたちいかにといえば、
頭には茜紅《せんこう》の巾《きん》を頂き、腰には獅蛮《しばん》(獣面の金具)の帯を繋《か》く。錦の征袍は大鵬《たいほう》背に貼《つ》き、水銀の〓《かぶと》は彩鳳《さいほう》簷《のき》に飛ぶ。抹緑《まつりよく》(もえぎ色)の靴は斜めに宝鐙《ほうとう》(あぶみ)を踏み、黄金の甲《よろい》は光って竜鱗動く。描金《びようきん》(金蒔絵)の《じよう》(鞍飾り)は紫糸の鞭に随い定まり、錦鞍の〓《せん》(鞍下のおおい)は穏《おだや》かに桃花の馬(白毛で紅点のある馬)に称《かな》う。
その左側の馬上の人は、すなわち梁山泊で兵馬の権を握る軍師の呉学究。そのいでたちいかにといえば、
五明《ごめい》の扇《せん》(注二)は斉しく白羽を〓《あつ》め、九綸《きゆうりん》の巾《きん》(注三)は巧みに烏紗《うさ》(黒い紗)を簇《あつ》む。素羅《そら》(白い薄絹)の袍は香〓《こうそう》(黒)もて沿辺(ふちどり)し、碧玉の環は糸〓《しとう》(絹の組紐《くみひも》)もて束定す。鳧《うせき》(水鳥の形をした履《くつ》)は穏かに葵花《きか》の鐙《あぶみ》を踏み、銀鞍は紫糸の〓《たづな》を離れず。両条の銅錬《どうれん》(分銅のついた鎖)は腰間に掛り、一騎の青〓《せいそう》(青〓白馬の意。黒いたてがみの白馬)戦場に出《い》ず。
右側の馬上の人は、すなわち梁山泊の用兵布陣を統べる副軍師の公孫勝。そのいでたちいかにといえば、
星冠は日に耀《かがや》き、神剣は霜を飛ばす。九霞の衣服は春雲を繍《ぬいと》り、六甲の風雷(注四)は宝訣を蔵す。腰間には雑色の短鬚〓《たんしゆとう》を繋《つ》け、背上には松文《しようぶん》の(松の皮のような模様の焼きの)古定剣《こていけん》(法術用の古刀)を懸く。一双の雲頭点翠《うんとうてんすい》の(翠の模様のある雲形の)〓朝靴《そうちようか》(礼式用の黒い靴)を穿《は》き、一匹の分〓昂首《ぶんそうこうしゆ》の(たてがみをふりわけ首をもたげるぴちぴちした)黄花馬(白鹿毛の馬)に騎《の》る。名は蕋笈《ずいきゆう》(仙人の登録簿)に標《しる》されて玄功《げんこう》著《いちじる》しく、身は仙班に列して道行高し。
三人の統軍の主将が馬を陣頭にすすめると、敵陣にはいっせいに金鼓がうち鳴らされ、門旗(大将旗)がさっとゆらぎ、二三十名の軍官におしたてられつつ知府の高廉が陣頭にすすみ出《い》で、門旗のかたわらに馬をとめた。そのいでたちはと見れば、
束髪の冠は珍珠を嵌《は》め就《な》し、絳紅《こうこう》の袍は錦繍を〓《あつ》め成す。連環の鐙甲《とうこう》は黄金輝き、双翅の銀〓《ぎんかい》は彩鳳《さいほう》飛ぶ。足には雲縫弔〓《ちようとん》の(爪先のはねた)靴を穿《は》き、腰には一蛮金《きんてい》の(獣面の金具《かなぐ》つきの金色の皮の)帯を繋《つ》く。手内の剣は三尺の水を横《よこた》え、陣前の馬は一条の竜に跨《またが》る。
知府の高廉は陣にすすみ出るや、声を張りあげてののしった。
「おのれ、水たまりの(梁山泊をさす)掻っぱらいどもめ、いよいよ腹をすえて合戦にきたとならば、覚悟して勝負をしろ。逃げるやつは男ではないぞ」
宋江はそれを聞くと、
「誰かあやつを斬り捨てに行かぬか」
と声をかけた。すると小李広の花栄が槍をかまえて馬をおどらせ、両軍のまんなかへつきすすんで行った。高廉はそれを見て、
「誰かあやつをつかまえろ」
とどなった。すると統制官の隊中からひとりの武将があらわれ出た。薛元輝《せつげんき》といい、両刀の使い手で、駻馬にうち乗って両陣のまんなかに飛び出して行き、花栄にたたかいをいどんだ。両者陣頭にわたりあうこと数合、花栄は馬首を転じて自陣のほうへ逃げ出した。薛元輝はそれが計略だとは知らず、馬を飛ばし刀をふりまわし、気負いたって追いかけた。花栄はつと馬をとめ、弓をとり矢をつがえ、身をねじむけざま、ひょうと射放てば、薛元輝はまっさかさまに馬から射おとされた。両軍はどっとざわめく。高廉は馬上でこれを見て大いに怒り、鞍の前部から例の獣面を彫った銅の楯をとりはずして、剣でたたいた。たたくこと三度、見れば神兵隊のなかから一陣の黄砂がまきおこってあたりにたちこめ、天もくらく、地もくらく、日の光もくらむなかに、喊声がおこり、豺狼《さいろう》・虎豹・怪獣・毒虫がその黄砂のなかからおどり出してきた。全軍がみな浮き足立ったとき、公孫勝は馬上でかの松文の古定剣をさっと抜き放ち、敵のほうにさしむけて口に呪文をとなえ、
「えいっ」
と一喝した。と、ひとすじの金色の光が射《さ》して、かの怪獣毒虫はことごとく黄砂のなかからひらひらと陣前に降《ふ》り落ちてきた。一同が見れば、なんとそれは、みな白い紙で剪《き》った虎や豹のたぐいであり、黄砂もすっかりかき消えてしまった。宋江はそれを見て、鞭を振って合図をした。全軍がいっせいに斬りこんで行くと、敵陣では見る見る兵は斬られ、馬は倒れ、旗は地上に散乱した。高廉はあわてて、神兵をひきつれて城内に逃げこんだ。宋江の軍勢が城下まで追い迫ると、城では急いで吊り橋をひきあげ城門を閉ざし、投げ丸太や投げ石を雨のように投げ落としてきた。宋江は金鼓を鳴らさせ、ひとまず兵をまとめて陣地にもどり、人員を調べてみたが、各軍とも大勝利であった。そこで、本営にもどって公孫先生のめざましい勲功を感謝し、さっそく全軍の将兵をねぎらった。
翌日は兵を手わけして四方から城をかこみ、しゃにむに攻めたてることにしたが、そのとき公孫勝が宋江と呉用にむかっていうには、
「ゆうべは敵の大半を斬り殺しはしましたが、例の三百の神兵が城内に逃げこんだことは明らかです。昼間きびしく攻めたてておけば、やつらは夜中に必ずわが陣地を奇襲してきましょう。それゆえ、日が暮れたら軍をひとところにまとめ、夜のふけたころに兵を四方に伏せて、この陣地は柵だけをかまえて空っぽにしておくのです。頭領たちには、雷鳴がとどろき陣中から火の手があがるのを合図に、いっせいに兵をすすめるよう手配してください」
命令が伝えられると、その日は未牌《みはい》(昼すぎ)まで城を攻めたてておいてから、四方の軍をみな陣地にひきあげ、陣中で楽器を鳴らしてにぎやかに酒盛りをひらいた。やがて日が暮れると頭領たちはひそかにわかれて、四方に兵を伏せた。
さて宋江・呉用・公孫勝・花栄・秦明・呂方・郭盛らが丘の上で待ちうけていると、その夜、はたして高廉は、三百の神兵を集め、硫黄・煙硝・火薬などをつめた鉄筒を背負わせ、てんでに鉤刃《こうじん》や鉄掃箒《てつそうそう》(ともに熊手の類)を持たせ、口には蘆笛をふくませて、二更(夜十時)ごろ、城門をあけ放ち吊り橋をおろし、高廉みずから先頭に立って神兵をひきい、うしろにはさらに三十余騎をしたがえて、殺到してきた。かくて陣地の近くまで迫ると、高廉は馬上で妖術をつかった。と、たちまち黒気天に冲し、狂風大いにおこって砂を飛ばし石を走らせ、土を散らし塵を舞いあげた。三百の神兵はそれぞれ火種を打ち出して鉄筒の口に点《つ》け、いっせいに蘆笛を吹き鳴らし、黒気のただなかを、全身を火焔に包まれながら、勢いすさまじく陣地へなだれこんできた。
丘の上の公孫勝は、剣をつかって術をおこない、無人の陣地の上にごうごうと雷鳴をとどろかせた。三百の神兵はあわてて退却しようとしたが、そのとき、その無人の陣地に火の手があがり、火焔が乱れ飛んで、あたりいちめんあかあかと照り映え、逃げ出すことができない。と、四方の伏兵がいっせいにおしよせて、陣地の柵をとりかこんだ。暗いところまでよく見えるので、三百の神兵はひとりも逃げ出すことができず、ことごとく陣地のなかで殺されてしまった。高廉は泡をくい、三十余騎をひきつれていっさんに城へ逃げた。そのうしろから一隊の騎馬が追って行った。それは豹子頭の林冲の一隊で、見る見る追いあげて行ったが、高廉は急いで吊り橋をおろさせ、わずかに八九騎をつれて城のなかへ逃げこんだ。その余のものはみな林冲のために、人も馬もいけ捕りにされてしまった。高廉は城内にはいると住民を総動員して城壁の守備につかせた。かくて高廉の軍勢と神兵は、宋江と林冲のために殺しつくされてしまったのである。
翌日、宋江はまたもや軍勢をくりだし、四方から城を包囲してはげしく攻めかかった。高廉は考えた。
「何年もかかって会得したこの法術が、このたびやつらに打ち破られてしまったとはいかにも意外だ。これではいったいどうしたらよいのか。こうなったらもう、使いのものを近くの州へやって援兵をたのむよりほか手はないだろう。急いで手紙を二通書いて、東昌《とうしよう》と寇《こう》州へ持たせてやろう。両方とも、ここから遠くはないし、知府はわしの兄がひきたててやったものたちだ。急いで兵をおこして救援に駆けつけるようにいってやろう」
と、幕下の統制官二名にその役をいいつけて手紙をわたし、西門をあけて斬りすすみ、西のほうへと逃げ走らせた。頭領たちがこれを追いかけようとすると、呉用が、
「いや、行かせてやろう。計には計をもって報いるのだ」
と制した。宋江が、
「軍師、どういう手をうつのです」
とたずねると、呉学究がいうには、
「城内は兵力が手薄です。そのため援軍を求める使いを出したのです。こちらでは二隊の人馬を救援の軍勢に見せかけて、途中で乱戦を演じて見せるのです。高廉はきっと城門をひらいて加勢に出てくるでしょうから、その機に乗じて城を陥れる一方、高廉を裏道のほうにさそいこむのです。そうすれば必ずいけ捕りにできましょう」
宋江はそれを聞いて大いによろこび、戴宗を梁山泊へ帰らせて、別に二隊の軍勢を両路からくり出させることにした。
一方、高廉は、城内の広場に粗朶を積んで、毎夜、天もこがさんばかりに燃やして目じるしにし、城壁の上でひたすら援軍のくるのを待っていた。四五日すると、城壁の守備兵が、宋江の陣地が戦いもせぬのに乱れ立っているのを見て、急いで知らせにきた。高廉はそれを聞くと、あわただしくよろいをつけ、城壁の上にあがって見わたした。と両路からの軍勢が、日もかげるほどの戦塵をあげ、天にとどくばかりの喊声をあげつつ突きすすんでくるのが見えた。城の四方を包囲している宋江の軍勢は、算をみだして逃げ散っている。高廉はそれを見て、さてこそ両路の援軍の到来とばかり、城内の軍勢をことごとく集め、城門を開け放って手わけをして斬って出た。
さて、高廉が宋江の陣地の近くまでおし寄せて行くと、宋江が花栄と秦明をひきつれ、三騎で裏道のほうへ逃げて行くのが見えた。高廉は軍勢をひきつれて急いでそのあとを追った。と、とつぜん丘のむこうで連発の号砲が鳴りひびいた。これはおかしいぞといぶかり、すぐ軍勢をまとめてひき返すと、両側に銅鑼の音がひびき、左手からは呂方が、右手からは郭盛が、それぞれ五百の軍勢をひきつれて飛び出してきた。高廉はあわてて必死に逃げ出したが、部下の軍勢の大半は討ちとられてしまった。ようやくそこから逃げ出したとき、城をふり仰いで見ると、すでに梁山泊の旗じるしがかかげられている。目をあげてあらためて見まわせば、援軍など影も形もない。どうすることもできず、敗残の兵をひきつれて山陰の小路を逃げて行くと、十里ほど行ったとき、山のむこうから一隊の軍勢が飛び出してきた。その先頭に擁せられているのは病尉遅《びよううつち》の孫立で、行くてにたちふさがって大声で呼ばわった。
「さっきから待ちかねておったぞ。さっさと馬をおりて縄をちょうだいしろ」
高廉が兵をひきうれてもどろうとすると、うしろにもすでに一隊の軍勢が退路をふさいでいた。その先頭の馬上の人は美髯公《びぜんこう》の朱仝《しゆどう》であった。かくて前後から挟み討ちになり、四方の退路をたたれ、高廉は馬をすてて山へ逃げのぼった。四方の兵もいっせいに山へ追いのぼる。高廉はあわてて口に呪文をとなえ、
「行け」
と一喝し、一片の黒雲にのってするすると空に舞いあがり、そのまま山頂へとのぼって行った。と、丘のかたわらに公孫勝があらわれ、それを見るやすぐ剣をとり、馬上から空にむかって法術をつかい、口に呪文をとなえて、
「えいっ」
と一喝、剣をかざして上をさし示せば、高廉は雲の上からまっさかさまに落ちてきた。そこへ挿翅虎《そうしこ》の雷横が飛び出して行って、朴刀をふるって高廉をまっぷたつに斬った。憐れむべし、五馬(注五)の諸侯の貴きも、化して南柯《なんか》の夢の人とはなったのである。それをうたった詩がある。
上之《これ》に臨むに天鑒《てんかん》を以てし
下之を察するに地祇《ちぎ》を以てす
明《めい》(現世)には王法の相継《つ》ぐ有り
暗《あん》(冥界)には鬼神の相随う有り
兇を行《おこな》えば畢竟《ひつきよう》兇に逢い
勢を恃《たの》めば還《また》勢を失うに帰す
君に勧《すす》む自ら平生を警《いまし》めよ
嘆ず可し驚く可し畏《おそ》る可し
さて雷横が首級をひっさげて一同は山をおりたが、使いのものをさきに走らせそのことを総帥に知らせた。宋江は高廉を殺してしまったことを知ると、兵をまとめて高唐州の城内へはいり、まず命令をくだして、住民に危害を加えることのないよういましめるとともに、掲示を出して住民を安んじさせ、いささかも犯すことはなかった。
一方では、大牢へ柴大官人を救いに行ったが、そのときにはもう牢屋詰めの軍官や牢番・獄卒などはみな逃げてしまっていて、四五十人の囚人だけが残っていた。これはことごとく枷や鎖をはずして自由にしてやったが、そのなかに柴大官人の姿だけがなかった。宋江はひどく憂慮した。ある監房をさがしたところ、そこには柴皇城の家族たちが閉じこめられていたし、また他の牢には滄州から捕らえられてきた柴進の一家眷族《けんぞく》がみないっしょにおしこめられていた。いずれも連日のいくさのためにまだ処理されずにいたのであった。だが、柴大官人だけはどこにも見あたらない。呉学究が高唐州の牢番や獄卒たちを集めて訊問《じんもん》をすると、そのなかのひとりが、
「わたくしは牢屋詰めの軍官で藺仁《りんじん》というものですが、先日、知府の高廉さまから、きびしく柴進を監視して、決して手ぬかりのないように気をつけよといいつけられ、また、もし変事がおこったらただちに斬ってしまえといいふくめられました。そして三日前のこと、知府の高廉さまは柴進どのをひき出して殺すようにいわれましたが、わたくしはあのかたが立派な人物なのを見て手をくだすに忍びませんでしたので、当人は病気でもう死にかけておりますから手をくだすまでもございませんとごまかしておいたのです。その後またきびしくせかされましたので、わたくしは、柴進はもう死んでしまいましたと答えておきました。連日のいくさで知府どのはいそがしくしておられましたが、わたくしは誰かを確かめによこされでもしたら罰をくわされるに決まっていますので、きのう柴進どのを裏のかれ井戸のところへつれて行って、枷や鎖をはずしてなかへかくしてあげたのですが、いまごろはどうなっておられますことか」
宋江はそれを聞くと急いで藺仁に案内をさせ、牢の裏のかれ井戸へ行ってのぞいて見ると、なかはまっ暗で、どれくらいの深さかもわからない。上から声をかけてみたが、答えもない。縄をおろしてさぐってみると、深さはおよそ八九丈あった。宋江は、
「これでは、柴大官人どのも助かるまい」
と涙を流したが、呉学究が、
「まだおなげきになることはありません。誰かをおろしてさぐらせてみれば、わかります」
というと、すかさず黒旋風の李逵が出てきて、大声でいった。
「おいらがおりてみましょう」
「それはありがたい。彼をこんな目にあわせたのは、もとはといえばあんただ。いまからそのつぐないをしてもらおう」
と宋江はいった。李逵が笑いながら、
「おりて行くのはこわくないが、あんたたち、縄を切っちゃいかんぞ」
というと、呉学究が、
「まったくぬけ目のないやつだな」
といった。大きな竹籠を持ってきて、それに縄をかけ、その縄にさらに長い縄を結びつけ、支柱を組み立ててその天辺《てつぺん》に縄のさきをくくりつけると、李逵は裸になり、二梃の板斧を持って籠に乗り、井戸のなかへおろされて行った。縄には鈴がふたつむすびつけてある。だんだんおりて行って井戸の底を手でさぐった。と、なにか一塊《ひとかたま》りのものをさぐりあてたが、なんとそれは骸骨だった。
「うわっ! 縁起でもないものがありやがる」
と李逵はいって、またほかのところを手さぐりしてみると、底はぐちゃぐちゃしていて、足を踏んばるところもない。李逵は二梃の斧を籠のなかへ投げ入れ、四つん這いになって底をさぐった。底は意外に広かった。しばらくさぐっているうちに、水たまりのなかに丸くなってうずくまっている人にさわった。
「柴大官人どの」
と李逵は大声で呼んだが、相手はぴくりとも動かない。手をのばしてなでると、かすかにうめき声をあげたようだった。
「ありがたい、この様子では助かるかもしれん」
と、李逵はすぐ籠のなかに這いあがって鈴をゆすぶった。すると、みんなは籠をひっぱりあげた。
李逵が井戸底のことを話すと、宋江は、
「もういちどおりてくれ。まず柴大官人どのを籠にいれて引きあげ、それからもういちど籠をおろしてあんたを引きあげることにしよう」
「兄貴、じつはわたしは薊州へ行って二度もひどい目にあわされたんです。三度目をくらうのはいやですよ」
「わたしはからかったりなどしない。早くおりて行ってくれ」
と宋江は笑いながらいった。李逵はしかたなしにまた籠のなかへはいり、もういちど井戸のなかへおりて行った。底につくと、李逵は籠から這い出して、柴大官人を籠のなかへかかえいれ、縄につけてある鈴をゆすぶった。
上ではそれを聞くと、急いでたぐりあげた。籠が外へ引き出されると、一同はそれを見て大いによろこんだ。宋江が柴進を見ると、頭にも額にも傷をうけ、両脚の皮や肉は破れただれ、眼はかすかに開けたり閉じたりしている。宋江はそのいたましさに堪えられぬ思いで、医者を呼んで手当をたのんだ。一方、李逵は井戸の底で大声でわめきたてた。宋江はそれを聞きつけると、急いで籠をおろさせて、彼を上へ引きあげた。李逵はあがってくるとぷりぷりして、
「おまえさんたちは全くわるい人たちだ。どうしてすぐに籠をおろしておれを出してくれなかったんだ」
「みんな柴大官人どのにばかり気をとられて、あんたのことを忘れてしまっていたのだ。すまなかった」
と宋江はいった。
宋江はさっそく一同を指図して、柴進を車にかつぎあげて寝かせ、両家(柴皇城と柴進)の家族および奪い返した多くの家財を、計二十余輛の車で、李逵と雷横に一足さきに梁山泊へ護送して行かせ、ついで高廉の一家のもの三四十人をことごとく町にひき出して打ち首にし、藺仁《りんじん》には褒美をあたえ、さらに府庫の財帛や倉庫の糧米、および高廉の家財全部をすべて山へ運ぶことにし、かくて全軍は高唐州をあとに、梁山泊へと凱旋して行った。途中の州や県ではいささかも犯すことなく、数日にして大寨に帰りついた。柴進は病体にもかかわらず、起きあがって晁・宋の二頭領ならびに頭領たち一同に礼をのべた。晁蓋は柴大官人にたのんで、山頂の宋公明の住居のところに、もう一棟の家をたてて、家族のものといっしょに住んでもらうことにした。晁蓋・宋江をはじめ一同は、みな大いによろこんだ。高唐州から凱旋したうえに、柴進と湯隆の両頭領を仲間に迎えたので、慶賀の宴が設けられたが、この話はそれまでとする。
ところで、東昌・寇州の二州では、すでに高唐州では高廉が殺され、城も陥落したことを知ると、いまはせんすべもなく、上奏文をしたため、使者をつかわして朝廷に上奏した。また、高唐州からのがれてきた役人たちも、みな京師へ行って実情を訴えた。高太尉はそれを聞き、いとこの高廉が殺されたことを知ると、翌日の五更(朝四時)、待漏院《たいろういん》(朝見のときの控えの間)で景陽宮《けいようきゆう》の鐘《かね》(朝見開始の合図)の鳴るのを待ちかねた。百官はみな官服に威儀をただして殿前に集まり、朝見の儀を待つ。その日、五更三点(五時)道君《どうくん》皇帝(徽宗《きそう》)は出御された。浄鞭《じようべん》(静粛をさとす鞭)が三たび鳴り、文武の百官が左右に列をただし、天子が着座されると、殿頭官《でんとうかん》(宮廷侍従の官)がよばわった。
「奏上の儀あらば列を出て早々に申されますよう。なければこれにておひらきといたします」
すると高太尉が列を出て上奏した。
「いまや済州梁山泊の賊主、晁蓋および宋江なるもの、しきりに大悪をかさねて、城池をおそい倉庫をかすめ、兇悪なる徒党を集めて、近くは済州にて官軍を殺害し、江州の無為軍をさわがせ、いままた高唐州の官民をことごとく殺戮《さつりく》して、倉庫の金品を残らず奪って行きました。まことに心腹《しんぷく》の大患《たいかん》というべく、すみやかに討ち平らげなければ、やがて勢いを増大して、制圧することもむずかしくなろうかと存じます。伏してご聖断のほどをねがいあげます」
天子はそれを聞いて大いにおどろかれ、すぐ聖旨をくだし、高太尉に命じて、将をえらび、兵をすぐり、討伐の兵をおこして必ず梁山の水泊を掃蕩し、一味を殲滅《せんめつ》するようにと仰せられた。高太尉はかさねて上奏した。
「たかが小盗人に対して、大軍を動かすこともなかろうかと存じます。わたくしがひとりの将をおすすめいたします。そのものをつかわせば、失地を奪い返すことができましょう」
「そのほうの推挙ならば、必ずまちがいはあるまい。ただちに行かせるがよい。勝利をおさめ功をたてたならば、官位を加え恩賞をとらせ、重く任用するであろう」
「そのものは、建国のみぎりの河東の名将、呼延賛《こえんさん》の嫡流の子孫にて、一字名で灼《しやく》と申し、二本の銅鞭《どうべん》の使い手で、万夫不当の勇がございます。いまは汝寧《じよねい》郡(州)の都統制《ととうせい》(総指揮官)の任にあり、配下には多くの精兵と勇将がおりますが、わたくしの推挙するのはこのものでございまして、必ずや梁山泊を平らげ得るでありましょう。このものを兵馬指揮使に任じ、歩騎の精鋭をあたえて、日限を定め、山寨を掃蕩して凱旋させましょう」
天子はその上奏をいれて聖旨をくだされ、枢密院(軍の統帥部)に命じ、ただちに勅書をたずさえた使者を汝寧州につかわして急ぎ呼びよせるよう仰せられた。その日、朝見がおわると、高太尉は帥府《すいふ》(元帥府)から枢密院に命じ、軍官一名をさし出させ、これに聖旨を持たせて呼びに行かせることにし、その日のうちに出発させて、日限内に呼延灼《こえんしやく》を上京させ、命をさずけることにした。
さて、呼延灼が汝寧州の統軍司に登庁していると、門番のものが知らせにきた。
「聖旨がくだって、とくに将軍を京師に招き、ご用命のむきがある由でございます」
呼延灼は州の役人とともに城外まで出て使者を統軍司に迎えいれ、聖旨の開読をうけてから、宴席を設けて使者をもてなし、とり急いで、かぶと・よろい・馬・武器を用意し、従者三四十名をひきしたがえて使者とともに汝寧州をあとに、急いで京師へむかった。途中は格別の話もなく、やがて京師の城内、殿司府《でんしふ》(殿帥府《でんすいふ》)の前につき、馬をおりて高太尉に会いに行った。
その日、高〓《こうきゆう》が殿帥府に登庁していると、門番のものが知らせにきた。
「汝寧州から、お召しによって呼延灼が参上し、いま門の外にひかえております」
高太尉は大いによろこび、呼びいれさせて会ったが、見れば呼延灼は風貌いやしからざる人物で、まさに、
開国の功臣の後裔《こうえい》、先朝の良将の玄孫。家伝の鞭法《べんぽう》最も神《しん》に通じ、英武戦陣を熟経す。剣に仗《よ》ってよく虎穴を探《さぐ》り、弓を彎《ひ》いてよく〓群《ちようぐん》を射る。将軍世に出でて乾坤《けんこん》を定め、呼延灼威名大いに震《ふる》う。
そのとき高太尉は労をねぎらい、賞をとらせた。そしてその翌日の朝、道君皇帝に拝謁させたが、徽宗天子には呼延灼のいやしからざる風貌を見て竜顔《りようがん》をほころばされ、〓雪烏騅《てきせつうすい》と名づける名馬を下賜された。この馬は全身が墨のように黒く、四つの蹄が練り絹のようにまっ白なところから、それに因《ちな》んで〓雪烏騅(雪を〓《け》る黒馬)と名づけられたもので、日によく千里を走破する名馬であった。それを天子は呼延灼の乗用に賜わったのである。呼延灼は聖恩を謝し、高太尉にしたがって殿帥府へもどり、梁山泊討伐の軍事を協議した。呼延灼のいうには、
「申しあげます。わたくしの探知したところによりますと、梁山泊は将兵の数多く、その武芸もなみなみならぬものがあって、あなどるべからざる強敵でございます。それにつきましておねがいいたしたいのは、ふたりの将を先鋒に挙げ用いまして、ともに人馬をひきいてかの地へおもむきたく、そうすれば必ず大功をおさめ得るものと存じます」
高太尉はそれを聞くと大いによろこんで、たずねた。
「して、そのほうは誰を先鋒に推そうというのか」
呼延灼がその二将を推挙したばかりに、宛子城《えんしじよう》重ねて良将を添え、梁山泊大いに官軍を破り、かつまた、功名いまだ凌煙閣《りようえんかく》(注六)にのぼらざるに姓字をまず聚義庁に標《しる》さしむ、という次第とはなるのであるが、さて呼延灼は高太尉に対していかなるものを推挙したか。それは次回で。
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一 接風酒 第五十回注三参照。
二 五明の扇 五明は、声明・工巧明・医方明・因明・内明の五つ。五明扇は、舜が堯から帝位を譲りうけたとき、賢能の士を招くために創始したという。
三 九綸の巾 九綸は、ふつう綸巾または諸葛巾といい、諸葛孔明が創始したという黒い頭巾。
四 六甲の風雷 六甲は、方位をつかさどる道家の六神。六甲風雷は邪悪をはらう道家の呪法の名。
五 五馬 五頭だての馬車の意で、知府の美称。
六 凌煙閣 唐の太宗が功臣の画像をかかげたという宮閣。
第五十五回
高太尉《こうたいい》 大いに三路の兵を興《おこ》し
呼延灼《こえんしやく》 連環馬《れんかんば》を擺《なら》べ布《し》く
さて、高太尉は呼延灼《こえんしやく》にたずねた。
「そのほうは、誰を先鋒に推そうというのか」
呼延灼がそれに答えていうには、
「わたくしが推挙いたしますのは、陳《ちん》州の団練使《だんれんし》(民兵の調練にあたる指揮官)で、姓は韓《かん》、名は滔《とう》といい、東京《とうけい》の出身で、武挙《ぶきよ》(武官の登用試験)にも通っており、棗木槊《そうぼくさく》(棗《なつめ》の木で作った長い矛《ほこ》)の使い手で、百勝将軍《ひやくしようしようぐん》とあだ名されております。このものを正先鋒《せいせんぽう》とし、もうひとり、穎《えい》州の団練使で、姓は彭《ほう》、名は〓《き》といい、同じく東京の出身で、代々武将の家柄のもの、三尖両刃《みつまたもろは》の使い手で、その武芸は衆に抜きん出、天目将軍《てんもくしようぐん》とあだ名されております。このものを副先鋒といたしたいと存じます」
高太尉はそれを聞くと、
「韓・彭の二将を先鋒にすれば、いかに兇悪な賊といえどもなにほどのことがあろう」
と大いによろこんだ。その日、高太尉は殿帥府から二通の文書を出し、枢密院に命じて使者をさし出させ、夜を日についで陳《ちん》・穎《えい》の二州へ行き韓滔と彭〓を急ぎ京師に召しつれてくるよういいつけた。十日とたたぬうちに、二将は早くも京師に着き、ただちに殿帥府にきて太尉と呼延灼とに見参した。翌日、高太尉は衆人をしたがえて御教場《ぎよきようじよう》(近衛の練兵場)で武芸の調練を見、とどこおりなく閲兵をすませると、殿帥府にひき返して枢密院の諸官と会合し、軍機の大事を協議した。そのとき高太尉は呼延灼にたずねた。
「そのほうらの三路(汝寧・陳州・穎州)の人馬は、みなでどれくらいになるか」
「三路の騎兵はあわせて五千、歩兵を加えますと一万になります」
「では、そのほうたち三名はそれぞれ州にもどって精鋭な騎兵三千と歩兵五千をえらび、期日をしめしあわせて兵をすすめ、梁山泊を討伐してくれるように」
「わたくしども三路の歩騎の兵馬は、いずれも十分に訓練をつみ、兵も馬も極《きわ》めて強壮でございます。その点はご憂慮をわずらわすことはございませんが、ただ、武具が十分にととのっておりませんので、そのため期日におくれて罪を招くことがあるやも知れません。おそれながら、いましばらく期限をおのばしくださいますよう」
「そのような次第ならば、そのほうたち三人、京師の甲仗庫(兵器庫)よりいくらなりと必要なだけ、よろい・かぶと・刀などをえらび出して受領して行くがよい。十分に装備をととのえて、堂々と敵にあたれるようにいたせ。出陣の際には当方より使者をつかわして検閲をさせることにいたそう」
呼延灼は指令を受けると、人をつれて、甲仗庫へ受領に行った。そして、鉄のよろい三千領、なめし皮の馬のよろい五千領、銅や鉄のかぶと三千個、長槍二千本、滾刀《こんとう》(長柄の大刀)一千本、弓矢は数えきれぬほど、ほかに火砲や鉄砲を五百梃あまりえらび出して、それらをみな車につみこんだ。出発の日、高太尉はさらに軍馬三千頭をあたえ、三名の将軍にはそれぞれ金銀や反物をさずけ、全軍にはもれなく食糧や賞品をわたした。呼延灼と韓滔および彭〓は、それぞれ必勝の誓書をさし出し、高太尉および枢密院の諸官に別れを告げ、馬に乗っていっしょに汝寧州へとむかった。道中では格別の話もなく、やがて汝寧州に着くと、呼延灼は韓滔と彭〓に、それぞれ陳《ちん》・穎《えい》の二州へ帰って軍をおこし、汝寧で落ちあうようにいった。それから半月とはたたぬうちに、三路の兵馬は早くも準備を完了した。呼延灼は京師より受領してきたよろい・かぶと・刀・旗・槍・馬、およびあらたに作った連環鉄鎧《れんかんてつがい》(くさりのよろい)や武器などを全軍に分配して、出陣の時を待った。やがて高太尉は殿帥府からふたりの軍官を検閲によこして、全軍の将兵をねぎらった。それがすむと呼延灼はいよいよ三路の兵をおしつらねて城を出たが、そのさまは、
鞍上の人は鉄鎧《てつがい》を披《き》、坐下の馬は銅鈴を帯ぶ。旌旗《せいき》は紅く一天の霞を展《の》べ、刀剣は白く千里の雪を鋪《し》く。弓は鵲《かささぎ》の画を彎《ひ》き、飛魚袋《ひぎよたい》(弓ぶくろ)は半《なか》ば竜梢《りゆうしよう》(ゆはず)を露わし、籠《ろう》(矢かご)は〓〓《ちようれい》(たかの羽)を挿《さしはさ》み、獅子壺《ししこ》(矢の基部を挿し立てるところ)は緊《きび》しく豹尾《ひようび》を〓《むす》ぶ。人は深〓《しんかい》を頂いて護項《ごこう》(しころ)を垂れ、微《かす》かに双睛を漏らす。馬は重甲を披《き》て朱纓《しゆえい》を帯び、単《ただ》四足を懸《あらわ》す。開路(先鋒)の人兵は斉《ひと》しく大斧を担《にな》い、合後《ごうご》(しんがり)の軍将は尽く長槍を撚《と》る。数千の甲馬州城を離れ、三個の将軍水泊に来《きた》る。
かくて軍をおこし、兵馬をおしつらねて城を出て行った。前軍の先鋒は韓滔《かんとう》、中軍の主将は呼延灼《こえんしやく》、後軍のおさえは彭〓《ほうき》。歩兵・騎兵の全軍は津波のように梁山泊へとおしかけて行く。
一方、梁山泊の物見の早馬《はやうま》は、急遽本寨へかけつけてこのことを知らせた。聚義庁では中央に晁蓋と宋江、その右に軍師の呉用、左には法師の公孫勝、以下もろもろの頭領たちが、柴進のために終日よろこびの宴をひらいていたが、汝寧州の双鞭《そうべん》の呼延灼《こえんしやく》が人馬をひきいて討伐にきたという知らせを受けると、一同はこれを迎えうつ方策を相談した。呉用のいうには、
「わたしの聞いているところでは、彼の祖先は建国の功臣、河東の名将の呼延賛で、彼はその嫡流の子孫。なかなか武芸にすぐれ、二本の銅鞭《どうべん》の使い手で、容易に近よるものはないとのこと。それゆえ、たたかいになれた勇将にまず武力であたらせ、ついで智略をもって捕らえることにいたしましょう」
まだその言葉のおわらぬうちに、黒旋風の李逵が、
「わしがそやつを、ひっ捕らえに行きましょう」
といい出した。すると宋江が、
「いや、あんたじゃいかん。わたしに考えがあるのだ。霹靂火《へきれきか》の秦明に先陣を承ってもらい、豹子頭《ひようしとう》の林冲に第二陣、小李広《しようりこう》の花栄に第三陣、一丈青《いちじようせい》の扈三娘《こさんじよう》に第四陣、病尉遅《びよううつち》の孫立に第五陣になってもらう。この前線の五陣は、一隊ずつたたかいをくり返して、ちょうど紡《つむ》ぎ車のように、うしろの隊といれかわってもらいたい。わたしは十人の兄弟たちとともに本隊の軍勢をひきいて後詰めになる。その左軍の五将は、朱仝・雷横・穆弘・黄信・呂方。右軍の五将は、楊雄・石秀・欧鵬・馬麟・郭盛。水路からは李俊・張横・張順・阮家三兄弟に船で応援してもらう。そして李逵と楊林は、歩兵を指揮して二隊にわかれ、伏兵となって応援してもらいたい」
このように宋江が配置を決めると、先陣の秦明はさっそく人馬をひきつれて山をくだり、ひろびろとした平原に陣をしいた。季節は冬だったが、さいわいに暖かな日和で、一日待つと、早くも官軍のやってくるのが見えた。先鋒隊の百勝将《ひやくしようしよう》の韓滔《かんとう》は、兵をひきいて陣をかまえ、その夜はたたかいはおこらなかった。
翌日の明けがた、両軍はむかいあって陣をとった。三たび画鼓が打ち鳴らされると、秦明が陣頭へすすみ出た。馬上に狼牙棍《ろうがこん》を横たえて敵陣をうち眺めるに、門旗が開かれたと見るや、先鋒の将韓滔《かんとう》がすすみ出て、槊《ほこ》を横たえ、馬をとめて、大いに秦明をののしった。
「天子の軍勢がきたというのに、早々に投降せざるのみか、敢て手むかいをするとは、殺してもらいたいからか。きさまたちの水泊を埋めつくし、梁山を踏み砕き、きさまたち逆賊どもをいけどりにし、京師へしょっぴいて行ってずたずたに斬り刻んでくれようぞ」
秦明は怒りっぽいたちだったので、それを聞くや声もかけず、いきなり馬を飛ばし狼牙棍をふりまわして、韓滔におそいかかって行った。韓滔も槊《ほこ》をかまえ馬を躍らせて秦明を迎え討つ。ふたりはわたりあうこと二十余合、韓滔がひるんで今にも逃げ出そうとしたとき、うしろに、中軍の主将呼延灼が到着し、韓滔が秦明に敵しかねているのを見ると、ただちに中軍から双鞭をふりまわしつつ、恩賜の乗馬〓雪烏騅《てきせつうすい》をいななかせて陣頭にかけつけた。秦明がそれを見て呼延灼とたたかおうとしたとき、二番手の豹子頭の林冲があらわれて、
「秦統制、しばらくお休みなされよ。わしが三百合ほどたたかって、あしらってやりましょう」
と叫び、蛇矛《じやぼう》を構えて呼延灼に挑《いど》んで行く。秦明は、部下の兵馬をひきいて左辺へまわり、丘のむこう側へ退いて行った。一方、呼延灼と林冲がわたりあったが、両者まったく互角の好敵手。槍来《きた》り鞭去って花《はな》一団、鞭去り槍来って錦一簇《にしきいつそう》と、目もあやに両者わたりあうこと五十合を越えたが、勝敗は決しなかった。と、そこへ三番手の小李広の花栄の軍がやってきて、陣門あたりで大声で呼ばわった。
「林将軍、しばらくお休みなされよ。わしがそやつをひっ捕らえてやりましょう」
林冲が馬首を転じて退くと、呼延灼も林冲の腕のてごわさを知って、自陣へひきあげて行った。林冲は配下の兵馬をひきもどし、丘のむこう側へ退いて、あとは花栄が槍をかまえて出て行くのに任せた。そのとき、呼延灼の後軍も到着し、天目将の彭〓《ほうき》が、三尖両刃四竅《きよう》八環《かん》の刀を横たえ、五明千里の白鹿毛の馬を飛ばし、陣頭に出て大いに花栄をののしった。
「国に楯つく逆賊め、おまえたちなぞものの数でもないわ。さあ尋常に勝負をいたせ」
花栄は大いに怒り、言葉をかえすいとまもなく、ただちに彭〓と馬をまじえた。両者わたりあうこと二十余合、呼延灼は彭〓が劣勢になるのを見ると、馬を飛ばし鞭をふりまわしてまっしぐらに花栄におそいかかって行ったが、二三合わたりあったとき四番手の一丈青の扈三娘《こさんじよう》の人馬があらわれて、大声で呼ばわった。
「花将軍、しばらくお休みください。わたくしがそやつを捕らえてお目にかけましょう」
花栄は軍をひきいて右辺へまわり、丘の下へ退いて行った。彭〓は一丈青とたたかったが、容易に勝敗は決しない。と、五番手の病尉遅の孫立の人馬があらわれ、馬を陣頭にとめて、扈三娘と彭〓のたたかいを見守った。ふたりは征塵を蹴立て殺気をみなぎらせつつ、ひとりは大桿刀(長柄の大刀)をふるい、ひとりは両刀をつかい、互いにわたりあうこと二十余合。一丈青は両刀をさっとひき、馬首を転じて逃げ出した。彭〓は手柄をたてようとはやりたち、馬を飛ばして追いかけた。と、一丈青は両刀を馬の鞍にひっかけ、袍《うわぎ》の下から二十四個の鉤《かぎ》のついた紅錦のかけ縄をとり出し、彭〓の馬が近づくのを待って身体をねじむけざま、そのかけ縄を、空にむかってさっと投げると、ねらいたがわず、彭〓は防ぐ間もなくいきなり馬からひきずり落とされてしまった。孫立は兵に命じていっせいにおそいかからせ、彭〓を捕らえてしまった。呼延灼はそれを見て、かっとなり、たけりたって助け出しに行くところを、一丈青は馬を飛ばして迎え撃った。呼延灼はいまにも一丈青を一口に呑みくださんばかりの勢いでおそいかかり、ふたりは十合あまりわたりあったが、呼延灼はなかなか一丈青を打ち負かすことのできぬのを知って心のなかに思うよう、
「この、あばずれ女め、このおれと、こうまでやりあうとは、よほどのしたたかもの」
と、さっそく、わざと負けたふりをして相手をつけいらせざま、いきなり双鞭をふるってただ一打ちにと打ちつけたが、一丈青の双刀は、はやくも彼の胸もとに迫っていた。呼延灼はそこで右手の銅鞭を振りあげ、一丈青の脳天めがけて打ちおろしたが、一丈青もさるもの、すばやく刀でそれをさえぎり、右手の一刀をふりかざした。同時に呼延灼も鞭を打ちおろした。鞭は刀とまじわってかちっと鳴り、火花を散らした。一丈青は馬をもどして自軍へかけもどって行く。呼延灼が馬を飛ばしてこれを追うと、病尉遅の孫立がそれを見て、すかさず槍をかまえ馬を飛ばし、呼延灼をさえぎってたたかった。背後にはそのときちょうど宋江が十人の良将をひきつれて到着し、陣をしいた。一丈青は人馬をひきつれて、これまた丘の下へ退いて行った。宋江は天目将の彭〓をいけどりにしたのを見て大いによろこび、陣頭に出て行って孫立と呼延灼の一騎討ちを見守った。孫立も槍をおさめ、腕にかけていたかの節くれだった鋼鞭《こうべん》をつかんで呼延灼を迎えた。かくてふたりはともに鋼鞭でわたりあったが、そのいでたちが、また似ていた。病尉遅の孫立は、交角の鉄〓頭《てつぼくとう》(角のとがった鉄の頭巾)、大紅羅《こうら》の抹額《まつがく》(赤い絹の鉢巻き)、百花点翠の〓羅袍《そうらほう》(翠《みどり》をあしらった花模様のある黒い絹の上着)、烏油〓金《うゆうそうきん》の甲(黒地に金を象眼したよろい)、そして一匹の烏騅馬《うすいば》(黒い馬)に乗り、一条の竹節虎眼の鞭(節くれだった鉄鞭)を使い、尉遅恭《うつちきよう》(注一)にもひけをとらない。一方の呼延灼は、これは、冲天角《ちゆうてんかく》の鉄〓頭(先のとがった鉄の頭巾)、銷金黄羅《しようきんこうら》の抹額(金箔をした黄色い絹の鉢巻き)、七星打釘《しちせいだてい》の〓羅袍(星の模様をつけた黒い絹の上着)、烏油対嵌《うゆうついかん》の鎧甲《がいこう》(黒地に金を対に象眼したよろい)、そして一匹の恩賜の〓雪烏騅《てきせつうすい》に乗り、両条の水磨の八稜鋼鞭(磨きあげた八角の鋼鞭)を使い、左手のは重さ十二斤、右手のは十三斤、まことに呼延賛さながらである。ふたりは陣頭で、左に右に、わたりあうこと三十余合におよんだが、勝敗を決しなかった。宋江はそれを見てただただ感嘆するばかり。これをうたった詩がある。
各《おのおの》烏騅《うすい》に跨って健なること竜の似《ごと》し
呼延賛対《たい》尉遅恭
双鞭の遇敵するは真に奇事
更に好し同《とも》に不語(不争)の中に帰しなば
官軍の陣地では韓滔が、彭〓が捕らえられたと聞くと、すぐ後陣へ行って全軍を立たせ、いっせいに攻め寄せてきた。宋江がおしまくられないよう、鞭をふって合図すると、十人の頭領たちはそれぞれ部下をひきいて殺到して行き、後詰めの四隊の軍勢は二手にわかれて両側から挟み撃ちをかけた。呼延灼はそれを見ると、急いで本隊の人馬をひきもどし、互いににらみあいの形となった。宋江がなぜ勝を制することができなかったかというと、それは呼延灼の軍がみな連環馬《れんかんば》だったからである。つまり官軍の馬は馬甲をつけ、兵は鉄鎧を着ていた。馬は甲《よろい》をつけて、ただ四つの蹄をあらわにしているだけであり、兵も鎧《よろい》を着て、ただ二つの眼を出しているだけであった。宋江の軍にもよろいをつけた馬はいたが、それは赤い纓《ふさ》をつけた面具と、銅の鈴と雉《きじ》の尾羽の飾りをつけているだけのものであった。こちらから矢を射っても、むこうではよろいでみな防ぎとめてしまう。そのうえかの三千の騎兵は、それぞれ弓を持っていて、真向《まつこう》から射ってくるので、近寄ることができない。宋江は急いで、金鼓を鳴らさせて軍をひきあげた。呼延灼のほうでも二十余里後退して陣をかまえた。
宋江は軍をひくと、山の西側に退いて陣をかまえ、人馬を休ませた。そして、かたわらの護衛兵に命じて彭〓《ほうき》をひきたててこさせた。宋江は彭〓がくるのを見ると、立ちあがって、兵士たちを退《ひ》きさがらせた。そしてみずからその縄を解き、手をとって幕営のなかへいれ、賓客の席にすわらせて礼をした。彭〓はあわてて礼をかえし、
「わたくしは捕らわれの身であり、殺されるのがあたりまえです。それなのに、なぜあなたは賓客の礼をもって遇されるのですか」
「われわれ一同は、どこにも身をおくところがなく、しばらく水泊に拠《よ》って難を避けながら、かさねがさね悪事をはたらいております。このたび朝廷よりあなたを討伐におつかわしになりましたについては、本来ならば首をさしのべて縛《ばく》につくべきですが、そうすればおそらくいのちを取られることになりましょうから、罪深くも鋒をまじえ、無礼にもおん名を汚すようなことをいたしました次第。なにとぞおゆるしくださいますよう」
「あなたが、義をおこない仁をほどこし、危うきを助け困《くる》しめるを救うお人であることは、かねてから聞いておりましたが、うわさにたがわぬ立派なご気性。もしこの一命をお助けくださいますならば、一身を投げすててお上におとりなしいたしましょう」
「われわれ兄弟一同は、聖上のご恩徳によってこの重罪がゆるされますならば、いのちをかえりみず国のためにつくし、万死も辞せざる覚悟でおります」
詩にいう。
忠は君王の為に賊臣を恨み
義は兄弟を連《つら》ねて且つ身を蔵《かく》す
忠義に因《よ》って心一なる如くならずんば
安《いずく》んぞ百八人を団円《だんえん》(注二)せしむるを得んや
宋江はその日さっそく、人をつけて天目将の彭〓を本寨へ送らせ、晁天王にひきあわせてそのまま寨にとどめておくことにした。そしてこちらの陣地では、全軍の将兵および頭領たちの労をねぎらい、かたがた軍情について協議した。
ところで一方、呼延灼は、兵を退《ひ》いて陣をかまえると、いかにして梁山の水泊を攻め取るかについて韓滔と相談したが、韓滔のいうには、
「きょう、やつらは、こちらがおしかけて行くとあわてて防戦に出てきました。あすは全軍の騎兵をかりたててすすめば、必ず大勝を博することができましょう」
「わたしもそういうふうに手筈《てはず》をととのえておきましたから、あとはうちあわせさえすればよいわけです。さっそく命令をつたえて、三千の騎兵を一列にならべさせ、三十騎を一組にして鉄の環でつなぎ、敵に遭遇したときは、遠ければ矢で射ち、近ければ槍で突っこんで行かせる。この三千の連環の騎兵はこうして三十騎ずつ一百の隊にわけて鎖でつなぎ、五千の歩兵がそのうしろから応援する。わたしたちふたりは、あすは斬りこんでは行かずに後詰めになって督戦にあたることにしましょう。もし接近戦になったときは、手分けして三方から突進するのです」
と方策がとりきめられ、翌日の払暁、出戦することにした。
一方、宋江は、翌日、人馬を五隊にわけて前面に出し、後詰めには十名の将をひかえさせ、伏兵を左右二手にわけた。かくて秦明が先陣をうけたまわり、呼延灼に一戦をいどむべく馬を乗り出したが、見れば敵はただ鬨の声をあげるのみで、敢て鋒をまじえようとはしない。先頭の五隊は、一文字に陣頭にならび、中央には秦明、左翼には林冲と一丈青、右翼には花栄と孫立、そしてその背後には、すぐあとに宋江と十名の将がつづき、重々畳々と人馬をおしつらね、敵陣はと見れば、およそ一千の歩兵が、ただ軍鼓を打ち喊声をあげるばかりで、馬をすすめて鋒をまじえようとするものはひとりもいない。宋江はそれを見てあやしみ、ひそかに号令をつたえて、ひとまず後軍を退かせてから、馬を飛ばして花栄の隊へかけつけ、敵情をうかがおうとすると、とつぜん敵陣から連発の号砲が聞こえ、一千の歩兵がぱっと左右にわかれて、そこから三隊の連環馬の軍が突進してきた。その両翼の二隊は矢を乱射してき、中央の一隊は長槍をかまえている。宋江はそれを見て大いにおどろき、あわてて全軍に矢を射たせたが、とうてい敵すべくもなく、三十騎一組の馬がどっとかけこんできて、おし返すことなどできない。かの連環馬の軍は山をおおい野をみたして縦横無尽に突きすすんでくる。前面の五隊の人馬は、それを見ただけでたちまち浮き足だって、なすすべを知らず、後方の本隊の人馬もこれをおしとめきれず、てんでに逃げ出した。宋江も馬を飛ばして急いで逃げ、十名の将は宋江を守って走った。そのうしろからは早くも一隊の連環馬の軍が追ってきたが、おりよく伏兵の李逵と楊林が部下をひきいて蘆の茂みのなかから斬り出てきて、宋江を救い、水ぎわまで逃がした。そこには李俊・張横・張順・阮家三兄弟の水軍の頭領六人が戦船をそろえて待ちうけていた。宋江は急いで船に乗り、ただちに命令を出して、手わけして頭領たちを迎え、船に乗らせた。かの連環馬は水辺まで追ってきて矢を乱射したが、船にはそれを防ぐ楯があったので、損害はこうむらなかった。急いで船を鴨嘴灘《おうしたん》に漕ぎ寄せ、全員岸にあがって、水寨で軍勢を点呼してみると、兵の半数を失っていた。だが、さいわいに頭領たちはみなそろっていて、乗馬をなくしたものはいたが、いのちには別状はなかった。しばらくすると、石勇・時遷・孫新・顧大嫂が、そろって山へ逃げてきて、いうには、
「敵の歩兵が斬りこんできて、店をすっかりぶちこわされてしまいました。もし信号舟が迎えにきてくれなかったら、みんなとりこにされてしまったでしょう」
宋江はひとりひとりをいたわった。
頭領たちを調べてみると、矢にあたったものが、林冲・雷横・李逵・石秀・孫新・黄信と六人もあり、手下たちの傷をうけたり矢にあたったりしたものに至っては数えきれないほどであった。晁蓋は知らせを受けて、呉用と公孫勝をつれ、山をおりて見舞いにきた。宋江は顔をくもらせて沈んでいる。呉用がなぐさめて、
「兄貴、そうくよくよするものではありません。勝敗は兵家の常、気にすることはありません。なにか良策を考えて、連環馬の軍勢を打ち破りましょう」
晁蓋は命令を出して、水軍に水寨と船を厳重に警固して船つき場を守り、昼夜警戒を怠ることのないようにいいつけ、宋公明には山上で休息をとるようにといった。だが宋江はどうしても山へのぼることを承知せずに、鴨嘴灘の水寨にとどまり、負傷した頭領たちだけを山へのぼらせて養生させた。
一方、呼延灼は、大勝を博して自陣にひきあげ、連環馬の鎖を解かせ、それぞれにその手柄を報告させたが、斬り殺したものの数は数えきれず、とりこにしたものは五百余名、奪った軍馬は三百余頭であった。さっそく使者を京師へやって勝報をつたえさせるとともに、全軍の将兵に賞をあたえてその功をねぎらった。
一方、高太尉は、殿帥府へ登庁したところへ、門番から、
「呼延灼どのの梁山泊討伐は勝利を博したとのことで、その使者がまいりました」
と知らされて、大いによろこび、翌日の朝見のおり、列を出て天子に奏上した。徽宗皇帝はいたくよろこばれ、黄色(天子の色)の封をした御酒《ぎよしゆ》十瓶と錦の袍一領《ひとかさね》を下賜され、役人一名を使者に立て、銅銭十万貫を持たせて陣営へつかわし、軍をねぎらうよう仰せられた。高太尉は聖旨を受けると殿帥府にもどり、ただちに役人をつかわしてそれを持って行かせた。
一方、呼延灼は、勅使の派遣されたことを知ると、韓滔とともに二十里さきまで出迎えた。そして陣中に迎え入れ、聖恩を謝して賞を受けたのち、酒席を設けて勅使をもてなす一方、韓先鋒に、ご下賜の銭を兵にわけあたえさせた。そして、とりこにした五百余名は陣中に収容しておいて、賊の首魁を捕らえてからいっしょに京師へひきたてて行き、さらしものにして処刑することにした。勅使が、
「彭団練はどうして捕らえられたのです」
とたずねると、呼延灼は、
「宋江を捕らえようという一念から、つい敵地に深入りしてしまって捕らえられたのです。これからは賊どもはもう攻めてはこないでしょうから、わたくし、兵を手わけして攻め、ぜひとも山寨を粛清し水泊を掃蕩し、賊どもを捕らえてその巣窟をとりつぶすつもりでおりますが、厄介なことには、四方が水にとりかこまれていて、とりつく陸路がありません。はるかに山寨を観察して見ますに、火砲でやっつけるよりほかには、賊の巣窟をつぶす方法はないと思われますが、かねがね聞いておりますところでは、東京に凌振《りようしん》という砲手がいて、あだ名を轟天雷《ごうてんらい》といい、火砲をつくることがうまくて、よく十四五里も飛ばし、砲弾の落ちるところ、天崩れ地陥《お》ち、山倒れ石裂けるというありさまだといいます。もしこの人を得ますならば、賊の巣窟をうち破ることができましょう。この人はそのうえ、武芸にも深く通じていて、弓や馬にもすぐれているとのこと。京師へお帰りのみぎりには、太尉どのにこのことをお話しくださって、早急におつかわしくださいますよう。そうすれば日限をきってでも賊を根こそぎにいたしましょう」
勅使はそれをうべない、翌日出発したが、道中は格別の話もなく、京師に帰ると高太尉に会って、呼延灼が砲手の凌振を求めて大功をたてようとしていることを、くわしく話した。高太尉はそれを聞いて命をくだし、甲仗庫の副使、砲手の凌振を呼んでこさせた。そもそもこの凌振という人は、燕陵《えんりよう》の出身で、宋朝の盛代の砲手の第一人者。人々から轟天雷とあだ名され、また武芸にも精進していた。凌振をたたえた四句の詩がのこっている。
強火《きようか》発する時城郭砕け
煙雲散ずる処鬼神愁う
金輪《きんりん》・子母《しぼ》(ともに砲の名)天に轟いて振い
砲手の名四百州に聞《きこ》ゆ
そのとき凌振は高太尉に見参し、行軍統領官(出征討伐軍指揮官)の辞令を受け、ただちに武器をとりまとめて出発するよう命ぜられた。かくて凌振は、必要ないっさいの火薬類をたずさえ、自分の作ったさまざまな火砲、各種の砲弾や砲架などを車に積み、身につけるよろい・かぶと・刀・荷物などをたずさえ、三四十名の兵士をつれて東京を出発、梁山泊へとむかった。そして陣営に到着すると、まず主将の呼延灼に見参し、ついで先鋒の韓滔に挨拶をしたのち、水寨までの距離とか山寨までの要害の模様などを詳細に聞き、三種の火砲で攻撃することにした。第一が風火砲《ふうかほう》、第二が金輪砲《きんりんほう》、第三が子母砲《しぼほう》である。かくてまず兵士に砲架を組みたてさせ、ただちに岸辺に据えつけて、発砲の準備をした。
さて一方、宋江は、鴨嘴灘の小寨で、軍師の呉学究とともに敵陣を破る法を協議したが、施すべき策もなかった。そこへ探《さぐ》りのものが、
「このたび東京から、轟天雷の凌振という砲手がつかわされてきて、現に対岸に砲架を据えつけ、火砲を射って山寨を打ち破ろうと準備しております」
と知らせてきた。すると呉学究のいうには、
「それはかまわない。わが山寨は四面みな湖で、入江や川口がたくさんあるうえに、宛子城は湖から遠くへだたっているから、たとえ飛天の火砲であったとしても、城まではとどきはしない。ひとまず、鴨嘴灘の小寨はうちすてて、むこうがどんなふうに射ってくるかを見たうえで、策をたてることにしましょう」
その日、宋江はその小寨を放棄し、一同そこをたちはなれて、関門へのぼって行った。晁蓋と公孫勝は宋江を聚義庁に迎え、
「このありさまでは、どんな手で敵を破ったものか」
と問いかけたが、その言葉のまだおわらぬうちに、早くも山麓のあたりに砲声のとどろく音が聞こえた。つづけさまに三発射たれ、二発は水中に落ち、一発は鴨嘴灘の小寨に命中した。宋江はその報を聞くと、心中しきりに憂慮し、頭領たちはみな色をうしなった。呉学究が、
「誰かが行って凌振を水辺におびき出し、まずあいつを捕らえてしまわないことには、敵を破る策も立ちません」
というと、晁蓋は、
「では、李俊・張横・張順・阮家三兄弟の六人で船を出して、かくかくしかじかにし、陸からは朱仝と雷横が、かくかくしかじかにそれに応じるように」
と命じた。
さて水軍の頭領六人は、命を受けると二手にわかれ、李俊と張横がまず水練のたくみな兵四五十名をひきつれ、二艘の早舟で、蘆の深い茂みのところからこっそりと漕ぎ出して行き、そのあとから張順と阮家の三兄弟が四十余艘の小舟に乗って援護して行った。
さて李俊と張横は対岸にあがると、砲架のところへ行ってどっと喊声をあげ、砲架を押し倒した。兵士たちがあわてて凌振に知らせると、凌振は二門の風火砲をひき出し、槍を持って馬に乗り、一千余人をひきつれて追ってきた。李俊と張横は兵をひきつれて逃げた。凌振は蘆の茂った水辺まで追ってきたが、見れば、そこには一文字に四十余嫂の小舟がならび、舟には百名あまりの水軍の兵が乗っている。李俊と張横はすでに船に飛び乗っていたが、わざと舟を出さず、やがて官軍がやってくると、喊声をあげながらみな水のなかへ跳びこんだ。凌振の軍勢はおしかけてきて、舟を奪い取った。すると朱仝と雷横が対岸からどっと喊声をあげ軍鼓をうち鳴らした。凌振は多数の舟を奪い取ると、兵士たちをことごとく舟に乗らせ、いっせいに対岸へ殺到して行った。舟がちょうど湖のまんなかにさしかかると、岸の上の朱仝と雷横が銅鑼をうち鳴らしはじめた。と、いきなり水底から四五十名の水軍の兵がもぐり出てきて、船尾の栓をみな抜いてしまった。水がどくどくと舟のなかへ流れこむところへ、水軍は機に乗じて外から舟を顛覆させ、兵士たちはことごとく水のなかへ投げ出されてしまった。凌振はあわてて舟をもどそうとしたが、船尾の舵《かじ》や櫓《ろ》はすでに水底に持ち去られてしまっていた。そこへ舟の両側からふたりの頭領がもぐり出てきて、ひといきに舟をひっくりかえし、凌振はさかさまに水中に落ちたが、水のなかで阮少二がそれを抱きとめ、そのままむこう岸へひっぱって行った。岸にはすでに頭領が待っていて、すぐさま縄をかけ、さっさと山上へひきたてて行った。水中でいけどりにされたものは二百余人で、半数は溺れ死んでしまい、ほんのわずかのものだけがいのちからがら逃げ帰って行った。詩にいう。
怎《なん》ぞ許さん船軍の便《すなわ》ち河を渡るを
火砲を施さざれば卻《かえ》って如何
空しく説《よろこ》ぶ半天に霹靂《へきれき》を轟かすを
卻って愁う尺水に風波を起《おこ》すを
呼延灼が知らせを受け、急いで騎兵をひきつれてかけつけたときには、すでに舟はみな鴨嘴灘のむこうへ漕ぎ去っていて、矢もとどかず、人影も見えず、ただやるかたない憤懣に地団駄を踏むばかりだった。呼延灼はしばらくのあいだ口惜しがったあげく、すごすごと兵をひきいて帰って行った。
一方、頭領たちは、轟天雷の凌振を捕らえて山寨へ護送して行ったが、さきに知らせのものをやったので、宋江はさっそく山寨の全頭領とともに第二の関門のところまで迎えにおりてきて凌振に会い、急いでみずからその縛《いまし》めを解きながら、
「礼をもって統領(行軍統領官)どのを山にお迎えしてくるようにといったはずなのに、どうしてこんな無礼なことを」
と一同を責めた。凌振がいのちをゆるされた恩を拝謝すると、宋江は彼に杯をわたして酒をすすめたのち、みずからその手をとって山上へいざなった。大寨へつくと、彭〓《ほうき》がすでに頭領になっているのを見て、凌振は口をつぐんでしまった。彭〓はそれをとりなだめて、
「晁・宋の二頭領は、天にかわって道をおこない、豪傑の士を招いて、朝廷より大赦のお沙汰のあったあかつきには、大いに国家のために力をつくそうとしておられるのです。われわれはすでにこうなってしまった以上、なりゆきに従うよりほかないでしょう」
宋江も口添えした。凌振が、
「わたしはここでお仕えしてもかまいませんが、あいにく年老いた母と妻が都におります。もしわかれば、必ず殺されるでしょうが、どうしたらよろしいでしょう」
というと、宋江は、
「それはどうかご心配なく、日限をきって必ず統領どののもとにおつれしてきましょう」
「そのようにおとりはからいくださるならば、たとえ死んでも怨みはありません」
と凌振は礼をいった。
「さあ、祝宴だ」
と晁蓋はいった。
翌日、聚義庁に全頭領が集まった。酒をくみあいながら、宋江は一同に連環馬を打ち破る方策を諮《はか》ったが、なんの良策も出なかった。と、そのとき、金銭豹子《きんせんひようし》の湯隆《とうりゆう》が立ちあがって、
「わたくし、不才ながら、一策がございます。さる武器と、わたしのさる従兄《いとこ》をもってすれば、連環甲馬を打ち破ることができると思います」
といいだした。呉学究がすぐたずねた。
「それはどういう武器だ。また、あんたのその従兄というのは誰なのだ」
すると湯隆はあわてずさわがず、手をこまぬいてすすみ出《い》で、その武器と、その人のことを話しだしたのであるが、そのために、四五人の頭領が京師へおもむき、三千余の馬軍がことごとく毒手にあうのである。まさに、計就《な》って玉京《ぎよくけい》に〓豸《かいち》(不正を忌む霊獣)を擒《とりこ》にし、謀成って金闕《きんけつ》に〓猊《しゆんげい》(獅子の類)を捉《とら》う、というところ。いったい湯隆は、一同に対していかなる武器といかなる人物を説きだしたのであろうか。それは次回で。
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一 尉遅恭 第四十九回注五参照。
二 団円 離散したものが再びめぐりあうことをいう。
第五十六回
呉用《ごよう》 時遷《じせん》を使って甲《よろい》を盗ましめ
湯隆《とうりゆう》 徐寧《じよねい》を賺《だま》して山に上《のぼ》らしむ
さて、そのとき湯隆が頭領たち一同にむかっていうには、
「わたしのところは、代々武器をつくるのが商売でして、亡父はその技倆によって経略使の《ちゆう》老相公にひきたてられて延安府の知寨になったほどです。ところで、先朝にもこの連環甲馬で勝ったためしがありますが、この陣を破るには鉤鎌鎗《こうれんそう》(先を鎌《かま》のように曲げた長槍)を用いるよりほか手がありません。わたくしのところに先祖から伝わった絵図がありますから、作ろうと思えば作れます。ところが、わたくしは作ることができても、使うことができません。使うことのできるものといえば、わたしの従兄のほかには誰もいないのです。鉤鎌鎗の使いかたを心得ているのは彼だけです。彼の家では代々それを伝授して、ほかの者には教えません。乗馬の場合とか、徒歩の場合とか、それぞれ手があって、まことに神出鬼没の使いかたをいたします」
まだいいおわらぬうちに林冲がたずねた。
「それは現に金鎗班《きんそうはん》の師範をしている徐寧《じよねい》のことではないか」
「そうです、彼のことです」
「あんたが話したので思い出したのだが、徐寧の金鎗法と鉤鎌鎗法はまったく天下独自のもの。京師にいたときはわたしはよく彼と会い、武芸の手あわせなどして、お互いに敬愛しあっていたものです。それにしても、どうしたら彼を山へつれてくることができるだろうか」
湯隆がいうには、
「徐寧のところには先祖伝来の宝物があります。世にふたつとないもので、家の守り本尊のようなものです。わたくしは以前、知寨だった亡父について東京《とうけい》へ叔母をたずねて行って、たびたび見たことがありますが、それは雁〓縅《がんれいおど》しの金《きん》の鎖甲《くさりよろい》(注一)なのです。このよろいは、身につければ軽くて着心地がよいのみか、刀も矢も通しませんので、人々から賽唐猊《さいとうげい》(獅子よりも強いの意)と呼ばれていて、貴公子たちからもずいぶん見せてくれと所望されるのですが、なかなか人に見せたりはしません。そのよろいは彼のいのちのようなもので、革の箱におさめて、いつも寝室の梁《はり》に掛けております。それで、もしそのよろいをせしめてきさえすれば、彼はいやおうなしにここへやってくるでしょう」
すると呉用がいった。
「そういうわけなら、造作もないこと。ここにはちゃんと腕ききの兄弟がいます。こんどこそは鼓上《こじようそう》の時遷《じせん》に、ひとはたらきしてもらうことにしよう」
時遷はすぐ承知して、
「その品がそこになければともかく、ちゃんとありさえすれば、どんなことがあってもきっと取ってきます」
「うまくよろいを盗み出してもらえば、あとはわたしがひきうけて彼を山におびきよせます」
と湯隆はいった。
「どうやって彼を山におびきよせるのです」
と宋江がたずねた。湯隆が宋江の耳もとに何かささやくと、宋江は笑って、
「それはなかなかうまい考えだ」
という。
「ほかに三人のかたに、いっしょに東京へご足労をねがいましょう。そして、ひとりには東京で火薬だねや火砲に使う薬を買ってきてもらい、あとのふたりには凌《りよう》統領の家族のかたをひきとってきてもらいたいのです」
呉学究がそういうと、それを聞いた彭〓が立ちあがって、
「もしどなたか穎《えい》州へ行ってわたしの家族のものを山につれてきてくだされば、まことにありがたいのですが」
「団練どの、ご心配なく。おふたり(彭〓と凌振)とも手紙を書いてください。使いのものに持たせてやりますから」
と宋江はいい、楊林を呼んで、金銀と手紙をたずさえ、従者をつれて穎州へ彭〓将軍の家族を迎えに行くように、また薛永《せつえい》には、槍棒使いの薬屋の恰好をして東京へ行き、凌統領の家族を迎えてくるように、また李雲には、旅商人の身なりをして、同じく東京へ行って火薬だねなどを買いととのえてくるように、また楽和《がくわ》には湯隆といっしょに出かけて、薛永としめしあわせてその道づれになるようにいいつけた。そうして、まず時遷を下山させてから、ついで湯隆に鉤鎌鎗を一本見本《みほん》に作らせて、雷横にその製造の監督(注二)をさせた。もともと雷横の家も同じく鍛冶屋だったのである。
こうして湯隆が鉤鎌鎗の見本をつくり、山寨の兵器鍛冶のものにそれをもとにして作らせ、雷横がその采配をとったのであるが、このことはそれまでとする。
大寨では送別の宴がひらかれた。そして、楊林・薛永・李雲・楽和・湯隆は、別れを告げて山をおりて行った。翌日はまた戴宗に下山させ、あちこち駆けまわって様子をさぐらせることにしたが、この一段の話はなかなか簡単にはいいつくせない。
まず時遷だが、梁山泊をあとに、ふところに武器やいろいろの商売道具を忍ばせ、はるばると東京へやってきて宿屋に一泊すると、翌日、ふらりと城内へはいって行って、金鎗班の師範の徐寧の住いを聞いた。すると、ある人が指さして、
「班の門をはいって東側の五軒目の、黒いくぐり門の家ですよ」
といった。時遷は班の門をはいって行って、まず徐寧の家の表門を眺め、それからまわって行って裏門を調べたが、ぐるりと高い塀がめぐらしてあって、塀の内側には二間幅の小ぎれいな二階建ての家が見え、横のほうには副《そ》え柱が一本立っていた。時遷はそれらを見とどけてから、また街のほうへひき返して行き、
「徐師範は家においででしょうか」
とたずねてみると、
「たぶんまだ宮中に詰めておいででしょう」
とのこと。時遷はかさねてたずねた。
「いつごろおもどりでしょうか」
「夕方まで詰めて、それからお帰りです。朝は五更(四時)に宮中へおつとめに出かけられます」
「お邪魔しました」
と時遷はひとまず宿屋に帰り、商売道具を取り出して身にかくし、宿のものに、
「わしはたぶん今夜は帰らないが、部屋の用心をたのむよ」
「どうぞ安心してお出かけください。まちがいのないようにいたします」
時遷はまた城内へはいって行き、晩飯をすませてから、ふらりと金鎗班の徐寧の家のほうへ行って、あたりの様子をうかがったが、どこにも恰好な身のかくし場所がない。やがて日が暮れてきたので、時遷は班の門の内側に身をひそめた。冬の寒い夜で、月も出ていなかった。時遷は土地廟の裏に柏《このてがしわ》の大木があるのを見て、両脚で挟んでひとこぎひとこぎ木の上までのぼって行き、枝の上に馬乗りになって、そっと様子をうかがっていると、徐寧が帰ってきて家のなかへはいって行った。やがてまた、班のふたりのものが提灯をさげて門を閉めに行き、錠をかけて、それぞれに家へもどって行くのが見えた。やがて物見櫓《やぐら》の時太鼓は初更(八時)を告げた。雲は寒々として星は光なく、夜露はつめたく霜は次第に白くなって行く。時遷は班のなかがひっそりと静まってから、するすると木からすべりおり、徐寧の家の裏門に忍び寄って苦もなく土塀を乗りこえ、這って行ってなかを見わたしたところ、そこは小さな中庭だった。時遷が台所の外に身を忍ばせてのぞいて見ると、台所には明りがともっていて、ふたりの女中が、まだ後片付けをしているところだった。時遷は副え柱をつたって破風《はふ》のところまでのぼって行き、そこに身をこごめて二階をのぞいて見ると、金鎗手《きんそうしゆ》の徐寧《じよねい》が煖炉のそばで、妻とむかいあって火にあたりながら、六七歳の子供を抱いているのが見えた。寝室のなかを見れば、はたして大きな革の箱が梁に縛りつけてあり、部屋の入口にはひと揃いの弓矢とひと振りの腰刀が掛けてあり、衣桁《いこう》にはいろいろな着物が掛かっていた。
徐寧が呼んだ。
「おい、誰かきて着物をたたんでくれ」
階下からひとりの女中があがってきて、かたわらの机の上で、まず紫の刺繍のある丸襟の着物をたたみ、ついで萌黄《もえぎ》の裏のついた上着、下に穿く五色の花模様を刺繍した〓串《てきかん》(パッチの類)、色どりした絹の護項《ごこう》(襟まきの類)、紅と緑の結子《けつし》(しごき帯の類)、および手巾などをたたんで一包みにし、別に金茶色の二重《ふたえ》の帯を一枚の黄色い布に包んで、いっしょに風呂敷にくるみ、それを〓籠《こうろう》(注三)の上においた。時遷はそれらをずっと眺めていた。やがて二更(十時)をすぎると、徐寧は身仕舞いをして床《とこ》についた。妻が、
「あしたもご出仕なさいますの」
とたずねると、徐寧は、
「あすは、陛下が竜符宮《りゆうふきゆう》へ行幸なさるので、早起きをして五更(四時)に出仕しなければならないのだ」
といった。妻はそう聞くと女中にいいつけた。
「旦那さまは、あすは五更にお出かけになるから、あんたたちは四更(二時)に起きてお湯をわかし、ご飯の用意をしておくれ」
そこで時遷は思案した。
「あの梁の革箱が、よろいのしまってあるやつだな。夜中に仕事をするのが一番やりやすいが、もしさわぎたてられでもしたら、あした城門を出られなくなって、かえってしくじるようなことにならぬともかぎらぬ。五更になるまで待って、それからとりかかるのがよかろう」
徐寧夫婦は眠ってしまったようである。ふたりの女中は、その部屋の戸口の外側に夜具をのべた。部屋の机の上には、明りがつけはなしにされている。五人はみな寝てしまった。ふたりの女中は夜中まで一日じゅうはたらきどおしで、疲れきっていて、ぐっすり眠りこんでいる。時遷はするするとおりて行って、ふところから蘆の管を取り出し、櫺子窓《れんじまど》のあいだから、ふっとひと息吹きつけて明りを吹き消してしまった。四更ごろまで身を忍ばせていると、徐寧が起き、女中を呼び起こして湯をわかすようにいいつけた。ふたりの女中は眼をさまして起きあがり、部屋の明りの消えているのに気づいて、
「あら、今夜は明りが消えてるわ」
と叫んだ。
「はやく裏へ行って明りをもらってこないか。なにをぐずぐずしている」
と徐寧がいった。女中は出口の扉をあけ、梯子段を踏み鳴らしておりて行った。時遷はそれを聞くと、するすると柱をおり、裏門のところへ行って暗がりのなかに身をひそめた。そして、女中が裏門をあけ塀の小門を出て行くのを聞きすますと、時遷はすかさず台所へ忍びいり、調理台の下に身をかくした。女中は明りをもらってきてから、また門をしめに行き、もどってきて、かまどに火をたきつけた。もうひとりの女中も起きてきて、炭をおこし、二階へ持って行った。やがて湯がわくと、洗面の湯を二階へ運んで行った。徐寧は洗面をすませると、酒をあたためてこいといいつける。女中は肉や炊餅(注四)をととのえて持って行った。徐寧は食べおわると、外にいる当番の従卒のところへ飯を持って行ってやるようにいいつけた。時遷が聞き耳をたてていると徐寧は下におりてきて、従卒に飯を食べさせ、風呂敷包み(衣類の)を背負わせ、金鎗を持たせて出て行った。ふたりの女中も明りをつけて徐寧を見送りに出て行く。時遷はそのすきに調理台の下からぬけ出して二階へあがり、格子をつたってするすると梁の上によじのぼり、身を伏せた。ふたりの女中はまた門をしめて明りを吹き消し、二階へあがってくると、着物をぬいで横になった。
時遷はふたりの女中が眠ってしまったのを見すますと、梁の上から蘆の管で明りをねらってひと吹きした。明りはたちまちまた消えてしまった。時遷はそこで革箱をそっと梁からほどき取った。おりようとしたとき、徐寧の妻が目をさまし、物音を聞きつけて女中を呼んだ。
「梁の上でなにか音がするよ」
時遷は鼠の鳴き声をまねた。
「奥さま、鼠が鳴いているのでございますよ。けんかでもしてさわいでいるのですわ」
時遷はすかさず鼠がけんかをしているまねをしながら、すべりおり、こっそり二階の出口をあけ、そっと革箱を背負って梯子段をおり、家のなかを通って門をぬけ出し、班の表門へやってきた。宮中へ出仕する連中が出て行ったあとなので、四更から門はあいたままになっていた。革箱を手にいれた時遷は、人ごみのなかにまぎれこんでいっしょに出て行き、一気に城外へ走り出て宿屋へもどった。まだ夜は明けていなかった。門をたたいてあけさせ、部屋にはいって荷物を取り出し、ひとからげにしてかつぎ、宿賃をはらって店を出、東のほうへとむかった。
四十里ばかり行ってから飯屋にはいって腹ごしらえをしていると、つかつかとひとりの男がはいってきた。見れば、ほかでもない、それは神行太保の戴宗だった。時遷がすでに例の物を手にいれているのを見ると、ふたりはあたりをはばかりながら二こと三こと話しあった。戴宗がいうには、
「わたしはひと足さきに、よろいを持って山寨へ帰るから、あんたは湯隆といっしょにあとからゆっくりくるように」
時遷は革箱をあけて、かの雁〓縅《がんれいおど》しの金の鎖甲《くさりよろい》を取り出し、風呂敷包みにした。戴宗はそれを身体にくくりつけて店を出、神行法をつかってさきに梁山泊へ帰って行った。
時遷は空《から》っぽの革箱を、目につくように荷物の上にくくりつけ、食事をすまし、薪代をはらい、荷物をかついで店を出た。二十里ほど行くと、湯隆に出あった。ふたりは居酒屋にはいって相談した。湯隆はいった。
「わたしのいうとおりにしてもらいたいのだ。この道を行って、途中の居酒屋や飯屋や宿屋などで入口に白丸のしるしがついているのを見つけたら、その店にはいって酒や肉を食べるようにな。宿屋ならそこに泊まるんだ。そして、わざとその革箱を人目につくところに置いておくのだ。そういうふうにして、ここから一宿場さきのところでわたしを待っていてくれ」
時遷は承知して出て行った。湯隆はゆっくりと酒を飲んでから、東京へとむかった。
ところで、徐寧の家では、夜が明けてふたりの女中が起きて見ると、二階の出口があけ放しになっており、下の中門も大門もみなあいているので、あわてて家のなかを調べて見たが、なにもなくなっている物はない。ふたりは二階へもどって奥さんに知らせた。
「どうしたことか、扉がみんなあいているのです。でも、なにもなくなった物はございません」
「五更ごろ梁の上でなにか音がしたとき、おまえは鼠がけんかしているのだといったけど、あの革箱がどうにかなってやしないかね」
ふたりの女中は見てあっとおどろき、
「革箱がなくなっております」
奥さんはそれを聞くと、あわてて起き出し、
「すぐ誰かを竜符宮へやって、旦那さまにお知らせし、早くさがしにもどってきてもらうようにいっておくれ」
女中は急いで人をたのみ、徐寧に知らせに竜符宮へ行かせた。つぎつぎに三度四度と人をやったが、みな帰ってきていうには、
「金鎗班は天子さまのお車につき従って内苑へはいっており、外側は親衛隊が警固してなかへは誰もはいれません。旦那さまがお帰りになるのを待つよりほかないでしょう」
徐寧の妻とふたりの女中は、まるで焼け鍋の上の蟻のように、どうしようもなく、お茶も飲まず食事もせず、おろおろとひとかたまりになっていた。徐寧は夕方になってから、式服をぬいで従卒に背負わせ、金鎗を手に帰途についたが、班の表門のところまで帰ってくると、隣家のものが、
「お宅が泥棒にやられて、奥さんはあなたのお帰りを待ちかねていらっしゃいますよ」
と知らせた。徐寧はびっくりし、急いで家へかけもどった。ふたりの女中が門口に出迎えて、
「旦那さまが五更にお出かけになったあとで泥棒にはいられまして、あの梁の上の革箱だけを盗まれてしまいました」
徐寧はそれを聞くと、しまった、しまった! と腹の底から悲鳴をあげた。
「泥棒はほんとうに、いつのまに家のなかへ忍びこんだのでしょう」
と妻はいう。徐寧は、
「ほかのものならともかく、あの雁〓縅しのよろいは先祖から四代も伝えられてきた宝で、いちども他人の手にわたったことはないのだ。まえにも花児《かじ》の王太尉が三万貫で買おうといわれたが、わしはどうしても売らなかったのだ。いざというときにそなえて、まちがいのないようにと梁に縛りつけておき、見せてくれという人がたくさんいたが、ないといってことわってきたのだ。それを今になってさわぎたてたら、かえってもの笑いのたねにされるだけだろう。なくしてしまって、いったいどうしたらよかろう」
徐寧は一晩まんじりともせずに思案した。
「いったい何者の仕業だろう。あのよろいのことを知っているものにちがいないが」
妻もいろいろ考えていった。
「ゆうべ明りが消えたときには、泥棒はもう家のなかに忍びこんでいたにちがいありません。きっとあのよろいを手にいれたくてたまらない人が、金では買えないので、腕のよい泥棒をつかって盗ませたのでしょう。ともかく誰かにたのんでこっそりさがさせることにして、別に方法を考えることですわ。さわぎたてると、かえってまずいことになりましょう」
徐寧はうなずいた。やがて夜が明けて起きたが、家に閉じこもったまま徐寧は怏々《おうおう》とふさぎこんでいた。そのさまはさながら、
蜀王《しよくおう》の春の恨み(注五)、宋玉《そうぎよく》の秋の悲しみ(注六)、呂虔《りよけん》腰下の刀を遺《おく》り(注七)、雷煥《らいかん》獄中の剣を失う(注八)。珠は照乗《しようじよう》を亡《うしな》い(注九)、璧《へき》は連城を砕く(注一〇)。王〓《おうがい》の珊瑚已《すで》に毀《こぼ》たれて陪償すべき無く(注一一)、裴航《はいこう》の玉杵《ぎよくしよ》未だ逢わずして歓好を諧《かな》え難し(注一二)。正に是れ鳳の荒坡《こうは》に落ちて錦羽凋《しぼ》み、竜の浅水に居りて明珠を失う。
その日徐寧《じよねい》が家にとじこもってふさぎこんでいると、朝飯ごろ、誰かが訪ねてきた。従卒が出て行って名前を聞き、奥へ知らせにきていうには、
「延安府の湯《とう》知寨のご子息の湯隆さまが訪ねて見えました」
徐寧はそう聞くと、客間に通させて会った。湯隆は徐寧を見ると礼をして、
「兄さん、その後お変わりはございませんか」
と挨拶した。徐寧は、
「叔父さんが亡くなられたことは聞いていたが、役所づとめのままならぬ身でもあり、また遠いところのこととて、おくやみに行くこともできずにいました。あなたの消息もぷっつり聞かなかったが、その後はどこにいたのです。きょうはまたどこから見えたので?」
「話せばながくなりますが、父が亡くなってからは不運にとりつかれて、世間を流れ歩いておりました。このたびは山東から当地へ、あなたにお目にかかりにやってきたのです」
「それではまあ、ごゆっくりなさい」
と徐寧は酒食をととのえてもてなした。湯隆は包みのなかから重さ二十両の延べ金を二本とり出して、徐寧にわたし、
「父は亡くなるとき、これをあなたへのかたみとして残して行きましたが、安心してたのめるものがいなかったので、おとどけしませんでした。それでこのたびわたしが自分で出むいてきて、おわたしする次第です」
「叔父さんがそれほどまで思ってくださったとは、もったいない。わたしはまるでなにもしてあげなかったのに、どうしたらよかろう」
「兄さん、そんなことおっしゃらずに。父は生前、いつも兄さんの武芸の腕をほめておりましたが、遠く離れていて会うこともできぬまま、これを兄さんへのかたみに残して行ったのです」
徐寧は湯隆に礼をいってそれを受けとり、また酒を出してもてなした。湯隆は、徐寧と酒をくみかわしている間《かん》、徐寧がずっと眉をひそめて浮かぬ顔をしているので、立ちあがってたずねた。
「兄さん、どうしてそう沈んだ顔をしていらっしゃるのですか。なにか気にかかることでもおありなのじゃありませんか」
すると徐寧はため息をついて、
「じつは、こうなのです。つまり、ゆうべ泥棒にはいられて」
「なにを盗《と》られなさったので」
「先祖伝来の賽唐猊《さいとうげい》というあの雁〓縅しの鎖甲《くさりよろい》だけを盗まれたのです。昨夜それをなくしたもので、気持がくさくさして」
「あのよろいなら、わたしもいつか見せていただいたことがありますが、まったくふたつとはないすばらしいもので、亡父もいつも、しきりにほめておりました。それを盗まれたなんて、いったいどこへ置いておかれたのです」
「革箱のなかにしまって、寝室の梁に縛りつけておいたのだが、いつのまにか泥棒がはいって盗んで行ったのです」
「どういう革箱にいれておかれたのですか」
「赤い羊の皮の箱にいれて、なかではさらに香綿でくるんでおいたのです」
湯隆はびっくりしたふりをして、
「赤い羊の皮の箱ですって? それじゃ、上のほうに、緑の雲の上に白糸で如意《によい》の刺繍をし、まんなかには毬《まり》をころがしている獅子の模様のある箱じゃありませんか」
「あんたはそれをどこで見かけたのだ」
と徐寧がきくと、湯隆は、
「ゆうべ、町から四十里くらいむこうの村の居酒屋で酒を飲んでおりますと、すごい目つきの、色の黒い痩せた男が、荷物の上にその箱を載せているのを見たのです。わたしはそれを見て、あの革箱はいったいなにをいれるものだろうと気になって、出しなに、あんたのその革箱はなにに使うものだね、ときいてみたのです。するとその男は、もともとよろいをいれるものだが、いまは着物なんかいれてるんだ、と答えましたが、きっとあいつですよ。そいつは足をくじきでもしたのか、びっこをひきながらかついで行きましたが、そいつを追いかけてみようじゃありませんか」
「うまく追いつけたら、それこそ天のお助けというものだが」
「それじゃ、ぐずぐずしてはおれません。いますぐ追いかけましょう」
徐寧はうなずいて、あたふたと麻鞋《あさぐつ》をはき、腰刀をたばさみ朴刀をたずさえて、湯隆とともに東郭門を出、急ぎ足で追いかけて行った。やがて壁に白い丸のしるしのついている居酒屋を見つけると、湯隆は、
「一杯ひっかけてから追いかけることにして、ここでちょっとたずねてみましょう」
と、なかにはいって腰をおろし、さっそくたずねた。
「おやじさん、ちょっときくが、きつい目つきをした色の黒い痩せた男が、赤い羊の皮の箱をかついで通らなかったかね」
「ゆうべ、そういう人が、赤い羊の皮の箱をかついで通りましたよ。足をくじいたらしく、びっこをひきながら行きました」
「兄さん、どうです、お聞きのとおりです」
と湯隆はいった。徐寧はそれを聞いて、ものもいえなかった。ふたりは急いで勘定をすませて、店をあとにした。また壁に白い丸をつけた宿屋があった。湯隆は立ちどまって、
「兄さん、わたしはもう歩けなくなってしまいました。この宿屋に泊まって、あした早くから追いかけることにしましょう」
「わたしは役所づとめの身だ。朝の点呼に行かないとおとがめをくわねばならぬが、さて弱ったことになったな」
「そんな心配はいりませんよ。嫂《ねえ》さんがきっとうまくはからっておかれるでしょう」
その夜、宿屋できいてみると、店の若いものがいうには、
「ゆうべ、きつい眼をした色の黒い痩せた男がうちで一晩泊まり、きょうの昼近くまで寝ていて、それからやっと出かけて行きました。しきりと山東へ行く道をきいていましたよ」
「それならもう追いついたも同然。あした四更に起きて行けば、まちがいなく追いつけます。やつをつかまえたらよろいの行くえがわかるでしょう」
ふたりはその夜は泊まって、翌日四更に起きて宿屋を出、またあとを追って行った。こうして湯隆は、壁に白い丸がついているのを見かけると、必ずそこで飲み食いをして道をたずねたが、どこでもみな同じ返事だった。徐寧はよろいを取り返したい一心で、ひたすら湯隆について追って行った。やがてまた日が暮れてきたころ、前方に古い廟が見えた。廟の前の木の下には、時遷が荷物を置いて地べたに腰をおろしていた。湯隆はそれを見ると、
「しめた、あの木の下のあれは、兄さんのよろいをいれた箱じゃありませんか」
徐寧はそれを見ると、飛んで行って時遷をひっつかまえ、
「太いやろうだ、よくもおれのよろいを盗みやがったな」
とどなりつけた。すると時遷は、
「待て待て。そうがやがや騒ぐな。よろいはたしかにおれが盗んだが、だからどうしようというんだね」
「こん畜生め、どうするかとは、またなんてことをいやがるんだ」
「まあ、調べてみるがいい。箱のなかによろいがあるかどうか」
湯隆が箱をあけて見ると、なかは空《から》っぽだった。徐寧が、
「このやろう、おれのよろいをどこへやったのだ」
というと、時遷は、
「それじゃ、いおう。おいらは張《ちよう》というもので、兄弟順はいちばん頭《かしら》だ。泰安《たいあん》州の生まれだが、そこのさる金持で経略使の《ちゆう》老相公に近づきたいという人が、おまえさんの家に雁〓縅しの鎖甲があるがどうしても売らんということを知って、おいらと、もうひとり李三というのとふたりで、おまえさんとこからそれを盗んできたら一万貫やろうというんだ。ところが、ひょんなことにおいらはおまえさんとこの柱に蹴つまずいて足をくじき、歩けなくなってしまった。それでさきに李三によろいを持って行かせたもんだから、ここには空箱しかないんだ。おまえさんがおいらをとっちめようとするなら、おいらはお役所に出ても、いのちがけでがんばって、ぶち殺されたって白状はしない。おいらにほかのもののことをいわせようたって、それはだめだ。だが、もしお役所沙汰にしないでくれるなら、いっしょに行って、よろいを取り返してやるよ」
徐寧はどうしたものかとためらって、すぐには決めかねていた。すると湯隆が、
「兄さん、こいつはまさか飛んで逃げもしますまい。こいつといっしょによろいを取り返しに行きましょう。そしてもし、よろいがなかったら、そのときは土地の役所に訴えることにすればよいでしょう」
「なるほど、それももっともな話だ」
と、三人は道を急いだ。やがてまた宿屋にはいって休んだが、徐寧と湯隆は時遷を監視して一室に泊まった。もともと時遷はわざと絹の布で脚をしばって、ほんとうにくじいたように見せかけていたのだったが、徐寧は彼がいっこうに歩けないのを見て、半分は気をゆるしていた。三人は一夜を明かし、翌日は早く起きて、また出かけた。時遷はみちみち酒や肉を買って機嫌をとり、また一日歩いた。翌日になると徐寧は、途中でいらだってきた。ほんとうによろいがあるのかどうか、不安になってきたのである。歩いて行くと、三四頭の馬にひかせた一台の空《あき》車がやってきた。うしろからひとりの男がそれを馭し、そのそばに旅人がひとりいたが、旅人は湯隆を見てお辞儀をした。湯隆が、
「やあ、どうしてここへ」
ときくと、その男は、
「鄭州であきないをすませて、これから泰安州へ帰るところなので」
と答えた。
「それはいいあんばいだ。わしら三人を車に乗せてくれないかね。やはり泰安州へ行くところなんだが」
「三人ぐらいおやすいことです。もっとたくさんだってかまいませんよ」
湯隆は大いによろこんで、徐寧にひきあわせた。
「こちらは、どなたさんで」
と徐寧がきくと、湯隆は、
「先年泰安州(泰山廟がある)へお参りしたとき、この兄弟と知りあったのですが、姓は李《り》、名は栄《えい》といって、なかなか義侠心のあるおかたです」
「そうですか。それでは張一も歩きかねているところだから、みんなで車にのせてもらいましょう」
と徐寧はいい、馭者ひとりに車をまかせて、四人は車の上に乗った。徐寧はたずねた。
「おい張一、その金持というのは誰なのかいってくれ」
時遷は問いつめられて、四五回もあれこれはぐらかしたあげく、でたらめをいった。
「それは、あの有名な郭《かく》大官人です」
すると徐寧は李栄にたずねた。
「泰安州に郭大官人という人がいますか」
「わたしの州の郭大官人というのは、それはたいした金持で、お役人衆とのつきあいをさかんになさって、食客もずいぶんとかかえておられます」
徐寧はそれを聞いて心のなかに思うよう、
「本人がいるのなら、まあ大丈夫だろう」
そのうえ、李栄がみちみちずっと武芸の話をしたり、歌をうたったりするものだから、知らぬまにまた一日がすぎてしまった。途中のこまかな話ははぶいて、やがて梁山泊まであと宿場ふたつというところまでやってきたとき、李栄が馭者にひょうたんをわたして酒を買いに行かせ、肉も買ってこさせて車の上で酒盛りをはじめた。李栄はひょうたんの椀を取り出して、なみなみとつぎ、まず徐寧にすすめた。徐寧がそれを飲みほすと、李栄はまた馭者につがせた。すると馭者はわざと手をすべらせて、ひょうたんの酒をすっかりこぼしてしまった。李栄は、もういちど買いに行けと馭者にどなりつけたが、そのとき徐寧は口からよだれをたらしてばったりと車の上に倒れてしまった。
李栄とは何者であろう。じつはそれは鉄叫子《てつきようし》の楽和《がくわ》だったのである。三人は車からとびおり、車を急がせてまっすぐ旱地忽律《かんちこつりつ》の朱貴《しゆき》の居酒屋へ行き、みなで徐寧を舟にかつぎこみ、ともに金沙灘に着いて、岸へあがった。宋江はすでに知らせを受けていて、頭領たちとともに山をおり、徐寧を出迎えていた。そのとき徐寧はもうしびれ薬から醒めていたが、一同はさらに醒まし薬を飲ませて毒を消した。徐寧は目をあけて一同を見るや、あっとおどろいて、湯隆をなじった。
「おい、よくもおれをだましてこんなところへつれてきたな」
すると湯隆のいうには、
「兄さん、まあ聞いてください。わたしはこのほど、宋公明どのが諸方から豪傑を招きよせておられると聞いて、武岡鎮《ぶこうちん》で黒旋風《こくせんぷう》の李逵《りき》の弟分にしてもらって山寨の仲間にはいったのです。このたび呼延灼《こえんしやく》に連環の甲馬で攻められて、どうしてもそれを破る手がないので、わたしは鉤鎌鎗《こうれんそう》を用いることを献策したのですが、それを使えるものは兄さんしかないので、計略をもうけて、時遷にまずあなたのよろいを盗ませておいてから、わたしがあなたをだましてつれ出し、それから楽和が李栄になりすまして、山にさしかかったところで、しびれ薬を盛り、兄さんを山におつれして頭領の座についてもらおうというわけなのです」
「あんたはわしを殺したも同然だぞ」
と徐寧はいった。宋江は杯を持ってすすみ出て、無礼を謝し、
「わたしは、いまは一時この水泊にたてこもっておりますが、朝廷から恩赦のあり次第いつでも、国に忠義をつくしたいと考えているものです。財をむさぼったり、人殺しを好んだりして、不仁不義をおこなおうとするものでは決してありません。どうかこの真情をお汲みくださって、われわれとともに天にかわって道をおこなっていただきたいのです」
林冲も杯をすすめて、無礼を謝し、
「わたしもここにきていて、いろいろとあんたのすぐれた点をみんなに話したのだ。どうかことわらないでもらいたい」
といった。
「おい湯隆、あんたがわしをだましてここへつれてきたので、家に残された女房たちは役人に召し捕られるにきまっている。いったいどうしてくれるのだ」
徐寧がそういうと、宋江は、
「それは大丈夫です。ご安心ください、わたしがおひきうけしますから。まもなくご家族のかたをここにおつれして、お会わせいたしましょう」
晁蓋・呉用・公孫勝もみな出てきて徐寧に無礼を詫び、慶祝の宴がひらかれた。そして手下たちの精悍なものをえらんで鉤鎌鎗の使いかたを学ばせることにするとともに、戴宗と湯隆を急いで東京へ行かせて徐寧の家族を迎えてくることにした。
十日ばかりのあいだに、楊林が穎《えい》州から彭〓の家族を迎えてき、薛永は東京から凌振の家族を迎えてきた。李雲も火薬だねを車に五台買って山寨に帰ってきた。さらに数日たつと、戴宗と湯隆が徐寧の家族をつれて山にのぼってきた。徐寧は妻がきたのを見ると、びっくりして、どうしてここへくることができたのかとたずねた。すると妻のいうには、
「あなたは家を出られたまま、お役所へいらっしゃらないので、わたし、金銀やかんざしをまいないに使って、病気で臥《ふせ》っておりますのでと、とりつくろいましたところ、呼び出しはありませんでしたが、そのうちに湯隆さんが雁〓縅しのよろいを持っていらっしゃって、よろいはとりかえしたが、あいにく兄さんが途中で病気にかかり、宿屋でたいへん重態になって、嫂さんに子供をつれて看病にくるようにとのことです、とおっしゃって、わたしをだまして、車に乗せられたのです。わたしはまるきり道を知らないものですから、そのままずっとここへきてしまったというわけなのです」
徐寧はいった。
「湯隆、あんたがうまく事をはこんでくれたのはありがたいが、残念なのはわしのあのよろいを家に置きすててきたことだ」
すると湯隆は笑いながら、
「兄さん、まあよろこんでください。嫂さんを車に乗せてからわたしはすぐにひき返してあのよろいをだまし取り、あのふたりの女中も誘い、家じゅうの金目のものをすっかりとりまとめ、ひとからげにしてここへかついできてあります」
「そうするともう、わしたちは東京へは帰れないじゃないか」
「もうひとつお知らせしておきたいことがあります。それは、ここへくる途中で旅人の群れに出あいましたので、わたしは兄さんの雁〓縅しのよろいを着こみ、顔を描《か》き、兄さんの名を名乗って、その旅人たちの持ち物をふんだくってやりました。いまごろはもう東京で、ほうぼうへ手配の文書をまわして兄さんを捕らえようとしていることでしょう」
「湯隆、あんたはわしをひどい目にあわせるな」
晁蓋と宋江が、ともども謝罪して、
「そうでもしないことには、とうていここに落ちついていただけませんので」
といい、さっそく徐寧に家を割りあててその家族を落ちつかせた。かくて頭領たちは連環馬軍を打ち破る方法を協議した。雷横が監督して作っていた鉤鎌鎗は、このときはもうすっかりできあがっていた。宋江・呉用らは、兵士たちに鉤鎌鎗の使いかたを教えてくれるよう徐寧にたのんだ。徐寧は、
「では、これから、誠心誠意、知るところのすべてをつくして諸軍の小頭目たちを訓練いたします。まず背の高い屈強なものを選び出しましょう」
といった。頭領たちはみな聚義庁に集まり、徐寧が兵を選抜して鉤鎌鎗の法を説くのを見守った。かくてここに、三千の甲馬たちまちにして破れ、一個の英雄日ならずして降る、という次第になるのであるが、さて金鎗《きんそう》の徐寧はいかにして鉤鎌鎗の法をつたえたか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 雁〓縅しの金の鎖甲 原文は雁〓砌就圏金甲。やや後には雁〓鎖子甲、または単に雁〓甲と書かれている。雁の羽のような薄く軽い小札《こざね》を並べ重ねた金の鎖甲《くさりよろい》の意であろう。
二 監督 原文は提調監督。提調とは上の命令を下へつたえる職をいう。
三 〓籠 手あぶりの上に伏せる籠で、着物をあたためて香を焚きこむのに用いる。あぶり籠、伏籠《ふせご》。
四 炊餅 蒸し餅に同じ。「蒸」は宋の仁宗の諱《いみな》「徴」と同音(ともにチョン)のため、宋の官禁として蒸の字を避け炊の字が用いられた。
五 蜀王の春の恨み 蜀王は三国の蜀の王、劉備のこと。宝物の喪失とは関係なく、ついに志をとげず、功業なかばにしてたおれた劉備の痛恨をひきあいにだしたもの。
六 宋玉の秋の悲しみ 宋玉は戦国の楚の詩人で、屈原《くつげん》の弟子。屈原は楚の懐王に仕えて大夫となり、国政をとったが、讒言《ざんげん》によって疎んぜられ、「離騒」を作って愛国の衷情をうったえたが、懐王の子襄王のときまた讒言によって長沙に流され、ついに汨羅《べきら》に身を投じて死んだ。宋玉にその屈原を悼《いた》んだ「悲秋賦」のあることから、ひきあいにだしたもの。
七 呂虔腰下の刀を遺り 呂虔は晋の人。その佩刀を見た刀工が、この刀は瑞剣でこれを持っておれば必ず三公の位にのぼり得るであろうから手離さないようにといった。ところが呂虔はその刀を孝子の王祥《おうしよう》に贈った。瑞刀を得た王祥ははたして太尉太保の位にのぼったという話が『晋書』に見える。
八 雷煥獄中の剣を失う 雷煥は春秋の晋の人で、天文のことにくわしかった。斗牛の間に絶えず紫気のたなびいているのを見た晋王張華がその所以《ゆえん》を雷煥にたずねたところ、雷煥は、それは宝剣の放つ精気が天にほとばしっているのだと答えた。はたして、豫章(江西省)の豊城の獄の土台石の下から二振りの宝剣が発掘された(第七回の注七参照)という。
竜泉・太阿というその二振りの宝剣は、前者は張華の、後者は雷煥の佩刀となったが、のち張華が殺されたとき竜泉はその所在がわからなくなり、太阿の方は、雷煥の死後、その子がたずさえて延平津(福建省)を渡るとき、とつぜん水中に躍り入って竜に化し、もう一匹の竜とともに姿を没したという話が『越絶書』に見える。
九 珠は照乗を亡い 照乗の珠を失ったような悲しみ、の意。照乗の珠の話は『史記』の田仲仰完世家に見える。斉の威王が魏王と合同したとき、魏王がたずねた、「貴国にはどういう宝物がありますか」「なにもありません」と威王が答えると、魏王はいった、「わたしの国は小国ですが、それでも直径一寸の珠が十個あります。この珠は車の前後おのおの十二乗を照らします。貴国のような万乗の大国に宝物がないなどということはありますまい」すると威王は四人の臣下の名をあげて、「この四人はまさに千里を照らすものです。ただ十二乗を照らすだけではありません」といった。
一〇 璧は連城を砕く 連城の璧を砕いてしまったような悲しみ、の意。連城の璧は、和氏《かし》の璧《へき》のこと。これを連城の璧というのは、趙の恵文王が和氏の璧を手にいれたことを聞いた秦の昭王が、趙王のもとに書状を送り、秦の十五城と和氏の璧とを交換されたいと強請したことによる(『史記』廉頗《れんぱ》藺相如《りんしようじよ》列伝)。
一一 王〓の珊瑚……陪償すべき無く 王〓は晋の人で、当時の富豪石崇《せきすう》と肩をならべるほどの富を持っていた。あるとき王〓は武帝から、高さ二尺ばかりの珊瑚樹を拝領した。王〓がこれを石崇に誇示したところ、石崇は一見するなり鉄の如意でその珊瑚樹を打ち砕いてしまった。「陪償すべき無し」というのは失った悲しみをあらわすためのもので、話はこのあとにつづいて次のような結末になっている。――王〓がとがめると石崇は、そんなに惜しがるほどのことはない、返してやろう、といって、高さ三尺のものや四尺のものなど六七本ものすばらしい珊瑚樹を持ち出してきたという話が『世説新語』に見える。
一二 裴航の玉杵……諧え難し 第四十五回の注三参照。
第五十七回
徐寧《じよねい》 鉤鎌鎗《こうれんそう》を使うを教え
宋江《そうこう》 連環馬《れんかんば》を大いに破る
さて、晁蓋《ちようがい》・宋江《そうこう》・呉用《ごよう》・公孫勝《こうそんしよう》、ならびに諸頭領は、聚義庁《しゆうぎちよう》で、徐寧《じよねい》に鉤鎌鎗の使いかたを教えてくれるようにとたのんだのであったが、一同が徐寧を見るに、まことに堂々たる風貌で、身の丈は六尺五六寸、白い丸顔に、細く黒い三すじのひげ(注一)をはやし、がっしりとしたゆたかな腰つきをしている。西江月(曲の名)のうたに、この徐寧の様子をうたったものがある。
臂《ひじ》健にして弓を開くに準《じゆん》(ねらい正しき)有り、身軽くして馬に上《の》るに飛ぶが如し。彎々《わんわん》たる両道の臥蚕《がさん》の眉。鳳〓《と》び鸞翔《かけ》るの子弟(やんごとなき身分)。戦鎧は細かに柳葉を穿ち、烏巾は斜に花枝を帯ぶ。常に宝駕《ほうが》(天子の駕)に随って丹〓《たんち》(宮廷)に侍す。鎗手《そうしゆ》の徐寧は無対《むつい》なり。
そのとき徐寧は、兵士の選抜をおわるや、聚義庁をおり、鉤鎌鎗を手にとってみずから使って見せた。一同はそれを見て感嘆の声を放った。徐寧は兵士たちに教えていう。
「いったいに馬上でこの武器を使うときは、腰で歩くような要領でやるのだ。上段と中段に七手《ななて》があって、鉤《ひつかけ》の手が三つと撥《はらい》の手が四つ。ほかに〓《つき》の手がひとつと分《ひらき》の手がひとつ。以上あわせて九手の変化がある。徒歩でこの鉤鎌鎗を使うときは、いっそう威力がある。まず八歩すすんで撥《はらい》の四手を使い、相手の構えをゆすぶる。十二歩で体勢をかえ、十六歩でぐるりと一転し、鉤鎌倉を分《ひら》いて、〓《つ》きあげる。二十四歩で上のほうをいなして下のほうをおそい、東を鉤《ひつか》けて西を撥《はら》う。三十六歩では全身の守りがそなわって、いかなる強敵にもあたれるのだ。これが鉤鎌鎗の正法で、
四手の撥《はらい》三手の鈎《ひつかけ》あわせて七手
〓《つき》と分《ひらき》で神技の九変
二十四歩で前後にいなし
十六歩ではくるりと一転(注二)
という奥義のうたがある」
そして徐寧はその正法の一手一手を演じて頭領たちに示した。兵士たちは徐寧のその鉤鎌鎗を見て大いに興《きよう》をおぼえ、その日から、選抜された精悍屈強なものたちのあいだにはげしい稽古がはじめられ、また、歩兵を林や草むらにひそませて馬の脚をすくう下面《かめん》三手の暗法も教えられた。こうして半月もたたぬうちに山寨の六七百名が教えこまれた。宋江および頭領たちはそれを見て大いによろこびつつ、敵を打ち破る準備をすすめたのである。
一方、呼延灼《こえんしやく》は、彭〓《ほうき》と凌振《りようしん》をうしなってからは、連日、騎兵を水辺までくり出してたたかいをいどんだ。山寨のほうでは、水軍の頭領たちに各地の舟着場の守りをかためさせ、水底に杭を打たせた。呼延灼は山の西方と北方に偵察の兵を出してみたが、山寨にとりつくすべは全くなかった。梁山泊のほうでは凌振に各種の火砲をつくらせ、日時を決めて山をおり、一戦をまじえることにしていた。鉤鎌鎗の訓練を受けていた兵士たちは、もうすっかりできあがっていた。
「いささか考えがあるのですが、みなさんのご賛同が得られるかどうか」
と宋江がいい出した。
「ぜひおうかがいしたいものです」
と呉用がいうと、宋江は、
「こんどは騎兵は一騎もつかわず、頭領たちもみな徒歩にしてもらいたいのです。孫呉《そんご》の兵法(注三)にも山林草沢に地の利ありといいます。そこで歩兵で山をくだり、十隊にわけて敵をおびき出し、敵軍が攻めかかってきたら、みんな蘆の茂みや雑木林のなかへ逃げこむのです。そこにはあらかじめ鉤鎌鎗の兵士を伏せておきます。そして十人一組の鉤鎌鎗の使い手のなかに十人の撓鉤手《どうこうしゆ》(熊手の兵)を組みいれ、敵騎がやってくればひっかけ倒し、撓鉤でひきよせて捕らえるのです。平地の狭い道にも同じように兵を伏せておきます。この戦法はどうでしょう」
「なるほど、そのようにして兵を伏せ将を捕らえるのですな」
と呉学究がいえば、徐寧も、
「鉤鎌鎗と撓鉤は、そういうふうに使うのがいちばんよい法です」
といった。
宋江はその日、十隊の歩兵軍を編成した。すなわち、劉唐《りようとう》と杜遷《とせん》が一隊をひきい、以下穆弘《ぼくこう》と穆春《ぼくしゆん》、楊雄《ようゆう》と陶宋旺《とうそうおう》、朱仝《しゆどう》と〓飛《とうひ》、解珍《かいちん》と解宝《かいほう》、鄒淵《すうえん》と鄒潤《すうじゆん》、一丈青《いちじようせい》と王矮虎《おうわいこ》、薛永《せつえい》と馬麟《ばりん》、燕順《えんじゆん》と鄭天寿《ていてんじゆ》、楊林《ようりん》と李雲《りうん》とが、それぞれ一隊をひきいるという編成で、この十隊の歩兵がまず山をくだって敵軍をおびきよせることになった。そしてそのあとから、李俊《りしゆん》・張横《ちようおう》・張順《ちようじゆん》・玩《げん》氏三兄弟・童威《どうい》・童猛《どうもう》・孟康《もうこう》の九人の水軍の頭領が兵船を指揮してこれの援護にあたり、さらにそのあとから花栄《かえい》・秦明《しんめい》・李応《りおう》・柴進《さいしん》・孫立《そんりつ》・欧鵬《おうほう》の六人の頭領が騎馬で兵をひきいて、山麓で敵を挑発し、凌振《りようしん》と杜興《とこう》は号砲をうち、徐寧《じよねい》と湯隆《とうりゆう》は鉤鎌鎗を使う兵の総指揮にあたり、中軍には宋江《そうこう》・呉用《ごよう》・公孫勝《こうそんしよう》・戴宗《たいそう》・呂方《りよほう》・郭盛《かくせい》がひかえて全軍を掌握して号令をくだし、その他の頭領はみなそれぞれの寨を守ることになった。
宋江はそれぞれ任務を割りあてると、その夜の三更(十二時)、まず鉤鎌鎗の兵士を対岸にわたして四方に手わけしてひそませておき、四更(夜二時)になると、こんどは十隊の歩兵を対岸へわたした。凌振と杜興は風火砲を積んでわたり、高地に運んで、砲架をすえて火砲をのせた。徐寧と湯隆もそれぞれ合図の布を持ってわたって行った。やがて夜の明けそめたころ、宋江は中軍の兵士たちに、対岸にむかって軍鼓を鳴らさせ、喊声をあげ旗をうち振らせた。
呼延灼はそのとき中軍の幕営で偵察兵の知らせを聞くと、先鋒の韓滔《かんとう》に命じてまず偵察をおこなわせ、ただちに連環の甲馬を組み合わせ、みずからも全身によろいをつけて〓雪烏騅《てきせつうすい》の馬に乗り、双鞭《そうべん》を手に大いに軍勢を駆りたてて梁山泊へとおしよせて行った。対岸には、宋江が多数の兵をしたがえている。呼延灼はそれを見て、騎兵を散開させた。先鋒の韓滔がそこへきて呼延灼にはかっていう。
「真南《まみなみ》のほうに一隊の歩兵がいますが、その数はわかりません」
「兵力の多少は問題ではない。連環馬でおしつぶすのだ」
韓滔は五百の騎兵をひきいて偵察に出て行った。と、東南のほうからも一隊の軍勢があらわれたので、兵力をわけて偵察に出そうとしていると、こんどはまた西南のほうにも一隊の旗じるしがあらわれ、ときの声がおこった。韓滔は兵をひきいてもどり、呼延灼に知らせた。
「南のほうに三隊の賊兵がいます。みな梁山泊の旗じるしです」
「やつらは長いあいだ討ち出てこなかったが、こんどはなにかたくらみがあるにちがいない」
呼延灼がそういったとたん、とつぜん北のほうに砲声がとどろいた。呼延灼は、
「あの砲は、賊に降《くだ》った凌振にぶっ放さしたのだな」
とののしった。一同が南のほうを見ていると、こんどは北のほうに三隊の旗じるしがむらがりあらわれた。呼延灼は韓滔にいった。
「これは賊の奸計にきまっている。わしとそのほうと、軍勢を二手にわけ、わしは北の敵を攻めるから、そのほうは南の敵をやっつけてくれ」
と、兵をわけているところへ、西方にまた四隊の軍勢があらわれた。呼延灼がはっとしたとき、またしても真北のほうで連珠砲がとどろいた。それは丘の上一帯につらなってとどろきわたった。その母砲一門は四十九門の子砲にとりかこまれているので、名づけて子母砲といい、そのひびきにはすさまじい威力があった。そのため呼延灼の兵は、たたかわずして浮き足だった。呼延灼はあわてて韓滔とともにそれぞれ騎兵・歩兵をひきいて、どっと討って出たが、敵の十隊の歩兵は、東へ追えば東へ逃げ、西へ追えば西へ逃げる。呼延灼はそれを見てかっとなり、兵をひきいて北にむかって突きすすんで行った。と、宋江の軍勢はみなばらばらと蘆の茂みのなかへ逃げこんだ。呼延灼は大いに連環馬を駆りたててまっしぐらに攻めさせた。いっせいに駆け出した甲馬は、とどまるすべを知らず、ことごとく枯れ蘆の茂みや枯れ草や雑木林のなかへと駆けこんで行った。すると、とつぜんあたりに口笛が吹き鳴らされて、鉤鎌鎗がいっせいに突き出され、まず両翼の馬の脚をひき倒すと、中の馬は(鎖でひとつにつながれているので)嘶《いなな》いてあばれる。そこを撓鉤手がいっせいに(撓鉤で人を)ひっかけて、蘆の茂みのなかでつぎつぎに縛りあげた。
呼延灼は鉤鎌鎗の計略にひっかかったことを知ると、馬首をめぐらして南のほうへもどり、韓滔のあとを追った。そのうしろからは風火砲が頭の上にぶっ放される。ここもかしこも、山も野も、いたるところみな追ってくる敵の歩兵ばかり。韓滔と呼延灼のひきいていた連環の甲馬は算を乱しながら草むらや蘆の茂みのなかへなだれこんで、ことごとくからめとられてしまった。ふたりは計略にはめられたことをさとると、馬を飛ばしてあちこちに部下の騎兵をさがし求め、血路を開いて逃げ出そうとしたが、どの道にもびっしりと梁山泊の旗じるしがおし立てられていて、通ることができないので、まっしぐらに西北方をめざして行った。ようやく五六里ほど行くと、はやくも賊の一隊がたちあらわれ、先頭のふたりの好漢が行くてをさえぎった。ひとりは没遮〓《ぼつしやらん》の穆弘《ぼくこう》、ひとりは小遮〓《しようしやらん》の穆春《ぼくしゆん》。ともに朴刀をつきつけて、
「敗軍の将、逃がさぬぞ」
と大喝した。
呼延灼はかっとなり、双鞭《そうべん》をふりまわしつつ、馬を飛ばして穆弘と穆春におそいかかって行った。かくてわたりあうこと四五合、いきなり穆春が逃げ出した。呼延灼は計略にかかることをおそれて敢て追わず、真北の街道へと逃げて行った。すると坂の下からもまたしても一隊の賊があらわれ、先頭のふたりの好漢が行くてをさえぎった。ひとりは両頭蛇《りようとうだ》の解珍《かいちん》、ひとりは双尾蝎《そうびかつ》の解宝《かいほう》。それぞれ鋼叉《こうさ》(はがね作りのさすまた)をかまえて、まっしぐらにおそいかかってきた。呼延灼は双鞭をふりまわしてふたりとたたかった。かくてわたりあうこと六七合におよばずして、解珍と解宝は急いで逃げ出した。呼延灼が半里あまり追って行くと、道の両側から二十四本の鉤鎌鎗が突き出されて、いきなりおそいかかってきた。呼延灼は戦意をうしない、馬首をめぐらして東北方の街道へと逃げた。と、またもや、王矮虎《おうわいこ》と一丈青《いちじようせい》の夫婦に出くわし、退路をはばまれた。呼延灼は道がけわしく、あたりはいばらでふさがれているのを見て、馬をせかせ双鞭をふりまわして血路を開き、突きぬけて行った。王矮虎と一丈青は追いかけて行ったが追いつけず、呼延灼は東北方に逃げて行った。だが、さんざんな敗北を喫し、雨零《こぼ》れ星乱るという惨憺たるありさまであった。それをうたった詩がある。
十路の軍兵地を振《ふる》って来《きた》り
烏騅《うすい》雪を〓《け》り風を望んで回《かえ》る
連環尽《ことごと》く鉤鎌に破られ
双鞭を剰《のこ》し得て九垓《きゆうがい》(注四)(重囲)を出ず
話はふたつにわかれて、一方、宋江は、金鼓を鳴らして兵を収め、山へ帰って論功行賞をおこなうことになった。三千の連環甲馬は、大半、鉤鎌鎗にひっかけられて脚を傷めていたので、そのよろいをはずして食用馬にすることにし、あとの半数の良馬は、山へひいて行って飼い、乗馬にすることにした。よろいをつけた兵士(甲馬に乗っていた兵士)らはみないけ捕りになって山へつれて行かれ、五千の歩兵は、三方から攻めつけられて、本隊のほうへ逃げたものはみな鉤鎌鎗にひっかけられてつかまり、湖岸のほうへ逃げたものはことごとく水軍の頭領たちにとりかこまれて船に乗せられ、船着き場へ運ばれてから、山へ捕らえられて行った。また、前に奪い取られた山寨の馬と、捕らえられた兵士たちは、ことごとく奪い返して山寨へつれもどった。呼延灼の陣地はすっかりたたきこわして、湖のほとりに小寨を築き、二ヵ所に見張り用の居酒屋の店や住居などを建てなおして、もとどおり孫新《そんしん》と顧大嫂《こたいそう》、石勇《せきゆう》と時遷《じせん》にそれぞれの店をやらせることにした。
劉唐と杜遷は、韓滔を捕らえ、縄をかけて山寨へひきたててきた。宋江はそれを見ると、みずからその縄を解き、庁内に請じいれてねんごろに無礼を謝し、宴席を設けてもてなし、仲間入りをするように彭〓と凌振に説得させた。韓滔もやはり地〓星《ちさつせい》七十二のなかの一員であったから、おのずと意気投合して梁山泊の頭領になることになった。宋江はさっそく彼に手紙を書かせ、使いのものを陳州へやって韓滔の家族をひきとってこさせ、山寨でともに住まわせた。かくて宋江は、連環馬を打ち破ったうえに多数の軍馬や、よろい・かぶと・刀などを得たことを祝って、連日、慶賀の宴をもよおし、また前と同じく各方面に守備の兵を派遣して官軍の襲来にそなえたが、この話はそれまでとする。
ところで呼延灼のほうは、多数の兵馬をうしなって、都へ帰るわけにもいかず、ただひとりで、かの〓雪烏騅《てきせつうすい》の馬に乗り、よろいは馬にくくりつけて落ちのびて行ったが、路銀が一文もなかったので、腰の金帯をはずし、それを売って路用にした。そのみちみち思うよう、
「とんだ羽目になってしまったが、いったい、誰のところへたよって行ったらよかろう」
そのとき、ふと思いついた。
「そうだ、青州の慕容《ぼよう》知府はふるい知りあいだ。あの人のところへたよって行くとしよう。そして慕容貴妃《ぼようきひ》(慕容知府の妹で、徽宗皇帝の寵妃)にたのんで天子にとりなしてもらい、もういちど軍をひきいて行って復讐をしてやればよい」
さらに二日すすんだが、夜になって腹がへり喉がかわいたので、道ばたに居酒屋があるのを見て呼延灼は馬をおり、門口《かどぐち》の木に馬をつないで店へはいって行き、鞭を卓の上において腰をおろすと、給仕を呼んで酒と肉をいいつけた。すると給仕のいうには、
「わたくしどもでは酒だけしかございません。肉でしたら、さっき村で羊を殺しましたので、なんでしたらわたしが買ってまいりましょう」
呼延灼は腰の物入れをはずして、金帯を売ってこしらえた小粒銀をいくらか取り出し、給仕にわたして、
「それじゃ羊の脚を一本わけてもらってきて、煮てもらおう。ついでに秣《まぐさ》も都合してきて、わしのあの馬に食わせてやってくれ。今夜はここで泊めてもらって、あした青州府《せいしゆうふ》へ出かけるからな」
「お泊まりになるのは結構ですが、ろくな寝台もございませんので」
「わしはいくさに出ている身、寝るところさえあればそれでよいのだ」
給仕は銀子《ぎんす》を受け取って羊の肉を買いに行った。呼延灼は馬の背にのせておいたよろいを取りおろし、腹帯をゆるめてやり、門口に腰をおろしてしばらく待っていると、給仕が羊の脚を一本ぶらさげて帰ってきた。呼延灼はそれを煮させ、小麦粉を三斤買ってきて餅をつくらせ、酒を二角たのんだ。給仕は肉を煮たり餅をつくったりする一方、足洗いの湯をわかして呼延灼につかわせてから、馬を裏の小屋へひきいれ、秣を切り馬糧を煮た。呼延灼はまず燗のできたのをとりよせて飲んでいたが、やがて肉が煮えると、給仕を呼んで彼にも相伴《しようばん》をさせながら、いいつけた。
「わしは朝廷の軍官だ。梁山泊の討伐にやってきて敗戦したので、これから青州へ慕容知府をたよって行こうと思っているのだ。わしのあの馬の面倒をよくたのむぞ。あれは天子さまから賜わったもので〓雪烏騅《てきせつうすい》という馬なのだ。あした十分に礼をするからな」
「ありがとうございます。ところでお耳にいれておきたいことがあるのですが、この近くに桃花山《とうかざん》という山がございまして、そこには賊がたてこもっております。その一の頭《かしら》は打虎将《だこしよう》の李忠《りちゆう》といい、二の頭は小霸王《しようはおう》の周通《しゆうとう》といって、六七百の手下を集めて強盗をはたらき、いつも村をおびやかしにやってきます。お上からはなんども討伐軍をさしむけられるのですが、やつらを捕らえることができないのです。どうか夜は十分用心してお休みくださいますよう」
「わしは万夫不当の勇をもっている。たとえやつらがこぞっておしかけてきたところで、なにほどのことがあろう。とにかくわしの馬の面倒をたのむぞ」
呼延灼が酒を飲み肉や餅を食べてしまうと、給仕は店に夜具をしいて呼延灼を休ませた。呼延灼は連日の心労に加えて、いささか酒を飲みすごしたために、着物を着たままで寝てしまったが、三更(夜十二時)ごろ眼をさましてみると、裏のほうで給仕が、たいへんだ、と叫ぶのが聞こえた。呼延灼はそれを聞くと急いで飛び起き、双鞭を手に裏へ出て行って、たずねた。
「どうした、なにを騒いでいるのだ」
「飼葉をやろうと思って起きて見ますと、垣がおしたおされていて、旦那さまの馬が盗まれているのです。三四里ばかりさきのところに松明《たいまつ》がまだ見えますが、あそこへ行ったにちがいありません」
「あそこはどこなのだ」
「あの道はまちがいなく桃花山です。賊の手下たちが盗んで行ったのです」
呼延灼はびっくりし、すぐ給仕に道案内をさせて畦道《あぜみち》づたいに二三里追いかけて行ったが、松明はだんだん見えなくなって、どこへ行ったのかわからなくなってしまった。
「もしも恩賜の馬をなくしてしまったら、どうすればよいのだ」
と呼延灼がいうと、給仕は、
「あした州のお役所へお訴えになって、官軍を出して討伐してもらうよりほか、あの馬を取り返す方法はないでしょう」
呼延灼は悶々として、坐ったままで夜明けを迎え、給仕によろいをかつがせて一路青州へと急いだ。町へ着いたときにはすでに日も暮れていたので、ひとまず宿屋に泊まり、翌日の早朝、役所へ行って慕容知府に面会した。すると知府はおどろいて、
「将軍は梁山泊の賊を討ちに行っておられると聞きましたのに、どうしてまたこちらへ?」
呼延灼はことの次第をくわしく話した。慕容知府はそれを聞いて、
「多くの人馬をうしなわれたとはいえ、力をつくさなかったからではなく、賊の奸計にはまったのですからいたしかたないでしょう。わたしの管下にもたくさん盗賊どもがはびこっております。せっかくここへ見えたのですから、まず桃花山を掃討して恩賜の馬を奪い返し、そして二竜山と白虎山の賊どももいっしょに討伐してくださったなら、わたしが陛下になんとかおとりなしをして、あなたにもういちど兵をひきいて復讐のできるようにとりはからいましょう」
呼延灼は再拝して、
「ご配慮のほどありがたく存じます。そうしていただけますならば、必ず身命をなげすててご恩に報います」
慕容知府は呼延灼を客間で休ませ、着がえや食事宿泊の世話をすることにした。よろいをかついできた給仕は帰らせた。
三日目になると、呼延灼はあの恩賜の馬が惜しまれてならず、また知府に申し出て、兵を借りたいといった。慕容知府はさっそく二千の騎兵・歩兵をえらんで呼延灼に貸し、さらに一頭の葦毛の馬をあたえた。呼延灼は厚く礼をのべ、よろいを着てその馬に乗り、恩賜の馬を奪い返すべく兵をひきいて一路桃花山へと進発した。
ところで、桃花山では、打虎将の李忠と小霸王の周通が、例の〓雪烏騅《てきせつうすい》の馬を手に入れてからは毎日、祝いの酒盛りをしていたが、その日、見張りの手下のものが、
「青州の軍勢がおしよせてきました」
と知らせた。小霸王の周通は立ちあがって、
「兄貴は寨《とりで》を守っていてください。わたしが官軍を追っぱらいに行きますから」
といい、ただちに一百の手下を勢ぞろえし、槍をつかんで馬に乗り、官軍を迎え討つべく山をおりて行った。
一方、呼延灼は二千の兵をひきい、山麓に着いて陣地をしくや、みずから馬を先頭にすすめて、大声で呼ばわった。
「強盗どもめ、さっさと出てきて縄を受けよ」
小霸王の周通も、手下たちを一文字に並べ、槍をかまえて馬を乗りすすめた。そのいでたちいかにといえば、
身には団花《だんか》の宮錦《きゆうきん》の襖《おう》(花模様の錦の上着)を着
手には走水緑沈《そうすいりよくちん》(注五)の鎗(濃い朱《しゆ》塗りの槍)を持ち
声は雄に面は闊《ひろ》く鬚《ひげ》は戟《げき》の如し
尽《ことごと》く道《い》う周通は霸王(項羽)に賽《まさ》ると
呼延灼は周通を見るや、馬を飛ばしてむかって行った。周通もまた馬をおどらせてこれに応じ、両馬相交わってわたりあうこと六七合、周通は意気あがらず、馬首を転じて山上へと逃げ出した。呼延灼はぱっと追いかけて行ったが、計略かも知れぬと思い、急いで山をおり、陣をかまえて再戦にそなえた。
一方、周通は、寨にひき返して李忠に告げた。
「呼延灼はおそろしく腕のたつやつで、とてもかないません。それでひきあげてきましたが、もしやつがここまで攻めてきたら、手のつけようがありますまい」
すると李忠がいうには、
「二竜山の宝珠寺には、花和尚《かおしよう》の魯智深《ろちしん》がおおぜいの手下をひきつれており、ほかにも青面獣《せいめんじゆう》の楊志《ようし》とかいうものもいるし、このごろまた行者《ぎようしや》の武松《ぶしよう》も仲間にはいったとかで、いずれも一騎当千の勇ある連中だと聞いている。かくなるうえは、手紙を書いて手下のものに持って行かせ、救援を求めるのが上策だ。もしこの急場を切り抜けることができれば、ここをひきはらって彼らの傘下に投じ、月々貢物《みつぎもの》をおさめることにしてもよかろう」
「あそこに豪傑がいることはわたしもよく知っていますが、だが、あの和尚は、むかしのこと(第五回「花和尚大いに桃花村を鬧《さわ》がす」)をおぼえていて、助けにきてはくれないでしょう」
李忠は笑いながら、
「あのとき、和尚はあんたをぶん殴ったうえ、われわれの金銀酒器をごっそり持って行ったんだ。こっちを恨むなんてことがあるはずはなかろう。生一本《きいつぽん》なわる気のない男だから、使いのものをやったら、きっと自分で兵をひきつれて応援にきてくれるだろう」
「なるほど、それもそうだ」
と、さっそく手紙を書いて、わけのわかった手下をふたり、こっそり裏山からおろして二竜山へ急がせた。二日して、早くも山の下まで行くと、そこの手下のものがくわしく来意をたずねた。
さて宝珠寺の本堂には、三人の頭領がいた。一の頭領は花和尚の魯智深で、二番目は青面獣の楊志、三番目は行者二郎《にろう》の武松である。そのむかいの山門には四人の小頭領がいた。そのひとりは金眼彪《きんがんひよう》の施恩《しおん》で、彼はもと孟州の牢城の施《し》典獄の息子だったが、武松が張《ちよう》都監の一家をみな殺しにしたとき(第三十一回)、上司から下手人を捕縛せよと責めを負わされたために、一家をあげて逃げ出し、世間を渡り歩いているうちに、父も母も亡くしてしまい、武松が二竜山にいることを聞きつけて、その仲間に身を投じたのである。もうひとりは操刀鬼《そうとうき》の曹正《そうせい》で、彼ははじめ魯智深や楊志とともに宝珠寺を奪って〓竜《とうりゆう》を殺し(第十七回)、のちに仲間に加わったもの。あとのふたりは菜園子《さいえんし》の張青《ちようせい》と母夜叉《ぼやしや》の孫二娘《そんじじよう》である。このふたりは夫婦で、もとは孟州道の十字坡で人肉饅頭を売っていたが(第二十七回)、魯智深と武松からしきりに手紙で誘われ、ついに仲間にはいったのであった。
曹正は桃花山から手紙がきたという知らせを受けると、まず事情を問いただしてから、本堂へ行って三人の大頭領に報告した。すると智深がいった。
「わしは前に五台山《ごだいさん》を出てきたときのこと、桃花村に泊まって、こっぴどくあの周通というやろうをぶちのめしてやったことがある。すると李忠のやつが、わしを知っているといって、山へつれて行ってまる一日酒をふるまい、わしを兄貴にして山寨の頭《かしら》になってくれといいやがったが、わしは、やつらが、しみったれたやつだとわかったので、金銀の酒器をふんだくって、すっぽかしてやったものだ。それがいま救いを求めてきやがったとは、まあどういうことなのかきいてみるとしよう。その手下のものを上へあげてやれ」
曹正はしばらくして、その手下のものを本堂の前につれてきた。手下のものは挨拶をして、いった。
「青州の慕容知府が、このほど梁山泊を攻めて敗北した双鞭の呼延灼をひきとり、まず当地の桃花山・二竜山・白虎山の山寨を掃蕩させてから、兵を貸して梁山泊を討伐させ、復讐をさせようとしております。そこでわたくしどもの頭領は、こちらの大頭領どのにおねがいして、軍勢をひきいて山をくだり救援していただきたいと申しております。いずれ無事にすみましたときには、貢物をおさめさせていただきたい所存でございます」
すると楊志がいった。
「われわれはそれぞれの山寨にたてこもって守りを固めるだけで、救援などしないのが本筋だと思うのだが、それでは世間の豪傑の名を辱しめることになるし、また、やつらが桃花山を手におさめたならば、きっとわれわれの山寨もあなどるようになるだろう。それで、山寨のほうは張青・孫二娘・施恩・曹正の四人に守ってもらって、われわれ三人で出かけることにしよう」
と、ただちに五百の手下と六十余騎の騎兵を集め、それぞれ、よろいや武器に身をかためて一路桃花山へとすすんだ。
一方、李忠は、二竜山のこの消息を知ると、みずから三百の手下をひきつれて山をくだり、これに呼応した。呼延灼はそのことを知ると、急いで配下の軍勢をつどえ、道を遮断して陣をしき、鞭をふりまわしつつ馬をすすめて李忠を迎えた。李忠の様子いかにと見れば、
頭尖《とが》り骨臉《こつれん》(骨ばった顔)蛇形に似たり
鎗棒林中に独《ひと》り名を擅《ほしいまま》にす
打虎将軍心胆《しんたん》大
李忠の祖は是れ霸陵《はりよう》(注六)の生か
そもそも李忠の祖先は、濠州は定遠の人で、代々槍棒をもって世渡りをしてきた家柄。いかにもがっしりとした体つきをしていたので、人々は彼を打虎将《だこしよう》とあだ名していたが、そのとき山をおりてきて呼延灼とたたかったところ、李忠はとうてい呼延灼の敵ではなく、十合ばかりわたりあったものの、かなわぬと見て、相手の武器をはらいのけるやいきなり逃げ出した。呼延灼は彼の腕がさほどでないことを知ると、馬を飛ばして山の上へ追って行った。小霸王の周通がそのとき、山の中腹でそれを見て、鵞卵石《がらんせき》(つぶて)を飛ばした。呼延灼はあわてて馬首をめぐらし、山をおりて行った。と、味方の兵がしきりに叫び声をあげている。
「なにをさわいでいる」
とたずねると、後軍のものが、
「むこうから一隊の軍勢のおしよせてくるのが見えます」
という。呼延灼がそれを聞いて後軍のところへ行って見ると、土埃《つちぼこり》が捲きおこり、その先頭には、肥った和尚が白馬にまたがっている。
それは誰かといえば、これこそ、
落髪して禅林に寓してより、万里曾《かつ》て壮士を将《もつ》て尋ぬ。臂は千斤の鼎《かなえ》を扛《あ》ぐる力を負い、天は一片の殺人の心を生ず。仏祖を欺き観音を喝す。戒刀禅杖冷森々《れいしんしん》たり。経巻を看ざる花和尚、酒肉の沙門《しやもん》魯智深。
魯智深は馬上で大喝した。
「梁山泊でやっつけられてきたやろうはどいつだ。よくもおいらのところへおどかしにきやがったな」
呼延灼はいい返した。
「おのれ、糞坊主め、まずきさまを殺して鬱憤を晴らしてくれよう」
魯智深は鉄の禅杖をふりまわし、呼延灼は双鞭をふりまわし、両馬は相交わった。両軍からどっと喊声があがる。両者はたたかうこと四五十合におよんだが、勝敗は決しなかった。呼延灼はひそかに感嘆した。
「この和尚、なかなか腕のたつやつだ」
両軍は金鼓を鳴らし、それぞれ兵をひいて休んだ。呼延灼は一息いれると、また馬を飛ばして陣頭に出、
「坊主め、もういちど出てこい。勝負をつけてやろう」
と呼ばわった。魯智深が飛び出して行こうとすると、かたわらにいたひとりの英雄がかっとなって叫んだ。
「兄貴、しばらく休んでくれ。わしがあいつをひっつかまえてやる」
と、刀を振りまわしつつ馬を乗り出して呼延灼に挑《いど》みかかって行ったのは誰かといえば、まさに、
曾《かつ》て京師に向《おい》て制使《せいし》となり、花石綱《かせきこう》に累《しき》りに艱難を受く。紅霓《こうげい》(虹)の気は牛斗(注七)(星座)に逼《せま》りて寒く、刀は能く宇宙を安んじ、弓は塵寰《じんかん》(世俗)を定む可し。虎体狼腰猿臂健《すこや》かに、竜駒に跨って穏《おだや》かに雕鞍《ちようあん》に坐す。英雄の声価梁山に満つ。人は称す青面獣、楊志是れ軍班なり。
そのとき楊志は馬をすすめて呼延灼と鋒《ほこ》をまじえた。両者はたたかうこと四十余合におよんだが、勝敗は決しない。呼延灼は楊志の腕のなみなみならぬのを見て、
「いったいこのふたりはどこからやってきたのか、すごい腕だ。とても山賊などの手並みとは思えぬが」
といぶかった。楊志のほうでも呼延灼の武芸のしたたかなのを見て、負けたかのごとくよそおい、馬首を転じて自軍へ駆けもどった。呼延灼も馬をひきとめて、敢て追わず、両軍はともに兵をひきあげた。魯智深は楊志にはかっていった。
「おれたちにははじめての土地だから、敵に接近して陣を構えるのはまずいだろう。ひとまず二十里ほど後退して、あしたまたやっつけにくることにしよう」
と、手下をひきつれ、退いて岡のふもとに陣をしいた。一方、呼延灼は、幕営のなかでいらいらしながら、
「破竹の勢いでおしよせて山賊どもをひっ捕らえてやろうと思っていたのに、あんな相手に出くわそうとは。どこまでおれは運がないのだろう」
と途方にくれていると、そこへ慕容知府からの使者がやってきて、
「ひとまず兵をひき返して、城の守備につくようにとのことです。このたび白虎山の孔明《こうめい》と孔亮《こうりよう》が、兵をひきつれて青州へ糧秣《りようまつ》をよこせといってきました、それで府の倉庫に万一のことがあってはなりませんので、城へひき返して守っていただきたいとのことです」
という。呼延灼はそれを聞くと、これ幸いと、兵をひきつれて急いで青州へ帰って行った。
翌日、魯智深が、楊志および武松とともに、ふたたび手下をひきつれ、旗をうち振りときの声をあげながら、まっしぐらに山麓へおしよせて行って見ると、そこには一兵もいなかった。あっけにとられていると、山上から李忠と周通が手下をひきつれておりてきて、三人の頭領を山上へ請じ、牛や馬を殺して酒宴を設ける一方、手下のものを下山させて前方の消息をさぐらせた。
さて呼延灼が兵をひきいて城下にもどると、はやくも一隊の軍勢が城におしかけてくるのが見えた。その頭《かしら》たるものは、白虎山麓の孔太公の息子の、毛頭星《もうとうせい》の孔明と独火星《どつかせい》の孔亮であった。このふたりは、土地の、ある金持といさかいをおこしたあげく、その一家のものを残らず殺してしまい、六七百人のものを集めて白虎山にたてこもり、強盗をはたらいていたのである。ところで、青州城内に住んでいた彼らの叔父の孔賓《こうひん》というものが、慕容知府に捕らえられて牢にいれられたために、孔明と孔亮は、山寨の手下どもをひきつれて、叔父の孔賓を救うべく青州へおしかけてきたところ、呼延灼の軍勢とぶっつかったのであった。かくて両軍はおしあい、はばみあって、たたかった。
呼延灼はすぐ馬を陣頭に乗り出した。慕容知府が城の櫓《やぐら》の上で見ていると、孔明がまっさきに槍をかまえつつ馬をすすめ、ぱっと呼延灼におそいかかってきた。両馬相交わり、ふたりはわたりあうこと二十余合。呼延灼は知府の眼前で手並みを示さんがため、また、孔明の武芸が未熟で、ただ受けたり払ったりするだけで精いっぱいというありさまだったので、やがて頃合いを見て、馬上で孔明を手捕りにしてしまった。孔亮は是非もなく手下をひきつれて逃げ出す。慕容知府は櫓の上から指図して、呼延灼に兵をひきいて追撃させた。官軍はどっとおそいかかって、百十余人の賊を捕らえた。孔亮は大敗してちりぢりに逃げ、夕暮れになって、とある古廟を見つけて休んだ。
さて呼延灼は孔明をいけ捕りにすると、城内へひきたてて行って慕容知府に会った。知府は大いによろこんで、孔明に大枷をはめさせ、牢にくだして孔賓といっしょに監禁させる一方、全軍の将兵をねぎらい、また呼延灼をもてなして桃花山の様子をくわしくたずねた。呼延灼はいった。
「はじめは、いわば甕《かめ》のなかのすっぽん同然で、難なく手中におさめられるところまでいったのですが、そこへ思いがけなく一群の賊が救援にあらわれたのです。そのうちの、ひとりの坊主と、ひとりの青い顔の大男と、一回ずつわたりあいましたが、勝負がつきませんでした。このふたりの武芸は尋常ではなく、とても山賊風情のものとは思われません。そんなわけで、とりおさえることができませんでした」
「その坊主というのは、延安府の経略使の《ちゆう》老相公のもとに仕えていた軍官で、提轄《ていかつ》の魯達《ろたつ》というものです。いまは髪を落として坊主になり、花和尚の魯智深と呼ばれている。また青い顔の大男は、これも東京《とうけい》の殿帥府で制使《せいし》をつとめていた男で、青面獣の楊志というやつ。ほかにもうひとり、行者《ぎようじや》で武松というのがいるが、これはかつて景陽岡《けいようこう》で虎をなぐり殺した武《ぶ》都頭です。この三人が二竜山にたてこもって強盗をはたらき、何度も官軍をはね返し、捕盗官も四五人は殺されましたが、いまだにとりおさえられないというわけです」
「やつらはいかにもたいした腕前でしたが、なるほど楊制使と魯提轄だったのですか。まことに名はむなしくは伝わらぬものです。しかし、ご安心ください。わたくしはすでに彼らの手並みはわかりましたので、遠からずひとりずつからめとっておひきわたしいたします」
知府は大いによろこび、宴席を設けてもてなし、宴がはてると客間に請じて休ませたが、この話はそれまでとする。
一方、孔亮が敗残兵をつれてのがれて行くと、とつぜん森のなかから一隊の軍勢が飛び出してきた。先頭に立ったひとりの好漢、そのいでたちいかにといえば、西江月のうたに、それをうたったものがあっていう。
直〓《じきとつ》(黒布のころも)は冷やかに黒霧を披《き》、戒箍《かいそう》(鉄の鉢巻き)は光って秋霜を射る。額前の剪髪《せんぱつ》は眉を払って長く、脳後の護頭《ごとう》(戒箍の下あて)は項《うなじ》に斉《ひと》し。頂骨(頭蓋骨)の数珠《じゆず》は燦白にして、雑絨《ざつじゆう》(五色の毛織)の〓結《とうけつ》(組ひも)は微黄なり。鋼刀両口《りようこう》(二振り)寒光を迸《ほとばし》らせ、行者武松の形像なり。
孔亮は見るなり武松とさとり、急いで鞍からすべりおりて平伏し、
「壮士、その後おかわりもなく」
というと、武松も急いで礼を返し、助けおこしてたずねた。
「あなたがたご兄弟が白虎山にたてこもっておられると聞いて、何度もご挨拶にうかがおうとは思ったのですが、なかなか山をおりられず、また道の勝手もわからぬまま、ご無沙汰をしておりました。きょうはまた、何用でこちらにおいでなさった」
孔亮は叔父の孔賓を救おうとして兄が捕らえられるにいたったことを、くわしく話した。すると武松は、
「なに、あわてることはありませんよ。わしの兄弟分のものが六七人、現に二竜山にたてこもっておりますが、このたび桃花山の李忠と周通が、青州の官軍に攻められて危ういというので、わしの山寨へ救援をたのみにきたのです。それで、魯・楊の二頭領が手下どもをひきつれて出かけ、呼延灼と一戦をまじえたのですが、一日たたかったら呼延灼は夜になって逃げてしまいました。山寨(桃花山)ではわしたち三人をひきとめて酒宴を張り、この恩賜の馬をわしたちにくれたのです。わしはいま、兵をひきつれて山へ帰るところですが、あとのふたりも追っつけやってくるでしょうから、彼らに話して青州を攻め、あんたの叔父さんと兄さんを助け出すことにしようじゃありませんか」
孔亮は武松に拝謝した。しばらく待っていると、魯智深と楊志が馬をならべてやってきた。武松は孔亮をふたりにひきあわせて事情を話した。
「以前この人の屋敷でわしが宋江と再会したおりには(第三十二回)、いろいろとお世話になったものだ。このたびわれわれは義のために三山の軍勢を集めて青州を攻め、慕容知府を殺し、呼延灼を捕らえ、府庫の銭や食糧を奪ってめいめいの山寨の用にしようではないか」
「おれもそう思う。さっそく桃花山へ知らせのものをやり、李忠と周通に手下どもをひきつれてこさせ、三山ひとつになって青州を討つとしよう」
魯智深がそういうと、楊志が、
「青州は城が堅固で、兵力も強い。それに呼延灼というやつはなかなかたいした男だ。だから、別に味方にけちをつけるわけではないのだが、青州を攻めようというのなら、ぜひわしのいうとおりにしてもらいたいのだ。そうすれば必ず攻めおとせる」
「兄貴、そいつを聞かしてもらおう」
と武松はいった。すると楊志はくわしくそれを話しだしたが、そのことから、青州の民家はことごとく瓦《かわら》裂け煙《けむり》飛び、水滸の英雄はいずれもみな拳《こぶし》を磨《みが》き掌《たなごころ》を擦《さす》るという次第になるのである。さて楊志は武松に対して、いかにして青州を攻めようと説いたか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 三すじのひげ 原文は三牙髭髯。第九回注二参照。
二 四手の撥三手の鉤…… このうたは意訳したが、原文を書きおろせば、
四撥《はつ》三鉤《こう》通じて七路
分《ぶん》とともに九変して神機に合す
二十四歩前後に那《いな》し
一十六翻《ほん》大転囲す
三 孫呉の兵法 孫武(孫子)と呉起(呉子)。ともに春秋時代の兵法家。
四 九垓 また九〓、九〓、九〓とも書く。九天の上、あるいは九州の意であるが、垓も〓も重なるという意を持つことから、ここでは重囲の意につかわれているようである。
五 走水緑沈 走水は火の燃えること、緑沈は塗りの色の濃いこと。つまり濃い朱色をいう。
六 霸陵の生 霸陵は漢の文帝の陵、またはその地。霸陵の生は、ここでは文帝のときに匈奴《きようど》を討って功のあった武将李広をさす。
七 牛斗 斗牛に同じ。第四回注五参照。
水滸伝《すいこでん》(四)
講談社電子文庫版PC
施耐庵《したいあん》/駒田信二《こまだしんじ》訳
(C) Setsu Komada 1984
二〇〇二年四月一二日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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