TITLE : 水滸伝(六)
講談社電子文庫
水滸伝(六)
駒田信二 訳
目 次
第七十三回
黒旋風《こくせんぷう》 喬《いつわ》って鬼《き》を捉《とら》え
梁山泊《りようざんぱく》に 双《なら》べて頭《くび》を献ず
第七十四回
燕青《えんせい》 智もて〓天柱《けいてんちゆう》を撲《う》ち
李逵《りき》 寿張《じゆちよう》に喬《いつわ》って坐衙《ざが》す
第七十五回
活閻羅《かつえんら》 船を倒《さかしま》にして御酒《ぎよしゆ》を偸《ぬす》み
黒旋風《こくせんぷう》 詔《みことのり》を〓《ひきさ》いて欽差《きんさ》を罵《ののし》る
第七十六回
呉加亮《ごかりよう》 四斗五方《しとごほう》の旗を布《し》き
宋公明《そうこうめい》 九宮八卦《きゆうきゆうはつか》の陣を排《つら》ぬ
第七十七回
梁山泊《りようざんぱく》 十面に埋伏《まいふく》し
宋公明《そうこうめい》 両《ふた》たび童貫《どうかん》に贏《か》つ
第七十八回
十節度《じゆうせつど》 梁山泊《りようざんぱく》を取るを議し
宋公明《そうこうめい》 一《ひと》たび高太尉《こうたいい》を敗《やぶ》る
第七十九回
劉唐《りゆうとう》 火を放って戦船を焼き
宋江《そうこう》 両《ふた》たび高太尉《こうたいい》を敗《やぶ》る
第八十回
張順《ちようじゆん》 鑿《うが》って海鰍船《かいしゆうせん》に漏《あな》をあけ
宋江 三たび高太尉を敗《やぶ》る
第八十一回
燕青《えんせい》 月夜に道君《どうくん》に遇い
戴宗《たいそう》 計を定めて楽和《がくわ》を出《いだ》す
第八十二回
梁山泊《りようざんぱく》 金を分《わか》ちて大いに買市《ばいし》し
宋公明《そうこうめい》 全夥《ぜんか》もて招安《しようあん》を受く
第八十三回
宋公明《そうこうめい》 詔《みことのり》を奉じて大遼《たいりよう》を破り
陳橋駅《ちんきようえき》に涙を滴《た》れて小卒を斬る
第八十四回
宋公明《そうこうめい》 兵もて薊州城《けいしゆうじよう》を打ち
盧俊義《ろしゆんぎ》 大いに玉田県《ぎよくでんけん》に戦う
第八十五回
宋公明《そうこうめい》 夜益津関《えきしんかん》を度《わた》り
呉学究《ごがくきゆう》 智もて文安県《ぶんあんけん》を取る
第八十六回
宋公明《そうこうめい》 大いに独鹿山《どくろくざん》に戦い
盧俊義《ろしゆんぎ》 兵を青石峪《せいせきよく》に陥《おとしい》れらる
第八十七回
宋公明《そうこうめい》 大いに幽《ゆう》州に戦い
呼延灼《こえんしやく》 力《はげ》んで蕃将を擒《とら》う
水滸伝(六)
第七十三回
黒旋風《こくせんぷう》 喬《いつわ》って鬼《き》を捉《とら》え
梁山泊《りようざんぱく》に 双《なら》べて頭《くび》を献ず
さて、そのとき李逵《りき》は宿屋から飛び出し、二挺の斧を手に、城へおしかけて行って門をたたき破ろうとしたが、燕青《えんせい》に腰を抱きとめられ、あおむけざまに投げ倒されてしまった。燕青は李逵をひきおこし、裏道へと逃げ出す。李逵はしかたなくそのあとからついて行った。
なにゆえ李逵が燕青をおそれているのかというと、もともと燕青は相撲にかけては天下第一の腕前。さればこそ宋公明も燕青に李逵の番をさせたのである。もし李逵が彼にさからえば、燕青は相撲の手でたちまち李逵をひとひねりにしてしまう。李逵はこれまでにもなんどかやっつけられていたので、彼をおそれて、しかたなくあとについて行ったという次第。
燕青と李逵は本街道へ出ることはさけた。敵軍に追ってこられたら防ぐすべがなかったからで、やむを得ず大まわりをして陳留県へとのがれて行った。李逵は着物を着なおして大斧をふところのなかにかくし、頭巾はなくしてしまったので、赤ちゃけた髪をふたつにわけてあげまきに結《ゆ》った。やがて夜が明けると、燕青は銭を持っていたので、村の居酒屋で酒や肉を買って腹ごしらえをしてから、またとっとと道を急いだ。
夜が明けると東京《とうけい》の城内はたいへんな騒ぎ。高太尉は兵をひきつれ、城を出て追いかけて行ったが、ついに追いつけず、ひき返してきた。李師師《りしし》はなにも知らぬというばかり。楊太尉も家にひきこもって休んだままである。城内の負傷者の数を調べてみると、みなで四五百人もおり、おし倒されたり蹴つまずいたりして傷を負ったものにいたってはとうていかぞえきれなかった。高太尉は枢密院の童貫《どうかん》と話しあい、いっしょに太師府へ行って協議したすえ、早急に兵を出して討伐すべきことを上奏した。
さて李逵と燕青のふたりは、道中、その名を四柳村《しりゆうそん》と呼ぶところにたどりついた。いつしか日も暮れてしまったので、ふたりはある大きな屋敷へたずねて行き、門をあけてもらって母屋へ通った。と、主人の狄太公《てきたいこう》が挨拶に出てきたが、李逵が(道童のように)髪をあげまきに結いながら、道袍《どうほう》(道士の服)は着ておらず、しかも醜い顔をしているのを見て、いったい何ものなのか見当もつかない。太公は出まかせに燕青にたずねてみた。
「このかたはどこのお坊さんなのですか」
燕青は笑いながら、
「このお坊さんはわけのあるお人だが、あなたがたにはわかりますまい。とにかくまあ早いところ晩飯をおねがいしたいものです。一晩泊めていただいて、あした、早立ちしますから」
李逵はただ黙っていた。太公は話を聞くと、ひざまずいて李逵を拝み、
「お坊さん、どうかお助けくださいませ」
といった。
「助けてくれって、なにをですかい。くわしく話してみなされ」
李逵がそういうと、太公は、
「わたしの家では百人あまりのものをかかえておりますが、わたしたち夫婦には血をわけたものは娘がひとりおりますだけで、二十《はたち》あまりになりますが、これが半年ほど前から憑《つ》きものにとりつかれて部屋のなかにひきこもったきり、飲み食いにも出てまいりません。呼びに行ったりなどしますと、瓦や石をめちゃめちゃに投げつけまして、家のものはみんな傷を負わされましたような始末。なんども道士さんにきていただいたのですが、どうしてもとりおさえられませんので」
「ご老人、わしは薊《けい》州の羅真人《らしんじん》さまの弟子で、雲にのぼることも霧に乗ることもできる。鬼《もののけ》をとりおさえるのはわけもない。おまえさんが物惜しみさえしなければ、わしが今夜その鬼をとりおさえてあげましょう。ついてはまず豚一匹と羊一匹を神将さまにお供えしなければならん」
「豚や羊なら家にいくらでもおりますし、酒もおっしゃるまでもございません」
「それじゃ、よく肥えたやつを殺し、ぐつぐつ煮て持ってくるように。それから上等の酒も幾瓶かとりそろえてもらおう。今夜の三更(十二時)に鬼《もののけ》をとりおさえてあげるからな」
「呪《まじな》いをお書きになる紙がおいり用でしたら、それも家にございます」
「わしのやりかたはいつでも同じさ。呪文も糞も用はないんだ。部屋のなかへ踏みこんでいって鬼をひっぱり出してくるだけさ」
燕青はくすくす笑いだした。老人はこれはうまい話だと思い、夜中までかかって豚や羊をぐつぐつと煮てから、座敷に並べた。李逵は大碗十個と熱くした酒十瓶を持ってこさせて、つぎ並べ、あかあかと二本の〓燭をともし、香炉に香をもうもうとくすべた。そして椅子を持ってきてまんなかに坐り、ひとこともとなえるではなく、腰から大斧を抜き出して豚と羊をぶった切り、大きな塊りにひきちぎって食いだした。そして燕青を呼んで、
「小乙《しよういつ》兄い、あんたも食わんか」
燕青は苦笑して、もとより手をつけなかった。李逵は腹いっぱい食べると、酒を五六杯飲んだ。太公はそれを見てあっけにとられている。李逵は下男たちを呼んで、
「おまえさんたちも、みんなでおさがり(注一)をちょうだいするがよい」
といい、たちまちのうちに残りの肉もすっかりなくなってしまうと、
「さあ、湯を一桶《ひとおけ》汲んできてくれんか。手と足を洗いたいのだ」
やがて手足をすすぎおわると、太公にお茶を所望して飲み、それから燕青にたずねた。
「あんた、飯はすんだかね」
「いただいたよ」
と燕青がいうと、李逵は太公にむかって、
「酒にも酔ったし、肉もたらふく食ったし、あすはまた出かけなきゃならんので、おれさまたちはこれで寝るとしよう」
「それはいかなこと。鬼《もののけ》はいつとりおさえてくださいますので」
「ほんとうに鬼をとりおさえてほしいのなら、誰かにわしを娘さんの部屋へ案内させてくだされ」
「ところがいまちょうど神道《か み》さまが部屋にきているところで、瓦や石をめちゃめちゃに投げつけてきますので、誰もよう行きませんので」
李逵は二梃の板斧《はんぷ》を手にとると、松明《たいまつ》で遠くから照らさせながら、つかつかと部屋へ近づいて行った。見れば、部屋にはほのかに明りがともっている。李逵が眼をこらして見ると、ひとりの若ものが女を抱いて、なにやら話しているところだった。李逵は足で部屋の戸を蹴りあげざま、さっと斧をうちおろした。と、ぱっと火花が散り、稲妻が飛びちがった。眼をすえてよく見れば、それは明りの火皿をたたき割ったのだった。若ものは逃げ出そうとしたが、李逵が一喝をくらわせ、斧をふるったと見るや、すでに若ものは斬り倒されていた。阿魔のほうは寝台の下へもぐりこんで身をかくした。李逵はまず斧で男の首を斬りおとして寝台の上に置いた。そして斧で寝台の縁をたたきながらどなりつけた。
「阿魔、さっさと出てこい。出てこなけりゃ寝台ごとめちゃめちゃにたたき斬ってしまうぞ」
阿魔はしきりに叫んだ。
「いのちばかりはお助けください、出て行きますから」
頭を出したところを、李逵は髪の毛をひっつかんで死骸のそばへひきずって行き、
「おれが殺したこいつは、なにやつだ」
「わたしのまおとこの王小二というものです」
「瓦や飯はどこから手にいれた」
「わたしが金銀やかんざしをこの人にわたして、夜中に塀を越えて運んでもらいました」
「そんなけがらわしい阿魔は生かしておいてもしようがないわ」
と、寝台の横へひきずって行って一斧《ひとおの》のもとに首を斬りおとし、ふたつの首をひとつにからげあわせておいてから、阿魔の死骸と男の死体とを重ねあわせて、
「腹いっぱい食ったので、腹ごなしにはちょうどよいわ」
と肌ぬぎになり、二梃の斧を持って、ふたつの死骸にむかい、左右かわるがわる、まるで太鼓でも打つように滅多打ちにしてたたき斬った。そして笑いながら、
「これでもう、ふたりとも絶対に生き返りっこはないわい」
といい、斧を腰にさし、首をぶらさげて、大声を立てながら座敷の前へ行き、
「鬼を二匹とりおさえてきたぞ」
と、首を放り出した。屋敷じゅうのものはみなびっくりし、どっと集まってきて見ると、ひとつは太公の娘だったが、もうひとつの首は誰にもわからなかった。なかのひとりが、しばらく眺めていて、
「これはどうやら、東の村はずれの、雀刺しのうまい王小二らしいて」
と見わけた。
「うん、おまえはなかなか眼ききだ」
と李逵がいうと、太公は、
「お坊さんにはどうしてご存じなので」
「寝台の下にかくれたあんたの娘を、わしがひきずり出して聞いてみたら、こういったんだ、これはまおとこの王小二で、食べものはみなこの男に運んでもらったとな。くわしく聞いてから片付けてやったのさ」
「お坊さん、わたしの娘をどうして生かしておいてくださらなかったのです」
太公が泣いてそういうと、李逵はののしった。
「ろくでなしの老いぼれやろうめ、娘が男をくわえこみやがったのに、それでも生かしておいてほしかったというのか。そうやって泣いてやがるのは、おれにいいがかりをつけて礼もせん気だな。あしたになったら話をつけてやろう」
燕青は部屋をさがし、李逵といっしょにそこへ行って寝た。太公は一同をつれて、〓燭をともして娘の部屋へはいって見ると、首のないふたつの死骸が、十幾つに斬りきざんで投げすててあるのが照らし出された。太公夫婦は泣きかなしみながら、さっそく裏へ運び出させて火葬にした。
李逵は夜が明けるまで眠り、跳び起きて行って太公にいった。
「ゆうべは鬼をとりおさえてやったのに、どうして礼をせんのだ」
太公はしかたなく、酒食をととのえてもてなした。李逵と燕青は食べおわると、さっさと出かけた。狄太公は家のあとしまつをしたが、この話はそれまでとする。
さて、李逵と燕青は四柳村をあとに、これまでどおりに旅をつづけた。おりしも草は枯れて地はひろびろと、木の葉は落ちて山もさむざむとした季節で、道中には格別の話もなかった。ふたりは梁山泊の北を大まわりしたため、寨《とりで》まではまだ七八十里、なかなか山へは行きつけず、荊門鎮《けいもんちん》という町の近くまできた。その日、日が暮れたので、ふたりはある大きな屋敷へ行って門をたたいた。
「宿屋をさがして泊まろうじゃないか」
と燕青はいったが、李逵は、
「この金持の家のほうが宿屋よりもよっぽどよかろう」
という。そこへ、下男が出てきて、
「うちのご主人はいまちょうど心配ごとがおありなので、おまえさんたちどこか他所へ行って宿を借りてくれ」
といったが、李逵はつかつかとなかへはいって行った。燕青がとめたが、とめきれず、まっすぐに座敷まで行って、李逵は大声でいった。
「通りすがりの旅のものが一晩宿を借りるぐらい、なんにもたいしたことはないじゃないか。太公が心配ごとがあるとのことだが、それじゃおれが、その心配ごとのあるやつと話をつけよう」
太公は奥からのぞいて見て、李逵が兇悪な面がまえをしているのを見ると、ひそかに下男に、出迎えに行って座敷の横の脇部屋へ通してふたりを休ませ、飯をこしらえて食べさせてそこへ泊まらせるようにといいつけた。しばらくすると、飯が運ばれてきたので、ふたりはそれを食べて寝た。李逵はその夜は酒がなかったので、土坑《どこう》(おんどる)の上で転々と寝返りをうって、眠りつけずにいた。と、太公夫婦が奥でしくしくと泣いているのが聞こえた。李逵はいらいらして、いよいよもって眠れるどころではなく、夜が明けるのを待ちかねて跳び起きるなり、座敷へ出て行って、
「この家のどいつだ、一晩じゅう泣いて、おれさまを寝つかせやがらんだやつは」
太公はそれを聞くと、しかたなく出てきていった。
「わたしのところには十八になる娘がおりましたのですが、人にさらわれて行ってしまったのです。それで悩んでおりますので」
「それはまたけしからん話だ。おまえさんの娘さんをさらって行ったやつはいったい何ものです」
「名前をお聞かせしましたら、びっくりして腰を抜かされましょう。その男は梁山泊の頭領の宋江で、百八人の好漢をそろえて、えらい勢いなのです」
「ちょっときくが、やつは何人づれできたんだ」
「二日前、若いのとふたりで馬に乗ってやってきました」
李逵はすぐ燕青を呼んだ。
「小乙《しよういつ》兄い、あんたもここへきてこの年寄りの話を聞くがよい。おいらの兄貴は口と心とがまるでちがう、よくない男だったのだな」
「おい、あわてちゃいかんよ。そんなことがあるもんか」
「東京でも李師師の家へ行ってたくらいだから、ここでだってやらないってことはなかろう」
李逵はこんどは太公にむかって、
「おまえさんとこに飯があったら、食わせてもらいたい(腹ごしらえをして出かけるとの意)。じつはわしは梁山泊の黒旋風の李逵で、こっちは浪子の燕青なのだ。宋江がおまえさんの娘をさらったというのなら、わしがこれから行って取り返してやろう」
太公は礼をいった。李逵と燕青は梁山泊へ帰り、ただちに忠義堂へ行った。宋江は李逵と燕青がもどってきたのを見るなり、いった。
「ふたりともいったいどこをうろうろしていて、いまごろ帰ってきたのだ」
李逵は返事をするどころか、怪眼を剥《む》き、大斧をひき抜いてまず杏黄旗《きようこうき》を斬り倒し、ついで替天行道の四字の旗をずたずたにひき裂いた。一同はあっけにとられた。宋江は、
「黒ん坊め、またもやなんたることをする」
とどなりつけた。李逵は二梃の斧をつかんで堂上へおどりあがるや宋江めがけて飛びかかって行った。詩にいう。
梁山泊裏奸佞《かんねい》無く
忠義堂前諍臣《そうしん》有り
留め得て李逵に双斧《そうふ》在り
世間の直気尚《なお》能く伸ぶ
居合わせた関勝《かんしよう》・林冲《りんちゆう》・秦明《しんめい》・呼延灼《こえんしやく》・董平《とうへい》の五虎将《こしよう》があわててさえぎり、大斧を奪って堂からひきずりおろした。宋江は大いに怒り、
「こやつめ、またもやふとどきな。わしがどんなあやまちをしたというのだ、いってみろ」
李逵はいきどおりのあまり、口をきくこともできない。燕青がすすみ出ていった。
「兄貴、道中のことをくわしくお話しいたします。やつは東京の城外の宿屋から飛び出してきて、二梃の斧を手に、城門を打ち破りに行こうとしましたので、わたしは彼を投げ倒し、ひきずりおこして、いい聞かせたのです、兄貴はもうひきあげてしまったんだ、ひとりでなにを狂い立っているんだと。すると、やっとわたしのいうことを納得して、本街道を避けて通り、やつは頭巾をなくしていたものですから、髮をあげまきに結って、やがて四柳村の狄太公の屋敷へつきましたところ、やつは道士になりすまして鬼《もののけ》をとりおさえてやるといって、そこの娘とまおとこのふたりをつかまえ、ふたりとも斬りきざんでぐちゃぐちゃにしてしまいました。それから本街道の西から山へ帰ろうとしたのですが、やつは大まわりをして行こうといってきかず、やがて荊門鎮の近くまできましたところ、日が暮れましたので、劉太公の屋敷に泊まったのですが、太公夫婦が一晩じゅう泣いているのを聞いて、やつは寝つかれず、夜明けを待ちかねて起きて行って太公にたずねたのです。すると劉太公のいうには、二日前に梁山泊の宋江が若い男といっしょに馬に乗って屋敷にやってきたので、天に替って道をおこなう人だと聞いていたため、十八になる娘を呼んで酒の酌をさせていると、夜中まで飲んだあげくふたりは娘をさらって行った、とのこと。李逵の兄貴はそれを聞いて、ほんとうだと思いこんでしまったのです。わたしが、兄貴はそんな人じゃない、たぶんそれは人の威を借るやつらが、かげでやらかしていることなのだといくらいっても、李の兄貴は、いや東京でだって歌い女の李師師《りしし》にほれて放そうとしなかったくらいだから、こいつは兄貴にきまっているというのです。そんなわけでかっとなってしまったのです」
宋江は聞きおわっていった。
「そんな根もないことを、わたしが知っているはずはない。それならそうとなぜいってくれぬ」
すると李逵は、
「おいらはこれまで、おまえさんを好漢だとばかり思っていたが、ほんとうは畜生だったんだな。あんなうまいことをしくさって」
宋江は声をはげましていった。
「まあわたしのいうことを聞け。わたしは二三千の兵といっしょに帰ってきたんだ。みんなの目をごまかして二騎だけでおくれることができるはずはない。もしまた女をさらってきたとしたら、必ずこの山寨のなかにいるはずだ。わたしの部屋へさがしに行って見るがよい」
「兄貴、糞たわけたことをいいなさるな。山寨じゅうのものはみんなおまえさんの手下だ。おまえさんの肩を持つやつがどっさりいるんだ。どこへだってかくせるじゃないか。おいらははじめ、おまえさんを、色ごとには眼もくれぬ好漢だと思ってうやまっていたんだが、もともと飲んべえの女たらしだったんだな。閻婆惜《えんばしやく》を殺した(第二十一回)のはその小さな例だ。東京へ行って李師師にみついでいるのはその大きな例だ。白っぱくれるのはよして、さっさと娘を劉さんに返すがよい。そうすれば話は別だが、返さんというなら、おそかれはやかれ、おいらはおまえさんを殺さずにはおかん」
「まあ、そうがやがやいうな。その劉太公というのは死んではいまいし、下男たちもみないることだ。いっしょに出かけて行って顔合わせをしよう。そしてもしわたしが負けたら、わたしはその場で首をさしのべておまえの板斧を受けようが、もし負けなかったら、きさまの上下をわきまえぬその罪はゆるせぬぞ」
「もしおまえさん(の尻尾)をつかまえられなかったら、おいらの首をくれてやるよ」
「よし、兄弟たちみんなが証人だぞ」
と宋江はいい、さっそく鉄面孔目の裴宣《はいせん》に賭《かけ》の証文を二通書かせ、ふたりはそれぞれ署名し、宋江のは李逵が、李逵のは宋江が受け取った。李逵はさらにいった。
「その若い男というのは他でもない、柴進《さいしん》のことだ」
「それじゃ、わたしもいっしょに出かけましょう」
と柴進はいった。
「あんたが行かないといったって、かまやしない(行かせてやる)。むこうへ行って、顔合わせをしてあんたが負けたら、柴《さい》大官人だろうと米《べい》大官人だろうと(注二)、おいらの斧でめった打ちだ」
「それで結構。あんたはさきにむこうへ行って待っていてもらおう。われわれがさきに行くと、またとやかく疑われるからな」
「そのとおり」
と李逵はいい、燕青に、
「おいらふたりで、やっぱりさきへ行くとしよう。もしこいつらがこなかったら、うしろ暗いことのある証拠だ。帰ってきてやっつけてやるまでだ」
まさに、
至人は過《あやまち》無く評論に任《まか》す
其の次《つぎ》のものは諫《いさめ》を納《い》れて以て恩と為す
最も下なるものは自ら差《たが》いて偏《ひとえ》に自ら是《ぜ》とし
人をして敢て怒って敢て言わざらしむ
燕青と李逵がまた劉太公の屋敷へ行くと、太公はふたりを迎えてたずねた。
「好漢、どうでございました」
「いまに、おいらのとこの宋江が自分でやってきて、おまえさんに顔を見せるよ。おまえさんは、奥さんや下男たちといっしょに、みんなでよく顔をたしかめるんだ。もしそうだったら、あくまでもほんとうのことをいうんだ。やつをこわがることはない。おいらがちゃんとついていてやるからな」
と、そこへ下男が知らせにきた。
「十人あまりのものが馬で屋敷へ乗りつけてきました」
「うん、それがそうだ。みなをどこか脇のほうにとめておいて、宋江と柴進だけをいれるんだ」
と李逵がいった。
宋江と柴進は座敷へはいってきて席についた。李逵は板斧をひっさげてその脇に立った。そうです、と老人がいったら李逵はすぐ手をくだすつもりだった。劉太公は出てきて宋江に礼をした。
李逵は老人にたずねた。
「これかね、おまえさんの娘をさらって行ったのは」
老人は衰えた眼を見開き、一心に瞳をこらして見つめながら、
「ちがいます」
といった。
宋江が李逵にむかって、
「おい、どうだ」
というと、季逵は、
「おまえさんたちふたりがはじめから睨みつけるもんだから、爺さんはびくびくして、そうだとはいわないんだ」
「それじゃ屋敷じゅうのものをみな呼んできて、あらためさせるがよい」
李逵はさっそく下男たちを呼び出して顔あらためをさせたが、みな異口同音に、
「ちがいます」
という。そこで宋江はいった。
「劉太公、わたしが梁山泊の宋江で、こちらの兄弟が柴進です。あなたの娘さんは、わたしの名前をかたったやつがだましてつれて行ったのです。もしなにか手がかりがつかめたら、山寨へ知らせてください、わたしが力になってあげますから」
それから李逵にいった。
「ここで話をつけることはひかえよう。おまえが山寨に帰ってから、片をつけてやる」
かくて宋江と柴進は、一行のものをつれてさきに山寨へひきあげて行った。
「李《り》兄い、どうしよう」
と燕青がいうと、李逵は、
「せっかちなばかりに、えらいまちがいをやらかしてしまったわい。この首をかけて負けてしまった以上は、おいらが自分でばっさり斬りおとしてしまうから、おまえさん、持って行って兄貴にさし出してくれ」
「なにもそう、わけもなく死ぬことはなかろう。わしがひとつ智慧を貸してやろう。それは荊《けい》を負うて罪を請う(注三)という法だ」
「なんだね、荊を負うってのは」
「自分で着物をぬいで、身体を麻縄で縛り、背中に荊杖《けいじよう》(鞭)を一束《ひとたば》しょって行って、忠義堂の前に平伏し、こういうんだ。兄貴、どうか存分に打ってくださいとな。そうすれば兄貴だって手をくだすには忍びないものだ。これを荊を負うて罪を請うというのさ」
「そいつはうまい話にはちがいないが、どうもいささか恥ずかしい。それよりも首を刎《は》ねてしまうほうがさっぱりしていてましだよ」
「山寨のものはみんな兄弟だ。誰も笑ったりなんかするものか」
李逵はいたしかたなく、しぶしぶ燕青といっしょに山寨へ帰って謝罪することにした。
さて、宋江と柴進はさきに忠義堂へ帰って、みなのものと李逵のことを話していたが、ちょうどそこへ、黒旋風がすっ裸になって背に一束の荊杖を負い、堂前にひざまずいて頭を垂れた。そのままひとこともいわない。宋江は笑いながら、
「おい黒ん坊、どうして鞭なんかしょってるんだ。そんなことぐらいではゆるしてやれぬぞ」
「おいらがわるかったです。兄貴、でっかい棒をより出して幾つでもなぐりつけておくんなさい」
「わしはおまえと首を賭けたんだ。それなのになぜ鞭なんかしょってきたんだ」
「兄貴がおいらをゆるさないというのなら、刀でこの首をちょん切ってくれたっていいぜ」
一同が李逵のためにわびをいうと、宋江は、
「こやつをゆるしてやってほしいというのなら、こやつに、あのふたりのにせ宋江たちをひっ捕らえさせ、劉太公の娘をさがし出して老人に返させることだ。そうすればゆるしてやろう」
李逵はそれを聞くと、ぱっと立ちあがって、
「そんなことは甕《かめ》のなかのすっぽんをつかまえるようなもの。すぐつかまえてきますよ」
「相手はふたりの好漢で二頭の馬も持っているのだ。おまえひとりだけではとても近づけまい。もういちど燕青について行ってもらうがよい」
「兄貴のおいいつけなら、よろこんで出かけましょう」
と燕青はいい、さっそく部屋へ行って弓を持ってき、眉の高さにひとしい棍棒を手に、李逵についてまたもや劉太公の屋敷へ行った。燕青がその男のきたときの様子をくわしくたずねると、劉太公のいうには、
「日が沈むころやってきて、三更(夜十二時)ごろ帰って行きましたが、どこに住んでいるのか知りません。あとをつけて行くわけにもいきませんでしたし。頭《かしら》格の男は背がひくく、黒い痩せた顔だちで、もうひとりは岩乗《がんじよう》な身体で、短い鬚をはやした眼の大きな男でした」
ふたりはくわしくきくと、
「ご老人、安心なさい。そのうちにきっと娘さんを救い出してあげます。兄貴の宋公明の命令で、わしたちふたりにどうしてもさがし出せ、まちがいなくやれ、ということなのです」
そこで、乾肉《ほしにく》を煮させ蒸し餅をこしらえさせて、それぞれ食物袋につめて腰にくくりつけ、劉太公の屋敷をあとに、まず真北のほうへさがしに出かけたが、辺鄙なところで人家もなく、二三日歩いて行ったがなんの消息も得られなかった。それでこんどは真東のほうへむかい、さらに二日ばかりさがしまわって、凌《りよう》州の高唐《こうとう》の地内まで行ったが、やはり消息はなかった。李逵はいらいらして顔をほてらし、ひき返して、こんどは西のほうへさがしに出かけ、また二日ほどたずねまわったが、なんの手がかりもなかった。
その夜、ふたりは山のほとりのある古廟の、供物台の上で寝た。李逵はどうにも眠りつけず、起き出して坐っていると、廟の外に誰かの足音が聞こえた。李逵は急いで起きあがり、廟の戸をあけて見ると、ひとりの男が朴刀をひっさげて、廟のうしろの山の裾をまわって行く。李逵はあとをつけて行った。燕青も聞きつけ、弓を取り棍棒をひっさげ、あとからついてきていった。
「李兄い、追うのはよせ。わしに考えがある」
その夜はおぼろ月夜だった。燕青は棍棒を李逵にわたし、さきのほうを眺めると、その男は頭をさげてすたすたと歩いて行く。燕青は追いかけて行って矢をつがえ、そっと弦を張り、
「それ、はずれるな」
と叫びざま射放てば、矢は見事に男の右腿に命中し、男はばったりと倒れた。李逵は追いかけて行って襟首をつかみ、古廟のなかへつれてきて、
「きさま、劉太公の娘をどこへさらって行った」
とどなりつけた。男は、
「好漢、わたしはそんなことは知りませんよ。劉太公とやらの娘をさらったりなんかするもんですか。わたしはこのあたりで追剥ぎをして、ちょっとした商売をしているだけのこと。人さまの娘をさらうなんてそんなたいそうなまねはしませんよ」
と訴えた。李逵はその男をぐるぐる巻きにしばり、斧をつかんでどなった。
「正直にいわんと、きさまを二十ぐらいにたたき斬ってしまうぞ」
「まあわたしを起こしてください。それから話しましょう」
と男は叫んだ。燕青は、
「おい、その矢を抜いてやろう」
といい、男を起こしてやって、たずねた。
「劉太公の娘は、ほんとうはどんなやつがさらって行ったんだ。おまえはこのあたりで追剥ぎをやっているんだ、なにかうわさを聞かないはずはない」
すると男のいうには、
「これはわたしの勘ぐりで、あたっているかどうかわかりませんが、ここから西北のほう十五里ぐらいのところに、牛頭山《ぎゆうとうざん》という山があるのです。山の上にはもとから道院《どういん》(道士の修道場)がありますが、このごろ、強盗がふたり、ひとりは姓は王《おう》、名は江《こう》といい、ひとりは姓は董《とう》、名は海《かい》といって、ふたりとも山賊なのですが、こいつらがまず道士や道童たちをみんな殺し、ついてきた五六人ばかりの手下とともに道院を乗っ取ってしまって、山をおりてきてはもっぱら強盗をはたらき、行くさきざきで宋江と名乗っておりますが、たぶんこのふたりがさらって行ったのでしょう」
「うん、そいつはなにかありそうだ。おい、おれたちをこわがることはないぞ。おれは梁山泊の浪子の燕青で、こっちは黒旋風の李逵だ。矢傷の手当をしてやるから、おれたちふたりをそこへ案内して行ってくれ」
「よろしゅうございますとも」
燕青は朴刀をさがして男に返し、また傷口を縛ってやった。そして、ほのかな月明りをたよりに、燕青と李逵は男に手を貸しながら十五里ほどすすんでその山へ行って見ると、さほど高い山ではなく、形はまさしく牛の頭に似ていた。三人がのぼりついたときには、まだ夜は明けていなかった。山頂へ行って見ると、ぐるりと土塀をめぐらして、なかに二十間《ま》あまりある家があった。
「おいらとふたりでまず塀を越えてはいろう」
と李逵がいった。燕青は、
「まあ、夜が明けてからのことにしようよ」
といったが、李逵はとても待ちきれず、ぱっとおどり越えてはいって行った。と奥から人のどなる声が聞こえ、戸があいたかと思うと早くもひとりの男が飛び出してきて、朴刀を構えつつ李逵におそいかかってきた。燕青は大事をしくじってはと、棍棒を支えにして同じく塀を飛び越えた。かの矢にあたった男は雲を霞と逃げて行った。燕青は、飛び出してきた好漢が李逵とわたりあっているのを見ると、こっそり忍び寄って行って、いきなり棒でその好漢の頬骨をなぐった。と男は李逡の懐へ倒れこんで行ったが、李逵の斧を背中にくらって、ばったりと斬り倒されてしまった。そのまま、なかからは誰も出てこない。燕青はいった。
「やつらはきっと裏道から逃げようとしているんだ。おれは裏門へまわるから、あんたは表門をふさいでくれ。むやみとなかへ飛びこまぬようにな」
さて燕青が裏門の塀の外へ行って、暗がりのなかにかくれていると、裏門があいて、鍵を持ったひとりの男があらわれ、裏の塀の門をあけようとした。燕青が近づいて行くと、それに気づいた男は軒下をまわって表門のほうへ逃げて行った。燕青は大声で叫んだ。
「表門をおさえろ」
すると李逵が飛び出してきて、一斧《ひとおの》のもとに男の胸をたち割って倒してしまった。そこで、さっそくふたつの首を斬りおとし、ひとつに結びつけた。李逵はいきりたって斬りこんで行き、まるで土偶のようにみなをおし倒した。かの数人の手下のものは、かまどのところにかくれたが、李逵に追いつめられて、ばさりばさりとみな殺されてしまった。
部屋のなかへはいって見ると、はたしてあの娘が寝台の上ですすり泣いていた。見れば女は、みどりなす黒髪に花のかんばせ、まことに艶っぽく美しい。それをうたった詩がある。
弓鞋《きゆうあい》(弓形のくつ)窄々《さくさく》として春羅《しゆんら》を起《おこ》す(うすものの裾をひるがえす)
香は沁《し》む酥胸《そきよう》(白い胸肌)玉《ぎよく》一窩《か》
麗質禁《た》え難し風雨の驟《にわか》なるに
幽恨に勝《た》えずして秋波《しゆうは》を蹙《しか》む
燕青が、
「おまえさんは劉太公の娘さんじゃないか」
ときくと、その女のいうには、
「わたしは十何日か前に、あのふたりの賊にここへさらわれてきたのですが、毎晩かわりばんこになぶりものにされまして、夜も昼も泣いてばかりおりました。死んでしまおうと思っても、きびしく見張られておりまして。きょう、あなたさまがたにお助けいただきましたことは、ほんとうに再生のご恩でございます」
「やつらは馬を二頭持っていたはずだが、どこにつないでいるのだろう」
「東の棟でございましょう」
燕青はその馬に鞍をおいて棟の外へひき出し、もどって行って、部屋のなかにためてあった金銀およそ四五千両をとりまとめた。それから女を馬に乗せ、金銀を一包みにして首といっしょにつまんでもう一頭の馬にくくりつけた。李逵は草を束ねて窓の下の残灯の火をうつし、草葺きの家のあちこちに火をつけて焼いた。かくてふたりは塀の門をあけ、女を送って歩いて山をおり、まっすぐに劉太公の屋敷へ行った。
太公夫婦は娘を見てひどくよろこび、たちまち悲しみもふっとんでしまった。そしてみなで出てきてふたりの頭領に礼をいった。燕青は、
「わしたちふたりに礼をいうことはない。山寨へ行って、わしたちの兄貴の宋公明に礼をいうがよい」
といい、ふたりは酒食のもてなしも受けず、それぞれ馬に乗って山へ馳せ帰った。
山寨へついたのは夕日が西に沈むころであった。ふたりは三つの関門をのぼると、金銀を積んだ馬を牽き、首をぶらさげて、ただちに忠義堂へ行き、宋江に挨拶した。燕青が事の次第をくわしく話すと、宋江は大いによろこび、首は埋《うず》め金銀は庫に収め、馬は軍馬のなかにいれて飼わせ、翌日、宴席を設けて燕青と李逵をねぎらった。劉太公も金銀をととのえて山にのぼり、忠義堂にきて宋江に礼をいった。宋江はかたく金銀をことわり、酒食をもてなしてから山をおろして屋敷へ帰したが、この話はそれまでとする。それよりのち梁山泊には無事な日がつづいた。いつしか時は流れて、
看々に(次第に)鵝黄《がこう》柳に着き(柳は黄色い芽をふき)、漸々に(ようやく)鴨緑《おうりよく》波に生ず(水はみどりに澄む)。桃腮《とうさい》(桃のおとがい)は紅英《こうえい》(赤い花びら)を乱簇《らんそう》し、杏瞼《きようけん》(あんずのかんばせ)は絳蕊《こうずい》(赤いしべ)を微開す。山前の花、山後の樹、倶《とも》に萌芽《ほうが》を発し、州上の蘋《ひん》(うきくさ)、水中の蘆、都《すべ》て生意を回《かえ》す。穀雨《こくう》(注四)初めて晴る、是れ人に麗《うるわ》しき天気なり。禁烟《きんえん》(注五)纔《わずか》に過ぐ、正に三月の韶華《しようか》(美しい春)に当《あた》る。
宋江が坐っているところへ、関門から一群のものが護送されてきて、
「牛子《ぎゆうし》(かも)どもをひっ捕らえてきました。車を七八輛と、棍棒を幾束か持っております」
という。宋江が見るに、いかつい身体つきの大男ばかりである。堂前にひざまずいていうには、
「わたくしどもはずっと鳳翔府《ほうしようふ》からやってきまして、これから泰安《たいあん》州(の泰山)へお詣りに行くところです。この三月二十八日が天斉聖帝《てんせいせいてい》(泰山の神)さまのお誕生日ですので、わたくしどもは棒の試合に出るのですが、三日ぶっとおしで百も千も試合がございます。ことしは相撲の強い男が出ます、それは太原府《たいげんふ》のもので、姓は任《じん》、名は原《げん》といい、身の丈《たけ》は一丈、みずから〓天柱《けいてんちゆう》(天を支える柱)と名乗り、大口をたたいて、相撲じゃ世間に相手はおらん、取りくんだらおれが天下第一だといっております。なんでもここ二年間、廟で試合して誰も勝てるものがおらず、あっさりと賞品を取ってしまったとのことでして、ことしも貼札を出して、天下の誰でも相手になってこいといっております。わたくしどもはその男をめあてにやってきたのでして、お詣りかたがた任原《じんげん》の手並みを見物し、また何手か棒のうまい手筋を読みおぼえようというわけなのです。親分さん、どうかお慈悲のほどをおねがいいたします」
宋江はそれを聞くと小頭目にいいつけた。
「すぐにこの連中を山からおろしてやれ。なにも取ってはならんぞ。これからも参詣に行くものに会ったら、おどかしたりなどせずに、そのまま行かせるのだぞ」
連中はいのち拾いをし、礼をいって山をおりて行った。と、そのとき燕青が立ちあがってなにやら宋江に申し出たが、その二言三言《ふたことみこと》から、やがて泰安州をおどろかせ、大いに神符署《しんふしよ》を騒がせることとなるのである。まさに、東嶽廟《とうがくびよう》中に双虎闘い、嘉寧殿《かねいでん》上に二竜争うというところ。さて燕青はどんなことをいいだしたのであろうか。それは次回で。
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一 おさがり 原文は散福。第十五回注三参照。
二 柴大官人だろうと米大官人だろうと 柴は薪。柴に対して米といったのである。柴米《さいまい》と熟するときは、生活あるいは生活必需品の意味になる。
三 荊を負うて罪を請う 荊を負う(負荊)という語は『史記』の廉頗《れんぱ》藺相如《りんしようじよ》列伝に見える。趙《ちよう》の大将軍廉頗は、口説をもって秦《しん》をおさえた藺相如が上卿に列せられて自分より上位にのぼったのを怨み、おりあらば辱しめようとしていたが、相如はいつも廉頗を見ると避けた。相如の部下がそれをとがめると、相如は「秦が趙を攻めないのはわたしと廉頗将軍がいるからだ。今ふたりがあらそえば、ふたりともたおれることになる。わたしが彼を避けているのは、国家の危急が大切で私怨はあとまわしだと考えるからだ」といった。そのことを聞いた廉頗は、
肉相して(肌ぬぎになって)荊を負い賓客によって藺相如の門に至り罪を謝す
とある。荊とは鞭。ここから、自己の非を認めて罪を謝すことを、荊を負う、あるいは荊を負うて罪を請う(負荊請罪)という。
四 穀雨 百穀を生ずる雨の意で、二十四気のひとつ。清明節《せいめいせつ》(春分の日からかぞえて十五日目)のつぎの気節で、陰暦三月二十日ごろにあたる。
五 禁烟 寒食節のことで、清明節の前日をいう。この日は一日火気を用いず、朝から冷たいものを食べる。これにはつぎのようないわれがある。
春秋時代、晋《しん》の文公は亡命して、十九年間各地を放浪した末、秦《しん》の穆《ぼく》公の援助を得て晋に帰って王となったが、放浪中たえず文公の身辺にあって犬馬の労をつくした介子推《かいしすい》の功労を、忘れて顧みなかった。介子推は悲憤して老母とともに緜山《めんざん》(山西省)に隠棲した。文公はやがてそのことを知ると、賞金を懸けて介子推の行くえをさがしたが見つからなかったので、一計を案じて緜山に火を放った。だが介子推はついに山から出てこず、母とともに木を抱いて焼け死んだ。文公は哀しんで、この日を命日として民に火気を用いることを禁じたという。あるいは後人が介子推をあわれんでこの日一日火気を絶って冷食するようになったともいう。
第七十四回
燕青《えんせい》 智もて〓天柱《けいてんちゆう》を撲《う》ち
李逵《りき》 寿張《じゆちよう》に喬《いつわ》って坐衙《ざが》す
さて、燕青という男は三十六星中の末席ではあったが、なかなか頭のはたらきが機敏で、識見もひろく、みずからをよくわきまえていて、それらの点では他の三十五人よりもすぐれていた。
その日、燕青が宋江にいうには、
「わたくしは小さいときから盧員外どのにつき従って相撲を習いおぼえ、いまだ世間でさしたる相手に出あったこともありませんでしたが、きょうは幸いにその機会にめぐりあえました。三月二十八日といえばもうまもありません。誰もつれはいりません、ひとりで出かけて行って献台《けんだい》(奉納試合の舞台)の上でぜひともやつを投げ飛ばしてやりたいのです。たとえかなわなくて投げ殺されても怨みには思いません。もし勝てば、兄貴にしたって鼻が高いでしょう。その日は必ずひと騒動もちあがりますから、どうか加勢のものをよこしてくださいますよう」
「だが、その男は身の丈《たけ》は一丈、姿は金剛力士《こんごうりきし》のようで、千斤からのものを挙げる力があるとのこと。あんたのそのほっそりした身体では、いくら腕が立つといっても、なかなかそいつにはかなうまい」
「身体の大きいのは平気です。うまく手に乗せればよいのです。諺にも、相撲は力があれば力で取れ、力がなければ智慧で取れ、といいますから、なにも大口をたたくわけじゃありませんが、臨機応変に、様子を見て出方を考え、うまくその間抜けやろうをやっつけてやります」
盧俊義も口添えして、
「この小乙は、小さいときから十分、相撲を身につけておりますから、望みどおり行かせてやってください。その日にはわたしが自分で迎えに行って、つれ帰りますから」
というと、宋江は、
「それでは、いつ出かける」
「きょうは三月二十四日ですから、あしたおひまをいただいて山をおり、途中一泊して二十六日に廟へ着き、二十七日は一日そこで様子をさぐり、二十八日にそやつと試合をします」
その日はそれだけで格別の話もなく、翌日、宋江は酒を出して燕青の門出を祝ったが、見れば燕青はいかにも田舎ものくさい身なりで、衲襖《のうおう》(大袖の上着)で全身の刺青をかくし、山東の行商人のふりをして腰に串鼓《かんこ》(注一)を挿し、雑貨のかつぎ荷をかついでいる。一同はそれを見てどっと笑った。宋江が、
「せっかく荷かつぎ商人《あきんど》に化けたのだから、ひとつ山東の行商人の転調歌《てんちようか》(ふれうた)をうたって、みなに聞かしてもらおうか」
というと、燕青は片方の手で串鼓をふり鳴らし、片方の手で板《はん》(打ち木)を鳴らしつつ、行商人の太平歌《たいへいか》(めでたうた)をうたったが、山東人にそっくりなので、一同はまた笑った。酒がほどよくまわったころ、燕青は頭領たちに別れを告げて山をおり、金沙灘《きんさたん》を渡って泰安州へとむかった。
その日の夕暮れ、宿をとろうとしていると、うしろから呼びかける声が聞こえた。
「燕小乙《えんしよういつ》兄い、待ってくれ」
燕青が荷をおろしてふりかえって見ると、それは黒旋風の李逵だった。
「どうしたんだい、追いかけてきて」
「あんたはわしについて二度も荊門鎮《けいもんちん》へ行ってくれたろう。あんたがひとりで出かけて行くのを見たら、気が気でないので、兄貴にはいわずに、こっそり山をおりて加勢にきたというわけだ」
「わしのほうじゃあんたには用はないよ。さっさと帰ってくれ」
燕青がそういうと、李逵は怒りだした。
「おまえさんはまったく腕の立つ好漢さ。せっかくおれが加勢にきてやったのに、わるくとりやがるとは。おれはどうしたってついて行くぜ」
燕青は仲たがいをしてしまってはまずいと思案して、こう李逵にいった。
「いっしょに行くことはかまわんが、むこうの聖帝さまの誕生日には四方八方から人が集まってくるから、あんたの顔を知っているものもかなりいるだろう。それで、わしのいう三つのことを承知してくれるなら、いっしょに行くとしよう」
「よかろう」
「これからさきの道中は、お互いに離ればなれに歩いて行くこと、宿屋へついていったん部屋へはいったら勝手に出ないこと、これが一つだ。第二には、廟の近くの宿屋へ行ったら、仮病をつかい、蒲団をかぶって顔をかくし、いびきをかいて狸寝入りをしたままで、決してものをいわないことだ。第三には、当日、廟で、人混みにまじって試合を見物するときには決して人騒がせなまねはしないことだ。さあ、これがあんたに守れるかな」
「なんでもないよ。みんな承知した」
その夜は、ふたりは宿をとって休んだ。翌日は五更(四時)に起き、宿賃をはらっていっしょに出かけ、しばらく行ったところで飯を炊いて食べた。燕青はいった。
「李兄い、あんたは半里さきへ行ってくれ。わしはあとから行くから」
その道には参詣の人々がうちつづいていたが、しきりに任原《じんげん》の腕前をうわさして、
「この二年、泰嶽じゃかなうものがなかったが、ことしで三年ということになろうな」
といっている。燕青はそれを聞いて、腹にたたんでおいた。申牌(昼さがり)ごろ、廟の近くまで行くと、おおぜいのものが立ちどまって顔をあげて見ている。燕青は荷をおろし、人だかりをかきわけて出て行って見ると、二本の赤い標柱《ひようちゆう》(ものを書きしるす柱)が立っていた。街門の牌額のような恰好で、上に掲げてある白い額には、
太原相撲〓天柱《けいてんちゆう》任原
と書いてあり、その脇には小さい字で、
拳打《こぶしはうつ》南山猛虎
脚〓《あしはける》北海蒼竜
と二行にしるされていた。燕青はそれを見ると、いきなり天秤棒をひっつかんで額《がく》をめちゃめちゃにたたきこわしてしまい、なにもいわずに、また荷をかついで廟をさして行った。それを見ていたもののなかには、もの好きなのがたくさんいて、任原のところに飛んで行って知らせた。
「ことしは額をたたきこわして相手になるものがあらわれましたぞ」
さて燕青はどんどん行って李逡に追いつき、宿屋へ泊まろうとしたが、もともと廟のあたりはずいぶん賑やかで、一百二十のさまざまな商売はもちろんのこと、宿屋だけでも一千四五百軒もあって、天下の参拝客を迎えていたが、菩薩のお祭りの日ともなると、それでも泊めきれず、たくさんある宿屋もみな満員になるというありさま。燕青と李逵はしかたなく町はずれのとある宿屋にはいって休んだ。荷をおろし、袷の夜着を出して李逵を寝させていると、宿のものがやってきていうには、
「兄さんは山東の商人《あきんど》で、廟の人出をねらって見えたんでしょう、失礼ながら宿賃がはらえますかな」
燕青は田舎なまりでいった。
「おめえ、人をみくびるもんじゃねえぞ。こんなちっちゃな部屋なんて安いもんじゃろうが、でっかい部屋なみの銭を取られたって、どっこも行くところはねえから、ほかのもんが出すぐれえのぶんは、おいらだって出すというもんだ」
「兄さん、わるく思わんでください。ちょうどかきいれどきなもんで、前もってはっきり話をつけておきませんことには」
「おいらが自分であきないをするぶんには、どうだってかまやせんことで、よそへ行って泊まったってさしつかえねえんだが、ひょっこりと途《みち》でこの同じ在所の親類のもんに出あってな、こいつが病気なもんだから、しかたなしにおめえさんとこに宿をとったというわけだ。まずは銅銭五貫やるから、すまんが鍋で飯をこしらえてきてもらいたいんだ。立つときにいっしょに礼もする
からな」
宿のものは銅銭を受け取ると、門口へ出て行って飯のしたくをはじめたが、このことはそれまでとする。
しばらくすると、とつぜん宿の表が騒がしくなり、二三十人の大男がなかへはいってきて、若いものにたずねた。
「額《がく》をたたき割って相手を買って出た好漢は、どの部屋に泊まっている」
「うちにはおりませんよ」
と宿の若いものがいうと、
「みんなおまえのとこだといってるぞ」
「あいていたのはふた部屋だけで、ひとつはあいたまま、もうひとつには山東の行商人が、ひとりの病人をかかえて泊まっておいでです」
「そうだ、その行商人が額をたたき割って相手を買って出たんだ」
「笑わせないでくださいよ。その行商人ってのはひょろひょろした若僧で、なにができるもんですか」
「いいからわしらをつれて行って、見せてくれ」
とみなは口々にいう。店のものは指をさして、
「あの隅の部屋がそうですよ」
みなが行って見ると、部屋の戸はぴったりと閉めてある。窓の穴からのぞいて見ると、なかの寝台にふたりが互いちがいになって寝ていた。みなが思案をつけかねていると、なかのひとりがいうには、
「乗りこんできて額をたたき割り、天下の相手を買って出たからには、どうせただものではない。人に計られまいとして、仮病をつかっているのにちがいない」
「きっとそうだ。詮議だてすることもあるまい。そのときになればわかることだ」
とみなはいった。
それから夕暮れまでのあいだに、宿屋へ様子を見にきたものの数は二三十人ではきかず、宿の若いものはいちいち答えるのに唇がつぶれてしまうほどだった。その夜、ふたりのところへ飯を運んで行くと、ふいに李逵が蒲団のなかから頭を突き出した。若いものはそれを見るなりびっくりして、
「わっ、この人だ。相撲する旦那は」
と叫んだ。すると燕青が、
「相撲をやるのはこれじゃねえ。これは病気なんだ。このおれさ、相手になりにきたというのは」
「うそをいいなさるな。おまえさんならまあ、任原は腹のなかへ呑みこんでしまいますよ」
「人をなめるもんじゃねえぞ。おれにはちゃんと手があってな、おめえらに大笑いをさせてやるよ。帰ってきたらおめえにもどっさり賞品をわけてやるぞ」
若いものは彼らが晩飯を食いおわると、碗や皿をとり片付け、台所におりて行って洗いながら、本気にはしなかった。
翌日、燕青は李逵と朝飯をすませると、
「兄貴、あんたは部屋の戸をしめて寝ていてくれ」
といいふくめておいて、人々のあとから岱嶽廟《たいがくびよう》へ行って見たが、なるほどうわさにたがわず天下第一の壮観。そのさまは、
廟は泰岱《たいたい》(泰山のこと)に居し、山は乾坤《けんこん》を鎮《しず》む。山嶽の至尊為《た》り、乃《すなわ》ち万神の領袖なり。山頭に檻《かん》(てすり)に伏せば、直ちに弱水《じやくすい》(甘粛)、蓬莱《ほうらい》(山東)を望見し、絶頂に松に攀《よ》ずれば、尽く都《すべ》て是れ密雲薄霧なり。楼台は森聳《しんしよう》として、疑うらくは是れ金烏《きんう》(注二)の翅《はね》を展《の》べて飛び来《きた》れるかと。殿閣は稜層として、恍として覚ゆ玉兎《ぎよくと》(注三)の身を騰《あ》げて走り到るを。雕梁画棟《ちようりようがとう》、碧瓦朱簷《へきがしゆえん》。鳳扉《ほうひ》の亮〓《りようかく》(あかり窓)は黄紗を映じ、亀背《きはい》(窓)の繍簾《しゆうれん》は錦帯を垂る。遥かに聖像を観れば、九旒《きゆうりゆう》の冕《べん》(かんむり)、舜《しゆん》の目、堯《ぎよう》の眉。近くより神顔を覩《み》れば、袞竜《こんりゆう》の袍、湯《とう》の肩、禹《う》の背なり。九天の司命《しめい》(いのちを司る神)は、芙蓉の冠絳紗《こうさ》の衣に掩映《えんえい》し、炳霊《へいれい》聖公(注四)は、赭黄《しやこう》の袍偏《ひとえ》に藍田《らんでん》(美玉の名)の帯に称《かな》う。左に侍下するは玉簪珠履《ぎよくしんしゆり》、右に侍下するは紫綬金章《しじゆきんしよう》。闔殿《こうでん》の威厳は、護駕の三千の金甲将、両廊の猛勇は勤王の十万の鉄衣兵。五嶽楼《ごがくろう》は東宮《とうきゆう》に相《あい》接し、仁安殿《じんあんでん》は北闕《ほくけつ》に緊《きび》しく連《つらな》る。蒿里山《こうりさん》下、判官は七十二司を分《わか》ち、白騾廟《はくらびよう》中、土神は二十四気を按ず。火地を管《つかさど》る鉄面太尉は、月々に霊を通じ、生死を掌《つかさど》る五道将軍は、年々に聖を顕《あら》わす。御香は絶えず、天神は馬を飛ばして丹書《たんしよ》(勅書)を報ず。祭祀《さいし》は時に依《したが》い、老幼は風《ふう》を望んで皆《みな》福を獲《う》。嘉寧殿《かねいでん》には祥雲《しよううん》杳靄《ようあい》として、正陽門《せいようもん》に瑞気盤旋《ずいきばんせん》す。万民は碧霞君《へきかくん》(注五)を朝拝し、四遠は仁聖帝《じんせいてい》(注六)に帰依《きえ》す。
そのとき燕青は、ひととおり見物してから、草参亭へ行って四拝の礼をした。そして参詣者にたずねた。
「あの相撲の任《じん》先生ってのは、どこに泊まっておられるのですかね」
「迎思橋のたもとの大きな宿屋ですよ。二三百人の一《いち》の弟子《でし》たちに稽古をつけてやってたよ」
と、もの好きなのが教えた。燕青はそれを聞くと、まっすぐに迎思橋のたもとまで行った。見れば橋のらんかんに二三十人の相撲の弟子が腰をかけており、宿屋の表には金箔のしるし旗、錦を刺繍した帳額(注七)、背丈ほどの靠背《こうはい》(注八)などがずらりと並べてあった。燕青はするりと宿屋のなかへはいって行った。と、亭のまんなかに任原が坐っていたが、まことにその姿は掲諦《ぎやてい》(仏門の護法神)のごとく、面構えは金剛力士《こんごうりきし》のよう。胸もとをおしはだけたところは、存孝《そんこう》(注九)が虎を打つような勢いであり、床几に斜に腰をすえたところは、覇王《はおう》の山を抜く気概(注一〇)があった。彼はそこで弟子たちの相撲を見ているのだった。ところが弟子たちのなかに、燕青が額をたたき割ったのを見覚えていたものがいて、そっと任原に知らせた。と、任原はぱっと立ちあがり、肩をゆすぶってどなった。
「ことしは、どんなくたばりぞこないめが、おれのところへいのちを献上にきやがったのだ」
燕青が首をすくめて、あわてて宿屋を飛び出すと、なかからはどっと笑い声が聞こえた。急いで自分の宿へもどり、酒食をとりそろえて李逵といっしょに食事をはじめた。
「こんなに寝てたんじゃ、気がふさがって死んでしまいそうだ」
と李逵はいう。
「今夜一晩きりだ。あしたはいよいよ勝負だからな」
と燕青はいった。そのときの雑談は、いちいち述べることもなかろう。
三更(夜十二時)ごろになると、奏楽の音《ね》が聞こえてきた。廟の参詣者たちが聖帝(東嶽大帝)にお祝いを申しあげているのである。四更(夜二時)ごろ、燕青と李逵は起き出し、宿の若いものに湯をもらって顔を洗い、髪を梳《くしけず》り、着こんでいた衲襖《のうおう》(大袖の上着)をぬぎ、脚に腿〓《たいほう》(脚絆の類)と護膝《ごしつ》(膝あて)を固くしめ、練絹の水《すいこん》(股引の類)をたくしあげ、乳《ち》のたくさんある麻鞋《あさぐつ》をはき、汗衫《かんさん》(肌襦袢《じゆばん》)を着、塔膊《とうはく》(腹巻)をしめた。かくてふたりは朝食をすませると、若いものを呼んで、
「部屋の荷物を見ていてくれよ」
とたのんだ。
「決してなくしたりなどいたしません。お早く勝ってお帰りなさいますよう」
と若いものはいった。この小さな宿屋にも二三十人の参詣客が泊まっていたが、みな燕青にむかっていった。
「お若いの、よく考えたがいいよ。むざむざ死んじゃつまらんからな」
燕青は、
「試合のとき、わしが大声をかけたら、おまえさんたちはわしのかわりに賞品をふんだくるがよい」
といった。一同はみなさきに出かけて行った。
「この二梃の板斧を持って行ってもいいかね」
と李逵がいうと、燕青は、
「そいつはいかん。人に見破られでもしたら、ぶちこわしになってしまうじゃないか」
かくてふたりは人混みのなかにまぎれこんで、まず廟の廊下へ行っていっしょに身をひそめた。その日、参詣者はおしあいへしあいして、さしも広大な東嶽廟も、おしよせる人波にあふれ、屋根の棟まで見物人が鈴なりになっていた。嘉寧殿のむかい側には高い山棚《さんほう》(飾り棚)が組んであって、その棚の上にはいっぱいに金銀の器物や錦や絹が並べてあり、門外には五頭の駿馬が、鞍をおき轡《くつわ》もはめて、つないであった。やがて知州が参詣人をとりしまりながら、ことしの奉納相撲を見にきた。ひとりの年とった世話人(注一一)が、竹批《ちくひ》(注一二)を手に奉納舞台の上へあがり、神を拝してから、
「ことしの相撲のかたがた、出て試合をはじめられませ」
という。と、その言葉のまだおわらぬうちに、人波が潮のように湧き立って十数対《つい》の棍棒を持ったものがあらわれた。その先頭には四本の刺繍の旗をおし立て、かの任原《じんげん》を轎《かご》に乗せ、轎の前後を二三十組の腕に刺青をした好漢たちがとりかこんで、奉納舞台へとすすんでくる。世話人は轎からおりさせて、挨拶をかわした。任原は、
「わしはもう二年も岱嶽にきて優勝し、まんまと賞品をちょうだいしましたが、ことしもまたひとあばれするとしましょう」
といった。すると、ひとりのものが水桶を持ってあがった。任原の弟子たちはみな奉納舞台をぐるりととりまいて、おしひしめいている。
さて任原はまず腹巻を解き、頭巾をぬぎ、蜀錦(注一三)の上着をひっかけ、大声で神に祈りをささげ、神水を二口飲むと、蜀錦の上着をぬぎすてた。百万の人々はどっと喝采した。任原を見るに、そのいでたちいかにといえば、
頭は一窩の穿心紅角子《せんしんこうかくし》(中を透《す》かして赤い元結《もとゆい》でゆったまげ)を綰《わが》ね、腰は一条の紅羅翠袖《こうらすいしゆう》の三串《かん》の帯児を繋《し》め、十二個の玉蝴蝶の牙子扣児《がしこうじ》(帯どめの留め具)を〓《せん》し、主腰上には数対の金鴛鴦の〓褶《てつしゆう》の襯衣《しんい》(ひだをつけた肌襦袢)を排し、護膝《ごしつ》中には銅襠銅袴《どうとうどうこ》(銅の股あて、膝あて)有り、〓《きようれん》(注一四)内には鉄片鉄環有り。扎腕《さつわん》(うで)は牢《かた》く〓《むす》び、〓鞋《てきあい》(くつ)は緊しく繋《し》む。世間に海を駕《が》し天を〓《ささ》ぐるの柱、嶽下に魔を降し将を斬るの人。
世話人がいった。
「先生は二年つづけて廟に見えましたが、かなうものはありませんでした。ことしは三年目ですが、なにかひとこと天下のご参詣のかたがたに、ご挨拶していただけませんか」
すると任原がいいだした。
「四百余州、七千余の町々の信心深いご参詣衆が、聖帝さまをあがめられてご寄進なされた懸賞は、この任原が二年つづけてあっさりとちょうだいしてしまいました。ことしは聖帝さまにおいとまして郷里へ帰り、もうこれきりで山へはこない所存。東は日の出ずるところから西は日の没するところまで、日と月のふたつの照らしたもうこの天《あめ》が下《した》、南は南蛮から北は幽燕《ゆうえん》にいたるまで、ここに出てわしと賞を争おうとするおかたはござらぬか」
その一言葉のまだおわらぬうちに、燕青が西側の人々の肩をおさえつけ、
「おるぞ、おるぞ」
と大声で叫びながら、人々の背中の上をわたって奉納舞台の上へ飛び出して行った。人々はどっとどよめきだす。世話人が燕青を迎えてたずねた。
「おまえさん、姓は、名は。どこのお人で、どこからござった」
「わしは山東の行商人の張《ちよう》というものです。あの男と賞品を争おうと思ってやってきたわけで」
「おまえさん、いのちを賭けるんだよ。それをご承知でかな。保証人はあるのかな」
「このおれが保証人さ。死んだって文句はいわんよ」
「では着物をぬいでもらいましょう」
燕青は頭巾をとって、きれいに結《ゆ》ったまげを出し、草鞋《わらぐつ》(注一五)をぬいではだしになり、奉納舞台の隅にしゃがんで脚絆と膝あてを解き、ぱっと立ちあがるや襦袢をぬぎすてて型を示した(注一六)。と、廟内の見物人たちは海をかき乱し河をくつがえすように有頂天にはやしたてつつ、みな我を忘れてしまった。任原は燕青のその刺青と、ぴちぴちした身体を見て、はやくも半ば気をのまれていた。
殿門外の露台には本州の太守がいかめしく座をしめ、その前後には黒衣の役人が対《つい》になって七八十組もとりまいていたが、そのとき太守は部下をつかわし、燕青を奉納舞台からおろして、前へつれてこさせた。太守が彼の身体の刺青を見るに、まるでそれは玉亭の柱に美しい翡翠をはめこんだようなので、大いによろこんでたずねた。
「おい、おまえはどこのものだ。どうしてここへやってきたのじゃ」
「わたくしは張と申します。兄弟順は一番目でして、山東は莢《らい》州のものです。任原が天下のものに相撲をいどんでいると聞きましたので、彼と試合をしにやってまいりましたわけで」
「あそこにつないである装具をつけた馬は、わしが出した賞品だが、あれを任原にやることにして、飾り棚の上のものいっさいは、わしが仲に立っておまえに半分だけやるようにはからってやるから、ふたりでわけることにするがよい。おまえはわしがとりたてて身のまわりにおいてやろう」
「お役人さま、賞品などはどうでもよろしいので。彼を投げころがしてみんなを笑わせ、やんやの喝采を浴びたいだけのことなんです」
「彼は金剛力士のような大男だ。おまえのかかって行ける相手ではないぞ」
「死んだってかまいませんので」
と燕青はいい、また奉納舞台へあがって行って任原とやりあおうとした。世話人はまず彼から文書(誓文)をとり、懐から相撲の規則書を取り出して読みあげてから、燕青にむかっていった。
「おわかりですな。だまし手を使ってはなりませんぞ」
燕青はせせら笑って、
「相手は身体じゅう身がためしているが、わしはただこの水《すいこん》(股引)ひとつだ。だまし手なぞ使えるわけはなかろう」
知州はこんどは世話人を呼んでいいつけた。
「あの男はなかなか粋な若もので、惜しいもんだ。おまえ、行って彼のためにこの相撲をひきわけにしてやれ」
世話人はすぐ奉納舞台へあがって、また燕青にむかっていった。
「おまえさん、いのちを捨てずにこのまま郷里へ帰ったらどうだね。この相撲はひきわけにしてやるから」
すると燕青は、
「あんたもわからずやだな。誰が勝つか負けるかわからんじゃないか」
人々はいっせいに、そうだそうだとはやしたてた。見ればふたつにわかれた数万の参詣人たちは、魚の鱗のように両側にひしめきあい、廊下から屋根の上まで鈴なりになって、この相撲が中止されてはならじとさわぎたてた。任原はこのとき意を決し、いまにも燕青をば九天の雲のかなたに投げ飛ばすべく、蹴殺してくれんものといきりたった。世話人はいった。
「おまえさんたちふたりが、どうしても相撲をやるというからには、ことしはこの一番の相撲を聖帝さまに奉納することにいたそう。ふたりとも、ぬかりのないよう、よく気をつけられい」
清浄な奉納舞台の上には、ただ三人。このとき昨夜の露はすっかり乾いて、朝日がのぼりはじめた。世話人は手に竹批《ちくひ》を持ち、双方に注意をあたえおわると、
「はじめ!(注一七)」
と叫んだ。
この相撲の一手一手は、とりわけはっきりと話そう。世話人の声がかかると、そのとき遅く、かのとき疾《はや》く、まさに空中に星が流れ稲妻が走るがごとく一瞬も遅れることなく、そのとき燕青はぱっと右側にうずくまり、任原もすかさず左側に構えた(注一八)。燕青はそのまま動かない。はじめはおのおの舞台の半分ずつを占めて、まんなかで取り組むはずだったのだが、任原は燕青が動かないのを見て、じりじりと右側へ詰め寄って行った。燕青はじっと任原の下半身を睨みつけている。任原は腹のなかで思った。
「こいつはきっと、おれの股倉をねらってきやがるな。よし、おれは手をくださずにこやつを舞台から蹴落としてくれよう」
任原はじりじりと迫って行き、わざと左脚に隙を見せた。と燕青は、
「小癪な」
と一声。任原がさらばと飛びかかって行くところを、燕青は任原の左脇下をくぐり抜けた。任原はかっとなり、ぱっと身をひるがえしざま、また燕青につかみかかって行くと、燕青はおどりかかると見せかけて、またもや右脇下をくぐり抜けた。大男は身を返すのはやはり得手ではない。きりきり舞いをして足どりを乱した。そこをすかさず燕青は飛びこんで行って、右手で任原をつかまえ、左手を任原の股倉につっこみ、肩で相手の胸板を突きあげつつ、そのまま任原の身体をさしあげ、頭を上に、足を下に、はずみをつけてぐるぐると四五回まわしながら舞台の端へ持って行き、
「それっ」
とひと声、まっさかさまに任原を舞台から投げおとした。この手を名づけ〓鴿旋《ぼつこうせん》(鳩のぐるぐるまわし)というのである。
数万の参詣人たちはどっとはやしたてた。任原の弟子たちは、師匠が投げ飛ばされたのを見ると、まず飾り棚をおし倒してむちゃくちゃに賞品を奪い取った。見物人たちが口々にどなって打ちかかって行くと、かの二三十人の弟子たちは舞台の上へおどりあがった。知州もこの騒ぎをおしとめることができない。と、思いもかけず、かたわらで凶神《まがつかみ》(注一九)が怒りだした。すなわち黒旋風の李逵で、それを見るや、怪眼をかっと見開き、虎ひげを逆立て、手近になにも得物がないまま、まるで葱《ねぎ》でもひきちぎるように柵の杉丸太をひき抜き、その二本を手に、ぱっと打ちかかって行った。
参詣人のなかに李逵を知っているものがいて、その名を口ばしった。すると外にいた役人たちがどっと廟内へおしかけてきて、
「逃がすな、梁山泊の黒旋風だ」
と大声で呼ばわった。
知府はこのことを知ると、頭のさきからは三魂《こん》が消え去り、脚のさきからは七魄《はく》が抜け出してしまって、後殿のほうへ逃げ出した。四方の人々はどっとかたまりあい、廟内の参詣人たちはさきを争って逃げ出す。李逵が任原を見ると、投げころばされて眼をまわしたまま舞台の横に倒れていて、虫の息である。李逵は敷石をめくりあげて任原の頭を打ちくだいた。ふたりが廟内からあばれ出して行くと、門の外からはばらばらと矢を浴びせかけてきた。燕青と李逵はやむを得ず屋根の上によじのぼり、瓦をめくって手あたり次第に投げつけた。しばらくすると廟門のあたりにとつぜん喊声がおこって、なにものかが斬りこんできた。その先頭のひとりは、頭には白い范陽の氈笠《せんりゆう》をかぶり、身には白い緞子《どんす》の上着を着、腰刀《ようとう》をたばさみ、朴刀をおっとっている。その男は北京の玉麒麟《ぎよくきりん》の盧俊義《ろしゆんぎ》で、うしろには史進《ししん》・穆弘《ぼくこう》・魯智深《ろちしん》・武松《ぶしよう》・解珍《かいちん》・解宝《かいほう》の六人の好漢をしたがえ、一千余人をひきつれて廟門を斬り破り、応援に駆けこんできたのである。燕青と李逵はそれを見ると屋根から飛びおり、一同のあとについて逃げ出した。李逵はさっそく宿屋へ行って二梃の斧をひっつかみ、飛び出してきて斬りまくった。役所のほうで官軍を集めて繰り出してきたときには、好漢たちの一隊はすでに遠くへ逃げ去ってしまっていた。官兵たちは梁山泊の兵力が強く敵しがたいことを知っていたので、あえて追跡もしなかった。
一方、盧俊義は、李逵を呼びよせていっしょにひきあげさせたが、半日ほど行くと、また途中から李逵がいなくなってしまった。さすがに盧俊義も苦笑して、
「きっと災をひきおこすにちがいない。誰かに彼をさがし出して山へつれもどしてもらわなければならん」
「わたしがさがしに行って、山寨へつれもどしましょう」
と穆弘がいった。
「よかろう」
と盧俊義はいった。
さて盧俊義が一同をひきつれて山へ帰ったことはそれまでとして、一方李逵は、二挺の斧を手にしてまっすぐ寿張県《じゆちようけん》へと行ったのである。その日、役所はちょうど昼休みになったところだったが、李逵は県役所の門口へ行くと、大声で叫びながらはいって行った。
「梁山泊の黒旋風の李逵さまがいらっしゃったぞ」
役所じゅうのものはびっくりして手も足もしびれてしまい、身動きもできない。そもそもこの寿張県は梁山泊から最も近いところにあって、黒旋風李逵の五字を耳にすれば、子供の夜泣きもぴたりとやまるというほど。いまそのご本尊の到来とあっては、おどろくのがあたりまえである。
そのとき李逵は、つかつかと知県の椅子へ行って腰をおろし、
「誰か出てきてお相手をしろ。こなけりゃ火をつけてやるぞ」
廊下の脇部屋で一同は相談した。
「しかたがないから二三人出て行って相手をしよう。そうしないことには、あいつはどうしたって帰るまい」
そこで、下役のものがふたり広間へ出て行って四拝の礼をし、ひざまずいていった。
「頭領どのがここへお出ましになりましたについては、さだめしおいいつけがおありのことと存じますが」
すると李逵のいうには、
「いや、おれはおまえたち役所のものを騷がせにきたわけじゃない。ここを通りかかったもんだから、ちょっと遊びにきただけだ。おまえんとこの知県を呼んでこい。会ってやろう」
ふたりのものはひきさがり、またやってきて報告した。
「知県さまは、ついさっき頭領どのがおいでになったのを見て、裏門からどこかへ逃げて行かれました」
李逵はうそだと思い、自分で奥の間へはいって行ってさがした。
「頭領どの、ごらんください、冠や衣裳が箱のなかにはいっておりますから」
李逵は錠をこじあけて冠を取り出し、上を平らにし角をひっぱって、頭にかぶり、官服の緑色の上着をひっかけ、角帯をしめ、さらに黒い皮靴をさがし出して麻鞋《あさぐつ》とはきかえ、槐簡《かいかん》(槐《えんじゆ》の木の笏《しやく》)を持ち、広間へ出て行って大声で呼んだ。
「役人ども、みんな出てきて目通りいたせ」
一同はどうすることもできず、しかたなく出て行ってかしこまった。
「どうだ、おれのこういう恰好もまんざらではなかろうが」
と李逵はいう。
「よくお似合いでございます」
と一同はいった。
「おまえたち諸役人ども、みな威儀をただしてわしに謁見せい。いうとおりにせんと、この役所をぶっこわして、あとかたもなくしてしまうぞ」
一同は李逵をおそれ、しかたなく上下の役人を集めて牙杖《がじよう》や骨朶《こつだ》(杖とたんぼ槍。ともに儀仗の具)をささげさせ、太鼓を三度打ち鳴らしてから、すすみ出てはっとかしこまった。李逵は大声で笑い、またいいつけた。
「おまえたちのうち、誰かふたり裁判をねがい出ろ」
「頭領どのがおいでになれば、誰も訴え出たりはいたしませんでしょう」
と役人がいうと、李逵は、
「訴え出ぬのはあたりまえだ。だからおまえたちのなかで、ふたりのものに訴えのまねごとをしろというんだ。おれはなにも痛めつけはせん、ちょっと慰みをやろうというだけのことだ」
役人たちは相談をしたあげく、しかたなくふたりの牢番に殴りあいをしたことにして訴えさせ、役所のちかくの住民たちにも傍聴にこさせた。ふたりは広間の前にひざまずき、ひとりが訴えていう。
「旦那さま、どうかおあわれみをおかけくださいませ。この男がわたしを殴りましたのでございます」
もうひとりも訴えた。
「この男がわたくしをののしりましたので、それでわたしは殴ったのでございます」
すると李逵はいった。
「どっちが殴られたのじゃ」
「わたくしが殴られましたので」
と原告がいうと、李逵は、
「どっちが殴ったのじゃ」
「この男がさきにののしりましたので、わたくしが殴ったのでございます」
と被告がいう。
「こっちの殴ったほうのやつは好漢だ。まず彼は放免してくれよう。そっちのいくじのないやつは、なんだって殴られたりなんぞしやがったんだ。こやつに枷をはめて役所の門前でさらしものにせい」
そういって李逵は立ちあがり、緑色の上着をまくりあげ、槐簡を腰にさしこみ、大斧を抜き取り、その原告が枷をはめられて門前でさらしものになるのを見てから、大股に歩きだした。着物も靴もそのままである。役所の門前の見物人たちは、こらえきれなくなって笑いだした。こうして寿張県の役所のあたりをあちこちと歩きまわっていると、ふと聞こえてきたのが、とある寺小屋で本を読んでいる声。李逵が簾をかきあげてはいって行くと、先生はおどろいて窓から飛び出して逃げて行き、学童たちは、泣きだすもの、叫ぶもの、駆け出すもの、かくれるものと大騒ぎ。李逵は大笑いをした。そして門を出て行くと、ばったり穆弘に出くわした。穆弘は、
「みんな心配しているのに、こんなところでふざけていたのか。さあ早く山へ帰ろう」
といい、もはや勝手にはさせず、ひっぱって歩きだした。李逵はやむを得ず寿張県をあとに、まっすぐ梁山泊へと帰って行った。これをうたった詩がある。
民を牧《ぼく》する(治める)県令は毎《つね》に猖狂《しようきよう》(狂暴)
幼より先生は教うること良からず
応《まさ》に鉄牛を遣《つかわ》して巡歴し到り
琴堂(県役所)鬧《さわ》がし了《おわ》って書堂(寺小屋)を鬧がしむ
ふたりは金沙灘を渡って山寨に帰りついた。一同は李逵のその身なりを見て、どっとふき出した。忠義堂へ行くと、ちょうど宋江は燕青のために祝宴を開いているところだったが、ふと見れば李逵が緑色の長い上着の裾をおろし、二梃の斧はすてて、大威張りで堂の前へやってき、槐簡を手にして宋江に礼をした。だが二度目の礼の途中で緑色の長い上着を踏んづけて破り、足をとられてひつくり返ってしまった。一同はどっと笑った。宋江は李逵を叱りつけた。
「きさまは、まったく不敵なやつだ。わたしにことわらずに、こっそりと山をおりた、それだけでも死罪にあたるぞ。どこへ行ってもろくなことはしでかさぬ。きょうは兄弟たちの前でいっておく、これからはもう容赦せんぞ」
李逵はひたすらおそれいって、ひきさがった。
梁山泊はその後、平穏に、なにごともなく、毎日山寨で武芸の稽古をし、兵を調練し、泳ぎのできるものは船戦の訓練をうけ、また各寨《とりで》では武器や戎衣《じゆうい》、よろいや槍や刀、弓矢、楯や弩弓、旗などをおぎなったりしたが、この話はそれまでとする。
ところで、泰安州ではさきの事件をくわしく東京《とうけい》へ報告した。進奏院《しんそういん》(注二〇)でも各地の州県の上申書を受け取ってみると、みな宋江らが叛乱して地方を騒がせたというものであった。そのころ道君《どうくん》皇帝(徽宗)はひと月のあいだ政務を離れておられたが、その日の早朝、静鞭《せいべん》(浄鞭《じようべん》)三たび宮殿にひびいて文武百官が二列に金階《きんかい》につらなったとき(朝賀の儀のとき)、殿頭官《でんとうかん》(宮廷侍従の官)が、
「奏上の儀あらば、列を出て早々に申されますよう。なければこれにておひらきといたします」
と叫ぶと、進奏院の役人が列からすすみ出て奏上した。
「わたくしの院におきまして、各地の州県からしばしばとどけられます上申書は、みな、宋江らが賊徒をひきつれて公然と府や州へおしかけ、倉庫をかすめ米倉をおかし、軍民を殺害し、貪婪《どんらん》にして足ることを知らず、いたるところこれに敵すべくもないとのことでございます。さっそくとりおさえませぬことには、後日必ずや大いなる患《うれい》となるでありましょう」
天子のいわれるには、
「上元の夜、その賊はこの京師を騒がせたが、いままた各地を騒がせているとならば、さぞかしほうぼうの州郡もおそわれていることであろう。わたしはすでに何度も枢密院に兵を出すように命じたが、まだなんの報告も受けておらぬ」
すると、かたわらにいた御史大夫《ぎよしたいふ》(百官の罪を糾正する官の長官)の崔靖《さいせい》が列をすすみ出て奏上した。
「わたくしの聞きおよびますところでは、梁山泊では替天行道の四字をしるした大旗をかかげ出しておりますとのこと。これは民に誇示せんがための術策ではございましょうが、民心はすでにそれになびいておりますこととて、兵を加えることはよろしくございません。このところ、遼《りよう》(北方の塞外民族で、はじめの国号は契丹《きつたん》)の兵が辺境を侵してまいりまして、各地のわが軍はこれを防ぎきれないありさまでございます。このさい梁山泊に対する討伐の軍をおこすことははなはだ不得策というべきでございましょう。わたくしの考えでは、彼ら山間亡命の徒は、みな法を犯してのがれるべき道のないまま、ついに山林に徒党を組んで集まり、ほしいままに無道をはたらいているのでございます。それゆえ、もし一封の勅書をおくだしになり、光禄寺《こうろくじ》(宮中の大膳職)より酒肴をさずけられ、ひとりの大臣をまっすぐ梁山泊へつかわされて、ねんごろにさとし、罪をゆるして帰順させ、これを遼の兵にあたらせることにいたしますならば、内患・外憂ふたつながら取りのぞくことができましょう。よろしくご配慮のほど、伏しておねがい申しあげます」
「いかにももっともだ。わたしもそう思っていたところだ」
と天子はいわれ、ただちに宮中の太尉(大臣)陳宗善《ちんそうぜん》を使者に立て、勅書と御酒を奉じて梁山泊の全員を帰順せしめにつかわされることになった。この日、陳太尉は宮中で詔勅をお受けし、家に帰って用意をととのえた。ところが陳太尉が詔勅を奉じて帰順をすすめに行ったことから、やがて、香醪《こうろう》(香しい酒)はかえって身を焼く薬となり、丹詔(勅書)はまさに戦をひきおこす書となるのである。ところで陳太尉はどのようにして宋江に帰順をすすめに行ったか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 串鼓 柄をつけた小さな太鼓で、振って鳴らす。わが国の振《ふ》り鼓《つづみ》の類。
二 金烏 太陽の中に住むという烏。『准南子』の精神訓に「日中に〓烏あり」と見える。
三 玉兎 月の中に住むという兎。『楚辞』の天問篇に「夜光(月)何の徳あってか死して則ち育する。厥《そ》の利維《こ》れ何ぞや而《すなわ》ち顧兎腹に在る」とあり、また晋の伝玄の『擬天問』には「月中何か有る。白兎薬を擣《つ》く」とある。
四 炳霊聖公 また炳霊公《へいれいこう》という。東嶽大帝の第三子で、唐の明宗は威霊大将軍とし、宋の真宗はさらに炳霊公に封じた。
五 碧霞君 また碧霞元君《へきかげんくん》という。東嶽大帝の女《むすめ》で、宋の真宗がこの号を封じた。
六 仁聖帝 東嶽大帝のこと。くわしくは東嶽天斉仁聖帝《とうがくてんせいじんせいてい》という。
七 帳額 第五十一回注四参照。
八 靠背 第五十一回注五参照。
九 存孝 第四十三回注二参照。
一〇 覇王の山を抜く気概 覇王は項羽《こうう》のこと。山を抜く気概とは、項羽が漢王劉邦と五年にわたって天下の覇をあらそった末、垓下《がいか》(安徽省)で敵軍の重囲におちいったとき、もはやこれまでと覚悟して寵姫虞美人《ぐびじん》と別れの杯をかわしつつ意中を託してうたった詩の第一句「力、山を抜き、気は世を蓋《おお》う」を踏まえたもの。
一一 世話人 原文は部署。相撲の世話をする者のことで、わが国の相撲でいえば行司にあたる。
一二 竹批 竹べら。わが国の相撲の軍配にあたるもので、戒めと清めの意味を持つ。
一三 蜀錦 また蜀江錦ともいう。四川産の錦のことであるが、一般に錦の通称としてつかわれる。
一四 〓 〓《きよう》は纏《まと》うこと、《れん》は脛《はぎ》のこと。脛あてのたぐいであろう。
一五 草鞋 前に麻鞋をはいたことになっているが、原文のママとした。
一六 型を示した 原文は吐個架子。吐個門戸(第九回注四参照)というに同じ。また立個門戸ともいう。
一七 はじめ! 原文は看撲。相撲をはじめよの意。
一八 構えた 原文は立個門戸。注一六参照。
一九 凶神 原文は太歳。第二回注一四参照。
二〇 進奏院 各州が京師に設置した機関で、詔勅や諸官庁の命令を地方に下達し、また地方からの上申を諸官庁に上達することを任とした。
第七十五回
活閻羅《かつえんら》 船を倒《さかしま》にして御酒《ぎよしゆ》を偸《ぬす》み
黒旋風《こくせんぷう》 詔《みことのり》を〓《ひきさ》いて欽差《きんさ》を罵《ののし》る
さて、陳宗善《ちんそうぜん》は詔書をお受けして屋敷に帰り、旅の用意をはじめたが、そこへ、おおぜいのものが祝いを述べにきて、
「このたびのおつかいは、ひとつには国家のために大事をつとめ、ふたつには民百姓《たみひやくせい》のために憂《うれい》を去り患《わずらい》を除くご大役。梁山泊のものどもは忠義を旨とし、朝廷の招安《しようあん》(注一)を待ちのぞんでおります。太尉どのには、ものやわらかなお言葉で、十分に気をつけてかれらを宣撫なされますように」
と、話しているところへ、太師府の用人がやってきて、
「太師さまが、太尉どのにお話ししたいことがあるので、おいでいただきたいとのことでございます」
と告げた。
陳宗善は轎《かご》に乗り、新宗門《しんそうもん》通りを急いで太師府の前で轎をおりた。用人は節堂《せつどう》の書院へ案内し、太師に目通りさせてかたわらにひかえた。茶のもてなしがすむと、蔡太師はいった。
「聞けば陛下には、あなたを梁山泊へ招安につかわされるとのこと。それで、かくおいでねがったのだが、むこうへ行かれるについては、朝廷の綱紀を乱し国家の法度をあやまるようなことのありませぬように。論語にも、己《おのれ》を行《おこな》うに恥《はじ》有り、四方に使《つかい》して君命《くんめい》を辱《はずか》しめざるを使《し》と謂《い》う可《べ》し(注二)、とあるのをご存じでしょうな」
「よく承知しております。お教えにたがわぬようにいたします」
陳太尉がそういうと、蔡京はさらに、
「この用人にあなたの供をして行かせましょう。これはなかなか法度にくわしいので、あなたにうっかりした点があっても、すぐ気をつけてくれます」
「ご配慮まことにありがとうございます」
と陳太尉はいい、太師に別れ、供のものをつれて太師府をあとに、轎に乗って家に帰った。
ようやくくつろいでいるところへ、門番のものがきて告げた。
「高殿帥さまがおいでになりました」
陳太尉は急いで出迎え、表の間に請じいれて主客それぞれの席についた。挨拶がおわると、高太尉はいった。
「きょう、朝廷では宋江を招安することを協議されたとのことだが、もしこのわたしがいたら、どうしてもおとめしたでしょう。あの賊どもは、しばしば朝廷を辱《はずか》しめ、天にはびこる大罪を犯したやつ、いまその罪をゆるして都にひきいれたりなどすれば、必ずのちのちの災となりましょう。その旨を奏上したくも、すでに玉音の発せられたあとですから、しばらくはなりゆきを見るよりほかありません。もしもやつらが、やはりまごころがなく、聖旨をないがしろにするようでしたら、あなたはすぐ都にお帰りください。わたしは陛下に奏上して、大軍を動かし、みずからかの地へ乗りこんで行って、やつらを根こそぎにしてやります。それがわたしの念願です。このたびあなたが行かれるについては、わたしの配下の虞候《ぐこう》に、弁舌がさわやかで一を問《と》えば十を答えるというものがおりますので、十分にあなたのために気をくばってくれましょう」
「ご心配くださってありがとうございます」
陳太尉は礼をいった。高〓《こうきゆう》は立ちあがり、陳太尉に門前まで見送られて、馬に乗って帰って行った。
翌日、蔡《さい》大師府の張《ちよう》幹〓と、高《こう》殿帥府の李《り》虞候が、ふたりともやってきた。陳太尉は乗馬の支度をし(注三),供のものを呼びつどえ、十瓶《かめ》の御酒《ぎよしゆ》を竜鳳担《りゆうほうたん》(竜と鳳凰の紋様のついた担《かつ》ぎもの。つぎの黄旗とともに勅使たることを示す)におさめてかつがせ、先頭には黄旗《こうき》を立てた。陳太尉は馬にまたがり、近侍のもの五六名、および張幹〓・李虞候もそれぞれ馬に乗り、詔書は背負わせてさきに立て、かくて陳太尉は一行をひきいて新宗門を出て行った。下僚の役人たちで見送りに出たものは、みなそこからひき返して行った。
やがてはるばると済《せい》州まで行くと、太守の張叔夜《ちようしゆくや》が出迎えて、役所に請じいれ、宴席を設けてもてなしつつ、招安の次第をたずねた。陳太尉がつぶさに話すと、張叔夜は、
「わたくしの考えをいわせていただきますならば、招安ということはまことに結構なことと存じます。つきましては、ただひとつ、太尉どのにはかの地へ行かれましたならば、ぜひともなごやかになさって、やさしいお言葉で、かれらを宣撫なされますよう。なにはともあれ大事をなしとげられることが肝要でございます。かれらのなかには烈火のような気性のものが幾人もおりますゆえ、もしも、ほんのすこしでもかれらの気にさわるようなことをおっしゃると、たちまち大事をぶちこわしてしまうようなことになりましょう」
すると張幹〓と李虞候とがいった。
「われわれふたりがお供をして行く以上、めったにまちがいはありません。太守どの、あなたはひたすら気をつけてなごやかにするようにとのことですが、それでは朝廷の綱紀が立ちません。くだらないやつらは絶えずおさえつけていてもなかなかおさえきれぬもの。頭をもたげさせておけば、たちまちつけあがってしまいます」
「このおふたりはどういうかたです」
と張叔夜がたずねた。陳太尉が、
「このかたは蔡太師どののお屋敷の幹〓で、またこのかたは高太尉どののお屋敷の虞候です」
というと、張叔夜は、
「このおふたりのご用人は、つれて行かれないほうがよろしいでしょう」
「この人たちはそれぞれ蔡家・高家の腹心のかたです。つれて行かなければきっと疑われましょう」
「わたくしは、ただうまく事がはこぶようにと思って申しあげたのです。労して功なしという結果になってはと思いまして」
張幹〓がいった。
「われわれふたりにお任せになれば、万丈《ばんじよう》の水でも、一滴も漏らすようなことはしません」
張叔夜もそれ以上いうことは避けた。そして、宴席を設けてもてなしたうえ、駅舎へ送って行って泊まらせた。翌日、済州の役所では、とりあえず使いのものを立てて梁山泊へ招安のことを知らせにやった。
一方、宋江は、毎日忠義堂に一同を会して軍事を協議していたが、早くも忍びのものがこのことを報告してきたので、実情はわからぬながらも内心大いによろこんだ。その日、手下のものが済州からの使いをつれて忠義堂へやってきた。
「朝廷ではこのたび太尉の陳宗善どのをお使者にたてられ、御酒《ぎよしゆ》十瓶《かめ》と大赦招安の詔書一通をもたらして、すでに済州城内まできておられますので、こちらでもお迎えのご用意を」
という。宋江は大いによろこび、さっそく酒食を出させ、綵緞《いろぎぬ》二疋《ひき》、花銀十両をあたえて、その使いのものをひきとらせた。宋江は一同にいった。
「われわれが招安を受けて国家の臣下となることができれば、これまでの長いあいだの苦難もあだにはならなかったわけで、いまようやく実《み》を結ぶにいたったというものだ」
すると呉用《ごよう》が笑って、
「わたしの見るところでは、こんどの招安はどうもよろしくないように思うのです。たとえ招安されたところで、われわれは塵芥《ちりあくた》のように見なされるだけでしょう。やつらに大軍で攻めてこさせてから、大いに痛めつけ、人も馬もなぎ倒して夢にまでもおそれさせるのです、そうしておいてから招安を受けてこそ、気概を保つことができるというものです」
「そんなことをいっては、忠義の二字をやぶるではないか」
と宋江がいうと、林冲《りんちゆう》が、
「朝廷の高官がやってきても、形をとりつくろっているだけで、中味は碌《ろく》なことはありませんよ」
関勝《かんしよう》も、
「詔書にはきっとおどし文句が書きたててあって、われわれをおそれさせようという魂胆でしょう」
徐寧《じよねい》もまた、
「くるやつはおそらく高太尉の配下のものでしょう」
という。宋江は、
「みんなそう疑わずに、とにかくまあ詔書をお受けする準備をしてもらいたい」
といい、まず宋清《そうせい》と曹正《そうせい》に宴席の用意をいいつけ、柴進《さいしん》にその監督と手配をゆだねて、できるだけ立派にととのえさせ、また太尉のために帳幕を張りめぐらした席を設けて、五色の緞子《どんす》をつらね、堂上堂下には色絹や花を飾らせた。そうして、とりあえず裴宣《はいせん》・蕭譲《しようじよう》・呂方《りよほう》・郭盛《かくせい》らに、あらかじめ山をおりて二十里さきの道で出迎えるようにさせ、また水軍の頭領には大船を岸へ着けておくようにいいつけた。
呉用は命令をくだして、
「みんなわたしのいうとおりにやってもらいたい。そうしないと、しくじるからな」
といった。
さて、蕭譲は三人の随員(裴宣・呂方・郭盛)とともに五六名のものを従え、身には寸鉄も帯びず、酒とつまみものをたずさえて、二十里さきで出迎えた。その日、陳太尉の一行は、張幹〓と李虞候が馬には乗らず徒歩《か ち》で馬前をすすみ、うしろには二三百を越える供のものがつづき、済州の軍官およそ十数騎が先頭に並んで隊伍を導き、竜鳳担で御酒をかつぎ、騎馬のものが背に詔書の小箱を負っていた。さらに済州の牢番たちが前後に五六十人、いずれも梁山泊へ行ってなにがしかの余徳にありつこうという魂胆である。蕭譲・裴宣・呂方・郭盛らは途中で待ちうけ、一同路傍に平伏してこれを迎えた。と、かの張幹〓がとがめていった。
「きさまたちの宋江というやつは、なんたる大それたやつだ。皇帝のご詔勅がまいったというのに、なんで自分でお迎えにこないのか。君をないがしろにするもはなはだしいというものだ。きさまたち一味はもともと死罪になるべきやつらだ、朝廷の招安にあずかれるような身ではないわ。太尉どの、どうかおひき返しのほどを」
蕭譲・裴宣・呂方・郭盛は平伏して罪をわび、
「これまで朝廷から山寨へ詔《みことのり》のくだりましたようなためしはなく、実情がわからなかったのでございます。宋江はじめ大小の頭領たちはみな金沙灘《きんさたん》までお迎えに出ております。どうか太尉さま、お怒りをやわらげられまして、国家のために大事を成就してくださいますよう。なにとぞおゆるしのほどをねがいあげます」
すると李虞候がいった。
「大事が成就されなくたって、どうせきさまたちは逃げられやしないのだ」
これをうたった詩がある。
貝錦《ばいきん》讒《ざん》を生ず古《いにしえ》より然り(注四)
小人凡《すべ》て事先《さき》んずるに宜《よろし》からず
九天の恩雨《おんう》今宣布《せんぷ》さるるも
惜しむ可し招安未《いま》だ十全ならず
そのとき、呂方と郭盛は、
「なんたることをいやがるんだ。あなどるにもほどがある」
といった。蕭譲と裴宣は、たえ忍んで懇願し、酒とつまみものをさし出した。だが、彼らはそれに手をつけようともしない。
一同がつき従って湖のほとりまで行くと、梁山泊ではすでに三艘の戦船《いくさぶね》をそこにそろえていた。一艘には馬を積みこみ、一艘には裴宣ら一行が乗り、もう一艘は太尉ならびに供のもの一同の用にあてて、まず詔書と御酒が舳《へさき》に安置された。その船は活閻羅《かつえんら》の阮小七《げんしようしち》が指揮していた船だった。そのとき阮小七は船首にひかえ、二十余名の兵士を配置して船を漕がせていた。兵士たちはおのおの腰刀《ようとう》をさしていた。
はじめ陳太尉は、船に乗りこむや、昂然としてかたわらに人なきがごとく、中央に腰をすえていた。阮小七は一同に声をかけて、船を漕ぎ出させた。両舷の水夫たちはいつせいに歌をうたいだした。すると李虞候がどなりつけた。
「下司《げす》どもめ、貴人のおん前だというのに、まるでつつしみのないやつらだ」
だが水夫たちはすこしもかまわず歌をうたいつづけた。李虞候は籐《とう》の笞をとりあげて両舷の水夫たちを打ちにかかったが、みないささかもおそれない。頭《かしら》だったもの何人かが言葉を返していった。
「おいらは勝手に歌をうたっているんだ。おまえさんにはなんの関係もないこった」
「殺されぞこないの逆賊め、よくも口答えしやがつたな」
と、李虞候がいきなり籐の笞で打ちかかって行くと、両舷の水夫たちはみな水のなかへ跳びこんでしまった。すると阮小七が船首でいうよう、
「そんなにして、水夫どもを水のなかへたたきおとしてしまっては、船のやりようがないじゃありませんか」
そのとき上流のほうから二隻《せき》の快船《はやぶね》が近づいてきた。阮小七は前もって船艙ふたつに水をためておいたのであるが、うしろから船が近づいてくるのを見ると、すぐ栓《せん》を引き抜いて、
「水が漏る!」
と叫んだ。水はたちまち船室にわきあがってきて、みながあわてふためいているうちに、船内は一尺あまりも水びたしになってしまった。かの二隻の船が助けにやってくると、人々は急いで陳太尉を船に乗り移らせた。誰もみな船を漕ぎ出すことばかりにはやって、御酒《ぎよしゆ》と詔書のことを思うゆとりはない。かくて二隻の快船がさきに行ってしまうと、阮小七は水夫たちを呼びあげて船内の水を汲み出させ、雑巾ですっかり拭《ぬぐ》わせた。それから水夫たちを呼んでいうには、
「おい、御酒をひと瓶《かめ》持ってこい。まずちょっと味見をしよう」
ひとりの水夫がすぐ担ぎ荷のなかからひと瓶を取り出してきて、封を切って阮小七にわたした。阮小七は受け取って、鼻をつくいい匂いをかぐと、
「毒が仕こんであるかもしれん。あてられぬようにおれがちょっと毒味をしてやろう」
と、碗《わん》も柄杓《ひしやく》もないまま、瓶から口飲みをして、一気に飲みつくしてしまった。阮小七はひと瓶を空《から》にしてしまうと、
「こいつはうまい。ひと瓶じゃものたりぬ。もうひと瓶取ってこい」
かくてまた一気に飲んでしまった。飲むほどに口がつるつるして、つづけざまに四瓶も空《あ》けてしまってから、阮小七は、
「これは困ったことになったぞ」
「舳に濁酒《どぶろく》がひと桶ございます」
と水夫がいうと、
「それじゃ、水汲み柄杓《びしやく》を持ってこい。全部おまえたちに飲ましてやるから」
と阮小七は、あとの六瓶の御酒をみんな水夫たちにわけて、飲ませてしまった。そして空の十個の瓶に田舎仕込みの濁酒をつめ、もとの封をして竜鳳担におさめ、飛ぶように船をやって金沙灘へ追いつき、まんまと岸へあがった。宋江たち一同はそこに出迎えていて、香花・灯燭をつらね、金鼓や太鼓をうち鳴らし、いっせいに山寨の鼓楽をかなで、御酒を台の上にのせてそれぞれ四人のものにかつがせ、詔書も同じく台の上に置いてかつぎあげた。陳太尉が岸へあがると、宋江らはこれを迎え、ぬかずいて礼をした。
「刺青《いれずみ》ものの小役人、罪ふかき極悪人のこのわたくし、おそれ多くも貴人のお運びをかたじけのうしながら、お出迎えの儀のゆきとどきませぬところ、なにとぞおゆるしくださいますよう」
宋江がそういうと李虞候は、
「太尉どのは朝廷の大貴人、そのおかたがおまえたちを招安しに見えたのはなみなみならぬことだぞ。しかるにあのような水漏り船をまわしてよこし、あのようなわけわからずの下郎どもに船を漕がせるとは、どうしたことじゃ。危うく大貴人のおいのちにかかわるところだったではないか」
「わたくしどもの船は、みなよい船でございます。貴人をお乗せするのになんで水漏り船などをまわしましょう」
「太尉どののお召しものがまだ湿《ぬ》れておるのに、きさま、それでもなおごまかそうとするのか」
と張幹〓。
宋江のうしろには五虎将がしかとつき添って離れず、さらに八驃騎の将もその前後を擁していた。かれらは李虞候と張幹〓が宋江の面前で存分にいばっているの見ると、みな、やつめ殺してくれようと色めきたったが、宋江をはばかってあえて手出しはしなかった。
そのとき宋江は、太尉に轎をすすめ、詔書の開読を請うた。四五回もすすめてようやく轎に乗せ、また馬を二頭ひいてきて張幹〓と李虞候の乗用にあてた。このふたりのものは、身のほども知らずいばりちらしていた。宋江は辞をひくくしてふたりを馬に乗せ、一同に命じてにぎやかに笛や太鼓をかなでさせつつ、三つの関門を越えてのぼって行った。宋江以下百余人の頭領は、みなそのあとに従い、やがて忠義堂の前まで行って、一同馬をおりると、太尉を堂上に請じ、正面に御酒と詔書の小箱を安置した。陳太尉・張幹〓・李虞候は左側に立ち、蕭譲と裴宣が右側にひかえた。宋江が頭領一同を点検してみると、一百七人。ひとり李逵《りき》の姿だけが見えない。時はまさに四月の候、一同は羅《うすぎぬ》のあわせの戦襖を着、堂上にひざまずいてうやうやしく開読を聞いた。陳太尉は小箱のなかから詔書を取り出して蕭譲に手わたした。裴宣は声をかけて礼をさせた。諸将が礼をすると、蕭譲は詔書をひらき、声高らかに読みあげた。
制《せい》(勅)して曰う。文は能く邦《くに》を安んじ、武は能く国を定む。五帝(注五)は礼楽に憑《よ》って疆封《きようほう》(領土)を有《たも》ち、三皇(注六)は殺伐を用《も》って天下を定む。事は順逆に従い、人は賢愚有り。朕《ちん》、祖宗の大業を承《う》け、日月の光輝を開くに、普天率土《ふてんそつど》(天下みな)臣伏《しんぷく》せざるは罔《な》し。近ごろ爾《なんじ》宋江等、山林に嘯聚《しようしゆう》(盗賊の集まること)し、郡邑を劫〓《きようろ》するが為、本《もと》、彰《あき》らかなる天討《てんとう》を用いんと欲すれど、誠に我が生民を労することを恐れ、今、太尉陳宗善を差《つか》わし前来して招安す。詔書の到る日、即ち応有《おうゆう》(すべて)の銭糧・軍器・馬匹・船隻を将《もつ》て目下に官に納め、巣穴《そうけつ》を拆毀《たくき》し、率領《そつりよう》して(ひきつれて)京に赴《おもむ》かば、本罪を原免せん。〓《も》し或いは仍《なお》も良心を昧《くら》まして詔制に違戻《いれい》せば。天兵一たび至って齠齔《ちようしん》(童子)も留《とど》めざらん。故《とく》に茲《ここ》に詔示す。想《おも》うに宜《よろ》しく知悉《ちしつ》すべし。
宣和三年孟夏四月 日詔示
蕭譲がかく読みおわると、宋江以下一同のものは、みな顔に怒りの色をあらわした。と、そのときである。黒旋風の李逵が梁《はり》の上から跳びおりてきて、いきなり蕭譲の手から詔書をひったくり、ずたずたにひき裂いてしまい、さらに陳太尉をつかまえて、拳《こぶし》をふるって打ちかかった。このとき宋江と盧俊義は、飛び出して行って抱きとめ、手をくださせまいと躍起になった。ようやくにしてひきはなすと、李虞候が、
「こやつ、いったい何者だ。なんたる不敵千万な」
と、どなりつけた。李逵は殴る相手がなくてむずむずしていたときとて、やにわに李虞候をつかまえて殴りつけ、
「書いてきやがったあの詔書は、どこのどいつの文句だ」
と、どなった。
「天子さまのご聖旨だ」
と張幹〓がいうと、李逵は、
「おまえらのその天子ってやつは、ここのおれたち好漢のことをなにも知りもせずに、おれさまたちを招安しによこしやがって、なんて威張りくさった口をききやがるんだい。おまえらの天子の姓が宋なら、おいらの兄貴も宋という姓だ。そっちが天子になってやがるのなら、おいらの兄貴だって天子になれないってもんじゃなかろう。きさま、よくもこの黒ん坊さまを怒らせにきやがったな。いずれ詔書を書いた役人どもはひとり残らずぶち殺してやるぞ」
一同は、みなでなだめすかして黒旋風を堂からひきおろした。宋江は、
「太尉さま、どうかご安心くださいますよう、決してまちがいはおこさせませぬから。では御酒《ぎよしゆ》をちょうだいして、一同ご聖恩に浴させていただきましょう」
といい、さっそく、七宝をちりばめた金杯を一組とりよせ、裴宣に御酒をひと瓶おろさせて、銀の酒槽《さかぶね》(注七)にあけさせた。見《み》ればそれは、田舎仕込みの濁酒ではないか。さらに残りの九瓶も、封を切って酒槽にあけて見ると、やはり同じく泥くさい田舎仕込みである。人々はそれを見てみな愕然とし、ひとりひとり、みんな堂からおりて行った。
魯智深《ろちしん》は鉄の禅杖をひっさげて、大声でののしった。
「糞やろうめ、人をばかにするにもほどがある。どぶろくを御酒だなどとだまして、おれたちにくらわせようというのか」
赤髪鬼《せきはつき》の劉唐《りゆうとう》も朴刀をかまえて詰め寄り、行者《ぎようじや》の武松《ぶしよう》も二本の戒刀をひきぬき、没遮〓《ぼつしやらん》の穆弘《ぼくこう》や九紋竜《くもんりゆう》の史進《ししん》もいっせいに色めきたった。
水軍の頭領六人は、口々にののしりながら関門をおりて行った。
宋江はおだやかならずと見るや、飛び出して行って一同をさえぎりとめ、急いで命令をくだして、轎と馬で太尉を山から送り出すように、怪我をさせてはならぬ、といいつけた。だが、このとき、あたりの大小の頭領たちはほとんどみなあばれだしていたので、宋江と盧俊義はやむなくみずから馬に乗り、太尉ならびに詔書伝達の一行のものを護衛して三つの関門をおりて行った。そして再拝して罪を謝し、
「わたくしども、帰順投降の心がなかったわけではございません。このようなことになりましたのは、詔書を起草なさったお役人がたが、わたくしども梁山泊の内情をご存じなかったからでございます。もしも、やさしいお言葉をもっておいつくしみくださったのでしたら、わたくしどもも忠義をつくして国に報い、死するとも恨みを残すようなことはなかったでありましょう。太尉さまには朝廷におもどりになりましたならば、どうかよろしくおとりなしくださいますよう」
といい、急いで渡し場を渡してやった。一行の人々は、おどろいて腰も抜かさんばかり、飛ぶようにして済州へ馳せ帰った。
一方、宋江は、忠義堂へもどるとふたたぴ頭領たち一同を宴席に集めた。そして、
「朝廷の詔勅のひどかったことはたしかだが、みんなもあまりに気を立てすぎたではないか」
といった。すると呉用が、
「兄貴、なにもこだわることはありませんよ。招安はいずれまたそのうちにあるでしょうから。兄弟たちが怒ったのは至極当然のことです。朝廷はあまりにも人を人とも思わなすぎる。だが、いまはそんなむだ話はさしおいて、兄貴はまず命令を出して、騎兵には馬を装備させ、歩兵には武器を整備させ、水軍には船を準備させてください。やがてきっと大軍が討伐にくるでしょうから。そのときは、一二度、人亡《ほろ》び馬倒《たお》れるまでやっつけて、甲《よろい》のかけらひとつ帰さぬようにし、夢のなかまでもふるえあがらせてやるのです。そのうえであらためて招安のことを相談することにしましょう」
「まったく軍師のおっしゃるとおりです」
と一同はいった。かくてその日の宴もおわり、一同はそれぞれの陣営へひきとって行った。
さて陳太尉はといえば、済州へ帰って、梁山泊での詔書開読の顛末を張叔夜に告げた。と張叔夜は、
「あなたがた、なにか余計なことをおっしゃったのではございませんか」
「わたしは、ひとこともいわずじまいでした」
「そうすると、せっかくのお骨折りも甲斐《かい》なく、うまくいかなかったというわけですか。それなら太尉どの、急いで都へお帰りになって陛下に奏上なさいますよう。猶予すべきではございません」
陳太尉・張幹〓・李虞候らの一行は、夜を日についで都へ帰り、蔡太師に見《まみ》えて、梁山泊の叛賊どもが詔書をひき裂いて誹謗した次第をつぶさに報告した。蔡京はそれを聞いて大いに怒った。
「盗っ人どもめ、なんたる無礼千万な。堂々たるわが宋朝が、きさまたちをそのままのさばらせておくとでも思っているのか」
陳太尉は涙を流していった。
「もし太師さまのお庇護がなかったならば、わたくしは梁山泊でこっぱ微塵《みじん》にされていたところでございますが、おかげさまでこうして死地をのがれ、ふたたびおめにかかることができました」
太師はただちに童《どう》枢密(注八)および高・楊の二太尉に対し、軍事上の重大事を協議するため役所に集まるようにと要請した。まもなく三人は太師府の白虎堂(節堂)にはいった。一同が座につくと、蔡大師は張幹〓と李虞候を呼び出させて、梁山泊のものどもが詔書をひき裂いて誹謗した顛末をくわしく述べさせた。すると楊太尉は、
「あの賊どもを招安しようなどというのはもってのほかです。はじめにそのようなことを奏上したのはいったい誰です」
といった。
「あの日、もしわたしが朝廷に居合わせましたなら、きっとおとめして、あのようなことには決してならせなかったのですが」
と高太尉もいう。
「なに、あんなこそどろなぞ、なにほどのことがありましょう。およばずながらこのわたくし、みずから一軍をひきつれて行き、時を限り日をきめて、水泊を掃蕩しつくしてもどりましょう」
と童枢密。
「では、明日そのように奏上いたしましょう」
とみなはいい、かくして一同散会した。
翌日の早朝、百官が万歳を三唱して君臣の礼をおさめると(朝賀の礼がおわると)、蔡大師が列の中からすすみ出て、そのことを天子に奏上した。天子は激怒してたずねられた。
「あの日、わたしに招安するようにすすめたのは誰だ」
侍臣の給時中《きゆうじちゆう》(注九)が答えた。
「あの日奏上いたしましたのは、御史大夫《ぎよしたいふ》の崔靖《さいせい》でございます」
天子は、崔靖を捕らえ大理寺(注一〇)へ送って処罰するよう命ぜられた。ついで天子は蔡京に下問された。
「長年悪事をはたらいている賊だが、これを討ちとるには誰をさしむければよいか」
「大軍をもってしなければ、とりおさえることは困難かと存じます。わたくしの考えまするには、枢密院のものにみずから大軍をひきつれて討伐におもむかしめますならば、必ず日限までに勝利を得るでありましょう」
と蔡太師は答えた。天子は枢密使の童貫《どうかん》を召し出してたずねられた。
「そのほう、兵をひきいて梁山泊の草賊どもを召し捕りに行くか」
童貫はひざまずいて奏上した。
「古人の言葉に、孝は当《まさ》に力を竭《つく》すべく忠は則ち命を尽《つく》すべしと申しますが、ねがわくば犬馬の労をつくして心腹の患《うれい》を除きたいと存じます」
高〓《こうきゆう》と楊〓《ようせん》も、ともに童貫を推挙した。天子はただちに聖旨をくだし給い、金印と兵符をさずけて東庁の枢密使の童貫を大元帥に任じ、各地より思いのままに軍勢をよりすぐって、梁山泊の賊徒を討つべく、日を選んで征途につくよう命ぜられた。まさに、登壇《とうだん》(壇上)臂《ひじ》を攘《はら》って元帥と称し、敗陣眉《まゆ》を攅《ひそ》めて小児に似る、というところ。さて童枢密はいかにして征途についたか。それは次回で。
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一 招安 第七十一回注一七参照。
二 己を行うに恥有り…… 『論語』子路篇に、
子貢問うて曰く、何如《い か》なる斯《こ》れ之《これ》を士と謂う可き。子曰く、己を行うに恥有り、四方に使して君命を辱しめざるを士と謂う可し。
とある。すなわち「論語」には「士と謂う可し」とあるのを、ここでは「使と謂う可し」とかえているのである。
三 乗馬の支度をし 原文は〓束馬匹。馬を繋ぐこと。
四 貝錦讒を生ず古より然り 貝錦《ばいきん》は、貝殻《かいがら》の文《あや》のような美しい錦のこと。貝錦讒を生ずとは、貝錦を織るようにあれこれと人を讒言すること。古より然りというのは、貝錦讒を生ずという言葉がつぎの『詩経』の詩にもとづくが故にである。
萋兮斐兮 萋《せい》たり斐《ひ》たり
成是貝錦 是《こ》の貝錦を成す
彼譖人者 彼《か》の人を譖《そし》る者も
亦已大甚 亦已《すで》に大いに甚し
萋《せい》も斐《ひ》も美しい文《あや》のこと。譖《しん》は讒に同じ。
五 五帝 各種の説があるが、『史記』の五帝本紀に従えば、黄帝《こうてい》・〓〓《せんぎよく》・帝〓《ていこく》・堯《ぎよう》・舜《しゆん》をいう。
六 三皇 各種の説があるが、同じく『史記』の三皇本紀に従えば、伏羲《ふつき》・女〓《じよか》・神農《しんのう》をいう。
七 酒槽 原文は酒海。酒をいれる大きな器。
八 枢密 枢密使のことをいう。すなわち枢密院の長官。唐の代宗のときに初めて置かれ、文書をつかさどる官で宦官《かんがん》の職であったが、五代には宰相の職となり、宋代では軍事をつかさどる最高官となった。
九 給事中 奏上の事務をつかさどる官。秦《しん》のときにはじまり、はじめは大夫・博士・議郎(論議をつかさどる官)等の兼官であったが、晋《しん》以後は正員となり、隋《ずい》のとき門下省(勅命をつかざどる)の官となった。唐・宋ともにこれにならった。
一〇 大理寺 刑罰をつかさどる官署。隋のときにはじまる。
第七十六回
呉加亮《ごかりよう》 四斗五方《しとごほう》の旗を布《し》き
宋公明《そうこうめい》 九宮八卦《きゆうきゆうはつか》の陣を排《つら》ぬ
さて枢密使の童貫は、天子より統軍大元帥《とうぐんだいげんすい》の職をさずけられるや、そのまま枢密院へ行ってただちに動員の触れ(注一)をまわし、東京《とうけい》管下八路の軍州(注二)からそれぞれ一万の軍を出させ、その地の兵馬都監《へいばとかん》(軍司令官)にその統率を命じた。また京師の御林軍《ぎよりんぐん》(近衛軍)から二万の兵を選抜して中軍の守護にあたらせ、枢密院の事務いっさいは、副枢密使にゆだねて代行させた。さらに御営《ぎよえい》(親衛隊)から二名の良将を選んで左右の輔翼とした。かくて命令が発せられるや、十日とたたぬうちにすべての準備が完了した。兵糧等のいっさいは高太尉が人を出して輸送にあたらせた。
八路の軍とは、
雎《すい》州兵馬都監 段鵬挙《だんほうきよ》
鄭《てい》州兵馬都監 陳〓《ちんしよ》
陳《ちん》州兵馬都監 呉秉彝《ごへいい》
唐《とう》州兵馬都監 韓天麟《かんてんりん》
許《きよ》州兵馬都監 李明《りめい》
〓《とう》州兵馬都監 王義《おうぎ》
洳《じよ》州兵馬都監 馬万里《ばばんり》
嵩《すう》州兵馬都監 周信《しゆうしん》
御営より選ばれて左右の輔翼となった良将二名は中軍に配されたが、そのふたりは、
御前飛竜大将 〓美《ほうび》
御前飛虎大将 畢勝《ひつしよう》
童貫は中軍を掌握して主帥《しゆすい》(総帥)となり、全軍に号令して準備をととのえさせ、軍器庫から武器を出してあたえ、吉日を選んで征途にのぼることになった。高・楊の二太尉は宴席を設けてそのかどでを祝い、朝廷では中書省(注三)に仰せられて全軍をねぎらわれた。
さて童貫は諸将をひき従えるや、翌日まず軍を城外にすすめておいて、天子に暇乞いをし、馬にうち乗って新曹門《しんそうもん》(東京の東門)を出て行った。五里さきの短亭《たんてい》(注四)まで行くと、高・楊の二太尉が諸官をひき従えて、さきにきて待っていた。童貫が馬をおりると、高太尉は杯をとって童貫にすすめ、
「枢密使どのこのたびのご出陣につきましては、朝廷のおんため必ずや大功をたてて早く凱歌を奏されますように。あの賊どもは湖のあたりにひそんでおりますゆえ、なによりもまず四方の糧道を断ち、陣を堅固にかまえておいてから、やつらを山からおびきおろして攻撃を加えるのがよろしいでしょう。そうすれば、片っぱしからいけ捕りにして朝廷のご信任におこたえになることができましょう」
「ご教示ありがとうございます。決して忘れはいたしません」
ふたりが杯を乾《ほ》すと、こんどは楊太尉が杯をとって童貫にすすめ、
「枢密使どのには、かねがね兵書をお読みになって十分兵法に通じておられますゆえ、あの賊どもを捕らえることぐらいは、なんの造作もないことでしょう。とはいえ、あの賊どもは湖のあたりにひそんでいて、味方には地の利がありません。だが、枢密使どのがむこうへいらっしゃれば、きっと良策をめぐらされることでしょう」
「むこうへつきましたなら、臨機応変にやります。成算は十分あります」
童貫がそう答えると、高・楊の二太尉はいっせいに酒をすすめて祝賀の言葉を述べた。
「都門の外で、凱旋をお待ちしております」
かくて互いに別れを告げて、それぞれ馬に乗った。諸官署の属僚で見送りにきたものは数知れなかったが、あるものは近くまで、あるものは遠くまで見送ったのち、つぎつぎに帰って行ったことは、いちいち述べるまでもなかろう。
全軍はいっせいにすすんだ。それぞれ隊伍をととのえて、まことに整然たるありさまであった。前軍の四隊は先鋒の総領《そうりよう》(指揮官)が導き、後軍の四隊は後詰めの将軍が見張り、左右の八路の軍は両翼の旗によってすすめられた。童貫は中軍にあって、歩騎の御林軍二万を統率した。兵士たちはみな御営から選抜されたつわものである。童貫は鞭を手に、軍を指揮してすすんだが、その軍容の厳然たるありさまは、
兵は九隊に分《わか》れ、旗は五方(四方および中央)に列《つらな》る。緑沈鎗《りよくちんそう》・点鋼《てんこう》鎗・鴉角《あかく》鎗は、遍野《へんや》に光芒《こうぼう》を布《し》き、青竜刀《せいりゆうとう》、偃月《えんげつ》刀・雁〓《がんれい》刀は、満天に殺気を生ず。雀画弓《じやくがきゆう》・鉄胎《てつたい》弓・宝雕《ほうちよう》弓は、対《つい》に飛魚袋《ひぎよたい》(弓袋)内に挿し、射虎箭《しやこせん》・狼牙《ろうが》箭・柳葉《りゆうよう》箭は、斉《ひと》しく獅子壺《ししこ》(矢壺)中に攅《あつ》む。樺車弩《かしやど》・漆抹《しつまつ》弩・脚登《きやくとう》弩は、前軍に排《なら》び満ち、開山斧《かいざんふ》・偃月《えんげつ》斧・宣花《せんか》斧は、中軍に緊《きび》しく随う。竹節鞭《ちくせつべん》・虎眼《こがん》鞭・水磨《すいま》鞭は、斉《ひと》しく肘《ちゆう》上に懸《か》かり、流星鎚《りゆうせいつい》・鶏心《けいしん》鎚・飛抓《ひそう》鎚は、各《おのおの》身辺に帯ぶ。方天戟《ほうてんげき》は豹尾《ひようび》(豹の尾の飾り)翩翻《へんぽん》として、丈八矛《じようはちぼう》は、珠纏《しゆてん》(たまの飾り)錯落《さくらく》(入り乱れ)たり。竜文剣《りゆうもんけん》は、一汪《おう》の秋水を掣《ひ》き、虎頭牌《ことうはい》は、幾縷《る》の春雲を画《えが》く。先鋒は猛勇にして、山を抜き路を開くの精兵を領し、元帥は英雄にして、水(河)を喝《の》み橋を断つの壮士を統《す》ぶ。左統軍《さとうぐん》・右統軍《ゆうとうぐん》(司令官)は、胆略を恢弘《かいこう》し(みなぎらせ)、遠哨馬《えんしようば》・近哨馬《きんしようば》(斥候)は、威風を馳騁《ちてい》す。天に震《ふる》う〓鼓《へいこ》(軍鼓)は、山嶽を揺《ゆる》がし、日に映《は》ゆる旌旗《せいき》は、鬼神を避けしむ。
その日童貫は東京をあとにしてはるばるとすすんで行ったが、やがて幾日かして済州の地にはいると、太守の張叔夜《ちようしゆくや》が城外に出てこれを迎えた。大軍は城外にとどまり、童貫だけが軽装の一騎兵をひき従えて城内へはいって行った。州役所の前で馬をおりると、張叔夜はこれを堂上に迎えいれ、挨拶を述べてから、その前に侍立した。童枢密はいった。
「かの水たまりの盗《ぬす》っ人《と》どもは、良民を殺したり旅商人をおそったりして、なみなみならぬ悪業をかさねておるが、これまで何度も討伐を加えたものの、然るべき人物を得なかったため、ますますのさばらせるようなしまつになったのです。わたしはこのたび、十万の大軍と百名の軍将をひきつれ、日を限って山寨を掃蕩し、賊どもをひっ捕らえて万民を安堵させるつもりです」
「おそれながら枢密使さま、かの賊どもは湖のほとりにひそんでおりまして、山林の狂賊にはちがいありませんが、なかには智謀にたけ武勇にすぐれたものが数多くおります。枢密使さまには、怒気にはやって一気におし寄せて行くようなことはなさらず、十分に策略をめぐらして功をおさめられますように」
張叔夜がそういうと、童貫はその言葉にかっとなって、どなりつけた。
「そのほうのような腰抜けたちが、刀をおそれ剣をさけ、生をむさぼり死をおそれて国家の大事をあやまり、賊の勢いをさかんにしてしまったのだ。いまここまでやってきたわしが、なにをおそれたりなどしようぞ」
張叔夜はもうそれ以上いうことはひかえ、まずは酒食をととのえてもてなした。童枢密は早々に城を出て行き、翌日、大軍を駆りたてて梁山泊の近くまですすみ、陣地をかまえた。
一方、宋江らは、探りのものによって早くから情報を探知していた。宋江は呉用とともに、早くも、鉄桶《てつとう》のようにぬかりなく策略をきめ、いまはただ大軍の攻め寄せてくるのを待つばかり。諸将に対して、各自命令を守って手抜かりのないようにと指示していた。
さて童枢密は軍の編成をおこない、雎《すい》州兵馬都監の段鵬挙《だんほうきよ》を正先鋒《せんぽう》に、鄭《てい》州都監の陳〓《ちんしよ》を副先鋒に任じ、陳州都監の呉秉彝《ごへいい》を正合後《ごうご》(殿軍《しんぐん》の大将)に、許州都監の李明を副合後にし、唐州都監の韓天麟と〓《とう》州都監の王義のふたりを左哨《さしよう》(左翼偵察隊)に、洳《じよ》州都監の馬万里と嵩《すう》州都監の周信のふたりを右哨《ゆうしよう》に配し、竜・虎の二将の〓美《ほうび》と畢勝《ひつしよう》は中軍の輔翼とし、童貫は元帥として全軍をひきい、全身をよろいに堅めてみずから指揮をとった。戦鼓が三たび鳴り、諸軍はいっせいに行動をおこした。かくて十里ほどすすむと、砂ぼこりが舞いあがって早くも敵の斥候隊があらわれ、次第に接近してきた。鸞鈴《らんれい》(馬の鈴)鳴りひびくところ、三十騎ばかりの斥候が、いずれも青い布で頭を包み、緑の戦襖をまとい、馬にはみな赤い纓《ひも》をつけ、両側に数十個の銅の鈴を掛け、うしろには雉《きじ》の尾羽《おばね》を挿し、そして、てんでに銀環をはめた細柄の長鎗《ちようそう》と軽弓《けいきゆう》・短箭《たんせん》をたずさえていた。その頭たる軍将は誰で、そのいでたちいかにといえば、
鎗は鴉角《あかく》を横たえ、刀は蛇皮《だひ》を挿す。銷金《しようきん》の巾〓《きんさく》(金箔をちらした頭巾)は仏頭青《ぶつとうせい》(群青《ぐんじよう》色)、挑繍《ちようしゆう》の戦袍《せんぽう》(刺繍をした軍衣)は鸚哥緑《おうかりよく》(濃い萌黄色)。腰には絨〓《じゆうとう》(毛糸の打紐)の真紫の色を緊《し》め、足には気袴《きこ》(注五)の軟香の皮を穿《は》く。雕鞍《ちようあん》の後には対に錦袋を懸《か》け、内に将を打つの石頭(つぶて)を蔵《かく》す。戦馬の辺(両側)には緊しく銅鈴を掛け、後に風を招くの雉尾を挿す。驃騎将軍没羽箭《ぼつうせん》、張清《ちようせい》哨路(斥候)の最も先に当《あた》る。
馬上ゆたかにやってくる将軍の、その旗じるしには、
巡哨都頭領《ととうりよう》 没羽箭張清
と明らかにしるされていた。その左には〓旺《きようおう》、右には丁得孫《ていとくそん》が従い、まっすぐに童貫の軍前のかなり近くまで偵察にきたが、百歩あまり手前のところで馬首を転じてひき返して行った。前軍の先鋒の二将は、命令がないので勝手な行動はできず、この旨を中軍へ知らせた。主帥の童貫が、みずから陣頭へ出て行って眺めていると、張清がまた偵察にあらわれた。童貫は兵を出してこれを追い討たせようとしたが、左右のものが諫めていうよう、
「あの男の鞍のうしろの錦の袋には、つぶてがはいっております。投げれば必ずあたります。追ってはなりません」
張清は三度偵察をくりかえしたが、童貫が兵を出さないのでひき返して行った。
そこから五里ほどすすんだとき、とつぜん山のむこうに銅鑼《どら》の音がひびき、さっと五百ばかりの歩兵が飛び出してきた。その先頭の四人の頭領は、すなわち黒旋風《こくせんぷう》の李逵《りき》、混世魔王《こんせいまおう》の樊瑞《はんずい》、八臂那〓《はつぴなた》の項充《こうじゆう》、飛天大聖《ひてんたいせい》の李袞《りこん》で、まっしぐらに突進してくる。見れば、
人々虎体、個々彪形。先に当るは両座の悪星神、後に随うは二員の真殺曜(曜は星)。李逵は手に双斧を持ち、樊瑞は腰に竜泉(刀)を掣《せい》し、項充の牌《たて》は玉爪の〓猊《しゆんげい》を画《えが》き、李袞の牌は金睛の〓豸《かいち》を描く。五百人の絳衣赤襖《こういせきおう》(赤い衣襖)、一部《すべて》紅旆《こうはい》(赤い旗)朱纓《しゆえい》に従《したが》う。青山中より走り出ず一群の魔、緑林内より迸《ほとばし》り開く三昧《さんまい》の火(注六)。
五百の歩兵は山麓に一文字に散開し、両端から団牌《だんぱい》(まるい楯)を、ぎっしりとつなぎあわせた。童貫は陣頭に兵をひきいてそれを見るや、さっと采配《さいはい》(注七)をうち振った。大軍がどっと突撃して行くと、李逵と樊瑞は歩兵を二手にわけ、てんでに蛮牌(楯)をさかさまにひっさげたまま山の裾をまわって逃げて行った。童貫の大軍があとを追って山の鼻を曲がると、そこは平坦な原っぱだったので、ただちに隊形をととのえて前方を眺めると、李逵と樊瑞が嶺を越え林を抜けて行くのが見えたが、やがて姿が消えてしまった。童貫は中軍に木を組んだ指揮台を立てさせて、編制官(注八)ふたりをその上にのぼらせて、部隊を左へ寄せたり右へ移したり、あるいは立たせたり、あるいは伏せさせたりなどして、四門斗底《しもんとてい》の陣をかまえさせた。その陣形がようやくととのったとき、とつぜん山のむこうに砲声がとどろいた。と同時に裏山から一隊の軍勢が飛び出してきた。童貫は左右のものに馬をひきとめさせて、みずから指揮台にのぼって見た。と、山の東側からどっと軍勢が躍り出してくる。その先頭の一隊は紅《くれない》の旗、第二隊は雑綵《まじりいろ》の旗、第三隊は青の旗、そして第四隊はこれまた雑綵の旗。と、山の西側からも、別の軍勢が躍り出してきた。先頭の一隊は雑綵の旗、第二隊は白の旗、第三隊はこれまた雑綵の旗、そして第四隊は黒の旗で、そのうしろはことごとく黄色の旗である。さらに、大部隊の軍将がさっと躍り出してきて中央を占め、そこに陣形をととのえた。遠くからはさだかでなかったが、近づいて見ればはっきりと、真南のその一隊はことごとく火〓のような紅の旗、紅の甲《よろい》に紅の袍《うわぎ》、朱の纓《ふさ》に赤い馬で、先頭の紅の引軍旗《いんぐんき》は、上のほうには金箔の南斗六星、下のほうには朱雀《しゆじやく》が刺〓されていた。その旗のうち振られるところ、紅の旗のなかから躍り出てきたひとりの大将。そのいでたちいかにと見れば、
〓頂《かいちよう》(かぶとの上)に朱纓《しゆえい》一顆飄《ひるがえ》り
猩々《しようじよう》の袍上には花千朶《せんだ》
獅蛮《しばん》の帯は紫玉の団を束《つか》ね
〓猊《しゆんげい》の甲は黄金の鎖を露《あら》わす
狼牙《ろうが》の木棍には鉄釘排《なら》び
竜駒《りようく》は遍体を〓脂《えんじ》もて裹《つつ》む
紅旗は半天の霞を招展し
正に南方丙丁《へいてい》(ひのえ・ひのと)の火に按ず(なぞらう)
その旗じるしには、
先鋒大将霹靂火《へきれきか》秦明
と鮮かにしるされている。その左右のふたりの副将は、左手が聖水将《せいすいしよう》の単延珪《ぜんていけい》、右側が神火将《しんかしよう》の魏定国《ぎていこく》である。三人の大将は武器を手に、いずれも赤い馬にまたがって陣頭に立っている。
東のほうの一隊は、ことごとく青の旗、青の甲に青の袍、青の纓に青い馬で、先頭の青の引軍旗は、上のほうには金箔の東斗四星、下のほうには青竜《せいりゆう》が刺〓されていた。その旗のうち振られるところ、青の旗のなかから躍り出てきたひとりの大将。そのいでたちいかにと見れば、
藍〓《らんてん》(濃い藍《あい》色)の包巾は光満目《まんもく》
翡翠《ひすい》の征袍には花一簇《いつそう》
鎧甲は穿連《せんれん》して獣 環を吐き
宝刀は閃鑠《せんしやく》として竜 玉を呑む
青〓《せいそう》(葦毛の馬)は遍体に粉《しろ》き団花あり
戦襖は身を護って鸚鵡緑《おうむりよく》なり
碧雲《へきうん》の旗動いて遠山明らかに
正に東方甲乙《こうおつ》(きのえ・きのと)の木に按ず
その旗じるしには、
左軍大将大刀《たいとう》関勝
と鮮かにしるされている。その左右のふたりの副将は、左手が醜郡馬《しゆうぐんば》の宣賛《せんさん》、右手が井木〓《せいぼくかん》の〓思文《かくしぶん》である。三人の大将は武器を手に、いずれも青い馬にまたがって陣頭に立っている。
西のほうの一隊は、ことごとく白の旗、白の甲に白の袍、白の纓に白い馬で、先頭の白の引軍旗は、上のほうには金箔の西斗五星、下のほうには白虎《びやつこ》が刺〓されていた。その旗のうち振られるところ、白の旗のなかから躍り出てきたひとりの大将。そのいでたちいかにと見れば、
獏々たる寒雲は太陰(月)を守り
梨花萬朶 層深《そうちん》(重なりあった宝玉)を畳《たた》む
素色(白色)の羅袍は光閃々として
爛銀(きらきら光る銀)の鎧甲は冷《れい》森々《しんしん》たり
霜に賽《まが》う駿馬は獅子に騎《の》るごとく
出白(磨ぎすました)の長鎗は緑沈《りよくちん》を《と》る(深緑色の柄)
一旗の旗旛は雪練《せつれん》(白いねりぎぬ)を飄《ひるがえ》し
正に西方庚辛《こうしん》(かのえ・かのと)の金に按ず
その旗じるしには、
右軍大将豹子頭《ひようしとう》林冲
と鮮かにしるされている。その左右のふたりの副将は、左手が鎮三山《ちんさんざん》の黄信《こうしん》、右手が病尉遅《びよううつち》の孫立《そんりつ》である。三人の大将は武器を手に、いずれも白い馬にまたがって陣頭に立っている。
うしろのほうの一隊は、ことごとく〓《くろ》の旗、黒の甲に黒の袍、黒の纓に黒い馬で、先頭の黒い引軍旗は、上のほうには金箔の北斗七星、下のほうには玄武《げんぶ》が刺〓されていた。その旗のうち振られるところ、黒の旗のなかから躍り出てきたひとりの大将。そのいでたちいかにと見れば、
堂々と地を捲《ま》いて烏雲《ううん》起り
鉄騎強弓勢《いきおい》比莫《ひな》し
〓羅《そうら》(黒い絹)の袍は竜虎の躯《み》に穿ち
烏油《うゆう》(黒塗り)の甲は豺狼《さいろう》の体に掛く
鞭は烏竜の似《ごと》く両条を《と》り
馬は〓墨《はつぼく》の如く千里を行く
七星の旗動いて玄武揺《ゆ》れ
正に北方壬癸《じんき》(みずのえ・みずのと)の水に按ず
その旗じるしには、
合後大将双鞭《そうべん》呼延灼
と鮮かにしるされている。その左右のふたりの副将は、左手が百勝将《ひやくしようしよう》の韓滔《かんとう》、右手が天目将《てんもくしよう》の彭〓《ほうき》である。三人の大将は武器を手に、いずれも黒い馬にまたがって陣頭に立っている。
東南の門旗のもとの一隊は、青い旗に紅《くれない》の甲。先頭の刺〓の引軍旗は、上のほうには金箔の巽《そん》の卦《け》(〓東南をあらわす)、下のほうには飛竜が刺〓されている。その旗のうち振られるところ、おしたてられつつ出てきたひとりの大将。そのよそおいいかにと見れば、
甲を〓《つ》け袍を披《き》て戦場に出《い》ず
手中には両条の鎗を粘着《ねんちやく》す
雕弓《ちようきゆう》は鸞鳳《らんほう》の壺中に挿し
宝剣は沙魚《さぎよ》(さめ)の鞘内に蔵す
霧を束《つか》ぬる衣は黄錦の帯を飄し
空に騰《のぼ》る馬は紫糸の〓《つな》を頓《ふく》む
青旗紅〓竜蛇動き
独り東南に拠って巽方《そんぽう》(たつみ)を守る
その旗じるしには、
虎軍大将双鎗将《そうそうしよう》董平
と明らかにしるされている。その左右のふたりの副将は、左手が磨雲金翅《まうんきんし》の欧鵬《おうほう》、右手が火眼〓猊《かがんしゆんげい》の〓飛《とうひ》で、武器を手に、いずれも馬にまたがって陣頭に立っている。
西南の門旗のもとの一隊は、紅の旗に白の甲。先頭の刺〓の引軍旗は、上のほうには金箔の坤《こん》の卦《け》(〓西南をあらわす)、下のほうには飛熊《ひゆう》が刺〓されている。その旗のうち振られるところ、おしたてられつつ出てきたひとりの大将。そのいでたちいかにと見れば、
当先に湧出《ようしゆつ》す英雄の将
凜々たる威風は気象を添う
魚鱗の鉄甲は緊《きび》しく身を遮《さえぎ》り
鳳翅の全〓は〓《つな》いで項《うなじ》を護る
波を衝く戦馬は竜形の似《ごと》く
山を開く大斧は弓様《きゆうよう》の如し
紅旗白甲火雲飛び
正に西南坤位《こんい》(ひつじさる)の上《ほとり》に拠る
その旗じるしには、
驃旗大将急先鋒《きゆうせんぽう》索超
と明らかにしるされている。その左右のふたりの副将は、左手が錦毛虎《きんもうこ》の燕順《えんじゆん》、右手が鉄笛仙《てつてきせん》の馬麟である。三人の大将は武器を手に、いずれも馬にまたがって陣頭に立っている。
東北の門旗のもとの一隊は、〓《くろ》の旗に青の甲。先頭の刺〓の引軍旗は、上のほうには金箔の艮《ごん》の卦《け》(〓東北をあらわす)、下のほうには飛豹が刺〓されている。その旗のうち振られるところ、おしたてられつつ出てきたひとりの大将。そのよそおいいかにと見れば、
雕鞍《ちようあん》に虎座して胆気昂《たか》し
弓を彎《ひ》き箭を挿《さしはさ》めば鬼神も慌《おそ》る
朱纓《しゆえい》の銀〓は刀面を遮《さえぎ》り
絨縷《じゆうる》(毛織の紐)の金鈴は馬傍に貼《つ》く
〓は穣花《じようか》(昼顔の花)を頂いて紅《くれない》錯落とし
甲は柳葉を穿《つ》けて翠《みどり》遮蔵す(こもる)
〓旗《そうき》青甲煙塵《えんじん》(戦塵)の内
東北の天山に艮方《こんぽう》(うしとら)を守る
その旗じるしには、
驃騎大将九紋竜《くもんりゆう》史進
と明らかにしるされている。その左右のふたりの副将は、左手が跳澗虎《ちようかんこ》の陳達《ちんたつ》、右手が白花蛇《はくかだ》の楊春《ようしゆん》である。三人の大将は武器を手に、いずれも馬にまたがって陣頭に立っている。
西北の門旗のもとの一隊は、白い旗に黒の甲。その先頭の引軍旗は、上のほうには金箔の乾《けん》の卦《け》(〓西北をあらわす)、下のほうには飛虎が刺〓されている。その旗のうち振られるところ、おしたてられつつ出てきたひとりの大将。そのいでたちいかにと見れば、
雕鞍玉勒《ちようあんぎよくろく》馬は風に嘶《いなな》き
介冑《かいちゆう》稜層として黒霧濛《もう》たり
豹尾壼(矢壺)中には銀鏃《ぎんそう》(銀のやじり)の箭《や》
飛魚袋(弓袋)内には鉄胎(鉄のしん)の弓
甲辺の翠縷《すいる》(翠色の糸)は双鳳を穿ち
刀面の金花は小竜を嵌《かん》す
一簇の白旗は黒甲を飄し
天門の西北は是れ乾宮《けんきゆう》(いぬい)
その旗じるしには、
驃騎大将青面獣《せいめんじゆう》楊志
と明らかにしるされている。その左右のふたりの副将は、左手が錦豹子《きんぴようし》の楊林《ようりん》、右手が小覇王《しようはおう》の周通《しゆうとう》である。三人の大将は武器を手に、いずれも馬にまたがって陣頭に立っている。
八方の布陣はさながら鉄桶《てつとう》のごとく、陣門のなかで騎兵は騎兵で隊を組み、歩兵は歩兵で隊を組み、それぞれ鋼刀や大斧、闊剣《かつけん》や長鎗《ちようそう》などを手にし、旗旛は整然、隊伍は凜然たるありさま。その八つの陣の中央には、ぐるりと輪をなして杏黄旗《きようこうき》(琥珀色の旗)がつらなり、それにまじって六十四本の長脚旗(長柄の旗)。その旗には金箔でそれぞれ六十四の卦(注九)がしるされて、四つの門にわかれていた。南門はすべて騎兵で、真南の黄旗のもとには、同じいでたちの、ふたりの上将がおしたてられていた。見れば、
熟銅の鑼《ら》(銅鑼)は花腔《かこう》(絵模様)の鼓《こ》に間《まじ》わり
簇々攅々《そうそうさんさん》として隊伍を分《わか》つ
〓金《そうきん》(金を象眼した)の鎧甲に赭黄《しやこう》の袍
剪絨《せんじゆう》(天鵞絨《びろうど》)の戦襖には葵花《きか》舞う(向日葵《ひまわり》の模様)
垓心《がいしん》(中心)の両騎の馬は竜の如く
陣内の一双の人は虎に似る
週囲《しゆうい》には杏黄《きようこう》の旗を遶定《じようてい》し(めぐらし)
正に中央戊己《ぼうき》(つちのえ・つちのと)の土に按ず
そのふたりの首将はともに黄色の馬にまたがっていて、上手《かみて》が美髯公《びぜんこう》の朱仝《しゆどう》、下手《しもて》が挿翅虎《そうしこ》の雷横《らいおう》である。それをとりまく軍勢は、ことごとく黄色の旗、黄色の袍《うわぎ》に銅《あかがね》の甲《よろい》、黄色の馬に黄色の纓《ふさ》。
中央の陣の四つの門は、東門が金眼彪《きんがんひよう》の施恩《しおん》、西門が白面郎君《はくめんろうくん》の鄭天寿《ていてんじゆ》、南門が雲裏金剛《うんりこんごう》の宋万《そうまん》、北門が病大虫《びようたいちゆう》の薛永《せつえい》。黄旗のまんなかには、かの「替天行道」の杏黄の旗が立っており、旗桿《はたざお》には四本の毛織りの綱が結びつけられていて、四人の屈強な兵士がこれをささえている。そして中央には旗を守る騎馬の壮士がひとり。そのいでたちいかにと見れば、
冠は魚尾を簪《かざ》して金線を圏《めぐ》らせ
甲《よろい》は竜鱗を皺《かさ》ねて錦衣を護る
凜々たる身躯長《たけ》一丈
中軍に守定する杏黄の旗
旗を守るこの壮士は、すなわち険道神《けんどうしん》の郁保四《いくほうし》である。黄旗の群れのうしろには一群の砲架があって、かの砲手の轟天雷《ごうてんらい》の凌振《りようしん》がひかえ、副手二十余名を従えて砲架をとりまいている。砲架のうしろの一帯には撓鉤《どうこう》(熊手)や套索《とうさく》(からめ縄)が並べられて、敵将を捕らえるための武器が用意され、撓鉤手のうしろには、ここにもまた、ぐるりと輪をなして雑綵《まじりいろ》の旗がつらなっている。とりまいているのは七重にかこんだ囲子手《いししゆ》(警護の兵)で、四方には二十八本の刺繍の旗が立てられ、旗には金箔でそれぞれ二十八宿の星がえがかれている。そのまんなかに立っているのは、毛糸で刺繍し、真珠で縁をとり、下には金の鈴を綴《つづ》り、上には雉の尾羽を挿した、鵝黄《がこう》(鮮かな黄色)の帥字旗《すいじき》(元帥旗)である。その旗を守るひとりの壮士のいでたちいかにと見れば、
鎧甲は斜《ななめ》に海獣の皮を〓《つな》ぎ
絳羅《こうら》の巾〓《きんさく》(赤い絹の頭巾)には花枝を挿す
冲天の殺気は人犯《おか》し難く
守定す中軍の帥字の旗
旗を守るこの壮士は、すなわち没面目《ぼつめんもく》の焦挺《しようてい》である。帥字旗のかたわらには、さらにふたりの旗守りの将がいて、いずれも馬に乗り、同じよそおいをし、手には鋼鎗を持ち腰には利剣をさげている。ひとりは毛頭星《もうとうせい》の孔明《こうめい》であり、ひとりは独火星《どつかせい》の孔亮《こうりよう》である。その前後には、二十四名の、狼牙棍を持った鉄の甲《よろい》の兵士が並んでいる。そのうしろには、戦闘を指揮する刺繍の旗が二本。その両側には二十四本の方天《ほうてん》の画戟《がげき》がつらなっている。左側の十二本の画戟の群れには、ひとりの驍将がおしたてられていたが、そのいでたちいかにと見れば、
鞍に踞《きよ》し馬を立つ天風の裏《うち》
鎧甲輝《て》り煌《かがや》いて火焔起《おこ》る
麒麟《きりん》の束帯は狼腰に称《かな》い
〓豸《かいち》の呑胸(胸当て)は虎体に当《あた》る
冠上の明珠は暁星を嵌《かん》し
鞘中の宝剣は秋水を蔵す
方天の画戟は雪霜のごと寒く
風は動かす金銭豹子《きんせんひようし》の尾を
刺繍の旗には鮮かに、
小温侯《しようおんこう》呂方
としるされている。右側の十二本の画戟の群れにも、ひとりの驍将がおしたてられていたが、そのいでたちいかにと見れば、
三叉の宝冠は珠燦爛《さんらん》として
両条の雉尾《ちび》は錦〓斑《らんぱん》たり
柿紅の戦襖は銀鏡(銀の胸当て)を遮り
柳緑の征裙は繍鞍を圧す
束帯には双跨の魚獺《ぎよだつ》(かわうそ)の尾
護心(胸)の甲には小連環を掛く
手に画桿《がかん》の方天戟を持ち
飄動す金銭(金銭豹尾)の五色の旛《はた》
刺繍の旗には鮮かに、
賽仁貴《さいじんき》郭盛
としるされている。二将はそれぞれ画戟を手にして左右に馬をとめていた。左右の画戟のあいだには鋼叉《こうさ》の一群があり、同じいでたちの、歩兵の驍将がふたり。見れば、
虎皮の〓脳《がいのう》(頭巾)豹皮の《こん》(ずぼん)
襯甲(よろい下)の衣は籠細の織金(こまかい金糸織り)
手内の鋼叉は光閃々
腰間の利剣は冷森々たり
ひとりは両頭蛇《りようとうだ》の解珍《かいちん》、ひとりは双尾蝎《そうびかつ》の解宝《かいほう》である。兄弟ふたりは、ともに三股《みつまた》の蓮花叉《れんげさ》を持ち、歩兵三群をひきいて中軍を護衛していた。そのうしろ錦鞍《きんあん》の馬に乗った文墨の士ふたりは、賞罰功罪をつかさどるもので、左手のひとり、黒い紗の帽《ぼう》に白い絹の襴《らん》(上着と裳のつらなったひとえもの)を着、胸には錦〓を蔵し筆には竜蛇を走らせるのが、すなわち、梁山泊に文書をつかさどる才子、聖手書生《せいしゆしよせい》の蕭譲《しようじよう》。右手のひとり、緑の紗の頭巾に黒い絹の衫《さん》(ひとえの短い上着)を着、気は長虹《ちようこう》を貫《つらぬ》き心は秋水《しゆうすい》ごとく清澄なのが、すなわち、梁山泊に法務をあずかる豪傑、鉄面孔目《てつめんこうもく》の裴宣《はいせん》である。その両騎のうしろには、紫衣をまとい節(注一〇)を持ったもの二十四人が道にならび、二十四本の麻扎刀《まさつとう》(処刑刀)をつらねている。その刀の林のなかには、錦衣をまとい三串《さんかん》の帯をしめた行刑〓子《こうけいかいし》(首斬処刑人)がふたりいた。そのなりふりはというに、西江月の詞《うた》でいえば、
一個は皮の主腰《しゆよう》(腰当て)、乾紅《けんこう》(真紅《しんく》)に簇《あつ》め就《な》し、一個は羅《ら》(絹)の〓串《てきかん》(ずぼん)、彩色して装い成す。一個は双環の撲獣《ぼくじゆう》(獣と獣が噛みあう形の留め金)の〓金《そうきん》(金の象眼)明らかに、一個は頭巾の畔に花枝掩映《えんえい》す。一個は白き紗の衫もて錦体(刺青した身体)を遮《さえぎ》り籠《つつ》み、一個は〓《くろ》き禿袖《とくしゆう》(半袖)より半ば鴉青《あせい》(刺青)を露わす。一個は漏塵斬鬼《ろうじんざんき》の法刀《ほうとう》(首斬り刀)を将《もつ》て〓《ささ》げ、一個は水火《すいか》の棍《こん》(仕置き棒)を把《と》って手中に提げ定む。
上手《かみて》のが鉄臂膊《てつぴはく》の蔡福《さいふく》、下手《しもて》のが一枝花《いつしか》の蔡慶《さいけい》である。兄弟ふたりが先頭に立ち、その左右にはずらりと〓刀手《けいとうしゆ》(刀持ち)がひかえる。さらにそのうしろには、二十四本の金鎗銀鎗(注一一)が左右に並び、それぞれひとりの大将がいて指揮をとっていた。左側の十二本の金鎗隊には、騎馬の驍将がひとりいて、金鎗を手に馬に横乗りしていたが、そのいでたちいかにといえば、
錦鞍の駿馬に紫糸の〓《たづな》
金翠の花枝もて鬢傍を圧《おさ》う
雀画《じやくが》の弓は一彎《わん》の月を懸《か》け
竜泉の剣は九秋の霜を掛く
〓袍は巧《たく》みに製す鸚哥《おうか》の緑
戦服は軽やかに裁つ柳葉の黄
頂上の纓花《えいか》は紅燦爛《さんらん》として
手に鉄桿《てつかん》の縷金《るきん》の鎗を拈《と》る
この驍将が、すなわち梁山泊の金鎗手《きんそうしゆ》の徐寧《じよねい》。右側の十二本の銀鎗隊にも、騎馬の驍将がひとりいて、銀鎗を手に、これも駿馬に横乗りしていたが、そのよそおい、いかにといえば、
蜀錦《しよくきん》の鞍〓《あんせん》(錦の鞍下《くらした》)に宝鐙《ほうとう》(あぶみ)光り
五明の駿馬(注一二)は玉〓〓《ていとう》たり(玉の音をひびかす)
虎筋《こきん》の弦《げん》は扣《ひ》いて雕弓硬《ちようきゆうかた》く
燕尾《えんび》の梢《しよう》(矢筈)は攅《あつ》めて箭羽《せんう》長し
緑錦の袍には明らかなり金の孔雀《くじやく》
紅《こうてい》(紅皮)の帯は紫の鴛鴦《えんおう》を束《つか》ぬ
参差《しんし》として半ば黄金の甲を露わし
手に銀糸の鉄桿の鎗を執る
この驍将が、すなわち梁山泊の小李広《しようりこう》の花栄《かえい》。ふたりとも、粋《いき》な勇猛な将で、金鎗手(徐寧)も銀鎗手(花栄)もそれぞれ黒い絹の頭巾をかぶり、鬢のあたりには翠葉金花のかんざしを挿していた。そして、左側の十二人の金鎗手たちは緑のきもの、右側の十二人の銀鎗手たちは紫のきものを着ている。
そのうしろにはまた、錦衣《きんい》、花帽《かぼう》のものがずらりと並び、緋枹《ひほう》・錦襖《きんおう》のものがぎっしりと群がっている。両脇には、碧幢《へきどう》・翠《すいばく》、朱幡《しゆはん》・〓蓋《そうがい》、黄鉞《こうえつ》・白旄《はくぼう》、青萍《せいひよう》・紫電《しでん》(注一三)。そして二列に、二十四本の鉞斧《えつぷ》(まさかり・おの)、二十四対の鞭〓《べんか》(鉄鞭・投矛《なげほこ》)。中央には一文字に、三本の金箔の傘蓋《さんがい》(さしかけ傘)と三頭の繍鞍をおいた駿馬。そのまんなかの馬の前には、ふたりの英雄が立っている。左手の壮士は、まことに儀容整然として、世にたぐいない姿であったが、これを西江月の詞《うた》でうたえば、
頭巾の側《かたわら》には一根の雉尾《ちび》(の飾り)、束腰《そくよう》(帯)の下には四顆の銅鈴。黄羅の衫子には晃金《こうきん》明らかに、飄帯《ひようたい》(垂れ下げた帯の端)は繍裙(刺繍した裳)に相称《かな》う。小襪《しようべつ》(靴下)を兜《つつ》んで麻鞋《まあい》は嫩白《どんぱく》に、腿絣《たいほう》(脚絆)を圧《おさ》えて護膝《ごしつ》(膝当て)は深青なり。旗には令の字を標《しる》して神行《しんこう》と号し、百里も登時《とうじ》(たちまち)にして取り応《おう》ず。
これがすなわち、梁山泊の、よく快足をとばして走る頭領、神行太保《しんこうたいほう》の戴宗《たいそう》で、「令」の字をしるした鬱金《うこん》色の刺繍の旗を持ち、もっぱら軍中を往来して軍情を急報したり、将兵を移動させたりするいっさいのことをつかさどっていた。その右側の、これと並び立つ壮士は、そのいでたち一段と鮮かに、世にまれに見る姿であったが、これも西江月の詞《うた》でうたえば、
褐衲襖《かつのうおう》(褐色の大袖の上着)に、満身の錦襯《きんしん》(錦の下着。刺青をいう)。青包巾《せいほうきん》(青色の頭を包む布)に、遍体(全身)の金銷《きんしよう》(金箔。刺青をいう)。鬢辺には(一)朶《だ》の翠花を挿して嬌《あでや》かに、〓〓《けいちよく》(注一四)の玉環は光耀《かがや》く。紅串《こうかん》(くれないの帯)繍裙もて肚を裹《つつ》み、白襠《はくとう》(白いさるまた)素練《それん》(白いねりぎぬ)もて腰を囲む。生を落《おと》す弩子《どし》(いしゆみ)頭に捧げて挑《にな》い(高々とかつぎ)、百万の軍中偏《ひとえ》に〓《いき》なり。
これがすなわち、梁山泊の伊達《だ て》男《おとこ》で、たくみに機密をとりさばく頭領の浪子《ろうし》の燕青《えんせい》。強弓《ごうきゆう》を背負い、利剣を挿し、身の丈ほどの棍棒をひっさげて、もっぱら中軍を護衛しているのであった。
さらに中軍に眼をやれば、右側の、金箔をほどこした青い羅《うすぎぬ》の傘蓋《さんがい》の下、繍鞍をおいた馬上には、かの有徳の高士で、その名も高い羽士《うし》(道士)がうちまたがっていたが、そのいでたちいかにといえば、西江月の詞《うた》に、
如意の冠には、玉翠筆《すいひつ》を簪《さ》し(注一五)絳〓《こうしよう》(まっ赤な絹)の衣には、鶴金霞《きんか》に舞う。火神の朱履《しゆり》(たまのくつ)は桃花に映じ、環珮《かんぱい》(たまのおびひも)は〓〓《ていとう》として(鳴りひびいて)斜《ななめ》に掛《かか》る。背上の雌雄の宝剣は、匣中《こうちゆう》微かに光華を噴《ふ》き、青羅の傘蓋は高牙《こうが》(高くかかげた大将旗)を擁し、紫〓《しりゆう》(栗毛)の馬には雕鞍穏《おだ》やかに跨《またが》る。
これがすなわち、梁山泊の、風をおこし雨を呼び、鬼神を使う法術の真師、入雲竜《にゆううんりゆう》の公孫勝《こうそんしよう》で、馬上には二振りの宝剣を背負い、手には紫の手綱を取っている。その左側の金箔をほどこした青い羅の傘蓋の下、繍鞍をおいた馬上には、かの智謀ゆたかなる全勝の軍師、呉用《ごよう》がうちまたがっていたが、そのいでたちいかにといえば、これも西江月の詞に、
白の道服《どうふく》に〓羅《そうら》の沿《えんせん》(縁《ふち》どり)、紫の糸〓《しとう》(絹紐)に碧玉の鉤環《こうかん》(留めわ)。手中の羽扇は天関を動かし、頭上の綸巾《りんきん》(注一六)は微かに岸《そばだ》つ。貼裏《ちようり》(内側)に暗《ひそ》かに銀の甲を穿ち、垓心《がいしん》(陣中)穏やかに雕鞍に坐す。一双の銅錬《どうれん》(銅の鏈《くさり》)腰間に掛《かか》り、文武双《なら》んで全き師範。
これがすなわち、梁山泊の、よく兵法に通じ、たくみにいくさの機をつかんであやまることなき軍師、智多星《ちたせい》の呉学究《ごがくきゆう》で、馬上に羽扇を持ち、二本の銅錬を腰にさげている。そのまんなかの、金箔をほどこした紅《くれない》の羅の傘蓋の下、金鞍をおいた例の照夜《しようや》の玉獅子《ぎよくしし》の馬上には、かの、仁あり義ある統軍大元帥がうちまたがっていたが、そのいでたちいかにと見れば、
鳳翅の〓《かぶと》は高く金宝を攅《あつ》め、渾金《こんきん》の甲《よろい》は密《こま》かに竜鱗を砌《たた》む。錦の正枹には花朶《かだ》陽春に簇《むら》がり、〓〓《こんご》の剣(注一七)は腰に懸《かか》って光噴《ふ》く。繍《ぬいとり》の腿絣《たいほう》には絨《じゆう》(毛糸)翡翠を圏《ふち》どり、玉玲瓏の帯は麒麟を束ぬ。真珠の傘蓋は紅雲を展《の》べ、第一の天〓《てんこう》(天〓星)、陣に臨む。
これぞまさしく梁山泊の主《あるじ》、済州は〓城県《うんじようけん》の人、山東の及時雨《きゆうじう》、呼保義《こほうぎ》の宋公明《そうこうめい》である。すきなく身をよろい、〓〓《こんご》の宝剣を手に、金鞍の白馬にまたがり、陣中に立ってたたかいを統べつつ中軍を掌握していた。そのうしろには大戟《げき》・長戈《か》(戟はえだぼこ・戈はかぎぼこ)、錦鞍の駿馬が整然と並び、四五十名の牙将《がしよう》(部将)が、いずれも馬に乗り、長鎗《ちようそう》を持ち、弓矢をそなえていた。さらにそのうしろには、二十四個の画角《がかく》(注一八)と軍鼓の全体が配置されていた。その陣のうしろには、さらに二組の遊撃隊が置かれ、左右に伏兵をしいて中軍を守る羽翼となっていた。左が没遮〓《ぼつしやらん》の穆弘《ぼくこう》で、弟の小遮〓の穆春《ぼくしゆん》を従えて歩騎の兵一千五百をひきい、右は赤髪鬼《せきはつき》の劉唐《りゆうとう》、九尾亀《きゆうびき》の陶宗旺《とうそうおう》を従えて同じく歩騎の一千五百をひきい、それぞれ左右に伏兵をしいているのであった。
後陣は隠兵《いんぺい》(女兵)の一隊で、騎馬の三人の女頭領をおしたてていた。まんなかが一丈青《いちじようせい》の扈三娘《こさんじよう》、左が母大虫《ぼたいちゆう》の顧大嫂《こだいそう》、右が母夜叉《ぼやしや》の孫二娘《そんじじよう》である。その陣のうしろにひかえているのは、その三人の夫で、まんなかが矮脚虎《わいきやくこ》の王英《おうえい》、左が小尉遅《しよううつち》の孫新《そんしん》、右が菜園子《さいえんし》の張青《ちようせい》で、歩騎の兵三千をひき従えていた。
この陣容たるやまことにすばらしいもので、そのありさまは、
明らかに八卦に分《わか》ち、暗《ひそ》かに九宮に合し、天地の機関を占め、風雲の気象を奪う。前後に亀蛇の状を列《つら》ね、左右に竜虎の形を分つ。丙丁《へいてい》(南)前進して、万条の烈火の山を焼くが如く、壬癸《じんき》(北)後随して、一片の烏雲の地をく覆《くつがえ》すに似たり。左の勢下(方)は青気を盤旋し、右の手裏(方)は白光を貫串《かんかん》す。金霞は遍《あまね》く中央に満ち、黄道は全《すべ》て戊己《ぼうき》(中央)に依る。四維《しい》(四方)には二十八宿の分《ぶん》有り、週廻《しゆうかい》には六十四卦の変有り。盤々曲々として、乱中に隊伍は長蛇に変じ、整々斉々として、静裏に威儀は伏虎の如し。馬軍は則ち一衝一突、歩卒は是れ或《あるい》は後《おく》れ或は前《すす》む。誇る休《なか》れ八陣(諸葛孔明の陣法)の功を成せるを、謾《みだ》りに説かんや六韜《りくとう》(古の兵法の書)の勝を取れるを。孔明は妙計を施し、李靖《りせい》(唐初の武将で兵法にくわしく、しばしば戦功をたてた)は神機を播《ま》くも。
枢密使の童貫は、陣中の指揮台の上から睛《ひとみ》をこらして眺めるに、梁山泊の軍勢がまたたくまにこのような九宮八卦の陣形をととのえ、将も兵もいずれおとらぬ英雄豪傑であることを知ると、おどろきのあまり魂も宙に飛び、胆をひやしてしきりにつぶやいた。
「討伐にやってきた官軍がいつも大敗して帰ってきたのも、もっともなこと。こんなにもすさまじいものだったのか」
しばし眺めているうちに、とつぜん宋江の軍中から、たたかいをうながす銅鑼や太鼓の音がかまびすしくうち鳴らされた。童貫は指揮台をおりて馬に乗り、ふたたび前軍へ出て行って諸将に声をかけた。
「誰か、我と思わんものは斬りこんで行って名乗るがよい」
すると先鋒隊のなかからひとりの猛将が、馬を飛ばし身を挺して出てきて、馬上で欠身《けんしん》(注一九)の礼をして童貫にいった。
「わたくしが行きます。おゆるしくださいますよう」
見ればそれは、鄭州の都監の陳〓《ちんしよ》であった。白い袍《うわぎ》に銀の甲《よろい》、青い馬に絳《あか》い纓《ふさ》、ひと振りの大桿刀《だいかんとう》(長柄の大刀)をたずさえて、現に副先鋒の職にあった。童貫はただちに軍中の金鼓手に三たび金鼓をうち鳴らさせ、指揮台では紅旗をふって兵を展開させた。陳〓《ちんしよ》が門旗のもとから馬を飛ばして陣を駆け出して行くと、西軍はいっせいに喊声をあげた。陳〓は馬をとめ、刀を横たえて大音声《だいおんじよう》に呼ばわる。
「ろくでなしの盗《ぬす》っ人《と》め、謀叛《むほん》ものの気違いどもめ、天兵がまいったというのに、まだ降伏せぬか。いまに骨も肉もぐちゃぐちゃにつぶしてくれようが、そのときになって悔《くや》んでも追っつきはせんぞ」
すると宋江の真南の陣から、先鋒の頭領たる虎将の秦明が、馬を飛ばして陣を駆け出し、ものもいわず、狼牙棍《ろうがこん》をふりまわしつついきなり陳〓におそいかかってきた。両馬相交わり、両者互いにわざものをふるう。片や棍《こん》をつかうものが脳天めがけて打ちかかれば、片や刀《とう》をつかうものは顔面めがけて斬りかかる。二将は押しつもどしつ、もどしつ押しつ、わたりあうこと二十合あまり、やがて秦明はわざと隙《すき》を見せて陳〓をさそいこみ、一太刀《ひとたち》空《くう》を斬らせた。秦明はすかさずつけいって狼牙棍をふるい、〓《かぶと》の上からまっこうみじんと脳天まで打ちおろせば、陳〓はもんどりうって落馬したまま相果てた。秦明のふたりの副将、単廷珪と魏定国は、馬を飛ばして駆け出して行くなり、陳〓の良馬を奪い取り、秦明を迎えてひきあげてきた。
東南の門旗のもとなる虎将、双鎗将《そうそうしよう》の董平《とうへい》は、秦明が一番槍をあげたのを見て、馬上で思うよう、
「わが大軍はすでに十分ふるいたっている。いま飛び出して行って童貫をひっ捕らえぬことには、その機を失ってしまうことになろう」
と、ひと声、まるで陣前に雷が落ちたかのような雄叫びをあげ、両手に一本ずつ槍を持ち、馬を蹴たてて、まっしぐらに突きすすんで行った。童貫はそれを見ると、馬首をめぐらして中軍へと逃げ出す。すると西南の門旗のもとなる驃騎将、急先鋒《きゆうせんぽう》の索超《さくちよう》も、
「いま童貫をひっ捕らえずんば、いつまたそのおりがあろう」
と叫び、大斧をふりまわしつつ斬りこんで行く。まんなかの秦明は、左右から飛び出してきたのを見るや、これまた、部下の紅旗の騎兵をさし招き、いっせいに敵陣に突入して行って童貫を捕らえようとする。まさにそれは、数隻の〓雕《そうちよう》(黒鷹)紫燕を追い、一群の猛虎羊羔《ようこう》(小羊)を啖《くら》わんとすというところ。はてさて枢密使の童貫の生命やいかに。それは次回で。
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一 動員の触れ 原文は発調兵符験。符験は、しるしあるいは証の意。
二 軍州 軍は行政上の区画で、州はその下に属する。第二回の注一参照。
三 中書省 文書・詔勅等をつかさどる中央官庁であるが、宋ではその権限が大きくなり、枢密院(第七十五回注八参照)と並んで東西二院と称し、それぞれ文と武の最高機関とされた。
四 短亭 城外五里のところに設けられた駅亭。ふつう駅亭は十里間隔にあって、これを長亭という。
五 気袴 靴の名。第十三回の詞《うた》に、気袴靴とある。
六 三昧の火 釈迦入滅のとき、その胸中の三昧の火が発して棺外に迸り出たということが「大乗一覧」に見える。
七 采配 原文は玉麈尾《ぎよくしゆび》。玉柄麈尾、すなわち玉の柄の払子《ほつす》。麈は大鹿。鹿の群れが大鹿の尾の動きを見てこれについて行くということから、仏教や道教の説教者が麈の尾で払子《ほつす》を作り、これを手にして説教をしたという。兵を指揮するとき用いるのも同じ意味からである。
八 編制官 原文は撥法官。軍の編制などを謀る役であろう。
九 六十四の卦 第七十一回注一三参照。
一〇 節 節符、つまり割符《わりふ》である。ここでは処刑官であることを示す割符。
一一 金鎗銀鎗 槍の柄に、金鎗は金の、銀鎗は銀の飾りのついたもので、本来は天子の親衛隊の武器である。「金鎗手」の徐寧はもと天子を警護する金鎗班の教師(師範)であった(第五十六回)。
一二 五明の駿馬 第五十四回の注二参照。ただし、ここでは駿馬の修飾語として用いただけであろう。
一三 碧幢・翠、朱幡・〓蓋、黄鉞・白旄、青淬・紫電 碧幢は、あおい旗。翠は、みどりの幕。朱幡は朱の旗。幢《どう》と幡《はん》は同じではないが、ともに旗竿のさきからつるす細長い旗である。〓蓋・黄鉞・白旄は、第五十八回の注五参照。青体と紫電は、ともに古の宝剣の名。ここは物を示すよりも、むしろ、碧・翠・朱・〓(黒)・黄・白・青・紫と、さまざまな色をあらわしたものである。
一四 〓〓 おしどりに似た美しい水鳥。
一五 玉翠筆を簪し 原文は玉簪翠筆。翠色の筆を簪《さ》したように玉がちりばめられている、という意であろう。むかし近侍の臣は冠の前に筆を挿して、要あるときはそれを取って笏に書きしるしたという。そのことを踏まえた句と思われる。
一六 綸巾 軍師のかぶる黒い頭巾。第五十四回の注三参照。
一七 〓〓の剣 〓〓は『山海経』にある昆吾で、山の名。また〓とも書く。『列子』の湯問篇に、「周の穆王、大いに西戎を征つ。西戎、〓〓銛之剣を献ず」とある。また『呉越春秋』の夫差内伝の注に「〓銀山、金を出す、刀を作れば玉を切るべし」とある。
一八 画角 軍用の楽器で、先太《さきぶと》の細長いラッパの形のもの。
一九 欠身 第二回注一三参照。
第七十七回
梁山泊《りようざんぱく》 十面に埋伏《まいふく》し
宋公明《そうこうめい》 両《ふた》たび童貫《どうかん》に贏《か》つ
さて、その日、宋江の陣中から、前軍の先鋒の三隊(秦明・董平・索超)の軍勢が敵陣に攻め入って大いに威をふるうと、童貫の大軍は斬りまくられて大敗を喫し、ちりぢりになりばらばらになり、ばたばたと傷つき倒れ、兵士たちは金鼓を投げすて太鼓をうちすて、戟《ほこ》をおっぽり槍をうっちゃり、息子をさがし親父を呼び、兄をたずね弟を呼び、一万にあまる兵を失ったあげく、三十里もかなたへ退いてようやく踏みとどまった。
呉用は陣中で、金鼓を鳴らして軍を収めさせ、命令をつたえた。
「あまり深追いしてはならぬ。これでまあいくらか思い知ったことだろう」
かくて梁山泊の軍勢はこぞって山寨へひきあげ、それぞれの功に応じて賞にあずかった。
ところで、たたかいに敗れ、多くの兵を失った童貫は、早々に陣地をかまえて一息《ひといき》いれたが、内心の憂慮ひとかたならず、諸将を集めて策をはかった。すると〓美《ほうび》・畢勝《ひつしよう》の二将が、
「枢密どの、ご心配なさいますな。あの賊どもは官軍がくると聞いて、あらかじめあのような陣形を張っておったのです。わが軍は着いたばかりで様子がわからず、そのため賊の奸計にはまりましたが、どうやらあの盗《ぬす》っ人《と》どもは、山を利用し、多くの軍勢を配置して、虚勢を張っているだけのようです。わが軍は一時地の利を失いましたが、もういちど歩騎の将兵をたてなおし、三日間休んで鋭気をやしない、馬を休ませ、三日後全将兵を編制して長蛇の陣形をしき、全員が歩兵となってくり出して行くのです。この陣はちょうど常山の蛇(注一)のように、頭を打てば尾で応じ、尾を打てば頭で応じ、胴を打てば頭と尾の両方で応じるという具合に、それぞれ緊密な連絡をとるのです。これをもって決戦をいどめば、必ず大勝を博しましょう」
「それはまことに妙計。わが意を得たりだ」
と童貫はいい、さっそく命令をくだして全軍をたてなおし、訓練をほどこした。かくて三日目の五更(朝四時)、飯を炊いて将兵は十分に腹ごしらえをし、馬は皮の甲《よろい》をつけ、人は鉄の鎧《よろい》を着、大刀闊斧《かつぷ》をふりかざし、弓弩《きゆうど》には弦《つる》を張り、まさに、鎗刀《そうとう》は流水のごと急に、人馬は風を撮《さつ》して行くというありさまで、大将の〓美と畢勝《ひつしよう》が先頭に立って軍をひきい、浩々蕩々《こうこうとうとう》として大波のごとく梁山泊へおしよせて行った。八隊の軍勢は左右に開き、前方には三百の鉄甲の斥候をすすめて偵察にあたらせたが、その斥候がもどってきて童貫の中軍に報告していうには、
「先日たたかったところには、ひとりの兵も見あたりません」
童貫はそれを聞いて不審《ふしん》に思い、みずから前軍へ出て行って〓美と畢勝にはかった。
「どうだろう、兵を退《ひ》くことにしては」
すると〓美が、
「弱気を吐かれますな。ただ突進あるのみです。長蛇の陣をしいた以上、なんのおそれることがありましょう」
官軍はかくて蜿蜒《えんえん》とすすみ、まっすぐに湖の岸まで行ったが、ついに一兵の姿もなかった。見れば、ひろびろとうちひろがった水のかなたは、ただ一面の蘆とかすみ(注二)で、はるかむこうには水滸寨の山頂に杏黄《こはく》の旗がひとつひるがえっているのが見えるだけで、人の気配はまるでなかった。
童貫が〓美・畢勝とともに馬を陣頭にとめて、遠く対岸の水面を眺めると、蘆の茂みのなかに一艘の小舟が見えた。舟には,青い〓笠《たけのこがさ》をかぶり、緑色の簑《みの》を着た男が斜めに舟によりかかり、岸の西のほう(こちら)に背をむけて、ひとりで釣糸を垂れていた。童貫の歩兵が岸をへだててその漁師に呼びかけた。
「おい、賊たちを知らんか」
漁師はてんで返事もしない。童貫は弓のうまいものに、射《う》てと命じた。騎馬のふたりが岸の洲《す》のほうへおりて行き、水際に馬をとめて、弓をひきしぼり矢をつがえ、漁師の背中をめがけてひょうと射放った。矢は狙いたがわず〓笠に命中したが、カチンと音をたてて水の中へ落ちた。もうひとりの騎兵も射放ち、矢は狙いたがわず〓笠に命中したが、カチンと音をたててこれも水の中へ落ちた。そのふたりの騎兵は童貫の軍中で第一の弓の名手だった。ふたりはびっくりして馬を返し、もどってきて欠身の礼をし、童貫にいった。
「矢は二本とも命中いたしましたが、ささりません。何か着こんでいるようでございます」
童貫はさらに、硬弓の射てる斥候兵三百人を集め、洲のところへずらりと並べて、いっせいにその漁師をねらって射たせた。だが、乱射を浴びせかけても漁師はびくともしない。矢はほとんどみな水の上に落ちた。舟にとどいたのもあったが、簑笠《みのかさ》の男にあたった矢は、みな水の中へ落ちてしまった。童貫は射ち殺せないのを見ると、さっそく、泳ぎの達者な兵士に衣甲をぬがせ、泳いで行ってあの漁師を捕らえろと命じた。すぐ四五十人のものが泳いで行ったが、漁師は船尾のほうに水音を聞いて人がやってきたことをさとると、あわてずさわがず、釣りをやめ、棹を取って身構えるなり、舟に近づいてくるものを片っぱしから、あるいは太陽《こめかみ》を、あるいは脳袋《のうてん》を、あるいは面門《がんめん》をなぐりつけて、ことごとく水のなかへ沈めてしまった。うしろのほうのものは、何人もが沈められたのを見て、みんな岸へ泳ぎもどって衣甲をさがした。童貫はこのありさまを見て大いに怒り、五百人の兵士を水のなかへ入れて、あくまでもかの漁師を捕らえようとした。もし逃げもどってくるものがあれば一刀両断に斬ってしまおうというのである。五百人の兵士が衣甲をぬぎ、わっと喊声をあげ、いっせいに水中に飛びこんで泳いで行くと、漁師は舳《へさき》をくるりとまわし、岸の上の童貫に指をつきつけて大いにののしった。
「国を乱す賊臣め、民を害するけだものめ。ここまで出てきたのが百年目だ、いのちはないものと思い知れ」
童貫はいよいよ怒り、騎兵に弓を射てとどなりつけた。漁師は声をたてて笑いながら、
「それ、あそこへ軍勢がやってくるぞ」
と指をさし、簑笠をぬぎ捨てるなり身をひるがえして水のなかへもぐりこんでしまった。五百人の兵士たちは舟の近くまで行ったとたん、水中で悲鳴をあげながらみな水底へ沈んで行った。
この漁師こそ誰あろう、浪裏白跳《ろうりはくちよう》の張順《ちようじゆん》なのであった。頭にかぶった〓笠は、外は竹皮でおおってあったが、内側は銅でできており、簑の内側も熟銅(精錬した銅)でできていて、ちょうど亀の甲《こう》を着ているような具合だった。それゆえ矢が立たなかったのである。張順は水底にもぐりこむと、腰刀をひき抜き、つぎからつぎへと、しゃにむに刺し殺した。みんなそのまま沈んでいって、血に染まった水が湧きあがった。すばしこいものは、逃げのびていのち拾いをした。童貫は岸の上から眺めて、ただ呆然としていた。そのとき、かたわらのひとりの将が指さし示して、
「山の上のあの黄色い旗が、しきりに揺れております」
といった。童貫は眼をこらして眺めたが、どういう意味があるのかわからず、諸将にも解せなかった。〓美が、
「鉄甲の斥候兵三百を二隊にわけて、左右から山のうしろへ行かせて探らせて見たらどうでしょう」
といった。
二隊にわかれた斥候が山の麓まで行ったときである。とつぜん、蘆の茂みのなかから一発の轟天雷《ごうてんらい》砲がうちあげられ、火煙が乱れ散った。二隊の斥候はいっせいに逃げ帰ってきて報告した。
「伏兵があらわれました」
馬上の童貫のおどろきようはひとかたではなかった。〓美と畢勝は二隊に伝令を出して兵士たちをとり静めさせ、数十万の兵みな刀をとれと命じ、前後に馬を飛ばして、
「逃げ出すやつは斬りすてるぞ」
と呼ばわりつつ全軍の人馬を抑《おさ》えさせた。
童貫が諸将とともに馬をとめて眺めていると、山のうしろから、地をふるわせて軍鼓が鳴り、天をどよもして喊声のわきおこるなかを、早くも一隊の軍勢が飛び出してきた。全員が黄旗を持つ、先頭にはそれをひきいるふたりの驍将。整然たるその軍容は、
黄旗 万山の中より擁出し
爍々《しやくしやく》たる金光 碧空《へきくう》を射《い》る
馬は怒濤の石壁を衝《つ》くが似《ごと》く
人は烈火の天風を撼《さわ》がすが如し
鼓声は森羅殿《しんらでん》(閻魔の庁)を震動し
砲力は秦華宮《たいかきゆう》(注三)を掀翻《きんほん》す(くつがえす)
剣隊は挿翅虎《そうしこ》を暗蔵し
鎗林は美髯公《びぜんこう》を飛出《ひしゆつ》す
黄色いたてがみの二頭の馬には、英雄なるふたりの頭領。上手《かみて》には美髯公《びぜんこう》の朱仝《しゆどう》、下手《しもて》は挿翅虎の雷横《らいおう》で、五千の兵をひきつれてまっしぐらに官軍に斬りこんでくる。童貫は大将の〓美と畢勝に、まっさきにこれを迎え討つよう命じた。ふたりは命を受けるや、馬を飛ばし槍を挺して陣を駆け出し、大いにののしっていうよう、
「ろくでなしの盗《ぬす》っ人《と》どもめ、降伏するならいまのうちだぞ」
すると雷横は、馬上で大いに笑い、
「下郎め、いますぐ殺されるというのに、まだそれがわからんのか。よくもおれに決戦をいどんできやがったな」
と、どなりつけた。畢勝は大いに怒り、馬をせかせ槍をかまえてまっしぐらに雷横に突きかかって行く。雷横も槍をしごいてこれを迎える。かくて両馬相交わり両者得物《えもの》をふるい、互いにわたりあうこと二十余合におよんだが、なお勝負は決しない。〓美は、畢勝が久しくたたかいながら勝ちを制し得ないのを見ると、馬をせかせ刀を舞わせつつ加勢に飛び出して行った。それを見た朱仝は、ひと声わっとわめきざま、馬を飛ばし刀をふりまわして〓美にむかって行く。四頭の馬、二組のものは、かくて陣頭にしのぎをけずりあった。童貫はそのさまを見て、ただただ感嘆するばかり。たたかいまさにたけなわとなったとき、とつぜん朱仝と雷横は負けたと見せかけ、馬首を転じて味方の本陣へと逃げ出した。〓美・畢勝の二将が、すかさず馬をせかして追いかけて行くと、敵陣の兵はわっと喚きながら山のむこうへと逃げ出した。童貫は懸命に山の裾まで追撃させたが、すると、とつぜん山頂で画角《がかく》(注四)がいっせいに鳴りひびいた。一同が頭をあげてそのほうを見たとき、前後からいきなり二発の砲がうちあげられた。童貫は伏兵ありとさとって兵をとめ、追うのをやめさせた。と、山頂にかの杏黄《こはく》色の旗がきらめきだした。旗には替天行道の四字が刺繍してある。童貫が山を迂回してそちらへ行って見ると、山上に群がる雑綵《まじりいろ》の繍旗が左右にわかれて、かの〓城県の蓋世《がいせい》の英雄、山東の呼保義の宋江があらわれた。そのうしろには、軍師の呉用と公孫勝、花栄と徐寧、金鎗手と銀鎗手(注五)、およびおおぜいの好漢たち。童貫はそれを見て、かっとなり、ただちに兵を山へのぼらせて宋江を捕らえようとした。全軍が二隊にわかれて山にのぼろうとすると、山頂では鼓楽が天をどよもして鳴り、好漢たちがどっと笑いだした。童貫はますますかっとなり、歯をかみくだかんばかりにして、どなった。
「賊め、よくも人をからかったな。よし、この手でやつらをひっ捕らえてくれよう」
〓美がこれを諫めていった。
「枢密どの、やつらはきっとなにかたくらんでおります。ご自身で危険に臨まれるべきではありません。ここはひとまず軍をひき、あした、もういちど様子をさぐったうえで兵をすすめることにいたしましょう」
「なにをいうか。事ここに到った以上、もはや軍をひくことはできぬ。あくまでも賊に決戦をいどむのだ。すでに賊に対面しながら、あとへひくなどということができるか」
童貫がそういったとき、にわかに後軍のほうにどよめきが聞こえた。物見の兵が、
「真西の山陰から一隊の軍勢が飛び出してきて、後軍に斬りこみ、ふたつに絶ち切ってしまいました」
と知らせた。童貫は大いにおどろき、〓美と畢勝を従えて、急いで後軍にもどろうとした。と、東の山陰から金鼓の音がひびき、またもや、さっと一隊の軍勢が飛び出してきた。その半数は紅の旗、半数は青の旗で、ふたりの大将をおしたて、五千の軍勢をもって殺到してくる。紅旗の軍は紅旗に従い、青旗の軍は青旗に従い、隊伍はまことに整然。そのさまは、
対々たる紅旗は翠袍に間《まじ》わり
戦馬を争い飛ばして山腰を転《めぐ》る
日は旗幟《きし》を〓《や》いて青竜見《あら》われ
風は旌旗《せいき》を擺《はら》って朱雀揺《ゆ》らぐ
二隊の精兵は皆勇猛に
両員の上将は英豪を顕《あら》わす
秦明は手に狼牙棍《ろうがこん》を舞わせ
関勝は斜に偃月刀《えんげつとう》を横たう
紅旗の隊の頭領は霹靂火《へきれきか》の秦明《しんめい》で、青旗の隊の頭領は大刀《だいとう》の関勝《かんしよう》であった。二将は騎馬でおそいかかってくるなり、
「童貫、さっさとその首をさし出せ」
と大喝した。童貫は大いに怒り、ただちに〓美をさしむけて関勝とたたかわせ、畢勝には秦明とたたかわせた。だが童貫は、後軍のどよめきがいよいよ激しくなってきたため、金鼓を鳴らして軍を収め、たたかいを断念して、機を見て退くよう命じた。と、そこへまた朱仝と雷横が黄旗の軍をひきいて攻めてきた。両方からの挟み討ちにあって、童貫の軍は大いに乱れ、〓美と畢勝は童貫を守って懸命に逃げたが、しばらく行くと、横手のほうからまたしても一隊の軍勢が飛び出してきて、行くてをたちふさいだ。その軍勢は、半数は白の旗、半数は黒の旗で、黒白の旗のなかに、同じくふたりの虎将をおしたて、五千の軍勢をもって行くてをさえぎる。その隊伍はまことに整然たるもの。
砲は轟雷《ごうらい》に似て山石も裂け
緑林深き処戈矛《かぼう》を顕《あら》わす
素袍(白いうわぎ)の兵出《い》でて銀河湧《わ》き
玄甲(黒いよろい)の軍来《きた》りて黒気浮《うか》ぶ
両股の鞭飛んで風雨響き
一条の鎗到って鬼神愁《うれ》う
左辺の大将は呼延灼
右手《ゆうしゆ》の英雄は豹子頭
黒旗の隊の頭領は双鞭《そうべん》の呼延灼《こえんしやく》で、白旗の隊の頭領は豹子頭《ひようしとう》の林冲《りんちゆう》であった。二将は馬上で大喝した。
「奸臣《かんしん》童貫、どこへ逃げる。さっさと殺されてしまえ」
と、まっしぐらに軍中へ斬りこんできた。かの雎《すい》州の都監・段鵬挙《だんほうきよ》は呼延灼を相手にたたかい、洳《じよ》州の都監・馬万里《ばばんり》は林冲を迎えて斬りあった。馬万里は林冲とわたりあうこと数合にも至らぬうちに、意気あがらず逃げ腰になるところを、林冲に一喝されてちぢみあがり、矛の一撃を受けて、馬から落ちて相果てた。段鵬挙は馬万里が林冲に刺し殺されたのを見ると、すっかり戦意を失い、呼延灼の双鞭を防ぐや、いきなり馬首を転じて逃げ出した。呼延灼は勇をふるって追って行く。両軍は混戦となり、童貫はひたすら血路を開かせて逃げた。と、前軍にどっと、どよめきの声があがった。山のうしろから歩兵の一隊が飛び出してきて、まっしぐらに軍中に斬りこんできたのである。その先頭は、ひとりの僧とひとりの行者《ぎようじや》で、兵をひき従えつつ大声で叫んだ。
「童貫を逃がすな」
その和尚は、お経も読まず懺悔《ざんげ》もせず、人を殺すことがなによりも好きで、一字名のあだ名が花《か》和尚、名は二字名の魯智深《ちしん》。行者のほうは、かつて景陽岡で虎をなぐり殺した(第二十三回)、水滸寨きっての英雄、その名も高き行者の武松《ぶしよう》。このふたりが陣地に斬りこんでくるありさまは、これを西江月の詞《うた》でいえば、
魯智深は一条の禅杖《ぜんじよう》、武行者は両口の鋼刀《こうとう》。鋼刀は火光を飛出《ひしゆつ》して飄り、禅杖は来《きた》って鉄砲の如し。禅杖は脳袋を打開し、鋼刀は人腰を截断《せつだん》す。両般の軍器相饒《ゆる》さず、百万軍中に耀《かがや》きを顕《あら》わす。
童貫の軍は魯智深・武松のひきいる歩兵に一撃されて、たちまちにして四分五裂。官軍の兵は、すすむにも道なく退くにも退けず、ようやくにして〓美・畢勝ともども重囲を突き破り、血路を斬り開き、山のむこう側に駆け抜けたが、やっとひと息ついたところへ、またしても砲声が激しくとどろき、戦鼓がいっせいに鳴りひびいて、ふたりの猛将を先頭に、一群の歩兵が道にたちふさがった。そのありさまは、
両頭蛇《りようとうだ》は腥風《せいふう》(なまぐさい風)近づき難く、双尾蝎《そうびかつ》は毒気斉《ひと》しく噴《ふ》く。鋼叉《こうさ》一対《つい》世に倫《たぐい》無く、較猟《こうりよう》(注六)の場中に声(名声)震う。左手の解珍は衆に出《い》で、右手の解宝は群を超《こ》ゆ。数千の鉄甲虎狼の軍、長蛇の大陳を攪砕《こうさい》す。
おしかけてきた歩兵の頭領、解珍と解宝は、それぞれ五本股の鋼叉をひねりつつ、これまた歩兵をひきつれて陣中に殺到してきた。童貫の兵はささえきれず、囲みを突き破って逃げたが、五方からの歩騎の軍勢にいっせいに攻めつけられて、官軍はちりぢりばらばらに追いまくられた。〓美と畢勝は懸命に童貫を守りつつ逃げたが、解珍・解宝の兄弟ふたりが鋼叉をかまえてまっしぐらに馬前へ突っこんで行くと、童貫は泡をくって馬をせかしつつ横道へと逃げ、そのうしろからは〓美と畢勝が追って行ってこれを守った。そこへまた唐州の都監・韓天麟と〓州の都監・王義がきて、四人、力をあわせつつ重囲(注七)を斬り抜けたが、ようやくにしてすすみ出してまだ息もつかぬまに、にわかに前方に土煙が舞いあがり、吶喊《とつかん》の声が天をどよもして湧きおこり、鬱葱《うつそう》と茂った森のなかからまたしてもさっと一隊の軍勢が飛び出してきて、先頭のふたりの猛将が行くてに立ちふさがった。そのふたりは誰か。見れば、
一個は宣花《せんか》の(錬《きた》えぬいた)大斧、一個は出白の(磨ぎすました)銀鎗。鎗は毒蟒《どくもう》の如く梢《しよう》(穂先)を露わして長く、斧起《おこ》る処山を開く神将に似る。一個は風流なる俊骨、一個は猛烈なる剛腸。董平《とうへい》の国士たる更に双《なら》び無く、急先鋒索超《さくちよう》誰にか譲らん。
このふたりの猛将は、双鎗将《そうそうしよう》の董平と急先鋒《きゆうせんぽう》の索超で、ふたりともひとこともいわず、馬を飛ばしてどっと童貫におそいかかった。王義は槍をかまえてこれを迎えたが、索超の斧一下、たちまち馬の下に斬りおとされてしまった。これを救おうとして出た韓天麟も、董平の槍に刺されて相果てた。〓美と畢勝は必死に童貫を守りつつ馬を馳せて逃げたが、四方に金鼓の音が乱れ鳴って、どこからどの軍勢がくるのやらまるでわからない。童貫が馬を坂の上にあげて見ると、まわり一面には騎兵の四隊がざるのように輪の形になり(注八)、その両翼には歩兵の二隊が箕のように半円形になって(注九)、梁山泊の軍は整然とやってくる。そのなかを童貫の軍は、風に吹き散らされる雲のように東へ西へと乱れ散っているのであった。眺めているおりしも、坂の下に一群の人馬があらわれた。その旗じるしは、陳州の都監・呉秉彝《ごへいい》に許州の都監・李明。ふたりは、槍折れ戟ちぎれた敗残の軍をひきつれて、琳琅山《りんろうざん》を迂回して逃げて行くところであった。呼びかける声を聞きつけ、坂をのぼろうとして急いで人馬をまとめているところへ、またしても山陰からどっと喊声がおこり、一隊の軍勢が飛び出してきた。二本の旗じるしが風にはためき、騎馬の猛将ふたり、手に手に武器をふるって官軍に飛びかかってくる。このふたりは誰か。臨江仙《りんこうせん》(曲の名)の詞《うた》でうたえば、
〓上《かいじよう》は長纓《ちようえい》を飄《ひるがえ》し、紛々と猩紅を乱れ撒らして、胸中の豪気は長虹を吐く。戦袍は蜀錦を裁《た》ち、鎧甲は金銅を鍍《と》(めっき)す。両口の宝刀は雪練《せつれん》(白いねりぎぬ)の如く、垓心《がいしん》(注一〇)に威風を抖〓《とそう》し(ふるい)、左衝し右突して英雄を顕わす。軍班の青面獣、好漢の九紋竜。
このふたりの猛将こそ、楊志と史進で、両騎はそれぞれ刀を手に、呉秉彝・李明両将の前にたちふさがり、斬りつけてきた。李明は槍をかまえてすすみ出て楊志とたたかい、呉秉彝は方天戟をふるって史進とたたかった。かくて二組のものは坂の下で、おしつもどしつ、くるくるとまわりながら、おのおの日ごろの腕のほどをふるいあった。童貫は坂の上に馬をとめて、ただはらはらとこれを眺めているばかり。四人はわたりあうことおよそ三十余合、そのとき呉秉彝は戟をふるって史進の胸もとめがけて斬りつけた。史進がひらりと身をかわすと、戟は脇腹をかすめて空《くう》を突き、呉秉彝は馬もろともつんのめって行く。史進の刀が一閃したと見るや、一条の血しぶきが肉につらなり、金の〓《かぶと》がぽとりと馬のかたわらに落ちて、呉秉彝は坂の下にその最期をとげた。李明はさきにひとりが討たれたのを見ると、馬首をめぐらして逃げ出そうとしたが、そのとき楊志に一喝されて、魂は宙に飛び胆もこごえて、手に持った槍がさかしまであることにも気づかぬありさま。楊志は刀をふりかぶってまっこうから斬りつけてきた。李明が身をかわすと、刀は馬の尻の下を斬った。馬は後肢《あとあし》を斬り取られて、李明をふりおとした。李明は槍を捨てて逃げ出そうとしたが、楊志はすばやく、さらに一刀を浴びせて斬り伏せ、あわれ李明の軍官たる半生も南柯の一夢(注一一)となった。かくて官将はふたりとも坂の下に相果てたのである。
楊志と史進は敗軍を追って行ったが、まるで瓜を切り瓠《ひさご》を割るようなありさま。童貫は〓美・畢勝とともに坂の上からそれを眺めて、おりて行くこともできず、どうしてよいかもわからない。三人は、
「これは、いったいどうすれば斬りぬけられよう」
と相談しあったが、そのとき〓美のいうには、
「枢密どの、ご安心ください。真南のほうを見ますに、まだ味方の大軍がしっかりと陣をかまえていて旗も倒れてはおりませんから、斬りぬけることができましょう。畢都統どのはこの山上で枢密どのをお守りしていていただきたい。わたしは血路を斬り開き、あそこの軍勢をつれてきて枢密どのを無事にお救いしますから」
「日も暮れかかっているが、首尾よくやってくれ。早く行って早くもどってくるように」
と童貫はいった。
〓美は大桿刀をひっさげ、馬を飛ばして山をくだり、血路を斬り開いて、いっさんに南のほうへと駆けつけた。見ればその軍勢は嵩《すう》州の都監・周信で、兵を円陣にかまえて必死にそこにふみとどまっているのであった。〓美がきたのを見るとすぐさま陣中に迎えいれて、
「枢密どのはどこにおられるのです」
と、たずねた。
「このむこうの坂の上で、あなたの軍勢が救援にくるのをひたすら待っておいでです。ぐずぐずしてはおられません、大急ぎで出かけてください」
周信はそれを聞くと、すぐ命令をくだした。歩騎両軍互いに援護しあって隊伍をくずすことなく、心をひとつにし力をあわせよと。かくて、ふたりの大将が先頭に立ち、全軍喊声《かんせい》をあげつつ坂のほうへと繰り出して行ったが、まだ一矢頃《やごろ》(注一二)も行かぬうちに、横あいから一隊の軍勢があらわれた。〓美が刀を舞わせつつ飛び出して行って見ると、それは雎《すい》州の都監・段鵬挙であった。三人は挨拶をかわし、兵をひとつにして坂の下へと繰り出して行った。畢勝は坂をおりてこれを山上に迎えあげ、童貫に会ってみなで相談した。
「今夜すぐ斬って出るのがよいか、それとも明朝まで待つべきか」
すると〓美のいうには、
「われわれ四人で必死に枢密どのをお守りして、今夜のうちにこの重囲を斬り開いて行こう。そうすれば賊の手から抜け出られよう」
やがて日が暮れた。あたりには絶えまなく喊声がおこり、金鼓の乱れ鳴るのが聞こえた。二更ごろになって星が光り月が照りだすと、〓美を先頭に、軍将たちはみなで童貫をなかに守りたて、全力をあげてどっと山をくだった。と、四方から口々に叫ぶ声が聞こえた。
「童貫を逃がすな」
官軍はひたすら南のほうをめざして斬りすすみ、四更ごろまで乱戦をつづけて、ようやく、重囲を斬りぬけることができた。童貫は馬上で手を額《ひたい》にあてて天地神明に頂礼《ちようらい》(注一三)をさささげ,
「かたじけなや、大難をのがれさせていただきました」
と謝し、あわただしく州の境を越えて済州へと急いだ。ところが、そのよろこびも消えぬうちに、見れば前方の坂のあたり一帯に数知れぬ松明《たいまつ》がかがやき、うしろからも喊声がまたわきおこった。松明の光のなかには、ふたりの好漢が、てんでに朴刀をひねりつつ、白馬にうちまたがって馬上に一条の点鋼鎗を横たえた、ひとりの英雄なる大将を先導しているのが見えた。その人は誰であろうか。臨江仙の詞《うた》でうたえば、
馬歩軍中第一に推す、天〓《てんこう》数内尊上為《そんじようた》り。天の降下せる悪星辰、眼珠は漆《うるし》を点ぜるが如く、面部は銀を鐫《ほ》りたるに似る。丈二の鋼鎗敵手無く、身は快馬に騎《の》って雲に騰《のぼ》る。人材武芸両《ふたつ》ながら群を超《こ》ゆ、梁山の盧俊義、河北の玉麒麟。
その馬上の英雄なる大将こそ、玉麒麟《ぎよくきりん》の盧俊義《ろしゆんぎ》で、馬前に朴刀をとるふたりの好漢は、ひとりは病関索《びようかんさく》の楊雄《ようゆう》、ひとりは命三郎《へんめいさんろう》の石秀《せきしゆう》。松明の火のなかに三千余名をひきい、意気すさまじく行くてにたちふさがった。盧俊羲は馬上で大喝した。
「童貫、馬をおりて縄を受けよ。いまさらもう、どうにもなるまいぞ」
童貫はそれを聞くと、諸将に諮《はか》っていった。
「前には伏兵、うしろには追手いる。これはいったいどうしたらよかろう」
すると〓美がいった。
「わたくし、この一命を投げ捨てて枢密どののおんためにつくしましょう。みなさんがたは、しかと枢密どのをお守りし、血路を開いて済州へのがれ出るように。わたしは踏みとどまって賊をくいとめよう」
〓美は馬をせかせ刀を振りまわしつつ、まっしぐらに盧俊義に迫って行った。両馬相交わり、両者刃を交えること数合ならずして、盧俊義はさっと槍を突きつけて〓美の大刀をおさえつけざま、飛びこんで行って相手の腰を抱きかかえ、その乗馬は足で蹴りはなして、〓美をいけどりにしてしまった。楊雄と石秀はすかさず加勢に出、兵士たちもどっと駆け寄って、手とり足とり〓美を捕らえ去った。畢勝は周信や段鵬挙とともに、必死に童貫を守りながら、行くてをさえぎる敵兵を斬りたてて、たたかいつつ逃げた。うしろからは盧俊義が迫ってくる。童貫の敗軍は、さながら喪家《そうか》の狗《いぬ》(注一四)のごとくうろうろと、網をのがれた魚のようにせかせかと、夜明けがたようやく追手をふりきって済州へとむかった。ところが、そうしてのがれて行くうちに、前方の坂の陰からまたしても一隊の歩兵が飛び出してきた。その一隊はみな鉄の掩心《えいしん》(胸当て)のついた甲《よろい》を着、まっ赤な絹の頭巾をかぶっている。その先頭の四人の歩兵の頭領はさて誰かというに、
黒旋風は双に板斧《はんぷ》を持ち、喪門神は単に竜泉《りゆうせん》に仗《よ》る。項充《こうじゆう》・李袞《りこん》は傍辺に在り、手に団牌を舞わして体《たい》健なり。虎を斬るは須く大穴に投ずべく、竜を誅《う》つは必ず深淵に向《おい》てす。三軍の威勢は青天に振い、悪鬼眼前に活見《かつげん》(出現)す。
李逵《りき》は二梃の板斧をふりまわし、鮑旭《ほうきよく》はひと振りの宝剣を取り、項充と李袞《りこん》はともに蛮牌《ばんぱい》(楯)を舞わして守りながら、さながら一団の火の塊りが地面をころがってくるかのように、官軍を斬りまくってちりぢりに敗走させた。童貫は諸将とともに、たたかっては逃げ、逃げてはたたかいつづけて、いのちからがらのがれた。李逵はまっしぐらに騎兵の軍に斬りこみ、段鵬挙の乗馬をたたき斬って彼を馬からふりおとさせ、すかさず斧をふるって頭をたち割り、さらに返す斧で咽喉を斬った。かくて段鵬挙はあっというまに息たえてしまった。
ところで、敗残の官軍はようやくのことで済州にたどりついたが、まことに、頭〓《かぶと》は斜めに耳を掩《おお》い、護項《しころ》は半ば腮《あご》に兜《とど》まるというありさまで、歩騎の全軍はまったく気力を失い、人馬ともに疲労困憊していた。やがてとある谷川のほとりへ出、人も馬もみな水を飲みに行くと、とつぜん川のむこうに一発の砲声がひびき、矢が蝗《いなご》の群れのように飛んできた。官軍があわてて川岸へあがって行くと、林の陰から一隊の軍勢があらわれた。その頭《かしら》たる馬上の三人の英雄は誰かというに、
一条の玉蟒《ぎよくもう》を舞い動かし、万点の飛星を撒《ま》き開く。東昌の驃騎は是れ張清、没羽箭誰人《たれひと》か敢て近づかん。鎗を飛ばす的《もの》は鎗に虚発《きよはつ》無く、叉を飛ばす的は叉に情を容《い》れず。両員の虎将は勢縦横《じゆうおう》、左右馬前に〓《たす》け定む。
それは没羽箭《ぼつうせん》の張清《ちようせい》が、〓旺《きようおう》・丁得孫《ていとくそん》とともに、三百余騎の騎兵をひきつれてきたのであった。この精悍なる騎兵の一隊は、みな、銅鈴・面具・雉尾《ちび》・紅纓《こうえい》・軽弓・短箭・繍旗・花鎗といういでたちで、三人の将を頭《かしら》としてまっしぐらにおそいかかってきた。崇州の都監・周信は、張清の軍勢の少数なのを見て、すすんでこれを迎え撃ち、畢勝は童貫を守って逃げた。周信が馬を飛ばし槍をかまえて突きすすんで行くと、張清は左手に槍を持ち右手を招宝七郎《しようほうしちろう》(注一五)のようにかまえて、
「やっ!」
と一声。石のつぶては周信の鼻のくぼみに命中し、周信はもんどりうって落馬した。と、〓旺と丁得孫がかたわらから馬を飛ばして加勢に出、二本の叉《さすまた》でその咽喉を突き刺した。かくて、霜に摧《くだ》かれた辺地の草、雨に打たれた上林(御苑)の花のごとく、周信は馬の下に相果てた。童貫は畢勝とふたりで落ちのび、あえて済州へははいらず、敗残の軍をひきつれて夜どおしで東京《とうけい》へとむかい、途中で、逃げのびてきた兵士たちをまとめて陣地をかまえた。
そもそも宋江は仁徳ある人で、かねてから帰順の心をいだいていたので、あくまでも追い討とうとは考えていなかった。そこで諸将があきらめずに童貫を追いかけることをおそれ、急いで戴宗をつかわして命令をくだし、各軍とも兵をまとめ、ともに山寨へ帰って賞を請うようにと頭領たちに通告した。
宋江の軍は、ほうぼうで金鼓を鳴らして兵を収め、ひきあげだした。鞍上の将はみな金の鐙《あぶみ》をたたき、徒歩の兵は声をそろえて凱歌をうたいつつ、続々として残らず梁山泊にはいり、ことごとく宛子城にもどった。宋江・呉用・公孫勝はさきに水滸寨にひきあげて忠義堂に坐し、裴宣に命じて各人の功績を調べさせた。盧俊義が〓美をいけどりにし、山寨へひきたててきて堂前にひざまずかせると、宋江はみずからその縄を解き、堂内に請じいれて上座につかせた。そして親しく杯をささげて非礼を謝し、酒をすすめてその気持をやわらげた。頭領たちはみな堂上に集まり、その日は牛や馬を殺して大いに全軍を賞した。〓美は二日間ひきとめられてから、鞍馬をとりそろえて山から送り帰された。〓美は大いによろこんだ。宋江は罪を謝していうよう、
「将軍、戦場では失礼なことをいたしましたが、どうかおゆるしください。わたしどもはもともと謀叛の心をいだいているわけではなく、朝廷へ帰順して国家のために力をつくしたいと切望しているのですが、かの私欲に目のくらんだよこしまなものらに追いつめられて、このようなことになったわけです。将軍が朝廷にお帰りになりましたさいには、どうかよろしくおとりなしくださいますよう。他日もしまた恩赦のお沙汰がくだるようなことになりましたならば、ご恩は終生忘れません」
〓美はいのちを助けられた恩を謝して帰途につき、山をおりて行った。宋江は手下のものに州の界まで送らせて、〓美を都へ帰って行かせたが、この話はそれまでとする。
宋江は忠義堂にもどると、ふたたび呉用以下頭領一同と相談をはじめた。このたび用いた十面埋伏の計というのは、すべて呉用がたくらんだものであって、童貫をして心の底までもふるえあがらせ、夢にまでおそれるほどにたたきのめし、その大軍の三分の二を失わしめたのであった。呉用がいうには、
「童貫は都へ帰って天子に奏上し、また兵を繰り出してくるにちがいありません。それゆえぜひとも誰かを東京《とうけい》へやって様子をさぐらせ、その報告を得てあらかじめ備えをしておかなければなりません」
「軍師のお説はごもっともです。それではみなさんのうち、誰に行ってもらおうか」
宋江がそういうと、列座のなかから、ひとりのものがそれに応じていった。
「わたしに行かせてください」
一同はその人を見て、口々にいった。
「彼に行ってもらえば、まちがいなく大事をやりとげましょう」
かくてその人が出かけて行ったことから、やがて、重ねて謀略をほどこしふたたび官軍を破るということになるのである。まさにそれは、陣を衝《つ》いて馬は青嶂《せいしよう》の下に亡び、波に戯《たわむ》れて船は緑蒲《りよくほ》の中に陥る、というところ。ところで梁山泊から探りに行ったのは誰であろうか。それは次回で。
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一 常山の蛇 原文は長山之蛇。長と常とは同音。かつて常山に率然《そつぜん》という名の蛇がいて、頭を打てば尾でおそいかかり、尾を打てば頭でおそい、胴を打てば頭と尾の両方でおそいかかったという話が「神異経」に見える。孫子はこの蛇にたとえて兵法を説き、首尾相策応し前後相救援しあう陣形をもって用兵の極意とした。
二 かすみ 原文には煙火とあるが、おそらく煙水の誤りであろう。煙水とは、かすみけぶる水。煙火は人煙(炊煙)をいう。
三 秦華宮 秦山(東嶽)と華山(西嶽)の両廟の意であろうか。
四 画角 前回の注十八参照。
五 金鎗手と銀鎗手 徐寧は十二名の金鎗手を、花栄は同じく銀鎗手をひきいていることが前回に見える。前回の注二参照。
六 較猟 また猟較と書く。狩猟をして獲物の多少を較《くら》べ競《きそ》うこと。
七 重囲 原文は垓心。注一〇参照。
八 ざるのように輪の形になり 原文は栲〓圏。陣形のひとつ。栲〓はざる。第六十一回注九参照。
九 箕のように半円形になって 原文は簸箕掌。陣形のひとつ。簸箕は穀物などをふるう箕《み》。
一〇 垓心 包囲のなかにあることをいう。垓下(漢の高祖が項羽を包囲したところ)にちなんだ語であるという説もある。
一一 南柯の一夢 第六回注四参照。
一二 一矢頃 原文は一箭之地。矢のとどくほどの距離。
一三 頂礼 仏に対する最敬の礼で、身を伏せ額を仏の足につけて拝むこと。
一四 喪家の狗 第六十三回注六参照。
一五 招宝七郎 第七十回注二参照。
第七十八回
十節度《じゆうせつど》 梁山泊《りようざんぱく》を取るを議し
宋公明《そうこうめい》 一《ひと》たび高太尉《こうたいい》を敗《やぶ》る
さて梁山泊の好漢たちが再度童貫を打ち破ってのち、宋江・呉用らは協議のすえぜひとも誰かを東京《とうけい》へやって様子をさぐらせ、その報告を得てあらかじめ合戦の準備をしようということになったところ、その言葉のまだおわるかおわらぬうちにすかさず神行太保《しんこうたいほう》の戴宗《たいそう》が、
「わたしに行かせてください」
といったのであった。そこで宋江が、
「軍情の探索にはいつもあなたをわずらわしてばかりいます。ところであなたに行ってもらうにしても、誰かひとり手助けするものをつれて行かれたほうがよいでしょう」
というと、すぐ李逵《りき》が、
「おいらが兄貴のお供をしてひと走り行くとしよう」
宋江は笑いながら、
「いつもなにか面倒をひきおこす黒旋風のおまえさんがかね」
「こんどはなにもしでかさなけりゃいいでしょう」
宋江は一喝してさがらせ、あらためてたずねた。
「どなたか行ってくださらんか」
すると赤髪鬼《せきはつき》の劉唐《りゆうとう》が申し出た。
「わたしが戴宗兄貴のお供をして行ってはいかがでしょうか」
宋江は大いによろこんで、
「よろしいとも」
といった。その日さっそく、ふたりは旅支度をととのえて山をおりて行った。
さて戴宗と劉唐が東京へ消息をさぐりに行ったことはひとまずおいて、一方、童貫と畢勝は、路すがら敗残の兵四万人あまりを集めて東京の近くまで行くと、各軍の指揮者にはそれぞれ配下の兵をひきいて軍営へ帰らせ、御営《ぎよえい》の軍だけをつれて城内へはいった。童貫は戎衣をぬぐとさっそく、高太尉の屋敷へ相談に行った。ふたりは会って挨拶をかわしたのち、奥深い後堂にはいって席についた。童貫は、二度にわたって大敗を喫し、八路の軍官および多数の人馬を失ったうえに〓美までもいけどりにされてしまったが、この始末はいったいどうすればよかろうかと、すべてをくわしく話した。すると高太尉は、
「枢密使どの、ご心配にはおよびません。こんどのことは陛下のおん前をごまかしておきさえすればすむことです。よけいなことを奏上するものは誰もいませんから。ごいっしょに太師さまのところへ報告に行って、そのうえで手はずをきめることにしましょう」
童貫と高〓は馬に乗って、ただちに蔡大師の屋敷へとむかった。蔡京は童枢密が帰還したという知らせはすでに受けていて、たぶん不首尾だったのだろうと思っていた。そこへまた童貫が高〓といっしょに訪ねてきたと聞いて、ふたりを書院へ通させて会った。童貫は太師に一礼して、涙を雨のように流した。蔡京は、
「まあ、そうくよくよなさらぬよう。あなたの敗戦のことは、わたしはよく承知しております」
といった。高〓が、
「賊は湖のほとりにたてこもっておりますので、船でなければ攻めることができません。それを枢密使どのは歩騎の軍だけで討伐にむかわれたのです。それゆえ不利をまねき、賊の奸計にかかられたのでございます」
と口添えした。童貫は敗戦のもようをくわしく話した。すると蔡京は、
「あなたは多数の人馬を失い、莫大な金銭糧食を空費し、さらに八路の軍官をも討ちとられてしまった。そのようなことを、どうして陛下にお知らせできようか」
童貫は再拝して、
「どうか太師さま、よろしくおとりつくろいくださいまして、このいのちをお助けねがいます」
「それでは、あすはただこう奏上しましょう、炎暑きびしく、兵士たちが風土に慣れませぬゆえ、ひとまずいくさをやめてひき返してまいりましたとな。だがもし陛下がお怒りになって、このような心腹の大患を絶滅せずにおけば後日必ず大きな殃《わざわい》となるぞ、と仰せられたならば、そのときにはあなたがたはなんとお答えなさる」
「わたくし、口はばったいことを申すようでございますが、もし太師さまがこのわたくしをご推挙くださいまして、兵をひきいてかの地へ討伐に行くことをゆるしてくださいますならば、ひと討ちに平らげてごらんにいれます」
と高〓はいった。
「あなたが行ってくださるのなら、それはなによりのこと、あすさっそく陛下におすすめしてあなたを総帥にとりたてましょう」
高〓はさらにいった。
「つきましては、ぜひとも陛下のおゆるしを得たいことがございます、それは思いのままに兵をうごかし、また自由に船を作らせていただきたいことです。つまり既成の官船や民船を徴発したり、官価で木材を買いあげて戦船を作ったりして、水陸の両路から相並んで船と馬をすすめて行きますならば、日ならずして功をおさめることができると思います」
「それはたやすいことです」
と蔡京はいった。話をしているところへ、門番のものが、
「〓美さまが帰って見えました」
と知らせにきた。童貫は大いによろこんだ。太師は〓美を通させて、事情をたずねた。〓美は一礼して、
「宋江は、いけどりにして山へつれて行ったものをことごとく釈放し、殺さないばかりか旅銀をわたして郷里へ帰しました。それゆえわたくしもこうしてお目にかかることができました次第でございます」
と申し述べた。すると高〓がいうには、
「それは賊の奸計で、わざと軍の志気をにぶらせようとしているのです。今後はこのあたりのものはとらずに、遠く山東・河北の地から有用なものをえらび出して、つれて行くことにいたしましょう」
「では、話はそういうことにきめて、あすまた宮中で会い、陛下に直奏《じきそう》することにしましょう」
と蔡京はいった。かくて一同はそれぞれの屋敷へ帰って行った。
翌日の五更三点(朝五時)、百官は控えの間に集まった。朝見《ちようけん》の合図の太鼓が鳴ると、それぞれ位階の順に殿前に並び、ご機嫌を奉伺してのち、文武両班にわかれて玉階の下に整列した。と、そのとき蔡太師が列からすすみ出て奏上した。
「さきに枢密使の童貫が大軍をもって梁山泊の賊の討伐につかわされましたが、このほど、炎熱のために兵は風土になじみ得ず、しかも賊は湖のほとりにたてこもっておりまして船がないことには手がつけられませず、歩騎の軍で早急に攻めることはできませんので、ひとまず戦いをとりやめ、おのおの軍営にひきあげて休息をとりながら改めて聖旨をお待ちしております」
すると天子は、
「この炎熱では、ふたたび行かぬほうがよかろう」
との仰せ。蔡京はさらに奏上した。
「童貫には泰乙宮《たいいつきゆう》でお沙汰を待たせることにいたしまして、あらためてほかのものを総帥に任じ、ふたたび討伐に行かせてはと存じますが、いかがでございましょう」
「かの賊どもは心腹の大患、もとより除《のぞ》かねばならないが、誰がわたしのためにその憂いをわかちあってくれるか」
すると高〓が列からすすみ出て、
「わたくし、ふつつかながら犬馬の労をつくし、かの盗賊どもを討ち平らげたいと存じます。どうかおゆるしのお言葉をたまわりますよう」
「そのほうがわたしのために憂いをわかちあってくれるとならば、兵はそのほうの意のままにえらぶがよいぞ」
「梁山泊は周囲が八百里あまりもございまして、船をもってしなければ攻めることはできません。つきましては、陛下のおゆるしをいただきまして、梁山泊の近くで木材を伐採し、船大工を督励して船を作り、あるいはまたお上の費用で民船を買い取ったりいたしまして、いくさの用にあてたいと存じます」
「すべてそのほうにまかせる。そのほうの意のままに、やるべきことはやるがよい。だが民を害するようなことのないように気をつけてくれ」
「もとよりさようなことはいたしません。ただ、いささか日限にゆとりをたまわりまして、功をおさめさせていただきとうございます」
天子は錦の袍《うわぎ》金の甲《よろい》をとりよせて高〓に下賜され、あらためて吉日をえらんで出陣するよう仰せられた。
かくてその日、百官は宮中を退出した。童貫と高〓は太師をその屋敷へ送って行き、さっそく中書省(注一)の公文書の係り(注二)を呼んで聖旨をつたえ、軍の編制をきめた。高太尉がいうには、
「さきに十人の節度使《せつどし》(注三)が、大いに国家のために功績をたてたことがあります。かれらは、あるいは鬼方《きほう》(いまの貴州省)を征し、あるいは西夏《せいか》(内蒙古から甘粛省の西北部を領していた国)を討ち、また金《きん》(東北地方を領していた女真《ジユルチン》族)や遼《りよう》(契丹。熱河省におこり、のち、東北一帯、内蒙古、河北・山西省の北境を領した)などを討って、すこぶる武芸に精通しております。文書(注四)をおくだしになって、かれらを将としてお召しくださいますよう」
蔡太師は承知して、さっそく十通の命令書(注五)をくだし、それぞれ配下の精鋭一万をひきいて済州に集結し、指揮を待つようにと命じた。この十人の節度使は、いずれもみなただものではなく、各人それぞれ一万の兵をひきい、期日におくれじといっせいに軍をすすめた。その十路の軍勢は、
河南河北《かなんかほく》節度使 王煥《おうかん》
上党太原《じようとうたいげん》節度使 徐京《じよけい》
京北弘農《けいほくこうのう》節度使 王文徳《おうぶんとく》
穎州汝南《えいしゆうじよなん》節度使 梅展《ばいてん》
中山安平《ちゆざんあんぺい》節度使 張開《ちようかい》
江夏零陵《こうかれいりよう》節度使 楊温《ようおん》
雲中鴈門《うんちゆうがんもん》節度使 韓存保《かんぞんほう》
隴西漢陽《ろうせいかんよう》節度使 李従吉《りじゆうきつ》
瑯〓彭城《ろうやほうじよう》節度使 項元鎮《こうげんちん》
清河天水《せいかてんすい》節度使 荊忠《けいちゆう》
この十路の軍勢は、みなよく訓練された精兵であり、さらにまた十人の節度使は、もとはみな盗賊で、のち招安を受けてそのままこのような高い官職にのぼったもの。いずれおとらぬ精悍勇猛な人物であって、なにかのはずみにちょっとした手柄をたてたというようなものとはわけがちがった。その日、中書省では日限を定め、十通の公文書を出し、期日にたがうことなくそろって済州に到着するよう、おくれたものは軍令によって処罰をすると申しつけたのであった。
また、金陵の建康府には水軍の一隊がいて、その頭たる統制官は劉夢竜《りゆうむりゆう》というものであったが、この男が生まれるとき、その母親は夢に一匹の黒い竜が飛んできて腹のなかへはいるのを見、その感応によって彼を生んだとのことで、長ずるにおよんでよく水の性をわきまえ、かつて西川《せいせん》の峡江《きようこう》で賊を討った功によって軍官にとりたてられて都統制の位にのぼり、一万五千の水軍と五百隻の戦船(注六)をひきいて江南の地を守っていた。高太尉はこの水軍と船を使うことにし、急いで指揮下にはいるよう呼びよせた。
さらに、腹心の部下で牛邦喜《ぎゆうほうき》というものを歩兵の校尉(将校)にとりたて、この男をつかわして長江の沿岸一帯およびあらゆる運河から船を徴発し、ことごとく済州に集結させて軍用にひきわたすよう命じた。
高太尉の配下には多くの牙将《がしよう》(下士)がいたが、そのなかで最も腕のたつものがふたりいて、ひとりは党世英《とうせいえい》といい、ひとりは党世雄《とうせいゆう》といった。ふたりは兄弟で、いまや統制官に任ぜられ、ともに万夫不当の勇を持っていた。
高太尉はまた御営《ぎよえい》軍のなかからも一万五千の精鋭をえらび出した。
かくて各地の軍勢はあわせて十三万。まず各方面に役人をつかわし、糧秣を送って途中で交付した。
高太尉は連日、衣甲をととのえたり旌旗を作ったりして、まだ出陣とまではいかなかった。これをうたった詩がある。
事を軽んじ功を貪って兵を領するを願い
兵権《へいけん》手に到れば便《すなわ》ち行を留む
幸《さいわい》に主帥の遅々たる去(出発)に因り
多く得たり三軍は数日の生を
ところで、戴宗と劉唐は、幾日か東京にとどまって、くわしく消息をさぐると、急いで山寨へ帰ってそのことを報告した。宋江は、高太尉がみずから兵をひきい、天下の軍勢十三万をつどえ、十人の節度使が指揮してくると聞いていささかおどろき、さっそく呉用に相談をした。すると呉用のいうには、
「ご心配にはおよびません。わたしもかねてからかの十人の節度使の名を聞いておりますが、いろいろと朝廷のために手柄をたてたというものの、あのころには相手になるほどのものがいなかったために豪傑の名をあらわしただけのことです。いまはここに、ずらりと狼のごとく虎のごとく、手強《てごわ》いわが兄弟たちがひかえていて、かの十節度使などはすでに時代おくれのしろものです。すこしもおそれるにたりません。やつらの十路の軍勢がやってきましたら、さっそくあっとおどろかせてやりましょう」
「どんな方法でおどろかせるのです」
「敵の十路の軍勢は済州に勢ぞろいすることになっておりますが、こちらからさきに、すばしこいものをふたりさしむけ、済州の近くで敵を待ち受けさせて、まずひといくささせて高〓に手のほどを思い知らせてやるのです」
「それには誰を出したらよいでしょう」
「没羽箭の張清と双鎗将の董平《とうへい》を出しましょう。このふたりならやれます」
宋江は二将にそれぞれ騎兵一千を従えさせ、済州へすすんで敵情を偵察し、待ち伏せをして敵の各路の軍勢をたたき斬るように命じた。さらに水軍の頭領たちには湖のなかで敵船を奪うよう準備をさせ、山寨の頭領たちもあらかじめそれぞれの配置がきめられたが、くわしいことは述べるまでもなく、やがてそれは明らかになる。
さて一方、高太尉は、京師で二十日あまりもぐずぐずしているうちに、天子から出陣をうながす詔勅がくだった。そこで高〓は、まず御堂の騎兵を出城させておいて、教坊司(宮中の歌舞音曲をつかさどる所)から歌い手と舞姫三十人あまりをえらび、気散じに従軍させることにした。
いよいよその日になると旗祭りをし、天子に別れを告げて出発をしたが、ちょうど一カ月もついやして、はや初秋の候、大小の役人たちはみな長亭《ちようてい》まで(注七)見送った。高太尉は軍装に身をかため、金の鞍をおいた馬に乗り、前には玉の轡《くつわ》に彫りの鞍の替え馬五頭を並べ、左右には党世英・党世雄の二兄弟を配し、うしろには殿帥《でんすい》・統制官・統軍提轄《とうぐんていかつ》・兵馬防備・団練《だんれん》など数多《あまた》の諸官を従えて、その隊伍はまことに整然たるありさま。詩にいう。
奸を匿《かく》し上を罔《なみ》す忠蓋《ちゆうじん》(志誠)に非ず
戦を好んで全く違《たが》う旧典章(古い軌範)に
懐柔して強暴を服するを事とせず
只良善を駆って刀鎗に敵《むか》わしむ
高太尉は大軍をひきつれて出城し、長亭の前まで行って馬をおり、見送りの役人たちと別れの挨拶をかわし、はなむけの酒を飲んだ。それがすむといよいよ出発。済州さしてすすんで行ったが、その途中では軍規をたださず、兵士たちは村々で手あたり次第に掠奪をしたため、住民の被害はまことに甚大なものがあった。
一方、十路の軍勢も陸続としてみな済州にすすんだ。そのうちの節度使・王文徳は、京北地方の軍勢をひきいて済州へと急ぎ、州まであと四十里あまりのところまできたが、その日、兵をすすめて行くうちに、さるところにさしかかった。土地の名は鳳尾坡《ほうびは》といい、その坡(坂)の下には大きな森があった。前軍がその森を通りぬけようとしたときである、とつぜん銅鑼の音がひと声ひびき、森のむこうの坂下から一隊の軍が飛び出してきて、ひとりの将がその先頭に立って路をさえぎった。その将は、〓《かぶと》をかぶり甲《よろい》をつけ、弓矢を身につけ、その弓袋と矢壺には小さな二本の黄旗を挿していて、旗にはそれぞれ五つの金文字で、
英雄双鎗将
風流万戸侯
としるし、両手には二本の鋼鎗をにぎっていた。この将こそ、梁山泊第一の先陣破りを得意とする勇将、董平で、そのため人々から董一撞《とういつとう》(一撃の董)と呼ばれていた。董平は馬をとめて、路にたちふさがって大声でどなった。
「そこへくるのは、どこのどいつだ。さっさと馬をおりて縄を受けよ。じたばたしてもはじまらんぞ」
王文徳も馬をとめ、大声で笑いとばしていうよう、
「瓶《かめ》や壺にもふたつの耳はあるもの。きさまだって聞いておろう、われら十節度使がしばしば大功をたて、その名を天下にとどろかしていることを。大将・王文徳さまの名を」
董平は大いに笑い、
「なんだ、きさまがひとでなしの大ばかものか」
と、どなった。王文徳はそれを聞くや、かっとなって、
「国に弓ひく盗《ぬす》っ人《と》め、よくもこのおれを辱しめおったな」
と、ののしり、馬をせかし槍をかまえてまっしぐらに董平に突きかかって行けば、董平も二本の槍をかまえてこれを迎え、両将しのぎをけずること三十合におよんだが、勝敗は決しなかった。王文徳は董平に勝てないと見てとると、
「ひと息いれて、またやりなおそう」
と大声で叫び、かくてそれぞれ自陣にひきあげた。王文徳は配下の軍に、決戦をせずに突ききって行くよう指示し、みずから先頭に立ち、全軍そのあとにつづいて大喊声をあげながら突進して行った。董平はそのうしろから軍をひきいて追いかける。王文徳の軍が森を抜け出して走って行くと、前方にまたもや一隊の軍勢が飛び出してきた。その頭《かしら》たる上将は、ほかならぬ没羽箭の張清で、馬上から、
「逃げるな」
と大喝一声、石のつぶてを握った手をふりあげざま王文徳の頭をめがけて投げつけた。急いで身をかわそうとしたが、つぶては〓《かぶと》の頂《いただき》に命中、王文徳は鞍に身を伏せ、馬を飛ばして逃げた。両将(張清と董平)はこれを追い、見る見る追い詰めて行ったが、そのときとつぜん横のほうから一隊の軍勢が飛び出してきた。王文徳が見れば、それは同じく節度使の楊温の軍勢で、いっせいに救援にやってきたのであった。董平と張清はそこで、追うのをやめてひき返した。
二路(王文徳と楊温)の軍勢はいっしょに済州にはいって休んだ。太守の張叔夜は各路の軍勢の接待をつとめた。それから数日たつと、先鋒の軍から、高太尉の大軍の到着したことを知らせてきた。十人の節度使は城外にこれを出迎え、一同太尉に挨拶をしてから、みなで太尉を守って城内にはいり、州役所を臨時に元帥府として休んだ。高太尉は命令をくだして、十路の軍勢はみな城外に駐屯し、劉夢竜の水軍の到着を待っていっせいに進発するよう指示した。かくて十路の軍勢はそれぞれ陣地をかまえたが、近くの山から木を伐り出したり、人家から戸や窓をはずしてきたりして小屋がけをし、大いに住民に危害を加えた。高太尉は城内の元帥府で討伐軍の編制をきめたが、賄賂をつかわなかったものはみな尖兵にしてまっさきにたたかわせ、賄賂を出したものは中軍にとどめて、戦功がなくてもあるように上申することにした。このような悪辣なことはいつものことであった。高太尉が済州に二三日とどまっているうちに、劉夢竜の戦船が到着し、元帥府へ目通りにきた。挨拶がおわると、高〓はただちに十節度使を庁前に呼び集め、一同に良策をはかった。王煥らがそれに答えていうには、
「まず歩騎の軍を偵察にお出しになって、賊を合戦にさそい出しておいてから、水路から戦船を繰り出して賊の本拠を突き、やつらを二分して連絡のとれないようにしますならば、賊どもをとりおさえることができましょう」
高太尉はその進言に従い、さっそく、王煥と徐京を先鋒に、王文徳と梅展を殿軍に、張開と楊温を左軍に、韓存保と李従吉を右軍に、項元鎮と荊忠を前後の救援隊とし、党世雄には三千の精兵をひきい、船に乗って劉夢竜の水軍の各船に協力するとともにその督戦にあたるよう命じた。諸軍はみな命を受けると、三日かかって装備をととのえ、高太尉にそれぞれ軍の検閲を請うた。高太尉はみずから城外に出ていちいち検閲をしたのち、さっそく、大小の全軍および水軍に進発を命じ、一路梁山泊へとむかわせた。
さて一方、董平と張清は、山寨に帰ってくわしく報告をした。宋江は頭領たちとともに大軍をひきつれて山をおりたが、いくばくも行かぬうちに、早くも官軍のやってくるのが見えた。前軍は矢を浴びせかけてその出足をおさえ、双方、軍をまとめて相対峙《たいじ》した。と、先鋒の王煥が陣頭にあらわれ、長鎗《ちようそう》をかまえつつ馬上から大声でどなった。
「わけわからずの盗《ぬす》っ人《と》ども、いのち知らずのどん百姓め、大将・王煥さまを知らぬか」
すると、対陣の繍旗が左右に開いて宋江がみずから馬を乗り出し、王煥に挨拶をしていった。
「王節度使どの、あなたはお年寄りだ、国家のために力を出されるには荷が重すぎましょう。いざ合戦となって、手ちがいが生じましては、あなたの一代のご清名が台なしになってしまいます。おひきとりなさって、別に年の若いものをいくさに出されるがよろしいでしょう」
王煥はそれを聞くと、かっとなってののしった。
「おのれ、面《つら》に刺青された下司役人め、天兵に楯つくとはもってのほか」
「王節度使どの、あまり大きなことはおっしゃいますな。ここにずらりとひかえている、天に替《かわ》って道をおこなう好漢たちは、あなたにうち負かされたりするようなものではありません」
宋江がそう答えると、王煥は槍を挺して斬りこんできた。宋江の馬のうしろには早くもひとりの将が、鸞鈴《らんれい》のひびきとともに槍をかまえて出てきた。宋江が見れば、それは豹子頭の林冲であった。林冲が王煥におそいかかって行き、両馬相交わると、両軍は喊声をあげて励ました。高太尉はみずから陣頭にすすみ、馬をとめて見わたした。両軍はしきりに喊声をあげ喝采を送り、まさに騎兵は鐙《あぶみ》を踏んばり身をそばだてて見つめ、歩兵は〓《かぶと》をかかげ眼を見開いて眺めるというありさま。ふたりはさまざまな槍の手を縦横に繰りひろげたが、そのさまは、
一個は屏風鎗《へいふうそう》、勢霹靂《へきれき》の如く、一個は水平鎗、勇奔雷《ほんらい》の若《ごと》し。一個は朝天鎗、防ぎ難く躱《かわ》し難く、一個は鑽風鎗《さんぷうそう》、怎《いか》で敵し怎で遮《さえぎ》らん。這個は鎗の九霄《きゆうしよう》(九天)の雲漢《うんかん》(天の河)に戳《つ》き透るを得ざるを恨み、那個は鎗の九曲の黄河を刺し透るを得ざるを恨む。一個の鎗は蟒《うわばみ》の巌洞《がんどう》を離るる如く、一個の鎗は竜の波津《はしん》に躍るに似たり。一個の鎗を使う的《もの》は雄なること虎の羊を呑むに似、一個の鎗を使う的は俊なること〓《たか》の兎《うさぎ》を撲《う》つが如し。
王煥は大いに林冲とたたかい、わたりあうことおよそ七八十合におよんだが、勝敗は決しなかった。両軍からはそれぞれ金鼓が鳴らされ、二将は別れて互いに自陣にひきあげた。と、節度使の荊忠が前軍にすすみいで、馬上で欠身の礼をして高太尉に申し出た。
「わたくし、賊と勝負を決しとうございます。おゆるしくださいますよう」
高太尉はただちに荊忠を陣頭へ討って出させた。すると宋江の馬のうしろから鸞鈴が鳴りひびき、呼延灼が出て行ってこれを迎え討った。荊忠は大桿刀を手に、瓜黄《きいろ》の馬に乗り、二将はかくて鋒を交えた。たたかうことおよそ二十合、呼延灼はわざと隙《すき》を見せて大刀を打ちおろさせ、それを防ぎとめるや、いきなり鋼鞭をふりあげて一撃を加えれば、手ごたえもしたたかに荊忠の頭を打ちすえ、荊忠は脳漿をほとばしらせ眼球を飛び出させて、馬の下に相果てた。高〓は節度使ひとりが討ちとられたのを見ると、急いで項元鎮をさしむけた。項元鎮は馬を飛ばし槍をかまえて陣頭におどり出し、
「盗《ぬす》っ人《と》め、おれにかかれるものならかかってこい」
と大喝した。すると宋江の馬のうしろから双鎗将の董平が陣頭に飛び出して行って、項元鎮とたたかった。両者わたりあうこといまだ十合におよばずして、項元鎮はいきなり馬首を転じ、槍をひきずって逃げ出した。董平が馬をせかして追って行くと、項元鎮は陣内へはのがれず、陣地の外側をめぐって逃げ走った。董平が馬を飛ばしてなおも追って行くと、項元鎮は槍を了事環《やりかけ》にしまい、左手に弓をとり右手に矢をつがえて満々とひきしぼり、身をひるがえしてうしろむきに射放った。董平は弦《つる》音を聞き、手をあげてこれをはらいのけようとしたが、矢は右臂《ひじ》に命中したため、槍を捨て馬首を転じて逃げ出した。項元鎮は弓を置いて矢を手に取りながら、逆に追いかけてきた。呼延灼と林冲はそれを見ると、それぞれ飛び出して行き、董平を助けて陣地へつれ帰った。高太尉は大軍に混戦を命じた。宋江はまず董平を救って山寨へ帰したが、後尾の軍は敵を防ぎきれず、全員ちりぢりになって敗走した。高太尉はまっしぐらに水辺まで追わせるとともに、別に兵をつかわして水路の船を応援させた。
ところで一方、水軍をひき従えた劉夢竜と党世雄は、船に乗って蜿蜒と梁山泊の奥深くまですすんで行ったが、見渡すかぎり茫々蕩々として、いちめんに蘆葦《あ し》や蒹葭《よ し》が茂り、ぎっしりと入江や川口をおおいふさいでいる。官軍の船は、帆柱や竿の絶えることなく(注八)十余里の水面に相つらなって行ったが、そうしてすすんで行くうちに、とつぜん丘の上から一発の砲声がとどろくとともに、四方八方からいっせいに小舟があらわれてきた。官軍の船の兵士たちは、はじめから半ば怖気《おじけ》づいていたが、その蘆の深い茂みを見るにおよんでみなすっかりうろたえていたので、蘆のなかにかくれていた小舟がいっせいに大船団の前にたちふさがると、いかんともできず、官軍の船は前後相救ういとまもなく、大半の兵士は船を捨てて逃げ出した。梁山泊の好漢たちは官軍の陣形の乱れたのを見ると、いっせいに軍鼓を鳴らして船を漕ぎ寄せ、どっとおそいかかった。劉夢竜と党世雄は急いで船をもどそうとしたが、いま通ってきた浅い入江は、梁山泊の好漢たちによって、小舟に積んだ柴草や山から伐り出してきた木などですっかり塞《ふさ》がれてしまっていて、櫓《ろ》も〓《かい》もまるで動かない。兵士たちはみな船を捨てて水のなかへ跳びこみ、劉夢竜も軍装をぬぎ捨てて岸へ這いあがり、裏道づたいに逃げて行った。党世雄のほうはあくまでも船を捨てず、ひたすら水夫たちを指揮して入江の深いところをえらんで漕いで行かせたが、二里とは行かぬうちに、行くてに三隻の小舟があらわれた。乗っているのは阮氏の三雄で、それぞれ手に蓼葉鎗《りようようそう》を取り、船に近づいてきた。と、船の上の兵士たちはみな、水のなかへ跳びこんでしまった。党世雄は鉄の〓《ほこ》を持って船首に立ち、阮小二と鋒をまじえたが、阮小二は水のなかへ跳びこんでしまって、阮小五・阮小七のふたりが迫《せま》ってきた。党世雄は形勢わるしと見るや、鉄の〓《ほこ》を放りだして、これまた水のなかへ跳びこむ。と、水底から船火児の張横がもぐり出てきて、片手で髪の毛をひっつかみ、片手で腰をひっかかえ、ずるずると蘆の岸辺《きしべ》へひきずりあげた。そこにはあらかじめ十数人の手下のものがかくれていて、鐃鉤《どうこう》(熊手の類)と套索《とうさく》(からめ縄)でとりおさえ、いけどりにして水滸寨へつれて行った。
一方、高太尉は、湖上の船がみな算を乱して山のほうへ行き、船上に縛られているのがみな劉夢竜の水軍の旗じるしをつけたものであるのを見て、水路でも敗戦を喫したことをさとり、急いで命令をくだして、ひとまず兵を収めて済州へひきあげてから改めて策を講じることにした。かくて全軍が撤退しようとしたとき、おりしも日暮れどき、とつぜん四方から砲声がひっきりなしにとどろき、幾隊とも知れぬほどの宋江の軍勢がおそいかかってきた。高太尉はただもううろたえるばかり。まさにそれは、陰陵《いんりよう》に路を失って神弩《しんど》に逢い(注九)、赤壁《せきへき》に兵を鏖《みなごろし》されて怪風に遇う(注一〇)、というところ。さて高太尉はいかにして身をのがれるであろうか。それは次回で。
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一 中書省 第七十六回注三参照。
二 公文書の係り 原文は関房掾史。関房は関防であろう。公文書に捺す割印のこと。掾史は属官の称。
三 節度使 地方の軍政・民政を総轄する長官で、唐代にはじまる。
四 文書 原文は鈞帖。長官の批点を加えた文書をいう。
五 命令書 原文は剳付文書。剳文ともいう。上官が下級の官吏に送る訓令書。
六 戦船 原文は陣船。百回本には棹船となっている。棹船という語は前にも見え、櫓船と訳したが、第四十回と四十一回で同じ船をさして、あるいは棹船といいあるいは大船ともいっているから、大型の櫓船であろう。
七 長亭 十里さきの駅亭。短亭(第七十六回注四)に対していう。
八 帆柱や竿の絶えることなく 原文は檣〓不断。舳艫《じくろ》相銜《ふく》むというに同じ。
九 陰陵に路を失って神弩に逢い 項羽の故事。垓下《がいか》(安徽省壁県の東南)で劉邦のために大敗を喫した項羽は、南へのがれて陰陵(安徽省和県の北)まできたとき道に迷い、農夫にあざむかれて沼沢地帯に踏みこんでしまったため漢軍の追撃をゆるし、残っていた八百の兵もほとんど討ちとられ、わずか二十八騎をひきつれて辛くも逃げのびたが、もはやこれまでと覚悟してついに烏江で自決するにいたったことをいう。
一〇 赤壁に兵を鏖されて怪風に遇う 孫権の智将・周瑜《しゆうゆ》が赤壁(湖北省嘉魚県の東北)で曹操の大軍に焼討ちをかけるとともに、術をつかって風を巻きおこし、一夜のうちにこれを全滅させてしまった赤壁のたたかいの故事。
第七十九回
劉唐《りゆうとう》 火を放って戦船を焼き
宋江《そうこう》 両《ふた》たび高太尉《こうたいい》を敗《やぶ》る
さて、そのとき高太尉は水路の軍を眺め、形勢わるしとさとって撤退しようとしたところ、とつぜん四方から砲声が聞こえたので、急いで諸将を呼びあつめ、あわてふためいて逃げたのであった。じつは梁山泊《りようざんぱく》では、ただ号砲を四方から射ち放っただけで、伏兵をしいていたわけではなかったのだが、高太尉はおどかされて胆をひやし、泡をくらって逃げ走り、夜どおしで兵を収めて済州へひき返した。点検してみると、歩兵にはさほどの損害はなかったが、水軍の兵はその大半を討ちとられ、戦船は一艘ももどってこなかった。劉夢竜《りゆうむりゆう》は難をのがれて帰ったものの、兵士たちは、泳ぎのできるものはいのち拾いをしたが、できないものはみな溺れ死んでしまったのである。軍威をうち破られ鋭気をうちくだかれた高太尉は、ひとまず兵を城内にとどめて、牛邦喜《ぎゆうほうき》が船を徴発してくるのを待ったが、さらに使者に公文書を持たせて督促にやり、どんな船でも役にたつものは残らず召しあげて済州へ送り、出撃の準備をととのえるようにと命じた。
一方、水滸寨では、宋江がさきに董平をつれて山に帰り、矢を抜いて神医の安道全に薬で治療させた。安道全は金瘡薬《きんそうやく》(傷薬)を傷口に塗り、寨中で養生をさせた。ついで呉用が頭領たちをまとめてひきあげてき、水軍の頭領・張横は党世雄を忠義堂にひきたててきて論功を請うた。宋江はひとまず党世雄を後寨へ護送して軟禁するように命じ、奪い取った船は残らず水寨に収容して、各頭領にふりあてることにした。
さて高太尉は済州の城内で、諸将を集めて梁山泊攻略の策をはかった。と諸将のうち上党節度使の徐京が進言していうには、
「わたくし、弱年のころ世間をわたり歩いて、槍をつかって薬売りをしておりました際、ある男とまじわりを結びましたが、そのものは深く兵書に通じて頗る兵法にくわしく、孫子・呉子の才気と諸葛孔明の智謀を持っておりまして、姓は聞《ぶん》、名は煥章《かんしよう》といい、いまは東京《とうけい》城外の安仁村《あんじんそん》で私塾をひらいておりますが、このものを迎えて参謀といたしましたならば、呉用の詭計を破ることができると存じます」
高太尉はそれを聞くと、ただちに部将一名を使者にたて、緞疋《き ぬ》および鞍をおいた馬を礼物に持たせて急いで東京へやり、その村塾の秀才・聞煥章を軍の参謀に招聘《しようへい》し、早々に済州に呼んでともに軍務に参画させるようにと命じた。その部将は東京へたって行ったが、それから四五日もたたぬうちに城外から、
「宋江の軍勢が城の近くまでたたかいをいどみにきました」
と知らせてきた。高太尉はそれを聞くと、かっとなり、ただちに部下の将兵を召集して城外に敵を迎え討ち、同時に各陣の節度使にもともにたたかいに出るよう命じた。
一方、宋江の軍勢は、高太尉が兵をひきつれて迫ってくるのを見ると、急いで城外十五里の平坦な地まで退いた。高太尉が兵をひきつれて追って行くと、宋江の軍はすでに丘の麓に陣をしいていて、紅旗の隊のなかにひとりの猛将をおしたてていた。その旗じるしに明らかにしるされた名は、すなわち双鞭の呼延灼で、馬をとめ、槍を横たえて陣頭に立っている。高太尉はそれを見て、
「あいつは連環馬を指揮して行ったとき(第五十五回)、朝廷に背いた(第五十八回)やつだ」
といい、すぐさま雲中節度使・韓存保を出してこれを迎え討たせた。この韓存保は方天画戟のなかなかの使い手。ふたりは陣頭にあらわれるや、ものもいわず、いきなり、ひとりは戟《ほこ》をふるって突きかかり、ひとりは槍をもってこれにたちむかった。両者わたりあうこと五十合あまり、呼延灼はひるんだと見せてぱっと身をひき、馬をせかして丘の麓へと逃げ出した。韓存保はぜひとも功をたてんものと、馬をかりたてて追いかける。八つの蹄《ひづめ》はさながら盞《さかずき》を伏せ〓《にようはち》を撒きちらすかのように、ぱかぱかと、およそ六七里ばかりも無人のところをかけて行く。やがて韓存保が追いつめると、呼延灼は馬首をめぐらし、槍をしまいこみ、二本の鞭《べん》を舞わして反撃に転じた。かくて両者はまたしてもわたりあうこと十合あまり、呼延灼は二本の鞭で画戟をはらいのけるなり馬首を転じてまた逃げだした。韓存保は思うよう、
「こやつめ、槍でもおれにかなわず、鞭でもおれに勝てぬのだ。この際、追いつめてやつをいけどりにしてやらないことには、またとそのおりはあるまい」
追いかけて行って、とある山の鼻をまわると、道がふたすじにわかれていて、呼延灼がどちらへ行ったのかまるで見当がつかない。韓存保が馬首を転じて丘の上へのぼって見ると、呼延灼が谷間の道を迂回して逃げて行くのが見えた。存保は大声で、
「たわけもの、どこへ逃げようというのだ。さっさと馬をおりて降参すれば、いのちだけは助けてやるぞ」
と叫んだ。すると呼延灼は馬をとめて、大いに存保を罵った。韓存保はそこで大まわりをして行って呼延灼の退路へ出、かくてふたりはちょうど谷川べりでむかいあった。片側は山、片側は谷川、そのあいだのひとすじ道で、両馬とも自由にまわることができない。
呼延灼がいった。
「降参するなら、いまだぞ」
「すでにおれの手中に握られた敗将のくせに、降参しろとはしゃらくさい」
と韓存保。
「きさまをここまでおびきよせたのは、いけどりにしてくれようがためだ。きさまのいのちはもうすぐなくなるのだ」
「おれこそ、きさまをいけどりにしてくれるわ」
ふたりはまたもや怒り出した。韓存保は長い戟をかまえ、呼延灼の胸や両脇や腹をめがけて雨あられと突きかかる。呼延灼は槍で、右に左に、はらっては突き突いてははらい、まるで風をひきちぎるかのような勢いで突きかえす。かくて両者はまたもや三十合あまりわたりあったが、たたかいいよいよたけなわとなったとき、韓存保が戟《ほこ》一撃、呼延灼の脇腹めがけて突きかかれば、呼延灼も槍一突《ひとつき》、韓存保の胸もとめがけて繰り出した。両者はともにぱっと身をかわし、ふたつの武器はいずれも相手の脇下をかすめて空《くう》を突いた。すかさず呼延灼は韓存保の戟の柄を挟みつけ、韓存保は呼延灼の槍の柄をつかみ、ふたりは馬上で互いに押しあい引きあい、腰と腿をふんばって懸命にもみあったが、やがて韓存保の馬が後脚《あとあし》を谷川に踏みはずしたため、呼延灼も馬もろとも、いっしょに谷川のなかへひきずりこまれてしまった。ふたりは川のなかで、ひとかたまりになってもみあった。二頭の馬は水しぶきを散らし、人は全身ずぶぬれとなる。呼延灼が握っていた槍をはなし、相手の戟の柄を挟みつけたまま急いで鞭を取ろうとすると、韓存保も相手の槍の柄をはなし、両手で呼延灼の両臂をおさえつけようとする。かくてふたりは互いにつかみあいながら、水のなかをころがりまわった。二頭の馬は流星のように岸へかけあがり、山のほうへ走り去った。ふたりは谷川のなかで武器もおとしてしまい、かぶっていた〓《かぶと》もなくしてしまい、身につけた衣甲もずたずたにちぎれ、素手だけで水中でなぐりあった。なぐり、なぐられつつ、深みへ行ったり、また浅瀬へもどったりして、あくまでももつれあっているところへ、岸に一隊の軍勢がかけつけてきた。
その頭《かしら》は没羽箭の張清であった。兵士たちはそれっとばかり、韓存保をいけどりにしてしまった。幾人かのものが、急いで、かの逃げて行った二頭の戦馬をさがしに行ったが、馬もこちらの馬の嘶《いなな》きと人のざわめきを聞きつけて隊のほうへかけもどってきたため、とりおさえることができた。兵士たちはまた、谷川のなかから武器を拾いあげて、呼延灼にかえした。呼延灼は濡れたままで馬に乗った。かくて韓存保をうしろ手にしばって馬に乗せて、一同うちそろって谷の出口へと急いだ。と、前方に一隊の軍勢があらわれた。韓存保をさがしにきたのである。双方はかくてまつ正面からぶつかってしまった。
その頭たるふたりの節度使は、ひとりは梅展、ひとりは張開であった。水をしたたらせながら馬上にしばられている韓存保を見て、梅展は大いに怒り、三尖両刃の刀をふりまわしながらまっしぐらに張清におそいかかってきた。馬を交《まじ》えてわたりあうこと三合にもならぬうちに、張清はいきなり逃げ出した。梅展が追って行くと、張清は軽く猿臂をのばし、ゆるく狼腰をひねりざま、さっと石のつぶてを飛ばした。つぶては梅展の額に命中し、鮮血がほとばしる。梅展は握っていた刀を投げ出して両手で顔をおおった。張清が急いで馬をかえすところを、張開は矢をつがえて弓をいっぱいに引きしぼり、ひょうと射放った。張清が馬の頭をもちあげると、矢は馬の目に命中し、馬はどっと倒れた。張清はかたわらに跳びおり、槍をしごいて徒歩《か ち》でたたかったが、もともと張清という人はつぶてを飛ばして敵将を倒すのが得手で、槍のほうはさほどではない。張開はまず梅展を救っておいてから、張清にたちむかってきた。馬上から繰り出すその槍は神出鬼没、張清はただただ防戦するのみであったが、ついに防ぎきれなくなり、槍をひきずって騎兵の隊のなかへ逃げこみ、身をひそめた。張開は馬上に槍をふるっておそいかかり、五六十名の騎兵を殺し、四分五裂に蹴散らして韓存保を奪いもどした。そしてひきあげようとしたときである、とつぜん大喚声がおこって谷の入口に二隊の軍勢がおしよせてきた。
その一隊は霹靂火の秦明で、一隊は大刀の関勝であった。このふたりの猛将がおそいかかってきたため、張開は梅展をかばって逃げるのがやっとのことだった。諸軍は二手に分かれて攻めたて、再び韓存保を取りかえした。張清は馬を一頭奪い、呼延灼はあらん限りの力をふるって一同とともに斬りまくり、官軍の本隊までおそいかかって行って、勢いに乗じて攻めくずし、済州まで撤退させた。梁山泊の軍勢は追撃はせず、ただ韓存保をとらえて急いで山寨へひきたてて行った。
宋江らは忠義堂に集まっていたが、韓存保が縄をかけられてきたのを見ると、兵士をひきさがらせてみずからその縄をとき、庁上に請じてねんごろにもてなした。韓存保は感激して身のおきどころもないほどだった。さっそく党世雄を呼び出して対面させ、いっしょにもてなした。宋江はいった。
「おふたりの将軍がた、どうかお疑いくださいませぬよう。わたくしどもは決して異心をいだいているわけではなく、貪官汚吏《たんかんおり》どもに追いつめられてこんなことになっただけのことです。もし朝廷より恩赦招安のお沙汰をいただきましたならば、よろこんで国家のために力をつくすつもりでおります」
すると韓存保は、
「それならばこの前に陳太尉どのが招安の詔勅をもってこられたとき、どうしてそれを機会に、邪を去って正につこうとなさらなかったのです」
「それは、朝廷の詔書にひどいことが書かれていたうえに、田舎の地酒を御酒《ぎよしゆ》としてよこされましたため、兄弟たちがみな承服しなかったのです。あの張幹〓と李虞候のふたりも、むやみと威張りちらして、こちらの諸将を辱《はずか》しめました」
「仲に立ったものに然るべき人物がいなかったばかりに、国家の大事をあやまってしまったのでしたか」
と韓存保はいった。
宋江は宴席を設けてもてなしたうえ、翌日、馬を仕立てて谷の出口まで送ってやった。ふたりは途中いろいろと宋江の美点を話しあいながら済州の城外にたどりついたが、もう日が暮れていたので、翌朝城内へはいり、高太尉に会って、宋江がふたりを帰してくれた次第を話した。すると高〓は大いに怒って、
「それは賊のたくらみで、わが軍の志気をにぶらせようというものだ。きさまたちふたり、よくもぬけぬけとわしの前に出てこられたものだ。ものども、こいつらをひき出して行って斬りすててこい」
と怒鳴った。王煥ら諸将はいっせいにひざまずいて、訴えた。
「それはこのふたりにはかかわりのありませんことで、すべて宋江と呉用の計略でございます。このふたりを斬りすてましたならば、かえって賊のもの笑いの種になりましょう」
高太尉は一同の切なる訴えによってふたりのいのちだけはゆるし、官職を剥いで東京の泰乙宮《たいいつきゆう》に送り、沙汰を待たせることにした。かくてふたりは京師へ護送されて行った。
この韓存保は、韓忠彦《かんちゆうげん》の甥であった。忠彦はもとの太師(注一)で、朝廷の役人は彼の門下から出たものばかりであった。そのなかに、姓は鄭《てい》、名は居忠《きよちゆう》といって家塾の教師だったのが、韓忠彦にとりたてられていまは御史大夫《ぎよしたいふ》(百官の罪を糾問する官の長官)に任ぜられていた。韓存保は事の次第を彼に訴えた。そこで居忠は、橋に乗り、存保をつれて尚書《しようしよ》(内務一般をつかさどる官)の余深《よしん》のところへ行って、ともにこのことについて相談した。余深は、
「太師さまに申しあげたうえで、直奏《じきそう》していただくのがよろしいでしょう」
といった。そこでふたりは蔡京のところへ行き、
「宋江はもともと異心はなく、ひたすら朝廷の招安を待ちのぞんでおります」
とつたえた。だが蔡京は、
「この前は詔書を破りお上を誹謗したではないか。あのような無礼をはたらいたというのに、招安などもってのほか。あくまでも討ちとるまでだ」
という。そこでふたりは申したてた。
「この前の招安のさいには、遺憾ながら、使いにたちましたものがお上のご仁徳をつたえて心から宣撫するということをいたしませず、やさしい言葉をかけずに頭からきついことを申しました。そのために事が破れたのでございます」
蔡京はようやく承知した。そして約束どおり、翌日の早朝(朝見のさい)道君《どうくん》天子(徽宗)が昇殿されると、蔡京は、再び詔勅をくだして招安の使者をつかわされるようにと奏請した。すると天子には、
「このほど高太尉が、使いをよこして安仁村の聞煥章を参謀に招き、早々に陣中に呼びよせて任用したいとの意向だが、それでは、そのものといっしょに使者をつかわすことにしよう。もし投降するということならば、その罪はことごとくゆるすが、なおも反抗するならば、高〓に期限をきって、数日内にひとり残らず討ち平らげて都へもどるようにと申しつけよう」
との仰せ。
かくて蔡太師は、詔書の草案の作成にかかる一方、また聞煥章を中書省に招いて宴席を設けた。もともとこの聞煥章という人は名の通った文人で、朝廷の大臣《たいしん》にも多くの知りあいがあったので、みなが酒食をととのえてもてなした。宴がおわって一同がひきとって行くと、一方では出発の用意である。
詩にいう。
年来教授して安仁に隠る
忽ち軍前に召されて〓綸《ふつりん》(注二)を捧ず
権貴満朝に旧識多し
一個の賢を薦むるの人無かる可けんや
聞煥章が勅使とともに都をたって行ったことは略して、一方高太尉は、済州で心中あれこれと思い悩んでいたが、そこへ門番のものが、
「牛邦喜さまが見えました」
と知らせにきた。高太尉はさっそく通させた。そして挨拶がおわると、たずねた。
「船はどうだった」
「みちみち大小あわせて一千五百余艘を徴発《ちようはつ》いたしまして、みな水門のところに集めました」
と邦喜はこたえた。太尉は大いによろこんで牛邦喜に賞をとらせ、さっそく命令をくだした。全船をみな広い入江のなかへ入れ、三隻ずつ横に釘でつなぎあわせて、その上には板を敷きわたし、船尾には鉄の環をつけて鎖でつなぐようにと。そして歩兵の全員を乗り組ませ、残りの騎兵は岸から船を護衛して行かせることにした。かくて兵士を編制して船に乗せ、訓練をしあげたのは、それから半月もあとのことであった。
梁山泊では、それらのいっさいを承知していた。呉用は劉唐を呼んで計略をさずけ、水路のたたかいを指揮して功をたてさせるようにした。水軍の頭領たちは、それぞれ小舟を用意し、船首のほうには鉄板をならべて釘でとめ、胴の間には蘆や粗朶《そだ》を積みこみ、その粗朶には硫黄や〓硝などの引火物をふりかけておいて、小さな入江のなかで待機した。別に砲手の凌振には、見晴らしのきく山の上で号砲を射たせることにし、また水辺の木立のしげったあたりには、一帯に旌旗を梢に結びつけ、ほうぼうに金鼓と火砲を配置して、人馬がそこにたむろし陣地がそこに設けられているかのように見せかけさせた。公孫勝には、法術をつかって風を祭らせた。陸上には三隊の騎兵を配置して援護させることにした。かくて呉用の計画はすっかりととのった。
一方、高太尉は済州で軍を出動させた。水路の統軍は牛邦喜で、ほかに劉夢竜と党世雄、この三人が指揮をした。高太尉は軍装に身をかため、軍鼓三声を合図に、入江からは船を出し、陸路からは騎馬を進めた。船は矢のように進み、馬は飛ぶようにかけて、梁山泊へと殺到して行った。
まず水路の船からいえば、竿をおしつらね金鼓をうち鳴らし、蜿蜒と梁山泊の奥深くまでおし寄せて行ったところ、一隻の敵船も見えなかったが、やがて金沙灘に近づいて行くと、蓮《はす》のしげみのなかに二艘の漁船がいた。どちらにもふたりずつ乗っていて、手をたたきながら声をたてて笑っている。船首にいた劉夢竜が矢を乱射させると、漁師はみな水中へ跳びこんでしまった。劉夢竜は急いで戦船を漕がせつつ金沙灘の岸へ近づいて行った。岸にはずっと柳がしげっていて、その一本には牛が二頭つないであり、緑の莎草《はますげ》の上には三四人の牧童が寝そべっていた。ずっとむこうのほうにも牧童がひとりいて、黄牛の背に横乗りになって、ぴいぴいひょろひょろと笛を吹き鳴らしていた。劉夢竜はすぐ、先鋒の精悍な兵をまっさきに上陸させた。すると、かの数人の牧童たちは跳びおきて、大声で笑い、みな柳の木のしげみの奥へかけこんでしまった。先陣のもの六七百人がどっと上陸して行くと、柳のしげみのなかから砲声がとどろき、左右からいっせいに戦鼓が鳴り出した。そして左からは紅の甲《よろい》の一隊が飛び出してきたが、その頭《かしら》は霹靂火の秦明、右から飛び出してきたのは黒の甲の一隊で、その頭は双鞭の呼延灼であった。それぞれ五百の軍勢をしたがえて、水辺へと斬りこんでくる。劉夢竜があわてて兵士たちを船に呼びもどしたときには、すでに大半の兵は討ちとられてしまっていた。牛邦喜は前軍のどよめきを聞いて、ただちに後続の船を退去させたが、そのとき山頂から連珠砲がとどろき、蘆のしげみのなかからひゅうひゅうと風が吹きおこった。すなわち、公孫勝が、髪をふりさばき剣を手にとり、足を北斗に踏んで(注三)、山頂で風を祭ったのであった。風は初めは林を吹きぬけ、ついで石を走らせ砂を飛ばしたが、たちまちにして白浪天に逆巻き、見る見る黒雲地をおおい、天日も光をうしなって、すさまじい狂風となった。劉夢竜があわてて船を漕ぎもどさせようとすると、蘆のしげみのなかから、蓮の群れ咲く奥深くから、小さな入江や狭い川口から、いっせいに小舟が漕ぎよせてきて、大船隊のなかへ突っこんでくる。軍鼓が鳴りひびくと、それらの舟はいっせいに松明《たいまつ》をともした。と、たちまちにして、すさまじい火の手があがり、はげしい焔が天に飛び、ばらばらとそれらはみんな大船のなかに降りかかってきて、前後の官船はいっせいに燃え出した。燃えさかるそのありさまは、
黒煙は緑水に迷い、紅〓は清波に起《おこ》る。風威は荷葉《かよう》(蓮の葉)を捲き天に満ちて飛び、火勢は蘆林を燎《や》き梗《こう》を連《つら》ねて(根こそぎに)断つ。神《しん》も号《さけ》び鬼《き》も哭《な》き、昏昏として日色も光を無《なみ》す。嶽も撼《ゆら》ぎ山も崩れ、浩浩として波声も怒れるが若《ごと》し。艦航《かんこう》は尽く倒れ、舵櫓《だろ》は皆休《きゆう》す。船尾の旌旗は青紅の交《こもごも》雑《まじ》われるを見ず、楼頭(やぐら)の剣戟は霜雪の争い叉《さ》するを排《なら》べ難し。橿尸《きようし》(死体)は魚鼈《ぎよべつ》と同《とも》に浮《うか》び、熱血は波濤とともに並び沸《わ》く。千条の火〓は天に連《つらな》って起り、万道の烟霞は水に貼《つ》いて飛ぶ。
そのとき劉夢竜は、入江じゅうに火が飛び戦船がみな燃え出したのを見ると、いたしかたなく、頭〓《かぶと》や衣甲《よろい》を捨てて水中へ跳びこんだが、岸のほうへは近よれず、奥まった入江のひろびろとしたところをめざして泳ぎのがれて行った。すると蘆のしげみのなかから、ひとりの男が、ひとりで小舟をあやつって、まっすぐに漕ぎむかってきた。劉夢竜はすぐ水中へもぐりこんだが、とたんに、なにものかに腰を抱きとめられて舟へひきずりあげられた。舟を漕いできたのは出洞蛟の童威、腰を抱きとめたのは混江竜の李俊であった。
一方、牛邦喜はというと、周囲の官船隊から火の手があがるのを見て、これも軍装をぬぎ捨てて水中へ跳びこもうとしたところ、船首のところへひとりの男がもぐり出てきて、鐃鉤《どうこう》で頭からひっかけ、さかさまに水中へひきずりこんでしまった。その男は船火児の張横であった。
梁山泊内では、かくてさんざんにやられて、死体は水面に横たわり血は波にふりそそぐというありさま。頭を焦がしたり額を焼いたりしたものにいたっては数えきれぬほどであった。わずかに党世雄だけが小舟を漕いで逃げて行ったが、やがて左右の蘆のしげみから弩や弓の矢をいっせいに浴びせられて、水中に射《い》殺されてしまった。兵士たちで泳げるものはいのちからがら逃げもどったが、泳げないものはひとり残らず溺れ死んだ。いけどりにされたものは、みな大寨へひいて行かれた。李俊は劉夢竜をとらえ、張横は牛邦喜をとらえたが、山寨へひきたてて行こうとしたものの、宋江がまた釈放してしまうだろうと思い、好漢ふたりは相談してそのふたりを道端で殺して首を斬り取り、それを山へ送った。
一方、軍勢をひきつれて岸から水軍に呼応することになっていた高太尉は、とつぜん連珠砲がとどろき軍鼓が連打されるのを聞いて、さてこそ水上でいくさがはじまったかと、馬を飛ばして行って山寄りの水際から眺めると、あちらにもこちらにも兵士たちがいっせいに水中からのがれて、岸へはいあがってくるではないか。高〓はそれが自軍の兵だとわかると、そのわけをただした。すると、火攻めにあって船をことごとく焼かれ、みながどうなってしまったかわからないという。高太尉はそれを聞いて、すっかりうろたえてしまった。そして、喊声がしきりに聞こえ、黒煙が空いっぱいに立ちのぼっているのを見て、急いで軍をひきつれてもときた道をもどって行くと、山の手前に軍鼓が鳴りひびき、一隊の軍勢が飛び出してきて道をふさいだ。その先頭は急先鋒の索超で、開山(注四)の大斧を振りまわしつつ、馬を飛ばしておそいかかってくる。高太尉のかたわらから節度使の王煥が槍をかまえて出て行って、索超とたたかった。ところが、まだ五合とわたりあわぬうちに、索超は馬首を転じて逃げ出した。高太尉は軍をひきいて追いかけて行ったが、山の鼻をまわると、はや索超の姿は見えなかった。なおもかけて行くと、うしろから豹子頭の林冲が兵をひきいて追いつき、また斬りこんできた。それをのがれて六七里も行かぬうちに、こんどは青面獣の楊志が兵をひきいて追いつき、またもや斬りこんできた。さらにのがれて八九里も行かぬうちに、うしろから美髯公の朱全《しゆどう》が追いついて、またもや斬りこんできた。これは呉用があみ出した追〓《ついかん》の計《けい》(追い討ちの計)で、前面に出てさえぎらずに、もっぱらうしろから追い討ちをかけるのである。敗軍は戦意をうしなってひたすら逃げ、後軍を救うどころではなかった。かくて高太尉は追いまくられてあわてふためきながら済州へ逃げ、ようやく城内にたどりついたときは、すでに三更(夜十二時)であった。そこへまた城外の陣地が燃え出して、どよめきの声がしきりに聞こえてきた。これは石秀と楊雄が五百の歩兵を伏せていて、あちこちに火をつけてひそかに逃げて行ったのだった。高太尉は魂も宙にとぶほどおどろき、しきりに探りのものを出したが、退去したとの報告で、ようやく胸をなでおろした。兵を点検してみると、大半をうしなっていた。
高〓が悶々としていると、遠出の見張りのものから、
「勅使が見えました」
と知らせてきた。高〓はさっそく歩騎の兵ならびに節度使たちをひきつれて城外に出迎え、勅使に会ったところ、招安の詔書がくだったということを知らされた。一同は参謀使(参謀長)の聞煥章と挨拶をかわしてから、いっしょに城内の元帥府にはいって協議をした。高太尉はまず詔書の写しを見せてもらってつぶさに読んだが、招安をゆるすまいとしても、二度もいくさに敗れたばかりか徴発してきた多数の船までことごとく焼きはらわれてしまったことだし、招安をさせればそのときはまたそのときで、都へ帰る面目がないわけである。どうしたものかとためらいながら、数日のあいだ腹をきめかねていた。
ところが、はからずも済州の役所に、姓は王《おう》、名は瑾《きん》という老吏がいた。この男は、日ごろ刻薄残忍なたちで、人々はみな〓心王《わんしんおう》(胆えぐりの王《おう》)とあだ名していたが、これがちょうど済州の役所から元帥府に派遣されて雑用係りの小役人としてつとめていたのである。彼は詔書の写しを読み、さらに高太尉があれこれと迷って心をきめかねているということを聞くと、さっそく元帥府へ行って、ずるい策を献じていうには、
「旦那さま、なにもお悩みなさることはございません。わたくしが拝見いたしましたところ、詔書にはちゃんと逃げ道がございます。あの詔書を起草なさいました翰林院《かんりんいん》の係り(注五)のおかたは、きっとあなたさまのためをお考えになって、あらかじめ抜け道を設けておかれたのでございましょう」
高太尉はそういわれて、びっくりしてたずねた。
「あらかじめ抜け道が設けてあるというのは、どこなのだ」
「詔書で最も重要なところは、まんなかの一行でございます。それは、
宋江・盧俊義等大小人衆の犯せる所の過悪を除《じよ》し、並びに赦免を与う。
というところでして、この一句はあいまいな言葉でございます。そこで、こんど開読なさいますときには、これを二句にわけてお読みになって、
宋江を除し(注六)、
を一句とし、
盧俊義等大小人衆の犯せる所の過悪、並びに赦免を与う。
を別の一句にするのでございます。そしてやつらをだまして城内へおびきいれ、頭《かしら》の宋江だけをとりおさえて殺してしまい、手下のものどもをみなちりぢりにわけて、ほうぼうへ追いやってしまうのです。むかしから、頭のない蛇はうごけず羽のない鳥は飛べぬと申します。宋江さえなきものにしてしまえば、あとのやつらになにができましょう。この考えは、いかがでございましようか」
高〓は大いによろこんで、さっそく王瑾をとりたてて元帥府の長史《ちようし》(秘書官長)に任じ、すぐ聞《ぶん》参謀を呼んでこのことを話した。すると聞煥章は、
「いやしくも勅使たるものは、正しい道をもって事にあたるべきです。人をあざむくようなことをしてはなりません。もしも宋江配下の智謀のたけたものが見破りましたなら、逆にたいへんなことになって、はなはだまずい策でございます」
と諫めたが、高太尉は、
「いや、ちがう。むかしから兵書にも、兵は詭道を行なう、といってある。まともにやるわけにはいかぬのだ」
「兵は詭道を行なうものとはいえ、このたびのことは天子のご聖旨で、天下に信をしめすものです。むかしから、王の言は綸《りん》の如く〓《ふつ》の如し(注七)、といいます。それゆえに玉音《ぎよくおん》と申して、みだりに改変のできぬものなのです。いまもし、そのようなことをして、あとで誰かにさとられましたなら、そのためにご聖旨をも容易に信じないようになりましょう」
「とにかく当面のことが急務だ。あとはまたあとのことだ」
と、高太尉はどうしても聞煥章の諫めを聞きいれなかった。そしてまずひとりのものを梁山泊へ知らせにつかわし、宋江ら全員に済州の城下へ出てきて天子の詔勅を受け、恩赦にあずかるようにとつたえた。
ところで、宋江は再び高太尉との一戦に勝ったのち、焼けた船は手下のものたちにはこばせて薪にし、焼けなかったのはとりおさえて水寨に収めたが、いけどりにした将兵たちはひとり残らず釈放して続々と済州へ帰らせた。
その日、宋江が大小の頭領たちと忠義堂で話しあっているところへ、手下のものがきて、
「済州の役所から使いのものがまいりまして、このたび朝廷では勅使をつかわされ、詔書をおくだしになって、罪をゆるして招安し、官につけ爵を授けられることになったので、そのよろこびを知らせにきたと申しております」
宋江はそれを聞くと、思いもかけぬよろこびに顔をほころばせ、さっそくその使いのものを堂上に迎えいれで、くわしくたずねた。するとそのもののいうには、
「朝廷では詔書をおくだしになって、招安のお沙汰に見えましたので、高太尉さまはわたくしを使いによこされまして、頭領たちご一同に、うちそろって済州の城下にお出ましをねがい、詔書開読の儀礼を受けられるようにとのことでございます。なんのたくらみがあってのことでもございませんゆえ、決してお疑いくださいませぬように」
宋江は軍師を呼んで相談したうえで、とりあえず銀子と絹物を使いのものにあたえて、ひとまず済州へ帰らせた。かくて宋江は命令をくだして、大小の頭領たちにひとり残らず用意をととのえて詔書の開読を聞きに行くようにつたえた。すると盧俊義が、
「兄貴、事をはやまってはなりません。もしかすると高太尉のたくらみかも知れませんから、兄貴は行かないほうがよいでしょう」
といった。宋江は、
「そんなふうに疑っていては、いつになっても正道にもどることはできないだろう。まあ、とにかく、行ってみよう」
呉用が笑いながら、
「高〓のやつは、われわれにさんざんやられてちぢみあがっておりますから、いくら計略をめぐらしたところで、どうにもできはしません。兄弟たち一同の好漢がずらりとひかえていることですから、なんのおそれることがありましょう。かまわず宋公明兄貴について山をおりることにしましよう。ついてはまずこちらから、黒旋風の李逵に、樊瑞・鮑旭・項充・李袞をつけ、歩兵一千をひきつれて行って、済州の東の路に伏兵をしいてもらい、さらに、一丈青の扈三娘に、顧大嫂・孫二娘・王矮虎・孫新・張青をつけ、歩兵一千をひきつれて行って済州の西の路にひそんでいてもらいましょう。そして、連珠砲が鳴ったら、どっと北門へおし寄せるように」
呉用がそれぞれの手くばりをおわると、頭領たちはそろって山をおり、あとには水軍の頭領たちだけが残って山寨の留守をあずかったのであるが、高太尉が策を弄してこれらの英雄たちを山からおびき出そうとたくらんで聞参謀の諫止するのを聞かなかったために、はからずも済州城下は転じて九里山(注八)前と化するのである。まさにそれは、ただ一紙の君王の詔に因って全般の軍士の心を惹起《じやつき》す、というところ。さて好漢たち一同は、いかにして大いに済州を鬧《さわ》がすか。それは次回で。
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一 もとの太師 原文は国老太師。国老とは卿太夫の官職を退いたものをいう。
二 〓綸 また綸〓ともいう。天子の言すなわち詔《みことのり》の意。『札記』の緇衣《しい》篇に、「王の言は糸の如く、其の出《い》ずるや綸の如し。王の言は綸の如く、其の出ずるや〓の如し」とあるに拠る。綸とは太い糸、〓とは太い綱のこと。
三 足を北斗に踏んで 原文は踏〓布斗。〓《こう》を踏み斗《と》を布く。法術を行なうときの足の構えである。
四 開山 斧の別名。同時に斧の形容でもある。
五 翰林院の係り 原文は翰林待詔。翰林《かんりん》は翰林院。詔勅の起草をつかさどる役所。待詔《たいしよう》は文書や応対のことをつかさどる下級の官。
六 宋江を除し 「除」には「ゆるす」という意味と「のぞく」という意味とがある。原文は、「除宋江盧俊義等大小人衆所犯過悪並与赦免」で、宋江・盧俊義ら一同の罪をゆるし……の意味であるが、それを、「除宋江」で切って、宋江をのぞき……と読もうというのである。
七 王の言は綸の如く〓の如し 注二参照。
八 九里山 項羽と劉邦とが激戦をしたと伝えられるところ。江蘇省銅山県の北。第四回注七参照。
第八十回
張順《ちようじゆん》 鑿《うが》って海鰍船《かいしゆうせん》に漏《あな》をあけ
宋江 三たび高太尉を敗《やぶ》る
さて、高太尉は済州城内の元帥府にあって、王煥ら節度使一同を集めて協議をし、各路の軍勢は陣地をひきはらって城内へはいるよう命令をくだし、いまいる節度使たちはそれぞれ武装に身をかためて城内にかくれ、各陣の兵士たちもことごとく準備をととのえて城内に配列させることにした。そして城壁にはどこにも旗を立てず、北門にだけ、天詔の二字をしるした黄旗を一本立てた。かくて高〓は、勅使や役人たちとともに城壁の上で、宋江らのやってくるのを待ちうけた。
その日、梁山泊では、まず没羽箭の張清に五百の騎馬の斥候をつけて、さし出した。張清は済州の城辺まで行き、そのまわりをひとまわりして、北のほうへ去って行った。すぐつづいて、神行太保の戴宗が徒歩で出かけてひととおり偵察をした。
高太尉は知らせをうけて、みずから月城(注一)の姫垣のところへ出て行った。左右には百余名の従者をしたがえ、麾蓋《きがい》(儀仗用のさしかけ傘)を大きくさしひろげて前には香机が置いてある。はるか北のほうに宋江の軍勢のやってくるのが見えた。先頭には金鼓と五方(東西南北と中央)の旌旗をおしたて、頭領たちはそれぞれ円形をつくり半円形をつくって(注二)、整然と隊伍を組んで(注三)くる。その先頭は首領の宋江、および盧俊義・呉用・公孫勝で、馬上で欠身(注四)の礼をして、高太尉に挨拶を送った。高太尉はそれを見ると、従者に城壁の上から声をかけさせた。
「このたび朝廷では、その方たちの罪をゆるして特に招安されるというのに、なにゆえに武装なぞしてまいったか」
宋江は戴宗を城壁の下までやって、それに答えさせた。
「われわれ一同、いまだ聖恩に浴しておりませず、詔書のご意向がどのようなものか存じておりません。それゆえあえて甲冑をとらずにまいったのです。どうか太尉どの、よろしくご配慮のうえ、城内の住民や長老を残らず呼び集めて、いっしょに詔書をうけたまわらせてくださいますよう。そのときにはつつしんで甲《よろい》をぬぎましょう」
高太尉は命令を出して、城内の長老や住民にみな城壁まできて詔書をうけたまわるようにとつたえさせた。まもなく、がやがやと、みんながやってきた。宋江は城下から、住民の老いも若きも城壁の上にぎっしりと集まったのを見ると、ようやく馬を進めた。金鼓一声、諸将は馬をおり、金鼓二声、諸将は城壁の下へ歩み寄った。うしろには手下のものが馬をひいて、城から一矢頃《ひとやごろ》のところに整然とひかえた。金鼓三声、諸将は城壁の下に手を拱《こまぬ》いてかしこまり、城壁の上の詔書の開読に耳をかたむけた。勅使は読みあげた。
制《せい》(勅)して日《い》う。人の本心は本《もと》二端無し。国の恒道《こうどう》は倶《とも》に(すべて)是れ一理なり。善を作《な》せば則ち良民と為り、悪を造《な》せば則ち逆党と為る。朕《ちん》聞く、梁山泊衆《しゆう》を聚《あつ》むること已に久しく、善化を蒙らずして未だ良心に復せずと。今天使《てんし》(勅使)を差《つかわ》し、詔書を頒降《はんこう》し、宋江を除きて(注五)、盧俊義等大小人衆の犯せる所の過悪、並びに赦免を与う。其の首たる者は、京に詣《いた》りて恩を謝し、協随して助くる者は、各郷閭《きようりよ》に帰れ。嗚呼、速かに雨露に霑《うるお》い、以て邪を去り正に帰するの心に就《つ》き、雷霆《らいてい》を犯す(狂暴なふるまいをする)こと毋《な》く、当《まさ》に故《ふる》きを革《あらた》め新しきを鼎《と》る(注六)の意を効《いた》すべし。故《とく》に茲《ここ》に詔示す。想《おも》うに宜《よろ》しく悉知《しつち》すべし。
宣和 年 月 日
そのとき軍師の呉用は、ちょうど「宋江を除き」というところが読まれると、すぐ花栄にめくばせして、
「聞いたろうな」
といった。
詔書の開読がすんだとたん、花栄は大声で、
「兄貴にはおゆるしが出ないというのに、われわれが投降したってなにになる」
と叫び、矢をつがえ弓をひきしぼり、詔書を開読したその使者をめがけて、
「花栄の神箭《しんせん》を思い知れ」
と射《い》放てば、矢はその顔に命中した。人々はあわてて介抱にかけよる。城下の好漢たちはいっせいに、
「やっつけろ」
と叫び、城壁の上をめがけて矢を浴びせかける。高太尉はほうほうのていで身をよけた。
四つの城門から官軍の軍勢が飛び出して行くと、宋江の軍では金鼓一声、みないっせいに馬に乗って逃げ出した。城中の官軍はそれを追い、五六里ほど行ってひきかえそうとすると、とつぜん宋江の後軍から砲声がとどろき、東のほうからは李逵が歩兵をひきい、西のほうからは扈三娘が騎兵(注七)をひきいて殺到してきた。二手の軍勢は、いっせいに挟み討ちをかけてくる。官軍は伏兵がいるにちがいないとおそれて、あわてて撤退しだした。すると宋江の全軍はむきをかえておそいかかってきた。かくて三方から挟撃されて、城中から攻め出してきた官軍は大混乱におちいり、あわてふためいて逃げ帰ったが、斬り殺されたものもすくなくはなかった。宋江は軍を収め、それ以上は追わずに、そのまま梁山泊へひきあげた。
一方高太尉は、済州で上奏文を書き、朝廷に対して、宋江ら賊徒は勅使を射ち殺し、招安にしたがいません、と上申するとともに、ほかにまた密書をしたためて蔡太師・童枢密・楊太尉に送り、どうかご協議のうえ、太師から天子に奏上していただいて、沿道より糧秣を送り、火急に兵を派遣して、力をあわせて賊徒を討ち平らげるようとりはからっていただきたいと請うた。
さてまた一方、蔡大師は、高太尉からの密書を受け取ると、ただちに参内して事の次第を天子に奏上した。天子はそれを聞かれてご機嫌かんばしからず、
「しばしば朝廷を辱《はずか》しめ、しきりに大逆を犯す賊どもだ」
と、ただちに詔勅をくだして、各地からそれぞれ補強の軍を出して高太尉の指揮にしたがわせるように仰せられた。
楊太尉は相つぐ敗戦を知ると、再び御営司《ぎよえいし》のなかからふたりの将をえらぶとともに、竜猛・虎翼・捧日・忠義の四営から、それぞれ精兵五百、あわせて二千を選抜し、ふたりの上将につけて高太尉の討伐軍の加勢に行かせることにした。
このふたりの将軍は誰かというに、ひとりは八十万禁軍の都教頭《ときようとう》(武芸師範の長)で、官は左義衛親軍《さぎえいしんぐん》の指揮使、護駕将軍《ごがししようぐん》たる丘岳《きゆうがく》、ひとりは八十万禁軍の副教頭で、官は右義衛親軍《ゆうぎえいしんぐん》の指揮使、車騎将軍《しやきしようぐん》たる周昂《しゆうこう》。このふたりの将軍は、しばしば抜群の功をたててその名は海外にも聞こえ、深く武芸に通じてその威は京師をおさえていて、また高太尉の腹心の部下でもあった。
さてそのとき楊太尉は、二将を起用すると、いますぐ行くようにといいわたした。二将が蔡太師のもとへ出発の挨拶に行くと、蔡太師は、
「くれぐれも気をつけて、早く大功をたててくるように。必ず重くとりたてるからな」
と、いいふくめた。二将は礼をいってひきさがった。
四営からは、いずれも丈《たけ》高く頑健で、腰細く肩幅ひろく、山東・河北の出身で山登りにも水泳ぎにも練達した最も精鋭な兵士が選抜されて、二将につけられた。
丘岳と周昂は、各省院の諸官に挨拶をしてから、楊太尉のところへ行って、
「明日、出陣いたします」
と告げた。楊太尉は二将にそれぞれ五頭の良馬をあたえて戦陣の用にあてさせた。二将は太尉に礼をいって、それぞれ自分の営舎に帰り、出発の準備をととのえた。
翌日、兵士たちは馬の支度をして出かけ、全員そろって御営司の前にひかえた。丘岳と周昂の二将は、彼らを四隊に分けた。そして、竜猛・虎翼二営の一千の兵と、ほかに二千余騎は丘岳が指揮し、捧日・忠義二営の一千の兵と、おなじく二千余騎の兵は周昂が指揮した。ほかになお一千の歩兵があったが、これも二分して二将がひきしたがえた。かくて丘岳と周昂は辰牌《しんぱい》(朝七時)ごろになると、隊列を組んで城を出た。楊太尉はみずから城門の上で閲兵をした。兵士たちの威雄、親衛軍の勇猛はいわずと知れたこと。かの二本の〓旗の下、一群の戦馬のなかにおしたてられた護駕将軍・丘岳の、そのいでたちいかにと見れば、
一頂(注八)の、纓《えい》は火を撒《ち》らし(赤いふさひもを垂れ)錦もて〓《ぼう》(かぶとの鉢)を兜《つつ》める、双鳳翅《そうほうし》の照天《しようてん》の〓《かぶと》を戴き、一副の、緑の絨《いと》もて穿《うが》ち紅《くれない》の綿もて套《おお》える、嵌連環《かんれんかん》の鎖子《さし》(くさり)の甲《よろい》を披《き》、一領の、翠もて沿辺(ふちどり)し珠《たま》もて絡縫《らくほう》(つなぎぬい)せる、茘子紅《れいしこう》の、金を圏《めぐ》らし戯獅を〓《ぬいと》れる袍《うわぎ》を穿《き》、一条の、金葉を襯《ほどこ》し玉玲瓏たる、双獺尾《そうだつび》の、紅《こうてい》(赤革)に盤〓《はんち》(とぐろを巻いたみずち)を釘《う》てる帯を繋《し》め、一双の、金線を簇《あつ》めたる海驢皮《かいろひ》の、胡桃紋《ことうもん》の抹緑色の雲根《うんこん》(雲形)の靴を着《つ》け、一張の、紫檀の〓《は》(弓柄)泥金の梢《しよう》(弓末《ゆずえ》)竜角《りゆうかく》の面《めん》(弓身)虎筋《こきん》の絃《げん》(弓弦《ゆづる》)の宝雕《ほうちよう》の弓を彎《ひ》き、一壺の、紫竹の桿《かん》(矢柄《やがら》)朱紅の扣《こう》(矢筈《やはず》)鳳尾の〓(矢羽《やばね》)の狼牙金点鋼《ろうがきんてんこう》の箭《や》(注九)を懸け、一口の、七星もて装《よそお》える沙魚《さぎよ》(さめ)の鞘《さや》の、竜泉《りゆうせん》(古の名剣の名)を賽《しの》ぎ巨闕《きよけつ》(同じく名剣の名)を欺く霜鋒の剣を掛け、一把の、朱纓を撒《ち》らせる水磨桿(無地の柄《つか》)の、竜呑頭《りゆうどんとう》(竜が頭を呑んだ形)の偃月様《えんげつよう》(半月形)の三停の刀を横たえ、一匹の、快《と》く山に登り能《よ》く澗《たに》を跳ぶ、金鞍を背にし玉勒《ぎよくろく》(たづな)を揺《うご》かす〓脂《えんし》(紅)の馬に騎《の》る。
かの丘岳は馬にまたがり、昂然としてあたりを圧《あつ》しつつ、左隊の軍をひきしたがえている。東京《とうけい》の住民たちは、それを見て喝采しないものとてなかった。
そのあとにつづくのは右隊の捧日・忠義両営の軍で、まことに整然たる軍容。かの二本の繍旗の下、一群の戦馬の中におしたてられた車騎将軍・周昂の、そのいでたちいかにと見れば、
一頂の、呑竜頭(竜の頭を呑んだ形)の、青纓を撒らし、珠閃爍《せんしやく》たる爛銀の〓《かぶと》を戴き、一副の、鎗尖を損じ箭頭を壊《やぶ》る、香綿を襯《うらあて》せる熟銅の甲を披《き》、一領の、牡丹を〓《ぬいと》り双鳳を飛ばす、金線を圏《めぐ》らせる絳紅の袍を穿《き》、一条の、狼腰に称《かな》い虎体に宜《よろ》しき、七宝の麒麟を嵌《かん》せる帯を繋《し》め、一双の、三尖を起せる海獣皮の、雲根を倒《さかしま》にせる虎尾の靴を着《つ》け、一張の、雀画《じやくが》の面、竜角の〓《ゆずか》、紫綜《しそう》(紫のより糸)の絃《ゆずる》の六鈞の弓を彎《ひ》き、一壺の、〓雕《そうちよう》(黒い鷹)の〓《やばね》、鉄木の稈《やがら》、透唐猊(注一〇)の鑿子《さくし》(鏃《やじり》)の箭《や》を〓《あつ》め、一柄《へい》の、袁達《えんたつ》(古の名斧の名)を欺き石丙《せきへい》(同じく名斧の名)を賽《しの》ぐ、山を劈開《へきかい》する金〓《きんさん》の斧を使い、一匹の、千斤を負《せお》う高さ八尺の、能く陣を衝く火竜の駒を駛《はし》らせ、一条の、銀桿にして四方稜の、金光を賽《しの》ぐ劈楞《へきりよう》の簡《かん》(注一一)を懸く。
この周昂も馬にまたがり、悠然として威風を示しつつ、右隊の軍をひきしたがえている。城壁のほとりまでくると、丘岳とともに馬をおりて楊太尉に出発の挨拶をし、諸官に別れを告げ、東京をあとにして一路、済州さして進んで行った。
さて一方、高太尉は済州にあって聞参謀と協議をし、増援の軍が到着するまでに、まず近くの林へ兵をやって材木を伐り出させ、最寄りの州県から船大工をかり集めてきて、済州の城外に造船所を設け、戦船を造らせた。同時にまた掲示を出して勇敢な水夫や兵士を募集した。
おりしも済州城内の宿屋に、ひとりの旅のものが泊まっていた。姓は葉《しよう》、名は春《しゆん》といい、泗《し》州の生まれで、腕のたつ船大工だったが、山東へ行く途中で梁山泊を通りかかったところ、そこの下っ端の一味に本銭《もとで》をかすめ取られ、済州に流浪したまま故郷へ帰ることもできずにいたのだったが、高太尉が材木を伐り出して船を造り、梁山泊に攻め入って勝利を得ようとしていると聞くと、紙に船の図面をかいて高太尉に会いに行き、一礼していうには、
「この前にあなたさまが船で討伐をなさいましたとき、なぜ勝ちを得られなかったかと申しますと、それは船がみな各地から徴発してきたもので、帆を操るにも櫓を漕ぐにも、法にかなっていなかったからでございます。しかも船体は小さく船底は尖っていて、あれでは戦いには不向きでございます。そこでわたくし、一計を献じたいと存じますが、あの賊を平定なさいますためには、ぜひとも大型の船数百隻を造る必要がございます。そのいちばん大型なのは大海鰍船《だいかいしゆうせん》といいまして、船の両側に二十四台の水かき車をとりつけ、数百人のものを乗り組ませることができます。車は一台を十二人で踏んで動かします。外側は竹の籠でおおって、矢を防ぐようになっております。甲板には弩楼《どろう》(弩弓を射つやぐら)を建て、ほかに〓車《かしや》(注一二)を造って甲板に並べておきます。進むときには〓楼《だろう》(やぐら)から拍子木を鳴らすと、二十四台の水かき車がいっせいにぐいぐい踏み動かされて、船は飛ぶように進み、相手がどんな船でかかってきたところで、これを阻むことはできません。敵に遭遇しましたときは、甲板の上のかくしてある弩弓をいっせいに放ちます。敵はどんなものをもってしてもこれを防ぐことはできますまい。これより小型の船は小海鰍船といいまして、両側には水かき車を十二つけるだけで、百人あまり乗り組ませることができます。船首と船尾にはともに長い釘をうちつけ、左右にはこれまた弩楼を建て、矢を防ぐ竹の籠もとりつけます。この船は梁山泊の小さな入江にはいって行って、やつらが間道《かんどう》に配している伏兵をやっつけるのでございます。この計を用いますならば、梁山泊の賊どもは日ならずして一気に平らげることができます」
高太尉は話を聞き図面を見て、心中大いによろこび、酒食や衣服をとり寄せて葉春にあたえ、さっそく戦船建造の総監督にした。かくて、連日連夜督励して材木を伐り出させ、期限をきって済州へ納入させた。また各地の州県にも均等にそれぞれ造船に必要な物資の納入を命じ、二日おくれたときは笞《むち》四十の刑に処し、一日おくれるごとに刑一等を加え、五日以上おくれたものは軍令によって打ち首にすることにした。そのため各地では、それぞれの長官のきびしい督促においつめられて逃亡する住民が多く、民衆の怨嗟のまととなった。それをうたった詩がある。
井蛙《せいあ》の小見豈《あに》天を知らんや
慨《なげ》く可し高〓の譎言《きつげん》を聴くを
畢竟《ひつきよう》や鰍船は勝ちを取り難し
財を傷《やぶ》り衆を労し枉《ま》げて徒然たり
葉春《しようしゆん》が各種の海鰍船《かいしゆうせん》を建造した次第はさておき、各地から増援にさしむけられた水夫や兵士たちは陸続として済州に集まってきた。高太尉はそれを各陣地の節度使にふりあててその指揮下に入《い》らしめたが、この話もそれまでとして、おりから門番のものが、
「朝廷から丘岳・周昂の二将軍が派遣されて見えました」
と知らせてきた。高太尉は節度使たちを城外へ出迎えにやらせた。二将が元帥府にきて太尉に目通りをすると、太尉は親《した》しく酒食を供してねぎらったうえ、人をやって兵士たちをもねぎらい、同時に二将を手厚くもてなした。二将が太尉の命令を得て兵をひきいて出陣し、たたかいを挑みたいと申し出ると、高太尉は、
「おふたりとも、ここしばらくのあいだお休みねがいたい。海鰍船が完成したら、そのときこそ水陸の両路から船と馬とで並び進んで、一撃のもとに賊どもを討ち平らげましょう」
という。丘岳と周昂は、
「わたくしどもにとっては、梁山泊の盗《ぬす》っ人《と》どもを相手にするのは児戯にもひとしいことです。太尉どの、ご安心ください。凱歌をあげて都へ帰れることはまちがいありませんから」
「おふたりがそのお言葉どおりにやってくだされば、天子のおん前にお知らせして、必ず重くとりたてていただくようにいたしましよう」
その日、宴が果てると、二将は元帥府の前で馬に乗って陣地へひきとり、そのまま兵を駐屯させて命を待つことにした。
高太尉が船の建造を督促して征進の準備をした話はひとまずおいて、一方宋江はというと、頭領たちとともに、済州の城下で「やっつけろ」と叫んで大あばれをしたあげく、梁山泊にひきあげてきて呉用らと協議をし、
「二度の招安に二度とも勅使を傷つけてしまって、いよいよ罪を大きくしてしまったが、朝廷では必ずまた討伐の軍をさしむけてくるだろう」
と、ただちに手下のものを下山させ、様子をさぐって急いで報告させることにした。幾日もたたぬうちに、手下のものはくわしい事情をさぐって報告にもどってきた。
「高〓はこのほど水軍を募集し、葉春というものを監督にして大小の海鰍船数百隻を建造させております。東京からも新たにふたりの御前指揮《ぎよぜんしき》が加勢につかわされてきました。ひとりは姓は丘、名は岳といい、ひとりは姓は周、名は昂といって、二将とも武勇すぐれたものです。各地からも多数の兵を増援に出して、応援にまいっております」
宋江はすぐ呉用に相談した。
「そのような大船に水面を飛びまわられたら、なかなか討ち破れないでしょう」
呉用は笑って、
「おそれるほどのことはありません。水軍の頭領たち数人にひとはたらきしてもらえば、それで十分ですし、陸上のたたかいには、ちゃんと猛将たちがひかえていて相手になりますから。とはいえ、それらの大船は建造するまでにどうしても数十日をかけなければ完成しないでしょうから、まだ四五十日の余裕があります。それで、まず二三人の兄弟をその造船所へやって、ひとまずやつらを大騒ぎさせておいて、そのあとでゆっくり相手になってやることにしましよう」
「それは妙案です。では鼓上《こじようそう》の時遷と金毛犬《きんもうけん》の段景住のふたりをやることにしましよう」
と宋江がいうと、呉用は、
「ほかに張青と孫新を、材木はこびの人夫のふりをさせて、そのなかにまぎれこんで造船所へはいって行かせ、顧大嫂と孫二娘を、飯はこびの女のふりをさせて、女たちといっしょにはいって行かせましょう。そして時遷と段景住に加勢させるのです。さらに張清に兵をひきいて行って応援させて、万全を期することにしましよう」
彼らは相ついで堂上に呼ばれて、おのおの命令をさずけられた。一同はこのうえもなくよろこび、わかれわかれに山をおりてそれぞれの任務におもむいた。
さて高太尉のほうは、日夜督励して船の建造を急がせ、朝晩住民をとらえて使役につかせた。かの済州の東側一帯はずらりと造船所で、大海鰍船数百隻の建造が急がれ、数千を越える大工(注一三)たちがごったがえしていた。荒くれた兵士たちはてんでに抜刀して人夫をおどかし、夜昼の別なく完成をせかしていた。その日、時遷と段景住はまず所内へはいりこんで、ふたりして相談した。
「孫と張の二夫婦(孫新と顧大嫂、張青と孫二娘)は、なかへはいって行って火をつけるにちがいないが、おれたちもはいって行ったんでは、おれたちの腕のほどがあらわせないというものだ。それでここいらにかくれていて、造船所が燃えだしたら、おれはすぐ城門のところへ行って待ちかまえ、加勢の軍がやってくるにきまっているから、そのどさくさにまぎれてはいりこんで城壁の楼《やぐら》に火をつけるから、あんたは城の西の秣《まぐさ》置場へ行ってやはり火をつけ、やつらに両方からきりきり舞いをさせてやろう。そうすれば泡を食うことだろうよ」
ふたりはひそかに手はずをきめてから、引火薬を身にかくして、それぞれかくれ場所をさがしに出かけた。
一方、張青と孫新のふたりは、済州の城下へ行って、四五百人のものが材木を引いて造船所へはいって行くのを見た。そこで張・孫のふたりは、その人たちのなかへまぎれこみ、同じように材木を引いて造船所のなかへはいって行った。入口にはそれぞれ腰刀をさし棍棒を持ったおよそ二百名ばかりの兵士がいて、人夫をなぐりつけ、力のかぎり引かせて、なかへはこびいれさせていた。周囲はぐるっと柵がとりめぐらしてあって、前後には茅ぶきの作業所が二三百棟あった。張青と孫新がなかへはいって見ると、大工が数千人いて、板を挽くもの、釘をうつもの、目張りをするもの、と、それぞれかたまりあっていた。大工と人夫とがごったがえして行きかい、その数ははかり知れぬほどであった。ふたりはまっすぐ飯煮《めした》きの掛小屋のかげへ行って、かくれた。
孫二娘と顧大嫂のふたりは、うすぎたないきものを着て、それぞれ飯罐《めしいれ》をさげ、ほかの飯はこびの女たちについて、はいりこんだ。
やがて日が暮れ、明るい月が出た。大工たちの大半はなおもそこで、まだしおわらない仕事をいそがしくやっていた。ちょうど二更(十時)ごろだった、孫新と張青は左側の造船所に火をつけ、孫二娘と顧大嫂は右側の造船所に火をつけた。二方から火が出て、草ぶきの棟はめらめらと燃えだした。所内の人夫や大工たちはわっとどよめき、柵を抜きたおして、さきを争って逃げだした。
高太尉はちょうど眠っていたところだったが、とつぜん、
「造船所が火事です」
という知らせを受けてあわてて起き出し、官兵を城外へ繰り出して救援させた。丘岳・周昂の二将はそれぞれ配下の兵をひきいて城外へ消火にむかった。
それからまもなく、城壁の楼《やぐら》に火の手があがった。
高太尉がそれを聞いて、みずから馬に乗り、兵をひきつれて城壁へ消火に行くと、またしても、
「西の秣《まぐさ》置場からも火の手があがって、真昼のような明るさです」
という知らせ。
丘・周二将が兵をひきつれて西の秣置場へ救援に行くと、軍鼓の音が地をふるわせて鳴り、肭喊《とつかん》の声が天につらなって聞こえた。それは没羽箭の張清が五百の驃騎兵をひきつれてそこに伏兵をしいていたもので、丘岳と周昂が兵をひきいて救援にくるのを見るや張清はただちに飛びかかって行って、丘岳・周昂の軍を正面から迎え討ったのである。張清は大声で、
「梁山泊の好漢全員がおそろいだぞ」
と怒鳴った。丘岳はかっとなり、馬をせかせ刀を舞わして、まっしぐらに張清におそいかかって行く。張清は槍をとってこれを迎えたが、一二合わたりあっただけで馬を飛ばして逃げだした。丘岳は功にはやってあとを追いかけ、
「逆賊め、逃げるな」
と大声で叫んだ。張清は長鎗を収め、ひそかに錦袋のなかから石つぶてをつかみ出し、身をよじり、丘岳が近づいてきたのを見るや手をふりあげて、
「やっ」
と一喝。石つぶては丘岳の顔に命中し、丘岳はもんどりうって落馬した。周昂はそれを見ると、すぐ数人の牙将《がしよう》(下級の将)とともに必死に丘岳を救いに出た。周昂が張清とたたかって食いとめているあいだに、牙将たちは丘岳を助け、馬に乗せてたち去った。張清は周昂と二三合わたりあっただけで、馬首を転じて逃げだした。周昂が追わずにいると、張清はまたひき返してきたが、そこへ王煥・徐京・楊温・李従吉の四路の軍がやってきたので、張清は五百の驃騎兵をさし招き、もときた道をひき返して行った。一方官軍は、伏兵があるのをおそれてあえて追わず、兵を収めてひき返し、消火につとめた。三ヵ所の火がおさまったときは、すでに明けがただった。
高太尉は人をやって丘岳の傷を見舞わせた。かの石つぶては顔のまんなか、口のあたりに命中して、歯を四本折り、鼻も唇もすっかりつぶれていた。高太尉は医者に治療をさせたが、丘岳の重傷を見るにつけても梁山泊にたいする恨みは骨髄に徹し、使いのものをやって葉春を呼び出し、心して船を建造し出撃にそなえるようにいいつけるとともに、造船所のまわりには節度使に命じて陣をかまえさせ、昼夜警戒にあたったが、この話はここまでとする。
一方、張青と孫新の夫婦四人は、大いによろこびあって、時遷・段景住のふたりとともに、もときた道をひき返して行った。それぞれの配下のものがこれを出迎えて、梁山泊へひきあげて行き、一同忠義堂にはいって放火の次第を話すと、宋江は大いによろこび、時遷ら六人のために宴を設けた。その後も絶えず人を出して偵察をさせた。
船の建造がようやくおわりに近づき、やがて冬になったが、その年は陽気がことのほか暖かで、高太尉は心中ひそかに天の助けとよろこんだ。葉春の造船がすっかりおわると、高太尉は水軍を督励し、全員を乗り組ませて技術を習わせることにした。大小の海鰍船は続々と進水した。城内の元帥府の募集によってあちこちから集まってきた水夫たちは、その数およそ一万人あまり。まずその半数を各船に乗り組ませて水かき車の踏みかたを習わせ、半数には弩弓の射ちかたを習わせた。そして二十日あまりをついやしただけで戦船の訓練をすっかりおわって、葉春は太尉に船の検閲を請うた。これをうたった詩がある。
古より兵機は速攻に在り
鋒摧《くだ》け師老《お》ゆ豈《あに》功を成さんや
高〓鹵莽《ろぼう》(おろか)にして通変《つうへん》無く
歳《とし》を経《へ》民を労して戦艟を造る
この日、高〓は、節度使やおもだった軍官たち一同をしたがえ、うちそろって船の検閲をした。海鰍船三百余隻がずらりと水面に浮かび、そのなかの十数隻にはいちめんに旌旗がたてられ、銅鑼や太鼓が鳴らされた。拍子木がうち鳴らされると、船の両側の水かき車がいっせいに踏み動かされて、まことに風飛び雷《いなずま》走るばかりの勢い。高〓はそれを見て心中大いによろこび、
「まるで飛ぶような船だ。賊どももどうにもこれを防ぐことはできまい。こんどのいくさは勝つにきまっている」
と、さっそく金銀や絹物を出して葉春にあたえ、ほかの大工たちにもそれぞれ路銀をあたえて暇《ひま》をやり、家に帰らせた。
翌日、高〓は役人たちに命じて、黒牛・白馬・豚・羊をころし、つまみものを並べ、金銀の紙銭を供えて水神の祭りをとりおこなうことにした。準備がととのうと、諸将は太尉を焼香にまねいた。丘岳はこのとき傷口はすっかり癒えていたが、恨みは骨髄に徹し、ぜひとも張清をいけどりにして讎《あだ》を報いんものと思いつめ、周昂ならびに他の節度使たちとともに、うちそろって馬に乗り、高太尉に随行して船のほとりまで行き、馬をおり、高〓につき添って水神の祭りをとりおこなった。香を焚いて礼拝をおわると、紙銭や幣帛を焼き、諸将は祝いの言葉をのべあった。それがすむと高〓は、都からつれてきていた歌い女《め》や舞姫を呼び寄せて、みな船に乗せ、酒席に侍《はべ》らせて歌い舞わせた。同時にまた兵士たちには、水かき船の演習をさせて、水面を飛走させた。船の上ではのどかに笙の笛を鳴らし、悠揚と歌い舞い、遊楽は日が暮れても果てなかった。その夜は船のなかに泊まって、翌日もまた酒宴がひらかれた。かくて酒宴は三日間つづいて、船は出されなかった。と、そこへ、ひとりのものが知らせにきていうには、
「梁山泊の賊が詩を書いて済州城内の土地廟に貼りつけていきましたのを、さるものがこのとおり剥ぎとってまいりました」
その詩はこう書いてあった。
〓間《ほうかん》志を得たり一高〓
漫《みだ》りに三軍を領《ひき》いて水上に遊ぶ
便《たと》い海鰍船万隻を有するとも
倶に泊内に来りて一斉に休《おわ》らん
高太尉は詩を読むや大いに怒り、ただちに軍を繰り出して討伐しようとした。
「賊どもを殺しつくしてしまうまでは、誓って軍をひくまいぞ」
すると聞参謀が諫めていうよう、
「太尉どの、しばらくお怒りをおしずめください。思うに賊どもはおそれをなして、ことさら悪口《あくこう》を書き、とるにたらぬとおどかしているだけのことです。数日のあいだ休んでから、水陸の軍勢を編制したうえで討伐にむかえばよろしかろうと存じます。いまは真冬ですのに陽気があたたかなのは、陛下のおん徳と元帥のご威光によるものでございましょう」
高〓はそれを聞いてはなはだよろこび、さっそく城内に帰って軍の編制を協議した。かくて陸路のほうは周昂と王煥に、それぞれ大軍をひきいて水軍に随行し、援護させることにし、また項元鎮と張開には、騎兵一万を指揮してまっすぐに梁山泊の山前の街道へ行き、敵を防ぎたたかわせることにした。もともと梁山泊は、古くから四方八方ただ茫々として、いちめんに水けむる蘆のひろがりだったのであるが、このごろは山の前だけにひとすじの街道が通じていた。それはこのたび宋江が新たに築いたもので、もとはなかったのである。高太尉は騎馬の軍をさきに進ませてこの道を防ぎとめようとしたのだった。そのほかの、聞参謀・丘岳・徐京・梅展・王文徳・楊温・李従吉・長史の王瑾・船大工の葉春・随行の牙将たち・大小の軍校(下士)たち・従卒たちは、ことごとく高太尉にしたがって船で出て行くことになった。聞参謀がそれを諫めて、
「元帥どのには、騎馬の軍を督励して陸路をお進みください。水路をえらんで元帥みずから危地に臨まれるべきではありません」
といったが、高太尉は、
「心配はいらぬ。この前は二度とも然るべき人物を得なかったために敗戦をまねき、多くの船をうしなうにいたったが、このたびは立派な船を多数造ったのだ。わしがみずから陣頭に立って指揮をとらぬことには、あの賊どもをとりおさえることはできぬだろう。こんどこそはどうしても賊どもと決戦をやるのだ。余計なことをいうではない」
聞参謀はそれ以上いうことはひかえ、仕方なく高太尉にしたがって船に乗った。
高〓は三十隻の大海鰍船を、先鋒の丘岳・徐京・梅展に配して指揮をさせ、五十隻の小海鰍船を先導にあてて、楊温および長史の王瑾・船大工の葉春に指揮をとらせた。先頭の船には紅《くれない》の大きな繍旗が二本立ててあって、それには十四個の金文字で、
攪海翻江衝巨浪
安邦定国滅洪妖
海を攪《みだ》し江を翻《ひるが》し巨浪を衝く
邦を安んじ国を定め洪妖《こうよう》を滅す
としるしてあった。中軍の船には高太尉と聞参謀が、歌い女や舞姫をひきつれて乗り、中軍の船列を統御していた。その四五十隻の大海鰍船には、碧油幢《へきゆどう》(注一四)・帥字旗・黄鉞《こうえつ》・白旄《はくぼう》・朱旛《しゆはん》・〓蓋《そうがい》など、中軍の儀仗の具がずらりと並べられていた。そのあとの船には、王文徳と李従吉とが殿軍《しんがり》を命ぜられていた。
おりしも十一月の中旬であった。騎馬の軍は命を受けてさきに出発した。水軍の先鋒たる丘岳・徐京・梅展の三人は、先頭の船に乗り組んでまっさきに進み、雲を飛ばし霧を捲いて梁山泊へとむかった。見れば海鰍船は、
前に箭洞《せんどう》(矢を射つ窓。矢狭間《やざま》)を排《なら》べ、上には弩楼を列ね、波を衝いて蛟唇《こうしん》(みずち)の形の如く、水地走って鯤鯨《こんげい》(大魚)の勢に似る。竜鱗のごと密布して、左右に二十四部の紋車《こうしや》(巻き車)を排《なら》べ、鴈翅《がんし》のごと斉《ひと》しく分《わか》れて、前後に一十八般の軍器を列《つら》ぬ。青布もて〓蓋《そうがい》を織り成し、紫竹もて遮洋(波除け)を製《つく》り作《な》す。往来し衝撃して飛梭《ひさ》(おさ)に似、展転し交鋒して快馬を欺く。
宋江と呉用はすでにその詳細を知り、あらかじめ備えを十分にして、ひたすら官軍の船のくるのを待ちかまえていた。
そのとき三人の先鋒は船をおし進めて行ったが、小海鰍船を左右に配して入江をふさぎとめ、大海鰍船でそのまんなかを進んで行った。各軍の将たちは蟹のように眼をあげ鶴のように首をのばして、ひたむきに前へ前へとつき進み、蜿蜒と梁山泊の奥深くまではいって行った。と、前方に早くも一群の船のやってくるのが見えた。どの船にも十四五人のものが乗っているだけで、いずれもみな衣甲をつけ、まんなかには頭領がひとり腰をすえている。先頭の三隻の船には、一本ずつ白い旗を立て、旗には、
梁山泊阮氏三雄
としるしてあった。まんなかが阮小二、左側が阮小五、右側が阮小七だった。遠くから見るといずれもぎらぎらと光る衣甲に身をかためていたが、じつはそれはみな金箔・銀箔の紙を糊で貼りつけているのだった。三人の先鋒は彼らを見ると、ただちに先頭の船に命じて火砲《かほう》・火鎗《かそう》・火箭《かせん》を射たせた。だが阮氏三兄弟はすこしもおそれず、やがて船が近づいて槍や矢がとどくころになったと見るや、喊声をあげていっせいに水のなかへ跳びこんでしまった。丘岳らは三隻の空《から》船を奪ってさらに進んで行ったが、三里も行かぬうちに、三隻の快船《はやぶね》が風をきって漕ぎ寄ってくるのが見えた。その先頭の船には十人あまりのものが乗っているだけだったが、みな青黛《せいたい》(藍蝋《あいろう》)や黄丹《こうたん》(黄色い顔料)や土〓《どしゆ》(あか土)や泥粉(白い泥)を身体に塗りつけ、頭は髮をざんばらにし、口笛を吹き鳴らしながら飛ぶようにやってくる。その両脇の二隻の船には、六七人ぐらいずつ乗っていて、みな思い思いに赤や緑の色を塗りつけていた。まんなかは玉旛竿《ぎよくはんかん》の孟康、左側は出洞蛟《しゆつどうこう》の童威、右側は翻江蜃《はんこうしん》の童猛だった。こちらでは先鋒の丘岳が、また火器を射たせた。と、むこうでは喊声をあげてみな船を捨て、いっせいに水のなかへ跳びこんでしまった。そこでまた三隻の空船をぶんどってさらに進んで行くと、三里とは行かぬうちに、またもや水面に三隻の中型の船が見えた。船はいずれも四梃櫓、八人漕ぎで、十人あまりの手下のものが一本の紅旗をおしたて、船首にひとりの頭領を擁している。その旗には、
水軍頭領混江竜《こんこうりゆう》季俊
としるされていた。左側の船に腰をおろしている頭領は、鉄鎗を手にし、一本の緑旗をおしたてていたが、それには、
水軍頭領船火児《せんかじ》張横
としるされていた。右側の船につっ立っている頭領は、上半身はなにも着ておらず、下半身も両脚をむき出しにして、腰に何本かの鉄の鑿《のみ》をさしはさみ、銅の鎚《つち》を手にして、一本の〓旗《そうき》(黒旗)をおしたてていたが、それには銀文字で、
頭領浪裏白跳《ろうりはくちよう》張順
としるされていた。張順は船の上から大声で叫んだ。
「船をとどけてくれて、ありがとうよ」
三人の先鋒はそれを聞くと、
「矢を射て」
と命じた。弦音《つるおと》がひびくとともに、むこうの三隻の船の好漢たちは、みなまっさかさまに水のなかへ跳びこんでしまった。
時節は冬の末。官軍の船の、募集されてきた水夫や兵士は、どうして水のなかへはいることができよう。ぐずぐずしているうちに、とつぜん梁山泊の山頂で号砲がつづけざまに鳴りだした。と、ばらばらと蘆のしげみのなかから千隻にあまる小舟があらわれて、水面はさながら蝗《いなご》の飛びかうようなありさま。どの舟にも四五人ずつ乗っているだけだったが、胴の間には、はて、なにがかくされているやら。
大海鰍船は突き進もうとしたが、まるきり進めない。水かき車を踏み動かそうとしても、ゆくての水底がすっかり埋めふさがれていて、車の輻板《やいた》がびくとも動かない。弩楼から矢を射っても、小舟のものはてんでに板切れを楯にして防ぎつつ、見る見るうちに近寄り群がってくる。そして、あるものは鐃鉤《どうこう》で舵《かじ》をとめ、あるものは板刀《ばんとう》ふるって車を動かす兵士をたたき斬り、はやくも五六十人のものが先鋒の船によじのぼってきた。官軍は泡を食って後退しようとしたが、うしろの水路もふさがれていて、急には退くこともできない。かくて前の船で乱戦がおこなわれるうちに、うしろの船でも大騒動がはじまった。高太尉と聞参謀は中軍の船で、味方が総崩れになったことを知ると、あわてて岸へあがろうとしたが、すると蘆のしげみからとつぜん金鼓がはげしく鳴りだし、胴の間では兵士たちがいっせいに、
「船が漏る」
とさわぎだして、水がどくどくとはいってきた。前の船もうしろの船も、どれもみな漏りだして、見る見るうちに沈んで行く。周囲の小舟はまるで蟻のように大船めがけて群がってくる。
高太尉の新造船が、どうして水漏りなどしだしたのかというと、それは張順のひきいる腕ききの水軍の一隊が、てんでに鎚と鑿を持ち、船の下で船底に穴をあけて、そこらじゅうから水が流れこむようにしたからであった。
高太尉は舵楼《だろう》(舵《かじ》のある船尾のやぐら)の上によじのぼって、うしろの船に救いを求めた。すると、ひとりのものが水中からもぐり出てきて、たちまち舵楼へ跳びあがり、
「太尉どの、わたしがお助けします」
といった。高〓が見れば、ついぞ見たこともない顔である。その男は近寄ってくるなり、いきなり片手で高太尉の頭巾をひっつかみ、片手で腰の束帯をひっさげて、
「それっ」
と一喝、高太尉をどぶんと水のなかへ投げこんだ。あわれ、赫々たる中軍の将も、一転して水びたしの水底の人となったのである。と、かたわらから二隻の小舟が助けに飛び出してきて、太尉を舟の上にひきずりあげた。この男こそ、浪裏白跳の張順であって、水中で人を捕らえるのは、あたかも甕のなかですっぽんを捕らえるごとく、なんの造作もないことだった。
前の船の丘岳は陣勢がすっかり乱れてしまったのを見て、あわてて、逃げのびる計略をめぐらした。すると、かたわらの水夫たちの群れのなかから、とつぜんひとりの水夫が飛び出してきて、丘岳が気づかぬまに追いつき、一刀のもとに丘岳を船から斬り落としてしまった。その男は、梁山泊の錦豹子の楊林であった。
徐京と梅展は先鋒の丘岳が殺されたのを見て、ふたりで楊林に飛びかかって行った。と、水夫たちの群れのなかから、つぎつぎに四人の小頭領が飛び出してきた。ひとりは白面郎君の鄭天寿、ひとりは病大虫の薛永《せつえい》、ひとりは打虎将の李忠、ひとりは操刀鬼の曹正で、いっせいにうしろからおそいかかった。徐京は形勢わるしと見て、いきなり水のなかへ跳びこんでのがれようとしたが、はからずも水中にはすでになにものかが待ちうけていて、彼もまたつかまえられてしまった。薛永は一槍《ひとやり》で梅展の腿《ふともも》を突き刺して、胴の間に倒してしまった。
もともと八人の頭領が官軍の水夫になっていたのであって、このほかにまだ三人のものが前の船にいた。ひとりは青眼虎の李雲、ひとりは金銭豹子の湯隆、ひとりは鬼臉児の杜興だった。節度使たちがたとえ三頭六臂の怪力を持っていたとしても、これではどうすることもできない。
梁山泊の宋江と盧俊義はすでに、それぞれ水陸にわかれて攻め出していたのである。宋江は水路を受けもち、盧俊義は陸路を受けもった。水路の軍が完勝したことはそれまでとして、一方盧俊義は、諸将および諸軍をひきつれて山前の街道へ殺到して行き、官軍の先鋒の周昂と王煥にまっ正面からぷっつかった。周昂はそれを見ると、まっさきに馬を乗り出して、大声で罵った。
「逆賊め、このおれがわからぬか」
盧俊義も大声で、
「名もない下っ端《ぱ》の将め、いまにそのいのちがすっ飛ぶというのに、それがわからぬか」
と怒鳴りつけるなり、槍をかまえ馬をおどらせて、まっしぐらに周昂におそいかかって行った。周昂も大斧をふりまわしつつ、馬を飛ばしてたちむかう。両将はかくて山前の街道に鋒をまじえ、わたりあうこと二十合ばかり、いまだ勝敗を決せずにいるとき、とつぜん後軍の騎馬隊に喊声がおこった。それは梁山泊の騎馬の大軍で、山前の左右の森のなかにかくれていたのが、どっと喊声をあげて四方から斬りこんできたのだった。東南からは関勝と秦明、西北からは林冲と呼延灼。多数の英雄が四方からあらわれて、項元鎮と張開はとうてい食いとめることができず、血路を斬りひらいていのちからがら逃げて行った。周昂と王煥も戦意をうしない、槍や斧をひきずって必死に遁走して済州城内へ逃げこみ、兵を屯営させて、様子をうかがった。
一方、水路を受けもった宋江のほうは、高太尉を捕らえると、急いで戴宗に命じて兵を殺害しないようにふれさせた。中軍の大海鰍船に乗っていた聞参謀たち、および歌い女や舞姫、役者たち一同は、ことごとく捕らえて船に移し、金鼓を鳴らして軍を収め、大寨へ護送して行った。かくて宋江・呉用・公孫勝ら一同が忠義堂に集まっていると、そこへ張順が、水をしたたらせながら高〓を護送してきた。宋江はそれを見ると、急いで堂からおりて助けおこし、すぐ新しい絹のきものをとり寄せて高太尉に着換えさせてから、手をとって堂上に請じ、正面の席につかせた。宋江は頭をさしのべて平伏の礼をし、
「申しわけございません」
といった。高〓はあわてて礼を返した。宋江は呉用と公孫勝にそれをおしとめさせ、礼をおわって、高〓を上座につかせた。そして燕青を使いに出して、
「今後もし人を殺したものがあれば、軍令によって重刑に処する」
とふれさせた。命令がつたえられてからしばらくすると、つぎつぎと官軍のものが護送されてきた。童威と童猛は徐京を、李俊と張横は王文徳を、楊雄と石秀は楊温を、阮氏三兄弟は李従吉を、鄭天寿・薛永・李忠・曹正は梅展を護送してき、楊林は丘岳の首を、李雲・湯隆・杜興は葉春と王瑾との首を献じ、解珍と解宝は聞参謀および歌い女や舞姫、従者たち一同を捕らえて護送してきた。とり逃がしたのはわずかに四人、すなわち周昂・王煥・項元鎮・張開だけであった。宋江は護送されてきたものにきものを着換えさせ、新たに身なりをととのえさせたうえ、残らず忠義堂に請じ、席をつらねて歓待した。いけどりにした兵士たちはみな釈放して済州へ帰らせた。別に立派な船を一隻仕立てて、これに歌い女や舞姫、従者たち一同を休ませて、彼らの自由にさせた。これをうたった詩がある。
命を奉じて高〓裁《さい》を取るを欠き(処置をあやまり)
人に活捉《いけど》られて山に上り来る
知らず忠義の何物為《た》るかを
翻《かえ》って梁山嘯聚《しようしゆう》(盗賊)の台《うてな》に宴す
そのとき宋江は、さっそく牛や馬を殺して盛大な宴を設けさせた。かくて、一方では各軍の兵をそれぞれねぎらい、こちらではにぎやかに笛や太鼓を奏しながら、大小の頭領たちを呼び集めて、一同そろって高太尉に挨拶をさせた。みなのものが礼をおわると、宋江は杯をささげ、呉用と公孫勝は瓶《かめ》を持ち、台をささげ、盧俊義らはかたわらに侍立して、宋江が口を開いた。
「顔に刺青されました下っ端役人のこのわたくし、お上に逆らおうなどとは思いもかけぬことでございますが、いかんせん罪をかさねまして、このような始末でございます。二度も聖恩をかたじけなくしながら、その間《かん》にいろいろよろしからぬことのありましたことについては、いちいち申しあげるわけにもまいりませんが、どうかお憐れみをたまわりまして、わたくしども深い穴に陥っておりますものを救い出して天日を仰がせてくださいますよう。そうすれば骨に刻み心に銘じて、あくまでもご恩に報いる決心でございます」
高〓は、居並ぶ好漢たちがひとりひとりみな猛々しい英雄であるのを見、また林冲と楊志が目を怒らしてにらみつけ、いまにもつかみかかってきそうな勢いであるのを見て、もうすっかり怖気《おじけ》づき、すぐこういった。
「宋公明どの、そしてみなさんがたも、ご心配なさいますな。わたしが朝廷へ帰ったら、必ずもういちど陛下に奏上し、恩赦のお沙汰をおねがいして、招安にまいり、重く賞与して官位につけ、義士のみなさんがたがひとり残らず朝廷の禄を食《は》んで良臣となられるようにはからいますから」
宋江はそれを聞いて大いによろこび、厚く太尉に礼をいった。その日の宴はまことに盛大なものであった。大小の頭領たちは、かわるがわる杯をとって慇懃に高位に酒をすすめた。高太尉はすっかり酔い、酔ったあまりつい気が大きくなって、
「わしは若いころから相撲をおぼえて、天下に敵なしじゃ」
といった。盧俊義も酔っていて、高太尉が「天下に敵なし」と自慢したのを聞きとがめ、燕青を指さしながら、
「わたしの弟のあれも相撲ができて、岱岳《たいがく》(泰山)で三度試合をしましたが、天下に敵なしです」
といった。すると高位は、いきなり立ちあがってきものをぬぎ、燕青に相撲をいどんだ。頭領たちはみな、宋江が彼を朝廷の太尉として敬っているのでどうにもならず、不承ぶしょうそのお説を拝聴していたのだったが、はからずも燕青に相撲をいどんだので、高〓の鼻をへし折ってやるのはいまだと、いっせいに立ちあがって、
「そいつはおもしろい、さあ、はじめろ(注一五)、はじめろ」
と、一同どっと堂をおりて行く。宋江も酔っていて、別にとめようともしなかった。ふたりがきものをぬいで広間の階《きざはし》の上に立つと、宋江はやわらかな敷きものをとり寄せて敷かせた。
ふたりは剪絨《びろうど》の毛氈《もうせん》の上で、型を示して身構えた(注一六)。高〓が飛びかかって行くと、燕青はさっと手をのばして高〓を組みとめ、ただひとひねりで、敷きものの上に投げころがした。高〓は丸くなったまま、しばらくはどうしても起きあがれなかった。この手を守命撲《しゆめいはく》というのである。宋江と盧俊義はあわてて高〓を助けおこし、もとどおりきものを着せかけた。そしてみなで笑いながら、
「太尉どのは酔っておられるから、相撲にお勝ちになるのは無理でございます。どうかおゆるしくださいますよう」
高〓はすっかり恐れをなしたものの、また席にもどり、夜おそくまで飲んでから奥の間につれられて行って休んだ。
翌日もまた宴を設けて高太尉をなぐさめた。高〓がもう帰ろうとして宋江らに暇乞いをすると、宋江は、
「わたくしどもが大貴人をおひきとめいたしておりますのは、決して他意あってのことではございません。もしいつわりを申しますならば天地の誅伐《ちゆうばつ》をこうむるでありましょう」
といった。すると高〓は、
「もし義士がわたしを都へ帰してくださるなら、ご一同を陛下のおん前に義士としておとりなしいたし、必ず招安にまいって国家に重く用いましょう。もし変心するようなことがあれば、天にも地にも見はなされて弓鎗のもとに相果てるでしょう」
宋江はそれを聞くと、叩頭して礼をいった。高〓はさらに言葉をついで、
「義士がわたしのいうことに疑いを持たれるなら、諸将を人質としておいていってもよろしい」
「太尉どののような大貴人のお言葉をなんで疑いなどいたしましょう。将軍のかたがたをおひきとめしておく必要もございません。いずれ鞍馬をとりそろえまして、みなさんをごいっしょにお送りいたします」
高太尉は礼をいった。
「いろいろとおもてなしをいただいて、ありがとうございました。ではこれにてお暇《いとま》いたします」
宋江たち一同はしきりにひきとめ、その日また盛大な宴を設けて話に花を咲かせつつ、宴は夜更けまでつづいてようやく散会となった。
三日目、高太尉がどうしても山をおりるというので、宋江らもひきとめきれず、かさねて宴を設けて別れの杯をかわし、金銀や綵緞《あやぎぬ》などおよそ数千金のものを持ち出して、饗応がわりの礼物としてみな太尉に贈り、節度使以下の人々にも別に贈りものをした。高太尉はことわりきれずに、結局みな受け取った。酒をくみかわしているとき、宋江がまた招安のことをいい出すと、高〓は、
「では、誰かたしかな人をわたしにつけておよこしください。わたしがその人を陛下にお目通りさせて、梁山泊のみなさんの衷情をお知らせし、すみやかに詔勅がくだるようにとりはからいましょう」
宋江はひたすら招安をねがっていたので、すぐ呉用らと相談をして聖手書生の蕭譲を太尉について行かせることにした。呉用はそのとき、
「ほかに鉄叫子の楽和《がくわ》をお供にして、ふたりで行かせましょう」
といった。高太尉は、
「おまかせくださいましたか。では約束のしるしとして聞参謀を残して行きましょう」
宋江は大いによろこんだ。
四日目になると、宋江と呉用は二十余騎のものをしたがえ、高太尉および節度使たちを送って山をおり、金沙灘をわたって二十里さきのところで別れの杯をかわした。かくして高太尉に別れて山寨へ帰り、ひたすら招安の沙汰を待ちうけた。
さて、高太尉らの一行は済州をめざして帰って行ったが、さきに知らせのものをやったので、済州にいた先鋒の王煥・項元鎮・張開および太守の張叔夜らが城外に出迎えていた。高太尉は城内にはいり、数日間滞在して兵をまとめ、節度使たちにはそれぞれ部下をつれて原地に帰り、ひとまず休養して、命を待たせることにした。かくて高太尉は、周昂および大小の牙将や頭目(一班の長)をしたがえ、全軍をひきつれて、蕭譲・楽和らとともに、済州をあとにし、はるか遠く東京をめざして進んで行った。
ここに、高太尉が梁山泊のふたりのものをつれて行ったことから、やがて衆にすぐれた風流によって洞房深きところ君王に遇い、神《しん》に通ずる細作《しのび》によって相府の園中に俊傑を尋ねるということになるのである。さて、高太尉は都に帰って宋江ら一同の招安を、どのように天子にとりなすであろうか。それは次回で。
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一 月城 城門を護るために、その外に突き出して設けた半月形の城壁。甕門、あるいは甕城ともいう。
二 円形をつくり半円形をつくって 原文は簸箕掌栲〓圏。第七十七回注八及ぴ九参照。
三 整然と隊伍を組んで 原文は鴈翅一般擺列。整然と並ぶことを雁にたとえたのであって、並びかたが雁列と同じだというのではない。
四 欠身 第二回注一三参照。
五 宋江を除きて 前回注六参照。
六 故きを革め新しきを鼎る 原文は革故鼎新。易で革卦《かくか》は故《ふる》きを去ること、鼎卦《ていか》は新しきを取ることを意味する。
七 騎兵 前回の終りのところでは扈三娘も李逵と同じく歩兵をひきいて行ったことになっているが、扈三娘は騎兵の頭領であるから、前回の歩軍は、ここと同じく騎軍とすべきである。
八 一頂 この「一頂」は〓《かぶと》にかかる数詞。以下、一副は甲《よろい》、一領は袍《うわぎ》、一条は帯、一双は靴、一張は弓、一壺は箭、一口は剣、一把は刀、一匹は馬、またつぎの詞のなかの一柄は斧、一条は簡に、それぞれかかる。
九 狼牙金点鋼の箭 金をちりばめた鉄製の狼牙箭。狼牙箭とは鏃《やじり》を狼牙のように尖らせた箭で、宋の煕寧年間(神宗の代)にはじめて作ったといわれる。
一〇 透唐猊 唐猊《とうげい》はいわゆるからしし。また、名甲の別名。透唐猊は名甲をも射透すの意であろう。
一一 劈楞の簡 劈楞《へきりよう》の楞は稜と同じ。簡は鉄鞭の一種。第二回の注一一参照。
一二 〓車 百回本には〓車となっている。〓《か》は鎌のこと。〓《さん》は切りとること。刃物をつけた車輪であろう。武劇で車輪のようにとんぼ返りをうつことを〓車ということからも想像される。
一三 大工 原文は回人となっているが、百回本に匠人とあるのに従った。
一四 碧油幢 戦陣に張る将帥の幕。また貴人の用いる車の幌をもいうが、ここでは前者の意。紺油とは緑色のこと。
一五 はじめろ 原文は看相撲。看撲(第七十四回注一七)に同じ。
一六 型を示して身構えた 原文は吐個門戸。第九回注四、及び第七十四回注一六参照。
第八十一回
燕青《えんせい》 月夜に道君《どうくん》に遇い
戴宗《たいそう》 計を定めて楽和《がくわ》を出《いだ》す
さて梁山泊の好漢は水戦で三たび高〓を討ち破り、ことごとく捕らえて山へつれて行ったが、宋公明は殺すことはせずに、そっくり釈放してしまい、高太尉以下多数の兵が都へ帰るについては、蕭譲と楽和を京師へ同行させて招安の沙汰を仰がせることにして、かわりに参謀の聞煥章を梁山泊にとどめておいたのである。
高〓は梁山泊にいたとき、みずからこういったのである。
「わたしが朝廷に帰ったならば、自分で蕭譲らをつれて行って陛下にお目通りさせ、極力おとりなしをして、早急に招安の使者をよこすようにとりはからいましょう」
そこで、楽和を供につけて蕭譲といっしょにやったのであったが、その話はこれまでとする。
一方、梁山泊では頭領たちが話しあったが、そのとき宋江が、
「高〓のこんどのことは、どうなるかわからないと思うのだが」
というと、呉用は笑いながら、
「あの男の相《そう》を見るに、蜂目蛇形《ほうもくだけい》という性《たち》で、そのとき限りで恩を忘れる男です。彼は多数の兵をうしない、朝廷の多大な金銭糧食をつかいはたして都へ帰るのですから、きっと、病気だと称して閉じこもり、天子へはいい加減に報告をして、しばらく兵士たちを休ませ、蕭譲と楽和は役所のなかに軟禁、ということにするでしょう。招安を待っていたって、待ちくたびれるだけのことです」
「そうだとすれば、どうすればよかろう。招安のことはまあかまわんとしても、あのふたりがひどい目にあうが」
「兄貴、さらにふたり、めはしのきくものを選んで、たくさん金や宝ものを持たせて都へやり、様子をさぐったうえで裏から手をまわして、われわれの衷情を陛下のお耳にいれ、高太尉にかくしおおせぬようにしてしまうのです。これがいちばんよい方法でしょう」
すると燕青が立ちあがって、いった。
「去年、東京《とうけい》をひと騷がせしましたさい、わたしはうまい具合に李師師《りしし》の家にはいりこみました(第七十二回)。ところが、はからずもあの大騒ぎで、あの女の家でもあらかた感づいてしまったようです。だが、何といってもあの女は天子のおもいもの、天子があの女を疑ぐるようなことはまずありません。もちろんあの女は天子に、梁山泊のものが陛下がここへお忍びで見えることを知っておどかしにまいったのでしょう、などと、いいのがれをしたことでしょうが、ひとつわたしが、たくさんの金や珠玉を持って行ってうまくあの家へはいりこんでみましょう。枕の上でのかけひきが、いちばんてっとりばやいですから。わたしがなんとかしてうまく機をとらえてやってみましょう」
「それはしかし、なかなか危《あぶ》ないことだ」
と宋江がいうと、戴宗が、
「わたしが彼の手助けに出かけましょう」
という。神機軍師の朱武は、
「兄貴は前に華州を攻めたとき(第五十九回)、宿太尉によくしてあげられましたが、あの人は心のよい人です。もしあの人におりを見て天子に申しあげていただくことができたら、いっそううまくいくと思うのですが」
といった。
宋江は九天玄女の言葉(第四十二回)の、
宿に遇うは重々の喜び
というのはこの人のことをいっているのではなかろうかと思いおこし、さっそく聞参謀を堂上に招いて席をともにし、
「あなたは太尉の宿元景どのをご存じでしょうか」
とたずねた。すると聞煥章は、
「あの人はわたしと同〓《どうそう》の(同じ師に学んだ)友人で、いまは陛下のおそばにつききりのようです。なかなか慈《いつく》しみ深い寛大なたちで、人あたり物ざわりのまことになごやかな人です」
「うちあけて申しますと、わたしたちは、高太尉どのは都へ帰られてもおそらく招安のことを陛下に奏上してはくださるまいと思うのです。宿太尉どのとは前に華州へご参詣に見えたとき、ちょっとお目にかかったことがあるのですが、このたび使いのものをやってあのかたにお近づきを得、お力添えをお願いして、おりをみて陛下におとりなしをしていただき、めでたく願いをとげたいと考えているのです」
「将軍がそういうお考えでしたら、わたしが手紙を書きましょう」
と聞参謀はいった。
宋江は大いによろこび、さっそく紙や筆をとり寄せる一方、名香を焚き、玄女の課《うらない》(第四十二回のいわゆる天書)をとり出して天に祈って卜《うらな》ったところ、上々大吉《じようじようだいきち》という兆《しるし》を得た。そこで、さっそく酒を出して戴宗と燕青の送別の宴を設けた。金や珠玉やその他の貴金属、および大きな籠を二つとりそろえ、手紙を肌身につけてかくしたうえ、開封府の印《いん》をおした公文書をたずさえて、ふたりは役人になりすまし、頭領たちに別れを告げて山をおり、金沙灘をわたり、東京をさして進んで行った。
戴宗は雨傘をくくりつけ包みを背負い、燕青は水火棍《すいかこん》に籠をひっかけ、紺のひとえものの裾をからげ、腰には物入れをゆわえつけ、脚はふたりとも脚絆に膝あて、八つ乳《ぢ》の麻の鞋《くつ》。道中はおきまりどおり、飢えては食らい渇いては飲み、暮れては泊まり明けては出かけるという次第。やがて幾日かして東京についたが、まっすぐ城内へはいっては行かずに、万寿門《まんじゆもん》のほうへまわって行った。ふたりが城門のところまで行くと、門番の兵がおしとめた。燕青は籠をおろし、田舎言葉でいった。
「おまえさん、なんでわしをとめなさるかね」
「殿帥府からのお達しで、梁山泊からいろんなやつが城内へまぎれこむおそれがあるというので、どの城門も命令で、他国からの旅人はきびしく吟味することになっているのだ」
と兵士がいうと、燕青は笑いながら、
「おまえさんは全くわけのわかったお役人だ、身うちのものをつかまえて、やかましく吟味するとはな。わしらふたりは若いときから開封府のご用をつとめているもので、この門は何万べん通ったかわかりゃしない。それなのにおまえさんはやかましく吟味しなさるが、梁山泊のものなら、目玉をぱちくりしてみんな通してしまうんじゃないかな」
といって、ふところから偽《にせ》の公文書をとり出し、相手の鼻さきにつきつけて、
「さあ、これが開封府の公文書じゃないというのかね」
する監門官《かんもんかん》がそれを聞きつけて、
「開封府の公文書を持っているのに、なんだってそうやかましく吟味するんだ。通してやれ」
と命じた。燕青は公文書をひったくって、ふところにおしこみ、籠をかつぎあげてさっさと歩きだした。戴宗もふふんとうすら笑いをし、ふたりはまっすぐ開封府の前まで行って、宿をさがして泊まった。
翌日、燕青は下着を着換え、搭膊《とうはく》(広幅の帯)を腰にしめ、頭巾も換えて横っちょにかぶり、遊び人のようなふりをした。そして籠のなかから一包みの金と珠玉をとり出すと、戴宗にたのんだ。
「兄貴、わたしはこれから李師師の家へ行ってひと働きしてきますが、もしへまをやったら、兄貴はひとりで早くひきあげてください」
戴宗にそうたのんでおいて、まっすぐに道を急いで李師師の家へ行った。門の前まで行って見まわせば、曲がりくねった彫りのある欄杆《らんかん》や色どりした窓や扉はもとどおりながら、前のときよりも美しくよそおわれていた。燕青が斑竹の簾《すだれ》をかかげて横手からはいって行くと、早くも馥郁《ふくいく》たる名香のかおりがした。客間の前まで行ってみると、名ある人々の書画がぐるりと掛けめぐらしてあり、簷《のき》下の〓《きざはし》には、二三十の珍しい石や蒼松《ま つ》の鉢が置いてあった。腰掛けはみな花模様の彫りのある香楠木《こうなんぼく》で、小さな腰掛けの上の敷物はみな刺〓した錦だった。燕青が小さくしわぶきをすると、女中が見に出てきたが、すぐとりついで、李媽媽《りぼぼ》が出てきた。見れば燕青なので、
「おまえさん、どうしてまたここへきたんだい」
「姐さんに会わせてください。ちょっと話したいことがあるのです」
「おまえさんこの前は家にひどいことをしたじゃないか、部屋をめちゃめちゃにしてさ。話があるならさっさとおいいよ」
「姐さんに会わないことには、いえないのです」
李師師はしばらく窓のむこうで聞いていたが、やがて姿をあらわした。燕青が見れば、まことにたぐいないあでやかさ。そのかんばせは朝露をふくんだ海棠《かいどう》のごとく、その腰つきは東風《はるかぜ》になびく楊柳のよう。さながらに〓苑《ろうえん》(仙人の園)の仙女、桂宮《けいきゆう》(月の宮居)の天女にもまさる風情であった。
そのとき李師師はかろやかに蓮歩《あ し》をはこび、ゆるやかに湘裙《もすそ》をなびかせながら、客間のなかへはいってきた。燕青は立ちあがり、例の包みを机の上に置き、まず李媽媽に四拝の礼をしてから、李行首《こうしゆ》(注一)を再拝した。李師師は謙遜して、
「およしになって。わたしは年下ですもの、お受けすることはできませんわ」
燕青は礼をおわると、立ちあがって、いった。
「この前はとんだことになりまして。わたしどもも、身の置きどころもない思いでした」
すると李師師は、
「うそをおっしゃい。あのときあなたは、自分は張間《ちようかん》というもので、あのふたりの人は山東の旅の人だといったでしょう。そして、いよいよというときあの騒ぎだったでしょう。わたしが陛下にうまくとりつくろっておいたからよかったものの、ほかの人だったら、一家一門みなごろしという目にあったでしょうよ。ところで、あの人が残して行った詞《うた》(第七十二回の終り近くの詞)の、
六六の雁行《がんこう》八九を列ねて、只等《ま》つ金鶏の消息を。
という二句ですけど、あのときわたしはなにかしら気になって、おたずねしようと思っていたところへ、とつぜん陛下がお見えになり、つづいてあの騒ぎがおこったために、とうとう聞かずじまいになりましたけど、きょうはさいわいあなたがいらっしゃったから、わたしの不審を解いていただきたいと思いますの。かくしだてをしないで、ありのままをおっしゃってください。はっきりいってくださらないと、決してそのままではすましませんよ」
燕青はいった。
「では、くわしくほんとうのことをお話しいたしますが、姐さん、決してびっくりなさいませんように。この前きたあの色の黒い、背の低い、上座に坐った人が、呼保義の宋江なのです。その次の席に坐った、色白の美男の、三牙《さんが》のひげ(髭《くちひげ》・髯《ほおひげ》・鬚《あごひげ》)をはやしたあの人が柴世宗さま嫡流《ちやくりゆう》の子孫の、小旋風の柴進です。小役人の身なりをして前に立っていたのが、神行太保の戴宗で、門のところで楊太尉と殴りあいをしたのが、黒旋風の李逵。そしてわたくしは、北京は大名府《たいめいふ》の生まれで、人さまから浪子の燕青と呼ばれているものです。あのとき兄貴は東京にやってきて、あなたさまにお会いしたいというので、わたしを張間ということにして、うまくお宅にはいりこませたのです。兄貴があなたさまにお目にかかりたかったのは、色ごとが目的ではなく、かねてからあなたさまが陛下とおしたしいということを聞いていたものですから、直接お会いしてくわしく衷情を申しあげ、天に替《かわ》って道を行ない、国を保《やす》んじ民を安《やす》んじようとしている、その志のほどをお耳にいれて、はやく招安のお沙汰をいただき、庶民のなめている苦しみを除きたいとの念願からだったのです。もしそういうふうにとりはからっていただければ、あなたさまは梁山泊の数万のものの恩人でございます。いまの世は奸臣が要路につき佞臣《ねいしん》が権力をほしいままにして、賢人の世に出る道をふさぎ、下々の事情がお上《かみ》に聞こえることはありません。そのためにこちらに手づるを求めてきましたところ、はからずも、あなたさまをおどろかせるようなことになったというわけです。このたび兄貴から、お贈りするほどのものもございませんが、ほんのわずかばかり、つまらぬものを持ってまいりましたので、どうかご笑納くださいますよう」
燕青は包みをあけて机の上にならべたが、それはみな金や珠玉や貴金属のうつわものであった。かのやりて婆の好きなものは金《かね》なので、一目見るなりほくほくして、あわただしくばあや(注二)を呼んでそれをとり収めさせてから、燕青を奥の小部屋に請じて坐らせ、上等の茶菓を出して慇懃にもてなした。
元来、李師師の家には皇帝がしょっちゅう見えるので、公子や王孫や富豪の御曹子でも遠慮して、この家へあそびにくるものはなかったのである。ところで、そのとき、料理や酒やつまみものが並べられると、李師師がみずからもてなしにあたったので、燕青が、
「わたしは重罪人です。姐さんとさしむかいに坐ることなど滅相もないことで」
というと、李師師は、
「そんなことおっしゃらないで。あなたがた義士のお名前は、かねてからうわさに聞いておりました。仲に立ってあなたがたのためにとりなしをする立派な人がないために、水泊にうずもれていらっしゃるのですわね」
「この前に陳太尉が招安に見えたのですが(第七十五回)、詔書にはひと言も宣撫のお言葉がなく、さらに御酒《ぎよしゆ》までもすりかえてございました。そのつぎに招安のみことのりがありましたときには、詔書の最も大事な個所を、故意に句読を読みちがえて、『宋江を除き、盧俊義等大小人衆の犯せる所の過悪、並びに赦免を与う』と読まれたものですから、またしても帰順できなかったというわけです。童枢密が軍をひきいて攻めてきましたとき(第七十六、七回)には、ただ二度のたたかいで、よろいのかけらも帰さぬほどやっつけましたし、つぎに高太尉が天下の民を使役して船を造って攻めてきましたとき(第七十八、九、八十回)には、ただ三度のたたかいで軍の大半を討ちとり、高太尉は兄貴がいけどって山へひいて行ったのですが、殺さずに、厚くもてなして都へ送りかえし、いけどった兵士も残らず釈放したのです。高太尉は梁山泊ではっきりと誓って、朝廷へもどったならば陛下に奏上してさっそく招安にくる、といい、そこで梁山泊のふたりのものをつれて行きました。ひとりは秀才の蕭譲、ひとりは歌のうまい楽和というものですが、このふたりを家のなかに閉じこめて外に出さないようにし、多くの将兵をうしなったことについても、陛下をあざむいているにちがいありません」
「それほど金銭や糧食をつかいはたし、将兵をうしなってしまったのでしたら、とても陛下に申しあげてはおりますまい。お話は、わたし、よくわかりました。さあ、まずお酒を召しあがってください。それからご相談いたしましょう」
「わたしは生まれつきお酒がいただけませんたちで」
「遠路なかなかたいへんでございましたでしょう。おくつろぎになって、どうぞ召しあがってくださいませ」
燕青はすすめられて、ことわりきれず、一二杯、無理に相伴をした。
もともとこの李師師という女は、花柳の巷《ちまた》の遊び女で、浮気なたち。燕青が立派な男ぶりで、弁舌さわやかなのを見て、なんと、彼にへんな気をおこしはじめ、酒を酌みながらいろいろと話しかけて彼の気をひいたが、何杯か杯をかさねたところで、それとなく誘いをかけた。
燕青はきわめて怜悧な男だから、もとよりそれが通じないはずはない。だが彼は好漢たる衿恃をもっており、兄貴の大事をあやまってはならぬと考えて、あえてその誘いには乗らなかった。すると李師師は、
「兄さんはいろいろの芸ごとがおできだと、かねてから聞いておりますが、酒席のなぐさみに、ひとつ聞かせていただけないかしら」
といった。
「いくらか心得がないわけではありませんが、あなたさまの前でご披露できるようなものではありませんので」
「それではわたしがおさきに一曲吹いてお聞かせしましょう」
と李師師はいい、女中を呼んで簫をとってこさせ、錦の袋から一管の鳳簫を抜き出させた。李師師はそれを受け取ると、口にあてて軽やかに吹き鳴らしたが、まことにそれは雲を穿《うが》ち石を裂《さ》くような見事な音色。燕青はそれを聞いて、感嘆してやまなかった。李師師は一曲を吹きおわると、簫をさし出して燕青にいった。
「兄さんも一曲吹いて、わたしに聞かせてくださいな」
燕青はこの阿魔っ子の機嫌をとっておかなくてはと、やむなく手並みを見せることにし、簫を受け取って、嫋嫋《じようじよう》とまた一曲を吹き鳴らした。李師師はそれを聞いて、しきりにほめそやし、
「兄さんったら、なんとこんなにもお上手だったのね」
という。ついで李師師は阮《げん》(注三)をとり寄せて、かわいい小うたを弾《ひ》いて燕青に聞かせたが、まったくそれは、玉珮《ぎよくはい》がいっせいに鳴り、黄鶯《うぐいす》が声をそろえてさえずるようで、長く余韻《よいん》をのこしてひびいた。燕青は礼をいって、
「わたしも、おなぐさみまでに、小うたをひとつ」
と、のどをひらいてうたい出したが、まことにそれは、声は清《すが》しく韻《しらべ》は美しく、歌詞は正しく腔《ふしまわし》にもくるいはなかった。うたいおわって一礼をすると、李師師は杯をとりあげて、親しく燕青に返杯し、うたの礼をいい、なまめいた声を口のなかに纏綿させて燕青の気をひいた。燕青はかたくなって頭を垂れ、短い受けこたえを返すばかり。何杯か杯をかさねてから、李師師はほほ笑みながらいった。
「兄さんはとても見事な彫りものをしていらっしゃるとか。ちょっと見せていただけません?」
燕青は笑って、
「ちょっとした刺青をしてはおりますが、あなたさまの前で、きものをぬいで裸になったりなぞできるわけはございません」
「錦体社《きんたいしや》(刺青の同好会の名)の仲間の人たちは、どこでだってきものをぬいで裸になりますわ」
と、李師師はしきりにせがんで、どうしても見たがった。燕青がしかたなしに肌ぬぎになると、李師師はそれを見てたいへんなよろこびようで、すんなりとした玉のような手で彼の肌をさすった。燕青はあわてて、きものを着た。すると李師師はまた燕青に杯をさし、いろいろと話しかけて、そそのかす。燕青はこの女にあれこれといどまれて、のがれられなくなってはとおそれ、一計を思いついて、
「あなたさまは、ことしおいくつになられました?」
と問いかけた。李師師は、
「わたし、二十七になりますわ」
「わたくしは二十五で、二つ年下というわけです。さいわいにお目をかけてくださるのでしたら、どうか姉上として礼をお受けくださいますよう」
燕青はそういって立ちあがり、金山を推しくずし玉柱を倒すようにして、八拝の礼をささげた。
この八拝の礼こそ、この女の邪心をおしとめ、やがて立派に大事をなしとげるものとなったのである。もしほかのもので、酒色におぼれるものだったら大事を水泡に帰せしめたであろう。これによって燕青の心は鉄石のごとく、まことにあっぱれな男子であることが示されたのである。
そのとき燕青は、さらに李媽媽をも呼んで、同じく礼をささげ、義母としての礼を受けさせた。燕青が辞去しようとすると、李師師は、
「あんた、ずっと家にいらっしゃいよ。宿屋に泊まることはないでしょう」
といった。燕青は、
「それほどお目をかけてくださるのでしたら、わたくし、宿屋へ帰って荷物をとってまいります」
「あまり待たせないでちょうだいね」
「宿屋はそう遠くはありませんから、しばらくしたらもどってまいります」
燕青はひとまず李師師に別れて、まっすぐに宿屋へ行き、これまでのことを戴宗に話した。すると戴宗は、
「そいつは全くうまくいった。だが、あんたの意馬心猿《いばしんえん》をおさえきれるかどうか心配だ」
という。
「男一匹が事をおこなうのに、酒色のためにその本《もと》を忘れるようなことがあっては、禽獣となんのちがいもない。もしわたしがそんな心をおこしたら、万剣のもとに殺されよう」
と燕青がいうと、戴宗は笑いながら、
「あんたもわたしもお互いに好漢じゃないか。そんな誓いをたてるまでもなかろう」
「誓いでもたてないことには、兄貴が疑うにちがいないと思ってさ」
「さあ、早く行って、うまく機をつかみ、てっとりばやく事を成就してもどってくるように。あまり待たせずにな。宿太尉への手紙はあんたがもどってきてからとどけることにしよう」
燕青はこまごました金や珠玉や貴金属類を一包みにとりまとめて、再び李師師の家へ行き、その半分を李媽媽に贈り、半分を家のもの全部に配ったが、誰もみな大よろこびであった。さっそく客間のかたわらの一室をかたづけて燕青の居間にし、家のもの一同は彼を叔父さんと呼んだ。
やはり因縁があったのであろう、夜になると、全くうまい具合に、
「陛下が今夜お見えになります」
と使いのものが知らせにきた。燕青はそれを聞くと、さっそく李師師のもとへ行ってたのんだ。
「姉上、なんとかとりはからって、今夜わたしを陛下におひきあわせください。ご宸筆の赦《ゆる》し書きをお願いして、わたしどもの罪をゆるしていただけましたなら、ほんとうにご恩に着ます」
「今夜かならず陛下にお会わせしますから、あなたは手並み(遊芸の)をふるって陛下をおよろこばせなさいな。そうすれば赦し書きのことは案じるまでもないでしょう」
と李師師はいった。
やがて日が暮れて月がおぼろに光り、花は馥郁とかおり蘭麝《らんじや》は芬々《ふんぷん》とにおうなかを、道君皇帝はひとりの若い宦官《かんがん》をつれ、白衣(無位無官をあらわす)の秀才(書生)の姿で、地下道(注四)からまっすぐ李師師の家の裏門へお成りになり、小部屋に通って座につかれると、すぐ表も裏も門が閉じられて、ともしびがまばゆいばかりにあかあかと、ともされた。
李師師は冠をつけ髪を梳《くしけず》り、帯をしめ、衣裳をただしてお出迎えをし、うやうやしく礼をささげてご機嫌を奉伺した。すると天子は、
「そのあらたまった飾りや衣裳をとって、わたしの相手をしなさい」
と命ぜられた。李師師は仰せにしたがってよそおいをとり、部屋のなかにお迎えした。家ではすでにいろいろな高価なつまみものや珍しい料理をととのえていて、おん前に並べた。李師師が杯をとって天子におすすめすると、天子はご機嫌うるわしく、
「さあ、もっと近くにきて、いっしょに掛けなさい」
との仰せ。李師師は天子のご機嫌のよいのを見ると、進み寄って申しあげた。
「わたくしに従弟《いとこ》(注五)がございまして、小さいときから他国を流れ歩いておりましたのですが、このたびやっと帰ってまいりまして、陛下にお目にかかりたいと申しております。勝手にとりはからうわけにもまいりませんので、陛下の御意《ぎよい》を得たく存じます」
「おまえの弟ならば、さっそくつれてきてわたしに会わせるがよい。なんのかまうことがあろう」
ばあやがすぐ燕青を部屋に呼んできて、天子に会わせた。燕青は頭をさしのべて平伏の礼をした。陛下は燕青がひとかどの人物であるのを見て、まず大いによろこばれた。李師師は燕青に、簫を吹いてお上《かみ》のお酒に興を添えるようにといい、しばらくしてからまた阮を弾《ひ》かせ、さらにそのあとで、曲《うた》をうたうようにといった。燕青は再拝の礼をして、
「存じておりますのは、いずれもみな淫らな詞《うた》や艶《つや》めいた曲《しらべ》のものでございまして、お上にお聞きいただけるようなものではございません」
と言上した。すると陛下は、
「わたしがひそかに妓楼にくるのは、そのような艶めいた曲を聞いてうさを晴らしたいからなのだ。決して遠慮するにはおよぱぬ」
との仰せ。そこで燕青は象牙の板《はん》(拍子をとる楽器)を借り受け、再拝の礼をしてから、李師師のほうにむかって、
「ふしまわしをまちがえましたら、どうか姉上、おっしゃってください」
といい、燕青はのどを大きくひらいて、象牙の板を手にしながら漁家傲《ぎよかごう》の曲をうたった。その詞《うた》は、
一たび家山に別れてより、音信杳《よう》たり。百種の相思《そうし》、腸断《ちようだん》何れの時にか了《おわ》らん。燕子来《きた》らず花も又老い、一春痩《や》せ的《え》て腰児も小《ほそ》し。薄倖の郎君何れの日にか到る、想う当初より相逢《あ》うを要《もと》むること莫《な》かりせば好《よ》からんと。好夢成らんと欲《し》て還って又覚《さ》むれば、緑〓に但《ただ》鶯の暁に啼くを覚《おぼ》ゆるのみ。
燕青はうたいおわった。まことにそれは春さきの鶯のさえずるようで、清らかな余韻を長くただよわせた。天子はことのほかのおよろこびで、もういちどうたうようにとの仰せ。燕青は床《ゆか》の上にひれ伏して、
「わたくしの作りましたもので、木蘭花《もくらんか》(曲の名)の字たらずの詞《うた》がございますが、お聞きいただきたいと存じます」
「よろしい。聞かせてもらおう」
燕青は礼をして、さっそく字たらずの木蘭花の曲をうたい出した。その詞は、
哀告を聴け、哀告を聴け。賤躯《せんく》の流落《りゆうらく》誰か知道《し》らん、誰か知道らん。天を極め地を罔《なみ》し、罪悪は顛倒を分《わか》ち難し。人有りて火〓の中より提《たす》け出《いだ》さば、肝胆《かんたん》常に忠孝を存し、常に忠孝を存して、朝《ちよう》に有って須《すべから》く大恩人を把《と》って(大恩人に)報《むく》ゆべし。
燕青がうたいおわると、天子はおどろいて、
「その方はどんなわけがあって、そのようなうたを作ったのか」
とたずねられた。すると燕青は、わっと哭《な》き出して、床の上にひれ伏した。天子はいよいよ不審に思われて、
「さあ、胸のなかのことを申し述べてみるがよい。わたしがなんとかとりはからってあげよう」
「わたくしは大それた罪のある身でございます、申しあげることは憚《はばか》られます」
「罪をゆるしてつかわすゆえ、かまわずに申し述べてみよ」
「わたくしは幼少のころから世間をさすらい、山東へ流れて行きまして、旅商人たちといっしょに梁山泊のほとりを通りかかりましたところ、つかまえられて山へつれて行かれ、そのまま三年間そこにおりました。このたびようやくのがれて都へもどり、姉上に会うことができましたものの、街へ出て行くわけにはいかないのでございます。もし誰かに見つかって役人に知らせられでもしましたら、そのときはどうにも申し開きができませんので」
李師師も口添えをした。
「弟はただもうそのことばかり苦にしております。陛下、なにとぞお力を添えてやってくださいませ」
天子は笑いながら、
「それはわけもないことだ。おまえは李行首の弟、誰にもおまえを捕らえさせはせぬぞ」
燕青は李師師にめくばせをした。すると李師師は媚《こび》をいっぱいにふくんで天子にいった。
「陛下お手ずから、弟をゆるすという赦《ゆる》し書きを書いていただけますならば、弟も安心できるのですけど」
「だが、ここには玉璽《ぎよくじ》もなし、どうして書くのだ」
「陛下お手ずからのお筆は、玉宝の天符《おふだ》よりもあらたかでございます。弟の身を救うお守りをつくっていただけますならば、わたくしが陛下にお近づきを得た甲斐もあるというものでございます」
天子は李師師にせがまれてことわることもできず、しぶしぶ、筆と紙を持ってくるように命ぜられた。ばあやがすぐ文房四宝(筆紙墨硯)をささげてきた。燕青が墨を濃く磨《す》り、李師師が象牙の管《じく》の紫毫《しごう》(注六)の筆をさし出すと、天子は花模様の黄色い詩箋をひろげ、横のほうに一行に大書しようとされたが、筆をおろすときになって、あらためて燕青にたずねられた。
「その方の名前はなんといったかな」
「わたくし燕青と申します」
と燕青が答えると、天子はすぐ次のように書かれた。
神霄《しんしよう》の玉府《ぎよくふ》(天宮)の真主、宣和《せんな》の羽士《うし》(道士)、虚靖道君《きよせいどうくん》皇帝、特に燕青本身を赦《ゆる》して、一応(すべて)無罪とす。諸司の拿《とら》え問うことを許さず。
書きおわると、下のほうに花押《かおう》をしるされた。燕青は再拝の礼をし、叩頭してお受けした。李師師は杯をささげて陛下のご恩を謝した。天子は、
「おまえは梁山泊にいたのなら、その内情をよく知っているであろうな」
とたずねられた。そこで燕青が、
「宋江たち一味は、その旗には、替天行道(天に替って道を行なう)と大書し、堂には忠義という名をつけております。州府を攻め取るようなことはいたしませず、また良民を苦しめるようなこともいたしません。ただ貪官汚吏《たんかんおり》や讒佞《ざんねい》の徒をあやめるだけでございまして、早く招安にあずかることを待ち望み、国家のために力をつくしたいと願っておるようでございます」
と答えると、天子には、
「わたしはこれまでに二度、詔勅をくだし招安の使者をつかわしたが、はねつけて帰順しようともしなかったのはどうしてであろう」
との仰せ。燕青は、
「はじめの招安のときには、詔書に一言の宣撫のお言葉もなく、しかも御酒まですっかり田舎の地酒にすりかえられていたのでございます。そのために事が破れましたので。二度目の招安のときには、故意に詔書の句読を読みちがえ、宋江を除こうとしてひそかにひどいことをたくらみました(注七)。そのためにまたもや事が破れてしまったのでございます。童枢密が軍をひきいてまいりましたときは、ただ二度のたたかいで、よろいのかけらも帰れぬほど討ち破られましたし、高太尉が軍を指揮し、天下の民草を使役して戦船を造って攻めましたときには矢一本の損害もあたえることができずに、ただ三度のたたかいでさんざんに討ち破られ、三分の一の兵をうしなって、自分もいけどりにされて山へつれて行かれたのですが、招安をとりはからうという約束をしてようやく帰してもらったという次第でございます。そしてそのとき山のものをふたりこちらへつれてまいったのでございますが、そのかわりに聞参謀をむこうの人質においてまいりましたので」
天子はそれを聞くと、嘆息して、
「わたしはそのようなこととはまるで知らなかった。童貫が都に帰ってきたときには、兵が暑熱に慣れませぬゆえ、しばらく軍を収めていくさを中止いたします、と申したし、高〓が都に帰ってきたときには、病のために軍を進めることができませぬゆえ、ひとまずいくさを中止してもどってまいりましたと申しただけだったが」
李師師が、
「陛下がいかにご聡明でも、九重《きゆうちよう》(宮居。ここのえ)の奥深くにいらっしゃって、奸臣どもに賢路をふさがれては、ほんとうにどうにもなりませんわね」
というと、天子はしきりに嗟嘆された。
ようやく夜も更《ふ》けてきたので、燕青はお赦し書きをいただき、叩頭して挨拶を申しあげ、ひきさがって床《とこ》についた。天子は李師師といっしょにやすまれた。
その夜の五更(明けがた、四時)、内侍の宦官が迎えにきて天子をおつれして行った。燕青は起きるなり、朝のうちに用があるからといいつくろって、ただちに宿屋へ行き、これまでのことを戴宗にくわしく話した。すると戴宗は、
「そういうことなら、きっとうまくいくだろう。それではふたりで宿太尉に手紙をとどけに行こう」
という。燕青は、
「飯を食ってからだ」
といった。ふたりは朝食をすませてから、金や珠玉や貴金属類を籠につめ、手紙をたずさえてまっすぐに宿太尉の屋敷へ行った。街で人に聞いてみると、
「太尉さまは内裏においでで、まだお帰りになってはいませんよ」
とのこと。燕青が、
「いまごろはちょうど退朝どきだが、どうしてまだお帰りにならんのでしょうな」
とたずねると、その人は、
「宿太尉さまは陛下お気にいりの近侍のお役人で、いつもおそばにつき添っておいでですから、いつ帰ってみえるかわからないのですよ」
そんなことを話しているところへ、
「ほら、あそこへ太尉さまが見えますよ」
と誰かが教えた。燕青は大よろこびで、戴宗にむかっていった。
「兄貴、あんたはお屋敷のそこの門のところで待っていてください。わたしは太尉に会いに行ってくるから」
燕青が近づいて行くと、錦衣花帽の従者たちの一群が、轎《かご》をまもってやってくるのが見えた。燕青は往来にひざまずくなり、
「わたくし、太尉さまに奉る手紙を持っております」
といった。宿太尉はそれを見て、
「ついてまいれ」
と声をかけた。燕青は広間の前までついて行った。太尉は轎をおり、横の書院へ通って席についた。太尉は燕青をなかへ呼んで、さっそくたずねた。
「その方はどこからよこされた用人か」
「わたくしは山東からまいりましたので。ここに聞参謀どのからの手紙をあずかってまいりました」
「聞参謀というのは誰かな?」
燕青はさっそく、ふところから手紙をとり出して、さし出した。宿太尉は封のおもてを見て、
「聞参謀とは誰のことかと思ったら、若いときの同〓《どうそう》の聞煥章だったのか」
といい、さっそく封を開いて読んでみると、こう書かれていた。
侍生《じせい》(注八)聞煥章沐手《もくしゆ》百拝して書を奉る
太尉恩相鈞座前《きんざぜん》(注九)。賤子髫年《ちようねん》(注一〇)の時より、門牆《もんしよう》に出入し、已に三十戴《さい》なり。昨、高殿帥の召を蒙って軍前に至り、大事を参謀するも、奈縁《いかん》せん勧諫するも従われず、忠言するも聡《き》かれず、三番敗績《はいせき》して、之を言うこと甚だ羞《は》ず。高太尉と賤子と、一同に〓《とら》え被《ら》れ、縲絏《るいせつ》(注一一)に陥るも、義士宋公明、寛裕仁慈にして、害を加うるに忍びず。今、高殿帥、梁山の蕭譲・楽和を帯領して京に赴き、招安を請わんと欲して、賤子を留めて此《ここ》に在りて質当《しつとう》(人質)とす。万望す、恩相歯牙《しが》を惜しまず(言を惜しまず)、早晩天子の前に於て題奏し、速かに招安の典を降《くだ》し、義士宋公明等をして早く罪を釈《ゆる》され、恩を獲《え》、功を建て業を立つることを得せ俾《し》むれば、国家の幸甚《こうじん》、天下の幸甚にして、(また)賤子を救取し、実に再生の賜《たまもの》を領せん。楮《ちよ》(紙)を払うこと拳拳《けんけん》、幸に照察を垂れよ。
宣和四年春正月 日
煥章再拝奉上
宿太尉は手紙を読みおわると、大いにおどろいて、さっそくたずねた。
「おまえは誰なのだ」
「わたくしは梁山泊の浪子の燕青というものです」
燕青はそう答えて外へ出て行き、籠を持って書院にもどってきた。
「太尉さまが華州へご参詣にまいられましたとき(第五十九回)には、いろいろとご用をいたしましたのに、もうお忘れでございましょうか。これは宋江兄貴からのつまらないものでございますが、兄貴のほんの志のしるしまでにお贈りいたします。兄貴は毎日うらないをたてて祈り、太尉さまにひきたてていただき救い出していただけるようひたすら望んでおります。宋江以下一同、ただただ、太尉さまが招安にきてくださることを待ち望んでいるのです。あなたさまがもし近いうちに天子の御前にこのことを奏上してくださいますならば、梁山泊十万のものはみな、どれほどその大恩をありがたく思いますことか。兄貴からきびしく日を限られておりますので、わたくしはこれにてお暇《いとま》させていただきます」
燕青は挨拶をして屋敷を出た。宿太尉は部下のものに金や珠玉や宝物をとりおさめさせたが、すでに心には期するところがあった。
さて、燕青は、さっそく戴宗とともに宿屋に帰って相談をした。
「ふたつのことはどちらも片がついたが、高太尉の屋敷にいる蕭譲と楽和は、どうしたら救い出せよう」
「お互いにもとどおり役人(注一二)になりすまして、高太尉の屋敷の前へ行って様子をさぐることにしよう。屋敷のなかから誰か出てきたら、少しばかり金銀をつかってまるめこみ、うまく(蕭譲と楽和に)会って消息を通じておけば、何とか打つ手があろう」
と戴宗はいった。
さっそくふたりは身なりをあらため、金銀を持って、まっすぐに太平橋のほうへ行き、屋敷の門の前でしばらく様子をうかがっていた。と、屋敷のなかから、ひとりの若い虞候(用人)が、威張って出てきた。燕青がすぐ進み寄って礼をすると、その虞候は、
「おまえはいったい誰だね」
といった。
「ご用人さん、ちょっと茶店までご足労ねがってお話しいたしたいのですが」
と燕青はいい、ふたりで茶店の小部屋へはいって行って、戴宗にひきあわせ、いっしょに坐ってお茶を飲んだ。燕青は切り出した。
「ご用人さん、率直に申しますが、じつはこのまえ太尉さまが梁山泊からつれて見えたふたりのもののうち、従者のほうの楽和というのが、わたしのこの兄貴の親戚のものなのでして。ひと目会わせていただきたいと思いまして、それでご用人さんにおたのみする次第なのです」
「おふたりさん、そんなこといったってだめだ。奥深い節堂《せつどう》のことだから、どうするわけにもいきませんよ」
と虞候はいった。戴宗はそこで、袖のなかから大銀一錠をとり出して机の上に置き、虞候にむかっていった。
「なんとか楽和をつれてきて、ちょっとだけ会わせてください。門の外までもつれ出していただかなくて結構なんです。そうしてくださればこの銀子をあなたにさしあげましょう」
その男は金《かね》を見ると、にわかに心を利にくらませて、
「たしかにそのふたりのものは、なかにいる。太尉さまのご命令で、裏のお庭のほうにかくして寝泊まりさせているのだが、呼び出してきてあげるから、話がすんだら、約束どおり銀子をくれるだろうな」
といった。
「それは勿論です」
と戴宗がいうと、その男は腰をあげて、
「あんたたちふたりは、この茶店で待っているんだぜ」
といいつけて、急いで屋敷のなかへはいって行った。戴宗と燕青が茶店で待っていると、半時《はんとき》もたたぬうちに、その若い虞候はあたふたともどってきて、
「さあ銀子をもらおう。楽和はちゃんと脇部屋へ呼び出しておいたよ」
戴宗は燕青の耳もとでささやいた。
「かくかくしかじかにな」
そして銀子を男にわたした。虞候は銀子を受け取ると、すぐ燕青を脇部屋へつれて行って楽和に会わせた。虞候は、
「はやいとこ話をすませて別れるんだぜ」
といった。燕青はさっそく楽和に話した。
「戴宗といっしょにこっちでたくらんで、あんたたちふたりをうまく抜け出させるからな」
「われわれふたりを裏庭のなかへかくしていやがるんだが、塀は高くてどうにもならんし、植木梯子までみんなかくしてしまやがったので、とても抜け出られないんだ」
「塀のそばに木があるだろう」
「ずらりと大きな柳の木が並んでいるよ」
「それじゃ今夜暗くなったら、咳《せき》ばらいを合図に、わたしが外から縄を二本投げこむから、あんたは近くの柳の木にそれをくくりつけてくれ。われわれふたりは塀の外で一本ずつひっぱっているから、あんたたちふたりはその縄によじのぼって出てくるんだ。時刻は四更(夜二時)にするから、まちがいのないようにな」
かの虞候がそのときいった。
「ふたりともいつまでもなにを話してるんだ。はやく行けよ」
楽和はもどって行って、ひそかに蕭譲に知らせた。燕青も急いで帰って戴宗に話し、その日、夜になるまで待つことになった。
さて燕青と戴宗のふたりは、街で太い縄を二本買って、ふところにかくし、まず高太尉の屋敷の裏へ行って足場にするところをさがした。屋敷の裏の近くには川があったが、その川辺に空舟《あきぶね》が二艘、岸からあまり遠くないところにつないであった。ふたりはそこで、その空舟のなかにかくれた。
やがて時の太鼓が四更を告げた。ふたりはすぐ岸へあがり、塀の外をめぐりながら咳をした。と塀の内側からもそれにこたえて咳ばらいが聞こえた。かくて双方が互いに意を通じあうと、燕青が縄をとり出して投げわたした。内側でそれをしっかりくくりつけたころを見はからって、ふたりは外で結びあわせ、きつく縄の端を引っぱった。とまず楽和がよじのぼってき、つづいて蕭譲があらわれて、ふたりともすべりおりた。そこで縄を塀の内側へ投げこみ、宿屋へ行って門をたたき開け、部屋から荷物をとり出し、宿の調理場で火をおこし、朝食をこしらえて食べ、宿賃をはらってから、四人は城門のほうへ行き、門があくが早いかいっせいに外へ出て、梁山泊へ消息を知らせに帰った。この四人が帰ったことから、やがて宿太尉がひとりでこのこと(注一三)を奏上し、梁山泊が全員招安を受けることになるのである。さて宿太尉はどのようにして聖旨をお受けするか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 行首 第七十二回注四参照。
二 ばあや 原文は〓子。乳母、母、姉などの意味もある。
三 阮 竹林の七賢のひとり阮咸《げんかん》の作った楽器で、月琴の一種。創製者の名をとって阮咸といい、略して阮ともいう。
四 地下道 第七十二回注一四参照。
五 従弟 原文は姑舅兄弟。姑舅は、いとこ。兄弟は、おとうと。つまり年下の、男のいとこ(従弟)である。
六 紫毫 兎の紫色の毛で作った筆。白居易の『紫毫筆楽府』にいう、「紫毫の筆、尖れること錐の如く、利《するど》きこと刀の如し。江南の石上に老兎あり、竹を喫い泉を飲んで紫毫を生ず。宣城の工人採って筆を為《つく》り、千万の毛中に一毫を択ぶ」と。
七 ひどいことをたくらみました 原文は蔵弊倖。弊倖を蔵す。弊は奸悪、倖はもとるの意に解して、こう訳した。
八 侍生 本来は後輩が先輩に対して用いる自称であるが、同種の他の言葉と同じく、その関係にかかわりなく相手に対する敬意を示すために用いられる。
九 鈞座前 おん許《もと》に、の意。書簡に用いる尊称の言葉。
一〇 髫年 髫は垂れ髪。幼児の髪であることから、幼年のことを髫年という。
一一 縲絏 第五十八回注一参照。
一二 役人 原文は山人となっているが、百回本に公人とあるのに従った。
一三 このこと 燕青が宿太尉に訴えたこと、のようにもとれるが、次回を見ればそうでないことがわかる。すなわち、招安の使者となることである。
第八十二回
梁山泊《りようざんぱく》 金を分《わか》ちて大いに買市《ばいし》し
宋公明《そうこうめい》 全夥《ぜんか》もて招安《しようあん》を受く
さて燕青は李師師の家でたまたま道君皇帝にお目にかかって、一身のお赦《ゆる》し書きを願い受けてから、宿太尉に会い、さらにまた戴宗とともにたくらんで、高太尉の屋敷からまんまと蕭譲および楽和を救い出し、四人で城門のあくのを待ちかねてすぐ城外へ出、いっさんに梁山泊へ馳せ帰って、以上のことを報告したのである。
一方、李師師は、その夜燕青が家に帰ってこないので、内心いささか不審に思っていた。また一方、高太尉の屋敷では、近侍のものが翌日蕭譲と楽和のところへ食事をはこんで行ったところ、部屋のなかにふたりがいないので、あわてて都管に知らせた。都管がすぐ庭に行って見ると、柳の木に太い縄が二本くくりつけてあって、ふたりが逃げてしまったことがわかり、仕方なく太尉に報告した。高〓は知らせを聞くと愕然とし、ますます憂慮して、屋敷にとじこもったまま病《やまい》と称して外へ出なかった。
翌日の五更、道君皇帝は朝見《ちようけん》のため文徳殿にお出ましになった。文武の百官が列を正してひかえると、天子は簾《すだれ》を捲きあげよと仰せられ、近侍のものにご下命あって、枢密使の童貫を列から進み出させ、
「その方は昨年、十万の大軍をひきい、みずから招討(注一)となって梁山泊を攻めたが、勝敗はどうであったのか」
と下問された。
童貫はひざまずいておこたえした。
「わたくし旧年、大軍をひきいて討伐におもむきました際、決して力をつくさなかったわけではございませんが、いかんせん暑さきびしく、兵は風土になじみ得ず、病《やまい》にかかるものが続出いたしまして十人のうち二三人は斃《たお》れるというありさま。わたくしは兵のこの艱難《かんなん》を見て、ひとまず軍を収め戦《たたかい》をやめ、それぞれ本営に帰らせて調練をさせることにしたのでございます。御林軍《ぎよりんぐん》(近衛)の各隊も途中で病にかかり、多くの兵力がうしなわれました。その後、(再び)詔勅が降されましても、賊どもは招撫にしたがわず、高〓が船軍をひきいて討伐にむかいましたが、おなじく途中で病にかかってひき返してきたのでございます」
天子は激怒して、荒々しくいわれた。
「すべてその方ら賢《けん》を妬《ねた》み能《のう》を嫉《そね》む奸佞《かんねい》の臣が余をあざむいての仕業だ。その方、昨年、兵をひきいて梁山泊を攻めた際、ただ二度のたたかいで賊兵に斬りまくられて敗退し、よろいのかけら一つ、馬一頭ももどらぬまでにわが王師《おうし》を敗戦せしめたのは、いかなるわけだ。ついでまた高〓めも、州郡の厖大な銭糧をつかいはたし、莫大な軍船をうしない、多数の兵をそこなったうえ、みずからも賊にいけどられて山へひいて行かれたのだが、宋江らが殺さずに釈放してよこしたのではないか。聞くところによれば、宋江らの一味は、州府を侵すことなく、良民を掠《かす》めることなく、ひたすら招安を待ち望んで、国家のために力をつくそうとしているとのこと。すべてはその方ら不才貪佞《たんねい》の臣が、よこしまに朝廷の爵禄を受けて、国家の大事を破っているのだ。その方は枢密使でありながら、みずからそれを恥ずかしいとは思わぬか。本来ならば捕らえて裁くべきところであるが、このたびはひとまず見のがしてつかわそう。再びあやまつようなことがあれば容赦はせぬぞ」
童貫は一言もなく、片脇へひきさがった。天子はついで、
「その方ら大臣のなかで、誰か梁山泊の宋江ら一味のものを宣撫しに行くものはおらぬか」
と下問された。そのお言葉のまだおわらぬうちに、侍従の太尉の宿元景が列から進み出てひざまずき、
「わたくし、およばずながら、なにとぞおつかわしくださいますよう」
と奏上した。天子は大いによろこばれて、
「では、みずから詔書をしたためよう」
と、さっそく御案《ぎよあん》(お机)をはこび出させ、詔書の紙をひろげて、天子は御案の上で手ずから詔書をしたためられた。近侍のものが玉璽《ぎよくじ》をささげ出すと、天子はみずから捺印された。ついで庫蔵《く ら》係りの役人に、金牌(注二)三十六面、銀牌(注三)七十二面、紅錦三十六疋、緑錦七十二疋、および黄封(黄色い封《ふう》。黄は天子の色)の御酒一百八瓶をとりそろえさせて、宿太尉にわたし、さらに正と副の服地二十四疋と、金文字で招安としるした御旗一面を贈られ、日を限って出発するよう命じられた。宿太尉は天子に挨拶をして文徳殿をさがり、百官も退朝した。童枢密はすっかり恥じ入り、屋敷へひきさがったまま病と称して参内をせず、高太尉もこのことを聞いて大いにおそれ入り、やはり参内を見あわせた。
このところをうたった詩がある。
一封の恩詔は明光を出《いだ》し
佇《たたず》んで看る梁山尽《ことごと》く束装するを
懐柔は征伐に勝《まさ》れるを知道す
悔《く》ゆらくは赤子《せきし》を教《し》て痍傷《いしよう》を受けしめしを
さて宿太尉は、御酒および金牌銀牌、錦や服地などを荷づくりすると、馬に乗って城をあとにし、恩賜の金文字の黄旗をおしたて、南薫門《なんくんもん》外に諸官の見送りを受けて、済州にむかって出発したが、このことはそれまでとする。
ところで、燕青・戴宗・蕭譲・楽和の四人は、急いで山寨へ帰って、事の次第をくわしく宋公明ならびに頭領たちに報告した。燕青はまた道君皇帝ご宸筆の赦《ゆる》し書きをとり出して、宋江たちに見せた。呉用は、
「こんどは必ず、よい便りがありましょう」
といった。宋江は名香を焚きくすべ、九天玄女の天書をとり出し、天に祈って卜《うらない》をたてたところ、上々大吉の兆《しるし》を得た。宋江は大いによろこんで、
「こんどはまちがいなく成就する」
といい、再び戴宗と燕青をわずらわし、様子をさぐりに行って急いで報告をさせ、それによって準備をととのえることにした。戴宗と燕青は出かけてから数日すると、もどってきて報告をした。
「朝廷では宿太尉を使者にたてて勅書を託され、さらに御酒や金牌銀牌や紅錦緑錦や服地などをもって招安によこされ、もうじき到着されるころです」
宋江はそれを聞いて大いによろこび、忠義堂上であわただしく命令をつたえ、人々を手分けして、梁山泊からずっと済州にいたる間に二十四の山棚《さんほう》(飾り屋台《やたい》)を組み立て、その上面にはいちめんに綵絹《いろぎぬ》や造花を飾りつけ、下には笙簫《ふ え》や太鼓の座を設けて、近くの州郡の各地から楽人をやとってきて各山棚にふりわけ、詔勅の奉迎にあたらせることにし、山棚ごとに小頭目ひとりを配して監督させ、一方ではまた手分けをして、つまみもの・海のもの・酒のさかな・乾《ほ》しものなどを買いにやって、酒盛りや食事の席の用意をさせた。
一方、宿太尉は勅を奉じて梁山泊へ招安にむかったが、一行の人馬がはるけくも済州に到着すると、太守の張叔夜は郊外まで出迎え、城内にみちびいて駅舎に休ませた。太守は宿太尉に挨拶をのべてから、接風酒(注四)をすすめ、
「朝廷から詔勅がくだされて、すでに二度も招安に見えましたが、然るべき人を得なかったために、国家の大事を誤られました。このたびは太尉どののお出ましでございますから、必ずや国家のために大功をたてられることと存じます」
張叔夜がそう申しのべると、宿太尉は、
「陛下には、このほど、梁山泊の一党が義を旨《むね》とし、州郡を侵すことなく、良民を害《そこな》うことなく、天に替《かわ》って道を行なうことを標榜していると聞かれ、このたびわたしに、お手ずから書かれた詔書を託され、金牌三十六面・銀牌七十二面・紅錦三十六疋・緑錦七十二疋・黄封の御酒一百八瓶・服地二十四疋を下賜されて、招安につかわされたというわけですが、礼物はこれだけでどうでしょうか」
「あの一党のものは、礼物の軽重など問題にしてはおりません。忠義を国につくし、名を後世に揚げようと志しているのです。もし太尉どのがもっと早くおいでになりましたならば、国家も将兵を損失することなく、銭糧を空費することもなくてすんだことでございましょう。あの義士たちは、帰順しましたならば、必ず朝廷のために立派な功績を立てることでしょう」
「わたしはここで待つことにしますから、ご苦労ですがあなたに山寨へおいで願って、詔書奉迎の準備をするようおつたえくださいませんか」
「よろこんでまいります」
と張叔夜は答え、さっそく馬に乗って城を出、十数人の従者をしたがえて一路梁山泊へとむかった。麓まで行くと、早くも小頭目が出迎えにきて、山寨へ知らせに行った。宋江はそれを聞くと急いで山をおり、張太守を迎えて山上へみちびき、忠義堂にはいって対面の礼をかわした。
張叔夜はいった。
「義士、おめでとうございます。朝廷では特に近侍の宿太尉を使者にたて、ご宸筆の詔書を託して招安によこされ、金牌・服地・御酒・錦などを下賜されることになって、すでに済州の城内に見えております。聖旨をお受けする準備をなさいますよう」
宋江は大いによろこび、手を額《ひたい》にあてて、
「まことに、わたくしども再生のよろこびでございます」
といい、さっそく、張太守をひきとめて一席設けようとした。だが張叔夜は、
「おことわりするのは本意ではありませんが、おそくなりますと太尉どののおとがめをこうむりますので」
といった。
「ほんの一献さしあげますだけで、大したことをするわけではございません」
宋江はそういったが、張叔夜はかたく辞退して帰ろうとした。そこで宋江は、急いで盆いっぱいの金銀を持ってこさせて贈ろうとした。張太守はそれを見るや、すぐ、
「それは、お受けするわけにはいきません」
という。
「ほんのわずかな、志ばかりのものです。いずれ事が落着いたしましたときには改めてお礼をいたします」
「ご厚意のほどはまことにありがとうございますが、ひとまず山寨におあずけしておいて、改めてまた頂戴にあがることにいたしましょう」
太守こそ、清廉《せいれん》もって己を律する者というべきである。これをうたった詩がある。
済州の太守世に双《ならび》無し
黄金を愛せず宋江を愛す
信《まこと》に是れ清廉は能《よ》く衆を服す
威勢に関《よ》って招降す可きに非ず
宋江はそこで、大小の軍師たる呉用と朱武、ならびに蕭譲と楽和の四人をつかわして、張太守といっしょに下山してまっすぐに済州へ行き、宿太尉に目通りさせることにした。そして翌々日になったら、大小の頭目たち全員、山寨から三十里さきのところで、道端に伏して奉迎することに決めた。
そのとき呉用らは、太守の張叔夜について急いで下山して、まっすぐに済州へ行き、翌日、駅舎へ行って宿太尉に目通りし、礼をおさめてその前にひざまずいた。宿太尉は立ちあがらせて、それぞれ席につくようにといった。四人は謙遜して、あえて席につかなかった。太尉が名前をたずねると、呉用が答えた。
「わたくしは呉用と申します。つぎにおりますのが朱武と蕭譲と楽和でございます。兄貴の宋公明にいいつかりまして、ここにあなたさまをお出迎えにまいりました。兄貴と兄弟たち一同は、明日(注五)、山寨から三十里のところで道端に伏してお迎え申しあげます」
宿太尉は大いによろこんで、いった。
「加亮《かりよう》先生(呉用の道号。第十四回に見える)、華州でお別れしてから(第五十九回)すでに数年たちましたが、はからずも今日再ぴお会いすることができました。わたしは、あなたがた兄弟の人たちが、かねがね心に忠義をいだきながら奸臣どもに道をふさがれ、讒佞の徒がほしいままに権力をふるって、あなたがたに、下情《かじよう》を上聞に達することをできなくさせていたことを知っております。このたび陛下には、そのことをご存じになり、特にわたしにお命じになって、お手ずから書かれた詔書と、金牌銀牌・紅錦緑錦・御酒・服地などを託されて、招安におつかわしなさったのです。あなたがたも決してお疑いなく、誠意をつくしてお受けくださるよう」
呉用らは再拝してお礼をのべた。
「山野の狂夫(注六)たるわたくしどもが、あなたさまのお出ましをかたじけのうし、光栄にも天恩に浴させていただけますのは、ひとえに太尉どののお蔭でございます。兄弟たち一同、骨に刻み心に銘じて、このお報いするすべもないほどの大恩を忘れることはございません」
張叔夜はまた一方では宴席を設けて四人をもてなした。
三日目の朝になると、済州では三台の香車(注七)を仕立て、御酒はまとめて竜鳳の模様の盒《はこ》におさめ、金牌銀牌・紅錦緑錦はまた別にひとまとめにし、詔書は竜亭(注八)に奉安された。宿太尉は馬に乗り、竜亭につき添って先に進み、太守の張叔夜は騎馬でそのうしろに従った。呉用ら四人も馬に乗ってあとにつづいた。大小の供のものはいっせいにこれを護りたてて行く。先頭の馬には恩賜の金箔の黄旗をおし立て、金鼓と旗旛の隊伍が先払いをしつつ、済州をあとに蜿蜒と進んで行った。
十里も行かぬうちに、早くも奉迎の山棚があった。宿太尉が馬上から眺めると、その上面には綵絹《いろぎぬ》や造花を飾りつけ、下では笙簫《ふ え》や太鼓を鳴らして、道端に奉迎している。さらに数十里ちかく行くと、そこにも綵絹の山棚があって、はるかに香の煙が道端に立ちのぼっているのが見え、宋江と盧俊義が前のほうにひざまずき、そのうしろには頭領たち一同が整然と平伏して、詔書を迎えていた。宿太尉は、
「みなを馬に乗らせるよう」
と声をかけた。
一同が湖のほとりまで案内して行くと、かの梁山泊の千余艘の戦船が、いっせいに湖をわたして金沙灘に上陸させた。三つの関門の上にも下にも、にぎやかに鼓楽が奏され、兵士らが迎え、儀仗が列《つら》なり、名香のただようなかを、一行はずっと登って行って忠義堂の前で馬をおりた。香車と竜亭は忠義堂のなかに舁《か》きあげられた。そこには机が三つ置いてあったが、いずれも竜鳳の模様の黄色い絹の机掛けがかけてあって、まんなかには万歳《てんし》の竜牌(天子の形代《かたしろ》)が置いてあった。ご宸筆の詔書はそのまんなかの机に、金牌と銀牌は左の机に、紅錦と緑錦は右の机に置かれ、御酒と服地はその前にならべられた。金の香炉には名香がくすべられていた。宋江と盧俊義は、宿太尉と張太守を堂上に請じて座につかせた。その左側には蕭譲と楽和が侍立し、右側には裴宣と燕青が侍立した。宋江・盧俊義ら一同は、うちそろって堂前にひざまずくと、裴宣が、
「礼」
といった。礼をおわると、蕭譲が詔書を開読した。
制して曰《い》う。朕《ちん》即位してより以来、仁義を用いて以て天下を治め、賞罰を公にして以て干戈《かんか》を定む。賢を求むること未だ嘗て少《しばら》くも怠らず、民を愛すること及ばざるを恐るるが如くす。遐邇《かじ》(遠近)の赤子《せきし》(民)咸《みな》朕が心を知る。切《まこと》に念《おも》うに、宋江・盧俊義等、素より忠義を懐《いだ》き、暴虐を施さず・帰順の心已《すで》に久しく、報効の志凜然《りんぜん》たり。罪悪を犯すと雖も、各由《よ》る所有り、其の衷情を察するに、深く憐憫《れんびん》す可し。朕今《いま》特に殿前の太尉宿元景を差《つか》わし、詔書を齎捧《せいほう》して、親しく梁山水泊に到らせ、宋江等大小人員の犯せる所の罪悪を将《もつ》て、尽行《ことごとく》赦免し、金牌三十六面、紅錦三十六疋を給降して、宋江等上頭領《じようとうりよう》に賜与し、銀牌七十二面、緑錦七十二疋を、宋江部下の頭目に賜与す。赦書の到る日、朕が心に負《そむ》くこと莫《な》く、早々に帰順せよ、必ず当《まさ》に重用すべし。故《とく》に茲《ここ》に詔して赦す。想うに宜《よろ》しく悉知すべし。
宣和四年春二月 日 詔示
蕭譲が詔書を読みおわると、宋江ら一同は万歳《ばんざい》を唱え、再拝の礼をして聖恩を謝した。宿太尉は金牌と銀牌、紅錦と緑錦をとりおろし、裴宣に命じて、順次に名前どおりに分けさせた。それがすむと御酒の封をあけさせ、銀の酒海(酒槽《さかぶね》)をとり寄せて、ことごとくそのなかにあけ、さっそく酒《さか》柄杓《びしやく》に酌ませ堂前であたためて、銀の壺に移させた。そこで宿太尉は、金の杯をとりあげて一杯酌みとると、頭領たちにむかっていった。
「わたしは君命を奉じてわざわざ御酒をここに持ってまいり、頭領ご一同にさしあげるわけですが、あるいはみなさんがお疑いなさるかも知れませんので、わたしがまずこの一杯を乾してみなさんにお見せし、ご懸念のないようにいたしましょう」
頭領たちは感謝してやまなかった。宿太尉は飲みおわると、また一杯酌んで、まず宋江にすすめた。宋江は杯をおしいただき、ひざまずいて飲んだ。そのあとで、盧俊義・呉用・公孫勝とつぎつぎに飲み、一百八人の頭領たちがみな漏れなく一杯ずつ飲んだ。宋江は命令をくだして、御酒をとり収めさせてから、太尉を請じてまんなかの座につかせ、頭領たち一同にお礼の挨拶をさせた。宋江は進み出て感謝の言葉を述べた。
「わたくし、かつて西嶽にてご尊顔を拝したことがございますが、このたびはまた、ひとかたならぬご恩にあずかり、陛下のご前にいろいろとおとりなしをかたじけのうして、わたくしどもに再び天日を仰ぐことのできるようおはからいくださいました大恩は、心に銘じ骨に刻んで終生忘れることはございません」
宿太尉はいった。
「わたしも、義士のみなさんが忠義凜然《りんぜん》として、天に替《かわ》って道を行なっておられることは承知しておりましたが、いかんせん、くわしい内情までは知らなかったものですから、陛下のご前に申しあげることもできず、長いあいだいたずらに時をすごしてまいったのですが、さきごろ聞参謀からの手紙を受け取り、またこちらからの鄭重な礼物を頂戴し、はじめてあなたがたの衷情を知ることができたというわけです。あの日、陛下は披香殿《ひこうでん》でわたしとご閑談のさい、あなたがたのことをおたずねになりましたので、わたしがお話し申しあげたところ、思いがけなくも陛下にはすでにくわしくご存じになっていて、わたしの申しあげたことと一致したのです。そこでその翌日、陛下は文徳殿にお出ましになり、百官の前で、きびしく童枢密をお責めになり、高太尉が再三、功を失したことを深くおとがめになりました。そしてみずから文房四宝をおとり寄せになって、お手ずから詔書をしたためられ、特にわたしを大寨へおつかわしになって、頭領ご一同にお言葉をつたえさせられたという次第です。どうかみなさん、早々に支度をして都へむかい、聖天子の招安のおぼしめしに背《そむ》かれませぬように」
一同は大いによろこび、拝手《はいしゆ》(両手を地にそろえ、その上に頭をつける礼)して感謝した。礼がおわると、張太守は、役所の仕事があるからといって、太尉に別れを告げて城内へ帰って行った。
一方、こちらでは、宋江が聞参謀を呼んでこさせて(宿太尉に)会わせた。宿太尉は欣然として越しかたのことどもを話し、堂はよろこびに満ちあふれた。さっそく宿太尉はまんなかの上座にすえられ、聞参謀はそのむかいの座で相伴をし、堂上堂下に一同はそれぞれ序列にしたがって並び、盛大な宴がひらかれて、かわるがわる杯をまわしあい、広間の前ではにぎやかに笛や太鼓が奏《かな》でられた。炮竜烹鳳《ほうりゆうほうほう》(竜のまる焼き・鳳凰の煮もの)とまではいかなかったが、それこそ肉の山・酒の海という豪華な宴で、その日みなは大いに酔い、互いにたすけあいながら幕舎に帰って休んだ。
翌日もまた酒宴が設けられ、おのおの胸襟を開いて日ごろの思いを話しあった。三日目もまた酒食を用意して、宿太尉を遊山に招き、日暮れまで存分に酔って散会した。こうしてたちまちのうちに数日がたち、宿太尉は帰るといい出した。宋江らがしきりにひきとめると、宿太尉は、
「あなたがたは内情をご存じないでしょうが、わたしは陛下のおん旨を奉じてまいり、ここで数日もすごしてしまいましたが、さいわい、あなたがたがきっぱりと帰順されて、大義が全うされましたので、急いで帰らないことには奸臣たちが妬《ねた》んでどんな横槍をいれないとも限りませんので」
「そういうことでしたら、無理におひきとめはいたしませんが、きょうは存分に飲んで歓をつくし、明朝お送りして山をおりていただくことにいたしましょう」
と宋江らはいい、さっそく大小の頭領を一堂に集め、全員そろって宴飲した。飲みながら一同がみな感謝の言葉を述べると、宿太尉はやさしい言葉でなぐさめ、日が暮れるまで飲んで散会した。翌日の早朝、車馬の用意がととのうと、宋江はみずから金や珠玉を盛った盆をささげて宿太尉の幕舎へ行き、再拝の礼をしてさし出した。宿太尉はどうしても受けようとはしなかったが、宋江が再三すすめたので、ようやく受け取った。宿太尉は衣裳箱をとりまとめ、荷物や鞍馬を整備して、出発の用意をととのえた。ほかの随行のものたちは、連日朱武と楽和から、例によって、酒量の高低によって、それぞれもてなされ、さらに厚く金銀財帛を贈られた。一同はみな大よろこびであった。また聞参謀にも金や宝物が贈られた。彼も受けようとはしなかったが、宋江のたってのすすめで、ようやく承知して受け取った。宋江はそのとき聞参謀に、宿太尉について都へ帰るようにすすめた。かくして梁山泊の大小の頭領たちは、金鼓の妙なる音とともに太尉を送って山をおり、金沙灘をわたり、三十里さきまで送って行った。一同はそこで馬をおり、宿太尉に餞別の杯をすすめた。宋江がまず最初に杯をささげて、
「太尉どのがお帰りになって陛下にお目にかかられますときには、なにとぞよろしくおとりなしくださいますよう」
というと、宿太尉はそれに答えて、
「義士、どうぞご安心ください。それよりも、早くあと始末をして都へのぼられるがよろしいでしょう。あなたがたの軍勢が都に着かれたときは、まず使いのものをわたしの屋敷へおよこしください。わたしが陛下にさきにお知らせしてから、節《せつ》(注九)を持ったものをお出迎えにやりましょう。そうすればあなたがたの肩身もひろいでしょうから」
「一言申しあげさせていただきたいのですが、わたくしどもの水沢は、王倫《おうりん》が山にのぼってもとを開きましてから、かわって晁蓋《ちようがい》がのぼり、現在のわたくしに至りますまで、すでに数年を経て、付近の住民にはすくなからず迷惑をかけております。それでわたくしは、このさい資財のありったけをはたいて十日間買市《い ち》をし、すっかりあと始末をつけてから、全員こぞって都へのぼりたいと思うのです。決してわざと遅れるわけではございません。かさねがさねのお願いでございますが、どうかわたくしのこの衷情を陛下におつたえくださいまして、日限を寛大に見ていただきとう存じます」
宿太尉は承知して一同に別れ、詔書開読の一行をひきつれて済州へとたって行った。
宋江らは、大寨にひき返し、忠義堂にはいり、太鼓を鳴らして一同を集めた。大小の頭領たちが座につき、兵士たちがみな堂前に集まると、宋江は命令をつたえていった。
「お集まりの兄弟たち。王倫がこの山寨をひらいてより、ついで晁天王が山にのぼって大業をおこし、こんにちのような隆盛を見るにいたったのであるが、わたしが江州で兄弟たちに助けられてここへやってまいり、推されて山寨の主《あるじ》になって、すでに数年、このたびめでたく朝廷より招安を受け、再び天日を仰ぎ見ることになった。いずれ都へのぼって、国家のために力をつくさねばならない。ついては、みなの衆、府庫から手にいれたものは庫《くら》にのこして公用にあてることにし、その他の資財はすべて均等に分けることにしよう。われわれ一百八人は、上《かみ》天の星に応じ、生死をともにするもの。このたび天子には寛恩をもって大赦招安のみことのりを降され、われわれ一同はひとりのこらずその犯した罪をゆるされることになったわけだ。われわれ一百八人は近く都へのぼって天子にお目にかかり、そのご洪恩にお報いする決心だが、兵士たちのなかには、進んで仲間にはいってきたものもあり、人々について山にのぼってきたものもあり、朝廷の軍官でいくさに敗れて仲間にはいったものもあり、あるいは捕らえられてきたものもあるわけだが、このたびわれわれが招安を受けて一同で朝廷へおもむくについては、兵士たちのなかで、もし行きたいものは、仲間に加え、名簿に記《しる》していっしょに行こう。行きたくないものは、ここで名をいってもらって、別れることにしよう。そのものには路銀をおくって山をおりてもらい、それぞれ生業にいそしめるようにしよう」
宋江は命令をつたえおわると、裴宣と蕭譲に命じていちいち名簿に記《しる》させることにした。命令がつたえられると、全軍の兵士たちはそれぞれ相談しあった。そのとき別れ去るものも、四五千人あった。宋江はそのみなのものに金品をはなむけにして、たって行かせた。ついて行って兵士になりたいというものは、仲間に加えてお上へとどけることにした。
翌日、宋江はまた蕭譲に命じて告示を書かせ、四方へ人をやって、近くの州郡や町や村に広告をし、十日間買市《い ち》をひらくゆえ山に集まられたいと知らせることにした。その告示は、
梁山泊の義士宋江等、謹んで大義を以て四方に〓告《ふこく》す。向《さき》に山林に聚衆するに因って、多く四方の百姓《ひやくせい》を擾《みだ》せるも、今日幸いに天子の寛仁厚徳を蒙り、特に詔勅を降して本罪を赦免され、招安帰降して、朝暮朝覲《ちようきん》(天子に見《まみ》える)せんとす。以て酬謝する無し、就《すなわ》ち本身(我ら)買市十日す(十日間、市《いち》をたてる)。〓《も》し外《うと》んぜざるを蒙らば、価《あたい》を齎《もたら》して前来せよ、一一報答せん(もれなくお報《むく》いする)、並《ならび》に(決して)虚謬《きよびゆう》無し。特に此《ここ》に告知す。遠近の居民、疑って辞避すること勿《な》く、恵然と光臨せば、万幸に勝《た》えず。
宣和四年三月 日
梁山泊の義士宋江等謹んで請う。
蕭譲は告示を書きおわると、近くの州郡や四方の村や町へ人をやり、いたるところに貼り出させた。そして、庫《くら》から、金珠宝貝・綵段綾羅《いろぎぬあやぎぬ》・紗絹《うすぎぬ》などを出して、各頭領ならびに兵士たちに分け、別に一部を選んで国への献上品として残し、そのほかはみな山寨に積みあげ、そのことごとくを、人を集めて十日間の市に出すことにし、三月三日にはじめて、十三日におわることにした。また、牛や羊を殺し、酒をつくって、山寨の市に集まってきたものには残らずふるまい、その供のものをもねぎらうことにした。
その日になると、四方の住民たちが、嚢《ふくろ》をかついだり笈《かご》を背負ったりして群がり集まり、続々と山寨にやってきた。宋江が、十のものは一の値段で売るように命じたため、人々はみな大よろこびで、礼をいって山をおりて行った。それからずっと十日間、毎日そんなふうであった。十日がすぎて市をしまうと、全員に命令がつたえられ、あと始末をして都へのぼり天子にお目通りすることになった。宋江はそのとき各人の家族のものをその郷里へ送り帰そうとしたが、呉用がおしとめて、
「兄貴、それはいけません。家族のものはいましばらくこの山寨に残しておいて、われわれが天子にお目通りをして恩典に浴してから、それぞれ郷里へ送り帰すことにするほうがよろしいでしょう」
といった。
「軍師のお言葉はもっともです」
と宋江はうなずき、あらためて命令を出して、頭領たちに、ただちに用意をさせ、兵士たちをまとめさせた。かくて宋江らはすぐに、急いで出発をし、早くも済州に到着、太守の張叔夜に礼を述べた。太守はさっそく宴席を設けて義士たちを歓待し、全軍の兵をねぎらった。
宋江らは張太守に別れを告げ、城をあとにして出発し、多数の兵をひきつれて一路東京《とうけい》へとむかった。まず戴宗と燕青が、さきに京師の宿太尉の屋敷へ知らせにやらされた。太尉は知らせを聞くと、ただちに参内して、天子に奏上した。
「宋江らの軍が都にのぼってまいりました」
天子はそれを聞いて大いによろこばれ、ただちに、太尉ならびに御駕指揮使《ぎよがしきし》一名を使者にたて、旌旄節鉞《せいぼうせつえつ》(いずれも使臣たることを示すもの)をたずさえて城外に出迎えさせられた。宿太尉は聖旨を受けて、そのときただちに郊外へ出て行った。
さて宋江の軍は、途上、まことに整然たる隊伍を組んでいた。その先頭には二つの紅旗をおしたてていて、その一つには順天《じゆんてん》の二字をしるし、一つには護国《ごこく》の二字をしるしていた。頭領たちはみな軍装に身をかためていた。もっとも、呉学究は綸巾《りんきん》(注一〇)に羽服(道服)、公孫勝は鶴〓《かくしよう》(鶴の羽で作った裘《かわごろも》)に道袍《どうほう》、魯智深はまっ赤《か》な僧衣、武行者はまっ黒な直〓《じきとつ》(ころも)を着ていたが、そのほかのものはみな戦袍に金鎧《きんがい》という本来の装束であった。
何日かたって京師の城外にさしかかると、御駕指揮使が節を持って一行を出迎えているのに出くわした。宋江はその知らせを受けると、頭領たちをひきつれて先頭のほうへ出て行き、宿太尉に挨拶をした。それがすむと、ひとまず兵を新曹門《しんそうもん》外にとめ、そこに宿営して聖旨を待つことにした。
一方、宿太尉と御駕指揮使は、城内に帰って天子に復命した。
「宋江らの軍は、一同新曹門外にたむろして聖旨をお待ちしております」
天子は、
「かねて聞くところでは、梁山泊の宋江ら一百八人のものは、上《かみ》天の星に応じ、しかもまた、英雄にして勇猛であるとのこと。いまや帰順して京師にまいったとあらば、明日、わたしは百官をひきいて宣徳楼《せんとくろう》に登り、宋江ら一同に戦陣に臨むときの軍装に身をかためさせ、全軍の兵はひきつれずに、ただ四五百の歩騎の兵をしたがえて入城させ、東から西へ行進させて、みずからこれを閲兵し、同時に城内の軍民たちにも、この英雄豪傑が国家の良臣となることを知らせることにしよう。それがすんでから、よろいをぬがせ武器を解かせて、一同下賜の錦袍に着換えて東華門から参内させ、文徳殿で目通りさせよう」
との仰せ。御駕指揮使はただちに宿営の陣前へ行って、聖旨を口頭で宋江らにつたえた。
翌日、宋江は命令をくだし、鉄面孔目の裴宣に、屈強な巨漢の、六七百名の歩兵を選び出させ、先頭には金鼓《きんこ》・旗旛《きはん》をおしたて、そのあとには鎗刀《そうとう》・斧鉞《ふえつ》をうちならべ、中央には順天・護国の二面の紅旗をたて、兵士はそれぞれ刀剣・弓矢をたずさえ、頭領たち一同はおのおの本来の軍装をして甲《よろい》をつけ、隊伍をととのえて東郭門《とうかくもん》からはいって行った。すると東京の住民たちは、老人を扶《たす》け幼児の手をひいて(老若男女みな出てきて)道端で見物し、まるで神さまでも見るようなありさま。
このとき天子は、宣徳楼上に百官をひきしたがえ、露台に出て閲兵された。見れば先頭には金鼓・旗旛(を、そのあとには)鎗刀・斧鉞をおしならべて、それぞれの隊伍に分かれ、中央には白馬に乗った騎兵が順天・護国の二面の紅旗をおしたて、その外側には二三十騎のものがつきそって馬上で鼓楽を奏していた。後方からは多くの好漢たちが陸続と進んでくる。英雄なる好漢たちの、その入城朝覲《ちようきん》のありさまいかにというに、見れば、
風は玉陛《ぎよくへい》(きざはし)に清く、露は金盤に〓《うるお》う。東方に旭日初めて升《のぼ》り、北闕《ほくけつ》(宮居の北門)に珠簾《しゆれん》半ば捲《ま》かる。南薫門《なんくんもん》外、百八員の義士心を帰《き》し、宣徳楼《せんとくろう》前、億万歳の君王目を刮《みは》る。威儀を粛《ただ》して乍《たちま》ち朝典を行ない、精神を逞しくして猶《な》お軍容を整う。風雨日星、並びに天顔の霽《は》るるを識り、電雷霹靂、天討の威を煩わさず。帝闕の前には万霊咸《みな》集まり、聖有り、仙有り、那〓《なた》(仏攻の荒神)有り、金剛《こんごう》有り、閻羅《えんら》有り、判官《はんがん》(地獄の書記)有り、門神(寺廟の守護神。仁王のたぐい)有り、太歳(凶神)有り、乃《すなわ》ち夜叉鬼魔に至るまで、共に道君皇帝を仰ぐ。鳳楼《ほうろう》の下には百獣来《きた》り朝し、彪為《た》り、豹為り、麒麟為り、〓猊《しゆんげい》(獅子のたぐい)為り、〓《かんき》(狼のたぐい)為り、金翅《きんし》(竜を食うという怪鳥)為り、〓鵬《ちようほう》(鷲・大鳥)為り、亀猿為り、以て犬鼠蛇蝎に及ぶまで、皆宋主《そうしゆ》人王を知る。五竜の日を夾《はさ》むは、是れ入雲竜(公孫勝)、混江竜(李俊)、出林竜(鄒淵)、九紋竜(史進)、独角竜(鄒潤)と為し、出洞蛟(童威)、翻江蜃(童猛)の如きは、自ら隊を逐《お》って天に朝す。衆虎の山を離るるは、是れ挿翅虎(雷横)、跳澗虎(陳達)、錦毛虎(燕順)、花項虎(〓鵬旺)、青眼虎(李雲)、笑面虎(朱富)、矮脚虎(王英)、中箭虎(丁得孫)と為し、病大虫(薛永)、母大虫(顧大嫂)の若《ごと》きも、亦班《はん》に随って礼を行なう。 原《もと》より公侯伯子と称する的《もの》(美髯公の朱仝、小温侯の呂方、紫髯伯の皇甫端、鉄扇子の宋清など)は、応《まさ》に朝儀を暗《そら》んずべきも、誰か知らん塵舞山呼《じんぶさんこ》(天子に対する礼)の、亦園丁《えんてい》(菜園子の張青)、医算(神医の安道全、神算子の蒋敬)、匠作(青眼虎の李雲)、船工(玉旛竿の孟康)の輩に許されんとは。凡そ毛髪鬚髯を生ずる的《もの》(錦毛虎の燕順、金毛犬の段景住、赤髪鬼の劉唐、美髯公の朱仝、紫髯伯の皇甫端)は、自ら寵命に堪《た》ゆるも、豈《あに》意《おも》わん緋袍紫綬《ひほうしじゆ》の、並びに婦人(扈三娘、顧大嫂、孫二娘)、浪子(燕青)、和尚(魯智深)、行者(武松)の身に加えられんとは。空名を擬するは、則ち太保(戴宗)、軍師(朱武)、郡馬(宣賛)、孔目(裴宣)、郎将(白面郎君の鄭天寿、双鎗将の董平、百勝将の韓滔、天目将の彭〓、聖水将の単廷珪、神火将の魏定国、打虎将の李忠)、先鋒(索超)にして、官銜《かんかん》(官位)に早くも列なる。古人に比するは、則ち覇王(小覇王の周通)、李広(小李広の花栄)、関索(病関索の楊雄)、温侯(小温侯の呂方)、尉遅(病尉遅の孫立)、仁貴(賽仁貴の郭盛)にして、当代に重ねて生まる。那《かなた》には生得(生まれつき)好《みめよ》き的《もの》有り、白面郎(色白の男の意とともに、白面郎君の鄭天寿をさす)の一枝の花(一枝花の蔡慶をさす)を挿《さしはさ》むが如く、笛扇鼓旛《てきせんこはん》(鉄笛仙の馬麟、鉄扇子の宋清、鼓上の時遷、玉旛竿の孟康をさす)を〓《ささ》げ着《も》って、歌い且つ舞わんと欲す。 這《こなた》に生得醜《みにく》き的《もの》を看る、青面獣(楊志をさす)の鬼臉児《きれんじ》(鬼の面の意とともに、鬼臉児の社興をさす)を蒙るに似、鎗刀鞭箭《そうとうべんせん》(金鎗手の徐寧、双鎗将の董平、大刀の関勝、双鞭の呼延灼、没羽箭の張清、中箭虎の丁得孫)を拿《と》り着《も》って、戦《たたかい》を会《え》し征《いくさ》を能《よ》くす。長《たけたか》き的《もの》は険道神(郁保四をさす)に比《たと》えて、身の長《たけ》一丈(一丈青の扈三娘をさす)。很《はなはだ》しき的《もの》は石将軍(石勇をさす)に像《に》て、力《ちから》三山を鎮む(鎮三山の黄信をさす)。髮は赤かる可く(赤髪鬼の劉唐をさす)眼は青かる可きも(青眼虎の李雲をさす)、倶《とも》に各《おのおの》丹心(赤心《せきしん》)一片を抱く。天を摸《さぐ》り得《え》(摸着天の杜遷をさす)、浪に跳《おど》り得《う》るも(浪裏白跳の張順をさす)、決して邪佞《じやねい》両道に走らず。 君王に近づくを喜んで、昔時の面目無き(没面目の焦挺をさす)に似ず。恩は防禦を寛《ゆる》めて、果然此の日遮〓《しやらん》する没《な》し(没遮〓の穆弘をさす)。試みに看よ、全夥裏《ぜんかり》の鎗を舞わし棒を弄する的《の》書生は、猶お満朝《まんちよう》中の君を欺き民を害う的《の》官吏に勝るを。義士は今主《しゆ》に遇うを欣《よろこ》び、皇家は始めて人を得たるを慶《よろこ》ぶ。
さて道君皇帝は、百官とともに宣徳楼上で、梁山泊の宋江らのこの一行のものをごらんになって、竜顔うるわしく、心中ことのほかのおよろこびで、百官にむかって、
「彼ら好漢たちは、まことに英雄である」
と、しきりに賞讃された。そして殿頭官(宮廷の侍従官)にたいして、宋江らにそれぞれ恩賜《おんし》の錦袍に着かえて拝謁するようつたえよと命ぜられた。殿頭官が命を受けて、宋江らにつたえると、宋江らは東華門外で軍衣や武具をぬいで、恩賜の紅錦・緑錦の袍《うわぎ》を着、金牌・銀牌を懸け、それぞれ朝天の巾〓《きんさく》(拝謁用の頭巾)をかぶり、萌黄色の朝靴(殿上用の皮靴)をはいた。ただそのなかで、公孫勝は紅錦で道袍《どうほう》を仕立て、魯智深は僧衣を縫い、武行者は直〓《じきとつ》につくりかえていたが、それもみな天子のお志を忘れまいとしてであった。かくて宋江と盧俊義が先に立ち、呉用と公孫勝がそれにつづき、一同をひきしたがえて、東華門からはいって行った。
その日、朝見の儀式の準備がおごそかにととのい、天子の御座がしつらえられて、辰牌《しんぱい》(朝七時)のころ、天子は文徳殿に出御された。儀礼司(儀式をつかさどる官署)の役人は、宋江らをみちびいて順序ただしくなかへいれ、列をととのえて礼をおこなわせる。宋江らは殿頭官の指図にしたがってご機嫌奉伺の拝礼をし、万歳をとなえおわった。天子はことのほかよろこばれて、文徳殿にのぼるようにと仰せられ、序列にしたがって席をたまわった。そして宴席をひらくようにと下命された。みことのりによって光禄寺《こうろくじ》(宮中の食膳・宴席等のことをつかさどる官署)は宴席の用意をはじめ、良〓署《りよううんしよ》(醸造部)は酒を出し、珍羞署《ちんしゆうしよ》(調理部)は料理を出し、掌醢署《しようかいしよ》(炊飯部)はご飯をつくり、大官署《だいかんしよ》(給仕部)は膳をはこび、教坊司《きようぼうし》(歌舞音曲をつかさどる官署)は楽を奏し、天子は親しく御座につかれ宴にはべられた。そのありさまは、
九重の門は啓《ひら》いて、〓〓《かいかい》と鸞声《らんせい》(馬の鈴音)は鳴り、〓闔《しようこう》(宮門)の天は開いて、巍巍《ぎぎ》たる竜袞《りゆうこん》(天子の衣)を覩《み》る。筵は玳瑁《たいまい》を開き、七宝の器は黄金もて嵌《は》め就《な》し、炉は麒麟を列ね、百和の香は竜脳もて修《つく》り成す。玻璃《はり》の盞《さかずき》は琥珀《こはく》の鍾《さかずき》に間《まじ》わり、瑪瑙《めのう》の杯《さかずき》は珊瑚《さんご》の〓《さかずき》に聯《つら》なる。赤瑛《せきえい》(赤い美玉)の盤《さら》の内には、高く麟脯鸞肝《りんほらんかん》(麒麟のほしにく・鸞鳥《おおとり》のきも)を堆《つ》み、紫玉の〓《さら》の中には、満《みた》して〓蹄能掌《だていのうしよう》(駱駝《らくだ》のひづめ・熊のてのひら)を〓《も》る。桃花の湯《とう》(すいもの)は潔《きよ》くして、塞北の黄羊を縷《いと》にし、銀糸の膾《なます》は鮮《あざや》かにして、江南の赤鯉を剖《さ》く。黄金の盞には香醪《こうろう》を満たし泛《うか》べ、紫霞の杯には瓊液《けいえき》を〓《あふ》れ浮《う》かばす。五俎八〓《ごそはつき》(さまざまな器《うつわ》)、百味庶羞《ひやくみしよしゆう》(さまざまな美味)。糖《あめ》は甘甜《かんてん》なる獅仙(菓子の名)を澆《そそ》ぎ就《な》し、麺《こな》は香酥《こうそ》なる定勝(〓《こなもち》の名)を製《つく》り成す。方《まさ》に当《すなわ》ち酒は五巡を進め、正に是れ湯《とう》は三献を陳《つら》ぬ。教坊司鳳鸞韶舞《ほうらんしようぶ》(帝王の舞楽を奏でる)すれば、礼楽司の排長(かしら)の伶官(楽人)、鬼門道(舞台の入口)に朝《むか》って分明に開説す。 頭一個の(最初にあらわれた)装外の的《もの》(注一一)は、黒漆の〓頭《はくとう》(かぶりもの)は明鏡の如き有り(鏡の如く光り)、花を描ける羅襴《ららん》(絹の衣)は儼《げん》として生成するが若《ごと》し(よく似合う)。第二個の戯色の的《もの》(注一二)(女形)は、離水の犀角の腰帯を緊《し》め、紅花緑葉の羅巾を裹《つつ》み、黄衣襴《こういらん》長く短〓靴《たんようか》(半長靴)に襯《しん》し(内側に履く)、彩袖襟《さいしゆうきん》は密に山水の様を排す。第三個の末色の的《もの》(注一三)(立役)は、結絡毬頭《けつらくきゆうとう》の帽子を裹《つつ》み、役(注一四)畳勝《じようしよう》の羅衫《らさん》を着け、最先に来りて提〓《ていてつ》(口上)甚だ分明に、幾段の雑文を念《よ》む、真に罕《まれ》なる有り。第四個の浄色の的《もの》(注一五)(敵役)は、語言《ごげん》衆を動かし、顔色《がんしよく》(顔の隈《くま》どり)繁過にして、院本(脚本)に依って腔《こう》を填《てん》し曲《きよく》を調《ちよう》し(ふしをつけてうたい)、格範《かくはん》(しぐさ)を按じて打諢《だこん》し(おどけ)発科《はつか》す(笑わす)。第五個の貼浄《ちようじよう》の的《もの》(注一六)(道化役)は、忙中(しきりに)九伯(注一七)し(おどけ)、眼目張狂《ちようきよう》し、額角に隊して(交叉して)一道の明〓《めいそう》(すじ)を塗り、面門に劈《へき》して(顔じゅうに)両色の蛤粉《ごうふん》(おしろい)を抹《ぬ》り、一頂の油油膩膩《ゆうゆうじじ》たる(てかてかした)旧頭巾を裹み、一領の〓〓〓〓《りようりようとうとう》たる(ぴらびらした)撥戯襖《はつぎおう》(不恰好な上衣)を穿ち、六棒の板《がばん》(木の撥《ばち》)を喫するも疼《とう》を嫌わず、両杖の麻鞭を打たるるも渾《あたか》も〓《たわむ》るるに似たり。 這の五人、六十四回の隊舞《たいぶ》優人・百二十名の散做《さんさ》楽工も引領《いんりよう》着して、雑劇を搬演し、装弧《そうこ》し打〓《ださん》す(扮装し所作をする)。個個青巾桶帽《せいきんとうぼう》、人人紅帯花袍《こうたいかほう》。竜笛を吹き、〓鼓《だこ》を打ち、声は雲霄に震う。錦瑟《きんしつ》を弾じ、銀箏《ぎんそう》を撫《ぶ》し、韻は魚鳥を驚かす。百戯(曲芸奇術)を弔して衆口諠譁《けんか》し、諧語《かいご》を縦《はな》って斉声喝采《かつさい》す。 装扮する的《もの》は是れ「太平の年万国《ばんこく》来朝」「雍煕《ようき》の世八仙《はつせん》慶寿」、搬演ずる的《もの》は是れ「玄宗《げんそう》夢に広寒殿に遊ぶ(注一八)」「狄青《てきせい》夜崑崙関を奪う(注一九)」。也《また》神仙道侶《どうりよ》(道者)有り、亦《また》孝子順孫《じゆんそん》(孝孫)有り。之を観る者は真に其の心志を堅くす可く、之を聴く者は以て其の性情を養うに足る。須臾《しゆゆ》の間に、八個の排長、四個の美人を簇擁《そうよう》着し、歌舞双《なら》びに行ない、吹弾並《なら》ぴに挙《あ》ぐ。歌う的《もの》は是れ「天子に朝す」「聖朝を賀す」「皇恩に感ず」「殿前の歓び」にして、治世の音なり。舞う的《もの》は是れ「酔回回《すいかいかい》」「活観音《かつかんおん》」「柳青娘《りゆうせいじよう》」「鮑老児《ほうろうじ》(注二〇)」にして、淳正の態《たい》なり。果然道《い》う、百宝もて腰帯を装い、珍珠もて臂〓《ひこう》(腕・小手《こて》)に絡《まと》うと。笑う時は花《はな》眼に近く、舞い罷《おわ》れば錦《にしき》頭に纏《まつ》わる。大宴已に成り、衆楽斉《ひと》しく挙がる。主上為《な》す無《な》くして千万の寿あり、天顔喜び有って万方同じ(一視同仁)なり。
詩にいう。
九重の鳳闕《ほうけつ》新たに宴を開き
千載の竜〓《りゆうち》(宮廷)旧《さき》に衣を賜う
蓋世《がいせい》の功名《こうめい》能く自《おのずか》ら立ち
心に矢《ちか》う忠義豈《あに》相違《たが》わんやと
さて、天子は宋江らに宴をたまわり、日暮れになってようやく散会となった。お礼を申しあげてから、宋江ら一同はおのおの花のかんざしをつけて内裏をさがり、西華門外でそれぞれ馬に乗って陣営へ帰った。
翌日、城内にはいり、礼楽司にみちびかれて文徳殿に通り、聖恩を拝謝した。天子はご機嫌うるわしく、官爵をさずけようとされて、宋江らを近日官職につける旨、勅命された。宋江らはお礼を申しあげて退朝し、陣営へ帰ったが、この話はそれまでとする。
一方、枢密院の役人は、次のような上奏文をととのえて具申した。
新降の人、未だ功労を效《いた》さず、輒便《てつびん》(いますぐ)に爵を加う可からず。日後《にちご》征討して、功勲を建立するを待ち、量《はか》って官賞を加つ可し。現今《げんこん》、数万の衆、城に逼《せま》って寨を下《くだ》すは、甚だ宜《よろ》しからずと為《な》す。陛下、宋江等の部する所の軍馬を将《もつ》て、原《もと》是れ京師の陥《おとしい》れ被《ら》るるの将有らば仍《すなわ》ち本処に還《かえ》し、外路の軍兵は各原所《げんしよ》に帰《かえ》し、其の余の人衆は分けて五路と作《な》して山東河北に分調し開去す可し、此《これ》を上策と為す。
翌日、天子は御駕指揮使を宋江の陣営につかわし、口頭で聖旨をつたえしめられた。
「宋江ら軍を解いておのおの原地へ帰るよう」
頭領たちはそれを聞くと、むっとして、いい返した。
「われわれは朝廷に投降しましたのに、なんの官爵もさずけられず、このまま兄弟たちをちりぢりにしてしまおうとおっしゃるのですか。どんなことがあっても別れるものではありません。どうしてもそうしろとおっしゃるのなら、われわれはもういちど梁山泊へ帰るよりほかありません」
宋江はあわててそれをおしとめ、誠意をつくして、ねんごろに使者にたのんだ。
「なにとぞ、よろしくご復命くださいますように」
指揮使は朝廷に帰ると、すこしもつつみかくさず、ただありのままにさきのことを天子に奏上した。天子は大いにおどろいて、急いで枢密院の役人を呼んで協議された。そのとき枢密使の童貫がいうには、
「あやつらは投降はいたしましたものの、その本心は改まっておりません。いつかは大きなわざわいをひきおこしましょう。そこでわたくしの考えまするには、陛下より聖旨をくだされてあやつらを城内にだましいれ、かの一百八人をひとり残さず殺してしまってから、その部下の兵どもを分散してしまうのが、国家のわざわいを絶つ上策でございましょう」
天子はそれを聞いて、深く考えこんだまま心を決しかねておられたが、そのとき衝立《ついたて》のかげからひとりの大臣が姿をあらわした。紫の袍《うわぎ》を着、象牙の簡(笏《しやく》)を手にして、大声で怒鳴りつけていうよう、
「四方の辺境にはいまだ狼煙《ろうえん》(のろし)の消えることもないというのに、さらに中央でもまたわざわいをひきおこそうとするのか。聖朝の天下をみだすのは、すべてその方ら無才奸悪な臣下たちだ」
まさに、立国安邦の言によって驚天動地の人を救うとはこれである。ところで、衝立のかげから怒鳴りつけた、その大臣は誰であったか。それは次回で。
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一 招討 招討使のこと。唐・宋の制で、叛乱者を討伐し、その降伏したものを招安する官。
二・三 金牌、銀牌 天子が特に臣下にあたえる金または銀の牌《ふだ》で、多くはその面に天子の言葉を刻み、名誉の顕彰、権限の賦与、身分の保証などがなされる。銀牌は金牌よりも下位のもの。
四 接風酒 第五十回注三参照。
五 明日 原文は後日。後日は明後日のことであるが、ここでは、のちほどの意であろう。話の上では明日を指す。
六 狂夫 蒭蕘狂夫というときの狂夫で、草刈りや木こりの意。
七 香車 美しい車の意であみが、ここでは車ではなく長柄の輿《こし》であろう。
八 竜亭 天子の形代《かたしろ》(すぐあとに出る竜牌がこれである)を祭った廟のことであるが、ここでは亭《あずまや》の形をした廚子《ずし》のようなものであろう。
九 節 割符。使者がそのしるしとして持つもの。
一〇 綸巾 黒糸で作った頭巾。第五十四回の注三参照。
一一・一二・一三・一五・一六 装外の的、戯色の的、末色の的、浄色の的、貼浄の的 明以後の演劇では、生《せい》(立役)・旦《たん》(女形)・浄《じよう》(敵役)・丑《ちゆう》(道化役)が役柄の代表的なものであるが、元曲では生《せい》を生末《せいまつ》といい、その副役に冲末・外末・小末があった。ここにいう装外的はその外末であり、末色的はその正末である。戯色的は旦、浄色的は浄、貼浄的は丑にあたる。
一四 役 他本にはあるいは役に作り、明らかでないが、畳勝という語に並べられていることから、同じく、かさなりあった形容であろう。
一七 九伯 元曲の語で、九百あるいは九陌とも書く。ばかなことをする、あるいはばかにするの意。
一八 「玄宗夢に広寒殿に遊ぶ」 広寒殿とは月宮のこと。唐の玄宗皇帝が八月十五日の夜、夢に天師とともに月に遊んだという故事を芝居にしたもの。月宮には広寒清虚之府としるされていたという。
一九 「狄青夜崑崙関を奪う」 狄青は宋の武将。仁宗のとき広源州(広西省)の蕃族が蜂起したが、その鎮圧におもむいた狄青は、上元の夜、煌々と明りをともして酒宴を張る一方、深夜の奇襲をかけて、一挙に崑崙の関を奪取したという故事を芝居にしたもの。
二〇 「鮑老児」 第三十三回注六参照。
第八十三回
宋公明《そうこうめい》 詔《みことのり》を奉じて大遼《たいりよう》を破り
陳橋駅《ちんきようえき》に涙を滴《た》れて小卒を斬る
さて、そのころ、遼《りよう》国の国王が兵をおこして攻めこみ、山後《さんご》(太行山脈のむこう側)の諸州をおかしていた。すなわち、兵を四手に分けて侵入し、山東・山西の地をおびやかし河南・河北の地をかすめていたのである。そのため各地の州県は上奏文をたてまつって朝廷に救いを求めてきたが、それはまず枢密院を経てから天子の御前に達することになっていた。ところが枢密使の童貫《どうかん》は、太師の蔡京《さいけい》・太尉の高〓《こうきゆう》・楊〓《ようせん》らとともども企んで、上奏文を握りつぶして上聞には達せず、ただ近隣の州県に通告して、各地ともただちに兵を駆り出して救援におもむくよう急《せ》きたてたのであるが、まさにそれは、雪をかついで行って井戸を埋めようとするようなもの。このことは人々の周知するところで、ただ天子おひとりだけが目をくらまされておられたのである。
そのようなおりしも、四人の賊臣はたくらみを設け、枢密使の童貫に奏上させて、宋江ら一同を羂《わな》にはめようとしたのであるが、はからずも衝立のかげからひとりの大臣があらわれて大声でおしとめた。それは、ほかならぬ殿前の都太尉(筆頭の太尉)たる宿元景であった。そのとき彼は天子に奏上していうよう、
「陛下、宋江ら一味の好漢は、このたび帰順いたしましたばかりで、一百八人のものは互いに手足のように助けあい、同胞《はらから》のように心を通じあっております。彼らはいま分散することを承知するはずはございません、たとえ命を捨てても離れようとはいたしますまい。いまさら彼らの命を奪おうとするなど、もってのほかでございましょう。かの好漢たちは智謀も武勇もなみなみならぬものがあります、もしも、彼らが城内で寝返るようなことがありましたならば、手のほどこしようがございますまい。目下、遼国は十万の大軍をおしたてて山後の諸州を侵し、その管下の諸県からはそれぞれ上奏文をたてまつって救援を求めてきておりますが、なんど兵を駆りたてて討伐におもむきましても、まるで湯を蟻にふりかけるようなもので、いかんともできない状態でございます。賊の勢いは強大で、派遣される官軍にはなんの良策もなく、いつも兵をうしない将を討ちとられているばかりでございますが、このことは陛下にはおかくしして上聞に達してはおりません。わたくしの考えまするには、ちょうどよいおりでございますので、宋江ら全員の良将とその配下の将兵を派遣し、ただちに辺境の地におもむいて遼の賊軍を制圧させ、功をたてさせて、かの好漢たちを国に重用することにいたしますならば、まことに好都合かと存じますが、もとよりわたくしの一存では決められませぬこと、よろしくご聖断のほどを願いあげます」
天子は宿太尉の上奏を聞かれて竜顔まことにうるわしく、諸官に諮問されたところ、みなもっともな意見であると答えた。天子はそこで童貫ら枢密院の諸官をきびしく叱責された。
「すべてはその方ら讒佞《ざんねい》の徒《と》、国をあやまる輩《やから》が、賢《けん》を妬《ねた》み能《のう》を嫉《そね》み、人材の世に出る道をふさぎ、言葉を飾って実情をゆがめたがために、朝廷の大事をそこなったのであるぞ。だがこのたびだけはその罪をゆるして、糾問に付することはさしひかえてやろう」
かくて天子はみずから筆をとって詔勅をしたためられ、宋江を破遼都先鋒《はりようとせんぽう》(征遼正先鋒)に、盧俊義を副先鋒に任ぜられ、その他の諸将には功をたててから官爵をさずける旨をしるされて、さっそく太尉の宿元景を使者にたてて詔勅を託し、宋江の陣営におもむいて開読するようにと仰せられた。そこで天子は退朝され、文武の百官もみな退出した。
さて宿太尉は聖旨を受けて退出すると、そのまま宋江の陣営へ開読におもむいた。宋江らは急いで香机を設けてこれを迎え、ひざまずいて詔勅を拝聴したが、聞きおわると一同はみな大いによろこんだ。宋江らは宿太尉に礼をいい、
「わたくしどもは、まさにそのようにして国家のために力をつくし、功績をたてて、忠良な臣民になりたいと願っていたのでございますが、このたび太尉どのから陛下へそのようにおとりなしをたまわりましたことは、父母の生みの恩にもひとしい大恩と存じます。ただ、梁山泊の晁天王の位牌もまだそのままにしてございますし、みなの家族のものも郷里へ送り帰してはおりませず、砦もとりこわさずにそのままにしてありますし、戦船もまだこちらへ廻送せずにおりますので、どうかその旨ご奏上を願いまして、陛下のおゆるしをたまわり、十日間のご猶予をいただきまして、山に帰ってそれらの始末をつけ、武器・鎗刀・甲馬を整備いたしましたうえで、忠をつくして国に報いたいものと存じます」
といった。宿太尉はそれを聞いて大いによろこび、帰って天子にその旨を奏上したところ、天子はさっそくお聞きとどけになり、金一千両・銀五千両・綵段《いろぎぬ》五千疋を庫《くら》から出して諸将に下賜するよう仰せ出され、さっそく太尉に、庫からそれらを受け取らせ、宋江の陣営へ行って諸将に分けさせられた。家族のあるものは家族にわたして生涯の扶養の資にさせ、家族のないものは本人にわたしてその自由にさせられたのである。宋江は聖旨をかしこみ、聖恩を謝してから、一同に分け収めさせた。宿太尉は朝廷にもどる際、ねんごろに宋江にいいふくめた。
「山にお帰りになるについては、早く行って早くもどられますよう。またそのときにはまず使いのものをよこして、わたしにお知らせください。決して期日におくれるようなことのありませぬように」
さて宋江は、一同を集めて、誰といっしょに山に帰るかを相談した。そして宋江と軍師の呉用・公孫勝・林冲・劉唐・杜遷・宋万・朱貴・宋清・阮氏三兄弟、および歩・騎・水の兵一万余名がともに帰ることになり、そのほかの大部隊のものは、みな盧先鋒に従って京師に駐屯した。宋江は呉用・公孫勝らとともに、途中は格別の話もなく、梁山泊に帰って忠義堂にはいると、さっそく命令をくだして、各家の家族のものに荷物をとりまとめて出発の用意をさせる一方、豚や羊などの家畜を屠《ほふ》らせ、香を焚き灯明をとぼし、紙銭や紙馬(注一)を焼いて晁天王に供えてから、その位牌を灰にしてしまった。ついで各家の家族のものをそれぞれ郷里の州県へ送り返すことになり、車や馬に乗せてみな立ち去らせた。そのあとで宋江は自分の家の下男に、家族の宋太公および一家眷族のものを送って行かせ、〓城《うんじよう》県の宋家村に帰ってもとどおり良民として暮らしをさせることにした。ついで阮氏三兄弟に、役に立つ船をより出させて、残った使いみちのない小舟はみなそのあたりの住民に分けあたえた。山のいっさいの建物も、住民たちに自由にとりこわして持って行かせ、三つの関門の備えや忠義堂などの堂屋もことごとくとりこわした。かくてすっかりあと片づけをすますと、兵をとりまとめて急いで都へと立ち帰った。
途中は格別の話もなく、やがて東京《とうけい》に着き、盧俊義らに迎えられて本陣にはいると、まず燕青を城内へつかわして、宿太尉に、天子にお別れを申しあげてから大軍をひきつれて征途につきたい旨をつたえさせた。宿太尉は知らせを受けると、参内してそのことを天子に奏聞した。そして翌日、宋江をみちびいて、武英殿で天子にお目通りさせた。天子はご機嫌うるわしく、酒をたまわってのち、親しく仰せられるよう、
「その方たち、長途の労苦をいとうことなく、軍勢を駆り進めて、わたしのために遼の賊軍を討ち破り、早く凱歌を奏してもどってくるように。そのときには必ず重く用いよう。他の将兵たちにもその功績にしたがって官爵を加えよう。必ず怠ることのないように」
宋江は叩頭してお礼を申しあげてから、笏を持ちなおして奏上した。
「わたくしは、卑賤の小吏でございましたが、誤って法を犯し、江州に流されましたところ、酔って妄言を吐きましたことから、刑場にひかれて死罪に処せられることになりましたが、みなのものに助け出されまして、逃げかくれするところもないまま、ついに水泊に身をひそめ、露命をつないでいたものでございます。犯しました罪は、死すとものがれ難いところでございますのに、このたび、陛下のお情けあるおとりたてをこうむり、広大なる聖恩をたまわって罪をおゆるしくださいましたことは、わたくし、肝《かん》を披《ひら》き胆《たん》を瀝《したた》らせますとも、お報いすることのできぬ大恩にございます。かく詔《みことのり》をいただきましたるうえは、力のかぎり忠をつくし、死してのちやまん覚悟でございます」
天子は大いによろこばれ、かさねて御酒《ぎよしゆ》をたまわったうえ、鵲《かささぎ》を描いた金蒔絵の弓と矢を一そろい、名馬一頭に鞍と轡《くつわ》一組、および宝刀一振りを宋江に下賜するよう仰せられた。宋江は叩頭して聖恩を謝し、ご前をひきさがって内裏を出、恩賜の宝刀・鞍馬・弓箭を拝領し、それらをたずさえて陣営に帰ると、諸軍の兵に命をくだして出発の準備をさせた。
一方、徽宗《きそう》皇帝は、翌朝、宿太尉に聖旨を伝えられ、中書省より役人二名をつかわして陳橋駅《ちんきようえき》で先鋒の宋江のために三軍をねぎらうよう仰せられた。兵一名につき酒一瓶・肉一斤、不正なく一同に支給せよとのこと。中書省では聖旨を受けるや、朝まだきから酒肉をととのえ、役人ふたりをつかわして分配させることにした。
さて宋江は諸軍の兵に命をくだしてから、軍師の呉用と謀って軍を水陸の二手に分けて進めることにした。すなわち、五虎・八彪の将に、兵をひきいて先行させ、十驃騎の将は殿軍《しんがり》に、宋江・盧俊義・呉用・公孫勝は中軍を統率することにし、水軍の頭領の阮氏三兄弟・李俊・張横・張順には、童威・童猛・孟康・王定六および水夫の頭目たちをひきつれて戦船に乗り、蔡河から黄河に出て、北へ進ませることにした。かくて宋江は全軍を督励しつつ、陳橋駅の街道へと進んで行ったが、兵をいましめて、断じて郷民をさわがすようなことはさせなかった。これをうたった詩がある。
招揺《しようよう》たる旌旆《せいはい》天京を出《い》ず
命を受け師を専らにして遠征に事《したが》う
請う看よ梁山の軍の紀律を
太尉の御営の兵と如何《いかん》ぞ
一方、中書省ではふたりの廂官(注二)を派遣し、陳橋駅で酒肉を分配して全軍の兵をねぎらわせたが、なんとこの役人どもは、飽くことなき貪婪《どんらん》なやつらで、私欲にかられて悪事をはたらき、酒肉の上前をはねたのである。ふたりとも讒佞《ざんねい》の徒で、賄賂《わいろ》の何よりも好きな男だったので、恩賜の酒は一瓶ごと半分に減らしてしまい、一斤(十六両)の肉も、六両ずつ減らしてしまったのである。こうして前軍の兵たちにはすっかり分配してしまって、やがて後軍になり、黒ずくめの一隊に配る番になった。彼らはみな、頭には黒い〓《かぶと》をかぶり、身にも黒い甲《よろい》をつけていた。これは項充《こうじゆう》と李袞《りこん》のひきいる牌手《はいしゆ》(楯の兵)たちであった。その兵士たちのなかのひとりの下士が、酒肉を受け取ったところ、酒は半瓶、肉は十両しかないことに気づき、廂官に指をつきつけて罵った。
「これはみな、きさまたち欲張りやろうが、朝廷の恩賞に手をつけやがったのだな」
「なんでわしが欲張りなものか」
と廂官は怒鳴り返した。
「陛下はおいらに酒一瓶と肉一斤をくださったのに、きさまは両方ともぴんはねしたではないか。おいらはなにも口論したいわけじゃないが、きさまのその非道が憎らしいんだ。仏の顔の金箔まで剥ぎ取るやつめ」
「よくもほざいたな。斬られぞこない(注三)の、殺されぞこないの、賊め。梁山泊の謀叛《むほん》の根性が、まだ改まっておらぬな」
下士はかっとなって、酒と肉を相手の真向《まつこ》うにたたきつけた。廂官は、
「このやろうを、ひっつかまえろ」
と怒鳴った。
下士は団牌《だんはい》(円形の楯)のかげから、さっと刀を抜き放った。廂官は指をつきつけて大声で罵る。
「うすぎたない盗《ぬす》っ人《と》め、刀なぞ抜いて、いったい誰を殺そうというのだ」
「おれは梁山泊にいたとき、きさまなんかよりもずっとましな好漢を、何千何万殺したかわからぬほどだ。きさまのような泥棒役人なんか糞でもないわ」
「きさまにこのおれが殺せるというのか」
廂官がそう怒鳴ると、下士は一歩踏みこむなりさっと刀をふるい、廂官の顔面に斬りつけて、どさりと倒してしまった。廂官の配下たちはわっと叫んで逃げだした。下士はさらに踏みこんで行って、なおも斬りつけ、たちまちにして息の根をとめてしまった。兵士たちは群がり寄ってとめようとしたがおよばなかった。
そのとき、項充と李袞が急いで宋江に知らせると、宋江はそれを聞いて大いにおどろき、さっそく呉用に諮《はか》った。
「これはいったいどう始末したものか」
「中書省の役人たちはすっかりわれわれを嫌《きら》っておりますが、そこへ、さらにこんな事件をおこしたとあっては、全く彼らの思う壺にはまってしまいます。それゆえまずその下士の首を刎《は》ねて梟首《さらしくび》にする一方、中書省に報告して、兵をとどめたまま沙汰を待つよりほかないでしょう。そして急いで戴宗と燕青をこっそり城内へつかわし、宿太尉にくわしい事情を訴えて、あらかじめ委細を陛下のお耳にいれておいてもらい、中書省から讒言のできないようにすることです。そうするならば事なきを得ましょう」
と呉学究はいった。宋江は相談が決まると、馬を飛ばして、みずから陳橋駅へ行った。かの下士は死体のかたわらにじっと立ちつくしていた。宋江はまず駅亭から酒や肉をはこび出させて、全軍の兵をねぎらい、一同を集めてから、かの下士を駅亭のなかに呼びいれて、事情をたずねた。するとその下士はいった。
「あいつはしきりに梁山泊の逆賊、梁山泊の逆賊といい、われわれを斬られぞこない殺されぞこないと罵りましたので、ついかっとなって殺してしまいました。どうかご成敗《せいばい》くださいますよう」
「彼は朝廷の役人で、わたしでも身をつつしんでいる人なのに、おまえはどうしてその人を殺したりなどしてくれたのだ。われわれ一同にまで累《るい》がおよぶにきまっているではないか。わたしはこのたびはじめて詔《みことのり》を奉じて大遼を討ちに行くところなのに、まだなんの功績もたてぬうちに、こんなことをしでかして、いったいどうすればよいのだ」
下士は叩頭して死罪を請うた。宋江は泣いていった。
「わたしは梁山泊にのぼってよりこのかた、いかなる兄弟をも、ひとりも殺したことはないが、いまや朝廷に仕える身として、わたしの思いのままにできることは一寸《いつすん》もないのだ。おまえが気概をうしなわずにいることはさることながら、以前のような気性を出してはいけなかったのだ」
「どうかわたくしを死罪にしてくださいますよう」
と下士はいった。宋江は下士に存分に酒を飲ませて酔わせたうえ、樹下に縊《くび》らせた。それからその首を刎《は》ねて梟首にした。廂官の死体は、棺をととのえて納《おさ》めた。かくて文書を作って中書省に報告したが、この話はそれまでとする。
ところで戴宗と燕青は、ひそかに城内にはいると、ただちに宿太尉の屋敷へ行ってつぶさに実情を訴えた。その夜、宿太尉は参内して、事の次第を天子にお知らせした。
翌日、天子は文徳殿で朝賀をお受けになったが、そのとき中書省の役人が列から進み出て奏上した。
「新たに投降いたしました将・宋江の部下の兵が、中書省より酒肉の分配をつかさどらせるため派遣いたしました役人一名を殺害におよびましたので、捕らえて糾問に付するよう聖旨を請いたてまつります」
すると天子の仰せられるには、
「わたしはその方らの省にやらせたくはなかったのだが、その方らの役所で処理すべき事柄だったので致しかたがなかったのだ。しかもその方らが、然るべきものを任用しなかったために、ついに事をひきおこしてしまったのだ。軍をねぎらうための酒肉は、大半をかすめ取って少ししかわたさず、兵士たちは名のみを受けて実を得なかった、それゆえあのようなことになったのだ」
中書省の役人たちは、なおも奏上した。
「ご下賜の酒肉を、どうしてかすめ取ったりなどいたしましょう」
すると、天子は大いにお怒りになって、
「わたしは自分で人をつかわして、ひそかに様子をさぐらせ、すでに、くわしく事情を承知しているのだぞ。その方らは、それでもなおつべこべ申して、わたしをたぶらかそうとするのか。下賜の酒は一瓶を半分に減らし、下賜の肉も一斤のをわずか十両にしたのだ。そのために壮士を怒らせて、あのような流血を見るにいたったのだ」
と叱責され、
「下手人はどうしたか」
と激しくたずねられた。
「宋江がすでに下手人を斬って梟首にし、本省に報告をよこしまして、兵をとどめたままお沙汰を待っております」
中書省の役人がそうお答えすると、天子は、
「すでに下手人の兵を斬ってしまったのならば、宋江の監督不行届きの罪は、ひとまず記録にとどめておき、遼を破って帰ってまいったさい、功績とひきくらべて考慮することにいたそう」
と仰せられた。中書省の役人たちはもはや言葉もなく、そのまま退出した。
天子はさっそく聖旨をくだされ、使者をつかわして、宋江らには出発をうながし、斬られた下士は陳橋駅に梟首にせよと仰せられた。
一方、宋江は、陳橋駅で兵をとどめたままお沙汰を待っていたが、そこへ天子のつかわされた使者がきて、宋江らは兵を進めて遼を討つよう、罪を犯した下士は梟首にするようにとの聖旨をつたえた。宋江はお礼を申しのべてから、下士の首を陳橋駅に掛けて梟首にし、なきがらは土にうずめた。宋江はしばし哭礼《こくれい》をささげてから、涙ながら馬に乗り、兵をひきつれて北のほうへと進んで行った。
日々六十里進んでは宿営をしたが、その通りすぎて行った州県では、何ひとつとして犯すようなことはしなかった。かくて途中は格別の話もなく、やがて次第に遼との国境に近づいた。宋江はそこで軍師の呉用を呼んで相談をした。
「いま遼軍は四手に分かれて侵入してきているが、われわれも兵を分けて攻めて行ったほうがよいだろうか、それとも、もっぱら城を攻め落とすほうがよいだろうか」
「兵を分けて進むとすると、なにしろ土地が広く人が少ないこととて、互いに援護しあうわけには行きません。それよりも敵の城を幾つか攻めてみて、そのうえでまた考えることにしましょう。きびしく攻めたてたならば、敵はきっと侵入してきている兵をひきあげるでしょうから」
と呉用はいった。
「それはなかなか妙計です」
と宋江はいい、さっそく段景住を呼んで、いいつけた。
「あなたはよく北辺の地理を知っているから、兵をひきつれて前進してもらいたいのだが、ここからいちばん近い州県はどこかな」
「前方が檀《たん》州といって、遼国の重要な要害の地です。川が流れておりまして、港はなかなか深く、名は〓水《ろすい》といって、ぐるりと城をとりかこんでおります。この〓水はずっと渭河《いか》に通じておりますから、戦船で攻めて行くのがよろしいでしょう。そこでまず水軍の頭領たちを急《せ》かして船を集めましてから、水陸の両路から船と馬とで相並んで攻めて行きますならば、檀州をおとしいれることができましょう」
宋江はそれを聞くと、さっそく戴宗を使いに出して水軍の頭領の李俊らを督促させ、昼夜兼行で船を急がせて〓水で合流することにした。
さて宋江は軍をととのえ、水軍の船と期日をしめしあわせて合流すると、水陸の両路を、相並んで檀州へと殺到して行った。
一方、檀州の城内はといえば、城をあずかる蕃官(注四)は、すなわち遼国の洞仙侍郎《どうせんじろう》(官名)で、その配下の四人の猛将は、ひとりは阿里奇《ありき》といい、ひとりは咬児惟康《こうじいこう》といい、ひとりは楚明玉《そめいぎよく》といい、ひとりは曹明済《そうめいせい》といったが、この四人の戦将は、ともに万夫不当の勇者で、宋朝が宋江らの一党をさしむけてきたと聞くや、上奏文を書いて国王に知らせるとともに、近隣の薊《けい》州・覇《は》州・〓《たく》州・雄《ゆう》州に通報して救援を求め、同時にまた兵を徴集して城外に敵を迎え討つことにした。かくて阿里奇と楚明玉のふたりに、兵をひきいて出撃させた。
一方では、大刀の関勝が前軍の先鋒として、兵をひきいて檀州の管下の密雲県に迫って行った。県の長官はそれを知ると、ふたりの蕃将に急報していうよう、
「宋朝の軍勢は意気軒昂としております。彼らは梁山泊の、このたび招安を受けた宋江の一党です」
阿里奇はそれを聞くとあざ笑って、
「あの盗《ぬす》っ人《と》どもの一味か。なにほどのこともないわ」
といい、命令をくだして蕃兵たちを糾合し、翌日、密雲県に出て宋江と交戦するてはずをととのえた。
翌日、宋江は遼の軍が近づいてきたとの知らせを聞くと、ただちに命令をくだした。
「一同、交戦にあたっては、よく情勢を見きわめて、手ぬかりのないようにせよ」
諸将は命を受け、甲《よろい》をつけて馬に乗った。宋江と盧俊義も、それぞれ甲冑《かつちゆう》に身をかため、みずから陣頭に立って指揮をとった。はるかに見わたせば遼軍は地をおおっておし寄せてき、黒ぐろと天をさえぎり日を蔽《おお》って、いちめんに〓雕旗《そうちようき》(黒鷹の旗)をおしつらねている。両軍はいっせいに弓や弩《いしゆみ》を放って、互いに出足を制しあった。と、敵陣の黒い旗が左右に開いて、そのまんなかからひとりの蕃将がおし出されてきた。ぐるぐるとしきりに跳《おど》りまわる、一頭の達馬(注五)にうちまたがっている。宋江がその蕃将を見るに、そのいでたちいかにといえば、
一頂の三叉《さんさ》の紫金の冠を戴《いただ》き、冠の口内には両根の雉尾《ちび》を栓《せん》す。一領の襯甲《しんこう》(注六)の白羅の袍を穿《うが》ち、袍の背上には三個の鳳凰を〓《ぬいとり》す。一副の連環の〓鉄《ひんてつ》の鎧《よろい》を披《き》、一条の嵌宝《かんぽう》の獅蛮《しばん》の帯(宝玉をちりばめた獅子頭《ししがしら》の留め金の帯)を緊《し》め、一対の雲根《うんこん》(雲形)の鷹爪《ようそう》(先端が尖った)の靴を著《つ》け、一条の護項《ごこう》(冠のうしろに垂れる)の銷金の〓《はく》を掛け、一張の鵲画《じやくが》(かささぎの絵)の鉄胎《てつたい》(鉄のしん)の弓を帯び、一壺の〓〓《ちようれい》(鷹の羽)の子《ひし》(鏃《やじり》)の箭を懸く。手には梨花の点鋼鎗《てんこうそう》を《と》り、銀色の拳化《けんか》(巻き毛)の馬に坐騎す。
その蕃官の旗じるしには、あざやかに、
大遼上将《じようしよう》阿里奇
としるされていた。宋江はそれを見て諸将にいった。
「あの蕃将は、あなどってはならぬぞ」
その言葉のおわらぬうちに、金鎗手の徐寧が進みいで、鉤鎌鎗《こうれんそう》を横たえつつ馬を飛ばして、ただちに陣頭に臨んだ。蕃将阿里奇はそれを見るや、大声で罵った。
「宋朝の命運ももはや尽きたか。盗っ人を大将に任じて、わが大国を侵しにくるなどとは、よくよくの命知らずどもだ」
徐寧も怒鳴り返した。
「けがらわしい国の小将め、よくも暴言を吐きおったな」
両軍はどっと喊声をあげた。徐寧と阿里奇は、中央へ飛び出して行ってたたかい、馬を交《まじ》えつつ武器をふるいあった。両将わたりあうこと三十合ばかり、徐寧は蕃将に敵しきれずと見て、自陣へと逃げ出した。花栄が急いで弓矢をかまえた。蕃将は追いこんでくる。張清もすかさず片手で鞍《くらぼね》をおさえつけ、片手をのばして錦の袋から石つぶてを取り出し、蕃将の近づいてくるのを見すまし、その顔を狙ってぱっと投げつけた。と、つぶては見事に阿里奇の左の眼に命中し、阿里奇はもんどりうって馬から落ちた。すると、こちらから花栄・林冲・秦明・索超の四将がいっせいに飛び出して行って、まずその良馬を奪い取り、阿里奇をいけどりにして陣地にもどった。副将の楚明玉は阿里奇がやられたのを見ると、急いで助けに出ようとしたが、宋江の大軍に前後から斬りこまれて、密雲県を放棄し、大敗を喫して檀州へ逃げて行った。宋江はひとまず追うことはさしひかえて、密雲県に屯営した。蕃将阿里奇を見れば、まなじりをうち割られて片目をつぶし、痛みのために死んでしまっていた。宋江は蕃官の死骸を火葬にするよう命じ、功績簿に張清の一番手柄を記載し、阿里奇の連環の〓鉄の鎧・磨ぎすました梨花の槍・嵌宝の獅蛮の帯・銀色の拳花の馬、そのほか靴・戦袍・弓矢などを、ことごとく張清にとらせた。この日は密雲県の役所で、一同祝賀の酒盛りをしたが、この話はそれまでとする。
翌日、宋江は本営に臨んで出発の命令をくだし、一同密雲県をあとにして、まっしぐらに檀州へとむかった。
一方、檀州の洞仙侍郎は、大将一名を討ちとられたとの知らせを聞くと、かたく城門をとざしたまま、迎え撃とうともしなかったが、そこへまた、水軍の戦船が城下に迫ったとの知らせがあったので、蕃将たちをひきつれ、城壁の上にのぼって偵察をした。見れば宋江の軍の猛将たちが、旗をなびかせ、すさまじい勢いで、おし寄せてくる。洞仙侍郎はそれを見ていった。
「あれでは、小将軍阿里奇がやられたのもむりはない」
すると、副将の楚明玉が、
「小将軍は決してあいつらに負けたのではありません。蛮兵のほうがさきに負けましたのでわが小将軍が追って行きましたところ、相手の緑色の装束をしたひとりの蛮人に、石つぶてを投げつけられて、馬から落とされたのです。そこへあいつらの隊のなかから四人の蛮人が四本の槍をならべて飛び出してきて、どっとたちふさがりましたため、こちらではどうにも手出しができず、そのためにやられてしまったのです」
「その石つぶてを投げつけた蛮人は、どんなやつだ」
と洞仙侍郎はきいた。すると傍らのもので顔を見覚えていたのがいて、指さしながらいった。
「城下の(そこの)あの黒い頭巾をかぶって、いまでは小将軍のよろいを着て小将軍の馬に乗っている、あの男がそうです」
洞仙侍郎が姫垣のところへ出てたしかめようとすると、はやくも張清はそれを見つけて、馬を飛ばして近づくなり、ぱっと石つぶてを投げつけた。左右のものがいっせいに、
「避《よ》けよ!」
と叫んだが、そのときすでにつぶては洞仙侍郎の耳の根をかすめて飛び去り、耳たぶの皮をすりむいていた。洞仙侍郎は痛さをしのびながら、
「あの蛮人め、まったく手強《てごわ》いやつだ」
といい、城壁をおりると、上奏文を書いて大遼の国王に上申するとともに、国境の各州に通告して守りをかためさせた。
一方、兵をひきいて城下に迫った宋江は、四五日つづけざまに攻めたてたが、これを破ることができず、兵をひきつれてまた密雲県にもどって屯営し、本営で城を破る計略を協議した。と、そこへ戴宗が帰ってきて、水軍の頭領たちを戦船でみな〓水までこさせたと報告した。宋江はさっそく李俊らを陣中に呼んで協議することにした。李俊ら一同は本営にきて宋江に挨拶をした。宋江はいった。
「こんどのいくさは、梁山泊のときとは事情がちがうから、まず流れの具合や深さをよくしらべてから、兵を進めてもらいたい。わたしの見るところ、〓水という川はずいぶん流れが急で、うっかりまちがうと、とりかえしのつかぬことになりそうだから、十分に気を配って、決して油断することのないように。船にはすっかり蓋《おおい》をかぶせて糧秣船のように見せかけ、あなたがた頭領はてんでに武器を持って船のなかに身をひそめ、四五人のものだけで船を漕ぎ、岸からはふたりのものに〓《ひ》き舟《ぶね》をさせて、やがて城下に近づいたら、両岸に船をつないで、われわれが繰り出して行くのを待っているように。城内でそれに気づけば、必ず水門をあけて糧秣船を奪おうとして出てくるから、そのときあなたがた伏兵が飛び出して、敵の水門を奪うのだ。そうすれば成功はまちがいない」
李俊らは命令を聞いて立ち去った。
やがて水路偵察の兵がきて、
「西北のほうから一隊の軍勢がおし寄せてまいります。いちめんに〓雕《くろたか》の旗をおしたて、一万人あまり、檀州をめざしてやってくるようです」
と知らせた。呉用はいった。
「それは遼国が繰り出してきた援軍にまちがいありません。こちらからまず数名の将を出して防ぎたたかい、これを蹴散らしてやれば、城内の敵は胆をひやすでしょう」
宋江はただちに張清・董平・関勝・林沖に命じ、それぞれ十数名の小頭目と五千の兵をつけて、これを急襲させた。
そもそも、遼国の国王は、梁山泊の宋江一党の好漢が兵をひきいて檀州に殺到し、城を包囲したという知らせを聞いて、特にふたりの甥に命じて救援におもむかせたのであった。そのひとりは耶律国珍《やりつこくちん》といい、ひとりは国宝《こくほう》といった。ふたりは遼国の上将で、また国王の甥にあたり、ともに万夫不当の勇を持っていた。これが一万の蕃兵をひきつれて、檀州の救援にやってきたのである。見る見る近づいてきて、宋軍を迎えるや、左右に陣形をひらき、ふたりの蕃将が同時に馬を陣頭に進めた。見れば、
頭には粧金嵌宝《しようきんかんぽう》の三叉の紫金の冠を戴き、身には錦辺珠嵌《きんぺんしゆかん》の鎖子《さし》の黄金の鎧を披《き》る。身上には猩猩血染《しようじようけつせん》の戦紅袍《せんこうほう》、袍上には斑斑錦職《はんぱんきんしよく》の金翅《きんし》の〓《たか》。腰には白玉の帯を〓《し》め、背には虎頭の牌《たて》を挿《さしはさ》む。左辺の袋内には雕弓《ちようきゆう》を挿《さ》し、右手の壺中には硬箭《こうせん》を〓《あつ》む。手中には丈二の緑沈《りよくちん》(緑色の柄)の鎗を《と》り、坐下には九尺の銀〓《ぎんそう》(銀色のたてがみ)の馬に騎《の》る。
その蕃将は兄弟で、ふたりとも同じよそおいをし、同じく槍を得物にしていた。
宋軍もこれを迎えて陣をしくや、双鎗将の董平が馬を進めて、大声で呼ばわった。
「そこにくるのはどこの蕃賊だ」
すると耶律国珍がかっとなって怒鳴り返した。
「水たまりの盗《ぬす》っ人《と》め、わが大国に攻めてきながら、却《かえ》ってどこからきたなどとは何たるいいぐさだ」
董平はそれ以上はいわず、馬をおどらせ槍をかまえて、まっしぐらに耶律国珍におそいかかって行った。片や蕃人の年若き将軍は、血気まさに盛ん、一歩もひけをとるべくもなく、鋼鎗《こうそう》をかまえてこれを迎え討った。両馬相交わり、三本の槍が乱れとぶ。二将はかくて戦塵たちこめ殺気ただようまっただなかで、双鎗を使うものは独自の槍法をふるい、単鎗を使うものはまたおのずから妙手を用いて、互いにわたりあうこと五十合におよんだが、なお勝敗は決しなかった。そのとき耶律国宝は、兄が長いあいだたたかっているうちに力のひるむことをおそれて、中軍で銅鑼を打ち鳴らさせた。おりしも耶律国珍はたたかいまさにたけなわのときであったが、銅鑼の音を聞いて、急いで身を退《ひ》こうとしたところ、董平は二本の槍をからみつけて、いっかなはなそうとはしない。耶律国珍ははっとうろたえて、その槍法がにぶる。と、董平は右手で相手の緑沈の槍をおさえつけ、左手の槍をふるって、蕃将の首の根めがけてただ一突き。槍は見事に突きささって、あわれ耶律国珍は金の冠をさかしまに飛ばし、両脚を空にむけて馬から墜落した。弟の耶律国宝は兄が落馬したのを見るや、ただちに陣を飛び出し、単騎単鎗で駆けつけて救い出そうとした。宋軍の陣地では没羽箭の張清が、耶律国宝の飛び出してきたのを見て捨てておくはずはなく、馬上で梨花鎗《りかそう》を了事環《やりかけ》に掛けるなり片手を錦の袋につっこんで石つぶてを取り出し、馬をせかせて陣頭に飛び出した。耶律国宝が飛ぶように駆けてくるところへ、張清は真向《まつこ》うからぶっつかって行き、両騎の間隔は十丈あまりにつまった。蕃将はただ張清がわたりあいにくるものとばかり思って用心をしなかった。と、そのとき張清は手をふりあげて、
「やっ!」
と一喝。つぶては耶律国宝の顔に命中し、国宝はもんどりうって落馬した。関勝と林冲は兵をひきつれて斬りこんだ。遼兵は指揮者をうしなって、ちりぢりに逃げた。
この一戦だけで、一万余の遼兵を斬りちらし、蕃官ふたりの鞍馬一式と金の牌《たて》二面を得、宝冠や袍甲も取って、二つの首級を刎《は》ねた。かくて戦馬一千余頭を奪い、密雲県へひいて行って宋江に献じた。宋江は大いによろこんで全軍をねぎらい、功績簿に董平と張清の二番手柄を記録し、檀州をおとしいれてからいっしょに朝廷に上申することにした。
宋江は呉用と夕方まで協議して軍令書をつくり、林冲と関勝には一隊の軍勢をひきいて酉北方から檀州を攻めさせ、呼延灼と董平にも同じく一隊の軍勢をひきいて東北方から兵を進めさせ、さらに盧俊義には一隊の軍勢をひきいて西南からむかわせることにして、
「われわれ中軍は東南方から進む。砲声を合図にいっせいに出陣せよ」
と命じた。さらにまた、砲手《ほうしゆ》の凌振、および李逵・樊瑞・鮑旭、ならびに牌手《はいしゆ》の項充・李袞には、滾牌《こんぱい》(団牌《まるだて》)の兵一千余をひきいてまっすぐに城下へ行き、号砲を放つようにと命じた。
「二更を期して水陸相並んで進むことにする。各路の軍は互いに呼応してたたかうよう」
かく命令が達せられると、諸軍はそれぞれ敵城を攻める準備をはじめた。
一方、洞仙侍郎は、かたく檀州を守ったまま、ひたすら援軍のくるのを待っていた。と、そこへ、皇姪《こうてつ》(国王の甥《おい》)の配下の敗残兵が城内へ逃げこんできて、つぶさに訴えた。
「おふたりの皇姪大王は、耶律国珍さまのほうは二本槍をつかうやつの手にかかられ、耶律国宝さまのほうは黒い頭巾をかぶったやつに石つぶてを投げつけられ、落馬されておつかまりになりました」
洞仙侍郎は地だんだを踏んで、
「またしてもあの蛮人め。おふたりの皇姪を討ちとられてしまったとあっては、なんの面目あって国王におめにかかれよう。あの黒頭巾の蛮人をひっとらえたそのときには、ずたずたに斬り裂いてくれるぞ」
と、罵った。
やがて夜になると、蕃兵が洞仙侍郎に知らせにきた。
「〓水の河の中に、六七百艘の糧秣船が両岸に泊まっておりますし、遠くからは敵兵がおし寄せてきます」
洞仙侍郎はそれを聞くと、
「蛮人らはわが方の水路がよくわからず、まちがって糧秣船をこちらのほうによこしたのだ。岸の兵は、その糧秣船をさがしにやってきたのにちがいない」
といい、ただちに三人の蕃将、楚明玉《そめいぎよく》・曹明済《そうめいせい》・咬児惟康《こうじいこう》をつかわすことにして、呼び寄せていいつけた。
「かの宋江ら蛮人どもは、今夜またもや多数の軍勢を繰り出してきた。別に若干の糧秣船がこちらの河にはいってきている。そこで、咬児惟康は兵一千をひきつれて城外に討って出るように。また楚明玉と曹明済は水門をあけて、すぐそこから船を出して行くよう。糧秣船の三分の二を奪えばその方らの大手柄だ」
その結果はどうであったか。それをうたった詩がある。
妙算《みようさん》従来(もとより)〓《はるか》に同じからず
檀州城下に艨艟《もうどう》(戦船)を列《つら》ぬ
侍郎は識らず兵家の意を
反って自《みずか》ら門を開いて路を通ず
さて宋江の軍は、その夜、たそがれ近く、李逵と樊瑞が長となり、歩兵をひきしたがえて城下に迫り大いにわめきたてた。洞仙侍郎は咬児惟康に命じ、兵をせかせて城外に討ち出させた。城門が開かれ、吊り橋がおろされて、遼兵が城外に出てくると、こちらでは李逵・樊瑞・鮑旭・項充・李袞の五人の好漢が、一千の歩兵の、いずれ劣らぬ勇猛な刀手・牌手をひきつれて、吊り橋のたもとにたちはだかった。そのため蕃軍の兵は容易に城外に討ち出ることができない。
凌振は軍中で砲架を組みたて、発砲の準備をととのえて、時刻のくるのを待ちかまえていた。城壁からはしきりに矢を射ってきたが、牌手が左右にそれを防いでいた。鮑旭は後方で喊声をあげた。一千余人であったが、それは一万余人のように聞こえた。
洞仙侍郎は城内で、兵士たちが討ち出しかねているのを見ると、急いで楚明玉と曹明済に水門を開けて船を奪うよう命じた。そのとき、宋江の水軍の頭領たちはみな、すっかり手はずをととのえて船内にかくれたまま、じっとしていた。敵はいよいよ水門を開け、つぎつぎに閘板《こうはん》(水門の扉)を引きあげて戦船を出してきた。凌振はその知らせを受けると、まず一発、風火砲をうちあげた。砲声がひびきわたると、両岸に泊まっていた戦船はいっせいに動き出して、蕃船にたちむかった。左手からは李俊・張横・張順がおどり出し、右手からは阮氏三兄弟がおどり出て、いっせいに戦船を進めつつ蕃船の隊中へ突きこんで行った。蕃将の楚明玉と曹明済は、戦船におそいかかられて敵しきれず、また、伏兵があるかも知れぬと考えて、あわてて船をもどそうとしたが、そのときはもう宋江がたの水夫や兵士がどっと船内へ跳びこんできたため、やむなく岸へあがって逃げ出した。宋江の水軍のかの六人の頭領たちは、すかさず水門を占領してしまった。水門を守っていた蕃将たちは、あるものは殺され、あるものは逃げて行った。一方の楚明玉と曹明済もそれぞれ命からがらのがれて行った。
水門のほとりにまず火の手があがった。凌振はそこで、また一発、車箱砲《しやそうほう》をうちあげた。砲はまっすぐ中天にあがって炸《は》ぜた。洞仙侍郎は火砲が天にとどろきわたるのを聞いて、魂も身につかぬほどおどろいた。李逵・樊瑞・鮑旭は、牌手の項充・季袞らの軍勢をしたがえて、まっしぐらに城内へ殺到する。洞仙侍郎と咬児惟康は城内で、すでに城門が奪われてしまったのを見、また四路の宋軍がいっせいに殺到してくるのを見て、もはやどうすることもできず、馬に乗り、城を捨てて北門から逃げだした。と、まだ二里も行かぬうちに、大刀の閧勝と豹子頭の林冲に出くわし、退路をさえぎられてしまった。まさに、天羅《てんら》密に〓《し》かれて歩を移し難く、地網《ちもう》高く張られて怎《いかん》ぞ身を脱せん、というところ。さて、洞仙侍郎はいかにして身をのがれるか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 紙銭や紙馬 紙銭は第二回注八、紙馬は第十五回注二参照。
二 廂官 第十二回注二参照。
三 斬られぞこない 原文は〓不尽。〓《か》は寸断の極刑。
四 蕃官 原文は番官。番は蕃で、異国人をいう。官はここでは長官の意。以下、遼の将・兵等をさすときはすべて番将・番兵等の語を用い、遼人の側から宋の将・兵等をいうときは、蛮将・蛮兵等の語を用いている。
五 達馬 北辺の地の馬をいう。
六 襯甲 普通は甲《よろい》の下に着るものをいうが、ここでは上に着るの意。
第八十四回
宋公明《そうこうめい》 兵もて薊州城《けいしゆうじよう》を打ち
盧俊義《ろしゆんぎ》 大いに玉田県《ぎよくでんけん》に戦う
さて洞仙侍郎は檀《たん》州がすでに陥《おちい》ったのを見て、もはやどうすることもできずに城を逃げ出し、咬児惟康《こうじいこう》とともに蕃兵たちに護られて行くうちに、林冲・関勝に出くわして激戦になったが、もとより戦意はなく、横手をめざして必死に逃げだした。関勝と林冲は城を取るのが目的だったので、追いかけずにそのまま城内へ突入して行った。
ところで宋江は、大軍をひきつれて檀州に入城し、蕃軍を追いちらしたが、同時に立札を出して住民を宣撫し、いささかも住民に対して危害を加えることをゆるさなかった。また命令をくだして、戦船はことごとく城内にひきいれさせた。かくて全軍の兵士をねぎらい、また城内の遼国に仕えていた役人で姓のあるもの(漢人のこと)はもとのまま任用し、姓のない蕃官はことごとく城外に追放して、砂漠へ帰って行かせた。同時にまた上奏文を書いて、檀州をおとしいれた旨を朝廷に上申し、府庫の財帛金宝をことごとく京師へ送り、宿太尉に書状を書いてこのことを天子に奏上されるようにたのんだ。
天子はこれを聞かれて、ご機嫌はなはだうるわしく、ただちに聖旨をおくだしになって、東京《とうけい》府の同知《どうち》(副長官)の趙安撫《ちようあんぶ》(安撫は経略使の別称)に御営の兵二万をひきいて監察におもむくよう仰せつけられた。
一方宋江はその知らせを聞くと、諸将をひきしたがえて郊外の遠くまで出迎え、檀州の役所に案内して旅装をとかせ、ここをかりに行軍帥府《こうぐんすいふ》(征討軍司令部)とした。諸将・頭目らはことごとく目通りして礼をおさめた。
この趙安撫という人は、祖先は趙《ちよう》家(趙は宋の皇室の姓)の出で、人柄は温厚で思いやり深く、事をなすにあたっては極めて公正な人であった。そこで宿太尉が天子にお口添えして、特にこの人を軍の監察に辺境へつかわしたのであった。趙安撫は、宋江が仁徳をそなえた人物であることを見てとり、大いによろこびながらいった。
「陛下にはあなたがた諸将の心労や兵士たちの労苦を十分にお察しになり、特にわたしを軍の監察におつかわしになって、ここに恩賜の金銀や段疋《き ぬ》二十五車輛を託されてまいった次第でして、殊勲をあげたものは朝廷に上申して、官爵をさずけられるようおとりはからいいたします。将軍はすでに州郡をおとしいれられたのですから、わたしから改めて朝廷に上申いたしましょう。ほかのかたたちも力のかぎり忠をつくし、はやく大功を成しとげて京師に凱旋されますよう、そうすれば陛下には必ず重くおとりたてくださるでしょう」
宋江らはお礼を申しのべ、
「なにとぞあなたさまに檀州を鎮守していただきとう存じます。わたくしどもは兵を分けてそれぞれ遼国の主要な州郡を攻略し、敵をして首尾《しゆび》相かえりみることのできないようにいたしますから」
といい、恩賜の品を将兵に分けあたえるとともに、各路の軍勢をひき返させて命をつたえ、遼国の州郡を攻略させることにした。そのとき楊雄が進言した。
「前方はすぐ薊州ですが、これは大きな郡で、租税の入りも多く、米や麦も豊かで、いわば遼国の宝庫でございます。薊州を取りさえすれば、あとはたやすく手に入れることができましょう」
宋江はそれを聞くと、すぐ軍師の呉用を呼んで協議した。
一方、洞仙侍郎と咬児惟康は、東のほうへと逃げて行くうちに、敗残の兵をひきつれた楚明玉と曹明済とに出くわして、いっしょに薊州へ急ぎ、城内にはいるや皇弟の耶律得重《やりつとくじゆう》に見《まみ》えて、訴えた。
「宋江の軍はたいへんな勢いでございます。なかに石つぶてをつかう蛮人がおりまして、したたかな腕前。そのつぶては百発百中で、一発とてくるいはなく、必ず相手を打ちたおします。おふたりの皇姪も小将阿里奇も、そやつの石つぶてに打たれて亡くなられました」
耶律大王は、
「そうであったか。それではおまえたちはここで、わたしに協力してその蛮人どもをやっつけてくれ」
といったが、その言葉のまだおわらぬうちに、物見の速馬《はやうま》が駆けつけて、
「宋江の軍が二手に分かれて薊州に攻めてまいりました。一手は平峪県《へいよくけん》をおそい、一手は玉田県《ぎよくでんけん》をめざしております」
と告げた。皇弟大王はそれを聞くと、ただちに洞仙侍郎に、
「手勢の兵をひきつれて行って平峪県の入口をおさえるように。ただし相手とたたかってはならぬ。わたしは兵をひきいてまず玉田県の蛮人どもをやっつけておいて、背後から奇襲しよう。そうすれば平峪県の蛮人どもも逃げ場がないわけだ。それと同時に覇州・幽州に通告して、二手の軍勢を援護にこさせよう」
そもそもこの薊州というところは、遼国の国王がその弟の耶律得重を派遣して守らせていたところで、耶律得重は四人の息子、長男の宗雲《そううん》・次男の宗電《そうでん》・三男の宗雷《そうらい》・四男の宗霖《そうりん》をひきしたがえ、配下には十数名の戦将がいたが、その総兵大将(総司令官)は宝密聖《ほうみつせい》といい、副総兵(副司令)は天山勇《てんざんゆう》といって、一同で薊州の城を守っていたのである。そのとき皇弟大王は宝密聖に城の留守をあずけ、みずから大軍をひきい、四人の息子と副総兵の天山勇をしたがえて、玉田県へと駆けつけて行った。
さて一方宋江は、兵をひきつれて平峪県まで行ってみると、前方の要害が守りかためられているので、前進することをさしひかえて平峪県の西に陣をかまえた。
また一方盧俊義は、多くの戦将と三万の兵をひきつれて玉田県へと繰り出して行ったところ、はやくも遼軍に接近した。盧俊義はさっそく軍師に相談していうよう、
「いまや遼軍と接近するにいたったが、呉《ご》人は越《えつ》の境を識《し》らずというたとえのとおり、敵の地勢には不案内だ。なにかよい策はなかろうか」
「わたしの考えでは、敵の地勢のわからぬかぎりは、各隊ともうかつに前進させてはなりません。そこで、長蛇のかたちに隊伍を配し、首尾《しゆび》相応じて環《たまき》のようにめぐりあう陣形をかまえることです。そうすれば地勢にうとくとも案ずることはありません」
と朱武は答えた。
「それはいかにもわが意を得た説だ」
と盧先鋒はいい、かくて兵を前進させて行ったが、はるかに見れば遼軍は地をおおっておし寄せてくる。そのさまは、
黄沙漫々、黒霧濃々。〓雕旗《そうちようき》は一派の烏雲《ううん》を展《の》べ、拐子馬《かいしば》(注一)は半天の殺気を蕩《うご》かす。青氈《せいせん》の笠帽《りゆうぼう》(注二)は、千池の荷葉《かよう》(蓮の葉)の軽風に弄《もてあそ》ばるるが似《ごと》く、鉄打《てつだ》の兜〓《とうぼう》(かぶと)は、万頃《ばんけい》(一頃は百畝)の海洋の凍日《とうじつ》(冬)に凝《こお》れるが如し。人人衣襟《いきん》は左掩《さえん》(左まえ)に、個個髪搭《はつとう》(垂らし髪)は肩に斉《ひと》し。連環の鉄鎧《てつがい》重ねて披《き》、刺納《しのう》(刺子《さしこ》)の戦袍緊《きび》しく繋《か》く。番軍(蕃兵)は壮健にして、黒き面皮、碧《あお》き眼、黄《あか》き鬚《ひげ》。達馬(注三)は咆哮す、闊《ひろ》き膀膊《ほうはく》(肩)、鋼《はがね》の腰、鉄《くろがね》の脚。羊角の弓には沙柳の箭を〓《あつ》め、虎皮の袍は窄《せま》き雕鞍《ちようあん》に襯《した》しむ。生れて辺寨に居し、長成して会《よ》く硬弓を〓《ひ》き、世《よよ》朔方(北方)に本づき、養大して(長じて)能く劣馬(駻馬)に騎《の》る。銅《どうこう》の羯鼓《かつこ》(注四)、軍前に打ち、蘆葉《ろよう》の胡笳《こか》(注五)、馬上に吹く。
皇弟大王・耶律得重は、兵をひきつれてまず玉田県に着くや、兵を散開させて陣をかまえた。宋軍では、朱武が雲梯《うんてい》(注六)(高い梯子《はしご》)にのぼって偵察し、おりてきて盧先鋒に告げた。
「蕃人どもが布《し》きました陣は、五虎山《やま》に靠《よ》るという陣形で、ありふれたものです」
朱武はこんどは将台(指揮台)にのぼり、信号旗で右に左にさし招いて諸軍をうごかし、こちらにも一つの陣形を布いた。盧俊義は見たがわからないので、たずねた。
「これはどういう陣形なのか」
「これは、鯤《こん》化して鵬《ほう》と為《な》るという陣形です」
「鯤化して鵬と為るとは?」
「北海に魚有り、其の名を鯤《こん》と曰う、能く大鵬と化し、ひとたび飛ばば九万里といいます(注七)。この陣形はどこから見てもただ一個の小陣にすぎませんが、いったん敵が攻めてくるとたちまち変じて大陣になります。それゆえ、鯤化して鵬と為《な》るというのです」
盧俊義はそれを聞いて、しきりに感嘆した。
相《あい》対する敵陣に軍鼓が鳴りひびき、門旗が左右に開かれて、そこから皇弟大王がみずから馬を乗り進めてき、その四人の息子が左右に分かれてひかえた。いずれも同じ軍装に身をかためている。見れば、
頭には鉄縵笠《てつまんりゆう》(鉄の無地の帽)に〓箭《そうせん》(矢を刺し飾った)の番〓《ばんかい》(かぶと)を戴き、上に純黒の球纓《きゆうえい》(まるい房のついた紐)を栓《むす》ぶ。身には宝円鏡《ほうえんきよう》(宝玉を飾った円形の護心鏡《むなあて》)に柳葉の細甲《さいこう》(柳の葉をつみ重ねたような甲《よろい》)を襯《つ》け(一)条の獅蛮の金帯を繋《し》む。踏《とうとう》(注八)の靴は鷹嘴《ようし》を半彎《はんわん》し(半ば鷹のくちばしのように曲がり)、梨花の袍は盤竜《はんりゆう》(わだかまれる竜)を錦繍す。各強弓硬弩《こうど》を掛け、都《すべ》て駿馬雕鞍《ちようあん》に騎《の》る。腰間には尽く〓〓《こんご》の剣(注九)を挿《さしはさ》み、手内には斉《ひと》しく掃箒《そうそう》の刀(注一〇)を拿《と》る。
まんなかは皇弟大王で、その左右にひかえる四人の小将軍は、両肩からいずれも小さな護心鏡をつるし、鏡の縁には対《つい》にはめこんだ黒い纓《ふさ》を垂れ、四振りの宝刀と四騎の駿馬で整然と陣頭にならんでいる。そしてその皇弟大王のうしろには、さらにまた、層々と列をかさねて、多数の戦将たちがいた。
四人の小将軍は大声で呼ばわった。
「汝ら盗《ぬす》っ人《と》どもめ、よくもわが辺境を侵《おか》しにまいったな」
盧俊義はそれを聞くと、
「いよいよ対戦となったが、先陣をひきうける英雄は?」
といった。その言葉のまだおわらぬうちに、いきなり大刀の関勝が、青竜偃月《えんげつ》の刀を舞わせつつ、気負いたって馬を乗り出して行った。むこうでは、蕃将耶律宗雲が、刀を舞わせ馬をせかせてきて、関勝を迎え討つ。両者わたりあうこといまだ五合におよばぬうちに、耶律宗霖が馬をせかせ刀を舞わせつつ加勢に出た。呼延灼はそれを見て、双鞭をふりかざしつつ、まっしぐらに飛び出して行ってこれを迎え討つ。すると、かの耶律宗電・耶律宗雷の兄弟ふたりも、刀をかまえつつ馬をおどらせて、いっせいに討ち出してきた。こちらでは徐寧と索超が、てんでに得物をふりかざしてそれを迎え討つ。かくて四組のものが陣頭に、もつれあって一団となり、もみあって一塊となりながら、たたかった。
たたかいまさにたけなわのとき、没羽箭の張清はそれを見て、ひそかに馬を駆って陣頭に迫った。ところが、檀州での敗残兵で張清の顔を知っているものがいて、あわてて皇弟大王に知らせた。
「敵陣のあの緑の戦袍を着た蛮人が、石つぶてを飛ばすことのうまいやつです。やつはああして出てきて、またこのまえの手をつかうのです」
天山勇はそれを聞いて、
「大王、ご安心ください。あの蛮人にわたしの弩《いしゆみ》の矢を一発くらわせてやりますから」
といい放った。そもそもこの天山勇という男は、馬上で、漆《うるし》塗りの弩《いしゆみ》と、長さ一尺あまりの矢羽の、名づけて一点油《いつてんゆう》と呼ぶ矢をつかう名手であった。この天山勇は、馬上で了事環《りようじかん》(槍掛けの環)を鞍につけてから、馬を駆って陣を出、ふたりの副将を前に立てて身をかくしながら、三騎でひそかに、そのまま陣頭に迫って行った。張清のほうでも、いちはやくそれを見つけ、ひそかに石つぶてを手に取り、先頭の蕃官めがけて、
「えいっ」
と鋭い気合もろとも投げつけた。だが、つぶては〓《かぶと》の上をかすめ去った。この天山勇はその副将の馬のうしろに身をかくして、矢をしかと弓につがえ、弦をただしくひきしぼり、張清が近づくのを見すまして、ぱっと射放った。張清は、
「あっ」
と叫んで、あわてて身をかわそうとしたが、矢は咽喉《の ど》に命中し、もんどりうって落馬した。双鎗将の董平と九紋竜の史進が、解珍と解宝をつれて行って、必死になってこれを助け出してきた。盧先鋒はそれを見て、急いで矢を抜き取らせたが、血がとめどもなく流れ出すので、首をしっかりとしばりつけ、すぐさま鄒淵と鄒潤に命じて張清を車に乗せさせ、檀州へ送り返して神医の安道全に治療させることにした。
車を送り出したところへ、陣頭にまたもや喊声がおこって、
「西北方から一隊の軍勢が飛ぶようにおそいかかってきました。名乗りもあげずに、縦横に陣地へ突きこんでまいります」
という知らせ。盧俊義は張清が矢で射たれたのを見て、すっかり戦意をうしない、四人の将も、それぞれ負けたふりをして、ひきあげてきた。四人の蕃将は勢いに乗じて追ってき、西北方からの蕃軍も横手のほうから斬りこんでくる。正面の蕃軍の大部隊も、さながら山の崩れるように、おそいかかってくる。こちらでは陣法を変えるどころのさわぎではなく、全軍、兵も諸将もちりぢりばらばらになって、互いに他をかえりみるいとまもなく、盧俊義を単騎単鎗のままあとに残して、ひたすらかなたへと逃げ去って行った。
やがて日もようやく暮れかかり、四人の小将軍はひきあげて行ったが、その途中でばったりと盧俊義に出くわした。盧俊義は単騎単鎗で四人の蕃将と力戦して、いささかもひるまなかった。およそ一時《いつとき》ほどたたかったあげく、盧俊義は機をつかみ、わざと隙を見せた。と、耶律宗霖が刀をふりかぶって斬りこんできたが、そこを盧俊義に大喝を浴びせかけられ、かの蕃将は手をくだすいとまもなく、槍に刺されて馬から落ちた。あとの三人の小将軍は、びっくりして、みな怖気《おじけ》をふるい、戦意をうしなって、馬をせかして逃げて行く。盧俊義は馬をおり、刀を抜いて耶律宗霖の首級をかき取り、馬の首にくくりつけた。そして身をひるがえして馬に乗り、南のほうをめざして行ったが、するとまたもや遼兵の一隊、およそ一千余人に出くわした。盧俊義がまた斬りこんで行くと、遼兵はちりぢりに逃げて行く。そこからさらに数里とは行かぬうちに、またしても一隊の軍勢に出くわした。
その夜は月がなく、どこの兵とも見わけがつかなかったが、話し声を聞けば、それは宋のものの言葉である。盧俊義はさっそくたずねた。
「そこへくるのは何ものだ」
すると、呼延灼の返事が聞こえた。盧俊義は大いによろこんで、これと合流した。呼延灼が、
「遼軍に蹴散らされまして、味方同士助け合ういとまもございませんでした。わたしは敵陣を破って、韓滔《かんとう》・彭〓《ほうき》とここまでやってまいりましたが、ほかの将たちはどうしましたことやら」
というと、盧俊義も、
「四人の蕃将とたたかって、わたしはそのひとりを討ちとったが、三人はとり逃がしてしまった。そのあとでまた一千あまりの兵に出くわしたが、これも斬り散らして、ここまでやってきたところ、はからずもあなたに出会ったのです」
と話しながら、ふたりは馬をならべ、従者をつれて、南のほうへと進んで行ったが、十数里とは行かぬうちに、ゆくてに早くも軍勢があらわれて、路をさえぎった。呼延灼が、
「闇夜にいくさができるものか。夜が明けてから勝負しよう」
というとむこうではそれを聞きつけて、
「そこへくるのは呼延灼将軍ではないか」
とたずねる。呼延灼はその声で大刀の関勝であることがわかって、
「盧頭領どのもおいでだ」
と声をかけた。
頭領たちはともに馬をおり、ひとまず草原の上に腰をおろした。盧俊義と呼延灼がそれぞれ自分のことを話すと、関勝もいった。
「いくさに破れて、お互いに助けあうというまもありませんでした。わたしは宣賛・〓思文・単廷珪・魏定国とともに五騎で活路を求めて逃げ、その後、味方の兵一千余名を集めてここまでまいりましたが、地勢がわからないものですから、ここで様子を見ていて、夜が明けたら出かけるつもりでおりましたところ、はからずも兄貴に出会ったというわけです」
一同は兵を合流し、夜明けを待ちかねて、蜿蜒とまた南のほうへひき返して行った。やがて玉田県の近くまで行くと、一隊の人馬が偵察をしているのが見えた。よく見ると、それは双鎗将の董平・金鎗手の徐寧らで、彼ら兄弟たちはみな玉田県の城内に陣取り、遼兵をことごとく追いはらってしまっていた。そして、
「侯健・白勝のふたりは宋公明兄貴のところへ知らせに行きましたが、解珍・解宝・楊林・石勇らがどうなったかわかりません」
という。盧俊義は兵を玉田県の境に進ませて、諸将・兵士を点検してみたが、五千余人のものが見あたらず、しきりに憂慮した。と、巳牌《しはい》(昼前)ごろ、知らせがあって、
「解珍・解宝・楊林・石勇が、二千余名をひきつれてもどってきました」
という。盧俊義が呼んでこさせてたずねてみると、解珍がいうには、
「われわれ四人は逆に攻めつけて行ったのですが、深追いしすぎて道に迷い、急にはひき返せなくなってしまったのです。今朝もまた遼軍にぶつつかって大いくさをし、いまもどってまいった次第です」
盧俊義は耶律宗霖の首級を玉田県で梟首《さらしくび》にさせて、全軍の兵士ならびに住民たちにたいして見せしめとした。
夕暮れ近く、兵士たちが身のまわりを片づけて休もうとしているとき、とつぜん斥候の下士がもどってきて、
「どれほどとも知れぬ遼軍が、四方から県城をかこんでしまいました」
と知らせた。盧俊義はそれを聞いて大いにおどろき、燕青をつれて城壁の上にのぼって見ると、松明《たいまつ》がずっと十里むこうまでひろがり、ひとりの小将軍が先頭で指揮をしていた。それはほかならぬ耶律宗雲で、駻馬にまたがって松明のただなかで全軍をはげましている。燕青は、
「きのうは張清がやつらのかくし矢にやられたが、きょうはそのお礼をしてくれよう」
といい、弩《いしゆみ》を取り出して、ひょうと射放てば、矢は蕃将の鼻のくぼみに命中し、蕃将は馬から落ちた。兵士たちがあわてて助けたときには、すでに宗雲は痛手のために気をうしなっていた。蕃軍はたちまち五里ほど後退した。
盧俊義は県城内で諸将に諮《はか》った。
「かくし矢を放って遼軍を少しばかり後退させたが、夜が明けたら必ず攻めかこんでくるだろう。鉄桶《てつとう》(鉄のおけ)のようにかこまれてしまったら、どうして切り抜けられよう」
すると朱武がいった。
「宋公明兄貴がこの情勢を知られたら、きっと救いにこられましょう。そのとき内外呼応してたたかえば、必ず切り抜けられます」
一同が夜の明けるのを待ちかねて眺めてみると、遼軍は四方に隙間なくおしならんでいる。と、そのとき東南のほうに土煙があがって、数万の軍勢のおし寄せてくるのが見えた。諸将はみな南のほうの兵を眺めた。朱武がいった。
「あれは宋公明兄貴の軍勢にちがいない。遼軍が兵をまとめていっせいに南のほうへたちむかって行ったら、こちらから全軍をこぞって、うしろからおそいかかろう」
一方、相《あい》対する遼軍は、辰時《しんじ》(朝がた)からずっと未牌《びはい》(昼過ぎ)まで城をかこみつづけて、ちょうど倦み疲れてきたときに、宋江の軍勢に斬りこまれたため、踏みこたえることができず、みないっせいにひきあげ出した。朱武は、
「いま追い討ちをかけなければ、またと機会はありません」
という。盧俊義はただちに命令をくだし、県城の四方の門をあけ放ち、全軍をひきつれて城外へ討って出た。遼軍は大敗を喫して、星落ち雲散るがごとく四分五裂し、ちりぢりになって敗走した。宋江は遠くまで遼軍を追って行ったが、天明になって(注一一)、金鼓を鳴らして兵を収め、玉田県に進んだ。盧先鋒は兵を一つにあわせ、薊州攻略のことをいろいろと話した。
柴進(注一二)・李応・李俊・張横・張順・阮氏三兄弟・王矮虎・一丈青・孫新(注一三)・顧大嫂・張青・孫二娘・裴宣・蕭譲・宋清・楽和・安道全・皇甫端・童威・童猛・王定六らを残留させて、一同、趙枢密のもとで檀州の守備をし、その他の諸将は左右両軍に分かれることになった。宋先鋒が左軍の兵を総轄して、四十八名(注一四)。すなわち、軍師の呉用・公孫勝・林冲・花栄・秦明・黄信・朱仝・雷横・劉唐・李逵・魯智深・武松・楊雄・石秀・孫新・孫立・欧鵬・〓飛・呂方・郭盛・樊瑞・鮑旭・項充・李袞・穆弘・穆春・孔明・孔亮・燕順・馬麟・施恩・薛永・宋万・杜遷・朱貴・朱富・凌震・湯隆・蔡福・蔡慶・戴宗・蒋敬・金大堅・段景住・時遷・郁保四・孟康。盧先鋒が右軍を総轄して、三十七名。すなわち、軍師の朱武・関勝・呼延灼・董平・張清・索超・徐寧・燕青・史進・解珍・解宝・韓滔・彭〓・宣賛・〓思文・単廷珪・魏定国・陳達・楊春・李忠・周通・陶宗旺・鄭天寿・〓旺・丁得孫・鄒淵・鄒潤・李立・李雲・焦挺・石勇・侯健・杜興・曹正・楊林・白勝。編制がおわると、両路から薊州にむかうことになり、宋先鋒は軍をひきいて平峪県へと出発し、盧俊義は軍をひきいて玉田県へと出発した。趙安撫は二十三名の将とともに檀州を守ったが、この話はそれまでとする。
さて宋江は、兵士たちの連日の労苦を思いやって、ひとまず休息をとらせることにした。薊州の攻略についてはすでに考えがあったので、まず使いのものを檀州へやって、張清の矢傷を見舞わせたところ、神医の安道全は使いのものに返事をことづけてよこした。
「表面の皮膚と肉は傷めておりますが、内部はどうなってもおりませんから、どうかご安心くださいますよう。治療して膿《うみ》がひけば、自然となおります。目下炎天つづきで病《やまい》にかかる兵士が多うございますので、さきに趙枢密どのに申しあげて、蕭譲と宋清を東京へつかわして薬を買い求め、同時に太医院《たいいいん》(宮室の侍医寮)から暑気あたりの薬を受領してこさせることにいたしましたが、皇甫端(獣医)も、お上で馬にあたえている薬剤を支給していただきたいとのことでしたので、そのことも蕭譲と宋清に託しました。以上ご報告いたします」
宋江はそれを聞いて、大いに安堵した。そこで再び盧先鋒と相談して、薊州の攻略にとりかかることにした。宋江のいうには、
「わたしは、あなたが玉田県で包囲されたことを知るより前に、すでにわたしたちで相談して、計略をたてたのです。公孫勝はもともと薊州の人ですし、楊雄も以前そこの役所で節級をつとめていたことがあるのです。石秀と時遷も、長らくかの地に住んでいたことがあります。そこで、このまえ遼軍を追い散らしましたとき、わたしは時遷と石秀を敗残兵にしたてて、彼らのなかにまぎれこませてやりましたから、おそらくふたりとも薊州の城内にはいりこんでいるはずです。彼らふたりは城内にはいりさえずれば、ちゃんとゆきどころがあるのです。まえに時遷が献策して、
『蘇州の城内に宝厳寺《ほうごんじ》という大きな寺があって、脇殿《わきどの》には法輪宝蔵《ほうりんほうぞう》(法輪は仏法のこと。法輪宝蔵で宝殿の意)があり、まんなかは大雄宝殿《たいゆうほうでん》(大雄は仏の尊称。大雄宝殿で本殿の意)で、その前には一座の宝塔《ほうとう》が雲にそびえ立っております』
といい出しましたところ、石秀が、
『彼をその宝塔のてっぺんにひそませて、毎日の食べものはわたしが都合してとどけることにします。そして兄貴の軍が城外にはげしく攻め寄せてくるのを見たら、宝厳寺の塔に火をつけて合図を送らせましょう。時遷はもともと簷《のき》を飛び壁を走る忍びこみの達人ですから、どこにでも身をかくせます。わたしはそのときになったら州の役所へ行って火をつけることにします』
といい、彼らふたりで話を決めて出かけて行ったのです。われわれもこちらで準備をととのえて兵を進めることにしましょう」
これをうたった西江月のうたがある。
山後の遼兵境《さかい》を侵し、中原の宋帝《そうてい》軍を興《おこ》す。水郷(梁山泊をいう)取り出《いだ》す衆天星(宋江ら百八人をいう)、詔を奉じて邪を去り正に帰す。暗地(ひそか)に時遷火を放ち、更に兼《か》ねて石秀同《とも》に行く。等間に(こともなく)打ち破る永平城、千載の功勲《こうくん》敬す可し。
翌日、宋江は兵をひきい、平峪県を捨てて、盧俊義と兵を一つにあわせ、軍を督励しつつ一路薊州へと急いだ。
さて一方、皇弟大王は、ふたりの息子を討ちとられて憤懣やるかたなく、ただちに大将の宝密聖・天山勇・洞仙侍郎らと協議していうよう、
「さきに〓州と覇州からきた二手の援軍は、いずれもちりぢりに逃げて行ってしまったし、宋江はいま玉田県で兵を一つにあわせ、まもなく軍を進めてこの薊州におし寄せようとしているようだが、そうなったらどうすればよかろう」
すると大将の宝密聖がいった。
「宋江の軍がやってこなければそれまでですが、もしもあの蛮人どもの一党がおしかけてまいりましたならば、わたしが出かけて行って相手になってやりましょう。やつらの何人かをいけどりにでもしてやらぬかぎり、やつらは決して退《ひ》きさがりはしますまい」
「あの蛮人どもの隊には、緑色の戦袍を着た石つぶての使い手がいて、なかなかしたたかなやつだから、そいつを用心なさるよう」
と洞仙侍郎がいうと、天山勇が、
「あの蛮人は、わたしが弩《いしゆみ》で咽喉を射ってやったから、おそらく死んでしまったでしょう」
といった。洞仙侍郎は、
「あの蛮人さえいなければ、ほかのやつらはみなたいしたことはない」
という。こうして話しあっているところへ、下士の兵がきて、
「宋江の軍勢が薊州をめがけて殺到してまいります」
と知らせた。皇弟大王は急いで全軍の兵を集め、宝密聖と天山勇に命じてただちに城外にこれを迎え討たせた。城外三十里のところで宋江の軍とぶっつかり、両軍はそれぞれ陣を布いた。蕃将宝密聖は槊《ほこ》を横たえつつ馬を進める。宋江は陣頭でそれを見て、
「将を斬り旗を奪うのが第一の功であろうぞ」
と声をかけた。その言葉のまだおわらぬうちに、豹子頭の林冲が、陣地を飛び出して行って蕃将宝密聖とはげしくわたりあった。両者しのぎをけずりあうこと三十余合、勝敗はなおも決しなかったが、林冲は必ず第一の功をたてんものと、丈八の蛇矛《じやぼう》をふるいつつ次第に気勢をあげ、雷鳴さながらの大音声とともに、長鎗をはらいのけるや、蛇矛を宝密聖のうなじに突き刺して、馬から斬り落とした。宋江は大いによろこび、両軍の兵はどっと喊声をあげた。蕃将天山勇は宝密聖が刺されたのを見るや、槍を横たえつつ飛び出した。宋江の陣からは徐寧が鉤鎌鎗《こうれんそう》をかまえつつまっしぐらに突きかかって行く。両馬相交わり、両者わたりあうこと二十余合、徐寧の槍が一閃して、天山勇は馬の下に斬り落とされてしまった。宋江は敵の二将を相ついで討ちとったのを見て、心中大いによろこび、兵をうながして混戦に移った。遼軍は大敗を喫し、薊州の城内へと逃げ走る。宋江の軍は十数里追撃したあげく、兵を収めてひきあげた。
その日、宋江は陣地をかまえて全軍の兵をねぎらったが、翌日は命をくだしてその陣地をひきはらい、いっせいに薊州へと迫った。
三日目、皇弟大王は、大将ふたりを討ちとられてすっかりうろたえているところへ、またしても、
「宋軍がおし寄せてまいりました」
との知らせを受け、あわてて洞仙侍郎に命じた。
「その方、配下の一隊をひきつれて行って、城外に敵を迎え討ち、わたしのために力をつくしてくれるように」
洞仙侍郎はしたがわないわけにもいかず、ぜひもなく咬児惟康・楚明玉・曹明済らをしたがえ、一千の兵をひきつれて城下に陣を布いた。宋江の軍は次第に城辺に迫って、整然たる(注一五)陣列を布いた。と、門旗が左右に分かれて、そこから索超が大斧を横ざまにかつぎつつ馬を陣頭に乗り進めてきた。蕃軍の隊では、咬児惟康がただちに陣地から飛び出して行った。ともに名乗りもせずに、二将はたたかいあったが、二十合あまりもわたりあううちに、蕃将はついに怖気《おじけ》づいて戦意をうしない、とうとう逃げだしだ。索超は馬を飛ばして追いかけ、両手で大斧をふりまわして蕃将の脳天めがけて斬りつけ、かの咬児惟康の頭をまつ二つに割ってしまった。洞仙侍郎はそれを見るや、あわてて、楚明玉と曹明済にすぐ加勢に行くように命じた。このふたりは、すでに八分がた怖気づいていたが、しきりにうながされたあげく、ぜひもなく手に槍をかまえて陣地から飛び出して行った。宋江の軍では九紋竜の史進が、蕃軍のなかからふたりの将がいっしょに出てきたのを見ると、ただちに刀を舞わせつつ馬をせかせて、まっしぐらに二将におそいかかって行く。史進は大いに奮いたち、一刀をふりかざしてまず楚明玉を馬の下に斬って落とした。曹明済のほうは、あわてて逃げだしたが、史進が追いかけて一刀のもとに、これも馬の下に斬って落とした。史進はなおも馬を飛ばして遼軍の陣地のなかへ斬りこんで行く。宋江はそれを見るや、鞭を一振りして(号令をくだし)、大いに兵を駆りたててまっしぐらに吊り橋のたもとまでおし寄せて行った。耶律得重はそれを見て、いよいよ憂慮を深くし、ただちに城門を固くとざさせ、諸将を城壁の上にあげてきびしく城を守らせた。そしてこの旨を国王に上申するとともに、また使者を覇州と幽州につかわして救援を求めた。
一方宋江は、呉用に策をはかった。
「ずいぶん守りをかためられてしまったが、どうすればよいでしょう」
すると呉用のいうには、
「城内にはすでに石秀と時遷がはいりこんでおりますから、いつまでもぐずぐずしてはおられません。まわりに雲梯と砲架を組みたてさせて、すぐさま城に攻めかかり、さらに、凌振に大砲を四方から射ちこませましょう。きびしく攻めたてれば城は必ず破れます」
宋江はただちに命令をくだして、四方から夜どおしで城を攻めさせた。
片や皇弟大王は、宋の軍勢が四方から激しく攻めつけてくるのを見ると、薊州城内の住民をことごとく駆りたてて城壁の上にあげ、防備にあたらせた。(注一六)そのころ石秀は城内の宝厳寺で幾日も待っていたが、何のたよりもない。と、そこへ時遷が知らせにきた。
「城外の兄貴の軍が激しく城を攻め出した。いまが火をつける絶好の機会だ」
石秀はそう知らされると、すぐ時遷とうちあわせをした。
「まず宝塔に火をつけ、それから仏殿を焼くんだ」
時遷は、
「あんたは、それじゃ、すぐ州役所へ行って火をつけてくれ。南門の要地に火の手があがれば、外ではそれを見て、いよいよ激しく攻めたてて必ず城を破るにちがいない」
ふたりは手はずをきめて、それぞれ火薬・火刀(火打鎌)・火石(火打石)・火筒(火吹竹)・煙煤(焔硝)などを身につけた。
その日の夜、宋江の軍の城攻めはいよいよ激しさを加えた。
さて時遷だが、かれは簷《のき》を飛び壁を走る忍びの達人で、塀を跳びこえ城を乗りこえるのも平地を行くにひとしかった。そのとき彼はまず宝厳寺の塔に火をつけたが、この宝塔は非常に高く、火の手があがれば城内城外のどこからでもそれの見えぬところはない。火は三十余里のかなたまで照らして、さながら火柱(注一七)のよう。ついで彼は仏殿に火をつけた。この二つの火事で城内は鼎《かなえ》のように沸《わ》きかえり、住民たちは、家々に老人や子どもがあわてふためき、戸毎に女や子どもが泣きわめき、老いも若きも逃げまどった。石秀は薊州の役所の屋根によじのぼって、破風に火をつけた。薊州の城内では、三ヵ所から火の手があがったのを見て、忍びのもののはいりこんでいることがわかり、住民たち(城壁の上に駆り出されていた)はもはや城を守るどころのさわぎではなく、いくらとめても聞かずにめいめい自分の家を見に逃げ帰って行った。まもなく、山門のなかにまたもや火の手があがったが、それは時遷が宝厳寺から逃げだすとき、また火をつけたのであった。
かの皇弟大王は、半時《はんとき》たらずのあいだに城内に四つも五つも火の手のあがったのを見て、宋江がたのものが城内にしのびこんでいることを知り、大急ぎで兵をとりまとめ、家族ならびにふたりの息子をつれ、荷物を車に積み、北門を開けて逃げて行った。
宋江は城内の兵があわてさわぐのを見ると、兵を励まして城内へ斬りこませた。城の内外には天をどよもして大喊声がわきおこり、早くも南門を奪い取った。洞仙侍郎は衆寡《しゆうか》敵せずと見て、もはやすべもなく皇弟大王のあとを追い、北門をさして逃げだした。
宋江は大軍をひきつれて薊州に入城すると、ただちに命令をくだしてまず四辺の火を消しとめさせた。夜があけると立札をたてて薊州の住民を宣撫し、全軍の兵をことごとく城内に入れて休ませ、将兵の労をねぎらった。功績簿には、石秀と時遷の功を記録し、さっそく文書をしたためて趙安撫に報告をし、
「大郡の薊州を手中に収めましたゆえ、こちらに移って駐屯してくださいますよう」
と申し送った。趙安撫は返書をよこして、
「わたしはいましばらく檀州に駐屯するゆえ、宋先鋒はそのまま薊州を守られるよう。目下炎熱きびしき候なれば、兵を動かすことをひかえ、天候の涼しくなるのを待って改めて討議いたしましょう」
とのこと。宋江はその返書を受け取ると、さっそく盧俊義に、もとどおりの軍将をつけて玉田県に駐屯させ、みずからはその余の大軍をもって薊州を守り、天候の涼しくなるのを待って改めて命を仰ぐことにした。
一方、皇弟大王・耶律得重は、洞仙侍郎とともに、家族のものをつれて幽州に逃げこみ、そこから一路燕京《えんけい》におもむいて大遼の国王に見《まみ》えた。
さて、遼国の国王は、金殿に出御して文武両班の臣下を集め、いましも朝見の儀のおわったところ。そこへ閤門大使《こうもんたいし》(注一八)が奏上した。
「薊州の皇弟大王さまが、御門のところまでおもどりになりました」
国王はそれを聞くと、急いでご殿へ呼び寄せるよう命じた。かの耶律得重は、洞仙侍郎とともに階《きざはし》の下にひれ伏し、声を放って哭《な》いた。
「弟よ、まあそう嘆かずに、どんなことがあったのかわたしにくわしく話してみるがよい」
と国王がいうと、耶律得重は、
「宋朝の童子皇帝(ちんぴら天子)が、宋江に兵をひきいさせて討伐によこしましたが、その軍勢は強大で敵対できませず、わたくしのふたりの息子は命をうしない、檀州の四人の大将も討ちとられてしまいました。宋軍はおしまくってまいりまして、さらに薊州をも落とされてしまいましたので、かく殿前に死をたまわりにまいった次第でございます」
大遼の国王はそれを聞くと、
「まあ身を起こして(平伏せずに)、ここでよく話しあおう」
と言葉をかけ、
「兵をひきいてまいったその蛮人は、いったいどういうやつか。なんたる狼藉《ろうぜき》な」
とたずねた。すると列のなかから、右丞相の太師、〓堅《ちよけん》が進み出て奏上した。
「かの宋江らの一党は、もとは梁山泊・水滸寨の盗賊でございますが、良民を殺害することはなく、天に替《かわ》って道を行なうことを旨とし、もっぱら住民をたばかり苦しめる貪官汚吏どもを手にかけていたとのことでございます。その後、童貫や高〓が兵をひきいて召し捕りに行きましたところ、宋江にわずか五度のたたかいで甲《よろい》のかけらも帰れぬまでに打ちのめされ、かくてこの好漢たちの一党は、ついにこれを討ちとることのできぬまま、童子皇帝は使者をつかわし、三度も詔書をくだして招安をしたあげく、ようやく一同帰順するにいたったのでございますが、ただ宋江を先鋒使に任じただけで、ほかにはなんの官職もさずけず、その他のものもみな無位無官の身でございます。そしてこのたび彼らをさしむけて、われわれとたたかわせることにしたわけですが、彼らは一百八人いて、天上の星の化身だといい、一党のものはみなしたたかな腕前でございますから、決して彼らをおあなどりなさいませぬように」
「そういうことならば、いったいどうすればよいというのか」
国王がそうたずねると、並居《なみい》るなかからひとりの役人が進み出た。それは欧陽侍郎《おうようじろう》で襴袍(注一九)の裾をひき、象牙の笏《しやく》を胸にあてて奏上した。
「国王さま、わたくしおよばずながら、小計を献じて宋軍を撃退いたしましょう」
国王は大いによろこんでいった。
「よい考えがあるというのか。さっそく申してみるがよい」
かくて欧陽侍郎がいささか進言におよんだことから、宋江はその名を青史にとどめ、その事蹟を丹書(勅書)にしるされることとなるのであるが、まさにこれ、護国の計成《な》って呂望《りよぼう》(太公望。兵書『六韜《りくとう》』を著わしたと伝う)を欺き、順天の功就《な》って張良《ちようりよう》(漢の高祖をたすけた宰相)に賽《まさ》る、というところ。さて欧陽侍郎はいかなることを奏上したか。それは次回で。
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一 拐子馬 『宋史』の岳飛伝に、「金の兀朮《こつじゆつ》(金の太祖の第四子で、しばしば宋を侵した)に勁軍《けいぐん》有り、三騎を以て相連《つら》ね、貫くに韋索を以てし、拐子馬と号《なづ》く」とある。すなわち、三騎を一組にして横に革紐でつなぎあわせた騎馬の隊。
二 青氈の笠帽 青色(黒色)の毛織りの帽子。
三 達馬 第八十三回注五参照。
四 銅の羯鼓 銅は銅腔であろう。銅の胴。羯鼓は桶の形をした、両面を打つ太鼓。もと羯《かつ》(匈奴《きようど》の一族)の用いたものであったため、この名がある。
五 蘆葉の胡笳 蘆の葉を巻いて鳴らす胡人の笛。のちのいわゆる胡笳は竹製の三つ穴の縦笛。
六 雲梯 敵の城壁によせかけて攻め入るための武器であるが、ここでのように敵情を展望するためにも用いられる。
七 北海に魚有り、其の名を鯤と曰う…… 『荘子』の開巻第一句による。鯤はもともと小魚の名であるが、荘子はそれをことさらに大魚の名とした。ここでは鯤を本来の意味に用いている。すなわち「鯤化して鵬と為る」とは「小魚化して大鳥となる」の意である。『荘子』の開巻の第一句は次のとおり。
「北冥に魚有り、其の名を鯤と為す。鯤の大、其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と為る、其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里なるかを知らず。怒《はげ》んで飛ぶ、其の翼、垂天の雲の如し」
八 踏 は、鐙(あぶみ)か。あるいはか。は韜で、つつむの意。
九 〓〓《こんご》の剣 第七十六回注一七参照。
一〇 掃箒の刀 掃箒は掃帚星。また掃星ともいう。すなわち、ほうき星(彗星)で、むかしは妖星とされた。つまり、掃箒の刀とは妖刀。
一一 天明になって この天明(夜明け)という語はおかしい。遼軍が城をかこんだのが天明であり、すぐ前の文章にも、遼軍は朝から昼過ぎまで城をかこんで倦み疲れているところへ宋江の軍が攻めてきたとある。翌日の天明ということでもなく、不用意につけ加えられた語であろう。
十二 柴進・李応…… 以下の一節は明らかに錯簡で、本回のはじめの、宋江が呉用と薊州攻略について協議したあとに入れるべきものであるが、諸本みなこのままになっているので、もとの形を残した。百回本では、すでに張清が重傷を負って檀州に送られていることから、檀州に残留する諸将の中の「張青」を「張清」とし、盧俊義に従う三十六将の中の「張清」を「張青」としているが、それにしても話のつじつまがあわない。この話の現在地は玉田県であり、宋江は平峪県から玉田県へ盧俊義を助けにきたところであるのに、この一節ではその宋江がこれから平峪県へ出発し、盧俊義は玉田県へ出発することになっていて、これは明らかに檀州で行動をおこす直前の話である。なお百回本では、宋江は平峪県から出発し、盧俊儀は玉田県から出発するとなっているが、それにしてもこの一節をここに挿入しては、前後の話の関係から、やはりつじつまがあわない。
一三 孫新 四行あとの左軍四十八名の中にも孫新の名が見えるので、ここには楊志が入るべきである。
一四 四十八名 将の編制人員は四十八名の意で、この四十八名は宋江をもふくめた数。つぎの三十七名も、同じく盧 俊儀をふくめた数である。
一五 整然たる 原文は雁翅般。雁翅一般というに同じ。第八十回注三参照。
一六 そのころ石秀は…… 以下、石秀と時遷が入れ替っている。つまり、石秀→時遷、時遷→石秀となるところだが、原文のママとした。
一七 火柱 原文は金鑽。火打金のこと。
一八 閤門大使 天子近侍の臣で、朝見・宴遊・謁見などのことをとりはからう。宋代におかれた官。正しくは閤門使という。大使といったのは副使と区別するため。
一九 襴袍 襴衫と同じ。上衣と裳《もすそ》とのつらなった単衣で、上衣は丸襟、大袖で、裳にはひだがある。唐・宋代の文官の服。
第八十五回
宋公明《そうこうめい》 夜益津関《えきしんかん》を度《わた》り
呉学究《ごがくきゆう》 智もて文安県《ぶんあんけん》を取る
さて、そのとき欧陽侍郎は奏上した。
「宋江らのあの一党は、みな梁山泊の英雄好漢でございますが、いまや宋朝の童子皇帝は、蔡京《さいけい》・童貫《どうかん》・高〓《こうきゆう》・楊〓《ようせん》の四人の賊臣が権力をほしいままにして、賢なるものや能あるものをそねんで人材の登用される道をふさぎ、親戚のものや財あるものでなければとりたてないというありさまでございますから、このままいつまでも彼らを受けいれているはずはありません。そこでわたくしの考えますには、国王さまには、彼らに官爵を加えられ、十分に金帛をご下賜になり、たくさんに軽裘肥馬《けいきゆうひば》(軽い皮ごろもに肥えた馬。美衣良馬)を賞与なさいますよう、わたくし、願わくは使臣となり、彼らを説きつけてわが大遼国に投降いたさせましょう。国王さまには、もしかの軍勢を手にいれられましたならば、中原《ちゆうげん》をめざすことも掌《たなごころ》を反すがごとく容易でございましょう。もとよりわたくしの一存でははかりかねますこと、国王さまのご明察のほどを請いたてまつる次第でございます」
国王はそれを聞くと、
「それはもっともな意見だ。ではその方さっそく使臣となり、一百八頭の良馬と一百八疋のよき緞子《どんす》、および宋江を鎮国大将軍・総領遼兵大元帥に任ずる旨の余の勅書一通をたずさえて行き、金一提《ひとさげ》と銀一秤《ひとはかり》をとらせて手土産とし、頭目たち一同の姓名を書き写してきて、そのことごとくに官爵をさずけることにせよ」
と、そのとき、列中から兀顔《こつがん》都統軍が進み出て国王に奏上した。
「宋江ら一味の盗賊など、あんなものを招安したとてなにになりましょう。わたくしの配下には二十八宿の将軍と十一曜の大将があり、強兵猛将がずらりとひかえております。やつらに勝てないなどというわけはございません。もしあの蛮人どもが退《ひ》きませぬならば、わたくしがみずから兵をひきつれて行ってやつらを殲滅《せんめつ》してしまいましょう」
国王はいった。
「その方はいかにも腕の立つ好漢、翼のある虎ともいうべきだ。その上にあの一党のものを加えるならば、その方もまた両翼を持つことになるのだ。とめだてすることはなかろう」
かくて遼王は兀顔の言を聞きいれず、ほかに口をさしはさむものもなかった。
そもそもこの兀顔光《こつがんこう》都統軍なる人は、まさに遼国第一の上将で、十八般の武芸にはことごとく通じ、兵書・戦略についてもみなその奥義をきわめていた。年は三十五六、堂々たる風采、凜々たる体躯で、身の丈《たけ》八尺有余、顔は白く唇は赤く、鬚は黄色く眼は碧《あお》く、威儀勇猛。戦陣に臨むときには渾鉄《こんてつ》の点鋼鎗《てんこうそう》をつかい、たたかいたけなわとなるや、やにわに腰から鉄簡《てつかん》(注一)をひきぬいて、ひゅうひゅうとうならせ、まさに万夫不当の勇をふるった。
兀顔統軍の諫《いさ》めはさておき、一方かの欧陽侍郎は、遼国の勅書を奉じ、かずかずの礼物と馬匹をたずさえ、馬に乗って一路薊州へとむかった。宋江はそのとき薊州で兵士を休ませていたが、遼国から使者がきたと聞くと、来意の吉凶をはかりかね、玄女の課《うらない》をとり出してうらなってみたところ、上々の兆《しるし》を得た。そこで呉用に諮っていうよう、
「卦は上々の兆で、どうやら遼国がわれわれを招安にくる様子だが、もしそうなら、どうすればよかろう」
「もしそうでしたら、計略をもって計略に乗り、彼らの招安を受けることです。そしてこの薊州は盧先鋒に守らせておいて、敵の覇州を取るのです。さらに覇州を取ってしまえば、遼国を破ることはなんの造作もありません。すでに檀州を取ってまず遼国の左手をもいでしまったのですから、それはたやすいことです。ただ、はじめのうちは渋って、あとはすらすらと事をはこぶようにして、相手に疑わせないようにしなければなりません」
さてかの欧陽侍郎が城下に着くと、宋江は命令をくだして城門をあけさせ、彼を城内へ通した。欧陽侍郎は城内にはいり、州役所の前で馬をおり、表広間に通る。挨拶がおわり、賓主それぞれの席につくと、まず宋江がたずねた。
「おいでのおもむきは、いかなることでございましょう」
「いささかお耳にいれたいことがあるのですが、どうかお人払いを」
と欧陽侍郎はいう。宋江はさっそく左右のものを退け、奥の間のひっそりしたところへ会談に誘った。欧陽侍郎は奥の間へ通ると、宋江に欠身(注二)の礼をして、
「わが大遼国では、かねてから将軍のご大名《たいめい》を聞きながら、いかんせん遠く山川をへだてて、お目にかかるよすがもございませんでした。また、将軍が梁山の大寨で、天に替《かわ》って道を行なわれ、兄弟のかたがたと心を一にし力をあわせておられたことも聞いておりました。こんにち宋朝では、奸臣どもが賢人の登用される道をふさぎ、金帛のまいないを贈れば重くとりたてられますが、まいないを贈らなければ、たとえ国に大功があっても、空しく埋もれさせられて栄典にあずかることもできません。このように奸悪なやからが権力をほしいままにし、讒佞《ざんねい》の徒が利を求めてやまず、賢を嫉《そね》み能を妬《ねた》んで、賞罰も不公平、そのため天下は大いに乱れて、江南・両浙(浙西と浙東)・山東・河北に盗賊が蜂起《ほうき》し小盗人が跋扈《ばつこ》して、良民は塗炭の苦しみを受け、のどかに日を送ることもできぬというありさまです。このたび将軍は十万の精兵をひきつれて、まごころから帰順されましたのに、ただ先鋒の職を得られただけで、なんの官爵もさずけられず、兄弟のかたがたも、辛苦して国につくしておられるのに、みな無位無官の身ではございませんか。そのあげくは兵をひきいて砂漠の地へ行くよう命ぜられ、このような労苦をなめられて国のために功をおたてになっても、朝廷からはなんの恩賞もないという始末。これはみな奸臣どものたくらみなのです。もしも途中で金銀珠玉を掠奪して、人をつかわして蔡京・童貫・高〓・楊〓の四人の賊臣にまいないとしてお贈りになれば、官爵の恩命はたちどころにくだりましょう。しかしもしさようなことをなさらなければ、いかに将軍がまごころをもって国につくし、大きな勲功をたてて朝廷にもどられても、かえって罪に問われることでしょう。わたくしはこのたび大遼国王の命を奉じ、特につかわされて勅書一通をたずさえてまいり、将軍を遼国の鎮国大将軍・総領兵馬(注三)大元帥にお迎えし、金一提《ひとさげ》・銀一秤《ひとはかり》・彩段《いろぎぬ》一百八疋・名馬一百八頭をお贈りし、また一百八人の頭領のかたがたの姓名を書き写し、国へ帰ってお名前に照らして官爵を加えられるようにいたします。これは決して将軍をそそのかそうなどというわけではなく、国王がかねてより将軍のご盛徳を聞かれて、特にわたくしをつかわされました次第で、将軍ならびに諸将に、お心を一つにしてわが国のためお力添えくださるよう、前もってお願いにまいったのです」
宋江は聞きおわって、答えた。
「お説はいかにもごもっともですが、いかんせん、わたくしは微賤の出《で》で、〓城《うんじよう》の小役人をしておりましたが、罪を犯して逃亡し、一時しのぎに梁山の水泊にこもって難をのがれておりましたのを、宋の天子が三度も詔書をくだされて、大赦招安されました次第で、官職は低うございますが、いまだ見るべき功績をたてて朝廷の大赦の恩に報いているわけでもございません(ゆえ致しかたありません)。このたび、国王さまには、わたくしに重い官爵をたまわり厚い恩賞をお贈りくださいますとのこと、まことにかたじけない次第ですが、せっかくながら、お受けするわけにはまいりませぬ。どうかひとまずお引きとりくださいますよう。目下炎暑きびしいおりとて、一時、兵を休ませ、しばらく国王さまのこの二つの城をお借りして駐屯させていただきます。そのうち秋風がたちそめましたならば、改めてまたご相談にあずかりましょう」
「おさしつかえなければ、ひとまず遼王よりの金帛・彩段・鞍馬をお受けくださいますよう。わたしはこれにておいとまし、のちほどまたゆっくりご相談にまいります。それでよろしゅうございましょう」
「あなたはご存じありませんが、われわれ一百八人のなかには口をすべらすもの(注四)もずいぶんおります。もしも消息がもれでもしたら、それこそたいへんなことになりましょう」
「兵権はいっさい将軍が握っておられるのですから、おいいつけに背くようなものはありますまい」
「あなたは内情をご存じありませんが、われわれ兄弟のなかには、まっ正直な気性の強いものがたくさんおります。それで、わたしが彼らをほどよくなだめて、みなの心がそろってから、ゆっくりご返事することにすれば、それでよろしいでしょう」
これをうたった詩がある。
金帛重く駄《つ》んで薊州を出《い》ず
薫風に首を回《めぐ》らす羞《はじ》に勝《た》えず
遼王若し帰降の事を問わば
雲は青山に在り月は楼に在り
かくて(宋江は)酒肴をととのえさせてもてなしてから、欧陽侍郎を城外まで見送り、(欧陽侍郎は)馬に乗って帰って行った。宋江はそのあと、軍師の呉用に諮《はか》っていった。
「いまの遼国の侍郎の、あの話を、どう思われる?」
呉用はそうたずねられると、ため息をつき、うなだれたまま何もいわず、肚《はら》のなかであれこれと考えこんでいた。
「軍師、どうしてまた、ため息など」
と宋江がきくと、呉用は、
「いろいろ考えてみましたが、兄貴は忠義一途《いちず》のかたですので、あまりいえません。だが欧陽侍郎のいったことは、まったくそのとおりだと思うのです。いま宋朝の天子は至聖至明のおかたではありますが、まったく、蔡京・童貫・高〓・楊〓の四人の奸臣どもに権力をほしいままにされ、しかも彼らを信じておられますから、たとえわれわれが後日《ごじつ》功をなしとげたところで、おそらくおとりたてにあずかることはないでしょう。われわれは三度も招安されましたのに、長たる兄貴が、先鋒という空職につけられただけではありませんか。わたしの考えをいわせていただけば、宋をすてて遼につくほうがよっぽどましだと思うのですが、それでは兄貴の忠義の心に反することになりましょう」
宋江はそれを聞くと、
「軍師、それはまちがっている。遼国につくなどと、そんなことは決していい出さないでほしい。たとえ宋朝がわたしに背《そむ》いても、わたしのまごころは宋朝に背くことはない。のちのち、たとえ功賞にはあずかれなくても、青史に名をとどめることはできよう。正《せい》に背き逆に順《したが》うようなことは、天の恕《ゆる》さざるところです。われわれはひたすら忠をつくして国に報い、死してのち已《や》むのみです」
「兄貴があくまでも忠義をまもるとおっしゃるのなら、さきの計略どおり、覇州を取ることです。しかしいまは炎暑のさかりですから、しばらくここにふみとどまって兵を休ませるべきでしょう」
宋江と呉用は相談をまとめたが、そのまま一同には知らさず、諸将とともに薊州に駐屯して暑熱の過ぎるのを待つことにした。
翌日、公孫勝と中軍で雑談していたおり、宋江はいった。
「先生のお師匠の羅真人《らしんじん》さまが当代の高士であるということは、かねがね承っております。このまえ高唐州を攻めたとき、高廉《こうれん》の邪法を破るために特に戴宗と李逵にあなたをさがしに行かせましたが(第五十三回)、ふたりの話では、尊師羅真人さまの法術はまことにあらたかとのこと。ついては、明日わたしを真人さまのところへつれて行っていただけないでしょうか。香を焚いて礼拝し、俗塵をすすぎたいのです。いかがでしょうか」
すると公孫勝は、
「わたくしも、帰って老母を見舞い、師匠に会いたいと思っていたところですが、兄貴がずっと駐屯のことで忙しくしておられたので、いい出せずにいたのです。いよいよ申しあげようと思っていたところへ、兄貴のほうから行きたいといわれようとは意外でした。あしたの朝、ごいっしょに行って師匠にお目にかかりましょう。わたくしはついでに老母を見舞うことにいたします」
翌日、宋江はしばらく軍の統轄を軍師にゆだね、名香・浄果《じようか》(精進もの)・金珠・彩段をとりそろえ、花栄・戴宗・呂方・郭盛・燕順・馬麟の六人の頭領をひきつれ、宋江と公孫勝とであわせて八騎、五千の歩兵をしたがえて九宮県の二仙山をめざして旅路にのぼった。かくて宋江らは馬で、薊州をあとにして次第に峰の奥深くへはいって行ったが、あたりは青松径《こみち》に満ちて涼気〓々《しようしよう》と吹きわたり、炎暑の気はいささかもなく、まことに申しぶんのない素晴らしい山であった。公孫勝は馬上でいった。
「魚尾山と呼んでおります」
宋江がその山を眺め見るに、
四囲《せつげつ》(注五)、八面玲瓏《れいろう》。重々《ちようちよう》たる暁色《ぎようしよく》は晴霞《せいか》に映じ、瀝々《れきれき》たる琴声は瀑布《ばくふ》(滝)に飛ぶ。渓澗《けいかん》(谷川)の中、玉《ぎよく》を漱《すす》ぎ瓊《けい》(美玉)を飛ばし、石壁《せきへき》(岸壁《がんぺき》)の上、藍《あい》を堆《つ》み翠《みどり》を畳む。白雲洞口、紫藤《しとう》高く掛《かか》り緑蘿《りよくら》(つた)垂れ、碧玉峯前、丹桂《たんけい》(かつら)岸に懸《かか》り青蔓《せいまん》(つるくさ)〓《たわ》む。子を引く蒼猿《そうえん》は果《このみ》を献じ、群を呼ぶ麋鹿《びろく》は花を銜《ふく》む。千峯秀《しゆう》を競《きそ》い、夜深くして白鶴《はくかく》仙経を聴き、万壑《ばんがく》流れを争い、風暖《あたたか》くして幽禽《ゆうきん》相対して語る。地僻《かたよ》って紅塵《こうじん》飛び到らず、山深くして車馬幾《なん》ぞ曾《かつ》て来《きた》らん。
そのとき、公孫勝は宋江らとともにまっすぐ紫虚観《しきよかん》の前まで行き、一同馬をおり衣巾《いきん》をととのえ、下士の兵たちが香や礼物をささげつつ、ずっと観内の鶴軒《かくけん》(第五十三回では松鶴軒《しようかくけん》という)の前まで行った。観内の道士たちは公孫勝の姿を見ると、それぞれ進み寄って礼をし、ともども宋江の前にきて、同じく礼をささげた。公孫勝はさっそくたずねた。
「お師匠さまはどこにおられる?」
「お師匠さまはこのごろずっと裏の隠遁所におこもりで、めったに観《かん》のほうにはいらっしゃいません」
公孫勝はそれを聞くと、宋公明といっしょにただちに裏山の隠遁所へとむかった。観の裏へまわって、けわしい小径《こみち》をたどり、段々路や分かれ路を曲がりくねりつつ、一里ちかく行くと、荊棘《いばら》をめぐらして籬《かき》とし、外《そと》はすべて青松《ま つ》と翠柏《ひのき》、籬のなかはいちめんに搖草《ようそう》と〓花《きか》(仙境の草花)、そのまんなかに三棟の浄屋《じようおく》(注六)のあるのが見えた。羅真人はそのなかに端坐して、経を誦《ず》していた。童子が客のきたのに気づいて、門をあけて迎えた。公孫勝はまずひとりで草庵の鶴軒の前に進み、師匠に礼拝をささげてから言上した。
「わたくしの旧友、山東の宋公明が、招安をお受けし、このたび勅命を奉じ、先鋒の職に任ぜられて兵をひきいて遼を討ちにまいり、このほど薊州まで進みましたので、特にお師匠さまに礼をささげたいとて、ただいまここにまいっております」
羅真人はそれを聞くと、お通しするようにといった。
宋江が草庵へ通ると、羅真人は階《きざはし》をおりて迎えた。宋江は再三、羅真人に、席について礼をお受けくださるようにと懇請したが、羅真人は、
「将軍は国家の上将、わたしは一介の田舎もの。なんでそのようなことができましょう」
という。だが宋江はあくまでも謙譲して、礼拝しようとした。羅真人がようやく承知して席につくと、宋江はまず香をとり出して香炉にくすべ、八拝の礼をささげてから、花栄ら六人の頭領を呼んでそれぞれ礼拝をさせた。それがすむと羅真人は一同に席をすすめ、童子に命じて茶をいれさせ、お茶うけを出させた。茶がすむと羅真人はいった。
「将軍は、上は星魁《せいかい》(星のかしら。宋江は天魁星の化身)に応じ、外には列曜《れつよう》(列星。百八人は天〓星《てんこうせい》三十六・地〓星《ちさつせい》七十二の化身)をあつめ、相ともに天に替《かわ》って道を行なわれ、このたび宋朝に帰順なさいましたが、その清名は万代までも消えることはありますまい」
「わたくしはもと〓城の小役人で、罪をのがれて山にのぼりましたところ、ありがたいことに、四方の豪傑がわたくしを慕ってあつまり、同声相応じ同気相求め、情は骨肉のごとく心は股肱《ここう》のごとく結びあったのですが、天のお示しを得て、はじめて、(わたくしどもが)上は天星地曜(天〓星・地〓星)に応ずる身で、ひとつところにあつまったものであるということを知りました。このたびは勅命を奉じ、大軍をひきいて遼国を討ちにまいりまして、この仙境に入り、前世のご縁あってか、お目見えすることができた次第でございます。なにとぞ、真人さま、行く末のことについておさとしをくださいますよう。そうすればこれにすぎるしあわせはございません」
「わたしのようなものに、己《おのれ》を屈してのお問《たず》ねで恐縮に存じますが、わたしは出家の身、世俗をはなれてすでに久しく、心は冷えきった灰のようなもので、なんのお役にもたちかねます。どうかおとがめくださいませぬよう」
宋江は再拝して教えを請うたが、羅真人は、
「まあおくつろぎください。お斎《とき》でもさしあげましょう。日もはや暮れましたので、むさくるしいところですが、この山に一晩お泊まりになって、明朝お帰りになりましてはいかがでしょうか」
「わたくしはどうしてもお師匠さまのお教えをいただいて、おろかな迷いをひらきたいのです。このままひきさがるわけにはまいりません」
と、宋江は従者を呼んで金珠・彩段《いろぎぬ》をささげてこさせ、羅真人に献上した。すると羅真人は、
「わたしは田舎ずまいの一介の老人、ただ形骸を天地の間《かん》に置いているだけのもので、この金珠をいただいたところで、なんの使いみちもありません。身にはちゃんと身体をおおうにたる木綿のきものがあって、綾錦《あやにしき》や彩段などを着たことはありません。将軍は数万の軍を統《す》べられる身で、戦陣の賞与にも毎日たいへんなことでしょうから、いたださましたこの品は、どうかおとりさげくださいますよう」
という。宋江は再拝して納められるよう請うたが、羅真人はどうしても受けなかった。さっそくお斎が出され、それがすむとまたお茶になった。羅真人は公孫勝を家へ帰して母を見舞わせ、
「明朝もどってきて、将軍といっしょに城へ帰るように」
といいつけた。その夜は宋江を草庵にひきとめて閑談をしたが、宋江が胸のなかの思いをつぶさに羅真人に訴えて、教えを求めると、羅真人は、
「将軍の忠義のお心は、天地にもひとしく、神明も必ず加護されましょう。他日、生きては必ず侯に封ぜられ、死してはまさに廟に祭られましょうから、なにも思いまどわれることはありません。ただ将軍の一生は薄運で、美を全うすることはできないでしょう」
「お師匠さま、それではわたくしは、この身の終りを全うすることができないのでしょうか」
「いや、将軍は最期《さいご》は必ずお部屋で迎えられましょうし、なきがらは必ずお墓に葬られましょう。しかし生涯のご運がわるく、行くさきざきで難儀され、苦労ばかりで楽しみがすくないというたちですから、思いをとげられたらさっそく身をひかれることが大事です。いつまでも富貴の位置にこだわっていてはなりません」
「お師匠さま、富貴はわたくしの願うところではありません。ただ兄弟たちがみな、いつもいっしょにあつまっていることができさえすれば、たとえ貧賤であっても満足です。願いはただ一同が安楽に暮らせることです」
羅真人は笑いながら、
「生涯の終りがくれば、いくら執着したところでどうにもなりますまい」
宋江が再拝して羅真人の法語を求めると、羅真人は童子に紙と筆を持ってこさせ、八句の法語を書いて宋江にわたした。その八句の法語は、
忠心の者は小《すくな》く
義気の者は稀なり
幽燕に功畢《おわ》り
明月虚《むな》しく輝く
始めて冬暮に逢い
鴻雁分《わか》れ飛ぶ
呉頭楚尾《ごとうそび》(注七)に
官禄同じく帰せん
宋江は読んでみたが、その意味がわからないので、再拝して懇請した。
「なにとぞお師匠さま、じきじきお説きあかしくださって、わたくしの迷いをおしめしくださいますよう」
「これは天の機密で、漏らすわけにはまいりません。他日、時に応じて、おのずからおわかりになりましょう。もう夜もふけましたゆえ、どうか観内でおやすみください。あしたまたお目にかかりましょう。わたしはここにこもってから、ずっと帰らずにおります。やはりここでやすむことにしますから、どうかあしからず」
宋江は八句の法語をいただいて、ふところにしまい、羅真人に挨拶をして、観内へ休みに行った。道士たちは迎えて方丈へ案内し、そこに休ませた。
翌日の朝、真人のところへ挨拶に行くと、すでに公孫勝は草庵にもどってきていた。羅真人は精進ものを出させてもてなした。朝食がすんでから、羅真人はまた宋江にいった。
「将軍、ひとこと申しあげたいのですが、わたしの弟子のこの公孫勝は、もともとわたしについて山で出家しましたもので、遠く世俗と縁を絶つのが当然ながら、みなさまと同じ星のものなので、仲間にはいらないわけにはいかなかったのです。いまや世俗との縁もあとわずかになり、道行《どうぎよう》も次第に積んできましたものの、いまこのままひきとめてわたしに仕《つか》えさせましては、兄弟としての日ごろの情誼にそむくことになりますので、これから将軍にお供をさせて大功をおたすけさせることにいたしますが、凱歌を奏して都へ帰られましたときには、おいとまをさせますから、どうか帰してやってくださいますよう。そうすれば、一つにはわたしにも道をつたえてくれるものができますし、二つには彼の老母も息子を思って門にたたずまずにすみます。将軍は忠義の士であられますから、必ずや忠義の行ないをみとめてくださるとは思いますが、わたしのこの申し出をおききいれくださいますでしょうか」
「お師匠さまの仰せを、弟子たるわたくしがきかないはずはございません。まして公孫勝先生とわたくしとは兄弟の仲、去るもとどまるも思いどおりにまかせて、決してとめだてなどはいたしません」
宋江がそういうと、羅真人は公孫勝とともに頭をさげて一礼し、
「ご承諾くださってありがとうございました」
という。
かくて一同は、羅真人に別れの挨拶をした。羅真人は草庵の外まで見送って、別れた。そのとき羅真人はいった。
「将軍、くれぐれもご自愛のほどを。はやく大命を拝して侯に封ぜられますよう」
宋江は礼をして別れ、観の前へ出た。乗馬はみな観内で餌つけされていたが、そのときは従者たちが観の外にひき出して待っていた。道士たちは観の外まで宋江らを見送って、別れた。宋江は馬を山の中腹の平坦なところまでひいて行かせ、そこで公孫勝らとともに、一同馬に乗り、薊州へともどって行った。
途中は格別の話もなく、やがて城内にはいり、州役所の前で馬をおりた。黒旋風の李逵が迎えながら、
「兄貴、羅真人さまのとこへいらっしゃったのなら、どうしてわしをつれて行ってくださらなかったんだ」
といった。戴宗が、
「羅真人さまは、おまえが殺そうとした(第五十三回)といって、ひどくおこっておられたぞ」
というと、李逵は、
「むこうさんだって、さんざんわしをやっつけたのに」
みなはどっと笑った。
宋江は役所のなかへはいり、一同みな奥の間にあつまった。宋江は羅真人のあの八句の法語をとり出し、呉用にわたして入念に読ませたが、その意味は解けなかった。みなのものもくりかえし読んでみたが、やはりわからない。公孫勝は、
「兄貴、これは天の機密の深遠なお言葉で、漏らすべからざるもの。大切におしまいになって、生涯のお役にたてられますよう。あれこれ詮索なさるものではありません。お師匠さまの法語は、いずれそのうちにわかるときがきます」
という。宋江はその言葉にしたがい、天書といっしょにしまっておいた。
その後、薊州に兵をとどめること一ヵ月あまり。その間、なんら軍情の変化はなかった。やがて七月の中旬、檀州の趙枢密から文書がきて、朝廷からの勅旨とて、兵を進めてたたかうようにとのこと。宋江はその枢密院からの公文書を受けると、ただちに軍師の呉用と謀り、玉田県へ行って盧俊義らと会合し、兵の調練・武器の整備・人員の配置等を決め、再び薊州に帰るや、軍旗を祭り、日を選んで出陣することにした。とそこへ左右のものからの知らせがあって、
「遼国から使者がまいりました」
とのこと。宋江が出迎えると、それは欧陽侍郎であった。さっそく奥の間に請じ、挨拶もおわって、まず宋江がたずねた。
「いかなるご用で?」
「お人払いを願います」
と欧陽侍郎はいう。宋江がさっそく兵士たちをさがらせると、侍郎はいった。
「わが大遼の国王には、深くあなたのご人徳を慕《した》っておられます。もし将軍がきっぱりと帰順なさって大遼をお助けくださるならば、必ず勅旨によって侯に封ぜられましょう。どうか速かに大義を全うされてわが国王の望みをおかなえくださいますように」
「ここには誰はばかるものもおりませんから、心からうちあけて申しますが、じつは、この前にあなたが見えられたとき、一同のものはみなご来意を知ってしまったのです。そのうち半数のものは帰順を承知いたしません。もしわたくしが、国王さまにお目見えするために、あなたにしたがって幽州へ行きますならば、副先鋒の盧俊義が兵をひきつれて追いかけるにちがいありません。そうしてそちらの城下でたたかうようなことになりましては、わたしども兄弟のこれまでの義気がそこなわれてしまいます。そこでこの際まずわたしが腹心のものをつれて行って、どの城でもかまいませんから、そこにかくれさせていただくことにしますならば、たとえ彼が兵をひきつれて追ってきてわたしの居どころをつきとめたとしても、彼とたたかうことは避けられましょう。だがどうしても彼が聞かなければ、そのときはたたかう、ということにすればよかろうと存じます。また、彼がわれわれの居どころをつきとめることができなかったときは、彼は東京《とうけい》へ報告にひき返して、当然事情はことなってきます。そのときにはわれわれは国王さまにお目見えし、大遼の軍をひきつれて行って彼とたたかうことにすればよろしいでしょう」
欧陽侍郎は宋江のこの話を聞くと、内心大いによろこんで、即座にいった。
「わたしのほうには覇州のすぐ近くに二つの要害があります。一つは益津関《えきしんかん》といって、両側はずっとけわしい山で、まんなかにひとすじ駅路が通っているだけです。もう一つは文安県《ぶんあんけん》といい、両側はいちめんにすさまじい山で、関所を通りぬけたところに県城があります。この二つの地は覇州のいわば二つの大門なのです。将軍が仰せのようなわけでしたら、この覇州にかくれられたらよろしいでしょう。覇州はわが遼国の国舅《こくきゆう》(注八)の康里定安《こうりていあん》さまが守っておられます。将軍はそこへ行かれて、国舅さまとお暮らしになって、こちらの様子を見ることになさってはいかがでしょうか」
「そうしていただけますなら、、わたくし、急いで使いのものを家にやって老父を迎えてこさせ、後顧の憂いをなくしますから、あなたは、わたくしをそちらへつれて行ってくれるものを、ひそかによこしてくださいますように。話が決まりましたうえは、今夜のうちにわたくしども用意をしておきましょう」
欧陽侍郎は大いによろこび、宋江に別れて、馬に乗って帰って行った。詩にいう。
国士《こくし》の胡《こ》(えみし)に従うや志《こころざし》傷《いた》む可し
常山《じようざん》に賊を罵《ののし》って姓名香《かんば》し(注九)
宋江若《も》し遼国に降《くだ》るを肯《がえ》んぜば
何ぞ梁山に大王と作《な》るに似《し》かん
その日、宋江は使いのものを出して盧俊羲・呉用・朱武らを薊州に呼び寄せ、みなで智謀をもって覇州を取る策を協議することにした。一同はやってきて宋江に会い、相談がまとまると、盧俊義は命を受けて帰って行き、呉用と朱武は諸将に、かくかくしかじかに事をはこぶようにと、ひそかにいいふくめた。
宋江がつれて行く人員は、林冲・花栄・朱仝・劉唐・穆弘・李逵・樊瑞・鮑旭・項充・李袞・呂方・郭盛・孔明・孔亮ら計十五名(宋江をふくめて)の頭領と、一万人あまりの兵士だけで、人員の選定もきまり、いまはただ欧陽侍郎がくるのを待って出発するばかりとなった。待つこと二日、やがて欧陽侍郎は馬を飛ばしてやってきて、宋江にいった。
「わが国王には、将軍がまことに立派なお心がけのかたであることをご存じで、すでに帰順してくださったからには、かの宋軍もおそるるにたらずとのこと。わが大遼国には多数のすぐれた将兵があり、これを助けるに屈強な人馬があります。あなたがお父上を迎えられるについて、もし心もとなく思われますならば、ひとまず覇州で国舅さまとごいっしょにおすごしいただくことにして、わたしのほうから使いのものをやってお父上をお迎えすればよいでしょう」
宋江は承知して、侍郎にいった。
「行きたいという将兵たちは、すでに準備もととのっておりますが、いつ出発いたしましょうか」
「今夜すぐ出発しますから、命令をおくだしくださるよう」
宋江はさっそく、馬からは鸞鈴《らんれい》(馬鈴)をとりはずし、兵士はみな枚《ばい》(注一〇)をふくんで駆けるよういいつけて、その夜出発することにし、一方ではまた、使者(欧陽侍郎)をもてなした。かくて、たそがれのころ、西の城門をあけて出発した。欧陽侍郎は数十騎をひきしたがえ、先頭にたってみちびき、宋江は一隊の軍をひきいて、あとにつづいた。およそ二十里あまりも行ったとき、宋江は馬上でとつぜん声をあげて、
「しまった」
と叫び、
「軍師の呉学究と、いっしょに大遼に帰順しようと約束したのに、なんとしたことか、あわててきたものだから、彼のくるのを待ってやらなかった。軍をゆっくり進ませることにしたうえで、急いで使いのものをやって、彼を呼んでこさせよう」
といった。そのときはすでに三更(夜十二時)ごろで、前方はもう益津関の要害であった。欧陽侍郎は大声で、
「門をあけろ」
と命じた。するとさっそく、関所の守備兵が入口を開け放ち、将兵はことごとく関所を通って、やがて覇州についた。空はようやく明けそめていた。欧陽侍郎は宋江を城中に請じ入れ、国舅・康里定安にその旨を報告した。
そもそもこの国舅は、大遼の国王の皇后の実兄で、非常な権力を持ち、しかもまた衆にすぐれた豪胆な人であった。ふたりの侍郎を配下に持って覇州を守っていたが、ひとりな金福《きんぷく》侍郎といい、ひとりは葉清《しようせい》侍郎といった。宋江が投降してきたという知らせを聞くと、ただちに、兵は城下にとどめさせて首領の宋先鋒だけを城内に通すようにと命じた。欧陽侍郎はそこで宋江をつれて城内へ進み、定安国舅に会った。国舅は宋江の非凡な風貌を見るや、階《きざはし》をおりて迎え、奥の間に請じ入れた。そして挨拶がおわると、宋江に上座をすすめた。宋江が、
「国舅さまは金枝玉葉のおん身、わたくしは投降してまいりましたもの。国舅さまのそのようなご鄭重なおあつかいをお受けするわけにはまいりません。わたくし、ご恩の報いようもございません」
というと、定安国舅は、
「将軍のお名前は天下につたわり、ご威厳は中原をとりしずめるとのことは、しばしば耳にするところで、おうわさはこの大遼にまで聞こえわたり、わが国王も深く慕っておいでです」
「わたくし、国舅さまのご高庇をたまわりまして、まごころから国王さまの大恩にお報いする覚悟でございます」
宋江がそういうと、定安国舅は大いによろこび、急いで祝賀の宴を設けさせ、一方ではまた、牛や馬を殺して全軍の将兵をねぎらわせた。そして城内に一軒の家を選んで宋江および花栄らを泊まらせることにし、ついに兵士たちもみな城内に屯営させることにした。花栄ら諸将はうちそろって国舅および蕃将たちに挨拶をしたのち、宋江と同じ宿舎におちついた。そこで宋江は、さっそく欧陽侍郎を呼んでたのんだ。
「ご面倒ながら、使いのものを出して関所の守備兵に知らせていただきたいのです、もし軍師の呉用というのがきたら、通してやるようにとのいいつけだと。わたしは彼といっしょに泊まるようにしたいのです。昨夜はあわただしく出かけたものですから、彼を待てませず、あなたといっしょに先ばかり急いで、すっかり彼のことを忘れていたのですが、軍事上の大事には欠くことのできない人物で、しかも軍師として文武両道をかねそなえ、智謀にもたけ、六韜三略《りくとうさんりやく》(兵書)には通ぜざるところなしというわけですから」
欧陽侍郎は承知して、さっそく命令を出し、使いのものをやって益津関と文安県の二ヵ所の関所の守備兵につたえさせた。
「秀才ふうの男で、姓は呉、名は用というものがきたら、すぐ通してやるように」
さて、文安県では、欧陽侍郎からの命令を受けると、すぐ使いのものを益津関のほうへさしまわして、くわしく事情をつたえさせた。そして関所にのぼって眺めていると、日を蔽《おお》う砂塵、天を遮《さえざ》る土煙をまきあげつつ、関所にむかって駆けつけてくる軍勢が見えた。関所の守備兵たちは擂木《らいぼく》(投げ丸太)や抱石(投げ石)を用意してこれにそなえたが、見れば山前の一騎には秀才ふうの男が乗っており、そのうしろには、ひとりの行脚僧《あんぎやそう》と、ひとりの行者《ぎようじや》、さらにそのうしろには、数十人の人々がつづき、どっと関所のほうへ駆けつけてくる。先頭の一騎は馬を関所の前まで乗りつけると、大声で叫んだ。
「わしは宋江の部下の、軍師の呉用というものだ。兄貴をさがしにきたところ、宋兵にさんざん追いかけられた。門をあけて助けてくれ」
関所の守備兵は、
「きっとこの男のことだろう」
と思い、ただちに門をあけて呉学究をなかへ入れた。すると、かの行脚僧と行者のふたりも、門のなかへおし入ろうとする。関所のものがさえぎったが、行者のほうは早くも門のなかに飛びこんでしまった。和尚は、
「われわれふたりの出家も、宋兵に追いかけられているのだ。たのむから助けてくれ」
という。だが関所の守備兵はあくまでも門の外へおし出そうとした。すると和尚はかっとなり、行者はいらだって、大声で呼ばわった。
「おれたちは出家なんかじゃない。人殺しの太歳(凶星《まがつぼし》)、魯智深と武松というのはおれたちのことだ」
花和尚《かおしよう》は鉄の禅杖をふりまわして手当り次第に殴りつけ、武行者《ぶぎようしや》は二本の戒刀をひき抜いて縦横に斬りまくり、さながら瓜を割り菜っ葉をきざむようなありさま。かの数十人のものは、すなわち解珍・解宝・李立・李雲・楊林・石勇・時遷・段景住・白勝・郁保四らの一党で、はやくも関内に駆けこみ、たちまちのうちに関所の入口を奪ってしまった。と、さらに盧俊義が兵をひきつれてどっと関所におし寄せ、いっせいに文安県に殴りこんだ。関所を守る役人たちは、どうしてこれがくいとめられよう。一党のものはいつせいに文安県にはいって、勢ぞろいをした。
さて一方呉用は、馬を飛ばして覇州の城下へ駆けつけた。門を守る蕃官が城内に知らせると、宋江は欧陽侍郎とともに城壁のほとりまで出迎え、さっそく国舅・康里定安にひき合わせた。呉用はいった。
「わたくし、まずいことにちょっと出遅れてしまいましたところ、城を出るとき、はからずも盧俊義に気づかれて、あとをつけられ、関所の前まで追いかけられてきました。わたくしはやっと城にはいりましたが、あとはどうなったかわかりません」
そこへまた速馬《はやうま》が駆けつけてきて、
「宋兵が文安県を奪い、その軍勢は覇州に迫っております」
と知らせた。定安国舅はただちに兵を集めて城外に迎え討たそうとしたが、宋江は、
「まだ兵を出すべきではございません。彼らが城下にまいりましたならば、わたくしがうまく彼らを説きなだめましょう。それでもしたがいませんでしたなら、そのときたたかうことにすればよろしいでしょう」
と、またそこへ速馬が駆けつけてきて、
「宋兵は城の近くまでやってきました」
と知らせた。定安国舅は宋江とともに城壁の上にのぼって眺めわたした。見れば、宋兵は整然と城下に陣を布きつらねている。盧俊義は〓《かぶと》をかぶり甲《よろい》をまとい、馬を躍らせ槍を横たえ、将兵を指揮して威武揚々《ようよう》。門旗の下に馬をとどめ、大音声に呼ばわった。
「朝廷を裏切った宋江を出してよこせ」
宋江は城楼《やぐら》の下の姫垣のところがら、盧俊義を指さしながらいった。
「弟よ、すべて宋朝では、賞罰は明らかならず、奸臣が要路につき、讒佞《ざんねい》の徒が権をもっぱらにしているので、わたしは大遼国王に帰順したのだ。あなたも心を同じくし、こちらへきてわたしを助け、ともに大遼の国王のためにつくして、長らく梁山に集まっていたよしみをうしなわぬようにされたい」
すると盧俊義は大声で罵った。
「わしは北京《ほつけい》で家業に安んじていたのに、おまえはわしをだまして山へつれて行ったのだ(第六十一回)。宋の天子は三度も詔書をくだされてわれわれを招安なさったのに、いったいなんの不足があるというのだ。なんで朝廷に背きたてまつるのだ。短見無能なやつめ、さっさと出てきて尋常に勝負をしろ」
宋江は大いに怒り、城門をあけさせるなり、林冲・花栄・朱仝・穆弘の四将にいっせいに討ち出て行ってあいつをひっつかまえろと命じた。盧俊義は四将を見るや兵士たちをおしとめてみずから馬を躍らせ槍を横たえつつ四将を迎え討ち、いささかもひるむところはない。林冲ら四将はわたりあうこと二十合あまり、馬首を転じて城内へと逃げだした。盧俊義が槍をあげてさし招くと、うしろの大軍はいっせいにおし寄せてくる。林冲と花栄は吊り橋を確保せんものと、身を返してまた討ちかかって行ったが、負けたふりをして逃げ、盧俊義を城内へ突入させた。うしろの全軍の兵はどっと喊声をあげ、城内の宋江ら諸将はいっせいに寝返ってこれを城内へいれ、四方から斬りまくった。遼兵はほどこすすべもなく、みな投降した。定安国舅は憤りのあまり目を見ひらき口をあけたまま、どうすることもできず、侍郎たちとともにそのまま捕らえられてしまった。
宋江が兵をしたがえて城中へはいると、諸将もみな州役所にあつまって宋江に見参した。宋江は命をつたえて、まず定安国舅および欧陽侍郎・金福侍郎・葉清侍郎らを招かせ、それぞれ席につかせて鄭重にもてなした。宋江はいった。
「あなたがた遼国では、内情を知らずにわれわれを見そこなわれた。われわれ一味の好漢は、山林につどう盗賊のたぐいとはわけがちがう。ひとりひとりが列星の一員です。君に背いて遼に降ったりなどするものですか。あなたがたの覇州を取らんがために、わざとその機会につけ入ったまでです。われわれがこうして目的を達しましたうえは、国舅どのらは、どうか本国へお帰りくださるよう。決してご心配にはおよびません、われわれは命をちょうだいしようとは考えておりませんから。配下の人々、およびみなさんの家族の人たちも、残らず本国に帰っていただきましょう。覇州の城がわが朝廷(注一一)のものとなったうえは、再び奪おうなどとはくわだてぬように。また兵刃をまじえるようなことになれば、二度と容赦はしません」
宋江はこういいわたし、城中の蕃官をひとり残らず追いたてて定安国舅といっしょに幽州へ帰らせた。宋江は同時にまた、立札を出して住民を宣撫し、副先鋒の盧俊義を、軍の半数をしたがえて薊州の守備に帰らせ、宋江以下あと半数の将兵で覇州を守ることにした。また、使いのものに軍書を託して、覇州をおとしいれたことを趙枢密に急報させた。趙安撫は知らせを聞いて大いによろこび、上奏文をしたためて朝廷に報告した。
一方、定安国舅は、三人の侍郎とともに一同をしたがえて燕京に帰り、国王に見《まみ》えて、宋江がいつわって投降した次第をくわしく訴え、
「そのため蛮人どもに覇州を占領されてしまいました」
と述べた。遼王はそれを聞くや、かっとなって、欧陽侍郎を怒鳴りつけた。
「この見下げはてた佞臣め、あれこれと差し出がましいことをやらかして、わが覇州の要城をうしなってしまいおった。かくてはこの燕京を守ることもおぼつかないではないか。さっさと引きずり出して行って、斬ってしまえ」
すると列中から兀顔《こつがん》統軍が進み出て、奏上した
「国王さま、ご憂慮にはおよびませぬ。たかがあんなやつのために、国王さまのお心をなやませるほどのことはございません。わたくしにいささか考えがございますゆえ、欧陽侍郎を斬ることはひとまずおひかえくださいますよう。もし宋江がかようなことを知れば、かえってやつの物笑いの種になるばかりでございましょう」
遼王はその進言をいれて、欧陽侍郎をゆるした。兀顔統軍はいった。
「わたくし、麾下《きか》の二十八宿の将軍・十一曜の大将をひきい、出て行って陣を布き、かの蛮人どもを一撃のもとに平らげてみせます」
その言葉のまだおわらぬうちに、列中からこんどは賀《か》統軍が進み出て、奏上した。
「国王さま、ご安心くださいますよう。わたくしにいささか考えがございます。諺にも、〓《にわとり》を殺すに焉《いずく》んぞ牛刀を用いん(注一二)と申しますように、正統軍がみずから行かれるほどのことはございません。このわたくしがいささか計略をめぐらし、かの一味の蛮人どもを死後も野ざらしの憂き目にあわせてやりましょう」
国王はそれを聞くと大いによろこんでいった。
「おお、たのもしいぞ。その方の妙策を聞かせてくれ」
かくて賀統軍が口をひらき舌をうごかしてその妙計を説きだしたことから、やがて盧俊義をさるところに行かせて、馬は糧草なく人は糧食なしという羽目におちいらせ、ついには三軍の驍勇をしてひとしく胆をつぶさせ、一代の英雄をして眉をしかめさせるという次第になるのである。さて賀統軍はいかなる計略を説きだしたか。それは次回で。
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一 鉄簡 鉄鞭の一種で、刃のない四つの稜角を持った武器。
二 欠身 第二回注一三参照。
三 兵馬 この回の冒頭では遼兵となっているが原文のママとした。
四 口をすべらすもの 原文は耳目。告げ口をする者の意。
五 《せつ》も《げつ》も山のけわしい形をいう。
六 浄屋 原文は雪洞。雪は清浄、洞は洞宮(道士の居)の意であろう。
七 呉頭楚尾 豫章(江西省地方)のこと。洪芻の『職方乗』に、「豫章の地は呉の頭・楚の尾と為す」とあるに因る。
八 国舅 天子の母の兄弟をいう。ただし、ここの国舅・康里定安は、しばらくあとに、国王の皇后の兄と説明されている。
九 常山に賊を罵って姓名香し 顔杲卿《がんこうけい》の故事。顔杲卿は唐の玄宗皇帝のときの名将で、安禄山《あんろくざん》が謀叛をおこしたとき、常山《じようざん》(浙江省)の太守であったが、賊の大軍を防ぐことのできないのを知って常山を捨て、道に安禄山を迎えた。安禄山はよろこんで、もとのまま顔杲卿に常山を守らせ、みずからは本軍をひきいて洛陽にむかった。顔杲卿は安禄山の将であることをよそおいながらひそかに義兵を挙げ、一時は賊軍を退けたが、やがて洛陽で皇帝を僣称した安禄山は、大軍をもって常山を攻めさせ、顔杲卿を捕らえた。洛陽へ送られて安禄山の前にひき出された顔杲卿は、安禄山を「営《えい》州の羯奴《かつど》」(営州は熱河省、安禄山の出身地。羯奴は羊飼い)と呼び、逆賊と罵ってやまず、咼刑《かけい》(口切りの刑)に処せられてもなお、声とならぬ声をふりしぼって、死にいたるまで罵りつづけたという。
一〇 枚 第六十回注四参照。
一一 わが朝廷 原文は天朝。朝廷の尊称。異国に対していうときに多く用いられるようである。
一二 〓を殺すに焉んぞ牛刀を用いん 『論語』陽貨篇に「〓を割くに焉んぞ牛刀を用いん」とある。小事を処理するのに大器を用いる必要はないとの意。
第八十六回
宋公明《そうこうめい》 大いに独鹿山《どくろくざん》に戦い
盧俊義《ろしゆんぎ》 兵を青石峪《せいせきよく》に陥《おとしい》れらる
さて賀統軍は、姓は賀《か》、名は重宝《ちようほう》といい、遼国では兀顔《こつがん》統軍の麾下の副統軍の職にあり、身の丈《たけ》は一丈、力は万人に匹敵し、よく妖術をおこない、三尖両刃《さんせんりようじん》の刀をつかいこなし、現に幽州を守って諸路の軍勢を総監していた。
そのとき賀重宝は国王に奏していうよう、
「わたくしが守っておりますかの幽州の地には、青石峪《せいせきよく》というところがございまして、そこへはいるには一本の道しかなく、四方はみな山で、ほかには逃げ道がありません。わたくし、十数騎の兵をもってかの蛮人どもをそのなかに誘いこみ、一方では軍をうごかして外からとりかこんで、やつらを進むことも退くこともできぬようにして必ず餓死させてやろうと存じます」
兀顔統軍が、
「だが、どうしてやつらを誘い出すというのだ」
というと、賀統軍は、
「彼らはわが大郡を三つ攻め取って、気負いたち、おごりたかぶっておりますから、必ずや幽州をめざしているにちがいありません。それゆえこちらから兵を出して誘いをかけますならば、彼らは勢いに乗じて追ってくるでしょうから、それを陥し穴の山へ引きこむのです。そうすればもうどこへも逃げられません」
「その計略はおそらくうまくはいくまい。いずれわしが大軍をうごかしてひといくさすることになろうが、まあ、やってみるがよかろう」
と兀顔統軍はいった。
かくて賀統軍は国王のもとを辞し、よろい・かぶとに身をかため、刀を帯び馬に乗り、従者兵卒の一行をひきつれて幽州の城内に帰るや、軍を召集して三隊に分け、一隊は幽州を守り、二隊は覇州と薊州とにむかって進ませることにした。命令をつたえおわると、ただちに二隊の軍を城外に進み出させ、ふたりの弟にその指揮をとらせた。上の弟の賀拆《かたく》は覇州へ、下の弟の賀雲《かうん》は薊州へ攻めて行かせたが、ともに敵に勝ってはいけない、負けたと見せかけて敵を幽州の地内に誘い入れれば、あとはしかるべき計略があるからといいふくめた。
一方、宋江らは覇州を守っていたが、知らせのものがきて、
「遼軍が薊州に侵入してきました。万一のことがあるやも知れませぬゆえ、援軍をお出しくださいますよう」
という。宋江は、
「攻めてきたのなら、あくまでもこれを迎え討って、この機に乗じて幽州を攻め取ろう」
といい、わずかな兵を残して覇州を守らせ、その余の大軍をことごとく出動させることにした。かくて軍をひきいて薊州へ行き、盧俊義の兵と合流して日を決めて出陣することになった。
一方、蕃将の賀拆は、兵をひきつれて覇州へ進んで行くと、ちょうど宋江も軍を進めてくるところで、両者は途中でぶつかったが、ちょっとたたかっただけで賀拆は兵をひきつれて逃げた。だが宋江は追わなかった。
また一方、賀雲も、薊州へむかううち、呼延灼にぶつかったが、たたかわずに兵を退《ひ》いた。
宋江は盧俊義に会い、ともに本営にはいって幽州攻略の策を協議した。呉用と朱武は、
「幽州から兵を二手に分けて攻めてきたのは、誘いの計略にちがいありません。しばらくこのままでいたほうがよいと思います」
といったが、盧俊義は、
「軍師、そうではないでしょう。あやつらはなんども負けつづけて、誘いの計略どころではないでしょう。やっつけるべきときにやっつけておかないと、あとになって厄介なことになります。いまここで幽州を取らなければ、またとその機会はないでしょう」
宋江も、
「やつらは勢いをうしない力を使いはたしていて、良策をほどこす余裕もなかろう。いまこそつけこむべき好機だ」
といい、ついに呉用と朱武の言にしたがわず、兵をひきいて幽州へ進むことになり、両地(覇州と薊州)の軍を大小三隊に分けて出発した。と、やがて前軍から知らせがあって、
「遼軍がゆくてをさえぎっております」
という。宋江が軍の先頭へ出て行って眺めると、丘のむこうから黒旗の一隊が進み出てきた。宋江はただちに前軍の兵を散開させた。と、蕃軍の蕃将は兵を四手に分けて丘の前に陣を布いた。宋江・盧俊義が諸将とともに眺めると、千百万の軍勢はさながら黒雲の湧き出すがごとく、それに擁《よう》されてひとりの蕃官が、三尖両刃の刀を横たえつつ陣頭に馬を立てていた。その蕃官のいでたちいかにと見れば、
頭には明霜の〓鉄《ひんてつ》の〓《かぶと》を戴き、身には耀日《ようじつ》の連環の甲を披《き》、足には抹緑の雲根《うんこん》(雲型)の靴を穿《は》き、腰には亀背の〓猊《しゆんげい》の帯を繋《し》む。錦〓の緋紅の袍を襯着《しんちやく》し、鉄桿の狼牙の棒を執着す。手には三尖両刃の八環の刀を持ち、坐下には四蹄双翼の千里の馬。
前面の引軍旗には、あざやかに、
大遼副統軍賀重宝
としるし、馬を躍らせ刀を横たえて、陣頭にあらわれた。宋江はそれを見ていった。
「遼国の統軍ならば必ずや上将であろう。われと思わんものは相手になるがよい」
その言葉のまだおわらぬうちに、大刀の関勝が、青竜偃月《せいりゆうえんげつ》の刀を舞わせつつ、うちまたがったる赤兎馬《せきとば》を走らせて陣地を飛び出して行き、名乗りもあげず、いきなり賀統軍とたたかった。かくてわたりあうこと三十余合、賀統軍は気勢あがらず、刀をはらいのけざま、自陣をめざして逃げだした。関勝は馬を飛ばして追いかけた。賀統軍は敗兵をひきつれて、丘をまわって逃げて行く。宋江はすかさず兵を繰り出して追ったが、四五十里ばかり行くと、四方から軍鼓がいっせいに鳴りだした。宋江が急いで軍を返そうとすると、丘の左側から、はやくも一隊の蕃軍が飛び出してきてゆくてをふさいだ。宋江があわてて兵を分けてこれにあたろうとすると、右手のほうから、はやくもまた一隊の遼軍が飛び出してきた。正面の賀統軍も兵をもどして挟み討ちをかけてくる。宋江の軍は互いに助けあういとまもなく、蕃軍に突きこまれてまっ二つにされてしまった。
一方、盧俊義は、兵をひきいて後方でたたかっているうちに、前方の軍が見えなくなってしまったので、あわてて血路を斬り開いてもどろうとすると、とつぜん脇のほうからまたもや蕃軍が飛び出してきてたたかいとなった。遼軍の吶喊《とつかん》の声は天にとどろいて、四方から突撃してくる。盧俊義の軍は左右からとりかこまれて、動きがとれない(注一)。盧俊義は諸将を手分けして、左右に突っこみ前後に斬りまくって血路を求めた。諸将が勇をふるい気をみなぎらせ、四方に駆けまわって奮戦しているおりしも、にわかに陰雲がたちふさがり、黒霧が天をさえぎって、白昼はさながら夜となり、東西南北のけじめもつかなくなってしまった。盧俊義はうろたえ、急いで一隊の軍をひきつれて必死に暗闇のなかを斬り抜けて行った。と、前方に鸞鈴の音が聞こえたので、馬を飛ばし兵をひきいて斬りこんで行くと、ある山の登り口に出た。その奥から人の声や馬のいななきが聞こえてくる。兵をひきいて駆けのぼって行くと、とつぜん狂風がはげしく吹きおこり、石を走らせ砂を飛ばして、目前《めさき》も見えない。盧俊義は奥へ斬りこんで行ったが、およそ二更(夜十時)ごろになって、ようやく風がおさまり雲がひらけ、また星空が見えてきたので、一同があたりを見まわすと、四方はぐるりと山で、左右は断山霧壁。山はけわしくて、登るべき路もなかった。ついてきた将兵はと見れば、徐寧・索超・韓滔・彭〓・陳達・楊春・周通・李忠・鄒淵・鄒潤・楊林・白勝ら大小の頭領十二名と、兵五千であった。星の光をたよりに帰路をさがしてみたが、四方を山にかこまれていて、出ることができない。盧俊義は、
「兵士たちはまる一日たたかいどおしで、疲れきっているから、ひとまずここで一晩すごして一息いれ、あした、帰路をさがすことにしよう」
といった。
さて、宋江のほうはというと、戦闘のさなかに、とつぜん黒雲があたりに湧きおこり、石を走らせ砂を飛ばして、兵士たちは顔をつきあわせながら相手が見えないというありさま。ところが一行のなかには公孫勝がいた。馬上でそれを見て妖術であることを知ると、急いで宝剣を抜きとって馬上で法をつかい、口に呪文をとなえて、
「やっ!」
と一喝、宝剣をつきつけると、たちまち陰雲は四散し、狂風ははたとやみ、遼軍はたたかわずして退きだした。宋江は兵を励まして重囲をつき破り、とある山まで退いて、麾下の軍を迎え、ひとまず糧秣の車輛をつらねて、かりに陣地の柵とした。大小の頭領をしらべてみたところ、盧俊義ら十三名と、五千余の兵が欠けている。夜があけると宋江はただちに呼延灼・林冲・秦明・関勝にそれぞれ兵をつけて、まる一日あちこちさがさせたが、なんの消息も得られなかった。宋江はそこで玄女の課《うらない》をとり出し、香を焚いてうらなってみて、
「易《えき》全体としては案ずるほどのこともないが、幽陰の地に陥っていて、早急にはぬけ出せないようだ」
という。宋江は不安でならないので、さっそく解珍と解宝に猟師の身なりで山をさがしまわりに行かせ、さらに、時遷・石勇・段景住・曹正らにもあちこちへ消息をさぐりに行かせた。
さて、解珍と解宝は、虎の皮の上衣をき、鋼叉《さすまた》を持って、ひたすら山の奥へとはいって行った。やがて日が暮れてきた。ふたりは山奥にはいりこんでいて、四辺どこにも人家のある気配はなく、険しい山がつらなっているだけである。解珍と解宝は、さらに幾つかの山を越えて行った。その夜は月はおぼろだったが、遠く山のほとりに灯火《ともしび》が一つ見えた。兄弟ふたりは、
「あそこの灯火のところには、人家があるにちがいない。たずねて行って飯にでもありつかせてもらおうじゃないか」、
といい、灯火のほうをめざして大股に急いで行った。一里あまりも行かぬうちに、とあるところについた。木立のしげった丘を背に、三棟ばかりの草葺きの家が建っていて、屋根の下の破れた壁のあいだから灯火が漏れている。解珍と解宝が扉をおしあけると、灯火にてらされて、六十すぎの老婆の姿が見えた。兄弟ふたりは鋼叉を下におき、頭をさしのべて礼をした。するとその老婆は、
「倅がもどってきたのかと思ったら、これはまあお客さんでしたか。お辞儀なんかおよしなさいよ。おまえさんがたはどこの猟師です? どうしてまたこんなところへおいでなさったんです」
「わたしはもともと山東のものでして、以前は猟師をしていたのですが、こちらへあきないにやってきましたところ、思いがけなく、どえらいいくさに出くわしまして、そのためにもとでをなくしてしまい、食っていけなくなったものですから、兄弟ふたりで仕様ことなしに山のなかへはいって獣《けもの》をとって飢えをしのいでおりますうちに、つい路がわからなくなって迷ってしまい、こちらへ出てきまして、一晩泊めていただこうと思ってお宅にうかがったというわけです。どうかお聞きとどけくださいますよう」
と解珍がいうと、老婆は、
「むかしから、家を背負《し よ》っては歩けないというものな。うちの倅ふたりも猟師だが、もう追っつけもどってきましょう。まあお掛けなさい、晩飯の支度をしてあげよう」
「どうもありがとうございます」
と解珍と解宝は礼をいった。
老婆は奥へはいって行った。兄弟ふたりが門口に腰をかけていると、やがて、外からふたりのものが一匹の〓《のろ》をかついではいってきて、
「おっかさん、どこだい?」
と呼んだ。と、老婆が出てきて、
「おう、もどってきたか。まあ〓はおろして、ふたりのお客さんに挨拶をしな」
といった。解珍と解宝は急いで礼をした。そのふたりは答礼をして、
「おまえさんがたはどこの人で、なにをしにきなさった」
とたずねた。解珍と解宝はさきほどした話をもういちど繰りかえした。するとそのふたりはいった。
「わしたちはこの土地のもので、わしは劉二、弟は劉三といいます。おやじは劉一といいましたが、運わるく死んでしまって、おふくろだけが残されました。ずっと猟師渡世をして、二三十年ここに暮らしておりますが、ここいらは路がひどくいりくんでいて、わしらでもまだ知らぬところがあるくらいですよ。あんたらおふたりは山東のおかただとのことだが、どうしてこんなところまで渡世に見えたんです? かくしなさることはない。あんたがたおふたりは猟師ではありますまい」
「いまとなっては、かくすこともできません。ほんとうのことを申しあげます」
と解珍と解宝はいった。これをうたった詩がある。
峯巒《ほうらん》重畳《ちようじよう》として繞《めぐ》って周遭《しゆうそう》
兵垓心《がいしん》(注二)に陥って逃《のが》る可からず
二解(解珍・解宝)貔虎《ひこ》(注三)の路を知らんと欲し
故《ことさ》ら蹤跡《しようせき》(足跡)を将《もつ》て漁樵(猟師や木こり)に混《まじ》る
そのとき解珍と解宝は地面にひざまずいていった。
「わたしどもが山東の猟師だということはまちがいございません。兄弟ふたり、解珍と解宝と申しまして、梁山泊で宋公明兄貴について長いあいだ盗賊をはたらいておったのですが、このたび招安をお受けしまして、兄貴にしたがって遼国を討ちにやってきましたところ、先日、賀統軍と大いくさをして味方の一隊が蹴散らされ、どこへ行ったかわからなくなってしまったものですから、わたしども兄弟ふたりが消息をさぐりによこされたというわけなのです」
すると、かのふたりの兄弟は笑いながら、
「おふたりさんは好漢だったのですか。さあ、どうかお立ちなすって。わしらが路をお教えしますから。とにかく、まあ、おくつろぎください。〓の腿を煮、地酒をあたためて、おふたりさんにご馳走いたしましょう」
一時《ひととき》とはたたぬうちに肉が煮えた。劉二と劉三は、解珍と解宝をもてなした。酒を酌みかわしながら、
「わしらはかねがね、梁山泊の宋公明は天に替《かわ》って道を行ない、良民には危害を加えないと聞いていて、そのうわさはこの遼国にまでもつたわっておるのですがね」
といい出した。
「うちの兄貴は忠義を第一とし、良民をそこなうようなことは決してしません。手にかけるのはただ、非道な役人どもや後楯《うしろだて》をたのんで弱いものいじめをするようなやつらだけです」
解珍と解宝がそう答えると、ふたりは、
「うわさに聞いていただけだが、やっぱりそうでしたか」
といい、一同よろこびあって、互いに親しみを深くした。解珍と解宝が、
「味方のその一隊というのは、十人あまりの頭領と四五千の兵なのですが、どこへ行ったのか全くわからないのです。どうやらうまい具合になっている場所へ陥れられたのだと思うのだが」
というと、かのふたりのいうには、
「あなたがたはこの北辺の地形をご存じないでしょうが、このあたりには、幽州の管下で青石峪というところがあって、一本の路が通じているだけで、四方はぐるりと断崖絶壁になった山ばかり。もしその入って行く路をふさがれてしまったら、それっきり出ることはできぬというところです。おそらくそこに陥れられたものにちがいありません。このあたりには、あそこほどの広いところはほかにありませんから。いまあなたがたの宋先鋒が駐屯しておられるところは独鹿山という名ですが、その山の前の平地ではいくさができますし、山の頂《いただき》から見わたせば四方からやってくる軍勢が見とおせます。その一隊を救うには、必死に青石峪をうち破れば救い出せましょうが、青石峪の入口にはきっと大勢の兵がいて、その口をふさぎとめておるでしょう。このあたりの山には柏《ひのき》の木が多く、なかでも青石峪の入口の二本の大柏はいちばん見事で、傘のような形をしており、四方のどこからでも眺められます。その大木のあるところが谷の入口というわけです。もうひとつ気をつけなければならぬことは、賀統軍は妖術をつかうということで、宋先鋒が彼を破るためにはこれを抜かってはならぬ大事なことです」
解珍と解宝はこれらのことを聞かされて、劉氏の兄弟ふたりに礼をいい、急いで陣地へ帰って行った。宋江はふたりに会ってたずねた。
「なにかはっきりしたことがさぐれたか」
解珍と解宝は劉氏兄弟の言葉をくわしく話した。宋江はおどろいて、さっそく軍師の呉用を呼んで相談をした。話しあっていると、そこへ下士のものがきて、
「段景住と石勇が、白勝をつれてきました」
と知らせた。宋江は、
「白勝は盧先鋒といっしょに陥れられたのだ。その彼がやってきたとは、きっとなにごとかあったのにちがいない」
といい、さっそく本営に呼びよせてたずねると、まず段景住がいうには、
「わたしと石勇が山の谷川のところで眺めておりますと、山頂から大きな毛氈《もうせん》の包みがころがりおちてくるのです。ふたりで見ておりますうちに、見る見る山の下までころがってきましたが、なんとそれは毛氈のきものをまるめたもので、なかになにか包みこんで、上から縄でしっかりとくくってあるのです。林のところへ行って見ますと、中味は白勝だったのです」
白勝がいった。
「盧頭領とわたしたちの十三人でたたかっておりますと、とつぜん天地が暗くなり、日の光も消えて、東西南北もわからなくなってしまったのです。と、人の話し声と馬のいななきが聞こえましたので、盧頭領の命令でしゃにむに斬りこんで行きましたところ、なんと、たいへんなところへはいりこんでしまっておりました。そこは四方がぐるりと山で、抜け出るすべもございません。それに糧秣を受けいれることもできませんので、一行のものは難渋をきわめております。そこで盧頭領は、わたしに、山頂からころがりおりて、路をたずねて行って報告をするようにといわれたのですが、思いがけなく石勇と段景住のふたりに出あったというわけです。どうか兄貴、さっそく援軍を出して救いに行ってくださいますよう。おくれたら諸将のいのちはございません」
宋江はそれを聞くと、夜をこめて人馬を勢ぞろえし、解珍と解宝を路案内にたててかの柏《ひのき》の大木、すなわち谷の入口へとむかうことにし、歩騎の兵に、力をあわせて斬りこんで是が非でも谷の入口を突き破るようにと命をつたえた。軍を進めて行くうちにやがて夜があけ、遠く山の手前に二本の柏の大木が見えた。はたして傘のような形であった。解珍と解宝はただちに軍をひきいて山の前へおしよせて行った。谷の入口の賀統軍はすぐ兵を布きつらね、ふたりの兄弟(賀拆と賀雲)は先を争って討ち出してきた。宋江がたの将兵も谷の入口を奪おうとして、いっせいに繰り出す。豹子頭の林冲は馬を飛ばして先頭をきり、賀拆《かたく》を迎え討ったが、馬を交えたと見るや、わずか二合わたりあっただけで、その腹を槍で突き刺し、賀拆を馬の下にたおした。歩兵の頭領たちは、騎兵に先駆けの功をたてられたのを見て、どっとばかり突っこんで行く。黒旋風の李逵は二梃の斧を振りまわして、めちゃくちゃに遼兵を斬り殺し、つづくは混世魔王の樊瑞と喪門神の鮑旭で、牌手《はいしゆ》(楯の隊)の項充・李哀および大勢の蛮牌《た て》の兵をひきつれて、まっしぐらに遼兵の隊のなかへ斬りこんで行った。李逵は賀雲を相手にし、その馬の下に飛びこんで行くなり、斧をふるって馬の脚を叩き斬り、どっと倒してしまった。賀雲が落馬するところを、李逵は二挺の斧を飛ばすようにして、馬もろともめった斬りにした。遼兵は群がっておしよせてきたが、樊瑞と鮑旭の二隊の牌手に突きもどされた。
賀統軍はふたりの弟が討ちとられたのを見ると、口に呪文をとなえて妖術をつかった。と、これはいかに、とつぜん激しく狂風が吹きおこり、たちまち雲が湧きおこって、黒《こく》暗々と山にたれこめ、昏《こん》惨々と谷の入口をふさいでしまった。その術のおこなわれているとき、宋軍から公孫勝が姿をあらわし、馬上で宝剣を抜きとり、口に数句の呪文をとなえて、
「やっ!」
と大喝一声した。と、吹きすさんでいた狂風が雲を払いのけて、きらきらと輝く一輪の紅日があらわれた。歩騎の諸将は、しゃにむに進んで遼兵を斬りまくった。賀統軍は、術がきかなくなって、敵軍がきびしく攻めこんでくるのを見ると、みずから刀を舞わし馬をせかせつつ陣地を飛び出して行く。たちまち両軍はいっせいに混戦となり、宋軍は遼軍を斬りまくって東西に蹴散らした。
騎兵は遼軍を追跡し、歩兵はその間に谷の入口を打ち開けた。元来、遼軍は大きな青石(注四)を〓々と積みあげて、路の出口をふさいでいたのである。歩兵は谷の入口を打ち開けると、青石峪のなかへ突進して行った。盧俊義らは宋江の軍勢を見て、みな感謝した。宋江は命令をくだして、遼軍を追うことをやめさせ、軍をまとめて独鹿山にひき返し、窮地に陥っていた軍を休ませることにした。盧俊義は宋江に会うと、声を放って哭《な》き、
「もし兄貴が救ってくださらなければ、おそらくわれわれはいのちをうしなっていたでしょう」
といった。かくて宋江と盧俊義は、呉用・公孫勝らと馬を並べて陣地へ帰り、全軍を休ませて、しばらく軍装を解かせた。
翌日、軍師の呉学究がいった。
「この機をのがさずに、一挙に幽州を攻略すべきです。幽州を取れば遼国は手をくだすまでもなく滅びましょう」
宋江はそこで盧俊義ら十三人の軍をひとまず薊州に帰して休ませ、みずから大小の将軍らとその部下をひきしたがえ、独鹿山をあとにして幽州の攻略にむかった。
賀統軍は城中に退いていたが、ふたりの弟を討ちとられて、すっかりふさぎこんでいた。とそこへまた物見の兵が知らせにきて、
「宋江の軍勢が、幽州におしよせてまいりました」
という。蕃軍はいよいようろたえた。遼兵たちが城壁の上にのぼって眺めわたすと、東北方には紅旗の一団が、西北方には青旗の一団があって、その二隊の軍勢が幽州めがけておしよせてくるところであった。ただちに賀統軍に知らせた。賀統軍はその知らせを聞くと大いにおどろき、みずから城壁にのぼって見ると、眼に見えたのは遼国の旗じるしだったので、心中大いによろこんだ。やってくる紅旗の軍は、旗にはみな銀文字をしるしており、この一隊をひきいるのは大遼国の〓馬《ふば》(注五)・太真胥慶《たいしんしよけい》で、その勢五千余名。もう一つの青旗の軍は、旗には金文字をしるし、雉《きじ》の尾羽の飾りをつけていて、それをひきいるは李金吾《りきんご》(注六)大将。そもそもこの蕃官は、正受黄門侍郎《せいじゆこうもんじろう》・左執金吾上将軍《さしつきんごじようしようぐん》で、姓は李《り》、名は集《しゆう》、一般には李金吾と呼ばれていて、かの李陵《りりよう》(注七)の後裔で金吾の爵をついでいた。いまは雄《ゆう》州に駐屯し、一万余の兵をひきしたがえていたが、大宋国の辺境を侵犯するのは、ほかならぬこの徒輩のしわざであった。遼王が城をうしなったと聞いて、兵を繰り出して加勢にきたのである。
賀統軍はそれを見るや、両路の軍に使いを出してつたえさせた。
「ひとまず城内にははいらずに、山のうしろへまわって伏兵を布き、わが軍が城を出るまでしばらく休んで、宋江の軍がおしよせてきたら左右からおそいかかるように」
賀統軍は知らせをおわると、やがて敵を迎え討つべく幽州の城を出た。
宋江ら諸将はすでに幽州に迫っていたが、そのとき呉用のいうには、
「もし敵が城門をとざしたまま出てこなければ、それは準備がないからですが、兵をひきいて城外に討ち出てきましたならば、必ず伏兵があるでしょう。それゆえ、わが軍はまず兵を三手に分けて進むべきです。一手はまっすぐに幽州へと進んで敵軍にあたり、あとの二手《ふたて》は鳥の翼のように左右から護っていって、もし伏兵があらわれたならば、この二手の軍をあたらせるのです」
宋江はそこで、関勝に宣賛と〓思文を配して左軍をひきいさせ、また呼延灼には単《ぜん》廷珪と魏定国を配して右軍をひきいさせることにし、それぞれ一万余名をしたがえて、山のうしろの小路をゆっくりと進ませた。宋江らは大軍をひきいて、まっすぐに幽州へとむかった。
一方、賀統軍は、兵をひきいて進むうちに、宋江の軍とぶっつかった。両軍が対峙するや、林冲が馬を乗り出して賀統軍とたたかったが、五合とわたりあわぬうちに、賀統軍は馬首を転じて逃げ出した。宋江の軍が追って行くと、賀統軍は兵を二手に分け、幽州へははいらずに城の外側を迂回して逃げて行く。呉用が馬上で、
「追うな」
と叫んだが、その声のおわらぬうちに、左側から太真〓馬《たいしんふば》が飛び出してきた。だがすでに関勝がいて、得たりとそれを食いとめた。右側からは李金吾が飛び出してきたが、これまた呼延灼がいて、同じくこれを食いとめた。かくて三手の軍は敵を圧して大いにたたかい、斬りまくって屍《しかばね》は野にみちて横たわり血は流れて河をなすというありさま。
賀統軍が遼軍の旗色わるしと見て幽州へひきあげようとすると、ゆくてをふさいで斬りかかってくる二将に出くわした。それは花栄と秦明で、奮戦して一歩もひかない。賀統軍が西門のほうへ逃げて行くと、そこでも双鎗将の董平にぶっつかって、また斬りまくられ、南門のほうへまわったところ、そこには朱仝が待ちかまえていて、またもや斬りまくられた。かくて賀統軍は城へはいることをあきらめ、本道へ飛び出して北のほうへと逃げた。と、前方からだしぬけに、鎮三山の黄信が大刀を舞わしつつまっしぐらに賀統軍めがけておそいかかってくるのに出くわした。賀統軍はうろたえて、なすすべもないうちに、黄信の一刀に馬の頭を斬りつけられてしまった。賀統軍が馬をすてて逃げ出すと、不意に横合いから、こんどは楊雄・石勇の歩兵の頭領ふたりが飛び出してきて、いっせいにおそいかかって賀統軍をひきころがし、腹の下におさえつけた。そこへまた宋万が槍をかまえて駆けつけてきた。みなは、功を争って互いに義気を傷つけあうようなことがあってはならぬと、みなで賀統軍を滅多突きにして殺してしまった。賀統軍のひきいていた遼軍は、すでにちりぢりになり、てんでに逃げてしまっていた。
太真〓馬は、統軍の隊の帥字旗《すいじき》が倒され、兵士たちが逃げ散って行くのを見て、これはいかぬとさとり、紅旗の軍をひきつれて山のうしろへ逃げて行った。
李金吾も、たたかっているうちに、紅旗の軍が見えなくなってしまったので、形勢わるしと見てとり、青旗の軍をひきつれて山のうしろへと退いて行った。
宋江は三手の軍がことごとく退却してしまったのを見るや、大いに兵を駆りたてて幽州を奪いにおしよせて行き、なんの苦もなく、一撃のもとにこれを陥れた。かくて幽州の城内にはいって全軍を屯営につかせると、告示を出して住民を宣撫し、ただちに使者を檀州へ走らせて勝利を報告し、趙枢密にたいして、兵を移して薊州を守られるよう、また水軍の頭領と船隻を幽州によこしてこちらの指揮下にいれられるよう請うた。そして副先鋒の盧俊義には分かれて覇州を守らせることにした。こうして、都合《つごう》四つの大郡を手にいれるにいたったのである。
趙安撫はこの文書を見て大いによろこび、朝廷にその旨上申するとともに、薊・覇の二州に文書を送って委細を知らせ、また水軍の頭領に出発の用意を命じて、水陸相並んで進む手はずをととのえた。
さて一方では、遼王が、玉座にのぼって文武の蕃官、左丞相の幽西孛瑾《ゆうせいはいきん》・右丞相の太師〓堅《ちよけん》・統軍の大将ら一同を会集し、御前会議をひらいていうよう、
「いまや宋江が国境を侵して、わが四つの大郡を奪ってしまったが、やがて皇城をうかがいにくることは必至で、燕京も安泰とはいえない。賀統軍ら兄弟三人もすでに討たれてしまったが、その方ら文武の諸官は、この国家多難のときにあたって、いかに処理すべきであると考えるか」
すると、都統軍《ととうぐん》の兀顔光《こつがんこう》が奏上した。
「国王さま、ご憂慮にはおよびませぬ。さきにわたくしは再三、みずから兵をひきいて出陣しようといたしましたが、そのつど人にはばまれました。そのために賊の勢いをつのらせることになり、このような大きなわざわいを招くにいたったのでございます。どうか聖旨をお降しになって、わたくしに軍の編制をおまかせくださいますよう、そうすれば各地の軍を集めまして、日を限って出陣いたし、かならず宋江ら一同をからめとって、奪われた城池をとりもどす覚悟でございます」
王はその言を聞きいれて、明珠《めいしゆ》の虎牌《こはい》(注八)、金印の勅旨、黄鉞《こうえつ》・白旄《はくぼう》・朱旛《しゆはん》・〓蓋《そうがい》(注九)などをとりそろえて兀顔統軍にさずけ、
「金枝玉葉の身たる皇親国戚《こうしんこくせき》であろうと、またいかなる軍であろうと、すべてその方の意のままに編制し、すみやかに出陣して討伐にむかうように」
とのこと。兀顔統軍は聖旨と兵符を拝領すると、ただちに教場《きようじよう》(練兵場)へおりて行って、蕃将一同を集めて命令をつたえ、各地の兵を動員して集結させることにした。
命令をつたえおわったとき、統軍の長男の兀顔延寿《こつがんえんじゆ》がつかつかと演武亭(閲兵所)にやってきて、
「父上が、大軍をおそろえになっているあいだに、わたしが、とりあえず数名の猛将をひきつれて行って、太真〓馬と李金吾将軍の二手の兵をとりまとめ、さきに幽州へ行って、蛮人どもをあらかたやっつけておきましょう。そうすれば父上がおいでになったときには、甕《かめ》のなかのすっぽんをつかまえるごとく、一撃のもとに宋兵を掃蕩することができるわけですが、父上のお考えはいかがでございましょうか」
「それはなかなかよい考えだ。ではおまえに、騎兵の突撃隊五千と精兵二万をあたえて先鋒を命ずるから、太真〓馬と李金吾とに合流して、ただちに決行するがよい。勝ったときには火急に報告するように」
兀顔統軍がそういうと、小将軍は欣然と命を受け、両軍を勢ぞろえして、まっしぐらに幽州へとむかって行った。まさに、万馬奔馳《ほんち》して天地怕《おそ》れ、千軍踴躍《ようやく》して鬼神愁《うれ》う、というところ。さて兀顔小将軍はいかにたたかいをいどむか。それは次回で。
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一 動きがとれない 原文は在垓心。第七十七回注一〇参照。
二 垓心 前注に同じ。
三 貔虎 虎に似た猛獣の名で、また勇猛な将兵や軍隊の意に用いる。ここでは青石峪に陥れられた盧俊義らを指す。
四 青石 青色の石は最も堅牢な石とされる。
五 〓馬 もともと副馬《そえうま》のことであるが、転じて天子の女婿の意に用いられる。そのおこりは、漢の武帝のとき〓馬都尉《ふばとい》(副馬のことを司る長官)を設けて公主(内親王)の夫をその官につかせたことにはじまるという。
六 金吾 執金吾の略称で、天子警護の武官の名。
七 李陵 匈奴に降った漢の武将。第十一回注一三参照。
八 虎牌 虎頭牌または虎符といい、信任のしるしとして出陣のときあたえられる兵符の一種。金のもの、銀のもの、木で作ったものなどがある。
九 黄鉞・白旄・朱旛・〓蓋 第五十八回注五参照。
第八十七回
宋公明《そうこうめい》 大いに幽《ゆう》州に戦い
呼延灼《こえんしやく》 力《はげ》んで蕃将を擒《とら》う
さてそのとき兀顔延寿《こつがんえんじゆ》は二万余の兵をひきい、太真〓馬・李金吾の二将と合流して、あわせて三万五千の蕃軍を統《す》べ、鎗刀・弓箭をとりそろえ、あらゆる武器を完備し、隊伍をつらねて出発した。
はやくも物見の兵が幽州の城内へもどって、宋江にそれを知らせた。宋江はただちに軍師の呉用を呼んで相談をした。
「遼軍は相ついで破れていることとて、こんどは必ず精兵猛将をよりすぐっておし寄せてくるだろうが、どういう策であたるべきだろうか」
すると呉用のいうには、
「まず城外に兵を繰り出して陣を布き、遼軍が近づいてきたら、おもむろにたたかいを挑んでみましょう。たいした相手でなければ、むこうからひきさがるにちがいありませんから」
宋江はそこで兵を城外に繰り出し、城から十里さきの、方山《ほうざん》という平坦な地勢のところに、山を背にし流れに臨んで、九宮八卦《きゆうきゆうはつか》の陣を布いた。待つほどに遼軍は三隊に分かれておし寄せてきた。兀顔小将軍の軍は〓《くろ》の旗、太真〓馬は紅《くれない》の旗、李金吾は青の旗。
この三軍がいっせいにおし寄せてきたが、見れば宋江が陣を布きつらねている。かの兀顔延寿は、かつて父のもとで陣法を学び、深く奥義をきわめていた。ただちに青旗・紅旗の二軍を左右に分けて陣地を築かせ、みずからは中軍にあって、雲梯《うんてい》をたてて宋軍を偵察してみると、はたして九宮八卦の陣なので、雲梯からおりてきて、しきりに冷笑した。
「将軍、どうして冷笑なさるのです」
と左右の副将がたずねると、兀顔延寿は、
「九宮八卦の陣ぐらい、誰知らぬものがあろう。あんな陣形で人をだまそうたって、だませるものか。こっちから逆にやつをおどかしてくれよう」
といい、兵士たちに画鼓《がこ》を三度うち鳴らさせ、将台(指揮台)をたてさせると、台の上から二本の信号旗をうち振って陣列を布かせた。そして台からおりて、馬に乗り、首将に陣列のあいだを分けさせつつみずから陣頭に進みいで、宋江にたいして呼びかけたが、その小将軍のいでたちいかにと見れば、
一頂の、三叉如意《さんさによい》の(頂きが如意を三つ集めた形の)紫金の冠を戴き、一件の、蜀錦団花《しよくきんだんか》の(錦の花模様をほどこした)白銀の鎧を穿《うが》つ。足には四縫鷹嘴《しほうようし》の(よつぬいの、鷹の嘴《くちばし》の形をした)抹緑《まつりよく》(萌黄色)の靴を穿ち、腰には双環竜角《そうかんりゆうかく》の(ふたつ環《わ》の、竜の角《つの》の形をした)黄《こうてい》(黄色い皮)の帯を繋《し》む。〓〓《きゆうち》(みずち)旗を呑むの打将の鞭《べん》、霜雪鋒《ほこ》を裁つの殺人の剣。左には金画宝雕《きんがほうちよう》の弓を懸け、右には銀嵌狼牙《ぎんかんろうが》の箭《や》を挿《さしはさ》む。一枝の画桿《がかん》の方天戟《ほうてんげき》を使い、一匹の鉄脚の棗〓馬《そうりゆうば》(栗毛の馬)に騎《の》る。
兀顔延寿は陣頭にあらわれて馬をとめ、大音声に呼ばわっていうよう、
「おのれ、九宮八卦の陣など布いて人をだませるとでも思っておるのか。それよりもきさまには、われらが陣形がわかるまい」
宋江は蕃将が陣法を競《きそ》おうとしているのを知ると、軍中に雲梯をたてさせた。宋江と呉用と朱武が雲梯にのぼって遼軍の陣形を見わたすと、三隊が相つらなり、左右が相かえりみるという形である。朱武はすぐそれを見わけて、宋江に、
「あれは太乙三才《たいいつさんさい》(注一)の陣です」
といった。宋江は呉用と朱武を将台の上にのこし、自分は雲梯をおり、馬に乗って陣頭へ出て行った。そして鞭をあげて遼将につきつけながら、
「きさまの太乙三才の陣なぞ、なにがめずらしいものか」
と大喝した。すると兀顔小将軍は、
「わが陣形を見わけおったか。では陣法を変えて、きさまにはわからぬ陣を繰りひろげてみせよう」
といい、馬首を転じて中軍へもどり、再び将台の上にのぼって信号旗をうち振り、陣形を変えた。呉用と朱武は将台の上からそれを見て、それが河洛四象《からくししよう》(注二)の陣に変わったことを知り、兵を雲梯からおろして宋江のもとへ知らせにやった。兀顔小将軍は再び陣門に姿をあらわし、戟を横たえて呼びかけた。
「これでもわが陣形がわかるというか」
「河洛四象の陣に変えたのだ」
と宋江は答える。
かの兀顔小将軍は首をふってうすら笑いをし、また陣中へとって返して将台にのぼり、信号旗を右に左にうち振ってまたもや陣形を変えた。呉用と朱武は将台の上からそれを眺めていたが、朱武は、
「循環八卦《じゆんかんはつか》(注三)の陣に変えたな」
といい、また兵を宋江のもとへ知らせにやった。かの小将軍は再び陣頭にあらわれて、大声で呼びかけた。
「これでもなお、わが陣形がわかるというのか」
宋江は笑いながら、
「どうやら循環八卦の陣に変えただけのようだな。めずらしくもなんともないわ」
という。小将軍はそれを聞いて、心中ひそかに思うよう、
「おれのこれらの陣法はみな秘伝のものだが、なんと、こやつにすっかり見破られてしまった。宋軍のなかにはなかなかの人物がいるにちがいない」
兀顔小将軍はまた陣中へひき返し、馬をおりて将台にのぼり、信号旗を左右にぐるぐるとうち振って陣形を変えた。四辺どこにも入口はなく、なかに八八《はつぱ》六十四隊の軍をつつみこむ形である。朱武はまた雲梯にのぼってそれを眺め、呉用にむかっていった。
「あれは武候《ぶこう》(諸葛孔明)の八陣図《はちじんず》という形で、先頭もしんがりも外からはわからぬようにしたものです」
そして、ただちに兵をやって宋公明を陣中に迎えてこさせ、将台にあげてその陣法を眺めさせて、
「なかなかあなどれぬ相手です。遼軍のこれらの陣形はみな秘伝のものです。この四陣はいずれも一派相伝のもので、ほかには漏らされぬものなのです。はじめのが太乙三才で、それが河洛四象になり、四象が循環八卦になり、八卦が八八六十四卦となって八陣図に変じたわけですが、これは循環自在の、まことに絶妙な陣法です」
宋江は将台からおり、馬に乗ってまっすぐに陣頭へ出て行った。小将軍は戟を突っ立て、馬を陣頭にとめて、大声で呼びたてた。
「わが陣形がわかるというか」
宋江は怒鳴り返した。
「おのれ青二才め、弱年浅学の、井戸のなかの蛙《かわず》め、それっぼちの陣法を知っているだけで、無上とでも思っているのか。そんな頭かくしの八陣図で、いったい誰をだまそうというのだ。わが大宋国では子供だってだまされはせんぞ」
「わが陣法がわかったのはよいとして、ではそちらでひとつ、めずらしい陣形を布いて、こっちの目をあざむいてみろ」
「わが方のこの九宮八卦の陣は、簡単な陣だが、きさまにはこれが打ち破れるか」
小将軍は大いに笑って、
「そんなつまらぬ陣なぞ、なんの造作があろう。きさまのその小陣を叩きつぶしてやるから、卑怯なまねはやめて、とくと見物するがよい」
さて、兀顔小将軍はただちに命令をくだし、太真〓馬と李金吾とにそれぞれ兵一千をあたえて、
「わたしが敵陣を突破したら、すぐ加勢に出るように」
といった。命令がくだされると、全軍は戦鼓をうち鳴らした。
宋江もすでに命令をくだし、軍中に三たび戦鼓をうち鳴らさせ、門旗を左右にひらいて寄せ手の小将を突入させることにした。
かの兀顔延寿は、麾下の牙将《がしよう》(下級の将官)二十余名と甲《よろい》をつけた一千の騎兵とをひきしたがえつつ、指を繰って数えてみるに、その日は火《か》にあたったので、真南の離《り》(八卦の一つで火の象)の方角を避けて、軍をひきいて右のほうへまわり、西の兌《だ》(八卦の一つで沢の象)の方角から白い旗をなびかせつつ宋江の陣に突入したが、後尾のものは弓矢の兵に射すくめられて半数のものしかはいれず、のこりのものはみな自陣へひき返して行った。
ところで小将軍は、敵陣に突入するやいっさんに中軍へと駆けこんで行ったが、見ればあたりは、白く茫々として、銀《しろがね》の牆《かき》か鉄《くろがね》の壁か、ぐるりと小将軍をとりかこんでいるのだった。兀顔延寿はそれを見ると、おどろいて顔を蒼ざめさせ、
「陣内にこんな城があるわけはないが」
と思い惑いつつ、まわりのものに命じ、もときた道をうちひらいて、陣地から斬り抜けようとした。一同があたりを見まわすと、白く茫々とかすんでさながら銀の海のごとく、いちめんに水の音が聞こえるばかりで、路などは見えない。小将軍はすっかりうろたえ、軍をひきつれて陣地の南門へと突き進んで行ったが、と見れば無数の火の塊りと、まっ赤な霞が、地面に渦をまいていて、一兵の姿も見えない。小将軍はその南門から出ることなどできるわけもなく、横へそれて東門へと突き進んで行ったが、そこには葉のついた木や枝のままの雑木がいちめんに横たえてあり、その左右はずっと鹿角《さかもぎ》で、通れる路もない。こんどは北門へまわって行って見ると、ここもまた黒気が天をさえぎり黒雲が日を蔽《おお》い、手を伸ばして見ても掌《たなごころ》も見えず、さながらの暗黒地獄。かの兀顔小将軍は陣内で、四つの門のどこからも出られず、心中いぶかりながら、
「これはどうやら宋江が妖術をつかったのにちがいない。どうなろうとかまわぬ、いまはただ命がけで飛び出すのだ」
一同は命令を受けると、いっせいに喊声をあげて突き進んだ。と、かたわらからひとりの大将が飛び出してきて、大声で一喝した。
「小僧め、どこへ逃げうせる」
兀顔小将軍はうちかかって行こうとしたが、手をくだすいとまもあらばこそ、いきなり額の上に鞭《べん》が飛んできた。小将軍は目ざとく、すばしこかったので、すかさず方天戟で受けとめたが、二本の鞭の打ちおろされる音がしたかと思うと、はや戟の柄はまっ二つに折られていた。あわてて踏んばるところへ、相手の将軍は胸もとに飛びこんできて、軽く猿臂《えんぴ》をのばし、ゆるく狼腰《ろうよう》をひねって、兀顔小将軍をいけどってしまい、あとにつづく兵士らの前にたちはだかって、
「馬をおりろ」
と一同に怒鳴りつけた。一同はまっ暗がりで東西もわからず、施すすべもないまま馬をおりて投降した。
小将軍をつかまえたのは、ほかならぬ、虎軍大将の双鞭の呼延灼であった。このとき公孫勝は中軍で法術をつかっていたが、小将軍を捕らえたとの知らせを受けると、すぐ法術を解いた。と、陣内はもとの青天白日にかえった。
一方、太真〓馬と李金吾将軍とは、それぞれ一千の兵をひきいて、ただちに加勢に出るべく、ひたすら敵の陣中からの消息を待っていたが、どうしたことかなんの音沙汰もなく、斬りこんで行くわけにもいかずにいた。と、宋江が陣頭に姿をあらわして、大声で叫んだ。
「その方ら両軍とも、降伏もせずにいつまでぐずぐずしているのか。兀顔小将はすでにこっちのとりこになっているぞ」
そして群刀手(抜刀隊)のものをどっと陣頭へ繰り出させた。李金吾はそれを見るや、単騎単鎗で、まっしぐらに駆け出して兀顔延寿を救おうとした。と、先頭にいた霹靂火の秦明が、狼牙棍をふりかぶって李金吾にたちむかった。両馬相交わって互いに武器をふりかざし、両軍はどっと喊声をあげた。李金吾はすでに内心うろたえていて、その手もとの乱れくるうところを、秦明に真向うから一撃され、〓《かぶと》もろとも頭を打ちくだかれてしまった。かくて李金吾は馬からころがり落ちた。
太真〓馬は李金吾がやられたのを見ると、軍をひきいて逃げだした。宋江は兵を駆りたてて斬りこみ、遼軍は大敗を喫して逃げた。奪いとった軍馬は三千余頭、旗旛や戟剣はうち捨てられて川や谷をうずめるというありさま。宋江は兵をひきいて一路燕京《えんけい》をめざして進み、まっしぐらにおしまくって行って宋朝の領土をとりもどそうとはかった。
一方、遼軍の敗残兵は、遼国に逃げ帰って兀顔統軍に見《まみ》え、
「小将軍は宋軍の陣に討ちいって敵にいけどりにされ、あとの牙将たちはみな投降してしまいました。李金吾将軍もあちらで棍棒で打ち殺され、太真〓馬は辛くものがれられましたが行方《ゆくえ》がわかりません」
と告げた。兀顔統軍はそれを聞くと大いにおどろき、
「倅《せがれ》は若いときから陣法を学んで奥儀をきわめておったのに、宋江のやつは、いったいいかなる陣形で倅を捕らえたのか」
「九宮八卦の陣形で、別にめずらしいものではございません。わが小将軍は四種の陣形を布かれましたが、いずれもかの蛮人に見破られてしまいました。そのあとで敵はわが小将軍にむかって、わが九宮八卦の陣を知っているなら打ち破って見ろと申しましたので、わが小将軍は一千余の騎兵をひきつれて西門から突入されたのですが、敵の強弓硬弩に射すくめられて半数の兵しかはいれませんでした。どうして敵にいけどられなさったのかはわかりません」
「九宮八卦の陣なぞ、打ち破れぬはずはない。おそらく敵は陣形を変えたのにちがいなかろう」
「わたくしども、将台の上で見ておりましたところ、敵の陣内では隊伍も動かず旗旛もそのままでしたが、やがて上のほうに黒雲がおこって陣内をおしつつんでしまいました」
「それならば、それは妖術にちがいない。こちらから兵を繰り出さないことには、やつらのほうから攻めてくるぞ。勝てなければ、わしは自分で首を刎《は》ねよう。誰か先鋒となって兵をひきつれて行ってくれぬか。わしは本隊を駆りたててすぐあとから行く」
兀顔統軍がそういうと、その前にふたりの将がいっしょに進み出て、
「わたくしどもふたりに先鋒をお命じくださいますよう」
といった。ひとりは蕃官の瓊妖納延《けいようのうえん》、ひとりは燕京の驍将で、姓は寇《こう》、名は二字名で鎮遠《ちんえん》というもの。兀顔統軍は大いによろこんでいった。
「ふたりとも、よく気をつけて、兵一万をひきいて先鋒となり、山にあえば路をひらき、川にあえば橋をかけて行ってくれ。わしは大軍をひきつれてすぐあとから行く」
さて、瓊《けい》・寇《こう》の二将が起《た》ちあがり、先鋒として出発して行ったことはさておき、一方、兀顔統軍はただちに麾下の十一曜の大将と二十八宿の将軍を集めて、全員で征途につくことになった。まずその十一曜の大将はといえば、
太陽星《たいようせい》 御弟大王《ぎよていだいおう》・耶律得重《やりつとくじゆう》 兵五千を率ゆ
太陰星《たいいんせい》 天寿公主《てんじゆこうしゆ》・答里孛《とうりはい》 女兵五千を率ゆ
羅喉星《らこうせい》 皇姪《こうてつ》・耶律得栄《やりつとくえい》 兵三千を率ゆ
計都星《けいとせい》 皇姪・耶律得華《やりつとくか》 兵三千を率ゆ
紫〓星《しきせい》 皇姪・耶律得忠《やりつとくちゆう》 兵三千を率ゆ
月孛星《げつはいせい》 皇姪・耶律得信《やりつとくしん》 兵三千を率ゆ
東方青帝木星《とうほうせいていもくせい》 大将・只児払郎《しじふつろう》 兵三千を率ゆ
西方太白金星《せいほうたいはくきんせい》 大将・烏利可安《うりかあん》 兵三千を率ゆ
南方〓惑火星《なんほうけいわくかせい》 大将・洞仙文栄《どうせんぶんえい》 兵三千を率ゆ
北方玄武水星《ほくほうげんぶすいせい》 大将・曲利出清《きよくりしゆつせい》 兵三千を率ゆ
中央鎮星土星《ちゆうおうちんせいどせい》 上将・都統軍・兀顔光《こつがんこう》 各飛兵馬《ひへいば》首将五千を総領して中壇を鎮守す
兀顔統軍はさらに麾下の二十八宿の将軍を集めた。それは、
角木蛟《かくぼくこう》 孫忠《そんちゆう》
亢金竜《こうきんりゆう》 張起《ちようき》
〓土貉《ていどかく》 劉仁《りゆうじん》
房日兎《ぼうじつと》 謝武《しやぶ》
心月狐《しんげつこ》 裴直《はいちよく》
尾火虎《びかこ》 顧永興《こえいこう》
箕水豹《きすいひよう》 賈茂《かぼう》
斗水〓《とすいかい》 蕭大観《しようたいかん》
牛金牛《ぎゆうきんぎゆう》 薛雄《せつゆう》
女土蝠《じよとふく》 愈得成《ゆとくせい》
虚日鼠《きよじつそ》 徐威《じよい》
危月燕《きげつえん》 李益《りえき》
室火猪《しつかちよ》 祖興《そこう》
璧水《へきすいゆ》 成珠那海《せいじゆだかい》
奎木狼《けいぼくろう》 郭永昌《かくえいしよう》
婁金狗《ろうきんく》 阿里義《ありぎ》
胃土雉《いどち》 高彪《こうひよう》
昴日鷄《ぼうじつけい》 順受高《じゆんじゆこう》
畢月烏《ひつげつう》 国永泰《こくえいたい》
觜火猴《しかこう》 潘異《はんい》
参水猿《しんすいえん》 周豹《しゆうひよう》
井水〓《せいすいかん》 童里合《どうりごう》
鬼金羊《ききんよう》 王景《おうけい》
柳土〓《りゆうどしよう》 雷春《らいしゆん》
星日馬《せいじつば》 卞君保《べんくんほう》
張月鹿《ちようげつろく》 李復《りふく》
翼火蛇《よくかだ》 狄聖《てきせい》
軫水蚓《しんすいいん》 班古児《はんこじ》
かの兀顔光は、十一曜の大将と二十八宿の将軍を集めおわると、精兵二十余万をひきい、国の総力をこぞって起《た》ち、国王に親征されたいと要請した。これをうたった古体の詩一篇がある。
羊角の風(つむじ風)旋《めぐ》って天地黒く
黄沙《こうさ》漠漠として雲陰渋《いんじゆう》す(おおいふさがる)
契丹《きつたん》(遼)の兵動《うご》いて山岳摧《くだ》け
万里乾坤《ばんりけんこん》皆色《いろ》を失《うしな》う
狂嘶《きようし》の駿馬は胡児《こじ》(蕃人)を坐《の》せ
渓《たに》を躍り嶺を超《こ》えて流星と馳《は》す
〓槍《さんそう》(彗星)光を発して天狗《てんこう》(音を発する流星)吠え
迷離の(茫々たる)毒霧は群魑《ぐんち》(魔もの)を奔《はし》らす
宝雕《ほうちよう》の弓は烏竜《うりゆう》(馬)の背に挽《ひ》かれ
雪刃霜刀《せつじんそうとう》は寒日に映《は》ゆ
万片の霞光《かこう》(かすみ)錦帯《きんたい》の旗
千池の荷葉《かよう》(蓮《はす》の葉)青氈《せいせん》の笠
胡笳《こか》は斉《ひと》しく和す天山《てんざん》(また白山《はくざん》ともいう)の歌
鼓声は震い起《おこ》す白駱駝《はくらくだ》
番王(蕃王)の左右には〓斧《しゆうふ》を持《じ》し
統軍の前後には金戈《きんか》を揮《ふる》う
〓斧金戈勢い相亜《つ》ぎ
打囲《だい》(田猟)すれば一路禾稼《かか》(穀物)も無し
海青《かいせい》(注四)(たか)放起されて鴻鵠《こうこく》(大鳥)愁い
豹子《ひようし》鳴く時神鬼《しんき》も怕《おそ》る
幽州城下沸波《ふつは》の如く
連営列騎《れんえいれつき》精兵多し
〓星《こうせい》天より遣《つか》わされて妖〓《ようしん》(不祥の気)を除く
紛紛たる宿曜予《われ》を如何《いかん》せん
さて兀顔統軍が大軍をおこし、地を捲いておし寄せて行ったことはそれまでとして、一方、先鋒の瓊《けい》・寇《こう》二将が一万の兵をひきいてさきに繰り出して行くと、はやくも物見の兵が宋江にそれを知らせて、
「こんどは大いくさになりましょう」
という。宋江はそれを聞いて大いにおどろき、命令をくだして盧俊義麾下の全軍を呼び寄せるとともに、檀州と薊州にいたものも、全員指揮下に入らせた。また、趙枢密にたいして監戦に出むかれたいと請い、さらに水軍の頭領たちにも、水夫をひきつれてみな陸へあがり、全員覇州に勢ぞろいして陸路を進んでくるようにと命じた。
水軍の頭領たちが趙枢密を後方に護衛してきて、いっさいの兵力はみな幽州に集まった。宋江らは趙枢密を迎えて拝礼をした。礼がおわると趙枢密はいった。
「将軍にはなみなみならぬご心労。まことに国家の柱石たるべく、名は万代までもつたわりましょう。わたくし、朝廷にもどりましたならば必ず、厚く陛下におとりなしいたしましょう」
宋江は答えていうよう、
「なんの才能もないわたくし、お言葉まことにおそれいります。上は陛下の広大なおん徳により、下はあなたさまのご威光によりまして、たまたま小功をたてることができましたもので、決して個人で成し得たことではございません。このたび探りのものからくわしい知らせがございまして、遼国の兀顔統軍が二十万の兵をおこし、国の総力を傾けておし寄せてまいるとのこと。興亡勝敗はこの一戦によって決せられましょう。どうかあなたさまには、十五里をへだてたところに、別に陣営を設けておとどまり願って、わたくしが犬馬の労をつくし、兄弟たちと力をあわせて立ちむかい、この一戦を決する模様を、ごらんくださいますよう」
「どうかうまくおやりくださるよう」
と趙枢密はいった。
かくて宋江は趙枢密に別れを告げ、盧俊義とともに大軍をひきしたがえ、幽州の管下の永清県《えいせいけん》の境まで進んで軍をとどめ、そこに陣営を設けた。そして頭領の諸将を集めて本営で軍事上の大事を協議した。宋江が、
「このたび、兀顔統車がみずから遼軍をひきい、国力をこぞっておし寄せてくるというのは、まことに容易ならぬことで、死生勝敗はかかってこの一戦にある。兄弟たち一同、力をつくして立ちむかい、決して悔いをのこすことのないように。手柄をたてさえすれば、朝廷に上聞されて、陛下の恩賞を必ず一同でお受けすることができよう」
一同は立ちあがって、声をそろえていった。
「兄貴の命令に、誰がそむいたりなどしましょう」
話しあっているところへ、下士のものがきて、
「遼国の使者が挑戦状を持ってまいりました」
と告げた。宋江は本営へつれてこさせて書状をさし出させた。宋江が封を切って読んでみると、それは遼国の兀顔統軍配下の先鋒使たる瓊《けい》・寇《こう》二将軍からのもので、先手の軍をもって明日決戦をしようというのである。宋江は書状の末尾に回答して、
「明日決戦せん」
としるし、使者には酒食をとらせてから、自陣へ帰らせた。
時は秋もすぎて冬のはじめ。兵は重い鎧《よろい》を着、馬は皮の甲《よろい》をつけて、みな勇みたち、翌日の五更(朝四時)ごろ腹ごしらえをして、明けがた、陣地をひきはらい、全員こぞって行動をおこした。四五里も行かぬうちに、宋軍は早くも遼軍と相対した。はるかに見れば、〓雕旗《そうちようき》(黒鷹《くろたか》の旗)のかげにふたりの先鋒の旗じるしがきらめき、戦鼓が天をどよもして鳴りわたり、門旗が左右にひらかれて、そこからかの瓊先鋒がまっさきに馬を乗り出してきた。そのいでたちいかにと見れば、
頭には魚尾の雲を捲《ま》く〓鉄《ひんてつ》の冠を戴き、披掛《ひかい》するは(まとうは)竜鱗の霜に傲《おご》る(まっ白な)嵌縫《かんほう》の鎧。身には石榴紅《せきりゆうこう》(緋色)の錦〓の羅袍を穿《き》、腰には茘枝七宝《れいししつぽう》の黄金の帯を繋《し》め、足には抹緑《まつりよく》の鷹嘴《ようし》の(鷹のくちばしのような)金線の靴を穿《は》き、腰には錬銀の竹節の(竹の節《ふし》のような)熟鋼《じゆくこう》(はがね)の鞭《べん》を懸く。左には硬弓を掛け、右には長箭を懸く。馬は嶺を越え山を巴《よ》ずる獣(注五)に跨《またが》り、鎗は江を翻《ひるがえ》し海を攪《みだ》す竜を《と》る。
そのとき、かの瓊妖納延《けいようのうえん》は、槍を横たえ馬を躍《おど》らせて陣頭に立った。宋江は門旗の下で、瓊先鋒のなみなみならぬ英雄ぶりを見て、
「誰かあの将とたたかうものは」
と声をかけた。すると、九紋竜の史進が、刀をおっとり馬を躍らせ、出て行って瓊将軍にたたかいを挑んだ。互いに馬を交え武器をふりかざし、二将わたりあうこと三十二合におよんだとき、史進はあやまって空《くう》を斬りつけ、はっとして、馬首をめぐらし自陣へと逃げた。瓊先鋒は馬を飛ばして追ってくる。宋軍の陣地では、小李広の花栄が、宋江のうしろから、史進の負けたのを見るやすぐ弓を取って矢をつがえ、馬を陣頭におし進め、相手の馬の近づくのを見はからって、ひょうと射放てば、矢は見事に瓊先鋒の顔に命中し、瓊先鋒はもんどりうって落馬した。史進はうしろで落馬したことを聞きつけると、ぱっと身を返して、さらに一刀を浴びせ、瓊妖納延を討ちとってしまった。
かの寇先鋒は、瓊先鋒が斬られてしまったのを眺めて、むらむらといきりたち、馬を躍らせ槍をひっさげてまっしぐらに陣頭に飛び出すなり、大声で罵った。
「賊将め、よくもわが兄貴をだまし討ちにしおったな」
すると病尉遅《びよううつち》の孫立が、馬を飛ばして出て行き、まっしぐらに寇鎮遠めがけておそいかかった。軍中には戦鼓が天をどよもして鳴り、喊声は耳もとに絶えまもない。孫立の金鎗は神出鬼没、寇先鋒はわたりあうこと二十合あまりで、馬首を転じて逃げだしたが、陣勢を乱すことをおそれて陣地へは逃げこまずに、その東北に沿って逃げた。孫立は手柄をたてんものとはやりたち、のがしてはならじと、馬を飛ばして追いかける。だが寇先鋒は遠ざかって行く。孫立はそこで、馬上で槍を了事環《やりかけ》に掛けて、左手に弓を取り右手に矢を持ち、矢をつがえて弓をひきしぼるや寇先鋒の背中にねらい定めて、射放った。かの寇先鋒は弓弦《ゆづる》の音を聞くや身を倒し、矢が飛んできたとたんに手をのばして、その矢をつかんだ。孫立はそれを見て、ひそかに感嘆した。寇先鋒はあざ笑って、
「おのれ、弓の手を見せびらかそうというのか」
といい、かの矢を口にくわえ、槍を了事環《やりかけ》に掛けるなり左手に硬弓を取り、右手には例の矢を持って、弦につがえ、身をねじむけざま孫立の胸をめがけて射放った。孫立はすばやくそれを盗み見て、馬上で左右に身を振り、矢が胸もとに飛んできたとたんに、身をうしろへ倒せば、矢はその上を飛んでいってしまった。馬はとめようとしてもとまらず、しゃにむに走る。寇先鋒が弓を腕に通し、身をねじって見ると、孫立が馬の上にのけぞっている。寇先鋒は、
「矢が命中したにちがいない」
と思ったが、もともと孫立は脚の力が強く、鐙《あぶみ》を踏みつけたまま馬の上に倒れていたわけで、わざとそのようなことをしても、馬から落ちることはなかったのである。寇先鋒は馬をもどして、孫立を捕らえにきた。両方の馬が接近して、一丈あまりの間隔しかなくなったとき、孫立はぱっと跳び起きて、大声で怒鳴りつけた。寇先鋒はびっくりして、
「おのれ、矢はかわせても、槍をかわせはすまい」
といいかえし、孫立の胸もとめがけて力のかぎり突きかけた。孫立は胸を張ってその槍を迎え、槍先が甲《よろい》に触《ふ》れようとしたとたん、身を横にかわした。と、槍は脇腹をかすめて空を突き、かの寇将軍はどっと孫立の胸もとへつんのめる。すかさず孫立は、腕に掛けていた虎眼《こがん》の鋼鞭《こうべん》を取って振りあげ、寇先鋒の頭をねらってさっと打ちおろし、頭蓋の半分を削《そ》ぎおとしてしまった。かくてかの寇将軍は、半生にわたる蕃官たる身を、孫立の手にかかって相果《は》て、その屍《しかばね》は馬前に落ちるところとなった。
孫立は槍をひっさげて陣地へひきあげた。宋江は大いに全軍を駆りたてて敵陣に斬りこませた。遼軍は主をうしない、東西に逃げ散って、てんでに落ちのびて行った。
宋江が追いかけて行くおりしも、前方に連珠砲《れんしゆほう》がとどろいた。宋江はただちに水軍の頭領たちに命じて、一隊の軍をひきいて水門を守らせるとともに、花栄・秦明・呂方・郭盛らに、馬で山の上にのぼって偵察させてみると、いちめんに蕃軍の人馬が大地をおおっておし寄せてくるところであった。まさにそれは、鳴鏑《めいてき》雷のごとく虜騎《りよき》奔《はし》り、楊塵《ようじん》霧の若《ごと》く胡兵《こへい》湧く、というところ。さて、おし寄せてくる蕃軍はいずこよりの兵か。それは次回で。
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一・二・三 太乙三才、河洛四象、循環八卦 いずれも易にもとづいた陣法で、太乙《たいいつ》はまた太極ともいい、陰陽未分の天地混沌の気をいう。すなわち根元、原初のこと。三才《さんさい》とは、天・地・人の三つ。才は働きの意。
河洛《からく》とは、河図洛書《かとらくしよ》の略で、河図というのは、伏羲《ふつき》の世に黄河からあらわれた竜馬(丈八尺を越える馬)が背に負っていたという図であり、洛書とは、禹《う》の時に洛水からあらわれた神亀の背にあったという文で、ともに易の八卦の源となるもの。『易経』の繋辞伝に、「河、図を出し、洛、書を出す、聖人これに則《のつと》る」とある。
八卦とは、陰の爻《こう》(〓)と陽の爻(〓)とを、三個ずつ組みあわせて作った八つの易の符号。この卦はさらに二個ずつの組みあわせを作れば、六十四種となる。
つまりこれらの陣法は、『易経』の繋辞伝に、「易に太極あり、是れ両儀を生ず、両儀は四象を生ず、四象は八卦を生ず」とあるのを、陣法の変化になぞらえたものである。
四 海青 第三十三回注二参照。
五 山を巴《よ》ずる獣 巴は爬。よじのぼるの意。「嶺を越え山を巴《よ》ずる獣」とは虎のことで、次の「江を翻し海を攪《みだ》す竜」と対《つい》になる。すなわち、この二句は、虎のごとき馬に跨り、竜のごとき槍を《と》る、の意である。
水滸伝 第六巻 了
水滸伝《すいこでん》(六)
講談社電子文庫版PC
施耐庵《したいあん》/駒田信二《こまだしんじ》訳
(C) Setsu Komada 1985
二〇〇二年六月一四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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