TITLE : 水滸伝(八)
講談社電子文庫
水滸伝(八)
駒田信二 訳
目 次
第百八回
喬道清《きようどうせい》 霧を興《おこ》して城を取り
小旋風《しようせんぷう》 砲を蔵《かく》して賊を撃つ
第百九回
王慶《おうけい》 江を渡って捉《とら》えられ
宋江《そうこう》 寇を勦《ほろぼ》して功を成《な》す
第百十回
燕青《えんせい》 秋林渡《しゆうりんと》に雁を射ち
宋江《そうこう》 東京城《とうけいじよう》に俘《とりこ》を献ず
第百十一回
張順《ちようじゆん》 夜金山寺《きんざんじ》に伏せ
宋江《そうこう》 智もて潤州城《じゆんしゆうじよう》を取る
第百十二回
盧俊義《ろしゆんぎ》 兵を宣州道《せんしゆうどう》に分《わか》ち
宋公明《そうこうめい》 大いに毘陵郡《びりようぐん》に戦う
第百十三回
混江竜《こんこうりゆう》 太湖《たいこ》に小結義《しようけつぎ》し
宋公明《そうこうめい》 蘇《そ》州に大会垓《だいかいがい》す
第百十四回
寧海軍《ねいかいぐん》に 宋江孝《そうこうも》を弔《とむら》い
湧金門《ようきんもん》に 張順神《ちようじゆんしん》に帰《き》す
第百十五回
張順《ちようじゆん》 魂《こん》もて方天定《ほうてんてい》を捉《とら》え
宋江《そうこう》 智もて寧海軍《ねいかいぐん》を取る
第百十六回
盧俊義《ろしゆんぎ》 兵を歙州道《きゆうしゆうどう》に分《わか》ち
宋公明《そうこうめい》 大いに烏竜嶺《うりゆうれい》に戦う
第百十七回
睦州城《ぼくしゆうじよう》に 箭〓元覚《とうげんかく》を射ち
烏竜嶺《うりゆうれい》に 神宋公明《そうこうめい》を助く
第百十八回
盧俊義《ろしゆんぎ》 大いに〓嶺関《いくれいかん》に戦い
宋公明《そうこうめい》 智もて清渓洞《せいけいどう》を取る
第百十九回
魯智深《ろちしん》 浙江《せつこう》に坐化《ざげ》し
宋公明《そうこうめい》 錦《にしき》を衣《き》て郷《きよう》に還《かえ》る
第百二十回
宋公明《そうこうめい》 神《しん》もて蓼児〓《りようじわ》に聚《あつ》まり
徽宗帝《きそうてい》 夢もて梁山泊《りようざんぱく》に遊ぶ
解説
水滸伝(八)
第百八回
喬道清《きようどうせい》 霧を興《おこ》して城を取り
小旋風《しようせんぷう》 砲を蔵《かく》して賊を撃つ
さて、楊志《ようし》・孫安《そんあん》・卞祥《べんしよう》らが奚勝《けいしよう》を追って伊闕山《いけつざん》のほとりまで行ったとき、はからずも、丘のむこうに伏せていた賊将が騎兵一万をひきつれて飛び出してき、楊志らと激戦をくりひろげ、奚勝は危地をのがれ得て、敗残の兵をひきいて城内へはいって行った。孫安は勇を奮ってたたかい、賊将ふたりを討ちとったが、衆寡敵すべくもなく、配下の千余騎の装甲の騎兵はことごとく賊兵に追われて深い谷のなかへはいりこんでしまった。その谷は、四方すべて切り立った岩壁で、どこにも脱《ぬ》け出る路はなく、賊軍は木や石をはこんできて谷の入口をふさいでしまった。賊は城内にもどって〓端《きようたん》に報告した。〓端は二千名の兵を差しむけて谷の入口を抑えさせた。かくて楊志や孫安らは、たとえ翼を生やしたとしても飛び出すすべはなくなった。
楊志らが封じこめられたことはさておき、一方、盧俊義《ろしゆんぎ》らが奚勝の六花の陣を破ることができたのは、大半は馬霊《ばれい》が金磚《きんせん》の術をもって多数の賊兵を打ち倒したためであり、かねてまた諸将の勇猛のためであって、かくて完勝を得、賊軍きっての猛将三名を殺し、勢いに乗じて兵を駆り進めて竜門関《りゆうもんかん》を奪取し、首級をあげること一万あまり、馬匹《ばひつ》・〓甲《かいこう》・金鼓《きんこ》を奪うこと無数。賊軍は城内へ逃げこんでしまった。
盧俊義が軍を点検してみると、先陣を受け持った楊志・孫安・卞祥以下一千の兵の姿だけがなかった。盧俊義はただちに解珍《かいちん》・解宝《かいほう》・鄒淵《すうえん》・鄒潤《すうじゆん》に、それぞれ一千の兵をひきいて四方へさがしに行かせたが、日暮れになってもなんの手がかりも得られなかった。
翌日、盧俊義は兵をとどめたまま動かさず、再び解珍らに命じて捜査に行かせた。解宝は一隊の兵をしたがえて、藤をよじ葛《かずら》にすがり、山を這い峰を越えて、伊闕山《いけつざん》の東の、いちばん高い山の頂上へのぼった。そして山の西のほうを眺めると、下の深い谷のなかにかすかに一群の兵士たちの姿が見えたが、木のしげみにさえぎられて、しかと見定められなかったし、高下《こうげ》に遠く隔たっているので、呼んでも声がとどかない。解宝は兵をひきつれて山をおり、たずねてみようとして住民をさがしたが、どこにもひとりもいない。みな兵乱のために避難してしまっていた。やがて、ずいぶん辺鄙《へんぴ》な、山の窪みの平らなところへ行ってみると、何軒かのひどく貧しい農家があった。村人は、大勢の兵士を見ると、みんなあわてて寄りかたまった。解宝が、
「われわれは朝廷の兵で、賊を平らげにやってきたのだ」
というと、村人たちは官兵と聞いていっそうあわて出した。解宝はやさしい言葉でなだめて、
「われわれは宋先鋒の部下の将兵なのだ」
といった。すると村人は、
「あの韃子《たつし》(韃靼《だつたん》、ここでは遼人)を殺し、田虎《でんこ》をとりこにし、そして、田舎荒しはやらぬ、あの宋先鋒で?」
「そうだ、そうだ」
と解宝がいうと、農夫たちは平伏していった。
「知っとります、将軍さまたちは鶏をひっつかまえたり犬をふん縛ったりはなさらねえってことを。この前にも官兵が賊を討ちにここへやってきましたが、あの兵隊たちは強盗とおんなじで、奪《と》ったり掠《かす》めたりしたもんです。それでわしたちはこんなところまで逃げてきたんです。こんどは将軍さまたちがお見えになったんで、わしたちも安心して暮らせるというものです」
解宝は、楊志ら一千の兵の行方がわからないことを話し、そして、あの山の西の深い谷への道を一同にたずねた。すると村人は、
「その谷は〓谷《りようこうこく》といって、はいって行く道は一本しかありません」
といい、さっそく解宝たちを谷の入口まで案内して行った。おりよく鄒淵と鄒潤の二隊の軍もたずねあててきたので、兵を合流して賊兵を斬り散らし、一同駆けつけて木や石をとりのけ、解宝と鄒淵が兵をひきつれて谷のなかへはいって行った。時節ははや晩秋の候で、まことにすばらしい深巌幽谷《しんがんゆうこく》であった。見れば、
玉露《ぎよくろ》は凋傷《ちようしよう》す楓樹《ふうじゆ》の林
深巌邃谷《しんがんすいこく》気蕭森《しようしん》たり
嶺巓《れいてん》の雲霧は天に連って湧き
壁峭《へきしよう》の松〓《しようきん》(松と竹)は地に接して陰《かげ》る
楊志・孫安・卞祥と一千の兵士は、人も馬も疲れはて、みな木の下に坐りこんで死を待っていたが、解宝らの軍を見て、一同おどりあがってよろこび、歓呼の声をあげた。解宝はたずさえていた乾糧《ほしいい》を楊志ら一同に分けて飢えをみたさせた。食事がすむと、一同はうちこぞって谷を出た。解宝は村人を本営までついてこさせて、盧先鋒にひきあわせた。盧俊義は大いによろこび、銀両や米穀を出して、難民を賑《にぎ》わしてやったので、村人たちは感激して叩頭し、繰り返し繰り返し礼をいって帰って行った。ついで解珍の一隊も本営にもどってきた。かくてこの日も暮れて就寝したが、その夜は格別の話もない。
翌日、盧俊義が朱武《しゆぶ》とともに城を攻め取るべく軍を繰り出そうとしていると、不意に物見の兵がもどってきて、
「王慶《おうけい》が偽《にせ》の都督の杜《とがく》に、十二人の将領と兵二万をつけて救援に差しむけ、その軍はすでに三十里さきのところまで迫っております」
と告げた。盧俊義はその知らせを聞くと、朱武・楊志・孫立《そんりつ》・単廷珪《ぜんていけい》・魏定国《ぎていこく》に、喬道清《きようどうせい》・馬霊とともに兵二万をひきいて本営の正面に陣を布かせ、もって城内からの賊軍の襲撃にあたらせることにし、解珍・解宝・穆春《ぼくしゆん》・薛永《せつえい》には、兵五千をひきいて山寨を守らせることにして、盧俊義みずからはその余の将領と兵三万五千をひきいて杜を迎え討つことにした。と、かたわらにいた浪子《ろうし》の燕青《えんせい》が、
「ご主人、きょうはご自分でいくさに出られるのはおやめください」
といった。盧俊義が、
「それはまたどうしてなのだ」
ときくと、燕青は、
「ゆうべ不吉な夢を見たのです」
「夢のことなど、あてになるものか。国のために身をささげた以上、どんなことをもおそれはせぬ」
「どうしても行くとおっしゃるのでしたら、わたしに歩兵五百を分けて別に行動をさせてください」
盧俊義は笑って、
「小乙《しよういつ》、おまえはいったいなにをやらかそうというのだ」
「まあ、放っておいてください。兵を分けてくださればそれでよろしいので」
「それでは分けてやって、おまえがなにをしでかすか拝見するとしよう」
と、ただちに歩兵五百を燕青に分けあたえた。燕青は兵をもらいうけて出て行った。盧俊義はうすら笑いがとまらなかった。やがて諸将と兵をひきしたがえて本営をたち、平泉橋《へいせんきよう》を通った。この平泉というところは、奇岩怪石の多いところで、唐朝の李徳裕《りとくゆう》(注一)の別荘の跡のあるところ。見れば燕青が部下を指揮してそこでさかんに木を伐り倒している。盧俊義は内心おかしくてたまらなかったが、急いでいくさにおもむかねばならなかったので、声をかけるいとまもなかった。
軍は竜門関の西十里のところへ行って、西方にむかって陣を布き、待機した。一刻《いつとき》ほどすると、賊軍がおし寄せてきた。両陣相《あい》対峙し、軍鼓を打ち喊声をあげるなかを、西の陣から偏将の衛鶴《えいかく》が、大桿刀《だいかんとう》を舞わしつつ馬をせかしてまっさきに出てきた。宋軍の陣からは山士奇《さんしき》が、馬をおどらせ槍をかまえて、ものもいわず、いきなりたちはだかってたたかった。両騎は陣頭でわたりあうこと三十合、山士奇が槍を突き出して衛鶴の馬の後脚を突くと、馬は後ろ脚を踏みちがえて衛鶴をふり落とした。山士奇はさらに一槍、とどめを刺した。西の陣の〓泰《ほうたい》は大いに怒り、二本の鉄簡《てつかん》を舞わしつつ馬をせかしてまっしぐらに山士奇におそいかかる。二将わたりあうこと十合あまり、卞祥は、山士奇が〓泰に敵し得ぬと見て、槍をしごきつつ馬をせかせて助太刀に出て行ったが、そのとき〓泰は大喝一声、簡をふるって山士奇を馬から打ち落とし、さらに一簡を浴びせて息の根をとめるや、馬をせかせ剣を舞わして卞祥を迎え討った。だが、いかんせん卞祥はさらに勇猛で、〓泰の馬が近づいたとたん、大喝一声、〓泰の胸をぐさりと槍で突いて、馬の下に屠り去った。両軍はどっと喊声をあげる。西の陣の総帥杜は、二将が相ついで討ちとられたのを見るや、心は火の燃えるごとく、気は煙の噴くごとく、丈八の蛇矛をかまえつつ、馬を驟《は》せてみずから出陣すれば、宋軍の陣地でも総帥盧俊義みずから陣をいで、杜とわたりあうこと五十合に及んだが、なかなか勝敗は決しない。杜の蛇矛はまことに神出鬼没。孫安は盧俊義が勝ちを制し得ぬのを見るや、剣を揮《ふる》い馬をせかして助太刀に出た。と賊将の卓茂《たくも》も、狼牙棍《ろうがこん》を舞わしつつ馬を飛ばして迎え討ち、孫安とわたりあうことようやく四五合、孫安は神威をふるって一剣のもとに卓茂を馬の下に斬って落とし、馬首を転じて驟せつけるなり、剣をふるって杜に斬りかかった。杜は彼が卓茂を討ちとったのを見て手を出しかねているうちに、孫安の剣にその右の腕を斬り落とされて、もんどりうって落馬。盧俊義はさらに一槍、とどめを刺した。盧俊義らは兵を駆りたててどっと攻めかかり、賊軍は総崩れとなった。
そのとき西南のほうの、斜めに走っている小路から、一隊の騎兵が飛び出してきた。その先頭の馬上の一将は、その顔、どす黒く醜く、頭はもじゃもじゃの短髪。鉄の道冠《どうかん》(道士の冠)をかぶり、絳《あか》い征袍をまとい、まっ赤な馬にまたがり、剣を手に兵士たちを指揮し、すさまじい勢いで馬を走らせつつ、おそいかかってくる。盧俊義らは賊軍の軍服であることを認めるや、兵を駆りたててどっと斬りこんだが、その将はたたかおうとはせず、口でぶつぶつと二こと三こと唱えて、剣をさっと真南の離《り》の方角にむかって斬りつけた。と、たちまち賊将の口中からは火が噴き出し、またたくまに、なにもない地面に騰々《とうとう》と火が燃え烈々と煙がおこって、宋軍めがけて焼きたててきた。盧俊義は逃げるいとまもないほどで、宋軍は総崩れとなり、金鼓・馬匹をうち棄てつつ算を乱して逃げた。逃げおくれたものはことごとく焼かれて頭焦《こ》げ額ただれ、死者五千人を越えた。諸将は盧俊義を護りつつ平泉橋まで逃げた。兵士らがわれさきにと橋にとりついたため、たちまち橋はそのひしめきに崩れ落ちてしまったが、さいわい燕青が木を伐って橋の両側に浮橋をわたしたところだったので、兵士たちは川をわたることができて、二万余のものが命拾いをした。盧俊義と卞祥の二騎が、おくれて橋のほとりまできたとき、賊将が追いあげてきて、卞祥めがけて火を噴きつけた。卞祥は全身火だるまとなり、火傷して馬より落ちたところを賊兵に殺されてしまった。盧俊義はさいわいにも浮橋にたすけられて、いっさんに逃げのびた。
賊将は兵をひきいて追撃してきたが、先手の軍が喬道清にこのことを知らせたため、喬道清がただひとり剣をとって賊将を迎えとった。かの賊将は喬道清が立ちむかってくるのを見ると、再び剣で南の方角を斬りつけた。火は前よりもさらにはげしく燃えさかった。喬道清は印《いん》を結んで呪文を唱え、さっと剣を坎《かん》(真北の方位)の方角に指しむけて三昧神水《さんまいしんすい》の法を使った。と、たちまち無数の黒気が生じて飛びかかって行き、瀑布飛泉《ばくふひせん》と化し、さらに、おびただしい数の瓊珠玉屑《けいしゆぎよくせつ》となって賊将めがけて降りそそぎ、妖火を消してしまった。かの賊将は妖術をうち破られるや、馬首を転じて逃げだしたが、馬が濡れた石の上を踏んで蹄をすべらせ、賊将をふり落とした。喬道清は馬を飛ばして追いつき、剣をふるってまっ二つに斬ってしまった。その配下の五千の騎兵も、ひっくりかえって怪我をするもの五百余人。喬道清は剣をとって大喝した。
「投降するなら、その素首《そつくび》はつけておいてやろうぞ」
賊兵は喬道清のすさまじい法力を見たこととて、みな馬をおり戈《ほこ》を棄て、平伏して助命を乞うた。喬道清はこんどはやさしい言葉でいたわり、賊将の首級をさらし首にし、投降した賊兵たちをひきつれ、盧先鋒に見《まみ》えて勝利を報告した。盧俊義はしきりに感謝し、また燕青のはたらきをほめたたえた。諸将は投降した賊兵にたずねて、はじめてかの妖人が、姓は寇《こう》、名は〓《けつ》というもので、妖火でもって火攻めにすることを得手《えて》とし、その容貌が醜悪であることから毒〓鬼王《どくえんきおう》とあだ名されていたものであることがわかった。そのむかし王慶を助けて謀叛をおこさせた男で、その後どこへ行ったのか二年ほど姿を見せなかったが、このほどまた南豊《なんほう》にやってきて、
「宋軍はすさまじい勢いゆえ、わしがやっつけてやろう」
といい、そこで王慶が彼を急いでここによこしたというわけだった。〓端と奚勝は、援軍が負けたのを見て、あえてたたかおうとはせず、ひたすら兵を増強して城を守ることにつとめた。
そのとき喬道清がいうには、
「この城はいたって堅固で、早急に討ち破ることは望むべくもありません。それで今夜、ちょっとひと働きして先鋒の功をお助けし、おふたりの先鋒の厚恩に報いたいと思うのですが」
盧俊義が、
「ぜひその神術をおうかがいしたいものです」
というと、喬道清はその耳もとに口を寄せて、
「かくかくしかじか」
とささやいた。盧俊義は大いによろこび、すぐさま将兵を手分けして、それぞれ行動をおこさせることにし、城攻めの準備にとりかかるとともに、また兵士たちに手厚く山士奇と卞祥を埋葬させ、盧俊義みずから祭礼をとりおこなった。
その夜の二更(十時)ごろ、喬道清は立ちいでて、剣をとって法をおこなった。と、たちまちにして霧が湧き、西京《せいけい》の城全体をぐるぐるとおしつつんでしまった。城門の守備兵たちは一寸さきも見えなくなって、むきあっている相手の顔もわからぬほど。宋兵は暗闇《くらやみ》に乗じて、飛ぶように動く轆〓《ろくおん》(万力《まんりき》を備えた戦車)の上から姫垣によじのぼった。と、とつぜん一発の砲声がとどろき、濃い霧がたちまちにして晴れた。城壁の上は四方みな宋兵で、てんでにふところから火種をとり出して松明《たいまつ》に火をつけた。それは上下に照り輝いて、まるで白昼のような明るさである。城門の守備兵たちは、まず、おどろきのあまり身体がしびれ、身うごきもできない。そこへ宋兵が武器を抜き放って斬りかかったので、賊兵の城壁から落ちて死ぬものは数えきれぬくらい。〓端《きようたん》と奚勝《けいしよう》は変事がおこったと見るや泡を食い、急いで兵をひきいて応援に駆けつけたが、そのときはもう四つの城門は宋軍に奪い取られていた。盧俊義は大いに兵を駆りたてて城内へなだれこみ、〓端と奚勝はともに乱戦のなかで斬り殺され、あとの偏将・牙将・頭目たちはみな降伏し、兵の投降したものも三万人にのぼった。住民はなんらの危害も受けなかった。
夜が明けると、盧俊義は告示を出して住民を安堵させ、喬道清の大功を功績簿に記《しる》し、全軍の将兵を手厚く賞し、馬霊を使いにたてて宋先鋒のところへ勝報をとどけさせた。馬霊は命を受けて出て行ったが、夜になると帰ってきて復命していうには、
「宋先鋒らは荊南《けいなん》を攻めて、連日賊軍とたたかい、南豊からの援軍を大破して、総帥の謝〓《しやちよ》をとりこにしました。宋先鋒はいくさの心労から、病にかかって陣中に臥《ふせ》っておられまして、ここ数日、軍務はすべて呉軍師がみておられます」
盧俊義はこの知らせを聞くと、鬱々としてたのしまず、急いで軍務の後始末をつけ、西京の城を喬道清と馬霊にゆだねて、兵を統《す》べて守らせることにし、翌日、喬道清・馬霊に別れを告げて、朱武ら二十名の将領をしたがえ、西京をあとに急遽荊南へとむかった。やがて幾日かして、軍は荊南城の北方の本営に着いた。盧俊義らは本営へはいって行って容態を見舞った。宋江は神医の安道全の手当てによって、病気はもう六七分がたよくなっていた。盧俊義らは大いによろこんで胸をなでおろした。そして久闊を叙しあい、いくさの話をしあっていると、そこへとつぜん、逃げもどってきた兵士の報告があって、
「唐斌《とうひん》が蕭譲《しようじよう》らを護衛して行く途中、本営から三十里くらいさきのところで、不意に荊南の賊将の縻〓《びせい》と馬〓《ばきよう》が、一万の精兵をひきつれて横あいの小路からおそいかかってきました。先鋒が病に臥《ふせ》っておられるのにつけこんで、本営のうしろをおびやかそうとしてきたところを、ばったり、われわれの軍に出くわしたというわけです。唐斌は二将を相手に奮戦しましたが、いかんせん、衆寡《しゆうか》敵すべくもなく、しかも縻〓はおそろしく勇猛で、唐斌はついに縻〓に討ちとられ、蕭譲・裴宣《はいせん》・金大堅《きんたいけん》らはみないけどりにされて、つれて行かれました。やつらは本営をおびやかそうとしていたのですが、盧先鋒らの大軍がきたと聞きつけて、蕭譲らをとりこにしただけで逃げて行ってしまいました」
とのこと。
宋江はそれを聞くと、思わず声を出して哭きながら、
「蕭譲らの命はもうだめか」
といい、病気をまたわるくしてしまった。盧俊義ら諸将は、みなでなだめた。
「蕭譲らはどこへ行くところだったのです」
と盧俊義がたずねると、宋江は嗚咽《おえつ》しながら、
「蕭譲はわたしが病気だと知って、陳安撫の許しを得てわざわざ見舞いにきてくれたのですが、かねてまた陳安撫のいいつけで金大堅と裴宣をつれて宛州へ行き、彼らに碑面をきざませ文案をつくらせようとしたのです。それでわたしはきょうわざわざ唐斌に兵一千をつけて彼ら三人を護衛して行かせたのですが、それが賊にとりこにされようとは。三人はきっと殺されるでしょう」
かくて宋江は盧俊義に、呉用と協力して城を攻め取り縻〓と馬〓を捕らえて仇を討ってもらいたいとたのんだ。盧俊義らは命を受けて、城の北方の軍前へ出かけて行った。一同、呉学究《ごがつきゆう》と挨拶をかわしおわると、盧俊義はせきこんで、蕭譲らがとりこにされたことを話した。呉用は大いにおどろいて、
「あの三人が殺されてはたいへんだ」
といい、諸将に命令をくだして、城を包囲し力をあわせて攻め破るようにといった。諸将は命を受けて、四方から城に攻めかかった。呉用はさらに兵士を雲梯にのぼらせ、城内にむかって大声で呼びかけさせた。
「すみやかに蕭譲・金大堅・裴宣を送り出してまいれ。もしぐずぐずしていたら城を討ち破って、軍民の別なく残らず殺しつくしてしまうぞ」
一方、城内の守将の梁永《りようえい》は、偽《にせ》の留守《りゆうしゆ》の官を授けられて正将・偏将とともに城を守っていた。かの縻〓と馬〓はいずれもいくさに敗れてここへ逃げてきたのだった。その日、蕭譲ら三人を捕らえると、まだ宋軍が城を包囲していなかったときだったので、縻〓は、
「城門をあけてお通しくだされ。蕭譲らをひきたてて献上にまいった」
と叫んだのだった。
梁永は聖手書生《せいしゆしよせい》(蕭譲)の名前はよく聞き知っていたので、兵士に縄を解かせて、降伏をすすめた。と、蕭譲・裴宣・金大堅の三人は、眼をいからせて大いに罵っていうよう、
「おろかな逆賊め、われわれをいかなるものと思っているのだ。逆賊め、われわれ三人をさっさとまっ二つにしてしまうがよい。この六つの膝が、かりそめにも地につくとでも思うなら大間違いだぞ。いますぐ宋先鋒はこの城を討ち破って、きさまたちちんぴらどもをずたずたに斬り刻んでしまうぞ」
梁永はかっとなって、兵士に怒鳴りつけた。
「こいつら三匹の畜生を打ちのめして、ひざまずかせろ」
兵士は棍棒をとりあげて打ちすえた。だが、いくら打っても倒れこそすれ、ひとりもひざまずくようなものはなく、三人は絶えず罵りつづけた。梁永は、
「きさまたちは一刀両断を望んでいるが、おあいにくさまだ。ゆるゆるとなぶりものにしてくれようぞ」
といい、兵士たちに大声で命じた。
「この三匹の畜生を、枷をはめて轅門《えんもん》(外門)のところに立たせ、両脚をめった打ちに打て。脚をへし折ってしまえば、ひとりでにひざまずくだろう」
兵士は命を受けると、すぐさま枷をはめ、裸縛りにして、なぶりものにしはじめた。
元帥府の前には、兵士や住民がぞろぞろと宋軍きっての人物を見物にやってきたが、そのなかに、真に男らしい気象の大丈夫(注二)がいて、むらむらと腹をたてた。その男は姓は蕭《しよう》、名は二字名で嘉穂《かすい》といい、元師府の南通りの紙屋の隣りに仮住《かりずま》いをしていた。彼の先祖の蕭憺《しようたん》は、字《あざな》を僧達《そうたつ》といって南北朝の時の人で、荊南《けいなん》の刺史《しし》(州の長官)であった。揚子江が決壊したときのこと、蕭憺はみずから軍人や役人をひきつれて雨のなかで修築にあたったが、雨が激しく水かさが増してきたので、一同がひとまず避難するようにとすすめたところ、蕭憺は、
「王尊《おうそん》(注三)は身をもって黄河の水をふせごうとした。わたしにだってそれぐらいのことは」
といったが、その言葉のおわったとき水が退《ひ》き、堤防ができたという。この年、一本の茎《くき》に六つの穂《ほ》の嘉《めで》たい稲が生えた。蕭嘉穂の名はここから取ったものなのである。この蕭嘉穂がたまたま荊南に遊んだところ、荊南の人々は彼の先祖の仁徳をしたって、大いに蕭嘉穂を敬いたっとんだ。この蕭嘉穂という人は、豪快な気性で、志は高く度量は広く、力は衆にすぐれ武芸にも精通していて、すこぶる腹のすわった人物であった。およそ気骨のある人に遇えば、貴賤の別なく誰とでも交わりを結んだ。たまたま王慶が謀叛をおこして城を奪おうとするところに出くわし、蕭嘉穂は賊を退ける献策をしたのだったが、当事者は彼の策をとりあげようとせず、ついに城は落ちてしまった。賊は命令を出して、すべて住民は、城にはいることはゆるすが出て行くことはいっさい相ならぬとした。そこで蕭嘉穂も城内にとどまったまま、日夜賊をくつがえそうとたくらんでいたのであるが、ひとりではどうにもならない。そこへ、きょう、賊が蕭譲ら三人を裸縛りにしているのを見、さらにまた、宋軍が蕭譲らのためにきびしく城に攻め寄せてきて軍民ともにおどろきおそれている様子なのを見て、蕭嘉穂はひとしきり思案ののち、
「機会は今だ。城内の多数の人命を救うにはこうするよりほかない」
と考え、あわただしく寓居へもどって行った。時刻はすでに申牌《しんはい》(昼さがり)ごろであった。急いで小者を呼んで碗いっぱいの墨をすらせ、隣りの紙屋から、木の皮で漉《す》いた厚い丈夫な紙を何枚か買ってこさせ、灯下で墨をふくませて筆を揮《ふる》い、でかでかと書きあげた。
城中は都《すべ》て是れ宋朝の良民なり。必ず肯《あえ》て心を甘んじて賊を助くるにあらざらん。宋先鋒は是れ朝廷の良将なり。韃子《たつし》(遼)を殺し、田虎《でんこ》を擒《とりこ》にし、到る処敢て其の鋒に〓《ちかづ》くもの莫《な》し。手下の将佐一百単《たん》八人、情股肱《ここう》に同じ。轅門《えんもん》前に絣〓《ほつはつ》(裸縛り)さるる三人は、義として膝を屈せず、宋先鋒等の英雄忠義知る可し。今日賊人若《も》し這《こ》の三人を害せば、城中は兵微《び》にして将寡《すくな》し、早晩城池《じようち》を打破され、玉石倶《とも》に焚《や》かれん。城中の軍民、生命を保全せんと要《ほつ》する的《もの》は、都《すべ》て我に跟《したが》って去《ゆ》きて賊を殺せ。
蕭嘉穂はかの何枚かの紙にみな書いてしまうと、ひそかに様子をうかがった。聞こえるのは住民たちが家のなかで泣いている声のみだった。蕭嘉穂は、
「民心がこうだとすれば、わが計略はうまくいくだろう」
とつぶやき、夜あけごろまで待ってそっと寓居を出、書きあげた数枚の紙を元帥府のまわりのにぎやかな通りにばらまいた。
やがて夜があけると、兵士や住民たちは、こちらで一枚拾って読めばあちらでもまたひとりが拾って読むというふうにして、たちまちのうちに、それを読む幾つもの人だかりができた。はやくも見廻りの兵が、一枚ひったくって行って急いで梁永に知らせた。梁永は大いにおどろき、あわてて宣令官《せんれいかん》(布告を伝える官)を出して、兵士たちに、轅門《えんもん》や各陣営の警戒を厳重にするよう触れさせるとともに間諜の逮捕にぬかりのないよう、命じさせた。
蕭嘉穂はふところに宝刀をかくして人だかりのなかへはいりこみ、同じように読みに行って、紙に書いてある文句を大声で二三度読みあげた。兵士や住民たちはみなおどろいて顔を見あわせた。かの宣令官は主将(梁永)の命を奉じ、馬に乗り、五六名の兵をしたがえて、各陣営へ布告を伝えに行った。蕭嘉穂は飛び出して行って、一声吼えたて、一刀のもとに馬の脚を叩き斬り、宣令官が馬から落ちたところをまた一刀、その首を〓き落とした。蕭嘉穂は左手で生首をつかみあげ、右手に刀をひっさげて大声で呼ばわった。
「命の欲しいものは、この蕭嘉穂につづいて賊を殺せ」
元帥府の前にいた兵士たちは、日ごろから蕭嘉穂と顔見知りだったし、また彼が剛毅な男であることもよく知っていたので、たちまちのうちに五六百人のものが彼のまわりに一団となった。蕭嘉穂は兵士たちが寄り集まってきたのを見ると、また大声で、繰り返し呼びかけた。
「住民で胆っ玉のあるものは、みな力を貸すがよい」
その声は数百歩さきまでもひびきわたった。そのとき四方からこれに呼応して、住民たちが、てんでに棍棒をおっとったり、柵の木を引っこ抜いたり、机の脚をへし折ったりして、またたくまに五六千人となり、喊声をあげあった。蕭嘉穂はその先頭に立ち、一同をひきつれて元帥府へなだれこんだ。かの梁永は日ごろ軍民をしいたげ、士卒を鞭打っていたので、護衛の将兵はひどく恨んでいた。そのため、変事がおこったと聞くと、みな助けあって、どっとおしかけ、梁永ら一家のものをみな殺しにしてしまった。蕭嘉穂は兵士や住民たちをひきつれていっせいに元帥府から出たが、そのときはもう二万人あまりになっていた。蕭譲・裴宣・金大堅の縛めを解いて、枷もすっかりはずしてしまうと、蕭嘉穂は、力のあるもの三人を選んで蕭譲ら三人を背負わせ、みずから先頭に立ち、梁永の首級を手に北門へおし寄せ、城門の守将の馬〓《ばきよう》を斬り殺し、門を守る兵士たちを追い散らして門をあけ吊り橋をおろした。
そのとき、ちょうど呉用は北門へ攻め寄せ、将兵を指揮して城に攻めかかろうとしていたが、城内に喊声が聞こえ、ついで城門があくのを見て賊兵が討って出てきたものと思いこみ、急いで軍を三矢頃《やごろ》か四矢頃あとまで退《ひ》き、陣を布いて迎え討つことにした。見れば蕭嘉穂が生首をひっさげ、そのうしろの兵士三人が蕭譲らを背負って、吊り橋をわたり、いっさんに駈けてくる。呉用がいぶかしがっていると、蕭譲らが大声で叫んだ。
「呉軍師、この壮士が民衆を蜂起させ、賊将を殺して、われわれを救い出してくださったのです」
呉用はそれを聞いて、おどろきかつよろこんだ。蕭嘉穂は呉用にむかっていった。
「倉卒《そうそつ》のおりとてご挨拶をするいとまもありませんが、軍師どの、どうかさっそく兵をひきいて入城なさいますよう」
吊り橋のあたりにはすでに大勢の兵士や住民が集まっていて、一同声をそろえていった。
「宋先鋒さま、どうぞご入城を」
呉用は一般の住民がみんな集まっているのを見て、将兵たちに隊伍を組んで入城するよう、もし妄《みだ》りに人を殺すものがあればその隊のもの全員を斬罪にするとの指令をつたえさせた。
北の城壁の守備兵たちは、このような情勢を見ると、みな戈《ほこ》を捨てて城壁をおりてきた。東、西、南の三方の城壁の守備兵たちも、その消息を聞くと守城の賊将を縛り、城門をあけ放ち、香花灯燭をささげて宋軍の入城を迎えた。ただ縻〓《びせい》のやつだけは勇猛で、誰も近づくことができず、西門から重囲を斬り破って逃げてしまった。
呉用は使いを出して急ぎ宋江に知らせた。宋江は知らせを聞くと、国を憂え兄弟を悲しんだためのあの病気も九分九厘よくなり、欣喜雀躍《きんきじやくやく》しつつ、諸将とともに陣地をひきはらって出発した。やがて大軍は荊南に入城し、宋江は元帥府にはいるや、城内の兵士や住民を宣撫し、将兵の労をねぎらった。ついで宋江は蕭嘉穂を元帥府に招き、その姓名をたずね、その手をとって座につかせた。宋江はその前に頭をさしのべて平伏し、
「壮士のご壮挙は、逆賊を討ちたいらげて軍民の生命を全うしてくださいました。兵は刃《やいば》に血ぬることなしに、城を取りもどすことを得させてくださいました。かつまたわたくしの兄弟三人をお救いくださいました。わたくしここに平伏してお礼を申しあげる次第でございます」
蕭嘉穂はあわてて答礼をして、いった。
「それは決してわたしの力ではございません。すべて軍民一同の力です」
宋江はその言葉を聞いて、ますます敬服の念を深くした。宋江以下の将領もみな礼をささげた。そこへ城内の兵士たちが賊将をひきたててきた。宋江はたずねてみて、投降を願うものにはことごとくその罪をゆるしてやった。このため全城は歓呼の声にわきたち、降伏するものは数万にのぼった。
ちょうどそこへ水軍の頭領の李俊《りしゆん》らが、水軍の船をしたがえて漢江に着き、一同で挨拶にきた。宋江は酒を出させて蕭壮士をもてなした。宋江がみずから杯をとって酒をすすめながら、
「あなたの広大な才徳のほどは、わたくし、朝廷にもどりましたとき天子のご前におつたえいたしますゆえ、必ずしかるべきおひきたてにあずかられることと思います」
というと、蕭嘉穂は、
「いや、それはご無用です。わたくしのこのたびのことは、功名富貴を願ってしたことではありません。わたくしは若いころから勝手気ままなことをして人に迷惑をかけ、長じては郷党を飾るような誉をたてたこともなく、学識も浅く見聞も狭い凡庸なものにすぎません。当節は、讒佞《ざんねい》の徒が幅をきかして賢人はうずもれ、たとえ随和《ずいか》の材(注四)をいだき、由夷《ゆうい》(注五)のごときおこないの人がいたとしても、天聴に達することはできぬというありさまです。わたくしは、大志をいだいた多くの英雄たちが、生死をかえりみずに天下の難におもむくのを見てきましたが、いったんその挙が失敗すれば、かの、身を保《たも》ち妻子をまもることに汲々たる連中が、待っていたとばかりに事をかまえてわなにおとしいれ、いっさい合財が邪悪な権力者の掌中に握りこまれてしまうもののようです。わたくしのように、現になんの職責も持たぬものは、間雲野鶴《かんうんやかく》のように自在で、どこの空へでも飛んで行けぬところとてありません」
その話に、宋江以下一同のものはみな嘆息した。同座していた公孫勝《こうそんしよう》・魯智深《ろちしん》・武松《ぶしよう》・燕青・李俊・童威《どうい》・童猛《どうもう》・戴宗《たいそう》・柴進《さいしん》・樊瑞《はんずい》・朱武・〓敬《しようけい》ら十余名は蕭壮士のこの話をひとしお深く玩味したものである。その夜、酒席がはてると、蕭嘉穂は礼をのべて元帥府を出て行った。
翌朝、宋江は戴宗を使いにたてて陳安撫のところへ勝報をとどけさせた。ついで宋江はみずから蕭壮士の寓居を訪ねて特に敬意を表わそうとしたが、寓居はすでに空屋になっていた。隣りの紙屋のいうには、
「蕭嘉穂さまは今朝まだ夜の明けないうちに、琴と剣と書物を嚢にまとめて、わたくしに別れを告げて出て行かれましたが、どこへ行かれたかは存じません」
とのこと。
後の人が蕭憺《しようたん》とその子孫(蕭嘉穂)の徳をたたえた詩に、
雨を冒《おか》し〓《つつみ》を修む蕭僧達《しようそうたつ》
波狂い濤《なみ》怒るも心怛《おそ》れず
恪誠《かくせい》(至誠)水を止めて〓功《ていこう》成り
六穂の嘉禾《かか》(めでたき稲)一茎に発す
賢孫の豪俊なる厥《そ》の翁に〓《ひと》しく
民従を咄叱《とつしつ》(叱咤)して賊首を〓《ころ》す
沢《たく》(恩沢)は生霊《せいれい》(民)に及んで哲《あき》らかに身を保つ
間雲野鶴真《しん》に超脱
宋江が元帥府に帰って、頭領たちに、蕭嘉穂が飄然として立ち去ったことを告げると、諸将はみな嘆息をもらした。
その夜、戴宗がもどってきて、
「宛州と山南の両地の管下の、まだ平定されていなかった州県は、陳安撫と侯《こう》参謀とが羅〓《らせん》および林冲《りんちゆう》・花栄《かえい》らに策をさずけられて、いずれも平定されました。朝廷からはすでに多数の新しい役人が派遣されてきて、それぞれひきつぎもおわり、陳安撫は諸将をひきしたがえてすでに出発されましたから、まもなく到着されるはずです」
と報告した。宋江は呉用と相談して、
「陳安撫が到着されて当地の守備につかれたら、われわれは大軍をおこして賊の首魁の討伐にうちむかうことにしよう」
と話をきめた。かくて宋江は荊南で保養すること五六日、病気もすっかり本復した。やがて、陳安撫の軍が到着したとの知らせがあった。宋江らは城内に迎えいれた。挨拶がおわると、陳安撫は大いに全軍の将兵を賞した。ついで山南の守将の史進《ししん》らが、州務を新任の役人にひきついで、すぐあとから到着した。宋江は州務を陳安撫に託した。かくて宋江らは陳安撫に別れを告げて、大軍をひきつれ、水陸並進しつつ南豊の賊の本拠の討伐にむかった。このとき一百零八人の英雄はことごとく一ヵ所にあつまった。さらに河北の降将の孫安ら十一名を加えて、兵力二十余万。連戦連勝して士気大いにあがり、行くさきざきで賊は威風をしたって帰順した。宋江が回復した州県を陳安撫に報告すると、陳〓《ちんかん》は羅〓に、将兵をしたがえて行かせて、それらの州県を守らせた。
宋江らの水陸の大軍は、長駆してやがて南豊の境に着いた。と、物見の騎兵が報告にもどっていうには、
「探りましたところ、賊の王慶は李助《りじよ》を統軍大元帥に任じ、この南豊から水陸の兵五万をあつめ、さらに雲安《うんあん》・東川《とうせん》・安徳《あんとく》の三地からそれぞれ二万をあつめて、それらを南豊の偽《にせ》の兵馬都監の劉以敬《りゆういけい》・上官義《じようかんぎ》らにひきいさせ、数十名の猛将および十一万の雄兵をもって防戦に繰り出し、王慶みずからが督戦にあたっております」
とのこと。宋江は知らせを聞くと、呉用に諮《はか》った。
「賊軍は総勢をこぞっての出陣で、必ずや必死にたたかうでしょう。われわれがこれにうち勝つには、どのような策をもってすればよいでしょう」
「兵法としては、多方《たほう》もってこれを誤らしむ、という一句につきます。われわれはいま、将兵が一ヵ所にあつまっておりますが、これを幾手にも分けて繰り出し、敵に応接のいとまをなからしめることです」
宋江はその意見にしたがって命令をくだし、将兵の手分けをした。
それより一日前、撲天〓《はくてんちよう》の李応《りおう》と小旋風《しようせんぷう》の柴進《さいしん》は、宋先鋒の命令により、歩騎の頭領の単廷珪《ぜんていけい》・魏定国《ぎていこく》・施恩《しおん》・薛永《せつえい》・穆春《ぼくしゆん》・李忠《りちゆう》をしたがえ、兵五千をひきいて糧秣の車輛ならびに絹布・火砲の車輛を護送して、本隊の後方につづいていた。そこは竜門山というところで、南麓の山際に一つの村があった。周囲はぐるりと裸の高い岡をめぐらしていて、ちょうど土城(土塁の城壁をめぐらした城《まち》)のようになっており、三方に出入りの路がついていた。住民は数百戸の草葺きや瓦葺きの家を空《から》にしていた。兵火をさけて避難してしまっていたのである。その夜、東北の風がはげしく吹き、厚い雲が墨を撒き散らしたように垂れこめていた。李応と柴進は日が暮れてきたのを見て、糧秣を雨に濡らしてはと、兵士たちに命じ、扉を叩き壊して車輛を家のなかへ押しいれさせた。兵士たちが飯ごしらえをして休もうとしているとき、兵をつれて巡察していた病大虫《びようたいちゆう》の薛永が、間諜をひとり捕らえて、柴進に報告した。
「間諜を訊問しましたところ、賊の縻〓が精兵一万をひきつれて今夜の二更(十時)ごろ、糧秣を焼き討ちにくる手はずで、現に竜門山の山中にかくれているとのことです」
元来、この竜門山という山は、ふたつの崖がむかいあってちょうど門のようになっていて、そのあいだは舟が通ることができ、木立が深々と生いしげっていた。ところで、李応はそれを聞くと、柴進にむかっていった。
「わたしが村の表へ出て行って、賊のやろうどもを甲《よろい》のかけらも帰さぬまでに叩き潰してやりましょう」
すると柴進は、
「あの縻〓というのはなかなか手ごわいやつだから、力でたちむかうのはまずい。しかもこちらは無勢だから、いささか策を用いて、火砲五六車と薪百車あまりを捨てて唐斌らの仇を報いてやろう」
といい、かの間諜は打ち首にしてしまい、兵士たちに命じて糧秣・火砲の車輛を押し出させ、李応に兵二千(注六)をつけて、みな弓弩・火箭を用意して糧秣車を護衛させることにし、黄昏ごろ、こぞって岡を出て、南をめざしてさきに進んで行かせた。そうしておいて、あとに残した百輛あまりの薪の車を、西南の風下の草葺きの家の軒端にばらばらに並べ、また百輛あまりの空車を五六ヵ所に分けてきちんと並べて、上には少しばかり糧米を積んでおき、あちこちに火砲をかくし、また硫黄や〓硝をそそぎかけた粗朶《そだ》を布《し》きならべておいた。そうして施恩・薛永・穆春・李忠に兵二千をつけて東の岡の入口に伏せさせ、単廷珪には兵一千をつけて村の南の入口で賊兵の襲来を待ちうけさせることにして、
「ともに、かくかくしかじかに、わたしの指図どおりにやるように」
といいふくめた。そして柴進は、神火将軍《しんかしようぐん》の魏定国とともに歩兵三百をひきつれ、みな火種と火器をたずさえて山にのぼり、木立のしげみのなかにかくれた。
やがて二更ごろになると、賊将の縻〓が、はたして、ふたりの偏将をしたがえ、一万あまりの兵をひきつれて、人は身軽によろい、馬は鸞鈴《らんれい》をはずし、旗は捲き軍鼓はかくして、疾駆して南の岡の入口へと殺到してきた。単廷珪は賊軍がおし寄せてきたのを見ると、兵士らに松明をつけさせて、これを迎え討った。単廷珪は縻〓とわたりあったが、わずか四五合で、馬首を転じ、兵をひきいて退却した。縻〓は勇気はあるが智謀のない男、兵をひきいてまっしぐらに突っこんでくる。
薛永と施恩は、南路で火があがったのを見ると、ただちに李忠と穆春に兵一千を分け、村の南へ馳せつけてその入口をおさえさせた。
そのとき賊軍はいっせいに、天にもとどろかんばかりの喊声をあげて突っこんできて、ひたすら東北の風上のほうへと斬りこんで行ったが、空き家ばかりで、糧秣はない。縻〓が兵をひきいてあたりをさがすと、風下のほうにわずか一二百輛の糧秣車があって、五六百の兵が見張りをしていたが、賊軍のやってくるのを見ると、わっと叫んでことごとく逃げ散ってしまった。縻〓は、「なんだ、糧秣はこれっぽちか」
とつぶやき、兵士に松明をつけて照らさせてみると、中央の車の隊列には、どの隊列にも二輛ずつ絹布の車があった。賊兵たちはそれを見ると、いきなり奪いあいをはじめた。縻〓が急いで制止しようとしたとき、山の上から火箭や松明を浴びせかけてきて、草葺きの家や薪の車がいっせいに燃え出した。賊兵たちがどよめき、あわてて逃げかかったときには、はやくも火砲の導火線に火がつき、たちまち燃えつたわって雷鳴のようなひびきで炸裂した。賊兵の逃げおくれたものはみなこの火砲に撃ち殺され、またたくまに〓々《こうこう》たる火の手があがり烈々たる煙がまきおこった。見れば、
風は火勢に随い、火は風威を趁《お》う。千枝の火箭は金蛇を掣《ひ》き、万個の轟雷は火〓に震う。驪山《りざん》頂上、料《はか》るに褒〓《ほうじ》(注七)の英雄を逞《こころよ》しとせるに応じ、揚子江上、周郎《しゆうろう》(注八)の妙計を施せるに弱《おと》らず。氤〓《いんうん》たる紫霧《しむ》天に騰《のぼ》って起《おこ》り、閃爍《せんしやく》たる紅霞《こうか》地を貫いて来《きた》る。必必剥剥《ひつひつはくはく》(ぴちぴちぱちぱち)として響《ひびき》絶えず、渾《さなが》ら除夜に炮竹(爆竹)を放つが如し。
そのとき火はいよいよ燃えさかり、砲声は震いとどろいて、さながら天摧《くだ》け地裂くるかのよう。たちまちにして百戸あまりの草葺きの家は、煙のかたまり、火のかたまりと化してしまった。縻〓は火砲に撃たれて死に、賊兵は大半が撃ち殺され、頭を焦がし額をただれさせたものはかぞえきれぬばかり。そこへ単廷珪・施恩らが三方から追い討ちをかけてきて、ふたりの偏将はいずれも斬り殺され、一万の兵のうちわずか千人あまりが、岡をよじのぼって辛くも逃げて行っただけであった。
夜が明けると、柴進らはただちに李応らと合流して、糧秣を本営へ輸送して行った。宋先鋒はそのときちょうど本営に出て、兵を繰り出して賊を討とうとしているところだった。見れば騎兵は馬をととのえ、歩兵は武器をととのえて、まさに、旌旗は紅《くれない》に一天の霞をのべ、刀剣は白く千里の雪を鋪《し》く、というところ。はてさて、宋江らはどのようなたたかいを繰りひろげるか。それは次回で。
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一 李徳裕 唐の文宗・武宗・宣宗に仕えた人で、父の吉甫《きつぽ》とともに博学で詩文をよくし、道義を守ること厚く、天子への直言もはばからなかった。武宗のとき宰相となり大いに治績をあげたが、のち讒言されて崖《がい》州(広東省)に流され、小吏におとされて不遇のまま死んだ。この平泉《へいせん》(河南省)の地は、李徳裕が武宗のもとで宰相となる前、淮南《わいなん》節度使として治めていたところである。
二 大丈夫 原文は鬚眉丈夫。堂々たる丈夫をいう。
三 王尊 漢の武帝の時の人で、字は山《しこう》。遷東郡《せんとうぐん》(河南省)の太守のとき、黄河が決壊して金堤《きんてい》(河南省滑県《かつけん》のあたり)を破った。このとき王尊は水神に祈り、身をささげて決壊口をふさごうとした。人々は哀願してその投身を思いとどまらせたが、王尊は水が退くまで黄河のほとりに野宿しつづけたという。
四 随和の材 随侯《ずいこう》(随はまた隋とも作る)の珠と卞和《べんか》の璧。随侯の珠とは、随侯が傷ついた大蛇を治療してやったところ、後、その蛇が江中からくわえてきて随侯におくったという珠(『淮南子』覧冥訓注)。卞和の璧とは、周のとき卞和が山中で璞《あらたま》を得て楚の〓王に献じたところ、〓王は玉匠がそれを単なる石塊だというのを信じ、怒って卞和の左脚を斬った。〓王が没して武王が位につくや、卞和はまたその璞を武王に献じたが、やはり石塊だとしてこんどは右脚を斬られた。武王の没後、文王がその璞を玉匠に磨かせてみたところ、はたして美玉を得、天下の宝玉と称されるにいたったという玉(『韓非子』卞和)。ともに天下の美玉であることから、人材をたとえて随和の材という。
五 由夷 許由と伯夷。許由は堯のときの人で、堯がその息子が不肖であるため許由に帝位を譲ろうとしたところ、許由はそれを道にもとるとして拒み、箕山に隠れてついに世に出なかったという。伯夷は殷の人。周の武王が殷の紂《ちゆう》王を討って天下を取ったとき、伯夷は弟の叔斉《しゆくせい》とともに、武王が武力を以て天下を取ったことを非とし、周の粟を食うことをいさぎよしとせず、首陽山に隠れて薇《わらび》を食い、ついに餓死したという。ここから行ないの高潔な人をたとえて由夷という。
六 兵二千 原文には三千とあるが、全兵力五千で、後に数があわなくなるため、改めた。
七 褒〓 周の幽王の寵姫。幽王は褒〓を寵愛していたが、褒〓が一度も笑顔を見せたことがなかったので、一策を案じて驪山に烽火《のろし》をあげた。その烽火は外敵の攻めてきた合図で、それを見れば諸侯は急遽馳せつけることになっていた。烽火を見て諸侯は馳せつけてきたがなにごともなく、その狐につままれた顔を見て褒〓ははじめて笑ったという。(のち西方の蛮族の犬戎《けんじゆう》が攻めてきたとき、幽王は烽火をあげて諸侯に急を告げたが諸侯は馳せつけず、幽王は驪山の麓で殺されるところとなった。)
八 周郎 三国時代の呉の孫権の智将、周瑜《しゆうゆ》のこと。ここは赤壁の戦いでの火攻めのことを指している。第十一回注一二参照。
第百九回
王慶《おうけい》 江を渡って捉《とら》えられ
宋江《そうこう》 寇を勦《ほろぼ》して功を成《な》す
さて、その日栄江は本営にのぼり、諸将は拱手して立ったまま命を受けた。砲を放ち、金鼓を鳴らし、旗をかかげ、つづいて静営砲(陣営に命あることを知らせる号砲)が放たれると、各隊の頭目たちがつぎつぎに本営の下に集まって、整然と立ち並び、威儀を正して命令を聞く。吹鼓手《すいこしゆ》が合図の軍鼓を打ち、宣令官《せんれいかん》が命令をつたえおわると、各隊の頭目たちは順次に叩頭の礼をささげ、両脇に立ちひかえる。ついで巡視《じゆんし》の藍旗手《らんきしゆ》がひざまずいて指令を受けた。
「喊声のそろわぬもの、隊伍をみだすもの、みだりにさわいで命令にたがうもの、たたかいに臨んでしりごみするもの、これらはみな捕らえて重刑に処せよ」
つづいてまた旗牌官《きはいかん》(軍令をつたえる官)が左右に二十名ずつひかえた。宋先鋒はこれにみずからさとした。
「その方ら、各隊におもむいて督戦するにあたっては、およそ兵の敵に遇って進まざるもの、しりごみして命にしたがわざるものは、捕らえてしかるべく処罰するように」
旗牌官たちは命を受けてそれぞれの持場へ帰ると、金鼓を鳴らし画角《がかく》を吹き、それぞれその隊伍につかしめて、命令のくだり次第ただちに出発する態勢をととのえさせた。宋江はそのあとで、命令をくだして水陸の手分けをきめた。それがおわると吹鼓手が、最初の合図で隊伍をととのえさせ、第二の合図で旗をとらせ、第三の合図でそれぞれ出陣して敵にむかわしめることになる。かくて金鼓のひびくところ、五方旗がかかげられ、号砲があげられ、信号旗のうち振られるもとで各隊がまとめられ、それぞれ陣容をととのえていくさにいでたって行ったが、そのありさまは、まさに、
天に震う〓鼓《へいこ》(攻め太鼓)は山嶽を揺《ゆる》がし
日に映ずる旌旗《せいき》は鬼神を避けしむ
というところ。
さて一方、賊の王慶も、兵を繰り出してこれにあたった。すでに水軍の将の聞人世崇《ぶんじんせいすう》らを繰り出させたほか、雲安州の偽《にせ》の兵馬都監劉以敬《りゆういけい》を正先鋒に任じ、東川の偽の兵馬都監上官義《じようかんぎ》を副先鋒とし、南豊の偽の統軍の李雄《りゆう》と畢先《ひつせん》を左の哨戒軍に、安徳の偽の統軍の柳元《りゆうげん》と潘忠《はんちゆう》を右の哨戒軍に配し、偽の統軍大将段五《だんご》を正殿軍とし、偽の御営使丘翔《きゆうしよう》を副殿軍に、偽の枢密の方翰《ほうかん》を中軍の輔翼とした。王慶は中軍を掌握し、偽の尚書《しようしよ》・御営金吾《ぎよえいきんご》・衛駕将軍《えいがしようぐん》・校尉《こうい》など多くのもの、およびそれら各人の配下の偏将・牙将らあわせて数十名がしたがい、李助を元帥とし、兵は整然と隊伍をととのえ、王慶みずからが采配をふるっていた。馬は皮の甲《よろい》をつけ、人は鉄の鎧を着、弓弩には弦《つる》を張り、戦鼓三たびうち鳴らされて諸軍はいっせいに行動をおこした。
十里ほど進んだとき、土埃《つちぼこり》が舞いあがって、はやくも宋軍の斥候隊が近づいてきた。鸞鈴《らんれい》をひびかせて、およそ三十騎あまりの斥候兵が、いずれも青い頭巾をかぶり、それぞれ緑の戦袍をまとい、馬にはそろって紅い纓《ふさひも》をむすび、両脇にそれぞれ数十個の銅鈴をくくりつけ、うしろに一本の雉尾《ちび》(雉《きじ》の尾の飾り)をさし、そしてみな銀の輪をはめた細柄の長鎗と、小弓に短箭。その頭《かしら》たる戦将は、道君皇帝《どうくんこうてい》の勅命でもとの職掌にかえった虎騎将軍《こきしようぐん》の没羽箭《ぼつうせん》の張清《ちようせい》で、頭には金箔をほどこした青い巾〓《きんさく》(頭巾)をかぶり、身には〓《ぬいとり》のある緑の戦袍をまとい、腰には紫の毛織の〓《うちひも》をしめ、足にはなめし皮の鞋《くつ》をはき、銀の鞍をおいた馬にうちまたがっていた。その左は、勅命によって貞孝宜人《ていこうぎじん》に封ぜられた瓊矢鏃《けいしぞく》の瓊英《けいえい》で、頭には珠をちりばめた黄金の鳳冠《ほうかん》をかぶり、身には〓のある羅《うすぎぬ》の紫の戦袍をまとい、腰には五色の〓をしめ、足には朱い〓のある小さな鳳頭鞋《ほうとうあい》をはき、銀のたてがみの駿馬にうちまたがっていた。右側に少しさがって旗をささげているのは、勅命によって正排軍《せいはいぐん》の位をさずけられた義僕の葉清《しようせい》であった。彼らはまっすぐ李助の軍前まで偵察にきて、わずか百歩あまりのところまで接近し、馬を返してもどって行った。
前軍の先鋒の劉以敬《りゆういけい》と上官義《じようかんぎ》が、馬を驟せ兵を駆りたてて突進して行くと、張清は馬をせかせ、出白《しゆつぱく》の梨花鎗《りかそう》をしごいて二将にたちむかった。瓊英も馬を馳せ、方天《ほうてん》の画戟《がげき》をかまえて加勢に出る。四将はわたりあうこと十数合、張清と瓊英は賊将の武器をかわすなり、馬首を転じて逃げだした。劉以敬と上官義が兵を駆りたてて追いかけると、左右のものが大声で叫んだ。
「先鋒、追ってはなりません。あのふたりの鞍のうしろの錦の袋は、石のつぶてです。ねらえば必ずあたるというやつですぞ」
劉以敬と上官義がそれを聞いて馬をとめたとたん、竜門山のうしろで軍鼓が鳴りひびいたかと思うと、はやくも五六百の歩兵が飛び出してきた。その先頭の四人の歩兵の頭領は、すなわち黒旋風《こくせんぷう》の李逵《りき》・混世魔王《こんせいまおう》の樊瑞《はんずい》・八臂那〓《はつぴなた》の項充《こうじゆう》・飛天大聖《ひてんたいせい》の李袞《りこん》で、まっしぐらに馳せつけてくる。その五百の歩兵は丘の麓に一文字に展開し、左右に団牌《まるたて》を整然とおしならべた。劉以敬と上官義が兵を駆りたてておそいかかって行くと、李逵と樊瑞は歩兵をひきいて二手に分かれ、いずれもみな蛮牌《ばんぱい》(獣面を描いた楯)をさかしまにひっさげながら、丘のむこうへと逃げて行った。
そのとき王慶と李助の大軍もやってきて、いっせいにおそいかかって行ったが、李逵・樊瑞らは山を駈けのぼり、峰を越え、林を突き抜けて、ついに見えなくなってしまった。李助は命令をくだして、そこの平原に軍をとめ、陣を布かせた。と、とつぜん山のうしろで砲声がとどろき、山の南側から一隊の軍勢が、三人の将軍をおしたててあらわれた。そのまんなかは矮脚虎《わいきやくこ》の王英《おうえい》で、左は小尉遅《しよううつち》の孫新《そんしん》、右は菜園子《さいえんし》の張青《ちようせい》。歩騎の兵五千をひきつれて、どっとおし寄せてくる。王慶が将を出してこれを迎え討とうとしたとき、またもや山のうしろで一発の砲声が聞こえ、山の北側から一隊の軍勢が、三人の女将軍をおしたててあらわれた。そのまんなかは一丈青《いちじようせい》の扈三娘《こさんじよう》で、左は母大虫《ぼたいちゆう》の顧大嫂《こだいそう》、右は母夜叉《ぼやしや》の孫二娘《そんじじよう》。歩騎の兵五千をひきつれてどっとおし寄せてくる。ちょうど賊軍右翼の哨戒軍の柳元《りゆうげん》と潘忠《はんちゆう》の軍にぶつかり、立ちふさがってたたかいとなった。王英らも、ちょうど賊軍左翼の哨戒軍の李雄《りゆう》と畢先《ひつせん》の軍にぶっつかり、立ちふさがってたたかいとなった。
かくて両辺ともたたかうことそれぞれ十余合、南側の王英・孫新・張青は、馬を返し、兵をひきいて東のほうへと逃げだした。北側の扈三娘・顧大嫂・孫二娘も、おなじく馬首を転じ、兵をひきいて東のほうへと逃げだす。王慶はそれを見てせせら笑った。
「宋江の手下どもは、そろってまぬけやろうばかりじゃないか。うちの兵どもがなぜ、なんども負けたのかわからぬ」
と、ついに大軍を駆って追撃に出た。すると、まだ五六里も行かぬうちに、不意に銅鑼《どら》が一声鳴りひびいたかと思うと、さきほど逃げて行ったばかりの李逵《りき》・樊瑞《はんずい》・項充《こうじゆう》・李袞《りこん》、四人の歩兵の頭領が、山の左側の林のなかからむきをかえて出てきた。さらに、花和尚《かおしよう》の魯智深《ろちしん》、行者《ぎようじや》の武松《ぶしよう》、没面目《ぼつめんもく》の焦挺《しようてい》、赤髪鬼《せきはつき》の劉唐《りゆうとう》ら四人の歩兵の頭領、および五百の歩兵が加わり、てんでに団牌《まるたて》や短兵《かたな》を得物にまっしぐらに突きかかってくる。賊将の副先鋒上官義は、急いで歩兵二千をふりむけてこれにあたらせた。すると李逵・魯智深らは、賊将とわずか数台たたかっただけで、まるで敵《かな》わぬかのごとく、団牌をさかしまにひっさげ、二手に分かれて、いずれも林のなかへ逃げこんでしまった。賊軍はあとを追ったが、李逵らのほうが足がはやく、たちまちのうちにみな四方へ逃げ散ってしまった。李助はそれを見て急いで王慶にいった。
「大王、追ってはなりません。あれは誘いの計略です。わが方はひとまず陣を布いて敵を迎え討つことにしましょう」
李助は将台にのぼって指揮をしたが、まだ布陣のおわらぬうちに、とつぜん丘のむこうで轟天・子母の砲声がとどろき、そこから大部隊の将兵があらわれ、どっと繰り出してきて中央の地を占め、そこに陣を布きつらねた。王慶が乗馬を左右のものにとりおさえさせ、みずから将台へのぼって見ると、真南のほうに陣どる一隊の兵は、ことごとく紅《くれない》の旗、紅の甲《よろい》に紅の袍《うわぎ》、朱の纓に赤い馬で、前面には一本の紅の引軍旗《いんぐんき》。その紅の旗のうち振られるところ、紅の旗のなかからひとりの大将があらわれた。すなわち、霹靂火《へきれきか》の秦明《しんめい》で、その左には聖水将軍《せいすいしようぐん》の単廷珪、右には神火将軍の魏定国。三人の大将は手に武器をとり、いずれも赤い馬にまたがって陣頭に立った。東のほうの一隊の兵は、ことごとく青い旗、青い甲に青い袍、青い纓に青い馬で、前面には一本の金箔の青い引軍旗。その旗のうち振られるところ、青い旗のなかからひとりの大将があらわれた。すなわち、大刀《だいとう》の関勝《かんしよう》で、その左には醜郡馬《しゆうぐんば》の宣賛《せんさん》、右には井木〓《せいぼくかん》の〓思文《かくしぶん》。三人の大将は手に武器をとり、いずれも青い馬にまたがって陣頭に立った。西のほうの一隊の兵はことごとく白い旗、白い甲に白い袍、白い纓に白い馬で、前面には一本の金箔の白い引軍旗。その旗のうち振られるところ、白い旗のなかからひとりの大将があらわれた。すなわち、豹子頭《ひようしとう》の林冲で、その左には鎮三山《ちんさんざん》の黄信《こうしん》、右には病尉遅《びよううつち》の孫立。三人の大将は手に武器をとり、いずれも白い馬にまたがって陣頭に立った。後方にむらがる一群の兵は、ことごとく〓《くろ》い旗、黒い甲に黒い袍、黒い纓に黒い馬で、前面には一本の金箔の白い引軍旗。その旗のうち振られるところ、黒い旗のなかからひとりの大将があらわれた。すなわち、双鞭将《そうべんしよう》の呼延灼《こえんしやく》で、その左には百勝将《ひやくしようしよう》の韓滔《かんとう》、右には天目将《てんもくしよう》の彭〓《ほうき》。三人の大将は手に武器をとり、いずれも黒い馬にまたがって陣頭に立った。東南方の門旗のかげの一隊の兵は、青い旗に紅の甲で、前面には一本の〓《ぬいとり》のある引軍旗。その旗のうち振られるところ、ひとりの大将がおし出されてきた。すなわち、双鎗将《そうそうしよう》の董平《とうへい》で、その左には摩雲金翅《まうんきんし》の欧鵬《おうほう》、右には火眼〓猊《かがんしゆんげい》の〓飛《とうひ》。三人の大将は手に武器をとり、いずれも馬にまたがって陣頭に立った。西南方の門旗のかげの一隊の兵は、紅の旗に白い甲で、前面には一本の〓のある引軍旗。その旗のうち振られるところ、ひとりの大将がおし出されてきた。すなわち、急先鋒《きゆうせんぽう》の索超《さくちよう》で、その左には錦毛虎《きんもうこ》の燕順《えんじゆん》、右には鉄笛仙《てつてきせん》の馬麟《ばりん》。三人の大将は手に武器をとり、いずれも馬にまたがって陣頭に立った。東北方の門旗のかげの一隊の兵は、〓《くろ》い旗に青い甲で、前面には一本の〓のある引軍旗。その旗のうち振られるところ、ひとりの大将がおし出されてきた。すなわち、九紋竜《くもんりゆう》の史進で、その左には跳澗虎《ちようかんこ》の陳達《ちんたつ》、右には白花蛇《はつかだ》の楊春《ようしゆん》。三人の大将は手に武器をとり、いずれも馬にまたがって陣頭に立った。西北方の門旗のかげの一隊の兵は、白い旗に黒い甲で、前面には一本の〓のある引軍旗。その旗のうち振られるところ、ひとりの大将がおし出されてきた。すなわち、青面獣《せいめんじゆう》の楊志で、その左には錦豹子《きんひようし》の楊林《ようりん》、右には小霸王《しようはおう》の周通《しゆうとう》。三人の大将は手に武器をとり、いずれも馬にまたがって陣頭に立った。
かくして八方に布きつらねた陣はさながら鉄桶《てつとう》のよう。陣門の内側には、騎兵は騎兵の隊にしたがい歩兵は歩兵の隊につき、てんでに鋼刀《こうとう》・大斧《たいふ》・闊剣《かつけん》・長鎗《ちようそう》をとり、旗旛は整然として隊伍は厳然たるありさま。
八陣のまんなかはことごとく杏黄《こはく》の旗で、そのあいだに六十四面の長脚旗《ちようきやくき》をまじえ、金箔で六十四の卦《け》をえがき、おなじく四門に分けられていた。真南の黄色い旗のかげには、ふたりの上将がおしたてられていて、そのかみてなるは美髯公《びぜんこう》の朱仝《しゆどう》、しもては挿翅虎《そうしこ》の雷横《らいおう》。兵はことごとく黄色い旗で、黄色い袍に銅の甲、黄色い纓に黄色い馬。その中央の陣の東門は、金眼彪《きんがんひよう》の施恩、西門は白面郎君《はくめんろうくん》の鄭天寿《ていてんじゆ》、南門は雲裏金剛《うんりこんごう》の宋万《そうまん》、北門は病大虫《びようたいちゆう》の薛永。黄色い旗の後方には一群の砲架があって、砲手たるかの轟天雷《ごうてんらい》の凌振《りようしん》がひかえ、そのひきしたがえる副手二十余人がぐるりと砲架をとりまいていた。砲架のうしろには、将を捕らえる撓鉤《どうこう》・套索《とうさく》がうちならべられ、撓鉤のうしろには、また雑彩の旗旛がぐるりと立ちつらなり、その四方には二十八宿の金箔の〓旗が立ち、中央には、絨《けいと》で厚く〓《ぬいとり》し、真珠で縁《ふち》飾りをし、旗棹《はたざお》にはずらりと金の鈴をつけ、頂には雉《きじ》の尾羽を挿した鵝黄《うこん》の帥字旗《すいじき》が立っている。その旗を護るひとりの壮士は、魚尾の冠をいただき、竜鱗の甲をまとい、身の丈《たけ》は一丈、凜々たる威風を示している。これぞすなわち、険道神《けんどうしん》の郁保四《いくほうし》である。旗のかたわらにはさらにふたりの護衛の将がおかれていて、ともに馬にまたがり、おなじいでたちをして、手には鋼鎗をとっていた。ひとりは毛頭星《もうとうせい》の孔明《こうめい》で、ひとりは独火星《どつかせい》の孔亮《こうりよう》である。その馬の前後には、狼牙棍を手にした二十四人の鉄甲の兵士がずらりとならんでいた。そのうしろには二本の〓のある領戦旗があって、その両側にならぶ二十四夲の方天の画戟《がげき》の群のなかに、ふたりの驍将がおしたてられていた。左側が小温侯《しようおんこう》の呂方《りよほう》、右側が賽仁貴《さいじんき》の郭盛《かくせい》で、ふたりの将軍はともに画戟を持ち、両辺に馬を立てていた。画戟と画戟のあいだには鋼叉《こうさ》の一群があって、ふたりの歩兵の驍将がおなじいでたちでひかえていた。ひとりは両頭蛇《りようとうだ》の解珍で、ひとりは双尾蝎《そうびかつ》の解宝。ともに三股《みつまた》の蓮花叉《れんかさ》を手に、中軍を護っていた。そのすぐうしろの錦の鞍をおいた二頭の馬上には、左には聖手書生《せいしゆしよせい》の蕭譲、右には鉄面孔目《てつめんこうもく》の裴宣。ふたりの馬のうしろには、紫衣《しい》を着て節《せつ》を持ったもの(勅命を奉じる使節)、ならびに麻扎刀《まさつとう》の兵士たちがならんでいた。その麻扎刀の林のなかには、ふたりの行刑〓子《こうけいかいし》(死刑執行人)が立っていた。かみてのは鉄臂膊《てつぴはく》の蔡福《さいふく》で、しもてのは一枝花《いつしか》の蔡慶《さいけい》である。そのうしろの両側には、金鎗手・銀鎗手がならび、両側にそれぞれ大将がいて隊をひきいていた。金鎗隊にいるのが金鎗手《きんそうしゆ》の徐寧《じよねい》で、銀鎗隊にいるのが小李広《しようりこう》の花栄である。そのうしろにはさらに、錦衣《きんい》・花帽《かぼう》が相ならび、緋袍《ひほう》・錦襖《きんおう》が群れつどい、両辺には碧幢《へきどう》・翠《すいばく》・朱旛《しゆはん》・〓蓋《そうがい》・黄鉞《こうえつ》・白旄《はくぼう》・青萍《せいひよう》・青電《せいでん》(注一)。二列にならぶ鉞《まさかり》・斧《おの》・鞭《てつむち》・〓《なげぼこ》のあいだ、三つの金箔のさしかけ傘のもと、錦の鞍をおいた三頭の駿馬の上には、三人の英雄がまたがっていた。右側の、星冠をいただき鶴〓《かくしよう》(鶴の羽衣)をまとったのは、風を呼び雨を喚ぶ入雲竜《にゆううんりゆう》の公孫勝で、左側の、綸巾《りんきん》(注二)をかぶり羽扇《うせん》(注三)を手にしたのは、文武かねて全き智多星《ちたせい》の呉用。そしてまんなかの、金の鞍をおいた照夜玉獅子《しようやぎよくじし》の馬上には、かの、仁あり義あり、虜《えみし》を退《しりぞ》け寇《あだ》を平《たい》らぐる征西正先鋒《せいせいせいせんぽう》たる山東《さんとう》の及時雨《きゆうじう》の呼保義《こほうぎ》の宋公明《そうこうめい》がうちまたがり、全身をよろいにかため、みずから〓〓《こんご》(注四)の宝剣をとり、陣中でいくさを見つつ中軍を掌握していた。その馬前の左側には神行太保《しんこうたいほう》の戴宗が立ち、もっぱら軍情の飛報と将兵の調遣をつかさどる。右側には浪子《ろうし》の燕青が立ち、もっぱら中軍の護衛と機密の処理をつかさどる。宋江の馬のうしろには、大戟《たいげき》・長戈《ちようか》・錦鞍の駿馬が、整然とつらなり、三十五名の牙将が、いずれも馬に乗り、手には長鎗をとり、弓箭を身につけている。その馬のうしろには画角《がかく》と、奏楽隊の全員(注五)。陣の後方にはさらに二隊の遊撃軍をおいて、両側に伏せ、中軍防衛の輔翼となっていた。左は石将軍《せきしようぐん》の石勇《せきゆう》と九尾亀《きゆうびき》の陶宗旺《とうそうおう》で、歩騎の兵三千名をひきい、右は没遮〓《ぼつしやらん》の穆弘《ぼくこう》が弟の小遮〓《しようしやらん》の穆春《ぼくしゆん》をしたがえ、歩騎の兵三千をひきいて、それぞれ両脇に伏兵を布いていた。
その陣は一分の隙もなく布きつらねられていて、まさに、
軍師は略《りやく》(才略)多く帥《すい》は恢弘《かいこう》(広大)なり
士は貔貅《ひきゆう》(注六)を湧かせ馬は竜に跨《またが》る
指揮は平西(討西)の績を建てんと要《ほつ》し
叱咤は蕩寇の功を成さんと思う
かの草頭天子《そうとうてんし》(賊の首領)の王慶が李助とともに陣中の将台にのぼり、睛《ひとみ》をこらして宋江の軍を見まもるうちに、たちまち九宮八卦の陣形ができあがってしまった。兵は勇猛で将は英雄、軍容は厳として刀鎗は鋭く、王慶はおどろきのあまり、魂も身につかず心胆ともにふるえあがって、しきりにつぶやいた。
「将兵がなんども負かされたのも、道理というものだ。やつらはこんなにも物凄かったのか」
そのとき宋軍では、戦鼓がひっきりなしに打ち鳴らされた。王慶と李助は将台をおりて戦馬にまたがった。左右には金吾・護駕などの官員、うしろには多数の内侍のものが群がって護りたてる。王慶は令旨をくだし、前軍の先鋒に陣を出て討ちかかれと命じた。かくて両軍は東西に対陣した。その日の干支《え と》は木にあたっていた。宋陣の真西の門旗が左右に分かれ、豹子頭の林冲がその門旗の下から馬を飛ばして出てきた。両軍はいっせいに喊声をあげる。林冲は馬をとめ、丈八《じようはち》の蛇矛《じやぼう》を横たえながら大声で呼ばわった。
「おろかなる逆賊、国にそむく狂徒め、天兵がまいったのに、まだ投降せぬか。骨も肉も泥にされてからでは、悔いても追っつかぬぞ」
賊の陣中の李助は根《ね》が易者のこととて、相生相剋《そうせいそうこく》の理(注七)にくわしく、急いで命をくだして、右翼の哨戒軍の柳元と潘忠に紅旗の軍をひきいて討ちかかるよう命じた。柳元と潘忠は命を受け、紅旗の軍をひきしたがえ、馬を驟せて討ちかかって行く。両陣は喊声をあげあい、いっせいに戦鼓を打ち鳴らす。林冲は柳元を相手どってわたりあった。四本の腕は縦横に乱れ飛び、八個の馬蹄は撩乱と馳せちがう。二将は戦塵の舞い立つかげ、殺気のたちこめるただなかで、押しつもどしつ、左にめぐり右にまわり、わたりあうこと五十余合におよんだが、なお勝敗は決しなかった。かの柳元は賊軍きっての勇猛な将だったが、潘忠は柳元が勝ちを制し得ぬのを見ると、馬をせかせつつ刀をひっさげて助太刀に駆けつける。林冲は二将を相手に奮戦し、大喝一声して神威をふるい、柳元を一矛のもとに馬の下に刺し殺した。そのとき林冲の副将の黄信と孫立が馬を飛ばして陣を出た。黄信は喪門剣《そうもんけん》(凶剣)をふるい、潘忠めがけてさっと斬りつけた。と、一筋の血しぶきが肉から尾をひき、金の〓《かぶと》がぽとりと馬のかたわらに落ちて、潘忠は馬の下に相果てた。配下の兵士たちはばらばらに乱れ、はやくも陣脚は浮き足だつ。賊兵は中軍に急報した。王慶は、たちまちにして二将をうしなってしまったと聞くと、あわてて命令をくだし、急遽、軍を後退させようとした。と、そのとき宋軍では一発の砲声が鳴りわたるとともに、兵列が紛々と入り乱れ、白が黒をひきい、黒が青をひきい、青が紅をひきいて、長蛇の陣に一変し、簸箕《はき》(み)のように拷《こうろう》(ざる)のように、ぐるぐるとまわった。王慶と李助は、将をやり兵を繰り出して、手分けをして討ちかからせたが、さながら銅牆鉄壁《どうしようてつぺき》のごとく、容易に突き破ることができない。官軍と賊兵とのこの一場のたたかい、そのありさまいかにといえば、
兵戈《へいか》(武器)は衝撃し、士馬《しば》(戦士)は縦横す。鎗、刀を破らんとするときは、刀如《も》し脳を劈《へき》して来《きた》れば(真向うから斬りつけてくれば)、鎗は必ず魚を釣る(注八)ごとくして応じ、刀如《も》し下より発して起これば、鎗は必ず地を綽《つか》んで迎え、刀如《も》し倒《さかしま》に〓《ひ》いて回《めぐ》らせば、鎗は必ず裙〓《くんらん》(はばみさえぎる)して守る。刀、鎗を解かんとするときは、鎗如《も》し心《しん》を刺し来《きた》れば、刀は五花(注九)を用《もつ》て以て禦《ふせ》ぎ、鎗如《も》し睛《ひとみ》を点じて来れば、刀は探馬(注一〇)を用《もつ》て以て格《むか》う。筅《せん》(注一一)、牌《はい》(楯)を破らんとするときは、牌或《も》し滾身《こんしん》して以て進めば、筅は即ち風掃《ふうそう》して以て当たり、牌或《も》し旁《かたわら》より以て追わば、筅は必ず斜《ななめ》に挿《さしはさ》んで以て待ち、牌或《も》し摧擠《さいせい》(おし分ける)して以て入らば、筅は必ず退卻《たいきやく》して以て〓《つ》く。牌、筅を解かんとするときは、筅若《も》し胸に平らかならば、牌は小坐《しようざ》(小腰)の勢を用《もつ》て避け、筅若《も》し簇擁《そうよう》すれば、牌は砕剪《さいせん》の法を将《もつ》て、以て随《したが》う。単刀は絞糸《こうし》を披掛《ひか》して(絹に巻かれて)輸《しゆ》を佯《いつわ》り敗《はい》を詐《いつわ》り(敗けをよそおい)、鉄叉《てつさ》は上に排《なら》び下に掩《おさ》えて側進し抵閃《ていせん》す(やにわに進み入る)。袖箭《しゆうせん》(注一二)は馬上に於て賊を〓《ねら》い鉤〓《こうれん》(かぎかま)は車前に於て馬を俟《ま》つ。鞭《てつむち》、簡(注一三)、〓《なげぼこ》、〓《なげつち》、剣《けん》、戟《えだぼこ》、矛《てぼこ》、盾《たて》。那辺《かなた》の破解《はかい》(攻防)は窮《きわま》り無く、這辺《こなた》の転変は測る莫《な》し。須臾《しゆゆ》にして血は流れて河を成し、傾刻《けいこく》にして屍《しかばね》は山の如く積まる。
かくて激戦しばし。賊軍は大敗し、官軍は大勝した。王慶は、
「ひとまず南豊の宮殿へ退去し、あらためて対策を講じよう」
と命じた。と、そのとき後軍のほうで砲声がとどろき、物見の兵が駆けつけてきて知らせた。
「大王さま、うしろからも宋軍がおそいかかってまいりました」
その一隊の軍勢の、馬にまたがって先頭に立った英雄なる大将は、これぞ副先鋒たる河北の玉麒麟《ぎよくきりん》の盧俊義で、一本の点鋼鎗《てんこうそう》を横たえ、左には、朴刀を得物にとる好漢病関索《びようかんさく》の楊雄《ようゆう》、右には、同じく朴刀を得物にとる頭領命三郎《へんめいさんろう》の石秀《せきしゆう》がひかえ、一万の精兵をひきしたがえて、大いに奮いたち、後詰めの正副の賊軍を斬り散らした。楊雄は段五を斬り伏せ、石秀は丘翔《きゆうしよう》を刺し殺し、力をあわせてどっと斬り進んでくる。王慶が泡をくっているところへ、またしても一発の砲声がとどろき、左のほうから魯智深・武松・李逵・焦挺・項充・李袞・樊瑞・劉唐の八人の勇猛なる頭領が、一千の歩兵をひきしたがえ、禅杖・戒刀・板斧・朴刀・喪門剣・飛刀・標鎗・団牌を振りかざしつつ、李雄《りゆう》と畢先《ひつせん》を斬り殺し、さながら瓜を割り菜をきざむがごとき勢いでまっしぐらに斬りこんでくる。右のほうからは張清・王英・孫新・張青と、瓊英・扈三娘・顧大嫂・孫二娘の、四組の英雄なる夫婦が、一千の騎兵をひきしたがえ、梨花鎗・鞭・鋼鎗・方天の画戟・日月の双刀・鋼鎗(注一四)・短刀を舞わせつつ、左翼の哨戒軍を斬り散らし、さながら枯木《かれき》を摧《くだ》き朽木《くちき》を拉《ひし》ぐがごとき勢いでまっしぐらに突き進み、賊軍を蹴散らして四分五裂、七断八続、雨零《お》ち星散《ち》るがごとく、ちりぢりに逃げ走らせた。
盧俊義・楊雄・石秀は、中軍へ斬りこんで行って、方翰《ほうかん》に出くわした。盧俊義は方翰を一槍で刺し殺し、中軍の輔翼の兵を斬り散らして、王慶を捕らえんものと突き進んで行くと、金剣先生《きんけんせんせい》の李助に出くわした。かの李助は剣の術を心得ていて、剣を稲妻のごとく舞わしてかかってくる。盧俊義がたじたじとなっているところへ、おりよく宋江の中軍の一隊がやってきた。その右手の入雲竜の公孫勝が、口に呪文を唱えて、
「えいっ」
と叫ぶと、李助のかの剣はぱっと手をはなれて地上に落ちた。盧俊義は馬を飛ばして迫るや、軽く猿臂《えんぴ》をのばし、ゆるく狼腰《ろうよう》をひねり、李助を馬から引き抜いていけどりにし、兵士に縄をかけさせた。盧俊義は槍をしごき馬をせかし、再び王慶をさがして捕らえんものと斬りこんで行ったが、さながらそれは〓〓《くまたか》が紫燕《つばめ》を追い、猛虎《と ら》が羊羔《こひつじ》を啖《くら》わんとするような勢いで、賊兵は金鼓を投げすて戦鼓をうちすて、戟を投げ槍を放り出し、子をもとめ父をさがし、兄を呼《よ》び弟を喚《よ》ぶという大混乱。十余万の賊兵はその大半が斬り殺されて、屍は野に満ち、血は流れて河をなした。投降したものは三万人。逃げおおせたものは別として、その他のものはみな、十たび殺されて九たび生かされ、七たび損《いた》められ八たび傷つけられて地面にころがり、人馬に踏みにじられて骨も肉も泥のようになったもの、その数もわからぬほどであった。劉以敬と上官義の猛将ふたりは、いずれも焦挺にその乗馬を斬りたおされ、馬から落ちたところを、ともに焦挺に斬り殺され、李雄は(注一五)瓊英の石つぶてに打たれて落馬し、画戟で刺し殺された。畢先は(注一六)逃げて行く途中、とつぜん活閃婆《かつせんば》の王定六《おうていろく》があらわれ、朴刀で刺されて馬から落ちたところを、さらに胸に朴刀をくらって相果ててしまった。かの偽《にせ》の尚書・枢密・殿帥・将軍なども、みな逃げおおせることはできなかったが、首魁の王慶の姿だけは見あたらなかった。
宋軍は大勝を博した。宋江は金鼓を鳴らし軍をまとめさせると、南豊城めざして進むことにした。そして張清と瓊英に五千の騎兵をつけて偵察に行かせ、ついで神行太保の戴宗をつかわして、急いで孫安の南豊襲撃の様子をさぐらせることにした。戴宗は命令を受け、神行法を使って張清と瓊英を追い越して行ったが、しばらくするともどってきて、こう報告した。
「先鋒のご命令を受けた孫安は、西軍の兵になりすまして、あざむいて城内へはいろうとしましたところ、賊兵は見破って、城門の内側に陥坑《おとしあな》を掘り、城の東門をあけて孫安の軍をなかへ通したのです。孫安の配下の梅玉・金・畢捷・潘迅・楊芳・馮昇・胡邁ら七人の副将はさきを争って城内へ飛びこんで行ったため、五百の兵とともに、馬もろともことごとく陥坑のなかに転がり落ちてしまいました。そこへ、両側にひそんでいた伏兵がどっと飛び出してきて、槍や戟で梅玉ら五百人あまりのものをことごとく刺し殺してしまいました。さいわい孫安はうしろのほうにいて、そのまま勇を奮って城門に殺到し、兵士たちに陥坑を埋めさせました。そしてみずから先頭に立ち、兵をひきいて城内へ斬りこんで行きましたところ、賊兵はこれを防ぐことができず、孫安は東門を奪い取ったのですが、やがて賊兵は四方から呼応して立ちあがり、孫安の軍を東門に釘づけにしてしまったのです。わたしは以上のことをさぐって、急いで復命にもどってきたのですが、途中で張将軍と張宜人《ぎじん》(張清と瓊英)に出あいましたので、このことを話しましたところ、ふたりは兵をせきたてて駆けつけて行きました」
宋江はこの知らせを聞くと、大軍をせきたてて道を急ぎ、南豊城を包囲した。
そのとき張清と瓊英はすでに東門へ進み入り、孫安に東門を守らせておいて、ふたりは賊軍と激戦しているところであった。宋江以下の諸将は東門へなだれこんで城を奪い、賊兵を斬り散らして四つの城門に宋軍の旗じるしを掲げた。城内にいた多くの偽《にせ》の文武の諸官、范全らは、ことごとく斬り殺されてしまった。かの偽の妃の段三娘は、軍勢が入城してきたと聞くと、もともと膂力《りよりよく》もすぐれ馬にも練達していたので、ただちに身ごしらえをし、一百有余の膂力すぐれた内侍のものをひきしたがえ、てんでに武器をとって王宮をいでたち、後苑から西門へ斬って出て雲安軍へ投じようとしたが、ちょうどそこへ瓊英が兵をひきいて後苑へおし寄せてきたので、段氏は馬を飛ばし宝刀を振りかざして決死にぶっつかって行った。と、瓊英のつぶてが飛んできて段三娘の顔に命中し、鮮血をほとばしらせてどっと落馬し、足を天にむけてひっくりかえったところへ、兵士が駆けつけて行ってとりおさえ、縛りあげてしまった。かの内侍のものたちはみな宋兵に斬り殺された。瓊英は兵をひきつれて後苑・内宮へ斬りこんだ。宮女たちは宋軍が城内にはいってきたと聞くと、あるものは縊《くび》れ、あるものは井戸へ身を投じ、あるものは刀で自刎《じふん》し、あるものは階《きざはし》から墜死して、大半はみずから命を絶ってしまったが、その他のものはみな瓊英が兵士に縄をかけさせて、宋江の前へひいて行った。宋江は大いによろこび、段氏ら一同を監禁して、王慶を捕らえたうえでいっしょに都へ送ることにし、さらに将兵を四方八方に出して王慶を追わせた。
さて一方王慶は、数百の屈強な騎兵をしたがえて重囲を突破し、南豊城の東まで逃げて行ったが、見れば城内では敵兵がたたかっているので、魂もぬけてしまうほどおどろいた。しかも後方には大軍が迫っているので、北のほうへ逃げることもできない。左右をふり返って見ると、わずかに百余騎が残っているだけで、その他のものは、かねてから最も信頼していたものたちだったのに、このたびの敗色にみな逃げてしまっていた。王慶は百余人とともに雲安をめざして遁走して行ったが、その途中、近侍のものにむかっていうには、
「わしにはまだ、雲安・東川《とうせん》・安徳の三つの城がある。江東は小なりといえども、王たるには十分だ。ただ憎いのは、さきほどのあの逃げて行った役人どもだ。ふだんはわしから大俸大禄を受けながら、今日《こんにち》の有事の際にはさっさと逃げてしまいおった。いまにわしが兵をおこして宋軍を撃退したときには、あの逃げていったやつらを召し捕らえて、こなごなに切り刻んで醢《ししびしお》(塩漬けの刑)にしてくれようぞ」
王慶は一同とともに、馬は蹄を停めず人は足を休めずに逃げつづけるうちに、夜明けごろ、さいわい雲安城が見えてきた。王慶は馬上で欣喜していった。
「城内の将兵は、やはりよくやっておる。見ろ、旗旛は整然とならび武器はびっしりとそろえられているではないか」
王慶はそういいながら一同とともに急いで城へ近づいて行った。と、供のなかの字の読めるものがいった。
「大王さま、たいへんです。なんとしたことか城壁の上は宋軍の旗じるしばかりです」
王慶がそういわれて、目をこらして眺めると、はたして、はるかに東門の城壁の上にきらめいている旗じるしの、金箔の大きな文字は、
征西宋先鋒麾下水軍正将混江
とあって、その下にはなお三字があったが、旗の裾が風にはためいて、はっきりとはわからない。王慶はそれを見るや、おどろきのあまり身体がしびれ、しばらくは身うごきもできなかった。まことに、宋軍は天から降ってきたのか。そのとき王慶の配下の、ひとりの才覚のある近侍のものがいった。
「大王さま、ぐずぐずしてはおられません。早くお召しものをお脱ぎになって、東川へと急がれますよう。城内でお姿を見つけたらさわぎ出すにちがいありません」
「なるほど、その方のいうとおりだ」
と王慶はいい、さっそく、冲天転角《ちゆうてんてんかく》の金の〓頭《ぼくとう》(注一七)をぬぎ、日月雲肩《じつげつうんけん》の蟒〓《もうしゆう》の袍(注一八)をぬぎ、金箱宝嵌碧玉《きんそうほうかんへきぎよく》の帯(金地に碧玉をちりばめた帯)をとき、金顕縫雲根《きんけんほううんこん》の朝靴《ちようか》(金模様の雲型の殿上靴)をぬいで、巾〓《きんさく》と平服となめし皮の靴に換えた。ほかの侍従のものもみな上の衣裳をぬぎすてて、さながら喪家《そうか》の狗《いぬ》のごとく、また漏網《ろうもう》の魚のごとく、あわてふためきつつ、裏道づたいに雲安城を通りすぎ、東川をめざして逃げて行った。行くほどに、人も馬も疲れ、飢えも迫ってきたが、住民たちは久しく賊にいためつけられていたうえに、また大いくさがあると聞いて、およそ要所要所の町すじや街道は、炊煙をあげるものなどひとりもなく、ひっそりと静まりかえり、鶏や犬の声も聞こえないというありさまで、水ひとしずくも飲むところがなく、まして酒など求められるよしもなかった。このとき王慶の配下の側近のものたちは、みな厠へ行くといつわったり、小便に行くふりをしたりして、さらにまた六七十人のものが逃げて行ってしまった。王慶は三十余騎をしたがえて逃げて行くうちに、夕暮れになって、ようやく雲安の管下の開《かい》州の地に着いたが、川にぶつかってゆくてをはばまれた。この川は清江《せいこう》といった。その源《みなもと》は達《たつ》州の万傾池《ばんけいち》に発し、川の水がいたって清澄なところから清江と呼ばれていたのである。そのとき王慶が、
「なんとかして船を手にいれてわたろう」
というと、うしろにいた近侍のひとりが指さしながら、
「大王さま、ずっとむこうの南の水際のまばらな蘆のしげみの、雁が舞いおりているあたりに、漁船の群れが見えます」
といった。王慶はそれを見て、一同とともに岸辺へ駆け寄った。孟冬《もうとう》(陰暦十月)の候で、空は晴れわたっていた。見れば数十艘の漁船が、魚をとったり網をほしたりしていたが、なかの幾艘かは船を中流に放って猜拳(注一九)にうち興じながら大碗で酒を飲んでいた。王慶はため息をついていった。
「あいつらは、まったく楽しそうだ。いまのわしには、とてもおよびもつかぬ。あの連中とてわしの民草なのに、わしのこの苦しみもまるで知らんで」
近侍のものが大声で呼びかけた。
「おい、そこな漁師、船を五六艘漕いできておれたちをわたしてくれ。渡し賃はうんとはずむぞ」
すると、ふたりの漁師が酒の碗をおき、一艘の小さな漁船をあやつって、ぎいぎいと岸に漕ぎ寄せてきた。舳《へさき》のほうの漁師は、船の脇で竹棹をあやつって岸に漕ぎ寄せると、じっと王慶を頭の上から足のさきまで眺めて、
「しめしめ、また酒代にありつけるというもんだ。さあ、乗った乗った」
といった。近侍のものは王慶を馬からおろした。王慶がその漁師を見るに、身の丈《たけ》高く、眉は濃く、眼は大きく、赤ら顔で、針金のようなひげをはやし、声は銅鐘のようである。その漁師は片手に竹棹を持ち、片手で王慶を船に乗せるなり、棹で岸をぐいと突いた。と船はたちまち岸から一丈あまりも離れた。供の賊たちは岸であわて出し、いっせいに叫んだ。
「はやく船を漕ぎもどせ、おれたちもわたるんだぞ」
その漁師は眼を怒らせて怒鳴りつけた。
「さあ、急いでどこへ行こうというんだ」
と、いきなり竹棹を放して王慶の胸倉をつかまえ、両手でぐいと引きつけて、どすんと船板の上におしころがした。王慶がもがくところを、櫓をあやつっていたほうの男が、櫓を放り出してとんできて、いっしょにとりおさえてしまった。かなたの網をほしていた船のものは、王慶を捕らえたのを見ると、みな岸へ跳びあがり、どっとおそいかかって行ってかの三十余名の供の賊をひとりのこらず擒《とりこ》にしてしまった。
そもそも、この棹をあやつっていたのは混江竜《こんこうりゆう》の李俊で、かの櫓を漕いでいたのは出洞蛟《しゆつどうこう》の童威なのだった。かの漁師たちは、大半は水軍の兵士だった。李俊は宋先鋒の命を受け、水軍の船をひきしたがえて賊の水軍を討ちに出たのだったが、瞿塘峡《くとうきよう》で李俊らは賊の水軍と激突してその総帥の水軍都督たる聞人世崇《ぶんじんせいすう》を討ちとり、その副将の胡俊《こしゆん》を擒にして、賊軍を大敗せしめたのだった。そのとき李俊は、胡俊の非凡な風貌を見て、義によって胡俊をゆるした。胡俊はその恩に感じ、李俊のために、だまして雲安の水門をあけさせ、城を奪って偽の留守《りゆうしゆ》の施俊《ししゆん》らを討ちとった。混江竜の李俊は、賊が味方の大軍とたたかって討ち破られたときには、必ず本拠に逃げてくるにちがいないと考えて、張横と張順に城を守らせておいてみずからは童威・童猛とともに水軍をひきつれ、漁船に擬装して、ここで巡回しつつ見張っていたのである。さらに阮《げん》氏の三雄にも漁師の身なりをさせ、それぞれ〓〓堆《えんよたい》・岷江《びんこう》・魚復浦《ぎよふくほ》の各方面へ行って身をひそめ、見張らせておいたのだった。
さきほど李俊は、王慶が一騎先頭に立ち、うしろから大勢のものが護りたてているのを見て、賊のなかの頭目だとは思ったが、まさかそれが元兇だとは気づかなかった。捕らえてから、従者を訊問してみたところ、王慶だとわかり、李俊は手を拍って大笑いし、縛りあげて雲安城にひきたてて行った。同時に人をやって三阮を呼びもどし、二張とともに城を守らせておいて、李俊みずからは降将の胡俊とともに王慶ら一同を宋先鋒の軍前へ護送して行った。その途中、宋江がすでに南豊を破ったことを聞き、李俊らはまっすぐ城内へはいって王慶を元帥府へひきわたした。宋江は諸将が王慶をとり逃がしたために憂慮していたところだったので、知らせを聞いて、大いによろこんだ。そのとき李俊らが元帥府へはいって宋先鋒に見《まみ》えると、宋江は、
「たいしたお手柄です」
とほめた。李俊は降将の胡俊をつれてきて宋先鋒に目通りをさせ、
「手柄はすべてこの人のものです」
といった。宋江は胡俊に姓名をたずね、また雲安をだまし取ったいきさつをたずねた。宋江は賞をあたえてねぎらってから、ただちに諸将と、東川・安徳の二城攻略のことを協議した。と、新参の降将の胡俊が申し出た。
「先鋒、どうかご放念のほどを。わたくしに考えがございます。それによってわけなくあの二城を手にいれることができます」
宋江は大いによろこび、急いで座を立って胡俊に一礼し、その計略をたずねた。胡俊は身をこごめて宋江になにごとかを語ったが、それによってやがて一矢も加えることなくして城は回復され、全軍は静まったままで賊は投降するということとなるのである。さて胡俊はどのようなことを語ったのか。それは次回で。
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一 碧幢・翠・朱旛・〓蓋・黄鉞・白旄・青萍・青電 第七十六回注一三参照。青電はまた紫電ともいう。
二・三 綸巾、羽扇 諸葛孔明にちなんだよそおい。第五十四回注二・三参照。
四 〓〓 第七十六回注一七参照。宝剣の修飾語として使われている。
五 奏楽隊の全員 原文は全部鼓吹大楽。全部とは楽部に坐部と立部(坐して奏するものと立って奏するもの)の両部のあることからいう。
六 貔貅 第八十六回注三参照。士は勇猛にして、の意。
七 相生相剋の理 易の五行の原理。第八十八回注一六参照。
八 魚を釣る 原文は鎗魚とあるが、鄭振鐸の校訂本によって釣魚と改めた。
九・一〇 五花、探馬 五花はさまざまな手というほどの意であろう。探馬は物見の兵、すなわちさぐりの手というほどの意味をふくめている。戯文である。以下の文章もその淫猥の意を以て読まなければ意味がとれない。
一一 筅 狼筅《ろうせん》ともいう。長さ一丈五六尺の大毛竹の先に、長さ一尺の利刃をつけ、さらに枝のように刃物を巻きつけたもの。
一二 袖箭《しゆうせん》 長さ六七寸の円筒のなかに矢を入れて、バネで飛ばす武器。
一三 簡《かん》 鞭(武器)の一種。第二回注一一参照。
一四 鋼鎗 これは重複している。鄭振鐸は、そのためはじめの鞭・鋼鎗を、鞭鋼鎗という一つの武器とみなしているが、従いがたい。
一五・一六 李雄は……、畢先は…… ここでは李雄は瓊英に、畢先は王定六に殺されたことになっているが、すでに二人は魯智深以下八名によって殺されている。おそらくは、さきのほうの「李雄と畢先を斬り殺し」(原文は殺死李雄畢先)を削るべきであろう。
一七 冲天転角の金の〓頭 頂上の角《つの》がまっすぐに立ち、横の角が折れ曲がっている、黄金の冠。第百七回注二参照。
一八 日月雲肩の蟒〓の袍 日月の模様の、肩の張った、蟒《うわばみ》の刺〓のうわぎ。天子は竜袍を着るが、王慶は賊王なので蟒袍といったのである。
一九 猜拳 第百二回注一八参照。
第百十回
燕青《えんせい》 秋林渡《しゆうりんと》に雁を射ち
宋江《そうこう》 東京城《とうけいじよう》に俘《とりこ》を献ず
さて、そのとき宋江が降将の胡俊《こしゆん》に、いかなる策で東川《とうせん》・安徳《あんとく》の二城を取るのかとたずねたところ、胡俊のいうには、
「東川城の守将は、わたくしの弟の胡顕《こけん》でございます。わたくしは李将軍(李俊)に命《いのち》を助けていただきましたご恩返しに、東川へ行って弟の胡顕を投降させようと存じます。そうしますならば、あとの安徳の孤城もたたかわずして投降してまいりましょう」
宋江は大いによろこんで、さっそく李俊を胡俊といっしょに行かせることにした。また、将士を派遣して、未回復の州県を帰順させるべく兵をひきいて各方面へ行かせるとともに、戴宗に上奏文を持たせて、今後の指示を仰ぐべく朝廷に上奏させ、同時に陳安撫に上申書を、宿太尉に書状をとどけさせた。ついで宋江は将士を王慶の宮居へやって、金銀珠玉や珍宝玉帛などを捜して取りあげさせ、禁制の竜楼《りゆうろう》・鳳閣《ほうかく》・翠屋《すいおく》・珠軒《しゆけん》、おなじく禁制の調度や衣服をことごとく焼きはらわせ、雲安へも使いをやって、張横らに禁制の行宮《あんぐう》や調度などをこれまたことごとく焼きはらわせた。
さて戴宗は、まず荊南へ行って上申書を陳安撫にとどけた。陳安撫も上奏文をしたためて、いっしょに朝廷へとどけることを戴宗に託した。戴宗は東京《とうけい》に着くと、書状を宿太尉にとどけ、あわせて礼物を贈った。
宿太尉が上奏文を天覧に供すると、徽宗《きそう》皇帝には竜顔ことのほかうるわしく、ただちに聖旨をくだして、使者を淮西《わいせい》へつかわし、逆賊王慶は東京へ護送して命《めい》を待って刑に処するよう、その他の擒《とりこ》にした偽の妃(段三娘)や偽の役人など配下の賊どもはみな淮西の市中で打ち首にして梟首《さらしくび》にするよう、王慶にいためつけられた淮西の住民に対しては、兵糧だけを残し、あとは各戸に分けあたえて難民の救済にあてるよう、陣没した功労のあった降将たちに対しては、それぞれ厚く官位を追贈するよう、淮西の各州県の欠員となっている正副の役人については、補充し赴任させて将領と交替させるよう、各州の役人で当時は賊に脅かされて従っていたものの後には正道にたちかえった多くのものについては、すべて陳〓に事情の軽重を斟酌《しんしやく》して適当にとりさばかせるように、そしてこのたびの征討において功のあった正副の将領たちについては、都に凱旋したうえでそれぞれ論功行賞をする、とのことであった。勅命がくだると、戴宗はさきに報告にもどった。
陳安撫らはこのときすでに南豊《なんほう》の城内にはいっていた。胡俊もすでに弟の胡顕を投降させていて、胡顕は東川《とうせん》の軍民の戸籍簿および租税の帳簿を献納して(城をあけわたして)、沙汰を待っていた。すると安徳州の賊も、形勢を見て投降してきた。かくて雲安・東川・安徳の三地方は、農夫は野良仕事からはなれることなく、商人はその店からはなれることなくすんだが、これはみな李俊(注一)の手柄であった。王慶が占領していた八郡八十六州県は、こうしてことごとく回復されるにいたった。
戴宗が東京から南豊に帰ってきて、十日あまりたったころ、勅使が詔書を奉じ、駅馬を乗りついで到着した。陳安撫は諸官とともに聖旨を迎え、とどこおりなくお受けした。翌朝、勅使は都へ帰って行った。陳〓は段氏(段三娘)・李助および配下の叛徒たち一同を牢からひき出させて斬首の刑をいいわたし、南豊の市中にひきたてて行って打ち首にし、首級を各城門にかかげて梟首にした。段三娘は、弱年のころから婦訓にしたがわず、勝手に夫を選んで天にはびこる大罪を犯すにいたったが、いまや身首《しんしゆ》所をことにするにいたったうえに、多くの眷属を巻き添えにする次第とはなった。その父親の段太公はこれよりさき房山の寨《とりで》で死んだ。
くどくどしい話はやめて、さて陳安撫と宋先鋒は、李俊・胡俊・瓊英・孫安の功を功績簿に記し、また各地に告示を出して宣撫につとめ、住民を安んぜしめた。かくて八十六州県は、ふたたび天日を仰ぎ、良民にたちかえるにいたった。その他の、賊の配下だったものも、人をあやめなかったものには生業のもとでをあたえて再び郷民にならしめた。西京の守将の喬道清と馬霊は、新任の役人が到着したので、相ついでみな南豊に集まってきた。各州県の正副の貳官《じかん》(地方官)も続々と到着し、李俊・二張・三阮・二童らも州務の引きつぎをすませると、ことごとく南豊にやってきて、互いに久闊を叙しあった。かくて陳安撫とその配下の諸官、宋江以下一百零八人の頭領、および河北の降将たちは、うちこぞって南豊で太平《たいへい》の宴《えん》を設け、諸将・諸官互いに慶賀し、全軍の将兵の労をねぎらった。ついで宋江は、公孫勝と喬道清に祭りをとりおこなわせ、七日七夜の祭りをいとなんで陣没した将兵、ならびに淮西の罪なくして死んだ人々の供養をした。祭りがおわったところへ、孫安が急病のため陣営で亡くなったという知らせがあった。宋江は深くその死を悼み、手厚い礼を以てその遺骸《なきがら》を棺に納め、竜門山のほとりに埋葬した。喬道清は孫安に亡くなられて、ひどく嘆きかなしみ、宋江にむかっていい出した。
「孫安とわたくしは同郷であり、最も親しい間柄でございました。彼は父の仇を討ったことから罪にとわれ、身を落として賊に投じたのでございますが、幸いに先鋒の部下に加えていただき、ゆくゆくはしかるべき立身をと心がけていたのですが、はからずも中道で斃《たお》れてしまいました。わたくしが先鋒の部下に加えていただきましたのも、彼が迷いを解いてくれたからでございます。彼が亡くなってしまいましたいま、わたくしにはもはやこの世になんの望みとてございません。わたくし、おふたりの先鋒(宋江と盧俊義)のご恩は心に銘じ骨に鏤《きざ》んで忘れませんが、願わくはお暇《ひま》をいただき、野に帰って余生を送りたいと存じます」
馬霊も、喬道清が去って行こうとしているのを見ると、おなじく宋江に暇《いとま》を願い出た。
「どうかわたくしも、喬法師といっしょに行くことをおゆるしくださいますよう」
宋江はそれを聞くと、惨然と心を曇らせたが、ふたりの辞去の意はかたく、ねんごろにひきとめても動かせなかった。宋江は仕方なくたち去らせることにし、さっそく酒を出して別れの宴を催した。公孫勝はかたわらで、じっとおし黙ったままであった。喬道清と馬霊は、宋江と公孫勝に別れを告げ、さらに陳安撫にも挨拶をして、ふたりで飄然とたち去って行った。のち、喬道清と馬霊はともども羅真人のところへ行き、師事して道を学び以て天寿を全うしたという。
陳安撫は淮西《わいせい》の諸郡の軍民の宣撫と救済をとどこおりなくすませた。淮西というのは、淮〓《わいとく》(淮河と〓水)の西という意味である。従って宋の人たちは宛州や南豊などの地をも淮西と呼んでいたのだった。さて、陳安撫は命令をくだして、先鋒ならびに頭目たちに都へ凱旋する用意をさせた。命令がくだると、宋江はまず中軍の兵に陳安撫・侯参謀・羅武諭を護衛して出発させ、同時に水軍の頭領に命じて、船をひきいてさきに東京へ帰り、そこに屯《たむろ》して命を待つことにさせた。ついで宋江は、蕭譲に文をつくらせ、金大堅に碑《いしぶみ》をきざませて、このたびの事蹟を記《しる》させ、南豊の城の東の竜門山の麓に碑を立てさせた。その古蹟は今もなお残っている。降将の胡俊と胡顕は、宋先鋒のために送別の酒宴を催した。のち、宋江は参内したとき、胡俊と胡顕が邪を捨てて正に帰《き》し、二城を投降せしめた功を天子に奏上したところ、天子は特に胡俊と胡顕に東川水軍団練《だんれん》の職をさずけられたが、これはのちの話である。
かくて宋江は兵を五隊に分けて出発することになり、日限をきって行《こう》をおこした。兵士は、各州県の守備に残されたもののほか、なかにはまた郷里に帰りたいと願い出るものもあって、現有兵力は総勢十余万、南豊をあとに、一路東京へと進んで行った。軍は紀律ただしく、その通りすぎる地方では秋毫も危害をくわえることなく、住民たちは香花灯燭をささげて、伏し拝んで見送るというありさま。行くこと数日で、土地の名を秋林渡《しゆうりんと》というところに着いた。この秋林渡というのは、宛州の管下の内郷県《ないきようけん》秋林山の南にあった。その山の景色はなかなか見事であった。宋江は馬上はるかに山を眺め、そして空をふり仰いだところ、空をわたる数行《すうこう》の雁が列を乱し、高く低く乱れ飛んでみななにかものにおびえているような様子だった。宋江はそれを見て、これはおかしいぞと思った。と、そこへまた前軍でどっと喝采する声がしたので、部下のものにわけをききにやらせたところ、やがて馬を飛ばして帰ってきていうには、浪子の燕青が弓の手ほどきをうけて空の雁を射ってみたところ、矢は一発もはずれずに、たちまちのうちに数羽の雁を射ち落としたので、諸将がしきりにおどろいているところだとのこと。宋江が燕青を呼びにやると、燕青は弓矢を持って、さっそく馬を飛ばしてやってきた。鞍のうしろには死んだ雁が数羽くくりつけてある。燕青は宋江に挨拶をし、馬をおりてかたわらに立った。
宋公明が、
「さっき、そなたは雁を射ったな」
というと、燕青は、
「はじめて弓を習いまして、雁の群れが空を飛んでいるのを見かけましたので気まぐれに射ってみましたところ、思いがけなくみんな命中いたしました」
といった。すると宋江のいうには、
「武人たるもの、弓矢を学ぶのは本来のつとめであり、命中したというのはそなたのすぐれた技倆というものだ。しかし、わたしの思うに、雁(注二)という鳥は寒気《かんき》を避けて天山《てんざん》(天山山脈)を離れ、蘆を銜《くわ》えて関《かん》(長城)を越え、江南の地の温暖な気候をしたってやってきて、稲や梁《きび》をあさりながら、初春になって帰って行くのだ。この雁という鳥は仁義をわきまえた鳥で、あるいは数十羽、あるいは三四十羽と群れつどいながら、互いに譲りあって、目上のものはさきに、目下のものはあとに、序列を正して飛び、決して仲間からはずれるようなことはしない。夜になってねぐらにつくときでも、交替で寝ずの番をする。そればかりか雄がつれあいの雌をなくしたり、雌がつれあいの雄をなくしたりすると、死ぬまで二度とつれあいを持たないのだ。この鳥は仁義礼智信の五常をかねそなえている。空中から死んだ雁をはるかに見たときには、みな哀悼の意を表して鳴く。仲間を失った孤雁は決して他の仲間を侵すようなことはしない。これは仁というものだ。ひとたびつれあいを失えば死ぬまでついにめとらない。これは義というものだ。序列に従って飛び、前後を乱さない。これは礼というものだ。鷹や〓《わし》を用心して、蘆を銜《くわ》えて関を越える。これは智というものだ。秋になれば南下し春になれば北上して、時をたがえることがない。これは信というものだ。このようにこの鳥は五常をかねそなえているのだ。これを殺すのはいかにも忍びがたいことではないか。空を一群の雁が互いに呼びかわしながらわたって行くのは、ちょうどわれわれ兄弟と同じことだ。そなたがそのなかの数羽を射ち落としたのは、われわれ兄弟のうちの幾人かが失われたのにもたとえられよう。その時の一同の心中ははたしてどんなだろうか。今後は決してこの礼義の鳥を殺したりなどしないようにな」
燕青は黙然として一語もなく、深くその罪を悔いた。宋江は心に感ずるところあって、馬上で一首の詩を口ずさんだ。
山嶺は崎嶇《きく》として水は渺茫《びようぼう》たり
空に横たわる雁陣《がんじん》両三行
忽然《こつぜん》として双飛の伴《とも》を失脚す
月冷《ひやや》かに風清く也《また》断腸
宋江は詩を吟じおわると、そぞろ悲しさがこみあげてきて、目に触れるものことごとくに哀しさをさそわれた。その夜は秋林渡の渡し口で宿営したが、宋江は本営のなかで、燕青が雁を射ったことを思いかえして嘆き、心のうちふさぐまま、紙と筆を取り寄せて一首の詞《うた》を作った。
楚天(楚の空)空闊《くうかつ》、雁群《むれ》を離るること万里、恍然《こうぜん》として驚散す(呆然とうちおどろく)。自ら影を顧みて寒塘《かんとう》(わびしき池)に下《くだ》らんと欲するも、正に草枯れ沙浄《すなしろ》く、水平らかに天遠く、写《うつ》して(書いて)書《しよ》(文)を成さず、只寄するは相思の一点のみ。暮日の空濠《くうごう》、暁煙《ぎようえん》の古塹《こざん》(古いほり)、訴うるも尽きず許多《あまた》の哀怨。蘆花を揀《えら》び尽《つく》して宿るに処無く、嘆ず何れの時にか玉関《ぎよくかん》(玉門関)に重《かさ》ねて見《まみ》えん。〓〓《りようれき》と憂愁嗚咽《おえつ》し、江渚《こうしよ》の留恋し難きを恨む。請うらくは他《かれ》の春昼《しゆんちゆう》に帰り来って、画梁《がりよう》(絵をえがいた梁《はり》)に双燕を観んことを。
宋江は書きおわると、呉用と公孫勝に見せた。詞《うた》には悲哀憂戚の情がこめられていた。宋江は心中鬱々として思い屈している様子であった。その夜、呉用らは酒席を設け肴をととのえて、酔いをつくしてから寝た。
翌日、夜が明けると、一同は馬に乗って南へと進んだ。道中は晩冬のこととて眼にうつる風物はすべて凄涼たるものであった。宋江は路々ずっとその凄涼たる思いを感じつづけつつ、やがて都へ帰り着き、軍を陳橋駅《ちんきようえき》にとどめて聖旨を待った。
さて、これよりさき陳安撫ならびに侯参謀の中軍は城内へはいり、すでに宋江らの功労を天子のお耳にいれていたが、宋先鋒以下の将兵が凱旋してきてすでに関所の外に到着したとの知らせがあったので、陳安撫は参内して、宋江ら諸将の征戦における労苦の次第を奏上した。天子はそれを聞いて大いに嘉《よみ》され、陳〓・侯蒙・羅〓にはそれぞれ官爵を陞叙《しようじよ》されたうえ、銀両と緞疋を下賜され、ついで聖旨をくだして、黄門侍郎に、宋江らに拝謁を仰せつけるゆえ一同武装して入城するよう伝えよと命ぜられた。
詩にいう。
去る時三十六
回《かえ》り来《きた》る十八双(注三)
縦横千万里
談笑卻《かえ》って郷に還《かえ》る
さて宋江ら諸将一百八人は聖旨を奉じて本来の軍装に身を正した。戎衣をまとい革帯《かくたい》をしめ、〓をかぶり甲をつけ、上には錦襖《きんおう》をまとい、金銀の牌面(注四)を懸《か》け、東華門からはいって一同文徳殿《ぶんとくでん》に至り、天子に拝謁して拝舞の礼をささげ、聖寿の万歳を唱えた。聖上が宋江ら諸将の英雄ぶりをうち眺められるに、一同みな錦袍をまとい金帯をしめていたが、なかで呉用・公孫勝・魯智深・武松のみは、自分の本来の服装(注五)をしていた。天子はご機嫌うるわしくさっそく言葉をかけられた。
「その方らの征進における労苦はよく存じておる。賊を平らげるにあたって心を労し、手傷を受けたものも多かったとのことで、いたく憂慮していたぞ」
宋江は再拝して奏上した。
「聖上の天にもひとしき御徳によりまして、わたくしども諸将、手傷を負うたものはございましたとはいえ一同みな事なきを得ました。いまや元兇もその首をささげ、淮西の地が平定されましたことは、まことに陛下のご威徳のたまものでございまして、なんらわたくしどもの労力のいたすところではございません」
再拝して感謝をささげ、さらに奏上した。
「わたくしども聖旨を奉じ、王慶を俘《とりこ》として献上すべく闕下《けつか》につれてまいりました。お沙汰を待って処分いたしたく存じます」
天子は聖旨をくだし、司直のもの相集まって王慶を凌遅《りようち》(一寸刻みの刑)に処するよう命ぜられた。宋江はついで、蕭嘉穂《しようかすい》が奇計をもって城を取りもどし、民草の命を全うしながら、その功をほこることなく、超然として俗塵をのがれて行ったことを奏上した。天子はこれをほめたたえて、
「すべてその方らの忠誠に動かされてであろう」
と仰せられ、省院官に対して、蕭嘉穂をさがし出し、都へつれてきて登用するようにと命ぜられた。宋江は叩頭して感謝した。だが、省院官たちには、ひとりとして朝廷のために力をつくして有能なものをさがしに行こうとするようなものはいなかった。これはしかし、のちの話である。
この日、天子は特に省院の諸官に対して宋江らの封爵のことをはかるよう命ぜられたところ、太師の蔡京《さいけい》と枢密の童貫《どうかん》は相談のうえ、こう奏上した。
「目下、天下はまだ平静になったとは申されませぬゆえ、官爵を陞叙《しようじよ》することはいかがかと存じます。それゆえ、ひとまず宋江には保義郎《ほうぎろう》(無任所の名誉職)・帯御器械《たいぎよきかい》(注六)・正受皇城使《せいじゆこうじようし》(皇宮所属の無任所官)の官を加え、副先鋒の盧俊義には宣武郎《せんぶろう》(無任所の武官)・帯御器械・行宮団練使《だんれんし》(行宮所属の民兵司令官)の官を加え、呉用以下の三十四人には正将軍の官を、朱武ら七十二名には偏将軍の官を加封し、金銀を下賜して全軍の兵士をねぎらわれますよう」
天子はその奏言をいれ、省院の諸官に対して宋江らに爵禄を加封し、褒賞をとらせるよう勅命された。宋江らは文徳殿で頓首して聖恩を謝した。天子は光禄寺《こうろくじ》(大膳職)に命じて盛大な宴を設けさせられ、宋江には錦袍一かさね、金甲一そろい、名馬一頭を下賜し、盧俊義以下のものにもそれぞれ恩賞のお沙汰があって、いずれも内府《ないふ》から受領するようにとのことであった。宋江と諸将一同は聖恩を謝してのち、うちそろって宮中をさがり、西華門を出て、馬に乗って帰営の途についた。諸将の一行は城を出るとまっすぐ旅営に帰って休息し、朝廷のご用を待った。
その日、司直のものは聖旨を奉じて相集まり、犯由牌《はんゆうはい》(罪状札)を書きあげ、囚車をうち開けて王慶をひき出し、「〓《か》」(凌遅の刑)の判決をくだしたのち、刑場へおしたてて行った。見物のものは押しあいへしあいして、唾を飛ばして罵るものもあれば、うち嘆くものもある。王慶の父の王〓《おうけき》および先妻やその父など親族縁者のものは、すでに王慶が謀叛をおこした当初に捕らえられてほとんどみな殺されてしまい、いまは王慶ひとりだけで、刀剣の林のなかにひき据えられているのだった。破れ太鼓が二度鳴りわたり、ひびわれた銅鑼《どら》が一声鳴りひびき、鎗刀《そうとう》は白雪のごとく列《つらな》り、〓纛《そうとう》(黒い大旗)は黒雲のごとくうちなびく。〓子手《かいししゆ》(首斬り役人)は怒号をあげて勢揃いした。おりしも午時《ひ る》の三刻《みつどき》、王慶を十字路にひき出して罪状を読みあげ、しきたり通りに凌遅の刑が執行された。見物の人々はみないうよう、
悪のむくいのお手本がこれ(注七)
とどのつまりはこのしまつ
よほど悪事を積まなけりゃ
こんなお仕置き受けまいに
そのとき監斬官(死刑監督官)は、王慶の処刑をとどこおりなくおわると、その首を梟首《さらしくび》にしたが、この話はそれまでとする。
さて、宋江ら一同は聖恩を拝受して帰ったが、その翌日、とつぜん公孫勝が宿営の中軍の本営へはいってきて、宋江ら一同に鄭重に礼をし、宋江に対していった。
「以前、師匠の羅真人から、兄貴を都へお送りしたならばさっそく山へ帰ってくるようにといいつかりました(注八)。このたび兄貴には功成り名遂げられましたゆえ、わたくしはこれにてお暇をいただき、ご一同にお別れして山へ帰り、師匠のもとで道を学び、老母に孝養をつくして天寿をおえたいと存じます」
宋江は、公孫勝に前からの約束をいい出されて、とうてい翻意させることはできないとあきらめ、はらはらと涙を流しながら公孫勝にいった。
「思えば、むかし兄弟たちが諸方から集まってきたときには、花の咲きほころびるようににぎやかであったが、きょう、こうして兄弟が相別れるのは、花の散り落ちるようなわびしい気持です。わたしは決してあなたの前からの約束を反故《ほご》にしようなどとは思いませんが、なんといっても別れるには忍びない気持でいっぱいです」
「もしも中道で兄貴を捨て去るのでしたら、つれない仕打ちともいえましょうが、いまや兄貴は功成り名遂げられたのです。ぜひともおゆるしをいただきとう存じます」
と公孫勝はいった。宋江は再三ひきとめたがかなわず、ついに宴席を設けて兄弟一同に名残りを惜しませた。席上杯をあげながら、一同は嘆息をもらし、涙を流しつつ、それぞれ金や帛《きぬ》を餞別に贈った。公孫勝はおし返して受け取らなかったが、兄弟たちはかまわず包みのなかへくるんでしまった。翌日、一同はいよいよ別れることになった。公孫勝は麻鞋《あさぐつ》をはき、包みを背負い、うやうやしく礼をして、北のほうへと旅立って行った。それより宋江は毎日思いにふけって涙を流し、鬱々として心楽しまなかった。
時にまた元旦の節日が迫り、諸官(宋江ら)は拝賀の準備をはじめた。蔡太師は宋江ら一同がそろって拝賀に参内したならば、天子はそれを見て必ず重くおとりたてになるにちがいないと案じ、さっそく天子に奏聞して聖旨の降下を請い、人をやってこれをはばませた。すなわち、宋江と盧俊義は官位ある身分ゆえ拝賀の列に連なることができるが、その他の討伐の際の官員は、いずれも本来は無位無官であって、おそれ多いことがあってはならぬゆえみな礼にはおよばないとした。
元旦になり、百官は拝賀に集まった。宋江と盧俊義はともに官服をつけて待漏院《たいろういん》(朝見のときの控えの間)に早朝から伺候し、列に加わって礼をおこなうことになった。この日、天子は紫宸殿《ししんでん》に出御されて拝賀を受けられた。宋江と盧俊義は列に加わって拝礼をおこなったが、二列に〓《きざはし》の下に侍立し、殿上にのぼることはできない。殿上を仰ぎ見れば、玉の簪《かんざし》に珠の履《くつ》、紫の印綬に金章の人々がゆきかいつつ、杯をあげて聖寿をことほいでいる。宋江らは夜明けからずっと午牌《ごはい》(昼)ごろまで待って、ようやく御下賜の御酒《ぎよしゆ》にあずかることができた。百官の拝賀がおわると、天子は退出された。宋江と盧俊義は宮中をさがり、官服と冠をぬぎ、馬に乗って陣営へ帰ったが、その顔を愁いと恥辱に曇らせていた。呉用らは出迎えたが、諸将は宋江が顔を曇らせ、心中悶々として晴れやかでない様子を見てとった。一同は年賀の挨拶に集まり、百余人のものが礼をおわって左右に控えたが、宋江はうなだれたまま一言《ひとこと》も口をきかない。呉用が、
「兄貴、きょうは天子に拝賀してこられたのに、どうしてふさいでおられるのです」
とたずねると、宋江はため息をもらして、
「どうやらわたしの持って生まれた星まわり(注九)はつたなく、運がふさがっているらしい。遼を破り賊を平らげ、東に西に討伐に駆けめぐり、幾多の労苦をなめてきたのに、このたびは兄弟たちをも巻き添えにして、その功も甲斐もないものにしてしまった。それで沈んでいるのです」
「運がひらけないのだとおわかりになれば、それでよいじゃありませんか。なにもふさぐことはありますまい。ものにはすべて分《ぶん》というものがあります、あれこれ思い患うことはありませんよ」
と呉用がなだめると、黒旋風の李逵が、
「兄貴、くよくよ考えこむのはよしなさい。前に梁山泊におったころは、誰からも踏んづけられたりなんかしたこともなかったのに、きょうも招安、あすも招安で、とうとう招安を受けてしまったあげくが、こんないまいましいことになってしまったんだ。兄弟たちをここで自由にして、もういちど梁山泊へ行こうじゃありませんか。そうすりゃどんなにせいせいすることか」
宋江は大声で怒鳴りつけた。
「この野郎め、また無礼なことをいう。国家の臣となったいまでは、みんな朝廷の良臣なのだぞ。きさまは道理がさとれず、まだ反心がおさまらぬのか」
李逵はなおもいい返した。
「兄貴おいらのいうことをきかんと、あしたの朝、また踏んづけられますぜ」
一同はみな笑いながら、酒をささげて宋江の寿を祝った。その日は二更(夜十時)ごろまで飲みつづけてから、それぞれひきとった。
翌日、宋江は十数騎をしたがえて城内へ行き、宿太尉・趙枢密ならぴに省院の諸官のところへ年賀に行ったが、城内をゆききするうちに多くの人々の眼につき、そのなかのさるものが、蔡京にこのことを知らせた。翌日、蔡京は天子に奏上して聖旨を請い、それを省院につたえてつぎのような禁止の告示を各城門にかかげさせた。すなわち、討伐の際の官員・将軍・頭目らすべてのものは、城外に陣営を設けて駐屯して命令を待つよう、上司より召喚の公文を受けた場合のほかは、みだりに城内へはいることを禁ずる、もしこれに反するときは、必ず軍令に照らして処罰をおこなう、というのである。使いのものはその告示を陳橋駅《ちんきようえき》の門外へ持って行ってかかげた。それを見たものが、ただちに宋江に知らせた。宋江はますます憂悶した。諸将もそれを知って同じくみな憂悶し、一様に反心をいだいたが、宋江ひとりにそれをおしとめられていた。
一方、水軍の頭領たちは、相談したいことがあるからと、わざわざ軍師の呉用を迎えにきた。呉用が船へ行って、李俊・張横・張順・阮氏三兄弟に会うと、みなは軍師に訴えた。
「朝廷には信がおけません。奸臣どもが権力をほしいままにして、人材の世に出る道をふさいでいるのです。兄貴は大遼国を討ち破り、田虎を滅ぼし、いままた王慶を平らげたというのに、わずかに皇城使に任ぜられただけで、われわれ一同はなんの陞進《しようしん》にもあずかっておりません。しかもこんどは告示を出して、われわれに城内へはいることはならぬという禁令をおしつけてきた。思うにあの奸臣どもの一味は、だんだんわれら兄弟をばらばらにして、方々へ追いやろうとたくらんでいるのです。それでお願いする次第ですが、軍師にははっきりと肚《はら》を決めていただきたいのです。もし兄貴に相談して、どうしても承知してもらえぬときには、ここであばれ出して、東京を根こそぎ掠め取り、もういちど梁山泊へ帰りましょう。強盗になるほうがよっぽどましです」
「宋公明兄貴は絶対に承知なさらんだろう。あんたたちがいくら力んでみたところで、箭頭《せんとう》発せずんば努めて箭桿《せんかん》を折るのみ、というだけのことだ。むかしから、頭のない蛇は進まぬ、という。わたしがやろうといったところでどうにもなりはしない。その話は兄貴が承知してこそはじめて実行できることなのだ。兄貴がやることを承知しなければ、あんたたちがいくら謀叛しようとしたところで、とうていできることではない」
六人の水軍の頭領は、どうしても呉用がやろうとはいわないので、みな黙ってしまった。
呉用は中軍の陣営に帰ると、宋江と雑談をかわしながら軍の様子をくらべていった。
「兄貴は以前はほんとうに自由で、ほんとうにのびのびとやっておられたし、兄弟たちもみな心から楽しくやっておりましたが、招安を受けて国家のために力をつくし、国家の臣となってからというものは、思いがけないことに、かえって拘束を受け、任用もされない始末で、兄弟たちはみな恨みをいだいているようです」
宋江はそれを聞くと、はっとして、
「誰かあなたのところへ、なにか告げにきたのでは?」
「いいえ、しかしこれが人としての当然の心情であることは、いうまでもないことでしょう。古人も、富と貴とは人の欲する所、貧と賤とは人の悪《にく》む所(注一〇)、といっております。形を見て様子を察し、顔色を見て心を知ったまでです」
「だが軍師よ、兄弟たちがたとえよくない考えをおこしたとしても、わたしは、死んであの世へ行くとも決してこの忠心をひるがえしはしませんぞ」
その翌朝、宋江は軍事上の相談があるから、と諸将を一堂に会した。頭領たち一同が本営に集まると、宋江はいった。
「わたしは〓城《うんじよう》の小役人だったが、大罪を犯してしまい、いろいろとみなさんに助けていただいて、頭《かしら》におしたてられた。そしていまはこうして国家の臣になることができた次第です。むかしから、人を成すは不自在《ふじざい》、自在は人を成さず(ままならぬことこそ人をはぐくむ)というが、このたび朝廷から制札が出されて城内にたち入ることを禁止されたものの、道理はこの言葉と同じです。みなさんがた一同、故なくして城内へはいらぬように。われわれは山間林中にあったものとて、粗暴な兵士が極めて多いゆえ、もしそのために面倒なことをひきおこせば、必ず法によって処罰されるだろうし、そうなればせっかくの名声もつぶれてしまいましょう。いまわれわれが城内にたち入ることを禁じられたのは、かえって幸いというものです。みなさんが、もし拘束に反撥して謀叛をおこそうというのなら、まずわたしの首を斬り落としてから、勝手にやっていただきたい。首は斬れぬとおっしゃるなら、わたしとて恥をさらしては生きられぬゆえ、自ら首を刎《は》ねて死にましょう。いずれなりとみなさんのしたいようにしていただこう」
一同は宋江の言葉を聞くと、みな涙を流しながら、異心をいだかぬと誓いをたてて、ひきさがった。
詩にいう。
誰か西周(注一一)に向《むか》って好音《こういん》を懐く
公明(注一二)忠義にして心を移さず
当時羞殺《しゆうさつ》す奏長脚《しんちようきやく》(注一三)
身は南朝《なんちよう》(注一四)に在り心は金《きん》に在り
宋江および諸将は、これよりのちはなにごともなく、城内にはいることもなかった。
やがて上元節(正月十五日)となり、東京では毎年のならわしで賑々しく灯籠をともして元宵《げんしよう》(上元)の夜を祝った。路々にはことごとく灯籠が飾られ、どの役所にもみな灯火がともされた。
ところで宋江の陣営では、浪子の燕青が楽和《がくわ》に相談を持ちかけた。
「いま東京では飾り灯籠をつけたり火戯(注一五)をやったりして豊年を祝い、天子が民と楽しみをともにして(注一六)おられるが、おれたちもきものを着換えて、こっそり城内へ行って見物してこようではないか」
そのとき、横から口をはさんだものがいた。
「おまえさんたち灯籠見物に行くのなら、おれもつれて行ってくれ」
燕青がふり返って見ると、それは黒旋風の李逵だった。李逵は、
「おまえさんたちはおれに隠れて灯籠見物の相談をしていたが、おれはさっきからすっかり聞いてたんだぜ」
という。燕青は、
「いっしょに行ってもかまわんが、あんたは気性が荒っぽいから、きっとなにか面倒をひきおこすだろう。いま省院では制札を出して、われわれに城内へはいることを禁じている。もしあんたといっしょに城内へ灯籠見物に行って、なにか事をひきおこしでもしたら、省院のやつらの思う壺にはまってしまうからな」
「こんどは決して面倒をひきおこさないようにするよ。なんでもあんたのいうとおりにやるよ」
「それじゃ、あした、きものも頭巾も換えて、すっかり旅人のような身なりで、いっしょに城内へ行くことにしよう」
李逵は大いによろこんだ。そして翌日、すっかり旅人の身なりをし、いっしょに城内へ行くため燕青を待ちうけていた。ところがこのとき楽和は、李逵をけむたがって、こっそり時遷といっしょにさきに城内へ行ってしまったのである。燕青はまいてしまうこともできず、しぶしぶ李逵と城内へ灯籠見物に行くことにしたが、陳橋門《ちんきようもん》からはいって行くのはやめて、大廻りをして封丘門《ふうきゆうもん》からはいった。ふたりは手をつなぎあいながら、桑家瓦《そうかが》(注一七)をめざして行った。やがて瓦子《がし》(注一八)まで行くと、芝居小屋(注一九)から銅鑼の音が聞こえてきた。李逵がどうしてもはいってみようというので、燕青は仕方なくいっしょに人垣のなかに分け入って、舞台で語られている平話《へいわ》(講釈)に耳をかたむけた。ちょうど三国志《さんごくし》をやっていたが、話はやがて関雲長《かんうんちよう》(閧羽)骨を刮《けず》って毒を療《いや》す(注二〇)のくだりになった。
「そのとき雲長は左の腕《かいな》に矢をうけ、矢の毒は骨にまでしみた。医師の華陀《かだ》のいうには、
『この毒を消すには、銅の柱を立ててそれに鉄の環《わ》をとりつけ、腕をその環にとおして索《ひも》でくくりつけます。そして肉を切り開き、骨を三分ほどけずり取って矢の毒を除きましたうえ、油線《あぶらいと》で縫いあわせ、外からは塗り薬をぬり、内からは煎《せん》じ薬を服用いたすのでございます。そうすれば半月とはたたぬうちにもとどおりになおりますが、こういうわけでなかなかむずかしい治療でございます』
すると関公はからからと笑い、
『大丈夫は生死をおそれぬ。腕の一本ぐらいがなんであろう。銅の柱も鉄の環もいらぬ。このまますぐ切ってくれ』
かくて碁盤を取り寄せて客と碁をうちつつ、左手をさしのべて、華陀に骨をけずって毒を取らせ、顔色ひとつ変えることなく、客と談笑をして泰然自若たるありさま」
話がそこまで進んだとき、李逵が人群れのなかで大声をあげた。
「いよう、あっぱれ快男児!」
人々はびっくりして、みんな李逵をふり返った。燕青があわてて、
「李兄い、よせよ、みっともない。盛り場の芝居小屋で、なんだってそんな突拍子もない声を出すんだい」
とおしとめると、李逵は、
「話があそこまできて喝采せずにおられるか」
燕青は李逵を引っぱって逃げだした。ふたりが桑家瓦をはなれて、大通りを曲がって行くと、ひとりの男が煉瓦や瓦を投げつけて、とある家に乱暴をはたらいている。その家の人は、
「この太平無事の世に、二度も踏みたおして金《かね》を返さぬばかりか、逆に家に乱暴をするなんて」
といっている。黒旋風はそれを聞くと、人の難儀を見すごせず、いきなり殴りかかろうとした。燕青は必死になって抱きとめた。李逵は両眼を怒らせて、その男をやっつけずにはおかぬという気構えである。するとその男はいった。
「おれはあいつに貸しがあって取りにきたんだ。きさまの知ったことじゃない。きょうじゅうにもおれは張招討《しようとう》(注二一)について江南へ討伐に行くんだ。きさま、おれを怒らせぬほうがよかろうぜ。あっちへ行けば、どうせ命はないんだ。やろうというのなら、きさまの相手になってやろう。ここで死んだら、かえっていい棺桶にいれてもらえようて」
「なに、江南へ行くって? 動員があるとは、いっこう聞かなかったが」
と李逵はいった。燕青はその場をとりなだめたうえ、ふたりは手をつなぎながら大通りを曲がり、小路へ出た。と一軒の小さな茶店があったので、ふたりはなかへはいって席をさがし、腰をおろして茶を飲んだ。むかいあいの席にひとりの老人がいたので、声をかけていっしょに茶を飲みながら、四方山《よもやま》話をした。燕青が、
「ちょっとおたずねしますが、いまさっき小路の入口のところでひとりの兵卒が喧嘩をしていたんですが、そいつのいうには、張招討について江南へ行くんだ、間もなく出陣だ、とのことでしたが、ほんとうに、いったいどこへ行くんでしょうかね」
というと、その老人は、
「ご存じなかったのですか。このごろ江南の盗賊の方臘《ほうろう》(注二二)というものが謀叛をおこして、八州二十五県を占領し、睦《ぼく》州からずっと潤《じゆん》州まで手をひろげてみずから国王と名乗り、近く揚《よう》州へ攻めてくるとのことなので、朝廷では張招討と劉都督に討伐に行くよう命令をくだされたのですよ」
燕青と李逵はこの話を聞くと、あたふたと茶代をはらって小路を出、まっしぐらに城外へ出て陣営に帰り、軍師の呉学究に会ってこのことを知らせた。呉用はそれを聞いて心中大いによろこび、宋先鋒のところへ行って、江南の方臘が謀叛をおこし朝廷ではすでに張招討に出兵を命ぜられた由を告げた。宋江はそれを聞くといった。
「われわれ将兵一同、ここでなすこともなくすごしていることは、どうもまずいことです。それでこの際、使いのものを宿太尉のところへやってたのみ、天子にとりついでもらって、われわれのほうから願い出て討伐に行くことにしようではないか」
かくてさっそく諸将を一堂に会して相談したところ、みな大いによろこんだ。翌日、宋江は衣服を換え、燕青をつれてみずからこのことを話しに行くことにした。そしてただちに城内へはいってまっすぐに太尉の屋敷の前まで行き、馬をおりた。おりよく太尉は在宅していて、とりついでもらった。太尉はそれを聞くと、すぐに請じ入れさせた。宋江は広間へ通り、再拝の礼をして挨拶をした。
「将軍、どんなご用で、きものまで換えておいでになったのです」
と宿太尉はきいた。宋江はいった。
「このほど省院から制札が出されまして、討伐からもどったものは官も兵もみな、呼び出しを受けぬかぎり、みだりに城内にはいってはならぬとのことでございますので、きょうはわたくし、こっそりとあなたさまにお願いにまいりました次第です。聞くところによりますと、江南の方臘が謀叛をおこし、州郡を占領し、勝手に年号を改め、潤州まで侵してきて、やがては長江をわたって揚州を攻めようとしておりますとか。わたくしどもの軍勢は長らくなすこともなく当地にとどまっておりますことはよろしくありませんので、わたくしども、兵をひきつれて討伐におもむき、忠をつくして国に報いたいと存じます。なにとぞあなたさまから陛下の御前におとりつぎくださいますよう」
宿太尉はそれを聞くと大いによろこび、
「将軍のお言葉、同感のいたりです。必ず力をつくしておとりつぎいたしますから、将軍にはどうかおひきとりくださるよう。明朝、つぶさに奏上いたしましょう、そうすれば陛下には必ず重くお用いくださることと思います」
宋江は太尉のもとを辞して陣営に帰り、兄弟たちに報告した。
さて宿太尉が翌日の朝、参内すると、天子は披香殿《ひこうでん》で文武の百官と協議され、やがて、江南の方臘が乱をおこして八州二十五県を占領し、年号を改め、しかじかに謀叛を働き、みずから覇を唱え王を称し、いまやいよいよ兵を進めて揚州を取ろうとしているということが議題にのぼった。天子は、
「すでに張招討と劉都督に討伐を命じたが、まだその途についてはおらぬ」
といわれる。宿太尉はそのとき列を進み出て奏上した。
「わたくしの思いますには、かの賊はすでに国家の大患となっております。陛下にはすでに張総兵と劉都督を起用なさいましたが、さらに、征西して勝利をおさめた宋先鋒をおつかわしになって、その二手の軍を前軍として討伐にさしむけられますならば必ず大功をたてるものと存じます」
天子はその奏言を聞いて大いによろこばれ、急いで使臣をやって、省院官に聖旨を受けにこさせるよう伝えしめられた。そのとき張招討と従《じゆう》・耿《こう》の二参謀も、宋江ら一同の軍勢に前軍の先鋒を仰せつけられるようにと保奏した。省院官は参上して聖旨を受けると、ただちに宋先鋒と盧先鋒を呼び出して、披香殿の下で天子に拝謁させた。ふたりが拝舞の礼をおわると、天子は勅命をくだして、宋江を平南都総管《とそうかん》・征討方臘正先鋒に任ぜられ、盧俊義を兵馬副総管・平南副先鋒に任ぜられて、それぞれ金帯一すじ・錦袍一かさね・金甲一そろい・名馬一頭・綵段《いろぎぬ》二十五疋を下賜され、そのほかの正副の将領にもそれぞれ段疋《き ぬ》と銀両をたまわり、功績をたてたときには、そのものに対して賞を加え官爵をあたえるとのお沙汰があり、全軍の頭目たちにも銀面を下賜されて、すべて内務府から受領のうえ、期限をきってさっそく(注二三)出陣するよう命ぜられた。宋江と盧俊義は聖旨を授けられると、天子に退出の挨拶をした。陛下は、
「その方らのうちに、玉石の印章を刻むことにたくみな金大堅というものと、また良馬を見ることに長じている皇甫端《こうほたん》というものとがいる由、そのふたりのものはあとに残しおくように。手もとで用をいいつける」
と仰せられた。宋江と盧俊義は仰せを受け、再拝して聖恩を謝し、退出して馬に乗り、陣営に帰った。
宋江と盧俊義のふたりは、馬上でよろこびながら、馬をならべて行ったが、やがて城外へ出て行くと、往来でひとりの男が手になにやら持っているのを見かけた。それは美しく細工した二本の棒で、中に細い紐が通してあって、手でそれを引っぱると音が出るのである。宋江は眼にとめたが、見たこともないものなので、兵士をやってその男にたずねさせた。
「それはどういうものだね」
するとその男は、
「これは胡敲《ここう》というもので、手で引っぱると音が出るのです」
と答えた。宋江はそこで詩を一首つくった。
一声低く了《おわ》らば一声高し
〓喨《りようりよう》として声音は碧霄《へきしよう》(空)に透《とお》る
空《むな》しく有り許多《あまた》の雄《さかん》なる気力
人の提挈《ていけい》(推輓)すること無くんば謾《みだ》りに徒労す
宋江は馬上で、盧俊義に笑いながらいった。
「あの胡敲はちょうど、わたしやあなたにたとえられます。いかに冲天の才腕を持っていたところで、推輓《すいばん》してくれる人がなければ響きをたてることはできぬのですから」
「兄貴、どうしてそんなことをおっしゃるのです。わたしの知っているかぎりでは、古今の名将で、ついに埋もれてしまった人はひとりもいません。もし才腕がなければ、たとえ推輓してくれる人があったところで、どうにもしようがありますまい」
「いや、そうじゃない。われわれに、もし宿太尉の折角の推輓がなかったなら、どうして陛下の重用をかたじけのうすることができたでしょう。人として、本《もと》を忘れてはなりますまい」
盧俊義は失言したことに気づいて、そのまま黙ってしまった。
ふたりは陣営に帰ると、本営にはいってただちに諸将を一堂に集めた。女将軍の瓊英は身ごもって病臥ちゅうだったので、東京に残して葉清夫婦に世話をさせ、医者をたのんで療養させることにしたが、その他の将領は全員みな鞍馬・衣甲をとりそろえて出発の用意をととのえ、方臘を討伐することになった。
のち、瓊英は病が癒え、月満ちて、角張った顔の耳の大きな男の子を生み、名を張節とつけた。その後、夫が賊将の〓天閏《れいてんじゆん》に独松関《どくしようかん》で殺された(第百十五回)と聞くと、瓊英は気をうしなわんばかりに泣き悲しみ、ただちに葉清夫婦といっしょにみずから独松関へ出かけて行き、柩を張清の故郷の彰徳府へまもって行って本葬をした。葉清もやがて病気で亡くなったが、瓊英は老嫗の安《あん》氏(葉清の妻)とともに、父なき子を守りそだてた。張節は長じてのち、呉〓《ごかい》(注二四)にしたがって、金《きん》の兀朮《こつじゆつ》(注二五)を大いに和尚原《おしようげん》で破り、そのめざましいはたらきに、兀朮はあわてて鬚を剃り落として逃げるにいたった。このはたらきによって張節は官爵をさずけられ、家に帰って母につかえ、その天寿を全うさせた。そして天子に奏請して母の貞節をひろく天下に知らしめたのであったが、これも瓊英ら母子の貞節と孝義のしからしめたところにほかならない。
くどくどしい話はやめて、さて宋江は、方臘討伐の勅命を受けたその翌日、内府から恩賜の段疋や銀両を受領して諸将に分け、全軍の頭目たちに配ると、さっそく金大堅と皇甫端を送り出して御前に仕えさせることにした。かくて宋江は、一方では戦船を動員して先行させることにし、水軍の頭領たちに命じて棹や櫓や帆を整備させて大江(揚子江)へと漕ぎ出させるとともに、騎兵の頭領たちに命じて弓箭・鎗刀・衣袍・鎧甲をととのえさせ、水陸の両路を船騎並進させることにして、壮途につく準備にかかった。とそこへ、蔡太師が府幹(府の小吏)を陣営によこして、聖手書生の蕭譲を祐筆にほしいといってきた。その翌日には、王都尉がみずからやってきて、宋江に、鉄叫子《てつきようし》の楽和をくれとたのんだ。彼は歌がうまいとのことゆえ、自分のところで使いたいというのである。宋江は仕方なく承知し、ひきつづいてまたふたりが去って行くのを見送った。宋江はこうして五人の兄弟を手放してしまい、心中はなはだ鬱々と楽しまなかった。宋江はさっそく盧俊義と手はずをきめ、諸軍に号令して出陣の準備にとりかかった。
ところで、一方、江南の方臘は、謀叛をおこしてよりすでに久しく、次第に手をひろげて、はからずも大事をしでかすにいたったのである。この男は、もとは歙《きゆう》州の山の樵夫《きこり》であったが、谷川のほとりへ小便に行ったとき、水にうつった自分の姿を見ると、頭には平天《へいてん》の冠をかぶり身には袞竜《こんりゆう》の袍(天子の冠と袍)をまとっていたので、自分は天子になる幸運があるのだと人々にいいふらした。おりしも朱〓《しゆべん》(注二六)が呉中(江蘇)で花石綱《かせつこう》(注二七)の取りたてをやっていて、そのために住民は大いに恨み、誰もみな叛乱を思うにいたっていた。方臘はその機に乗じて謀叛をおこし、清渓県《せいけいけん》内の〓源洞《ほうげんどう》に宝殿・内苑・宮闕を造営し、睦《ぼく》州と歙《きゆう》州にもそれぞれ行宮をもち、朝廷に倣《なら》って文武の職官・省院の官僚・内相と外将、そのほかもろもろの大臣《たいしん》を設けた。睦州というのはいまの建徳《けんとく》のことで、宋では厳《げん》州と改名されていた。歙州というのはいまの〓源《ぶげん》のことで、宋では徽《き》州と改称されていた。ところで、方臘はそこからずっと潤《じゆん》州にいたるまでを占領した。潤州というのはいまの鎮江《ちんこう》である。全部で八州二十五県。その八州とは、歙《きゆう》州・睦《ぼく》州・杭《こう》州・蘇《そ》州・常《じよう》州・湖《こ》州・宣《せん》州・潤《じゆん》州で、二十五県は、すべてそれらの八州の管下であった。当時、嘉興《かこう》・松江《しようこう》・崇徳《すうとく》・海寧《かいねい》は、みな県政庁の所在地であった。方臘は、みずから国王となり、傲然と一方に覇をとなえて、全くただごとではなかったのである。もともと方臘は、上は天書に符合していて、推背図《すいはいず》(注二八)にはこうしるされている。
十千に一点を加え、冬尽きて始めて尊《そん》を称《とな》う。縦横して浙水《せつすい》を過《よぎ》り、呉興《ごこう》に顕跡《けんせき》(立身)す。
十千というのは万のことで、上に一点を加えると、方という字になる。冬尽き、というのは臘(十二月)であり、尊《そん》を称《とな》う、とは南面して君主になるということであって、まぎれもなく方臘という二字とぴったり符合している。彼は江南の八郡を占領し、長江という天然の塹壕で隔てられていて、遼国(注二九)の場合とは大きなちがいがあった。
さて宋江は将を選んで出陣することになり、省院の諸官に出発の挨拶をした。そのとき宿太尉と趙枢密は親しくその首途《かどで》を見送り、全軍の兵をねぎらった。水軍の頭領たちは、このときすでに戦船を泗水《しすい》から淮河《わいが》に漕ぎ入れ、揚州に集結すべく、淮安軍《わいあんぐん》の堤をめざしていた。宋江と盧俊義は、宿太尉と趙枢密に礼をのべてから、軍勢を五隊に分け、陸路を揚州へとむかった。途中は格別の話もなく、やがて前軍ははやくも淮安県に着いて屯営した。その州の役人たちは、宴席の用意をして宋先鋒の到着を迎え、城内へいざなって歓待した。そして告げていうには、
「方臘の賊軍の勢いは強大で、決してあなどれません。このむこうが揚子江で、これは江南きっての要害です。揚子江のむこうが潤州で、現在、方臘の配下の枢密の呂師嚢《りよしのう》と十二名の統制官が江岸を守っております。潤州を取って根拠地にしないことには、敵にたちむかうことは困難です」
宋江はそれを聞くと、ただちに軍師の呉用を呼んで策をはかった。
「いまやゆくては大江でさえぎられています。水軍の船隻を使って進むよりほかないと思うのだが」
と宋江がいうと、呉用は、
「揚子江の江中には金《きん》・焦《しよう》の二山があって、潤州の城郭を背に負っていますから、幾人かの兄弟を偵察に出して、対岸の情勢と、どんな船を使えば渡江できるかを探ってきてもらいましょう」
といった。宋江は命令をつたえて水軍の頭領たちを呼び寄せた。
「みなのうち誰か偵察に行って、対岸の様子をさぐってきてもらいたい」
すると幕下で命をきいた四人の戦将が、みな、行きましょうと申し出た。その数名の将が偵察に行ったために、やがて、屍を横たえては北固山《ほくこざん》(注三〇)のごとく高く、血を流しては揚子江を赤く染め、ついには、大軍をして烏竜陣《うりゆうじん》(注三一)を飛渡せしめ、戦艦をして白雁灘《はくがんたん》(注三二)を平呑《へいどん》せしむ、という次第とはなるのである。さて宋江麾下の軍勢はいかにして方臘を平定するか。それは次回で。
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一 李俊 李俊は胡俊と改めるべきかも知れない。
二 雁 原文は賓鴻。渡り鳥であることから賓(客)という。
三 十八双 三十六というに同じ。宋江以下天〓星《てんこうせい》三十六人をいう。
四 金銀の牌面 第八十二回注三参照。
五 自分の本来の服装 原文は本身服色。第八十二回に呉用は綸巾羽服、公孫勝は鶴〓道袍、魯智深は烈火僧衣、武松は香〓直〓とある。本来の服装とはそれをいう。
六 帯御器械 隋・唐の千牛備身《せんぎゆうびしん》の官で、宋の咸平元年に帯御器械と改められた。隋では左右の備身府がおかれ、唐では千牛衛と呼ばれた。禁衛の一つで、上将軍・大将軍・将軍等の官があって、天子の刀を執り、宿衛・侍従をその任とした。
七 悪のむくいの…… この歌は意訳したが、原文を読みくだせば、
此れは是れ悪人の榜様《ぼうよう》
到底《とうてい》首を駢《へん》し身を〓《そこな》う
若し十悪を犯着するに非ずんば
如何ぞ此の極刑を受けん
第二句の駢は〓の意であろう。駢はならぶ、〓はすてるの意。
八 兄貴を都へお送りしたならば…… 公孫勝が羅真人のもとを辞するとき、羅真人は八字の訣法を公孫勝にあたえた(第五十四回の冒頭)。その八字の訣法とは、
逢幽而止(幽に逢って止まり)
遇〓而還 (〓に遇って還る)
幽は幽州、すなわち遼の討征をいう。〓は〓州、すなわち都の開封である。「兄貴を都へお送りしたならば」云々は、そのことを指す。
九 星まわり 原文は八字。年庚八字のこと。第六十一回注四の付記参照。
一〇 富と貴とは…… 『論語』里仁篇に、「富と貴とは人の欲する所なり、その道を以て之を得るにあらざれば処《お》らず。貧と賤とは人の悪む所なり、その道を以て之を得るにあらざれば去らず」とあるのによる。
一一 西周 周の武王から幽王にいたるまでの間(前一一二二―前七七一)の周王朝をいう。鎬京《こうけい》(陝西省長安県)に都していたことに因る。
一二 公明 公明儀のこと。春秋時代の魯の賢人。『孟子』滕文公篇に、孟子が滕文公に道を説くなかで公明儀の言葉として、「文王は我が師なり、周公豈《あに》我を欺かんや」という語をあげている。周公は文王の徳高きことをあがめて文王はわが師なりといった、文王を師として徳を積むことに努めるならば匹夫たる自分もやがてはそれに近づくことができるであろう、という意である。
一三・一四 秦長脚、南朝 秦長脚とは秦檜《しんかい》のこと。長脚は名ではなく、罵語である。秦檜は宋江よりもやや後の人で、巷間では、宋代きっての無節操な腹黒い人物とされている。徽宗のつぎの欽宗のとき、御史中丞にあげられたが、そのころ宋は金《きん》の攻撃を受けて都開封を放棄せざるを得なくなった。このとき秦檜は金に使《つかい》したが、かえって金に心を通じ、参軍の要職につけられた。この間、宋では高宗が南京で即位した。いわゆる南宋で、この詩に南朝とあるのはこれである。高宗の建炎四年、秦檜は南宋に帰り、翌年宰相となったが、金に内通してひたすら和議を主張し、岳飛《がくひ》以下の戦いをとなえる良将忠臣を相ついで殺した。
一五 火戯 火薬を使った芸。『東京夢華録』の元宵の項に薬法傀儡《やくほうかいらい》という語が見えるが、その一つであろう。仕掛花火の類である。
一六 天子が民と楽しみをともにして 元宵節は天子のお声がかりで祝われたのである。楽しみをともにということは第七十二回に、天子が宮中の役人に「与民同楽」と彫《ほ》ったかんざしをあたえて着用させたことが見えるし、『東京夢華録』の元宵の項には、宣徳楼(宮居の南門)の前に「宣和(徽宗の年号)与民同楽」としるした大きな額をかかげたと記されている。
一七・一八 桑家瓦、瓦子 桑家瓦は宣徳楼の東の、東角楼付近の盛り場の名。瓦は瓦子のことで、また瓦肆、瓦舎とも書く。瓦子とは宋・元時代の都市の特定の盛り場で、商人や芸人の集まった地域。瓦合し瓦解する(集散する)という意味でこういわれた。
一九 芝居小屋 原文は勾欄《こうらん》。本来は手すりの意である。当時の芝居小屋は舞台に手すりがついていたので、こう呼ばれた。
二〇 関雲長骨を刮って毒を療す 『三国志演義』第七十五回の標題になっていて、その回の冒頭に語られる有名な話である。
二一 招討 また招討使という。第八十二回注一参照。
二二 方臘 実在の人物で、青渓《せいけい》(江蘇省)の生まれ。邪教の教主で、みずから聖公と号し、永楽《えいらく》という年号をたて、宣和二年十月に乱を起こした。『宋史』の侯蒙《こうもう》列伝には、侯蒙が、宋江の罪をゆるして、つぐないに方臘を討たしめるよう天子に上書した旨が記されている。しかし、事実は方臘を討ったのは宋江ではなく、韓世忠だとされている。
二三 期限をきってさっそく 原文は定限目下。目下とあるのでさっそくと訳したが、目下はあるいは日子の誤写かとも思われる。
二四・二五 呉〓、兀朮 ともに実在の人物。南宋の高宗の紹興元年(一一三一)、金《きん》の猛将兀朮は二十余万の兵をひきつれて和尚原《おしようげん》(陝西省)の要害を攻めた。宋の将軍呉〓は、弟の呉〓《ごりん》とともに兵六千をもって守っていたが、兀朮の攻撃に対して、峻嶮の地を利用して金軍を大いに破った。このとき兀朮は重傷を負い、しかも退路を絶たれて進退きわまるにいたったが、部下のものが、宋兵は元帥に鬚があるのを目標にしているゆえ、鬚を剃って、雑兵のなかにまぎれこんで逃げるようにとすすめた。兀朮はその言にしたがって鬚を剃り、〓も甲もぬぎ、馬を捨て、佩刀もつけず、雑兵にまじってようやくおちのびたという。
二六・二七 朱〓、花石綱 第十二回注一参照。花石綱を主宰した朱〓に対する住民の恨みは、「東南(浙江・江蘇)の人は其の肉を食《くら》わんことを欲す」(『独醒雑志』)というほどであった。方臘の叛乱のスローガンも朱〓を屠れということで、それが大いに民心をとらえた。
二八 推背図 唐代、李淳風《りじゆんぷう》と袁天綱《えんてんこう》が作った図籖《とせん》(未来記)で、歴代の興亡変遷を予言したものという。推背というのは、この書を六十図まで書いたとき袁天網が李淳風の背中を手でとんと推し、そこでやめさせたという故事にもとづいて名づけられたという。
二九 遼国 原文は応百とあって解しがたい。全伝本には淮西とあり、鄭振鐸の校訂本には遼国とある。ここではそれに従った。
三〇 北固山 江蘇省丹徒県の北にある山で、山はにわかに江中に突き入り、三方を水にとりかこまれている。
三一・三二 烏竜陣、白鴈灘 烏(黒)と白、竜と雁とを対比させた言葉のあやで、格別の意味はない。「大軍をして烏竜陣を飛渡せしめ……」云々は、堂々たる陣容を列ねて渡江し、江岸を占拠するの意。
第百十一回
張順《ちようじゆん》 夜金山寺《きんざんじ》に伏せ
宋江《そうこう》 智もて潤州城《じゆんしゆうじよう》を取る
さて、この九千三百里の揚子《ようす》大江は、遠く三江、すなわち漢陽江《かんようこう》・潯陽江《じんようこう》・揚子江《ようすこう》(注一)とつづき,泗州(安徽省)からまっすぐ大海に流れこんでいるが、その間に数多の土地を通っているので、万里《ばんり》の長江《ちようこう》と呼ばれる。地は呉《ご》・楚《そ》(長江の南側と北側)を分かっており、江のまんなかには二つの山がある。一つは金山《きんぎん》といい、一つは焦山《しようざん》という。金山の上には一座の寺があって、山をめぐって建てられている。これを寺裹山《じかざん》(寺、山を裹《つつ》む)という。焦山の上にも一座の寺があって、山のくぼんだところにかくれていて、外からは見えない。これを山裹寺《さんかじ》(山、寺を裹《つつ》む)という。この二つの山は、江のまんなかにあって、ちょうど楚の尾部と呉の頭部のところを占めている。一方は淮東《わいとう》の揚《よう》州であり、一方は浙西《せつせい》の潤《じゆん》州である。潤州とはいまの鎮江《ちんこう》である。
さて潤州の城郭は、方臘の配下の東庁《とうちよう》(中書省)の枢密使たる呂師嚢《りよしのう》が江岸を守っていた。この男は、元来歙《きゆう》州の豪家の出で、金銭糧穀を方臘に献納したために東庁の枢密使に任ぜられたのであるが、弱年のころには兵書や戦略を学んだことがあり、丈八《じようはち》の蛇矛《じやぼう》を得意の得物《えもの》として、その武芸はなみなみならぬものがあった。配下には十二名の統制官(討征軍司令)をひきいていて、江南十二神と称し、力をあわせて潤州の江岸を守っていた。その十二神というのは、
警天神《けいてんしん》 福《ふく》州の沈剛《しんごう》
遊奕神《ゆうえきしん》 歙《きゆう》州の潘文得《はんぶんとく》
遁甲神《とんこうしん》 睦《ぼく》州の応明《おうめい》
六丁神《ろうていしん》 明《めい》州の徐統《じよとう》
霹靂神《へきれきしん》 越《えつ》州の張近仁《ちようきんじん》
巨霊神《きよれいしん》 杭《こう》州の沈沢《しんたく》
太白神《たいはくしん》 湖《こ》州の趙毅《ちようき》
太歳神《たいさいしん》 宣《せん》州の高可立《こうかりつ》
弔客神《ちようかくしん》 常《じよう》州の范疇《はんちゆう》
黄旛神《こうばんしん》 潤《じゆん》州の卓万里《たくばんり》
豹尾神《ひようびしん》 江《こう》州の和潼《かどう》
喪門神《そうもんしん》 蘇《そ》州の沈抃《しんべん》
さて、枢密使の呂師嚢は五万の南兵をひきしたがえて江岸を占拠し、甘露亭《かんろてい》の下には三千余隻の戦船をおしならべていた。江の北岸は瓜《か》州の渡し場で、ひろびろと水がただよっているだけでこれという要害もなかった。
このとき先鋒使宋江の軍勢および戦船は、水陸を並び進んですでに淮安《わいあん》に到着し、揚州に集結する手はずになっていた。その日、宋先鋒は本営で軍師の呉用らと協議した。
「この地は大江にほど近い。江の南岸には賊軍が守りについているが、誰かさきに偵察に行って、兵を進めることのできるように対岸の様子をさぐってきてもらいたい」
すると、幕下から四人の戦将が進み出て、みな、行きましょうと申し出たが、その四人というのは、ひとりは小旋風《しようせんぷう》の柴進《さいしん》、ひとりは浪裏白跳《ろうりはくちよう》の張順《ちようじゆん》、ひとりは〓命三郎《へんめいさんろう》の石秀《せきしゆう》、ひとりは活閻羅《かつえんら》の阮小七《げんしようしち》であった。宋江はいった。
「あなたがた四人は二手に分かれ、張順と柴進、阮小七と石秀とで、まっすぐに金・焦の二山へ行って宿をとり、潤州の賊の本拠の様子をさぐって、揚州のほうへ報告していただきたい」
四人は宋江に別れを告げ、それぞれ従者をつれて旅人になりすまし、まず揚州へとむかった。このとき沿道の住民たちは、大軍が方臘を討ちにきたと聞いて、みな一家じゅうで田舎へ引っ越して難を避けていた。四人は揚州の城内で別れ、それぞれ乾糧《かんりよう》(乾飯《ほしいい》)を用意し、石秀は阮小七とともにふたりの従者をつれて焦山をめざして行った。
さて一方、柴進と張順も、おなじくふたりの従者を連れて乾糧を身につけ、切先《きつさき》の尖った鋭利な刀を身に帯び、朴刀をひっさげて、四人で瓜《か》州へと急いだ。おりしも初春の候で、日は暖かく花が咲きかおっている。揚子江のほとりについて高みから見わたすと、淘々《とうとう》たる白浪、滾々《こんこん》たる煙波、まことにすばらしい眺めであった。これをうたった詩がある。
万里の煙波万里の天
紅霞遥《はる》かに映ず海東の辺
打魚の舟子《しゆうし》は渾《すべ》て事無く
酔って青簔《せいさ》を擁して自在に睡《ねむ》る
柴進らふたりが北固山《ほくこざん》の麓を眺めると、一帯に青と白の二色の旌旗がつらなり、岸辺には一の字におびただしい船がならんでいたが、江の北岸(こちら側)には木切れひとつもない。柴進が、
「瓜州の沿道には家はあっても人はひとりも住んでおらぬし、江のほとりには渡し船ひとつない。いったいどうやって対岸の様子をさぐったものだろうか」
というと、張順は、
「ともかく家を見つけてひと休みしましょう。よろしい、わたしが泳いで江のむこうの金山の麓へわたり、様子をさぐってみましょう」
「それがよい」
と、さっそく四人が江のほとりへ駆け出てみると、数軒の草葺きの家がならんでいたが、どれもこれもぴったり閉めてあって、扉を押しても開かない。張順が横のほうへまわって行って、ひとところの壁をこじ開けてもぐりこんで行くと、ひとりの白髪の老婆がかまどのところから出てきた。張順が、
「おばあさん、あんたの家じゃなぜ戸をあけないんだね」
ときくと、その老婆が答えていうには、
「じつは旅のお人、こんど朝廷では大軍を出して方臘といくさをなさるということで、わたしのとこはちょうどそのかなめ(注二)にあたっているものだから、ここいらの家はみんな避難してよそへ引っ越して行ってしまって、この年寄だけ残して家の番をさせているというわけなのですよ」
「おばあさんのとこの男たちはどこへ行ったんだね」
「田舎のほうへ、家族のもののところへ行きましたよ」
「わしらは四人づれで、江をわたりたいのだが、どこかで船が手にはいらないものだろうか」
「船なんてどこへ行ったって手にはいりゃしませんよ。このまえ呂《りよ》枢密が、大軍がいくさをしにくると聞いて、すっかり船を召しあげて潤州へもっていってしまったから」
「わしら四人は、食べものは用意しているから、ただ宿だけ二三日ここを貸してもらいたいのだがねえ。宿賃には銀子をはずむよ。決してあんたに迷惑はかけんから」
「泊まりなさるのはかまわんけど、だけど寝台がありませんよ」
「わしたちでそれはなんとかするよ」
「旅のお人、でもそのうちに大軍がやってきますよ」
「わしたちは、なんとか逃げかくれするよ」
と、すぐに扉をあけて柴進と従者をなかへ入れた。みなは朴刀を立てかけ、荷物をおろしてから、乾糧の焼餅《しようへい》をとり出して食べた。張順はふたたび江岸へ出て行って、江の景色を眺めた。金山寺はちょうど江のまんなかにあって、見れば、
江は鰲《ごう》,背《はい》(注三)を呑み、山は竜鱗(注四)を聳《そび》やかす。爛銀《らんぎん》の盤《ばん》(純銀のさら。江面をいう)は青螺《せいら》(注五)を湧出《ようしゆつ》し、軟翠《なんすい》の堆《たい》(翡翠《ひすい》のやま。金山を指す)は遠く素練《それん》(しらぎぬ。江をいう)を〓《ひ》く。遥かに金殿《きんでん》を観《み》れば、八面の天風を受け、遠く鐘楼《しようろう》を望めば、千層の石壁に倚《よ》る。梵塔《ぼんとう》は高く滄海の日を侵《おか》し、講堂《こうどう》は低く碧波の雲に映ず。無辺閣《むへんかく》は万里の征帆《せいはん》を看《み》、飛歩亭《ひほてい》は一天の爽気《そうき》を納《い》る。郭璞《かくはく》(注六)墓中に竜は浪《なみ》を吐き、金山寺裏に鬼は灯《ともしび》を移す。
張順は江岸でひとしきり眺めわたして、心に思いめぐらした。
「潤州の呂枢密は、おそらくしょっちゅうあの山へ行くにちがいない。ひとつ、今夜行ってみることにしよう。きっと様子がつかめるだろう」
そして帰ってきて柴進に相談した。
「こうしてここまでやってきたものの、小舟ひとつなく、対岸の様子を知るすべもありません。それでわたし、今夜、きものに大銀を二つくるみこんで頭の上にのせ、まっすぐ金山寺へ泳いで行って、そこの和尚に金をつかませて様子をきき、帰ってきて先鋒の兄貴に報告することにしましょう。あなたはここで待っていてください」
「はやく首尾をはたしてもどるように」
と柴進はいった。
その夜は星も月も明るく輝《て》り、風は凪《な》ぎ波は静かに、水と空とが一つの色にとけあっていた。たそがれ、張順は肌ぬぎになり、腰の水児《すいこんじ》(股引の類)をたくしあげ、頭巾ときものに大銀二つをくるんで頭の上にくくりつけ、腰には一本の尖刀をおびて、瓜州から水のなかへはいってまっすぐに江のまんなかへ泳いで行った。水は彼の胸までは浸《ひた》さず、水中にありながらまるで陸路を行くようにして、たちまちのうちに金山の麓へ泳ぎついた。見れば岩山のほとりに小舟が一艘つないである。張順はその舟によじのぼって、頭の上のきものの包みをおろし、濡れたきものをぬいで身体を拭《ぬぐ》い、きものを着て舟のなかに腰をおろした。
潤州の時太鼓がちょうど三更(十二時)を打つのが聞こえてきた。張順が舟のなかにかくれて様子をうかがっていると、上流のほうから一艘の小舟が漕ぎくだってきた。張順はそれを見て、
「胡散《うさん》くさい舟だ。きっと忍びのものにちがいない」
と思い、すぐ舟を漕ぎ出そうとしたが、なんと舟は太い鋼の錨《いかり》がおろしてあり、しかも櫓も棹もなかった。張順は仕方なくまたきものをぬぎ、尖刀を抜き放ってふたたび江のなかへ跳びこみ、まっすぐその舟のほうへ泳いで行った。舟の上では、ふたりの男が櫓をあやつりながら北岸を見まもりつづけていて、南側には気をつけずにひたすら漕いでいる。張順は水底をもぐって行って舟のそばに頭を出し、舟べりにとりついて尖刀でさっと斬りつけた。と、櫓を漕いでいたふたりの男は、櫓を放り出して、まっさかさまに江のなかへ落ちていった。張順がぱっと舟の上に跳びあがると、その舟の胴の間からふたりのものがもぐり出てきた。張順が一刀のもとにそのひとりを水のなかへ斬り落とすと、もうひとりはびっくりして胴の間へひっこんだ。
「きさまは何者だ。どこからきた舟だ。ありていにいえばゆるしてやる」
張順が怒鳴りつけると、その男はいった。
「申しあげます。わたくしはここの揚州の城外の定浦村《ていほそん》の、陳将士《ちんしようし》(将士は大商人の意。将仕とも書く)の家の幹人《かんじん》(手代)でございまして、おいいつけによりまして潤州へ行き、呂枢密さまのもとにご挨拶して糧食献納の由を申し出ましたところ、おききいれくださいまして、ひとりの虞候《ぐこう》(用人)どのをつけてよこされ、米五万石と船三百艘を礼物としてさし出すようにおっしゃったのでございます」
「その虞候は、姓はなんといい名はなんという。そしてどこにいる」
「虞候どのは姓は葉《しよう》、名は貴《き》といわれます。たったいまあなたさまが江のなかへ斬り落としてしまわれたのが、そのかたでございます」
「おまえは、姓はなんといい名はなんという。いつ挨拶に行ったのか。舟にはどんなものを積んでいる」
「わたくしは姓は呉《ご》、名は成《せい》と申しまして、ことしの正月七日に江をわたりました。呂枢密さまはすぐわたくしを蘇州へ行かせて、御弟三大王《ぎよていさんだいおう》の方貌《ほうぼう》さまにご挨拶をさせられ、号色旌旗《ごうしよくせいき》(標識の色旗)三百面と、主人の陳将士に対する、揚州の府尹に封じ中明大夫《ちゆうめいたいふ》の称号を授けるという勅書、ほかに号衣《ごうい》(軍の制服)一千着、および呂枢密さまへの訓令書をあずかってまいりました」
張順はさらにたずねた。
「おまえの主人の姓はなんといい、名はなんという。そしてどれくらいの人馬がいるか」
「人は数千人、馬は百頭あまりおります。身内にはふたりの息子さんがいて、なかなか腕が立ち、長男のほうは陳益《ちんえき》、次男は陳泰《ちんたい》と申されます。主人の将士は陳観《ちんかん》といわれます」
張順は事の次第をくわしく聞いてしまうと、一刀のもとに呉成をも水のなかへ斬って捨て、船尾で櫓をあやつりながらまっすぐに瓜州へ漕いで行った。
柴進が櫓の音を聞きつけて急いで出て行って見ると、張順が舟を漕いでくるところだった。柴進が事情をきくと、張順はさきのことをくわしく話した。柴進は大いによろこび、胴の間へはいって行って、袱紗につつんだ文書と、紅絹《べにぎぬ》の号旗三百面および雑色《まじりいろ》の号衣一千着をとり出し、二つの荷にまとめてしまった。張順は、
「わたしはそれじゃ、きものを取りに行ってきます」
といい、再び舟を金山の麓へ漕いで行って、きもの・頭巾・銀子を取り、また瓜州の岸辺へ漕ぎもどってきた。夜もようやく明けそめて、深い霧がたれこめていた。張順は舟に穴をあけて江のなかへ押しやって沈めてしまい、家へもどって、二三両の銀子を婆さんにわたすと、ふたりの従者に荷をかつがせて急いで揚州へもどった。このとき宋先鋒の軍勢はことごとく揚州の城外に駐屯していた。州の役人たちは宋先鋒を城内に迎えいれて駅亭の宿舎に休ませ、連日宴を設けて将兵をねぎらっていた。
さて柴進と張順は、宴のおわるのを待って駅亭の宿舎で宋江に会い、つぶさに報告していうよう、
「陳観《ちんかん》父子は方臘と手を結び、近く賊軍を手引きして、江をわたって揚州を攻めようとしておりますが、江のまんなかで陳観の部下に出くわしたためにそのことがわかって、主帥(宋江)にその功をとげしめられますのは、天のおめぐみでございましょう」
宋江はそれを聞いて大いによろこび、さっそく軍師の呉用を呼んで、どんな策を用いるべきかと諮《はか》った。すると呉用は、
「そういう好機がある以上、潤州城をうかがうことは掌を返すがごとく容易なことです。まず陳観を捕らえてしまえば、大事は成ります。それにはかくかくしかじかにすればよろしい」
そこでただちに浪子の燕青を呼んで、葉虞候になりすまさせ、解珍と解宝には南軍の兵士のなりをさせて定浦村への路をたどらせることにした。かくて解珍と解宝は荷物をかつぎ、燕青はいろいろと細かな注意を受けて、三人は揚州を出、定浦村へとむかった。城を離れること四十里あまり、早くも陳将士の屋敷の前にたどりついた。見れば門前には二三十人の下男たちがおなじいでたちをして整然と勢揃いしている。そのさまは、
〓竹《さんちく》の笠子《りゆうし》(竹皮で編んだ笠)には、上に一把の黒纓《こくえい》(黒いふさひも)を鋪着し、細線(絹糸)の衲襖《のうおう》(大袖の上着)には、腰に八尺の紅絹(の帯)を繋着す。牛膀《ぎゆうぼう》の鞋《あい》(牛皮の短靴)は、山に登るに箭の似《ごと》く、〓皮《しようひ》の襪《べつ》(〓《しか》皮の靴下)は、脚を護って綿の如し。人人都《すべ》て雁〓刀《がんれいとう》(薄刃の刀)を帯び、個個尽《ことごと》く鴉嘴〓《あしさく》(先端が嘴《くちばし》のようになった矛《ほこ》)を提《ひつさ》ぐ。
そのとき燕青は浙江人の訛《なま》りで挨拶をして、
「将士どのはご在宅でしょうかな」
といった。
「お客人は、どこからおいでで」
と下男がいう。
「潤州からまいりましたです。江をわたってから路をまちがえてしまいまして、半日ぐるぐるまわって、たずねてまいった次第でして」
下男はそれを聞くと、さっそく客間へ案内して荷物をおろさせ、燕青を奥の広間へつれて行って陳将士にひきあわせた。燕青は平伏して、
「葉貴、お目通りにあがりました」
といった。礼がすむと、陳将士はたずねた。
「あなたはどちらからおいでで」
燕青は浙江訛りで答えた。
「お人払いを願いましたうえで、申しあげまする」
「このものたちはみなわたしの腹心のものです。かまわずにおっしゃっていただきたい」
「わたくしは、姓は葉、名は貴と申しまして、呂枢密さま帳前の虞候でございます。正月の七日に呉成どのより密書を受け取りまして、枢密さまにはたいへんおよろこびになり、特にわたくしをおつかわしになって、呉成どのを蘇州へお送りして御弟三大王さまにおひきあわせをし、あなたさまのご意向をおつたえいたしましたところ、三大王さまは使者をたてて奏上あそばされ、勅書の降下を仰ぎまして、あなたさまを揚州の府尹に封ぜられました。おふたりのご令息さま(注七)には、呂枢密さまにお会いなされましたのち、あらためて官爵を定めるとの御意でございます。このたび呉成どのにお帰りいただこうとしておりましたところ、はからずも風邪をわずらわれましてお動きになるのがご無理ですので、枢密さまはもし大事をあやまってはと案じられまして、特にこのわたくしをおつかわしになりまして、あなたさまへの勅書、ならびに枢密さまの公文書・関防(官印)・牌面(注八)・号旗三百面・号衣一千着をとどけさせられた次第でございます。なお、日を限り時をきめて糧食の船を潤州の江岸へ廻漕して、おひきわたし願いたいとのことでございます」
燕青はそういって、さっそく勅書や公文書をとり出して、陳将士にわたした。陳将士はそれを見て大いによろこび、急いで香机を出し、南のほうにむかって恩を謝した。そして、さっそく陳益と陳泰を呼んで燕青にひきあわせた。燕青は解珍・解宝に号衣と号旗をとり出させ、奥の広間へはいってひきわたした。陳将士は燕青に座につくようにすすめた。
「わたくしはただの走り使いにすぎません。あなたさまのおそばで席につくことなど滅相もないことです」
と燕青がいうと、陳将士は、
「あなたは、あちらの閣下がお使いにたてられたかた、しかもわたしのために勅書をおもちくださったのです。どうしておろそかにできましょう。まあお掛けになってもかまわないではありませんか」
という。燕青は再三遠慮したあげく、ずっとうしろのほうの席に掛けた。陳将士は酒をとり寄せて燕青に杯をすすめた。燕青は、
「わたくし、もともと不調法でございまして」
とことわった。彼が杯を二三度まわしたころ、ふたりの息子がともども父親のために祝いの杯をさし出した。そのとき燕青は、解珍と解宝に、とりかかるようにと目くばせをした。解宝はふところから君臣を按ぜざる薬(毒薬をいう)をとり出し、人の眼の隙をうかがって酒壺のなかへいれた。燕青はさっそく立ちあがって、
「わたくし、酒をたずさえてまいりませんでしたが、あなたさまのお酒とつまみものをお借りいたしまして、卒爾ながらお祝いをさせていただきます」
といい、大杯になみなみと酌《つ》いで、どうかお乾しくださいと陳将士にすすめ、ついで陳益と陳泰のふたりにもすすめてそれぞれ一杯ずつ乾させた。そこに居合わせた数人の腹心の下男たちも、みな燕青から一杯ずつすすめられた。燕青がその口を曲げて合図すると、解珍は外へ出て行って、火種をさがし、かくしていた号旗と号砲をとり出して、屋敷の前でぶっ放した。あたりにはすでに頭領たちが待ちかまえていて、号砲の音を聞くや呼応して立ちあがった。
燕青は広間で、ひとりひとりみな倒れてしまったのを見ると、ふところから短刀を抜き放って、解宝とともにいっせいに刀をふるい、たちまちみなの首を刎ね落としてしまった。
屋敷の門の外では、十人の好漢が、どっと喊声をあげて表から討ち入ってきた。その十人の将領とは、
花和尚 魯智深 行者 武松 九紋竜 史進 病関索 楊雄 黒旋風 李逵 八臂那〓 項充 飛天大聖 李袞 喪門神 鮑旭 錦豹子 楊林 病大虫 薛永
である。門前の下男たちに、どうしてこれが食いとめられよう。なかからは燕青・解珍・解宝が、はやくも陳将士父子の首級をひっさげて出てきた。屋敷の門の外には、さらにまた、はや一隊の官軍がおし寄せてくる。その首《かしら》は六人の将領で、その六人とは、
美髯公 朱仝 急先鋒 索超 没羽箭 張清 混世魔王 樊瑞 打虎将 李忠 小覇王 周通
であった。そのとき六人の首将は、一千の兵をひきいて屋敷をとりかこみ、陳将士一家のものをことごとく殺してしまった。下男のものを捕らえて水辺へ案内させてみると、屋敷の近くの入江に沿って三四百艘の船がもやってあって、米がぎっしりと積みこんである。諸将は数を調べて主将の宋江に急ぎ報告した。
宋江は陳将士を討ちとったと聞くと、ただちに呉用と兵を進めることを謀《はか》った。そして荷物をととのえ、総督の張招討に別れを告げて、本隊の兵をひきいてみずから陳将士の屋敷へ進み、前隊の将士の手分けをして船(奪った糧秣船)に乗り組んで計をおこなわせるとともに、人をやって戦船の出発を急がせることにした。呉用はいった。
「三百艘の快船《はやぶね》をえらんで、各船にそれぞれ方臘がよこした旗じるしを立て、一千の兵にそれぞれ南軍の号衣を着せ、その他の三四千人のものにはとりどりの服を着せましょう。ほかに三百艘の船内に二万人あまりの兵をかくし、さらに穆弘を陳益に、李俊を陳泰に扮《ふん》させてそれぞれ大船に乗らせ、その他の船には将領を手分けして乗せるのです」
第一団の船は穆弘と李俊とがひきいた。
穆弘の身辺には十人の偏将をそえて護らせた。その十人とは、
項充 李袞 鮑旭 薛永 楊林 杜遷 宋万 鄒淵 鄒潤 石勇
李俊の身辺にも十人の偏将をそえて護らせた。その十人とは、
童威 童猛 孔明 孔亮 鄭天寿 李立 李雲 施恩 白勝 陶宗旺
第二団の船は張横と張順とがひきいた。
張横の船には四人の偏将をそえて護らせた。その四人とは、
曹正 杜興 〓旺 丁得孫
張順の船にも四人の偏将をそえて護らせた。その四人とは、
孟康 侯健 湯隆 焦挺
第三団の船は十人の正将がひきい、おなじく二隊に分かれて出発させた。その十人は、
史進 雷横 楊雄 劉唐 蔡慶 張清 李逵 解珍 解宝 柴進
かくて、これら三百艘の船には大小正偏の将領あわせて四十二名が分乗して、江をわたった。
ついで宋江は戦船に馬を積みこみ、遊竜・飛鯨などの船一千艘に、宋朝先鋒使宋江、という旗じるしを立て、大小の歩騎の将領、うちこぞって船に乗り、江をわたった。ふたりの水軍の頭領、ひとりは阮小二、ひとりは阮小五が、その総指揮にあたった。
宋江の中軍の渡江はさておき、一方、潤州では、北固山《ほくこざん》の上から、対岸の入江の三百艘あまりの戦船がいっせいに出港し、船には、護送衣糧先鋒、という紅い旗じるしをかかげているのを見つけた。南軍の兵士は急いでそれを行省《こうしよう》(中書省の地方出先機関。のちの省)に知らせた。呂枢密は十二人の統制官をつどえて、全員隙なく武装し、弓弩には弦《つる》を張り、刀剣は鞘より抜き放ち、精兵をひきしたがえ、みずから江岸へ出て行って偵察した。見れば前方の一百艘がまず岸のほうへ近づいてくる。船の上には、ふたりの頭《かしら》格のもの、それを前後から擁しているもの。みな金の鎖《くさり》の号衣を着ていて、いずれおとらぬ屈強な身体つきの大男である。呂枢密は馬をおりて銀の床几に腰をおろし、十二人の統制官は二列になって江岸を固めた。
穆弘と李俊は、呂枢密が江岸に腰を据えているのを見て、上体をそばだてて挨拶を送った。呂枢密の左右の虞候が、大声で、船をとめろ、と命じた。と、一百艘の船は《ほこ》を一の字に投じた。後方のかの二百隻の船も、追い風に乗ってことごとく到着し、両辺に分かれて船をとめる。一百艘は左に、一百艘は右に、三列に分かれて等《ひと》しくきちんとならんだ。客帳司《かくちようし》(応待係りの役人)が船に乗り移ってきてたずねた。
「船はどちらより参られた」
穆弘が答えた。
「わたくしは、姓は陳《ちん》、名は益《えき》と申し、弟は陳泰《ちんたい》と申します。父の陳観《ちんかん》が特にわれわれ兄弟を使いに出し、白米五万石・船三百艘・精兵五千を献納して枢密さまご推輓のおん礼に参上いたさせました」
「先日、枢密さまは葉虞候を使いにやられましたが、いま、どこにおりますか」
「虞候どのと呉成は、ともに風邪の時疫《はやりやまい》をわずらって、現に屋敷で療養しておられまして、こちらにくることができませんでした。ここに官印の文書を呈上いたします」
客帳司は文書を受けとり、岸にあがって呂枢密に復命した。
「揚州の定浦村の陳府尹の子息、陳益と陳泰が、食糧を納め軍兵を献上にまいったのでございます。さきに持って行かせました官印の文書もこのとおり呈上いたしましてございます」
呂枢密がそれを見ると、まさしくさきにわたした公文書なので、旨をつたえてふたりを岸へあがらせるようにといった。客帳司は、陳益と陳泰にこちらへきて目通りするようにと呼んだ。穆弘と李俊が岸へあがって行くと、あとから二十人の偏将がみなついてあがってきた。排軍(隊長)が怒鳴った。
「閣下の御前だぞ。無用のものは近づいてはならぬ」
二十人の偏将はみな立ちどまった。穆弘と李俊は身をかがめて拱手し、はるかはなれたところに立った。客帳司はしばらくしてから、ひとりだけをつれて行って目通りをさせ、その前にひざまずかせた。呂枢密はいった。
「その方の父の陳観は、どうして自分でこなかったのだ」
穆弘は言上した。
「父は、梁山泊の宋江らが兵をひきいておし寄せてくるということを聞き、賊が乗りこんできてさわぎたててはと案じて、家でなにかとやっておりまして、出てくるわけにはまいらなかったのでございます」
「その方らふたり、どちらが兄か」
「わたくし陳益が、兄でございます」
「その方ら兄弟ふたり、武芸の心得はあるか」
「おかげさまにて、いささか習練を積んでおります」
「持って参った米は、どのように積んでいるのか」
「大船に三百石、小船に二百石積んでおります」
「その方らふたりがまいったのは、他意あってのことであろう」
「わたくしども親子は孝順の心あるのみでございます。露ほどの他意も抱くものではございません」
「その方はいかにもよい心がけのようだが、わしの見るところ、その方の船の上の軍兵たちの様子は尋常ではなく、疑わずにはおられぬ。その方らふたりはこのままここにおるように。わしは統制官四人に、兵一百名をしたがえさせ、船に乗りこんで捜査させてみる。あるべからざる物があったときは、決して容赦せぬぞ」
「わたくしがまいりましたのは、閣下のおとりたてを願ってでございます。お疑いは無用の儀にございましょう」
呂師嚢が四人の統制官を船に乗りこませて捜査させようとしたおりしも、とつぜん物見の兵が知らせにきて、
「勅使が南門外に到着なさいました。閣下にはただちに馬でお迎えに出られますよう」
という。呂枢密は急いで馬に乗り、
「江岸をよく守っているように。それなる陳益・陳泰のふたりは、わしについてまいれ」
といいつけた。穆弘は李俊に眼くばせした。そして呂枢密がさきに行くのを待って、穆弘と李俊は、うしろに二十人の偏将を呼び招いてただちに城門をはいった。門を守る将校が怒鳴りつけた。
「枢密閣下は、頭《かしら》だったふたりのものだけを通せと仰せられたのだ。他のものは通さぬ」
かくて穆弘と李俊ははいって行ったが、二十人の偏将たちはみな城壁のほとりにとめられた。
さて呂枢密は南門外へ行って勅使を迎えるとあわただしくたずねた。
「このような急なおいではいったいどういうわけで」
その勅使は方臘の側近の引進使《いんしんし》(引見を司る官の長)の馮喜《ふうき》で、声をひそめて呂師嚢にいうには、
「このほど司天太監《してんたいかん》(天文暦法を司る官の長)の浦文英《ほぶんえい》がこう奏上したのです。夜、天象《てんしよう》を観るに、無数の〓星《こうせい》が呉《ご》の地の領域にはいって、中が半分光りをうしなっておりますが、これは内部に大きな禍《わざわい》がおこっているしるしです、と。そこで、天子は特に聖旨をおくだしになって、枢密どのに、江岸をきびしく守るように、そして、北方からやってくるものに対しては、必ずくわしく吟味して実情を問いただし、あやしげな風体のものはただちに斬ってしまって遅疑することのないようにとの仰せです」
呂枢密はそれを聞いて大いにおどろいた。
「さっきのあの連中は、どうもあやしいと思ったが、おりもおり、このお知らせ。ともかく城内にはいって宣読をお受けいたしましょう」
馮喜が呂枢密とともに行省《こうしよう》へ行って聖旨の宣読をおわったところへ、また早馬の知らせがあって、
「蘇州からまたお使者が、御弟三大王さまの令旨をたずさえて見えました」
という。その令旨は、
「その方、先日の揚州の陳将士の投降の件はそのまま信じてはならぬ。恐らくは詐術であろう。このほど聖旨を受けたが、さきに司天監にて〓星が呉の地の領域にはいるのが観測されたゆえ厳重に江岸を守るようにとのこと。こちらからも近々使者を監督に差しつかわすこととする」
というのであった。呂枢密は、
「大王さまもやはりこのことをご懸念でしたか。わたくしもいま聖旨をお受けしました」
といい、ただちに部下に命じて江面を厳守させ、
「さきほどきた船のものは、ひとりも上陸させてはならぬぞ」
といいつけ、一方では宴を設けてふたりの使者を歓待した。
さて一方、かの三百艘の船の上のものは、長いあいだなんの音沙汰もないままであった。左辺の一百艘の船の上の張横と張順は、八人の偏将をつれ、武器をひっさげて岸へあがり、右辺の一百艘の船の上の十人の正将も、みな槍や刀をとって岸へおどりあがった。江面を守っていた南軍はこれを阻止することができない。黒旋風の李逵は、解珍・解宝とともにただちに城内へおし入ろうとした。城門を守る官兵(方臘側《がわ》の兵)は急遽くいとめに出たが、李逵は二梃の斧を振りまわして斬りまくり、たちまち城門を守る官兵ふたりを斬りたおし、城壁のほとりで喊声をあげた。解珍と解宝はてんでに鋼叉をかまえて城内に突入し、どっとあばれ出す。官兵は城門を閉めるどころのさわぎではなかった。李逵は城門の下に立ちはだかって、相手を見つけ次第斬り殺した。さきに城壁のほとりまで行っていた二十人の偏将も、それぞれ武器を奪って斬りまくった。呂枢密が急いで使いをよこして江面を厳守するよう命をつたえたときには、城門のほとりには、すでに宋軍が城内へ斬りこんでいた。十二人の統制官が城壁のあたりの喊声を聞いて、それぞれ兵をひきつれて出て行くと、史進と柴進はすかさず二百艘の船内の兵をさし招き、南軍の号衣を脱ぎすてて、先頭に立って上陸した。船の胴の間にひそんでいた兵士たちもどっと岸へおしあがった。頭《かしら》格の統制官たる沈剛《しんごう》と潘文得《はんぶんとく》の二手の軍勢が城門を守りに行ったところ、沈剛は史進の一刀に馬から斬って落とされ、潘文得は張横に横合いから槍で刺したおされてしまい、兵士たちの混戦するなかを、かの十人の統制官は家族のものを護りに、みんな城内へ逃げこんで行った。穆弘と李俊は城内で消息を聞くと、居酒屋から火種を奪って火を放った。
呂枢密があわてて馬にうち乗ると、そこへ三人の統制官が援護に駆けつけてきた。城内には天も落ちんばかりの火〓がおこった。瓜州(宋軍が待機している)ではそれを望見して、まず一隊の軍勢を援護にさしむけた。城内では四方の城門でしばらく混戦がつづいたが、城壁にはやがて宋先鋒の旗じるしがかかげられた。四方八方で混戦する軍についてはいちいち語りつくすことはできぬが、それはあとで明らかになろう。
一方、江の南岸には、はやくも一百五十艘の戦船が横着けられ、いっせいに戦馬をひきあげ、首《かしら》たる十人の戦将が岸へあがった。その十人の大将は、
関勝 呼延灼 花栄 秦明 〓思文 宣賛 単廷珪 韓滔 彭〓 魏定国
正偏の戦将十人は、二千の軍勢をひきつれて城内へ突入した。このとき呂枢密は大敗を喫し、傷ついた兵をひきつれてまっしぐらに丹徒県《たんとけん》へ逃げて行った。大軍は潤州を奪い取り、まず火事を消しとめ、手分けをして四つの城門を守り、それから江岸へ行って宋先鋒の船を迎えた。おりしも江面には遊竜・飛鯨の船が見え、順風に乗じていっせいに南岸に到着した。大小の将領たちは宋先鋒を迎えて城内にみちびいた。宋先鋒はまず告示を出して住民を宣撫してのち、麾下の将領を点呼し、一同中軍にあつまって戦功を献じさせた。史進は沈剛の首級を献じ、張横は潘文得の首級を献じ、劉唐は沈沢の首級を献じ、孔明と孔亮は卓万里をいけどり、項充と李袞は和潼《かどう》をいけどり、〓思文は徐統を弓で討ちとっていた。かくて潤州を手にいれ、四人の統制官を殺し、ふたりの統制官をいけどった。討ちとった牙将や官兵はその数もかぞえられぬほどであった。
宋江が麾下の将領を点呼してみると、三人の偏将をうしなっていた。いずれも乱戦中に矢にあたり、馬に踏まれて相果てたのであった。その三人は、ひとりは雲裏金剛《うんりこんごう》の宋万《そうまん》、ひとりは没面目《ぼつめんもく》の焦挺《しようてい》、ひとりは九尾亀《きゆうびき》の陶宗旺《とうそうおう》であった。宋江は三将をうしなって深く悲しみ、怏々《おうおう》として楽しまなかった。呉用がなだめていった。
「生死は天からあたえられた運命です。三人の兄弟をうしないはしましたが、さいわいに江南第一の要害たる州郡を手にいれることができました。あまりお嘆きになって、お身体にさわるようなことがあってはなりません。国家のために功を成すためには、まず、大事をはかられますよう」
すると宋江はいった。
「われわれ一百八人のものは、天書に載せられていて、上は星曜《ほしぼし》に応ずる身。はじめ梁山泊で発願《ほつがん》し、五台山で誓約して、あくまでも同生同死を願ったのに、都へ帰ってから、はからずもまず公孫勝が去り、金大堅と皇甫端を天子の御前にとどめ、さらにまた蔡太師に蕭譲を用いられ、王都尉にも楽和を求められてしまった。そしてこのたびは長江をわたったばかりで、またもや三人の兄弟をなくしてしまった。思えば、宋万という人は、いちども格別の手柄をたてたことはなかったとはいえ、梁山泊創業のはじめには、ずいぶんとあの人のお蔭をこうむったものだったが、いまやもう帰らぬ人となってしまったとは」
宋江は命令をくだして、兵士たちに宋万の死んだ場所に祭りの用意をさせて、銀銭《ぎんせん》(銀色の紙銭《しせん》)をならべ、黒い豚と白い羊を供え、手ずから親しく祭礼をおこなって神酒をささげ、いけどりにした偽《にせ》の統制の卓万里と和潼をひき出してその場で首を刎《は》ね、血をそそいで三人の英魂に手向けた。
宋江は府の役所へもどると、功賞をおこない、また、上申書をしたためて使いを出し、勝利を報じて張招討に来城を請わしめたが、このことはそれまでとする。なお、街路で殺された遺骸はことごとくとりおさめて城外で荼眦《だび》に付させ、また、三人の偏将の遺骸をとりおさめて潤州の東門外に葬らせた。
ところで、呂枢密のほうは、大半の軍勢を失ったあげく、六人の統制官をひきつれて、退いて丹徒県を守ったが、もとより再び兵を進めるどころではなく、急を告げる文書を上申し、蘇州に報じて三大王の方貌《ほうぼう》に救いを求めた。すると物見の兵の知らせがあって、蘇州から元帥の政《けいせい》が差しむけられて、軍をひきつれて到着したとのこと。呂枢密は元帥を引見して労をねぎらい、県の役所へ行って、くわしく、陳将士が投降をいつわったことから、それが漏れて宋江の軍勢が江をわたるにいたった次第を話し、
「こうして元帥においでいただいたうえは、ともに潤州を取り返したいものです」
といった。政は、
「三大王さまは、〓星が呉の地を犯したことを知られて、そのため特にわたしに、兵をひきつれて行って江面を巡守するようにとの仰せだったのですが、枢密どのがいくさに敗れておられるとは思いもかけぬことでした。わたくし、その仇を取りますゆえ、枢密どのには援護にまわってくださいますよう」
その翌日、政は軍をひきつれて潤州の奪回にむかった。
片や宋江は、潤州の役所で呉用と協議して、童威と童猛に、百余名をひきつれて焦山へ行き、石秀と阮小七をさがし出すよう命じる一方、兵を城外へ繰り出して丹徒県をおそわせることにし、五千の軍勢をうちそろえ、その首《かしら》として十人の正将を派遣することにした。その十人とは、
関勝 林冲 秦明 呼延灼 董平 花栄 徐寧 朱仝 索超 楊志
かくて十人の正将は、精兵五千をひきしたがえて潤州をいでたち、丹徒県へとむかった。関勝らが軍を進めて行くとき、途上で政の軍勢とぶっつかった。両軍は相《あい》対陣し、互いに弓矢で出足を制しあいつつ陣形を布いた。と、南軍の陣からは政が槍をかまえて馬を進め、六人の統制官がその両脇にひかえた。宋軍の陣ではそれを見た関勝が、馬を飛ばして、青竜偃月刀《せいりゆうえんげつとう》を舞わせつつ政にたちむかった。ふたりの将はかくてわたりあうこと十四五合、一将がもんどりうって落馬した。まさに、瓦罐《がかん》は井上《せいじよう》を離れずして破れ(注九)、将軍は必ず陣前に在《おい》て亡ぶ、というところ。さて二将のたたかいで負けたほうは誰であったか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 漢陽江・潯陽江・揚子江 地方によって別の名で呼ばれているのであって、上流から、順に、四川、湖南・江西、江蘇・浙江の各地方における呼び名である。
二 かなめ 原文は風門水口。風門は観相家のいう口のこと。水口は水のはけ口。
三 鰲背 鰲山に同じ。鰲は大きな海亀。鰲山は大海亀が背に負っているという海中の神山。ここでは金山寺のある金山を指す。なお、これまでしばしば出てきた飾り灯籠を鰲山というのは、鰲山にかたどって作るためである。
四 竜鱗 ここでは金山寺を指す。金山寺は金山をとりまいて建てられているということがはじめに書かれていた。それを竜の鱗にたとえたのである。
五 青螺 青い螺《にしがい》。青い山のたとえ。ここでは金山を指す。
六 郭璞 晋の人で、字《あざな》は景純。博学で、その詩賦は東晋第一と称され、また陰陽・天文・暦数・卜筮にも秀でていた。その墓が江岸にある。
七 ご令息さま 原文は直閣舎人。宋には閤門宣賛舎人、元には直省舎人、侍機舎人などがあって、いずれも天子近侍の官であるが、直閣舎人はここでは官名ではなく、陳将士のふたりの息子をさす。舎人というのは宋・元代では貴顕の子弟に対する尊称であった。
八 牌面 第八十二回注三参照。
九 瓦罐は井上を離れずして破れ 第百四回注二三参照。
第百十二回
盧俊義《ろしゆんぎ》 兵を宣州道《せんしゆうどう》に分《わか》ち
宋公明《そうこうめい》 大いに毘陵郡《びりようぐん》に戦う
さて元帥の政《けいせい》は関勝《かんしよう》と馬を交《まじ》えたが、わたりあうこと十四五合にもおよばぬうちに、関勝のふるった一刀のもと、馬の下に斬りたおされてしまった。呼延灼は関勝が政を斬りたおしたのを見るや、大いに兵を駆りたてて斬りこんで行った。六人の統制官は南をさして逃げた。呂枢密は麾下の軍勢が総崩れになったのを見て丹徒県をうち捨て、敗残の兵をひきつれて常州府《じようしゆうふ》へと落ちて行った。宋軍の十人の大将は県城を奪い取ると、勝利を宋先鋒に知らせた。宋先鋒は本隊の軍勢をひきつれ、丹徒県に前進して宿営につき、全軍の将兵をねぎらい、張招討に急報して、兵を移して潤州を守るよう請うた。翌日、中軍の従《じゆう》・耿《こう》の二参謀が賞賜の品を持って丹徒県に着いた。宋江はつつしんでそれを受け、諸将に分けあたえた。
宋江は盧俊義を招いて、兵の編制と征進のことを相談した。宋江はいう。
「現に宣《せん》・湖《こ》二州も賊の方臘の占領するところとなっています。これよりあなたと将兵を分け、二手にわかれて討伐にむかうことにしましょう。ついては鬮《くじ》を二本つくって、天に祈って引き、引きあてた討伐地へ兵をひきいて進むことにしましょう」
そのとき宋江は常《じよう》・蘇《そ》の両地を引きあて、盧俊義は宣・湖の両地を引いた。宋江はただちに鉄面孔目の裴宣に、諸将を均等に二分させた。楊志は病気を患って討伐に従うことができなかったため、丹徒に残しておくことになったが、その他の将領は二手に分けられた。宋先鋒にひきいられて常・蘇の両地を攻める将領は、正偏の将あわせて四十二人で、正将は十三人、偏将は二十九人であった。
正将
先鋒使呼保義宋江
軍師 智多星 呉用
撲天〓 李応 大 刀 関勝 小李広 花栄 霹靂火 秦明 金鎗手 徐寧 美髯公 朱仝 花和尚 魯智深 行 者 武松 九紋竜 史進 黒旋風 李逵 神行太保 戴宗
偏将
鎮三山 黄信 病尉遅 孫立 井木〓 〓思文 醜郡馬 宣賛 百勝将 韓滔 天目将 彭〓 混世魔王 樊瑞 鉄笛仙 馬麟
錦毛虎 燕順 八臂那〓 項充 飛天大聖 李袞 喪門神 鮑旭 矮脚虎 王英 一丈青 扈三娘 錦豹子 楊林 金眼彪 施恩 鬼臉児 杜興 毛頭星 孔明 独火星 孔亮 轟天雷 凌振 鉄臂膊 蔡福 一枝花 蔡慶 金毛犬 段景住 通臂猿 侯健
神算子 〓敬 神 医 安道全
険道神 郁保四 鉄扇子 宋清
鉄面孔目 裴宣
大小正偏の将領四十二人、したがう精兵三万からなる軍勢は、宋先鋒が統率した。
副先鋒の盧俊義にひきいられて宣・湖の両地を攻める将領は、正偏の将あわせて四十七人で、正将は十四人、偏将は三十三人。偏将の首《かしら》たる朱武は軍師の職をさずけられた。
正将
副先鋒 玉麒麟 盧俊義
軍師 神 機 朱武
小旋風 柴進 豹子頭 林冲 双鎗将 董平 双鞭将 呼延灼 急先鋒 索超 没遮〓 穆弘 病関索 楊雄 挿翅虎 雷横 両頭蛇 解珍 双尾蝎 解宝 没羽箭 張清 赤髪鬼 劉唐 浪 子 燕青
偏将
聖水将 単廷珪 神火将 魏定国 小温侯 呂方 賽仁貴 郭盛 摩雲金翅 欧鵬 火眼〓猊 〓飛 打虎将 李忠 小覇王 周通 跳澗虎 陳達 白花蛇 楊春 病大虫 薛永 摸着天 杜遷 小遮〓 穆春 出林竜 鄒淵 独角竜 鄒潤 催命判官 李立 青眼虎 李雲 石将軍 石勇 旱地忽律 朱貴 笑面虎 朱富 小尉遅 孫新 母大虫 顧大嫂 菜園子 張青 母夜叉 孫二娘 白面郎君 鄭天寿 金銭豹子 湯隆 操刀鬼 曹正 白日鼠 白勝 花項虎 〓旺 中箭虎 丁得孫 活閃婆 王定六 鼓上 時遷
大小正偏の将領四十七人、したがう精兵三万からなる軍勢は、盧俊義が統率した。
みなさん、しかと話をおぼえておいていただきたい。盧先鋒は宣・湖の二州を攻め、同勢は計四十七人。宋公明は常・蘇の両地を攻め、同勢は計四十二人。水軍の頭領たちは別に一隊となった。童威と童猛は焦山へ行かされていたが、石秀と阮小七をさがしあてたので、帰ってきて報告した。
「石秀と阮小七は江岸へ行って、とある一家を皆殺しにして快船《はやぶね》を一艘うばい、焦山の寺へ行きましたところ、寺の主《あるじ》は梁山泊の好漢であることを知って、ひきとめて寺内で宿食させてくれたのだそうです。のち、張順が殊勲をたてたことを知って、機を見て焦山から船に乗り、茆港《うこう》を取ってさらに江陰《こういん》・太倉《たいそう》などの海沿いの州県を討伐するために、使いのものをよこして、文書で、水軍の頭領の派遣、ならびに戦具と船隻を求めてまいりました」
そこで宋江は、李俊ら八人に水軍の兵五千をあたえ、石秀・阮小七らに追いついて、いっしょに水路を進ませることにした。あわせて正偏の将十人で、その十人は、正将七人に偏将三人である。
命三郎 石秀 混江竜 李俊 船火児 張横 浪裏白跳 張順 立地太歳 阮小二 短命二郎 阮小五 活閻羅 阮小七 出洞蛟 童威 翻江蜃 童猛 玉旛竿 孟康
大小正偏の将領十人、水軍の精兵五千、戦船一百隻であった。
みなさん、お聞きください。宋江が丹徒から兵を分けて進んだときの将領の数は、あわせて九十九人。すでにして百の数に満たなくなっていたのである。
かくて大型の戦船はすべて水軍の頭領にあたえて江陰・太倉を討たせ、小型の戦船のほうは丹徒に集めてことごとく城内の船溜りにとどめ、軍にしたがって常州を攻めさせることになった。
さて一方呂師嚢《りよしのう》は、六人の統制官をひきつれ、退いて常州の毘陵郡《ひりようぐん》を守った。この常州にはもともと守城の統制官たる銭振鵬《せんしんほう》がいて、その配下にはふたりの副将がいた。ひとりは晋陵県《しんりようけん》の上濠《じようごう》の出身で、姓は金《きん》、名は節《せつ》。ひとりは銭振鵬の腹心のもので、許定《きよてい》といった。銭振鵬はもと清渓県の都頭(捕り手の頭《かしら》)であったが、方臘に力をあわせてしばしば城を取り、常州の制置使《せいちし》(辺地の軍を統率する長官)に昇任されていたものである。彼は呂枢密がいくさに敗れて潤州をうしない、まっすぐ常州に退却してきたと聞くや、ただちに金節と許定をひきつれ、城門をあけてこれを迎え、州役所にみちびいてもてなしたうえ、応戦の策を協議した。銭振鵬はいった。
「枢密どの、ご安心ください。わたくし、およばずながら犬馬の労をとり、ただちに宋江のやつらを大破して長江のむこうへひきあげさせ、潤州を取り返して本懐をとげたいと存じます」
呂枢密は、
「制置どのにさようにご配慮いただければ、国家の不安を憂えずにすむというものです。功をとげられたあかつきには、わたくし、つとめて推輓申しあげて高位にのぼられるようとりはからいましょう」
と、ねんごろにいった。その日の宴のことは述べない。
一方、宋先鋒は、配分した軍勢をひきいて常・蘇の二州を攻めるにあたり、まず騎兵の軍を出し、長駆猛進して毘陵郡へとむかわせた。その頭《かしら》たる正将一名は関勝で、麾下に十人の将領をしたがえた。その十人とは、
秦明 徐寧 黄信 孫立 〓思文 宣賛 韓滔 彭〓 馬麟 燕順
正偏の将領あわせて十一人は、騎兵三千をひきいてまっしぐらに常州の城下へおし寄せ、旗を振り軍鼓を鳴らしてたたかいを挑んだ。呂枢密がそれを見て、
「誰か出て行って敵を撃退するものはいないか」
というと、すでに銭振鵬が馬を用意していて、
「わたくしが、全力をあげてたたかいます」
という。呂枢密はただちに六人の統制官を援護にさし出した。その六人は誰かというと、
応明《おうめい》 張近仁《ちようきんじん》 趙毅《ちようき》 沈抃《しんべん》 高可立《こうかりつ》 范疇《はんちゆう》
七人の将は五千の軍勢をひきいた。城門があけられ、吊り橋がおろされると、銭振鵬は〓風刀《はつぷうとう》を得物に、捲毛《まきげ》の赤兎馬《せきとば》にうちまたがって、まっさきに城を出た。
関勝はそれを見るや、軍勢をひとまず後退させて、銭振鵬に陣形を布かせた。六人の統制官は左右に分かれた。対陣の関勝は、先頭に馬を立て、刀を横たえつつ声をはげまして呼ばわった。
「逆賊め、よく聞け。汝らが一人の匹夫《ひつぷ》を助けて謀叛をはたらき、人命をそこなっていることは、神も人もともにゆるさざるところだ。いま天兵がここまできたというのに、なおも命のほども知らず手むかいする気か。汝ら賊徒をことごとく誅殺するまでは断じて兵をもどさぬぞ」
銭振鵬はそれを聞くと大いに怒って、罵った。
「きさまたち一味は梁山泊の盗賊でありながら、天の時を知らず、王覇の業を図《はか》ろうともせずに、かえって無道暗愚な天子に降《くだ》り、わが大国と同士討ちをしようというのか。いまからきさまたちを存分に斬りまくって、甲《よろい》のかけらひとつ帰さぬようにするまでは手をひかぬぞ」
関勝はかっとなり、青竜偃月刀を舞わしてまっしぐらに突きかかって行った。銭振鵬は〓風刀をふるって迎え討つ。かくてふたりの将はたたかったが、わたりあうこと三十合あまり、銭振鵬は次第に力ひるみ、受けきれなくなってきた。南軍の門旗の下では、ふたりの統制官が銭振鵬のひるむのを見るや、二本の槍をならべていっせいに馬を出し、関勝を挟撃した。かみては趙毅、しもては范疇である。宋軍の門旗の下では、いきどおったふたりの偏将が、ひとりは喪門剣《そうもんけん》を舞わし、ひとりは虎眼鞭《こがんべん》をふるいつつ、馬をおどらせて行く。すなわち鎮三山の黄信と病尉遅の孫立である。かくて六人の将が三組に分かれて陣頭でわたりあった。呂枢密は急いで許定と金節を城外へ加勢に出した。両将は命を受けるや、それぞれ武器を手に、馬に乗って陣頭へ駆けつけた。見れば、趙毅は黄信とたたかい、范疇は孫立とたたかっていたが、いずれも好敵手同士である。たたかい、次第にたけなわになるや、趙毅と范疇はようやく敗色をしめしはじめた。許定と金節はそれぞれ一振りの大刀を得物に陣を飛び出す。宋軍の陣中では、韓滔・彭〓の二将が、ならんで飛び出してこれを迎え討つ。金節は韓滔を相手どり、許定は彭〓を相手どった。
元来、金節は、かねてから大宋に帰順したいと考えていたので、故意に自軍の陣を乱させようとして、数合わたりあっただけで馬首を転じて自陣へと逃げだした。韓滔は勢いに乗じて追いかけて行く。南軍の陣の高可立は、金節が韓滔に追いつめられているのを見ると、雕弓《ちようきゆう》をとって硬箭《こうせん》をつがえ、満々と引きしぼってひょうと射放てば、矢は韓滔の〓にあたり、韓滔はさかしまになって落馬した。こちらでは秦明が、あわてて馬をせかせ狼牙棍《ろうがこん》を振りまわして救いに出たが、そのときはやくもむこうからは張近仁が飛び出して韓滔の咽喉《の ど》を槍で突き、とどめを刺してしまった。
彭〓と韓滔とは互いに助けあってきた兄弟の仲。彭〓は彼が殺されたのを見るや、急いで仇を討とうとして、許定をうちすててまっしぐらに陣上に馳せつけ、高可立をさがした。許定はあとを追ったが、秦明がこれをはばんでたたかった。高可立は彭〓が追いかけてくるのを見るや、槍をかまえて迎えた。と不意に張近仁が脇のほうから飛び出してきて、彭〓を槍で突き刺して馬から落としてしまった。
関勝は二将を討ちとられて忿怒《ふんぬ》し、常州の城内へ斬り入らんばかりにいきりたち、神威をふるいおこして銭振鵬を一刀のもとに、同じく馬の下に斬って落とした。そして彼の乗っていた捲毛の赤兎馬を奪い取ろうとしたところ、不覚にも自分の乗っていた赤兎馬が前につんのめり、関勝は馬からふり落とされた。南陣の高可立・張近仁の両騎は、すかさず関勝におそいかかってきたが、徐寧が宣賛・〓思文の二将をひきいていっせいに飛び出して行き、関勝を救って自陣にもどった。呂枢密は大いに兵を駆りたてて、城外へ斬り出させる。関勝ら諸将は利をうしなって北のほうへと敗走した。南軍は二十里あまりも追ってきた。
この日、関勝は多くの兵をうしない、軍をつれもどして宋江に見《まみ》えるなり、韓滔と彭〓とをうしなった旨を告げた。宋江ははげしく哭《な》いて、いった。
「長江をわたってきてから、五人の兄弟をうしなってしまったとは。皇天(天帝)がお怒りになって宋江に方臘を捕らえることを許し給わず、兵を損《そこな》い将をうしなわしめられるのではなかろうか」
呉用がなだめた。
「主帥、そんなことはありません。勝敗《しようはい》は兵家《へいか》の常《つね》、決して怪しむにたりません。両将軍の寿命のつきる日だったのです。そのためにこういう結果になったのです。どうか憂えることはやめて大事をとりさばかれますよう」
そのとき、帳前へ李逵が進み出て、いった。
「ふたりの兄弟を殺したやつの顔を知っているものを案内につけ、おいらにその賊を殺しに行かせて、ふたりの兄貴の仇を討たせてください」
宋江は命令をつたえた。
「あすは白旗(喪の旗)を一面かかげさせて、わたしがみずから諸将をひきい、ただちに城下へおし寄せて行って賊と鋒をまじえ、勝敗を決することにする」
翌日、宋公明は本隊の軍勢をひきい、水陸並び進み、船騎相迎えつつ、大挙して出陣した。黒旋風の李逵は、鮑旭・項充・李袞をしたがえ、精悍勇猛な五百の歩兵をひきつれてさきに偵察に出、ただちに常州の城下へおし寄せた。
呂枢密は、銭振鵬を討ちとられて心中大いに憂慮し、相ついで三通の急告の文書を蘇州へ送って、三大王の方貌に救援を求めるとともに、また奏文をしたためて朝廷(方臘のもと)へ上奏した。そこへまた知らせがあって、
「城下に五百の歩兵が攻め寄せてきました。旗じるしにはその首《かしら》たるものは黒旋風の李逵としるしてあります」
という。呂枢密が、
「そやつは梁山泊第一の兇徒で、人殺しにはなれきった好漢だが、誰かまっさきにやつをとりおさえに行ってくれぬか」
というと、帳前に、手柄をあげて意気軒昂たるふたりの統制官、高可立と張近仁が進み出た。呂枢密はいった。
「その方らふたりが、もしあの賊を捕らえたならば、わしは極力お上に推挙して、官を加え賞を重くしていただけるようにとりはからおう」
張・高の二統制は、それぞれ槍をとって馬に乗り、歩騎の兵一千をひきつれて城外へ討って出た。黒旋風の李逵はそれを見るや、ただちに五百の歩兵を一文字に展開させ、二梃の板斧《はんぷ》を手に、陣頭につっ立った。喪門神の鮑旭は、一振りの大闊板刀《たいかつぱんとう》(大だんびら)を持ってそのかたわらにひかえ、項充・李袞のふたりは、ともに蛮牌《ばんぱい》(たて)をとり、右手には鉄標《てつぴよう》(鉄の投げ槍)を持つ。四人はそれぞれ前とうしろに掩心《えんしん》(護心鏡。胸あて)のある鉄の甲《よろい》をまとって陣頭に並んだ。高・張の二統制は、まさに、勝ちを得たる狸猫《りびよう》(ねこ)は強きこと虎のごとく、時におよべる鴉鵲《あじやく》(からす)は〓《たか》をも欺く、というありさまで、一千の軍勢をしたがえて城壁を背に陣を展開した。
宋軍のなかの忍びのものたちが、高可立と張近仁のふたりが韓滔と彭〓を殺した男であることをみとめて、指さし示しながら黒旋風にいった。
「あの軍をひきいているふたりこそ、わが韓・彭二将軍を殺したやつです」
李逵はその言葉を聞くや、ものもいわずにいきなり、二梃の板斧をつかんでまっしぐらに敵陣へおそいかかって行った。鮑旭は李逵が敵陣に斬りこんで行くのを見ると、急いで項充と李袞に呼びかけ、蛮牌を舞わせながら呼応して飛び出した。四人はいっせいに喊声をあげて敵陣へ繰りこむ。高可立と張近仁は度胆を抜かれ、手を施すいとまもなく、あわてて馬を返そうとしたが、かの蛮牌のふたりははやくもその馬の頷《おとがい》の下に繰りこんでいた。高可立と張近仁が馬の上から槍を突きおろすと、項充と李袞は牌《たて》で受けとめる。李逵が斧をふるって、すかさず高可立の馬の脚を叩き斬ると、高可立は馬からころがり落ちた。項充は、
「生かしたままで」
と叫んだが、李逵は人を殺《あや》めることの好きな男、なんでこらえることができよう。はやくも斧をふるって首を斬り落としてしまった。鮑旭は張近仁を馬からひきずりおろし、一刀のもとにこれまた首を刎《は》ねた。四人は陣中をめったやたらに斬りまくる。黒旋風は高可立の首を腰に縛りつけ、二梃の板斧を振りまわして天地の見さかいもなしに、縦横無尽に陣中を斬りまくり、歩騎の兵一千を斬りたてて城内へ逃げこませ、三四百人を斬り殺してまっしぐらに吊り橋のほとりまで追って行った。李逵と鮑旭のふたりはそのまま城内へ斬りこもうとしたが、項充と李袞が必死に阻《はば》みとどめてひきあげさせた。城壁の上からは投げ丸太や投げ石をしきりに投げおろしてきた。四人は陣頭にもどったが、五百の兵は一文字に展開したままで、いささかも動いてはいなかった。彼らとて混戦に討って出たくはあったが、黒旋風が黒白の見さかいもなく、目にとまり次第斬ってしまうことをおそれ、そのため進み出なかったのである。
土埃りが舞い立って、やがて宋先鋒の軍勢が到着した。李逵と鮑旭はそれぞれ首級を献じた。諸将はそれが高可立と張近仁の首であることをみとめて、みなびっくりし、
「いったい、どうやって仇の首級をあげたのだ」
というと、ふたりは、
「多くのやつらをやっつけたあげく、もともとふたりをいけどりにしてやるつもりだったのだが、つい、腕がむずむずしてきて、こらえきれず、そのまま殺してしまったんです」
という。宋江はいった。
「仇の首をとったうえは、さっそく白旗の下で、遥かに韓・彭二将軍の霊を祭ることにしよう」
宋江はまたひとしきり哭《な》いた。そして白旗を倒し、李逵・鮑旭・項充・李袞の四人に賞をあたえて、ただちに常州の城下に兵を進めた。
一方、呂枢密は城内でうろたえながら、ただちに金節・許定および四人の統制官に、宋江を撃退する策をはかった。諸将は李逵らのあのたたかいぶりを見て、いずれもみな心胆をふるえあがらせていて、あえて討って出ようとするものはいない。呂枢密はいくどか声をかけたが、さながら、箭《や》が雁の嘴《くち》を射貫《いぬ》き、鉤《つりばり》が魚の鰓《えら》をひっかけたごとく、黙々として声がなく、誰ひとりあえてこたえるものもない。呂枢密は思い屈し、人を城壁にやって偵察させてみると、宋江の軍は三方から常州を包囲し、いっせいに城下で、軍鼓を鳴らし旗を振り、喊声をあげてたたかいを挑んでいるとのこと。呂枢密は諸将に、とりあえずみな城壁へのぼって守備につくよう命じた。諸将がひきさがって行ったのち、呂枢密はひとり奥の間で思案をめぐらしたが、なんの施す術もないので、側近の腹心のものたちを呼んで相談し、城を捨てて逃げようとしたが、このことはそれまでとする。
ところで、守将の金節は、自分の家に帰って妻の秦玉蘭《しんぎよくらん》に話した。
「いま宋先鋒は城を包囲し、三方から攻めたてているが、わが城内には糧食も欠乏していて、遠からず窮してしまうだろう。もし城を討ち破られたならば、われわれはそのときは、みな刀の下の亡霊になってしまうのだ」
すると秦玉蘭のいうには、
「あなたはもともと忠孝の心と帰順のお気持をもっておいでなのですし、それに、もとは宋朝のお役人で、朝廷からひどいお仕うちを受けたというわけでもないのですから、このさい、邪をすてて正道に帰り、呂師嚢を捕らえて宋先鋒に献上なさるのが立身の道でございましょう」
「だが、彼の配下には四人の統制官がおり、それぞれ軍勢をしたがえているのだ。それに許定のやつはわしといがみあっている仲でもあり、しかも呂師嚢の腹心ときている。うまく事のはこばぬうちに、逆にこちらが禍《わざわい》を受けそうなのだ」
「それでは、こっそりと寅夜《いんや》(明けがた前)に手紙を一通かいて矢に結びつけ、城外へ射ち放って宋先鋒に意向をつたえ、内と外から呼応して城を取ることになさればよろしいでしょう。あした、たたかいに出られたとき、あなたはわざと敗けたふうに見せかけて宋軍を城内へ誘い入れるのです。そうすればあなたのお手柄になりましょう」
「うむ、いかにももっともだ。おまえのいうとおりにやってみよう」
史官の詩にいう。
暗《あん》を棄て明《めい》に投じて禍機を免《まぬか》る
毘陵《びりよう》に重ねて見る負覊《ふき》の妻
婦人尚《なお》且つ忠義を存す
何事ぞ男児識見迷う
翌日、宋江は兵をひきつれてきびしく城を攻めた。呂枢密は一同をあつめて相談をした。金節はこたえていった。
「常州の城は高く広く、守るのには適しておりますが、攻めるべきではありません。諸将はまず守りをかため、蘇州の援軍がやってくるのを待って、そのうえでいっしょになってたたかいに転ずべきです」
「いかにももっともだ」
と呂枢密はいい、諸将を手分けして応明《おうめい》と趙毅《ちようき》には東門を守らせ、沈抃《しんべん》と范疇《はんちゆう》には北門を守らせ、金節には西門を守らせ、許定には南門を守らせることにした。
手分けがきまると、それぞれ兵をひきいて守りについた。
その夜、金節は私信をしたためて箭《や》に結びつけ、夜が更けて人の静まるのを待ち、城壁の上から西門外の物見の兵をめがけて射放った。その兵士は矢を拾うと、急いで陣中へ報告に行った。西の陣を守っていた正将の花和尚の魯智深と行者の武松のふたりは、それを読むや、ただちに偏将の杜興に持たせて東北の門の本陣へ急報させた。宋江と呉用は明りをともして本営内で協議していたが、杜興が金節の私信を差し出すと、宋江はそれを読んで大いによろこび、ただちに命令をくだして三つの陣に意向を伝えさせた。
あくる日、三つの陣の頭領たちは三方から城を攻めた。呂枢密が望楼の上で偵察していると、宋江の陣では轟天雷の凌振が砲架を組み、風火砲をぶっ放した。砲はまっすぐに飛んで行って敵の望楼の角に命中し、がらがらというひびきをたてて望楼は半分ほど崩れてしまった。呂枢密はあわてて逃げだし、辛くも命びろいをして城壁からおりると、四つの門の守将に城を出てたたかいを挑むよう促し、三たび戦鼓を打ち鳴らし、城門をあけ放ち、吊り橋をおろした。北門の沈抃《しんべん》と范疇《はんちゆう》が兵をひきつれて討ち出て行くと、宋軍からは大刀の関勝が、銭振鵬の捲毛の赤兎馬にうちまたがって陣頭にあらわれ、范疇とたたかった。ふたりが相対しているところへ、西門の金節がさらに一隊の軍をひきつれてたたかいを挑んできた。宋江の陣からは病尉遅の孫立が馬を進めた。ふたりはたたかったが、三合もわたりあわぬうちに、金節は負けたと見せかけ、馬首を転じて逃げだした。
孫立がまっさきに、燕順・馬麟がそれにつづき、魯智深・武松・孔亮・施恩・杜興と、いっせいに兵を進める。金節はそのまま城内へ逃げこむ。孫立ははやくも城門のあたりまで追い入り、西門を奪ってしまった。城内は大騒ぎになった。大宋の軍勢がすでに西門から入城したことを知ったからである。そのとき住民たちはみな、方臘の迫害にたえきれず、その恨みは天に冲せんばかりだったから、宋軍が入城したと聞くと、ことごとく加勢に出てきた。城壁の上にははやくも宋先鋒の旗じるしがかかげられた。范疇と沈抃は城内に変事がおこったのを見るや、あわてて城内へ駆けこんで家族を護ろうとしたが、そのとき左のほうから王矮虎と一丈青が飛び出して行って、はやくも范疇をとりおさえ、右のほうからは宣賛と〓思文のふたりが飛び出し、いっせいに追いかけて沈抃を槍で馬から刺し落とし、兵士たちにいけどりにさせた。宋江と呉用は大いに兵を駆りたてて城内へはいり、四方八方に南兵を捕らえてことごとく討ち殺した。呂枢密は許定をひきつれて南門へと逃げ、必死に血路をひらいて行く。兵士たちは追跡したが追いつき得ず、常州にひき返して指揮を仰ぎ、論功行賞にあずかった。趙毅は民家にかくれているところを、住民に捕らえられて突き出された。応明は乱戦のなかで討ちとられ、首を刎《は》ねられた。宋江は州役所へはいって、ただちに告示を出して住民を宣撫した。住民は老いをたすけ幼きをつれて州役所へ礼をのべにきた。宋江は住民たちをなぐさめて、再び良民たらしめた。諸将はそれぞれ功を献じた。
金節は州役所へ行って宋江に目通りした。宋江は親しく〓《きざはし》をおりて金節を迎え、広間に請じあげて座をすすめた。金節は感激おくあたわず、再び宋朝の良臣となるにいたった。これはひとえにその妻の内助の功というべきであったが、このことはそれまでとする。宋江は范疇・沈抃・趙毅の三人を陥車(囚車)におしこめさせ、上申書をつくって、さっそく金節に、みずから潤州の張招討の中軍へ護送して行かせることにした。金節は公文書を受け取り、三将を護送して潤州へひきわたしに行った。金節が出かけるさい、宋江はそれよりもさきに張招討に金節を推挙する飛報の文書を、神行太保の戴宗にあずけて中軍へとどけさせた。張招討は宋江が金節の忠義のほどを上申してきたのを見て、のち金節が潤州にやってきたときは大いによろこび、金節に金銀・緞匹・鞍馬・酒禮(注一)を賞賜した。副都督の劉光世はそのまま金節をひきとめて行軍都統《こうぐんととう》(征討官)にとりたて、軍前にとどめておいて服務させた。のち、金節は劉光世にしたがって大いに金《きん》の兀朮四太子《こつじゆつしたいし》を破り、数々の手柄をたて、やがて親軍指揮使《しんぐんしきし》にまでなり、中山《ちゆうざん》で陣没した。これが金節の最期《さいご》である。このことをうたった詩がある。
邪に従えば廊廟《ろうびよう》(宮廷)に生くるも愧《は》ずるに堪えたり
義に殉《じゆん》ずれば沙場(戦場)に骨となるも也《また》香《かんば》し
他日中山の忠義の鬼
如何《いかん》ぞ方臘の陣中に亡びんや
その日、張招討と劉都督は金節に賞を授けたのち、三人の賊をずたずたに斬り、梟首《さらしくび》にして人々への見せしめにした。また、ただちに使者を常州へやって、宋先鋒の軍をねぎらった。
さて宋江は常州に軍をとどめたまま、戴宗を宣州・湖州の盧先鋒のもとへやって派兵の消息を急報させることにしたが、そのときまた物見の兵の知らせがあって、
「呂枢密は無錫県《むしやくけん》へ逃げ帰りましたが、そこでまた蘇州からの援兵といっしょになって攻め寄せてこようとしております」
とのこと。宋江はそれを聞くと、ただちに騎兵歩兵の正偏の将領たる十人の頭領を出し、兵一万をあたえて、南進して敵を迎え討たせることにした。その十人の将領とは、
関勝 秦明 朱仝 李応 魯智深 武松 李逵 鮑旭 項充 李袞
かくて関勝は先手の軍勢をひきしたがえ、諸将とともに宋先鋒に別れを告げて城をうち出て行った。
一方、戴宗は宣・湖二州の征進の消息をさぐると、柴進とともに帰ってきて宋江に会い、
「副先鋒の盧俊義どのは宣州を取り、特に柴大官人を使《つかい》として勝利を告げによこされました」
と報告した。宋江は大いによろこんだ。柴進は州役所へはいって挨拶をすませた。宋江は接風酒《せつぷうしゆ》をすすめたのち、ともに奥の間へはいって座につき、盧先鋒が宣州を討ち破ったいきさつをたずねた。柴進は上申の文書を差し出して宋江に見せ、宣州攻略の次第をくわしく話した。
「方臘の配下の、宣州を鎮守する経略使の家余慶《かよけい》は、その下に六人の統制官をしたがえておりますが、いずれも歙《きゆう》州と睦《ぼく》州の出のもので、その六人というのは、
李韶《りしよう》 韓明《かんめい》 杜敬臣《とけいしん》 魯安《ろあん》 潘濬《はんしゆん》 程勝祖《ていしようそ》
です。その日、家余慶は六人の統制官を手分けして、三手に分かれて城外に対陣させました。盧先鋒も同じく三手の軍に分けてこれを迎え、中央では呼延灼が李韶とわたりあい、董平が韓明と相対しました。十合ほどわたりあったとき、韓明は董平の二本の槍に刺し殺され、李韶は逃げだして、敵の中央の軍勢は大敗しました。左翼の軍では林冲が杜敬臣とわたりあい、索超が魯安と相対しましたが、林冲は蛇矛《じやぼう》で杜敬臣を刺し殺し、索超は斧で魯安を斬り伏せてしまいました。右翼の軍では張清が潘濬《はんしゆん》とわたりあい、穆弘が程勝祖と相対しました。張清が石つぶてで潘濬を馬から叩き落としたところへ、打虎将の李忠が飛び出して行って討ちとり、程勝祖は馬を捨てて逃げ帰ってしまいました。この日はたてつづけに四将にうち勝ち、賊軍は城内へ逃げこみました。盧先鋒は急いで諸将を駆りたてて城を奪い取ろうとし、城門のほとりまで追って行きましたところ、不意に賊兵が城壁の上から一枚の磨扇《ません》(ひき臼の類)を飛ばしてきて、味方の偏将をひとり打ち殺してしまいました。城壁の上からは矢を雨のように射ちかけてきましたが、その矢にはみな毒薬が塗ってあり、味方の偏将ふたりにそれがあたって、陣に帰りついたときには、ふたりとも落命してしまいました。盧先鋒は三将を討ちとられて、夜どおしで城に攻めかかりましたところ、東門を守っていた賊将が手抜かっていたため、それに乗じて宣州を手にいれることができたという次第です。乱戦のなかで李韶を討ちとりましたが、家余慶はいくらかの敗残の兵をひきつれて湖州へ逃げて行きました。程勝祖は戦陣で行方がわからなくなりました。磨扇に打ち殺されたのは白面郎君《はくめんろうくん》の鄭天寿《ていてんじゆ》で、毒矢にあたったふたりは、操刀鬼《そうとうき》の曹正《そうせい》と活閃婆《かつせんば》の王定六《おうていろく》です」
宋江は、またもや三人の兄弟をうしなったことを聞くと、わっと哭《な》いて、とつぜん地面にぶっ倒れた。五臓の如何《いかん》はわからぬが、見れば四肢は動かない。まさに、花開くもまた風に吹き落とされ、月皎《しろ》きも那《な》んぞ雲霧の遮《さえぎ》るに堪《た》えん、というところ。さて、昏倒した宋江の命《いのち》はいかに。それは次回で。
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一 酒禮 おそらく酒醴であろう。さけとあまざけ。
第百十三回
混江竜《こんこうりゆう》 太湖《たいこ》に小結義《しようけつぎ》し
宋公明《そうこうめい》 蘇《そ》州に大会垓《だいかいがい》す
さてそのとき諸将が宋江をたすけおこすと、しばらくしてから宋江はようやく息を吹きかえし、呉用たちにむかっていった。
「われわれは、このたび方臘《ほうろう》を平定することは、結局できないだろう。長江をわたってからこのかた、まったく不運つづきで、相ついで八人の兄弟をうしなったりして……」
呉用がなだめていう。
「主帥、もうおっしゃいますな。軍の志気をくじきましょう。はじめ大遼を破ったとき、一同がつつがなく凱旋できたのは、すべて天のさだめだったのです。こんど兄弟たちをうしなったのは、これはみなその人たちの寿命だったのです。このたび長江をわたって以来、相ついで三つの大郡、潤州・常州・宣州を手にいれることができましたが、これはみな天子の天にもひとしき洪大な御徳と、主将のご威光によるものです。決して不運ではございません。どうしてそうみずから志気を沮喪なさるのです」
「天運が尽きたのだとしても、一百八人のものは、上《かみ》は列宿《ほしぼし》に応じ、天書にしるされているところにも符合しているのです。兄弟たち一同、手足のように親しくしてきたのだから、いまこのような凶報を聞いて心が傷むのはあたりまえでしょう」
「主将、そんなに気に病まれませんように。お身体にさわるようなことがあってはいけません。ともかく、援護の兵を出して無錫県《むしやくけん》を攻めることをおはかりください」
呉用がかさねてなぐさめると、宋江は、
「柴《さい》大官人はこちらに残って、わたしといっしょにいてもらいましょう。そして別に軍令書をととのえて戴《たい》院長に託し、盧先鋒のもとへとどけてもらうことにしましょう。兵を進めて湖州を攻め、はやく杭州にきて合流するようにと」
呉用は裴宣に返事の軍令書をととのえさせて、戴宗に宣州へ持って行かせたが、このことはそれまでとする。
一方、呂師嚢は許定をつれて無錫県へ逃げて行ったが、そのとき、蘇州の三大王がつかわした援軍に出あった。その頭《かしら》たるものは六軍指揮使《りくぐんしきし》の衛忠《えいちゆう》で、十数人の牙将をしたがえ、兵一万をひきつれて常州へ救援に行き、呂師嚢と合流して無錫県を守った。呂師嚢が、金節が城を宋江にひきわたした〓末を語ると、衛忠は、
「枢密どの、ご安心ください。わたくしが必ず常州を取り返しますから」
といった。と、そのとき物見の兵が知らせにきて、
「宋軍がすぐそこまでおし寄せてきました。早くご用意を」
という。衛忠はただちに兵をひきいて馬に乗り、北門外に討って出た。早くも宋軍が、勢いすさまじく、その頭《かしら》は黒旋風の李逵で、鮑旭・項充・李袞をひきつれて先頭に立ち、まっしぐらに斬りかかってくるのが見えた。衛忠はおじけづき、軍はまだ陣列を布《し》かぬうちから総崩れになって逃げだした。あわてて無錫県城へ逃げこんだときには、はや四人のものが馬のあとを追って県役所にはいりこんできた。呂枢密はただちに南門へ逃げた。関勝は軍をひきつれて、無錫県を奪ってしまった。衛忠と許定も、これまた南門へ逃げ、一同は蘇州へと落ちのびて行った。関勝らは県城を手にいれると、すぐ使いを出して宋先鋒に急報した。宋江は頭領たちとともに無錫県に着くと、さっそく告示を出して土地の住民を宣撫し、再び良民とならしめた。そして本隊の軍勢をひきいて入城し、ことごとく城内に駐留させてから、使者を張・劉二総兵のもとへやって常州の鎮守を請うた。
一方、呂枢密は、衛忠・許定と落ちあい、三人で敗残の軍勢をしたがえて蘇州へのがれ、三大王に救いをもとめた。宋軍の勢力は強大で敵し得ず、その軍勢におしまくられて城をうしなうにいたった旨を告げると、三大王は大いに怒って、
「呂枢密をたたき出して、斬ってしまえ」
と荒々しく兵士に命じた。衛忠らは訴えた。
「宋江のひきいる軍将はいずれもいくさに慣れたものばかりでして、腕のたつ勇猛な好漢が多数おりますうえに、歩兵もみな梁山泊の子分どもで、これまたたたかいに慣れたものが多く、それゆえなかなか敵しかねるのでございます」
「それでは、おまえ(呂師嚢)の首の上の一刀はひとまずあずかっておいてやる。おまえに五千の兵をつけてやるから、まっさきに偵察に出て行け。わしはこちらで大将たちを手分けしてすぐあとから援護に行ってやる」
と方貌はいった。呂師嚢は拝謝したのち、甲《よろい》に身をかため、丈八《じようはち》の蛇矛《じやぼう》をとって馬に乗り、軍をひきつれてまっさきに城を出て行った。
さて三大王は、配下の八人の戦将を呼びつどえた。八驃騎《ひようき》と名づけ、面々はみな丈《たけ》高く力強く、武芸に練達したものばかりであった。その八人は、
飛竜大将軍 劉贇《りゆうひん》
飛虎大将軍 張威《ちようい》
飛熊大将軍 徐方《じよほう》
飛豹大将軍 郭世広《かくせいこう》
飛天大将軍 〓福《うふく》
飛雲大将軍 苟正《こうせい》
飛山大将軍 甄誠《しんせい》
飛水大将軍 昌盛《しようせい》
そのとき三大王の方貌は、甲《よろい》をつけ、方天の画戟《がげき》をとり、馬に乗ってみずから出陣し、中軍の軍勢を統率してたたかいに繰り出した。馬前にはかの八人の大将をおしならべ、うしろには整々とうちつらなる二三十人の副将をしたがえ、五万の南軍の軍勢をひきつれて〓闔門《しようこうもん》をいで、宋軍を迎え討ちに行く。
先手の軍の呂師嚢は衛忠と許定をしたがえて、すでに寒山寺を過ぎ、無錫県へと進んでいた。宋江はすでに部下に探知させていて、正偏の将領をことごとくひきつれ、軍を無錫県から繰り出して前進すること十里あまり、両軍は遭遇し、旗鼓相望んで互いに陣列を布いた。呂師嚢は忿懣《ふんまん》やるかたなく、坐下の馬を躍らせ、手中の矛《ほこ》を横たえつつ、みずから陣を出て宋江とたたかいをまじえようとした。宋江は門旗の下でそれを見るや、ふりむいて声をかけた。
「誰かあの賊を捕らえるものはいないか」
すると、まだその言葉のおわらぬうちに、金鎗手の徐寧が、手中の金鎗をかまえ、坐下の馬を驟《は》せて陣をいで、呂師嚢とたたかった。二将は鋒をまじえ、両軍は喊声をあげて気勢をそえる。かくてわたりあうことおよそ二十合あまり、呂師嚢のわずかにひるむところを徐寧は槍でその脇下を刺し、馬から突き落としてしまった。両軍はどっとどよめく。黒旋風の李逵は二梃の斧をふるい、喪門神の鮑旭は飛刀をおっとり、項充と李袞はそれぞれ槍と楯を舞わして敵陣に斬りこんで行く。南軍は大いに乱れた。
宋江が兵を駆りたてて追撃して行くと、方貌のひきいる本隊の軍勢にぶっつかった。両軍は互いに弓矢で相手の出足を制しつつ、それぞれ陣形を布く。南軍の陣では八将を一文字にうちならべた。方貌は中軍にあって呂枢密が殺されたと聞くや、心中大いに怒り、ただちに戟を横たえて馬を出し、大いに宋江を罵った。
「きさまたち、たかが梁山泊一味の追い剥ぎどもめ。命運尽きた宋朝がきさまを先鋒に任じ、兵をあずけてわが領土に侵入させおったか。いざ、きさまたちを根こそぎにやっつけてしまうまではいくさをやめぬぞ」
宋江は馬上で指をさしつけていう。
「きさま、睦州の百姓の一味のぶんざいで、なんの福分あっておこがましくも王覇の業を図《はか》ろうというのだ。さっさと投降するがよい。そうすれば命だけは助けてやろう。天兵がまいったというのに、なおもつべこべと楯つくとは。きさまを殺してしまうまでは、断じて兵をひかぬぞ」
方貌は声をはげましていう。
「口をたたかわしたところではじまらぬわ。わが配下には八人の猛将がひかえている。きさま、八人のものを出してたたかわせることができるか」
宋江は笑っていう。
「こちらのふたりで、きさまのほうのひとりとやりあうようでは好漢の面目がたたぬわ。きさま、八人を出してこい。こちらも八人の首将を出して腕をくらべさせ、勝敗を決することにしよう。討たれて落馬したものは、それぞれ自陣にかつぎもどすのだ。暗箭《だましや》で相手を傷つけてはならぬ、また相手の死骸を奪うこともまかりならぬ。もし勝敗が決しなければ、混戦することはやめて、あした、改めてたたかうことを約束しよう」
方貌は承知し、ただちに八将を呼び寄せた。八将はてんでに武器をとり、馬を驟《は》せて進み出る。宋江が、
「諸将相譲《ゆず》って騎兵のものに出陣させよ」
というと、まだその言葉のおわらぬうちに八将がいっせいに進み出た。その八人は、
関勝 花栄 徐寧 秦明 朱仝 黄信 孫立 〓思文
宋江の陣では門旗が左右に開き、八人の首将が左右両辺に分かれてあらわれ、うちそろって馬を驟せつつ陣頭に臨んだ。両軍では花腔《かこう》(花模様)の軍鼓が打ち鳴らされ、雑彩《まじりいろ》の旗がうち振られる。互いに一発の号砲をうちあげ、両軍喊声をあげて気勢をそえるなかを、十六騎はいっせいに飛び出し、おのおの好敵手をえらんで相手どり、わたりあった。十六人の将領が、どのように相手をえらんで鋒をまじえたかというと、関勝は劉贇とたたかい、秦明は張威とたたかい、花栄は徐方とたたかい、徐寧は〓福とたたかい、朱仝は苟正とたたかい、黄信は郭世広とたたかい、孫立は甄誠とたたかい、〓思文は昌盛とたたかったのである。そのさまはまことに描《えが》きがたく画《えが》きがたい。見れば、
征塵は乱起し、殺気は横生す。人々は那〓《なた》(仏教の猛神で毘沙門天王の子)たらんと欲し、個々は敬徳《けいとく》(注一)たらんと争う。三十二条の臂膊《ひはく》は、錦《にしき》を織り梭《ひ》を穿つが如く、六十四隻《せき》の馬蹄は、風を追い雹《ひよう》を走らすが似《ごと》し。隊旗は錯雑し、赤白青黄《せきはくせいこう》を分《わか》ち難く、兵器は交加《こうか》(交錯)し、鎗刀剣戟《そうとうけんげき》を弁ずる莫《な》し。試みに看よ旋転する烽烟《ほうえん》の裏《うち》、真に元宵《げんしよう》の走馬灯に似るを。
この十六人の猛将は、いずれ劣らぬ英雄で、精魂をかたむけてたたかったが、わたりあうこと三十合あまり、なかなる一将がもんどりうって落馬した。うち勝ったのは誰か。美髯公の朱仝で、槍をふるって苟正を馬から刺し落としたのであった。両陣ではそれぞれ金鼓を鳴らして軍を収め、七対《つい》の将軍は分かれて双方おのおのの陣地にひきあげた。
三大王の方貌は、ひとりの大将を討ちとられて利あらずと考え、兵をひきつれて蘇州の城内へ退いた。
宋江はその日、軍勢を励ましてただちに寒山寺に迫り、陣をかまえた。そして朱仝を褒賞した。裴宣は軍書をととのえて張招討に上申したが、このことはそれまでとする。
一方、三大王の方貌は、城内へ撤退すると、守りをかためてとじこもることにし、諸将を手分けして各城門を守らせ、深く鹿角《さかもぎ》を植え、城壁の上には踏弩《とうど》(足で踏んで射つ弩《いしゆみ》)・硬弓・擂木《らいぼく》(投げ丸太)・砲石(投げ石)をならべ、小屋のなかでは金汁《きんじゆう》(糞尿《ふんによう》)を煮、姫垣のほとりには灰瓶《かいへい》(めつぶし)を積みあげて、城を守りぬく準備をした。
翌日、宋江は南軍が出てこないのを見て、花栄・徐寧・黄信・孫立をしたがえ、三十余騎の騎兵をひきつれて城の偵察に出かけた。見れば蘇州の城郭は、まわりに掘割(注二)がめぐらしてあって、牆壁も堅固だった。
「急にはとても城を攻め落とすことはできないようだ」
と考え、陣地へもどって呉用と城攻めの策をはかった。と、部下のものが知らせにきて、
「水軍の頭領の、正将の李俊が、江陰《こういん》から主将に会いに見えました」
という。宋江は帳中へ案内するようにいった。李俊に会うと宋江はさっそく海沿いの地方の情勢をたずねた。李俊が答えていうには、
「水軍をあずかりましてから、石秀らと合流して江陰《こういん》・太倉《たいそう》の沿岸地方におし寄せて行きましたところ、守将の厳勇《げんゆう》と副将の李玉《りぎよく》が水軍の船をひきしたがえて交戦に出てまいりましたが、厳勇は船の上で阮小二に槍で水中へ刺し落とされ、李玉もそのまえに乱れ矢にあたって死に、こうして江陰・太倉を手にいれることができました。目下、石秀・張横・張順は嘉定《かてい》の攻略にむかい、阮氏三兄弟は常熟《じようじゆく》の攻略にむかっております。わたしは戦勝の報告に出むいてまいりました」
宋江は知らせを聞いて大いによろこび、李俊に賞をあたえたうえ、これから常州へ行って張・劉の二招討に会い、上申書をとどけるようにといった。
さて李俊はただちに常州へ行って張招討と劉都督とに会い、江陰・太倉の海島を奪回し、賊将の厳勇と李玉を討ちとった旨をくわしく告げた。張招討は賞をあたえたうえ、宋先鋒のところへ帰ってその指揮にしたがうようにといった。李俊は寒山寺の陣地に帰ってきて、宋先鋒に挨拶した。宋江は、蘇州の城外に広く水面がひろがっているのを見て、どうしても水軍の船によってたたかおうと考えた。そこで李俊をひきとめ、船をととのえて事をおこすようにといいつけた。
「それではわたくし、出かけて行って水面の広さをしらべ、どのように兵を用いたらよいかを見たうえで、策をたてたいと存じます」
と李俊はいった。
「よろしい」
と宋江はいった。李俊は出かけて行ったが、二日して帰ってきて、いった。
「この城の真南は太湖《たいこ》に近いですから、わたくし、舟を一艘用意して宜興《ぎこう》の入江へ行き、ひそかに太湖へ出て呉江《ごこう》へ抜け、南側の様子をさぐってきたいと思います。そのうえで兵を進めて四方から挟撃すれば討ち破ることができましょう」
「ごもっともです。しかし、あなたと行《こう》をともにする助けのものがいなくては」
と宋江はいい、さっそく李大官人(李応)に、孔明・孔亮・施恩・杜興の四人をつれて江陰・太倉・崑山・常熟・嘉定などの地へ行って、水軍を援助して海沿いの県城の奪回にあたらせることにし、かわりに童威と童猛に帰ってこさせて、李俊を助けて事をおこなわせることにした。
李応は軍令書を受け取ると、宋江に別れを告げ、四人の偏将をしたがえて江陰へとたって行った。二日とたたぬうちに、童威と童猛が帰ってきて宋先鋒に挨拶をした。宋江はふたりをねぎらってから、さっそく、李俊といっしょに小舟で南側の様子をさぐりに行くようにいいつけた。
さて李俊は、童威と童猛をつれて一艘の小舟に乗り、ふたりの水夫に櫓を漕がせて、五人でまっすぐに宜興の入江へと急ぎ、めぐりめぐってやがて太湖に出た。かの太湖を眺めるに、はたして、水と空はひろびろと開けて見わたすかぎり碧《みどり》一色。そのありさまは、
天は遠水に連《つら》なり、水は遥天に接す。高低の水影は塵《ちり》無く、上下の天光は一色なり。双々の野鷺《やろ》(さぎ)、飛び来って碧琉璃《へきるり》(水)を点破《てんぱ》し、両々の軽〓《けいおう》(かもめ)、驚き起《た》って青翡翠《せいひすい》(山)を衝開《しようかい》す。春光澹蕩《たんとう》、溶々として波は魚鱗を皺《しわ》め、夏雨滂沱《ぼうだ》、滾々《こんこん》として浪は銀屋を翻《ひるがえ》す。秋蟾《しゆうせん》(秋の月)皎潔《こうけつ》、金蛇(稲妻)は波瀾を遊走し、冬雪粉飛《ふんぴ》、玉蝶は天地に瀰漫《びまん》す。混沌鑿《こんとんうが》ち開く元気(天地の気)の窟、馮夷《ひようい》(水神)独り占む水晶の宮。
これをうたった詩がある。
溶々漾々《ようようようよう》白鴎飛び
緑浄《きよ》く春深くして好く衣を染む
南去北来《なんきよほくらい》人自《おのずか》ら老い
夕陽《せきよう》常に釣船の帰るを送る
そのとき李俊は、童威・童猛ならびにふたりの水夫とともに一葉《いちよう》の小舟に乗り、まっすぐに太湖をわたって次第に呉江に近づいて行くと、遠くかなたに一群の漁船、およそ四五十艘が見えた。
「魚を買うようなふりをして、あそこへ行って様子をさぐってみることにしよう」
と李俊はいった。五人はまっすぐその漁船のそばへ漕ぎ寄せて行った。李俊が、
「漁《りよう》の人、大きい鯉はないかね」
と声をかけると、漁師は、
「おまえさんたち大きい鯉がほしいのなら、わしについて家まで行ったら売ってあげるよ」
といった。李俊は舟を漕いでその幾艘かの漁船について行った。やがて、次第に、あるところへ近づいて行った。見れば、まわりには跼《くぐま》った柳の木をめぐらして、籬落《まがき》のなかに二十戸あまりの家があった。かの漁師は船をつないでおいてから、さっそく李俊・童威・童猛の三人を岸へあがらせて、とある屋敷へつれて行った。屋敷の門をはいったとたん、その男は一声しわぶきをした。と、左右から七八人の大男が飛び出してきた。いずれも撓鉤《どうこう》(熊手)を持っていて、いっせいに李俊らをひっかけ、屋敷のなかへ捕らえて行ってわけもきかずにそのまま三人を棒杭にしばりつけてしまった。李俊が眼をあげて見るに、表の間に四人の好漢が腰をおろしているのが見えた。頭《かしら》格の男は、赤い鬚《ひげ》、黄色い髪、青い紬《つむぎ》の衲襖《のうおう》(大袖の上着)を着ており、二番目のは痩せて背が高く、短い鬚をはやし、黒緑色の、盤領《まるえり》の木綿の衫《ひとえもの》を着ている。三番目のは、黒い顔に長い鬚をはやし、四番目のは骨ばった顔、角《かく》ばった顎をしていて、扇《おうぎ》形の胡鬚《あごひげ》をたくわえており、ふたりとも同じく青色の衲襖を着ている。頭にはみな黒い氈笠《せんりゆう》(毛織りの帽子)をかぶり、身辺にはいずれも武器を持っていた。頭《かしら》格の男が李俊に大声できいた。
「きさまたちはどこのやつらだ。おれたちの湖へなにをしにやってきた」
「わしは揚州のものだ。こちらのほうへ旅をして、わざわざ魚を買いにきたのだ」
と李俊がいうと、かの四番目の骨ばった顔の男が、
「兄貴、詮議をするまでもなかろう。忍びのものにきまっているさ。構うことはない、こいつらの肝を取って酒のさかなにしよう」
李俊はその言葉を聞いて思いめぐらした。
「おれは潯陽江で長年のあいだ塩の闇あきないをし、梁山泊でも何年か好漢としてはなやかに暮らしてきたが、はからずもきょうはここでお陀仏というわけか。まあ、あきらめるとしよう」
ため息をつき、童威と童猛をふり返っていった。
「きょうはとうとう、あんたたちふたりをまきぞえにしてしまったな。死んでもいっしょにやっていこうぜ」
すると童威と童猛は、
「兄貴、そんなことはいわないでください。われわれは死んだってなにも思いのこすことはありません。ただ、ここで死んだのでは、兄貴のお名前が埋もれてしまうのが残念です」
三人は互いに顔を見あわせながら、胸を張って死を待ちうけた。かの四人の好漢たちは、彼ら三人が話しあっているさまを見て、これまた顔を見あわせながらいった。
「あの頭格のものは、どうやらただものではなさそうだ」
そこで、例の頭格の好漢がかさねてたずねた。
「おまえたち三人は、ほんとうになにものだ。名を名乗っておれたちに聞かせろ」
李俊がまた答えていう。
「きさまたち、殺すのならさっさと殺せ。おれたちの名は、死んだっておまえたちにはいわぬ。好漢たちの物笑いの種にはなりとうないからな」
頭格の男はその言葉を聞くと、ぱっと立ちあがってきて刀で縄を断ち切り、三人をゆるした。そして四人の漁師は彼らの手をとって家のなかへいれ、座をすすめた。頭格の男は、頭をさしのべて平伏し、
「わたしたちはずっと強盗渡世をしてきましたが、あなたがたのような義気のある立派な好漢にお目にかかったのははじめてです。お三人さんはほんとうにどちらのおかたですか。どうかお名前をお聞かせくださいますよう」
李俊がいった。
「あなたがた四人の兄貴も、まぎれもない好漢とお見うけします。それでは名をあかしますから、どうなりとなさってください。われわれ三人は梁山泊の宋公明配下の副将で、わたしは混江竜《こんこうりゆう》の李俊、このふたりの兄弟は、ひとりは出洞蛟《しゆつどうこう》の童威、ひとりは翻江蜃《ほんこうしん》の童猛です。このたび朝廷の招安を受け、あらたに遼国を討ち破って都へ凱旋し、かさねて勅令を奉じて方臘を討ちにきたところです。あなたがもし方臘の配下のお人なら、われわれ三人をとりおさえて行って賞を請われるがよろしい。われわれは決してじたばたはしませんから、ご心配なく」
四人のものはそれを聞くと、頭をさしのべて礼をし、いっせいにひざまずいていった。
「これはお見それいたしました。さきほどはとんだ無礼をはたらきまして、なにとぞおゆるしくださいますよう。わたしども四人の兄弟は方臘の配下ではございません。以前は山林に巣《すく》って衣食をもとめておりましたが、ちかごろ当地へやってまいりました。土地の名は楡柳荘《ゆりゆうそう》といって、あたりはどこもみな深い入江で、船でなければこられません。わたしたち四人は、魚をとりながら眼を光らせて太湖のなかで衣食のたねをねらっております。この一年であらまし水勢を知ってしまいましたので、侵《おか》しにくるものもいなくなりました。わたしども、かねてから梁山泊の宋公明どのが、天下の好漢を招き集めておられることを聞きおよんでおりましたし、あなたさまのお名前も、耳にしておりました。また浪裏白跳の張順どのがおられるということも聞いておりました。きょう、あなたさまにお目にかかれようとは、まったく思いがけぬことでございました」
「張順はわたしの弟分で、やはりおなじ水軍の頭領をやっております。現に江陰のほうで賊を追っておりますが、そのうち日を改めてあなたがたにおひきあわせしましょう。どうかあなたがた四人さんのお名前をお聞かせください」
「わたしども緑林のなかを走りまわっておりますので(注三)、みんな異名を持っていますが、どうかお笑いくださいませんよう。わたしは赤鬚竜《せきしゆりゆう》の費保《ひほう》といい、ひとりは捲毛虎《けんもうこ》の倪雲《げいうん》、ひとりは太湖蛟《たいここう》の上青《じようせい》、ひとりは痩臉熊《そうれんゆう》の狄成《てきせい》と申します」
李俊は四人の名を聞き、大いによろこんでいった。
「みなさん、これからはもう疑いあう必要もありません。幸いにみな同胞《はらから》です。わたしどもの兄貴の宋公明は現に方臘討伐の正先鋒となって、目下蘇州を攻略しようとしているのですが、その手がかりがつかめないため、特にわれわれ三人を偵察によこしたわけなのです。あなたがた四人の好漢に遇うことができたからには、ぜひともわたしといっしょに行って先鋒に会ってください。あなたがたが官途につけるよう、おとりなししましょう。方臘を平定したあかつきには、朝廷でご任用くださるでしょう」
費保はいう。
「お答えいたします。もしわれわれ四人が官途につきたいと思えば、とっくに方臘の配下で統制官におさまっていたことでしょう。役人になどなりたくないからこそ、こうして気儘に暮らしているわけなのです。もし兄貴がわれわれ四人に力を貸せとおっしゃるのでしたら、水のなかならば水のなかへ、火のなかならば火のなかへもはいって行きましょうが、官途につけるようにとりなそうとおっしゃるのでしたら、ありていに申しましてそれはご無用に願います」
「そうでしたか。それならただ、ここで義を結んで兄弟になろうではありませんか」
李俊がそういうと、四人の好漢は大いによろこんで、さっそく豚一頭と羊一匹を屠らせて酒席を設け、李俊を拝して兄とした。李俊は童威と童猛にも彼らと兄弟の義を結ばせた。
七人は楡柳荘で協議した。李俊は宋公明が蘇州を取ろうとしていることを話して、
「方貌は二度と討って出ようとはせず、城は四方が水で、攻めるべき路もなく、船は入江が狭くて容易に進めないという状態なのですが、どうすれば城を破ることができましょうか」
といった。すると費保が、
「兄貴、まあのんびりと二三日逗留してください。杭州からときおり方臘の配下のものが公用で蘇州へ行きますから、その機をとらえて策略で城を取ることにすればよいでしょう。何人かの漁師をさぐらせにやって、もしまた方臘の配下のものがやってきましたら、さっそく策略をたてることにしましょう」
「それは妙案です」
と李俊はいった。費保はさっそく何人かの漁師を呼んでさきに出て行かせた。そしてみずからは李俊とともに、毎日屋敷で酒を飲んでいた。李俊がそこに逗留して二三日たったとき、とつぜん漁師が報告にもどってきて、
「平望鎮《へいぼうちん》のあたりに十数隻の輸送船が見えます。船尾にはいずれも黄色い旗を立てていて、それには承造王府衣甲(王府御用命衣甲)と書いてあります。明らかに杭州から輸送されてきたものです。船には一艘に六七人ずつ乗っているだけです」
といった。李俊が、
「好機がつかめたからは、なにぶんみなさんのご助力を願います」
というと、費保は、
「いまからすぐ出かけましょう」
という。
「その船のものをひとりでもとり逃がしたら、この計略はふいになってしまいますぞ」
「兄貴、ご心配なく。すべてこのわたしにお任《まか》せください」
ただちに六七十隻の小さな漁船が集められた。七人の好漢はおのおの一隻に乗った。ほかのものはみな漁師である。一同はそれぞれ武器を身にかくし、全船小さな入江から大江《たいこう》へ出、散らばって進んで行った。
その夜は月が明るく満天に星が輝いていた。例の十隻の官船はすべて江東の竜王廟の前に碇泊していた。費保の船がまっさきに着き、不意に一声、口笛を吹いて合図をすると、六七十隻の漁船がいっせいに漕ぎ寄せてきて、それぞれ大船にとりついた。そして、官船のものがあわてて出てくるところを、すかさず撓鉤《どうこう》(熊手)でひっかけて、三人五人と数珠つなぎに縛ってしまった。水のなかへ跳びこんだものも、みな撓鉤で船の上にひっぱりあげられた。かくて小舟をみな官船につないで、太湖の奥まったあたりへ移り、そこからまっすぐに楡柳荘へもどってきたが、そのときはもう四更(夜の二時)ごろであった。雑輩の連中はみんな数珠つなぎに縛り、大きな石をおもしにつけ、太湖のなかへ投げこんで溺死させた。ふたりの頭《かしら》格のものをつかまえて、しらべてみると、それは杭州を守備する方臘の大太子《だいたいし》(皇太子)たる南安王《なんあんおう》・方天定《ほうてんてい》配下の庫《くら》役人で、特に令旨を奉じて、新たに造った鉄甲三千そろいを護送し、蘇州の三大王のところへ運んでひきわたすところだったのである。李俊は姓名をたずね、官印の文書いっさいを取りあげてから、このふたりの庫役人をも殺してしまった。
「わたしが自分で行って兄貴(宋江)に相談してきます。行動をおこすのはそれからです」
と李俊がいうと、費保は、
「それでは手下のものに舟で兄貴(李俊)を送らせましょう。小さな入江づたいに軍前へ行くのが近道だと思います」
といい、ただちにふたりの漁師に快船《はやぶね》を漕いで送って行くようにいいつけた。李俊は、童威・童猛ならびに費保らに対して、
「ひとまず衣甲の船隻をひそかに荘《むら》の裏の入江のなかにかくしておくがよい。人に嗅ぎつけられないようにな」
といいつけた。費保は、
「大丈夫です。わたしがしっかり船をつないでおきますから」
といった。
さて李俊とふたりの漁師は、一葉《いちよう》の快船に乗って、一路、小さな入江を進んで行った。やがて寒山寺の軍前に漕ぎつけて岸にあがり、陣中へ通って宋先鋒に挨拶をし、くわしく事の次第を話した。呉用はそれを聞くと大いによろこんでいった。
「そういうことなら、蘇州はわけなく手にいれられましょう。ただちに主将より命令を出していただいて、李逵・鮑旭・項充・李袞に、陣を衝《つ》く牌手《はいしゆ》(楯の兵)二百人をつけ、李俊について太湖の荘《むら》へ行き、費保ら四人の好漢とかくかくしかじかに計《はかりごと》をおこなって、二日目に進発するようとりきめさせましょう」
李俊は軍令をうけると、一行をしたがえて、まっすぐに太湖の岸へ行った。三人(李俊と漁師ふたり)はまず湖に出て、船に李逵ら一同を迎え取り、うちそろって楡柳荘に着いた。李俊は李逵・鮑旭・項充・李袞の四人をつれて行って費保らにひきあわせた。費保らは李逵のあの面相を見て、みなぞっとした。費保は二百余人のもの(牌手)を招いて、屋敷で酒食をととのえてもてなした。
二日目、一同は相談をまとめたうえ、費保は衣甲護送の正使の庫《くら》役人に扮し、倪雲《げいうん》は副使に扮して、ともに南軍の役人の制服を着、官印の文書をたずさえ、漁師たち一同はいずれも官船の船頭や水夫に扮した。そして黒旋風ら二百余人の将兵を船の胴《どう》の間《ま》にかくし、上青《じようせい》と狄成《てきせい》は後詰めの船を宰領して、いずれも放火の道具をたずさえた。かくていよいよ行動をおこそうとしていると、そこへまた漁師が知らせにきて、
「湖に一艘の船がいて、行ったり来たりしております」
という。李俊が、
「そいつはあやしい」
と急いで自分で見に行ってみると、船首にふたりの男が突っ立っていたが、よく見ればそれは神行太保の戴宗と轟天雷の凌振だった。李俊が一声口笛を吹いて合図をすると、その船は飛ぶように荘のほうにやってきて岸に着き、ふたりはあがってきて一同と挨拶をかわした。李俊が、
「おふたりは何用で見えたのです。なんのお知らせで?」
とたずねると、戴宗は、
「兄貴は急いで李逵を出してしまわれて、すっかり大事なことを忘れておられたのです。それで特にわたしと凌振に、一百の号砲を船に積んで行くようにいわれたのですが、湖の上では追いつくことができず、ここではまた岸に寄せることもできずにいたというわけです。明日の朝の卯《う》の刻《こく》(五時)に城内へ出かけ、なかへはいったらすぐにこの一百の砲を放って合図するようにとのことです」
「それは妙案だ」
と李俊はいい、ただちに船のなかから砲籠《ほうろう》(砲体)と砲架《ほうか》をはこび出してことごとく衣甲の船のなかにかくした。費保らは、それが戴宗だと聞いて、また酒席を設けてもてなした。凌振がつれてきた十人の砲手は、みな伏兵となって第三の船のなかにかくれさせた。その夜、四更(二時)ごろ荘を出て蘇州へと進み、五更(四時)すぎに城下に着いた。城門の守備兵は、城壁の上から南軍の旗じるしを見て、急いで城門をあずかる大将に報告した。その大将は飛豹大将軍《ひひようだいしようぐん》の郭世広《かくせいこう》で、みずから城壁にのぼり、下士のものにくわしく問いただしたうえで、官印の文書を求め、城壁の上に吊りあげてしらべた。郭世広がそれを使いのものに三大王の役所へ届けさせると、三大王は来書を披見したうえ、監視のものをよこし、そのうえで始めて城門を通させることにした。郭世広は水門のところまで行って腰をおろし、配下のものに船へ乗りこんでしらべさせたところ、ぎっしりと鉄甲と号衣が積みこんであるので、一隻また一隻とみな城内へはいらせ、十隻の船をすっかり入れてしまうと、ただちに水門をとざした。三大王がよこした監視の役人は、五百名の兵をひきいて岸の上から船につきそい、ただちに船を碇泊させた。と、李逵・鮑旭・項充・李袞が船の胴の間から飛び出した。監視の役人が四人の醜悪な面相を見てあわてて誰何《すいか》しようとしたとき、項充と李袞ははやくも団牌を舞わし、さっと刀を抜き放って監視の役人を馬から斬り落とした。かの五百の兵たちは船に乗りこもうとしたが、李逵が二梃の斧をひき抜いてすばやく岸に跳びあがり、つづけざまに十数人を斬り倒したので、かの五百の兵はみな逃げてしまった。船のなかの好漢たちと二百余人の牌手たちは、いっせいに岸へあがって火をつけた。凌振は岸に砲架をならべ、号砲を運び出してつづけざまに十数発射ち放った。砲は城楼を震い動かし、兵は四方に斬りこんで行く。三大王の方貌はちょうど役所で評議しているところだったが、砲声がつづけさまにとどろくのを聞いて、魂も宙に飛ばんばかりにおどろいた。各門の守将は、城内に砲声がひっきりなしにおこるのを聞いて、それぞれ兵をひきつれて城内へ駆けつけた。各門からは、
「南軍はみな冷箭(かくし矢)に射ち殺され、宋軍はすでに城にとりつきました」
との急報。蘇州城内は鼎《かなえ》の沸《わ》くように騒然となって、どれほどの宋軍が入城したのか見当もつかないありさま。
李逵と鮑旭は、ふたりの牌手(項充と李袞)をひきつれ、城内を縦横に駆けめぐって南兵を斬りまくった。李俊と戴宗は費保ら四人をひきつれ、凌振を護ってひたすら砲を射ちまくる。
宋江はすでに三手の将兵を繰り出して城をおそわせていた。宋軍が城に斬りこんで行くと、南軍は算を乱してばらばらと逃げた。
一方、三大王の方貌は、あわてふためきつつ甲《よろい》をつけて馬に乗り、六七百の鉄甲の兵をひきつれて、血路を開いて南門から斬って出ようとしたところ、はからずも黒旋風の李逵らの一群にぶつかった。李逵は鉄甲の兵を斬りまくって東西に逃げまどわせる。そこへさらに小路のなかから魯智深がおどり出し、鉄の禅杖を振りまわして打ちかかって行った。方貌はこれに立ちむかい得ず、ただひとり馬を飛ばしてまた役所のほうへひき返すと、烏鵲橋《うじやくきよう》の下から武松があらわれ、追いすがりざま刀をふるって馬の脚を横なぐりに斬り払った。方貌がまっさかさまに転げ落ちるところ、武松はさらにまた一太刀斬りつけた。武松は首級をひっさげてそのまま中軍へ行き、先鋒に会って賞を請うた。このとき宋江はすでに城内の王府にはいって座につき、諸将をそれぞれ城内に散らして南軍を掃蕩させ、ことごとく敵将をからめとらせたが、ひとり劉贇《りゆうひん》だけをとり逃がした。劉贇は敗残の兵若干をひきつれて秀《しゆう》州へと逃げて行った。
詩にいう。
神器《しんき》従来干《おか》す可からず
王を僭《おか》す称号〓《いずく》んぞ安からん
武松立馬《たちどころ》に方貌を誅す
兇頑《きようがん》に留与《りゆうよ》して様(見本)と做《な》して看せしむ
宋江は王府にはいって座につくと、ただちに号令をつたえて善良な住民を殺害することを禁ずるとともに、また四方の火事を消しとめさせ、宣撫の告示を出して軍民をさとした。ついで諸将を集めて、王府にきて賞を請わせた。武松が方貌を殺したことはすでにわかっていたが、そのほか、朱仝は徐方《じよほう》をいけどりにし、史進は甄誠《しんせい》をいけどりにし、孫立は鞭《べん》で張威《ちようい》を打ち殺し、李俊は槍で昌盛《しようせい》を刺し殺し、樊瑞は〓福《うふく》を斬り殺し、宣賛は郭世広《かくせいこう》と激戦をして互いに傷を負い、ともに飲馬橋の下で死んだ。その余のものはみな牙将を擒《とりこ》にし、ひきたててきて賞を請うた。宋江は醜郡馬の宣賛を討ちとられて、しきりに悼《いた》みかなしみ、ただちに人をやって花棺彩槨《かかんさいかく》をととのえさせ、虎丘山《こきゆうざん》の麓へ送って行って埋葬させた。
方貌の首級、ならびに徐方と甄誠は、常州の張招討の軍前へ送って処置を乞うた。張招討はただちに徐方と甄誠を市中で一寸刻みの刑に処し、方貌の首級は京師に送りとどけ、多くの賞賜を蘇州に持ち帰らせて諸将に分けあたえた。張招討は文書で上申して劉光世に蘇州の鎮守を請い、そして宋先鋒には随意に兵を進めて賊の掃蕩にむかうように命じた。
やがて物見の兵の知らせがあって、
「劉都督と耿《こう》参謀が蘇州を守りに見えました」
とのこと。その日、諸将一同は宋先鋒にしたがって、劉光世ら諸官を迎えて城内にみちびき、王府に落ち着かせた。挨拶をすませると、宋江ら諸将は州役所へ行って協議したうえ、人をやって沿海の水軍の頭領たちの様子をさぐらせた。と、まもなく知らせがあって、
「沿岸の各地の県城では、すでに蘇州が陥《おちい》ったことを聞いて賊たちはそれぞれ逃げ散り、海辺の諸県はことごとく鎮定されました」
という。宋江は大いによろこび、文書を上申して中軍に勝利を報じ、張招討に、賊の下にあったもとの役人たちを諭《さと》して原職に復帰せしめられるようにと請い、また中軍の統制官を各地へ出して防備と住民の宣撫をさせ、それにかわって、水軍の正偏の将領を蘇州に帰らせて指揮下にいれていただきたいと請うた。
数日のうちに、統制らの諸官はそれぞれの地へわかれて行った。いれかわって、水軍の頭領たちはみな蘇州に帰ってきて、
「阮氏三兄弟が常熟を攻めたときに施恩をうしない、ついで崑山を攻めたときに孔亮をうしないました」
と告げた。石秀・李応らもみなもどってきて、
「施恩と孔亮は水練のたしなみがなかったため、つい水中へ落ちたままふたりとも溺れ死んでしまいました」
という。宋江はまたもや二将をうしなって心中大いに憂い、しきりに嗟嘆した。武松はありし日の恩義(孟州に流罪になっていたときの恩義。第二十八―九回)を思って、彼もまたはげしく哭《な》いた。
さて費保ら四人のものは宋先鋒に別れを告げにきて、帰ろうとした。宋江はしきりにひきとめたが、ききいれないので、四人に手厚く賞をあたえたうえ、さらに李俊に費保らを楡柳荘《ゆりゆうそう》へ送って行くようにといった。李俊はそのとき、童威・童猛といっしょにまたもや費保ら四人を楡柳荘まで送って行った。費保らはまた酒席を設けてもてなしたが、その酒盛りのとき、費保は立ちあがって李俊に杯をすすめ、なにごとかいい出したのである。そのことから、やがて李俊は、中原《ちゆうげん》の境を離れて別に化外《かがい》(政治のおよばぬ地)の基《もとい》を立てることになるのである。まさにそれは、了身達命《りようしんたつめい》(安心立命)して蟾《がま》、殻《から》を離れ、業を立て名を成して魚、竜と化す、というところ。いったい費保は李俊にどんなことをいい出したのであろうか。それは次回で。
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一 敬徳 尉遅《うつち》敬徳のこと。第四十九回注五参照。
二 掘割 原文は水港。大きな川や湖から引いた運河の類で、舟を通すこともできるほどのもの。
三 緑林のなかを走りまわっておりますので 盗賊なのでの意。
第百十四回
寧海軍《ねいかいぐん》に 宋江《そうこう》孝《も》を弔《とむら》い
湧金門《ようきんもん》に 張順神《ちようじゆんしん》に帰《き》す
さて、そのとき費保が李俊にむかっていうには、
「わたしはおろかな男にすぎませんが、聡明な人のことばに、世事成《な》るあれば必ず敗るるあり、人事興《おこ》るあれば必ず衰うるあり、というのを聞いたことがあります。兄貴は梁山泊でいさおしをたてられてより今日まで、すでに長年のあいだ(注一)百戦百勝をかさねてこられました。遼国を討ち破ったおりはひとりの兄弟もうしなわれませんでしたが、このたびの方臘の討伐では、あきらかに鋭気をくじかれておられるようで、天の命運ももう長くはつづかぬことが見えております。わたしがどうして役人になることを欲しないかといいますと、世情がよろしくなく、やがて天下が太平になったときには、ひとりひとりみな奸臣どもにほうむられてしまうにきまっているからです。むかしからの諺《ことわざ》に、太平はもと将軍の定むるところなるも将軍の太平を見るは許されず、といいますが、この言葉はまことに至言です。いま、わたしたち四人は、あなたがた三人と兄弟の義を結んだ仲です。命運のまだ尽きぬいまのうちに、安心立命の場所をさがされてはいかがですか。いくばくかの金銭を投じて一艘の大型船を買いとり、幾人かの水夫をあつめ、江海のなかにおだやかなところをさがして身を落ちつけ、そうして天寿を全うするならば、まことにすばらしいことではありませんか」
李俊は聞きおわると、地面に平伏していった。
「かさねがさねお教えをたまわり、愚昧の身をお導きくださってありがとうございます。なにもかもおっしゃるとおりです。しかし、まだ方臘を平定してはおりませんし、宋公明どのの恩義を捨てることもできませんので、いますぐそうするわけにはまいりません。いまこのままあなたがたについて行けば、長年いっしょにやってきた仲間に対する義気をうしなうことになります。もしみなさんがいましばらくわたしを待ってくださって、方臘を平定してしまうまでご猶予いただけますならば、わたしはふたりの兄弟をつれてこちらへ身を投じにまいりますゆえ、なにとぞ仲間にいれてください。ついてはみなさんであらかじめ手はずをととのえておいてくださいますよう。もしわたしがこのお約束に背くようなことがありますならば、必ず天の憎しみを受けましょう。また、男子とは申せません」
「われわれは船を用意して、兄貴のおいでになる日をお待ちしておりますから、必ず約束をたがえられませんように」
と、かの四人のものはいった。李俊と費保は義を結んで酒を飲み、決して盟《ちかい》にそむかぬ旨を約束しあった。
翌日、李俊は費保ら四人に別れを告げ、童威・童猛とともに帰ってきて宋先鋒に会い、
「費保ら四人は官途につくことを願わず、ただ魚をとって気ままに暮らすことを望んでおります」
と、ともどもに話した。宋江はまたひとしきり嗟嘆したのち、命令をくだし、水陸の兵をうちそろえて出発した。呉江県《ごこうけん》にはすでに賊はおらず、ただちに平望鎮《へいぼうちん》を取り、長駆して秀《しゆう》州へとむかった。
その州の守将の段〓《だんがい》は、蘇州の三大王の方貎がすでに討ち死したことを聞いて、兵をまとめて逃げることのみ考えていたが、人をやってさぐらせてみたところ、大軍は城の近くまで迫っていて、水陸の両路に旌旗が日をおおい、船と馬が相つらなっているのが見えるとのことなので、魂も消え胆もつぶれんばかりにおどろいた。
前軍の大将の関勝と秦明は、城下にたどりつくやただちに水軍の船を出して西門をとりかこませた。すると段〓が城壁の上から叫んだ。
「攻撃にはおよばぬ。城を明けわたそうとしているところだ」
段〓はただちに城門をあけ放ち、香花灯燭をささげ羊を牽《ひ》き酒を担《かつ》いで宋先鋒を城内へ迎え入れ、州役所へみちびいて休ませた。段〓はさきにたって見参の礼をささげた。宋江は段〓をいたわってもとどおり良臣たらしめ、ただちに告示を出して住民を安んぜしめた。段〓は宋江をたたえていった。
「わたくしどもは、もともと睦州の良民だったのでございますが、しきりに方臘に迫害されまして、いたしかたなくその配下に投じておりました次第。いま天兵が見えましたからには、どうして投降せずにおられましょう」
「杭州寧海軍《ねいかいぐん》(寧海軍も杭州のこと)の城は、誰が守っているのか。どれくらいの軍勢と良将を擁しているか」
と宋江が詳細にたずねると、段〓はいった。
「杭州の城郭は広く大きく、人家がたてこんでいて、東北方は陸路、南方は長江、西方は湖になっており、守っているのは方臘の大太子《だいたいし》の南安王《なんあんおう》・方天定《ほうてんてい》でございます。その配下には七万余の軍勢と、二十四人の戦将ならびに四人の元帥、計二十八人がおります。その首《かしら》たるふたりはすこぶる腕がたちます。ひとりは歙《きゆう》州の僧で宝光如来《ほうこうによらい》と号し、俗姓は〓《とう》、法名は元覚《げんかく》といい、一振りの禅杖《ぜんじよう》を得物としておりますが、これは渾鉄で鍛えたものでその重さは五十斤あまり。みなから国師と称されております。もうひとりは福《ふく》州のもので、姓は石《せき》、名は宝《ほう》といい、一本の流星鎚《りゆうせいつい》を使いこなして百発百中、さらに一振りの宝刀を得物にしておりますが、これは劈風刀《へきふうとう》と名づけて銅を裁《た》ち鉄を截《き》ることができ、たとえ三重の鎧甲であろうと風を劈《き》るように透してしまいます。ほかにまだ二十六人おりますが、いずれも選りすぐりの将で、これまた勇猛ぞろいですから、決してご油断なさいませぬように」
宋江はそれを聞くと、段〓に賞をあたえたうえ、張招討の軍前へ行ってくわしく報告するように命じた。のち、段〓は張招討の軍の移動につきしたがって、蘇州を守った。秀州のほうは副都督の劉光世に守備をゆだねて、宋先鋒は軍を〓李亭《すいりてい》に移し、陣をかまえた。そして諸将と宴を設けて軍をねぎらいつつ、兵を進めて杭州を攻め取る策を講じた。と、小旋風の柴進が立ちあがっていった。
「わたしは兄貴に高唐州で命を救っていただいてから(第五十三回)、ずっと兄貴のお世話にばかりなっていて、坐して栄華を受けながらいままでなんのご恩返しもせずにおりますが、ついてはこのさい方臘の本拠へもぐりこんで行って、忍びのしごとをしたいと思うのです。もし功をたてることができれば、朝廷のご恩に報いるとともに兄貴のために光を添えることにもなりましょう。ご承知いただけましょうか」
宋江は大いによろこんでいった。
「もし大官人が賊の本拠へはいりこんでくださって、内部の地形を知ることができれば、兵を進めて賊の首魁・方臘をいけどりにし、京師へ護送して行ってわれわれの手柄をあらわし、ともに富貴を享受することができるというものですが、なにしろ困難な路程《ろてい》、はたして行けるかどうか」
「命がけで行ってまいります。ついては燕青がいっしょに行ってくれると申しぶんがないのですが。あれは各地のなまりをよく知っておりますし、それに臨機応変にやりますから」
「すべてお望みどおりにしましょう。ただ燕青は盧先鋒の配下にはいっておりますから、さっそく文書をやって呼び寄せることにしましょう」
相談をしている最中に、知らせがあって、
「盧先鋒が特に燕青を使いにたてて勝利を知らせにみえました」
とのこと。宋江はその知らせを聞いて大いによろこび、
「あなたのこんどのくわだては、必ず大功をおさめられましょう。ちょうどおりよく燕青がやってきたのは、まことに吉兆というものです」
柴進もよろこんだ。
燕青は陣地に到着し、本営にはいって宋江に挨拶をしてから酒食をとった。そのあとで宋江がたずねた。
「水路からきたのか、それとも陸路からか」
「騎馬を乗りついでやってまいりました」
宋江はさらにたずねた。
「戴宗が帰ってくるとき、すでに兵を進めて湖州を攻めているとのことだったが、たたかいはどうなっているか」
「宣州をたちましてから、盧先鋒は兵を二手に分けられ、先鋒みずからその一手の軍勢をひきいて湖州を攻められました。そして、偽《にせ》の留守官《りゆうしゆかん》の弓温《きゆうおん》ならびにその配下の副将五名を討ちとって湖州を占領し、賊兵を斬り散らし、住民を宣撫したのち、文書を張招討に送って統制官を湖州の城の守備にまわしてもらいたいとたのまれるとともに、特にわたしをこちらへ勝利の報告によこされたというわけです。主将(盧俊義)が分けられた他の一手の軍勢は、林冲にひきいさせて独松関を取りにむかわせ、一同杭州に出て合流するということになっております。わたしがこちらへまいりますときには、独松関のほうでは連日たたかいをまじえながらまだ関所を取ることができないでいるとのことで、先鋒は朱武とともにそちらへ行くことにされ、呼延灼将軍に軍勢をあずけて湖州を守らせておいて、中軍の招討(張招討)から統制官がさしむけられてきて防備と治安がととのってから、一方、兵を進めて徳清県《とくせいけん》を取り、杭州に出て合流するようにいいつけておられました」
宋江はさらにたずねた。
「湖州を守備して徳清を攻めるものと、独松関へ繰り出して行ってたたかうものと、その二手に分かれた将領たちの名前を知らせてもらいたい。都合、幾人のものが出かけて行き、幾人のものが呼延灼につきしたがっているのか」
「書きつけ(注二)をここに持っております」
と燕青はいった。
わかれて独松関に進み戦って関を取る正偏の将領現員二十三名
先鋒盧俊義 朱武 林冲 董平 張清 解珍 解宝 呂方 郭盛 欧鵬 〓飛 李忠 周通 鄒淵 鄒潤 孫新 顧大嫂 李立 白勝 湯隆 朱貴 朱富 時遷
現に湖州を守り近く兵を徳清県に進める正偏の将領現員十九名
呼延灼 索超 穆弘 雷横 楊雄 劉唐 単廷珪 魏定国 陳達 楊春 薛永 杜遷 穆春 李雲 石勇 〓旺 丁得孫 張青 孫二娘
「以上の二手の将領あわせて四十二名で、わたしがこちらへまいりますときには、むこうでは相談がまとまって、目下、兵を進めているところです」
「そういう編制なら、二方面から兵を進めて攻めるのに最適だろう。ところで、柴大官人はいま、そなたといっしょに方臘の本拠へもぐりこんで忍びのしごとをしたいといっておられるのだが、行ってくれるか」
「主帥のご命令、よろこんでお言葉にしたがいます。柴大官人のおともをして行かせていただきましょう」
柴進は大いによろこんでいった。
「わたしは白衣《はくい》の秀才(無位無官の書生)に扮装するから、おまえは従僕に扮して、主従ふたり、琴と剣と書箱を背負って行けば、人にあやしまれることもないだろう。まっすぐに海岸へ出て行って船をもとめ、越《えつ》州を通りこしてから、裏道づたいに諸曁県《しよきけん》へ行き、そこから山路を抜け出ると、もう睦州はまぢかだ」
相談がきまると、日を選んで柴進と燕青は宋先鋒に別れを告げ、琴・剣・書籍をとりまとめて河岸へ出て行き、船をさがしてたち去って行ったが、このことはそれまでとする。
さて、こちらでは、軍師の呉用がさらに宋江にいうよう、
「杭州の南半分には銭塘《せんとう》の大江が流れていて海の島々に通じております。そこで、何人かのものが小舟で海岸から赭山門《しやざんもん》を抜け、南門外の長江のほとりへ出て行って号砲をうちあげ、しるし旗をかかげたならば、城中ではきっとあわて出すでしょう。ついては水軍の頭領がた、誰か行っていただきたいのだが」
すると、まだその言葉のおわらぬうちに、張横と阮氏三兄弟が、
「わたしたちが行きます」
といった。宋江は、
「杭州の西方もやはり湖をひかえていて、水軍にはたらいてもらわなければならないから、あなたがたみんなが行ってしまっては困る」
という。呉用は、
「張横と阮小七に、侯健と段景住をつれて船で行ってもらうことにしましょう」
かくて四人のものがえらばれた。彼らは三十人あまりの水夫をしたがえ、十数門の火砲としるし旗をたずさえ、河岸へ行って船をさがして、銭塘江へと進んで行った。
みなさん、この回の話はすべて砂をまいたようにばらばらです。先人の書会《しよかい》(注三)でもそういっておりますとおり、ひとりひとりについてすっかり語ろうとしても一度に語ることはできませんので、ゆるゆると眼目だけを述べてゆきますが、いずれはっきりとしてきます。みなさんには、その眼目のところをおぼえておいてくださるならば、やがて話の妙味がおわかりいただけるでしょう。
さて、宋江は将兵の手分けをおわると、秀州へもどり、兵を進めて杭州を取る相談をした。と、そのとき東京《とうけい》から勅使が御酒と賞賜の品をたずさえて州へやってきたという知らせがあった。宋江は大小の将領をひきつれて出迎え、城内にみちびいて聖恩を拝謝したのち、御酒をいただいて宴を設け、勅使をもてなした。その酒宴のおり、勅使はまた、太医院(侍医寮)からの奏請が裁可されたことをいい出した。
「陛下がふと小疾をお患いになりましたので、神医の安道全を都へつれもどして御前にお仕えさせたいと奏請しましたところ、聖旨がくだされて、ただちに召し寄せてまいるようにとの仰せなのです」
宋江はこばむわけにはいかず、翌日、勅使をもてなしてから、さっそく安道全を都へ送り出すことになり、宋江らは十里さきの駅舎まで送って行って別れた。安道全は勅使とともに都へ帰って行った。
これをうたった詩がある。
安氏(安道全)青嚢《せいのう》(注四)の芸最も精《くわ》しく
山東に行散して声名有り
人は誇る 脈《みやく》(医術)は倉公《そうこう》(注五)の妙を得たりと
自ら負う 丹(薬)は薊子《けいし》(注六)の成(できばえ)の如しと
骨を刮《けず》れば立《たちどころ》に金鏃《きんぞく》(やじり)の出ずるを看
肌を解《と》く時刀痕《とうこん》の平らぐを見る
梁山に義を結ぶ堅きこと石の如し
此の別れ忘れ難し手足の情
さて宋江は、下賜された賞与の品を諸将にわけ、吉日を選んで、旗を祭って軍をおこし、劉都督と耿参謀に別れを告げ、馬に乗って兵を進め、水陸の両路を船と馬とで同時に出発し、やがて崇徳県まで行った。崇徳県の守将はそれを知ると、杭州へ逃げて行った。
一方、方臘の太子の方天定は、諸将を行宮《あんぐう》に会して協議をしていた。いまの竜翔宮《りゆうしようきゆう》の旧跡というのが、往年のその行宮だったのである。方天定の配下には四人の大将がいた。その四人とは、
宝光如来国師《ほうこうによらいこくし》〓元覚《とうげんかく》
南離大将軍元帥《なんりだいしようぐんげんすい》石宝《せきほう》
鎮国大将軍《ちんこくだいしようぐん》〓天閏《れいてんじゆん》
護国大将軍《ごこくだいしようぐん》司行方《しこうほう》
この四人はいずれも元帥・大将軍の名を称していたが、これは方臘によって任ぜられたものである。このほかさらに二十四人の偏将がいた。その二十四人とは、
〓天祐《れいてんゆう》 呉値《ごち》 趙毅《ちようき》 黄愛《こうあい》 晁中《ちようちゆう》 湯逢士《とうほうし》 王勣《おうせき》 薛斗南《せつとなん》 冷恭《れいきよう》 張倹《ちようけん》 元興《げんこう》 姚義《ようぎ》 温克譲《おんこくじよう》 茅迪《ぼうてき》 王仁《おうじん》 崔〓《さいいく》 廉明《れんめい》 徐白《じよはく》 張道原《ちようどうげん》 鳳儀《ほうぎ》 張韜《ちようとう》 蘇〓《そけい》 米泉《べいせん》 貝応〓《ばいおうき》
この二十四人はいずれも将軍に任ぜられていた。あわせて二十八名が、方天定の行宮に集まって協議していたのである。方天定のいうには、
「いまや宋江は水陸の両路から軍を進め、長江をわたって南下してきた。わが軍は彼のために三つの大郡を奪われてしまった。残っているのは杭州だが、これはわが南国の防壁だ。もしここをうしなうようなことになると、睦州も守りきれなくなる。前に司天太監の浦文英《ほぶんえい》が、〓星《こうせい》が呉の地に侵入し内部に大きな禍《わざわい》をおこしておりますと奏上した(第百十一回)ことがあったが、あれはこやつらのことだったのだ。このたびこやつらがわが領土に侵入してきたについては、その方ら諸官、いずれも重い爵禄を受けている身とて、必ずまごころをつくして国に報い、決しておこたることのないよう努められたい」
諸将は方天定に奏上した。
「主上、なにとぞご安心くださいますよう。多数の精兵良将が、まだ宋江と対戦せずにおります。目下、数ヵ所の州郡をうしないましたとはいえ、いずれも然るべき人物がいなかったために、このような結果になったのでございます。このたび宋江と盧俊義は兵を三手にわけて杭州へおし寄せてくるとのことでございますが、殿下と国師には、寧海《ねいかい》(杭州のこと)の城郭を固くお守りくださって国家万年の基業をかためられますよう。わたくしども諸将は、それぞれ手分けをして敵を迎え討ちます」
太子の方天定は大いによろこび、令旨をくだして、おなじく三手の軍勢にわけ、互いに策応して進ませることにし、あとには国師の〓元覚だけを残して、ともに城を守ることにした。わかれて出て行ったその三名の元帥というのは、
護国元帥 司行方《しこうほう》
四名の首将をひきい徳清を救援す
薛斗南《せつとなん》 黄愛《こうあい》 徐白《じよはく》 米泉《べいせん》
鎮国元帥 〓天閠《れいてんじゆん》
四名の首将をひきい独松関を救援す
〓天祐《れいてんゆう》 張倹《ちようけん》 張韜《ちようとう》 姚義《ようぎ》
南離元帥 石宝《せきほう》
八名の首将をひきい全軍城郭を出《い》で敵の本隊を迎え討つ
温克譲《おんこくじよう》 趙毅《ちようき》 冷恭《れいきよう》 王仁《おうじん》 張道原《ちようどうげん》 呉値《ごち》 廉明《れんめい》 鳳儀《ほうぎ》
三名の大将は三手に分かれ、それぞれ兵三万をひきいた。軍勢の手わけがきまると、それぞれ金帛を賜わって、出陣をうながされた。元帥の司行方は一隊の軍勢をひきいて徳清州を救援すべく、餘杭州をめざして進んだ。
二手の軍勢がそれに策応して出て行ったことはさておき、一方、宋先鋒の本隊の軍勢は、次第に前進して臨平山《りんぺいざん》までやってきた。と、山頂に一旒《ひとながれ》の紅旗がはためいているのが見えた。宋江はただちに正将二名、花栄と秦明をさきに出して偵察させ、つづいて戦船と車輛をうながして長安〓《ちようあんは》をわたって行かせた。花栄と秦明が一千の兵をひきいて山の鼻を曲がって行くと、早くも南軍の石宝の軍勢に出くわした。石宝の配下のふたりの首将が、その先頭に立っていたが、花栄と秦明を見るや、そろって馬を乗り出した。ひとりは王仁、ひとりは鳳儀で、ともに一本の長鎗をかまえておそいかかってくる。宋軍では花栄と秦明が、ただちに兵を展開させてこれに対した。秦明は手に狼牙の大棍を舞わしてまっしぐらに鳳儀におそいかかり、花栄は槍をかまえて王仁を相手どった。かくて四騎相交わってわたりあうこと十合あまりにおよんだが、勝敗は決しない。秦明と花栄は南軍の後方に援護のあるのを見て、ともに、
「一息《ひといき》入れよう」
と叫び、それぞれ馬を返して陣地にひきあげた。花栄は、
「たたかいにこだわらずに、急いで兄貴に知らせに行って別に相談するとしよう」
といった。後軍がさっそく中軍へ急報すると、宋江は朱仝・徐寧・黄信・孫立の四将をひきつれてただちに陣頭へ出てきた。南軍の王仁と鳳儀は再び鋒をまじえるべく馬を乗り出して、大声で罵った。
「敗将め、もう一度出てきてわたりあってみろ」
秦明はかっとなり、狼牙棍を舞わしつつ馬を飛ばして行って、再び鳳儀を相手どった。王仁のほうは花栄に挑戦してきた。と、徐寧が一騎で、ただちに槍をかまえておそいかかって行った。花栄と徐寧とは一対《つい》の金鎗手と銀鎗手である。花栄もただちに馬を飛ばして徐寧のうしろへ出て行き、弓と矢を手にとり、徐寧と王仁が鋒を交えるよりもさきに、ひょうと一箭、王仁を馬から射ち落とした。南軍の兵はみな色をうしなった。鳳儀は、王仁が矢で馬から射ち落とされたのを見るや愕然とし、手を出すいとまもなく秦明に真向うから狼牙棍で一撃されて、馬からころがり落ちた。南軍の兵は算を乱して逃げだす。宋軍がはげしく斬りこんで行くと、石宝は支えきれずに皐亭山《こうていざん》にひき返し、そのまま東新橋の近くまでさがって陣地をかまえた。その日は日も暮れたが、策も立てられぬまま南軍はひとまず城内へと退いた。
翌日、宋先鋒の軍は早くも皐亭山を通りすぎてまっしぐらに東新橋まで進み、陣地を構えた。宋江は命をくだして麾下の軍勢を手わけし、三路に分かれて杭州を挟み討たせることにした。その三手の軍勢の将領の面々は、
一路に配された歩兵の頭領(注七)たる正偏の将は、湯鎮路《とうちんろ》より進んで東門を攻む。すなわち、
朱仝 史進 魯智深 武松 王英 扈三娘
一路に配された水軍の頭領たる正偏の将は、北新橋《ほくしんきよう》より古塘《ことう》を攻め、西路を遮断して湖側の城門を討つ。
李俊 張順 阮小二 阮小五 孟康
中路の歩・騎・水の三軍は三隊に分かれて進み、北関門《ほくかんもん》と艮山門《こんざんもん》を攻む。
その前隊の正偏の将は、
関勝 花栄 秦明 徐寧 〓思文 凌振
第二隊は総指揮たる主将の宋先鋒と軍師の呉用のひきいる軍勢で、その正偏の将は、
戴宗 李逵 石秀 黄信 孫立 樊瑞 鮑旭 項充 李袞 馬麟 裴宣 〓敬 燕順 宋清 蔡福 蔡敬 郁保四
第三隊は水路陸路にたたかいを助け策応する。その正偏の将は、
李応 孔明 杜興 楊林 童威 童猛
その日、宋江が大小の三手の軍勢の手わけを決めると、ただちに各軍は出発した。
話があれば語り、なければ端折ることにして、さて中路の本隊の軍勢の、前隊なる関勝は、ずっと偵察をつづけて東新橋まで行ったが、ひとりの南軍の兵も見えない。関勝はいぶかしく思い、橋のこちら側までひき返して、使いをやって宋先鋒に報告した。宋江はそれを聞くと戴宗を伝令に出して、
「いましばらくはうかつに出て行ってはならぬ。毎日交替にふたりの頭領を偵察に出すように」
と命じた。最初の日は花栄と秦明、二日目は徐寧と〓思文という組みあわせで、数日間ずっと偵察をつづけたが、いっこうにたたかいを仕掛けてくる気配もなかった。その日は、また徐寧と〓思文の番になった。ふたりが数十騎をしたがえて、まっすぐに北関門まで偵察に行ってみると、城門が大きくあけ放たれている。ふたりは吊り橋のほとりまで行って眺めた。と、城壁の上で軍鼓が一声鳴りひびき、城内からたちまち一隊の軍隊が飛び出してきた。徐寧と〓思文があわてて馬を返そうとすると、城の西側の道にまたもや喊声がおこり、一百余の騎兵が前面からおそいかかってきた。徐寧は必死にたたかって騎兵の隊中を斬り抜けたが、ふり返って見ると〓思文がいない。またひき返して行ってさがすと、数名の将が〓思文をいけどりにして城内へつれて行くのが見えた。徐寧があわててひき返そうとしたとたん、首筋に一発の矢が命中した。矢を帯びたまま馬を飛ばして逃げると、六人の将がうしろから追いかけてきた。途中でおりよく関勝に会い、助けられて帰ることができたものの、出血のために、徐寧は昏倒してしまった。六人の南軍の将は、すでに関勝に斬り散らされて城内へひきあげて行った。関勝はとりあえず宋先鋒に事の次第を知らせた。宋江が急いで見舞にきた時には、徐寧は七つの竅《あな》(耳目鼻口)から血を流していた。宋江は涙をながしながら、ただちに従軍の医者を呼んで手当てをさせ、矢を抜きとって金鎗薬《きんそうやく》(傷ぐすり)を塗らせた。宋江はひとまず徐寧を戦船のなかへ移して休ませ、みずから看病をした。その夜、徐寧は三四回も気をうしなった。それで毒矢にあたったことがわかった。宋江は天を仰いで嘆き、
「神医の安道全はすでに都へつれもどされてしまい、ここにはもう救ってくれるような名医はいない。きっとわが股肱《ここう》の将をうしなうことになるだろう」
と、傷《いた》みかなしんでやまなかった。呉用がやってきて宋江に請うた。
「陣地へもどって軍事をとりさばかれますよう。兄弟の情愛のために国家の大事をあやまってはなりません」
宋江は兵士に徐寧を秀州へ送って行かせて療養させたが、矢に仕込まれた毒薬は治療することができなかった。
宋江はまた使いを関勝の軍へやって〓思文の消息をうかがわせた。と、翌日、とつぜん兵士が知らせにきて、
「杭州の北関門の城壁の上で、竹竿に〓思文の首をぶらさげて見せしめにしております。それで方天定のために斬り刻まれたことがわかりました」
と告げた。宋江はその知らせを聞いて、ひどくかなしんだ。それから半月たって、徐寧が死んだとの上申書がとどけられた。宋江はふたりの将をうしなったため、あえて兵を進めず、そのまま街道を守っていた。
ところで李俊らは、兵をひきいて北新橋まで進み、陣地をかまえた。そして軍を分けてずっと古塘《ことう》の山の奥深くまで偵察に行ったが、急報によって、〓思文が討たれ徐寧が矢にあたって死んだことを知らされた。李俊は張順に相談した。
「思うに、われわれのいるこの道は第一の要所で、独松関と湖州・徳清の両地へ通じる重要な入口だ。賊兵はみなここを出入りするわけだから、われわれが彼らの咽喉《の ど》ともいうべきこの道にたちふさがっていると、彼らに両面から挟み討たれることになって、兵力のすくないわれわれにはこれを迎え討つことはむずかしい。むしろ一気に山の西の奥深くへ突っこんで行って陣地をかまえたほうがよかろう。西湖の水面ならわれわれにとって恰好の戦場だし、山の西の裏側は西渓《せいけい》に通じているから退却する場合にも好都合だから」
かくて、ただちに下士のものをやって先鋒に報告し、軍令を請い受けた。それから兵をひきつれてまっしぐらに桃源嶺《とうげんれい》の西の奥深い山を通り抜け、現在の霊隠寺《りんにんじ》に陣地をかまえた。山の北側の西渓《せいけい》の登り口にも小さい陣をかまえたが、そこは現在の古塘の奥のほうである。前軍はそこで唐家瓦《とうかが》へ偵察に出た。
ある日、張順は李俊にむかっていった。
「南軍の兵はすっかり杭州の城内にひきこもったままで、わたしたちがここに兵をとどめてからもう半月にもなりますが、たたかいを仕掛けてくる気配もありません。山のなかにいるだけでは、いつまでたっても手柄をあげることはできませんので、わたしはこれから湖のなかをもぐって行って、水門からそっと城内へしのびこみ、火をつけて合図をしますから、兄貴はすぐ兵を進めてやつらの水門を奪い取り、すぐ主将の先鋒に知らせて三方からいっせいに城を攻めてもらってください」
「その計略は名案だが、そなたひとりの力でうまくいくだろうか」
と李俊がいうと、張順は、
「たとえこの命を、先鋒の兄貴の長年の好意に対するご恩返しとしてささげたところで、それでもまだたりないくらいです」
「まあ、ゆっくりやるがよかろう。まず兄貴に知らせて、軍勢をととのえて呼応してもらうようにしてからのことにしよう」
「わたしはこちらでやりはじめますから、一方兄貴は使いのものを知らせにやってください。わたしが城内にはいりこんだころには、先鋒の兄貴は知らせを受け取っておられましょう」
その夜、張順はふところに一本の蓼葉刀《りようようとう》をひそませ、腹いっぱい酒食をとってから、西湖の岸へ行った。見わたせば、三方にはかの青い山、湖にはいちめんの緑の水。はるかに城郭を見れば、四つの禁門が湖の岸に臨んでいる。その四つの門というのは、銭塘門《せんとうもん》・湧金門《ようきんもん》・清波門《せいはもん》・銭湖門《せんこもん》である。
みなさん、そもそも杭州というところは、そのむかし宋より前は清河鎮《せいかちん》と呼ばれていたのです。それが銭王《せんおう》(注八)によって杭州寧海軍とあらためられ、十座の城門が設けられた。すなわち東には菜市門《さいしもん》・薦橋門《せんきようもん》、南には候潮門《こうちようもん》・嘉会門《かかいもん》、西には銭湖門・清波門・湧金門・銭塘門、北には北関門《ほくかんもん》・艮山門《こんざんもん》。高宗《こうそう》(南宋の初代の帝)が南渡《なんと》(注九)されてからは、都をここに定められ、花花臨安府《かかりんあんふ》と呼ばれるようになり、さらに三つの城門が設けられるにいたった。方臘が占拠していた当時は、なお銭王の旧都のままで、周囲は八十里、南渡以後とはくらぶべくもないとはいえ、そのたたずまいはすこぶる富貴であった。もともと川も山も秀麗、人も物も豪奢なところで、ために相伝えて、上に天堂《てんどう》(天国)あり下に蘇杭《そこう》(蘇州と杭州)あり、というほどである。そのありさまいかにと見れば、
江浙《こうせつ》は昔時の都会、銭塘《せんとう》は古より繁華。言うを休《や》めよ城内の風光、且つ説かん西湖《せいこ》の景物。一万頃《けい》(一頃は百畝)の碧《へき》澄々《ちようちよう》として掩映《えんえい》する琉璃《るり》(湖のこと)を有し、三千面の青《せい》娜娜《だだ》として参差《しんし》せる(並びつづく)翡翠《ひすい》(山のこと)を列ぬ。春風の湖上には、〓桃濃李《とうのうり》(あでやかな桃やすももの花)描けるが如く、夏日の池中には、緑蓋紅蓮《りよくがいこうれん》(蓮《はす》の葉や花)画《えが》くに似たり。秋雲涵如《かんじよ》たる(うるおう)ときには、南園(注一〇)の嫩菊《どんぎく》の金を堆むを看《み》、冬雪粉飛《ふんび》するときには、北嶺の寒梅《かんばい》の玉を破るを観る。九里(注一一)松《まつ》青くして煙細々、六橋(注一二)水碧《みずみどり》にして響《ひびき》冷々。暁霞《ぎようか》は連《つらな》って三天竺《さんてんじく》(注一三)に映じ、暮雲《ぼうん》は深く二高峰(注一四)を鎖《とざ》す。風は生じて猿呼洞《えんこどう》(注一五)口に在り、雨は飛んで竜井山《りゆうせいさん》(注一六)頭に来《きた》る。三賢堂畔《さんけんどうはん》には、一条の鰲背《ごうはい》(大亀の背)天を侵《おか》し、四聖観前《しせいかんぜん》には、百丈の祥雲繚繞《りようぎよう》す。蘇公堤《そこうてい》(注一七)は東坡《とうば》の古跡、孤山路《こざんろ》(注一八)は和靖《かせい》(注一九)の旧居。友を訪う客は霊隠《りんにん》(注二〇)に投じ去り、花を簪《かざ》す人は浄慈《じようじ》(注二一)を逐い来る。平昔只聞く三島(注二二)の遠を、豈《あに》知らんや湖北の蓬〓《ほうらい》に勝れるを。
蘇東坡《そとうば》学士に、これをたたえた詩がある。
湖光瀲〓《れんえん》(光り輝く)として晴《せい》(晴天の日)偏《ひとえ》に好し
山色空濛《くうもう》(煙りかすむ)として雨《う》(雨天の日)亦《また》奇なり
若し西湖を西《せい》子(注二三)に比《くら》ぶれば
淡粧濃抹《たんしようのうまつ》(化粧のこと)也《また》相宜《よろ》し
また浣渓紗《かんけいさ》(曲の名)という古い詞《うた》にも、こううたわれている。
湖上の朱橋《しゆきよう》は画輪《がりん》(彩色した車の輪)を響かせ、溶々たる春水は春雲を浸《ひた》す。碧瑠璃《へきるり》(湖)は滑浄《こつじよう》(きよくなめらか)として塵《ちり》無し。路に当たる遊糸《ゆうし》(かげろう)は酔客を迎え、花に入る黄鳥(うぐいす)は行人を喚《よ》ぶ。日斜《ななめ》にして帰り去らんとするも春を奈何《いかん》せん。
この西湖は、かつての宋の時代には、その景致はまことにたぐいなく、これを語りつくすことはとうていできぬことである。
さて張順は西陵橋《せいりようきよう》のほとりまできて、しばらく眺めていた。おりしも春暖の候で、西湖の水の色は藍《あい》をひき、四方の山の色は翠《みどり》をたたんでいた。張順は眺めおわってつぶやいた。
「おれは潯陽江《じんようこう》のほとりで生まれ、はげしい風や荒い波にさんざんもまれてきて、こんなおだやかな水の湖など見たこともなかった。こんなところでならたとえ死んだとしても、さわやかな亡霊になれるというものだ」
いいおわると、布衫《うわぎ》をぬいで橋の下におき、頭は穿心紅《せんしんこう》の児《かくじ》(中を透《すか》して赤い元結《もとゆい》でゆったまげ)にし、下半身には生絹《せいけん》の水裙《すいくん》(すずしの水股引)をつけ、搭膊《とうはく》(腹巻き)をしめ、尖刀をさし、はだしになって、湖のなかへもぐり、水中を〓いて湖をわたって行った。
時刻はすでに初更(夜八時)ごろだった。月がほの明るく輝《て》っていた。張順は湧金門のほとりまで水を〓いて行き、そっと頭を水の上に出して耳をすますと、城壁の上の時太鼓がちょうど一更四点(注二四)(九時半)を打った。城外はひっそりと静まっていて、人影ひとつない。城壁の姫垣のところには、四五人のものが見張りをしていた。張順はまた水のなかへもぐってかくれ、しばらくしてからもういちど頭を出してうかがって見た。と、姫垣のところはひっそりとして誰もいなくなっている。そこで張順は水門のところまで泳いで行った。見れば、そこは一帯に鉄の格子でさえぎってあった。内側をさぐってみると、水簾《すいれん》(目の荒い簀《す》)が添えつけてあって、簀の上には縄の紐がついており、その紐には数珠《じゆず》つなぎに銅の鈴がゆわえてある。張順は、格子が頑丈で城内へはいりこめそうにもないのを見て、片手をさしいれてその水簾を引っ張ってみた。と、紐についた鈴が引かれて鳴り、城壁の上のものがたちまち騒ぎだした。張順は水中にまたもぐりこんで湖のなかにかくれた。気配をうかがっていると、城壁の上からは兵士たちがおりてきて、その水簾をしらべたが、なんの人影も見えないので、みな城壁の上で、
「鈴の鳴りかたがおかしかったが、大きな魚が流れに乗って泳いできて、水簾にぶっつかったかもしれん」
といいあつている。兵士たちはしばらく見張っていたが、なにも見えないので、またそれぞれ寝に行ってしまった。
張順がふたたび耳をすますと、城楼の上ではもう三更(十二時)を打っている。まるまる一点(注二五)(三十分)たったので、兵士たちはそれぞれ立ち去ってぐっすり寝こんでしまったにちがいないと思った。そこで張順はまた城壁のほうへもぐって行った。水をくぐって城内へはいることはできないと見て、岸へあがってうかがってみると、城壁の上にはひとりも出ていないので、城壁をよじのぼろうかと思ったが、また思案をして、
「もし城壁の上に人が出てきたら、あたら命をふいにしてしまうだけだ。ひとまず様子を探ってみよう」
と、土くれをつかんで城壁の上へ投げつけてみた。と、まだ寝ていない兵士がいて、大声をあげ、ふたたび水門をしらべにおりてきたが、やはりなんの気配もないので、また城壁へのぼって行って望楼の上から湖面を眺めてみたが、一隻の船もなかった。それというのも、西湖の船は、すでに方天定のいいつけによって、みな清波門外と浄慈港のなかに収容されていて、他の城内にはどこにも船をとめることがゆるされていなかったからである。一同は、
「どうもおかしい」
といい、
「きっと亡霊だよ。さあ、寝に行こう。かまうことはないよ」
といいあった。口ではそういいながら、しかし寝には行かずに、みんな姫垣のところに身をかくした。
張順はさらに一時《いつとき》のあいだ耳をすましていたが、なんの気配もないので、城壁のほとりへもぐって行って上の様子に耳をかたむけたが、時太鼓も鳴らない。張順はすぐにはよじのぼって行かずに、また砂を城壁の上へ投げつけてみたが、なんの気配もない。張順は思案した。
「もう四更だ、やがて夜があける。いま城壁をよじのぼらなければ、もうのぼるおりがない」
かくて、ようやく半分あたりまでよじのぼって行ったとき、とつぜん上のほうで拍子木《ひようしぎ》が鳴ったかと思うと、兵士たちがいっせいに立ちあがった。張順は城壁の半分あたりのところから池へ飛びおりたが、水のなかへもぐろうとしたとき、城壁の上から踏弩《とうど》や硬弓《こうきゆう》、苦竹鎗《くちくそう》(竹の槍)や鵝卵石《がらんせき》(丸い石)をどっと射ちかけてきた。あわれ、英雄なる張順も、かくて湧金門外の池のなかで最期をとげてしまったのである。
詩にいう。
曾《かつ》て聞く善く戦うものは兵戎《へいじゆう》(いくさ)に死し
善く溺《ひた》るものは終然《つ い》に水中に喪《みうしな》うと
瓦罐《がかん》は井の上《ほとり》を離れずして破る(注二六)
君に勧《すす》む但《ただ》英雄を逞しくする莫《なか》れ
話はかわって、一方宋江は、すでに昼間、李俊からの急報を受け取ったが、
「張順が水をもぐって行って城内へはいり、火をつけて合図をする」
ということなので、ただちに知らせを東門の兵士たち(朱仝のひきいる一隊)にまわした。
その夜、宋江は本営で呉用と協議したが、四更ごろになって、身も心も疲れてきたので、左右のものをさがらせて、本営で机にうつぶせになって眠った。にわかに一陣の冷たい風が吹いてきたので、宋江が立ちあがって見まわすと、明りがくらくなり、寒気が身に迫ってきた。睛《ひとみ》をこらして見つめると、ひとりの、人に似て人ではなく、亡霊に似て亡霊でもないものが、冷気のなかに立っている。そのものを眺めると、全身血まみれになっていて、低い声でつぶやいた。
「わたくし、長年のあいだ兄貴につきしたがって、ずいぶんとお目をかけていただきましたが、このたび身をもってご恩返しをしようとして、湧金門の下で、槍と矢のなかに相果てましたので、ここにお別れを申しあげにまいりました次第です」
「これは、張順ではないか」
と宋江はいった。顔をまわして見ると、そこにもまた三四人の、いずれも全身血まみれになったものがいたが、はっきりとは見きわめられなかった。宋江は大声をあげて哭《な》き、はっとして眼をさましてみれば、それは一場の夢であった。本営の外にいた左右のものが、哭き声を聞きつけて様子を見にはいって行くと、宋江は、
「これはおかしい。軍師に夢占いにきてもらってくれ」
といった。
「ほんのしばらくのあいだ、ぐったりなさっていただけですのに、どんな不思議な夢を見られたというのです」
と呉用がきくと、宋江は、
「さきほど、冷気が吹き通ると、はっきりと、張順が全身血まみれになってそこに立っているのが見えて、こういうのです。わたくし、長年のあいだ兄貴につきしたがって、ずいぶんとお目をかけていただきましたが、このたび身をもってご恩返しをしようとして、湧金門の下で槍と矢のなかに相果てましたので、ここにお別れを申しあげにまいりました、と。顔をまわして見ると、そこにもまた三四人の血まみれのものが立っていたが、はっきりとは見きわめられぬまま、哭いて眼がさめたのです」
「朝のうち李俊から知らせがあって、張順が湖をわたって行って城内へはいりこみ、火をつけて合図をするとのことでしたが、兄貴はそれをずっと気にかけておられたので、そんな悪夢を見られたのではないでしょうか」
「張順は霊験をあらわすことのできる人だから、きっと無惨な最期をとげたのではないかと思うのだが」
「西湖から城壁のほとりへ行きつくのは、要害のところにちがいありませんから、あるいはほんとうに命《いのち》を落としてしまって、張順の魂が兄貴の夢にあらわれたのかもしれません」
「もしそうだとしたら、あの三四人のものは誰なのだろう」
呉学究と話しあったが、決着はつかずに、そのまま朝を迎えた。城内にはなんの動きもうかがわれず、宋江は心中ますます不安をおぼえた。やがて昼すぎになると、李俊が使いをよこして急報してきた。
「張順は湧金門へ行って城壁を越えようとして、矢に射たれて水中で死にました。いま西湖の城壁の上で、竹竿に首をぶらさげて、さらし首にしております」
宋江はその知らせを受けると、また昏倒せんばかりに哭いた。呉用ら諸将もみな傷《いた》みかなしんだ。元来、張順はいたって人柄がよく、兄弟の情誼《じようぎ》に篤かった。宋江はいった。
「父母をうしなってもこれほどいたましい思いはしないだろう。心に浸み骨につきささるような苦痛がこみあげてきて、どうしようもない」
呉用や諸将が宋江をなだめて、
「兄貴、国家の大事をお忘れなきよう。兄弟の情愛のためにお身体をそこなわれるようなことがあってはなりません」
というと、宋江は、
「ぜひとも自分で湖の岸へ行って、彼を弔《とむら》ってやらなければ」
「兄貴がみずから危地に臨まれることはなりません。もし賊兵が知ったら、必ず攻めつけてきます」
と呉用がいさめたが、宋江は、
「それには考えがあるのです」
といい、ただちに李逵・鮑旭・項充・李袞の四人に命じ、歩兵五百をひきつれて偵察に出て行かせた。宋江はそのあとから、石秀・戴宗・樊瑞・馬麟をしたがえ、五百の兵をひきつれて、ひそかに山の西の小路づたいに李俊の陣地へとむかった。李俊らは迎えて、霊隠寺の方丈へ請じて休ませた。宋江はまたひとしきり哭き、さっそくその寺の僧侶にたのんで寺内で経をあげ、張順の供養をした。
翌日の夕暮れ、宋江は兵士を湖岸へやって一本の白い旛《はた》(喪の旗)をかかげさせた。それには、
亡弟正将張順之魂
としるし、水際の西陵橋のほとりに立てて、多くの供えものをならべさせることにした。そうしておいてから、李逵に、
「かくかくしかじかに」
といいふくめて、山の北の登り口に伏せさせ、樊瑞・馬麟・石勇を左右に伏せさせ、戴宗を身辺につきそわせた。そして、日が暮れて一更(八時)ごろになるのを待って、宋江は、白い袍《うわぎ》をまとい、金の〓《かぶと》の上に一層の孝絹《こうけん》(喪の絹)を掛け、戴宗および六七人の僧侶とともに、わざわざ小行山《しようこうざん》のほうからまわって西陵橋のほとりへ行った。兵士たちはすでに黒い豚と白い羊、金銀の供えもの(金銀の紙銭や紙馬)をすっかりならべ、あかあかと灯燭をともし、香を焚いていた。宋江は中央で盟《ちかい》をたて、湧金門の下のほうにむかって哭礼をささげた。戴宗はそのかたわらにひかえていた。まず僧侶たちが鈴をうちふり呪《じゆ》をとなえて亡魂を呼び、張順の魂魄《こんぱく》をたたえて神旛《しんはん》に請い降《くだ》した。ついで戴宗が祭文を読みあげ、宋江が手ずから酒をそそいで、天を仰ぎ東を望んで哭いた。
哭いているところへ、とつぜん橋の下の両側からわっと喊声があがり、南北の二つの山からいっせいに軍鼓が鳴りだして、二隊の軍勢が宋江を捕らえに繰りだしてきた。まさに、ただ恩義の天の如く大なるに因って、兵戈《へいか》を惹《ひ》き起《おこ》して地を捲《ま》いて来《きた》らしむ、という次第。さて宋江と戴宗はいかにして敵を迎え討つであろうか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 長年のあいだ 原文は数十余載。
二 書きつけ 原文は単。単帖のこと。
三 書会 民間の文芸家の団体。第四十六回注四参照。
四 青嚢 ここでは医術のこと。『晋書』の郭璞《かくはく》伝に、郭璞が郭公《かくこう》という卜筮に精しいものについて卜筮の術を学んだとき、郭公は青い嚢《ふくろ》にいれた九巻からなる天文・卜筮・医術に関する書物をくれ、郭璞はその書物によってそれらの術の奧儀をきわめるにいたったという故事が見える。ここから青嚢とは薬嚢、あるいは天文・卜筮・医術などに関する書物のことをいう。
五 倉公 漢代の名医で、姓は淳于《じゆんう》、名は意《い》。倉役人の長をしていたので太倉公《たいそうこう》、または倉公《そうこう》とも呼ばれる。陽慶《ようけい》という人から、顔にあらわれる五つの色によって五臓六腑の病気を診察し、原因を見きわめ治療法を決めるという診脈の術の奥儀を学んだという。古の名医・扁鵲《へんじやく》と並び称される。(『史記』扁鵲倉公列伝)
六 薊子 薊子訓のことか。後漢のときの伝説的人物で死者をよみがえらせる神異の術を持っていたという。
七 歩兵の頭領 この六名の将のうち、魯智深と武松のほかの四名は、騎兵の頭領であるから、原文は歩軍であるが馬歩軍(歩・騎の軍)とすべきであろう。
八 銭王 五代の時の呉越《ごえつ》の開国の王・銭鏐《せんりゆう》のこと。唐の末、黄巣(第三十九回注一参照)の乱に軍功をたてて杭州の刺史に任ぜられ、さらに劉漢宏の乱を平定して鎮海軍節度使になり、董昌の乱を鎮めて越王に封ぜられ、ついで呉王に封ぜられた。唐が亡んでからは後梁の太祖によって呉越王に封ぜられてみずから呉越国王と称した。その都が臨安、つまり今の杭州だったのである。
九 南渡 欽宗の靖康二年(一一二七)四月、金は宋の都・開封に攻め入り、欽宗および先帝・徽宗らをとらえて会寧府(吉林省阿域。金の首都)へつれ去った(のち二帝は金の地で死んだ)。五月、欽宗の弟の康王が応天府(河南省商邱)で即位し、十月、長江をわたって揚州(江蘇)へ移った。これを南渡という。翌々年(建炎三年・一一二九)二月、金軍に追われて、杭州へ逃げたが、麾下の苗伝・劉正彦が叛したため、一時、難を建康(南京)に避け、七月、乱が鎮まって杭州へ帰った。臨安府と改称されたのはこのときである。
一〇 南園 銭鏐(注八参照)の第六子で広陵王に封ぜられた元〓《げんりよう》が築いたといわれる庭園。奇木泉石の配置の美しさをもって名高い。
一一 九里 杭州の北、杭県の西方にある霊隠山《りんにんさん》飛来峰南方の名所。両側に松並木のある広い道がまっすぐに九里つづいていて、九里松と呼ばれる。唐の刺史の袁仁敬《えんじんけい》が杭州に在任中に植えたものと伝えられている。
一二 六橋 西湖のなかの長堤(蘇東坡が杭州の知事のとき築いたもので、蘇堤とも呼ばれる)に設けられた六個の橋。
一三 三天竺 三竺とも呼ばれて、霊隠山(注一一参照)の三つの峰の名。ひとつは飛来峯《ひらいほう》で下天竺といい、ひとつは稽留峯《けいりゆうほう》で中天竺といい、ひとつは北高峯《ほくこうほう》で上天竺といい、それぞれに寺がある。
一四 二高峰 霊隠山にある二つの高峰で、南北に相対峙する。北のほうのは前注の上天竺なる北高峯であり、南のほうのは南高峯という。
一五・一六 猿呼洞、竜井山 ともに杭県の西南の風篁嶺《ふうこうれい》にある。竜井はまた竜泉ともいう。銭鏐が錦を着てここまで帰ってきたとき、留守をあずかっていた部下の一将が羅城《らじよう》に拠って叛旗をひるがえしたとの知らせがあった。銭鏐は服をかえて羅城を急襲しこれを鎮圧した。風生じ、雨飛ぶとは、このことを踏まえている。
一七 蘇公堤 注一二参照。
一八・一九 孤山路、和靖 孤山は孤嶼《こしよ》ともいい、西湖にうかぶ島の名。宋の隠士・林逋《りんぽ》がこの島の北側に居をかまえて隠棲した。林逋はここに住んで二十年、一度も城内に足を入れたことがなく、梅と鶴を友に、詩を作って暮らした。和靖とは仁宗が林逋におくった諡《おくりな》である。その墓と鶴塚が孤山の名所となっている。
二〇 霊隠 注一一・一四参照。本来の名は武林山というが、古代の聖賢・許由《きよゆう》と葛洪《かつこう》の隠棲の地と伝えられることから、霊隠、霊苑、あるいは仙居とも呼ばれる。山上には霊隠寺という仏寺がある。
二一 浄慈 同じく西湖の名勝地で、前方には銭鏐の造営になる雷峰塔があり、うしろには南屏山をひかえる。南屏の晩鐘といわれる景勝地もここである。
二二 三島 蓬〓《ほうらい》・方丈《ほうじよう》・瀛州《えいしゆう》の三島をいう。また三神山とも三壺ともいう。古来、神仙の住むところと伝えられる架空の島で、渤海のなかにあるという。
二三 西子 西施《せいし》のこと。第三十二回注四参照。
二四・二五 一更四点、一点 一更を五点に分ける。一更は二時間であるから、一点は三十分にあたる。初更は八時から十時まで。従って初更の二点は八時半、三点は九時、四点は九時半である。
二六 瓦罐は井の上を離れずして破る 第百四回注二三参照。
第百十五回
張順《ちようじゆん》 魂《こん》もて方天定《ほうてんてい》を捉《とら》え
宋江《そうこう》 智もて寧海軍《ねいかいぐん》を取る
さて宋江と戴宗が西陵橋のほとりで張順を祭っていると、早くもそれを方天定に知らせたものがあった。方天定は十名の首将をつかわし、二手に分けて、宋江を捕らえるべく城から討ち出させた。山の南のほうの五将は、
呉値《ごち》 趙毅《ちようき》 晁中《ちようちゆう》 元興《げんこう》 蘇〓《そけい》
山の北のほうにもおなじく五将をつかわしたが、それは、
温克譲《おんこくじよう》 崔〓《さいいく》 廉明《れんめい》 茅迪《ぼうてき》 湯逢士《とうほうし》
南北二手、計十名の首将は、それぞれ三千の軍勢をひきつれ、夜半(注一)城門を開いて、両隊いっせいに討ち出てきた。宋江はちょうど戴宗とともに酒を供え紙銭を焼いていたとき、とつぜん橋の下にどっと喊声のあがるのを聞いたのである。
左には樊瑞と馬麟、右には石秀が、それぞれ五千の兵をひきいて伏せていたが、前方に火の手のあがるのを見つけるや、おなじくいっせいに火の手をあげ、二手に分かれて南北両山の軍勢におそいかかって行った。南軍は宋軍に備えのあるのを見て、あわててもときた路へひき返した。左右両辺の宋軍はこれを追いかけた。
温克譲が四将をひきつれてあわてて河をわたって逃げようとすると、不意に保叔塔《ほしゆくとう》の山のむこうから阮小二・阮小五・孟康が飛び出し、五千の兵をひきつれて斬りかかってきて、ぴたりと退路を遮断した。そして、茅迪をいけどりにし、湯逢士を槍ぶすまのなかに刺し殺してしまった。山の南側の呉値も、おなじく四将をひきつれ、宋軍の追い討ちを受けてあわててひき返して行くと、不意に定香橋《ていこうきよう》で、李逵・鮑旭・項充・李袞が五百の歩兵の軍をひきつれて斬りかかってくるのに出くわした。かの、ふたりの牌手《はいしゆ》(項充と李袞)は、まっしぐらに敵陣深く飛びこんで行って、手に蛮牌《た て》を舞わし、飛刀を抜き放ち、はやくも元興を斬り倒してしまった。鮑旭は刀で蘇〓を斬り殺し、李逵は斧で趙毅を叩き殺した。兵士らの大半は斬りまくられて湖のなかへ落ち、ことごとく溺死させられてしまった。敗残兵が城内へ逃げこんで、援軍が繰り出されてきたときには、宋江の軍勢はすでにみな山のなかへはいっていて、一同霊隠寺《りんにんじ》に集結し、おのおの功を献じて賞を受けた。二方面で宋軍の奪った良馬は五百頭を越えていた。
宋江は、石秀・樊瑞・馬麟を残して、李俊らを助けてともに西湖の山の陣地を守りつつ城攻めの準備をするよう命じた。宋江が戴宗・李逵たちだけをつれて皐亭山《こうていざん》の陣地へ帰ると、呉用らは中軍の本営に迎えいれて座につかせた。宋江は軍師にいった。
「わたしはかくかくしかじかの計略で敵の四将の首をとり、茅迪をいけどりにしました。張招討の軍前へ押送して打ち首にしてもらいましょう」
宋江は陣中で、独松関《どくしようかん》・徳清《とくせい》両地の消息がわからないので、戴宗をさぐりに行かせ、急いで報告にもどるように命じた。戴宗は数日たつと陣中にもどってきて先鋒に見《まみ》え、
「盧先鋒はすでに独松関を越え、やがて当地に到着されます」
と告げた。宋江はそれを聞くと、喜憂相半《あいなか》ばする思いで、すぐ将兵の安否をたずねた。戴宗は答えた。
「わたしはあちらのたたかいの様子をくわしく承知しておりますし、ここに公文書も持っております。先鋒、どうかお気落としなさいませんよう」
「またもや何人かの兄弟をうしなったのではないか。かくさずに、ありのままを話してもらいたい」
「盧先鋒が独松関へ攻めて行かれますと、その関の両側はずっと高い山で、まんなかにひとすじの道が通っているきり。山の上に関所が設けてあって、関のほとりには一本の大木があるのですが、高さはおよそ数十丈もあって諸方どこでも見わたせ、その下にはいちめんに松の木が生いしげっております。関所を守っている三人の賊将は、その頭《かしら》のものは呉昇《ごしよう》といい、二番目のは〓印《しよういん》、三番目のは衛亨《えいきよう》といいます。はじめのうちは連日関所からおりてきて林冲とたたかっておりましたが、やがて林冲の蛇矛で〓印が傷を負わされてからは、呉昇はもうおりてこずにずっと関所にたてこもったきりでした。その後、〓天閏《れいてんじゆん》がさらに四将をひきつれて関所へ救援にやってきました。それは〓天祐《れいてんゆう》・張倹《ちようけん》・張韜《ちようとう》・姚義《ようぎ》の四将です。翌日、関所をおりてたたかいを挑んできました。賊軍からは〓天祐がまっさきに馬を出してきて呂方と対しましたが、五六十合わたりあったすえ、呂方の戟に〓天祐は刺し殺され、賊軍は関所へひきあげてしまいました。それきりもう攻めてきません。連日関所の下で待ちかまえて数日をすごしましたが、盧先鋒は、けわしい山をしらべるために欧鵬・〓飛・李忠・周通《しゆうとう》の四人を山へ偵察に出されました。と、不意に〓天閏が、弟(〓天祐)の仇をとろうと賊兵をひきつれて関所から攻めおりてきて、まっさきに周通を一刀のもとに斬ってしまいました。李忠も手傷を負って逃げだしました。もし救援に行くのがおそかったら、みんなやられてしまったでしょう。さいわい三将を救って陣地にもどりました。翌日、双鎗将の董平がいらだって、復讐をせんものと、馬を関所の下にとめて大いに賊将を罵りましたところ、不意に関所の上から火砲を一発射たれ、爆風にやられて左の腕をいため、董平は陣地へもどりましたが、槍を使うこともできず、副木《そえぎ》ではさんで腕を縛りました。翌日どうしても復讐に行こうとするのを、盧先鋒にとめられて行けませんでしたが、一晩たって腕がいくらかよくなると、盧先鋒には知らせずに勝手に張清と相談してふたりで、馬には乗らずにさっさと関所へのぼって行ったのです。関内からは〓天閏《れいてんじゆん》と張韜《ちようとう》が交戦に駆けおりてきました。董平が〓天閏を捕らえんものと走り寄って槍を使うと、〓天閏も長槍を使って迎え、董平と十合ばかりわたりあいました。董平は心はやっつけようとはやるものの、いかんせん左手が槍を使いこなせず、とうとう逃げだしました。〓天閏は追いかけて関所を駆けおりてきます。張清がそのとき槍をかまえて〓天閏に突きかかって行きますと、〓天閏はひらりと松の木のうしろに身をかわしたのです。そのため張清の繰り出した槍は松の木に突き刺さってしまい、あわてて引き抜こうとしましたが、固く突き刺さってしまって抜けません。そこへ〓天閏が槍を繰り出しましたので、槍は腹に刺さって張清は地面に突き伏せられてしまいました。董平は〓天閏が張清を刺し倒すのを見て、急いで二本の槍をふるってかかって行きましたが、不意に張韜がうしろから腰に一刀を浴びせて、董平をまっ二つに斬ってしまいました。盧先鋒がこれを知って急いで救援に行ったときには、賊兵はすでに関所へひきあげてしまったあとで、下からはもはや施す手もありませんでした。さいわい孫新・顧大嫂の夫婦ふたりが、難をのがれる住民の姿をして山の奥へはいりこみ、小路をひとつ見つけ出して、李立・湯隆・時遷・白勝の四人をつれて行き、その小路づたいに関所にたどりついて、夜中に手さぐりで関内へはいりこんで火をつけたところ、賊将は関内に火の手があがったのを見て、宋軍がすでに関所を破ったものと思い、いっせいに関所を捨てて逃げて行きました。盧先鋒が関所へあがって将兵を点検されましたところ、孫新と顧大嫂はもとの関所の守将呉昇を、李立と湯隆はもとの関所の守将・〓印を、時遷と白勝はおなじく衛亨をいけどりにしておりましたので、その三人をみな張招討の軍前へ押送して行くことにされ、董平・張清・周通の三人の遺骸を始末して関内に葬られました。そうして盧先鋒は関を越えて追走すること四十五里、賊軍に追いついて〓天閏とたたかいをまじえ、三十合あまりわたりあったすえ、盧先鋒は〓天閏を討ちとられましたが、残る張倹と張韜と姚義《ようぎ》は敗残の軍勢をひきつれて懸命にたたかい、ついに逃げおおせてしまいました。盧先鋒はもう間もなく到着されましょう。お信じになれませんようでしたら、公文書をごらんくださいますよう」
宋江は公文書を読んでますます憂いを深め、泉のように涙をながした。
呉用がいった。
「すでに盧先鋒が勝利を得られたうえは、将兵を出して挟み打ちをかけるべきです。そうすれば南軍は必ず敗れるでしょうから、さらに湖州の呼延灼の軍勢の援護をしましょう」
「いかにもおっしゃるとおりです」
と宋江は答え、ただちに李逵・鮑旭・項充・李袞らに、三千の歩兵をひきいて山路から盧先鋒を迎えに行かせた。黒旋風は軍勢をひきつれて、小躍りしながら出て行った。
さて、宋江の軍は杭州の東門を攻めることになり、正将の朱仝《しゆどう》以下さきに出された五千の歩騎の軍勢(第百十四回に見える宋江軍の編制を参照)が、湯鎮路《とうちんろ》の村から東門を攻めるべく菜市門《さいしもん》(東門の名)外へとおし寄せて行った。江岸沿いの東門への道は、人家や村や町がつづいていて、城内にもまさるほどで、しかも、見わたすかぎりひろびろとした田園地帯であった。城壁のほとりまで行くとすぐ軍を散開した。魯智深がまっさきに陣を出て、徒歩《か ち》でたたかいを挑み、鉄の禅杖をひっさげてまっすぐに城壁の下まで行って、
「糞やろうども、出てこい、相手になってやるぞ」
と大声で罵った。城壁の上では、ひとりの和尚がたたかいを挑んできたのを見ると、急いで太子の宮中へ知らせた。居あわせた宝光国師《ほうこうこくし》の〓元覚《とうげんかく》は、ひとりの和尚がたたかいを挑んでいると聞くと、ただちに立ちあがって太子に奏上した。
「わたくしの聞いておりますところでは、梁山泊にひとりの和尚がいて、名を魯智深といい、よく鉄の禅杖を使いこなすとのことでございます。殿下、なにとぞ東門の城壁の上にお出ましになりまして、わたくしがその坊主と徒歩で何合かたたかいをまじえるところをごらんくださいますよう」
方天定はそういわれて大いによろこび、令旨をくだしてさっそく八人の猛将をしたがえ、元帥の石宝とともに、みなで菜市門の城壁の上に出て国師の敵を迎え討つさまを観戦することにした。かくて方天定と石宝は望楼の上に腰を据え八人の猛将がこれを左右から擁して、宝光国師のたたかいぶりを見まもった。かの宝光国師のいでたちいかにといえば、
一領の烈火猩紅《れつかせいこう》の直〓《じきとつ》(ころも)を穿ち、一条の虎〓《こきん》もて打《つく》り就《な》せる円〓《えんとう》を〓《むす》び、一串《いつかん》の七宝瓔珞《しちほうようらく》の数珠を掛け、一双の九環鹿皮《きゆうかんろくひ》の僧鞋《そうあい》を着《つ》く。裏《うら》に襯《しん》するは是れ香線金獣《こうせんきんじゆう》の掩心《えんしん》(胸当て)、双手に使うは錚光渾鉄《そうこうこんてつ》の禅杖。
そのとき城門をあけ、吊り橋をおろし、かの宝光国師の〓元覚《とうげんかく》は五百の刀手《とうしゆ》(刀組)の歩兵をひきいて飛び出してきた。魯智深はそれを見ると、
「ほう、南軍にもあんな坊主がいて、出てきやがったか。よし、やつめにおれのこの禅杖を一百発くらわしてやろう」
とつぶやき、名乗りもあげず、いきなり禅杖を振りまわしてつっかかって行った。宝光国師も禅杖を使って迎え討つ。かくてふたりはいっせいに、ともに禅杖を得物にたたかいあった。見れば、
魯智深忿怒《ふんど》し、全く清浄《せいじよう》の心を無《なみ》す。〓元覚嗔《いか》りを生じ、豈慈悲《じひ》の心を有せんや。這個《このもの》何ぞ曾《かつ》て仏道を尊ばん、只《ただ》月黒きに於て人を殺す。那個《かのもの》経文を看るを会《え》せず、惟《ただ》風高きに火を放つを要《ほつ》す。這個は霊山会《りようざんえ》(注二)上に向《おい》て、如来《によらい》を悩まして蓮台に坐することを懶《ものう》からしめ、那個は善法堂《ぜんぽうどう》(仏堂)前に去《ゆ》きて、掲諦《ぎやてい》(仏法の守護神)を勒《し》いて金杵《きんしよ》(注三)を使回せしむ。一個は世を尽して修めず梁武《りようぶ》の懺《さん》(注四)、一個は平生那《なん》ぞ識らん祖師《そし》の禅《ぜん》(注五)。
魯智深と宝光国師は、わたりあうこと五十余合におよんだが、なお勝敗は決しなかった。方天定は望楼の上からそれを見て、石宝にいった。
「梁山泊に花和尚の魯智深というものがいるとは聞いていたが、あれほど腕が立つとは思わなかった。まことに名は虚しく伝わることはないものだ。もう長いことたたかっているが、いささかの乗ずる隙も宝光和尚にあたえてはおらぬ」
「わたくしも、見て呆然としているところです。こんな好敵手同士は見たことがありません」
話しあっているところへ、とつぜん物見の兵がまた知らせてきて、
「北関門へ、さらに軍勢がおし寄せてまいりました」
という。石宝は急いで立ちあがって出て行った。
一方、城下の宋軍では、行者の武松が、魯智深が宝光を制し得ないでいるのを見て、万一のことがあってはと気が気でなくなり、いきなり二本の戒刀を舞わして陣地を飛び出し、まっしぐらに宝光におそいかかって行った。宝光は彼らふたりが自分ひとりにかかってくるのを見て、禅杖をひきずって城内へと逃げだした。武松が勇をふるってまっしぐらに追いかけて行くと、ふいに城門のなかからひとりの猛将が飛び出してきた。すなわち、方天定の配下の貝応〓《ばいおうき》で、槍をかまえて馬を躍らせ、武松のゆくてをふさいでたたかいを挑んできた。ふたりはちょうど吊り橋の上でぶっつかった。と武松はひらりと身をかわし、片手の戒刀をうち捨てて相手の槍の柄をひっつかみ、ぐいと一ひきして武器もろとも馬からひきずりおろすや、がっと一太刀浴びせて貝応〓の首を斬り落とした。魯智深もすぐうしろまで援護しに舞いもどってきた。方天定はあわてて吊り橋を引きあげ、兵を収めて城内へはいるように命じた。こちらの朱仝も、十里ほど軍を退いて陣を構えさせ、使いを出して宋先鋒のもとへ勝利を知らせた。
その日、宋江は軍をひきいて北関門におし寄せ、たたかいを挑んだ。と、石宝が流星鎚《りゆうせいつい》を身につけて馬に乗り、手には劈風刀《へきふうとう》を横たえつつ、城門をあけて迎え討ちに出てきた。宋軍の陣からは、大刀の関勝が馬を出して石宝とたたかった。両者わたりあうこと二十余合、石宝が馬首を転じていきなり逃げだすと、関勝もあわてて馬を返し、これまた自陣へとひきあげてきた。宋江が、
「どうして追いかけなかったのか」
とたずねると、関勝は、
「石宝の刀の腕は、わたしに劣るものではありません。馬を返して逃げたといっても、計略あってのことにちがいありません」
呉用もいった。
「段〓《だんがい》がいつかいっておりましたが、あの男は流星鎚の使い手だとか。馬を返して敗けたと見せかけ、相手をだまして危地に誘いこもうとするのでしょう」
宋江は、
「それでは、追いかけて行けばきっと毒手にかかるだろう。ひとまず軍を収めて陣地へひきあげることにしよう」
といい、一方では人をやって武松に賞をあたえた。
ところで李逵らは、歩兵をひきつれて盧先鋒を迎えに行ったが、山路へはいって行ったとき、張倹らの敗残軍と出くわし、力をあわせて斬りこんで行って乱戦のなかで姚義を討ちとった。張倹・張韜のふたりは、ふたたび関所への道を駆けもどって行くうちに、こんどは盧先鋒に出くわし、ひとしきりたたかったあげく、深山の小路をめざして逃げだしたが、うしろからきびしく追いかけられて、いたしかたなく、馬を捨てて山麓へと走り、からくも逃げ落ちて行ったところ、はからずも竹藪のなかからふたりのものが飛び出してきた。てんでに鋼叉をかまえている。張倹と張韜は手を出すいとまもないうちに、ふたりに叉《さすまた》で突き倒され、そのまま捕らえられて山からひき出された。張倹と張韜を突き倒したのは、解珍と解宝であった。
盧先鋒は張倹と張韜が捕らえられてきたのを見て、大いによろこんだ。そして李逵らと兵を合流し、諸将を集め、一同で皐亭山《こうていざん》の本陣へ行って宋先鋒らに見《まみ》え、董平・張清・周通をうしなった次第を話して、互いに傷みかなしみあった。諸将はことごとくやってきて宋江に挨拶をおさめたのち、兵を合流して宿営につかせた。翌日、張倹を蘇州の張招討の軍前へ押送して行かせて梟首《さらしくび》にすることにし、張韜のほうは、陣前で腹を割き肝をえぐって、はるかに董平・張清・周通の霊に手向けた。
宋先鋒は呉用と協議していった。
「盧先鋒に、麾下の軍をひきつれて徳清県の路上の呼延灼らの一隊を迎えに行ってもらい、一同ここに集まって、協議のうえ城を攻めることにしましょう」
盧俊義は命を受けると、ただちに麾下の軍勢をそろえて出発し、奉口鎮をめざして進んだ。全軍がやがて奉口にさしかかったとき、司行方《しこうほう》の敗残の軍が帰って行くのに出くわした。盧俊義はこれを迎えて大いにたたかった。司行方は水中に落ちて死に、その他のものはばらばらになって逃げ落ちて行った。呼延灼は盧先鋒に会って兵を合流し、皐亭山《こうていざん》の本陣にひきあげて、宋先鋒らに挨拶をした。かくて諸将は一堂に会して協議した。宋江は、二手に分かれていた軍が杭州にそろったのを見て、かの宣州・湖州・独松関などの地は、張招討と従参謀のほうで統制官を派遣してそれぞれの守備と治安にあたらせてもらうことにしたが、このことはそれまでとする。
宋江が呼延灼の配下をしらべてみると、雷横《らいおう》と〓旺《きようおう》のふたりの姿がなかった。呼延灼が告げていうには、
「雷横は徳清県の南門外で司行方とたたかい、三十合あまりわたりあったすえ司行方に馬から斬り落とされてしまいました。〓旺は黄愛《こうあい》とたたかって、谷間《たにあい》を追いかけて行きましたところ、馬もろとも谷川のなかへ落ちてしまって、南軍の兵に槍で滅多突きにされて相果てました。しかし米泉《べいせん》は索超が斧で斬り捨て、黄愛と徐白は諸将が追って行って、ここにいけどりにしてきております。司行方は水中に追い落として溺死させました。薛斗南《せつとなん》は乱戦のなかで逃げてしまって行方がわかりません」
宋江は、またもや雷横と〓旺のふたりの兄弟をうしなったと聞いて、涙を雨のようにながしながら諸将にむかっていった。
「このまえ張順がわたしの夢にあらわれたとき、そのそばに三四人、きものを血だらけにしたものが立って、わたしの前に姿をあらわしたが、あれがまさしく董平・張清・周通・雷横・〓旺たちの亡魂だったのだ。もし杭州寧海軍を手にいれたなら、ねんごろに坊さんを呼んでお斎《とき》を設け、法会《ほうえ》を営んで、兄弟たちの成仏を祈ろう」
そして、黄愛と徐白を張招討の軍前へ押送して行って打ち首にしたが、このことはそれまでとする。
その日、宋江は牛や馬を殺して宴を設け兵士たちをねぎらわせた。翌日、呉用と協議したうえで、正偏の将領の割りあてをして、杭州を攻めることにした。
副先鋒盧俊義は正偏の将十二名をひきつれて候潮門《こうちようもん》を攻める。
林冲 呼延灼 劉唐 解珍 解宝 単廷珪 魏定国 陳達 楊春 杜遷 李雲 石勇
花栄ら正偏の将十四名は艮山門《こんざんもん》を攻める。
花栄 秦明 朱武 黄信 孫立 李忠 鄒淵 鄒潤 李立 白勝 湯隆 穆春 朱貴 朱富
穆弘ら正偏の将十一名は西山の陣中へ行き李俊らを助けて靠湖門《こうこもん》を攻める(注六)。
李俊 阮小二 阮小五 孟康 石秀 樊瑞 馬麟 穆弘 楊雄 薛永 丁得孫
孫新ら正偏の将八名は東門の陣へ行き朱仝を助けて菜市《さいし》・薦橋《せんきよう》等の門を攻める(注七)。
朱仝 史進 魯智深 武松 孫新 顧大嫂 張青 孫二娘
東門の陣中より偏将八名を呼びもどし李応らとともに各陣の情勢をさぐり各地の援護をする(注八)。
李応 孔明 楊林 杜興 童威 童猛 王英 扈三娘
正先鋒使宋江は正偏の将二十一名をひきつれて北関門《ほくかんもん》の街道を攻める。
呉用 関勝 索超 戴宗 李逵 呂方 郭盛 欧鵬 〓飛 燕順 凌振 鮑旭 項充 李袞 宋清 裴宣 〓敬 蔡福 蔡慶 時遷 郁保四
かくて宋江は、将領を割りあてて、四方の城門を攻めることにした。
宋江らは本隊の軍勢をひきつれ、まっすぐに北関門の城下に迫ってたたかいを挑んだ。城壁の上では軍鼓がひびき銅鑼《どら》が鳴り、城門があけ放たれ吊り橋がおろされて、石宝がまっさきに馬に乗って討ち出てきた。宋軍の陣からは、日ごろから気短かな急先鋒の索超が、大斧をふるい、名乗りもせずにいきなり飛び出して行って石宝とたたかった。両馬相交わり二将ははげしく斬り結んだが、ようやく十合ほどわたりあったとき、石宝が負けたと見せかけて、馬を返して逃げだすと、索超はそのあとを追いかけた。関勝があわてて止めようとしたとき、索超の顔面に鎚が命中し、索超は馬から叩き落とされた。〓飛が急いで救いに出て行くと、石宝の馬が駆けてきて、〓飛は手を出すいとまもないうちに、これまた石宝に一刀を浴びせられてまっ二つに斬られてしまった。城内からは宝光国師が、数名の猛将をひきいてどっと斬り出してきた。宋軍は総崩れになり、北のほうへと逃げた。おりよくそこへ花栄・秦明らが横合いから斬りこんできて南軍を討ち散らし、宋江を陣地へ救いもどした。勝ちを得た石宝は、小躍りしてよろこびながら城内へひきあげて行った。
宋江らは皐亭山の本陣へ帰ってひといきいれた。宋江は本営にはいって座についたが、またもや索超・〓飛の二将を討ちとられて心中大いに憂慮した。呉用はいさめていった。
「城内にあの猛将がいる以上は、智略をめぐらして攻めるべきです。まともにあたるべきではありますまい」
「このように兵を討たれ将をうしなってしまって、いったいどんな策を用いたら攻められるというのです」
と宋江がいうと、呉用は、
「各城門と十分にしめしあわせたうえで、もういちど軍をひきいて北関門を攻めてください。城内の軍勢は必ず迎え討ちに出てきますから、こちらは負けたように見せかけて賊軍をおびき出し、遠く城郭の外までひき寄せておいて、砲を射って合図とし、各城門ともいっせいに城に攻めかからせるのです。もしどこかの城門で軍勢が城内に突入できたなら、すぐ火を放って外に合図をさせます。そうすれば賊軍は互いに援護しあうことができなくなって、味方は大功をかちとることができましょう」
宋江はただちに戴宗を呼んで命をつたえ、各城門に通達させた。そして翌日、関勝に多数の軍勢をつけて北関門の城下へ行かせ、たたかいを挑ませた。城壁の上で軍鼓がひびくと、石宝が軍をひきいて城から繰り出してきて、関勝と馬を交えた。十合ばかりわたりあったとき、関勝が急いで退却すると、石宝の軍勢は追いかけてきた。凌振は機を見て砲を射った。号砲が鳴ると、各城門とも、どっと喊声をあげて、いっせいに城に攻めかかった。
一方、副先鋒の盧俊義は林冲らをひきい、兵を繰り出して候潮門を攻めたが、軍勢が城壁の下まで行ってみると、城門はとざされておらず、吊り橋はおろしたままになっている。劉唐は一番手柄をせしめんものと、一騎一刀で、まっしぐらに城内へ突入して行った。城壁の上では劉唐が馬を飛ばしてくるのを見るや、斧をふるって索《つな》を断ち切り、門の戸を墜落させたので、あわれ、精悍勇猛なる劉唐も、馬もろともに城門の下で相果ててしまった。そもそも杭州の城は、銭王《せんおう》が都をたてたところで、三重の門をかまえ、外側には一枚戸の扉、まんなかは二枚扉の鉄板の正門、内側にはさらに一並びの柵門が設けてあった。そこで、劉唐が城門の下へ突入して行ったとき、上からすかさず門の戸を落としたのであった。その左右にはさらに兵士が伏せてあったから、所詮劉唐は死を免れることはできなかったのである。
林冲と呼延灼は、劉唐が討ちとられたのを見て兵をひきいて陣地へ帰り、盧俊義に報告した。各城門どこも突破できず、やむなくひとまず後退し、人をやって宋先鋒の本陣にこの旨を急報した。宋江はまたしても劉唐が候潮門の扉によって相果てたことを聞くと、はげしく哭いていった。
「あの兄弟に非業《ひごう》な死をとげさせてしまった。〓城県《うんじようけん》で義を結び、晁天王《ちようてんおう》(晁蓋)にしたがって梁山泊へのぼってから(第十八・十九回)、多年辛苦をなめて、ついぞ楽しい目をすることもなく、大小百余のたたかいに臨んで常に危うい橋をわたりながら、いちども鋭気をくじかれたこともなかったのに、きょうここに相果ててしまおうとは」
軍師の呉用は、
「まずい策でした。計略が成功しなかったばかりか、ひとりの兄弟を死なせてしまいました。ひとまず各城門とも兵を退《ひ》かせて、あらためて手段を講ずることにしましょう」
といったが、宋江はいらだって、すぐにも仇を討って恨みを晴らしたがり、しきりに嗟嘆した。そのとき麾下の黒旋風の李逵がいい出した。
「兄貴、安心なさってください。わたしがあした、鮑旭・項充・李袞と四人でぜがひでも石宝のやつをふんづかまえてやりますから」
「あの男はすばらしく腕が立つ。とてもあの男には近づけないだろう」
と宋江がいうと、李逵は、
「そんなことがあるものですか。あした、もしあいつを捕らえることができなかったら、わたしは二度と兄貴の顔は見ますまい」
「くれぐれも気をつけるように。甘く見てはならんぞ」
黒旋風の李逵は自分の陣屋へ帰って行き、大碗の酒と大皿の肉を用意し、鮑旭・項充・李袞を招いて酒盛りをして、いった。
「われわれ四人は、これまでずっといっしょになってたたかってきた。きょうわしは先鋒の兄貴の前で大口をたたき、あしたは石宝のやつを捕らえてみせるといってしまったのだ。それで三人とも、しっかりやってもらいたいのだ」
すると鮑旭がいった。
「兄貴(宋江)は、きょうも騎兵を出しあすも騎兵を出すというふうだ(李逵ら四人はいずれも歩兵の頭領である)。今夜われわれは、しかと約束をして、あすはどうしても気をあわせて出て行って石宝のやつをふんづかまえ、四人で鬱憤を晴らそうよ」
翌日の朝、李逵ら四人は腹いっぱい酒を飲み、てんでに武器を持って陣をいで、
「先鋒の兄貴、どうかたたかいぶりを見ていてください」
とたのんだ。宋江は四人ともみなほろ酔い加減なのを見ていった。
「四人の兄弟たち、命《いのち》を粗末に扱ってはならぬぞ」
すると李逵は、
「兄貴、われわれを見くびらんでください」
「その言葉どおりにやってもらいたいものだ」
と宋江はいい、馬に乗って、関勝・欧鵬・呂方・郭盛の四人の騎兵の将領をしたがえ、北関門の下まで行って、軍鼓を鳴らし旗を振ってたたかいを挑んだ。李逵は火のように猛りたち、二梃の斧をつかんで宋江の馬前に立つ。鮑旭は板刀《ばんとう》をかまえ、かっと眼を怒らせつつたたかいを待つ。項充と李袞はそれぞれ団牌《だんぱい》(丸楯)を腕にかけ、飛刀《ひとう》(投げ刀)二十四本を楯に挿し、鉄鎗をかまえて両側に伏せていた。
と、城壁の上で軍鼓がひびき銅鑼が鳴りだして、石宝が、瓜黄馬《かこうば》(黄馬)にまたがり、劈風刀《へきふうとう》を手に、二人の首将をひきつれて城から討ち出してきた。かみては呉値《ごち》、しもては廉明《れんめい》である。三人の将がまさに城を出たとき、天地をも怕《おそ》れざる男・李逵が、わっと大声で吼《ほ》えたて、四人はまっしぐらに石宝の馬前へ突進して行って、石宝が劈風刀をとってこれを迎えようとしたときには、はやくもその内ぶところに飛びこんでいた。李逵は斧をふるってたちまち馬の脚を叩き斬った。石宝はとたんに跳びおりて騎兵の群れのなかへ身をかくした。鮑旭はすでに、一刀のもとに廉明を馬から斬り落としていた。ふたりの牌手(項充と李袞)はしきりに刀(飛刀)を飛ばし、空中はさながら玉魚《ぎよくぎよ》の乱れおどり、銀葉《ぎんよう》の交錯するかのよう。
宋江が騎兵の軍を城壁のほとりまでおし進めると、城壁の上から擂木《らいぼく》(投げ丸太)や砲石(投げ石)を雨のようにあびせてきた。宋江は万一をおもんぱかって急いで軍を後退させたが、思いきや鮑旭はすでに城門のなかへ突入してしまっていた。宋江はしまった、と、うろたえるばかり。石宝は城門の内側にかくれていて、鮑旭が飛びこんでくるのを見るや、横合いから一刀を浴びせてたちまち鮑旭をまっ二つに斬ってしまった。項充と李袞はあわてて李逵を護ってひきあげてきた。宋江の軍はかくて本陣に退却したが、またしても鮑旭を討ちとられて、宋江はますます憂色を深めるばかり。李逵も哭きながら陣地に馳せ帰ってきた。呉用がいった。
「こんどの計略もやはり良策ではなかった。敵の一将を斬り捨てたものの、かわりに李逵の副手をうしなってしまった」
一同が悲嘆にくれているとき、とつぜん解珍と解宝が陣中へ報告をもってきた。宋江がくわしい事情をたずねると、解珍のいうには、
「わたしが解宝といっしょに、ずっと南門外二十里あまりのところまで偵察に行きましたところ、土地の名を范村《はんそん》というところで、江岸にずらりと数十隻の船が泊まっているのを見かけましたので、乗りこんで行ってたずねてみましたところ、それは富陽県《ふうようけん》の袁評事《えんひようじ》(評事は刑獄を裁決する官)の解糧船《かいりようせん》(租税としてとりたてた糧秣を運ぶ船)でした。わたしが彼を斬ってしまおうとしますと、そのものは泣きながらこういうのです。
『わたくしどもはみな大宋の良民なのです。ひっきりなしに方臘から租税をとりたてられまして、もしいいつけにしたがわなければ一家みなごろしにされるのです。わたくしどもは、このたび天兵が討伐にきてくださったので、もういちど太平の世になるようにとひたすら祈っておりましたのに、非業な目にあわされようとはまことに心外なことです』
わたしは彼の切々たる訴えを聞いて、殺すに忍びず、かさねて、
『どうしてこんなところにきているのか』
とたずねますと、彼のいうには、
『このたび方天定の命令で、各県をまわり、村々から徴発して、米五万石をとりたてるようにといわれまして、わたくしがその長になり、五千石をとりたてましたので、とりあえず納入するために運んでまいったのですが、ここまできましたところ、大軍が城をかこんでいくさがはじまっていますので、進むのをさしひかえてここに碇泊していたところです』
とのこと。わたくしはくわしい事情がわかりましたので、特に主将にお知らせにまいった次第です」
呉用は大いによろこんで、
「これこそ天が機会をあたえてくださったのです。それらの糧船《りようせん》で、ぜひとも功をたてましょう。さっそく先鋒から命令を出していただいて、あなたがた兄弟ふたりが頭《かしら》になり、砲手の凌振および杜遷・李雲・石勇・鄒淵・鄒潤・李立・白勝・穆春・湯隆、それに王英と扈三娘、孫新と顧大嫂、張青と孫二娘の三組の夫婦をつれて行って、船頭と船頭の女房に扮装し、みな口をきかないようにして船尾にまぎれこみ、どさくさまぎれに城内へはいりこんで、ただちに連珠砲《れんしゆほう》を射って合図をしてくだされば、こちらから兵を繰り出して行って策応することにします」
解珍と解宝は、袁評事を岸へ呼び出して、宋先鋒の言葉をつたえ、
「あなたがたが宋国の良民であるならば、このとおりに計《はかりごと》をおこなってもらいたい。成功したあかつきには、必ず十分に褒賞されるでしょう」
といった。
このとき、袁評事はしたがわないわけにはいかなかった。多くの将領たちははやくもみな船に乗りこんだ。船に乗っていた船頭たちはみなそのまま船にとどめて雑用をさせることにした。そして船頭にぬがせたきものを王英・孫新・張青に着せて船頭になりすまさせ、扈三娘・顧大嫂・孫二娘の三人の女将軍には、船頭の女房のなりをさせ、下士たちをみな船を漕ぐ水夫にならせ、武器と諸将たちはことごとく胴の間にかくし、かくて船を進めていっせいに江岸に着けた。このとき、各城門を包囲哨戒していた宋軍も、みな船と遠くは隔たっていなかった。
袁評事が岸へあがると、解珍・解宝および例の数人の船頭がそのあとについて、まっすぐに城壁の下へ行き開門を請うた。城壁の上ではそれを知って、くわしく来意をただしたうえ、太子の宮中へ報告した。方天定はただちに呉値をつかわした。呉値は城門をあけてまっすぐに江岸へ行き、船をしらべたうえ、城内へもどって方天定へ報告した。方天定は六名の将をつかわした。
六将は一万の兵をひきつれ城を出、東北のほうをふさいで、袁評事に糧秣を城内へ運んで納入させた。このとき、諸将や兵士たちはみな船頭や水夫たちにまじって、いっしょに糧秣を城内へ運びいれた。三人の女将軍も、あとについて城内へはいって行った。五千石の食糧はまたたくまにみな運びこまれた。六名の首将はそこで軍をひきつれて城内へもどった。宋軍は手わけをして進んで、再び城郭をかこみ、城から二三里離れたところに陣を布き列ねた。
その夜の二更ごろ、凌振は九台の子母砲《しぼほう》などを出し、ただちに呉山の頂上へのぼって発砲した。諸将はてんでに松明《たいまつ》を持って、手あたり次第に火をつけた。城内はたちまちにして鼎《かなえ》の沸くようにわきかえり、いったいどれくらいの宋軍が城内にはいっているのかもわからぬ始末。方天定は宮中で、事情を聞いて大いにおどろき、あわてふためきながら甲《よろい》をつけて馬に乗ったときには、各城門の城壁の上の兵士たちは、すでにみな逃げてしまっていた。宋軍の兵士は大いに奮いたち、互いに功をあらそって城におそいかかった。
一方、城の西方の山中にいた李俊らは、命令を受けて、軍をひきつれて浄慈港に殺到し、船を奪うや、ただちに湖面をわたって湧金門に上陸した。諸将は手わけをして各処の水門を奪い取り、李雲と石秀がまっさきに城壁へのぼった。夜どおし城内には混戦がつづいたが、南門だけは包囲されていなかったので、逃げのびようとする敗残兵たちはみなこの城門からのがれて行った。
ところで方天定は、馬に乗ったものの、あたりにはひとりの将も見あたらず、わずかに数名の歩兵をしたがえただけで、南門から逃げだして行った。喪家《そうか》の狗《いぬ》のようにうろたえ、漏網《ろうもう》の魚のようにあわてつつ、ようやく五雲山《ごうんざん》の麓まで逃げて行くと、とつぜん江のなかからひとりのものがあらわれ、口に一振りの刀をくわえ、まっぱだかで岸におどりあがってきた。方天定は馬上で、それがすさまじい勢いでやってくるのを見て、馬に鞭うって逃げだそうとしたが、いかんせん、馬は不思議なことに、いくら打ってもいっかな動かず、まるで誰かが馬のくつわをがっちりおさえているかのようである。その男は馬前におそいかかってきて方天定を馬からひきずりおろし、一刀のもとに首を割《か》きとってしまうと、方天定の馬に乗って、片手に首をひっさげ、片手に刀をとって、杭州城へと馳せもどって行った。
林冲と呼延灼が兵をひきつれて六和塔《ろくわとう》まで方天定を追いかけて行ったとき、ちょうどその男に行きあった。二将はそれが船火児の張横であるのを見てびっくりした。すぐ呼延灼が、
「おい、どこからきたのだ」
と呼びかけたが、張横はてんで返事もせず、一騎でまっしぐらに城内へ駆け入って行った。
このとき宋先鋒の本隊の軍勢は、すでにことごとく入城していて、方天定の宮中を元帥府と定め、諸将ら一同、行宮を守っていたが、張横が一騎で駆けつけてくるのを見て、人々はみなびっくりした。張横はまっすぐに宋江の前へ行き、鞍からすべりおりて、首級と刀を地面に置き、頭をさしのべて再拝の礼をして、哭《な》きだした。宋江は急いで張横を抱きかかえて、
「兄弟、あんたはどこからきたんです。そして阮小七はどこにいるのです」
ときいた。すると張横は、
「わたしは張横ではございません」
という。
「張横でないなら、それでは誰なのです」
と宋江がききかえすと、張横は、
「わたしは張順です。湧金門外で槍と矢を浴びて死にましたので、一点の幽魂となって水中をはなれずに流れただようておりましたところ、西湖の震沢竜君《しんたくりゆうくん》(注九)の心を動かして金華太保《きんかたいほう》に封ぜられ、水府の竜宮にとどめられて神となりました。このたび兄貴が城を討ち破られたについて、わたしの魂は方天定にはなれずにつきまとい、夜半いっしょに城を出て行ったのですが、兄の張横が大江(ここでは銭塘江)にいるのを見かけましたので、兄の身体を借りて岸へおどりあがり、五雲山の麓で追いついてこの賊を殺してしまい、まっしぐらにここへ駆けつけてきて兄貴にお目にかかった次第です」
そういいおわって、ばたりと地面に倒れた。宋江はみずから扶けおこした。張横は眼を見開いて、宋江や諸将を見、刀剣が林のように並び、兵士がぎっしり群がっているのを眺めた。そして張横は、
「わたしは、あの世で兄貴にお目にかかっているのでは?」
といった。宋江は哭《な》きながら、
「いましがた、あなたは、あなたの弟の張順に身体を貸して賊の方天定を討ちとったのです。あなたは死んでなんかいない。われわれはみんなこの世のものです。じっとよく見てみなさい」
「とおっしゃると、わたしの弟は死んでしまったのですか」
「張順は、西湖の水をもぐって行って水門をひきあけ、城内へはいって火を放とうとしたのだが、はからずも、湧金門外にたどりついて城壁を越えようとして賊に見つけられ、槍と矢を浴びせられて、そこで相果ててしまったのです」
張横はそれを聞くと、はげしく哭きだし、
「弟よ」
と一声叫ぶなり、ばったりと倒れてしまった。人々が張横を見るに、四肢はうごかず、両眼はかすみ、七魄《しちはく》ははるかに、三魂《さんこん》も遠くはなれてしまったよう。まさに、未だ五道将軍《ごどうしようぐん》(死を司る兇神)に随って去らざるも、定めて是れ無常の二鬼(注一〇)の催すならん、というところ。さて悶絶した張横の生命やいかに。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 夜半 原文は半夜前後。半夜は半夜三更のことで、十二時ごろの意。
二 霊山会 霊鷲山の会。釈迦が正法眼蔵《しようぼうげんぞう》(成仏の妙理)を迦葉につたえたという集合。
三 金杵 古代印度で使われた武器で、両端が太く中央部が細くなった杵《きね》状のもの。菩提心をあらわすという。
四 梁武の懺 梁武は梁の武帝で、仏教の熱心な帰依者であり、その中国への移入に力のあった人。仏典に関する著作も多い。懺とは仏をたたえた経典のこと。
五 祖師の禅 祖師とは達磨《だるま》大師のこと。禅宗の開祖であることからいう。達磨は前記の梁の武帝の普通年間(五二〇―五二六)に印度から海路を広州にわたり、河南省嵩山《すうざん》の少林寺で禅宗を開いた。梁の武帝と仏理について談論したこともある。
六 穆弘ら正偏の将十一名は…… 原文のままに訳したが、第百十四回に見える編制に照らして正確に書きなおせば、
穆弘ら八名は西山の陣中へ行き李俊ら(李俊・阮小二・阮小五・孟康)を助けて正偏の将計十一名をもって靠湖門を攻める。
七 孫新ら正偏の将八名は…… 同じく書きなおせば、
孫新ら四名は東門の陣へ行き朱仝ら四名(朱仝・史進・魯智深・武松)を助けて、正偏の将計八名をもって菜市・薦橋等の門を攻める。
八 東門の陣中より偏将八名…… 同じく書きなおせば、
東門の陣中より偏将二名(王英・扈三娘)を呼びもどし李応ら六名とともに計八名をもって各陣の情報をさぐり各地の援護をする。
九 震沢竜君 竜王のこと。震沢とは太湖の古名、竜君は竜王。したがって西湖の震沢竜君といういいかたは厳密にいえばおかしい。
一〇 無常の二鬼 活無常《かつむじよう》と死無常《しむじよう》とをいう。ともに生魂をとらえて冥界へ送りこむ冥府の使者である。神として廟などに祭られているが、その姿は活無常は白装束、死無常は黒装束である。
第百十六回
盧俊義《ろしゆんぎ》 兵を歙州道《きゆうしゆうどう》に分《わか》ち
宋公明《そうこうめい》 大いに烏竜嶺《うりゆうれい》に戦う
さて、そのとき張横は弟の張順が死んだと聞いて、悲しみのあまりに昏倒してしまったが、しばらくすると介抱されて正気にかえった。宋江はいった。
「とりあえず部屋のなかへ運んで手当てをし、あとでまた海のほうの様子をたずねることにしよう」
宋江は裴宣と〓敬に諸将の功労を記録するようにいい、辰巳《しんし》(朝八時)ごろ、全員を本営の前に集めた。李俊と石秀は呉値《ごち》をいけどりにし、三人の女将軍は張道原《ちようどうげん》をいけどりにし、林冲は蛇矛で冷恭《れいきよう》を斬り殺し、解珍と解宝は崔〓《さいいく》を殺していたが、石宝《せきほう》・〓元覚《とうげんかく》・王勣《おうせき》・晁中《ちようちゆう》・温克譲《おんこくじよう》の五人はとり逃がしてしまった。宋江はただちに告示を出して住民を宣撫し、全軍の将兵をねぎらい、呉値と張道原は張招討の軍前へ送って打ち首の刑に処することにした。糧秣を献上した袁評事《えんひようじ》は上申をもって富陽県の県令に推薦し、張招討のもとで空頭《くうとう》の官誥《かんこう》(名を入れるところを空白にした天子の辞令書)を拝領させることにしたが、このことはそれまでとする。
諸将はみな(もと方天定の宮居であった元帥府から)城内へ休みにさがった。と、左右のものが知らせにきて、
「阮小七が江(銭塘江)からあがって、城内にやってきました」
という。宋江が帳前に呼んでたずねてみると、阮小七のいうには、
「わたしは張横および侯健・段景住とともに、水夫をつれて行って海岸で船を見つけ、海塩《かいえん》などの地をまわってただちに銭塘江へはいって行こうとしたのですが、はからずも風向きと流れの具合がわるく、大海のなかへおし流されてしまいました。あわてて漕ぎもどそうとしましたところ、またもや風にやられて船がこわれ、一同はみな水中へ落ちてしまいました。侯健と段景住は水の心得がなかったものですから、落ちたまま海中に溺死してしまい、大勢の水夫たちは命からがらのがれてちりぢりになってしまいました。わたしは河口に泳ぎつき、赭山門《しやざんもん》(銭塘江の河口に臨み、土石の色が赤いのでこの名がある)を通って、潮の流れにただよいながら半〓山《はんばんざん》まできて、泳いで帰ってきたのですが、すると張横の兄貴が五雲山《ごうんざん》のほとりの江のなかにいるのを見かけました。岸へあがろうとしているようでしたが、それきりまたどこへ行ったのかわからなくなってしまいました。昨夜、城内に火の手があがるのを見、さらに連珠砲《れんしゆほう》のひびきが聞こえましたので、兄貴が杭州城で戦っておられるのにちがいないと思い、そこで江のなかからあがってきた次第ですが、張横はいったい岸へあがったのでしょうかどうでしょうか」
宋江は張横のことを阮小七に話して聞かせ、ふたりの兄(阮小二と阮小五)に会わせたうえで、これまでどおり水軍をひきいて船を宰領させることにした。
宋江は命令をくだして、まず水軍の頭領たちに、江へ行って江船《かわぶね》をとりそろえ、睦州へ征進させた。また張順がめざましい霊験をあらわしたことを考えて、湧金門《ようきんもん》外の西湖の岸辺に廟宇《びようう》を建てさせ、金華太保《きんかたいほう》と名づけ、宋江みずから出かけて行って祭祀をとりおこなった。のち、方臘を平定して朝廷のために功をたててからのこと、宋江が都に凱旋してこのことを奏聞におよんだところ、特に聖旨をたまわって、金華将軍《きんかしようぐん》に封ぜられ、杭州に祀《まつ》られる(注一)ところとなった。
さて宋江は行宮にあって、長江をわたって以来多くの将領をうしなったことを思って心中大いに傷《いた》みかなしみ、浄慈寺《じようじじ》で七日七夜の施餓鬼《せがき》(注二)をいとなみ、米一斛《こく》を喜捨(注三)して冥界に沈んでいる者を済度《さいど》し、諸将の冥福を祈り、それぞれ位牌を設けて供え祭った。法事をすませると、方天定の宮居のすべての国禁の物をみなこわしてしまい、いっさいの金銀・宝物・羅緞《らだん》(絹や椴子《どんす》)などを諸将や兵士たちにわけあたえた。杭州城下の住民たちはともに太平をよろこび、宴を設けて祝賀した。かくていよいよ宋江は軍師と良策をはかり、兵を進めて睦州を奪回することにした。時節はすでに四月もおわろうとするころであった。と、不意に知らせがあって、
「副都督の劉光世と東京《とうけい》からの勅使が、そろって杭州に見えました」
とのこと。宋江はただちに諸将をひきしたがえて北関門外に出迎え、城内へみちびいて行宮で聖旨の開読を受けた。
先鋒使宋江等に勅す。方臘を収勦《しゆうそう》して累《しき》りに大功を建つ、皇封の御酒三十五瓶、錦衣三十五領を勅賜して正将に賞賜し、其の余の偏将は名に照して支給し緞疋を賞賜す。
そもそも朝廷では、公孫勝が江をわたらず、方臘の討伐に従事しなかったということだけを承知されていて、多くの頭領が討ちとられたことをご存じなかったのである。宋江は三十五名分(天〓星三十六名のうち公孫勝を除いた数。これまでに戦死した二十三将のうち天〓星に属するのは徐寧・張順・董平・張清・雷横・索超・劉唐の七名である)の錦衣と御酒を見るや、にわかにかなしみがこみあげてきて、涙をせきとめることができなかった。勅使にたずねられて宋江は、諸将をうしなったことを勅使に語った。勅使は、
「そのように諸将がうしなわれたとは、もちろん朝廷ではご存じありません。都へもどりましたならば必ず奏聞いたしましょう」
といった。宋江はさっそく宴席を設けて勅使をもてなした。劉光世が主《あるじ》の席につき、その他の大小の将領はそれぞれ席次にしたがって座についた。御下賜の酒をいただいて、おのおの聖恩に浴し、陣没した正偏の将領のために錦衣と御酒の賜わりものを残しておいて、その翌日、位牌を設けてはるかにその霊に供え祭った。宋江は御酒一瓶と錦衣一領をたずさえて張順の廟へ行き、名を呼んで供えた。錦衣は塑像の神体に着せかけ、その他のものはみな焼いて手向けた。勅使は幾日か逗留してから、見送られて京師へ帰って行った。
いつしか時はすぎ去って、はやくも十数日たった。張招討は使いをよこして文書をとどけ、先鋒に兵を進めるようにと促してきた。宋江は呉用とともに盧俊義を招いて相談した。
「ここから睦《ぼく》州へ出て、江に沿ってただちに賊の本拠に迫るのと、ここから歙《きゆう》州へ出て、〓嶺関《いくれいかん》の裏道づたいに行くのと、いま当地から兵を分けて討伐に繰り出すについて、あなたの軍はどちらを選びますか」
「将兵の指揮派遣については兄貴の厳命に従うのみです。選ぶなどということはできません」
と盧俊義はいった。
「それならば、天命を観てみましょう」
と宋江はいい、両隊の人員の割りあてを決めてから、二本の鬮《くじ》をつくり、香を焚いて祈り、それぞれその一つを引いたところ、宋江は睦《ぼく》州を引きあて、盧俊義は歙《きゆう》州を引きあてた。宋江はいった。
「方臘の賊の本拠は、まさしく清渓県《せいけいけん》の〓源洞《ほうげんどう》のなかです。歙州を占領なさったら、そのまま軍を駐屯して、文書で急いで知らせてください。日をとりきめていっしょに清渓の賊の洞窟を攻めましょう」
盧俊義は宋公明に、将領たちの適当な配分を請うた。
先鋒使宋江は正偏の将領三十六名(注四)をひきいて睦州ならびに烏竜嶺を攻める。
軍師呉用 関勝 花栄 秦明 李応 戴宗 朱仝 李逵 魯智深 武松 解珍 解宝 呂方 郭盛 樊瑞 馬麟 燕順 宋清 項充 李袞 王英 扈三娘 凌振 杜興 蔡福 蔡慶 裴宣 蒋敬 郁保四
水軍の頭領たる正偏の将領七名は船隻をひきいて軍にしたがい睦州に征進する。
李俊 阮小二 阮小五 阮小七 童猛 童威 孟康
副先鋒盧俊義は正偏の将領二十八名をひきいて歙州ならびに〓嶺関を攻める。
軍師朱武 林冲 呼延灼 史進 楊雄 石秀 単廷珪 魏定国 孫立 黄信 欧鵬 杜遷 陳達 楊春 李忠 薛永 鄒淵 李立 李雲 鄒潤 湯隆 石勇 時遷 丁得孫 孫新 顧大嫂 張青 孫二娘
そのとき盧先鋒は、正偏の将あわせて二十九名(注五)、兵三万の軍勢をひきしたがえ、日を選んで劉都督に挨拶をし、宋江に別れを告げたのち、兵をひきつれて杭州から山道をとり、臨安県を経て征途についた。
一方の宋江らは、船隻と軍勢をうちそろえて正偏の将領を割りあて、日を選んで旗を祭って出陣し、水陸の両路を船馬相並んで進んで行った。そのころ杭州の城内には疫病が流行して、すでに六名の将領が病臥していた。それは張横・穆弘・孔明・朱貴・楊林・白勝で、まだ病気がよくならず、征途につくことができなかったので、穆春と朱富に病人を世話させることにし、つごう八名のものが杭州に残った。その他の諸将はことごとく宋江にしたがって睦州を攻めることになり、計三十七名、江岸の道を富陽県めざして進んで行った。
二手の軍勢が征途についたことはさておき、一方柴進と燕青は、秀《しゆう》州の〓李亭《すいりてい》で宋先鋒に別れてから(第百十四回)海塩県《かいえんけん》へ行き、海岸へ出て船をさがし、越《えつ》州を通りこしてはるか諸曁県《しよきけん》に着き、漁浦《ぎよほ》をわたって、睦州の境まで行ったところ、関所を守っていた賊将にゆくてをさえぎられた。柴進はいった。
「わたしは中原(注六)の一書生。天文《てんもん》・地理《ちり》にくわしく陰陽《いんよう》(うらない)をよくし、六甲の風雲(注七)(道家の呪法)をわきまえ、三光(日・月・星)のうごきを見分け、九流三教(注八)(もろもろの学説・教義)のことごとくに通じているもの。はるかに江南に天子の気のするのを見てやってまいったのだが、なにゆえに人材の世に出る路をふせごうとなさる」
関所を守る将は柴進の言葉のいやしからざるを見て、さっそく姓名をたずねた。柴進はいう。
「わたしは姓は柯《か》、名は引《いん》といい、主従ふたりで貴国へたずねてまいったもの。なんら他意あるものではありません」
守将はそれを聞くと、柴進をそこにとどめておいて使いのものを睦州へやり、右丞相《ゆうじようしよう》の祖士遠《そしえん》・参政《さんせい》の沈寿《しんじゆ》・僉書《せんしよ》(注九)の桓逸《かんいつ》・元帥の譚高《たんこう》ら四人にその旨を報告した。四人はただちに柴進を睦州に迎えさせて、目通りさせた。互いに挨拶をおわってから、柴進は一席弁じたが、その話は四人のものをおどろかせた。しかも柴進は卑しからざる人品をしていることとて、四人はそのまま少しも疑わなかった。右丞相の祖士遠は大いによろこんで、さっそく僉書の桓逸に柴進を清渓の皇居へつれて行かせて、拝謁を受けさせることにした。
元来、睦州と歙州には、ともに方臘が宏壮な行宮を設けていて、そこには五府六部(もろもろの官署)があったが、総元締めは清渓県の〓源洞《ほうげんどう》のなかにあったのである。
さて、柴進と燕青は桓逸について帝都たる清渓へ行き、まず左丞相の婁敏中《ろうびんちゆう》に目通りした。柴進が大いに談じ大いに論じると、婁敏中は大いによろこび、柴進を屋敷にとどめて歓待した。彼は柴進と燕青のいうことに品があり、学問があり礼をわきまえているのを見て、まず八分どおり満足した。この婁敏中という男は、もと清渓県で学問を教えていて、多少文章はできたが、あまり学識は深くなかったので、柴進の話を聞かされて大いに感服したのである。
一夜明けて、翌日の早朝伺候すると、方臘王子《おうし》(注一〇)が殿上にのぼった。内には侍御《じぎよ》(注一一)・嬪妃《ひんひ》(きさき)・綵女《さいじよ》(女官)が居並び、外には九卿四相《きゆうけいししよう》(大臣宰相ら)をはじめ文武の百官・殿前《でんぜん》の武官・金瓜《きんか》(儀仗兵)・長随《ちようずい》(扈従《こじゆう》)・侍従《じじゆう》(近侍)たちが居並んだ。そのとき左丞相の婁敏中は列から進み出て奏上した。
「中原《ちゆうげん》は孔夫子《こうふうし》(孔子。孔子は山東《さんとう》の人)の郷里でございます。その中原よりひとりの賢士がまいりました。姓は柯、名は引と申し、文武の才をあわせ持ち、智勇をかね備え、よく天文・地理を知り、よく六甲の風雲をわきまえ、天地のうごきに通暁し、三教九流・諸子百家《しよしひやつか》(注一二)にことごとく通達しているものが、天子の気のただようているのを見てやってまいり、いま朝門の外にひかえて陛下のお沙汰をお待ちいたしております」
「賢士がまいったとあらば、白衣《はくい》の朝見《ちようけん》(無位無官のものに対する謁見)をさせるよう」
と方臘はいった。
諸門をあずかる官が令旨を相伝えて、柴進を宮殿の下にみちびいた。柴進が拝舞の礼をささげてご機嫌を奉伺し、聖寿の万歳《ばんざい》を唱えおわると、簾の前に進むようにとの声がかかった。方臘は、柴進が人品いやしからず、高貴の風格をそなえているのを見て、まず八分どおり満足した。方臘はたずねた。
「賢士、その方は天子の気をうち望んでやってまいったとのことだが、それはどこでのことか」
柴進は奏上していうよう、
「わたくし柯引は、中原に住《すま》いしております。父母はともに身まかり、ただひとりにて学びまして、先賢の秘訣《ひけつ》(奥儀)を受け、祖師の玄文《げんぶん》(奥儀)を授かったものにございます。さきごろ、夜、乾象《けんしよう》(天象)を観まするに、帝星があざやかにあらわれて、まさしく東呉《とうご》(注一三)を照らしているのを見ました。そのため、千里を遠しとすることなく、気を望んでやってまいったのでございますが、特に江南までまいりましたところ、かさねて、一縷《いちる》の五色の天子の気が、睦州より立ちのぼっているのをみとめた次第でございます。天子の尊顔を拝しまするに、竜鳳のごときお姿、天日をぬきんでるご気品、まさしくさきの気に相応じておられます。わたくし、よろこびにたえぬ次第でございます」
いいおわって再拝の礼をささげた。方臘はいった。
「わしは東南の地を領有しているが、このごろ宋江らがわが城池を侵し取り、まさにこの地に迫ろうとしているのだ。どうすればよいと思うか」
「古人の言葉に、これを得《う》ること易《やす》ければこれを失うことも易く、これを得ること難《かた》ければこれを失うことも難し、とありますとか。いま、陛下の東南の地は、国の基《もとい》を開かれましてより、大いに攻め進んで数多《あまた》の州軍 を手にいれられましたもの。このたび宋江にその幾つかを侵されましたとはいえ、遠からずして運は陛下のおんもとにもどってまいりましょう。陛下、それはただに江南の地のみではなく、やがては中原の社稷《しやしよく》(国)さえも陛下のものとなるでありましょう」
方臘はそのようにいわれて心中大いによろこび、錦〓《きんとん》(錦の腰掛け)を下賜してそれに坐らせ、宴を設けて歓待し、中書侍郎《ちゆうしよじろう》に任じた。
これより柴進は毎日方臘に接近し、しきりに甘言を弄してへつらい、以て本懐をとげることを計った。かくて半月もたたぬうちに、方臘および内外の諸官は、ひとりとして柴進をわるく思うものはいなくなった。やがて方臘は、柴進が政務に公平なのを見て心からよろこび、左丞相の婁敏中に媒《なかだち》をさせて、金芝公主《きんしこうしゆ》(公主は皇女の称)の婿に柴進を迎えて〓馬《ふば》(注一四)とし、主爵都尉《しゆしやくとい》(封爵のことを司る長官)に任じた。燕青は雲璧《うんへき》と変名し、みなから雲奉尉《うんほうい》(注一五)と呼ばれた。柴進は公主と縁組みしてからは、宮殿に出入りして、すっかり内外の詳細をおぼえこんだ。方臘は軍事上の大事があるたびに、いつも柴進を内宮に呼び寄せてこれに諮《はか》った。柴進はそのつどこう奏上した。
「陛下の天子たる気色は真正なのでございますが、ただ、〓星《こうせい》に侵されて、なお半年は平安を得られるにはいたりませんでしょう。やがては宋江を、その配下に一名の戦将もいないまでに討ち破りますれば、〓星は退散し、陛下には大業を復興され、大いに兵を進めてただちに中原の地を占拠されるにいたりましょう」
「わしの配下の最愛の将数名が、みな宋江のために討ちとられてしまったのだ。このような事態をどうすればよいか」
と方臘がいうと、柴進はかさねて奏上した。
「わたくしが、夜、天象を観まするに、陛下のご運気は、将星は数十名の多きを数えられますものの、正しい気とはなっておりませず、これらは遠からず必ず亡びるでございましょうが、ほかに二十八宿の星象があって、まちがいなくやってきて陛下をお助けし、大業を復興するでございましょう。宋江の一味のうちからも、十数名のものが投降してまいりましょうが、これもその数のなかにはいる星宿でございまして、これらはみな陛下が領土をおしひろめられるための臣下でございます」
方臘はそれを聞いて大いによろこんだ。これをうたった詩がある。
蚕室《さんしつ》当時太史《たいし》を懲す(注一六)
何人《なんぴと》か李陵の降るを罪せざらん(注一七)
誰か知らん貴寵《きちよう》の柯〓馬《かふば》(柴進のこと)
一念原来宋江の為にするを
柴進が〓馬になったことはひとまずおいて、一方宋江は、本隊の軍勢をひきつれて杭州をあとにし、富陽県をめざして進んで行った。そのとき、宝光国師の〓元覚《とうげんかく》ならびに元帥の石宝《せきほう》・王勣《おうせき》・晁中《ちようちゆう》・温克譲《おんこくじよう》の五人は、敗残の兵をひきいて富陽県の関所を守っていたが、使者を睦州へやって救援をもとめた。右丞相の祖士遠《そしえん》はさっそくふたりの親軍指揮使《しんぐんしきし》に、一万の軍勢をしたがえて援護に行かせた。正指揮の白欽《はくきん》・副指揮の景徳《けいとく》は、ともに万夫不当の勇あるもの。富陽県にやってきて宝光国師らと兵を合流し、山頂に陣をとった。宋江ら本隊の軍勢は早くも七里湾に到着し、水軍が騎兵を先導して、いっせいに前進した。石宝はそれを見るや、馬に乗り、流星鎚《りゆうせいつい》を身につけ劈風刀《へきふうとう》を手にとり、富陽県の山頂を離れて宋江を迎え討ちに出た。関勝が馬を出そうとしたとき、呂方が叫んだ。
「兄貴、しばらくお待ちください。わたしがあいつとたたかいますから見ていてください」
宋江が門旗の下で見ていると、呂方は馬に乗り戟をとって、まっしぐらに石宝におそいかかって行く。かの石宝は劈風刀を使って迎え討った。両者わたりあうこと五十余合、呂方が力おとろえてくると、郭盛がそれを見て、戟をとり馬を飛ばして挟み討ちに出た。かの石宝は、一本の刀をもって二本の戟を相手にしながら、いささかのおくれも見せない。たたかいまさにたけなわのとき、南陣の宝光国師があわてて、銅鑼《どら》を鳴らしてひきあげの合図をした。というのは、長江の戦船が順風を受けていっせいに早瀬のほうへ進み、岸に寄せてくるのを見て、相手に両面から挟み討たれることをおそれ、そのために銅鑼を鳴らしてひきあげを命じたのであった。だが呂方と郭盛はくいさがってたたかい、あくまでも石宝を放そうとはしない。石宝がなおも四五合たたかっていると、宋軍の陣からは朱仝《しゆどう》が馬に乗り槍を得物に、さらに挟み討ちに出て行った。石宝も三将を相手にはたたかえず、武器をはずして逃げだした。
宋江は鞭を振って合図し、まっしぐらに富陽山の山頂へと斬りこんで行った。石宝の軍は途中で陣をとるにもとれず、まっすぐに桐廬県《とうろけん》の界内へはいって行く。宋江は夜どおし兵を進めて白蜂嶺《はくほうれい》を越え、陣地をかまえた。その夜、解珍・解宝・燕順・王矮虎・一丈青には東路から、李逵・項充・李袞・樊瑞・馬麟には西路から、それぞれ一千の歩兵をひきつれて桐廬県の敵陣をおそわせ、江上の李俊・三阮・二童・孟康の七人には水路から兵を進めさせた。
さて、解珍らが兵をひきつれて桐廬県へおし寄せて行ったときは、すでに三更(夜の十二時)であった。宝光国師は石宝と軍事を協議している最中だったが、とつぜん砲声のとどろくのを聞いて、一同は馬に乗るいとまもない始末。あわてて見まわすと、三方に火の手があがっている。諸将は石宝のあとを追って逃げるのがせいいっぱいで、迎え討つどころのさわぎではない。三手の軍勢は縦横に斬りまくった。温克譲は馬に乗るのが遅れ、裏道をめざして逃げて行くうちに、ばったりと王矮虎と一丈青に出くわした。彼ら夫婦は、いっしょにおそいかかって行って温克譲を手取り足取りして、いけどってしまった。李逵は、項充・李袞・樊瑞・馬麟とともに、手当たり次第に県城内で人を殺し火をつけまわった。宋江は知らせを受けると、軍をうながして陣地をひきはらい、まっすぐに桐廬県へ進んで軍を駐屯させた。王矮虎と一丈青は、温克譲を献じて功を請うた。宋江は温克譲を杭州の張招討のもとへ押送させて打ち首にすることにしたが、このことはそれまでとする。
翌日、宋江は兵を繰り出し、水陸を並進してまっすぐに烏竜嶺の麓へとおし寄せた。この嶺を越えると睦州である。このとき宝光国師は諸将をひきつれ、一同、嶺の上にのぼって関所を固め、軍を駐屯させていた。この烏竜嶺の要害は、長江に臨んでいて、山は峻《けわ》しく流れは急で、上には関所を設け、下には戦艦をおしならべていた。宋江は軍を麓に近づけて駐屯させ、陣柵を設けた。そして歩兵の軍中から李逵・項充・李袞に、五百の牌手《はいしゆ》(楯の兵)をひきいて偵察に行かせた。李逵らは烏竜嶺の麓にたどりついたが、上から擂木《らいぼく》や砲石を投げおろしてきて進むことができない。施す術《すべ》もないままもどってきて宋先鋒に報告すると、宋江はこんどは、阮小二・孟康・童猛・童威の四人に、まず半数の戦船を以て早瀬を漕ぎのぼらせることにした。そのとき阮小二は、ふたりの副将をつれ、一千の水軍の兵をひきい、一百隻の船に分乗して、旗を振り軍鼓を鳴らし、山歌《さんか》(注一八)をうたいながら、次第に烏竜嶺のほとりへ近づいて行った。そもそも烏竜嶺の麓のそのあたりは、山を背にしていて方臘の水寨となっていた。その寨のなかには五百隻の戦船が屯《たむろ》していて、船には五千人あまりの水軍の兵が乗っており、その頭《かしら》たる四名の水軍総管は、浙江の四竜と呼ばれていた。その四竜とは、
玉爪竜《ぎよくそうりゆう》 都総管 成貴《せいき》
錦鱗竜《きんりんりゆう》 副総管 〓源《てきげん》
衝波竜《しようはりゆう》 左副管 喬正《きようせい》
戯朱竜《ぎしゆりゆう》 右副管 謝福《しやふく》
この四人の総管は、もとは銭塘江の船頭であったが、方臘のもとに身を投じて、三品《さんぴん》(品は官位の等級。一品から九品まである)の職分を受けていたのである。その日、阮小二らは船隻に乗り組んで急流を下流から早瀬のほうへと漕ぎのぼって行った。南軍の水寨のなかの四人の総管はすでにそれを知っていて、五十連の火排《かはい》(火筏《ひいかだ》)を用意していた。いったいこの火排というのは、松や杉の木を列ねあわせただけであるが、筏の上にはいちめんに藁束《わらたば》を積み、藁束のなかにひそかに硫黄や〓硝などの引火物をかくして、竹の索《つな》で編みとめて瀬のところにならべてあるのだった。こちらの阮小二は、孟康・童威・童猛と四人で、ひたすら瀬のほうへと漕ぎのぼって行った。かの四人の水軍総管は上流からそれを見て、それぞれ一本の乾紅《くれない》の信号旗を立て、四隻の快船《はやぶね》で流れに乗って漕ぎくだってきた。阮小二がそれを見て、水夫たちに命じて矢を射たせると、四隻の快船はすぐにひき返した。阮小二は勢いに乗じて瀬のほうまで追いあげさせた。と、四隻の快船は浅瀬に船をつけ、四人の総管は岸へ跳びあがり、大勢の水夫たちもみな逃げて行った。阮小二は瀬のところの水寨のなかに船がいっぱいいるのを見て、近づきかね、ためらっていた。と、そのとき烏竜嶺の上で旗がうち振られ、金鼓がどっと鳴りだしたかと思うと、火排にいっせいに火がつけられて瀬の下流へと追い風を受けて突き進んでき、そのうしろの大船はどっと喊声をあげ、長鎗《ちようそう》・撓鉤《どうこう》をうちそろえ、いっせいに火排のあとからおしくだってくる。阮小二があわてて水のなかへはいると、うしろの船が追いついてきて撓鉤でひっかけた。阮小二はうろたえ、捕らえられて辱しめを受けるよりはと、腰刀《ようとう》を引き抜いてみずから首を刎《は》ねて死んだ。孟康は形勢不利と見てあわてて水のなかへはいろうとしたが、そのとき火排の上の火砲がいっせいに爆発した。その一発が孟康の頭〓《かぶと》に命中し、頭を貫いてぐちゃぐちゃにしてしまった。四人の水軍総管は、そのとき火船《かせん》に乗りこんでおそいかかってきた。李俊は阮小五・阮小七とともに後方の船に乗っていたが、前方の船が利を失い敵が江岸に沿って攻め寄せてくるのを見て、やむなく急いで船を転じ、流れに乗って桐廬の岸へ漕ぎくだって行った。
一方、烏竜嶺の山頂の宝光国師と元帥の石宝は、水軍総管が勝ちを制したのを見て、勢いに乗じ、兵をひきつれて嶺から攻めおりてきた。だが水軍総管らも水が深くて追うことができず、宝光国師らも路が遠くて追いつけず、宋軍は再び桐廬に後退して陣をとり、南軍も兵を収めて烏竜嶺へひきあげて行った。
宋江は桐廬に陣地をかまえたが、またしても阮小二と孟康を討ちとられて、本営にひきこもったまま悲嘆にくれ、寝食《しんしよく》ともに廃し夢寐《むび》も安からずというありさまであった。呉用や諸将がしきりになぐさめたがどうにもならなかった。阮小七と阮小五は喪《も》に服していたが、進んで宋江をなぐさめにきて、
「わたしたちの兄は、このたび国家の大事のために命をうしないましたが、梁山泊で死んで名を埋めてしまうよりもどれほどよかったかしれません。先鋒は兵をつかさどられる身、おかなしみにならずに、どうか国家の大事をとりさばいてくださいますよう。われわれ兄弟ふたり、必ず仇を取ります」
宋江はそれを聞いて、いくらか元気をとりもどした。翌日、また軍勢をとりそろえて、再び兵を進めようとしたが、呉用がとめた。
「兄貴、急《せ》いてはなりません。もういちど十分に策をねってから嶺を乗り越えることにしても遅くはないでしょう」
そのとき解珍と解宝がいい出した。
「われわれ兄弟ふたりはもともと猟師で、山をのぼり嶺を越えることには慣れておりますから、われわれふたり、このあたりの猟師のふりをして山へのぼって行って、火をつけましょう。そうすれば賊兵どもは胆をひやして、きっと関所を捨てて逃げだすと思います」
呉用が、
「その計略はすばらしいが、あの山は峻《けわ》しくて、容易にはのぼって行けないだろう、もし足を踏みはずしでもしたら命はあるまい」
というと、解珍と解宝は、
「われわれ兄弟ふたりは、登《とう》州で牢から逃げて(第四十九回)梁山泊にのぼって以来、兄貴のおかげで長年のあいだ好漢として暮らし、さらに国家の大命を受けて錦襖《きんおう》をまとう身となりました次第。このたび朝廷のためにつくすにあたって、たとえ身をくだき骨を粉《こ》にして兄貴のご恩に報いるとしても、それでもまだたりないと考えております」
宋江はいった。
「そんな縁起でもないことをいうものではない。ただ、早く大功を成しとげて都へ凱旋したいものだ。そうすれば朝廷もわれわれを冷たくあつかわれることはないだろう。あなたがたもただ、ひたすら心を傾け力をつくして国家のためにはげんでくださるよう」
解珍と解宝はただちに身支度にかかり、虎の皮の套襖《とうおう》(胴着)を着て腰にはそれぞれ一振りの快刀《かいとう》をさし、手には鋼叉《こうさ》を持った。かくてふたりは宋江に別れを告げると、ただちに小路づたいに烏竜嶺をめざしてたち去って行った。時刻は一更(夜八時)になったころであった。途中、路にひそんでいた敵の兵ふたりに出くわした。ふたりがそのふたりを殺して、嶺の麓にたどりついたときには、すでに二更(十時)になっていて、嶺の上の陣地から時太鼓の音がはっきりと聞こえてきた。ふたりは本道を行くことを避け、藤をよじ葛《かずら》にすがりつつ一歩一歩嶺をよじのぼって行った。その夜は月が明るく、まるで真昼のようであった。ふたりが三分の二ぐらいのところまでよじのぼったとき、嶺の上に灯火がきらきらと輝いているのが見えた。ふたりが嶺のくぼみに身をひそめて耳をすませていると、上のほうの時太鼓は早くも四更(二時)を告げていた。解珍はそっと弟に呼びかけた。
「夜は短い。夜明けまでもういくらもないぞ。さあ、のぼろう」
ふたりはさらによじのぼって行った。ちょうど岩壁の切りたったところ、断崖のけわしいところへさしかかって、ふたりはひたすらよじのぼって行ったが、手も足もふさがっているので搭膊《とうはく》(腹巻き)で鋼叉をくくりつけて背中にかけていたところ、それが竹や藤を擦《こす》ってがさがさと音をたてたため、嶺の上から早くも見つけられてしまった。解珍はそのとき山のくぼみのところをよじのぼっていたが、上のほうで、
「えいっ」
という声がしたかと思うと、撓鉤が繰り出されてきて解珍の髻《まげ》をひっかけた。解珍があわてて腰から刀を引き抜いたときには、上ではすでに彼を宙吊りに釣りあげていた。解珍はうろたえて急いで刀をふるったところ、撓鉤の柄を断ち切ってしまったために、解珍は中空から墜落して行った。あわれ、半生を好漢としてすごした解珍は、その百丈あまりの高い岩の上からまっさかさまに落ちて非業の死をとげてしまったのである。下はいちめんに鋭く尖った岩石がちらばっていて、身体はこなごなにくだけてしまった。解宝は兄がもんどりうって落ちて行くのを見て、あわてて嶺をひき返して行こうとすると、上からは早くも大小の石ころがころがってき、また短弩《いしゆみ》や弓を竹や藤のしげみのなかから射ちかけてきて、あわれ、一世の猟師たりし解宝も、烏竜嶺の一角の竹と藤のしげみのなかで身をまるくして射ち殺されてしまった。かくてふたりは死んだ。
夜があけると、嶺の上では人を下へおろし、解珍と解宝の死体を嶺のほとりに野ざらし(注一九)にさせた。忍びのものが詳細をさぐってきて、解珍と解宝がすでに烏竜嶺で死んだことを宋先鋒に報告した。宋江はまたもや解珍と解宝が討ちとられたことを聞くと、哭《な》いて何度も昏倒したあげく、関勝と花栄を呼んで、兵をそろえて烏竜嶺の関所を取り四人の兄弟の仇を報いてくれといった。呉用がいさめていった。
「兄貴、急《せ》いてはなりません。死んでしまったものは、みなそれが天命だったのです。関所を取ろうとするには、軽々しくことをはこんではなりません。ぜひとも智略をもって関所を取る神機妙策を考えてから、将兵を出すべきです」
だが、宋江は憤《いきどお》って、
「手足ともたのむわれわれの兄弟を、三分の一もうしなってしまおうとは! あの賊どもがわが兄弟を嶺の上で野ざらしにしているのを黙って見てはおれぬ。今夜どうしても兵をひきつれて行って、まず死骸を奪い返してき、棺をととのえて埋葬してやらなければ」
という。呉用はとめていった。
「賊軍が死骸を野ざらしにしているのは、おそらく計略があってのことでしょうから、軽々しいことはつつしまれますよう」
だが宋江は軍師のいさめを聞こうとはせず、ただちに三千の精兵をとりそろえ、関勝・花栄・呂方・郭盛の四将をひきつれて夜どおしで兵を進めて烏竜嶺に着いたが、その時はすでに二更(夜十時)ごろであった。下士のものが、
「前方にふたりのものが野ざらしにされておりますが、たぶん解珍と解宝の死骸だと思われます」
と知らせた。宋江が馬を飛ばしてみずから見に行ってみると、二本の樹の上に竹竿でふたつの死骸をつるし、樹には皮を削って二行に大きな字が書いてあったが、月がないのではっきりとは読めなかった。宋江が砲の火種を持ってこさせて明りを吹きおこして見ると、そこには、
宋江早晩也
号令(注二〇)在此処
(宋江も早晩ここに晒《さら》さるべし)
と書いてあった。宋江はそれを見るや大いに憤り、兵に命じて死骸を取りに樹へのぼって行かせた。とそのとき、四方に松明《たいまつ》がいっせいにともり、金鼓が乱打されたと見るまに、ぐるりと軍勢にとりかこまれてしまった。前方の嶺の上からは早くも矢を浴びせかけてき、江内の船に乗っていた水軍の兵もみなばらばらと岸へあがってきた。宋江はそれを見ると、しまった! と叫んで、すっかりうろたえてしまった。あわてて軍をひきもどすと、石宝がまっさきに立って退路をさえぎり、横のほうへそれると、こんどは〓元覚がおそいかかってきた。かくてその仕組みは馬陵道《ばりようどう》に似(注二一)、その光景はさながら落鳳坡《らくほうは》(注二二)のごとく相なった次第。さて宋江はいかにして身をのがれるか。それは次回で。
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一 祀る 原文は廟食。国に功労のあったものが死後、廟に祀られること。
二 施餓鬼 原文は水陸道場。僧侶が三界の諸仏を拝んで、水中・陸上のいっさいの亡魂を済度《さいど》すること。その期間は七七・四十九日であるが、ここでは七昼夜となっている。
三 喜捨 原文は判施斛食。判施は分けほどこすの意。斛《こく》は十斗、すなわち一石。
四 三十六名 次の水軍の頭領七名をふくめての数である。
五 二十九名 盧俊義みずからをふくめた数である。
六 中原 辺境に対して中央をいう。ここでは山東であることが、しばらく後の「中原は孔夫子の郷里」という言葉でわかる。
七 六甲の風雲 六甲風雷ともいう。第五十四回注四参照。
八 九流三教 儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家の九つの学派。三教は儒(儒教)・老(道教)・釈(仏教)の三つ。
九 僉書 簽書と書くのが正しい。くわしくは簽書枢密院事といい、枢密副使と同等の官。宋のこの官にならって、金には僉事、元には僉院という官があった。
一〇 王子 天子というのを避けて王子としたのである。
一一 侍御 内侍の官。侍禁というほうが正しい。左侍禁・右侍禁の官が宋の官制にあった。
一二 諸子百家 注八の九流はさらに儒家五十三家、道家三十七家、陰陽家二十一家、法家十二家、名家十家、墨家六家、縦横家十二家、雑家二十家、農家九家に分かれる。これに小説家十家を加えて百家とし、これを諸子百家という。(『漢書』芸文志)
一三 東呉 呉の古称。
一四 〓馬 第八十六回注五参照。
一五 奉尉 奉車都尉のこと。天子の車駕を司る長官。〓馬都尉とともに漢の武帝がはじめた官であるが、奉車都尉は宋では廃止された。
一六 蚕室当時太史を懲す 蚕室とは宮刑(陰茎を切る刑)に処せられたものの入れられる獄のこと。太史とは司馬遷《しばせん》のこと。次の注参照。
一七 何人か李陵の降るを罪せざらん 李陵は匈奴《きようど》とたたかってしばしば功をたてたが、のち援軍なく兵糧もつきついに捕らわれの身となった漢の将軍(第十一回注一三参照)。李陵が匈奴のとりことなったことを知った武帝は、怒って李陵の一族を皆殺しにした。このとき李陵の友人であった司馬遷は、その誅罰の不当であることを諫言した、そのため武帝の怒りにふれて宮刑に処せられたのである。
一八 山歌 俗謡、田舎唄の意もあるが、ここでは水調、すなわち舟唄のこと。
一九 野ざらし 原文は風化。埋葬せずに曝《さら》しておくこと。
二〇 号令 さらし首にすること。
二一 馬陵道 戦国時代の魏《ぎ》の恵王《けいおう》に仕えた将軍・〓涓《ほうけん》の討ち死した場所で、河北省大名県の東南方にある。〓涓はもと孫〓《そんひん》とともに兵法を学んだ間柄だが、魏に仕えてから、自分の兵法が孫〓に劣ることから出世のさまたげになると考え、事をかまえて罪におとし、孫〓の両足の筋を切り額に刺青を入れて再び世に容れられないようにした。ところが斉《せい》では孫〓の才をおしんでひそかに救い出し、軍師とした。のち、魏が韓を攻めたとき、韓は斉に救いを求めた。斉では孫〓に命じて魏を討たせた。そのとき韓に攻め入っていた〓涓が急を聞いて魏にもどってくると、孫〓は退却すると見せかけて馬陵道へ敵を誘導し、そこの樹の皮を剥いで「〓涓はこの樹の下に死せん」と墨書し、両辺に伏兵を布いて待ちうけた。〓涓は夜、到着して樹に文字のしるされているのを見、火をともして読んだとたん、伏兵が立ちあがっていっせいに攻められ、ついにみずから首を刎ねて死んだ(『十八史略』)。「仕組みは馬陵道に似る」とはこれをいったもの。この話は「〓涓夜馬陵道に走る」と題して元曲のなかでも著名なものの一つである。
二二 落鳳坡 三国時代の蜀漢《しよくかん》の劉備に仕えた〓統《ほうとう》の討ち死した場所で、四川省〓城《らくじよう》の南方にある。〓統は劉備とともに蜀に攻め入り、南北二手に分かれて〓城をおそうことにしてみずからは迂回して峻嶮な要害に拠る南面の敵にむかった。やがて馬を進めて行くうち、ふと頭をあげて見ると、路の両側に山々がせまり木々がむらがっているので、不安になって、ここは何というところか、とたずねると、投降してきたばかりの兵が、ここは落鳳坡《らくほうは》というところだと答えた。〓統はそれを聞くとおどろいて、縁起でもない、わしの呼び名は鳳雛《ほうすう》というのだ、といい、不吉なものを感じて後退しようとしたとたん、雨のように矢を浴びせかけられて落命した(この話は『三国志演義』第六十三回に語られている)。〓統は落鳳坡に待ち伏せていた張任《ちようじん》の計略にかかったのである。「光景は落鳳坡のごとし」とは宋江が石宝の計略にかかったことをこれにたとえたもの。
第百十七回
睦州城《ぼくしゆうじよう》に 箭〓元覚《とうげんかく》を射ち
烏竜嶺《うりゆうれい》に 神宋公明《そうこうめい》を助く
さて宋江は、解珍と解宝の死骸をとりもどそうとして鳥竜嶺の麓へ行ったところ、まんまと石宝の計略にかかって、四方に伏兵がいっせいに立ちあがり、前には石宝の軍勢が、うしろには〓元覚がいて、退路を断ち切ってしまった。石宝は声をはげまして高らかに呼ばわった。
「宋江、いま馬をおりて降参せずんば、またとその機会はあるまいぞ」
関勝は大いに怒り、馬をせかせ刀を舞わして石宝にかかって行った。両将がまだ鋒を交えぬうちに後方でまたしても喊声が湧きおこった。背後のは四人の水軍総管で、いっせいに岸へあがり、王勣《おうせき》・晁中《ちようちゆう》と合流して嶺のほうからおそいかかってきたのである。花栄は急いで飛び出して行き、うしろのその軍をくいとめようとして、王勣とたたかった。数合もわたりあわぬうちに、花栄は逃げだした。王勣と晁中が勢いに乗じて追って行くと、花栄の手があがってたちまち二本の矢がつづけさまに射放たれ、矢は二将に命中して二将はもんどりうって落馬した。兵士たちはどっとどよめき、進むことができず、後退しだした。四人の水軍総管も、王勣と晁中がつづけさまに射ち殺されたのを見て敢て進まず、花栄は敵をくいとめたのである。と横合いのほうからまたもや二隊の軍勢が飛び出してきた。一隊は指揮使の白欽《はくきん》、一隊は指揮使の景徳《けいとく》である。片や宋江の陣からも二将がそろって飛び出し、呂方は白欽を迎えてたたかい、郭盛は景徳を相手どった。かくて四方に分かれてたたかいがはじまり、互いに死闘をくりひろげた。宋江がうろたえているときである、とつぜん南軍の後方から天にもとどかんばかりの大喊声が聞こえてきたかと思うと、南軍の兵士たちがどっと逃げだした。
それは、李逵がふたりの牌手《はいしゆ》、項充と李袞をひきつれ、一千の歩兵をもって石宝の騎兵軍の背後におそいかかってきたのだった。〓元覚が兵をひきつれて救援にまわろうとすると、うしろから魯智深と武松が飛び出してきて、二本の戒刀《かいとう》で縦横に斬りまくり、渾鉄《こんてつ》の禅杖《ぜんじよう》で前後に薙《な》ぎたおしつつ、ふたりで一千の歩兵をひきつれてまっしぐらに斬りこんできた。そのあとからはさらに秦明・李応・朱仝・燕順・馬麟・樊瑞・一丈青・王矮虎らが、それぞれ歩騎の兵をひきつれて必死の勢いで突っこんでくる。かくて四方の宋軍は石宝と〓元覚の軍勢を斬り散らし、宋江らを救って桐廬県にひきあげた。石宝のほうも兵を収めて嶺へのぼって行った。
宋江は陣中で諸将に感謝した。
「もしも兄弟たちが救いにきてくださらなかったら、わたしは解珍や解宝といっしょにあの世の亡魂となっていたでしょう」
呉用は、
「兄貴のさっきの挙《きよ》は、どうも納得《なつとく》できませんでしたので、もしものことがあってはと案じて諸将に援護に行ってもらったのです」
といった。宋江はしきりに礼をいった。
一方、烏竜嶺では、石宝・〓元覚のふたりの元帥が陣中で協議した。石宝が、
「いま宋江の軍は桐廬県に後退して陣地をかまえているが、もし彼らがひそかに裏路づたいに嶺を越えてしまったならば、睦州は目と鼻のさきのあいだで、危いことになります。それゆえ、国師みずから清渓の皇居へ行かれ、じきじき陛下にお目にかかって、軍の増援を奏請し、この嶺の要害をかためることにしたほうがよいと思います。そうすれば長く守りつづけることができましょう」
というと、〓元覚は、
「いかにもおっしゃるとおりです。それではさっそく出かけましょう」
かくて〓元覚は、ただちに馬に乗ってまず睦州へ行き、右丞相の祖士遠《そしえん》に会っていった。
「宋江の軍は兵強《つよ》く人猛《たけ》く、勢い当たるべからざるものがあります。その軍勢が全員でおし寄せてきましたならば、おくれをとるおそれがありますので、わたくし、関所を守りぬくために特に将兵の増援を奏請しにまいりました」
祖士遠はそれを聞くと、ただちに〓元覚とともに馬に乗って睦州を立ち、いっしょに清渓県の〓源洞《ほうげんどう》へ行ってまず左丞相の婁敏中《ろうびんちゆう》に会い、軍の増援奏請のことを話した。その翌日の早朝、方臘が殿上に着座すると、左右の二丞相(婁敏中と祖士遠)は〓元覚とともに朝見の礼をささげた。それがすむと〓元覚が進み出てご機嫌を奉伺し、聖寿の万歳を唱えて、奏上におよんだ。
「わたくし僧《そう》元覚、聖旨を奉じて太子(方天定)とともに杭州を守っておりましたところ、はからずも、宋江の軍勢は兵強く将猛く、大挙しておし寄せてまいりまして、その勢いあたりがたく、袁評事の手引きで城内へはいりこんできまして、ついに杭州は落とされてしまいました。太子はあくまでもたたかわれましたが、出奔の途中で亡くなられました。いまわたくしは元帥の石宝とともに退いて烏竜嶺の要害を守っておりますが、このほど相ついで宋江の四将を討ちとって、大いに勢いをふるっております。目下、宋江はすでに桐廬まで兵を進めて陣地をかまえておりますが、早晩、賊どもはひそかに裏路づたいに関所を越えるおそれがございまして、嶺の要害を守りきることは至難でございます。陛下、なにとぞ早々に良将を選抜され精鋭の軍を増援されて、ともに烏竜嶺の要害を守らせ、以て賊を退け城池を回復することをおはかりくださいますよう」
すると方臘のいうには、
「各地の軍勢はもうすっかり出してしまったのだ。近くはまた歙《きゆう》州の〓嶺《いくれい》の要害が危急に迫られているとのことで、かさねて数万の軍勢を割《さ》いてやったところだ。あとには御林《ぎよりん》(近衛)の軍が残っているだけだが、これはわしが皇城の護衛に必要で、四方へ出してしまうわけにはいかぬ」
〓元覚はかさねて奏上した。
「陛下が援軍を出してくださいませぬことには、わたくしにはいかんとも手の施しようがございません。もし宋兵が嶺を越えてしまいましたならば、睦州を保つことはもはやできません」
左丞相の婁敏中が列から進み出て奏上した。
「かの烏竜嶺の要害は、まことに重要なところでございます。御林軍は総兵力三万ございますゆえ、その一万を割《さ》かれ、国師にしたがえて要害の守備におもむかしめられてはいかがかと存じます。なにとぞご聖慮のほどを」
だが、方臘は婁敏中の言をききいれず、御林軍を出して烏竜嶺を救援させることを、あくまでも承知しなかった。
かくてその日の朝見はおわり、一同は退出した。婁丞相は諸官と協議のうえ、わずかに祖丞相に睦州の将一名を割かせ、五千の兵を出させて国師とともに烏竜嶺を守りに行かせることにした。そこで〓元覚は祖士遠とともに睦州に帰り、五千の精鋭の軍勢と首将一名、夏侯成《かこうせい》というものを選び、烏竜嶺の陣中にもどって事の次第を石宝に話した。すると石宝はいった。
「朝廷で御林軍を出してくださらぬうえは、われわれは要害を守りかためて、討って出ることはさしひかえましょう。四人の水軍総管にも江岸の瀬のあたりをかたく守らせ、敵の船がくれば撃退するということにして、出撃することはさしひかえさせましょう」
宝光国師が石宝・白欽・景徳・夏侯成と五人で烏竜嶺の要害を守りかためたことはさておき、一方宋江は将領を討ちとられてからは、桐廬県に陣地をかまえたままで、兵をひかえて動かず、ずっと二十日あまりも交戦に出ようとはしなかった。と、不意に物見の兵が知らせにきて、
「朝廷ではまた賞賜の品を託して童枢密《どうすうみつ》をおつかわしになり、すでに杭州まで見えておられますが、軍が二手に分かれていることを聞かれて、童枢密は賞賜の品をわけて大将の王稟《おうりん》に託され、〓嶺関の盧先鋒の軍前へつかわされました。童枢密はもうまもなくご到着で、みずから賞賜の品をたずさえてこられます」
という。宋江は知らせを聞くと、ただちに呉用ら諸将とともに、うちこぞって県外二十里のところまで出迎えた。童枢密は県城内にはいって聖旨を開読し、賞賜の品を諸将にわけあたえた。宋江らは童枢密に挨拶をおさめ、さっそく宴席を設けて歓待した。童枢密が、
「征進の間《かん》に将領をうしなわれたとのことをしばしば聞きましたが」
とたずねると、宋江は涙をながしながら、
「先年、趙枢密どのにしたがって北のかた遼の賊を討ちましたときには、将兵は完勝を得て、一将をもうしなわなかったのでございますが、勅命を拝して方臘の討伐に出ましてからは、京師を立つ前に、まずはじめに、公孫勝が去ってしまい、陛下のご前にも数名のものを残してまいりましたうえ、兵を進めて長江をわたりましてからは、一つのところへ達しますたびに必ず数名のものを討ちとられております。近くはまた八九名の将領が杭州で病に倒れまして命のほどもおぼつかない次第ですし、この前方の烏竜嶺での二度のたたかいでは、またもや幾人かの将を討ちとられてしまいました。どうも山が険しく流れが急で、たたかい難く、早急に要害を討ち破ることができない状態でございます。まさに憂慮しておりますところへ、さいわいにも閣下のおいでをいただきました次第でございます」
「陛下には、先鋒が大功をたてられたことをよくご存知です。のちに将領たちを討ちとられたことを聞かれて特にわたしをつかわされ、大将の王稟《おうりん》と趙譚《ちようたん》をつれて加勢に行くようにと仰せられた次第です。すでに王稟には、賞を盧先鋒のところへ持って行って諸将にわけさせました」
童枢密はそういって、さっそく趙譚を呼んで宋江らにひきあわせ、いっしょに桐廬県に駐屯させた。宋江らは酒宴を設けて歓待した。
翌日、童枢密は、軍勢をととのえて烏竜嶺の要害を攻めようといいだした。呉用がいさめていった。
「閣下、うかつに出かけるのは危険です。ひとまず燕順と馬麟を谷間の小路のあたりへやって、村の土着のものをさがしてこさせて道をたずね、別に裏道をきいて、関所のむこう側へ出て両側から挟み討ちにし、敵を互いに助けあうことのできぬようにしますならば、あの関所は容易に取ることができましょう」
「それは妙案です」
と宋江はいい、ただちに馬麟と燕順に、数十人の兵をつれて村へ行き、住民をさがして道をたずねさせることにした。馬麟と燕順は出かけて行ってまる一日たち、夜になって、ひとりの老人をつれてきて宋江に会わせた。宋江が、
「この老人はどういう人です」
とたずねると、馬麟は、
「この老人はここの土着の人で、このあたりの道や谷や山をすっかり知っております」
という。
「ご老人、烏竜嶺を越える道を案内していただきたいのです。十分にお礼はいたしますから」
と宋江がいうと、老人の告げていうには、
「わたしは代々この土地に住んでいるものです。しきりに方臘に痛めつけられながらも、ほかにのがれて行くところもなくすごしておりましたが、さいわい天兵においでいただいたからには、万民はしあわせを受けて再び太平にめぐりあうことができるでございましょう。わたしが裏道をご案内いたします。烏竜嶺を越えると、そこが東管《とうかん》で、睦州までいくらも離れておりません。東管の北門へ出て、それから西門のほうへまわりますと、そこが烏竜嶺というわけでございます」
宋江はそれを聞いて大いによろこび、さっそく銀の器《うつわ》を持ってこさせて道案内の老人にあたえ、陣中にひきとめて、さらに酒食を供してもてなさせた。
翌日、宋江は童枢密に桐廬県の守備をたのみ、みずから正偏の将十二名をひきつれて裏道を進んだ。その十二名とは、
花栄 秦明 魯智深 武松 戴宗 李逵 樊瑞 王英 扈三娘 項充 李袞 凌振
したがう歩騎の兵は一万名。道案内の老人のあとについて進んで行った。馬は鸞鈴《らんれい》をはずし、兵は枚《ばい》をふくんで疾走した。小牛嶺《しようぎゆうれい》まで行くと、すでに一隊の軍勢がゆくてにたちふさがっていた。宋江はただちに李逵・項充・李袞に斬りこんで行かせた。およそ四五百の路を守る賊兵たちは、ことごとく李逵らに討ちとられてしまった。四更(夜二時)ごろ、早くも東管に着いた。その地の守将の伍応星《ごおうせい》は、宋軍が早くも東管をうかがってきたと聞くと、部下はわずか二千しかいないのにどうして敵し得ようと考え、たちまちどっと逃げだして、いっさんに睦州へ帰り、祖丞相らに知らせた。
「いま、宋江の軍勢が、ひそかに裏道を越えてすでに烏竜嶺のこちら側に抜け、うちこぞって東管におし寄せてまいりました」
祖士遠はそれを聞いて大いにおどろき、あわてて諸将を集めて対策をはかった。
宋江は早くも砲手の凌振に連珠砲を射たせた。烏竜嶺の頂上の陣地の石宝らは、それを聞いて大いにおどろき、あわてて指揮使の白欽に兵をつれて偵察に行かせた。と宋江の旗じるしが、びっしりと山いちめんにおしひろがっている。白欽はあわてて嶺の上の陣地へもどり、石宝らに報告した。すると石宝のいうには、
「朝廷は全然救軍を出してくれなかったのだから、われわれはただこの要害を守りかためておればよい。救援に行くことはなかろう」
〓元覚はいう。
「それはいけません。いまもし援軍を出さないと、睦州も敵のなすままになってしまいましょう。もしも皇居に万一のことがあれば、われわれとて無事ではあり得ません。あなたがいらっしゃらなければ、わたしが睦州の救援に行きます」
石宝はしきりにいさめたが、ついに止めきれなかった。〓元覚は五千の兵をそろえ、禅杖を手に、夏侯成をしたがえて嶺をおりて行った。
一方宋江は、兵をひきつれて東管に着くと、ひとまず睦州を討つことはひかえて、まず烏竜嶺の要害の攻撃にむかったところ、ちょうど〓元覚の軍勢が近づいてくるのにぶっつかった。両軍が相《あい》対すると、〓元覚がまっさきに馬を乗り進めてたたかいを挑んだ。花栄はそれを見て、宋江の耳もとにささやいた。
「あの男は、かくかくしかじかにすれば取りおさえることができましょう」
宋江はうなずいて、
「わかった」
といい、そして秦明にいいふくめた。両将はすっかり了解した。かくて秦明がまっさきに馬を出して〓元覚とたたかいをまじえた。だが五六合わたりあったとき、秦明は馬を返して逃げだした。兵士たちもそれぞれ東西に逃げ散った。〓元覚は秦明が負けたと見るや、秦明のほうは放っておいて、まっしぐらに宋江を捕らえに駆けつけてきた。ところが、花栄がすでに用意をして宋江を護っていて、〓元覚が近くまでくるのを待ち受け、満々と弓をひきしぼり、十分にねらいを定め、〓元覚の顔をめがけてひょうと射放った。弓は満月のように開き、矢は流星のように飛んで、まさに〓元覚の顔に命中し、〓元覚は馬から落ちて兵士たちに斬り殺されてしまった。宋軍はいっせいに激しくおそいかかり、南軍は大敗を喫した。夏侯成は敵対し得ず、睦州へ逃げて行った。宋軍はただちに烏竜嶺へおし寄せて行ったが、擂木《らいぼく》や砲石《ほうせき》を投げおろしてきたため、のぼることができない。宋軍はそこで鋒を転じてさきに睦州を攻めることにした。
さて一方、祖丞相《そじようしよう》は、首将の夏侯成が逃げてきて、
「宋軍はすでに東管を乗り越え、〓国師を討ちとりました。もうすぐ睦州に攻めてまいります」
と報告するのを聞かされた。祖士遠はそれを聞くと、ただちに使者を夏侯成とともに清渓の皇居へやり、婁丞相に請うて、参内して上奏してもらった。
「目下、宋軍は裏道を抜けてきて東管におし寄せてまいり、さらに進んできびしく睦州に攻めかかっております。なにとぞ早く救援の軍を発せられますよう。もし遅れましたならば、必ず陥《おと》されてしまいましょう」
方臘はそれを聞くと大いにおどろき、あわてて殿前太尉(注一)の鄭彪《ていひゆう》に令旨をくだして、一万五千の御林軍をそろえて、急遽睦州の救援にむかうよう命じた。鄭彪は、
「わたくし、聖旨をお受けするにつきましては、願わくは天師《てんし》に同行を請うて策応してもらえますならば、宋江にあたることができようかと存じます」
と奏上した。方臘はそれをききいれて、ただちに霊応天師《れいおうてんし》の包道乙《ほうどういつ》に令旨をくだした。
かくて天師に令旨がくだると、天師はただちに殿下にきて拝謁した。包道乙が稽首《けいしゆ》(頭を地につける至敬の礼)をささげると、方臘は旨をつたえていった。
「このたび、宋江の軍勢のために見る見るうちにわしの領土は侵され、しきりに城を取られ将兵を討たれているありさまだ。いまや宋軍はこぞって睦州へおし寄せている。ついてはその方に、道術を発揮して国を護り民を救い、以て山河社稷を無事に保ってもらいたいのだ」
包天師は奏上していうよう、
「主上、お心を安んぜられますよう。わたくし不才ながら、わが胸のうちなる学識により、また陛下の大いなる御徳によって、宋江の軍勢を一掃いたすでございましょう」
方臘は大いによろこんで、座をあたえ、宴を設けて歓待した。包道乙は宴がおわると、挨拶を述べて退出した。かくて包天師は鄭彪・夏侯成と協議して軍をおこすことになった。
そもそもこの包道乙なるものは、代々金華山《きんかざん》の山中に住んでいて、弱年のころ出家をし、邪道の術を学んだ。のち方臘にしたがって謀叛をおこしたのであるが、戦陣に臨めば必ず妖術を使って相手をたおし、また玄天混元剣《げんてんこんげんけん》(注二)と号する一振りの宝剣を持っていて、よく百歩はなれたところから飛ばして相手を討つことができ、方臘を助けて不仁をはたらいていたのである。そんなことから霊応天師と敬《うやま》われているのだった。
鄭彪のほうは、もとは〓《ぶ》州蘭渓県《らんけいけん》の都頭《ととう》(捕り手の頭)で、小さいときから鎗棒を使って練達の腕を持ち、方臘に出あって殿帥太尉《でんすいたいい》にとりたてられたのであるが、すこぶる道術を好み、包道乙を師と仰いで彼からさまざまな法術を習いおぼえ、合戦の場に臨めば、必ず身に雲気をまといつかせた。そのために人々から鄭魔君《ていまくん》と呼ばれていた。
もうひとりの夏侯成は、おなじく〓《ぶ》州の山中のもの。もとは猟師で、鋼叉を得手《えて》とし、ずっと祖丞相につきしたがって睦州をあずかっていた。
その日、三人は殿帥府で軍をおこす相談をしていたが、そこへ門衛の役人が知らせにきて、
「司天太監《してんたいかん》の浦文英《ほぶんえい》どのが、天師さまにお目にかかりたいとのことでございます」
という。来意をたずねると、浦文英のいうには、
「聞けば天師さまには、太尉・将軍とお三人で、兵をひきつれて宋軍とのたたかいにむかわれますとのこと。わたくしが夜、天象を観まするに、南方の将星はみな光をうしない、宋江らの将星はなお大半があざやかに輝いております。天師さまのこのたびのご出陣は結構なこととは申せ、おそらくは利がないでございましょう。陛下にその由を奏上されて、投降のことをご協議なさるのが上策ではありますまいか。そのようにして国のわざわいを解かれますよう」
包天師はそれを聞いて大いに怒り、玄元混天剣を抜き放ってこの浦文英を一刀のもとにまっ二つにしてしまい、急いで文書を出して方臘に上奏したが、このことはそれまでとする。
史官《しかん》(歴史編纂官)の詩にいう。
王気《おうき》東南に已に漸く消ゆるに
猶《なお》左道(邪道)に憑《よ》り人妖《じんよう》を用う
文英既に真の天命を識らば
何事ぞ生を偽朝《ぎちよう》(偽《にせ》の朝廷)に捐《す》つる
そのときただちに鄭彪を先鋒に立てて先手の軍勢を城から繰り出させ、包天師は中軍となり、夏侯成は殿軍《しんがり》となり、軍勢は睦州の救援にうちむかった。
一方、宋江の将兵は睦州を攻めようとしていたが、まだとりかからぬうちに、とつぜん物見の兵が知らせにきて、
「清渓から援軍を繰り出してきました」
という。宋江はそれを聞くと、ただちに王矮虎と一丈青のふたりを尖兵に出して迎え討たせた。夫婦ふたりが騎兵三千をひきつれて清渓への路を進んで行くと、真正面から鄭彪に出あった。鄭彪はまっさきに馬を進めて王矮虎に討ちかかる。ふたりは名乗りもあげず、陣を布くなり馬を交えてたたかった。八九合わたりあったときである、鄭彪が口のなかで呪文をとなえ、
「えいっ」
と叫んだかと思うと〓《かぶと》の天辺からひとすじの黒気が流れ出し、黒気のなかに金の甲《よろい》の天神《てんしん》が立ち、手に降魔《ごうま》の宝杵《ほうしよ》を持って中空から打ちかかってきた。王矮虎はそれを見て愕然とし、手足をばたばたさせてうろたえ、鎗法をみだしたところを鄭魔君の槍の一撃に馬から刺し落とされてしまった。一丈青が、夫《おつと》が斬られて落馬したのを見て、あわてて双刀を舞わしつつ救いに出て行くと、鄭彪はすかさず交戦に出てきた。およそ十合ほどわたりあったとき、鄭彪は馬を返して逃げだした。一丈青が夫の仇を討たんものと急いで追いかけて行くと、鄭魔君は鉄鎗をとりおさめ、手をのばして身辺の錦の袋から一塊の、金色の銅磚《どうせん》(注三)をさぐり出し、身をねじむけるや、一丈青の顔をめがけてぱっと投げつけ、馬から打ち落として相果てさせた。あわれ、能戦の佳人も、一場の春の夢のごとくここにはかなくなってしまったのである。
かの鄭魔君は軍勢を招き返し、逆に宋軍を追い討った。宋軍は総崩れになり、逃げ帰って宋江に見《まみ》え、王矮虎と一丈青がともに鄭魔君に斬られ打たれて死に、そのひきつれて行った軍勢も大半が討ちとられてしまった旨を告げた。宋江はまたしても王矮虎と一丈青を討ちとられたと聞いて、心中大いに怒り、急いで軍勢をそろえ、李逵・項充・李袞をともない、五千の兵をひきつれて迎え討ちに出た。と、早くも鄭魔君の軍勢がおし寄せてきた。宋江は怒気に胸をふくらませながら、まっさきに馬を進めて鄭彪に大喝を浴びせた。
「逆賊め、よくもわが二将を殺しおったな」
鄭彪はただちに槍をかまえて馬を進め、宋江にたたかいを挑んできた。李逵がそれを見てかっと怒り、二梃の板斧を引き抜いて飛び出して行くと、項充と李袞はすぐ蛮牌を舞わして援護に出、三人でまっしぐらに鄭彪の胸もとへ斬りこんで行った。かの鄭魔君は馬を返して逃げだした。三人はまっすぐに南軍の陣地へ追いかけて行く。宋江は李逵が討たれでもしてはと、急いで五千の軍勢をさし招き、いっせいに斬りこませると、南軍はちりぢりに逃げだした。宋江はひとまず金鼓を鳴らしてひきあげさせた。ふたりの牌手(項充と李袞)は李逵をおしとめて、もどってきた。と、そのとき、四方に黒雲がたれこめ黒気が天にはびこって、東西南北のあやめもつかず、白昼、さながら夜のよう。宋江の軍勢は進路をうしなってしまった。そのありさまは、
陰雲は四合し、黒霧は天に漫《はびこ》る。一陣の風雨を下《くだ》して滂沱《ぼうだ》、数声の怒雷を起《おこ》して猛烈。山川は震動し、高低して渾《さなが》ら天の崩れるが似《ごと》く、渓澗は〓狂し、左右して郤《さなが》ら地の陥《おちい》るが如し。
悲々として鬼《き》哭《こく》し、袞々《こんこん》として神《しん》号《さけ》ぶ。睛《ひとみ》を定むるも半分の形を見ず、耳に満ちて惟《ただ》千樹の響を聞く。
宋江の軍勢は、鄭魔君に妖術を使われ天地をかきくらまされてしまって、道がわからなくなったまま、とあるところにぶつかったが、ただまっくらで何一つ見えない。麾下の軍勢は大いに乱れ出し、宋江は天を仰いで嘆息した。
「わたしはここで死んでしまうのではなかろうか」
そのまま巳時《しじ》(昼まえ)から未牌《びはい》(昼すぎ)になると、ようやく黒霧がうすれ出し、かすかに光が射してきた。見ればまわりには金の甲《よろい》をつけた巨漢たちが、ぐるりととりかこんでいた。宋江はそれを見るや、びっくりして地に倒れ、
「どうか早く死をたまわりますよう」
と口のなかで唱えるだけで、顔をあげることもできない。耳もとにはしきりに風雨の音が聞こえた。部下の将兵たちも、すべてみな死を覚悟して地に伏し、ただ刀に斬り殺されるのを待つばかり。と、たちまちにして風雨は過ぎ去り、宋江が気がついてみると、刀は斬りつけてこずに、ひとりのものがやってきて宋江に手をかけ、
「お立ちください」
と声をかけたのである。宋江が頭をあげ、顔をあげて見ると、目の前にひとりの秀才がいて手をかけている。その人を見るに、いかなる身なりかといえば、
頭には烏紗《うさ》(黒い紗)の軟角《なんかく》の唐巾《とうきん》を裹《かぶ》り、身には白羅《はくら》の円領《えんりよう》(丸襟)の涼衫《りようさん》(注四)を穿ち、腰には烏犀《うさい》(赤黒い)の金《きんてい》(黄色い皮帯)の束帯を繋《し》め、足には四縫《しほう》(四すじの縫い目)の乾〓《かんそう》(まっ黒)の朝靴(殿上靴)を穿つ。面は粉《ふん》(おしろい)を傅《つ》けたるが如く、唇は朱《しゆ》(べに)を塗れるが如し。堂々たる七尺の〓、楚々《そそ》として(明らかに)三旬の上(三十歳すぎ)なり。若《も》し上界(天上界)の霊官に非ざれば、定めて是れ九天(宮殿)の進士ならん。
宋江は見てびっくりし、立ちあがって礼をするなり、さっそく秀才にたずねた。
「お名前をお聞かせくださいますよう」
するとその秀才の答えていうには、
「わたしは、姓は邵《しよう》、名は俊《しゆん》といって、もともとこの土地のものです。このたび特に義士にお知らせにまいったのですが、方十三(方臘のこと)の命運はまさに尽きようとしております。ここ十日ばかりのあいだに破れ去るでありましょう。わたしはこれまで義士のために力をつくしてまいりました。いまは苦境におちいっておられますが、すでに援軍がきております。義士はそれをご存じですか」
宋江はかさねてたずねた。
「先生、方十三はいつ捕らえられる命運になっておりましょうか」
すると邵秀才は手で宋江を推《お》した。宋江がはっとわれにかえってみれば、それは一場の夢であった。眼をさまして見まわすと、目の前にぐるりととりまいていた巨漢というのは、じつはみな松の木だったのである。
宋江は大声で将兵を呼びおこし、路をさがして抜け出ようとした。このとき雲はおさまり霧はひいて、天気はさわやかに晴れわたっていた。と、とつぜん松の木のむこうに喊声のあがるのが聞こえた。宋江が兵をひきつれてそこから斬り出して行くと、早くも、魯智深と武松がまっしぐらに突き進んできて鄭彪と鋒をまじえようとするのが見えた。かの包天師は馬上で、武松が二本の戒刀をふるいつつ徒歩でまっしぐらに鄭彪におそいかかって行くのを見るや、ただちにかの玄元混天剣を鞘から抜き放って空中に投げ飛ばした。と、剣はまさに武松の左の腕を斬りつけ、武松は出血のために昏倒してしまった。魯智深が禅杖をふるって力のかぎり討ちかかって行き、武松を救い出したときには、すでに左の腕はぶらりとちぎれそうになっていた。武松は正気にかえって、左の腕がちぎれそうにぶらさがっているのを見るや、ひと思いに戒刀で斬り落としてしまった。宋江はとりあえず部将に命じ、陣地へ送って行って休ませることにした。
魯智深のほうは後陣へ斬りこんで行き、夏侯成に出くわしてわたりあった。両者たたかうこと数合、夏侯成はかなわず逃げだした。魯智深が禅杖をふるってまっしぐらに打ちかかって行くと、南軍の兵は四方に逃げ散った。夏侯成は山林のなかへ逃げこんで行く。魯智深はあきらめず、あとを追って深山のなかへはいって行った。
一方、鄭魔君のやつは、またもや兵をひきつれて攻めかかってきた。宋軍の陣中では、李逵・項充・李袞の三人がそれを見るや、蛮牌《ばんぱい》(楯)・飛刀《ひとう》(投げ刀)・標鎗《ひようそう》(投げ槍)・板斧《はんぷ》(まさかり)を舞わしつつ、いっせいに突きかかって行った。かの鄭魔君はこれにあたり得ず、嶺を越え谷川をわたって逃げて行く。三人は路を知らぬながら、功をたてんものとはやりたち、必死に谷川をわたって鄭彪に追い迫って行った。と、谷川の西岸のほとりから三千の軍勢が飛び出してきて宋軍を断ち切った。項充があわててひき返そうとすると、早くも岸辺に二将がたちふさがっていた。すぐ李逵と李袞を呼びとめたが、そのときにはすでに、ふたりは鄭彪を追って谷川をわたっていた。ところが、ゆくての谷川は一段と深く、李袞がまず、つまずいて川のなかに倒れたところを、南軍に矢を浴びせかけられて相果てた。項充があわてて岸へもぐりこんで行くと、こんどは縄でからめ倒され、もがくところへ兵士たちがどっとおそいかかって、ぐちゃぐちゃに斬り刻んでしまった。あわれ、李袞と項充も事ここにいたっては、もはやその英雄ぶりを発揮するすべがない。あとはただ李逵だけが、深山のなかへ追い駆けて行った。谷川のほとりの軍勢がそのあとからおそいかかって行くと、まだ半里とは行かぬうちに、うしろに喊声がふるいおこった。それは、花栄・秦明・樊瑞の三将が軍をひきいて救援にきたのだった。彼らは南軍を斬り散らしつつ深山に追い入り、李逵を救い出してひきあげた。だが魯智深の姿は見あたらなかった。諸将はうちそろって宋江に会い、李逵・項充・李袞の三人は鄭魔君を追って行って谷川をわたってたたかったが、項充と李袞は討ちとられ、われわれは李逵だけを救い出して、ひきあげてきたということを告げた。宋江はそれを聞いて、痛哭してやまなかった。軍を点検してみると、その一割をうしなっている。しかも魯智深の姿はなく、武松はすでに左腕をなくしていたのである。宋江が痛哭しているおりしも、物見の兵が知らせにきて、
「軍師の呉用が、関勝・李応・朱仝・燕順・馬麟とともに、一万の兵をひきつれて水路から見えました」
という。宋江は呉用らを迎えて相見《まみ》え、さっそく来意をたずねた。呉用が答えていうには、
「童枢密は随行してきた軍勢と大将の王稟・趙譚をひきい、また都督の劉光世も別に軍勢をひきい、すでに烏竜嶺の麓まできておられます。あとには呂方・郭盛・裴宣・〓敬・蔡福・蔡慶・杜興・郁保四および水軍の頭領の李俊・阮小五・阮小七・童威・童猛ら十三人だけを残し、そのほかのものは全員わたしについてここへ救護にやってきた次第です」
宋江が、
「将領を討ちとられ、武松はすでに廃人となり、魯智深も行方がわからないという始末で、わたしは胸が痛んでたえられぬ思いです」
と訴えると、呉用はなだめて、
「兄貴、気持を大きくお持ちください。いまは方臘を取りおさえる絶好の時です。ただただ国家の大事を重んじて、悲嘆のためにお身体をそこなわれるようなことのありませぬように」
宋江は多くの松の木を指さしながら、夢のなかのことを軍師に語った。すると呉用は、
「そのようなふしぎな夢を見られたのでしたら、あるいはここの土地の廟に霊験あらたかな神さまがあって、わざわざ兄貴を護りにこられたのかもしれません」
という。
「なるほどおっしゃるとおりです。さっそく、いっしょに山へはいって行ってさがしてみましょう」
と宋江はいった。呉用はさっそく宋江とともに、足のむくままに山林のなかへはいって行った。と、まだ一矢頃《ひとやごろ》の半分も行かぬうちに、松の木の林のなかに、早くもひとつの廟宇が見つかった。金文字の牌額《はいがく》には、
烏竜神廟
と書いてある。宋江は呉用と廟へはいって行き、拝殿にあがって見て、あっとおどろいた。殿上の泥でつくった竜王の聖像は、まさしく夢で見た人と同じだったのである。宋江は再拝の礼をしてねんごろに感謝をささげた。
「竜王さまのひとかたならぬお加護をたまわりながら、いまだご恩に報いることもできずにおりますが、なにとぞお力添えくださいますよう。方臘を平定いたしましたときには、必ず朝廷に申しあげて廟宇を増営し聖号を加封されますよう、つつしんでとりはからいます」
宋江と呉用が礼拝をすませて階段をおり、そこの石碑を読んでみると、祭神は唐朝の進士で、姓は邵、名は俊といい、科挙を受けて及第せず、長江に身を投じて死んだが、天帝がその素直なこころをあわれんで竜神とされたところ、土地の住民がこれに風を乞えば風を得、雨を乞えば雨を得たため、廟宇を建てて、四時祭りをおこなうにいたったとあった。宋江はそれを読むと、さっそく黒い豚と白い羊を持ってこさせて神前に供え、祭りおわってから廟を出てもういちど仔細に見まわしてみると、周囲をぐるりと松の木がとりまいて、霊異をあらわしていた。まことにふしぎなことである。いまでも厳《げん》州の北門外に烏竜大王の廟があり、またの名を万松林《ばんしようりん》といって、古跡をいまにとどめている。
これをうたった詩がある。
忠心一点鬼神も知る
暗裏の維持(加護)信《まこと》にこれ有り
竜君(竜王)の真《まこと》の姓字を識らんと欲し
万松林《ばんしようりん》下に残碑《ざんひ》を読む
さて、宋江は竜王の加護の恩を謝し、廟を出て馬に乗り、中軍の陣地に帰ると、ただちに呉用と睦州攻撃の策を協議した。夜半まですわっていて、宋江は身心倦み疲れてきたので机にうつ伏してまどろんだ。と、ひとりのものが知らせにきて、
「邵《しよう》秀才が訪ねて見えました」
という。宋江は急いで立ちあがり、幕営の外に出て迎えると、邵竜君が宋江に長揖《ちようしゆう》(手を拱《こまぬ》いて上から下へおろす礼。目礼にあたる)していった。
「きのうは、もしわたしが救ってあげなければ、あなたは包道乙に邪法を使われ、松の木が人に化してあなたを捕りおさえてしまったでしょう。さきほどは祭奠の礼をしてくださってたいへん感激しましたので、特にお礼にきてお知らせするわけですが、睦州はあす破れ、方十三は旬日のうちに捕らえることができます」
宋江が幕営のなかに請じいれてさらにたずねようとしたところ、にわかに風の音にかき乱され、はっとして眼がさめた。またもや一場の夢だったのである。宋江は急いで軍師を呼んで夢占いをたのみ、夢の次第を話した。呉用は、
「竜王がそのような霊験をお示しになったのでしたら、あすはさっそく兵を進めて睦州を攻めるべきです」
という。
「おっしゃるとおりです」
と宋江はいい、夜があけると軍令をくだし、本隊の軍勢をうちそろえて睦州を攻めることにした。かくてまず燕順と馬麟を出して烏竜嶺の街道を守らせておいてから、関勝・花栄・秦明・朱仝の四名の正将をさしむけ、まっさきに兵を進めて睦州へおし寄せ、その北門にむかって攻めかからせることにし、ついで凌振に九廂《きゆうしよう》・子母《しぼ》等の火砲を射たせて、まっしぐらに城内へ討ちいる手はずにした。かの火砲が飛んで行くと、天崩れ地動き、岳《おか》ふるえ山ゆるがんばかりに鳴動し、城内の軍勢はおどろきのあまり魂魄も消えうせんばかり、たたかわずして早くも乱れだした。
一方、包天師と鄭魔君の後軍は、これよりさき魯智深に斬り散らされたが、魯智深は夏侯成を追ってどこかへ行ってしまい、包天師と鄭魔君はそのときにはすでに軍勢を城内に退《ひ》き入れて駐屯させたうえで、右丞相の祖士遠《そしえん》・参政の沈寿《しんじゆ》・僉書(注五)の桓逸《かんいつ》・元帥の譚高《たんこう》・守将の伍応星《ごおうせい》らに諮《はか》った。
「宋軍はすでに迫ってきたが、どのようにして切り抜けたものでしょう」
すると祖士遠のいうには、
「むかしから、兵城下《じようか》に臨み将濠辺《ごうへん》に至る、もし死戦せずんば何を以てこれを解かん、というとおりです。城を討ち破られたら、とりこにされることは必定。事態は危急に迫られているのです。うちこぞって繰り出して行くべきです」
かくて鄭魔君が、譚高・伍応星ならびに牙将十数名をしたがえ、精兵一万をひきつれて、城門をあけ放ち、宋江と対戦した。宋江は軍勢を一矢頃《ひとやごろ》の半分ほど後退させて、相手の軍に城の外に出て陣を布かせた。かの包天師は床几を持ち出して城壁の上に腰をすえ、祖丞相・沈参政ならびに桓僉書らはみな望楼の上にすわって観戦した。
鄭魔君はただちに、槍をかまえ馬を躍らせて出陣した。宋江の陣地からは大刀の関勝が馬を出し、刀を舞わして鄭彪にかかって行く。二将、馬を交えてわたりあうこと数合、かの鄭彪はとうてい関勝に敵すべくもなく、からくもはずしたり受けとめたりして、左右に身をかわすのみである。包道乙は城壁の上からそれを見るや妖術を使い、口のなかで呪文を唱えて、
「えいっ」
と一喝した。そして呪法を助長する言葉を唱えつつ、ふっと息を吹きつけると、鄭魔君の頭上からひとすじの黒気が立ちのぼり、その黒気のなかに一体の金の甲《よろい》の神人があらわれて、手に降魔《ごうま》の宝杵《ほうしよ》を持ち空中から打ちかかってきた。南軍の隊中からはむくむくと黒雲がわきのぼる。宋江はそれを見るや、ただちに混世魔王の樊瑞を呼び寄せてこれを見せ、急いで法をおこなわせるとともに、みずからも天書にしるされている、風を回《かえ》し暗《やみ》を破る密呪の秘訣を唱えた。と、関勝の〓《かぶと》の上にたちまちひとすじの白雲が捲きおこり、その白雲のなかにこれまた一体の神将があらわれた。紅い髪に青い顔、碧《みどり》の眼をして歯をむき出し、一匹の黒い竜にまたがり、手には鉄槌を持ち、鄭魔君の頭上のかの金の甲の神人に討ちかかって行く。下のほうでは両軍が喊声をあげ、二将は鋒をまじえたが、わたりあうこと数合にもおよばぬうちに、上のほうのかの黒い竜にまたがった天将が、金の甲の神人を撃退したと見るまに、下のほうでは関勝が一刀のもとに鄭魔君を馬の下に斬り落としてしまった。
包道乙は宋軍の陣中から風がおこり雷が鳴りひびくのを見て、あわてて立ちあがろうとしたとたん、凌振のぶっ放した轟天砲の一弾が命中し、頭も身体もこなごなに撃ちくだかれてしまった。南軍は総崩れになった。宋軍は勢いに乗じて睦州へ斬りこみ、朱仝は元帥の譚高を槍で馬の下に突き伏せ、李応は刀を飛ばして守将の伍応星を斬り殺した。
睦州の城下では、一発の火砲が包天師の身体に命中し、南軍がどっと城壁からころがりおりて行くのを見て、宋江の軍勢は早くも城内に突入し、諸将はいっせいに繰り出して行って祖丞相・沈参政・桓僉書らをいけどりにし、その他の牙将たちは誰彼の別なくみな宋兵に討ちとられてしまった。宋江らは城内にはいると、まず火をつけて方臘の行宮を焼きはらい、あるかぎりの金帛を全軍の将兵に賞としてわけあたえたうえ、立札を出して住民を宣撫した。かくてまだ軍の点検もすまぬとき、物見の兵が急報にきて、
「西門の烏竜嶺のほとりで、馬麟が白欽《はくきん》に投げ槍を投げつけられたところへ、石宝が追いかけてきてさらに一刀を浴びせ、馬麟をまっ二つに斬ってしまいました。燕順がそれを見て直ちに討ちかかって行ったところ、またしても石宝のやつに流星鎚で打ち殺されてしまいました。石宝は勝ちを制し、いまにも軍をひきつれ勢いに乗じて攻めかかってまいります」
という。宋江はまたしても燕順と馬麟を討ちとられたと聞いて、無念がり、痛哭してやまなかった。そして急いで関勝・花栄・秦明・朱仝の四名の正将をさしむけ、石宝・白欽を迎え討って烏竜嶺の要害を取るようにと命じた。この四名の将が烏竜嶺へ行ってたたかったことから、清渓県内につどえる賊兵どもを討ち平らげ、〓源洞内に草頭天子《そうとうてんし》(注六)をいけどりにして、ついには、宋江らをして名を青史に標《しる》して千年在《あ》らしめ、功を清時に播《ま》いて万古に伝わらしむ、ということに相なる次第。さて宋江らはいかにして敵を迎え討ったか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 殿前太尉 すぐあとには殿帥太尉となっている。字義からいえば前者は殿前司の長官、後者は殿帥府の長官で、ともに近衛府の長官のことである。
二 玄天混元剣 すぐあとでは玄元混天剣となっている。おそらく「玄元」のほうが正しいであろう。
三 金色の銅磚 原文は鍍金銅磚。第三十七回注一の付記参照。
四 涼衫 白い単衣《ひとえ》。のちには凶服とされたが、南宋のはじめのころは士大夫の平服であった。
五 僉書 第百十六回注九参照。
六 草頭天子 盗賊の首魁を草頭大王というのにならったもの。
第百十八回
盧俊義《ろしゆんぎ》 大いに〓嶺関《いくれいかん》に戦い
宋公明《そうこうめい》 智もて清渓洞《せいけいどう》を取る
さて、そのとき関勝ら四将が、馬を飛ばし軍をひきしたがえて烏竜嶺のほとりへおしかけて行くと、ちょうど石宝の軍勢に出くわした。関勝は馬上で大喝した。
「賊将め、よくもわが兄弟を殺《あや》めおったな」
石宝は相手が関勝なのを見ると、戦意をくじかれてそのまま嶺の上へひき返して行き、指揮使の白欽がかわってたたかいを挑んできた。両馬相交わり、互いに武器をふるって両者わたりあうこと十合にもおよばぬうちに、烏竜嶺の上では急にまた銅鑼《どら》を鳴らしてひきあげの合図をした。関勝は追わなかったが、嶺の上の兵士たちはひとりでに乱れはじめた。
というのは、石宝は嶺の東側のたたかいにばかり気をとられていて、西側はまったく警戒をおこたっていたところ、そこへ童枢密が大いに軍勢を駆りたてて攻めつけてきたのであった。宋軍の大将の王稟は、ただちに南軍の指揮使の景徳とわたりあった。両者たたかうこと十合あまり、王稟は景徳を馬の下に斬り捨ててしまった。そこで呂方と郭盛がまっさきに立ち、山へ駆けのぼって嶺を奪おうとしたところ、まだ嶺に行きつかぬうちにたちまち山頂から大きな石がころがされてきて、郭盛は馬もろとも嶺のほとりに打ち殺されてしまった。
一方、嶺の東側なる関勝は、嶺の上が大いに乱れだしたのを見て、嶺の西側から宋軍が攻めのぼって行ったのだとさとり、急いで諸将を招き寄せて、いっせいにどっとおそいかかって行った。両面から挟み討ちをかけて、嶺の上は混戦となった。呂方はちょうど白欽に出くわし、ふたりはわたりあったが、二三合斬り結んだところで、白欽がいきなり槍を繰り出してきた。呂方がひらりと身をかわすと、白欽の槍は呂方の脇の下をくぐって空《くう》を突いた。だが呂方の枝戟《えだぼこ》も白欽にはたかれてがらりと投げ出されてしまった。両将は馬上で、腕をふるうことができない。ともに手中の武器をうち捨ててしまったので、馬上で互いに取っ組みあった。もともと嶺の嶮《けわ》しいところで出くわしたのだったから、馬は脚を踏んばって立っていることができなくなり、二将がはげしくもみあううちに、はからずも人馬もろとも嶺からころがり落ちて、両将はいっしょにその嶺の下に墜死してしまった。
こちらでは、関勝ら諸将が徒歩《か ち》でいっせいに嶺へ攻めのぼって行った。かくて山の両側はことごとく宋兵で、早くも嶺の頂上に殺到してきた。石宝は両側ともまったく退路のないのを見て、捕らえられて辱しめを受けることをおそれ、劈風刀でみずから刎《くびは》ねて死んだ。かくて宋江の諸将は烏竜嶺の要害を奪った。関勝は急いで人をやって宋先鋒にこの旨を知らせた。
江中の水寨にいた四人の水軍総管は、烏竜嶺がすでにうしなわれ、睦州もいっしょに陥《おちい》ってしまったのを見ると、相ともに船をうちすて、江のむこう岸へ逃げて行ったが、成貴《せいき》と謝福《しやふく》は対岸の住民にいけどられ、睦州へ押送して献上されるところとなった。〓源《てきげん》と喬正《きようせい》はとり逃がしてしまい、行方知れずになった。
宋軍の本隊は睦州へひきあげた。宋江は知らせを受けると、城外に出迎えた。童枢密と劉都督は城内にはいって兵を駐屯させ、軍営を定めると、告示を出して軍民を宣撫し、再び生業にもどるよう呼びかけた。南軍の兵の投降してきたものは、かぞえきれぬほどであった。宋江は倉庫にあった食糧をことごとく住民にわけあたえ、それぞれの郷里へ帰って行かせて再び良民とならしめた。水軍総管の成貴と謝福に対しては、その腹を割いて肝をえぐり出し、兄弟の阮小二・孟康、ならびに烏竜嶺で前後にわたって陣没したすべての将領を祭り、これに手向けた。ついで李俊ら水軍の将領に、多数の船隻をひきいて、捕らえられてきた賊の首《かしら》たる偽の役人たちを張招討の軍前へ押送して行かせた。
宋江は、またしても呂方と郭盛を討ちとられて、嘆きかなしんでやまず、兵をおさえたまま動かずに、盧先鋒の軍のくるのを待ってともに清渓を攻めることにした。
宋江が睦州に駐屯したことはそれまでとして、一方副先鋒の盧俊義は、杭州で兵を分けてから(第百十六回)、三万の軍勢と麾下の正偏の将領二十八名とをひきつれ、杭州を出発して山路を進み、臨安鎮の銭王(注一)の故郷を通って、やがて〓嶺関《いくれいかん》の前方にさしかかった。関を守って要害をおさえているのは、方臘の配下の大将で、小養由基《しようようゆうき》(養由基は春秋時代の楚の弓の名手)と綽名される〓万春《ほうばんしゆん》。これぞ江南の方臘の国中第一の弓の名手であった。ふたりの副将をひきつれていて、ひとりは雷炯《らいけい》といい、ひとりは計稷《けいしよく》といった。このふたりの副将はともに重さ七八百斤の強い弩《いしゆみ》を踏みこなし、それぞれ〓藜骨朶《しつれいこつだ》(菱形の刺《とげ》を植えた棍棒)を得物《えもの》にし、配下に五千の軍勢を擁していた。この三人で〓嶺の要害を守っていたが、宋軍が副先鋒の盧俊義をさしむけ、兵をひきいておし寄せてくると知るや、早くも迎え討つ武器をすっかりととのえ、ひたすら寄せ手の迫ってくるのを待ちかまえていた。
一方、盧俊義の軍勢はやがて〓嶺関の前方に近づくと、その日まず、史進・石秀・陳達・楊春・李忠・薛永の六名の将領に、歩兵三千をひきつれて偵察に行かせた。そのとき史進ら六将はいずれもみな馬に乗り、そのほかはみな徒歩の兵で、相つらなって関所の下まで偵察に行ったが、ただの一兵にも出くわさなかった。史進は馬上であやしみつつ諸将に相談をかけたが、まだ話のまとまらぬうちに、早くも関所の前まできてしまった。見れば関所の上には五色の刺〓をほどこした白い旗が立ててあって、その旗の下にはかの小養由基の〓万春が立っていた。〓万春は史進らを見て大声で笑い、そして罵っていうには、
「この盗《ぬす》っ人《と》どもめ、梁山泊にくすぶっておればよいものを、無理やりに宋朝から招安の勅命をゆすり取って、よくもわが国土に乗りこんできて好漢づらをしやがるな。きさまも、おれの小養由基という名を聞いたことがあろう。きさまたちの一味に小李広の花栄とやらいうやつがおるとのことだが、そやつを出しておれと弓くらべをさせろ。まずきさまにおれの神箭のほどを見せてくれよう」
その言葉のおわるよりもはやく、ひょうと一箭《いつせん》を射放てば、矢は史進に命中し、史進は馬からころがり落ちた。五将はいっせいに急いで駆けよって史進を救い、馬に乗せてひき返した。と、こんどは山頂で銅鑼が一声鳴ったかと思うと、左右両側の松林のなかからいっせいに矢を浴びせてきた。五人の将は史進をかえりみるいとまもなく、てんでに命からがら逃げたが、やがて山の鼻を曲がると、正面の両側の丘の上から、一方には雷炯、一方には計稷がいて、弩《いしゆみ》でさながら雨のように矢を浴びせてきた。いかに英雄でもこのような矢ぶすまをかわすことはできず、あわれ、水滸の六名の将領はことごとく南柯《なんか》の夢(注二)と化してしまった。史進・石秀ら六人のものはひとりとしてのがれることができず、折り重なってみな関所の下に射ち殺されたのである。
三千の歩兵も、わずか百余名の兵が命びろいをしただけで、逃げ帰って盧先鋒にこのことを報告した。盧俊義はそれを聞いて大いにおどろき、まるで白痴《こ け》のように、また酒に酔ったように、しばらくのあいだ呆然としていた。神機軍師の朱武は、陳達と楊春(少華山の山寨以来の仲間である。第二回)のために涙をながしたが、心をとりなおして盧俊義をいさめた。
「先鋒、あまりお嘆きになって、大事をあやまるようなことがあってはなりません。別に策をたて関所を奪い将を斬って、この仇を取りましょう」
「宋公明兄貴は特に大勢の将領をわたしに割《さ》いてくださったのに、このたびは一戦も勝ち取らぬうちに、いきなり六将をうしなってしまい、そのうえにまた三千の兵はわずか百余名が帰ってきただけという始末。こんなありさまで、どうして歙《きゆう》州へ行ってお会いすることができよう」
と盧俊義がいうと、朱武は、
「古人の言葉(注三)に、天の時は地の利に如《し》かず、地の利は人の和に如かず、とありますが、われわれは中原《ちゆうげん》の山東や河北のものばかりで山路でのいくさに慣れておりません、そのために地の利をうしなったのです。それで、この土地の村人をつかまえ、道案内をさせてこのあたりの山路の模様を知ることが肝要です」
「いかにもごもっともです。路筋をさぐりに誰をやったらよいでしょう」
「わたしの考えでは、鼓上蚤《こじようそう》(蚤はと同音)の時遷をやるのがよいと思います。彼は簷《のき》を飛び壁を走る忍びこみの名人ですから、うまく山のなかへはいって行って路をさがすでしょう」
盧俊義はすぐ時遷を呼ばせた。時遷は命を受けると、乾糧《ほしいい》をたずさえ、腰刀《ようとう》をたばさんで陣地を出て行った。
さて時遷は、山の奥深くへと、ひたすら路をさがして行った。半日歩きまわって、夕暮れ、あるところまで行くと、遠くにぽっつりと灯火《ともしび》のかがやいているのが見えた。時遷は、
「明りのあるところには必ず人家があるはず」
と思い、くらがりのなかを手さぐりして明りのところまで行って見ると、それは小さなお堂だった。時遷はお堂の前まで行き、もぐりこんでみると、なかにはひとりの年とった和尚が坐ってお経を読んでいるところだった。時遷はさっそくその部屋の戸をたたいた。と、その老和尚は年少の行者《ぎようじや》を呼んで戸をあけさせた。時遷がなかへはいって老和尚に礼をすると、その老僧は、
「お客人、礼などご無用です。いま千軍万馬の相たたかっている際だというのに、どうしてこんなところまで見えました」
時遷は答えていった。
「ありていに申しますと、わたくしは梁山泊の宋江の配下の偏将の、時遷というものです。このたび聖旨を奉じて方臘を討ちにまいったのですが、はからずも昨夜、〓嶺関を守っている賊将のために味方の六人の首将が矢ぶすまを浴びせられて討ちとられ、関所を乗り越える策もないまま、特にわたしに、道をさがしに出て、関所を越える裏路がどこにあるか聞き出してくるようにと命ぜられ、いま深山曠野を通ってここにたどりつきました次第。どうかお師匠さま、ひそかに関所を越える裏路のありかをお教えくださいますよう。必ず十分にお礼はいたしますから」
「このあたりの住民は、みんな方臘に痛めつけられていて、彼を恨まないものはひとりもありません。わたしもこの近在の檀家の人たちのお布施によって口を養っている身、いまは村の人たちはみんな逃げて行ってしまいましたが、わたしは行くところもないので、やむなくここに踏みとどまっているのです。このたびさいわいに天兵がここへやって見えたということは、万民のしあわせ。将軍があの賊どもを平らげて民のために害を除きに見えた以上は、これまでわたしは賊に知られるのをおそれてずっと黙っておったのですが、天兵のところからつかわされて見えた頭目のかたなら、もう喋《しやべ》ってもかまわぬわけです。ここからは関所を越える路はありませんが、まっすぐに嶺の西へ行くと、そこには関所を越えることのできる裏道が通っております。しかし、このごろは賊が断ちふさいで通れないようにしているかもしれません」
「お師匠、関所を越える裏路があるとのことですが、その路は賊の陣地へは通じていないのですか」
「その間道はずっと〓万春の陣地のうしろまで通じていて、嶺をおりて行けばそれが関所を越える路なのです。ただ賊はすでに大きな石で断ちふさいでいて、なかなか越えられないかもしれません」
「いや、かまいません。路があれば、断ちふさがれていてもなんでもありません。ちゃんと考えがありますから。そうとわかりましたうえは、わたしは帰って主将に報告をし、改めてまたお礼にまいります」
「将軍、ほかのものにお会いになっても、わたしが喋ったとはおっしゃらないでください」
「わたしに抜かりはありません。決して老師のことは口に出しません」
その日、時遷は老和尚に別れてまっすぐに陣中へ帰り、盧先鋒に会ってこのことを知らせた。盧俊義はそれを聞いて大いによろこび、ただちに軍師を招いて関所を取る策をはかった。すると朱武のいうには、
「そういう路がありますなら、あの〓嶺関をうかがうことは、わけもないことです。誰かもうひとりのものを時遷といっしょに行かせて、この大事を決行させましょう」
「軍師、どういう大事をやれとおっしゃるのです」
と時遷がいうと、朱武は、
「いちばん重要なことは、火をつけることと砲を射つこと。あなたたちは火砲・火刀(火打鎌)・火石(火打石)を身に帯びてまっすぐに敵の陣地のうしろへ行き、合図の砲を射ち火をつけるのです。これがあなたがたにやってもらいたい大事です」
「火をつけ砲を射つだけで、ほかにすることがなければ、ほかのものといっしょに行く必要はありません。わたしだけで行けば、十分です。ほかの誰かといっしょに行っても、わたしについて簷《のき》を飛び壁を走ることはできっこありませんから、かえって時期をおくらせることになります。ところで、わたしがむこうへ行って事を決行したとしても、こちらからはどうやって関所のほうへ行くのです」
「それはたやすいことです。あの賊どもの伏兵には一遍はうまうまとやられたが、こんどはやつらが伏兵していようといまいと、途中で樹木のしげっているところに出くわしたら、そのつど火をつけて焼きはらってしまうのです。そうすれば伏兵を布いていたところでなんのこともありません」
「それはすばらしいお考えです」
と時遷はいい、さっそく火刀・火石および火薬の筒をとりそろえ、包み布で火砲を背負い、盧先鋒に挨拶をして出かけることになった。盧俊義は時遷に銭二十両と糧米一石を持って行って老和尚に贈らせることにし、ひとりの兵士にそれをかついで行かせた。その日の午後、時遷は米をかついだその兵士をつれてもときた路をたどり、お堂へ行って老和尚に会い、
「主将の先鋒がくれぐれもよろしくとのことで、わずかながらお礼のしるしにさしあげたいとのことでございます」
と、銀両と米を和尚にさし出した。老僧がそれをおさめると、時遷は兵士を陣地へ帰らせ、ふたたび老和尚にたのんだ。
「ご面倒ながら道案内をお願いいたしたいのですが、行者のかたにわたしの道案内をたのんでいただけませんでしょうか」
老和尚は、
「将軍、しばらくお待ちください。夜がふけてから出かけたほうがよろしいでしょう。日中ですと関所のほうで気づくおそれがあります」
といい、さっそく夕飯をととのえて時遷をもてなし、夜にはいってから、
「それでは行者に案内させますから、将軍をそのあたりまで送って行きましたならばすぐ行者は帰らせてくださって、人に気づかれないようにお願いします」
そのとき、年少の行者は時遷をつれて草庵を出ると、深山のこみちへわけ入り、森をぬけ嶺を越え、葛にすがり藤をよじつつ、山野のこみちや坂路を踏み越えて行くこと数里。ほのかな月明りのなかを、やがて、とあるところに出た。嶺が嶮《けわ》しくそびえ、岩壁は切り立っていて、はるかに登り口の開いているのが見えたが、尾根の上に巨岩を積みかさねて遮断し、高々と牆壁が築いてあった。年少の行者は、
「将軍、関所が見えます。石を積みあげた牆壁のところがそうです。あの石壁を越えると、広い路になっております」
といった。
「それではおまえさんは帰ってください。もう路はわかったから」
年少の行者が帰って行くと、時遷は簷を飛び壁を走り籬《かき》を跳びこえ馬に跳び乗るという奥の手をつかって、たちまちのうちにその石壁を乗り越えてしまった。そして東のほうへと進んで行くと、林のなかが半天をこがさんばかりにまっ赤になっているのが見えた。それは盧先鋒や朱武らが、陣地をひきはらっていっせいに行動をおこし、みちみち火をつけて焼きはらいながら関所へとおし寄せてくるところで、まず四五百人の兵に途中で死骸(史進らの)をとり片付けさせ、山を越え嶺をわたって、火をつけながら路を開き、伏兵のひそみかくれる場所をないようにしているのだった。
〓嶺関の上では、小養由基《しようようゆうき》の〓万春《ほうばんしゆん》が、宋軍が火をつけて林を焼き、路を開いているとの知らせを受けると、
「それはやつらが兵を進めるための手段で、わが伏兵を活躍できぬようにしようとしているのだ。われわれがこの関所を守っているかぎり、やつらがなにをしようと越えることができるものか」
といい、やがて宋軍が次第に関所の下へ迫ってくるのを見ると、雷炯《らいけい》と計稷《けいしよく》をしたがえて、いっせいに関所の前方へ繰り出して守りをかためた。
一方、時遷は一歩一歩と手さぐりで関所の上へたどりつくと、とある大木によじのぼって枝葉のしげったところに身をひそめた。見れば、かの〓万春・雷炯・計稷らが、弓矢や踏弩《とうど》(足で踏んでひく弩《いしゆみ》)をつらねて関所の前方に身をひそめつつ待ちかまえている。宋軍はと見ると、ずらりと横に並んで火で焼きはらいながら進んでくる。その中央にいた林冲と呼延灼が、関所の下に馬を立てて大声で罵った。
「賊将め、よくも天兵に対して手むかいをいたすな」
南軍の〓万春らはそのとき矢を浴びせかけようとしたが、すでに時遷が関所の上にいることには気づかなかった。時遷はそっと木からすべりおり、関所のうしろへまわって行って柴《しば》が二山《ふたやま》積んであるのを見つけると、ふところをさぐって火刀と火石をとり出して火種を打ち出し、火砲を柴の山の上に据え、まず硫黄と焔硝で一方の柴の山を燃やし、ついで、こちらの柴の山に火をつけた。そして火砲に点火するとすぐ、火種を持ってただちに関所の屋根の上によじのぼって、火をつけた。かのふたつの柴の山からはいっせいに火の手があがり、火砲は天を震《ふる》わさんばかりに轟きわたった。関所の上の諸将はたたかわずして乱れ、わっとさわぎ出した。兵士たちもみな逃げることに夢中で、たたかおうとする気持などまるでない。〓万春とふたりの副将が急いで関所のうしろへ火を消しに行くところへ、時遷はすかさず屋根の上でまた火砲を射ちあげた。その火砲は関所の建物をも震いうごかし、南軍の兵は胆をつぶしてみな刀鎗・弓箭・衣袍・鎧甲をうち捨て、ことごとく関所の裏へと逃げだした。時遷は屋根の上から大声で呼ばわった。
「すでに一万の宋軍が関所を突破してしまったのだ。きさまたち、早く投降するがよい。そうすれば命だけは助けてくれようぞ」
〓万春はそれを聞くと、おどろきのあまり魂も抜けんばかりで、しきりにつまずきころび、雷炯と計稷はおどろいて身体がしびれ、身うごきもできない始末。林冲と呼延灼はまっさきに山へおしのぼり、早くも関所の上へ駆けあがった。諸将もみなさきを争って関所を越え、三十里あまり南軍を追って行って、孫立は雷炯をいけどりにし、魏定国は計稷をからめとったが、ひとり〓万春だけはとり逃がしてしまった。その配下の兵は大半を捕虜にした。
宋軍はかくて関所の上に達し、軍勢を駐屯させた。〓嶺関を手にいれた盧先鋒は、厚く時遷を賞したのち、雷炯と計稷を、腹を割き胆をえぐり出して史進・石秀ら六人に手向け、六人の遺骸を関所の上に葬り、その他の宋兵の死骸はことごとく荼〓《だび》に付した。そして翌日、諸将とともに武装して馬に乗り、文書を以て張招討に〓嶺関を得た旨を急報するとともに、軍をひきつれて出発し、蜿蜒《えんえん》と進んで関所を越え、やがて歙《きゆう》州の城下に迫って陣地をかまえた。
そもそも歙州の守備の官は、ほかならぬ皇叔大王《こうしゆくたいおう》の方〓《ほうこう》で、すなわち方臘の実の叔父にあたり、文官に封ぜられている二名の大将とともに歙州を守っていた。そのひとりは尚書《しようしよ》の王寅《おういん》、ひとりは侍郎《じろう》の高玉《こうぎよく》で、十数名の戦馬の将をしたがえ、二万の大軍を屯《たむろ》して歙州の城郭を守りかためていた。もともと王尚書はこの州の山中の石工の出で、一条の鋼鎗《こうそう》を得物とし、その乗馬には転山飛《てんざんひ》(山を転じて飛ぶ)と名づける良馬を持っていた。この戦馬は、山をのぼったり川をわたったりすること、さながら平地を行くがごとくであった。高侍郎のほうもこの州の、士人(読書階級)の家柄の子孫で、一条の鞭鎗《べんそう》を得物としていた。このふたりはよく詩文に通じていたので、方臘は文官の職をさずけたうえ、兵馬の権をとらせていたのである。
そのとき小養由基の〓万春は、敗《やぶ》れて歙州へ逃げ帰ると、ただちに行宮《あんぐう》へ行き、じきじき皇叔《こうしゆく》に奏上していった。
「土地の住民が消息を漏らして宋軍の手引きをし、ひそかに裏路を越えて関所へはいりこまれてしまいました。そのために兵士たちはちりぢりに逃げ、ついに敵にあたることができませんでした」
皇叔の方〓はそれを聞くと大いに怒り、〓万春をはげしく罵った。
「あの〓嶺関は歙州のもっとも重要な防壁なのだ。いまや宋軍にその要害を越えられてしまった以上は、やがてこの歙州におし寄せてくるであろうが、どのようにしてこれを迎え討つというのか」
すると王尚書が奏上していった。
「主上、まずはお怒りをおしずめくださいますよう。むかしから、勝敗は兵家の常、戦いの罪には非ず、と申します。いま殿下には、ひとまず〓将軍の罪をゆるされ、軍令にもとづく必勝の文状《ぶんじよう》(注四)をお取りになったうえで、彼に軍をひきいてまっさきに討って出させ、宋軍を撃退せしめられますように。もし勝利を得ませんでしたならば、二つの罪をあわせて処断されますよう」
方〓はその言をもっともと思い、兵五千を割いて〓万春につけ、城外に敵を迎え討ち勝利を収めて報告するよう命じた。
一方、盧俊義は、〓嶺関を破ってから兵を駆ってただちに歙州の城下に迫るや、その日のうちに諸将とともに歙州城へ攻め寄せた。と、城門があき、〓万春が軍をひきいて交戦に出てきた。両軍がそれぞれ陣形をととのえると、〓万春が陣頭に進み出てたたかいを挑んだ。宋軍の隊からは欧鵬が馬を進め、鉄鎗をふるって、ただちに〓万春とたたかいを交える。両者わたりあうこと五合ばかり、〓万春は負けて逃げだした。欧鵬が一番手柄をたてんものと、馬を飛ばして追いかけて行くと、〓万春は身をひねって、うしろざまに矢を射放った。欧鵬は手並みあざやかに、その矢を手でつかみ取った。ところが欧鵬は、〓万春が矢の連発に長じていることに気づかず、一本の矢をつかみ取るとすっかり安心して追って行った。と、弓弦がひびき、〓万春がさらに第二の矢を放った。欧鵬はたちまちその矢にあたって馬から落ちた。城壁の上では王尚書と高侍郎が、〓万春が欧鵬を射とめて落馬させ、勝ちを制したのを見るや、城内の軍勢をひきつれて、いっせいに討ち出てくる。宋軍は大敗を喫し、三十里退いて陣地をとり、兵をとどめて宿営させた。将兵を点検してみると、乱戦のなかでまたもや菜園子の張青をうしなっていた。孫二娘は夫《おつと》が討ち死をしたことを知ると、部下の兵に遺骸をさがさせて荼〓《だび》に付し、しばし痛哭した。盧先鋒はそれを見て心中苦慮し、良策でなかったことを思いめぐらして、さっそく朱武に諮《はか》った。
「きょうは兵を進めて、またもや二将をうしなってしまったが、このような状態ではいったいどうすればよかろう」
すると朱武のいうには、
「勝敗は兵家の常です。きょう賊軍はわれわれが軍を退《ひ》いたのを見て、おのずからおごりたかぶり、一同で謀って今夜は勢いに乗じてこちらの陣地へおそいかかってくるにちがいありません。
それゆえわが方では諸将と軍勢を手分けして出して、四方に伏兵を布き、中軍には何頭かの羊を縛っておいて、かくかくしかじかに手はずをととのえておくべきです」
かくて、呼延灼には一隊の軍をひきつれて左辺に伏せさせ、林冲にはおなじく一隊の軍をひきつれて右辺に伏せさせ、単廷珪と魏定国にはおなじく後方に伏せさせ、その他の偏将をもそれぞれ四方の小路に伏せさせて、夜になって賊軍がおし寄せてきたときには、中軍に火の手のあがるのを合図として四方からそれぞれ敵を捕らえさせることにした。盧先鋒がこうしてすっかり手配りを決めると、一同はそれぞれ守備につきに行った。
さて一方、南国の王尚書と高侍郎のふたりはなかなか謀略にたけていて、さっそく〓万春らと協議したうえで、皇叔の方〓に奏上した。
「きょう宋軍は敗走し、三十里あまり退いて踏みとどまりましたが、陣地には備えもなく、兵士たちも疲れはてているにちがいありませんから、勢いに乗じて陣地をおそうには絶好の機会かと存じます。そうすれば必ず完勝を博することができましょう」
「その方ら、よきょうにはかったうえで、決行するのがよいとなったならば、決行するがよかろう」
と方〓はいった。すると高侍郎が、
「それではわたくしが〓将軍とともに兵をひきいて敵陣をおそいに行きますゆえ、殿下と尚書どのにはかたく城を守っていてくださいますよう」
その夜、二将は武装して馬に乗り、軍勢をひきつれて出発した。馬は鸞鈴《らんれい》をとりはずし、兵は口に枚《ぱい》をふくんで疾走し、やがて宋軍の陣地に迫った。見れば陣門がとざされていないので、南軍はみだりに進むことをさしひかえた。はじめは更点《こうてん》(注五)がはっきりと聞こえていたが、そのうちに時太鼓が乱れてきた。高侍郎は馬をひかえて、
「進んではならぬ」
といった。〓万春が、
「閣下、どうして兵を進められないのです?」
ときくと、高侍郎は、
「敵の陣中の更点がはっきり聞こえない。なにか計略があるにちがいない」
「閣下、それはちがいましょう。きょうはいくさに負けて胆をひやし、疲れはてて眠りながら時太鼓を打っていて、なにも気がつかないのにちがいありません。それではっきりしないのでしょう。お疑いになることはありません。かまわずに斬りこんで行きましょう」
「そうかもしれぬ」
と高侍郎はいい、ただちに兵を駆りたてて陣地をおそい、まっしぐらに斬りこんで行った。二将は陣門をはいってただちに中軍へ乗りこんで行ったが、そこにはひとりの将軍の姿もなく、なんと柳の木に数頭の羊を縛りつけ、羊の蹄にばちを結びつけて太鼓を打たせているのだった。そのため更点がはっきりしなかったのである。二将は藻抜けのからの陣地をおそって心中うろたえ、あわてて、
「はかられた!」
と叫ぶなり、身を返して逃げだした。中軍内ではそのときすでに火の手があがり、とつぜん山の頂で砲声がとどろいたかと思うと、さらに火の手があがって四方からばらばらと伏兵が立ちあがり、いっせいに斬りたてながらおしかこんできた。二将が陣門を突きあげて逃げだして行くと、ばったりと呼延灼に出くわし、
「賊将め、さっさと馬をおりて降伏せい。命だけは助けてくれようぞ」
と大喝を浴びせられた。高侍郎はあわてふためき、ただのがれようとするばかりですっかり戦意をうしない、呼延灼に追いつめられて、双鞭をいちどに打ちおろされ、頭蓋を脳天半分打ちくだかれてしまった。〓万春は必死に重囲を突き破って辛くも命びろいをしたが、逃げて行くうちに、はからずも湯隆が路ばたに伏せていて、その鎌鎗に馬の脚をひっかけられて引き倒され、いけどりにされてひかれて行った。
諸将はみな山路で南軍を追い討っていたが、夜があけると、全員陣地に引きあげてきた。盧先鋒はそれよりさき中軍にはいって座についていたが、さっそく命令をくだして麾下の将領を点検させてみると、丁得孫が山路の草むらで毒蛇に脚を咬《か》まれ、毒が腹にまわって死んだことがわかった。盧先鋒は〓万春を、腹を割き胆をえぐりとって欧鵬ならびに史進らの霊に手向け、首級は張招討の軍前へ送りとどけた。
翌日、盧先鋒は諸将とともに再び兵を進めて歙州の城に迫った。見れば城門はあいたままで、城壁の上には一本の旗もなく、城楼の上にもひとりの兵士の影もない。単廷珪・魏定国のふたりは、一番手柄をたてんものと、軍をひきつれてただちに城内へ攻めこんで行った。後方の中軍にいた盧先鋒は追いついて行って、しまった! と叫んだ。かの二将はすでに城門のなかへはいってしまっていたのである。そもそも王尚書は、宋軍の陣地をおそった軍勢がうち負かされたので、城を捨てて逃げたかのごとく見せかけて、城門の内側に陥坑《おとしあな》を掘っていたのであった。二将は猪突《ちよとつ》の勇者とて、そんなこととは気づかず、まっさきに駆けこんで行って、はからずも馬もろとも坑《あな》のなかへ落ちこんでしまった。その陥坑《おとしあな》の両側にはあらかじめ長鎗の兵と弓箭《きゆうせん》の兵が伏せてあって、いっせいに討ちとりに出て、二将を坑のなかに殺してしまった。あわれ聖水《せいすい》(単廷珪)と神火《しんか》(魏定国)は、いまここに痛ましくも土坑のなかに葬り去られるところとなったのである。盧先鋒はまたしても二将を討ちとられて心中大いに憤《いきどお》り、急いで命令をくだして前軍の兵を繰り出し、めいめい土塊の包みを持って城内へおしいらせ、陥坑をうずめさせるとともにはげしく攻めさせ、南軍の兵を斬り伏せてともに坑のなかへうずめさせた。そのとき盧先鋒は先頭に立ち、馬を躍らせて城内へ斬りこんで行ったところ、ちょうど皇叔の方〓と出くわした。馬をまじえて斬り結ぶことわずかに一合、盧俊義は怒りの〓を燃えたたせ、渾身《こんしん》の威をふるってただひと打ちに朴刀で方〓を馬の下に斬って落とした。城内の兵たちは、城の西門を開けてどっと逃げだした。宋軍の将兵はおのおの力をあわせて南軍の兵を攻め討った。
ところで王尚書は、逃げて行くうちに、ゆくてをさえぎって斬りかかってくる李雲に出くわした。王尚書はただちに槍をかまえて進みいで、李雲のほうは徒歩でたたかったが、かの王尚書は槍をふるい馬を迫らせて、たちまち李雲を踏み倒してしまった。石勇は王尚書が李雲を突きころがしたのを見るや、ただちに飛び出して行って、急いで救い出そうとしたが、王尚書は槍をとって神出鬼没の業《わざ》をふるい、石勇はとうていこれに敵し得べくもなく、王尚書は数合わたりあったのち、隙を見て一突きに石勇の命を奪い、その場に討ちはたしてしまった。城内からはそのとき、孫立・黄信・鄒淵・鄒潤の四将が追ってきて、王尚書の前にたちふさがってたたかった。かの王寅《おういん》(王尚書)は勇をふるって四将と力戦し、いささかもひるむところなかったが、はからずもそこへまた林冲が飛び出してきた。これまたいくさには手慣れたもの、かの王寅がたとえ三頭六臂のものであったとしても、五将を相手には敵し得べくもなかった。一同はいっせいにおそいかかって王寅を滅多斬りにして殺してしまった。あわれ、南国の尚書将軍も、いまやここにその志をとげるすべのないことを知った次第。ただちに五将は王寅の首級を取り、馬を飛ばして行って盧先鋒に献上した。盧俊義はすでに歙州の城内の行宮に落ちついて住民の治安を回復し、告示を出して宣撫したり、軍勢を城内に駐屯させたりする一方、使いのものに文書を持たせてやって張招討に勝利を報告し、急ぎの書状を宋先鋒のもとへとどけさせて、兵を進めようとする旨を通知した。
さて一方、宋江らの将兵は睦州に駐屯し、軍が勢揃いする(盧俊義の軍と合流する)のを待っていっしょに賊の洞窟を攻めようとしていたのであるが、盧俊義から、歙州を奪回して将兵はすでに城内に駐屯しており、兵を進めてともに賊の本拠を攻略するのを待ちかまえているとの書面を受け取ったものの、またもや史進・石秀・陳達・楊春・李忠・薛永・欧鵬・張青・丁得孫・単廷珪・魏定国・李雲・石勇の十三人という多くの将領をうしなったことを知って、しきりに煩悶し、哀《いた》みかなしんで痛哭した。軍師の呉用がなだめて、
「生死は人それぞれのさだめですから、みずからお身体を傷められるのはいかがかと存じます。それよりもまず国家の大事をおとりさばきくださるよう」
というと、宋江は、
「それはそうだが、かなしまずにはいられないのです。思えば、はじめ石碣《いしぶみ》の天書にしるされていた一百八人(第七十一回)が、いまや、次第に凋落《ちようらく》していって、わが手足を欠くようになろうとは思いもかけぬことでした」
呉用は宋江の悲嘆をなだめてから、盧先鋒に返書を送り、期日をとりきめて清渓県攻略の兵をおこすことにした。
宋江が盧俊義に返書を送り、日をとりきめて兵を進めることにしたことはさておき、一方、方臘は、清渓の〓源洞《ほうげんどう》内の宮居で会議をひらき、文武の百官とともに宋江の用兵のことについて協議していた。と、西州から敗残の軍勢が帰ってきたとの知らせがあり、その報告によれば、
「歙州はすでに陥落し、皇叔も尚書も侍郎もみな陣没されました。いま宋軍は二手に分かれて進み、清渓を攻略しようとしております」
という。方臘はその知らせを聞いて大いにおどろき、ただちに両班(文武)の大臣を集めて協議した。方臘はいった。
「その方たち一同、それぞれ官爵を受け、ともに州郡の城池を占拠し、ともども富貴を享受してきたものだが、はからずもこのたび宋江の軍勢が席捲《せつけん》してきて州城はみな陥落し、あますところはただこの清渓の宮居のみとなった。いま、宋軍は二手に分かれておし寄せてくるとのことだが、いかにこれを迎え討ったものであろうか」
するとなかにいた左丞相の婁敏中《ろうびんちゆう》が、列を進み出て奏上した。
「いまや宋江の軍勢はすでに神州(清渓のこと)に迫り、内苑・宮廷さえも保ちがたいありさまでございますが、いかんせん兵はすくなく将もとぼしい状態でございますゆえ、陛下にご親征を仰ぎませんことには、将兵は心を傾けてたちむかわぬおそれがございます」
「まことにその方のいうとおりだ」
と方臘はいい、ただちに聖旨をくだして、三省六部(中央の全機関)・御史台官《ぎよしだいかん》(注六)・枢密院・都督府《ととくふ》(注七)(州の行政府)・護駕(近衛)の二営の金吾(注八)と竜虎、および大小すべての官僚に対して、
「一同みなわが親征にしたがい、決戦をおこなうよう」
と命じた。婁丞相はかさねて奏上した。
「どの将帥を前軍先鋒となさいますか」
「殿前の金吾上将軍《きんごじようしようぐん》にして内外諸車の都招討《としようとう》(招討使の長)たる皇姪《こうてつ》の方杰《ほうけつ》を正先鋒とし、歩騎の親軍の都太尉たる驃騎上将軍《ひようきじようしようぐん》の杜微《とび》を副先鋒として、〓源洞の宮居護駕の御林軍《ぎよりんぐん》一万三千と戦将三十余名をひきいて進ませよう」
と方臘はいった。
そもそもこの方杰《ほうけつ》というのは、方臘の実《じつ》の甥《おい》で、歙州の皇叔・方〓《ほうこう》のいちばん年長の孫にあたったが、宋軍の盧先鋒が祖父を殺したと聞くと、仇を討たんものとすすんで前軍先鋒たらんことを願い出たのであった。この方杰はかねがね稽古にはげんで方天《ほうてん》の画戟《がげき》を使いこなし、万夫不当の勇を持っていた。一方の杜微《とび》はもとは歙州の市中の鍛冶屋で、武器を鍛えることに長じ、これまた方臘の腹心の部下で、六本の飛刀《ひとう》を使いこなし、いつも徒歩《か ち》でたたかった。
方臘は別に聖旨をくだして、御林護駕の都教師《ときようし》(武芸師範の長)の賀従竜《がじゆうりゆう》に御林軍一万を割きあたえ、軍を統率して行って歙州の盧俊義の軍勢にあたらせることにした。
方臘が軍を手分けして二方面に敵を迎え討つことにした次第はそれまでとして、まず宋江の本隊の軍勢はというに、水陸相並んで出発し、睦州をあとに清渓県へとむかった。水軍の頭領の李俊らは、水軍の船隻をひきいて谷川を漕ぎ進んで行った。一方、呉用は宋江と馬に乗っていっしょに進んで行ったが、馬を並べつつ相談をしていうには、
「清渓の〓源をねらうこのたびの挙は、もし賊の首魁の方臘が気づいて深山曠野に逃げてしまうと、捕らえることがむずかしくなるおそれがあります。方臘をいけどりにし、京師へひきたてて行って、天子にお目通りせんがためには、ぜひとも内外呼応する策をとって、本人の顔を知っておく必要があります。そうしなければ捕らえることはできないでしょう。同時にまた、方臘のゆきさきなどもさぐって、逃げられてしまうことのないようにしておかなければなりません」
「なるほど。それならばいつわって投降するという手段を用いて計略をめぐらすことにしましよう。そうすれば内外呼応することができるでしょう。このまえは柴進と燕青を忍びに出したところ(第百十四回)、いまだになんの消息もないままですが、こんどは誰をやればよいでしょう。うまく投降をいつわることのできるものでないといけないが」
と宋江。
「わたしの考えをいわせていただきますなら、水軍の頭領の李俊らに船内の糧米を運んで行かせて、献上して投降するふりをさせ、相手に疑いをかけさせないようにするよりほかないと思います。方臘のやつは山間の僻地の賤しい男ですから、莫大な糧米と船隻を見れば迎えいれるにちがいありません」
呉用がそういうと宋江は、
「それはすばらしいお考えです」
といい、戴宗を呼んですぐ命をつたえ、水路をまっすぐに李俊のところへ行って、
「かくかくしかじかにして、あなたがた諸将は計略をおこなうようにとのことです」
と告げさせた。
李俊らが計略を了承すると、戴宗はひとりで中軍へ帰って行った。李俊はそこで、阮小五と阮小七に船頭の身なりをさせ、童威と童猛をその手下の水夫に仕立てて、六十隻の糧秣船に乗りこみ、船にはすべて献糧《けんりよう》と書いた新しいしるし旗を立てて広い谷川をさかのぼって行った。やがて清渓県に近づくと、上流のほうから早くも南国の戦船がたちむかってきた。敵兵はいっせいに矢を放った。李俊は船の上で叫んだ。
「矢を射つのはやめてくれ。話したいことがある。われわれはみな投降してきたもので、特に糧米を貴国に献上し、兵士をひきわたすつもりなのだ。どうかおききいれいただきたい」
むかいの船の上の頭目は、李俊らの船の上に武器の影もないのを見て、ただちに矢を射つのをやめさせ、使いのものを船によこして事情をくわしく問いただし、船内の糧米をしらべたうえで、ただちに婁丞相のもとへ報告し、
「李俊が糧米を献上して投降してまいりました」
と告げた。婁敏中はそれを聞くと、投降してきたものたちを岸へあげるように命じた。李俊は岸へあがり、婁丞相に目通りした。礼をおわると、婁敏中はたずねた。
「その方は宋江の配下の何者で、どのような任についていたのか。このたびは、なにゆえに糧米を献じて投降してまいったのか」
李俊は答えていうよう、
「わたくしは姓は李、名は俊と申しまして、もとは潯陽江の好漢でございますが、江州で仕置場をおそって宋江の命を救ってやったものです。ところが彼はこのたび朝廷の招安を受けて先鋒におさまると、とたんにわれわれから受けた前恩を忘れて、しきりにわたくしをくるしめ辱しめるのです。いま宋江は貴国の州郡を占領してはおりますものの、配下の兄弟たちは、相ついで討たれて亡くなっていきます。彼はしかしなおも進退のほどをわきまえず、わたくしたち水軍をおどかして無理やりに進ませるのです。そういうわけで、辱しめを受けるに堪えられませんので、特に彼の糧秣と船隻を、そのままひそかに献納しにまいりまして、貴国に投降してきたという次第でございます」
婁丞相は李俊のこの話を聞くと、そのまま真《ま》に受け、さっそく李俊を宮居へつれて行って方臘に謁見させ、糧米を献上して投降してきた次第をくわしく告げた。李俊は方臘に見《まみ》え、再拝の礼をささげてご機嫌をうかがい、おなじことを奏上した。方臘もそのまますこしも疑わず、ひとまず李俊・阮小五・阮小七・童威・童猛に対して清渓で水寨を管理して船を守っているように命じ、
「わしが宋江の軍勢を撃退して凱旋してきたときには、改めて賞をとらせよう」
といった。李俊は拝謝し、宮居をさがると、すすんで糧米を岸へ運びあげて倉庫へ納入したが、このことはそれまでとする。
さて一方宋江は、呉用とともに軍の手わけをおこない、関勝・花栄・秦明・朱仝の四人の正将を前軍に配し、軍をひきいてまっすぐに清渓の県境へ進ませた。と、関勝らはちょうど南国の皇姪《こうてつ》の方杰《ほうけつ》と出くわし、両軍はそれぞれ陣を布いた。南軍の陣頭には、方杰が戟を横たえて馬を進め、杜微《とび》が徒歩でそのうしろにつづいた。かの杜微は全身をくまなく武装し、背には五本の飛刀をかくし、手には一振りの七星の宝剣をとって、うしろにつきしたがっている。両将が陣頭に進み出ると、宋江の陣からは秦明がまっさきに馬を出し、手に狼牙の大棍を舞わせつつまっしぐらに方杰におそいかかって行った。かの方杰は年若く、大いに勇みたち、練熟したその戟の手並みをふるって、秦明とつづけさまに三十余合わたりあったが、勝敗は決しなかった。方杰は秦明の腕の手強《てごわ》いのを見るや、みずからもあらん限りの力量を示して寸分の隙も見せなかった。ふたりのわたりあいはまさに互角で、秦明もその手並みをふるって方杰にいささかの隙も見せなかった。ところが、はからずも杜微のやつが、馬のかげで、方杰が秦明をうち負かし得ないでいるのを見るや、馬のうしろからひらりと飛び出して飛刀を抜きとり、秦明の顔をめがけてぱっと投げ飛ばした。秦明はあわてて飛刀をよけたが、そのとたん、方杰の方天戟を浴びせられて馬からのけぞり落ち、非業《ひごう》の最期《さいご》をとげてしまった。あわれ霹靂火も、地にほろんでついにその声をうしなってしまったのである。方杰は一戟のもとに秦明を討ちとってしまうと、敵陣へ追いこむことはさしひかえた。宋軍の下士のものが、あわてて撓鉤《どうこう》で死骸をひっかけて運んできた。宋軍のものは秦明が討たれたと聞いて、ことごとくみな色をうしなった。宋江は棺をととのえるよう命ずるとともに、再び将兵を繰り出してたたかわせることにした。
一方、方杰は勝ちを制してその腕を誇り、陣頭にあって大声で呼ばわった。
「宋軍にもしほかにもっと好漢がいるのなら、さっさと出てきてわたりあわぬか」
宋江は中軍にあってその知らせを受けると、急いで陣頭へ出て行った。見れば対陣の方杰のうしろは方臘の御駕《ぎよが》で、ただちに軍前に進み出て陣形をととのえた。そのありさまは、
金瓜《きんか》(金瓜槌を持った儀仗兵)密に布《し》き、鉄斧《てつぷ》(同じく儀仗兵)斉《ひと》しく排《なら》ぶ。方天の画戟は行《こう》(列)を成し、竜鳳の〓旗は隊を作《な》す。旗旄旌節《きぼうせいせつ》(注九)、一〓々《いちさんさん》として(ひとつに集まって)緑《みどり》舞い紅《くれない》飛び、玉鐙雕鞍《ぎよくとうちようあん》、一簇々《いちそうそう》として(ひとつに群がって)珠囲《たまかこ》み翠繞《みどりめぐ》る。飛竜の傘は青雲紫霧《せいうんしむ》を散らし、飛虎の旗は瑞靄《ずいあい》祥煙《しようえん》を盤《めぐ》らす。左に侍下するは一代(一帯)の文官、右に侍下するは満排(いちめんに居並ぶ)の武将。是れ妄りに天子の位を称すると雖も、也《また》偽って宰臣《さいしん》(文武の官)の班を列《つら》ぬるを須《もち》う。
南国の陣中には、九曲の黄羅《こうら》の傘蓋《さんがい》の下、玉の轡《くつわ》の逍遥《しようよう》の馬の上に、かの草頭王子(注一〇)の方臘の着坐しているのが見えた。そのいでたちいかにと見れば、
頭には一頂の冲天転角《ちゆうてんてんかく》の明金《めいきん》の〓頭《ぼくとう》(注一一)を戴き、身には一領の日月雲肩《じつげつうんけん》の(日月を刺〓した、肩の高く張った)九竜の〓袍《しゆうほう》を穿ち、腰には一条の金〓宝嵌《きんじようほうかん》の(金をちりばめ、玉を象眼した)玲瓏《れいろう》の玉帯を繋《し》め、足には一対の双金顕縫《そうきんけんほう》の雲根《うんこん》の朝靴(雲型の殿上靴)を穿つ。
かの方臘は銀色のたてがみの白馬にまたがって陣頭にたちいで、みずからたたかいを指揮した。そして宋江がみずから馬を進めているのを見るや、ただちに方杰《ほうけつ》をたたかいに繰り出させて、宋江を捕らえるよう命じた。こなたの宋軍の諸将も、方臘を捕らえんものと迎え討つ用意をととのえている。南軍の方杰がいましも陣を出ようとしたとき、不意に早馬の知らせがあって、
「御林都教師の賀従竜《がじゆうりゆう》は軍を統率して歙州へ救援に行かれたところ、宋軍の盧先鋒にいけどられて敵陣へつれ去られました。味方の軍はすでにちりぢりになってしまい、宋軍は早くも山のうしろへ殺到してまいりました」
とのこと。方臘はそれを聞いて大いにおどろき、急いで聖旨をくだし、ただちに軍を収めてひとまず宮居を守るようにと命じた。そのとき方杰は、しばらく杜微に宋軍の出足をおさえさせ、方臘の御駕をさきにたち去らせてから方杰と杜微はそのあとを追って退いて行った。
方臘の御駕が清渓の州境までひきあげて行ったとき、とつぜん宮居の城内に天にもとどかんばかりの喊声がおこり、火の光がいちめんに輝き、軍勢が入り乱れだした。それは、李俊・阮小五・阮小七・童威・童猛らが清渓の城内に火をつけたのだった。方臘はそれを見るや、大いに御林の軍勢を駆りたてて城内へ救援に馳せつけ、入城して乱戦となった。
宋江の軍勢は、南軍が退却して行くのを見るや、すぐあとから追撃して行った。やがて清渓まで行ったとき、城内に火の手のあがるのを見て、宋江は李俊らがなかで行動をおこしたことを知り、急いで諸将に軍勢をさし招かせ、手わけをして斬りこんで行かせた。
このとき盧先鋒の軍勢も山を越え、両面から呼応して、ちょうどうまく宋江の軍と会い、四方から宋軍は清渓の宮居を挟み討ちにした。宋江ら諸将は四方八方に斬りこんで行って、それぞれ南軍を捕捉し、清渓の城郭を討ち破った。
方臘は軍をひきつれた方杰に護られて、〓源洞のなかへのがれた。
宋江らの本隊の軍勢はすべて清渓県に入城した。諸将は方臘の宮中へおし入り、国禁の調度や金銀宝物をとりおさめ、内裏《だいり》の倉庫をしらべたうえ、殿上に火をつけて方臘の内外の宮殿をすべて焼きはらい、府軍の銭糧をことごとく奪い取った。宋江は盧俊義の軍を併《あわ》せて、清渓県内に駐屯させた。集まってきた諸将は、それぞれ功を献じて賞を受けた。二方面の将領を点検してみると、長身の郁保四と女将軍の孫二娘とが、ともに杜微の飛刀を受けて討ち死をし、鄒淵と杜遷が騎兵の軍中で踏み殺され、李立・湯隆・蔡福はいずれも重傷を負い、治療の甲斐もなく死んでしまった。阮小五はこれよりさきに、清渓県内ですでに婁丞相に討ち殺されていた。諸将は南国の偽の役人たち九十二名を捕らえていて、さし出して賞を受けた。ただ婁丞相と杜微の行方はわからなかったが、とりあえず告示を出して住民を宣撫するとともに、かのいけどりにした偽の役人たちを張招討の軍前へ送り、討ち首にして見せしめにした。のち、住民から知らせがあって、
「婁丞相は阮小五を殺してから、大軍が清渓県を討ち破ったのを見て、みずから松林で首をくくって死にました」
とのこと。杜微のやつは、彼が以前に世話していた娼妓の王嬌嬌《おうきようきよう》の家に身をかくしたが、彼女の抱え主(注一二)に突き出されるところとなった。宋江は抱え主に賞をあたえたうえで、まず部下のものに婁丞相の首を斬ってこさせ、ついで蔡慶に、杜微の腹を割いて胆をえぐり取らせ、血をしたたらせて秦明・阮小五・郁保四・孫二娘ならびに清渓の攻撃で陣没した諸将に手向けた。宋江はみずから香を焚いて祭りをとりおこなったのち、翌日、盧俊義とともに軍をおこし、ただちに〓源洞口におし寄せて行って、これをとりかこんだ。
一方、方臘は辛くも方杰に護られて〓源洞口の宮居へ逃げこむと、軍勢を駐屯させて堅く洞口を守ったまま討って出ようとはしなかった。宋江と盧俊義は、軍勢を以てぐるりと〓源洞をとりかこんだものの、突入するてだてがない。一方、方臘は〓源洞で、さながら針の毛氈に坐っているような心地であった。両軍は策に窮したまま、すでに数日をすごした。方臘が憂慮しているおりしも、不意に殿下に錦衣〓襖《きんいしゆうおう》のひとりの大臣があらわれ、金階《きんかい》(きざはし)の下にひれ伏して奏上した。
「わが君、わたくし不才ながら、ひとかたならず主上の広大なる聖恩をこうむり、報恩のよすがもございませんでしたが、かねて学びましたる兵法にしたがい、日ごろ修めましたる武芸にたより、六韜三略《りくとうさんりやく》(兵書)もかつて聞き、七縦七擒《しちしようしちきん》(注一三)もかつて習いましたれば、願わくは主上の一隊の軍勢をお借りいたしまして、たちどころに宋軍を退け、国家の繁栄を再興いたしたいと存じます。なにとぞこれをお聞きとどけくださいますよう」
方臘は彼を見て大いによろこび、ただちに勅令をくだし、山洞と内府の軍勢をことごとく動員し、この将に兵をひきいさせ、洞外に討って出て宋江にあたらせることにした。勝敗の如何はいまだわからぬながら、まずその威風のほど衆にぬきんでるものがあった。方臘の国内からこの人物があらわれて兵をひきいて立ったことから、やがて、金階の殿下には人頭滾《まろ》び、玉砌《ぎよくせい》の朝門には熱血噴くにいたり、ついには、巣穴《そうけつ》を掃清して方臘を擒《とら》え、功勲を竪立《じゆりつ》して宋江を顕《あらわ》す、ということに相なる次第。さて方臘の国内からあらわれて兵をひきいて立ったものは何人であったか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 銭王 第百十四回注八参照。
二 南柯の夢 第六回注四参照。
三 古人の言葉 『孟子』の公孫丑《こうそんちゆう》篇に見える。
四 必勝の文状 出陣の際の誓約書。必勝とともに敗戦のときには厳罰を甘受する旨を誓う。
五 更点 第百十四回注二四・二五参照。
六 御史台官 台官も御史のこと。すなわち百官の罪を糾正する官。台官はまた、漢代に尚書を中台と称したことから、宋代では尚書のことをもいったが、ここでは御史のことであろう。
七 都督府 唐代のはじめには各州に置かれたが、のち廃されて節度使がこれにかわった。宋代にはこの官はなく、これに類するものとして都監(兵馬都監)が各州に置かれた。元・明にはまた都督の名が用いられたが、性格はかわって諸衛を統率する武官をいった。
八 金吾 第百回注五参照。
九 旗旄旌節 いずれも旗。旌節は使者の持つ旗じるし。
一〇 草頭王子 第百十七回注六参照。王子は第百十六回注一〇参照。
一一 冲天転角の明金の〓頭 第百九回注一七参照。
一二 抱え主 原文は社老。親方の意。
一三 七縦七擒 諸葛孔明が南蛮の王・孟獲《もうかく》を七たび擒《とら》えて七たび縦《ゆる》し、ついに心服せしめるにいたったという故事。(『三国志演義』第八十九―九十回に見える)
第百十九回
魯智深《ろちしん》 浙江《せつこう》に坐化《ざげ》し
宋公明《そうこうめい》 錦《にしき》を衣《き》て郷《きよう》に還《かえ》る
さて、そのとき方臘の殿前に奏言し、兵をひきいて洞外に討って出たいと願い出たものは、ほかならぬ東牀〓馬《とうしようふば》(注一)たる主爵都尉《しゆしやくとい》(注二)の柯引《かいん》であった。方臘はその奏言を聞いて、ひとかたならずよろこんだ。柯〓馬はただちに南兵をひきしたがえ、雲璧《うんへき》奉尉(注三)をともない、武装して馬に乗り、出陣することになった。方臘はみずからの金甲と錦袍を〓馬にさずけ、さらに一頭の良馬を選んで彼をたたかいにいでたたせた。
かの柯〓馬は皇姪《こうてつ》の方杰《ほうけつ》とともに、洞内の御駕《ぎよが》を護る一万の軍勢と、駕前に仕える上将二十余名をひきしたがえ、〓源洞口に出て行って陣を布き列ねた。
一方、宋江の軍勢は洞口で策に窮したまま、将領を手わけして守りかためさせていた。宋江は陣中にあって、配下の兄弟はすでに三分の二もうしなわれ、方臘もいまだ捕らえることができず、南軍はいっこうに討ち出てくる気配もないので、眉をくもらせ、顔には憂色をただよわせていた。と、そのとき不意に前軍から知らせがあって、
「洞内から軍勢が交戦に出てきました」
という。宋江と盧俊義は知らせを受けると、急いで諸将に命じ、馬に乗り軍をひきいて出撃させた。軍形を布き列ねて、南軍の陣を見ると、まっさきに柯〓馬が出陣してくる。宋江の軍中で、それが柴進であることに気づかぬものはないはずである。宋江はただちに花栄に、馬を進めて迎え討つよう命じた。花栄は命を受けると、槍を横たえ馬を躍らせて陣頭へ出て行き、大声で怒鳴った。
「きさまは何者だ。よくも逆賊に加勢してわが大軍に敵対いたすな。きさまをとりおさえたときには、ずたずたに斬り刻んで骨肉を泥にしてくれようぞ。おとなしく馬をおりて降伏するがよい、そうすれば命だけは助けてやろう」
柯〓馬はそれに答えていうよう、
「わしは山東の柯引だ。わしの大名を聞かぬものはなかろう。きさまたち、たかのしれた梁山泊の、追い剥ぎ盗っ人の一味など、ものの数にははいらぬわ。きさまたちの腕にひけをとるようなわしじゃない。ただちにきさまたちを屠りつくして城池を取りもどしてみせようぞ。それがわしの本懐というものだ」
宋江と盧俊義は馬上でそれを聞いて、柴進がいった言葉を考えて、その心のなかをさとった。
「彼は柴《さい》という字を柯の字にかえたのだ。柴(薪《しば》)とは柯(木の枝)だ。また進《しん》という字を引《いん》の字にかえたのだ。引(引く)とは進(進める)ということだ」
呉用はいった。
「ひとまず花栄が彼とたたかうのを見ることにしましょう」
そのとき花栄は槍をかまえ馬を躍らせて、柯引にたたかいを挑んだ。両馬相交わり、二つの武器が互いにふりかざされた。両将はたたかいいよいよたけなわとなり、もつれあって一団となり、からみあって一塊となる。そのとき柴進が声をひそめていった。
「兄貴、ひとまず負けたふりをしてくれ。あした、事をはかろう」
花栄はそれを聞きとると、三合ほどわたりあったのち、馬首を転じて逃げだした。柯引は怒鳴りつけた。
「敗将め、追うのはよしてやろう。ほかにもっと腕のたつやつがいるなら、そいつを出してよこしておれとたたかわせるがよかろう」
花栄は馬を飛ばして陣地へもどり、宋江と盧俊義にわけを話した。呉用は、
「さらに関勝に、出て行って鋒をまじえさせることにしましょう」
といった。ただちに関勝が、青竜偃月刀《せいりゆうえんげつとう》を舞わせつつ、馬を飛ばして出陣し、
「山東の小将め、おれの相手になれるか」
と大喝した。かの柯〓馬は、槍をかまえてただちに迎え討った。ふたりは、いささかもたじろぐことなく鋒をまじえあった。両将はわたりあうこと五合ばかり、関勝も同じく負けたふりをして自陣へ逃げもどった。柯〓馬は追わずに、ただ陣頭で大声で叫んだ。
「宋軍には出てきておれとたたかう強将はいないのか」
宋江はさらに朱仝《しゆどう》を出陣させて柴進と鋒をまじえさせ、立ちまわりを演じてただ兵士たちの目をあざむかせた。ふたりはわたりあうこと六七合、朱仝が負けたふりをして逃げだすと、柴進はあとを追いかけて槍で空《くう》を突いた。朱仝は馬を捨てて自陣へ走り帰った。南軍の兵はただちにその良馬を奪い取った。柯〓馬は南軍をさし招いて、おそいかかってくる。宋江は急いで諸将に命じ、軍をひきつれて十里後退させ、陣地をかまえた。柯〓馬は軍をひきつれて一程《いつてい》(ひと宿場の距離)だけ追撃したのち、兵を収めて洞内へひきあげて行った。それよりさき、すでにあるものが方臘に報告して、
「柯〓馬はまことに英雄で、宋軍を撃退し、つづけて三将にうち勝ちました。宋江らはまた一戦をうしなって十里撤退いたしました」
と告げた。方臘は大いによろこんで、御宴《ぎよえん》を設けるよう命じ、〓馬が軍装を解くのを待って、後宮にいざなって座をさずけ、みずから金杯をささげ、なみなみと酌《つ》いで柯〓馬にすすめつつ、
「〓馬がこのように文武双全であろうとは、思いもよらなかった。わしはただその方を文才のある秀才とのみ思っていたのだが、もっと早く、これほどの英雄豪傑であることを知っていたならば、多くの州郡をうしなうこともなかったろうに。どうか大いにそのめざましい才腕を発揮して、たちどころに賊将を討ちとり、国家の基業を再興して、わしとともに太平のきわまりない富貴を享受することができるようにしてもらいたい」
といった。柯引は奏上していうよう、
「主上、どうかご安心くださいますよう。わたくし臣下といたしまして、心を傾けつくして聖恩に報い、ともに国家の繁栄を再興いたす覚悟でございます。あすは謹んで陛下を山の上にお迎えし、わたくしがたたかってたちどころに宋江らのやからを斬り伏せるところをごらんにいれましょう」
方臘はそういわれて心中大いによろこび、その夜は夜更けまで宴飲したのち、それぞれ宮中へひきとった。
翌朝、方臘は朝宴を設け、洞内のものに牛や馬を屠らせて、全軍の将兵に十分に食べさせたのち、それぞれ武装して馬に乗り、〓源洞口へおし出て行って、旗をふり喊声をあげ、軍鼓を鳴らしてたたかいを挑ませた。そして方臘は、内侍のものや近臣たちをひきつれて〓源洞の山頂へのぼり、柯〓馬のたたかいぶりを観戦した。
一方、宋江はその日命令をくだし、諸将にいいふくめた。
「きょうのたたかいは、ほかのときとはくらぶべくもなく、重要な関頭に臨んでいる。将領たちはおのおの十分に心して、賊の首魁・方臘をいけどりにするように。決して殺してはならぬ。兵士たちは、南軍の陣で馬首を転じて先導するのを見たならば、ただちに洞内へ斬りこみ、力をあわせて方臘を追いかけるよう。決して手ぬかりのないように」
全軍の将兵は命を受けると、みな、おのおの拳《こぶし》をなで掌《たなごころ》をさすり、剣を抜き槍をとって、洞内の金帛を奪い方臘をいけどって功をたて賞を得ようと、はやりたった。そのとき宋江ら諸将はいっせいに洞前に迫り、軍を散開して陣を布いた。見れば南軍の陣では、柯〓馬が門旗の下に立ち、まさに出陣しようとしているところであった。とそのとき皇姪《こうてつ》の方杰《ほうけつ》が、馬を立て戟を横たえつつ柯〓馬にいった。
「都尉どの、しばらく手をひかえ馬をとどめて、このわたしがまず宋軍の一将を斬り伏せるのをごらんください。そのうえで馬を出し、兵をひきいてたたかってくださいますよう」
宋軍では、燕青が柴進のうしろにつきしたがっているのを見て、諸将はみな、
「きょうの計略は必ずうまくいくぞ」
とよろこび、各人それぞれ準備をととのえた。
さて皇姪の方杰は、まっさきに馬を飛ばしてたたかいを挑んできた。宋江の陣からは、関勝が馬を出し、青竜刀を舞わせつつ方杰にたちむかった。両将は馬をまじえ、押しつもどしつわたりあうこと十合あまり、宋江はさらに花栄を出陣させて、ともに方杰とたたかわせた。方杰は二将が挟み討ちにしてくるのを見ながら、いささかもひるまず、二将と力戦した。わたりあうことさらに数合、勝敗はなお決しなかったが、方杰はたださえぎりかわしているだけとなった。宋江の隊内からは、さらに李応と朱仝が命を受け、馬を飛ばして出陣し、力をあわせて追い討った。方杰は四将が挟み討ってくるのを見ると、ようやく馬首をめぐらし、自陣をめざして逃げだした。
と、柯〓馬が門旗の下で方杰をさえぎり、手をあげて宋軍をさし招いた。宋将の関勝・花栄・朱仝・李応の四将は方杰を追いかけた。柯〓馬は手中の鉄鎗をかまえて飛び出し、まっしぐらに方杰におそいかかる。方杰は形勢わるしと見て、あわてて馬をおりて逃げようとしたが、そのいとまもないうちに、早くも柴進に槍で突き倒された。そこへ、うしろにいた雲奉尉の燕青が飛び出して、一刀のもとに方杰を斬ってしまった。南軍の諸将はおどろいて呆然となり、ばらばらと逃げだした。柯〓馬は大声で呼ばわる。
「おれは柯引なんぞじゃない。おれは柴進だ。宋先鋒の麾下の正将の小旋風というのはおれのことだ。随行の雲奉尉というのは、浪子の燕青だ。いまやすでに洞の内外の様子をくわしくつかんだ。もし方臘をいけどったものがあれば、高官にとりたて、名馬を選んで乗せようぞ。全軍の投降してくるものに対しては、みな刃《やいば》に血ぬることを免じ、刃《は》むかうものに対しては一家ことごとく打ち首にするぞ」
そして身を転じて四将を導き、大軍をさし招いて洞内へと斬りこんだ。
方臘は内侍や近臣たちをひきつれて〓源洞の頂上にいたが、方杰が斬り殺され、全軍が崩れ散るのを見て事《こと》急なるをさとり、いきなり金の交椅(床几《しようぎ》)を蹴倒して深山のなかへ逃げだした。
宋江は本隊の軍勢をひきつれ、五手に分かれて洞内へ斬りこんだ。みな競って方臘を捕らえようとしたが、はからずもすでに方臘は逃げていて、ただ侍従のものたちを捕らえ得ただけであった。
燕青は洞内へ飛びこみ、数人の腹心の従者にいいつけて、そこの庫のなかから二荷の金珠財宝を奪い取らせたのち、内宮や禁苑に火をつけた。
柴進が東宮へ斬りこんで行って見ると、かの金芝公主《きんしこうしゆ》(方臘がめあわせた柴進の妻)はみずから縊《くび》れて死んでいた。柴進はそれを見ると、ただちに宮苑ごと焼いてしまい、以下のおんな(注四)たちはそれぞれ逃げて行くにまかせた。
将兵たちはいっせいに正宮へはいって、嬪妃《ひんひ》(きさき)や彩女《さいじよ》(綵女《さいじよ》すなわち女官)、親軍《しんぐん》(近衛兵)や侍御《じぎよ》(侍従)、皇親《こうしん》(皇族)や国戚《こくせき》(外戚)たちをことごとく殺し、方臘の内宮にあった金帛をみな奪い取った。宋江は大いに将兵を放って宮居のなかに方臘をさがさせた。
ところで阮小七は、内苑の奥殿へ斬りこんで行ったところ、一つの箱を見つけ出した。それは方臘が偽造した平天冠《へいてんかん》・袞竜袍《こんりゆうほう》・白玉珪《はくぎよくけい》・無憂履《むゆうり》(いずれも天子の着用するもの)であった。阮小七はそれらの表《おもて》がみな珍珠奇宝で飾られ、竜鳳の錦の模様がほどこしてあるのを見て、
「これは方臘が着たやつだ。おれが着てみたってかまわんだろう」
と思い、さっそく袞竜袍を着、碧玉帯をしめ、無憂履をはき、平天冠をかぶってから、白玉珪をふところに挿して馬に跳び乗り、手に鞭をとって宮殿の前へ駆け出した。全軍の将兵たちはてっきり方臘だと思い、いっせいにさわぎ出してどっと駆け寄って行ったが、見ればなんと阮小七なので、一同はみな大笑いをした。阮小七はなおもふざけ、馬に乗って東へ西へと駆けまわりつつ、かの諸将や兵士たちが大勢でとりおさえようとするのを見てよろこんでいる。ちょうどそこでさわいでいるところへ、早くも童枢密がつれてきた大将の王稟と趙譚が加勢に洞内にはいってきたが、全軍の兵士たちが大騒ぎをしている声を聞いて方臘を捕らえているところだとばかり思い、功をあらそって駆けつけて見ると、なんと阮小七が天子の衣服をまとい平天冠をかぶってふざけているところではないか。王稟と趙譚は怒鳴りつけた。
「こやつ、方臘の真似をしようとして、そんな恰好をしているのであろう」
すると阮小七は大いに怒り、王稟と趙譚に指をつきつけながらいった。
「このふたりの糞やろうめ。もしもおれたちの兄貴の宋公明がいなかったら、きさまたちふたりのその素っ首は、とっくに方臘に刎ねられてしまっているところだ。いまおれたち兄弟の諸将が功を成しとげたところへ、きさまたちはあべこべに罵りにきやがったのか。朝廷ではくわしいことはご存じないから、ふたりの大将が力を添えて功を成しとげたと思いこまれるだろうよ」
王稟と趙譚はかっとなり、ただちに阮小七と同士討ち(注五)をしようとした。そのとき阮小七は、下士のものの槍をひったくり、いきなり飛び出して行って王稟を刺そうとした。呼延灼がそれを見て、あわてて馬を飛ばして行ってひきわけた。それよりさき下士のものの知らせがあって、宋江が馬を飛ばして行って見ると、阮小七が天子の衣服を着ている。宋江と呉用は怒鳴りつけて阮小七を馬からおろし、国禁の衣服を剥ぎとってかたわらへ投げすてた。宋江は詫びをいって王稟と趙譚をなだめた。王稟と趙譚のふたりは、宋江および諸将になだめられたものの、深く心に恨みを植えつけた。
その日、〓源洞では、斬り殺された死骸は野に満ち、流血は渠《みぞ》をなした。宋鑑《そうかん》のしるすところによれば、方臘の蛮兵二万余名を斬り殺したとある。
そのとき宋江は命をくだして四方に火をつけさせ、みずから監視して宮殿・竜楼・鳳閣・内苑・深宮・珠軒《しゆけん》・翠屋《すいおく》を焼きはらい、ことごとく灰にしてしまった。
これをうたった詩がある。
黄屋朱軒《こうおくしゆけん》半ば雲に入る
膏《あぶら》を塗り血を釁《ちぬ》って(民の膏血《こうけつ》をしぼって)自ら〓〓《きんきん》(欣然)たり
若《も》し還《なお》天意の奢侈《しやし》を容《ゆる》さば
瓊室阿房《けいしつあぼう》(注六)は焚けざる可し
そのとき宋江ら諸将は、監視して宮殿を焼きこわしてしまうと、軍をひきいて一同洞口に屯《たむろ》し、陣柵をめぐらした。いけどりにした人員を点検してみると、ただ賊の首魁の方臘を捕らえていないだけだった。宋江は命令をくだして将兵に山を捜索させ、村人たちに告示した。
「もし方臘を捕らえたものがあれば、朝廷に奏聞して高官にとりたて、その所在をとどけ出たものには、ただちに賞をあたえる」
ところで方臘はというに、〓源洞の山頂から逃げだすや、深山曠野をめざし、嶺をわたり林を抜け、赭黄《あかぎ》色の袍をぬぎすて、金の花模様の〓頭《ぼくとう》もうちすて、朝靴《ちようか》をぬいで草履麻鞋《そうりまあい》(麻《あさ》のわらぐつ)をはき、山をはいつつひたすら死をまぬがれようとして逃げて行った。夜どおし逃げて五つの嶺を越え、とある山のくぼみまで行くと、一軒の草庵がくぼみのなかにはまりこんだようになっているのが見えた。方臘は飢えに迫られていたので、その草庵へ行って一飯のもてなしにあずかろうと思ったが、そのとき、不意に松の木のうしろからひとりの肥った和尚が出てきて、いきなり禅杖で殴り倒し、縄でしばりあげてしまった。その和尚こそ、ほかならぬ花和尚の魯智深であった。魯智深は方臘を捕らえると、草庵へつれて行き、飯を出して食べさせてから、ひきたてて山を出て行った。と、ちょうど山を捜索していた兵士たちと出くわし、一同で、しばりあげて宋先鋒のもとへひいて行った。宋江は魯智深が方臘を捕らえたのを見て大いによろこび、さっそくたずねた。
「師匠、あなたはまたどういうわけで、この賊の首魁をちゃんと待ちうけていたのです?」
すると魯智深のいうには、
「わたしは烏竜嶺の上の万松林《ばんしようりん》でたたかい、夏侯成《かこうせい》を追って深山へはいって行ってから、夏侯成は討ちとりましたが、なおも賊兵を追って行くうちに、けわしい山の奥深くへはいり、路に迷ってしまったのです。どこまでも路をたどって行って、ちょうど荒野のなかの木の生いしげった(注七)山のなかへ行きましたとき、ひょっこりひとりの老僧に出あいました。老僧はわたしをそこの草庵のなかへつれて行って、こういいふくめたのです。
『柴も米も野菜もみんなあるから、ずっとここで待っていて、背の高い男が松林の奥から出てくるのを見つけたら、すぐとりおさえるように』
昨夜、山の前方に火の手のあがるのが見え、わたしは一晩中ずっと眺めていたのですが、それでもここの山路の路すじがどういう見当なのかわかりませんでした。今朝、この賊が山をはいあがってくるところを見つけましたので、禅杖で殴り倒し、つかまえてしばりあげたのですが、それが方臘だとは思いもかけませんでした」
「その老僧は、いまどこにおられる?」
と宋江がかさねてたずねると、魯智深は、
「その老僧は、わたしを草庵へつれて行って柴や米を出してくれると、そのままどこかへ行ってしまいました」
「その和尚はあきらかに聖僧羅漢《せいそうらかん》(羅漢は修行してさとりを開いた僧)で、そのような霊験をあらわして、あなたに大功をなさしめられたのです。都へ帰ったらばお上に奏聞しますから、還俗《げんぞく》して官途につき、京師に住んで余栄を妻子におよぼし、祖先の名を輝かし、父母の労苦の恩に報いたらよいでしょう」
すると魯智深の答えていうには、
「わたしは、心はすでに灰になっております(なんの欲望もありません)。官途につこうなどとは望みません。ただどこか清浄な地をさがしてそこで安らかに身をおえることができればそれで十分です」
「還俗するのがいやなら、京師へ行って名山大刹《めいざんたいせつ》の住持となり、僧の首《かしら》となって一門の名を輝かせば、また父母の恩に報いることができましよう」
智深はそれを聞くと、首をふって叫んだ。
「すべて望むところではありません。余計なものを求めたところで、それがなにになりましょう。ただ五体満足に往生する(注八)ことができさえすれば、それがなによりです」
宋江はそういわれると黙ってしまい、お互いに心たのしまなかった。
麾下の将領を点検してみると、全員みなそろっていた。宋江は方臘を陥車《かんしや》(囚人護送車)におしこめさせ、東京《とうけい》へひきたてて行って、天子に目通りすることとし、全軍の兵をうながし諸将をひきしたがえ、〓源洞《ほうげんどう》・清渓県《せいけいけん》をあとにして一同睦《ぼく》州へひき返した。
一方、張招討《ちようしようとう》は、劉都督《りゆうととく》・童枢密《どうすうみつ》および従《じゆう》・耿《こう》の二参謀を呼び寄せて一同睦州に集まり、兵をあわせて駐屯させていた。そこへ、宋江が大功をたて、方臘を捕らえて睦州へひきたててきたと聞くと、諸官はうちそろって祝いを述べに行った。宋江ら諸将は張招討に目通りした。張招討が、
「将軍が辺境の地に労苦され、兄弟のかたがたをうしなわれたことは、よく承知しております。このたびは功を全うされて、まことにご同慶のいたりです」
というと、宋江は再拝し、涙をながしながらいった。
「さきにわたくしども一百八人のものが、遼を討ち破って都へ凱旋いたしましたときには、ただのひとりの欠けるものもなかったのですが、このたびははからずも、まずはじめに公孫勝が去ってしまい、京師に数人のものを残してきましたうえ、揚州を奪回して長江をわたりましてからは、なんたることか、十人のうち七人までもうしなってしまったのでございます。今日《こんにち》、わたくしは生きながらえておりますものの、なんの面目あって(注九)再び山東の父老、故郷の親戚に見《まみ》えることができましょう」
「先鋒、そのようにおっしゃるものではありません。むかしから、貧富貴賤は宿世《すくせ》の所戴《さだめ》、寿夭長短は人生《このよ》の分定《さだめ》、といいますし、ことわざにも、福ある人は福なき人を送る(福あるものは福なきものより長らえる)、といいます。将領をうしなわれたことは、なんら恥ずべきことではありません。いまや、功をとげ名をあらわされたのです。朝廷のお耳に達したときには、必ず重くおとりたてになり、官爵をさずけられ、郷党に名をかがやかし、錦を着て故郷に帰られるわけで、誰とてこれを羨しく思わぬものはありますまい。つまらぬことに心を煩わされることなく、いまはただ軍を帰す用意をなさるように」
宋江は総兵(張招討のこと)ら諸官に拝謝してから、ひきさがって諸将に命令をくだした。
張招討はすでに軍令を発し、捕らえてきた賊徒の偽の官僚たちを、方臘だけは別に東京へ護送することにして、その他の従犯の賊どもはみな睦州の市中の仕置場で打ち首の刑に処した。
まだ奪回しなかった衢《く》・〓《ぶ》などのいっさいの諸県の賊の貪官《たんかん》たちは、方臘がすでに捕らえられたことを知って、その一半は逃亡し、一半は自首してきた。張招討はことごとく赦免して再び良民とならしめた。そしてただちに告示を出し、各地に宣撫をおこなって住民を安んぜしめ、その他の賊の手下になっていたもので、人をあやめたことのなかったものに対しては、その自首投降をみとめて再び郷民とならしめ、その資産や田地を返してやった。かくて州県をすべて取りもどすと、それぞれ守備の官軍を派遣して、辺境の防禦と住民の治安にあたらせたが、このことはそれまでとする。
さて張招討ら諸官は、一同睦州で太平の宴を設け、諸将や役人たちによろこびを述べ、全軍の諸兵をねぎらった。そして命令をくだして、先鋒や頭目たちに都へのぼる用意をさせた。軍令がつたえられると、おのおの旅立ちの準備をととのえて、陸続とその途につくことになった。
ところで、先鋒使の宋江は、陣没した諸将を偲《しの》んでは、はらはらと涙をながしていたが、思いがけなくも杭州で病にたおれた張横・穆弘ら六人のものは、朱富と穆春が看病にあたって、あわせて八人でかの地に残っていたところ、その後また病におかされてついにはかなくなり、わずかに楊林と穆春だけが帰投してきて、軍にしたがって進むことになった。宋江は陣没した諸将の労苦のほどを思いおこし、太平の日を迎えるにいたった今日《こんにち》、まさにその成仏を祈るべきであると考え、睦州の浄《きよ》らかな宮観《て ら》で、長旛《ちようはん》(のぼり)をたて、冥福を祈り罪をはらう法事をいとなみ、三百六十分《ぷん》の羅天大〓《らてんたいしよう》(星祭り)をおこなって、前後して亡くなった正偏の将領たちのために追善の供養をした。その翌日は、牛や馬を屠って犠牲《いけにえ》の供えものを用意し、軍師の呉用以下諸将とともにうちそろって烏竜神廟《うりゆうしんびよう》へ行き、幣帛を焚いて烏竜大王を祭り、竜王の加護の恩に対して感謝の祈りをささげた。そして陣地へもどると、陣没した麾下の正偏の将領全員のうち、その遺骸を収容することのできたものは、いずれもみなそれぞれ本葬をおこなった。
宋江と盧俊義は将兵一同をうちそろえ、張招討にしたがって杭州へひきあげ、聖旨のくだるのを待って都へ凱旋することになった。将領たち一同の功績はそれぞれ冊子にまとめ、さらに一冊にととのえたうえで御前へ呈上することにし、とりあえず奏文をしたためて天子に上奏した。かくて全軍いっせいに準備をととのえて、陸続として出発した。宋江が麾下の正偏の将領を見るに、わずかに三十六名が生きてもどるだけであった。その三十六人は、
呼保義《こほうぎ》宋江《そうこう》
玉麒麟《ぎよくきりん》盧俊義《ろしゆんぎ》
智多星《ちたせい》呉用《ごよう》
大刀《だいとう》関勝《かんしよう》
豹子頭《ひようしとう》林冲《りんちゆう》
双鞭《そうべん》呼延灼《こえんしやく》
小李広《しようりこう》花栄《かえい》
小旋風《しようせんぷう》柴進《さいしん》
撲天〓《はくてんちよう》李応《りおう》
美髯公《びぜんこう》朱仝《しゆどう》
花和尚《かおしよう》魯智深《ろちしん》
行者《ぎようじや》武松《ぶしよう》
神行太保《しんこうたいほう》戴宗《たいそう》
黒旋風《こくせんぷう》李逵《りき》
病関索《びようかんさく》楊雄《ようゆう》
混江竜《こんこうりゆう》李俊《りしゆん》
活閻羅《かつえんら》阮小七《げんしようしち》
浪子《ろうし》燕青《えんせい》
(以上が天〓星、すなわち正将)
神機軍師《しんきぐんし》朱武《しゆぶ》
鎮三山《ちんさんざん》黄信《こうしん》
病尉遅《びよううつち》孫立《そんりつ》
混世魔王《こんせいまおう》樊瑞《はんずい》
轟天雷《ごうてんらい》凌振《りようしん》
鉄面孔目《てつめんこうもく》裴宣《はいせん》
神算子《しんさんし》〓敬《しようけい》
鬼臉児《きれんじ》杜興《とこう》
鉄扇子《てつせんし》宋清《そうせい》
独角竜《どつかくりゆう》鄒潤《すうじゆん》
一枝花《いつしか》蔡慶《さいけい》
錦豹子《きんひようし》楊林《ようりん》
小遮〓《しようしやらん》穆春《ぼくしゆん》
出洞蛟《しゆつどうこう》童威《どうい》
翻江蜃《ほんこうしん》童猛《どうもう》
鼓上蚤《こじようそう》時遷《じせん》
小尉遅《しよううつち》孫新《そんしん》
母大虫《ぼたいちゆう》顧大嫂《こだいそう》
(以上が地〓星、すなわち偏将)
そのとき宋江は諸将とともに、軍勢をひきいて睦州をあとにし、杭州へむかって進んだ。まさに、収軍《しゆうぐん》の鑼《ら》は響いて千山震《ふる》い、得勝《とくしよう》の旗《はた》は開いて十里紅《くれない》なり、というところ。途中は格別の話もなく、早くも杭州にもどった。張招討の軍勢が城内にはいったので、宋先鋒はひとまず兵を六和塔《ろくわとう》に駐留させ、諸将はみな六和寺《ろくわじ》に休んだ。先鋒使の宋江と盧俊義は、朝夕、城内へ指令を聞きに行った。
さて魯智深は、武松とともに寺内の同じところに休んで命を待っていたが、城外の江山がことのほか美しく、すばらしい眺めなので、ふたりは心からよろこんだ。その夜は月明らかに風すがすがしく、水も空も一様に碧《みどり》色であった。ふたりが僧房で寝ていると、真夜中に、とつぜん江(銭塘江)で潮《しお》の音が雷鳴のようにひびき出した。魯智深は関西《かんせい》(函谷関《かんこくかん》の西方)の男で、浙江(注一〇)の潮信《ちようしん》(潮の別名)のことはてんで知らなかったから、戦鼓を鳴らして賊がおこってきたのだとばかり思いこみ、跳び起きて禅杖をさぐり取るなり、大声をあげながら飛び出して行った。僧侶たちはびっくりして、みんなやってきてわけをたずねた。
「お師匠、いったいどうなさったんです。どこへ駆け出して行かれるのです」
「戦鼓の音が聞こえたので、討って出ようとしているのだ」
と魯智深がいうと、僧侶たちはどっと笑い出して、
「お師匠、それは聞きちがいです。戦鼓の音ではございません。銭塘江の潮信の音なのです」
魯智深はそういわれて、びっくりしてたずねた。
「和尚さん、潮信の音というのは、どういうことなんです」
寺内の僧侶たちは窓をあけてその潮を指さし、魯智深に見せていった。
「この潮信というのは昼と夜の二回やってくるのですが、時刻をたがえることは決してありません。きょうは八月の十五日ですから、ちょうど三更の子《ね》の刻《こく》(夜半十二時)に潮がくるのです。信《しん》(約束)をたがえることがないので、これを潮信といっているのです」
魯智深は潮を見て、そのことからはっと悟り、手を打って笑いながらいった。
「わたしの師匠の智真長老さまが、まえにわたしに四句の偈《げ》をさずけてくださったが(第九十回)、その、
夏《か》に逢《あ》って擒《とりこ》にし
というのは、わたしが万松林でたたかって夏侯成をいけどりにしたことだし、
臘《ろう》に遇《あ》って執《とら》え
というのは、わたしが方臘をとりこにしたことだ。そしてきょうは、
潮《ちよう》を聴《き》いて円《えん》し
信《しん》を見て寂《じやく》す
というのにぴったりとあう。してみると、こうして潮信《ちようしん》に逢ったからには、まさに円寂《えんじやく》しなければならぬことになるが、和尚さんがた、おたずねしますが、円寂というのはいったいどういうことでしょうか」
寺内の僧侶たちは、
「あなたは出家の身でありながら、ご存じないのですか。仏門で円寂というのはすなわち死ぬということです」
すると魯智深は笑って、
「死ぬことを円寂というのなら、わたしは、いまもう、まちがいなく円寂することになっているのです。お手数ながら、わたしに湯を一桶《ひとおけ》沸かしてきてくださらんか。身体をきよめたいのです」
寺内の僧侶たちはみな、彼が冗談をいっているのだとばかり思っていたが、彼の例のはげしい気性を見てしたがわないわけにはいかず、しぶしぶ道人(寺男)に湯を沸かしてこさせて魯智深につかわせた。魯智深は恩賜の僧衣に着かえると、さっそく部下の兵士にいいつけた。
「兄貴の宋公明先鋒のところへ行って、わたしを見舞いにきてくださるようにつたえてくれ」
ついで寺内の僧侶たちにたのんで紙と筆をもらい、一篇の頌子《しようし》(功徳をたたえる文)を書いたのち、法堂へ行って禅椅《ぜんい》(曲〓《きよくろく》)を出してそのまんなかに坐り、香炉に名香を焚き、かの頌子の紙を禅床の上におき、両脚を重ねあわせて左の脚を右の脚の上に載せ、そのまましずかに昇天した。
宋公明が知らせを受けて、急いで頭領たちをつれて見舞いにきたときには、魯智深はすでに禅椅の上に坐ったまま動かなくなっていた。頌にいう。
平生善果《ぜんか》を修めず
只《ただ》人を殺し火を放つを愛す
忽地《たちまち》にして金縄《きんじよう》を頓開《とんかい》し
這裏《こ こ》に玉鎖《ぎよくさ》を〓《ひ》き断つ
〓《い》(おお)銭塘江上潮信来《ちようしんきた》る
今日方《まさ》に知る我は是れ我なるを
宋江と盧俊義は偈語《げご》を読んで、しきりに嗟嘆した。頭領たちはみな魯智深を見にきて、香を焚いて拝礼した。城内にいた張招討ならびに童枢密ら諸官もやってきて、香をささげて拝礼した。宋江はみずから金や帛《きぬ》をとり出して僧侶たちに配り、三日三晩の追善供養をおこない、朱塗りの龕子《がんし》(仏像を安置する箱)を合わせて遺骸をおさめ、出かけて行って、径山《けいざん》の住持の大恵禅師《だいえぜんし》にきてもらい、魯智深のために引導《いんどう》をわたして(注一一)もらうことにした。五山十刹(大きな寺々)の禅師がこぞってやってきて経をあげ、龕子を迎え出し、六和塔の裏で荼〓《だび》に付した。かの径山の大恵禅師は、手に松明《たつまつ》をとり、まっすぐ龕子の前へ行って魯智深を指さしながら数句の法語をとなえた。すなわち、
魯智深よ、魯智深よ、身を起《おこ》すこと緑林(山賊)よりす。両双の火を放つ眼、一片の人を殺す心。忽地《たちまち》にして潮に随って帰り去り、果然跟《したが》い尋ぬるに処なし。咄《とつ》、解《よ》く満空をして白玉を飛ばしめ、能《よ》く大地をして黄金と作《な》さしむ。
大恵禅師が引導をわたしおわると、僧侶たちは経をあげて冥福を祈り、龕子を六和塔の裏山で荼〓に付し、骨を塔院におさめた。魯智深が持っていた余分の衣鉢《えはつ》(袈裟と托鉢の応器)や朝廷から賜わった金銀、ならびに諸官のお布施などいっさいは、みな六和寺におさめて寺の公用(注一二)にあてた。渾鉄の禅杖と〓布《そうふ》の直〓《じきとつ》(木綿の墨染めのころも)も寺にとどめて仏に供えた。
そのとき宋江が武松を見るに、死にこそしていなかったものの、すでに廃人になっていた。武松は宋江にいった。
「わたしはもう不具廃疾の身で、都へのぼって拝謁を受けたいとは思いません。身のまわりの金銀や賞賜の品をすっかりこの六和寺の陪堂《ばいどう》(側堂)の公用におさめて、無役《むやく》の寺男にでもしてもらえれば、それで十分です。兄貴が功績の冊子をつくられるときには、わたしが都へのぼるようには書かないでください」
宋江はそういわれて、
「あなたの思いどおりにするがよいでしょう」
といった。武松はこれよりずっと六和寺で俗世を捨て、のち八十になって天寿を全うしたが、これはあとの話である。
さて、先鋒の宋江は毎日城内へ指令を聞きに行っていたが、やがて張招討の中軍の軍勢が前進したので、兵を城内にいれて屯営せしめた。半月ほどすると朝廷から勅使がきて、聖旨を奉じて先鋒の宋江らに軍を帰して都へもどるようにと命じた。張招討・童枢密・都督の劉光世・従と耿の二参謀・大将の王稟と趙譚らの中軍の軍勢は、陸続とさきに京師へひきあげて行った。宋江らはひきつづいて軍をまとめて都へ帰ることになったが、いよいよ出発というとき、はからずも林冲が風病《ふうびよう》(中風《ちゆうふう》)にかかって全身不随になり、楊雄は背中に瘡《そう》(できもの)ができて死に、時遷も攪腸〓《かくちようさ》(霍乱《かくらん》)をわずらって死んだ。宋江はそれを見て、かなしんでやまなかった。と、そこへまた丹徒県から文書がとどいて、楊志が死んだので県の墓所に葬ったと知らせてきた。林冲の風〓《ふうたん》(中風)はなおる見こみもなかったので、六和寺に残して武松に看病させた。のち半年で林冲は死んだ。
さて宋江は諸将とともに杭州をあとにして、京師へと進むことになった。と、そのとき浪子の燕青が、ひそかに主人の盧俊義のところにやってきて、すすめていうには、
「わたくしは幼少のときからご主人のお側につきしたがい、ご恩のほどは口ではいいつくせないほどでございますが、このたび、大事もすでに成就されましたについては、わたくし、ご主人とともに、かねてさずけられております官職をお返ししてひそかに身をかくし名を埋《うず》め、ひなびた静かな土地をさがして天寿を全うしたいものと思うのですが、ご主人はいかがお考えでしょうか」
盧俊義が、
「梁山泊で宋朝に帰順してよりこのかた、われわれ兄弟は百戦をたたかいぬいてきて、その労苦はなまやさしいものではなかった。辺境の地に辛酸をなめて、兄弟たちもそこなわれたが、幸いにわれら一家はふたりとも事なきを得て、いまや錦をきて故郷へかえり、妻子にまでも余栄をおよぼそうとしているところなのに、おまえはどうしてまた、わざわざそんな実《み》のない道を進もうというのだ」
というと、燕青は笑いながら、
「ご主人、それはちがいます。わたくしの道にこそ実《み》があるのです。おそらくご主人の道にはなんの実もないでしょう」
燕青のようであってこそ、進退存亡の機をわきまえているというべきであろう。このことをうたった詩がある。
地を略《おか》し城を攻むるの志已《すで》に酬《むく》わる
辞《じ》(いとま)を陳《の》べて伴《ともな》わんと欲す赤松《せきしよう》の遊《ゆう》(注一三)
時人苦《しき》りに功名を把《と》って恋《した》う
只怕《おそ》る功名の到頭《とうとう》(全う)せざるを
盧俊義はいった。
「燕青、わしはつゆほども異心をいだいたことはないのだ。朝廷がわしを退けられるはずはない」
すると燕青は、
「ご主人、しかしご承知のように、韓信《かんしん》は十の大きな功績をたてながら、ついには未央宮《びおうきゆう》で首を刎ねられてしまいましたし(注一四)、彭越《ほうえつ》は醢《かい》(ししびしお。塩漬けにする刑)にされて肉醤《にくしよう》になり(注一五)、英布《えいふ》も弓弦毒酒の難にあいました(注一六)。ご主人、どうかよくお考えくださいますよう。わざわいが身にふりかかってからでは、なかなかのがれられるものではありません」
「だが、韓信は三斉《さんせい》(山東)で勝手に王と称し(注一七)、陳〓《ちんき》に叛旗をひるがえさせた(注一八)というではないか。彭越が身を殺し家をほろぼしたのは、大梁(河南)で高祖の命にしたがわなかった(注一九)からだ。英布は九江(江蘇・安徽・河南にまたがる一帯)の地をあずかりながら、漢帝の江山をうかがおうとした(注二〇)のだ。だからこそ漢の高帝は雲夢《うんぼう》(湖北の大沢の名)へいつわりの行楽に出かけ(注二一)、呂后《りよこう》(呂太后)に彼(韓信)を殺させた(注二二)のだ。わしは彼らのような重爵を受けたことはないが、同時に彼らのような罪過をおかしたおぼえもない」
「わたしのいうことをきいてくださらないのですか。後悔なさるようなことにならなければよろしいが。わたしは宋先鋒においとまごいをして行こうと思っていたのですが、あのかたは義に厚いおかたですから、とうていゆるしてはくださらないでしょうから、ご主人さまだけにおいとまさせていただきます」
「わしにいとまごいして、どこへ行こうというのだ」
「やはり、ご主人さまのお近くに」
盧俊義は笑って、
「なんだ、やはりずっとこのままなのか。いったいどこへ行くのかと思ったぞ」
燕青は頭をさしのべて八拝の礼をした。そしてその夜のうちに金珠財宝を一荷にまとめてかつぎ、ついにどこへともしれず立ち去ってしまった。
翌日の朝、兵士が字を書いた一枚の紙をひろって宋先鋒にとどけた。宋江が字の書いてあるその紙を読んでみると、それにはこう書かれていた。
辱弟《じよくてい》燕青百拝して懇ろに先鋒主将の麾下に告ぐ。
収録《しゆうろく》を蒙りてより、多く厚恩を感ず。死を効《いた》し功を幹するも、補報《ほほう》尽し難し。今自ら思うに、命薄《うす》く身微《び》にして、国家の任用に堪えず、情願《こいねが》わくは山野に退居して、一間人《かんじん》と為《な》らんことを。本《もと》拝辞せんと待《す》るも、恐らくは主将義気深重にして、肯て軽《かろがろ》しく放たざれば、連夜潜《ひそ》かに去る。今口号《こうごう》(口ずさみの歌)四句を留めて拝辞す。望むらくは乞う主将の罪を恕《ゆる》されんことを。
雁序《がんじよ》(注二三)(兄弟)分《わか》れ飛ぶ自《みずか》ら驚く可し
官誥《かんこう》(天子の辞令)を納還して栄を求めず
身辺自《おのず》から有り君主の赦《しや》
風塵《ふうじん》(俗塵)を灑脱《さいだつ》して此の生を過《すご》さん
宋江は燕青の手紙と四句の口ずさみを読んで、心中鬱々としてたのしまなかった。
そのとき、陣没した将領の官誥と牌面(注二四)をことごとくとりまとめ、京師へ送り返して、お上へ返納した。
宋江の軍勢が蜿蜒と進んで蘇州の城外に達したとき、急に混江竜の李俊が、風疾《ふうしつ》(注二五)(おこり)にかかったといつわって、床についてしまった。配下の兵士がそれを宋先鋒に知らせにきた。宋江はその知らせを聞くと、医者をつれてみずから見舞いに行った。と、李俊は、
「兄貴、軍をもどす期限におくれないようにしてください。朝廷からおとがめを受けるといけませんから。それに、張招討がさきにもどられてからもうだいぶんたちますから。わたしを不憫とお思いくださいますなら、童威と童猛をあとに残して、わたしの看病をさせてくださいますよう。病気がなおりましたら、すぐあとからお目通りに駆けつけますから、兄貴の軍は、どうかそのまま都へおいでくださいますよう」
宋江はそういわれて、不承知ながらも別に疑ったりはせず、いたしかたなく軍をひきいて進むことにした。と、そこへまた張招討から督促の文書がまわされてきたので、宋江はぜひもなく、李俊・童威・童猛の三人をあとに残して、そのまま諸将とともに馬に乗って都へのぼって行った。
一方、李俊ら三人は、ついに費保《ひほう》ら四人をたずねて行って、かねての約束(第百十四回の冒頭参照)を守り、七人して楡柳荘《ゆりゆうそう》で相談をまとめたうえ、ことごとく家財を投じて船を建造し、太倉港《たいそうこう》から海へ乗り出して異国(注二六)へゆき、のち李俊は暹羅国《しやむこく》の国主となった。童威や童猛らはみな異国の役人になって栄耀をたのしみ、別に海浜を制覇するにいたったが、それは李俊らの後日譚(注二七)である。詩にいう。
幾《あやう》きを知るは君子の事
明哲夷倫《いりん》(常倫)を邁《こ》ゆ
重ねて結ぶ義中の義を
更に全うす身外の身を
潯水《じんすい》に舟〓《つな》ぐなく
楡荘《ゆそう》に柳又新《あらた》なり
誰か知らん天海は闊《ひろ》く
別に一家の人の有るを
さて、宋江ら諸将一行の軍は、途中は格別の話もなく、再び常州・潤州などの合戦の地を過ぎて行った。宋江は心を傷めずにはおられなかった。軍は長江をわたったが、生還するのは十分の二、三というありさま。揚州を過ぎ、淮安に進み、京師まであとわずかとなった。宋江は命令をくだして、諸将にそれぞれ謁見の準備をさせた。全軍の将兵は九月二十日すぎ東京に帰りついた。張招討の中軍の軍勢はすでに城内にはいっていた。宋江らの軍勢はしかし城外にとどまり、かつての(遼討伐の前後ともここに屯営した。第八十三回および九十回参照)陳橋駅《ちんきようえき》に駐屯して聖旨を待った。そのとき、さきに李俊らに付き添わせておいた下士のものが、蘇州からもどってきて報告した。
「李俊はもともと病気ではなく、都へのぼって役人になることを望まなかったのです。このたび童威・童猛とともにいずれへともしれず行ってしまいました」
宋江はまたうち嘆いた。そして裴宣に命じて、現に都にのぼってきている大小正偏の将領あわせて二十七名のものを筆録し、王事のために死んだものもいっしょにその名を記《しる》して、聖恩を拝謝する上奏文をととのえさせたうえで、天子に伺候拝謁するため正偏の将領たちにみな〓頭《ぼくとう》と礼服を用意させた。
三日ののち、天子は朝宴をひらかれた。近臣が宋江らのことを奏聞すると、天子は宋江らに拝謁を受けさせる旨を伝えしめられた。
その日、東の空がようやく明けそめたころ、宋江・盧俊義ら二十七名の将領は、聖旨を奉じてただちに馬に乗って入城した。東京の住民たちが見るに、これは三度目の拝謁であった。思えば、この宋江らがはじめて招安を受けたときには、聖旨を奉じてみな恩賜の紅や緑の錦襖をまとい、金や銀の牌面をさげて入城し拝謁を受けた(第八十二回)。遼の軍を破って都へ凱旋したときには、天子の命でみな戦袍をはおり甲《よろい》をつけて、武装のままで参内し拝謁を受けた(第九十回)。このたびの戦乱を鎮めての帰朝にあたっては、天子は特に文官のいでたちを命ぜられ、〓頭と礼服で拝謁を受けに入城した。東京の住民たちは、わずかにこれらの幾人かだけが帰ってきたのを見て、みなしきりにうち嘆いた。
宋江ら二十七人はやがて西陽門に着くと、整然とうちそろって馬をおり、参内した。侍御史《じぎよし》(注二八)が丹〓玉階《たんちぎよくかい》の下(丹〓は宮殿の階《きざはし》の下をいう)にみちびいた。宋江と盧俊義は先頭に立ち、進み出て八拝し、退いて八拝し、また中ほどまで進み出て八拝して、三八《さんぱ》二十四拝の礼をささげ、揚塵舞踏《ようじんぶとう》(拝舞)して、聖寿の万歳《ばんざい》をとなえ、臣下としての礼をつくした。徽宗皇帝は宋江らがわずかこれだけの人員になっているのをごらんになって、心中いたましく思し召された。皇帝は一同に殿上へのぼるようにとみことのりされた。宋江・盧俊義は諸将をひきしたがえて、みなで金階《きざはし》をのぼり、うちそろって珠簾《み す》の下にひざまずいた。皇帝は諸将に平身《へいしん》(ひざまずかずに立って身をこごめる礼)をゆるされた。左右の近臣が珠簾を捲きあげると、天子は、
「その方ら諸将が江南に征討して、かずかずの労苦をなめたことはよく承知している。その方ら兄弟が、大半のものを欠くにいたったことは、聞くだに哀悼にたえぬ次第である」
と声をかけられた。宋江は流れる涙をとどめもあえず、再拝して奏上した。
「わたくし、鹵鈍薄才《ろどんはくさい》の身をもちまして、たとえ肝脳を地に塗《まみ》れさせますともなお国家の大恩に報いることはできぬと心得ております。そのむかし、ふり返ってみますれば、わたくしとともに義に集まりました兵一百八人、五台山にのぼって同生同死を誓ったのでございますが(第九十回)、はからずもこのたび、十のうち八までもうしなうにいたりました。つつしんでここにその名を記《しる》しました。詳細を奏上することはさしひかえさせていただきますが、なにとぞお目とおしのほど、伏してお願い申しあげる次第でございます」
「その方らの麾下の王事に没したものについては、それぞれの墓に加封するようとりはからい、その功の埋もれることのないようにいたそう」
陛下がそう仰せられると、宋江は再拝して上奏書一通をさし出した。その上奏文は、
平南都総管《へいなんとそうかん》・正先鋒使《せいせんぽうし》・臣宋江等、謹んで表《ひよう》を上《たてまつ》る。伏して念《おも》うに臣江《こう》等、愚拙庸才《ぐせつようさい》、孤陋《ころう》の俗吏にして、往《さき》に無涯《むがい》の罪《つみ》(叛逆罪)を犯すも、幸いに莫大の恩を蒙る。高天厚地も豈《あに》能く酬《むく》いん、粉骨砕身するも何ぞ報いるに足らん。股肱《ここう》力を竭《つく》し、水泊を離れて以て邪を除き、兄弟《けいてい》心を同じくし、五台に登って而して願《がん》を発す。忠を全うし義を秉《と》り、国を護り民を保つ。幽州城《ゆうしゆうじよう》に遼兵を鏖戦《おうせん》し、清渓洞《せいけいどう》に方臘を力擒《りよくきん》す。則ち微功の上達すと雖も、良将の下沈《かちん》(陣没)するを奈縁《いかん》せん。臣江、日夕《じつせき》憂懐し、旦暮悲愴《たんぼひそう》す。伏して天恩を望み、俯《ふ》して聖鑑を賜わり・已に没する者をして皆恩沢《おんたく》を蒙り、生に在る者をして洪休《こうきゆう》に庇《ひ》する(庇護を蒙る)を得せしめたまわんことを。臣江、乞うらくは田野に帰り、願わくは農民と作《な》らば、実《まこと》に陛下の仁育の賜《たまもの》なり。臣江等、戦悚《せんしよう》(恐懼)の至りに勝《た》えず。謹んで存没の人数《じんすう》を録し、表《ひよう》に随《したが》えて上進し、以て聞《ぶん》す。
陣亡せる正偏の将領五十九名
正将十四名
秦明 徐寧 董平 張清 劉唐 史進 索超 張順 阮小二 阮小五 雷横 石秀 解珍 解宝
偏将四十五名
宋万 焦挺 陶宋旺 韓滔 彭〓 鄭天寿 曹正 王定六 宣賛 孔亮 施恩 〓思文 〓飛 周通 〓旺 鮑旭 段景住 侯健 孟康 王英 扈三娘 項充 李袞 燕順 馬麟 単廷珪 魏定国 呂方 郭盛 欧鵬 陳達 楊春 郁保四 李忠 薛永 李雲 石勇 杜遷 丁得孫 鄒淵 李立 湯隆 蔡福 張青 孫二娘
路に於て病没せる正偏の将領十名
正将五名
林冲 楊志 張横 穆弘 楊雄
偏将五名
孔明 朱貴 朱富 白勝 時遷
杭州六和寺に坐化《ざげ》せる正将一名
魯智深
臂を折って恩賜を願わず六和寺に出家せる正将一名
武松
京師より薊州に帰って出家せる正将一名
公孫勝
恩賜を願わず路上に於て去れる正偏の将四名
正将二名
燕青 李俊
偏将二名
童威 童猛
はじめより京師に残留せるもの及び召還されし医師にして現に京師に在る偏将五名
安道全 皇甫端 金大堅 蕭譲 楽和
現に拝謁を受けし正偏の将領二十七名
正将十二名
宋江 盧俊義 呉用 関勝 呼延灼 花栄 柴進 李応 朱仝 戴宗 李逵 阮小七
偏将十五名
朱武 黄信 孫立 樊瑞 凌振 裴宣 〓敬 杜興 宋清 鄒潤 蔡慶 楊林 穆春 孫新 顧大嫂
宣和五年九月 日 先鋒使臣宋江 副先鋒使臣盧俊義等謹んで表を上《たてまつ》る
皇帝は上奏書をごらんになって、しきりに嗟嘆された。そして、
「その方ら一百八人は、上は星曜《ほしぼし》に応ずる身でありながら、いまはわずかに二十七人のものがここにいるだけ。ほかに辞し去ったものが四人。まことにもって、十のうちその八をうしなったというわけか」
と仰せられ、ただちに聖旨をもって、王事のために命《いのち》をうしなった正将偏将に対しては、それぞれ爵位を授《さず》けて、正将は忠武郎《ちゆうぶろう》に、偏将は義節郎《ぎせつろう》に封じ、子孫があればただちに都にのぼらせてそれぞれ官爵を受け継がせ、子孫のないものは勅命によって廟を建て、その土地のものに祭祀をおこなわせることにされた。そのうちで特に張順は、霊験をあらわして功をたてたため、勅命をもって金華将軍《きんかしようぐん》に封ぜられ、僧の魯智深は、賊をいけどりにして功をたて、終りを全うして大刹《たいせつ》に坐化《ざげ》したとあって、義烈照曁禅師《ぎれつしようきぜんし》の称号を加贈された。武松はたたかって功をたて、負傷して腕をうしない、いまは六和寺で出家しているとのことで、清忠祖師《せいちゆうそし》に封じ、銭十万貫を賜わって天寿を全うせしめられることにされた。いまは亡き女将軍ふたりに対しては、扈三娘には花陽郡夫人《かようぐんふじん》の位を、孫二娘には旌徳郡君《せいとくぐんくん》の位を追贈された。
現に拝謁を受けにきているものについては、先鋒使には別に封爵されるとして、その他の正将十名にはそれぞれ武節将軍《ぶせつしようぐん》の称号と諸州の統制《とうせい》の任をさずけ、偏将十五名にはそれぞれ武奕郎《ぶえきろう》の称号と諸路の都統領《ととうりよう》の任を授けられて、軍を統べ民を治め、省院の命をきくようにとのお沙汰があった。女将軍たる顧大嫂には、東源県君《とうげんけんくん》の称号を授けられた。
先鋒使宋江 武徳大夫・楚《そ》州安撫使を加授し兵馬都総管を兼ねしむ
副先鋒盧俊義 武功大夫・廬《ろ》州安撫使を加授し兵馬副総管を兼ねしむ
軍師呉用 武勝軍《ぶしようぐん》承宣使を授く
関勝 大名府《たいめいふ》正兵馬総管を授く
呼延灼 御営《ぎよえい》兵馬指揮使を授く
花栄 応天府《おうてんふ》兵馬都統制を授く
柴進 横海軍滄《おうかいぐんそう》州都統制を授く
李応 中山府〓《ちゆうざんふうん》州都統制を授く
朱仝 保定府《ほていふ》都統制を授く
戴宗 〓州府《えんしゆうふ》都統制を授く
李逵 鎮江潤《ちんこうじゆん》州都統制を授く
阮小七 蓋天軍《がいてんぐん》都統制を授く
皇帝は勅命をもって正偏の将領それぞれに官爵をさずけられ、諸将が、聖恩を謝してお受けすると、さらに賞賜を給付された。
偏将十五名 各金銀三百両・綵緞五疋を賜う
正将十名 各金銀五百両・綵緞八疋を賜う
先鋒使宋江・盧俊義 各金銀一千両・錦段十疋・御花袍《ぎよかほう》一套・名馬一匹を賜う
宋江らは聖恩を拝謝したのち、さらに、
「睦州の烏竜大王《うりゆうだいおう》が、二度にわたって霊験をあらわし、国を護り民を保ち、将兵を救って全勝を得させてくださいました」
と奏上した。皇帝はその旨をおききとどけになって、勅旨をもって忠靖霊徳普祐孚恵竜王《ちゆうせいれいとくふゆうふけいりゆうおう》の称号を追贈された。また御筆《ぎよひつ》をもって睦《ぼく》州を厳《げん》州と改め、歙《きゆう》州を徽《き》州と改められた。それは方臘が謀叛をおこした地なので、それぞれ反対の意味の字体としたのである。清渓県《せいけいけん》は淳安県《じゆんあんけん》と改め、〓源洞《ほうげんどう》はきり開いて山にし、勅命をもってその州の府庫の出費によって烏竜大王の廟を建立せしめられ、牌額《はいがく》を下賜された。その古蹟はいまもなお残っている。江南の方臘が破壊した地方の、被害をうけた住民はすべて三年のあいだ賦役を免除された。
その日、宋江らがそれぞれ聖恩を謝しおわると、天子は太平の宴を設けて功臣を慶賀するよう命ぜられ、文武百官・九卿四相がみな御宴に参列した。この日、慶賀の宴もおわって諸将は聖恩を拝謝した。宋江はかさねて奏上した。
「わたくしの部下の、梁山泊にて招安をお受けいたしました兵卒は、その大半が陣没いたしましたが、なお生存していて故郷に帰ることを望んでおるものもございますゆえ、なにとぞ聖恩を垂れさせたまいますよう」
天子はききとどけられて、
「兵となることを願うものには、銭一百貫・絹十疋を授け、竜猛《りゆうもう》・虎威《こい》の二営(近衛の軍営)に編入し、月々扶持を支給する。兵となることを願わぬものには、銭二百貫・絹十疋を授け、それぞれ故郷へ帰らせて住民の世話役人にならせるよう」
との勅旨をくだされた。宋江はさらに奏上した。
「わたくしは〓城県《うんじようけん》のものでございますが、罪をおかしましてより故郷に帰ることをはばかってまいりました。つきましては、陛下のご寛恩にあずかりまして、休暇をいただき、故郷に帰って墓参をいたし、親族をたずねましたうえで、楚州の任につきたいと存じますが、もとより一存ではいたされませぬこと、陛下のおゆるしをお願いする次第でございます」
皇帝はそれを聞いて大いによろこばれ、さらに銭十万貫を帰郷の資として下賜された。宋江は聖恩を拝謝したのち、お暇《いとま》を乞うて退朝した。
翌日、中書省では太平の宴を設けて諸将を歓待した。三日目には枢密院がさらにまた宴を設けて太平を祝った。
かの張招討・劉都督・童枢密・従と耿の二参謀・王と趙の二大将には、朝廷からしかるべく官爵を陞叙《しようじよ》されたが、それはまた別の話である。
太乙院《たいいついん》(刑罰を司る役所)は上奏をたてまつって聖旨を仰ぎ、方臘を東京の市中の仕置場で凌遅《りようち》の刑に処し、刻み斬りにして三日間、見せしめにした。これをうたった詩がある。
宋江重賞されて官に陞《のぼ》るの日
方臘刑に当《あた》り〓《か》(凌遅の刑)を受くるの時
善悪は到頭《とうとう》(結局)終《つい》に報《むくい》有り
只来《ただきた》るの早きと来るの遅きとを争うのみ
さて、宋江は、聖旨を奏請して休暇をたまわり、故郷へ帰って親族のものをたずねることになった。部下の兵たちは、兵となることを願うものはその名を報告して、竜猛・虎威の二営に編入され、賞賜を拝領して騎兵として守備の任につき、民となることを願うものは、銀両を拝領してそれぞれ故郷へ帰り住民の世話役人となることになった。麾下の偏将もその恩賜の品を拝領し、軍をひきい民を治める大命を受けて、辺境守備の官となり、天子の辞令を拝してそれぞれ任におもむき、国のために民の治安にあたることになった。
宋江はそれらの手はずがおわると、しばらく一同に別れ、弟の宋清をつれ、随行の兵一二百人をしたがえ、御物《ぎよぶつ》・行李・衣装・賞賜の品をかつがせて、東京をあとに山東へむかうことになった。かくて宋江と宋清は馬に乗り、錦を衣《き》て故郷へ還《かえ》ることとなり、都をあとにふるさとへ帰って行った。途中は格別の話もなく、やがて山東は〓城県の宋家村に着いた。村中の旧知・長老・親戚のものたちが、うちこぞって出迎えた。宋江が屋敷に帰ってみると、はからずも宋太公はすでに故人になっていて、柩《ひつぎ》はそのまま家にとどめてあった(注二九)。宋江と宋清は哀惜にたえず、痛哭してかなしんだ。一族のものや下男たちは、みな宋江に挨拶にきた。家屋敷・田地・資財・器物は宋太公の在世のときにすっかりととのえられていて、むかしのままになっていた。(宋江が梁山泊にはいったとき一家はいちど家を捨て、招安後、宋太公だけが家に帰ったのである。)宋江は屋敷で法事をいとなみ、僧侶を招き道士を迎えて、功徳をほどこし、亡き父母や祖先の供養をした。州や県の役人たちも相ついで訪ねてきた。宋江は日を選び時を選んで、みずから太公の柩をはこんで高原の地に埋葬した。この日、州の役人・近隣の長老・賓客・一族のものたち、ことごとくが集まって野辺送りをしたが、このことはそれまでとする。
宋江は玄女娘娘《げんじよじようじよう》への誓願(第四十二回でお宮の修理などを誓った)のまだはたされていないことを思い、銭五万貫を投じ、工匠らに命じて九天玄女娘娘の廟宇《びようう》と東西の廊《わたどの》と山門を再建させ、聖像を粧《よそお》い飾り、東西の廊には彩色をほどこして、立派に完成した。
いつしか村で日をすごしてしまったので、宋江は陛下のおとがめを受けてはと畏《おそ》れ、日を選んで喪服をぬぎ、さらに幾日か法事をいとなんだうえ、盛大な宴を設けて村の長老たちを招き、酒を酌みかわして別れをおしんだ。翌日は親戚のものも一同で宴を設けて慶賀したが、このことはそれまでとする。
宋江は屋敷を弟の宋清にひきわたした。宋清は官爵を受けた身ではあったが、そのまま村で農耕につとめつつ祖先の霊を祭り、あまった銭財は貧しいものたちに恵みあたえた。
宋江は村で数ヵ月をすごすと、村の長老や旧知のものに別れを告げて再び東京に帰り、兄弟たちに会った。みなのなかには、家族をひきとってきて都に移り住もうとするものもあり、任地へ去って行くものもあった。また、夫《おつと》や兄弟を王事のためにうしなったものは、すでに朝廷から恩賜の金帛を受けて郷里へもどるよう命ぜられていて、その家には特別な思し召しがくだされていた。宋江は東京に帰ると、これらのものを送り出したり故郷へ帰らせたりして、とどこおりなくあと始末をしたうえで、朝廷よりの命を受け、省院の諸官に別れを告げ、任地へおもむく用意をはじめた。と、そこへ神行太保の戴宗が宋江を訪ねてきて、座談のおり、ある話をいい出した。そのことから宋公明は、生きては〓城県の英雄となり、死しては蓼児〓《りようじわ》の土地(土地神)となるにいたるのである。まさに、凜々《りんりん》たる清風は廟宇《びようう》に生じ、堂々たる遺像は凌煙《りようえん》(注三〇)に在り、というところ。いったい戴宗は宋江にどんなことを話し出したのであろうか。それは次回で。
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一 東牀〓馬 〓馬は天子の女婿であるが、東牀《とうしよう》はたんに女婿《むすめむこ》をいう。『晋書』の王羲之《おうぎし》伝に、太尉の〓鑒《ちかん》が門下の者を王導《おうどう》の家へ女《むすめ》の婿をさがさせにやったところ、王氏の息子らがみなつつしみ深くしているなかで、ただひとり傍若無人に坦腹《たんぷく》して(腹をむき出して)東牀に寝ている男がいた。〓鑒《ちかん》はそれを聞いて「東牀坦腹の者、佳婿なり」といい、訪ねて行って婿に選んだ。それが王羲之であったという。この故事から、女婿のことを東牀、あるいは坦腹という。
二 主爵都尉 封爵のことを司る長官。
三 奉尉 奉車都尉のこと。第百十六回注一五参照。
四 おんな 原文は細人。みめよくして人の妾となったものをいう。
五 同士討ち 原文は火併。仲間同士たたかうこと。第十九回注五参照。
六 瓊室阿房 瓊室は殷の紂王の建造した宮殿。阿房は秦の始皇帝の建造した宮殿。ともに贅美をつくしたものであったというが、前者は周の武王に、後者は項羽のために焼きこわされた。
七 木の生いしげった 原文は琳瑯。すなわち林浪で、叢林あるいは深林の意。
八 五体満足に往生する 原文は〓〓屍首。〓〓は第六十五回注三参照。
九 なんの面目あって…… 項羽が烏江《うこう》のほとりで自決したときの言葉になぞらえられている。江東にわたって再起をはかるようにと勧めた烏江の亭長(宿場の長)に対して、項羽はいった、「籍(項羽の名)、江東の子弟八千人と江をわたって西す。今一人の還《かえ》るものなし。縦《たと》い江東の父兄、憐《あわ》れんで我を王とすとも、我なんの面目あって復《ふたた》び見えん。独り心に愧《は》じざらんや」(『十八史略』)
一〇 浙江 銭塘江の別称。
一一 引導をわたす 原文は下火。荼〓の火を下すの意。
一二 寺の公用 原文は常住公用。常住とは僧侶の言葉で寺のこと。また用具を常住物といい、略して常住ともいう。
一三 赤松の遊 赤松は神農のときの雨師(雨の神)だったといわれる仙人で、火のなかへもはいることができ、よく崑崙山に遊び、風雨のまにまに上下することができたという(『神仙伝』)。赤松の遊とは、従って、融通無礙・自由奔放な行動をいう。
一四 韓信は十の大きな功績をたてながら…… 韓信ははじめ項羽に事《つか》えていたが、のち漢に降り、漢の高祖を助けて天下統一の大業をなさしめた。張良《ちようりよう》・蕭何《しようか》とともに建国の三功臣のひとりであるが、やがて次第に高祖にうとまれて閑職に追いやられた。のち、陳〓《ちんき》が叛乱をおこして高祖が討征に出たとき、留守をあずかっていた呂太后《りよたいこう》と蕭何に対して、韓信が陳〓と気脈を通じていることを告げたものがあった。呂太后と蕭何は高祖から、韓信の動向に気をつけるようにいわれていたので、陳〓平定の祝宴を開くといつわって韓信を呼び寄せ、未央宮のほとりでその首を刎《は》ねた。(『西漢通俗演義』。以下ここに引用される故事は正史にもとづくものではなく、稗史・講談のたぐいである)
一五 彭越は醢にされて…… 彭越も韓信とおなじくはじめは項羽に従っていたが、のち漢に降って高祖に事え、梁を平定して梁王に封ぜられた。韓信と親しく、陳〓の乱のときには韓信と同じ行動をとって病と称して出兵しなかったため、韓信が殺されたと知ってみずからも同じ運命かと危ぶんでいるおりしも、家臣で彼に恨みをいだいていたものが高祖に彭越は謀叛をくわだてていると讒言した。高祖は捕らえて殺そうとしたが、昔日の功を思って見のがし、官位を剥いで蜀(四川)へ追放した。だが呂太后が後日の難を説いて殺すことを主張したため、高祖はついに彭越を殺して醢《ししびしお》にし、見せしめとしてその塩漬けの肉片を天下の諸侯に配ったという。
一六 英布も弓弦毒酒の難に…… 英布もはじめは韓信・彭越とおなじく項羽に従っていた。のち漢に降って高祖の天下統一を助け、功によって淮南王《わいなんおう》に封ぜられたが、やがて次第にうとまれるにいたった。彼は高祖から彭越の塩漬けの肉を送られて大いに憤慨し、その使者を斬り、諸方に檄《げき》を飛ばして叛旗をひるがえした。高祖はみずから兵をひきいて英布を攻め大いにこれを破ったが、英布は敗れながらも一矢をむくいて高祖に矢傷を負わせた。英布は逃げて長江をわたり、呉の国の呉〓《ごぜい》のもとに身を寄せたところ、呉丙は留守で、甥の呉成に迎えられた。呉成は英布を殺して高祖にとりいろうと考え、酒を飲まして酔いつぶしたうえでその首を刎ねてしまった。
一七 韓信は三斉で勝手に王と称し 高祖が天下を統一する前、韓信は高祖の元帥として斉(山東)を攻め、これを平定したが、そのとき部下の智将・〓徹《かいてつ》が、この機会に漢王(高祖)に斉王の称号を請うて、将来天下の覇をにぎるための地歩をかためておくようにとすすめた。漢王は韓信の要求に下心のあるのを見て大いに怒ったが、張良と陳平が、いま威勢の大いに高まっている韓信の機嫌をそこねることは有利ではないととりなだめたため、漢王は韓信に斉王と名乗ることをゆるした。
一八 陳〓に叛旗をひるがえさせた 陳〓は韓信に私淑していた。高祖が帝位についてしばらくのち、辺境を侵してきた北方民族の討伐を高祖は陳〓に命じた。陳〓が出陣の途上韓信を訪ねると、韓信は、自分は建国の功労者であるにもかかわらず冷遇されているといい、北方の蕃族を平定したところで得るところはないだろうといった。陳〓がどうすればよいかときくと、韓信は、北方で叛旗をひるがえすがよい、そうすれば高祖は怒ってみずから出陣するだろうから、その隙に自分も蜂起して挟み討ちにし、一挙に天下を奪い取ろうといった。こうして陳〓は叛旗をひるがえすにいたった。
一九 大梁で高祖の命にしたがわなかった 陳〓が叛旗をひるがえしたとき、高祖は大梁の地を治めている彭越に対して、討伐の兵をおこすように命じた。このとき韓信は彭越と英布に密書を送って、高祖はふたりの命をねらっているから、みだりに兵をおこしてみずからの地を空けないようにと告げた。そこでふたりは仮病をつかって兵をおこすことを避けた。
二〇 漢帝の江山をうかがおうとした 英布は項羽の下にあったとき九江の王に封ぜられていたが、のち漢に降ってからも淮南王の封爵を受けて九江にあった。漢の天下をうかがおうとしたことは注一六に記したとおりである。
二一 漢の高祖は雲夢へいつわりの行楽に…… 高祖は帝位についてから、相ついで各地の諸侯や将軍をたおし、あるいは臣事させていったが、ひとり項羽の部下の鐘離昧《しようりまい》の行方がわからなかった。やがて鐘離昧は韓信がかくまっていることがわかった。高祖は怒って兵を出そうとしたが、韓信の威勢が強く迂闊に決行するわけにもいかなかった。と、陳平が献策して、古来帝王が民情視察のために雲夢へ行遊したのにならい、帝も雲夢に遊んで諸侯を会同されるならば、韓信とて出てこないわけにはいかない、そこをとりおさえてしまえば労せずして討つことができるといった。それを知った韓信は、鐘離昧に実情を告げてその首を所望した。鐘離昧は韓信の不義を罵りつつみずから首を刎ねて死んだ。韓信はその首をたずさえて高祖に見《まみ》えた。
二二 呂后に彼を殺させた 注一四参照。
二三 雁序 飛雁の順序あること。第三十五回注八参照。
二四 牌面 金牌・銀牌のこと。第八十二回注二・三参照。
二五 風疾 さきに林冲の場合には風病とあったのを中風と割注を付した。この風疾も同じ言葉だが、第百二十回のはじめに、同じく風疾という言葉が見え、不時挙発(しょっちゅうおこる)とある。この場合は中風ではなく、おこりであろう。神経痛、中風、熱病、精神病など、すべて風という字であらわされる。
二六 異国 原文は化外国。中国の教化のいまだおよばぬ国の意。
二七 李俊らの後日譚 李俊らが暹羅へ行ったというこの件《くだ》りをもとにして、明末・清初のころ、陳忱《ちんたん》という人が『水滸後伝』という四十回から成る小説を編んでいる。そのあらすじは、役人の地位を奪われた阮小七が、梁山泊を訪ね、そこで役人と喧嘩してこれを斬ってしまったことから再び世をはばかる身となるということから話を起こし、各地に散らばっていた生きのこりの梁山泊の好漢たちが、宋江・盧俊義・呉用・花栄・李逵らは別として(第百二十回で彼らは死ぬから)、それぞれ数奇な運命を経て再び相集まり、反抗ののろしをあげるが、ついに抗しきれず、朝廷の大軍に追いつめられたあげく暹羅へ逃げ、そこで自由な別天地をきずく。ここでは李俊が主領である。
二八 侍御史 ここでは殿中侍御史のこと。殿中にあって主として法令制度を司る官。
二九 柩はそのまま家にとどめてあった 死者はその肉親の手によって郷里の墓地に埋葬されるまでは、棺におさめたまま家あるいは寺院に安置しておくならわしがあった。
三〇 凌煙 凌煙閣のこと。第五十四回注六参照。
第百二十回
宋公明《そうこうめい》 神《しん》もて蓼児〓《りようじわ》に聚《あつ》まり
徽宗帝《きそうてい》 夢もて梁山泊《りようざんぱく》に遊ぶ
さて錦を衣《き》て故郷に還《かえ》った宋江は、東京《とうけい》にもどってきて兄弟たちに会い、それぞれに旅の支度をととのえさせて、任地へたって行かせた。するとそのとき、神行太保の戴宗が宋江を訪ねてきて、ふたりは坐って世間話をしたが、やがて戴宗が立ちあがっていうには、
「わたしはさきに聖恩を受けて〓《えん》州の都統制に任命されましたが、このたび、ぜひとも辞令を返上し、泰安《たいあん》州の嶽廟《がくびよう》(泰山廟)へ行って廟にお仕えし、静かに暮らして余生を送りたいと考えております。それがなによりのしあわせだと思うのです」
「あなたは、どういうわけでそんな考えをおこされたのです」
と宋江がいうと、戴宗は、
「夜、崔府君《さいふくん》(冥界の神)に呼ばれた夢を見ましたので、そのような善心をおこしたのです」
「あなたは生きていながらすでに神行太保なのだから、ゆくゆくはきっと嶽府の霊聡《れいそう》(霊験ある神)となられることでしょう」
と宋江はいった。こうして別れてから、戴宗は辞令を返上すると、泰安州の嶽廟へ行って廟に仕え、出家となって毎日ねんごろに聖帝《せいてい》(仁聖帝《じんせいてい》すなわち東嶽大帝)に香火をささげ、心からつつしんで怠りなく仕えた。やがて数ヵ月たって、ある夜、病むこともなく、道士たちを招いて別れの挨拶を述べ、笑いながら大往生をとげた。のち嶽廟でしばしば霊験をあらわしたので、州の人々や堂守りたちが廟内に戴宗の神像を泥でつくったが、その下地は彼のほんとうの身体であった。
また阮小七は、辞令を受けたのち宋江に別れを告げて蓋天軍《がいてんぐん》へ行き、都統制の任についていたが、大将の王稟《おうりん》と趙譚《ちようたん》が〓源洞で辱《はずか》しめられた古い恨みを根に持って、しきりに童枢密に対して阮小七の落度をいいたて、
「かつて方臘の赭黄袍・竜衣・玉帯を身につけたことは、一時のたわむれとはいうものの、結局はよからぬ心をいだいているからなのです。しかも蓋天軍は僻遠の地であり、住民は野蛮ですから、謀叛をおこすにちがいありません」
と告げた。童貫はこのことを蔡京に知らせ、蔡京は天子に奏上して聖旨の降下を請い、公文書をかの地へまわして、阮小七にあたえられている辞令を剥奪し、再び庶民にしてしまった。阮小七はそれを見て心中むしろよろこび、老母をつれて梁山泊の石碣村《せつけつそん》へ帰り、もとどおり魚をとって暮らしをたて、老母に孝養をつくして天寿を全うさせ、のち年六十に達して死んだ。
一方、小旋風の柴進は京師にあって、戴宗が辞令を返上し、静かな暮らしを求めて去って行ったのを見、また朝廷が阮小七の辞令を剥奪してしまい、方臘の平天冠・竜衣・玉帯を身につけたのは不届きであって、それは彼にならって謀叛をおこそうという魂胆であるとして、罰して庶民にしてしまったとのことを聞いて、
「自分も、かつて方臘のところで〓馬(女婿)になったが、もしいつか奸臣どもがそれを知って天子のご前に讒言したならば、おとがめを受けて官を取りあげられてしまうだろうが、辱しめを受けるのはいやだ。それよりもこちらから時流に見きわめをつけて、辱しめを受けないようにしたほうがよい」
と思案し、風疾(おこり)の病がしょっちゅうおこるためにお役づとめをすることができないという口実で、辞令の返上を願いいで、のどかな暮らしを求めて百姓になることにし、諸官に別れを告げ、再び滄《そう》州横海郡《おうかいぐん》に帰って庶民になり、気ままな生活をたのしんでいたが、ある日とつぜん、わずらいもせずに世を去ってしまった。
李応は、中山府《ちゆうざんふ》の都統制に任ぜられて、赴任して半年たったとき、柴進がのどかな暮らしを求めて退官してしまったことを聞き、思い立ってこれまた風〓《ふうたん》(中風)で官をつとめることができないといつわり、省院に上申して辞令を返上し、再び故郷の独竜岡《どくりゆうこう》の村へ帰って暮らした。のち杜興といっしょに富豪になり、ともにめでたく天寿を全うした。
関勝は、北京大名府《ほくけいたいめいふ》にあって兵馬を総管し、大いに兵士たちの信望を博し、一同の敬服するところとなっていたが、ある日、兵を調練しての帰途、酔っぱらって、脚を踏みはずして落馬し、それがもとで病んで死んだ。
呼延灼は、御営指揮使《ぎよえいしきし》に任ぜられ、毎日御駕《ぎよが》にしたがって警護していたが、のち大軍をひきつれて大金《きん》の兀朮《こつじゆつ》四太子を討ち破り、軍を進めて淮西《わいせい》へおし寄せて行って討ち死をした。
ただ朱仝のみは、保定府《ほていふ》にあって軍を統率して功をたて、のち劉光世《りゆうこうせい》にしたがって大金を討ち破り、やがて太平軍節度使になった。
花栄は家族と妹をつれて応天府《おうてんふ》に赴任した。
呉用はもともとひとり身なので、供の小者をつれただけで、武勝軍《ぶしようぐん》に赴任した。
李逵もやはりひとりもので、ふたりの従僕をつれて潤《じゆん》州に赴任した。
ところで、なにゆえにこの三人については赴任したとだけしか述べず、ほかのものについては最後の成りゆきまで述べたのかというと、それら七人の正将はいずれも互いに会うことがなかったので、さきに最後まで述べてしまったのであり、あとの五名の正将、すなわち宋江・盧俊義・花栄・呉用・李逵は、やがてまた会うようになるので、述べつくさなかったという次第。その成りゆきはやがて明らかになる。
さて、宋江と盧俊義は、京師で諸将に賞賜の品をすっかりわけてしまうと、各人にそれぞれ赴任して行かせた。王事のために陣没したものについては、その家族のものに恩賞の銭帛金銀を支給し、それぞれ故郷へ送り帰して思いのままにさせた。また、現に都にのぼってきている偏将十五名は、宋江の弟の宋清が郷里に帰って百姓となったほか、杜興はすでに李応にしたがって郷里へ帰って行き、黄信は青州に任を受け、孫立は弟の孫新とその妻の顧大嫂および家族のものをつれて、もとどおり登《とう》州に任用され、鄒潤は役人になることを望まずに登雲山《とううんざん》へ帰って行き、蔡慶は関勝について北京《ほくけい》へ帰り、庶民になった。裴宣は楊林と相談して飲馬川《いんばせん》へ帰り、官職をさずかりながら、のどかな暮らしを求めて身を退《ひ》き、〓敬は故郷をなつかしみ、願い出て譚《たん》州へ帰って庶民となった。朱武は樊瑞のもとに身を寄せて道法を学び、ふたりで道士になって世間を流浪したあげく、公孫勝のもとへ行き、出家して天寿を全うした。穆春は掲陽鎮《けいようちん》の村へ帰って再び良民となった。凌振は砲手として非凡な腕を持っていたので、火薬局御営《かやくきよくぎよえい》の任用を受けた。前から京師にいた偏将五名は、安道全は勅命によって都へ呼びもどされるなり太医院(侍医寮)で金紫《きんし》(金の印と紫の綬。貴顕の官の意)の医官にとりたてられ、皇甫端はさきに御馬監大使《ぎよばかんたいし》(天子の馬のことを司る官の長)に任ぜられ、金大堅はすでに内府の御宝監《ぎよほうかん》(天子の印鑑のことを司る役署)で官につき、蕭譲は蔡太師の屋敷で職を受けて門館先生《もんかんせんせい》(家塾の教師)となり、楽和は〓馬の王都尉の屋敷で生涯のどかに楽しく暮らしたが、これらのことはそれまでとする。
一方、宋江は盧俊義と別れたのち、それぞれ赴任の途についた。盧俊義も家族がなく、数人の身のまわりの従者をつれて盧《ろ》州へたって行った。宋江は聖恩を拝謝して朝廷を辞し、省院の諸官に別れを告げると、幾人かの家人や従僕をつれて楚州へと赴任して行った。こうして互いに別れ、それぞれ各地へ散らばって行ったのであるが、このこともまたそれまでとする。
ところで宋朝は、もともと太宗《たいそう》が太祖《たいそ》から帝位を受けられたとき、誓願(注一)をたてられたため、歴代奸佞《かんねい》の臣の絶えることがなかった。いまの徽宗《きそう》皇帝は極めて聡明であらせられたが、はからずも、奸臣が要路につき、讒佞《ざんねい》の徒が権力をもっぱらにして、忠良なものを屈害していたことは、まことに嘆かわしいことであった。このときには、すなわち蔡京《さいけい》・童貫《どうかん》・高〓《こうきゆう》・楊〓《ようせん》の四人の賊臣が、天下をかき乱し、国をそこない、家をやぶり、民をいためつけていたのである。さてこのとき殿帥府太尉の高〓と楊〓は、天子が宋江ら一味の将領を重くもてなし厚く賞されたのを見て、心中すこぶるおだやかではなかった。ふたりはそこで相談しあった。
「あの宋江と盧俊義はいずれもわれわれの仇だ。このたびはやつらにまんまと有功の臣になりおおせられ、朝廷からたいそうな恩賞を受けさせ、やつらを、馬に乗っては軍をひきい、馬をおりては民を治めるという身分にしてしまった。われわれ省院の役人たるもの、世人の笑い種《ぐさ》になるにきまっている。むかしから、恨み小なるは君子《くんし》に非ず、毒なきは丈夫《じようふ》ならず、というではないか」
すると楊〓が、
「わたしに一計があります。まず盧俊義を片づけてしまうのです。そうすれば宋江の片腕を断ってしまったも同然です。あの男はなかなかの英雄ですから、もし宋江をさきに片づけてしまってそれがやつに知れでもしたら、必ず大事をひきおこして、かえってまずいことになりましょう」
「その妙計というのはどういうことか聞かせていただこう」
と高〓。
「廬州の兵卒数人に手をまわして、省院へこう訴えにこさせるのです。盧安撫は兵を招き馬を買い、秣《まぐさ》を集め糧食をたくわえて、謀叛をたくらんでおりますと。そこで、彼のことを太師府へ知らせに行って、陛下に奏上してもらうようにし、かの蔡太師もいっしょにだましてしまうのです。太師が陛下に奏上し、聖旨を請うて裁可を得ましたならば、人をやって彼を京師へのぼらせ、陛下が彼に御膳《ぎよぜん》をたまわるのを待ってそのなかに少しばかり水銀をいれるのです。そうすればあの男は精気がなくなってしまって役にたたなくなり、大事をやることもできなくなります。そのうえで勅使をつかわして御酒を宋江に下賜して飲ませることにするのですが、酒のなかにはやはり彼のために慢薬《まんやく》(すこしずつ効《き》いてゆく毒薬)をいれておくのです。そうすればわずか半月のあいだに必ず手のくだしようがなくなってしまいます」
「それはすばらしい計略だ」
と高〓はいった。
これを笑いのめした詩がある。
古より権奸《けんかん》は善良を害し
忠義の家邦《かほう》に立つことを容《ゆる》さず
皇天《こうてん》(天)若し肯《あえ》て昭報を明らかにせば
男は俳優と作《な》り女は倡《しよう》(娼妓)と作らん
ふたりの賊臣は相談をきめると、腹心のものをやって廬州の土地のものふたりをさがしてこさせ、彼らに訴状を書いてわたし、枢密院へ告訴させた。
「盧安撫は廬州で、目下、兵を招き馬を買い、秣《まぐさ》を集め糧食をたくわえて、謀叛をおこそうとたくらんでおります。いつも人を楚州へやって安撫の宋江と連絡し、気脈を通じて義兵をおこそうとしております」
枢密院はほかならぬ童貫で、これまた宋江らには恨みをいだいている。そこで、さっそく原告の訴状をとりあげ、ただちに太師府へさし出して天子への上奏を請うた。蔡京は上書を見ると、さっそく諸官を集めて協議した。このとき高〓と楊〓はともにその場にいて、四人の奸臣は相談をまとめ、原告人をつれて参内し、天子に奏上した。すると陛下の仰せられるには、
「わたしの思うに、宋江と盧俊義は、四方の賊を討伐して十万の兵権をにぎっていたときでさえ、異心をいだいたことはなかった。いまはもう邪を棄《す》てて正道にたち帰っているのだ、叛《そむ》いたりなどするはずはない。わたしはいちども彼らを裏切ったことはないのに、どうして彼らが朝廷に叛《そむ》こう。それにはいつわりがあろう。虚実をつまびらかにするまでは信じることはできぬ」
すると高〓と楊〓がかたわらから奏上した。
「陛下、道理は仰せのとおりでございますが、人の心はなかなか測りがたいものでございます。思いまするに、盧俊義は官職の低いのを不満として、再び謀叛の心をいだきましたのを、不運にも人にさとられたものにちがいありません」
「呼び寄せて、わたしがみずからたずねてたしかめてみよう」
と陛下はいわれた。蔡京と童貫はかさねて奏上した。
「盧俊義は猛獣のようなものですから、その心のほどは保証いたしかねますが、もし彼をおどろかせるようなことをいたしますと、必ず姿をくらましてしまいましようから、これははなはだまずいやりかたでございます。そうなりますと今後捕らえることもなかなかできません。それゆえあざむいて京師へのぼらせ、陛下おんみずから御膳御酒を賜わって、親しく諭し慰められつつその虚実動静をおさぐりあそばされますよう。もしなにごともなければ、それ以上お尋ねになる必要もないわけでございますし、同時に陛下の功臣に対する暖かい思し召しもあらわされるというものでございます」
陛下はその奏言をいれてただちに聖旨をくだし、使者を廬州へつかわして、用命したき旨があるゆえ盧俊義を朝廷に召しつれてまいるようにと命ぜられた。勅使が命を奉じて廬州へ行くと、大小の役人たちは郊外まで出迎え、ただちに州役所へはいって聖旨の開読がなされた。こまかな話は端折るとして、盧俊義は、朝廷に参上せよとの聖旨を受けるや、ただちに勅使とともに廬州をたち、駅馬に乗りついで都へのぼった。途中は格別の話もなく、やがて東京の皇城司《こうじようし》(皇宮の事務を司る役所)の前につき宿をとった。翌日の朝、東華門《とうかもん》外へ行って朝賀に伺候した。そのとき太師の蔡京・枢密院の童貫・太尉の高〓・楊〓は、盧俊義を偏殿《わきどの》へみちびいて陛下に拝謁させた。拝舞の礼がおわると、天子は、
「その方に会いたかったのだ」
と声をかけられ、さらに、
「廬州の住み心地はどうか」
とたずねられた。盧俊義は再拝して奏上した。
「聖上の天にもひとしき洪大なおん徳によりまして、かの地の軍民も安らかに暮らしております」
陛下はさらにさまざまなことをたずねられ、やがて午《ひる》になった。と、尚膳厨官《しようぜんちゆうかん》(膳部のことを司る女官の長)が奏上した。
「御膳《ぎよぜん》をおすすめする用意がととのいましたが、いかがいたしましょうか、御意を得たく存じます」
このとき、高〓と楊〓はすでに、ひそかに水銀を御膳のなかへいれて、御案《ぎよあん》(天子の机)の上に供えさせた。天子はじきじき盧俊義に膳を賜わった。盧俊義は拝受して食《しよく》した。陛下は、
「その方、廬州へもどったならば、心をつくして軍民を安んじ養い、決してよからぬ考えをおこすようなことのないように」
と諭された。盧俊義は頓首して聖恩を謝し、退朝して廬州へともどって行ったが、四人の賊臣がたくらんで殺害しようとしたことは全く知らなかった。高〓と楊〓は、
「このあとの大事はもう成就したも同然だ」
といいあった。
さて盧俊義はその夜のうちに廬州へひき返して行ったが、脇腹(注二)が痛んで動けず、馬に乗ることができないので船で帰途についた。泗《し》州の淮河《わいが》まで行ったとき、天命まさに尽きんとして、おのずから事件がおこった。すなわちその夜、酒に酔ったので船首で気ばらしをしょうとして立ちあがったところ、はからずも水銀が腰骨や骨髄にまわってしっかりと立てず、しかも酔っていたので足をすべらし、淮河の深みへ落ちて死んでしまったのである。あわれ河北の玉麒麟《ぎよくきりん》は、非業《ひごう》にもここに水中の寃抑《えんよく》の鬼《き》(罪なくして殺された亡霊)となった。従者はその死骸を引き揚げ、棺を整えて泗州の高原の奥まったあたりに埋葬した。その州の役人は文書をもってこの旨を省院へ報告したが、このことはそれまでとする。
一方、蔡京・童貫・高〓・楊〓ら四人の賊臣は、相談をまとめて、泗州から上告してきた文書をもって行って、朝賀のとき天子に奏聞した。
「泗州よりの報告によりますと、盧安撫は淮河まで行きました際、酒に酔っておりましたため水中に落ちて死亡したとのことでございます。わたくしども省院の諸官、あえて奏聞におよぶ次第でございますが、いまや盧俊義が亡くなりましたからには、宋江が心中疑いをいだいて別に事をかまえるやも知れませぬ。陛下、なにとぞ勅使をおたてになり、御酒を托して楚州へつかわされ、賞賜してその心を安んぜしめられますよう、ご配慮のほど願わしく存じます」
陛下はしばらく沈思された。彼らの奏言を退けてしまうには、その心のうちのわからぬことが不安であったし、その奏言をいれるならば、多分によからぬことのおこるおそれがあった。陛下はどちらとも決しかねておられるうちに、とうとう奸臣どもの讒佞《ざんねい》にまどわされるところとなられた。彼らは言葉たくみに口舌を弄して婉曲に事をはこび、陛下は承知しないわけにはいかなくなって、ついに御酒二樽をくだし、勅使一名をたてて楚州へ持って行かせることにされ、ただちに出発するよう仰せられた。明らかに、その使臣もまた高〓・楊〓のふたりの賊の腹心の配下だったのである。天命は宋公明の命《いのち》のまさにつきるべきさだめになっていたのであろう、はからずもこの奸臣どものために御酒のなかに慢薬をいれられ、勅使はそれを持たせられて楚州へおもむくこととなったのである。
ところで宋公明は楚州にきてから、安撫の任につき、兼ねて兵馬を統轄していたが、着任以来、兵を愛し民をいつくしんだので、民のこれを敬すること父母のごとく、兵のこれを仰ぐこと神明のごとく、法廷は粛然としずまり、軍事は整然とととのい、人心は慕いより、軍民ともに敬いつつしんだ。宋江は公務の暇には、いつも郊外へ遊びに出かけた。そもそも、楚州の南門外に土地の名を蓼児〓《りようじわ》と呼ぶところがあった。四方に入江をめぐらして、中に一座の山がある。山のすがたは秀麗で、松や柏《ひのき》が鬱蒼《うつそう》としげり、はなはだ風水《ふうすい》(地相)のよいところであった。広大な地域ではなかったが、そのなかには山峰がめぐりめぐって竜虎のわだかまるがごとく、峰巒《ほうらん》が曲折して坂や台地をなし、四囲の入江、前後の湖水のさまなど、さながら梁山泊の水滸寨のようであった。宋江はそれらを見て心中大いによろこび、
「もし自分がこの地で死んだら、墓地とするのによいところだ」
と、ひとり考え、暇があるといつも遊びに行って、心をたのしませ、つれづれをなぐさめていた。
こまかい話は端折るとして、宋江が赴任してきてから半年ちかくたったとき、それは宣和《せんな》六年初夏の上旬のことであったが、とつぜん知らせがあって、
「朝廷から御酒が下賜されてまいりました」
とのことなので、一同とともに郊外まで出迎えた。やがて役所へはいり、聖旨の開読がおわると、勅使は御酒をささげて宋安撫に飲ませた。宋江も杯を返して御酒を勅使にすすめたが、勅使はもともと酒が飲めないと辞退した。御酒の宴がおわり、勅使は都へ帰ることになった。宋江は礼物をととのえて勅使に贈ったが、勅使は受け取らずに帰って行った。
宋江は御酒を飲んでから、腹が痛み出したので、心中いぶかしく思い、酒のなかに毒がいれられていたのではないかとあやしんだ。そこで急いで従者にかの使者の様子をさぐりに行かせたところ、使者は途中の駅舎で酒を飲んでいたのである。宋江は奸計にはまったことを知った。
「賊臣どもが毒酒をよこしたのにちがいない」
そして嘆いていうよう、
「自分は幼少のときから儒学をまなび、長じては吏道をおさめ、不幸にして罪人の身とはなったが、いまだかつて、いささかも異心をさしはさんだふるまいをしたことはない。このたび天子には軽々しく讒佞《ざんねい》に耳をかたむけられて、自分に毒酒をたまわったが、なんの罪もないのに断罪されようとは。自分は死んでもかまわぬが、ただ、李逵が現に潤州で都統制をしている。もし彼が、朝廷にこのような邪悪なおこないのあったことを知ったならば、必ずやまた山林に徒党をつどえ、われわれの一世の清名《せいめい》と忠義の業蹟をぶちこわしてしまうにちがいない。かくなるうえは、もはやこうするよりほかいたしかたがあるまい」
かくて大急ぎで使いのものを潤州へやり、相談したいことがあるゆえ急いで楚州にくるようにと、呼んでこさせることにした。
一方、李逵は、潤州にきて都統制になって以来、心中くさくさして、一日じゅう人々と酒を飲み暮らし、ただ杯をむさぼってばかりいた。宋江が使いのものをよこして呼びにきたと聞くと、
「兄貴がおれに用とは、なにか重大な話があるのにちがいない」
と思い、さっそく用人といっしょに船に乗ってまっすぐに楚州へ行き、ただちに州役所へはいって宋江に会った。
宋江はいった。
「兄弟たちがちりぢりになってからは、日夜みんなのことばかり思っている。呉用軍師は武勝軍で、これは遠方だし、花知寨(花栄)は応天府にいるが、なんの消息もない。ただあなただけが潤州の鎮江にいて比較的近いので、重大な事を相談しようと思ってわざわざきていただいた次第です」
「兄貴、大事とはどんなことです」
「まあ酒でも飲みながら」
と、宋江は奥の間へ請じ、ありあわせのご馳走でさっそく李逵をもてなした。しばらく酒食をすすめ、やがて酔いのまわったころ宋江はいった。
「あなたは知らないだろうが、聞くところによると朝廷では毒酒をたずさえた使者をさしむけ、わたしにたまわって飲ませられるとのことなのだ。飲めば死ぬだろうが、いったいどうすればよかろう」
李逵は大声で、
「兄貴、謀叛をおこすんだ」
と叫んだ。
「だが、軍勢はことごとくなくなったのだし、兄弟たちもそれぞれちりぢりになっているのだ。どうして謀叛がおこせよう」
「わたしのところの鎮江には三千の軍勢がおります。兄貴のこの楚州の軍勢もある。それらをことごとく動員し、それにここの住民も残らず立ちあがらせ、力をあわせて兵を招き馬を買って繰り出すのです。このうえはもういちど梁山泊にのぼるばかりだが、そうなればどんなにせいせいすることか。あの奸臣どもの風下《かざしも》でいまいましい思いをしているよりもはるかにましです」
「まあゆっくりやることにして、改めてまた考えよう」
と宋江はいった。じつはその接風酒のなかには、すでに慢薬がいれてあったのである。その夜、李逵は酒を飲み、翌日宋江は船を用意して李逵を送った。李逵は、
「兄貴、いつ義兵をあげられます。わたしのところでも兵をおこして呼応しますから」
といった。
「兄弟、わたしをとがめないでいただきたい。先日、朝廷では勅使をつかわされ、わたしに毒酒をたまわって飲ませられたのです。わたしの命はもう今日明日しかない。わたしは生涯、ただただ忠義の二字を掲げ、いささかも心をいつわったことはなかった。このたび朝廷はわたしに罪なくして死をたまわったが、朝廷がわたしを裏切られても、わたしはあくまでも朝廷には叛《そむ》かない。わたしが死んでしまったら、あなたが謀叛をおこしてわが梁山泊の天《てん》に替《かわ》って道《みち》を行なうという忠義の名を破ってしまうのではないかとおそれ、それであなたにおいでを願って、お会いしたわけだ。きのうの酒のなかには慢薬をいれておすすめした。潤州へ帰られるころには、きっと命はないだろうから、あなたは死んだらこの楚州の南門外へきていただきたい。蓼児〓というところがあって、風景がどこもかも梁山泊にそっくりなのだ。そこであなたの霊魂と会うことにしよう。わたしが死んだあとは、遺骸は必ずそこに葬ってもらうから。わたしは前から見てそうきめているのです」
宋江はそういって、雨のように涙をながした。李逵はそういわれて、やはり涙をためながらいった。
「よろしいとも、よろしいとも。生きていたときも兄貴にお仕えしていたのだから、死んでも兄貴の配下の亡霊になりましょう」
いいおわって涙をながした。と、身体がけだるくなってくるのをおぼえた。そのとき李逵は涙をこぼしながら別れの挨拶をして船に乗ったが、潤州へ帰るとはたして毒がまわって死んでしまった。李逵は臨終のとき、従者にいいつけた。
「わしが死んだら、どうあってもわしの柩を楚州の南門外の蓼児〓へはこんで、兄貴と同じところに葬ってくれ」
たのみおわると息が絶えた。従者は棺をととのえて納め、そのいいつけどおり棺をはこんで行った。
一方、宋江は李逵と別れたのち、心中いたみかなしみつつ、しきりに呉用や花栄のことを思ったが、会うことはできなかった。その夜、毒がまわって危うくなったとき、従者や側仕えのものにたのんだ。
「わたしのいうままに、わたしの柩をここの南門外の蓼児〓の、高原の奥のほうに葬ってもらいたい。かならずその方たち一同に恩返しをするから、どうかわたしのたのんだとおりにしてくれるように」
いいおわって死んだ。宋江の従者たちは棺をととのえ、礼にしたがって葬った。楚州の役人も宋江の言葉にしたがって遺言をたがえず、側仕えの人たちや、州の小役人や老若男女とともに宋公明の柩を送って蓼児〓に葬った。それから数日のち、李逵の枢も潤州から送られてきて、宋江の墓のかたわらに葬られたが、このことはそれまでとする。
ところで、宋清は家で病をわずらっていたが、宋江の従僕が帰ってきて、
「兄上の宋江さまが、楚州で亡くなられました」
と知らせた。だが〓城で病に臥《ふせ》っている身とて、野辺送りに行くこともできずにいた。後また、州の南門外の蓼児〓に葬ったとのことを聞いたが、出かけて行けないのでやむなく従僕をやって祭りをいとなませた。従僕は塚に詣《まい》って立派に修築したうえ、帰ってきて宋清に報告したが、このこともそれまでとする。
さて一方、武勝軍の承宣使《しようせんし》たる軍師の呉用は、赴任以来いつも心たのしまず、絶えず宋公明の恩愛の心を思いおこしていたが、ある日、心が茫然とかすんできて、寝ぐるしいまま、夜半になって夢を見た。宋江と李逵のふたりがきものを引っぱっていうのである。
「軍師、われわれは忠義を旨とし、天に替って道を行ない、いちども天子に叛《そむ》こうなどと考えたこともないのに、このたび朝廷では毒酒をたまわり、わたしは罪なくして殺されるところとなった。命をうしなったのち、いまは楚州の南門外の蓼児〓の奥深くに葬られている。軍師がもしむかしのよしみを思ってくださるなら、塚へ親しく訪ねてきてくださるよう」
呉用はくわしいことをたずねようとしたが、はっと気がついてみると、それは南柯《なんか》の夢であった。呉用は雨のように涙をながしつつ夜あけまで坐っていた。いったんその夢を見たあとは、おちおちと寝ることも食べることもできなかった。翌日、さっそく旅の荷をととのえて、楚州へとむかった。従者もつれず、ひとりで道を急いで、やがて楚州へ行ってみると、はたして宋江はすでに死んでいた。土地の住民でそれを嘆かぬものはいないとのこと。呉用は供物を用意し、ただちに南門外の蓼児〓へ行って塚をさがしあて、宋公明と李逵に哭礼をささげた。そしてその墓前で、掌で塚をたたきながら哭《な》いていうには、
「仁兄の英霊もし明らかならば、なにとぞお聞きくださいますよう。わたくしは田舎の一介の学究でしたが、はじめ晁蓋《ちようがい》どのにしたがい(第十四回)、のち仁兄に会って一命を救っていただき(第十八回)、坐して栄華を受けること今にいたるまで十余年、これみな仁兄のたまものでございました。このたび国家のために亡くなられ、夢に託してわたくしの前に霊をあらわしてくださいましたが、わたくしにはなにひとつご恩返しもできませんので、この良夢によりまして九泉の下で仁兄とごいっしょになりたいと存じます」
いいおわって痛哭し、みずから首をくくって果てようとした。と、そこへ花栄が船からまっすぐ墓の前へ駆けつけてき、呉用を見て、お互いにびっくりした。呉学究はすぐたずねた。
「あなたは応天府で官についておられたはずなのに、どうして宋兄貴の亡くなられたことをご存じなのです」
「わたしはわかれて赴任して行ってからというもの、一日として心身の安らかな日はなく、いつも兄貴たちの情誼を思い返していたところ、ある夜不思議な夢を見たのです。夢に宋公明兄貴と李逵がやってきてわたしをつかまえ、朝廷から毒酒をたまわって毒殺され、いまは楚州の南門外の蓼児〓の高原に葬られているが、もしむかしのよしみを忘れないなら塚へ訪ねてきてくださるよう、といわれたのです。それでわたしは家のこともうち捨て、ひた走りに大急ぎでやってきたというわけです」
と花栄はいった。
「わたしも不思議な夢を見たが、やはりそのとおりで、あなたと全く同じなのです。それでやってきたのだが、いまあなたがここへ見えたのはなによりの好都合。わたしは、宋公明どのの恩義が忘れられず、その交誼に報いることもできないので、いまここで縊《くび》れて死に、魂魄《こんぱく》となって仁兄といっしょにいようと考えているところなのです。それであとのことは、あなたにお願いしたいのだが」
呉用がそういうと花栄は、
「軍師がそういうお考えでしたら、わたしもおともをして、仁兄とおなじところへ行くことにします」
かくのごとくであってこそ、真に死生を一つにするというべきである。これをうたった詩がある。
紅蓼〓《こうりようわ》中托夢《たくむ》長し
花栄呉用各《おのおの》悲傷す
一腔の義血元《もと》同じく有り
豈田横《でんおう》(注三)の独り喪亡するに忍びんや
呉用はいった。
「わたしはあなたに死後の世話をしてもらって、ここに葬ってもらおうと思っていたのだが、どうして同じことをしようというのです」
すると花栄のいうには、
「わたくし考えてみますに、宋兄貴の仁義は捨てがたく、その恩情は忘れることができないのです。われわれが梁山泊にいたときは明らかに大罪人でしたが、さいわいに死をまぬがれ、天子の大赦招安をかたじけのうして、北に南に討伐の軍を進めて功業をたて、いまやすでに名をあらわして天下の人々のみな知るところとなるにいたりましたが、朝廷がわれわれに疑いを持ちはじめられたとしますと、必ず小さなあやまちをあばきたててこられるでしょう。もしも、彼らのわるだくみにひっかけられて、まちがったまま刑死を受けるようなことにでもなれば、そのときになって後悔しても追いつきません。それよりもいま仁兄のおともをしてともに黄泉の客となりますなら、清名を世にのこすことができて、遺骸は必ず墓におさめられることになりましょう(刑死すれば祭られない)」
「だが、わたしのいうことも聞きなさい。わたしはひとり身で、家族のものもいないから、死んでもなんのさしつかえもないが、あなたには幼子や美しい奥さんがある。あとがこまるではないか」
「いや、それは心配ありません。食べていくだけの貯えはありますし、家内の里にも見てくれるものがおりますから」
ふたりはひとしきりはげしく哭《な》き、相《あい》並んで樹に首をかけて死んだ。
船にいた花栄の従者たちは、長いあいだ待っていたが主人が帰ってこないので、みなで墓の前まで行ってみると、呉用と花栄がみずから縊《くび》れて死んでいたので、あわてて州の役人に知らせ、棺をととのえて蓼児〓の宋江の塚のかたわらに葬った。塚はさながら東西に並ぶ四つの丘のようであった。楚州の住民たちは宋江の仁徳・忠義ふたつながら全きに感激して祠堂を建て、四季に祭りをとりおこなった。村人がこれに祈れば必ずそのしるしがあった。
宋江が蓼児〓でしばしば霊験をあらわし、祈れば必ずそのしるしのあったことはさておき、一方、道君皇帝《どうくんこうてい》は東京の内裏にあって、宋江に御酒をたまわって以来しきりに疑いをいだかれ、加えて宋江の消息が知れないのでいつも気にかけておられたが、高〓と楊〓の、ひたすら賢人の世に出る路をふさぎ、忠良の臣を除こうとはかる口舌と華やかなもてなしに、いつも惑わされておられた。ある日のこと、陛下は内宮で遊んでおられたが、ふと李師師《りしし》のことを思い出されて、さっそく地下道(注四)づたいに、ふたりの小黄門(年少の宦官)をつれてまっすぐに彼女の家の奥庭へ行かれ、鈴の紐を引かれた。李師師は急いで陛下をお迎えし、寝室へおつれして座をおすすめした。陛下はすぐ前後の扉を閉めるよういいつけられた。李師師は華やかによそおっておん前に進みいで、ご機嫌を奉伺した。すると天子は、
「わたしはこのごろ、すこし身体の具合がわるく、ずっと神医の安道全にみさせていたところだ。ここ数十日その方に会いにくることができず、なつかしくてならなかったが、いまその方に会えて、心たのしくてならぬ」
李師師は、
「なみなみならぬ陛下のおなさけをたまわりまして、わたくし、身にあまるうれしさでございます」
といい、室内に酒肴をならべ、陛下に杯をすすめてたのしませた。
数杯酒を飲まれたとき、とつぜん陛下はぐったりと疲れられた。そして灯燭の煌々とかがやくなかに、にわかに一陣の冷風が吹きおこったかと思うと、黄色い衫《うわぎ》をきたひとりの男が面前に立っているのを陛下はみとめられた。陛下はおどろいてたずねられた。
「その方はなにものだ。いきなりここへはいってきたりなぞして」
するとその黄色い衫《うわぎ》をきた男は、
「わたくしは梁山泊の宋江の部下の神行太保の戴宗というものでございます」
と奏上した。
「なにゆえにここへまいった」
「わたくしの兄分の宋江が、ぜひとも陛下をお迎えしてくるようにと申しますので」
「軽々しくわたしを呼びたてて、どこへつれて行こうというのか」
「いたって清秀なよいところでございます。なにとぞお慰みにお出ましくださいますよう」
陛下はその言葉を聞かれると、立ちあがって戴宗のあとから奥庭へ出て行かれた。そこには車馬の用意がととのっていた。戴宗は陛下を馬上に請うて出かけた。とやがて、あたりはいちめんに雲のごとく霧のごとく、耳には風雨の音が聞こえて、とあるところに着いた。見れば、
漫漫たる煙水、隠隠たる霊山。日月の光明を観ず、只水天の一色なるを見る。紅《こう》瑟瑟《しつしつ》たる満目の蓼花《りようか》(たでの花)、緑《りよく》依依《いい》たる一洲の蘆葉《ろよう》。双々たる鴻雁《こうがん》は、哀鳴して沙渚《さしよ》の磯頭《きとう》(水際の砂原)に在り、対々たる鶺鴒《せきれい》は、倦宿《けんしゆく》(疲れてやすむ)して敗荷《はいか》の汀畔《ていはん》(枯れた蓮のある水際)に在り。霜楓《そうふう》(紅葉したかえで)簇々《そうそう》として、離人《りじん》(別離する人)の涙波《るいは》を点染《てんせん》せるが似《ごと》く、風柳(風に吹かれる柳)疎々《そそ》として、怨婦《えんぷ》の眉黛《びたい》(まゆ)蹙顰《しゆくひん》をするが如し。淡月寒星《たんげつかんせい》長夜の景、涼風冷露《りようふうれいろ》九秋の天。
そのとき陛下は馬上から倦《あ》きもせずこの景を眺めつつ、戴宗にたずねられた。
「ここはどこなのか。このようなところへわたしをつれ出してきて」
戴宗は山上の関所への路を指さしながらいった。
「陛下、どうかお進みくださいますよう。あそこまで行けば、おわかりになります」
陛下は馬を進めて山を登り、三つの関門のある道を越えて行かれた。第三の関門の前にさしかかると、そこに百余人のものが平伏しているのが見えた。いずれもみな袍をはおり鎧をつけ、軍装して革帯をしめた、金の〓《かぶと》に金の甲《よろい》の将ばかりである。陛下は大いにおどろいて、あわただしくたずねられた。
「その方らはみななにものなのか」
すると、その頭《かしら》格の、鳳翅《ほうし》の金〓《きんかい》をかぶり、錦袍《きんぽう》をまとい金甲《きんこう》をきたひとりのものが進み出て、
「わたくしは梁山泊の宋江でございます」
と奏上した。
「わたしはさきにその方を楚州の安撫使に任じたのに、なにゆえこのようなところにいるのか」
と陛下がいわれると、宋江は、
「わたくしども、謹んで陛下を忠義堂にお迎えいたし、罪なくして殺されました恨みをつぶさにお話し申しあげることをおゆるしくださいますよう」
陛下は忠義堂の前まで進んで馬をおり、堂にあがって座につかれた。堂の下をごらんになると、煙霧のなかに多数のものがひれ伏している。陛下はどうしたことかと疑いためらわれた。と、そのとき首《かしら》たる宋江が階《きざはし》をあがり、膝行して進みいで、奏聞におよぼうとして涙をながした。陛下が、
「その方、なにゆえに涙をながすのか」
といわれると、宋江の奏上していうには、
「わたくしどもは、かつては天兵に刃《は》むかったこともございますが、もともと忠義を旨とし、いささかも異心をいだいたことはございません。陛下の勅命を奉じて招安をお受けいたしましてからは、さきには遼軍を退け、ついで三たび賊を討ち平らげまして、手足たる兄弟を十のうち八までもうしなうにいたりました。わたくしは陛下のご命令を拝しまして楚州を守りましたが、赴任以来、軍民とはなんのやましい関係も持ちませんでした(注五)ことは、天も地も知るところであります。このたび陛下には、わたくしに毒酒をたまわり、わたくしにそれを飲ませられました。わたくしは死んでも思いのこすことはございませんが、ただ李逵が恨みをいだいて異心をおこすようなことがあってはと案じられましたので、わたくしはわざわざ潤州へ人をやって李逵を呼び寄せ、手ずから毒酒を飲ませて毒殺してしまいました。呉用と花栄も、やはり忠義のためにやってきてわたくしの塚のほとりで、ともにみずから縊《くび》れて死んでしまいました。わたくしども四人は、いっしょに楚州の南門外の蓼児〓《りようじわ》に葬られておりますが、土地の人々はあわれんで、墓の前にお堂を建ててくれました。いま、わたくしどもの亡魂は消え散ることなく、みなここにあつまり、陛下に心情をおつたえして、かねてよりの衷情の終始かわることのないことを訴える次第でございます。なにとぞご賢察くださいますよう」
陛下はそれを聞いて大いにおどろかれ、
「わたしは親しく勅使をつかわして、黄封(黄は天子の色)の御酒を下賜したのだ。いったい誰がそれを毒酒に換えてその方にさずけたのであろうか」
「陛下、お使者におたずねになりますならば、その奸悪の出どころがおわかりになりましょう」
陛下は三つの関門の陣柵の雄壮な構えをごらんになって、惨然たる面持《おももち》でたずねられた。
「ここはどこなのか。その方たちが集まっているここは」
「ここはわたくしどもが、かつて義をもって相集まりました梁山泊でございます」
と宋江はいった。
「その方たちすでに死んだのならば、生まれかわりに行くべきなのに、どうしてここに集まっているのか」
「天帝がわたくしどもの忠義のほどをおあわれみくださって、玉帝お手ずからの勅命書をたまわり、梁山泊の都土地《ととち》(土地神のかしら)に封ぜられたのでございます。かくて諸将はここに相集まりましたものの、心が屈して晴れませんので、特に戴宗をやって、万乗《ばんじよう》の主《しゆ》たる陛下にまげて水泊へおいでをいただき、かねてからの胸のうちをお告げした次第でございます」
「その方らはどうして九重《きゆうちよう》の深院《しんいん》(宮居)にきて、あきらかにわたしに告げないのか」
「わたくしは冥界の魂魄《こんぱく》でございます。どうして鳳闕竜楼《ほうけつりゆうろう》(宮居)へ出かけることができましょう。このたび陛下が宮中をお出になられましたので、まげてここへお迎えした次第でございます」
「このあたりを見てまわってよいか」
宋江らは再拝して聖恩を謝した。陛下は堂をおりながら、ふり返って堂上の牌額《はいがく》をごらんになった。そこには、
忠義堂
と三字が大書されていた。陛下はうなずいて階《きざはし》をおりられた。と、ふいに宋江のうしろから李逵があらわれ、二梃の斧を手に、声を張りあげて叫んだ。
「皇帝、皇帝、きさまはなんで四人の賊臣のそそのかしを真《ま》にうけて、いわれもなくおれたちの命を取りやがったんだ。こうして会ったからには、いまこそ恨みを晴らしてくれようぞ」
黒旋風はそういいおわるや、二梃の斧を舞わしてまっしぐらに陛下におどりかかった。天子はびっくりして、はっと眼をさまされた。それは一場の南柯の夢で、全身びっしょりと冷汗をかいておられた。両眼を見開いてみれば、灯燭は煌々とかがやき、李師師はまだ寝ずにいた。陛下は、
「わたしはさっき、どこかへ行ってきたろう?」
とたずねられた。
「陛下はたったいま枕におよりになられたところです」
と李師師はいった。陛下は夢のなかでの不思議なできごとを、李師師にくわしく話された。すると李師師のいうには、
「すべて正直《せいちよく》な人は必ず神となるものでございます。宋江はほんとうに死んでしまったのではないでしょうか。それで霊をあらわして陛下の夢枕に立ったのかもしれません」
「あした必ずこのことを問いただしてみるとしよう。もしほんとうに死んでしまっていたら、必ず彼のために廟宇を建ててやって、烈侯に封じよう」
「陛下がそのように加封されますならば、陛下の功臣に背《そむ》かれぬご恩徳が天下にあきらかになるでございましょう」
と李師師はいった。陛下はその夜、しきりに嗟嘆された。
翌日、朝賀のさい、聖旨をくだして群臣を偏殿《わきどの》に集められた。そのとき蔡京《さいけい》・童貫《どうかん》・高〓《こうきゆう》・楊〓《ようせん》らは、陛下が宋江のことをたずねられるのではないかとひたすらおそれて、さきに宮中を退出してしまった。あとには宿《しゆく》太尉ら数人の大臣だけが伺候した。陛下はさっそく宿元景にたずねられた。
「その方は、楚州の安撫の宋江の消息を知っているか」
「わたくし、久しく宋安撫の消息を知りませんでしたところ、昨夜、不思議な夢を見ました。まことに奇怪《きつかい》な夢でございました」
と宿太尉はいった。
「その方、不思議な夢を見たとならば、わたしに話してみるがよい」
「夢に宋江が自分でわたくしの家にやってまいりまして、軍装に並みの帯、〓《かぶと》に甲《よろい》といういでたちで、わたくしにむかってこう訴えたのでございます。陛下に毒酒をたまわって、相果てました。楚州のものたちがわたしの忠義をあわれんで、楚州の南門外の蓼児〓に葬ってくれ、お堂を建てて四季に祭りをいとなんでくれます」
陛下はそれを聞かれると、首をうち振りつつ、
「まったく不思議なことだ。わたしが見た夢もおなじだ」
といわれ、さらに宿元景にいいつけられた。
「その方、腹心のものを楚州へつかわし、このことの有無をくわしくしらべさせて急いで報告させるよう」
「かしこまりました」
と宿元景は答え、聖旨を受けて宮中を退出し、私邸にもどると、さっそく腹心のものを楚州へやって宋江の消息をさぐらせたが、このことはそれまでとする。
翌日、陛下は文徳殿に出御され、高〓と楊〓が伺候しているのを眼にとめて問いかけられた。
「その方たち省院では、このごろ楚州の宋江の消息を聞いたことはないか」
ふたりはあえて奏上せず、存じませぬと答えた。陛下はあれこれと疑いをいだかれて、鬱々としてたのしまれなかった。
一方、宿太尉の用人はすでに楚州へ行って委細を聞きとり、帰ってきて、宋江が御下賜の毒酒を飲んで死んだこと、亡くなってから楚州の人々がその忠義に感じて、いまは楚州の蓼児〓の山の上に葬られていること、さらに呉用・花栄・李逵の三人も同じところに埋葬されていること、住民たちは哀《かな》しみあわれんでその墓の前に祠堂を建て、春秋には祭りをおこなって敬虔に仕えていること、人々が祈願をすれば極めて霊験のあらたかなことなどをくわしく話した。宿太尉はそれを聞くと、急いで用人をつれて参内し、このことをつぶさに天子に報告した。陛下はそれを聞いて、ひとかたならず傷《いた》みかなしまれた。
翌日の朝賀のおり、天子は大いに怒って、百官の面前で高〓と楊〓を叱責し、
「国をあやまる奸臣め、わが天下を破ろうとするのか」
と罵られた。ふたりは平伏し、叩頭して罪を謝した。と、そこへまたしても蔡京と童貫が進み出て奏上した。
「人の生死は、みなさだめによるものでございます。省院ではまだ報告の文書を受けておりませんでしたので、軽々しく奏聞することをさしひかえていた次第でございます。昨夜、楚州よりようやく上申書が省院にとどきましたので、わたくしどもはちょうど奏聞におよぼうとしておりましたところなのでございます」
陛下は、結局四人の賊臣に上辺《うわべ》をとりつくろわれて罪は加えられず、その場で高〓と楊〓を叱り退けて、ただちにさきに御酒をもたらした使臣を追及せしめることにされた。ところが、はからずも勅使は楚州から帰るとき、途中で死んでしまっていたのである。
宿太尉は翌日、陛下に偏殿《わきどの》で見《まみ》え、かさねて宋江の忠義とその霊験のことを奏聞した。陛下はそこで宋江の実の弟の宋清に、宋江の官爵をうけつぐことをゆるされたが、はからずも宋清はすでに風疾(中風)を病む身になっていて官途につくことができず、上申書をさし出して辞退し、ただ〓城で百姓として暮らすことを願った。陛下はその孝道をあわれに思し召されて、銭十万貫と田三千畝をたまわって、その家を賑《にぎ》わし、嗣子をもうけたときには朝廷に登用することにされた。のち宋清は宋安平という一子をもうけ、安平は科挙に通って秘書学士の官にまで進んだが、これはのちの話である。
さて陛下は宿太尉の奏言をいれられて、親書をもって聖旨をくだされ、宋江を忠烈義済霊応侯《ちゆうれつぎせいれいおうこう》に封ぜられ、さらに金銭を下賜されて、梁山泊に廟宇を造営し、大規模な祠堂を建てて、宋江ら王事のために没した多くの将領たちの神像をよそおい造らしめ、ご宸筆をもって靖忠之廟と書かれた殿宇の牌額を下賜された。済州では勅命を奉じて梁山泊に廟宇を建造した。見れば、
金釘朱戸《きんていしゆこ》、玉柱銀門《ぎよくちゆうぎんもん》。画棟雕梁《がとうちようりよう》、朱簷碧瓦《しゆえんへきが》。緑の欄干《らんかん》は低く軒〓《けんそう》(廊の窓)を繞《めぐ》り、〓《ぬいとり》せる簾《れんばく》(すだれ幕)は高く宝檻《ほうかん》(てすり)に懸《か》かる。五間の大殿には、中に勅額の金書を懸け、両廡《りようぶ》(二棟)の長廊には、綵《いろど》って出朝入相《にゆうそう》(注六)を画《えが》く。緑槐《りよつかい》(えんじゅ)の影裏には、櫺星門《れいせいもん》(れんじ戸の門)高く青雲に接し、翠柳の陰中には、靖忠廟《せいちゆうびよう》直ちに霄漢《しようかん》(天空)を侵す。黄金の殿上には、宋公明等三十六員の天〓《てんこう》(天〓星)正将を塑《つく》り、両廊の内には、朱武を頭《かしら》と為して七十二座の地〓《ちさつ》(地〓星)将軍を列《つら》ぬ。門前の侍従は〓獰《そうどう》、部下の神兵は勇猛。紙炉《しろ》(紙銭を焚く炉)は巧みに匠《たく》んで楼台を砌《つ》み、四季に楮帛《ちよはく》(紙銭)を焚焼し、〓竿《きかん》(さお)は高く竪《た》って長旛《ちようはん》を掛け、二社(二度の社日)には郷人祭賽《さいさい》す。庶民は正神祗《せいしんぎ》に恭礼し、祀典《してん》(司祭)は忠烈帝に朝参す。万年の香火は無窮に享《う》け、千載の功勲は史記に表す。
また一首の絶句がある。その詩は、
天〓尽《ことごと》く已に天界に帰す
地〓も還《また》応《まさ》に地中に入るべし
千古に神と為って皆廟食《びようしよく》し(廟に祭られ)
万年の青史《せいし》に英雄を播《は》す
のち宋公明はしばしば霊験をあらわし、住民は四季つねに供物を絶やしたことがなかった。梁山泊では風を祈願すれば風が吹き、雨を祈願すれば雨が降った。楚州の蓼児〓でもまた霊験あらたかで、その地の住民は重ねて大きな殿宇を建て、両廊を造り添え、天子に奏請して額をたまわり、神像三十六体を正殿によそおい造り、両廊には七十二将の像を設け、年々祭りをいとなんで、万民その前にぬかずいた。今にいたるまでその古蹟がのこっている。
史官(修史官)に哀輓《あいばん》の唐律二首がある。その一つは、
行蔵《こうぞう》を把《と》って(注七)老天(天)を怨むこと莫《なか》れ
韓彭《かんほう》(注八)の族(一族)を赤《せき》(みな殺し)せらるる已に憐れむに堪えたり
一心国に報いて鋒を摧《くだ》くの日
百戦遼を擒《とりこ》にし臘(方臘)を破るの年
〓曜〓星《さつようこうせい》(地〓星・天〓星)今や已《や》み
讒臣賊子《ざんしんぞくし》尚依然たり
早く鴆《ちん》毒(毒殺)せられて黄壌《こうじよう》(土)に埋《うず》もるるを知りなば
鴟夷萢蠡《しいはんれい》(注九)の船を学び取らん
また、一つは、
生きては当《まさ》に鼎食《ていしよく》(美食)し死しては侯に封ぜられ
男子生平の志已に酬わる
鉄馬《てつば》夜嘶《いなな》いて山月暁《あ》け
玄猿《げんえん》秋嘯《うそぶ》いて暮雲稠《あつ》し
出処《しゆつしよ》に真跡《しんせき》を求むるを須《もち》いず(注一〇)
卻《かえ》って忠良の話頭(語り草)と作《な》るを喜ぶ
千古蓼〓《りようわ》玉を埋むるの地
花落啼鳥総《すべ》て愁《うれい》に関《かか》わる
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 誓願 ここでは宋室の文官尊重の誓いをいう。太祖は宰相の趙普の説を用いて、文治政策を実行し、地方の兵権を抑圧した。太祖のあとをついだ太宗にも、趙普は文治政策を断行させ、中央集権の実をあげたが、半面、兵権の抑圧は国防力を弱め、外敵に対しては絶えず屈辱外交をとらざるを得なくなり、また文官の偏重は派閥の争いを盛んならしめて、いわゆる奸臣を跋扈させるにいたった。
二 脇腹 原文は腰腎《ようじん》。俗に腰と腎臓のことをいう。ここでは脇腹と訳したが、明確に腎臓をさすわけではなく、内臓と訳してもよい。さきにも腰腎の語があって、「墜了那人腰腎」と使われていたが、そこでは精気と訳した。腎水虧(腎虚)という語のあるように腎は精気のもとづくところと考えられていたのである。
三 田横 漢《かん》が天下を統一したときの、斉《せい》の最後の王。彼は斉王・田栄の弟であったが、田栄が死んだときその部下をひきいて項羽とたたかい、斉の地を回復して田栄の子・田広を王に立て、みずからは宰相として王を輔佐した。三年後、田広が漢の将・韓信に捕らえられるや自立して斉王となり、漢の天下統一後もこれに降らず、兵五百をひきいて渤海の孤島に拠った。のち漢の高祖に迫られて、部下のために降伏を決意したが、漢の使者とともに洛陽の近くまで行ったとき、降ることを恥じ、みずから首を刎ねて死んだ。田横に随行して行った二人のものも、漢に降る手続きをすませたうえで自刎《じふん》し、孤島に残されていた五百の部下もこれを聞いて、ひとり残らず自刃してしまった。
四 地下道 宮居から李師師の家まで通じていたという。第七十二回注一四参照。
五 軍民とはなんのやましい関係も持ちませんでした 原文は水米無交。官吏と住民との物質面での交渉のないことをいう。ここでは謀叛のくわだてのなかったことを指している。
六 出朝入相 諸本みなこのままだが、おそらく出将入相の誤りであろう。出でては将となり入りては相となるの意で、将相というに同じ。ここでは梁山泊の英雄たちを指す。
七 行蔵を把って 出でては道をおこない退いては隠れて、の意。『論語』の述而篇に、「之を用うれば則ち行ない、之を舎《す》つれば則ち蔵る」とあるに拠る。
八 韓彭 韓信と彭越。第百十九回注一四・一五参照。
九 鴟夷萢蠡 萢蠡《はんれい》は越《えつ》王勾践《こうせん》を助けて苦節二十年、ついに宿敵の呉《ご》を破って天下に覇をとなえさせた名相であるが、勾践が覇者となると、王は患難をともにすることはできても太平をともにすることのできぬ人物であると見てとり、すべてを投げすてて、ひそかに海路を斉の国へと姿をくらました。そのとき鴟夷子皮《しいしひ》と名乗った。鵬夷子皮とは馬の皮で作った伸縮自在の袋のことで、その自在さをみずからにたとえる意味とともに、また、宿敵呉の国で、彼と同じく王を輔佐して大功のあった伍子胥《ごししよ》が、結局は呉王夫差《ふさ》に殺され、その死骸をこの袋に詰められて長江に投ぜられるにいたったことを寓意している。この范蠡はのち商人として巨万の富をたくわえ、陶朱公《とうしゆこう》と呼ばれるにいたった。富をたとえて陶朱猗頓《とうしゆいとん》の富というその陶朱は、この范蠡のことである。
一〇 出処に真跡を求むるを須いず 出処とは出処進退のこと。真跡とはほんものの筆跡。出処に真跡を求むるを須いずとは、折り目ただしい生き方を求めないの意で、次の句へつづけて、真に心ある人々の語り草になるような生き方をこそ求めるのだという意。
水滸伝 第八巻 〔完〕
解説
一
水滸伝が、ほぼ現在の形にまとめられたのは、明(一三六八―)のはじめごろであるが、この説話が発生したのは北宋の末年から南宋(一一二七―)のはじめにかけてであって、以来大いに愛好されながら民衆のあいだに語りつがれてきたものである。つまり現在の水滸伝は、二百数十年間にわたって中国の民衆がつくりあげた、文字どおりの大衆文学なのである。
宋の徽宗《きそう》の宣和年間(一一一八―二五)、宋江ら三十六人の賊が山東に叛乱をおこして一時大いに官軍をなやましたが、のち降伏した、という史実がある。この宋江らのことは、「宋史」につぎのようにしるされている。
宣和三年二月、淮南《わいなん》の盗《とう》宋江等、淮陽軍を犯す。将を遣《つか》わして討捕せしむ。又、京東・江北を犯し、楚海の州界に入る。知州張叔夜《ちようしゆくや》に命じてこれを招降せしむ。(徽宗本紀)
宋江、京東に寇す。蒙《もう》、上書して言う、宋江、三十六人を以て斉魏に横行し、官軍数万、敢て抗する者なし、その才、必ずや人に過ぎん、今、青渓に盗起こる、江(宋江)を赦《ゆる》して方臘《ほうろう》を討たしめ、以て自ら贖《あがな》わしむるに若《し》かず、と。帝曰く、蒙、外に居りて君を忘れず、忠臣なり、と。命じて東平府に知《ち》たらしむ。未だ至らずして卒《しゆつ》す。(侯蒙《こうもう》列伝)
宋江、河朔に起こり、転じて十郡を略《おか》す。官軍、敢てその鋒に〓《せま》るなし。声言す。将《まさ》に至らんとすと。叔夜、間者《かんじや》をして向う所を覘《うかが》わしむるに、賊、径《ただ》ちに海瀕《かいひん》に趨《はし》り、鉅舟《きよしゆう》十余を劫《うば》い、鹵獲《ろかく》を載《の》す。是《ここ》に於て、死士を募って千人を得、伏を設けて城に近くし、而して軽兵を出して海を距《へだ》ててこれを誘い、戦う。先ず壮卒を海旁に匿《かく》し、兵の合うを伺い、火を挙げてその舟を焚《や》かしむ。賊、これを聞きて皆闘志なし。伏兵これに乗じてその副将を擒《とりこ》にす。
江(宋江)乃《すなわ》ち降《くだ》る。(張叔夜《ちようしゆくや》列伝)
宋江らのこの叛乱は、農民蜂起だったようである。近年の中国における水滸研究では、特にこの点が重視されているようである(このことは後に述べる)が、物語そのものは、娯楽的な性格のものである。しかし、宋江らの事実があってから間もなく、これが英雄説話として伝説化され、大いに民衆のあいだにもてはやされて、次第に、雪だるまの大きくなるように厖大な説話になっていったということには、たしかに宋江らの行動に対する民衆の大きな共感が見られる。宋江らの行動を英雄視し、これに喝采をおくることが、いかに民衆の溜飲をさげ、いかに民衆の慰安になったかということは、想像にかたくない。つまり、この物語をささえているものは、腐敗した官僚政治に対する民衆の憎しみである、ということができる。だが、それだけをことさらに強調することは、すなおな読みかたとは言えないだろう。物語の基調は、いうまでもなく、素朴な英雄崇拝である。
宋江らの事実は、民衆のあいだに語りつがれて行くうちに、しだいに物語化されていったようである。元《げん》初の人、周密《しゆうみつ》の編んだ「癸辛雑識《きしんざつしき》」の続集上に、宋の遺民〓聖与《きようせいよ》(同書には聖与とあるが聖予が正しい)の「宋江三十六人賛」が載せられているが、その自序にいう、
宋江の事の街談巷語《がいだんこうご》に見ゆる、采著するに足らず。雖《しかれ》ども、高如・李嵩《りすう》の輩の伝写する有り、士大夫もまた黜《しりぞ》くるを見ず。余《よ》、年少の時、その人を壮なりとし、これが画賛を存せんと欲するも、未だ信書に事実を載するを見ざるを以て、敢て軽《かろがろ》しく為さず。異時、東都事略《とうとじりやく》(南宋の王〓の撰。北宋九代の事蹟を記す)中、侍郎侯蒙《こうもう》の伝に書一篇有り、賊を制するの計を載せて云う、宋江、三十六人を以て河朔・京東に横行し、官軍数万、敢て抗する者なし、その材、必ず人に過ぐる有らん、過を赦して招降し、方臘を討たしめ、これを以て自ら贖わしむるに若かず、或は東南の乱を平らぐる可し、と。余、然る後、江(宋江)が輩の真に時に聞こゆるもの有るを知る。是に於て、三十六人に即いて人ごとに一賛を為《つく》り、而して箴体《しんたい》在り。
これによって見れば、すでに南宋のころ宋江らの物語が民衆のあいだに語られ、また、高如・李嵩というような、物語や画像の作者のあったことも知られる。
現在、そのころの宋江らに関する説話のうかがえるものに、「大宋宣和遺事《せんないじ》」がある。この書は宋人の作とつたえられてきたものであるが、元代になってからの言葉がまじっているところから、元人の手になったものか、あるいは宋人の作に元人が手を加えたものかのいずれかであろうと推定されている。上古から唐に至るまでの歴代の興亡を略述して序とし、ついで宋の太祖から哲宗に至る七代の出来事を略記し、つぎに徽宗の世の、朝廷には奸臣がはびこり、皇帝は賢良をしりぞけて驕奢にふけり、国政がみだれてついには首都〓京も金軍の手に落ち、徽宗・欽宗は虜囚の身となって北辺に相果てるまでの朝野の出来事を記述したものであるが、その一部をなす宋江らに関する記述は、現在の水滸説話と必ずしも一致はしないが、それが現在の水滸伝の母体であることは明らかである。そのあらましをしるしておこう。
〔一〕宣和二年、楊志・李進義(水滸伝の盧俊義)・林冲・王雄(水滸伝の楊雄)・花栄・柴進・張青(水滸伝の張清)・徐寧・李応・穆横(水滸伝の穆弘)・関必勝(水滸伝の関勝)・孫立の十二人は、朱湎に花石綱の宰領を命ぜられた。このとき十二人は兄弟の義を結び、わざわいにあったときにはたがいに助けあうことを誓った。李進義以下の十人は無事に花石をはこんで京師に帰ったが、楊志は穎《えい》州で孫立を待っているうちに、雪に路をはばまれてむなしく日をすごし、路用の金もとぼしくなってきたので、町へ刀を売りに出かけた。そのとき一人の無頼漢と口論して、楊志はその男を殺したため、衛州へ流罪になる。衛州へ護送されて行く途で、楊志は孫立に会った。事情を知った孫立は、夜を日についで京師へ帰り、李進義らにこのことを知らせる。兄弟十一人は黄河の岸で楊志が護送されてくるのを待ち、護送役人を殺して楊志を救い出し、ともに太行山へ逃げて賊となった。
〔二〕同年五月、北京の留守《りゆうしゆ》の官・梁師宝(水滸伝の梁中書)は、蔡太師の誕生日の祝いとして十万貫の金銀珠玉や珍宝を、県尉の馬安国に宰領させて京師へ送った。一行が五家営で休んでいると、一対の酒樽をかついだ八人の大男がやってきて、そこで休んだ。馬安国らがその酒を買って飲むと、みな眼がくらみ、前後も知らずに眠ってしまった。そのあいだに八人の大男は、金銀珠玉珍宝を残らず奪って逃げた。残していった酒樽から足がついて、その八人は、晁蓋・呉加亮(水滸伝の呉用)・秦明・劉唐・阮進(水滸伝の阮小二)・阮通(水滸伝の阮小五)・院小七・燕青であることがわかった。ただちに捕り手がさしむけられたが、八人は押司・宋江の内通によって逃れ、さきに太行山へ逃れた楊志ら十二人をさそって、ともに梁山泊にこもって賊となった。
〔三〕ある日、晁蓋は宋江の救命の恩に報いるため、劉唐を遣わして一対の金釵を宋江に贈ったが、宋江はそれを馴染の娼婦・閻婆惜にあずけたために、賊と通じていることを閻婆惜に知られてしまった。
その後、宋江は、父が病気だという知らせを受けて家に帰る途中、漁師の杜千(水滸伝の杜遷)と張〓(水滸伝の張横)の二人が、索超という大男といっしょに、とある酒屋で酒を飲んでいるのに出くわした。また、さきに晁蓋らをとり逃がした捕り手の董平が、官の督責に堪えられなくなって逃亡しようとしているのに出あった。宋江はそのとき、索超らが賊の仲間に加わりたがっていることを知って、晁蓋あての手紙を持たせて四人を梁山泊へ行かせた。(これで梁山泊の賊の数は二十四人になる)
父の病気がなおったので宋江は役所へ帰ることになったが、途中、閻婆惜の家によってみると、女は間夫の呉偉(水滸伝の張文遠)と寝ていたので、宋江は怒って二人を殺し、家へ逃れた。捕り手がきたので家の裏にある九天玄女廟にかくれていると、捕り手は宋江をさがし出し得ずに、父をとらえて引きあげていった。宋江が九天玄女の像に礼拝していると、香机の上に巻物が落ちてきた。開いてみると、それには三十六人の姓名がしるしてあり、さらに、宋江がその三十六人の首領となる旨の詩が書いてあった。宋江はそこで、朱仝・雷横・李逵・戴宗・李海(水滸伝の李俊)ら九人(――と記されているが、三十六人の姓名にてらしあわせてみると、十人にしなければ数があわない。朱仝ら五人のほかに、史進・公孫勝・張順・武松・石秀の五人を加えた十人である――)を連れて梁山泊へ行った。行ってみると、すでに晁蓋は死んでいて、呉加亮と李進義が首領になっていた。宋江が九天玄女の巻物のことを話すと、呉加亮らは宋江を首領に推した。(晁蓋が死んだので、梁山泊の賊の数は、宋江は別にして、これで三十三人になる)
宋江ら梁山泊の賊は、京西・河北・淮陽の三地区二十四州八十余県を劫《おびや》かし、子女や金帛をかすめ取ること無数であった。朝廷では、呼延綽(水滸伝の呼延灼)を将とし、また投降した海賊の李横(この李横にあたる人物は水滸伝には登場しない)に命じて、しばしば宋江らをとらえさせようとしたが、戦えば必ず敗れるばかりだった。呼延綽は朝廷の督責があまりにもきびしいので、ついに李横とともに宋江に身を投じて賊の仲間にはいった。このとき仏僧の魯智深もまた反して宋江に身をよせた。(これで梁山泊の賊の数は宋江ほか三十六人)
〔四〕朝廷では宋江ほか三十六人の賊をいかんともすることができず、ついに元帥・張叔夜を山塞に遣わして招撫せしめた。宋江らはそこで、朝廷に帰順した。朝廷は各人に武功大夫の官をさずけ、巡検使として各地に派遣した。後、宋江を遣わして方臘を討たしめ、その功によって宋江は節度使に任ぜられた。
以上が「大宋宣和遺事」にしるされている宋江らのことの全部である。さきにあげた「宋江三十六人賛」の三十六人は宋江をふくめた数であり、現在の水滸伝の三十六人も同様であるが、「大宋宣和遺事」では三十六人は宋江を除いた数である。その三十六人の姓名にも異同があり、話の筋も現在の水滸伝にくらべると細部にかなりのちがいがある。しかし、物語の骨子は同じである。
「大宋宣和遺事」に見られるような説話のほかに、また、三十六人についてのいわば銘々伝ともいうべき、個々の物語が語られていたようである。元代にそれらを戯曲化したものが、すでに亡んで題名だけ残っているものをふくめて三十種ちかくある。作者は、高文秀・紅字李二・李文蔚・康進之・李致遠・楊顕之らであるが、これらの作者のうち、紅字李二(五篇)は武松・李逵・楊雄・張横などさまざまな人物を主人公にしているが、高文秀(九篇)は武松を主人公にした一篇のほかはすべて李逵を主人公にし、康進之(二篇)は李逵を、李文蔚(二篇)は燕青を主人公にしている。李逵を主人公にした戯曲はほかにも多く、このことは李逵が当時の民衆のあいだに人気のあったことを示しているが、ここからまた、高文秀や李文蔚の場合のように、李逵専門の作者、燕青を得意とする作者などのあったことが知られる。講釈師の場合も同様であったろう。
これらの戯曲にあつかわれている説話は、たとえば「武松打虎」(紅字李二)・「張順水裏報寃」(無名氏)・「燕青射雁」(李文蔚)などのように、その題名だけから見ても明らかに現在の水滸伝の、それぞれ第二十三回・六十五回・百十一回の話と一致するものもあるが、むしろ現在の水滸伝には見あたらない話の方が多い。これらのうち「元曲選」の中に残されているものは、「梁山泊李逵負荊」(康進之)・「黒旋風双献功」(高文秀)・「同楽院燕青博魚」(李文蔚)・「大婦小妻還牢末」(李致遠)・「争報恩三虎下山」(無名氏)・「魯智深喜賞黄花峪」(無名氏)の六種であるが、「李逵負荊」が現在の水滸伝の第七十三回の後半の話と一致するだけで、他の四種は現在の水滸伝にはつかわれていない。このことからも、いかに多種多様の水滸説話があったかということが想像されよう。
このような説話が語りつがれてゆくうちに、話は話を生んで、はじめの三十六人のほかに数多くの人物が登場するようになる。それが天〓《てんこう》星三十六・地〓《ちさつ》星七十二の計百八人にまとめられ、多種多様の説話が取捨されて、ほぼ現在の形の水滸伝があらわれるようになったのは、明のはじめごろと考えられる。その編者については、あるいは施耐庵《したいあん》といい、あるいは羅貫中《らかんちゆう》といい、また施耐庵の作を羅貫中が改編したともいわれている。
羅貫中は元末明初の人で、「三国志演義」・「残唐五代史演義」・「隋唐志伝」・「平妖伝」などの編著者として著名であるが、施耐庵の方は、最近まで、実在の人物かどうかも明らかではなかった。ところが、一九五二年、「文芸報」(二一号)に「施耐庵と水滸伝」(劉冬・黄清江)・「施耐庵の一生についての調査報告」(丁正華・蘇従麟)という共同研究が発表されて、施耐庵は江蘇省興化県の人で、張士誠の乱に参加したこと、水滸伝の作者であることが「興化県続志」などにしるされていることが明らかにされた。張士誠(一三二一―六七)は江蘇省泰州の人で、塩の運搬を業としていたが、元の至正十三年(一三五三)、塩丁を集めて乱をおこし、泰州・高郵を占領して国号を大周といい、自ら誠王と称した。その後三年、朱元璋(明の太祖)と戦って破れたので、元に降って抗戦をつづけ、蘇州を根拠地として呉王と称し、挽回をはかったが、のち、徐達(明朝創業の功臣)にとらえられて金陵(南京)へ送られ、縊死した、という元末の群雄の一人である。「興化県続志」などの資料が信用するにたるものであるとするならば、施耐庵がこの張士誠の乱に参加した人であるということは、その体験や思想が水滸伝をまとめるにあたって大いに生かされているはずであって、水滸伝を深く読む上の足がかりとすることができる。
二
水滸伝には各種のテキストがあるが、大別すれば、百回本と百二十回本、それに金聖嘆の七十回本、の三種にわけられる。
孫楷第の「中国通俗小説書目」(一九五七年・作家出版社版の改訂本)にあげられている水滸伝の書名は、二十種を数えるが、これを回数によってわけると、百回本、百十回本、百十五回本、百二十回本、百二十四回本、無回本、および七十回本の七種になる。
これらはさらに、詩詞文章の点から、文繁本と文簡本とにわけられる。文繁本とは、詩詞の挿入が多く文章の繁雑なものをいい、文簡本とは、詩詞の挿入がすくなく文章の簡略なものをいう。また、説話の内容から見れば、事繁本と事簡本とにわけられる。事繁夲とは、田虎・王慶討伐の説話のあるものをいい、事簡本とは、それのないものをいう。
孫氏の「中国通俗小説書目」の最初の版(一九三二年・北平図書館版)では、このような分類に従って、さきにあげた百回本から無回本までの六種のテキストを、つぎの三種にわけている。
文繁事簡本――百回本
文簡事繁本――百十回本、百十五回本、百二十四回本、無回本
文繁事繁本――百二十回本
ところで、孫氏の書目にあげられている一本に、パリの国家図書館所蔵の明《みん》刊本として、つぎのような書名のものが見える。
新刊京本全像
忠義水滸伝
挿増田虎王慶
ここに「挿増田虎王慶」としるされていることから見ても、また田虎・王慶の説話の内容から見ても、この項が後に挿入されたものであることが知られる。従って、この項のないもの、つまり事簡本が、事繁本よりも古いテキストであるということが一応いえるであろう。魯迅(「中国小説史略」)や鄭振鐸(「水滸伝的演化」)のように、田虎・王慶の項が後に挿入されたものであることは認めながらも、文簡本の文体がととのっていないことから、文繁本よりも文簡本の方が古いとみなす説もあるが、現存のテキストに関するかぎりでは、文簡本で同時に事簡本というのはないから、文繁本ではあるが事簡本である百回本が、こんにち残っているものの中でもっとも古いものであるといえよう。まわりくどい言い方になったが、一口にいえば、百二十回本は百回本よりも後のものである、ということである。
百二十回本は、楊定見《ようていけん》が百回本に二十回分(田虎・王慶討伐の説話)を加えて、「水滸全伝」あるいは「全書」という名で刊行したものであって、この百二十回本が出てからは、百回本はほとんど影をひそめ、もっぱら百二十回本が世におこなわれるようになった。田虎・王慶のことは、楊定見が挿入したとはいえ、おそらく楊定見の創作ではなく、百回本のまとめられる以前からあった説話であろう。そうすれば、さきにあげた魯迅や鄭振鐸の意見にうなずかれる部分が出てくる。
水滸説話は、二百数十年間にわたってさまざまな形で語りつがれながら、次第に厖大な物語になってきたものであることは、はじめに述べたが、そういう見方からすれば、事繁本が、そしてその中でもっともととのった百二十回本が、水滸説話の最後に完成された形であるといえるであろう。
事繁本に各種の回数のものがあるのは、たとえば、百十回本と百十五回本との第七回が、百二十回本では第七回と第八回とにわかれていたり、百十回本の第八回が、百十五回本では第八回と第九回とにわかれていたりするように、回数のわけかたに異同があるためである。田虎・王慶の項の内容にも異同が見られる。
事繁本を代表する百二十回本と、事簡本の百回本とのちがいは、田虎・王慶のことの有無によることはさきに述べたとおりであるが、両本とも第九十回までは(――挿入されている詩詞は多く異なり、字句や構文にも多少の相違はあるが――)、ほとんど同じである。ちがうのは、第九十一回以降で、百二十回本では第九十一回から第百回までが田虎討伐、第百一回から第百十回までが王慶討伐、そして第百十一回以降が方臘討伐となっているのに対して、百回本では第九十一回以降が直ちに方臘討伐となっている。二十回分の差はそこに生じたものである。
事簡本というべきものに、もう一つ、金聖嘆《きんせいたん》の七十回本がある。これは他本の第一回を「楔子」とし、第二回を第一回として第七十回におよび、それより後を切りすてたもので、金聖嘆はこれに施耐庵の「自序」なるものをつけ、これが施耐庵作の古本《こほん》であって、あと(他本の第七十二回以降)は羅貫中の続作であり、駄作であるときめつけている。ところが、施耐庵の「自序」というのは金聖嘆の偽作であり、また、みずからの「序」の末尾に崇禎十四年(明の末・一六四一)二月十五日としるしているのもいつわりで、実は清になってからのもののようである。
この七十回本は、他本の第七十一回の、菊花の宴の前、百八人の好漢が血をすすって誓いをするところで切り、そのあとに盧俊義の夢の話をつけ加えて、結びとしている。その話のあらましをしるしておこう。
盧俊義が寝ているところへ、一人の長身の男がやってきて盧俊義をとらえようとする。抵抗しようにも、武器がみな折れたり欠けたりしていて役にたたず、盧俊義はとらえられて役所へ引きたてられてゆく。調べがはじまろうとすると、門の外から多くの人々の泣き声がきこえてくる。泣いているのは宋江以下百七人で、みな縛られている。盧俊義がおどろいてわけをきくと、段景住が、あなたを救う方法がないので兄貴(宋江)は軍師(呉用)と相談して朝廷へ帰順を申し出てあなたの命乞いをすることになったのだという。と、役人は机をたたいてののしり、首斬り役人をよぶ。直ちに二百十六人の首斬り役人が出てきて、二人で一人ずつ宋江・盧俊義以下百八人を首斬りの刑に処してしまう。盧俊義が夢の中でおどろきながら目をあけて、堂の上を見ると、そこには天下太平と大書した額がかかっていた。
この七十回本が出てからは、百二十回本が出たあとの百回本と同じように、他本は影をひそめてしまい、以来約三百年間、もっぱらこの本がおこなわれてきた。三百年といえば、水滸説話が発生してから明のはじめに現在の形に固定するまでの年数と同じである。水滸説話には現在の水滸伝には切りすてられてしまった物語がすくなくないことは前に述べたが、七十回本は刪本とはいえ、とにかく三百年間もおこなわれてきたという点からいえば、またそれが水滸説話の変転の最近までの形だったと見なければならないだろう。近年の中国での七十回本に対する見方は否定的であるが、その批判をも考慮した上で、なお七十回本を底本にし、百回本や百二十回本によって校訂した七十一回本も出されている。一九五七年・作家出版社版「水滸」がそれである。
中国でもっぱら七十回本がおこなわれているとき、百二十回本の翻訳(「国訳忠義水滸全書」大正十二年―十三年。楊定見本を訓読式に読みくだしたもの)を完成した幸田露伴に、「金聖嘆」(昭和二年)という一文がある。七十回本を否定した先駆的意見であり、中国で七十回本がおこなわれるようになった理由にも正確に触れているので、その一部を引用しておこう。
水滸伝や三国志演義や西廂記等を批評した者に金聖嘆といふのが有ることは誰しも知つてゐることである。水滸伝は聖嘆の評のほかの本は、今は殆んど手に入れ難いほど稀有なものになつてゐて、李卓吾評と云伝へられたり、鍾伯敬評と云はれたりしてゐる本は、寓目してゐる人も少い。随つて水滸伝と云へば直に聖嘆の名を思ひ出すやうになつてゐて、聖嘆を水滸伝の忠僕の如く思つてゐる人も有り、又近頃の支那の人などは、何でも古に反対して新しいことを云ひたい心から、聖嘆を大批評家などと揚げてゐる者もある。しかしそれは飛んでも無い事で、聖嘆は水滸伝を腰斬にして、百二十回有ったものを七十回で打切つて、そして辻褄を好い程に合せて、これが古本である、普通の俗本は蛇足を添へたものだなぞと、勝手なことを云つたもので、本来の水滸伝から云へば、けしからぬ不埒なことをしたものである。忠僕どころでは無い、欺罔横暴、何とも云ひやうの無い不埒な奴である。
百二十回では余り長過ぎて、読者も些し倦きもすれば、出版者も手間や資金がかゝりすぎる傾がある。そこで七十回位にすると丁度商売上商品として頃合のものになるのである。……其の大切な『頃合』といふことから七十回本が歓迎されたことは疑ふべくも無い。それから又、原本水滸伝では末の方になると読者の贔屓の深い人物が頻りに殺されたりなんぞする。……大抵の人には贔屓役者が殺されてしまふのなぞ嬉しくない。……特に水滸伝は清朝では禁止本で有つたから、ビク〓〓もので秘密出版をするのであつた。其の場合に見つけられて燬板や罪を得るおそれの有るのに、長々しい百二十回本の方を取って、手間や資金が忽然としてフイになるか知れぬものに少しでも余計の元手を入れよう訳が無い。そこで水滸伝といへば聖嘆本となつてしまつたのである。何も聖嘆の評が面白いから水滸伝は流行つたのでは無く、聖嘆が生れない前から水滸伝は流行つてゐたのである。それこれの事情を考へると、ひよつとすると最初は本屋の注文から聖嘆が七十回本をこしらへ、それから清朝の禁止書となるに及んで、愈々七十回本の流行といふことになつたのかも知れない。
露伴のいう「近頃の支那の人などは」云々は、金聖嘆の改作の動機を「聖嘆は賊が天下にはびこった時代に生れ、直接に張献忠や李自成などの強盗が全国に害を及ぼすのを見たために、強盗を奨励してはいけない、口誅筆伐を加えねばならないと感じた」ためであると見た胡適の意見(「水滸伝攷証」――胡適文存第一集巻三)などにはじまる、当時の七十回本に対する肯定的な見方をいったものであろう。
厳敦易の「水滸伝的演変」(一九五七年・作家出版社版)の中の「七十回本産生的時代背景」では、露伴が「清朝の禁止書」云々といった、その時代背景をさぐって、崇禎十五年(一六四二)に水滸伝の禁止令が出されたときに、金聖嘆は農民革命をおさえようとする王朝政権に迎合して七十一回以後を削って出したのだと述べている。
金聖嘆の改作を論じてもっともまとまっている著作には、何満子の「論金聖嘆評改水滸伝」(一九五四年・上海出版公司版)があるが、同書でも、金聖嘆は統治階級の代弁者であって、この革命作品を計画的に封建統治階級のために改作したのだと論じている。
こんにちの中国の論者には、胡適のように水滸伝を「強盗を奨励する」ものなどとみなす者はいない。それは「階級闘争と労働人民の反搾取・反圧迫への希望と要求とを反映したもの」であり、金聖嘆が削った招安と討伐については、「招安は農民革命のエネルギーの強大さを反映するとともに、統治階級が招安という方法を利用する卑劣と悪辣さを深刻に反映したもの」であり、「招安や方臘討伐は農民革命が失敗する必然性を反映したものである」(いずれも秦文兮「論水滸研究中引起争論的幾個問題」――一九五七年十二月・「文史哲」)という見方が圧倒的である。
もっとも、中には宋雲彬の「談水滸伝」(一九五三年三月・「文芸月報」)のように、「金聖嘆は当時の不安な知識分子であって、梁山泊の好漢たちを同情を以て見た、したがってその水滸伝の改作は力のこもったものであり、よく出来ている。そのため七十回本が出てからは他本は影をひそめた」と考える人もいなくはないようである。だが、そういった宋雲彬も、翌一九五四年一月の「文芸月報」に「談金聖嘆」という一文を書き、「談水滸伝」での自分の見方はまちがっていたと訂正している。
金聖嘆の改作を非とする点では、三十年以前の露伴の意見と「近頃の中国人」のそれとは同じである。だが、こんにちの中国の論者は、露伴の見方とはちがって、水滸伝を文学的によりも政治的に見ている。ここで私の意見をいえば、七十回本はいわばまだ銘々伝であって、百回本あるいは百二十回本にしてはじめて小説としての結構がそなわる。七十回本には削られている招安と討伐には、秦文兮の指摘しているように「農民革命が失敗する必然性」がまざまざとえがき出されていて、これによってはじめて水滸伝は雄大なロマンとなるのである。また水滸伝にはこんにちの中国の論者のいうような政治的反映の見られることは確かであるが、本質的にはごく普通の意味での英雄物語であって、「革命作品」などと呼ぶべきものではなかろう。
三
水滸伝は江戸文学にきわめて大きな影響をあたえたが、その功労者は岡嶋冠山(一六七三―一七二八)である。冠山の用いたのは百回本で、訓点本と翻訳とがある。訓点をほどこしたのは第二十回までで、そのうち第十回までが享保十三年(一七二八)に刊行され、第十一回以降は宝暦九年(一七五九)になってから出された。翻訳の方は、「通俗忠義水滸伝」の名で宝暦七年に刊行された。
この冠山の訳を、《ちゆうしゆつ》道人なる人が百二十回本でおぎなった「通俗忠義水滸伝拾遺」が寛政二年(一七九〇)に出、その後、山東京伝の抄訳「梁山一歩談」や「天剛垂楊柳」など(寛政四年・一七九二)も出たが、当時のいわば決定版ともいうべきものは、滝沢馬琴と高井蘭山との訳になる「新編水滸画伝」である。九編九十巻からなっているが、馬琴の訳したのは初編十巻だけで、これは文化三年(一八〇六)に出された。ところが、その後、板木師が版元に前借したことから法廷上のあらそいがおこり、馬琴もそれに巻きこまれたことから、版元をうらんで稿をつづけることを拒絶した。そのために蘭山がつづけたのである。(馬琴が「新編水滸画伝」を中絶したのは挿絵を担当した葛飾北斎との不和によるという説もあるが、版元とのあらそいのためであることは馬琴自身が蟹行散人という名で書いた「近世物之本江戸作者部類」の中にしるされている)蘭山がこれを完結したのは文化十一年(一八一四)である。この「新編水滸画伝」は百二十回本に従っているが、厳密にいえば翻訳ではなく、部分的にかなり自由な取捨がおこなわれている。
水滸伝を翻案した作品は非常に多いが、その中で重要なものはつぎの四種であろう。
建部綾足「本朝水滸伝」(前編は安永二年・一七七三。後編は写本)
滝沢馬琴「高尾船字文」(寛政七年・一七九五)
山東京伝「忠臣水滸伝」(前編は寛政十年・一七九八。後編は享和元年・一八〇一)
滝沢馬琴「南総里見八犬伝」(文化十一年―天保十二年・一八一四―四一)
「本朝水滸伝」は、水滸伝の翻案の最初のものであるとともに、その雅俗折衷の文体は馬琴らの読本《よみほん》の文体を誘発したという点でも、文学史的に重く評価されて然るべきものである。大筋は、梁山泊を伊吹山、高〓を道鏡、宋江を清麻呂、晁蓋を押勝とし、清麻呂や押勝が道鏡を討って君側の奸を除き、国を保ち民を安からしめようとして、同志の者が伊吹山にあつまるためにまきおこすさまざまな波瀾をえがく。
「高尾船字文」は、馬琴の読本の処女作であり、歌舞伎の先代萩に水滸伝の趣向を織りこんだところに新しい工夫が見られる。洪信が伏魔殿をあばいて妖魔を走らすという水滸伝の発端の話が、ここでは、山名洪氏が将軍義満に命ぜられて巡検使として奥州へ行き、藤中将実方の廟をあばくと、雀形の石におおわれた塚の下から、白気とともに数十羽の雀が飛びたち、十八という文字の形をあらわすという趣向にかえられている。
「忠臣水滸伝」は、京伝の読本の処女作で、仮名手本忠臣蔵の趣向を織りこんだもの。洛中に怪異がおこり、北陸には疫病がはやったので、朝廷では夢窓国師を召し出して霊法をおこなわせたところ、それらの厄災は新田義貞らの怨霊のしわざであることがわかった。そこで足利直義が新田義貞の遺〓を持って鎌倉へ下り、高師直に命じてその〓《かぶと》を極楽寺に埋めさせる。土を掘ると石室があらわれ、さらに掘ると「遇高而開」という文字があらわれる。その蓋をとると、大きな音とともに白気が立ちのぼり、空中で四十余の金光に変じて八方に飛び去る、というのがその発端になっている。
「南総里見八犬伝」は、馬琴が失明しながらも書きつづけた畢生の大作。多くの中国の小説から趣向を借りているが、特に水滸伝に拠り、百八人の好漢を八犬士にかえて水滸伝に比すべき規模の雄大さをねらったものである。
そのほか、翻案もしくは大きな影響を受けた主な小説には、つぎのようなものがある。
佐々木天元著・仇鼎散人序「日本水滸伝」(安永六年・一七七七)
伊丹椿園「女水滸伝」(天明三年・一七八三)
山東京伝「通気粋語伝」(寛政元年・一七八九)
振鷺亭「いろは酔故伝」(寛政六年・一七九四)
滝沢馬琴「傾城水滸伝」(文政八年―天保六年・一八二五―三五)
「日本水滸伝」は、水滸伝の発端の話を、北斗七星の化生した七人の英士として物語を発展させたものであり、「女水滸伝」は、名和長年の妻の秀蘭が、吉野朝の回復を志し、女傑を糾合して山寨にたてこもるという趣向にしたもの。「通気粋語伝」は、水滸伝の舞台を傾城買いの世界にかえたもので、山東屋及二郎(山東・及時雨・宋江)、その妻で背が高いので一丈青(一丈青・扈三娘)というあだ名のおさん、番頭の盧俊義、講釈師の呉用、相撲取の久紋竜進吉(九紋竜・史進)、草履取の李逵助(李逵)、飛脚屋の戴宗、巾着切の時遷小僧などの名が見える。「いろは酔故伝」には鎌倉殿の権臣・高〓入道、その子武太郎(武松)、孫勝法師(公孫勝)、宋次郎(宋江)、深太郎(魯智深)などの名が、また「傾城水滸伝」には、青嵐《せいらん》の青柳《あおやぎ》(青面獣・楊志)、向う見ずの索城《なわしろ》(急先鋒・索超)、雷《いかずち》の榛名《はるな》(霹靂火・秦明)、二鞭《ふたむち》の芍薬《しやくやく》(双鞭・呼延灼)などの女傑の名が見える。
ほかに、水滸の名を題名に冠したり、部分的に趣向を借りたりしたものはかぞえつくせないほどの数にのぼる。
現代の翻訳には、大正年間に平岡竜城の「標註訓訳水滸伝」(七十回本)、さきにあげた露伴の「国訳忠義水滸全書」(百二十回本)、久保天随の「水滸全伝」(百二十回本)があり、近くは吉川幸次郎「水滸伝」(百回本、未完。第四十三回以降は清水茂と共訳)、佐藤春夫「新訳水滸伝」(百二十回本。第八十七回まで)、村上知行「水滸伝」(七十回本)がある。
私のこの翻訳はさきに平凡社版「中国古典文学全集」の第十、十一、十二巻として出した「水滸伝」(一九五九―六一)および同社の「中国古典文学大系」の第二十八、二十九、三十巻として出した「水滸伝」(一九六七―六八)をもとにしたものであって、このたびの加筆にあたっては立間祥介氏の助言を得た。テキストとしては商務印書館版「一百二十回的水滸」(一九二九年刊)を用いた。「一百二十回的水滸」は、明《みん》刊の「李卓吾評忠義水滸全伝」(楊定見本)を底本とした活字本で、底本に明らかでない文字はそのまま欠字として残しているが、それらの欠字は他本を参照して埋めた上で訳したし、また明らかに誤植、あるいは誤写がそのまま残されていると思われる文字は、これも他本を参照し、あるいは推定して改めた。これらの校訂には、一九五八年・中華書局版の「水滸全伝」に負うところが多大であった。これは鄭振鐸が王利器・呉暁鈴らとともに、天都外臣(汪道昆)本の「忠義水滸伝」(百回本。明の万暦十七年・一五八九刊)を底本とし、百回本にない二十回分は楊定見本によっておぎなって百二十回とした上で、各種の版本の水滸伝によって校訂を加えたものである。
一九八五年一月
駒 田 信 二
水滸伝《すいこでん》(八)
講談社電子文庫版PC
施耐庵《したいあん》/駒田信二《こまだしんじ》訳
(C) Setsu Komada 1985
二〇〇二年九月一三日発行(デコ)
発行者 野間省伸
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