TITLE : 水滸伝(五)
講談社電子文庫
水滸伝(五)
駒田信二 訳
目 次
第五十八回
三山《さんざん》 義に聚《あつ》まって青州《せいしゆう》を打ち
衆虎《しゆうこ》 心を同じくして水泊《すいはく》に帰《き》す
第五十九回
呉用《ごよう》 金鈴弔掛《きんれいちようかい》を賺《かた》り
宋江《そうこう》 西嶽華山《せいがくかざん》を鬧《さわ》がす
第六十回
公孫勝《こうそんしよう》 芒〓山《ぼうとうざん》に魔を降《くだ》し
晁天王《ちようてんのう》 曾頭市《そうとうし》に箭《や》に中《あた》る
第六十一回
呉用《ごよう》 智もて玉麒麟《ぎよくきりん》を賺《だま》し
張順《ちようじゆん》 夜金沙渡《きんさと》を鬧《さわ》がす
第六十二回
冷箭《れいせん》を放って 燕青《えんせい》主を救い
法場《ほうじよう》を劫《おびや》かして 石秀《せきしゆう》楼より跳ぶ
第六十三回
宋江《そうこう》 兵もて北京城《ほつけいじよう》を打ち
関勝《かんしよう》 議して梁山泊《りようざんぱく》を取らんとす
第六十四回
呼延灼《こえんしやく》 月夜に関勝《かんしよう》を賺《だま》し
宋公明《そうこうめい》 雪天に索超《さくちよう》を擒《とら》う
第六十五回
托塔天王《たくとうてんのう》 夢中に聖を顕《あら》わし
浪裏白跳《ろうりはくちよう》 水上に冤を報ず
第六十六回
時遷《じせん》 火もて翠雲楼《すいうんろう》を焼き
呉用《ごよう》 智もて大名府《たいめいふ》を取る
第六十七回
宋江《そうこう》 馬歩の三軍を賞し
関勝《かんしよう》 水火の二将を降《くだ》す
第六十八回
宋公明《そうこうめい》 夜曾頭市《そうとうし》を打ち
盧俊義《ろしゆんぎ》 史文恭《しぶんきよう》を活捉《いけど》る
第六十九回
東平府《とうへいふ》 誤って九紋竜《くもんりゆう》を陥《おとしい》れ
宋公明《そうこうめい》 義もて双鎗将《そうそうしよう》を識《し》る
第七十回
没羽箭《ぼつうせん》 石を飛ばして英雄を打ち
宋公明《そうこうめい》 糧《かて》を棄《す》てて壮士を擒《とりこ》にす
第七十一回
忠義堂《ちゆうぎどう》に 石碣天文《せつけつてんぶん》を受け
梁山泊《りようざんぱく》に 英雄座次《ざじ》に排《なら》ぶ
第七十二回
柴進《さいしん》 花を簪《かざ》して禁院《きんいん》に入り
李逵《りき》 元夜《げんや》に東京《とうけい》を鬧《さわ》がす
水滸伝(五)
第五十八回
三山《さんざん》 義に聚《あつ》まって青州《せいしゆう》を打ち
衆虎《しゆうこ》 心を同じくして水泊《すいはく》に帰《き》す
そのとき武松《ぶしよう》が孔亮《こうりよう》を魯智深《ろちしん》と楊志《ようし》にひきあわせて、その兄の孔明《こうめい》と叔父の孔賓《こうひん》を救ってやろうというと、魯智深はすぐ三山の兵を集めて攻めて行こうといいだした。すると楊志がいうには、
「青州を攻めようというのなら、大軍をうごかさないことには打ち破れるものではない。ところで、梁山泊の宋公明の名は誰知らぬものもなく、世間では及時雨の宋江と呼んでいるが、それが呼延灼《こえんしやく》とは仇のあいだがらだということだ。そこで、われわれと孔家兄弟と軍勢をひとつに合わせ、わしらはここでさらに桃花山の軍勢がそろうのを待って、青州へ攻めて行くことにするから、孔亮の兄弟、あんたは自分で、大急ぎで梁山泊へ行き、宋公明に救援をたのんでいっしょに城を攻めてもらうのだ。それがいちばんよい策だろう。なんといってもあんたと宋三郎とは親しい仲だからな。みんなはどう思う?」
魯智深が答えて、
「そのとおりだ。いつも宋三郎の評判を聞きながら、わしは残念ながらまだ会ったことがない。みんなが彼の名をいうので、わしは耳にタコができるほどだから、きっとまことの男なのにちがいない。だからこそ天下にその名を馳せたのだろう。以前、彼が花知寨と清風山におったとき(第三十三回)わしは彼に会いに行こうとしたことがあったが、わしが出かけようとしたときには、もう去ってしまったとのことだった。そんなことで縁がなく、とうとう会えなかった。孔亮の兄弟、あんたが兄さんを救い出したいなら、早く自分で出かけて行ってたのみなさるがよい。わしらはこっちで、やつらとたたかいながら待っているからな」
孔亮は手下たちを魯智深にあずけ、ひとりの供のものをつれただけで、旅あきんどに身をやつし、夜を日についで梁山泊へとむかった。
魯智深・楊志・武松の三人は、山寨へ帰って施恩《しおん》と曹正《そうせい》を呼び出し、さらに二百人ほどの手下をひきつれて加勢に下山させた。桃花山の李忠《りちゆう》と周通《しゆうとう》も、知らせを受けるとすぐ山寨の軍勢をことごとく呼び集め、四五十人の手下を山寨の留守に残しただけで、他の全員をひきつれて下山し、青州城下に集まって一同で城を攻めることになったが、この話はそれまでとする。
ところで孔亮は、青州をあとにして、やがて梁山泊のほとりに着き、催命判官《さいめいはんがん》の李立《りりつ》の居酒屋へはいって酒をたのみ、道をたずねた。李立は、ふたりの見知らぬものがはいってきたのを見ると、席をすすめてたずねた。
「お客さんは、どこからおいでで」
「青州からだ」
「梁山泊へは、誰をたずねて見えましたので」
「山に知りあいがいるので、はるばるたずねてきたのだ」
「山の寨《とりで》は大王たちの住いですから、とても行けませんよ」
「それが、宋大王をたずねてきたのさ」
「宋頭領をたずねて見えたのでしたら、わたしのところに、きまりのものがございます」
と李立はすぐ若いものにきまりの酒を出させてもてなした。孔亮が、
「知りあいでもないのに、どうしておもてなしにあずかるんで」
というと、李立は、
「お客さん、じつをいいますと、山寨の頭領をたずねてこられるのは必ず仲間の人か古い知りあいのかたですから、失礼をしてはなりませんので。すぐに知らせにやります」
「わたしは、白虎山の麓の百姓の、孔亮というものです」
「宋公明の兄貴からお名前はうかがっておりました。きょうはよくおいでくださいました」
ふたりがおきまりの酒を飲みおわると、さっそく窓をあけて(李立が)水亭から合図の鏑矢を放った。すると、むかいの入江の蘆の茂みのなかから、早くも手下のものが船を漕ぎ出してきた。船が水亭の下に着くと、李立は孔亮を船にいざない、いっしょに金沙灘《きんさたん》へわたって岸へあがり、関門のほうへのぼって行った。孔亮は、三つの関門がいかにも雄壮で、鎗刀剣戟《そうとうけんげき》が林のようにつらなっているのを見て、心ひそかに思うのだった。
「梁山泊が盛大だとは聞いていたが、これほど規模が大きいとは思いもよらなかった」
手下のものがさきに知らせていたので、宋江は急いで出迎えにおりてきた。孔亮はそれを見るなり、平伏した。
「どうしてここへいらっしゃったのです」
と宋江はたずねた。孔亮は礼をおわると声を放って泣いた。
「なにか思案にあまることでもおありなら、なんでもおっしゃってください。水火も辞せず、できるかぎりのことをしてお力になりましょう。さあ、どうぞお立ちになって」
「あなたさまとお別れしましてから、老父はみまかり、兄の孔明は、土地の金持とちょっとしたことからいさかいをおこして、その一家のものをみな殺しにしてしまいまして、お上の詮議がきびしいために白虎山にたてこもって叛徒になり、六七百人のものを集めて強奪をはたらいておりましたが、青州の城内におりました叔父の孔賓が慕容知府に捕らえられ、重い枷をつけられて獄につながれましたので、わたしども兄弟は、叔父の孔賓を救おうとしてふたりで城へ攻めて行ったところ、思いがけないことに、城下まで行ったとき、双鞭つかいの呼延灼に出くわしてしまったのです。兄は彼とわたりあっていけ捕りにされ、青州へひきたてられて行って牢におしこめられたまま生死のほどもわかりませず、わたくしも大敗を喫してしまいました。その翌日、武松に出会って、あなたさまのおうわさをいたしましたが、武松はそのときわたくしを彼の仲間のものにひきあわせてくれました。ひとりは花和尚《かおしよう》の魯智深といい、もうひとりのほうは青面獣の楊志といいまして、ふたりはすぐ旧知のようにうちとけて、さっそく兄を救い出すことを相談してくれましたが、そのとき武松のいいますには、わしは魯・楊の二頭領および桃花山の李忠と周通にたのんで、三山の軍勢を集めて青州を攻めるから、あんたは大急ぎで梁山泊へ行き、師匠の宋公明どのに話して叔父上と兄貴を救い出すように、とのこと。それで急いで駆けつけてきた次第です」
「それはたやすいことです、ご安心なさい。まず晁頭領におひきあわせして、いっしょに相談することにしましょう」
と、宋江は孔亮を晁蓋・呉用・公孫勝、および他の頭領たちにひきあわせて、呼延灼が青州へ逃げて慕容知府に身をよせ、このたび孔明を捕らえるにいたったので孔亮が救いを求めてやってきたことの次第をくわしく話した。すると晁蓋が、
「二山(桃花山・二竜山)の好漢たちでさえ義によって仁をおこなうというのに、まして三郎(宋江)どのと彼とは至って親しい友だち、どうしてもお救《たす》けしなければならぬ。だが、三郎どの、あんたはひきつづいて幾度も下山したことだから、このたびは寨の留守をあずかってもらうことにして、かわりにわたしが行くことにしよう」
「いや、兄貴は山寨の主《あるじ》です、軽々しいふるまいをなさってはなりません。これはわたくし個人のことで、はるばるたよって見えたのにわたくしが出かけて行きませぬことには、むこうの兄弟たちの気持もおさまらないでしょう。どうか、何人かの兄弟をお貸しねがって、わたくしを行かせてくださいますよう」
宋江がそういったとたん、居合わせた人々がいっせいにいった。
「お供をさせていただきましょう」
宋江は大いによろこび、その日、宴席を設けて孔亮をもてなしたが、そのおり宋江は、鉄面孔目《てつめんこうもく》の裴宣《はいせん》に下山するものの割りあてをさせ、五軍にわけて出発することにした。前軍には花栄・秦明《しんめい》・燕順《えんじゆん》・王矮虎《おうわいこ》を配して先鋒を承らせ、第二軍には穆弘《ぼくこう》・楊雄《ようゆう》・解珍《かいちん》・解宝《かいほう》を配し、中軍は主将の宋江以下、呉用・呂方《りよほう》・郭盛《かくせい》。第四軍は朱仝《しゆどう》・柴進《さいしん》・李俊《りしゆん》・張横《ちようおう》。後軍には孫立《そんりつ》・楊林《ようりん》・欧鵬《おうほう》・凌振《りようしん》を配して督軍としてしんがりを承らせた。かくて梁山泊では五軍を編成、頭領は計二十人、騎馬と歩兵の数三千。あとの頭領たちは晁蓋とともに山寨の留守をあずかることになった。そのとき宋江は晁蓋に別れを告げ、孔亮とともに山をくだって行ったが、五軍にわかれた梁山泊の軍勢の出陣は、まさに、
初めて水泊を離る、渾《あたか》も海内に蛟竜を縦《はな》つが如く、乍《たちま》ち梁山を出《い》ず、卻《かえ》って風中に虎豹を奔《はし》らすに似たり。五軍並び進む、前後に二十輩の英雄を列《つら》ね、一陣同《とも》に行く、首尾に三千名の士卒を分《わか》つ。〓彩旗《しゆうさいき》は雲の如く霧の似《ごと》く、鋼刀《しようこうとう》は雪を燦《きらめ》かし霜を鋪《し》く。鸞鈴《らんれい》(馬の鈴)響き、戦馬奔馳《ほんち》し、画鼓《がこ》振い、征夫踴躍《ようやく》す。地を捲く黄塵《こうじん》は靄々《あいあい》として、天に漫《はびこ》る土雨《どう》は濛々たり。宝纛旗《ほうとうき》(軍中の大旗。〓牛《からうし》の尾で作る)の中、多智足謀《たちそくぼう》の呉学究を簇擁《そうよう》し、碧油憧《へきゆうとう》(桐油を塗った碧色のたれぎぬ。貴人の車に用いる)の下、天に替《かわ》って道を行《おこな》う宋公明を端坐せしむ。過《す》ぎ去《ゆ》けば鬼神皆拱手し、回《かえ》り来《きた》れば民庶尽《ことごと》く歌謡す。
さて宋江は、梁山泊の二十人の頭領と三千の軍勢をひきつれ、五軍にわかれてすすんで行ったが、途中はなにごともなく、通りすぎたどの州県でもいささかも犯すことはなかった。かくて青州に着くや、まず孔亮が魯智深らの軍中へ知らせに行くと、好漢たちは出迎えの用意をした。やがて宋江の中軍が到着すると、武松が、魯智深・楊志・李忠・周通・施恩・曹正をつれて一同挨拶をした。宋江が魯智深にすすめて席につかせると、魯智深はいった。
「兄貴のお名前はかねがね聞いておりましたが、ご縁がなくてお目にかかれませんでした。きょうはお目にかかれてこんなにうれしいことはありません」
「わたくしなど、とるにたらぬもの。お言葉、かえっていたみいります。世間の義士はみなあなたのご清徳をほめたたえております。きょうお目にかかれましたことは、このうえもないしあわせです」
と宋江は答えた。楊志も立ちあがって再拝の礼をし、
「過日わたくしが梁山泊にたちよりました際には、みなさまがたから手厚くおひきとめを蒙りましたが(第十二回)、わたくしのおろかさから仰せにしたがいませんでした。幸いにもこのたびご光来の栄をたまわりましたことは、天下第一のしあわせでございます」
「制使どののご威名は世に知らぬものはありません。お近づきを得ることがいかにもおそかったとくやまれるばかりです」
と宋江。魯智深はさっそく左右のものに酒を出させてもてなし、ひとりずつみな挨拶をした。
翌日、宋江は、
「青州のことですが、このところ戦況はどんな様子ですか」
とたずねた。楊志が答えていうには、
「孔亮が出かけて行ったあと、四五回ほど鋒をまじえましたが、いずれも勝敗を決するまでにはいきませんでした。いま青州は呼延灼だけがたよりですから、彼を捕らえてしまいさえすれば、あの城はまるで雪に湯をそそぐようにたやすく落ちるのですが」
呉学究は笑いながら、
「あの男には力ではだめでしょう。智で捕らえるのです」
「あの男を捕らえるその智というのは?」
と宋江がきくと、
「かくかくしかじかにするのです」
宋江は大いによろこんで、
「それはすばらしい計略だ」
その日のうちに人馬の配置をすませ、翌朝、軍をおこして青州城下へ迫り、四方からとりかこんで軍鼓を鳴らし旗を振り、ときの声をあげてたたかいをいどんだ。
城内では慕容知府がその知らせを聞き、あわてて呼延灼を呼んで協議した。
「このたび賊どもは梁山泊へ救援をたのみ、宋江がおしよせてきたのだ。これはどうしたらよかろう」
「ご安心ください。賊どもはおしよせてきて、まず地の利をうしなっております。やつらは水泊のなかでこそ手がつけられないほどあばれますが、こうして勝手にその巣窟を出てきた以上、片っぱしからひっつかまえて、やつらをのさばらせるようなことはいたしません。どうか城壁の上でわたくしのたたかいぶりをごらんください」
と、呼延灼は急いでよろいをつけて馬に乗り、城門をあけて吊り橋をおろさせ、一千の軍勢をひきしたがえて城の近くに陣をしいた。
と、宋江の軍中から、ひとりの将が馬を乗り出してきた。その男は手に狼牙棍《ろうがこん》をにぎり、大声で知府をののしった。
「おのれ、官を濫《みだ》り民を害する賊徒め。よくもおれの一族をみな殺しにしやがったな(第三十四回)。きょうこそ、その仇を討って恨みを晴らしてやるぞ」
慕容知府はそれを秦明と知って、ののしり返した。
「きさまは朝廷から命をうけた軍官で、国家から手厚くもてなされながら、よくも謀叛《むほん》をやりおったな。きさまをひっ捕らえたら、その死体をずたずたに斬り刻んでやるぞ。まずあの賊からひっ捕らえろ」
呼延灼はうなずき、双鞭を振りまわしつつ馬を飛ばして、まっしぐらに秦明におそいかかって行った。秦明もまた馬をすすめ、狼牙の大棍を舞わしながら呼延灼を迎える。二将は馬を交えてたたかったが、まさに好敵手。これを西江月のうたでいえば、
鞭《べん》は両条の竜尾を舞わし、棍《こん》は一串《かん》の狼牙を横たう。三軍看《み》得て眼睛花《くら》む。二将縦横に馬を交《まじ》う、棍を使う的《もの》は軍班の領袖《りようしゆう》、鞭を使う的《もの》は将種《しようしゆ》誇るに堪う。天昏《くら》み地惨《いた》み日は沙《すな》を揚ぐ。這《こ》の廝殺《しさつ》鬼神も須《すべから》く怕《おそ》るべし。
ふたりはわたりあうこと四五十合、なおも勝敗は決しなかった。慕容知府はずっとたたかいを眺めていたが、呼延灼にもしものことがあってはと、急いで金鼓を鳴らして軍を収め、城内にひきあげさせた。秦明もこれを追わず、自軍にひきあげた。宋江は頭領以下小頭目たちに命じ、十五里退いて陣をかまえさせた。
さて呼延灼は城内にひきあげると、馬をおり、慕容知府に会っていった。
「わたくしは、いましも秦明を捕らえるところでしたのに、どうして兵をお退《ひ》かせになったのです」
「あなたが何合もたたかうのを見ていて、疲労なさってはいけないと思い、兵を退かせてしばらく休んでもらったのです。秦明のやつは、以前わたしのもとで統制官をつとめていたが、花栄といっしょに謀叛をしたやつで、なかなかあなどれぬ相手です」
「どうかご心配なく。わたくしは必ずあの義理知らずの賊を捕らえてみせます。さっき、やつとわたりあいましたとき、すでに狼牙棍の手さばきが乱れはじめておりました。あすはたちどころにあの賊を斬ってごらんにいれましょう」
「あなたはまったく勇ましい。それでは、あした合戦のときに、血路を斬り開いて三名のものを送り出していただきたい。ひとりのものには東京《とうけい》へ救援を求めに行かせ、ふたりのものは近隣の府や州にやって、互いに兵力を合わせて賊の討伐にむかわせるようにしたいのです」
「それはなかなかよいお考えです」
その日、知府は救援を求める文書を書き、三人の軍官を選んでぬかりなくその手筈をととのえた。
一方、呼延灼は居室にひきとり、よろいをぬいでひと休みした。と、夜明けごろ、とつぜん兵士がやってきて、
「城の北門外の丘の上で、騎馬のものが三人、こっそり城を偵察しております。まんなかのひとりは赤い上着を着て白馬に乗り、左右のふたりは、右側のは小李広《しようりこう》の花栄《かえい》のようで、左側のは道士の身なりをしております」
と告げた。
「その赤い上着を着ているのは宋江にまちがいない。道士の身なりをしたのはきっと軍師の呉用だ。おまえたち、やつらをそっとそのままにしておいて、すぐ騎兵一百を集め、わしといっしょにその三人を捕らえに行くのだ」
と、呼延灼は急いでよろいをつけて馬に乗り、双鞭をひっさげ、一百余の騎兵をひきつれてこっそりと北門をあけ、吊り橋をおろすや、どっと丘へ駆けのぼって行った。宋江・呉用・花栄の三人はのんびりと城を見つづけている。呼延灼が馬をせかせてのぼって行くと、三人は馬首を転じてゆっくり立ち去って行った。呼延灼が懸命に追いかけて、前方の枯れ木が何本かあるあたりまで行くと、宋江・呉用・花栄の三人はいっせいに馬をとめた。呼延灼が枯れ木のところまで追いかけて行ったときである、とつぜん喊声が聞こえたかと思うと、呼延灼は陥し穴を踏んづけて、馬もろとも穴のなかへ落ちてしまった。と、その両側から五六十人の撓鉤《どうこう》兵が飛び出してきて、まず呼延灼をひっかけて引きあげ、縄をかけてつれ去り、うしろからその乗馬も牽《ひ》いて行った。追ってきた多数の騎兵は、花栄に弓で射《う》たれ、先頭の六七騎が射ちたおされると、後続のものは馬を返してわっと逃げて行った。
宋江が陣地に帰って席につくと、護衛兵たちが呼延灼をひきたててきた。宋江はそれを見ると急いで立ちあがり、
「はやく縄を解け」
とどなりつけ、みずから呼延灼に手を貸して幕営のなかへいれ、席につかせて、ていねいに礼をした。
「どうしてそのようなことをなさる」
と呼延灼がいぶかると、宋江は、
「わたくしは朝廷に背《そむ》こうなどとするものではございません。ただ役人どもが財をむさぼり官をみだり、権勢を笠にいばりちらしますことから、誤って大罪を犯しました。そのため、かりに水泊にたてこもって一時の難を避けながら、朝廷よりおゆるしのあるのを待っている次第です。ところが思いがけなくも将軍のご出陣をわずらわし、ご面倒をおかけしてしまいましたが、じつは将軍のご威光をお慕いしているものです。このたび誤ってご無礼をいたしましたことは、どうかおゆるしくださいますよう」
「捕らわれの身となった以上は、殺されてもしかたがないのに、あなたはどうしてそのように礼をつくして詫びられるのです」
「わたくしごときものに、どうして将軍のおいのちを殺《あや》めることができましょう。天もご照覧あれ、ただ衷情をおつたえしてお汲みとりをねがうだけです」
「あなたのお気持は、このわたくしに東京《とうけい》へ行って恩赦のくだるようにとりはからい、山へおゆるしの沙汰をもたらすようにというのではありませんか」
「将軍が東京へお帰りになることなど、どうしてできましょう。高太尉のやつは度量の狭いてあいで、人から受けた大恩は忘れても人の小さなあやまちは忘れません。将軍は多くの兵力と銭糧をうしなわれました、彼がそれを罪に問わずに見のがすはずはありません。いま、韓滔《かんとう》・彭〓《ほうき》・凌振《りようしん》は、すでにみなこの山で仲間に加わっております。もし将軍が、山寨のまずしさをおいといにならなければ、わたくしはよろこんで将軍に座をおゆずりいたします。そして、朝廷からおとりたてのある日を待ち、恩赦を受けたそのときこそ、忠をつくして国に報いたならば、それでよろしいではありませんか」
呼延灼はしばらくじっと考えこんでいたが、ひとつには彼も天〓星《てんこうせい》の一員であったためにおのずと意気投合し、ふたつには宋江が鄭重に礼をもって遇し、その言葉が理にかなっていたので、ほっとため息をつき、跪《ひざま》ずいていった。
「もとよりわたくしには国に不忠をはたらこうという気持はありませんが、あなたのなみなみならぬ義気に感じて、従わないわけにはまいりません。どうかお傍《そば》に仕えさせてくださいますよう。心を決めました以上、断じて言《げん》をひるがえすようなことはいたしません」
これをうたった詩がある。
親しく天語(勅命)を承けて狼煙《ろうえん》(のろし)を浄《きよ》めんとし
先鞭《せんべん》を着《つ》けずして(功をおさめずして)執鞭《しゆうべん》を願う(労に服することをねがう)
豈《あに》忠心に昧《くら》くして翻《かえ》って賊と作《な》るならんや
降魔殿《こうまでん》内に因縁有り
宋江は大いによろこび、呼延灼を頭領たちにひきあわせたのち、李忠と周通を呼んでかの〓雪烏騅《てきせつうすい》の馬をもらい受け、もとどおり、将軍の乗馬にした。
一同はふたたび孔明を救い出す方策を協議したが、呉用がいうには、
「呼延灼将軍にたのんで、いつわって城門をあけさせてもらうよりはかなかろう。そうすればわけなくとりもどすことができるし、また、呼延灼将軍の未練を絶ち切ることにもなるでしょう」
宋江はうなずき、呼延灼のところへ行って恐縮しながらいった。
「わたくしは決して城をむさぼり取ろうとするわけではありません。孔明ら叔父甥《おじおい》が捕らわれの身(注一)となっているからなのです。将軍におねがいして、あざむいて城門をあけさせていただくよりほかには、どうしても救い出せませんので」
「仲間に加えていただきました以上、当然力をつくします」
その夜、秦明・花栄・孫立・燕順・呂方・郭盛・解珍・解宝・欧鵬・王英ら十人の頭領が集まり、みな兵士の身なりをして、呼延灼について行った。計十一騎の騎兵は城に近づき、まっすぐに濠《ほり》端まで行って大声で呼んだ。
「おい、門をあけろ。一命をのがれてもどってきたのだ」
城壁のものはそれが呼延灼の声だとわかると、急いで慕容知府に知らせた。このとき知府は呼延灼をうしなって鬱々としていたが、逃げ帰ってきたと聞いて大いによろこび、急いで馬に乗って城壁へ駆けつけた。見れば呼延灼が十数騎の兵を従えている。その顔はわからないが、声は呼延灼とわかった。
「将軍、どうやって逃げてこられた」
と知府がきくと、呼延灼は、
「やつらの陥し穴にかかって捕らえられ、山寨へ行きましたところ、もとわたしの部下だった頭目がいて、ひそかにこの馬を盗んでわたしにくれましたので、いっしょにつれてまいりました」
知府は呼延灼がそういうのを聞くと、すぐ兵士に命じて城門をあけさせ、吊り橋をおろさせた。十人の頭領は城門のなかへついて行き、知府に出会うや、いきなり秦明が狼牙棍を飛ばして慕容知府を馬からたたき落とした。解珍と解宝は火をつけ、欧鵬と王矮虎は城壁の上に駆けのぼって兵士を蹴散らした。
宋江らの本隊の軍勢は、城壁に火の手があがったのを見ると、どっとおしよせて行った。宋江は、住民に危害を加えることのないよう、きびしく命じるとともに、倉庫の金銭糧秣を没収させ、大牢から孔明とその叔父孔賓一家のものを救い出させ、火を消しとめさせた。そして慕容知府一家のものは残らず首をはね、その家財は没収して兵士たちにわけあたえ、また、夜が明けると、城内の住民で火災にあったものの家を調べ、食糧を配って救済した。
府庫の金帛と米倉の糧食は、五六百輛の車に積みあげられ、さらに二百頭あまりの良馬も手にいれた。かくて青州の役所で祝賀の宴が開かれ、三山の頭領たちは招かれてみな梁山泊に帰属することになった。そこで李忠《りちゆう》と周通《しゆうとう》は、使いのものを桃花山へやって、人馬金銭糧秣を残らずとりまとめて下山させ、寨《とりで》は焼きはらわせることにした。魯智深も、施恩《しおん》と曹正《そうせい》を二竜山へ帰して、張青《ちようせい》・孫二娘《そんじじよう》とともに人馬金銭糧秣をとりまとめさせ、同じく宝珠寺の寨は焼きはらわせることにした。数日のうちに三山の人馬はことごとく集まった。宋江はそこで大軍をひきいて山へ帰ることになり、まず花栄・秦明・呼延灼・朱仝の四将を呼んで先導をさせたが、途中の州県ではいささかも犯すことなく、郷村の住民たちは老いも若きも、沿道に並んで香を焚いて拝しながら、一行を迎えた。数日にして梁山泊のほとりにつくと、水軍の頭領たちが舟を用意して迎え、晁蓋も山寨の騎兵や歩兵の頭領たちをひきつれて金沙灘まで出迎えた。一行はただちに大寨へ行き、聚義庁にはいってそれぞれの席につくと、盛大な宴をひらいて新参の頭領たちを慶賀した。呼延灼・魯智深・楊志・武松・施恩・曹正・張青・孫二娘・李忠・周通・孔明・孔亮、計十二名が新たに山にきた頭領である。席上、林冲は、かつて魯智深に救ってもらったこと(第九回の冒頭)を話して礼をいった。魯智深が、
「滄州でお別れしてから、嫂さんの消息はわかりましたか」
とたずねると、林冲は、
「王倫をやっつけた(第十九回)あとで、家族のものをひきとらせに使いのものを家へやりましたところ、妻は、高太尉の極道息子に迫られて、とうとう首をくくって死に、妻の父もそれを苦にして病気になり、死んでしまったということがわかったのです」
楊志は、王倫が頭領だった時分、山で林冲に出あったこと(第十二回の冒頭)を話しだした。一同はみな、
「みんな前世の定めというもの。偶然とは思えないな」
といった。晁蓋が黄泥岡《こうでいこう》で生辰綱《せいしんこう》を奪ったこと(第十六回。生辰綱の宰領者は楊志だった)を話すと、一同はみな大笑いとなった。翌日からは頭領たちがかわるがわる酒宴をひらいたが、この話はそれまでとする。
ところで宋江は、山寨にまたもや多数の人馬が加わったため、そのよろこびもひとしおで、さっそく、湯隆を鉄匠《てつしよう》総管に任じて、各種の武器および鉄葉《てつよう》のよろいや連環《れんかん》のよろいなどの製造を監督させ、また侯健を旌旗袍服《せいきほうふく》総管に任じて、あらたに、三才(天・地・人)・九曜(注二)・四斗(注三)・五方(東・西・南・北・中央)・二十八宿(注四)などの旗、および飛竜・飛虎・飛熊・飛豹の旗、ならびに黄鉞《こうえつ》・白旄《はくぼう》・朱纓《しゆえい》・〓蓋《そうがい》など(注五)を作らせた。また山の四方に物見台を築き、西路と南路の二ヵ所の居酒屋を建てなおして、山に出入りする好漢たちの応待にあたらせるとともに情報をさぐって注進させることにした。西路の居酒屋は、あらたに、もと居酒屋をやっていた張青と孫二娘の夫婦に守らせ、南路の居酒屋はやはり孫新《そんしん》と顧大嫂《こだいそう》の夫婦にやらせることになった。東路の居酒屋はもとどおり朱貴《しゆき》と楽和《がくわ》、北路の居酒屋は同じく李立《りりつ》と時遷《じせん》であった。三つの関門には寨《とりで》を増築し、頭領を派遣して守らせることにした。それぞれの配置が決められて一同は命にしたがったが、この話もそれまでとする。
ある日のこと、花和尚の魯智深が宋公明のところにやってきてこういった。
「わたしの知りあいで、李忠も知っている九紋竜《くもんりゆう》の史進《ししん》というものが、いま華州華陰県の少華山におります。ほかに神機軍師《しんきぐんし》の朱武《しゆぶ》というのと、跳澗虎《ちようかんこ》の陳達《ちんたつ》というのと、もうひとり白花蛇《はつかだ》の楊春《ようしゆん》というのと、四人でたてこもっているのですが、わたしはいつも彼らのことが気になってなりません。むかし瓦罐寺《がかんじ》で助けてもらった(第六回)恩義があるので、それが忘れられないのです。ひとつたずねて行ってその四人を仲間にいれたいと思うのですが、どうでしょうか」
「わたしも史進のうわさは聞いている。あんたが出かけて行って彼らをつれてきてくださるなら、それはなによりのことです。だがそれにしても、ひとりではまずいでしょう。武松といっしょにお出かけください。彼は行者《ぎようじや》ですから、まずは出家といえます。ちょうどよいつれでしょう」
「いっしょに行きましょう」
と武松はすぐ承知した。その日のうちに、金(注六)や荷物をとりそろえ、魯智深は禅坊主の身なりをし、武松はその侍僧の姿になり、ふたりは頭領たちに別れを告げて山をおり、金沙灘をわたり、朝立ち夜泊《よど》まりの旅をつづけて、やがて華州華陰県にはいり、一路少華山へとむかった。
宋江のほうは、魯智深と武松が出かけて行ったあと、彼らに下山をゆるしはしたものの、どうも安心ができないので、神行太保《しんこうたいほう》の戴宗《たいそう》にあとを追って行って様子を見るようにたのんだ。
さて魯智深と武松のふたりは、少華山の麓まで行くと、物見の手下のものが道をさえぎって、「おい、そのふたりの坊さん、どこからきなさった」
とたずねた。武松が、
「史大官人は山においでかね」
というと、
「史大王をたずねて見えたのか。それならここでちょっとお待ちください。頭領に知らせに行って、すぐお迎えにおりてきますから」
「魯智深がたずねてきたといってください」
と武松はいった。手下のものが立ち去ってしばらくすると、神機軍師の朱武、跳澗虎の陳達、白花蛇の楊春の三人が、魯智深と武松を迎えに山をおりてきた。が、史進の姿が見えない。魯智深が、
「史大官人どのは? どうしてお見えにならんのです」
とたずねると、朱武がすすみ出て、
「あなたは延安府の魯提轄どのではありませんか」
「そうです。こちらの行者は景陽岡で虎を退治した都頭の武松どのです」
と魯智深がいうと、三人はあわてて礼をして、
「お名前はかねがね承っております。おふたりとも二竜山に寨をかまえておいでと聞いておりましたが、きょうはまた、どういうわけでお見えになりましたので」
「われわれはもう二竜山にはおりません。梁山泊の宋公明の山寨に仲間入りをしているのです。このたびは史大官人どのをたずねてきたのです」
「よくおいでくださいました。まずは山寨のほうへおいでください、そこでくわしくお話しいたします」
と朱武がいうと、魯智深は、
「話があるなら、さっさといってもらおう。ちょっと待てなんて、糞面倒な」
「和尚はせっかちだから、話があるならここでいってください」
と武松が口ぞえした。
朱武がいうには、
「わたしども三人がこの山寨にたてこもっていたところへ、史大官人が加わられてからは、ずいぶん盛大になりました。ところが、このあいだ史大官人は山をおりて行ったとき、ひとりの絵かきに出会われたのです。その絵かきというのは、北京大名府のもので、姓は王《おう》、名は義《ぎ》といい、西嶽華山の金天聖帝《きんてんせいてい》廟(注七)の壁画をかくという願《がん》をたてたとかで、その願ほどきにやってきたのですが、王矯枝《おうきようし》という娘をつれていたところ、この州の賀《が》太守というやつ、これは蔡太師の門下で無道なことをして民をいじめるひどい役人なのですが、こいつが、ちょうど廟へ詣りにきてふと王矯枝の器量よしなのに目をつけ、人をたのんでしきりに妾にくれといってよこしたのですが、王義がそれをきかないものですから、太守はその娘をさらって行って妾にしたうえ、王義のほうは刺青《いれずみ》をいれて辺境の州へ流すことにしたのです。その流されて行く途中ここを通りかかって史大官人に出会い、ことの次第を話したというわけなのです。そこで史大官人は王義を救い出して山へ送りあげ、ふたりの護送役人を殺し、そのまま役所へ賀太守を刺し殺しに行ったところ、さとられて逆にとっつかまり、いまは牢屋にとじこめられておられます。そればかりか賀太守は、兵を繰り出して山寨を討伐しようとしておりまして、われわれはいま途方にくれているところなのです」
魯智深はそれを聞くと、
「その糞やろうは、なんたる無礼な、ひどいことをやるやつだ。わしが代わってそやつを殺してくれよう」
「まずは山寨のほうへおいでいただいて、ご相談いたしましょう」
と朱武はいい、五人の頭領がそろって少華山の山寨へ行って席につくと、さっそく王義を呼んで魯智深と武松に挨拶をさせ、賀太守が貪欲で民を苦しめ、良家の子女を強奪して行ったいきさつを話させる一方、朱武らは牛や馬を殺して魯智深と武松をもてなした。その酒宴の席上、魯智深は、
「賀太守のやつ、なんたる無道なやつだ。あした役所へ行って、やつをぶち殺してやろう」
「兄貴、はやまったことをしてはいかん。ふたりで急いで梁山泊へもどって知らせ、宋公明どのにたのんで大軍をひきつれて華州を攻めるのだ。そうしないことには史大官人は救い出せまい」
武松がそういうと、魯智深は大声で、
「おれたちが山寨へ加勢を求めに行っている間に、史の兄弟のいのちがどうなるかわからないじゃないか」
「たとえ太守を殺したとしても、史大官人が救い出せるとはかぎるまい」
と、武松はあくまでも魯智深を行かせまいとした。朱武も、
「まあ気をしずめてください。武都頭のおっしゃることはもっともだと思います」
となだめた。魯智深はいらいらして、
「こんなに愚図なものばかりがそろっているものだから、史の兄弟をあんな目にあわせてしまったんだ。梁山泊へ知らせに行くことなんかない。おれが行ってすることを見ておればいいんだ」
みんながいくらとめてもきかなかった。その夜かさねていさめたが、やはりきかず、翌朝、四更(二時)に起きると、禅杖をひっさげ戒刀をたばさみ、まっしぐらに華州へ駆けつけて行った。
「人のいうことも聞かずに行ってしまったが、きっとまちがいをしでかすだろう」
と武松はいった。朱武はすぐ、ふたりのはしっこい手下に様子を見に行かせた。
さて魯智深は、華州の城内へ駆けこんで行き、道ばたで、州の役所はどこかとたずねると、ある人が、
「州橋をわたってすぐ東へ折れたところですよ」
と指さして教えてくれた。魯智深がちょうどその橋の上まで行ったときである。人々が口々に、
「和尚さん、どきなされ。太守さまのお通りだ」
という。魯智深は心のなかでつぶやいた。
「おれがたずねて行こうとしているのに、うまいことむこうから手のなかへころがりこんできやがるとは、やつめ、どうやらくたばることになってるらしいわい」
賀太守の行列の先払いが、ふたりずつ並んでやってきた。見れば太守の乗っている轎《かご》は、まわりに垂れをおろした轎で、轎の両脇には虞候が十人ずつつき従っていて、てんでに鞭や槍や鉄錬《てつれん》などを持って両側を守っている。魯智深はそれを見て、
「これじゃ、やっつけにくいな。やっつけそこないでもしたら、かえって恥をかかされることになる」
と思案した。
賀太守は魯智深が飛び出しそうにしながら飛び出しかねているのを、轎の窓から目にとめた。そこで、渭橋《いきよう》をわたって役所へもどり轎からおりると、すぐふたりの虞候を呼んでいいつけた。
「橋の上にいた肥った坊主を、役所でお斎《とき》をさしあげるからといって呼んできてくれ」
虞候はかしこまって、橋の上へ行き、魯智深にむかっていった。
「太守さまがあなたにお斎をさしあげたいとのことです」
魯智深は思うよう、
「やつめ、よっぽどおれに殺されるようにできているのだな。さっきはやっつけるつもりだったが、やっつけそこなってはと思って、通らせてやったんだ。すると、これからおれが出かけて行こうとしているところへ、やつのほうから呼びにきやがるとは」
魯智深は虞候について、まっすぐ役所へ行った。太守はすでに、魯智深が中庭へはいってきたら禅杖をおかせ戒刀をはずさせて奥の間へお斎にさそうようにといいつけてあった。魯智深ははじめは承知しなかったが、みんなから、
「あなたはご出家のくせに、どうしてそうわからないことをおっしゃる。お役所の奥へ刀や杖を持ってはいれるわけがないじゃありませんか」
といわれて、
「おれのこの拳骨ふたつだけで、やつの頭ぐらいぶち砕けるわい」
と考え、禅杖と戒刀を廊下におき、虞候のあとからはいって行った。そのとき賀太守は奥の間で、さっと手をあげ、
「その糞坊主を捕らえろ」
とどなりつけた。すると両側の壁の垂れ幕のなかから三四十人の捕り手が飛び出してきて、手とり足とり、魯智深をつかまえてしまった。いかに那〓太子《なたたいし》(注八)でも、天羅地網《てんらちもう》からのがれることはできず、たとえ火首金剛《かしゆこんごう》でも、竜沢虎窟《りゆうたくこくつ》からぬけ出ることは至難である。まさに飛蛾《ひが》火に投じて身をこがし、怒〓《どべつ》釣針を呑んでいのちをそこなう、というところ。賀太守に捕らえられた魯智深の生命やいかに。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 捕らわれの身 原文は縲絏之中。縲も絏も罪人を縛る縄。
二 九曜 日曜(太陽)、月曜(太陰)、火曜(〓惑星)、水曜(辰星)、木曜(歳星)、金曜(太白星)、土曜(鎮星)、羅〓(黄旛星)、計都(豹尾星)。この九星が世間を照曜するという意味でこれを九曜という。
三 四斗 北斗七星のうち斗魁といわれる四つの星(天枢、天〓、天〓、天権)をいう。
四 二十八宿 天を東(蒼竜)、西(白虎)、南(朱雀)、北(玄武)の四宮にわけ、さらに各宮を七宿にわけて二十八宿という。
五 黄鉞・白旄・朱纓・〓蓋 黄鉞は黄金で飾った鉞《おの》、白旄は白い牛の尾をつけた旗。ともに王者の用いるもので、『書経』の牧誓に「王、左に黄鉞を杖《つえつ》き、右に白旄を秉《と》り」云々とある。朱纓は朱の冠のひも、〓蓋は黒いさしかけ傘。ともに貴顕の用いるもの。ここには朱纓・〓蓋とあるが、朱旛・〓蓋というのが普通である。朱旛は朱色の旗。
六 金 原文は腰包。腰にさげる財布のこと。
七 金天聖帝 古帝少昊《しようこう》のこと。金徳を以て王となったので金天氏という。
八 那〓太子 毘沙門天の太子で、仏法の擁護神。
第五十九回
呉用《ごよう》 金鈴弔掛《きんれいちようかい》を賺《かた》り
宋江《そうこう》 西嶽華山《せいがくかざん》を鬧《さわ》がす
さて、賀太守が魯智深を奥の間へだましいれて、「捕らえろ」と命じると、おおぜいの捕り手が魯智深をとりおさえて広間の階《きざはし》の下にひきすえた。すると賀太守は、
「この糞坊主め、どこからまいった」
とどなりつけた。
「わしはなにも悪いことはしておらん」
と魯智深はいい返す。
「ありていに申せ。誰にたのまれてわしを刺しにきたのだ」
「わしは出家だ。そのわしになんでまたそんなことをいわれる」
太守はどなりつけた。
「糞坊主め、きさまはさっき、禅杖でわしの轎に打ちかかろうとしながら、また考えなおして手をひかえたではないか。この糞坊主め、さっさと白状せい」
「わしがおまえさんを殺したというわけじゃなし、なんだってわしを捕らえて、むやみに無実のものに罪をなすりつけようとなさるのだ」
太守はさらにどなりつけた。
「出家のくせに、わしなどというやつを見たことがないわ。この糞坊主は、きっと関西《かんせい》の五路を荒らしまわっている強盗で、史進めの仇をとろうとしてやってきたものにちがいない。打ってやらずば白状すまい。ものども、力の限りこの糞坊主を打ちのめせ」
魯智深は大声でいった。
「おれさまを打つのはよせ。おれがいって聞かせてやろう。おれは梁山泊の好漢、花和尚の魯智深というものだ。おれは殺されたってたいしたことはないが、おいらの兄貴の宋公明がそれを知って山をおりてきたら、きさまの糞頭はあっというまにすっ飛んでしまうぞ」
賀太守はそういわれてかっとなり、ひとしきり魯智深を棒打ちにしたうえ、大枷《かせ》をはめさせて死刑囚の牢へおしこんだ。そして都省《としよう》(尚書省)へ上申して裁断をあおぎ、禅杖と戒刀は封をして役所に保管した。
このとき華州の城下はこのうわさで湧きたった。手下のもの(朱武がつかわしたふたり)はそれを聞いて、大急ぎで山(少華山)へ知らせに帰った。武松は大いにおどろき、
「ふたりで華州へ用にきたのに、ひとりをうしなってしまったとあっては帰って頭領たちにあわせる顔がない」
と、途方にくれていると、そこへ麓の手下のものが知らせにきた。
「梁山泊からお見えになった頭領で、神行太保の戴宗というかたが、いま麓にきておられます」
武松は急いでおりて行って、山上に迎えあげ、朱武ら三人をひきあわせたのち、魯智深が諫《いさ》めをきかずに捕らえられてしまったいきさつを話した。戴宗はそれを聞くとおどろいて、
「それでは、ぐずぐずしてはおられない。すぐに梁山泊へ帰って兄貴に知らせ、さっそく兵を繰り出してきて救い出すことにしよう」
「わたしはここで待っておりますから、どうか急いで行ってきてください」
と武松はたのんだ。戴宗は精進ものを食べると、神行法をつかって梁山泊へひき返して行った。三日して山寨へ着き、晁・宋の二頭領に会って、魯智深が史進を救うために賀太守を刺そうとして逆に捕らえられてしまったいきさつを話した。宋江はそれを聞くとびっくりして、
「兄弟がふたりもご難か。どうしても救い出そう。一刻も猶予してはおられぬ」
と、ただちに兵を集め、三隊にわけて出発した。前軍には、花栄・秦明・林冲・楊志・呼延灼の五人を先鋒に立て、一千の甲馬と二千の歩兵をひきいて先行せしめ、山にあえば道をひらき川にあえば橋をかけてすすませた。中軍は主将の宋公明、軍師の呉用以下、朱仝・徐寧・解珍・解宝の計六人の頭領が騎兵・歩兵二千をひきい、後軍は糧秣をあずかって、李応・楊雄・石秀・李俊・張順ら計五人の頭領が後詰めとして騎兵・歩兵二千をひきい、総計七千の軍勢が、梁山泊をあとに一路華州へとむかった。ひたすら道を急ぎ、幾日かして半ばまできたところで、戴宗をさきに少華山へ知らせに行かせた。朱武ら三人は豚羊牛馬を料理し美酒をかもして待ちうけた。
宋江の軍勢が三隊とも少華山の麓に着くと、武松が朱武・陳達・楊春の三人をつれて山をおり、宋江・呉用および他の頭領たちを迎えて、一同山寨にはいって席についた。宋江がくわしく城内の様子をたずねると、朱武は、
「ふたりの頭領はすでに賀太守の手で牢におしこめられていて、あとは朝廷から裁決のおり次第、処断されることになっております」
と話した。宋江と呉用が、
「史進と魯智深を救い出すにはどういう計略を用いたらよいでしょう」
ときくと、朱武のいうには、
「華州の城は規模が大きく濠も深いので、早急に攻めるわけにはいきません。内外呼応しないことには、攻めとれないでしょう」
「あす、ともかく城の近くまで行って偵察して見たうえで、協議しましょう」
と呉学究はいった。宋江はそれからずっと夜まで酒盛りをし、夜の明けるのを待って城の偵察に行こうとしたが、呉用がそれをおしとめた。
「城では二匹の虎を牢におしこめているのですから、厳重な警戒をしているにきまっています。白昼偵察に行くのはまずいでしょう。今夜は月夜のはずですから、申牌《しんぱい》(暮れ前)ごろ山をおりて、一更(八時)ごろむこうへさぐりに行くのがよいでしょう」
その日、夕方になるのを待って、宋江・呉用・花栄・秦明・朱仝の五人は馬に乗って山をおり、次第にすすんで初更ごろには華州の城外に達し、丘の高みに馬をとめて城内を見わたした。時まさに二月の中旬、月光はさながら昼のように明るく、空には一片の雲もない。見れば華州城はまわりにいくつかの城門があり、城壁は高く地形は壮大で、広く深い濠をめぐらしている。しばらく眺めてから、はるかにかの西嶽華山に目をやれば、それはまことにすばらしい名山で、
峯は仙掌《せんしよう》と名づけ、観は雲台《うんだい》に隠《かく》る(注一)。上は玉女(仙女)の洗頭盆に連《つらな》り、下は天河《てんが》の分派水(天の川の支流)に接す。乾坤《けんこん》皆秀《ひい》で、尖峯は彷彿として雲根に接す。山嶽尊《そん》を推し(おごそかに)、怪石は巍峩《ぎが》として斗柄《とへい》(注二)を侵《おか》す。青きは澄黛《ちようたい》(まゆずみ)の如く、碧《みどり》なるは浮藍《ふらん》(あい)の若《ごと》し。張僧〓《ちようそうよう》(注三)の妙筆も画《えが》けども成り難く、李竜眠《りりゆうみん》(注四)の、天機も描けども就《な》らず。深沈《しんちん》たる洞府に月光は万道の金霞を飛ばし、萃〓《しゆつりつ》たる巌崖《だんがい》に日影《じつえい》は千条の紫〓を動かす。傍人は遙かに指さす、雲池の波の内、藕《はす》(蓮)船の如きを。故老は伝聞す、玉井の水の中、花十丈なりと。巨霊神《きよれいしん》(注五)忿怒して、山頂を劈開して神通を逞しくし、陳処士《ちんしよし》(注六)清高にして、茆庵《ぼうあん》を結び就《な》して来《きた》り〓睡《しゆんすい》す。千古の伝名華嶽を推し、万年の香火金天《きんてん》を祀る。
宋江らは西嶽華山を眺め、また城郭が雄大で地勢が堅牢であるのを見て、これを攻めるべき良策も考えられなかった。呉用は、
「ひとまず山寨にひきあげて、あらためて相談いたしましょう」
といい、五騎は夜どおしで少華山へ馳せ帰った。宋江は眉根をよせて、うち沈んでいる。呉学究は、
「ともかく目はしのきく手下を十数人下山させて、あちこちで様子をさぐらせることにしましょう」
といった。
二日目に、そのうちのひとりがもどってきて報告した。
「このたび朝廷では殿司太尉《でんしたいい》(宮中の長官)をおつかわしになって、ご下賜の金鈴弔掛《きんれいちようかい》(朝廷から華山へ奉納する飾りで、その形は後出の詞《うた》に明らかである)をささげて西嶽へ参詣なさることになり、黄河から渭《い》河を通ってこられます」
呉用はそれを聞くと、
「兄貴、もうご心配なく。これで計略がたちました」
といい、さっそく李俊と張順を呼んで、
「ふたりで、かくかくしかじかにしてもらいたい」
「だが、地理がわかりませんので、誰か道案内をしてくれるものがあればなによりですが」
と李俊がいうと、白花蛇の楊春が、
「わたしがお供しましょう」
宋江は大いによろこんだ。三人は山をおりて行った。その翌日、呉学究は、宋江・李応・朱仝・呼延灼・花栄・秦明・徐寧の七人とともに、わずか五百余名をひきつれて山をおり、渭河の渡し場へ急いだ。李俊・張順・楊春は、すでに十数隻の大船を奪ってそこに待っていた。呉用はさっそく、花栄・秦明・徐寧・呼延灼の四人に岸に伏兵をしかせ、宋江・呉用・朱仝・李応は船に乗った。李俊・張順・楊春がその船を漕いで行って入江にかくした。一同はその夜は一晩待ち明かした。
翌日の明けがた、遠くから銅鑼《どら》や太鼓が鳴りひびいてきて、三隻の官船がやってきた。船には一本の黄旗が立っていて、
欽奉
聖旨西嶽降香
太尉宿元景
(聖旨を奉じ西嶽に参詣 太尉宿元景《しゆくげんけい》)
と書いてある。宋江はそれを見て、心中ひそかによろこんだ。
「かつて玄女《げんじよ》さまが、宿《しゆく》に遇うは重々の喜び、といわれた(第四十二回)が、きょうこの人に会ったのは、きっとなにかわけがある」
太尉の官船が河口に近づいてきたとき、朱仝と李応はそれぞれ長槍をとって宋江と呉用のうしろに立ち、太尉の船の入江にはいるのをさえぎった。すると、船のなかから紫の上着に銀の帯をしめた虞候が二十人あまり飛び出してきてどなった。
「きさまたちはいかなる船だ。太尉どのを入江にさえぎるとは」
宋江は骨朶《こつだ》(棍棒の先に球状の鉄あるいは木をつけたもの)を持ち、身をこごめて礼をした。呉学究は船首に立って、
「梁山泊の義士宋江、謹んでご機嫌をうかがいます」
官船には客帳司《かくちようし》(接待係)があらわれて、
「朝廷の太尉どのが、聖旨を奉じて西嶽へ参詣に行かれるのだ。汝ら梁山泊の逆賊ども、なにゆえに邪魔だていたす」
「われわれ義士、ぜひとも太尉どのにお目にかかりたいのだ。申しあげたいことがある」
「汝らごときものが、みだりに太尉どのに会おうなどとは無礼であろう」
かたわらの虞候たちも、
「ひかえろ」
とどなりつけた。宋江はいう。
「太尉どのにしばらく岸へあがっていただきたい。ご相談したいことがあるのだ」
「たわけたことを申すな。太尉どのは朝廷の大官。汝らとなんの相談がある」
「太尉どのがお会いくださらぬと、子分どもがおどろかせるかも知れませんぞ」
朱仝が、槍につけた合図の小旗をひと振りすると、陸《おか》にいた花栄・秦明・呼延灼らが騎兵をひきつれてあらわれ、いっせいに弓に矢をつがえて河口に駆けつけ、ずらりと岸に並んだ。官船の船頭たちはみなびっくりして、胴の間《ま》へ逃げこみ、客帳司もあわてて、やむなくなかへ知らせに行った。宿太尉はしぶしぶ船首へ出てきて座についた。宋江は身をこごめて挨拶をし、
「わたくしどもは決してみだりなことはいたしません」
「ではなにゆえに船をとめたのか」
「決して太尉どのをおとどめしたわけではありません。ただ太尉どのに岸へあがっていただきたいのです。そのうえで申しあげます」
「わしはいま特に聖旨を奉じて西嶽へ参詣いたすところだ。そのほうと話すことなどあるわけがない。朝廷の大官たるものが、どうして軽々しく岸へあがれるか」
「太尉どのが拒まれますならば、あの供のものたちが承知いたしますまい」
李応が、合図の旗のついた槍をひと振りすると、李俊・張順・楊春らがいっせいに船を漕ぎ出した。宿太尉がそれを見ておどろいているうちに、李俊と張順はぎらぎら光る短刀を手に、早くも官船に跳び移り、いきなりふたりの虞候を水のなかへ投げこんだ。宋江は急いで制した。
「無茶をするな。貴人がおどろかれるではないか」
すると李俊と張順はぱっと水中へ跳びこみ、すぐふたりの虞候を船に救いあげた。張順と李俊が、水面から、まるで平地でのようにぽんと船に跳びあがると、宿太尉は魂も身から抜け去るほどおどろいた。宋江はそれを叱りつけて、
「おい、ひきさがっておれ。太尉どのはわしがゆっくり岸へおつれするから」
「そのほうたちはどんな用があるのだ。ここで話してもさしつかえあるまい」
と宿太尉がいった。宋江は、
「ここでは話ができません。おそれながら山寨へおいでいただいて申しあげることにいたします。決して危害を加えるつもりはありません。もしもそのようなことをたくらんでおりますならば、西嶽の神霊の誅滅を受けましょう」
いまや太尉は岸へあがらざるを得ない羽目になり、宿太尉はしぶしぶ船をおりて岸へあがった。一同は馬をひいてきて太尉を乗せた。太尉は仕方なく、一同にしたがって、いっしょに行くことになった。宋江はまず花栄と秦明を太尉につけて山(少華山)へやってから、自分も馬に乗り、官船の全員、および御香・供物・金鈴弔掛をすべてとりまとめて山へ運ぶように命じ、あとには李俊と張順だけを残し、百人余りのものをつけて船の番をさせた。
頭領たちの一行はみな山に着いた。宋江は馬をおりて寨《とりで》にはいると、宿太尉の手をとって聚義庁に請じ、まんなかの座につかせた。頭領たちはその両側に侍立した。宋江は四拝の礼をささげ、太尉の前にひざまずいて申し出た。
「わたくしは、もとは〓城《うんじよう》県の小役人をしておりましたが、お上に追いつめられてやむを得ず山林につどう身となり、しばらく梁山泊を借りて難を避けながら、朝廷からのおゆるしを待って国家のために力をつくそうとしているものでございますが、このたび、ふたりの兄弟が、咎《とが》もないのに賀太守のかまえたわなに落ちて牢にいれられましたので、太尉どのの御香・行列、および金鈴弔掛をお借りして、華州のものどもをあざむきたいのです。目的を達しましたならそっくりお返しいたしますし、太尉どののおからだには一指も触れるようなことはいたしません。どうかご承諾くださいますよう」
「御香などの品をそのほうらに持って行かれて、あとでそのことが露見したら、わしの身に累がおよぶことはまちがいないではないか」
「都へお帰りになられましたら、すべてわたくしにおしつけなさればよろしいでしょう」
宿太尉は、なみいる一同の様子を見たが、とうてい断われそうにもないので、しぶしぶ承知をしてしまった。宋江は杯をささげてお礼の酒宴をひらいた。そして太尉のつれてきたものたちの着ている衣服をすっかり借りうけ、手下たちのなかから容貌のととのったものをひとり選び出して、ひげを剃り、太尉の衣服を着せて宿元景に仕立て、宋江と呉用は客帳司の身なりをし、解珍・解宝・楊雄・石秀は虞候になり、手下のものはみな紫の上着に銀の帯をしめ、使臣の旗やさまざまな旗じるし、儀礼用の武器などを持ち、御香・供物・金鈴弔掛をささげ、花栄・徐寧・朱仝・李応は四人の護衛兵になりすました。朱武・陳達・楊春は太尉および供のもの一同をひきとめ、酒を出してもてなした。その一方、秦明と呼延灼が一隊の軍勢をひきい、林冲と楊志がまた別の一隊をひきい、二手にわかれて城を攻めることにし、武松はあらかじめ西嶽の門のところに待っていて、合図があり次第、事をおこすことにした。
くどい話はやめにして、さて一行のものは山寨をあとに、一路河口へと急ぎ、そこで船に乗りこんで、華州の太守には知らさず、まっすぐに西嶽廟へとむかった。戴宗がさきに雲台観へ知らせに行った。と観主ならびに廟内の役僧らが、すぐ船のところまできて、岸へ迎えあげた。香花・灯燭・幢旛《とうはん》・宝蓋《ほうがい》などを前に並べ、まず御香を香亭《こうてい》(香炉をおさめる台)にのせ、廟の人夫がかつぎあげて、金鈴弔掛のさきにたってすすんだ。
観主が太尉に挨拶をささげると、呉学究が、
「太尉どのは道中ご病気になられてご気分がすぐれぬゆえ、轎を用意していただきたい」
といった。
左右のものは太尉を助けて轎に乗せ、そのまま嶽廟の便殿まで行って休んだ。そのとき客帳司の呉学究は観主にむかっていった。
「特に聖旨を奉じて御香と金鈴弔掛をささげてまいり、聖帝(大嶽聖帝)にお供えいたすというのに、なにゆえに本州の役人は、無礼にも挨拶にこないのか」
「すでに使いのものを出して知らせにやりましたゆえ、やがてまいることと思います」
観主がそういっているところへ、州からまずひとりの推官《すいかん》(州の副官で、検察官)が六七十人の小役人をつれ、酒やつまみものをたずさえて、太尉に挨拶にきた。そもそも、太尉になりすましたその手下のものは、姿こそよく似てはいたが言葉のほうはいえなかったので、病気のふりをさせ、靠《もた》れ蒲団でかこんで寝台の上に坐らせていたのだった。推官は旌節《せいせつ》(使節の旗)も門旗(旗じるし)も牙仗《がじよう》(儀仗)もすべて内府(朝廷の庫)でつくられたものばかりなのを見て、疑うはずもなかった。客帳司はわざと出たりはいったりし、二度も上言してから、ようやく推官をなかへ案内し、はるか離れた階段の下から目どおりさせた。にせの太尉はちょっと指さしただけで、なにをいっているのかまるでわからない。呉用は表へ推官をつれ出して、なじった。
「太尉どのは天子さまご側近の大官。千里の道をはるばると特に聖旨を奉じてここへご参詣に見えたところ、はからずも途中で病《やまい》にかかられて、いまご不快だというのに、この州の役人たちはどうしてお迎えにも出なかったのか」
「あちらのお役所からは文書がとどきましたが、近くからは知らせがございませんでしたので、お迎えにも出ずにおりましたところ、太尉どののほうがさきに廟へお着きとは思いもよらぬことでございました。本来ならば太守がすぐまいるべきでございますが、あいにく、少華山の賊どもが梁山泊のやつらといっしょになって城を攻めようとしておりますので、毎日その防備に追われて、思いどおりに城を離れることができませんので、とりあえずわたくしが使者にたてられまして、礼物の酒を持ってまいりましたわけで、太守はあとからすぐご挨拶にまいるはずでございます」
「太尉どのは酒は一滴もお飲みにならぬ。ともかく太守にすぐこさせて、儀式のうちあわせをしよう」
推官はすぐに酒を持ってこさせて、客帳司やおつきのものたちに杯をすすめた。呉学究は再び奥へはいって行ってなにか上言し、鍵を持って出てくると、金鈴弔掛《きんれいちようかい》を見せに推官をつれて行き、箱の錠をあけて、香をたきこんだ絹袋のなかからご下賜の金鈴弔掛を取り出し、竹竿に掛けて推官に見せた。見ればそれは、またとないすばらしいできばえで、
渾金《こんきん》もて打《つく》り就《な》し、五彩もて雅《みや》び成《な》す。双懸《そうけん》の纓絡金鈴《ようらくきんれい》(つなぎ玉・金の鈴)、上に珠〓《しゆき》(たま)の宝蓋《ほうがい》を掛く。黄羅《こうら》密に〓《し》き、中間に八爪《そう》の玉竜盤《わだか》まる。紫帯低く垂れ、外壁に双飛の金鳳逓《めぐ》る。珊瑚瑪瑙《さんごめのう》を対嵌《たいかん》し、琥珀《こはく》珍珠(真珠)を重囲す。碧琉璃《へきるり》は絳紗《こうさ》(赤い紗)の灯に掩映《えんえい》し、紅〓《こうかんたん》(赤い蓮の花)は青翠《せいすい》の葉に参差《しんし》す。堪《まこと》に金屋瓊楼《きんおくけいろう》に掛くるに宜《よろ》しく、雅《まこと》に瑤台宝殿《ようだいほうでん》に懸くるに称《かな》う。
この一対《つい》の金鈴弔掛は、東京《とうけい》の内府の名工の手になったもので、すべて七宝や真珠で飾りつけ、そのまんなかに赤い紗の灯籠がともるようになっていて、聖帝殿の中央にかけられるものである。さすがに内府からくだされただけのものはあって、民間ではとうてい作れるものではない。呉用は推官に見せてから、再び箱のなかへしまって錠をかけ、ついで、中書省より出されたかずかずの公文書を取り出して推官にわたし、すぐに太守を呼んできて相談をし日を選んで祭礼をとりおこなうようにといいつけた。推官および小役人たちは、かずかずの品物や書類を見たのち、客帳司にいとまを告げて華州の役所に馳せ帰り、賀太守にその次第を報告した。
一方、宋江は、ひそかに快哉を叫んだ。
「あいつ、なかなかわるがしこいやつだが、見事にだまされおったな」
このとき武松はすでに廟門のほとりにきていたが、呉学究はさらに石秀に、短刀をかくして同じく廟門のところへ行かせ、武松を助けて事をおこなわせるようにした。そして戴宗には虞候の身なりをさせた。
雲台観の観主は精進のお斎《とき》を出し、また役僧らにいいつけて嶽廟を飾りととのえさせた。
宋江はぶらりと西嶽廟へ行って見たが、うわさにたがわぬ立派な建物で、その殿宇のすばらしさはまことに地上の天界ともいうべきであった。宋江は正殿へ行って香を焚いて再拝し、ひそかに祈りをささげた。便殿のところまでもどってくると、門番のものが、
「賀太守さまがお見えでございます」
と告げた。宋江はすぐ、花栄・徐寧・朱仝・李応の四人の護衛兵に、それぞれ武器を持たせて両側にならばせ、解珍・解宝・楊雄・戴宗にはそれぞれ武器をかくし持たせて左右に控えさせた。
さて賀太守は、三百余人をしたがえて、廟の前で馬をおり、一同におしたてられながらはいってきた。にせの客帳司の呉学究と宋江は、賀太守が三百余人をひきつれ、それがみな帯刀の役人たちであるのを見ると、
「朝廷の太尉どののおん前だぞ。無用の雑輩どもはひかえておれ」
と呉学究がどなりつけた。一同は立ちどまり、賀太守がひとりすすみ出て、太尉に目どおりしようとした。すると客帳司が、
「太尉どのより、太守をお通しいたせとの仰せです」
という。賀太守は便殿の前へ通って行き、にせの太尉にむかって平伏した。そのとき、呉学究がいった。
「太守、そのほうはみずからの不届きを存ぜぬのか」
「わたくし、太尉どののおいでを存じませず、不届きの段なにとぞおゆるしくださいますよう」
「太尉どのが勅令を奉じて西嶽へご参詣に見えたのに、なにゆえお迎えに出なかったか」
「最寄《もよ》りの地から役所への知らせがございませんでしたので、お出迎えの礼を失することに相なりました」
「とりおさえろ」
と呉学究が命じた。と、解珍・解宝の二兄弟が、ふところからさっと短刀を抜きはなち、賀太守を蹴倒すがはやいかその首を刎《は》ねてしまった。
「みなのもの、かかれ」
と宋江は命じた。ついてきた三百余人のものは、ただ、おどろいて呆然となり、つっ立ったままである。花栄らは、どっとそれにおそいかかって、一同を将棋倒しにたおしてしまい、廟門のほうへ逃げ出したものには、武松と石秀が刀をふりまわして斬りかかり、手下のものが四方からおそいかかって、三百余人のものをひとり残さず討ちとってしまった。あとから廟へやってきたものたちも、ことごとく張順と李俊に殺されてしまった。
宋江は急いで御香や弔旗をとりまとめさせて船に乗りこみ、一同で華州へおしかけて行ったが、見れば早くも城内には二ヵ所から火の手があがっているので、いっせいに斬りこみ、まず牢へ行って史進と魯智深を救い出し、ついで倉庫を破り、財帛を奪い取って車に積みこんだ。かくて一行は華州をあとにして船で少華山へひき返し、一同で宿太尉に挨拶をして、御香・金鈴弔掛・旌節・門旗・儀仗などの品を返し、厚く太尉に礼を述べた。宋江は盆にいっぱいの金銀を太尉におくり、お供のものたちにも地位の高下を問わず一様に金銀をあたえたうえ、山寨で送別の宴を張って太尉に謝意を表した。頭領一同は山をおりて見送り、河口のところまで行っていっさいの品物や船などをひきわたし、一物を欠かさずもとの持主に返した。
宋江は宿太尉に礼をいって別れると、少華山へ帰って四人の好漢と相談し、山寨の金銭食糧をとりまとめて、寨《とりで》は火をつけて焼きはらってしまった。かくて一行は軍馬糧秣をこぞって梁山泊へとむかった。
ところで宿太尉は、船に乗って華州の城下へ行ったところ、早くも梁山泊の賊が官軍の人馬を殺し、府庫の金銭糧秣を奪い、城内でも官兵百余名を殺し、馬は残らずかすめ去り、また西嶽廟でも多数のものを殺したことを知って、ただちに州の推官に命じて中書省へ上申する文書を作らせ、すべては宋江が途中を待ちうけて御香と弔掛を奪い取り、それによって知府を廟におびき寄せて殺したものであるとした。宿太尉は廟へ行って御香を焚き、例の金鈴弔掛を雲台観の観主にさずけると、夜を日についで京師へ帰り、このことを奏上したが、この話はそれまでとする。
さて宋江は、史進と魯智深を救い出し、少華山の四人の好漢をつれて、もとのように兵を三隊にわけて梁山泊にむかったのであるが、その途中の州や県ではいささかも住民に危害を加えることはなかった。さきに戴宗を山へ知らせにやったので、晁蓋をはじめ頭領たちは山をおりて宋江らを迎え、一同山寨の聚義庁にはいって挨拶をかわし、祝宴を開いた。翌日は、史進・朱武・陳達・楊春がそれぞれ自分たちで金を出して酒宴を設け、晁・宋のふたりをはじめ頭領たち一同に礼をした。こうして幾日かすぎたが、くどい話はやめにして、ある日、旱地忽律《かんちこつりつ》の朱貴が山へのぼってきてこう知らせた。
「このごろ徐州沛県《はいけん》の芒〓山《ぼうとうざん》に賊の一味がたてこもり、三千の手下を集めております。その頭である道士は、姓は樊《はん》、名は瑞《ずい》、あだ名を混世魔王《こんせいまおう》といって、よく風をおこし雨を降らせ、兵を用いること神の如しといわれております。その配下にはふたりの副将がいて、ひとりは姓は項《こう》、名は充《じゆう》、あだ名を八臂那〓《はつぴなた》(八本腕の那〓太子)といい、団牌《だんはい》(円形の楯《たて》)の使い手で、背中(注七)には二十四本の飛刀《ひとう》(投げ刀)を挿み、手には鉄の標鎗《ひようそう》(投げ槍)を持っております。もうひとりは姓は李《り》、名は袞《こん》、あだ名を飛天大聖《ひてんたいせい》といって、同じく団牌の使い手で、背中には二十四本の標鎗を挿み、手には宝剣を持っております。この三人が兄弟の義を結び芒〓山を根城にして強奪をはたらいているのですが、三人は謀りあってわが梁山泊を併呑しようとしているとのことです。それを聞きこみましたので、急いでお知らせにまいった次第です」
宋江はそれを聞くと大いに怒って、
「なんたる無礼なやつらだ。すぐまた山をおりて行くとしよう」
するとそのとき、九紋竜の史進がつと立ちあがって、
「わたくしども四人、こちらにまいったばかりで、まだなんの手柄もたてておりません。手勢の人馬をひきつれて行って、その賊どもをひっ捕らえてやろうと思いますが、どうかお聞きとどけてくださいますよう」
宋江は大いによろこんだ。史進はただちに手勢の人馬をつどえ、朱武・陳達・楊春とともに、うちそろってよろいをつけ、宋江に別れを告げて山をおり、船で金沙灘をわたって一路芒〓山へと急いだ。
三日目には、早くもその山が見えた。むかし漢の高祖が蛇を斬って兵を挙げた地(注八)である。全軍がその山麓まで行くと、早くも物見の手下が山へ知らせに行った。
さて史進は、少華山からつれてきた手勢の兵を散開させ、みずからは全身をよろいにかため、火のようなまっ赤な馬にまたがって陣頭にすすんだ。史進のその英雄ぶりやいかにといえば、
久しく華州城外に在りて住む、出身は原《もと》是れ荘農《しようのう》(農家)。学び成して武芸は心胸に慣れ、三尖《さんせん》の刀《とう》は雪の似《ごと》く、渾赤《こんせき》の馬は竜の如し。体には連環〓鉄《れんかんひんてつ》の鎧《よろい》を掛《つ》け、戦袍の風は猩紅《しようこう》を〓《なび》かす。雕青《ちようせい》(いれずみ)の鐫玉《せんぎよく》(彫《ほ》り)は更に玲瓏《れいろう》。江湖史進を称す、綽号は九紋竜。
そのとき史進は先頭に馬を乗りすすめ、三尖両刃の刀を横たえた。うしろには三人の頭領がひかえたが、そのまんなかが、すなわち神機軍師《しんきぐんし》の朱武で、この人は定遠《ていえん》県の出身、生まれつき智謀にすぐれ、かねてまた両刀の使い手。いまや陣頭にすすみ出たが、ここに朱武をたたえた八句の詩があっていう。
道服《どうふく》は棕葉《そうよう》(棕梠《しゆろ》の葉)を裁《き》り
雲冠《うんかん》は鹿皮《ろくひ》を剪《き》る
臉《かお》は紅《くれない》に双眼は俊に
面《おもて》は白く細髯《さいぜん》垂る
智は張良《ちようりよう》(注九)の比たるべく
才は将《まさ》に范蠡《はんれい》(注一〇)を欺かんとす
今呉用《ごよう》に副《そ》うに堪えたり
朱武神機と号す
その上手《かみて》にあって、とぎすました点鋼鎗《てんこうそう》を横たえた馬上の好漢は、あだ名は跳澗虎《ちようかんこ》の陳達。〓城《ぎようじよう》の出身。このとき槍をひっさげ馬を躍らせて陣頭にすすみ出たが、同じく一首の詩があって陳達をたたえていう。
毎《つね》に見る力人《りきじん》のよく虎跳《こちよう》するを
亦《また》知る猛虎の山谿に跳《おど》るを
果然陳達は人中の虎にして
馬を躍らせ鎗を騰《あ》げて鼓〓《こへい》(攻め太鼓。いくさ)を奮《ふる》わす
下手《しもて》にあって大桿刀《だいかんとう》を手にした馬上の好漢は、あだ名は白花蛇《はつかだ》の楊春。解良《かいりよう》県は蒲城《ほじよう》の出身。このとき刀をかまえ馬をとめて陣門に立ちふさがったが、同じく一首の詩があって楊春をたたえていう。
楊春の名姓《めいせい》(名)また奢遮《しやしや》(さかん)なり
客(旅人)を劫《おびやか》した多年少華《しようか》に在り
臂を伸《のば》し腰を展《のば》し長《すぐ》れて力有り
能く巨象を呑む白花の蛇
四人の好漢が陣頭に馬をとめてしばらく眺めていると、芒〓山《ぼうとうざん》の上から一隊の人馬が駆けおりてきた。その先頭のふたりの好漢の、頭《かしら》だったほうは、すなわち徐州沛県の人で、姓は項《こう》、名は充《じゆう》、あだ名を八臂那〓《はつぴなた》といって、団牌の使い手。背中には二十四本の飛刀を挿み、百歩むこうに人をねらってあたらざるなしという。右手には標鎗を持ち、うしろに立てた認軍旗(旗じるし)には八臂那〓と書かれている。徒歩《か ち》で山をおりてきたが、ここに項充をうたった八句の詩があっていう。
鉄帽は深く頂《いただき》を遮《さえぎ》り
銅環は半《なか》ば腮《あご》を掩《おお》う
傍牌《ぼうはい》(楯)は獣面を懸《か》け
飛刃《ひじん》は竜胎《りようたい》を挿《さしはさ》む
脚到ること風火の如く
身先んじて禍災を降《くだ》す
那〓は八臂と号す
此は是れ項充の来《きた》れるなり
つぎなる好漢は、すなわち〓県《ひけん》の人で、姓は李《り》、名は袞《こん》、あだ名を飛天大聖《ひてんたいせい》といって、団牌の使い手。背中には二十四本の標鎗を挿み、同じく百歩をへだててよく人を倒すという。左手には牌《たて》をとり、右手には剣を持ち、うしろに立てた認軍旗には飛天大聖と書かれている。いまや陣頭にすすみ出てきたが、ここに李袞をうたった八句の詩があっていう。
纓《ふさ》は〓兜《かいとう》(かぶと)の頂を蓋《おお》い
袍《うわぎ》は鉄掩《てつえん》(よろい)の襟を遮《さえぎ》る
胸は地を〓《ひ》くの胆を蔵し
毛は人を殺すの心を蓋《おお》う
飛刃は斉《ひと》しく玉を〓《あつ》め
蛮牌《ばんぱい》は満《ひとえ》に金を画《えが》く
飛天は大聖と号し
李袞は衆人欽《あが》む
そのときふたりは徒歩で山をおりてきた。見れば対陣の史進・朱武・陳達・楊春の四騎は、陣頭に立ったまま鳴りをひそめているので、手下たちが銅鑼をたたくなかを、ふたりの好漢は団牌をふりまわしつつどっと敵陣に斬りこんで行った。史進らはそれを防ぎ得ず、まず後軍が逃げ出した。史進の前軍は抗戦したが、朱武らの中軍はわっとくずれて、いわゆる、人とどまれども馬とどまらず、というありさま。斬りまくられて三四十里も敗走した。史進は危うく飛刀にやられるところだったし、楊春はかわしそこねて一本をその乗馬にくらわされ、馬をすてていのちからがら逃げてきた。史進が兵を点呼して見たところ、半数をうしなっていたので、朱武らと相談して、梁山泊へ使いをやって救援を求めようかどうしようかとまよっていると、そこへ兵士が駆けつけてきて、
「北の街道に土埃《つちほこり》をあげて、およそ二千の軍がやってきます」
と知らせた。史進らがすぐ出て行って見ると、それは、ほかならぬ梁山泊の旗じるしで、その先頭の騎馬のふたりの大将は、ひとりは小李広の花栄、ひとりは金鎗手《きんそうしゆ》の徐寧であった。史進は迎えて、項充と李袞が蛮牌を振りまわしてなだれこんできて防ぎとめられなかったことをくわしく話した。すると花栄は、
「宋公明の兄貴が、あなたがたが出られてから、安心ができず、ひどく気にされて特にわれわれふたりを加勢によこされたのです」
といった。史進らは大いによろこび、兵をあわせていっしょに陣をかまえた。翌日の明けがた、一戦をまじえるべく兵をおこそうとしていると、兵士がきて、
「北の街道に、また軍勢がやってきました」
と知らせた。花栄・徐寧・史進がいっせいに馬に乗って出て行って見ると、それは、宋公明がみずから軍師の呉学究以下、公孫勝・柴進・朱仝・呼延灼・穆弘・孫立・黄信《こうしん》・呂方・郭盛らとともに三千の兵をひきいてやってきたのだった。史進が、項充と李袞の飛刀や標鎗や滾牌《こんぱい》(楯)が近づき難く、人馬をうしなうにいたったことをくわしく話すと、宋江は大いにおどろいた。呉用が、
「ひとまず兵を陣地にいれてから、相談することにしましょう」
といったが、宋江はいらだって、ただちに兵を繰り出して討ち取ろうと、そのまま山麓まで迫って行った。このとき日はすでに暮れ、芒〓山にはいちめんに青い灯籠のともっているのが眺められた。公孫勝はそれを見ていった。
「寨のあの青い灯籠は、妖術を使うものがいる証拠です。われわれはひとまず兵をひくことにして、あす、わたしが戦法を立ててあのふたりを捕らえましょう」
宋江は大いによろこび、ひとまず二十里後退して陣地につくよう命令をくだした。翌日の早朝、公孫勝は戦法を立てたが、そのために、魔王は手を拱《こまぬ》いて梁山にのぼり、神将は心を傾けて水泊に帰す、ということになるのである。さて、公孫勝はいかなる戦法を立てたか。それは次回で。
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一 観は雲台に隠る 観の名は雲第観の意。
二 斗柄 北斗星のうちの斗魁(第五十八回注三参照)につぐ三星(玉衡・開陽・揺光)をいう。
三 張僧〓 南北朝の梁の人。金陵(南京)の安楽寺の壁に二匹の竜の絵をかいたが、睛《ひとみ》をかきいれなかった。かけば竜が飛び去ってしまうというのを強いてかきいれさせたところ、彼が一匹の竜に睛を点じたとたん、その竜は壁を破って飛び去った、という話が「水衡志」に見える。「画竜点睛」という語のもとづくところである。
四 李竜眼 李公麟のこと。宋の人。晩年、竜眼(安徽省桐城の西北)に住んで竜眼山人と号した。字は伯時。元祐の進士で、すこぶる博学。詩をよくしたが、最も絵に長じた。
五 巨霊神 河神の名。華山と少華山はもとひとつの山で、黄河はその山麓を流れていたが、巨霊神が手でその山峰を断ち割り、足で山麓を動かしてふたつに分け、そのあいだに黄河を通したという。
六 陳処士 陳摶《ちんたん》のこと。華山に庵を結んでいた隠士で、この物語の「引首《はしがき》」(一卷)に顔を出した。
七 背中 原文は牌上。従って「楯には」と訳すべきであるが、同じことを述べた後出の文では「牌上」のかわりに「背」と書かれているので、「牌」は「背」のあて字と見て「背中」と訳した。
八 蛇を斬って兵を挙げた地 漢の高祖がまだ亭長(街道十里ごとにおかれた役所の長)であったとき、県の命令で人夫を驪山へ送ることになった。ところが人夫の逃げるものが続出した。計算してみると驪山へつくまでには全部逃げてしまう勘定になる。そこで高祖は、豊邑の西の沢まできたとき、人夫を逃がして自分も逃げることにした。するとそのなかの十余人が同行したいとねがい出たのでいっしょに行くうちに、先導のものが、「このさきの路に大蛇が横たわっています、ひき返してください」といった。高祖は「壮士が行くのだ、何を恐れることがあろう」といい、剣で大蛇を斬りすててすすんで行った。一行のあとからきたものがそこを通ると、ひとりの老婆が泣いているので、わけをたずねると、「わたしの子は白帝(秦をさす)の子で、蛇に化して路に横たわっておりましたところ、いま、赤帝(漢をさす)の子に斬られてしまいました、それで泣いているのです」といった。高祖はこの話をきいて、心中ひそかによろこび、秦を倒すことを自負した。
この話の豊邑は、いまの江蘇省の豊県のあたりであって、芒〓山ではない。芒〓山は同じく江蘇省ではあるが、〓山県の東にあたる。水滸伝でこの地をひとつにしたのは、『史記』の高祖本紀に、この話にすぐつづけて、高祖が秦の始皇帝にねらわれていると疑って芒〓山にかくれる記述があるからであろう。
九 張良 漢の高祖を助けて秦をほろぼし、漢に天下を統一せしめた知謀の臣。
一〇 范蠡 越王勾践を助けて呉をほろぼし、越を天下の覇者たらしめた知謀の臣。
第六十回
公孫勝《こうそんしよう》 芒〓山《ぼうとうざん》に魔を降《くだ》し
晁天王《ちようてんのう》 曾頭市《そうとうし》に箭《や》に中《あた》る
さて、公孫勝《こうそんしよう》は宋江と呉用にその陣形を示して、
「これは漢《かん》の末に天下が三分したころ、諸葛孔明が石をおきならべて考え出した陣法です。四面八方を、八八六十四隊にわけ、そのまんなかに大将をおきます。四頭八尾の形で、これを右に左にと旋回させながら、天地風雲(注一)の機と竜虎鳥蛇(注二)の状にのっとって動かして行くのです。敵が山をおりてこちらの陣へ突入してきたら軍をさっとふたつに開いて、ちょうど敵のはいってくるのを迎えるようにし、七星の旗の合図で陣を長蛇の形勢にかえるのです。わたしは法術を使って、かの三人を陣中で前後左右のどこにも道がないようにし、窪地に陥し穴を掘っておいて、三人をそこへ追いつめます。両側には撓鉤手《どうこうしゆ》を伏せておいて、からめ取るというわけです」
宋江はそれを聞いて大いによろこび、さっそく命令をくだして全軍に伝えるとともに、八人の猛将を選んで陣を守らせることにしたが、その八人とは、呼延灼・朱仝・花栄・徐寧・穆弘・孫立・史進・黄信である。また、柴進・呂方・郭盛には中軍の指揮を代行させ、宋江・呉用・公孫勝には陳達をしたがえて合図の旗を振らせることになり、朱武には五名の兵をひきつれて山の近くの高みへ行き、敵陣を偵察して報告させることにした。
その日の巳牌《しはい》(昼まえ)ごろ、全軍は芒〓山に近づいて陣をしき、旗をふり軍鼓を鳴らしてたたかいをいどんだ。と、芒〓山から二三十の銅鑼が地をふるわせて鳴り、三人の頭領がそろっておりてきて三千余の兵を散らせた。左右両翼には項充と李袞、中央に騎馬であらわれいでた頭《かしら》の好漢は、姓は樊《はん》、名は瑞《ずい》といい、濮《ぼく》州の出身、弱年にして全真先生(道士)となり、世間をわたり歩いてひとかどの武芸を身につけ、馬上で流星鎚《りゆうせいつい》を使ってはなかなかの名手、神出鬼没の業《わざ》をふるい、将を斬り旗を奪い、容易に人を寄せつけず混世魔王《こんせいまおう》とあだ名されていた。この樊瑞の英雄ぶりやいかにといえば、西江月のうたがあっていう。
頭には青糸《せいし》(黒糸)の細髪《さいはつ》を散じ、身には絨〓《じゆうしゆう》の〓袍《そうほう》(刺〓のついた毛織の黒い上着)を穿《つ》け、連環の鉄甲(鉄のくさりよろい)を寒霄《かんしよう》に晃《きら》めかせ、銅鎚《どうつい》を使い慣れて神妙(神わざ)なり。好《あたか》も似たり北方真武(道家の武神で北方の帝君)の、世間に怪を伏し妖を除くに。江海に雲遊し名を把《と》って標す、混世魔王の綽号。
混世魔王の樊瑞は、黒馬にまたがって陣頭に立った。その上手には項充、その下手には李袞がひかえる。樊瑞は神術や妖法ならつかいなれていたものの、陣法については知るところがなく、宋江の軍勢が四面八方に陣を散らせているのを見ると、心中ひそかによろこんで、
「あんな陣をしきおって。よし、もうこっちのものだ」
と、項充と李袞にいいつけた。
「風がまきおこったら、ふたりはすぐ滾刀手《こんとうしゆ》(長柄の大刀の兵)五百をひきつれて敵陣へ斬りこむのだ」
項充と李袞は命をうけると、それぞれ蛮牌《ばんぱい》をかまえ、標鎗《ひようそう》・飛剣《ひけん》をとり、樊瑞が術をつかうのをいまやおそしと待ちかまえた。と、樊瑞は馬上に立ちあがって、左手に流星の銅鎚をかまえ右手に混世魔王の宝剣をとり、口に呪文をとなえて、
「えいっ」
と叫んだ。と、たちまち狂風が四方よりおこって砂を飛ばし石を走らせ、天地もくらみ日月も光を消した。項充と李袞は、喊声をあげながら五百の滾刀手をひきつれて斬りこんで行く。宋江の軍勢はそれを見て、さっと左右にわかれた。項充と李袞がわっと突入して行くと、両側から強弓硬弩《こうど》がその足を射すくめ、わずかに四五十名のものが突入し得ただけで、あとのものはみな自陣へひき返してしまった。宋江は丘の上から、項充と李袞が陣内へ突入したのを見ると、ただちに陳達に合図の七星旗を振らせる。と、陣形がばらばらになって長蛇の陣にかわった。項充と李袞は、陣内を東へ西へ、右へ左へと駆けまわって退路をさがしたが、どこにもない。丘の上では朱武が小旗を振って指図をし、ふたりが東へむかえば東を指し、西へむかえば西を指していたのである。丘の上で見張っていた公孫勝は、早くもかの松文《しようぶん》の古定剣《こていけん》を抜きはなち、口に呪文をとなえて、
「えいっ」
と一喝、風をおこして項充と李袞の足もとにどっと巻きつかせた。ふたりは陣内で、見れば天地もくらみ日月も光を消して、あたりには一兵も見えず、ただ一面に黒気がたちこめて、あとに従うものとてもない。項充と李袞はうろたえて、なんとか退路をひらいて自陣へ帰ろうとしたが、いくらあがいてもどこにも退路がない。逃げまわっているうちに、とつぜん地雷が轟然と鳴りひびいた。あっと叫ぶよりもはやく、ふたりは足を踏みはずし、もんどりうって陥し穴に落ちこんだ。と、両脇にはずらりと撓鉤手がいて、さっとふたりをひきずりあげるなり麻縄で縛り、丘の上へひきたてて行って手柄を示した。
宋江は鞭を振って命令し、全軍をいっせいに斬りこませた。樊瑞は兵をしたがえて山へ逃げこんだが、逃げおくれたものの大半は討ち取られてしまった。宋江は兵を収めた。頭領たちがみな本営の前に腰を据えると、兵士たちはさっそく項充と李袞をそこへひきたててきた。宋江はそれを見ると、急いで縄を解かせ、みずから杯をすすめながらいった。
「おふたかた、どうかおとがめくださらぬよう。いくさとあってはこれもやむを得ないところです。わたしはかねてからお三《さん》かたのお名前を聞き、山へお迎えして大義をともにしたいと念願していたのですが、その機会を得ないまま、ついこのような無礼をいたすことになりました。もしおかまいなければ、仲間におはいりくださるよう。そうなればこれにすぎるよろこびはありません」
ふたりはそれを聞くと平伏していった。
「及時雨というお名前は久しく聞いておりましたが、なにぶんにもご縁がなくてお目にかかることができずにおったものです。やはりあなたさまは大義のおかたでした。それなのにわれわれふたりはそれとも知らず、天地にさからうようなまねをいたしました。このたびすでに捕らわれの身となりましたうえは、殺されるのが当然なのに、かえって礼をもってお迎えくださるとは。もしいのちを助けてくださいますならば、そのいのちをかけて大恩に報いたいと存じます。あの樊瑞は、わたくしどもふたりがいなければやっていきようがありませんので、あなたさまがもしわたくしどものうちの誰かを帰してくださいますならば、樊瑞を説得して投降させようと思いますが、いかがでございましょうか」
「いや、おひとりが人質に残られるなどという必要はありません。どうぞおふたりでいっしょにお帰りください。わたしはあしたの吉報をお待ちしております」
ふたりは拝謝して、
「さすがに大丈夫《だいじようふ》。もしも樊瑞が投降を承知しませんでしたら、つかまえてきて頭領どののおん前にさし出します」
宋江はそれを聞いて大いによろこび、中軍へ請じて酒食をもてなしたのち、新しい着物に着換えさせ、良馬をあたえ、手下のものに槍と楯をもたせて、ふたりが山をおりて寨《とりで》に帰るのを送らせた。ふたりはその道すがら、馬上でしきりとその恩を感謝した。やがて芒〓山の麓につくと、手下のものはふたりを見てびっくりし、山寨へ迎えあげた。樊瑞がふたりにどうしたわけだとたずねると、項充と李袞は、
「われわれは天に逆らうやから。殺されてもたりぬくらいです」
「おい、どうしてそんなことをいうのだ」
そこでふたりが宋江の義気をくわしく話すと、樊瑞は、
「そうか、宋公明がそんなに賢明で、義を重んじる男なら、われわれは天に逆らうようなことはせずに、あすの朝、いっしょに山をおりて投降しよう」
「わたしたちもそのためにやってきたのです」
その夜、さっそく寨をとり片付けて、翌日の夜明け、三人はいっしょに山をおり、まっすぐに宋江のもとへ行って平伏をした。宋江は三人を助けおこし、幕営のなかへいれて席につかせた。三人は宋江がいささかも疑っていないのを見て、互いに胸襟を開いていろいろと話しあった。
三人は頭領一同を芒〓山の山寨に招き、牛や馬を殺して宋公明以下の頭領を歓待するとともに、全軍の兵をねぎらった。その酒宴のあとで、樊瑞は公孫勝を師と仰いだ。宋江はふたりの仲をとりもって、五雷天心《ごらいてんしん》の正法を樊瑞に伝授するよう公孫勝にいった。樊瑞は大いによろこんだ。そして、数日してから、牛や馬をひき、山寨の金銭や食糧をとりまとめ、荷物を駄馬につけ、配下を集め、寨を焼きはらって、宋江らが梁山泊へ帰るのについて行ったが、その道中には格別の話もない。
宋江ら好漢たちの一隊が、すでに梁山泊のほとりに着いて、これから入江を渡ろうとしたときである。蘆の茂った岸辺の街道に、ひとりの大男があらわれ、宋江にむかって平伏をした。宋江が急いで馬をおり、助けおこして、
「あなたはどなたで。どこのおかたで」
とたずねると、その男は、
「わたくしは姓は段《だん》、名は二字名で景住《けいじゆう》と申します。髪が赤く鬚《ひげ》が黄色いものですから、人さまから金毛犬《きんもうけん》とあだ名されております。生まれは濠《たく》州で、日ごろ北辺の地(〓州は金《きん》国と境を接する)へ行って馬泥棒をはたらいております。ことしの春、鎗竿嶺《そうかんれい》の北へ行ってすばらしい馬を一頭盗みましたが、こいつはまるで雪か練《ねりぎぬ》のようにまっ白で、全身に一本の雑《まじ》り毛もなく、頭から尾までの長さが一丈、蹄から背までの高さが八尺もございます。この馬、丈《たけ》も高ければ柄《がら》も大きく、一日に千里も走りまして、北方ではその名も高く、照夜玉獅子《しようやぎよくしし》と呼ばれて、大金国の王子の乗馬なのでございます。それが鎗竿嶺の麓に放牧してあったところを、わたくしが盗んだというわけなので。世間でしきりと及時雨というお名前を耳にしながらも、てづるがございませんので、その馬を献上してお目見えのしるしにいたしたいと思っておりましたところ、思いがけないことに、凌《りよう》州の西南の曾頭市《そうとうし》までやってきましたとき、そこの曾《そう》家の五虎というやつに奪い取られてしまったのです。わたくしは、これは梁山泊の宋公明さまのものだといったのですが、なんと、やつめは、ここでは申しあげにくいような悪態をさんざんつき散らすではありませんか。やっと逃げ出して、お知らせにまいった次第です」
宋江がその男を見るに、痩せて粗野な身なりをした、いかにも風変りな男だった。どんな様子かといえば、ここに詩があっていう。
焦黄《しようこう》の頭髪 髭鬚《ししゆ》は捲き
捷足《しようそく》千里の遠きを辞せず
胆《ただ》能《よ》く馬を盗みて家を看ず
如何《いかん》ぞ喚《よ》んで金毛犬と做《な》す
宋江は段景住《だんけいじゆう》の非凡な風貌を見て、心中ひそかによろこび、
「そういう次第なら、ともかくいっしょに山寨へ行ってご相談することにしましょう」
といい、段景住をつれて一同で船に乗り、金沙灘に着いて岸へあがった。晁天王をはじめ頭領たちは、一行を聚義庁に迎えいれた。宋江は樊瑞・項充・李袞を頭領たちにひきあわせ、段景住にも挨拶をさせた。それがすむと庁の太鼓が鳴って、慶賀の宴がひらかれた。宋江は、山寨に相ついで多数の人馬が加わり、四方の豪傑が慕い寄ってきたので、李雲《りうん》と陶宗旺《とうそうおう》に命じて家屋や四辺の寨《とりで》の増築をさせることにした。段景住はまた例の馬のすばらしさを話した。宋江はそのため神行太保の戴宗を曾頭市へやって、その馬の消息をさぐらせることにした。
戴宗は出かけて行ってから四五日たつと、もどってきて頭領たちに話した。
「曾頭市という町は戸数三千あまり。なかに曾家府《そうかふ》と呼ばれている家があって、そこの老主人はもと大金国のもので、曾長者と呼ばれております。五人の息子がいて、曾家の五虎と称し、長男は曾塗《そうと》、二男は曾密《そうみつ》、三男は曾索《そうさく》、四男は曾魁《そうかい》、五男は曾昇《そうしよう》といいます。ほかに武芸教師の史文恭《しぶんきよう》と、副教師の蘇定《そてい》というのがおります。やつらはこの曾《そう》頭市に六七千の軍勢を集めて寨を構え、五十余輛の護送車をつくり、誓いをたてて、梁山泊とは両立できぬ、必ず梁山泊の頭領たちをことごとくひっ捕らえてやるのだといって、われわれに張りあっているのです。例の千里の玉獅子は、いま教師の史文恭にやって乗馬にさせておりますが、もうひとつ我慢のならぬのは、やつのところでは、いいかげんな文句をつくりあげて、町の子供たちにうたわせていることです、それは、
鉄の鈴が鳴り出せば
鬼神さえも胆《きも》ひやす
鉄の囚車に鉄くさり
上にも下にも恐い棘
梁山泊を討ちしずめ
晁蓋捉《とら》えて都へ送り
及時雨をいけどりに
智多星もひっ捕らえ
曾家の五虎の勇名を
世の人に知らしめん(注三)
と、こうなのです」
晁蓋はそれを聞くと、かっとなって、
「ちくしょうめ、なんたる無礼な。自分で出かけて行って、そのちくしょうめをひっ捕らえてくれんことには、誓って山へは帰るまい」
「いや、兄貴は山寨の主《あるじ》、軽々しいまねはなりません。わたしが出かけます」
と宋江がいったが、晁蓋は、
「あんたの功を奪おうというのではない。あんたは何度も山をおりて、いくさに疲れておいでだ。こんどはわたしがかわりに出かける。その次にまた事がおこったら、そのときはあんたに出かけてもらいましょう」
といい、宋江がいくらとめても聞きいれず、晁蓋はいきりたってさっそく五千の軍勢をそろえ、二十人の頭領に加勢をたのんで山をおりた。その他のものは宋公明とともに山寨を守ることになった。
晁蓋がえらんだ二十人の頭領は、林冲《りんちゆう》・呼延灼《こえんしやく》・徐寧《じよねい》・穆弘《ぼくこう》・劉唐《りゆうとう》・張横《ちようおう》・阮小二《げんしようじ》・阮小五《げんしようご》・阮小七《げんしようしち》・楊雄《ようゆう》・石秀《せきしゆう》・孫立《そんりつ》・黄信《こうしん》・杜遷《とせん》・宋万《そうまん》・燕順《えんじゆん》・〓飛《とうひ》・欧鵬《おうほう》・楊林《ようりん》・白勝《はくしよう》で、計二十人の頭領は大軍をひきつれて山をくだり、曾頭市へむかって征途についた。宋江・呉用・公孫勝、およびその他の頭領たちは、麓の金沙灘で壮行の宴を張った。その酒宴の最中、とつぜん一陣の狂風がまきおこって、新たに作った晁蓋の認軍旗の竿をまんなかから吹き折ってしまった。一同はそれを見て、みな愕然とした。呉学究はいさめて、
「これは不祥の兆候です。日を改めて出陣なさったほうがよいでしょう」
といい、宋江も、
「いざ出陣というときに、風に認旗を吹き折られるとは、いくさに不利なしるしです。しばらく様子を見てからやつらを相手になさったほうがよいでしょう」
ととめたが、晁蓋は、
「天然の風や雲が、なんで怪しむにたりよう。この春暖の候に乗じてやつらを捕らえに行かずに、やつらの気勢をあげさせてから兵をすすめたのではおそいのだ。とめないでください。ともかくわたしは出かけるのだから」
宋江はどうしてもとめきれなかった。晁蓋は兵をひきつれて湖を渡って行った。宋江は不安でならず、山寨へもどると、もういちど戴宗に山をおりて様子をさぐりに行かせた。
さて晁蓋は、五千の兵と二十人の頭領をひきつれて曾頭市の近くまで行き、町にむかって陣を構えた。そしてその翌日、まず頭領たちをしたがえて馬で曾頭市の偵察に出かけた。好漢たちが馬をとめて眺めるに、まことに曾頭市は要害堅固な地である。見れば、
週廻す一遭の野水、四囲は三面の高岡。塹辺《ざんぺん》の河港は蛇に似て盤《わだかま》り、濠下の柳林は雨の如く密なり。高きに凭《よ》って遠望すれば、緑陰濃くして人家を見ず。近きに付《つい》て潜窺《せんき》すれば、青影乱れて深く寨柵《さいさく》を蔵《かく》す。村中の壮漢、出来的《いでくるもの》は勇なること金剛に似、田野の小児、生下地《うまれながら》に便《すなわ》ち鬼子の如し。果然是れ鉄壁銅墻《てつぺきどうしよう》、端的に尽《ことごと》く人強く馬壮なり。
晁蓋が頭領たちと眺めていると、とつぜん柳の林から一隊の人馬が飛び出してきた。その数およそ七八百。先頭なるひとりの好漢は、熟銅のかぶとをかぶり、連環のよろいをつけ、点鋼鎗をかまえて、衝陣馬にうちまたがっている。これぞ曾家の第四子曾魁《そうかい》で、大声に叫んでいうよう、「おのれ、国にあだなす梁山泊の盗《ぬす》っ人《と》どもめ。出かけて行ってひっ捕らえ、お上につきだして賞にあずかろうと思っていたら、そっちからおいでなすったとは天のめぐみ。さっさと馬をおりて縄を受けろ。いつまでぐずぐずしておるのか」
晁蓋が大いに怒ってふりむけば、早くも一将が馬をすすめて曾魁にいどみかかって行った。すなわち梁山に義を結んだ当初からの好漢、豹子頭の林冲であった。両者馬を交えてわたりあうこと二十余合におよんだが、勝敗はいずれとも決しなかった。曾魁は二十合余たたかって林冲にかなわぬと見るや、槍をひき馬首を転じ、柳の林へ逃げこんだが、林冲は馬をひきとめて敢て追わなかった。
晁蓋は軍馬をひきつれて陣地にもどり、曾頭市を討ちとる策をはかった。すると林冲のいうには、
「あした、町の入口へおしかけて行ってたたかいをいどみ、相手の様子をさぐって見てから、改めて策をねりましょう」
翌日の明けがた、五千の兵をひきつれて曾頭市の入口の平地に陣をしき、軍鼓を鳴らして喊声をあげると、曾頭市からは砲声がひびき、大軍を繰り出してきて、真一文字にずらりと七人の好漢が立ち並んだ。そのまんなかは都教師《ときようし》の史文恭《しぶんきよう》、その上手には副教師の蘇定《そてい》、下手には曾家の長子曾塗《そうと》、左辺には曾密《そうみつ》と曾魁《そうかい》、右辺には曾昇《そうしよう》と曾索《そうさく》。いずれもみなよろいに全身をかためている。教師の史文恭は弓矢をとり、その乗馬はすなわち千里玉獅子の馬、手にする得物《えもの》は方天《ほうてん》の画戟《がげき》。軍鼓が三度うち鳴らされると、曾家の陣からは数輛の護送車を押し出してきて陣頭に据えた。と、曾塗が敵陣を指さしながらののしった。
「国に背く盗っ人め。この護送車が目にはいらぬか。わが曾家では、きさまたちを殺してしまうようでは好漢とはいえぬのだ。われわれは片っぱしからきさまたちをいけどりにし、護送車に積みこんで東京《とうけい》へ送り、ずたずたにひき裂いてやろうというのだ。きさまたち、いまのうちに降参するがよい。そうすればまたなんとか考えなおしてもやろうぞ」
晁蓋はそれを聞くや大いに怒り、槍をかまえて馬をすすめ、まっしぐらに曾塗に飛びかかって行った。諸将は晁蓋の身にもしものことがあってはと、どっと斬りこんで行き、両軍入り乱れてのたたかいとなった。曾家の軍勢はじりじりと村のほうへ後退して行く。林冲と呼延灼はしかと晁蓋を守りながら、東へ西へと斬りまくったが、やがて林冲は道の勝手が不利なのをさとって、急いでひき返し、兵を収めた。見れば両軍(林冲・呼延灼)ともかなりの兵力を失っている。晁蓋は陣地にひきあげて、しきりに憂慮した。諸将はなぐさめていった。
「兄貴、気を大きく持ってください。あまり心配なさると、身体にさわります。前に宋公明兄貴が出陣されたときも、不利なこともありましたが、結局は勝って帰られました。きょうの混戦では両軍ともかなりの兵力を失いましたが、負けたというわけではなし、なにも気に病まれることはありますまい」
晁蓋はしかし鬱々として陣中にひきこもっていた。それから三日つづけて毎日たたかいをいどんだが、曾頭市のほうからは、ひとりも出てこない。
四日目のこと、とつぜんふたりの僧が、晁蓋の陣へ庇護を求めてきた。兵士が中軍の幕営へつれて行くと、ふたりの僧はひざまずいてうったえた。
「わたくしどもは曾頭市の東の法華寺《ほつけじ》の監寺《かんす》をつとめる僧でございますが、このごろ曾家の五虎が、しきりと寺を荒らしにまいりまして、金銀財帛を強奪し、勝手なふるまいをいたすのでございます。わたくしどもは彼らの出没する場所を承知しておりますので、あなたさまがたにおねがいして、その寨に攻めこんでいただきたいと思いまして、やってまいったのでございます。彼らをたいらげてくださいますなら、寺にとってこんなにありがたいことはございません」
晁蓋はそういわれて大いによろこび、さっそくふたりの僧を請じいれると、酒を出してもてなした。林冲がそれをいさめて、
「兄貴、まに受けてはなりません。なにかたくらみがあるかも知れませんから」
すると僧はいった。
「わたくしは出家の身です、どうしてみだりなことを申しましょう。梁山泊のかたがたは仁義の道を守り、どこへ行っても民を苦しめるようなことは決してしないということをかねてから聞いておりましたので、わざわざおすがりにまいったのでございます。あなたさまをだましにくるなどとは、とんでもないこと。まして曾家のものがこちらさまの大軍に勝てると決まっているわけでもありませんのに、どうしてそのようなお疑いをなされます」
晁蓋もいった。
「兄弟、疑って大事をあやまってはならん。今夜はわたしが自分で出かけて行くとしよう」
「兄貴が出かけるのはおよしください。わたしどもが半分の軍勢で敵の寨を攻めますから、兄貴には外から応援していただきましょう」
と林冲はいったが、晁蓋は、
「わたしが行かなければ、すすんで誰が行くものか。あんたには、半分の軍勢をあずかって外から応援してもらいましょう」
「では、誰をつれて行かれます」
「十人の頭領を選び、二千五百の兵をひきつれて出かけよう。その十人の頭領は、劉唐・阮小二・呼延灼・阮小五・欧鵬・阮小七・燕順・杜遷・宋方、そして白勝だ」
その夜、飯を炊いて腹ごしらえをすませると、馬は鈴をとりはずし、兵士は枚《ばい》(注四)を口にふくみ、暗夜に道を急ぎつつ、こっそりとふたりの僧について行った。やがて法華寺に駆けつけて見ると、それは古寺だった。晁蓋は馬をおりて寺のなかへはいったが、雲水たちの姿が見えないので、かのふたりの僧にたずねた。
「こんな大きな寺に、どうしてひとりも雲水がいないのだ」
すると僧のいうには、
「それは、曾家のちくしょうどもに悩まされて、やむを得ずひとりひとり還俗《げんぞく》してしまったのです。あとにはもう長老さまと、何人かの侍者が寺内に住んでいるだけでございます。頭領さま、ひとまずみなさんを休ませてあげてください。夜が更けましたらわたくしがやつらの寨へご案内いたしますから」
「やつの寨はどこなのだ」
「四つの寨がございますが、そのうちの北の寨が曾家兄弟が兵をたむろさせているところです。その寨を打ち破りさえすれば、ほかのはたいしたことはなく、三つの寨はもうそれまでです」
「いつごろ出かけたらよいのか」
「いまは二更(十時)でございますから、三更(十二時)ごろまでお待ちください。そうすればやつらも備えをおこたりましよう」
はじめのうちは曾頭市の町ではきちんきちんと時太鼓を鳴らしていたが、やがて半更《はんこう》(一更は二時間)を告げるのは聞こえたが、点《てん》(一更を五点にわける)の太鼓は途絶えてしまった。すると僧は、
「兵士たちはどうやら寝てしまったようです。出かけましょう」
といい、さきに立って案内した。晁蓋は諸将をしたがえて馬に乗り、兵をひきいて法華寺をあとに、僧について行った。
五里も行くか行かぬかのうちに、暗闇のなかにふたりの僧が見えなくなり、先頭の軍はすすめなくなってしまった。見ればあたりは道がいりくんでいて、どう行ってよいのかわからず、人家も見えない。兵士たちはあわてて晁蓋に知らせた。呼延灼は急いでもとの道をもどらせたが、百歩を行かぬうちに、とつぜん、あたりからいっせいに金鼓が鳴りだし、どっと喊声がわきおこり、見わたすかぎり松明《たいまつ》の火である。晁蓋と諸将は兵をひきつれ血路を斬りひらいて逃げ出した。ようやくふたつほど道を曲がったとき、一隊の軍勢が飛び出して、真正面から乱れ矢をあびせかけた。はからずもその一本が晁蓋の顔にあたり、晁蓋はまっさかさまに馬から落ちた。が、呼延灼と燕順のふたりが死力をつくして斬りこんで行ったので、うしろの劉唐と白勝が晁蓋を救って馬に乗せ、村を斬りぬけて行くことができた。村の入口には林冲らが兵をひきつれて応援に駆けつけ、かろうじて敵を防ぎとめた。両軍は入り乱れてそのまま夜明けまでたたかいつづけたあげく、それぞれの陣地へひきあげた。
林冲がもどって全軍を調べてみると、阮氏三兄弟・宋万・杜遷は水中にのがれていのちをひろい、ひきつれて行った二千五百の兵は、わずかに一千二三百人が生き残っただけであった。彼らはみな欧鵬に従って幕営にもどってきた。頭領たちが晁蓋を見舞いに行って見ると、例の矢はちょうど頬に刺さり、それを急に引き抜いたので出血のため気を失っていた。見れば矢には史文恭と書いてあった。林冲は金鎗薬《きんそうやく》を持ってこさせて手あてをしたが、その矢は毒矢だったので、晁蓋は矢の毒にあたってすでに口もきけなくなっていた。林冲は晁蓋を車にのせ、さっそく阮氏三兄弟と杜遷と宋万とに、さきに山寨へ送って行かせた。その他の十五人の頭領たちは陣中で協議をして、
「こんど晁天王兄貴が下山して思いがけない災難に遭われたのは、認旗が風に吹き折られたあの予兆があたったのだ。われわれも、このうえは兵を収めてひきあげるべきだろう。曾頭市は急には攻め落とせるものではない」
と話しあったが、呼延灼は、
「いや、宋公明兄貴からの命令を待つべきだ。軍を返すのはそれからのことだ」
という。その日、頭領たちはすっかりふさぎこみ、兵士たちもまったく戦意を失ってしまって、みな山へ帰ることばかり考えていた。
その夜の二更ごろのことである。外はまだ明るかった。十五人の頭領はみな陣中にひきこもってふさぎこんでいた。まさに、蛇は頭なくしては行かず、鳥は翼なくしては飛ばずで、ただ嘆息するばかりでどうすることもできずにいた。と、とつぜん、物見の兵があわただしく駆けこんできて、
「前方から、四五手にわかれた軍勢がおしよせてきます。松明の数はかぞえきれません」
と知らせた。林冲らはそれを聞くと、いっせいに馬に乗った。三方の山の上にはみな松明が輝き、真昼のように明るく照らしつけるなかを、四方から喊声をあげて陣地へおしよせてくる。林冲は頭領たちをひきつれ、抗戦することはやめて陣地を捨て、いっせいに馬首を転じて逃げた。曾家の軍勢はそれを追撃した。両軍はたたかっては走り、走ってはたたかった。五六十里も逃げて、ようやく危機を脱したが、兵を点検してみると、またもや六七百人を失っていた。かくて大敗を喫し、急いでもときた道を梁山泊へひき返して行ったが、その中ほどまで行ったとき、ちょうど戴宗と行きあった。戴宗は、ひとまず軍をひきつれて山寨へ帰り改めて良策を講ずべしという、頭領たちに対する軍令をあずかっていた。
諸将は命を受け、軍をひきいて水滸の山寨に帰り、一同で晁頭領を見舞ったが、すでにもう米も水も喉を通らなかった。飲食はすすまず、全身にむくみがきている。宋江らは病床につきそって泣きながら、膏薬を貼ったり飲み薬を飲ませたりした。他の頭領たちも、部屋につききりで見守っていた。その夜の三更ごろ、晁蓋の容態はいよいよ重くなり、首をねじむけて宋江を見ながら、
「あんたもお大事にな。わしを射ったやつを射ち取ってくれたものがいたら、そのものを梁山泊の主《あるじ》にしてもらいたい」
といい残すと、目をつむってこときれた。
宋江は晁蓋が死んでしまったのを見ると、親を亡くしたかのように哭《な》きたおれた。頭領たちは宋江を助けおこして、あとの始末をとりさばくようにたのんだ。呉用と公孫勝も、
「兄貴、いくら嘆いてもしかたのないことです。生死は人のさだめです。そんなに悲しむのはやめて、ともかくあとの大事をとりさばいてください」
と、いさめた。宋江は涙をぬぐって、なきがらを香湯で清め、衣服や頭巾《ずきん》を着せて棺に納め、聚義庁に安置した。頭領たちはみな哀哭の礼をささげ、また内棺・外槨《がいかく》(棺の外郭《そとばこ》)をつくって、吉日をえらんで正庁に納め移し、霊幃《れいい》(垂れ幕)を張り、まんなかに神主《しんしゆ》(位牌)を安置した。それには、
梁山泊主天王晁公神主
と書かれた。山寨の頭領は宋公明以下みな喪服をつけ、小頭目および手下のものたちは孝頭巾《こうずきん》(白い喪章をつけた頭巾)をかぶった。そして、誓いの矢を霊前に供え、寨内には長旛《ちようはん》(葬儀の旗)を立て、近くの寺から僧侶を招いて法要をいとなみ、晁天王を追善した。
宋江は毎日、一同をしたがえて霊前に哀哭するばかりで、すこしも山寨の事務をとろうとはしなかった。林冲は公孫勝、呉用、および他の頭領たちにはかり、宋公明を梁山泊の主に立てて一同その号令にしたがおうと決めた。
その翌朝、香花灯燭をととのえ、林冲が主唱して、一同、宋公明を招いて聚義庁に集まり、呉用と林冲が話を切り出した。
「兄貴、どうかお聞きください。国一日も君なかるべからず、家一日も主なかるべからず、と申しますが、晁頭領が亡くなられたからには、山寨でも主のないままではすまされません。世間の人たちはみな兄貴の名を知っております。あしたは吉日ですから、兄貴を山寨の主に仰いで、われわれ一同ご命令にしたがいたいと思います」
すると宋江のいうには、
「晁天王は臨終に、こういい残されたのです、史文恭を討ち取ったものを梁山泊の主に立てるようにと。このことは頭領がたはみなご承知のはずです。亡くなられたばかりだというのに、それをお忘れになったわけではありますまい。それにまだ仇を討って恨みをすすいだわけでもないのに、どうしてその位につけましょう」
呉学究はさらにすすめていった。
「晁天王はそういわれましたし、まだ仇を討ち取ってもおりませんが、しかし、山寨では一日も主なしではすまされないのです。兄貴がなってくださらなければ、ほかに誰もこの位につけるものはありません。寨の人馬を統轄していくこともできません。遺言はおっしゃるとおりですが、ひとまず兄貴にこの位についていただいて、あとでまた改めて相談することにいたしましょう」
宋江は、
「なるほど軍師のいわれるとおりです。では今のところ、かりにわたしがその位につくことにして、後日仇を討って恨みを晴らしたときには、史文恭を捕らえたものが、誰であれ必ずこの位につくということにしましょう」
すると横から黒旋風《こくせんぷう》の李逵《りき》が大声でいった。
「兄貴、梁山泊の主どころか、大宋の皇帝になったって立派なもんですよ」
「この黒ん坊め、またたわけたことをいう。そんなでたらめを二度といってみろ、まずきさまの舌を切り取ってやるから」
宋江がそういって叱りつけると、李逵は、
「兄貴に村の組頭になれといったわけじゃなし、兄貴を皇帝にしようというのに、なんだっておれの舌をちょん切ろうというのです」
呉学究は、
「こいつは尊卑のけじめのわからんやつなのです。彼を相手になさらずに、兄貴、どうか大事のほうをおきめねがいます」
宋江は香を焚いた。それがすむと仮に主の位について第一の椅子に坐った。その上手《かみて》には軍師の呉用、下手《しもて》には公孫勝。左のならびには林冲が頭《かしら》になり、右のならびには呼延灼が頭となった。一同が礼をして両側に坐ると、宋江はいった。
「わたしがこのたび仮にこの位につくことになった。ついてはみなさんのご援助により、心をひとつに、互いに手足となり、一同で天に替《かわ》って道をおこなっていこう。いまや山寨は、以前とちがって多数の人馬を擁するようになったので、寨を六つにわけてみなさんに守っていただきたい。聚義庁はきょうから忠義堂と名を改め、その前後左右に四つの陸寨を、うしろの山にはふたつの小寨を、前の山には三つの関門を、山の下にはひとつの水寨を、二ヵ所の船着き場にはふたつの小寨を設けることにする。そしてきょうから、みなさんにそれぞれ分担して守っていただきたい。忠義堂ではわたしが仮に第一の席につき、第二位は軍師の呉学究、第三位は法師の公孫勝、第四位は花栄、第五位は秦明、第六位は呂方、第七位は郭盛。左軍の寨は、第一位が林冲、第二位は劉唐、第三位は史進、第四位は楊雄、第五位は石秀、第六位は杜遷、第七位は宋万。右軍の寨は、第一位が呼延灼、第二位は朱仝、第三位は戴宗、第四位は穆弘、第五位は李逵、第六位は欧鵬、第七位は穆春。前軍の寨は、第一位が李応、第二位は徐寧、第三位は魯智深、第四位は武松、第五位は楊志、第六位は馬麟、第七位は施恩。後軍の寨は、第一位が柴進、第二位は孫立、第三位は黄信、第四位は韓滔、第五位は彰〓、第六位は〓飛《とうひ》、第七位は薛永《せつえい》。水軍の寨は、第一位が李俊、第二位は阮小二、第三位は阮小五、第四位は阮小七、第五位は張横、第六位は張順、第七位は童威《どうい》、第八位は童猛《どうもう》。以上、六つの寨に計四十三人の頭領。山の表側の第一関門は雷横と樊瑞、第二の関門は解珍と解宝、第三の関門は項充と李袞。金沙灘《きんさたん》の小寨は、燕順・鄭天寿《ていてんじゆ》・孔明・孔亮の四人、鴨嘴灘《おうしたん》の小寨は、李忠・周通・鄒淵《すうえん》・鄒潤《すうじゆん》の四人。山の裏手のふたつの小寨は、左のほうの陸寨を王矮虎・一丈青《いちじようせい》・曹正、右のほうの陸寨を朱武・陳達・楊春と以上六人で守るよう。忠義堂の左のならびの部屋は、文書を掌《つかさど》る蕭譲《しようじよう》、賞罰を掌る裴宣《はいせん》、印信(印鑑)を掌る金大堅《きんたいけん》、銭糧の出納を掌る〓敬《しようけい》。右のならびの部屋は、砲を管る凌振、船の製造を管る孟康、衣甲の製造を管る侯健、城垣《じようえん》の修築を管る陶宗旺。忠義堂のうしろのふたつの脇部屋は、内むきのことを担当するものたちで、家屋の建築を監督する李雲、鍛冶の総監督の湯隆《とうりゆう》、醸造を監督する朱富《しゆふう》、宴席を受け持つ宋清《そうせい》、什器を管理する杜興《とこう》と白勝。山麓の四路の見張りの居酒屋は、もとどおり朱貴・楽和・時遷・李立・孫新・顧大嫂・張青・孫二娘で、わりあてのまま。北方へ馬を買いに行く係りは楊林・石勇・段景住《だんけいじゆう》。以上のとおり、持ち場を決めたから、おのおのその任務を守って、まちがいのないようにしてもらいたい」
かくて梁山泊の水滸寨では、大小の頭領たちは、宋公明が寨主となってからはみな大いによろこんでその命にしたがった。
ある日、宋江は一同を集めてはかった。
「晁蓋の仇を討ちに、兵をおこして曾頭市を攻めようと思うのだが」
すると軍師の呉用が、
「兄貴、みんな喪中なのですから、しばらくはおこないをつつしむべきです。いくさをしようとなさるのなら、あと百日待ってから兵をおこせばよろしいでしょう」
といさめた。宋江は呉学究の言葉にしたがって山寨にとじこもり、毎日法要をいとなんで、ひたすらに晁蓋の追善供養をした。
ある日、ひとりの僧を招いた。法名を大円《だいえん》といい、北京《ほつけい》大名府城内の竜華寺《りゆうげじ》の僧であったが、行脚《あんぎや》に出て済寧《さいねい》に行く途中、梁山泊を通りかかったので、招いて寨内で法要をいとなんだのであった。お斎《とき》をもてなしながら雑談をしているとき、宋江が北京の風土や人物のことをたずねると、大円和尚は、
「頭領が河北の玉麒麟《ぎよくきりん》という名をご存じないとは、どうしてでしょう」
といった。宋江と呉用はそういわれて、はっと思い出し、
「いやどうも、まだ老いぼれたわけでもないのに、つい、忘れておりました。北京の城内に盧《ろ》大員外という人がいましたな。名は二字名で俊義《しゆんぎ》、あだ名を玉麒麟といって、河北の三絶《さんぜつ》(傑物)、代々北京の人で、すばらしく腕が立ち、棍棒をとっては天下無双とか。もし梁山泊にこの人を迎えることができれば、官軍の討伐もこわくなく、寄せ手のくることを気にすることもないというもの」
すると呉用が笑いながら、
「兄貴、どうしてそんな気の弱いことをおっしゃるんです。あの人を仲間にいれることなど造作もないことです」
「だが彼は北京大名府きっての長者。盗賊の仲間入りをさせることはむずかしいでしょう」
「わたしはずっと心にかけていたのですが、ここしばらくつい忘れておりました。わたしがちょっと計略をつかって、さっそく当人をここへやってこさせましょう」
「あなたのことをみなが智多星というが、なるほど名は空《あだ》には伝わらぬもの。だが軍師、どういう計略をつかって当人を山へおびき寄せるのです」
呉用はあわてずさわがず、二本の指をかさねて、その計略を話し出したのであるが、このことから、やがて、盧俊義《ろしゆんぎ》は錦簇珠囲《きんそうしゆい》の安きをすてて、竜潭虎穴《りゆうたんこけつ》の中に飛びこみ、かくて一人《いちにん》、水滸に帰せしがために、百姓《ひやくせい》をして兵戈《へいか》を受けしむるということになるのであるが、はてさて、呉学究はいかにして盧俊義を山におびき寄せるか。それは次回で。
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一・二 天地風雲、竜虎鳥蛇 古の陣名で、天・地・風・雲、それぞれが一陣の名である。竜・虎・鳥・蛇も同じで、あわせて八陣からなる。
三 鉄の鈴が鳴り出せば…… このうたは意訳したが、原文を書きおろせば、
揺動す鉄鐶鈴《てつかんれい》、神鬼尽《ことごと》く皆驚く。鉄車並《ならび》に鉄鎖、上下に尖釘《せんてい》有り。梁山を掃蕩して水泊を清め、晁蓋を勦除《そうじよ》して東京に上さん。及時雨を生擒《せいきん》し、智多星を活捉《かつそく》せん。曾家五虎を生ず、天下尽《ことごと》く名を聞かしめん。
四 枚 夜、敵を攻めるとき、声を立てぬように口にふくむ箸状のもの。
第六十一回
呉用《ごよう》 智もて玉麒麟《ぎよくきりん》を賺《だま》し
張順《ちようじゆん》 夜金沙渡《きんさと》を鬧《さわ》がす
さて、竜華寺の僧が、三絶《さんぜつ》たる玉麒麟《ぎよくきりん》の盧俊義《ろしゆんぎ》の名を宋江にいったところ、呉用が、
「わたしは、この三寸不爛《さんずんふらん》の舌をもって、ただちに北京へ行って盧俊義に説き、山へのぼらせるようにすることは、袋のなかの物をさぐり出すようになんの造作もないことですが、それには誰か荒らっぽく胆っ玉のすわったものに、いっしょに行ってもらいたいのです」
というと、すかさず黒旋風の李逵《りき》が大声をあげた。
「軍師の兄貴、おいらがいっしょに行きましょう」
宋江がそれを制して、
「あんたは居残ってくれ。もしもこれが、風上で火をつけ風下で人を殺し、人家を掠《かす》め州府を討つというような場合なら、もちろんあんたにたのむが、こんどのは忍びのものの仕事だ。あんたの気質じゃまずいから、行ってはいけない」
「あんたたちはみな、おいらの風采がごついので、おいらをきらって行かせないのだろう」
「きらってじゃない。このごろ大名府には捕り手の役人どもがうようよしていて、もし見破られでもしたら、むざむざいのちを落とすことになるからだ」
「かまうもんか。おいらはどうしても行きたいのだ」
と李逵はきかない。呉用が、
「それじゃ、わたしのいう三つのことをきくなら、つれて行こう。きけないなら、寨に残ってもらうまでだ」
「三つはおろか、三十だってききますよ」
「そのひとつは、あんたの酒癖は烈火のようだから、きょうからさっそく酒を絶って、帰ってくるまでは飲まぬこと。第二には、道中では道童(道士の召使い)の身なりをして、わたしにつきそい、わたしのいうことには決して逆らわぬこと。第三には、これはいちばんむずかしいことだが、あすからは絶対にものをいわずに、おしのふりをしとおすこと。この三つをきくなら、つれて行こう」
「酒を飲まぬことと道童になることはよいが、この口をふさいでしまって、ものをいわないなんてことは、あんまり殺生ですよ」
「あんたが口をきいたら、たちまち面倒をひきおこすからな」
「いいとも。口のなかに一文の銅銭をふくんで行けばよかろう」
宋江が、
「兄弟、どうしても行くのなら、もしものことがおこっても、わたしを恨むでないぞ」
というと、
「なに、なに、この二梃の板斧《はんぷ》を持って行くからには、すくなくともやつらの千百個ぐらいの糞頭はちょん切ってやれますよ」
頭領たちはどっと笑った。とてもひきとめられなかったのである。さっそくその日、忠義堂で送別の宴が張られ、夜になるとそれぞれひきとって休んだ。翌日の早朝、呉用は一包みの荷物をとりまとめ、李逵に道童の姿をさせ、荷物をかつがせて山をおりた。宋江は頭領たちとともに金沙灘で見送ったが、呉用に、よく気をつけて李逵にまちがいをさせないようにと再三たのんだ。呉用と李逵は一同に別れを告げて山を去って行き、宋江らは寨にもどった。
さて呉用と李逵のふたりは北京をめざして四五日旅をつづけたが、毎日、日が暮れると宿をとって泊まり、夜が明けると食事をして出かけるというその道中で、呉用は李逵にさんざんてこずらされた。やがて幾日かして、北京の城外の宿屋に着いて泊まったが、その夜、李逵は台所へ飯ごしらえに行って、宿の若いものを殴り、血を吐かせてしまったのである。若いものは部屋へやってきて呉用に訴えた。
「おまえさんのとこのおしの道童は、ずいぶんひどいやつですよ。わたしが火をたくのがすこしおくれたら、いきなりわたしをぶん殴って血を吐かせたのです」
呉用はあわてて詫びをいい、銅銭十数貫をやって養生させ、李逵を叱ったが、この話はそれまでとして、一晩たってその翌日、明けがたに起きて飯ごしらえをし、食事をすませると、呉用は李逵を部屋に呼んでいいつけた。
「あんたときたら、むりやりについてきながら、道中ずっとわたしを困らせどおしだったじゃないか。きょうは城内にはいるが、じゅうぶんに気をつけて、わたしのいのちが飛ぶようなことはしでかさないようにしてもらいたい」
「どうも、相すみません」
「そこで、あんたとのあいだに暗号をとりきめておこう。わたしが首をふったら、あんたはすこしも動いてはいけないよ」
李逵は承知した。
ふたりは宿屋で身なりをととのえて城内へ出かけることにした。すなわち、呉用は黒いちぢみの紗の眉深《まぶか》な頭巾をかぶり、黒い縁《ふち》どりの白絹の道服をまとい、五色の糸の組紐をしめ、先の四角ばった黒い木綿の履《くつ》をはき、黄金に見まがうばかりの熟鋼の鈴杵《れいしよ》を持ち、李逵はばさばさした赤毛を梳《す》いて小さなふたつの〓髻《あげまき》に結い、黒い虎のような体に粗末な木綿の上着を着、すばしこい熊のような腰にまじり色の組紐をしめ、岩乗《がんじよう》な靴をはき、身の丈《たけ》よりも長い棒をかつぎ、その棒に、
講命談天(運命判断)
卦金《かきん》一両(見料一両)
と書いた紙の看板をぶらさげた。
呉用と李逵のふたりは、身なりをととのえると、部屋の戸に鍵をかけて宿を出、北京城の南門へとむかった。一里とは行かぬうちに早くも城門が見えたが、さすがに北京はたいしたもので、見れば、
城高く地険《けん》に、塹闊《ざんひろ》く濠《ごう》深し。一週迴(まわりには)鹿角《ろくかく》(さかもぎ)交加し、四下裏(あたりには)排叉《はいさ》(矢来)密布す。鼓楼《ころう》雄壮にして、繽紛《ひんぷん》たり雑綵《ざつさい》の旗旛《きはん》。〓道《ちようどう》(城壁の上の姫垣)坦平にして、簇擺《そうはい》す刀鎗剣戟。銭糧浩大にして、人物繁華なり。東西の院(妓楼)には鼓楽《こがく》天に喧《かまびす》しく、南北の店(商店)には貨財地に満つ。千員の猛将層城《そうじよう》を統《す》べ、百万の黎民《れいみん》上国に居《きよ》す。
そのころ、天下各地に盗賊がはびこっていたので、各州・各府県ではそれぞれ武力で防備していたが、特にこの北京は河北第一の土地であり、さらにまた梁中書が大軍を擁して治めていたので、その備えは十分であった。
ところで、呉用と李逵のふたりが悠々と城門のところまでやって行くと、およそ四五十人の門衛の兵士が、ひとりの城門あずかりの役人をとりかこんでそこにひかえていたので、呉用はその前へ出て行って礼をした。すると兵士がたずねた。
「おまえさんはなんだね」
「わたくしは姓は張《ちよう》、名は用《よう》と申し、この道童は李《り》というものです。売卜《ぼくぼく》を業として世間をわたりあるいておりまして、このたびご当地へ運命判断をいたしにまいりましたので」
と呉用は、贋《にせ》の文引《ぶんいん》(通行証)をとり出して兵士に見せた。兵士たちは、
「この道童の眼つきときたら、まるで盗賊のようじゃないか」
といった。李逵はそれを聞くと、あばれだしそうになったが、呉用があわてて首をふったので神妙にした。呉用はすすみ出て門衛の兵士たちに詫びて、
「じつはこうなのです。この道童はつんぼのうえにおしで、ばか力だけは強いのです。家生《かせい》(家つきの奴僕)の子なもので、しかたなしにつれ歩いておりますが、こいつ、まるでものの道理がわかりません。ご無礼の段はどうかおゆるしくださいますよう」
と、挨拶をして通りぬけた。李逵はそのあとから、ふらりふらりと町の中心へむかってついて行く。呉用は手に持った鈴杵を振りながら四句の口上をとなえた。
甘羅《かんら》は早稲《わ せ》で子牙《しが》はおくて(注一)
彭祖《ほうそ》ながいき顔回《がんかい》わかじに(注二)
范丹《はんたん》びんぼう石崇《せきすう》かねもち(注三)
持って生まれたうんめいさ(注四)
そして呉用は、
「つまりは、時じゃ、運じゃ。命《めい》じゃ。生死・貴賤を占いますぞ。身のゆくすえを知りたいおかたは、まず銀一両をお出しなされ」
といい、また鈴杵をうち振る。
北京城内の子供ら五六十人ばかりが、そのあとにくっついて、はやしたてた。やがて盧《ろ》員外の質屋の店さきまで行くと、呉用は自分で歌っては自分で笑いながら行ったりきたりした。子供たちもわいわいとさわいだ。
盧員外はそのとき店の間《ま》で、番頭たちが質物の出し入れをするのを見ていたが、通りのほうがさわがしいので店のものにきいてみた。
「通りがばかにさわがしいが、どうしたのだ」
店のものは、
「旦那さま、全くばかばかしいことで。よそからやってきた易者が、街で占いの客よせをしているのですが、その見料《けんりよう》が銀一両だというのです。誰がそんなに出すものですか。お供の道童がいるのですが、そいつがまた気味のわるい顔をしていて、そのあるきぶりが奇妙なものですから、子供たちがあとにくっついてはやしているのです」
「大きなことをいうからには、学《がく》もあるにちがいない。おまえ、呼んできてくれんか」
店のものは急いで出て行って、
「先生、旦那さまがお呼びだよ」
と声をかけた。呉用は、
「どなたのお呼びじゃ」
「盧員外さまのお呼びだよ」
呉用は道童をつれて、そのあとについて行き、簾をあげて表の間へはいって行ったが、李逵は鵝項椅《がこうい》(鵝鳥のくび形の椅子)に掛けさせて待たせておいた。呉用はなかへ通って行って盧員外を見たが、その風采いかにといえば、ここに満庭芳《まんていほう》(曲の名)のうたがあっていう。
目は双瞳《そうどう》を炯《あきら》かにし、眉は八字に分《わか》る。身躯九尺、銀の如し。威風凜々として、儀表は天神に似たり。一条の棍棒を慣れ使い、護身の竜のごと絶技倫《くらぶ》る無し。京城内に家は清白を伝え。積祖(代々)富豪の門なり。殺場(戦場)敵に臨む処、万馬を衝開《しようかい》し千軍を掃退《そうたい》す。更に忠肝《ちゆうかん》を貫《つらぬ》き、壮気雲を凌《しの》ぐ。慷慨財《ざい》を疏《うとん》じて義《ぎ》に仗《よ》り、英名を論ぜられて乾坤《けんこん》に播満す。盧員外双名は俊義、綽号は玉麒麟《ぎよくきりん》。
そのとき呉用がすすみ出て礼をすると、盧俊義は欠身《けつしん》(敬意を示すため身を直立させる)の礼を返して、
「先生、ご郷里はどちらで。お名前はなんと申されます」
「わたしは、姓は張、名は用、みずから談天口《だんてんこう》と号し、山東のものです。皇極先天数《こうきよくせんてんすう》(運命)を判断して生死貴賤を占います。見料は銀一両をちょうだいいたします」
盧俊義は奥の小部屋に請じ、主客それぞれの席につき、お茶の接待をした。それがすむと店のものに銀一両を持ってこさせて謝礼としてさし出し、
「わたしの運命をみていただきましょう」
「では、生年月日をうかがって、占いましょう」
呉用がそういうと、盧俊義は、
「先生、君子は災《わざわい》を問うて福《ふく》を問わずとか。わたしの資産のことはおっしゃらずに、ただ、目下の進退いかんを占っていただきたいのです。わたしは今年三十二歳、甲子《きのえね》の年、乙丑《きのとうし》の月、丙寅《ひのえとら》の日、丁卯《ひのとう》の時の生まれです」
呉用は鉄の算木《さんぎ》を取り出して机の上にならべ、ひとしきり占ってみたのち、算木を取りあげて机をたたき、大声で叫んだ。
「これはおかしい」
盧俊義はおどろいてたずねた。
「わたしの運命の吉凶はどうなので」
「員外どの、もしもおとがめでなければ、ありのままを申しましょう」
「迷えるもののために道をお示しくださればよいのです。なになりとおっしゃってください」
「員外どの、あなたにはここ百日以内に必ず血光《けつこう》の災(剣難)があるでしょう。財産は保つことができず、刀剣のもとに落命なさるのです」
盧俊義は笑って、
「先生、それはまちがいです。わたしは北京に生まれて富豪の家に育ち、先祖に法を犯した男もなく、親族に再婚した女もありません。それにまたわたしは万事をつつしんで道にもとったことはせず、不義の財を取ったこともありません。血光の災などのあるはずはないでしょう」
すると、呉用は顔色を変じ、急いで謝礼の銀を突き返し、立ちあがって出て行きながら、嘆いた。
「いずこもみな阿諛便佞《あゆべんねい》を聞きたいものばかりだ。仕方がない。はっきりと安全な道を教えてやれば、その忠言を悪言とみなすのだ。お暇するとしよう」
「先生、まあお静まりください。さっきはわざと冗談をいってみたにすぎません。どうかお教えください」
「はばからずに申しまして、失礼いたしました」
「承りましょう。つつみなくおっしゃってください」
「員外どのの運勢は全体に好運にめぐまれていますが、ことしは星まわりがわるく、悪い時期にあたっていて、いまから百日以内に首と胴とが別々になることとなっております。これは持って生まれた定めでいたしかたがありません」
「避けることはできないでしょうか」
呉用はふたたび鉄の算木を取り、ひとしきり卦をくってから、員外のほうをふりむいて、
「東南方、つまり巽《たつみ》の地を一千里むこうへ行かれるならば、この大難をのがれることができましょう。多少おそろしい目にはあわれますが、お身体には別状はありません」
「もしこの難をのがれることができましたら、十分にお礼いたします」
「あなたの運勢の四句の占い歌があります。お教えいたしますから、壁にお書きとめください。後日、あたりましたとき、わたしの確かさがおわかりになるでしょう」
盧俊義は筆と硯を持ってこさせて、白壁に書きつけた。呉用が口ずさんだ四句の歌は、
蘆花叢裏一扁舟
俊傑俄従此地遊
義士若能知此理
反躬逃難可無憂(注五)
蘆花叢裏一扁の舟
俊傑俄《にわか》に此の地より遊ぶ
義士若《も》し能《よ》く此の理を知らば
躬《み》に反《かえり》み難を逃《のが》れて憂《うれい》無し
そのとき、盧俊義が書きおわると、呉用は算木を片付け、一礼して出て行こうとした。盧俊義はひきとめて、
「先生、ごゆっくりなさって、お昼をすませてからお帰りください」
といったが、呉用は、
「ご厚意はありがとうございますが、商売の占いをやらねばなりませんので、日を改めてまたうかがわせていただきます」
と、すっと立ちあがった。盧俊義は門のところまで送って行った。李逵も棒を持って外へ出た。呉学究は盧俊義にいとまを告げると、李逵をつれてとっとと城外へ出、宿へ帰って宿賃をはらい、荷物や包みをとりまとめ、李逵に占いの看板をかつがせて宿を出た。そして李逵にむかっていった。
「これで大事はすんだ。大急ぎで山寨へ帰り、わなを張り、しかけを設けて、盧俊義を迎えよう。彼はおっつけやってくるから」
呉用と李逵が寨に帰って行ったことはさておき、一方盧俊義は、運勢を占ってもらってからは、心がひきさかれるような思いで落ちついてはいられなかったが、これもまた天〓星《てんこうせい》の集まりあうめぐりあわせだったわけで、占師の言葉を聞いてからはもう一日も我慢ができなくなり、店のものにいいつけて相談したいことがあるからと番頭たちを呼ばせた。まもなくみな集まってきた。そのうちの、財産を管理している頭《かしら》の番頭は、姓を李《り》、名を固《こ》といったが、この李固は、もともと東京《とうけい》のもので、北京へ知人をたよってきたところがめぐり会えず、寒さにこごえて盧員外の門前に倒れていたのだった。盧俊義がそのいのちを助けて家においてやっているうちに、彼がまじめによくはたらき、字も書ければ算盤《そろばん》もできるので、家の事務をやらせ、五年ののちには都管(支配人)にとりたてて内外の財産の管理をみな任せてしまったのである。その下には四五十人の番頭たちを使って、一家じゅうのものから李都管とたてまつられていた。その日、大小の番頭たちがみな李固のあとから奥の間の前へ集まって挨拶をすると、盧員外は、ひとわたり眺めてから、
「あれはどうしてこないのだ」
といった。すると、ちょうどそのとき階段のところへひとりの男がやってきた。見れば、
六尺以上の身材、二十四五の年紀、三牙《みすじ》の口を掩《おお》う細髯《さいぜん》、十分に腰細く膀《かた》闊《ひろ》く、一頂の木瓜心《もくかしん》(頭巾の一種)の、頂《いただき》を〓《つま》める頭巾を帯し、一領の銀糸紗《ぎんしさ》の、団領《だんりよう》(丸襟)の白衫《はくさん》を穿《うが》ち、一条の蜘蛛斑《ちしゆはん》(しぼり)の、紅線の圧腰《あつよう》(腹巻)を繋《か》け、一双の土黄皮の、油膀(艶だし)の夾靴《きようか》を着け、脳後には一対の挨獣《あいじゆう》の金環(獣の咬《か》みあった形の頭巾どめの金具)、護頂《ごちよう》(頭巾の下あて)には一枚の香羅《こうら》の手〓《しゆはく》、腰間には斜《ななめ》に名人の扇《せん》を挿《さしはさ》み、鬢《びん》畔には常に四季の花を簪《かみさ》す。
この男は北京土着のもので、小さいときに両親に死別し、盧員外の家でずっと育てられてきたのだった。その身体が雪か練絹《ねりぎぬ》のような白い肌なので、盧俊義はさる名手の刺青師をたのんで彼の全身に刺青をほらせたが、それはまるで玉亭の柱に翡翠《ひすい》をちりばめたようで、ほりものくらべをすれば、なにびとも彼にかなうものはなかった。刺青が見事なだけでなく、音曲も歌舞も、また拆白道字《たくはくどうじ》(注六)や頂真続麻《ちようしんぞくま》(注七)なども、なんでもできないものはなく、その上、各地の方言も話せればいろんな商売人たちの隠語も知っていた。さらにまた、武芸の腕もなみなみではなく、一張の川弩《せんど》(四川の弓)にただ三本の短箭《たんせん》を持って城外へ猟に行くのであるが、決して無駄矢を放つことはなく、射れば必ず獲物を落とし、夕方城内に帰ってくるときには、すくなくとも百羽あまりの小鳥を取ってくるのだった。弓くらべとなると、その賞品はすべて彼の手に落ちた。なおまた彼はたいした利口もので、一を聞けば十をさとるという具合。この男、姓は燕《えん》といい、兄弟順は一番目、本名は一字名で青《せい》といったが、北京の城内の人々は彼のことを浪子《ろうし》の燕青と呼びならわしていた。かつて沁園春《しんえんしゆん》(曲の名)のうたで燕青をほめたものがあったが、それは、
唇は朱を塗れるが若《ごと》く、睛《ひとみ》は漆《うるし》を点ぜるが如く、面は瓊《たま》を堆《つ》めるに似たり。人に出ずるの英武、凌雲《りよううん》の志気《しき》有り。資稟《しりん》は聡明、儀表は天然に磊落《らいらく》、梁山上に端的に能を誇る。伊《い》州の古調、唱い出す梁《はり》を遶《めぐ》る声、果然是れ藝苑の専精、風月叢中第一の名。聴くならく鼓板《こはん》は雲に喧《かまびす》しく、笙声《しようせい》は瞭亮《りようりよう》として幽情を暢叙《ちようじよ》するを。棍棒は参差《しんし》として、拳を〓《う》ち脚を飛ばし、四百の軍州到る処驚く。人都《すべ》て羨む英雄の領袖、浪子の燕青。
そもそもこの燕青は盧俊義の家の腹心であった。彼も奥の間に出てきて挨拶をすると、李固は左側、燕青は右側と、両側にひかえた。盧俊義は話しだした。
「わしはきのう運勢を見てもらったところ、百日以内に血光の災《わざわい》があるとのことで、東南方一千里の外へ出るよりほかその難は避けようがないというのだ。わしは思うに、東南方といえば、泰安州で、そこには東嶽泰山、天斉仁聖帝金殿《てんせいじんせいていきんでん》があって、天下万民の生死災厄のことをつかさどっておられるから、ひとつにはお詣りして罪ほろぼしをし、二つには、このたびの厄災をのがれ、三つには、いささか商《あきな》いもやって他国の風物を楽しんできたいと思うのだ。それで、李固は、太平車(大型の荷車)を十台用意し、それに山東むけの荷を積みこみ、自分も旅の荷をこしらえて、わしといっしょに出かけてもらいたいのだ。燕青には、家のことを見てもらいたい。庫や部屋の鍵はいますぐ李固からもらってくれ。わしは二三日ちゅうに出かけることにする」
すると李固がいった。
「ご主人、それはいけません。諺にも易者のでまかせなどというではありませんか。易者のいいかげんな口上なんかまにうけず、おうちにいらっしゃりさえすれば、なんの心配なことがございましょう」
「いや、わしの運命はそうきまっているのだから、さからわないでくれ。災がおこってからでは、後悔してもおそいのだ」
燕青もいった。
「ご主人、どうかわたしのいうことも聞いてください。山東の泰安州へ行く道すじは、ちょうど梁山泊のあたりを通ります。近年あそこには宋江一味がたてこもって強盗をはたらいておりまして、討伐の官軍も近づくことができないとのことです。お詣りに行かれるのでしたら、世間が落ちついてからになさいませ。きのうのあの易者のでたらめなど、まにお受けになってはなりません。もしかしたら、梁山泊の悪党が陰陽師に変装してご主人をまどわしにきたのかも知れません。わたしがきのう家にいなかったのが残念です。もしおりましたら、二言《こと》三言《こと》であの易者をやっつけて、笑いものにしてやったでしょうに」
「おまえたち、でたらめをいうものじゃない。誰がわしをだましたりなどするものか。梁山泊の賊なんか、なにほどのことがあろう。わしから見れば塵芥《ちりあくた》同然なやつらだ。かえってこっちから出かけて行ってやつらをひっ捕らえてやり、日ごろ鍛えた武芸のほどを天下に知らしめてこそ、まことの大丈夫というものだ」
盧俊義がそういっているところへ、衝立《ついたて》のうしろから女が駆け出してきた。盧員外の妻で、年は二十五歳。姓は賈《か》といい、盧俊義のところへ嫁《とつ》いできてからようやく五年になる。妻の賈氏はいった。
「あなた、さっきからずっとお話をうかがっておりました。むかしから、どこよりも家が安全、と申します。易者のいいかげんな話などまに受けて、立派な家業をすてて危《あや》うい橋をわたり、おそろしいところへ商売にいらっしゃることなんかおよしになってください。このまま家で、心を清く欲を出さずに超然としていらっしゃれば、なんの災難もおこるはずはございません」
「おまえら女ふぜいになにがわかるものか。そんなことはないと思いこむよりも、あると思うほうがよいのだ。むかしから、禍《わざわい》というものは人からいわれたときにはきっとあたるものなのだ。わしはもう肚《はら》をきめているのだ。つべこべいうな」
燕青がまたいった。
「わたしはご主人のおかげで、いささか棒術を習いおぼえました。口はばったいことを申すようですが、わたしにお供をさせてください。途中でもし強盗どもが出てきましても、四五十人ぐらいならやっつけます。李都管を残して家のことを見てもらって、わたしはお供をしましょう」
「わしは商売のことがよくわからんので、李固をつれて行くのだ。あれならよくわかっているから、わしの手間はおおかたはぶける。だから、おまえには残って家のことを見てもらいたいのだ。帳づけはほかにいるのだから、おまえはただおもし役をしてくれればよいのだ」
すると李固が、
「わたしはこのごろ脚気の気味がありまして、長い路を歩くことはとてもできません」
盧俊義はそれを聞くと大いに怒って、
「兵を養うこと千日、用は一朝にあり(兵を千日養うのは一朝の用に立てるため)だ。わしがつれて行こうというのに、なんのかのといいのがれをしやがる。誰でもこれ以上わしにさからうやつは、この拳骨の味を知らせてやるぞ」
李固はびっくりして青くなり、ほかのものも誰ももう口出しをするものはなく、それぞれひきさがってしまった。
李固は、しかたなく我慢をして、旅の荷物をととのえ、十輛の太平車を都合してきて、十人の人夫と四五十頭の馬を集め、荷物を車に積み、商いの荷をくくりつけて用意をととのえた。盧俊義も身支度をした。かくて三日目に、神福《しんふく》(神前に供える紙馬や紙銭)を焼き、家中のものみなに心づけを配ってひとりひとりにあれこれいいつけたうえ、その夜、李固に店のものふたりをつけて、すっかり支度をととのえてさきに出かけさせた。李固が出かけて行くとき、盧俊義の妻は車を見ると涙を流してひっこんでしまった。翌日の五更(朝四時)、盧俊義は起きて湯をつかい、新しい着物に着かえ、朝食をすませると、武器を取り出し、奥の間へはいって香をたいて先祖の霊に旅立ちを告げた。そしていよいよ出かけるとき、妻にいいつけた。
「家のことはよくたのんだぞ。おそくても三ヵ月、早ければ四五十日で帰ってくるからな」
「どうか道中はくれぐれも気をつけてくださいませ。いつもお便りをくださいますように」
と賈氏はいった。そのあとで燕青が出てきて挨拶をした。盧俊義は、
「おまえは家にいて、いっさいをとりしきってくれ。色町へ行って騒いだりなどするではないぞ」
「ご主人がこうしてお出かけになりますのに、どうしてなまけたりなどいたしましょう」
盧俊義は棍棒をひっさげて城外へ出て行った。盧俊義の棒術のすばらしさをうたった詩がある。
壁に掛《かか》り崖に懸《かか》って(注八)瑞雪を欺《あざむ》き
天を〓《ささ》え地を柱《ささ》えて狂風を撼《おこ》す
身上に牙爪《がそう》無しと雖然《いえど》も
水を出《い》で山を巴《は》う禿尾《とくび》の竜
李固が待っていて迎えると、盧俊義は、
「おまえは供のものふたりをつれてさきに行き、小ざっぱりした宿屋があったら、さっそく飯ごしらえをして待っているように。そして車や人夫が着いたらすぐ飯を食わせるようにすれば、道が手間どらずにすむというものだ」
李固もやはり棒をひっさげて、ふたりの供のものとさきに出かけた。盧俊義は数人の店のものと、あとから車を宰領して行った。その途中の山水の眺めはすばらしく、道はひろく坂はゆるやかなので、
「家にいたのでは、とてもこんな景色は見られやしない」
とよろこんだ。四十里あまり行くと李固が待っていて小食を出し、それがすむと李固はまたさきに出かけて行った。さらに四五十里行って宿屋に着くと、李固が車や人夫や馬を迎えて泊まらせた。盧俊義は部屋にはいって、棍棒を立てかけ、氈笠《せんりゆう》を掛け、腰刀をはずし、靴下をはきかえなどしたが、宿のことは特にいうほどのこともない。翌日は朝早く起き、飯ごしらえをし、みなで食事をすませると、車や馬の支度をして、また出かけた。それからの道中は、夜は泊まって朝出かけるという、おきまりの旅をつづけたが、何日かして、ある宿屋に泊まって夜明けに出かけようとすると、宿の若いものが盧俊義にむかっていうには、
「旦那さま、ちょっとお耳にいれておきますが、手前どもの店から二十里たらず行ったところで梁山泊の入口にさしかかることになります。山の宋公明大王は、往来の旅の衆を手にかけるようなことはありませんが、こっそりお通りになって、こわい目にあわないようになさるのがよいでしょう」
盧俊義はそれを聞くと、
「ふむ、そうだったか」
といい、店のものに着物の箱を持ってこさせ、錠をあけて、なかからひとつの包みを出し、包みからまた白い絹の旗を四枚とり出した。そして宿の若いものに竹竿《たけざお》を四本もらい、一本に一枚ずつ旗を結びつけたが、その旗にはまるでざる(注九)のような大きな字で、こう書いてあった。
慷慨《こうがい》す北京の盧俊義
遠く貨物を駄して郷地を離る
一心只《ただ》強人《きようじん》を捉《とら》えんと要《ほつ》す
那時方《そのときまさ》に男児の志を表《ひよう》せん
李固ら一同はそれを見て、いっせいにあっとおどろいた。宿の若いものはたずねた。
「旦那さまは山の宋大王のご親類なので?」
「わしは北京の資産家だ。あの賊どもの親類などとはとんでもない。わしは宋江のやつをとっつかまえにやってきたのだ」
「旦那さま、お声が高い。わたしまでまきぞえをくらって、えらいことになります。たとえ旦那さまが一万の軍勢を持っておられても、とても近づけるものではありません」
「何をぬかす。きさまたちはあの賊の一味だろう」
宿の若いものはおろおろしてしまい、車の人夫たちも呆然たるありさま。李固は地面にひざまずいて、
「ご主人、どうかみんなを哀れと思《おぼ》し召して、このいのちのあるままで故郷へ帰らせてくださいますよう。そうしてくだされば、死んでから羅天大〓《らてんたいしよう》(星祭り)をして追善していただくよりもありがたいことです」
盧俊義はどなりつけた。
「きさまにはなにもわからん。きさまたちのような燕雀《えんじやく》(ことり)が鴻鵠《こうこく》(おおとり)に楯つくとはなにごとか。わしは、日ごろ鍛えた腕を振るう機会がまだ一度もなかったが、こんど幸いにそのおりを得たのだ、ここで腕を見せずして、いつまたそのおりがあろうか。あの車につけた袋(注一〇)には上等の麻縄がいっぱい用意してある。あの罰あたりの賊どもがわしにぶっつかってきたら、わしが片っぱしから朴刀でたたきころがしてやるから、おまえたちはそれを縛りあげて車に乗っけるのだ。品物は捨ててもかまわぬから、やつらをひっくくれるように車を用意しておけ。賊の頭《かしら》どもを京師へひきたてて行って褒賞にあずかれば、わしの日ごろの念願は遂げられるのだ。もしおまえたちのうちで尻ごみするやつがおったら、ここでまずそいつを血祭りにあげてやろう」
かくて、先頭に四輛の車をおしたて、その上に四本の絹の旗を挿し、六輛の車がそのあとについてすすんだ。李固をはじめ一同のものは泣く泣く命《めい》にしたがうよりほかなかった。盧俊義は朴刀を取り出して棒のさきにつけ、三ところしっかりとゆわえつけると、車を急がせて梁山泊への道をすすんだ。李固たちが、けわしい山路にさしかかると一歩一歩びくびくしながらすすむのを、盧俊義はひたすら追いたてた。朝出発して、巳牌《しはい》(昼まえ)ごろになったとき、行くてに大きな森が見えた。ひと抱え以上もある大木が鬱蒼と茂っている森である。ちょうどその森のほとりにさしかかったとき、とつぜん口笛がひと声ひびいた。李固とふたりの店のものはふるえあがったが、身をかくすところもない。盧俊義は車を片側へ寄せさせた。人夫たちはみな悲鳴をあげて車の下へかくれる。盧俊義は叱咤した。
「わしが突きころがしたら、おまえたちはそいつを縛るんだぞ」
そのとたんに、森から四五百の賊の手下どもが飛び出してきた。そのうしろで銅鑼が鳴ったかと思うと、さらに四五百の手下どもがあらわれて退路をふさいだ。そのとき森のなかに一発の砲声がとどろき、ひとりの好漢がぱっと躍り出てきた。そのいでたちいかにと見れば、
茜紅《せんこう》(あかね色)の頭巾
金花傾《ななめ》に〓《しなや》かなり
鉄甲鳳〓《てつこうほうかい》(鉄のよろい・鳳《おおとり》のかぶと)
錦衣〓襖《きんいしゆうおう》
血染《けつせん》(赤色)の髭髯《しぜん》
虎威雄暴
大斧《たいふ》一双(二梃の大斧《おおおの》)
人皆嚇倒《かくとう》す
そのとき李逵は二梃の斧を手に、大声で呼ばわった。
「盧員外どの、おしの道童をおぼえておいでか」
盧俊義ははっと思い出して、
「わしはかねてから、きさまたち一味の強盗どもをひっ捕らえてくれようとたくらみ、このたび、わざわざここまで出むいてまいったのだ。宋江のやつに、さっさと山をおりて投降しろといえ。ぐずぐずしておると、たちどころに、きさまたちを片っぱしから殺して、ひとりたりとも生かしてはおかんぞ」
と、どなりつけた。李逵は声をたてて笑いながら、
「員外どの、このたびはまんまとおいらがとこの軍師の妙計にひっかかりましたな。さあ、はやく仲間入りをして頭領の椅子にお坐りなされ」
盧俊義は大いに怒り、朴刀をおっとって李逵に飛びかかって行く。李逵は二挺の斧を振りまわして迎えた。ところが、まだ三合もわたりあわぬうちに、李逵はぱっと飛びのくや、身をひるがえして森のなかへと逃げ出した。盧俊義は朴刀をかまえて追いかける。李逵は木立のあいだをあちらこちらと逃げかくれした。盧俊義がかっとなり、えいっとばかり森のなかへ飛びこんで行くと、李逵は松の茂みのなかに駆けこんで、逃げて行ってしまった。盧俊義があとを追って森のそのあたりまで行って見ると、そこには人影ひとつ見えない。ひき返そうとしたとき、不意に松林のほとりから一群の人々があらわれた。そのなかのひとりが大声で叫んだ。
「員外どの、お逃げなさるな。わしをご存じないか」
盧俊義が見れば、ひとりの肥った和尚が、黒い衣《ころも》をまとい、鉄の禅杖をさかしまにひっさげている。盧俊義はどなりかえした。
「きさまはどこの坊主だ」
魯智深は大声で笑いながら、
「わしは花和尚《かおしよう》の魯智深というものだが、軍師のいいつけで、あんたを山へ迎えにやってきたのだ」
盧俊義はいらいらして、
「糞坊主め、よくもそんな無礼を」
とどなりつけ、朴刀をかまえながら和尚に飛びかかって行った。魯智深は鉄の禅杖を振りまわして迎えた。ところが、三合もわたりあわぬうちに、魯智深は、朴刀をはねのけるなり身をひるがえして逃げ出した。盧俊義はあとを追った。追いかけているところへ、賊の手下どものなかから行者《ぎようじや》の武松が飛び出し、二本の戒刀を振りまわしながらまっしぐらにおそいかかってきた。盧俊義は和尚を追うのをやめて武松を迎え討ったが、またもや三合とわたりあわぬうちに、武松はさっと逃げ出した。盧俊義がはっはと笑って、
「追いはせん。きさまなんか、ものの数ではないわ」
というと、そのとたんに坂のところで、ひとりのものが叫んだ。
「盧員外どの、あんたはまだお気づきでないのか。人は沼に落ちることをおそれ、鉄は炉にいれられることをおそれるということをご存じないはずはなかろう。兄貴が仕掛けた計略にはまりながら、どこへ逃げようとなさるのだ」
「きさまは誰だ」
その男は笑いながら、
「わたしは赤髪鬼の劉唐《りゆうとう》」
「盗《ぬす》っ人《と》め、そこを動くな」
と盧俊義はどなりつけ、朴刀をかまえて劉唐に斬りかかって行った。三合ほどわたりあったとき、横から大声で呼ばわるものがあった。
「好漢、没遮〓《ぼつしやらん》の穆弘ここにあり」
そのとき劉唐と穆弘のふたりは、ともに朴刀で、盧俊義にかかってきた。わたりあっていると、また三合もせぬうちに、うしろに足音が聞こえた。盧俊義は、
「えいっ」
と一喝。劉唐と穆弘が数歩うしろへ跳びのくと、盧俊義は身をひるがえしてうしろの好漢とたたかった。それは撲天〓《はくてんちよう》の李応だった。三人の頭領は丁の字形にとりかこんだ。盧俊義は少しもあわてず、たたかえばたたかうほど勢いをました。奮戦の真最中に、とつぜん山頂で銅鑼の鳴るのが聞こえた。と、三人の頭領はそれぞれ負けたふりをして、いっせいに逃げ出した。盧俊義も全身汗まみれになるほどたたかったので、追うのはやめ、森のほとりへひき返して車や供のものをさがしたが、十輛の車も、人も馬も、すっかり見えなくなっている。盧俊義はそこで高みへのぼって四方を見まわすと、遠くの丘の麓を賊の手下の一群が、車と馬をさきにたて、李固たち一同を数珠つなぎに縛ってあとに従え、銅鑼や太鼓を鳴らしながら松林のなかへひきたてて行くところであった。
盧俊義はそれを見ると、胸を火のように燃えたたせ、怒気を煙のように吹きあがらせながら、朴刀をひっさげてまっしぐらに追いかけて行った。丘の近くまで行くと、とつぜんふたりの好漢があらわれて、
「どこへ行く」
と一喝した。ひとりは美髯公《びぜんこう》の朱仝、ひとりは挿翅虎《そうしこ》の雷横である。盧俊義は見るなり大声でののしった。
「おのれ盗っ人どもめ、車と人馬をさっさと返せ」
朱仝は手でその長い鬚をひねりながら、大声で笑った。
「盧員外どの、あなたはどうしてまだおわかりにならぬのか。われらが軍師の妙計にはまってしまった以上、たとえ肋《あばら》に翅《つばさ》が生えようとも飛び去れるものではありません。さっさと大寨へおいでになって頭領の椅子につかれるがよろしいでしょう」
盧俊義はそれを聞くと大いに怒り、朴刀をかまえてふたりにおどりかかって行った。朱仝と雷横はそれぞれの得物で応戦したが、三合とはわたりあわずに、ふたりは身を返して逃げ出した。
「ひとりを追いかけてやっつけたら、車は取りもどすことができよう」
そう考えて、盧俊義が懸命に坂のところまで追って行くと、ふたりの好漢は見えなくなり、山頂から板《はん》(注一一)を打ち簫《しよう》を吹く音が聞こえてきた。ふり仰いで見ると、風に一面の黄旗がはためき、それには、
替天行道《てんにかわつてみちをおこなう》
の四字が刺〓してあった。そちらへ廻って行って見ると、金箔をほどこした赤い薄絹の傘の下に宋江が立っており、その左には呉用が、右には公孫勝がひかえ、二百人あまりの部下がつき従っていたが、一同は声をそろえて、
「員外どの、その後おかわりはございませんか」
と挨拶した。それを見ると盧員外はいっそう怒り、名前を呼びたてながら山上にむかってののしりちらした。呉用はなだめて、
「員外どの、まあそうお怒りになりませぬよう。宋公明は久しくおん名をおしたい申して、特にわたくしをお屋敷へ参上させ、あなたを山へお迎えして、ごいっしょに、天に替《かわ》って道をおこなおうとしたわけなのです。どうかおとがめくださらぬよう」
だが盧俊義は大いにののしった。
「不埒《ふらち》な盗っ人どもめ、よくもわしをだましおったな」
すると宋江のうしろから小李広の花栄が出てきて、弓をとり矢をつがえ、盧俊義をにらんでどなりつけた。
「盧員外どの、あまり大きな口をたたかぬがよかろう。まずはわたしの弓の腕をお目にかけましょう」
というや否や、さっと射放《いはな》てば、矢は見事に盧俊義のかぶった氈笠の赤い纓《ふさ》に命中した。盧俊義は肝《きも》をひやし、身を返して逃げ出した。山上では軍鼓の音が地をふるわせて鳴り、露靂火《へきれきか》の秦明と豹子頭《ひようしとう》の林冲が、一隊の軍勢をひきつれ、旗をふり喊声をあげつつ山の東のほうから殺到してきた。と見ればまた、双鞭将《そうべんしよう》の呼延灼と金鎗手《きんそうしゆ》の徐寧が、同じく一隊の軍勢をひきつれ、旗をふり喊声をあげつつ山の西のほうから殺到してくる。盧俊義はあわてて逃げ場を失った。はや日は暮れかかり、足は痛むし腹はすくし、あわてては道を選ばずのたとえどおり、山かげの小路へとやみくもに逃げて行った。おりしも黄昏《たそがれ》のころで、煙は遠水《えんすい》に迷い霧は深山《しんざん》をとざし、星月微《かす》かに明らかにして〓莽《そうもう》(草むら)をわかたず、というありさま。逃げて行くうちにたどりついたのは天の果てか地の果てか、やがて鴨嘴灘《おうしたん》のほとりに出てしまった。見渡せば一面に蘆の花の生い茂った茫々たる水面である。盧俊義はそれを見ると、天を仰いで長嘆した。
「人の忠言に耳をかさなかったばかりに、とうとうこんな羽目(注一二)になってしまった」
と思い屈していると、とつぜん蘆の茂みのなかからひとりの漁師が小舟を漕ぎ出してきた。その漁師は小舟をとめて、
「ずいぶん大胆なお人ですな。ここは梁山泊の出入口ですよ、夜の三更にどうしてこんなところへきなさったんで」
と呼んだ。
「道に迷って宿をとりそこねてしまったんだ。助けてくれんか」
「ここを大廻りして行くと町があるのですが、三十里以上も行かないとその道へ出られないし、おまけに道がいりくんでいてとてもわかったものじゃありません。舟で行けばたった四五里のところだが、十貫お出しになれば舟に乗せて行ってあげますよ」
「わしを渡してくれて町で宿がとれたら、もう少し余計にはずもう」
漁師は舟を岸に漕ぎよせて盧俊義を乗せ、鉄の棹《さお》をつかって四五里ほどすすんだ。と、前方の蘆の茂みのなかに櫓の音が聞こえ、一艘の小舟が飛ぶようにやってきた。舟にはふたりの男が乗っていて、前のほうのはすっ裸で棹を持ち、うしろのほうのは櫓をあやつっている。前のほうの男は棹を横たえて田舎歌をうたいだした。
学問するのが性《しよう》にあわず
梁山泊にみこしをすえて
わなをしかけて虎をとり
うま餌をつけて大魚釣る(注一三)
盧俊義はそれを聞くと、びっくりして息をつめた。とまた右のほうの蘆の茂みのなかから、同じくふたりの男が一艘の小丹を漕ぎ出してきた。うしろのはぎいぎいと櫓をあやつり、前のは棹を横たえて、やはり田舎歌をうたっている。その歌は、
生まれついてのならずもの
なにより好きなは人殺し
お金なんぞは欲しくない
つかまえたいのだ玉麟麟(注一四)
盧俊義はそれを聞くと、あっとおどろいた。とまた、まんなかから一艘の小舟が飛ぶように漕ぎ出してきた。船首にはひとりの男が突っ立ち、鉄先《さき》の棹をさかしまに持ちながら、これも田舎歌をうたい出した。
蘆花《ろか》のしげみの一艘の舟
えらいお人のお出ましだ
もしその理《わけ》をご存じなら
あなたしだいで無事息災(注一五)
うたいおわると三艘の舟はいっせいに挨拶をした。まんなかは阮小二、左側は阮小五、右側は阮小七で、三艘の舟はそろって突きすすんできた。盧俊義は歌を聞いて内心うろたえ、自分が泳ぎのできないことを考えて、せきこんで漁師に叫んだ。
「早く舟を岸につけてくれ」
すると漁師は大声で笑いだして、盧俊義にむかい、
「上は青空、下は緑水。潯陽江《じんようこう》に生いたち、梁山泊にやってきて、いつどこでも名前をかくしたことなんぞない、あだ名は混江竜《こんこうりゆう》の李俊《りしゆん》と申すものです。員外どのがまだ降参しないとおっしゃるのなら、おいのちをちょうだいいたしましょう」
盧俊義はあっとばかりにおどろきながら、一喝した。
「それはこっちのやることだ」
と、朴刀をつかんで、李俊の胸をめがけて突きかかって行った。それを見た李俊は、棹をつっぱって逆《さか》とんぼをうち、どぼんと水のなかへ飛びこんだ。船はするする水面をすべり、朴刀は水を突き刺した。そのとき船尾のところに、ひとりの男が水中からもぐり出してきて、
「浪裏白跳《ろうりはくちよう》の張順だ」
と呼ばわり、艫《とも》を抱きかかえ、足で水を蹴って舟をかたむけると、舟はひっくり返って、英雄は水中に落ちた。まさにそれは、鳳を打ち竜を捉えるの計を設けて、天を驚かし地を動かすの人をおとしいれたというもの。さて、盧俊義のいのちはどうなるであろうか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 甘羅は早稲で子牙はおくて 甘羅は戦国の秦の人。秦の宰相呂不韋《りよふい》に仕え、趙に使《つかい》して秦のために五城を割《さ》かせ、その功によって上郷の位にのぼったのが十二歳のときであった。
子牙は周の人。姓は姜《きよう》。太公望《たいこうぼう》のことである。世を避けて渭《い》水のほとりで釣をしていたが、周の文王に厚く礼をもって迎えられて宰相の位についたときは、年すでに七十歳を越えていた。
二 彭祖ながいき顔回わかじに 彭祖は仙人で、上古の帝王〓〓《せんぎよく》の玄孫といい、殷《いん》の末世まで生き、七百歳をすぎてなお若々しかったという。
顔回は孔子の高弟で、高潔な人物であったが、年三十二にして夭逝した。
三 范丹びんぼう石崇かねもち 范丹は後漢の人で、また范冉《ぜん》ともいう。隠士で、幾度か官途に迎えられたがことわり、売卜をして暮らした。その家は壁がなく柱のみで、時には食うに一粒の米もなかったという。
石崇は晋の富豪。第五十六回注二参照。
四 甘羅は早稲で……うんめいさ このうたは意訳したが、原文を読みくだすと
甘羅は発すること早く子牙は遅し
彭祖顔回寿斉《じゆひと》しからず
范丹の貧窮石崇の富
八字生来各《おのおの》時有り
なお八字とは、人の生まれた年・月・日・時を干支《え と》にあわせて見る占い。しばらく後に盧俊義が呉用に対して「甲子の年、乙丑の月、丙寅の日、丁卯の時の生まれ」といい、呉用がその干支の八字によって占うことが見える。
五 蘆花叢裏一扁舟…… この詩は本回の終りにもう一度出てくるが、各句の頭の字を一字ずつ横に読めば「蘆俊義反」(盧俊義謀叛《むほん》す)となる。そのことは次の第六十二回のはじめのほうで説明される。ただし第六十二回の詩は、各句の頭の字が盧俊義反となるほかは、字句はこの詩とことなっている。
六 拆白道字 前注の詩もそのひとつであるが、文字による謎とき遊び(字謎《ツーミー》)あるいはしゃれで、宋代に流行したもの。拆牌道字とも書く。『金瓶梅』の第四回に、西門慶が、
「色糸に女の子さ、なんともいえない味だ」
というところがある。この「色糸子女」は「絶好」の拆白道字で、字謎の最も簡単なかたちである。
七 頂真続麻 拆白道字と同じく宋代に流行した文字遊びで、これは尻とりふうに、上の句の末尾の一字(あるいは二三字)を取って次の句をはじめて行く。たとえば、
春色近粉牆、牆裏佳人笑、笑顔争喜色、色勝海棠嬌、嬌……(『雍煕楽府』九「一枝花美貌套」)
野鳥啼、野鳥啼時時有思、有思春気桃花発、春気桃花発満枝、満枝……(『今古奇観』第十一巻「蘇小妹三難新郎」)
のようなものである。
八 壁に掛り崖に懸って 原文は掛壁県崖。敏捷で自由自在なことをいう。
九 ざる 原文は栲〓《こうろう》。またとも書く。竹または柳で編んだ物をいれる器。
一〇 袋 原文は叉袋《さたい》。または叉口袋《さこうたい》ともいうごとく、その口の形から名づけたもの。
一一 板 木片を打ちあわせて拍子をとる楽器。
一二 こんな羽目 原文は惶《せいこう》。わずらいなやむこと。
一三 学問するのが性にあわず…… この歌は意訳した。原文を読みくだせば、
生来《せいらい》詩書を読むを会《え》せず
且つ梁山泊裏に就《おい》て居《きよ》す
窩弓《かきゆう》を準備《じゆんび》して猛虎を射ち
香餌《こうじ》を安排《あんばい》して鰲《ごう》魚を釣る
一四 生まれついてのならずもの…… この歌も読みくだせば、
乾坤《けんこん》我を生ず〓皮《はつぴ》の身
賦性《ふせい》従来人を殺すを要《ほつ》す
万両の黄金渾《すべ》て愛せず
一心玉麒麟を捉《とら》えんと要《ほつ》す
一五 蘆花のしげみの一艘の舟…… これはさきに、呉用が盧俊義を占って壁に書かせだ詩(注五参照)の意訳である。
第六十二回
冷箭《れいせん》を放って 燕青《えんせい》主を救い
法場《ほうじよう》を劫《おびや》かして 石秀《せきしゆう》楼より跳ぶ
さて盧俊義は、武芸の腕は立ったが泳ぎはできず、浪裏白跳の張順に舟をひっくりかえされて、まっさかさまに水中に投げ出されてしまった。張順は水のなかでその腰を抱きとめると、また対岸へむかってもぐって行き、朴刀は奪って、盧俊義をまっすぐ岸へつれて行った。岸ではすでに松明《たいまつ》をつけて、五六十人のものが待ち受けていて、岸へ引きあげ、まわりをとりかこんで腰刀をはずし、濡れた着物をすっかりぬがせた。そして縄をかけようとしていると、そこへ神行太保の戴宗が命令を持って大声で呼ばわりながらやってきた。
「盧員外どののお身体に、手荒《てあら》なことをしては相ならぬ」
そして、さっそく手下のものにいいつけて、錦の着物と刺〓した襖《うわぎ》の包みを盧俊義にわたして着せさせた。そこへ八人の手下のものが一台の轎《かご》をかついできて、盧員外を乗せて歩き出した。と、前方に、早くも二三十対《つい》の紅紗の提灯が一隊の人馬を照らし、鼓楽を鳴らしながら迎えにくるのが見えた。先頭には宋江・呉用・公孫勝、そのあとには頭領たちがつづき、みないっせいに馬をおりた。盧俊義もあわてて轎からおりたが、宋江は早くもそこへひざまずき、うしろの頭領たちもずらりと並んでひざまずいた。盧俊義もひざまずいて答礼をし、
「檎《とりこ》にされた以上は、さっさと殺していただきたい」
といった。すると宋江は笑って、
「ともかく、どうぞ轎にお乗りになってください」
みなのものはうちそろって馬に乗り、鼓楽を奏しながら三つの関門を越えて、まっすぐ忠義堂の前まで行って馬をおり、盧俊義を堂上へいざなった。そこには煌々と灯燭がともされていた。宋江はすすみ出て、罪を謝していった。
「お名前はかねてから、耳をつんざく雷鳴のように聞きおよんでおりました。幸いにきょうお目にかかることができまして、日ごろの念願がかなえられました。さきほどは兄弟たちがたいへんご無礼をいたしましたが、どうかおゆるしくださいますよう」
呉用もすすみ出て、
「このあいだは兄貴の命令でじきじきお屋敷へ参上し、売卜にことよせて員外どのを山へおびきよせましたが、これは、相集まってともに天に替《かわ》って道をおこなおうとしてでございます」
宋江は盧員外に第一の椅子につくようにすすめた。盧俊義は礼を返して、
「わたくしは無能無才、しかも尊厳を犯して、その罪万死《ばんし》も軽しとするところですのに、なぜそのようなたわむれをおっしゃるのです」
すると宋江は笑顔をつくっていった。
「どうしてたわむれなど申しましょう。員外どののご威徳を、飢えるがごとく渇するがごとくお慕いいたしているのです。どうかお見限りなく、山寨の主《あるじ》となってくださいますよう。朝夕ご命令を仰ぎたく存じます」
「いや、たとえ死を選ぶとも、そのお言葉にだけは従いかねます」
盧俊義がそう答えると、呉用は、
「そのことは、あとでまたご相談することにいたしまして」
と、さっそく酒食を出して歓待した。盧俊義はいまはもうどうすることもできず、何杯か飲んでから、手下のものに案内されて奥の間へ行き、床についた。
翌日、宋江は羊や豚を殺して盛大な宴を設け、盧員外を招いて、なんどもすすめたあげく、まんなかの座につかせた。酒が幾まわりかしたころ、宋江は立ちあがり、盧俊義に杯をすすめながらわびをいった。
「きのうはたいへん失礼いたしましたが、どうかおゆるしくださいますよう。ささやかな山寨で、おとどまりねがえるようなところではございませんが、忠義の二字に免じてお考えいただきたく、わたくしが位をお譲りいたしますから、どうかご辞退くださいませんように」
「それはとんでもないこと。わたしは身になんの罪科もなく、いささかながら家財もあります。生きては大宋の人となり、死しては大宋の鬼たらんとするもの。たとえ殺されてもお言葉には従いかねます」
呉用をはじめ頭領たちはかわるがわる説得したが、盧俊義はどうしても盗賊の仲間になることを承知しない。すると呉用がいった。
「どうしてもご承知くださらないのならば、無理強《じ》いはいたしますまい。員外どののお身体をひきとめることはできても、心までそうすることはできませんから。しかしわたくしどもといたしましては、せっかくここへおいでいただいたのですから、仲間にはいってくださらないのでしたら、せめて四五日のあいだでもご滞在くださいますよう。そのうえでお宅までお送りいたしますから」
「わたしはここにいてもかまいませんが、家族のものが心配するでしょうから」
「それならなんでもありません。まず李固を車といっしょに帰しておいて、員外どのは四五日おくれてお帰りになればよいではありませんか」
呉用はさらに李固にたずねた。
「李都管、車も品物もみんなありますか」
「すこしも別状ありません」
と李固はこたえた。宋江は大きな銀塊をふたつ持ってこさせて李固にあたえ、店のものには小さな銀塊をふたつ、車の人夫たち十人には白銀十両をやった。一同は礼をいった。盧俊義は李固にいいつけた。
「わしの災難はおまえが知っているとおりだ。家へ帰ったら奥さんによく話して、心配しないようにいってくれ。四五日したらわしも帰るからな」
李固はただもう身をのがれたいばかりで、
「よろしゅうございますとも」
と、しきりにうなずき、別れを告げて忠義堂を去って行った。呉用はすぐ立ちあがって、
「員外どの、どうか安心しておくつろぎくださいますよう。わたしは李都管を麓まで送って行って、すぐ帰ってまいりますから」
といい、李固を見送るという名目で、さきに金沙灘まで行って待っていると、まもなく李固と店のものふたりが、車や馬や人夫たちとともに山をおりてきた。呉用は五百人の手下を左右にひきつれて柳の木蔭に腰をおろしていたが、李固をそこへ呼びよせていった。
「おまえの主人は、以前からわれわれと相談ができていて、こんど第二の椅子につかれることになったのだ。だから山へこられるまえに、四句の謀叛《むほん》の詩を家の壁に書きつけておかれたのだ。いまそれを教えてやろう。あの壁の二十八字には、一句ごとに一字ずつかくし字があるのだ。
蘆花蕩裏《ろかとうり》一扁の舟
には盧の字が、
俊傑那《なん》ぞ能《よ》く此の地に遊ぶ
には俊の字が、
義士手に提《ひつさ》ぐ三尺の剣
には義の字が、
反する時須《すべから》く斬るべし逆臣の頭
には反の字が、それぞれかくし字になっていて、この四句の詩には、
盧俊義反
の四字がかくしてあるのだ。このたび山へのぼられた所以《ゆえん》は、おまえたちは何も知るまい。本来ならばおまえたちをみな殺しにしてわれら梁山泊のきびしさを示すところだが、このたびは逃がしてやるからさっさと立ち帰れ。主人の帰ることなどは望まぬがよいぞ」
李固らはただ平伏するばかり。呉用が渡し場を船で渡してやると、一行は帰途につき、北京へと馳せ帰って行ったが、そのさまは釣針をのがれたすっぽんが尾をふり頭をふってあとをも見ずに一目散というところ。
話はふたつにわかれて、李固らが家に帰った次第はさておき、一方呉用は、忠義堂に帰って再び酒の席につくと言葉たくみに盧俊義をさそい、二更ごろまで飲みつづけてようやく散会にした。翌日も山寨ではまた祝宴がひらかれた。盧俊義は、
「頭領衆がおひきとめくださるご厚意はありがたく存じますが、わたしにとっては一日が一年のように思われますので、きょうはお暇《いとま》させていただくことにします」
といった。すると宋江は、
「わたくし、不才の身をもって幸いにも員外どのにご面識を得ることができましたので、あすはわたくし個人でささやかな宴を設け、膝をつきあわせてお話をいたしたいと存じます。どうかご辞退くださいませんように」
かくて一日もすぎ、翌日は宋江が招待した。そのつぎの日は呉用が招き、またそのつぎの日は公孫勝が招いた。いちいちはいわないが、かくて三十余人のおもだった頭領たちが毎日ひとりずつ、かわるがわる宴席を設けるうちに、光陰は矢のごとく、日月は筬《おさ》のごとく、いつしか一ヵ月あまりたってしまった。盧俊義は思いめぐらしたすえ、また別れを告げようとした。すると宋江のいうには、
「いつまでもおひきとめしたいところですが、それほどお帰りになりたいのでしたらいたしかたございません、あす忠義堂でお粗末ながら酒盛りをしてお送りいたしましょう」
翌日、宋江はまた個人で送別の宴を設けた。すると頭領たちはみな口々に、
「兄貴が員外どのに十分に敬意を表されるからには、われわれは十二分に敬意を表するのが当然。それなのに兄貴の招待だけをお受けになるのでは、磚《れんが》に手厚く瓦には粗末(えこひいき)というものではありませんか」
といったが、そのなかで李逵が大声で、
「わしはいのちがけで北京へ乗りこんで行って、あんたを迎えてきたというのに、そのわしらの招待をうけんというのですかい。そんなら、あんたと、まなじりをくっつけあっていのちのとりっこをしよう」
呉学究は大声で笑って、
「そんな招待の仕方があるものか、がさつにもほどがある。員外どの、どうか悪くおとりくださいませんよう。みんながせっかくああ申していることですから、いましばらくご滞在ください」
いつしかまた四五日たってしまって、盧俊義はどうしても出発しようと決心した。すると神機軍師の朱武が頭領たちの一団をひきつれ、つかつかと忠義堂にあがってきて、
「われわれは末席の兄弟だとはいえ、ほかの兄弟と同じく兄貴のためにはたらいてきたのです。それなのに、われわれの酒には毒が仕込んであるとでもいうのですか。あなたが怪しんでわれわれの酒は飲まぬとおっしゃるのなら、わたしはそれでもかまわぬが、みなのものがなにをしでかすかわかりません。そのときになって後悔したって追っつきませんよ」
といい出した。と、呉用は立ちあがって、
「みんな、まあ、そういら立つことはない。わたしから員外どのにおねがいして、もうしばらく滞在していただくことにすれば、それでよかろう。諺にも、悪気で酒をすすめるものはないというから」
盧俊義は一同をおさえることができず、やむなくさらに幾日か滞在してしまい、かくて前後四五十日にもなってしまった。北京を出たのが五月、いつしか梁山泊でふた月もの日々を送ってしまい、見れば秋風がさやさやと吹き、玉の露が冷え冷えとおりて、早くも中秋節に近くなっていた。盧俊義はしきりと帰りたがって、宋江にうったえた。宋江は盧俊義の帰心切《せつ》なのを見て、
「よろしいとも。あす、金沙灘までお見送りいたしましょう」
といった。盧俊義は大いによろこんだ。これをうたった詩がある。
一《ひと》たび家山に別れて歳月《ひさ》しく
寸心《すんしん》日として家を思わざる無し
此の身に双翼の生ぜざるを恨み
天風を借りて水涯を過《わた》らんと欲す
翌日、もとの着物と武器を員外に返し、頭領たち一同はうちそろって山麓まで見送って行った。宋江は一盆の金銀を贈ったが、盧俊義は辞退した。
「広言するわけではありませんが、金銀財帛は家に十分ございますから、北京までの路用をちょうだいすればそれで結構です。贈り物はほんとうにいただきません」
宋江以下頭領たちは金沙灘まで送って行き、別れて帰ったが、この話はそれまでとする。
宋江が寨《とりで》に帰って行ったことはさておき、一方盧俊義は、足をはやめ、夜を日についで急ぎに急ぎ、十日して北京に着いたが、すでに夕暮れで城内へはいれなかったので、宿屋で一夜を明かした。翌日の早朝、盧俊義は田舎宿を出て町へと急いだが、あと一里あまりのところまできたとき、破れ頭巾にぼろぼろの着物を着た男が、盧俊義を見て、頭をさしのべて地面に平伏した。盧俊義がよく見ると、それは浪子の燕青だった。
「おい、おまえのそのざまは、いったいどうしたというのだ」
といぶかると、燕青は、
「ここではお話ができません」
という。盧俊義は土塀の脇へ行って、くわしくそのわけをたずねた。燕青がいうには、
「お出かけになりましてから半月たらずのころに李固が帰ってきまして、奥さまに、ご主人は梁山泊の宋江に投降して、そこの第二の頭領になられましたと告げ、さっそくお役所へも訴えたのでございます。そして奥さまといっしょになってしまい、わたしがさからったのを怒って家を追い出したのです。着物まですっかり取りあげて城外へ追い出したばかりか、親戚や知りあいのもの全部に、もしわたしをひきとって泊めたりしたら、身代《しんだい》を半分つかってでも裁判にかけてやるといいつけたものですから、そのため誰もわたしをかまってくれず、城内には身の置き場もありませんので、しかたなく城外で物乞いをしてその日その日をすごしながら、お堂を仮のねぐらにしております。梁山泊へおたずねして行こうとは思いながらも、みだりに行くわけにもまいりませんでした。もしほんとうに梁山泊からおいでなさったのでしたら、わたしのいうとおりになさって、もういちど梁山泊へおもどりになり、あらためてご相談なさることです。城内へおはいりになれば必ずわなにかけられますから」
「わしの女房はそんなやつではない。きさま、でたらめをいうな」
と盧俊義はどなりつけたが、燕青はなおもいった。
「うしろに眼があるわけでなし、どうして裏のことがわかりましょう。ご主人は日ごろは武芸の修練ばかりなさって女色には淡白ですので、奥さまには前から李固とねんごろになっておられたのですが、いまはもう大っぴらに夫婦きどりです。そこへいらっしゃったら、ひどい目にあわされるにきまっております」
盧俊義は大いに怒って燕青をののしった。
「わしの家は五代にわたって北京に住み、誰知らぬものとてないのだ。李固が幾つも首を持っていないかぎり、そんなことができるはずはない。きさまは自分で悪事をはたらいておいて、反対のことをいいにきたのじゃないか。家へ帰ってたしかなことを調べたうえで、きさまをただではおかんぞ」
燕青は泣いて地面にひれ伏しながら主人の着物にとりすがったが、盧俊義は燕青を足蹴りにして、急いで城内へとむかった。
城内へかけこんでまっすぐ家へ行って見ると、店のものはみなあっとおどろいた。李固はあわてて出迎え、奥の間へいざなって平伏の礼をした。盧俊義はさっそくたずねた。
「燕青はどうした」
「ご主人、その話はちょっとお待ちくださいますよう。とても簡単には申されませんし、きっとお腹立ちになりましょうから、ひと休みなさってからゆっくりお話しいたすことにしましょう」
賈氏が衝立のかげから泣きながら出てきた。
「泣かずに、燕小乙がどうしたのかいいなさい」
と盧俊義がいうと、賈氏も、
「あなた、その話はお待ちくださいませ。いずれゆっくりお話しいたしますから」
盧俊義は内心いぶかり、あくまでも燕青のことを聞き出そうとした。すると李固は、
「ご主人、ともかくまあお召し物をおかえになって、朝食をおすませください。お話はそれからでもよろしいでしょう」
といい、食事をととのえて盧員外に出した。ちょうど箸をとりあげたとき、表門と裏門とからどっと喊声が聞こえ、二三百人の捕り手のものが飛びこんできた。盧俊義はおどろいて呆然としていたが、たちまち捕り手に縄をかけられてしまい、こづきまわされながらまっすぐ留守司《りゆうしゆし》(北京の長官庁)のもとへ送られて行った。
そのとき梁中書はちょうど登庁していて、左右には二列に虎狼のごとき役人が七八十人居並び、盧俊義はその正面にひきすえられた。賈氏と李固もそのかたわらにひざまずいた。梁中書は庁上からどなりつけた。
「きさまはこの北京の住民でありながら、なにがゆえに梁山泊に身を投じて盗賊になり、第二の頭領になどなりおったか。このたびは、内外呼応して北京を討たんがためにやってきたのであろうが、こうして捕らわれの身となったからには、もう一言もあるまい」
盧俊義はいった。
「わたくし、ついおろかにも、梁山泊の呉用が易者に化けて訪ねてきて申しましたでたらめに心をまどわされ、梁山泊へおびき寄せられまして、ふた月あまりも軟禁されていたのでございます。このたび幸いに抜け出して家に帰ることができましたまでで、決して大それた考えなど持っておりません。どうかご明察のほどおねがい申しあげます」
「それで申し開きが立ったとでも思うのか。きさまは梁山泊で、もし気脈を通じていなかったら、そんなに長いあいだ滞在のできるわけがあるまい。現にきさまの女房と李固から訴状が出されているのだ。それでもまだ嘘だというのか」
梁中書がそういうと、李固が、
「ご主人、もうこうなりました以上は、すっかり白状なさったほうがよろしいでしょう。家の壁に頭《かしら》字をかくし言葉にした謀叛《むほん》の詩をお書きになっているのが確かな証拠ですから、もはやなんとおっしゃってもしようがありません」
賈氏もいった。
「わたしたちはあなたをひどい目にあわせたくなどありませんけど、巻き添えにされるのがこわいのです。諺にも、ひとりの謀叛で九族《きゆうぞく》みな殺しといいますから」
盧俊義は庁下にひざまずいて無実をいい立てたが、李固は、
「ご主人、無実だなどといい張らないで、まことはまこと、嘘はすぐばれますから、早く白状なさって、責め苦をまぬがれたほうがよろしいでしょう」
といい、賈氏も、
「あなた、嘘はお役所では通らず、まことは曲げられるものではない、といいます。あなたがこれ以上大それたことをなさると、わたしのいのちまで飛んでしまいます。有情のなま肌を無情の棒で打たれなければなりません。いさぎよく白状なされば、掟《おきて》どおりの罰だけですみましょう」
李固は役人たちに、ひとり残らず賄賂をおくっていた。孔目の張というものが庁上で梁中書にいった。
「しぶといやつです。打たないことにはとても白状しないでしょう」
「まったくだ」
と梁中書はいい、
「打て!」
と大声で命じた。左右の役人どもは盧俊義を縛って地面にひき倒し、いいぶんも聞かばこそ、皮膚は裂け肉は綻《ほころ》び、鮮血がほとばしるまで打ちすえて、三四回も昏倒させた。盧俊義はその責め苦に堪えきれず、
「非業《ひごう》の最期をとげる運命なのか。いまはもう無実の供述をするよりほかない」
と天を仰いで嘆いた。張孔目はさっそく供述書をとり、重さ百斤の死刑囚用の枷を持ってこさせてはめ、大牢へ護送して監禁することにした。役所の近辺の見物のものたちはみな、見るに見かねた。
その日、牢の門からなかへ押しいれられ、殺威棒を三十くらわされたのち、番小屋へつれて行かれて、その前にひざまずかされた。牢役人が〓(おんどる)の上に坐っていたが、その両院押牢《りよういんおうろう》節級(注一)で首斬り役人を兼ねたのが、指さして、
「おまえはわしを知っているか」
といった。盧俊義は見て、あっと声をのんだ。それは誰であったか。詩でいえば、
両院押牢(注二)蔡福《さいふく》と称す
堂々たる儀表《ぎひよう》気は雲を凌《しの》ぐ
腰間緊《きび》しく青鸞《せいらん》の帯を繋《つ》け
頭上高く〓角《てんかく》の巾(角《かど》のない頭巾)を懸《か》く
刑を行《おこな》い事を問えば人は胆《たん》を傾《かたむ》け
索《なわ》を使い枷《かせ》を施せば鬼も魂《こん》を断つ
満郡誇称す鉄臂膊《てつぴはく》と
人を殺して到る処に精神を顕《あら》わす
この両院押獄(注三)で首斬り役人を兼ねたのは、姓は蔡《さい》、名は福《ふく》といって、北京土着の人。腕力がきわだって強いので、人々から鉄臂膊《てつぴはく》(鉄腕)とあだ名されていた。そのかたわらにはもうひとり、その実《じつ》の弟で蔡慶《さいけい》というのが立っていたが、これも詩でいえば、
押獄(注四)叢中蔡慶と称す
眉濃く眼大にして性剛強
茜紅《せんこう》の衫《さん》上に〓〓《けいちよく》(注五)を描き
茶褐の衣中に木香《もつこう》(われもこう)を〓《ぬいと》る
曲々たる領沿《りようえん》(襟《えり》のふち)は深く〓《くろ》を染め
飄々たる博帯《はくたい》(幅広の帯)は浅く黄を塗る
金環《きんかん》燦爛として頭巾は小さく
一朶の花枝鬢傍《びんぼう》に挿す
この弟のほうの押獄蔡慶《さいけい》は、花を鬢に挿すのが好きだったので、河北の人たちはみな彼のことを一枝花《いつしか》の蔡慶と呼びならわしていた。彼は一本の水火棍《すいかこん》を杖《つ》いて兄の傍に立っていた。蔡福が、
「おまえ、この死刑囚をむこうの牢へつれて行ってくれ。おれはちょっと家へ行ってくる」
といった。蔡慶は盧俊義をつれて立ち去った。
蔡福が立ちあがって牢門を出て行くと、役所の塀のところがらひょっこりとひとりの男が出てきた。手に飯入れをさげ、心配そうな顔つきをしている。蔡福はそれが浪子の燕青だとわかると、
「燕小乙の兄い、なにをしているんだね」
とたずねた。すると燕青はそこにひざまずいて、はらはらと涙を流しながら訴えた。
「節級(注六)さん、あわれと思し召しください。わたしの主人の盧員外は無実の罪を着せられましたが、差入れをする金もございません。それでわたしは城外で乞食をしてこの飯入れに半分だけ飯をめぐまれましたので、これを主人にあげて一時の飢えをしのいでもらおうと思うのです。節級さん、どうかよろしくおとりなしくださいますよう」
そういうと、泣きぬれて地面に平伏した。
「そのことはわしも知っている。さあ、自分で持って行って食べさせてあげるがよい」
燕青は礼をいい、牢へはいって差入れをした。
蔡福が州橋を渡って行くと、ひとりの茶店の給仕がふいに呼びとめて挨拶をし、
「節級さん、てまえの店の二階にお客さんがひとり、あなたにお話ししたいことがあるといって待っておられます」
といった。蔡福が二階へあがって行ってみると、それは番頭の李固だった。挨拶をかわしてから、蔡福はたずねた。
「番頭さん、なんのお話です」
すると李固は、
「おなじ穴の貉《むじな》はだましあわぬ、とか。わたしの考えることはなにもかもあなたの胸のうちにあることでしょうが、今夜のうちにぜひとも、きれいさっぱり消していただきたいのです。たいしたお礼もできませんが、ここに五十両の金の延べ棒がありますから、これをさしあげましょう。お役所のみなさんには別にわたしからちゃんと手を打っておきますから」
蔡福は笑いながら、
「あんたはお役所の戒石《かいせき》(注七)に、下民《かみん》は虐《しいた》げ易《やす》きも上蒼《じようそう》(上天)は欺《あざむ》き難《がた》しと刻んであるのをご存じでしょうな。あんたのわるだくみを、このわしが知らぬとでもお思いなのか。あんたはあの人の財産を自分のものにしてしまい、あの人の奥さんをぬすんだうえ、こんどは五十両の金子をわしにつかませてあの人のいのちをなきものにしようとしているが、後日提刑官《ていけいかん》(注八)が見えたときに、わしはそんなかかりあいになるのはまっぴらごめんだ」
「たりないとおっしゃるのなら、もう五十両出しましょう」
「おい、そいつは、猫の尻尾《しつぽ》をちょん切って猫の飯をかきまぜてやる、というやつじゃないか。北京でも名高い盧員外ほどの人が、たった一百両の値うちしかないというのか。あの人をやっつけてほしいのなら、ゆするわけじゃないが、金子五百両をもらおう」
李固はさっそく、
「金子はここにあります。耳をそろえてさしあげますから、ぜひとも今夜のうちに仕遂げてください」
蔡福は金子を受け取ってふところにしまいこむと、立ちあがって、
「あしたの朝、死骸をかつぎにきてもらおう」
李固は礼をいい、大よろこびで帰って行った。
蔡福が家にもどってなかへはいると、ひとりの男が蘆の簾をかきあげてすぐあとからはいってきた。そして、
「蔡節級どの、はじめまして」
と声をかけた。蔡福が見れば、その男はなかなか端麗な顔をしているうえに、身なりも立派で、身には烏の濡羽《ぬれば》色の丸襟の服を着、腰には羊脂玉《ようしぎよく》(注九)の飾り帯をしめ、頭には〓冠《しゆんぎかん》(注一〇)をいただき、足には真珠を飾った履《くつ》をはいている。その男はなかへはいってきて、蔡福を見つめながら礼をした。蔡福も急いで答礼をして、
「どなたでございましょうか。また、どういうご用で?」
とたずねた。すると男は、
「奥をお借りしてお話しいたしたいのですが」
という。蔡福がそこで応接間に請じいれて、主客それぞれの席につくと、その男は話し出した。
「節級どの、唐突にて失礼いたします。わたしは滄《そう》州横海郡《おうかいぐん》のもので、姓は柴《さい》、名は進《しん》と申し、大周《たいしゆう》皇帝嫡流《ちやくりゆう》の子孫で、あだ名を小旋風《しようせんぷう》というものです。義を好み財を疎《うと》んじ、天下の好漢と交わりを結んでいるうちに、不幸にも罪に触れて、梁山泊に身をおとしております。このたび宋公明兄貴の命を受けて盧員外の消息をさぐりに出てきたのですが、なんと、貪官汚吏《たんかんおり》が淫婦奸夫《いんぷかんぷ》と気脈を通じておとしいれ、死刑囚の牢にとじこめて、その一命はあなたの手に握られているありさま。そこで生死もかえり見ず、このようにお宅へ訴えにまいった次第です。もし盧員外のいのちを助けてくださるならば、あなたをお仲間と思い(注一一)、決してご恩を忘れませんが、すこしでもまちがいがあれば、兵を城下に臨ませ、将を濠辺に迫らせ、賢愚老弱の別なく、城を打ち破ってみな殺しにする覚悟です。かねてからあなたは義を重んじ忠を全うなさる好漢と承っておりましたが、これといってお贈りするものもありませんので、ここに、ただおしるしまでに黄金一千両を持ってまいりました。もしわたしを召し取ろうとのお考えならば、この場でさっそくお縄をちょうだいしましょう。決して眉毛一本動かしはしません」
蔡福はそれを聞いて、おどろきのあまり全身に冷汗を流し、しばらくは返事をすることもできなかった。柴進は立ちあがって、
「好漢たるものが事をなすのに、なにを躊躇なさいます。さあ、決めていただきましょう」
蔡福はいった。
「まあ、席へおなおりください。なんとかやってみましょう」
柴進は礼をして、
「ご承諾くださってありがとうございます。この大恩は決して忘れません」
といい、表へ出て行って従者を呼び、黄金を取り出させて蔡福にわたすと、挨拶をして立ち去って行った。表に待っていた従者というのは、神行太保の戴宗で、これまたあとへはひかぬ男である。
蔡福はこんなことになってしまって、なかなか決断をくだしかね、しばらく思案していたが、やがて牢へもどって行って事の次第を弟に話した。すると蔡慶のいうには、
「兄さんはふだんはなんでもてきぱきと決める人なのに、こんな小さなことになにを迷っているのです。諺にも、人を殺さば血を見るまで、人を救わばとことんまで、というではありませんか。一千両の金子があるのですから、ふたりで役所の連中にばらまいてやりましょうよ。梁中書にしろ張孔目にしろ、みんな金には目のない連中ですから、賄賂をもらえばきっと盧俊義のいのちを助けて、いいかげんに流罪にするでしょう。それを救い出すかどうかは梁山泊の好漢次第で、わたしたちのやることはそこまででよいのです」
「それはわしもそう思う。それじゃ、盧員外をよい場所へ移し、朝晩うまいものをとどけて身体を休ませ、ことの次第をつたえておいてくれ」
蔡福と蔡慶のふたりは話をきめると、ひそかに金を役人たちにばらまいてたのみこんでおいた(注一二)。
翌日、李固は、なんの音沙汰もないので、蔡福のところへ行って催促をすると、蔡慶がいうには、
「わしたちは手をくだして片付けてしまおうとしたのだが、中書さまが承知なさらないのだ。さきに誰かがあの人のいのちを助けるように手を打っているから、あんたのほうでも上のほうへ手をまわしてみなさるがよい。命令がありさえすれば、わしたちのほうはわけはないんだから」
李固はさっそく人をたのんで上のほうへ賄賂をつかうことにしたが、仲にはいって金のとりつぎ役をしたものがたのみに行くと、梁中書は、
「それは押牢節級のやることだ。まさかわしが自分で手をくだすわけにもいかんだろう。二三日のうちに、あれに自分で死ぬようにしむけよう」
といった。こうして蔡兄弟も梁中書も互いにおしつけあっているだけだった。張孔目も両方から金を受け取っていたので、文書を作らずにひたすら判決の日をひきのばしていた。蔡福はひそかにまた賄賂をつかって、早くきまりをつけてくれるようにたのんだ。
張孔目が文書を作ってうかがいをたてると、梁中書は、
「この事件の裁きはどう決めたらよいかな」
「わたくしの調べましたところ、盧俊義には訴人はありますが確かな証拠はございません。梁山泊に長いあいだ滞在しておりましたとはいえ、それは無理じいされたためのあやまちで、真犯人として罰するわけにはいきません。それゆえ、棒打ち四十のうえ、刺青をいれて三千里の外へ流罪ということにいたしましては、いかがでございましょうか」
「それはなかなか明快な裁きだ。わしの考えと同じだ」
と、さっそく蔡福にいいつけて盧俊義を牢から出させ、庁前で長枷《ちようか》(死刑囚の枷《かせ》)をはずし、判決文を読みあげたうえ、棒打ち四十の刑に処し、重さ二十斤の鉄板の首枷《くびかせ》に換えてその場ではめこみ、董超《とうちよう》と薛覇《せつぱ》に護送させて沙門島へ流すことにした。そもそもこの董超と薛覇は、開封府の役人をしていたとき、林冲を護送して滄州へ行く途中で、林冲を殺すことができずに帰ってきた(第八回―九回)ために、高太尉にとがめられて北京に流されていたのだったが、梁中書は彼らふたりがなかなかはたらきのあるのに目をとめ、留守司にひきとめて仕事をさせていたというわけで、このたびまたふたりが盧俊義の護送を命ぜられたのである。
そのとき、董超と薛覇は公文書を受け取り、盧員外をつれて州役所を出ると、ひとまず盧俊義を役人だまりにあずけておいてそれぞれ家へ帰り、荷物をととのえて、さっそく旅路についた。詩にいう。
女色に親《した》しまざる丈夫の身
為甚《なんぞ》家を離るるも内人《ないじん》(妻)を憶《おも》わん
誰か料《はか》らん室中の獅子吼《ししく》(注一三)の
却って能く玉麒麟を断送するを(注一四)
ところで李固は、そのことを知るとおどろきあわてて、さっそく使いのものをやり、ふたりの護送人を話があるからといって呼んでこさせた。董超と薛覇がその料亭へ行くと、李固は出迎えて小部屋に請じいれ、酒食をならべてもてなし、ひととおり酒がまわったところで、李固は話しだした。
「なにもかくさずに話しますが、盧員外はわたしの仇なのです。このたび、沙門島へ流されるについては、遠いところなのに彼は一文なしですから、おふたりにはいろいろとむだな路用がかさみましょう。急いで行っても三四ヵ月はかかります。わたしにはたいしたこともできませんが、大銀を二錠、ひとまず手つけとしてさしあげますから、遠くても二宿場ぐらい、近ければ五六里以内の人気《ひとけ》のないところで彼を片付けてしまい、顔の金印《いれずみ》を証拠に剥ぎとってきてわたしに見せてくだされば、おひとりずつに五十両の金の延べ棒をさしあげましょう。ただ公文書を一通とってきてくだされば(死亡証明の公文書を途中の役所からもらってくること)留守司のほうはわたしがうまくやります」
董超と薛覇は互いに顔を見あわせながら、しばらく考えこんでいたが、二錠の大銀を目の前にしているうちに、だんだん欲が出てきて、
「だが、うまくやれるかどうか」
と董超がいうと、薛覇はさっそく、
「兄貴、李の旦那といえば、れっきとしたおかただ。おれたちもこのことでお近づきねがえるというものだ。困ったことがおこったときは力になってもらえるじゃないか」
すると李固はいった。
「わたしは恩義をわきまえないような男じゃありません。いずれご恩返しをさせてもらいます」
董超と薛覇は銀を受け取ると、別れて家へ帰り、荷物をとりまとめて、急いで出かけようとした。盧俊義が、
「わたしはきょう刑を受けたばかりで棒の傷あとが痛んでなりません。旅立ちはあすにしてくださいませんか」
というと薛覇が、
「黙りやがれ。おれさまは全く運がわるいわ、きさまのような貧乏神にぶつかって。沙門島へは往復六千里もあって、うんと路銀がかかるというのに、きさまときたら一文なしだ。いったいどうしてくれるというんだい」
とののしった。
「無実の罪を着せられたこのわたしをあわれんで、どうかよろしくおねがいします」
と盧俊義がたのむと、こんどは董超がののしって、
「きさまたち金持は、ふだんは髪の毛一本も抜こうとはせん(注一五)が、きょうはお天道さまが眼をあけて見事にその罰をおあてになったのだ。泣きごとをいわずに、おれたちが助けてやるから歩くんだ」
盧俊義は怒りをかみころして、しかたなく歩き出し、東門を出て行った。董超と薛覇は衣類の包みや雨傘をみんな盧員外の首枷にひっかけた。盧員外は富有な家に生まれながら、いまや囚人となって、いかんとも施す術《すべ》なく、しかも頃は晩秋、紛々として黄葉《こうよう》落ち、対々《ついつい》として塞鴻《さいこう》(雁)飛び、わびしさはひとしおである。憂いもだえるおりしも、聞こえてくる横笛の調べ。まさに、
誰《た》が家の玉笛《ぎよくてき》か秋清《しゆうせい》に弄《ろう》す
撩乱《りようらん》として端《ゆかり》無くも客情《かくじよう》(旅情)を悩ます
自ら是れ断腸《だんちよう》にして聴くを得ざるなり
断腸の声を吹き出《いだ》すに干《よ》るに非ず
ふたりの役人は、みちみち、さまざまな意地わるをしながら護送して行った。やがて日は暮れかかり、十四五里ほど行ったところで、ある村に着き、宿屋をさがして泊まることになった。宿の若いものはさっそく奥の部屋へ案内し、荷物をおろさせた。すると薛覇がいった。
「ああ、おれさまたちはえらくくたびれたわい。れっきとした役人が罪人にかしずくなんて話がどこにある。きさま、飯が食いたけりゃ、さっさと火をおこしに行け」
盧俊義はしかたなく枷をつけたまま台所へおりて行き、宿の若いものにたきつけをもらって丸く束ね、かまどの前へ行って火をたきつけた。若いものは彼のために米をといだり飯を炊いたり、碗や杯を洗ったりしてくれた。盧俊義は富家の生まれなので、こういったことはまるでできなかった。たきつけの柴は湿っていてさっぱり燃えつかず、たちまち消えてしまう。一生懸命に息を吹きかけると、灰がはいって眼が見えなくなる。董超はがみがみと怒鳴りつける。ようやく飯ができると、ふたりがすっかり持って行ってしまって、盧俊義の食うぶんはない。ふたりは勝手に食ってしまうと、わずかばかりの残りの汁と飯を盧俊義に食わせた。薛覇はまたひとしきり怒鳴りつづける。晩飯がすむと、こんどは盧俊義に足洗いの湯を沸かせという。湯が沸いてから、盧俊義はようやく部屋にはいって休んだ。ふたりは足を洗ってしまうと、ぐらぐらに煮えた湯をたらいに汲んできて、盧俊義をだまして足を洗わせた。盧俊義が草鞋《わらぐつ》をぬぐと、薛覇はいきなり両足をひっぱって熱湯のなかへ突っこんで、焼けつくような痛い目にあわせた。そして薛覇はいった。
「おれさまがきさまの世話をしてやるのに、なんだってふくれっ面をしやがる」
ふたりの役人はさっさと〓(おんどる)の上で寝てしまい、鉄の鎖で盧員外を部屋の戸の外につないでおいた。四更(夜二時)ごろまでうめきつづけていると、やがてふたりの役人は起きてきて、宿のものに飯を炊かせ、腹いっぱい食べると、荷物をとりまとめて出発しようとした。盧俊義が足を見ると、いちめんに水ぶくれができていて、地に足をつけることもできないしまつ。
その日は秋雨が降りしきって、道はぬかるんだ。盧俊義がよろよろと歩くと、薛覇は水火棍でその腰をなぐりつけ、董超はわざとそれをとりなだめるという具合で、道々ずっと嘆き苦しみつづけた。村の店を出てから十里ばかり行ったところで、とある森にさしかかった。盧俊義が、
「わたしはもう一足も歩けません。どうかあわれと思し召して、ちょっと休ませてください」
というと、ふたりの役人は森のなかへつれこんで行った。東の空がようやく白んできたころで、まだ道行く人の姿はなかった。
「ふたりとも早く起きすぎたので、すっかりくたびれてしまった。森のなかでひと眠りしたいところだが、おまえに逃げられでもしたら事だからな」
薛覇がいった。盧俊義が、
「わたしはたとえ羽があったとしても飛んで行きはしません」
というと、薛覇は、
「そんな手に乗るものか。ともかく縄をかけておこう」
と、腰から麻縄をはずし、盧俊義の腹にかけて松の木におしつけ、足をひき寄せて、木に縛りつけた。そして薛覇は董超にいった。
「兄貴、あんたは森の外へ行って見張りをしてくれ。誰かきたら咳ばらいが合図だ」
「兄弟、早くやっつけるんだぜ」
「大丈夫だ。外の見張りをたのむ」
薛覇はそういうと、水火棍を手にとり、盧員外にむかっていった。
「おれたちふたりを怨むなよ。おまえの家の番頭の李固から、途中で片付けてくれとたのまれたんだ。沙門島まで行ったところでどうせいのちはないんだから、早くやっつけてやろうというんだ。あの世でおれたちを怨むなよ。来年のきょうが、おまえさんの一周忌というわけだ」
盧俊義はそういわれると、はらはらと涙を流し、首を垂れて観念した。薛覇は両手に水火棍を握りしめ、盧員外の脳天めがけて打ちおろす。
森の外の董超は、どさっという音を聞き、急いで森のなかへ行って見ると、盧員外はもとのまま木に縛りつけられており、薛覇が木の下に仰向けに倒れて、水火棍はその傍《そば》に投げすててある。
「はて、これはおかしいぞ。まさか力あまってひっくり返ったというわけでもあるまいが」
と董超は思い、顔をあげてあたりを見まわしたが、なにも変わったことはない。薛覇は口から血を吐いていて、胸のところに長さ三四寸の小さな矢が見えた。あっと声をあげかけたとき、東北のほうの木の上にひとりの男がいて、
「やっ」
と叫ぶのが聞こえたかと思うと、弦音が鳴りひびいてたちまち董超の首に一箭が命中、董超は両足を空におどらせてばったり倒れてしまった。
その男はぽんと木の上から跳びおりると、短刀をひきぬいて縄をばらばらに切り、首枷をたたきこわし、木の下で盧員外を抱きかかえながら大声で泣いた。盧俊義が目をあけて見ると、それは浪子の燕青だった。
「小乙、まさかわしの魂がおまえに会っているわけではあるまいな」
「わたくしは留守司の前からずっとこやつらふたりのあとをつけてきたのですが、彼らがご主人を役人だまりにあずけたのを見、また、李固が呼んで話をしたのを見まして、こやつらはご主人を殺そうとしているのではないかと疑い、急いであとをつけて町を出てきたのです。ご主人が村の宿屋にお泊まりのとき、わたくしはずっと外におりましたが、五更ごろに起きて、さきにここへきて待ち受けておりました。こやつらはきっとこの森のなかで手をくだすにちがいないと思ったからです。わたくしはふたりを矢二本でやっつけてやりましたが、ご主人はお気づきになりましたか」
この浪子の燕青の弩弓《どきゆう》の矢たるや、まさに百発百中であった。その弓の見事さ、いかばかりかといえば、
弩〓《どとう》(弩弓の幹)は勁《つよ》くして烏木《うぼく》(黒檀)を裁《た》ち、山根《さんこん》(弓筈《ゆはず》)は対《つい》に紅牙《こうが》(赤い象牙)を嵌《は》む。撥手《はつしゆ》(矢摺《やずり》)は軽く水晶を襯《あ》て、弦索《げんさく》(弦糸《つるいと》)は半ば金線を抽《ひ》く。背に錦袋《きんたい》(錦の弓袋)を纏《まと》う、彎々《わんわん》として秋月の未だ円《まど》かならざるが如く、穏《おだや》かに〓〓《ちようれい》(鷹の羽)を放つ、急々として流星の飛迸《ひほう》するに似たり。
盧俊義はいった。
「おまえが力ずくでわしのいのちを助けてくれたのはありがたいが、そのかわりふたりの役人を殺してしまって、わしの罪はいっそう重くなってしまった。これからいったいどこへ逃げて行ったらよかろう」
「みんな宋公明がご主人を苦しめたのがもとですから、いまはもう梁山泊へ行くよりほか、行くところはございますまい」
「だが、棒傷のあとはいたむし、足の皮は破れて地面に足をつけることもできないしまつだ」
「ぐずぐずしてはおられません。わたしがご主人をおぶってまいりましょう」
と燕青は、さっそく役人の身体から銀子をさぐり出し、弩弓を身につけ、腰刀を腰にさし、水火棍を手にとると、盧俊義を背負ってひたすら東のほうへとむかって行った。だが、十五六里ほど行くと、もう背負いきれなくなり、小さな田舎店を見つけてはいって行き、部屋を借りて腰をおろし、酒や肉を買ってひとまず空腹をしのぎ、ふたりはしばらくそこで休むことにした。
さて一方では、通りがかりの旅のものが、森のなかに射《い》殺されているふたりの役人を見つけた。近くの組頭(注一六)がそれを里正に知らせ、里正は大名府にとどけ出た。大名府ではただちに役人を検屍に差しむけたところ、それが留守司の役人の董超と薛覇であることがわかった。そこで梁中書に報告すると、梁中書は大名府の緝捕観察《しゆうほかんさつ》(捕盗役人)に命じ、日を限《き》って犯人を捕らえさせることにした。捕り手のものたちはみなその死骸を見に行ったが、その弩弓の矢を調べると明らかに浪子の燕青のものなので、おくれてはならぬと、二百人ほどの捕り手が手わけをして散らばり、到るところに告示を貼り出してふたりの風体《ふうてい》を示し、遠近の村や道すじの宿屋、町や民家などに、見つけ次第に捕らえるよう呼びかけた。
一方、盧俊義は、そのとき田舎店で棒の傷あとを休めていたが、とても歩けないので、やむを得ずそこにとどまっていた。店のものは、人殺し事件があって村は軒並みそのうわさで持ちきり、ふたりの人相書も出ているということを耳にした。彼は人相書を見ると、あわててその地の組頭のところへ知らせに行った。
「わたしの店に、とても胡散《うさん》くさいのがふたりおります。犯人かどうかわかりませんが」
組頭はまたそれを捕り手のところへ知らせに行った。
ところで燕青は、飯のお菜にするものがなかったので、弓を持って近くへ出かけて行き、食料に小鳥を五六羽とって、さてもどってくると、村中わあわあとさわいでいるのが聞こえた。燕青が林のなかにかくれて窺って見ると、二百人ほどの捕り手が槍や刀でとりかこみ、盧俊義を車の上に縛りあげて引いてくるところであった。燕青は飛び出して行って救おうとしたが、いかんせん武器がなく、ただ地団駄をふむばかりだった。そこで思案した。
「これは梁山泊へ行って宋公明に話し、助けにきてくれるようにたのむよりほかない。そうしないことにはご主人のいのちがあぶない」
と、すぐ出かけて夜半まで歩きつづけたが、腹は減る一方で身には一文の持ちあわせもない。ある岡の上へのぼって行くと、ぼうぼうと生い茂った木立があったので、その林のなかで夜明けまで眠り、醒めてあれこれ思い悩んでいると、ふと鵲《かささぎ》の鳴きさわぐ声が聞こえた。
「もしあれを射おとせたら、村の人家で水をもらい、ぐらぐら煮て、空きっ腹をおさえることができるんだがな」
と思い、林の外へ出て行って仰いで見ると、鵲は燕青にむかって鳴きたてている。燕青はそっと弩弓を取り出し、心中ひそかに天に祈って占いをたてた。
「わたくしはこの一本の矢しか持っておりません。もし主人のいのちが救えるのでありますならば、この矢で鵲が空から落ちますように。もし主人の命運がもはや尽き果てるものでありますならば、この矢で鵲が飛び去りますように」
そして、矢をつがえて叫んだ。
「たのむ、あたってくれ!」
弦のひびきとともに、矢は鵲の尾にあたり、鵲は矢をつけたまま、まっすぐ岡の下へ飛んで行った。燕青は急いで岡を駆けおりて行ったが、鵲は見あたらない。さがしまわっていると、前方からふたりの男がやってきた。そのいでたちはといえば、
前頭(先頭)の的《もの》は(一)頂の猪嘴《ちよし》(豚の目のような型)の頭巾を帯び、脳後《のうご》(うなじ)には両個の金裹《きんか》の(金をかぶせた)銀環《ぎんかん》、上《うえ》(身)には香〓《こうそう》(黒色)の羅衫《らさん》(絹のひとえ)を穿《き》、腰には銷金《しようきん》(金箔《きんぱく》)の膊《とうはく》(腹巻)を繋《つ》け、半膝《とうしつ》の(膝まである)軟韈《なんべつ》の麻鞋《まあい》(麻の長靴)を穿き、一条の斉眉《せいび》の(眉まである長い)棍棒を提《ひつさ》ぐ。
後面の的《もの》は白の范陽《はんよう》(注一七)の遮塵《しやじん》の笠子《りゆうし》、茶褐の〓線《さんせん》の袖衫《しゆうさん》(糸編みの小袖)、腰には緋紅の纏袋《てんたい》(腹巻)を繋け、脚には〓土《てきど》の皮鞋《ひあい》(皮の靴。〓土も靴の異名)を穿き、衣包を背了し、(一)条の短棒を提げ、(一)口の腰刀を跨《は》く。
やってきたこのふたりは、燕青とすれちがった。燕青はふり返ってふたりを眺め、
「ちょうど一文も路用がないから、あのふたりを殴り倒して包みをふんだくり、それから梁山泊へ行ってやろう」
と、弓をしまい、急いでひき返して行った。ふたりは足もとを見ながら、さっさと歩いて行く。燕青は追いついて、うしろの氈笠《せんりゆう》をかぶった男の背中に拳骨をくらわして殴り倒し、さらに拳骨をふりあげて前の男に殴りかかって行くと、逆にその男の振りあげた棒が飛んできて、見事に燕青の左腿にあたり、地面にひっくりかえされてしまった。と、うしろの男が這い起きて、燕青を足で踏まえ、腰刀をひき抜いて真向《まつこう》から斬りつけようとした。燕青は大声で叫んだ。
「好漢、おれは殺されたってかまわんが、それじゃ主人のために知らせに行くものがなくなるんだ」
男は刀を振りおろさずに手をひき、燕青をひきずりおこしてたずねた。
「きさま、なにを知らせに行くんだ」
「それをきいてどうしょうというんだ」
と燕青がいうと、前のほうの好漢が燕青の手をぐいとひっぱった。そのため燕青の腕の刺青がむき出しになった。すると男はあわててたずねた。
「あんたは盧員外の家の浪子の燕青とかいう人じゃないか」
燕青は観念した。
「どうせ死ぬのなら、いっそのことしゃべってしまって、この男につかまえられて行ってご主人の魂といっしょになろう」
そして、いった。
「仰せのとおり、おれは盧員外の家の浪子の燕青だ。これから梁山泊へ知らせに行って、宋公明にたのんでご主人を救ってもらおうというのだ」
ふたりはそれを聞くと大声で笑いだした。
「いやはや殺さなくてよかったわ。そうか、燕小乙《しよういつ》兄いだったのか。ところであんたは、われわれふたりをご存じかな」
黒い装束の男は、ほかでもない、梁山泊の頭領、病関索《びようかんさく》の楊雄《ようゆう》で、あとのほうのは命三郎《へんめいさんろう》の石秀《せきしゆう》であった。楊雄はいった。
「われわれふたりは、いま、兄貴の命令を受けて北京へ盧員外の消息をさぐりに行くところなのです。軍師と戴院長もすぐあとから山をおりて、ひたすら知らせを待っておられる」
燕青はそれが楊雄と石秀だと知ると、これまでのいきさつをすっかりふたりに話した。すると楊雄は石秀にいった。
「そういうわけなら、わしは燕青といっしょに山寨へもどり、兄貴に知らせて別に手をうつことにするから、あんたは北京へ行って様子をさぐり、すぐ報告に帰ってくれ」
「よいとも」
と石秀はいった。燕青はさっそく包みを背負わされ、楊雄について大急ぎで梁山泊へ行き、宋江に会って、これまでのことをくわしく話した。宋江は大いにおどろき、すぐ頭領たちを集めて対策を講じた。
ところで石秀は、身のまわりの衣服だけを持って、やがて北京の城外までやってきたが、すでに日が暮れていたので、城内へはいることはできず、城外の宿で一夜をすごした。そして翌日、朝食をすませてから城内へはいって行ったが、見れば誰もかれもみな、ため息をつき、悲しみにうち沈んでいる。石秀はふしぎに思い、町の中心地まで行って見ると、家々はみな戸を閉め門をとざしている。石秀が町のものにたずねると、ある老人が答えていうには、
「旅のおかた、じつはこういうわけなのです。この北京には盧員外というどえらい資産家がおいでだが、このかたが梁山泊の賊にさらわれて行かれたのがもとで、逃げもどってみえたのだが無実の罪を着せられて、沙門島へ流されることになったのです。ところが、どうしたことか途中でふたりの護送役人を殺したとかで、ゆうべ召し取られてこられて、きょうの午時《ひ る》の三刻《みつどき》に、そこの広場(目抜きの場所が仕置場にあてられる)にひいてこられて打ち首になられるのです。おまえさんも見物なさるがよい」
石秀はそう聞いて、仕置場へ行ってみた。見れば十字路のとっつきに酒楼がある。石秀はさっそく酒楼へのぼって行って、通りに面した小部屋に席をとった。と、給仕がやってきて、
「お客さま、どなたかをお招きでございますか。それともおひとりでお飲みですか」
石秀は恐《こわ》い目をむいていった。
「酒は大きな碗、肉は大きな塊。とっとと持ってこい。糞うるさくきくな!」
給仕はびっくりして、酒を二角と大皿にいっぱいの牛肉を運んできた。石秀はひとしきり、がぶがぶ、むしゃむしゃやっていたが、やがて急に階下の通りがさわがしくなってきた。石秀が二階の窓から外をのぞいて見ると、どの家もみなぴったりと戸を閉め、どの店もみな門をとざしている。給仕があがってきていった。
「お客さま、お酔いなさったのですか。階下《し た》ではお仕置がおこなわれます。早く勘定をおすませになって、どこかほかへいらっしゃいましたら」
「なにをびくびくすることがある。さっさとひっこまないと、おれさまにぶん殴られるぞ」
給仕は声を呑んで階下へおりて行った。やがて通りには銅鑼や太鼓が天にとどろかんばかりの音をたてて近づいてきた。見れば、
両声の破鼓《はこ》(破れ太鼓)響き、一棒の砕鑼《さいら》(ひびわれた銅鑼)鳴る。〓纛旗《そうとうき》(黒い大旗)は招展して雲の如く、柳葉鎗《りゆうようそう》は交加して雪に似る。犯由牌《はんゆうはい》(罪状札)は前引し、白混棍《はくこんこん》(刑棒)は後随す。押牢節級は〓獰《そうどう》にして、刃を仗《と》る公人は猛勇なり。高頭の馬上、監斬官《かんざんかん》(処刑監督官)は活閻羅《かつえんら》(活《い》ける閻魔)より勝《まさ》れる似《ごと》く、刀剣の林中、掌法吏《しようほうり》(法《しおき》を掌《つかさど》る役人)は猶《なお》追命鬼《ついめいき》(地獄の鬼)の如し。憐れむべし十字街の心裏(まんなか)、冤《えん》を含み屈《くつ》を負う人(無実の人)を殺さんと要《ほつ》す。
石秀が二階の窓の外から眺めていると、十字路には十数対《つい》の刀や棒が仕置場をとりかこみ、首斬り役人が前後をかこんで盧俊義を縛ったまま酒楼の前にひき出してひざまずかせた。鉄臂膊《てつぴはく》の蔡福は首斬り刀を手にとり、一枝花《いつしか》の蔡慶は首枷の端を手でささえて、いいわたした。
「盧員外どの、自分でよく考えてみてください。わたしたち兄弟があなたを救い出さなかったのじゃなくて、事がまずい具合になってしまったのです。このさきの五聖堂のなかにちゃんとあなたの位牌をお祭りしておきましたから、どうかそこで成仏してください」
そのとき役人たちのなかから、
「午時《ひ る》の三刻《みつどき》だ」
と叫ぶ声がし、枷がはずされた。蔡慶はさっそく盧俊義の頭を据えなおし、蔡福は首斬り刀を手にかまえた。係りの孔目が声高く罪状札を読みあげると、群衆はどっと声をあげてどよめきたった。二階から見ていた石秀は、そのどよめきの声のなかで腰刀を手にかまえ、その声にこたえて大声で呼ばわった。
「梁山泊の好漢が、こぞってここに控えておるぞ」
蔡福と蔡慶は盧員外をうち捨て、縄をはなしてまっさきに逃げ出した。石秀は二階から跳びおり、鋼刀を振りかざしてまるで瓜を切り菜っ葉を切るがごとく人を斬りたて、逃げおくれたもの十数人を斬り倒して、片手に盧俊義を抱きかかえるや、南のほうへと逃げ走った。
石秀はもともと北京の道を知らず、盧員外もまたおどろきのあまり呆然となってしまって、だんだん逃げ場をうしなってきた。知らせを受けた梁中書は、大いにおどろき、ただちに幕下《ばくか》のもの(注一八)に命じ、軍勢を繰り出し手わけをして四方の城門を閉めさせるとともに、左右の捕り手のものをつかわして、いっせいにおそいかからせた。たとえいかに好漢英雄であろうと、高城峻塁《こうじようしゆんるい》を乗り越えることはできないであろう。まさに陸地を分け開かんに牙爪《がそう》なく、青天に飛び上《のぼ》らんに羽毛を欠くという次第。さて盧員外と石秀はそのときいかにして身を脱れたか。それは次回で。
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一・二・三・四・六 両院押牢節級、両院押牢、両院押獄、押獄、節級 第三十回注二参照。
五 〓〓 おしどりに似た水鳥で、紫鴛鴦ともいう。
七 戒石 役人に対する戒めを刻んで役所の庭に立てた碑《いしぶみ》で、その字句は第八回の注一に記した。
八 提刑官 くわしくは提点刑獄官で、天子が地方へ派遣する司法監察官の称。
九 羊脂玉 第二回注四参照。
一〇 〓冠 金鳥の羽を飾った貴人の冠。
一一 あなたをお仲間と思い 原文は仏眼相看。好意を以て待遇すること。
一二 たのみこんでおいた 原文は関節已定。関節とは賄賂を贈ってたのむこと。
一三 獅子吼 本来、仏《ほとけ》の法を説く声が世界を震わせることをたとえた言葉であるが、ここでは悪妻のたけだけしい声のことである。そのいわれは、かつて陳季常(名は慥、宋の人)が家に客を招いて宴を開いたとき、その妻の柳氏が、客間に妓女の声がするのを聞いて嫉妬し、杖で壁をたたきながら大声でわめいた。そのため客はみな帰ってしまった、という話から、詩人の蘇軾(東坡)が戯詩を作って、「忽ち聞く河東の獅子吼、挂杖《つ え》手より落ちて心茫然たり」とうたったことによる。「河東」といったのは、杜甫の詩に「河東の女児身姓柳」とあるのをうけて、陳季常の妻の柳氏をさしたもの。仏の説法をたとえた「獅子吼」という言葉を使ったのは、陳季常が仏教を好んだことからたわむれていったのである。
一四 室中の獅子吼の却って能く玉麒麟を断送する 獅子が麒麟を追っぱらった、即ち妻が盧俊義を追っぱらったの意。
一五 髪の毛一本も抜こうとはせん 原文は一毛不抜。『孟子』の尽心篇上に、「楊子《ようし》は我が為にするを取る。一毛を抜いて天下を利するも為《な》さざるなり」とある。楊子(楊朱)は戦国時代の利己的快楽主義者。
一六 組頭 原文は社長。二十五家を社という。
一七 范陽 第三回注一参照。しばらくあとに氈笠とあるのも、ここにいう范陽の笠子のことである。
一八 幕下のもの 原文は帳前頭目。元代では領軍のことを頭目といった。
第六十三回
宋江《そうこう》 兵もて北京城《ほつけいじよう》を打ち
関勝《かんしよう》 議して梁山泊《りようざんぱく》を取らんとす
さて、そのとき石秀と盧俊義のふたりは、城内で逃げ路を失っているうちに、四方から軍勢におしかこまれてしまい、捕り手の役人たちに撓鉤《どうこう》でひっかけられ、縄でからめられて、あわれ、精悍なる英雄も、ついに衆寡敵せずと観念した。ふたりはその場で捕らえられてしまい、梁中書の面前へひきたてられて行き、仕置場荒らしの賊として呼び出された。石秀は庁下にひき据えられると、おそろしい眼をかっと見開き、大声でののしった。
「おのれ、国家を傷つけ民草を害する悪党め、おれは兄貴の命令によって、そのうちに軍勢をひきつれてきてきさまのこの城を攻め、あとかたもなく踏みつぶし、きさまを三つにたたき斬ってやろうというわけで、まずおれさまがきさまにそのことを知らせにやってきたんだ」
石秀が庁前でさんざんにののしると、庁上のものたちはみな度胆をぬかれて呆然となってしまった。梁中書はそれを聞いてしばらく考えこんでいたが、やがて大枷を持ってこさせ、ふたりにはめて死刑囚の牢へ閉じこめ、蔡福に命じて十分に監視させ、手抜かりのないようにさせた。蔡福は梁山泊の好漢と近づきになりたいと思い、彼らふたりをいっしょにして牢にいれ、毎日うまい酒やよい肉を食べさせた。そのためふたりは一度も苦しい目にあわず、かえって十分に身体を養うことができた。
ところで梁中書は、この州へ新しく赴任してきた王太守を役所へ呼びつけて、城内の死傷者の数を調べさせたところ、殺されたものは七八十名、ころんで頭や顔を怪我したり、ぶっつけて皮膚をすりむいたり、ぶっつかって脚を折ったりしたものは数えきれぬほどであった。その名が役所に報告されると、梁中書は公金を支給して治療させたり火葬させたりした。
その翌日、城内からも城外からもとどけがあって、
「梁山泊のちらし(注一)を数十枚拾いましたので、かくさずにおとどけいたします」
という。梁中書はそれを読むと、びっくりして魂魄《こんぱく》九天の外に飛んでしまった。そのちらしにはこう書いてあった。
梁山泊の義士宋江、大名府に仰示し、天下に布告す。今、大宋朝、濫官《らんかん》道に当《あた》り、汚吏《おり》権《けん》を専らにするが為に、良民を殴死《おうし》(殴殺)し、万姓を塗炭《とたん》(の苦しみ)にす。北京の盧俊義は乃《すなわ》ち豪傑の士なり、今者《い ま》啓請して山に上《のぼ》らせ、一同天に替《かわ》って道を行《おこな》わんとするに、如何ぞ妄《みだり》に奸賄《かんわい》に〓《したが》い、善良を殺害せんとするや。特に石秀を令《し》て先に来《きた》りて報知せしむるに、期せずして倶《とも》に擒捉せ被《ら》る。如《も》し是れ二人の生命を存し得、淫婦奸夫を献出すれば、吾侵擾《しんじよう》すること無きも、〓《も》し若《も》し故《ことさら》に羽翼を傷つけ、股肱《ここう》を屈壊《くつかい》すれば、便《すなわ》ち当《まさ》に寨を抜き師を興《おこ》し、心を同じくして恨を雪《すす》ぐべし。大兵到る処、玉石倶《とも》に焚《や》き、奸詐《かんさ》を勦除《そうじよ》し愚頑《ぐがん》を殄滅《てんめつ》せん。天地咸《みな》扶け、鬼神共《とも》に祐《たす》け、談笑して城に入り、並《なら》びに軽恕《けいじよ》すること無し。義夫節婦、孝子順孫、好義の良民、清慎の官吏は、切に驚惶《きようこう》すること勿《な》く、各《おのおの》職業に安んぜよ。衆に諭して知悉《ちしつ》せしむ。
そのとき梁中書は、そのちらしを読むと、さっそく王太守を呼びよせて諮《はか》った。
「これは、どうしたらよかろうか」
王太守は気弱な人だったので、事の仔細を聞くなり、梁中書にこう進言した。
「梁山泊のあの一味は、朝廷から何度も討伐の軍をさしむけられたにもかかわらず、とりおさえられないのです。ましてこの一郡の力ではどうすることもできないでしょう。もしあのいのち知らずの連中が兵をひきつれてまいり、朝廷の援軍もまにあわないというようなことになりましたならば、悔いてもおよばないでしょう。わたくしの考えをいわせていただきますならば、しばらくあのふたりのいのちは、そのままにしておいて、まず第一に上奏文をしたためて朝廷に上申し、第二には書を奉って蔡太師さまに委細をお知らせし、第三には当地の軍勢を城外に出して陣をかまえさせ、不慮の事態に備えさせることであります。こうしますならば、北京を無事に保つことができて、住民も被害を受けずにすみましょう。もしあのふたりをいま殺してしまいますならば、おそらく賊軍は城に攻め寄せてまいりましょう。そうすればまず第一には、これをきりぬけるだけの兵力がなく、第二には朝廷からおとがめを受け、第三には住民があわてて城内が混乱におちいります。それゆえはなはだ得策とは申されません」
梁中書はうなずいて、
「それはいかにももっともな意見だ」
といい、まず押牢節級の蔡福を呼び出していいつけた。
「あのふたりの賊は、ただものではない。あまりきびしくすれば死なれるおそれがあるし、ゆるくすれば逃げられるおそれがある。それゆえ、おまえたち兄弟は、いつも、緩急の手かげんをよく心得、気をつけてしっかりと監視し、うまく取り扱うように。寸時も油断してはならぬぞ」
蔡福はそういわれると、心中ひそかに、
「そういう具合なら、それこそこっちの思いどおりだ」
と、うちよろこびつつ命を受け、牢へ行ってふたりを慰めたが、この話はそれまでとする。
さて梁中書は、つづいて兵馬都監の大刀《たいとう》の聞達《ぶんたつ》と天王《てんのう》の李成《りせい》のふたりを庁前に呼び出して協議した。梁中書はくわしく梁山泊のちらしのことと王太守の意見を話した。ふたりの都監はそれを聞くと、まず李成がいった。
「あの盗賊どもがたやすく巣窟を出てくるようなことはなかなかあるまいと思いますから、決してご心配なさいませぬよう。わたくし不才ではございますが、高禄をちょうだいいたしながらいまだその徳に報いる手柄もたてておりませぬゆえ、このさい犬馬の労をつくしたく、兵をひきつれて城外に陣をかまえ、賊どもがやってまいりませぬときは別にご相談することにいたしまして、もしもあの強盗どもが悪運つき、みだりにその巣窟をはなれてみなでおし寄せてまいりましたならば、広言いたすわけではございませんが、必ずやかの賊どもをして甲《よろい》の切れっ端ひとつももとの巣へは帰しません」
梁中書はそれを聞いて大いによろこび、さっそく金の花模様を刺〓した絹織物をあたえて二将を賞した。ふたりは礼を申し述べて梁中書のもとをひきさがり、それぞれ自分の陣営にもどって休んだ。
翌日、李成はその本営にのぼり、大小の軍官を召集して営内で軍議をひらいた。そのとき一隅から威風凜々、相貌堂々としたひとりのものが出てきた。すなわち急先鋒《きゆうせんぽう》の索超《さくちよう》で、みなと同じくすすみ出て挨拶をした。李成はこれに命令をくだしていった。
「盗《ぬす》っ人《と》の宋江めが、近く城におし寄せてきてこの北京を攻め取ろうとたくらんでいる。おまえは部下の兵をひきいて城外三十五里のところに陣をかまえるよう。わしもすぐあとから軍をひきいて出て行く」
索超は命令を受けると、その翌日、部下の兵を集め、三十五里前方の飛虎峪《ひこよく》というところの山麓に拠《よ》って陣をかまえた。翌日、李成は正副の将をひきいて城外二十五里の槐樹坡《かいじゆは》というところに陣をとり、周囲には槍や刀を隙《すき》なく配布し、あたり一面には深く鹿角《さかもぎ》を植え、三方におとし穴を掘った。兵士たちは拳《こぶし》をなで掌《てのひら》をこすって勇みたち、諸将は力をあわせ心をひとつにして、ひたすらに梁山泊の軍勢のおし寄せてくるのを待って手柄をたてようとした。
話はかわって、あのちらしのことであるが、あれは呉学究が、燕青と楊雄の知らせを聞き、さらに戴宗にさぐらせて盧員外と石秀がともにつかまったことを知って、そのためあのようないつわりの告示を書き、人のいないところで撒いたり、橋や道ばたに貼ったりして、盧俊義と石秀のいのちを助けようとしたものであった。戴宗は梁山泊に帰ってくると、事の次第をくわしく頭領たちに話した。宋江はそれを聞くと大いにおどろき、ただちに太鼓を打ち鳴らして一同を集めた。やがて大小の頭領が席順に座につくと、宋江はまず呉学究にむかっていった。
「はじめはあなたの考えで、盧員外を山へ迎えて仲間になってもらおうとしたのだが、このたび、はからずも彼を苦境におとしいれ、さらに石秀の兄弟までも敵の手におとしてしまったが、いったいどういう方法で救い出したものでしょうか」
「兄貴、ご安心ください。わたくし、およばずながら一策をほどこし、この機に乗じて北京の金銭食糧を奪い取って山寨の用にあてるようにしましょう。あすは吉日ですから、兄貴には頭領たちの半数とともに山寨を守っていただいて、わたしはその余の頭領たちといっしょに城を攻めにまいります」
「それはよろしいでしょう」
と宋江はいい、さっそく鉄面孔目《てつめんこうもく》の裴宣《はいせん》に命じて全兵士の割りふりを決めさせ、あす出発させることにした。すると黒旋風《こくせんぷう》の李逵《りき》がいった。
「おいらのこの二梃の大斧も長いこと仕事をしないでいたが、州を討つとか県を襲うとかいう話を聞いて、こいつらもここでよろこんでおります。兄貴、おいらに手下を五百ほどわけてください、北京へおしかけて行って、梁中書をたたき斬って肉泥《にくでい》にし、李固とあの阿魔をひっ捕らえてずたずたに斬り刻み、盧員外と石秀のふたりを救い出します。どうかそうさせてください」
宋江はさえぎって、
「あんたは勇猛にはちがいないが、北京というところはほかの州とはわけがちがう。それに梁中書は蔡太師の女婿だし、さらにその配下には李成と聞達がいて、どちらも万夫不当の勇者だから、そうあなどってはならない」
李逵は大声で、
「兄貴はそんなふうに相手をもちあげて味方の気勢をそぐようなことをいうが、まあ、おいらが行ってどうするかを見てください。もし負けたりなんかしたら誓って山へはもどりません」
呉用が、
「それほど行きたいというのなら、先鋒にしよう。五百の好漢をしたがえ、陣頭に立って、あす山をおりてもらおう」
その夜、宋江と呉用は協議して人員の割りあてをし、裴宣が告示を書いて各寨にまわし、それぞれ割りあてどおりに行動して刻限にまちがいのないようにさせた。
時節は秋の末、冬のはじめで、征夫はよろいも軽く戦馬はよく肥え、軍卒は久しく戦陣に臨まず戦闘の心をたぎらせ、みな非道を憎んで復讐の念に燃え、出陣の命を受けて欣喜雀躍、槍刀をとりそろえ鞍馬をととのえ、拳《こぶし》をなで掌《てのひら》をこすりつつ、定めの時刻に山をおりて行った。その第一隊は、先頭をきる斥候隊として黒旋風の李逵が手下五百をひきい、第二隊は、両頭蛇《りようとうだ》の解珍《かいちん》、双尾蝎《そうびかつ》の解宝《かいほう》、毛頭星《もうとうせい》の孔明《こうめい》、独火星《どくかせい》の孔亮《こうりよう》が手下一千をひきい、第三隊は、女頭領一丈青《いちじようせい》の扈三娘《こさんじよう》、その副将母夜叉《ぼやしや》の孫二娘《そんじじよう》、母大虫《ぼたいちゆう》の顧大嫂《こだいそう》が手下一千をひきい、第四隊は、撲天〓《はくてんちよう》の李応《りおう》、その副将九紋竜《くもんりゆう》の史進《ししん》、小尉遅《しよううつち》の孫新《そんしん》が手下一千をひきい、中軍には、主将にして頭領のかしらたる宋江《そうこう》、軍師の呉用《ごよう》、その幕僚たる頭領四人は、小温侯《しようおんこう》の呂方《りよほう》、賽仁貴《さいじんき》の郭盛《かくせい》、病尉遅《びよううつち》の孫立《そんりつ》、鎮三山《ちんさんざん》の黄信《こうしん》。前軍の頭領は霹靂火《へきれきか》の秦明《しんめい》、副将百勝将《ひやくしようしよう》の韓滔《かんとう》、天目将《てんもくしよう》の彭〓《ほうき》。後軍の頭領は豹子頭《ひようしとう》の林冲《りんちゆう》、副将鉄笛仙《てつてきせん》の馬麟《ばりん》、火眼〓猊《かがんしゆげい》の〓飛《とうひ》。左軍の頭領は双鞭《そうべん》の呼延灼《こえんしやく》、副将摩雲金翅《まうんきんし》の欧鵬《おうほう》、錦毛虎《きんもうこ》の燕順《えんじゆん》。右軍の頭領は小李広《しようりこう》の花栄《かえい》、副将跳澗虎《ちようかんこ》の陳達《ちんたつ》、白花蛇《はつかだ》の楊春《ようしゆん》。ほかに砲手の轟天雷《ごうてんらい》の凌振《りようしん》、糧秣輸送および情報偵察の頭領として神行太保《しんこうたいほう》の戴宗《たいそう》が同行。かくて全軍の割りあてがきまると、明けがたから各頭領は順次に出発して、その日壮途にのぼり、あとには副軍師の公孫勝《こうそんしよう》ならびに劉唐《りゆうとう》・朱仝《しゆどう》・穆弘《ぼくこう》の四人の頭領が歩兵騎兵を統べて山寨の三つの関門を守り、水寨はもとのまま李俊《りしゆん》らが守ったが、この話はそれまでとする。
一方、索超《さくちよう》が飛虎峪《ひこよく》の陣中にいると、早馬が駆けつけてきて報告した。
「宋江の軍勢が数知れぬほどの兵力で、陣地の前方二三十里のところまで迫ってまいりました」
索超はそれを聞くと、李成の槐樹坡《かいじゆは》の陣中へ急報を飛ばした。李成はその知らせをうけると城内へ早馬をつかわすとともに、みずから馬を駆って前方の陣へ行った。索超は出迎えてくわしく状況を話し、翌日の五更に腹ごしらえをして、夜明け、全軍こぞって〓家《ゆかたん》まですすみ、そこに陣をしいて一万五千の兵をおしならべた。李成と索超は全身をよろいにかためて門旗(大将旗)の下に馬をとめ、はるかに東のほうを一望した。と、遠くに砂塵をまきあげて、およそ五百人あまりが飛ぶようにおしよせてくる。李成が鞭を振って合図をすると、兵士たちは足で硬弩《こうど》を踏み、手で強弓をひきしぼった。梁山泊の好漢たちは〓家に横一文字に陣をしいた。見れば、
人々《にんにん》都《すべ》て茜紅《せんこう》の巾《きん》(あかね色の頭巾)を帯び、個々斉《ひと》しく緋の衲襖《のうおう》(木綿の長上着)を穿《き》る。鷺〓《ろじ》(さぎ)の脚《あし》は緊《きび》しく脚〓《きやくほう》(脚絆《きやはん》)を繋《し》め、虎狼の腰は牢《かた》く裹肚《かと》(腹巻)を〓《し》む。三股《さんこ》の叉《さ》(みつまたの槍)は直《ただち》に寒光を迸《ほとばし》らせ、四稜の簡《かん》(注二)は冷霧を〓《ひ》く、柳葉鎗《りゆうようそう》・火尖鎗《かせんそう》は密布して麻の如く、青銅刀《せいどうとう》・偃月刀《えんげつとう》は紛々として雪に似たり。満地の紅旗は火〓を飄し、半空の赤幟《せきし》(赤いのぼり)は霞光を耀かす。
その東の陣から、つと、ひとりの好漢が先頭に馬を乗りすすめた。すなわち黒旋風の李逵で、手に二梃の斧を握り、恐ろしい眼をかっと見ひらき、剛《こわ》い歯を噛みくだかんばかりにして、大声で呼ばわった。
「梁山泊の好漢、黒旋風の李逵を知らんか」
李成は馬上でそれを見ると、からからと笑って索超にいった。
「いつも梁山泊の好漢のうわさは聞いていたが、なんとあんなうすぎたない盗《ぬす》っ人《と》だったのか。まるでものの数でもないわ。先鋒、あれを見い。まずあいつからとりおさえるがよいぞ」
索超も笑いながら、
「鶏を割くのに牛刀を用いることもありますまい(注三)。手柄にしたいものがいるでしょうから、ご懸念にはおよびません」
といったとたんに、索超のうしろから、姓は王《おう》、名は定《てい》という一将が、長槍をしごきながら、手勢の騎兵一百をひきいて、飛びかかって行った。さすがに豪胆な李逵も、よろいに身をかためていたとはいうものの、騎兵の突撃にはあたるべくもなく、一同は四方に逃げ散った。索超は軍をひきいて〓家《ゆかたん》のむこうまで追いかけて行ったが、すると、丘のうしろから銅鑼と軍鼓が天にとどろかんばかりに鳴りだし、さっと二隊の軍勢が飛び出してきた。左には解珍と孔亮、右には孔明と解宝が、それぞれ、五百の手下をひきいて斬りすすんできたのである。索超は敵に援軍のあるのを見てはっとおどろき、追うのをやめ、馬首を転じてひき返した。すると李成が、
「どうして賊を捕らえてこなかった」
となじった。
「山のむこうまで追いかけて行きまして、もうやつをとりおさえるばかりというときに、思いがけなくやつらには援軍がありまして、どっと伏兵があらわれたものですから、手がつけられなかったのです」
「あんな盗っ人どもなど、なんのおそれることがあるものか」
と李成はいい、前軍の兵をひきいて、大挙して〓家へ斬り込んで行った。と前方に、旗を振り喊声をあげ、銅鑼を鳴らし軍鼓をたたきながら、また一隊の軍勢があらわれた。その先頭の馬上には美しく粧った女将軍が乗っていた。念奴嬌(曲の名)のうたにこれをうたっていう。
玉雪《ぎよくせつ》の肌膚《きふ》、芙蓉《ふよう》の模様《もよう》、天然の標格《ひようかく》(品格)有り。金鎧《きんがい》輝《て》り煌《かがや》いて鱗甲《りんこう》動く。銀滲《ぎんしん》の紅羅《こうら》の抹額《まつがく》(鉢巻)。玉手《ぎよくしゆ》繊々として宝刀を双持す。恁《いか》んぞ英雄にして〓赫《けんかく》(赫々)たる。眼は秋波を溜《た》め、万種の妖〓《ようじよう》(妖艶)摘するに堪えたり。謾《そぞ》ろに宝馬を馳せて当前し(すすみ)、霜刃は風の如く、官兵を把《と》って斬馘《ざんかく》せんと要《ほつ》す。粉面に塵《ちり》飛び、征袍(戦衣)に汗湿《うる》おい、殺気は胸腋《きようえき》に騰《あが》る。戦士は魂《こん》を消し、敵人は胆《たん》を喪う。女将中間奇特《きとく》なり。勝を得て帰り来《きた》れば、隠々として笑《えみ》双頬《そうきよう》に生ず。
さて扈三娘《こさんじよう》は兵をひきつれ、紅旗には金文字で大きく、
女将《じよしよう》一丈青
としるし、左には顧大嫂《こだいそう》、右には孫二娘《そんじじよう》がひかえ、一千余りの軍勢をひきつれていたが、それらはみな、種々雑多なあちこちからの寄せ集めのもの。李成はそれを見ていった。
「あの兵隊たちになにができるというのだ。先鋒、出て行ってやつらの相手になってくれ。わしは別に兵をひきつれて四方の賊どもをひっ捕らえてやるから」
索超は命を受けると、金〓斧《きんさんふ》を握りしめ、馬をけたてて斬りすすんで行った。と、一丈青はくるりと馬首をめぐらし、山のくぼみのほうへ逃げ出した。李成は兵を手わけして四方に斬りまくったが、追いまくっているうちに、とつぜん地をふるわせて喊声がおこり、天をおおって霧がたちこめたと見るまに、一隊の軍勢が飛ぶような勢いで追い迫ってきた。李成はあわてて兵を十四五里ほど後退させ、前後をかえりみるいとまもなく急いで〓家へ逃げこんで行ったが、すると、左のほうから解珍と孔亮が飛び出してきて、兵をひきいて斬りかかってき、右のほうからも孔明と解宝が飛び出してきて、同じく兵をひきいておそいかかってきた。三人の女将軍も馬首を転じてうしろから殺到してくる。李成の軍は追われて四分五裂のありさまになった。急いで陣地へひきあげて行こうとすると、黒旋風の李逵が飛び出してきて、行くてをさえぎった。李成と索超は敵軍をつき破り、血路を開いて逃げたが、ようやく陣地へもどったときにはさんざんな敗北を喫していた。宋江の軍は追撃はせずに、兵を収めてしばらく休ませ、陣地をかまえた。
さて李成と索超は急いで使者を城内へつかわして梁中書に報告した。梁中書はさっそく聞達《ぶんたつ》に、手勢をしたがえて加勢に駆けつけさせた。李成はそれを出迎え、槐樹坡の陣中で撤兵《てつぺい》の策を諮《はか》った。すると聞達は笑って、
「たかが疥癬《かいせん》ていどの病、気にするほどのことはありません。およばずながらわたしが、あす、一戦を買って出て必ず勝ってみせましょう」
その夜相談をきめると、兵士たちに命令をつたえ、四更に飯ごしらえをし、五更によろいをつけ、夜あけに出陣することとした。かくて戦鼓が三たび鳴らされるとともに、全軍陣地を立って〓家《ゆかたん》へとすすんで行ったが、見れば早くも宋江の軍勢が疾風のようにおし寄せてくる。そのさまは、
征雲冉々《ぜんぜん》として晴空に飛び
征塵漠々として西東に(西に東に)迷う
十万の貔貅《ひきゆう》(猛士)声《こえ》地を震わせ
車廂《しやしよう》の火砲雷《いかずち》の如く轟く
〓鼓《へいこ》(戦鼓)鼕々《とうとう》として山谷を撼《ゆる》がせ
旌旗猟々《りようりよう》として天風に揺《ゆら》ぐ
鎗影《そうえい》空に揺《ゆら》いで玉蟒《ぎよくもう》(白い大蛇)翻《ひるがえ》り
剣光《けんこう》日に耀《かがや》いて蒼竜飛ぶ
六師(六軍)鷹揚《ようよう》として鬼神泣き
三軍英雄にして貅虎《きゆうこ》に同じ
〓星《こうせい》〓曜《さつよう》(天〓星・地〓星)凡世に降《くだ》り
天蓬《てんぽう》丁甲《ていこう》(ともに道教の猛神)青穹《せいきゆう》を離る
銀〓金甲《ぎんかいきんこう》冰雪《ひようせつ》を濯《すす》ぎ
強弓硬弩真に攻め難し
人々ただ忠義を尽《つく》さんと欲す
王を擒《と》り将を斬るも功を邀《むか》うるに非ず
大刀の聞達量《りよう》(力量)を知らず
狂言(大言)して技を逞しくするも真に雕虫《ちようちゆう》(注四)
飛虎峪《ひこよく》中に兵四《よも》に起《おこ》り
星馳《せいち》し電逐《でんちく》して前鋒《ぜんぽう》する無し
関を閉じて残戈甲《ざんかこう》(敗軍)を収拾するは
脱兎《だつと》の葭蓬《かほう》(草むら)に潜むが如き有り
その日、大刀《たいとう》の聞達《ぶんたつ》は兵を散開させるや強弓硬弩を射ちかけて敵の出足をおさえた。花模様をえがいた〓鼓《だこ》(鰐《わに》皮の太鼓)がうち鳴らされ、色とりどりの〓旗がうち振られるなかを、宋江の陣中から早くもひとりの大将が出てきた。紅旗に銀文字で、
霹靂火秦明
と大書してある。そのいでたちいかにといえば、
頭には朱紅の漆笠《しつりゆう》を戴き、身には絳色《こうしよく》の袍《ほう》(上着)の鮮かなるを穿《き》る。連環の鎖甲《さこう》は獣《じゆう》肩を呑み(くさりよろいの肩口には獣環をつけ)、抹緑《まつりよく》(萠黄色)の戦靴は雲嵌《かん》せらる(雲型の皮靴をはく)。鳳翅《ほうし》の明〓《めいかい》(鳳《おおとり》の羽型のかぶと)は日に耀《かがや》き、獅蛮《しばん》の宝帯《ほうたい》(獅子王を飾った帯)は腰に懸《かか》る。狼牙《ろうが》の混棍《こんこん》(狼牙のような針を植えた棍棒)は手中に拈《と》られ、凜々たる英雄罕《まれ》に見る(たぐいまれなり)。
秦明は馬をとめ、大声で呼ばわった。
「北京の濫官汚吏《らんかんおり》め、よく聞け。かねてからきさまたちの城を攻めおとしてやろうと考えておったが、百姓《ひやくせい》良民を害することをおそれて、思いとどまっていたのだ。さあ、盧俊義と石秀をひきわたし、淫婦奸夫もいっしょに突き出せ。そうすれば兵を収めていくさをやめ、決して侵すようなことはせぬ。だが、ものわかりのわるいことをいうならば、いますぐ、崑岡《こんこう》に火をおこして玉石ともに焼いてしまうぞ(注五)。いうことがあればさっさといえ、手間どることはゆるさんぞ」
まだいいおわらぬうちに、聞達はかっとなって諸将に呼びかけた。
「誰かあの賊めをとりおさえろ」
とたんに、うしろで鸞鈴《らんれい》が鳴り、ひとりの大将が馬を乗り出してきた。そのいでたちいかにといえば、
日に耀いて兜〓《とうぼう》(かぶと)は晃々《こうこう》、連環の鉄甲は重々たり。団花点翠の(丸い花模様に翠《みどり》を天綴した)錦袍は紅に、金帯は双鳳を〓《ちりば》め成す。鵲画《しやくが》の弓(かささぎの絵をかいた弓)は袋内に蔵せられ、狼牙の箭《や》は壺(矢壺)中に挿さる。雕鞍《ちようあん》は穏かに五花の竜(黒白まだらの馬)を定め、大斧は手中に摩弄《まろう》さる。
この男は北京の上将で、姓は索《さく》、名は超《ちよう》といい、世間の人々は彼が気短なことから、急先鋒《きゆうせんぽう》とあだ名していた。彼は陣頭にあらわれるや大声でどなった。
「きさまはもともと朝廷から命《めい》をうけた役人、国家の恩恵に浴しながら、まっとうな道を歩まずに、よくも盗賊などになりおったな。いまおれがとりおさえて、きさまをずたずたに斬り刻んでやるが、死んでもきさまの罪はつぐないきれぬぞ」
こちらの秦明も、また気短な男だったから、それを聞くと、炉に炭を加えたように、火に油をそそいだようになり、馬をけたて狼牙棍《ろうがこん》をふりまわして、まっしぐらに突きかかって行った。索超も馬を飛ばして秦明におそいかかり、かくて二頭の駻馬が馳せちがい、二梃の武器がかちあった。両陣の兵はどっと喊声をあげる。ふたりはわたりあうこと二十余合、勝敗は決しなかった。そこへ宋江の軍の先鋒隊のなかから韓滔《かんとう》が出てきて、馬上で弓に矢をつがえ、索超にむかってねらいを定め、ひょうと射放《いはな》てば、矢はねらいたがわず索超の左腕に命中した。索超は大斧をほうり出し、馬首を転じて自陣へと逃げ出した。宋江が鞭を振って合図すると、全軍はどっと斬りすすみ、屍《しかばね》は野に満ちて横たわり、血は河をなして流れ、敵に大敗を喫せしめて、そのまま一気に〓家《ゆかたん》を越え、たちまちにして槐樹坡《かいじゆは》の陣地を奪ってしまった。その夜、聞達は飛虎峪《ひこよく》まで逃げ、兵を点検してみると、三分の一を失っていた。宋江は槐樹坡の陣地に兵をとどめた。すると呉用がいった。
「敗残の兵は怖気《おじけ》づいているものです。それゆえ勢いに乗じて追い討ちをかけなければ、たち直ってからではなかなか勝てません」
「いかにもそのとおり」
と宋江はいい、ただちに命令をくだし、その夜さっそく、勝ち誇った精鋭を四手にわけて出陣し、城にむかって殺到させた。
ところで、飛虎峪に逃げこんだ聞達は、喪家《そうか》の犬(注六)のごとくうろうろとし、網からのがれた魚のようにあわてて、陣中で対策を協議していると、兵士が駆けつけてきて知らせた。
「近くの山の上一帯に火が燃えております」
聞達が兵をしたがえ、馬に乗って出て見ると、東のほうの山上に無数の松明《たいまつ》が燃え、野も山もいちめんにまっ赤に照らし出されている。聞達はただちに兵をひきつれて迎え討って出たが、すると山のうしろから、こんどは騎兵が飛び出してきた。その先頭の大将は小李広《しようりこう》の花栄《かえい》で、副将の楊春《ようしゆん》と陳達《ちんたつ》をしたがえ、側面から斬りかかってきた。聞達は立ちむかうことができず、兵をひきいて急いで飛虎峪へひき返した。と、西のほうの山上にも無数の松明があらわれた。その先頭の大将は双鞭《そうべん》の呼延灼《こえんしやく》で、副将の欧鵬《おうほう》と燕順《えんじゆん》をしたがえて突きすすんできた。うしろにもまた喊声がおこった。それは大将の霹靂火《へきれきか》の秦明《しんめい》が、副将の韓滔《かんとう》と彭〓《ほうき》をしたがえてまっしぐらに斬りこんでくるのだった。聞達の軍は大いに乱れ、陣地をひきはらって逃げようとすると、行くてにまたもや喊声がおこり、火の光がぎらぎらとかがやいた。それは轟天雷《ごうてんらい》の凌振《りようしん》が、副手の兵をひきつれ小路づたいに飛虎峪のほうへ出て火砲をぶっ放したのだった。聞達は兵をひきいて血路を斬り開きつつ城のほうへと逃げ走った。するとまた行くてに軍鼓が鳴りひびき、一隊の軍勢がさっと道をさえぎった。火の光のなかから飛び出してきた大将は豹子頭《ひようしとう》の林冲《りんちゆう》で、副将の馬麟《ばりん》と〓飛《とうひ》をひきしたがえて退路を絶ちふさいだのである。かくて四方から戦鼓はいっせいに鳴り、烈火は競《きそ》うように燃える。兵たちは算を乱して、てんでにいのちからがら逃げ散った。聞達は大刀をまわしつつ血路を斬り開いてのがれ、おりよく李成と出くわして、兵をひとつにあわせ、戦っては逃げつつ、明けがたになってようやく城下にたどりついた。梁中書はその消息を聞くと、おどろきのあまり魂魄も宙に飛び、あわてて兵を集めて城外に出し、敗残の軍を迎えいれるなり固く城門を閉ざして、たてこもったまま外に出なかった。翌日、宋江の軍は東門まで追い迫ってきて陣をかまえ、城を抜く準備にとりかかった。
さて梁中書は、留守司に一同を集めて協議したが、きりぬける術《すべ》はなかった。李成がいうには、
「賊軍は城に迫って事態は急を告げております。このままぐずぐずしておれば攻めおとされるよりほかありませんから、どうか危急を告げる書面をしたためられ、腹心のものを火急に京師へつかわして蔡太師にご報告し、早く朝廷に上奏して、精鋭を救援にさしむけていただくようになさることが、上策でございましょう。そして第二には、緊急の文書を作って近隣の府県に知らせ、同じく早急に救援の兵をさしむけさせ、第三には、北京の城内では大名府にいいつけて賦役をさし出させ、城壁にのぼらせて、協力一致して城を守り、擂木《らいぼく》(投げ丸太)、砲石《ほうせき》(投げ石)、踏弩《とうど》(足で踏んで射る強弩)、硬弓《こうきゆう》(強弓)、灰瓶《かいへい》(目つぶし)、金汁《きんじゆう》(糞尿)などを備えて、昼夜の別なく警備せしめますならば、無事を保つことができましょう」
「書面はすぐに書くが、誰に持って行かせたらよかろうか」
と梁中書はいった。その日、大将の王定《おうてい》を使者にえらんで、全身をよろいにかためさせ、さらに数名の騎兵をっけ、密書をさずけ、城門をあけ吊り橋をおろして、東京《とうけい》へ事情を急報させ、また近隣の府県へも知らせて、救援の兵をさしむけさせた。これよりさき、王太守に命じて賦役のものを集め、城壁にあげて守備につかせたが、この話はそれまでとする。
一方、宋江は、諸将を手わけし、軍をひきいて城の東と西と北の三方をかこんで陣をしかせ、南門だけはそのままにしておいた。そして連日、兵を出して攻めつける一方、山寨から糧秣を取りよせて持久戦の備えをし、あくまでも北京を打ち破って盧員外と石秀のふたりを救い出そうとかかった。
李成と聞達は、連日、兵をひきい、城を出てたたかったが、勝ちを制することができず、矢傷を養生している索超はまだ快《よ》くならなかった。
宋江の軍の城攻めのことはしばらくおいて、こちら、密書をあずかった大将の王定は、三騎でまっしぐらに東京の太師府へ駆けつけ、府の前で馬をおりた。門番のものが奥へとりつぐと、太師は王定を呼びいれさせた。王定は奥の間へ通り、礼をおさめ、密書をさし出した。蔡太師は封を切って読むや、大いにおどろき、くわしい事情をたずねた。王定は盧俊義のことをくわしく話し、現在宋江は兵をひきいて城をとりかこんでいるが、その勢いは強大で太刀打ちのできないことや、〓家《ゆかたん》・槐樹坡《かいじゆは》・飛虎峪《ひこよく》の三つの陣地のたたかいのことなどを、すっかり話した。すると蔡京は、
「遠路疲れたであろう。ひとまず駅舎へさがって休むように。わしはみなのものに諮《はか》ってみるから」
といった。
「太師さま、北京は累卵《るいらん》の危うきにあります。いまにも打ち破られそうなのでございます。もし陥落いたしましたならば、河北《かほく》の郡県はどうなるでありましょう。どうか太師さま、早々に討伐の軍をおさしむけくださいますよう」
「それはわかっている。そのほうはひとまず退《さが》っているがよい」
王定が退出すると、太師はさっそく当直の府幹《ふかん》(用人)をつかわして、軍事上の大事を諮りたいから急いで集まるようにと、枢密院《すうみついん》(軍の最高機関)の諸官を呼ばせた。まもなく東庁枢密使(枢密院の長官)の童貫《どうかん》が、三衙《さんが》(近衛軍・騎兵軍・歩兵軍)の太尉(大臣)をしたがえて節堂《せつどう》(軍機を評議する所)に集まり、太師に目通りした。蔡京は大名(北京)が危急に陥っていることをくわしく話し、
「どういう策をたて、誰をつかわしたならば、賊軍を撃退して城を無事に保つことができるであろうか」
と諮《はか》った。それを聞くと、一同は互いに顔を見合わせておそれていたが、そのとき歩司太尉(歩兵軍の大臣)のうしろから、ひとりのものがすすみ出てきた。それは衙門防禦使保義《がもんぼうぎよしほうぎ》で(注七)、姓は宣《せん》、名は賛《さん》といい、兵馬をつかさどっていたが、この男、生まれつき顔は鍋の底のようで(丸く大きく)、鼻の穴は上をむき、ちぢれ毛、赤ひげで、身の丈《たけ》八尺。剛刀《ごうとう》の使い手で、武芸は衆にすぐれ、以前ある王(皇室の外戚)の府《やかた》にいて郡馬《ぐんば》(王の女婿にあたえられる官名)だったことから、醜郡馬《しゆうぐんば》とあだ名されていた。かつて連珠箭《れんしゆせん》(矢かずくらべ)をして番将(異国の将)に勝ったところ、郡王《ぐんおう》(王の一族たる貴族)にその武芸をみこまれて、その女婿に迎えられたのであるが、郡主《ぐんしゆ》(郡王の王女)が彼の容貌の醜いのをきらい、それを苦にして死んでしまったために、重く用いられず、兵馬保義使にしかなれずにいたのである。童貫は阿諛便佞《あゆべんねい》の徒だったので、この宣賛とはうまがあわず、嫌いきっていた。
ところで、そのとき宣賛は、じっとしていられなくなり、列からすすみ出て太師に言上した。「わたくしは以前、田舎のほうにおりましたとき、ある男と親しくなりましたが、この男は漢《かん》の末、三国《さんごく》のときの義勇武安王《ぎゆうぶあんおう》(関羽《かんう》のこと。宋代に追贈された封号)の嫡流の子孫で、姓は関《かん》、名は勝《しよう》といって、祖先の雲長《うんちよう》(関羽)にそっくりです。青竜偃月刀《せいりゆうえんげつとう》の使い手で、人々から大刀《だいとう》の関勝《かんしよう》とあだ名されております。いまは蒲東《ほとう》の巡検《じゆんけん》(捕盗役人)をつとめて端下《はした》役人にあまんじておりますが、この男は弱年のころから兵書を学んで武芸に精通し、万夫不当の勇をもっております。もし手厚く迎えて彼を上将(武将の最高官)にいたしますならば、水寨を掃蕩し狂徒を殲滅して、国を保ち民を安んじることができましょう。どうかご一考くださいますよう」
蔡京はそれを聞くと大いによろこび、さっそく宣賛を使者に立て、文書と鞍馬をあずけて急いで蒲東へ行かせ、関勝を京師に招いて相談することにした。一同はみな退出した。
くどい話はぬきにして、宣賛は文書をあずかると馬に乗って出発し、四五人の従者とともに、やがて蒲東の巡検司に着き、その前で馬をおりた。その日、関勝は〓思文《かくしぶん》と役所で古今の興廃のことを論じあっていたが、そこへ東京から使者がやってきたと聞いて、急いで〓思文とともに出迎え、挨拶をかわしたのち、表広間に請じいれた。
「久しぶりにお目にかかりますが、きょうはまた、なんのご用で遠路わざわざお出かけくださったのですか」
と関勝がたずねると、宣賛は、
「梁山泊の盗賊どもが北京に攻め寄せておりますので、わたしは太師にあなたが国家を安んじる策を持ち、敵を降す才のあることを極力おすすめして、かく朝廷よりの勅旨と太師の鈞命《きんめい》を奉じ、綵幣《さいへい》(五色の幣帛《き ぬ》)と鞍馬をもってお迎えにまいったのです。どうかご辞退くださらぬよう、さっそくお支度のうえ、京師へおのぼりください」
関勝はそれを聞くと大いによろこび、宣賛にむかって、
「こちらの兄弟は、姓は〓《かく》、名は二字名で思文《しぶん》といって、わたしとは義兄弟をちかいあった仲です。はじめ彼の母親が井木〓《せいぼくかん》(星座の名。二十八宿のうちの井宿)が胎内にはいった夢を見て身ごもり、のち彼を生んだというので、人々は井木〓とあだ名しております。この兄弟は、武芸十八般のすべてに精通しておりますので、太師どののお招きにあずかったうえは、いっしょに行って、力をあわせて国のためにつくそうと思うのですが、おさしつかえありますまいな」
宣賛はよろこんで承諾し、さっそく促して出発した。
そのとき関勝は家族のものにあとのことをたのみ、〓思文といっしょに、関西《かんせい》の漢《おとこ》十数人をひきつれ、刀・馬・かぶと・よろい・旅の荷物などをとりそろえ、宣賛について道を急ぎ、東京に着いて太師府の前で馬をおりた。門番のものが蔡太師に知らせると、太師は呼びいれよとのこと。宣賛は関勝と〓思文を節堂へつれて行って目通りをさせ、階《きざはし》の下に侍立させた。
蔡京が関勝を見るに、なかなか立派な風貌をしている。身の丈は堂々八尺五六寸、細く三すじのひげ(注八)をのばし、眉は長く鬢《びん》に達し、鳳眼《ほうがん》(つりあがった眼。関羽は鳳眼だったという)は天にむかい、顔は大きな棗《なつめ》(注九)のように赤黒く、唇は朱を塗ったように赤い。太師はすっかり満足してたずねた。
「将軍、お年はいくつですか」
「三十と二歳です」
「梁山泊の盗賊どもが北京の城をかこんでいるが、どうか妙策をめぐらしてその囲みを解いていただきたい」
関勝はかしこまっていった。
「盗っ人どもが水泊に拠《よ》って世間をおびやかしているということは、かねてから聞いておりました。このたび勝手に巣窟を出てきましたのは、みずから禍《わざわい》を招いたようなものです。しかし北京を救おうとしますと、いたずらに人力をついやすことになりますから、わたくしは、精兵数万をお借りしてまず梁山泊を取り、そのあとで北京の賊を討って、彼らをして首尾相助けることのできないようにさせたいと考えます」
太師はそれを聞くと大いによろこんで宣賛にいった。
「それこそ、魏《ぎ》を囲み趙《ちよう》を救う計(注一〇)というもので、まさにわしの考えどおりだ」
と、さっそく枢密院の諸官に命じて山東と河北の精鋭一万五千を徴集させ、〓思文を先鋒に、宣賛を後詰めに、関勝を領兵指揮使(総指揮官)に任じ、歩軍太尉の段常《だんじよう》には糧秣をつかさどらせた。そして全軍をねぎらい、日を期して、威風堂々と梁山泊にむかって殺到することとなった。かくて、竜を大海からひき離して、霧に駕し雲に騰《のぼ》ることをできぬようにし、虎を平地にひき出して、牙《きば》を張り爪を舞わすすべを失わしめようというのである。まさに、天上の中秋の月を見ることを貪《むさぼ》って、盤中の照殿の珠《たま》を失うというところ。はてさて宋江の軍勢はいったいどうなるであろうか。それは次回で。
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一 ちらし 原文は没頭帖子。帖子は役所から出すものであるが、それが梁山泊のものであるために没頭(頭なき)とつけたのである。
二 簡 鉄鞭(武器)の一種。第二回の注一一参照。
三 鶏を割くのに牛刀を用いることもありますまい 原文は割〓焉用牛刀。『論語』の陽貨篇に見られる孔子の言葉で、小事を処理するのに大器を用いる必要はないの意。
四 雕虫 「雕虫の小技」のこと。すなわち詩文を作ることを軽んじていう言葉であるが、ここではただ「小技」の意につかわれている。
五 崑岡に火をおこして玉石ともに焼いてしまうぞ 『書経』の胤征《いんせい》に、「火崑岡《こんこう》に炎《も》ゆれば玉石倶《とも》に焚《や》く。天吏徳を逸すれば猛火よりも烈し」とあることから出た言葉で、あらゆるものを焼きつくすの意。崑岡は玉を産する山の名。あるいは崑崙《こんろん》山のことであるともいう。
六 喪家の犬 『史記』の孔子世家に、孔子が諸国遊説の途、鄭《てい》の国で弟子たちとはぐれ、東門のほとりでたたずんでいるのを見た鄭のある人が、孔子のその姿を形容して「〓々《るいるい》として喪家の狗の若《ごと》し」といったとしるされている。宿なしの迷い犬の意である。
七 衙門防禦使保義 防禦使は唐のとき要害の地におかれた官名で、刺史の兼官であったが、宋代には任務のない官名だけが残された。それゆえ衙門防禦使保義、あるいは防禦保義使といった。
八 三すじのひげ 原文は三柳髭鬚。くちひげとあごひげ。三柳は三牙(第九回注二参照)ではない。
九 大きな棗 原文は重棗。第十三回注三参照。
一〇 魏を囲み趙を救う計 原文は囲魏救趙之計。戦国時代、魏《ぎ》が趙《ちよう》を攻めて都城の邯鄲《かんたん》(河北省)を包囲した。そのとき斉《せい》は田忌と孫〓《そんひん》に趙を救わせたが、孫〓は魏の精鋭がみな趙に出征していて国内が手薄であるのを見、邯鄲へ行かずに魏に攻め入った。魏軍はあわてて本国にひき返したが、斉はその疲弊した遠征軍を大いに破って趙を救うことに成功した。これに類似した戦法を囲魏救趙の計という。
第六十四回
呼延灼《こえんしやく》 月夜に関勝《かんしよう》を賺《だま》し
宋公明《そうこうめい》 雪天に索超《さくちよう》を擒《とら》う
さて、この蒲東《ほとう》の関勝《かんしよう》という男は、大刀の使い手で、なみなみならぬ英雄であるとともに、人にすぐれた義勇の持ち主であった。その日、太師に別れを告げると、一万五千の軍勢をひきい、これを三隊にわけて東京《とうけい》を立ち、梁山泊へとむかった。
話はかわって、一方宋江は、諸将とともに連日北京で城を攻めたが、陥《おと》すことができずにいた。李成と聞達は敢て城を出てたたかおうとはせず、索超は矢傷が重くていまだになおらなかったので、城から討って出るものは誰もいなかった。宋江は城を打ち破れないのですっかりふさぎこんでいた。山を出てからもう久しくなるのに、いまだに勝敗がつかないのである。その夜、中軍の幕営に黙然と坐り、明りをつけ、玄女の天書をとり出して見ているうちに、ふと気がついた。
「城を包囲してからもうかなりたつのに、救援軍のくる様子もないし、戴宗は帰って行ったまま、いまだに姿を見せないが」
黙ったまま、呆然と考えこみ、寝る気にも食べる気にもなれずにいた。と、そこへ兵士がやってきて、
「軍師がお見えです」
と知らせた。
呉用は中軍の幕営にはいってくるなり宋江にいった。
「われわれが包囲をしてからもうずいぶんたちますが、まったく援兵のくる気配のないのはどうしてでしょうか。また、城内からはどうして討ち出てこないのでしょうか。前に三騎が城を抜け出して行きましたが、あれは梁中書が使者を京師へやって急を告げさせたのにちがいありません。彼の舅《しゆうと》の蔡太師はきっと急いで兵をさしむけたでしょうが、そのなかに良将がいて、もし魏《ぎ》を囲んで趙《ちよう》を救う計を用いたとすれば、ここへ急を救いにはこずに、わが梁山の大寨を攻めることでしょう。そうだとすればたいへんなことです。兄貴、これは気をつけなくてはなりません。まず兵を退《ひ》かせることですが、いちどに撤退するのはまずいでしょう」
話しているところへ、神行太保の戴宗がもどってきて、知らせた。
「東京の蔡太師が、関菩薩《かんぼさつ》(関羽)の子孫の、蒲東郡の大刀の関勝を招き、一隊の軍勢をもって梁山泊へ攻め寄せさせました。山寨の頭領たちではどうしてよいかわかりませんので、兄貴と軍師に、急いで兵をまとめ、帰って山寨の急を救っていただきたいのです」
呉用が、
「とはいえ、いますぐ帰るわけにはいきません。今夜、夜陰に乗じてまず歩兵を出発させ、二隊の軍をあとに残して飛虎峪《ひこよく》の両側に伏せておくことにしましょう。城内ではわれわれが撤退するのを知ったら必ず追って出るでしょうから、そうしないことには味方はたちまち混乱におちいりましょう」
というと、宋江は、
「いかにも軍師のおっしゃるとおりです」
といい、さっそく命令をくだして、小李広の花栄には五百の兵をひきいて飛虎峪の左側に、豹子頭の林冲には同じく五百の兵をもって飛虎峪の右側に、それぞれ伏兵をしかせた。さらに双鞭の呼延灼には、二十五騎の騎兵をひきつれ、凌振といっしょに風火砲《ふうかほう》などをたずさえて城外十数里のところに待機させ、敵兵の追ってくるのを見ればただちに号砲を射って、二隊の伏兵にいっせいに飛び出して追手の兵におそいかからせることにした。同時に、撤退する前軍には、旌旗をたおし、戦鼓は鳴らさず、あたかも雨の散り雲の飛ぶごとく、敵に遭ってもたたかわず、徐々に撤退して行くように命じた。こうして歩兵の軍は、夜半に行動をおこしてつぎつぎに出発して行き、翌日の巳牌《しはい》(昼前)ごろ、ようやく全軍の撤退をおわった。
城からは、宋江の軍勢が旗旛《きはん》をひきずり刀斧《とうふ》をかつぎ、ぞろぞろと、全員陣地をひきはらって山へ帰って行くのが望見された。城ではそれをたしかめると、梁中書に知らせた。
「梁山泊の軍勢が、きょう全軍をまとめてみな帰って行きました」
梁中書はそれを聞くと、すぐ李成と聞達を呼んで相談をした。すると聞達がいうには、
「おそらく、京師からの援軍がやつらの梁山泊へ攻めて行ったため、あいつらはその巣窟を取られるのをおそれて、あわてて帰って行ったのでしょう。この機に乗じて追い討ちをかけるならば、必ず宋江を捕らえることができましょう」
そういっているところへ、城外から早馬が駆けつけてきて東京よりの文書をもたらし、兵をひきいて賊の巣窟を攻めるから、もし敵が撤退したならばすかさず追撃するようにと、しめしあわせてきた。梁中書はただちに李成と聞達にそれぞれ一隊の軍をあたえ、東西の両面から宋江の軍を追わせた。
一方、宋江は、兵をひきいて退却して行くうちに、城内から追手の兵が出てきたのを見て、ひたすら逃げ走り、飛虎峪のあたりまで退いた。そのとき、とつぜん後方で火砲がどっと轟きわたった。李成と聞達はあっとおどろき、馬をとめてふりかえると、後方に旗じるしが林立し、戦鼓が乱打された。李成と聞達が大急ぎで軍をひき返すと、左側からは小李広の花栄が、右側からは豹子頭の林冲が飛び出してきて、それぞれ五百の兵をもって両側から討ちかかってくる。刃むかうすべもなく、奸計にはめられたとさとって急いでまたひき返すと、こんどは前方から呼延灼が飛び出してきて、一隊の騎兵をもってどっと斬りこんできた。李成と聞達は斬りまくられて、金のかぶとも脱げ、よろいもちぎれて、城内へ逃げこみ、城門をとざしてひきこもってしまった。
宋江の軍勢はつぎつぎにひきあげたが、やがて梁山泊の近くまできたとき、ちょうど、行くてをさえぎっている醜郡馬の宣賛に出くわした。宋江は兵をとめて、ひとまずそこに陣をかまえ、ひそかに使いのものを出して、間道づたいに、水寨と山上へ知らせにやり、水陸の軍に両方から救援をさせるようにした。
さて水寨の頭領の船火児《せんかじ》の張横は、そのとき弟の浪裏白跳《ろうりはくちよう》の張順に相談していった。
「おれたち兄弟ふたりは、寨《とりで》にきてからまだなんの手柄もたてず、ただほかのやつらがいろいろと自慢するのを聞いて、しゃくにさわるばかりだった。こんど蒲東の大刀の関勝が三方から軍を出してここへ攻めてくるというから、ひとつ、おれとおまえのふたりで抜けがけをして、やつの陣をおそって関勝をひっ捕らえ、大手柄をたてて、兄弟たちの前で気を吐いてやろうじゃないか」
「兄さん、おれたちは水軍の一部をあずかっているだけだ。みなの援護がないことには、恥をかくようなことになりはしないかな」
「そんなに用心をしていては、いつまでたっても手柄はたてられやしない。おまえが行かないなら、それでよい。おれは今夜ひとりで出かける」
張順がいくら諫めても聞かず、その夜、張横は五十艘あまりの小舟をつどえ、一艘に四五人ずつ乗らせ、全身を身軽によろい、手には苦竹鎗《くちくそう》(真竹の槍)を持ち、腰にはそれぞれ蓼葉刀《りようようとう》(細身の刀)をたばさみ、月の明りほのかに、夜露の静かにおりるなかを、小舟を岸へと漕ぎよせた。時刻はおよそ二更(十時)ごろであった。
さて関勝は、ちょうど中軍の幕営で明りをつけて本を読んでいたが、そこへ偵察の兵がこっそりもどってきて知らせた。
「蘆の沼のなかに四五十艘ほどの小舟がおります。てんでに長い槍を持っていて、みな蘆の茂みのなかに二手にわかれてかくれておりますが、なにをたくらんでいるのかわかりませんけれども、ご報告にまいりました」
関勝はそれを聞くと、かすかに冷笑をうかべ、さっそく、ひそかに命令をくだして、全軍にかくかくしかじかの準備をさせた。全軍のものは命を受けると、それぞれ身をかくした。
一方の張横は、二三百人のものをひきつれ、蘆の茂みのなかからこっそりと脱け出して陣地の近くへ迫り、鹿角(さかもぎ)を抜いて中軍のところまで行き、幕営のなかを眺めわたすと、あかあかとした明りのもとで、関勝がひげをひねりながら、坐って兵書を読んでいる。張横はひそかによろこび、長槍をかまえて幕営のなかへ飛びこんで行くと、かたわらで銅鑼が一声鳴りひびき、全軍がどっと喊声をあげて、さながら天地が崩れ落ち、山川がくつがえったかのよう。張横はおどろいて、長槍をさかさまにひきずりながら身をひるがえして逃げたが、四方から敵の伏兵がどっとあらわれ、あわれ、水中では自在な張横も陸地の網を脱《のが》れることはできなかった。二三百人の手下のものも、ひとりも逃げおおせず、ことごとくからめとられて幕営の前にひきたてて行かれた。関勝はそれを見て、あざ笑い、ののしった。
「ちょこざいな盗《ぬす》っ人《と》め、よくもこのおれをあなどったものだな」
そして張横を陥車《かんしや》(囚人護送車)におしこめ、ほかのものはみな監禁して、宋江を捕らえてからいっしょに京師へ押送することにした。
関勝が張横を捕らえたことはそれまでとして、一方、水寨の阮氏三頭領は、寨のなかで相談したあげく、使いのものを宋江のところへやってその命令を聞こうとしているところだったが、ちょうどそこへ張順がやってきて、
「わたしの兄が、わたしのとめるのもきかずに関勝の陣地へおしかけて行って、とんだことに、とりこにされて囚車(陥車に同じ)におしこめられてしまいました」
阮小七はそれを聞くと、おどろいていった。
「おれたち兄弟は生死も吉凶もともにすべき仲だ。おまえは実《じつ》の弟でありながら、どうしてまた彼をひとりでやって、とりこにされるような目にあわせたのだ。おまえが助けに行かないのなら、おれたち兄弟三人だけで助けに行くよ」
「兄貴(宋江)の命令をもらわんことには、軽率なまねはできぬのでな」
「命令を待っていたら、おまえの兄貴は八裂《やつざ》きにされてしまうぞ」
と阮小七がいえば、阮小二と阮小五も、
「そうだとも」
という。張順も三人にはかなわず、やむを得ず彼らの言にしたがい、その夜の四更(二時)、水寨の全頭領を集め、それぞれ舟に乗って、一百余艘でいっせいに関勝の陣地へおしよせて行った。
岸の上の兵士は、水面に戦船が蟻のように群がって岸へ寄せてくるのを望見し、あわてて総帥に知らせた。すると関勝はあざ笑いながら、
「智慧のない賊め、なにほどのことがあろう」
といい、ただちにひとりの大将を呼んで、その耳もとに小声でいった。
「かくかく、しかじか」
さて、阮氏三兄弟がさきにたち、張順はそのあとにつづき、喊声をあげて陣地に突入して行ったが、見れば陣地には槍や刀が突き立ててあり旌旗も立ち並んでいるのに一兵の姿もなかった。阮氏三兄弟は大いにおどろき、身を転じて逃げ出した。と、幕営の前で銅鑼がひと声鳴りひびき、左右両辺から騎兵と歩兵が人手にわかれ、簸箕《はき》(み)のごとく栲〓《こうろう》(ざる)のごとく、ぐるぐると輪をえがきながら幾重にもなって、とりかこんできた。張順は、これはいかんと思い、いちはやくどぼんと水のなかに跳びこみ、阮氏三兄弟も血路を斬り開いて逃げたが、あわてて岸までやってきたとき、追手の兵に追いつかれ、撓鉤《どうこう》と套索《とうさく》(からめ縄)がいっせいに繰り出された。活閻羅《かつえんら》の阮小七はそれにひっかけられて、手とり足とり捕らえられてしまった。阮小二・阮小五・張順の三人は、混江竜の李俊が童威と童猛をひきつれて必死に救い出してくれたおかげで帰ることができたのである。
阮小七が捕らえられて陥車にとじこめられた次第ははぶいて、さて、水軍からの知らせが梁山泊にとどくと、劉唐はすぐさま張順を水路から宋江の陣地へやって、これらの消息を伝えさせた。宋江はただちに呉用に諮《はか》った。
「どうすれば関勝を撃退することができるだろう」
「あす、決戦をこころみて、ともかく様子を見ることにしましょう」
呉用がそういったとき、とつぜん、どっと戦鼓が鳴りだした。醜郡馬の宣賛が総勢をこぞって大寨へ迫ってきたのである。宋江は全兵力をあげて応戦に出た。見れば宣賛が門旗の下に立って兵をひき従えているので、
「誰か出て行ってまずあいつをひっ捕らえるのだ」
と命じると、小李広の花栄が、馬を飛ばし、槍をかまえて、まっしぐらに宣賛に突きかかって行った。宣賛は刀を舞わして迎え、おしつもどしつ、打ちつかわしつ、わたりあうこと十合ばかり、花栄が負けたと見せかけ、馬首を転じて逃げ出すと、宣賛は追いかけた。花栄は了事環《りようじかん》(鞍につけた槍かけ)に鋼《はがね》づくりの槍をひっかけるや、弓をとって矢をつがえ、鞍に横坐りになって軽く猿臂をのばし、身をひねりざま一箭を放った。弓弦《ゆづる》の音を聞いた宣賛が、矢が飛んできた一瞬、刀でさえぎると、矢はかちっと鳴って刀身にあたった。花栄は射そこなったと見るや、さらに第二の矢をとってねらいを定め、宣賛の胸板めがけて射放った。宣賛は鐙《あぶみ》のほうに身をこごめて、再び避けた。だが宣賛は相手の弓の手強《ごわ》いのを見て追うのをやめ、ぱっと馬首を転じて自陣へと駆け出した。花栄は彼が追ってこないのを見ると、急いで馬を返して宣賛を追い、さらに第三の矢をとって、宣賛の背中にねらいを定め、一箭を放った。と、かちっと音がして矢はちょうど背中の護心鏡《ごしんきよう》(胸の前後に掛けるあてがね)にあたった。宣賛はあわてて陣地へ逃げこみ、すぐ関勝のもとへ知らせのものをやった。関勝はその知らせを受けると、さっそく兵士を呼んでいいつけた。
「早く馬をひいてこい」
その馬は、頭から尾までの長さ一丈、蹄から背までの丈《たけ》は八尺、全身には一本のまじり毛もなく、ただもう炭火《すみび》のようにまっ赤な馬で、皮の甲《よろい》をまとい、三本の肚帯をしめている。関勝はよろいに身をかため、刀をつかんで馬に乗り、陣頭へすすみ出て、門旗のもとから馬を乗り出してきた。これをうたった西江月のうたがある。
漢国の功臣の苗裔《びようえい》、三分《さんぶん》(三国)の良将の玄孫。〓旗飄《ひるがえ》り掛って天兵を動かし、金甲と緑袍《りよくほう》相称《かな》う。赤兎馬《せきとば》(栗毛の馬)は騰々《とうとう》として紫霞、青竜刀は凜々として寒冰。蒲東郡内豪英を産す、義勇大刀の関勝。
宋江は関勝の風貌のただものではないのを見て、呉用とともにひそかに感嘆し、諸将をふりかえっていった。
「うわさにたがわぬ英雄ではないか」
そういったとたん、林冲が憤然として、
「われら兄弟、梁山泊にこもってより、大小六七十のいくさをしてきましたが、いまだ一度もおくれをとったためしがないのに、軍師はどうしてまたみずから威風を傷つけるようなことをいわれる」
というやいなや、槍をかまえ馬をすすめて関勝におそいかかって行こうとした。関勝はそれを見ると大声でどなった。
「水泊の盗っ人どもめ、朝廷に弓を引くとはなにごとだ。宋江を出しておれと勝負をさせろ」
宋江は門旗の下で林冲をおしとどめ、馬を飛ばしてみずから陣を出るや、関勝に欠身《けつしん》(注一)の礼をしていった。
「〓城《うんじよう》の小吏宋江、ご挨拶にまかり出ました。どうぞおとりさばきのほどを」
「おのれ、小役人の分際で、なにゆえ朝廷に背き奉った」
「朝廷は不明にも、みだりに奸臣どもに政務をとらせ、佞臣讒官《ねいしんざんかん》に権力をほしいままにさせ、貪官汚吏《たんかんおり》を官途につかせて、天下の民草を苦しめておられるからです。わたくしどもは天に替って道をおこなわんとするもの。決して異心をいだくものではございません」
関勝は大声でどなった。
「天兵がまいったというのに、なおも抗《あらが》い、巧言令色《こうげんれいしよく》をもってわしをたぶらかそうとするのか。馬をおりて降伏しないならば、きさまをずたずたに斬り刻んでしまうぞ」
霹靂火の秦明はそれを聞いて大いに怒り、狼牙棍《ろうがこん》をふりまわしつつ馬を飛ばして、まっしぐらに突きかかって行った。関勝も馬を飛ばして迎え、秦明とたたかった。林冲は秦明に一番手柄を占められてはと、ぱっと飛び出して関勝におそいかかって行く。かくて三騎は戦塵の舞い立つなかで、まわり灯籠のようにたたかいあった。宋江はそれを見て、関勝に傷を負わせることをおそれ、金鼓を鳴らしてたたかいをやめさせた。林冲と秦明は馬を返して陣地にもどってきて、
「あいつをひっ捕らえるところだったのに、どうして兄貴はたたかいをやめさせたのです」
という。宋江は、
「まあ聞いてもらいたい。われわれは忠と義を守るもの。強をもって弱をあなどる(ふたりでひとりにかかって行く)のは本意ではない。たとえ戦陣で彼を捕らえたにしても、彼が降伏しなければ、世間の笑いを招くだけのこと。思うに関勝は英勇な武将。代々忠臣の家柄で、祖先は神として祀られている。もしこの人を山に迎えることができるならば、わたしはよろこんで彼に位を譲りたいと思っている」
林冲も秦明も不満だった。この日は両軍ともそれぞれ兵をひきあげた。
ところで関勝は、陣地へもどり、馬をおり、よろいをぬいで、心中ひそかに思いめぐらすのだった。
「おれも二将を相手にしてはかなわぬ。いまにも負けそうになったところ、宋江は兵をひきあげてしまったが、いったいどういうつもりなのだろう」
そこで兵卒を呼び、陥車にいれたまま張横と阮小七を押し出してこさせて、たずねた。
「宋江は〓城の小役人にすぎぬのに、きさまたちはどうして彼に従っているのだ」
すると阮小七が、
「おれたちの兄貴は山東・河北にその名も高く、誰もみな及時雨《きゆうじう》の呼保義《こほうぎ》の宋公明とたたえているのだ。きさまのような礼義を知らぬやつに、なにがわかるものか」
関勝はうつむいてなにもいわず、ひとまず陥車をひきさがらせた。
その夜は陣中で心がふさぎ、じっとしていることができずに外へ出て行って見ると、月の光は天に満ち、霜の花は地にあまねく、しきりに嘆息していると、偵察の兵がやってきて知らせた。
「ひげもじゃの将軍がただ一騎でやってきて、元帥にお会いしたいといっております」
「名をたずねなかったのか」
「よろいもつけず武器も持たず、どうしても名前もいわずに、ただ元帥にお会いしたいとだけしかいわないのです」
「そうか、それでは呼んでまいれ」
まもなくその男は幕営にきて関勝に挨拶をした。関勝は見て、どこか見覚えがあるような気がした。明りのもとで見ると、やはり見覚えがあるので、
「どなたで」
とたずねると、その男は、
「どうかお人ばらいをねがいます」
という。
「かまいません」
と関勝はいった。すると男は、
「わたしは呼延灼というものです。以前、朝廷のために連環馬軍をひきいて梁山泊へ討伐に行きましたが、はからずも賊の奸計にかかって軍機をあやまり、都へ帰ることもできずにおりましたが、将軍が見えられたと聞いて、よろこびにたえない次第です。今朝、宋江が合戦に出て、林冲と秦明が将軍を捕らえそうになりましたとき、宋江が急いでたたかいをやめさせましたのは、将軍の身にお怪我があってはとの心づかいからなのです。彼はもともと朝廷に帰順したい気持をもっているのですが、なにぶんにもほかの連中がいうことを聞きません。そこで、ひそかにわたくしと相談しまして、一同を帰順させるようにしようと考えているのです。将軍がもしお聞きいれくださいますならば、あすの夜、身軽ないでたちで駿足の馬に乗り、間道から賊軍へはいって林冲らの賊をいけどりにし、京師へひきたてて行って、お互いに勲功をたてたいと思うのですが」
関勝はそれを聞いて大いによろこび、幕舎のなかへ請じいれて、酒を出してもてなした。呼延灼は、宋江がひたすら忠義を旨としながら、不幸にして賊の仲間になっている潔白な男であることをくわしく話した。ふたりは互いに衷情を披瀝して、いささかも疑うことはなかった。
翌日、宋江が全軍でたたかいをいどんでくると、関勝は呼延灼に相談し、
「きょうはまず敵将をひとりやっつけて、夜になったらあの計略を実行しましょう」
さて呼延灼はよろいを借りて着ると、ふたりはともに馬に乗って陣頭へ出て行った。宋江は陣地から大いに呼延灼をののしった。
「山寨ではきさまを十分手厚くあつかってやったのに、なにゆえ深夜ひそかに逃げ出したのだ」
「きさまたち盗っ人に、なにができるものか」
と呼延灼はののしり返す。宋江はすぐ鎮三山の黄信に出てたたかわせた。黄信は喪門剣をとり、馬を馳せてまっしぐらに呼延灼におそいかかった。両馬交わり、両者わたりあうこと十合ばかり、呼延灼の鞭がさっと飛んで黄信を馬からたたきおとした。と、宋江の陣地からは兵士たちがどっと飛び出してきて、黄信をかついでもどって行った。関勝は大いによろこび、全軍をいっせいに斬りこませた。呼延灼はおしとめて、
「深追いしてはなりません。呉用というやつはおそろしく智謀に長《た》けたやつですから、これ以上追って行けば、計略にかかるかもしれません」
といった。関勝はうなずいて、急いで兵をひきもどし、本陣へひきあげた。そして中軍の幕舎にはいり、酒を出してもてなしながら、鎮三山の黄信についてたずねた。すると呼延灼のいうには、
「あの男はもとは朝廷の大官で、青州の都監だったのですが、秦明や花栄といっしょに賊に投じたのです。きょうはまずあいつをやっつけて気勢をくじいてやりましたから、今夜の夜討ちはきっと成功するでしょう」
関勝は大いによろこび、宣賛と〓思文《かくしぶん》に二手にわかれて援護するように命令をくだし、みずからは五百の騎兵をひきいて、身軽に武装し、呼延灼に道案内をさせて、夜の二更に出発、三更ごろ宋江の陣地に迫り、砲声を合図に内外呼応していっせいに突入することにした。
その夜は真昼のような月夜であった。黄昏《たそがれ》ごろ武装をととのえて、馬は鈴をはずし人は身軽によろい、兵は口に枚《ばい》(注二)をふくんで走り、その他のものはいっせいに馬に乗った。かくて呼延灼が先頭に立って道案内をし、一同はそれにつづいて行ったのであるが、山路をまわっておよそ半時ばかりすすんで行くと、前方に四五十名の斥候兵がいて、声をひそめてたずねた。
「そこへお見えになったのは、呼将軍ではございませんか。宋公明どののご命令でここまでお迎えにあがりました」
「黙ってわしの馬のあとからついてこい」
といいつけ、呼延灼は馬を飛ばして先頭をすすんだ。関勝はそのあとにつづいた。また山の鼻をひとつまわったとき、呼延灼は槍さきで遠くの赤い明りを指《さ》し示した。関勝は馬をとめてたずねた。
「あの赤い明りの見えるところはどこです」
「あれが宋公明の中軍です」
と呼延灼は答えた。兵をせきたてて赤い明りの近くまで行くと、とつぜん一発の砲声がひびいた。全軍は関勝について殺到して行ったが、赤い明りのところまで行って見ると、人っ子ひとりいない。呼延灼を呼んだが、彼も姿を消していた。関勝は大いにおどろき、謀られたと知ってあわてて馬をもどそうとした。と、四方の山からどっと軍鼓や銅鑼が鳴り出した。あわてては道をえらばずというとおり、全軍はばらばらと必死に逃げ出した。関勝も急いで馬を返した。あとにつき従うものはわずか数騎だけだった。山の鼻をまわると、林のむこう側からまた一発の砲声が聞こえた。と、四方からいっせいに撓鉤《どうこう》が突き出されてきて、関勝を鞍からひきずりおろし、刀と馬を奪い、よろいを剥ぎとり、前後からとりかこんで本陣へひきたてて行った。
一方、林冲と花栄は一隊の軍勢をひきいて〓思文の行くてにたちふさがり、やがて合戦となったが、月の光の下で遥かに〓思文を見るに、そのいでたちいかにといえば、西江月のうたにいう。
千丈の凌雲《りよううん》の豪気、一団の筋骨《きんこつ》精神。鎗を横たえ馬を躍らせ征塵《せいじん》を蕩《うご》かす、四海の英雄も近づき難し。身には戦袍錦〓を着け、七星の甲《よろい》は竜鱗を掛く、天丁《てんてい》(道教の武神)元《もと》是れ〓思文、馬を飛《とば》して当前(先頭)に出陣す。
林冲は大声でどなった。
「きさまの大将の関勝は計略にかかってとりこになったのに、名もない下っぱのきさまが、なぜ馬をおりて縄を受けぬか」
〓思文は大いに怒って、まっしぐらに林冲におそいかかってきた。両馬交わって、たたかいあうこと数合、花栄が槍をかまえて加勢に出ると、〓思文はかなわぬと見て、馬首を転じて逃げ出した。すると横のほうから女将軍の一丈青の扈三娘《こさんじよう》が飛び出してき、赤い木綿の套索《とうさく》(からめ縄)を投げて〓思文を馬からひきずりおとした。そこへ歩兵がかけよってどっと〓思文をとりおさえ、大寨へひきたてて行った。
話はふたつにわかれて、こちらでは秦明と孫立が一隊の軍勢をひきいて宣賛を捕らえにむかい、途中でばったりと出くわしたが、その宣賛のいでたちいかにといえば、西江月のうたにいう。
捲縮《けんしゆく》(ちぢれた)短黄の鬚髪、凹兜《おうとう》(でこぼこな)黒墨の容顔。怪眼を〓開《せいかい》して(見張って)双環に似、鼻孔は天に朝し仰面す。手内の鋼刀は雪を耀《かがや》かし、護身の鎧甲は環を連ぬ。海〓《かいりゆう》の赤馬(たてがみと尾だけが黒く全身のまっ赤な馬)に錦の鞍〓《あんせん》(鞍下)、郡馬の英雄は宣賛。
そのとき宣賛は馬をすすめて大声でののしった。
「盗っ人やろう、手むかいすればいのちがないぞ。よけるならば見のがしてやろう」
秦明は大いに怒り、馬をおどらせ狼牙棍をふりかざしつつ宣賛におそいかかって行った。両馬交わり、たたかいあうこと数合。孫立が横から飛び出して行くと、宣賛はあわてて刀さばきを乱し、秦明に一撃されて馬から落ちた。兵士たちはいっせいに喊声をあげて駆け寄り、とりおさえてしまった。
また一方、撲天〓《はくてんちよう》の李応は、配下の将兵をひきつれて関勝の陣中に突入し、まず張横・阮小七、およびとりこにされていた水軍の兵士たちを救い出し、糧秣や馬匹をことごとく奪い取ってから、あたりの敗残兵たちを降伏させた。
宋江は一同を集めて山へもどったが、そのとき東の空がようやく明るみはじめた。忠義堂でそれぞれの席につくと、さっそく関勝・宣賛・〓思文が別々にひきたてられてきた。宋江はそれを見ると急いで堂をおり、軍卒をひきさがらせて、みずからその縄を解いた。そして関勝の手をとってまんなかの椅子に掛けさせると、うやうやしく礼をし、頭を地につけて罪を謝した。
「世を逃げまどう無頼の身でありながら、無礼なふるまいをいたしました。どうかおゆるしくださいますよう」
関勝はあわてて答礼をしただけで、口もきけず、どうしてよいかもわからない。呼延灼もすすみ出て罪を謝した。
「命令によってやむなくいたしました次第。どうかわたくしのお欺《あざむ》き申しました罪をおゆるしくださいますよう」
関勝は頭領たちがみな義に厚いことに感じて、宣賛と〓思文をふりかえっていった。
「こうして捕らわれの身となった以上、われわれはどうすればよかろう」
「すべてご命令のままにいたします」
とふたりは答えた。
関勝はいった。
「もはや都へ帰る面目もありません。われわれ三人、ねがわくは一時《ひととき》も早く死を賜わりたい」
「どうしてそのようなことをいわれます。もしわたくしどもをお見捨てでなければ、ごいっしょに天に替って道をおこないましょう。ご承知くださらぬとならば、無理におひきとめはいたしません。いますぐ都へお帰しいたします」
宋江がそういうと、関勝は、
「忠義の宋公明という世間のうわさは、まさにそのとおりでした。いまやわたしどもには、どこにも身を寄せるところはありません。どうか幕下《ばくか》の一小卒にでもおとりたてくださいますよう」
宋江は大いによろこび、その日さっそく祝宴を設けたが、一方ではまた、兵を出して、逃げかくれている敗残兵たちを降伏させた。かくてまたもや六七千の兵を得たが、そのなかの老人や子供たちには銀子をあたえて家へ帰らせてやった。また、薛永《せつえい》に手紙を持たせて蒲東へやり、関勝の家族をひきとってこさせたが、これらの話はそれまでとする。
宋江は酒宴の間、黙然として、盧員外と石秀が北京に捕らえられていることに思いを馳せ、はらはらと涙を流した。呉用が、
「兄貴、ご心配にはおよびません。わたしにも考えがあります。一晩あけてあすになりましたら、ふたたび兵をおこして北京へ攻めのぼり、必ず目的を達しましょう」
すると関勝が立ちあがっていった。
「わたくし、いのちを助けていただきましたご恩にお報いするすべがありませんので、せめてその先鋒なりともうけたまわらせてくださいますよう」
宋江は大いによろこんだ。そして翌日の早朝命令をくだし、宣賛と〓思文にもとの兵を返して前軍の先鋒を命じ、ほかに、もと北京を攻めた頭領たち全員に李俊と張順を加えて、水戦用のよろいやかぶとを用意してついて行かせることにし、つぎつぎにふたたび北京へと出発させた。
ところで一方、梁中書は、城中で索超と、その全快祝いの酒盛りをしていた。と、そこへ斥候の兵が知らせにきて、
「関勝も宣賛も〓思文も、その配下の兵たちもみな宋江に捕らえられて、既に賊の仲間に加わってしまい、梁山泊の軍勢がいままたおしよせてまいりました」
という。梁中書はそれを聞くと、おどろきのあまり、眼を見開いたまま呆然となり、なすすべも知らぬありさま。そのとき索超は、
「このまえは賊のだまし討ちにあいましたが、こんどはその仇をとってやります」
といった。梁中書は索超に賞をあたえ、ただちにその配下の軍勢をもって城を出て敵を迎え討たせることにし、李成と聞達にもつづいて応援に行かせることにした。
おりしも冬のさなかで、寒気はげしく、連日、雪雲が厚く垂れこめ、北風がうなりをあげていた。宋江の軍が迫って行くと、索超は、飛虎峪《ひこよく》まですすんで陣地をかまえ、翌日、兵をひきいて迎え討った。宋江は前軍の呂方《りよほう》と郭盛《かくせい》を従えて高みへのぼり、関勝のたたかいぶりを観戦した。戦鼓が三たび鳴ると、関勝が陣頭にすすみ出た。と、むこうの陣からも索超が馬をすすめてきた。そのとき索超は、関勝とむかいあいながら誰であるか知らなかったが、ついてきた軍卒が、「あそこへやってくるのが、こんど賊に寝返った大刀の関勝というやつです」
と知らせた。索超はそれを聞くと、ものもいわず、いきなり飛び出して、関勝におそいかかって行った。関勝も馬を飛ばし刀を舞わしてこれを迎えた。ふたりはわたりあうこと十合ばかり、そのとき中軍にいた李成は、索超の斧がひるんで関勝に打ち負かされそうなのを見るや、双刀を舞わしつつ陣を駆け出し、関勝を挟み討ちにした。こちらでは宣賛と〓思文がそれを見、それぞれ武器を手に飛び出して行って加勢した。かくて五騎が一団となって乱戦をくりひろげる。高みで眺めていた宋江が、鞭をふって合図をすると、全軍はどっと斬りこんで行った。李成の軍は大敗を喫し、斬りまくられてちりぢりになり、あわてて城内へ逃げこむなり城門を固くとざしてひきこもってしまった。宋江は一気に城下まで兵をすすめて、そこに陣をかまえた。
翌日、索超はみずから一隊の軍をひきつれ、城内から討って出た。呉用はそれを見ると兵にまねいくさをしてあしらわせ、敵が追いかけてくればそのまま逃げるようにさせた。こうして索超はそのときは勝ちを得て、よろこんで城内へもどった。
その夜は雪雲が集まり、紛々《ふんぷん》と雪が降り出した。呉用はあらかじめきめておいた計略にしたがい、ひそかに歩兵のものを北京城外へやり、山際の川沿いの路の狭いところへ陥し穴を掘って、その上を土でおおっておかせた。その夜は雪がはげしく降り、風もきびしく、夜明けごろに見ると二尺あまりもつもっていた。
城壁の上から宋江の軍を望見すると、兵士たちには動揺の色が見え、陣形も定まらぬようであった。索超はそれを見ると、ただちに三百の騎兵を集め、すかさず城から討って出た。と、宋江の軍は算を乱して逃げ出した。そのなかで、水軍の頭領の李俊と張順だけは、身軽な武装をよろい、馬をとめ槍を横たえ、ふみとどまって応戦したが、ちょっと索超と馬を交えたかと思うとたちまち槍を捨てて逃げ出し、索超を陥し穴のほうへ誘って行った。索超は気短な男だったので、なんの顧慮もしなかった。そこは片側が路で、片側が谷川だった。李俊は馬を捨てて谷川のなかへ飛びこみ、前方にむかって叫んだ。
「宋公明兄貴、早く逃げるんだ」
索超はそれを聞くと、我が身のことは考えず、馬を飛ばして敵陣へ突きすすんで行った。と、山のうしろから砲声が鳴りひびき、索超は馬もろとも転がりおちた。うしろから伏兵がいっせいに立ちあがった。たとえ索超が三頭六臂《さんとうろつぴ》であったとしても、七損八傷はまぬがれぬところ。まさに爛銀《らんぎん》(雪)深く蓋《おお》うて圏套《けんとう》(わな)を蔵《かく》し、砕玉《さいぎよく》(雪)平らに舗《し》いて陥坑(陥し穴)を作《な》す、というところ。さて急先鋒の索超のいのちはどうなるであろうか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 欠身 第二回注一三参照。
二 枚 第六十回注四参照。
第六十五回
托塔天王《たくとうてんのう》 夢中に聖を顕《あら》わし
浪裏白跳《ろうりはくちよう》 水上に冤を報ず
さて宋江の軍は、大雪に乗じて呉用が計略を設け、雪のなかで索超を捕らえたのであるが、その他のものはみな城へ逃げ帰って、索超がとりこにされたことを知らせた。梁中書はそのことを聞くと、あわてふためき、諸将に命《めい》じてひたすら守りをかためさせ、城を出てたたかうことをさしとめた。梁中書は盧俊義と石秀を殺してしまいたいとは思うものの、宋江をいっそう怒らせたうえに、朝廷からの援兵も急には間にあわないとなれば、いよいよ災《わざわい》を深めるばかりだとおそれて、やむなくふたりをそのまま監禁させておき、ふたたび京師に上申して蔡太師の命を仰ぐことにした。
さて、宋江が陣地にもどって中軍の幕営にはいると、すぐ伏兵のものが索超をひきたててきた。宋江はそれを見ると大いによろこび、兵をひきさがらせてみずから索超の縄をほどき、幕営のなかに請じいれて、酒を出してもてなしながら、ねんごろになぐさめた。
「ごらんのとおり、わたしたち兄弟の大半は朝廷の軍官だったのですが、朝廷が公明ではなく、みだりに貪官《たんかん》が政務にあたり汚吏《おり》が権力をほしいままにして、良民を苦しめていますので、みんなすすんでわたしと力を合わせ、天に替って道をおこなっている次第なのです。もしおさしつかえなければ、ごいっしょに忠と義をつくそうではありませんか」
楊志もすすみ出て挨拶をし、ねんごろにすすめた。索超はもともと天〓星《てんこうせい》の一員だったので、おのずから相集まって、宋江のもとに投じたのである。その夜、幕営のなかで祝宴が開かれた。
翌日、相謀《はか》って城を攻め、つづけて数日間攻めたてたが、ついに破ることができなかった。宋江はひどく憂慮した。その夜、幕営で寝ていると、にわかに陰風が吹いてきて、ぞくぞくと肌寒さをおぼえた。宋江が頭をあげて見ると、天王《てんのう》の晁蓋《ちようがい》が、近寄ろうとしながら近寄らずに、呼びかけた。
「おい、どうして帰らないのだ。いつまでぐずぐずしているのだ」
と、目の前に立ちつくしている。宋江はびっくりし、急いで起きあがって、たずねた。
「兄貴、どういうわけで見えたのです。横死なさった仇もまだ討っておらず、日夜心のおさまるときはありません。このごろはずっと法事もできずにおりますが、そのために姿をあらわされたのでしょうか。きっとお腹立ちのことでございましょう」
「いや、そんなためではありません。まあ、もうすこしうしろへさがってください。陽気(生者の気)が身に迫って傍へ寄れないのです。このたびは、あなたに百日間の血光《けつこう》の災《さい》があるので知らせにきたのです。これは江南《こうなん》(揚子江以南の地)の地霊星《ちれいせい》でなければとりのぞくことはできません。急いで兵をひくがよろしい。それが最上の策です」
宋江はもっとはっきりしたことをきこうと思って、駆け寄りながら、
「せっかくここまでおいでくださった以上、どうかくわしくお話しくださいますよう」
といったところ、晁蓋《ちようがい》におしのけられ、はっと眼がさめてみれば、それは南柯《なんか》の夢(注一)であった。すぐに兵士にいいつけて、夢判断のために軍師を呼びにやらせた。呉用が中軍の幕営にやってくると、宋江はその不思議を話した。すると呉用のいうには、
「晁天王が姿をあらわされたのでしたら、従わねばなりません。いまは天寒く地は凍《こお》り、久しく兵をとどめておくことはできませんから、ひとまず山へひきあげ、冬がすぎ春がおとずれ、雪が消え氷がとけてから、またもういちど城を攻めにくることにすればよろしいでしょう」
「軍師のおっしゃることはごもっともです。だが盧員外と石秀の兄弟が捕らわれていて(注二)、一日を一年の思いでひたすらわたしたち兄弟が救いに行くのを待っております。もしわたしたちがひきあげてしまえば、やつらはふたりを殺してしまうかも知れません。そのためどうにも動きがとれないのです」
かくて相談はまとまらなかった。翌日になると宋江は気分がおもたく身体がだるく、頭は斧で割られるごとく、身体は籠むしにされるようで、寝たきり起きあがることができなかった。頭領たちがみなで見舞いに行くと、宋江は、
「背中が熱くて痛くてたまらぬ」
という。みなで調べて見ると、焼鍋のように赤く腫れあがっている。呉用は、
「これは癰《よう》か疔《ちよう》です。医書を見ると、〓豆《りよくとう》(緑色の大豆)の粉は心臓を守り、毒気のまわるのを防ぐとあるから、すぐ買ってきて調合し、兄貴に飲ませることにしましょう」
といい、薬を買ってこさせて治療をしてみたが、いっこうに効き目はなかった。すると浪裏白跳の張順がいうには、
「以前わたしが潯陽江《じんようこう》にいたとき、母が背中にできものができて、どんな薬でもなおりませんでしたが、その後、建康府《けんこうふ》の安道全《あんどうぜん》という人にきてもらったところ、たちまちなおってしまいました。それからはずっと、わたしはすこし金ができさえすれば、そのつど人づてに彼のところへとどけております。いま兄貴は同じ病気のようです。道はここから東のほうへずっと遠くて、すぐには行きつけませんが、兄貴のために大急ぎで行って、迎えてきましょう」
「兄貴の夢で、晁天王が、百日間の災は江南の地霊星でなければとりのぞくことはできないといわれたとのことだが、それはまさしくその人のことではあるまいか」
と呉用がいうと、宋江も、
「兄弟、そういう人を知っているのなら、早く行っていただきたい。ご苦労だが、義侠心を出して、大急ぎでその人を迎えてきてわたしのいのちを救っていただきたい」
呉用は医者への礼に一百両の金の延べ棒を取ってこさせ、ほかに路用として二三十両の小粒銀をわたして、張順にたのんだ。
「いまからすぐに行って、どうしても、その人をつれてきてください。必ずまちがいのないように。わたしたちはこれから陣地をひきはらって山へ帰るから、その人とは山寨のほうで会いましょう。できるだけ早くたのみます」
張順は一同に別れを告げ、包みを背負って出かけて行った。
さて軍師の呉用は、ひとまず兵を収め、停戦して山へひきあげる旨を諸将につたえた。そして宋江を車に乗せて、急いで出発したが、北京の城内では、以前伏兵の計略にかかったことがあるので、誘いの手かと疑って追ってはこなかった。翌日、知らせを受けた梁中書が、
「これはどういう魂胆なのだろう」
といぶかると、李成と聞達は、
「呉用というやつは、いろいろとたくらみをやりますから、堅く城を守って、追い討ちはかけないほうがよろしいでしょう」
といった。
話はふたつにわかれて、さて張順は、宋江を助けようとして夜を日についで道を急いだが、あたかも冬の末で、雨が降らなければ雪が降り、道中はなはだ難渋をきわめた。しかも、あわててきたために雨具の用意もなかった。十日あまりかかって、やがて揚子江のほとりまで出たが、その日は北風大いに吹きすさび、凍雲《とううん》低く垂れこめ、飛々揚々としていちめんの大吹雪《ふぶき》となった。張順は風雪のなかを揚子江を渡ろうとして、懸命にすすんで行った。あたりの景色はただ凄涼《せいりよう》たるものであったが、さすがに江上にはあれこれとさわやかな眺めがあった。それを西江月のうたでうたえば、
〓唳《りようれい》す(鳴きわたる)凍雲の孤鴈《こがん》、盤旋《ばんせん》す(飛びめぐる)枯木の寒鴉《かんあ》。空中に雪下《ふ》ること梨花に似、片々たる飄瓊《ひようけい》(ひるがえる玉)乱れ灑《そそ》ぐ。玉は圧《あつ》す橋辺の酒旆《しゆはい》(酒旗)、銀は鋪《し》く渡口の漁〓《ぎよさ》(小舟)。前村隠々たり両三家、江上晩《く》れ来《きた》って画《えが》くに堪えたり。
張順はただひとりで揚子江の岸へ行き、渡し舟をさがしたが、一隻もない。これは困ったと岸に沿って歩いて行くと、ふと、折れ蘆のなかから煙の立ちのぼっているのが見えた。
「船頭さん、すぐ舟をもってきて乗せてくれ」
と張順が呼ぶと、蘆のなかからがさがさと音がして、ひとりの男が出てきた。頭には筍《たけのこ》の皮の笠をかぶり、身には簑《みの》をまとっている。
「どこへいらっしゃいますんで」
「川を渡って建康府へ用事に行きたいのだ。急いでいるのだが、舟賃ははずむから渡してくれ」
「乗せてあげるのはかまわんが、もう日が暮れてしまったから、川を渡ったところで泊まるところもありませんよ。まあ、おいらの舟に泊まって、四更ごろ、風がおさまって月が明るくなったら渡してあげますから、すこし舟賃をはずんでください」
「それもそうだな」
と張順は、さっそく船頭といっしょに蘆の茂みのなかへもぐって行った。岸に小舟が一艘もやってあり、篷《とま》の下にはひとりの痩せた若ものが火にあたっていた。船頭は張順に手を貸して舟に乗せ、胴の間《ま》にはいって濡れた着物をぬがせ、その若ものにいいつけて火にあぶって乾かさせた。張順は包みをあけて綿被《めんぴ》(綿の夜着)をとり出し、身体にまきつけて胴の間に横になると、船頭にいった。
「このへんには酒を売っていないかな。すこし買ってきて飲みたいのだが」
「酒は売ってませんが、飯がほしかったら食べなさるがいい」
張順は飯を一碗食べると、ごろりと横になって眠った。ひとつには連日の労苦のため、ふたつにはすっかり気をゆるしてしまったため、初更ごろにはぐっすり寝入ってしまった。例の痩せた若ものは炭火にあたりながら綿入れの上着を乾かしていたが、張順が寝入ってしまったのを見ると船頭にいった。
「兄貴、ほら見なさい」
船頭はにじり寄って行って、枕のあたりをさぐってみた。と、どうやら金目のものらしいので、手を振って、
「おい舟を出せ。川のまんなかへ出て行ってから片付けることにしよう」
若ものは篷《とま》をおしあけて岸へ跳びあがり、もやいを解いて舟に乗ると、竹棹で舟を突き出し、櫓をしかけてぎいぎいと川のまんなかへ漕ぎ出して行った。船頭は胴の間で、もやい綱でわけなく張順を縛りあげてしまい、船尾へ出て行って舟板の下から板刀《はんとう》をとり出した。このとき張順はようやく眼をさましたが、両手が縛られていてどうすることもできない。船頭は大刀《だいとう》で彼の身体をおさえつけた。張順はいった。
「おねがいだ。いのちは助けてくれ。金はみんなやるから」
「金もほしいが、おまえのいのちもほしいのだ」
張順は、
「それじゃせめて五体満足に(注三)死なせてくれ、そうすれば怨霊になってとり憑《つ》くようなことはしないから」
船頭は板刀を下におき、張順をどぼんと水のなかへ投げこんだ。
船頭は、包みをほどいてみたところ、たくさんの金銀だったので、痩せた若ものにわけてやる気がなくなり、
「おい、話がある」
と呼んだ。その男が胴の間へはいって行くと、船頭に片手でつかまえられ、さっと刀が飛んでばっさりたたき斬られ、水のなかへ突きおとされてしまった。船頭は舟のなかの血痕を洗い流してから、ひとりで舟を漕いで行ってしまった。
ところで張順はといえば、水底に四五晩もかくれていることのできる男なので、突きおとされたとたんに川の底で縄を咬み切り、南岸へ泳いで行ったが、見れば林のなかにかすかに明りが漏れている。張順は岸へ這いあがり、ずぶぬれのまま林のなかへはいって行って見ると、それは田舎酒屋だった。夜中に起きて酒をしぼっているところで、壁の破れから明りが漏れているのである。張順が戸をたたくと、ひとりの老人が出てきたので、丁寧に頭をさげると、老人は、
「おまえさんは、川で賊におそわれて、水のなかへ跳びこんで逃げてきなさったのじゃないかな」
「ご老人、じつはわたしは建康へ用事にまいったのですが、日が暮れてから川むこうで舟をたのみましたところ、なんとそのふたりが悪党で、着物から金銀まですっかりまきあげられたうえ、川のなかへ投げこまれてしまったのです。さいわいわたしは泳ぎができますので、いのち拾いをいたしました次第。どうかお助けくださいますよう」
老人はそれを聞くと、張順を奥の部屋へつれて行き、衲頭《のうとう》(ぼろ布をつづりあわせた着物)をわたして湿《ぬ》れた着物と着かえさせ、それを火に乾かし、また酒をあつくして飲ませてくれた。そして、
「おまえさん、名前はなんとおっしゃるのだね。山東の人がなにをしにこちらへおいでなさった」
「わたしは張というものでして、建康府の安太医《あんたいい》が兄弟ぶんですので、わざわざ訪ねてまいったのです」
「山東からきなさったのなら梁山泊を通っておいでだな」
「いかにも通ってまいりました」
「あの山の宋頭領というのは、旅のものはおそわず、また人も殺さずに、ただただ天に替って道をおこなっておりなさるのだとか」
「宋頭領は忠義一途の人で、良民には手をつけず、腐れ役人たちだけを憎んでいなさるんです」
「わしもうわさに聞いているのだが、宋江の一党はなかなか仁義に厚く、もっぱら貧乏人を助けたり年寄りをあわれんだりして、そこいらあたりの盗っ人とはわけがちがうとか。もしこっちのほうへきてくれたら、みんな大よろこびしましょう。腐れ役人どもにいじめられなくなりますからな」
張順はそれを聞くと、
「おじいさん、びっくりしなさるなよ。わしはじつは浪裏白跳の張順というもので、兄貴の宋公明が背中にできものをこしらえたので、黄金一百両をあずかって安道全さんを迎えにきたのだが、気をゆるして舟のなかで眠ったところ、あのふたりのやろうに両手を縛られて川のなかへ投げこまれてしまったのだが、縄を咬み切ってようやくここまできたというわけです」
「おまえさんはあそこの好漢でしたか。それなら倅《せがれ》を呼んできてご挨拶させましょう」
まもなく、奥からひとりの若ものが出てきて、張順にむかって礼をし、
「兄貴のお名前は久しく聞いておりましたが、ご縁がなくてお目にかかれませんでした。わたしは姓は王《おう》、兄弟順は六番目で、走ることが早いので人さまから活閃婆《かつせんば》(稲妻を司る神の名)の王定六《おうていろく》と呼ばれております。もともと水泳《およ》ぎと棒術が好きで、ずいぶんと師匠につきはしましたが、免許を得るまでにはいかず、仮に江岸で酒を売って暮らしております。さっき兄貴をおそったふたりのやつは、わたしはどちらも知っておりまして、ひとりは截江鬼《せつこうき》の張旺《ちようおう》といい、もうひとりの痩せた若ものは 華亭《かてい》県のもので、油裏鰍《ゆうりしゆう》の孫五《そんご》というものです。あのふたりのやつは、いつも川で人をおそっているのです。兄貴、ご安心ください、ここに四五日いらっしゃるあいだに、やつらは酒を飲みにやってきますから、そしたらわたしが仇をとってさしあげます」
「お志《こころざし》はありがたいのですが、わたくしは兄貴の宋公明のために一日も早く山寨へ帰りたいのです。夜が明けたらすぐ町へ行って安太医を迎えてきますから、帰りにまたお目にかかりましょう」
王定六は自分の着物を張順にやってすっかり着かえさせ、急いで酒を出してもてなしたが、この話はそれまでとする。
翌日は、雪がやんで、よい天気だった。王定六は十数両の銀子を張順にあたえて建康府へ行かせた。張順は城内にはいり、まっすぐ槐橋《かいきよう》のほとりへ行って見ると、安道全はちょうど店で薬を売っているところだった。張順はなかへはいって行って、安道全にむかって丁寧に礼をした。ここに安道全をたたえた詩がある。
肘後《ちゆうご》の良方(腕におぼえの良薬)万篇有り
金針玉刀《きんしんぎよくとう》(針とメス)師伝を得《う》
重ねて扁鵲《へんじやく》(注四)を生ずるも応《まさ》に比べ難し
万里に名を伝う安道全
この安道全という人は、代々内科も外科も伝授されて両方ともよく治療したので、遠方まで名を知られていた。そのとき彼は張順を見るなりいった。
「やあ、ずいぶん久しぶりですな。どういう風の吹きまわしで見えたのです」
張順はいっしょに奥へ行き、あの江州を騒がせたことから宋江に従って山にはいったこと(第四十一回)をくわしく話したのち、このたび宋江が背中にできものをわずらったので、あなたをお迎えにあがったところ、揚子江で危うく殺されかけ、そのため身ひとつでやってきましたとありのままを述べた。すると安道全は、
「宋公明といえば天下の義士、行ってあげればよいのだが、あいにく家内がなくなって家にはほかに身よりのものがいないので、遠方へは出かけかねるのです」
「あなたが行ってくださらぬことには、わたしも山へ帰るわけにはいきません」
と張順がしきりにたのむと、安道全は、
「それではもっと考えてみましょう」
といった。張順がさらにいろいろと哀願すると、安道全はようやく承知をした。じつは安道全は、建康府の娼妓で李巧奴《りこうど》という女のところへ足しげく通っていたのである。この李巧奴という女はたいへん美しかったので、安道全はかわいがっていた。この女をうたった詩がある。
〓質《けいしつ》温柔にしてさらに老成
玉壺明月人に迫って清し
歩は宝髻《ほうけい》を揺《ゆる》がして春を尋ね去《ゆ》き
露は凌波《りようは》(美人の歩み)を湿《うるお》して月を帯び行く
丹臉《たんれん》笑い回《かえ》って花蕚《かがく》麗《うるわ》しく
朱絃《しゆげん》歌い罷《や》んで綵雲《さいうん》停《とど》まる
願《ねがわ》くは心地をして常に相憶《おも》わしめん
学ぶこと莫《なか》れ章薹《しようだい》に柳を贈る(注五)情を
その夜、安道全は張順をつれてこの女のところへ行き、酒を飲んだ。李巧奴は張順を叔父としてたてまつった。何杯か杯をかさねて、ほどよく酔いのまわったころ、安道全は巧奴にいった。
「わしは今夜はここに泊まって、あしたの朝この兄弟といっしょに山東のほうへ出かけるが、おそくてもひと月、早ければ二十日ほどで帰ってきて、また会いにくるからな」
「行かないで。わたしのいうことが聞けないのなら、二度ともう、家へいれてあげないから」
「わしはもう薬嚢《やくのう》も用意して、出かけるばかりにしているのだ。あした立つけど、なにも案じることはない。行ってもそう手間どりはしないからな」
李巧奴はさんざんあまえ、安道全にもたれかかって、
「どうしても聞かないで行ってしまうのなら、わたし、あなたを呪い殺してしまうから」
張順はそれを聞くと、その阿魔を呑みくだしてしまいたいほどむかむかした。やがて日が暮れると、安道全は酔いつぶれてしまい、巧奴の部屋へつれて行かれて寝台の上に寝かされた。巧奴はひき返してくると張順を追いたてていった。
「あんた帰ってくださらない。わたしのとこはほかに寝るところがないのよ」
「兄貴の酔いが醒めたら、いっしょに行くよ」
巧奴は追い帰すことができずに、仕方なく彼を門口の小さな部屋に泊めた。
張順はいらいらとして、とても眠れなかった。初更ごろ、誰かが門をたたいた。張順が壁のすきまからのぞいて見ると、ひとりの男がするりとはいってきて、やりて婆に話しかけた。婆さんは、
「おまえさん、ずいぶんこなかったじゃないか。いったいどこへ行ってたんだね。今夜は先生が酔っぱらって部屋に寝てしまったんだが、さて、どうしたものかね」
「おれは金子を十両持ってきたんだ。あの子のかんざしや腕輪の代《だい》にと思ってな。婆さん、なんとかうまくはからってあの子に会わせてくれよ」
「それじゃ、あたしの部屋においでよ。呼んできてあげるから」
張順が明りの影で見ると、なんとそれは截江鬼《せつこうき》の張旺《ちようおう》だった。こやつは川のなかで物を取っては、この家へ散財にくるのである。張順はそれを見ると、むらむらと怒りがこみあげてきた。なおもうかがっていると、やりて婆は部屋に酒食の用意をして、巧奴に張旺のお相手をさせている。張順はいったんは飛びこんで行こうと思ったが、やりそこなって賊に逃げられてはと考えなおした。三更ごろになると、台所のほうでふたりの使用人も酔ってしまい、やりて婆もこっくりこっくりと明りの傍で酔って居睡りをしだした。張順はそっと部屋の戸をあけ、忍び足で台所へ出て行った。ぎらぎら光る庖丁が一本、かまどの上においてあった。やりて婆はかたわらの腰掛けの上に横になっている。張順ははいって行って、庖丁をつかみあげ、まずやりて婆を殺した。ついでに、使用人を殺そうとしたが、もともとなまくらな庖丁で、ひとり斬っただけでもう刃が折れ曲がっている。ふたりのものが声をあげかけたとき、ちょうど手近に薪割りの斧があったので、それをつかんでひとりずつたたき斬った。部屋のなかで阿魔が聞きつけて、あわてて戸をあけたところを、張順と鉢合わせをして斧で胸を断ち割られ、床に斬り倒された。張旺は明りのかげに阿魔が斬り倒されたのを見ると、裏窓をおしあけ、塀を跳び越えて逃げて行ってしまった。張順はくやしくてならない。さっそく着物の襟をひき裂いて血にひたし、白壁の上に、
殺人者安道全也
と、つづけざまに数十ヵ所も書きつけた。
やがて五更になり、空が白みはじめた。安道全は部屋で酔いからさめて巧奴を呼んだ。張順は、
「兄貴、声をたてないで。ふたりを見せてあげましょう」
安道全は起きてきて四人の死体を見ると、おどろいて全身をしびれさせ、がたがたふるえてうずくまってしまった。張順は、
「兄貴、壁の上に書いてあるのを見てください」
「ひどいことをしたな!」
「道はふたつしかありませんよ。あんたのお好きなようにしてください。さわぎだすなら、わたしは逃げてしまうから、あんたがいのちのつぐないをするのですな。無事にすませたければ、家から薬嚢を取ってきて、大急ぎで梁山泊へ行ってわたしの兄貴を助けてください。どっちなとお好きなように」
「おい、なんてひどいやりかたをするんだ」
詩にいう。
紅粉《こうふん》情無く只銭を愛す
行《こう》に臨んで何事ぞ更に流連《りゆうれん》たる
冤魂《えんこん》赴かず陽台《ようだい》の夢(注六)
笑殺す癡心《ちしん》の安道全
夜が明けると、張順は路銀を奪って安道全とともに家に帰り、戸をあけて薬嚢を持ち出し、城外に出てまっすぐ王定六の酒屋へ行った。王定六は迎えて、
「きのう張旺がここを通ったのですが、兄貴が居合わせてなくて惜しいことをしました」
「わしは大事をあずかっている身だ。小さな恨みなどかまってはおれん」
張順がそういったちょうどそのとき、
「張旺のやつがやってきました」
と王定六が教えた。
「そっとしておいて、どこへ行くか見とどけてくれ」
張旺は水際《みずぎわ》へ舟を見に行った。王定六が、
「張兄い、舟をとめて、おれとこの親戚のものをふたり渡してくれないか」
というと、張旺は、
「舟に乗るんなら早くきてくれ」
王定六が張順に知らせると、張順は、
「安《あん》の兄貴、あんたの着物を貸してください。わしのととりかえっこして、舟に乗るんだ」
「どうしてだ」
「考えがあるんだ。いずれわかりますよ」
安道全は着物をぬいで張順のと着かえた。張順は頭巾をかぶり、縁つきの煖笠《だんりゆう》(冬笠)で姿をかくした。王定六は薬嚢を背負った。舟のところまで行くと、張旺は舟を岸に着けた。三人は乗りこんだ。張順は船尾のほうへ這って行き、舟板をめくって見るとやはりそこに板刀がおいてあった。張順はそれを持って胴の間にもどった。張旺は舟を漕ぎ出し、ぎいぎいと櫓をあやつりながらまっすぐ川のまんなかへ出て行った。張順は上着をぬいで、
「船頭さん、早く見てくれ。ほら、胴の間に水がはいってくるよ」
と叫んだ。張旺はそれが計略だとは知らず、頭を胴の間につっこんだところを張順にむんずとつかまえられ、
「強盗め、こないだの大雪の日のお客をおぼえているか」
とどなりつけられた。張旺は見て、一言もない。張順はさらにどなりつけた。
「きさまはおれの黄金一百両をまきあげたうえに、いのちまでも奪おうとしたんだ。もうひとりあの痩せっぽちの若いやつはどこへ行った」
「はい、あっしは金を手にいれたら、あいつにわけてやるのが惜しくなり、文句をいわせないように、殺して川のなかへ投げこんでしまいました」
「きさま、おれが誰だか知っているか」
「存じあげませんが、どうかいのちだけはお助けねがいます」
張順は声を張りあげていった。
「おれは潯陽江のほとりに生まれ、小孤山で育ち、魚の仲買をやってちっとは人に知られた顔だが、江州で騒ぎをおこし、梁山泊へのぼって宋公明の配下になり、天下を横行して人さまからおそれられている男だ。きさまはおれをだまして舟に乗せ、両手を縛って川のまんなかへほうりこみやがったが、もしおれが泳ぎを知らなかったら、それきり死んでしまったところだ。いまその仇に出くわしたのに、ゆるしてなどやれるものか」
と、ぐいとひっぱって胴の間へひきすえ、けものの四足を縛るように手足をひとつに縛りあげると、揚子江のどまんなかへ投げこんだ。
「斬ることだけはかんべんしてやるわ」
かくて張旺のいのちは黄昏のなかに相果てた。王定六はそれを見てただ嘆息するばかり。張順は舟のなかから先日の金子や小粒銀をさがし出して全部包みのなかへしまいこみ、三人は舟を岸に漕ぎつけた。張順は王定六に、
「あんたのご恩は死んでも忘れません。もしよかったら、親父さんといっしょに、酒屋を始末して梁山泊へのぼり、わしたちの仲間にはいったらどうです」
「兄貴のおっしゃるとおりにしたいと思っております」
話がついて別れることになり、張順と安道全は北岸にあがった。王定六はふたりに別れを告げ、また小舟に乗って家へ帰ると、荷物をとりまとめてあとを追った。
さて張順は安道全とともに北岸あがると、薬嚢を背負って道を急いだが、この安道全という人は文墨《ぶんぼく》の徒なので足が弱く、三十里あまり行っただけでもう歩けなくなってしまった。そこで張順は村の宿屋へつれて行って酒を買ってすすめたが、ちょうど飲んでいるところへ、外からひとりの旅のものが、つかつかと傍までやってきて、
「おい、どうしてこんなにおそくなったんだ」
と呼びかけた。張順が見ると、それは神行太保の戴宗で、旅人の姿をしてあとを追ってきたのだった。張順はあわてて安道全をひきあわせてから、宋公明兄貴の容態はとたずねた。すると戴宗は、
「兄貴はもう意識もぼやけて、なにも咽《のど》に通らず、もはや死を待つばかりのありさまだ」
という。張順はそれを聞くと、はらはらと涙を流した。安道全は、
「肌の色つやはどうです」
とたずねた。
「色つやはなく、一晩じゅううめきどおしで、痛みがとまらず、もう長くはないようです」
「身体が痛みを感じるようならまだなおせるが、ただ間《ま》にあうかどうか」
「それはわけありません」
と、戴宗は甲馬を二枚とり出して安道全の足にくくりつけ、自分で薬嚢を背負って、張順にいった。
「あんたはひとりであとからきてくれ。わたしは先生とさきに行くから」
ふたりは村の宿屋を出て、神行法をつかってさきに行ってしまった。
張順のほうは、その宿にそのまま二三日泊まった。と、はたして王定六が、包みを背負って父親といっしょにやってきた。張順はふたりを迎えて大いによろこび、
「ここでずっと待っていたのだ」
といった。王定六は、
「安太医はどうなさいました」
「神行太保の戴宗が迎えにきて、もうふたりでさきに行ってしまったよ」
王定六は張順および父親といっしょに、梁山泊へとむかった。
一方、戴宗は、安道全をつれ、神行法をつかって大急ぎで梁山泊に駆けつけた。山寨の全頭領はふたりを迎えて、宋江の寝室へつれて行った。寝台の傍へ行って見ると、かすかに息をしているだけである。安道全はまず脈をみた。そしていった。
「みなさん、ご心配なく。脈は異常ありません。身体はすっかり弱っておられますが、まあ大丈夫です。えらそうにいうわけではありませんが、十日以内にきっとなおしてみせます」
一同はそれを聞くと、いっせいに礼をした。安道全はまず灸をすえて毒気を抜いてから薬をつかい、塗り薬をぬったり強壮剤を飲ませたりした。五日たつと、だんだん肌の色つやがよくなり、身体は生気をとりもどし、食事がすこしずつすすみだした。そして十日とたたぬうちに、傷口はまだふさがらなかったが、食事のほうは普段と同じになった。
そこへ張順が王定六親子をつれてきて、宋江および頭領たちにひきあわせ、揚子江で強盗にあい、川へ沈めて仇《あだ》を報いたことを話すと、一同はみなほっとしていった。
「すんでのことで、兄貴の病気を救えなくなるところだったのだな」
宋江はようやく病気がよくなると、さっそく呉用にはかって、北京を攻めて盧員外と石秀を救い出そうとした。安道全は、
「傷口がまだふさがっておりませんから、ご無理をなさいませんよう。動くとなかなかなおりませんから」
と諫めた。呉用も、
「そういうことは気になさらず、もっぱらご養生なさってお身体の元気をとりもどしてください。わたくし、およばずながら、この初春の候に乗じてぜひとも北京の城を打ち破り、盧員外と石秀のいのちを救って、淫婦と奸夫をとりこにしたいと思いますが、いかがでしょう」
「軍師がそうしてわたくしを助けてくださるなら、死んでも思い残すことはありません」
呉用はさっそく忠義堂で命令をくだした。かくて北京城内は火窟鎗林《かくつそうりん》となり、大名府中は屍山血海《しざんけつかい》と化するに至るのである。まさに、談笑すれば鬼神もみな胆《たん》を喪《うしな》い、指揮すれば豪傑ことごとく心を傾く、というところ。さて軍師の呉用はいかなる計略を説いたか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 南柯の夢 第六回注四参照。
二 捕らわれていて 原文は陥在縲絏 第五十八回注一参照。
三 五体満足に 原文は〓〓。〓〓は渾淪と同義で、物の形の完全なこと。五体を傷つけることなく死んだものは、容易に転生できるという迷信がある。
四 扁鵲 第五十二回注一参照。
五 章薹に柳を贈る 「学ぶこと莫れ」というのは、他人の手に帰することのないようにという意で、唐の詩人韓翊《かんよく》とその妻柳氏《りゆうし》との故事にもとづく。韓翊が柳氏を都に残して家郷に帰った留守に、安禄山《あんろくざん》の叛乱あって都は大いに乱れ、柳氏は法霊寺に身を寄せて尼になった。乱が平定してから韓翊は都へ使いを送って柳氏をさがさせ、「章薹柳」の詩を送って柳氏が他人の手に帰したであろうことをかなしんだ物語が、唐の小説『柳氏伝』に見える。「章薹柳」の詩は『全唐詩』にも見え、韓翊と柳氏の故事はまた『本事詩』にも記されている。
章薹の柳 章薹の柳
昔日の青々今在りや否や
縦《たと》い長条を旧に似て垂らしむるとも
また応《まさ》に他人の手に樊折せらるべし
六 陽台の夢 巫山《ふざん》の夢に同じ。戦国の楚の詩人宋玉《そうぎよく》の「高唐賦」の序に、楚の懐王が高唐(楼の名)に遊んだとき夢に一佳人と契りを結んだが、別れるとき佳人は、
妾《しよう》は巫山の陽《みなみ》、高丘の岨に在り。旦《あした》には朝雲となり、暮には行雨となる。朝々暮々、陽台の下。
といったとある。ここから、雲雨、巫山の夢、陽台の夢などが男女の情交を意味する言葉としてつかわれる。
第六十六回
時遷《じせん》 火もて翠雲楼《すいうんろう》を焼き
呉用《ごよう》 智もて大名府《たいめいふ》を取る
さて、呉用が宋江にいうには、
「このたび兄貴は幸いに事なきを得、安太医も寨《とりで》で兄貴の病気をみていてくださることになって、梁山泊にとってはこのうえもないしあわせです。兄貴がまだ病気で寝ておられるとき、わたしはしばしば大名(北京)へ人をつかわして様子をさぐらせて見ましたところ、梁中書は、われわれの軍がおし寄せてきはせぬかと昼夜おそれております。そこでさらに、北京の城内城外のあちこちへ人をやって漏れなく告示を出させ、住民におそれることのないようさとしておきました。仇には相手があり、借金には貸し手があるのと同じく、大軍が攻め寄せて行っても相手は決まっているのだと。そのため梁中書はすっかりびくびくしております。東京《とうけい》の蔡太師は関勝が投降したという知らせを聞いて、天子にはそのことをかくし、大赦によって八方無事におさめようとたくらみ、そのためしきりと梁中書のところへ書面を送って、盧俊義と石秀のいのちはそのままにしておいて手がかりにするようにと申しつけております」
宋江はそれを聞くと、ただちに兵を繰り出して北京を討つようにといった。呉用は、
「もう冬もすぎて春になり、元宵節《げんしようせつ》(正月十五日)もまぢかです。北京では毎年のならわしで賑やかに灯籠をかざりつけますので、この機に乗じて、まず城内に兵をひそませておいたうえで、外から大挙して攻め、内外呼応して打ち破りたいと思います」
「それはなかなか妙計。さっそくそのようにおねがいします」
「いちばん大事なことは、城内で火を放って合図をすることだが、みなさんのうち、誰かひとり、さきに城内へ行って火を放ってくださらぬか」
そのとき階段の下からひとりのものがすすみ出て、
「わたしがまいりましょう」
といった。見ればそれは鼓上《こじようそう》の時遷である。時遷は、
「わたしは子供のころ北京へ行ったことがありますが、城内には翠雲楼《すいうんろう》という楼閣があって、楼上楼下には大小百十個の小部屋があります。元宵の夜は必ず混みあいます。わたしはひそかに城内にかくれていて、正月十五日の夜、翠雲楼へのぼって行き、火をつけて合図をいたしますから、軍師どのは兵をひきつれて牢をおそわれるのが上策かと思います」
「わたしもそう考えていたところだ。では、あんたはあしたの朝早く、さきに山をおりて行って、元宵の夜の一更(八時)になったら、楼の上で火をつけていただきたい。そうすれば大手柄です」
時遷は承知し、命を受けて出かけて行った。
翌日、呉用は、解珍と解宝に猟師の身なりをさせ、北京城内のお屋敷へ獲物を献上に行くふりをし、正月十五日の夜、合図の火の手があがるのを見たら、ただちに留守司《りゆうしゆし》の門前へ行って、知らせの官兵を阻ませることにした。ふたりが命令を受けて出て行くと、さらに杜遷と宋万に米商人のなりをさせ、車を押して行って城内に宿をとらせることにした。そして元宵の夜、合図の火の手があがるのを見たら、すぐ東門を奪うよう、それがふたりの手柄だといいつけた。ふたりが命令を受けて出て行くと、さらに孔明と孔亮に下僕の身なりをさせ、北京城内の賑やかな町の軒下に休んでいて、楼のあたりに火がついたらすぐ援護に駆けつけさせることにした。ふたりが命令を受けて出て行くと、さらに李応と史進に旅人のなりをさせ、北京の東門外の宿に泊まって、城内に合図の火の手があがるのを見たら、まず門衛の兵を斬って東門を奪い、進路をつくらせることにした。ふたりが命令を受けて出て行くと、さらに魯智深と武松に行脚僧《あんぎやそう》の身なりをさせ、北京城外の庵寺に泊まって、城内に合図の火の手があがるのを見たら、ただちに南門外へ行って敵の大軍をくいとめ、その退路をふさがせることにした。ふたりが命令を受けて出て行くと、さらに鄒淵《すうえん》と鄒潤《すうじゆん》に灯籠売りの身なりをさせ、まっすぐ北京の城内へ行って宿屋に泊まり、楼内に火の手があがるのを見たら、ただちに司獄司(牢)の前へ駆けつけて応援させることにした。ふたりが命令を受けて出て行くと、さらに劉唐と楊雄に捕り手の役人の身なりをさせ、まっすぐ北京の州役所の前へ行って宿を止り、合図の火の手があがるのを見たら、ただちに、報告にくるものすべてをせきとめて、彼らに連絡し救援することができないようにさせた。ふたりが命令を受けて出て行くと、さらに公孫勝先生に諸国遍歴の道士の身なりをさせ、凌振には道童の身なりでつき従わせて、風火《ふうか》や轟天《ごうてん》などの砲を数百発たずさえてまっすぐ北京城内のひっそりしたところへ行って待機し、合図の火の手があがるのを見たら、ただちに砲を射《う》つことにさせた。ふたりが命を受けて出て行くと、さらに張順には燕青といっしょに水門をくぐって城内にはいり、盧員外の家へ行って婬婦と奸夫を捕えるように命じ、さらに王矮虎・孫新・張青・扈三娘・顧大嫂・孫二娘には三組の田舎ものの恰好をさせ、町へ灯籠見物に行くふりをして、盧俊義の家をさがして火をつけるようにいいつけ、また柴進には楽和をつれて軍官のふりをさせ、まっすぐに蔡節級の家へ行ってふたり(盧俊義と石秀)を殺さないようにたのませることにした。割りあてがきまると頭領たちはそれぞれ命を受けて出て行ったが、一同みな命令を守って手ちがいのないようにした。
おりしも正月のはじめであった。梁山泊の好漢たちがつぎつぎに山をおりて行ったことはそれまでとして、一方、北京の梁中書は、李成・聞達・王太守をはじめ諸官一同を集めて灯籠祭りの行事について協議した。梁中書のいうには、
「毎年北京では、賑やかに灯籠をともして元宵を祝い、民と楽しみをともにすることは、東京のしきたりと同じだが、このごろ梁山泊の賊に二度も攻めこまれたので、灯籠祭りに乗じて災《わざわい》をひきおこされはすまいかと心配なのだ。それでわしは祭りをやめたいと思うのだが、みなの意見はどうであろう」
すると聞達がいった。
「盗賊どもがこっそりとひきあげ、またあちこちに告示のようなものを貼り出したりしましたのは、窮余の策で、なにも計画があってのことではないと思います。あまりお考えすごしになりませぬよう。もし今年、灯籠祭りをやめますと、やつらの密偵がかぎ出して、きっと賊どものもの笑いのたねにされましょうから、住民に布告をお出しになって、例年よりもたくさん灯籠を飾り、仮装行列(注一)も数をふやし、町の中心にさらにふたつの鰲山《ごうざん》(灯籠を飾りつけた山車)を飾り、東京のしきたりと同じく夜どおし町をあけ放って、十三日から十七日まで五晩のあいだ祭りをする旨、お知らせなさいますよう。そして府尹《ふいん》に住民を監督させて賑やかにやらせ、ご自分でも視察なさって民と楽しみを同じくなさるよう努められるべきだと存じます。わたくしは一隊の兵をひきつれて城外へ出、飛虎峪《ひこよく》に陣どって賊の奸計をふせぎ、また李都監には屈強な騎馬隊をひきいて城内を巡視してもらって、住民の不安を除くようにすればよろしいでしょう」
梁中書はそれを聞いて大いによろこんだ。相談がきまると、さっそく掲示を出して住民に知らせた。
この北京大名府は、河北第一の大きな府であり、枢要の地であって、もともと各地方の商人の雲集するところだったが、灯籠祭りだというと人々がどっとおしかけた。町のすみずみまで、毎日廂官《しようかん》(注二)が見てまわって、仮装行列の用意をさせ、金持の家にはそれぞれ飾り灯籠を祭らせたので、遠くは二三百里、近くても百里あまり外まで買いに出かけたし、また旅商人も毎年灯籠を売りに町にやってきた。家々は門前に灯籠棚を立てて綺麗な灯籠や凝った花火を掛け、家のなかには飾り棚を組んで、五色の衝立や大きな灯籠をならべ、まわりには各家の書画とか珍しい骨董や道具を飾った。城内は表通りも裏町も灯籠をともさない家はひとつもない。大名府の留守司の州橋のほとりには、鰲山がひとつひとつ組みたてられて、その上には赤と黄の、紙の竜が二匹わだかまっていた。その鱗《うろこ》のひとつひとつには明りがともされ、口からは水を噴き出して州橋の下の川にそそぎ、そのまわりいちめんには無数に明りがともされていた。銅仏寺《どうぶつじ》の前にも鰲山がひとつ組みたてられて、その上には青い竜が一匹わだかまり、周囲にはやはり無数の明りがともされていた。翠雲楼の前にもまた鰲山がひとつ組みたてられて、その上には白い竜が一匹わだかまり、周囲には同じく無数の明りがともされていた。元来この酒楼は、河北第一の楼閣として一帯にその名を知られていて、三層建て、浮彫りの梁《はり》に五彩の柱の、まことに見事な作りで、楼上楼下には百個あまりの小部屋があり、ひねもす鼓楽の音や笙歌の声がにぎやかに絶えることがなかった。また、城内各所の宮観・寺院・仏殿・法堂でも、灯明をあげて豊年を祝った。遊里のにぎわいについては、いうまでもない。
梁山泊の忍びのものは、これらの消息をさぐって、山へ知らせに帰った。呉用はそれを聞いて大いによろこび、宋江のところへ行ってくわしく伝えた。宋江はさっそく、みずから兵をひきつれて北京を攻めようとしたが、安道全が諫めて、
「傷口がまだなおっておりませんのに、むやみなことをなさってはいけません。すこしでも怒気がさわると、なかなかなおりませんから」
といった。
「わたしが兄貴のかわりに行きます」
と呉用はいい、さっそく鉄面孔目《てつめんこうもく》の裴宣《はいせん》とともに八隊の軍勢を編成した。第一隊は双鞭《そうべん》の呼延灼《こえんしやく》が韓滔《かんとう》と彭〓《ほうき》を従えて前軍となり、鎮三山《ちんさんざん》の黄信《こうしん》が後方から援護する。これはすべて騎兵。このまえ呼延灼が戦場で黄信をうち負かした(第六十四回)のは、あれはいつわりで、関勝をだますためにわざと仕組んだ計略だったのである。第二隊は豹子頭《ひようしとう》の林冲《りんちゆう》が馬麟《ばりん》と〓飛《とうひ》を従えて前軍となり、小李広の花栄が後方から援護する。これもすべて騎兵。第三隊は大刀《だいとう》の関勝《かんしよう》が宣賛《せんさん》と〓思文を従えて前軍となり、病尉遅《びよううつち》の孫立《そんりつ》が後方から援護する。これもすべて騎兵。第四隊は霹靂火《へきれきか》の秦明《しんめい》が欧鵬《おうほう》と燕順《えんじゆん》を従えて前軍となり、青面獣《せいめんじゆう》の楊志《ようし》が後方から援護する。これもすべて騎兵。第五隊は歩兵の頭領、没遮〓《ぼつしやらん》の穆弘《ぼくこう》が杜興《とこう》と鄭天寿《ていてんじゆ》を従える。第六隊は歩兵の頭領、黒旋風の李逵《りき》が李立と曹正を従える。第七隊は歩兵の頭領、挿翅虎《そうしこ》の雷横《らいおう》が施恩《しおん》と穆春《ぼくしゆん》を従える。第八隊は歩兵の頭領、混世魔王《こんせいまおう》の樊瑞《はんずい》が項充《こうじゆう》と李袞《りこん》を従える。
「この八隊の騎兵および歩兵の軍は、それぞれただちに出発し、所定の時刻をあやまることのないように、正月十五日の二更を期して、一同北京の城下に到着されたい。騎兵の軍も歩兵の軍もいっせいに出発するよう」
八隊の軍勢は命令どおりに山をくだった。その他の頭領たちはみな宋江とともに山寨を守った。
さて時遷はもともと忍びこみが本職。城門からはいらずに、夜、城壁を乗り越えて行ったが、城内の宿屋はひとり旅のものは泊めないので、彼は、昼間は町をぶらつき、夜になって東嶽廟の神座の下で寝た。正月十三日、町を行ったりきたりして、町の人々が灯籠棚を組みたてたり灯籠をぶらさげたりしているのを見ていると、解珍と解宝が猟の獲物をかついで町をぶらぶら見まわっているのに出会った。また、杜遷と宋万のふたりが遊里から出てくるところも見かけた。時遷は十五日の当日、さきに翠雲楼へ行って下検分をしたが、そのとき、孔明が髪をざんばらにし、身には羊の皮の破れた着物をまとい、右手には杖をつき、左手には碗を持って、きたならしい恰好で物乞いをしているのを見かけた。孔明は時遷を見ると、すれちがって、うしろから声をかけたので、時遷は、
「兄貴、あんたのその堂々たる男ぶりと色つやのよい顔じゃ、とても乞食には見えんよ。北京には捕り手が多いから、見破られでもしたら大事をあやまることになる。身をかくしていたほうがいいぜ」
そういっているところへ、またひとりの乞食が塀のところがら出てきた。見れば孔亮である。時遷が、
「兄貴、あんたもそんな雪のような白い顔をしていちゃ、腹をすかした乞食には見えやしない。そんなふうじゃきっと見破られますぜ」
といったとたん、うしろからふたりのものがいきなりひっつかまえ、
「うまいことをしやがったな」
とどなりつけた。ふりむいて見ると楊雄と劉唐だった。
「おい、ふるえあがったぜ」
と時遷がいうと、楊雄は、
「みんなおれについてこい」
と、人気《ひとけ》のないところへつれて行き、
「三人ともあんまり無分別すぎるじゃないか。なぜまたあんなところで話をしたりなんかするんだ。おれたちふたりが見つけたからよかったようなものの、腕ききの捕り手に見破られでもしたら、兄貴の大事はめちゃめちゃじゃないか。おれたちふたりですっかり調べたから、あんたたちはもう町へは出なくていいよ」
孔明は、
「鄒淵《すうえん》と鄒潤《すうじゆん》は町で灯籠を売っている。魯智深と武松はちゃんと城外のお堂にいる。もうなにもいうことはない。あとはただ時刻がきたらめいめいちゃんとやることだ」
五人が話をすませて、いっしょにある寺の前まで行くと、ちょうど寺から出てきたひとりの道士と出くわした。みなが顔をあげて見ると、それは入雲竜の公孫勝で、うしろには道童の身なりをした凌振がついている。七人は互いにうなずきかわして、それぞれ別れた。
いよいよ上元《じようげん》(正月十五日、元宵節)に近づくと、梁中書はまず大刀の聞達に兵をひきつれて城外へ行かせ、飛虎峪《ひこよく》にたむろして賊の襲撃にそなえさせた。十四日には李天王の李成に命じ、ものものしくよろった屈強な騎馬の兵五百をひきつれて城内を巡視させた。翌日はまさに正月十五日、上元の佳節で、晴れわたったよい天気。たそがれて月がのぼると、大通りから裏町にいたるまで、飾り灯籠に火がいれられ、あちらからもこちらからもいっせいに仮装行列が繰り出された。それをうたった詩がある。
北京の三五(十五日)風光好し
膏雨《こうう》(潤いの雨)初めて晴れて春意《しゆんい》早し
銀花の火樹不夜の城
陸地に擁出す蓬〓島《ほうらいとう》(神仙の島)
燭竜銜《ふく》み照らして夜光寒く
人民歌い舞って時安《じあん》を欣《よろこ》ぶ
五鳳(おおとり)の羽は双貝闕《そうばいけつ》(竜宮)を扶《たす》け
六鰲(おおがめ)の背は三神山(神仙の島)を駕《の》す
紅粧《こうしよう》の女は朱簾《しゆれん》の下に立ち
白面の郎は紫〓(黒栗毛)の馬に騎《の》る
笙簫《しようしよう》は〓喨《りようりよう》として青雲に入り
月光は清く鴛鴦の瓦に射《さ》す
翠雲楼高く碧天を侵し
嬉遊来往嬋娟《せんえん》(美女)多し
灯毬《きゆう》は燦〓として錦〓の若《ごと》く
王孫公子は真に神仙
遊人の〓〓《こうかつ》(雑踏)尚《なお》未《いま》だ絶えざるに
高楼頃刻《けいこく》にして雲煙を生ず
その夜、節級の蔡福は、弟の蔡慶にたのんで大牢を監視させ、
「おれは家へ帰ってすぐまたもどってくる」
と、家に帰ったところ、とつぜんふたりの男がひらりとはいってきた。前の男は軍官のいでたちで、うしろのは下僕の身なりをしていたが、明りに照らして見て蔡福はそれが小旋風の柴進であることがわかった。うしろのはすなわち鉄叫子の楽和だったが、蔡節級は柴進にだけしか面識がなかった。さっそく奥へ請じいれて、できあいのご馳走でもてなしをしようとすると、柴進のいうには、
「酒はちょうだいしません。大事なことをおねがいにまいったのです。盧員外と石秀がいろいろとあなたのお世話になっておりまして、お礼の申しようもございません。ところで今夜、この元宵のさわぎにまぎれて、大牢のなかへはいってちょっと会いたいと思うのですが、どうか案内していただきたいのです。ぜひともお聞きいれくださるよう」
蔡福は役人のこととて、すぐ大体のことは察した。ことわってしまえば、城を攻めてめちゃめちゃにし、家族のものまでも殺されてしまうだろうと思い、仕方なくいのちがけの片棒をかつぐことにし、古い着物を持ってきて、ふたりに着かえさせて役人姿にし、頭巾もとりかえさせてから、柴進と楽和をつれて牢のなかへはいって行った。
初更ごろ、王矮虎と一丈青、孫新と顧大嫂、張青と孫二娘の三組の田舎ものの夫婦は、めかしこんで田舎ものらしくよそおい、人混みにまぎれて東門からはいって行った。
公孫勝は、籠をかつがせた凌振をつれて城隍廟《じようこうびよう》の廊下に腰をおろしていた。この城隍廟は州役所のすぐそばにあった。
鄒淵と鄒潤は、灯籠をかついで城内をぶらぶら歩いていた。
杜遷と宋万は、それぞれ車を押して梁中書の官邸の前まで行き、人混みのなかにまぎれこんでいた。梁中書の官邸は東門内の大通りにあった。
劉唐と楊雄は、それぞれ水火棍《すいかこん》を持ち、ふところには武器をかくし、州橋の上へ行ってその両側に腰をおろしていた。
燕青は張順とともに、水門をくぐって城内にはいり、人気のないあたりにひそんでいた。
これらの話はみなそれまでとする。
やがて、楼《やぐら》の上の時太鼓《ときだいこ》が二更を告げた。こちらでは時遷が、放火の材料の硫黄や焔硝をいっぱいいれた籠をさげ、その上には何本か鬧鵝児《どうがじ》(祭りの日にさす髪かざり)を挿し、そっと翠雲楼の裏へ忍びこんで、楼の上へあがって行ったが、見れば部屋のなかでは、ぴいぴいどんちゃんと、遊び仲間たちがにぎやかに、そこで騒ぎながら灯籠見物をしている。あがって行った時遷は、鬧鵝児を売るようなふりをして、あちこちの部屋をのぞきまわった。と、解珍と解宝が鋼叉(さすまた)を持ち、そのさきに兎《うさぎ》をひっかけて、部屋の前を行ったりきたりしているのに出くわした。時遷が、
「時刻になったのに、どうして外じゃはじめないのかな」
というと、解珍が、
「おれたちがさっき櫓の前にいたら、物見の兵が走って行ったから、たぶん味方がやってきたんだろう。さあ、早くやるがいい」
その言葉のおわらぬうちに、とつぜん楼の前がさわがしくなって、口々に、
「梁山泊の軍勢が西門外までやってきた」
という。解珍は時遷にいった。
「さあ、早くやれ。おれは留守司の前へ応援に行く」
留守司の前へ駆けつけて行くと、敗れた軍勢がどっと城内へなだれこんできて、
「聞《ぶん》大刀が陣地を奪われてしまった。梁山泊の賊がいっせいに城下におしよせてきた」
という。
李成はちょうど城壁を見まわっていたが、それを聞くと、馬を飛ばして留守司に駆けつけ、兵を呼集し、城門を閉ざして州を守れと命令した。
一方、王太守は、みずから百名あまりのものをひきつれ、大枷や鉄の鎖もものものしく街を鎮《しず》めていたが、このことを聞くとあわてて留守司へもどった。
また梁中書は、そのとき官邸で酒を飲んでくつろいでいて、はじめに知らせを受けたときは落ちつきはらっていたが、それから半時とはたたないうちに、物見の早馬の矢つぎばやの知らせを受けて魂が宙に飛んでしまうほどおどろき、あわてふためいて、
「馬をひけ」
と呼びたてた。と、そのとき翠雲楼から、天を突かんばかりのすさまじい焔が噴きあがった。焔は月の光を消して燃えさかった。梁中書はそれを見て急いで馬に乗り、様子を見に行こうとすると、ふたりの大男が車を押してきて道に置き、さがっている灯籠を取ってきて車に火をつけ、ぱっと燃えあがらせた。梁中書が東門から出て行こうとすると、ふたりの大男は口々に、
「李応ここにあり」
「史進ここにあり」
といい、朴刀をかまえて大股に斬りこんできた。城門を守る兵士たちはおどろいて逃げ出したが、手近なところにいたもの十数人は傷つけられてしまった。そこへちょうど杜遷と宋万が応援にやってきて、四人でいっしょに東門をおさえた。梁中書はかなわぬと見てとり、従者をひきつれて南門へと駆け出したが、南門からは、
「肥った大入道が鉄の禅杖をふりまわし、恐い顔をした行者《ぎようじや》が二本の戒刀をふりかざして、喊声をあげながら城内に斬りこんできました」
という知らせ。梁中書は馬首を転じて留守司の前へひき返した。すると解珍と解宝が、鋼叉を突きたてて縦横にそこであばれまわっているので、役所へ帰ろうとするものの、近づくこともできない。ちょうどそこへ王太守がやってきたが、劉唐と楊雄に二本の水火棍でいちどきに打たれ、脳漿が流れ出し眼玉が飛び出して、道の上で死んでしまった。虞候や護衛のものはてんでにいのちからがら逃げて行ってしまった。梁中書は急いで馬を返し、西門へと駆け出した。そのとき、城隍廟のなかからどっと火砲がとどろいて天地をふるわせた。鄒淵と鄒潤は竹棹を持って、しきりに家々の軒下に火をつけてまわった。南の遊廓では王矮虎と一丈青が斬りまくり、孫新と顧大嫂はかくしていた武器をとり出して、加勢した。銅仏寺へは張青と孫二娘が行き、鰲山《ごうざん》によじのぼって火をつけた。このとき北京城内の住民は、人々は逃げまわり家々は泣き叫ぶという大混乱。四方十数ヵ所からおこった火は、天に照り映えて方角もわからぬというしまつ。
ところで西門へ駆けて行った梁中書は、李成の軍に出あい、急いでともに南門の城壁まで行って馬をとめ、鼓楼の上から眺めて見ると、城下にはいちめんに敵軍が群がっている。その旗じるしには、
大将呼延灼
としるされていて、火焔の明りのなかに凜々と奮いたって驍勇をあらわし、左には韓滔、右には彭〓を従え、そのうしろからは黄信が兵を督励しつつ雁の翼のように横隊になって城門へと斬りすすんでくる。梁中書は城を出ることができず、こんどは北門の城壁へ身を避けて眺めて見ると、焔のあかあかと照り映えるなかに、数えきれぬほどの兵がいた。その大将は豹子頭の林冲で、馬を躍らせ槍を横たえ、左には馬麟、右には〓飛を従え、うしろからは花栄が兵を督励しつつまっしぐらに攻めかかってくる。そこで、また東門のほうへまわって見ると、群がる松明《たいまつ》のなかに没遮〓の穆弘が見え、左には杜興、右には鄭天寿。この三人の歩兵の好漢が先頭に立って手に朴刀をかまえつつ、一千有余をひきしたがえて城内へと斬りこんでくる。梁中書はそこでまた南門へ行き、死にもの狂いに血路を斬り開いて逃げようとしたところ、吊り橋のほとりに松明がいっせいに輝き、黒旋風の李逵が、左には李立を、右には曹正を従えているのが見えた。李逵はすっ裸になり、眼をむき歯をくいしばり、二梃の斧を手に、濠を渡って斬りこんでくる。李立と曹正もあとにつづく。
李成は先頭に立ち、血路を開いて城から駆け出し、梁中書を守りながら逃げた。と、左手のほうにどっと喊声が湧きおこり、群がる松明のなかに無数の軍勢。それは大刀の関勝で、赤兎馬《せきとば》を飛ばし、手に青竜刀をふりまわしながら梁中書めがけておどりかかってきた。李成は双刀をふるって応戦はしたものの、たちまち戦意がくじけ、馬を返して逃げ出した。と、左には宣賛が、右には〓思文がいて、両側から飛び出し、うしろからは孫立が兵を督励しつつ、力を合わせて攻めかかる。かくて互いにたたかっているおりしも、うしろから小李広の花栄が追いかけ、弓に矢をつがえるや、李成の副将を射《う》ってまっさかさまに落馬させた。李成はそれを見ると馬を飛ばしていっさんに逃げ出したが、矢の射程の半ばも行かぬうちに、右手のほうに銅鑼や軍鼓が乱打され、目もくらむばかりの松明の光。それは霹靂火の秦明で、馬を躍らせ狼牙棍をふりまわし、燕順と欧鵬をひきつれ、うしろからは楊志も斬りこんでくる。李成は応戦しつつ逃げ、兵の大半を失いながらも梁中書を守ってひた走りにのがれて行った。
話はふたつにわかれて、城中では、杜遷と宋万が梁中書の一家眷族《けんぞく》を殺し、劉唐と楊雄が王太守の一家ことごとくを殺した。孔明と孔亮は司獄司の裏の塀を乗り越えてはいり、鄒淵と鄒潤は司獄司の表で往来のものをふせぎ止めていた。大牢のなかでは、柴進と楽和が合図の火の手のあがるのを見ると、すぐ蔡福と蔡慶にいった。
「おふたりさん、あれをごらんください。このうえはなにもぐずぐずすることはないじゃありませんか」
蔡慶が門のところを守っていると、早くも鄒淵と鄒潤が牢門を押しあけて、
「梁山泊の好漢が総勢こぞってまいったぞ。さっさと盧員外と石秀兄貴をつれてこい」
と大声で呼ばわった。蔡慶があわてて蔡福に知らせたときには、はや孔明と孔亮は牢の屋根から跳びおり、彼ら兄弟(蔡福と蔡慶)の返事を待たずに、柴進はかくしていた武器を出して枷をはずし、盧俊義と石秀を自由にした。そして柴進は蔡福に、
「さあ、わたしといっしょにお宅へ行って、家族の人たちを守ろう」
といい、みんなでいっしょに牢門を出た。鄒淵と鄒潤は彼らを迎えて合流した。蔡福と蔡慶は、柴進といっしょに行って家族のものを守った。盧俊義は石秀・孔明・孔亮・鄒淵・鄒潤の五人の兄弟をつれて、李固と賈氏を捕らえにその家へ行った。
ところで李固は、梁山泊の好漢が兵をひきいて城に攻めこんできたと聞き、ついで四方から火の手があがるのを見ると、家で眼をぴくぴくさせながら、さっそく賈氏と相談して金珠財宝を一包みにまとめ、それを背負って門から逃げ出そうとした。と、門をどっと押したおして、何人かのものが乱入してきた。李固と賈氏はあわててひき返し、裏のほうへ逃げて裏門をあけ、塀をまわって行って川へおり、かくれ場所をさがした。と、岸で張順が大声で叫んだ。
「こら阿魔、どこへ逃げやがる」
李固は泡を食い、舟のなかへ跳びおりて身をかくし、胴の間へもぐりこもうとしたところ、何者かの手がのびてきて、いきなりひっつかまえ、
「おい李固、おれを誰だと思う」
とどなりつけた。李固はそれが燕青の声だとわかると、あわてて叫んだ。
「小乙《しよういつ》兄い、わしとおまえとはなんの恨みもない仲だ。岸へひきずりあげるのはかんべんしてくれ」
岸の張順は早くも阿魔を小脇にはさんで、舟のほうへひきずってきた。燕青も李固をとりおさえて、いっしょに東門のほうへ行った。
ところで盧俊義は、家に駆けつけてみたところ李固も阿魔もいないので、みなのものにいっさいの家財や金銀財宝を運び出させて車に積み、梁山泊へ持って行ってわけることにした。
一方、柴進は蔡福といっしょにその家へ行き、家財をまとめ、家族のものを集めて、ともに山寨へ行くことにした。蔡福は、
「大官人どの、城内の住民を助けてやってください。殺したり傷つけたりしないようにおはからいください」
といった。柴進はそういわれて、すぐ軍師の呉用をさがしに行った。そしてさがしあてると、急いで命令を出し、良民を殺害することを禁じたが、そのときは既に城内のものの半数は傷つけられていた。見れば、
烟は城市に迷い、火は楼台を燎《や》く。紅光影裏瑠璃《るり》を砕き、黒焔叢中翡翠《ひすい》を焼く。人を娯《たの》しましむる傀儡《かいらい》(操り人形)は、面是背非《めんぜはいひ》(前うしろ)を顧るを得ず、夜を照らす山棚《さんほう》(灯籠の飾り棚)は、誰か前明後暗を管取せん。斑毛老子《はんもうろうし》(白髪の老人。催しものの仮装)は、猖狂《しようきよう》して白髭鬚《はくししゆ》を燎《や》き尽《つく》し、緑髪児朗《りよくはつじろう》(黒髪の若もの。同じく仮装)は、奔走して華蓋傘《かがいさん》(絹張りのさしかけ傘)を収めず。竹馬を踏む的《もの》は、暗に刀鎗に中《あた》り、鮑老《ほうろう》(注三)を舞う的《もの》(道化)は、刃槊《じんさく》を免れ難し。花の如き仕女は、人叢中に金墜玉崩し、景を翫《なぐさ》む佳人は、片時の間に星飛雲散す。惜しむ可し千年歌舞の地、翻って一片の戦争場と成る。
やがて夜が明けると、呉用と柴進は城内で金鼓を鳴らして兵を収め、頭領たちは盧員外と石秀を迎えて、みなで留守司へ行って対面した。盧俊義と石秀は、牢内で蔡福と蔡慶のふたりの兄弟にいろいろと世話になり、ようやくいのち拾いをしたということをくわしく話した。燕青と張順はさっそく李固と賈氏をひきたててきた。盧俊義はふたりを見ると、ひとまず燕青にあずけて監視させ、あとで処分することにしたが、この話はそれまでとする。
さて李成は、梁中書を守って城を落ちのびて行くうちに、敗軍をひきつれてもどってくる聞達に出くわし、いっしょになって南のほうへ逃げて行ったが、しばらく行くうちに前軍がどっとどよめきだした。すなわち混世魔王の樊瑞と、左には項充、右には李袞、この三人の歩兵の好漢が、飛刀と飛鎗をふりまわしつつまっしぐらに斬りこんできたのである。うしろからはまた挿翅虎の雷横が施恩と穆春を従え、それぞれ一千の歩兵をひきつれてきて退路をさえぎった。まさに獄囚赦《しや》に遇って再び牢にもどり、病客医《い》に逢ってまた床にのぼるというところ。さて梁中書ら一行の軍勢はいかに相なるか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 仮装行列 原文は社火。本来は元宵節の行事ではなく、立春の前一日におこなわれた行事で、太守が城東に出て春を迎えるときに、官妓を、春婆一、春姉二、春吏一、〓隷二、春官一に仮装させたもの。
二 廂官 第十二回注二参照。
三 鮑老 第三十三回注六参照。
第六十七回
宋江《そうこう》 馬歩の三軍を賞し
関勝《かんしよう》 水火の二将を降《くだ》す
さてそのとき梁中書と李成と聞達は、あわただしく敗軍をとりまとめて南へと逃げ落ちたが、しばらく行くとまた二隊の伏兵があらわれて前後から斬りたててきたので、李成が前に、聞達がうしろに、梁中書をなかに守って必死にたたかい、重囲をつき破って危うく大難をのがれ、かぶとはまがり、よろいはちぎれ、多くの兵を失いはしたものの、三人はさいわいいのち拾いをして西のほうへと逃げ去った。樊瑞《はんずい》は項充《こうじゆう》と李袞《りこん》をつれて、勢いに乗じて追いかけたがおよばず、雷横・施恩・穆春らとともに北京城内にひきあげて命を待つことにした。
一方、軍師の呉用は城内で命をくだし、掲示を出して住民を安んぜしめるとともに、火を消しとめさせた。梁中書・李成・聞達・王太守らの家族のものは、あるいは殺され、あるいは逃げたが、それ以上の追求はしないことにした。そして、大名府の庫をあばいて金銀や宝物・絹・錦などのいっさいを車に積みこみ、また米倉を開いて城内の住民に糧食をわけあたえ、残ったぶんは同じく車に積みこんで、梁山泊へ持ち帰って貯蔵することにした。頭領たちに命じて、部隊の準備がすべてととのうと、李固と賈氏を陥車《かんしや》におしこめ、全軍を三隊にわけて梁山泊へ帰って行ったが、まさにそれは、鞍上の将は金鐙《きんとう》を敲《たた》いて響かせ、馬前の軍は凱歌を唱って回《かえ》る、というありさまであった。戴宗は先発を命ぜられて宋公明に知らせた。宋江は諸将を集め、山をおりて出迎え、一同そろって忠義堂へはいった。宋江は盧俊義に対してうやうやしく礼をした。盧俊義があわてて礼を返すと、宋江はいった。
「われわれ一同は、員外どのを山にお迎えして仲間に加わっていただこうと考えておりましたところ、はからずもこのたびのご難で、おいのちも危ういような羽目になり、心のひき裂かれるような思いでございましたが、さいわいにも天のご加護によって、こんにちふたたびお会いすることができまして、このうえもないよろこびに存じます」
盧俊義は拝謝していった。
「上はあなたのお力、下は頭領のみなさんのおかげです。みなさんが心をひとつにし力を合わせてわたくしを救ってくださいましたことは、たとえこの身を粉にしょうともお報いすることのできない大恩でございます」
そして蔡福と蔡慶を呼び、宋江にひきあわせていった。
「わたくしがいのち拾いをしてここへくることができましたのは、まったくこのおふたりのおかげなのです。いくらお礼をいってもいいつくせません」
そのとき宋江は、盧員外を山寨の主《あるじ》に迎えようとした。盧員外はつつしんでいった。
「わたくしが、どうしてまた山寨の主になどなれましょう。あなたのために犬馬の労をとり、一兵卒として救命のご恩に報いることができますなら、それ以上のしあわせはございません」
宋江は再三たのんだが、もとより盧俊義は受けない。と、李逵が叫んだ。
「兄貴がもしほかのものを山寨の主にしたら、おいらはあばれだしますぜ」
武松も、
「兄貴はやたらに譲る譲るというが、それじゃおれたちはさっぱりおもしろくない」
宋江は大声でどなりつけた。
「おまえたちにはわからんのだ。余計なことをいうな」
盧俊義はあわてていった。
「そんなにおすすめくださいますと、わたくしは身のおきどころもございません」
すると李逵が大声で、
「そんなこといってないで、兄貴が皇帝になって、盧員外どのを宰相にし、おれたちをみんな大官にして、東京《とうけい》へ斬りこんで行って天子の位を奪い取ってやればいいじゃないか。そうすりゃこんなところでごたごたいってるよりもよっぽどましだ」
宋江は大いに怒って李逵を叱りつけた。呉用がとりなして、
「ひとまず盧員外どのには東の脇部屋で休んでいただいて、お客としてのおもてなしをすることにいたし、後日なにか手柄をたてられたとき、あらためて位の相談をなさることにしましては」
といった。宋江はそれでようやく満足し、燕青を盧俊義といっしょに寝泊まりさせ、また、別に家屋を都合して、蔡福と蔡慶に、その家族のものを落ちつかせた。関勝の家族は薛永がすでに山寨に迎えてきていた。
宋江はさっそく盛大な宴を設けて歩・騎・水の三軍をねぎらうことにし、大小の頭目と手下の兵士たちには、それぞれの隊にわかれて酒盛りをさせ、忠義堂でもにぎやかに祝宴を張って、大小の頭領互いに譲りあいつつ楽しく酒をくみかわした。盧俊義がそのとき立ちあがって、
「淫婦奸夫を捕らえてありますが、いかに処分いたしましょう」
といった。宋江は笑いながら、
「すっかり忘れておりました。ふたりをつれてくるように」
兵士たちは陥車をあけてふたりを堂前にひきたててき、李固を左側の将軍柱(大黒柱)に、賈氏を右側の将軍柱に、それぞれ縛りつけた。宋江はいった。
「こやつらの罪状は詮議するまでもない。員外どの、存分に処置なさるがよいでしょう」
盧員外は短刀をつかんで堂をおりて行き、大いに淫婦奸賊をののしったうえ、ふたりの腹を割き、肝をえぐり出して、なぶり殺し(注一)にし、死体を放り出したまま堂上へもどって、一同に礼をいった。頭領たちはみなお祝いをいい、しきりにほめそやした。
梁山泊では盛大な宴を設けて歩・騎・水の三軍をねぎらったことはそれまでとして、一方、北京の梁中書は、梁山泊の兵がひきあげて行ったことを知ると、ふたたび李成・聞達とともに敗軍をひきつれて城内にもどったが、家族のものを調べてみると、たいていは殺されていたので、みなは声を放って泣き悲しんだ。近隣の州県が兵を出して梁山泊の軍勢を追ったときは、すでに遠くへ去ってしまったあとだったので、それぞれ兵をもどさせた。梁中書の夫人は裏の庭園にかくれていのち拾いをしていたので、さっそく夫に、朝廷への上奏文をつくらせ、太師へも知らせの書面を書いてただちに将兵を派遣し賊を討ち取って仇を報いてほしいとたのませた。そして、民間の殺されたものは五千余名、負傷者は数えきれず、各軍の死傷者の総計は三万有余と書きそえさせた。
部将のひとりが上奏文と密書をたずさえて出発し、幾日かして東京の太師府に着き、その前で馬をおりた。門番のものが奥へとりつぐと、太師はそのものを呼びいれさせた。部将は節堂《せつどう》(軍機評議所)へ通って謁見し、密書と上奏文を上呈し、北京を打ち破った賊の勢いは強大で、防ぎとめることのできなかったことを訴えた。蔡京ははじめは、なんとかごまかして帰順させ、梁中書の功績にして自分もまた天子のおぼえをよくしようと考えていたのだったが、いまや事情がわるくなってかくしておくわけにはいかなくなったので、決戦をしようと心にきめ、
「ひとまず部将をさがらせておけ」
と、腹立たしげにいった。翌日の五更(朝四時)、景陽楼の鐘が鳴り、待漏院《たいろういん》(朝見の儀の控えの間)に文武百官が集まると、蔡太師は先頭に立って玉座の下にすすみ、道君《どうくん》皇帝(徽宗)にじきじきに奏上した。天子はそれを聞いて大いにおどろかれた。と、諫議大夫《かんぎたいふ》(注二)の趙鼎《ちようてい》が列からすすみ出て奏上した。
「これまでにもしばしば討伐の軍をさしむけましたが、いずれも敗北を喫しております。これは地の利を得ないためと存じます。わたくしの考えまするに、恩赦の詔勅をおくだしになって帰順させ、闕下《けつか》にお召しになって良臣(罪なき臣民)となし給うたうえ、辺境の防備にあたらせるがよろしかろうと存じます」
蔡京はそれを聞いて大いに怒り、声をはげまして叱りつけた。
「そのほうは諫議大夫たる身でありながら、かえって朝廷の綱紀を無視し、小人どもをのさばらせようとするのか。その罪は死罪にあたるぞ」
すると、天子は、
「然らば、ただちに朝廷より退けるがよい」
と、その場で趙鼎の官爵を剥いで庶人《しよじん》(平民)におとしてしまった。朝廷には、もはや奏上しようとするものはひとりもいなかった。詩にいう。
璽書《じしよ》(詔勅)招撫は是れ良謀なるも
却って忠言を把《と》って寇讐と作《な》す
一たび老成の人去って自《よ》り後
梁山の軍馬収むること能わず
天子はまた蔡京に下問された。
「さほど賊の勢いが盛んとならば、誰を討伐につかわしたらよいか」
蔡太師は奏上した。
「わたくしの考えまするに、たかが山野の泥棒どものこと、大軍を動かすまでもございますまい。わたくしは凌《りよう》州の二将を推したいと存じます。そのひとりは姓は単《ぜん》、名は廷珪《ていけい》、もうひとりは姓は魏《ぎ》、名は定国《ていこく》と申しまして、現にかの地の団練使をつとめております。ねがわくは聖旨をくだして急ぎ使者をさしむけられ、その一隊を派遣して日限《ひぎ》りで水泊の掃蕩を命ぜられまするよう」
天子は大いによろこび、さっそく勅命をくだして、枢密院に動員を命ぜられた。かくて天子は座を立たれ、百官も退朝したが、諸官はみな心中ひそかに蔡京の処置をあざ笑った。翌日、蔡京は省院(中書省)に会合を開いて使者をえらび、勅書を奉じて凌州へ行かせた。
一方、宋江は水滸の寨《とりで》で、北京で奪った府庫の金銭宝物を歩・騎・水の三軍にわけあたえ、また連日、牛を殺し馬を殺して盛大な宴を設け、盧員外をもてなした。庖鳳烹竜《ほうほうほうりゆう》(鳳凰の丸焼、竜の煮付け)とはいかないまでも、まさしく肉の山、酒の海であった。頭領たち一同がほどよく酔ったころ、呉用が宋江にいった。
「このたび、盧員外どののために北京を打ち破り、住民を殺害し府庫を掠奪し、梁中書らを追って城から逃げ出させたのですが、彼が朝廷に上奏しないはずはありませんし、まして彼の舅《しゆうと》は当代の太師ですからこのままほっておくはずはありません。必ず軍勢を繰り出して討伐にくると思うのですが」
「軍師のご心配はいかにもごもっともです。急いで北京へ人をやって様子をさぐらせ、こちらでも十分に準備をしておかなければ」
と宋江がいうと、呉用は笑いながら、
「わたしはもうとっくに人をやっておきました。そのうちに帰ってまいりましょう」
と、酒盛りをしながら話をしあっているところへ、かねてつかわしておいた忍びのものがもどってきて、
「北京の梁中書は、はたして朝廷に上奏して討伐の軍を出すようにたのみました。諫議大夫《かんぎたいふ》の趙鼎が大赦のことを申し出ましたところ、蔡京にどなりつけられて、趙鼎は官職を剥がれてしまいました。いま蔡京は天子に奏聞して、勅書を奉じた使者を凌州へつかわし、単《ぜん》廷珪と魏定国のふたりの団練使に命じて、その州の兵を動かして討伐にむかわせようとしております」
と知らせた。宋江が、
「それでは、いかにしてこれを迎え討つかだ」
というと、呉用は、
「待ちかまえて、ふたりともいっしょにひっ捕らえるまでです」
すると関勝が立ちあがって、宋江と呉用にいった。
「わたくしは山にまいりましてより、おふたりに手厚くもてなされながら、なんのはたらきもできずにおりました。単廷珪と魏定国には蒲城で何度も会って、よく知っておりますが、単廷珪のやつは水攻めの兵法が得意で、人々から聖水将軍《せいすいしようぐん》とあだ名されており、魏定国のやつは火攻めの兵法にくわしく、たたかうときはもっぱら火器を用いて攻めますので、神火将軍《しんかしようぐん》とあだ名されております。凌州はもともとわたくしの故郷で、しかもその地の兵馬をあずかってあのふたりを部下にしていたことがありますので、およばずながらこのわたくし、五千の兵をお借りし、かの二将が行《こう》をおこす前に、凌州の路上で彼らを待ち伏せ、もし降伏すれば山へつれてまいりましょうし、投降を肯《がえ》んじじないときは必ずひっ捕らえて兄貴に献上いたしましょう。頭領がたがわざわざ弓矢をとり、心身を労されるまでもないと思いますが、いかがでございましょうか」
宋江は大いによろこび、さっそく宣賛《せんさん》と〓思文《かくしぶん》の二将を同行させることにした。関勝は五千の兵をひきつれて、その翌日、下山することになった。翌朝になると、宋江は頭領たちとともに金沙灘の寨まで見送って行った。関勝ら三人は兵をひきつれて去って行った。
頭領たちが忠義堂にもどってくると、呉用は宋江にいった。
「関勝のこのたびの出陣は、まだその内心のほどがしかとわかりませんので、さらに良将をつかわしてうしろから監督しながら、援護させることにしましょう」
「わたしの見るところでは、関勝は義気凜然として異心はないようです。そのお疑いはご無用でしょう」
「だが、彼の心は兄貴のお考えどおりではないかも知れませんから、さらに林冲と楊志に兵を統《す》べさせ、孫立と黄信を副将として、五千の兵をもってただちに下山させましょう」
すると李逡が、
「おいらも行くとしよう」
といい出した。宋江は、
「このたびのはそのほうの任ではない。しかるべき良将がちゃんといる」
「おいらはなにもしないでいると病気になるんだ。行かしてくれなければ、ひとりで出かけるまでだ」
「命令をきかなければその首を刎ねるが、よいか」
と宋江は叱りつけた。李逵はそういわれて、ぷりぷりしながら忠義堂をおりて行った。
林冲と楊志が兵をひきつれて下山し、関勝の援護に行ったことはさておき、その翌日、とつぜんひとりの兵士が知らせにきて、
「黒旋風の李逵が、昨夜二更ごろ二梃の板斧を持ってどこかへ行ってしまいました」
宋江はそれを聞くとあっとおどろき、
「ゆうべ文句をいってやったので、おそらくどこか他所へ行ってしまったのだろう」
「兄貴、そんなことはありません。彼はがさつなやつですが、なかなか義には厚い男ですから、他所へなど行くはずはありません。二三日もしたら帰ってくるでしょうから、ご心配にはおよびません」
と呉用はいったが、宋江はいらいらして、まず戴宗にあとを追わせ、さらに時遷・李雲・楽和・王定六の四人の部将を四手にわけてさがしに行かせた。
一方、李逵は、その夜、二梃の板斧をひっさげて山をおり、裏道づたいに凌州へとむかったのである。みちみち胸のなかに思うよう、
「たかが二匹の糞将軍を、大軍をひきつれて攻めに行くなんてことがあるものか。おいらが城内へ飛びこんで行って一匹ずつ斧でたたき斬り、兄貴をびっくりさせ、みんなの鼻をあかしてやろう」
半日歩くと、歩きくたびれて腹が減ってきた。あわてて山をおりてきたので、路銀を持っていなかったのである。久しく例の商売に手をつけていなかったが、ひと思案して、
「こうなったら、くそ、どいつかさがしてひとつやってやろう」
と、歩きつづけて行くと、道端にひなびた居酒屋のあるのが目についた。李逵はさっさとはいって行って腰をおろし、酒を三角と肉を二斤、つづけざまに注文して平らげると、立ちあがって出かけようとした。給仕がさえぎって銭をはらってくれというと、李逵は、
「このさきでちょっと商売をしてから、はらいにきてやるよ」
そういって出かけようとすると、不意に外からおそろしげな大男がはいってきて、どなりつけた。
「この黒ん坊め、ふといやろうだ。誰の店だと思ってやがるんだ。ただ食いして銭もはらやがらんと」
李逵は目をむいていい返した。
「おれさまは、どこだろうとただ食いするんだ」
「いって聞かせてやるが、きさま、びっくりして腰を抜かすなよ。おれさまは梁山泊の好漢、韓伯竜《かんはくりゆう》というものだ。店のもとではみな宋江兄貴のものだぞ」
李逵はそれを聞くと心のなかで、
「山寨にこんな糞やろうがいてたまるか」
とあざ笑った。元来この韓伯竜は、世間をわたり歩いて物取り強盗をはたらいていたのであるが、梁山泊へ行って仲間にはいろうと思い、旱地忽律の朱貴のところに身を寄せて宋江にひきあわせてもらおうとしたところ、宋公明は背中にできものを病んで寨にひきこもっていたし、そのうえいくさでいそがしいときだったので、ついに会うことができず、朱貴はひとまず彼に、村で居酒屋をやらせていたという次第。
そのとき李逵は腰から板斧を一梃抜き取って、韓伯竜にいった。
「斧を質《かた》にしておくよ」
韓伯竜はそれが計略だとは気がつかず、手をのばして受け取ろうとした。と、李逵にまっこうから斧で斬りつけられて、あわれ韓伯竜は、半生を強盗で暮らしたあげく李逵の手にかかって相果ててしまった。店のもの二三人は、なんで親は二本足にしか生んでくれなかったのかと(逃げあせりつつ)村の奥へすっ飛んで行った。李逵はその場で路銀をかっぱらい、火をつけて草葺きの店を焼いてしまって、凌州めざして立ち去った。
まだ一日ぶんの道も行かぬうちに、街道筋をむこうからひとりの大男がやってきて、じろじろと李逵を見まわした。李逵はその男が自分に目をつけているのに気づいて、
「おいこら、なんでおれさまをじろじろ眺めやがるんだ」
というと、男は、
「きさまはどこのなにさまだというんだ」
といい返した。李逵がやにわに飛びかかって行くと、男は拳《こぶし》をふるって李逵に尻餅をつかせた。
「こやつ、なかなかやりおるな」
と李逵は思い、地べたに坐りこんだまま顔をあおむけて、たずねた。
「きさまはなんというものだ」
「おれさまは名なしだ。やりあうなら相手になってやる。さあ起きあがってこい」
李逵がかっとなって、おどりかかって行こうとしたところ、男に脇腹を蹴られて、またもやころがされてしまった。
「こいつは敵《かな》わん」
と、這い起きて逃げ出すと、男は呼びとめて、
「おい黒ん坊、きさまはなんという名で、どこのものだ」
「いって聞かせるが、びっくりするなよ。梁山泊の黒旋風の李逵というのはおれのことだ」
「確かにそうか。うそをつくと承知せんぞ」
「疑うなら、この二梃の板斧を見ればわかろう」
「梁山泊の好漢だとしたら、ひとりきりでどこへ行くのだ」
「兄貴といいあいをして、凌州へ単というやっと魏というやつを殺しに行くところだ」
「梁山泊ではもう軍勢を繰り出したと聞いたが、それじゃ誰と誰かいってみろ」
「さきに兵をひきつれて行ったのは大刀の関勝だ。そのあとから豹子頭の林冲と青面獣の楊志が兵をひきつれて応援に行った」
男はそれを聞くと、ていねいに礼をした。李逵が、
「おまえさんは、ほんとうのところなんという名前なのだ」
とたずねると、
「わたしは中山府のもので、祖父から三代、相撲《すもう》を稼業にしております。さっきのあの手は父子相伝のもので、弟子にも教えません。平生どうもぶあいそう(注三)で、どこへ行っても人とうまがあわないので、山東や河北のあたりではみなわたしのことを没面目《ぼつめんもく》の焦挺《しようてい》と呼んでおります。このごろ聞くところによると、寇《こう》州のほうに枯樹山《こじゆさん》という山があって、そこに強盗がおり、いつもむやみに人を殺すので、世間の人たちから喪門神《そうもんしん》(凶神)にたとえられているとか。姓は鮑《ほう》、名は旭《きよく》というのですが、その男が山にたてこもって物取り強盗をやっておりますので、そこへ仲間にはいりに行こうとしているところなのです」
「それほどの腕があれば、おいらの兄貴の宋公明を頼ってくればよかろうに」
「かねがね仲間にいれてもらいたいとは思っていたのですが、なんのてづるもなかったものですから。きょう兄《あに》さんに出会ったのはもっけのさいわい、なんとかよろしくおねがいします」
「だが、おいらは宋公明兄貴の鼻をあかしてやろうと思って山をおりてきたんだから、ひとりも殺さずに手ぶらで帰るわけにはいかないのだ。ふたりで枯樹山へ行って鮑旭を仲間に語らい、いっしょに凌州へ行って単と魏の二将を殺し、それから山へ帰ればよかろう」
「凌州はれっきとした府城で、大軍がおりますから、あんたとわたしのふたりきりでは、いくら腕が立ってもかなうはずはありません。むだにいのちを捨てるだけのことですから、それよりも枯樹山へ行って鮑旭を語らっただけで、いっしょに大寨へ行って仲間入りをしたほうが上計というものでしょう」
ふたりが話しあっているところへ、あとから時遷が追いついてきていった。
「兄貴はあんたのことをひどく案じておいでですよ。さあ、山へ帰ってください。四手にわかれてあんたをさがしているところなんですぜ」
李逵は焦挺をひきあわせて、時遷に対して挨拶をさせた。時遷は李逵に山へ帰るようすすめて、「宋公明兄貴が待っておられるのだから」
というと、李逵は、
「そういうな。おいらはもう焦挺と話をきめてしまったんだ。まず枯樹山へ行って鮑旭を仲間にひきいれ、それから帰ろうとな」
「それはいけません。兄貴が待っておいでなんだから、いますぐ帰ってください」
「おいらといっしょに行くのがいやなら、あんたはさきに帰って兄貴に知らせておいてくれ、すぐ帰るからとな」
時遷は李逵をおそれていたので、ひとりで山へ帰って行った。焦挺は李逵とともに寇州へむかい、枯樹山をめざした。
話はかわって、一方、関勝は、宣賛《せんさん》および〓思文《かくしぶん》とともに五千の兵をひきつれて凌州の近くまですすんでいた。また一方、凌州の太守は、東京からの出兵せよとの詔勅と、蔡太師からの令書とを受けとり、さっそく兵馬団練使の単廷珪と魏定国を呼んで協議した。二将は令書を受けてただちに兵を選び出し、武器を受けとり、鞍馬をそろえ、糧秣をととのえ、日をきめて出発することにした。と、そこへ知らせがあって、
「蒲東の大刀の関勝が軍をひきいて州に攻め入ってきました」
という。単廷珪と魏定国はそれを聞くと大いに怒り、ただちに兵をととのえ、敵を迎え討つべく城外へすすんだ。両軍は互いに近づいて間近に対陣した。門旗の下から関勝が馬を乗りすすめると、一方の陣地からは軍鼓が鳴りひびいて聖水将軍が馬を乗り出す。そのいでたちいかにといえば、
一頂の渾鉄《こんてつ》もて打ち就《な》せる四方の鉄帽を戴き、頂上に一顆《か》の斗来大小《とらいだいしよう》(斗《ます》ほどの大きさ)の黒纓《こくえい》(黒いふさ)を撒《ち》らし、一付の熊皮《ゆうひ》もて砌《たた》み就《な》して沿辺を嵌縫《かんぼう》せる(熊の皮で縁《ふち》どった)烏油《うゆう》の鎧甲(黒いよろい)を披《き》、一領の〓羅《そうら》もて〓《ぬ》い就《な》して団花を点翠せる(黒い絹にみどりの花模様を刺〓した)禿袖の征袍(筒袖の征衣)を穿《き》、一双の斜皮の鐙《あぶみ》を〓《け》る嵌線《かんせん》の雲跟靴《うんこんか》(線のはいった雲形の長靴)を着《つ》け、一条の碧《へきてい》(青色の皮帯)もて釘《と》め就《な》して獅蛮《しばん》を畳勝《じようしよう》せる帯(獅子がしらを飾りつけた帯)を繋《し》め、一張の弓、一壺の箭。一匹の深烏《しんう》の(まっ黒な)馬に騎《の》り、一条の黒桿《こくかん》(黒い柄)の槍を使う。
その前面には、軍をひきいて北方(注四)を鎮定することを象徴する〓纛旗《そうとうき》(黒い大将旗)がおしたてられ、それには七つの銀文字で、
聖水将軍単廷珪
としるしてある。とまた一方から鈴が鳴りひびいて、神火将軍の魏定国が馬を乗り出してきた。そのいでたちいかにといえば、
一頂の朱紅の綴嵌《ていかん》して金を点ぜる(金をちりばめたまっ赤な)束髪〓《そくはつかい》(頂のとがったかぶと)を戴き、頂上に一把の掃箒長短《そうそうちようたん》(ほうきほどの長さ)の赤纓を撒《ち》らし、一副の連環を擺《なら》べ獣面を呑む猊《とうげい》(獅子)の鎧を披《き》、一領の雲霞を〓《ぬいと》って怪獣を飛ばせる絳紅《こうこう》の袍(まっ赤な上着)を穿《き》、一双の麒麟を刺《ぬいと》って翡《ひ》翠を間《まじ》えたる雲縫《うんぼう》の錦跟靴《きんこんか》(錦の模様の雲形の長靴)を着《つ》け、一張の金雀《きんじやく》(金のかささぎ)の画を描ける宝雕《ほうちよう》(蒔絵)の弓を帯び、一壺の鳳〓《ほうれい》(おおとりの羽)の山を鑿《うが》つ狼牙の箭を懸《か》け、一匹の〓脂《えんじ》の馬(赤い馬)に騎坐し、手に一口の熟銅の刀を使う。
その前面には、軍をひきいて南方(注五)を鎮定することを象徴する紅〓旗《こうしゆうき》(刺〓をした赤い旗)がおしたてられ、それには七つの銀文字で、
神火将軍魏定国
としるしてある。ふたりの猛将はそろって陣頭に出た。関勝はそれを見ると馬上から声をかけた。
「おふたりの将軍、お久しぶりです」
すると単廷珪と魏定国は大いに笑い、関勝を指さしてののしった。
「能なしの雑輩め、謀叛者《むほんもの》の気違いめ、上は朝廷のご恩に背き、下は先祖の名を辱しめ、いのちのほども知らずに兵をひきつれてきやがって、なにが挨拶だ」
「いや、それはちがいましょう。いまは主上は心をくらまされて、奸臣どもが権力をもっぱらにし、血縁のものでなければ用いず、仇敵でなければ何をしようとおかまいなし。わが兄貴の宋公明は、仁徳厚く、情深く、天に替って道をおこなう人で、わざわざ拙者をつかわして、おふたりの将軍をお迎えしてまいれとのこと。もしその気がおありなら、おいでいただいてともに山寨で暮らしましょう」
単・魏の二将は、それを聞くと大いに怒り、馬を飛ばしていっせいにすすみ出た。ひとりはさながら北方の一朶《いちだ》の黒雲のごとく、ひとりはさながら南方の一団の烈火のごとく陣頭におどり出た。関勝がこれを迎え討とうとすると、左手から宣賛が飛び出し、右手から〓思文が駆け出して、一対ずつの二組が陣頭でたたかいをくりひろげた。刀は刀と斬りあって万道の寒光をほとばしらせ、槍は槍と突きあって一天の殺気をおこす。関勝がはるかに眺めるに、神火将《しんかしよう》はたたかえばたたかうほどいよいよ奮い立ち、聖水将《せいすいしよう》もまたいささかの臆する色も見えない。かくてしのぎを削りあっているとき、二将はいきなり馬首を転じて自陣へと逃げ出した。〓思文と宣賛はただちにあとを追って陣中へ突きこんで行く。と、魏定国は左のほうへ、単廷珪は右のほうへと転じた。そのあとを、宣賛は魏定国を追い、〓思文は単廷珪を追いかけて行く。
さて宣賛が追いかけて行くうちに、とつぜん、赤い旗をおしたてて赤いよろいを着た四五百の歩兵があらわれ、ずらりととりかこんで、いっせいに撓鉤《どうこう》を突き出し套索《とうさく》を飛ばし、人馬もろともいけどりにしてしまった。一方の〓思文は右のほうへ単廷珪を追いかけて行くうちに、とつぜん、黒い旗をおしたてて黒いよろいを着た五百ばかりの歩兵があらわれ、ずらりととり巻いて、うしろからどっとおそいかかり、いけどりにしてしまった。あわれ、英雄なる二将も、こうなっては力をふるうことができない。単廷珪と魏定国はふたりを凌州へ護送させる一方、五百の精鋭をひきつれて激しく攻めたててきた。関勝はどうすることもできず、大敗を喫して後退した。すかさず単廷珪と魏定国は馬を飛ばして追いかける。関勝が逃げて行くと、やがて前方からふたりの将が飛び出してきた。関勝が見れば、左は林冲、右は楊志で、両脇から飛び出してきて凌州の兵を斬り散らした。関勝は生き残った部下を集め、林冲と楊志に会って合流した。やがて孫立と黄信もやってきて、ひとまずそこに陣をかまえた。
一方、水火の二将は、宣賛と〓思文を捕らえて意気揚々と城内へひきあげて行った。張太守はこれを迎えて祝いの酒盛りをするとともに、陥車を作らせてふたりをおしこめ、ひとりの部将をえらんで、三百の歩兵をつけて急いで東京へ護送して朝廷に上申させることにした。
さて、部将は三百の兵をひきい、宣賛と〓思文を護送して東京への途につき、次第にすすんで、とあるところへさしかかった。そこは全山枯木におおわれ、地にはいちめんに蘆の生《お》い茂っているところだったが、銅鑼が一声鳴りひびいたかと思うと、とつぜん一群の強盗どもが飛び出してきた。その先頭のひとりは、手に二梃の斧を取り、声は雷のよう。まさにそれは、梁山泊の黒旋風の李逵であった。そのあとにつづく好漢ははたして何者かといえば、まさに、
相撲《すもう》叢中に人尽《ことごと》く伏す
拳を〓《ひ》き脚を飛ばすこと刀の如く毒《はげ》し
劣性《れつせい》発する時(怒れば)山の倒るるが似《ごと》し
焦挺《しようてい》従来没面目《ぼつめんもく》なり
李逵・焦挺の好漢ふたりは、手下たちをひきつれて行くてをさえぎり、いきなり陥車を奪いかかった。部将があわてて逃げ出そうとすると、うしろからまたひとりの好漢が飛び出してきた。それは、
〓獰《そうどう》なる醜臉《しゆうれん》は鍋底の如く
双睛《そうせい》暴を畳《かさ》ね狼唇を露《あら》わす
火を放ち人を殺し闊剣を提《ひつさ》ぐ
鮑旭《ほうきよく》名は喚ぶ喪門神《そうもんしん》
この好漢がすなわち喪門神の鮑旭で、すすみ寄るや一剣のもとに部将を馬から斬りおとした。その他のものは陥車を捨てて、みな、必死に逃げて行ってしまった。李逵が見れば、なんとそれは宣賛と〓思文なので、どうしたことかときくと、宣賛も李逵を見てたずねた。
「どうしてまたこんなところへ」
「兄貴がいくさに出してくれぬので、ひとりでこっそり山をおり、まず韓伯竜を殺し、それから焦挺に会ってここへつれてきてもらったのだが、鮑旭とはすぐ昔なじみのように気があい、実《じつ》の兄弟のようにもてなしてくれたのだ。さっき相談して、これから凌州へ攻めて行こうとしていたら、手下のものが山の上から、この一隊が陥車を護送してくるのを見つけたので、官軍が討伐にやってきたのだと思ったが、それがあんたたちふたりだったとは意外だった」
鮑旭はふたりを寨のなかに招き、牛を殺し酒を出して歓待した。〓思文が、
「あんたに梁山泊の仲間にはいろうという気があるのなら、この山の手勢をひきつれていっしょに凌州へ行き、力を合わせて攻めましょう。それがいちばんよい方法です」
というと、鮑旭は、
「李の兄貴と、ちょうどそういうふうに話していたところです。おっしゃるとおりです。わたしの山寨にも二三百頭の良馬がおりますから」
かくて六七百の手下をひきつれて、五人の好漢はそろって凌州へとむかった。
一方、難をのがれた兵士は、あわてて帰って張太守に知らせた。
「途中で強盗どもが陥車を奪い、部将を殺してしまいました」
単廷珪と魏定国はそれを聞くと大いに怒り、
「こんどひっ捕らえたら、すぐここで斬ってしまうことにしよう」
そのとき、城外へ関勝が兵をひきいて攻め寄せてきたという知らせ。単廷珪はまっさきに馬をすすめ、城門をあけ吊り橋をおろし、五百人の玄甲《げんこう》(黒よろい)の軍をひきつれて、応戦すべく城を飛び出した。門旗がゆらぐころ、聖水将軍の単廷珪は馬をすすめて、大いに関勝をののしった。
「国を辱しめる敗将め、さっさとくたばってしまえ」
関勝はそれを聞くと、刀を舞わしながら馬を飛ばして突きかかって行った。両者わたりあうこと五十余合、関勝は馬首を転じていきなり逃げ出した。単廷珪はすかさず追いかけたが、十里あまり追って行くと、関勝は首をふりむけてどなった。
「おい、馬をおりて降参するのなら、いまだぞ」
単廷珪は槍をかまえ、関勝の背中をめがけて突きかかった。と、関勝は渾身の力をふるい、「やっ」
と一喝、刀で峰打ちをくらわせると、単廷珪は馬からころがりおちた。関勝は馬をおり、すすみ寄って抱きおこし、
「将軍、どうも失礼をいたしました」
と叫んだ。単廷珪は平伏して恐れ入り、いのち乞いをして投降した。関勝が、
「わたしは宋公明兄貴にいろいろとあなたを推挙しました。このたびは、おふたりの将軍に仲間に加わっていただくためにやってきたのです」
というと、単廷珪は、
「およばずながら微力をつくして、ごいっしょに天に替って道をおこなわせていただきましょう」
と答えた。ふたりは話しおわると、馬を並べて行った。林冲は馬を並べてくるふたりを迎えて、わけをたずねた。関勝は勝敗のことはいわずに、
「山かげで昔のことや今のことを話して、投降してもらったのです」
といった。林冲ら一同はみな大いによろこんだ。単廷珪が陣頭へひき返して行って大声で呼ぶと、五百の玄甲の兵たちはどっと集まってきた。その他のものは城内へ駆けこんで行って、急いで太守に知らせた。
魏定国はそれを聞くと大いに怒り、その翌日、兵をひきいて城外へたたかいに出た。単廷珪が関勝および林冲とともに陣頭へ出て行くと、門旗がゆらいで、そこから神火将軍の魏定国が馬をすすめてきたが、単廷珪が関勝に従っているのを見るや、大いにののしった。
「恩を忘れ、主に背き、義をわきまえぬ下司やろうめ」
関勝は大いに怒り、馬を飛ばして行って応戦した。両馬交わり、武器並びきらめき、両将わたりあうこと十合ばかり、魏定国は自陣をめざしてさっさと逃げ出した。関勝が追いかけようとすると、単廷珪が大声で呼びとめた。
「将軍、追ってはいけません」
関勝は急いで馬をひきとめたが、そのとたん、凌州の陣地からさっと五百の火兵が飛び出してきた。身には赤い着物をまとい、手には火器を取り、火つけ用の蘆を満載した五十輛の火車を前後からおしたて、兵士はそれぞれ背中に硫黄・〓硝・五色の火薬をつめた鉄の葫蘆《ふくべ》をくくりつけ、いっせいに火をつけて飛び出してきて、人近づけば人を倒し、馬過《す》ぐれば馬を傷つけた。関勝の兵はちりぢりに逃げ走り、四十里あまり退いて陣をかまえた。
魏定国は兵を収めて城へひきあげて行ったが、見れば城内は炎々と燃え、濛々と煙を立てている。というのは、黒旋風の李逵が、焦挺・鮑旭とともに枯樹山の兵をひきつれ、凌州の背後へまわって北門を打ち破り、城内へ斬りこんで火をつけ、倉庫の金銭食糧を奪ったのだった。魏定国はそれを知ると、城内へはいるのをあきらめて急いで兵をもどそうとした。と、うしろから関勝が追ってきて、首尾相顧《かえり》みることもできないありさま。すでに凌州を失って、魏定国はただ逃げるよりすべなく、中陵県まで走ってそこに兵をとめた。関勝は兵をひきつれて県城を四方から包囲し、諸将に命じ、兵をかりたてて攻めさせた。魏定国は城門を閉じたまま出てこない。単廷珪は、関脇・林冲ら一同にむかっていった。
「彼は剛勇な男ですから、いくらきびしく攻めても、死を選びこそすれ決して降伏するようなことはありません。ゆっくりやればうまくいきましょうが、急いでは効がないでしょう。わたくしが県城へ出かけて行って、いのちをまとに、よく話をして彼を説きふせ、手をつかねて投降させて、いくさをしなくてもすむようにしたいと思います」
関勝はそれを聞いて大いによろこび、さっそく単廷珪を単騎で県城へ行かせた。兵士の知らせで、魏定国は面会に出てきた。単廷珪はおだやかに話した。
「いまや朝廷は不明で、天下は大いに乱れ、天子は目をふさがれて奸臣どもが権をもっぱらにしているありさま。われわれは宋公明に従って仮に水泊にたてこもり、やがて奸臣が退いたときに、邪を去って正に帰るということにしてもよろしいでしょう」
魏定国はそういわれて、しばらく考えこんでいたが、
「わたしに降伏させようというのならば、関勝がみずから迎えにくるべきだ。そうすれば投降しましょう。さもなくば、たとえ死ぬとも降るのはいやだ」
単廷珪はすぐ馬に乗って帰り、関勝に報告した。関勝はそれを聞くと、
「大丈夫のなすこと、疑うべきではない」
と、ただ一騎で、単廷珪について行こうとした。林冲がそれを諫めて、
「兄貴、人の心はわからぬもの。よく考えてからになさるがよい」
といったが、関勝は、
「好漢のなすこと、おとめなさるな」
と、そのまま県の役所へ行った。魏定国はよろこんで迎え、すすんで投降を申し出た。かくて互いに旧交をあたためあい、宴を設けてもてなし、その日さっそく五百の火兵をひきつれて大寨へ行き、林冲・楊志、および他の頭領たちとそれぞれ対面の礼をかわした。それがすむとすぐ軍を収めて梁山泊へとむかった。
宋江はさっそく戴宗を出迎えに行かせた。戴宗は李逵にいった。
「あんたがこっそり山をおりたので、兄弟たちはずいぶんさがしまわったんだ。だがもう時遷・楽和・李雲・王定六の四人は山に帰ってきている。わたしはこれからさきに帰って、兄貴に知らせて早く安心させてあげることにしよう」
戴宗がさきに帰って行ったことはそれまでとして、関勝らの軍が金沙灘のほとりまで帰って行くと、水軍の頭領たちが船を出して迎え、つぎつぎに渡した。そのとき、ひとりの男が息せき切って駆けつけてきた。一同が見れば、それは金毛犬の段景住だった。林冲がたずねた。
「あんたは、楊林・石勇といっしょに北辺の地へ馬を買いに行ったはずだが、どうしてそんなにあわてて駆けつけてきたのだ」
段景住がいろいろと話したことから、やがて宋江が軍を繰り出してあるところを討ち、重ねて旧讐《きゆうしゆう》を報じ再び前恨《ぜんこん》を雪《すす》ぐ、という次第となるのであるが、まことに、口は是非(争い)を釣り出す鉤《はり》と糸。さて段景住はどんなことを話したのであろうか。それは次回で。
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一 なぶり殺し 原文は凌遅。一寸刻みに斬り殺す極刑。
二 諫議大夫 宋では諫官(天子を諫める官)の役所として諫院が設けられ、左右両諫議大夫を置いてその長とした。
三 ぶあいそう 原文は無面目。焦挺のあだ名の「没面目」はこれである。
四 北方 北は易《えき》でいえば水、水は色に配すれば黒である。単廷珪を聖水将軍と呼ぶことから、すべてを黒色にしたもの。
五 南方 南は易でいえば火、火は色に配すれば赤。魏定国を神火将軍ということからすべてを赤になぞらえること、前注の黒の場合と同じ。
第六十八回
宋公明《そうこうめい》 夜曾頭市《そうとうし》を打ち
盧俊義《ろしゆんぎ》 史文恭《しぶんきよう》を活捉《いけど》る
さて、そのとき段景住が駆けつけてきて林冲らにいうには、
「わたしは楊林・石勇といっしょに北辺の地へ馬を買いに行き、むこうで筋骨たくましく毛並みの美しい駿馬を選んで二百頭あまり買い、青州の地内までもどってきましたところ、一群の強盗におそわれたのです。その頭《かしら》は険道神《けんどうしん》(葬式の柩を導くという開路神)の郁保四《いくほうし》というやつで、二百人あまりのものを集め、馬を全部奪って曾頭市《そうとうし》へひいて行ってしまい、石勇と楊林は行くえがわからず、わたくしは大急ぎで、それをお知らせに逃げてきた次第です」
関勝はそれを聞くと、
「ともかく山寨へもどって兄貴に会ったうえで、相談しよう」
といい、みなが渡りおわると、うちそろって忠義堂へ行き宋江に会った。関勝は単廷珪《ぜんていけい》と魏定国《ぎていこく》を頭領たちにひきあわせ、それぞれ挨拶をかわした。李逵は、山をおりて韓伯竜を殺し、焦挺・飽旭に会っていっしょに凌州をうち破った次第をひととおり話した。宋江はそれを聞き、またもや好漢が四人ふえたことを大いによろこんだ。段景住は、馬を奪われたことをくわしく話した。宋江はそれを聞くとかっとなって、
「さきにはわしの馬を奪い(第六十回、段景住が宋江に献上するつもりでいた照夜玉獅子の馬を奪われたこと)、こんどはまたそのような無礼をいたすとは。晁天王の仇もまだ取っておらず、日夜怏々としているところだ。いまこの恨みを晴らさぬことには世間の笑いぐさになろう」
といった。呉用も、
「いまは春暖の候で、いくさにはよいときです。前に攻めたとき(第六十回)は地の利を得ませんでしたが、こんどは智謀を用いて必ずやっつけてやりましょう」
「この恨みは骨の髄《ずい》までしみている。晴らさないことには誓って山には帰るまい」
と宋江はいう。呉用は、
「時遷は忍びこむことがたくみですから、まず彼をやって様子をさぐらせ、帰ってきてから方策を講じることにしましょう」
時遷は命を受けて出かけて行った。それから二三日もたたぬうちに、楊林と石勇がとつぜん寨《とりで》に逃げ帰ってきて、曾頭市の史文恭《しぶんきよう》が梁山泊のものどもと両立することはできぬと大言を吐いていることを、くわしく話した。宋江はそれを聞くと、ただちに兵を出そうとしたが、呉用は、
「時遷が報告にもどってからにしても、おそくはありません」
と、とめた。宋江は怒りに胸がふさがり、この仇をとらぬことには片時もじっとしてはおられぬと、さらに戴宗に、急いでさぐりに行ってすぐ報告にもどるようにと命じた。
数日ならずして、戴宗のほうがさきに帰ってきて報告した。
「曾頭市では凌州の仇討ちだといって兵を出す準備をしております。現に曾頭市の入口に大きな寨をかまえ、法華寺の寺内に中軍の本営を設け、数百里にわたってずらりと旌旗をうちならべておりまして、どの方角から攻めて行けばよいか見当もつきません」
その翌日には、時遷が帰ってきて報告した。
「わたしはずっと曾頭市のなかへはいって行ってくわしくさぐってみましたが、現に五つの陣地をかまえておりました。曾頭市の正面は二千あまりの兵で村の入口を守っております。本陣は武芸教師の史文恭が握っており、北の陣は曾塗《そうと》と副教師の蘇定《そてい》、南の陣は次男の曾密《そうみつ》、西の陣は三男の曾索《そうさく》、東の陣は四男の曾魁《そうかい》、中の陣は五男の曾昇《そうしよう》と父親の曾弄《そうろう》が守っております。青州の郁保四《いくほうし》というやつは、身の丈が一丈、腰の大きさは数抱えもあって、あだ名を険道神《けんどうしん》といい、奪い取ったかの多数の馬は、みな法華寺内で飼っております」
呉用はそれを聞くと、ただちに諸将を集めて協議した。
「むこうが五つの陣をかまえているならば、こちらでも五隊の将を出し、五路にわかれて行ってむこうの五つの陣を攻めるがよかろう」
すると盧俊義が立ちあがって、
「わたしは一命を救われて山にまいりましてより、いまだなんのはたらきもしておりませんので、このたびはいのちを的《まと》にはたらきたいと思いますが、どうかお聞きいれくださるよう」
宋江は大いによろこび、
「員外どのが下山してくださるのならば、先鋒になっていただきましょう」
呉用はそれをとめて、
「員外どのは山寨に見えたばかりで、いくさの経験もなく、山は険しくて馬に乗るにも不便ですから、先鋒には適しません。別に一隊をひきいて平地で伏兵になり、中軍の砲声が聞こえたら応援に出てもらうことにしましょう」
といったが、呉用の本意は、もし盧俊義が史文恭をとりおさえたならば、宋江は晁蓋の遺言(史文恭を討ち取ったものを山寨の主にするという遺言)にしたがって彼に位を譲るだろうとおそれて、そのため盧俊義を先鋒にしなかったのである。宋江の心は、なんとか盧俊義に功をたてさせ、それによって彼を山寨の主にしようという考えだったが、呉用はきかずに自分の主張をおしとおし、盧俊義には燕青をつけ、五百の歩兵をひきいて平地部の間道で待機させることにした。そしてそのあとで五路の軍の割りあてをきめた。すなわち、曾頭市の南の陣地は、騎兵の頭領たる霹靂火《へきれきか》の秦明《しんめい》と小李広《しようりこう》の花栄《かえい》、副将は馬麟《ばりん》と〓飛《とうひ》で、兵三千をひきいて攻め、曾頭市の東の陣地は、歩兵の頭領たる花和尚《かおしよう》の魯智深《ろちしん》と行者《ぎようじや》の武松《ぶしよう》、副将は孔明《こうめい》と孔亮《こうりよう》で、兵三千をひきいて攻め、曾頭市の北の陣地は、騎兵の頭領たる青面獣《せいめんじゆう》の楊志《ようし》と九紋竜《くもんりゆう》の史進《ししん》、副将は楊春《ようしゆん》と陳達《ちんたつ》で、兵三千をひきいて攻め、曾頭市の西の陣地は、歩兵の頭領たる美髯公《びぜんこう》の朱仝《しゆどう》と挿翅虎《そうしこ》の雷横《らいおう》、副将は鄒淵《すうえん》と鄒潤《すうじゆん》で、兵三千をひきいて攻め、曾頭市の中央の本陣は、総頭領たる宋公明と軍師の呉用・公孫勝、随行する副将は呂方《りよほう》・郭盛《かくせい》・解珍《かいちん》・解宝《かいほう》・戴宗《たいそう》・時遷《じせん》で、兵五千をひきいて攻め、後詰めには歩兵の頭領たる黒旋風の李逵と混世魔王の樊瑞《はんずい》、副将は項充《こうじゆう》と李袞《りこん》で、歩騎の兵五千をひきい、その他の頭領たちは、それぞれ山寨の守備をすることになった。
宋江が五隊の軍勢をひきしたがえて堂々とすすんで行ったことはさておき、一方、曾頭市では、忍びのものがくわしい事情をさぐって陣地へ知らせにもどると、それを聞いた曾長官はただちに武芸教師の史文恭と蘇定を呼んで軍事上の大事を諮《はか》った。すると史文恭のいうには、
「梁山泊の兵がやってさましたら、陥し穴をたくさん使ってあの強兵猛将どもを捕らえることです。あの盗っ人どもにはこの計略が最上の策だと思われます」
曾長官はさっそく百姓たちを動員し、鋤や鍬を持って行って村の入口に数十ヵ所の陥し穴を掘らせ、その上にそっと土の蓋《ふた》を載せ、周囲に伏兵をかくして敵軍のくるのを待つ手筈にした。また曾頭市の北のほうにも数十ヵ所の陥し穴を設けた。
宋江の軍では出発に際して、呉用があらかじめ、ひそかに時遷を偵察に行かせた。四五日すると時遷は帰ってきて、
「曾頭市の寨の南北にはずらりと陥し穴が掘ってあって、その数はかぞえきれぬほどです。わが軍が行くのを待ちかまえております」
と報告した。呉用はそれを聞くと、
「なんだ、そんなことか」
と笑い、軍をひきいて前進し、やがて曾頭市に近づいた。ちょうど午《ひる》ごろのこと、先鋒の軍ではひとりの騎馬のものの姿を見つけた。馬の首には銅鈴をつけ、尾には雉《きじ》の羽を結び、馬上のものは青い頭巾に白い上着、手には短い槍を持っている。先鋒の軍では見つけるとすぐ追いかけようとしたが、呉用はそれを制してその場に陣をかまえさせ、そのまわりには塹壕《ざんごう》を掘り、鉄〓藜《てつしつり》(注一)を植えさせた。そして五軍ともそれぞれ陣をかまえて同じく塹壕を掘り、〓藜を植えるように命令した。そのまま三日たったが、曾頭市のほうではたたかいを挑《いど》んでこなかった。呉用は時遷に、敵の伏兵に変装してふたたび曾頭市の陣中へ行かせ、敵が挑んでこないのはなぜか、すべての陥し穴にひそかにしるしをつけて、敵の陣からどれほど離れているか、全部でいくつあるかをさぐってくるように命じた。時遷は出かけて行って一日でそれらをみなくわしくさぐり、ひそかにしるしをつけ、帰って軍師に報告した。翌日、呉用は命令をくだし、先鋒の歩兵は各自に鍬を持たせて二隊にわけ、また糧秣車一百輛あまりに蘆や粗朶を積みこんで、中軍にかくしておいた。そしてその夜、各陣の頭領に命をつたえた、あすの巳牌《しはい》(昼まえ)、東西二隊の歩兵でまず敵陣をおそうこと、曾頭市の北寨を攻めることになっている楊志と史進は、それを見たら騎兵を一文字に散開させるだけで、たとえ敵が軍鼓を鳴らし旗を振って気勢をあげても、決してすすんではならぬと。かくて呉用は、とどこおりなく命令を伝えおわった。
一方、曾頭市では、史文恭が、宋江の軍を陣地に攻め入らせて陥し穴におとしてしまおうとたくらんでいた。陣地の前の道は狭いので、のがれるすべは他にないというのである。翌日の巳牌になると、陣地の前方に砲声がとどろき、敵の大部隊がどっと南門に攻めよせてきた。と、つづいて東の陣地から知らせがあって、
「鉄の禅杖《ぜんじよう》をふりまわした和尚と、二本の戒刀《かいとう》をふりかざした行者《ぎようじや》とが、前後から攻めよせてきました」
という。
「そのふたりは、梁山泊の魯智深と武松にちがいない」
と史文恭はいい、万一の場合をおそれて、兵をわけて曾魁《そうかい》のところへ加勢にやった。と、つづいてまた西の陣地から知らせがあって、
「長いひげの大男と恐い顔の賊とが、美髯公朱仝《びぜんこうしゆどう》、挿翅虎雷横《そうしこらいおう》と書いた旗じるしをおしたてて、すさまじい勢いで攻めよせてきます」
という。史文恭はそれを聞くと、また兵をわけて曾索《そうさく》のところへ加勢にやった。そのときまた陣地の前方に砲声がとどろいたが、史文恭はじっと兵をおさえたまま動かなかった。敵が攻めこんできて陥し穴におちたら山のうしろの伏兵をどっと繰り出して、からめとってしまおうというのである。
こちらでは、呉用が騎兵に命じ、山のうしろから二手にわかれて敵陣に迫らせた。前面の敵の歩兵はじっと陣地を守って動こうとはせず、両側の伏兵もみな陣側にひそんでいるだけである。そこへ呉用の兵はうしろから攻めつけて、ことごとく陥し穴のなかへ追いこんでしまった。史文恭が討って出ようとするところを、呉用は鞭を振って号令した。すると、陣中に銅鑼が鳴りひびいて百余の車がいっせいに押し出され、そのことごとくに火がつけられて、車の上の蘆や粗朶、硫黄や〓硝がどっと燃えだし、煙は濛々と空をおおった。史文恭の軍は繰り出してきたものの、ことごとく火の車にさえぎられて避けるより他なく、急いで退却をはじめた。そのときすでに公孫勝は、陣中で剣をふるって術をつかい、大風をおこしてどっと〓を南門へあおりたて、たちまちにしてその櫓《やぐら》や柵を焼きはらってしまった。かくて勝利を収めると、金鼓を鳴らして兵をひき、それぞれ陣地にもどってその夜はひとまず休んだ。史文恭のほうでは夜どおしで陣門を修理し、双方そのままで対陣した。
翌日、曾塗《そうと》は史文恭に諮って、
「まず賊の首領を斬ってしまわないことには、なかなか破ることはできますまい」
と、陣地の守備を教師の史文恭にたのんで、曾塗みずから兵をひきい、よろいをつけて馬に乗り、陣地を出てたたかいを挑んだ。宋江は中軍で、曾塗がたたかいを挑んできたと聞くと、呂方《りよほう》と郭盛《かくせい》をひきつれて前軍へ出て行ったが、門旗のかげから曾塗の姿を見るや、かつての恨みが心によみがえってきて、鞭で指し示しながらいった。
「誰かあいつをひっ捕らえて、前の恨みを晴らしてくれ」
すると、小温候《しようおんこう》の呂方が馬を飛ばし、方天《ほうてん》の画戟《がげき》をかまえつつ、まっしぐらに曾塗におそいかかって行った。両騎交わり、両者武器をふるってたたかうこと三十合あまり。郭盛は門旗のかたわらで見ていたが、ふたりのうちひとりにようやく敗色が見えはじめた。もともと呂方の腕は曾塗にはおよばず、三十合まではそれでもなんとか支えられたが、三十合を越えると戟《ほこ》さばきが乱れ、辛うじて受けとめ、身をかわしているだけであった。郭盛は呂方の身に万一のことがあってはと、馬を乗り出し、方天の画戟をかまえつつ陣を飛び出して行って曾塗をはさみ討ちにした。かくて三騎は陣頭に一団となってもつれあった。戟にはふたつとも(呂方のにも、郭盛のにも)金銭豹尾《きんせんひようび》(銭のような模様のある豹の尾)が結びつけてあった。呂方と郭盛は曾塗を捕らえようとして、同時に戟をふりあげた。曾塗はよくそれを見て、ぱっと槍ではらいのけたところ、二本の豹尾が槍の朱纓《しゆぶさ》にからみついて、ひっぱっても取れない。三人はそれぞれ刀をひき抜こうとした。小李広《しようりこう》の花栄は陣中からそれを見て、ふたりがやられてはと、馬を飛ばして陣頭に出、左手に彫弓《ちようきゆう》をかまえ、右手に急いで箭《ひせん》(鏃《やじり》が平たく薄い刃になった矢)を取ってつがえ、弓をひきしぼるや、曾塗をねらって射放った。曾塗はそのときちょうど槍を抜き取ったが、ふたつの戟はなおからみあったままだった。曾塗は槍をひき抜くなり呂方の項《うなじ》をめがけて突きかかったが、花栄の矢はそれよりもさきに曾塗の左腕にあたり、曾塗はもんどりうって落馬、〓《かぶと》はさかさまに落ち、両足は空を踏んだ。呂方と郭盛はふたつの戟をいっせいに突き出して、曾塗は非業の最期をとげた。
十数騎の騎兵が飛び帰って史文恭に知らせ、さらに本陣へ知らせた。曾長官はそれを聞くと、声を放って哭《な》いた。すると、かたわらでひとりの壮士がいきりたった。すなわち曾昇《そうしよう》で、武芸は衆に抜きんで、二本の飛刀をつかえば近づき得るものはないという男。そのとき知らせを聞くや大いに怒り、歯ぎしりをしてどなった。
「おれの馬をひいてこい。兄貴の仇をとってくれる」
曾長官はひきとめることができなかった。曾昇は全身によろいをつけ、刀をつかんで馬に乗り、まっしぐらに前陣へ駆けつけて行った。史文恭はこれを迎えて、諫めた。
「若さま、敵をあなどってはなりません。宋江の軍中には智将・勇将・猛将がずいぶんおります。わたくしの考えますには、ここはただひたすら五つの陣地を守りかため、ひそかに使者を凌州へやって急いで朝廷に上奏させ、大いに官軍を繰り出してもらって、二手にわかれて賊を討つのです。そして一方では梁山泊を攻め、一方はこの曾頭市を守りますならば、賊はここでいつまでもたたかってはおられなくなって、必ず急いで山へ帰ろうとするでしょう。そのときはわたくしおよばずながら、あなたがたご兄弟といっしょに追い討ちをかけましょう。そうすれば必ず大勝を収めることができるでしょう」
そういっているところへ、北の陣の副教師蘇定《そてい》がやってきたが、堅守しようというのを聞くと、同意していった。
「梁山泊の呉用というやつは、たくらみのうまいやつですから、あなどってはなりません。ここのところはもっぱら守りをかためて、援軍がきましたならばみなで策を講ずることにいたしましょう」
曾昇は大声で、
「兄を殺されながら、その仇も討たずにいつまでもぐずぐずしておられるものか。このままでは賊の勢いは強くなるばかりで、いよいよやっつけられなくなる」
と叫ぶ。史文恭と蘇定もついにとめることができなかった。曾昇は馬に乗り、数十騎の騎兵をひきつれ、たたかいを挑むべく陣地を飛び出して行った。
宋江はその知らせをうけると、前軍に応戦を命じた。そのとき秦明が命を受けて、狼牙棍を振りまわしながら陣を出、かの曾昇におそいかかって行こうとすると、黒旋風の李逵が板斧をつかんで陣頭にあらわれ、勝手に戦場へ飛び出して行った。相手の陣では彼を知っているものがいて、
「あいつが梁山泊の黒旋風の李逵だ」
といった。曾昇は李逵を見、矢を射《う》てと命じた。李逵はいつも、いくさのときには必ず肌ぬぎになったが、項充《こうじゆう》と李袞《りこん》の蛮牌(楯)に守られて事なきを得ていた。だがこのときはひとりで飛び出して行ったので、曾昇の矢に腿《ふともも》を射たれてどっとばかり地面に倒れた。と、曾昇のうしろの騎兵がいっせいに飛び出してきた。宋江の陣地からは、秦明と花栄が馬を飛ばして行って危うく救い、うしろから馬麟・〓飛・呂方・郭盛がいっせいに援護して陣地につれもどした。曾昇は宋江の陣地がおおぜいなのを見て、それ以上たたかうことをやめ、自陣へひきあげて行った。宋江も兵を収めて陣についた。
翌日。史文恭と蘇定は、たたかってはならぬとしきりに主張したが、どうしても兄の仇を討つのだという曾昇をおさえることができず、史文恭はしぶしぶ、よろいをつけて馬に乗った。その馬こそは、さきに奪いとった段景住の千里の竜駒《りゆうく》・照夜玉獅子《しようやぎよくしし》の馬であった。宋江は諸将をひきい、陣形をととのえて敵を迎えた。むこうからは史文恭が馬をすすめてくる。そのいでたちいかにといえば、
頭上の金〓《きんかい》日光に耀《かがや》き
身に披《き》る鎧甲《がいこう》は冰霜に賽《まさ》る
坐騎す千里の竜駒の馬
手に執《と》る朱纓《しゆえい》丈二の鎗
このとき史文恭が馬をすすめて斬りこんでくると、宋江の陣では秦明が、一の手柄をたてようとして、馬を飛ばしてこれを迎えた。二騎相交わり、互いに武器をふるいつつ、たたかうことおよそ二十余合、秦明はたじたじとなり、自陣をめざして逃げ出した。史文恭は気負って追いかけ、その神鎗を繰り出して秦明の腿《ふともも》のうしろを突き刺し、まっさかさまに落馬させた。呂方・郭盛・馬麟・〓飛の四将は、いっせいに飛び出して行って、必死になって救い出した。かくて秦明を助けはしたものの、多くの兵をうしない、敗軍をまとめて陣地から十里退いたところに兵をとどめると、宋江は秦明を車に乗せ、人をつけて養生に山寨へ送り帰させるとともに、また呉用と相談して大刀《だいとう》の関勝、金鎗手《きんそうしゆ》の徐寧、それに単廷珪《ぜんていけい》と魏定国《ぎていこく》の四人を山から応援にこさせることにした。宋江はまたみずから香を焚いて祈り、占いをたてた。呉用はその卦《け》を見て、
「ここを打ち破ることはできるが、今夜は必ず賊兵が陣地におそってくる、と出ております」
といった。
「ではさっそく準備を」
「ご安心ください。命令をくだしさえずればよいようにしてあります。まず三つの陣地の頭領たちに知らせて、夜になったら東と西の二陣を動かし、解珍を左から、解宝を右から出させ、その他の軍にはそれぞれ四方に伏兵をしかせます」
と呉用はいい、その手筈をととのえた。
その夜は、空は晴れて月清く、風は静かに雲おだやかであった。史文恭は陣中で曾昇にいった。
「賊軍はきょうは二将が打ち負かされましたので、怖気づいているにちがいありません。そこにつけこんで敵陣をおそえばよろしいでしょう」
曾昇はそれを聞くと、ただちに北の陣の蘇定、南の陣の曾密、西の陣の曾索を招いて兵をすすめる手筈をきめ、二更ごろひそかに出発、馬は鈴をはずし人は身軽によろい、まっすぐ宋江の中軍の陣地へとすすんだ。ところが、見ればあたりには人影もなく、空《から》の陣地をおそったことがわかって、はかられた! とあわてて逃げ出すと、左手から両頭蛇《りようとうだ》の解珍が飛び出し、右手からは双尾蝎《そうびかつ》の解宝が飛び出し、うしろからはまた小李広の花栄がどっとおそいかかってきた。曾索は暗闇のなかで解珍の鋼叉《こうさ》に突かれて馬から落ちた。火が放たれ、うしろの陣からどっと喊声があがり、東西の両側から兵が繰り出されて陣地におし寄せ、かくて半夜にわたる乱戦のあげく、史文恭は血路を開いてようやく逃げ帰った。
曾長官は、こんどはまた曾索がやられたのを知って、いよいよ悲しみ、翌日、史文恭に投降の文書をととのえるように命じた。史文恭もすっかり怖気づいていたので、さっそく文書をしたため、急いで使いのものに持たせて宋江の本陣へとどけた。
「曾頭市から書面をとどけてまいりました」
と兵がとりつぐと、宋江は通すように命じた。兵のさし出した書面を宋江が開いて見ると、
曾頭市の主曾弄《そうろう》、頓首して宋公明統軍頭領麾下《きか》に再拝す。日昨《じつさく》(先日)小男《しようだん》(倅)一時の勇に倚仗《いじよう》し、〓《あやま》って虎威を冒犯《ぼうはん》する有り。向日《さきに》天王(晁蓋)衆を率いて到来するに、理合《ま さ》に就当《すなわ》ち帰付すべきも、奈何《いかん》せん無端の部卒、冷箭《れいせん》(だまし矢)を施放し、更に馬を奪うの罪を兼《か》ぬ。百口ありと雖も何の辞かあらん。これを原《もとづ》くるに実《まこと》に本意に非ず。今や頑犬《がんけん》(倅)已《すで》に亡び、使を遣わして和を請う。如《も》し戦を罷《や》め兵を休するを蒙らば、原《もと》奪いし馬匹を将《もつ》て尺数《ことごとく》納還し、更に金帛を齎《もたら》して、二軍を犒労《こうろう》し、両傷を致すを免《まぬか》れん。謹んで比《ここ》に書を奉じ、伏して照察を乞う。
宋江は書面を読むや大いに怒り、それをひき裂きながらののしった。
「兄貴を殺しておきながら、ただですませようというのか。村じゅうをたたきつぶしてしまわぬことには、わしの気がおさまらんわ」
書面を持ってきた男は、地面に平伏して、ただ身をふるわせつづけていた。呉用は急いでとりなして、
「兄貴、それはどうかと思います。われわれのいがみあいは、意地がもとです。こうして曾家から使いをよこして和を請うてきた以上、一時の怒りのために大義をあやまるようなことがあってはなりません」
と、さっそく返書を書き、銀十両を取り出して使いのものにあたえさせた。使いのものは本陣に帰って書面をさし出した。曾長官と史文恭が封を切って見ると、こう書かれていた。
梁山泊の主将宋江、手書して曾頭市の主曾弄が帳前に回覆《かいふく》(返書)す。国は信を以て天下を治め、将は勇を以て外邦を鎮む。人、礼無くんば何をか為さん、財、義に非ずんば取らず。梁山泊と曾頭市と、自来讐《あだ》無く、各《おのおの》辺界を守る。奈《いかん》せん爾《なんじ》が将一時の悪を行《おこな》うに縁《よ》り、数戴の冤を惹《ひ》く。若し和を講ぜんと要《ほつ》すれば、便《すなわ》ち須《すべから》く二次に原《もと》奪いし馬匹を発還すべく、並《ならび》に馬を奪える兇徒郁保四《いくほうし》、軍士を犒老《こうろう》する金帛を要す。忠誠既に篤く、礼数《れいすう》軽んずること休《なか》れ。如《も》し或いは更変すれば、別に定奪有らん。
曾長官と史文恭はそれを読んで、ともどもおどろきおそれた。翌日、曾長官はまた使いを出していわせた。
「講和をご承諾くださるならば、互いに人質をとりかわすことにしていただきたいのです」
宋江は承知しなかったが、呉用が、
「かまうものですか」
といい、時遷《じせん》・李逵《りき》・樊瑞《はんずい》・項充《こうじゆう》・李袞《りこん》を人質として行かせることにした。出かけるとき呉用は時遷を呼び、その耳もとで小声でいった。
「かくかくしかじかにするように。まちがいのないようにな」
五人のものが出かけて行ったことはさておき、一方では、関勝《かんしよう》・徐寧《じよねい》・単廷珪《ぜんていけい》・魏定国《ぎていこく》が着き、さっそく一同に挨拶をして中軍にとどまった。
さて時遷は四人の好漢とともに曾長官のところへ挨拶に行った。時遷がすすみ出て、
「兄貴の命令で、わたしが李逵ら四人をつれ、講和のための人質としてまいりました」
というと、史文恭が、
「呉用が五人のものをよこしたのは、なにかたくらみがあってのことにちがいありません」
といった。李逵はかっとなり、史文恭をつかまえてなぐりつけようとした。曾長官はあわててとりなだめた。時遷は、
「李逵は乱暴ものではありますが、宋公明兄貴の腹心です。彼がよこされたからといって、お疑いになってはなりません」
といった。曾長官はなんとか和を講じたいと思っていたので、史文恭のいうことには耳をかさず、さっそく酒を出してもてなし、法華寺の陣中に休ませて五百人の兵に警護させる一方、曾昇には郁保四をつれて講和のために宋江の本陣へ行かせた。ふたりは中軍へ行って挨拶をし、二回にわたって奪った馬および車一台ぶんの金帛を本陣へ運んだ。宋江はそれらをあらためてからいった。
「これはみな二度目に奪われた馬ばかりだが、その前の段景住がひいてきたあの千里の白竜駒・照夜玉獅子の馬はなぜつれてこなかったのだ」
「あれは師匠の史文恭が乗馬にしておりますので、ひいてまいりませんでした」
曾昇がそういうと、宋江は、
「急いで手紙を書き、さっそくあの馬をひいてきてわしの手にもどすようにとりはからえ」
曾昇はさっそく手紙を書き、馬を取りに従者を本陣へ帰らせた。史文恭はそれを聞くと、
「ほかの馬ならばかまわないが、この馬だけはわたすことはできぬ」
と答えた。従者は幾度も行ったりきたりし、宋江はあくまでもその馬を要求した。史文恭は、
「もしもどうしてもわしのこの馬がほしいというのなら、彼にいますぐ兵をひくようにといえ。そうすれば返してやるとな」
といって使いのものをよこした。宋江はそれを聞くと、呉用に相談をしたが、その話の最中、とつぜん知らせがあって、
「青州と凌州の両路から軍勢がやってきます」
という。宋江は、
「やつらが知ったら、態度をかえるにちがいない」
と、ひそかに命令をくだして、関勝・単廷珪・魏定国をつかわして青州の兵にあたらせ、花栄《かえい》・馬麟《ばりん》・〓飛《とうひ》を凌州の兵にあたらせることにするとともに、また、ひそかに郁保四を呼び出し、ねんごろにいいきかせ、十分に恩義を示して、こうつたえた。
「もしここでひとはたらきしてくれるならば、山寨では頭領にとりたて、馬を奪ったうらみは、矢を折って誓いをたてていっさい水に流してしまおう。もし不承知なら、曾頭市のおちいるのもすぐだ、よく考えて心をきめるがよい」
郁保四はそういわれるとすすんで投降し、ご命令に従いたいとねがい出た。呉用はそこで計略を郁保四にさずけていった。
「ひそかに逃げ帰ったふうをよそおって、史文恭にこういってもらいたい。曾昇とともに講和のために宋江の陣中へ行き情報をさぐってみましたところ、いま宋江はあの千里の馬をだまし取ろうとしているだけで、講和する気持などまるでありませんから、返してしまえば態度をかえるにきまっております。このたび青州と凌州の両路から援軍がきたと聞いて、すっかりあわてておりますから、それにつけこんで計略を用いましたらまちがいはありません、とな。彼がもし真《ま》に受けたら、あとはわたしがやるから」
郁保四は命を受けると、ただちに史文恭の陣地へ行き、いわれたとおりにくわしく話した。史文恭は郁保四をつれて行って曾長官に会い、宋江には講和する気持がないこと、この機に乗じて敵陣をおそうべきことを説いた。曾長官は、
「わしの息子の曾昇は人質としてむこうにいるのだ、そんな掌《てのひら》を返すようなことをしたら、きっと彼に殺されてしまうだろう」
「敵陣を破りさえずれば、結局は救い出せます。今夜、各陣地に命令を伝えて、総勢こぞってまず宋江の本陣をおそうのです。そうすれば蛇の首を斬ってしまったも同然で、あとの賊どもは問題ではありません。そして、帰ってきてから李逵たち五人を殺してしまえばよいでしょう」
「それでは、うまくやってくれ」
さっそく北の陣の蘇定、東の陣の曾魁、南の陣の曾密に、ともに敵陣をおそうよう命令が伝えられた。郁保四は法華寺の本陣に忍びこんで李逵ら五人のものに会い、ひそかに時遷にこれらの事情を通じておいた。
一方、宋江は呉用にたずねた。
「計略はうまくいくでしょうか」
すると、呉用のいうには、
「こうして郁保四がもどってこないのは、計略がうまくあたったからです。敵が今夜この陣地に攻めてきましたら、われわれはひきさがって陣地の両側にかくれ、魯智深と武松には歩兵をひきいて敵の東の陣へ斬りこませ、朱仝と雷横には同じく歩兵をひきいて西の陣へ斬りこませ、楊志と史進には騎兵をひきいて北の陣をつぶさせます。これは番犬伏窩《ばんけんふくか》の計《けい》(注二)といって、百発百中の妙計です」
さて史文恭は、その夜、蘇定・曾密・曾魁をひきつれ、総勢こぞって出陣した。その夜は月はおぼろで、星もくらかった。史文恭と蘇定が先頭に立ち、曾密と曾魁が後詰めとなり、馬は鈴をはずし、人は身軽によろい、どっと宋江の本陣へおしよせて行ったが、見れば陣門はあいたままになっていて、陣中には一兵の姿もなく、なんの動静もない。計られたとさとってただちにひき返し、急いでみずからの本陣をめざして行くと、とつぜん曾頭市から銅鑼や軍鼓が鳴り砲声がとどろいた。それは時遷が法華寺の鐘楼にのぼって鐘をつき、その音を合図に東西の両門からいっせいに火砲が放たれ、どっと喊声があがり、無数の軍勢が斬りこんできたのであった。一方、法華寺からも、李逵・樊瑞・項充・李袞がいっせいにたちあがって斬って出た。史文恭らは急いで自陣に帰ろうとしたが、道がわからない。曾長官は自分の陣地が大騒ぎになり、さらに梁山泊の大軍が二手から攻めこんできたと聞いて、陣中でみずから縊《くび》れて果てた。曾密は西の陣へ駆けこんで、朱仝の朴刀に突き殺され、曾魁は東の陣へ駆けて行く途中、乱軍のなかで馬に踏み殺され、蘇定は必死に北門を駆け抜けたが、そこには無数の陥し穴があり、うしろからは魯智深と武松に追い迫られ、前は楊志と史進にさえぎられ、乱れ矢を浴びて蘇定も相果てた。うしろからなだれこんできた部下の兵はことごとく陥し穴のなかへ転げ落ち、累々とおり重なって、死んだものはかぞえきれぬほどであった。
ところで史文恭は、かの千里の馬の駿足のおかげで西門を斬り抜け、ほうほうの態で逃げて行った。すると黒い霧が天をさえぎって立ちこめ、方角がわからなくなってきた。およそ二十里あまりすすんだものの、そこがどこなのかわからない。と、ふいに林のむこうからいっせいに銅鑼が鳴りだし、四五百人の兵が飛び出してきた。その先頭のひとりの将は、手に棍棒を持ち、馬の脚をめがけてなぐりつけてきた。馬はさすがに千里の竜駒である、棒が飛んできたと見るや相手の頭上を跳びこえて行ってしまった。かくて史文恭が逃げて行くと、陰雲が冉々《ぜんぜん》と垂れこめ、冷気が〓々《しゆうしゆう》と身にしみ、黒霧が漫々とはびこり、狂風が颯々《さつさつ》と吹きすさび、虚空になにものかが居て行くてをはばんでいるのであった。史文恭は神兵かとおそれ、馬首を転じてひき返したが、東西南北、どこへ行っても晁蓋の亡魂がつきまとった。史文恭がもとの道へひき返して行くと、浪子の燕青に出くわした。さらに玉麒麟の盧俊義もあらわれて、
「悪党め、どこへ行く」
と一喝、朴刀を腿に浴びせて馬から突きおとし、たちまち縄で縛りあげ、曾頭市へひきたてて行った。燕青はかの千里の竜駒をひいてまっすぐ本陣へ行った。
宋江はそれを知って且つ喜び且つ怒った。喜んだのは盧員外が手柄をたてたことをであり、怒ったのは史文恭が晁天王を殺したことを恨んでである。仇に出あえばことのほか眼を怒らすもの。まず曾昇をその場で打ち首にし、曾家の一家一門をことごとく殺してしまい、金銀財宝・米麦糧食をさらってことごとく車に積み、梁山泊へひきあげてから各頭領にわけ、また全軍の兵士をねぎらうこととした。
一方、関勝は兵をひきいて青州の軍を撃退し、花栄も兵をひきいて凌州の兵を蹴散らし、ともにひきあげてきた。大小の頭領はひとりも欠けたものはなく、また千里の竜駒・照夜玉獅子の馬も得た。その他のものについてはいちいちいうまでもない。かくて陥車に史文恭をおしこめ、ただちに軍をまとめて梁山泊へとひきあげて行ったが、途中の州県・村落ではもとよりいささかも犯すようなことはなく、山寨へもどると忠義堂に集まって、一同、晁蓋の霊を拝した。宋江は聖手書生の蕭譲に祭文をつくらせ、大小の頭領たちにはすべて喪服をつけさせてそれぞれ哭泣の礼をささげさせ、史文恭の腹を割いて肝をえぐり出し、晁蓋の霊前に供えた。
それがすむと、宋江は忠義堂で兄弟たち一同に梁山泊の主を立てることを諮った。すると呉用がいった。
「兄貴を主とし、盧員外どのをその次として、他の兄弟たちはもとどおりの順列でよろしいでしょう」
「さきに晁天王は、史文恭を捕らえたものを誰であろうと梁山泊の主に立てるようにと遺言された。このたび盧員外どのがその賊をいけどり、山につれてきて晁兄貴の霊前にささげ、仇を討ち恨みを雪《すす》いだのだから、主になっていただくのが当然であることはいうまでもないことだ」
宋江がそういうと、盧俊義は、
「わたくしは徳うすく、才あさく、とうていそのような位にあたれるものではありません。末席を汚させていただくだけでも、なお分《ぶん》にすぎるくらいです」
「わたしは別に謙遜するわけではありませんが、員外どのにはおよばない点が三つあります。第一には、わたしは色が黒く背が低く、容貌もまずく才能もうすい。員外どのは堂々たる押出しで、凜々たる体躯をもち、貴人の相をそなえておられる。第二には、わたしは小役人の出で、罪を犯して逃げている身であり、ただ兄弟たちのおかげで仮にこの位にいるだけです。員外どのは富貴の家に生まれ、長じては豪傑のほまれを得、何度も危うい目にあいながらいつも天祐を受けておられる。第三には、わたしには国を安んずる学問もなく、人をなびかせる武力もなく、手には鶏を縛る力もなく、身には一箭の手柄とてないのです。員外どのは力は万人に敵し、学は古今に通じ、天下のものみな、うわさを聞いて慕わぬものはありません。このような才徳のあるあなたこそ、山寨の主になられて当然というものです。他日、朝廷に帰順したときには、功業をたてて高い官爵にのぼり、われわれ兄弟までも肩身のひろい思いをすることができましょう。わたしの心はもうきまっているのですから、ご辞退なさいませぬよう」
盧俊義は平伏して答えた。
「そのお言葉はあたりません。わたくしはむしろ死んでも、それだけはお受けできません」
「兄貴を主とし、盧員外どのをその次にすることが、みなの納得するところです。兄貴がそんなに譲ってばかりおられると、みなの気持も白けてくるでしょう」
と呉用はいった。じつは呉用は、みなに目くばせをして、わざとそういったのだった。と、さっそく黒旋風の李逵が大声をあげ、
「おいらは江州で身体もいのちも投げ出して、兄貴についてきたんだ。みんなが兄貴には一目《いちもく》置いているんだ。おいらは天もなにも恐《こわ》くはない。兄貴は譲ってばかりいて、糞おもしろくもない。あばれだして、みんなちりぢりに仲間割れしてしまおうか」
武松も呉用が目くばせをしたのを見ると、怒りだして、
「兄貴の下には朝廷の命を受けたれっきとした軍官もおおぜいいるんだ。みんな兄貴だからこそ従っているのだが、ほかのものになら、そうはいくまいぞ」
劉唐もいった。
「おれたちは、はじめ七人で山にのぼったときから、兄貴を主にしょうと思っていたんだ。いまさらほかのものに譲ることはないじゃありませんか」
魯智深も大声で叫んだ。
「兄貴がこのうえまだほかのものに譲ろうとするなら、おれたちはめいめい仲間を解くことにしよう」
宋江はいった。
「みんな、まあ静まってもらいたい。わたしにひとつ考えがある。すべて天意にまかせることにして、それがどうなるかを見てきめようではないか」
「どういうお考えなのか、おっしゃっていただきましょう」
と呉用がいうと、
「ふたつあるのです」
と宋江は答えた。まさにそれは、梁山泊にまたもやふたりの英雄を加え、東平府にまた騒動をひきおこして、天〓星《てんこうせい》をことごとく山寨に投じさせ、地〓星《ちさつせい》をみな水泊に集めることとなるのである。いったい宋江のいうふたつのこととはなになのか。それは次回で。
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一 鉄〓黎 第四十七回注七参照。
二 番犬伏窩の計 番犬は蠻犬。むかし外蠻の国に野獣を捕らえることのたくみな犬がいたが、この犬は、野獣がその巣窟を出て行くのを見すましてなかへかくれ、そのもどってきたところをねらって捕らえたという伝説から、同様な戦術のことをいう。
第六十九回
東平府《とうへいふ》 誤って九紋竜《くもんりゆう》を陥《おとしい》れ
宋公明《そうこうめい》 義もて双鎗将《そうそうしよう》を識《し》る
さて、宋江《そうこう》は晁蓋の遺言に従って主《あるじ》の位置を盧員外に譲ろうとしたが、一同は承服しない。そこでまた宋江がいうには、
「目下山寨では銭糧がとぼしくなっているが、梁山泊の東にはゆたかに銭糧をたくわえた町がふたつある。ひとつは東平府で、ひとつは東昌府だ。われわれはまだいちどもその地のものを騒がせたことはないが、もし食糧を借りに行けば、断わることはわかりきっている。そこで二本のくじをつくって、わたしと盧員外どのとが一本ずつひいて行くさきをきめ、さきに城を打ち破ったものが梁山泊の主になるということにしたら、どうだろう」
「よろしいでしょう。天命に従うということで」
と呉用はいったが、盧俊義は、
「そんなことをおっしゃらないでください。兄貴はどうしても梁山泊の主です。わたしはお指図を聞くだけです」
だが、そのとき盧俊義のいいぶんはきかれなかった。さっそく鉄面孔目《てつめんこうもく》の裴宣《はいせん》に命じて二本のくじをつくらせ、香を焚いて天に祈ってから、ふたりは一本ずつひいた。宋江は東平府を、盧俊義は東昌府をひきあてた。一同異存はなかった。
その日は酒宴が開かれたが、その間《かん》、宋江は命令をくだして軍の割りあてをきめた。すなわち宋江の麾下には林冲《りんちゆう》・花栄《かえい》・劉唐《りゆうとう》・史進《ししん》・徐寧《じよねい》・燕順《えんじゆん》・呂方《りよほう》・郭盛《かくせい》・韓滔《かんとう》・彭〓《ほうき》・孔明《こうめい》・孔亮《こうりよう》・解珍《かいちん》・解宝《かいほう》・王矮虎《おうわいこ》・一丈青《いちじようせい》・張青《ちようせい》・孫二娘《そんじじよう》・孫新《そんしん》・顧大嫂《こだいそう》・石勇《せきゆう》・郁保四《いくほうし》・王定六《おうていろく》・段景住《だんけいじゆう》。以上大小の頭領二十五名、歩騎の兵一万。ほかに水軍の頭領三名、すなわち阮小二《げんしようじ》・阮小五《げんしようご》・阮小七《げんしようしち》は水軍をひきい、船を出して援護にあたる。盧俊義の麾下には、呉用《ごよう》・公孫勝《こうそんしよう》・関勝《かんしよう》・呼延灼《こえんしやく》・朱仝《しゆどう》・雷横《らいおう》・索超《さくちよう》・楊志《ようし》・単廷珪《ぜんていけい》・魏定国《ぎていこく》・宣賛《せんさん》・〓思文《かくしぶん》・燕青《えんせい》・楊林《ようりん》・欧鵬《おうほう》・凌振《りようしん》・馬麟《ばりん》・〓飛《とうひ》・施恩《しおん》・樊瑞《はんずい》・項充《こうじゆう》・李袞《りこん》・時遷《じせん》・白勝《はくしよう》。以上大小の頭領二十五名、歩騎の兵一万。ほかに水軍の頭領三名、すなわち李俊《りしゆん》・童威《どうい》・童猛《どうもう》は水夫をひきい、船を出して援護にあたる。その他の頭領ならびに負傷者は、残って山寨を守ることになった。割りあてがきまり、宋江は頭領たちとともに東平府を、盧俊義は同じく東昌府を討つべく、一同それぞれ山をおりたのは、三月一日のこと。日は暖かに風は和《な》ぎ、草青く砂軟《やわら》かに、いくさには絶好の季節であった。
さて宋江は、兵をひきいて東平府へとすすみ、城の手前四十里の安山鎮《あんざんちん》というところに兵をとどめた。宋江はいった。
「東平府の太守は程万里《ていばんり》。兵馬都監は河東の上党郡のもので、この男、姓は董《とう》、名は平《へい》といい、二本の槍の使い手で、双鎗将《そうそうしよう》とあだ名され、万夫不当の勇を持っている。彼らの城を攻めるにしても、やはり挨拶はしておこう。そこでふたりのものに挑戦状を持たせてやって、降伏するというならば兵を動かすのはやめ、いうことをきかなければ、そのときは存分にたたかうということにして、覚悟をきめさせておこうと思うのだが、誰か書面をとどけてくれるものはなかろうか」
と、たちまち麾下からすすみ出たものがあった。身の丈は一丈、腰のまわりは幾抱《かか》えもある大男。それは誰かというと、ここに詩があっていう。
資財を好まず惟《ただ》義を好む
貌《かたち》金剛《こんごう》の古寺を離るるに似
身《たけ》長く険道神《けんどうしん》と喚《よ》び做《な》す
此れは是れ青州の郁保四
郁保四はいった。
「わたしは董平《とうへい》を知っておりますから、ぜひわたしに書面をとどけさせてください」
と、また麾下からひとりのものが出てきた。痩せた小男で、
「わたしがお供をいたしましょう」
と叫んだ。それは誰かといえば、
〓《さくもう》(いなご)のごと頭尖《とが》りて眼目《がんもく》を光らし
鷺〓《ろじ》(しらさぎ)のごと痩腿《そうたい》にして全く肉無し
路遙かなるも行走疾《はや》きこと飛ぶが如き
揚子江辺の王定六
ふたりはいった。
「わたしどもはまだ山寨のためになにもつくしておりませんので、きょうはぜひとも行かせてください」
宋江は大いによろこび、さっそく挑戦状を書き、郁保四と王定六のふたりにわたして立たせた。書面には、糧食を拝借したいと書いてあるだけであった。
ところで東平府の程太守は、宋江が兵をおこし、安山鎮まできて陣をしいたと聞くと、ただちに州の兵馬都監たる双鎗将の董平を招いて軍機の大事を諮ったが、ちょうど協議しているところへ門番から知らせがあって、
「宋江が使いのものに挑戦状を持たせてよこしました」
という。程太守は通させた。郁保四と王定六は、はいって行って書面をさし出した。程太守はそれに目をとおしてから董都監にいった。
「当府の銭糧を借りたいというのだが、どうしたものであろう」
董平はそれを聞くと大いに怒り、ひきずり出して即刻首を刎《は》ねよといった。程太守は、
「いや、それはいかん。むかしから国はたたかっていても使者は斬らないものだ。斬っては礼にはずれるから、ふたりを二十ずつ棒打ちにしただけで帰してやって、むこうの出かたを見るとしよう」
董平はなおも怒りながら、郁保四と王定六をひとつの縄で縛りあげさせ、皮が裂け肉が綻ぶまで打たせて、城から突き出した。ふたりは本陣へ帰ると、泣いて宋江に告げた。
「董平のやつ、無礼にも、すっかりわれわれを見くびっております」
宋江はふたりが打たれたことを知ると、怒りに胸をつまらせ、ただちに州郡を討ち取ろうとして、まず郁保四と王定六を車で山へ送り帰して養生させたが、そのとき九紋竜の史進が立ちあがっていった。
「わたしは前に東平府におりましたとき、廓《くるわ》(注一)の女となじみをかさねました。名は李瑞蘭《りずいらん》といって、ずいぶん通《かよ》ったものです。それで、これからすこしばかり金銀を持って町へ忍びこみ、その女の家へ泊まることにしますから、日をしめしあわせて兄貴は町を攻めてください。董平が討って出ましたら、わたしは鼓楼(時太鼓を鳴らすやぐら)へのぼって火をつけ、内外呼応して大事をやりとげましょう」
「妙案だ」
と宋江はいった。史進はさっそく金銀をととのえて包みにしまい、身辺に武器をかくし、出発の挨拶をした。宋江は、
「おりを見てうまくやっていただきたい。わたしのほうはしばらくこのまま兵を動かさずにいるから」
さて、史進は城内へはいりこみ、まっすぐに西の遊廓(注二)の李瑞蘭の家へ行った。亭主はそれが史進なのを見ると、びっくりして迎えいれ、女を呼んで会わせた。李瑞蘭はまことにすばらしい器量よしで、これを詩でいえば、
万種の風流当《あた》る可からず
梨花《りか》雨を帯び玉《たま》香を生ず
翠禽《すいきん》(注三)啼き醒《さ》ます羅浮《らふ》(注四)の夢
疑うらくは是れ梅花の暁粧《ぎようしよう》(朝化粧)を〓《よそお》うかと
李瑞蘭は史進を二階へつれて行って坐らせると、さっそくたずねた。
「長いことお見限《かぎ》りでしたわね。うわさでは、あなたは梁山泊でお頭《かしら》におなりだとか。お役所からは召捕りの立札が出ておりますよ。ここ二三日は、町では、宋江が食糧をねだりにおしょせてくるといって大騒ぎをしているのに、あなた、よくここへこられましたわね」
「正直にいおう。わしはいま梁山泊で頭領になっているのだが、まだなにも手柄をたてておらんのだ。それで、こんど兄貴がこちらへ食糧を借りにおしかけるというので、わしはおまえのことをくわしく話し、こうやってさぐりにきたというわけなのだ。この金銀の包みをおまえにやるから、このことは絶対にもらさないようにしてくれ。いずれうまくいったら、おまえの一家のものもいっしょに山へつれて行って楽をさせてやるから」
李瑞蘭はいいかげんに承知をして、金銀をおさめ、酒や肉を出してもてなした。そうしておいて、おかみに相談した。
「あの人は、前に遊びにきたころはちゃんとした人だったから、家に泊めてあげてもよかったけど、いまじゃ悪党になってるでしょう、もし泊めたことがばれたらたいへんなことになるわね」
すると亭主が、
「梁山泊の宋江の一味の衆には、うかつなまねはできんぞ。城を攻めたら必ず取ってしまうから、もしここでへたなことをしたら、そのうち城を打ち破って乗りこんできたときに、わしらをただではすますまい」
やりて婆(おかみ)は怒りだして、
「老いぼれのおまえさんなんぞに、なにが世間のことがわかるものか。むかしから、蜂が懐《ふところ》に飛びこんだら着物をぬいで追っぱらえというじゃないか。訴え出たものは罪があってもゆるされるというのが天下のおきまりだから、さあ、早く東平府へ訴えて、あの男をしょっぴいて行かせて、あとでいざこざのないようにするがいいよ」
「たくさん金銀をくれたんだから、なんとかためになってやらなきやわるいじゃないか」
「この老いぼれったら、なにをくだらんことをいってるのさ。うちは女郎屋(注五)なんだよ、何千何万の人をだますのが商売なんだよ。あの男ひとりがなんだっていうのさ。おまえさんが訴えに行かなきゃ、あたしが自分でお役所へ駆けこんで、おまえさんもその一味だって訴えてやるから」
「そう怒らなくたっていいじゃないか。まあ、娘にもてなさせておいて、気づかれて逃がすようなことのないようにしな。わしは捕り手の役人に知らせてまずつかまえさせておいて、それから訴え出ることにするよ」
一方、史進は、二階にあがってきた李瑞蘭を見て、そわそわした顔をしていることに気づいた。そこですぐたずねた。
「この家でなにかあったのじゃないか。そんなにおどおどして」
「いま梯子段をあがってくるときに足を踏みはずして、もうちょっとで転びそうになったものですから、それですっかりあわててしまって」
史進は武勇すぐれた男ではあったが、まんまと女にだまされて、すこしも疑わなかった。これをうたった詩がある。
嘆ずべし青楼《せいろう》伎倆(てくだ)多し
粉頭《ふんとう》(妓女)は畢竟虔婆《けんば》(やりて婆)を護る
早く暗裏に奸計の施さるるを知らば
錯《あやま》って黄金を用《もつ》て笑歌を買わんや
そのとき李瑞蘭は、ひさかたぶりの情を示したが、まだ一時《いつとき》もたたぬうちに、とつぜん梯子段に足音がして誰かの駆けあがってくる気配がし、外にも喊声があがって、数十人の捕り手たちが二階へおどりこんできた。史進はどうするひまもなかった。捕り手たちはさながら鷹が雀を捕らえ、弾(はじき弓)が斑鳩《はんきゆう》(すずかけばと)を射《う》つように、史進をぐるぐる巻きに縛って二階からひきずりおろし、そのまま東平府の役所へひきたてて行った。程太守は史進を見ると、大いにののしった。
「おのれ、大胆不敵にも、ひとりでよくもさぐりにきたもんだな。李瑞蘭の父親(女郎屋の亭主)が訴え出なかったら、町じゅうの良民がたいへんな目にあうところだった。さあ、白状しろ。宋江はきさまになにをさせようとしたのだ」
史進はひとことも口をきかない。と、董平がいった。
「こいつめ、打たないことにはとても白状しますまい」
程太守がどなった。
「思いきりこやつを打て!」
と、両側から獄卒や牢番が出てきて、まず冷水を腿に吹きかけ、両腿を百回ずつ棍棒で打った。史進は打つにまかせて、白状はしない。董平はいった。
「ひとまず首枷《くびかせ》手枷をはめてこやつを死刑囚の牢へいれておき、宋江を捕らえてからいっしょに都へ送って始末することにしましょう」
さて一方、宋江は史進が出かけて行ってから、くわしく手紙を書いて呉用に知らせた。呉用は宋公明からの手紙に、史進が遊女の李瑞蘭の家へ行って密偵をするとあるのを見て、大いにおどろき、急いで盧俊義に知らせるとともに、宋江のところへ駆けつけてたずねた。
「誰が史進を行かせたのです」
「自分から行くといい出したのです。その李という女は彼の昔のなじみで、深い仲だからといって、出かけて行ったのです」
「それはいささか軽率でしたぞ。わたしが居あわせたら決して行かせはしなかったでしょう。下世話にも、遊女の家では者《しや》(注六)(ほんとうのことをいうこと)、〓《しや》(ふかいりすること)、丐《かい》(ものをたのむこと)、漏《ろう》(秘密をもらすこと)、走《そう》(逃げこむこと)の五字は禁物《きんもつ》といいます。手練《てれん》をあやつり手管《てくだ》を弄し、新しい客を迎え旧い客を送り出して、多くの人を迷わせるのです。しかも浮気《うわき》でまごころがなく、たとえ情愛をいだいたとしても結局はやりて婆の手のうちからのがれることはできないのです。彼もこんどは、きっとひどい目にあわされるでしょう」
宋江が呉用に、ではどうすればよかろうとたずねると、呉用はすぐ顧大嫂《こだいそう》を呼んで、
「あなたにご足労ねがいたいのだが、貧乏婆さんの姿をして城内にもぐりこみ、乞食をしてもらいたいのです。そしてもしなにかさぐったら、急いでもどってきてください。もしまた史進が牢におしこめられていたら、獄卒に会ってこういうのです。むかし情けをかけていただいたのですこしばかり差入れをしたいとな。そして牢のなかへはいりこみ、こっそり史進に知らせていただきたい。われわれは、みそかの日暮れごろには必ず城を攻めに行くから、あんたは便所へ行くふりをして脱け出す工夫をするようにと。みそかの夜になったら、あなたは城内で火をつけて合図をしてください。そうすればこちらから兵をすすめて、うまく事をなしとげますから。兄貴にはさきに〓上県《ぶんじようけん》を攻めていただきましょう。住民は必ずみな東平府へ逃げるでしょうから、そのときあなたは、住民のなかにまぎれこんでいっしょに城内へはいって行けば、誰にも気づかれずにすみましょう」
呉用は手筈をきめてしまうと、馬に乗って東昌府へ帰って行った。宋江は、解珍と解宝に命じ、五百余名をひきいて〓上県を攻めさせた。するとはたして住民たちは、老人から子供までみな、あわてふためいて東平府へ逃げて行った。
さて顧大嫂は、髪をばさばさにし、身にはぼろをまとい、みんなのなかにまぎれこんで城内へはいりこみ、物乞いをして町じゅうをまわった。そして役所の前へ行って聞いてみると、はたして史進は牢におしこめられているとのことで、呉用の見通しの確かさを知ったのであった。その翌日、飯入れをさげて、司獄司の前を行ったりきたりして様子をうかがっていると、ひとりの年かさの役人が牢のなかから出てきたので、顧大嫂はその男にむかって礼をし、はらはらと涙を流した。するとその年かさの役人がたずねた。
「おい、その貧乏婆さん、なにを泣いてるんだね」
「はい、牢にいれられておりなさる史大郎さまは、わたしのむかしのご主人さまでございまして、お別れしてからもう十年にもなりますが、世間をわたり歩いてなにかご商売をしておいでだと聞いておりましたのに、どうしてまた牢になどいれられなさったのですやら。誰も差入れをしてあげる人がないのはわかっておりますので、わたしは物乞いをしてこの飯をめぐんでもらい、こうしてあのかたにさしあげて腹のたしにしていただこうと思いまして。兄さん、どうかあわれと思し召して、わたしをなかへいれてやってくださいませ。七層の宝塔をお建てになるよりもそのほうが功徳《くどく》になるでございましょう」
「あの男は梁山泊の強盗で、死罪を犯した身だ。おまえをいれてやることなんかできんよ」
「お仕置きは観念してお受けなさるよりほかありませんが、どうかわたしをあわれと思し召して、いれてくださいませ。この飯をさしあげて、せめてむかしのご恩にお報いしたいのでございます」
顧大嫂はそういってまた泣いた。年かさの役人は心に思うよう、
「これが男ならいれてやっては面倒だが、女だから別にたいしたこともあるまい」
と、さっそく顧大嫂を牢のなかへつれて行った。見れば史進は、首には重い枷をはめられ、腰には鉄の鎖をつけられている。史進は顧大嫂を見ると、びっくりして、ものもいえなかった。顧大嫂はうそ泣きをしながら史進に飯を食べさせた。そこへほかの節級がやってきてどなりつけた。
「こいつは死罪の悪党だ。牢は風も通さぬというほどなのに、いったい誰がきさまに飯の差入れをゆるした。すぐ出て行かんと棒でぶん殴るぞ」
顧大嫂は牢には人目が多く、くわしく話すわけにはいかないのを見て、ただこういつた。
「みそかの夜、城を攻めるから、あんたも牢でなんとか頑張ってください」
史進がもっと聞こうとしたときには、顧大嫂は小節級に牢門からたたき出されてしまった。史進は、みそかの夜ということだけを心にとめた。
三月という月は大《だい》の月である。二十九日の日、史進は牢でふたりの節級に話しかけて、
「きょうは何日でしょう」
とたずねた。その小節級は思いちがいをしていて、
「きょうはみそかだよ。日が暮れたら狐魂紙《ここんし》(注七)を買ってきて焼かなきゃ」
と答えた。史進はそれを聞いて、しきりに夜になるのを待った。ひとりの小節級がほろ酔い機嫌で史進を便所につれて行った。史進は小節級をだまして、
「うしろに誰かおりますよ」
と、その男にうしろをふりむかせておいて、首枷をねじはずし、その端で小節級の顔に一撃をくらわして打ち倒し、すぐ磚《れんが》のかけらで手枷をたたき割り、鷹のような眼を怒らしながら亭心《ていしん》(牢役人の詰め所)へ飛びこんで行った。役人たちはみな酔っていたので、史進に打ちまくられて、あるいは殺されあるいは逃げてしまった。史進はそこで牢門をあけて外からの救援を待つばかりにしておいて、牢内の罪人たちをみな解き放した。みなで五六十人のものは牢内でどっと喊声をあげ、いっせいに逃げ出した。
太守への知らせが行くと、程万里はおどろいて色をうしない、急いで兵馬都監を呼んで協議した。董平は、
「城内には忍びのものがはいりこんでいるにちがいありませんから、まずおおぜいで史進のやつをとりかこんでしまうことです。わたしはこの機に、兵をひきつれて城を出、宋江をとりおさえましょう。あなたは城を守り、数十人の役人を出して牢門をおさえさせ、とり逃がすことのないようにしてください」
董平は馬に乗り、兵をひきつれて出かけて行った。程太守は、節級・虞候・押番(護送役人)などの全員を集め、それぞれ槍や棒を持たせ、大牢の前で喊声をあげさせた。史進は牢のなかからうかつに出てはこなかったし、外の連中もなかへ踏みこんで行こうとはしなかった。顧大嫂はこれはたいへんなことになったと思った。
一方、都監の董平は、兵をつどえて、四更ごろ馬で宋江の陣地へ殺到して行った。偵察の兵が宋江に知らせると、宋江は、
「これはきっと、顧大嫂が城内でまたしくじったのだ。やつらが攻めてきたのなら、迎え討つ用意をしろ」
命令一下、諸軍はいっせいに立ちあがった。夜のようやく明けそめたとき、あたかもよし董平の軍勢に遭遇し、互いに陣形をととのえた。董平は馬をすすめてきたが、まことに蓋世の英雄で、智勇衆に抜きんでるものがあった。詩にいう。
両面の旗牌《きはい》(ふたつの旗じるし)日に耀《かがや》いて明らかに
銀を《ちりば》めし鉄鎧は霜の凝るに似る
水磨の(磨きあげた)鳳翅《ほうし》の頭〓《とうかい》は白く
錦〓の麒麟《きりん》の戦襖は青し
一対の白竜(槍のこと)上下を争い
両条の銀蟒《ぎんもう》(二匹の白い大蛇。槍のこと)逓《たが》いに飛騰《ととう》す
河東の英雄風流の将
能く双鎗《そうそう》を使う是れ董平
この董平は頭の機敏な人で、儒仏道《じゆぶつどう》の教えから諸子百家の説にいたるまで(注八)ことごとく通じているばかりか、管絃の道もひととおりみな心得ていて、山東河北の人々から風流双鎗将《ふうりゆうそうそうしよう》とあだ名されていた。宋江は陣頭に立って董平のその人品を見、ひと目で気にいってしまった。さらに見れば、彼の矢壺には一本の小旗が挿してあって、それには、
英雄双鎗将
風流万戸侯
という一聯がしるしてあった。宋江は韓滔に命じ、馬をすすめて迎え討たせた。韓滔は鉄の槊《ほこ》を手に、まっしぐらに董平におそいかかって行ったが、董平のかの二本の鉄鎗はまことに神出鬼没、あたるべからざるものがあった。宋江はさらに金鎗手《きんそうしゆ》の徐寧に、鉤〓鎗《こうれんそう》を得物《えもの》として韓滔と代わらせた。徐寧は馬を飛ばして出て行き、董平を相手にたたかった。ふたりはいくさの庭にしのぎをけずりあうこと五十余合、勝敗は容易に決しない。たたかいが長びくにつれ、宋江は徐寧にもしものことがあってはと案じ、金鼓を鳴らしてひきあげさせた。徐寧が馬首を転じてひき返すと、董平は二本の槍を構えつつまっしぐらに陣地まで追いこんでくる。宋江が鞭をふって合図すると、四方の兵がどっと董平をとりかこんだ。宋江は馬を丘の上にあげて眺めた。董平は陣地のなかにかこまれている。董平が東のほうへ駆け出すと、宋江は合図の旗で東を指し、騎馬の軍は東へ走って董平をかこんだ。西のほうへ駆け出せば、合図の旗は西を指し、騎馬の軍は西へ走って董平をかこむ。董平は陣中で、縦横十文字に突きまわり、二本の槍をふるって申牌(昼すぎ)ごろまでたたかいつづけ、ようやく一条の血路を斬り開いて逃げ出した。宋江は追いかけなかった。董平は勝算なしと見て、その夜、軍を収めて城内へひきあげた。顧大嫂は城内でまだ火をつけず、史進も牢から出ることができず、両軍はそのまま対峙した。
ところで、程太守にはひとりの娘がいて、なかなかの器量よしであった。董平はまだひとりもので、しきりに人を介して妻にもらいたいと申しこんだが、程万里は承知しなかった。そのためふたりのあいだは、ふだんからしっくりいっていなかった。その夜、董平は兵をひきつれて城内にもどってくると、さっそく、このときとばかり、懇意のものをやってその縁組みのことをたずねさせた。すると程太守のいうには、
「わたしは文官で、彼は武官だから、婿に迎えるにはちょうど都合がよいわけだが、いまは賊がおしよせてきている危急の際だ、ここで承知したりすれば、人の笑い草にされよう。賊軍を撃退し、城を無事に保つことができてから、あらためて話をしてもおそくはなかろう」
使いのものがその旨を董平に報告すると、董平は口では、
「もっともな話だ」
といいはしたが、内心は割り切れぬ気持でおもしろくなく、おそらくあとになったら承知しないのではなかろうかと思った。
一方、宋江は、夜どおしきびしく攻めてきた。太守は応戦するよう促した。董平はかっとなり、よろいをつけて馬に乗り、全軍をひきつれて城を出た。宋江はみずから陣頭の門旗の下に出て、大声で叫んだ。
「たったひとりで、どうしてわれわれにあたり得よう。古人の言葉にもあるではないか、大廈《たいか》のまさに傾かんとする、一木《いちぼく》の支《ささ》うべきにあらず(注九)と。見るがよい、わが麾下には雄兵十万、猛将千人、天に替って道をおこない、困《くる》しめるを済《すく》い危うきを扶《たす》けているのだ。さっさと降伏するならばいのちは助けてやろう」
董平は大いに怒って、
「刺青面《いれずみづら》の小役人め、死罪のならずものめ、よくも大口をたたきおったな」
といい返すや、手に二本の槍をさしあげつつまっしぐらに宋江めがけておそいかかって行く。と、左に林冲、右に花栄がひかえていて、二将いっせいに飛び出し、それぞれ得物をふるって董平とたたかった。わたりあうことおよそ数合、二将はいきなり逃げ出した。宋江の軍は敗れたふりをしてちりぢりに逃げ走る。董平は功にはやりたち、馬をせかして追いかけた。宋江らはうまく寿春《じゆしゆん》県の境まで退いて行った。宋江は逃げ、董平はそのあとを追いかけて、県城から十数里へだたった、とある村落にさしかかった。両側にはずっと草葺きの家がならび、そのまんなかを駅路が通っている。董平は計略だとは知らず、馬を飛ばしてひたすらに追いかけて行った。
宋江は董平が手強《てごわ》いことを知っていたので、その前の夜、王矮虎・一丈青・張青・孫二娘の四人に百名あまりの兵をつけて、あらかじめ草葺きの家の両側に伏せておき、数本の絆馬索《はんばさく》(馬の脚をからめる縄)を路に張りめぐらしてその上をうすく土でおおい、まちかまえていて、銅鑼を合図にいっせいに絆馬索をひきあげて董平を捕らえさせることにしていたのである。
董平が追いかけて行って、ちょうどそこにさしかかったとき、とつぜんうしろのほうで孔明と孔亮が、
「おかしらが危い」
と大声に叫んだ。しめたとばかり董平が草葺きの家の前まで行ったときである、銅鑼が一声鳴りひびき、両側の家の戸がいっせいに開いて、縄がひきあげられた。馬がうしろへもどろうとすると、うしろの絆馬索がいっせいにひきあげられて馬をからめ倒し、董平は落馬した。と、左からは王矮虎と一丈青が、右からは張青と孫二娘が飛び出してきて、どっとおそいかかって董平をとりおさえ、かぶと・よろい・二本の槍から馬にいたるまでみな取りあげてしまった。ふたりの女頭領は、董平をつかまえると麻縄で後ろ手に縛りあげ、それぞれ鋼刀を手に、董平をひきたてて宋江のところへつれて行った。
さて宋江は、草葺きの家並みを通りぬけて、馬をとめて楊《やなぎ》の木の下にいたが、ふたりの女頭領が董平をひきたててくるのを見ると、
「董将軍をお迎えしてくるようにといったのだ、縄をかけよとはいわないぞ」
と叱った。ふたりの女将軍は、はっ、といってひきさがった。宋江は急いで馬をおり、みずから縄を解き、よろいや上着をぬいで董平に着せ、うやうやしく礼をした。董平も急いで礼を返した。宋江はいった。
「もしあなたさえおかまいなければ、山寨の主《あるじ》におなりください」
「わたしは捕らわれの身、殺されるのが当然ですが、おゆるしいただいて身を寄せさせてくださいますならば、それ以上の幸《しあわ》せはありません」
「わたしたちの寨《とりで》は湖につらなっていて、これまで他所をさわがせたりなどしたことはないのですが、このたびは糧食が欠乏してきましたので、こうして東平府に糧《かて》を借りにまいっただけのこと。ほかにたくらみがあってではありません」
「程万里のやつは、もとは童貫のところの門館先生《もんかんせんせい》(家庭教師)だったのですが、あのようなよい地位を得て、いまでは住民を苦しめているのです。あなたがもしわたくしに行くことをおゆるしくださいますならば、だまして城門を開けさせ、城内へ斬りこんで行ってことごとく金銭糧食を奪い、以てご恩返しをいたしたいと思います」
宋江は大いによろこび、さっそく左右のものに命じて、かぶと・よろい・槍・馬などを董平に返し、それらを身につけて馬に乗らせた。かくて董平を先頭に、宋江の軍はそのあとに、旗は巻きおさめて一同東平城の城下に臨んだ。董平は前方で、大声で呼ばわった。
「城壁のもの、早く城門をあけろ」
門を守る兵士は松明《たいまつ》で照らして、それが董都監だとわかると、ただちに城門をあけ放ち、吊り橋をおろした。董平は馬を飛ばしてまっさきに駆けいり、吊り橋の鉄の鎖をたたき切ってしまった。うしろにいた宋江らは、長駆して城内に斬りこみ、どっと東平府の役所へおしかけるとともに、急いで命令をくだして、住民を殺害したり民家に放火したりすることを禁じた。董平はまっすぐ官邸へ駆けつけて程太守の一家をみな殺しにし、例の娘を奪った。宋江はまず大牢をあけさせて史進を救い出し、ついで府庫をあけて金銀財帛を残らず奪い、また米倉を開いて糧秣を車に積みこみ、ひとまず梁山泊の金沙灘まで護送して行かせて、阮氏の三頭領にひきわたし、山上へ運ばせることにした。史進はみずから部下をひきつれて西の遊廓の李瑞蘭の家へ行き、やりて婆一家のものをみなずたずたに斬り殺した。宋江は太守の家財を住民にわけあたえたうえ、町々に告示をして、住民を苦しめた州役人はすでに殺してしまったゆえ、人々は各自その生業に安んじるようにと諭した。告示をおわると軍をまとめてひきあげた。全頭領がふたたび安山鎮までもどってきたとき、白日鼠《はくじつそ》の白勝が駆けつけてきて、東昌府の戦況を知らせた。宋江はそれを聞くと、眉を逆立て眼を怒らせて大声で叫んだ。
「みんな、山へは帰るまい。わたしについてきてもらいたい」
まさに、重ねて水泊の英雄の将を駆り、ふたたび東昌《とうしよう》の錦〓《きんしゆう》の城を奪うというところ。はてさて、宋江はふたたび軍勢をひきつれていずれの地へ行こうとするのか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 廓 原文は院子。院子はここでは行院(注五参照)の意。
二 遊廓 原文は瓦子。南宋のとき軍士のために設けられた遊女屋で、貸座敷のようなもの。第二十回注六参照。
三 翠禽 普通は翡翠《かわせみ》あるいは瑠璃鳥《るりちよう》をいう場合が多いが、ここでは鶯《うぐいす》。
四 羅浮 広東省増城県の東、博羅県との界にある山の名で、晋の葛洪が仙術を修めたところという。梅の名所。
五 女郎屋 原文は行院。第五十一回注二参照。
六 者 ここでは「一半児支吾、一半児者」(半分はうそ、半分はまこと)という場合の「者」である。
七 孤魂紙 無縁の亡霊を供養するために焼く紙で、紙銭(第二回注八)の一種。
八 儒仏道の教えから諸子百家の説にいたるまで 原文は三教九流。三教は儒教・仏教・道教。九流は儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家。すなわち三教九流とは諸種の宗派・学派の意。
九 大廈のまさに傾かんとする…… 原文は大廈将傾非一木可支。隋の王通(号は文中子)の『中説』(「文中子」)の東君篇に、大廈将〓非一木所支也とある。大廈は大きな家。国家が滅亡しようとするときにはひとりの力ではどうすることもできないというたとえ。
第七十回
没羽箭《ぼつうせん》 石を飛ばして英雄を打ち
宋公明《そうこうめい》 糧《かて》を棄《す》てて壮士を擒《とりこ》にす
さて宋江が東平府を討ち破ったのち、軍を収めて安山鎮までもどり、いよいよ山寨へひきあげて行こうとしたとき、白勝《はくしよう》がやってきてこう知らせたのであった。
「盧俊義どのは東昌府を攻めて、二度つづけて敗北を喫しました。城内にはひとりの猛将がいて、姓は張《ちよう》、名は清《せい》といい、彰徳府《しようとくふ》のもので、虎騎隊の出身です。よく石つぶてを飛ばし、百発百中という腕前なので、没羽箭《ぼつうせん》(羽なし矢)とあだ名されております。その配下にはふたりの副将がおりまして、ひとりは花項虎《かこうこ》の〓旺《きようおう》といい、全身に虎の斑紋の刺青《いれずみ》をし、首のところには虎の頭を彫っていて、馬上で投げ槍を使うのが得意です。もうひとりは中箭虎《ちゆうせんこ》(矢負いの虎)の丁得孫《ていとくそん》といい、顔から首までいちめんにあばたがあり、馬上で飛叉(投げ叉《さすまた》)を使うのが得意です。盧員外どのは兵をひきつれて対陣したまま、ずっと十日間たたかいをいどまずにおられましたが、先日、張清が城外へ討ち出てきましたので、〓思文《かくしぶん》が馬をすすめて迎え討ちましたところ、五六合もわたりあわずに張清が逃げ出しましたので、〓思文が追いかけて行きましたところ、額につぶてをくらわされて落馬してしまいました。ちょうど燕青の放った矢が張清の馬にあたりましたため、〓思文を救い出すことはできましたが、敗けいくさになってしまいました。その翌日、混世魔王の樊瑞《はんずい》が項充《こうじゆう》と李袞《りこん》をひきつれ、楯を舞わして出て行きましたところ、不意に横あいから丁得孫に標叉(飛叉に同じ)を飛ばされ、それがちょうど項充にあたって、そのためまた敗けいくさになってしまいました。ふたりはいま船のなかで養生をしております。そういうわけで軍師どのは特にわたくしをよこされて、早く救援にきてくださるよう兄貴におねがいしてこいとのことでございました」
宋江はそれを聞くと嘆息して、
「盧俊義はまったく運がない。わざわざ呉学究と公孫勝に助けさせて、なんとかして彼にあっぱれな手柄を立てさせ、山寨でも面目をほどこさせてやろうと思ったのに、そんな敵に出くわそうとは。だが、そうなった以上は、われわれ一同、兵をひきつれて救援に行こう」
と、ただちに命令をくだして全軍を出発させた。諸将は馬に乗り、宋江に従って一路東昌の境へとすすんだ。盧俊義らは出迎えて、くわしくこれまでのことを述べ、ひとまずそこに陣をかまえた。
かくて協議していると、兵士がやってきて、没羽箭の張清がたたかいをいどんできたと知らせた。宋江は一同をひきいて立ち、広くひらけた地形に拠って陣をしいた。大小の頭領たちはみな馬に乗って門旗の下に従った。宋江が馬上で敵陣を眺めると、陣は一文字に並び、旗は五色にわかれている。三通の戦鼓(注一)が鳴りやむと、没羽箭の張清が馬を乗りすすめてきた。そのいでたちいかにといえば、水調歌《すいちようか》(曲の名)のうたに張清の英勇をたたえたものがあっていう。
頭巾は掩映《えんえい》す(覆いかくす)茜紅《せんこう》の纓《えい》(あかね色のふさ)。狼腰猿臂《ろうようえんぴ》、体は彪形《ひようけい》。錦衣〓襖、袍中微《かす》かに露《あら》わして深青を透《すか》す。雕鞍《ちようあん》に側《そばだ》ち坐し、青〓玉勒《せいそうぎよくろく》(黒いたてがみに玉のおもがい)の馬軽《かろ》やかに迎う。葵化《きか》の宝鐙《ほうとう》(あぶみ)響を振う熟銅の鈴。倒《さか》しまに雉尾《ちび》(きじの尾の飾り)を〓《ひ》き、飛び来《きた》って四蹄軽し。金環《きんかん》揺り動き飄々として玉蟒《ぎよくもう》(槍)朱纓を撒《ち》らす。錦袋の石子(つぶて)、軽々と飛動して流星に似る。強弓硬弩を用いず、何ぞ弾を打ち鈴を飛ばすを須《もち》いん。但着《あた》る処命須《いのちすべから》く傾くべし。東昌の馬騎の将、没羽箭張清。
宋江は門旗の下から見て讃嘆の声を放った。張清は馬にまたがり戦塵を蹴立てて駆けまわる。と、門旗のほとり、左からは、かの花項虎《かこうこ》の〓旺《きようおう》が、右からは、かの中箭虎《ちゆうせんこ》の丁得孫《ていとくそん》が飛び出してきて、三騎は陣頭にすすんだ。張清は宋江を指さしてののしった。
「水たまりの盗っ人め、いざ勝負しよう」
「誰か張清とたたかうものは」
と宋江がいうと、かたわらからひとりの英雄が忿然として馬をおどらせ、手に鉤〓鎗《こうれんそう》を舞わしながら陣頭へ出て行った。宋江が見れば、金鎗手の徐寧であった。
「彼ならば恰好な相手だ」
と宋江はひそかによろこんだ。徐寧は馬を飛ばしてまっしぐらに張清におそいかかって行く。両馬交わり、両者槍をふるいあって、たたかうこと五合ばかり、張清はやにわに逃げ出した。徐寧が追って行くと、張清は左手で長槍をとりなおすと見せかけて、右手で錦の袋のなかから石つぶてをさぐり出し、身をねじむけるや、徐寧の顔にねらいを定めて、投げつけた。と、あわれ精悍なる英雄も、つぶてを眉間に受けてまっさかさまに落馬した。〓旺と丁得孫がすぐとりおさえにきたが、宋江の陣は数《かず》多く、すかさず呂方と郭盛の二騎が二本の戟《ほこ》をふるって救い自陣へつれ帰った。だが宋江らは大いにおどろき、みな色をうしなった。
「つづいてたたかう頭領は」
と宋江がいったとたん、うしろから一将が飛び出した。見ればそれは錦毛虎の燕順である。宋江はひきとめようとしたが、すでに飛び出して行ったあとであった。燕順は張清にうちむかい、わたりあうこと五六合、たちまちささえきれなくなり馬を返して逃げ出した。張清はそのあとを追い、つぶてを手に握り、燕順の背中をめがけて投げつければ、つぶては〓甲護鏡《とうこうごきよう》(護心鏡)にあたって錚然《そうぜん》と鳴り、燕順は鞍に身を伏せて逃げた。すると宋江の陣地からひとりのものが大声で、
「下郎め、なにほどのことがあろう」
と叫び、馬をせかせ槊《ほこ》をかまえて陣地を飛び出して行った。宋江が見れば、それは百勝将の韓滔《かんとう》で、ものもいわず、いきなり張清におそいかかって行った。両馬が相交わると、どっと喊声があがる。韓滔は宋江の面前で腕のほどを示さんものと、大いに奮いたってはげしく張清とたたかったが、十合もわたりあわぬうちに張清は逃げ出した。韓滔はつぶてを飛ばされると見て追わなかった。張清はふり返って、追いかけてこないのを見ると、くるりと馬首を転じた。韓滔は槊をかまえて迎え討とうとしたが、張清に、かくしていたつぶてをぱっと鼻の下のくぼみに投げつけられ、鮮血をほとばしらせながら自陣へ逃げ帰った。
彭〓《ほうき》はそれを見ると大いに怒り、宋公明の命令を待たずに、手に三尖両刃《さんせんりようじん》の刀を舞わしながら馬を飛ばしてまっしぐらに張清に突きかかって行った。ふたりがまだ馬を交えぬうちに、張清は手にかくしていたつぶてをぱっと投げつけ、彭〓の頬に命中させた。彭〓は三尖両刃の刀を放り出し、馬を飛ばして自陣へ逃げ帰った。
宋江は幾人もの将が打ち負かされたのを見て、おどろきおそれ、ひとまず兵をひき返そうとした。と、そのとき、盧俊義のうしろからひとりのものが大声で叫んだ。
「きょう挫《くじ》けてしまっては、あす、どうしてたたかえますか。つぶてがわたしにあたるものかどうか見ていてもらいましょう」
宋江が見れば、それは醜郡馬の宣賛であった。馬をせかせ刀を舞わしてまっしぐらに張清にむかって行く。と、張清がいった。
「ひとりで出てくればひとりで逃げ、ふたりで出てくればふたりで逃げるのだ。きさまはおれのつぶての手並みを知らぬのか」
「別人は知らず、このおれはそうはさせんぞ」
宣賛のその言葉がまだおわらぬうちに、張清が手をふりかざすと、つぶては宣賛の口のあたりに命中し、宣賛はもんどりうって落馬した。〓旺と丁得孫がすぐとりおさえに出たが、宋江の陣の多勢《たぜい》にはかなわず、諸将が自陣に救いあげて帰った。宋江はそれを見ると怒気天をつかんばかりにいきどおり、手に剣をひき抜き、上着を割《さ》いて誓いをたてた。
「あの男を捕らえるまでは、誓って軍をひきません」
呼延灼は宋江が誓いをたてるのを見ると、
「兄貴のそのお言葉、われわれをふがいなしといわれるのか」
といい、〓雪烏騅《てきせつうすい》を飛ばしてまっしぐらに陣頭へ出、大いに張清をののしった。
「たかが子供だましの小手先の芸ではないか。この大将呼延灼を知らぬか」
「国を辱しめた負け大将め、きさまもわが猛手をくらいたいのか」
張清はそういうなり、つぶてを飛ばした。呼延灼はつぶての飛んでくるのを見て、急いで鞭で受けとめようとしたが、そのときはもう腕に一発くらって鋼鞭を使うすべもなく、自軍に逃げ帰った。宋江はいった。
「騎兵の頭領はみな手傷を負わされた。歩兵の頭領で誰かあの張清をとりおさえるものはおらぬか」
すると配下の劉唐が、朴刀をかまえて陣地から飛び出して行った。張清はそれを見ると大いに笑って、ののしった。
「おのれ、負け大将め、騎兵のやつでも負けたというのに、歩卒なんぞになにができるか」
劉唐は大いに怒り、いきなり張清に突きかかって行った。張清はたたかわずに馬を走らせて自陣へもどって行く。劉唐はそれを追いかけ、人馬相むかいあうや、劉唐はすばやく朴刀をふるって張清の馬に斬りつけた。馬は後脚で棒立ちになった。そのとき劉唐は顔を馬の尻尾ではらわれて眼がくらんだ。そこをすかさず張清につぶてを投げつけられて地に倒れ、あわてて起きあがろうとすると、陣地から兵が飛び出してきて、手とり足とり陣地のなかへひきずりこんで行かれた。宋江は大声で、
「誰か劉唐を救いに行け」
と叫んだ。と、青面獣の楊志が、馬をせかせ刀を舞わしながらぱっと張清におそいかかって行った。張清は槍をとって応戦するふりをし、楊志が斬りつけてくるところを、鐙《あぶみ》の側に身をかがめて楊志に空《くう》を斬りつけさせ、つぶてを握って、
「えいっ」
と一喝。つぶてが楊志の脇腹をかすめて飛ぶと、張清はつづけてまた一発。つぶてはがちんとかぶとに命中した。楊志はおどろいて胆をひやし、鞍に身をふせて自陣へ帰った。宋江はそれを見てすっかり考えこみ、
「もしこんどもまた負けるようなことでは、梁山泊に帰ることもできぬ。誰かこの無念を晴らしてくれるものはいないか」
朱仝はそれを聞くと、雷横に目くばせをして、
「ひとりでやらずに、われらふたりで挟み討ちにしよう」
といい、朱仝は左から、雷横は右から、二本の朴刀で陣頭へ斬りこんで行った。張清は笑って、
「ひとりではかなわぬので、もうひとりふやしてきたか。たとえ十人でこようとも、なにほどのことがあろう」
と、いささかも臆することなく、馬上でひそかにふたつのつぶてを手に握った。雷横がさきにかかって行くと、張清は手をふりかぶったが、そのさまは招宝七郎《しようほうしちろう》(注二)のよう、つぶてが飛んでくればまともにかわせたものではない。雷横が急いで顔をあげて見たとたんに、つぶては額に命中して、ばったりと倒されてしまった。朱仝が急いで助けに行ったが、これも首筋につぶてをくらわされてしまった。関勝は陣地から、ふたりがやられたのを見ると、渾身の勇をふるい、青竜刀をふりまわし赤兎馬《せきとば》を飛ばしつつ、朱仝と雷横を救いに行き、ようやくふたりを奪い返して自陣へと逃げ出すと、張清はまたつぶてを飛ばした。関勝がとっさに刀でさえぎると、ちょうどつぶては刀身にあたって火花をちらした。関勝は戦意をくじかれ馬首を転じて帰った。双鎗将の董平はそれを見て、心中ひそかに思うよう、
「自分はこんど宋江どのに降った新参もの、ここで武芸のほどを見せておかないことには、山へ行っても羽振《はぶ》りがきくまい」
と、手に二本の槍をひっさげ、馬を飛ばして駆け出して行った。張清はそれを見ると、大いに董平をののしった。
「きさまとは隣合わせの州で、いわば歯と唇のあいだがら。ともに力を合わせて賊を滅ぼすのが当然なのに、なにがゆえに朝廷に背こうというのだ。それで恥ずかしいとは思わぬのか」
董平は大いに怒り、まっしぐらに張清に突きかかって行った。両馬相交わり、両者得物をふるい、二本の槍が陣上に交叉し、四本の腕が空中に乱れあった。かくてわたりあうことおよそ六七合、張清は馬首を転じて逃げ出した。董平は叫んだ。
「別人は知らず、おれにはきさまのつぶてなどあたらんぞ」
張清は槍をひかえ、錦の袋からつぶてをひとつさぐり出して、さっと手をふりかぶると、さながら流星か稲妻のようにつぶては飛んで、そのすさまじさは鬼も泣き神もおどろくばかり。だが董平は眼ざとくぱっとつぶてをはらいのけた。張清はあたらなかったと見るや、さらに第二のつぶてを取ってまた投げつけた。董平はそれもかわした。ふたつのつぶてがあたらなかったので、張清は早くも狼狽しだした。両者の馬はすれすれになって走る。張清が陣門の近くまで逃げて行ったとき、董平はその背中めがけて槍をつき出した。張清はさっと鐙の側に身をかわし、董平は空を突いた。槍が空を突いて董平の馬が張清の馬と並んだとき、張清は自分の槍を捨て、両手で董平の体を槍ごとつかまえて、ぐいとひっぱった。だがひき倒せず、ふたりはひとかたまりにからみあった。
宋江の陣地から、それを見た索超《さくちよう》が、大斧を舞わしながら救いに出て行った。すると敵陣からも〓旺《きようおう》と丁得孫《ていとくそん》の二騎がいっせいに飛び出し、索超をさえぎってたたかいあった。張清と董平はもつれあったままはなれない。索超・〓旺・丁得孫の三頭の馬も一団となってもつれあう。そこへ林冲・花栄・呂方・郭盛の四将がそろって飛び出し、二本の槍と二本の戟をふるって董平と索超を救おうとした。張清は形勢わるしと見るや、董平をはなし、馬を走らせて自陣へもどった。董平はあきらめず、まっしぐらに突きすすんで行ったが、つぶてに対する用心を忘れていた。張清は董平が追ってくるのを見ると、ひそかにつぶてを手にかくし、彼の馬が近づくのを見はからって、
「えいっ」
と一喝。董平はとっさに身をかわし、つぶては耳もとをかすって飛んで行った。董平はただちにひき返した。
索超も、〓旺と丁得孫をふり捨てて、敵陣へ突っこんで行った。すると張清は槍をひかえ、そっとつぶてを取り、索超をめがけて投げつけた。索超は急いで身をかわしたがまにあわず、顔に打ちあてられて、鮮血をほとばしらせながら斧をひっさげて自陣へひき返した。
ところで、林冲と花栄は一方で〓旺をくいとめ、呂方と郭盛は他方で丁得孫をさえぎっていた。〓旺はあわてだして、飛鎗(投げ槍)を投げつけたが、それは林冲にも花栄にもあたらなかった。〓旺はかくて武器をなくしてしまい、林冲と花栄にいけどりにされて陣地へつれて行かれた。一方の丁得孫は、飛叉を舞わしながら必死に呂方および郭盛とたたかっていたが、はからずも陣門のところがらそれを見ていた浪子の燕青が、ひそかに、
「味方はやつらのために、わずかのまに十五人の大将がつづけざまにやられてしまったが、あの偏将《へんしよう》(副将)のひとりぐらいはとりおさえなくては両目が立つまい」
と考え、棍棒を置いて、身につけていた弩弓を取り、矢をつがえて射放ったところ、矢はうなりを生じて丁得孫の馬の蹄に命中し、馬はどっと倒れた。そこを、呂方と郭盛がとりおさえて陣地へつれてきた。張清は助けに行こうとしたが、多勢に無勢なので、ただ劉唐を捕らえただけで、ひとまず東昌府へひきあげて行った。
太守は城壁の上から、張清がつごう十五人の梁山泊の大将を打ち負かし、〓旺と丁得孫を失いはしたものの、劉唐を捕らえたのを見て、州の役所へもどるなりまず首枷をはめて劉唐を獄へくだしたのち、改めて協議をした。
さて宋江は、兵を収めて本陣に帰ると、まず〓旺と丁得孫を梁山泊へ送った。それから盧俊義と呉用にむかっていうには、
「五代《ごだい》のとき、大梁《たいりよう》の王彦章《おうげんしよう》は、またたくまに、つぎつぎと唐の将三十六人をやっつけたと聞いている。きょうの張清も、あっというまに味方の十五人の大将をつぎつぎに打ち負かした。王彦章にはおよばぬとしても、やはりなかなかの猛将だ」
一同が黙っていると、宋江はさらにいった。
「わたしの見るところでは、彼は〓旺と丁得孫をその羽翼とたのんでいる。いまその手足たり羽翼たるものが捕らえられてしまったのだから、なにか良策をもって彼を捕らえることはできぬものだろうか」
すると呉用がいった。
「兄貴、ご安心ください。わたしは彼の出かたを見て、すでに計略を立てておりますが、それはそれとして、まず負傷した頭領たちを山寨へ送り帰すことです。そして、魯智深・武松・孫立・黄信・李立らに全水軍を従えさせ、車と船とをそろえて水陸の両路を並進し、船騎相迎えつつ出動させて、うまく張清をおびき出せば、大事をとげることができましょう」
呉用はその割りあてをきめた。
一方、張清は、城内で太守と協議して、
「打ち勝ちはしましたものの、賊の根はまだ刈りとられておりませんから、ひそかに人をやって情勢をさぐらせ、そのうえで策を立てることにいたしましては」
といった。と、そこへ、偵察のものが帰ってきて報告した。
「陣地の後方の西北のほうに、どこからきたのか、たくさんの糧秣を積んだ百輌あまりの車が見えますし、河にも糧秣船が大小五百艘あまり浮かんで、水陸の両路から船と馬とでいっしょにすすんできます。沿道には何人かの頭領がその監督にあたっております」
「賊どもの計略かもしれぬぞ。やつらの毒手にのせられてはなるまい。もういちど人をやって、ほんとうの糧秣なのかどうかさぐらせてみよう」
と太守はいった。翌日、兵士が帰ってきて報告した。
「車は全部食糧で、米がばらばらこぼれております。河のなかの船のは、おおいがしてありますが、どれも米の袋がのぞけて見えます」
張清はいった。
「今夜城を出て行ってまず岸の車をとりおさえ、それから河のなかの船を奪うことにしましょう。太守どのが加勢してくださるならば、一挙にとりおさえられます」
「それはよい考えだ。ただくれぐれも手ぬかりのないように」
と太守はいい、兵士たちに十分腹ごしらえをさせたうえ、全員によろいをつけさせ、錦の袋(背負い袋)をつけさせた。張清は長い槍を持ち、一千の兵をひきつれてひそかに城を出た。
その夜は、月はおぼろで満天の星月夜だった。十里と行かぬうちに一群の車が見え、旗には明らかに、
水滸寨忠義糧
としるされていた。張清が見れば、魯智深が禅杖を肩にかつぎ、墨染めの衣《ころも》のすそをからげて先頭をやってくる。張清は思った。
「あの糞坊主の脳天に、つぶてを一発くらわしてやろう」
魯智深は禅杖をかつぎながら、そのときすでに張清を見ていたが、気づかぬふりをしてひたすら大股に歩きつづけ、つぶてに対する用心をすっかり忘れていた。そうして歩いて行くところを、張清は馬の上から、
「えいっ」
と一喝。つぶては飛んで魯智深の頭に命中し、魯智深は鮮血をほとばしらせながら、あおむけに倒れた。張清の軍はどっと喊声をあげて、いっせいにおそいかかる。武松はあわてて二本の戒刀をふりまわしつつ、必死にたたかって魯智深を救い出し、糧秣の車をうちすてて逃げた。張清が車を奪ってみると、はたして米だったので、すっかりよろこんで、魯智深を追うのをやめ、ひとまず糧秣の車を城内へ押送した。太守はそれを見て大いによろこび、みずからそれをとり収めた。張清が、
「こんどは河のなかの米の船を奪ってきます」
というと、太守は、
「将軍、うまくやってください」
といった。張清は馬に乗って、南門へまわって行った。河の入江の糧秣船を見ると、おびただしい数である。張清はさっそく城門をあけさせ、どっと喊声をあげて河岸へ殺到して行った。するとあたり一面に陰雲がたれこめ、黒霧が天をおおった。歩騎の兵たちは互いにふりかえって見たが、むかいあっていても顔が見えない。すなわち、公孫勝が道術を使ったのであった。張清はこのありさまを見て、心はうろたえ眼はくらみ、ともかくひき返そうとしたが、どこにも道がない。と四方からわっと喊声が湧きおこった。どこからか軍勢があらわれてきたのである。
林冲は鉄騎の軍勢をひきつれて、張清を人馬もろとも水中へ追いおとした。河のなかには李俊・張横・張順・阮氏三兄弟・童氏二兄弟の八人の水軍の頭領が、一文字に並んでいた。たとえ張清が三頭六臂のものであろうとも、もがいて逃げ出せるわけはなく、阮氏三雄につかまえられてぐるぐる巻きに縛りあげられ、陣中へ送られて行った。水軍の頭領はこのことを宋江に急報した。呉用はすぐ、大小の頭領たちをうながして、夜どおしで城を攻めた。太守ひとりだけではもとより支えきれるはずはない。城外の四方から砲声が聞こえ、城門があけられてしまうと、太守はおどろいて逃げることもできないありさま。宋江の軍は城内へ殺到すると、まず劉唐を救い出し、ついで倉庫をあけて金銭食糧を奪い、その一部は梁山泊へ送り、一部は住民にわけあたえた。太守は日ごろ清廉な人だったので、殺さずにゆるした。
宋江らはみな州役所で顔をそろえた。そこへ水軍の頭領たちが、張清をひきたててきた。何人もの兄弟が彼のためにいためつけられたので、くやしがってみな張清を殺そうとしたが、宋江は彼がひきたてられてくるのを見ると、みずから階段をおりて迎え、
「ご無礼をはたらきましたが、どうかおゆるしくださいますよう」
と詫びをいって、広間に迎えいれようとした。すると、その言葉のまだおわらぬうちに、階段の下から、手巾で頭を包んだ魯智深が禅杖をつかんで飛び出してきて、張清を打とうとした。宋江はさえぎって、
「手をくだすことは相ならん」
と再三おしとめた。張清は宋江のそのような義気に深く感じいり、叩頭し平伏して投降を申し出た。宋江は酒を地にそそぎ、矢を折って誓いをたてた。
「兄弟一同が、もしあくまでも仕返しをしょうというならば、上天の祐《たす》けを失って刀剣のもとに相果てましょう」
一同はそれを聞くと誰もそれ以上いい張るものはなかった。やはりそれは天〓星《てんこうせい》がつどいあうめぐりあわせがきていたからであろう、おのずと意気投合したのであった。宋江は誓いをたておわると、
「みんな、そうしんみりすることはなかろう」
といった。一同は大笑いをして互いによろこびあい、兵をまとめて山へ帰ることになった。そのとき張清は宋公明に、東昌府に住む獣医で、姓は二字姓で皇甫《こうほ》といい、名は端《たん》というものを推薦して、
「その男は馬を見る目が高く、家畜の病気をよくわきまえていて薬や鍼《はり》でなおせないものはなく、真に伯楽《はくらく》(注三)の才がございます。幽州の生まれで、眼が碧く髯《ひげ》が赤く、容貌が番人(異国人)に似ておりますので、人から紫髯伯《しぜんはく》とあだ名されております。梁山泊でもきっと役に立ちますから、この男を妻子ともども山へつれて行ったらよいでしょう」
宋江はそれを聞いて大いによろこび、
「皇甫端《こうほたん》が仲間にはいってくれるなら、ねがったりかなったりです」
といった。張清は宋江がひどく乗り気なのを見ると、すぐ出かけて行って獣医の皇甫端を呼んでき、宋江および頭領たち一同に挨拶をさせた。ここに皇甫端の医術をうたった七言古体の詩がある。
伝家の藝術(技術)人の敵する無く
安驥《あんき》(馬を医する)年来神力有り
廻生起死妙《みよう》言い難く
拯憊扶危《しようはいふきゆう》(疲れをすくい危うきをたすける)更に益多し
鄂公《がくこう》(注四)の烏騅《うすい》(黒馬)は人尽《ことごと》く誇り
郭公《かくこう》(注五)の〓〓《りよくじ》(駿馬)は渥〓《あくあ》(注六)より来《きた》る
吐蕃《とばん》(西蔵《ちべつと》)の棗〓《そうりゆう》(黒栗毛、白尾の馬)は神駁《しんぱく》と号し
北地又羨む拳毛〓《けんもうか》(縮れた青鹿毛の馬)
騰驤〓《とうじようらいひ》(駿足の馬、大きな馬)皆見るを経《え》
銜〓《かんけつ》(くつわ)背鞍《はいあん》亦多変なり
天間十二(天下十二州)に旧《もと》名を馳《は》す
手到り病除《のぞ》く応験し難し
古人已往《いおう》名刊《かん》せず
只《ただ》今又見る皇甫端
四百零八病を治するを解し
双瞳《そうどう》炯々《けいけい》として珠《たま》盤を走る
天の忠良を集む真に意有り
張清鶚薦《がくせん》(推薦)す誠に良計
宋江は皇甫端の非凡なる風貌、碧い眼と二重の瞳《ひとみ》、腹よりも下に達する〓髯《みずちひげ》を見て、しきりに讃嘆した。皇甫端は宋江がすこぶる義気にとむことを知って心中大いによろこび、仲間に加わりたいと申し出た。宋江は大いによろこび、ねんごろに言葉をかけたのち、命令をくだし、頭領たちは車輌・糧食・金銀をとりまとめていっせいに出発し、二府(東平と東昌)の銭糧を山寨へ運ぶこととなった。順を追って諸将はみなその途につき、道中は格別の話もなく、やがて梁山泊の忠義堂に帰り着いた。宋江は〓旺と丁得孫のいましめを解かせて、ねんごろに慰撫した。ふたりは叩頭して投降を申し出た。かくして皇甫端も山寨に加わって、もっぱら獣医のことをつかさどり、董平と張清も山寨の頭領になった。宋江はしきりによろこび、急いで祝宴の用意をいいつけ、一同は忠義堂にそれぞれの序列にしたがって席についた。宋江が頭領たち一同を眺めわたして見るに、ちょうど百八人であった。宋江はいった。
「われわれ兄弟が山にのぼって相集まって以来、どこへ行っても一度もあやまちがなかったのは、みな上天の加護によるもので、決して人の力の能くするところではない。こうしてわたしが主《あるじ》の位に坐っているのも、みな兄弟たちの英勇のたまものである。ひとつには義に集まるべき時はきたし、またひとつにはわたしから申したいことがあるので、一同聞いてもらいたい」
呉用が、
「そのお指図をうかがわせていただきましょう」
というと、宋江は頭領たちに対して、おもむろにその期するところを説いた。そのことからやがて、三十六の天〓星が下界に臨《のぞ》み、七十二の地〓《ちさつ》星が中原《ちゆうげん》を鬧《さわ》がすという次第とはなるのである。いったい宋公明はいかなる主旨を説き出したのであろうか。それは次回で。
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一 三通の戦鼓 原文は三通鼓。一通は三百三十三打。ただしここでは鳴りつづける戦鼓の意であろう。
二 招宝七郎 わが国の招き猫のように、商家が福の神として飾る「招財童子」のたぐい。
三 伯楽 もともと天馬をつかさどる星の名であるが、昔、孫陽という人がよく馬を見たので人々が彼を伯楽と呼んだという。転じて広く馬のことに明らかな人をいう。
四 鄂公 南宋の武将岳飛のこと。金の入寇にさいしてしばしばこれを破って功を立てたが、和睦を主張する秦檜におとしいれられて獄中で死んだ。後、鄂国王に封ぜられたので、鄂王あるいは鄂公という
五 郭公 唐の中書令郭子儀のこと。安祿山の乱を平らげて功があった。郭令公ともいう。
六 渥〓 甘粛省安西県を流れる党河の支流の名で、この地方には名馬を産したという。
第七十一回
忠義堂《ちゆうぎどう》に 石碣天文《せつけつてんぶん》を受け
梁山泊《りようざんぱく》に 英雄座次《ざじ》に排《なら》ぶ
さて宋公明は、はじめに東平を討ち、ついで東昌を討ってのち、山寨にひきあげて大小の頭領をかぞえてみると、あわせて百八人に達しているので、心中大いによろこび、一同にむかっていうには、
「わたしは、江州を騒がせて山にのぼってよりこのかた、いろいろと英勇なるみなさんの助けを得、頭《かしら》としておし立てられてきたが、こんにち、あわせて百八人の頭領が集まるに至ったことはまことによろこばしい次第です。晁蓋《ちようがい》兄貴が亡くなられてから、兵をひきいて山をくだるたびに、いつも事なきを得てきたのは、ひとえに上天の加護によるものであって、人の力ではない。捕らえられたもの、牢につながれたもの、あるいは傷を負うたものもいたが、帰ってきてみな事なきを得、いまここに百八人が集まったということは、まことに古今まれに見ることといわねばならぬ。これまでのいくさで、多くの人々を殺してきたが、まだその供養もしていないので、わたしは、羅天大〓《らてんたいしよう》(星祭り)をいとなんで、天地神明の加護のご恩におこたえし、一つには兄弟一同の身心の安楽を祈り、二つには朝廷よりはやく恩赦がくだって大罪がゆるされ、みなが身を捨て力をつくして、尽忠報国、死してのちやまんことをねがい、三つには晁天王がはやく天界に再生されて、幾世までも久しくおみちびきを得るように祈るとともに、横死したもの、惨死したもの、火に焼かれたもの、水に溺れたもの、すべて罪なくしていのちを失った人たちの霊を安んぜしめたいと思うのです。これがわたしのやりたいことなのだが、みなさんはどう思われる」
「それは立派な供養です。異存はございません」
と頭領たちはみな賛成した。呉用は、
「ではまず公孫勝一清に祭りの主宰をたのんでから、使いのものを下山させてほうぼうで得道《とくどう》の高士《こうし》をさがし、祭具を持って山寨にきてもらうことにし、また別に使いを出して、香や〓燭や紙馬(注一)、花や果物などの供えもの、精進もの、そのほか必要なものをいっさい買いととのえにやりましょう」
かくて話がきまって、四月十五日から七日七夜の供養をいとなむことになり、山寨では大いに銭財をつかって準備を急いだ。その日が近づくと忠義堂の前には長旛《ちようはん》を四流立て、堂上には三層の高い台を組み、堂内には七宝づくりの三清《さんせい》(注二)の聖像を安置し、その両側には二十八宿(注三)・十二宮辰(注四)、祭るべきいっさいの星宮・真宰《しんさい》(造物主)を祀り、堂外には祭壇を守る崔《さい》・盧《ろ》・〓《とう》・竇《とう》の神将を立てつらねた。かくて用意がととのうと、祭器をならべ、公孫勝をふくめて計四十九人の道士たちを招いた。その日はよく晴れわたって、空も大気もほがらかに澄み、月は白く吹く風も清らかであった。宋江と盧俊義とがはじめに、ついで呉用以下頭領たちが順を追って香をささげた。公孫勝は大導師となって祭りをとりおこない、願文やお符《ふだ》などのいっさいをつかさどったが、その仔細ははぶいて、その日の祭場のありさまはというと、
香は騰《のぼ》って瑞靄《ずいあい》、花は簇《むらが》って錦屏《きんぺい》、一千条の画燭《がしよく》は光を流し、数百盞《さん》の銀灯は彩《いろどり》を散らす。対々《ついつい》と高く羽蓋《うがい》を張り、重々と密に幢幡《どうはん》を布く。風は清く三界《さんがい》に歩虚《ほきよ》(神仙の歩み)の声、月は冷たく九天に擺〓《はいかい》垂る(注五)。金鐘撞《つ》く処、高功《こうこう》(大導師)表進して虚皇《きよこう》(天帝)に奏し、玉珮《ぎよくはい》鳴る時、都講(導師)登壇して玉帝(天帝)に朝す。絳〓《こうしよう》(赤き文絹《あやぎぬ》)の衣は星辰燦爛《さんらん》たり、芙蓉《ふよう》の冠は金碧交加《こうか》す。監壇《かんだん》(祭壇守護)の神将は〓獰《そうどう》にして、直日《ちよくじつ》の功曹《こうそう》(当直の番神)は勇猛なり。道士は斉《ひと》しく宝懺《ほうさん》(願文)を宣し、瑤台《ようだい》に上って水を酌み花を献ず。真人は密に霊章《れいしよう》(呪文)を誦《ず》し、法剣を按じて〓《こう》を踏み斗《と》を布く(道士の歩法をいう)。青竜隠々として黄道(日の軌道)より来《きた》り、白鶴翩々として紫宸《ししん》(天宮)より下《くだ》る。
その日から、公孫勝と、かの四十八人の道士たちは、毎日三回ずつ忠義堂で祭りをおこなった。七日目に満願になるのである。宋江は上天からの応報を得ようとして、特に公孫勝にたのんでひたすら青詞《せいし》(注六)をあげて天帝に奏聞し、毎日三度ずつそれをつづけさせた。ちょうど七日目の三更ごろ、公孫勝は虚皇壇の最上段に坐し、道士たちは第二段に、宋江以下頭領たちは第三段に、小頭目および下士たちは壇の下に、みな一心に上天にねがい、ぜひとも応報のくだるようにと祈っていた。と、その夜の三更ごろ、とつぜん天上に絹をひき裂くようなひびきが聞こえた。ちょうど、西北、乾《いぬい》の方角の天門《てんもん》(天上に通ずる門)のあたりであった。一同が見れば、それは両端が尖って中央が開いた、直立した金の盤のようで、天門開(天門ひらく)とか天眼開(天眼ひらく)とか呼ばれるものであった。その奥から射し出す光が目に眩く、五彩の霞がたちこめて、そのなかから籠のような形の一塊の火の玉がころがり出し、くるくると虚皇壇のところまで飛んできた。その火の玉は壇のほとりをひとめぐりすると、真南の地下へもぐりこんでいった。そのとき天眼はすでに閉じられていた。道士たちは壇をおりた。宋江はすぐ部下のものに鋤鍬で土を掘って火の玉をさがさせた。そこの地面を三尺ほど掘りさげると、一枚の石碣《せつけつ》(碑《いしぶみ》)が出てきた。その両面には、それぞれ天書の文字がしるされていた。詩にいう。
忠義の英雄〓《はるか》に台を結ぶ
上帝に感通す亦奇なる哉
人間《じんかん》の善悪皆報いを招く
天眼何《いず》れの時か大いに開かざらん
そのとき宋江は紙銭を焼いて祭りをおわらせ、明けがた、道士たちにお斎《とき》をとらせ、それぞれに金や帛《きぬ》を贈ってお布施とした。さて石碣を取ってこさせて見ると、その表は竜章鳳篆《りようしようほうてん》の蝌蚪《かと》の文字(古代文字)で、誰もわかるものはなかった。ところが道士たちのなかに、姓は何《か》、法名を玄通《げんとう》というものがいて、宋江にむかっていった。
「わたくしの家には先祖から伝えられた一冊の文書がございまして、もっぱら天書が解説してございます。その碑面は太古からの蝌蚪文字ばかりですが、わたくしは解読することができますので、訳してみれば、はっきりしたことがわかりましょう」
宋江は大いによろこび、急いで石碣をささげ出して何道士に見せたところ、しばらくして何道士はいった。
「この碑の表にはずっとあなたがたのお名前が彫ってあります。片側には、
替天行道
の四字、もう一方の側には、
忠義双全
の四字があって、上段はみな南北二斗の星の名、その下があなたがたの号になっております。おさしつかえなければ、はじめからひとつひとつ読んでさしあげましょう」
「幸いにもあなたのお教えを得ましたことは浅からぬご縁と申すもの。お読みくださいますならば、まことにありがたいしあわせです。ただ上天のおとがめのお言葉かとも思いますので、どうかおかくしなく、ありのままに一言ももらさずおっしゃってくださいますよう」
と、宋江は聖手書生の蕭譲《しようじよう》を呼び、黄色い紙(黄は高貴の色)にうつしとらせた。何道士は、
「表には天書三十六行があって、いずれもこれは天〓星《てんこうせい》です。裏にも天書七十二行があって、これはみな地〓星《ちさつせい》です。その下にはあなたがたのお名前がつけたしてございます」
といい、ややしばらく見つめていたが、やがて蕭譲にはじめからおわりまでずっと書きとらせた。
石碣の表に書いてあった梁山泊の天〓星三十六人は、
天魁星《てんかいせい》 呼保義《こほうぎ》  宋江《そうこう》
天〓星《てんこうせい》 玉麒麟《ぎよくぎりん》  盧俊義《ろしゆんぎ》
天機星《てんきせい》 智多星《ちたせい》  呉用《ごよう》
天間星《てんかんせい》 入雲竜《にゆううんりゆう》  公孫勝《こうそんしよう》
天勇星《てんゆうせい》 大刀《だいとう》  関勝《かんしよう》
天雄星《てんゆうせい》 豹子頭《ひようしとう》  林冲《りんちゆう》
天猛星《てんもうせい》 霹靂火《へきれきか》  秦明《しんめい》
天威星《てんいせい》 双鞭《そうべん》  呼延灼《こえんしやく》
天英星《てんえいせい》 小李広《しようりこう》  花栄《かえい》
天貴星《てんきせい》 小旋風《しようせんぷう》  柴進《さいしん》
天富星《てんふうせい》 撲天〓《はくてんちよう》  李応《りおう》
天満星《てんまんせい》 美髯公《びぜんこう》  朱仝《しゆどう》
天孤星《てんこせい》 花和尚《かおしよう》  魯智深《ろちしん》
天傷星《てんしようせい》 行者《ぎようじや》  武松《ぶしよう》
天立星《てんりつせい》 双鎗将《そうそうしよう》  董平《とうへい》
天捷星《てんしようせい》 没羽箭《ぼつうせん》  張清《ちようせい》
天暗星《てんあんせい》 青面獣《せいめんじゆう》  楊志《ようし》
天祐星《てんゆうせい》 金鎗手《きんそうしゆ》  徐寧《じよねい》
天空星《てんくうせい》 急先鋒《きゆうせんぽう》  索超《さくちよう》
天速星《てんそくせい》 神行太保《しんこうたいほう》 戴宗《たいそう》
天異星《てんいせい》 赤髪鬼《せきはつき》  劉唐《りゆうとう》
天殺星《てんさつせい》 黒旋風《こくせんぷう》  李逵《りき》
天微星《てんびせい》 九紋竜《くもんりゆう》  史進《ししん》
天究星《てんきゆうせい》 没遮〓《ぼつしやらん》  穆弘《ぼくこう》
天退星《てんたいせい》 挿翅虎《そうしこ》  雷横《らいおう》
天寿星《てんじゆせい》 混江竜《こんこうりゆう》  李俊《りしゆん》
天剣星《てんけんせい》 立地太歳《りつちたいさい》 阮小二《げんしようじ》
天平星《てんぺいせい》 船火児《せんかじ》  張横《ちようおう》
天罪星《てんざいせい》 短命二郎《たんめいじろう》 阮小五《げんしようご》
天損星《てんそんせい》 浪裏白跳《ろうりはくちよう》 張順《ちようじゆん》
天敗星《てんはいせい》 活閻羅《かつえんら》  阮小七《げんしようしち》
天牢星《てんろうせい》 病関索《びようかんさく》  楊雄《ようゆう》
天慧星《てんけいせい》 命三郎《へんめいさんろう》 石秀《せきしゆう》
天暴星《てんぼうせい》 両頭蛇《りようとうだ》  解珍《かいちん》
天哭星《てんこくせい》 双尾蝎《そうびかつ》  解宝《かいほう》
天巧星《てんこうせい》 浪子《ろうし》  燕青《えんせい》
碑の裏に書いてあった地〓星《ちさつせい》七十二人は
地魁星《ちかいせい》 神機軍師《しんきぐんし》 朱武《しゆぶ》
地〓星《ちさつせい》 鎮三山《ちんさんざん》  黄信《こうしん》
地勇星《ちゆうせい》 病尉遅《びよううつち》  孫立《そんりつ》
地傑星《ちけつせい》 醜郡馬《しゆうぐんば》  宣賛《せんさん》
地雄星《ちゆうせい》 井木〓《せいぼくかん》  〓思文《かくしぶん》
地威星《ちいせい》 百勝将《ひやくしようしよう》 韓滔《かんとう》
地英星《ちえいせい》 天目将《てんもくしよう》  彭〓《ほうき》
地奇星《ちきせい》 聖水将《せいすいしよう》  単廷珪《ぜんていけい》
地猛星《ちもうせい》 神火将《しんかしよう》  魏定国《ぎていこく》
地文星《ちぶんせい》 聖手書生《せいしゆしよせい》 蕭譲《しようじよう》
地正星《ちせいせい》 鉄面孔目《てつめんこうもく》 裴宣《はいせん》
地闊星《ちかつせい》 摩雲金翅《まうんきんし》 欧鵬《おうほう》
地闘星《ちとうせい》 火眼〓猊《かがんしゆんげい》 〓飛《とうひ》
地強星《ちきようせい》 錦毛虎《きんもうこ》  燕順《えんじゆん》
地暗星《ちあんせい》 錦豹子《きんひようし》  楊林《ようりん》
地軸星《ちじくせい》 轟天雷《ごうてんらい》  凌振《りようしん》
地会星《ちかいせい》 神算子《しんさんし》  〓敬《しようけい》
地佐星《ちさせい》 小温侯《しようおんこう》  呂方《りよほう》
地祐星《ちゆうせい》 賽仁貴《さいじんき》  郭盛《かくせい》
地霊星《ちれいせい》 神医《しんい》  安道全《あんどうぜん》
地獣星《ちじゆうせい》 紫髯伯《しぜんはく》  皇甫端《こうほたん》
地微星《ちびせい》 矮脚虎《わいきやくこ》  王英《おうえい》
地急星《ちきゆうせい》 一丈青《いちじようせい》  扈三娘《こさんじよう》
地暴星《ちぼうせい》 喪門神《そうもんしん》  鮑旭《ほうきよく》
地然星《ちぜんせい》 混世魔王《こんせいまおう》 樊瑞《はんずい》
地好星《ちこうせい》 毛頭星《もうとうせい》  孔明《こうめい》
地狂星《ちきようせい》 独火星《どくかせい》  孔亮《こうりよう》
地飛星《ちひせい》 八臂那〓《はつぴなた》 項充《こうじゆう》
地走星《ちせいせい》 飛天大聖《ひてんたいせい》 李袞《りこん》
地巧星《ちこうせい》 玉臂匠《ぎよくひしよう》  金大堅《きんたいけん》
地明星《ちめいせい》 鉄笛仙《てつてきせん》  馬麟《ばりん》
地進星《ちしんせい》 出洞蛟《しゆつどうこう》  童威《どうい》
地退星《ちたいせい》 翻江蜃《はんこうしん》  童猛《どうもう》
地満星《ちまんせい》 玉旙竿《ぎよくはんかん》  孟康《もうこう》
地遂星《ちすいせい》 通臂猿《つうひえん》  侯健《こうけん》
地周星《ちしゆうせい》 跳澗虎《ちようかんこ》  陳達《ちんたつ》
地隠星《ちいんせい》 白花蛇《はつかだ》  楊春《ようしゆん》
地異星《ちいせい》 白面郎君《はくめんろうくん》 鄭天寿《ていてんじゆ》
地理星《ちりせい》 九尾亀《きゆうびき》  陶宗旺《とうそうおう》
地俊星《ちしゆんせい》 鉄扇子《てつせんし》  宋清《そうせい》
地楽星《ちがくせい》 鉄叫子《てつきようし》  楽和《がくわ》
地捷星《ちしようせい》 花項虎《かこうこ》  〓旺《きようおう》
地速星《ちそくせい》 中箭虎《ちゆうせんこ》  丁得孫《ていとくそん》
地鎮星《ちちんせい》 小遮〓《しようしやらん》  穆春《ぼくしゆん》
地稽星《ちけいせい》 操刀鬼《そうとうき》  曹正《そうせい》
地魔星《ちませい》 雲裏金剛《うんりこんごう》 宋万《そうまん》
地妖星《ちようせい》 摸着天《もちやくてん》  杜遷《とせん》
地幽星《ちゆうせい》 病大虫《びようたいちゆう》  薛永《せつえい》
地伏星《ちふくせい》 金眼彪《きんがんひよう》  施恩《しおん》
地僻星《ちへきせい》 打虎将《だこしよう》  李忠《りちゆう》
地空星《ちくうせい》 小霸王《しようはおう》  周通《しゆうとう》
地孤星《ちこせい》 金銭豹子《きんせんひようし》 湯隆《とうりゆう》
地全星《ちぜんせい》 鬼臉児《きれんじ》  杜興《とこう》
地短星《ちたんせい》 出林竜《しゆつりんりゆう》  鄒淵《すうえん》
地角星《ちかくせい》 独角竜《どくかくりゆう》  鄒潤《すうじゆん》
地囚星《ちしゆうせい》 旱地忽律《かんちこつりつ》 朱貴《しゆき》
地蔵星《ちぞうせい》 笑面虎《しようめんこ》  朱富《しゆふう》
地平星《ちへいせい》 鉄臂膊《てつぴはく》  蔡福《さいふく》
地損星《ちそんせい》 一枝花《いつしか》  蔡慶《さいけい》
地奴星《ちどせい》 催命判官《さいめいはんがん》 李立《りりつ》
地察星《ちさつせい》 青眼虎《せいがんこ》  李雲《りうん》
地悪星《ちあくせい》 没面目《ぼつめんもく》  焦挺《しようてい》
地醜星《ちしゆうせい》 石将軍《せきしようぐん》  石勇《せきゆう》
地数星《ちすうせい》 小尉遅《しよううつち》  孫新《そんしん》
地陰星《ちいんせい》 母大虫《ぼたいちゆう》  顧大嫂《こだいそう》
地刑星《ちけいせい》 菜園子《さいえんし》  張青《ちようせい》
地壮星《ちそうせい》 母夜叉《ぼやしや》  孫二娘《そんじじよう》
地劣星《ちれつせい》 活閃婆《かつせんば》  王定六《おうていろく》
地健星《ちけんせい》 険道神《けんどうしん》  郁保四《いくほうし》
地耗星《ちこうせい》 白日鼠《はくじつそ》  白勝《はくしよう》
地賊星《ちぞくせい》 鼓上《こじようそう》  時遷《じせん》
地狗星《ちくせい》 金毛犬《きんもうけん》  段景住《だんけいじゆう》
そのとき何道士《かどうし》は天書を解読して蕭譲に書きとらせたが、やがて読みおわると、一同それを見てしきりにいぶかしがった。宋江は頭領たちにいうよう、
「下賤な小役人のわたしが上天の星の魁《かしら》であり、兄弟たち一同もみなすべて一座の人たちであったとは。上天は一同が義に集まるべきことをお示しになった。いまや全員が残らず集まり、上天はその位を大小のふたつにわけ、天〓地〓《てんこうちさつ》の星がみなこうして順位を定められたのであるから、頭領たちはみなそれぞれの位を守り、相争うことなく、天言にそむくことのないようにしていただきたい」
「天地の意によって物理《ぶつり》の数《すう》(運命)が定まった以上、誰がさからいなぞいたしましょう」
と一同はいった。
宋江はさっそく黄金五十両を何道士に礼としてあたえた。ほかの道士たちも経料をもらい、祭器をとりおさめて、それぞれ山をおりて行った。これをうたった詩がある。
月明らかに風冷やかに〓壇《しようだん》(祭壇)深し
鸞鶴《らんかく》空中より好音《こういん》を送る
地〓天〓《ちさつてんこう》姓字を排《つら》ね
激昂す忠義一生の心
道士たちがひきとって行ったことはそれまでとして、さて宋江は軍師の呉学究・朱武らと相談して、堂上に忠義堂の三字を大書した一面の牌額《はいがく》をかけ、断金亭の大きな扁額《へんがく》もとりかえることにした。山の前には三つの関門を築き、忠義堂の裏には一座の鴈台《がんだい》(お堂)を建てた。山頂の正面が正殿で、その東西にそれぞれ二棟の建物が設けられ、正殿には晁天王の位牌を祀り、東の棟には宋江・呉用・呂方・郭盛が、西の棟には盧俊義・公孫勝・孔明・孔亮が、第二段の左のならびの棟には朱武・黄信・孫立・蕭譲・裴宣が、右のならびの棟には戴宗・燕青・張清・安道全・皇甫端がそれぞれはいった。忠義堂の左側には、金銭糧秣や倉庫の出納をあずかる柴進・李応・〓敬・凌振が、右側には花栄・樊瑞・項充・李袞がはいった。山の前、南口の第一の関門は解珍と解宝が守り、第二の関門は魯智深と武松が、第三の関門は朱全と雷横が、また東のほうの関門は史進と劉唐が、西のほうの関門は楊雄と石秀が、北のほうの関門は穆弘と李逵がそれぞれ守った。この六つの関門のほかに八つの寨《とりで》が設けられた。すなわち旱寨《かんさい》(陸寨)四つと水寨四つである。真南の旱寨は秦明・索超・欧鵬・〓飛。真東の旱寨は関勝・徐寧・宣賛・〓思文。真西の旱寨は林冲・董平・単廷珪・魏定国。真北の旱寨は呼延灼・楊志・韓滔・彭〓。東南の水寨は李俊・阮小二。西南の水寨は張横・張順。東北の水寨は阮小五・童威。西北の水寨は阮小七・童猛。その他のものにもそれぞれ任務があたえられた。
旌旗の類も新しくつくられて、山頂には「替天行道」の四字をしるした一面の杏黄旗《きようこうき》が立てられ、忠義堂の前には、ひとつには「山東呼保義」、ひとつには「河北玉麒麟」と書いた二面の〓《ぬいとり》文字の紅旗が立てられた。そのほか、飛竜飛虎旗・飛熊飛豹旗《ひゆうひひようき》・青竜白虎(注七)旗・朱雀玄武(注八)旗・黄鉞白旄《こうえつはくぼう》(注九)・青旛〓蓋《せいはんそうがい》(注一〇)・緋纓黒纛《ひえいこくとう》(緋色のふさ、黒い大旗。以上いずれも王者、貴顕の用いるもの)など中軍の用具のほかに、また四斗五方《しとごほう》(注一一)旗《き》・三才九曜《さんさいきゆうよう》(注一二)旗《き》・二十八宿旗・六十四卦(注一三)旗・週天九宮八卦(注一四)旗・百二十四面の鎮天旗《ちんてんき》などがそなえられた。これらはみな侯健がつくった。また金大堅は兵符(割符《わりふ》)や印信(印鑑)をつくった。かくていっさいが完備すると、吉日良辰をえらんで、牛や馬を殺して天地神明に供え、忠義堂と断金亭に牌額をかかげ、「替天行道」の杏黄旗をたてた。
宋江はその日盛大な宴を設けた。そしてみずから兵符と印信をささげて軍令を発した。
「並居《なみい》る大小の兄弟たち、おのおのその職分をよく守り、あやまちを犯して義気をやぶることのないように。もしも故意にそむくものがあれば、軍法によって処断して決して容赦はしないであろう」
そして次のとおりそれぞれの職分をさだめた。
梁山泊の兵を統べる総頭領二名
呼保義  宋江
玉麒麟  盧俊義
機密をつかさどる軍師二名
智多星  呉用
入雲竜  公孫勝
右とともに軍事を参謀する頭領一名
神機軍師 朱武
金銭糧食をつかさどる頭領二名
小旋風  柴進
撲天〓  李応
騎兵軍の五虎将五名
大 刀  関勝
豹子頭  林冲
霹靂火  秦明
双 鞭  呼延灼
双鎗将  董平
騎兵軍の八虎将兼先鋒使《せんぽうし》八名
小李広  花栄
金鎗手  徐寧
青面獣  楊志
急先鋒  索超
没羽箭  張清
美髯公  朱仝
九紋竜  史進
没遮〓  穆弘
騎兵軍の小彪将《しようひようしよう》兼斥候の頭領十六名
鎮三山  黄信
病尉遅  孫立
醜郡馬  宣賛
井木〓  〓思文
百勝将  韓滔
天目将  彭〓
聖水将  単廷珪
神火将  魏定国
摩雲金翅 欧鵬
火眼〓猊 〓飛
錦毛虎  燕順
鉄笛仙  馬麟
跳澗虎  陳達
白花蛇  楊春
錦豹子  楊林
小覇王  周通
歩兵軍の頭領十名
花和尚  魯智深
行 者  武松
赤髪鬼  劉唐
挿翅虎  雷横
黒旋風  李逵
浪 子  燕青
病関索  楊雄
命三郎 石秀
両頭蛇  解珍
双尾蝎  解宝
歩兵軍の将校十七名
混世魔王 樊瑞
喪門神  鮑旭
八臂那〓 項充
飛天大聖 李袞
病大虫  薛永
金眼彪  施恩
小遮〓  穆春
打虎将  李忠
白面郎君 鄭天寿
雲裏金剛 宋万
摸着天  杜遷
出林竜  鄒淵
独角竜  鄒潤
花項虎  〓旺
中箭虎  丁得孫
没面目  焦挺
石将軍  石勇
四寨の水軍の頭領八名
混江竜  李俊
船火児  張横
浪裏白跳 張順
立地太歳 阮小二
短命二郎 阮小五
活閻羅  阮小七
出洞蛟  童威
翻江蜃  童猛
四店の情報を探知し来客を迎接する頭領八名
東山酒店
小尉遅  孫新
母大虫  顧大嫂
西山酒店
菜園子  張青
母夜叉  孫二娘
南山酒店
旱地忽律 朱貴
鬼臉児  杜興
北山酒店
催命判官 李立
活閃婆  王定六
情報の探知を統べる頭領一名
神行太保 戴宗
軍中に機密を伝達する歩兵軍の頭領四名
鉄叫子  楽和
鼓上  時遷
金毛犬  段景住
白日鼠  白勝
中軍を守護する騎兵軍の驍将《ぎようしよう》二名
小温侯  呂方
賽仁貴  郭盛
中軍を守護する歩兵軍の驍将二名
毛頭星  孔明
独火星  孔亮
処刑をつかさどる首斬人二名
鉄臂膊  蔡福
一枝花  蔡慶
三軍の内務をつかさどる騎兵軍の頭領二名
矮脚虎  王英
一丈青  扈三娘
諸物の製作をつかさどる頭領十六名
将兵派遣の文書を作製するもの一名
聖手書生 蕭譲
論功賞罰にあたる軍政司一名
鉄面孔目 裴宣
金銭糧食の出納を会計するもの一名
神算子  〓敬
大小戦船の建造を監督するもの一名
玉旛竿  孟康
すべての兵符・印信の製作にあたるもの一名
玉臂匠  金大堅
すべての旌旗・袍襖の製作にあたるもの一名
通臂猿  侯健
もっぱら全馬匹の医療にあたるもの一名
紫髯伯  皇甫端
もっぱら内科・外科の疾病の治療にあたる医師一名
神 医  安道全
すべての武器・甲冑《かつちゆう》の製造を監督するもの一名
金銭豹子 湯隆
すべての大小号砲の製造にあたるもの一名
轟天雷  凌振
家屋の建築修理にあたるもの一名
青眼虎  李雲
牛馬豚羊の屠殺にあたるもの一名
操刀鬼  曹正
宴席の整備にあたるもの一名
鉄扇子  宋清
酒醋《しゆそ》の醸造供応を監督するもの一名
笑面虎  朱富
梁山泊のすべての城垣《じようえん》の築造を監督するもの一名
九尾亀  陶宗旺
もっぱら帥字旗《すいじき》を捧持するもの一名
険道神  郁保四
宣和二年四月一日梁山泊大集会にて右のとおり割りあてを告示す。
その日梁山泊で宋公明が命を伝え、頭領たちの割りあてがきまると、一同はそれぞれ兵符と印信を受領した。やがて宴会もおわり、みな大いに酔ってそれぞれ割りあてられた寨にひきとった。なかでまだ職務のきめられなかったものは、みな鴈台(お堂)の前後にとどまって命をまつことになった。ここに梁山泊の美点をたたえた一篇があるが、それによれば、
八方域《いき》を共にし、異姓《いせい》家を一にす。天地〓〓《こうさつ》(星)の精を顕《あら》わし、人境傑霊《けつれい》の美を合す。千里の面(千里も離れていたものが)朝夕《ちようせき》相見《あいまみ》え、一寸の心死生を同じくすべし。相猊語言、南北東西各《おのおの》別なりと雖も、心情肝胆、忠誠信義並《なら》びに(いささかも)差無し。其の人(人々)は則ち帝子神孫、富豪将吏、並《なら》びに三教九流(注一五)、乃至《ないし》は猟戸漁人、屠児〓子《とじかいし》(屠殺人や首斬り役人)有るも、都《すべ》て一般児に哥弟《かてい》(兄弟)と称呼して、貴賤を分《わか》たず。且つまた同胞《どうほう》の手足《しゆそく》(実の兄弟)、捉対《そくたい》の夫妻《ふさい》(一組の夫婦)、叔姪郎舅《しゆくてつろうきゆう》(おじとおい、むことしゅうと)有り、以て跟随《こんずい》の主僕、争闘の冤讎《えんしゆう》に及ぶも、皆一様に酒筵歓楽して、親疎《しんそ》を問う無し。或は精霊《せいれい》(かしこく)、或は粗鹵《そろ》(おろか)、或は村樸《そんぼく》(やぼ)、或は風流(いき)なるも、何ぞ嘗て相礙《さまた》げん。果然性を識って居を同じくす。或は筆舌、或は刀鎗、或は奔馳《ほんち》、或は偸騙《とうへん》、各偏長《へんちよう》有るも、真に是れ才に随って器《うつわ》を使《もち》う。恨むべき的《もの》は是れ仮文墨《かぶんぼく》(遺憾ながら真の文墨の徒はおらず)、奈何《いかん》ともする没《な》く一個の聖手書生《せいしゆしよせい》(蕭譲)に着して、聊《いささ》か風雅を存す。最も悩《なや》む(腹立たしき)的《もの》は是れ大頭巾《だいとうきん》(役人風)、幸いに先ず白衣秀士《はくいしゆうし》(王倫)を殺却して、酸慳《さんけん》を洗い尽すを喜び得たり。地方四五百里、英雄一百八人。昔時常に説《い》う、江湖上に名を聞くこと古楼の鐘の声々《せいせい》として伝播《でんぱ》するに似たりと。今日始めて知る、星辰中に姓を列すること念珠子《ねんじゆし》(数珠)の個々として連牽《れんけん》するが如きを。晁蓋に在りては恐らく胆《たん》に托《たく》して王と称し(ずぶとくも托天王《たくてんのう》と称したがために)、天に帰すること早きに及べるならん。惟《ただ》宋江は肯《あえ》て羣《ぐん》を呼び義を保つ(呼保義《こほうぎ》というあだ名にそむかぬおこないをしたために)、寨を把《と》って(山寨の)頭と為《な》る。言うを休《や》めよ山林に嘯聚すと、早くより廊廟《ろうびよう》(朝廷)を瞻依《せんい》する(尊び親しむ)を願う。
梁山泊の忠義堂で命令がくだされると、一同はみなそれを守った。宋江は吉日良辰をえらび、香を焚き、太鼓を鳴らしてみなを堂上に集めた。宋江は一同に対していうよう、
「いまは以前とはわけがちがうので、一言する次第だが、こうして天〓地〓《てんこうちさつ》が相集まったからには、ぜひとも天に対して誓いを立て、おのおの異心をいだくことなく、死生をともにし患難をわかちあって、相ともに国を保ち民を安んじることにつとめよう」
一同はみな大いによろこび、おのおの香を焚いて、いっせいに堂にひざまずき、宋江が一同を代表して誓いを立てた。
「わたくしは下賤の小役人で、無学無才の身でございますが、天地のめぐみを受け日月の恩沢に浴し、兄弟を梁山に集め英雄を水泊に会し、あわせて百八人、その数、上は天のさだめにかない、下は人の心に合うにいたりました。いまよりのち、各人が心に不仁を存し大義をそこなうようなことがありましたならば、ねがわくは天地は誅罰をくだしたまい神人も殺戮《さつりく》を加えられて、万世までも人として生まれることを得ず億載《おくさい》にわたって末却《まつごう》の淵に沈められますよう。わたくしどものねがうことは、ともども心に忠義を存し、ともども勲功を国に立て、天に替って道をおこない、辺境を守り民を安んぜしめることでございます。神明も照覧あって、応報の明らかならんことを」
宋江が誓いをおわると、一同はいっせいに同じ誓いを立て、生々世々相会《かい》し相逢《あ》って、いつまでも絆《きずな》の断たるることのないようにと祈った。その日は血をすすって盟約を立て、心ゆくまで酒をくみかわしてのち散会したのであるが、みなさん、これがすなわち梁山泊大聚義の一段である。詩にいう、
光耀《こうよう》飛んで土窟《どくつ》(伏魔殿をさす)の間《かん》を離れ(注一六)
天〓地〓塵寰《じんかん》(この世)に降《くだ》る
説く時豪気《ごうき》肌を侵《おか》して冷たく
講ずる処英雄胆に透《とお》って寒し
義に仗《よ》り財を疎《うと》んじて水泊に帰し
讎《あだ》を報じ恨みを雪《すす》いで梁山に上る
堂前一巻の天の文字
諸公に休与して仔細に看せしむ
はじめに話した職分の割りあてについては、ここではもう繰りかえさない。もともと水泊の好漢たちは、暇があれば山をおりて行ったものである。あるいは部下をひきつれ、あるいは数人の頭領たちだけで、思い思いに出かけて行き、途中で旅商人の車や馬に出くわしたときはそのままやりすごしたが、任地へ行く役人で箱のなかに金銀を持っているのを見つけたりすると、ひとり残らず片付けてしまい、手にいれた物は山寨へ送り庫に納めて一同の用に供し、それ以外の些細なものはその場でわけた。たとえ百里あろうと二三百里の遠方だろうと、金銭糧食をためこんだ、人いじめをする大戸《たいこ》(金持)がいたら、さっそく手下をつれておしかけて行き、大っぴらに奪い取って山へ運び、誰にも邪魔だてはさせなかった。善良なものをいじめて、にわか成金になったやつが、財をためていると聞けば、遠かろうと近かろうと、すぐ手下をやり、洗いざらいまきあげて山へ持ち帰らせた。こういうしわざは、大小あわせると千やそこらではきかなかったが、誰もさからえるものはなかったし、またいかに恨もうとかまいつけもしなかったので、それ以上のことにはならず、従ってまた話もない。
ところで宋江は、盟《ちかい》をしてからはずっと山をおりずにいた。そのうちに炎暑もすぎて、早くもまた秋涼の候となり、重陽節《ちようようせつ》(陰暦九月九日)が近づいてきた。宋江はそこで宋清にいいつけて盛大な宴をもよおし、兄弟たちを一堂に集めてともに菊の花を賞《め》でることにした。これを「菊花の会」と称した。下山している兄弟たちをも、遠近を論ぜずみな山寨に呼びもどして宴につらならせることにしたのである。いよいよその日になると、山ほどの肉、海ほどの酒が出され、まず歩騎水三軍の小頭目以下のものにわけあたえて、それぞれの組にわかれて飲ませるとともに、忠義堂にはいちめんに菊の花をかざり、一同その序列に従って席につき、それぞれ杯をすすめあった。堂の両側からは銅鑼や太鼓がさかんにうち鳴らされ、にぎやかな談笑のなかに杯がいりみだれた。頭領たちは胸襟を開いて痛飲し、馬麟は簫《しよう》を吹き、楽和は歌を唱い、燕青は箏《こと》を弾き、互いにうち興じているうちに、いつしか日も暮れてきた。宋江も大いに酔い、紙と筆をとりよせると、酒興に乗って満江紅《まんこうこう》(曲の名)のうた一篇を書き、楽和にそれを唱わせた。そのうたは、
喜ばしくも重陽《ちようよう》に遇う、更に佳醸《かじよう》(よき酒)今朝新《あらた》に熟す。見るは碧水と丹山、黄蘆と苦竹(青竹)。頭上儘教《ほしいまま》に白髪を添えしむるも、鬢辺に黄菊無かる可からず。願わくは樽前に長叙せん、弟兄の情の金玉《きんぎよく》の如くならんことを。豺虎《さいこ》を統べ、辺幅《へんぷく》(辺境)を禦《ふせ》ぐ。号令明らかに、軍威粛《しゆく》たり。中心に願う虜《りよ》を平らげ、民を保ち国を安んぜんことを。日月常《つね》に懸《か》く忠烈の胆、風塵障却《しようきやく》す奸邪の目。望むらくは天王(天子)詔を降して早く招安《しようあん》(注一七)せば、心方《まさ》に足りなん。
楽和がこのうたをうたって、ちょうど「望むらくは天王詔《みことのり》を降して早く招安せば」というところまできたとき、とつぜん武松が叫びだした。
「きょうも招安、あすも招安と待っているばかりで、まったくおもしろくもない!」
すると黒旋風も怪眼をかっと開いて、大声で叫び、
「招安、招安って、なんの糞招《まね》きをしやがるというんだ」
と、卓を蹴飛ばして、めちゃめちゃにこわしてしまった。
宋江は大声で叱りつけた。
「この黒ん坊め、なんたる無礼なことをいう。ものども、こやつをひきたてて行って斬り捨ててしまえ」
一同はそこへひざまずいて訴えた。
「彼は酒に酔っぱらっているのです。どうかゆるしてやってください」
宋江は、
「みなさん、お立ちください。ではひとまずこやつを牢にぶちこんでおくことにしましょう」
一同はみな安堵した。数人の処刑係の小頭目がすすみ出て、李逵をうながした。李逵は、
「おまえたちは、おれがあばれ出しはしないかとおそれているようだが、兄貴がおれを殺そうというのなら、おれは怨みはせんよ。一寸刻みにしようと怨みはせんよ。兄貴は別だ、ほかのやつなら天だっておれはおそれやしないんだ」
といい、小頭目について監房へ行き、そこで眠ってしまった。
宋江は李逵の言葉を聞いていつのまにやら酔いも醒め、急にふさぎこんでしまった。呉用がなぐさめて、
「せっかくこの会をお開きになって、みんなが楽しく酒を飲んでいるところではありませんか。あいつはがさつもので、つい酔って羽目をはずしただけのこと。そんなに気になさることはありません。さあ、みんなといっしょに楽しくやりましょう」
宋江は、
「わたしは江州で酒に酔って、うっかり反詩を作り(第三十九回)、彼のおかげで助けられたのに、きょうまた満江紅のうたを作ったことから危うく彼を殺してしまうところでした。みなに諫められたからよかったものの、彼とわたしとは深いあいだがらなので、つい涙をこぼしたのです」
といい、武松にむかって、
「あんたは道理のわかる人なのに、わたしが招安を待ちのぞみ、邪を改めて正に帰し、国家の良臣になりたいとねがうことが、どうしてみんなにおもしろくないといわれるのだ」
すると魯智深が、
「いまの朝廷の役人どもは、よこしまなやつらばかりで、みんなお上の眼をくらましているのです。ちょうどわしのこの衣みたいなもので、黒く染めてしまえばもう、いくら洗っても白くなるものじゃありません。招安なんてつまらんことです。いっそお暇をいただいて、あしたからめいめい好きなところへ行ってしまったほうがましです」
宋江はいった。
「みんな聞いてもらいたい。いまの天子は至聖至明なおかたなのだが、奸臣どもに立ちふさがれて一時、眼をくらまされておられるのだ。そのうちには雲が開け天日があらわれて、われわれが天に替って道をおこなうものであって良民を害していないことがわかり、大赦のお沙汰がくだることもあろう。そのときには心をひとつにして国に報い、名を青史にとどめるというのもすばらしいことではないか。それゆえわたしは一日も早く招安のくだることをねがっているのだ。ただそれだけのことで他意はない」
みなはしきりにわびたが、その日の酒宴は、結局、気まずいままで、やがておひらきになり、それぞれひきとって行った。
翌朝、一同が李逵のところへ行って見ると、まだ彼は眠っていた。頭領たちが呼びおこして、
「あんたはきのうひどく酔って兄貴をののしったので、きょうはお仕置きになるんだよ」
というと、李逵は、
「わしは夢のなかでだって兄貴をののしったりなんかしないが、兄貴がわしを殺すというのなら、殺されたってしかたがないさ」
みなは李逵をひき出し、堂上へ行って宋江に会い、わびをいった。宋江は、
「わたしの下にはおおぜいのものがいるわけだが、みながおまえのような無礼をいいだしたら、法度がめちゃめちゃになるではないか。ここは兄弟たちの顔をたてて、おまえの首はあずけておこう。こんどまたやったらもう容赦はしないぞ」
と叱りつけた。李逵はしきりに恐れ入ってひきさがり、ほかのものもそれぞれ帰って行った。
その後はずっと平穏に過ぎ、やがて年も暮れに近づいたが、降りつづいた雪もやんだある日のこと、麓から手下のものが知らせてきて、
「ここから七八里のところで、〓州から東京へ灯籠を送って行く連中をつかまえ、関門の外までつれてきておりますが、いかがいたしましょう」
「縄をかけずに、鄭重にここへつれてくるように」
と宋江はいった。まもなく堂前につれてこられたのは、ふたりの役人と八九人の灯籠つくり、それに五台の車だった。その頭《かしら》格のひとりがいうには、
「わたくしは〓州から使いに出されました役人で、このものたちはみな灯籠つくりでございます。毎年のしきたりで東京から当州に対して灯籠を三組おいいつけになるのですが、ことしはさらに二組よけいに申しつけられました。玉棚玲瓏九華《ぎよくほうれいろうきゆうか》灯というのがそれでございます」
宋江はさっそく酒食をもてなし、その灯籠を出して見せるようにといった。灯籠つくりたちはその玉棚灯を立て、四方をつなぎとめた。上下合わせて九九八十一灯が、忠義堂の上からずっと、地面まで垂れさがった。宋江は、
「本来ならおまえたちのそれは、すっかりここへおいていってもらうところだが、それではおまえたちが罰をうけるだろう。気の毒だからこの九華灯だけをおいていってもらうことにしよう。あとのはお上にとどけるがよい。ご苦労賃は白銀二十両だ」
一同はぺこぺこ頭をさげ、しきりに礼をいって山をおりて行った。
宋江はその灯籠に明りをつけて晁天王の位牌堂に供えさせた。翌日、頭領たちにむかっていうには、
「わたしは山東生まれで、まだいちども都へ行ったことがないが、なんでも天子さまは賑やかに灯籠を飾って民とともに楽しみ、元宵節をお祝いになるとのこと。冬至のころから灯籠つくりをはじめて、いまはもうできあがったころだろうから、わたしはこれから何人かの兄弟たちといっしょにこっそり灯籠見物に行きたいと思うのだが」
呉用が、
「それはいけません。東京にはこのごろは捕り手の役人たちがたくさん出ていますから、もしものことがあってはたいへんです」
とおしとめたが、宋江は、
「昼間は宿屋にかくれていて、夜になってから城内へ灯籠を見に行くことにすれば、なにも心配することはなかろう」
という。一同はしきりにひきとめたが、宋江はどうしても出かけるといってきかない。まさに、猛虎ただちに丹鳳《たんほう》の闕《みや》に臨み、殺星《さつせい》夜臥牛《がぎゆう》の城を犯す、というところ。さて宋江はどのようにして東京へ灯籠見物に行ったか。それは次回で。
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一 紙馬 第十五回注二参照。
二 三清 第一回注四参照。
三 二十八宿 第五十八回注四参照。
四 十二宮辰 術数家は十二辰(十二支)を十二宮といい、またこれを十二宮辰ともいう。
五 擺〓垂る 〓〓《こうかい》したたるの意。〓〓とは露の気。北方夜半の気で、神仙の食うものという。
六 青詞 青い紙にしたためた願文。紙銭と同じく神前に焼いて祈る。
七・八 青竜白虎、朱雀玄武 第五十八回注四参照。
九・一〇 黄鉞白旄、青旛〓蓋 第五十八回注五参照。
一一 四斗五方 四斗は第五十八回注三参照。五方は、東・西・南・北・中央。
一二 三才九曜 三才は天・地・人。九曜は第五十八回注二参照。
一三 六十四卦 八卦(注一四)を重ねたもので、乾坤から未済までの六十四の卦をいう。
一四 週天九宮八卦 週天は周天で、天球のひとめぐり。暦法では三百六十度を周天という。九宮とは天の中央、太乙(北極星)の居るところをいう。八卦とは易の八種の卦。すなわち乾(天)、兌(沢)、離(火)、震(雷)、巽(風)、坎(水)、艮(山)、坤(地)の称。
一五 三教九流 第六十九回注八参照。
一六 光耀飛んで土窟の間を離れ 土窟とは、この物語の第一回の伏魔殿の地下の土窟。光耀は金色の光になって四方八方へ飛んで行った天〓星三十六、地〓星七十二。つまり、いま梁山泊に「大聚義」した百八人。
一七 招安 大赦を告示して賊(叛乱者)を帰順させること。
第七十二回
柴進《さいしん》 花を簪《かざ》して禁院《きんいん》に入り
李逵《りき》 元夜《げんや》に東京《とうけい》を鬧《さわ》がす
さて、その日宋江は忠義堂で灯籠見物に行くものの人選をした。
「わたしと柴進、史進と穆弘、魯智深と武松、朱仝と劉唐がそれぞれ組になる。行くのはこの四組だけで、そのほかのものはみな残って寨を守っていてもらいたい」
すると李逵が、
「東京《とうけい》の灯籠はすばらしいそうだから、おいらも行ってみたいものだ」
といい出した。
「おまえは、やれない」
と宋江はいったが、李逵はどうしても行くといい張って、とてもおさえつけることができない。宋江は、
「それほど行きたいのなら、必ず面倒をひきおこしてはならぬぞ。お供の身なりをしてわたしについてくるがよい」
といい、燕青にも出かけるようにいいつけて、もっぱら李逵の相棒をさせることにした。
ところで、みなさん。宋江は顔に刺青《いれずみ》を入れられた身なのに、どうして都へ行けたかというと、それは神医の安道全が山にきてから(第六十五回)、毒薬で消しとったあと、良薬で治療して赤い傷痕にし、さらに、良金と美玉をすりつぶして粉末にしたものを毎日塗って、自然と跡かたもなくしてしまったからである。医書にいうところの「美玉斑《はん》を滅《めつ》す」というのはつまりこのことである。
その日、まず史進と穆弘に旅人の身なりをして立たせてから、魯智深と武松に行脚僧《あんぎやそう》の身なりで出かけさせ、ついで朱仝と劉唐も旅商人に身をやつして出発した。それぞれ腰刀《ようとう》を腰にさし、朴刀を手にひっさげ、みな兇器を身に忍ばせて行ったことはいうまでもない。
さて宋江と柴進は間涼官《かんりようかん》(休職の役人)のようないでたちをし、また戴宗にも小使の身なりをしてついて行かせることにした。李逵と燕青はお供の身ごしらえをし、ふたりとも荷物をかついで、山をおりた。頭領たちはみな金沙灘まで見送りに行った。軍師の呉用はなんども李逵にいいふくめた。
「あんたはいつも山をおりると面倒をひきおこすにきまっているが、こんどは兄貴といっしょに東京へ灯籠見物に行くのだ、いつもとはわけがちがうのだから、道中は決して酒を飲まず、くれぐれも気をつけて、いつものようなことのないようにな。もし事をしでかしたら、兄弟たちにも見はなされてもう二度とみなにあうことはできなくなりますぞ」
「ご心配にはおよびません。こんどは決してなにもしでかしませんから」
と李逵はいった。宋江たちは一同に別れを告げて出発し、済《さい》州路を通り、滕《とう》州を過ぎ、単《ぜん》州へ出、曹《そう》州へはいり、東京《とうけい》に近づいて、やがて万寿門《まんじゆもん》外のとある宿屋にはいって休んだ。宋江は柴進と相談した。正月十一日のことである。宋江はいった。
「あすの昼は、わたしはやはり城内へ出かけるのはやめます。正月十四日の夜の人ごみにまぎれてはいりこむことにしよう」
「わたしはあした、まず燕青と様子をさぐりに城内へ行ってみましょう」
「では、そういうことに」
翌日、柴進はりゅうとした身なりをし、上は頭巾から下は靴下にいたるまで新しくさっぱりしたのにとりかえ、燕青も垢ぬけのした身なりをして、ふたりは宿を出た。城外の人々を見るに、どの家もみなにぎやかにうち興じ、元宵節を喜び太平を祝っているようである。城門まで行ったが、誰何《すいか》するものもいない。はたして東京はすばらしいところで、そのありさまは、
州は〓水《べんすい》と名づけ、府は開封《かいほう》と号し、逶〓《いい》として呉楚《ごそ》の邦《くに》に接し、延亙《えんこう》として斉魯《せいろ》の境に連《つら》なる。山河の形勝、水陸の要衝《ようしよう》、禹《う》は画《かく》して豫《よ》州となし、周《しゆう》は封じて鄭《てい》の地となす。層畳《そうじよう》たる臥牛《がぎゆう》の勢いは、上界の戊已《ぼうき》中央(注一)に按じ、崔嵬《さいかい》たる伏虎の形は、周天の二十八宿に像《かたど》る。金明池《きんめいち》上の三春の柳、上苑城《じようえんじよう》辺の四季の花。十万里の魚竜変化《へんか》の郷、四百座の軍州輻輳《ふくそう》の地。靄々《あいあい》たる祥雲《しよううん》は紫閣《しかく》を籠《こ》め、融々《ゆうゆう》たる瑞気《ずいき》は楼台を照らす。
そのとき柴進と燕青のふたりは、城門をはいって御街《ぎよがい》(注二)へ出、ぶらぶらと見物しながら東華門《とうかもん》外まで行って見ると、錦衣花帽の人々がきらびやかに行きかい、とりどりの色の服をよそおった人人が茶房や酒店で休んでいた。柴進は燕青をつれて、ある小さな酒楼へあがり、通りに面した部屋にはいって、てすりにもたれて眺めていると、班直《はんちよく》(宮中警衛の役人)たちが内裏《だいり》を出入りしているのが見えたが、みな頭巾に青葉の花のかんざしを挿している。柴進は燕青の耳に口を寄せて、かくかくしかじかにしてくれとささやいた。燕青はものわかりのよい男だったので、くどくどと問い返すまでもなく急いで二階からおりて行った。店を出たところでおりよくひとりの年輩の班直官にでくわしたので、燕青は挨拶をした。するとその男は、
「はじめてで、これまでお目にかかったことはないが」
「わたくしの主人が観察《かんさつ》(捕盗役人に対する尊称)さまとは古いお友だちだとのことで、お呼びしてくるようにいわれてまいりましたので」
その班直は王《おう》という姓だったが、燕青は、
「あなたさまは張観察さまではございますまいか」
「いや、わたしは王というものだ」
燕青はすぐいった。
「そうそうわたくしは王観察さまをお呼びしてくるようにいわれたのでした。あわてて覚えちがいをしておりました」
王観察が燕青について二階へあがって行くと、燕青は簾をかかげて柴進に、
「王観察さまをおつれしてまいりました」
といい、王班直の持ちものを受けとった。柴進は部屋のなかへ請じいれ、礼をかわした。王班直はしばらく柴進を見つめていたが、どうも見覚えがないのでたずねた。
「わたくし失礼ながらあなたに見覚えがございません。たまたまお呼びいただきましたが、お名前をお聞かせください」
柴進は笑って、
「あなたとは小さいときの友だちですが、まあいわないでおきますから、よく考えてみてください」
といいながら酒や肉をとりよせて、観察とくみかわすことにした。給仕が肴やつまみものを持ってきて並べると、燕青は酒をついで慇懃《いんぎん》にすすめた。やがて酒がほどよくまわったころ、柴進はたずねた。
「あなたが頭に挿しておられるその青葉の花は、どういうわけのものですか」
「陛下が元宵節をお祝いになって、われわれお傍仕えのもの、内外合わせて二十四班、みなで五千七八百人のひとりひとりに、衣服ひとかさねと、青葉に金花のかんざし一本を賜わったのです。かんざしには小さな金牌がついていて、与民同楽(民と楽しみを同じくす)の四字が彫ってあります。そのため毎日ここで検分を受けて出仕するのですが、お下賜のかんざしと錦の上着をつけておれば内裏へはいって行くことができるのです」
「ああそういうわけでしたか」
と柴進はいい、さらに何杯かくみかわしてから、燕青にむかって、
「おまえ、一杯あつくしたのを持ってきてくれ」
といいつけた。やがて酒が運ばれてくると、柴進は立ちあがって王班直に杯をすすめ、
「どうかわたくしのこの杯をお受けください。そのうえで名前を申しあげることにいたします」
「わたくしはどうしても思い出せませんので、どうかおっしゃってください」
王班直は杯を受けとって一気に飲みほしたが、飲みおわったとたん、口からよだれをたらし、両足を空に蹴りあげて腰掛けの上に倒れた。柴進は急いで頭巾や着物や靴下を脱ぎ、王班直が着ていた錦の上着や賜串《てきかん》(股引のたぐい)や履きものなどを剥ぎとってすっかり着かえ、花をつけた頭巾をかぶり、王班直の持ちものを手にして、燕青にいいつけた。
「給仕がきてたずねたら、観察さまは酔ってしまわれたし、旦那さまはまだ帰って見えないというのだぞ」
「おっしゃるまでもありません。うまくとりつくろっておきます」
と燕青はいった。
さて柴進は店を出ると、まっすぐに東華門へはいって行ったが、御苑の眺めはまことにこの世の天国ともいうべきありさま。見れば、
祥雲は鳳闕《ほうけつ》を籠《かこ》み、瑞靄《ずいあい》は竜楼を罩《つつ》む。琉的《りゆうてき》(琉璃《るり》)の瓦は鴛鴦《えんおう》を砌《たた》み、亀背《きはい》(まど)の簾は翡翠《ひすい》を垂る。正陽門は逕《ただち》に黄道(日の軌道)に通じ、長朝殿は端《まさ》に紫垣《しえん》(天宮の垣)を拱《めぐ》らす。渾儀台《こんぎだい》(天文台)は星辰を占算し、待漏院《たいろういん》(百官の控えの間)は文武を班分す。墻は椒粉《しようふん》(山椒の粉)を塗り(赤く)、糸々《しし》たる緑柳は飛甍《ひぼう》(いらか)を払う。殿は欄楯《らんじゆん》(てすり)を繞《めぐ》らして、簇々《そうそう》たる紫花は歩輦《ほれん》(手車)を迎う。恍として疑う、身は蓬〓島《ほうらいとう》(神仙の住む島)に在るかと。彷彿として神《しん》(心)は遊ぶ兜率天《とそつてん》(弥勒菩薩の住む極楽)に。
柴進は内裏へはいり、禁門を通って行ったが、その服装のために誰にもとがめられなかった。そのまま紫宸殿《ししんでん》へ行き、さらに文徳殿《ぶんとくでん》へ行ってみたが、殿門にはいずれも金の錠がかかっていてはいれないので、こんどは凝暉殿《ぎようきでん》のほうへ行き、その横をまわって行くと、一宇の偏殿《へんでん》(側殿)があって、牌額《はいがく》には金文字で睿思殿《えいしでん》と三字しるされていた。そこは天子の書見されるところである。かたわらの朱塗りの格子があいたままになっていたので、するりと忍びこんで行って眺めて見ると、正面には御座《ぎよざ》があり、その両脇の机には文房《ぶんぼう》の四宝たる象管《ぞうかん》(ふで)、花箋《かせん》(かみ)、竜墨《りゆうぼく》(すみ)、端硯《たんけん》(すずり)が置いてあり、書架にはぎっしりと書物が積んであって、それぞれに牙籤《がせん》(書名をしるした札)がはさんであった。正面の衝立には青や緑で山河社稷混一《さんがしやしよくこんいつ》の図《ず》(国内山川地図)がえがいてあったが、そのうしろへまわって見ると、無地の衝立に宸筆《しんぴつ》で四大叛徒の名が書かれていた。
山東宋江
淮西王慶《わいせいおうけい》
河北田虎《でんこ》
江南方臘《ほうろう》
柴進はその四大叛徒の名を見て、
「われわれが国をさわがすので、いつも気になさってここへ書きつけておかれたのだな」
とおしはかり、さっそく身にかくしていた兇器を抜き出して、山東宋江という四字を切り取り、急いで外へ出た。すぐあとから人の気配がした。柴進はただちに内苑を離れ、東華門を出て酒楼に帰ったが、見ればかの王班直はまだ醒めていなかったので、もとのまま錦の着物や花の頭巾、その他の身につけるものをみな部屋のなかに置き、自分はもとの着物に着かえてから、燕青と給仕を呼んで勘定をすませ、おつりの十数貫の銭は給仕にやって、二階からおりしなにこういった。
「わしと王観察とは兄弟なのだが、さっき酔ってしまったので、わしがかわりに内裏へ点呼に行ってきたのだが、まだ醒めないのだ。わしは城外に住んでいるので、城門の刻限におくれるわけにはいかん。おつりはみなおまえにやる。彼の号衣(制服)などはみんなここへおいておくからな」
「旦那さん、ご心配なく。てまえがちゃんとお世話いたしますから」
と給仕はいった。柴進と燕青は店をあとに、まっすぐに万寿門を出て行った。
王班直は夕方になって目を醒ましたが、着物や花の頭巾はちゃんとそろっていて、どうしたことなのかさっぱりわけがわからない。給仕が柴進のいったことを伝えたが、王班直は酔っぱらいかふぬけかのように、なんのことやらわからぬまま家に帰った。翌日、人から、
「睿思殿《えいしでん》の山東宋江という四字がなくなっているので、きょうは各門とも厳重に固められて、出入りのものはきびしい調べを受けることになった」
と知らされて、王班直はさてはそうだったのかとさとったが、もとより口外するわけにはいかなかった。
ところで柴進は、宿屋へ帰って宋江に内裏の様子をくわしく話し、大叛徒として書かれていた宸筆の山東宋江の四字をとり出して見せた。宋江は嘆息してやまなかった。十四日の夕方になると、名月が東のほうに見えて、空には雲のかげひとつなかった。宋江と栄進は間涼官《かんりようかん》をよそおい、戴宗は役所の小使に、燕青は走り使いの小者になり、李逵ひとりを部屋の番に残して、四人は仮装行列の連中にまじって封丘門《ほうきゆうもん》からまぎれこんで行き、街々を見てまわったが、暖かい夜で風もやわらぎ、そぞろ歩きには恰好の陽気であった。やがて馬行街《ばこうがい》へ行って見ると、家々の門口には棚を設けて灯籠を吊るし、まるで真昼のような明るさで、まさに、楼台の上下に火は火を照らし、車馬往来して人は人を看る、というありさま。四人がさらに御街《ぎよがい》へ行って見ると、通りの両側にはずらりと煙月牌《えんげつはい》(風流な字句をしるした札)がならんでいたが、なかほどまで行くと、外に青い木綿の幕をかけ、内には斑竹《はんちく》の簾を垂れ、両側はずっと緑色の紗の窓で、表には二枚の煙月牌のかけてある家があった。その牌《ふだ》には、
歌舞神仙女
風流花月魁
と、それぞれ五字ずつ書いてあった。宋江はそれを見ると茶房へはいって行って茶を飲みながら給仕にたずねた。
「むかいの家のおんな(注三)はなんというひとだね」
「東京きっての花魁《おいらん》(注四)で、李師師《りしし》というひとです」
「すると、天子さまとねんごろだというあれか」
「大きな声をなさいますな。誰が聞いているかわかりませんよ」
宋江は燕青を呼びよせ、その耳もとに声をひそめていった。
「李師師に会って、内々に事をはこびたいのだが、うまい具合に話をつけてきてくれないか。わたしはここで茶を飲みながら待っているから」
宋江はそのまま柴進・戴宗とともに茶店で茶を飲んでいた。
ところで燕青は、まっすぐに李師師の家の門口《かどぐち》へ行き、青い木綿の幕をかきわけ、斑竹の簾を掲げて中門へはいって見ると、そこには鴛鴦灯がひとつ吊るされていて、その下の犀の皮を張った香机には博山《はくざん》の古銅の香炉が置いてあり、香炉からは細い煙がたちのぼっている。両側の壁には著名な人のかいた山水画が四幅かかっていて、その下には犀の皮を張った長椅子が四脚置いてあった。燕青は誰も出てこないので、さらに中庭へはいって行くと、また大きな客間があって、香楠木《こうなんぼく》の、花模様を彫ったきれいな腰掛けが三つ置いてあり、落花流水の模様のある紫色の錦の敷物がしいてあって、美しい棚にはきれいな灯籠が吊るされ、珍しい骨董がならべられている。燕青が軽くしわぶきをすると、衝立のむこうからひとりの女中が姿をあらわし、燕青を見てお辞儀をし、
「どなたさまで。どちらからお見えでございますか」
とたずねた。燕青が、
「すまないが、おかみさん(注五)を呼んできてもらいたいのだ。ちょっと話があるので」
というと、女中はひきさがり、やがて李媽媽《りぼぼ》が出てきた。燕青は彼女を掛けさせて四拝の礼をした。李媽媽は、
「兄さんは、どなたでしたか」
「おばさん(注六)、お忘れですか。張乙《ちよういつ》の息子の張間《ちようかん》ですよ。小さいときから他所へ行っていて、こんど帰ってきたのです」
元来、張とか李とか王とかいう姓は、世にもっともありふれた姓なので、このやりて婆はひとしきり考えこんだ。それに、灯火の下で人相もはっきりとわからない。そのうちに、ふと思い出して大声でいった。
「おまえは太平橋のそばの小張間《しようちようかん》じゃないか。どこへ行ってたんだね、長いことこなかったが」
「ずっと家にいなかったもんで、ご機嫌うかがいにもこられませんでした。いま山東のお客さんのお供をしてるんですが、口ではいいあらわせぬくらいのお金持なのです。その人は燕南・河北で第一番の有名な資産家で、こんどこちらへ見えたのは、一つには元宵節の見物に、二つには都のご親戚をお見舞いに、三つには品物をこちらで取引きするために、四つには姐さんにいっぺん会ってみたいからというわけなんです。なにも家に出入りしたいなどというのではなく、ただ同席して一杯やればそれで満足だといっておられます。なにもわたしが法螺《ほら》を吹くわけではなく、その人はほんとうに千両でもいくらでも出そうといっておられるのです」
このやりて婆は欲の深い女で、金にはまるで目がなかったので、燕青のその話を聞くとたちまち食指を動かし、急いで李師師を呼んできて燕青にひきあわせた。灯下で見ると、まことにかがやくばかりの美しさ。燕青は見るなり、頭をこごめて礼をした。これをうたった詩がある。
芳年声価青楼に冠たり
玉貌花顔是れ儔罕《たぐいまれ》なり
共に羨む至尊の曾て体に貼《ちよう》するを
何ぞ慚《は》じん壮士の便《すなわ》ち頭を低《さぐ》るを
やりて婆がわけを話すと、李師師はいった。
「その旦那さまは、いまどこにおいでですの」
「むかいの茶房におられます」
と燕青はいった。
「こちらへご案内してくださいまし。お茶でもあがっていただきましょう」
「かあさん(注七)のおゆるしがなければと、遠慮しておられましたので」
「早くお呼びしてきなさいよ」
とやりて婆はいった。
燕青はただちに茶房へ行って、ことの次第を耳うちした。戴宗が銭をとり出して給仕に勘定をはらうと、三人は燕青について李師師の家へ行った。中門をはいって行くと、出迎えられて大きな客間に通された。李師師はつつましやかにすすみ出て、挨拶をした。
「さきほど、張間さんからいろいろとおうわさをうかがいました。お出ましいただきまして、うれしゅうございます」
「世間のせまい田舎ものが、あなたのような美しい人にお会いできて、こんな幸《しあわ》せはありません」
と宋江は答えた。李師師は宋江を席につかせてから、柴進を見てたずねた。
「あのおかたは、あなたさまとどういう関係のおかたで」
「いとこの葉巡簡《しようじゆんかん》(巡簡は巡検。捕盗の官)です」
宋江はそういい、また戴宗にも、李師師に挨拶をさせた。かくて宋江・柴進らは左側の客の席につき、李師師は右側のあるじの席についてお相手をした。ばあや(注八)がお茶を運んでくると、李師師は自分で、宋江・柴進・戴宗・燕青にそれぞれすすめたが、そのお茶の香りのすばらしいことはいわずと知れたこと。茶がすみ、茶碗・茶托がとりさげられて、よもやま話に移りかけたとき、ふいにばあやがやってきて、
「お上《かみ》が裏にお見えになりました」
と知らせた。すると李師師は、
「ほんとうにあいすみませんが、おひきとりくださいますよう。あすは上清宮へ行幸になりますので、お見えになることもございませんから、そのときみなさんにおいでねがって、くつろいでいただきましょう」
宋江は唯々諾々と、三人をつれて辞去した。李師師の家を出ると、小御街《ぎよがい》を通って天漢橋へ鰲山《ごうざん》(灯籠を飾った山車)を見に出かけたが、樊楼《はんろう》(酒楼の名)の前まで行くと、楼上では笛や太鼓の音が天にもとどくほどにぎやかに、明りは眼にまばゆく、遊びまわる人々は蟻の群れのようなありさまなので、宋江・柴進らも樊楼へあがって部屋をとり、酒や料理をいいつけ、楼上から灯籠見物をしながら杯をかたむけたが、五六杯飲んだとき、とつぜん隣の部屋で誰かが歌をうたいだした。
浩気《こうき》天に冲して斗牛(南斗星・牽牛星)を貫くも
英雄の事業未だ曾て酬いず(いまだ志をとげず)
手に提《ひつさ》ぐ三尺竜泉の剣
奸邪を斬らずんば誓って休《や》まざらん
宋江はそれを聞き、あわてて出て行って見ると、九紋竜の史進と没遮〓の穆弘が部屋のなかでしたたか酔ってたわけたことをいっているのだった。宋江は駆けよって行って叱りつけた。
「おい、ふたりともあんまりおどかさないでくれ。早く勘定をはらって、急いで出て行くんだ。わたしだったからよかったものの、もし役人の耳にはいりでもしたら、とんでもないことになるところだったぞ。ふたりがこうも無分別なそこつものだとは知らなかった。さっさと城外へ行ってくれ。ぐずぐずしていてはならん。あした、本祭りを見物したら夜どおしで山へ帰るんだ。それだけで十分じゃないか。ぼろを出さないようにするんだぞ」
史進と穆弘は一言もなかった。さっそく給仕を呼んで勘定をすませると、ふたりは楼をおりてさきに城外へ帰って行った。宋江と柴進らの四人は、軽く飲んでほろ酔いのところで切りあげ、戴宗が勘定をすませると、四人は袖をはらって楼をおり、まっすぐ万寿門から出て宿屋へもどり、門をたたいた。李逵はねむそうな眼をしばたたきながら宋江にいった。
「兄貴がおれをつれてきてくれなかったのなら別だが、つれてきておきながら部屋の留守番をさせるとは、糞いまいましいじゃないか。あんたたちはみんな出かけて行って、さぞ楽しかったでしょうな」
「おまえは気性が荒らっぽいし、ご面相もすごいから、もし城内へつれて行って騒動をひきおこされでもしたら困るからな」
「それなら、つれてこなけりゃよかったんだ。なにもそんなにあれこれとこじつけをいわなくたっていいでしょう。いったい、いつおいらが、よその人さまをおどかしたというんです」
「あすの十五日一晩だけはつれて行くよ。本祭りを見物したら、夜どおしで山へ帰るんだ」
宋江がそういうと、李逵は声をあげて笑いだした。
一夜明けて、翌日はちょうど上元の節日。すがすがしいよい天気だった。やがて日が暮れると、元宵を祝う人々の数はかぞえきれぬばかり。ここに古人が元宵の景色をうたった絳都春《こうとしゆん》(曲の名)のうたがある。
融和《ゆうわ》(春の気)初めて報じ、乍《たちま》ち瑞靄《ずいあい》霽色《せいしよく》(めでたい靄《もや》、晴れた景色)、星都《せいと》春早し。翠〓《すいけん》(車)競《きそ》い飛び、玉勒《ぎよくろく》(馬)争い馳《は》す。都《すべ》て聞道す(いい伝う)鰲山《ごうざん》の彩《かざり》は蓬〓島を結ぶと。晩色に向《おい》て双竜は照《あかり》を銜《ふく》み、絳《あか》き霄楼《しようろう》(高楼)の上、〓《あか》き芝蓋《しがい》(絹の傘)の底《もと》、仰いで天表(空)を瞻《み》る。縹緲《ひようびよう》として風は帝楽《ていがく》(天の楽)を伝え、慶して玉殿に共に賞し、群仙同《ひと》しく到る。〓《いり》として御香は飄満し、人間《じんかん》(下界)に〓笑《きしよう》を開く。一点の星毬《せいきゆう》(星)は小さく、漸く隠隠として梢に鳴る声沓《はるか》なり。遊人は月下に帰り来《きた》り、洞天(仙人の住む名山)未だ暁《あかつき》ならず。
その夜、宋江は柴進とともに、前と同じく間涼官の身なりをし、戴宗・李逵・燕青をつれて、五人で万寿門をはいって行った。その夜は夜禁《やきん》(夜間城門を閉じること)はなかったが、各城門とも頭《かしら》の兵はよろいに身をかため、みな軍衣軍帽をつけ、弓は弦を張り刀は鞘をはらって、いかめしく並んでいた。高太尉もみずから屈強な駿馬の兵五千をひきいて城壁を巡視していた。宋江ら五人は、ひとごみにまぎれて、おしあいへしあいしながらそのまま城内へはいって行った。宋江はまず燕青を呼びよせてその耳もとにささやいた。
「かくかくしかじかにしてもらいたい。きのうの茶房で待っているから」
燕青はまっすぐ李師師の家へたずねて行った。すると李媽媽と李行首(注九)がそろって燕青を出迎え、
「どうか旦那さま(注一〇)におわびしてくださいましな。きのうはお上がふいにお忍びで見えましたため、わたくしどもでもいたしかたがございませんでしたって」
燕青はいった。
「主人からも、くれぐれもおかみさんによろしくとのことでした、姐さん(注一一)をとりもっていただいて。山東は海辺の田舎でなにも珍しいものがなく、たとえあったにしても、とてもお気に召すまいからと、手土産(注一二)がわりに黄金百両をあずかってまいりました。あとでまたなにか珍しいものでも、あらためてお贈りさせていただくとのことでした」
「旦那さまはいまどこにいらっしゃるのです」
と李媽媽はたずねた。
「すぐそこの町の入口です。わたしがこれをおとどけしてから、いっしょに灯籠見物をなさろうというので」
いったいにやりて婆というものは金には眼のないものである。燕青が炭火のような金塊をふたつ取り出したのを見て心をうごかさないはずはなく、
「きょうは上元のおめでたい日だから、わたしたち母子《おやこ》で内輪に一席設けようと思っているのだけど、旦那さまのほうでもしおよろしかったら、うちでおくつろぎねがえないでしょうか」
といった。
「それじゃわたしがお呼びしてきましょう。きっといらっしゃるでしょう」
燕青はそういうなり茶房へひき返して宋江にこのことを話し、さっそくみなで李師師の家へ出かけた。宋江は戴宗と李逵を門前に待たせておいた。三人がなかの大きな客間へ通ると、李師師は出迎えて礼をいった。
「お近づきをいただいたばかり(注一三)でございますのに、あのようなたいそうなことをしていただきますなんて。お返しいたしますのも失礼でございますし、お受けいたしましてはまた、分《ぶん》に過ぎるというものでございます」
「田舎のこととてなんの珍しいものもありませんので、しるしまでに、つまらないものをさしあげました。お礼をいっていただくほどのことではありません」
李師師は三人を小部屋へ請じいれ、主客それぞれの席についた。ばあやや下女が、異《かわ》つたつまみものや、きれいなお菜、珍しい肴、贅沢な料理を運んできた。それらはみな銀のうつわに盛られ、食卓いっぱいに並べられた。李師師は杯を持ってすすみ出、礼をしていった。
「前世のご縁で今宵、おふたかた(宋江と柴進)にお目にかかれました。なにもございませんが、どうか一献お召しあがりくださいませ」
「わたしは田舎に多少の財産は持っておりますが、このような富貴を目にするのははじめてです。あなたの風雅のうわさは世に名高く、一目見ることさえも天へのぼるほどむずかしいことなのに、こうして親しく酒食をいただこうとは」
「たいそうなお言葉、はずかしゅうございます」
と李師師はひとわたり酒をすすめてから、ばあやにいいつけて小さな金の杯につぎつぎにつがせた。李師師の話は街の粋《いき》な話ばかり。柴進がもっぱらそれに答え、燕青はその傍に立って合《あい》の手を入れて座を湧かした。酒が幾まわりかするうちに、宋江は口が軽くなり、袖をまくりあげてさかんに手をふりまわし、梁山泊の流儀になってきた。柴進は笑いながら、
「いとこはいつも酔うとこんなふうになるのです。お笑いくださいますな」
「誰しも癖はございます。かまいませんわ」
そこへ女中がいいにきた。
「表のおふたりのお供のうち、赤い鬚の、恐《こわ》い顔をしたかたが、がみがみどなっておられます」
「ふたりを呼んできてもらいましょう」
と宋江はいった。やがで戴宗が李逵をつれて部屋にはいってきた。李逵は、宋江と柴進が李師師とむかいあって酒を飲んでいるのを見ると、たちまち胸がむかついてきて、恐い眼で三人をにらみつけた。李師師が、
「この人は誰ですの。土地廟の判官《はんがん》(地獄の書記)と対《つい》で立っている小鬼《しようき》(獄卒)みたいだわ」
というと、みなはどっと笑ったが、李逵は女のいった意味がわからなかった。
「これは家つきの下僕の子の小李《しようり》というものです」
と宋江がいうと、李師師は笑いながら、
「わたしはかまいませんけど、太白《たいはく》学士(李白《りはく》)さまが恥をおかきになりますわ」
「こいつはなかなか腕が立って、二三百斤の荷をかつぎ、四五十人のものをやっつけることができるのですよ」
李師師は銀の大杯を持ってこさせて、ふたりに三杯ずつすすめた。戴宗も三杯飲んだ。燕青は、おかしなことをいい出されてはとおそれ、さっそく李逵と戴宗をひきさがらせて、もとどおり門前で待たせた。
宋江は、
「大の男が酒を飲むのに、小さい杯なんか面倒だ」
と、大杯を取ってたてつづけに飲んだ。李師師は蘇東坡《そとうば》の「大江《たいこう》東に去るの詞《うた》」を口ずさんだ。宋江は酒興に乗じて紙と筆を求め、墨を濃く磨ってたっぷりと筆にふくませ、花箋《かせん》をひろげると李師師にむかっていった。
「でたらめにひとつうたを作って胸のなかの鬱憤をさらけ出し、姐さんに聞いていただくことにしましょう」
宋江はそのとき筆を走らせて楽府《がふ》の曲のうた一首をものしたが、それは、
天南地北、問う乾坤《けんこん》何れの処にか狂客を容《い》る可き。借り得たり山東の煙水の寨。来《きた》り買う鳳城《ほうじよう》(都)の春色(李師師をいう)。翠袖《すいしゆう》は香を囲み、絳〓《こうしよう》(赤い絹)は雪(肌)を籠めて、一笑千金の価《あたい》。神仙の体態、薄倖《はくこう》如何ぞ消《もち》い得ん。想《おも》う蘆葉《ろよう》の灘頭、蓼花《りようか》の汀畔、皓月《こうげつ》は空に碧《みどり》を凝《こ》らし、六六(天〓星三十六の意)の鴈行《がんこう》八九(地〓七十二の意)を列ねて、只等《ま》つ金鶏《きんけい》の消息《しようそく》(天子の招安の意)を。義胆は天を包み、忠肝は地を蓋《おお》うも、四海に人の識《し》る無し。離愁万種、酔郷の一夜に頭《こうべ》白し。
書きおわると李師師に手わたしたが、李師師はなんど読んでもその意味がわからない。宋江は、わけをたずねられたら心につもる衷情《ちゆうじよう》を訴えようとして待ちかまえていたが、そこへばあやがやってきて、
「お上が地下道(注一四)から裏門へお見えになりました」
と告げた。すると李師師はそわそわとして、
「お見送りもできませんが、どうかおゆるしください」
といい、裏門へ天子を迎えに行った。ばあやや女中たちは急いで杯やうつわものをとり片付け、卓台をかついでいったり、あちこちを掃除したりした。宋江らは出て行かずに、暗がりに身をひそめて様子をうかがっていた。と、李師師が天子の前に礼をささげ、ご機嫌をうかがっていう。
「お上には、お疲れ遊ばしたことでございましょう」
見れば天子は、頭には練絹《ねりぎぬ》の唐巾《とうきん》をかぶり、身には飛竜の上着をまとっておられる。
「わたしはきょう、上清宮へおまいりして、いまもどってきたところです。太子には宣徳楼《せんとくろう》(皇居の南門)で万民に酒を下賜させ、弟には千歩廊《せんぽろう》へ品物をととのえに行かせ、楊太尉には約束をしておいたのだが、いくら待ってもこないので、ひとりでやってきたのです。もっと傍へおいで。話をしましょう」
宋江は暗がりのなかでささやいた。
「いまやらなければ、二度とこんな機会はないだろう。三人でこの機会に恩赦の詔勅をおねがいしたってよかろうじゃないか」
「とんでもない。たとえお聞きとどけを得たとしても、あとで必ず変えられてしまいましょう」
と柴進。
三人が暗がりのなかで相談しているとき、一方、李逵は、宋江や柴進が美人と酒を飲みながら、自分と戴宗は門番をいいつけられたので、髪の毛も逆立つばかりに腹を立てながら、そのやり場がなくて困っていた。と、そこへ楊太尉が、幕をあげ簾をかかげ、門をおしあげて、つかつかとはいってきたが、李逵を見てどなりつけた。
「きさまはいったい誰だ。こんなところにいるなんて」
李逵は返事もせず、いきなり椅子をつかみ、楊太尉をまっこうからなぐりつけた。楊太尉はびっくりして手も出せず、二三度なぐられて地面にひっくりかえってしまった。戴宗がすぐとめにはいったが、もはや手に負えない。李逵は掛け軸をひきちぎって〓燭の火を移し、あっちを焼き、こっちを焼きして、あたり一面に火をつけ、香机や椅子を打ちくだいた。
宋江ら三人が物音を聞きつけて急いで出て行って見ると、黒旋風が肌ぬぎになってあばれまわっている。四人で門の外へひっぱって行くと、李逵は通りで棒切れを奪って、まっしぐらに小御街へあばれ出して行った。宋江は彼が本性《ほんしよう》をあらわしたのを見ると、しかたなく柴進・戴宗とともに一足さきに城外へ逃げ出した。城門を閉められたらのがれられなくなるからで、あとは燕青を残して李逵を見させることにした。
李師師の家が燃えだすと、おどろいた趙官家《ちようかんか》(官家は天子のこと。宋室は趙姓)は雲を霞と逃げて行き、近所のものは火を消す一方、楊太尉を助け出したが、それらの話はいちいちいうまでもなかろう。城内はわあっとばかり、上を下への大騒ぎ。高太尉は北門を巡視していたが、この知らせを聞くと兵をひきつれて追いかけた。燕青は李逵といっしょにたたかっているうちに、穆弘と史進に出くわし、四人はそれぞれ槍や棒をふるって互いに助けあいながら、まっすぐに城壁のもとまで突きすすんで行った。門衛の兵士は急いで門を閉めようとしたが、外から、魯智深が鉄の禅杖をふりまわし、武行者は二本の戒刀をふるい、朱仝と劉唐は朴刀をおっとって早くも城内へ斬りこみ、四人を助け出した。かくてようやく城内を出たところへ、高太尉の軍勢が城外へ追いかけてきた。八人の頭領たちは、宋江・柴進・戴宗の姿が見えないので大いにあわてたが、それは、軍師の呉用がこのことを予測して東京をひと騒がせする手筈をととのえ、日時を決めて、五名の虎将《こしよう》に、よろいをつけた騎兵一千をひきつれさせ、ちょうどその夜、東京の城外で待ちうけさせていたところ、うまく宋江・柴進・戴宗の三人に出あって、ひいてきた空馬に乗せたというわけであった。あとの連中(魯智深たち)もやってきて、一同が馬に乗っていざ出発しようとすると、李逵の姿が見えない。高太尉の軍勢は追い迫ってくる。宋江配下の五虎将、関勝・林冲・秦明・呼延灼・董平は、城壁のもとへ突きすすんで行き、馬を濠のほとりにとめて大声で呼ばわった。
「梁山泊の好漢が全員そろってやってきたぞ。さっさと城をあけわたすならば、きさまの一命は助けてやろう」
高太尉はそれを聞くと、城外へ討って出るどころではなく、あわてて吊り橋をおろして兵を城内へひきあげさせ、守りをかためた。宋江は燕青を呼んでいいつけた。
「あんたは黒ん坊(李逵)といちばん親しいから、しばらくあれを待ってやって、あとからいっしょにくるように。わたしは部隊や諸将とともにさきに出かけて、急いで山寨へひきあげることにする。途中でまちがいでもおこると困るから」
宋江らの軍勢が帰って行ったことはさておき、一方、燕青が人家の軒さきで見ていると、宿屋へ荷物を取りに行った李逵が、二梃の斧を手に、大声で吼えながら宿屋の門を飛び出し、ただひとり東京の城へ討ち入ろうとしているのであった。まさに、声は巨雷を吼えて店肆《てんし》を離れ、手は大斧を提《ひつさ》げて城門を劈《つんざ》くというところ。さて黒旋風の李逵はいかにして城に討ち入って行ったか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 戊己中央 戊己は十干の第五位と第六位で、方位では中央にあたるので、戊己中央といったのである。
二 御街 天子の通る大通りという意味で、東京(開封)の宮居前の大通りの称。
三 おんな 原文は角妓。妓女のこと。角は芸をくらべるの意。
四 花魁 原文は行首。第一番の売れっこの妓女をいう。
五 おかみさん 原文は媽媽。年長の婦人の称(また、母をもいう)。
六 おばさん 原文は老娘。父方の叔母(また、母、外祖母をもいう)。
七 かあさん 原文は娘子。母をいう(また、少女をもいう)。
八 ばあや 原文は〓子。乳母をいう。
九 行首 注四参照。
一〇 旦那さま 原文は員外。第二回注二参照。
一一 姐さん 原文は花魁娘子。売れっ子の妓女。
一二 手土産 原文は人事。つけとどけ、贈り物などをいう。
一三 お近づきをいただいたばかり 原文は識荊之初。識荊はまた識韓ともいう。韓荊州を識るという意で、はじめてすぐれた人に会うこと。李白の「與韓荊州書」に、「白聞く、天下の士を談ずるもの相聚りて言いて曰く、生は万戸侯に封ぜらるるを用いず、但願わくは一たび韓荊州を識らん(一識韓荊州)と。何ぞ人の景慕をして一に此に至らしむるや」とあるにもとづく。
一四 地下道 原文は地道。「東京夢華録」には、徽宗皇帝が李師師を寵愛してその家を師師府と称し、宮居とのあいだに地道を通していたというのは伝聞の誤りであるとしるされている。
水滸伝《すいこでん》(五)
講談社電子文庫版PC
施耐庵《したいあん》/駒田信二《こまだしんじ》訳
(C) Setsu Komada 1985
二〇〇二年六月一四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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