TITLE : 水滸伝(七)
講談社電子文庫
水滸伝(七)
駒田信二 訳
目 次
第八十八回
顔統軍《がんとうぐん》 陣を混天《こんてん》の象《しよう》に列《つら》ね
宋公明《そうこうめい》 夢に玄女《げんじよ》の法《ほう》を授《さず》かる
第八十九回
宋公明《そうこうめい》 陣を破って功を成し
宿太尉《しゆくたいい》 恩を頒《わか》ちて詔《みことのり》を降《くだ》す
第九十回
五台山《ごだいさん》に 宋江《そうこう》参禅し
双林鎮《そうりんちん》に 燕青故《えんせいこ》に遇《あ》う
第九十一回
宋公明《そうこうめい》 兵もて黄河《こうが》を渡り
盧俊義《ろしゆんぎ》 城を黒夜に賺《すか》す
第九十二回
軍威を振う 小李広《しようりこう》の神箭《しんせん》
蓋郡《がいぐん》を打つ 智多星《ちたせい》の密籌《みつちゆう》
第九十三回
李逵《りき》 夢に天地を鬧《さわ》がし
宋江《そうこう》 兵を両路に分《わか》つ
第九十四回
関勝《かんしよう》 義もて三将を降《くだ》し
李逵《りき》 莽《もう》もて衆人を陥《おとしい》る
第九十五回
宋公明《そうこうめい》 忠もて后土《こうど》を感《うご》かし
喬道清《きようどうせい》 術もて宋兵を敗《やぶ》る
第九十六回
幻魔君《げんまくん》 術もて五竜山《ごりゆうざん》に窘《きわ》まり
入雲竜《にゆううんりゆう》 兵もて百谷嶺《ひやくこくれい》を囲《かこ》む
第九十七回
陳〓《ちんかん》 諫官《かんかん》にして安撫《あんぶ》に陞《のぼ》り
瓊英《けいえい》 処女《しよじよ》にして先鋒《せんぼう》と做《な》る
第九十八回
張清《ちようせい》 縁《えにし》もて瓊英《けいえい》を配《めと》り
呉用 計《はかりごと》もて〓梨《うり》を鴆《ころ》す
第九十九回
花和尚《かおしよう》 縁纏井《えんてんせい》を解脱《げだつ》し
混江竜《こんこうりゆう》 太原城《たいげんじよう》に水灌《すいかん》す
第百回
張清瓊英《ちようせいけいえい》 双《なら》んで功を建て
陳〓宋江《ちんかんそうこう》 同《ひと》しく捷《かち》を奏《そう》す
第百一回
墳地《ふんち》を謀って 陰険逆《ぎやく》を産《さん》し
春陽《しゆんよう》を踏んで 妖艶奸《かん》を生ず
第百二回
王慶《おうけい》 姦《かん》に因《よ》って官司《かんし》を喫《きつ》し
〓端《きようたん》 打たれて軍犯を師とす
第百三回
張管営《ちようかんえい》 妾弟《しようてい》に因《よ》って身を喪《うしな》い
范節級《はんせつきゆう》 表兄《ひようけい》の為に臉《かお》を医《い》す
第百四回
段家荘《だんかそう》 重ねて新女婿《しんじよせい》を招き
房山寨《ぼうざんさい》 双《なら》んで旧強人《きゆうきようじん》を併《へい》す
第百五回
宋公明《そうこうめい》 暑を避けて軍兵を療《いや》し
喬道清《きようどうせい》 風を回《かえ》して賊寇《ぞくこう》を焼く
第百六回
書生 談笑して強敵を卻《しりぞけ》け
水軍 汨没《こつぼつ》して堅城を破る
第百七回
宋江《そうこう》 大いに紀山《きざん》の軍に勝ち
朱武《しゆぶ》 打って六花の陣を破る
水滸伝(七)
第八十八回
顔統軍《がんとうぐん》 陣を混天《こんてん》の象《しよう》に列《つら》ね
宋公明《そうこうめい》 夢に玄女《げんじよ》の法《ほう》を授《さず》かる
さて、そのとき宋江《そうこう》は山の高みから遼軍のすさまじい勢いを見ると、あわてて馬首を転じて陣地へもどり、ひとまず軍を永清県《えいせいけん》の山のふもとまで後退させて陣営をかまえ、ただちに本営で盧俊義《ろしゆんぎ》・呉用《ごよう》・公孫勝《こうそんしよう》らと協議をした。
「きょうは一戦を勝ち取って敵の先鋒《せんぽう》ふたりを討ちとりはしたが、高みへのぼって遼軍を偵察したところ、その勢いは浩大で、天地をおおいつくさんばかりにおし寄せてくる。まことに大部隊の蕃軍で、あすは必ずこの敵との大いくさになろうが、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》で勝ちみがない。いったいどうすればよかろう」
すると呉用のいうには、
「いにしえのよく兵を用いるものは、無勢をもってよく多勢にうち勝っております。むかし晋《しん》の謝玄《しやげん》(注一)は、五万の兵をもって苻堅《ふけん》(注二)の百万の雄兵を討ち破りました。なにをおそれることがありましょう。全軍の将兵に命をくだして、あすは必ず旗旛《きはん》を厳整にし、弓弩には弦《つる》を張り、刀剣は鞘をはらい、深く鹿角《さかもぎ》を植え、厳しく陣営を守り、塹濠を掘りめぐらし、兵器をならべ、雲梯《うんてい》や砲石(投げ石)などを整備して、あらかじめ待機させるのです。そして九宮八卦の陣を布いて、敵がおし寄せてきましたならばつぎつぎに行動をおこすのです。そうすれば、たとえ敵に百万の衆があろうとも、決して突っこんでこれるものではありません」
「それはまことに妙言です」
と宋江はいい、ただちに命令をくだした。全軍の将兵はことごとくその命令にしたがった。かくて五更(朝四時)ごろ腹ごしらえをし、明けがた、陣地をひき払って出発、昌平県《しようへいけん》の境まで進んでそこに陣列を布きつらね、陣営を設けた。前方には騎兵を並べたが、従来どおり虎軍の大将の秦明《しんめい》が前に、呼延灼《こえんしやく》が後ろに、関勝《かんしよう》は左に、林冲《りんちゆう》は右に、東北には徐寧《じよねい》、西南には董平《とうへい》、西北には楊志《ようし》が陣取った。宋江は中軍を統《す》べ、その他の諸将ももとどおりの任についた。後方の歩兵は別に陣地を設けてひかえ、盧俊義・魯智深《ろちしん》・武松《ぶしよう》の三人が指揮をした。数万の軍勢は百戦錬磨の勇将ぞろいで、いずれもみな拳《こぶし》をなで掌《てのひら》をさすって、合戦にそなえた。陣勢はすでにととのって、いまはただ蕃軍のくるのを待つばかりとなる。
やがて、はるかに遼軍のおし寄せてくるのが見えた。その前方の六隊の蕃軍は、各隊それぞれ五百名からなり、左に三隊、右に三隊と配されていたが、互いにぐるぐるとゆきちがいあって、絶えず形勢を変えていた。この六隊の遊兵(遊撃隊)は、哨路《しようろ》(斥候)ともまた圧陣《あつじん》(尖兵)とも呼ばれた。そのうしろからは大部隊が地をおおっておし寄せてきたが、その前軍はことごとく〓纛旗《そうとうき》(黒い大旗)をかざし、軍中には七つの旗門があって、一門ごとに騎兵一千と、大将一名が配されていた。その大将たちのいでたちはというに、頭には黒い〓《かぶと》をかぶり、身には玄《くろ》い甲《よろい》をつけ、上には〓《くろ》い袍《うわぎ》をはおり、烏《くろ》い馬にまたがり、手にはみな同じ武器を持っていたが、これはまさしく北方(北は色に配すれば黒)の、斗《と》・牛《ぎゆう》・女《じよ》・虚《きよ》・危《き》・室《しつ》・壁《へき》(いずれも二十八宿のうちの北方につらなる星の名)になぞらえたものである。七門のうちには一名の把総大将《はそうたいしよう》(総大将)が置かれて、天上界の北方玄武水星《ほくほうげんぶすいせい》に擬せられていた。そのいでたちはというに、頭には青糸《せいし》(黒糸)のごとき髪をさばき、黄色い抹額《まつがく》(鉢巻きの類)で金箍《きんこ》(額《ひたい》を護るための金の箍輪《たがわ》)をきりりと締め、身には半袖の〓《くろ》い袍《うわぎ》をはおり、烏油甲《うゆうこう》(黒い皮のよろい)で銀の鎧《よろい》をぴったりとつつみ、脚は千里を走る烏騅《うすい》(黒馬)にまたがり、手には黒い柄の三尖刀《さんせんとう》をささげていた。これぞ蕃将曲利出清《きよくりしゆつせい》で、さばき髪の、黒い甲《よろい》をつけた兵三千をひきつれていて、北辰五〓星君《ほくしんごきせいくん》に擬せられる人である。〓旗《くろはた》のもと、兵士はその数かぞえきれず、まさに凍雲《とううん》東方の日を截断《せつだん》し、黒気《こくき》北海の風を併呑《へいどん》すという勢い。
左軍はことごとく青竜旗をかざしていた。軍中には七つの旗門があって、一門ごとに騎兵一千と、大将一名が配されていたが、その大将たちのいでたちはというに、頭には四縫《しほう》の〓《かぶと》をかぶり、身には柳葉《りゆうよう》の甲《よろい》をつけ、上には翠《みどり》色の袍《うわぎ》をまとい、下は青い〓《たてがみ》の馬にまたがり、手にはみな同じ武器を持っていて、これはまさしく東方(東は色に配すれば青)の、角《かく》・亢《こう》・〓《てい》・房《ぼう》・心《しん》・尾《び》・箕《き》(いずれも二十八宿のうちの東方につらなる星の名)になぞらえたもの。七門のうちには一名の把総大将が置かれて、天上界の東方蒼竜木星《とうほうそうりゆうもくせい》に擬せられていた。そのいでたちはというに、頭には獅子の〓《かぶと》をかぶり、身には〓猊《しゆんげい》の鎧をつけ、翠《みどり》の厚い刺繍をほどこした青い袍《うわぎ》、金襴に碧《あお》い玉をあしらった帯、手には金線の柄の月斧《げつぷ》(まさかり)を持ち、身は白いまだらの青毛の俊馬にうち乗っていた。これぞ蕃将只児払郎《しじふつろう》で、青色の宝旛《ほうはん》(飾り旗)をかざした兵三千をひきつれていて、東震九〓星君《とうしんきゆうきせいくん》に擬せられる人である。青旗のもと、左右にとりまく兵士はその数かぞえきれず、まさに翠色黄道《こうどう》の路《みち》(日の路、東方)を点開し、青霞紫雲《しうん》の根《ね》を截断《せつだん》すというところ。
右軍はことごとく白虎旗をかざしていた。軍中にはこれまた七つの旗門があって、一門ごとに騎兵一千と、大将一名が配されていたが、その大将たちのいでたちはというに、頭には水磨《すいま》(白く磨きあげた)の〓《かぶと》をかぶり、身には爛銀《らんぎん》(かがやく銀)の鎧をつけ、上には素羅《しろぎぬ》の袍《うわぎ》をはおり、雪白の馬にまたがり、それぞれ武器をにぎりしめていて、これはまさしく西方(西は色に配すれば白)の、奎《けい》・婁《ろう》・胃《い》・昴《ぼう》・畢《ひつ》・觜《し》・参《しん》(いずれも二十八宿のうちの西方につらなる星の名)になぞらえたもの。七門のうちには一名の把総大将が置かれて、天上界の西方咸池金星《せいほうかんちきんせい》に擬せられていた。そのいでたちはというに、頭には兜〓《とうぼう》(かぶとの鉢)に鳳翅《ほうし》の飾りをつけた〓《かぶと》をかぶり、身には双鉤《そうこう》(籠字《かごじ》)の模様の銀の甲《よろい》をつけ、腰なる玉を飾った帯は寒光をほとばしらせ、身体に合った素《しろ》い練《ねりぎぬ》の袍《うわぎ》は雪を飛ばし、夜目にもあざやかな純白の俊馬にうち乗り、銀白の棗《なつめ》の柄の純鋼《じゆんこう》の槊《ほこ》を手にしていた。これぞ蕃将烏利可安《うりかあん》で、白い纓《ふさ》の素《しろぎぬ》の旗をかざした兵三千をひきつれていて、西兌七〓星君《せいだしちきせいくん》に擬せられる人である。白旗《しろはた》のもと、前後に護衛する兵士はその数かぞえきれず、まさに征駝陰山《せいだいんざん》(内蒙古の陰山山脈)の雪を捲き尽《つく》し、蕃将玉井《ぎよくせい》(星の名)の冰《こおり》を斜めに披《ひら》くというところ。
後軍はことごとく緋紅《ひこう》の旗をかざしていた。軍中にはこれまた七つの旗門があって、一門ごとに騎兵一千と、大将一名が配されていたが、その大将たちのいでたちはというに、頭には箱型(注三)の朱紅の漆《うるし》ぬりの笠(注四)をかぶり、身には猩猩紅《しようじようこう》の血染めのごとき征袍(戦衣)をまとい、桃紅色の鎖甲《さこう》(くさりかたびら)は魚鱗のさまをあらわし、陣を衝《つ》く俊馬の名は赤兎《せきと》、そしていずれも手に武器をつかんでいて、これはまさしく南方(南は色に配すれば赤)の、井《せい》・鬼《き》・柳《りゆう》・星《せい》・張《ちよう》・翼《よく》・軫《しん》(いずれも二十八宿のうちの南方につらなる星の名)になぞらえたもの。七門のうちには一名の把総大将が置かれて、天上界の南方朱雀火星《なんほうしゆじやくかせい》に擬せられていた。そのいでたちはというに、頭には、朱《しゆ》色の纓《ふさ》の燦爛たる絳《あか》い冠をかぶり、身には茜《あかね》色の光り輝く緋紅の袍《うわぎ》をまとい、甲《よろい》は一片の紅《あか》い霞のごときをつけ、靴には幾すじもの花の刺繍をほどこし、腰には紅《あか》い皮の宝帯をしめ、腕には硬弓《こうきゆう》・長箭《ちようせん》を掛け、手には八尺の火竜刀を持ち、〓脂《えんじ》(紅《べに》色)の馬にうち乗っていた。これぞ蕃将洞仙文栄《どうせんぶんえい》で、紅《あか》い羅《きぬ》の宝旛《ほうはん》をかざした兵三千をひきつれていて、南離三〓星君《なんりさんきせいくん》に擬せられる人である。赤旗《あかはた》のもと、朱色の纓《ふさひも》に絳《あか》い衣の兵士はその数かぞえきれず、まさに離宮《りきゆう》(星の名)六丁神(道教の武神)を走却し、霹靂《へきれき》三昧火(注五)を震開すというところ。
陣頭の左側には猛兵五千からなる一隊があって、いずれもみな金縷《きんる》(金襴)の弁冠《べんかん》(武人の冠)、鍍金《ときん》(金めっき)の銅の甲《よろい》、緋色の袍《うわぎ》に朱色の纓《ふさひも》、焔のような紅《あか》い旗、絳《あか》い鞍に赤い馬といういでたちで、ひとりの大将をおしたてていた。その大将は、頭には芙蓉《ふよう》(蓮の花)を如意《によい》の形にあつめた縷金《るきん》(金襴)の冠をかぶり、身には連環《れんかん》(くさり)を獣面《じゆうめん》(猛獣の相かみあう形)につないだ黄金の鎖子甲《さしこう》(くさりかたびら)をつけ、猩猩紅の烈火のような花模様を刺繍した袍《うわぎ》をまとい、碧玉をちりばめ金を象眼した七宝の帯をしめ、日《じつ》・月《げつ》ふた振りの刀を手にし、色あざやかな赤い馬にうち乗っていた。これぞ遼国の御弟大王《ぎよていたいおう》・耶律得重《やりつとくじゆう》で、まさしく天上界の太陽星君《たいようせいくん》に擬せられる人である。まさに金烏《きんう》(太陽の異名)擁《よう》し出《いだ》す扶桑国《ふそうこく》(東海の日出ずる国)、火傘《かさん》(太陽の異名)初めて離る東海洋《とうかいよう》というところ。
陣頭の右側には女兵五千からなる一隊が配されていて、いずれもみな銀花(雪白)の弁冠、銀鉤《ぎんこう》(銀のくさり)の鎖甲《さこう》、素《しろぎぬ》の袍《うわぎ》に素《しろ》い纓《ふさひも》、白い旗に白い馬、銀の桿《え》の刀や槍といういでたちで、ひとりの女将軍をおしたてていた。その女将軍は、金の鳳釵《ほうさ》(鳳凰のかんざし)を対《つい》に青糸《せいし》(黒髪)に挿し、紅い抹額《まつがく》は珠翠《しゆすい》(翡翠《ひすい》)の髪飾りに乱れ、雲肩《うんけん》(雲形の肩縫いをほどこした婦人の服)は錦の裙《もすそ》と似合って巧みに着こなし、刺繍した襖《うわぎ》は銀の甲《よろい》を深くつつみ、小さな花模様の靴はおだやかに金の鐙《あぶみ》に、ひるがえる翠《みどり》の袖《そで》には玉鞭《ぎよくべん》かろやかに、七星を飾った宝剣を手にし、銀の〓《たてがみ》の白い馬にうち乗っていた。これぞ遼国の天寿公主《てんじゆこうしゆ》・答里孛《とうりはい》で、天上界の太陰星君《たいいんせいくん》に擬せられる人である。まさに玉兎《ぎよくと》(月の異名)団々《だんだん》として海角《かいかく》を離れ、冰輪《ひようりん》(月の異名)皎々《こうこう》として瑶台《ようだい》(玉のうてな。また月の異名)を照らすというところ。
このふたつの隊のあいだに、ぐるりと円陣をつくっている軍勢は、ことごとく黄旗《こうき》をかざしていて、群がる将兵はいずれも黄色い馬に乗り、みな金の甲《よろい》をつけ、甲をおおう(注六)袍《うわぎ》は一片の黄色い雲をまきおこし、刺繍した包布(頭巾)は半尺の黄色い霧をたなびかすかのよう。この黄軍の隊には、四人の大将がいて、それぞれ兵三千をひきいて四隅に分かれていた。すなわちそれぞれの隅は、ひとりの大将が円陣をかまえて守っていたが、その東南の大将は、青い袍《うわぎ》に金の甲《よろい》、手には宝鎗《ほうそう》を持ち、粉青馬《ふんせいば》(白葦毛の馬)にうち乗って陣頭に立っていた。天上界の羅〓星君《らこうせいくん》に擬せられる人で、これぞ遼国の皇姪《こうてつ》・耶律得栄《やりつとくえい》である。西南の大将は、紫の袍に銀の甲、一振りの宝刀を手にし、海〓馬《かいりゆうば》(栗毛の馬)にうち乗って陣頭に立っていた。天上界の計都星君《けいとせいくん》に擬せられる人で、これぞ遼国の皇姪・耶律得華《やりつとくか》である。東北の大将は、緑の袍に銀の甲、手には方天《ほうてん》の画戟《がげき》をとり、色あざやかな黄馬にうち乗って陣頭に立っていた。天上界の紫〓星君《しきせいくん》に擬せられる人で、これぞ遼国の皇姪・耶律得忠《やりつとくちゆう》である。西北の大将は、白い袍に銅の甲、手には七星の宝剣をとり、〓雪烏騅馬《てきせつうすいば》(足首の白い黒馬)にうち乗って陣頭に立っていた。天上界の月孛星君《げつはいせいくん》に擬せられる人で、これぞ遼国の皇姪・耶律得信《やりつとくしん》であった。
黄軍の陣中には、ひとりの上将がおしたてられていて、その左には青旗を持つもの、右には白鉞《はくえつ》をとるもの、前には朱旛《しゆはん》をささげるもの、うしろには〓蓋《そうがい》をかざすものがひかえていた。そのまわりをとりまく旗じるしは、二十四気・六十四卦になぞらえ、南辰・北斗・飛竜・飛虎・飛熊・飛豹(いずれも旗の名)等、明らかに陰陽左右を分かち、暗に旋〓玉衡《せんきぎよくこう》(注七)・乾坤混沌《けんこんこんとん》の象《しよう》に合していた。その上将は朱紅の画桿《がかん》(彩色した柄)の方天戟を手にしていて、そのいでたちはといえば、頭には七宝の紫金の冠をかぶり、身には亀背《きはい》(背が中高になった)の黄金の甲《よろい》をつけ、西川《せいせん》(西四川《にししせん》。錦の産地)の紅錦の刺繍をほどこした袍《うわぎ》、藍田《らんでん》(陝西《せんせい》の山の名。玉の産地)の美玉の玲瓏たる帯、左には金画《きんが》(金蒔絵)の鉄胎《てつたい》(鉄のしん)の弓をかけ、右には鳳〓《ほうれい》(鳳《おおとり》の矢羽《やばね》)の子箭《ひしせん》(鏃《やじり》を平たく尖らせた矢)を帯び、足には鷹嘴《ようし》(先の尖った)の雲根《うんこん》(雲形)の靴をはき、鉄のごとき背の銀の〓《たてがみ》の馬にうち乗り、錦の雕鞍《ちようあん》(彫《ほ》りのある鞍)にまたがって穏《おだ》やかに金の鎧《あぶみ》を踏み、紫の糸《きぬ》の〓《たづな》をかたく山《さんきよう》(鞍輪)にむすびつけ、腰には剣をつるして蕃将をはげまし、手には鞭をふるって大軍を統《す》べていたが、その一団の軍勢は光り輝いて、あたりはさながら金色のよう。これぞ天上界の中宮土星《ちゆうきゆうどせい》一〓天君《いつきてんくん》に擬せられる人で、すなわち遼国の都統軍大元帥・兀顔光《こつがんこう》である。
黄旗のうしろは中軍で、鳳輦竜車《ほうれんりゆうしや》(天子の車)があり、その前後左右は、七重に剣や戟や槍や刀でとりまかれていた。九重のうち(鳳輦のあるところ)は、さらに左右三十六人ずつの黄巾《こうきん》の力士《りよくし》(黄色い頭巾の大力者。黄巾は天子近侍のものの用いるもの)が車を護り、車の前には九頭の金の鞍をおいた駿馬が轅《ながえ》につき、うしろには二列に八人ずつの錦の衣をきた衛士がつきしたがっていた。車の上のまんなかには遼国の国王が着坐していて、頭には衝天《しようてん》の唐巾《とうきん》(円筒形の頭巾で、帝王の用いるもの)をかぶり、身には九竜の黄袍《こうほう》(九疋の竜を刺繍した黄色い袍で、同じく帝王の用いるもの)をまとい、腰には藍田の玉をちりばめた帯をしめ、足には珠を飾った朝靴《ちようか》(注八)をはいていた。左右にはふたりの大臣《たいしん》、左丞相の幽西孛瑾《ゆうせいはいきん》と右丞相の太師・〓堅《ちよけん》がひかえていて、ともに貂蝉《ちようせん》の冠(貂《てん》の尾と蝉《せみ》の羽を飾った冠で、高官の用いるもの)をかぶり、火のような裙《もすそ》に朱色の服、紫の印綬《いんじゆ》に金の徽章、象牙の笏《しやく》に玉を飾った帯といういでたち。御座の両側には、金童玉女(侍童侍女)が笏をとり珪《けい》(諸侯を封ずるとき天子がそのしるしとして授ける玉。形は笏に似る)をささげていた。竜車の前後左右にはおしひしめく警固の天兵たち。遼国の国王はみずから天上界の北極紫微大帝《ほくきよくしびたいてい》に擬して、鎮星《ちんせい》(土星)の群を統べ、左右の二丞相は、天上界の左輔《さほ》・右弼星君《ゆうひつせいくん》に擬せられていた。まさに、一天の星斗乾位《けんい》(天)を離れ、万象森羅《ばんしようしんら》世間に降《くだ》るというところ。これをうたった詩がある。
宿曜《しゆくよう》(諸星)宜《よろ》しきに随って八方に列し
更に土徳《どとく》(注九)を将《もつ》て実に鎮《しず》まる
胡人従《かね》て(従来)天象に関せず
何事ぞ紛紛として上蒼(天)を涜《けが》す
かの遼国の蕃軍はこのように天陣を布きつらねたのであるが、それはさながら鶏の卵のような形であり、また盆をくつがえしたような形で、旗を四方にならべ槍を八方につらねつつ、ぐるぐると自在に循環し、しかもその進退には整然たる秩序があった。
宋江はそれを見るや、ただちに強弓硬弩《こうど》を放ってその出足をとめさせるとともに、中軍に雲梯将台《うんていしようだい》をたて、呉用と朱武《しゆぶ》をともなって偵察にのぼった。宋江は見て、ただ驚嘆するばかり。朱武は眺めて、それが天陣であることを見分け、宋江と呉用にいった。
「あれが太乙混天象《たいいつこんてんしよう》の陣というやつです」
「攻めかたは?」
と宋江がたずねる。と朱武は、
「あの天陣というやつは限りなく変化して、なかなかからくりがわかりませんから、うかつに攻めて行くことはなりません」
「陣形をうちくずすことができないとならば、どうして撃退するというのです」
「いますぐ敵陣の内情をつかむというわけにはいかない以上、攻めこむこともできないでしょう」
と呉用。
かくて宋江らが協議をしているとき、兀顔統軍は中軍で命令をくだしていた。
「きょうは金《きん》の日だから、亢金竜《こうきんりゆう》の張起《ちようき》・牛金牛《ぎゆうきんぎゆう》の薛雄《せつゆう》・婁金狗《ろうきんく》の阿里義《ありぎ》・鬼金羊《ききんよう》の王景《おうけい》の四将を、太白金星《たいはくきんせい》の大将・烏利可安《うりかあん》につけて、宋軍を攻めに出陣させよう」
宋江ら諸将が陣頭で見わたすと、敵軍の右軍の七つの旗門があるいは開き、あるいは閉じ、軍中から雷鳴のような音がとどろいて、陣形がぐるぐるとまわり、引軍旗《いんぐんき》が陣内で東から北へ転じ、北から西へ転じ、さらに西から南へとむかって行く。朱武はそれを見て、馬上でいった。
「あれが天盤左旋《てんばんさせん》の象《しよう》というのです。きょうは金《きん》の日ですから、天盤(注一〇)を左へうごかしたからには、必ず攻め寄せてまいりましょう」
その言葉のまだおわらぬうちに、五門の砲がいっせいにとどろき、はやくも敵陣から軍勢がどっとおし出てきた。中央は金星《きんせい》(烏利可安)で、四つの星(張起以下の四将)がこれをとりまき、五隊の軍をひきつれて斬りこんでくる。その勢いは山のくずれ落ちるがごとく、あたるべからざる激しさであった。宋江の軍はほどこすすべもなく、背をむけて急いで逃げようとした。本隊は出足をとめられ、左右から遼軍に挟み討ちをかけられて、宋江は大敗を喫し、あわてふためきつつ兵を後退させて本陣へ逃げもどった。遼軍もそれ以上は追ってこなかった。軍中の頭領たちを点検してみると、孔亮《こうりよう》は刀傷を負い、李雲《りうん》は矢にあたり、朱富《しゆふう》は砲に傷つき、石勇《せきゆう》は槍傷を受けていた。負傷した兵にいたっては、かぞえきれぬというしまつ。そこで、ただちに車に乗せて後方へ送り、安道全《あんどうぜん》の手あてを受けさせることにした。同時に宋江は、前軍にたいして鉄〓黎《てつしつり》(注一一)を張りめぐらし、深く鹿角《さかもぎ》を植えて、堅く陣門を守るよう命じた。
宋江は中軍で大いに憂慮しつつ盧俊義らに諮《はか》った。
「きょうは負けてしまったが、いったいどうしたらよかろう。こちらから討ち出て行かなければ、必ずむこうから攻め寄せてくるにちがいないが」
すると盧俊義のいうには、
「あした、二手の軍を繰り出して敵のあの圧陣《あつじん》の軍勢を突かせ、さらに二手の軍を出して、やつらの真北の七つの旗門を突かせておいてから、歩兵の軍にその中間から討ち入らせて、陣内の様子をさぐらせることにしてはいかがでしょうか」
「それがよかろう」
と宋江はいった。そして翌日、盧俊義の言にしたがって出陣の用意をし、陣頭へ出て行って準備をととのえるや、陣門を開け放って、兵をひきつれて前進した。前方を眺めると遼軍はほど遠からぬところにいて、六隊の圧陣の兵がむこうから偵察をしながらやってくる。宋江はただちに、関勝を左に、呼延灼を右に配し、それぞれ配下の軍勢をもって圧陣の遼兵に攻撃を加えさせた。本隊は前進して、遼軍と対峙した。かくて宋江はさらに、花栄《かえい》・秦明・董平・楊志を左に、林冲・徐寧・索超《さくちよう》・朱仝《しゆどう》を右に配し、両隊の軍をもって敵の〓旗《くろはた》の軍の七つの旗門を攻めさせた。と、彼らは見事に〓旗の陣を突き破り、〓旗の兵を斬り散らした。かくて真北の七つの旗門は、その隊伍をくずしてしまった。宋江は陣中から、さらに李逵《りき》・樊瑞《はんずい》・鮑旭《ほうきよく》・項充《こうじゆう》・李袞《りこん》以下五百の牌手《はいしゆ》(楯の兵)を繰り出して攻めさせ、そのあとから、魯智深・武松・楊雄《ようゆう》・石秀《せきしゆう》・解珍《かいちん》・解宝《かいほう》ら、歩兵の頭領全員をひきしたがえて、混天陣内へと突入して行った。と、とつぜん四方に砲声がとどろき、東西の両軍と正面の黄旗の軍とがおし寄せてきた。宋江の軍はこれをささえきれず、身をひるがえして逃げたが、後尾のほうは敵の攻撃をかわし得ず、さんざんに討ち破られて、もとの陣に逃げかえった。急いで兵を点検してみると半ばは討ちとられており、杜遷《とせん》と宋万《そうまん》は重傷を負わされていた。さらに、みなのうち黒旋風《こくせんぷう》の李逵がいない。李逵は、たたかっているうちに逆上してしまい、前後を忘れて敵陣のなかへ斬りこんで、敵の撓鉤《どうこう》(熊手の類)にひっかけられ、いけどりにされてしまったのである。宋江は陣中でそのことを聞いて、大いに憂慮したが、とりあえず杜遷と宋万を後方へ送って安道全の手あてを受けさせ、負傷した馬は皇甫端《こうほたん》のところへひいて行って治療させるよう命じた。
宋江はまた呉用らに諮《はか》った。
「きょうは李逵をうしない、また負けてしまったが、これは、いったいどうすればよかろう」
すると呉用のいうには、
「このまえ、こちらでいけどりにしたあの小将軍は、兀顔統軍の息子ですから、あれを李逵と交換すれば好都合というものです」
「こんどは交換すればよいが、今後もし将をうしなうようなことがあったら、そのときはどうして救い出すのです」
「兄貴、どうして世迷いごとをいわれます。目前のことをお考えください」
話しあっているところへ、下士のものがきて、
「遼の将軍からの使者がきて、話したいことがあると申しております」
と告げた。宋江が中軍へ呼びいれさせると、その蕃官はやってきて、宋江に会っていうには、
「わたしは元帥の命令を受けてまいったものですが、きょう、あなたがたの頭領をひとり捕らえて総兵(元帥)の前にひき出しましたところ、殺害されずに、ねんごろに酒肉を供して歓待しておられます。統軍(元帥)は彼をこちらへ送りかえして、ご子息の小将軍と交換したいとのことですが、もし将軍がご同意くださるならば、さっそくかの頭領を送りかえしましょう」
「それならば、あすわたしが小将軍を陣頭へつれて行って、お互いに交換することにしましよう」
蕃官は宋江の言葉を承知し、馬に乗って帰って行った。
宋江は再び呉用に諮《はか》った。
「われわれには敵の陣を討ち破る策もないから、いっそのこと小将軍をひきわたすとき、それを機会に和睦をして、両軍互いにたたかいをやめることにしてはどうでしょう」
すると呉用も、
「ここはひとまず兵を休ませて、ほかに良策を考えてから改めて敵を討つことにしてもよろしいでしょう」
といった。夜が明けると、使いのものをやって急いで兀顔小将軍をつれてこさせ、また兀顔統軍のもとへも使者を出して内意をつたえさせることにした。
一方、兀顔統軍は本営に出ていたが、そこへ下士のものがきて、
「宋先鋒からの使者がきて、話したいことがあると申しております」
と告げた。統軍が呼びいれるように命じると、使者は本営の前までやってきて、兀顔統軍に挨拶をしていった。
「わが宋先鋒から統軍どのに御意を得たく存じます。このたび小将軍を送還いたしますゆえ、当方の頭領をおひきわたしくださいますよう。なお、目下厳寒の候にて兵士の労苦ひとかたならぬものがありますゆえ、互いにひとまずいくさをやめて、来春あらためてご相談いたすことにし、ともに人馬の凍傷をまぬがれたいと存じますが、統軍どのの御意をうけたまわりとうございます」
兀顔統軍はそれを聞くと、大声で怒鳴った。
「たわけものの、面《つら》よごしの伜《せがれ》は、きさまたちにいけどりにされた以上、たとえ生きながらえて帰ってきたところで、わしにあわせる顔はないはず。交換は無用だ。さっさととりおさえ、わしにかわって斬りすててくれ。また、いくさをやめてしばらく息をつきたいとならば、宋江に手を束ねて投降してこさせるがよい。そうすれば命だけは助けてつかわそう。さもなくば、大軍をひきつれておしかけ、草一本もあまさず討ちほろぼしてくれようぞ」
そして、
「帰れ!」
と大喝した。使者は馬を飛ばして陣地へ帰り、ことの次第を宋江に告げた。宋江は気が気でなく、李逵を助けることができなくなってはとおそれて、陣地をひきはらってただちに出発し、兀顔小将軍をつれてまっすぐ前軍まで行き、相手の陣にむかって大声で呼びかけた。
「当方の頭領を放免されたい。こちらからは小将軍をおかえししよう。いくさをやめたくないならそれも結構、対陣して決戦しよう」
すると遼軍の陣中からは、時を移さず李逵を馬に乗せて陣頭へ送り出してきた。こちらからも馬を一頭ひき出し、兀顔小将軍を陣地から送り出した。両者はこのようにして約束をまもり、双方同時に放免し、同時に受け取ることになった。かくて李将軍は陣地へ帰り、小将軍も馬に乗ってもどって行った。その日は双方ともいくさはしなかった。宋江は兵をひきつれて陣地へもどり、李逵のために慶賀した。
宋江は本営で諸将と協議をひらき、
「遼軍の勢いはすさまじく、これを破る策もない始末で、わたしは焦慮のあまり一日が一年のように思われるほどだが、いったいどうすればよかろう」
といった。すると呼延灼がいうには、
「われわれは、あした、軍を十隊に分け、二手で圧陣の兵にあたり、あとの八手でいっせいに突撃して、決戦をやることにいたしましょう」
「では、兄弟たち一同、十分に、心を一つにし力をあわせて、あすはぜひともやろう」
と宋江がいうと、呉用が、
「二度も攻めくずせなかったのです。それよりも敵が攻めてくるのを待ってたたかったほうがよいでしょう」
といった。だが宋江は、
「攻めてくるのを待つのは、やはり良策ではなかろう。兄弟たち一同で力のかぎりたたかうまでだ。そうすれば連敗するなどということはあるまい」
といい、その日のうちに命令をくだし、翌朝、陣地をひきはらって軍をおこし、十隊に分かれて突進して行った。二手のものはまず圧陣の兵の後方を遮断し、あとの八手の軍勢はいきなり、喊声をあげ旗をうち振りつつ混天の陣へ突入して行った。と、陣内にどっと大喊声があがって、四七二十八個の旗門がいっせいに左右にひらき、一字長蛇《いちじちようだ》の陣に変じて斬りかかってきた。宋江の軍はほどこすすべもなかった。宋江はあわてて撤退を命じた。宋軍は大敗を喫して逃げ、旗鎗《きそう》は列をみだし金鼓は斜めに傾くというありさまで、あわてふためき敗走してようやく本陣に帰ったが、途中で多数の兵をうしなってしまった。宋江は命令をくだして、将兵に山のふもとの陣柵の守りをかためさせ、深く塹壕を掘り、きびしく鹿角を植え、堅く陣門をとざしてたてこもらせて、そのまま冬をすごすことにした。
さて一方、副枢密の趙安撫は、しばしば都へ上申書を送って、衣類などの品の給付を奏請した。そこで朝廷では御前《ぎよぜん》八十万禁軍の鎗棒の教頭(師範)で、正受鄭州団練使《せいじゆていしゆうだんれんし》たる、姓は王《おう》、名は二字名で文斌《ぶんひん》というもの、この人は文武両道にぬきんでて朝廷の誰からも尊敬されていたが、特にこの人を使者にたてて、京師の兵一万余をつけ、人夫や車輛を駆りあつめ、衣類五十万点を輸送して行って宋先鋒の軍に交付するとともに、将兵を督励して大いにたたかわせ、早く凱歌を奏するようにと命じられた。王文斌は聖旨と公文書を受領すると、随員や軍器(軍器監の役人)をしたがえ、衣甲や鞍馬をとりまとめ、人夫や兵を励まして車輛を出発せしめ、東京《とうけい》をあとに陳橋駅へとむかった。宰領する一二百輛の車には、御賜衣襖《ぎよしいおう》としるした黄旗を挿して、蜿蜒と進んで行く。行くさきざきでは、どこでも役人が食事の接待をした。幾日かたって、やがて辺境に着き、趙枢密に目通りして中書省の公文書をさし出した。趙安撫はそれを読み、大いによろこんでいう。
「ほんとうに、よいところへおいでくださいました。このところ宋先鋒は、遼国の兀顔統軍に混天の陣を布かれて連敗を喫しており、頭領たちのなかにも手傷を負わされたものが幾人もおりますので、いま当地に養生によこして、安道全に手あてをさせております。宋先鋒は永清県のほうに陣をかまえているのですが、討って出ることはさしひかえて、すっかりふさぎこんでおります」
「朝廷ではさようなわけでわたしをおつかわしになり、兵を督励して軍を進ませ、早く勝利を得させるようにとのおいいつけですが、仰せのように連敗を喫している現状では、わたくし、都へ帰って省院官(中書省・枢宿院の官)の前に報告するのも心苦しい次第です。不才ながらこのわたくし、幼少のころからいささか兵書をならい、多少は陣法もわきまえておりますゆえ、軍前におもむいてすこしばかり策をめぐらし、一戦を決して宋先鋒のために力になりたいと存じますが、おゆるしいただけますでしょうか」
趙枢密は大いによろこんで、酒を出してもてなし、また軍中でも、車を運んできた人夫たちの労をねぎらう一方、王文斌に衣類を転送させ、宋江の軍へひきわたして分けさせることにした。
趙安撫はまず、使いのものを宋先鋒のところへ知らせにやった。
さて宋江は、中軍の本営で思い屈していたが、そこへ、趙枢密からの使いがきたとの知らせがあって、東京からつかわされた教頭の鄭州団練使王文斌が、衣類五十万点を輸送してきて、軍前へ、兵を進めるよう督励にくるということを聞かされた。宋江は迎えのものをやって陣内へ案内させ、馬からおろさせると、本営に請じいれて接風酒《せつぷうしゆ》をすすめ、何杯か酌んでから、来意をたずねた。
「わたくし、朝廷よりつかわされて辺境にきましてより、陛下のおん徳によって四つの大郡を手にいれることができましたが、このたび幽州にまいりましたところ、はからずも蕃邦の兀顔統軍に混天象なる陣を布かれました、その兵力は二十万、整然たる隊を組んで周天の星になぞらえ、国王の親征をわずらわしております。わたくしはこれに連敗を喫しまして、ほどこす策もありませんので、兵をとどめたまま妄動をつつしんでいるところでございます。いま将軍においでいただきましたことは、このうえもないしあわせ、ご教示をたまわりたく存じます」
すると王文斌は、
「混天の陣なぞ、なんの奇とするにたりましょう。不才ながらこのわたくし、ごいっしょに陣頭へ出て偵察しましたうえで、なにか策を講じましょう」
宋江は大いによろこんで、まず裴宣《はいせん》にいいつけて衣類を将兵に支給させた。一同はそれを着て南のほうを遥拝し、聖恩を謝した。その日は中軍で酒宴を設けて慇懃にもてなし、また全軍の兵にも労をねぎらって賞をとらせた。
翌日、支度をととのえて、全軍こぞって出陣した。王文斌はたずさえてきた衣甲《よろい》頭〓《かぶと》を取り出し、全身を身がためして馬に乗り、一同とともに陣頭へ出て行った。対陣の遼兵は、宋軍が討ち出てきたのを見ると、中軍へ知らせた。と、金鼓がいっせいに鳴り、喊声がどっとあがって、六隊の騎馬の兵が哨戒に繰り出してきた。宋江は兵を出してこれを撃退した。王文斌は将台にのぼってみずから偵察をしていたが、しばらくすると雲梯からおりてきて、
「あの陣形はありきたりのもので、別におどろくにあたりません」
といった。じつは、王文斌はなにもわからなかったのだが、ごまかして面目を保とうとしたのである。かくてただちに前軍に命じて、金鼓を鳴らして討ちかからせた。と、対陣の蕃軍でも金鼓をうち鳴らした。宋江は馬をとめて大声で呼ばわった。
「雑輩どもには用はない。堂々とたたかいを挑んでくるやつはおらぬか」
その言葉のまだおわらぬうちに、黒旗の隊の第四の旗門から、ひとりの将が飛び出してきた。
その蕃官は、頭はさばき髪にして黄色い羅《うすぎぬ》の抹額《まつがく》(鉢巻き)をし、黄金の箍輪《たがわ》を(額に)つけ、漆黒の鎧甲《よろい》を着、半袖の黒い袍《うわぎ》をまとい、黒い馬にまたがり、三尖刀《さんせんとう》をおっとって、まっしぐらに陣頭に臨んだ。そのうしろにしたがう牙将《がしよう》(下級の将)の数はかぞえきれず、馬の引軍旗には、銀文字で、
大将曲利出清
としるし、馬を陣頭に躍らせてたたかいを挑んだ。王文斌は、
「ここでわが腕のほどを示さずば、またとその機はなかろう」
と考え、槍をかまえ馬を躍らせて陣を出《い》で、いきなり蕃官にたちむかってはげしく馬を交えた。王文斌が槍をかまえてかかって行けば、蕃将は刀を舞わしてこれを迎える。わたりあうこと二十合あまり、蕃将は身を転じて逃げ出した。王文斌はそれを見ると、馬を走らせ槍を飛ばしていっさんに追いかけた。じつは蕃将は負けたのではなく、わざと隙を見せ、彼をだまして追いかけさせたのである。蕃将は刀を舞わしつつ、王文斌が近づくのを見すますや、身をひるがえしてうしろへ斬りつけた。王文斌は肩から胸にかけて二つに斬られ、馬の下に相果てた。宋江はそれを見ると急いで撤退を命じたが、遼軍はどっとおし寄せてきて、またしても敗北を喫し、あわてふためきつつ兵をまとめて陣地へ逃げもどった。将兵たちはみな王文斌がまのあたりに斬られてしまったのを見て、互いに顔を見あわせながら愕然たるありさま。宋江は陣地に帰ると、文書を書いて、王文斌がみずから決戦を望んで討ち死をした旨を趙枢密に報告し、つれてきた従者たちを都へ帰らせることにした。趙枢密はこのことを知ると、しきりに悩み、すっかりふさぎこんでしまったが、いまはいたしかたもなく、上申書をしたためて省院に上告し、ついてきた従者たちを都へ帰って行かせた。これをうたった詩がある。
趙括《ちようかつ》(注一二)徒らに能く父の書を読む
文斌命を殞《おと》す又何ぞ愚なる
平時の誇口《ここう》千人有るも
臨陣の成功一個も無し
さて宋江は陣内にひきこもって苦慮し、あれこれ思案をめぐらしたが、ほどこすべき策もなかった。いかにすれば遼軍を破ることができようかと、寝食も廃し、夢の間もおちつかぬというありさま。おりから厳冬で、ひどく寒い夜だった。宋江は幕舎を締めきり、明りをともして、あれこれ思い悩みながら坐っていた。時刻はすでに二鼓(二更。十時)で、考え疲れて、きもののまま机によりかかってうとうとした。と、陣内ににわかに狂風が吹きおこり、ぞっとするような寒気《さむけ》を覚えた。宋江が身をおこして見ると、青衣をきたひとりの童女が、進み寄って礼をした。
「あなたは、どこからきたのです」
と宋江がたずねると、童女は、
「わたくしは娘娘《じようじよう》(女神)さまのおいいつけで、将軍をお迎えにまいりました。どうぞおいでくださいますよう」
という。
「娘娘さまはいまどこにおいでなのですか」
と宋江がきくと、童女は指をさして、
「ついそこでございます」
宋江はそこで、童女のあとについて幕舎を出た。見ればあたりはいちめんに天上の光がさしていて、金色と碧色の光がいりまじり、香《かぐわ》しい風がそよそよと吹き、瑞《めで》たい靄がゆらゆらとたなびいて、さながら二三月(春)のような陽気であった。二三里も行かぬうちに、大きな森が見えた。青松《ま つ》が生いしげり、翠柏《ひのき》が鬱蒼《うつそう》とこもり、紫桂《かつら》が亭々とそびえ、石の欄干が見えかくれしている。路の両側はずっと木立や竹林、枝垂れ柳や花ざかりの桃で、くねくねと曲がった欄干がつづき、石の橋をわたったむこうには朱塗りの〓星門《れいせいもん》(櫺子《れんじ》門)があった。あたりをふり仰いで見ると、築地《ついじ》塀に白い壁、彩色した棟《むなぎ》に彫刻した梁《はり》、金の鋲《びよう》に朱塗りの扉、四辺の簾《すだれ》は蝦鬚《かしゆ》(注一三)を捲き、正面の〓《まど》は亀背《きはい》(注一四)を横たえている。童女は宋江を案内して左の廊下へはいって行き、東側のとある小部屋の前までくると、その朱塗りの扉をおしあけて、宋江をそのなかで休ませた。目をあげて見まわすと、四面の窓べはひっそりと静まり、五色の霞が階《きざはし》のあたりいちめんにただよい、天上の花がひらひらと舞い落ち、たえなる香りがめぐりただようている。
童女は奥へはいって行ったが、やがてまた出てきて、
「娘娘さまが、おいでくださるようにとのことでございます。星主《せいしゆ》(注一五)さま、どうぞこちらへ」
とつたえた。宋江はまだ席も暖まらないうちに、すぐまた立ちあがった。と、そこへまた外からふたりの仙女がはいってきた。頭には芙蓉《ふよう》の碧玉の冠をかぶり、身には金縷の絳〓《こうしよう》(金襴の赤いうすぎぬ)の衣をまとい、宋江に礼をした。宋江が頭をあげることもできずにいると、ふたりの仙女は、
「将軍さま、どうしてそのようにご謙遜なさいます。娘娘さまにはお召しかえなさいましたうえ、お出ましになって、将軍さまと国家の大事をお話しになりたいとのことでございます。どうぞごいっしょにこちらへお通りくださいますよう」
宋江はいわれるままについて行った。殿上に金鐘《きんしよう》がひびき、玉磬《ぎよくけい》の鳴る音が聞こえる。青衣の童女は宋江を殿上へといざなった。ふたりの仙女はさきに立って宋江を東の階《きざはし》からのぼらせ、珠簾《しゆれん》の前までつれて行った。宋江は簾のなかに、かすかに玉飾りの鳴る音を聞いた。青衣の童女は宋江を簾のなかへ請じいれ、香机の前にひざまずかせた。目をあげて殿上を仰ぐと、祥雲が靄々《あいあい》とたなびき、紫色の霧が騰々《とうとう》とたちこめていて、正面の九竜の御座の上には、九天玄女娘娘のお姿があった。頭には九竜飛鳳の冠をいただき、身には七宝竜鳳の絳〓の衣をまとい、腰には山河日月の裙《もすそ》をつけ、足には雲霞珍珠の履《くつ》をはき、手には無瑕白玉《むかはくぎよく》の珪《たま》をとり、その両側には侍従の仙女がおよそ二三十人。
玄女娘娘は宋江に仰せられた。
「わたしがそなたに天書をさずけてから(第四十二回)、もはや数年もたちました。そなたはよく忠義を守りとおして、いちどもおこたったことはありませんでした。このたび宋の天子はそなたに遼を討つことを命ぜられましたが、いくさの模様はいかがです」
宋江は平伏して申しあげる。
「わたくしは娘娘さまから天書をたまわりましてより、いまだかるがるしく人に漏らしたことはございません。このたびは天子の勅命を奉じて遼を討ちにまいりましたところ、はからずも兀顔統軍に混天象という陣形を布かれて、再三討ち破られました。わたくしはほどこすべき策もなく、危地に追いこまれているところでございます」
「そなたは、混天象の陣法をご存じないのですか」
宋江は再拝していった。
「わたくしは愚かもので、その法を存じておりません。どうかお教えくださいますよう」
すると玄女娘娘は仰せられた。
「この陣の法は陽《よう》の象《かたち》をあつめることです。それゆえ、ただ攻めるだけでは、ついに討ち破ることはできません。討ち破るためには、相生相尅《そうしようそうこく》(注一六)の理によらねばなりません。そもそも遼の前軍の〓旗《くろはた》の隊は、なかに水星を配して天上界の北方五〓辰星《ほくほうごきしんせい》に擬しておりますから、そなたの宋軍では、大将七名をえらび、黄色い旗に黄色い甲《よろい》、黄色い衣《うわぎ》に黄色い馬で遼軍の〓旗《くろはた》の七門を突き破らせ、そのあとにつづいて猛将一名に、黄色い袍《うわぎ》をまとうてまっしぐらに水星におそいかからせるのです。これが土(色でいえば黄)は水(色は黒)に尅《か》つということなのです。さらに白い袍《うわぎ》の軍に、将八名をえらんで、敵の左翼の青旗《あおはた》の陣を破らせるのです。これが金(白)は木(青)に尅つということです。また紅《あか》い袍の軍に、将八名をえらんで、敵の右翼の白旗《しろはた》の陣を破らせるのです。これが火(紅)は金(白)に尅《か》つということです。さらに〓旗《くろはた》の軍に、将八名をえらんで、敵の後軍の紅旗《あかはた》の陣を破らせるのです。これが水(黒)は火(紅)に尅つということです。それからまた、青旗の一隊に将九名をえらび、まっしぐらに中央の黄旗の陣の主将におそいかからせるのです。これが木(青)は土(黄)に尅つということです。ほかに二隊の軍をえらんで、そのうちの刺繍の旗に花模様の袍の一隊には羅〓《らこう》(星の名。日月の運行に逆行するという)のなりをさせて、もっぱら遼軍の太陽の陣をおそわせ、もう一隊の素旗《しろはた》に銀の甲の軍には、計都《けいと》(星の名で同じく日月に逆行するという)のなりをさせて、まっしぐらに遼軍の太陰(月)の陣におそいかからせるのです。さらに二十四輛の雷車《らいしや》を造って二十四気になぞらえ、上に火石や火砲を載せてまっしぐらに遼の中軍へ推しいれ、公孫勝に風雷天〓《ふうらいてんこう》の正法をおこなわせて、どっと遼王の駕前まで突入させるのです。この策をとれば、全勝を博することができましょう。しかし日中は兵を進めてはなりません、かならず夜陰に乗じて進むことです。そなたみずから兵をひきいて、中軍を掌握しつつ全軍を督戦すれば、一撃のもとに功をとげられるでしょう。わたしのいったことを、よく胸に秘めておくように。そして国を保ち民を安んじて、あとに悔いを残すことのないようにしてください。天上と下界とは隔てのあることとて、これでお別れいたします。いつかまた瓊楼金闕《けいろうきんけつ》(天の宮居)であらためてお目にかかりましょう。では早くお帰りになるように。ゆっくりなさってはいけません」
そして、特に青衣の童女に茶をすすめさせ、宋江が飲みおわると、さっそく星主を陣地へお送りするようにと童女にいいつけられた。
宋江は再拝し、つつしんで娘娘にお礼を申しあげて御殿をさがった。青衣の童女は宋江を案内して御殿をおりると、西の階《きざはし》から出てやがて朱塗りの櫺子《れんじ》門を通り、もとの路へきた。石の橋をわたり、松のしげった路を通りすぎると、青衣の童女は手をさしのべて、
「遼軍はあそこにおります。きっと討ち破ってくださいませ」
といった。宋江が見まわすと、青衣の童女は手でとんと推した。はっと驚いて目をさましてみると、幕舎のなかで夢をみていたのだった。
耳をすますと、軍中の時の太鼓が四更(深夜二時)を告げた。宋江はさっそく軍師を呼んで夢占いをすることにした。呉用が中軍の幕舎にやってくると、宋江は、
「軍師、混天の陣を討ち破る策はないものでしょうか」
ときいた。
「まだこれという良策もございません」
呉学究《ごがくきゆう》がそういうと、宋江は、
「わたしはさきほど玄女娘娘に秘法をさずけられた夢をみて、考えがきまりました。それでわざわざお呼びして相談するわけです。諸将をあつめ、それぞれに任務をさずけて決行しようと思うのですが」
まさに、天機を動達して妙策を施《ほどこ》し、星斗を擺開《はいかい》して迷関を破るというところ。さて宋江はいかにして敵陣を討つか。それは次回で。
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一・二 謝玄、苻堅 謝玄は東晋の将。八千の兵をひきいて、苻堅のひきいる百万の大軍を粉砕した。苻堅は前秦(都は長安)の第三代の皇帝。名臣王猛の輔佐によって、東方の前燕を滅ぼし、さらに西北の前涼を滅ぼして、天下統一をめざし、みずから百万の大軍をひきいて東晋に遠征したのである。このとき決戦の場となった〓水は前秦軍の死骸で流れがせきとめられたという。
三 箱型 原文は〓箱。〓の字義は不明。あるいはの誤写であろうか。は匱と同じく、箱の意。
四 笠 原文はで、篠竹、矢竹のこと。百回本には笠とあるから、あるいは竹笠であろうか。
五 三昧火 第七十六回注六参照。
六 甲をおおう 原文は襯甲。第八十三回注六参照。
七 旋磯玉衡 ともに天文観測の器具の名であるが、ここでは日月星辰というほどの意。
八 珠を飾った朝靴 原文は朱履朝靴。朱履は珠履で、服飾の驕奢のたとえである。楚の春申君のもとへ行った趙の平原君の使者が、〓瑁《たいまい》の簪をつくり、珠玉で剣の鞘を飾ってその豪奢を語ろうとしたところ、春申君の食客三千人のうちの主だったものがみな珠履(珠で飾った履《くつ》)をはいているのを見て大いに恥じた(『史記』春申君列伝)という故事に拠る。朝靴は儀礼用の長靴。
九 土徳 『史記』の五帝本紀に、黄帝は、黄竜と地〓《ちいん》(土の精たるみずち)があらわれるという土徳《どとく》の瑞兆によって黄帝と号した、とある。土徳は五行(木火土金水)の土の徳。あるいは土星の徳。ここでは遼の国王が北極紫微大帝として、土星の群を統べてその中央に位する、という意味。
一〇 天盤 術数家(星占い)が星の位置をうごかすこと、あるいは、堪輿家(方位占い)が羅針盤をうごかして占うことをいう。
一一 欽〓藜 第四十七回注七参照。
一二 趙括 戦国時代の趙の人。父は趙奢《しや》といい、経綸の才あり且つ戦略にも長じていた。趙括は弱年のころから兵書を学び、用兵戦略を論じて絢爛たる才能を示したが、父の奢はこれを認めず、趙に敗戦をもたらすものは必ず括であると断じていた。やがて秦とのたたかいがおこり、趙王は括を将とした。括の母は王に上書して括を将とすることを諫止したが、王はそれをきかず、ただ、みずから戦陣に臨むことだけをとりやめた。出陣した括は秦の将・白起のために大敗を喫して討ち死した。この詩で「徒らに」というのはこのことを指す。
一三 蝦鬚 第四十二回注三参照。
一四 亀背 第四十二回注二参照。
一五 星主 第四十二回注一参照。
一六 相生相尅 易の原理で、五行(木火土金水)は互いに生じあい互いに尅《せ》めあうという関係から成りたつという。すなわち木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を、金は水を、水は木を生じるというのが相生。相尅とは、木は土に尅《うちか》ち、土は水に尅ち、水は火に、火は金に、金は木に尅つという関係をいう。
第八十九回
宋公明《そうこうめい》 陣を破って功を成し
宿太尉《しゆくたいい》 恩を頒《わか》ちて詔《みことのり》を降《くだ》す
さて、そのとき宋江は、夢のなかでさずかった九天玄女の法を、一句も忘れることなく、さっそく軍師の呉用を呼んで相談をまとめたのち、趙枢密にその旨を上申した。そして陣内で雷車二十四輛を造ることになったが、それらはみな画板《がばん》(彩色した板)や鉄葉(鉄板)をうちつけて、下には油をふくませた粗朶《そだ》を積み、上には火砲を据えたもので、夜を日についでその完成を急がせるとともに、諸将を一堂に集めて攻撃のうちあわせをし、宋江は命令をくだしてそれぞれの割りあてをきめた。
すなわち、中央戊己《ぼうき》の土《ど》(戊己・土はいずれも中央を意味する。以下みなこれにならう)に擬した黄色い袍《うわぎ》の軍は、遼国の水星の陣に討ちいるべく、その大将には双鎗将の董平をあて、左右から敵の〓旗《くろはた》の軍の七門を討ち破るには副将七名、朱仝・史進・欧鵬《おうほう》・〓飛《とうひ》・燕順・馬麟《ばりん》・穆春《ぼくしゆん》をあてる。
さらに西方庚辛《こうしん》の金《きん》に擬した白い袍の軍は、遼国の木星の陣に討ちいるべく、その大将には豹子頭の林冲をあて、左右から敵の青旗の軍の七門を討ち破るには副将七名、徐寧《じよねい》・穆弘《ぼくこう》・黄信《こうしん》・孫立・楊春・陳達・楊林をあてる。
さらに南方丙丁《へいてい》の火《か》に擬した紅い袍の軍は、遼国の金星の陣に討ちいるべく、その大将には霹靂火《へきれきか》の秦明をあて、左右から敵の白旗の軍の七門を討ち破るには副将七名、劉唐・雷横・単廷珪《ぜんていけい》・魏定国・周通《しゆうとう》・〓旺《きようおう》・丁得孫《ていとくそん》をあてる。
さらに北方壬癸《じんき》の水《すい》に擬した黒い袍の軍は、遼国の火星の陣に討ちいるべく、その大将には双鞭の呼延灼をあて、左右から敵の紅旗の軍の七門を討ち破るには副将七名、楊志・索超・韓滔《かんとう》・彭〓《ほうき》・孔明・鄒淵《すうえん》・鄒潤《すうじゆん》をあてる。
さらに東方甲乙《こうおつ》の木《もく》に擬した青い袍の軍は、遼国の土星の主将の陣に討ちいるべく、その大将には大刀《だいとう》の関勝をあて、左右から敵の中軍の黄旗の主陣の兵を討ち破るには副将八名、花栄・張清《ちようせい》・李応・柴進《さいしん》・宣賛《せんさん》・〓思文《かくしぶん》・施恩《しおん》・薛永《せつえい》をあてる。
さらに刺繍の旗に花模様の一隊は、遼国の左軍の太陽の陣に討ちいるべく、大将七名、魯智深・武松・楊雄・石秀・焦挺《しようてい》・湯隆《とうりゆう》・蔡福《さいふく》をあてる。
さらに素旗《しろはた》に銀の甲《よろい》の一隊は、遼国の右軍の太陰の陣に討ちいるべく、大将七名、扈三娘《こさんじよう》・顧大嫂《こだいそう》・孫二娘《そんじじよう》・王英《おうえい》・孫新《そんしん》・張青・蔡慶《さいけい》をあてる。
さらに敵の中軍に討ちいる精悍勇猛の兵の一隊は、ただちに遼王をとりこにすべく、大将六名、盧俊義・燕青《えんせい》・呂方《りよほう》・郭盛《かくせい》・解珍・解宝をあてる。
さらに雷車を護って敵の中軍に突入すべく、大将五名、李逵・樊瑞・鮑旭・項充・李袞をつかわす。
その他の水軍の頭領ならびに全員は、ことごとく陣頭に出て攻撃の援護をする。陣頭にはこれまでと同じく、五方に旗幟をおしたて八面に人員を配して、九宮八卦の陣を布く。
宋江が以上のように命令をつたえると、諸将はみなそれに従った。一方、雷車の建造もおわり、きまりのものを積みこんで陣頭におし出した。まさに、計就《な》って天地を驚かし、謀成《な》って鬼神を破る、というところ。
さて一方、兀顔統軍《こうがんとうぐん》は、幾日も宋江がたたかいをしかけてこないので、圧陣《あつじん》の軍をずっと宋江の陣地の前面まで出して偵察をさせた。宋江はこの間に雷車の建造もすっかりおわり、出撃の期日もきめていたのであるが、その夜いよいよ行動をおこして遼軍を迎え討つことになった。かくて横一文字に陣を布き、前面にずらりと強弓硬弩をおしならべ、矢を放って敵の出足をとめつつひたすら日の暮れるのを待った。黄昏《たそがれ》ごろ、にわかに北風がきびしく吹き出し、雪雲が厚く垂れこめて天地をおおい、まだ日も暮れぬうちにはやくもまっくらになった。宋江は兵士らに、蘆を切って笛を作り、それを口にくわえ、吹き鳴らして合図をするよういいつけた。その夜まず四手の軍をそれぞれ出陣させ、あとには黄色い袍の軍だけを陣頭に配置した。出て行った四手の軍は、哨路《しようろ》(圧陣に同じ)の蕃軍を追い散らし、敵陣の外側をまわって北のほうへ討ちこんで行った。
初更ごろ、宋江の軍中から連珠砲《れんしゆほう》がとどろいた。と、呼延灼は陣門を開き、どっと敵の後軍へ斬りこんで、まっしぐらに火星におそいかかり、関勝はただちに中軍に斬りこんで、土星の主将におそいかかり、林冲は兵をひきいて左軍の陣へ突入し、木星におそいかかり、秦明は兵をしたがえて右軍の陣へ突入し、金星におそいかかり、董平もすかさず兵を繰り出して敵の陣頭を討ち、まっしぐらに水星におそいかかって行く。
公孫勝は軍中で剣をとって法術をおこない、〓《こう》を踏み斗《と》を歩み(〓・斗は星の名。法術をおこなうときの足の構えをいう)、五雷《ごらい》(五雷天心正法または掌心雷といい、疾風迅雷を自在におこす法術)を祈りおこした。その夜、南風がはげしく吹きおこり、梢《こずえ》は吹きたわめられて地面を払い、石を走らせ砂を飛ばせた。そのとき、いっせいに二十四輛の雷車に火がつけられ、李逵・樊瑞・鮑旭・項充・李袞らが、五百の牌手《はいしゆ》と精悍勇猛な兵をひきつれ、その雷車を護って遼軍の陣中へ推しいれた。
一丈青の扈三娘は兵をひきいて遼軍の太陰の陣へ討ちいり、花和尚の魯智深は兵をひきいて遼軍の太陽の陣へ討ちいった。玉麒麟の盧俊義は一隊の軍をしたがえ、雷車のあとからまっしぐらに中軍へと斬りこんで行く。かくて一同はそれぞれ自分のめざす隊へと殺到して行った。
その夜、雷車は火を噴き、稲妻は空中に交錯し、まことに、星移り斗《と》転じて日月も光なく、鬼哭《な》き神号《さけ》んで人兵撩乱《りようらん》すという修羅の場を呈するにいたった。
さて兀顔統軍は中軍で諸将の配置をしているおりしも、とつぜんあたりに大喊声がおこって、四方から斬りこんでくる様子。あわてて馬に乗ったときには、すでに雷車が中軍におしいって、すさまじい火焔が天にみなぎり、砲声が地をふるわせて鳴るなかを、関勝の一隊がはやくも本営の前までおし寄せてきた。兀顔統軍はあわてて方天の画戟を取り、はげしく関勝とわたりあったが、いかんせん、没羽箭の張清が石つぶてを空中に雨あられと投げつけてくる。四辺の牙将たちはこれにあたって傷を負うものが多く、ほうほうの態で逃げ散った。李応・柴進・宣賛・〓思文らは馬を飛ばし、刀を横たえて、さんざんに将兵を斬りまくる。兀顔統軍は身のまわりに護衛のいなくなったのを見ると、馬首を転じて北のほうへと逃げだした。関勝は馬を飛ばしてきびしく追い迫る。たとえ〓摩天《えんまてん》に逃げのぼろうとも雲を駆って必ず追いつこうという勢い。
花栄はその後方で、兀顔統軍の負けたのを見ると、一騎で自分も追いかけて行き、急いで弓をとり矢をつがえるなり、兀顔統軍めがけて射放った。矢は見事に兀顔統軍の背中に命中し、かちんという音とともに火花が飛び散った。それは護心鏡に命中したのだった。つづけて射放とうとしたとき、関勝が追いつき、青竜刀をふりかぶって真向うから斬りつけた。だが兀顔統軍は三重に鎧甲《よろい》を着ていて、下には連環(くさり)の銅鉄《あかがね》の鎧を着こみ、まんなかには海獣の皮の甲、外には鎖子《さし》(くさり)の黄金の甲を重ねていた。関勝のその一刀は、上の二枚だけを斬りとおしたにとどまった。さらに一刀を浴びせると、兀顔統軍はその刀の下でひらりと身をかわし、馬をとめ方天戟をかまえてたちむかう。両者またわたりあうこと数合、花栄が追い迫りつつ兀顔統軍の顔をねらってまた一箭を放った。兀顔統軍はぱっと身をかわしたが、矢は耳たぶを連ねて鳳翅《ほうし》の金の冠に突きささった。兀顔統軍はあわてて逃げだす。と張清が馬を飛ばして追いかけつつ、石つぶてをつかみ、その顔をめがけて投げつけた。つぶては飛び、兀顔統軍は打ちあてられて馬上にうずくまりつつ、画戟をひきずって逃げた。関勝はそれに追いついてまたもや一刀を浴びせつける。青竜刀の落ちるところ、兀顔統軍は腰骨から頭にかけて斬りつけられ、馬からころがり落ちた。花栄は飛び出して行ってさっと良馬に乗り換え、張清は追いついて槍でとどめをさした。
あわれ一世の豪傑たる兀顔統軍も、一振りの刀、一本の槍によっていまやその最期をとげたのである。ここに詩がある。
李靖《りせい》の六花(注一)は人も亦識り
孔明の八卦(注二)は世応《まさ》に知るべし
混天只《ただ》人の敵する無しと想えど
也《また》神機の打破する時有り
さて一方魯智深は、武松ら六人の頭領をひきつれ、一同喊声をあげながら遼軍の太陽の陣へ殺到して行った。耶律得重はあわてて逃げだそうとしたが、武松に戒刀《かいとう》で馬の首を斬り落とされて、まっさかさまに落馬した。武松はその髪の毛をひっつかんで、一刀のもとに首を刎《は》ね、太陽の陣を斬り散らしてしまった。魯智深はいった。
「さあ、これから中軍へおしかけて行って遼王をひっとらえてしまえば、それでおしまいだ」
一方、遼軍の太陰《たいいん》の陣では、天寿公主《てんじゆこうしゆ》が四方に喊声がおこって斬りこんでくる様子に、あわてて武器をとりそろえ、馬に乗り、女兵をひきしたがえて待ちうけていると、一丈青が両刀を舞わせながら馬を飛ばせ、顧大嫂ら六人の頭領をひきつれ、本営の前までおし寄せてきて、天寿公主と斬り結んだ。両者わたりあうことわずかに数合、一丈青は両刀を放りすてて公主の胸もとに飛びこみ、その胸倉をつかんだ。かくてふたりが組んず解《ほぐ》れつ一団となって馬上でもみあっているところへ、王矮虎《おうわいこ》が駆けつけてきて天寿公主をいけどりにした。顧大嫂と孫二娘は陣内で女兵を斬り散らし、孫新・張青・蔡慶は陣外からこれを挟み討ちにした。かくて、あわれ金枝玉葉の女人も、降伏して縄目を受ける身とはなった。
また一方盧俊義は、兵をひきつれて中軍へおし寄せて行ったが、解珍と解宝がまっさきに元帥旗を斬りたおし、蕃軍の将兵をさんざんに斬りまくった。御駕《ぎよが》につき添う大臣《たいしん》や多くの牙将たちは、必死に遼の国王の鸞駕《らんが》を護りつつ北のほうへと逃げて行った。陣中に残った羅〓《らこう》・月孛《げつはい》の二皇姪《こうてつ》は、ともに刺し殺されて馬の下に相果て、計都《けいと》皇姪は馬上でいけどりにされ、紫〓《しき》皇姪は行方《ゆくえ》知れずとなった。大軍はきびしく包囲して四更ごろまで攻めたてたすえ、ようやく鋒を収めた。遼軍は二十余万を討ちとられて惨澹たる敗北を喫した。
夜明けごろ、諸将はうちそろってひきあげた。宋江は金鼓を鳴らして軍を収め、陣地につかせた。そして敵将をいけどりにしたものにはそれぞれの功を申したてるよう命じた。一丈青は太陰星の天寿公主を、盧俊義は計都星《けいとせい》の皇姪《こうてつ》・耶律得華《やりつとくか》を、朱仝は水星《すいせい》の曲利出清《きよくりしゆつせい》を、欧鵬・〓飛・馬麟は斗水〓《とすいかい》の蕭大観《しようたいかん》を、楊林・陳達は心月狐《しんげつこ》の裴直《はいちよく》を、単廷珪・魏定国は胃土雉《いどち》の高彪《こうひよう》を、韓滔・彭〓は柳土〓《りゆうどしよう》の雷春《らいしゆん》と翼火蛇《よくかだ》の狄聖《てきせい》を、それぞれさし出した。そのほか諸将のさし出した首級の数はかぞえきれなかった。宋江はとりこにした八人の将をみな趙枢密の中軍へ送って監禁することにし、奪った馬は諸将にその乗馬として分けあたえた。
さて一方、遼の国王は、あわてふためいて燕京へ逃げこむや、急いで命令をくだした。四方の城門をかたく閉ざして城を死守し、城外に討って出てはならぬと。宋江は遼王が燕京に逃げもどったことを知ると、ただちに陣地をひきはらって全軍を出動させ、まっしぐらにその城下に迫り、きびしくこれを包囲し、趙枢密のもとへ使いを出して、後方の陣営まで進んで城攻めの監戦をされたいと請うた。かくて宋江は、命令をくだして燕京の城外にぐるりと雲梯と砲石をそなえつけさせ、陣地をかまえて城攻めの準備をはじめた。
遼国の王はうろたえ、群臣を集めて協議したが、一同は、
「事ここにいたっては、大宋に投降するよりほかございますまい」
という。遼国の王は結局、衆議にしたがった。かくてただちに城壁の上に降伏の旗をかかげ、使者を宋の陣営へつかわして、
「年々牛馬を納め、歳々珠珍を献じて、再び中国を侵すようなことはいたしません」
と和を請わしめた。宋江は使者をつれて後方の陣営へ行き、趙枢密に目通りさせて、投降の申し出をとりついだ。趙枢密はそれを聞くと、
「これは国家の大事で、お上《かみ》の決裁を仰がねばならぬこと。わたしの一存で決めるわけにはまいらぬが、その方ら遼国に投降の心があるならば、然るべき大臣をつかわし、じきじき東京《とうけい》へ行って天子に謁見を請うがよい。天子がその方ら遼国の帰順の上奏文をみとめられて赦罪の詔勅をくだされたならば、そのとき兵をひいていくさをやめることにしよう」
とつたえた。使者はその旨を受けると、ただちに城へ帰って国王に復命した。国王はあわただしく文武の百官を集めて、このことを諮《はか》った。と、右丞相の太師・〓堅《ちよけん》が列から進み出て奏上した。
「いまやわが国は将も兵も数すくなく、兵力は皆無にひとしいありさまで、これでは敵を迎え討つことなど到底できません。わたくしの考えますには、わたくしがみずから宋先鋒の陣地へまいりまして十分に賄賂《まいない》を納め、それによって兵を収めてたたかいをやめさせるとともに、一方では礼物をとりそろえてただちに東京へ行き、省院の諸官を買収して天子によしなに奏聞させて、別に再起をはかることにすればよいと存じます。いま中国では蔡京《さいけい》・童貫《どうかん》・高〓《こうきゆう》・楊〓《ようせん》の四人の賊臣が権力をほしいままにし、童子皇帝はこの四人のいうままになっておりますゆえ、金帛の賄賂をこの四人に贈って講和を求めますならば、必ず赦罪の詔勅がくだり、兵をひいていくさをやめるはこびに相なりましょう」
国王はそれを裁可した。
翌日、丞相の〓堅は城を出てただちに宋先鋒の陣におもむいた。宋江はこれを本営に迎えいれて、さっそく来意をたずねる。〓堅はまず国王が投降を請うている旨を述べてから、宋先鋒にと金帛や珍貴な器物などをすすめた。宋江はそれを聞くと、丞相の〓堅に説いていうよう、
「わたしは連日城を攻めて、その方らの城を攻め落とすどころか根こそぎに討ちつくし、再び芽をふき出すことのできぬようにするつもりだったのだが、城壁の上に降伏の旗があがったのを見て、兵をとめて攻めるのをやめたのだ。国と国とが鋒を交えるにあたっては、むかしから一国が投降するのがことわり。それゆえその方らの投降をゆるし、かく兵をとどめたまま出動せずに、その方らが朝廷におもむいて謝罪をし、貢物《みつぎ》を納めることをゆるしてやったのだ。しかるにその方はいま賄賂をすすめてよこしたが、いったいこの宋江をどんな男と思っているのか。二度とそのようなことは口にせぬよう」
〓堅はただおそれいるばかり。宋江はさらにいった。
「その方、上奏文をととのえて都へのぼり、お上のご裁可を仰ぐがよい。われわれは兵をとどめたまま出動せずにその方のすみやかに帰ってくるのを待とう。決して遅滞することのないように」
〓堅は宋先鋒に礼をいい、別れを告げて陣地を出、馬に乗って燕京に帰って国王にこの旨をつたえた。大臣たちは相談をまとめ、翌日、遼国の君臣は珍貴な器物や金銀宝物、綵〓《いろぎぬ》や珍珠などをとりそろえて車に積み、丞相の〓堅を使者にたて、蕃官十五人をつけて京師へ行かせることになった。三十余騎の一行は、謝罪の上奏文一通をととのえて燕京をたち、宋江の陣地へ行って、宋江に挨拶をした。宋江は〓堅をつれて趙枢密に目通りさせ、事の次第を告げた。
「遼国ではこのたび丞相の〓堅を使者にたて、京師へおもむいて天子に謁見し、罪を謝して投降することになりました」
趙枢密は〓堅をひきとめて手厚くもてなし、また宋先鋒に諮《はか》ってこちらからも文書をととのえて天子に上奏することにした。そこでさっそく柴進と蕭譲《しようじよう》に奏文をたずさえて行かせることにし、行軍公文《こうぐんこうぶん》(軍の使者たることを証明した公文書)と省院への照会の文書を持たせて、丞相の〓堅らといっしょに東京へとむかわせた。
幾日か旅をかさねて、やがて京師につくと、献上物である十車輛の金宝の礼物と車につきそってきた人々を駅舎に休ませ、柴進と蕭譲は行軍文書を持ってまず省院へ行って言上した。
「このたびわが軍は燕京を囲んで敵を窮地におとしいれ、いまにも攻め破らんばかりになりましたところ、遼国の王は城壁の上に降伏の旗をかかげ、いま丞相の〓堅をつかわして上奏文をたてまつり、罪を謝して投降のゆるしを請い、赦免のお沙汰をくだされて兵を収めていただきたいと望んでおります。もとよりわたくしどもにははかりかねますことゆえ、聖旨を仰ぎにまいった次第でございます」
「その方は、ひとまずそのものといっしょに駅舎で休んでおるがよい。そのあいだに、よきようにはからおう」
省院官はそういった。当時、蔡京・童貫・高〓・楊〓をはじめとして、省院の大小の役人たちはみな好利の徒であった。そこで、一方遼国の丞相・〓堅ら一同は、まずつてを求めて太師の蔡京ら四人の大臣に会い、ついで省院の各官にも漏れなく賄賂を贈ることにした。かくて一同はそれぞれ手づるをたよって役人たちに礼物を贈りとどけた。
翌日の早朝、文武百官が朝賀の礼をおわったとき、枢密使の童貫が列から進み出て奏上した。
「先鋒使宋江は遼軍を撃退して一路燕京に進み、城を囲んで攻撃を加え、いまにも攻め破らんばかりになりましたところ、このたび、遼王ははやくも降旗をかかげ、投降を願い出て、丞相の〓堅を使者につかわし、上奏文をたてまつって臣と称し、降伏して罪を謝し、赦免のお沙汰をたまわって和を結び、撤兵休戦の勅《みことのり》をくだされますならば、決してたがうことなく年々貢物をお納めいたしますと申し出ております。よろしくご聖断のほどを」
天子は、
「ここで和を結び、いくさをやめることについて、その方ら一同はどう考える」
と下問された。すると、かたわらにあった太師の蔡京が、列を進み出て奏上した。
「わたくしども、一同にて協議いたしましたが、古より今日まで、いまだ四方の蕃族をほろぼしつくしたためしはございませぬゆえ、わたくしどもの考えますには、遼国をこのままにして北方の防壁たらしめ、年々貢物を納めさせるのがよろしいと存じます。それが国家のために有益な方法と存じますゆえ、その投降と謝罪をみとめて、いくさをやめ、詔勅をくだされて軍を呼びもどし、京師の守りにつかせましてはいかがでございましょうか。もとよりわたくしどもにははかりかねますこと、陛下のご聖断を請いたてまつる次第でございます」
天子はその進言を容れて、遼国の使者を引見しようとの聖旨をくだされた。殿頭官《でんとうかん》からその旨がつたえられ、〓堅ら使者の一行に命《めい》がくだると、一同は金殿の下に進んで拝舞の礼をささげ、頓首して天子の万歳を唱えた。侍臣が上奏文をさし出すと、御案《おつくえ》の上にひろげられる。宣読の係りの学士がそれを声高らかに読みあげた。
遼の国王、臣・耶律輝《やりつき》、頓首頓首、百拝して上言す。
臣、生れて朔漠《さくばく》(北方の砂漠)に居り、長じて番邦《ばんぽう》(蕃国)に在り、聖賢の経《けい》に通ぜず、綱常《こうじよう》の礼を究《きわ》むる罔《な》し。文を詐《いつ》わり武を偽《いつ》わり、左右に狼心狗行《ろうしんくこう》の徒《と》多く、賂《まいない》を好み財を貪り、前後は悉く鼠目〓頭《そもくしようとう》の輩《やから》なり。小臣は昏昧《こんまい》、屯衆《とんしゆう》は猖狂《しようきよう》にして、疆封《きようほう》(強国)を侵犯し、以て天兵の罪を討つを致し、妄《みだ》りに士馬を駆り、動《すなわ》ち王室の師を興《おこ》すを労す。量《はか》るに螻蟻《ろうぎ》(あり)安《いずく》んぞ泰山を撼《うご》かすに足らん。想うに衆水は必然に大海に帰すべし。今特に使臣、〓堅を遣《つか》わして天威を冒《おか》し、土《ど》(国土)を納《おさ》めて罪を請う。〓《も》し聖上の、〓爾《さいじ》(小さな)微生《びせい》(とるにたらぬわたくし)を憐憫《れんびん》し、祖宗の遺業を廃せず、其の旧過を赦《ゆる》し、開くに新図《しんと》を以てするを蒙らば、退いて戎狄《じゆうてき》の番邦を守り、永く天朝の屏障《へいしよう》(防壁)と作《な》り、老老幼幼、真に再生を獲《え》、子子孫孫、久遠に感戴《かんたい》し(恩を感じ)、歳幣《さいへい》(年々の貢物)を進納し、誓って敢《あえ》て違《たが》わざらん。臣等戦慄屏営《せんりつへいえい》(恐懼)の至りに勝《た》えず。謹んで上表以聞《いぶん》す。
宣和四年冬月 日
遼国主臣耶律輝 表
徽宗《きそう》皇帝が上奏文に目を通され、それがすむと、階下の群臣はおよろこびの言葉を申しあげる。天子は御酒をお命じになって、使者に賜わった。丞相の〓堅らはさっそく貢物の金帛をとり出して御前にすすめる。李はそれを宝蔵庫《ほうぞうこ》に収めさせられてから、また別に例年の貢物たる牛馬などもとり納めさせられた。天子は返礼として絹織物の服地を下賜され、光禄寺《こうろくじ》(宮中の大膳職)より酒肴をさずけられた。そして丞相の〓堅らに、
「さきに帰国するよう。のちほど使者をつかわして詔勅をくだすであろう」
と勅《みことのり》された。〓堅らは聖恩を謝し、挨拶をのべて退朝し、ひとまず駅舎にたち帰る。その日、朝賀がおわると、〓堅はまた人を諸官のもとへやって、重ねて賄賂を贈らせた。蔡京はしかと承知して、
「丞相に安心して帰国なさいますよう。あとはいっさいわれら四人がひきうけましたから」
とつたえた。〓堅は太師に礼をのべてから、遼国へ帰って行った。
一方、蔡太師は、その翌日、諸官をしたがえて参内し、詔勅をくだして遼国に回答されるよう奏請した。天子はその言を容《い》れて、ただちに翰林学士に詔書の起草を命ぜられるとともに、その場で太尉の宿元景を使者に任じ、詔書を奉じてただちに遼国へ行き、それを開読するよう仰せられた。また別に趙枢密に勅命をくだして、宋先鋒に兵を収めていくさをやめ、軍を帰して都へもどるよう命ぜしめ、また、捕らえた敵兵はのこらず釈放して本国へ帰し、奪った城もみなもとどおりそれぞれの管下に返し、府庫の器具も遼国へひきわたすよう命ぜられた。かくて天子は退朝され、諸官もみな退出した。翌日、省院の諸官はうちそろって宿太尉の屋敷へ行き、日を決めて見送ることにした。
さて宿太尉は、詔勅をお受けすると、遅滞することなく、轎《かご》や馬や従者などの支度をととのえ、天子に出発の挨拶をし、省院の諸官に別れを告げて、柴進・蕭譲といっしょに遼国へ出かけることになり、京師をあとに、辺境の地をめざして陳橋駅へと進んで行った。旅路についたのはちょうど厳冬の季節で、雪雲が厚く垂れさがり、白雪がいちめんに降りつもって、千林を白くかたどり、万里を銀色によそおっていた。宿太尉の一行は雪をわけ風をついて、はるばると進んで行く。雪はやんだが消え残っているなかを、ようやく辺境の地についた。柴進と蕭譲はまず騎馬の斥候をやって趙枢密に知らせ、さらにそのさきの宋先鋒にも報告させた。宋江は早馬の知らせを受けると、ただちに酒をたずさえ、一同をひきつれて五十里さきまで行き、道傍に伏して出迎えた。かくて宿太尉を迎え、挨拶をすませると、接風酒をすすめた。役人たちはみなよろこんだ。それから陣地へ案内し、宴席を設けてもてなしつつ、ともに朝廷のことを話しあったが、そのとき宿太尉のいうには、
「省院の役人たち、蔡京・童貫・高〓・楊〓らは、みな遼国から賄賂を受けて、天子のおん前に極力今回のことをとりなしたのです。そのため投降がゆるされて撤兵休戦のはこびとなり、軍を帰して京師の守りにつくようにとの勅命がくだされたのです」
宋江はそれを聞くと嘆息して、
「わたくし、決して朝廷をお恨みするわけではありませんが、せっかくの手柄も、むだごとになってしまいました」
「先鋒、ご心配なく。わたしが朝廷に帰りましたならば、必ず陛下によしなに申しあげましょう」
宿太尉がそういうと、趙枢密も口を添えた。
「わたしが証人としてつかわされている以上、将軍の大功をあだにするようなことは決してありません」
宋江はつつしんでいった。
「わたくしども一百八人のものは、力をつくして国に報いようと努めておりますだけで、いささかも異心などいだいてはおりませず、また恩賞にあずかろうなどと望んでおるわけでもございません。ただ兄弟たちがみな労苦をともにしていくことができさえすれば、それが最上のしあわせなのです。あなたさまに後楯《うしろだて》になっていただけますなら、なによりもありがたいことでございます」
その日は酒盛りをして一同歓《かん》をつくし、夜になって散会したが、一方ではさっそく使者をたてて遼国へ通告し、詔書拝受の準備をさせることにした。
翌日、宋江は十名の大将を選び、宿太尉を護衛して詔書の下付に遼国へ行かせることにした。
一同はいずれも錦の袍《うわぎ》に金の甲《よろい》、軍装に身をかため皮の帯をしめた。その十人の上将は、関勝・林冲・秦明・呼延灼・花栄・董平・李応・柴進・呂方・郭盛で、歩騎の兵三千をひきつれ、前後から太尉を護りつつ、隊伍をととのえて城内へはいって行った。燕京の住民は、数百年来中国の軍容を見たことがなかったので、太尉がきたと聞くと、みなよろこびに湧きたって戸毎に香花灯燭を飾った。遼王はみずから文武の百官をひきつれ、礼装に身をただして馬に乗り、南門を出て詔書を奉迎した。詔書は金鑾殿《きんらんでん》に進めいれられ、十人の大将はその左右に侍立し、宿太尉は竜亭(注三)の左にひかえ、国王は百官とともに殿前にひざまずいた。殿頭官が、
「拝礼」
と叫ぶと、国王および文武の百官は礼をした。それがすむと遼国の侍郎がうやうやしく詔書をおしいただき、殿上で開読した。その詔《みことのり》は、
大宋皇帝、制《みことのり》して曰《い》う。三皇《さんこう》位を立て、五帝《ごてい》宗を禅《ゆず》る。唯《ただ》中華にして主《しゆ》有りて、豈《あに》夷狄の君無からんや。茲《ここ》に爾《なんじ》遼国、天命に遵《したが》わずして、数《しばしば》疆封(強国)を犯す。理合《まさ》に一鼓して(一撃のもとに)滅すべきも、朕《ちん》今其の情詞を覧《み》、其の哀切を憐れみ、汝が〓孤《けいこ》(注四)を憫《あわれ》んで誅《ちゆう》を加うるに忍びず、仍《よ》って其の国を存す。詔書の至る日、即ち軍前に擒《とりこ》にせる所の将《しよう》を将《もつ》て、尽数(ことごとく)釈放して国に還《かえ》し、原奪せる一応(一切)の城池は、旧に仍《よ》って本国の管領に給還す。供する所の歳幣《さいへい》(年々の貢物)は、慎んで怠忽《たいこつ》すること勿れ。於戯《ああ》、敬《つつし》んで大国に事《つか》え、祗《つつし》んで天地を畏《おそ》る、此《こ》れ藩翰《はんかん》(諸侯)の職なり。爾《なんじ》其れ欽《つつ》しめよ哉《や》。
宣和四年冬月 日
そのとき、遼国の侍郎が詔書の開読をおわると、国王と百官たちは再拝して聖恩を謝した。君臣の礼がとりおこなわれ、詔書が竜案《おつくえ》の上に移される。国王は宿太尉と対面し、挨拶がおわると後殿に請じいれ、山海の珍味をそろえた盛大な宴をもよおした。蕃官は酒をすすめ、戎将《じゆうしよう》(蕃将)は杯をわたす。歌舞は席に満ち胡笳《こか》の音は耳にかまびすしく、異国の美姫たちはそれぞれ戎楽《じゆうがく》を奏し、羯鼓《かつこ》や〓〓《けんち》(注五)が鳴らされ、胡旋《こせん》(胡舞)がゆるやかに舞われる。やがて宴がはてると、宿太尉ならびに諸将を駅舎へ送って休ませた。その日は随行のものたちにも漏れなくねぎらいの品がくばられた。
翌日、国王は丞相の〓堅に、城外の陣営へ行って趙枢密と宋先鋒を燕京の城内での宴に招くように命じた。宋江は軍師と相談をして辞退したので、〓堅は趙枢密だけをつれて行って宿太尉の相伴《しようばん》をさせた。その日、遼の国王は盛大な宴を設けて勅使を歓待した。葡萄《ぶどう》のうま酒は銀の瓮《かめ》につがれ、黄羊《こうよう》(胡羊)の美肉は金の大皿に盛られ、珍奇な果物が席に積まれ、めずらしい花々があちこちに色どりをそえている。やがて宴もおわろうとするころ、国王は金の大皿に載せて金銀珠玉をささげ出し、宿太尉と趙枢密に献上した。酒盛りは夜更けまでつづいてようやく散会となった。その次の日、遼王は文武の群臣を集め、蕃国の鼓楽を奏し、太尉と枢密を城外まで見送って陣営へ帰らせたうえ、また丞相の〓堅に命じて、牛・羊・馬および金銀・綵緞《いろぎぬ》などの礼物をたずさえて宋江の陣営へ行かせ、盛大な野外宴を設けて全軍の兵をねぎらい、諸将に手厚い贈りものをした。
宋江は命令を出して、天寿公主《てんじゆこうしゆ》以下一同のものを釈放して本国へ帰らせ、また奪取した檀州・薊州・覇州・幽州はもとどおり遼国の管下に返還した。そして一方では、まず宿太尉を都へ送り帰し、ついで諸将・兵士・馭者たちをとりまとめて人員編成をおこない、中軍の部隊を先発させて、趙枢密を護衛しつつ帰途につかせることにした。かくて宋先鋒は陣営内でみずから宴を設けた。一方ではまた、水軍の頭領たちをもねぎらったのち、船に乗って水路をさきに東京へ帰り、駐留して朝廷の指図にしたがうように命じた。
宋江はまた使いのものを城中へやって、軍中で話したいことがあるからと左右の二丞相を招かせた。遼の国王はさっそく左丞相の幽西孛瑾《ゆうせいはいきん》と右丞相の太師・〓堅に、宋先鋒の旅営へ行ってその中軍で会見するよう命じた。宋江はふたりを迎えて本営に通し、主客それぞれの席についた。
宋江はいい出した。
「わが将兵は城下に迫り、壕のほとりまで進んで、大功は目前にあったのだ。もともとその方らの投降をゆるさず、城を討ち破って一同をほろぼしつくしてこそ、理の当然というもの。しかるに元帥(趙枢密)どのは願いを聞きいれられて、その方らが朝廷に上奏することをゆるされたのだ。陛下もその方らを憐れまれ、惻隠《そくいん》の心をもたれて、あくまでも追い討つことをゆるされず、その方らが投降を願い上奏文をたてまつって謝罪したことをみとめられたのだ。いまや王事《おうじ》(天子から命ぜられたこと)もおわって、わたしは都へ帰ることになったが、その方らはこの宋江らが勝てなかったのだなどと考えて、また前のようなことを繰り返してはならぬぞ。年々の貢物も決して怠ってはならぬ。わたしはこれから軍を返し国へもどるが、その方らは謹慎し自重して、あえて侵略するようなことのないように。天兵が再びやってきたときには、決してもう見のがしはせぬぞ」
丞相ふたりは叩頭して罪を詫び、礼をいった。宋江はかさねてねんごろに戒めた。丞相ふたりは鄭重に礼を述べて帰って行った。
宋江はそののち一隊の軍を選んで、女将軍の一丈青《いちじようせい》らとともに先発させた。ついで従軍の石工に命じて、石材をさがして碑を作らせ、蕭譲に文を作らせて、このたびの事蹟を書きとめさせた。金大堅《きんたいけん》がそれを石に刻みおわると、永清県の東方十五里の茅山《ぼうざん》の麓に建てたが、いまなおその古蹟は残っている。ここにその証《あか》しの詩がある。
毎《つね》に聞く胡馬の陰山《いんざん》(内蒙古の陰山山脈)を度《わた》るを
恨殺す(大いに恨む)〓淵《せんえん》に虜(注六)を縦《はな》って還《かえ》るを
誰か造る茅山功蹟の記
寇公(注七)泉下(地下)に亦開顔《かいがん》せん(笑わん)
宋公はかくて軍を五隊に分けて出発することにし、日を決めてその途につくことになったが、そのとき不意に魯智深が本営にやってきて、合掌の礼をし、宋江にむかっていった。
「わたしは鎮関西《ちんかんせい》を殴り殺してから(第三回)、代州の雁門県まで逃げて行ったところ、趙員外《ちよういんがい》どのがわしを五台山《ごだいさん》へのぼらせて智真《ちしん》長老さまに弟子入りをさせ、剃髪して坊主にしてくれたのでしたが、とんだことに酔っぱらって二度も禅門をさわがせましたために(第四回)、お師匠さまはわたしを東京の相国寺《しようこくじ》へ送って智清《ちせい》禅師に身をあずけ、役僧にしてもらうようとりはからってくださいました(第五回)。相国寺ではわしは菜園の番人をいいつかっていたのですが(第六回)、林冲を助けたことから(第九回)高太尉につけねらわれ、そんなことから盗賊に身を落としてしまいましたが(第十七回)、さいわいにも兄貴にめぐりあうことができて(第五十八回)、以来、長らくお供をさせていただいているわけですが、あれからもはや数年の歳月がたちました。その間ずっとお師匠さまのことを心にかけながら、一度もご挨拶にまいっておりません。わしはいつも、お師匠さまがわたしのことを、殺人放火の性《しよう》ながらやがては正果真身《しようかしんしん》(煩悩《ぼんのう》を断ちきった天真の身)に到達できようといっておられたことを忘れられないのです。このたび太平無事の日を迎えることになりましたので、四五日のあいだお暇をいただいて、五台山へ行ってお師匠さまにご挨拶をし、日ごろ手にいれた金帛をすっかりお布施としてさしあげ、もう一度お師匠さまに身のゆくすえをうかがってみたいと思いますので、兄貴の軍はかまわずにさきに行ってください、わたしはすぐあとから追っかけて行きますから」
宋江はそれを聞くと、はっと思いおこして、いった。
「あの活仏《いきぼとけ》さまがかの地におられたのなら、どうしてもっと早く教えてくれなかったのだ。われわれもいっしょにお詣《まい》りに行って、ゆくさきのことをおたずねしてみよう」
さっそく一同にはかってみると、誰もみな行くことを望んだが、公孫勝だけは道教なので行かないといった。宋江はさらに軍師と相談したうえで、金大堅《きんたいけん》・皇甫端《こうほたん》・蕭譲・楽和《がくわ》の四人を残して、副先鋒の盧俊義とともに軍を統べさせ、相ついでさきに都へたって行かせることにした。そしてみずからは一千余名の兵だけをしたがえ、兄弟たちをつれて、魯智深について智真長老をたずねて行くことになった。
宋江ら一同は、さっそく軍をはなれ、名香・綵帛《いろぎぬ》・表裏《ふくじ》・金銀などをとりそろえて五台山へのぼって行ったが、まさにそれは、しばらく金戈甲馬《きんかこうば》を棄《す》て、来《きた》りて方外《ほうがい》(僧道をいう)の叢林《そうりん》に游《あそ》ぶ、というところ。かくて雨花台《うかだい》(注八)畔に道徳の高僧を訪い、善法堂《ぜんぽうどう》(注九)前に燃灯《ねんとう》の古仏《こぶつ》(注一〇)に会わんと欲し、ついには一語もって名利の路を打ち破り、片言もって死生の関を蹴破るにいたるのである。さて、宋江と魯智深はいかに参禅(注一一)をするか。それは次回で。
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一 李靖の六花 李靖は唐の高祖と太宗に仕えた兵法家。六花とは李靖の編み出した陣法で、諸葛孔明の八陣法にならったものという。
二 孔明の八卦 八卦とは、八陣の法のこと。ふるくは黄帝の編み出したものという。孔明の八陣とは、天・地・風・雷・竜・虎・鳥・蛇の八つの陣形。
三 竜亭 第八十二回注八参照。ここでは詔書を安置するところ。
四 〓孤 〓《けい》は兄弟のないもの、孤《こ》は父のないもの。
五 〓〓 〓《けん》は〓《けん》と同じ。土笛で上部は細く、下部は太く平らになっていて、孔は六つ、あるいは八つ。〓《ち》は竹の横笛で、孔は八つ。『詩経』小雅に、「伯氏〓を吹き、仲氏〓を吹く」とある。(ちなみに、この詩から兄第の親しい間柄をたとえて〓〓という。)
六 〓淵 河北省濮陽県の西南にある湖の名。次注参照。
七 寇公 宋の太宗と真宗に仕えた宰相・寇準《こうじゆん》のこと。契丹《きつたん》が侵攻してきたとき、彼は真宗の親征を請うて兵を進め、〓淵《せんえん》で大いにこれを破って、契丹軍の総帥・撻覧統軍を殺した。彼は契丹の降伏をゆるさずにさらに兵を進めて敵の本拠を破り、一挙に禍根を絶つべきであると主張したが、真宗はそれをゆるさず、ついに捕虜を釈放して和を結んだ。
この詩の第二句の「虜を縦って還る」というのはそれである。宋江も同じく虜を縦って還ったことから、茅山の碑におよび、寇準が地下で為政者の愚を笑っているであろうと結んだのが第四句である。
八 雨花台 南京の南方、聚宝山にある。梁の武帝のとき、雲光法師がここで経を講じていたところ、天がこれに感じて花を雨のように降らせたといいつたえられる。
九 善法堂 前注の雨花台が聖地の意につかわれているのと並べて、聖堂の意。
一〇 燃灯の古仏 燃灯仏、すなわち錠光仏《じようこうぶつ》のこと。久遠の昔に出現したという仏で、出生のとき全身から光を発してあたかも灯火のようであったということからこの名がある。
一一 参禅 仏家の語で、師を訪ね道を問《たず》ねること。
第九十回
五台山《ごだいさん》に 宋江《そうこう》参禅し
双林鎮《そうりんちん》に 燕青《えんせい》故《こ》に遇《あ》う
さて、五台山の智真長老なる人は、宋代におけるこの世ながらの活仏《いきぼとけ》で、過去未来のことを見とおすことができた。数年前すでに、魯智深がついには悟りをひらく人物であることを見抜いていたが、いまだ俗縁《ぞくえん》が尽きず、殺生《せつしよう》の罪のつぐないがすまぬために、彼を俗世において奔走させているのであった。本人も心の奥底には道心《どうしん》があって、このたび、師匠のところへ行って参禅しようと発心《ほつしん》するにいたった次第。宋公明ももともと善心があり、そのため魯智深とともに智真長老を訪ねることになったのである。
そのとき宋江および諸将は、若干の随行の兵をつれただけで、魯智深とともに五台山の麓まで行くと、さっそく兵をそこに宿営させて、とりあえず使いのものを山上へ知らせにやった。そして宋江ら兄弟たちはみな軍装をぬいで、それぞれ日ごろの服に着かえ、歩いて山をのぼって行った。やがて山門の外まで行くと、寺のなかから鐘や太鼓の音が聞こえ、僧侶たちが迎えに出てきて、宋江や魯智深らに礼をした。なかには魯智深を知っているものも多くいた。また整然として多数の頭領たちが宋江にしたがっているのを見て、誰もみなおどろきの目をみはった。首座《しゆそ》(注一)の堂頭《どうとう》(住持《じゆうじ》)が進み出て宋江に告げた。
「長老さまは坐禅をおこなっておられまして、お迎えに出られませんが、どうかおとがめくださいませぬよう」
そして宋江らをまず知客寮《しかりよう》(接待所)に案内して休ませた。茶の接待がおわると、侍者がやってきて、
「長老さまは坐禅をおわられて、方丈でお待ちになっておられます。どうぞおはいりくださいますよう」
と請じた。宋江ら一行百余名は、ただちに方丈へ通り、智真長老のもとへ挨拶に行った。長老はあわただしく段をおりてきて迎え、上堂へいざない、互いに礼をかわした。宋江がその和尚の様子を見るに、年は六十を越えて眉も髪もまっ白で、風姿まことにすがすがしく、厳然として天台方広出山《てんだいほうこうしゆつざん》の相をそなえていた。一同は方丈のなかへはいった。宋江はさっそく智真長老に着座を請い、香を焚いて拝礼した。一行の諸将もみな礼をささげた。それがすむと、魯智深が進み出て、香を焚いて拝礼した。すると智真長老は、
「そなた、一別以来数年、なみなみならぬ殺人放火の罪業《ざいごう》を犯したな」
魯智深は黙然として、返す言葉もなかった。そのとき宋江が進み出て、いった。
「長老さまのご清徳のほどは、かねがね承っておりましたものの、いかんせん、この世のご縁うすく、ご尊顔を拝するよすがもございませんでしたが、このたび詔《みことのり》を奉じて遼を討つためにこちらへまいり、かく堂頭の大和尚さまにお目にかかることのできましたことは、まことにこの上もないしあわせに存じます。弟の智深は殺人放火を犯しはいたしましたものの、忠義の心からで、決して良民に危害を加えるようなことはなく、このたびわたくしども兄弟一同をつれて、こちらさまへお参りにうかがった次第でございます」
すると智真長老は、
「日ごろ高僧のかたがたがここへ見えまして、世間ばなしのおりおりに、将軍が天に替《かわ》って道を行なわれ、深く忠義を志しておられるということをしばしば聞いております。わたしの弟子の智深も将軍にしたがっているかぎり、まちがいのあろうはずはありません」
宋江は繰り返し繰り返しお礼を申しのべた。魯智深は金銀・綵緞《いろぎぬ》の包みをとり出して、師匠に献納した。智真長老は、
「そなた、これはどこから手にいれたものだ。不義の品なれば決していただきませんぞ」
「たびたびの手柄によっていただいたものを貯えておいたのでございます。わたくしには用のありませぬものゆえ、わざわざ持ってまいり、お師匠さまに献納してお寺のご用にあてていただこうと存じまして」
智深がそういうと、長老は、
「ここの一同で使うわけにもいかぬので、そなたのためにお経をとりそろえて、罪業を消滅してすみやかに善果に登れるようにいたそう」
魯智深はうやうやしく礼をいった。そのあとで宋江も同じく金銀・綵緞をとり出して智真長老に献上した。長老は堅く辞退して受け取らなかったが、宋江は、
「お師匠さまがお受けくださいませぬならば、庫裏《くり》のほうでお斎《とき》を出していただいて、お寺のお坊さんがた一同にさしあげるようにおとりはからい願います」
といった。
その日は五台山の寺内で一泊した。長老は精進ものを出してもてなしたが、この話はそれまでとする。
さてその翌日、庫裏でお斎《とき》の用意がととのうと、五台山の寺の法堂に鐘や太鼓がうち鳴らされ、智真長老は僧侶たちを法堂に集めて説法をし、参禅を受けることになった。たちまちのうちに、寺中の僧侶たちはみな袈裟《けさ》や座具(拝具)をつけて法堂に集まり、席についた。宋江・魯智深および他の頭領たちは、その両側に立った。合図の磬《けい》が鳴りわたると、二つの紅紗の灯籠が先導して、長老を法座にのぼらせた。智真長老は法座の上にのぼると、まず香をつまんで祈った。
「この一〓《いつしゆ》(ひとくゆり)の香、伏して願わくは皇上の聖寿《せいじゆ》天に斉《ひと》しく、万民業《ぎよう》を楽しまんことを」
また香一〓をつまみ、
「願わくは今日の斎主、身心安楽にして寿算《じゆさん》延長ならんことを」
また香一〓をつまみ、
「願わくは今や国安く民泰《やす》らかに、歳稔《みの》り年和《やわ》らぎ、三教(儒・仏・道)興隆し四方寧静ならんことを」
お祈りがすんで法座につくと、両側にひかえていた僧侶たちは合掌の礼をささげ、またもとどおり侍立した。宋江は進み出て、香を焚いて拝礼したのち、合掌し、進み寄って参禅した。
「わたくし、ひと言お師匠さまにおたずねいたします。浮世《ふせい》の光陰《こういん》は有限にして、苦海《くかい》(この世の苦しみ)は無辺、人身は至微にして、生死は最大なりとは」
智真長老はすぐ偈《げ》をもって答えた。
六根(目・耳・鼻・口・身・意の六官)束縛すること多年、四大(身外の地・水・火・風)牽纏《けんてん》すること已《すで》に久し。嗟《なげ》くに堪えたり、石火《せきか》(諸行無常のたとえ)の光中に幾個の筋斗《きんと》を翻了す(とんぼがえりをうつ)。〓《ああ》、閻浮世界《えんぶせかい》(俗世)の諸《もろもろ》の衆生《しゆじよう》、泥沙《でいさ》の堆裏《たいり》に頻りに哮吼《こうこう》す。
長老が偈を説きおわると、宋江は拝礼して、侍立した。諸将もみな進み出て、香を焚いて拝礼し、
「ただ願わくは兄弟生死をともに、生々世々、相逢《あ》わんことを」
と誓いをたてた。焼香がおわると、僧侶たちはみな退出して、宋江らを雲堂《うんどう》(客殿)へいざない、お斎《とき》の席につかせた。
一同お斎がおわると、宋江と魯智深は長老にしたがって方丈へはいった。やがて夜になり、閑談のおり宋江は長老にたずねた。
「わたくしと魯智深とは、幾日かお師匠さまにおつかえして迷いを解いていただきたいのが本意でございますが、大軍をひきいておりますこととて、ゆっくり逗留するわけにはまいりません。お師匠さまにたまわりましたお言葉は、まったくその意を解することができないのでございますが、このたびお暇《いとま》をして都へ帰るにつきまして、わたくしども兄弟たちのゆくすえはどうなることでございましょうか、なにとぞ明らかにお示しくださいますよう」
すると智真長老は、紙と筆をとり寄せて、四句の偈《げ》を書いた。
風に当たって雁影《がんえい》翩り
東闕《か》けて団円《だんえん》ならず
隻眼《せきがん》功労足り
双林《そうりん》福寿全《まつた》し
書きおわると宋江に手わたして、
「これは将軍の一生のことです。大切にしまっておかれますよう。ゆくゆくは必ずこのとおりになりましょう」
宋江は読んでみたがその意味がわからないので、また長老にたずねた。
「わたくし、おろかにもお言葉の意味をさとり得ません。なにとぞ明らかにお示しくださいまして、疑念をお解きくださいますよう」
智真長老は、
「これは禅の機微の隠語、その方みずからとくと考えられるがよい。明らかに説くわけにはまいりませぬ」
長老はそのあとで、智深を傍《そば》へ呼んでいった。
「そなたがこのたび行ってしまえば、これが永の別れとなろうが、正果《せいか》(煩悩《ぼんのう》からの解脱《げだつ》)ももう遠くはない。そなたに四句の偈をさずけるゆえ、とりおさめて終身大切にするように」
その偈は、
夏《か》に逢って擒《とりこ》にし
臘に遇って執《とら》え
潮《ちよう》を聴いて円《えん》し
信を見て寂《じやく》す
魯智深はその偈を拝受し、なんども読んで(注二)から、ふところにしまい、師匠に礼をいった。かくてまた一泊し、翌日、宋江・魯智深および呉用ら頭領たちは、長老に別れを告げて下山することになり、一同は寺をあとにした。智真長老と僧侶たちは、みな山門の外まで見送って別れた。
長老と僧侶たちが寺へもどって行ったことはさておき、一方宋江ら諸将は五台山の麓までおりると、兵をひきつれて大急ぎで本隊のあとを追いかけた。諸将が軍前にもどると、盧俊義・公孫勝らは宋江以下諸将を迎えて、一同顔をそろえた。宋江はさっそく盧俊義らに、五台山に一同が参禅して誓いをたてた次第を話し、禅語をとり出して盧俊義・公孫勝らに見せたが、誰もその意味を解するものはなかった。蕭譲は、
「禅の機微の法語ゆえ、そうたやすくわかるはずはありません」
といい、一同はしきりに首をかしげるばかりだった。
宋江は急いで軍を出発させるよう命令をくだした。諸将は命を受けると、全軍の兵をうながして、東京《とうけい》をさして進んだ。その途中では、兵士たちはどこでもなに一つとして犯さなかったので、住民たちは老いをたすけ幼きを抱きながら王師を見にあつまり、宋江ら諸将の英雄ぶりを眺めて互いに賞讃の声を放ち、敬服せぬものはなかった。
宋江らは幾日か進んで、土地の名を双林鎮《そうりんちん》というところへ着いた。鎮《まち》の住民や近村の農夫たちは、こぞって見物におしかけてきた。宋江ら兄弟たちは整然と隊伍を組み、ふたりずつ轡《くつわ》をならべて進んで行ったが、そのうちに、とつぜん先頭の隊のひとりの頭領が、鞍からすべりおりたかと思うと、左手の見物人の群れへはいって行って、ひとりの男にとりすがり、
「兄貴、どうしてこんなところにおいでなんです」
と大声をかけた。ふたりは挨拶をかわして、話をはじめた。宋江の馬は次第に近づいて行った。見ればそれは浪子の燕青《えんせい》で、ひとりの男と話をしているのだった。燕青は拱手の礼をして、
「許《きよ》兄貴、このかたが宋先鋒です」
といった。宋江が馬をとめてその男を見れば、
目は双瞳炯《あき》らかに、眉は八字に分《わか》る。七尺の長短(丈《たけ》)の身材、三牙《みすじ》の口を掩《おお》う髭鬚《ししゆ》。一頂の鳥〓《うしゆう》(黒の縮み)の紗の抹眉《まつび》(眉深か)の頭巾を戴き、一領の〓《くろ》の沿辺(ふちどり)の褐布《かつぷ》(あらぬの)の道服(道士の服)を穿ち、一条の雑彩《ざつさい》の呂公絛《りよこうとう》(五色の糸で編んだ帯)を繋《し》め、一双の方頭(先端の尖った)の青布の履《くつ》を着《つ》く。必ずや碌碌《ろくろく》の庸人《ようじん》に非ずして、定めて是れ山林の逸士《いつし》ならん。
宋江は、その男の相貌が俗ばなれしていて、風姿が高雅なのを見て、急いで馬からおり、身をかがめて礼をして、いった。
「失礼ながらお名前をおうかがいいたします」
するとその男は宋江にむかって平伏し、
「お名前は久しく承っておりましたが、きょう、はじめてお目にかかることができました」
宋江はあわてて答礼をし、急いで扶《たす》けおこして、
「わたしのようなものに、どうしてそんなことをなさるのです」
といった。その男のいうには、
「わたくしは姓は許《きよ》、名は貫忠《かんちゆう》といい、もともと大名府のものですが、いまは田舎に移り住んでおります。以前はこの燕《えん》将軍と親しくしておりましたが、はからずも一別以来十数年のあいだ会えずにまいりました。別れてからわたくしは、世間のうわさに小乙《しよういつ》兄貴(燕青のこと)が将軍の麾下《きか》に加わっていると聞きまして、うれしくてならなかったものです。このたび将軍が遼を破って凱旋なさると聞きまして、わざわざここまでお慕いしてまいったわけですが、英雄のみなさまがたのお姿を拝見することができまして、こんなにうれしいことはございません。つきましては燕兄貴をわたくしの住まいに迎えてつもる話をしたいと思うのですが、おゆるしいただけませんでしょうか」
燕青も、
「許兄貴とは別れてからずいぶんになるのですが、思いもかけずここでめぐりあいました次第。せっかく招いてくれるのですから、ぜひとも行ってみたいと思いますので、兄貴はみなさんといっしょにひとあしさきに行ってくださいませんか。わたしはすぐあとから追いかけてまいりますから」
とたのんだ。宋江はふっと思いついていった。
「弟の燕青はいつも、あなたが立派な度胸の英雄だということをおうわさしておりましたが、残念ながらわたしに運がなく、お会いするご縁にめぐまれませんでした。いま、そんなにおっしゃってくださるのでしたら、ごいっしょにお出かけ願って、いろいろとお教えいただきたいと思うのですが」
すると許貫忠は、
「将軍は烈々たる忠義のおかた、わたくしもかねがねお傍《そば》に仕えたいものと念願しておりましたが、なにぶんにも老母が七十歳を越えておりますこととて、遠くへ離れるわけにはまいりませんので」
と辞退した。
「そういうわけでしたら、無理におすすめすることもできません」
と宋江はいい、さらに燕青にむかって、
「それでは早くもどって、こちらに心配をさせぬように。それに、都へ行けばいずれお上への拝謁があろうから」
「決して兄貴の命令にたがうようなことはしません」
と燕青はいい、また盧俊義のところへもその旨をいいに行って、互いに別れた。
宋江は馬に乗った。そのとき、さきを進んでいた頭領たちはすでに一矢頃《ひとやごろ》ほどむこうへ行っていたが、宋江と貫忠が話しあっているのを見て、みな馬をとめて待っていた。宋江はさっそく馬に鞭をくれて追いつき、諸将とともに出発した。
話はふたつにわかれて、さて燕青は、つきそいの兵士を呼んで旅嚢《りよのう》を縛らせてから、別に馬を一頭用意させると、自分の駿馬は許貫忠の乗用にゆずり、前方の酒屋へはいって行って軍装を解き、日ごろの服に着かえた。かくて、ふたりはそれぞれ馬に乗り、兵士は包みを背負ってそのあとにしたがい、双林鎮をあとに西北の小路を進んで行った。いくつかの田舎家や、林や岡を通りこすと、前方は山かげの曲がりくねった路になっていた。ふたりはむかしの思い出を話したり、心の底をうちあけたりしつつ、やがて山かげの小路をぬけ、大きな谷川を越えて、およそ三十里あまりもきた。と許貫忠が手をさしのべて、
「あの高い山のなかに、わたしのあばらやがあるのです」
といった。さらに十里あまり進んで、ようやく山に着いた。山は、峰々は高くそびえ、谷川は澄みきっていた。燕青がその景色に見とれているうちに、いつしか日も暮れてきた。見れば、
落日は烟を帯びて碧霧を生じ
断霞は水に映じて紅光を散らす
そもそもこの山は大〓山《たいひざん》といった。上古、大禹《たいう》聖人が黄河の水をここまでひいてこられたもので、書経《しよきよう》に「大〓に至る(注三)」とあるのが、その証拠である。いまは大名府の濬県《しゆんけん》に属している。
余談はさておき、許貫忠は燕青を案内して、幾つもの山の鼻を曲がって、とある山の窪みに出た。そこはまわり三四里の、ひろびろとした平地で、木のしげみの中に二つ三つの草葺きの家が透けて見えた。そのなかに幾棟かの、南向きの、谷川に沿った茅《かや》葺きの家があった。門の外には竹の籬《まがき》をめぐらし、柴の戸を半ばとざし、修竹《た け》・蒼松《ま つ》・丹楓《かえで》・翠柏《ひのき》などが前後にしげっていた。許貫忠は指さしながらいった。
「あれがわたしの住まいです」
燕青が竹籬《たけがき》のなかを見ると、髪の赤茶けた村童が、木綿の衲襖《のうおう》(大袖の上衣)を着、地面から、日に乾《ほ》しておいた松の枝や木切れをとりかたづけて、軒下に積みあげていたが、馬の蹄《ひづめ》の音を聞いて、身をおこして外のほうを眺め、
「おかしいな、こんなところを馬が通るなんて」
と叫んだが、よく見るとうしろの馬に乗っているのは主人なので、あわてて門の外へ駆け出し、手をこまぬいて立ったまま、ぽかんとして見ていた。出がけに馬の用意をするとき、許貫忠は鸞鈴《らんれい》をつけないようにといった、そのため近くにくるまで気がつかなかったというわけである。ふたりは馬をおりて竹籬のなかへはいった。兵士は馬をつないだ。ふたりは表の間にはいって、主客それぞれの席につく。茶がすむと、貫忠はついてきた兵士に鞍や轡をはずして二頭の馬を裏の小屋へひいて行くようにといい、童子には飼葉《かいば》をとってきて馬にやるようにいいつけた。それから兵士を表の傍部屋《わきべや》で休ませた。
燕青は貫忠の老母のもとへも挨拶に行った。貫忠は燕青を、東を背にした西向きの草庵へつれて行った。裏側の窓をあけると、そこには澄んだ谷川の流れがあった。ふたりは窓のてすりにもたれて腰をおろした。
「むさくるしいところですが、まあ我慢してください」
と貫忠はいう。
「山も水も美しく、いくら見ても見あきません。全くすばらしいお住まいです」
と燕青は答えた。貫忠はついで遼討伐のことをたずねた。しばらくすると童子がきて明りをつけ、窓をしめ、机を出し、お菜《かず》を五六皿ならべ、さらに大皿に盛った鶏、同じく大皿の魚、それにとっておきの山の木の実のつまみものを二皿はこんでき、熱燗にした酒を一壺酌んだ。貫忠は一杯ついで燕青にさし出し、
「せっかくおいでを願いましたものの、地酒と山菜ばかりでなんのおもてなしもできません」
「ご面倒をかけて、こちらこそ恐縮です」
と燕青は礼をいった。何杯か杯をかさねたころ、窓の外には月の光が真昼のようにかがやいた。燕青が窓をあけて見ると、またひとしおのおもむきがあって、雲は軽やかに流れ風はおだやかに吹き、月は白く冴え谷川は清らかにせせらぎ、山と水の光と影が部屋のなかに射しこんでくる。燕青はしきりとほめちぎって、
「むかし大名府ではあなたとは莫逆の友でしたのに、あなたが武挙(武官登用試験)に通られてからは、ついぞお目にかかることもできずにおりましたところ、こんなすばらしいところをたずねあてておられたとは、なんという幽雅なことでしょう。このわたしなぞ、あちこちとたたかいまわっていて、一日ものどかに暮らすいとまもありません」
貴忠は笑って、
「宋公明どのをはじめ将軍がたはみな蓋世《がいせい》の英雄で、上《かみ》天〓星《てんこうせい》に応じ、このたびはまた手強《てごわ》い虜《えびす》を威服なさったのです。このわたしなど人里はなれた山のなかにひっこんでいるだけで、あなたがたの足もとにも寄れるものではありません。それにわたしには時勢にあわないところがあって、悪い連中が権力をほしいままにし、朝廷をないがしろにしているのをいつも見るにつけ、なにもやる気がなくなってしまって世間をさまよっているわけですが、どこへ行っても、こんなわたしでもやはり多少は気になります」
そういって大声で笑い、杯をすすいでまた酒を酌んだ。燕青は銀二十両をとり出して貫忠にさし出し、
「ほんのわずかですが、わたしの気持です」
といったが、貫忠はかたくことわって、受け取らなかった。燕青はそこでまた貫忠にすすめていった。
「あなたはたいした才略を持っておられるのですから、わたしといっしょに都へ行って、おりをみて立身をはかられてはいかがです」
すると貫忠は、ため息をついて、
「いまはよこしまな連中が要路についていて、賢を妬《ねた》み能を嫉《そね》み、鬼のような蛇《じや》のような(注四)やつらがみな衣冠束帯をつけていて、忠長正直《せいちよく》なものはことごとくとじこめられ陥《おとしい》れられているのです。わたしの志はもうとっくに冷えきって灰になっております。あなたも功成り名遂げたあかつきには、やはり身を退く工夫をなさるがよいでしょう。むかしから、〓鳥《ちようちよう》(大鷹)尽きて良弓蔵《かく》るといいますから」
燕青はうなずいて、嘆息した。ふたりは夜半まで語りあったすえ、ようやく床についた。
翌朝、顔を洗い、口をすすぐと、はやばやと食事をととのえて燕青にすすめ、それがすむと燕青を山のあちらこちらに案内してたのしませた。燕青が高みへのぼって見わたすと、峰々が重なりあって、四方ぐるりと山ばかり、鳥の鳴き声が上下するだけで、往来する人影はまるでなく、山中の人の住家《すみか》はいくらかぞえてみても二十戸あまりしかなかった。
「ここは桃源《とうげん》(注五)よりもすばらしい」
と燕青はつぶやいた。燕青は山の景色をあかず眺めた。その日も暮れて、また一晩泊まった。
翌日、燕青は貫忠に別れを告げた。
「宋先鋒が心配しておられるでしょうから、これでおいとまさせていただきます」
貫忠は門の外まで見送ったが、
「ちょっとお待ちください」
と呼びとめた。すぐ村童が巻物を一軸ささげてきた。貫忠はそれを受け取って燕青に手わたし、
「これはわたしがこのごろかいた拙い絵ですが、都へお帰りになってからよくごらんください。
後日なにかのお役にたつことがあるかも知れません」
燕青は礼をいって、兵士に旅嚢へくくりつけさせた。ふたりは別れるにしのびず、なお一二里あまりいっしょに行ったが、燕青は、
「君を送ること千里なるも終《つい》には須《すべか》らく一別すべし、といいます。あまり遠くまでお送りくださいますな。いつかまたお目にかかりましょう」
といい、ふたりは心を残しつつ別れた。
燕青は許貫忠の帰って行く姿が遠ざかってしまうまで眺めていて、ようやく馬に乗った。そして兵士にも馬に乗るようにいい、ふたりで出発した。幾日かして東京に着くと、ちょうど宋先鋒は軍を陳橋駅にとどめて聖旨のくだるのを待っているところであった。燕青は陣営へはいって挨拶をしたが、そのことは述べない。
さて、それよりさき、宿太尉ならびに趙枢密のひきいる中軍はすでに城内にはいっていて、宋江らの功績を天子に奏聞し、
「宋先鋒ら諸将のひきいる軍は、すでに関外にまで凱旋してきております」
と告げた。趙枢密が進み出て、宋江ら諸将の辺境における労苦のありさまを奏上すると、天子はそれを聞いて大いに嘉《よみ》され、さっそく聖旨をくだし、黄門侍郎に命じて拝謁のため一同武装して入城するよう、宋江らにつたえしめられた。宋江ら諸将は聖旨を奉じて本来の軍装をし、戎衣《じゆうい》をつけ革帯《かくたい》をしめ、〓《かぶと》をかぶり甲《よろい》を着、錦の上着をはおり、金銀の牌面(注六)をかけて東華門から入城、一同、文徳殿《ぶんとくでん》に通って天子に謁見し、拝舞してご機嫌を奉伺し聖寿の万歳を唱えた。陛下が宋江以下の英雄をごらんになると、みな錦の上着に金色の革帯といういでたちであったが、呉用・公孫勝・魯智深・武松らだけはそれぞれ自身の服装(呉用・公孫勝は道服、魯智深・武松は僧衣)をしていた。天子はことのほかご機嫌うるわしく、
「その方らの外征の労苦、辺境での苦心のほどはよく知っており、負傷者が数多く出たとのことで大いに憂慮しておったぞ」
と仰せられた。宋江は再拝して奏上した。
「陛下の天にもひとしきご洪徳によりまして、わたくしども諸将、負傷したものもございましたけれどもいずれもみな事なきを得ました。いまや外敵も投降して辺境の地が平安になるを得ましたのは、ひとえに陛下のご威徳のしからしめるところで、わたくしどもにはなんの功労もあるわけではございません」
と、また再拝してお礼を申しあげた。
天子は省院官に対して、特に官爵授与のはからいをするよう命ぜられた。太師の蔡京と枢密の童貫は相談したうえ、
「宋江らの官爵のことは、わたくしどもで相はかりましてからおこたえいたしとうございます」
と奏上した。天子はそれを聞きとどけられ、ついで光禄寺《こうろくじ》に対して盛大な御宴《ぎよえん》を催すよう下命され、宋江には錦袍一領・金甲一副・名馬一頭を下賜され、盧俊義以下のものには金帛をたまい、すべて内府から受領するよう仰せられた。宋江以下諸将はお礼を申しあげてのち、うちそろって宮中を退出し、西華門外に出て馬に乗り、陣営へもどって休みつつ聖旨のくだるのを待ちうけた。たちまちのうちに数日たったが、かの蔡京や童貫らは官爵授与のことなぞ相談するはずもなく、ただ日をのばしているだけであった。
一方、宋江は陣営内で、所在ないまま軍師の呉用と古今の興亡得失のことを論じあっていると、そこへ戴宗と石秀が平服を着てやってきて、
「わたしたち、陣中でじっとしていても所在がありませんので、きょうは石秀の兄弟といっしょにぶらぶらしてきたいと思いますので、兄貴におことわりにまいりました」
という。
「早くもどってくるように。帰ってきたらいっしょに一杯やろう」
と宋江はいった。
戴宗と石秀は陳橋駅をあとに、北のほうへとゆっくり歩いて行った。幾つかの町や盛り場を通りこして行くと、路傍に大きな石碑のあるのがふと目についた。碑のおもてには、
造字台
という三字が見え、その上のほうにはなお何行か小さな字が刻まれていたが、風雨のために剥落して、ずいぶんわからなくなっていた。戴宗は仔細に読んでみて、
「ここは蒼頡《そうきつ》(注七)が文字をつくったところだとさ」
といった。石秀は笑いながら、
「おれたちには用のないことだ」
ふたりは笑いながらなおもさきのほうへ行くと、あるところへ出た。そこはひろびろとした空地で、いちめんにただ瓦礫ばかり。その真北のほうに石の牌坊《はいぼう》(街門)が建っていて、その上に横にわたした石板には、
博浪城
の三字が彫ってあった。戴宗はしばらく考えこんでいたが、
「そうだ、ここは漢の留侯《りゆうこう》(注八)が始皇帝を撃ったところだ」
といった。そして戴宗はしきりに、
「留侯という人はえらいもんだ」
とほめそやした。
「鎚の一撃が外《はず》れた(注九)のはなんとも惜しいかぎりだ」
と石秀もいった。ふたりはひとしきり嗟嘆し、話しあいながらなおも北のほうへと足をのばして、陣営から二十里あまりのところまで行った。石秀は、
「ふたりで半日わけもなく遊んでしまったが、どこかで一杯ひっかけて陣営へ帰ることにしよう」
といった。
「あそこにあるのは酒屋だぞ」
と戴宗がいった。ふたりは酒屋へはいって行き、窓際の明るい席をえらんで腰をおろした。戴宗が机をたたいて、
「酒をくれ」
と呼ぶと、給仕が五六皿のお菜を持ってきて机の上にならべ、
「旦那さん、酒はどれくらいおもちいたしましょう」
とたずねる。
「とりあえず二角もらおう。肴はなんでもかまわんからどしどしもってきてくれ」
と石秀がいった。すぐ給仕は酒を二角酌《く》み、大皿に盛った牛肉・羊肉・嫩鶏《わかどり》を一皿ずつ持ってきた。ふたりがそこで酒を酌みかわしながら話をしていると、つと、ひとりの、雨傘と棍棒を持ち、包みを背負い、黒い衫《ひとえもの》をひっからげ、腰に物入れを結び、腿翰《たいほう》(脚絆)と護膝《ごしつ》(膝あて)をつけ、八つ乳《ち》の麻鞋《あさぐつ》をはいた男が、息をはずませながらやってきて、店の戸口をはいってきたかと思うと、傘と棒と包みをおろして、あいている席に腰をかけ、
「急いで酒と肉をくれ」
と呼んだ。給仕が酒を一角酌み、二皿三皿お菜をならべると、その男は、
「面倒くさいことをするな。肉があったら早く切って一皿もってきてくれ。わしは食いおわったら、お上の御用で急いで城《まち》へ行かなけりゃならんのだ」
といい、酒を取ってごくごくと飲んだ。戴宗はそれを横目でながめながら、腹のなかで思うよう、
「こいつは役人だな、なんの糞用事があるんだろう」
そこでその男に拱手の礼をして、たずねてみた。
「兄さん、なんのご用でそんなにお急ぎなのです」
すると男は、酒を飲み肉をくらいながら、なんのかのとしゃべり出したが、そのことから、宋公明はまたもやめざましい手柄をたて、汾沁《ふんしん》(汾河・沁河、ともに山西省)の地が再び大宋のものとなるにいたる。いったいその男はどんなことを話したのか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 首座 第四回注四参照。
二 読んで 魯智深はもともと字が読めなかった(第三回以下)のだが、この回以後では読めることになっている。
三 大〓に至る 『書経』の夏書・禹高《うこう》に、「河(黄河)を導くに、積石よりして竜門に至り、南して華陰に至り、東して底柱に至る。又東して猛津に至り、東して洛納を過ぎ、大〓に至る」とある。
四 鬼のような蛇のような 原文は如鬼如〓。『詩経』小雅に「為鬼為〓」の句が見える。〓《よく》とは水中に棲むという怪獣の名で、形は鼈《すつぽん》に似て三足。口に砂をふくんで岸の上の人影に吹きかけて殺傷すると伝う。転じて人を害するものをたとえて〓という。
五 桃源 晋の太元年間、武陵の人が桃林のあいだの谷川をさかのぼって行って、山の小さな入口からなかへはいってみると、別天地があった。そこには、秦《しん》の乱をさけてきたものの子孫が、少しも世の変遷を知らずに暮らしていたという。(陶淵明『桃花源記』)
六 金銀の牌面 第八十二回注二・三参照。
七 蒼頡 黄帝の史官で、鳥獣の足跡を見て文字を創始したと伝えられる。
八・九 留侯、鎚の一撃が外れた 留侯とは漢の張良のこと。張良の父祖は代々韓《かん》の宰相であった。韓が秦に滅ぼされるや、張良は仇を報いるため、始皇帝が東方に巡遊したとき、力士・滄海公《そうかいこう》に命じて重さ百二十斤の鉄鎚で始皇帝の命をねらわせたが、鎚は外《はず》れて始皇帝の副車をくだいただけであった(第一回注一〇参照)。のち張良は漢の高祖を助けて項羽を滅ぼし、漢が天下を統一するや留侯に封ぜられた。
第九十一回
宋公明《そうこうめい》 兵もて黄河《こうが》を渡り
盧俊義《ろしゆんぎ》 城を黒夜に賺《すか》す
さて、戴宗と石秀はその男が役人らしい身なりなのを見、また彼がいそがしげにせかせかとしているのを見て、
「いったいどういうご用なのです」
と戴宗がたずねると、その男は箸をおき、口をぬぐって戴宗にむかい、
「河北の田虎《でんこ》が謀叛《むほん》をおこしたことは、おまえさんも知ってるだろう」
といった。
「わたしたちも多少は聞いておりますが」
と戴宗がいうと、男は、
「田虎のやつめ、州を侵し県を奪やがって、官軍も刃むかうことができない始末なのだ。こんどは蓋《がい》州を討ち破って、やがては衛《えい》州を攻めようとしているところで、城内の住民は日も夜もびくびくしており、城外の住民はちりぢりに逃げてしまった、そのためにお役所ではわしを使いにたてて、省院へ急を告げる公文書をとどけさせられるところなのだ」
そういうなり立ちあがって、包みを背負い、傘と棒を持ち、急いで酒代をはらって外へ出、ため息をついていった。
「まったくお役所づとめはままならぬものだ。わしの家族のものはみんな城内にいるのだ。神さま、どうか早く援軍が出されますように」
そして大股に都をさして急いで行った。
戴宗と石秀はこの消息を聞くと、やはり酒代をはらって酒屋を出、陣営へ帰って宋先鋒に会い、このことを知らせた。宋江は呉用に相談した。
「われわれ諸将が、ここで何もせずに日をすごしているのは、どうもまずい。いっそのこと陛下に奏聞して、兵を起こして討伐に出かけることを願い出てはどうでしょう」
「そのことは宿太尉にとりついでもらうのがよいでしょう」
と呉用はいった。さっそく諸将を呼びあつめて相談すると、誰もみな大いによろこんだ。翌日、宋江は礼服を着、十数騎をつれて城内へ行き、まっすぐに太尉の屋敷まで行って馬をおりた。ちょうど太尉は家にいたので、とりついでもらった。太尉は知らせを聞くと、急いで迎えいれさせた。宋江が表広間へ通り、再拝してご機嫌をうかがうと、宿太尉は、
「将軍、どういうご用でお見えになりましたか?」
と聞く。宋江は、
「申しあげます。聞くところによりますと、河北の田虎が謀叛をおこし、州郡を占領して勝手に年号を改め、蓋州に侵入して、いずれ衛州を襲おうとしておりますとか。わたくしども一同、長らくなすこともなく日を送っておりますので、兵をひきつれて討伐におもむき、忠をつくして国に報いたいと存じますゆえ、なにとぞ陛下におとりつぎくださいますようお願い申す次第でございます」
宿太尉はそれを聞いて、大いによろこび、
「将軍らがかくも忠義にはげまれ、国家のために力をつくそうとしておられるなら、わたしも極力陛下におとりつぎいたしましょう」
「わたくしども、かさねがさねお力添えをこうむりまして、心に銘じ骨に刻んでご大恩は忘れません」
と宋江は礼をいった。宿太尉は酒をいいつけてもてなした。日が暮れてから宋江は陣営に帰り、頭領たちに委細を話した。
さて宿太尉は翌日の早朝参内して、披香殿《ひこうでん》で天子に目通りしたが、そのとき省院官から、
「河北の田虎が謀叛をおこして五府五十六県を占領し、年号を改めてみずから王と僭称《せんしよう》しております。このたび陵州・懐州を討ち破って近隣をふるえあがらせ、急を告げる上申書がとどけられてまいりました」
との奏上があった。天子は大いにおどろいて文武の百官にたずねられた。
「その方らのうち誰か、わたしのためにこの賊を平定してくれぬか」
そのとき、居並ぶ群臣のなかから、宿太尉が進み出て、笏《しやく》を胸にあて、ひれ伏して奏上した。
「聞くところによりますれば、田虎は破竹の勢いで、いまや燎原の火のごときありさまとか。猛将雄兵をもってしなければ平定することは困難かと存じます。このたび遼を破って勝利をとげました宋先鋒が城外に兵をとどめておりますゆえ、願わくは陛下より詔勅をくだされますよう。かの軍を討伐にむかわせますならば、必ずや大功をなしとげましょう」
天子は大いによろこばれ、ただちに省院官を城外へつかわして宋江・盧俊義を呼び寄せられた。ふたりはまっすぐ披香殿まで行って、天子に拝謁した。拝舞の礼をおわると、天子はじきじきのお言葉で、
「わたしはその方らが雄々しくかつ忠義であることを承知している。このたびはその方らに河北の討伐を命ずるゆえ、一同労苦をいとうことなく、早く凱歌を奏して帰るように。そのときには重くとりたてよう」
宋江と盧俊義は叩頭して奏上した。
「わたくしども、かたじけなくも大任をたまわりましたからには、もとより力のかぎりをつくし、死してのちやまん覚悟でございます」
天子は竜顔ことのほかうるわしく、勅《みことのり》をくだして、宋江を平北先鋒《へいほくせんぽう》に、盧俊義を副先鋒に任ぜられた。そしてふたりに、それぞれ御酒・金帯・銀袍・金甲・綵緞《いろぎぬ》を下賜され、その他の正副の将にもそれぞれ段疋《き ぬ》・銀両をさずけられて、平定のあかつきには功に応じて賞をあたえ、官爵を加える旨仰せられた。さらに全軍の頭目たちにも銀両を下賜されることになり、いっしょに内府から受領するよう、そして日を定めて出陣するようにと命ぜられた。宋江と盧俊義は再拝して聖恩を謝し、旨を受けて退朝し、馬に乗って陣営に帰ると、本営にはいり、ただちに諸将を集会して、おのおの鞍馬・衣甲をとりそろえ、田虎討伐におもむく用意をととのえるよう命じた。そして翌日、恩賜の段疋・銀両を内府から受領して、諸将に分け、全軍の頭目たちにも配った。
かくて宋江は呉用と協議して、水軍の頭領たちに、戦略を整備して先発し、〓河《べんか》から黄河《こうが》にはいって原武県《げんぶけん》の境まで行き、大軍が到着したら迎えて黄河をわたすようにと命じた。そして騎兵の頭領たちには馬の用意を命じ、水陸の両路を船馬相並んで進むよう出陣の準備をさせた。
さて、河北の田虎というのは、威勝《いしよう》州は沁源県《しんげんけん》の猟師で、腕力が強く、武芸にも長じ、もっぱら悪少年どもとつきあっていた男。その地が山々にとりかこまれていて、徒党を組むには都合がよかったうえに、水害と旱魃がしきりにおこり、住民は窮乏して人心の乱れていたおりから、田虎はその機をとらえて逃亡者を糾合し、妖言を捏造《ねつぞう》して愚民を煽動、はじめのうちは財物をかすめているだけだったが、のちには州を侵し県を奪い、ついには官軍もその鋭鋒にたちむかうことができなくなったのである。
なになに?(注一) 田虎はたかが一介の猟師ではないか、どうしてそれほど猖獗《しようけつ》をきわめられよう、と、いぶかられるむきもあろうが、だがみなさんお聞きください。そのころの文官は金銭に目がなく、武将はまた死をおそれるというありさまで、各州県には防禦の官軍がおりはしたものの、すべて年寄りか子供の、名ばかりのもので、あるいはひとりで二三人分の給与をごまかしたり、あるいは勢力者の家のひまな下男を、十数両の金をはらって名義だけの身代りにしたり、ひとりのものを金で買って兵隊に出し、支給される食いしろは自分でとって使ってしまい、点呼や調練という段になると、人を雇って応じさせるという始末で、上下のだましあいが牢固として破れず、国家がいくら金をつかったところで、一文も実際の役にはたたなかったのである。いざ戦陣に臨んでも、たたかいなどまるで知らず、てんでんばらばらで、前面に土煙りがあがって砲声でもしようものなら、父母が二本の脚しか生みつけてくれなかったことをうらむばかり(速く逃げのびようとあせるばかり)。もっともそのころでも、幾人かの軍官は兵をひきつれて田虎を討ちに出かけはしたが、攻め進むことなどできはせず、敵の後方をあちこち走りまわって虚勢を張るだけで、ひどいやつになると、良民を殺して手柄をいつわったりするので、住民たちはますます恨みを深め、かえって賊に走って官軍を避けるという始末。こんなことから敵に五州五十六県を占領されてしまったのである。この五州とは、第一が威勝《いしよう》で、すなわち今日の沁《しん》州。第二が汾陽《ふんよう》で、すなわち今日の汾《ふん》州。第三が昭徳《しようとく》で、すなわち今日の〓安《ろあん》。第四が晋寧《しんねい》で、すなわち今日の平陽《へいよう》。第五が蓋《がい》州で、すなわち今日の沢《たく》州。五十六県というのは、すべてこの五州の管下の県である。田虎は汾陽に宮殿を建て、文武の官僚や内政の宰相・外征の将軍などを偽設し、勝手に天下の一角を制覇して晋王《しんおう》と称したのである。その兵は精悍にしてその将は勇猛、その拠るところの山川は峻嶮。いまや兵を二手に分けて侵略の手をのばしてきたのである。
一方、宋江は、日を選んで出陣することになり、省院の諸官に別れの挨拶をした。そのとき宿太尉は親しく見送りにきた。趙安撫は聖旨を奉じて軍営にきて、全軍の将兵をねぎらった。宋江と盧俊義は、宿太尉と趙枢密に礼をのべたのち、兵を三隊に分けて進むことにし、五虎八驃騎に先手を命じた。
五虎将の五名は、
大刀 関勝
豹子頭 林冲
霹靂火 秦明
双鞭将 呼延灼
双鎗将 董平
八驃騎の八名は、
小李広 花栄
金鎗手 徐寧
青面獣 楊志
急先鋒 索超
没羽箭 張清
美髯公 朱仝
九紋竜 史進
没遮〓 穆弘
そして十六彪将《ひようしよう》には後詰めを命じた。
小彪将の十六名は、
鎮三山 黄信
病尉遅 孫立
醜郡馬 宣賛
井木〓 〓思文
百勝将 韓滔
天目将 彭〓
聖水将軍 単廷珪
神火将 魏定国
摩雲金翅 欧鵬
火眼〓猊 〓飛
錦毛虎 燕順
鉄笛仙 馬麟
跳澗虎 陳達
白花蛇 楊春
錦豹子 楊林
小覇王 周通
そして、宋江・盧俊義・呉用・公孫勝およびそのほかの幕僚の将や歩騎の頭領たちが、中軍を統べることになった。
その日、三発の号砲とともに、金鼓などの楽器をいっせいにうち鳴らしつつ、陳橋駅をあとに東北のほうへと進んで行ったが、宋江の命令は厳粛で、行軍の隊伍は整然として乱れることなく、通過する地方では秋毫も犯すところなかったことは、改めていうまでもない。やがて軍が原武県の境まで行くと、県の役人たちが郊外に出てきて迎えた。そのとき先手の軍から報告があって、
「水軍の頭領たちのひきいる船は、すでに河岸で渡河を待っております」
とのこと。宋江は李俊らに命じて、水兵六百を二隊の偵察隊に分けて左右両翼を哨戒させ、また土地の船を徴発して馬や車輛を積みこませた。かくて宋江らの大軍はつぎつぎに黄河の北岸へわたった。李俊らにはただちに、戦船をひきいて衛州の衛河へ進み、そこに勢揃いするよう命じた。
宋江の軍の先手は、衛州まで行って軍をとどめた。衛州の役人たちは、宴席を設け、宋先鋒が到着すると城内にいざなって歓待し、
「田虎のひきいる賊軍は強大で、侮るべからざるものがございます。沢州は、田虎の配下の偽《にせ》枢密の鈕文忠《ちゆうぶんちゆう》が守っておりまして、部下の張翔《ちようしよう》と王吉《おうきつ》に一万の兵をもって当州管下の輝県《きけん》を攻めさせ、また沈安《しんあん》と秦升《しんしよう》に同じく一万の兵をもって懐州管下の武渉《ぶしよう》を攻めさせております。どうか早く救援に行ってくださいますよう」
宋江はそれを聞くと、陣営にもどって呉用に、兵を発して救援におもむくことを諮《はか》った。呉用のいうには、
「陵川は蓋州の要地ですから、兵をひきいて陵川を討ちに行くほうがよいでしょう。そうすれば両県の囲みもおのずから解けると思います」
すると盧俊義がいった。
「わたくし、およばずながら、兵をひきいて陵川を討ちにまいりましょう」
宋江は大いによろこんで、盧俊義に騎兵一万と歩兵五百をあたえた。騎兵の頭領は、花栄・秦明・董平・索超・黄信・孫立・楊志・史進・朱仝・穆弘。歩兵の頭領は、李逵・鮑旭・項充・李袞・魯智深・武松・劉唐・楊雄・石勇という顔ぶれである。
翌日、盧俊義は兵をひきいて出て行った。宋江は本営で再び呉用とともに兵を進める策略を協議した。呉用が、
「賊軍は長らく驕《おご》りたかぶっておりますから、盧先鋒のこの出撃はきっと成功すると思います。ただ、三晋《さんしん》(注二)の地は地形の険しいところですから、ぜひとも頭領ふたりを偵察に出して、あらかじめ地形をさぐってからでないと、兵を進めるのは危険です」
というと、その言葉のまだおわるかおわらぬうちに、つと燕青が帳前に進み出て、
「軍師、その心配はご無用です。山川の地形はちゃんとここにあります」
といった。そして燕青は一軸の巻物をとり出して机の上にひろげた。宋江と呉用は、はじめから丹念に見たが、それは三晋の山川・城池・要害の絵図で、どこに陣をとるがよいか、どこに伏兵をしくがよいか、どこでたたかうがよいかが、すっかりこまかに書かれていた。呉用はおどろいてたずねた。
「この絵図はいったいどこで手にいれたのだ」
燕青は宋江にむかっていった。
「このまえ遼を破っての帰り、双林鎮《そうりんちん》まできましたときに会った、あの、姓は許《きよ》、名は二字名で貫忠《かんちゆう》という男。彼がわたしを家へつれて行って、別れるときにこの絵図をくれたのです。彼は手すさびに書いたまずい絵だといっておりましたが、帰ってから営中で所在ないまま、ふと、とり出してひろげて見ましたところ、はじめて三晋の絵図だということがわかりました」
「このまえあなたが帰ってきたときは、ちょうど拝謁の準備をしていたときで、忙しくてくわしいこともたずねなかったが、見受けたところあの男もやはり好漢のようだった。ふだんあなたはよく彼のことをほめていたが、彼はいまなにをしているのです」
「貫忠は博学多才なうえに、武芸もよくでき、度胸もあり、そのほかちょっとした芸事、琴や碁や絵などなんでもみなできる男なのですが、お上に仕えることをきらって山のなかに幽棲しているのです」
と燕青はいい、彼の語った言葉をくわしく話した。
「まったく、立派な心がまえの人だ」
と呉用はいった。宋江と呉用はしきりに嗟嘆し称讃した。
さて一方盧俊義は、軍をひきいて行って、まず黄信と孫立に三千の兵をつけて陵川の城東五里のところに伏兵をしき、史進と楊志にも同じく三千の兵をもって陵川の城西五里のところに伏兵をしくよう命じた。
「今夜の五鼓(四時)、枚《ばい》をふくみ鸞鈴《らんれい》をはずして、それぞれひそかに出かけるように。われわれは明日兵を進めるが、もし敵になんの準備もなくてわが軍が城を手にいれたときは、南門に旗じるしのあがるのを見てから、頭領たちは兵をひきいてゆっくり入城するよう。敵が準備をととのえていたときには、砲を放って合図をするから、両路からいっせいに繰り出して援護してもらいたい」
四将は計を受けて出て行った。
盧俊義は翌朝の五更に飯ごしらえをし、夜明けごろ、兵をひきいてまっしぐらに陵川の城下へ迫り、兵を三隊に分けて一文字に散開するや、旗をふり太鼓を鳴らしてたたかいを挑んだ。
城の守備兵はあわてて守将《しゆしよう》の董澄《とうちよう》および副将の沈驥《しんき》・耿恭《こうきよう》に急報した。この董澄というのは鈕文忠《ちゆうぶんちゆう》の配下の先鋒で、身の丈《たけ》九尺、膂力《りよりよく》(体力)衆にすぐれ、重さ三十斤の〓風刀《はつぷうとう》を使った。そのとき、宋江が梁山泊の軍を派遣し、すでに城下に迫って陣をかまえ、城におそいかかろうとしているとの知らせを聞くと、董澄は急いで本営に出、兵を召集し、城外に敵を迎え討とうとした。すると耿恭が諫めて、
「宋江ら一味のものは、なかなかの英雄とのこと、決してあなどってはなりません。堅く城を守るべきです。そして使いを蓋州へやって援軍を呼び、内と外から挟み討ちにするならば勝利を得ることができましょう」
といった。だが董澄はすっかりいきりたって、
「われわれをあなどるとは我慢のならぬやつらだ。よくも城を攻めてきやがったものだ。やつらは遠くからやってきて疲れているにちがいない、わしが出て行ったならば、甲《よろい》の切れ端ひとつも帰してはやらぬわ」
耿恭はしきりに諫めたが、董澄はききいれず、
「それならば一千の兵をおまえに残しておくから、城内で守備をしておるがよい。城壁の櫓《やぐら》の上から、わしがやつらをやっつけるのを見物でもするんだな」
といい、急いで甲をつけ刀をひっさげ、沈驥とともに兵をひきつれて城外へ敵を迎え討ちに出て行った。
城門が開き、吊り橋がおろされて、二三千の兵がどっと吊り橋をわたると、宋軍の陣では強弓硬弩《こうど》を放ってその出足を制した。と、〓鼓《へいこ》(攻め太鼓)が鼕々《とうとう》と鳴り出して、陵川の陣中からひとりの将がおしたてられてきた。そのいでたちいかにといえば、
一頂の、点金束髪《てんきんそくはつ》の渾鉄《こんてつ》の〓《かぶと》を戴き、頂上に斗来大小《とらいだいしよう》(枡《ます》ほどの大きさ)の紅纓を撒《ち》らす。
一副の、連環《れんかん》を擺《はい》せる鎖子《さし》の鉄甲を披《き》、一領の、雲霞を〓《しゆう》せる団花《だんか》の戦袍を穿ち、一双の、斜皮嵌線《しやひかんせん》の雲跟《うんこん》の靴を着《つ》け、一条の、紅《こうてい》(赤皮)もて釘《う》ち就《な》せる畳勝《じようしよう》の帯を繋《し》む。一張の弓、一壺の矢。一匹の、銀色の捲毛《けんもう》の馬に騎《の》り、手には一口の〓風刀《はつぷうとう》を使う。
董澄は馬をとめ刀を横たえて、大声で叫んだ。
「水泊の盗《ぬす》っ人《と》ども、ここまで命を捨てにまいったか」
朱仝が馬を飛ばして行きながら、怒鳴り返した。
「天兵のご到来だ。さっさと馬をおりお縄をちょうだいして、刀斧を汚《けが》すひまをとらさぬがよかろうぞ」
両軍はどっと喊《とき》の声をあげた。朱仝と董澄は中央に飛び出して行き、両馬相交わり、両者互いに武器をふりかざした。二将はわたりあうこと十合ばかり、朱仝が馬首を転じて東のほうへ逃げだすと、董澄はあとを追った。と、東の隊のなかから花栄が槍をしごきつつ出て行って相手どり、わたりあうこと三十余合におよんだが、なお勝敗は決しなかった。吊り橋のほとりで沈驥は董澄が勝てないと見ると、出白《しゆつばく》の点鋼鎗《てんこうそう》を振りまわしつつ、馬をせかせて加勢に飛び出した。花栄はふたりが挟み討ちにしようとするのを見て、馬首を転じて東のほうへと逃げだす。董澄と沈驥は逃がさじと追い迫る。と花栄は馬を返して再び相手になった。
耿恭は城壁の上から董澄と沈驥が追いかけて行くのを眺め、万一のことがあってはと、軍鼓を鳴らして引きあげさせようとしたそのとき、宋軍の陣から突然一隊の軍が飛び出してきた。それは李逵・魯智深・鮑旭・項充ら十数人の頭領で、飛ぶようにして吊り橋にむかっておし寄せてくる。北兵はそのすさまじさに当たり得べくもなく、とうてい防ぎとめることはできない。耿恭はあわてて、
「門を閉じろ」
と叫んだが、そのときおそくかのとき早く、魯智深と李逵ははや城内へ飛びこんできた。城門の守備兵はいっせいにかかっていったが、智深は大喝を浴びせ、禅杖《ぜんじよう》をひと振りしてふたりのものを打ちたおし、李逵は斧を振りまわして五六人を斬り伏せるところへ、鮑旭らがどっとなだれこんできて城門を奪い、兵士たちを斬りちらした。耿恭は形勢わるしと見るや、あわてて城壁からすべりおり、北のほうへと逃げようとしたが、歩兵に追われていけどりにされてしまった。
董澄と沈驥は、花栄とたたかっている最中、吊り橋のあたりに喊声がおこったのを聞いて、急いで馬を返して駆けつけて行った。花栄は追いかけずに、鋼鎗を了事環《りようじかん》に懸けて弓矢をとり、董澄にねらいを定め、その背中をめがけてひょうと射放てば、董澄は両脚を空にして、まっさかさまにどっと落馬した。盧俊義らは兵を指揮しておそいかかった。沈驥は、董平の槍にかかって殺された。陵川の軍は大半は殺され、あとのものはちりぢりに逃げ落ちて行く。諸将は兵をひきいていっせいに入城した。黒旋風の李逵はなおも猛りたってめったやたらに斬りまくったが、
「兄弟、住民を手にかけてはならんぞ」
と盧俊義にしきりに制止されて、李逵はようやく手をとめた。
盧俊義は兵士に命じて急いで南門に旗じるしをかかげさせて、両路の伏兵に知らせたうえで、兵をふり分けて各城門を守らせた。しばらくすると、黄信・孫立・史進・楊志のひきいる両路の伏兵が、そろって到着した。花栄は董澄の首級を献じ、董平は沈驥の首級を献じた。鮑旭らは耿恭ならびにその配下の頭目数名をいけどりにしてひきたててきた。盧先鋒はみなのいましめを解かせたのち、耿恭の手をとって客の座にすすめ、賓客の礼をもって遇した。耿恭が平伏して謝し、
「とらわれの将が、そのようなおもてなしを受けましては」
というと、盧俊義は扶《たす》けおこして、
「将軍が城を出てたたかわれなかったのは、まことに深いご思慮で、董澄らのおよぶところではありません。宋先鋒は賢能の士を招きいれる人ですから、将軍がもし天朝に帰順なさるお気持があれば、宋先鋒はお上におとりなしをして重く用いられるようとりはからってくださるでしょう」
耿恭は叩頭して礼をいった。
「かたじけなくも命を助けていただきましたうえは、なにとぞご配下の兵卒になりとお加えくださいますよう」
盧俊義は大いによろこび、さらに数名の頭領たちをも言葉やさしくなぐさめたのち、立札を出して住民を宣撫するとともに、酒食をととのえて兵士たちをねぎらい、また宴席を設けて耿恭や諸将をもてなした。
盧俊義は耿恭に、蓋州城内の兵力についてたずねた。耿恭のいうには、
「蓋州には鈕枢密が、大軍をもって守備しており、陽城《ようじよう》と沁水《しんすい》とがその西にございます。高平県《こうへいけん》ですと、ここからわずか六十里のところで、城池は韓王山《かんおうざん》の麓にあって、守将の張礼《ちようれい》と趙能《ちようのう》が二万の兵をひきしたがえております」
盧先鋒はそれを聞くと、耿恭に杯をさし出して、
「将軍、この杯を乾してください。今夜わたしはぜひとも将軍に手柄をたてていただきたいのです。決してご辞退くださいませぬよう」
「このような大恩を受けまして、わたくし、なんでまごころをつくさずにおられましょう」
盧俊義はよろこんで、
「将軍がおひきうけくださったうえは、数名の兄弟たち、ならびに将軍の配下の頭目たちをつけますから、わたしのいうとおり、かくかくしかじかにして、ただちに出発していただきたいのです」
といい、このたび投降した六七名の頭目たちを呼んで、それぞれに酒食と銀子をあたえ、功成ったあかつきには改めて重く賞をあたえるといった。かくて酒盛りがおわると、盧俊義は、李逵・鮑旭ら七人の歩兵の頭領、ならびに百名の歩兵に、陵川の兵士の衣甲と旗じるしに換えるよう命じ、また史進と楊志には、五百の騎兵をひきいて、枚《ばい》をふくみ鸞鈴《らんれい》をはずして耿恭の軍のずっとうしろからついて行かせることにした。そして花栄らの諸将には城に残って守備をするよう命じ、みずからは三千の兵をひきいて後方から援護することにした。
かくて割りあてがきまると、耿恭らは計をさずけられて城を出た。日はすでに暮れかかっていた。やがて高平城の南門外についたときは、すっかりたそがれていて、星の光のもとに、城壁には旗や幟がいちめんにたち並んでいるのが見え、城内からは更鼓《こうこ》(時太鼓)がおごそかに聞こえてきた。耿恭は城壁の下へ行って大声で呼びかけた。
「わしは陵川の守将の耿恭だ。董《とう》・沈《しん》二将がわしのいうことを聞きいれずに城門をあけ、敵を軽んじたために、城は陥《おちい》ってしまった。わしは急いでこの百名ばかりのものをひきつれて北門を開け、間道を通ってひそかにのがれてきたのだ。早く城内へ通してくれ」
城門の守備兵は松明《たいまつ》で照らして見てから、急いで張礼と趙能に知らせた。張礼と趙能はみずから城壁の楼《やぐら》へのぼった。兵士は松明を幾つもともして前後を照らす。張礼は城下の耿恭にむかって、
「味方の軍らしいが、もっとはっきり確かめたい」
といい、仔細に見さだめたが、確かに陵川の耿恭で、百名あまりの兵をひきいていて、その軍衣も、旗や幟もなんらまちがいはない。城壁の上の兵士たちには、頭目のものを知っているものがたくさんいて、指をさしながら、
「あれは孫如虎《そんじよこ》だ」
とか、
「あれは李擒竜《りきんりゆう》だ」
とかいうので、張礼は笑いながら、
「入れてやれ」
といった。城門が開けられ、吊り橋がおろされると、三四十人の兵士に吊り橋の両側をかためさせたうえ、ようやく耿恭を城内へ入れることになった。と、うしろの兵士たちがどっとおしかけてきて、
「早くしろ、早くしろ。うしろから追いかけてくるぞ」
とさわいで、耿将軍もなにもあったものではない。城門守備の兵は、
「ここをどこだと思っておるのだ、狼藉な」
と怒鳴りつけ、すったもんだをしていると、とつぜん韓王山の一角に火の手があがって、一隊の軍勢が飛び出してきた。二将がその先頭に立って大声で呼ばわる。
「賊将、逃げるな」
耿恭のひきいていた兵士たちのなかには、あらかじめ李逵・鮑旭・項充・李袞・劉唐・楊雄・石秀の七人の猛虎がまじっていたのである。このときみなのものは、てんでに武器を抜きはなち、喊声をあげ、百余名いっせいに猛りたって城内へと突進した。城内のものは手をほどこすいとまもなく、もとより城門を閉ざすどころのさわぎではない。城門の内外の兵士らは、たちまちのうちに数十人が斬りたおされ、城門を奪われてしまった。張礼は、しまった! とばかり、槍をかまえて城壁からおり、耿恭をさがした。と、ばったりと石秀に出くわし、三四合わたりあったが、張礼はすでに戦意をうしなっていて、槍をひきずって逃げだした。そこを李逵に追いつめられて、ばっさりと斧で二つに斬られてしまった。
一方、韓王山の一角の軍勢は、城辺へ殺到してくるや、どっと城内へ突入した。それは史進と楊志の一隊で、てんでに北兵を斬りまくった。かくて趙能は乱戦のなかで殺されてしまい、高平城の兵士は大半が討ち死をとげ、張礼の家族のものはのこらず斬り殺された。城内の住民は夢おどろかされて、泣き叫ぶ声は天をもふるわさんばかり。まもなく盧先鋒も兵をひきつれて入城し、命令をくだして各城門の守りをかためさせ、十数名の兵士にそれぞれ手分けをして、
「住民を殺してはならぬ」
と大声で触《ふ》れさせた。そして夜が明けると、立札を出して住民を宣撫し、兵士らには賞をあたえ、宋先鋒のもとへ報告の使いを走らせた。
なにゆえ盧俊義が、このように容易に、このように迅速に、二つの城を攻め落としたのかというと、それは田虎の配下が久しく勝手にあばれまわって、敵するものがなかったために、官軍をみくびり、宋江ら諸将がこんなにも英雄であろうとは知らなかったからである。盧俊義はその隙に乗じて不意を突き、相ついで二城を陥れたのであって、呉用が盧先鋒のこんどの出撃は必ず功をおさめるといった所以《ゆえん》はここにある。
余談はさておき、そのころ宋江の軍は衛州の城外に駐屯していた。宋先鋒が本営で協議をしていると、とつぜん盧先鋒からの使いが勝報をとどけてきて、兵を進める策をさらにたてていただきたいとのこと。宋江は大いによろこんで、呉用に、
「盧先鋒が一日のうちに、つづけさまに二つの城を陥れた。賊は肝をつぶしてしまったでしょう」
などと話していると、そこへまた両路の斥候から、
「輝県《きけん》・武渉《ぶしよう》両地の城をかこんでいた賊軍は、陵川が陥ちたことを聞いて、ともにかこみを解いて撤退しました」
と知らせにきた。宋江は呉用に、
「軍師の計略は、まことに古今めったにないすばらしいものです」
といった。そして、陣地をひきはらって西進し、盧先鋒と合流したうえ、相はかって兵を進めようとした。すると呉用のいうには、
「衛州は、左には孟門《もうもん》、右には太行《たいこう》があり、南は大河(黄河)に臨み、西は上党《じようとう》をおさえていて、まことに要害の地です。もしも賊が、わが大軍が西へ移ったことをかぎつけ、昭徳《しようとく》から兵をひきつれて南下してきますと、わが軍は東西の連絡を断たれてしまいますが、その対策をたてなければなりません」
「なるほど、軍師のおっしゃるとおり」
と宋江はいい、ただちに、関勝・呼延灼・公孫勝に兵五千をもって衛州を守らせることにし、さらに水軍の頭領、李俊・二張(張横と張順)・三阮(阮氏三兄弟)・二童(童威と童猛)に命じ、水軍の船をひきいて衛河にあつまり、城内と呼応して敵にあたらせることにした。かくて配置がきまると、諸将は命を受けて出かけて行った。
宋江以下の諸将は大軍をひきいて、その日ただちに陣地をひきはらって出発したが、途中は格別の話もなく、やがて高平についた。盧俊義らはこれを城外に出迎えた。宋江は、
「みなさんが相ついで二つの城を奪回した功労は大したものです。功績簿にみなくわしく記載しましょう」
といった。盧俊義はこのたび投降した将・耿恭をつれてひきあわせた。宋江はいった。
「将軍が邪をすてて正に帰し、わたしたちとともに国家のために力をつくされますならば、お上でも必ず重くおとりたてくださるでしょう」
耿恭は礼をいってかたわらにひかえた。宋江は兵の数が多くて城内にはいるには都合がわるかったので、そのまま城外に陣をかまえた。そしてさっそく呉用と盧俊義に諮《はか》った。
「これからどの州郡を攻めたらよいでしょう」
すると呉用のいうには、
「蓋州は山が高く谷は深く、道は険しいところですが、すでにその属県を二つ奪ってしまいましたので、いまや孤立の状態です。それゆえまず蓋州をおそって敵の勢いを分散させ、それから兵を二手に分けて挟み討ちにすれば威勝も攻め落とせましょう」
「ご意見、まったく同感です」
と宋江はいい、柴進と李応を陵川の守備にやって、かわりに花栄ら六将を手もとに呼びもどすことにし、また史進と穆弘には高平を守らせた。柴進ら四人は命を受けて出て行った。そのとき没羽箭の張清が、
「わたくし、この二三日風邪《か ぜ》をひいておりますので、しばらく高平にとどまって養生をし、なおりましてから陣営にもどってご命令にしたがいたいと存じます」
と申し出た。宋江はただちに神医の安道全を張清とともに高平へ行かせ、治療させることにした。
翌日、花栄らがやってきた。宋江はそこで花栄・秦明・索超・孫立らに兵五千をあたえて先鋒とし、董平・楊志・朱仝・史進・穆弘(注三)・韓滔・彭〓らには兵一万をあたえて左翼とし、黄信・林冲・宣賛・〓思文・欧鵬・〓飛らには同じく兵一万をあたえて右翼とし、徐寧・燕順・馬麟・陳達・楊春・楊林・周通・李忠らは後隊とした。そして宋江・盧俊義およびその他の将領は大軍をひきいて中軍となった。この五路の雄兵が蓋州へとおし寄せて行ったのであるが、あたかもそれは竜の大海を離れ虎の深林を出ずるがごときありさまで、まさに、人々封侯《ほうこう》の績《いさおし》を建てんと要《ほつ》し、個々蕩寇《とうこう》の功を成さんと思う、というところ。さて宋江の軍はいかにして蓋州を攻略するか。それは次回で。
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一 なになに? 原文は説話的。説話者(講釈師)よ、と聴衆が呼びかけて異をはさむ形である。
二 三晋 春秋時代には魏・趙・韓の三家は晋に仕えてその卿たる位置にあったが、戦国時代に晋から別れておのおの国をたてた。これを三晋という。今の山西省・河南省と河北省の西南部が三晋の地である。
三 史進・穆弘 史進と穆弘は、すぐ前の記述では高平の守備を命ぜられて出かけていったことになっており、後の話もその設定のもとに進められているから、ここではこの二人の名は省くべきである。
第九十二回
軍威を振う 小李広《しようりこう》の神箭《しんせん》
蓋郡《がいぐん》を打つ 智多星《ちたせい》の密籌《みつちゆう》
さて、宋江は大軍を統べ、五隊に分かれて出発し、蓋州へと攻めて行った。蓋州の物見の兵はそれを探知するや、大急ぎで城内へ知らせにもどった。
城の守将たる鈕文忠《ちゆうぶんちゆう》は、もともと盗賊あがりで、世間で掠《かす》め取った金銀財宝をことごとく田虎に注《つ》ぎこみ、ともに謀叛をたくらんで宋朝の州郡を占領したのである。そのため枢密使の職に任ぜられていた。三尖両刃《さんせんりようじん》の刀の使い手で、武芸は衆にすぐれ、その配下には猛将四名をしたがえて、四威将《しいしよう》と号し、力をあわせて蓋州を守っていた。その四名は、
猊《げい》威将 方瓊《ほうけい》
貔《ひ》威将 安士栄《あんしえい》
彪《ひよう》威将 〓亨《ちよこう》
熊《ゆう》威将 于玉麟《うぎよくりん》
この四威将のもとにはそれぞれ偏将《へんしよう》(副将)四名がいて、あわせて偏将十六名。それは、
楊端《ようたん》 郭信《かくしん》 蘇吉《そきつ》 張翔《ちようしよう》 方順《ほうじゆん》 沈安《しんあん》 盧元《ろげん》 王吉《おうきつ》 石敬《せきけい》 秦升《しんしよう》 莫真《ばくしん》 盛本《せいほん》 赫仁《かくじん》 曹洪《そうこう》 石遜《せきそん》 桑英《そうえい》
鈕文忠はこれらの正将・偏将とともに、三万の北兵《ほくへい》をひきつれて蓋州に拠っていたのであるが、このほど陵川と高平とが攻め落とされたと聞いて、官軍を迎え討つ準備をする一方、威勝・晋寧の両地に文書を送って危急を告げ、援軍を求めていたのである。
そのとき物見の兵の知らせを聞くと、ただちに正将の方瓊とその偏将の楊端・郭信・蘇吉・張翔を出し、五千の兵をもって城外に敵を迎え討たせることにした。出発のとき鈕文忠はいった。
「十分に気をつけるように。わしもあとから兵をひきつれて加勢に行く」
「おっしゃるまでもございません。あの二つの城は武力で負けたというわけではなく、ともに敵の計略にかかってしまったのです。わたしは、きょうは幾人かを討ちとらぬかぎりは、誓ってもどってはまいりません」
と方瓊はいった。
かくて諸将はそれぞれ武装して馬に乗り、兵をひきつれて東門をいでたち、どっとおし寄せて行った。宋軍の先手の隊は、これを迎えて陣形をかまえ、天にどよもして戦鼓をうち鳴らした。
北兵の陣では門旗が左右に分かれて、方瓊が馬を乗り進めて先頭に立ち、四人の偏将が左右からそれを護りたてた。かの方瓊は、頭には捲雲《けんうん》の冠をかぶり、竜鱗《りゆうりん》の甲《よろい》をつけ、身には緑錦《りよくきん》の袍《うわぎ》をまとい、腰には獅蛮《しばん》の帯をしめ、足には抹緑《まつりよく》の靴をはき、左には弓をかけ、右には矢をかけ、黄色い〓《たてがみ》の馬にまたがり、渾鉄の槍をしごきつつ、大声で呼ばわった。
「水たまりの盗《ぬす》っ人《と》どもめ、よくも計略をもってわれらが城をだまし取ったな」
宋軍の陣からは孫立が、
「謀叛に組する逆賊め、いまや天兵がまいったというのに、まだ命があるつもりでいるのか」
と怒鳴りつけるなり、馬をせかせてまっしぐらに方瓊に飛びかかって行く。二将は戦塵舞いあがり殺気みなぎるただなかで、わたりあうこと三十余合、方瓊は次第にひるんできた。北軍の陣では張翔が、方瓊が孫立に勝てないのを見るや、弓をとり矢をつがえつつ馬を陣頭に進め、孫立めがけてひょうと射放った。孫立は早くもそれに気づき、馬首を引きおこした。と、矢は馬の眼に命中して、馬は棒立ちになる。孫立はかたわらに跳びおり、槍をかまえて徒歩でわたりあった。馬は痛手を負い、北のほうへと駆け出したが十数歩でばったりと倒れてしまった。張翔は孫立を射そこなったと見るや、馬を飛ばし刀をふるってさらに加勢に出て行ったが、秦明にたちふさがれて斬りあいとなった。孫立は陣地へ別の馬をとりに行こうとしたが、方瓊に槍できびしく右へ左へと突きまくられて、脱け出すことができない。こちらでは神臂将の花栄が憤然となって、
「賊将め、よくもだまし矢を射ちおったな。わが矢のほどを思い知らしてくれるぞ」
と罵りつつ、はや弓を満々とひきしぼり、方瓊にねらいを定めて、ひょうと射放てば、矢はその顔に命中して方瓊はまっさかさまに落馬した。孫立は駆け寄って槍でひと突きにとどめを刺し、急いで本陣へ別の馬をとりにもどった。張翔と秦明の斬りあいでは、秦明のかの棍(狼牙棍《ろうがこん》)が張翔の脳天のあたりを絶えずつけねらい、張翔はそれを払ったり防いだりするだけで精いっぱいであった。そこへ、方瓊の落馬したのを見て怖気《おじけ》づき、次第に窮地に追いこまれてきた。と、北兵の陣から郭信が、馬をせかせ槍をしごいて張翔の加勢に出た。秦明は二将を相手にして、いささかもひるむことなく、三騎は丁字形にひらいて陣頭にしのぎを削りあった。花栄はさらに二本目の矢を取って絃につがえ、張翔の背中に十分にねらいをつけ、満月のごとく弓をひきしぼり、流星のごとく矢を放った。ひょうと、またもや一箭、
「思い知れ」
と叫べば、矢は張翔の背中に命中し、射透《いとお》して胸もとまで突き出た。張翔は〓《かぶと》をさかしまにし、両脚は空《くう》を踏んで、どっと馬から落ちる。郭信は張翔が矢にあたったのを見ると、負けたふりをして馬首を転じ、本陣へと逃げだした。秦明はぴったりと追いつめて行く。このとき孫立は、はやくも換え馬に乗って陣を飛び出し、花栄・索超とともに兵をさし招きつつ斬りこんで行った。北兵は大いに乱れる。かなたでは楊端・郭信・蘇吉らが防ぎきれなくなり、急いで後方へと退いて行く。そのときにわかに北軍の後方から大喊声がわきおこった。それは鈕文忠が、方瓊の身を案じて安士栄と于玉麟にそれぞれ五千の兵をつけ、二手に分けておそいかからせたのであった。こちらでは花栄ら四将が、急いで兵をふり分けてこれにあたった。すると、かの楊端・郭信・蘇吉らが兵を返して逆襲してきた。三方からの挟み討ちにあってはかなわず、花栄ら四将は力戦奮闘したがみるみる敵の重囲におちいってしまった。と、そのときまた東のほうに、天をどよもす喊声がおこり、北軍は大いに乱れ出した。左には董平ら七将、右には黄信ら七将、この左右両翼の軍がどっと斬りこんできたのである。北兵は大敗を喫し、おびただしい死者を出した。安士栄・于玉麟らは、兵をひきいておしあいひしめきあいながら城内に逃げ、城門をとざしてしまった。宋軍が城下まで追って行くと、城壁の上から擂木《らいぼく》(投げ丸太)や砲石(投げ石)を浴びせかけてきた。宋軍はようやく後退した。
しばらくすると宋先鋒らの大軍がうちそろって到着し、城外五里のところに陣をかまえた。宋江は本営にはいり、蕭譲に、花栄の勲功第一と記録させた。とそのとき、にわかに一陣の怪風がおこり、土を飛ばし砂塵をあげて西から東へ吹きすぎ、旗や幟をゆりうごかして、傾《かし》がせてしまった。呉用は、
「この風は、今夜賊軍が陣地へおそってくるしるしです。はやく準備をしなくては」
という。宋江も、
「この風は確かに尋常ではない」
といい、ただちに欧鵬・〓飛・燕順・馬麟らに命じて三千の兵をもって陣地の左に伏兵をしかせ、王英・陳達・楊春・李忠らにも同じく三千の兵をもって陣地の右に伏兵をしかせた。さらに魯智深・武松・李逵・鮑旭・項充・李袞らには兵五百をもって陣中にかくれさせて、砲声を合図にいっせいに斬って出させることにした。かくて配置をおわると、宋江と呉用は明りをともしていくさの話をはじめた。
さて一方の鈕文忠は三将を討ちとられ、兵士を点検してみるに二千余名をうしなっているので、本営でくさくさしていると、そこにいた貔威将《ひいしよう》の安士栄が献策していうよう、
「閣下、ご心配なく。宋江らの一味は連戦連勝してすっかりおごりたかぶっておりますから、なんの備えもしていないにちがいありません。それゆえ今夜わたくしが一隊の軍をひきいて行って陣をおそいましょう、そうすれば必ず大勝を博してきょうの仇を取ることができましょう」
「将軍が出陣してくださるなら、わたしもみずから兵をひきいて援護に出ることにして、于・〓の二将軍に城を堅守しているようたのもう」
と鈕枢密はいった。安士栄は大いによろこんで、
「閣下の親征を得ますならば、必ず宋江をいけどることができるでしょう」
といった。かくて相談がまとまり、やがて二更(夜十時)ごろ、士栄は偏将の沈安・盧元・王吉・石敬をともない、五千の兵をひきしたがえて、人は軽い軍装をまとい、馬は鈴をとりはずして城外に出るや、口に枚《ばい》をふくんで疾走しつつまっしぐらに宋軍の陣前へおし寄せ、喊声をあげて、どっと陣地へ斬りこんで行ったが、見れば陣門はひろく開けはなたれていて、陣中には明りが煌々《こうこう》とついている。安士栄は計略にはまったとさとり、急いでひき返そうとしたがそのいとまもなく、宋軍の陣中に砲声がとどろき、左からは燕順ら四将が、右からは王英ら四将が、いっせいにおそいかかってき、陣内からは李逵ら六将が蛮牌(楯)の歩兵をひきいて斬り出てきた。北軍は大敗を喫して、ちりぢりに逃げた。沈安は武松の戒刀《かいとう》に斬り殺され、王吉は王英に討ちとられた。宋軍は安士栄・盧元・石敬らの兵をとりかこみ、みるみる窮地におとしいれたが、そこへ鈕文忠が偏将の曹洪・石遜とともに兵をひきつれて救援にきて、乱戦をくりひろげたすえ、双方ともそれぞれ兵を退《ひ》いた。
翌日、鈕文忠が兵を点検してみると一千余名をうしなっていた。しかも沈安・王吉の二将を討ちとられ、石遜は重傷を負うて息もたえだえというありさま。すっかりうち沈んでいると、そこへ威勝から使者が田虎の令旨をたずさえてやってきたという知らせがあった。鈕文忠はあわてて馬に乗り、北門から出て使者を迎え、城内に請じて令旨の宣読をうけた。いわく、
近来司天監《してんかん》(天文をつかさどる官)夜天象《てんしよう》を観るに、〓星《こうせい》有り、入りて晋の地の分野を犯す。務めてよろしく城池を堅守し、誤り有るを得ざるべし。
鈕文忠は、
「宋朝では宋江らの軍をよこしてたたかわせ、相ついで二つの城を破り、宋軍はすでにここまでおし寄せてきて、きのうのたたかいでは、王将・偏将五名が討ちとられました。早く援軍をよこしてもらいませぬことには憂慮すべき事態に相なりましょう」
と訴えた。使者は、
「わたしが威勝をたつときは、まだそういう消息は聞きませんでしたが、途中まできたときはじめて、宋朝が兵を出しておし寄せてきたといううわさを耳にした次第です」
と話した。鈕文忠は宴席を設けて使者をもてなし、礼物を贈ったりする一方、擂木や砲石、強弓や硬弩、火箭《かせん》や火器などを用意し、城の守りをかためて援軍を待つことにしたが、この話はそれまでとする。
さて、燕順・王英らの諸将は陣地をおそってきた賊軍を斬り散らし、勝ちを制して陣地へひきあげたが、その翌日、宋江は命令をくだし、〓〓車《ふんうんしや》(注一)などの兵器を整備して城攻めの準備にとりかからせた。そして林冲・索超・宣賛・〓思文には兵一万をもって東門を、徐寧・秦明・韓滔・彭〓には兵一万をもって南門を、董平・楊志・単廷珪・魏定国には同じく兵一万をもって西門を、それぞれ攻撃させることにして、北門だけはそのままにしておき、また援軍がきたとき城内から突撃してくれば両面に敵を受けることになることを考えて、史進・朱仝・穆弘・馬麟には兵五千をもって城の東北の岡の麓に、黄信・孫立・欧鵬・〓飛には同じく兵五千をもって城の西北の密林の中に、それぞれ伏兵をしかせ、もし賊が援軍をさしむけてきたならば両面から挟み討たせることにした。さらに花栄・王英・張青・孫新・李立には騎兵一千をもって遊撃隊とならしめ、四つの城門をまわって偵察をさせることにし、李逵・鮑旭・項充・劉唐・雷横には歩兵三百をもって、花栄らと呼応して行動するよう命じた。かくて配置がきまると、諸将は命にしたがって出かけて行った。宋江は盧俊義・呉用ら正副の将領とともに、本営を城の東方一里のところに移した。そして李雲・湯隆に命じて雲梯飛楼《うんていひろう》(敵城に寄せかけて攻め入るための櫓車《やぐらぐるま》)を組みたてさせ、それを各陣営へ運んで行って使わせることにした。
さて、林冲ら四将は城の東側で、雲梯飛楼をたてて城壁に近寄せ、身軽な兵士たちを飛楼にのぼらせた。のぼって行くところを、下から喊声をあげて気勢を添えたが、いかんせん、城内からは火箭を蝗《いなご》のように浴びせかけてきて兵士は身をかわすいとまもなく、たちまちのうちに飛楼は焼かれて、がらがらと崩れ落ち、兵士の落ちて死んだもの五六名、傷を負うたもの十数名にのぼった。西と南の二ヵ所の攻撃も、同じように火箭と火砲に兵士を損傷される羽目になった。このためそのまま六七日間、攻めこむことができなかった。
宋江は城攻めが功を奏さないのを見て、盧俊義・呉用とともにみずから南門の城下へ行って城攻めを督励した。と、花栄ら五将も、騎兵の遊撃隊をひきいて西から東へ偵察をしながらやってきた。城壁の櫓の上では于玉麟が、偏将の楊端・郭信とともに兵士を指揮して守備をしていたが、楊端は、花栄が次第に櫓のほうに近づいてくるのを見るや、
「この前は、あいつのために味方の二将がつづけざまにやられたが、きょうはその仇をとってやろう」
といい、急いで弓をとり矢をつがえ、花栄の胸もとをねらって、ひょうと射放った。花栄は弓の弦音《つるおと》を聞くや、身体をうしろへそらせ、矢が飛んできたとたん、手をのばしてぱっとその矢をつかみ取って口にくわえ、身体をおこして槍を了事環《りようじかん》に掛け、左手に弓をとり、右手にその矢をとって弦につがえ、楊端にねらいを定めて、射放てば、矢は楊端の咽喉《の ど》に命中し、楊端はどっとうしろへ倒れた。花栄は大声で、
「やろうども、よくもだまし矢を射ちおったな。よし、ひとりずつ片っぱしから始末してくれるぞ」
と呼ばわり、右手に矢をとって射とうと身構えると、櫓の上ではわっとさわぎ出し、幾人もの兵士たちがどっと櫓からころがりおりた。于玉麟と郭信はおろおろとして顔は土色になり、身をかくそうとしてじたばたするばかり。花栄はあざ笑って、
「きょうこそ神箭将軍《しんせんしようぐん》を思い知ったか」
という。宋江と盧俊義は喝采してやまない。呉用は、
「兄貴、ちょうどよい機会ですから花将軍といっしょに城壁の様子を偵察に行きましょう」
といった。かくて花栄らは、宋江・盧俊義・呉用らを護りつつ、ぐるりと城をまわって偵察をした。
宋江・盧俊義・呉用らは陣中にひきあげてくると、呉用が陵川の降将の耿恭を呼んで蓋州の城内の道についてたずねた。耿恭のいうには、
「鈕文忠はもとの州役所を元帥府にあてておりまして、これは城の中央にあります。城の北側には幾つかの廟があって、空地はすっかり秣《まぐさ》置場になっております」
呉用はそれを聞くと、宋江と相談したうえ、時遷《じせん》と石秀を傍《そば》へ呼んで密談をし、
「かくかくしかじかの計略によって、花栄の軍へ行って内密に命令をつたえたうえ、機を見て決行するように」
といい、さらに凌振・解珍・解宝には、二百人の兵をつけ、轟天《ごうてん》・子母《しぼ》の大小の号砲を持って行って、かくかくしかじかにするようにと命じた。また魯智深・武松には金鼓手三百人をつけ、劉唐・楊雄・郁保四・段景住にはおのおの二百人ずつの兵をあたえ、各自松明《たいまつ》を用意して東西南北に散り、計略にしたがって行動をさせることにした。さらにまた戴宗を東と西と南の三つの陣営へやって、城内に火の手のあがるのを見たらただちに力のかぎり城を攻めよという密命をとどけさせることにした。かくて手はずがきまると、頭領たちは命を受けて出かけて行った。
一方の鈕文忠は、日夜援軍を待ち望んでいたが、なんの消息もなく、しきりに気をもみ、兵の数をふやして丸太や石を城壁の上に運びあげさせて、守りをかためていた。日が暮れて、黄昏《たそがれ》のころ、にわかに北門外に天をふるわす大喊声がおこり、金鼓や角笛がいっせいに鳴りだした。鈕文忠が北門に駆けつけ、城壁の上にのぼって眺めたときには、喊声も金鼓の音もすっかりやんでいて、どこの軍なのか見当もつかない。おかしいぞと考えていると、こんどは城の南のほうに喊声がおこり、天をふるわして金鼓が鳴りだした。鈕文忠は于玉麟にかたく北門を守るよう命じて、みずからは急いで城の南側へ駆けつけて見ると、すでに喊声もやみ、金鼓の音もしない。鈕文忠は長いあいだ眺めていたが、聞こえてくるのは宋軍の南の陣営の隠々たる時太鼓の音のみで、あとはひっそりと静まりかえり、一点の火の光も見えない。ゆるゆると城壁をおり、元帥府へもどって点呼でもしようと考えていると、とつぜん東門外に連珠砲《れんしゆほう》がとどろき、城の西方に喊声と金鼓の音が、天にとどろかんばかりにわきおこった。鈕文忠が東奔西走してさわぎまわっているうちに夜があけたが、すると宋軍がまた城壁に攻め寄せてき、日が暮れてからようやく退いて行った。その夜、二更ごろになると、またしても金鼓や角笛の音と喊声がわきおこった。鈕文忠は、
「やつらは疑兵《ぎへい》の計《けい》(敵をまどわすために兵数を多く見せかける計)をやっているのだ。相手にせずに、こちらはただかたく城を守って、やつらがどうするか見ていることにしよう」
といった。すると、とつぜん知らせがあって、
「東門では、天を照らさんばかりにあかあかと火がかがやき、松明の数はかぞえきれず、飛楼雲梯を城壁に寄せかけております」
という。鈕文忠はその知らせを聞くと、城の東側へ駆けつけ、〓亨《ちよこう》・石敬《せきけい》・秦升《しんしよう》とともに兵を督励して火箭や砲石を浴びせかけさせたが、そうしているうちに、突如として一発の火砲がとどろいて山谷をふるわせ、城壁の櫓をゆさぶった。城内の軍民はただもうおどろきおそれるばかり。このようにして二晩《ふたばん》なやましつづけたあげく、夜があけるとまたしても城を攻めてきた。兵士たちは一刻も眼を合わせることができず、鈕文忠も一刻もやすまず城内を巡視しつづけた。と、不意に西北のほうに、旌旗が日を蔽《おお》い天をさえぎりつつ東南へと進み、宋軍のなかから十数騎の斥候が飛ぶようにして本陣へ駆けて行くのが見えた。鈕文忠は援軍だと見て、于玉麟に城を出て迎える準備をさせた。
さて、西北方のかの一隊の軍というのは、晋寧《しんねい》の守将で、田虎の弟の三大王の田彪《でんひゆう》が、蓋州からの救援を求める文書を受け取ってただちに部下の猛将の鳳翔《ほうしよう》と王遠《おうえん》に兵二万をさずけて救援におもむかせたものであった。
すでに陽城を過ぎて蓋州へと進み、城まであと十余里のところまできたときのことである。にわかに一発の砲声がとどろいたかと思うと、東と西の、岡の麓と密林のなかから二隊の軍勢が飛びだしてきた。それは史進・朱仝・穆弘・馬麟・黄信・孫立・欧鵬・〓飛ら八人の猛将と一万の雄兵で、どっとおそいかかってくる。晋寧の兵は二万人いたが、遠くからやってきて疲れており、ここに十日あまり待ち伏せて鋭気を養っていた二手の軍勢の挟み討ちにはあたるべくもなかった。晋寧の軍は大敗を喫し、金鼓・旗・槍・〓・甲・馬などを無数にうち捨て、兵士の大半は討ちとられ鳳翔と王遠は命からがら敗残の頭目や兵卒をつれて晋寧へひき返して行ったが、このことはそれまでとする。
さて鈕文忠は両軍がぶっつかってたたかいとなったのを見て、急いで于玉麟に、兵をひきしたがえ、北門をあけて加勢に討って出させた。この北門にはもともと攻撃の兵はいなかった。だが于玉麟が兵をひきつれて城を出、吊り橋をわたったとたん、花栄の遊撃隊が西のほうからやってくるのに出くわした。北軍の兵は大声で、
「神箭将軍がきた」
と叫ぶなり、あわてふためいて逃げまどい、おしあいひしめきあいつつ城内へなだれこんで行く。于玉麟もさきに南の城壁で肝をつぶされていたこととて、刃むかうことなど思いもよらず、これまた城内へ駆けこんでしまった。花栄らはおそいかかって行って二十人あまりを斬り殺したが、追い討つことはせず城内へ逃げこませた。城内では急いで門をとざした。
このとき、石秀と時遷《じせん》は、北軍の軍服を着ていちはやく城内へまぎれこんだのである。時遷と石秀は城門をはいるなり、どさくさまぎれに小路にしのびこんだ。その小路をたどって行くと、一つの神祠《ほこら》があって、その牌額《はいがく》には、
当境土地神祠
と書いてあった。時遷と石秀がしのび足でなかへはいって行くと、ひとりの道人が東側の壁のところで火にあたっていた。その道人は、ふたりの兵士がはいってきたのを見ると、
「旦那、外の様子はどんな具合ですか」
ときいた。すると兵士は、
「いまさっき、わしらは于将軍につれられていくさに行ったのだが、あの神箭将軍に出くわしてしまったので、于将軍もやつとはたたかわず、わしたちもめちゃくちゃに城内へ逃げこみ、追いまくられてここまできたというわけだ」
といい、ふところから小粒銀を二つとり出して道人にわたし、
「しまってある酒があったら、すまんがわしたちに一杯ずつ飲ましてくれぬか。まったく寒くてやりきれんのでな」
するとその男は笑いだして、
「旦那、じつはここ四五日いくさの具合があやうくなってからは、神さまにあげるお香や灯明さえまるっきりないという始末なんで。一滴の酒だって買えやしません」
といい、銀を時遷に返した。石秀がその手をおしやって、
「そいつはおまえさんがとっておいて、あとで間《ま》にあわすがよい。わしたちは城壁の守備が毎日きつくて、一時《いつとき》も眼を合わせることができなかったんで、今夜はちょっとここで眠らせてもらいたいんだ、あしたの朝早く出て行くから」
というと、道人は手をふりながら、
「おふたりの旦那、わるく思わないでくださいよ。鈕将軍のきびしい命令で、そのうちに巡視がやってきます。おふたりさんをここへ泊めておいたら、お互いにただではすみません」
「そういうわけなら、まあほかのとこへ行くとするか」
と時遷はいった。石秀は道人の傍《そば》へ寄って、同じように火にあたった。時遷があたりに人気《ひとけ》のないのを見すまして石秀に目くばせをすると、石秀はそっと佩刀をとり出した。かの道人は何も知らずに火にあたっている。そこを石秀にうしろからばさりと一太刀、首を刎《は》ねられてしまった。すぐ、祠の門には閂《かんぬき》がさされる。
そのときはもう酉牌《ゆうはい》(暮れがた)ごろだった。時遷が厨子《ずし》のうしろの壁のほうへまわってみると、そこには扉があり、扉の外は小さな中庭になっていて、軒下には雑草が二山積んであった。
時遷と石秀はそれを運んできて、道人の死骸にかぶせておいてから、祠の門をあけ、裏の中庭から屋根の上へ這いあがった。ふたりは屋根の棟《むね》のかげに身をひそめ、空を仰いで見ると数十の星がきらきらとかがやいている。
時遷と石秀はしばらく時をすごしてから、また屋根からすべりおり、祠の外へ行って様子をうかがってみたが、誰ひとり通りかかるものもなかった。ふたりはしのび足で何歩か歩き、あたりを見まわすと、隣り近所には何軒かの人家があるにはあったが、いずれもみなひっそりと戸をとざし、かすかに泣き声が聞こえてくるだけである。時遷はさらに南のほうへ足をしのばして行き、土塀に沿って行って曲がると、広い空地になっていて、そこには幾十もの乾草の山があった。時遷は胸のなかで、
「ここが秣置場なのだな。だが見張りの兵がいないのはどうしたことだろう」
とつぶやいた。それというのも城内の将領たちは城壁の上での防戦におおわらわで、ここまで監視するゆとりなどなかったし、見張りの兵は、宋軍が援軍を斬り散らしてしまったと聞いて、城内はもはやどうにもならぬと考え、めいめい自分の命が大事とばかり、いちはやく逃げかくれてしまったのであった。時遷と石秀はまた祠へもどって行って、火種をとり、道人の死骸の上の雑草にもやしつけておいてから、秣置場へしのびこみ、ふたりは手分けをして、つづけさまに六七ヵ所に火をつけた。しばらくすると、秣置場には〓々《こうこう》と火の手があがり、すさまじい焔が天に冲した。かの祠も燃えあがった。秣置場の西側の住民のひとりが火事に気づき、松明をともして様子を見に出てきた。時遷は飛び出して行って、ぱっと松明をひったくった。石秀は、
「さあ、わしたちは鈕元帥さまのとこへお知らせに行こう」
という。住民はふたりが兵士なのを見て、とやかくいうわけにもいかない。時遷は松明をとり、石秀とともにいっさんに南のほうへと駆け出し、口では、
「元帥さまへお知らせだ」
と叫びながら、手頃な民家を見つけてまた二三ヵ所に火をつけた。それから松明を捨てて、傍道《わきみち》へはいりこみ、ふたりは北軍の軍服をぬいで、人気《ひとけ》のないところに身をひそめた。
城内では四五ヵ所から火の手があがったのを見て、たちまち鼎《かなえ》の沸くような大騒ぎになった。
鈕文忠は秣置場に火が出たのを見ると、急いで兵をひきつれて消火に駆けつけた。
城外では、城内に火事がおこったのを見て、時遷と石秀との内応であることを知り、全力をあげて攻めたてた。宋江と呉用は、解珍・解宝をつれて城の南側へ駆けつける。呉用は、
「このまえにわたしが調べたら、あそこの城壁がすこし低かった」
といい、ただちに秦明に命じて飛楼をその城壁へ近づけさせた。そして解珍と解宝に、
「賊は肝をつぶし、兵士たちはもう疲れきっている。さあ、頑張って城壁へよじのぼってくれ」
解珍は朴刀を帯びて飛楼へのぼり、姫垣にとりついて、跳びあがった。そのあとから解宝もふるいたってのぼって行く。ふたりは喊声をあげて姫垣から城壁の上に飛びおり、刀をふるって斬りまくった。城壁の上の兵士たちは、もともと疲れはて怖気づいているところへ、解珍と解宝のすさまじい凶猛さを見て、みなあわてふためいて城壁からころがりおりた。〓亨はふたりが城壁にのぼってきたのを見ると、槍をかまえて十合あまりわたりあったが、解宝の朴刀に刺し倒された。そこへ解珍が飛びかかって行って、その首を刎《は》ねた。
このとき宋の兵は、飛楼をつたって城壁の上へよじのぼってきたものがすでに百名を越えていた。解珍と解宝はその先頭にたち、いっせいに城壁から斬りくだって、
「かかってくるやつらは叩き斬って肉泥《にくでい》にしてやるぞ」
と大声で叫び、一同は石敬・秦升を殺し、門を守る兵士たちを斬り倒して城門を奪い、吊り橋をおろした。徐寧ら諸将は兵をひきいてどっと城内へはいった。徐寧と韓滔は兵をひきつれて東門へと殺到して行く。安士栄はこれにあたることができず、徐寧に斬り殺されてしまった。徐寧らは城門を奪って林冲ら諸将を城内へいれた。秦明と彭〓は兵をひきいて西門を奪い、董平らを入城させた。莫真・赫仁・曹洪らは乱戦のなかで斬り殺された。かくて斬りまくって、死骸は市井《しせい》に横たわり、血は街衢《がいく》にあふれるというありさま。
鈕文忠は城門がことごとく奪われたことを知ると、いまはもはやすべもなく、馬に乗り、城を捨てて于玉麟とともに二百余名のものをひきつれ、北門から逃げて行く。ところがまだ一里と行かぬうちに、暗闇のなかから、黒旋風の李逵と花和尚の魯智深、ひとりの猛将軍とひとりの莽和尚《もうおしよう》(荒法師)が飛び出してきて、ゆくてをさえぎった。まさに、天羅《てんら》密に布かれて歩を移し難く、地網《ちもう》高く張られて怎《いか》でか身を脱せん、というところ。さて、鈕文忠と于玉麟の命はどうなるか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 〓〓車 また〓車とも書く。城攻めの兵車で、四輪車の上に木を組みたて、その上を生の牛皮でおおったもの。中に兵十人が乗る。金火木石、いかなる攻撃にも耐え得るという。
第九十三回
李逵《りき》 夢に天地を鬧《さわ》がし
宋江《そうこう》 兵を両路に分《わか》つ
さて鈕文忠《ちゆうぶんちゆう》は、蓋州がすでに陥《おちい》ったことを知ると、もはやほどこすすべもなく城を脱走し、于玉麟《うぎよくりん》・郭信《かくしん》・盛本《せいほん》・桑英《そうえい》らに護られて落ちて行くうちに、李逵と魯智深のひきいる歩兵に出あい、ゆくてをさえぎられてしまったのである。李逵は大声で、
「おれは宋先鋒の命令で、きさまたち腰ぬけの糞やろうどもを長いこと待っておったんだ」
と叫ぶなり、二梃の斧をふりまわしておそいかかり、ひと振りで早くも郭信と桑英を斬り倒してしまった。鈕文忠はおどろきのあまり魂も身につかず、手出しをするいとまもなく、魯智深に禅杖《ぜんじよう》で一撃され、〓《かぶと》もろとも頭蓋まで打ちくだかれて、どっと馬から落ちた。二百余人のものもことごとく殺されてしまった。わずかに于玉麟と盛本は、必死に脇道へ突きぬけてのがれて行った。魯智深は、
「あのふたりの素首《そつくび》はのこしておいて、田虎に知らせに行かせてやるとしよう」
といい、三つの首級を割《か》き取り、鞍馬《あんば》や〓甲《かいこう》を奪うと、それを献ずべく城へと急いだ。
一方、宋江はその本隊をひきいて蓋州に入城するや、ただちに命令をくだしてまず火を消させ、住民を殺害することを禁じた。諸将はそれぞれその功を献じた。宋先鋒は兵士に命じてそれらの首級を各城門に梟首《さらしくび》にさせ、夜が明けると立札を出して住民を宣撫し、全軍の兵をことごとく蓋州城内にいれて、全軍の兵および諸将の労をねぎらった。功績簿には、石秀・時遷・解珍・解宝の勲功を記録するとともに、また奏文を書いて蓋州を得た旨を朝廷に上奏し、府庫の財帛金宝をことごとく京師へ送り、書面をもってこの旨を宿太尉に報告した。
十二月もおわろうとするころで、宋江は軍務の処理にいつしか二三日をすごしてしまったが、そこへ不意に知らせがあって、
「張清が病《やまい》癒《い》え、安道全とともにご用をうけたまわりにまいりました」
とのこと。宋江はよろこんで、
「それはよかった、あすは宣和五年の元旦、みんな顔をそろえることができる」
といった。
翌日の黎明、将軍たちは官服と〓頭《はくとう》(冠)に威儀を正し、はるかに皇居にむかって五拝し、三叩頭して朝賀の礼をおさめた。それがすむと〓頭と官服をぬいで、それぞれ紅錦の戦袍をはおり、九十二名の頭領と新たに加わった降将の耿恭は、整然と並んで一同新年を賀し、宋江に礼をささげた。宋先鋒は盛大な宴を設けてよろこび祝った。兄弟たちはかわるがわる宋江に杯をさして寿《ことほ》いだ。酒が幾巡《めぐ》りかしたとき宋江は諸将にいった。
「みなさんの力によって、国家は三つの城を奪い返すことができたうえ、元旦のよき日にめぐりあわせ、相あつまって歓びをともにすることのできるのは、まことに得難いしあわせです。ただ、公孫勝と呼延灼と関勝、それに水軍の頭領の李俊以下八名と陵川を守っている柴進と李応、高平を守っている史進と穆弘、これら十五人の兄弟がここにいないのが、なんといっても淋しいことです」
そしてただちに軍中の頭目のものを呼び出し、二百余名の兵卒をつけておのおのに特別の賞与をとらせたうえ、その日のうちに羊と酒を担《にな》って行ってそれぞれ衛州・陵州・高平の三ヵ所の守城の頭領たちにとどけさせ、兼ねて勝報をつたえさせることにした。その旨を命じているところへ、とつぜん知らせがあって、
「三ヵ所の守城の頭領たちが使者をたてて年賀の挨拶をよせられ、先鋒のご命令によって軍務に服しておりますゆえみずから拝賀に参上することはできませんとのことでございます」
という。宋江は大いによろこんで、
「そのたよりをもらえば、会ったも同然だ」
といい、使者をねぎらい、兄弟たちとともにうちくつろいで飲み、心おきなく酔って休んだ。
翌日、宋先鋒は手はずをととのえて、東郊に出て迎春《げいしゆん》の儀式をおこなった。この日の子時《しじ》(子《ね》の刻)の正四刻(夜十二時)が、ちょうど立春《りつしゆん》の節にあたっていたからである。その夜は東北の風が吹きおこり、濃い雲が垂れこめて、紛々洋々と空いっぱいの大雪が降った。翌日頭領たちが起きて眺めると、
紛々たる柳絮《りゆうじよ》(注一)、片々たる鵝毛《がもう》。空中に白鷺群《む》れ飛び、江上に素鴎(白鴎)翻覆《はんぷく》す。庭院に飛来し、転旋して態《たい》を作《な》し風に因《たよ》り、戈矛《かぼう》に映徹し、燦爛として輝きを増し日を荷《にな》う。千山の玉砌《ぎよくせい》(玉の石だたみ)、能《よ》く樵子《しようし》をして迷蹤《めいしよう》を悵《いた》ましめ(きこりさえ道にまよう)、万戸の銀装、多少の(多くの)幽人をして佳句を成さしむ。正に是れ尽《ことごと》く道《い》う豊年好し、豊年の瑞《ずい》(瑞兆)と。若何《いかん》せん辺関に多く戟を荷う、瑞を宜《よろ》しとするも(雪の)多きを宜しとせず。
そのとき、地文星の蕭譲が頭領たちに話した。
「雪というものにはいろいろな種類があって、一片のは蜂児《ほうじ》、二片のは鵝毛《がもう》、三片のは〓三《さんさん》、四片のは聚四《しゆうし》、そして五片のは梅花《ばいか》といい、六片のは六出《ろくしゆつ》というのです。雪というものはもともと陰《いん》の気の凝結《ぎようけつ》したものですから、六出のものが陰の数(易では偶数が陰の数で、六をもってその代表とする)にかなっているのですが、立春から後になると、みんな梅花などのいろいろな片のものになって、もう六のものはなくなってしまいます。いまはもう立春ですが、まだ冬と春のさかいなので、雪の片も五だったり六だったりです」
楽和はこの話を聞くと、さっそく軒下へ出て待って、黒いきものの袖で落ちてくる雪を受けて見た。すると、まさしく雪は六出だったが、その一出は完全には出ておらずに、しかも、やはり、すこし角《かど》を持っていたし、またなかには五出のものもあった。楽和は、
「ほんとうだ、ほんとうだ」
と、しきりに叫んだ。みながどやどやと見に集まって行くと、李逵の鼻から噴き出されたあつい息で、雪は溶けてしまった。みなはどっと大笑いをした。と、宋先鋒がおどろいて出てきて、
「みんな、なにを笑っている?」
とたずねる。
「雪を見ていたら、黒旋風の鼻息で消えてしまったのです」
とみながいうと、宋江も笑った。そして、
「宜春圃《ぎしゆんぽ》のほうに酒の用意をたのんでおいたから、みなさんといっしょにたのしみましょう」
この州役所の東のほうに宜春圃という庭園があった。そこには雨香亭《うこうてい》という亭《あずまや》があり、その前には檜《ひのき》・柏《このてがしわ》・松・梅などが何本もしげっていた。その夕《ゆうべ》、頭領たちは雨香亭で、にぎやかに談笑しながら杯をかわしたが、そのうちにいつしか日もすっかり暮れて、明りがともされた。宋江は酒たけなわのとき、話しているうちに、かつて難にあったときずいぶん兄弟たちの世話になったことをいい出して、
「わたしはもと〓城《うんじよう》の小役人だったが、大罪を犯してしまい(第二十一回)、みなさんに、千鎗万刀の中、九死一生の瀬戸際から、なんども助け出していただいた(第二十二回、第三十二・三回、第三十六・七回)。江州で戴宗兄貴といっしょに仕置場へ引き出された(第四十回)ときなどは、九分九厘まではあの世へ行くところだったのです。それがいまでは国家の臣となり、国家のために力をつくす身となったのだが、むかしのことを思えば、まったく夢のようです」
宋江はそこまでいって、はらはらと涙を流した。戴宗や花栄、および難をともにした幾人かの兄弟たちも、その話を聞いて、同じようにみな涙をこぼすのだった。
李逵はこのときしたたか飲んで、すっかり酔いがまわり、みなと口をききながらも、眼のほうはだんだんふさがってきて、とうとう両腕に顔をうずめて眠ってしまった。が、ふと思い出して、つぶやいた。
「外はまだ雪が降ってるかな」
心ではそう思いながらも、身体はすこしもうごかない。それなのにもう亭の外へ出ているような具合だった。外を見ると、なんとも不思議なことに、雪など降ってはいなかったのである。そこで、
「みんなじっと坐っているがいいや。おいらはちょっとあっちのほうへ行ってくるからな」
と、宜春圃をあとにして、またたくまに州城の外へ出てしまったが、ふと思い出して、
「しまった、板斧《はんぷ》を持ってくるのを忘れたわい」
とつぶやき、手で腰のあたりをさぐってみると、ちゃんと挿してある。方角の見さかいもなしに、さきへさきへとめちゃくちゃに突き進んで行くと、どれくらい行ったかわからないが、やがて前方に高い山が見えてきた。たちまちその麓に着いたが、見れば山のくぼみからひとりの男が出てくる。頭には角《かど》を折り曲げた頭巾をかぶり、身にはうす黄色の道袍を着ていて、歩み寄ってきながら笑顔で、
「将軍、お散歩ならこの山をまわっていらっしゃると、いいところがありますよ」
という。
「兄さん、この山はなんという山だね」
と李逵が聞くと、その書生は、
「この山は天地嶺《てんちれい》といいます。お遊びになって、お帰りのときにはここでまたお目にかかりましょう」
李逵はその男のいったとおりに、ほんとうにその山をまわって行くと、ふと道傍《みちばた》に屋敷が見えた。屋敷のなかでは大騒動がおこっている気配である。李逵がつかつかとはいって行くと、そこには十人あまりの男がてんでに棍棒や刃物を持って机や椅子をたたき、家財道具をめちゃくちゃにうちこわしている。そして、そのうちのひとりの大男が、
「老いぼれめ、さっさと娘を愛想よくおれの女房によこせ。そうすりゃそれでいいんだ。もしもいやのいの字でもぬかしやがったら最後、きさまたちをみんな殺してやるぞ」
と怒鳴っている。李逵は外からはいって行って、その言葉を聞くと、心は火のようにかっと燃え、口からは煙を吐かんばかりになって、怒鳴りつけた。
「この、糞やろうどもめ、なんだって人さまの娘をふんだくろうとしやがる」
すると男たちはわめいた。
「おれたちはこいつの娘に用があるんだ。きさまなんぞ、すっこんでろ」
李逵はかっとなり、板斧を抜きとって斬りかかった。と、なんとも不思議なことには、ただ斧をひと振りしただけのことなのに、二三人を斬り倒してしまっていた。あとの幾人かは逃げだしたが、李逵は追って行ってつづけざまに六七回斧を振りまわし、七八人も斬り倒して、あたりを死体だらけにしてしまった。ひとりだけとり逃がしたが、その男は外へ駆け出して行ってしまった。
李逵が奥へとびこんで行ってみると、二枚戸の入口が固く閉ざしてあった。李逵は足で蹴り開けた。なかにはひとりの白い鬚《ひげ》の老人が老婆といっしょに泣いていたが、李逵がとびこんできたのを見て、
「これはいかん、やってきた!」
と叫んだ。李逵が大声で、
「おいらは弱いものの味方だ。おもてにいたあの糞やろうどもは、おいらがみんな殺してしまった。おいらについてきて見るがいい」
というと、老人はびくびくしながらついてきたが、死骸を見ると、ぱっと李逵にとりすがって、
「悪者は平らげられたものの、わたしらはまきぞえにされてお上につかまるにきまっております」
李逵は笑いながら、
「爺さんよ、あんたはこの黒ん坊の旦那を知らんとみえるな。おいらは梁山泊の黒旋風の李逵だ。いま宋公明兄貴といっしょに、詔《みことのり》を奉じて田虎を討ちにきておるのだ。兄弟たちは城内で酒盛りをしているところだが、おいらはうるさくてならんので散歩に出てきたんだ。かまうもんか、あんな糞やろうどもなぞ、何千人殺したって、なんのへったくれもあるもんか」
老人はようやく涙をぬぐって、
「それなら、まったくようございました。どうぞ将軍さま、奥へはいっておくつろぎくださいますよう」
李逵がはいって行くと、そこにはもう机いっぱいに酒・肴がならべてあった。老人は李逵の手をとって上座につかせ、碗になみなみと酒をつぎ、両手でささげてきて、
「将軍さまのおかげで娘が助かりました。どうかこの杯を乾してくださいませ」
李逵が受け取って飲んでしまうと、老人はまたすすめた。こうして、たてつづけに四五杯飲んだところへ、さっき泣いていた老婆がひとりの若い女をつれて出てきた。そして手を拱《こまぬ》いて、ふたりそろって挨拶をしたのち、老婆は、
「将軍さまは宋先鋒さまの手下のかたでいらっしゃいますし、それにあんなにお強いおかた、もしおいやでなければ、無器量ものではございますがどうか娘をもらってやっていただきとう存じます」
という。李逵はそれを聞くと、ぱっと立ちあがって、
「そんなうすぎたないできそこないをか。おいらがさっきあの糞やろうどもを殺したのは、きさまの娘がほしくてではないわ。さっさと口をふたしてしまやがれ。屁みたいなことをぬかすな」
と、いきなり机を蹴り倒して、おもてへ駆け出した。
するとむこうから、虎のようなひとりの大男が、朴刀を手に、駆け寄ってきて、
「やいこら、黒ん坊め。逃げるな。さっきは兄弟たちをよくもみな殺しにしやがったな。おいらがここの娘をもらおうとしたことが、きさまになんのかかわりがあるというのだ」
と大声で怒鳴りつけ、朴刀をかまえておそいかかってくる。李逵は大いに怒り、斧を振りまわしてこれを迎え、その男と二十合あまりわたりあった。男はかなわなくなると、板斧をかわすなり、朴刀をひきずって飛ぶように駆け出した。李逵はどんどん追って行く。とある林を通りぬけると、不意に幾棟もの宮殿が見えた。男は宮殿の前まで逃げて行くと、朴刀を放り出して人ごみのなかにまぎれこみ、姿をくらましてしまった。と、殿上から声がかかった。
「李逵、無礼はならぬぞ。彼に拝謁を受けさせるように」
李逵ははっとして思い出した。
「ここは文徳殿だ。このまえ宋兄貴といっしょにここで拝謁を受けた。ここは天子さまのおられるところだ」
と、また殿上から声がかかった。
「李逵、はやく平伏をいたせ」
李逵は板斧をしまい、進み出て仰ぎ見ると、天子は殿上はるかに着座され、大勢の役人たちが殿前に居並んでいる。李逵は威儀を正し、天子にむかって三拝の礼をささげたが、そのあとで気がついた。
「しまった。一拝たりなかったわい」
天子はたずねられた。
「さきほどそなたは、なにゆえ多くのものを殺したのか」
李逵はひざまずいていった。
「あいつらが、むりやりに人の娘を奪い取ろうといたしましたので、わたくし、ついかっとなって殺してしまったのでございます」
すると天子はいわれた。
「李逵は無道を見て悪人どもをとりのぞいた。その義勇はあっぱれである。そなたの無罪であることを明らかにし、そなたを値殿《ちでん》将軍(宿直《とのい》の将軍)に任じよう」
李逵は心中すっかりうれしくなって、
「さすがに天子さまだ、こんなにもものわかりがいいなんて」
と思い、つづけさまに十回あまり叩頭したのち、立ちあがって御殿の下にひかえた。
するとまもなく、蔡京・童貫・楊〓・高〓の四人が一列にひざまずき、平伏して奏上した。
「ただいま宋江は軍をひきいて田虎を討ちにまいっておりますが、ひとつところにとどまったまま進まず、終日酒ばかり飲んでおります。なにとぞ懲罰をくだされますよう」
李逵はその言葉を聞くと、無明《むみよう》の火を燃えたたせること三千丈(注二)、ついに我慢ができなくなって、二梃の斧をつかんで飛び出すや一斧《ひとおの》でひとりずつ首を斬り落とし、大声で叫んだ。
「天子さま、こんな賊臣どものいうことを聞いちゃいけません。おいらの宋兄貴は、つづけざまに三つの城を攻め落とし、いま蓋州に兵を集めて、すぐまた兵を進めようとしているところなのに、なんだってあんなうそっぱちをぬかしやがったのか」
文武の諸官は四人の大臣《たいしん》が殺されたのを見て、いっせいに李逵をとりおさえにかかったが、李逵は二梃の斧をひっつかんで、
「とりおさえられるものならかかってこい。この四人がみせしめだ」
と叫んだ。すると人々はみな手をすくめてしまった。李逵は大声で笑って、
「愉快、愉快、この四人の賊臣どもも、いまようやくけりがついたわい。さあ宋兄貴に知らせに行くとしよう」
と、大股に宮殿をあとにした。と、にわかにまた山が見えた。その山をよく見れば、そこはさっき書生に出あったところである。その書生はちゃんと坂の前に立っていたが、また歩み寄ってきて笑顔でいった。
「将軍、お遊びはおもしろうございましたか」
「まあ兄さん聞いてくれ、さっきおいらは四人の賊臣を殺してやったよ」
と李逵がいうと、書生は笑いながら、
「ほう、そうでしたか。わたしは汾沁《ふんしん》(汾水・沁水)のほうのものなのですが、近ごろたまたまこちらへ遊びにきて、将軍たちの忠義のお心のほどを知りました。ついては将軍にお話ししたい重大なことがあるのです。いま宋先鋒は田虎を討とうとしておられますが、わたしには田虎をとらえることのできる十字の秘訣があります。将軍はしかとこれを覚えておいて宋先鋒に知らせてあげてください」
といい、李逵にむかってこう唱えた。
要夷田虎族
須諧瓊矢鏃
田虎の族を夷《たいら》げんと要《ほつ》せば
須《すべから》く瓊矢《けいし》の鏃《ぞく》と諧《した》しむべし
つづけて五六回、唱えた。李逵はその言葉をもっともなことと思い、いわれるままにその十字を繰り返し唱えた。書生は、こんどは林のなかを指さして、
「ほら、あそこの林のなかに、年とった婆さんが坐っていますよ」
という。李逵がふりかえって見たとき、もうその書生の姿はなかった。李逵は、
「なんとすばやく行ってしまったものだ。まあ林のなかへ行って、どんな人がいるのか見てみよう」
と、林へはいって行くと、はたしてひとりの婆さんが坐っていた。李逵が近寄って行って見ると、なんとそれは鉄牛(李逵)自身の母親で、ぼんやりと目をつぶったまま青石の上に坐っている。李逵は駆け寄って抱きつき、
「おっかさん、あのとき(第四十三回)以来どこで苦労しておいでだった。おいらはおっかさんが虎に食われてしまったとばかり思っていたが、いまこんなところにおいでだとは」
「おまえ、あたしは虎に食われたおぼえなんかないよ」
と母親はいった。李逵は泣きながら、
「おいらはこんど招安を受けて、ほんとうにお役人になったんだよ。宋兄貴の大軍が、いま城内にあつまってるから、おいらがおぶって行ってあげるよ」
話をしていると、不意に唸り声が聞こえて林のなかから一匹のまだら毛の猛虎が跳り出し、一声吼《ほ》え、尾を一振りして、まっすぐにおそいかかってきた。李逵はあわてて板斧をつかみ、虎をめがけて斬りつけたが、あまりにも力をいれすぎて二梃の斧は空《くう》を斬り、つんのめって宜春圃雨香亭の酒盛りの机にぶっつかった。
宋江は兄弟たちとむかしの思い出を話して、いよいよ話に身がはいってきたところだった。はじめ李逵が机の上にうつ伏して居眠りをしているのを見て、別に気にもかけずにいたが、すると不意に大きな音がしたかと思うと李逵が眠りながら両手で机をどんと叩いて、碗や皿をひっくりかえし、両袖を吸いものの汁で濡らしながら、なおもわめいているのだった。
「おっかあ、虎は逃げたぞ」
両眼をぐっとあけて見ると、明りが煌々とともっていて、兄弟たちがぐるりと坐ってまだ酒を飲んでいるところなので、李逵は、
「ちぇっ、夢だったのか。だが、それにしても愉快だった」
みんなはどっと笑って、
「どんな夢だった。ずいぶんうれしそうだが」
李逵はまず、
「夢では、おいらのおふくろは死んではおらず、ちゃんと話をしていたんだが、そこへ虎が出てきて話の腰を折ってしまやがった」
といった。みんなはため息をもらした。李逵がついで、悪人たちを殺し、机を蹴倒した話をすると、魯智深・武松・石秀らはそれを聞いていっせいに手をたたき、
「愉快」
といった。李逵は笑って、
「もっと愉快なことがあるんだ」
と、さらに、蔡京・童貫・楊〓・高〓の四人の賊臣を殺した話をした。みんなは手をたたきながら、いっせいに大声をあげて、
「愉快、愉快、そんな夢なら見甲斐《みがい》もあるというものだ」
「みんなそうさわがずに。たかが夢のなかの話、たいしたことではない」
と宋江がいったが、李逵は話が佳境にはいったところで、腕まくり袖まくりという勢いで話し、
「なに糞、黙ってなどおられるか。まったく一年にこんなに痛快なことってあるもんじゃない。
それにもう一つ奇妙な夢を見たのだが、ひとりの書生がおいらに、
要夷田虎族
須諧瓊矢鏃
というようなことをいって、この十字は田虎を破る秘訣だから、しっかり覚えておいて宋先鋒につたえるようにといったんだ」
宋江も呉用もその意味がわからなかった。居あわせた安道全は、「瓊矢鏃《けいしぞく》」の三字を耳にするとなにかいい出しそうになった。だが張清が目くばせをすると、安道全は微笑したまま、なにもいい出さなかった。呉用が、
「ずいぶん奇妙な夢だな。雪がやんだらさっそく兵を進めることにしよう」
といった。かくて酒宴をおわって、それぞれ休んだが、その夜は別に話もない。
翌日、雪はやんだ。宋江は本営に出て、盧俊義・呉学究とはかり、兵を二手に分けて東と西から軍を進めることにした。東路の軍は、壺関《こかん》を越え、昭徳《しようとく》を取り、〓城《ろじよう》・楡社《ゆしや》を経て、まっすぐに賊の本拠のうしろへまわり、大谷《だいこく》から臨県《りんけん》に出て西路の軍と合流する。西路の軍は、晋寧《しんねい》を取り、霍山《かくざん》に出、汾陽《ふんよう》を取り、分休《ぶんきゆう》・平遥《へいよう》・祁県《きけん》を経てただちに威勝《いしよう》の西北へまわり、臨県で合流して威勝を取り、田虎を捕らえようというのである。かくて西路の将領がそれぞれ次のように割りあてられた。
正先鋒宋江のひきいる正副の将領四十七名(注三)
軍師呉用 林冲 索超
徐寧 孫立 張清
戴宗 朱仝 樊瑞
李逵 魯智深 武松
鮑旭 項充 李袞
単廷珪 魏定国 馬麟
燕順 解珍 解宝
宋清 王英 扈三娘
孫新 顧大嫂 凌振
湯隆 李雲 劉唐
燕青 孟康 王定六
蔡福 蔡慶 朱貴
裴宣 蕭譲 蒋敬
楽和 金大堅 安道全
郁保四 皇甫端 侯健
段景住 時遷 河北の降将耿恭
副先鋒盧俊義のひきいる正副の将領四十名
軍師朱武 秦明 楊志
黄信 欧鵬 〓飛
雷横 呂方 郭盛
宣賛 〓思文 韓滔
彭〓 穆春 焦挺
鄭天寿 楊雄 石秀
鄒淵 鄒潤 張青
孫二娘 李立 陳達
楊春 李忠 孔明
孔亮 楊林 周通
石勇 杜遷 宋万
丁得孫 〓旺 陶宗旺
曹正 薛永 朱富
白勝
宋江は編成をおわると、さらに盧俊義に相談した。
「いまここから兵を東西に分けて征途にのぼるわけだが、あなたはどちらの兵をえらばれますか」
「将兵の調遣はただ兄貴のご命令にしたがうばかりです。えりごのみなどいたしません」
「それならば、天意をうかがってみることにしよう。両隊の人員を分け、鬮《くじ》を作って、お互いにひくのです」
と宋江はいい、さっそく裴宣が東西ふたつの鬮を作った。宋江と盧俊義は香をたいて祈りをささげ、まず宋江がそのひとつをひいた。かくて宋江がその鬮をひいたことから、三軍の隊中にさらに幾人かの英雄なる猛将を加え、五竜山前に一段の奇聞異術《いじゆつ》を展開することと相なる。さて宋先鋒はどちらの鬮をひくか。それは次回で。
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一 柳絮 絮は綿。柳の実が熟して春風に綿のように紛々と飛ぶのを柳絮という。
二 無明の火を燃えたたせること三千丈 原文は把無明火高挙三千丈。むらむらと怒ることをいう。
三 将領四十七名 最後に降将・耿恭の名があげられていて、これを含めると四十八名である。
第九十四回
関勝《かんしよう》 義もて三将を降《くだ》し
李逵《りき》 莽《もう》もて衆人を陥《おとしい》る
さて宋江は蓋州で軍を二分すると、鬮《くじ》を作り、盧俊義とともに祈りをささげたのであるが、かくて宋江が一つの鬮をひいてみると、それは東路であった。盧俊義のひいたのが西路であることはいうまでもない。雪が晴れ次第ただちに出発することになり、あとには花栄・董平・施恩・杜興らをのこし、兵二万を割《さ》いて蓋州を守らせることにした。
六日の吉日になって宋江と盧俊義が出陣の用意をしていると、とつぜん知らせがあって、
「蓋州の属県の陽城《ようじよう》・沁水《しんすい》両地の軍民が、これまでしばしば田虎に迫害されてやむを得ず投降していたのですが、このたび天兵が到来したと聞いて、陽城の守将の寇孚《こうふ》と沁水の守将の陳凱《ちんがい》を縛りあげて軍前にひきたて、両県の長老たちが住民をひきつれて、羊を牽《ひ》き酒を担《かつ》いで城をあけわたしにまいりました」
とのこと。宋先鋒は大いによろこんで両地の軍民を手厚くねぎらい、告示を出して宣撫し、もとどおり良民たらしめた。宋先鋒は寇孚と陳凱が天兵のきたことを知りながらすみやかに帰順しなかったことをもって、その首を刎《は》ねて血祭りにあげ、賊徒へのみせしめとした。かくてその日のうちに、両路の大軍は、ともに北門をいでたつことになり、花栄らは酒宴を設けてその首途《かどで》を祝った。宋江は杯をあげて、花栄にいった。
「あなたの威勢は賊軍に鳴りひびいているから、この城は十分に守れます。いまこの城は北面に敵を受けているだけですが、もし賊軍がおし寄せてきたときは、奇策を設けてこれを撃ち、賊の肝をつぶしてやることです、そうすればもはや南面から城をうかがってくることもないでしょう」
花栄は諾々として命にしたがった。宋江はまた杯をあげて、こんどは盧俊義にいった。
「きょうの出陣にあたっては、陽城と沁水から思いもかけずとりこを献じてくるというよろこびを得ました。両地はすでに平定されたのですから、あなたは長駆してただちに晋寧へ出てください。すみやかに大功をたて、賊の首魁・田虎を捕らえて朝廷のご恩に報い、相ともに富貴を享《う》けましょう」
「兄弟たちの威光によって両地はたたかわずして降《くだ》りました。ご命令をうけた以上は、もとより心身の力を傾けてたたかいます」
宋江はついで、さきに蕭譲に命じて許貫忠の絵図を写しとらせておいた別の一軸を持ってこさせ、盧俊義にわたして役だたせることにした。
かくて正先鋒宋江は、命をくだして東路の軍を三隊に分けた。すなわち林冲・索超・徐寧・張清らは兵一万をひきいて前隊となり、孫立・朱仝・燕順・馬麟・単廷珪・魏定国・湯隆・李雲らは兵一万をひきいて後隊となり、宋江と呉用はその他の将領をしたがえ、兵三万をひきいて中軍となった。三隊あわせて五万、東北方にむかって進発した。
副先鋒盧俊義は宋江および花栄らに別れ、四十名の将領と五万の兵をひきいて、西北方にむかって進発した。
花栄・董平・施恩・杜興らは、宋江と盧俊義を見送って城内にもどった。花栄は命令をくだして城の北方五里のところに二つの陣地をかまえ、施恩と杜興にそれぞれ兵五千をあたえ、強弓硬弩《こうど》および各種の火器を備えて陣につかせ、敵の攻撃にあたらせることにし、また東西の二方面にも奇襲の伏兵を置いたが、そのことは述べないことにする。一方、高平には史進と穆弘が、陵川には李応と柴進が、衛州には公孫一清と関勝と呼延灼とが、それぞれ守備についていることは、みなさん、しかとおぼえておいていただきたい。
さて、宋先鋒の三隊の軍勢は、蓋州をあとに、進むこと三十里あまり。宋江が馬上で見わたせば、はるか前方に一座の山があった。しばらくして、次第にその麓に近づいて行くと、山は馬首の右手になった。宋江がその山の形を眺めるに、他の山とはひときわちがっている。見れば、
万畳《ばんじよう》の流嵐《りゆうらん》(ただよう山気)は鱗次《りんじ》密に(鱗《うろこ》のようにかさなりあい)
数峯連峙《れんじ》して雁行《がんこう》を成《な》す
嶺顛《れいてん》(山頂)の崖石《がいせき》は城郭の如く
天に挿《さしはさ》む雲木(高い木)は遶《めぐ》って蒼々たり
宋江が山の景色を眺めていると、不意に李逵がやってきて指さしながら、
「兄貴、この山の様子は、このまえ夢で見たのとそっくりです」
といった。宋江はさっそく降将の耿恭《こうきよう》を呼んでたずねた。
「あなたはこの地に長らくいる人だから、この山の来歴をご存じでしょう。許貫忠の絵図によると、房山《ぼうざん》というのが州城の東方にあって、天池嶺《てんちれい》というのはそれのことだとあるのだが」
李逵が、
「夢のなかの書生も、そうだ、天池嶺といっていた。おいらすっかり忘れていたが」
という。耿恭は、
「そのとおり、この山は天池嶺です。頂上の岩壁がちょうど城郭のようになっていますので、むかしの人たちはここへかくれて兵乱を避けたそうです。このごろは、土地のもののうわさでは、この嶺には不思議なことがあって、夜になると岩壁のなかからときおり赤い光が射すとのこと。また、あるきこりが岩壁の近くまで行ったところ、不思議なにおいがしてきたということです」
宋江はそれを聞くと、
「そうだとすると李逵の夢と符合する」
とつぶやいた。
その日は六十里ほど進んで宿営したが、その途中では格別の話もない。幾日かして壺関《こかん》の南に着き、関外五里のところに陣地をかまえた。
ところでこの壺関は、山の東麓にあって、山の形は壺《つぼ》に似ていた。漢の時代にはじめてここに関所が置かれ、その形に因《ちな》んで壺関と名づけられたのである。山の東には抱犢山《ほうとくざん》というのがあって、壺関山と麓つづきになっていた。壺関はちょうどこの二つの山のあいだに位《くらい》し、昭徳の城外八十里の南方にあって、昭徳の要害となっており、山上には田虎の配下の猛将八名と精兵三万がこれを守っていた。その八名の猛将は誰々かというと、
山士奇《さんしき》 陸輝《りくき》
史定《してい》 呉成《ごせい》
仲良《ちゆうりよう》 雲宗武《うんそうぶ》
伍粛《ごしゆく》 竺敬《じくけい》
である。
さて、山士奇という男は、もと沁州の富家の息子で、体力衆にすぐれ槍や棒もつかいこなしたが、人を殺して罪をのがれるため田虎の部下に身を投じ、敵を防いで手柄をたて、偽《にせ》の兵馬都監の位をさずけられていて、重さ四十斤の渾鉄《こんてつ》の棒を得物《えもの》とし、武芸全般に精通していた。田虎は朝廷が宋江らの軍を派遣してきたと聞くと、特に山士奇を昭徳にやり、精兵一万を選りすぐって、陸輝らとともに壺関を守らせ、その地でのいっさいのとりさばきはすべて臨機応変に決して、いちいち命を仰ぐにはおよばずとした。
山士奇は壺関にきて、蓋州が失陥したことを知ると、宋軍は必ずこの関所を取りにくるものと見てとり、連日兵を励まし馬を肥やして敵を迎える準備をした。と、そこへ、宋軍はすでに関外五里の南まできて陣地をかまえたとの知らせがあった。士奇は騎兵一万をととのえ、史定・竺敬・仲良らとともにおのおの武装して馬に乗り、兵をひきいて敵を迎え討つべく関所をいで、宋軍と対峙した。かくて双方とも陣形をかまえ、強弓硬弩をもって相手の出足を制しあった。両陣では花腔《かこう》の〓鼓《だこ》(絵模様をほどこした鰐皮の太鼓)がうち鳴らされ、五色の〓旗がうち振られる。と北兵の陣地の門旗が左右に分かれて、そこからひとりの将が馬を乗り進めて先頭に立った。その将のいでたちいかにと見れば、
鳳翅《ほうし》の明〓《めいかい》穏やかに(ぴったりと)戴き、魚鱗の鎧甲重《かさ》ねて披《き》る。錦の紅袍の上には花枝を織り、獅蛮の帯には瓊瑶《けいよう》(美玉)密に砌《つ》む。純鋼の鉄棍〓《きび》しく挺し、青毛の〓《たてがみ》の馬頻《しき》りに嘶《いなな》く。壺関に新たに到れる大将軍、山《さん》都監士奇便《しきすなわ》ち是れなり。
山士奇は大声で呼ばわった。
「水たまりの盗《ぬす》っ人《と》どもめ、よくもわが辺境をば侵しにまいったな」
こなたでは豹子頭の林冲が、馬を驟《は》せて陣地をいで、
「暴虐に荷担《かたん》する匹夫め、天兵のご到来というのになおも手むかいする気か」
と怒鳴りつけるなり、矛《ほこ》をとり馬を飛ばしてまっしぐらに士奇におそいかかって行った。二将はいくさの庭のまんなか(注一)に飛び出し、両陣からはどっと喊声があがり、二頭の馬は相交わり、四本の臂膊《かいな》は縦横に飛びかい、八個の馬蹄は入り乱れ、かくてわたりあいは五十余合におよんだが、勝敗はなおも決しなかった。林冲はひそかに感嘆した。竺敬は、士奇が勝ちを制することのできぬのを見ると、馬をせかせ刀を飛ばせて加勢に出た。こなたでは没羽箭の張清が馬を飛ばして行ってこれを相手どる。四騎は陣頭で二組のたたかいをくりひろげた。張清と竺敬はわたりあうこと二十余合、張清は力ひるみ、馬をせかして逃げだした。竺敬が馬を驟《は》せて追いかけて行くと、張清は花鎗《かそう》(梨花《りか》の槍)をしまい、錦袋《きんたい》のなかから石つぶてを取り出し、身をねじむけざま竺敬の顔をめがけてつぶてを飛ばした。
「ええいっ」
と叫ぶところ、つぶては竺敬の鼻のつけ根に命中し、竺敬はもんどりうって落馬し、鮮血をほとばしらせた。張清が馬を返して槍でとどめを刺そうとすると、北兵の陣からは史定と仲良が並んで飛び出し、必死にこれを救い取った。関所の上では一将が打ち倒されたのを見ると、士奇に万一のことがあってはと、ただちに金鼓を鳴らして兵をひきあげさせた。宋江も金鼓を鳴らして兵を収め、陣地へひきあげた。そして呉用に諮《はか》った。
「きょうは賊将をひとり打ち倒して、いささか敵の鋭気をくじきはしたが、わたしの見るところ、山はけわしく関所は堅固な様子。どのような策をもってすれば、あの関所を破ることができましょうか」
林冲が、
「あした、関所に迫ってたたかいを挑み、必ずかの賊将を討ちとりますから、兄弟一同で全力をあげて斬りこんでください」
というと、呉用は、
「将軍、かるがるしいことをしてはなりません。孫武子《そんぶし》の言に、勝つべからざる者は守る、勝つべき者は攻む、とあります。その意味は、討ち勝てぬ敵に対しては守りをかため、勝てる敵に対しては進んで攻めよということです」
「いかにも軍師のおっしゃるとおり」
と宋江はいった。
翌日、林冲と張清は宋先鋒のところへ行って、兵をひきいてたたかいを挑みたいと申し出た。
宋江は、
「たとえたたかいに勝ったとしても、うかつに関所へははいらぬように」
といいふくめ、さらに徐寧と索超に兵をひきいて援護に行くよう命じた。
そのとき林冲と張清は、五千の兵をひきつれ、関所の下で旗を振り軍鼓を鳴らし、口ぎたなく罵ってたたかいを挑みかけたが、辰《たつ》(朝八時)のころから午《うま》(正午)にいたるまで、関所の上ではなんの動きも示さなかった。林冲と張清は陣地へひきあげようとしたが、そのとき不意に関所のなかで一発の砲声がとどろいたと思うと、関門があいて、山士奇が伍粛・史定・呉成・仲良らとともに兵二万をひきいてどっと攻め寄せてきた。林冲は張清にいった。
「賊め、こちらの疲れるのを待って出てきやがった。力をふるって攻めかえしてやろうぞ」
後隊の索超と徐寧も兵をひきいていっせいに攻め寄せた。双方、陣をかまえると、諸将は名乗りもあげずにいきなり相手を求めて斬りあった。林冲は伍粛とわたりあった。士奇が出てくるところを、張清は梨花鎗をしごいて相手どった。呉成と史定が並んでやってくるのを、索超は斧を振りまわし馬をおどらせて二将を相手に奮戦した。このとき両軍の兵士たちは互いに喊声をあげ、七騎は戦塵の舞いのぼるなか、殺気のみなぎるただなかで、廻り灯籠のように相手を追ってたたかいあう。かくてたたかいまさにたけなわのとき、豹子頭の林冲が大喝一声、さっと矛をふるって伍粛を馬から斬って落とした。呉成と史定のふたりは、索超ひとりとたたかいながら敵しかねていたが、かなたで伍粛が落馬したのを見ると、史定はにわかに負けたふりをして、馬をせかせて自陣へと逃げだし、呉成も、史定が敗れ去ったのを見るや索超の斧をかわして逃げようとしたが、そこを索超に斧でまっ二つに斬られてしまった。山士奇も二将が討ちとられたのを見ると、馬首を転じて自陣へひきあげようとする。張清は追いかけざま、手を振りあげて石つぶてを投げつけた。つぶては頭のうしろにあたり、〓《かぶと》がガチンと鳴った。士奇はおどろき、鞍に身を伏せて逃げた。仲良があわてて兵をひきいて関内へ逃げこもうとするところを、林冲らは兵を駆りたててどっとおそいかかり、北軍は大敗を喫した。山士奇は兵をひきつれ算を乱して関内へ逃げこみ、あわてて門をとざした。林冲らはまっしぐらに関所の下までおし寄せて行ったが、上から矢や投げ石を浴びせられて、はいることができずにいるうちに、林冲はあっと思うまに左腕に矢を受けてしまい、兵を収めて陣地へひきあげた。宋江は安道全に林冲の矢傷の手当てをさせたが、幸いに甲《よろい》が厚かったため、傷はたいしたことはなく、この話はここでとどめる。
一方、山士奇は、関所にはいって兵を点検してみると、二千余名をうしなったうえ、二将をも討ちとられたという始末。そこで一同と相談のすえ、威勝の晋王《しんおう》(田虎のこと)のところへ使者をやって、
「宋江らは、兵は強く将は猛《たけ》く、容易に敵対できません。願わくは万全を期するために、さらに良将を遣《つか》わして鎮守せしめられますよう」
と訴えさせるとともに、また抱犢山《ほうとくざん》の守将の唐斌《とうひん》・文仲容《ぶんちゆうよう》・崔埜《さいや》らとひそかに約して、
「精兵をひきつれて、ひそかに抱犢の東方から出て、宋軍のうしろへまわっていただきたい。日をきめ、号砲を合図に当方からも兵をひきいていっせいに関外へ繰り出し、両路から挟み討ちにするならば、必ず大勝を博することができましょう」
と伝えさせることにした。かくて計略がきまると、かたく関所を守って、ひたすら唐斌からの消息を待っていたが、この話もここでとどめる。
さて一方の宋先鋒は、壺関が峻嶮で急には討ち破ることができないのを知り、半月あまりも対峙したままで、本営にこもって思いなやんでいたが、そこへ、とつぜん衛州の関将軍(関勝)が使いを馳《は》せて書面をとどけてよこした。内容は機密のことであるという。宋江と呉用が急いで封を切って見ると、書面にはこうしるされていた。
抱犢山の寨主・唐斌は原《もと》是れ蒲東の軍官にして、人《ひと》と為《な》り勇敢剛直、素《もと》関某(わたくし)と義を結ぶ。勢豪(権勢者)に陥害され、唐斌忿怒し仇家を殺死す。官府の追捕緊急なり。那時《そのとき》蒲東より南下し、梁山に投ぜんと欲して、路《みち》此の山を経て劫《おびや》かさる。当下《そのとき》唐斌と本山の頭目文仲容・崔埜と争闘するも、文・崔二人都《すべ》て他《かれ》に贏《か》つ能《あた》わず。此れに因って唐斌を請うて山に上らせ、他《かれ》に譲って寨主と為《な》す。旧年、田虎壺関を侵奪するに因り、他《かれ》に降順を要《もと》む。
唐斌本意肯《がえ》んぜざるも、後に勢の孤なるを見て、勉強して降順す。却って只本山に在って住扎《じゆうさつ》し、壺関の〓角《きかく》(注二)を為して以て南兵(宋軍)に備う。近ごろ関某の衛州を鎮守するを聞き、新歳の元旦、唐斌単騎もて潜《ひそ》かに衛州に至り、向来の衷曲(衷情)を訴説す。他《かれ》久しく兄長の忠義を慕い、今天朝《てんちよう》に帰順し、兄長の麾下に投降して、功を建て罪を贖《あがな》わんと欲す。関某単騎もて唐斌と同《とも》に抱犢山に到り、文仲容・崔埜二人の爽亮《そうりよう》にして、毫も猥瑣《わいさ》の態《たい》無きを見る。二人亦帰順せんと欲し、密《ひそ》かに約す、機を相《み》て関を献じ、以て身を進むるの資と為さんと。
宋江はつぶさに書面を読み、呉用とともに謀《はか》って、じっと兵をおさえたまま、ひたすら関内の動静をうかがいつつ、唐斌に呼応する機を待っていた。
一方、山士奇は使いをやって、ひそかに兵を出すよう唐斌に密約させたが、その兵士はもどってきて、
「このごろは月夜で昼のような明るさゆえ、月が欠けるようになってから兵を進めましょう。つとめて敵にさとられぬようにするのが肝心ですから、とのことでした」
と報告した。
「いかにも、もっともだ」
と士奇はいった。かくてそのまま十日あまりたったが、宋軍のほうもいっこう攻めてはこなかった。と、とつぜん知らせがあって、
「唐斌が数騎をしたがえて、抱犢山の山陰《かげ》づたいに関内へ駆けつけてきました」
とのこと。まもなく唐斌は関所に着き、山士奇に挨拶をした。唐斌はいった。
「今夜の三更(十二時)、文仲容と崔埜が兵一万をひきつれてひそかに抱犢山の東へ出ます。兵は身軽に武装し、馬は鈴をとりはずして、明けがたにはまちがいなく宋軍の陣地のうしろへまわりますから、こちらでもさっそく、関所を出てこれに呼応する準備をなさってください」
士奇はよろこんで、
「両路から挟み討ちにすれば、宋軍はひとたまりもないでしょう」
といい、酒を出してもてなした。
日が暮れると、唐斌は関所の上へあがって偵察をし、
「おかしいぞ。星明りで見ると、関所の外に斥候らしいものがいるようだ」
といいながら、近侍の兵の矢壺から二本の矢を抜きとり、関所の外をめがけて射放った。
やはりこの関所は破られるべきさだめだったのか、関所の外には、事実、幾人かの兵士が宋先蜂の命令を受けて、暗がりに身をひそめて関内の動静をうかがっていたのである。唐斌の放った矢は、ちょうどそのなかのひとりの兵士の右股《もも》にあたった。だが、あたって股の肉が痛みはしたが、矢は鏃《やじり》のないもののようであった。兵士は不審に思い、矢を手に取ってしらべて見ると、たくさんの絹の布で鏃がきっちりとくるんであるのだった。兵士はなにかわけがあると思い、陣中へ駆けもどって宋先鋒に知らせた。宋江が明りの下で絹の布をほどいて見ると、なかには蠅の頭のような細字が何行か書いてあった。それは、あす黎明に関所を献上するという唐斌の密約で、
文仲容・崔埜、兵を領《ひき》いて潜《ひそ》かに先鋒の寨後に至る。只砲の響くを等《ま》って関内より殺出し接応せん、那時《そのとき》唐斌彼《かしこ》に在りて、機に乗じて関を奪わん。宋先鋒、乞う速かに準備して関に進め。
とあった。宋江は読みおわると、ひそかに呉用とその準備について相談した。呉用のいうには、
「関将軍のいってきたことはまちがいないでしょうが、しかし、敵軍がわれわれのうしろへまわるのですから、放っておくわけにはいきません。そこで、孫立・朱仝・単廷珪・魏定国・燕順らに兵一万をつけ、旗を捲き軍鼓を鳴らさずに、ひそかに陣地のうしろへ行かせましょう。そして、文・崔二将の軍がやってきてもすぐには陣地へ近づけさせずに、わが軍があの関所を取ってしまってから、轟天《ごうてん》・子母《しぼ》の号砲を放ったならば近づくように、ということにするのです。さらに徐寧と索超には兵五千をつけて、ひそかに陣地の東へ行って伏兵を布かせ、林冲と張清にも同じく兵五千をつけて、ひそかに陣地の西へ行って伏兵を布かせましょう。そして陣内に砲声があがるのを合図に、この二手の軍はいっせいに呼応し、兵をあわせてどっと関所へ攻めこませるのです。万一わが軍が敵の計略にはまるようなことがあれば、この二手の軍にただちに救援に出させます」
「まことにすぐれた策です」
と宋江はいい、ただちにそのとおりに命令をくだした。諸将はそれにしたがって準備をし、出かけて行った。
一方、山士奇は関内で唐斌から事情を聞き、宋軍の陣地の後方に砲声のあがるのをひたすら待っていた。夜明けごろになると、とつぜん関所の南方に連珠砲《れんしゆほう》の音がとどろいた。唐斌と士奇が関所の上に出て見わたすと、宋軍の陣地の後方に砂煙があがり、旌旗が入り乱れている。唐斌は、
「文・崔二将の軍がやってきたのにちがいありません。すぐ関外へ討って出て呼応しなくては」
といった。
山土寄は史定とともに精兵一万をひきつれ、まっさきに関外へ斬り出して行き、唐斌と陸輝には兵一万をもってうしろから援護させ、竺敬と仲良を関所に居残らせた。宋軍はこのとき、関所から敵が討ち出てきたのを見ると、急いで退却をはじめた。山士奇が先頭にたって兵を駆りたてつつおそいかかって行くと、不意に一発の砲声がとどろき、宋軍の左右から二隊の軍勢が飛び出して激しく斬りかかってきた。唐斌は宋軍の二隊が斬りこんできたのを見ると、急いで馬首を転じ、兵をひきいて関所へとおし返し、矛を横たえて馬を関門の外に立てた。山士奇と史定がふたりでたたかっていると、宋軍の陣中にまたもや一発の砲声がとどろき、李逵・鮑旭・項充・李袞らが投げ槍と楯の兵をひきつれて、どっとおし寄せてきた。山士奇は相手に用意のあることを見てとり、急いで兵をさし招き、馬を返して関所へひきあげる。と、関所の前にはひとりの将が馬を立てていて、大声に呼ばわっていうよう、
「唐斌ここにあり。壺関はすでに宋朝のものだ。山士奇、さっさと馬をおりて投降せい」
そして矛をふりかざしたと見るまに、はやくも竺敬を刺し殺してしまったのである。山士奇は大いにおどろいて、なすすべも知らず、数十騎をひきつれて西のほうへと死にものぐるいに突っ走って行く。林冲と張清は関所を奪うためにあえてこれを追わず、兵をひきいて関所へ攻め寄せて行った。そのとき李逵らの歩軍は身軽に、はやくも関所の上におしあがって号砲を放ち、唐斌とともに関所の守備兵を蹴散らし、壺関を奪ってしまった。仲良は乱戦のなかで殺され、関所で史定は徐寧に刺したおされた。北軍はちりぢりに逃げて、その遺棄した〓《かぶと》や甲《よろい》や馬はかぞえきれぬほど。殺されたもの二千余名、いけどられたもの五百余名、投降したものもおびただしい数にのぼった。
やがて宋先鋒らの大軍が陸続と関所にはいってきた。唐斌は馬をおり、宋江に平伏していった。
「わたくし、罪を犯しましたさい、あなたさまの仁義を聞き、大寨(梁山泊)に身を投じようと思ったのでございますが、手づるもなくてついに尊顔を拝することができませんでした。このたびは天の思し召しで膝下に侍る機をあたえられ、かねてよりの願いがかなえられた次第でございます」
いいおわって、また平伏した。宋江は答礼もそこそこに、急いで扶《たす》けおこして、
「将軍が朝廷に帰順なさって、わたしたちとともに逆賊を平らげてくださるなら、朝廷に帰りましたみぎりには、わたしから天子によしなに申しあげて必ず優遇を受けられるようにいたしましょう」
といった。ついで、孫立ら諸将が、文仲容・崔埜とともに両路の軍をひきしたがえてき、関外に兵をとどめて指令を仰いだ。宋江は、文・崔二将を関内へ通して目通りさせるよう命じ、孫立らには、兵をしたがえてそのまま関外に屯営させた。文仲容と崔埜は関内へはいり、宋江に礼をささげていった。
「わたくしども両名、ご縁あって麾下に侍ることを得ましたうえは、犬馬の労をおしまずに力をつくしたいと存じます」
宋江は大いによろこんで、
「将軍たちが相ともにこの関所をだまし取ってくださった勲功は、立派なものです。功績簿にいちいち明らかに記録しておきましょう」
といい、さっそく宴を設けさせて唐斌ら三名のために祝杯をあげた。一方、関所の内外の兵を点検してみたところ、投降した兵二万余名、拿捕《だほ》した戦馬一千余頭におよんだ。諸将はそれぞれその功を献じた。宋先鋒は将兵一同をねぎらった。そのあとで宋江は唐斌に、昭徳の城内の将兵の数をたずねた。唐斌のいうには、
「城内にはもと三万の兵がおりましたが、山士奇が一万を選び出してこの関の守備にまわしましたので、現在城内は兵力は二万、将領は正副あわせて十名です」
その十名というのは、
孫〓《そんき》 葉声《しようせい》
金鼎《きんてい》 黄鉞《こうえつ》
冷寧《れいねい》 戴美《たいび》
翁奎《おうけい》 楊春《ようしゆん》
牛庚《ぎゆうこう》 蔡沢《さいたく》
である。
唐斌はつづけていった。
「田虎は壺関を昭徳の防壁と恃《たの》んでおりましたが、その壺関が陥りましたことは、田虎にとっては片腕をうしなったようなものです。わたくしおよばずながら、先手となって昭徳に討ちむかわせていただきとう存じます」
するとそのとき、陵川の降将の耿恭も、唐斌とともに先手を承りたいと願い出た。宋江は承諾をあたえた。しばらくして宋江は文仲容と崔埜にむかっていった。
「おふたりはもともと抱犢山におられたのですから、かの地の事情にもくわしく、威風もとどろいていることでしょう。そこでおふたりに、手勢の兵をひきつれてもういちど抱犢へ行っていただき、あちらで一方の備えにあたってもらいたいのです。そしてわたしたちが昭徳を討ち破ってからお招きしたいと思うのですが、いかがでしょうか」
文仲春と崔埜はいっしょに答えた。
「先鋒のご命令、異存のあろうはずはございません」
かくて酒宴がおわると、文・崔二将は宋先鋒に別れを告げて抱犢へたって行った。
翌日、宋先鋒は本営に出て、戴宗に、晋寧の盧先鋒のところへ戦況をうかがいに行って、すぐ報告にもどるよう命じた。戴宗が命を受けて出て行ったことはそれまでとして、宋江は呉用と協議して昭徳攻略のための軍の編成をきめた。すなわち、唐斌と耿恭には兵一万をもって東門を攻めさせ、索超と張清には同じく一万をもって南門を攻めさせて、西門はそのままにしておくことにした。それは、威勝からの援軍がきたとき内外から攻撃される不利を考えての処置であった。また李逵・鮑旭・項充・李袞らには、歩兵五百をもって遊撃隊となり、遊動して援護するよう命じ、孫立・朱仝・燕順らには、兵をしたがえて関内へはいり、樊瑞・馬麟らとともに隊を統率して壺関を守らせることにした。かくて編成がおわると、宋先鋒と呉学究は、そのほかの将領をしたがえ、陣地をひきはらって出発し、昭徳城の南方十里のところに陣地をかまえたが、そのことはこれまでとする。
話はかわって、一方威勝の偽《にせ》の省院官たちは、壺関の守将の山士奇および晋寧の田彪からの急を告げる上申書を受け取ると、
「宋軍の勢いは強大で、壺関・晋寧の両地は危急に瀕《ひん》しております」
と田虎に告げた。田虎は殿上の座について一同と救援の兵を出すことについて協議をした。と、列中からひとりの、頭には黄冠をいただき身には鶴〓《かくしよう》(鶴の羽の裘《かわごろも》)をまとったものが進み出て奏上した。
「大王に申しあげます。わたくしが壺関へ行って敵を退けましょう」
このものは、姓は喬《きよう》、名は一字名で冽《れつ》といい、祖先は元来陝西の〓原《けいげん》の人。その母は彼をみごもっていたとき、豺《さい》が部屋のなかにはいってきてやがて鹿に化した夢を見、夢からさめて冽を生み落としたという。この喬冽は、八歳にしてよく槍や棒を使いこなした。たまたま〓〓山《くうどうざん》に遊んだとき、不思議な人物に遇って幻術をさずけられ、風を呼び雨を喚《よ》び、霧に駕《が》し雲に騰《のぼ》ることができた。また、かつて九宮県の二仙山へ行って道を学ぼうとしたこともあったが、羅真人は会うことをこばみ、道童を通じて喬冽にこう伝えさせたという。
「あなたは外道《げどう》を学んで、玄微《げんび》(まことの道)をさとられない。いずれあなたが徳《とく》に遇って魔《ま》をなくされたときには、改めてお目にかかりましょう」
喬冽は憤然としてひき返し、その術を恃《たの》んで勝手気ままに放浪してまわったが、彼が幻術を使うので、人々はみな彼のことを幻魔君《げんまくん》と呼んだ。のち安定《あんてい》州へ行ったこころ、おりから同州は日照りつづきで、五ヵ月間一滴の雨もなく、州役人は、祈って雨を降らすものがあれば賞金三千貫をとらせるという掲示を出していた。喬冽はその掲示を剥ぎとって壇へのぼり、大いに慈雨を降らせた。州役人は雨が十分に降ったのを見て、賞金のことは忘れてしまっていた。ところで、喬冽の身には事がおこるめぐりあわせだったのか、この地に、やくざ書生で姓は何《か》、名は才《さい》というものがいて、州の出納吏と極めて親しくしていたが、そのとき賞金のことをかぎつけると、さっそく出納吏をそそのかして賞金の大半を州役人に贈らせ、残りを着服させた。こうして何才は、出納吏とぐるになっていくらかのわけまえをせしめたのである。出納吏はわずか三貫の銭を喬冽にわたして、こういった。
「おまえさんはあれほどのたいした術をわきまえていなさるのだから、あんな賞金なぞもらったところで、別に使うことないでしょう。ここの役所では、きまった租税の入りではなかなかまかないきれず、あっちこっちからやりくりして、まにあわせている始末。おまえさんのあの賞金は、わしにあずけて、しばらく金庫のなかに納めておいて、あとで入用なときに追い追い受け取るということにしてもらいたいのだ」
喬冽はそういわれると大いに怒って、
「賞金はもともと、この州の金持たちが出しあったものだ。きさまはそれを勝手にくすねようというのか。庫の年貢米はみんな良民の汗と脂だぞ。きさまはそれをせっせとくすねておのれのふところを肥やし、女を買ったり遊びにふけったりして、お上の大事をみんな踏みにじってきやがったのだな。きさまのようなけがらわしいやろうをぶち殺せば、庫の穀《ごく》つぶしが一匹減るというものだ」
と、拳《こぶし》をふりあげて真向うから打ちかかった。かの出納吏は酒と女でふぬけになった男、おまけに身体が肥っていたので、なにもしないうちからもう息切れがして、相手をかわすどころではない。たちまち喬冽に拳固《げんこつ》と足蹴りでさんざんにやっつけられ、ほうほうの態で逃げ帰ったが、四五日床についたあげく、はかなくも、重傷のために死んでしまった。
出納吏の妻は州役所へ訴状を出した。州役人も、賞金がもとでそのような事件になったのだろうと大体は察していたが、公文書をくだし、下手人の喬冽をとらえて糾問するために捕り手を出した。喬冽はそのことをかぎつけると、夜どおしで〓原《けいげん》へ逃げ帰り、家を始末して母親といっしょに出奔し、威勝《いしよう》へ逃げて行って、姓も名も変えて道士になりすました。すなわち冽《れつ》を清《せい》とあらため、法号をつけて道清《どうせい》と称したのである。
まもなく田虎が謀叛《むほん》をおこし、道清が術をわきまえていることを知って仲間にひきいれた。
道清は妖言を捏造し幻術を弄して愚民を煽動し、田虎を助けて州県を奪った。田虎は事ごとに道清をたよりにし、彼を護国霊感真人《ごこくれいかんしんじん》・軍師・左丞相という偽《にせ》の位につけた。このとき彼ははじめて本姓を明らかにした。そこで人々は彼のことを国師・喬道清と呼んだ。
さて話をもどして、そのとき喬道清は田虎にたいして、
「兵をひきつれて壺関へ行き、敵をふせぎましょう」
と申し出た。田虎は、
「国師、それほどまでわたしの力になってくださるとは」
といったが、その言葉のまだおわらぬうちに、また殿帥《でんすい》の孫安《そんあん》が進み出て奏上した。
「わたくしが兵をひきつれて晋寧へ救援にまいりましょう」
田虎は喬道清と孫安を征南大元帥《せいなんだいげんすい》に任じ、それぞれ兵二万をつけて出陣させることにした。喬道清は重ねて奏上した。
「壺関は危急に瀕しておりますゆえ、わたくしは軽騎の兵を選りすぐって急いで救援に駆けつけます」
田虎は大いによろこんだ。そして枢密院に、将兵を割りあてて、喬道清と孫安につけて出陣させるよう命じた。枢密院は命令を受けて将を選び兵を割りあてて、ふたりにあたえた。喬道清と孫安はその日のうちに軍をととのえて出発した。
この孫安という男は、喬道清と同郷で、おなじく〓原の出身であった。身の丈《たけ》は九尺、腰のまわりは八囲(一囲は五寸)、なかなか兵法にくわしく、体力は衆にぬきんでていた。身につけた武芸はまことにめざましいものがあって、二振りの〓鉄《ひんてつ》の剣を得物《えもの》としていた。かつて父の仇を報いてふたりのものを殺し、お上のきびしい追及を受けて、家を捨てて逃走したが、かねがね喬道清と親しくしていたので、喬道清が田虎の配下になっていると聞くと、さっそく威勝へ行って喬道清に身を投じた。道清が彼を田虎に推薦したところ、敵とたたかって手柄をたてたため、偽《にせ》の殿帥の位をさずけられたのである。いまや十名の偏将と二万の兵をひきつれて晋寧へ救援に行くこととなったが、その十名の偏将は誰々かというと、
梅玉《ばいぎよく》 秦英《しんえい》
金禎《きんてい》 陸清《りくせい》
畢勝《ひつしよう》 播迅《はんじん》
楊芳《ようほう》 馮昇《ふうしよう》
胡邁《こまい》 陸芳《りくほう》
である。
この十名の偏将は、いずれも偽の統制《とうせい》の位をさずけられていた。かくて孫安は喬道清と別れ、兵をひきいて晋寧へと進発して行ったが、このことはそれまでとする。
一方、喬道清は、二万の兵は団練《だんれん》の聶親《じようしん》と馮〓《ふうき》にひきいさせて、あとからこさせることにし、みずからは四名の偏将とともにさきに出発した。その四名とは、
雷震《らいしん》 倪麟《げいりん》
費珍《ひちん》 薛燦《せつさん》
である。
この四名の偏将は、いずれも偽の総管《そうかん》の位をさずけられていて、喬道清にしたがって二千の精兵を統べ、急いで昭徳へと進発して行った。幾日かして、昭徳城の北方十里のところまで行くと、さきに出してあった物見の騎兵がもどってきて、
「宋軍はきのう壺関を討ち破り、いま軍を三手に分けて昭徳の城を攻めているところです」
と知らせた。喬道清はその知らせを聞くと、かっとなって、
「やつらめ、よくも無礼千万な。わが腕のほどを思い知らせてくれるぞ」
と、兵をひきつれて飛ぶように進んで行った。おりしも、唐斌《とうひん》と耿恭《こうきよう》が兵をひきいて北門を攻めているところであった。唐斌と耿恭は、西北方から二千余騎がおし寄せてきたとの不意の知らせに、陣形をととのえてこれを迎えた。喬道清の軍はすでに到着し、両軍は対峙して旗鼓《きこ》相望むにいたった。南北両陣の距離は一矢頃《ひとやごろ》ほどである。唐斌と耿恭が見わたすと、北陣の前には四人の将領が、紅羅の宝蓋《ほうがい》(さしかけ傘)の下に馬をとめたひとりの道士をおしたてている。その道士のいでたちいかにと見れば、
頭には紫金嵌宝《しきんかんぽう》の魚尾の道冠を戴き、身には〓沿辺《そうえんぺん》(黒い縁《ふち》どり)の烈火の錦の鶴〓《かくしよう》を穿ち、腰には雑色の綵糸《さいし》の〓《とう》(帯)を〓《し》め、足には雲頭の方赤の〓《せき》(先が雲形に反《そ》った、四角張った、赤い、木底の履《くつ》)を穿ち、一口の〓〓鉄《こんごてつ》(注三)の古剣を仗《と》り、一匹の雪花の銀〓《ぎんそう》の馬に坐す。八字の眉、碧眼、落腮《らくさい》の〓《ひげ》(頬から顎へかけてのひげ)、四方の(角《かく》ばった)口、声は鐘と相似たり。
その道士の馬前の〓《くろ》旗には、金で二行に十九個の大きな文字がしるされていた。すなわち、
護国霊感真人軍師
左丞相征南大元帥喬道清(注四)
耿恭はそれを見ると、おどろいて、
「こやつは、おそるべきやつ」
とつぶやいた。両軍がまだ鋒をまじえずにいるとき、ちょうどそこへ、李逵ら五百の遊撃隊が飛びこんできた。李逵はすぐにおそいかかって行こうとした。耿恭が、
「やつは晋王(田虎)の配下でいちばん腕のたつやつで、幻術が使えて、なかなか手強《てごわ》い相手です」
というと、李逵は、
「おいらが飛びかかって行って、あの糞やろうをたたき斬ってしまえば、術も糞もなかろうじゃないか」
「将軍、あなどってはなりません」
と唐斌もいったが、李逵はてんで耳を貸そうとはせず、板斧を振りまわしながらおそいかかって行く。鮑旭・項充・李袞らも、李逵に万一のことがあってはと、五百名の団牌《まるたて》と標鎗《なげやり》の兵をひきいていっせいに斬りこんで行く。と、かの道士は声をあげて笑い、
「こやつ、血迷うまいぞ」
と怒鳴りつけ、あわてずさわがず、かの宝剣を天に指しむけ、口に呪文を唱えて、
「えいっ」
と一喝した。すると、からりと晴れあがっていた空に、たちまちにして黒霧がみなぎり、狂風が吹きすさんで、土を飛ばし塵を舞いあげ、さらに一団の黒気が生じて李逵ら五百人をとじこめ、さながら黒い漆《うるし》の革袋のなかにおしこめられたかのごとく、眼前にはひとすじの明りも見えず、いささかの身動きもできず、耳もとにただ風雨の音が聞こえるばかりで、どこにいるのかもわからない。いかに英雄好漢といえども、翼をつけて飛びあがるわけにはいかず、火首金剛《かしゆこんごう》といえども、いかで天羅地網《てんらちもう》をのがれ得よう。八臂那〓《はつぴなた》たりといえども、竜潭虎窟《りゆうたんこくつ》から脱け出すことは至難である。さて、危地におちいった李逵ら一同の生死はどうなるか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 いくさの庭のまんなか 原文は垓心。また、包囲のなかにあることをいう場合もある。第七十七回注一〇参照。
二 〓角 掎角と書くのが正しい。前後相呼応して敵にあたること。『左伝』襄公十四年に、「譬えば鹿を捕うるが如し、晋人これを角し、諸戎これを掎す」とある。うしろから脚を引っぱるのを掎、前から角《つの》をとるのを角という。
三 〓〓鉄 〓〓に産する鉄。第七十六回注一七参照。
四 道清 この二字は原文にはないが、これを加えないことには十九字にならない。
第九十五回
宋公明《そうこうめい》 忠もて后土《こうど》を感《うご》かし
喬道清《きようどうせい》 術もて宋兵を敗《やぶ》る
さて、黒旋風の李逵は唐斌《とうひん》と耿恭《こうきよう》の言葉に耳を貸さず、諸将をひきつれて敵陣へ斬りこんで行ったが、喬道清に妖術で困《くる》しめられ、五百余人がただのひとりも逃げだせずに、ことごとくいけどりにされてしまったのである。
耿恭は形勢わるしと見るや、馬首を転じて東のほうをめざし、二本の鞭を打ちつづけて、いちはやく逃げてしまった。唐斌は李逵らが陥《おとしい》れられて兵士たちのうろたえさわぐのを見、さらに耿恭がさっさと逃げだして行ったのを見て、心のなかに思うよう、
「喬道清の法術はおそるべきものだ。たとえ逃げても逃げおおせられなかったときは、結局もの笑いの種になるだけのことだ。勇士は死をおそれずして名を惜しむとか。事ここに至ったうえは、もはや命などかまってはおられぬ」
唐斌は必死の勢いで矛をかまえ、馬を飛ばして突っこんで行った。喬道清は彼がすさまじい勢いでかかってくるのを見ると、急いで印《いん》を結び呪文をとなえて、
「えいっ」
と一喝した。するとたちまち陣内に一陣の黄砂が捲きおこり、唐斌の顔をめがけてびゅうびゅうと飛んでくる。唐斌が砂に目をくらまされてどうすることもできずにいると、はやくも兵士たちがおそいかかってき、槍で左の腿を刺して落馬させ、かくて彼もいけどりにされてしまった。
元来、北軍には、将領をいけどってきたものには二倍の恩賞があたえられるというきまりがあったので、将領たちはひとりとして殺されることはなかったのである。このとき唐斌のひきいていた一万の兵は、ことごとく黄砂にかきくらまされ、さんざんに斬りたてられて、人亡《ほろ》び馬倒れ、星落ち雲散《さん》ずるというありさま。兵士の大半は討ちとられてしまった。
一方、林冲と徐寧は東門のほうにいたが、城南に天をどよもす大喊声があがるのを聞いて、急いで兵をひきいて援護にむかった。
城内では守将の孫〓《そんき》らが、喬道清の旗じるしを見て、急いで城門を開いて呼応した。
李逵らはすでに捕らえられて城内へひきたてられて行った。
一方耿恭は、数名の敗残兵とともに、息を切らせつつ、鞍はかたむき轡《くつわ》ははずれ、〓《かぶと》もずり落として駆けて行ったが、林冲と徐寧の姿を見て、ようやく馬をとめた。林冲と徐寧はあわただしく、
「どこの軍か」
と誰何《すいか》した。耿恭はしどろもどろに短くわけを話した。林冲と徐寧が急いで耿恭とともに本陣へもどって行くと、ちょうど王英と扈三娘が三百騎をひきいて偵察しているのに出くわしたが、ふたりも事情を知っていっしょに宋先鋒のもとへ知らせにもどった。
耿恭は李逵らが喬道清に捕らえられた次第をくわしく話した。宋江はその知らせを聞くと大いにおどろき、
「李逵たちはもう命をうしなってしまったろうか」
と哭いた。呉用がなだめて、
「兄貴、くよくよせずに、早く打つべき手を打たねばなりません。賊が妖術を使うからには、さっそく壺関から樊瑞を呼んできてこれにあたらせることです」
というと、宋江は、
「樊瑞を呼びにやるのと同時に軍を進め、賊の道士にかけあって李逵たちをとりもどそう」
といった。呉用がしきりに反対したが宋江はきかない。
かくて宋先鋒は、呉用に数名の将とともに本陣の守備を託して、みずから林冲・徐寧・魯智深・武松・劉唐・湯隆・李雲・郁保四の八名の将と兵二万をひきしたがえ、ただちに昭徳の城南へと繰り出して行った。索超と張清もこれを迎えて兵を一つにあわせ、旗を振り軍鼓を鳴らし、喊声をあげ銅鑼をたたいて、どっと城下へおし寄せて行く。
一方、喬道清は、城内へはいって元帥府にのぼり、孫〓ら十将を引見した。そのあとで孫〓らが宴席を設けてもてなそうとしていると、とつぜん斥候からの知らせがあって、
「宋軍がまたおし寄せてきました」
という。喬道清は、
「やつらめ、無礼な」
と色をなし、孫〓にむかって、
「宋江をひっ捕らえてくるからな」
というや、ただちに馬に乗り、四人の偏将と三千の兵をひきつれて城外へ迎え討ちに出た。
宋軍が陣を布いてたたかいを挑んでいると、とつぜん城門が開き、吊り橋がおりて、中から一隊の軍勢が繰り出してきた。その先頭の一騎には、ひとりの道士がうち乗っている。これぞ幻魔君の喬道清で、宝剣を手に、軍をひきいて吊り橋をわたってきた。かくて両軍相対《あいたい》し、旗鼓相望《あいのぞ》み、互いに強弓硬弩をもって相手の出足を制しあった。双方の陣中では画角《がかく》が吹き鳴らされ、戦鼓がいっせいに打ち鳴らされる。と、宋軍の陣の門旗が左右に分かれて、そこから宋先鋒が馬を進めた。郁保四が帥字旗《すいじき》をささげてその馬前に立ち、左には林冲・徐寧・魯智深・劉唐、右には索超・張清・武松・湯隆と、八人の将領がこれを護衛している。宋先鋒は胸を憤りにふくらませつつ喬道清を指さして罵った。
「謀叛《むほん》に組する賊の道士め、早々にわが兄弟数名と五百余の兵を返してよこせ。ぐずぐずしていると、きさまをひっ捕らえてずたずたに斬りきざんでくれるぞ」
道清も怒鳴り返した。
「宋江、無礼はゆるさぬぞ。返してなどやるものか。このわしを捕らえられるものなら捕らえてみるがよかろうぞ」
宋江は大いに怒り、鞭を一振りすると、林冲・徐寧・索超・張清・魯智深・武松・劉唐らがどっとおそいかかって行く。喬道清は歯を鳴らして(注一)法をおこない、印《いん》を結び呪文をとなえ、剣を西のほうへさしむけて、
「えいっ」
と一喝した。と、たちまち無数の将兵が西のほうからどっと飛んできて、宋軍におそいかかる。喬道清はさらに剣を西のほうへさしむけ、呪文をとなえて、
「えいっ」
と一喝した。と、にわかに天地が暗んで日も光をうしない、砂を飛ばし石を走らせ、地をうごかし天をゆすぶった。林冲ら諸将がおそいかかって行こうとすると、前方にはいちめんに黄砂と黒気がたちこめて、ひとりの敵兵も見えない。宋軍はたたかわずしてみずから乱れ、馬はおどろいて跳《は》ねまわり嘶《いなな》きつづける。林冲らはあわてて馬を返し、宋江を護りつつ北のほうへと逃げだした。喬道清は兵をさし招いておそいかからせ、宋江らの軍は追いまくられて星落ち雲散ずるがごとく四分五裂となり、兄を呼《よ》び弟を喚《よ》び、子を覓《もと》め爺《ちち》をたずねるという大混乱。宋江らはあわてふためいて逃げ、ようやく半里ほど行ったところ、ゆくてを見れば何たる奇怪《きつかい》な、さきほど軍を進めてきたときにはひろびろとした野原だったところが、いまは満々と水を張り、見わたすかぎり白浪《はくろう》天につらなって涯《はてし》なく、さながら東海の大洋のよう。たとえ両脇に翼が生えたとしても飛び越えられそうにもなく、うしろからは敵兵が追ってきてもはや明らかに死よりほかには術《すべ》もない。魯智深・武松・劉唐らはいっせいに、
「むざむざとふん縛《じば》られなどするものか」
と叫び、三人で奮いたって身を返し、北のほうへと斬りこんで行く。と、にわかに雷鳴がとどろいて、中空に二十人あまりの金甲の神人があらわれ、ばらばらと武器で打ちかかってきて、たちまち魯智深・武松・劉唐を打ちたおした。そこへ北軍の兵が駆けつけてきて、これまたいけどりになり、つれ去られてしまった。と、また大声が聞こえてきた。
「宋江、馬をおりて縄を受けよ。しからば命だけは助けてやろう」
宋江は天を仰いで嘆息した。
「この身は死んでも惜しくはないが、いまだ君恩《くんおん》に報いることもできず、親(注二)は年とっているのにその面倒を見るものもなく、李逵たち数名の兄弟もついに助け出すことができない、それが心残りだ。しかし今となっては、捕らえられて辱しめを受けるよりも、いっそ死んでしまおう」
林冲・徐寧・索超・張清・湯隆・李雲・郁保四ら七人の頭領は、宋江をとりかこんで一団となり、口々に、
「われわれも兄貴といっしょに、悪霊となって賊を殺しましょう」
という。郁保四はこの土壇場《どたんば》に、身には二本の矢を受けながらも、かの帥字旗を高々とささげつつ、ぴったりと宋先鋒につきしたがって、一歩も離れなかった。北軍は帥字旗が依然として倒れずにいるのを見て、うかつには攻めてこなかった。
宋江らはすでに、剣をひき抜いて、それぞれみずからの首を刎《は》ねようとしていた。と、不意に何者かが駆け寄ってきて一同を制し、
「お待ちなされ、みんな安心するがよい。わたしは戊己《ぼうき》(五行の土)の神だが、その方たちの忠義に感じ、特にかの妖水《ようすい》をとりしずめてその方たちを助け出し、陣地へ帰らせてあげよう」
諸将がその人を見るに、まことに奇妙なすがたで、頭には二本の肉の角が生《は》えていて身体は青黒く、髪は赤く、すっぱだか。下半身には黄色い《こん》(股引の類)をはき、左手には鈴を持っている。その人は地面から土をつかみ取るや、前方の、海のように白浪の天につらなる水面にむかって、ぱっと撒《ま》きちらした。と、一瞬のうちに、もとどおりの平原があらわれた。その人は一同にむかっていった。
「その方たちはここ数日のあいだは災厄にあうさだめにある。もはや妖水は滅んだから、すみやかに陣地へもどるがよい。衛州へ使いをやれば、災厄をきりぬけることができよう。その方ら、力をつくして国に報いるように」
いいおわると、一陣の旋風と化し、ふっと見えなくなってしまった。一同はしきりにいぶかしがりながら、宋江を護って南のほうへと駆けて行った。五六里ばかり行くと、とつぜん砂塵の舞い立つのが見えて、またもや一隊の軍勢が南のほうからやってきた。だがそれは、呉用が王英・扈三娘・孫新・顧大嫂・解珍・解宝らとともに兵一万をひきいて援護にやってきたのだった。宋江は呉用に、
「あなたのいうことをきかなかったため、すんでのことでもうお会いすることができなくなるところでした」
といった。
「ともかく陣地へもどったうえでお話ししましょう」
と呉用はいう。一同は相ついで陣地へはいると、かの、いくさに敗れて窮地におちいったとき神に遇ったことをくわしく話した。すると呉用は手を額《ひたい》にあて(神に祈るときのしぐさ)ながらいった。
「戊己の神というのは土神《どしん》のことです。兄貴の忠義が、后土《こうど》の神(土地の神)のお心を動かしたのです。土は水に尅《うちか》ちます(注三)から」
宋江らは、はじめてわけをさとり、天にむかって拝謝した。このとき日はもう暮れかかっていた。逃げもどってきた敗残兵のいうには、
「混乱のさなかへ、さらに昭徳城内の孫〓《そんき》・葉声《しようせい》・金鼎《きんてい》・黄鉞《こうえつ》らが南門から兵をひきいて斬り出してまいり、おおぜいのものが殺され、あとのものは逃げてちりぢりになってしまいました」
とのこと。宋江が兵を点検してみると、一万人あまりのものがいなくなっていた。呉用は宋江にいった。
「賊は妖術をつかって、つづけざまに二度のいくさに勝ったのですから、すみやかに計略をもってこれにあたり、敵の来襲を防がねばなりません。しかも味方の兵はびくびくしていて、ものの影にもおびえ(注四)、見るもの聞くものを敵と思い(注五)、いっさいが胆を冷やす種になるというありさまですから、この陣地は空《から》にし、軍勢があるように見せかけておいて(注六)、われわれは全軍十里ほどさがり、別に陣地をかまえるのがよいと思います」
そこで宋江はただちに命令をくだして、全軍を十里後方へさがらせた。呉学究はさらに宋江に進言して、大きな陣で小さい陣をつつみこみ、互いにその一隅を鉤形にかみあわせ、曲がりあって相《あい》対して、李薬師《りやくし》(李靖)の六花の陣(注七)のように布陣するよう命じさせた。諸将が命にしたがってようやく陣をかまえおわったとき、とつぜん知らせがあって、
「樊瑞が命を受けて壺関から駆けつけてまいりました」
とのこと。樊瑞は陣地にはいって宋先鋒に挨拶をし、喬道清のことをくわしく聞くと、
「兄貴、ご安心ください。それは妖術にちがいありません。わたくしがあした、法を使ってそやつをひっ捕らえてお目にかけます」
といった。呉用は、
「やつがたたかいを挑んでこなければ、こちらも兵をとどめたままじっとしていて、公孫一清がやってきてから改めて謀ることにしましょう」
という。宋江はただちに張清・王英・解珍・解宝らに命じ、軽騎五百をしたがえて夜どおしで関所を出、衛州へ馳せつけて公孫勝を迎えてこさせたうえで、敵を破って局面を打開することにした。張清らは馬を選りそろえ、宋江に挨拶をして出かけて行った。このとき宋軍は、深く鹿角《さかもぎ》を植え、かたく陣柵をめぐらし、弓には弦を張り、刀は鞘より払い、甲《よろい》をつけ戈《ほこ》を枕に寝、鈴をつけ合言葉を呼びかわすことにした。宋江らは明りをともして夜の明けるのを待った。
さて一方喬道清は、術を使って宋江らを窮地におとしいれ、いましも攻めかかってとりおさえようとしたところ、とつぜん前方の水が一滴もなくなってしまい、はや宋江らは逃げ去ってしまったので、しきりにいぶかしがって、
「おれの法術は尋常のものとはわけがちがうのに、やつらがどうしてあれを解く法を知っておったのだろう。これは、軍中にただものではないやつがおるにちがいない」
と、ただちに兵を収めて孫〓らとともに城内へもどり、元帥府にはいった。孫〓らが祝宴を開いていると、兵士たちは魯智深・武松・劉唐、およびさきに捕らえた李逵・鮑旭・項充・唐斌らを縛って元帥府の前にひきたててきた。孫〓は喬道清の左側に侍立していたが、唐斌の姿をみとめると、いきなり怒鳴りつけた。
「逆賊め、晋王さま(田虎)が、きさまをないがしろにされたことが一度だってあるか」
「きさまたちの死期がきているのだぞ」
と唐斌は怒鳴り返した。
喬道清はみなに姓名を名乗るよう命じた。すると李逵は眼を見開いて睨みつけ、虎鬚《こしゆ》をさか立て、胸を張って大声で怒鳴った。
「賊の道士め、よく聞いておけ。おれが黒ん坊さまの黒旋風の李逵だ」
魯智深・武松らはみな、いくら聞かれても憤然としたまま、あくまでも口をつぐんでいた。喬道清は彼らを捕らえた兵士たちを呼んでこさせた。すぐ刀斧手《とうふしゆ》がその兵士たちをつれてきた。喬道清はくわしくたずねてみて、彼らがいずれも宋軍の勇将であることを知ると、みなにむかっていった。
「おまえたちがもし投降しようというなら、わしが晋王さまに申しあげて、みんな高位高官につけてやるぞ」
すると李逵がまるで雷のような大声で叫んだ。
「きさまは、このおれさまたちをなんだと思ってやがるんだ、そんな屁みたいなことをぬかしやがって。この黒ん坊さまを斬ろうというのなら、勝手にひきたてて行って何百刀なりと斬りつけるがよい。もしこの黒ん坊さまが眉をしかめでもしたら、好漢の数にははいらぬわ」
魯智深・武松・劉唐らも声をそろえて怒鳴りたてた。
「糞道士め、寝言をいうのはやめにしろ。たとえおれたち兄弟の首は斬れても、おれたちのこの鉄の膝は屈《かが》まそうたって屈むものじゃないわ」
喬道清はかっとなって、
「みんな外へひきずり出して、斬り捨ててこい」
と命じた。魯智深は大声で笑って、
「わしにとっては死を視ること帰するがごとしじゃ。これから死んで正路につくとするか」
刀斧手たちはみなをとりかこんで、つれて行った。喬道清は心のなかに思うよう、
「おれはこれまであんな硬骨漢に出あったことは一度もない。ここはひとまず生かしておいて、あとでまたなんとか考えることにしよう」
そこで、喬道清は急いで兵士たちに一同をつれもどさせしばらく監禁しておくようにと命じた。武松は、
「けがらわしい逆賊め、早いとこ、さっぱりと斬ってしまやがれ」
と罵る。喬道清はうつむいたまま黙っていた。兵士たちは李逵たち一同をひきたてて監禁しに行った。
喬道清は三昧神水《さんまいしんすい》の法術が効を示さなかったため、かなり心にまどいを生じ、じっと城内にたてこもったまま宋軍の動静をうかがっていた。かくて双方とも兵を動かすことなく、そのまま五六日すぎた。と、聶新《じようしん》と馮〓《ふうき》が大軍をひきつれて到着し、入城して喬道清に挨拶をし、全軍を城内へ入れて宿営させた。喬道清は宋軍がかたく陣地を守ったままで討ち出てこないのを見て、別に策略があってのことではないと考え、兵をととのえ将領をしたがえ、孫〓・戴美・聶新・馮〓らとともに兵二万をひきつれて五鼓(夜明け前)に城を出、城の南の五竜山に陣どって、夜明けに兵を進めることにした。喬道清は孫〓にいった。
「きょうはぜひとも宋江をとりこにし、壺関を奪い返すのだ」
「頼みとするのは国師どのの法力です」
と孫〓はいった。
そのとき喬道清は兵一万をひきつれて宋江の陣地へおし寄せて行った。物見の兵はそれを知って宋先鋒に急報した。宋江は樊瑞・単廷珪・魏定国らに命じて兵を集め馬をととのえ、応戦の手はずをした。喬道清が高みから宋軍の陣地を見わたすと、
四面八向之《こ》れ準《じゆん》有り
前後左右之れ相救う
門戸開闢《かいへき》之れ法有り
吸呼聯絡《きゆうこれんらく》之れ度《ど》有り
喬道清はひそかに感嘆した。と、宋軍の陣中に一発の砲声がとどろき、陣門が開かれて一隊の軍勢が繰り出してきた。双方の陣では彩旗がうち振られ、〓鼓《だこ》が天をどよもして鳴りひびく。喬道清は高みからおりて陣頭へ出て行った。雷震《らいしん》・倪麟《げいりん》・費珍《ひちん》・薛燦《せつさん》らがその左右を護る。宋軍の陣でも旌旗が左右に開いて一将が馬を進めてきた。すなわち混世魔王の樊瑞で、片手に宝剣を持ち、喬道清に指つきつけて大声で罵った。
「逆賊の道士め、よくものさばりおったな」
喬道清は内心考えた。
「どうやらこいつは法術ができるらしい。ひとつ試《ため》してやろう」
そして樊瑞にむかい、
「知恵なしの敗将め、よくぞほざいたな。おれと腕くらべでもしようというのか」
と怒鳴り返した。
「腕くらべがしたければ、さあ、かかってきておれの剣をくらえ」
と樊瑞。両軍は喊声をあげ、軍鼓を打ち鳴らす。樊瑞が馬を飛ばし剣をかまえてまっしぐらに喬道清におそいかかって行くと、道清も馬を躍らせ剣をふるってこれを迎える。かくて二剣相ひらめき、両魔(混世魔王と幻魔君)はしのぎをけずりあった。はじめのうちは、両騎は一つにもつれあいながらたたかっていたが、やがて互いに法力をあらわし、見る見る二筋の黒気が陣頭で右に左にと旋回し、ゆきつもどりつ入り乱れあった。両軍の兵士たちは呆然と眺めるばかり。樊瑞は、たたかいまさにたけなわのとき、隙を見てやにわに喬道清に斬りつけた。だが、空《くう》を斬って、あやうく馬から落ちそうになっただけであった。これは、喬道清がわざと隙を見せて樊瑞に斬りこんでこさせたもので、みずからは烏竜蛻骨《うりゆうぜいこつ》の法を使っていちはやく自陣の前にもどり、大声をあげて笑っているのだった。樊瑞は怖気づいて陣地へひき返した。
と、宋軍の陣地の左右の門旗が開かれて、左からは聖水将軍の単廷珪が、ことごとく黒い旗に黒い甲《よろい》、手には団牌《まるたて》や標鎗《なげやり》、鋼叉《さすまた》や利刃《かたな》を持った五百の歩兵をひきつれて飛び出してき、右からは神火将軍の魏定国が、身にはまっ赤な衣をまとい、手には火器を持ち、前後に五十輛の火車を擁した五百の火軍をひきつれて飛び出してきた。その火車には蘆《よし》や葦《あし》などの引火物を積み、兵士はそれぞれ、なかに硫黄や焔硝、五色の火薬などを詰めた鉄の葫蘆《ふくべ》を背負い、いっせいに火をつけているのである。この二隊の兵は、左辺のは黒雲が地を捲くように、右辺のは烈火が飛びあがるように、どっとおし寄せてきた。北軍の兵士たちはおどろきおそれて逃げようとしたが、喬道清は、
「逃げるやつは斬るぞ」
と叫び、右手に宝剣をとって口に呪文をとなえた。と、たちまち黒雲が地をおおい、はげしく風が吹き雷鳴がとどろき、一陣の大粒の氷雹《ひよう》が降り出して聖水・神火の両軍めがけて激しく打ちかかり、稲妻が交錯し、火焔はかき消されてしまった。兵士たちは氷雹に打たれて星落ち雪散ずるがごとく、頭をかかえて逃げまどい、単廷珪と魏定国もおどろいて魂も身につかず、どうすることもできず辛うじて自陣へ逃げもどった。聖水・神火二将軍の挙も、かくて空しくなってしまった。やがて雹はやみ雲もはれて、もとどおりの晴天になったが、地上にはなお鶏卵のような拳《こぶし》のような氷塊が無数に散らばっていた。
喬道清が宋軍を眺めわたすと、雹に打たれて頭を怪我したり額《ひたい》を割ったり、目をつぶしたり鼻をゆがめたり、あるいは氷塊を踏んづけてすべりころがったりしている。喬道清は意気軒昂、大声をあげて呼びかけた。
「宋軍のなかには、もっとましな、法力のあるやつはおらぬのか」
樊瑞は恥と怒りに駆りたてられ、ざんばら髪で剣をとり、馬上に立ち、法力のかぎりをつくして呪文を念じた。と、狂風が四方より吹きおこって砂を飛ばし石を走らせ、天愁《うれ》い地暗《くら》み、日はその光をうしなった。樊瑞は兵をさし招いて攻めかかって行く。喬道清は笑って、
「それしきのつまらぬ術で、なにができようぞ」
といい、これまた剣をとって法をおこない、口に呪文をとなえた。と、風は宋軍を追って吹きまくり、中空にまたもや霹靂がとどろいて無数の神兵・天将がおそいかかってきた。宋軍の陣中は、馬嘶《いなな》き人叫び、上を下への大混乱におちいった。喬道清は四人の偏将とともに、兵を駆りたてて攻めつける。樊瑞は法術も効なく、ささえきれずに馬を返して逃げだした。北軍はそのあとを追いかける。
まさに絶体絶命というとき、宋軍の陣中から一条《ひとすじ》の金色の光が射して風や砂をとりしずめた。
かの神兵・天将は、ことごとくばらばらと陣前に墜落した。一同が見れば、それは五色の紙を剪《き》って作ったものだった。喬道清は神兵《しんぺい》の法《ほう》が破られたのを見ると、法力をふりしぼり、髪をさばき剣をとり、印を結び呪文をとなえて、
「えいっ」
と一喝。またもや三昧神水《さんまいしんすい》の法を使えば、たちまちにして千万条《すじ》の黒気が壬癸《じんき》(北)のほうから群がり寄せてきた。と、宋軍の陣中からひとりの道士が、馬を驟《は》せて陣頭にあらわれ、松紋《しようもん》の古定剣《こていけん》をとって口に呪文をとなえ、
「えいっ」
と叫んだ。と、にわかに中空に無数の黄袍《こうほう》の神将があらわれ、北のほうへ飛んで行ってかの黒気をかき消してしまった。喬道清はあっとおどろいたまま、手も足も出ない。宋軍の兵士たちはその道士が妖術を破ったのを見ると、いっせいに大声で罵った。
「喬道清の妖賊め、いまこそ手強《てごわ》いおかたのお出ましだぞ」
喬道清はそれを聞くと、恥ずかしさに耳まで赤くし、自陣へとひき返して行った。日ごろ存分に法力を弄していた喬道清も、いまや首うなだれて意気あがらず、まさに、たとえ三江の水を掬《すく》いつくすとも、洗い難し今朝《こんちよう》一面の羞《はじ》、というところ。さて宋軍の陣中で妖術をうち破った道士は誰か。それは次回で。
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一 歯を鳴らして 原文は叩歯。神に祈るときの動作。第七回注一参照。
二 親 原文は双親となっているが、宋江には父親しかない。しかしこれは誤りというわけではなく、双親年老、無人奉養という常套句が使われているのである。
三 土は水に尅つ 易の五行の原理。第八十八回注一六参照。
四 ものの影にもおびえ 原文は杯蛇鬼車《はいだきしや》。杯蛇はまた杯中蛇影、あるいは杯弓蛇影といい、あらぬものにおびえることのたとえ。『晋書』の楽広《がくこう》伝に見える故事による。すなわち、晋の楽広が河南の尹のとき、親しくしていた客がふっつりこなくなったので、そのわけを問《たず》ねると、「前に招待にあずかったとき杯の中に蛇が見えてひどく不気味だったが、そのまま飲んだところ病気になってしまった」とのこと。河南の役所の壁には蛇の画をかいた角弓(半弓)がかけてあったので、楽広は、杯の中の蛇というのはその角弓が杯に映ったのだろうと思い、同じ部屋にもう一度その客を招いて「杯の中に蛇が見えるか」ときくと、「見える」という。そこで楽広がわけを話すと、客は釈然としてたちまち病気もなおってしまった。鬼車は架空の妖鳥の名。また蒼《そうぐ》、九頭鳥ともいい、形は〓〓《みみずく》に似て、大きなものは翼の長さ一丈あまり。昼間は目が見えず、夜はよく見えるが火の光を見ると落ちるという(『正字通』)。また、九つの頭のうち一つだけはなくてその首からは血がしたたっており、九つの首にはそれぞれ翼がついているともいう(『斉東野語』)。ここでは杯蛇とおなじく、あらぬものにおびえるという意味につかわれているわけだが、それらしい話が『続博物志』に見える。すなわち、ある夜、〓という男が仏の供養をおこなっていると、臘燭の光のなかへ怪鳥が降ってきた、その翼は九尺あまりもあり、九つの頭を交互に上下させていたと。この九頭の怪鳥は、鬼車である。
五 見るもの聞くものを敵と思い 原文は風兵草甲《ふうへいそうこう》。敵影におびえて、風のそよぐ音を聞いただけで、あるいは草のゆれるさまを見ただけで敵の来襲かとおそれること。
六 軍勢があるように見せかけておいて 原文は羊蹄点鼓《ようていてんこ》。羊を木につないで蹄で軍鼓を蹴らせるようにして、軍勢のあるように見せかけること。
七 李薬師の六花の陣 第八十九回注一参照。
第九十六回
幻魔君《げんまくん》 術もて五竜山《ごりゆうざん》に窘《きわ》まり
入雲竜《にゆううんりゆう》 兵もて百谷嶺《ひやくこくれい》を囲《かこ》む
さて宋軍の陣中で喬道清の妖術をうち破ったその道士というのは、ほかならぬ入雲竜の公孫勝であった。彼は衛州で宋先鋒からの命令を受けとると、すぐ王英・張青・解珍・解宝らとともに大急ぎで軍前に駆けつけたのである。陣中にはいって宋先鋒に挨拶したときは、ちょうど喬道清が妖法を逞《たくま》しくして樊瑞をうち負かしたところだった。この日は二月の八日で、干支《かんし》(えと。十干と十二支)では戊午《ぼうご》(つちのえ・うま)にあたった。戊《ぼう》は土《ど》(五行の土)に属する。そこで公孫勝はただちに天干《てんかん》(十干)の神将を請い降してかの壬癸《じんき》(みずのえ・みずのと)の水をうち破り、妖気を一掃して青天白日をあらわしたのであった。
宋江と公孫勝が馬を並べて陣頭へ出て見ると、喬道清が満面に恥じらいをうかべながら、兵をひきつれて南のほうへと逃げて行く。公孫勝は宋江にいった。
「喬道清は法に負けて逃げましたが、彼をこのまま城内へ逃げこませてしまうと、深く根をおろしてしまいますから、すぐ命令をくだして、徐寧と索超には兵五千をもって東の道からまっすぐに南門へ行って路を断たせ、王英と孫新には同じく兵五千をもって西門へ馳せつけて路をふせがせてください。喬道清の軍が敗走してくるのに出くわしたときは、彼らが城内へはいる路を断ち切ればよいので、たたかいをするにはおよばないのです」
宋江はその策にしたがって命令をくだし、諸将を手分けしてそれぞれ出て行かせた。
時刻はまだ巳牌《しはい》(昼前)ごろであった。宋江は公孫勝とともに、林冲・張清・湯隆・李雲・扈三娘・顧大嫂ら七人の頭領と兵二万をしたがえておし寄せて行った。北将の雷震らは喬道清を護って、たたかいながら逃げて行く。と前方からまた軍勢がやってきたが、それは孫〓と聶新が兵をひきつれて援護にきたものだった。そこで兵を一つにあわせてようやく五竜山の陣地にたどりついたところ、うしろから宋軍が銅鑼を鳴らし軍鼓を打ち、天をどよもす喊声をあげてまっしぐらにおしかけてきた。孫〓はいった。
「国師どのはどうか陣地のなかにおとどまりください。わたしたちで、やつらと決戦をやりますから」
喬道清は諸将に大きな口をきいてきた手前、また、これまで法をおこなって一度もこれという相手に出くわしたこともなかったのに、いまや宋軍に追いつめられる羽目になったため、恥ずかしさと腹だたしさに駆られて、孫〓にいった。
「みんなうしろへさがっているがよい。わしが出て行って敵をやっつけてやるから」
そしてただちに、兵を陣列につかせておいて単騎で先頭に進み出た。雷震らの諸将が左右からこれを護った。喬道清は大声で呼ばわった。
「水たまりの盗っ人め、よくも辱しめおったな。さあもういちど勝負を決しようぞ」
この喬道清という男は〓原《けいげん》の生まれだった。ずっと西北の果てで、山東とは遥かに離れていたから、宋江ら兄弟たちについてくわしいことは知らなかったのである。
そのとき、宋軍の陣地では右に左に旗が振られ、それにつれて陣形が布かれた。両陣は相《あい》対して画角を吹き鳴らし、いっせいに戦鼓をとどろかせる。と南陣では黄旗が横に振られ、門旗が左右に分かれて、そこから二騎が出陣してきた。その一騎にまたがるは山東《さんとう》の呼保義《こほうぎ》の及時雨《きゆうじう》の宋公明。左手の馬に乗っているのは入雲竜の公孫一清で、手に一剣を持ち、喬道清を指さしていうよう、
「その方の術はいずれも外道《げどう》。正法ではない。さっさと馬をおりて帰順するがよかろうぞ」
喬道清がつぶさに見れば、それはあの法をうち破った道士である。その身なりは、
星冠は玉を〓《あつ》め、鶴〓《かくしよう》は金を縷《ちりぱ》む。九宮の衣服は雲霞を燦《きらめ》かせ、六甲の風雷(呪法)は宝訣《ほうけつ》(秘訣)を蔵す。腰には雑色の彩糸の〓《とう》(帯)を繋《し》め、手には松紋《しようもん》の古定《こてい》の剣を仗《と》る。一双の雲縫《うんぽう》の赤の朝鞋《ちようあい》(礼装用の履《くつ》)を穿《は》き、一匹の黄の〓《たてがみ》の昂首《こうしゆ》の馬(高く首をもたげた馬)に騎《の》る。八字の神眉、杏子《あんず》の眼、一部の口を掩《おお》う落腮《らくさい》の鬚《ひげ》(あごひげ)。
そのとき喬道清は公孫勝にいった。
「さきほどはたまたま法力をあらわせなかったが、きさまに降伏するようなおれではないぞ」
「なおもあのつまらぬ術を使おうというのか」
と公孫勝がいい返す。喬道清は怒鳴った。
「よくもまたあなどりおったな。よし、もういちどわが法力を見せてくれよう」
喬道清は気力をふるい、口に呪文をとなえつつ、手を費珍のほうへさしのべた。と、費珍の持っていた点鋼槍《てんこうそう》が、いきなり人にひったくられでもしたかのようにぱっと手を離れて、さながら竜のように飛びあがり、公孫勝めがけて突きかかって行く。公孫勝も剣をさっと秦明のほうにむけた。と、秦明の狼牙棍《ろうがこん》はたちまち手を離れて鋼鎗にたちむかい、一進一退しつつ疾風のように空中でたたかいあった。両軍はかわるがわる喝采を送る。そのときとつぜん鋭い音がひびき、両軍がどっとどよめくなかで、空中の狼牙棍が槍を叩き落とし、ドンという音とともに北軍の戦鼓にさかしまに突き刺さって、戦鼓を破ってしまった。戦鼓の兵はおどろいて顔面蒼白となる。かの狼牙棍はもとどおり秦明の手にもどり、手から離れたことなどなかったかのよう。宋軍の兵士たちは眼がくらむほど笑いこける。公孫勝は喬道清に怒鳴りつけた。
「その方、名匠(注一)の前で斧を誇るようなものだぞ」
喬道清は再び印を結び呪文をとなえ、手を北のほうへさしのべて、
「えいっ」
と一喝した。と、北軍の陣のうしろの、五竜山のくぼみから、たちまち一片の黒雲が立ちのぼり、雲の中から一匹の黒竜があらわれて、鱗を逆立て鬣《たてがみ》をふるわせつつ飛びかかってきた。公孫勝は声をたてて笑いながら、同じく手を五竜山のほうへさしのべた。と、五竜山のくぼみから稲妻のように一匹の黄竜が飛び出し、雲のように霧のように、黒竜を迎えて空中でたたかいあった。とまた喬道清は、
「青竜よ、はやくこい」
と叫んだ。すると山頂から一匹の青竜が飛び出してきたが、すぐそのあとから白竜が飛び出してきて、追いすがってこれにたちむかった。両軍の兵士は眼を見開き口をあけて呆然と見つめる。喬道清は剣をとって大声で叫んだ。
「赤竜よ、はやく出てきて助けろ」
と、たちまち山のくぼみから一匹の赤竜があらわれ、舞いながら飛びかかってくる。かくて五匹の竜が空中に乱舞するにいたったが、これはまさに金(白)・木(青)・水(黒)・火(赤)・土(黄)の五行に擬したもので、互いに生じあい互いに克《うちか》ちあいつつ(注二)、一団となってもみあった。そうするうちに狂風がはげしく吹きおこり、両陣の旗持ちの兵士たちは、風にあおられて数十人がばたばたと顛倒した。公孫勝は左手に剣をとり、右手で払子《ほつす》(注三)を空へ放り投げた。と、払子は空中でくるくるとまわり、雁のような鳥に化して、飛んで行く。たちまちにして、ぐんぐん高くのぼり、ぐんぐん大きくなり、旋風《つむじかぜ》をおこして舞いあがり、ついに九天の上にまで達し、化して大鵬《たいほう》となった。その翼は垂天《すいてん》の雲のよう(注四)。それが、かの五匹の竜をめがけて撲《う》ちかかってくる。と、青天に霹靂《へきれき》の鳴るようなはげしいひびきとともに、かの五匹の竜は撲ちくだかれて鱗や甲《こうら》が飛び散った。
元来、五竜山には霊異があって、山中にはいつも五色の雲があらわれた。そして、土地のものへ竜神の夢のお告げがあって、廟が建てられ、なかに竜王の位牌が祭られたが、ほかにまた五方(東西南北と中央)になぞらえて青・黄・赤・黒・白の五匹の竜の塑像を作り、それぞれの方角に、柱に巻きつけてあった。それらはみな泥で作って金を掃《は》き、彩色をほどこしたものであった。
その五匹の竜がそのときふたりの法術にひき出されて、たたかいあったのである。ところが公孫勝は払子《ほつす》を大鵬に化し、その五匹の泥の竜をこなごなに打ちくだいて、北軍の頭上へばらばらと落としたのである。北軍の兵士たちはわっとどよめいて逃げまどううちに、長年《ながねん》のあいだにかちかちに乾ききった、かの泥の塊りにぶちあたって、顔を傷つけ額を割られて血をほとばしらせ、あっというまに二百人あまりのものが傷ついて軍中は上を下への大混乱。喬道清は施すすべもなく、相手の術を破ることもできない。そこへ、中空から泥の黄竜の尾が、喬道清の頭の上へ落ちてきて、あやうく頭を打ち割られるところだったが、道冠をひしゃげただけですんだ。
公孫勝が手をあげてさし招くと、大鵬はふっと見えなくなり、払子はもとどおりその手にもどった。喬道清が再び妖術を使おうとすると、公孫勝は五雷正法《ごらいせいほう》の神通力をめぐらして、その頭上に金甲の神人を出現させ、大喝を浴びせた。
「喬冽、馬をおりて縛《ばく》につけ」
喬道清はもぐもぐと呪文をとなえたが、まるでなんの効《き》きめもない。喬道清はうろたえて、なすすべもなく、馬をせかして自陣へと逃げだした。
林冲が、馬を飛ばし矛をかまえつつ、追って行って、
「妖道士、逃げるな」
と大喝を浴びせると、北軍の陣からは倪麟が、刀をひっさげ馬を躍らして相手どる。雷震も馬を驟《は》せ戟をかまえて加勢に出る。こちらからは湯隆が、馬を飛ばし鉄瓜鎚《てつかつい》をふるってたちはだかる。両軍は喊声を送りあい、四人の将は二組にわかれて陣頭でたたかった。倪麟と林冲はわたりあうこと二十余合、勝敗はいずれとも決しなかった。と、林冲は隙をとらえ、矛で相手の馬の脚を突き刺した。馬はどっと倒れ、倪麟をふり落とした。林冲はその心の臓をぐさりと突いて、刺し殺してしまった。雷震は湯隆とのたたかいのまっ最中であったが、倪麟が落馬したのを見ると、負けたふりをして、馬首を転じて逃げだした。湯隆はそれを追い、鉄瓜鎚で脳天めがけて一撃、〓《かぶと》もろとも頭を打ちくだいて馬の下に落命させた。宋江が鞭をあげて合図すると、張清・李雲・扈三娘・顧大嫂らがいっせいに斬りこんで行く。北軍は大いに乱れ、ちりぢりに逃げまどい、多くのものが斬り殺された。
孫〓・聶新・費珍・薛燦らは喬道清を護りつつ、五竜山を放棄して、兵をひきいて昭徳城にはいろうとしたが、丘を越えて城まであと六七里というところまで行くと、とつぜん前方に、天をどよもして戦鼓が鳴り出し、大喊声がおこって、東のほうの路から一隊の軍勢が飛び出してきた。その先頭の二将は、すなわち金鎗手の徐寧と急先鋒の索超である。両軍がまだ鋒をまじえぬうちに、昭徳の城内では、城外のいくさを見て、守将の戴美と翁奎が兵五千をひきいて南門から援護に討って出た。徐寧と索超は兵を分けてこの両面の敵にあたった。索超は兵二千をもって北からの敵にあたる。と、戴美がまっさきに出てきて索超とわたりあうこと十余合におよんだが、ついに索超の金〓斧《きんさんぷ》にかかってまっ二つに斬られてしまった。翁奎はあわてて、兵をひきいて城内へもどった。索超はこれを追い討って北軍の兵一百人あまりを殺し、まっしぐらに南門の城下まで殺到したが、翁奎の軍は城内へ逃げこんでしまって、急いで吊り橋をひきあげ、城門をかたくとざし、城壁の上から投げ丸太や投げ石を雨のように投げつけてきたため、索超はあきらめて兵をひきあげた。
一方、徐寧は兵三千をひきつれて北軍の退路をさえぎった。北軍は敗れたりとはいえ、このときなお二万余の兵力を持っていて、孫〓・聶新の二将は徐寧の軍にたちむかった。費珍と薛燦は戦意なく、五千の兵をしたがえて喬道清を護りながら西のほうへ逃げて行った。こちらでは徐寧が孫〓・聶新の二将を相手に力戦したが、北軍にとりかこまれ、まさに寡《か》は衆《しゆう》に敵せず、見る見る重囲に陥ってしまった。と、そこへ索超と宋江の、南(宋江)北(索超)両路の軍がいっせいにおし寄せてきた。孫〓と聶新は三面からの攻撃にはたまらず、聶新は徐寧の金鎗に右腕を刺されて落馬したところを、人馬に踏みつぶされて泥のようになり、孫〓は血路を開いて逃げようとするところを、張清に追いつかれてその槍に背中を刺され、どっと落馬した。かくて北軍は大敗を喫し、三万の兵は大半討ちとられて死骸は野に満ち流血は河をなし、うち捨てられた金鼓・旗旛・〓甲・馬匹はその数を知らず、その余の兵士たちはちりぢりに逃げてしまった。
宋江・公孫勝・林冲・張清・湯隆・李雲・扈三娘・顧大嫂らは、徐寧・索超と兵をあわせて計二万五千。喬道清らが費珍・薛燦とともに五千の兵をしたがえて西のほうへ逃げて行ったと聞いて、あとを追おうとしたが、時刻はすでに申牌《しんはい》(昼すぎ)で、兵士たちはまる一日の激戦に飢え疲れていた。そこで宋先鋒が兵を収めて陣地へひきあげ休息をさせようとしていると、とつぜん知らせがあって、軍師の呉用が、宋先鋒らの軍が激戦をつづけていると聞き、特に樊瑞・単廷珪・魏定国らに命じ、兵一万をそろえ、松明《たいまつ》や篝火《かがりび》を用意して援護にさしむけたとのこと。宋先鋒は大いによろこんだ。公孫勝は、
「新しい軍勢がくるわけですから、兄貴は頭領たちとともに陣地へひきあげて休んでください。わたしは樊・単・魏の三頭領といっしょに兵をひきつれて喬道清を追い、必ずあいつを降伏させてやります」
といった。宋江が、
「あなたの霊妙な法術のおかげで、災厄からのがれることができたのです。あなたは遠くから見えてお疲れでしょうから、いっしょに陣地へひきあげて休んでいただいて、あしたまた改めて策をたてることにしましよう。喬道清のやつは法術を破られ、策も尽きていることとて、別に案ずるほどのこともないでしょうから」
というと、公孫勝は、
「兄貴はご存じありませんが、じつは、師匠の羅真人さまがわたしにこういわれたことがあるのです。
『〓原に喬冽というものがいる。道士の風格をそなえたやつで、いちど道をたずねにやってきたことがあるのだが、わたしはひとまず追い返してやった。それは、彼に魔心がさかんにあらわれているときであったし、また下界の衆生が悪をおこなって殺運がやみそうもないおりだったからだ。だがいずれ彼の魔心も次第におさまり、機縁がおとずれて徳にめぐりあい、それに服するようになるはずである。ちょうどお前がこれとめぐりあう機縁になっているから、彼をみちびいてやるがよい。そうすればやがて道をさとるようになるだろうし、いつかまた彼が役に立つこともあるだろう』
わたしは衛州で兄貴の命令を受けてこちらへやってきますとき、みちみちあの妖人の来歴を聞いてみましたところ、張将軍(張清)のいうには、降将の耿恭がくわしく知っていて、それによれば喬道清とは〓原の喬冽であるとのこと。さきほど彼の法術を見ましたところ、わたしに匹敵する腕を持っております。ただわたしは師匠の羅真人さまから五雷正法を伝授されておりますので、彼の法術を破ることができたわけです。あの城の昭徳《しようとく》という名は、師匠の、徳に遇って魔降るという法語と符合します。それゆえもし彼を逃がしてしまって、あの男を魔障《ましよう》(道を修める障碍)に陥れてしまうようなことになりましては、師匠の法旨にそむきます。この機会はどうしてものがすわけにはまいりませんので、わたしはいますぐ兵をひきつれて追いかけ、機を見て彼を降伏させたいと存じます」
この話で宋江は釈然とし、しきりに感謝した。そしてただちに諸将とともに兵をひきつれ、陣地へひきあげて休むことにした。公孫勝は、樊瑞・単廷珪・魏定国とともに兵一万をひきいて喬道清のあとを追って行ったが、この話はそれまでとする。
一方、喬道清は費珍・薛燦とともに敗残の兵五千をひきつれ、あたふたと昭徳の城西へ逃げて行って、西門から城内へはいろうとしたところ、にわかに軍鼓や角笛がいっせいに鳴り出し、前方の密林のなかから一隊の軍勢が飛び出してきた。その先頭の二将はすなわち矮脚虎《わいきやくこ》の王英と小尉遅《しよううつち》の孫新で、兵五千をひきいて陣列を布き、ゆくてに立ちふさがった。費珍と薛燦は必死になってこれにあたった。孫新と王英は公孫一清の命をまもって、彼らを城内へ入れないようにしただけで、追撃はせず、そのまま北のほうへと逃がしてやった。城内では喬道清が法術窮《きわ》まって大敗を喫したことを知ったものの、宋軍の勢いがすさまじいので、城をうしなうようなことがあっては一大事と、ただ固く城門をとざしたまま、あえて援護に出ようとはしなかった。
孫新と王英は、まもなく、公孫勝が樊瑞・単廷珪・魏定国とともに兵をひきいて駆けつけてくるのに出あった。公孫勝は、
「おふたりはひとまず陣地へひきあげて休んでください。あとはわたしが追跡しますから」
といった。孫新と王英はいわれたとおり陣地へひきあげて行った。時刻はすでに酉牌《ゆうはい》(暮れがた)であった。
一方、喬道清は費珍・薛燦とともに敗残の兵をひきつれて、喪家《そうか》の狗《いぬ》のようにうろうろと、漏網《ろうもう》の魚のようにあたふたと、北のほうへと逃げて行く。公孫勝は樊瑞・単廷珪・魏定国とともに兵一万をひきいて、きびしくそのあとを追って行った。
公孫勝は大声で呼ばわった。
「喬道清、早く馬をおりて降伏するがよい。意地を張るな」
喬道清は前方の馬上から大声でいい返した。
「人はそれぞれその主のためにつくすものだ。おのれ、しつこすぎるぞ」
このとき、日はすでに暮れていた。宋軍は松明や篝火をともし、その光は真昼のような明るさだった。喬道清が左右をふりかえって見ると、わずかに費珍と薛燦、ほか三十騎がいるだけで、その他の兵ははやちりぢりに逃げうせていた。喬道清は剣を抜いて自刎《じふん》しようとした。と費珍があわてておしとめた。
「国師さま、なにをなされます」
そして前方の山を指さして、
「あの山は身をかくすに恰好の山です」
喬道清は策も力も尽きはて、二将とともに山に駆け入った。元来、昭徳城の東北に百谷嶺《ひやくこくれい》という山があり、神農《しんのう》が百谷(百穀に通ず)を嘗《な》めた(注五)ところだと伝えられていて、山中には神農廟があった。喬道清は費《ひ》・薛《せつ》二将とともにその神農廟にたてこもった。手勢のものはわずかに十五六騎であった。公孫勝はぜひとも彼を降伏させようとしたために、山のなかへ逃げさせたのであって、さもなければ宋軍は追撃して、たとえ喬道清のようなものが一万人おろうとも討ちとっていたであろう。
余談はさておき、公孫勝は、喬道清が百谷嶺に逃げこんだと知ると、兵を四手に分けて陣をかまえ、百谷嶺を四方からとりかこんだ。二更ごろになると、東西の両方面に火の光があかあかと輝きだした。それは、陣地へひきあげた宋先鋒が、さらに林冲と張清に命じ、兵五千ずつをもって急いで様子を見によこしたものであった。二将は公孫勝と合流して、その兵力は計二万。手分けをして陣をかまえ、喬道清を重囲に陥れたが、この話はそれまでとする。
一方宋江は、その翌日、喬道清が公孫勝らの軍によって百谷嶺に封じこまれたという消息を知ると、ただちに呉学究と城攻めのことを謀り、全軍こぞって陣地をひきはらい、昭徳の城下へ迫るよう命令をくだした。かくて宋江は将領を手分けして昭徳へ迫るや、水も漏らさぬ包囲陣を布いた。だが城内の守将・葉声《しようせい》らは堅く城を守り、宋軍はつづけざまに二日間攻めたてたが、なお討ち破ることができなかった。宋江は城南の陣中で、城を攻め落とすことのできぬのを見て大いに憂慮した。敵の手におちいった李逵らの生命がどうなったかもわからず、思わずはらはらと涙をこぼした。と軍師の呉用がなぐさめて、
「兄貴、くよくよすることはありません。紙を何枚か使うだけで、あの城はたやすく手にいれることができます」
という。宋江はあわただしくたずねた。
「軍師、それはいったいどういう策なのです」
そのとき呉用はあわてずさわがず、二本の指を重ねながらある計略を説き出した。その結果、兵は刃《やいば》に血ぬらずして孤城破れ、将士は戈《ほこ》を投じて百姓《ひやくせい》安し、という次第になるのであるが、いったい呉学究はいかなることを説き出したのであろうか。それは次回で。
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一 名匠 原文は大匠。木工の始祖とされている春秋時代の魯の名匠・魯班のこと。魯班はまた魯般と書く。『戦国策』『呂氏春秋』『墨子』などに見える雲梯の製作者・公輸般と同一人物であるともいい、あるいは別人ともいう。
二 互いに生じあい互いに克ちあいつつ 易の五行の原理。第八十八回注一六参照。
三 払子 原文は麈尾《しゆび》。麈は大鹿。大鹿の尾はよく塵《ちり》をはらうといい、また、群鹿が大鹿の尾の動きに従って行動するということから、その尾で払子をつくったという。
四 化して大鵬となった。その翼は垂天の雲のよう 第八十四回注七に引用した『荘子』開巻第一章の句参照。
五 神農が百谷を嘗めた 神農は太古の聖王で、はじめて民に農耕のことを教え、また百草を嘗めて医薬の方を創《はじ》めたという。
第九十七回
陳〓《ちんかん》 諫官《かんかん》にして安撫《あんぶ》に陞《のぼ》り
瓊英《けいえい》 処女《しよじよ》にして先鋒《せんぼう》と做《な》る
さてそのとき呉用は宋江にこういった。
「城内の兵力は手薄です。さきごろまでは喬道清の妖術をたのみにしておりましたが、いまや喬道清は敗れ、援軍もこないと知って、おそれおののいていることは、まちがいありません。わたしが今朝、雲梯《うんてい》にのぼって眺めてみましたところ、守城の兵士たちはみなびくびくとしている様子でした。そこでこの際、彼らのそのおそれに乗じて、改心の路を示してやり、利害得失を明らかにしてやりますならば、彼らは必ず城内から、将を縛って降伏してくるでしょう。そうすれば兵士たちの刃を血ぬらすこともなく、やすやすとあの城を手にいれることができるというものです」
宋江は大いによろこんで、
「それはすばらしい計略です」
といい、ただちに協議のうえ、説諭の檄文《げきぶん》を数十枚つくった。その文は、
大宋征北先鋒・宋、昭徳州の守城の将士軍民人等に示諭して知悉《ちしつ》せしむ。田虎の叛逆するは、法、必誅に在るも、其の余の脅従《きようじゆう》するものは、情、原《ゆる》す可き有り。守城の将士、能く邪を返《かえ》して正に帰し、過を改めて自ら新《あらた》にし、門を開きて降納《こうのう》せば、定めて朝廷に保奏し、罪を赦《ゆる》して録用するを行《おこな》わん。如《も》し将士怙《たの》みて(自負して)終に悛《あらた》めずんば、爾等《なんじら》軍民、倶《とも》に宋朝の赤子《せきし》(臣民)に係《かか》れば、速《すみや》かに当《まさ》に大義を興挙し、将士を擒縛《きんばく》して天朝に帰順すべし。首為《た》る的《もの》には定めて重賞を行ない、奏請して優叙《ゆうじよ》せん。如《も》し迷を執って逡巡せば、城破るるの日、玉石倶に焚《や》いて孑遺《けつい》(残り)有る靡《なか》らん。特に諭す。
宋江は兵士にその諭《さと》し文を矢に結びつけて四方から城内へ射ちこませた。そして各城門に、攻撃の手をゆるめて城内の動静を見るよう命じた。翌日の夜明けごろ、とつぜん城内に天をふるわせて喊声がおこり、四方の城門に降伏の旗があがった。守城の偏将《へんしよう》の金鼎《きんてい》と黄鉞《こうえつ》が、軍民をつどえ、副将の葉声《しようせい》・牛庚《ぎゆうこう》・冷寧《れいねい》を殺してその三つの首級を竿のさきにかかげて宋軍に示し、牢から李逵・魯智深・武松・劉唐・鮑旭・項充・李袞・唐斌らを出していずれも轎に乗せ、城門をあけ放って城外へ送り出してきた。軍民は香花灯燭をつらねて宋軍の入城を迎えた。宋先鋒は大いによろこび、各城門の将領に命を伝え、兵をひきいて相ついで入城させた。かくて兵は刃に血ぬることなく、住民は秋毫の危害を受けることもなく、歓呼の声は雷鳴のようにとどろきわたった。
宋江が元帥府にはいって座につくと、魯智深ら八人はその前に進んで挨拶をし、
「兄貴、とてもお目にかかることなどできぬところでしたのに、兄貴のおかげでこうしてまた顔をそろえることができて、まるで夢を見ているような心地です」
といった。宋江ら一同は相ともに感涙にむせんだ。ついで金鼎と黄鉞が、翁奎・蔡沢・楊春らをひきしたがえ、進み出て平伏した。宋江は急いで答礼をし、扶けおこしていった。
「将軍らが大義を興《おこ》し、住民の生命を全うされたことは、このうえもないお手柄です」
黄鉞らは、
「わたくしどもがもっと早く帰順いたしませんでしたことは、のがるべくもない大罪でございますのに、かえって手厚いおもてなしをこうむりまして、まことに、心に銘じ骨に刻み、死を誓ってご恩に報いる覚悟でございます」
といった。黄鉞らはさらに、魯智深や李逵たちが賊を罵って屈しなかったことの次第を、くわしく語った。宋江は感涙を流しながら賞讃した。李逵は、
「聞けばあの糞道士めは百谷嶺にいるとのことだが、おいらが出かけて行って、あの糞やろうを斧でめった斬りにして、うさ晴らしをしてくれよう」
という。宋江は、
「喬道清は一清兄弟(公孫勝)が百谷嶺に封じこめて、降伏させようとしているのだ。羅真人さまからそうするようにとの法旨を受けているのだから、早まったことをしてはならぬ」
とさえぎった。魯智深も李逵にむかって、
「兄貴の命令だ、きかないわけにはいかんぞ」
という。
李逵はようやく思いとどまった。
そのときさっそく宋先鋒は告示を出して住民を宣撫し、また全軍の兵および将領の労をねぎらい、公孫勝・金鼎・黄鉞らの功績を記録した。かくて軍務を処理していると、とつぜん知らせがあって、
「神行太保の戴宗が晋寧からもどってきました」
とのこと。戴宗が元帥府へ挨拶に行くと、宋先鋒はせきこんで晋寧の様子をたずねた。戴宗のいうには、
「わたしが兄貴のご命令で晋寧に着きましたとき、盧先鋒はちょうど城を攻めているおりで、こういうのです。
『いまに城を攻め落とすから、そうしたら兄貴のところへ勝報をとどけてもらうとしよう』
そういうわけでひきとめられて、そのまま三四日逗留しましたものの、晋寧は急には討ち破れませんでした。今月の六日のことです、その夜は霧が深くて一寸さきも見えません、盧先鋒は兵士に命じて、ひそかに土を嚢《ふくろ》につめて城壁の下に積みあげさせ、三更ごろ、城の東北のほうの守備の手薄なのに乗じ、わが軍はひそかに土嚢をつたって城壁によじのぼり、守城の将士十三名を斬り殺しましたところ、田彪は北門から飛び出して死にものぐるいで逃げて行きましたが、その他の牙将《がしよう》たちはみな降伏し、捕獲した戦馬は五千余頭、投降した兵士は二万あまり、斬り殺したものは甚大な数にのぼりました。こうして盧先鋒が晋寧を占領し、夜が明けて霧も晴れ、住民の宣撫や軍務の処理をしておりますと、とつぜん知らせがあって、
『威勝の田虎につかわされた殿帥の孫安が、将領十名と兵二万をひきつれて救援にき、城外十里のところに陣地をかまえました』
とのこと。盧先鋒はただちに秦明・楊志・欧鵬・〓飛らに命じ、兵をひきつれて城外に敵を迎え討たせるとともに、みずからも兵をひきいてその援護に出ました。そのとき秦明は孫安と五六十合もわたりあいましたが、なかなか勝負が決しません、そこへ盧先鋒の軍が到着したのですが、盧先鋒は孫安の勇猛ぶりを見ると、金鼓を鳴らして兵をひきあげさせました。孫安のほうもただちに兵を収め、互いに陣地をかまえることになりました。盧先鋒は陣地にもどると、
『孫安は勇猛なやつゆえ、智をもって制すべきで、力をもって立ちむかうべきではない』
といい、翌日、兵を分けて伏兵を布かせたうえ、盧先鋒みずから陣頭に出で、孫安と五十合あまりもわたりあったところ、孫安の馬が不意につまずいて孫安を振り落としました。盧先鋒は大声で、
『その方が負けたというわけではない。早く馬をとりかえて出なおしてこい』
と叫びました。孫安は馬をかえてきて、また盧先鋒とわたりあい、五十合あまりにおよんだとき盧先鋒は負けたふりをして逃げ、孫安を林のところまで追ってこさせました。と一発の砲声がとどろき、両側の伏兵がいっせいに飛び出したのです。孫安は身をかまえるいとまもありません。両側から絆馬索《はんばさく》(馬の脚をからめる縄)が投げかけられて孫安はからめ倒されてしまいました。そこへ兵士たちがどっと駆け寄って、馬もろともいけどりにしました。北軍の陣からは秦英《しんえい》・陸清《りくせい》・姚約《ようやく》の三将がいっせいに孫安を奪い返しに出てきました。こちらからは楊志・欧鵬・〓飛が、どっと出て行ってこれを迎えとり、六騎はそれぞれ対《つい》になってわたりあいましたが、次第に激しく斬り結ぶうちに、とつぜん楊志が大喝一声、槍を飛ばして秦英を突き刺し、馬から落としてしまいました。陸清と欧鵬も激しくわたりあっておりましたが、欧鵬がわざと隙を見せると、陸清はそれにつられて斬りこんできました、と欧鵬がひらりと体をかわしたため、陸清は空を斬り、刀を引きもどすいとまもなく欧鵬に槍で背中を刺されてしまいました。姚約は、ふたりが落馬したのを見ると馬首を転じて自陣へと逃げだしましたが、〓飛は追って行って鉄鏈《てつれん》(鉄のくさり)を姚約の頭上にくらわせ、〓《かぶと》もろとも打ちくだいてしまいました。盧先鋒はすかさず兵を駆りたてておそいかかりました。北軍は大敗して、四五千人を討ちとられ、十里ばかり敗走してようやく陣をかまえました。わが軍は大勝して入城しました、兵士たちが孫安を縛ってひき出してきますと、盧先鋒はみずからその縄を解いて、手厚くもてなし、天朝に帰順するよう孫安にすすめましたところ、孫安は盧先鋒のそのような意気に感じて、心から帰順を願い出ました。そして孫安は盧先鋒にこういい出したのです。
『城外にはなお七人の将領と一万五千の兵がおりますが、どうかわたくしを城外へ出してくださいますよう、彼らを説きつけて投降させますから』
盧先鋒はあっさりと、疑うこともなく孫安を城から出してやりました。孫安はただひとりで北軍の陣へ行き、七将に説いて降伏させたうえ、いっしょに盧先鋒のもとへ挨拶にきました。盧先鋒はたいへんよろこんで、酒を出して歓待しましたが、そのとき孫安がいいますには、
『わたくしは喬道清といっしょに兵をひきつれて威勝を出ました。喬道清は壺関のほうへ救援に行きましたが、あの男はもともと妖術を心得ておりますから、おそらく宋先鋒もその手にかかっておられましょう。喬道清とわたくしとは同郷のあいだがらですから、将軍のご厚恩にたいするお礼のしるしまでに、わたくし、壺関へ行って様子をさぐり、喬道清に帰順をすすめたいと存じますが』
盧先鋒はその申し出をゆるされ、わたしに、孫安をつれて勝報をとどけに行くよう命じられたのでございます。同時に盧先鋒は宣賛・〓思文・呂方・郭盛らに兵二万をしたがえて晋寧を守るよう命じて、みずからはその他の将領と兵二万をひきいて汾陽へ攻めて行かれました。わたくしは昨日晋寧をたち、孫安にも神行法の術をかけてきたのですが、きょう途中で、兄貴がすでに昭徳をとりかこんで、喬道清は追いつめられているとのことを耳にしました。やがて城外まできて、こんどは兄貴が大軍をひきいて入城なさったということを知りまして、こうしておうかがいした次第です。孫安はいま元帥府の門外に待たせてございます」
宋江は大いによろこんで、戴宗に、孫安をつれてくるようにといった。戴宗は命を受けると、孫安を元帥府につれてきて宋江に目通りさせた。宋江は、孫安が堂々たる風貌をしていて、ただものではないことを見てとると、〓《きざはし》をおりて迎えた。孫安は頭をさしのべて平伏をし、
「わたくし、大軍に手むかいをいたしまして、まことにおおそれた大罪を犯しました」
といった。宋江はあわてて礼を返し、
「将軍が邪を去って正に帰し、わたしとともに田虎を討ちほろぼされますならば、凱旋のみぎりには朝廷に奏上して必ずおとりたてにあずかれるようにいたしましょう」
孫安は拝謝し、立ったままかしこまっている。宋先鋒は座をすすめ、酒を出してもてなした。孫安は、
「喬道清の妖術はなかなか手強《てごわ》いものですが、公孫先生がそれを討ち破られましたとは、まことになによりでございました」
といった。
「公孫一清は彼を降伏させて正しい法をさずけようと、もう三四日もとりかこんでいるのですが、いまだに降伏しそうにもないのです」
宋江がそういうと、孫安は、
「あの男はわたくしとは親しいあいだがらですから、投降するように説いてみましょう」
という。そこで宋先鋒はさっそく、戴宗を、孫安とともに北門から公孫勝の陣地へ行かせた。
挨拶をおわると、戴宗と孫安は公孫勝にくわしく来意を話した。すると一清は大いによろこんで、さっそく孫安に、山へはいって喬道清をたずねさせることにした。孫安は命を受けると、ひとりで山をのぼって行った。
さて一方喬道清は、費珍・薛燦、および十五六名の兵士たちとともに神農廟に身をひそめ、廟守りの道人に籾米《もみごめ》を出させて飢えをしのいでいた。この廟には道人が三人いるだけだったが、幾月ものあいだ托鉢して貯《た》めた飯米を、喬道清たちにすっかり食いつくされてしまったものの、相手が大勢なので、仕方なく泣き寝入りしていたのである。喬道清はその日、城内からどよめきが聞こえてきたので、廟を出て崖の上にのぼり、眺めてみた。と城外の軍はすでに囲みを解いており、城門のなかを兵士たちのゆききしているのが見え、宋軍の入城したことが知れた。うち嘆いていると、不意に崖のほとりの森のなかからひとりの樵夫《きこり》が出てきた。腰に斧をさし、担《にな》い棒を杖にして一歩一歩踏みしめながら崖をのぼってくる。口ずさんでいる歌の文句は、
山をのぼるは舟〓《ひ》くよう
下りるときには川くだり
舟を〓くのはつらいけど
川をくだるはらくなもの
のぼる苦労もなんのその
おりる楽しみあればこそ(注一)
喬道清はこの六句の樵歌《きこりうた》を聞いて、内心はっと感ずるところがあった。そして、たずねてみた。
「おい、おまえ城内の消息を知らぬか」
すると樵夫の老人は、
「金鼎と黄鉞が副将の葉声を殺し、城をあけわたして宋朝に帰順したので、宋江の軍は血も流さずに昭徳を手にいれてしまいましたよ」
という。
「やっぱり、そうだったのか」
と喬道清はうなずいた。樵夫は、いいおわると、崖を迂回して坂のむこうへ行ってしまった。とまた喬道清は、馬に乗ったひとりのものが、路をたどりつつ山をのぼってきて、だんだん廟のほうに近づいてくるのに気づいた。喬道清は崖をおりて見て、あっとおどろいた。それは殿帥の孫安だったのである。
「どうして彼がこんなところへやってきたのだろう」
孫安は馬をおり、歩み寄って礼をした。喬道清はせきこんでたずねた。
「殿帥、あなたは兵をひきつれて晋寧へ行ったはずだが、どうしてまた、たったひとりでこんなところへやってきたのだ。山麓には大勢の敵軍がいるのに、よくもおしとめられなかったものだな」
「ぜひとも、あなたに話したいことがあって」
と孫安はいった。喬道清は孫安が国師といわずにあなたと呼んだので、これはおかしいぞと疑いだした。孫安は、
「ともかく廟へ行って、くわしくお話しいたしましょう」
という。ふたりは廟のなかへはいった。費珍と薛燦も出てきて挨拶をした。孫安はそこで、晋寧で捕らえられて投降した次第をくわしく話した。喬道清はただ黙然としている。孫安はつづけた。
「あれこれとお疑いなさいませぬよう。宋先鋒らは義にあつい人たちですから、われわれはその麾下に投じて天朝に帰順すれば、ゆくゆくは身のためになります。わたしがここへやってきたのは、特にあなたのためを思ってです。あなたは以前、羅真人さまをお訪ねになったことがありましょう?」
「どうしてそれをご存じで」
と喬道清はあわててたずねた。
「羅真人さまはあなたにお会いなさらずに、童子にこういわせられたでしょう。いずれ徳に遇って魔降《くだ》るであろうと。そうだったでしょう」
「そうだ、そのとおりだ」
と喬道清はあわてて答えた。
「あなたの法術を破ったあの人は、誰だかご存じですか」
「あれはわしの仇敵だ。宋軍のものとはわかっているが、どういうものかはまるきり知らぬ」
「あの人がつまり羅真人さまのお弟子で、公孫勝といい、宋先鋒の副軍師なのです。いまの法語もあの人がわたしに話してくれたのです。この城の名は昭徳で、ここであなたの法術が破れたということは、徳に遇って魔降るということと符合するではありませんか。公孫勝は真人さまの仰せにしたがってあなたを善導(注二)し、ともに正道にたち帰ろうと努めているのです、それゆえ兵をもってとりかこんでいるだけで、山のなかへまでは捕らえにこないのです。彼は法術ではあなたにうち勝っているのですから、もしあなたを討ちとろうとするなら、それはわけのないことです。つまらぬ意地を張られませぬよう」
喬道清はそういわれて翻然とさとり、ただちに孫安とともに費珍・薛燦をしたがえて山をおり、公孫勝の軍前へ行った。孫安がさきに陣営へはいって知らせると、公孫勝は陣地の外まで出迎えた。喬道清は陣地へはいると平伏して罪を詫びた。
「法師(注三)さまのご仁愛のほど、かたじけのう存じます。わたくしひとりのために、大軍にご迷惑をおかけいたしまして、おおそれた大罪を犯してしまいました」
公孫勝は大いによろこび、急いで答礼をし、賓客の礼をもってもてなした。喬道清は公孫勝のそのような気風を見て、いった。
「わたくしは眼がありながら人を見わけることができずにおりました。いま、法師さまのおそばに侍ることができまして、まことにしあわせに存じます」
公孫勝は命令をくだして包囲を解かせた。樊瑞ら諸将は、それぞれ四方の陣地をひきはらった。公孫勝は、喬道清・費珍・薛燦らをつれて入城し、宋先鋒に目通りさせた。宋江は礼をもって彼らをもてなし、やさしく慰めの言葉をかけた。喬道清は宋江が謙譲で温和なのを見て、ますます敬服の念を深めた。やがて、樊瑞・単廷珪・魏定国・林冲・張清らが、みなもどってきた。宋江は命令をくだし、兵士たちをことごとく城内へ入れて宿営させた。かくて宋江は慶賀の酒宴を設けたが、その席上、公孫勝が喬道清にむかっていうには、
「あなたのあの法術は、上は諸仏菩薩《しよぶつぼさつ》が幾世ものあいだ修行したすえ悟り得た(注四)虚空三昧《こくうさんまい》(広大な不動心)・自在神通《じざいじんつう》の境地にはおよぶべくもありませんし、中《なか》は蓬莱《ほうらい》三十六洞の真仙《しんせん》たちが幾十年にもわたって苦難を積み、髄《ずい》を換《か》え筋《きん》を移してようやく得た超形度世《ちようけいどせい》(形骸にとらわれることなく世をわたること)・遊戯造化《ゆうぎぞうか》(自然の摂理のまま遊ぶこと)の境地にもくらぶべくはありません。あなたはただ呪文にたよって一時をごまかし、天地の精をぬすんで鬼神の働きを借りるだけのことで、仏家のいう金剛禅邪法《こんごうぜんじやほう》であり、仙家のいう幻術《げんじゆつ》です。もしもあの法術で俗を超《こ》え聖に入るとでもお考えならば、それこそ、とんでもない誤り(注五)です」
喬道清はそれを聞いて、はじめて夢からさめたような思いがした。そしてすぐその場で、公孫勝を師と仰いだ。宋江らも公孫勝の明快で玄妙な説得を聞いて、一同その神のような功《わぎ》と高い徳をほめたたえた。やがて宴も果てた。その夜は格別の話もない。
翌日、宋江は蕭譲に奏文を書かせて、晋寧・昭徳の二府を得た旨を朝廷に上奏することにし、別に書状をしたためさせて、宿太尉に勝利を報告するとともに、衛州・晋寧・昭徳・蓋州・陵川・高平の六つの府・州・県の役人の欠員について、しかるべき人材をえらんで裁可を仰ぎ、すみやかに任命されるよう、それにかわって将領たちが討征に出られるようにしていただきたいと太尉に請うことにした。蕭譲がさっそく書きととのえると、宋江はそれを戴宗に託してその日のうちに出発させることにした。
戴宗は命令を受けると、旅の荷物や包みをこしらえ、上奏文と書状をたずさえ、身軽な兵士をひとり選んで供にし、宋先鋒に別れを告げた。そして神行法を使って、翌日にはもう東京《とうけい》に着いた。
まず宿太尉の屋敷へ書状をとどけに行くと、おりよく太尉は在宅だった。戴宗は門前で虞候《ぐこう》(用人)の楊というものをつかまえてまず心づけの銀子をわたしてから、書状を太尉にとりついでくれるようにとたのんだ。楊虞候は書状を受けとって奥へはいって行ったが、しばらくすると出てきて、
「お通しするようにとの仰せです」
と呼んだ。戴宗が虞候について奥へ通ると、太尉はちょうど表の間で書状を読んでいるところ。戴宗が進み出て挨拶をすると、太尉はいった。
「いま、ちょうどさしせまったときで、まったくよいところへきてくれた。一昨日、蔡京・童貫・高〓らが、天子の御前で、その方らの兄貴の宋先鋒がいくさに敗れて将を討たれ、軍をうしない国を辱しめたと弾劾《だんがい》の上奏をし、さんざん誹謗《ひぼう》して、罪を加えられますようにと要請したのだ。天子がためらっておられるところへ、右正言《ゆうせいげん》(注六)の陳〓《ちんかん》が上書して、蔡京・童貫・高〓らは忠良なるものを誣《し》い、善良なるものを退《しりぞ》けようとするのであると弾劾し、その方らの軍はすでに壺関の要害を越えていると述べて、蔡京らの欺妄《ぎもう》の罪を糾問されますようにと請うた。そのため蔡太師は逆に、彼の落度をさがし出して、昨日、天子にこう奏上したのだ。陳〓は尊堯録《そんぎようろく》という青を著わし、神宗《しんそう》皇帝(徽宗の父)を尊んで堯になぞらえておりますが、このことは暗に陛下をそしっている(注七)のでございます、どうか陳〓のこの上《かみ》をそしる罪を糾問されますように、というのだ。さいわいに天子はただちに罪を加えるようなことはなさらなかった。きょうその方が勝利の知らせをもたらしてきたことは、陳〓の面目をたてることになるばかりではなく、このわたしにとっても多くのなやみを一掃するものだ。あすの朝、その方らの勝利の上奏文を天子におとどけしよう」
戴宗は再拝してお礼を述べた。そして屋敷を辞して宿をとり、身体を休めながらお沙汰を待つことにしたが、この話はそれまでとする。
さて宿太尉は翌日の早朝、参内《さんだい》した。道君皇帝は文徳殿で文武の百官を朝見《ちようけん》された。宿太尉は拝舞の礼をささげ聖寿の万歳をとなえてのち、宋江からの戦勝の上奏文のことを奏聞におよび、
「田虎の討伐におもむきました宋江らは、あわせて六つの府・州・県を奪還いたしまして、このたび上聞に達すべく使いのものに戦勝の上奏文をもたらせてまいりました」
と述べた。天子は竜顔をほころばされた。宿元景はかさねて奏聞した。
「正言《せいげん》の陳〓《ちんかん》は尊堯録なる書を著わしまして先帝・神宗皇帝を堯になぞらえ、陛下を舜になぞらえているのでございます。堯を尊ぶことがどうして罪にあたりましょう。陳〓は剛直不屈の人物でございまして、大事に際しては直言をはばからず、大胆で策略にも富んでおりますゆえ、願わくは陳〓に官爵を加封され、勅命をもって河北につかわし、軍を監督せしめられますならば、必ずや大功をたてるでございましょう」
天子はそれを裁可して、ただちに聖旨をくだされた。
「陳〓を現官のままで枢密院同知《どうち》の官に陞《のぼ》らせ、さらに安撫《あんぶ》に任じて御営《ぎよえい》の兵二万をあたえ、宋江の軍前へつかわして、いくさを監督させるとともに、賞賜の銀両を託して宋江の軍の将兵の労をねぎらわせるように」
かくて朝見の儀はおわった。宿太尉は私邸にひきとると、戴宗を呼んで返書を手わたした。戴宗は聖旨がくだされたことを知り、宿太尉に別れて東京をたち、神行法を使って翌日にははやくも昭徳の城内に着いた。東京への往復はわずか四日かかっただけである。
宋江は兵を点検し、軍を進める相談をしていたところだったが、戴宗がもどってきたのを見ると、急いで奏聞の様子をたずねた。戴宗は宿太尉の返書をさし出した。宋江は開いて見て、その内容をくわしく頭領たちに話した。一同はみな、
「陳安撫の度胸はまったくすばらしいものだ。われわれのほうでも力の出し甲斐があるというものだ」
といいあった。宋江は命令をくだして、勅旨を受けてから軍を進めることにした。諸将は命令にしたがって城内に駐屯したが、この話はそれまでとする。
さて話はかわって、昭徳城の北の〓城県《ろじようけん》というのは昭徳府の属県であったが、そこの守将の池方《ちほう》というものが、喬道清が包囲されているのを知って、威勝の田虎のもとへ急を告げる使いを走らせた。
田虎の配下の偽《にせ》の省院官が、その〓城の池方からの急を告げる上告文を受けとって田虎に伝えようとしているところへ、不意にまた知らせがあって、
「晋寧はすでに陥落し、御弟三大王の田彪さまが危く命びろいをしてのがれてこられました」
とのこと。その言葉のまだおわらぬうちに、当の田彪がやってきた。田彪は省院官とともに参内して田虎に見《まみ》えた。田彪は声を放って泣いた。
「宋軍の勢いはすさまじく、晋寧の城は討ち破られてしまいました。息子の田実も討ちとられ、わたくしは命からがらのがれてまいりました。地をうしない軍をうしないまして、その罪は万死にあたるものでございます」
そういって、また泣いた。かたわらから省院官がさらに奏上した。
「さきほど受け取りました〓城の守将の池方からの上告文によりますと、喬国師は宋軍の重囲に陥り、昭徳は落城の寸前にあるとのことでございます」
田虎はそれを聞くと大いにおどろき、右丞相の太師・卞祥《べんしよう》、枢密官の范権《はんけん》、統軍大将の馬霊《ばれい》ら文武の諸官を会合してさっそく協議をした。
「このほど宋江が辺境に侵入して、わが大郡ふたつを占領し、多数の将兵を殺し、喬道清もいまや彼らの重囲に陥っているとのことだが、その方たちなにか対策はないか」
するとそこにいた国舅《こくきゆう》の〓梨《うり》が奏上した。
「主上、ご憂慮にはおよびません。わたくし、国恩をお受けしております身とて、一軍をひきい、日を限って出陣して昭徳へおし寄せて行き、必ず宋江ら一味をとりおさえて奪われた城をとりかえしたく存じます」
この〓梨国舅なる男は、もともと威勝の富豪であった。〓梨は槍棒を使って奥義をきわめ、両腕は千斤をあげる力を持ち、硬弓をひきこなし、重さ五十斤の大〓風刀《だいはつぷうとう》を得物としていた。田虎は、彼の妹がなかなかの器量よしなのを知って、妻に娶《めと》り、そして〓梨を枢密に封じて国舅の称号をあたえたのであった。
〓梨国舅はそのとき、かさねて奏上した。
「わたくしの娘の瓊英《けいえい》は、このあいだ夢で神人に武芸を伝授され、眼をさましてみますと衆にすぐれた体力をそなえておりまして、武芸に精熟しているばかりではなく、不思議な技能を身につけ、石を飛ばして鳥をねらえば百発百中、そのためこのごろは人々から瓊矢鏃《けいしぞく》と呼ばれております。その娘をわたくし、先鋒に推したいと存じます。必ず功をたてるでございましょう」
田虎はただちに勅旨をくだして、瓊英を郡主《ぐんしゆ》(王の娘にあたえられる称)に封じた。〓梨が礼を述べおわると、こんどは統軍大将の馬霊が奏上した。
「わたくし、一軍をひきいて汾陽へまいり、敵を撃退いたしたく存じます」
田虎は大いによろこび、ふたりに金印(注八)と虎牌(注九)をさずけ、明珠や珍宝をあたえた。
〓梨と馬霊は、それぞれ三万の兵をそろえて、ただちに出陣することになった。
馬霊が偏牙《へんが》の将領(偏将・牙将)および軍勢をひきつれて汾陽へと進んで行ったことはさておき、片や〓梨国舅は、勅旨と兵符を受領するや教場(練兵場)へ行って兵三万を選び、刀・槍・弓矢などの武器一式をとりそろえたのち私邸に帰り、女将軍瓊英を麾下にしたがえて前軍の先鋒となし、参内して田虎に別れを告げ、用意をととのえて出陣した。かくて瓊英は父の命によって、軍勢をひきいてまっしぐらに昭徳へとむかったが、この女将軍の出陣によって、ついには、貞烈の女《むすめ》、不共戴天《ふきようたいてん》の仇を復《むく》い、英雄の将、琴瑟伉麗《きんしつこうれい》の好を成す、ということに相なる次第。さて女将軍はいったいいかにしてたたかいを挑むか。それは次回で。
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一 山をのぼるは…… この歌は意訳した。原文を読みくだせば、
山に上るは舟を挽《ひ》くが如く
山を下るは流れに順《したが》うが如し
舟を挽くは常に自ら戒《いまし》め
流れに順うは常に自ら〓《よ》る
我は今山に上る者
預《かね》て山を下る謀を為《な》す
二 善導 原文は点化。道教の語。
三 法師 法術をよくする道士の称。
四 悟り得た 原文は証入。仏家の語。修行を積んで妙道に入ること。
五 とんでもない誤り 原文は毫釐千里《ごうりせんり》之繆《あやまり》。はじめの一厘のちがいが後には千里の誤りになるの意。
六 右正言 正言は諫官。唐代には拾遺といい、左拾遺は門下省に、右拾遺は中書省に属した。宋代にこれを改称して正言といった。
七 暗に陛下をそしっている 堯はその子の丹朱が不肖であったため、帝位を舜にゆずった。いま陳〓は、神宗を堯になぞらえることによって、神宗の子である徽宗が丹朱と同じく不肖の子であるとの意を寓しているというのである。
八 金印 黄金の印。貴人・宰相などの帯びるもので、ふつう金印紫綬と熟す。
九 虎牌 第八十六回注八参照。
第九十八回
張清《ちようせい》 縁《えにし》もて瓊英《けいえい》を配《めと》り
呉用 計《はかりごと》もて〓梨《うり》を鴆《ころ》す
さて〓梨国舅は、郡主の瓊英を先鋒に立て、みずからは大軍をひきつれてその後につづいた。
この瓊英なる女は、年は十六。その容貌、花のごとき乙女で、もともと〓梨の実の子ではなかった。その一族の姓は仇《きゆう》、父の名は申《しん》といい、代々汾陽府は介休県《かいきゆうけん》の、綿上《めんじよう》というところに住んでいた。この綿上というのは、すなわち春秋《しゆんじゆう》の世に、晋《しん》の文公《ぶんこう》が介子推《かいしすい》をさがしたが(注一)見つからず、ついに綿上をその領地としてあたえるにいたったという、あの綿上である。仇申という人はかなりの資産があったが、五十をすぎても後《あと》つぎの子がなかった。しかも妻を亡くしてしまったので、つづいて平遥県《へいようけん》の宋有烈《そうゆうれつ》の娘を後添いに迎えたところ、瓊英が生まれた。瓊英が十歳になったとき、宋有烈が死んだので、宋氏はただちに夫の仇申とともに父の喪に駆けつけることになった。ところが平遥は介休の隣県ながら七十里あまりも離れているので、宋氏は路の遠いのを案じ、あわただしく瓊英を家にのこして番頭の葉清《しようせい》夫婦に世話をたのみ、夫といっしょに出かけて行ったが、その途中、盗賊の一群があらわれて仇申を殺し、下男たちを追いちらし、宋氏をさらって行ったのである。下男は逃げ帰ってこのことを葉清に知らせた。葉清は一介の番頭にすぎなかったけれども、なかなか義気があって、槍や棒も振りまわすことができたし、その妻の安《あん》氏もなかなかつつしみ深い女だった。そのとき葉清はすぐ仇氏の親戚の人たちに知らせ、役所へ訴えて盗賊の逮捕を願い出たり、また主人のなきがらを葬ったりした。
仇氏の親戚の人たちは相談のうえ、一族のうちのひとりを立てて家業をつがせた。葉清とその妻・安氏のふたりは、幼い主人の瓊英の世話をした。
一年あまりたって、田虎が反乱をおこして威勝を占領し、〓梨に一軍をしたがえて掠奪をおこなわせたが、やがて介休の綿上まできて、資財をかすめ男女をさらった。そのとき仇氏の嗣子(親族が立てた)は乱兵に殺され、葉清夫婦は瓊英といっしょにさらわれて行ったのである。かの〓梨もやはり子どもがなかったので、瓊英の眉目秀麗なのに眼をとめて、つれて行って妻の倪《げい》氏に見せた。倪氏は子どもを生んだことのない女だったが、瓊英をひとめ見るなりすっかり気にいって、まるで生みの子のように可愛がった。瓊英は小さいときから聡明で、よく思慮にたけていたから、このぶんでは逃げだすことはできないとあきらめ、また親しいものがひとりもいないので、倪氏が可愛がってくれるのを見て倪氏にたのみこみ、〓梨に葉清の妻の安氏をつれてきてもらった。こうして、安氏はいつも瓊英といっしょにおられるようになった。葉清はといえば、捕らえられた当座は、なんとか逃げだそうとしたが、考えてみれば、瓊英はまだ幼く、主人夫婦にとって血を分けたものといってはこの人だけしかないのに、もし自分が逃げてしまえば生死のほどもおぼつかなくなる。さいわい妻がその側についているから、もし機会があって、みんなでこの災難をのがれることができたならば、地下の主人も安心して瞑目されるだろう、と、仕方なく〓梨にしたがっていたのである。やがて、いくさに出て手柄をたてた。そのため〓梨は安氏を葉清にかえしたので、それ以来安氏は元帥府に出入りして、瓊英に消息を伝えることができるようになった。〓梨はまた、田虎に奏請して葉清を総官《そうかん》(軍の長官)に封じた。
その後、葉清は〓梨の命令で石室山《せきしつざん》へ石材を採りに行ったが、そのとき部下の兵士が岡の麓を指さして、
「あそこに綺麗な石があるのです。霜や雪にまがうほど真っ白で、小さな疵《きず》ひとつありません。土地のものがその石を採ろうとしましたところ、雷鳴がとどろいて、石を採りに行ったものたちはびっくりして気をうしない、しばらくしてからやっと息をふき返したそうです。それで誰もみな指を噛んでかたく戒めあい、その石には近づかないようにしております」
といった。葉清はそれを聞くと兵士たちといっしょに麓へおりて行って眺めた。と、兵士たちはわっとどよめきたって、口々に叫んだ。
「これは奇怪《きつかい》な、さっきまでは白い石だったのに、これはいったいどうしたというんだ、女の死骸に変わってしまったぞ」
葉清が歩み寄って仔細に見ると、なんとも奇怪なことには、それは主人の奥さんの宋氏の死骸で、顔はなお生きているようであったが、頭が割れていて、どうやら岡から落ちて死んだもののようであった。葉清がおどろきあやしみつつ、むせび泣いて、途方にくれていると、部下の兵卒のひとりで、かつて田虎のもとで馬丁をしていたものが、当時宋氏が捕らえられてきて死ぬまでの顛末をくわしく語った。
「以前、大王がはじめて兵を挙げなさったとき、介休でこの女(宋氏)をひっ捕らえて圧寨夫人《あつさいふじん》(盗賊の首魁の妻をいう)にしようとなさったところ、この女は大王をだまして縄を解かせ、ここまでやってきたとき、岡の上からわれとわが身を投げ落として死んだのです。大王は女が落ちて死んでしまったのを見て、わたしに、岡をおりて行って女のきものと髪飾りを剥ぎとってこいといわれました。あの女を馬に乗せてあげたのもわたしですし、きものを剥ぎとったのもこのわたしですから、顔はよく覚えております。確かにあの女にまちがいありません。それにしても、もう三年あまりもたっていますのに、死骸がどうしてちゃんともとのままなのでしょう」
葉清はそれを聞くと、とめどなくあふれようとする涙を、ことごとく腹のなかへおしやって、兵士たちにいった。
「わしもはっきり見覚えているが、これは以前わしの隣りに住んでいた宋爺さんとこの娘だ」
葉清は兵士たちに土をかけておおってやるようにいった。そして近寄って見ると、それはもとどおりの白い石だった。一同はすっかりおどろきあやしみ、嘆息しつつ、石採りの仕事をしにもどって行った。仕事がおわって、葉清は威勝に帰り、田虎が仇申を殺し宋氏を捕らえたこと、宋氏が節《みさお》を守って墜死したことの次第を、安氏を通じてひそかに瓊英に知らせた。
瓊英はその消息を知ると、何万本もの矢が心に突き刺さったかのごとく、日も夜も声を呑んですすり泣き、人知れず珠の涙を弾きながら、父母の復讐を思って一時も忘れることはなかった。それからは、夜ごと眼をつぶると神人があらわれて、
「そなたは父母の仇を討とうとしているゆえ、わたしが武芸を教えてあげよう」
という。瓊英は怜悧で器用だったから、眼がさめてもすべて覚えていて、ひそかに棍棒を執り、扉に閂《かんぬさ》をさして部屋のなかで稽古をした。こうして幾日も日をかさねるうちに武芸は大いに上達した。
やがていつしか宣和四年の冬になった。ある夜、瓊英がたまたま机にうつ伏してうたたねをしていると、にわかに一陣の風が吹き過ぎ、妙《たえ》なる香《こう》がにおってきた。と、折角巾《せつかくきん》(一角を折りまげた頭巾)をかぶったひとりの書生が、緑の袍《うわぎ》を着た若い将軍をつれてきて、瓊英に石つぶてを投げる法を教えさせた。その書生はついで瓊英にこういつた。
「わたしはわざわざ高平へ行って、天捷星《てんしようせい》(張清のこと)をおつれしてきたのだ。そなたに異術を教え、そなたが虎穴《こけつ》を脱して親の仇を討つのを助けようと思ってだ。この将軍にも、そなたと宿世《すくせ》の姻縁《えにし》があるのだ」
瓊英は、宿世の姻縁という言葉を聞くと、まつ赤になって羞《は》じらい、あわてて袖で顔をかくそうとしたが、手を動かしたとたん、机の上の鋏《はさみ》をはらい落とし、がちゃんという音がして、はっとおどろいて眼をさますと、寒月と残灯がもとのまま眼に映り、夢のようでもあり、夢ではないようにも思われた。瓊英はそのまま腰をおろして、しばらくのあいだぼんやりと考えこんでいたが、やがてようやく床《とこ》についた。
翌日、瓊英はまだ石つぶてを投げる法を覚えていたので、さっそく塀のあたりから鶏卵ぐらいの大きさのまるい石を拾って、ためしてみようと、寝室の屋根の鬼瓦をめがけて投げつけてみたところ、見事に命中して大きな音とともに鬼瓦はこなごなにくだけ、ばらばらと落ちてきた。おどろいたのは倪氏で、あわてて飛び出してきてわけをたずねた。瓊英は言葉たくみにごまかして、
「昨夜、夢で神人さまが、そなたの父は王侯たるべきものゆえ、特にそなたに異術の武芸をさずけ、父を助けて功をとげさせてやろう、とおっしゃったのです。それでいま石を投げてみましたら、思いがけなく鬼瓦に命中いたしましたの」
といった。倪氏は不思議に思い、さっそくこの話を〓梨につたえた。〓梨はまるで信用せず、すぐ瓊英を呼んで聞きただしたうえ、鎗刀・剣戟・棍棒・叉〓《さは》(さすまたと熊手)などを使わせてみた。と果たしてどれもすばらしい腕を示し、さらに石つぶてを飛ばす手並みにかけては百発百中であった。〓梨は大いにおどろき、
「わしには福運があるのだ。天が異人をくだしてわしを助けてくださろうというのだ」
と考えた。かくて〓梨は、ひねもす瓊英に馬や剣の稽古をつけた。
そのとき〓梨の家中《かちゆう》のものがすぐ、瓊英の手並みをいいふらしたため、威勝の城内のたいへんな評判になって、人々はみな瓊英を瓊矢鏃《けいしぞく》と呼ぶにいたった。このとき〓梨は瓊英のためによい婿《むこ》をとさがしはじめたが、瓊英は倪氏に、
「お婿さんをもらうのでしたら、わたしと同じくらいに石を飛ばせる人でないといやです。そうでない人をもらえとおっしゃるなら、わたしは死んでしまいます」
という。倪氏はそれを〓梨に話した。〓梨は瓊英の注文がむずかしすぎるので、婿えらびのことはそれきりでやめてしまった。
いまや〓梨は王侯の二字を思いつめて心に野望をいだくにいたり、そのため瓊英を推して先鋒とし、両家(宋朝と田虎)のあらそいに乗じて漁夫の利を占めようとはかったのである。
かくして〓梨は兵をすぐり将領をえらんで威勝をうちいで、鋭兵五千を分けあたえて瓊英を先鋒にたて、みずからは大軍をひきいてそのあとにつづいた。
〓梨と瓊英が兵を進めて行った話はさておき、一方宋江らは昭徳で陳安撫を待ち迎えていたが、十日あまりもたってようやく、陳安撫の軍が到着したとの知らせを得た。宋江は諸将をしたがえて遠く郊外まで出迎え、昭徳の役所へみちびいて一行を休ませ、そこを派遣軍の元帥府とした。諸将や頭目たちはみな目通りにきて礼をささげた。陳安撫はかねがね宋江らの忠義のほどを知りながら、これまで宋江らと顔をあわせる機会はなかったが、いま宋江らが謙恭で仁徳あるのを眼《ま》のあたりにして、いよいよ尊敬の念を深めた。そして、
「陛下には、先鋒がしばしば大功をたてられたことを聞こしめし、特にわたくしを観戦におつかわしになりました次第。わたくしは恩賜の金銀・緞疋をおあずかりし、車に積んでそれをお分けしにまいりました」
という。宋江らは拝謝して、
「わたくしども、安撫どののひとかたならぬご推輓のほど心に銘じております。このたび聖恩をかたじけのうすることができましたのも、すべてあなたさまのおかげでございます。わたくしども、上は天子のご恩を受け、下はあなたさまのおん徳にあずかりまして、宋江以下、たとえ肝脳を地に塗《まみ》らせるともお報いすることのできぬ大恩でございます」
「将軍、はやく大功を成しとげて京師に凱旋されますよう。そうすれば天子には必ず重くおとりたてくださいましょう」
宋江は再拝して礼を述べたのち、
「願わくは安撫どのにはこの昭徳をお守りくださいますよう。わたくしは兵を分けて田虎の巣窟をおそい、彼を窮地におしこめてしまおうと存じます」
という。陳安撫は、
「わたしは都をたつ前に陛下に奏上して、このたび先鋒が奪いもどされた州県の、現に欠員になっている役人については、ことごとく、すみやかに補充し日を限って出発させるよう係りのほうへ手配しておきましたゆえ、まもなく到着すると思います」
とつたえた。
宋江は恩賜の品を将兵に分けるとともに、軍令書をしたため、神行太保の戴宗を各府・州・県を守っている頭領たちのもとへつかわして、新任の役人が到着したならばただちに交替し、兵をひきつれて指揮下にもどるようつたえさせることにした。そして、各府州をまわって命令をつたえおわったならば、さらに汾陽へ行って軍情をさぐったうえ、報告にもどるよう命じた。宋江はついで、河北の降将の唐斌《とうひん》らの功績を陳安撫に上申し、また金鼎《きんてい》と黄鉞《こうえつ》を推挙して壺関《こかん》と抱犢《ほうとく》を守らせることにし、それと交替に孫立・朱仝らの将領をもどして指揮下にいれることにした。陳安撫はそれらをみな許諾した。
と、そこへ物見の早馬が報告に駆けつけてきていうには、
「田虎は馬霊に命じ、将兵をひきいて汾陽へ救援にさしむけ、また〓梨国舅と瓊英郡主にも、将領をひきつれて東方からすでに襄垣《じようえん》までおし寄せてこさせました」
宋江はそれを聞くと、呉用に、敵を迎え討つための将領の手分けを諮《はか》った。と、そのとき降将の喬道清がいった。
「馬霊は妖術をわきまえておりますし、神行法も使えます。金磚《きんせん》(注二)をかくしていて投げつけますが、百発百中です。わたくし、麾下に加えていただきましてから、いまだなんのはたらきもいたしておりませぬゆえ、どうか、師匠の公孫一清どのとともに、汾陽へ、彼を説得して投降させに行くことをおゆるしくださいますよう」
宋江は大いによろこび、ただちに兵二千を公孫勝と喬道清とにつけて出発させることにした。ふたりは宋江に別れを告げ、その日のうちに兵をひきつれて汾陽へと立っていったが、この話はそれまでとする。
さて宋江は命令をくだして、索超・徐寧・単廷珪・魏定国・湯隆・唐斌・耿恭らには兵二万をひきいて〓城県を攻めさせ、また王英・扈三娘・孫新・顧大嫂らには騎兵一千をもって先行して北軍の様子をさぐるよう命じた。かくて宋江は陳安撫に別れを告げ、呉用・林冲・張清・魯智深・武松・李逵・鮑旭・樊瑞・項充・李袞・劉唐・解珍・解宝・凌振・裴宣・蕭譲・宋清・金大堅・安道全・蒋敬・郁保四・王定六・孟康・楽和・段景住・朱貴・皇甫端・侯健・蔡福・蔡慶、および新たに投降した将・孫安の正偏の将領あわせて三十一名と、兵三万五千をひきしたがえて昭徳をあとに、北方へと進んで行った。
前隊の斥候の将領・王英らは、すでに襄垣の県境の五陰山《ごいんざん》の北にさしかかった。と、早くも、偵察に出ていた北軍の将の葉清・盛本らに出会った。両軍は相《あい》対し、戦鼓を鳴らし旗をうち振る。北将の盛本が陣頭に馬を乗り出すと、宋軍の陣地からは王英が、馬を驟《は》せて出、名乗りもあげず、馬をせかせ槍をしごきつつまっしぐらに盛本におそいかかって行った。両軍が喊声をあげるなかを、盛本も、槍をかまえ馬を飛ばして迎え討つ。かくて二将はわたりあうこと十合あまり、そのとき扈三娘が、馬をせかせ刀を舞わして夫(王英)の助太刀に出た。盛本も二将を相手にしてはかなわず、馬首を転じて逃げだした。扈三娘は馬を飛ばして追い迫るや、刀をふるって盛本を斬り伏せ、どっと落馬させた。王英らは兵を駆りたてて斬りこんだ。葉清はささえきれず、兵をひきいてあわてて逃げた。宋軍は追いあげて五百余の兵を討ちとり、その余の兵はちりぢりに逃げた。葉清はわずか五百騎あまりをひきつれて襄垣の城南二十里のところまで逃げた。そこにはすでに瓊英の軍が到着して陣地をかまえていた。
葉清は半年まえ田虎の命で派遣されてきて、主将の徐威らとともに、襄垣を守っていたのである。このほど、瓊英が兵をひきいて先鋒としてやってくると聞き、葉清は、主将の徐威に申しいで、配下の兵をひきいて偵察に出た。機を見て旧主の娘に会おうとしたのである。徐威はそのとき偏将の盛本に同行を命じたのであるが、都合よく盛本は扈三娘に討ちとられてしまって、葉清はうまく瓊英の軍に出くわしたのであった。
さっそく葉清は陣地へはいって、旧主の娘に会った。見れば旧主の娘は立派に成人していて、女ながらも威風凜々《りんりん》として、あっぱれな将軍ぶりである。瓊英は相手が葉清だとわかると、左右のものを退《しりぞ》け、葉清にむかっていった。
「わたしはいま虎穴からは出ましたものの、配下には五千の兵しかおらず、これではとても父母の仇は討てません。逃げ出そうにも、もしさとられたならばかえって殺されてしまいますし、どうしようかとためらっていたところです。よいところへきてくれました」
葉清は、
「わたしもいろいろと策をめぐらしているところなのですが、なかなか頼る手づるがありません。機会がありましたら、すぐお知らせいたします」
という。
話しているところへ、とつぜん知らせがあって、
「南軍の将領が兵をひきつれておし寄せてまいりました」
とのこと。瓊英はよろいをつけて馬に乗り、兵をひきいてこれを迎えた。
両軍は相《あい》対し、旗鼓相《あい》望んで、互いに陣列を布いた。と、北陣の門旗が左右に分かれて、そこからまっさきに進み出たのは、銀の〓《たてがみ》の馬にまたがった、うら若き美貌の女将軍。そのいでたちいかにと見れば、
金釵《きんさ》は鳳《ほう》を挿《さ》して(鳳凰の金のかんざしを挿して)烏雲《ううん》(黒髪)に掩映《えんえい》し、鎧甲は銀を披《き》て(銀のよろいを着て)光瑞雪《ずいせつ》を欺く。宝鐙《ほうとう》(あぶみ)を踏んで鞋《くつ》は尖紅《ぎようせんくれない》(注三)に、画戟《がげき》を提げて手は嫩玉《どんぎよく》を舒《の》ぶ(やわらかい玉をさしのべたよう)。柳腰端《ただ》しく跨《またが》って、畳勝《じようしよう》の帯は紫色飄揺《ひようよう》し、玉体軽盈《けいえい》(たおやか)たりて、挑〓《ちようしゆう》(刺〓)の袍は紅霞籠罩《ろうとう》す(たちこむ)。臉《かお》は三月の桃花を堆《つ》み、眉は初春の柳葉を掃《は》く。錦袋には暗《ひそ》かに蔵す将を打つの石、年方《まさ》に二八の女将軍。
女将軍の馬前の旗じるしには、あざやかに、
平南先鋒将《へいなんせんぽうしよう》郡主瓊英
としるされていた。南陣の将兵たちはその姿を眺めて、感嘆せぬものはなかった。
両軍の陣中では、花模様の〓鼓《だこ》が天をどよもして鳴り、雑彩の〓旗が眼をくらましてうち振られる。矮脚虎の王英は、相手が美貌の女だと見るや、馬を驟《は》せて陣をいで、槍をかまえて瓊英に突きかかって行った。両軍が喊声をあげるなかを、瓊英も、馬をせかせ戟《ほこ》をかまえてこれを迎え討つ。かくて二将はもみあうこと十合あまり、王矮虎は意馬心猿をおさえきれず(注四)、槍法をまったく乱してしまった。瓊英は、
「こやつ、にくきやつ」
と、隙を見て戟を繰り出し、王英の左腿《もも》を突き刺せば、王英は両脚を空《そら》に、〓《かぶと》をさかさまにして、どっと落馬した。扈三娘は夫が手傷を受けたのを見ると、
「あばずれの、淫婦め、よくも無礼なまねを」
とはげしく罵り、馬を飛ばして王英を助けに行った。瓊英は戟をかまえてこれをはばむ。王英が地面で起きようともがいていると、北軍の兵士がどっとおそいかかって、王英をとりおさえようとした。と、こちらからは孫新と顧大嫂がいっしょに飛び出して行って、からくも助け出して陣地へもどった。
顧大嫂はさらに、扈三娘が瓊英とたたかってたじたじなのを見るや、二本の刀をふりまわしつつ馬をせかせて加勢に出た。かくて三人の女将軍は、六本の腕《かいな》・四本の鋼刀・一本の画戟をふるいあって、それぞれ馬上で迎え討ったが、それはさながら、風の玉屑《ぎよくせつ》を飄《ひるがえ》し、雪の瓊花《けいか》を撒《ま》くがごとく、両軍の兵はそれを眺めて眼もくらむばかり。三人の女将軍はわたりあうこと二十合あまり、瓊英はあらぬほうに戟を突き出すなり、その戟をひっさげ馬首を転じて逃げだした。扈三娘と顧大嫂がふたりで追いかけて行くと、瓊英は画戟を左手に持ちかえ、右手で石つぶてをとり、柳腰《りゆうよう》をひねり星眼《せいがん》をななめにして扈三娘にねらいをさだめ、ぱっと投げつければ、つぶては見事に右腕に命中し、扈三娘は痛みに堪えかねて刀を一本とり落としたまま、馬首を転じて自陣へもどった。顧大嫂は扈三娘が打たれたのを見ると、瓊英のほうはうちすてて、扈三娘を助けようとした。と、瓊英は馬を返して迫ってくる。こちらでは孫新が、大いに怒って双鞭をふりまわしつつ馬をせかしておそいかかって行ったが、まだたたかいをまじえぬうちに、はやくも瓊英はつぶてを飛ばし、かちんという音とともに孫新の熟銅の獅子〓《ししかぶと》に命中した。孫新は大いにおどろいて、それ以上は進まず、急いで自陣へひき返し、王英と扈三娘を護りながら兵をひきつれて後退した。
瓊英が兵を駆りたてて追撃しようとしたとき、とつぜん一発の砲声がとどろいた。時節は二月もまさにおわろうとするころで、柳の梢にははたはたと旗がうちなびき、花のかなたにはしきりに馬のいななきが聞こえる。と、坂のかげから不意に一隊の軍勢が飛び出してきた。すなわち林冲・孫安、および歩兵の頭領の李逵らで、宋公明の命によって兵をひきいて援護にきたのであった。両軍は相《あい》対し、軍鼓を打ち旗を振りあった。両陣、喊声をあげあうなかを、こなたからは豹子頭の林冲が丈八《じようはち》の蛇矛《じやぼう》をかまえて先頭に馬を立て、かなたからは瓊矢鏃の瓊英が方天《ほうてん》の画戟《がげき》をひねりつつ馬を飛ばして進み出た。林冲は相手が女であるのを見て、大喝した。
「あばずれ女め、天兵に手むかいするとはおおそれたやつ」
瓊英はものもいわず、戟をかまえ馬をせかしてまっしぐらに林冲におそいかかる。林冲も矛をかまえて迎え討つ。両馬相交わり、互いに得物をふるってわたりあうこと数合、瓊英は受けきれぬと見るや、負けたと見せかけて戟で空《くう》を突き、馬首を転じて東のほうへ逃げだした。林冲が馬を飛ばして追って行くと、南陣の前で孫安が、瓊英の旗じるしを見て大声で叫んだ。
「林将軍、追ってはなりません。たくらみにかかりますぞ」
だが林冲は腕におぼえのあることとて耳をかさず、馬をせかして逃がさじと追って行く。緑しげる草原の上を、かくて八個の馬蹄は杯を伏せるがごとく〓《にようはち》をまき散らすがごとく、ぱかぱか・ぱかぱかと、つむじ風のように駆けて行った。瓊英は林冲が追い迫ってきたのを見るや、左手に画戟をとると見せかけて右手で〓《ぬいとり》の袋から石のつぶてをさぐり出し、身をひねりざま、林冲の顔にねらいをさだめてぱっと投げつけた。林冲は眼ざとく俊敏に、矛の柄をもってつぶてを払いのけた。瓊英は打ちそこなったと見るや、さらに第二のつぶてをとって手をふりあげた。と、さながら流星か稲妻のごとく、つぶての飛ぶところ、そのすさまじさには鬼も哭《な》き神もおどろかんばかりの勢いで、またもや林冲めがけて打ちかかった。林冲は急いで身をかわしたがまにあわず、顔に打ちあてられ、鮮血をほとばしらせながら矛をひきずって自陣へひき返した。瓊英は馬を返して追いかけた。
孫安が飛び出して行こうとしたとき、自陣の兵が左右に分かれて道をひらき、五百の歩兵が飛び出してきた。先頭に立つは李逵・魯智深・武松・解珍・解宝ら五名の、歩戦に慣れた猛将たちである。李逵は手に板斧《はんぷ》をとり、まっしぐらに突き進んで行って大声で叫んだ。
「やい、そこな阿魔、無礼千万な」
瓊英はその兇猛なさまを見て、つぶてをつかむや李逵をめがけて投げつければ、見事額《ひたい》に命中し、さすがに李逵もあっとおどろいたが、さいわいに皮がつよく骨が硬《かた》かったので、痛みを感じただけで傷はうけなかった。瓊英は李逵を打ち倒せなかったのを見ると、馬を駆って自陣へともどった。李逵は大いに怒り、虎鬚《こしゆ》をさかだて怪眼《かいがん》を見ひらき、一声吼《ほ》えたててまっしぐらに突っこんで行く。魯智深・武松・解珍・解宝らも、李逵に万一のことがあってはと、いっせいに斬りこんで行った。孫安はおしとめようとしたが、とめきれなかった。瓊英は諸将が追ってくるのを見ると、またもやつぶてを飛ばして、たちまち解珍を地面に打ちころがした。解宝・魯智深・武松らはあわてて助けに駆け寄る。一方では李逵が、しゃにむに追いかけて行く。瓊英は彼が近づいてきたのを見て、あわててつぶてを飛ばせば、またもや李逵の額に命中した。二度も打ちあてられて、こんどは鮮血がほとばしり流れたが、さすがに李逵は鉄のごとき男、そのうち割られた黒い顔にまっ赤な血をしたたらせつつ、なおもすさまじい勢いで、二梃の斧をふるって陣中へ突っこんで行き、北軍の兵をめった斬りにした。
一方では孫安が、瓊英が陣地へ逃げこんだのを見て、兵をさし招いて斬りこんで行った。と、ちょうどそのとき〓梨《うり》が、徐威ら正偏の将領八名をしたがえ、大軍をひきいて到着し、両軍は混戦をくりひろげるにいたった。
かなたでは魯智深と武松が、解珍を助け出し、身をひるがえして北陣へ斬りこんで行く。解宝は兄(解珍)をかばっていることとて、思いのままにはたたかえない。そこへ北軍の兵が追い迫ってきて、からめ縄を投げつけ、解珍・解宝をふたりもろともひきずりたおし、陣中へひっ捕らえて行った。
歩兵は大敗して逃げかえったが、孫安は勇をふるって激しくたたかい、一刀のもとに北将の唐顕《とうけん》を馬から斬って落とした。〓梨も孫安の手勢の兵に冷箭《れいせん》(かくし矢)で首すじを射たれた。〓梨はもんどりうって落馬したが、徐威らが必死に助け出して馬に乗せた。
瓊英ら諸将は〓梨が矢でうたれたのを見ると、急いで金鼓を鳴らして兵を退《ひ》いた。と、南方に宋軍がまたもややってきた。その先頭の一将は、すなわち没羽箭の張清である。
張清は陣地にいたとき、早馬の伝令から、
「北陣に石のつぶてを飛ばす女将軍がいて、扈三娘らに傷を負わせました」
と知らされた。張清はその知らせを聞いて不審に思い、宋先鋒に申し出て急いで甲《よろい》をつけ馬に乗り、兵をひきいて援護にやってきて、その女先鋒を確かめてみようとしたのであった。
かなたでは瓊英は、このときすでに兵を退《ひ》き、〓梨を護りつつ林をめぐって襄垣《じようえん》へと去って行く。張清は馬をとめて無念の思いで眺めた。これを詩でいえば、
佳人《かじん》馬を回《かえ》して〓旗揚《あが》る
士卒将軍個々忙《いそが》わし
引いて長林に入り人見えず
百花の叢裏紅妝《こうしよう》を隔《へだ》つ
そのとき孫安は、解珍と解宝が捕らえられ、魯智深・武松・李逵の三人が敵陣に斬りこんで行ったのを見て、兵をさし招いて追いかけて行こうとしたのだったが、日も暮れてきたため、やむなく張清とともに林冲を護りながら、兵を退《ひ》いて本陣へもどった。
宋江はそのとき本営にあって、神医の安道全に王英の治療をさせていた。諸将がはいって行って王英の様子を見ると、脚に怪我をしているだけではなく、頭までもうち割られていた。安道全はその手当てをすませてから、ついで林冲を治療した。
宋江は、解珍と解宝が捕らえられ、さらに李逵ら三人のものの行方《ゆくえ》が知れないと聞かされて、ひどく憂慮した。まもなく武行者が、李逵をつれ、奮戦に全身血まみれになりながら陣地へもどってきて、宋江に会った。武松が訴えていうには、
「わたしは李逵が猛りたって斬りまくり、しゃにむに進んで行くのを見て、わたしも彼をかばってたたかい、血路を斬りひらいて北軍のなかを突きぬけ、城下まで行きましたところ、見れば北軍のやつらが解珍と解宝を縛って城内へはいって行こうとしておりますので、ふたりで兵士たちをなぎ倒して解珍と解宝を奪い返したのです。ところが徐威らの大軍が追いかけてきて、またもや解珍と解宝を奪いとられ、わたしたちふたりはもう一度血路を斬りひらいて、手ぶらでもどってきた次第です。魯智深の姿は全然見かけませんでした」
宋江はそれを聞くと、眼にいっぱい涙をため、四方へ人をやって魯智深の行方をさぐらせ、また安道全に李逵の手当てをさせた。時刻はすでにたそがれどきであった。宋江が兵士を点検してみると、三百人あまりのものをうしなっていた。さっそく、かたく陣柵をとざし、鈴を鳴らして合図をしあうことにしたが、その夜はなにごともなかった。
翌朝、兵士がもどってきて、魯智深の行方はまるでわからないと報告した。宋江はますます憂慮し、さらに楽和・段景住・朱貴・郁保四らに、それぞれすばしこい兵士をつけて、四手に分かれてさがしに行かせた。宋江は兵をひきいて城を攻めたくも、いかんせん頭領たちがそろって傷を負うているので、いたしかたなく兵をひかえてじっとしていた。城のほうでも、かたく城門をとざしたまま討ち出してはこなかった。そのまま二日すぎたとき、郁保四が間諜をひとりつかまえて陣地にひきたててきた。孫安がその男を見ると、それは北将の総管の葉清であった。孫安は宋江に対して、
「あの男はもともと気概のある者と聞いておりますが、たったひとりで城を出てきたのは、きっとなにかわけがあってのことでしょう」
という。宋江は兵士に命じ、いましめを解かせて彼をつれてこさせた。葉清は宋江に対してしきりに頭をさげ、
「わたくし、機密のことがございますので、どうかお人ばらいをお願いいたします。そのうえで、くわしく申しあげます」
「ここにいる兄弟たちは、みな同じ心のものゆえ、かまわずに話すがよい」
宋江がそういうと、ようやく葉清はいい出した。
「城内の〓梨は、先日のたたかいで毒矢にあたり、毒がまわって正気をなくしておりますが、城内の医者が手当てをしてもききめがございません。わたくしはそれにつけこんで、医者をさがしてくるといって城を出、様子をうかがっていたのでございます」
「この前わがほうの二将を捕らえて行ったが、彼らをどうしたか」
「わたくしはおふたりの将軍を殺《あや》めでもしてはと案じまして、〓梨が正気をなくしているのに乗じ、命令だといつわっておふたりの将軍をひとまず監候《かんこう》(注五)にするようとりはからいましたゆえ、いまのところはご無事でいらっしゃいます」
葉清はさらに、仇申《きゆうしん》夫妻が夫は田虎に殺され妻は掠奪された次第から、瓊英のこれまでのことにいたるまで、くわしく語った。そして話しおわると、声をのんで悲しみ泣いた。
宋江はその事情を聞いて、すこぶるあわれに思ったが、また葉清が北将であることから、あるいは詐《いつわ》りであるかも知れぬとも思った。思いまどうていると、安道全が進み出て宋江にむかっていうには、
「まったく縁は天のはからいと申しますとおりで、決して偶然ではございません」
そして彼はくわしく語った。
「張将軍も去年の冬、夢にその書生とやらが呼びにきて、さる女につぶてを投げる術を教えさせ、そして、これがあなたの宿世《すくせ》の姻縁《えにし》ですと告げたそうです。張清は眼がさめてから、思いつめて病気になったのです。このまえ兄貴がわたしに、張清をつれて高平へ行って病気をみてやるようにとおっしゃったとき(第九十一回の末尾)、わたしは張清の脈をみて、これはなにか心にかかることがあるためだとわかりましたので、再三聞きただしましたところ張将軍はようやく病因をうちあけました。それで手当てをしてなおしたわけですが、いま葉清の話を聞きますと、張将軍の夢とぴったり話があうではありませんか」
宋江はそれを聞くと、さらに降将の孫安に聞きただした。孫安はそれに答えて、
「わたしの聞いておりますところでは、瓊英は〓梨の実の娘ではないとのことです。わたしの部下の牙将の楊芳というものが、〓梨の側近のものといたって親しくしておりますので、瓊英のこともくわしく知っております。葉清の話は決してうそではございません」
葉清はさらにいった。
「わたくしの旧主の娘の瓊英は、かねがね仇を討って恥をすすごうと志しておるのですが、その瓊英がたたかいの場でかさねがさねこちらさまのご威光を傷つけておりますので、城が討ち破られましたときには、玉石ともに焚《や》かれてしまう(〓梨も瓊英もいっしょに殺されてしまう)のではないかとおそれ、わたくし、きょうは命はないものと観念して、元帥どのに懇願にまいった次第でございます」
呉用はそれを聞くと、立ちあがってじっと葉清を見つめた。そして宋江にむかっていうには、
「彼の顔を見ますに、思いつめて、まごころがあふれております。あっぱれな義士です。天は兄貴を助けて功をなさしめ、孝女に仇を討たせようとしているのです」
そして宋江の耳もとに口を寄せて低い声でいった。
「わが軍が三手に分かれていっせいに攻めましても、もし田虎が金《きん》の国と結べば、わが軍は両面に敵を受けることになりますし、たとえ金が出てこなくても、田虎は、万策尽《つ》きたならば必ず金に投降するでしょうから、そうなればもう討伐の功をとげることはおぼつかなくなります。そこでわたしは、内応してくれるものはないかと画策していたところなのですが、張将軍のあの姻縁こそ、まさに天のおさずけくださったよすがです。ついては、かくかくしかじかにいたしますならば、田虎の首級はもはや瓊英の手中のものです。李逵の夢にも神人がすでに予言しておられました(第九十三回)。兄貴もおぼえておいででしょう、
田虎の族を夷《たいら》げんと要《ほつ》せば
須《すべか》らく瓊矢の鏃と諧《した》しむべし
というあの二句を」
宋江ははっとさとり、うなずいてその言にしたがい、ただちに張清・安道全・葉清の三人を呼んでひそかに計略をさずけた。三人は計略を受けて出かけて行った。
さてこちらは襄垣《じようえん》の城門守備の将兵たち。見れば葉清がもどってきて、大声で、
「早く城門をあけろ。わしは〓国舅のお屋敷の偏将・葉清だ。おいいつけで、医者の全霊と全羽をさがしてまいったのだ」
と呼んでいるのだった。守備兵はすぐ元帥府へ、太鼓を鳴らして知らせた。と、まもなく令箭《れいせん》(命令をつたえるしるしの矢)がくだされて、城門があけられた。葉清は全霊と全羽をつれて門をはいり、国舅の元帥府の前まで行った。すると中から命令があって、
「医者を奥へ通して診《み》させるように」
とのこと。葉清はすぐ全霊とともに府内へ通った。軍に随行している側《そば》仕えの従者たちは、郡主の瓊英に知らせ、全霊を奥へ案内して瓊英に目通りさせてから、〓梨の寝台のところへつれて行った。見ればわずかに息をついているだけである。全霊はまず脈を診《み》てから、外から塗り薬をぬり、内服には滋養剤を飲ませた。三日たつと、次第に皮膚に血色がよみがえり、食欲も少しずつついてきた。そして五日とはたたぬうちに、傷口はまだ十分にはなおらなかったが食欲はもとに復した。〓梨は大いによろこび、葉清に医者の全霊を呼んでこさせて、会った。〓梨は全霊にいった。
「あなたの神術による治療のおかげで、傷口もようやくよくなりました。今後はあなたと富貴をともにしましよう」
全霊は拝謝して、
「わたくしのつたない術に対して、お言葉かえって痛み入ります。つきましては、わたくしの実の弟で全羽と申しますもの、多年わたくしについて世間をわたり歩きまして、ひとかどの武芸を身につけておりますが、いまもわたくしについてきておりまして、薬を調合いたしております。なにとぞおひきたてのほどをお願い申します」
といった。〓梨は左右のものに命じて、全羽を呼び入れさせて、会った。〓梨は全羽の非凡な風貌を見て、内心大いによろこび、全羽に府外にひかえて命《めい》を待つようにといいわたした。全霊と全羽は拝謝して元帥府をひきさがった。
それから四日たったとき、とつぜん知らせがあって、
「宋江が兵をひきいて攻め寄せてきました」
という。葉清は元帥府へ行って〓梨に報告し、
「宋江らは兵は強く将は勇敢ですから、郡主さまでなければ撃退することはできぬと存じます」
といった。〓梨は知らせを聞くと、ただちに瓊英をともなって教場《きようじよう》(練兵場)に出、兵を検閲した。とそのとき、全羽が演武庁《えんぶちよう》(閲兵所)にやってきて申し出た。
「わたくし、ひかえて命《めい》を待てとの仰せをたまわりましたが、いまや、聞けば敵軍がおし寄せてまいりましたとか。ふつつかながらわたくし、兵をひきいて城をいで、甲《よろい》のかけらも帰さぬまでにやつらをたたきのめして見せましょう」
するとそこにいた総管の葉清が、大いに怒ったふりをして全羽にいった。
「よくも大きなことをいったな。わしと武芸のほどを競《きそ》おうというのか」
全羽は笑って、
「武芸十八般をわたしは子どものときから身につけてきました。ここであなたと腕をくらべるのは望むところです」
葉清は〓梨に願い出た。〓梨は許して、槍と馬をあたえた。ふたりはそれぞれ槍をとって馬に乗り、演武庁の前で、おしつもどしつ、もどしつおしつ、もつれて一団となり、からんで一塊となり、鞍上には人と人が、坐下には馬と馬が攻めあって、わたりあうこと四五十合におよんだが、なお勝敗は決しなかった。
このとき瓊英は〓梨のかたわらにひかえていたが、全羽の顔を見て、内心ひそかにいぶかしんだ。
「どこかで会ったことのあるような人だが。槍法もわたしと同じだし……」
しばらく考えているうちに、はっと思い出し、
「夢のなかで、つぶてを飛ばす術を教えてくれた人が、そっくり同じ顔だった。だがこの人はつぶてを飛ばすことができるかどうか」
と、いきなり戟をとり馬を驟《は》せて行って、画戟でふたりのあいだに割ってはいった。瓊英は葉清が全羽を傷つけることをおそれてそうしたのであって、葉清が全羽と腹を通じあっているとは知らなかったのである。瓊英が戟をかまえて、まっしぐらに全羽におそいかかって行くと、全羽も槍をかまえて迎え討った。かくてふたりはわたりあうこと五十余合。と、瓊英はぱっと馬首を転じて演武庁のほうへ駆け出した。全羽がすかさず追って行くと、瓊英はつぶてをとり、身をひねって全羽の脇の下の隙間をねらって、ぱっと投げつけた。全羽は早くもそれを見てとり、右手でしゃくいとって、わけなく受けとめてしまった。瓊英は彼がつぶてを受けとめたのを見て、心中大いにおどろきながら、さらに第二のつぶてをとって、投げつけた。全羽は瓊英が手をふりあげるのを見るや、こちらからも、手に受けとめた石をぱっと投げつけた。と、かちんと鳴ってそれは瓊英の飛ばしたつぶてにあたり、ふたつのつぶてはぶっつかって雪の散るように地に落ちた。
その日、城内の将士の徐威らはみなそれぞれ四方の城門を守っていて、教場には牙将や校尉(下級の将校や下士)たちがいるだけであったが、それでもなかにはこの男(全羽)は間諜ではなかろうかと疑うものもいた。しかし、郡主の瓊英が金枝玉葉の身でありながら彼と腕をくらべあっているうえに、〓梨の配下のお気にいりの将領たる葉清がつれてきた男でもあるので、誰もあえて口出しをするものはいない。いまや明らかに城を保ち得ないことを知って、みなそれぞれ風むきにしたがって舵《かじ》を転じようと思案していたのである。やはり田虎は敗れるべき運命にあったのだろう、天は〓梨の魂を奪い取って、彼を腑抜けにしてしまったのである。
そのとき〓梨は全羽を演武庁に呼んで衣甲と馬をあたえ、兵二千をひきいて城外に敵を迎え討つように命じた。全羽は拝謝し、命を奉じて城をいで、宋軍を撃退して城に引きあげ、勝利を報告した。〓梨は大いによろこんで、さっそく全羽に賞をあたえて休ませたが、その夜はほかに話もない。
翌日、宋軍はまたおし寄せてきた。〓梨は再び全羽に兵三千をひきいて城外に敵を迎え討たせた。辰(あさ)から午(ひる)までずっと激戦がつづいたが、全羽のつぶてに打たれて宋軍の将領たちはついに算を乱して逃げ散った。全羽は兵をさし招いて追撃し、一気に五陰山のむこうまで追って行った。宋江らはこれをささえることができず、退却して昭徳へ逃げこんだ。全羽は勝って兵をもどし、城に帰って勝利を報告した。〓梨はいよいよよろこんだ。葉清は、
「いまや国舅さまにはその人がおり、しかも郡主の瓊英さまがおいでですから、宋の将軍の勇猛ももはやおそれるにたらず、大事の成就も案ずることはございません」
といい、さらにいうには、
「郡主さまは前から心願をおたてになっていて、ご自分と同じようにつぶてを飛ばすことのできる者があれば、夫婦になろうと決めておいででしたが、いまや全将軍のあの英雄ぶりをもってすれば、郡主さまにも決してはずかしからぬお相手と存じますが」
かくて、葉清の再三のすすめもあり、また瓊英夫婦の姻縁《えにし》の糸がむすばれて(注六)、ついにほどけぬさだめになっていたものか、〓梨も聞きいれて、三月十六日の吉日を選び、礼をそなえ宴を設けて張清(全羽)を婿に迎えることになった。
その日、笙歌《しようか》はみやびやかに奏《かな》でられ、綿〓《きんしゆう》は高くつまれ、宴席の酒肴のゆたかさ、洞房《どうぼう》(新夫婦の寝屋)の花燭のあでやかさなど、改めていうまでもない。かくて〓相《ひんしよう》(婚礼の儀式を進める係り)が式を進め、全羽と瓊英は紅絹をかけ錦をまとって、相並んでこもごも神祇《しんぎ》を拝し、ついで義父の〓梨に礼をささげ、鼓楽がにぎやかに奏され妙香が馥郁とかおるなかを、洞房にみちびかれて夫婦のちぎりをかためた。全羽が灯下に瓊英を見ると、教場でとはうってかわったありさま。これを元和令《げんわれい》(曲の名)の詞《うた》でいえば、
指頭の嫩《やわらか》なるは蓮塘《れんとう》(蓮池)の藕《ごう》(蓮根)に似、腰肢《ようし》(注七)の弱《たおやか》なるは章台の柳(注八)に比す。凌波《りようは》(美人の歩む形容)歩む処寸金《すんきん》流れ、桃腮《とうさい》(美しいおとがい)映帯して翠眉脩《なが》し。今宵灯下に一たび首を回《めぐ》らせば、総《すべ》て是れ(まことに)玉天仙《ぎよくてんせん》の巫山《ふざん》の岫《しゆう》(注九)(洞穴)に渉降するがごとし。
そのとき全羽と瓊英は、魚のごとく水のごとく、漆《うるし》のごとく膠《にかわ》のごとくであったことはいうまでもない。
その夜全羽は床《とこ》のなかで、はじめてまことの姓名をあかしたが、じつは宋軍の正将・没羽箭の張清で、かの医者の全霊なるものは、すなわち神医の安道全だったのである。瓊英も、これまでの、いわれもなく受けてきた苦しみをつぶさに訴えた。ふたりは一夜をひそひそと語りあかした。
それから二日のち、彼ら四人は内外からしめしあわせて、〓梨を毒殺し、徐威を相談があるからとひそかに元帥府に呼び入れて、これも殺してしまった。そのほかの将兵はことごとく投降した。張清と瓊英は命令をくだし、城内で消息を外にもらしたものがあれば、その組(注一〇)のものをすべて同罪として斬首し、主犯者は軍民の別なくその三族にいたるまでみなごろしにするとつたえた。かくて水一滴も外にもれることはなかった。また、解珍と解宝はいましめを解かれて、張清・葉清とともに、それぞれ四方の城門の守備についた。安道全は葉清の配下の兵とともに城を出て昭徳へ行き、宋先鋒に報告した。呉用はそこで李逵と武松に、夜陰に乗じて聖手書生の蕭譲を護って襄垣へ行かせ、蕭譲に瓊英と張清に会って〓梨の筆跡をさがし出してもらい、その字体ににせて上申の文書をこしらえさせたうえ、葉清にそれを持って威勝へ行き、田虎に郡馬(郡主の夫)を迎えたことを報告させ、内部にあって機を見て事をおこさせることにした。葉清は文書をたずさえ、張清と瓊英に別れを告げて威勝へ立って行った。
さて宋江は昭徳城内で、ちょうど蕭譲と安道全を出発させたところだったが、そこへまた知らせがきて、
「索超・徐寧らの将が〓城を攻め落とし、使いのものに勝報をとどけによこしました」
とのこと。その勝報によれば、
「索超らは兵をひきいて〓城を包囲したが、池方《ちほう》はかたく城門をとざしたまま、あえて応戦しようともしないので、徐寧は諸将と計略をかまえ、兵士たちを裸にし、さんざん罵らせて城内の兵士たちを怒らせた。すると城内のものはみなたたかおうといい出し、池方もおしとめることができなくなり、ついに城門をあけて討って出た。北軍が奮いたって、四つの城門から出てくるところを、わが軍は応戦しつつ後退し、北軍をおびき寄せて四方へ城から遠くひき離してしまった。そこへ唐斌が東のほうから兵をひきつれて飛び出して行き、湯隆が西のほうから兵をひきつれておそいかかり、東西の二つの門の守備兵たちは門をとざすいとまもなく、湯隆・唐斌の二将は兵をひきいて城内へ斬りこんで行って、城を奪いとってしまった。徐寧は池方を刺し殺してしまい、その他の将領はあるものは殺され、あるものは逃げたが、かくて討ちとった北軍の兵は五千余人、奪った戦馬は三千余頭、投降した兵は一万あまりというありさま。索超ら諸将は入城し、住民を宣撫し、ここにとりあえず勝報をおとどけする次第で、そのほか、軍民の戸数・人口・庫蔵の金銀などについては別に帳簿をととのえてご報告いたします」
というのであった。宋江はその知らせを聞いて大いによろこび、ただちに陳安撫のもとへ報告させるとともに、索超らの功績を記録にとどめ、使者には賞をとらせたうえ、軍令書をしたため、それを持たせて帰らせることにした。各路の軍の到着を待って、いっせいに兵を進めようというのである。使者の兵は〓城へ復命しに帰って行ったが、このことはそれまでとする。
一方、威勝の田虎のところの仮《にせ》省院官のもとには、物見の兵が相ついで知らせに駆けつけて、
「喬道清も孫安も、ともに降伏してしまいました」
といい、また、
「昭徳も〓城も討ち破られてしまいました」
という。省院官はただちに田虎に報告した。田虎が大いにおどろいて、将領たちと協議をしていると、そこへまた不意の知らせで、
「襄垣の偏将・葉清が、国舅さまの書面を持ってきました」
という。田虎はただちに通すように命じた。この葉清がやってきたことから、やがて、威勝の城内では、群れつどう強徒どもがうち平らげられ、武郷《ぶきよう》の県内では、王位をねらう叛賊がいけどられることと相なる次第。さて田虎は〓梨の上申文を見て、いかなる返事をしたか。それは次回で。
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一 晋の文公が介子推をさがしたが…… この話は第七十三回注五の寒食節の話のところに記した。綿上(緜上と書くのが正しい)は、緜山《めんざん》(山西省の沁源・霊石・介休三県の境にある)の介休県側の山麓の地名。
二 金磚 金色のつぶて。第三十七回注一の後の説明を参照。
三 尖紅に 《ぎよう》は高いこと。紅《くれない》の先端の反《そ》った鞋《くつ》を履《は》いているの意。
四 意馬心猿をおさえきれず 好色の心をおさえきれずの意。王英は好色な男で、第四十八回の扈三娘とのわたりあいの場合と同じく、この場面の描写にもさりげなくそれが示されている。
五 監候 死刑囚の刑の執行を見合わせて監禁しておき、秋の審議で再審したうえ、刑を決定するという処分をいう。
六 姻縁の糸がむすばれて 原文は姻縁湊合、赤縄〓定。赤縄は縁《えにし》の糸。赤縄〓定は夫婦の縁の結ばれることで、姻縁湊合と同じ意。
七 腰肢 各本みな腰脂とあるが、鄭振鐸の校訂に従って改めた。
八 章台の柳 第六十五回注五参照。ただしここでは「章台」には格別の意味はない。
九 巫山の岫 第六十五回注六参照。
一〇 組 原文は伍。五人を一組とする兵の編制。
第九十九回
花和尚《かおしよう》 縁纏井《えんてんせい》を解脱《げだつ》し
混江竜《こんこうりゆう》 太原城《たいげんじよう》に水灌《すいかん》す
さて、田虎は葉清《しようせい》の持ってきた上申文を受け取ると、封を切り、字の読める近侍のものにわたして、
「読んできかせよ」
といった。書面にはこう書かれていた。
臣〓柴《うり》、全羽《ぜんう》を招贅《しようぜい》(注一)して、壻《せい》(むこ)と為す。此の人十分驍勇《ぎよゆう》にして、宋兵を殺退し、宋江等退いて昭徳府を守る。臣〓梨、即日再び臣の女《じよ》・郡主瓊英《けいえい》をして、全羽と同《とも》に、兵を領して昭徳城を恢復せしむ。謹んで総管葉清をして捷《かち》を報ぜしめ、拝《なら》びに婚配の事を以て奏聞せしめて、大王の、臣が擅《ほしいまま》に配《めあわ》せる罪を恕《ゆる》されんことを乞う。
田虎は聞きおわると、かなり憂いの色をやわらげ、さっそく命令をつたえて、全羽を中興平南先鋒《へいなんせんぽう》郡馬の職に封じた。そして葉清に、ふたりの偽《にせ》の指揮使とともに令旨《れいし》および花紅《かこう》(祝儀の紅絹)・錦段(緞子《どんす》)・銀両をたずさえて襄垣県《じようえんけん》へ行き、郡馬にさずけさせることにした。葉清は田虎に暇《いとま》を告げ、ふたりの偽の指揮使とともに襄垣へと立って行ったが、このことはそれまでとする。
さて、それよりさき、神行太保の戴宗は宋公明の命令を受け、各府・州・県をまわって軍令書をつたえたのち、汾陽府の盧俊義のもとへ様子をうかがいに行った。各府・州・県の新任の役人たちは、続々と赴任してきていた。各路の守城の将領たちは、ただちに新任の役人に事務をひきつぎ、かくて諸将は軍をひきいて相ついでみな昭徳府に集まってきた。その第一隊は衛州の守将の関勝と呼延灼で、壼関の守将の孫立・朱全・燕順・馬麟、および抱犢山の守将の文仲容・崔埜の軍とともに到着し、入城して陳安撫と宋江に挨拶をした。そして、
「水軍の頭領の李俊は、〓城がすでに味方の手に落ちたと知って、ただちに張横・順張・阮小二・阮小五・阮小七・童威・童猛とともに水軍の船をひきしたがえて衛河から黄河に出、黄河から〓城県の東の〓水にきて勢揃いし、命を待っております」
と報告した。宋江はさっそく酒盛りをして久闊を叙した。そして翌日、関勝・呼延灼・文仲容・崔埜に、兵をひきいて〓城へ行き、水軍の頭領の李俊らに次のように命令をつたえさせることにした。
「一同、索超らの軍と協力して兵を進め、楡社《ゆしや》・大谷《だいこく》等の県を攻略し、迂廻して威勝州の賊の本拠のうしろへ出るよう。賊は万策つきれば金《きん》に投降するおそれがあるゆえ、決して手ぬかりのないように」
関勝らは命を受けて出かけて行った。
ついで陵川県の守城の将・李応と柴進、高平県の守城の将・史進と穆弘、蓋州の守城の将の花栄・董平・杜興・施恩らがそれぞれ新任の役人と交替して、軍をひきいて到着し、挨拶をした。そして、
「花栄ら諸将が蓋州の守備をしていたとき、北将の山士奇が壺関で敗れてのち、敗残兵をひきつれ、浮山県の兵を糾合して蓋州におそいかかってきたが、花栄らは二手の伏兵をいっせいに発して山士奇をいけどりにし、二千余の兵を討ちとったため、山士奇はついに投降し、そのほかの将兵はちりぢりに逃げてしまった」
という話をした。そして花栄らは山士奇をつれてきて特に宋先鋒に目通りさせた。宋江は酒を出させて歓迎し、挨拶をかわした。
宋江らはそのまま軍を昭徳城内にとどめて、張清と瓊英をおそれているかのごとく見せかけ、田虎に意を強くさせるようにしむけたが、このことはそれまでとする。
さて一方の盧俊義らはすでに汾陽府を攻め取っていた。田豹《でんひよう》は孝義県まで逃げて行ったが、そこで馬霊《ばれい》の軍がやってくるのに出くわした。この馬霊という男は、〓《たく》州のもので妖術ができ、足に風火《ふうか》の二輪を踏んで一日に千里を走った。そのため人々は彼を神駒子《しんくし》とあだ名していた。ほかにまた金磚《きんせん》(注二)の法をわきまえていて、人に打ちつけてなかなかの猛威をふるった。いくさにのぞむときには、その額にさらに一つの妖眼があらわれたので、人々はまた彼を小華光《しようかこう》(注三)ともあだ名していたが、術は喬道清よりも劣っていた。彼の配下にはふたりの偏将がいて、武能《ぶのう》および除瑾《じよきん》といったが、この二将はともに馬霊から妖術を学んでいた。さて、そのとき馬霊は田豹と兵を合流し、武能・徐瑾・索賢・党世隆・凌光・段仁・苗成・陳宣および三万の雄兵をひきしたがえ、汾陽城の北方十里のところに陣をかまえた。南軍の将領は連日馬霊らとたたかったが、敗けつづけた。盧俊義は兵をひきいて汾陽城内に退いたまま、たたかいに出ようとはせず、北軍が城に攻め寄せてくるのをひたすらおそれていた。かくてうちなやんでいるところへ、不意に東門の守備兵が駆けつけてきて、
「宋先鋒が、公孫勝と喬道清を、二千の兵をもって救援によこされました」
と知らせた。盧俊義は急いで城門をあけて迎え入れさせ、礼をかわしたのち、公孫勝を上座に、喬道清をそのつぎの座につかせ、酒宴をひらいて歓待した。そして盧俊義は、
「馬霊の法術はなかなかすさまじく、彼のために雷横・鄭天寿・楊雄・石秀・焦挺・鄒淵・鄒潤・〓旺・丁得孫・石勇ら数名の将領が手傷を負わされました。わたしは施すすべもなく、手を束ねておりましたのですが、ちょうどよいところへおふたりの先生においでいただきました」
といった。喬道清は、
「わたしと師匠(公孫勝)は、そのため宋先鋒に申し出まして、彼を捕らえるために出かけてまいったわけです」
そういっているところへ、とつぜん城門の守備兵が駆けつけてきて、
「馬霊が兵をひきいて東門におし寄せてまいりました。武能と徐瑾も同じく西門に、田豹も索賢・党世隆・凌光・段仁とともに同じく北門に攻め寄せてまいりました」
と告げた。公孫勝はその知らせを聞くと、
「わたしは東門から出て馬霊にあたるから、喬道清は西門から出て武能と徐瑾をひっ捕らえてくれ。盧先鋒には兵をひきいて北門から出、田豹にあたっていただきましょう」
といった。盧俊義はまた黄信・楊志・欧鵬・〓飛の四将に、兵をひきいて一清先生(公孫勝)を加勢させることにした。そのとき戴宗は馬霊が神行法を使うと聞いて、自分も公孫勝といっしょに出陣したいと申し出た。盧俊義はそれをゆるし、さらに陳達・楊春・李忠・周通に、兵をひきいて喬先生を加勢するようにと命じた。そして盧俊義みずからは秦明・宣賛・〓思文・韓滔・彭〓とともに兵をひきい、北門から討って出て田豹に立ちむかった。かくてその日、汾陽城外の東と西と北の三面には、旗旛が日をおおってはためき、金鼓が天をどよもして鳴って、いっせいにたたかいがくりひろげられた。
盧俊義と喬道清の二手の軍のたたかいはさておき、片や神駒子の馬霊は、兵をひきしたがえ、旗をうち振り軍鼓をうち鳴らし、悪罵を浴びせてたたかいを挑んだ。と、城門がひらき、吊り橋がおろされて、南軍の将領たちがどっとおし出してきて、兵を一文字にならべ、さながら長蛇のごとき陣を布いた。馬霊は馬を飛ばして出、戟をかまえて大声で呼ばわった。
「この糞やろうども、さっさとわれらの城を返せ。ぐずぐずしていると、甲《よろい》のかけらも残さず討ちとってやるぞ」
と、欧鵬と〓飛が馬をならべて進みいで、
「もはや年貢の納めどきだぞ」
と大喝。欧鵬は鉄鎗をかまえ、〓飛は鉄鏈を舞わしつつ、ふたりで馬をせかせてまっしぐらに馬霊におそいかかって行けば、馬霊は戟をかまえてこれを迎え、かくて三将はわたりあうこと十合あまり。馬霊は金磚をつかみ欧鵬めがけて投げつけようとしたが、そのときはやくも公孫勝は馬を驟《は》せて進みいで、剣をとって法をつかった。かなたで馬霊が手をふりあげれば、こなたでは公孫勝が剣をさしむける。と、たちまち雷鳴のような音がとどろき、あたりにはまっ赤な光がたちこめて、公孫勝の剣全体が火焔になり、馬霊の金磚はぽとりと地に落ちてころがり、たちまち消えうせてしまった。公孫勝の法術はまことにめざましく、あっというまに南陣の将兵も武器もことごとく火焔になり、長蛇の陣は一変して火竜のよう。かくて馬霊の金磚の法は、公孫勝の神火にうち負かされてしまったのである。公孫勝が払子《ほつす》でさし招くと、兵士たちはいっせいにおそいかかり、北軍は大敗を喫し、斬りたてられて星落ち雲散ずるごとく、四分五裂し、三人のうちふたりは討ちとられるというありさま。馬霊はたたかい敗れて逃げだしたが、幸い神行法を使うことができたので、足に風火の二輪を踏んで東のほうへと飛んで行った。南陣では神行太保の戴宗が、すでに甲馬をくくりつけて待っていて、これまた神行法を使い、朴刀をつかんでこれを追いかけて行く。たちまちにして馬霊は二十余里を飛ばしたが、戴宗はわずかに十六里しか行けず、みるみるうちに馬霊の姿を見うしなってしまった。ところが前方の馬霊は、駆けて行くうちに、ひとりの肥った和尚に出くわした。和尚は真向うからおそいかかってきて馬霊を禅杖で打ちたおし、わけなくおさえこんで(注四)、たちまち馬霊を捕らえてしまった。
その和尚が馬霊を詰問しているところへ、戴宗はようやく追いついて行ったが、見れば馬霊が和尚にとりおさえられている。戴宗が近づいて行ってその和尚を見ると、なんとそれは花和尚の魯智深だった。戴宗がおどろいて、
「和尚、どうしてこんなところへ」
とたずねると、魯智深は、
「ここはいったいどこなんだ」
という。
「ここは汾陽府の城の東はずれです。その者は北軍の将の馬霊なのですが、さきほど公孫一清にいくさでその妖術を打ち破られ、わたしがあとを追いかけてきたのです。こやつはなかなか足がはやいのですが、うまいぐあいに和尚につかまえられてしまいました。それにしても和尚は、まったく天から降ってでもきなさったのか」
魯智深は笑いながら、
「わしは天から降ってきたのじゃなくて、地から湧いてきたのさ」
かくてふたりは馬霊を縛りあげ、三人は歩いて汾陽府へむかった。戴宗は再び魯智深にいきさつをたずねた。魯智深が歩きながら話すには、
「二三日前、田虎がひとりの糞阿魔を襄垣の城外へたたかいによこしたのだが、そやつはつぶてを飛ばすことがうまくて、多くの頭領たちに手傷を負わせやがったのだ。わしはそのとき、斬りこんで行ってその糞阿魔をとっつかまえてくれようとしたところ、草むらの中に穴があったのに気がつかず、両脚とも空《くう》を踏んで穴のなかにころげ落ちてしまったんだ。しばらくしてようやく穴の底まで落ちたが、さいわいどこにも怪我はない。穴のなかを見まわすと、わきのほうにもうひとつ穴があって、そこから光が射しこんでいる。はいって行って眺めてみると、いやはや奇っ怪なことには、地上とおなじように天があり日があり、村や家もあるのだ。そしてその住民たちも、やはりそこで忙がしそうに仕事をしていたが、わしを見てみんな笑っているのだ。かまわずにどんどん進んで行って、人家の群がっているところを通りすぎると、そこはひっそりとした広い野原で、人家もない。しばらく歩いて行くと、ふと一軒の草の庵《いおり》が目についた。庵のなかからはぽくぽくと木魚の音が聞こえてくる。はいって行って見ると、わしとおなじ和尚がひとり、床に坐って(注五)お経を念じている。わしが出口をたずねると、その和尚は、
『来るは来る処より来る、去るは去る処より去れ』
と、こういうんだ。わしはなんのことやらわからず、腹が立ってきた。するとその和尚は笑いながら、
『ここがどこだかご存じかな』
という。
『こんなくだらんところを知っていてたまるもんか』
とわしがいうと、その和尚はまた笑って、
『上《かみ》は非非想《ひひそう》(注六)に至り、下は無間地《むげんち》(注七)に至り、三千大千(注八)、世界広遠、人能《よ》く知る莫《な》し』
といい、さらに、
『およそ人みな心あり、心あれば必ず念あり。地獄 天堂みな念に生ず。この故に三界(注九)惟心《ゆいしん》、万法(注一〇)惟識《ゆいしき》にして、一念生ぜざればすなわち六道(注一一)ともに消滅し輪廻(注一二)ここに絶ゆ』
というのだ。わしはそういわれて、わけがわかったので、
『はっ』
と叫んでかしこまると、和尚は声をあげて笑いながら、
『そなたは縁纏井《えんてんせい》(因業《いんごう》の井戸)に落ちこんで、欲迷天《よくめいてん》(三界の一つの欲界)からなかなかぬけ出せぬのじゃ。わしがその道を教えて進ぜよう』
といい、わしをつれてその庵を出たのだが、わずかに四五歩行ったところで、わしにむかっていうには、
『これでお別れしよう。いずれまたお目にかかることもあろう』
そして手をあげて前方を指さし、
『これをまっすぐ行けば神駒《しんく》を手にいれることができよう』
というのだ。わしがふり返って見たときには、もうその和尚の姿はなく、眼の前がぱっと明るくなって、あたりはもとの世界。そのときこの男に出くわしたのだが、どうも様子がおかしいので、禅杖で打ちたおしてやったというわけだ。それにしてもどうしてここへきたのかさっぱりわけがわからん。ここの陽気は、昭徳府のあたりとはちがって、桃や李は大きな葉っぱをひろげているだけで、ひとつも花は咲いておらんじゃないか」
「いまはもう三月の末で、桃や李の花はみんな散ってしまったんですよ」
と戴宗は笑いながらいった。魯智深はどうしても本気にせずに、いい張った。
「いまは二月の末だよ。ついさっき井戸に落ちて、ほんのしばらくいただけなのに、どうして三月の末なものか」
戴宗は話を聞いて、まったく不思議なことだと思った。ふたりは馬霊をひきたててまっすぐ汾陽城へとむかって行った。
このとき、公孫勝はすでに北軍を蹴散らし、兵を収めて城内にひきあげていた。盧俊義・秦明・宣賛・〓思文・韓滔・彭〓らは、索賢・党世隆・凌光の三将を討ちとり、そのまま十里さきまで田彪・段仁らを追って行って、北軍を斬り散らした。田彪は、段仁・陳宣・苗成らとともに敗残の兵をひきつれて北のほうめざして逃げて行った。かくて盧俊義は兵を収めて城へひきあげて行ったが、すると喬道清が武能・徐瑾らを破って、陳達・楊春・李忠・周通らとともに兵をひきつれて追撃しているのに出あった。(そこで盧俊義はこれに加勢し)南軍は二手からいっせいに攻めたので、北軍は大敗して多くの死者を出した。武能は楊春の大桿刀《だいかんとう》に馬から斬って落とされ、徐瑾は〓思文に刺し殺された。南軍の奪い取った馬匹・衣甲・金鼓・鞍轡《あんひ》の数はかぞえきれぬばかり。盧俊義は喬道清と兵をあわせ、凱歌を奏して入城した。
盧俊義が府の役所へ着いたところへ、魯智深と戴宗が馬霊をひきたててきた。盧俊義は大いによろこび、あわただしくたずねた。
「魯智深どの、どうしてここへこられたのだ。宋兄貴と〓梨のやつのたたかいはどうなりました」
魯智深はまたさいぜんの井戸に落ちた話と、宋江と〓梨とのたたかいの模様をくわしく話した。盧俊義ら諸将は、しきりに不思議がった。
そのとき盧俊義はみずから馬霊の縛《いま》しめを解いてやった。馬霊はみちみち魯智深のあの話を聞いていたところへ、いままた盧俊義からこのようにあつかわれ、平伏して投降を願い出た。盧俊義は全軍の将兵をねぎらった。翌日、晋寧府の守城の将領たちが、新任の役人と交替して、みんな汾陽へやってきて指揮下にはいった。盧俊義は戴宗を馬霊とともに宋先鋒のところへ勝報をとどけにやる一方、ただちに副軍師の朱武と征進のことを協議したが、このことはそれまでとする。
さて馬霊は戴宗に、日に千里を行く法を伝授し、ふたりは一日で宋先鋒の軍前に到着、陣地にはいって挨拶をし、くわしく勝利を報告した。宋江は魯智深の例の話を聞くと、不思議がり、かつよろこんだ。そしてみずから陳安撫のもとへ出かけ、会って勝利を報告したが、このこともそれまでとする。
ところで一方田彪は、段仁・陳宣・苗成らとともに、敗残の兵をひきつれて、喪家《そうか》の狗《いぬ》のごとくおろおろと、漏網《ろうもう》の魚のごとくあたふたと、威勝へたどりつき、田虎に会って、いくさに敗れ地をうしなったことを泣いて訴えた。とそこへ偽の枢密院官が、あわただしく参内してきて奏上した。
「大王さま、このところ早馬が、雪の降るように急ぎの知らせ(注一三)をもたらしてまいりますが、それによりますと、統軍大将の馬霊はすでに捕らわれの身となり、関勝・呼延灼の軍は楡社《ゆしや》県を包囲し、盧俊義らの軍は介休県《かいきゆうけん》を討ち破ったとのことでございます。ただ襄垣県《じようえんけん》の〓国舅《うこくきゆう》さまのところからだけは、しばしば勝報がまいりまして、宋軍はまともにたちむかうこともできぬとのことでございます」
田虎はその知らせを聞くと大いにおどろいて、どうしてよいやらわからない。文武の諸官は協議をして、北のかた金の国に投降しようといい出した。と、そこにいた偽の右丞相太師の卞祥《べんしよう》が、一同を叱りつけて、奏上した。
「宋軍がたとえ三方からおし寄せてまいりましても、このわが威勝は万山をめぐらし、糧秣は二年ささえることができ、御林衛駕《ぎよりんえいが》(近衛)等の精兵二十余万を有しており、東は武郷《ぶきよう》、西は沁源《しんげん》の二県には、それぞれ精兵五万があり、背後には太原《たいげん》県・祁《き》県・臨《りん》県・大谷《だいこく》県など、その城池は堅固で糧秣は充足しておりまして、まだまだ十分たたかって守ることができます。古語にも、寧《むし》ろ鶏口《けいこう》となるも牛後《ぎゆうご》となるなかれ(注一四)、と申すではございませんか」
田虎がためらって答えをしぶっていると、そこへまた知らせがあって、
「総管の葉清がまいりました」
という。田虎はただちに通すようにと命じた。葉清は拝舞の礼をしてから、いい出した。
「郡主ならびに郡馬さまには、しばしば勝利を得られて軍の士気は大いに奮い、軍は昭徳府に迫っていまやこれを包囲しようとしているところでございますが、たまたま〓国舅さまが風邪《か ぜ》にかかられて軍の指揮をおとりになることができなくなりましたので、大王さまにはなにとぞ、良将と精兵を派遣されて、郡主ならびに郡馬さまに協力させられ、昭徳府を奪還されますよう」
そこにいた偽の都督の范権《はんけん》も奏上した。
「郡主ならびに郡馬さまには、はなはだ驍勇《ぎようゆう》にあらせられまして、宋軍もまともにたちむかうことができぬとのこと。このうえもし大王さまがご親征なされて、雄兵猛将をもってこれを助けられますならば、必ずや中興の大業を成しとげられましょう。その間、わたくしは太子をおたすけして国の留守をおあずかりいたしましょう」
田虎はその奏言をききいれた。そもそも范権の娘は傾国の美女であったが、范権がその娘を田虎に献じたところ、田虎ははなはだこれを寵愛し、そのため范権のいうことはどんなことでもききいれたのである。このたび范権は葉清からたくさんな賂《まいない》をもらい、また宋軍の勢いの強大なのを見て、これを機に彼は国を売ることにしたのだった。
そのとき田虎は、卞祥《べんしよう》に将領十名と精兵三万をあたえて、盧俊義・花栄らの軍にあたらせることにし、さらに偽の太尉の房学度《ぼうがくど》には、おなじく将領十名と精兵三万をひきいて楡社へ行き、関勝らの軍にあたらせることにした。そして田虎みずからは偽の尚書の李天錫《りてんしやく》・鄭之瑞《ていしずい》・枢密の薛時《せつじ》・林〓《りんきん》・都督の胡英《こえい》・唐昌《とうしよう》、および殿帥・御林御駕の教頭・団練使・指揮使・将軍・較尉らをしたがえ、精兵十万を選りすぐり、吉日をえらんで旗を祭り軍をおこし、牛馬を屠って全軍の兵をねぎらった。ついで令旨をくだして、弟の田豹《でんひよう》と田彪《でんひゆう》に、都督の范権以下文武の諸官とともに太子の田定《でんてい》を輔佐して国の留守をまもるよう命じた。
葉清はこれらの消息を知ると、ひそかに腹心のものを襄垣の城内へ飛ばして張清と瓊英に知らせた。張清は、解珍と解宝を縄に縋《すが》って城外へ脱《ぬ》け出させ、急いで宋先鋒のもとへ知らせにやった。
一方卞祥《べんしよう》は、兵符のくだるのを待ち、兵士を選び、三日かかってようやく、樊玉明《はんぎよくめい》・魚得源《ぎよとくげん》・傅祥《ふしよう》・顧〓《こがい》・寇〓《こうちん》・管〓《かんえん》・馮翊《ふうよく》・呂振《りよしん》・吉文炳《きつぶんへい》・安士隆《あんしりゆう》らの偏将・牙将、および兵三万をひきしたがえて威勝州の東門から繰り出して行った。軍は二手に分かれ、前隊は樊玉明・魚得源・馮翊・顧〓らが五千の兵をひきいて出発した。かくて沁源県の綿山《めんざん》というところにさしかかったとき、丘の麓に大きな林があって、前軍がちょうどその林を通り抜けたとたん、銅鑼が一声鳴りひびき、林のむこうの丘の麓から一隊の軍勢が飛び出してきた。それは、宋公明が張清の知らせを受けてひそかに花栄・董平・林冲・史進・杜興・穆弘らに精悍な騎兵五千をつけ、人は身軽によろい、馬は鸞鈴《らんれい》をはずして、急いでここへさしむけたものであった。その軍中の一将の、馬を飛ばしてまっさきに立ち、両手に二本の鋼鎗を持っているのが、すなわち宋の軍中きっての先陣破り、双鎗将の董平で、
「そこへやってきたのはどこの軍勢だ。手間をとらせず、さっさと縄を受けるがよかろう」
と大喝した。樊玉明は大声で罵り返した。
「水たまりの盗っ人どもめ、よくもわれらが城を奪いおったな」
董平は大いに怒り、
「天兵がまいったというに、なおも手むかいいたすか」
と怒鳴るや、馬をせかせ二本の槍をかまえてまっしぐらに樊玉明におそいかかって行く。片や樊玉明も馬を飛ばし槍をしごいてこれを迎え討ち、かくて二将はわたりあうこと二十余合。樊玉明はたじたじとなって、ついに受けきれなくなり、董平の槍に咽喉《の ど》を刺されて、まっさかさまに落馬した。かなたでは馮翊《ふうよく》がかっとなって、渾鉄の槍をかまえつつ馬を飛ばしてまっしぐらに董平におそいかかれば、こなたでは小李広の花栄が馬を驟《は》せ、これをさえぎってたたかった。二将はわたりあうこと十合あまり、花栄は馬首を転じて自陣のほうへ逃げだした。馮翊が馬を飛ばしてこれを追うと、花栄は花鎗《かそう》を了事環に掛け、弓をとって矢をつがえ、満々とひきしぼって身をよじむけ、馮翊の近づいてくるのに狙いをさだめてぱっと射放てば、矢は馮翊の顔に命中し、馮翊は〓《かぶと》をさかしまに、両足を空にむけてどっと落馬した。花栄は馬を返して、さらに槍でとどめを刺した。董平・林冲・史進・穆弘・杜興らは、兵をさし招いてどっとおそいかかって行く。顧〓ははやくも林冲に刺し倒され、魚得源は馬から落ちて人馬に踏み殺され、北軍は大敗を喫して五千の兵の大半は討ちとられ、その余のものはちりぢりに逃げ失せてしまった。花栄らの配下の兵は、金鼓や馬匹を奪いとり、北軍を追いかけて五里むこうまで行った。と、そこで卞祥の大軍のやってくるのに出くわした。
この卞祥という男は、百姓の出で、その両腕には水牛のような力があり、武芸にも精熟していて、賊軍きっての上将であった。そのとき両軍相《あい》対し、旗鼓相《あい》望み、両陣内では画角《がかく》がいっせいに吹き鳴らされ、〓鼓《だこ》が互いに打ち鳴らされるなかを、北将の卞祥が馬を進めて陣頭に立った。頭には鳳翅の金〓をいただき、身には魚鱗の銀甲をつけ、身の丈《たけ》は九尺、三すじの口をおおう鬚、面《かお》は角《かく》ばり肩幅ひろく、眉は逆立ち眼は円く、衝波《しようは》の戦馬にうちまたがり、開山《かいざん》の大斧をひっさげている。その左右には、傅祥・管〓・寇〓・呂振の四人の偽の統制官がひかえ、そのうしろにはさらに偽の統軍・提轄・兵馬防禦・団練などの諸官がつきしたがい、兵士たちは隊伍を組んで、整然たる陣を布いていた。
南陣からは九紋竜の史進が馬を驟《は》せて陣頭にあらわれ、
「そこへやってきたのは何者だ。刀や斧を汚させずに、さっさと馬をおりて縄を受けるがよかろう」
と大喝した。卞祥は大声で笑って、
「瓶《つぼ》や罐《かめ》にも二つの耳はあるはず。きさまだってわが卞祥という名を聞いたことがあろう」
「謀叛《むほん》に組する下郎め、天兵がまいったというに、なおも手むかいする気か」
と史進は怒鳴りつけ、馬をせかせ三尖両刃八環《さんせんりようじんはちかん》(注一五)の刀を舞わせつつ、まっしぐらに卞祥めがけておそいかかって行く。卞祥も大斧を振りまわしてこれを迎え討つ。両馬相交わり、両器並びに挙《あ》がり、刀と斧は縦横に飛びかい、馬の蹄は撩乱といり乱れて、わたりあうこと三十余合におよんだが、勝敗は決しなかった。こなたでは花栄が、卞祥の武芸のめざましさを惜しんで、冷箭《れいせん》(かくし矢)を射つにしのびず、馬をせかせ槍をかまえて加勢に出た。卞祥は三将を相手に奮戦し、さらにわたりあうこと三十余合におよんだが、勝敗はなお決しない。北軍の将兵は、卞祥に万一のことがあってはと、急いで金鼓を鳴らしてひきあげさせた。花栄と董平も、はや日も暮れてきたうえに、無勢に多勢では敵すべくもないので追うことをやめ、おなじく兵をひきあげて南のほうへさがった。かくて両軍は十余里を隔ててそれぞれ陣をとった。
その夜は南風がはげしく吹き、濃雲は墨をまき散らしたように垂れこめ、夜半には大雨が降り出し、しきりに雷鳴がとどろいた。このとき田虎は多くの役人や将領や兵をひきしたがえて、すでに威勝の城を百里あまり離れていた。日が暮れたので宿営についたが、本営には軍についてきた内侍の姫妾《きよう》や范美人《はんびじん》(范権の娘。美人は女官の官名)もいて、本営内で酒盛りがひらかれた。その夜やはり大雨にあい、それから五日間ひきつづいての霖雨《りんう》で、上は、張りめぐらした天雨蓋《てんうがい》(天幕)がすっかり漏り、下は下で水びたしになって、兵士たちは炊事にも立居《たちい》にもこまり、角弓はふやけ、矢の羽はぬけ落ち、各軍営の兵士たちはみな営内にじっとこもったままになってしまったが、この話はそれまでとする。
一方、索超・徐寧・単廷珪・魏定国・湯隆・唐斌・耿恭らの諸将は、関勝・呼延灼・文仲容・崔埜らの歩兵、および水軍の頭領李俊らの水軍の船を迎え、諸将協議のすえ、単廷珪と魏定国を残して〓城を守らせ、関勝らの将領は、水陸並び進み船騎《せんき》同行して、楡社県を討ち破り、索超と湯隆を城の守備に残して、関勝ら一同は、勝ちに乗じて長駆し、破竹の勢いでさらに大谷県を攻め落とし、守城の将領たちを討ちとった。その余の牙将や兵士たちの投降したものはかぞえきれぬほどであった。関勝は軍民を宣撫し、将兵の労をねぎらい、使いのものを宋先鋒のところにやって勝利を知らせた。ところが翌日、関勝らも同じ時に大雨にあい、城内にとどまったまま前進することができなくなった。と、そこへ知らせがあって、
「盧先鋒は、宣賛・〓思文・呂方・郭盛らをあとに残し、兵をつけて汾陽府の守備をさせておいて、みずからは他の諸将とともに介休・平遥の二県を攻め落とし、韓滔と彭〓を残して介休県を守らせ、孔明と孔亮には平遥県を守らせて、みずからは多くの将領と兵をひきつれて現に太原県の城を包囲しているが、やはり雨にはばまれて攻めることができずにいる」
とのこと。そのときちょうど水軍の頭領の李俊が城内にいて、この知らせを耳にするや、あわただしく関勝にいった。
「盧先鋒らはいま連日の長雨に困っておられますが、大水が出たら全軍は踏みとどまれなくなります。もしそこへ賊が決死の兵を選りすぐって城外へ討ち出してでもきたら、どうなりましょう。ついてはわたしに一計がありますから、盧先鋒のところへ出かけて行って話してみたいと思うのですが」
関勝はそれをゆるした。
そのとき混江竜の李俊は、さっそく関勝に別れを告げて城をいで、童威と童猛に水軍の船をあずけ、みずからは二張(張順と張横)・三阮(阮小二・阮小五・阮小七)とともに水軍の兵二千をひきつれ、笠をかぶり簔《みの》を着、風雨をついて間道を盧俊義の軍前に馳せつけ、陣中にはいって対面し、挨拶もそこそこに、さっそく盧俊義としばらく密談をした。盧俊義は大いによろこび、ただちに兵士に命じて、雨をおかして木を伐り筏をこしらえさせた。そして李俊らは手分けをして事にとりかかったが、この話はそれまでとしておく。
一方、太原の城の守城の将の張雄《ちようゆう》は、偽の殿帥の職をさずかり、項忠《こうちゆう》と徐岳《じよがく》は偽の統制の職につけられていたが、この三人は賊のなかでももっとも殺伐なやつで、その配下の兵士たちはいずれも残虐淫暴なものばかり。城内の住民はその暴虐に堪えきれず、家産を捨てて、てんでに逃げ、十人のうち七八人までがもはやいなくなっていた。張雄らはいまや大軍に包囲されながら、要害をたのんで屈服しようとはしない。張雄は項忠・徐岳とともに、
「いま雨が降っていて、宋軍は掠奪をしようにもする所がなく、水びたしの不利な地勢にいて、糧食もすでに底をついており、兵士たちは浮足だっているから、不意を突いてこれを攻めるならば必ず大勝を得ることができよう」
と相談をまとめた。時節は四月の上旬であった。張雄は兵を分け、四つの城門から繰り出して行って宋軍におそいかかろうとした。と、とつぜん四方から銅鑼の音が鳴り出した。張雄が急いで城楼へのぼって城外を見わたすと、宋軍が雨の中を、屐《げき》(木履)をはいていっせいに岡や山へのぼって行く。張雄がなにごとかといぶかしがっていると、またもや智伯渠《ちはくきよ》(注一六)のあたりと東方と西方の三方面から、天をどよもす喊声が湧きおこって、千軍万馬が狂奔し馳駆する音のよう。と、たちまち、洪波《こうは》(大波)怒濤《どとう》がおし寄せて、さながら、秋八月の潮《うしお》がすさまじい勢いでふくれあがり、天上から黄河の水を傾けてそそぎかけるかのよう。まさに、功は智伯《ちはく》の城三板《さんばん》に過ぎ(注一七)、計は淮陰《わいいん》の沙《すな》幾嚢に勝る(注一八)、というところ。さて、この水はいったいどうなることか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 招贅 贅は女婿。むこを迎えること。
二・三 金磚の法、小華光 ともに第三十七回注一参照。この馬霊のあだ名(小華光)から見れば妖神華光は三眼とされていたようである。
四 わけなくおさえこんで 原文は牽羊。歇後語(後を歇《や》める言葉)という暗喩法で、「牽羊入虎群」という句の頭のほうだけを用いたもの。「羊を牽いて虎群に入る」とは、弱者を誘い苦しめること。
五 坐って 原文は盤膝。膝を折り曲げること。
六・七 非非想、無間地 非非想は仏家の諸天のうち最高の天で、無念無想の清浄な境地。非想天の上に位する。無間地は同じく地獄のうちの最低の地獄。すなわち、「上は非非想に至り下は無間地に至る」とは、天のはてから地のきわみまでの意。
八 三千大千 広大無辺の意。
九・一〇 三界、万法 三界は欲界・色界・無色界。万法はもろもろの教義。すなわち三界は惟《こ》れ心であり、万法は惟れ識《しき》(道理をさとること)であるとの意。
一一・一二 六道、輪廻 六道《りくどう》は天・人・阿修羅・鬼・畜・地獄。輪廻《りんね》とは罪障ある衆生が因果応報によって六道を車輪の廻るようにめぐって窮りのないこと。
一三 急ぎの知らせ 原文は羽書。急ぎの文書にはそのしるしとして鳥の羽をつけた。
一四 寧ろ鶏口となるも牛後となるなかれ 大きなものの尻につくよりも小さなものの頭になったほうがよいとの意。『史記』の蘇秦《そしん》列伝に、蘇秦が韓の宣恵王に秦に従うことの不利を説いた言葉のなかに見える。『戦国策』にも見えるが、ともにこの言葉は「鄙語にいう」として引用されている。
一五 三尖両刃八環 第二回注一二参照。
一六 智伯渠 智伯の渠。渠は、川の水をひいた掘割りのこと。次注参照。
一七 功は智伯の城三板に過ぎ 智伯は春秋時代の晋の哀公に仕えた野心家で、同じく晋の重臣であった趙・魏・韓の三氏に対してその領地の割譲を迫ったところ、韓・魏はおそれて従ったが、趙の襄子《じようし》はこれを拒んだ。智伯は怒って、韓・魏をひきしたがえて趙を攻め、襄子は逃げて晋陽《しんよう》(山西省)にたてこもった。晋陽の城は固く、容易に抜くことができなかったので、智伯は一計を案じ、掘割りをつくってかたわらを流れる汾水《ふんすい》の水を引き、晋陽城を水攻めにした。晋陽城は城壁をあとわずか三板をあますところまで浸されるに至った。三板とは、当時の城壁は板と板との間に土を積んで築かれたので、板の数で高さが計られたのである。一板は約八尺という。このたたかいは、結局、襄子が智伯を逆に水攻めにし、智伯は捕らえられて、ついに殺されるところとなる。(『史記』趙世家・『戦国策』趙襄子上)
一八 計は淮陰の沙幾〓に勝る 漢の高祖が天下を統一する前、高祖の命を受けて韓信《かんしん》が斉を攻めたときの故事である。このとき斉王の田広《でんこう》は楚の項羽《こうう》に救いを求めた。項羽は麾下の将の竜沮《りゆうそ》と周蘭《しゆうらん》を救援にむかわせ、漢軍と楚軍は〓水《いすい》(山東省)をはさんで対峙した。韓信は夜、砂を嚢《ふくろ》につめて川の上流をせきとめ、夜あけとともに川をわたって竜沮の軍を攻め、敗れたと見せかけて、また川をわたって逃げもどった。竜沮が追撃に出たとき、韓信はすかさず上流の堰を切った。竜沮の軍の大半は渡河をはばまれた。韓信はわたってきた竜沮とその少数の手勢におそいかかり、竜沮を討ちとって大勝を博した。(『十八史略』)
第百回
張清《ちようせい》瓊英《けいえい》 双《なら》んで功を建て
陳〓《ちんかん》宋江《そうこう》 同《ひと》しく捷《かち》を奏《そう》す
さて、太原の県城は、混江竜《こんこうりゆう》の李俊が大雨のあとの水勢の、にわかにふくれあがったのに乗じ、二張・三阮とともに水軍をひきしたがえ、時刻をしめしあわせ、それぞれ手分けをして智伯渠および晋水《しんすい》の水を決《き》って導き、太原城を水攻めにしたが、またたくまに水はすさまじい勢いでふくれあがって、
驟然《しゆうぜん》として急水《きゆうすい》飛び、忽地《こつち》として洪波《こうは》起る。軍卒は木筏《もくばつ》に乗って衝《つ》き来り、将士は天〓《てんこう》(注一)に駕して飛び至る。神号《さけ》び鬼哭《な》き、昏々として日色は光を無《なみ》し、嶽撼《ゆら》ぎ山崩《くず》れ、浩々として波声は怒れるが若《ごと》し。城垣《じようえん》は尽く倒れ、窩鋪《かほ》(小屋)は皆休す。旗幟《きし》は波に随い、青紅の交雑するを見ず、兵戈《へいか》は浪に汨《しず》み、霜雪の争叉するを排《なら》べ難し。僵屍《きようし》は魚鼈《ぎよべつ》の如く沈浮し、熱血は波と与《とも》に並び湧く。須臾《しゆゆ》にして樹木は根を連ねて起《た》ち、頃刻《けいこく》にして榱題《すいだい》(椽《たるき》の端《こぐち》)は水に貼《つ》いて飛ぶ。
たちまち城内は上を下への大混乱におちいり、軍民将兵はとつぜんの出水に、みなずぶ濡れになって塀に這いあがり屋根にのぼり、木によじのぼり梁に抱きつき、老人や子どもや肥ったものは、やむなく食卓や机の上にあがったが、あっというまに机ごと浮きあがり、家は傾き崩れて、なにもかもみな水中の藻屑《もくず》と化してしまった。
城外の李俊・二張・三阮は、大筏(注二)に乗って城に迫って行ったが、水はちょうど城壁すれすれの高さ。宋軍の兵士たちは城壁によじのぼり、てんでに利刃をふるって守城の兵士たちを斬りたおした。そこへさらに宋軍の兵士たちが、筏に乗ってどっとおし寄せてきて、城壁はその衝撃でぐらぐらと傾いた。
張雄は城楼の上で、悲鳴をあげることすらできずにいたが、そこへ、張横と張順が大筏からあがってきて、朴刀を手に雄叫びをあげて城楼へおしのぼり、つづけざまに十名あまりの兵を斬りたおした。一同はばらばらと逃げだしたが、張雄はかくれるいとまもないうちに張横の朴刀に斬り伏せられ、さらに張順に踏みこまれて、ざくりと、一刀のもとに首を刎《は》ねられてしまった。
水が四方にひいたあとには、城内の軍民の溺死したもの、圧死したものはかぞえきれぬほどであった。梁・柱・戸・扉・窓・櫺《れんじ》・家具・死体などが、水の流れのままに城の南側をうずめつくしていた。城内ではただ、北斉《ほくせい》の神武帝《しんぶてい》の建立になる避暑宮《ひしよきゆう》の跡だけが高く土台もしっかりしていたので、そのとき、近くの軍民たちはいっせいにここへ駆けのぼり、おしあいへしあい、踏んづけあって、死者も二千人を越えた。高みや城壁の上をあわせて、生き残ったものは全部でわずか千人あまりしかなかった。城外の住民は、これは盧先鋒がひそかに里保《りほ》(注三)を呼び、住民に知らせてあらかじめ用意をさせていたので、銅鑼の音を合図にただちにみな高みへ避難していた。しかも城外は四方がひろくひらけていて水のひくのがはやかったため、城外の住民で水に沈んだものはいなかった。
そのとき混江竜の李俊は水軍をひきいて西門を占領し、船火児《せんかじ》の張横は浪裏白跳《ろうりはくちよう》の張順とともに北門を奪い、立地太歳《りつちたいさい》の阮小二と短命二郎《たんめいじろう》の阮小五は東門を取り、活閻羅《かつえんら》の阮小七は南門を奪った。かくて四つの城門にはみな宋軍の旗じるしがかかげられた。夕暮れになって、水がひき平地があらわれると、李俊らは城門をあけ放ち、盧先鋒らの軍の入城を請うた。城内には鶏や犬の声は聞こえず、ただ死骸が山を築いていた。張雄らの悪逆はそのかぎりをつくしていたとはいえ、李俊のこの計略もまことに惨酷なものであった。かの生き残った千余人のものは、泥水の上に点々とひざまずいてぺこぺこと叩頭を繰り返し、命乞いをしていた。盧俊義がそれらのものを検《しら》べてみたところ、兵卒は十名あまりいるだけで、あとはみな一般の住民だった。
項忠と徐岳は、元帥府のうらの傍房(側棟《わきむね》)のかたわらにある大きな檜の木によじのぼっていたが、水をひいたのを見てすべりおりてきたところを南軍の兵に捕らえられて、盧先鋒のところへつれて行かれた。盧俊義は打ち首にして見せしめにした。そして城内の府軍の銀両を出して城の内外の水難にあった住民の救済にあて、使いを宋先鋒のところへ出して戦勝を知らせるとともに、また兵士たちに死骸を埋葬させ、城壁や家屋を修築させて、住民を呼んで住まわせた。
盧俊義が太原県で住民を宣撫し、いくさのあと始末をしたことはさておき、話はまだ太原が陥《おちい》らぬときのことである、田虎が十万の大軍をひきいて雨のために銅〓山《どうていざん》の南に駐留していると、物見の兵が知らせにきて、
「〓《う》国舅さまが病没されましたので、郡主ならびに郡主さまは軍を襄垣《じようえん》まで退《ひ》き、国舅さまの葬儀をとりおこなっておられます」
という。田虎は大いにおどろき、使者を襄垣の城内へつかわして令旨をつたえさせた。
「瓊英《けいえい》はそのまま城内にあって城を守備せよ。全羽《ぜんう》は当地へきて指揮を仰げ」
同時にまた質《ただ》させた。
「襄垣へ使いに出してやったものは、ひとりも復命にもどってこないが、いったいどうしたわけか」
翌日、雨はあがった。明けがた、物見の兵が駆けつけてきて、
「宋江が、孫安と馬霊に兵をあたえて防戦に繰り出させました」
と告げた。田虎はその知らせを聞くと大いに怒り、
「孫安も馬霊も、わしの高位厚禄を食《は》みながら、いまになって寝返るとは、まことにゆるし難いやつだ。わしがこの手で誅罰を加えてくれよう。みなのものも力をつくせ。ふたりを捕らえたものには、千金の賞をあたえ万戸の侯に封じようぞ」
といい、ただちにみずから兵を駆りたてて出陣し、宋軍と相《あい》対した。
北軍が宋軍の旗じるしを見ると、それは病尉遅《びよううつち》の孫立と鉄笛仙《てつてきせん》の馬麟だった。
北軍の陣頭には金瓜《きんか》(金瓜鎚)が隈《くま》なくならび、鉄斧《てつぷ》がずらりとそろい、剣戟《けんげき》は列をなし、旗旛《きはん》は隊をつくり、九曲の飛竜をえがいた赭黄《しやこう》色の傘の下、玉の轡《くつわ》に金の鞍《くら》をおいた、銀の〓《たてがみ》の白馬の上には、草頭大王《そうとうたいおう》(盗賊の首魁)の田虎がうちまたがり、陣頭に進み出てみずからいくさの指揮をとっている。
南軍の陣地の後方には、宋江が、呉用・孫新・顧大嫂・王英・扈三娘・孫立・朱仝・燕順らの軍をひきしたがえて到着、宋江もみずからいくさの指揮をとった。
田虎はそれが宋江だと聞くと、将を繰り出して宋江を捕らえさせようとした。と、そこへ早馬が駆けつけてきて、
「関勝らが楡社《ゆしや》・大谷《だいこく》の二城を相ついで破り、西路の盧俊義の軍もまた、平遥《へいよう》・介休《かいきゆう》の二県を討ち破り、太原城を水攻めにして城内の将兵はひとり残らず討ちとられてしまいました。右丞相の卞祥《べんしよう》どのには、綿山に陣を構えて花栄らと対峙しておられましたが、盧俊義が太原から兵をひきつれてきてその背後をおそい、右丞相は前後からの挟み討ちにあってささえきれず、大敗を喫し、盧俊義にいけどられて敵陣へひかれて行かれました。盧俊義は関勝と兵を合わせて、沁源《しんげん》県を鉄桶《てつとう》のように包囲してしまいました」
と告げた。田虎はこれを聞くと大いにおどろきうろたえ、あわただしく令旨をくだし、ただちに軍を退《ひ》いて威勝の城内にたてこもることにした。
かくて、李天錫《りてんしやく》らが殿軍《しんがり》をつとめ、薛時《せつじ》・林〓《りんきん》・胡英《こえい》・唐昌《とうしよう》らが田虎を護って先行して行ったが、やがて、とつぜん銅〓山《どうていざん》の北方で砲声がとどろき、宋江がひそかに精悍な歩兵をつけて銅〓山の北へまわらせておいた魯智深・劉唐・鮑旭・項充・李袞らが、二手に分かれておそいかかってきた。田虎は急いで御林《ぎよりん》軍を駆りたてて防戦した。と不意にまた馬霊と孫安が、兵をひきいて東方から横なぐりに攻めかかってきた。馬霊は足に風火《ふうか》の二輪を踏みつつ北軍めがけて金磚《きんせん》(注四)をばらばらと投げつけ、孫安は双剣をふるって斬りまくった。二将は兵をひきいてさながら無人の境を行くがごとく北陣に突入し、北軍を二つに断ち切ってしまった。北軍は十万の大軍を擁していたものの、呉用の画策《かくさく》したこの三手の軍勢によって、前から横から縦横無尽に突きまくられ斬りまくられ、北軍は大敗を喫して星落ち雲散るがごとく四分五裂となった。そのとき偽の尚書の李天錫らは、田虎を護りつつ東のほうへと突き進んで逃げだしたが、魯智深らのひきいる標鎗《なげやり》・団牌《まるたて》・飛刀《なげがたな》の兵たちが血路を突破し、どっとおそいかかって行って、李天錫・鄭之瑞・薛時・林〓らの軍を蹴散らし、西のほう(もとの道)へ遁走させた。田虎の麾下のものは御林の兵で、もっとも精悍なものの選りすぐりだったが、彼らはこれまで官軍とたたかってきて今日ほど兇猛な相手に出くわしたことはなく、とうていこれを食いとめることはできなかった。
そのとき田虎の左右には、わずかに都督の胡英・唐昌・総管の葉漬および金吾(注五)・較尉《こうい》らの将が残っているだけで、五千の敗残の兵をひきしたがえて田虎を護りながら逃げて行った。かくていよいよ土壇場に追いつめられたとき、またもや一隊の軍勢が東のほうから飛び出してきた。田虎はそれを見るや天を仰いで長嘆息した。
「ああ、天はわれを見捨てたもうたか(注六)」
北軍がその一隊を見ると、先頭にはひとりの眉目秀麗な年若い将軍が立っていて、頭には青い巾〓《きんさく》(頭巾)をかぶり、身には緑の戦袍を着、手には梨花《りか》の槍をとり、背の高い雪白の捲毛《まきげ》の馬にうちまたがり、その旗じるしには鮮やかに、
中興平南先鋒郡馬全羽
としるされている。そのとき葉清は田虎のすぐそばにつきしたがっていたが、旗じるしを見るや、田虎にそれを知らせた。田虎は、
「郡馬に早くわしを救い出させるよう」
と令旨をつたえた。全郡馬は進み出て馬をおり、ひざまずいていった。
「大王さまに申しあげます。甲冑《かつちゆう》を身につけておりますこととて、平伏できませず、まことに恐縮至極に存じます」
「かまわぬ、ゆるしてつかわす」
と田虎はいった。全郡馬はかさねて奏上した。
「危急の際でございますれば、なにとぞ襄垣の城内へおいでいただきまして、しばらく敵の鋭鋒をお避けくださいますよう。わたくし、郡主とともに宋軍を撃退し、再び大王さまを威勝の御所にお迎えいたしましたうえ、良策を協議して御威業を恢復せんものと存じます」
田虎は大いによろこび、令旨をくだしてただちに襄垣へと出発した。全郡馬は殿軍《しんがり》として追手の軍勢をふせぐことになった。田虎ら一同がようやく襄垣の城下にたどりついたとき、背後に、天をどよもす喊声が湧きおこって追手が迫ってきた。襄垣の城壁の上の守城の将兵たちは、それを見るや、急いで城門をあけ吊り橋をおろした。胡英は兵をひきいて先頭に立っていたが、兵士たちはうしろに追手が迫ってきたのを見ると、どっと城内へなだれこみ、大王もなにもあったものではなかった。胡英がようやく城門をはいって行くと、不意に〓子《ほうし》(拍子木《ひようしぎ》)が鳴り、両側から伏兵がどっと飛び出して胡英と三千の兵をことごとく陥坑《かんこう》(おとしあな)のなかへ追い落とし、長鎗でめちゃめちゃに突き刺して、あわれ、三千余の兵はひとり残らず命をうしなってしまった。城内では大声で、
「田虎はいけどりにしろ」
と叫んでいる。田虎は城内にさわぎのおこったのを見て、はじめてそれが計略だったことをさとり、あわてて馬を返して北のほうへと逃げだした。張清と葉清は馬をせかせてこれを追いかける。田虎のかの名馬は逃げ足がはやく、張清と葉清は兵をひきつれて追いかけたが追いつけずに、はやくも一矢頃《ひとやごろ》ほどひきはなされてしまった。と、そのとき田虎の馬前ににわかに旋風《つむじかぜ》がまきおこり、その風のなかからひとりの女があらわれて、大声で呼ばわった。
「奸賊田虎、わが仇《きゆう》家の夫婦はふたりともそなたの手に殺されたが、きょうはもはや逃がしはせぬぞ」
女の身のまわりには、またもや一陣の陰風が吹きおこり、田虎めがけて真向《まつこ》うから吹きつけてくる。そして女はふっと見えなくなってしまった。田虎の馬はいきなり躍りあがって嘶《いなな》き、田虎はどっと落馬した。そこへ張清と葉清が追いつき、馬から跳びおりて兵士らとともにどっとおそいかかり、搦《から》めとってしまった。と、唐昌が兵をひきつれ、槍をかまえ馬を驟《は》せて救い出しにきた。張清は唐昌の突き進んでくるのを見ると、急いで馬に跳び乗り、つぶてをつかんで投げ飛ばした。つぶては見事に唐昌の顔に命中し、唐昌はどっと馬から落ちた。張清は大声で呼ばわった。
「わが輩は全羽などというものではない。天朝の宋先鋒の麾下、没羽箭の張清というものだ」
そのとき、李逵と武松が五百の歩兵をひきつれて城内から飛び出してきた。ふたりは雄叫びをあげ、かの殿帥・将軍・金吾・較尉ら二千余人のものを、星落ち雲散るがごとく斬り散らしてしまった。
張清は唐昌を刺し殺し、田虎を縛りあげ、これを群がりかこんで城内へはいり、城門をとざした。宋先鋒が北軍を討ち破ってしまってから、ひきたてて行くことにしたのである。魯智深は追いかけてきたが、田虎がすでに捕らえられて城内へひかれて行ったのを見て、西のほうへとって返し、銅〓山のほとりへおし寄せて行った。
時刻はすでに酉牌《ゆうはい》(夕暮れ)であった。宋江らの三手の軍は北軍とのまる一日の激戦で、二万人あまりの兵を討ちとった。主をうしなった北軍は四方八方に逃げ散って行った。范美人も姫妾たちも、みな乱戦のなかで殺されてしまった。李天錫・鄭之瑞・薛時・林〓らは、三万余の兵をしたがえて銅〓山へのぼり、そこにたてこもった。宋江は兵をひきいて四方からこれを囲んだ。とそこへ魯智深がやってきて、
「田虎は張清がいけどってしまいました」
と知らせた。宋江は額に手をあてて(神の加護を謝し)、急いで命令をくだして使いの兵を襄垣へ飛ばし、武松らには固く城門をとざして田虎を看守するよう、張清には兵をひきいてただちに威勝へ行き、瓊英《けいえい》らを援護するようにとつたえさせた。
これよりさき瓊英は、呉軍師の密計を受けて、解珍・解宝・楽和・段景住・王定六・郁保四・蔡福・蔡慶らとともに兵五千をひきつれ、一同みな北軍の旗じるしをつけ、武郷《ぶきよう》県の城外の石盤山《せきばんざん》のほとりにひそんでいたのであるが、田虎と味方の軍とのたたかいを聞きつけ、瓊英は一同をひきつれて急遽威勝の城下へ駆けつけた。おりから日も暮れ落ちて、夕霞《ゆうがすみ》は色をうしない、空には新月が鉤《かぎ》を垂れていた。瓊英は城壁の下から美しい声を張りあげて呼ばわった。
「わたしは郡主です。大王さまをお護りしてまいったゆえ、はやく城門をあけなさい」
城壁の守備兵はそのときただちに王宮内へ知らせた。田豹《でんひよう》と田彪《でんひゆう》は知らせを聞くと、馬に乗って南城へ駆けつけ、あわただしく城壁の上にのぼって眺めると、はたして赭黄の傘の下、雕鞍《ちようあん》をおいた銀の〓《たてがみ》の白馬に大王がうちまたがっており、その馬前にはひとりの女将軍がいて、旗には、
郡主瓊英
と大書され、うしろには尚書・都督らの諸官が、ずらりつづいてつきしたがっていた。そのとき瓊英は声を張りあげていった。
「胡《こ》都督らが宋軍に討ち破られたため、わたしが大王さまをお護りしてまいった。はやくお出迎えの役人を城外へお出しなさい」
田豹らは、見ればたしかに田虎なので、ただちに城門をあけさせ、城を出て迎えに行った。ふたりが馬前に進み出たとたん、馬上の大王は大喝した。
「ものども、このふたりの賊を召し捕れ」
兵士たちはどっと、ふたりを取りおさえに飛び出した。田豹と田彪は大声で、
「われわれ両名になんの罪咎《つみとが》が」
と叫び、あわてて抵抗したが、そのときはもう兵士たちに縄で縛りあげられていた。そもそもこの田虎というのは、呉用が孫安に、南軍の兵士たちのなかから田虎とそっくりの顔のものを選び出させて、これに田虎と同じ装束をつけさせていたもので、そのうしろの尚書や都督も、じつは解珍・解宝ら数名が変装していたのであった。そのとき一同はさっと武器を抜き放った。
王定六・郁保四・蔡福・蔡慶らは五百余の兵をひきしたがえて、田豹と田彪を夜どおしで襄垣へ押送して行った。
城壁の上では、田豹と田彪が捕らえられ、さらにふたりが南のほうへひきたてられて行くのを見て、はかられたとさとり、あわてて城外へ飛び出したが、逆に、瓊英は田定を討ちとらんものと、命《いのち》もかえりみず、解珍・解宝とともにどっと城内へ突入して行った。門を守っていた将兵たちは飛び出してきてたたかったが、瓊英の投げつけるつぶてにあたって、ばたばたと六七人がたおされた。解珍と解宝も瓊英をたすけて斬りまくった。城外の楽和と段景住は、急いで兵士たちに北軍の扮装をぬがせ、みな南軍の軍衣でいっせいに城内に突入し、南門を奪った。楽和と段景住は朴刀を挺しつつ兵をひきいて城壁へのぼり、北兵を斬り散らして宋軍の旗じるしをかかげた。
城内はたちまち鼎《かなえ》の沸くような大混乱に陥った。なおも多くの偽の文武の諸官や王族・外戚のものなどがいて、急遽、兵をひきつれてたたかいに出てきた。瓊英ら四千余名は敵の巣窟に深くはいりこんでしまって、とうていこれに敵し得べくもなかったが、そこへおりよく張清が八千余名をひきつれて到着し、兵を駆りたてて城内へ突入した。そして瓊英・解珍・解宝らが北軍と激戦しているのを見るや、張清は飛び出して行ってつぶてを投げつけ、つづけざまに北将四名をたおして北軍を蹴散らした。張清は瓊英にいった。
「危地に深入りするなどとんでもない。まして多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》ではありませんか」
「父の仇を討ちたかったからです。そのためには身を粉《こ》にしたってかまいません」
と瓊英はいった。張清が、
「田虎はもうわたしが襄垣で捕らえましたよ」
というと瓊英はようやく喜色をあふれさせた。
兵をひきいて城外へ出ようとしたとき、天も賊徒の悪逆をにくまれたのであろう、沁源の城を討ち破った盧俊義が大軍をひきいてやってきたが、南門の旗じるしを見て急いで兵を駆りたてて城内へ突入し、張清と兵を合わせて北軍を追い討った。かくて、秦明・楊志・杜遷・宋万らは兵をひきつれて東門を奪いとり、欧鵬・〓飛・雷横・楊林らは西門を奪い、黄信・陳達・楊春・周通らは兵をひきつれて北門を奪い、楊雄・石秀・焦挺・穆春・鄭天寿・鄒淵・鄒潤らは歩兵をひきいて大刀や闊斧《おおなた》で王宮の正面から斬りこんで行き、〓旺・丁得孫・李立・石勇・陶宗旺らは歩兵をひきいて後宰門《こうさいもん》から斬りこんで行き、王宮の内院の嬪妃《ひんひ》・姫妾・内侍のものたちを数えきれぬほど斬り殺した。田定は事変を知るや、みずから首を刎《は》ねて死んだ。張清・瓊英・張青・孫二娘・唐斌・文仲容・崔埜・耿恭・曹正・薛永・李忠・朱富・時遷・白勝らは、それぞれ手分けをして偽の尚書・偽の殿帥・偽の枢密ら以下大勢のもの、および偽の王族・国戚らの賊徒どもを討ちとった。そのありさまはまさに、
金階の殿下に人頭滾《ころが》り
玉砌《ぎよくせい》の朝門に熱血噴《ふ》く
道《い》う莫《なか》れ玉と石を分《わか》たずと
慶《よろこび》を為すも殃《わざわい》を為すも心に自ら捫《さぐ》れ
そのとき宋軍は威勝の城内でさんざんに斬りまくり、屍《しかばね》は市井《しせい》に横たわり血は溝渠《こうきよ》に満つというありさま。盧俊義は命令をくだして、住民を殺害することを禁じ、急いで使いを宋先鋒のもとへやって勝利を報告させた。宋軍はその夜、五更(四時)ごろまであばれまわって、ようやくしずまった。北軍の将兵の投降したものは、厖大な数にのぼった。
明けがた、盧俊義は将領たちを点検した。神機軍師の朱武だけは沁源の城内で守備にあたっていたが、その他の将領はみな無事だった。ただ、降将の耿恭が人馬に踏み殺されたのみである。諸将はそれぞれその功を献じた。焦挺が田定の死骸を馬にのせてくると、瓊英は歯をくいしばり、佩刀をひき抜いてその首を割《か》き落とし、死骸をずたずたに斬り裂いた。そのとき〓梨の妻の倪《げい》氏はすでに死んでいた。瓊英は葉清の妻の安氏をさがし出してから、盧俊義に別れを告げて張清とともに襄垣へ行き、田虎らを宋先鋒のところへ護送して行った。
盧俊義が軍務の処理をしていると、とつぜん物見の兵が知らせにきて、
「北将の房学度《ぼうがくど》が、索超と湯隆を楡社県に包囲しました」
という。盧俊義はただちに、関勝・秦明・雷横・陳達・楊春・楊林・周通らに命じ、兵をひきいて索超らの救援にむかわせた。
翌日、宋江は李天錫らを銅〓山に討ち破り、ただちに使者を陳安撫のもとへやって、
「賊の本拠はすでに陥り、賊の首魁はすでにとりこにいたしましたゆえ、安撫どのには威勝の城内へ移って軍務を処理されますように」
とつたえさせた。かくて宋江は大軍をひきいて威勝の城外に到着、盧俊義らに迎えられて入城した。宋江はまず告示を出して、住民を宣撫した。盧俊義は卞祥《べんしよう》をひきたててきた。宋江は卞祥の風貌の魁偉なのを見て、みずからその縛しめを解いてやり、鄭重にあつかった。卞祥はその心意気を見、感激して帰順した。
その翌日、張清・瓊英・葉清が、田虎・田豹・田彪を陥車《かんしや》(囚車)におしこめて護送してきた。瓊英は張清とともに、ふたり相並んで宋先鋒に叔父としての礼をささげ、ついで瓊英は、さきに王英らに対して犯した罪を謝した。宋江は、田虎らを監禁しておいて、全軍凱旋の際いっしょに東京《とうけい》へ護送して行き、俘虜として献上することにし、さっそく酒盛りをひらいて張清と瓊英のために祝杯をあげた。
その日、威勝の属県の武郷の守城の将の方順らが、軍民の戸籍簿や倉庫の銭糧を献納にやってきた。宋江はこれをねぎらったうえ、方順らにもとどおり城を守備するようにといいつけた。
宋江はそのまま威勝城に二日滞在した。と、物見の兵がもどってきて告げた。
「楡社県へ救援に行った関勝らは、索超・湯隆と協力し、内外から挟み討ちをかけて北将の房学度を討ちとりました。北軍の死者は五千人あまり、その余の兵士たちはみな投降しました」
宋江は大いによろこび、諸将にむかって、
「すべてみなさんのおかげで、逆賊平定の功を成しとげることができました」
といい、さっそく諸将の功績、および張清と瓊英が賊の首魁を捕らえ賊の本拠を討った大功をくわしく記録にとどめた。
さらに三四日たつと、関勝の軍が到着し、つづいて陳安撫の軍も到着したとの知らせがあった。宋江は将領をひきしたがえて郊外に出迎え、城内へみちびいて礼をおさめた。陳安撫は讃辞を述べた。
「将軍らは五ヵ月のあいだに、稀に見る大功をうちたてられました。わたしは賊の首魁をとりこにしたと聞いて、さっそく奏文をしたため、使いのものを京師へ馳せて勝利を奏上させましたゆえ、朝廷では必ず官爵ご加封のお沙汰があることと存じます」
宋江は再拝して礼を述べた。
その翌日、瓊英は、太原の石室山へ行き母親の死骸をさがし出して埋葬したいと申し出た。宋江は、張清と葉清をいっしょに行かせたが、その話はこれまでとする。
宋江は陳安撫にことわって田虎の宮殿院宇《いんう》・珠軒翠屋《しゆけんすいおく》をことごとく焼きはらった。また陳安撫と相談のうえ、倉庫のものをことごとく出して兵火にあった各地の住民を救済し、宿太尉に申呈する書状をしたため、朝廷に申奏する上奏文をととのえ、戴宗を使者に立ててただちに出発させた。
戴宗は上奏文と書状をあずかると、さきに陳安撫が出した朝廷への使者に追いついて、いっしょに東京にはいり、まず宿太尉の屋敷へ行って、この前と同じように楊虞候をたずねて書状をわたした。
宿太尉は大いによろこんで、翌日の朝見の際、陳安撫の上奏文といっしょに宋江らのことを上聞に達した。道君皇帝には竜顔ことのほかうるわしく、宋江が後始末をし、新任の役人に引き継いで都へ凱旋してきたときには官爵をさずける旨仰せられた。戴宗はその消息を聞くと、ただちに宿太尉に別れを告げて東京を立ち、翌日の未牌《びはい》(昼すぎ)には、はやくも威勝の城内にもどって陳安撫と宋先鋒にその旨を報告した。
陳〓《ちんかん》(陳安撫)と宋江は、いけどりにした賊の偽の役人たちをば、田虎・田豹・田彪の三人だけを別に東京へ護送して行くことにして、そのほかの仲間たちはみな威勝の町なかの仕置場で打ち首の刑に処した。まだ攻め落としていなかった地方、すなわち晋寧の管下の蒲解《ほかい》などの州や県では、賊に組みする悪役人どもは、田虎が捕らえられてしまったことを知って、あるものは逃亡し、あるものは自首した。陳安撫は自首したものをみなゆるして、再び良民たらしめ、各地に告示を出して宣撫につとめ、住民を安堵させた。その他、賊に従っても人を傷つけなかったものも、自首投降させて再び郷民とならしめて商売や農耕をやらせた。かくて州や県をすべて取りもどし、それぞれ官軍の守備隊を派遣してその地を護り民を安んぜしめたが、このことはそれまでとする。
さて、すでに詔勅をくだされた道君皇帝は、それを使者に託して河北へつかわし、陳〓らにつたえしめられた。そしてその翌日、武学(注七)へ臨幸されることになった。文武百官はさきに集まり、蔡京がその場でいくさの話をしているのをみなが拝聴していた。ところが、そのなかのひとりの役人が、仰《あお》むいて天井の一角を見つめたまま、知らぬ顔をしている。蔡京はかっとなって、あわただしくその名を質《ただ》した。まさに、一人隅《ぐう》にむかえば(仲間を外れると)満座《まんざ》楽しまず、という次第。かくて蔡京がその役人の名を質したことから、やがて、天〓地〓《てんこうちさつ》をして軫翼《しんよく》(注八)に臨ましめ、猛将雄兵をして楚郢《そえい》(注九)を定めしむ、ということとは相なるのである。さて蔡京が質したその役人は誰であったか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 天〓 星の名。〓は水の深く広いこと。
二 大筏 原文は飛江天浮。単に飛江ともいう。
三 里保 里正と保正。里正は一里の長、保正は一郷の長。
四 金磚 第三十七回注一参照。
五 金吾 くわしくは執金吾という。天子警護の武官の名。
六 天はわれを見捨てたもうたか 原文は天喪我。『論語』先進篇に、孔子が弟子の顔淵の死をかなしんで「天喪予」(天われを喪《ほろぼ》せり)と嘆息したとあるのに拠ったもの。
七 武学 兵法を講義するところで、神宗(徽宗の父)が武成王の廟内に設けたものという。
八・九 軫翼、楚郢 軫翼は二十八宿のうちの二宿で、天の東南方に位する星の名であるが、ここでは楚郢を暗示する。楚郢は今の河南・湖北・淮西一帯の地で、開封府から見て東南方にある。
第百一回
墳地《ふんち》を謀って 陰険逆《ぎやく》を産《さん》し
春陽《しゆんよう》を踏んで 妖艶奸《かん》を生ず
さて、蔡京が武学で、自分のいくさの話を聞かずに仰《あお》むいて天井の一角を見つめていたその役人を質《ただ》してみたところ、姓は羅《ら》、名は〓《せん》といい、雲南軍《うんなんぐん》の達《たつ》州の出身で、現に武学諭《ぶがくゆ》(武学の教諭)をしている者であった。そのとき蔡京は、胸もふさがらんばかりに怒り、いまにもそれが爆発しそうになったが、おりしも天子のお成りとの知らせ。蔡京は私事をうちすて、百官をひきしたがえて聖駕を武学のなかへお迎えし、拝舞の礼をささげ、聖寿の万歳を唱えた。
やがて道君皇帝が武学の講義をすまされると、列中の武学諭の羅〓が、蔡京が口をひらくよりもさきに進み出て平伏し、まず奏上した。
「武学諭の小臣・羅〓、あえて万死の罪をおかし、ここに謹んで淮西《わいせい》の強賊王慶《おうけい》の謀叛のもようを上聞に達します。王慶が淮西で叛乱いたしましてよりすでに五年、官軍はこれをいかんともすることができぬありさま。童貫《どうかん》と蔡攸《さいゆう》は聖旨を奉じて淮西へ討伐におもむきましたところ、全軍潰滅いたしましたのに、おとがめをおそれてそれをかくし、陛下をおあざむきして、兵士たちが風土になれぬゆえひとまずいくさを中止いたしましたと申しあげて、ついに容易ならぬ事態を招くにいたったのでございます。王慶の勢いはいまやいよいよ猖獗《しようけつ》をきわめまして、前月にはわたくしの郷里の雲南軍を攻め落とし、人をさらい物をうばい、女を犯し男を殺し、そのむごたらしさはいうに忍びないものがございます。かくて彼らはあわせて八つの軍州と八十六の州県を占拠するにいたりました。蔡京は国をあずかり陛下をおたすけする身であります。しかもその子の蔡攸があのように兵をほろぼし将を殺し、国を辱しめ軍をうしないながら、さきほど陛下がまだお見えになりませぬとき、なおも威張って上座でいくさを談じ、慚《は》ずるところもなく広言を吐いておりましたが、まさに狂って心をうしなっているのでございます。願わくは陛下には、すみやかに蔡京ら国をあやまる賊臣どもを誅罰《ちゆうばつ》され、将を選び兵を出してただちに討伐をおこなわれ、民を塗炭《とたん》の苦しみから救い、国を無窮に保たれますならば、民にとってはこれ以上のしあわせはなく、天下にとってもこれ以上のさいわいはございません」
道君皇帝はそれを聞いて大いに怒られ、蔡京らのかくしだてをしていた罪をきびしくおとがめになったが、蔡京らはたくみにいいのがれをいったため、天子は罰を加えられずに、宮居へ帰られた。
翌日にはまた、亳《はく》州の太守侯蒙《こうもう》が指示を仰ぎに上京してきて、童貫と蔡攸が軍をうしない国を辱しめた罪を上書して直言し、同時に、
「宋江らはまことに非凡な才略を持っておりまして、しばしばめざましい功績をたて、さきには遼を討って凱旋し、このたびはまた河北を平定し、いまや凱歌をあげて帰還の途にありますが、目下、王慶が猖獗をきわめておりますれば、願わくは陛下には詔勅をおくだしになって、まず宋江らを褒賞されましたうえ、ただちにかの軍勢に淮西を討伐せしめられますよう。必ずや大功を成しとげるでございましょう」
と推挙した。
徽宗皇帝はその奏言をとりあげて、ただちに聖旨をくだし、協議して宋江らに官爵をさずけるよう省院に命ぜられた。省院官は蔡京らと相談して、こう回奏した。
「王慶は宛《えん》州を討ち破り、昨日はまた禹《う》州・許《きよ》州・葉県《しようけん》の三地から急を告げる上申書がまいっております。これらの三つの地は東京管下の州県で、神京(都)のすぐ近くでございますゆえ、願わくは陛下には、陳〓・宋江らに対して、都へ凱旋するにはおよばぬとの旨を仰せつけられ、彼らに兵をひきいて急遽禹州以下の各地へ救援にむかわしめられますよう。わたくしどもは侯蒙を行軍参謀(征討軍参謀)に推挙いたし、また羅〓《らせん》は兵法のたしなみがございますれば、侯蒙とともに陳〓のもとへつかわしてその指揮にはいらせてはと存じます。なお宋江らは現に討伐に従っておりますこととて、官爵をさずける機ではございません。いずれ淮西より凱旋いたしましてから、改めて協議のうえ行賞いたすべきものと存じます」
じつは蔡京は、王慶の兵が強く、将も猛々しいのを知って、童貫・楊〓・高〓らとはかってわざと侯蒙と羅〓を陳〓のところへやり、やがて宋江らが敗北を喫し侯蒙・羅〓が後難をおそれて姿をくらますのを待って、そのときに一網打尽にしてやろうという算段だったのである。
こまかい話はやめて、さて、かの四人の賊臣の建議を、道君皇帝はすべてききいれられ、聖旨をくだして詔勅を起草させると、ただちに侯蒙と羅〓に、詔勅および賞賜の金銀・段疋・袍服・衣甲・馬匹・御酒などの品を託し、その日のうちに出発して河北へ急ぎ、宋江らに聖旨をつたえるよう命ぜられた。また河北のこのたび奪還した各府・州・県の欠員になっている正副の官を至急補充して、期限をきめて急いで赴任させるようにと、その係りの役所に下命された。かくて道君皇帝は政務(注一)をとりさばかれ、それがすむと、いつものように王黼《おうほ》・蔡攸《さいゆう》のふたりにすすめられて艮嶽《こんがく》(注二)へ遊びに行かれたが、そのことは述べない。
さて侯蒙は、詔勅および将士への賞賜の品々をあずかり、車三十五輛に満載して東京をあとに、河北へと出発した。道中は格別の話もなく、やがて壺関山・昭徳府を通り過ぎて威勝州へはいり、城まであと二十里あまりのところまで行ったとき、賊の首魁を護送してくる宋軍に出くわした。それは、宋江がさきに凱旋してくるようにとの詔勅を受けたとき、ちょうど瓊英《けいえい》が母親を埋葬してもどってきたので、宋江は、瓊英母子《おやこ》および葉清の貞孝節義の次第と賊の元兇を捕らえた功績、ならびに喬道清・孫安ら天朝に帰順して功績をたてたものたちのことを、いちいちくわしく上奏文にしたためて朝廷へ申奏することにし、かくて張清・瓊英・葉清を使者にたて、兵をひきい賊の首魁を護送して先発させたものであった。
そのとき張清は、進み出て侯参謀と羅〓に挨拶をおさめた。ついで張清はこの消息を、陳安撫と宋先鋒のもとへ使いを馳せて知らせた。陳〓と宋江は諸将をひきしたがえて郊外まで出迎えた。侯蒙らは聖旨を捧げて入城し、竜亭(注三)と香机をならべさせた。陳安撫および宋江以下の諸将は整然と相つらなり、北にむかってひざまずいた。裴宣が、
「敬礼」
と号令をかけ、礼がすむと侯蒙は、南面して竜亭の左に立ち、詔書を宣読した。
制《みことのり》して曰《い》う、〓以《おも》うに天を敬し祖に法《のつと》り、洪基《こうき》(大業の基《もとい》)を纉紹《さんしよう》(継承)する、惟《こ》れ傑宏《けつこう》なる股肱《ここう》の大業を賛〓《さんじよう》(賛助)するに頼る。爾来、辺庭(辺境)多〓《たけい》(多事)にして、国祚寧《こくそやす》きこと少《すくな》し。爾《なんじ》先鋒使宋江等、山川を跋履《ばつり》(跋渉)し、険阻を踰越《ゆえつ》し、先には虜《えびす》を平らぐるの功を成し、次いで寇《こう》を静むるの績《せき》を奏す。〓実《まこと》に嘉頼《からい》す(よみし、たよる)。今特に参謀侯蒙を差《つか》わし、詔書を齎捧《せいほう》せしめ、安撫陳〓《ちんかん》及び宋江・盧俊義等に金銀、袍段、名馬、衣甲、御酒等の物を給賜し、用《もつ》て爾の功を彰《あら》わす。茲者《ここに》又《また》強賊王慶、乱を淮西に作《な》し、我が城池を傾覆《けいふく》し、我が人民を芟夷《さんい》し(刈り平らげ)、我が辺陲《へんすい》(辺境)を虔劉《けんりゆう》し(そこない殺し)、我が西京(洛陽)を蕩揺《とうよう》する(ゆすぶる)に因り、仍《すなわ》ち陳〓に勅して安撫と為し、宋江を平西都先鋒《とせんぽう》と為し、盧俊義を平西副先鋒と為し、侯蒙を行軍参謀と為す。詔書到る日、即ち軍馬を統領し、星馳《せいち》して先ず宛州《えんしゆう》を救え。爾等将士、力を協《あわ》せ忠を尽《つく》し、功蕩平《とうへい》(平定)を奏せば、定めて封賞を行《おこな》わん。其の三軍の頭目の、欽賞《きんしよう》未だ敷《およ》ばざる如きは、陳〓をして河北州県内の豊盈《ほうえい》の庫蔵中に就《おい》て、那撮《なさつ》して(移《うつ》し取って)給賞し、冊《さつ》(文書)を造って奏聞せよ。爾其れ欽《つつし》め哉《や》。特に諭《さと》す。
宣和五年四月 日
侯蒙が詔書を読みおわると、陳〓・宋江らは聖寿の万歳を唱え、再拝して聖恩を謝した。そのあとで侯蒙は、金銀・段疋などの品々を序列の順に名を呼んで分けあたえた。陳〓および宋江・盧俊義にはそれぞれ黄金五百両・錦段(錦の織物)十疋・錦袍一套《ひとかさね》・名馬一頭・御酒二瓶《かめ》。呉用以下三十四名にはそれぞれ白金二百両・綵段四疋・御酒一瓶。朱武以下七十二名にはそれぞれ白金一百両・御酒一瓶。残りの金銀は陳安撫が都合して添え足し、兵士たちに分けあたえられた。
宋江は再び張清・瓊英・葉清に命じて、田虎・田豹・田彪を京師へ護送して行って俘虜として献上せしめることにした。
公孫勝が、
「兄貴、五竜山の竜神廟の五体の竜の像を修復していただきたいのですが」
と申し出た。宋江はうなずき、工匠をやってつくりなおさせた。
宋江はまた、戴宗と馬霊を使いにたてて、各地の守城の将士たちに、新任の役人の到着し次第、ただちに交替し、兵をまとめて集結するよう、然る後王慶の討伐におもむくことをつたえさせた。宋江はなお軍務の後始末に数日をついやしたが、その間に各地の新任の役人たちはみな到着し、守城の将領たちは兵をひきいて相ついで集まってきた。宋江は恩賜の銀両を彼らに分けあたえた。ついで宋江は蕭譲と金大堅に、このたびの事蹟を記《しる》させ、石碑に刻ませた。
ちょうど五月五日の天中節《てんちゆうせつ》(注四)にあたり、宋江は宋清にいいつけて盛大な宴席を設け、太平を慶賀することにした。かくて陳安撫を上座に請い、新任の太守および侯蒙・羅〓、ならびに州の補佐官たちは相ついで次の席につき、宋江以下の、都へ出かけて行った張清を除く一百零七人、および河北の降将の喬道清・孫安・卞祥以下十七人のものは、整然と両側に並んで席についた。そのとき席上で、陳〓・侯蒙・羅〓は宋江らの勲功を称賛した。宋江・呉用らは三人の知己《ちき》に感激し、あるいは国事を論じ、あるいは衷情を訴え、さかんに杯をとりかわしつつ、煌々とかがやく灯燭のもと、夜半まで飲みつづけてようやく散会した。
翌日、宋江は呉用と協議して軍をととのえ、州役人たちに別れを告げて威勝を立ち、陳〓らとともに南をさして進んで行った。通りすぎる各地ではもとより秋毫も犯すことなく、住民たちは香花や灯燭をたずさえて絡繹《らくえき》と道につらなり、宋江らが賊を討ち平らげたために一同が再び天日を仰ぐことができるようになった恩を拝謝した。
宋江らが南をさして征進して行ったことはそれまでとして、さて一方没羽箭の張清は、瓊英・葉清とともに陥車に田虎らをおしこめて護送して行ったが、はやくも東京へ着き、まず宋江の書状を宿太尉にとどけ、かつ金珠や珍宝を贈った。宿太尉は書状の内容を天子にとりついだ。天子は瓊英母子の貞節と孝義を大いに嘉《よみ》せられ、勅旨をもって特に瓊英の母の宋氏を介休貞節県君《かいきゆうていせつけんくん》(注五)に封ぜられ、土地の役人に、坊祠《ぼうし》(やしろ)を建ててその貞節を称揚し春と秋に祭りをおこなうよう命ぜられた。また瓊英を貞考宜人《ていこうぎじん》(注六)に封ぜられ、葉清を正排軍《せいはいぐん》(中隊の長)にとりたてて白銀五十両を賞賜し、その節義を称揚された。張清はこれまでの職分に復帰せしめられた。かくて三人には宋江をたすけて淮西の討伐にむかうよう命ぜられ、功成ったあかつきには栄進させることにさせた。
道君皇帝は法司(司法官)に勅をくだして叛賊の由虎・田豹・田彪を町の四つ辻の仕置場へ引き出して凌遅砕〓《りようちさいか》(刻み斬り)の刑に処するよう命ぜられた。そのとき瓊英は、父母の肖像をたずさえて行き、監斬官《かんざんかん》(死刑監督官)に申し出たうえ、仇申《きゆうしん》(父の姓名)と宋氏(母)の肖像を刑場にかかげ、その前に机を据えた。やがて午時《ごじ》(昼)の三刻になり、田虎の刑が執行されて刻み殺しにされると、瓊英は田虎の首級を机の上に置き、血をしたたらせて父母の霊に手向《たむ》け、声を放って哭《な》いた。このとき瓊英のこの話はすでに東京中にいいひろめられていて、その日、見物人は人垣をなし、瓊英が悲しみ哭くのを見て感泣しないものとてなかった。瓊英は手向けをおわると、張清・葉清とともに宮居のほうをうち望んで聖恩を謝した。かくて三人は東京をあとにし、一路宛《えん》州へとむかい、宋江をたすけて王慶を討つことになるのであるが、この話はここでとどめる。
さて、みなさん、話をしかと心にとめて、よくお聞きくださるよう。ここでひとまず王慶の幼いときからのことを申しあげましょう。この王慶というのは、もともと東京は開封府の副排軍《ふくはいぐん》(中隊の補佐官)だった男。彼の父親の王〓《おうけき》は、東京の大金持で、もっぱら役所に賄賂をつかってはあれこれ策動して裁判沙汰をおこし、あくどく立ちまわって利をむさぼり、善良な人たちを陥れていたために、人々からけむたがられていた男である。彼は、さる風水先生(方位や家相を観る易者)がある墓地を見つけて、高貴の子が生まれると占ったのを、すっかり信じこんでしまった。その土地は王〓の親類の家の墓地だったが、王〓は風水先生とたくらんで相手をわなに陥れたのである。そして王〓は先手を打って、その家を相手どってでたらめの訴状をさし出した。裁判は何年もつづき、相手は家産をつかいはたして、とうとう王〓に負けてしまい、東京をはなれて遠方へ移り住んでしまった。のちに王慶が謀叛をおこしたため、三族(父・母・妻の親族)ことごとく殺されるにいたったが、この家だけは遠方にはなれていて、お上でも王〓にいためつけられたものであることが調べられて、例外として事なきを得たのだった。
ところで、王〓がその墓地を奪って両親をそこへ葬ったところ、妻が身ごもり、やがて臨月になった。と王〓は、夢に、虎が家のなかへはいってきて表の間の西の隅にうずくまったかと思うと、とつぜん獅子が飛びこんできて虎をくわえて立ち去るのを見た。そして王〓が眼をさましたとき、妻は王慶を生んだのである。
この王慶は、小さいときから遊びまわっていて、十六七になると身体も大きく力も強い男になったが、学問などはふりむきもせずに、もっぱら鶏を闘わせたり馬を走らせたり、槍をつかったり棒をふりまわしたりすることに熱中していた。王〓夫婦は王慶ひとりしか子供がなかったので、すっかり甘やかし、小さいときから勝手気ままに、したい放題のことをさせてきたので、大人になったときには、もはやどうにも手に負えなくなっていた。かくて王慶は、ばくちは打つし、おんなは買うし、酒は飲むしで、王〓夫妻も時には意見もしてみたが、すると王慶はかっとなって怒り出し、親をつかまえて悪口雑言。王〓はどうにも手のつけようがなく、勝手にさせておくよりほかなかった。こうして六年たつうちに、財産はすっかりつかいはたしてしまい、身に覚えの武芸だけをたよりに、役所へはいって副排軍になったのであるが、ひとたび金が手にはいると、仲間を誘って朝から晩まで大いに食らい大いに飲み、手もとが不如意のときは、拳骨《げんこつ》をふるって人を殴りつけるという始末。そのためみんなにおそれられていたが、またよろこぶものもいたのである。
ある日、王慶は五更(朝四時)ごろ役所へ行って朝づとめ(注七)をし、仕事がすんでからぶらりと城南のほうへ出て玉津圃《ぎよくしんほ》まで遊びに行った。徽宗皇帝の政和六年の春たけなわの季節で、行楽の人々は蟻のごとく、ゆきかう車馬は雲のごとく、まさに、
上苑《じようえん》花開いて堤柳《ていりゆう》眠り
遊人の隊裏に嬋娟《せんけん》(美女)雑《まじ》わる
金勒《きんろく》(金のくつわ)の馬は嘶《いなな》く芳草の地
玉楼《ぎよくろう》の人は酔う杏花《きようか》の天《てん》
王慶はひとりでしばらく歩きまわってから、園中の池のほとりの枝垂れ柳に斜めに肩をよせかけながら、誰か知りあいがきたらいっしょに居酒屋へはいって二三杯飲んでから帰ろうと考えていると、やがて池の北側に幹〓《かんべん》(執事)・虞候《ぐこう》(用人)・伴当《はんとう》(従者)・養娘《ようじよう》(腰元)ら十人あまりのものが、一台の轎をとりかこんでやってくるのが見えた。轎のなかには花のようなひとりの若い女がいる。その女は景色を眺めようとして、竹の簾《すだれ》はおろしていなかった。王慶はいたって好色な男だったので、その美しい女を見て、すっかり魂をうばわれてしまった。その幹〓や虞候たちは、枢密の童貫の屋敷のものとわかった。そこで王慶は、遠くから轎のあとをつけ、連中について、やがて艮嶽《こんがく》まで行ってしまった。
この艮嶽というのは、京城の東北端にあった。道君皇帝の築かれたもので、奇峰・怪石・古木・珍禽・亭〓《ていしや》・池館などが数えきれぬほどあった。外《そと》には朱塗りの垣と緋色の扉があって、皇居と同じであり、内には禁軍の兵が番をしていて、普通のものは足の指一本も門前へ踏みいれることはできなかった。一同は轎をおろし、養娘たちが女を扶けて轎から出すと女はそのまま艮嶽の門内へ、しなやかに、なまめかしく、はいって行く。門を護っている禁軍の内侍たちは、みな道をあけて女を通した。
そもそもこの女は、童貫の弟の童貰《どうせい》の娘で、楊〓には外孫にあたった。童貫はそれを養女として育て、蔡攸《さいゆう》の息子のいいなずけにしていた。つまり蔡京の孫の嫁というわけである。幼名は嬌秀《きようしゆう》といい、年はまさに二八《にはち》。彼女は童貫に、天子がこの二三日、李師師《りしし》の家へ遊びに行っておられるあいだに、艮嶽へ行ってみたいとたのんだのだった。童貫は前もって禁軍のものにいいふくめておいたので、彼らはとめだてしなかったのである。嬌秀はなかへはいって行ったきり、ふた時《とき》たっても出てこなかった。王慶のやつは外でぼんやりと待ちつづけていたが、腹がすいてきたので東通りの居酒屋へ行って酒と肉を買い、大急ぎで六七杯ひっかけ、あの女が行ってしまったらたいへんとばかり、勘定もせずに、紙入れから二銭(銭は両の十分の一)の重さの銀塊を一つとり出して給仕にわたし、
「またすぐ勘定にくるからな」
といって、再び艮嶽の前へ行った。そしてしばらく待っていると、かの女が養娘といっしょに軽やかに歩をはこびつつ艮嶽から出てきたが、そのまま轎には乗らずに、艮嶽の外の景色を眺めた。王慶がそっと近づいて行ってその女を見るに、まことに美しく、混江竜《こんこうりゆう》(曲の名)の詞《うた》でいえば、
〓資《ぼうし》(容姿)毓秀《いくしゆう》(美しく育ち)、那里《いずこ》の(一)個の金屋《きんおく》収むるに堪《た》えんや。桜桃の小口《しようこう》を点じ、秋水の(ごとく澄める)双眸《そうぼう》を横たう。若《も》し是れ昨夜晴開《せいかい》して新月皎《しろ》からずんば、怎《いか》んぞ能《よ》く今朝小梁州《しようりようしゆう》(曲の名)に断腸するを得んや。芳芬綽約《ほうふんしやくやく》たる〓蘭《けいらん》の儔《ともがら》、香飄雅麗《こうひようがれい》なる芙蓉の袖。両下裏(互いに)心猿《しんえん》都《すべ》て月に引き花に鉤《こう》せらる(みだら心をさそわれる)。
王慶は見ているうちにうっとりとなり、いつしか胸は早鐘《はやがね》をうち、骨はふやけ筋はしびれ、まるで雪獅子(雪だるま)が火にあたりでもしたように、たちまち半分がた、とろけてしまった。
かの嬌秀も、人々のあいだから王慶の顔を横目で見たが、
鳳眼《ほうがん》濃眉《のうび》画《えが》けるが如く、微鬚《びしゆ》白面の紅顔。頂《いただき》は平らかに額は闊《ひろ》く天倉《てんそう》(観相家のいう額から上の相)満ち、七尺の身材は壮健。善く香《こう》を偸《ぬす》み玉《ぎよく》を竊《ぬす》む(女をものにする)を会《え》し、〓《しよう》を売り奸《かん》を行《おこな》う(粋なところを見せてひっかける)に慣的《なれえ》たり。眸を凝《こ》らし呆想《ぼうそう》して人前に立つ、俊〓風流《しゆんしようふうりゆう》限り無し。
嬌秀は王慶の粋な様子をちらりと見て、これまた彼に気をひかれてしまった。つきそっていた幹〓や虞候らは、人々を退《ど》けさせ、養娘たちは嬌秀の手をとって轎に乗せ、みなでとりかこみながら東へ曲がり西へ折れ、こんどは酸棗門《さんそうもん》外の嶽廟《がくびよう》へ参詣に行った。王慶はまたあとをつけて嶽廟まで行ったが、人の山・人の海で身うごきもできない。と、人々はそれが童枢密のところの虞候や幹〓であるのを見て、みな道をあける。嬌秀は轎からおりて香をささげた。王慶は前のほうへにじり出て行ったが、傍《そば》までは行けない。それに供のものに怒鳴られてはと思って、ただ、廟守りと親しいようなふりをして、臘燭をつけたり香をあげたりするのを手伝いながら、両の眼でじっと嬌秀を見つめていた。嬌秀のほうでもしきりにぬすみ見をした。
そもそも蔡攸の息子というのは生まれつきの薄のろだったのである。嬌秀は家で、仲人ばあさんがそれはほんとうだとうわさしているのを何度も聞いて、日も夜も恨んでいた。それがきょう、王慶の粋なすがたを見て、この小娘(注八)の浮気ごころがさわぎ出したというわけ。そのとき童家の屋敷詰めの董《とう》という虞候が、いちはやくこれを見とがめた。そして排軍の王慶だと知ると、董虞候は王慶の横っ面をなぐって怒鳴りつけた。
「こちらをどこのお屋敷のおかただと思ってやがるんだ。きさまは開封府の軍卒の分際で、まったくおおそれたやつだ。なんだってこんなところへ割りこんできやがったんだ。旦那さまにいいつけて、きさまのその糞頭と首を別々にしてやるからそう思え」
王慶はぐうの音も出ず、頭をかかえて逃げ、廟の外へ飛び出すなり、ぺっと唾を吐いて叫んだ。
「ちぇっ、このおれとしたことが、なんたる白痴《こ け》の蝦蟆《がま》やろうだ。天鵝(白鳥)の肉にありつける道理なんかありやしないんだ」
その夜は、むしゃくしゃした気持をおしころし、恥じ入って家に帰った。
ところが、なんと、かの嬌秀は、屋敷へ帰ってからは日も夜も思いこがれ、侍女にたくさん賄《まいない》をつかい、逆に董虞候のところへ行って王慶のことをくわしく聞いてこさせたのである。侍女は薛《せつ》という仲人婆さんと親しくしていたので、ふたりでとりもち(注九)をし、こっそり王慶をつれてきて裏門からひき入れ、誰にも気づかれずに、嬌秀に密通をさせてやった。王慶のやつは、思いもかけぬうれしさに、朝から晩まで祝い酒というありさま。
光陰は矢のごとく、いつしか三月たった。まさに、楽しみ極まれば悲しみ生ず、というもの。王慶はある日どろどろに酔いつぶれ、府の王排軍の張斌《ちようひん》の前で馬脚をあらわしてしまって、たちまちこのことはぱっと世間にひろまり、ついに童貫の耳にはいるところとなった。童貫は大いに怒り、なんとか罪咎《つみとが》をさがし出して彼をやっつけてくれようとたくらんだが、このことはそれまでとする。
一方王慶は事がばれてしまったので、もう童家へ行くわけにもいかなくなってしまった。ある日、家で所在なくすごしていたが、おりしも五月も末で、ひどく暑いので、王慶は腰掛けを中庭へ持ち出して涼《りよう》をとっていた。やがて立ちあがって家のなかへ扇子を取りに行こうとしたところ、とつぜんその腰掛けが四本の脚でうごき出し、中庭から歩いてくるではないか。王慶は、
「怪しいやつ」
と一喝し、右足を飛ばして腰掛けを蹴った。同時に王慶は、
「あ痛っ」
と悲鳴をあげた。
蹴らなければそれまでのこと、蹴ったばかりに動きのとれぬ(注一〇)ことがたちまち身に降りかかってくることとはなった。まさに、天に不測《ふそく》の風雲あり、人に旦夕《たんせき》の禍福あり、というところ。さて王慶はその腰掛けを蹴飛ばして、どうしてまた悲鳴をあげたのであろうか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 政務 原文は剖断必人とあるが解しがたい。百回本には剖断政事とあり、それに従った。
二 艮嶽 くわしくは万寿艮嶽といい、道教に凝った徽宗皇帝が、さる道士の進言によって後嗣を得るために都(開封)の東北に築いた豪華な築山《つきやま》。艮とは東北のこと。二八三頁に説明されている。
三 竜亭 第八十二回注八参照。
四 天中節 端午(五月五日)を天中節という(『煕朝楽事』)。
五 介休貞節県君 介休は県名。山西省に属す。県君とは婦人に対する封号で、郡主・県主に次ぐもの。
六 貞孝宜人 前注の県君という封号は徽宗の政和年間に室人・安人・孺人という呼称に改められたが、さらに室人は宜人と改称された。つまりここでは母娘とも同じ位につけられたわけだが、母のほうは故人であるため県君という改称前の封号を、娘のほうは生きているため現在の称号をあたえられたのである。
七 朝づとめ 原文は画卯《がぼう》。第二十四回注三参照。
八 小娘 原文は小鬼頭児。罵語で、小僧っこというほどの意。
九 とりもち 原文は馬泊六。第二十四回注一一参照。ここでは密通のとりもちをすることをいう。
一〇 動きのとれぬ 原文は〓〓《ちゆうてん》。つかえて進みがたいこと。
第百二回
王慶《おうけい》 姦《かん》に因《よ》って官司《かんし》を喫《きつ》し
〓端《きようたん》 打たれて軍犯を師とす
さて、王慶は腰掛けが怪異をなすのを見て、脚でそれを蹴飛ばしたところ、あまりにも力を入れすぎたため、脇腹の筋をたがえて、地面にしゃがみこみ、
「あ痛っ、あ痛っ」
と悲鳴をあげて、しばらくは身動きもできずにいた。女房がその声を聞きつけ飛び出してきて見ると、腰掛けがかたわらにひっくりかえっていて、夫はそんなざまなので、ぴしゃりと王慶の横っ面を殴りつけて、
「この、ぐうたらの碌でなし(注一)、朝から晩まで出歩いていて、てんで家のことをかまわず、どうやら今夜は家にいると思ったら、いったいそれはなんてざまなのさ」
「おい、冗談じゃないぞ。脇腹の筋をちがえて、どうにもならんのだ」
女は王慶をたすけおこした。王慶は女房の肩につかまりながら、首をふり歯をくいしばって、
「あ痛っ、我慢ができん」
と叫ぶ。女は、
「のらくらもの(注二)の、できそこない(注三)! いつも脚を使ったり拳《こぶし》をふりまわしたりする(注四)ことに夢中になっているもんだから、きょうはとうとうやらかしてしまったんだよ」
と罵ったが、女はおかしなことをいってしまったと気がついて、紗《しや》のきものの袖で口をおさえて笑った。王慶も、やらかしたという言葉を聞いて、痛くてたまらないときだったが、おかしくてたまらず、声をたてて笑い出した。女はまた王慶の横っ面をひっぱたいて、
「碌でなし(注五)、おまえさんはまた、あのほうのことを思っているんだね」
という。さっそく女は王慶を寝台へつれて行って寝かせ、胡桃《くるみ》の実を一皿割り、燗酒を一壺つけて王慶にすすめた。そしてみずから戸に栓《せん》をし、蚊をたたきころし、蚊帳《か や》を吊って夫といっしょに寝た。だが、王慶は脇腹がひどく痛んで、あのほうはさっぱりいうことをきかなかったが、それはいうまでもないことだろう。
その夜は格別の話もなく、明けて翌日、王慶はまだ痛みがとれないので、
「これではとても、役所へ行ってご用をつとめることなんかできそうもない」
と思案しながら、午牌《ごはい》(昼)ごろまでぐずぐずしていたが、女房にせきたてられて膏薬《こうやく》を買いに出かけた。王慶はやっとの思いで役所の前の通りまで行き、打身打傷の治療を専門に、北むきに店をかまえている膏薬屋の銭《せん》爺さんから、膏薬を二枚買って脇腹に貼った。銭爺さんは、
「旦那、早くなおそうと思いなさるなら、この、傷をなおし血のめぐりをよくする煎薬を二服お飲みなさることです」
といい、さっそく二服の薬をとって王慶にわたした。王慶は紙入れのなかから、一銭二三分ぐらいの重さの銀子を一粒とり出し、紙を一枚もらって包んだ。銭爺さんは彼が銀子を包むのを横目で見ながら知らぬふりして顔を横にむけている。王慶は紙包みをわたしていった。
「少しばかりで失礼だが、これで冷たい瓜でも買って食べてください」
「旦那、友だちのあいだがらでどうしてそんなことを。それはいけませんよ」
と銭爺さんは、口ではそういいながら、右手ではもう紙包みを受けとっていた。そして薬箱の蓋をあけて、さっと紙包みをそのなかへいれた。
王慶が薬を持って帰ろうとすると、役所の西の通りのほうから、ひとりの易者がやってくるのが眼についた。頭には単紗《たんさ》(紗《しや》の一重)の目深《まぶか》な頭巾をかぶり、身には葛布《かつぷ》(葛《くず》で織った薄布)の直身《ちよくしん》(一重もの)を着、日よけの涼傘《りようさん》(日傘《ひがさ》)をさし、傘の下には紙の招牌(看板)をぶらさげていて、それには、
先天神数(注六)
の四字が大書してあり、その両側に小さな字が十六字、次のように書いてあった。
荊南李助
十文一数
字字有淮
術勝管輅
荊南《けいなん》の李助《りじよ》
見料は一回十文
なんでもぴたり
術は管輅《かんろ》(注七)に勝る
王慶はそれが易者だとわかると、嬌秀《きようしゆう》との一件が胸につかえていたうえに、きのうはまた不思議な事に出くわしたので、さっそく、
「李先生、どうぞこちらへ」
と呼びとめた。するとその易者は、
「これはいったいなんのご用で」
といいながら、両眼をぎょろりとむいて王慶を頭のてっぺんから足のさきまで眺めまわした。王慶が、
「見ていただきたいのです」
というと、李助は傘をすぼめ、膏薬屋の店のなかにはいってきて銭爺さんに拱手の礼をし、
「お邪魔をします」
といった。そして、ひとえの葛布の袖のなかから紫檀《したん》の課筒児《かとうじ》(占い箱)をさぐり出し、蓋をあけて大きな銅銭(注八)を一つとり出して王慶にわたし、
「あちらへ行って、天に黙祷をなさるよう」
という。王慶はその卦《うらない》の銭《ぜに》を受け取り、炎々と燃える紅い日輪に対して、腰を曲げて礼をしようとしたが、痛くて腰がよく曲がらず、まるで八九十歳の老人のように腰をこわばらせながら、組んだ手を振って中途半端な礼をし(注九)、それから、仰《あお》むいて立ったままお祈りをした。こちらでは李助がそれを見て、こっそり銭爺さんにさぐりをいれた。
「おまえさんとこの膏薬をつかえば、きっと、じきによくなるだろうが、どうやらあの人は怪我をしているようだな」
「あの人はなんでも、腰掛けが怪異をおこしたとかで、腰骨を蹴りちがえたんだそうで。さっききたときには、話をするのにも息を切らしていたが、うちの膏薬を二枚貼ったら、あのとおり腰が曲げられるようになったんですよ」
と銭爺さんはいった。
「わしも筋ちがいらしいと思いましたよ」
と李助。
王慶はお祈りをおわって銭《ぜに》を李助に返した。李助は王慶の名前をたずねてから、課筒を振りながら口のなかで唱えていうには、
日は吉《きつ》、辰《とき》は良《りよう》、天地は開張《かいちよう》(ひろびろとひろがる)。聖人易《えき》を作るや、神明を幽賛《ゆうさん》し(注一〇)、万象を包羅《ほうら》し、道は乾坤《けんこん》に合し、天地と其の徳を合し、日月と其の明を合し、鬼神と其の吉凶を合す。今東京《とうけい》開封の王姓の君子《くんし》有り、天に対して卦を買《もと》め、甲寅《こういん》旬中乙卯《おつぼう》の日、周易《しゆうえき》を奉請す。文王《ぶんおう》先師(注一一)、鬼谷《きこく》先師(注一二)、袁天綱《えんてんこう》先師(注一三)、至神至聖《ししんしせい》、至福至霊、疑迷を指示し、報応を明彰にされんことを。
李助は課筒を二度あけて一卦をつくり、
「これは水雷屯《すいらいちゆん》(〓〓)の卦だ」
といって、六爻《こう》(陰〓と陽〓の六つの組みあわせ。これを一卦という)の組みあいかたをじっと見たうえで、
「あなたの占いたいことはどういうことで?」
とたずねた。
「家のことを占っていただきたいのです」
と王慶がいうと、李助は頭をふりながら、
「わたしは、ありのままに申しあげますが、どうかおとがめになりませんように。屯《ちゆん》というは、難《なん》ということです。あなたの災難がいまやおこったということですわい。判断を申しますゆえ、よくおぼえておかれますよう」
といい、竹骨の渋紙の扇子をうちふりながら唱え出した。
家宅縦横に乱れ、百怪災《わざわい》を生じて家未《いま》だ寧《やす》からず。古廟《こびよう》に非ずんば、即ち危橋《ききよう》なり。白虎(凶神)凶《きよう》に冲《あた》り、官病(訴訟沙汰と病難)遭《あ》う(おこる)。頭有り尾無し、何ぞ曾《かつ》て済《な》らん(うまくゆくわけはない)。貴《き》(また鬼に通ず)を見て、兇驚訟獄(兇暴と訴訟沙汰)交わる。人口(ひと)安からず、跌蹼《てつぼく》(つまずき)に遭う。四肢《しし》力無く、拐児《かいじ》(誘拐者)〓《あが》る(無理にさらって行く)。改換《かいかん》に従わば(転居すれば)、是非(面倒)消《や》まん。虎竜鶏犬の日(十二支の寅《とら》辰《たつ》酉《とり》戌《いぬ》の日)に逢着すれば、許多の煩悩禍星《はんのうかせい》招かん。
そのとき王慶は李助とむかいあって坐っていたが、かの渋紙の扇子の柿渋《し ぶ》のにおいが我慢できず、黒い羅《うすぎぬ》のきものの袖で鼻をおさえながら聞いていた。
李助は唱えおわると、王慶にむかっていった。
「わたしは理にのっとってありのままに申しあげますが、お宅にはまだまだ怪しいことがおこりますぞ。心をいれかえて引っ越しをなさらんことには、ご無事のほどはうけあいかねます。あすは丙辰《ひのえたつ》の日ですから、十分ご用心なさるように」
王慶はずいぶん不吉なことをいわれて、どうしたらよいのかもわからぬままに、銭を出して李助に謝礼をした。李助は薬屋を出て傘をさし、東のほうへ行ってしまった。そのときあたりにいた役所の五六人の小役人たちが、王慶を見つけてたずねた。
「こんなところで油を売っていて、いったいどうしたんです」
王慶が、怪異を見て筋をちがえたことを話すと、みんなはどっと笑った。王慶は、
「おまえさんたち、もし府尹さまがおたずねになったら、なんとかうまくとりつくろっておいてくださいよ」
という。
「そんなことは心得ているさ」
一同そういって、それぞれ帰って行った。
王慶は家に帰ると、女房に薬を煎じさせた。王慶は早く病がなおるようにと、二時《ふたとき》もたたぬあいだに二服の薬をすっかり飲んでしまい、さらに薬がよく効《き》くようにと、酒を何杯か飲んだ。ところが、傷をなおし血のめぐりをよくするというその薬の成分は、みな興奮剤だったので、その夜寝てから、女房にそばでもぞもぞされると、かっかとなってきたが、腰が痛んで身動きができない。女房のほうは、王慶が嬌秀とできてしまってからは夜も昼も帰ってこず、長いあいだ空閨を守らされていたので、情欲は火のように燃えさかってどうにもこらえられず、彼をそのままにしておくことができなくなり、いきなり王慶の上にはいあがって、掀翻細柳営《きんぽんさいりゆうえい》の手をつかった。
ふたりは翌日の辰牌《しんはい》(朝八時)までぐっすり眠って、ようやく起きた。身じまいをすますと、王慶は腹がすいたので、酒をあたためて飲んだ。やがて朝食をとっていると、まだすまぬうちに、とつぜん外から呼ぶ声が聞こえた。
「旦那、おいでですか」
女が板壁の隙間からのぞいて見て、
「お役所の人がふたりですよ」
といった。王慶はそれを聞くと、しばらく呆然としていたが、やがてしぶしぶ茶碗を置き、口をぬぐい、立って行って手を拱《こまぬ》きながらたずねた。
「おふたりさん、わざわざお出ましで、どんなご用でしょうか」
するとそのふたりの小役人は、
「旦那、おたのしみで。朝っぱらから、いい顔じゃありませんか。府尹さまが今朝、点呼のときに、旦那が見えないのでえらいご立腹。わしたちはみんなあんたをかばって、怪異を見て筋ちがいをしたと申しあげたのだが、どうしても信用なさらず、さっそく書きつけ(注一四)をおくだしになって、わしたちふたりにあんたを呼んでこいといわれたわけで」
と、書きつけを王慶に見せた。王慶は、
「こんな赤い顔をしていちゃ、お目にかかるのも具合がわるいから、もう少し待ってもらいたいのだが」
といったが、ふたりの小役人は、
「わしたちじゃどうにもならんことですよ。府尹さまはとてもお待ちかねだから、遅れたらわしたちが巻きぞえになって打たれなければならん。さあ、早く、早く」
と、ふたりで王慶をかかえるようにしてつれて行った。王慶の女房があわてて出てきて声をかけようとしたときには、夫はもう門口を出て行ったあとだった。
ふたりの小役人が王慶をかかえて開封の役所へはいって行くと、府尹はちょうど表広間の虎の皮の椅子に腰をかけていた。ふたりの小役人は王慶をつれて進みいで、
「おいいつけどおり王慶をつれてまいりました」
と言上した。王慶はやっとのことで顔をあげて、四度、叩頭をした。府尹は荒々しくいった。
「王慶、その方は一介の軍卒の身でありながら、なまけて勤めに出ぬとはなにごとだ」
王慶はまたもや、例の怪異を見て筋をちがえたことをくわしく申し述べて、
「ほんとうに腰骨がひどく痛みまして、立ち居《い》もままになりませず、歩くこともできないのでございます。決してなまけているわけではございませんゆえ、なにとぞお見のがしくださいますよう」
といった。府尹はそれを聞き、しかも王慶が赤い顔をしているのを見て、かっとなって怒鳴りつけた。
「きさまは酒ばかりくらって、わるいことをし、あんな不埒千万なまねをしたうえに、こんどは妖言をこねあげて上司をあざむこうとするのか」
そして、ひきずり出して打《ぶ》てと命じた。王慶は申し開きどころではなく、その場で皮が裂け肉が綻ぶまでに打たれたあげく、妖言を捏造して愚民をまどわし、謀叛をたくらんだとの罪を自白するよう迫られた。
王慶は、昨夜は女房に攻めぬかれ、きょうはお上に責めたてられ、まさに双斧伐木《そうきんばつぼく》というやつで、いったんは気をうしなってしまった。かくて拷問にたえきれなくなり、とうとう無実の自白をしてしまった。府尹は王慶の供述書をとり、獄卒に命じて王慶に首枷《かせ》手枷の刑具をはめさせ、死刑囚の牢へおしこめて、妖言を捏造し謀叛をはかったというかどで死罪にしようとした。獄卒は王慶をかついで行って牢へおしこめた。
それというのも、童貫が、ひそかに使いのものをよこして府尹にいいふくめ、なんとか落度をさがして王慶を片付けてしまおうとしていたところへ、ちょうどうまい具合にあの怪事がおこったというわけである。そのとき役所じゅうのもので嬌秀の例の事を知らぬものはひとりもなかったので、みんなしきりに取沙汰して、
「王慶はあのことで罪を受けたのだから、おそらく命がなかろうよ」
といいひろめた。そのとき蔡京《さいけい》と蔡攸《さいゆう》は、これはいかにも外聞がわるいと考え、親子で相談して、
「もし王慶を殺してしまったら、うわさはいよいよほんとうだったということになって、ぱっと世間に醜聞がひろまってしまう」
と、ついに府尹と知りあいの腹心の役人をひそかにつかわして、王慶をさっそく遠隔の軍州へ流罪にし、後腐れをなくしてしまうようにとたのませた。かくて蔡京と蔡攸は吉日をえらんで嬌秀を迎え、婚礼の式をあげて、一つには童貫の恥を隠し、二つには人々のうわさを封じてしまおうとした。蔡攸の息子は、もともとばかだったので、嬌秀が生娘かどうかわかりはしなかったが、この話はしかしそれまでとする。
さて開封の府尹は、蔡太師のところからきた腹心のものの密命を受けて、ただちに役所へ出た。その日はちょうど辛酉《かのととり》の日だった。府尹は牢から王慶をひき出させ、大枷をはずさせて棒打ち二十の刑に処したのち、文筆匠《ぶんぴつしよう》(刺青《いれずみ》師《し》)を呼んで顔に刺青を入れさせ、遠いところをと考えて西京(洛陽)管下の陝《せん》州の牢城へ流すことに決め、その場で、重さ十斤半の団頭鉄葉《だんとうてつよう》の首枷をはめさせ、封じ紙を貼りつけ、公文書を出し、孫琳《そんりん》・賀吉《かきつ》というふたりの護送役人に命じて護送して行かせた。三人が開封府を出て行くと、王慶の舅の牛大戸《ぎゆうたいこ》が待ちかまえていて、王慶・孫琳・賀吉を役所の前の南通りの居酒屋へつれこんだ。牛大戸は給仕を呼んで酒と肉をとり寄せた。杯を二三杯傾けたとき、牛大戸はふところから小粒銀の包みをとり出して王慶にさし出し、
「白銀三十両、これをおまえの道中の費用にするがよい」
といった。王慶が、
「お舅《とう》さん、ありがとうございます」
と、手をさし出して受け取ろうとしたが、牛大戸はその王慶の手をおしのけて、
「そうやすやすとはやれん。わしは伊達《だ て》や酔狂《すいきよう》でおまえに銀子をやるわけじゃないのだ。おまえはこれから陝州へ流されて行くのだが、一千里あまりも離れていて、路は遠く山は遥かだ、いつ帰ってくるものともわかりはしない。おまえはよその女に手を出して自分の女房はほったらかしていたじゃないか。女房はいったい、おまえにかわって誰が面倒を見るというんだ。それに、子どもひとりいるわけじゃなし、田地もなし、家財もなし、おまえを待たねばならんいわれはなにもない。それで、ぜひとも離縁状を書いてもらいたいのだ。おまえが行ってしまったあとは、どこへ再縁しようと、あとからいざこざはいわぬとな。そうしてくれたら、この銀子をやるとしよう」
王慶は日ごろ無駄づかいばかりしていたが、考えてみるといまふところには一両半斤の銀両とてなく、これではとても陝西《せんせい》へ行けるわけはなかった。あれこれ思案をしたが、その銀子を用立てるよりほかなく、二つ三つため息をついて、
「えいっ、仕方がない」
とつぶやき、しぶしぶ離縁状を書いてしまった。牛大戸は片手でその紙を受け取りながら、片手で銀をわたし、よろこんで帰って行った。
王慶はふたりの役人といっしょに家へ荷物や包みをとりまとめに行ったが、女房はもう牛大戸の家へひきとられて行ったあとで、門には錠がかけてあった。正慶は隣りの人から斧と鑿《のみ》を借り、戸をこじあけてなかへはいって見ると、およそ女房の身につけていたもの、髪に飾っていたものは、なにもかも持ち去られていた。王慶は腹だたしくてならなかったが、また情けなくもあった。隣りの周《しゆう》婆さんにきてもらって、酒食をととのえて役人にふるまったうえ、銀十両をこの孫琳と賀吉に贈って、
「わたくし、棒傷がうずいて歩くことができませんので、ここ何日か養生をさせていただいてから、出かけたいと存じますが」
といった。孫琳と賀吉は金をもらった手前、承知をしたものの、いかんせん、蔡攸のところから腹心のものがやってきて役人に出発をうながした。王慶は家財道具を叩き売ってしまい、胡員外《こいんがい》に借家をひきわたした。
そのころ王慶の父の正〓《おうけき》は、息子に腹を立てたことから眼を病み、両眼とも失明して別居していたが、息子がやってくるといつも打ったり、罵ったりしていた。しかし、このたび息子が裁判にかかって流罪にされると聞くと、思わず不憫になって、小者に手をひかせて王慶の家まで行き、
「ああ、伜よ、おまえはわしのいうことをきかなかったばかりに、こんなことになってしまったのだぞ」
と叫び、いいおわると、その盲《めし》いた暗い両眼から涙をあふれさせた。王慶は小さいときからいちどもお父さんと呼んだことはなかったが、いまや家破れ人離れるときにあたって、さすがに悲しくなり、大声をあげていった。
「お父さん、おいらはこんど無実の罪を着せられてしまったが、それにしても我慢のならぬのは牛《ぎゆう》のじじいのひどい仕打ちだ。むりやりにおいらに離縁状を書かせやがって、それから銀子をくれやがったんだ」
「おまえがふだんから、女房を可愛がってよく舅に仕えていたら、あの人だっておまえをそんなふうにあしらいはしなかったろうよ」
と王〓はいった。王慶はそうやりこめられると、むっとして、もう父親にはかまいつけず、そのままふたりの役人といっしょに支度をして、城《まち》を出て行ってしまった。王〓は足ずりをし胸をたたいて、
「まったく、あんな親不孝ものを見舞ってやるのではなかったわ」
といいながら、また小者に手をひかれて帰って行ったが、このことはそれまでとする。
さて王慶は、孫琳・賀吉とともに東京を離れ、ある人里はなれたところに家を借りて十日ばかり治療し、ようやく棒傷がなおったところで、役人にせかされて出発し、はるばると陝州めざして進んで行ったが、おりしも六月の初旬で、暑さがきびしく、一日に四五十里がやっとのことだった。道中では、死人の寝ていた寝台に寝たり、沸かさない水を飲んだりもしなければならなかった。三人は十五六日歩いたのち、嵩山《すうざん》を越えた。ある日、歩きつづけながら、孫琳が手を西のほうへあげて遠くの山を指さし、
「あの山は北印山《ほくいんざん》といって、あそこは西京の管下だ」
といった。三人は話をしながら朝涼《あさすず》のうちに二十里あまり歩いた。と、北印山の東側に町があるのが見えた。あたりの村の百姓たちがぞろぞろと町へあつまって行く。その町の東の、人家のまばらなあたりに柏《ひのき》の大木が三本、丁の字形にならんでいて、その樹の下かげに一群の人々が押しあいへしあいしながら一人の男をぐるりととりかこんでいる。その男は、上半身を肌ぬぎにして、その涼しい木かげで、えい、おう、おう、と掛け声をかけながら棒を使っていた。三人は木かげへ行って涼をとった。王慶は歩いて汗びっしょりになり、全身うだったようになりながら、首枷をつけたまま人混みのなかへ身をこじ入れて行き、爪先立ってその男が棒を使うのを見物した。しばらく見ているうちに王慶は思わず口をすべらせ、笑いながら、
「あの男のやっているのは見世物の棒だ」
といった。その男はちょうど大いに佳境にはいっていたところだったが、その言葉を聞きつけて、棒をとめて見ると、それは流刑囚ではないか。男はかっとなって、
「この懲役やろうめ、わしの鎗棒は遠近にその名がとどろいているのだ。きさま、よくもへらず口をたたき、わしの棒をあなどって、ばかなことをぬかしやがったな」
と怒鳴りつけ、棒を放り出して拳骨をふりあげ、真向《まつこ》うから打ちかかってきた。と、人垣のなかから、ふたりの若い男が飛び出して、
「待った」
とさえぎり、王慶にむかって、
「あなたはなかなかおできになるようですな」
という。王慶は、
「つい口をすべらせて、あの人を怒らせてしまいました。わたしもいささか鎗棒を心得てはおりますが」
といった。かなたでは棒を使っていた男がかっとなって怒鳴った。
「懲役やろう、きさま、おれとやりあってみろ」
ふたり連れは王慶に、
「あの男とやりあってみますか。もし彼を負かしたら、あそこに集まった二貫の銭はすっかりあなたに差しあげましょう」
王慶は笑って、
「よろしいとも」
といい、人々をおし分けて行って賀吉に棍棒を借り、汗衫《かんさん》(肌襦袢《じゆばん》)をぬいで裾をからげ、手に棒をかまえた。人々が口々に、
「おまえ、首に枷をつけたままじゃ棒が振りまわせないだろうが」
というと、王慶は、
「そこがおもしろいところなんだ。枷をつけたままで勝ってこそ、腕があるというもんだ」
「枷をつけたままで勝ったら、この二貫の銭はきっとおまえにやるぞ」
と人々はいっせいにいい、路をあけて王慶をなかへ通してやった。かの棒使いの男も、棒を手にとって身を構え(注一五)、
「いざ、いざ、いざ」
と叫ぶ。王慶は、
「みなさん、では、おなぐさみまでに」
といった、かなたの男は、王慶が枷に自由をはばまれているのを見てあなどり、蟒蛇《もうじや》(大蛇)象《ぞう》を呑《の》むの勢《せい》という構えを示した(注一六)。王慶も、蜻〓《せいてい》(とんぼ)水に点ずるの勢という型を示す(注一七)。かの男は、やっ! と一声、いきなり棒をふるって打ちかかってきた。王慶が一歩身をひくと、男は一歩踏みこみ、棒をふりかぶって王慶の脳天へとまたもや打ちおろす。王慶がさっと左へ体をかわすと、男の棒は空《くう》を打つ。男にその棒を引きもどすいとまもあたえず、王慶は体をかわす一瞬、男の右手に一撃を浴びせた。それは見事に右の手首にきまって棒を打ち落とした。このとき王慶は手加減していたからよかったものの、さもなくば相手の手首はへし打られていたであろう。人々はどっと笑った。王慶は進み寄り、男の手をとっていった。
「ご無礼をしました。どうか悪しからず」
男は右手が痛むので、左手でかの二貫の銭を取ろうとした。人々はいっせいにさわぎ出す。
「おまえの腕はだめだ。さっきいったじゃないか、その銭は棒に勝ったほうのものにやると」
そのとき、さきに飛び出してきたふたり連れの男が、横合いからその男の二貫の銭をひったくって、王慶にわたし、
「どうか拙宅へおたち寄りくださるよう」
といった。かの棒使いの男は大勢のものにはさからえず、仕方なく商売道具をとりまとめて、町のほうへ立ち去って行った。人々もみな散って行った。
ふたりの男は王慶をいざない、ふたりの役人ともども、みな涼笠子(日よけ笠)をかぶって南のほうへむかい、林を二つ三つ通りぬけて、とある村里に出た。林のなかに大きな屋敷があって、まわりには土塀をめぐらし、塀の外側には二三百本の柳の大木があった。屋敷の外では、初蝉《はつせみ》が柳の木で鳴きさわぎ、屋敷の内では子燕が梁で啼《な》いていた。ふたりの男は王慶ら三人を屋敷のなかへみちびき、座敷へ通ってまず挨拶をかわしてから、それぞれ汗衫と麻鞋をぬぎ、主客それぞれの席についた。屋敷の主《あるじ》は、
「みなさんは、みな東京《とうけい》のなまりがおありのようですが」
とたずねた。王慶は名前をいい、ついで、府尹に陥れられた次第を話した。話しおわってから、
「おふたりさんのお名前は」
とたずねると、ふたりは大いによろこび、上手に坐っているほうが、
「わたしは姓は〓《きよう》、名は一字名で端《たん》と申します。こちらは舎弟でして、一字名で正《せい》というもの。わたくしどもは代々この土地に住んでおりまして、それゆえここは〓家村《きようかそん》と申します。当地は西京《せいけい》の新安県《しんあんけん》の管下です」
といってから、下男を呼んで三人の汗にぬれた汗衫を洗うよういいつけ、まず冷たい水を汲んでこさせて暑さと渇きをいやさせたうえ、三人を脇部屋へつれて行って行水《ぎようずい》をつかわせた。それから座敷に机をならべて、まずありあわせの点心(小食)をすすめてから、鶏をころし鴨《あひる》を料理し、豆を煮たり桃をもいだりして、酒席を設けて歓待という段取り。やがて下男たちは席をととのえなおして、まずはじめには、綺麗に皮をむいた蒜《にんにく》一皿と、切りそろえた太い葱《ねぎ》一皿を持ってき、ついで野菜料理・つまみもの・魚・肉(獣肉)・鶏・鴨などをはこんできた。〓端は、王慶を上座にすすめ、ふたりの役人にも並んで席につかせ、自分と弟は下手《しもて》の席にひかえた。下男は酒を酌《つ》いだ。王慶が、
「わたしは罪を犯した囚人ですのに、おふたかたに過分にお目にかけていただき、いろいろとお世話をおかけしまして、ほんとに申しわけございません」
というと、〓端は、
「なにをおっしゃいます。誰しもいつどんな災難に遭うかわかったものではありません。酒や料理をたずさえて旅をするものがどこにありましょう」
という。かくて猜枚《さいまい》(注一八)や行令《こうれい》(注一九)にうち興じつつ、やがてほどよく酒がまわったとき、〓端がいい出した。
「この村には、前後左右、あわせて二百軒あまりの家がございまして、みなわたしたち兄弟を、主《あるじ》としております。わたしたち兄弟はふたりとも拳《けん》や棒《ぼう》ができまして、みなのものをおさえていたのですが、ことしの春二月、東村の賽神会《さいしんえ》(祭礼)に舞台を組んで芝居をやりましたとき、わたしたち兄弟が遊びに行きましたところ、その村の黄達《こうたつ》というやつとばくちのことで喧嘩になり、そやつにこっぴどく叩きのめされて、わたしたち兄弟はふたりともそいつに負けてしまいました。それからは、黄達のやつは人の前でさんざん大きな口をきいて威張り散らすのですが、わたしたちふたりはどうすることもできず、じっとこらえているよりほかないありさまです。さきほど拝見しますに、あなたさまの棒術はまことに見事なもの。わたしたちふたり、ぜひともあなたさまを師匠に仰いで、ご指南を受けたいと思うのですが、いかがでございましょうか。お礼は十分にさせていただきます」
王慶はそれを聞くと大いによろこび、一応は謙遜したが、〓端と弟はさっそく王慶に師匠としての礼をささげた。その夜は酔いをつくすまで存分に飲んでからようやく切りあげ、涼しくなってから寝た。
翌日、夜があけると、王慶は朝の涼しいうちにと、麦打場で〓端に稽古をつけて、拳をふるったり脚を使わせたりした。と、そのとき外からひとりの男が、手をうしろに組んだままつかつかとはいってきて、
「どこの懲役やろうだ。よくもこんなところへやってきて手並みを見せびらかしやがるな」
と怒鳴りつけた。
この男がはいってきたばかりに、やがて、王慶はかさねて大きな禍《わざわい》の種をまき、〓端はまたもや深い恨みを結ぶことになるのである。まさにそれは、禍は浮浪《ふろう》よりおこり、恥は賭によって招くというところ。ところで、〓端の屋敷へ乗りこんできたその男は何者か。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 ぐうたらの碌でなし 原文は郎当怪物。
二 のらくらもの 原文は浪弟子。浪蹄子とも書く。
三 できそこない 原文は鳥歪貨。歪貨は安物、鳥は罵語の頭に冠して、日本語でくそというのにあたる。
四 脚を使ったり拳をふりまわしたりする 原文は使腿牽拳。拳法のことをいう。ただし、ここでは次の「やらかす」(弄出来了)という語に鄙猥感を持たせる言葉になっている。
五 碌でなし 原文は鳥怪物。
六 先天神数 八卦のこと。伏羲の易を先天といい、神農の易を中天といい、黄帝の易を後天という。
七 管輅 三国時代の魏の人で、周易に明るく、卜筮《ぼくぜい》で占ってあたらざるなしという名人。みずからの寿命を占って四十八歳で死ぬといったが、果たしてそのとおりであったという。
八 大きな銅銭 原文は大定銅銭。大定を大きなと訳したが、あるいは、大定は年号(南北朝の後梁の宣帝、同じく北周の静帝のいずれか)で、その年間の銅銭のことかも知れない。
九 中途半端な礼をし 原文は半揖半拱的兜了一兜。拱《こう》とは拱手。手を胸の前で組みあわせる礼。揖《ゆう》とは、組みあわせた手を上下させる礼。
一〇 神明を幽賛し 『易』の説卦伝《せつかでん》に、昔聖人の易を作るや、神明を幽賛して蓍《うらない》を生ず(昔者聖人之作易也、幽賛於神明而生蓍)とある。ここの原文は、聖人作易、幽賛神明で、説卦伝に拠ったもの。神明を幽賛すとは、深く神明の道を賛助するの意。
一一 文王先師 周の文正のこと。『周易』を著わしたとされている。
一二 鬼谷先師 鬼谷は戦国時代の人で、『鬼谷子』一巻がその著とされている。術数家にもてはやされてさまざまに伝説されている。例えば『録異記』には次のごとく記されている。「鬼谷先生は古の真仙なり。姓は王氏。軒轅《けんえん》(黄帝)の代より商・周を歴《へ》、老君(老子)に随って西のかた流沙(砂漠)に至り、周の末また帰って、漢の浜・鬼谷山に居す。弟子百余人、惟《ただ》蘇秦・張儀(戦国時代の縦横家)は神仙を慕わず、縦横の術を学ぶ」
一三 袁天綱先師 袁天綱は唐の成都の人。人相・方位を観るに長けていたという。これまた術数家のあいだで伝説的に尊崇されている人である。
一四 書きつけ 原文は籖《せん》。
一五 身を構え 原文は使個旗鼓。第九回注三参照。
一六 構えを示した 原文は吐個門戸。第七十四回注一六・一八参照。
一七 型を示す 原文は吐個勢。前注と同意。
一八 猜枚 猜拳《さいけん》ともいい、酒席の興を添える遊びで、つまみものの蓮の実や西瓜の種、あるいは碁石などを掌ににぎって、その数をあてあい、負けたものが罰杯を受けさせられる。
一九 行令 ふつう酒令といって、猜枚と同じく酒席の遊び。令官というものをひとり選び、他のものは令官の決めたさまざまなとりきめに従わねばならぬことにし、それに反したものは罰杯を受けさせられる。
第百三回
張管営《ちようかんえい》 妾弟《しようてい》に因《よ》って身を喪《うしな》い
范節級《はんせつきゆう》 表兄《ひようけい》の為に臉《かお》を医《い》す
さて王慶は〓家村《きようかそん》の〓端《きようたん》の屋敷で、かの杲日《こうじつ》(旭日)初めて升《のぼ》り清風徐《おもむ》ろにきたるという朝涼《あさすず》のうちにと、麦打場の柳の木かげで〓端兄弟に稽古をつけて、拳をふるったり脚を使わせたりしていると、不意にひとりの大男が、頭はまるだしのまま頭巾はかぶらず、髪は〓髻《あげまき》に結い、雷《らい》州の上質の葛布《くずぬの》の、短いゆったりとした衫《うわぎ》を着、紗のひとえの裙子《はかま》をつけ、草《わら》の涼鞋児《なつぐつ》をひきずり、三角《さんかく》の上等の蒲扇《がまおうぎ》を持ち、昂然と顔をあげ、手をうしろに組んで、悠々とはいってきたが、見ればひとりの流刑囚がそこで稽古をつけている。彼は、〓東鎮《ぼうとうちん》でさる流刑囚が鎗棒使いをうち負かしたということを、昨日すでに聞いていたので、〓端兄弟に手筋をおぼえられてはと恐れ、いきなり王慶を罵った。
「きさま罪人のくせに、なんだって途中でぬけ出して、こんなところで、よそさまの息子をだましてやがるんだ」
王慶は〓家の親戚のものだとばかり思って、あえて口を返さずにいた。ところがこの男こそ東村の黄達で、彼もまた朝涼《あさすず》のうちにと、〓家村の西のはずれの柳大郎《りゆうたいろう》のところへ、賭場銭《とばせん》を取りに行こうと出かけてきたところ、〓端の村のなかで、えい、えい、おう、という掛け声のするのを聞きつけ、日ごろから〓家の兄弟をばかにしきっていたこととて、ずかずかと乗りこんできたというわけである。
〓端は黄達だと見ると、胸に無明《むみよう》の火(怒り)を燃えあがらせること三千丈。ついにおさえきれなくなって大声で罵った。
「畜生の大ばかやろう(注一)。この前はおれの賭銭《とせん》をふんだくりやがって、きょうもまた人をばかにしにやってきやがったのか」
黄達も大いに怒り出して、
「この糞やろうめ(注二)!」
と罵り、蒲扇を放り出し、拳骨をにぎりかため、飛びかかって行って真向うから〓端を打ちすえようとした。王慶は彼らふたりが激しくいいあっているのを聞いて、やはりこいつが黄達なのだなと察し、なだめるようなふりをして進み出るなり、枷で黄達の臂《ひじ》に一撃をくらわした。黄達はずどんとひっくりかえって脚を宙にあげ、しきりにもがいたが、そこへ〓端・〓正および下男ふたりがどっと駆け寄っておさえつけ、拳骨と足蹴りで、黄達の脊背《せなか》・胸脯《む ね》・肩胛《か た》・脇肋《わきばら》・膀子《ひ じ》・臉頬《か お》・頭額《あたま》・四肢《てあし》と、ところきらわず殴り蹴り、あますところはわずかに舌の先だけというありさま。こうして一同は黄達を数えきれぬほど蹴ったり殴ったりして、かの葛布の衫《うわぎ》や紗の裙子《はかま》をびりびりに引き裂いてしまった。黄達はただ、
「殴りやがったな、殴りやがったな」
とわめくばかり。まったく一糸もまとわぬ赤はだかにされてしまった。かたわらにいた護送役人の孫琳と賀吉がしきりにおしなだめて、〓端らはようやく手をひいた。黄達は彼らに打ちのめされてしまい、わずかに地べたで息をあえがせているばかり。もはや立ちあがる力もあらばこそ。〓端は三四人の下男にいいつけて、黄達を東村への路の中ほどの草原のなかへ投げすててこさせた。かくて黄達はかんかん照りの日中《につちゆう》、半日も日にさらされていたが、黄達の家の隣りの百姓が草刈りにきて偶然見つけ、たすけて家へつれ帰った。黄達は床について休み、人にたのんで訴状を書いてもらい、新客県へ非道な目にあわされたことを訴え出たが、この話はそれまでとする。
一方〓端らは、朝のさわぎがすんでから、下男に酒食をはこばせて王慶らに朝食をすすめた。王慶が、
「あいつは、きっとあとで仕返しにやってきますよ」
というと、〓端は、
「あの畜生も運のつきですよ。家には女房がいるだけですし、隣り近所のものはあいつの力におさえつけられていただけで、あの畜生が打ちのめされてしまった今となっては、あいつのためにひと肌ぬごうなんてものはおりはしません。もしあいつが死んでしまったときには、下男を身代りにさし出して、つぐないをさせましょう。そうすればたとえ訴えられたとしても、たいしたことはありゃしません。もし死ななければ、ただ喧嘩沙汰の訴えごとというだけのことですみます。このたびはまったく師匠のおかげで恨みを晴らすことができました。さあ、師匠、杯をおあけください。安心してご滞在になって、ついでに鎗棒をわたしたち兄弟にお教えくださいますよう。ご恩返しはきっといたしますから」
そして〓端は、重さ五両の錠銀を二枚とり出してふたりの役人にわたし、さらに何日か猶予してくれるようにとたのんだ。孫琳と賀吉は銭をもらった手前、心ならずも承知した。
それからずっと十日あまり滞在して、王慶は鎗棒の手筋をことごとく〓端と〓正に伝授した。やがて役人が出発をせかせたし、また黄達が人にたのんで県へ訴えたという噂がはいったので、〓端は五十両の白銀をとり出して王慶に贈り、陝州へ行く費用にさせた。王慶は夜半に起き出して旅嚢や包みをとりまとめ、まだ夜のあけぬうちに屋敷をあとにした。〓端は弟にかなりの銀子を持たせて、送って行かせた。
道中は格別の話もなく、幾日かして陝州に着いた。孫琳と賀吉は、王慶をつれて州役所へ行き、開封府の公文書を役所へさし出した。州尹はそれをよくあらためて見たうえで、王慶の身柄をひきとり、返書を作成してふたりの役人にわたし、帰らせたが、この話はそれまでとする。
州尹はただちに王慶を同所の牢城へ送るよう命じ、役人は牢城へ身柄をひきわたして復命したが、そのことは改めていうまでもなかろう。
そのとき〓正は、ある知りあいのつてを得て、なにがしかの銀子を、王慶のことをよろしくと、管営《かんえい》(典獄)と差撥《さはつ》(獄卒長)に賄賂として贈った。その管営は姓は張《ちよう》、名は二字名を世開《せいかい》といったが、〓正の賄賂を受け取ると、王慶の枷をはずし、また殺威棒《さついぼう》(入獄の際の棒打ち)なども免除し、労役にも出さず、独房に入れて自由に出入りすることを許した。
かくていつしか二ヵ月たち、秋も次第に深まってきた。ある日、王慶が独房で所在なくすごしていると、とつぜんひとりの軍卒がやってきて、
「管営さまがお呼びだよ」
という。王慶は軍卒について行って、点視庁(吟味の間)に出て叩頭した。すると管営の張世開は、
「その方はここへきてからだいぶんたつが、まだいちども用をいいつけたことがなかったな。わしは陳《ちん》州の角弓《かくきゆう》(角《つの》で飾った半弓)のよいやつを買いたいと思っているのだが、陳州といえば東京《とうけい》の管下だし、その方は東京のものだから値段や真贋がよくわかるにちがいない」
といい、袖のなかから紙包みをさぐり出して、手ずから王慶にわたし、
「紋銀《もんぎん》(注三)二両だ。その方、行って買ってきてくれ」
「かしこまりました」
といって、王慶は銀子を受け取った。独房へ帰り、紙包みをあけてその銀子をしらべて見ると、はたして純白である。秤《はかり》ではかってみると三四分がた重かった。王慶は牢城を出て、府の北通りの弓屋へ行き、一両七銭で陳州の本物の角弓を一張り買って帰った。ところが張管営はもう退庁していたので、王慶は弓を私宅の側仕えのものにわたして持って行かせたところ、張管営は三銭の銀子がもうかったと大よろこびだった。
翌日、張世開はまた王慶を点視庁へ呼び出していった。
「その方はなかなかよく間《ま》にあうやつだ。きのう買ってきてくれた角弓はとてもよかったぞ」
「弓置場には火をいれておかれますよう。絶えず焙《あぶ》っておくとよろしゅうございます」
「わかった」
と張世開はいった。それからは、張世開は毎日王慶に食べものを買いととのえさせたが、はじめのときとはちがって、現金は出さずに帳簿を一冊わたし、王慶に毎日の買いものをいちいちそれに記載させることにした。商人たちはみな半文の掛け売りもしなかったので、王慶は仕方なく自分の銭で買って屋敷へとどけた。しかも張世開は、よきにつけあしきにつけて小言をいい、打ったり罵ったりした。十日たって王慶は帳簿を提出して立替金を請求したが、一文も出してはくれなかった。こうして一ヵ月あまり、王慶は張典獄に、あるときには五つ、あるときには十、あるときには二十、またあるときには三十と、前後あわせて三百あまりも棒打ちをくらわされて、両腿は打ち傷でただれあがってしまい、〓端からおくられた五十両の銀子も立替金に払いつくしてしまった。
ある日、王慶は、牢城の西、武功《ぶこう》街の牌坊《はいぼう》(街門)の東脇にある、丸薬《がんやく》・散薬《さんやく》を調剤し、煎薬《せんやく》も売り、内科の薬も外科の薬も調合し、また棒傷の膏薬も売っている張医士《ちよういし》の店へ行き、何枚か膏薬を買って棒傷の手当てをした。そのとき張医士は王慶に膏薬を貼ってやりながら、
「張管営の義弟の〓大郎《ほうたいろう》も、このまえ、ここで膏薬を買って右腕の手当てをしなさったが、〓東鎮《ぼうとうちん》で蹴つまずいて怪我をしたんだといってなさったけど、わしがその腕を見たところでは、どうやら打たれた傷のようでしたよ」
といった。王慶はその話を聞くと、せきこんでたずねた。
「わしは牢城にいるのだが、いちども顔を見たことがないのはどうしてだろう」
「あの人は張管営の小夫人(妾)の実《じつ》の弟で、本名は一字名で元《げん》というのです。〓夫人《ほうふじん》という女は、張管営のいちばんのお気にいり。〓大郎のほうは、ばくちには目がなく、それに槍や棒も手なぐさみに使う人だが、まあその姉さんのおかげで、ずっと面倒を見てもらっているのですよ」
王慶はその話を聞いて、九分どおりは察しがついた。
「このまえ柏《ひのき》の木の下でおれに打ちのめされたあいつが、その〓元《ほうげん》にちがいない。おかしいと思ったが、道理で、張世開はおれのあらをさがしていじめやがるんだな」
王慶は張医士に別れて牢城へ帰り、ひそかに管営の側仕えの小者に酒や肉を買ってご馳走し、そのうえ、銭までやって、おもむろに〓元の様子をたずねた。その小者の話したことはさきの張医士と同じだったが、ほかに二三くわしい話もあって、こういうのだった。
「あの〓元は、先日〓東鎮であんたに打ちのめされたものだから、いつも管営さまの前であんたへの恨みをいいたてておりますよ。だから管営さまのあんたへのむごい仕置棒は、おそらくまだ勘弁してはもらえますまいよ」
まさに、
勝ちを好み強きを誇るは是れ禍《わざわい》の胎《もと》
謙和にして分《ぶん》を守らば自ら災《わざわい》無し
只一棒に因って仇隙《きゆうげき》を成す
如今《い ま》利(利子)を加えて奉還し来《きた》る
そのとき王慶は、小者にくわしいことを聞いたのち、独房へ帰ってため息をつきながらつぶやいた。
「官《かん》を怕《おそ》れずただ管《かん》を怕る(役人はこわくはないが権力がこわい)というが、まったくだ。先日ふと口をすべらしてあいつをけなしたのがもとで、あいつを棒で打ち負かしてしまったが、なんとそいつが管営のお気にいりの女の弟だったとはなあ。管営がおれをどこまでも苦しめようというのなら、いっそのこと他所へ逃げだして、あとはなんとか考えることにしよう」
と、ひそかに街へ出て行って匕首を一本買い、ふところにかくして不測の場合にそなえた。こうしてさらに十数日たったが、さいわいに管営からの呼び出しはなく、棒傷もだいぶんよくなった。
と、ある日、張管営はまたも彼に段子《どんす》を二疋買ってくるようにといいつけた。王慶はすでに心に期するところがあって、まめまめしく、急いで店屋へ行って買ってきた。張管営はちょうど点視庁に出ていたが、王慶が進み出て復命すると、張世開はその段子を、色もわるいし、尺もたりないし、柄《がら》もふるいと小言をいって、その場で王慶をさんざん罵った。
「ずうずうしい下郎め、きさまは一介の囚人、もともと水かつぎや石はこびをさせるか、さもなくば大鎖でつないでおくのが当然なのだ。それを、きさまに走り使いをさせているのは、十分に目をかけてやっているのだぞ。このど畜生め、きさまにはそれがわからんのか」
そう罵られて、王慶はただ口をつぐんだまま、灯明をあげるときのようにぺこぺこと叩頭を繰り返してゆるしを乞うた。と張世開は大声でいいつけた。
「ひとまず棒打ちはあずけておいてやるから、すぐに段子を上等のと取りかえてこい。今夜じゅうに用をたすんだぞ。もしおくれでもしたら、きさまのその糞命《いのち》はないものと思え」
王慶は仕方なく着ていたきものをぬいで質屋から銭を二貫借り受け、金をたして上等の段子と買い換え、抱きかかえて牢城に帰ってきたが、長いあいだ歩きまわったためすでに点灯の時刻をすぎていて、見れば牢城の門はしまっていた。当直の軍卒は、
「夜中におまえさんを入れてやるなんて、そんな面倒なことを背負いこむのはごめんだよ」
という。
「管営さまのお使いのものだ」
と王慶は弁解したが、その当直の軍卒はどうしてもとりあわない。王慶はふところに残っていた銭を当直のものにやって、やっと通してもらったが、ここでもまた手間をとらされたあげく、二疋の段子をささげて、管営の私宅の門前まで行ったところ、門番のもののいうには、
「管営さまは奥さま(注四)といさかいをなさって、奥のお部屋さま(注五)のところへ行っておしまいになったよ。奥さまはすっかりご機嫌を損じておられるから、おまえさんのことをとりついでご難を受けるのはごめんだよ」
王慶は思案した。
「管営は今夜じゅうに用をたせといったが、どうしてまたこうも邪魔がはいるのだろう。これはおれをやっつけようとしてのたくらみじゃないか。あしたは、あのむごい仕置棒からのがれられそうにもないな。この命もあの畜生の手でお陀仏というわけか。おれはこれまであいつに棒で三百あまりも打たれたが、その一つぶんの恨みなりとも晴らしたいものだ。まえには〓正からたんまり銀子をもらっておきながら、いまは知らぬ顔をしておれを苦しめやがる」
王慶という男は小さいときから悪逆無道で、生みの親でさえ二度と繰り返しては彼に逆らわなかったほどである。そのとき王慶はむらむらと反抗心をおこして思うよう、
「恨み小なるは君子《くんし》に非ず、毒なきは丈夫《じようふ》ならず、という。こうなればもう、やるまでだ」
次第に夜もふけ、営内の人々も囚人たちもみな眠ってしまうと、王慶はひそかに私宅の裏へまわり、塀を乗り越えてそっと裏門の栓をはずし、かたわらに身をひそめた。星あかりのもと、塀の内側には東のほう厩《うまや》があり、西のほうには小さな一棟の建物が見えたが、よく見るとそれは便所だった。王慶はその厩のなかの木柵をとり出して内門の塀に立てかけ、それをつたって塀の上に這いあがり、塀の上から木柵をひっぱりあげて内側に立てかけ、そっと下にすべりおりた。そしてまず内門の栓をはずし、木柵をかくした。内側にはさらにもう一つ塀があって、塀のむこうから不意に笑いさんざめく声が聞こえてきた。王慶は塀際《ぎわ》へ忍び寄り、身をしのばせながら聞き耳をたてた。それは張世開の声と、ひとりの女の声、さらにひとりの男の声で、酒を飲みながらおしゃべりをしているところだった。王慶は長いあいだ盗み聞きをしていた。と、張世開が、
「なあ、あいつがあした復命にやってきたら、棒でこっぴどい目にあわせてやろう」
といっているのが聞こえた。ついで相手の男のいうのが聞こえる。
「あいつはもう身のまわりのものを、あらかた費《つか》いはたしてしまったようです。どうか思い切って手をくだして、わたしのいまいましい胸のうちを晴らしてくださいよ」
「あさってになったら、おまえをすうっとさせてやるよ」
と張世開。すると女が、
「もうたくさん。おまえたち、もうやめてよ」
「姉さん、なにをいってるんです。余計なこといわないでくださいよ」
と男。
王慶は塀の外で、彼ら三人のはっきりとしたやりとりを聞くと、心中かっとなって、かの無明《むみよう》の業火《ごうか》を燃えのぼらせること三千丈、ついにおさえきれなくなった。金剛《こんごう》のような力があってその白壁の塀をおし倒し、飛びこんで行ってやつらを殺してしまうことのできないのが恨めしい。まさに、
口に爽《さわ》やかなる物多くは終に病《やまい》を作《な》し
心に快《こころ》よき事過ぐれば必ず殃《わざわい》を為す
金風(秋風)未《いま》だ動かずして蝉は先ず覚《さと》る
無常《むじよう》暗《ひそ》かに送る(死生転変の定まりなきを)怎《いか》で〓防《ていぼう》せん
王慶がもはや我慢しきれなくなったとき、とつぜん張世開が大きな声で呼ぶのが聞こえた。
「おい誰か、明りをつけてわしを裏の厠《かわや》へ案内せい」
王慶はその言葉を聞くと、急いでかの匕首を抜き放ち、身をこごめてそこの梅の木のかげにうずくまった。と、ぎいっと音がして、そこの両開きの扉があいた。王慶が暗がりのなかからうかがって見ると、それは前に消息をつたえてくれた例の小者で、雪洞《ぼんぼり》をさげており、そのうしろから張世開が悠然とやってくる。暗がりのなかに人がいるとは気づかず、まっすぐにどんどんやってきた。内門のところまでくると、
「あいつらときたら、どいつもこいつも気をつけおらん。こんな時分に栓をするのを忘れやがって」
と罵った。かの小者が門をあけて張世開を照らした。張世開が内門を出たとき、王慶はそっとあとをつけて行った。張世開は、うしろに足音を聞きつけて、ふり返った。見れば王慶が右手に刀を抜き放ち、左手は五本の指をおしひろげて、おそいかかってくる。張世開は五臓六腑をことごとく九天のかなたへ飛ばして、
「賊だ!」
と叫んだが、そのとき遅く、かのとき早く、王慶がさっと一刀を浴びせて、張世開の耳のつけ根から項《うなじ》にかけて斬りつけると、張世開はどっと倒れた。かの小者はふだん王慶と親しくしていたとはいえ、いま王慶がぎらぎら光る一刀を手に兇行を演じているのを見ると、おそろしくてたまらない。逃げだそうとしても、足は釘づけになったかのよう、叫ぼうとしても、口はまた唖になったかのようで、声も出ず、おどろきのあまりただ呆然となっていた。張世開が必死になって逃げようとするところを、王慶は追いかけて、背中のまんなかめがけてぐさりと一刀、とどめを刺してしまった。
〓元《ほうげん》はそのとき姉の部屋で酒を飲んでいたが、外にうめき声のするのを聞きつけ、明りをつけるいとまもなく、急いで様子を見に駆け出してきた。王慶は奥から人が出てくるのを見ると、明りをさげている小者を蹴り飛ばした。小者は明りを持ったままぶっ倒れ、明りは消えた。〓元は張世開が小者を殴ったものとばかり思って、
「兄さん、小者を殴ったりなどしてどうしたんです」
と声をかけ、歩み寄ってなだめようとした。そこへ王慶が飛びかかっていって、暗がりのなかから〓元めがけて突き刺せば、刀はねらいたがわずその脇腹に刺さり、〓元はまるで殺される豚のような悲鳴をあげて地面にひっくりかえった。王慶は髪をひっつかんで、一刀のもとにその首をはねた。
〓《ほう》氏は外のただならぬ悲鳴を聞きつけ、急いで女中に明りをつけさせ、いっしょに出て行って照らして見ようとした。王慶は〓氏が出てくるのを見ると、こちらからも、殺してくれようと、進み寄って行った。
そんな奇怪なことがあるものかと、話しても本気にしてもらえないかも知れないが、王慶はそのとき一瞬の間に、〓氏のうしろから十数人の側仕えのものがてんでに武器を持ってどっとおそいかかってくるのを見たのである。王慶は大いにあわてて、外へとび出し、裏門をあけ、営内の裏の塀を乗り越え、血に汚れたきものをぬぎ、匕首をぬぐい清めてふところにしまいこんだ。時太鼓の音に耳をすますと、すでに三更(十二時)だった。王慶は通りに人影のないのを幸い、城壁のほうへ忍び寄って行った。この陝州というところは、土塁の城壁をめぐらした城《まち》で、城壁はあまり高くはなく、濠もさほど深くはなかったので、その夜のうちに王慶は城壁を越えて逃げだしてしまった。
王慶が城外へ逃げだしたことはさておき、一方、張世開の妾の〓氏は、ふたりの女中をつれて、明りをともして見に出てきただけで、ほかに供のものなどがついてきたわけではなかったのである。彼女はまず、弟の〓元が、首と胴とが別々に血まみれになってころがっているのを見た。おどろきのあまり、〓氏と女中は互いに顔を見あわせて、まさに脳天の骨を割《か》きさばかれて桶半分の雪どけ水をそそぎこまれでもしたかのよう、しばらくは口をきくこともできなかった。
そのとき〓氏ら三人はこけつまろびつ、ぶるぶるふるえながら駆けこんで行って、声を張りあげて奥の側付きのものや外の当直の軍卒などを呼びたて、松明をつけ武器をとらせて、みんなで裏へまわって照らして見た。と、内門の外で張管営も殺されており、例の小者は地面に倒れたまま、なお必死にもがいていたが、口から血を吐いていて、明らかに助かる見こみはなかった。一同は裏門があいているのを見て、口々に、
「賊は裏からきたのだ」
といい、どっと門の外へ行って照らして見ると、二疋の采段《いろぎぬ》が地面に放り出してあるのが火の明りのなかに見えた。人々はいっせいに、
「王慶だ」
といった。急いで囚人たちを点呼してみると、王慶の姿だけがなかった。たちまち牢城全体と前後左右の近辺のものは大騒ぎとなった。牢城の裏の塀の外で血に汚れたきものが見つかったが、仔細に調べてみると、どれもみな王慶のものだった。一同は協議して、城門があいていないいまのうちに州尹に報告して、急いで捕吏を出してもらおうということになった。
このときはすでに五更(夜明け前の四時)になっていた。州尹は知らせを聞いて大いにおどろき、急遽、県尉《けんい》(捕盗役人)をつかわして、殺されたものの人数および下手人の出入個所を調べさせるとともに、使いのものをやって、陝州の四つの城門を閉鎖させ、兵士ならびに捕り手のもの、および城内の町々の長《おさ》(注六)たちを召集して、軒なみに犯人の王慶を捜索させた。かくて城門を閉じたまま二日間大騒ぎをして、戸ごと家ごと逐一調べたが、ついに影も形も見えなかった。州尹はそこで公文書をくだして、管轄下の各郷・保・都・村に委任して軒なみに捜索して下手人を逮捕させることにし、また、王慶の出身地・年齢・人相・風態を書いて絵姿をつくり、一千貫の賞金をかけ、王慶の行方をつきとめて州役所へとどけ出たものには触れ文どおり賞金をあたえ、犯人をかくまって家に宿食させたものあれば露見の際には犯人と同罪とするとして、あまねく近隣の州・県に触れ、逮捕に協力するよう呼びかけた。
さて、一方王慶は、その夜、陝州の城壁を乗り越えると、きものをたくしあげて濠の浅いところからむこう岸へわたりついて、思案した。
「命のがれはしたものの、さて、どこへ行って身をかくせばよかろう」
時節は仲冬(陰暦十一月)もまぢかのころで、木の葉は散り、草も枯れていて、星あかりのもとに路が見えた。王慶はその夜、三つ四つ小路をめぐってようやく街道へ出ると、息せききって駆けつづけ、朝日が東の空にのぼるころには、およそ六七十里さきまで行ったが、なおも南にむかって進んで行くと、ゆくてに人家のたてこんだところが見えてきた。王慶は思案した。
「まだふところには一貫の銭がある。ひとまずあそこへ行って腹ごしらえをしたうえで、どこへ行くか算段しよう」
やがてその市《まち》へはいって行ったが、朝が早いので、まだ食べもの屋はあいていなかった。ただ、東むきの、とある家の軒下に、旅人宿と書いた破れ提灯がつるされていた。その家で昨夜しまい忘れたもので、門も半ばあいたままになっている。王慶は歩み寄って、ぎいっと門をおし、なかへはいって行った。と、ひとりの男が、まだ身じまいもせずに、奥から出てきた。王慶は見て、それが母方の従兄《いとこ》の院長《いんちよう》(牢役人)の范全《はんぜん》だとわかった。彼は小さいときから父親といっしょに房《ぼう》州で商売をしていたが、もうけて、そのためにそこの州の両院押牢節級《りよういんおうろうせつきゆう》(注七)(院長と同じ)になったのだった。
「この春の三月、公用で東京へ出てきたときには、おれの家で何日か泊まっていったっけ」
王慶はそのときすぐ、
「兄貴、その後お変わりありませんか」
と声をかけた。
范全のほうでも、
「弟の王慶のようだが」
と思ったが、彼のかわった風態を見、顔にはしかも二行の金印《いれずみ》がいれてあるのを見て、いぶかしく思い、返事をしかねていた。と、相手の王慶は、あたりに人気《ひとけ》のないのを見て、いきなりそこへひざまずき、
「兄貴、弟を助けてやってください」
といった。范全が急いで扶けおこして、
「やっぱり弟の王慶だったのか」
というと、王慶は手を振って、
「しっ!」
といった。范全は察して、王慶の袖をひっぱって部屋へつれて行く。都合よく、范全が昨夜借りたのは一人部屋だった。范全は声をひそめて、せかせかとたずねた。
「あんたはまた、どうしてそんな姿になったのだ」
王慶はその耳もとに口を寄せて、裁判沙汰にされて陝州へ流罪になった次第をひととおり話し、ついで、張世開の意趣返しがあまりにもひどかったので、昨夜とうとうかくかくしかじかにしたと話した。范全はそれを聞くと大いにおどろき、しばらくためらっていたが、やがて大急ぎで身じまいをし、飯を食べ、宿銭と飯代を払った。そして相談のうえ、王慶をお供の囚人の軍卒ということにし、宿屋を出て房州へと急いだ。王慶がみちみち范全に、どうしてこちらへきたのかとたずねると、范全は、
「房州の州尹のいいつけで、陝州の州尹のところに書面をとどけに行って、きのうようやく返事をもらってすぐ陝州を立ち、日が暮れたのであそこへ泊まったのだが、あんたが陝州にきていて、しかもそんな大事をしでかしたとはまったく思いもかけなかった」
という。范全は王慶とともに、夜どまり朝だちの旅をつづけつつ、ひそかに房州へ逃げこんだ。二日ほどたったとき、陜州から下手人の王慶を逮捕されたいという触れ書きがまわされてきた。范全ははらはらしながら、家へ帰って王慶に説いた。
「城内にいては危《あぶな》い。城外の定山堡《ていざんほう》の東に、わしは何棟かの草葺きの家をもっていて、二十畝《ほ》あまりの田地ももっている。これは先年買ったもので、現に何人かの下男をおいて耕作をさせているが、そこへ行って何日か身をかくすことにして、そのうちにまたなんとか考えよう」
范全はまっくらな夜、王慶をつれて城を出、定山堡の東の草葺きの家にかくまった。そして王慶の姓名をかえて李徳《りとく》と呼ぶことにした。范全は、王慶の顔に金印《いれずみ》があるのをまずいと考え、幸い、むかし建康へ行ったとき神医の安道全の名を聞いて、鄭重な贈りものをして交わりを結び、金印を消す法を学んでいたので、まず毒薬を王慶の金印に塗り、ついで良薬で手当てして紅いかさぶたをこしらえ、それからさらに金玉《きんぎよく》の粉末を塗って治療し、二ヵ月あまりかかってそのかさぶたの痕も綺麗になくしてしまった。
光陰は矢のごとく、いつしか百日あまりたって、宣和《せんな》元年の仲春(二月)となった。お上の逮捕の沙汰も、すでに竜頭蛇尾《りゆうとうだび》となり、はじめは厳しくあとはおろそかというありさまになっていた。王慶は顔の金印がなくなったので、また次第にのこのこ出歩きはじめた。きもの・靴・靴下などはみな范全が面倒をみてやっていた。ある日、王慶が家で無聊にくるしんでいると、ふと、遠くのほうからさわがしい声が聞こえてきた。王慶はすぐ出て行って下男にたずねた。
「どこだい、えらくがやがややっているのは」
すると下男のいうには、
「旦那さまはご存じないでしょうが、ここから西へ一里あまり行ったところを、定山堡の段家荘《だんかそう》といいまして、そこの段家の兄弟が、州城からひとりの芸妓を呼んできて、舞台を組んでいろんな歌をうたわせているのです。その芸妓というのは西京《せいけい》(洛陽)から新たにやってきた旅まわりの女芸人(注八)で、容色も芸もすばらしく、人を寄せ集めて押すな押すなのたいへんなさわぎです。旦那さまもちょっとひやかしに行ってみられたらいかがですか」
王慶はその話を聞くと、ついにじっとしておられなくなり、急いで定山堡へ出かけて行った。かくて王慶がそこへ行ったばかりに、やがて流刑囚と村娘とが婚姻をととのえ、地虎《ちこ》と民殃《みんおう》(だにとげじげじ)とが一地方を食い荒らすこととは相なる次第。ところで、王慶がそこへ見物に行ったところ、はたして芸妓は歌をうたったであろうか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 畜生の大ばかやろう 原文は驢牛射出来的賊亡八。驢牛射出来的は、母親が畜生に犯されて生まれた、の意。賊亡八は大ばかもの、人でなし。
二 この糞やろうめ 原文は搗〓娘的腸子。他媽的というと同じ。お前のおふくろのあれを犯してやるぞの意。
三 紋銀 最も良質の銀貨で、形は馬蹄型。それゆえ馬蹄銀ともいい、俗に宝紋ともいう。
四 奥さま 原文は大〓〓。〓〓は召使が主婦を呼ぶ称。
五 お部屋さま 原文は小〓〓。大〓〓に対してここでは第二夫人の意。
六 町々の長 原文は坊廂里正。城治の区劃で城内の中心地区を坊といい、城外に近い地区を廂という。坊廂里正とは、それらの各地区の長。
七 両院押牢節級 第三十回注二参照。
八 旅まわりの女芸人 原文は打〓的行院。第五十一回注二参照。
第百四回
段家荘《だんかそう》 重ねて新女婿《しんじよせい》を招き
房山寨《ぼうざんさい》 双《なら》んで旧強人《きゆうきようじん》を併《へい》す
さて、そのとき王慶は定山堡《ていざんほう》へ乗りこんで行ったが、そこは五六百の戸数があって、舞台というのは堡《むら》の東の麦畑に設けてあった。そのとき芸妓はまだ舞台に出ていなかった。舞台の下の四方には三四十脚の机がおいてあって、どれもみな人々がぎっしりととりかこみ、骰《さいころ》を投げて銭を賭《か》けていた。この擲色《てきしよく》(さいころばくち)の種類は一つだけではなくて、
六風児《ろくふうじ》 五子《ごようし》 火燎毛《かりようもう》 朱窩児《しゆかじ》
などがある。
また銭《てんせん》(銭投げばくち)の連中もいて、二十組あまりのものが地面にしゃがみこんでいた。この銭の種類も一つだけではなくて、
渾純児《こんとんじ》 三背間《さんはいかん》 八叉児《はつさじ》
などがある。
擲色の連中はあちらのほうで、《よう》(一)だ、六だと叫んでおり、銭の連中はこちらのほうで、字《じ》(表)だ、背《はい》(裏)だと喚き、あるいは笑い、あるいは罵り、またあるいはほんとうにつかみあいをやるものもいた。負けたものは、上着をぬぎ、きものを質《しち》にし、頭巾をとり、靴下をぬいでまで、なお本銭《もとせん》を取りもどそうと、仕事もほったらかしにし、寝食も忘れるというありさまだが、けっきょくは負けの一字。勝ったほうは、意気揚々として、東へふらふら西へよろよろ、南へのこのこ北へひょろひょろと、相手をさがしてまたはじめ、身のまわりの紙入れのなか、腹巻のなか、きものの袖のなかと、すべて銀銭でいっぱいにしながら、あとで本銭を差し引いて計算してみると、その実《じつ》、たいして勝ってはおらず、勝ったぶんはみな把梢的《はしようてき》(元締め)や放嚢的《ほうのうてき》(両替人)にぴんはねされてしまうのである。
ばくちの模様はそれまでとして、ほかに村の娘や農婦も、麦に鍬うつのをやめ、菜に水をやるのをよして、これまた三々五々と群れをなし隊を組んで、黒土のような顔を仰《あお》むけ、黄金のような歯を出して、ぼんやりと立ちつくし、かの芸妓が出てくるのを待ち受けていた。おなじく父母に生んでもらいながら、どうしてまたそんなに器量よしで、たくさんの人が見にあつまるのだろうかと見物にきたのである。
このとき、近隣の村のものばかりではなく、城《まち》のものも見物につめかけてきて、青々とした麦畑を十数畝もすっかり踏みつぶしてしまった。
こまかい話はさておき、そのとき王慶はしばらく所在なく眺めていたが、見ているうちに腕がむずむずしてきた。と、例の舞台の東側の人だかりのなかに、いかつい身体つきの大男がひとりいて、両の手を机の上に置き、四角い腰掛けに腰をおろしているのが目についた。その男は、まるい眼に大きな顔、広い肩にくびれた腰、机の上には五貫の銭を高く積み、色盆(さいころを投げころがす盆)一つと骰子《さいころ》が六つあったが、彼と張りあう客はひとりもいなかった。王慶は心のなかに思うよう、
「裁判沙汰にあってからいままで、十ヵ月あまりになるが、いちどもこいつをやったことはなかったな。先日、笵全《はんぜん》兄貴が食い料《しろ》にといってくれた錠銀一枚があるから、これを抵当《か た》にしてあいつと何番か勝負し、いくらか勝って帰って、つまみものでも買って食うとしようか」
さっそく王慶は銀子をとり出し、ぽいと机の上へ放り投げて、その男にいった。
「ちょいとやってみるぜ」
その男はじろりと王慶を見て、
「やるのなら、さあ、どうぞ」
すると、まだその言葉のおわらぬうちに、はやくもひとりの男が、前方の机のあたりの人だかりのなかから近づいてきた。背の高い大柄な男で、腰をかけている大男とそっくりである。
その男は王慶にむかって、
「おっと、その錠銀はなにさまたいした賭け金(注一)だ。錠銀をこっちへよこしな。おいら銭を持っているから両替えしてやろう。おまえさんが勝ったら、一貫について二十文の利息をつけてもらうぜ」
「いいとも」
と王慶はいい、その男に錠銀をわたして二貫の銭に替えたが、男ははやくも一貫についてはじめから二十文を差し引いてしまった。王慶は、
「まあ、よかろう」
とつぶやき、さっそく、さきの男と話しをきめて朱窩児《しゆかじ》をやりだした。二三回勝負をしたところへ、つとひとりの男がやってきて、賭けしろを出し、勝負に加わった。王慶は東京の手慣れたばくち打ちである。彼はまことにあざやかな盆さばきで、いかさまの手をやったり、ずるい手をつかったりして賭け金をごまかした。かの放嚢的《りようがえにん》はそのどさくさのあいだに、こっそりむこうの机のほうへ行ってしまった。あとからきた男は、王慶の腕がものすごいといって賭け金を引っこめてしまい、もっぱらはじめの男の相棒になった。王慶は一気に二貫の銭を勝って、親になり、ますます盆さばきは冴えて、三紅四聚《さんこうししゆう》(骰の目の名)をどしどし振り出した。男はあせって本銭《もとせん》を取りもどそうとしたが、振れば絶脚小四《ぜつとうきやくしようし》(骰の目の名)で、うまくいかない。王慶が九点《きゆうてん》を振れば、男はあいにくと倒八《とうはち》を出すという始末で、ひとときとたたぬうちに五貫の銭をすっかり負けてしまった。
王慶は銭を勝ちとると、二貫だけ紐に透《とお》してとっておき、例の男をさがして抵当《か た》の錠銀を請けもどすことにした。そして残りの三貫をきちんとつなぎあわせ、肩にかつごうとしたところ、負けた男が、
「きさま、銭をどこへ持って行こうというんだ。炉から出たばかりだから、熱くて手をやけどするぜ」
と怒鳴った。王慶が怒って、
「きさま、おれに負けやがって、なにをぬかしやがる(注二)」
というと、男はかっと怪眼をひんむいて、罵った。
「小僧っ子め(注三)、このおれさまを踏んづけた真似しやがって」
王慶も罵った。
「どん百姓め(注四)、おれが銭を持って行くのがくやしかったら、きさま、おれのどてっ腹へ拳骨《げんこつ》を打ちこんでみろ」
男は両の拳《こぶし》を振りあげて、真向《まつこ》うから王慶に殴りかかってきた。王慶はひらりと体をかわして男の手を受けとめるや、右肘《ひじ》で男の胸板をがんと突き、右脚ですかさず男の左脚を抄《すく》った。男はばか力があったが、この蹴りの手の心得があろうはずはなく、どたりとうしろへひっくりかえって、顔は仰《あお》むけに背中は地面にという恰好。たちまち寄り集まってきた弥次馬たちは、どっと笑い出した。男が起きあがろうとすると、王慶は踏みこんでおさえつけ、急所急所をめった打ちにした。と、さっきの放嚢的《りようがえにん》が駆け寄ってきたが、とめようともせず、助けようともせずに、机の上の銭をすっかりさらって行ってしまった。王慶は大いに怒り、地べたの男をうちすてて大股に追いかけて行く。と、そのとき人だかりのなかからひとりの女が飛び出してきて、怒鳴りつけた。
「おのれ、無礼は許さんぞ。わたしが相手になってやろう」
王慶がその女を見るに、そのありさまいかにといえば、
眼は大にして兇光を露《あら》わし、眉は〓《そ》(粗)にして殺気を横たう。腰肢は〓蠢《ふんしゆん》(注五)にして、全く〓娜《じようだ》たる風情《ふぜい》無く、面皮は頑厚にして、惟《ただ》粉脂の鋪翳《ほえい》に頼《よ》る(おしろいを塗っているだけ)。異様の釵鐶《さかん》(かんざしと耳飾り)、一頭に挿《さしはさ》み、時興《じきよう》(流行)の釧〓《せんだく》(腕輪)、双臂に露わる。頻《しき》りに石臼を搬《はん》して、他人の気喘《きぜん》(息づかい)急促するを笑い、常に井欄《せいらん》(井戸枠《わく》)を〓《と》って、自己の膂力《りよりよく》費さざるを誇る。針線《しんせん》(針と糸)は如何に拈《と》るかを知らず、腿《たい》を〓《ひ》き拳《けん》を牽《ひ》く(拳法は)是れ長技(特技)。
その女は、年のころは二十四五歳。上に着ていた衫子《うわぎ》をぬぎ、くるくるまるめて、そこにある机の上へ放り投げた。内にはぴっちりと身についた箭桿《やがら》模様の小袖《したぎ》に、鸚哥緑《も え ぎ》色の短襖《はおり》、下には大きな襠《またあて》のついた紫色のあわせの紬《つむぎ》の〓《ずぼん》をはき、ずかずかとやってくるなり拳を振りあげて王慶に打ちかかった。王慶は相手が女であるのを見、また相手が拳を振りあげてきたものの隙だらけなのを見て、ひとつからかってやろうと思い、わざと脚の早業《はやわざ》はつかわずに、同じく両の拳をあげて構えを示し、受けの手をくりひろげてその女と撲《う》ちあった。そのありさまは、
大四平《たいしへい》(拳法の手の名)を〓開《えいかい》し(繰り出し)、双飛脚《そうひきやく》(同じく拳法の手の名)を〓起《てきき》す(蹴り出す)れば、仙人の路を指さし、老子の鶴に騎《の》るがごとし。拗鸞肘《ようらんちゆう》(同じく拳法の手の名)出《い》でて前心(胸もと)に近づき、当頭砲《とうとうほう》(同じく拳法の手の名)勢い額角(ひたい)を侵せば、跟《くびす》を翹《そばだ》てて地竜を淬《おか》し、腕を〓《ひね》って天〓《てんたく》(天のふくろ)を〓《ささ》ぐるがごとし。這辺《こなた》の女子は、(一)個の蓋頂撒花《がいちようさつか》(注六)(頂をおおって花を撒《ま》く)を使い、這里《こなた》の男児は、(一)個の遶腰貫索《ぎようようかんさく》(腰をめぐらして索を貫く)を〓《たわむ》る。両個は風を迎えて扇児《せんじ》を貼《おぎな》うに似、時を移す無く急雨《きゆうう》花の落つるを催《うなが》す。
そのとき芸妓はすでに舞台へ出て前狂言(注七)をやっていたが、人々は一方で男と女が撲ちあっているのを見ると、いっせいに寄り集まってきて、ふたりをぐるりととり囲んで見物した。女は、王慶が受けたり防いだりしているだけなのを見て、突っこんでくる腕がないのだと思い、隙を見て、黒虎偸心《こくことうしん》(黒虎、心《しん》をぬすみとる)の手を使って王慶の胸もとめがけて拳を打ちこんできた。王慶がひょいと身をかわすと、女は空《くう》を打ち、拳をひきもどすいとまもないうちに、王慶にすかさず腕をとりおさえられて、ひとひねりにひっくりかえされ、地面に落ちる寸前、すばやくまた抱きおこされた。この手を虎抱頭《こほうとう》(虎、頭を抱く)というのである。
王慶が、
「きものをよごさなかったろうな。手荒なことをしたが怒りなさるなよ。あんたのほうからしかけてきたんだからな」
というと、女はいささかも怒った様子はなく、かえって王慶をほめた。
「まあ、なんてすばらしいお手並みでしょう。ほんとうにご立派ですわ」
かなたの、銭をまきあげられて殴られたのと、銭をさらった放嚢的《りようがえにん》とのふたりの男が、人々をおしわけて、そろってやってきて、怒鳴った。
「こん畜生の小僧っ子め(注八)、不敵なまねをしやがって。よくもおいらの妹をころばしやがったな」
王慶も、
「腰ぬけのばかやろう(注九)、おれの銭をさらいながら、よくも悪態をこきゃがったな」
と罵り返し、飛び出して行って、拳をあげて打ちかかった。すると、ひとりの男が人だかりのなかから飛び出してきて、中にはいって三人(注一〇)の六個の拳をおしとめ、大声で叫んだ。
「李大郎、無礼はならぬ。段二《だんじ》兄いと段五《だんご》兄いもやめてくれ。みんな同じ土地のものじゃないか、話があるならおだやかに話しあえばよかろう」
王慶が見ると、それは范全だった。三人はきっぱりと手をひいた。范全は急いでかの女にむかって、
「これはこれは三娘《さんじよう》さん」
と挨拶した。女も、
「ご機嫌よろしく」
と挨拶して、
「李大郎とおっしゃるのは院長さんのご親戚で」
とたずねた。
「わたしの従弟《いとこ》です」
と范全がいうと、女は、
「まったくすばらしいお手並みですわ」
王慶は范全にいった。
「いまいましいったら、やつは自分で負けやがって、その銭を相棒にかっさらわせやがったんだ」
すると范全は笑いながら、
「それが二兄いと五兄いの商売なのさ。なんだっておまえは邪魔をしたんだい」
かなたの段二と段五は、四つの眼で妹を見つめた。すると、女がいった。
「范院長さんの手前もあること、あの人とやりあうのはおよしよ。その錠銀をこちらへ頂戴」
段五は妹にそうすすめられ、また妹が羽振りがよくて、おれもかなわないのだからと、しぶしぶ、もとのあの錠銀を出して妹の三娘にわたした。三娘はそれを范全にさし出して、
「もとの銀です。持って行ってください」
といい、段二と段五を引っぱって、人だかりをおし分けて行ってしまった。范全も、王慶を引っぱって、まっすぐに別荘へ帰った。
范全は王慶にこぼした。
「わしはおふくろの顔をたてて(王慶は范全の母方の従弟)、いのちがけの思いで、おまえをここへかくまっているのだ。そして、もし恩赦にでも遇ったら、おまえのよいように考えてやろうと思っていたのに、よくもあんな無分別な。あの段二と段五はたいへんな悪党で、妹の段三娘はそれに輪をかけたものすごい女、世間ではあだ名をつけて大虫窩《たいちゆうか》(虎の巣窟)と呼んでいるんだ。良家の子弟がどれだけあの女に手玉にとられたかわかりゃしない。あの女は十五のとき、あるおやじのところへ嫁に行ったが、そのおやじというのもやっぱり荒くれの逞しいやつ(注一一)だったのだが、一年とたたぬうちに、あの女にとり殺されてしまったんだ。それからあの女は力のあるのをいいことにして、段二・段五といっしょに、もっぱらあちこちと喧嘩を売ってまわって、悪銭をせしめ取っていて、近くの村々であの女をおそれぬものはないというありさま。あいつらがあの芸妓を呼んできたのも、人を呼び寄せてばくちをさせるためで、あの机はあいつらのわななのだ。なあ、それなのにおまえはあそこへ行っていざこざをおこしたりなんかして、もしも化けの皮が剥げたら、おまえもわしも、たいへんな目にあわねばならんぞ」
王慶は范全にたしなめられて、一言もなかった。范全は立ちあがって王慶にいった。
「わしは州役所へ当直に行かねばならん。あしたまたくるからな」
范全が房州の城内へ帰って行ったことはそれまでとして、一方王慶は、その日は日が暮れて休んだが、その夜は格別のこともなかった。翌日、朝の身じまいをすませたばかりのところへ、不意に下男が知らせにきて、
「段太公がたずねてみえました」
という。王慶はしぶしぶ表へ迎えに出た。それは皺面《しわづら》に銀髪の老人であった。挨拶をすませ、主客はそれぞれの席につくと、段太公は王慶を頭の上から足のさきまでずっとうち眺めて、
「なるほど逞しい身体だわい」
とつぶやき、さっそく王慶に、生まれはどこか、なぜここへきたのか、范院長とはどういう親戚か、女房はあるか、などとたずねた。王慶はその聞きかたがなにやらいわくありげなので、つくり話をでっちあげてごまかした。
「わたしは西京のもので、父も母も亡くなり、女房にもさきだたれました。范節級とは父方の従兄弟《い と こ》です。昨年、范節級が公用で西京にきましたとき、わたしがひとりぐらしで、身のまわりの世話をしてくれるものがないのを見て、わざわざこちらへ呼びとってくれたのです。わたしはいくらか拳《けん》や棒《ぼう》の心得がありますので、いずれ手づるをもとめて当州で立身をはかろうと考えております」
段太公はそれを聞くと大いによろこび、さっそく王慶の生まれの干支《え と》(注一二)をたずね、いとまを告げて帰って行った。それからしばらくたって、王慶が段太公のことをしきりに訝《いぶか》しがっているところへまたひとりの男が、扉をあけてはいってきて、
「范院長はおいででしょうか。あなたさまが李大郎さんで」
とたずねた。ふたりは顔を見あわせて、どちらもぎくりとし、互いに相手の顔をうかがいながら心のなかで、
「どこかで会ったことがあるようだが」
と考えた。挨拶をかわして、これからたずねようとしているところへ、ちょうど范全がやってきた。三人がそれぞれ席につくと、范全がいった。
「李先生、どうしてこちらへ?」
王慶はその言葉を聞いて、はっと思い出した。
「この男は八卦見の李助《りじよ》だ」
一方の李助も、思い出した。
「この男は東京のもので、姓は王といい、前にうらなってやったことがある」
そこで李助は范全にたずねた。
「院長どの。わたしはこれまでずっと、深いおつきあいを願うことができずにまいりましたが、ぶしつけながら、ご親戚に李大郎というかたがいらっしゃいましょうか」
范全は王慶を指さして、
「これが、わたしの弟の李大郎ですよ」
といった。王慶がその言葉をひきとって、
「わたしの本姓は李で、王というのは母方の姓なのです」
すると李助は手を拍《う》って笑いながら、
「わたしはもの覚えがよろしくてな。王という人とは、かつて東京の開封府の前で会ったことがあるのですよ」
王慶は彼がこまかいことを語り出したので、うつむいて黙っていた。李助は王慶にいった。
「お別れしてから荊南へ帰りましたところ、不思議な人物に出会って、剣術を伝授されましてな、それに子平《しへい》の妙訣《みようけつ》(注一三)をきわめたものですから、人さまから金剣先生と呼ばれております。先日、房州で、こちらに賑わいがあると聞きまして、人出をめあてに一商売しようと思ってやってきたのですが、段氏兄弟がわたしに剣術の心得があるのを知って、その手を指南してほしいとのことで家にひきとられているところなのです。さきほど段太公が帰って見えて、あなたの運勢をみさせられたのですが、あのような素晴らしい星めぐり(注一四)はまたとあるものではありません。行く末の繁栄は言葉につくせぬほどですが、いま紅鸞《こうらん》(注一五)が天降っていて、おめでたのあるめぐりあわせになっております。段三娘と段太公はたいへんなよろこびようで、あなたを婿にお迎えしたいとのこと。わたしは吉日なのをさいわい、特に仲人をつとめにまいった次第です。三娘の星まわりも、十分に夫を盛りたてると出ております。いまうらなってきたところですが、銅の盆に鉄の箒、まことに似合いの夫婦です。わたしにお祝いの酒を飲めるようにしていただきたいもので」
范全はこの話を聞いて、しばらく考えこんでいたが、心のなかに思うよう、
「あのあくどい段氏のことだ、もしこの縁談をことわれば、なにか隙を見つけてひどい目にあわせるだろう。なりゆきにまかせるよりしようがあるまい」
そこで、李助にむかっていった。
「そういうことでしたか。段太公と段三娘のご厚意はまことにかたじけない次第ですが、この弟はいかにもむさくるしいやつで、あちらさんの婿になるなんて滅相もないことです」
「いやいや、これはまたえらくご謙遜で。あちらの三娘は、口をきわめてほめておいでなのです」
「それならばまことに結構なことで。それではわたしがこれの婚礼の面倒をみてやることにいたしましょう」
范全はそういって、ふところから重さ五両の錠銀を一つとり出して李助に贈った。
「田舎のこととてなにもおもてなしするものがありません。これはほんのお茶菓子がわりのつもりです。話がまとまりましたさいには、あらためて十分お礼させていただきます」
すると李助は、
「それはいけません」
とことわったが、范全が、
「いえ、お恥ずかしい次第です。ただ、ひと言お願いがあるのですが、彼が姓を二つ持っているということはおっしゃらないようにしていただきたいのです。万事どうかよろしくおとりはからいのほどを」
というと、李助は一介の易者、銀子をとりおさめ、ねんごろに礼をいって范全と王慶に別れ、段家荘へ帰って報告をしたが、姓が一つだろうが二つだろうが、善人だろうが悪人だろうが、そんなことはてんでおかまいなしにただ縁談をまとめ(注一六)、酒食をせしめ銭をまきあげようというのである。しかも段三娘自身が相手にほれこんでおり、日ごろから家のものはみな彼女をおそれていて、段太公でさえ彼女には逆らわないというありさまだったから、話はすらすらときまってしまった。
李助は双方をゆききして話をまとめ、結納金のことまであれこれと口出ししたりして、仲人はまさに商売繁昌。范全は婚礼のことが世間に取沙汰されて面倒なことがおこってはと案じ、両家ともいっさい簡略にしようと申し出た。段太公はしまり屋だったので、ますますよろこんで、ただちに日を選んで式をあげることにした。かくてその月の二十二日が選ばれ、羊を殺し豚を殺し、魚をすくい蛙をとらえて、ただ大碗の酒と大皿の肉だけで、親類の男や女を招いて祝い酒を飲み、かの笙簫《ふ え》や大鼓の吹奏、洞房(新婚部屋)の花やかな灯燭などはいっさいはぶくことにした。范全は王慶に上から下まで新しい装束をつくってやって、段家荘へ送って行ったが、役所の用事があるからといって、さきに辞去した。王慶と段三娘は、父母に対する拝礼や夫婦のかための杯なども、そそくさとすませた。段太公は座敷に酒席を設けて、二十人あまりの親戚のものと自分の家の息子たち、新たに迎えた娘婿《むすめむこ》、ならびに仲人の李助らとともに、まる一日酒をくみかわし、夕方になっておひらきにした。親戚のものは、近くのものはみな礼をいって帰って行き、遠くて帰れないものは残った。それは父方の叔母婿(注一七)たる方翰《ほうかん》夫婦、従弟《いとこ》の丘翔《きゆうしよう》の家族、段二の妻の兄弟《きようだい》の施俊《ししゆん》夫妻で、男三人は表の東の棟に寝た。三人の女房たちはみな世間ずれのしていない女で、酒食を持って王慶と段三娘の渡座《わたまし》祝い(注一八)に行き、くっくっと笑い興じながらまたひとしきり酒を飲んだが、やがてひきとって休むことにした。そのとき女中や婆やが新婚部屋へ行って、寝台をととのえ蒲団をのべ、新郎と新婦を休ませた。そして女中が外から部屋の戸をしめ、みなは興を抱きながら立ち去って行った。
段三娘は小さいときから人中《ひとなか》へ顔を出していたうえに、はじめてではなく、すれた女だったから、すこしも恥ずかしがらずに、さっさとかんざしや耳飾りをはずし、きものをぬいだ。王慶のほうもひとかどの遊蕩児で、お上に捕らえられて以来十ヵ月あまりのあいだ、ひとりですごしてきたわけで、段三娘が眉太く眼大きく、嬌秀や牛氏(妻)のような艶っぽさはまるでなかったけれども、灯《ともしぴ》の前で胸をあらわにして紅い腹巻きをほどき、まっ白な、こんもりした乳房をさらけ出しているのを見ると、思わず淫ら心が頭をもたげ、やにわに女を抱きかかえた。と段三娘はその王慶の横っ面を打って、
「そんなにせきこんで、からみつかないでよ」
といい、ふたりは抱きあって寝台へあがり、蒲団のなかへもぐりこんで、一つ枕でたのしみあった。まさに、
一個は是れ節《せつ》を失《しつ》せる村姑《そんこ》(田舎娘)、一個は是れ兇を行《おこな》える軍犯《ぐんぱん》(流刑囚)。臉皮《れんぴ》(面の皮)は都《とも》に是れ三尺の厚さ、脚板《きやくはん》(足の裏)は一般《と も》に十寸の長さ(纏足《てんそく》をしない大きな足の女は卑しいとされた)。這個《こ れ》は認真《まこと》に気喘《あえ》ぎ声嘶《すすりな》き卻《さなが》ら牛の柳影に〓《はなつな》げるに似たり。那個《か れ》は、仮《いつわ》りに言嬌《なま》めき語渋《しぶ》るを做《な》し、渾《あたか》も鶯の花間に囀《さえず》るが如し。羅襪《らべつ》(薄絹の靴下《くつした》)も穿《は》かず、肩膊《けんばく》(肩)の上に両隻《りようせき》(二本)の赤脚を露《あら》わし、倒《さかし》まに金釵《きんさ》を溜《すべ》らし、枕頭の辺に一朶《いちだ》の烏雲《ううん》(黒髪)を堆《つ》む。未だ誓海盟山《せいかいめいざん》(夫婦の誓い。ここでは前夫との)を解かざるに、也《また》千般の〓〓《いじ》(注一九)を博弄《はくろう》し、並びに(いささかも)羞雲怯雨《しゆううんきようう》無く(注二〇)、亦《また》万種の妖燒《ようじよう》(なまめかしさ)を揉搓《じゆうさ》す(もみあう)。
その夜、新婚部屋の外では、さらに、口が曲がってしまうほどのおかしな出来事があった。かの方翰・丘翔・施俊の女房たちは、いずれもまだ若かったので、ともに酒に酔って顔を赤く染めながら、床にはいるのはやめて、段二と段五の女房を引っぱってそっと新婚部屋の外へ行き、板壁越しに耳をそばだてて、盗み聞きをした。部屋のなかの声や息づかいは、いちいちはっきりと聞きとれた。かの王慶はひとかどの遊蕩児だったので、なかなか閨房の術を心得ていて、女房がしかけてくるのを力をつくして受けている。外にいた女たちは、聞いていて佳境に入るにしたがって、思わず薄絹の児《したばき》をも濡らしてしまった。
女たちがそこで、からかいあったり、ふざけたり、突いたりひねったりしていると、不意に段二が駆けこんできて、大声でいった。
「どうしよう、どうしよう。おまえたちはえらいことになったのも知らずに、まだこんなとこでふざけているのか」
女たちはみなはらはらしながらも、どうしたらよいのかわからないでいる。段二はまた大声をあげて呼んだ。
「おい、三娘、はやく起きろ。おまえの床《とこ》のなかには禍《わざわい》のたねがいるのだ」
段三娘はいい気持のところだったので、かえって段二に腹をたてて、寝台のなかからいい返した。
「夜中に、いったいどうしたというのだい、そんなに大騒ぎして」
段二はなおもわめいた。
「羽に火がついてしまったんだ。おまえたち、命も危《あぶな》いぞ」
王慶は臑《すね》に傷もつ身とて、女房にきものを着させて、わけをききに、いっしょに部屋から出てきた。女たちはみな駆け出して行ってしまった。王慶は部屋の入口を出たとたん、段二にいきなりつかまえられて表の座敷へつれて行かれた。と、そこには范全が、
「えらいことになった、えらい災難だ」
と、まるで逃げ場をうしなった焼け鍋のなかの蟻のように、さわぎたてている。すぐ段太公・段五・段三娘らもみなやってきた。
というのは、新安県の〓家村《きようかそん》の東の黄達《こうたつ》が、打ち傷をすっかりなおし、王慶の足どりをさぐって居場所をつきとめ、昨夜、房州へ出かけて行って州尹に知らせたところ、州尹の張顧行《ちようここう》は公文書を出して、都頭《ととう》に土兵をひきつれさして下手人・王慶、および犯人を隠匿した范全、ならびに段氏ら一同の逮捕にむかわせたのである。范全は州役所のその係りの孔目《こうもく》の薛《せつ》というものと親しく、ひそかにその消息を漏らしてくれたので、家族のものもうち捨てて、まっしぐらにここへ駆けつけてきたのだった。
「もう追っつけ官兵がやってくる。みんなひとりのこらずおとがめを受ける身なのだ」
一同は足をばたばたさせたり胸をたたいたりして、まるで卵をあたためている鶏の巣をひっくりかえしたときのように、大騒ぎをはじめ、王慶を罵ったり三娘を辱《はずか》しめたりした。かくて、ごった返しているとき、座敷の外へ、東の棟から易者の金剣先生の李助が出てきて、歩み寄りながら、
「みなさん、もし難をのがれたいと思うなら、わたしのいうことを聞きなさるがよい」
一同はどっと出てきて、とりかこんでたずねた。すると李助のいうには、
「事すでにここに至れば、三十余策、逃げるのが上策です」
「どこへ逃げるのです」
「ここから西のほう、二十里のところに、房山《ぼうざん》という山があります」
「あそこは強盗の出るところですよ」
と一同がいうと、李助は笑いながら、
「みなさんはなんとまた血のめぐりのわるい。いまさらあなたがたは、まだ善人になろうと思っておいでなのか」
「それはどういうことなんです」
「房山の山寨の主《あるじ》の廖立《りようりつ》とわたしとは、いたって親しい仲。彼は五六百人の手下を擁していて、官兵も捕りおさえることはできないのです。ぐずぐずしている暇はありません。急いで金目《かねめ》のものをとりまとめて、みんなであそこへ行って仲間にはいりましょう。そうすれば大難をのがれることができます」
方翰ら六人の男女は、後日召し捕られて親戚のものまで巻きぞえになってはとおそれたが、王慶や段三娘にしきりにすすめられ、みなほかにどうすることもできぬまま、こぞってその道へ踏み切ることにした。かくて屋敷内にあったいっさいの金目のものを急いでとりまとめて、すべて荷づくりをし、一方また三四十本の松明をつけて、王慶・段三娘・段二・段五・方翰・丘翔・施俊・李助・范全ら九人はうちそろって身ごしらえをかため、それぞれ腰刀をたばさみ、槍架《やりかけ》から朴刀を取り、下男のいっしょに行きたいというもの計四十余人に、みなかいがいしく股立《ももだ》ちをとらせ、王慶・李助・范全が先頭を、方翰・丘翔・施俊は女たちを護って中ほどを行くことにした。幸い五人の女たちはみな鋤のような足をしていたから(纏足をしていないことをいう)、男たちと同じように歩けた。段三娘・段二・段五は後尾を行くことになり、屋敷の前後からいっせいに松明の火を放ち、喊声をあげ、一同みな武器を手に、どっと西のほうへと逃げ去って行った。近隣近村のものたちは、常日頃段家のものを虎のようにおそれていたので、いま彼らが松明をともし武器を手にしているのを見ても、別にその事情を知るよしもなく、どこもみな門をとざしたままで、ひとりとして、さえぎりに出てくるようなものはなかった。
王慶らが四五里ほど行ったとき、はやくも都頭や土兵たちが黄達をつれて、いっしょに逮捕にやってくるのに出くわした。都頭がおそいかかってくるところを、王慶はすかさず刀をふるってまっ二つに斬った。李助・段三娘らは、どっとおどりかかっていって土兵たちを斬り散らし、黄達も王慶に討ちとられた。
王慶らの一行が房山の山寨の下に着いたのは、すでに五更(夜明け前の四時)のころであった。李助は、まず自分が山へのぼって行って廖立にたのんでから、一同を無事に山上へ案内して仲間入りさせようと相談した。寨内では、巡視の子分のものが、山麓に松明の火が乱れ輝いているのを見てすぐ寨主のもとへ報告した。廖立はそれを官兵だろうと思った。彼はふだんから官兵を腰ぬけだとあなどっていたが、急いで起きて甲《よろい》をつけ、槍を持ち、柵《さく》をあけ、手下たちを呼びつどえ、敵を防ぐべく山をくだった。王慶は山上に火がともり、ついで大勢のものがおりてくるのを見ると、とりあえず備えをかためた。そのとき廖立はまっしぐらに麓までおりてきて、大勢の男女を見つけ、官兵ではないなと思った。廖立は槍をかまえて、怒鳴りつけた。
「この、糞やろうめ(注二一)、よくもわが山寨をさわがしにきて、鬼門に家を建てる(注二二)ようなまねをしやがったな」
李助は進み出て身をかがめながら、
「大王、弟の李助です」
といった。そして王慶が罪を犯したことからはじめて、管営を殺し、官兵を殺すにいたったことまで、あらましの話をした。廖立は、王慶がしたたかな腕を持っており、しかもさらに段家の兄弟が後楯《うしろだて》になっていることを李助が話すのを聞いて、
「自分はひとりきりだ、これでは後日やつらにおもしろくない目にあわされるかも知れぬ」
と、義理を踏みにじって、李助にこういった。
「ここは手狭いところなので、あんたたちを迎えいれるわけにはいかないのだ」
王慶はその言葉を聞いて胸のうちに考えた。
「山寨はこいつのひとり天下だ。まずこいつをやっつけてしまえば、手下どもなどはおそれるほどのことはなかろう」
いきなり朴刀をかまえて、まっしぐらに廖立におそいかかって行った。廖立は大いに怒り、槍をとって迎え討った。段三娘は王慶の身にもしものことがあってはと、朴刀をかまえて加勢に出た。かくて三人はわたりあうこと十合あまり、三人のうちのひとりが倒れた。まさに、瓦罐《がかん》は井上《せいじよう》を離れずして破れ(注二三)、強人は必ず鏑前《てきぜん》に在《おい》て亡ぶ、というところ。はてさて三人のうちで倒れたのは誰か。それは次回で。
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一 賭け金 原文は主。主は注で、賭博の賭け金のこと。
二 なにをぬかしやがる 原文は放那鳥屁。放屁というに同じ。鳥も罵語。
三 小僧っ子め 原文は狗弟子孩児。
四 どん百姓め 原文は村撮鳥。
五 〓蠢 〓はあつまる、蠢はうごめくで、腰肢のもりもりと逞しいこと。同時にまた、〓はほこりの立つこと、蠢はおろかなことで、粗野で愚鈍という意もある。これらの意をみなふくんで、粗野で逞しいことをいう。この語はしばらくあとの地の文にも見える。(注一一)
六 蓋頂撒花…… 蓋頂撒花は女性の、つぎの遶腰貫索は男性の閨房の技。
七 前狂言 原文は笑楽院本。第五十一回注六参照。
八 こん畜生の小僧っ子め 原文は驢牛射的狗弟子孩児。
九 腰ぬけのばかやろう 原文は輸敗〓村鳥亀子。
一〇 三人 原文は一双半人。一双(二人)と一双の半分(一人)の意で、つまり三人のこと。
一一 荒くれの逞しいやつ 原文は〓蠢。注五参照。
一二 生まれの干支 原文は年庚八字《ねんこうはちじ》。生まれた年・月・日・時をそれぞれ干支《え と》に配して見るうらない。単に八字ともいう。第六十一回注四参照。
一三 子平の妙訣 子平は宋の人で、姓は徐。天文にくわしく、後世の星命家から尊崇されている。ここからまた八字のうらない(前注参照)のことを子平の術ともいう。
一四 星めぐり 原文は八字。注一二に同じ。
一五 紅鸞 星命家のいう吉星で、慶事をつかさどるという。
一六 縁談をまとめる 原文は撮合山。媒酌《ばいしやく》すること、あるいは仲人をすること。
一七 父方の叔母婿 原文は姑丈。訳語のほかに、また娘の夫をもいう。
一八 渡座祝い 原文は煖房。また煖屋といい、ふつう転居の祝いをいう。ここでは新婚の部屋へ移った祝い。
一九 〓〓 〓《い》も〓《じ》も、雲のたなびくかたち、また盛んなるかたち。
二〇 羞雲怯雨無く 雲雨を差怯することなくの意。雲雨は男女の交わり。第六十五回注六参照。
二一 糞やろうめ 原文は鳥男女。
二二 鬼門に家を建てる 原文は在太歳頭上動土。太歳は凶神。第二回注一四参照。
二三 瓦罐は井上を離れずして破る 瓦罐は素焼の壺。すなわち、瓦罐はたいてい井戸のほとりでこわれるものだの意で、下の、強人は必ず矢に亡ぶと対句を成す諺。
第百五回
宋公明《そうこうめい》 暑を避けて軍兵を療《いや》し
喬道清《きようどうせい》 風を回《かえ》して賊寇《ぞくこう》を焼く
さて、王慶・段三娘と廖立とは、わたりあうことようやく六七合、そのとき廖立は王慶に隙をつかれてその朴刀に刺したおされたのである。と段三娘が飛びかかって行ってさらに一太刀浴びせ、その命を奪ってしまった。かくて廖立の強盗としての半生も、あわれ一場の春の夢と消え去ったのであった。
王慶は朴刀をひっさげて、怒鳴った。
「従わぬものがあれば、廖立がその見せしめだぞ」
子分たちは、廖立を殺されてしまっては、もはや反抗しようとするものもなく、みな武器を捨てて平伏した。王慶は一同をひきしたがえて山をのぼり、寨《とりで》のなかへはいった。そのとき東の空ははや白みかけていた。この山にはいちめんに天然の石室があって、ちょうど房屋《ぼうおく》のようになっていた。そのため房山《ぼうざん》と呼ばれ、房州の管下に属していた。王慶はさっそく各人の家族のものを休ませ、子分たちを点検し、寨《とりで》のなかの糧秣・金銀・珍宝・錦帛《きんぱく》・布疋《ふひつ》などの品を調査し、牛を殺し馬を殺して盛大に子分たちを賞し、酒宴を開いて一同と慶賀した。かくて一同は王慶を推して寨主《さいしゆ》とし、武器を造ったり子分たちを訓練したりして、官兵を迎え討つ準備をしたが、このことはそれまでとする。
一方、その夜、王慶の逮捕に房州からつかわされた都頭・土兵・人夫たちの一行は、王慶らに斬り散らされてしまったが、そのうちの逃げのびたものが、州へ帰って州尹の張顧行に報告した。
「王慶らは前からもう勘づいていて官軍に刃《は》むかってまいり、都頭も密告人の黄達も殺されてしまいました。そしてあの下手人らの一味は、西のほうへ逃げて行ってしまいました」
張顧行は大いにおどろいた。翌朝、土兵を点検してみると、死者は三十余名、負傷者は四十数名にのぼっていた。張顧行はさっそく州の鎮守の軍官たちと協議して、さらに捕盗の官兵と兵卒を逮捕にさしむけたが、賊は勢いすさまじく、官軍はまたもや多大な損害を受けた。房山の寨の子分たちは日ごとにその数を増し、王慶らは山をおしくだって家をおそい物をかすめるにいたった。張顧行は賊が猛威をふるうのを見ると、公文書をくだして、管下の各県に、その県境を固め、兵をさし出して逮捕に協力するよう通告するとともに、一方ではさらに州の守禦たる兵馬都監の胡有為《こゆうい》と討伐のことを相談した。胡有為は麾下の隊の兵士を点呼し、日を選んで兵をおこし、賊の討伐にむかうことになった。ところが各隊の兵士がにわかにがやがやとさわぎ出した。ここ二ヵ月のあいだ給料をもらっておらず、いまや腹の皮が背中にくっついているのに、どうして賊を討ちになど行けようか、というのである。張顧行は不穏の知らせを聞くと、しぶしぶまず一ヵ月分の給料を支給した。ところがこの支給がいよいよ兵士たちを怒らせたのである。それはどうしてかというと、要路のものは、いつもは兵士たちをいたわらずにほったらかしておきながら、いざさわぎ出すと支給してご機嫌をとるという始末なので、兵士たちはすっかり放縦になってしまっていたし、さらにもうひとつの笑止《しようし》な沙汰は、こんどの場合にもあのぴんはね(注一)の慣わしが、いつものようにひどくおこなわれていたからである。兵士たちは、かねがね、そのひどいぴんはねをずいぶんと腹に据えかねていたのであるが、それがこのときいちどにあふれ出し、軍情騒然としてたちまち暴動化し、かの胡有為をつかまえて殺してしまった。張顧行は形勢不穏と見るや、官印だけを護っていちはやく身をかくした。かくて城内は主《あるじ》がなくなったところへ、土地のならずものたちが叛乱軍に雷同し、ついに良民の家を焼いたり物をかすめたりするにいたった。かの強盗王慶は、城内に乱のおこったことを知ると、その機に乗じ、手下たちをひきつれて房州を攻めた。叛乱軍や烏合《うごう》の悪党たちは、逆に賊についてしまった。そのため王慶は志をとげ、房州はついにこやつらに占拠されてしまって、その巣窟となるにいたったのである。かの張顧行も結局かくれおおせることはできず、これまた殺されてしまった。
王慶は、房州の倉庫の金銭糧秣を奪い取り、李助・段二・段五らをそれぞれ房山の寨《とりで》やその他の各地へやって招軍《しようぐん》(募兵)の旗じるしをかかげさせ、馬を買い兵を募り、馬糧を積み食糧を集めさせ、遠近の村や鎮《まち》に対してことごとく掠奪をおこなわせた。放蕩無頼の徒や、悪逆な犯罪者たちが、続々と身を投じてきた。このとき〓端《きようたん》と〓正《きようせい》も、さきに黄達に告訴されたことからすっかり家産をなくしていたところへ、王慶が兵を募っていると聞いて、やってきて仲間に加わった。近隣の州県では、もっぱら城の守りをかためようとするだけで、兵を出して討伐をしようとするものはひとりもなかった。強盗どもは二ヵ月のうちにたちまち二万人あまりの徒党を集め、近隣の上津《じようしん》県・竹山《ちくざん》県・〓郷《うんきよう》県の三つの城を討ち破った。近隣の州県は朝廷に急を告げ、朝廷では現地の軍に出動して討伐するよう命ぜられたが、宋朝の官軍はほとんどみな、兵糧はたらず調練はできておらず、兵は将を畏《おそ》れず将は兵を知らずというありさまで、ひとたび賊が迫るとの報に接すると、はなはだ兇猛だとの風聞に、兵は心を凍らせ民は胆をつぶし、いよいよ接近して対峙することになると、将軍はふるえあがり兵士はすくんでしまうというありさま。これではとうてい、命がけで斬りこんでくる王慶らの賊徒に太刀打ちができるはずはなく、官軍は潰滅を繰り返すばかりだった。そのため王慶はますます勢いを強めて、さらに南豊府《なんほうふ》をも討ち破るにいたった。その後、東京から将士が派遣されてきたが、彼らは蔡京《さいけい》・童貫《どうかん》に賄《まいない》をつかった連中でないとすれば、楊〓《ようせん》・高〓《こうきゆう》に賄を贈った連中で、賄をつかいさえすれば、ばかだろうが能なしだろうがいっさいおかまいなしにとりたてられるのだった。この将士たちは、本銭《もとで》を使って権力を手にいれると、勝手放題に兵糧のうわまえをはね、良民を殺して敵を殺したと功をいつわったり、兵士を駆りたてて掠奪をはたらかせたりして、地方を乱しさわがしたため、かえって良民を追い苦しめて賊に従わせるような結果を生んだ。かくして賊の勢いはますます強くなり、ついに兵を駆りたてて南下するにいたったのである。
このとき李助は一策を献じた。彼は荊南《けいなん》のものであるところから、もとのように星占いの身なりをして城内へはいりこみ、ひそかに悪童やごろつきを駆り集めた。そして内外呼応して荊南の城を討ち破ったのである。かくて王慶は李助を軍師に請い、みずからは楚王《そおう》と称するにいたった。やがて世間を股にわたり歩く大盗や山寨にたてこもる強賊どもが、続々と集まってきて、三四年のあいだに、宋朝の六つの軍州《ぐんしゆう》を占領するにいたった。王慶はかくて南豊の城内に宝殿・内苑・宮闕を建て、正号を僭称し、年号を改め、また宋朝にならって文武の職官・省院の官僚・内相・外将を設け、李助を軍師・都丞相《とじようしよう》に任じ、方翰を枢密《すうみつ》に、段二を護国統軍大将に、段五を輔国統軍都督に、范全を殿帥《でんすい》に、〓端を宣撫使《せんぶし》に、〓正を転運使《てんうんし》(注二)に任じてもっぱら金銭の出納・租税の計算をつかさどらせ、丘翔を御営使《ぎよえいし》(近衛軍司令官)に任じ、段氏(段三娘)を立てて妃《ひ》とした。宣和《せんな》元年に乱をおこしてより宣和五年の春にいたる間のことで、宋江らがちょうど河北へ田虎を討ちに行って壺関でたたかっていたそのとき、片や淮西《わいせい》では、王慶はさらに雲南軍《うんなんぐん》と宛《えん》州を討ち破り、あわせて八つの軍州を占領するにいたったのである。その八つの軍州とはすなわち、
南豊《なんほう》 荊南《けいなん》 山南《さんなん》 雲安《うんあん》
安徳《あんとく》 東川《とうせん》 宛《えん》州 西京《せいけい》
この八つの軍州にはあわせて八十六の州県が所属していた。王慶はさらに雲安に行宮《あんぐう》を建てて、施俊を留守官《りゆうしゆかん》に任じ、雲安軍を鎮守させた。
はじめ、王慶が劉敏《りゆうびん》らに命じて宛州を奪取させたときのこと、宛州は東京に近かったので、蔡京らも天子をあざむくわけにはいかず、道君皇帝に奏上して蔡攸《さいゆう》と童貫に王慶討伐の勅命がくだり、宛州の救援にむかわしめられることになった。ところが蔡攸・童貫には統制力がなく、暴虐をもって士卒に臨んだので軍心が離反し、そのため劉敏らに大敗を喫せしめられて宛州は陥落し、東京は恐怖におののくにいたった。蔡攸・童貫は罪をおそれて、ひたすら天子おひとりをあざむきとおした。賊将の劉敏・魯成らは、蔡攸・童貫を破って、ついに魯《ろ》州と襄《じよう》州を包囲するにいたった。
そのとき宋江は、河北を平定して凱旋しようとするおりから、再び淮西《わいせい》征討の詔勅を受けたのである。席は暖まるいとまなく、馬は蹄をとどめず、とはこのこと。かくて大軍二十余万をひきつれて、南にむかって進発した。やがて黄河をわたったところへ、省院からまたもや文書がきて、陳安撫ならびに宋江の軍に、急遽魯《ろ》州と襄《じよう》州へ救援に行くようにとの督促。宋江らは暑熱のなかを、馬を汗みずくにして飛ばしつつ、粟県《ぞくけん》・〓水《しすい》を経て一路行軍をつづけた。途中いささかも住民に危害を加えることなく、やがて大軍は陽〓《ようてき》州の州境に達した。賊は宋江の軍がおし寄せてきたと聞くと、魯州・襄州の両地とも包囲を解いてひきあげた。
このとき、張清・瓊英・葉清らは、田虎が刻み斬りの刑に処せられるのを見とどけ、聖恩に浴して、宋江をたすけて王慶を討伐せよとの詔勅を受けたのである。張清らは東京をたって穎昌《えいしよう》州に到着してよりすでに半月あまり。宋先鋒の軍が着いたことを聞くと、三人はその軍前へ行って迎え、挨拶をおわって、つぶさに聖恩を受け封爵の栄に浴したことを報告した。宋江ら一同はしきりに三人を賞讃した。宋江は張清らに軍中で命を待つようにといった。
宋江は、陳安撫・侯参謀・羅武諭らに対して陽〓《ようてき》の城内に駐留されるようにと請い、みずからの大軍は城内へはいるには都合がわるいとして、命をくだして大軍をことごとく方城山《ほうじようさん》の深い林の奥に屯営させ、もって暑気を避けさせた。また、兵士たちは千里の道を歩いてきたため暑気にあてられて疲労しているものが多かったので、安道全に薬品を買いととのえて兵士たちの医療にあたらせ、さらに兵士たちに涼廡《りようぶ》(日除けの屋根)をかけさせて、馬を休ませ、皇甫端に治療とたてがみの刈りこみをいいつけた。
「大軍を林のなかに屯営させていると、敵が火をつけるおそれがあります」
と呉用がいうと、宋江は、
「確かに敵は火をつけるでしょう」
といい、兵士たちに命じて、別にこの山の高みの涼しい木かげに、竹や茅で小さな小屋を掛けさせた。と、かたわらにいた河北の降将の喬道清が、その意をさとって、宋江に言上した。
「わたくし、ご恩がえしまでに、このさいいささかお役にたたせていただきましょう」
宋江は大いによろこび、ひそかに喬道清に計略をさずけて小屋へたって行かせた。ついで宋江は、屈強な兵士三万人を選んで、張清と瓊英にそのうちの一万をひきつれて東の山麓に伏兵を布かせ、孫安と卞祥《べんしよう》にも同じく一万をもって西の山麓に伏兵を布かせることにして、
「わが中軍の轟天砲《ごうてんほう》の音を合図に、いっせいに斬って出よ」
と命じた。また南麓の平坦なところに糧秣を全部積んで、李応と柴進に兵五千をもって監視させることにした。かくて手配りがおわった。と、公孫勝がいい出した。
「お見事な策略です。しかしこの酷暑のなかを、兵士たちは長途を歩いてきて疲れきっておりますから、もしも賊が精鋭を繰り出してきましたなら、たとえ敵に十倍する兵力があったとしても、とても勝つことはむずかしかろうと存じます。それゆえ、わたくし、いささか術をほどこして、まず一同の苦しみをとり除き、軍馬をさわやかにさせましょう。そうすればおのずと強健になりましょうから」
いいおわるや、足を魁《かい》・〓《こう》の二字に踏み(法をおこなうときの足の構えをいう。魁・〓はともに星の名)、左手は五雷正法の印《いん》を結び、右の手は剣をもって秘法をおこない、じっと思念をこらし、巽《たつみ》(南東。風神の方位)のほうからふうっと生気を吸いとり、ひとしきり呪文をとなえた。と、たちまちにして、さわさわと涼風が吹きおこり、むくむくと黒雲が湧きたった。それは嶺の洞《ほら》から噴き出してきて、方城山いっぱいにひろがり、二十余万の兵をことごとくすがすがしい涼風のなかにつつんだ。しかもこの山のほかは、依然として金を銷《と》かし鉄を鑠《と》かす烈日で、しきりに蝉が鳴き、鳥はひそみかくれているのである。宋江ら一同は、非常なよろこびようで、公孫勝のすばらしい法力をたたえて感謝した。このようにして六七日、さらに安道全の人に対する治療、皇甫端の馬に対する医療もあって、兵も馬もようやく強健になったが、このことはそれまでとする。
さて一方、宛州の守将の劉敏は、賊のなかでもなかなか謀略にたけた男で、賊のあいだでは劉智伯《りゆうちはく》(注三)と称されていたが、彼は宋江の軍が深林のなかに屯営して暑気を避けていることを探知すると、
「宋江のやつ、しょせんは水たまりの盗《ぬす》っ人《と》で、兵法を知らぬ、それゆえ大事を成しとげることができぬのだ。おれがちょっとした計略をつかって、その二十万の兵をあらかた黒焦げにしてみせてやろう」
と、ただちに命令をくだし、すばしこい兵士五千人を選び出して、それぞれに火箭《かせん》・火砲《かほう》・火炬《かきよ》(松明)を持たせ、さらに戦車《せんしや》二千輛を仕立ててこれに蘆や粗朶、および硫黄や焔硝などの引火物を積みこみ、一車を四人がかりで押し出して行かせた。おりしも七月の中旬で、初秋の候。劉敏は、魯成《ろせい》・鄭捷《ていしよう》・寇猛《こうもう》・顧岑《こしん》の四人の副将と屈強な騎兵一万をひきしたがえ、人は身軽によろい、馬は鸞鈴をはずして、戦車の隊を後方から援護することにし、偏将の韓〓《かんてつ》・班沢《はんたく》を城の守備に残して、劉敏ら一同は薄暮のころに城を出た。おりしも南風が大いに吹きおこった。劉敏は、
「宋江らの一味は敗れる運命《さだめ》にあるぞ」
と大いによろこんだ。
賊軍は三更(十二時)ごろ、ようやく方城山の南方二里のところまで進んだ。と、にわかに霧がおこって山谷いっぱいにひろがった。劉敏は、
「天のお助けだ」
といい、兵士に、うしろから軍鼓を鳴らし喊声をあげて気勢を加えさせ、五千の兵に、林の深いところへめったやたらに火箭・火砲・火炬を射ちこみ投げこんで、焼き打ちをかけさせ、寇猛・畢勝(注四)に、車を押す兵を督励して、火車に火をつけ、山麓の糧秣の積んであるところへ廻って行って焼き打ちをかけるようにと命じた。一同は奮いたって攻めかかった。がたちまちみなは、
「あっ、あっ」
と悲鳴をあげだした。なんたる不思議。はげしく吹きまくっていた南風が、一瞬にして、これはいかに、北風に転じてしまったのである。ついで山頂に雷鳴のような音がとどろいたかと思うと、喬道清が風を回《かえ》し火を返す法を使って、かの火箭・火炬をことごとく南の賊の陣へと飛ばしたのである。それはさながら無数の金の蛇・火の竜のごとく、はげしく火を噴きながら賊兵にむかって飛んで行く。賊兵は逃げるいとまもなく、みな焼かれて頭を焦《こ》がし額を爛《ただ》れさせた。
そのとき宋軍では四句の口号《くちずさみ》をうたって、かの劉敏を笑った。そのうたは、
いくさはほんにむずかしや(注五)
あてずっぽうのたくらみで
焼打ちかけて己れを焼いた
たいしたものじゃよ劉智伯
そのとき宋先鋒は凌振《りようしん》に号砲を射たせた。砲がぱっと中天に飛んで鳴りとどろくと、東からは張清と瓊英が、西からは孫安と卞祥がそれぞれ兵をひきいておどり出してきた。賊軍はさんざんな敗北を喫し、魯成は孫安の一剣のもとにまっ二つに斬られ、鄭捷は瓊英の石のつぶてに馬から打ち落とされたところを、張清にさらに槍で刺されて落命し、顧岑は卞祥に刺し殺され、寇猛は乱戦のなかで討ちとられてしまった。かくて二万三千の兵は、火に焼かれたり刃《やいば》に殺されたりして、大半をうしない、あとのものはちりぢりに逃げて行ってしまい、二千輛の車も一台もあまさず焼きつくされてしまった。劉敏だけは三四百の敗残兵とともに、ひたすら逃げて宛州へのがれ去った。宋軍は半本の粗朶も焼かれることなく、ひとりの兵士もうしなうことなく、おびただしい数の馬匹・衣甲・金鼓を奪った。張清・孫安らは勝利を収めて山の陣地へひきあげるや、その功を献じた。すなわち孫安は魯成の首級を、張清・瓊英は鄭捷の首級を、卞祥は顧岑の首級を献じたのである。宋江はそれぞれその功を賞し、喬道清の功を第一に、ついで張清・瓊英・孫安・卞祥の功を、功績簿に記録した。
呉用がいった。
「兄貴の妙計で賊はすっかり胆をつぶしてしまいましたが、なにしろ宛州は、山水がうねりつづき、それにとりかこまれた平原は地味が肥えて、陸の海と称されている土地です。もし賊が将兵を増援して、大軍をもって守りますならば、なかなか簡単には討ち破ることができなくなります。いまや秋風が暑気をしりぞけ、露が涼気を生んで、兵も馬もきわめて強健です。わが軍の志気が大いにふるい、しかも城内は手薄だというこの機に乗じて、すかさず攻めますならば、必ずうち勝つことができましょう。しかしそれには別に兵を分けて南と北に陣地をかまえ、賊の援軍の襲来にそなえておくことが必要です」
「なるほど」
と宋江はいい、その策にしたがって命令をくだし、関勝《かんしよう》・秦明《しんめい》・揚志《ようし》・黄信《こうしん》・孫立《そんりつ》・宣賛《せんさん》・〓思文《かくしぶん》・陳達《ちんたつ》・楊春《ようしゆん》・周通《しゆうとう》に兵馬三万をしたがえて宛州の東方に陣を取らせ、南方からの賊の援軍にそなえさせることにし、林冲《りんちゆう》・呼延灼《こえんしやく》・董平《とうへい》・索超《さくちよう》・韓滔《かんとう》・彭〓《ほうき》・単廷珪《ぜんていけい》・魏定国《ぎていこく》・欧鵬《おうほう》・〓飛《とうひ》には兵三万をもって宛州の西方に陣を取らせ、北方からの賊の援兵にあたらせることにした。諸将は命にしたがい、軍を勢揃えして出て行った。そのとき河北の降将の孫安ら十七名が、いっせいに進み出て言上した。
「わたくしども、先鋒の麾下に加えていただき、ご優遇のほど深く感謝しております。願わくはわたくしども、このたび前軍となって、先駆して城を攻め、いささかなりともご恩に報いさせていただきたいと存じます」
宋江は承知して、ただちに張清と瓊英に、孫安ら十七名の将領と兵五万をしたがえて前軍となるよう命じた。その十七名は、
孫安《そんあん》 馬霊《ばれい》 卞祥《べんしよう》 山士奇《さんしき》 唐斌《とうひん》 文仲容《ぶんちゆうよう》 崔埜《さいや》 金鼎《きんてい》 黄鉞《こうえつ》 梅玉《ばいぎよく》 金《きんてい》 畢勝《ひつしよう》 潘迅《はんじん》 楊芳《ようほう》 馮昇《ふうしよう》 胡避《こひ》 葉清《しようせい》
張清は命を受けて、ただちに将領および兵をしたがえて宛州へと攻めのぼって行った。
宋江は盧俊義・呉用らとともに、残りの将領をしたがえ、全員こぞって陣地をひきはらった。かくて方城山をあとに南へと進み、宛州の前方十里のところに陣をかまえて、李雲・湯隆・陶宗旺に、張清らの軍前へ送って用いさせるための城攻めの武器を造らせた。
張清ら諸将は兵をひきいて宛州を包囲し、水も漏らさぬ態勢をととのえた。
城内の守将の劉敏は、先夜、宋江の計略にひっかかり、辛くも命拾いをして宛州にたどりつくと、ただちに使者を南豊の王慶のところへやって報告させるとともに、近隣の州県に触れ文をまわして援兵の派遣を求めたのだった。このたび宋軍に城を包囲されると、ただただ守りをかため、援軍の到来を待ってどっと討って出ることにした。宋軍は六七日間つづけて城を攻めたが、城壁は堅固で急には攻め落とすことができなかった。
このとき宛州城の北方の臨汝《りんじよ》州の賊将張寿《ちようじゆ》が、援兵二万をひきいておし寄せてきたが、林冲らにその主将張寿を討ちとられて、他の偏将・牙将・兵士らはちりぢりに逃げて行った。おなじ日また、宛州の南方の安昌・義陽などの県の援軍がやってきたが、関勝らによって賊軍はさんざんに討ち破られ、その将の柏仁《はくじん》と張怡《ちようたい》は捕らえられて宋江の本陣へ送られ、処刑された。この二方面での討たれたもの捕らえられたものはおびただしい数にのぼった。
このとき李雲らは、すでに城攻めの武器を造りあげていた。孫安・馬霊らは協力して、兵士たちに土を嚢《ふくろ》につめさせ、距《きよいん》(土の塁壁を漸進させて城壁に寄せかける攻城の具)を四方に積みあげて城壁に迫り、さらに、勇敢で敏捷な兵士を選び、飛橋《ひきよう》(渡し橋)を轆〓《ろくおん》(万力《まんりき》を積んだ戦車)で動かして、溝を越え濠をわたらせた。かくて兵士たちはいっせいに奮いたって城壁にのぼり、ついに宛州城を奪って、守将の劉敏をいけどりにした。その余の偏将・牙将の討ちとられたもの二十余名、殺された兵士は五千余名、投降したものは一万人におよんだ。宋江らは大挙して入城し、劉敏を法にしたがってさらし首にし、告示を出して住民を安んぜしめ、また関勝・林冲・張漬ならびに孫安ら諸将の功を功績簿に記《しる》し、使いのものを陽〓《ようてき》州の陳安撫のところへやって勝利を報ぜしめるとともに、陳安撫らに宛州に移って守備されるようにと請うた。陳安撫は知らせを聞いて大いによろこび、ただちに侯参謀・羅武諭とともに宛州にやってきた。宋江らは郊外まで出迎えて城内へ案内した。陳安撫はしきりに宋江らの勲功をほめたたえたが、このことは改めていうまでもなかろう。
宋江は宛州で軍務の後始末をしつつ、十日あまりをすごした。時はすでに八月の初旬で、暑気もようやくおさまっていた。宋江は呉用に諮《はか》った。
「こんどはどの城を討つべきでしょう」
すると呉用のいうには、
「ここから南のほうは山南郡です。そこは南は湖湘《こしよう》(洞庭湖・湘水)を果てとし、北は関洛《かんらく》(函谷関・洛水)をひかえていて、いわゆる楚蜀咽喉《そしよくいんこう》の会《かい》(楚と蜀とが境を接する要害の地)です。まずこの城を奪って、賊の勢力を分断すべきだと思います」
「軍師のお説、全く同感です」
と宋江はいった。かくて、花栄・林冲・宣賛・〓思文・呂方・郭盛が、陳安撫の輔佐としてあとに残り、兵五万をしたがえて宛州を守ることになった。陳安撫はなおほかに聖手書生の蕭譲を残した。宋江は水軍の頭領の李俊ら八名に、水軍の船をひきいて泌水《ひつすい》を経て山南城の北へ出、漢江《かんこう》に集結するよう命じ、陸兵を三隊に分け、陳安撫に別れを告げ、諸将ならびに兵十五万をひきつれて宛州をあとに山南軍へとおし寄せて行った。まさに、万馬奔馳《ほんち》して天地怕《おそ》れ、千軍踴躍《ようやく》して鬼神愁《うれ》う、というところ。さて宋軍はいかに山南を攻め取るであろうか。それは次回で。
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一 ぴんはね 原文は扣頭。
二 転運使 軍需糧秣を司る官。唐代には地方の租税を都へ輸送する官であったため、転運の名があるが、宋代のはじめには専ら軍需糧秣を司る官となり、のちにはまた州郡の監察官の名となった。
三 智伯 第九十九回注一七参照。
四 畢勝 これは原文の誤記であろう。畢勝は河北の降将で、劉敏の部下ではない。
五 いくさはほんに…… この歌は意訳した。原文を読みくだせば、
軍機固《もと》より測り難し
賊人妄《みだ》りに擘劃《はくかく》し
火を放って自ら軍を焼く
好個の劉智伯
第二句の擘劃とは処理すること。また劃と書く。
第百六回
書生 談笑して強敵を卻《しりぞけ》け
水軍 汨没《こつぼつ》して堅城を破る
さて、宋江は兵を手分けして、水陸の両路から兵を進めた。陸路の兵は三隊に分け、前隊の衝鋒破敵《しようほうはき》の驍将《ぎようしよう》十二名は、兵二万をひきいた。その十二名は、
董平《とうへい》 秦明《しんめい》 徐寧《じよねい》 索超《さくちよう》 張清《ちようせい》 瓊英《けいえい》 孫安《そんあん》 卞祥《べんしよう》 馬霊《ばれい》 唐斌《とうひん》 文仲容《ぶんちゆうよう》 崔埜《さいや》
後隊の彪将《ひようしよう》十四名は、兵五万をひきいて後詰めを承った。その十四名は、
黄信《こうしん》 孫立《そんりつ》 韓滔《かんとう》 彭〓《ほうき》 単廷珪《ぜんていけい》 魏定国《ぎていこく》 欧鵬《おうほう》 〓飛《とうひ》 燕順《えんじゆん》 馬麟《ばりん》 陳達《ちんたつ》 楊春《ようしゆん》 周通《しゆうとう》 楊林《ようりん》
中隊の宋江・盧俊義は、将領九十余名と兵十万をひきいた。かくて山南軍へとおし寄せて行き、前隊の董平らの兵ははやくも隆中山《りゆうちゆうざん》の北方五里のところに達して陣をかまえた。と、物見の兵からの知らせがあって、
「王慶はわが軍がおし寄せてくることをかぎつけて、特にこの隆中山の北麓に雄兵二万を増援し、勇将の賀吉《かきつ》・縻〓《びせい》・郭〓《かくかん》・陳贇《ちんひん》らに兵をひきいて守らせております」
という。董平らはその知らせを聞くと、ただちに協議して、孫安と卞祥に兵五千をもって左翼に伏兵を布かせ、馬霊と唐斌にも同じく兵五千をもって右翼に伏兵を布かせることにした。
「わが軍中からの砲声を合図に、いっせいに斬って出るよう」
こちらでは、ようやく手はずがととのったところへ、かなたでは賊軍が、はやくも旗を振り軍鼓を鳴らし、喊声をあげ銅鑼をたたいて戦いを挑んできた。かくて両軍は相《あい》対し、旗鼓相望み、南と北とに陣を布きつらねて互いに強弓・硬弩をもって出足を制しあった。賊の陣中で門旗が左右に分かれて、そこから賊将の縻〓《びせい》が馬を進めて陣頭に立った。頭には鋼《ねりがね》の〓《かぶと》を頂《いただ》き、身には鉄《くろがね》の鎧《よろい》を穿ち、彎《ひ》く弓は鵲画《じやくが》(かささぎの絵)の弓、挿《さしはさ》む箭《や》は雕〓《ちようれい》(鷲の羽)の箭、顔は紫肉《しにく》を横たえ、眼は銅鈴を〓《みは》り、長柄の開山《かいざん》の大斧を担《にな》い、丈高《たけだか》の捲毛《まきげ》の黄馬にまたがり、大声で呼ばわっていうよう、
「水たまりのこそ泥たちめ、なにゆえに宋朝の無道のぼんくら天子のために骨を折って、こんなところまで命を捨てにやってきやがったのだ」
宋軍の陣中では〓鼓《だこ》が天をどよもして鳴りわたるなかを、急先鋒の索超が馬を驟《は》せて陣頭にいで、
「わけもなく謀叛をはたらく凶賊め、よくも悪口雑言を吐きおったな。この斧でめった斬りにしてくれようぞ」
と大喝するなり、金〓斧《きんさんぷ》をふりかぶりつつ馬をせかせてまっしぐらに縻〓におそいかかって行けば、縻〓も斧をふりまわしてこれを迎え討つ。両軍互いに喊声をあげるなかを、二将は両陣のまんなかへ飛び出して行き、両馬相交わり、双斧《そうふ》相きらめき、かくてわたりあうこと五十余合におよんだが、なおも勝敗は決しなかった。かの賊将の縻〓は、はたせるかな勇猛であった。宋軍の陣中では霹靂火の秦明が、索超のうち勝ち得ないのを見るや、狼牙棍を舞わしつつ馬を驟《は》せて加勢に出て行くと、賊将の陳贇が戟を舞わしてこれを相手どった。四将は、戦塵たちこめ殺気みなぎるただなかで、いましもたたかいたけなわのとき、とつぜん一発の砲声がとどろいた。と、孫安と卞祥が兵をひきいて左手からおそいかかってきた。賊将の賀吉は兵を分けてこれをさえぎる。馬霊と唐斌が兵をひきいて右手からおそいかかってきた。賊将の郭〓は兵を分けてこれをさえぎる。このとき宋軍の陣中の瓊英が馬を驟《は》せて陣をいで、ひそかに石のつぶてをつかみ、陳贇めがけてぱっと投げつければ、つぶては鼻のつけ根に命中し、陳贇はもんどりうって落馬した。そこへ秦明が駆けつけて、脳天めがけて狼牙棍を一撃、〓《かぶと》もろとも頭蓋《ずがい》をこなごなに打ちくだいてしまった。かなたの左手の孫安は、賀吉と斬り結ぶこと三十余合、孫安は剣をふるって賀吉を馬の下に斬り落とした。右手の唐斌も郭〓を刺し殺した。縻〓はみなが負けたのを見るや、索超の金〓斧を受けとめるなり馬を返して逃げだした。索超・孫安・馬霊らは兵を駆りたてて追撃する。賊軍は総崩れとなった。諸将が縻〓を追って行って山の鼻を廻ったときである、賊は一万の兵を山のうしろの林のなかにかくしていて、賊将の耿文《こうぶん》と薛賛《せつさん》が兵をひきいて林から飛び出し、縻〓の兵と合流するや、むきをかえて逆襲してきた。縻〓がその先頭に立った。宋軍の陣では文仲容が手柄をたてんものと、槍をかまえ馬をせかして縻〓にかかって行ったが、わたりあうこと十合あまり、縻〓の斧に文仲容はまっ二つに斬られてしまった。崔埜は文仲容が斬られたのを見るや、かっと怒り、馬をおどらせ刀をひっさげ、まっしぐらに縻〓におそいかかって行く。二将が六七合斬り結んだとき、唐斌が馬をせかして加勢に出た。縻〓は加勢のものが出てきたのを見ると、大喝一声、斧をふるって崔埜を馬の下に斬って落とし、さらに飛びかかって行って唐斌を相手にたたかった。こちらでは張清と瓊英が、二将の討たれたのを見るや、夫婦ふたりして馬を並べて出て行き、まず張清がつぶてをつかんで、縻〓めがけて投げつけた。だが、かの縻〓は眼ざとく手ばやい男、斧でぱっとはらいのけると、かちんと一声、つぶては斧にあたって火花を散らし、地面にたたき落とされてしまった。瓊英は夫のつぶてがあたらなかったのを見ると、急いでつぶてをとって投げ飛ばした。縻〓は二発目のつぶてが飛んでくるのを見ると、さっと頭をこごめた。と、かんと一声、つぶては銅の〓《かぶと》にあたった。宋軍の陣中では徐寧と董平が、つぶてが二つともあたらなかったのを見るや、徐寧・董平ふたりして馬を並べて出て行き、いっせいに力をあわせて斬りかかった。縻〓は諸将がうちこぞってかかってくるのを見ると、唐斌の槍をかわし、馬を返して逃げだす。唐斌はきびしく追い迫ったが、そこへ賊将の耿文と薛賛がふたりで出てきてさえぎり、縻〓のやつはそのまま駆けて逃げて行ってしまった。諸将はわずかに耿文と薛賛を討ちとっただけだったが、賊兵を斬り散らし、馬匹・金鼓・衣甲などをおびただしく奪った。董平は兵士に文仲容・崔埜ふたりの死骸をとりおさめて埋葬させた。唐斌はふたりを討ちとられて、声を放ってはげしく哭《な》きながら、みずから兵士とともにふたりを棺に納めた。董平ら九人のものは、さきに隆中山の南麓に兵を屯営させた。
翌日、宋江らの二隊の大軍が到着し、董平らと合流した。宋江は二将を討ちとられて、いたくかなしみ、手厚くその霊を祭ったのち、呉用と城攻めの策を謀った。呉用と朱武は雲梯にのぼって城の地形を偵察し、おりてきて宋江にいった。
「あの城は堅固で、攻めてもどうにもなりますまい。ひとまず、攻めるように見せかけながら、機会をうかがうことにいたしましょう」
宋江はそこで命令をくだして、城攻めの器具を修理させるとともに、また、抜目のない兵士を四方にやって消息をさぐらせた。
宋江らが城攻めの策を講じたことはそれまでとして、一方、縻〓のやつは、三四百騎をひきしたがえただけで山南州の城内へ逃げこんだ。城をあずかる主将は、王慶の小舅の段二であった。王慶は宋朝が宋江らの軍を差しむけてきたことを聞くと、段二に平東大元帥《へいとうだいげんすい》の官を加え、特に彼をこの地に派遣して城を守らせたのであった。さてそのとき縻〓は挨拶をおわってから訴えた。
「宋江らは兵は勇しく将は猛《たけ》く、わが方は五将を討ちとられ、全軍潰滅というありさま。そこで特に元帥どのにお願いにまいった次第ですが、兵をお借りして仇を報いたいものと存じまして」
もともと縻〓らは王慶に派遣されてきたのである。それゆえ「兵をお借りして」といったのであった。段二はそれを聞くと大いに怒り、
「きさまはわしの配下ではないが、軍を潰滅させ将をうしなったきさまの罪は、わしが打ち首を申しつけてやる」
といい、兵士に、縛りあげて行って打ち首にしてこいと命じた。と、帳下からつとひとりのものが進み出て、
「元帥どの、お怒りをやわらげて、ひとまずこのものをお見のがしなさいますよう」
と言上した。段二が見ると、それは王慶が帳前につけてよこした参軍(副官)の左謀《さぼう》だった。
「なぜこやつを赦《ゆる》してやれというのだ」
と段二がいうと、左謀は、
「縻〓はなかなかの驍勇で、宋軍の二将をつづけさまに討ちとったと聞いているからです。宋江らは確かに兵は強く将は勇敢です。それゆえ智をもって制すべきであって、力をもってたたかうべきではありません」
「智をもって制するとはどういうことだ」
「宋江らの糧秣や行李はみな宛州に集積されていて、そこから運んでおります。聞けば宛州の兵力は手薄とのこと。元帥どのには、しかるべきものを密使にたてて均《きん》・鞏《きよう》二州の守城の将のもとへつかわされ、時日をとりきめて、彼らに両路から兵を出して宛州の南をおそわせるとともに、こちらでも精兵を選りすぐって、これを縻《び》将軍にひきいさせ、彼に手柄をたてて罪をあがなわせるべく、宛州の北をおそいに行かせられますよう。宋江らはこれを知れば、宛州に万一のことがあってはと恐れて、必ずや兵を退《ひ》いて宛州へ救援に行くことでしょう。その撤退の機に乗じて、こちらからさらに精兵を繰り出し、両路からこれを攻撃しますならば、宋江を捕らえることができると存じます」
段二はもともと一介の田舎猿で、兵法の機微など知るよしもなかった。いま左謀の説くところを聞くと、たちまちそれにしたがって、急いで使いのものを均・鞏二州へしめしあわせに行かせた。そしてただちに兵二万を勢揃えして、縻〓《びせい》・闕〓《けつしよ》・翁飛《おうひ》の三将軍にひきいさせ、暗夜ひそかに西門を出て、旗を巻き軍鼓をかくして、いっせいに宛州へ攻めのぼらせた。
一方宋江は、本営で城攻めの策をめぐらしていたが、そこへ不意に水軍の頭領の李俊がやってきて、
「水軍の船はすでにみな、城の西北の漢江・襄水《じようすい》の二ヵ所に集結しました。それで、命令をうかがいにまいりました」
と告げた。宋江が李俊を本営にひきとめて酒をくみかわしていると、密偵の兵が報告にきて、
「敵の城内では、かくかくしかじかで、兵をひきいて宛州をおそいに出ました」
という。宋江はそれを聞くと大いにおどろき、急いで呉用に相談すると呉用のいうには、
「陳安撫も花《か》将軍らも、みな胆略がそなわっておりますから、宛州のほうは心配することはありません。むしろこの機に乗じて、敵のこの城を討ち破るべきです」
そして宋江になにやらささやいた。と宋江は大いによろこび、さっそく李俊および歩兵の頭領の鮑旭ら二十名に密計をさずけ、歩兵二千をひきつれさせて、夜になってからひそかに李俊について出て行かせたが、このことは述べないでおく。
さて、賊将の縻〓らは兵をひきいてはやくも宛州に着いた。道に伏せていた兵士はそれを知らせに宛州城へもどった。陳安撫は花栄と林冲に、兵二万をひきいて城外に敵を迎え討たせた。二将が兵をひきいて城を出たあとへ、また物見の早馬が報告にきて、
「縻〓らは均州の賊としめしあわせていて、均州の兵三万がすでに城の北十里のところまで迫ってきております」
と告げた。陳〓はさらに呂方と郭盛に、兵二万をひきいて北門外に敵を迎え討たせた。それからまだ一時《いつとき》とはたたぬうちに、またもや飛報がとどいて、
「鞏《きよう》州の賊の季三思《きさんし》・倪慴《げいしよう》らが、兵三万をしたがえて西門へおし寄せてきます」
とのこと。一同は顔を見あわせ、愕然として、
「城内には宣賛と〓思文の二将しか残っていないし、兵は一万いるとはいうものの、大半は年取ったものや、弱いものだ。とても守りきれまい」
といいあった。すると、かたわらにいた聖手書生の蕭譲が、
「安撫どの、ご心配にはおよびません。わたくしに考えがございます」
といい、二本の指をかさねつつ一同にむかっていった。
「かくかくしかじかにすれば、賊どもを討ち破ることができます」
陳〓以下一同のものは、みなうなずいて、ほめそやした。かくて陳〓は命令をくだし、宣賛と〓思文に、屈強な兵五千を選んで西門の内側にかくれさせ、賊が撤退をはじめるのを待ってすかさず討って出させることにした。二将は計略を受けて出て行った。陳〓はついで老弱な兵士たちに対して、
「城を守ろうとする必要はない。旗さしものはみなかくしてしまうのだ。そして西門の城楼から砲声が聞こえたら、そのときいっせいに旗をかかげるように。必ず城内だけで行動し、決して城外へは出ないように」
といいふくめた。かくて手はずがととのうと、陳安撫は兵士に命じて酒肴を西門の城楼へはこびあげて、酒席を設けさせた。陳〓・侯蒙・羅〓はただちに城楼へのぼって、談笑しながら大いに飲み、兵士に城門をあけ放つよう命じて賊軍のやってくるのを待った。
しばらくすると、賊将の季三思《きさんし》と倪慴《げいしよう》が、十数名の偏将をひきつれ、気負いたって城下へおし寄せてきた。ところが、見れば城門はあけ放たれ、三人の役人とひとりの書生が、城楼の上で、花やかに着飾り、賑やかに楽を奏しつつ酒盛りをしている。そして四方の城壁の上には旗かげひとつ見えない。季三思はこれはあやしいぞと見て、あえて進もうとはしなかった。倪慴も、
「城内には備えがあるにちがいない。やつらの詭計にはまらぬよう、すみやかに兵をひくべきだ」
といった。季三思は急いで退却を命じたが、そのとき、とつぜん城楼の上に一発の砲声が鳴りひびいたかと思うと、天をどよもして喊声が湧きおこり、地をふるわせて軍鼓がとどろき、無数の旗じるしが城壁の内側を往き交うた。賊兵は主将の言葉を聞いてすでにびくびくしていたところへ、さらに城内のそのようなありさまを見て、戦わずしてもう浮足立った。城内の宣賛と〓思文は兵をひきいてどっと城外へ討って出た。賊軍は総崩れとなり、金鼓・旗旛・兵戈・馬匹・衣甲などをおびただしくうち捨て、斬り殺されたものは一万を越えた。季三思と倪慴も乱戦のなかで殺され、その余の兵はちりぢりに逃げて行った。宣賛と〓思文は勝ちを制し、兵を収めて城へひきあげた。陳安撫らはすでに城楼から元帥府へ移っていた。
北路の花栄と林冲は、闕〓《けつしよ》・翁飛《おうひ》の二将を討ちとって賊兵を斬り散らし、わずかに縻〓をとり逃がしてしまっただけで、兵を収めてひき返し、城へもどろうとしたところ、
「また二手の賊軍がおし寄せてきました。その西のほうの軍はすでに蕭譲の妙計で斬り散らしましたが、南のほうへむかった呂方と郭盛はまだ勝敗のほどもわかりません」
とのこと。花栄らはこの消息を聞くと、兵を急がせて南のほうへと駆けつけた。呂方と郭盛は賊将と奮戦しているところだった。林冲と花栄は兵を駆りたててこれを助け、星落ち雲散るがごとく賊兵を斬り散らし、四分五裂にして、おびただしい戦果をあげた。
その日、三手から攻めてきた賊軍は、死者三万余名、負傷者はその数も知れぬほどで、見れば屍《しかばね》は野辺に横たわり、血は田の畔《くろ》にあふれるというありさま。林冲・花栄・呂方・郭盛は、兵を収めて入城し、宣賛・〓思文とともに元帥府にはいってそれぞれ功を献じた。陳〓・侯蒙・羅〓はともども大いによろこび、蕭譲の妙策、花栄ら諸将の英雄ぶりをほめたたえた。諸将はかしこまって、しきりに謙遜した。陳安撫は盛大な宴席を設けさせて将領たちを賞し、全軍の兵士をねぎらい、蕭譲・林冲らの功を功績簿に記《しる》し、城を守り固めたが、このことはそれまでとする。
さて段二は、縻〓らの軍を送り出したその翌日の夜、城楼にのぼってはるか宋軍のほうを眺めわたした。ちょうど八月中旬(仲秋)の満月に近いころで、ほとんどまんまるい明月が真昼のように明るく照り輝いていた。段二は、宋軍の旗が乱れ動きつつ、徐々に北のほうへと退いて行くのをみとめた。段二は左謀にむかっていった。
「どうやら宋江は、宛州があぶないと知ったらしい。それで撤退して行くものと見える」
「きっとそうです。急いで屈強な騎兵を出して襲わせるべきです」
段二は、銭〓《せんひん》・銭儀《せんぎ》の二将に、兵二万を勢揃えして城を出、宋軍を追撃するようにと命じた。二将は命を受けて出て行った。
段二は西のほうを見わたした。と、城外の襄水《じようすい》には、月の光と水のきらめきが流れのなかに映じあい、かの宋軍の四五百艘の兵糧船が次第次第に、これまた北のほうへと漕ぎ去って行くのが見えた。段二は日ごろから掠奪をこととしてきた男、いま多数の兵糧船を見、しかも水軍の兵士など乗っておらず、各船にはただ六七人の水夫がいて、それが船を漕いでいるだけなのを見るや、ただちに、城の西の水門をあけさせ、水軍総管の諸能《しよのう》に、五百艘の戦船をひきいて城外へ繰り出し、兵糧船をおそうようにと命じた。宋軍は船からそれを見ると、あわてて船を岸に漕ぎ寄せ、船の上の水夫たちはみな岸へ跳び移った。諸能が戦船を漕ぎ進めて行くと、とつぜん宋軍の船の船腹のあたりから銅鑼が一声鳴りひびいたかと思うと、百艘あまりの小さな漁船が漕ぎ出てきた。どの船もふたりのものが〓《かい》をあやつり、三四人のものが団牌《まるたて》・標鎗《なげやり》・朴刀《ぼくとう》・短兵《かたな》を持って、飛ぶような勢いでおそいかかってくる。諸能は水軍の兵に火砲・火箭を射ち放たせた。と、かの漁船の上のものらは敵しきれず、おめき叫んでみな水中へ飛びこんだ。賊船は勝ちを制し、兵糧船を奪いとった。諸能は水夫に城内へ漕ぎいれるよう命じた。一艘だけを城内へいれたとき、城内から、一艘ずつ吟味した上で漕ぎいれさせるようにとの命令がつたえられた。諸能はまず、かのさきに漕ぎいれた船を兵士たちに調べさせた。十数人の兵士がいっせいにその船へ乗りこんで、船板をめくろうとしたところ、まるで一枚板で作りでもしたもののように、ぴくりとも動かない。諸能は大いにおどろき、
「さては奸計にはめられたか」
と、あわてて、斧や鑿《のみ》でめくってみるようにいいつけた。
「あの城外の船は、漕ぎいれさせてはならぬぞ」
その言葉もおわらぬうちに、見れば城外のうしろのほうの三四艘の兵糧船が、誰も漕いでいないのに、ちょうど潮の流れに乗ったかのように、また追い風に吹かれでもするかのように、ひとりでに動いてくる。諸能がはかられたとさとって、あわてて岸へあがろうとしたとき、水中から、いずれも一振りの蓼葉刀《りようようとう》(薄刃の短刀)を口にくわえた十数名のものがもぐり出てきた。これぞまさしく李俊・二張(張横・張順)・三阮(阮小二・阮小五・阮小七)・二童(童威・童猛)の八人の英雄なのだった。賊兵があわてて武器をとって、突きかかって行こうとすると、李俊がひゅっと口笛を吹き鳴らした。と、かの四五艘の兵糧船のなかにひそかにかくれていた歩兵の頭領が、板の下から楔《くさび》を抜いて船板をおしあけ、わっと喊声をあげて、それぞれ短兵《かたな》を手におどり出てきた。すなわち鮑旭《ほうきよく》・項充《こうじゆう》・李袞《りこん》・李逵《りき》・魯智深《ろちしん》・武松《ぶしよう》・楊雄《ようゆう》・石秀《せきしゆう》・解珍《かいちん》・解宝《かいほう》・〓旺《きようおう》・丁得孫《ていとくそん》・鄒淵《すうえん》・鄒潤《すうじゆん》・王定六《おうていろく》・白勝《はくしよう》・段景住《だんけいじゆう》・時遷《じせん》・石勇《せきゆう》・凌振《りようしん》ら二十人の頭領、ならびに千余名の歩兵で、いっせいに暴れ出し、いっさんに岸におどりあがって賊に斬りかかった。賊軍は防ぎとめることができず算を乱して逃げ走る。諸能は童威に斬り殺され、城内・城外の戦船に乗っていた水軍の兵は、李俊らによってその大半が殺され、河の水はまっ赤に染まった。李俊らが水門を奪い取ると、ただちに、鮑旭ら猛虎の一群が凌振を護衛して轟天《ごうてん》・子母《しぼ》の号砲をぶっ放たせ、それぞれ散って行って火をつけ人を殺した。城中はたちまちにして鼎の沸《わ》くがごとく、兄を呼び弟をさがし、子をもとめ親をたずねるという大混乱で、泣き叫ぶ声は天をもふるわさんばかり。段二は変を聞くと、あわてて兵をひきつれて、援護に出て行ったが、武松・劉唐・楊雄・石秀・王定六の一群にぶっつかり、王定六に朴刀で腿《ふともも》を斬られてぶっ倒れ、いけどりにされてしまった。魯智深・李逵ら十数名の頭領は北門へ殺到して行って、城門を守っている将兵を斬り散らし、城門をあけ、吊り橋をおろした。
そのとき宋江の軍は、城内に轟天・子母の砲が鳴りひびいたのを聞きつけて、軍をひきもどし、おし返してくるうちに、銭〓《せんひん》・銭儀《せんぎ》の軍とぶっつかって乱戦となった。このとき、銭〓は卞祥に討ちとられ、銭儀は馬霊に打ち倒されたところを人馬に踏みつぶされて肉泥《にくでい》と化し、三万の精鋭を誇る騎兵もその大半を討たれてしまった。かくて孫安・卞祥・馬霊らは兵をひきいて先頭に立ち、長駆してそのまま北門から入城した。諸将は賊軍を斬り散らして城を奪い取ったのち、宋先鋒に、うちそろって入城されるようにと請うた。
時刻はすでに、五更(午前四時)ごろであった。宋江は命令をくだして、まず兵士たちに火災を鎮めさせ、住民を殺害することを禁じ、夜が明けると、告示を出して住民を安んぜしめた。諸将はみな首級を持ってきて、功を献じた。王定六は段二を縛りあげてひきたててきた。宋江は、兵士に陳安撫のところへ護送して行かせて、処置をしてもらうことにした。左謀は乱戦のなかで殺され、その他の偏将・牙将も、多くのものが討たれ、降伏した兵は一万人を越えた。宋江は牛や馬を殺して全軍の将兵をねぎらうよう命じ、李俊ら諸将の功を功績簿に記し、馬霊を陳安撫のところにつかわして勝利を報告させるとともに、また賊の消息をうかがわせた。馬霊は命令を受けて出かけて行ったが、二三時《とき》たつともどってきて復命した。
「陳安撫どのは、知らせを聞いて大いによろこばれ、さっそく上奏文をお書きになって、使者に朝廷へ持たせてやられました」
馬霊はついで、蕭譲が敵を撃退したことを話した。宋江は、
「もし賊に見破られたらどうするつもりだったのだろう。しょせんは秀才の考えというものだ」
とおどろいた。
宋江は現地の倉庫の米や粟を出して、兵火の難にあった住民を救済し、あれこれと軍務の後始末をした。それがすんで、宋江が呉用と荊南郡《けいなんぐん》攻撃の策を練っていると、陳安撫のところから枢密院よりの令書を移牒してきた。すなわち、
「西京の賊徒どもが、跳梁をきわめ、東京の属県を掠奪しているゆえ、宋江らに、まず西京を平定せしめ、しかるのち王慶の巣窟を討たしめるよう」
というのである。別に陳安撫の私信が添えてあって、枢密院の笑うべき点が述べてあった。
宋江と呉用は枢密院の令書を委細承知し、ただちに軍の編成を協議して、荊南を攻める一方、西京も討つことにした。そのとき副先鋒の盧俊義および河北の降将たちが、ともに、兵をひきいて西京へ行き、その城を攻略したいと申し出た。宋江は大いによろこび、将領二十四名と兵五万を割き、それを盧俊義にひきいさせることにした。その二十四名の将領は、
副先鋒盧俊義《ろしゆんぎ》
副軍師朱武《しゆぶ》
楊志《ようし》 徐寧《じよねい》 索超《さくちよう》 孫立《そんりつ》 単廷珪《ぜんていけい》 魏定国《ぎていこく》 陳達《ちんたつ》 楊春《ようしゆん》 燕青《えんせい》 解珍《かいちん》 解宝《かいほう》 鄒淵《すうえん》 鄒潤《すうじゆん》 薛永《せつえい》 李忠《りちゆう》 穆春《ぼくしゆん》 施恩《しおん》
河北の降将
喬道清《きようどうせい》 馬霊《ばれい》 孫安《そんあん》 卞祥《べんしよう》 山士奇《さんしき》 唐斌《とうひん》
盧俊義はその日のうちに、宋先鋒に別れを告げ、将兵をひきつれて西京へと征進して行った。宋江は、史進・穆弘・欧鵬・〓飛に命じ、兵二万をしたがえ山南の城を守らせることにした。宋江は史進らに対して、
「もし賊軍が攻めてきたときには、ただ城にたてこもって守り固めているように」
といった。かくて宋江は諸将ならびに兵八万をひきつれて荊南へとおし寄せて行ったが、それは、鎗刀は流水のごと急に、人馬は風を撮《つか》んで行く、というありさま。まさに、旌旗は紅《くれない》に一天の霞を展《の》べ、刀剣は白く千里の雪を鋪《し》く、というところ。さて、荊南はどのように攻撃されるか。それは次回で。
第百七回
宋江《そうこう》 大いに紀山《きざん》の軍に勝ち
朱武《しゆぶ》 打って六花の陣を破る
さて宋江は将兵をひきつれて荊南へとおし寄せて行ったが、毎日六十里進んでは宿営し、その大軍の通過するところ、住民にはいささかの危害をも加えなかった。軍はやがて紀山のあたりに着いて陣をかまえた。この紀山というのは荊南の北にあって荊南の要害をなし、山上には賊将の李懐《りかい》が、兵三万をしたがえて守っていた。李懐は李助《りじよ》の甥で、王慶は彼を宣撫使(征討軍元帥)に任じていた。彼は宋江らが山南軍を討ち破り、段二を捕らえたことを知るや、使者を急いで南豊《なんほう》へやって王慶と李助に知らせた。
「宋軍の勢いは強大で、すでに二つの大郡を陥《おと》されてしまいました。いまや荊南に攻めかかり、別に盧俊義の軍を西京へむかわせました」
李助はその知らせを聞いて大いにおどろき、ただちに王慶に知らせるべく参内した。内侍のものが奥へとりつぎ、出てきて王慶の言葉をつたえた。
「軍師どのにはしばらくお待ちくださいますよう。大王さまはすぐお出ましなさるとのことでございます」
李助は二刻《ふたとき》ほど待ったが、奥にはなんの気配もなかった。李助が、ひとりの親しい近侍のものに、こっそりたずねてみると、
「大王さまは段娘娘《だんじようじよう》(娘娘は皇后の意)さまと、喧嘩のまっ最中なのです」
という。
「なんで大王さまと娘娘さまは喧嘩などなさったのです」
と李助がきくと、近侍のものは李助の耳に口を寄せて、
「大王さまは段娘娘さまのご器量がああなので、もうずっと娘娘さまのお部屋へいらっしゃらないのです。それで娘娘さまはむしゃくしゃしておいでなので」
李助がなおもひとしきり待っていると、内侍のものが出てきていった。
「大王さまには、軍師はまだいるかとの仰せでございます」
「待ちわびております」
と李助はいった。内侍のものはとりつぎに行った。しばらくすると、多くの内侍や宮女たちにとりかこまれて王慶が前殿にあらわれ、座についた。李助は平伏し、拝舞の礼をささげてから奏上した。
「わたくしの甥の李懐から知らせてまいったのでございますが、宋江らは将は勇ましく兵は強く、宛州・山南の二城を討ち破りまして、いまや宋江は軍を分けて一手は西京をうかがい、一手は荊南を攻めようとしているとのことでございます。願わくは兵を出して救援せしめられますよう」
王慶はそれを聞くとかっとなって、
「宋江のやつらめ、水たまりの盗《ぬす》っ人《と》のぶんざいで、よくもそんなにのさばりおったな」
と、ただちに令旨をくだして都督《ととく》の杜《とがく》に、将領十二名と兵二万をひきいて西京へ救援にむかわせ、また統軍大将の謝〓《しやちよ》には、将領十二名と兵二万をひきいて荊南の救援にむかわせることにした。二将は兵符と令旨を受け、兵馬をえりすぐり武器をそろえた。偽《にせ》の枢密院では将領を割りあて、偽の転運使《てんうんし》の〓正《きようせい》は糧秣を二将にひきわたした。二将は王慶に別れをつげ、それぞれ将兵をひきつれ、分かれて両地の救援にむかったが、このことはそれまでとする。
さて一方宋江の軍は、紀山の北方十里のところに陣をかまえ兵を屯《たむろ》して、攻撃の準備をした。賊の内情をさぐった兵士がもどってきて報告すると、宋江は呉用と協議したうえ、諸将に告げていった。
「聞けば、李懐の配下には勇猛な将兵がそろっているという。紀山は荊南の重鎮で、わが方の将兵の数は賊に二倍するとはいえ、賊は峻険に拠り、わが方は山かげにいることとて、敵に苦しめられるにちがいない。李懐という男は狡猾で悪知恵がはたらくから、みなさんは、たたかいの際にはよく情勢を見ることが肝心、決してあまく見ることのないように」
そういってから、軍令をくだした。
「兵を陣中にいれ、陣門をとざし、道を掃き清めておくこと。あえて出て行くものがあれば殺し、あえて大言するものがあれば殺す。軍には二令がない。令を二にする(令にたがう)ものは殺し、令をおこなわぬものも殺す」
軍令がつたえられると、軍中は粛然となった。
宋江は戴宋を水軍の頭領の李俊らのところへやって、兵糧船は厳重に警戒しつつ相ついで軍前に糧秣を輸送するよう命令をつたえさせた。また使者をたてて挑戦状を李懐にとどけ、明日、決戦をおこなおうと約した。ついで宋先鋒は命令をくだし、秦明《しんめい》・董平《とうへい》・呼延灼《こえんしやく》・徐寧《じよねい》・張清《ちようせい》・瓊英《けいえい》・金鼎《きんてい》・黄鉞《こうえつ》に、兵二万をひきつれてたたかいに出て行くよう、また、焦挺《しようてい》・郁保四《いくほうし》・段景住《だんけいじゆう》・石勇《せきゆう》には、歩兵二千をしたがえて木立を伐りはらい、味方の道を広くあけて地の利をよくしておくようにいいつけた。かくて手分けがきまると、宋江はその他の諸将とともにそれぞれの陣の守りについた。
翌日、五更(夜明けまえ四時)に飯ごしらえをして、兵士たちは腹いっぱい食べ、馬にも飼葉をやり、夜明け、たたかいにいでたった。
李懐は、偏将の馬〓《ばきよう》・馬勁《ばけい》・袁朗《えんろう》・滕〓《とうき》・滕戡《とうかん》とともに、兵二万をひきつれておそいかかってきた。この五人のものは賊軍きっての剛勇の将で、王慶は彼らを虎威将軍の位につけていた。
かくて賊軍と秦明らは対峙した。賊軍は北麓の、南むきの平坦な地に陣どった。山の上にも多数の援軍の兵がひかえていた。そのとき両軍の陣中にはしるし旗がうち振られて、それぞれ陣形をととのえ、互いに強弓硬弩《こうど》を射って出足を制しあい、〓鼓《だこ》の音は天にかしましく、彩旗の色は目をくらまさんばかり。と、賊陣の門旗が左右に分かれ、賊将の袁朗《えんろう》が馬を驟《は》せて陣頭に立ちあらわれた。頭には熟銅《じゆくどう》の〓《かぶと》をかぶり、身には団花《だんか》の〓《ぬいとり》の羅袍《らほう》をまとい、烏油《うゆう》(黒皮縅《おどし》)の対《つい》の象眼の鎧甲《よろい》を着、捲毛の烏騅《うすい》(黒馬)にまたがり、赤ら顔に黄鬚《あかひげ》、九尺にあまる身の丈、手には二本の水磨《すいま》の煉鋼《れんこう》(磨きあげた、鋼《はがね》ぎたえ)の〓《なげぼこ》を持っていて、その左手のは重さ十五斤、右手のは十六斤。大音声に呼ばわっていうよう、
「水たまりの盗《ぬす》っ人《と》ども。われと思わんものは出てきて命をさし出せ」
宋軍の陣では、河北の降将の金鼎《きんてい》と黄鉞《こうえつ》が、一番手柄をたてんものと、馬をならべていっせいに飛び出して行き、
「国にあだなす逆賊め、なにをほざくか!」
と大声で罵り、金鼎は〓風大刀《はつぷうたいとう》(大だんびら)を舞わしつつ、黄鉞は渾鉄《こんてつ》の点鋼鎗《てんこうそう》をかまえつつ、馬を驟《は》せてまっしぐらに袁朗におそいかかって行けば、袁朗も二本の鋼《はがね》の〓《なげぼこ》をふるって迎え討ち、三騎は丁の字にひらいてわたりあう。三将たたかうこと三十合、袁朗は〓で一防《ひとふせ》ぎするなり、馬首を転じて逃げだした。金鼎と黄鉞が馬を馳せて追いかけて行くと、袁朗はやにわに馬を返した。金鼎の馬が黄鉞のよりも先んじていた。金鼎は刀を振りまわして斬りこんで行く。袁朗が左手の〓をさしあげてこれを受けとめると、がちんと鳴って刀の刃がこぼれた。金鼎は刀をひきもどすいとまもなく、袁朗の右手の鋼〓《はがねぼこ》で〓もろとも頭蓋を打ち砕かれて、どっと馬から落ちた。そこへ黄鉞が駆けつけ、さっと袁朗の胸もとへ槍を繰り出したが、袁朗は眼ざとく手ばやく、ひらりと体をかわせば、黄鉞の槍は空を突いて右脇下を通りぬけた。袁朗は左腕で二本の〓をかかえこみ、右手でいきなり、槍の柄をつかんでぐいと引っぱると、黄鉞はそのまま内ぶところへのめりこんでいく。袁朗は右手でその腰を抱きかかえて馬からひきぬき、地面へ放り投げた。と賊兵たちがどっと喊声をあげ、急いで飛び出してきてとりおさえ、陣中へつれ去った。かの黄鉞の馬はまっすぐ自陣に駆けもどってきた。
宋軍の陣中では霹靂火の秦明が、二将をうしなったのを見て心中大いに怒り、馬をおどらせて進み出るなり、狼牙棍を舞わしてまっしぐらに袁朗に衝《つ》きかかって行った。袁朗は〓を舞わしてこれを迎え、両者わたりあうこと五十余合、そのとき宋軍の陣中の女将軍瓊英《けいえい》が、銀の〓《たてがみ》の馬を驟《は》せ、方天の画戟《がげき》をかまえ、頭には紫金点翠の(金に翡翠《ひすい》をちりばめた)鳳冠《ほうかん》をいただき、身には紅羅挑〓《こうらちようしゆう》(〓《ぬいとり》をした赤い薄絹)の戦袍をはおり、その上には白銀嵌金《はくぎんかんきん》の細甲《さいこう》をまとい、秦明に加勢せんものと陣地を飛び出した。賊将の滕〓《とうき》はそれが女なのを見ると、馬をせかして陣地をいで、大いに笑っていうよう、
「宋江らはほんとにこそ泥だわい。女をいくさに出すとはどうしたことだ」
滕〓は三尖両刃《さんせんりようじん》の刀を舞わせつつ、瓊英を相手どって出て、斬り結んだ。両者わたりあうこと十合あまり、瓊英は戟で滕〓の刀を払いのけざま、馬首を転じて自陣へと逃げだした。滕〓は大喝一声、馬を驟せてこれを追う。瓊英は鞍《あんきよう》にかけた〓嚢《ぬいとりぶくろ》のなかから、ひそかに石つぶてを取り出すや、柳腰をひねり、滕〓をねらってぱっと投げ飛ばせば、つぶてはその顔に命中し、皮は破れ、肉は綻び、鮮血ほとばしって、もんどりうって落馬した。瓊英はぱっと馬を返して馳せ寄り、さらに画戟をふるって滕〓のとどめを刺した。滕戡《とうかん》は、女将軍が兄を討ちとったのを見るや、心中大いに怒り、馬をせかして陣を飛び出し、虎眼竹節《こがんちくせつ》の(ふしくれだった)鋼鞭《こうべん》を舞わせつつ瓊英におそいかかった。と、こちらから双鞭将の呼延灼が、馬を飛ばし鞭を舞わして、立ちはだかってわたりあった。諸将が彼らふたりの手のほどを見るに、いずれともつかぬ五分と五分(注一)、そのいでたちもほとんどおなじで、呼延灼は角《つの》の立った鉄の〓頭《はくとう》(注二)に、銷金《しようきん》(金箔)の黄羅《こうら》の抹額《まつがく》(はちまき)、七星をちりばめた〓羅《そうら》(黒絹)の戦袍に、烏油《くろかわ》の対《つい》の象眼の鎧甲《よろい》をまとい、〓雪烏騅《てきせつうすい》(脚さきの白い黒馬)にうちまたがっているのに対して、片や滕戡《とうかん》は、角を交叉させた鉄の〓頭(注三)に、大紅羅《だいこうら》の抹額、百花に翠《みどり》をあしらった〓羅の戦袍に、烏油の〓金《そうきん》(金の象眼)の甲《よろい》をまとい、黄〓馬《こうそうば》(黄色いたてがみの馬)にうちまたがっている。ただ呼延灼は、水磨の八稜(八角)の鋼鞭《こうべん》だけが多かった。ふたりは陣頭で、左にまわり右にめぐり、押しつもどしつ、わたりあうこと五十余合、勝敗はなおも決しなかった。かなたの秦明と袁朗のふたりは、すでにわたりあうこと一百五十余合。賊軍の陣中の総帥李懐は、高みから、女将軍の石つぶてがすさまじくも滕〓《とうき》を討ちとってしまったのを見るや、ただちに金鼓を鳴らしてひきあげさせた。秦明と呼延灼は賊将の驍勇ぶりを見て、あえて追おうとはしなかった。かくて秦明と袁朗は双方それぞれ自陣にひきあげ、賊軍は山へひきあげて行った。
秦明らは兵を収めて本陣に帰り、
「賊将はなかなか驍勇で、金鼎と黄鉞は討ちとられてしまいました。もしも張将軍夫人(瓊英)がいなかったならば、わが軍の鋭気はくじけてしまったにちがいありません」
と告げた。宋江はしきりに憂えて、呉用に諮《はか》った。
「こういうありさまでは、荊南を攻めることもおぼつかないでしょう」
すると呉用は二本の指をかさねつつ、一策を考え出していった。
「かくかくしかじかにすればよろしいでしょう」
宋江はうなずき、さっそく魯智深・武松・焦挺・李逵・樊瑞・鮑旭・項充・李袞・鄭天寿・宋万・杜遷・〓旺・丁得孫・石勇の十四人の頭領を呼んで、凌振とともに勇敢俊敏な歩兵五千をつれて今夜、月のないうちに、それぞれ身軽によろい、短兵《かたな》・団牌《まるだて》・標鎗《なげやり》・飛刀《なげがたな》を持ち、裏道づたいに山のうしろへまわって事をおこすようにと命じた。諸将は命を受けて出て行った。
翌朝、李懐は兵をよこして挑戦状をとどけてきた。宋江は呉用に相談した。すると呉用のいうには、
「賊は詭計をたくらんでいるにちがいありません。しかし、魯智深らはすでに敵の奥深くにはいりこんでいますから、すみやかに交戦の用意をととのえるべきです」
宋江は「即日交戦」と、挑戦状の末尾に回答した。兵士はそれを持って山へもどって行った。
かくて宋江は、秦明・董平・呼延灼・徐寧・張清・瓊英を先手とし、兵二万をひきつれ、弓と弩《いしゆみ》を前面におしたてて楯と戟を後方に列ね、戦車をさきに出し騎兵を両翼に配して攻撃にむかわせることにし、黄信・孫立・王英・扈三娘には兵一万を勢揃えして陣中に待機させ、李応・柴進・韓滔・彭〓にも、兵一万を勢揃えしておなじく陣中に待機させることにして、
「前軍で号砲の鳴るのを聞いたら、みなは東と西の両路から横っ飛びにそれぞれ軍前へ出るように」
と命じた。また関勝・朱仝・雷横・孫新・顧大嫂・張青・孫二娘には、歩兵二万をひきいて本陣のうしろに陣をとり、賊の援軍の到来にそなえさせた。こうして手はずがととのった。宋江は呉用・公孫勝とともにみずからいくさの指揮をとり、その他の将領たちは陣地の守備にあたった。その日の辰牌(朝八時ごろ)、呉用は雲梯にのぼって偵察したが、峻険な山形を見て、急いで軍に命令をくだし、さらに二里ほど後退して陣を布かせた。両路の奇襲の隊を有利に動かさんがためである。
こちらで陣形がととのったとき、紀山の賊将李懐《りかい》は、袁朗《えんろう》・滕戡《とうかん》・馬〓《ばきよう》・馬勁《ばけい》ら四人の虎将と二万五千の兵をひきいてきた。滕戡は兵士に黄鉞の首級を竹竿にぶらさげさせ、屈強な騎兵五千の突撃隊をひきいている。兵はみな目深かな〓《かぶと》をかぶり鉄の鎧《よろい》をつけて、ただ両眼だけをのぞかせており、馬もみな厚い甲《よろい》をつけ面具をかぶって、あらわにしているのはただ地を踏む四つの蹄だけ。これは李懐が、きのう、女将軍が石を飛ばして一将を傷つけたのを見て、きょうはこのような装束をしたもので、矢だろうが石だろうが防ぎきるというもの。この五千の軍勢が、二隊の弓の兵と一隊の長鎗の兵にまもられながら突っこんでき、そのうしろの兵士らは二手に分かれて挟み討ちをかけてきた。宋軍はささえきれず、うしろむきになってどっと退く。宋江はあわてて号砲をうたせたが、そのときはすでに戦車を押していた兵士数百人が敵の矢にあたっていた。だが、幸いに戦車が道をふさいでいるために、賊の鉄騎も進むことはできなかった。同時に、戦車のこちら側には味方の騎兵がいるものの、進んで行って攻撃することもできない。まさに危急に迫られていたとき、とつぜん山のむこうで連珠砲《れんしゆほう》がとどろき、魯智深らのあの一群の将士が、山をよじ峰を越えてどっと山上へおし寄せて行った。山寨内の賊軍は、五千の老弱な兵とひとりの偏将のみで、魯智深らにことごとく討ちとられ、山寨は奪われてしまった。李懐らは山のむこうに変事がおこったと見るや、あわてて兵を退《ひ》いたが、そこへ黄信ら四将と李応ら四将が両路から奇襲をかけてき、宋江も銃砲手に鉄騎をねらい射たせたため、賊軍は総崩れとなった。そこへまた魯智深・李逵ら十四名の頭領が、歩兵をひきつれて山上から攻めおりてきて、さんざんに斬り散らし、賊軍は算を乱して逃げまどった。あわれ、あっぱれなる猛将袁朗《えんろう》も、火砲にあたって最期をとげ、後方にいた李懐《りかい》も魯智深に討ちとられ、馬勁《ばけい》と滕戡《とうかん》も乱戦のなかで殺されて、わずかに馬〓だけが逃げおおせたのみだった。奪いとった〓甲・金鼓・馬匹はその数かぞえきれず、三万の兵はその大半が斬り殺されて、山上山下に屍《しかばね》は満ちあふれた。宋江は兵を収め、兵士を点検してみるに、こちらも千余名をうしなっていた。日も暮れたため、紀山の北に陣をとった。
翌日、宋江は将兵をひきつれて山へのぼり、金銀糧食をとりおさめたのち、火をつけて寨《とりで》を焼いてしまった。そして大いに全軍の将兵を賞し、魯智深ら十四名(注四)、ならびに瓊英の功を功績簿に記《しる》したうえ、兵を指揮して前進し、紀山を通り越して大軍を荊南の手前十五里のところにとどめた。かくて軍師の呉用と協議のうえ、将兵を手分けして城を攻めることとなったが、このことはそれまでとする。
話はかわって、あともどりするが、かの西京をめざして進んだ盧俊義の軍は、山に逢えば路を開き、川に遇えば橋を架けて行ったが、途中、宝豊《ほうほう》の賊将武順《ぶじゆん》など、各地の賊将が花香灯燭をささげて迎え、城を献じて天朝に帰順した。盧俊義はこれをいたわりはげまして、そのまま武順らに城を守らせた。そのため賊将たちはみな感泣し、衷心より邪を棄てて正直に帰した。これより盧俊義らは南のほうに気をくばる心配はなく、軍は長駆してまっしぐらに進み、やがて幾日かして、西京城の南三十里の、伊闕山《いけつざん》というところに着いて陣をかまえた。さぐってみると、城内の主将は偽《にせ》の宣撫使の〓端《きようたん》で、統軍の奚勝《けいしよう》および数名の猛将とともに城を守っており、奚《けい》統軍というのは陣法を学んで深く奥儀をきわめているとのことであった。盧俊義はただちに朱武に諮《はか》った。
「どういう策で城を攻めたらよかろう」
すると朱武のいうには、
「奚勝《けいしよう》というやつはなかなか兵法にくわしいとか。きっとむこうからいくさをしかけてくるでしょうから、わが軍はあらかじめ陣形をととのえて賊軍のやってくるのを待ち、おもむろに挑戦することにいたしましょう」
「軍師のお説、いかにもごもっともです」
と盧俊義はいい、ただちに軍を配置して、山の南の平坦な地に循環八卦《じゆんかんはつか》の陣を布いた。
待つほどに、賊軍は三隊に分かれてやってきた。中央の一隊は黄旗(注五)、左辺の一隊は青旗、右辺の一隊は紅旗で、全軍いっせいにおし寄せてくる。奚勝は宋軍が陣形を布いているのを見るや、ただちに青旗・紅旗の二軍に左右に分かれて陣をかまえさせた。雲梯にのぼって偵察してみると、宋軍の陣形は循環八卦の陣なので、奚勝は、
「その陣形を知らぬとでも思っているのか。よし、こちらも陣形を布いておどかしてくれよう」
と、諸軍に命じ画鼓《がこ》を三度うち鳴らさせ、将台(指揮台)をたてて、その台上から二本の信号旗を右に左にうち振って陣形をかまえさせた。そして将台をおりて馬に乗り、首将のものに陣中に道をあけさせて陣頭へ出て行き、盧俊義に呼びかけたが、その奚統軍のいでたちいかにと見れば、
金〓《きんかい》は日のごと耀《かがや》いて霞光《かこう》を噴《ふ》き、銀鎧《ぎんがい》は霜のごと鋪《し》いて月影《げつえい》を呑む。絳《あか》き征袍は錦〓《きんしゆう》もて〓《あつ》め成し、黄の帯《ていたい》(皮帯)は珍珠もて釘《う》ち就《な》す。抹緑《まつりよく》(萌黄色)の靴は宝鐙《ほうとう》を斜めに踏み、描金《びようきん》(金蒔絵)の《ちよう》(鞍飾り)は糸鞭《しべん》(絹の鞭)を随《つ》き定む。陣前の馬は一条の竜に跨《またが》り、手内の剣は三尺の水を横たう。
奚勝は馬首をめぐらしてまっすぐ陣頭に出てきて、大音声に呼ばわった。
「きさま、循環八卦の陣など布いて、人の目があざむけるとでも思っているのか。きさまには、おれの陣はわかるまい」
盧俊義は、奚勝が陣法をもって挑《いど》もうとしているのを見て、朱武といっしょに雲梯にのぼって賊軍の陣形を見わたすと、三名を列ねて一小隊とし、三小隊をあわせて一中隊とし、五中隊をあわせて一大隊とし、外辺は方形、内側は円形で、大陣をもって小陣を包み、相互につながりあっている。朱武は盧俊義にいった。
「これは李薬師《りやくし》(李靖《りせい》)の六花(注六)の陣法です。薬師は武侯《ぶこう》(孔明)の八陣をもとにして、六花の陣につくり変えたのです。賊将はこちらがあの陣を知るまいとなめてかかっておりますが、しかしわが方のこの八卦の陣は八八六十四とおりの変化をします。これがすなわち武侯の八陣の形で、優にやつの六花の陣を討ち破ることができます」
盧俊義は陣頭へ出て行って、怒鳴った。
「たかが六花の陣、なんのこともないではないか」
すると奚勝はいった。
「きさま、攻められるものなら攻めてみろ」
盧俊義は大いに笑っていった。
「それっぽちの小陣、なんの造作があろう」
盧俊義が陣中へもどると、朱武は将台の上で信号旗を右に左に振って八陣の形に陣を変えた。朱武は盧俊義に、楊志・孫安・卞祥らに装甲の騎兵一千をひきいて敵陣をおそわせるようにと請い、
「きょうは金《きん》の日にあたりますから、わが陣の正南の離《り》(離は南で、五行の火《か》。火は金に尅《か》つ)の方位の軍をもっていっせいに攻めかからせましょう」
といった。
楊志らは命にしたがい、軍鼓を三度うち鳴らし、諸将一同おそいかかって行って賊将の西方(西は金《きん》)の門旗を突き破り、どっと斬りこんで行った。こちらにいた盧俊義も、馬霊以下の将兵をひきつれておそいかかって行くと、賊軍は総崩れとなった。
さて楊志らが賊の軍中に斬りこんで行くと、奚勝が数名の猛将をしたがえ、護衛されながら北のほうへと逃げて行くのに出くわした。孫安と卞祥は手柄をたてんものと、兵をひきいてあとを追い、つい深く敵地にはいりこんでしまった。と、とつぜん丘のむこうで銅鑼が一声鳴りひびき、一隊の軍勢が飛び出してきた。楊志・孫安らは急いで退こうとしたが、時すでにおそく、まさに、陣を衝く馬は青嶂《せいしよう》の下に亡び、波に戯るる船は緑蒲《りよくほ》の中に陥る、というところ。ところでこの一隊はいずこの軍か、また孫安らはいかにこれとたたかうであろうか。それは次回で。
注(青い文字をクリックすると本文に戻る)
一 五分と五分 原文は半斤八両。一斤は十六両。
二 角の立った鉄の〓頭 原文は冲天角鉄〓頭。うしろと両側に長い角《つの》が二本あるいは四本立っている鉄の冠。
三 角を交叉させた鉄の〓頭 原文は交角鉄〓頭。
四 十四名 原文は十五人とあるが、改めた。
五 黄旗 原文は紅旗とあるが、改めた。
六 六花 第八十九回注一参照。
水滸伝 第七巻 了
水滸伝《すいこでん》(七)
講談社電子文庫版PC
施耐庵《したいあん》/駒田信二《こまだしんじ》訳
(C) Setsu Komada 1985
二〇〇二年九月一三日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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