狼と香辛料\ 対立の町<下>
支倉凍砂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
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(例)一|匹《ぴき》ずつ
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(例)[#地付き]終わり
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底本データ
一頁17行 一行42文字 段組1段
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狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》\ 対立《たいりつ》の町《まち》<下>
土地を巡って北と南が対立する町ケルーベに、伝説の海獣イッカクが陸揚げされる。町の力関係をひっくり返しかねない価値を持ったイッカクの登場で、ケルーベは俄かに騒がしくなる。『狼の骨』の情報を集めるロレンスたちも、不穏な空気を感じていた。
そんな中、イッカクの横取りを狙う女商人エーブは、ローエン商業組合を抜けて自分のところへ来るようロレンスを誘う。狼狽するロレンスのもとには、さらにローエン商業組合からも協力要請の手紙が送られてきて……!?
ロレンスの出した答えとは? その時ホロは?『対立の町』編いよいよ完結!
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支倉《はせくら》凍砂《いすな》
1982年12月27日生まれ。第12回電撃小説大賞<銀賞>受賞。物理を学んだ身として、世界は完全確率に支配されているという信条の元、株がどれほど下がろうとも慌てないことをモットーとしている。そう。まだ、慌てるような……あわ、あわわわ……。
イラスト:文倉《あやくら》十《じゅう》
1981年生まれ、京都府出身のAB型。現在関東にて、フリーで細々と活動中。最近の幸せは寝ることです。
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Contents
幕間     11
第四幕    15
第五幕    55
第六幕    103
第七幕    141
第八幕    165
第九幕    207
終幕     295
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『対立の町』上巻の物語
『狼の骨』の情報を求め、ロレンスたちは港町ケルーベへやって来る。エーブからの紹介状を手に、噂の出所であるデバウ商会と懇意のジーン商会を訪れたロレンスだが、どうやら商会の主レイノルズは『狼の骨』を与太話だと思っているようだった。
三角洲で偶然エーブに会ったロレンスは、ケルーベの町の事情と、エーブが北側の地主たちから土地の問題を解決するよう無理を言われている話、レイノルズが商会の利益を北側の地主たちに横取りされている話を聞く。レイノルズが今でも『狼の骨』を探していると推測したロレンスは、ローエン商業組合の幹部キーマンから『狼の骨』の情報を引き出そうとする。だが逆に、組合とエーブどちらを取るのか言質を取られてしまうのだった。
そんな中、町に伝説の海獣イッカクが陸揚げされる。ロレンスを呼び出したエーブは、北の地主たちを裏切り、イッカクの横取りをロレンスに持ちかける。戸惑うロレンスのもとには、さらにキーマンから手紙が送られてきて……!?
物語の舞台 港町ケルーベ
三角州を挟み北側と南側に分かれる町。貿易拠点として栄える三角州は北側の持ち物だが、市場の建設費用を北側に貸したのは南側の商人たち。北側の地主は南側の商人に莫大な借金の利子を毎月支払い続けている。
物語の鍵 海獣イッカク
不老長寿や万病を癒す秘薬になるという伝説を持つ。ケルーベの町の力関係をひっくり返しかねない価値を持っている。
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幕間
人というものはとても脆《もろ》い。
牙《きば》を持たず、爪《つめ》を持たず、逃《に》げるための羽すらもない。
だから、人は身を守るために頭を使う。
技術、策略、あるいは。
ただ、人であろうが動物であろうが、身を守るために共通して取る方法がある。
それは、群れを作ることだ。
一|匹《ぴき》ずつなら弱い羊であっても、何千匹と群れることでちょっとやそっとの狼《オオカミ》の襲撃《しゅうげき》ではびくともしなくなる。
その集団が一匹の獣《けもの》として機能することで、子孫を残し、自分たちの身の安全を保つ。
それは人も同じことであり、彼らは寄り集まって集団で暮らし、その集団はやがて村と呼ばれ町と呼ばれ、都市と呼ばれついには森の暗闇《くらやみ》を克服《こくふく》する。
しかし、自分たちの身を守るために寄り集まった集団同士が、いつしか互《たが》いに争い合うことになったのもまた真理といえるのかもしれない。
自分たちの身を守るために群れるということは、自分たち以外は敵になることを示すからだ。
彼らは一匹の大きな獣であり、そして、ある無力な一匹がその爪と牙の恩恵《おんけい》に与《あずか》るのであれば、彼はその集団の中で、自分である前にまずその獣であらねばならなくなる。
獣が右を向けば右を向き、左に走れば左に走り、鳥を食えと獣が判断したのであれば鳥を追いかけなければならない。
たとえ、それが自分の愛する歌を奏《かな》でる鳥であったとしても、だ。
人というものはとても脆《もろ》いものだ。
神が雲の向こうに隠《かく》れて久しい世の中では、決して一人で生きていくことはできない。
だから森の暗闇《くらやみ》にいる獣《けもの》から身を守るために、彼らは土と石の壁《かべ》に囲まれた中で一|匹《ぴき》の獣となる。
一度その力を借りようと思えば、二度とその頸木《くびき》から逃《のが》れられないとわかっていても、なお。
裏切りなど決して許されない。
嵐《あらし》の吹《ふ》き荒《あ》れる世を生き抜《ぬ》くための唯一《ゆいいつ》の方法。
血と連帯の、絆《きずな》なのだ。
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第四幕
「逃《に》げよう」
ロレンスは、短く言った。
「ここから、一刻も早く」
入り口から、大股《おおまた》でまっすぐに部屋の中に入っていく。
テーブルの上にはコルが解いた貨幣《かへい》のパズルがそのままに残っていて、ロレンスは砂浜の砂をかき集めるように貨幣を財布《さいふ》の中に詰《つ》めた。
旅の暮らしとは不要な物を捨てていく生活ともいえる。
部屋の隅《すみ》に置いてある麻袋《あさぶくろ》に必要な物は全《すべ》て入っていて、いざという時にはこの口を紐《ひも》で縛《しば》って担《かつ》いで走るだけでいい。
寝《ね》ているところを襲《おそ》われるなど、珍《めずら》しい話ではない。
「ぬしよ」
声が聞こえて、顔を上げた。
驚《おどろ》いた様子の旅の連れ、ホロだ。
「これはなんなのかや?」
手にしているのは羊皮紙に文字の書かれた一通の手紙。
そこには装飾《そうしょく》の一切ない冷たい文章が綴《つづ》られていて、右下には血を練って固めたような真っ赤な蝋《ろう》の印が押してある。
宛先《あてさき》は他《ほか》ならぬロレンスであり、差出人のところにはローエン商業組合とある。
行商人として不安定な商売を行うようなロレンスにとってはなによりも心強い、同郷の者たちを中心とした商人の集団だ。
その印はどこの町に行っても力強い盾《たて》となり、また強力な武器となる。
その組合が、ケルーベの北|側《がわ》の町の宿に宿泊《しゅくはく》するロレンスに宛《あ》てて、こんな文章を寄越《よこ》してきたのだ。
「現在組合は勇気ある商人を求めています。魔女《まじょ》でも、錬金術《れんきんじゅつ》師が相手でも怯《ひる》まない商人を。組合の利益のため、ひいては組合の発展のために是非《ぜひ》ご一考を……ルド・キーマン」
ホロが流暢《りゅうちょう》に読み上げて、首をかしげてこちらに視線を向けてくる。
ホロの隣《となり》では、もう一人の旅の仲間である少年、コルがホロの手元の紙を覗《のぞ》き込んでいた。
ローエン商業組合在ケルーベ商館別館を預かる貿易商、ルド・キーマンの手紙の意味するところは明白で、エーブの語ったそのままの内容をロレンスにやらせようとしているに違《ちが》いない。
イッカクをエーブに引き渡《わた》し、代わりに町の北|側《がわ》の土地の権利書を受け取って、町の勢力図をひっくり返す。イッカクはそうすることが可能なほどの価値を持った生物だ。
しかし、キーマンもエーブも互《たが》いに相手のことを信用することができない。契約締結《けいやくていけつ》の握手《あくしゅ》を交《か》わすにはお互いがあまりにも役者すぎるのだ。そこでその二人の手を仲介《ちゅうかい》する役目を担《にな》った人間が必要になる。それも、できれば自分たちの意のままに動かせる人間が。
途方《とほう》もない権謀《けんぼう》と術数《じゅっすう》は石臼《いしうす》となんら変わらなく、そこに挟《はさ》まれれば一介《いっかい》の行商人など一|粒《つぶ》の小麦程度の値打ちしかない。
ぎり、ぎり、と骨の軋《きし》む音がする。
コルとホロの緊張感《きんちょうかん》のなさが、ロレンスの神経を逆撫《さかな》でた。
「わかるだろう? それは俺が属する群れからの召喚《しょうかん》状だ」
答え、麻袋《あさぶくろ》の口の紐《ひも》を堅《かた》く縛《しば》る。
「群れの?」
聞き返され、ロレンスは頭を振《ふ》って、立ち上がった。
「そこにある名前、ルド・キーマンはこの町にある組合の商館の別館を預かる人間の名だ。俺は直接キーマンに借りがなくとも、キーマンがこの町の三角州《さんかくす》で管理を任されているローエン商業組合という名前には大変な恩義がある。なにが言いたいかわかるだろう? キーマンは、義理という縄《なわ》を使って、俺をとんでもないところに引きずり出そうとしているんだよ!」
行商人のような無力な商人が、あちこちの町に行っても無事なのは組合に所属しているからだ。各々《おのおの》の町にある組合が、それぞれの町で自分たちの権利と特権を獲得《かくとく》しようとしのぎを削《けず》っているからこそ、どの町に行っても心置きなく商売を行うことができる。
だとすれば、彼らの爪《つめ》と牙《きば》が得た果実の汁《しる》をすすっている身としては、彼らから協力を要請《ようせい》されたら断れるわけがない。
それがどんなに無茶なものであっても、自分が散々|享受《きょうじゅ》してきた特権の数々は、仲間の誰《だれ》かが苦労して得てきたものであるはずなのだから。
だが、果たす義理にも限度がある。
キーマンは己《おのれ》の出世欲のために策を弄《ろう》し、そこにロレンスを引きずり出そうとしている。
それが組合のためだ、という詭弁《きべん》を向こうは当然のごとく用意していることだろう。体裁が整ってさえいれば正義がどちらにあるかは問うまでもなく、ロレンスが断ればたちまちのうちに組合の裏切り者ということになる。それに、なによりもロレンスが恐《おそ》れる理由は他《ほか》のところにあった。つい先ほどまで別の建物の中で会話をしていた相手のことだ。
キーマンがたくさんの商人を縒《よ》り合わせた巨人《きょじん》の頭であるのなら、その相手はその巨人と互角《ごかく》に渡《わた》り合う巨大な狼《オオカミ》だった。
その狼は、あろうことかそんな組合を裏切らないかと持ちかけてきた。
当然、向こうは目もくらむような利益を用意して待っているし、おそらくはロレンスにそんな裏切りの話を持ちかけることそれ自体が、すでに戦略の一つに組み込まれているはずだ。
そこは馬鹿《ばか》げた金額が飛び交《か》う赤熱《せきねつ》した鉄火場で、この大きな渦《うず》に巻き込まれれば一介《いっかい》の行商人など簡単に権力の嵐《あらし》に引きちぎられてしまうだろうことが予想できる。
権力の絡《から》む大きな歯車の中では、人の生き血ですら大した価値を持たないことが往々にしてあるのだから。
「町を出る。一刻も早く。取り返しのつかないことになる前に」
まだ間に合う。
その言葉を祈《いの》るように飲み込んで、「お前たちも早く」と言葉を紡《つむ》ごうとした瞬間《しゅんかん》だった。
「ぬしよ、少しは落ち着いたらどうじゃ?」
煮《に》えたぎった頭にするりと冷えた言葉が入ってくる。
熱した油に水を入れるようなものだ。
ロレンスは思わず怒鳴《どな》っていた。
「落ち着いている!」
ホロの隣《となり》でぶどう酒の詰《つ》まった小さな樽《たる》を抱《かか》えていたコルが、音がしそうなほどに体をすくませた。その横で、ホロは耳の白い産毛《うぶげ》をふわふわと揺《ゆ》らしているだけ。
誰が一番落ち着いていないかは、火を見るよりあきらかだ。
「っ…………」
ロレンスは自分の荷物から手を離《はな》し、天井を仰《あお》ぐと目を閉じて深呼吸をした。
破産寸前に追い込まれ、ホロが差し伸《の》べてくれた手を、怒《いか》りに任せて払《はら》ってしまった時のことを思い出す。
自分はなにも成長していないではないか。
胸中で、罵《ののし》った。
「ま、何事も若枝のごとく受け止める飄々《ひょうひょう》とした雄《おす》もそれはそれでよいが、そんな輩《やから》は信用ならぬ。たわけのほうがわかりやすい分ましじゃな」
ホロは尻尾《しっぽ》をぱたりと振《ふ》って、隣《となり》で首をすくめて事の推移《すいい》を見守っているコルの頭をくしゃりと撫《な》でた。
「大抵《たいてい》の生き物は目が二つあっても一つのものしか見えぬ。この広い世の中で、なぜわざわざ雄と雌《めす》が番《つがい》になるかわかるかや?」
ホロはコルから樽《たる》を受け取って、栓《せん》を口で咥《くわ》えて引き抜《ぬ》いた。
軽く顎《あご》を上げたのは、コルに栓を持っていろという合図。
コルは慣れた様子でホロの口から栓を受け取った。
その間、ホロの目はずっとロレンスに向けられている。
「ぬしの中ではぬしの常識に従って明確な結論が出ておるのじゃろうがな」
と、そのあとに省略された言葉がわからないロレンスではない。
ホロとコルの二人が揃《そろ》ってこちらを見つめてくる。
見た目はか弱い二人がそんなふうにしていたら、まるでロレンスが悪人だった。
「んふ。村では麦穂《ムギほ》の合間《あいま》からこんな光景をよく見んす」
ホロがなにを言っているのかもわかる。
コルは遅《おく》ればせながら気がついたようで、気まずそうに顔を背《そむ》けたところをホロに脇《わき》を突《つ》つかれた。
言え、ということだ。
「……僕のお父さんにも、こんなところがありました」
「だ、そうじゃ」
誰《だれ》が悪いのか、争う余地がない。
「……悪かった、だが――」
「謝《あやま》るのはあとでもよいし、言い訳は聞きたくありんせん。わっちが聞きたいのは説明じゃ。わっちらはぬしの子分ではありんせん。こうしろと言われたからそうするという関係ではないはずじゃ。違《ちが》うかや?」
怒《おこ》っているのではなく諭《さと》すように語られるのがこれほどにも応《こた》えるのは、自分がホロたちにしようとしていたことの裏返しだ。
二人は見た目どおりのか弱い無垢《むく》な存在ではない。
自分の頭で考えて、行動できる一人前の存在だ。
その二人を前に独断することは、二人に対する裏切り行為《こうい》ともいえる。
「ぬしよ、なにが起こっておるのかや?」
これは、若干《じゃっかん》の笑顔《えがお》を持って。
ホロはロレンスが視野|狭窄《きょうさく》に陥《おちい》っていたことを責めながらも、ロレンスなりに理由があってのこと、というのは認めてくれているのだ。
意地を張るのは商人ではない。
ロレンスは頭を振《ふ》る。
それはホロの言葉を否定したのではなく、いったん頭を整理するためだ。
つい先刻までのやり取りを、頭の中で反芻《はんすう》した。
「エーブからは、密偵《みってい》にならないかと誘《さそ》われた」
「ほう」
ホロは短く相槌《あいづち》を打って、酒樽《さかだる》に口をつけた。
こちらの反応を気にせずあとを続けろということだろう。
「そして、この手紙を寄越《よこ》したキーマンもまた、俺に密偵にならないかと言っている」
「板挟《いたばさ》みじゃな」
ロレンスはうなずき、続けた。
そもそもこんなことになった、その大元の発端《ほったん》について。
「この騒《さわ》ぎの発端は、町の北|側《がわ》の漁船が南側に捕《と》らえられたことだ。この町じゃ貧窮《ひんきゅう》する北側と富裕《ふゆう》な南側が対立していて、それだけでも紛争《ふんそう》の火種《ひだね》になる。しかも、南側がそんなことをしたのは、北側の船が海で捕《つか》まえた高価な獲物《えもの》が欲しかったからだ。エーブはその荷を北に持ち帰れと厳命されている。しかし、その命を下している人物は、北側の町の発展のためにそうしているのではなく、自分の利益のためにそう言っている。そしてエーブは、その厳命に従うふりをして北側を裏切るから、その手伝いをしてくれないかと言ってきた」
リュミオーネ金貨にして数百枚ではきかない話。
おそらくは、千の桁《けた》に届く取引においてもなお、そんな発想を平気で行うのだ。
「懲《こ》りん雌《めす》じゃな」
ホロは笑いながらも忌々《いまいま》しそうに言い、コルは反応すれば藪蛇《やぶへび》だとでも思っているのか、あらぬ方向を向いていた。
「だが、エーブは北側を裏切ると宣言しているのだから、他《ほか》にも誰《だれ》かを裏切ってもおかしくはないだろう?」
論理においては、ある命題の否定の否定は真であるし、敵の敵は味方になる。
裏切りも二回重ねればひっくり返りそうなものであるが、ひっくり返った時に自分の利益になるかどうかは、エーブのみぞ知る。
「疑いの泥沼《どろぬま》じゃな。なるほど。それで、ぬしの群れの中の力ある奴《やつ》までもが自らの利益のためにぬしを使おうとしているとなれば、まあ、か弱いぬしが顔面|蒼白《そうはく》になってしまうのも無理はないか」
樽の中のぶどう酒を飲んで、げっぷを一つ。
こんな話をしながら酒を飲んで、それもまた実にうまそうに飲むのだから、ロレンスはそれに対して憤《いきどお》るか、さもなければ苦笑いするしかない。
そして、戦場で生き残る騎士《きし》はいつでも笑《え》みを絶やさないという。
商人がいつも笑っているのはそういうことだったはずだ。
「八方丸く収まるような可能性はあるのかや?」
「エーブは北|側《がわ》のために動こうとしているのではないから、利益はどこから得てもいいはずだ。だから、ローエン商業組合から分け前を貰《もら》えばいいことになる。組合とエーブの利益の両立はありうる。要は、エーブが自分|独《ひと》りで利益を独占《どくせん》したがって、俺と、組合を裏切らなければいい、ということだ」
「ふうん」
「あるいは、俺が組合の利益のために動いて、エーブを出し抜《ぬ》き、組合が無事利益を手に入れた時」
「ふうむ……。片方は悪人の善意を期待して、片方は楽観的な展望、というわけかや?」
そうでなければロレンスがこうはならない、という論理からの結論。
ロレンスはうなずいて、テーブルの上に手をついた。
「しかし、これらも俺が現状手に入れられる情報から導かれることなんだ。こんなでかい構造の中ではわからない情報、知り得ない情報が多すぎる。もしも首を突《つ》っ込んだとしたら、俺は自分より高い位置にいる連中の駒《こま》にならざるを得ない」
誰《だれ》かの企《たくら》みは確かに注意深く裏を突けば自分の利益になりうる。
しかし、裏を突くには、どこが裏かを把握《はあく》していなければならない。
「となれば、君子危《くんしあや》うきに近寄らず、かや」
「ああ」
ロレンスは言って、ホロの手から組合印の押された手紙を受け取った。
一人で行商の旅をしていて、この印の押された紙に助けられたことは数知れない。
これは魔法《まほう》の紋章《もんしょう》であり、強力な武器であり盾《たて》であった。
その威力《いりょく》を疑ったことはない。
だからこそ、それを利用した策が自分の身に向けられた時、ロレンスは逃《に》げるしか方法が思いつかないのだ。
「ところで、あの牝狐《めギツネ》やぬしの群れのたわけどもは、同じ物を巡《めぐ》って争っておるのじゃろう? それはなにかや」
「え? あ、ああ。それはほら、お前が南側で見たというやつだ」
「よもや、件《くだん》の骨ではあるまいな?」
ロレンスたちが、旅の目的地であるホロの故郷ヨイツからは遠ざかることになる、この海沿いの港町ケルーベに来ているのは、ある目的があったからだ。
それはロエフと呼ばれる山々で崇《あが》められていた、神と呼ばれた狼《オオカミ》の足の骨を追いかけること。
ホロはその骨が教会によって許しがたい儀式《ぎしき》に使われる可能性を知って、コルは自分たちの土地の神の存在の真偽《しんぎ》を確かめたくて、その話を追いかけることになった。
ホロはいたずらっぽく聞いてくるが、あまり目が笑っていない。
そして、商品としては狼《オオカミ》の骨とそれほどの差はない。
だからこそ、巨大《きょだい》な権力を持つ連中が血眼《ちまなこ》になっているのだ。
「似たようなものだ。北の海の獣《けもの》。角の生えた魔法《まほう》の生き物。その生肉を食らえば長寿《ちょうじゅ》を得て、その角を煎《せん》じて飲めば万病が癒《い》えるという代物《しろもの》だ。名をイッカク。それが北の町の船の網《あみ》にかかったそうだ」
酒の肴《さかな》に聞いていた、といった感じのホロの耳が、ひくりと大きく動いた。
「どうした?」
「……なんでもありんせん」
あまりの嘘《うそ》の下手さに笑うことすらできなかった。
ホロもそれを自覚しているのか、すぐに顔を上げてこう言った。
「じゃがな、ぬしよ」
「あ、ああ」
「それを軸《じく》に話が巡《めぐ》っておることだけは明確なんじゃろう?」
「ああ」
「ならば、ぬしが取れる選択肢《せんたくし》はまだあるじゃないかや。のう?」
と、ホロはどこか楽しげにコルに話を向ける。
ホロが客観的にロレンスの話を見ているのならば、コルはそんなホロとロレンスのやり取りを外から眺《なが》めている。
第三の選択を見つけやすいのは、コルのような立場だ。
「え、あ、えっと……」
「ほれ、胸を張りんす」
ホロに背中を叩《たた》かれ、コルは思いきったようにこう言った。
「あ、あの、ホロさんがそのイッカクを奪《うば》えばいい、のでは、ないでしょう……か」
「……え?」
コルの言葉に、ロレンスは言葉を失い、聞き返す。
そんな発想は、ロレンスの頭のどこにもない。
「なにかを巡る争いは、そのなにかがあるからこそ起こる、のだと思います。ホロさんなら川も一《ひと》っ飛《と》びでしょうし、簡単に奪えるのではないでしょうか」
コルはどちらかといえば山奥深くの住人だ。
そのお世辞のような本気の言葉に、ホロは気分よく耳をひくひくとさせている。
確かにイッカクを盗《ぬす》み出すこと自体は簡単かもしれない。
厳重な警備といっても、ホロの真の姿である狼《オオカミ》の牙《きば》の前では紙の鎧《よろい》で武装した子供の兵と大差ない。キーマンやエーブといった化け物のような連中が策を弄《ろう》して奪《うば》い合いを繰《く》り広げる中でも、あっさりと、あっけなく横取りすることができるだろう。
しかし、その後のことを考えればまったく現実的ではない。
ロレンスは頭を掻《か》いて、こう言った。
「あのな、そんなことをしてもあとの処置に困るだけだ。奪うのは簡単でもまず間違《まちが》いなくお前の目撃者《もくげきしゃ》は出る。そこでそのイッカクを誰《だれ》かに売ろうなどと考えるのは馬鹿《ばか》げたことでしかない。そのくらい――」
「もちろんわかりんす。じゃがな」
ロレンスの言葉を止めたホロが、目を細めて楽しそうに小首をかしげた。
「その程度の話じゃというのはよくわかったじゃろう?」
「……は?」
「わからぬかや。ぬしが顔真っ青にして逃《に》げ支度《じたく》を整えようかという話はな、わっちが爪《つめ》と牙を晒《さら》せばあっさりと片がつくような話じゃ。その連れであるぬしがおたおたしておるなどと、わっちゃあ困りんす。ぬしを旅の連れに選んだわっちの沽券《こけん》に関《かか》わる」
「……」
ロレンスは言葉を失って、ホロを見つめ返していた。
確かに、そう言われればそうだ。
誰《だれ》が誰を騙《だま》してどんな利益を得ようかという、町商人たちの気が遠くなるような権謀術数《けんぼうじゅっすう》に満ち満ちた壮大《そうだい》な話も、ホロにすればその程度の話。
急に、自分が恐《おそ》れていたものが小さく見えてきた。
ついさっきまで青かった顔に血が上《のぼ》ってくるのを、ロレンスは止めることができなかった。
「くっくっく。コル坊《ぼう》。これがコップの中の嵐《あらし》に翻弄《ほんろう》される、ということじゃ」
コルはもちろんロレンスのことを気遣《きづか》って気まずそうな顔をしていたが、いっそのこと笑ってくれたほうがよかったかもしれない。
少女のような上目遣いでこちらを見てくるコルに苦笑いを返すと、素直《すなお》な少年はほっとしたように笑った。
頭の血は完全に下がり、狭《せま》かった視野は広がった。
常に手持の武器を確認《かくにん》しろ、とは師匠《ししょう》の言葉。
自分の側《そば》にいるのは、ヨイツの森の賢狼《けんろう》ホロなのだ。
尻尾《しっぽ》をぱたぱたさせながら酒を飲むその様に、危《あや》うく威厳《いげん》を感じるところだった。
「それに、もしもぬしがこの話をうまく渡《わた》り終えたら、骨の話を集めるのも簡単になるんじゃないのかや」
「……それは、エーブにも持ち出された。エーブは俺に、自分の利益のために働いてくれるのであれば、狼《オオカミ》の骨についての情報を渡してもいいと言った。つまり、狼の骨の話を知っているらしいジーン商会のテッド・レイノルズから、それを聞き出してやっても構わない、と」
ホロは片眉《かたまゆ》だけつり上げて、怒《おこ》っているような笑っているような、曖昧《あいまい》な表情を向けてくる。
「ふん。牝狐《めギツネ》のほうがよほど落ち着いておる。大体な、よいか? わっちらが追いかけておる骨の話も、ぬしが今巻き込まれておる話に負けず劣《おと》らず大きな規模ではないのかや?」
その指摘《してき》にロレンスは言葉を失《な》くす。
ホロは、もちろん容赦《ようしゃ》しない。
「わっちらが骨の話を追いかけると決めた時、ぬしはそのことをわっちに警告したじゃろうが。というのに、いざそれと同じ規模の話を前にしたらその尻込《しりご》み具合。こんなことでは……」
怒った顔から、徐々《じょじょ》に力を抜《ぬ》いて、つと視線をそらす。
「わっちゃあこの先、ぬしの言葉を疑ってしまいんす」
最後には悲しそうに言って、ちろりと上目遣い。
挑発《ちょうはつ》されているのはわかる。
しかし、それはホロなりのはっぱのかけ方だ。
「ぬしは口だけの雄《おす》ではありんせん、とわっちに言わせてくりゃれ?」
今度はからかうような顔で首をかしげている。
ロレンスが顔を渋《しぶ》くすると、にっこりとして満面の笑《え》みに変えてくる。
体面に固執《こしつ》することは商売のうえでもっとも邪魔《じゃま》なこと。
ただ、だからといって常に合理的な行動などできはしない。
ロレンスはうつむいて唸《うな》る。
唸って、顔を上げた。
「逃《に》げる、という選択肢《せんたくし》は取り下げよう」
「うむ。ま、肩《かた》の力を抜《ぬ》いてやればよい」
「いざとなればお前がいるから?」
骨の話を引き出せるとなれば、ホロは本当のところは手段など選ばずに牙《きば》と爪《つめ》で解決を図りたいはずだ。
だが、それはロレンスにとっては最良の解決から程《ほど》遠い。
そこのところを確認《かくにん》するつもりでそう聞き返したら、ホロは首を横に振《ふ》って、落ち着いた笑顔《えがお》でゆっくりと答えた。
「別に口に咥《くわ》えた海の獣《けもの》を誰《だれ》かに売り渡《わた》す必要などありんせん。コル坊《ぼう》が言ったようにの、仔《こ》同士が肉を取り合って大喧嘩《おおげんか》の時はその肉を食ってしまうのが最良の解決策じゃ」
「……俺がそんな判断を下せなくても仕方がないと思う」
「ぬしがいかにわっちのことを考慮《こうりょ》しておらんかということじゃな」
ホロとロレンスの応酬《おうしゅう》に、間に挟《はさ》まれたコルは視線を行ったり来たりさせていた。
「当たり前だ」
そして、ロレンスがぴしゃりと言うと、コルは少し不安げな顔をした。
確かに傍《はた》から見るとそんなふうに見えるかもしれない。
しかし、程《ほど》なくしてコルも気がついたらしい。
ホロが表情とは裏腹に、尻尾《しっぽ》をふさふさと揺《ゆ》らしているのだから。
「ふん。ぬしは口ではあれこれ言って、結局いったい何度わっちに頭を下げたんじゃ? 三度も四度も大して変わらんじゃろうが」
ホロの力にはなるべく頼《たよ》りたくない。
口ではそう言うものの、危機を何度も救ってもらっている。
ただ、世の中結果が全《すべ》てのように見えてはいても、実際はそうではないはずだ、と最近は思っている。
だからこそ、散々その力に頼っていてもなお、ロレンスはホロの人の嘘《うそ》を見抜く耳を前にして、こう言うことができた。
「俺は、お前がヨイツの賢狼《けんろう》だからという理由で旅の連れに選んだんじゃないからな」
ホロはくすぐったそうに首をすくめて笑う。
生真面目《きまじめ》に聞いていないふりをしているコルを前に、これ以上のことは言うのは不可能だ。
もっとも、ホロと二人きりでも言えたかどうかは怪《あや》しいが。
「ならば、賢狼《けんろう》も唸《うな》る頭の回転を見せてもらうかや」
「もちろん」
ロレンスは短く答えた。
「もちろん」
一人なら逃《に》げていた。
あるいはいいように使われていた。
ただ、口元が笑ってしまったのには訳がある。
本気で?
本気でこの構造の前から逃げ出さなくともいいのだろうか?
そんな言葉を、どうしても胸中で呟《つぶや》いてしまったからだった。
ロレンスたちが宿泊《しゅくはく》するのは元々エーブから紹介《しょうかい》された宿であるし、キーマンにも居場所がばれている以上、町から逃げ出さないと決めたら腹をくくって向こうからの接触《せっしょく》を待つほかない。
こちらが勝手に情報を集めようとして、それを監視《かんし》でもされていたら、エーブに対してもキーマンに対しても良い印象を与《あた》えはしないだろう。
それに、相手が情報や力のうえで圧倒《あっとう》的に上であるのなら、ロレンスにできるのは相手の出方を見|極《きわ》めたうえで出し抜《ぬ》くという、後の先を取る戦法以外にない。
それは頭ではわかっているし、だとすれば椅子《いす》に座って貧乏《びんぼう》ゆすりをしているよりも、ホロのようにベッドの上でのんびり尻尾《しっぽ》を揺《ゆ》らしながらうつらうつらするのが最良の選択肢《せんたくし》なのだ、ということももちろんわかってはいる。
しかし、ロレンスは窓際《まどぎわ》に置いた椅子の上に座り、落ち着かなげに外を眺《なが》めていた。
この季節の灰色の空は、陽気な心ですら曇《くも》らせてしまう。
それが憂鬱《ゆううつ》な気分であればなおのこと。
エーブの企《たくら》みと、キーマンの企みと、あるいは、彼らの欲望を前にして自分がいかに小さいものであるかを思い知らされれば、出てくるのはため息ばかりだ。
ホロにはっぱをかけられた手前、逃げずに町にとどまることを決断したものの、不安は一向に拭《ぬぐ》えなかった。
相手は一対一の商談ではなく、多対多の商戦に秀《ひい》でた商人だ。
知らない商売には手を出すな、というのは師匠《ししょう》に教えられた鉄則で、これはそれにまったく反するような行為《こうい》だった。
ロレンスはもう一度ため息をつき、ふと部屋の中に視線を戻《もど》す。
ベッドの上で睡魔《すいま》と共に崖《がけ》っぷちで遊んでいたホロが、ついにまっさかさまに奈落《ならく》の底に落ちていた。
コルはそんなベッドの隣《となり》の床《ゆか》に座り、腰帯《こしおび》を外して何事かをやっている。
つい先ほど、宿の主人から針を借りていたので腰帯のほつれを繕《つくろ》っているのだろうと思ったら、どうもその逆のようだった。
コルは腰帯の端《はし》の糸のほつれを指でほぐし、一本一本の糸にばらしている。
それから、腰帯から解いた頼《たよ》りない糸を二本か三本|丁寧《ていねい》に縒《よ》り合わせ、針の頭に通している。
最後にいそいそと取り出したのがぼろぼろの外套《がいとう》であれば、コルがなにをしているのかはわかりすぎるほどにわかった。
ロレンスは立ち上がって、コルに歩み寄る。
「そんなことをしていたら、腰帯がなくなってしまうだろ」
間に合わせの道具で外套のほつれを縫《ぬ》い始めたコルは、もう何度もそうしてきたように手馴《てな》れた手つきですいすいと針を外套に通していく。
ロレンスの言葉に顔を上げて、恥《は》ずかしそうに笑っていても手が止まらないくらいだ。
糸が短いこともあって、補修はあっという間に終わった。
ただ、商品の良し悪しを選別して利益を上げる商人からすれば、そんな補修はきっと神様に祈《いの》るのと同じくらいの効果しか持たないだろうと思えた。
「糸くらいなら買ってやるが」
「え? いえ……大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。ほら」
糸を歯で切って、少し誇《ほこ》らしげに外套を広げてこちらに見せる。
ホロが見たら尻尾《しっぽ》をわさわさいわせながらコルの頭を小突《こづ》いたかもしれない。
ロレンスはホロではないので、苦笑いのあとに、コルのぼさぼさの頭を一撫《ひとな》でして、こう言った。
「さっき、銅貨の謎《なぞ》を教えてもらってその講義料をまだ渡《わた》してない。教会法学の講義を受けるのにも、講義料は必要だろう?」
コルはすぐなにか言い返そうとしていたが、相手の好意と自分の謙虚《けんきょ》さが天秤《てんびん》に載《の》ったのであれば、取るべきは相手の好意と判断したようだ。
困ったように笑って、「本当に、いいんですか?」と言った。
「じゃあ、仕立て屋にでも行って糸を見|繕《つくろ》ってくるか。これからも補修できたほうがいいだろう?」
もしかしたら糸を買う金で今のよりも多少はましな外套が買えるかもしれなかったが、その提案はしなかった。
コルは意を決して村を出てきた少年だ。
その旅立ちの門出《かどで》に渡《わた》されるものが、わずかな路銀《ろぎん》だけだろうか?
村から出てくる時の思い出の品が、補修用の糸よりも低い値段だという現実を突きつけられるのは、良い気分ではないだろう。
「お願いします!」
嬉《うれ》しそうにコルは言って、いそいそとぼろの外套《がいとう》を身にまとったのだった。
ホロもついてくるかと思ったが、寝入《ねい》りばなは鼻をつまんだって起きないのでコルと二人連れで外に出た。
それに、部屋に誰《だれ》かいたほうがキーマンかエーブが連絡《れんらく》を取りに来た時に助かるだろう。
「で、どの糸にするか」
宿の主人に仕立て屋の場所を聞き、迷うこともなく到着《とうちゃく》した。
イッカクを巡《めぐ》る話でケルーベの町は大わらわ、というのは一部の人間にしか通じないことらしい。
権力は一部の人間だけが握《にぎ》るからこその権力なのであって、大多数の人間は大規模な土地の所有権を巡る話や町での名声の高低などは気にもしないし、そもそも気にしたところではるか頭上で輝《かがや》く月のようなものでしかなかったりする。
ロレンスもホロと出会う前までは、まさしくそんな月を眺《なが》める身分だった。ホロにあれこれはっぱをかけられ腹をくくったとはいえ、住みなれた場所はやはりこんな「日常」の中なのだ。
到着した仕立て屋は、鎧戸《よろいど》を開いて縄《なわ》でつって即席《そくせき》の台を作り、その上に服と一緒《いっしょ》に糸やつぎあて用のぼろ布などが並べられている。
暇《ひま》そうに店番をしているのは少年で、頬杖《ほおづえ》をつくその手は染料のせいで半分が真っ黒に染まっている。
ロレンスたちに気がつくと途端《とたん》に背筋を伸《の》ばして笑顔《えがお》になり、それを見るとロレンスのほうもつい笑顔になってしまう。
住みなれた世界の匂《にお》いがした。
「色によって値段はまちまちだが、どうするかな」
「えーと……こんな色ですから……」
と、コルが羽織っている外套に目を落とした瞬間《しゅんかん》だった。
「ちょうど、くすんだ黄色だと目立ちませんよ」
店番の少年の言葉に、コルがびっくりして目を見開く。
黄色く染められた品は高級品の証《あかし》であり、それがどれくらい高級かというと店番の少年が欲深そうな笑顔を浮かべているくらいだ。
年の頃《ころ》は店番の少年のほうがコルより一つか二つ年下だろうが、したたかさでは比べ物にならないだろう。職人の見習い小僧《こぞう》といえば親方に殴《なぐ》られるか蹴《け》られるかするのが仕事だ。肝《きも》の据《す》わり方が違《ちが》う。
「えっと、ですが、黄色は……」
染料の色によって値段が変わることくらいコルも知っているようで、慌《あわ》ててロレンスに視線を向けてくるが、それを皆《みな》まで言わせる店番ではない。
「ややや、これはどこかの大店《おおだな》のご主人様でしたか」
コルの言葉をふさいで店の台に身を乗り出してくる。
きっと、売った商品によって駄賃《だちん》の多寡《たか》が変わるのだろう。
「やあ、これはまいったな。今日はそれほどめかし込んできたわけじゃないんだがね」
ロレンスはその商売根性に免《めん》じて少年の口上にそんなふうに付き合ってやる。
手で襟《えり》を直して胸を張っていると、コルだけがきょとんとしていた。
「ええ、ええ、もちろんわかりますとも! どうです、こちらの品は。ほら、ご覧《らん》になってください」
そう言って糸の見本を差し出してくる。
掌《てのひら》に載《の》る程度の短いものだが、風で飛ばされてなくしでもしたら、この少年は向こう三日間に渡《わた》って飯と給金が抜《ぬ》きになるはずだ。
衣服を黄色く染める染色は、海を七つ渡ったところにある、地上の楽園へと続く川から流れてきたサフランと呼ばれるものによって行われる。
黄色は金《きん》を思わせる高貴な色だ。
染料のそもそもの高価さもさることながら、良い服の存在意義とは見栄《みえ》を張るためのものであり、金持ち連中がこぞって買うせいでますます高くなる。
なんにせよ、コルは話がどこに流れ始めているか察したようで、慌《あわ》ててロレンスの服の袖《そで》を掴《つか》んでくる。
「ロ、ロレンスさん」
「ん?」
ロレンスは笑顔《えがお》でコルのほうを向き、そこに客を逃《に》がすまいと少年の声が飛ぶ。
「旦那《だんな》様、旦那様。ほら、よくご覧になってくださいませ。この鮮《あざ》やかな色の具合をご覧くださいませ。側《そば》に金を置けば金のほうがくすんでしまうような鮮やかな黄色でしょう? うちの親方の最高|傑作《けっさく》とはこのことです。どうです、いかがでしょう!」
必死に売り込む少年の言葉にロレンスはいちいちうんうんとうなずいている。
少年の後ろ、店の奥では布地の裁断をしていた親方らしき男が手を止めてこちらを窺《うかが》っている。
どちらかというと、その顔は糸が売れるか売れないかよりも、小僧《こぞう》の挙動を眺《なが》めているようだった。
ロレンスが親方らしき男のほうを見ると、向こうも気がついて二人の視線がかち合った。
相手は声なく笑って掌を上に向ける。
ロレンスは、小さくうなずいて少年に視線を戻《もど》す。
「確かに綺麗《きれい》な黄色だ。まさしく黄金《おうごん》も負けてしまうような輝《かがや》きだ」
「でしょう! では、こちらを――」
「だが、こんなにも光り輝く糸で外套《がいとう》を縫《ぬ》ったらどうなるだろう? 黄金ですらくすんでしまう糸なのだから、さぞ縫い目が目立ってしまうだろうさ」
その瞬間《しゅんかん》、少年の顔が売り込み用の必死な笑顔《えがお》のまま固まった。
後ろでは、親方らしき男がやれやれとため息をついていた。
「だから、縫い目が目立たないように、最も安い灰色の糸をくれ」
黄色の糸を売った時の駄賃《だちん》が頭の中を乱舞《らんぶ》でもしていたのか、店番の少年は固まったまま返事もできず、後ろから歩み寄ってきた親方らしき男が代わりにこう言った。
「長さはどうします?」
職人の名に相応《ふさわ》しいごつごつの手が少年の頭をごんと叩《たた》いた。
ずる賢《がしこ》い商人相手にも立ち回れなければ、よき職人になって良い品を作っても高値で売ることはできない。
親方らしき男は、店番の少年にそれを教えたかったのだろう。
「リュート銀貨三枚だとどのくらいに?」
「そうだね……そのほつれ具合なら同じ縫い目を五周は回れるかね。それと、ついでにどうだい。この前|大青《タイセイ》を山ほど積んだ船が入港してね、青い糸が値下がりしているんだ」
「なら、今はそれを売らずにさらに買い増しして、値が上がってから売るといいですよ」
初めから無駄だとわかっていたように、男は笑って「じゃ、リュート銀貨三枚分な」と言って灰色の糸が巻かれた小さな筒《つつ》を取り出したのだった。
買い物を終えてそのまま宿に戻《もど》るのもなんなので、川沿いの市場を町の様子を眺《なが》めがてらぶらぶらと歩いていた。
コルはロレンスの後ろを二歩ほど遅《おく》れてついてくる。
糸を巻いた筒が入った小さな麻袋《あさぶくろ》を抱《かか》えるようにして持っていて、どことなく疲《つか》れている感じだった。
「どうした?」
ロレンスが聞くと、意地悪された仔犬《こいぬ》のような視線を向けてくる。
賢《かしこ》いコルのことだから、自分がからかわれたことに気がついているのだろう。
ただ、思いのほか効果が大きかったらしい。
「そんなに驚《おどろ》いたのか」
「……ええ、いえ……」
コルはきょろきょろと視線を動かしている。
ロレンスは、ホロみたいな底意地の悪い狼《オオカミ》と一緒《いっしょ》の旅にちょっと慣れすぎたかもしれない、と思った。
「ホロのいたずらのほうがもっとひどいだろう?」
と、ロレンスは言い訳がましく言うことになった。
コルのほうもそれでなにか思い出したのか、恥《は》ずかしそうに小さくうなずいて、「はい」と答えた。
「それに、もっと図々《ずうずう》しく振《ふ》る舞《ま》うことだと言ったはずだ。俺は神様ではなく商人だからな、請《こ》われないで慈悲《じひ》をかけることはない」
コルには軟膏《なんこう》の代金も支払《しはら》っていないし、銅貨の箱の謎《なぞ》解きは実際にそれなりの報酬《ほうしゅう》を支払うに値《あたい》する情報だった。
ただ、商品を受け取った時に相手方が代金のことを忘れているのなら、商人であれば十人中六人が黙《だま》り、残り四人は恩を売るためにそのことを指摘《してき》するだろう。
ロレンスは、自分がどちらの側《がわ》だろうかと考えて、こう付け加えることにした。
「もちろん、そう言われてすぐに図々しく振る舞うような奴《やつ》なら旅には加えてやらないところだがな」
コルは困惑《こんわく》するでもなく、苦笑いをする。
ホロがコルを気に入る理由もよくわかるというものだ。
「もっとも、俺は神様ではないが祈《いの》られるのはそんなに嫌《きら》いではない」
「え?」
「あれが欲しいこれが欲しいと祈られるのが心底|嫌《いや》ならば、俺は貪欲《どんよく》な牙《きば》の生えた誰《だれ》かさんと旅をしていないはずだからな」
その言葉に、コルは麻袋《あさぶくろ》を抱《だ》きしめながらくすぐったそうに笑った。
「ただ、お前は聖職者の卵だからな。お前が俺に祈らないのなら、俺はここで告解させてもらう」
「え……と、それは……」
「今さっきのやり取りでな、幾分《いくぶん》かは褒《ほ》められない理由もあったことを告白する」
ロレンスは視線をコルから外し、そう言った。
ぽかんとしていたのはほんの数瞬《すうしゅん》のこと。
すぐに思考が追いついたコルは、本職の聖職者顔負けの真摯《しんし》な顔つきになって聞き返してきた。
「どういう意味でしょうか?」
「そのままの意味だ。半分は八つ当たりだった」
「……八つ当たり?」
コルの悪い癖《くせ》は、考えることにすぐ気を取られてしまう点だ。
ロレンスを見上げながらそう聞き返した直後、つまずいてすっ転んだ。
「宿で、俺の散々な慌《あわ》てぶりを見ただろう?」
そんなコルの様子を笑わないのは、真面目《まじめ》に心の内をさらけ出しているからだ。
コルが立ち上がるのに手を貸してやりながら、ロレンスはそう言った。
転んだあとにどこを払《はら》うかでその人の身分が決まる。
人を払うのが王族で、咳払《せきばら》いをするのが貴族で、膝《ひざ》を払うのが平民だ。
コルはどこも払わなかった。
きっとよい聖職者になることだろう。
「はい」
しかし、そんなふうに即座《そくざ》に返事をされたらさすがに苦笑ものだ。
コルも慌てて取り繕《つくろ》おうとして、ロレンスはそれを笑って封《ふう》じておいた。
「いや、いいんだ。お前が俺の弟子《でし》ならば、威厳《いげん》を保つために頬《ほお》の一つでも張り飛ばすところだけどな」
コルは少しだけ困ったように笑い、それから自分の頬を軽く撫《な》でる。
「で、そんな醜態《しゅうたい》を晒《さら》してしまったからな。その仕返しを誰《だれ》かにしたかった」
「……職人の親方の人に目配せをしていたのは、そういうことなんですね?」
さすがによく見ている。
「そう。頭越《あたまご》しにやり取りをして、間に立つ者を翻弄《ほんろう》する。お前が高級品を買われてしまうのではなかろうかとやきもきするようにしたのも、それを見て優越《ゆうえつ》感に浸《ひた》るためだった。まったく……大人気《おとなげ》ないことだけどな」
首筋を掻《か》いて視線を川に向ける。
川沿いでは荷を上げ下ろししている船に商人連中が群がっていた。
風に乗って聞こえてくる言葉の断片と身振《みぶ》り手振りから、どうも荷を運ぶ船に乗せて自分たちを南|側《がわ》の町に渡《わた》してくれと交渉《こうしょう》しているらしい。
町の規則では町になにか問題が起こった際は渡河《とか》が規制されるという。
しかも、川を渡るという行為《こうい》は川の所有権、果ては領主権に繋《つな》がっていく重要なものだ。
袖《そで》の下《した》の小銭程度で渡《わた》し守《もり》たちが規則を破るとも思えなかったが、商人連中がそれをわかっていてもなお南側に渡る交渉をしているあたり、彼らにとってこの町に起こった問題はそれほどのものらしかった。
その点からいえば、どんな方法を使っているのかわからないが、宿に手紙を送ってきたキーマンの組織力には恐《おそ》ろしいものがあると改めて理解できた。
「その告白、確かに聞かせていただきました。きっと神はお許しになるはずです」
静かに聴《き》いてくれただけではなく、本職の真似《まね》をしてそんなお決まりの言葉もつけてくれた。
ロレンスは、感謝の意を含《ふく》めて「ありがとう」と言っておいた。
「ですが、ロレンスさん」
「ん?」
ロレンスがすっきりして町の様子を眺《なが》めていると、ふとコルが言葉を向けてきた。
「あんなことをしたもう半分の理由は、別のことなのでしょう?」
コルはまっすぐにロレンスのことを見つめてくる。
その目には他意などかけらもなく、だからこそ、それはまっすぐな一本の槍《やり》のようにロレンスに突《つ》き刺《さ》さった。
「ロレンスさんは、ホロさんの期待に応《こた》えようとしているんですよね?」
その目は期待に輝《かがや》いていて、まるで英雄譚《えいゆうたん》を聞く子供のようだ。
その期待に満ちたコルのまなざしが痛いくらいに眩《まぶ》しい。
ロレンスは、気恥《きは》ずかしさもあって思わず目をそらしてから、なんとかこう答えた。
「そういう面も……なくはないが……」
自分の交渉《こうしょう》力を確かめたのは、不安の裏返しともいえるのに。
「僕は、ロレンスさんのお力にほとんどなれませんけど、頑張《がんば》ってくださいね!」
「あ、ああ」
コルは細い体を精一杯《せいいっぱい》力ませて、心の底から応援《おうえん》してくれているようだった。
ロレンスからすれば、一回りも年上の男があれほどの醜態《しゅうたい》を見せたら少なからず評価を下げそうなものだと思う。
コルに糸を買ってやろうと思ったのも、その際に店番の少年を翻弄《ほんろう》したのも、自分の威厳《いげん》を少しくらいは回復させておこうという、簡単に言ってしまえば見栄《みえ》を張るためにやった面が少なからずある。
それが、コルはロレンスを侮《あなど》るどころか、こんなにも応援してくれている。
コルの性格がそうだから、といえばそれまでだが、不思議なことではあった。
そして、商人の好奇心《こうきしん》は猫《ネコ》に勝《まさ》るのだ。
「あんな醜態《しゅうたい》を晒《さら》した挙句《あげく》、八つ当たりするような情けない商人に愛想《あいそ》を尽《つ》かさないなんて、お前は不思議な奴《やつ》だな」
言うと、コルは案《あん》の定《じょう》きょとんとした。
おべっかを使っているわけではなく、やはり本心から言っていたのだろう。
「え……? だって……その、ロレンスさんはホロさんと旅をしているんですよね? ホロさんからは故郷を探す旅だと聞きました」
「そうだが」
「だったら、そんなことは……。ロレンスさんがあれほど慌《あわ》てるのは、今目の前にあるのがそれほどのこと、ということなのでしょう?」
コルの言葉の意味がうまく掴《つか》めない。
確かにロレンスが今目前にしているのは、行商人の手には余るようなことで、ホロの後押しがあるというのにロレンスは未《いま》だに腹がくくりきれない。
ただ、コルの言葉はなにか別のことを意味しているような気がする。
あんなホロと一緒《いっしょ》に旅を続けられるからロレンスは大物に違《ちが》いなく、そんな大物が慌《あわ》てるのだからそれほど大きな問題に違いない、という意味なのか?
それとも、別のなにかだろうか。
ロレンスはそう考えて、気がついた。
コルの言葉が、あとに続く。
「だって、この旅は、ずっとホロさんが語り継《つ》ぐ昔話になるんですよね? だとしたら、たちはだかる困難や問題はそれ相応のもののはずです。それに、僕はそんな旅に加えてもらえたことを本当に感謝しています!」
無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》を持って、コルはそう言った。
どこかの町や街道《かいどう》の宿屋で聞く、伝説や言い伝えの冒険譚《ぼうけんたん》。
その中のどれかに自分が参加できればいいのに、とロレンスが胸を焦《こ》がしたのはもう十年以上昔のことだ。
頭が良くて、商人が裸足《はだし》で逃《に》げるような合理的な考え方ができるコルであっても、それは同じなのかもしれない。
微笑《ほほえ》ましいといえばこれ以上微笑ましい少年はいないかもしれなかった。
「確かに、あいつはこの旅のことを未来|永劫《えいごう》語り継ぐ、なんて豪語《ごうご》していたな。ただ、それならなおのことお前には気前よく振《ふ》る舞《ま》わないと」
冗談《じょうだん》めかして言ってやると、コルはくりくりと目を動かして笑って答えた。
「僕も、お二人のお荷物として語られたくありません」
ホロを前にしたらあまりできない冗談の応酬《おうしゅう》だ。
ロレンスは軽く首を振り、一つ小さなため息をついて空を見上げた。
「ま、なんにせよ、そうなると大きな前提として確かなことが一つあるようだ。すなわち、あいつのご機嫌《きげん》を損《そこ》ねることだけは二人共に避《さ》けなければならない」
額面どおりに言葉を受け取るようなコルではない。
嬉《うれ》しそうなのは、ロレンスの言わんとしていることを察したからだろう。
「俺は時としてあんな醜態《しゅうたい》を晒《さら》すことがある。だからな、誰《だれ》かの協力を必要とすることもまた、ままあることだ」
「はい」
コルは返事をして、言葉を続ける。
「お力になれることでしたらいつでも」
ロレンスがこれから挑《いど》もうとしているのは多対多の商戦に慣れた連中だ。
味方は、一人でも多いほうがいい。
ホロはロレンスになんと言った?
人を使うことに慣れろという指摘《してき》は、そのまま他人を信用しろ、と言い換《か》えることもできる。
そして、それは多対多を戦い抜《ぬ》くために必要で、またとても重要なことになる。
ロレンスは軽くコルと握手《あくしゅ》を交《か》わすと、気持ちがとても落ち着いた。
それは、自分の交渉《こうしょう》術を再|確認《かくにん》するために仕立て職人の店番をしていた徒弟を翻弄《ほんろう》するような情けないことよりも、何百倍も有効だった。
もしかしたら、今頃《いまごろ》宿のベッドの上で、ホロはにやにや笑っているかもしれない。
「じゃあ、戻《もど》るか」
ロレンスは言って、足を宿に向ける。
「はい」
ついてくるコルは、斜《なな》め後ろを歩かなかった。
曇《くも》りがちのすぐれない天気も、それほど悪いものではないようだった。
[#改ページ]
第五幕
コルと二人で宿に戻《もど》れば、ホロは相変わらず眠《ねむ》ったままで、毛布に包《くる》まってこんもりと体を膨《ふく》らませながら小さないびきをかいていた。
ロレンスがコルと顔を見合わせて無言で笑っていると、その直後にホロのいびきが止まった。
その耳が陰口《かげぐち》には格別よく働くのか、はたまたその手の空気に敏感《びんかん》な髭《ひげ》でも生えているのかもしれない。
ゆっくりと目を開けたホロは、一度顔を毛布の中に潜《もぐ》り込ませてから、ぶるぶる震《ふる》えて大|欠伸《あくび》をした。
「で、結局具体的にはどうするんじゃ?」
コルがロレンスと連れ立って外に出ていたことに気がついたホロは、真っ先にコルを呼びつけてすんすんと鼻を鳴らしていた。
なにか食べ物を買ってもらっていたら、分け前にありつこうという魂胆《こんたん》かもしれない。
コルは若干《じゃっかん》恥《は》ずかしそうに、身をすくめてされるがままだった。
「行商人は組合から離《はな》れたら生きていくことはできない。少なくとも、対立するという手段は取らない」
「寄らば大樹の陰《かげ》、というわけかや。まあ、小物ならば大樹の陰におっても好き勝手に小回りが利《き》くからの。正しい選択《せんたく》じゃろうな」
苦笑いで聞くほかないホロの評も、エーブがロレンスに裏切りの話を持ちかけてきた論調と似通っていた。
ロレンスがこの町では重要な人物ではないからこそ、町の行く末を左右するような大きな事件の中で自由に動き回れるというその考え。
小物だから、というのが余計だが、現状は正しく認識《にんしき》しなければならない。
「短期的に最大の利益を狙《ねら》うなら、イッカクをエーブと共に奪取《だっしゅ》する選択肢《せんたくし》だけどな」
「そして、手に手を取っての逃避行《とうひこう》かや。それはそれで楽しいのかもしれんしな?」
ホロがいなかったとしたら、そんな危険と冒険《ぼうけん》に満ちた選択肢もありうるだろうか?
ロレンスは一瞬《いっしゅん》だけそんなことを考えたが、そもそもホロと一緒《いっしょ》でなければとっくにこんな危険な事態からは身を引いていた。
馬鹿《ばか》馬鹿しい、と肩《かた》をすくめてやると、ホロは意地悪げな笑顔《えがお》を浮かべつつも、尻尾《しっぽ》は安堵《あんど》するようにゆらゆらと揺《ゆ》れていた。
その可能性が怖《こわ》いのならそう口に出して言えばいいのに、とはロレンスも口に出しはしない。
劇の内幕が、観客たるコルにばれては興ざめなのだから。
「で、だ。宿の場所が組合とエーブにばれている以上、いつ妙《みょう》なことに巻き込まれるかわからない。その時にそれぞれちぐはぐな行動を取らないように、改めて状況《じょうきょう》の確認《かくにん》をしておきたい」
ロレンスが言うと、ホロはしばし無言でロレンスのことを眺《なが》め、それから小さく笑った。
「どうした?」
と聞き返しても、首を横に振《ふ》って答えてくれはしない。
ただ、なぜ笑ったのかはなんとなくわかる。
ホロの笑い方が、転んでも泣かなかった子供を見るようなものだったからだ。
「んむ」
ホロはうなずき、すぐ側《そば》に侍《はべ》らせているコルの頭を突《つ》ついた。
コルも対等の仲間。
「はい」
コルがそう返事をしてから、ロレンスは説明を始めたのだった。
酒場も兼《か》ねている宿の主人が、追加の酒の注文に欠伸《あくび》まじりで応じるようになった時刻。
キーマンか、あるいはエーブの手の者が部屋を訪《おとず》れると思っていたのだが、なんの音沙汰《おとさた》もなかった。ロレンスは気が気ではなく酒で唇《くちびる》を湿《しめ》らせる程度だったのに、取《と》り越《こ》し苦労だったらしい。
対するホロはいつもどおりで、コルを早々につぶしていた。
そして、倒《たお》れたコルがよく眠《ねむ》っているのを確認してから、自分のベッドの上に放《ほう》り投げていた。酔《よ》わせてつぶさないとこのたわけは床《ゆか》で寝《ね》ると言って聞かぬ、というのがホロの弁。
優《やさ》しいのか優しくないのかよくわからない。
乱暴であることだけは間違《まちが》いがないようだったが。
「さて、これで今日は打ち止めだ」
今日は続けて二回も醜態《しゅうたい》を晒《さら》してしまったので、お詫《わ》びというわけでもないが、ホロが望むままに酒を階下に取りに行ってきた。
ホロは当然それを期待していただろうが、ロレンスがあまりにも素直《すなお》に言われるがまま追加の酒を取りに行くので、拍子抜《ひょうしぬ》けしていたのがありありとわかった。それどころか、ついさっきなどは自分で酒の追加を頼《たの》んでおきながら、頼みすぎではなかろうかと不安げにしている感すらあったくらいだ。
だから、いつもならば打ち止めに不満そうな顔をするところに、今日はちょっとほっとしていた。徹頭徹尾《てっとうてつび》自分の欲望に忠実でないところが、この狼《オオカミ》のずるいところだ。
とはいえ、ホロはホロ。
「ま、ぬしの弱音も打ち止めじゃといいがな」
ベッドの隅《すみ》に腰掛《こしか》け、唸《うな》るコルの顔の下に尻尾《しっぽ》を敷《し》いてやっていたホロは、ロレンスの手から酒を受け取りながら意地悪そうに笑って言った。
下手に返事をするよりも、無視してやるほうが喜びそうなくらい子供っぽい。
しかし、あまりホロを喜ばせると尻尾の枕《まくら》で眠《ねむ》るコルが目を覚ましてしまうかもしれないので、ロレンスは注意深く返事をする。
「なに、強い者は必ず死ぬというのが傭兵《ようへい》の経験則らしいからな。弱音を吐《は》くくらいがちょうどいい」
「たわけ」
ホロはつまらなそうに言って、後ろのコルを振《ふ》り向くと、耳をつまんで少し顔を浮かせていた。その顔の下から尻尾を取り出そうとしたらしい。
もうちょっとどうにかしようがあるだろうにと思ったら、どうやら涎《よだれ》を垂《た》らされそうになったようだ。「油断ならぬ」と尻尾を撫《な》でてほっと一息ついている。
ロレンスはそんな様子を眺《なが》めながら、テーブルの上の冷めた炒《い》り豆《まめ》をつまんで口に放《ほう》り込む。
それから木窓を少し開ければ、酒場帰りと思われる千鳥足《ちどりあし》の男たちがぽつりぽつりと歩いていた。祭りの時期でもないのにこんな時間に酔《よ》っ払《ぱら》いがふらふらしているようでは、町の統治は中の下といったところだろうか。
北|側《がわ》を統治するのが地主たちだとするのなら、その求心力は失われかけていると見たほうがいいだろう。
一発逆転のイッカクの存在。
その重要性は、ますます増しているように思えた。
「わっちがおるのに外を見るのかや」
ホロはいつの間にか椅子《いす》に座り、炒《い》り豆《まめ》を手で一杯《いっぱい》に掴《つか》んで口に放《ほう》り込んでいた。
ばりばりと音を立てて噛《か》み砕《くだ》く様は、気持ちよいくらいに大胆《だいたん》だ。
ロレンスは肩《かた》をすくめ、木窓を閉じた。
「いつでも逃《に》げられるようにしておかないとな」
その答えは、ホロのお気に召《め》したらしい。
くつくつと笑ってこぼした豆を拾って食べていた。
「ま、それはそうとぬしよ。少しは酒を付き合ってくりゃれ? わっち一人で飲んでも面白《おもしろ》くありんせん」
ホロが縁《ふち》を指で突《つ》ついている使い込まれた土器のジョッキには、階下から入れてきたばかりのぶどう酒がなみなみと入っている。
自分の分を見れば、まだ一杯目の半分も減っていなかった。
「そうだな。この時間ならもう連絡《れんらく》も来ないだろうし」
「それはわからぬ」
ホロの対面に座ろうとしていたロレンスは、「え?」と聞き返す。
「狐《キツネ》共は夜目《よめ》が利《き》くからの」
くるりと頭の中で考えが一周する。
肩をすくめてから、答えてやった。
「それならなおのこと飲まないと」
「む?」
「べろべろに酔《よ》っ払《ぱら》って眠《ねむ》り込めば、たぶらかされる心配もない」
ホロは片方の牙《きば》を見せて笑う。
「たわけ。無防備に腹を見せて眠りこけておっては一巻の終わりじゃろうが」
「獲物《えもの》がそんな状況《じょうきょう》で、狐に先手を取られる狼《オオカミ》ではないと思うが」
ロレンスが答えると、ホロは二本目の牙も見せてこう言った。
「そこのところはちょっとわからぬ。なにせわっちの目の前では獲物がいつも腹を丸出しじゃ。がっつく必要などありんせん、と油断しておるからの。危ないかもしれぬ」
そこまで言われたら、少しは言い返さないとロレンスも気がすまない。
「お前だって尻尾《しっぽ》が丸出しじゃないか。俺をいいように出し抜《ぬ》いていると思っているのなら、その尻尾を掴まれないように注意しろ」
「掴む度胸などないくせに、と言って欲しいのかや?」
テーブルの上に頬杖《ほおづえ》をつき、耳をひくひくさせながら言われたらさすがに少しむっとする。
いいようにからかわれているとは思っても、酒を一口飲んだらついこう言っていた。
「イッカクの話で、俺に隠《かく》し事《ごと》をしているだろうが」
そう言った直後、驚《おどろ》いたのはロレンスのほうだった。
にやにやと笑いながら酒を手に取って口に運ぼうとしていたホロが、ぴくりと体をすくませたからだ。
それがホロの演技だとしたらロレンスには勝ち目がない。
ただ、ホロは明らかに動揺《どうよう》していた。
目が泳いで、自分が動揺していると気がついた時には誤魔化《ごまか》しようがないと悟《さと》ったらしい。
下唇《したくちびる》を噛《か》んで、恨《うら》めしそうに睨《にら》んできた。
「こっちのほうが驚いたんだが」
ロレンスは思わずそんな言い訳を口にしていた。
すると、ホロは眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せて深呼吸を一つ。
たっぷりと間をあけて、酒臭《さけくさ》いため息をついた。
「これだからこのたわけは……」
と、ぶつぶつと言って飲み損《そこ》ねた酒をごくりごくりと飲む。
どちらかというとロレンスが優位のはずなのに、なぜかホロの次の言葉を待ってしまう。
それも、自分がこれから怒《おこ》られ、小言が出てくるのを待つ子供のような心境で、だ。
「そんな顔で待っておってもわっちゃあなにも言わぬ。言いたくありんせん」
言って、ぷいとそっぽを向いてしまう。
怒っているふうなのにずいぶん仕草が子供っぽいのは、言ってしまえばわざとだろう。
ただ、そんな時、ホロは大抵《たいてい》一歩か二歩ロレンスの思考の先を歩いている。
それはその先で罠《わな》のための穴を掘《ほ》っている時もあるし、あるいは追撃《ついげき》をかわすために距離《きょり》を稼《かせ》いでいる時もある。
今回はそのどちらだろうかと考える時、ホロの耳と尻尾《しっぽ》は重要な判断の指標となる。
樵《きこり》や狩人《かりうど》が狼煙《のろし》の形で情報をやり取りするように、ロレンスはそのわずかな動きの違いを翻訳《ほんやく》した。
照《て》れ隠《かく》し。
それに近いものがあると読んだ直後、「ああ」とつい口をついていた。
「それ以上言ったら、わっちゃあ怒る」
ホロはそっぽを向いたまま、目を閉じてそう言った。
ロレンスが、笑うか笑うまいか迷った挙句《あげく》、ジョッキに口をつけることで誤魔化したのは、実際それくらい判断に困ることだったからだ。
ホロはイッカクの存在について知っている。
だとすれば、その噂《うわさ》や伝説にだって知識があるはずだ。
イッカクの生肉を食らえば永遠の命が得られ、その角を煎《せん》じて飲めば万病が癒《い》えるという。
あとはこれまでの旅での出来事を思い返すだけで十分だ。
ホロはその長寿《ちょうじゅ》ゆえになにを恐《おそ》れていると言った?
しかし、ホロだって生まれた直後からなにもかもを悟《さと》っていたわけではないはずだ。
聞き分けのない子供だった頃《ころ》もあったはずで、きっと安直な行動に走ったことも一度や二度ではないだろう。
今現在だって、叶《かな》うことなら、ホロはこう願うかもしれない。
圧倒《あっとう》的な寿命の差を、どうにかして埋《う》めてしまいたい、と。
「……気がついていて、なお知らぬふりをしてくれておると思ったわっちが、そもそもたわけじゃったな」
ロレンスの表情から、ようやくロレンスが自分の居場所に追いついた、ということを察したらしい。
ホロは呆《あき》れるように言って、再び酒に口をつける。
泣きそうでも、悲しそうでもないのはロレンスにも救いだった。
決まり悪そうで、大昔の過《あやま》ちを突《つ》きつけられているような嫌《いや》そうな顔は、容易《ようい》に笑いに転じることができるからだ。
「いや……正直に告白すれば、俺はお前のことを極度の世間知らずだと思っているからな。伝説のことまで知っているとは思わなかったんだ」
それに、イッカクにまつわる不老長寿や万病に効《き》くといった伝説は、あからさまに人間のためにあるようなものだ。
ホロやその手の類《たぐい》の連中には縁遠《えんどお》いものだとも思っていた。
「たわけ……」
ホロは少しぶどう酒を口の端《はし》からこぼして、乱暴に袖《そで》で拭《ぬぐ》うと疲《つか》れたようにテーブルに突っ伏《ぷ》した。
手はしっかりとジョッキを握《にぎ》っているので、酔《よ》いつぶれているようにも見える。
「イッカクを追いかけていた時期が?」
聞くと、ホロはうなずいた。
もう、何百年も前の話なのだろう。
「まあ、あの頃のわっちはな、確かに世間知らずじゃった。世の中の気に食わぬことには全《すべ》て解決法が用意されておると信じておった。頼《たよ》られ敬われるのが嫌ならば旅に出て、友がおらんのなら作ればよいし、そして、ぬるま湯の中のような楽しい時間が永遠に続くと心から信じておった」
ホロはテーブルに突っ伏したまま、皿からこぼれた炒《い》り豆《まめ》をいじくってどこか楽しそうに話す。
今でさえあちこちに直情さを残しているホロのこと。
これで長い時間の風化を受けてきたとすれば、風と雨で削《けず》られる前はよほど尖《とが》っていたに違《ちが》いない。
「ま、その分めそめそすることも多かったからの。ぬしの好みではあったかもしれぬ」
にまり、と笑って目だけをこちらに向けてくる。
そして、ぴんと炒《い》り豆《まめ》を弾《はじ》かれたら、こちらは嫌《いや》な顔をして酒に逃《に》げるほかなかった。
「くっく……じゃが、そうじゃな。思い出すとひりひりする思い出ほど、顔が笑ってしまいんす」
「それは、確かに否定できないな」
ロレンスも荷馬車の上でひょんなきっかけで過去の失敗を思い出しては、一人笑ってしまうこともある。
ただ、それをあまりしたくない理由は言うまでもない。
共に笑ってくれる相手がいないからだ。
そんなことが一瞬《いっしゅん》でも脳裏をよぎったのがいけなかったのかもしれない。
鋭敏《えいびん》な狼《オオカミ》は相変わらずテーブルに顔を横たえたまま、こちらを見て笑っていた。
「今のわっちにはぬしがおるからの」
恥《は》ずかしげもなく言われたら、ロレンスも炒り豆をホロのほうに爪弾《つまはじ》くほかなかった。
「コルもいるじゃないか」
「コル坊《ぼう》にはこんな話できぬ。コル坊は、わっちが賢狼《けんろう》であるための重石《おもし》じゃからな」
その言葉の意味がどういうものか。
考えてしまって、直後に爪弾こうとしていた炒り豆の前で指が止まった。
コルは北の山の人間で、ホロのことを現在進行形の伝説の主人公と見ている節がある。
だとすれば、ホロがコルを「重石」と表現する理由は一つしかない。
ロレンスの指が止まったところを、ホロの指が爪《つめ》を立てて襲《おそ》ってきた。
「コル坊はわっちを賢狼として慕《した》ってくれる。わっちの姿を見た時に真っ先に尻尾《しっぽ》に触《さわ》らせて欲しいなどといった大たわけじゃからな。そんなこと、何百年ぶりかじゃ。懐《なつ》かしくて、嬉《うれ》しくてな……あれは、わっちが賢狼であることを思い出すにはとてもよい存在じゃ」
ロレンスの指に爪を立てたホロの人差し指が、ロレンスのそれに絡《から》められた。
「確かに、お前はどんどん気が緩《ゆる》んでるからな」
「くふ。反論もできんせん」
ホロの言葉の意味するところを追いかければ、それはコルが自分を賢狼として慕ってくれるから自分が賢狼であることを思い出せる、というものだ。
なぜそんなことをするかといえば明々白々。
ヨイツの森に相応《ふさわ》しいのは賢狼ホロであり、行商人の側《そば》でぬくぬくと自堕落《じだらく》な生活をする小娘《こむすめ》ではないからだ。
「しかし」
と、しばらく互《たが》いに意地を張り合うように、無言で互いの指を一本だけ弄《もてあそ》んでいたところに、ロレンスは言葉を向けた。
「お前、なにかを決める時は相談しろと人に散々言ってくるくせに、そんな重要なことを隠《かく》すんだな」
互いに自分の胸の内だけであれこれ考えていたせいで、散々|大騒《おおさわ》ぎになってきた。
もちろん自分の耳にも痛い言葉なのだが、ホロは悪びれもせず答えた。
「儲《もう》け話《ばなし》を相手に相談したら、わっちの利益が減ってしまうじゃろう?」
いたずらっぽい笑《え》みと共に言われなかったら、その言葉を受けて苦笑いすることすら難しかったかもしれない。
ホロは体を起こし、軽く伸《の》びをして耳をひくひくさせる。
親しくなりすぎてはいけない、というのは互いに暗黙《あんもく》のうちに了解《りょうかい》している重要|事項《じこう》。
しかし、そんなことを意識している時点で事態は逆に進んでいるし、ロレンスはその重要事項を蹴《け》り飛ばしたことすらある。
ホロだって、長い長い永遠にすら近いかもしれない旅路の中で、行く手を阻《はば》むその大岩を蹴り飛ばそうとしたことは一度や二度ではなかったに違《ちが》いない。
それでも、だからといって現実が変わるわけではない。
ホロがコルのことを、自分が賢狼《けんろう》でいるための重石《おもし》だ、と言ったのは大袈裟《おおげさ》な表現ではないはずだ。
コルを使ってロレンスをからかおうとするのも、それ自体が楽しいのはもちろんのこと、自衛の意味もあるのだろう。
つい、一線を越《こ》えてしまわないように。
わかっているのにどうしようもないことを誤魔化《ごまか》すように。
そんなもどかしさに、せめてもの言い訳として。
「ま、わっちらは欲深き存在じゃ。自分の利益のためにいつも奔走《ほんそう》してしまう」
「その点については同意するしかないな。もしも……」
と、ロレンスは皮肉な感じで言ってやった。
「もしも、俺が欲深くなければ、お前にたくさんうまいものを買ってやれるのだが」
ロレンスの冗談《じょうだん》に、ホロはくすぐったそうに笑って椅子《いす》から立ち上がった。
顔がだいぶ赤いので暑いのかもしれない。
案《あん》の定《じょう》、木窓を少し開けると外の冷気に顔を晒《さら》して気持ちよさそうに目を細めている。
「んむ……じゃが、ぬしの利益はわっちの興を得ることではないのかや?」
目を閉じて、喉《のど》をくすぐられる猫《ネコ》のように冷たい風に頬《ほお》を撫《な》でさせているホロは、少しだけ片目を開けてこちらを見る。
自分の立《た》ち居振《いふ》る舞《ま》い全《すべ》てを水鏡に映して把握《はあく》しているような、芝居《しばい》がかった仕草だった。
「お前が食べ物で釣《つ》られる卑《いや》しい奴《やつ》なら、そうなるかもしれないな」
切り返しに、ホロは目を閉じてしまった。
つい数瞬《すうしゅん》前までとまったく同じ姿勢なのに、今度はそれがすねているように見えるからすごい。
ただ、その数瞬後のホロの様子は、まったく傲慢《ごうまん》な貴族のようだった。
「なら、ぬしは他《ほか》にどんな方法を?」
取引の関係にある小さな村から頼《たの》まれて、農作業の合間《あいま》に作った樽《たる》を大きなぶどう園を所有する修道院に売り込みに行った時のことを思い出す。
つんとすました鼻持ちならない相手から、あれこれ注文をつけられてはそれに応《こた》え、それでもなんとか必死に売り込もうとするこちらを見下すような態度さえ取る。
あの時の修道士は、自分が高貴な修道院の修道士であることを鼻にかけ、自分のほうがより神に近い高貴な人間であるということを心の底から信じていたので、見下すような態度になったのだろう。
では、目の前にいる神と呼ばれる存在でありながら、神と呼ばれるのを嫌《いや》がり、敬われることすら忌避《きひ》した賢狼《けんろう》がそんな態度を取るのはなぜだろうか。
修道士は売り込む側《がわ》が損をしようがなんだろうが、自分たちの利益を優先させようとしてそうしていた。
だとすれば、前提が逆なのだから結果は逆になる。
こう言って欲しいのだ。
「食べ物で駄目《だめ》なら、言葉か、あるいは態度か」
「その二つのうち、どちらもぬしの場合信用できぬが?」
牙《きば》を見せて意地悪く笑うその笑顔《えがお》も、見慣れると普段《ふだん》の笑顔より愛嬌《あいきょう》があるように見えてくる。言葉と態度が信用ならないと言われたら、残る選択肢《せんたくし》は一つ、行動しかない。
そして、それが真実であることを示すためにロレンスは椅子《いす》から立ち上がらなければならない。
あるいは、ホロから逃《に》げずに座り続けているほうだろうか。
どちらにせよ、それはそれで大変|魅力《みりょく》的だ。
しかし、魅力的だとわかっていてなお、ロレンスはぶどう酒を一口飲んでこう答えた。
「なに、騙《だま》されたと思ってその二つを信じてみればいい。意外に本物かもしれない」
「……」
さすがローム川流域の狼《オオカミ》と呼ばれるエーブの言葉は、素晴《すば》らしい効き目だった。
ホロは横目でこちらを睨《にら》み、尻尾《しっぽ》をばたばたさせて悔《くや》しがっている。
これにはさすがのホロも切り返せないはず。
珍《めずら》しく舌戦で優位に立てたことは、服の仕立て職人の小僧《こぞう》を翻弄《ほんろう》した時よりもよほど気分がいい。
敗北は逞《たくま》しい鷲《ワシ》をみすぼらしい鶏《ニワトリ》に変え、勝利は臆病《おくびょう》な鼠《ネズミ》を勇猛《ゆうもう》な狼《オオカミ》に変える。
しかし、生まれつきの狼はどこまでも狡猾《こうかつ》だった。
「わっちの言いたいことはそんなことではありんせん」
寂《さび》しそうな顔で、怒《おこ》ったように言うのだ。
舌戦が、論理と場の雰囲気《ふんいき》を用いた理性の戦いなら、ホロの武器はまったくの反則技だ。
つい今しがたまでやっていたことが商談に類するものであるならば、ホロが繰《く》り出したものはそれを飛び越《こ》える力を持つ。
まともな取引を飛び越えるものはなんだったか?
ホロが、なかなか動かないロレンスを見て、木窓を少し大きめに開いた。
ロレンスはその窓の前で厄介《やっかい》な台詞《せりふ》を言ってしまっている。
逃《に》げる準備をしておかないと。
ホロの視線が窓の外に、その耳がロレンスに向けられる。
やれやれ、という言葉すらない。
ホロに勝とうなどと、思うほうが無謀《むぼう》なのだ。
「たまには敗者に優《やさ》しくしたらどうなんだ」
椅子《いす》から立ち上がり、歩み寄る。
そして、ホロの側《そば》に立ってそう言ってから、窓|枠《わく》に腰掛《こしか》けた。
ホロは声なく笑い、膝《ひざ》の上にちょこんと乗った。
「勝者が敗者に声などかけられぬ」
「そう言いながら尻《しり》に敷《し》いてれば、怖《こわ》いものはなにもないな」
ホロが体を預けてくるので、ひくひく動く耳が頬《ほお》の辺りをくすぐってこそばゆい。
まったく、言い訳だらけの賢狼《けんろう》様だった。
「じゃが、まあ、これでぬしのことを多少は信用できるかもしれぬ」
「そうか? 殊勝《しゅしょう》な顔をして、平身低頭して、だが心の内では舌を出しているのが商人というものだ」
我ながら白々《しらじら》しい言葉だが、ホロはそうでなくとも容赦《ようしゃ》ない。
「確かに、獣《けもの》も人も、音《ね》を上げる時は舌を出すものじゃからな」
「ぐ……」
悔《くや》しくて、だが返す言葉もなくため息をついてぐったりと窓枠にもたれかかった。
ホロはくつくつと笑いながら、ゆっくりと言葉を紡《つむ》ぐ。
「ま、ぬしもわっちも、音を上げた時に一人でないことだけは確かじゃ」
今日一日を振《ふ》り返ると、実に重みのある言葉だ。
ロレンスは、ホロを少し抱《だ》き寄せて、答えた。
「肝《きも》に銘《めい》じておく」
「ん」
尻尾《しっぽ》が軽く振られ、ホロは小さくうなずいた。
静かな時間、というにはホロに酔《よ》いつぶされたコルのうめき声がやや大きい。
ただ、ホロが自分は賢狼《けんろう》なのである、ということを思い出すのと、ロレンスが視野|狭窄《きょうさく》に陥《おちい》るのを防ぐのにはとてもよく役立っていた。
それがいいのか悪いのかはわからない。
少なくとも、微妙《びみょう》な釣《つ》り合《あ》いを保つ重石《おもし》になっていることだけは確かだった。
ホロも同じことを思っていたのか、目を閉じたままうっすらと笑《え》みを浮かべている。
両|腕《うで》を回して、その小さな体を抱《だ》きしめようとした。
その瞬間《しゅんかん》。
「むう」
急に顔を上げて、不機嫌《ふきげん》そうにうめくのだ。
「ど……どうした?」
慌《あわ》てて平静を装《よそお》おうとしたが、若干《じゃっかん》どもってしまい冷《ひ》や汗《あせ》が出た。
ただ、それを見|逃《のが》すホロではなく、呆《あき》れるように笑って尻尾をふさふさ揺《ゆ》らしていた。
それから、ゆっくりと体を起こして耳を右に左にと忙《せわ》しなく動かす。
表情が曇《くも》った理由は、すぐにわかった。
「やれやれじゃ。予感、というものも案外|馬鹿《ばか》にできぬ」
「なに?」
その言葉が指し示すことがすぐにわからないロレンスではない。
ホロが木窓の外に視線を向けるのと、ロレンスが同じ方向を見るのは同時だった。
「ほれ、なんと言ったか、あの貧相な店の主」
「レイノルズか」
千鳥足《ちどりあし》の連中がちらほらと歩く中、外套《がいとう》をすっぽり被《かぶ》ったやや太めの男が通りを急いでこちらに向かってきていた。
見れば確かに辺りを窺《うかが》いながら、道の端《はし》を不自然に歩いてくる。
「ぬしの決意が真実かどうか、確かめるよい機会じゃ」
この宿にレイノルズがやってくる、という事態に首を捻《ひね》ることもなく、ロレンスはホロが立ち上がる前にその耳の側《そば》で返事をした。
「きちんと寝《ね》たふりをしておけよ」
ホロは、むずがる子供のようにしながら、心底楽しそうに意地悪な顔をしてこう答えた。
「舌を出しながらかや?」
一つの言葉に複数の意味を持たせるのはホロの得意|技《わざ》。
ロレンスは迂闊《うかつ》に返事をすれば泥沼《どろぬま》だと判断して、仕返しにその尻尾《しっぽ》を強めに撫《な》でて、追い払《はら》ってやったのだった。
秘密は共有する者が少なければ少ないほどいいとはいっても、夜の密会に主人自らが乗り込んでくるのはまた話が別だ。
キーマンとエーブが、揃《そろ》って人をやってロレンスに連絡《れんらく》をつけてきたのとは対照的だった。
「夜分に悪いね」
寒い中でも、重い腹を運んできたせいで息を切らして額には汗《あせ》が浮いている。
もっとも、幾分かは緊張《きんちょう》しているという面があるのかもしれない。
声を潜《ひそ》めているのは、ホロとコルが揃ってベッドの上で丸まっているから、というわけでもなさそうだ。
「外で?」
ロレンスが訊《たず》ねると、レイノルズは一瞬《いっしゅん》後ろを振《ふ》り返って、すぐに前に向きなおり首を横に振った。内緒《ないしょ》話は外でするほうが危険、という認識《にんしき》なのがいかにも町商人らしい。
誰《だれ》一人いないことが一目でわかる草原や街道《かいどう》を行く行商人にとっては、その向こうに誰がいるのかわからない壁《かべ》の中で内緒話をするほうがよほど怖《こわ》い。
「お酒は?」
ひとまず椅子《いす》を勧《すす》めてロレンスが訊《たず》ねると、レイノルズは一度首を横に振《ふ》ってから、「少しもらえるかな」と言いなおした。
「ロレンスさんが酔《よ》っ払《ぱら》っていないところを見ると、私がここに来たのは無駄足《むだあし》ではなかった……と思いたいのだが」
急の来客に丁重なもてなしができるほど、旅人の泊《と》まる部屋は豪勢《ごうせい》ではない。
コルが使ったままにしていたジョッキにぶどう酒を注《つ》いで差し出すや、レイノルズは差し迫《せま》った顔に卑屈《ひくつ》な笑《え》みを浮かべながらそう言った。
「イッカクの……話ですね?」
わざわざこんな時間に来たのであるから、ロレンスがその話を知っているとあたりをつけていたはずだ。
ロレンスは、エーブから親書を貰《もら》って狼《オオカミ》の骨の話についての手がかりを持つレイノルズの商会に行った。ケルーベの町でエーブから親書を貰えるような立場の人間が、町で起こった騒《さわ》ぎに気がついていないわけがない、ということだろう。
同時に、自分たちがなぜこの宿に泊《と》まっていると知っているのか、と問うこともおそらくはあまり意味がない。川を隔《へだ》てた向こうにいるキーマンにすらばれているのだ。
町商人にとって、自分の住む町は糸を張り巡《めぐ》らせた蜘蛛《クモ》の巣《す》に近いはずだ。
そんなことを考えながらロレンスも椅子に座り、レイノルズはうなずく。
しかし、レイノルズはあくまでも下手《したて》だった。
「なにが起こっているのかまったくわからないんだ。ロレンスさんならなにか知っているのではないか、と思ってね」
日の光の下で見るのと、夜の蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りに照らして見るのとでは、同じ人物とはとても思えないのが女である、などというもっともらしい話を酔《よ》った商人から聞いたことがあるが、それは商人にもいえるだろう。
いかにも困り果てた小さな店の主《あるじ》といった風情《ふぜい》だが、いくらなんでも困り果てた挙句《あげく》に単なる旅の行商人であるロレンスの泊《と》まる宿に、しかもこんな夜|遅《おそ》くに人目をしのんでやってくるというわけがない。
レイノルズの言葉には、省略された単語がたくさんあるはずだ。
「残念ながら、私も詳《くわ》しい話は……」
「リドンの宿屋に行っただろう?」
単刀直入《たんとうちょくにゅう》なのは、時間が惜《お》しいからか。
あるいは、これがレイノルズの商談の進め方なのか。
ロレンスはゆっくりと視線を外す。
それから、さらにゆっくりとレイノルズに視線を戻《もど》した。
「リドンの宿屋?」
人をたばかることにかけては超《ちょう》一流のホロと過ごしてきたお陰《かげ》かもしれない。
レイノルズの表情が強張《こわば》ったのは、ロレンスの面《つら》の皮《かわ》の予想外の厚さに驚《おどろ》いたからだろう。
「隠《かく》し事《ごと》はお互《たが》いのためにならない。ロレンスさんがあの場所に行ったことはわかっているんだ」
ジョッキから手を離《はな》し、両|掌《てのひら》をこちらに見せる。その仕草は、腹を割って話そうという類《たぐい》のものだろうが、商人同士にとってはなんの意味もなさない。
ロレンスは考える。
リドンの宿屋に呼ばれて行った、というのがばれているのはほぼ確実視していいが、どんな場合であってもエーブとのやり取りは隠すのが得策だ。
「……例えば、私がそこに呼ばれて世間話をしていた、と言っても、レイノルズさんは信じてくれないでしょう?」
軽くため息をつきながら、諦《あきら》めるようにロレンスは言った。
その言葉は、人の嘘《うそ》を見|抜《ぬ》くホロであっても嘘か真実か見抜けないに違《ちが》いない。
世の中には、真であり、かつ偽《ぎ》である不思議な言葉|遣《づか》いがいくらでもあるものだ。
ロレンスは、言葉を続けた。
「エーブさんから、町に起こっていることを聞きましたよ。もちろん、私はこう言いました。町にそんな騒《さわ》ぎが起こっている時に、よくも勘違《かんちが》いされかねない場所に、勘違いされかねない呼び方をしてくれましたね、と」
ベッドの上でもそりと衣擦《きぬず》れの音がしたかと思うと、ホロが寝返《ねがえ》りを打ったらしい。
おそらくは、笑いを堪《こら》えかねていたのだろうが。
ロレンスは言葉を続けた。
「エーブさんは町の中で特殊《とくしゅ》な立場でしょうから、落ち着いた表情の下では色々と思惑《おもわく》が渦《うず》巻いているようでした。ただ、そのあたりのことは私には話してくれませんでしたよ」
「本当に?」
間髪《かんはつ》入れず、ぎょろりと目を剥《む》いてレイノルズは言った。
卑屈《ひくつ》な笑《え》みを浮かべて、下手《したて》に出ているよりよほど生き生きとしている表情だ。
「本当に」
多少|白々《しらじら》しいほうがかえって説得力が増すというもの。
しばらくレイノルズはこちらを睨《にら》みつけるように見つめていたが、やがて脱力《だつりょく》して、大きなため息をついた。
「……失礼した」
「いいえ。それほど慌《あわ》てられているということは、なにか直接利害関係に?」
攻守《こうしゅ》の入れ替《か》わりがそもそもの罠《わな》、ということはままあるもの。
肩《かた》の力が抜《ぬ》けたようなレイノルズでも、油断はできなかった。
「逆だよ。まったく蚊帳《かや》の外だからこそ、慌《あわ》ててるんだ」
ため息をつき、重そうに椅子《いす》の上で身じろぎした。
地主たち権力者に利益を吸い上げられているせいで、閑散《かんさん》とした店構えのジーン商会のことを思い出す。
商売とは、うまくいっているところにはさらにうまい話がやってくるが、うまくいかない時はその逆だ。
それに、日頃《ひごろ》の付き合いというものは、いざ危機が起きてみれば一変するのが世の習い。
命に関《かか》わる困難が珍《めずら》しくない行商の旅では、そんなことがままあった。
しかも、景気の悪い町の北|側《がわ》で利益の大きい商売を営んでいる時点で反感を買うだろうに、レイノルズには人心を買うための資金すらない。
いざ事が起こった時に、孤立《こりつ》するのは必然といえた。
「それに、耳にしているんだろう? うちは町のお偉《えら》いさん方と大変に懇意《こんい》だ」
その言葉が権威《けんい》を笠《かさ》に着るものであれば、まだましだったかもしれない。
ただ、レイノルズのその発言はとても重要だ。
レイノルズは、ロレンスがこの町の事情についてエーブから色々と耳にしていると判断している。
その上でイッカクの話をしにわざわざこんな夜|遅《おそ》くに人目をしのんでやってきたのだとしたら、レイノルズの頭の中身をもう少しだけ想像することができる。
すなわち、エーブがイッカクを巡《めぐ》る騒《さわ》ぎの中で重要な位置にいるか、少なくとも情報が集まる位置にいる、と思っているということだ。
それは、エーブが昼間ロレンスを呼びつけて一方的に語った、世迷言《よまいごと》に近い諸々《もろもろ》のことに真実の色を添《そ》えることになる。
「銅の輸出入を営んでいらっしゃるようなので、その点については」
「ふっ」
ロレンスの遠まわしな言い方に、レイノルズは思わず笑ってしまったようで、鼻を掻《か》いた。
視線が遠いのは、なにか企《たくら》んでいるのか、はたまた自分の状況《じょうきょう》に呆《あき》れているのか。
ロレンスはかける言葉もなく軽くぶどう酒をなめていたのだが、やがてレイノルズは顔を上げてこう続けた。
「お前さん方が聞きに来た神の骨同様、この話で逆転できると思ったんだがな」
言って、つるりと自分の顔を撫《な》でた。
商人が浮かべる人のよさそうな笑顔《えがお》ほど当てにならないものはないが、レイノルズの浮かべたそれは見ていて胸の奥がちりちりとするものだった。
ジーン商会が苦しい立場にあるのは変わりなく、また、どうにかして北の頸木《くびき》から抜《ぬ》けたがっているのも間違《まちが》いないのだから。
「ローム川の狼《オオカミ》とつながりを持てたら、と一縷《いちる》の望みを持ってやってきたんだがね。いやあ、はは。まったく、お騒《さわ》がせした」
億劫《おっくう》そうに笑い、頬《ほお》をたるませながらレイノルズは言った。
ロレンスはかける言葉がなく、ただただ愛想笑《あいそわら》いをするだけだ。
それからしばし沈黙《ちんもく》が降りて、それが破られたのはホロの小さな寝言《ねごと》によってだった。
「ああ……そういえば時間が時間だったか。申し訳ない」
レイノルズは謝《あやま》り、立ち上がる。
こんな時間にロレンスたちの泊《と》まる宿にやってきたのも、万策|尽《つ》きてついに残った最後の選択肢《せんたくし》だったから、と考えられなくもない。
人目をしのんでやってきたのは、誰《だれ》かに密会を見られては困るというよりも、単に町の人間にではなく町の外の人間に頼《たよ》らざるを得ない状況《じょうきょう》を人に見られるのが嫌《いや》だったのかもしれない。
そう考えれば、レイノルズのたるんだ頬が途端《とたん》に哀《あわ》れみを誘《さそ》う。
「いいえ、お力になれずすみません」
「こちらこそ、ロレンスさんらの話には大した返事もできずに悪かったね」
互《たが》いに相手を気遣《きづか》うような笑みを浮かべ、テーブルを挟《はさ》んで言葉を交《か》わし合う。
そして、そんな隙間《すきま》に落ち込んだ沈黙《ちんもく》に、揃《そろ》って苦笑いをして、握手《あくしゅ》を交《か》わした。
「今度あの狼《オオカミ》に会うようだったら、レイノルズが恨《うら》み言《ごと》を言っていたと伝えて欲しい」
「ええ……いえ、わかりました」
笑い、それを打ち消して、ロレンスは答えた。
「じゃあ、本当に遅《おそ》い時間に悪かったね」
部屋の戸口まで送ると、レイノルズはもう一度そう言って、来た時とは対照的に重い足取りで歩き出した。
「おやすみなさい」
暗い廊下《ろうか》で外套《がいとう》を羽織ったレイノルズにロレンスが言うと、「ああ、おやすみ」と返ってきた。
レイノルズはそのまま階段を下りて、闇《やみ》の中に消えていった。
町の中で店を持ち、一見すれば一生|安泰《あんたい》ともいえる銅の取引を一手に任されていながらも、その背中には負け犬の風情《ふぜい》が漂《ただよ》い、あまりにも寂《さび》しかった。
部屋の中に戻《もど》り、小さくため息をついて椅子《いす》に座る。
肘《ひじ》をつき、軽く酒を飲みながらレイノルズとのやり取りを反芻《はんすう》すると、自分が巻き込まれかけている事件の重大さを改めてひしひしと感じてしまう。
なぜならば、商人としてそれ相応の力を持っていそうなレイノルズが、あれほど必死になってイッカクの話を追いかけにきたのだから。
いや、こう言うべきか。
これほど必死になって追いかけているのだから。
「さて……そろそろ寝《ね》るか」
ロレンスは呟《つぶや》き、蝋燭《ろうそく》を消すとベッドのほうに歩いていった。
手前の、ホロとコルが眠《ねむ》るベッドの脇《わき》を通り、自分のベッドに手をかける。
身を横たえ、毛布の中に潜《もぐ》り込んで、やれやれとため息を一つ。
まだ目が慣れていないのでぼんやりとしか見えなかったが、隣《となり》のベッドではようやくホロが狸寝入《たぬきねい》りから目を覚ましていた。
「もう行ったようじゃな」
一瞬《いっしゅん》ホロが闇の中に消えた、と思ったのは暗闇の中で浮かび上がるホロの目が反対方向に向けられたからだろう。
ロレンスは一度目を閉じ、「ご苦労なことだ」と言った。
「それにしても、すぐさまわっちに声をかけるようなことをしなかったのでほっと一安心じゃ」
ベッドに腰掛《こしか》け、ホロが楽しそうに言う。
予想どおり、レイノルズは階段から忍《しの》び足《あし》で引き返し、ロレンスがホロたちと本音を口に出さないか扉《とびら》に耳を押し当てていたのだろう。
「まあ、さすがにな。というか」
ロレンスは笑い、言った。
「俺もよくやったからな」
「んふふ。じゃが、わっちも危《あや》うく騙《だま》されそうなほど哀愁《あいしゅう》を漂《ただよ》わせておったな。とても腹に一物含《いちもつふく》んでおるようには見えんかった」
「冷たい物と熱い物を同時に財布《さいふ》の中に入れられるのが商人だ。背中に滲《にじ》んでいたものが嘘《うそ》とは思わないが、それでもなおへこたれないんだろうさ」
「商人とはしぶとい生き物じゃな」
「まったくだ」
ロレンスは笑って答えて、「しかし」と続けた。
「レイノルズの目的はなんだと思う?」
敢《あ》えてホロにそう聞いたのは、自分の答えがすでに出ているから。
ホロも即答《そくとう》する。
「あの狐《キツネ》と連絡《れんらく》を取りたい。それに尽《つ》きるじゃろ」
「やはりそうか……」
「なにを考えておる?」
ベッドに手をつき、身を乗り出してきたホロは意地悪げに笑っている。
そう聞きながらも、すでに答えはわかっている顔だ。
「なに。ずいぶん面白《おもしろ》そうな話だと思ってな」
ホロが耳をひくひくさせながらなお意地悪げに笑っているのは、半分の嘘ともう半分の真実を聞き分けられたからだろう。
商人は熱い物と冷たい物を一緒《いっしょ》の財布に入れられる。
やれやれとばかりに、頭の後ろで両手を組んだ。
これなら、心の内に恐《おそ》れを抱《いだ》いていても、怖《こわ》いもの見たさで事件に顔を突《つ》っ込んでいく、という体裁を取れる。
いくらホロには本心が筒抜《つつぬ》けであったとしても、一応自分も男なのだから多少は見栄《みえ》を張っておきたい、と思うことそれ自体がすでにホロには楽しくて仕方がないのかもしれない。
ホロは隣《となり》のベッドに腰掛《こしか》けて、にこにこと満面の笑《え》み。
ここでホロの相手をすれば、賢狼《けんろう》様はさぞ喜ぶに違《ちが》いない。
しかし、それはあくまでロレンスが怖いもの見たさの体《てい》を装《よそお》えている間だけだ。
ホロがじゃれて少しでも爪《つめ》が引っかかれば、あからさまに糊塗《こと》した上辺《うわべ》の体裁など簡単に剥《は》げ落ちてしまう。その時の惨《みじ》めさは、想像に余りある。
それに、なによりそんなことになれば、この危うい釣《つ》り合《あ》いの上の楽しい雰囲気《ふんいき》を壊《こわ》してしまう。
「俺はもう寝《ね》るぞ」
だから、ロレンスはそう言ってホロに背を向けて横になった。
つまらなそうな雰囲気《ふんいき》ならば、ロレンスにも背中でわかる。
ただ、ホロは一度だけ尻尾《しっぽ》を大きく揺《ゆ》らしてから、小さく「おやすみ」と言った。
もそもそと毛布に入る音が妙《みょう》に大きく響《ひび》く。
ホロはおもちゃを壊《こわ》すようなことはしない。
だとしたら、ロレンスがすることは決まっている。
ホロの興を得るのが好きなのだから、せいぜい頑丈《がんじょう》なおもちゃになるほかなかった。
翌朝。
ホロではないが、なんとなく予感があったといえばあった。
それは、川を下ってくる時に用意した食べ物の残りを始末する、という言い訳を得たホロが、一際《ひときわ》大きくチーズを切り分けてライ麦パンと一緒《いっしょ》に頬張《ほおば》っていた時だった。
コルすらが苦笑いしてしまうくらい嬉《うれ》しそうにパンを頬張るホロが、突然《とつぜん》笑《え》みを消して真顔になったのだ。
ロレンスはてっきり舌でも噛《か》んだのかと思ったが、幸いなことにそれを口から出す前に原因がわかった。
出立する旅人の相手や、朝食を取る旅人相手に忙《いそが》しいはずの宿の主人が、部屋を訪《おとず》れてきた。
ただ、それだけならばホロが外套《がいとう》をすっぽり被《かぶ》るだけで事はすむ。
ロレンスがホロから目配せを受けたのは、コルが開けた扉《とびら》の向こう側《がわ》に、宿の主人と、もう一人の姿があったからだった。
「おはようございます、ロレンスさん」
よく通る張りのある声は、常に自信に満ちたその雰囲気にぴったりなもの。
貴族のように糊《のり》の利《き》いた服をパリッと着た、ルド・キーマン、その人だった。
「……おはようございます」
ロレンスがそう挨拶《あいさつ》を返す頃《ころ》には、宿の主人がキーマンから銀貨を受け取ってそそくさと退散していた。
この忙しい時間に引っ張り出されてさぞ迷惑《めいわく》だったろうに、キーマンはどこ吹《ふ》く風だ。
その振《ふ》る舞《ま》いは、ロレンスにわざわざ見せつけているようにも、自然体にも見える。
「朝食の最中でしたか。これは失礼」
ただ、その言葉に「行商人|風情《ふぜい》が貴族の真似《まね》をして朝食を?」と言いたげな雰囲気を感じてしまったのは、きっと被害妄想《ひがいもうそう》だろう。
朝食を食べる習慣のない町の人間たちからすれば、起《お》き抜《ぬ》けになにかを食べるというのはそもそも違和《いわ》感のあることと聞く。
「いいえ、なんなら早くすませますが……ご用件は?」
キーマンがあんな手紙を寄越《よこ》してわざわざ部屋にやってくる、となれば用件など限られている。
ロレンスが逃《に》げ出さなかった時点で協力するものと見なされてよいし、ここはキーマンからすれば裏切りの誘惑《ゆうわく》に満ちた敵地に他《ほか》ならない。十中八九《じっちゅうはっく》、ロレンスたちを南に連れ出しに来たのだろう。
じろりと遠慮《えんりょ》なく部屋を見回していたキーマンは、子供が賢《かしこ》い返答をした時のように嬉《うれ》しそうに笑い、「外でお願いできますでしょうか」と答えた。
「ここは今にも鼠《ネズミ》が出そうですから」
苦笑いで言ったのはどういう意味なのか、とは思わない。
旅の暮らしであれば寂《さび》しい食事の相手になる鼠でも、港町で荷を保管する義務を負う者たちにとっては悪魔《あくま》のような存在だ。
キーマンは、聞き耳を立てている連中がいるかもしれない、という意味で使ったのだろうが、もう半分は本当に鼠が嫌《きら》いなのだろう。
「できれば宿を引き払《はら》っていただきたいのですが、お荷物は……と、大丈夫《だいじょうぶ》のようですね」
できれば、と言いつつその言葉がまったく当てにならないことはわかる。
それは予想ずみだったので構わないのだが、部屋の隅《すみ》にまとめてある荷物が綺麗《きれい》にまとまりすぎていないだろうかと若干《じゃっかん》気になった。
見る者が見れば、夜逃《よに》げ未遂《みすい》の匂《にお》いを嗅《か》げるかもしれない。
「では、下でお待ちしております」
キーマンはそれに気がついているのかいないのか、さっさと踵《きびす》を返して歩き出した。
貴族の登場は仰々《ぎょうぎょう》しく、退出はあっさりと。
まったくその見本のような演出だった。
「ふん。ぬしが嫌いそうな感じじゃな」
「だろう?」
ホロもなにか癇《かん》に障《さわ》ったのか、最後にパンを口に押し込んでからこっそりと耳打ちしてくる。
ただ、それを聞いてコルだけがちょっと驚《おどろ》いていた。
「えっ……ちょっと、格好いいなと思ってしまったんですけど……」
ロレンスとホロは顔を見合わせて、二人|一緒《いっしょ》に詰《つ》め寄るとこう言った。
「あんなふうになっては駄目《だめ》だ」
コルは目をぱちくりとさせ、曖昧《あいまい》にうなずいたのだった。
一階に下りると、店主と何事かを話していたキーマンが嫌味《いやみ》ったらしく言ってくる。
「さて、我々は気兼《きが》ねなく表口から馬車に乗りましょう」
ロレンスがエーブから手紙を貰《もら》い、裏口から入ったことをきっと知っているのだろう。
しかし、エーブと知己《ちき》であると告げた時点でエーブの密偵《みってい》かもしれない、という可能性は織り込みずみのはず。
それでもなお、利用価値があると踏《ふ》んでいるのだ。
「残念ながら幌《ほろ》ありのものは用意できませんでした。あ、お手をどうぞ」
宿の前に用意されていたのは、それでも立派な六人乗りの馬車だ。
御者《ぎょしゃ》は片目のつぶれた髭《ひげ》をたっぷり蓄《たくわ》えた老人で、ロレンスらを軽く一瞥《いちべつ》しただけで黙《だま》って前を向いた。
海賊《かいぞく》まがいの商売をしていた船乗りが、怪我《けが》や年で引退してからもなお海を忘れられずに港町で働く、というのはよくある話。
手綱《たづな》を握《にぎ》るその左手は小指と薬指がなく、手の甲《こう》は傷だらけ。
口の堅《かた》さは、相当なものだろう。
前後に向かって椅子《いす》の備え付けられた馬車で、ロレンスたちが進行方向を向いて、キーマンがその反対|側《がわ》の席に座った。
「では、港まで」
キーマンが言うと、御者は静かにうなずいて馬車を進めた。
「さて、それで、私がこんな朝からここにいる理由ですが」
「有利な交渉《こうしょう》は敵地で、ということでしょう?」
ロレンスが切り返すと、キーマンは笑顔《えがお》のまましばし動きを止めて、それから感心したようにうなずいた。
丸っきり馬鹿《ばか》にした態度だが、驚《おどろ》いたのは間違《まちが》いないだろう。
ロレンスの肝《きも》はきっちりとつぶしておいたのに、と思っているはずだ。
当然のことながら、ホロがいなければロレンスは萎縮《いしゅく》していたに違いない。
「ええ、そのとおりです。町に騒《さわ》ぎが起こると、我々のような人間は騒ぎの拡大《かくだい》を防ぐためにしばらく渡河《とか》が禁止されます。その後のやり取りは矢文《やぶみ》で行うのが常なのですが、今回はなにせ互《たが》いに急を要するのでね。三角洲《さんかくす》の上で揉《も》め事《ごと》の解決に向けた話し合いをすることになりました。まあ、私ら若者はその露払《つゆはら》いですね。今頃《いまごろ》は、他《ほか》の連中が地主側と話し合いの日程と形式を交渉中でしょう」
自己|顕示欲《けんじよく》と出世欲にまみれたキーマンのような立場の者たちがこぞって北側に来ているのだろう。
そして、それぞれがこの騒ぎで自分の名と所属する組合なり商会なりの名を高めようと画策しているに違いない。
キーマンがその場にいないのは、一人だけ周りを出し抜《ぬ》いてエーブとつながる伝《つて》を持っている、という自負があるせいか。
「騒《さわ》ぎの元になっているのはイッカク、でよろしいですか?」
ロレンスが聞くと、これにはキーマンは驚《おどろ》かなかった。
むしろ、話が早くなるのを喜ぶようにうなずいた。
「ええそうです。イッカクの角は、鳥の心臓の血よりも痛風《つうふう》に効能があるといわれています。それだけでどれだけの貴族が欲しがるか想像できますよね」
「教会の定める七つの罪のうちの一つ、大食の罪に対する罰《ばつ》が、痛風ですから」
言葉の一部分はホロに向けて、という余裕《よゆう》すらある。
キーマンの言葉が油断ならないという意味で怖《こわ》いのは今も同じだが、不必要な怯《おび》えは今はなかった。
「町に常駐《じょうちゅう》する貴族の家の御用商人らは、各自の主人に早馬《はやうま》を走らせていることでしょう。もっとも、我々はどこの誰《だれ》が欲しがりそうかは全《すべ》て列拳できています」
「戦う準備は万端《ばんたん》、と?」
キーマンは、目を細めてにっこりと笑った。
「ええ」
馬車は細い道を抜《ぬ》け、川沿いの大きな通りに出た。
そう大した時間でなくとも、渡河《とか》が禁止されたとなれば困る人は大勢出てくることになる。
渡河の規制が解除されたのか、見晴らしのいい川沿いの道からは、人を満載《まんさい》した渡《わた》し船《ぶね》が何|艘《そう》も川を渡っているのがよく見えた。
「ところで」
と、キーマンが潮の匂《にお》いのする風に、柔《やわ》らかそうな金髪《きんぱつ》を軽くなびかせながら、聞いてきた。
「エーブさんとは、どこまでお話を?」
ここが、分水嶺《ぶんすいれい》だった気がする。
ロレンスはそこで、満面の笑《え》みでとぼけることができた。
「えっと、エーブさん?」
その瞬間《しゅんかん》、キーマンのこめかみが小さくひくついたのを見|逃《のが》すロレンスではない。
「いえ、失礼しました」
キーマンは言って、黙《だま》るとすまし顔のまま川のほうを向いた。
ロレンスの連れていかれた地区の様子から、誰《だれ》と出会っていたのかは丸わかりだろう。
キーマンはここでロレンスから真相を引き出し、きっちりと型に嵌《は》めてその首に縄《なわ》をかける手はずだったはず。
急に黙ったのは、その当てが外れたから。
あるいは、ロレンスがでくの坊《ぼう》でないのならば、それなりの扱《あつか》いに変えるべきかと考えているからか。
ただ、ロレンスがその直後に自分から口を開いたのは、ここでキーマンを圧倒《あっとう》しよう、という考えからではない。
「エーブさんといえば、金《きん》の泉《いずみ》で少しお話ししましたね」
「……どのような?」
キーマンはこちらに軽く視線を向けてくる。
自らの利益のために商人たちを束ねる人間ならではの、人を人と見ない冷たい目だった。
「金で買えないものを押し売りされるほど困ることはない、と」
その時に初めて、キーマンは驚《おどろ》きの表情をあらわにした。
そして、「でしょうね」と笑顔《えがお》で言った。
ロレンスはキーマンと敵対するつもりは毛頭ない。
エーブから地主の息子《むすこ》に求愛されている話を聞いた、ということを匂《にお》わせたのは、エーブとの話の核心《かくしん》は隠《かく》すが、会った事実そのものは隠さないという意思表示。
つまりは、キーマンの出方|次第《しだい》だ、というのが通じたに違《ちが》いない。
キーマンはそれ以降も黙《だま》っていたが、それで十分だと思った。
ロレンスという駒《こま》の大きさを見誤っていたのなら、配置図を変える必要があるからだ。
それからロレンスたちは渡《わた》し船《ぶね》に乗り込み、南|側《がわ》に渡った。
キーマンがまとめて料金を払《はら》うのを待っている間、ホロが楽しそうに「調子に乗るでない」と足を踏《ふ》んできた。
やればできるじゃないかということだろうが、もちろん、乗りはしない。
考えられる限り最高の振《ふ》る舞《ま》いができたと思ってはいたが、その掌《てのひら》には汗《あせ》をかいているのだから。
北側とはまるで違う、整然と建物が並び、道は綺麗《きれい》な石畳《いしだたみ》が整備された見なれた町の光景で初めて、敵地に来た、と思った。
「では、行きましょう」
キーマンの案内で、ロレンスたちは敵地の奥深くに入っていったのだった。
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第六幕
「ご不便はおかけしない、とお約束いたします」
案内されたのは、ロレンスが所属するローエン商業組合の本館から少し離《はな》れた場所にある、五階建ての宿だった。
入り口は見なれた様式の造りで、内部もそうだったので組合に所属する旅人がよく利用する宿なのかもしれない。ロレンスたちは、そのうちの一室、中庭に面した三階の部屋に通された。
部屋に文句はないし、どちらかというとエーブに紹介《しょうかい》された北|側《がわ》の宿よりも、無料で泊《と》まらせてもらえるらしいこちらのほうが環境《かんきょう》としては抜群《ばつぐん》に良かった。
しかし、キーマンが口にしたその言葉は、いくらなんでも額面どおりに解釈《かいしゃく》できはしない。
おそらく、そちらが不便を感じるような監視《かんし》の仕方はしない、という意味なのだろう。
「なにかありましたら、宿の主人にお申しつけください。それと、できれは外出の際には行き先を告げておいてくださると、不幸なすれ違《ちが》いが起きずにすみます」
外出は制限されるかと思っていたので、その言葉は少し意外だった。
もっとも、その寛容《かんよう》さを裏返せば、外出して外で秘密裏に誰《だれ》かに会おうとしても対策は完璧《かんぺき》だ、という自信の表れになる。
そして、実際にそうなのだろう。
ロレンスはそんな考えを商人の仮面の裏に隠《かく》して、「わかりました」と答えておいた。
「それでは、しばらくごゆるりとおすごしください」
キーマンは笑顔《えがお》で言って、こちらが返事をするよりも早くに身を引いて、部屋の扉《とびら》を閉じてしまった。
ロレンスは呆気《あっけ》に取られ、閉じられた扉をしばし見つめていた。
てっきりこれから、エーブとキーマンの思惑《おもわく》の中で、キーマンがロレンスに期待する役回りのことを説明される、と思ったのに肩透《かたす》かしを食らった感じだった。
「……なんだそれは」
ロレンスは頭を掻《か》いてため息をついていたのだが、気がつけばホロはベッドに寝《ね》転がって楽しげにしており、コルはそのベッドに手をかけて驚《おどろ》いていた。
「なにをしてるんだ?」
ロレンスが聞くと、振《ふ》り返ったコルは目を輝《かがや》かせてこう言った。
「綿が……綿が詰《つ》まってるんです!」
「綿?」
「ぬしも寝転がってみよ。ふわふわで、まるで雲の上におるみたいじゃ」
ベッドに綿となれば、金を払《はら》って泊《と》まろうとすれば相当の料金を取られるに違《ちが》いない。
キーマンの意気込みと、また、対価は労働に支払われるという原則に鑑《かんが》みれば、こんな部屋に無料で泊《と》めても利益が出るほどの仕事に使われるということを意味することになる。
取引の観念的な大きさに、段々と具体的な色づけがなされてくる。
そう言われれば、部屋の造りそのものもかなり立派なようだ。
木窓に歩み寄れば、しっかりと組まれた木窓からは隙間風《すきまかぜ》も入ってこなさそうだし、なにより窓を開けて外を見れば、そこにはこの季節でもいくつか花が咲いている綺麗《きれい》な中庭が存分に見下ろせた。
「……」
この分だと、宿で食事をすればかなり上等のものが出てきかねない。
ロレンスも手法として聞いたことがある。
身《み》の程《ほど》に釣《つ》り合った利益を渡《わた》したところで、利益に釣り合った働きしかしてくれはしない。
圧倒《あっとう》するような、相手が萎縮《いしゅく》するほどの利益を渡《わた》して初めて、意のままに相手を操《あやつ》ることができ、能力以上の働きを期待できる。
蓋《ふた》をして、視界の外に追いやったはずの恐怖《きょうふ》心がもそりと頭をもたげてくる。
少なくとも詳《くわ》しい説明を聞いておくべきではないのか。
ロレンスがそう思い、中庭から視線を部屋の中に戻《もど》した直後だった。
「たわけ」
ホロが真後ろに立っていて、驚いたロレンスは危《あや》うく窓から庭に落ちそうになった。
「な、なにを――」
「なにをというのはこっちの台詞《せりふ》じゃ。またぬしはなにを深刻そうな顔をしておるんじゃ? ぬしの財布《さいふ》ではとても賄《まかな》えぬような部屋に泊《と》まれたというのに、それを素直《すなお》に喜ばんでなにを喜ぶのかや?」
ホロはやや呆《あき》れるように言ってくる。
その後ろのほうではコルがおっかなびっくりといった感じで、綿の詰《つ》まったベッドの上に腰《こし》を下ろしていた。
「いや……」
と、ロレンスが言葉に詰まると、ホロはロレンスの胸を人差し指で突《つ》ついて、こう言った。
「本当にぬしはこの手のことに弱いの。大体、あのいけすかぬ若造がなぜぬしになにも説明せんで部屋をあとにしたと思う? 今度は昨晩のように扉《とびら》の外で聞き耳を立てておるといったこともしておらぬ。その点、若造のほうがずいぶんと面白《おもしろ》そうじゃ」
ホロは扉のほうを肩越《かたご》しに振《ふ》り向きながら、牙《きば》を見せて続けた。
「ぬしから聞いた説明が正しければ、ぬしは未《いま》だあの若造に疑われておる身じゃ。例の狐《キツネ》とつながりがあるのは事実じゃからな。では、あの若造がぬしを自分の駒《こま》にしようと自分の陣地《じんち》に連れてきた時にすることはなんじゃ? ぬしの体に紐《ひも》がついておらぬか確かめることじゃろう?」
至極《しごく》もっともな意見だが、それとなんの説明もしないことがつながらない。
「信用できていないから、説明しなかったというだけのことなのか?」
ロレンスが聞くと、ホロの顔が笑っていない笑顔《えがお》になった。
不正解だった。
その報《むく》いは、髭《ひげ》を引っ張られたことで受ける羽目になった。
「少なくとも敵か味方か未だ判然とせん場所に連れてこられて、ろくな説明もなしに放《ほう》っておかれたとしたら普通《ふつう》はどうする? ぬしだってこれまで町に着いたらまず情報を集めに行っておったじゃろう?」
ホロの講義を後ろのほうでコルも興味深げに聞いている。
わざわざホロがここでこんなことをするのは、コルの前で恥《はじ》をかくのが嫌《いや》ならば、必死に頭を働かせろ、というホロの策に違《ちが》いない。
言われなくても頭を巡《めぐ》らせる。
だが、そんな発想はロレンスの頭にはない。
口ごもっていると、賢狼《けんろう》は髭から手を離《はな》し、腕組《うでぐ》みをして言葉を続けた。
「そのへんは人も狼《オオカミ》も変わらぬはずじゃ。見知っておる者、あるいは信頼《しんらい》を寄せる者に話を聞きに行く。それは言うなれば、心の内の地図に従って知らぬ土地を歩こうとするということじゃ。人や獣《けもの》の心は目に見えぬ。じゃが、なにかしら動けば、その動き方からどんな地図を手にしておるかはわかりんす。わっちの耳や尻尾《しっぽ》、あるいはぬしの髭のように」
髭は冗談《じょうだん》だろうが、思わず自分の髭を撫《な》でてしまう。
「要するにじゃ」
ここまで言われて答えられなかったら、ホロはきっとコルと手に手を取ってヨイツに向かってしまうはずだ。
ロレンスはホロの言葉の隙間《すきま》に、間一髪《かんいっぱつ》で滑《す》べり込んだ。
「俺が不安に駆《か》られてどこに向かうか、それを見ようとしているのか」
「……」
ホロがしばらく沈黙《ちんもく》していたのは、あまりの回答の遅《おそ》さに対する叱責《しっせき》を飲み込んだからだろう。
「まったく……。わざわざこんなしつらえの良い部屋にわっちらを押し込んだのも」
「萎縮《いしゅく》させるため」
ホロは肩《かた》をすくめ、耳をひくひく動かすと後ろを振《ふ》り向いた。
熱心な生徒のコルは、大きな目でゆっくりとうなずいた。
「では、わっちらはどうするべきかや?」
コルは突然《とつぜん》質問を受けて、一瞬《いっしゅん》言葉に詰《つ》まっている。
ただ、どうにか質問に答えようと必死に頭を巡《めぐ》らせているし、ホロの尻尾《しっぽ》は尻尾でロレンスに答えて欲しそうなふりをしている。
それは犬が目の前に骨を出されるのと同じこと。
わかっていても、乗ってしまう。
この場は賢狼《けんろう》様の独壇場《どくだんじょう》。
愚《おろ》かな雄《おす》二|匹《ひき》は、きっちり掌《てのひら》の上で競《きそ》わされることになっていた。
「ふてぶてしく、いつもどおりにすごす」
そして、ロレンスの言葉が一瞬早かった。
危なかったのは、コルも口を開きかけていたこと。
ホロはしばらくコルのほうを向いていたが、ゆっくりとこちらを振り向いて、まあまあじゃな、という笑《え》みを口の端《はし》に浮かべていた。
「もしも俺たちが心の底からキーマンに協力すると決めているのだとすれば、ここは敵地ではなく自分の巣《す》であり家であり、なんら恐《おそ》れる必要はないからだ」
言葉を続けると、ホロは望みの宝物が手に入ったかのように満足げにうなずいて、耳をひくひくとさせている。
ロレンスがホロ越《ご》しにコルに向かって「同じだったか?」と聞くと、同門の少年は笑って、でも少し悔《くや》しそうにしながらうなずいたのだった。
「それに、大きな仕事を任せられた者が、今にもその重さにつぶされそうになっておったらどうじゃろう? 安心して任せられるかや?」
これまで一人で商売し、一人で悩《なや》み苦しんできたせいで、あまり気にしてこなかった。
誰《だれ》かを使うという発想そのものが希薄《きはく》で、思考はすぐに停止してしまう。
自分の手の届く範囲《はんい》であれば、ロレンスは自分がそれなりに戦えると思っていた。
しかし、世の中には腕《うで》よりも長い槍《やり》や、弓で戦う者だってあふれるほどいるのだ。
そして、戦《いくさ》の勝敗を決するのは剣《けん》すら手に取らない指揮《しき》官の指示だったりする。
ホロは長い年月に渡《わた》って、集団の長《おさ》だった。
その小さくて華奢《きゃしゃ》なはずの体つきが、二倍にも三倍にも見えていた。
「ま、わっちが同じことをやっておった時には、こんなまだるっこしいことはしなかったがの」
にんまりと笑うと、唇《くちびる》の下からは真っ白い牙《きば》が覗《のぞ》いていた。
「わっちゃあホロ。ヨイツの賢狼《けんろう》ホロじゃ」
腰《こし》に両手を当て、胸を張ってそう言った。
久々に聞いた気がするが、やはり自慢《じまん》してしまうところがホロらしいといえばらしい。
もっとも、コルは羨望《せんぼう》のまなざしでそんなホロを見つめているので、ちょうどいいのかもしれない。
あまりにも賢狼すぎては、おちおち子供のように無邪気《むじゃき》に自慢すらできないのだから。
「ではぬしよ、わっちらが行動に移すべきはなんじゃろうな?」
ホロの真の目的はここにある。
ロレンスは、お望みの言葉を引きずり出されていた。
「外に出て、のんびりする」
「ふむ。できることならふてぶてしくの」
ホロがちろりと横目でこちらを見つめてくる。
言葉の裏を探ってくれるかと気にしている仕草だ。
気がつかないふりをしてみたい誘惑《ゆうわく》に駆《か》られるのは、ちょっとした病気かもしれない。
「なら、そうだな。教会に保管されているイッカクでも見物に行くか」
冗談《じょうだん》めかして言ってやったのは、あくまでもそれがロレンスの案であるということを示すため。
コルはちょっと驚《おどろ》いて、ホロもわざとらしく驚いた。
まったく、状況《じょうきょう》をどこまでも自分の思いどおりに使いこなせる天才だった。
「それに、ここに来る途中《とちゅう》、人だかりができてただろう? 多分、言えば見せてもらえるだろうからな」
エーブとつながりがあるかもしれないのに、件《くだん》のイッカクを見物に行くなど、裏切りの可能性をほのめかすようなもの、とは考えない。
もしもロレンスがキーマンらに対する裏切りを考えているのなら、キーマンらの注目を集めるようなことを敢《あ》えてする理由がない。
もちろん、仮定の話であるのだから、その裏の裏の裏、と考えていくことはできるのだが。
「どうする? 単に食べて飲んでもつまらないだろう?」
ホロは賢狼《けんろう》ホロだと胸を張った。
それは確かに賢狼ホロだと言うに相応《ふさわ》しい過程を経たうえでの宣言だったし、その宣言の仕方は子供っぽさを残した無邪気《むじゃき》なものだった。
それは相反する二つの事柄《ことがら》を含《ふく》んでいる。
ホロは賢狼としてイッカクの前に立つ自信がある。だが、子供のようにまだその存在に興味がある。
大方そんなところ。
いや、その喜びようから、大当たりだったはず。
「ま、ぬしにしてはなかなかの案かもしれんな」
極《きわ》めつけに憎《にく》まれ口《ぐち》が出てくれば、満点だったということだ。
コルもベッドから立ち上がり、いそいそと準備を始めていた。
不思議な三人組。
しかし、少なくともこの場所だけは、どこよりも安心していられるようだった。
案《あん》の定《じょう》、宿の主人にイッカクを見たいことを伝えると、教会に行ったらキーマンの名を出せばいいと伝えられた。
キーマンはこのことを予想していたに違《ちが》いない。
ホロに確かめる気にもならなかったが、宿を出た直後から何人かが尾行《びこう》しているはずだった。
教会はケルーベの港町の南|側《がわ》の目抜《めぬ》き通《どお》りに面している、一番立派な建物だ。
北側とは違い、建物が高さを制限され、装飾《そうしょく》も過度になりすぎないように統制されている中で、そこだけは荘厳《そうごん》さと美しさが遺憾《いかん》なく発揮《はっき》されていた。
天に向かって聳《そび》え立つ塔《とう》は他《ほか》のどの建物よりも高く、その先につるされた鐘《かね》は下から見てもわかるほどにぴかぴかに磨《みが》き上げられている。通りに面した立派な門は、いかにも開け閉めが難儀《なんぎ》そうな重厚な木の扉《とびら》で、数えきれないほどの鉄の鋲《びょう》と板で補強されていた。どれほどの悪魔《あくま》の大群が押し寄せても撥《は》ね返せそうな代物《しろもの》だ。
建物は一つ一つが大きい石で作られており、正面入り口の扉の上には聖典の一節を表した彫刻《ちょうこく》が施《ほどこ》され、慈悲《じひ》探そうな天使がその門をくぐる者たちに優《やさ》しげな視線を注いでいた。
見る者を圧倒《あっとう》する、というのはまさにこのことだ。
森や山の奥深くに入れば、時折天を支えるかのごとくに育った巨木《きょぼく》を目にすることがある。
大抵《たいてい》はその土地の神や精霊《せいれい》を宿した聖なる樹《き》で、その前に立つと自《おの》ずと背筋が伸《の》びてしまう。
ただ、今この目の前にあるのは、自分たちのなにか与《あずか》り知らぬところで、与り知らぬ力によって大きくなった樹《き》ではなく、自分たちの土地で自分たちの力で築いた教会なのだ。
しかも、そこにいるのは自分たちを襲《おそ》い、食いちぎる牙《きば》と爪《つめ》を持った神ではなく、自分たちと同じ姿形《すがたかたち》をした、慈愛《じあい》に満ちた神である。
滝《たき》や泉に祈《いの》りを捧《ささ》げ、ヒキガエルを敬い、獣《けもの》の遠吠《とおぼ》えを精霊《せいれい》のお告げと恐《おそ》れおののく異教徒たちのそれは、確かにこれに比べたら野蛮《やばん》であり眉《まゆ》をひそめるような類《たぐい》のものかもしれない。
すぐ側《そば》に、ホロという存在がいてすら、そう思うのだ。
不機嫌《ふきげん》そうなホロに乱暴に耳を引っ張られてもしなかったら、ずっとこの荘厳《そうごん》さの虜《とりこ》になっていたに違《ちが》いない。
「ほれ、早く中に入りんす」
教会の前には人だかりができていて、彼らの話に耳を澄《す》ますとイッカクの話が持ち上がっていた。人の口に戸は立てられないということで、どこからか漏《も》れ出ているのだろう。
ただ、彼らが一目イッカクを拝もうとするには、教会の入り口の前に立ちはだかる槍《やり》を持った兵士が邪魔《じゃま》だった。
ロレンスとコルはその間をホロに引っ張られながら進んでいき、石段を上《のぼ》って入り口に差しかかったところで、兵士の長い槍で止められた。
「現在教会は聖務中で入れません」
権力とは目に見えぬ不思議な力だ。
「ローエン商業組合の者です。キーマンさんから許可は」
その言葉に兵士二人は互《たが》いに視線を交《か》わし合い、下手に追い返すと問題になりそうだぞといったふうに、渋々《しぶしぶ》槍を戻《もど》して手で中へ入るようにと促《うなが》してきた。
「失礼します」
ロレンスは笑顔《えがお》で言って、未《いま》だに不機嫌そうなホロの手を引き、中に入っていく。
コルもコルで緊張《きんちょう》しきりのようで、見ればホロのローブの裾《すそ》を掴《つか》んで歩いていた。
「静かだな」
教会といえど、この規模になるとちょっとした城になる。
地方の山の上の城といえば狭《せま》くて暗くて豚《ブタ》や山羊《ヤギ》が城内を歩き回っているようなところがほとんどだが、こちらは洗練された都市の城だ。
入り口をくぐると極彩色《ごくさいしき》の絵の具で聖典の一節の場面が描《えが》かれた丸型の天井《てんじょう》と、ここが俗世界とは違う場所だと知らしめるための、見たこともない奇怪《きかい》な生物たちが刻まれた柱や梁《はり》があった。
窓が少ないため蝋燭《ろうそく》がちろちろと燃えているが、煤《すす》で壁《かべ》や絵を駄目《だめ》にしないように、煙《けむり》の少ない高価な蜜蝋《みつろう》だ。
振《ふ》り向けば、二人の兵士に阻《はば》まれながら、どうにか教会の中を見ようと頑張《がんば》っている民衆たちの姿が見える。
確かに、普段《ふだん》からこんな特権に与《あずか》っていれば、教会の高位聖職者や権力者たちの鼻も高くなる理由がわかろうというものだった。
「奥にありそうじゃな」
ホロは鼻をひくつかせながらそう言った。
教会の構造は大きくなっても基本的なところは変わらない。
まっすぐ行けば聖堂になっているはずで、聖遺物《せいいぶつ》など、特別なものはその祭壇《さいだん》の下か裏に安置される。
ホロはロレンスがなにかを言う前に歩き出し、目はまっすぐに教会の奥に向けられている。
なにかに呼ばれるような、引きつけられるような足取りだ。
そして、これもまた荘厳《そうごん》な彫刻《ちょうこく》が施《ほどこ》された扉《とびら》に手をかけようとした、その瞬間《しゅんかん》だった。
「何者です!」
甲高《かんだか》い声が響《ひび》き、さすがのホロもぴくりと体をすくませた。
いや、ホロに限って不意をつかれるというのはあり得ない。
それくらい夢中になっていたのだ。
その生肉を食らえば永遠の命を得られるという、大昔に追いかけたことのある伝説の存在を前に。
「何者です! 警備はなにを!」
乳色のローブを身にまとった痩《や》せぎすの、背と鼻の高い男だった。
一見して聖職者だとわかる神経質そうな顔立ち、といえば百人が百人とも思い浮かべるようなそれで、声は絞《し》められる直前の鶏《ニワトリ》のようなものだ。
「これは失礼いたしました。ローエン商業組合のルド・キーマン氏からの紹介《しょうかい》なのですが」
ロレンスは自分の名を名乗るよりも先にその名前を出し、早口に言葉を続けた。
「なにか手違《てちが》いがありましたようで」
教会ほど手続きと規律《きりつ》にうるさいところはない。
ただし、それは紙に書かれたことよりも、人間関係が優先する。
「なに……ローエンの? ああ、これは失礼」
取り乱したのと同じ早さで落ち着きを取り戻《もど》して、廊下《ろうか》の奥から何事かと走ってきた兵士に対応していた。
入り口に立つ兵士二人はそ知らぬ顔。
ままあることなのかもしれない。
「こほん。私はこの教会の助司祭を務めるセイン・ナトレと申します」
「私はローエン商業組合所属のクラフト・ロレンス。こちらは共に旅をしている……」
「ホロという」
「トート・コルです」
ホロは扉の奥に気を取られながら、コルは恭《うやうや》しく名乗った。
商人に修道女風の少女に、ぼろぼろの格好をした少年。
奇妙《きみょう》な取り合わせだが、一日のほとんどを教会の中ですごす人間にとっては、俗世界の全《すべ》てが奇妙に映るのかもしれない。
大して不思議そうな顔もされなかった。
「左様ですか。こちらに参られたということは、なにかお祈《いの》りを?」
白々《しらじら》しいことを聞くことにかけては教会の聖職者の右に出る者はいない。
ロレンスは小さく咳払《せきばら》いして、こう答えた。
「いえ、こちらの教会に運び込まれたというイッカクを見せていただければと」
「ほう……」
と、ナトレと名乗った助司祭はこちらを品定めするような目で見つめてくる。
実際に品定めをしているのは、寄付金をいくらふんだくろうかと計算しているからに違《ちが》いない。
「その目的をお聞きしても? というのはですね」
ナトレはロレンスが返事をしようとしたのを遮《さえぎ》って、続けた。
「当教会に運び込まれたそれは、聖なるものか邪悪《じゃあく》なるものか未《いま》だ判別がつかない状況《じょうきょう》であります。世に神が創造されたもの以外は存在しない、というのは確かなることでありますが、いかんせん、その異形《いぎょう》のゆえに現在司祭様が神のお力を借りて安置している状況であります。いかなローエン商業組合様のキーマン卿《きょう》のご紹介《しょうかい》とありましても……」
長ったらしい口上には慣れたものだが、ホロの我慢《がまん》が限界に近そうだった。
ロレンスは仕方なく、笑顔《えがお》でナトレに歩み寄り、上着の内|側《がわ》に手を差し込みながらこう言った。
「実は、キーマンさんより聖なる神の僕《しもべ》であられるナトレ様によろしくお伝えくださいと言伝《ことづて》を授かっておりまして」
そして、書状を手|渡《わた》す仕草のまま、ナトレの手を握《にぎ》った。
「……確かにその言伝、お預かりいたしました」
ナトレは素っ気なく言って、再度咳払いをした。
「では、現在|件《くだん》のものは聖堂で聖別中なのですが、特別にご覧《らん》にいれましょう」
「ありがとうございます」
ロレンスが大仰《おおぎょう》に感謝すると、まんざらでもなさそうにナトレはうなずき、ホロがいる扉《とびら》の前まで歩いていき、閂《かんぬき》を外して扉を開けた。
「私は未《いま》だ修行中の身。直接|眺《なが》めるのは禁止されております」
翻訳《ほんやく》すれば、異形のものを怖《こわ》くて直視できないというところだろうか。
あるいは、賄賂《わいろ》を受け取ったその足で聖堂に入るのはさすがに気が引けるというところだろうか。
なんにせよ、ロレンスはホロに続いて聖堂の中に入ろうとして、少し苦笑いした。
ただし、それはいけすかない聖職者のことに関してではない。
扉《とびら》が閉じている時は入りたくて仕方がなさそうにしていたホロが、いざ扉が開くと尻込《しりご》みしていたのだ。
「ほら」
小さく言って、その背中を押した。
大昔にその生肉を追いかけていたということは、ホロはその生肉を誰《だれ》かに食べさせたかったということだ。
それは何百年といることになったパスロエの村で出会った村人だろうか? それとも旅の途中《とちゅう》で出会った別の誰かだろうか。
結局その肉は見つからず、食べさせたかった誰かは死んでしまったに違《ちが》いない。
死に目には会えたのだろうか。それともまた、旅の途中に死なれてしまったのだろうか。
どちらかはわからないが、笑顔《えがお》で別れられたとはとても思えない。
だが、相手のほうは、もしかしたら笑っていたかもしれない。
ホロが、今になってもなお、それを前にしてこんな顔をしているのだから。
「……これが……」
呟《つぶや》いたのはコル。
何百席かわからない、たくさんの木の長椅子《ながいす》の間に続く、まっすぐに伸《の》びた石畳《いしだたみ》の道。
そこには色あせた絨毯《じゅうたん》が敷《し》かれ、天の国へと続くかのように神々《こうごう》しい。
その道の先、見上げるばかりに高い壁《かべ》には色つきの硝子《ガラス》を組み合わせた壮大《そうだい》なる神の絵が描《えが》かれており、両|脇《わき》には神の栄光を讃《たた》える天使の絵が描かれている。
そして、その下、神の足元にはその代理人が民衆を導くための祭壇《さいだん》が置かれ、さらにその下には大きな棺《ひつぎ》が置かれていた。
遠目にすら、その異形《いぎょう》の片鱗《へんりん》が垣間見《かいまみ》えた。
大きな棺には水が入れられているようで、こちらの気配に気がついた生きた伝説が身じろぎして水がはねた。
同時にする木を打つような音は、まっすぐに伸びた白い角が棺の縁《ふち》を叩《たた》いているのだ。
「本当にいるんだな」
三人共に、足を前に出すことができない。
好奇心《こうきしん》は猫《ネコ》を殺し、商人はその好奇心で神すらを殺す。
しかし、近寄りがたかった。
生肉を食らえば永遠の命が得られるという、その伝説の生まれた理由がわかったような気がした。
「近寄ってみるか?」
ロレンスがホロの肩《かた》に手を載《の》せると、ホロはびっくりしてこちらを振《ふ》り向いた。
「……」
それから、無言で首を横に振って、また前に向きなおった。
無表情に、じっとイッカクのほうを見つめているその様は、過去の自分に別れを告げているような、そんな雰囲気《ふんいき》があった。
「あ、あれも、神様、なんでしょうか」
小さくそう言ったのはコルだ。
ずっとホロの裾《すそ》を掴《つか》んでいると思ったら、いつの間にかロレンスも服を掴まれていた。
「どうだろうな。どうなんだ?」
隣《となり》のホロに聞くと、ホロはものすごく嫌《いや》そうな顔をした。
そんな話を振《ふ》るな、ということだろうが、他《ほか》に答えられる者はいないので仕方がない。
「少なくとも、まともな生命の営みの輪におるじゃろうな。そこから外れた者には独特の匂《にお》いがありんす。じゃが、あれにはない」
わざとらしく鼻を鳴らしてロレンスとコルのほうを向き、寂《さび》しそうな顔をする。
コルはそれの指し示す意味に気がついて、慌《あわ》ててなにかを言おうとして口ごもってしまう。
その頭に手を載せて、「たちの悪い冗談《じょうだん》だよ」と言ってやりながらホロを見ると、反省の色もなくぷいとそっぽを向いた。
「ま、あの大きさと、この程度の警備ならば……」
と、ホロは辺りを見回しながら殊更《ことさら》小さな声でそう言った。
ロレンスにはっぱをかける時、いざとなればイッカクを奪《うば》えばよい、と言ったのはまったくの仮定の話ではないらしい。
「仮定の話じゃなかったのか」
ロレンスが聞くと、ホロは意地悪そうに笑って小首をかしげてきた。
「ぬしの怯《おび》えが仮定の話だけで止《とど》まるならばわっちゃあ楽なんじゃが」
「……」
確かに、いつでも奪取《だっしゅ》できるとわかればそれに越《こ》したことはない。
「問題はどこから入るか、じゃが」
「入り口を突破《とっぱ》、というのは?」
「あの扉《とびら》がかっちりと閉まっておったら怪《あや》しいかもしれぬ」
鉄の板と鋲《びょう》で補強された表の扉を思い出す。
実際のところ、教会には高価な品が多く、いざ戦乱が起こると真っ先に狙《ねら》われるのは教会だし、人々が立てこもる最後の砦《とりで》にするのも教会だ。
正面の入り口は攻城《こうじょう》器を想定して作られているはず。
いくらホロでも、厳しいかもしれない。
「あそこからはどうでしょうか?」
と、コルが指差したのは、イッカクの置かれているはるか頭上にある、色つきの硝子《ガラス》の壁《かべ》。
明かり取りの窓などもあるが、ホロの巨体《きょたい》を考えるとあれくらいしかないかもしれない。
「罰当《ばちあ》たりだな」
ロレンスが言うと、ホロは面白《おもしろ》そうに喉《のど》を鳴らした。
「くっくっ。あれをぶち破ってここに飛び込んだら、ちょっと気持ちよさそうじゃな」
それが冗談《じょうだん》に聞こえないので恐《おそ》ろしい。
ただ、実際問題として、危険がないわけでもない。
「入るとすればあそこしかないんだろうが……あの硝子は、元々壁が崩《くず》れないためにああしてるからな。下手に壊《こわ》すと大変なことになるかもしれない」
「むう?」
いたずらを楽しむ子供のように笑っていた二人が、揃《そろ》ってこちらを向いた。
「これだけ大きな建物になるとな、全部石で作るわけにはいかなくなる。重量がかさみすぎて建物が自分の重さで倒壊《とうかい》してしまうんだ。それを防ぐために一部を硝子にして軽くしてるんだが、ほら、よく見ると鉄の柱が何本も上の梁《はり》を支えているだろう? 下手にぶち破るとあそこから上が倒壊しかねない」
大聖堂には色つき硝子の絵がつきものだ、というその理由がひどく実用的な点から来ていると知った時にはがっかりした。
神のおわす聖堂であっても世の仕組みからは逃《のが》れられないんだなと、少し寂《さび》しい気すらした。
「ま、その時はその時じゃ。それに」
ホロは言葉を切って、若干《じゃっかん》呆《あき》れながら言葉を続けた。
「ぬしが頑張《がんば》ればわっちは危険を冒《おか》さずともすむんじゃからな」
そうだった。
ロレンスは苦虫《にがむし》を噛《か》みつぶしたように目を泳がせる。コルは小さく笑って「ロレンスさんなら大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」と言ったところをホロに茶化されていた。
「じゃ、そろそろ戻《もど》ろう。ナトレ助司祭に怪《あや》しまれる」
「んむ」
「はい」
二人はやはり揃《そろ》って返事をしたが、ロレンスは気になってこう言った。
「本当に近くで見なくていいのか?」
コルは若干|恐怖《きょうふ》の色をまぜながら、「結構です」と。
ホロは困ったような色をまぜて、「構わぬ」と答えた。
どちらにとっても、色々な意味で「怖《こわ》い」のかもしれない。
それに、ロレンスですら、あの角の生えた巨体《きょたい》にはなにか得体の知れぬ近寄りがたい雰囲気《ふんいき》を感じてしまう。
ナトレが言い訳を講じて聖堂に入らないのもわからないことではなかった。
伝説としてしか聞いたことのなかったイッカク。
その生肉を食らえば永遠の命が得られ、その角を煎《せん》じて飲めば万病に効くという。
物は確かに存在した。
そして、その伝説に見合う代物《しろもの》であることだけは確かだった。
こうなったら、いよいよ腹をくくるしかない。
なにせホロが実際にここに侵入《しんにゅう》できるかの話までしたのだから、今更《いまさら》尻尾《しっぽ》を巻くことは本当に許されない。
ナトレに礼を言い、扉《とびら》を閉めるその背中に、思わずこう言っていた。
「伝説に相応《ふさわ》しいたたずまいでした。さぞたくさんの人間を虜《とりこ》にするのでしょうね」
がたん、と閂《かんぬき》を嵌《は》めたナトレは、振《ふ》り向きざまに今にも悲鳴を上げそうな畏《おそ》れに満ちた顔をして、「恐《おそ》ろしいことです」と答えた。
教会はきっとイッカクを持ち込まれて困っているに違《ちが》いない。
教会の人間は神を味方につけているせいでたくさんの人間に恐れられている。
しかし、神をも畏れない人間がこの世には確かに存在するのだから。
生きた伝説を金に変えるというのは、あんなイッカクすらも数多《あまた》ある貿易の商品と一緒《いっしょ》に扱《あつか》うことなのだ。
その神経の図太さは、もはや別の世界の生き物としか思えない。
再び人通りの多い目抜《めぬ》き通《どお》りに出てから、ロレンスはようやく呼吸ができたような気がした。
「だが」
ロレンスは胸を張って隣《となり》のホロを見る。
フードの奥から向けられる瞳《ひとみ》は、無邪気《むじゃき》なきょとんとしたものだった。
「俺はお前を質に入れたくらいだしな」
心の中を本当に読めるわけではないので、ホロには言葉のつながりなどわからないはず。
ただ、賢狼《けんろう》はそれだけでどんな葛藤《かっとう》があったのか瞬時《しゅんじ》に把握《はあく》したらしい。
賢狼を質に入れたというその告白にびっくりして目を剥《む》いているコルをよそに、にやりと笑ってこう言った。
「もうなにも怖《こわ》いものなどないじゃろ?」
人ごみの中、喋《しゃべ》りながらちょっとした拍子《ひょうし》にホロの体が寄ってきた。
その時にするりとロレンスの手の中に自分の手を忍《しの》び込ませるのだから、確かにそれより怖いものなどない。
ロレンスは笑い、コルに向かってため息まじりに言った。
「まったく、賢狼の言うとおりだ」
コルがこくこくとうなずき、ホロとロレンスを見比べ、もう一度うなずいたのが面白《おもしろ》かった。
キーマンが部屋の扉《とびら》を再びノックしたのは、その日の夕暮れ、食事中のことだった。
宿が用意してくれた食事は予想どおり豪勢《ごうせい》なもので、ホロは素直《すなお》に大喜びで、コルなどは時折|喉《のど》につっかえさせていた。
ただ、夕食時を狙《ねら》うのは、こちらを単なるでくの坊《ぼう》だと思っていないということの証《あかし》になるかもしれない。
厄介《やっかい》な相手を少しでも油断させようと思えば、寝起《ねお》きを攻《せ》めるか、あるいは食事時を狙うべきだからだ。
「ご一緒《いっしょ》にどうですか?」
ロレンスが落ち着いて手についたパンくずを払《はら》いながら聞くと、キーマンは笑顔《えがお》で両手を肩《かた》の高さに上げ、「ご遠慮《えんりょ》しておきます」と答えた。
「できれば、ロレンスさんだけこちらに」
それに逆らうつもりも毛頭ない。
ホロとコルには目配せだけをして席を立ち、キーマンと共に廊下《ろうか》に出る。
コルのお陰《かげ》で食事時にホロを一人にさせなくてすむ、という事実だけでも大きな支えになる。
ホロにそんなことを言ったら、きっと真顔で呆《あき》れられるだろうが。
「さて、それで例の話ですが」
と、キーマンは宿の一室に入るなりそう口火を切った。
入った直後は倉庫かとも思ったが、キーマンが一人で思索《しさく》にふけるような場所なのかもしれない。蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りで照らされる、積み上げられた木箱や丸めて置かれている海図らしきものは、どれもロレンスが見たこともない文字で書かれていた。
「我々はロレンスさんに情報の伝達役をお願いしたい」
一人称《いちにんしょう》が複数形なのは脅《おど》しなのか、それとも単なる事実なのか。
ロレンスは行商人であることを忘れないために、立ったまま交渉《こうしょう》に臨《のぞ》むことにした。
「その理由をお聞きしてもよろしいですか」
「当然ですね。はっきりと言えば、本当はこの役目はロレンスさんではなかった」
それこそ当然の話だろう。
「当初はジーン商会、ご存じですね? ジーン商会の主、テッド・レイノルズが我々の意思を伝えてくれる候補に挙がっていました。理由は」
「彼が北からの搾取《さくしゅ》構造から逃《に》げ出したがっているから」
キーマンはうなずき、続けた。
「彼はこちらと接触《せっしょく》を持ちたがり、我々も彼を取り込めば銅の貿易について利益がある。だから筆頭に挙がったのが彼です。しかも、ボラン家とそれほど仲が悪くない。ローム川で輸出入を取り扱《あつか》っていますからね。大方あの狼《オオカミ》と組んだことがあるのでしょう」
ロレンスの頭には真っ先に岩塩のことが思い浮かんだ。
ジーン商会がウィンフィール王国に貨幣《かへい》を届けるならば、帰り荷で岩塩の像を運んできてもおかしくはない。
そうなると、昨晩、レイノルズが額に汗《あせ》を浮かべながら部屋にやってきたこともまた別の解釈《かいしゃく》が可能になる。レイノルズはレイノルズで、自分の最大の利益になるところはどこかと頭を悩《なや》ませていたのだろう。
おそらく、念頭にあったのは、南|側《がわ》のキーマンたちから声がかかるはずだというところだろうが、その当てが外れてしまった。そして、それはなぜかと問えば、もっと都合のよさそうな人物がいるとすぐに思い当たったことだろう。レイノルズは北と南の陰謀《いんぼう》の結節点に、どうにかして自分の財布《さいふ》の紐《ひも》をくくりつけようとした。もしかしたら、あの時間、あんなに慌《あわ》てて無様を晒《さら》してまでやってきたのも、全《すべ》て作戦だったとしてもおかしくはない。
背中に滲《にじ》んでいた哀《あわ》れな色は、そんな自分を情けなく思う心の表れだったのかもしれない。
「我々の目的はこうです。イッカクを用いて北側の土地の権利を全て買い取りたい」
「ただし、彼らがその利益を使ってこの町で覇権《はけん》を握《にぎ》らないように」
キーマンはうなずく。
エーブが語った構造そのままのことを思い描《えが》いているのだろう。
しかし、それはエーブがすごいとか、キーマンの発想が貧困だとかいうわけではない。
相手がまったく信用できない状況《じょうきょう》で、それでもなお各々《おのおの》が同じテーブルについて商談をしようと思ったら、その構図にするのが一番合理的ということなのだ。
だとすれば、それでようやくエーブが自分に声をかけてきた本当の理由がわかった気がする。
この賭《か》け事《ごと》の中では北と南をつなぐ接点がなにも知らない人間であっては困るのだ。
真ん中にいる人間がどちらを裏切ってもおかしくはないという、どちらにとっても対等な状況であるからこそ、相手も同じ賭場《とば》に座る。
あとは、仲介《ちゅうかい》者の気をどちらがより多く惹《ひ》けるかの勝負。
そういうことなのだ。
「北|側《がわ》の地主一族の男がボラン家の当主にご執心《しゅうしん》でして。それを使わない手はない。ボラン家の当主さえ我々を裏切らなければ、彼女にとっても、我々にとっても良い結果になるのですが……それはどうなるかわからない」
エーブの複雑な利害関係はロレンスも承知している。
なにがどう作用するのかまったくわからない。
錬金術《れんきんじゅつ》師の釜《かま》のような存在だ。
「情報の伝達役は我々の側の味方にもなれるし、場合によってはあちら側に立つことも可能。そういう人材がよいのです。そうでなければローム川の狼《オオカミ》は警戒《けいかい》して寄ってきませんからね。もちろん、本当ならばそれでもなお我々が確実に勝つように事を運ばなければなりませんから、念には念を入れた計画にしたかったのですが……いかんせん今回我々が取り扱《あつか》う品物は腐《くさ》りやすい」
生きたイッカクだからこそ、というのがある。
「具体的に、私はなにをすれば?」
キーマンは、一つ咳払《せきばら》い。
目を閉じたのは、計画を反芻《はんすう》しているからか。
「文字どおり、情報の伝達役です。我々は狼を信用せず、狼は我々を信用しない。しかし、我々はロレンスさんを信じ、狼はロレンスさんを信じるはずです。ロレンスさんは我々からの商談をあちら側に伝えるだけです。イッカクの状態。値段。引渡《ひきわた》し方法。をの日時。あるいは逃亡《とうぼう》の手助けの算段などを伝えてもらうでしょうし、その返事をこちらに伝えてもらいます」
「利益は?」
キーマンがにんまりと笑うと、薄《うす》い唇《くちびる》の下で犬歯が異様に目立った。
「私は今回のことでローエン商業組合をこの南側の筆頭の組合にしたい。そして、現状の日和見《ひよりみ》的な対応を取り続けるジーダ館長を廃《はい》し、私が館長になる。その際の利益は」
役者のように言葉に間を持たせる。
「ご想像のままに」
自らの足で商品を運び、自らの口で売るのではなく、誰《だれ》かが運んできた商品を誰かの口で売り捌《さば》き、儲《もう》けだけを帳簿《ちょうぼ》の上に記していく。
それはまさしく別世界。
商人であって商人ではないなにかに生まれ変わるのだ。
そのおこぼれに与《あずか》れる時、空から降ってくる利益は途方《とほう》もない。
「もっとも、これは口約束に過ぎません。だからこそ、あの狼《オオカミ》はロレンスさんを取り込む余地が出てくる」
「ですね。それに、向こうは即物《そくぶつ》的な利益を提供できるでしょう」
全員を欺《あざむ》き見事イッカクを手に入れたならば、元貴族のエーブであればそれを最大限の値段で即座《そくざ》に売却《ばいきゃく》することができるだろう。
下手をすれば、エーブからの報酬《ほうしゅう》で金貨の海を泳ぐことだってできるかもしれない。
「できればあの狼を介《かい》したくなどありませんが、そうしないとそもそも交渉《こうしょう》が成り立たない。人はそこまで強くありませんから」
キーマンの発言は意味深だ。
エーブに言い寄っている地主の息子《むすこ》が、自分のためだけに、という理由では身内を裏切れない性格であることまで調査ずみなのだ。
しかし、そこにエーブのため、という理由がつけば話は別。
人は言い訳を手に入れた時、とても強い。
それが色恋の話になれば、小人が竜《りゅう》を倒《たお》した話は枚挙《まいきょ》に暇《いとま》がない。
「なるほど、わかりました。私はどうにか自分の役目を理解できたようです」
ロレンスが笑うと、キーマンもにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
秘密裏の取引では笑顔が契約締結《けいやくていけつ》の証《あかし》になる。
秘密と緊張《きんちょう》に満ちた伝説の商人の話では、いつだって小声の取引のあとに、髭面《ひげづら》の商人同士が蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りの前でほくそ笑むのだから。
「それはよかった。ただ……」
「ただ?」
ロレンスが聞き返すと、キーマンは子供のように無邪気《むじゃき》に笑った。
「ただ、私は完全の確信を持ってロレンスさんを取り込めたと思っていたのですが。どうして……ええ、どうして、立ち直れたのですか?」
ロレンスはその言葉に、顔をうつむきがちに笑ってしまった。
確かにそのとおりだ。
洲《す》の上の商館の別館では、ロレンスは完全にキーマンに型に嵌《は》められていた。
銀細工師もびっくりなほど綺麗《きれい》に型に嵌められていたに違《ちが》いない。
それがほんのわずかな時間を経ただけで、操《あやつ》り人形《にんぎょう》に魂《たましい》が戻《もど》ってきたのは驚《おどろ》くに値《あたい》することかもしれない。
もっとも、キーマンがわからないわけがないと思った。
だからロレンスが笑顔《えがお》のまま黙《だま》っていると、「つまらないことをお聞きしました」と返ってきた。
「商人でも、騎士《きし》でも、王でも、誰《だれ》であっても、一人では大したところまではいけませんからね。それは聖職者であっても同じです」
商人や騎士や王はわかったが、聖職者はわからない。
偉大《いだい》な商人や騎士や王にはいつも彼らを支える偉大な妻なり恋人なりがいた。
だが、聖職者は?
「彼らには、神がいる」
ロレンスは、笑顔の下で呟《つぶや》かざるを得ない。
ならば、ホロを支えにしている自分はどこまでいけるのだろうか、と。
「まあ、我々は嘘《うそ》で塗《ぬ》り固めた薄氷《はくひょう》の上を歩く身分ですが、せいぜい頑張《がんば》りましょう」
キーマンは座ったまま手を差し出してくる。
ロレンスはそれを取って、白々《しらじら》しいほどに固く握《にぎ》り合った。
「では、私は内職ばかりもしていられませんのでね。なお私と連絡《れんらく》が取りたい時は、宿の主人に言っていただければいい。それと、聞き耳を立てるような野暮《やぼ》なことはいたしませんし、それはそちらにも期待したい」
「ええ。いつだって不幸が起きるのは疑念と勘違《かんちが》いからですから」
キーマンはうなずいて立ち上がる。
今度は執務《しつむ》室の時とは違い、きちんとロレンスと連れ立って部屋を出た。
「遅《おそ》くとも明後日の夜までには片がつくでしょう」
必死に、というところはいたずらっぽい笑みと共に。
「ならば、緊張《きんちょう》して夜|眠《ねむ》れなくても最後までもちそうですね」
ロレンスのそんな切り返しにキーマンは笑って、歩き出した。
そのあまりにもあっさりとした歩き方は、今この瞬間《しゅんかん》に誰かがここを通りがかっても、誰もロレンスとキーマンが知り合いだとは思わないようなものだった。
廊下《ろうか》に一人残されたロレンスは、苦笑いしてこう呟いた。
「失敗した時のことをなにひとつ話さないな」
自分も教会都市リュビンハイゲンで似たようなことをした。
羊飼《ひつじか》いの娘《むすめ》に利益ばかりを強調した詐欺《さぎ》同然の取引を持ちかけた時のこと。
しかし、あの時自分は罪悪感に押しつぶされそうだった。
それがどうだ。
キーマンはごく当たり前のこと、といった様子だった。
あんなふうになれるのか、あんなふうにやれるのか、ロレンスには自信がない。
ホロのお陰《かげ》で、本当に取り返しのつかないことになりかけたら全《すべ》てをご破算にしてもらえるという最後の拠《よ》り所《どころ》はできた。
だが、それはあくまでも安心するための最後の砦《とりで》であるし、なによりもロレンスに求められているのはこの話の中からきっちり自分の取り分を手に入れることであり、無難に仕事をこなすことではない。
あんな連中の裏を本当にかけるのか?
かかなければならないし、ここまで来たならかいてみたい。
ロレンスは前髪《まえがみ》をくしゃりと掴《つか》んで、歩き出した。
暗闇《くらやみ》の中で歯を剥《む》いて苦笑する。
英雄譚《えいゆうたん》が、読みたい気分だった。
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第七幕
その日の夜は、宣言どおりというわけではないが、眠《ねむ》れなかった。
おそらく計画の中心にいるキーマンも夜通し根回しや計画立案に忙殺《ぼうさつ》されているだろうが、こちらは受け身の辛《つら》さというものがある。
ロレンスは自分がそれほど優秀ではないことを知っている。
大半の商人はそうだからこそ、新しい情報をいつも探し求めていて、機先を制しようとしているのだ。
今回は完全に後手《ごて》に回らざるを得ない。
その中で相手を出し抜《ぬ》くというのは相当な力量がいる。
策を考えられる時間はほんのわずかであり、見えているものもほんのわずかだ。
自分の身を守りきれるかどうかすら怪《あや》しい。
ホロがいなければ間違《まちが》いなく保身に走り、キーマンの言いなりになっていたかもしれない。
そして、いいように使われ、最後は切り捨てられていたかもしれない。
自嘲《じちょう》気味に笑って、寝返《ねがえ》りを打つ。
ロレンスのベッドは寒い窓|際《ぎわ》なので、軽く顔を上げると木窓の隙間《すきま》から青白い月明かりが目に入った。
エーブには脱帽《だつぼう》の念を抱《いだ》くほど、商人としての力量に差があると思っている。そのエーブに対してキーマンのような人物が全力で挑《いど》む。そんな策略の中に、飛び込んでいく。
ロレンスはもう一度|寝返《ねがえ》りを打って、ため息をつく。
引き返すつもりはなくても、どうしたって緊張《きんちょう》する。眠《ねむ》ろうと思えば思うほど、目は冴《さ》えていった。
どうやら、こういったことにはそもそも向いていないらしい。
一人で苦笑いをしてから、喉《のど》も渇《かわ》いていたので起き上がり、少し夜風に当たることにした。
銅製の水差しは夜の空気ですっかり冷たくなり、氷のようになっている。そんな水差しをぶらぶらとさせながら、ロレンスは静まり返った宿の中を歩いていった。
宿はぐるりと中庭を囲むように作られていて、そこには庭園と井戸《いど》があった。南の地方を旅すれば、どこの町でも建物は同じような造りになっている。もちろん、あれはどこそこの商会、これはどこの地方の商館、と見てすぐわかりはするものの、基本的にはほとんど変わらない。
それは別に皆《みな》が示し合わせているというわけではなく、建物を建てる大工や石工などの職人の多くが、あっちこっちを遍歴《へんれき》しながら仕事をしているせいでそうなるのだ。
遠方に行商に来る前は、世界中には自分の知っている様式の建物しかないのだと思い込んでいた。
そして、そうではないと気がついた時の衝撃《しょうげき》は今でも忘れられはしない。旅は視野を広くするが、それまで慣れ親しんでいた常識の数々がとてもちっぽけなものだということにも気づかされる。そんなことを何年も繰《く》り返していれば、世界がどれほど広く複雑であり、それに対していかに自分が小さいかを知ることになる。上には上が無限にいるし、下には下が無限にいる。
自分にできることは他《ほか》の誰《だれ》かが必ずできるし、自分が思いつくことは他の誰かが必ず思いついている。ロレンスは、青白い月明かりの下でぽつんと空に向かって開いている、井戸の中に釣瓶《つるべ》を落とした。
自分の思いどおりになることはごくわずかで、大半のことは周りの流れによって決められる。
狼《オオカミ》の骨の話を集めるためにエーブに関《かか》わったのが原因で今この状況《じょうきょう》にあるのも、元はといえばレノスの町でエーブに声をかけられたからで、そのレノスの町に行くことになったのは他ならぬホロが原因だ。
自分は確かに目的地に向かって泳いでいるが、そこは池ではなく大きな流れの川の上だ。
ロレンスは釣瓶を持ち上げて、その中に映った綺麗《きれい》な月を覗《のぞ》き込む。
こんな、多感だった駆《か》け出《だ》しの頃《ころ》のようなことを久しぶりに思ってしまうのは、きっと目《ま》の当《あ》たりにしている大きな構造の中で、自分が主役ではないことが気に入らないからなのだろう。
ロレンスが歴史家なら、自分を主役に据《す》えはしない。
やはり、キーマンか、あるいは、エーブか。
そんなことを思って苦笑いをすると、釣瓶の中の水に浮かんだ月も同じように歪《ゆが》んだ。
そんな馬鹿《ばか》な、と顔を上げれば、そこにはどことなく予想ができていた、ホロがいた。
「いい夜じゃな?」
後ろ手に組んで、町娘《まちむすめ》が天気の良い日の町中で出会ったように微笑《ほほえ》んでくる。
ロレンスは同じように微笑んで、「そうだな」と答えた。
「月が満ち欠けするように、月のせいでわっちらの気分も満ち欠けする」
釣瓶《つるべ》の中の月を指で突《つ》つきながらホロは言って、白い息を細長く吐《は》いた。
「ぬしが思わせぶりに部屋から出ていくからの。つい釣《つ》られてしまいんす」
「俺が声をかけてもらいたそうにしていたと?」
返事の代わりに、ホロはにんまりと笑う。
「……かもしれないな」
素直《すなお》に降参できるようになったのは、きっと進歩なのだ。
「じゃがな」
と、ホロは井戸端《いどばた》に置いてあった水差しを手に取って、両手で弄《もてあそ》びながら続けた。
「わっちもちょっとぬしと話がしたかった」
「俺と?」
「うん」
「それは、人心掌握《じんしんしょうあく》のための秘訣《ひけつ》を教えてくれる、とかか」
ロレンスが尋《たず》ねると、ホロは小さく吹《ふ》き出した。
そして、冷たい水差しを抱《だ》きかかえるように持ちながら井戸縁《いどべり》に軽く腰掛《こしか》けた。
「それなら敢《あ》えて教える必要はあるまい。わっちゃあぬしの心を掌握しっぱなしなのじゃから、方法はわかっておるじゃろう?」
「確かにそうかもしれない、と答えておこう」
「よい心がけじゃ」
ホロは牙《きば》を見せて笑い、そのままゆっくりと潮が引くように笑みが消えていった。
ホロはとても感情豊かでしたたかな狼《オオカミ》だ。
いつも波がうねるような海のごとくで、遠くから眺《なが》めているだけではそのどこにごつごつと尖《とが》った岩礁《がんしょう》があるかわからない。
時折潮が引いて本音が見えると、とんでもないところにあったりする。
それで何度船が沈没《ちんぼつ》しかけたことかと、ロレンスは冷えたホロの頭を意地悪く撫《な》でてやった。
「ぬしにな」
「ん?」
「ぬしにな、はっぱをかけたことを後悔《こうかい》しておる」
ロレンスもホロの隣《となり》に腰掛ける。
ホロは氷よりも冷たくなっているだろう銅製の水差しを、懐炉《かいろ》のように抱《だ》きかかえている。
「俺は感謝しているけどな。そのお陰《かげ》でキーマンに対抗《たいこう》することができた」
それは嘘《うそ》ではない。
しかし、ホロはそこに嘘を探したがっているかのように耳を忙《せわ》しなく動かして、うつむくようにうなずいた。
「わっちゃあそれを後悔《こうかい》していんす」
「それを? いや……言われずにやれればそれに越《こ》したことはないだろうが……」
「そういうことではありんせん」
ホロは首を横に振《ふ》って、大きく息を吸う。
そして、はっきりとこちらを向いて口を開いた。
「ぬしほど賢《かしこ》ければ、あとはきちんと周りが見えておれば大抵《たいてい》のことはできる。じゃがな、誰《だれ》にも向き不向きがありんす。わっちゃあぬしをけしかけたが、その先にあるものはぬしには向いておらぬ気がした。ぬしが望んでおるものではない気がした」
ロレンスが赴《おもむ》こうとしているのは権謀術数《けんぼうじゅっすう》に長《た》けた町商人たちの争いの渦中《かちゅう》だ。
ただ、それは町で店を開こうと思えば必ず目《ま》の当《あ》たりにする世界であって、ホロが気にするようなことではないと思った。
だから、それを言おうとして、ホロに先に回り込まれた。
「大体、ぬしにもしもあんな連中と渡《わた》り合うことを望むほどの気概《きがい》があるのなら、とっくにわっちを最大限利用しておるじゃろう?」
もしもエーブなら、キーマンなら、きっとそうする。
最初からホロを使ってどうにかしようとするはずだ。
なぜなら、合理的に判断すれば、それがもっとも強力な武器だからだ。
「ぬしはもっとな、こう、堅実《けんじつ》に、底堅《そこがた》く、ゆっくりとした流れを望んでおるように見えるし、それが似合っておるように見える。わっちがけしかけた先には、その真逆がある。違《ちが》うかや?」
違っていない。
元々ホロと出会う前にやっていた商売の儲《もう》けの額を数えてみればいい。
常に上ばかりを見ていた割に、その堅実な商売に満足している部分があった。
そもそも、店を持ちたがっていた理由を思い出してみればどうか。
それは世界をこの手に握《にぎ》りたくてそう望んでいたのではない。
そんな大それた理由ではなく、自分が、町という一つの小さな世界に入りたくて、店を持ちたかったのだ。
「だがな」
ロレンスは答えて、言った。
「だがな、お前が俺はこういうことに向いてないと思ってたことには、ちょっと傷つくな」
ぴくりとホロの耳がフードの下で動く。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「向いてないじゃろう?」
「はっきり言われると怒《おこ》ることもできない」
ロレンスは苦笑い。
しかし、空を仰《あお》いで月に向かって息を吐《は》くと、苦笑いの苦い部分は白い煙《けむり》になって飛んでいった。
「だが、俺はこの話から降りない」
宣言して顔を戻《もど》すと、ホロはロレンスの吐き出した苦い部分を吸い込んでしまったかのような顔をしていた。
「お前がそういう顔をしてくれるからな」
「う……」
額を小突《こづ》いてやると、不安そうな顔を隠《かく》さなかった。
その様子を見ると、ホロはロレンスをけしかけたことを相当|後悔《こうかい》しているようだった。
いつもはなにかあるたびに、ロレンスのことをへたれの行商人では困る、などと言っておきながら、きちんとこういうことも心配してくれているのだ。
ただ、それは単にロレンスがこの手のことに向いていなさそうだから、という理由だけではないような気がした。
「お前がそんなに後悔するということは、なにかよほどのことを俺に期待していたな?」
ロレンスが一人で悩《なや》んで一人で結論を出すと怒るくせに、ホロはホロで同じことをする。
賢《かしこ》いホロには、そこを声に出して指摘《してき》するよりも、黙《だま》っているほうが効果的だった。
やがて、諦《あきら》めたように口を開いた。
「ぬしは、わっちとの旅を本にまとめるつもりらしいからの」
「え?」
確かにそんなことを言った気もするが、つながりがよくわからない。
ホロが少し怒ったように睨《にら》んでくるのは、ここで察してもらいたかったからだろう。
しかし、ロレンスの頭の限界を悟《さと》ったのか、ふてくされるように続けた。
「だとしたら主人公はぬしじゃろう? 主人公は主人公らしくして欲しかったんじゃ。わっちゃあ……わっちゃあ脇役《わきやく》じゃったからな。せめてもと思いんす」
ホロは自分の故郷を滅《ほろ》ぼしたという、月を狩《か》る熊《クマ》を巡《めぐ》る大昔の言い伝えの中で、脇役どころか蚊帳《かや》の外だった。
井戸縁《いどべり》に腰掛《こしか》けて、足をぶらぶらさせるその姿はひどく子供じみていた。
確かに、自分が世の主役でいたいと願うだなんて、まるっきり子供のようだ。
「じゃが、それは本当にわっちのわがままじゃ。そのせいでぬしが危ない目に遭《あ》ったり、こんないかにも声をかけてもらいたそうに夜の中庭に出るようになったら、わっちゃあ心苦しい」
ホロは言って、自分の胸に手を当てると、さも苦しそうに顔を歪《ゆが》めてくる。
ロレンスはその右|頬《ほお》を軽くつねり、放した。
「まあお前の言いたいことはわかったが……」
頬をさすりながら少しムスッとした顔を向けてくるホロに、ロレンスは強気に答えるしかない。
「そんなふうに言われたら、ますます降りられないな」
それは期待されているということだから。
ホロにそんなことを期待されていたとしたら、応《こた》えないでいられるわけがない。
「じゃからわっちゃあ言いたくなかったんじゃ……」
「意地になるからか?」
笑って聞き返してやると、脇腹《わきばら》を殴《なぐ》られた。
そして、ホロは冗談《じょうだん》とも思えない真剣《しんけん》なまなざしを向けてくる。
「わっちの気配りを無下にすることがどれほど高くつくか知らないわけではあるまいな?」
「……」
それは身にしみてわかっていることだし、ホロがそんなことを言うのは、裏返せば「期待するぞ」ということだ。
ロレンスは十分に間をとったうえで、しっかりとうなずいた。
当然、遊びでやるわけではない。
しかし、ホロは訝《いぶか》しげな視線を向けてくる。
「本当にわかっておるのかや」
「わかっているつもりだが」
「本当に?」
と、あまりにもしつこいのでロレンスはようやく気がついた。
相手が物語の主人公になるようにと願うその人物は、物語の中では一体どんな役回りだろうかと。
願って心配するだけで結果を総取りできるのだから結構な御身分《ごみぶん》だといえなくもない。
しかし、問題は古今東西《ここんとうざい》の男連中は、そんな相手にこそ弱いということだ。
「もちろん」
月明かりの下でホロの温かい体を抱《だ》きしめながら、ロレンスはもう一度答えていた。
ホロの尻尾《しっぽ》がローブの下でぱったぱったと揺《ゆ》れる。
この世は皆《みな》が皆主役になりたがっている舞台のようなもの。
自分たちの都合だけでは動いてくれはしない。
その中で主人公になるのは並大抵《なみたいてい》のことではないことくらいわかっている。
しかし、誰《だれ》かから期待されていれば話は別だ。
腕《うで》の中で身じろぎしてひょいと立ち上がるホロのその様子は、胸のわだかまりがなくなったように軽々としていた。
それを見るだけでも、後悔《こうかい》はしない。
「ほれ、さっさと水を汲《く》んで戻《もど》ろう。寒い」
どこか照《て》れ隠《かく》しのように聞こえたのは気のせいではないはず。
ロレンスはホロから水差しを受け取り、汲み上げた水を入れて右手に持つ。
左手はホロが握《にぎ》り、くすぐったそうに笑っている。
いいように乗せられたのかもしれないが、この話が狼《オオカミ》の骨の話につながっているのも間違《まちが》いのないことだ。
そして、ホロがそれを切望していることも。
翌日の昼過ぎ、ロレンスはキーマンに呼び出された。
部屋を出る時、心配そうな顔をしているのはむしろコルのほうだったのが、印象的だった。
ローエン商業組合在ケルーベ商館。
異教と正教の地をつなぐ重要な貿易港の町ケルーベで、ローエン商業組合の利益を代表する機関だ。
そこには海千山千《うみせんやません》の商人が何人も集《つど》い、そんな連中を束ねる人間がいる。
彼らを出し抜《ぬ》くことすら至難の業《わざ》だろうに、ロレンスはこれからキーマンの命を受け、他《ほか》の組合を出し抜き、北|側《がわ》の地主たちを出し抜こうとしている。
エーブがこちらを裏切らなければ万事が丸く収まりうまくいく。
キーマンらの夜を徹《てっ》しての議論の結果でもやはりそうなったという。
その後の根回しはすでに終えているはず。
ロレンスに求められているのは難しいことではない。
あの一匹狼《いっぴきオオカミ》のエーブの信頼《しんらい》を得て事を円滑《えんかつ》に進める。
それだけのことだ。
「お連れの方は本当に連れていかなくても?」
「ええ、構いません」
商館は朝から慌《あわただ》しく、キーマンと話ができたのも出発前のほんのわずかな時間だけだった。
キーマンは商館の館長について交渉《こうしょう》の場に立つ人間であるから、糊《のり》の利《き》いた襟《えり》付きの服に身を包んでいる。
北側の地主と南側の顔役たちの交渉は川を渡《わた》った三角洲《さんかくす》で行われるから、ホロやコルを南側の宿に置いたままにしておくのはいかにもロレンスが人質を取られている、といった格好になってしまう。
それを考慮《こうりょ》してわざわざ連れていくかと聞いてきたのだろう。
「では、ボラン卿《きょう》にお伝えしてもらうべき事柄《ことがら》は先ほど説明したとおりです。こちらの根回しも複雑になってしまいましたからね。独断でなにかをされると小さな穴からとんでもないものが出てくることになります」
じっとロレンスの目を見て言ってくるキーマンの言葉に、ロレンスは落ち着いてうなずいた。
仮に全貌《ぜんぼう》を話されたとしてもロレンスにはきっと理解できないだろう。
ホロとコル相手にすら政治的な立ち回りができないのだ。
キーマンがロレンスのようにからからに乾《かわ》いたライ麦パンと雨水だけで二週間に及《およ》んで山道を走破できないように、ロレンスはキーマンのように立ち回れない。
その言に従っておいたほうが危険は少ないはず。
独断をするのだとしたら、最後の最後、事の成否の判断が自分の手の届く範囲《はんい》に降りてきたその瞬間《しゅんかん》だけだ。
キーマンは他《ほか》にもなにか言いたそうだったが、部屋の扉《とびら》をノックする音で中断された。
出発は代表団でまとまって行くことになっている。
時間になったのだろう。
「では、お願いします」
キーマンの命をしっかりと受け止め、ロレンスは入ってくる人間と入れ違《ちが》いに外に出た。
商館の中はまるで合戦《かっせん》前のような雰囲気《ふんいき》で、一階の食堂はまさしくそんな感じだった。
もっとも、こちらの陣営《じんえい》には勝利の女神ならぬイッカクがあるので、勝利を確信しているうえでの妙《みょう》な高揚《こうよう》感に満ち満ちていた。
言うなれば、どこが一番の戦果を挙げられるかといった感じだろうか。
前評判では、そもそもこの騒《さわ》ぎの元になったイッカクを捕《と》らえた北|側《がわ》の漁船を拿捕《だほ》した組合が一番だ。
ローエン商業組合が交渉《こうしょう》の主導権を握《にぎ》るのは難しいと組合員たちですら囁《ささや》き合っている。
もちろんだからといって諦《あきら》めているわけがなく、きっと食堂の隅《すみ》で船を漕《こ》いでいたり、突《つ》っ伏《ぷ》して眠《ねむ》りこけている無精髭《ぶしょうひげ》だらけの商人の何人かは、南側の陣営内での争いで一足先に戦ってきた者たちだろう。
騎士《きし》や傭兵《ようへい》らは即物《そくぶつ》的なので未《いま》だ手元に物がないのに分け前の相談はしない。
それに対して商人は皮算用が大好きなので、まだ手に入っていない利益の分け前を巡《めぐ》って、昨晩は喧々諤々《けんけんがくがく》の舌戦が繰《く》り広げられたに違いないし、今でも続いているかもしれない。
商館の表|玄関《げんかん》にはジーダ館長やキーマンといった幹部を乗せるための馬車が何台も待機していて、その隙間《すきま》を縫《ぬ》って物乞《ものご》いの格好をした者たちがひっきりなしにやってきては雇《やと》い主《ぬし》の商人に耳打ちして去っていく。
ロレンスは材木と毛皮の町レノスで、エーブから教えられた単語を思い出していた。
商戦。
こんな雰囲気《ふんいき》に血が沸《わ》いてしまうのは、大きな商談を前にしているからではない。
男に生まれたから、きっとこんなにもこの空気が愛《いと》しいのだ。
「諸君《しょくん》!」
そして、そんな一声が商館のざわめきをぴたりと静めた。
視線を集めるのは痩《や》せぎすで頭の禿《は》げ上がった長身の老人、ジーダ館長だ。
キーマンは彼を日和見《ひよりみ》と呼んだが、いつだって混乱を回避《かいひ》しようとする立場にある者はそんな呼ばれ方をする。
キーマンらのように貴族然とした格好ではなく、ゆったりとしたローブのような服に身を包んでいるその姿は、老境に差しかかった者ならではの存在感を醸《かも》し出している。
じろりとねめ回すその目つきも、百年先まで見通しそうな奥深い青色だった。
「守護聖人ランバルドスの名において、我が商会に栄光あれ」
「栄光あれ!」
商人らの喝采《かっさい》を受けてジーダ館長らは商館から出ていった。
キーマンはロレンスのほうなど一切《いっさい》見ず、商館を出て馬車に乗る寸前まで複数の人間と言葉を交《か》わしていた。
ロレンスはこの光景に思わず自分の胸元《むなもと》に手を当ててしまう。
こんな光景を前にして、本当に自分がこの騒《さわ》ぎを転覆《てんぷく》させかねない計画の一端《いったん》を担《にな》っているのかと不思議になってしまったのだ。
ホロが側《そば》にいたら、行商人根性が染みついておるの、と笑われたかもしれない。
いや、自分で笑ってしまったのだからきっと笑われるだろう。
渡河《とか》はもう制限されていないので、幹部連中に続いて、高みの見物かあるいはロレンスと同じような水面下の指示を受けている商人たちも商館を出ていった。
ロレンスはその後ろのほうに紛《まぎ》れ込み、一路ローム川を目指した。
目抜《めぬ》き通《どお》りにずらりと並ぶ商館や商会からも人が出てきていて、通りは一種異様な雰囲気《ふんいき》だった。
もちろん通常通りの取引も行われてはいるし、町の人間の全《すべ》てが商人なわけではない。
それでも数多《あまた》の商人たちがこぞって北を目指すその様は、北への大遠征《だいえんせい》を思わせた。
折しも教会の鐘《かね》が高らかに鳴り、まるで鼓舞《こぶ》しているかのように重厚な音色が響《ひび》き渡《わた》る。
いつもは客を客と思わないような渡し船の船頭も、今日ばかりは無口で腰《こし》が低い。
川岸にはずらりと見物人が並んでいて、騒《さわ》ぎが起きないようにと槍《やり》や斧《おの》を持った兵が何人も立っている。
わずかに船に揺《ゆ》られ桟橋《さんばし》に上がると、雰囲気に飲まれたのか気の弱そうな商人は自分の膝《ひざ》を叩《たた》いていた。
それを笑う者は誰《だれ》もいない。
全員が押し黙《だま》り、ぞろぞろと三角洲《さんかくす》に上がっていく。
商売とは無縁《むえん》の見物人たちが、揃《そろ》って異様なものを見るような目をしているのは気のせいではないはず。
古来、土地の取った取られたの争いは剣《けん》で行われ、実にわかりやすい話だった。
それが今や羊皮紙の上のインクで決着がつこうとしているのだから、奇妙《きみょう》な呪術《じゅじゅつ》が執《と》り行われていると思われても仕方がない。
ロレンスもその印象には同感だ。
交渉《こうしょう》の舌戦から金貨が生まれたりすることは、魔方陣《まほうじん》から悪魔を呼び出す召喚《しょうかん》術となにが違《ちが》うのだろう? 教会が金|儲《もう》けに邁進《まいしん》する商人に手厳しくても当然だ。それはまったく悪魔の力を借りた摩訶《まか》不思議な所業なのだから。
誰が道案内をするわけでもなく、一行《いっこう》は流れに沿って歩いていく。到着《とうちゃく》したのは、三角洲《さんかくす》の中でもっとも高額な品がやり取りされる、金《きん》の泉《いずみ》のほとりだった。そこに並べられたテーブルの上を滑《すべ》るのは、金銭で換算《かんさん》が不可能なほどに高価な品物が書かれた羊皮紙だ。あるいは、権威《けんい》や名誉《めいよ》、さもなければ意地かもしれない。
そして、ロレンスたちのような下《した》っ端《ぱ》の商人たちは途中《とちゅう》で行く手を遮《さえぎ》られ、先に進むのは身なりの良い幹部の商人たちばかりになる。北|側《がわ》からも同様にぞろぞろと人がやってきて、並べられた席に着く。どちらの陣営に並ぶ人物も、人を顎《あご》で使うことに慣れた風情《ふぜい》であり、大昔に行われたという賢人《けんじん》会議を思わせる。
ただ、今現在、明らかに相手を圧倒《あっとう》しているのは南側の連中だ。着ている服も、従者も、立《た》ち居振《いふ》る舞《ま》いも、全《すべ》てから金と権力の匂《にお》いがする。
対する北側の面々にあるのは威厳だけだ。しかも、それは怒鳴《どな》り声によって支えられているような危《あや》うさがあった。
南側の面々はおそらく席順で序列が決まっており、ローエン商業組合の代表たるジーダ館長は、真ん中に座る最も身なりの良い老人から右に三席ずれている。
きっと、この序列の順位に従って、利益の分配が取り決められているはずだ。北側の連中はそれを知らないわけはないだろうが、一体どんな気分なのだろうかと思う。自分たちの財産を勝手に分配しようという面々の前に座る、その気分は。
ただ、このまま話を進めればローエン商業組合にとってどれほどの利益になるのかわからない。少なくともわかっていることは、このままではその手柄《てがら》はジーダ館長のものであり、下々《しもじも》の者たちに分配されるのはほんのわずかなものだけだろうということだ。
もしもそれを組合を通さずに数人の手で山分けできたとしたら、と考えると口が勝手に笑ってしまう。
それくらいのもののはずだった。
やがて、北|側《がわ》の面々もテーブルにつき終わると、その後ろに立つ従者と思《おぼ》しき商人がそれぞれの主《あるじ》に耳打ちをしている。
最後の作戦会議というところだろうが、一様に表情は厳しい。
そんななか、意外だったのは北側でテーブルの真ん中についた最も身なりの良い者の後ろに立つのが、見知った顔だったことだ。
そこにいるのはジーン商会のテッド・レイノルズだった。
この辺りの正装なのか、他《ほか》の者たち同様先の細まった高い帽子《ぼうし》を被《かぶ》っている。
場合によっては、キーマンが北側の息の根を止める策略の橋渡《はしわた》しにしようとしたのがレイノルズなのだから、真実というものは恐《おそ》ろしい。
それとも、キーマンがレイノルズに話を持ちかけていたら、レイノルズはこちらを裏切ったのだろうか。
真実はわからないが、ロレンスがレイノルズを遠目に眺《なが》めていると、ふとレイノルズがこちらを見たような気がした。数多《あまた》の商人の視線に晒《さら》されているのだから、ロレンスにだけ気がつくということはないはずだ。
それでも目が合ったような気がしたのは、緊張《きんちょう》して自意識|過剰《かじょう》になっているのかもしれない。
いや、実際に緊張しているのだ。
エーブの姿はここにはない。
キーマンの説明ではエーブは表舞台《おもてぶたい》には立たないということであり、そのとおりだった。
机の下のやり取りを任されているというエーブ。
きっと今頃《いまごろ》は、どうにかして周りを出し抜《ぬ》いて利益にありつこうとしている連中の熱い恋文の返信に忙殺《ぼうさつ》されていることだろう。
ロレンスも花束を持って駆《か》けつけるべく、踵《きびす》を返して人垣《ひとがき》から離《はな》れ出た。
それから少しして、背後からは交渉《こうしょう》の開始を告げる宣誓《せんせい》が高らかに謳《うた》われた。
その宣言をしたのが南側の人間なのだから、そこでこれから行われることがまったくの儀式《ぎしき》であるということに疑問の余地はない。
ただ、儀式とは神になにかを祈《いの》る行為《こうい》に他ならない。
あのテーブルにつく者たちが、一体神になにを祈っているのだろうかと考えると、ロレンスは空恐ろしくなって、上着の襟《えり》をかき寄せたのだった。
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第八幕
山の頂にたどり着く道が何本もあるように、エーブに連絡《れんらく》を取る方法もたくさんあるのだろう。ロレンスが指定されたのは、奇《く》しくもホロがコルを連れ込んでくだを巻いていた、簡易《かんい》の宿屋だった。
一階には客が一人もおらず、さりとて宿の主人がそれほど困った面持《おもも》ちでないのは、北|側《がわ》の人間がこの宿を借り切っているからか。今日は、三角洲《さんかくす》の上の宿屋や酒場は全《すべ》てがこんな感じなのかもしれない。
ロレンスが片面を削《けず》ってある大昔に滅《ほろ》びた王族の発行した銅貨を渡《わた》すと、主人は空のジョッキをカウンターに置き、宿の階段を指差した。
「はい、毎度」
それを持って階上に行けということだろう。
ロレンスが指示に従って階段を上《のぼ》っていくと、二階の廊下《ろうか》の奥のほうで立ち話をしている商人の姿があった。
危《あや》うく見|逃《のが》しそうだったが、一度見た人の顔は忘れない行商人の特技が役立った。
付《つ》け髭《ひげ》と、おそらく服の内側に綿かなにかを詰《つ》め込んで体型を変えてはいるが、間違《まちが》いなくエーブの見張りをしていた男だ。
ロレンスが改めてそちらを向けば、同時に鋭《するど》い視線で射|抜《ぬ》かれた。
「景気はどうだい」
ロレンスが一瞬《いっしゅん》足を止めながらも、怯《ひる》まずにそちらに向かって歩いていくと、知らない顔のほうの男が声をかけてくる。なにかの符丁《ふちょう》が必要なのだろうが、ロレンスは慌《あわ》てずに手にしていたジョッキを逆さにして、「酒も飲めないくらいに儲《もう》からない」と答えた。
相手はにかりと笑って、すぐ側《そば》の部屋の扉《とびら》を指差した。
男のずんぐりとした指の爪《つめ》が全《すべ》て反《そ》り返っているのは、およそ商売では必要がないほどの力仕事に明け暮れている証《あかし》だ。
ロレンスは愛想笑《あいそわら》いを浮かべながら扉をノックして、返事を待ってゆっくりと入る。
部屋に入ると、まずむせ返るインクの匂《にお》いに圧倒《あっとう》され、それにまじって軽く鼻を突《つ》く刺激臭《しげきしゅう》に顔をしかめた。
それは、寡黙《かもく》そうな老人が部屋の隅《すみ》で判を押すための蝋《ろう》を溶《と》かしている臭《にお》いだった。
「あんたがこの部屋に来たことが、どれだけオレを失望させたかわかるか」
運動して疲《つか》れることと頭を使って疲れることは同じものではない。
エーブは文字を読んで疲れた時独特の顔つきのまま、わずかに笑って手紙や書類であふれ返るテーブルに頬杖《ほおづえ》をついた。
「昼寝《ひるね》の時間でしたか?」
「ああそのとおりだ。辺りはこんなにも寝言であふれている」
入り口に立っているロレンスの足元にも手紙の類《たぐい》が散らばっている。
軽く目を落とせば、すぐ目に入るだけでも脅迫《きょうはく》じみたものが二通、北|側《がわ》の誰《だれ》が南側の誰とつながっているという真偽《しんぎ》の不明な告発が三通、我々と手を組まないかといった誘《さそ》いが三通、僕と遠い国に逃《に》げないかというのが一通あった。
ロレンスはその最後の洒落《しゃれ》の効いた一通を拾って、エーブの下《もと》に届けた。
「昔、オレはすぐそこの海峡《かいきょう》を渡《わた》ろうとする巡礼《じゅんれい》者の一行《いっこう》と同じ船に乗ったことがあるんだがな、運悪く海賊《かいぞく》連中に追いかけられることになってしまった」
突然《とつぜん》なんの話をするのかと思ったら、エーブはその紙を指でつまみ上げ、綺麗《きれい》に折りたたみ始めた。
「命の危険に怯《おび》える巡礼者の一行は、当初こそ神に祈《いの》っていたがな、船員が何人も殺されて、いよいよ駄目《だめ》だという雰囲気《ふんいき》になってきた時、連中はなにをし出したと思う?」
「さあ」
ロレンスが答えると、エーブは楽しげに続けた。
「やがて巡礼者同士、あっちこっちで腰《こし》を振《ふ》り始めたんだ。オレはそれを見て、人はなんと不思議で、強い生き物かと思ったものだ」
命の危機は最高の惚《ほ》れ薬《ぐすり》と言った詩人がいた。
しかし、当然疑問がある。
「その時エーブさんは一体なにを?」
エーブは折りたたんだその紙を、ひょいと暖炉《だんろ》の中に放《ほう》り投げた。
「自分の身代金《みのしろきん》を確保するために、連中の荷物を漁《あさ》っていたよ」
かさかさに乾《かわ》いた唇《くちびる》はつり上げず、目元だけでエーブは笑う。
ロレンスは肩《かた》をすくめて、懐《ふところ》から羊皮紙を取り出した。
「これをお渡《わた》ししろと」
「見る必要はない」
エーブが答えると、ゆるゆると蝋《ろう》をかきまぜていた老人がちらりとこちらを見てくる。
エーブは老人に向かって小さく指を動かし、老人はまた視線を溶《と》けた蝋に落とした。
老人は耳が聞こえていない。
あるいは、そう思わせてロレンスにあれこれ喋《しゃべ》らせるつもりか。
「オレの興味は、あんたがオレの味方かどうか、という一点に尽《つ》きる」
「正確には、最後に言うことを聞いてくれるかくれないか、では?」
やはり、エーブは口元でなく目元で笑う。
ロレンスの言葉には返事をせず、代わりに手を差し出してきた。
羊皮紙を渡すと、なんでもない手紙のようにあっさりと開く。
「ふん……予想どおりすぎると不気味だな。まるであんたがオレとの密会を洗《あら》いざらい喋ったかのようだ」
「ご冗談《じょうだん》を」
ロレンスが商談用の笑顔《えがお》で慇懃《いんぎん》に答えると、エーブはつまらなそうに羊皮紙をテーブルの上に置いた。
「あの男はテーブルについたのか……」
そして、一人|呟《つぶや》き、目を閉じる。
少なくともロレンスが運んできた羊皮紙は、他《ほか》のものより多少は長くエーブに検討《けんとう》してもらえそうだった。
「あんたはどう思う?」
エーブは目を閉じたまま訊《たず》ねてくる。
駆《か》け引《ひ》きは、まだ早い。
「エーブさんがすんなりと受け入れてくれれば、つつがなく私の役目は終わります」
「地主一族の手による土地の権利|移譲《いじょう》書とイッカクを引き換《か》えにする。オレは北の裏切り者とイッカクの利益を山分けし、あんたらは周りを出し抜《ぬ》いた利益を分配する」
「万事めでたしですね」
ロレンスが言うと、エーブは大きくため息をついて目頭《めがしら》を揉《も》んだ。
「人の心の中身を自分の目で確認《かくにん》できないというのは辛《つら》いな」
取引がそんなふうにうまく行くと相手を信じきることができるのは、今まで一度も裏切りなど見たことがない連中だけだろう。
一体どうして、自分たちは他の誰《だれ》かを欺《あざむ》いているのに、自分たちの取引だけは大丈夫《だいじょうぶ》だと胸を張って言えるのだろうか。
「キーマンが誰とつながっているかわかるか?」
ロレンスを試《ため》しているわけではなく、純粋《じゅんすい》な質問の形式。
「いいえ」
「イッカクを秘密裏に運び出す手段に現実味はあるのか?」
「見張りの兵を脅迫《きょうはく》と買収で動かせるとか」
「土地の権利移譲書は実権を握《にぎ》っていない息子《むすこ》に書かせるわけだからな。実質的な効力を持つか怪《あや》しい。キーマンはそこをどうするつもりだ」
「三代目の御当主《ごとうしゅ》は近隣《きんりん》の領主に挨拶《あいさつ》に行って成人されていますし、町の裁判権は町の参事会、教会、周辺領主と、入り組んでいます。自分たちの権利を主張する拠《よ》り所《どころ》さえあれば、どうにでもなると」
「なるほど。そして、あんたはそのキーマンの言葉を信じるのか」
無知な民衆を哀《あわ》れむ貴族のように、エーブは低い位置からロレンスを見下している。
まるでエーブは、キーマンが罠《わな》を張って待っていることを確信しているかのような口ぶりだった。
「言葉は信じませんが、従うことはします」
エーブはロレンスから視線をそらす。
「模範《もはん》的な回答だ。だが、オレたちの距離《きょり》は縮《ちぢ》まらない」
キーマンの提案は受け入れられないということか。
ロレンスはキーマンの話を頭から信じているわけではないが、エーブにとって悪い話だとも思えない。
「エーブさんにとって最善の選択《せんたく》は?」
ロレンスは逆に聞いてみた。
「言っただろう? 誰《だれ》も彼もを裏切って、オレが利益を独占《どくせん》する」
「そんな――」
思わず口をついて出そうになった言葉に、ロレンスは慌《あわ》てて口を閉じた。
エーブが楽しそうに笑っている。
続きを言ってみろ、ということだろう。
「なぜ、そんな子供のようなわがままを?」
この話はむしろエーブがキーマンに持ちかければ、おそらくあっさりと、そして即座《そくざ》に決まるような話だ。
キーマンは狂喜《きょうき》するに違《ちが》いない。
それをなぜエーブは頑《かたく》なに疑い続けるのだろうか。
なにか理由があるにしてもおかしな気がしてくる。
もしもこの話を頭から信用できないのであれば断ればよい。
それとも、その言葉どおり、本当に自分に利益が集中しなければ嫌《いや》だと考えているのだろうか。
そんな、子供じみた、あまりにも聞き分けのない呆《あき》れるようなことを。
「子供? そうさ。子供みたいなものだ」
エーブは笑って、小さく深呼吸をする。
吐いた息は、思いのほかテーブルの上のたくさんの紙を動かした。
「暖炉《だんろ》で火傷《やけど》した赤《あか》ん坊《ぼう》は、火が消えていても暖炉を恐《おそ》れるだろう?」
「……そうだとしたら、商人はなにもない部屋の真ん中で震《ふる》えている以外にすることがなくなってしまいますよ」
騙《だま》され、火傷をし、それでもなお利益に手を伸《の》ばそうとするのが商人のはず。
そして、その権化《ごんげ》のような存在がエーブではなかったのか。
ケルーベという貿易の要《かなめ》になるような港町の、支配権に関《かか》わるような騒《さわ》ぎでその中枢《ちゅうすう》にいるのはその証左《しょうさ》ではないのか。
ロレンスが半ばの怒《いか》りを持ってエーブに詰《つ》め寄ると、胡乱《うろん》な瞳《ひとみ》を向けられた。
「わたしも、初めから商人だったわけではないんだ」
「っ」
その弱々しい声音《こわね》に、ロレンスは息を飲み、たじろいだ。
エーブはそんなロレンスを軽く一瞥《いちべつ》しただけで、疲《つか》れきったようにテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》した。
紙が大きく舞《ま》う。
耳の聞こえないらしい老人が慌《あわ》てて立ち上がったが、エーブはテーブルにうつぶせになったままそちらを向いて、軽く微笑《ほほえ》んだ。
「馬鹿《ばか》馬鹿しいと思わないか。こんな紙切れのやり取りと、口から出てくる形のない言葉で、人の命すら買えるような金貨が転がり込んでくる」
エーブは一枚の紙を手に取り、落とす。
そして、ゆっくりとロレンスのほうに視線を向けた。
「心から信用していた者に裏切られたことはあるか? それでもあんたは誰《だれ》かを信用することができるか? オレが信じられるのは、誰かを裏切っている自分だけだ」
獣《けもの》の牙《きば》は、誰かを攻撃《こうげき》するための武器と同時に、自分の身を守る盾《たて》だ。
ならばエーブが牙を研《と》ぐのは、それだけ身を守る必要があるということなのか。
「あんたは自分の命がかかっているような場面でオレに聞いたな? 金儲《かねもう》けの果てになにが待っているのかと。オレは答えただろう? 期待しているんだ……」
エーブはゆっくりと目を閉じて、同じくらいゆっくりと、開いた。
「いつか満ち足りて、不安と苦しみのない世界にたどり着けるんじゃないかと」
足を一歩引いてしまったのは、怖《こわ》かったからだ。
不安と苦しみのない世界を目指して裏切りを繰《く》り返すなど、人間の罪の根源を見せつけられたような気がした。
これが演技だとは思えない。
罠《わな》だとも思えない。
エーブはゆっくりと体を起こし、億劫《おっくう》そうに椅子《いす》の背もたれに寄りかかった。
そして、こんな台詞《せりふ》を平然と言うのだ。
「いいぜ。キーマンの提案を受け入れよう。あんたはオレのこの言葉を」
一拍《いっぱく》間をあけたあとには、蛇《ヘビ》のように笑っていた。
「伝えてくれ」
エーブは天才だった。
こんな言葉を一体どうやって信用しろと言うのだろうか。
キーマンになんと報告すればいいのだろうか。
可能性と疑念の目くらましにこみ上げる吐《は》き気《け》を飲み込んで、ロレンスは背筋をゆっくりと伸《の》ばした。
伝えてくれと頼《たの》まれたら、ロレンスにはこう答えるしかない。
「……畏《かしこ》まりました」
恭《うやうや》しく頭を下げて、踵《きびす》を返す。
ロレンスは一瞬《いっしゅん》、エーブが何本もの触手《しょくしゅ》を持ち、時として船を食べ人に悪夢をもたらす海の赤い悪魔《あくま》のような存在に見えていた。
エーブはきっと本当に誰《だれ》も信用していない。
全《すべ》ての人間を裏切って自分の利益のために奔走《ほんそう》してもおかしくはない。
しかし、どこかで誰かを信用して取引を成立させなければ、利益を手に入れられないのもまた事実だ。
エーブは一体最後に誰を信用するつもりなのか。
そして、その取引ののち、最後に騙《だま》されるのは誰なのか。
ロレンスは扉《とびら》に手をかける。
エーブの言葉が、追いすがるように投げかけられた。
「なあ、オレと組まないか」
エーブは無表情にこちらを見つめている。
騙《かた》りにも、本音にも見えた。
「騙されたと思って組んでみればいい、と?」
「ああ、そのとおりだ」
「騙された、と思いたくありませんので」
ロレンスが答えると、エーブは「確かにそうだ」と笑った。
ただ、そのあとに続く言葉に、ロレンスは返事をしなかった。
「なあ、あんたには帰りを待ってくれている連れがいるだろう? だが、オレには――」
返事はしなかった。
返事をすれば捕《と》らわれる。
人を幻惑《げんわく》する歌を口ずさむ人魚は実在した。
足早に廊下《ろうか》に出て、一階に下りる。
ずっと、背中にエーブの視線がまとわりついているようだった。
キーマンへの連絡《れんらく》は人伝《ひとづて》ということになっていた。
指定された場所は、金《きん》の泉《いずみ》からは道を二つ挟《はさ》んだ裏通りの猥雑《わいざつ》に露店《ろてん》が並ぶ場所だった。木を隠《かく》すには森の中ということだろう。
ただ、人伝で手紙をやり取りするのは、単純にキーマンと直接会うのが難しいということもあるだろうが、もう一つ別の理由もあるはずだった。
ロレンスがキーマンから厳命されているのは、エーブから、伝えてくれと言われたことだけを伝えて欲しい、ということだった。これはおそらく、ロレンスがエーブの話術に騙《だま》されて、なにかおかしな情報を付け加えてキーマンに報告することを防ぐための処置だろう。
それは正しく、同時に自分の助けにもなる処置だとロレンスは思った。
今さっきのエーブとのやり取りを正確に表現するなど不可能だ。
なにが真実でなにが嘘《うそ》なのか。
人間不信に陥《おちい》りそうだった。
「お頭《かしら》は、了解《りょうかい》した、と」
ロレンスから伝言を受け取り、その返事を持ってきてくれたのはいかにも小間使《こまづか》いが似合うといった、小柄《こがら》で猫背《ねこぜ》の男だ。
「私はどうすれば?」
「もう少しで会議は休憩《きゅうけい》に入ります。そのあとに指示を出されるかと」
「わかりました」
「では、こちらからの返事は例の場所で」
男は言うや否《いな》や、他《ほか》の場所でも情報の受け取りがあるのか、そそくさとその場を立ち去っていった。
用心深いことではあるが、それがどこまで功《こう》を奏しているかはわからない。
三角洲《さんかくす》は日常的に旅の商人たちがやってくる場所であるから、町では見なれない顔がうろうろしていても目立つことはない、とはいっても限度がありそうだ。
今この瞬間《しゅんかん》にも、手持《ても》ち無沙汰《ぶさた》にぶらぶらしている商人や、人待ちをしているように露店《ろてん》の軒先《のきさき》に立って通りをきょろきょろしている商人などが、この上なく怪《あや》しく見えてくる。
疑心暗鬼《ぎしんあんき》、とはよくいったもの。
ホロが側《そば》にいれば安心できるのかもしれないが、それに慣れてしまうといなくなってからのことが恐《おそ》ろしい。ロレンスは苦笑いをして、返事の受け取りに指定されている酒場に向かった。
「お客さん! 椅子《いす》ないけどいいかね!」
三角洲にはただでさえ酒場が少ないのに、そのほとんどが貸しきられ、挙句《あげく》に今日は特別人が多い。
そのせいで酒場に入る前にそう声をかけられた。
もちろん、店に入る前から客があふれ返っているのは見ればわかる。こんなに盛況《せいきょう》では樽《たる》に水を足さないとあっという間に酒が底をついてしまうだろうというのを見|越《こ》して、ロレンスは強めのぶどう酒を注文した。
店の隅《すみ》で壁《かべ》にもたれかかって飲むことになったものの、店の中を見回すにはかえってちょうどよかった。会議に参加していなくとも、会議でなにがあったのかを知るには困らないし、元々大したことをやっているわけではない。
ロレンスがぶどう酒を受け取って、ちょうどよい濃《こ》さのそれを三口飲む間に、そのあらましはほとんどわかっていた。
北|側《がわ》は南側の商会が漁船を拿捕《だほ》したことを責め、南側の商会は漁船に乗る漁師たちが望んだことだと応酬《おうしゅう》する。
当然議論は平行線で、決着などつくわけがない。
酒場で声高《こわだか》に噂《うわさ》をしている商人たちの言では、夜にかけて北側が折れて、イッカクの引渡《ひきわた》しを諦《あきら》める代わりにそれ相応の売却《ばいきゃく》益を分配してもらうのではないかということだった。
ロレンスもその案に賛成だ。
もしも南側の長老たちが北側を叩《たた》きつぶしたいと思っていれば、イッカクをどこかの領主に売り、武力と権威《けんい》の背景を得たうえで北側の地主たちを脅《おど》しにかければいいだけのこと。それをしないのは平和的な解決を望んでいるからだ。北側の手綱《たづな》を今後も握《にぎ》り続けられるのであれば幾《いく》ばくかの餌《えさ》を与《あた》えるのはやぶさかではなく、北側もまたそれでよしと思っているに違《ちが》いない。北側が抵抗《ていこう》をしているのは、自分たちの権威《けんい》のためと、単純に三角洲拡張《さんかくすかくちょう》の際の利潤《りじゅん》の交渉《こうしょう》のためだと思われた。
そして、それすらも会議のその場で決められるのではなく、水面下での折衝《せっしょう》ののちに決められるのだろう。
ただ、その交渉はロレンスの与《あずか》り知らないところで行われるはずで、その全容を把握《はあく》しているのは皮肉にもあの茶番劇の主役たちなのだ。
エーブやキーマンといったこの町で並々ならぬ力を持つ二人の間に立っているせいで、イッカクを巡《めぐ》る話がこの一連の流れの中心であり、さらにその中心に自分がいるかのような錯覚《さっかく》に陥《おちい》ってしまうが、実際はそれすらも傍流《ぼうりゅう》の一つに過ぎない。
そこでただ情報の仲介《ちゅうかい》をしているだけの自分がどれほどのものかと考えると、笑いしか出てこない。しかも、エーブには初《しょ》っ端《ぱな》から翻弄《ほんろう》されっぱなしだ。
酒の力を借りて、心を落ち着けてすら、あの最後のやり取りは冷静に思い返せない。
商品と代金を巡《めぐ》ってのあれこれがいかに単純な勝負であるかを実感する。
常日頃《つねひごろ》からこんなやり取りに明け暮れていたら、それは当然とんでもない化け物を生み出すことになるだろう。
悔《くや》しさと憧《あこが》れを抱《いだ》くには、ちょっと住む世界が違《ちが》いすぎる。
ホロが側《そば》にいなくてよかった、とやはり笑《え》みしか出てこなかった。
「旦那《だんな》様」
物思いにふけりながら酒に口をつけていたら、そう声をかけられた。
一度聞いた声と見た顔を忘れるようでは行商人失格といえる。
もっとも、そうでなくとも覚えやすい顔の、キーマンの小間使《こまづか》いだ。
「お早いですね」
「ええ、そりゃあ、もう。お頭《かしら》の仕事は決断が早くなくてはいけませんから」
小間使《こまづか》いの男は、皺《しわ》の刻まれた顔をくしゃりと歪《ゆが》めて誇《ほこ》らしげに笑った。
情報を集めれば集めるほど確度が高くなる事柄《ことがら》は、手の届く範囲《はんい》に存在しなければならない。
行商人が取り扱《あつか》うのはその手のことで、対してキーマンは船で何ヶ月と離《はな》れた場所の商品を扱っている。遠方の地となれば、情報を集めたからといってそれらが正しい保証もなく、また、そもそも集めるのが不可能な場合も多々あるはずだ。そんな中で信じられない金額に達する商品の売買に対する決断を下さなくてはならないのだから、それには相当の決断力が必要になる。
しかも、その判断を下してから、実際に商品が届くまでじっと我慢《がまん》していられる胆力《たんりょく》までもが求められる。
イッカクを土地の権利書と引《ひ》き換《か》えにして、町の勢力図をひっくり返してしまおうなどという壮大《そうだい》な計画を思いつき、しかもそれを実行に移せてしまう大胆さは、そういったところからきているのかもしれない。
小間使いの男が誇らしげに笑うのは当然だった。
「では、これを」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、ロレンスのあいている手にするりと紙片が滑《すべ》り込んでいた。
まるで、最初からロレンスがそれを持っていたかのように。
手|渡《わた》された本人ですらそう思うのだから、傍《はた》から見ていたらきっとよほど注意深く見ていないと気がつかないだろう。
「……確かに」
ロレンスの返事にこっくりとうなずき、小間使いの男は来た時と同じように去っていった。
手渡された手紙には封《ふう》すらされていない。
ロレンスがそれを覗《のぞ》き見るとは思っていないのか、はたまた見ても構わないと思っているのか。
どちらにせよ、ロレンスはそれを見なかった。
見ればその情報に捕《と》らわれ、エーブはそれを取《と》っ掛《か》かりにロレンスを丸め込もうとするはずだ。猫《ネコ》の鋭《するど》い爪《つめ》でも、つるつるの丸い石は引っ掛けることができない。知らなければなにかを判断するということもなく、なにかを判断しなければそこにつけ込まれることもない。
圧倒《あっとう》的に情報量で差がある現状では、こうして身を守るのが適切なはず。事の成否が自分の手の届く範囲《はんい》にやってくるまで我慢をし、決して心の内を表に出してはならない。
自然体で振《ふ》る舞《ま》おうと意識する、というのはそもそもの矛盾《むじゅん》。
それでも、清濁併《せいだくあわ》せ呑《の》み、緩急《かんきゅう》自在に、喜怒哀楽《きどあいらく》を使いこなせてこその商人だ。
ロレンスは自分にそう言い聞かせる。悪魔《あくま》などいない、と自分に言い聞かせながら深夜の森の中で小便をした子供の頃《ころ》のように。
先ほどと同じ手順をたどってエーブの下《もと》に手紙を届け、返事を貰《もら》う。今度はエーブは言葉をかけてこず、ただ哀《あわ》れみを請《こ》うような視線を向けてくるだけだった。
もしも自分が自然体を装《よそお》えているのなら、それはエーブにだって可能だということだから、その表情がどこまで演技なのかはわからない。
ただ、疲《つか》れたように前髪《まえがみ》が額にかかり、顔の要所要所には細かい皺《しわ》が浮かんでいるのは確かであり、机の上に散らばっている手紙の量も増えているようだった。
エーブのいる部屋を去る時、どうしたって脳裏には一人で机の上の無数の書類の処理に戻《もど》るエーブの姿が残る。
ロレンスにはホロがいる。
それは単純に支えになるという意味でもそうだし、なによりこの計画がご破算になりかけたら全《すべ》てを白紙に戻してくれるという切り札でもある。
しかし、エーブはただ一人で、味方と呼べる者もおらずこの戦いに臨《のぞ》んでいる。危ない取引に手を染めているのは間違《まちが》いがなく、もしもキーマンと連絡《れんらく》を取り合っていることがばれたとしたらどれほどの報復を北|側《がわ》の地主たちから受けるのだろうか、と考えると他人事《ひとごと》ながら暗澹《あんたん》たる気持ちになる。
ロレンスは、堅《かた》く戒《いまし》めた自分の心が今にもほつれてしまいそうだった。
「どうしました?」
キーマンの返事を小間使《こまづか》いから受け取り際《ぎわ》、そう言われてしまった。
「いえ」
頭を振《ふ》ると、小間使いもそれ以上は聞いてこなかった。
ロレンスは人ごみをかき分けてエーブの下《もと》に向かう途中《とちゅう》、知らず足が小走りになっていることに気がついた。
どこか気が急《せ》いてしまっている。
自分が受《う》け渡《わた》しをしているのは単なる紙なのに、しかも、ただ受け渡す以上のことを期待されているわけでもないというのに、と自分に言い聞かせても緊張《きんちょう》は高まっていく。
言い訳はできない。
自分が運んでいるものは、人の命と運命を簡単に左右するほどのものなのだから。
「ここでしばしお待ちを」
都合四度目だろうか。
ロレンスが手紙を届けに来ると、これまでは符丁《ふちょう》を確認《かくにん》するだけだった見張りの男が、ロレンスから手紙を受け取るだけで部屋に通してくれなかった。
どんな拷問《ごうもん》も同じことを同じ間隔《かんかく》で続けていれば苦しみは薄《うす》れていくというが、突然《とつぜん》のことにロレンスの緊張はさらに高まってしまう。
見張りの男はもちろんロレンスになにかを説明してくれるわけでもなく、部屋の中のエーブに手紙を届けると、あとはじっとしているだけだ。
二人の見張り同士で言葉を交《か》わすことも、視線を交わすこともない。
じりじりと時間だけが過ぎていき、外から聞こえてくる町の騒《さわ》がしさが、かえってこの場の沈黙《ちんもく》を強調する。
徐々《じょじょ》にエーブの返事を書く速度が遅《おそ》くなっていたのには気がついたが、もしかしたら、手紙の内容がついに核心《かくしん》に触《ふ》れるようなことになったのかもしれない。
エーブは考え考え、ペンを走らせているのだろう。
正解を記した書物などどこにもなく、それを知る者すらどこにもいない中で、自分の運命がかかった難問を解くというのは、生半可《なまはんか》なことではない。ロレンスは、薄暗《うすぐら》い森の中で山賊《さんぞく》に襲《おそ》われながら二股《ふたまた》の道に出会った時のことを思い出した。
どちらかは山の奥深くに続いていて、行き止まりになっている。選ぶ時間も、助言を求める相手もおらず、自分が取れる選択肢《せんたくし》は前に進むというただひとつだけ。
エーブの手には、きっとペンが鉛《なまり》でできているかのように感じられることだろう。
そして、ようやく扉《とびら》が開けられると、聾者《ろうしゃ》と思《おぼ》しき老人が手紙を手に部屋を出てきた。
ロレンスを認め、ゆっくりと手紙を差し出してくる。
受け取ったそれはわずかに歪《ゆが》み、汗《あせ》をいくらか吸い込んでいた。
エーブの苦心が見て取れる。
その手紙を小間使《こまづか》いに渡《わた》し、キーマンの返事を貰《もら》った時だった。
「お頭《かしら》が、焦《じ》れてます」
小間使いの男がそんなことを言ったのだ。
「川の流れが速くなっていると。こちらもそれに合わせて船を漕《こ》がなければならないと」
キーマンがその手に担《にな》っているのは、なにもエーブとの取引だけではない。
他《ほか》の何十という暗躍《あんやく》する商人たちが進める大きな流れの中で、その流れに沿って舵《かじ》を取っているはずだ。
情報の伝達は早ければ早いほどいいのは商売の基本。
この期《ご》に及《およ》んでもなお手渡された手紙に封《ふう》がしてないのは、蝋《ろう》が固まる時間も惜しいからかもしれない。
ロレンスはうなずいて、エーブの下《もと》に走った。
しかし、やはりまたしても見張りの男は手紙だけを部屋の中に通して、ロレンスはエーブの姿を見ることができなかった。
これでは急《せ》かすこともできない。
いや、急かしたところで早く返事を貰えるとは限らない。
エーブだって馬鹿《ばか》ではないのだから、この流れの変化は感じ取っているはずで、それに乗り遅《おく》れれば策もなにも関係なく不利益をこうむることだって予測がつくはずだ。
それに、キーマンが焦《じ》れるほど事態の流れが速くなっているのなら、エーブの下《もと》に舞《ま》い込む他《ほか》の手紙の量も比例して増えるはず。
いくらこの策が全《すべ》てをひっくり返しかねないものであったとしても、それ一つにだけかかずらっていられるほどエーブは軽い立場にいるわけではない。むしろ、秘密の取引は普段《ふだん》の取引の中に慎重《しんちょう》に隠《かく》す必要がある。
エーブも、必死なはずだった。
ロレンスは、平静を装《よそお》って廊下《ろうか》で待つ間、自分に何度も言い聞かせる。
自分の利益のためならば、天秤《てんびん》が釣《つ》り合うまで二日でも三日でも待つのが商人だ。
しかし、待っていれば勝機を逃《のが》すということがあるのもまた事実。
ようやく出てきた老人から手紙を受け取ると、ロレンスは礼もそこそこに宿をあとにした。
心情的には、誰《だれ》の味方なのかもはやわからなくなっていた。
自分が急ぐのは、キーマンがその計画をうまく進められるようにしているのか、それとも、エーブが考えられる時間を少しでも取れるようにと走っているのか、あるいは自分がこの雰囲気《ふんいき》に飲み込まれてしまっているだけなのか、自分でもわからなかった。
小間使《こまづか》いの男の表情も徐々《じょじょ》に険しく、額に汗《あせ》が目立つようになった。
小間使いの男から返事を待つほんのわずかな時間、道行く商人や、酒場の商人からも、会議に動きがあることが漏《も》れ聞こえてくる。
予想以上に素早《すばや》く結論が出そうだという。
そして、もしも結論が出てしまえば、キーマンが企《たくら》んでいる逆転劇は水泡《すいほう》に帰す。
この先、これ以上の機会があるとはとても思えない。
小間使いの男から語気強く急《せ》かされて、ロレンスは何度か見張りに催促《さいそく》した。
それでもエーブからの返事は遅《おそ》くなる一方で、垣間見《かいまみ》えた文字は気の毒なほど乱れていた。
この、胃の腑《ふ》を少しずつ絞《しぼ》られていくようなやり取りの中、エーブのいる宿に赴《おもむ》き、もう何度目かわからないやり取りを繰《く》り返す。
それから、手紙を見張りに手|渡《わた》した瞬間《しゅんかん》、違和《いわ》感を得て、その手が止まってしまった。
「?」
見張りの男が怪訝《けげん》そうにこちらを見つめてくる。
ロレンスは弾《はじ》かれたように男の顔を見てしまい、慌《あわ》てて愛想笑《あいそわら》いを浮かべた。
しかし、心臓は痛いほど高鳴っていた。
まさか。
そんな単語が狂《くる》ったように駆《か》け巡《めぐ》っている。
見張りの男は手紙を受け取り、エーブのいる部屋へと手紙を持っていく。
「……まさか」
ロレンスは喉《のど》の奥だけで呟《つぶや》いた。
エーブはなぜこんなにも返事が遅《おそ》いのだろうか?
会議に参加し、おそらくはエーブよりも多くのことをこなしているキーマンは、即座《そくざ》に決断し即座に返事を出してくる。
キーマンとエーブの性格の違《ちが》いだ、ということはできない。
エーブは事の成就《じょうじゅ》のためならばためらわずに刃物《はもの》を取り出すような商人だ。
逡巡《しゅんじゅん》し、優柔不断《ゆうじゅうふだん》に頭を抱《かか》えるような種類の人間ではない。
だとすれば、キーマンよりもさらにエーブは忙殺《ぼうさつ》されているからかもしれない、と考えた時に、ロレンスは違和《いわ》感を感じたのだ。
エーブのいる部屋に通された時、そこには大量の手紙が散らばっていた。
それは訪《おとず》れるたびに目に見えて増え、それに目を通すだけで一苦労だと思った。
しかし、重大なことを見落としていた。
根本的なことを見落としていた。
ロレンスは何度もここに手紙を届けに来て、ここしばらくはその都度長いこと待たされている。
その時に、見ただろうか?
この部屋に、他《ほか》の誰《だれ》かが、別の手紙を運びに来るところを。
今回もしばらく待たされた挙句《あげく》、ようやく返事の手紙を渡《わた》された。
ロレンスは嵐《あらし》の過ぎ去ったあとのような、静けさに満ちた目で辺りを見ることができた。老人が扉《とびら》を開けるその瞬間《しゅんかん》、垣間見《かいまみ》える部屋の中、いくつもの手紙が無造作に散らばっていた。
ただ、普通《ふつう》に考えてみればいい。
手紙を読んだあとにどうしてあんなにも散らばらせる必要がある?
それはなんらかの目的があってそうしたのでは?
懐《ふところ》にエーブからの手紙を入れ、ロレンスは足早に宿をあとにした。
そもそも、このやり取りには前提からして不可解なことがあった。
その最大のことといえば、エーブが子供のわがままを言うように、自分で利益を独占《どくせん》できなければ嫌《いや》だ、と言うことだった。
それでも、エーブと交《か》わした会話とその場の雰囲気《ふんいき》は、エーブがそんな子供じみたことを言うのも納得《なっとく》させてしまうようなものだった。
元は商人ではなく、裏切られるのが当たり前、と覚悟《かくご》してこの世界に飛び込んだわけではなく、辛酸《しんさん》をなめて今の地位を築いたと容易に想像がつくエーブ。
だとすれば、苦しみのない世界を追いかけるために、誰かを裏切り続けるという悪魔《あくま》の道を歩んだとしてもおかしくはない。
しかし、それはおかしくはないだけで、その必然性はどこにもない。辛《つら》いからこそ他人を傷つける道を選んだというのは言い訳に過ぎない。
もしも、それらが全《すべ》てエーブ自身の演技だとしたらどうなるか。
ロレンスは頭を巡《めぐ》らせて、血の気が一斉《いっせい》に引いてしまったのだ。
待つことが儲《もう》けにつながる商売もあれば、素早《すばや》い行動こそが儲けにつながることもある。
今回のこの取引は、おそらく後者に分類されるものだ。
会議での結論が出てしまえば、一発逆転の策は取れなくなってしまう。
エーブが自分自身の利益のためではなく、他《ほか》の誰《だれ》かの利益のために動いていたとすれば、そんな取引の最中にあって、まごまごと返事をしたためる理由というものは存在する。
すなわち、時間|稼《かせ》ぎ。
キーマンのような連中はどこの町にも程度の差こそあれ存在する者で、彼らは機会さえあれば周りを出し抜《ぬ》こうと虎視耽々《こしたんたん》と狙《ねら》っているものだ。
だとすれば、長老と呼ばれる齢《よわい》を重ねた海千山千《うみせんやません》の頂点に立つような連中が、自分たちの若い頃《ころ》を思い出さずにいられるだろうか。
エーブはキーマンたちの暴走を食い止める役目を任されていたのではないか?
のらりくらりと相手をして、時間切れを狙って、長老たちが直接食い止めたとあれば世代間の闘争《とうそう》につながりかねないこの案件を、うまく矛《ほこ》先をずらして解決するために。
そう考えれば納得《なっとく》がいく。
不自然に散らばった手紙の数。
しかも、あんなにも手紙があるのに一度も運ばれるところを見かけなかったこと。
そして、エーブはどんな難問にも怯《ひる》まないはずだというこの印象。
小間使《こまづか》いの男にロレンスは手紙を届ける。
急いでそれを主人の下《もと》に届けようとするその男の肩《かた》を、ロレンスは掴《つか》んでこう言った。
「キーマンさんに伝言を」
小間使いの男は顔をしかめる。
それでも構わずロレンスは言葉を続けた。
「狼《オオカミ》は囮《おとり》の可能性があります」
これだけを伝えてもらえれば、キーマンならばすぐに理解するはずだ。
下手をすれば、ジーダ館長は出る杭《くい》を打つ考えで罠《わな》を仕掛《しか》けてキーマンを失脚《しっきゃく》に追い込む腹積もり、という可能性すら考えることができる。なにせ、キーマン自身がロレンスを駒《こま》の一つとして使い捨てることになんらの良心の呵責《かしゃく》も覚えていないような場所なのだから、その頂点に立つ人間が優秀で目障《めざわ》りな部下を合法的に失脚させようと企《たくら》んでもまったくおかしくはない。
また、そうなればその時に巻《ま》き添《ぞ》えを食うのは他ならぬロレンスであり、ホロの力を借りようが借りまいがロレンスの居場所はなくなってしまう。
しかし、小間使いの男はロレンスの必死な物言いに苦しそうな顔をするだけで、返事をせずに走り出した。
彼はロレンスから手紙以外のものを受け取るなと厳命されているはずで、それはロレンスが勝手な判断を下す危険を回避《かいひ》するためだ。
それでも、事態は一刻を争う。
もしもエーブがこちらを嵌《は》めようとしているのならば、手を引くのは早いほうがいいし、罠《わな》の入り口ならばまだ引き返すことができる。その口が閉じてからでは遅《おそ》いのだ。
ロレンスは酒場でじりじりと返事を待つ。
エーブに比べて格段の早さだったせいで、キーマンの返事を待つという印象を抱《いだ》いたのはこれが初めてだった。
実際にはそれほど待っていたとは思えない。
しかし、小間使《こまづか》いの男が現れた時はようやくという感じだった。
ロレンスははやる気持ちで小間使いの男の返事を待った。
そして、小間使いの男がもたらしたのは、これまでどおりの手紙だけだった。
「あの人はなんと?」
思わず聞き、小間使いの男は即座《そくざ》に首を横に振《ふ》った。
「これを届けてください」
「っ」
言葉に詰《つ》まったのは、なにを言うべきか一瞬《いっしゅん》わからなくなったからだ。
「言わなかったのですか?」
男の両|肩《かた》を掴《つか》んで問いただすと、男は目をそらして口をつぐむ。
言わなかったのだ。
怒《いか》りよりも先に、焦《あせ》りが前に出る。
「根拠《こんきょ》のないことではないんです。もちろん、あなたが厳命されていることの理由はわかります。ですが、全知全能の神でもなければ、行ったことのない町の様子を正確に描《えが》ける人間はいません。百聞《ひゃくぶん》は一見《いっけん》にしかずというのは真実です。まだ間に合うはずです、早く、知らせに――」
「いい加減にしろ」
小間使いが似合う小柄《こがら》な男が、低く重い声でそう言った。
思わず両肩から手を離《はな》してしまったのは、およそそれがまともな道を歩んできた者の声には思えなかったからだ。
「行商人風情がわかった気になるな。頭《かしら》はなんでもお見通しだ」
単語の発音の端々《はしばし》から、血と泥《どろ》の匂《にお》いが窺《うかが》えた。
キーマンのような人間なら、元ごろつきを手なずけていたとしてもおかしくはない。
「言われたことだけをすればいいんだ。俺も、お前も」
行商人がついぞ経験したことのない、忠誠というものがこれだ。
馬鹿《ばか》げたそれのせいで無駄《むだ》に命を落とす騎士《きし》や傭兵《ようへい》の話はごまんとある。
商人は理性でそれらを回避《かいひ》できる数少ない種類の人間のはず。
ロレンスは恐《おそ》れず、言い返した。
「誰《だれ》しも間違《まちが》えることはあります。その場にいなければわからないことだってあるはずです。それを正すのも下で働く者の務め。そうではないのですか」
ロレンスの言葉に男は顔をしかめ、そして、うつむいた。
この、キーマンに忠誠を誓《ちか》っているのであろう男だって、自分の忠誠心が主人の首を絞《し》めたとなれば悔《く》やむはずだ。
説得するしかないし、できないはずがない。
ロレンスが勢い込んで言葉を続けようとした瞬間《しゅんかん》、顔を上げた男は唾《つば》を吐《は》く真似事《まねごと》をした。
「忘れるな、行商人。俺たちゃ手先だ。考えることは必要とされてねえ。手足に頭はついちゃいねえからだ。わかったかっ……!」
声を潜《ひそ》めながらの荒《あら》い語気は、暗がりで人を恫喝《どうかつ》することに慣れた者特有の迫力《はくりょく》と、陰鬱《いんうつ》さがあった。
しかし、ロレンスが息を飲んでしまったのは、そんなことにではない。
男の言葉、そのものに言葉を失ってしまったのだ。
「わかったなら、運んでください。私はお頭《かしら》から命ぜられているのです。そして、あなたもそのはずですから」
男は言って、呆然《ぼうぜん》とするロレンスの肩《かた》を叩《たた》き、無駄な時間を取らされたとばかりに走り出した。
周りの人間は誰一人としてこのやり取りに関心を示さない、ほんのわずかの時間のちょっとした出来事だったし、それは実際にちょっとした出来事なのだ。
ロレンスはキーマンの手先。
それは間違いのないことで、だとすれば頭を働かせ、何事かを考えるのは手先の役目ではない。
自分でもそれはわかっていたことで、好機が訪《おとず》れるまでは我慢《がまん》しなければならないということも頭ではわかっていた。
ただ、独立独歩で商いをしてきたと自負のあるこの身には、それは恐ろしい事実だった。
自分がちっぽけな存在であることは理解していても、ただの歯車であると認識《にんしき》したことはない。
小さいながらも、自分の名を持ち、考えを持ち、自ら行動できる商人だったはずだ。
頭で考えていたほど、自分を否定されるということの辛《つら》さは柔《やわ》なものではなかった。
複雑な機構の中で、自分がただの一つの部品であると思い知らされる。
ロレンスは、確かにその衝撃《しょうげき》に頭を殴《なぐ》られるような思いだった。
しかし、その事実に胸の奥から燃え盛《さか》るような怒《いか》りが湧《わ》き起こり、大声を出したい衝動に駆《か》られた直後だった。
その瞬間《しゅんかん》に、ふと理解してしまったのだ。
エーブが子供じみたわがままを繰《く》り返し、こんな事態を目の前にしてもなお、自分が最大の利益を上げられなければ嫌《いや》だ、などと言うその理由が。
エーブは、時間|稼《かせ》ぎをしているわけでも、なにかを企《たくら》んでいるわけでもなかった。
それを心の底から確信できた。
これが罠《わな》だったならもはや両手を上げて降参しよう。
そう思えるほどの確信は、論理ではなく感情論だった。
ロレンスがエーブのいる部屋の前にやってくると、どういうわけか今回になってエーブのいる部屋に通されて、エーブのその顔を見ることになった。
人の心は目で見えない。
しかし、行動によってどんな絵図を抱《いだ》いているかはわかるもので、またそれは表情によっても示される。
エーブは机の上に頬杖《ほおづえ》をつき、どこか爽《さわ》やかさすら感じさせる無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》を浮かべていた。
「いい顔してるじゃないか」
ローム川流域に住む狼《オオカミ》は、笑顔で笑うのではない。
ロレンスは、手紙を懐《ふところ》から取り出しながら、こう言った。
「本気で、イッカクの利益を独占《どくせん》するつもりなんですね?」
エーブの顔から笑みが消えていき、ほんのわずかだけ目元が歪《ゆが》んだ。
それは顔をしかめているようにも見える。
ただ、全《すべ》てを嘲笑《あざわら》う狼には、それが最も相応《ふさわ》しい笑顔なのだ。
家を金で買われ、運命を翻弄《ほんろう》され続け、そんな中でも酸と硫黄《いおう》の海を泳ぐためにさまざまな力を利用するたびに、それ以上利用されてきたのだろうと思われるエーブ。
エーブが誰《だれ》かから認識《にんしき》される時、それはボラン家の当主としてか、はたまた見目麗《みめうるわ》しい女としてか。
少なくとも、その名を親しげに呼んでくれる者はほとんどいなかったのだろう。
フルール・ボランという本名を使わないのは、本当はそういう理由があるのかもしれない。
初めから周りが自分をなんらかの道具としてしか見ないのなら、それ専用の仮面を作ることで身を守る。
それが感傷的に過ぎる考えだとしても、大きく外れていないのではないかと思った。
エーブはロレンスから受け取った手紙に目を通し、ゆっくりと瞼《まぶた》を閉じる。
そして、小さく笑ってこう言った。
「あんたは本当に商人に向かないな」
「あなたも狼《オオカミ》には向いていないかもしれません」
言葉と、前提を省略したやり取りはどこか神と聖職者の対話に似ている。
エーブは視線を暖炉《だんろ》に向け、目を細めて口を開いた。
「オレは誰《だれ》かを利用することで今まで生きてきたつもりだったが、現実から目をそらすのもそろそろ限界だ」
言ってから、ちょいちょいと自分の左の口元を指差したのがちょっと冗談《じょうだん》めいていたのは、笑い話にしなければとても話せたことではないからなのかもしれない。
「この騒《さわ》ぎが起こってすぐにな、財産のほとんどをかけた例の毛皮を取り上げられた。危険な仕事を引き受けて、オレと共にレノスの町をあとにしてくれたアロルドの身柄《みがら》も捕《と》らえられた。こんな状態で、なお狼を気取る気概《きがい》はオレにもない」
北|側《がわ》が交渉《こうしょう》で苦戦を強いられているのは明白だ。
追い詰《つ》められた者たちは、さらに立場の弱い者たちを締《し》め上げてどうにかしようとする。
ありそうなことだ、とロレンスは胸中で呟《つぶや》いた。
これまでもそんな方法でエーブを利用してきたのかもしれない。
ただ、今回の彼らの誤算は、エーブの我慢《がまん》もついに限界だったことだろうか。
「オレの名はいつだって便利な道具だった。オレの名をきちんと呼んでくれたのは爺《じい》やと数少ない変わり者だけだった。まだ生きているのは、アロルドくらいだがな」
手先となり、あるいは道具となり、利用価値でしか判断されてこなかった人生というのはどういうものか、ロレンスにはとても想像がつかない。
それでも、人というのは複雑なようでいて思いのほか単純だったりする。
いくつかの印さえあれば、予想もつかない人生を歩んだ人間が、結局どの丘《おか》にたどり着いたのかを知ることができる。
ロレンスは、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは、名前を呼ばれたがっている、ということですよね」
周りを敵に囲まれた、孤立無援《こりつむえん》の丘の上で。
「……そうはっきり言われるとやはり恥《は》ずかしいな。いや、怒《おこ》らないでくれ。オレは嬉《うれ》しいんだ。鉈《なた》とナイフで斬《き》り合って、今更《いまさら》遠慮《えんりょ》する仲でもない。オレ自身も驚《おどろ》いている。あんたを釣《つ》り上げて利用するのはさほど難しいことではないと思った。なにせあんたは単純でお人好《ひとよ》しだからな。だが」
饒舌《じょうぜつ》なエーブの台詞《せりふ》の中には聞き捨てならないものがいくつも含《ふく》まれていたが、商人にとって口は金と災《わざわ》いの元。
聞き捨てならない台詞を無造作《むぞうさ》に投げつけてくるということは、その口は商人のものではないということだ。
「だが、あんたに知られないままでいるのは耐《た》えられなかった。もちろん、信じてくれなくても構わないが……」
なんと答えるべきかわからない。
どんなふうに答えを返しても、エーブを傷つけそうだった。
「オレはな、この話を最後に、もうこの腐《くさ》りきった地域をあとにする。だから、最後の最後くらいは……な」
凄《すご》みのある笑顔《えがお》。
それをどれほど美しいと思ったかは、未来|永劫《えいごう》心の奥底にしまっておかなければならない。
「最後の最後くらいは、自分の名前をきちんと呼ばせてやる、ということですよね?」
エーブがにゅっと唇《くちびる》の両端《りょうはし》をつり上げた。
頬《ほお》のない狼《オオカミ》のように。
その牙《きば》を剥《む》き出しにして、エーブは悲しそうに笑ったのだ。
「そうだ。最高の頃合《ころあい》で、最高の裏切り方をして、あいつらにオレの名を呼ばせてやる」
ロレンスは、死地に赴《おもむ》く騎士《きし》を見送るような心持ちで、言葉を紡《つむ》ぐほかなかった。
「エーブ・ボラン、と憎《にく》しみの怒号《どごう》であっても」
「そのとおり」
その瞬間《しゅんかん》、エーブの顔は見なれた顔に戻《もど》っていた。
「では、オレの名を呼んでくれた行商人クラフト・ロレンス氏に聞きたい」
王が王宮の内部で少数の人間とだけ会話をし、ほんの一握《ひとにぎ》りの人間の決定だけで国を動かすのは彼らが神から選ばれし人間だからではない。
彼らもまた同じ人であり、親しい人間しか信用ができないからに他《ほか》ならない。
エーブは初めて出会ったコルに向かって、人に好かれるのはある種の運命だと言った。
それは、きっと、こういう意味なのだ。
「共に、裏切らないか?」
左の口元に痛々しい痣《あざ》を作ったエーブの顔は、まさしく狼に相応《ふさわ》しいものだった。
[#改ページ]
第九幕
ロレンスがエーブから預かった手紙を小間使《こまづか》いの男に渡《わた》し酒場で待っていると、今回は返事が特に遅《おそ》かった。
酒場にいる商人たちの数も減ってきていて、活気もそれほど感じられなかった。
酒場にいるのはロレンスがここに来るたびに目についた、おそらくは同じような仕事を任されている商人たちばかりで、互《たが》いに目が合ってしまい、気まずく目をそらすこともままあった。
夕暮れまでもう少し、というこの時間に、すでに顔を真っ赤にして出来上がった商人たちの会話によれば、会議の結論がほぼ固まりつつあり、今日の分の交渉《こうしょう》は終わりらしいということだった。
北|側《がわ》はイッカクの奪回《だっかい》を諦《あきら》め、南側が相応の金を北側に分配するという、最もつまらない結論で一致《いっち》を見ようとしているらしい。
確かに、南側が目もくらむような資金でもって北側の漁師を買収してしまえば、イッカクという商品が南側の手元にある以上、北側はその線で妥協《だきょう》する以外に選択肢《せんたくし》はないだろう。
もしもイッカクを奪《うば》い返そうと思えば、武力に訴《うった》え出るか、あるいは買い戻《もど》さなければならないが、そのどちらも非常に金がかかる。
それに、町が戦争に突入《とつにゅう》となれば商売どころではなく、利するのはケルーベ以外で市を開く町の人間たちばかりで、ケルーベの人間は誰《だれ》一人として得をしない。イッカクを購入《こうにゅう》するにしても、そんな資金|繰《ぐ》りの当てはどこにもないだろう。
理不尽《りふじん》な理由で起こされた戦いに、徒手空拳《としゅくうけん》で臨《のぞ》むほかない北|側《がわ》には同情の余地がある。
しかし、理不尽というものは路傍《ろぼう》の石ころのごとくあちこちに転がっている。
つまずいて転んでも、手を差し伸《の》べてくれる者など滅多《めった》にいやしないのだ。
「お待たせしました」
酒場に立ち込める、酒と肉の焦《こ》げる匂《にお》いが体に染《し》みつき始めた頃《ころ》、ようやく小間使《こまづか》いの男がロレンスに返事を持ってきた。
ロレンスはエーブがどんな返事をしたためていたのか盗《ぬす》み見ることはなかったが、今回のものはそれなりの内容だったことが窺《うかが》い知れた。
今回手|渡《わた》された返事には、赤い蝋《ろう》で封印《ふういん》が施《ほどこ》されていたのだ。
「今日はこれで最後になります。ですが、必ずや返事を貰《もら》ってきてください」
一見すれば気の小さい小柄《こがら》な小間使いであるが、その実、懐《ふところ》に毒を塗《ぬ》った刃《やいば》を隠《かく》していかねない男だ。
必ずや、という言葉が単なる強調の言葉ではないことくらいよくわかった。
封印を施してあるのは、万が一にもエーブに疑いを抱《いだ》かせないための処置だろう。
つまり、そこにはキーマン側の結論が書かれているのだ。
「わかりました。必ず」
手先は手先。考える必要などない。
ロレンスのその返事に、小間使いの男は満足そうにうなずいた。
ロレンスが歩き出すと、男はずっとロレンスのことを見つめていた。
会議が終わるということで、男の仕事も一段落なのかもしれない。
あるいは、とロレンスは相変わらずの人出の道に出て、そこだけは澄《す》んだ空を見上げて胸中で呟《つぶや》いた。
自分を疑っているのかもしれない。
それがなぜ笑えてしまうのかは、自分自身にもよくわからなかった。
「明日の早朝、正規の手続きに見せかけてイッカクを運び出す。川の上でイッカクを乗せた船ごと、土地の権利|委譲《いじょう》書と共に交換《こうかん》する。あとはどこへなりとも消えうせろ。ルド・キーマン」
最後のところは冗談《じょうだん》だろうが、手紙の内容を読み上げたエーブは、その紙をためらうこともなくロレンスに見せた。
確かにそのような内容が示されており、キーマンの署名もある。
もしもエーブがこれを持って商館に行けば、キーマンの立場は一気に悪くなる。
そんな書類を渡したのは、これをエーブに渡しても大丈夫《だいじょうぶ》だという確信があるのだろう。
それが、どういう意味の確信なのかはわからない。
まさか無条件にエーブを信頼《しんらい》しているわけではないから、きっとそれが表沙汰《おもてざた》になっても揉《も》み消せる根回しをしている、という意味での確信だろう。
「単純で幼稚《ようち》な引渡《ひきわた》し案だ。どう思う?」
「危なくなったら船ごとひっくり返せばうやむやにできる可能性がありますから、あながち悪い方法でもないのでは」
ホロがロレンスに言ったのとほとんど変わらない方法に、エーブは片眉《かたまゆ》をつり上げて、「なるほど」と楽しげに呟《つぶや》いた。
「で、オレはこの手紙に、こう書けばいいわけだな?」
言いながら、ちょっとした手遊《てすさ》びのように羊皮紙にペンを走らせていく。
丁寧《ていねい》に毛が取り除《のぞ》かれて、綺麗《きれい》に表面を削《けず》られた上等な羊皮紙は、とても一介《いっかい》の商人が遊びでペンを走らせるような代物《しろもの》ではない。それらは厳しい顔をした修道士が、石造りの荘厳《そうごん》な修道院で神の叡智《えいち》を記した書物を筆写するに相応《ふさわ》しく、エーブは実際にそれに負けず劣《おと》らず綺麗な筆跡《ひっせき》で恐《おそ》ろしい文章をしたためていた。
「了解《りょうかい》した。では、引渡しのための船に乗るのはこのエーブ・ボラン。対するそちら側《がわ》の船に乗るのは、伝説の神獣《しんじゅう》、そして」
その目が、ロレンスを見る。
「クラフト・ロレンス」
ロレンスは返事をしなかったが、エーブは特に気にするふうでもなかった。
最後に署名をさらさらと書くと、蝋《ろう》をかきまぜている老人に向かって無造作に羊皮紙を投げた。
それに赤い蝋で封《ふう》をして、馬の毛で閉じれば返事の完成だ。
そして、ロレンスはきっと引渡しのための船に乗ることになる。
「私は、あなたに返事をしていませんよ」
背後の扉《とびら》の向こうから、仕事が一段落したからか、見張り役二人のかすかな笑い声が聞こえてきた。
彼らは、死罪になるところをエーブに救われた連中だという。
エーブのすごいところは、彼らから信頼《しんらい》を得るために、自分の計画を話し、協力してもらっていたことだ。
全《すべ》てはロレンスがこの場にこんな顔で立つために。
荒《あら》くれ者たちは、見た目ほど愚《おろ》かではない。
「返事? あんたは時折おかしなことを言うな。オレたちみたいな嘘《うそ》つきの商人にとって、言葉がいかほどの価値を持つというのだ?」
これを実に楽しそうな口調で言うのだから、苦笑いを隠《かく》せない。
もちろん、商人にとっては表情なんてものも大した意味を成さない。
ロレンスは苦笑いのまま、表情をピクリとも動かさなかった。
「商売とは実際危険な行為《こうい》に他《ほか》ならない。相手がなにを考えているか見|抜《ぬ》けるのは神だけだが、神は何物も欲さない。取引とは常に欲にまみれた人間だけが行い、欲にまみれた人間を信用することほど危険なことはこの世にない。オレはキーマンの手紙に返事を書き、あんたはそれを運んでいく。その結果がどうなるかは、祈《いの》るにせよ、脅《おど》すにせよ、待つしかない。オレは全《すべ》ての手を打った。だから、これをあんたに渡《わた》すしかない」
老人から手渡された手紙を、ロレンスに向かってためらわずに突《つ》き出す。
自分の運命を決するといっても過言ではないその手紙を、こんなにもあっさりと他人に預けようとする。
それは勇気というよりも、自分の命に執着《しゅうちゃく》がないようにすら見えた。
うまくいかなければ自分はその程度の価値しかなく、その程度の価値しかないものなど必要ではない。
ロレンスはエーブから手紙を受け取り、命知らずで名を馳《は》せた英雄《えいゆう》の言葉を思い出した。
「キーマンは間違《まちが》いなくこの手紙のとおりにするはずだ。もしもこれを否定して、船にあんたとあんた以外の者を乗せようとすれば、こちらも身を守る必要上、他《ほか》に人を乗せざるを得なくなる。どちらかがどちらかを疑えば、武装の連鎖《れんさ》がどこまでも続く。だから」
エーブは言葉を切り、ロレンスに手紙を渡した手だけを机の上に載《の》せて、目を伏《ふ》せると大きく深呼吸をした。
緊張《きんちょう》していないわけではない。
そう、強調するように。
「だから、次にあんたに会う時は、誰《だれ》もいない、朝もやの立ち込める川の上だ」
エーブがローム川の狼《オオカミ》であるのなら、なるほどホロと似ていないところがないわけではなかった。
ロレンスの目には、机の上に置かれたエーブの手が映っていた。
その手を取ってもらいたそうに、だが決してそんな素振《そぶ》りは見せないように、相手を信じたくて信じられないような、そんな仕草が感じられた。
「一つ、いいですか?」
ロレンスが口を開くと、エーブの手がぴくりと動いた。
「なんだ?」
「私には、連れがいるのですが」
川の上での引渡しの際、ロレンスが組合を裏切れば、ロレンスとエーブは揃《そろ》ってどこかに待機している船にイッカクごと乗り換《か》え、そのまま遠洋に出てしまうことができる。
しかし、陸に残っているホロやコルを拾おうとすれば途端《とたん》に困難がつきまとう。
キーマンがこの単純な計画を選んだ理由の一つにそれがあるはずだ。ホロやコルは一種の人質になる。
エーブは、表情を変えずに机の上からそっと手を引いた。
「オレにもアロルドがいる」
その一言が、ロレンスの心臓を貫《つらぬ》いた。
「ほら、手紙はもう渡《わた》した。行け」
エーブは面倒《めんどう》くさそうな顔で続けて言い、ロレンスを追《お》っ払《ぱら》うように手を振《ふ》った。
逆らえば怒鳴《どな》り散らしそうな、そんな雰囲気《ふんいき》があった。
オレにもアロルドがいる。
エーブのその言葉は、重要な示唆《しさ》に富んでいた。
アロルドは、エーブの言葉を信じるのならば、エーブにとって数少ない金では買えない大事なものなのだから。
もちろん、ロレンスはホロの正体とその真の力を知っているから、恐《おそ》れることはない。ホロは自分たちの身の安全はもとより、アロルドだって救い出せるだろう。
問題は、エーブがその危険を引き受ける決心を見せた、ということだ。
エーブはホロの力を知りはしない。
毛皮と共にレノスの町からケルーベまでやってきて、路銀《ろぎん》の世話までしてやろうとしているほどに信頼《しんらい》していたアロルドを切り捨てる覚悟《かくご》すらある。
そうなると、ロレンスをアロルド以上に信用しているのか、と考えたくもなる。
しかし、それが馬鹿《ばか》げた考えであるというのは論を待たない。
もはやなにもかもを本当に自分の利益のために切り捨てる覚悟をして、手に触《ふ》れる物|全《すべ》てを金に換《か》えようと堅《かた》く心に誓《ちか》ったのだろうと考えたほうがよほどしっくり来る。
問題は、太古《たいこ》の神話では、触れる物全てを金《きん》に変えてくれと望んだ愚《おろ》かな神は食べる物がなくなって死んだことだ。
ロレンスがエーブの言葉に衝撃《しょうげき》を受けたのは、他《ほか》でもない。
そんな、絶対に救いの見えない道を選びかねないエーブを見捨てられるのかと自問してしまったからだ。
アロルドを見捨て、そうまでしたからにはきっとロレンスを船上で殺すか、どこかでまた裏切るはずだ。
それでエーブが笑っていられると想像できるならまだましだ。
ロレンスにはそれができない。
エーブが笑うとはとても思えなかった。
エーブに同情しているのか?
自問したが、答えは出ない。
これは勝手な思い込みか?
その可能性は大いにある。
しかし、世に自分の思い込みでないことなど数少ない。
神の存在だって疑う者のなんと多いことか。
ならば、自分はどうするべきか。
自分の利益を片手で掴《つか》みながら、あいた手でエーブの手を取るにはどうすればいいのか。
ロレンスは激しく自問して、酒場で小間使《こまづか》いの男に手紙を渡《わた》した。
「……辛《つら》い仕事、ご苦労様でした。お頭《かしら》は、あとのことは宿に帰ってからお伝えすると」
小間使いの男は、最後にそう言ってロレンスの肩《かた》を叩《たた》いて立ち去った。
どんな勘違《かんちが》いをしているのか、と考える余裕《よゆう》すらない。
会議はさしたる波乱も見せず閉会となったらしく、ロレンスが金《きん》の泉《いずみ》の側《そば》にふらふらと歩いていくと、そこではすでに三々五々《さんさんごご》人が雑談に興じていた。夜に向けてかがり火の準備がされ、殊更《ことさら》威厳を出そうと胸を張っている兵士たちが神聖な玉座《ぎょくざ》を守るかのように会議で使うためのテーブルの前で立っていた。
金と、権威《けんい》と、名誉《めいよ》を巡《めぐ》っての宴《うたげ》、といえば聞こえはいいし、物語として語るならば十分だろう。
しかし、実際にそこに参加する者たちのなんと惨《みじ》めで矮小《わいしょう》なことだろうか。
神が商人たちを賞賛しないのには、確かな理由があったのだ。
空が茜色《あかねいろ》に染まり始め、烏《カラス》か、あるいは海鳥の影《かげ》が遠くに見えた。
商売をして、金を稼《かせ》ぐというのはもっと優雅《ゆうが》で高貴な行為《こうい》だと思っていた。
ぽつり、ぽつりとともり始めたランプの灯《あか》りを眺《なが》めながら、ロレンスは三角洲《さんかくす》から南|側《がわ》へ川を渡《わた》る船に揺《ゆ》られていた。
エーブは絶対にあとに引かないし、キーマンが杜撰《ずさん》な計画を練っているとは思えない。
キーマン側にとって最も恐《おそ》れることは偽《にせ》の土地の権利|委譲《いじょう》書を渡されイッカクを持ち逃《に》げされることであり、それは計画が露呈《ろてい》するよりも悲惨《ひさん》な結果をもたらすことになる。
もう、自分が抜《ぬ》けたからといって事態が好転するような状況《じょうきょう》ではない。
練りに練って膨《ふく》らみきったパン種のような計画は、すでに窯《かま》に入れられて焼き上がるのを待っている。
そうなればロレンスはひたすら神に祈《いの》るか、はたまた逃げ出すかのどちらかだ。
エーブの説得もキーマンの説得も今更《いまさら》不可能なら、この計画の上手な落としどころは一体どこなのだろうか?
船が桟橋《さんばし》に着き、ロレンスは周りに流されながら陸へと上がる。
多くは三角洲で会議の見物をしていた商人たちで、口々に勝手なことを言っては楽しそうに笑っていた。
それが耳障《みみざわ》りなのは八つ当たりだとわかっている。
それでも、決して掴むことのできない雲を掴むようなこの感覚に、わめき散らしたい衝動《しょうどう》が吐《は》き気《け》と共にこみ上げてくる。
千鳥足《ちどりあし》の商人がよろめいてロレンスにぶつかってくる。
思わず握《にぎ》った拳《こぶし》が飛びかけたその瞬間《しゅんかん》、ロレンスは別の一点に目を奪《うば》われていた。
「おぃー……ぶつかってんじゃねえよぉ……」
胡乱《うろん》な目つきで自分勝手なことを言う酔《よ》っ払《ぱら》いのことなど文字どおり眼中になかった。
その男の向こう側《がわ》。
次々と桟橋《さんばし》に着く船からぞろぞろと降りてくる人ごみの中に、見覚えのある人影《ひとかげ》が立っていたのだ。
こちらを向いて、その顔にきつく巻いた頭巾《ずきん》の下から、見たこともない目を覗《のぞ》かせて。
「おぃっ、聞いて――」
「失礼」
視線はそちらに釘《くぎ》づけのまま、ロレンスは薄汚《うすよご》れた銀貨を一枚男に押しつけて歩き出した。
わからないのは、なぜその人物が、会議の終わったこの時間に、町の南側にやってきているのかということだ。
それも、ただそこに立っているだけのその姿には、切羽詰《せっぱつ》まったような感があった。
一体なにが?
ロレンスが声を出すか出さないかの頃合《ころあい》だった。
「まずいことになった」
頭巾の下から聞こえてきたのは、ただでさえかすれたそれの、さらにかすれた声だった。
「もう……オレでは……だが、せめてあんただけでも……」
「っ」
それが最後の力だったかのように、エーブは膝《ひざ》から崩《くず》れ落ちそうになる。
ロレンスは慌《あわ》ててその体を抱《だ》きとめ、直後に思わず手を引っ込めかけた、というのはあながち冗談《じょうだん》でもない。
不気味なほどに軽く、そして熱い体。
頭巾の下でエーブは小さく短い呼吸を繰《く》り返し、額には油のような汗《あせ》が浮かんでいた。
右手にだけは、しっかりと一枚の羊皮紙を握《にぎ》りしめて。
「どうしたんですか、一体なにが」
ほとんどロレンスに寄りかかるようにしているエーブは、下唇《したくちびる》を噛《か》みしめながら、必死に目だけで訴《うった》えてくる。
よほどのことがあったのだ。
ロレンスの目はエーブの右手に向けられる。
手に握られている羊皮紙。
そこに、それほどのなにかが記されているのだ。
「とりあえず、ここは目立ちます。どこか、路地に――」
ロレンスがエーブにそう言って、体を引っ張るようにして歩き始めた直後だった。
教会で高らかに鐘《かね》が鳴らされ、港を行き来する者たちの足が止まり、彼らは一様にその視線を教会の塔《とう》に向け、次々に手を組んではそれぞれの祈《いの》りを捧《ささ》げ始めた。
りん、ごん、と鐘が鳴り続ける中、ロレンスは人ごみの中をエーブを抱《かか》えて歩いていく。
せめてもの神の思《おぼ》し召《め》し。
人ごみをかき分けて、もう少しで路地に潜《もぐ》り込める。
その足がぴたと止まったのは、教会の鐘が見事な余韻《よいん》を残して鳴りやんだ瞬間《しゅんかん》だ。
まさしくその瞬間に、神のご加護が切れてしまったかのように。
「どちらに?」
可能性がなかったわけではない。
ここは人が集まる港なのだ。
折《おり》しも会議が終わった直後であり、続々と三角洲《さんかくす》から人が引き上げてくる。
しかし、それはまったくの偶然《ぐうぜん》というわけでもないはずだ、と思ったのは、キーマンの側《そば》にあの小間使《こまづか》いの男が控《ひか》えていたからだ。
どんな人ごみの中でも確実に主《あるじ》の手紙を届けられるような目ざとさは、容易にエーブの姿を見つけ出すだろう。
ロレンスは頭を巡《めぐ》らせる前に、視線をぐるりと巡らせた。
エーブを連れて逃《に》げるのは、不可能だろう。
「知人がこんな調子なので、宿のほうに」
「そうですか」
キーマンはにこりと笑い、本当にそのまま世間話として終わりそうな雰囲気《ふんいき》であった。
しかし、その隣《となり》にいる小間使いの男と、配下と思しき別の男が静かに足を前に出す。
「ここで貴女《あなた》と会えたのは本当に幸運でしたよ」
ロレンスがエーブをかばうようにすると、二人の男の重心が変わった。
盗賊《とうぞく》に襲《おそ》われることも珍《めずら》しくはない。
今すぐにでも相手に飛びかろうとする体勢は、人であろうと獣《けもの》であろうと大差ない。
どうするか。
ロレンスは自問した。
エーブと自分が手を組んでいるとキーマンに思われるのはなにがどう転んでも得策ではないし、現時点でキーマンはそのことは確信できないはずだ。
だとすれば、その可能性に賭《か》けて、おとなしく引き渡《わた》すという選択肢《せんたくし》もある。
あるにはあるが、本当にそんなことができるのか?
脂汗《あぶらあせ》を浮かべ、疲弊《ひへい》しきっていてもなお、ロレンスの下《もと》になにかを伝えに来てくれたエーブを。
そして、キーマンの言葉にびくりと体をすくませたエーブを、見捨てるなどということが。
「違《ちが》う、わたしは……」
「……やはり、その手に持たれているのは手紙のようですね。差出人はテッド・レイノルズ、でよろしいか?」
ふる、ふる、とエーブは弱々しく首を横に振《ふ》る。
言葉|遣《づか》いが商人のそれから、冗談《じょうだん》で何度か垣間見《かいまみ》せた貴族のそれに変わっている。
それでも、ロレンスの頭はそれとは別のことで一杯《いっぱい》だった。
レイノルズからの、手紙?
「話はじっくりお聞きしましょう。ただ、時間はかけられませんがね」
キーマンが喋《しゃべ》りながら右手を軽く振ると、二人の男がいとも簡単にロレンスの腕《うで》の中からエーブを攫《さら》っていく。
なにも考えず、ほとんど反射的に手を伸《の》ばしかけ、動きが止まったのはぴったりと横に立つ小間使《こまづか》いの男が、ロレンスの脇腹《わきばら》にナイフを当てていたからだ。
「この狼《オオカミ》は我々を嵌《は》めようとしていたのですよ。どうしようもないほどにね」
笑顔《えがお》は時として怒《いか》りを表す表情になる。
遠隔地《えんかくち》貿易に手を染めるキーマンのような商人がそんな表情を浮かべる時、彼の手下に連れていかれる者の運命とは一体どのようなものになるのだろうか。
キーマンはエーブを見送りながら、どこか好敵手に賞賛を贈《おく》るような言い方でこう言った。
「その可能性はもちろん考えていましたが、まさかこんな形で、とはね」
「違う……わたしはレイノルズにイッカクを売るつもりなど――」
人攫いは不思議な抱《だ》きかかえ方をいくつも知っているという。
エーブは明らかにその腕から逃《に》げ出そうとしているのに、傍《はた》から見ているとまるで泥酔《でいすい》した人間を介抱《かいほう》しているように見えるのだ。
口をふさがれたエーブは、視線だけを激しくさまよわせている。
「ロレンスさん」
エーブが男たちに連れていかれ、人ごみの中に消える直前、キーマンはロレンスを見てこう言った。
「他言すると後悔《こうかい》しますよ」
キーマン一流の冗談《じょうだん》だろう。
それでも、そのあとに続いた言葉は、恐《おそ》ろしいほど冷たかった。
「私も、必死ですから」
キーマンはそして、ずぶずぶと人ごみの中に飲み込まれていくエーブのあとを追いかけるように、雑踏《ざっとう》の中に消えた。
気がつけばロレンスにナイフを突《つ》きつけていた小間使いの男もおらず、ロレンス一人だけが取り残されている。
それでもしばらく動けなかったのは、最後に見た光景が目に焼きついていたからだ。
なにか不気味な生き物のようにうごめく人ごみの中から、一縷《いちる》の望みを賭《か》けて伸《の》ばされた一本の手。
ロレンスはそれを取ることができなかった。
金貨百枚の海ですら、おぼれる時は一瞬《いっしゅん》だ。
それがイッカクのような想像を絶する高価な商品を巡《めぐ》る渦《うず》の中、足を踏《ふ》み外せばどんな場所に飲み込まれるのか、聖職者であれば顔を真っ青にして口をつぐむだろう。
エーブはついに足を踏み外したのだ。
危ない橋を渡《わた》り続け、ついに足を滑《すべ》らせたのだ。
キーマンの言葉が耳の奥でこだまする。
他言すると後悔《こうかい》する。私も必死ですから。
計画がどこかで決定的に破綻《はたん》したのだ。
テッド・レイノルズの名と、イッカクを彼に売るつもりではないというエーブの言葉。
そして、取り残され、無事な自分。
大した情報など持っていないと判断されたのか、それとも、エーブにいいように踊《おど》らされていただけと判断されたのか。どちらにせよ、キーマンたちにとってロレンスなど本当に情報の伝達役でしかなかったらしい。
ロレンスは、ため息をつき、突然《とつぜん》の吐《は》き気《け》に襲《おそ》われた。慌《あわ》ててエーブと共に逃《に》げ込むはずだった路地に駆《か》け込み、大きくえずいて胃の中身を全《すべ》て吐き出した。
無力感ではない。
信じられないほどの自己|嫌悪《けんお》感に我慢《がまん》できなかったのだ。
ロレンスはほっとしてしまった。
自分がキーマンに連れていかれないでほっとしてしまったのだ。
ホロに大見得《おおみえ》を切り、キーマンを圧倒《あっとう》できると思い込み、そしてエーブとのやり取りを経てなお自分はこの話の行く末をどうにかできる可能性を失っていない、などと思っていた。
それが、この体たらくだ。
無力感に襲《おそ》われたのであればまだ立ち上がれる。
いつだって商人は自分の手の中にないものを追い求めて前に進むのだから。
ロレンスは吐く物がなくなっても何度もえずいて、最後に唾《つば》を吐く。
自分はホロを救うことができたし、何度も危ないところをくぐり抜《ぬ》けてきた。
それが根拠《こんきょ》のない自信を作っていただけならばまだしも、その薄皮《うすかわ》を一枚めくれば内|側《がわ》は以前よりも腐《くさ》っていた。
視界がぼやけているのは、決して嘔吐《おうと》の苦しみのせいだけではない。
エーブの行動はちぐはぐだった。
計画の破綻《はたん》がレイノルズからの手紙によってもたらされ、せめてロレンスだけはと自らの危険も顧《かえり》みず、南側まで知らせに来てくれた。
となると、エーブはロレンスを単なる駒《こま》だと見ていなかったことになる。
ロレンスに共に裏切ろうと持ちかけてきたのも、イッカクを手に入れようとするのとは別のなにかがあったのかもしれない。
それなのに、ロレンスは、エーブだけが連れていかれたことにほっとしてしまった。
自分は勇気に満ちた主人公ではない。
そのことを思い知らされるのにこれ以上のことがあるだろうか。
「くそ」
ロレンスは悪態をつき、石壁《いしかべ》を殴《なぐ》る。
損をした、得をしたの話ならば、自分が納得《なっとく》するか、あるいは諦《あきら》めるかで決着がつく。
しかし、それが人を巻き込んだ話となるとそうはいかなくなる。行商人をしていて、荷馬車の上で続く一人旅が孤独《こどく》なものだったことは確かだ。それでも、自分一人の心配だけをしていればいい、という利点も理解していた。
本当なら、行商人だって、その気になれば訪《おとず》れる町で所帯を持つこともできる。それをしなかったのは、それができなかったのは、自分が臆病《おくびょう》なお人好《ひとよ》しだからとわかっていたからだ。
行商とは、出会いと別れの永遠の旅路。
次の町でもっといい商品と出会えると期待するなら、どうして目の前の商品だけで満足する?
そんな大それたことを思っていたのも事実で、ついにホロという逸品《いっぴん》に大枚《たいまい》をはたいてしまったのもまた事実。
ただ、だからといってホロだけが無事ならなにもかも安泰《あんたい》だ、などと言えるわけがない。
行商人の呪《のろ》いは、ある種の言い訳という意味だってある。人と人との関係は、金で割り切れるようなものではない。金でなにもかもを判断できるのならば、エーブとキーマンの間に挟《はさ》まれてあんなにも動揺《どうよう》はしないはずだ。
イッカクを巡《めぐ》る話の中で、自分が死ぬまでに稼《かせ》ぐ金額など塵芥《ちりあくた》程度の価値にしかならないからだ。
だからこそ、金よりも重要な他人との関係を、金よりも得るのが難しい高嶺《たかね》の花、と思い込むことで遠ざけようとする。
荷馬車に積める積荷《つみに》の量は決まっていて、それは自分の心でも同様だ。
自分の器の広さは知っている。
ロレンスは、石壁《いしかべ》に拳《こぶし》を突《つ》き立てながら体を起こし、紫《むらさき》色に染まる空を見上げて涙《なみだ》を拭《ぬぐ》う。
ホロさえいれば、と馬鹿《ばか》になれるなら問題はいつだって簡単だった。
しかし、器にはいつだって別のものが入り込み、大事なものすら押し出そうとする。
それは好奇心旺盛《こうきしんおうせい》な商人には健全なことかもしれないし、修道士のような鉄の意志を持たない凡人《ぼんじん》ではどうしようもないことかもしれない。
それでも、器の中から色々なものがあふれないように、本当に大事なものはこぼさないようにとあたふたしてきたこれまでの旅は、波風立たない一人での行商よりも断然に面白《おもしろ》かった。
そう、面白かった。面白かったのだ。
ずっと同じ行商路を、馬の尻《しり》を眺《なが》めながらぐるぐる回っているだけの旅ではなかった。
口の中に残る、苦くすっぱいものを再度|吐《は》き出して、口元を乱暴に拭う。
泥《どろ》をすすり地を這《は》いずり回り、それでも積荷を次の町に全《すべ》て運びきるのが行商人のはず。
積荷は決して落としてはならない。
どんな困難に遭《あ》っても絶対に落としてはならない。
「ならば」
ロレンスは呟《つぶや》いて、停止した思考を無理やりに動かした。
目の前でエーブが攫《さら》われたのはむしろ幸運だと思わなければならない。そんな荒《あら》っぽい手段を講じてきたのなら、事態は相当に切迫《せっぱく》してきているし、そうなれば複雑な構造は作れない。
長期的な視点に立ち、数多《あまた》の人間に根回しをし、あらゆる方法で予測される危険を回避《かいひ》する策を立てる戦いには不慣れでも、目の前の商品の売った買ったは得意分野だ。
自分にも勝機はある。
あるはずだ。
それに、とロレンスは胸中で呟《つぶや》く。
市場の外|側《がわ》から、町の中で行われる商品のやり取りを、外部の人間ならではの冷静な視点でもって眺《なが》め回す時の心持ちで、呟いた。
それに、自分は一人ではない。
いつ頃《ごろ》からそこにいたのか、なぜそこにいるのか、とはロレンスも問いはしない。
宿でじっとしていられるわけはない、というのはわかるし、なにが起こっているかわからない状況《じょうきょう》では人のいる場所に陣《じん》を取り耳を澄《す》ませるのは基本中の基本ともいえ、その点港は最良の場所だ。
しかも、旅の連れ二人共に、目ざとさでは比類ない。
世界の果てに落ちる針の音でも聞き分けられそうな狼《オオカミ》の耳を持つそいつは、少し離《はな》れた石壁《いしかべ》にもたれたまま、不機嫌《ふきげん》そうに腕組《うでぐ》みをしていた。
きっと、全《すべ》てを見られていた。
見られていなくとも、簡単に察せられてしまうだろう。
ロレンスは苦笑いをして、肩《かた》をすくめる。
そうすることで、自分はいつもどおりに振《ふ》る舞《ま》えるとまじないをかけるように。
「知恵《ちえ》ならば貸す」
フードの下から、小さい顎《あご》だけを覗《のぞ》かせてホロは言った。
「十分だ」
「他《ほか》の雌《めす》を助けるために何度わっちの知恵を借りるつもりかや?」
あまりにもあんまりなほどまっすぐな言葉をぶつけてくるのは、迂遠《うえん》なやり取りをできる状況ではないからか。
それとも、ついに我慢《がまん》できなくなったからか。
ロレンスは笑う。
自然に笑って、こう答えた。
「だが、旅を共にするのはお前だけだ」
ホロは返事をしてこないが、軽く弾《はず》みをつけて壁から背中を離すと、こきりこきりと首を曲げて骨を鳴らす。
くすぐったい言葉に我慢がならない、とも見て取れるが、そんなことを言ったら頭からまるかじりにされるに違《ちが》いない。
「コル坊《ぼう》に連中のあとをつけさせておる」
「港で耳を澄ませてみた結果は?」
「わからぬ。じゃが、ぬしが陸に上がる前から一部の連中に動揺《どうよう》が広がっておったのは見て取れた。そこのパン屋の三階に陣取っておったからな。面白《おもしろ》いほどよくわかりんす」
となれば、キーマンやエーブといった本当にごく一部の人間だけが浮き足立つ類《たぐい》のことではないことになる。
なにかもっと大きな流れのせいで、キーマンたちの密航船もあおりを受けたことになる。
エーブは連れ去られ際《ぎわ》、レイノルズにイッカクを売るつもりなどない、と言った。
とすれば、エーブが握《にぎ》っていた手紙は、レイノルズからの打診《だしん》をしたためたものだったということだ。その事実をキーマンとエーブをつなぐ密約にとどまらず、もっと広い視点で捉《とら》えるとどうなるだろうか?
レイノルズは北|側《がわ》の地主たちの陣営《じんえい》にいるはずで、それで大きな流れとなれば、可能性は限られる。
レイノルズは、陰《いん》に陽《よう》に、イッカクを買いつけようと行動を起こしている?
「それは、多分、北側の人間がイッカクを買おうと動いているせいだと思う」
「ふむ……」
「だが、それだけならキーマンが慌《あわ》て、エーブが危険を冒《おか》して俺に会いに来た理由にはならない。それが彼らのまったくの予想外のことだったから、こんなことになったはずだ」
ホロは、ロレンスの手を引いて歩き出し、口を開く。
「みすぼらしい町じゃったからな。とても金があるようには思えぬ」
「そう。しかも、その動きの中心にいるのはレイノルズだという」
銅貨を詰《つ》める箱の数を誤魔化《ごまか》して、小銭を稼《かせ》いでいるようなレイノルズが、そんな大金を用意できるわけがない。
「ないものは常に借りねばならぬ」
「そのとおりだ。レイノルズが本当にイッカクを買うつもりなら、それはどこからか資金調達をしてきたということだ。ああ、そうだ。だから、キーマンやエーブがあんなにも取り乱していたんだ」
ホロがようやくフードの下から目を見せてくれた。
眉根《まゆね》に皺《しわ》の寄った跡《あと》がうっすら残っている。
ロレンスが南側の岸に上がり、エーブと出会い、キーマンを目の前にし、その後の顛末《てんまつ》まで全《すべ》て見られていたのだとしたら、ホロはそれを前にずっとしかめっ面《つら》だったことだろう。
ホロがコルにそうしてやったように、全てが片づいたらその皺が取れるようにしてやらなければならない。
「金と権力は仲がいい。このイッカクのやり取りにどこかの金を持った権力者が絡《から》んできたとなると、話が一気に複雑になる。わかるか?」
古今東西《ここんとうざい》変わらぬこと。
ホロは、わっちを試《ため》すなと言いたげに唇《くちびる》を尖《とが》らせて答えた。
「……ぬしらは飯屋で注文した飯が出てこなかったら、代金を返せと言うだけじゃからな」
さすがの頭の回転の速さだ。
ロレンスは、エーブが力ずくで連れていかれた場面を思い出す。
損得と、帳簿《ちょうぼ》の上の数字のやり取りだけではすまなくなってきたからこそあんなことになったのだ。
「頼《たの》んだ料理が出てこなかったら、金と血であがなわせるのが奴《やつ》らの流儀《りゅうぎ》。そうなると……もしもこの仮説が正しいのなら、キーマンがエーブを連れていく先は一つしかない」
権力には権力を。
レイノルズがエーブにイッカクの買い付けを申し出たのは、レイノルズがキーマンとエーブの密約を薄々《うすうす》予想していたからだろう。
そして、そうであるならばいつ表の力がキーマンたちに襲《おそ》いかかってくるかわからない。
その時に、一人や二人のごろつきを周りにおいているだけでは逆効果にしかならない。
ロレンスは、今度はホロの手を引いて逆の方向に歩き出す。
ホロはどこかでコルと落ち合う約束をしていたのだろうが、もしもロレンスの予測が合っているならば行き先は決まっている。
雑踏《ざっとう》の中をかき分けるように進んでいき、ほどなくしてたどり着いた。
そこは、昨日来た時よりもさらに警備が増えている。
まるで、不測の事態に備えているかのように。
「教会?」
ホロが呟《つぶや》いた直後、その目がなにかに引きつけられるように動き、その先には驚《おどろ》いた顔のコルがいた。
「あ、あの、なぜここに?」
ぼろぼろの外套《がいとう》を頭から被《かぶ》って物乞《ものご》いに扮《ふん》したコルが訊《たず》ねてくる。
ロレンスは自分の予測が当たったことを確信する。
「キーマンたちは中か。どの道エーブを助けるには一度会って話を聞かなければならないからな。どう攻《せ》めたらいいと思う?」
ロレンスが言うと、ホロは牙《きば》を見せて、楽しそうに笑ったのだった。
「何用か」
教会の石段を上《のぼ》り入り口にたどり着くと、二人の兵士が槍《やり》を交差させて行く手を阻《はば》む。
ロレンスは、ホロと服を取り替《か》えたコルを連れて、笑顔《えがお》でこう言った。
「ローエン商業組合の、ルド・キーマン様に御用がありまして」
それは神から賜《たまわ》りし魔法《まほう》の言葉だが、いつまでも同じ玉座に同じ神がいるとは限らない。
昨日とは違《ちが》い、兵士の一人が難しい顔のまま扉《とびら》を開けて中に入っていき、残る一人は容赦《ようしゃ》なくロレンスに向かって槍《やり》を突《つ》きつけていた。
ホロが提案したのは至極《しごく》単純な策で、意外なところといえば、ロレンスの隣《となり》にいるのがホロではなくコルだけだという点だろう。
「……中に」
教会の中に入っていった兵士が間もなく出てきて、短い言葉だけを告げてきた。
ひとまず槍を収めた兵士にロレンスは笑顔《えがお》で挨拶《あいさつ》し、兵士が開けているわずかな隙間《すきま》から教会の中に体を滑《すべ》り込ませるようにして入った。
コルも入ると扉《とびら》はすぐに閉じられ、再び槍を向けられた。
「……」
進め、ということだろう。
ロレンスは歩き出し、後ろから槍で促《うなが》されるままに聖堂の周りをぐるりと取り囲む回廊《かいろう》を歩いていった。
教会の中は不気味なほどに静まり返っていて、蝋燭《ろうそく》の炎《ほのお》が揺《ゆ》れる音すら聞こえそうだった。
天井《てんじょう》が高く、壁《かべ》や柱頭に刻まれた彫刻《ちょうこく》はどれ一つとっても手間のかかった見事なもの。
ただ、それら全《すべ》てが世の恐《おそ》ろしさを知らしめるための異界の魔物《まもの》たちだったのは、なにかの予兆《よちょう》なのか。
回廊の途中《とちゅう》の一室の前で、止まれ、と指示される。
普段《ふだん》はちょっとした倉庫にでも使われているのか、特になんの変哲《へんてつ》もない木の扉で、兵士がノックすると静かに開かれた。
そこから顔を見せたのは例の小間使《こまづか》い。
ロレンスの顔を認めると、あからさまに不快そうな顔をした。
「キーマンさんにお話が」
特上の笑みでそう言ってやる。
行商人|風情《ふぜい》が、と思われているのは承知しているので、相手の神経を逆撫《さかな》でするのが目的だ。
ホロが提案した単純な策は、これくらいのほうが効果がある。
「わざわざ見|逃《のが》してやったのがわからねえのか?」
脅《おど》しは、藪《やぶ》の中から突然《とつぜん》出てくる蛇《ヘビ》のように使われてこそその真価を発揮《はっき》する。
それが来るとわかっているのなら、ロレンスにも対処のしようはある。
「火中の栗《クリ》を拾ってこその商売ですから」
ロレンスが答えた瞬間《しゅんかん》、男の顔色が変わりその手が胸元《むなもと》に伸《の》びてくる。
来るとわかっていれば驚《おどろ》かない。
ロレンスは男が胸倉を掴《つか》むと同時に体を引き、逆に相手の胸倉を掴んで部屋から引っ張りだした。
「わざわざ交渉《こうしょう》しに来たというのがわからないのですか?」
笑顔《えがお》のまま言うと、ぽかんとしていた兵士が慌《あわ》ててロレンスと男を引き剥《は》がそうとして、そこに別の声が響《ひび》いた。
「どんな御用《ごよう》でしょうか?」
それでロレンスは男の胸倉《むなぐら》から手を離《はな》し、相手もほとんど同時に同じことをした。
教会の荘厳《そうごん》な雰囲気《ふんいき》にその落ち着いた上品な言葉|遣《づか》いが嫌味《いやみ》なほど似合う。
それでも若干《じゃっかん》髪形《かみがた》の乱れたキーマンが、部屋の入り口に立っていた。
「私の知人と話がしたく」
「単刀直入《たんとうちょくにゅう》ですね。許可できるとでも?」
すっと小間使《こまづか》いの男は主《あるじ》の側《そば》に立ち、暗い目つきでこちらを睨《にら》んでくる。
それに対抗《たいこう》するつもりがあったのかどうかはわからないが、隣《となり》でコルが負けじと胸を張ったことには勇気づけられた。
「簡単にはさせてくれないとは思っています」
「では、どうしますか? 私は悠長《ゆうちょう》にあなたと話をしている状況《じょうきょう》ではありません。この教会には幸い部屋がいくつもありますから……」
と、冷たい視線を向けてくる。
多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》。
しかし、単純な脅《おど》しをしてくるのは、余裕《よゆう》がない証拠《しょうこ》だ。
「もちろんです。ただ、私がなんの準備もなく来たと思われるのは心外ですね」
「ふん?」
「いえ、こう言うべきでしょうか。私はてっきり、私を捕《と》らえると面倒《めんどう》なことになるからキーマンさんは私を見|逃《のが》したのだと思っていました」
キーマンの端正《たんせい》な顔立ちに皺《しわ》が寄る。
ロレンスは、たたみかけるように言葉を続けた。
「エーブさんは私の気を引くために色々と便宜《べんぎ》を図ってくれましたからね。私が私の身を守るために協力してくれましたよ。例えば」
わざとらしく咳払《せきばら》い。
「例えば、あなたの署名入りの羊皮紙を売ってくれるとか」
小間使いの男が動こうとしたのを、キーマンが手で制した。
唇《くちびる》の右|端《はし》だけがつり上がり、顔半分で笑うような不気味な笑顔を浮かべていた。
「よく見れば、お連れの方はあの女性ではありませんね」
「すばしっこさで勝《まさ》るのは彼女なので。それに、懐《ふところ》に羊皮紙数枚くらいならば少女でも運べます」
「……」
エーブとのやり取りを表沙汰《おもてざた》にされればキーマンは苦しくなる。
なんらかの手を打っているにせよ、事態が混乱しているのであればそれがうまく機能するかはわからない。
キーマンはこれ以上の危険を抱《かか》え込みたくはないはず。
それに、ロレンスをエーブと会わせたところでどうということもない。そう判断するはずだ。
「わかりました」
キーマンのその言葉に、小間使《こまづか》いの男が主《あるじ》の顔を見る。
「二人をお連れしろ」
そして、そう言われたら、唇《くちびる》を噛《か》みつつもうなずくその忠誠心は、確かに見上げたものかもしれない。同時に恨《うら》みのこもった一瞥《いちべつ》を向けられるが、街中で出会って本当に怖《こわ》いのは主のいない野良犬《のらいぬ》であり、訓練された獰猛《どうもう》な番犬ではない。
「私の利益になることを掴《つか》んだら、それなりの値で買いますよ」
キーマンも商人だ。
ロレンスは肩越《かたご》しに振《ふ》り向き、笑顔《えがお》でうなずいておいた。
「こっちだ」
小間使いの男に導かれていったのは、回廊《かいろう》の途中《とちゅう》に設けられていた地下に続く階段だ。
宝物庫《ほうもつこ》か、あるいは、異教徒との戦いの最前線だった頃《ころ》の名残《なごり》かもしれない。
暗く、湿《しめ》った階段を下りていくと、鉄製の扉《とびら》に突《つ》き当たる。
男が変わった扉の叩《たた》き方をすると、中から鍵《かぎ》が外された。
小間使いの男は、扉に手をかけることなくロレンスを振り向いてこう言った。
「逃《に》げられると思うなよ」
「承知しております」
慇懃《いんぎん》に答えると、男がぎりりと歯を食いしばった。
ロレンスは自分で扉を開き、部屋に入る。
コルが続いて入り、ゆっくりと扉を閉める頃には、中の人物も状況《じょうきょう》が理解できたらしい。
捕《と》らわれの姫《ひめ》よろしく、蝋燭《ろうそく》が揺《ゆ》らめく地下室で藁《わら》の上に座っているエーブは、最高の冗談《じょうだん》だ、とばかりに顔を歪《ゆが》めて歯を見せた。
若干《じゃっかん》の間をあけて、だいぶ落ち着きを取り戻《もど》したらしい。
その不恰好《ぶかっこう》な笑みは、エーブなりの照《て》れ隠《かく》しかもしれない。
「お話を伺《うかが》いに参りました」
「どんな……戯言《ざれごと》がお望みだ?」
見張りの男に短剣《たんけん》を渡《わた》し、ロレンスとコルは武器を持っていないことを確認《かくにん》される。
その間に部屋を遠慮《えんりょ》なく見回してみたが、やはり元々は地下倉庫なのかもしれない。
今は多少荷物が片づけられていて、あいた場所には藁が敷《し》かれ毛布が置かれ、水も食べ物も用意されているし後ろ手に縛《しば》られているということもない。
凄惨《せいさん》な状況《じょうきょう》になっている可能性も考えていたので、その点については素直《すなお》にほっとする。
エーブは見目麗《みめうるわ》しい。
鞭《むち》や棍棒《こんぼう》だけが口を割らせる道具ではない。
「行商人は、新しい町に着いたらまず情報を集めます」
「なるほど。よくまああの男が市壁《しへき》を通したものだ……ああ、隣《となり》にいるのが坊《ぼう》やなのか。なるほどな」
この手の知恵《ちえ》の回り方は実地で学んできたのだろうエーブだ。
ロレンスがどんな手段を使ってこの地下室に下りてきたのかすぐに理解したらしい。
「一人で帰りを待つあの娘《むすめ》を迎《むか》えに行く時は、花束では足りないな」
「……前回は頬《ほお》をしこたま殴《なぐ》られましてね」
「はっは……確かに気の強そうな娘だ」
これが日の当たる軒先《のきさき》で行われる雑談であったらさぞ素晴《すば》らしい休日になったに違《ちが》いない。
だが、生憎《あいにく》と側《そば》では抜《ぬ》き身《み》の長剣《ちょうけん》を腰《こし》から提《さ》げた男がじっと見つめている。
扉《とびら》の外にはあの小間使いの男がいるだろうし、もしかしたらキーマンも聞き耳を立てているかもしれない。
「まあ、今のところはあなたがパンを小さくちぎって食べる羽目になっていなくてほっとしています」
「ふん。オレを傷つける度胸はキーマンにはない。レイノルズは素寒貧《すかんぴん》のはずだからな、どこかしらの金持ちが北|側《がわ》の味方についたはずだ。そして、この近辺で金持ちの人間となれば数は限られる。そうなればオレとどうつながっているかわからない。せいぜい浴びせられるのは罵声《ばせい》だけだ」
その嫌味《いやみ》が、長剣を提げている男に向けられたのは間違いがない。
もっとも、エーブの性格からして本当に取るに足らない相手だと思っていたら嫌味すら向けはしないだろうから、水と食べ物は側に立つ男の配慮《はいりょ》なのかもしれない。
「だが、これはキーマンにも散々言ったんだが、レイノルズからの手紙はオレにとっても足元の梯子《はしご》を外されるようなものだった。キーマンとの密約を元にオレを利用しようと思えば……オレは使いでがあるからな」
声の調子は変わらないのに、その雰囲気《ふんいき》は一変する。
コルの固唾《かたず》を飲む音が聞こえそうだった。
「やはり、後ろに金持ちの権力者がいることは確実なのですか?」
「それはキーマンも疑っていることだろうが、とにかく北側で最も景気のいい商売をしているレイノルズですらあんな状況だからな。見知った顔の誰《だれ》かが金を持っている、とは考えにくい。もちろん、レイノルズか誰かの知恵《ちえ》で、金も持っていないのに買い付けの注文を出したとは考えられる」
「目的は?」
エーブは、ぞろりと歯を見せて笑った。
「オレたちのような、イッカクを巡《めぐ》って暗躍《あんやく》している連中から金を巻き上げるためさ」
ロレンスの顔が笑《え》みの形になってしまったのは、世の中本当に色々なことを考える者がいるのだと思い知らされたからだ。
「苦労して積み重ねた一世一代《いっせいちだい》の大博打《おおばくち》を邪魔《じゃま》されたくなければ、金を払《はら》えと」
「北|側《がわ》はどうせ負《ま》け戦《いくさ》だ。せめてもの利益をかき集めようと誰《だれ》かが言い出してもおかしくはない。無茶をしても周りが納得《なっとく》せざるを得ないような奇策《きさく》を打とうとしている連中は他《ほか》にもいるはずだからな。泡《あわ》を食って金を出すだろう。もっとも、勝手にイッカクを売り飛ばそうなんて大胆《だいたん》な計画は、さすがにオレたちだけだろうが」
教会のこの場所をキーマンが即座《そくざ》に確保して、エーブを軟禁《なんきん》できる時点で、その大胆すぎる計画がどれほど緻密《ちみつ》に構成されていたかの片鱗《へんりん》が窺《うかが》える。
使った金も相当なもののはず。
それが水泡《すいほう》に帰すくらいならば、レイノルズに金を積んで買い付けの取り消しを申し出たほうがいい。
「もっとも、キーマンがオレをここに閉じ込めているあたり、レイノルズが金も持っていないのに買い付けの注文を出したという可能性は低い。キーマンはオレが北側の権力者に取り込まれることをなにより恐《おそ》れている。オレを閉じ込めているというのは、レイノルズの後ろに権力者がいる可能性が濃厚《のうこう》だと判断しているからだろう。オレが……オレが、わざわざあんたに会いに来たのも、その心当たりがあまりにも多すぎたからだ」
エーブは、ケルーベから船で半日の、海峡《かいきょう》を渡《わた》った先にあるウィンフィール王国の元貴族だ。
エーブと過去|関《かか》わりのあった権力者を書き上げていけば、きっと羊皮紙が真っ黒になるような相関図が書けるに違《ちが》いない。
大義名分がなければなかなか動けないが、いざそれさえできてしまえばなんでもやるのが権力者だ。イッカクを巡る取引の密約など、彼らの格好の餌食《えじき》だろう。
しかも、エーブ一人を悪者に仕立て上げることで、さらなる無茶をして金儲《かねもう》けができれば一石二鳥《いっせきにちょう》というわけだ。祭りが終わったあとにエーブが生きているかどころか、果たして人の形を保っているかすらわからない。
イッカクを持って南に逃《に》げるというのは、エーブの切実な願いだったのだろう。
「それが、ここまでの馬鹿《ばか》とはな」
エーブは呆《あき》れるように言って、丸めた毛布に肘《ひじ》を載《の》せ、寄りかかった。
「ここまで状況《じょうきょう》がわかれば、あとは数日の町の動きを見ていれば全部わかるだろうさ。まあ、レイノルズが金を持っていようといまいと、あるいはその金をどこから調達しようと、オレとあんたが顔を合わせるのはこれが最後だろうがね」
いつになく饒舌《じょうぜつ》なのは、きっと張り詰めていたものが緩《ゆる》んだ反動だろう。
ただ、ひとしきり喋《しゃべ》って満足したのか、はたまた疲《つか》れが出たのか、エーブは目を伏《ふ》せ、ゆっくりと欠伸《あくび》をする。
何事にも動じない王者の風格すら漂《ただよ》わせている。
それが決して神々《こうごう》しく見えなかったのは、ゆっくりと口から紡《つむ》がれた短い言葉のせいだった。
「ここにいるのは手練《てだ》ればかりだからな。苦しまずに死ねるなら幸いだ」
コルが小さく声を上げ、エーブが視線を上げながらそんなコルに微笑《ほほえ》みかけていた。
「証拠隠滅《しょうこいんめつ》、ですか」
「オレには口がついているからな」
肩《かた》をすくめながらそんなことを言える人間がこの世にどれほどいるだろうか。
ロレンスがなにかを言いかけると、エーブは娘《むすめ》のように笑ってこう言った。
「最後に、あんたがオレの子供のようなわがままに付き合ってくれたからな。楽しかった」
顔を背《そむ》け、視線を遠くしたその横顔は真実美しかった。
「どんなひどい晩餐《ばんさん》会も、最後の料理がうまければめでたしめでたし」
ずく、と胸がうずいたのは、そんなエーブが哀《あわ》れだったからではない。
自分はまさしくそのために、ホロと旅を続けることを選んだのだ。
ホロとだけ笑っていられればそれでいい。
しかし、他《ほか》のなにを差し置いてもそう思うことができれば、こんな場所にはそもそも立っていない。
「あなたをここから救うにはどうしたらいいでしょう?」
ロレンスがそう訊《たず》ねると、すぐ側《そば》で見張りを務める男も驚《おどろ》いたし、なによりエーブ自身が驚いた。
「正気か?」
エーブが言いながら視線を向けたのは、ロレンスではなく見張りの男にだった。
「……なんとも。生憎《あいにく》、私は商人ではないので」
下手をすれば首を刎《は》ねる側《がわ》と刎ねられる側なのに、二人は旧知の間柄《あいだがら》のような調子で言葉を交《か》わす。
「だが、一つ言えることは……」
「言わなくていい。そいつもわかっている」
ロレンスを向いて口を開いた男に対し、エーブはそう言って言葉を制した。
男はエーブを見て、しばし黙考《もっこう》しているようだったがおとなしく口をつぐんだ。
ロレンスも彼らがなにを言おうとしているのかはわかる。
完全な絶望はある種の平穏《へいおん》をもたらしてくれる。
しかし、その中にわずかな希望がまざった時だけ、想像を絶する苦しみが生まれるのだ。
「オレを救う可能性があるとすればな、それは唯《ただ》一つ」
エーブの顔がそれでもなお落ち着いていたのは、彼女の心が鉄でできているからではない。
「レイノルズが自前で金を用意していた時だけだ」
エーブは言って、目を閉じた。
「喋《しゃべ》って疲《つか》れた。ここ二日、寝《ね》てないんだ」
果報は寝て待てというが、エーブが深い眠《ねむ》りから目を覚ます時は、おそらく永遠の眠りにつく時だ。
それでも、エーブは本当に眠りにつくように、体を横たえてしまう。
もう、話したくないということだろうし、ロレンスも十分だった。
金で雇《やと》われたのか、それとも元々キーマンの配下なのか、なんにせよ職業意識の高い見張りの男に対し、軽く目礼してロレンスは身を翻《ひるがえ》した。
ロレンスが預けた短剣《たんけん》を受け取っている最中、コルはやり取りが納得《なっとく》できないのか、それとも理解したくないのか、ずっとロレンスに必死で目で訴《うった》えてくる。
ロレンスはその頭に手を置くだけで、なにも言わなかった。
ただ、部屋から出る際に、振《ふ》り向いて一言だけ短く言った。
「おやすみなさい」
軽く手を挙げて答えたエーブのその姿が、とても印象的だった。
地下室から出たロレンスとコルは、小間使《こまづか》いの男の一瞥《いちべつ》を受けてから地上に出た。
会話は全《すべ》て聞いていただろうし、そのうちのいくつかはキーマンに報告するかもしれない。
それでも、なにか有益な情報を与《あた》えられるとは思えない。
エーブもロレンスも商人であり、商人ほど口から出るものが信用できない者たちは存在しない。
商人は、言葉の外でこそ本当の会話をするのだから。
「有益な会話はできましたか?」
キーマンのいた部屋に戻《もど》ると、頬《ほお》にインクの跡《あと》をつけたキーマンは羊皮紙から顔も上げずにそう言った。
「ええ。エーブさんはかなり口が達者ですから」
紙の最後に音がしそうなほどの速さで署名を施《ほどこ》すと、キーマンは側《そば》に詰《つ》めている配下の者に押しつけて次の手紙に取り掛《か》かる。
情報収集と根回しと、それに恫喝《どうかつ》や懇願《こんがん》も含《ふく》まれているかもしれない。
図体《ずうたい》が大きければその力は計り知れない。
しかし、方向|転換《てんかん》をする時の大変さはその比ではない。
「私が仲介《ちゅうかい》した取引は中止でしょうか」
キーマンは自分の能力の限界で手紙を読み、また返事をしたためていたようで、ロレンスのその質問に行動がぴたりと止まった。
少なくとも、その質問はキーマンの頭を使わせる質問だったのだ。
「パン屋の店主を自分の店に閉じ込めて、その店に買い物をしに行くというのは実に神学的な問題だと思いませんか」
「お金と商品さえあれば、人はいなくても商売は成り立ちますから」
「確かにそのとおりです。しかし、今本当にパン屋にパンが並んでいるのかどうか、それを知らなければなりません。確かにパンが欲しければパン屋の主《あるじ》をパン屋に返せばいいのですが、我々に恨《うら》みを抱《いだ》いていないとも限りません。我々はそのパン屋の主が別の店で毒を買っていたと聞いたので慌《あわ》てて取り押さえたのですが……」
「その毒が鼠《ネズミ》を殺すためのものだったのか、それともパンに練り込むためのものだったのか、わかるのは自らがそのパンを口に含《ふく》む時」
再びキーマンの手元で、ざざっと署名する音が響《ひび》き、ようやくその視線がこちらを向いた。
「あるいは、鼠が死ぬ時です」
事態を見|極《きわ》めるまで混乱を助長させかねない危険人物は閉じ込めておく。数多《あまた》の人間を動かすキーマンならではの発想だったのかもしれない。
エーブを拷問《ごうもん》にかけて事の真偽《しんぎ》を確かめようとしないのは、場合によってはエーブを傷つけると自分の首を絞《し》めることになりかねないからだろう。
ただ、複雑な事態に直面した時、大本の原因を絶ってしまえばいいという発想は、ホロも取り入れるくらいの万能薬だ。
「なんにせよ、狼《オオカミ》に気に入られていたご様子ですから、あなたも身の安全にはお気をつけください。もちろん、それなりに自衛はしていらっしゃるでしょうが」
エーブに会おうとここにやってきた時、ロレンスがキーマンを脅《おど》すために使った手のことを皮肉っているのだろう。
しかし、キーマンに都合の悪い文書をホロが持っている、などということが実際には嘘《うそ》だとここで告げたらキーマンはどんな顔をするだろうか。
ロレンスはそう考えることで顔を笑《え》みの形にして、「お気遣《きづか》いありがとうございます」と答えることができた。
「では、お客様をお送りしろ」
そこで話は終わりだとばかりに、キーマンは小間使《こまづか》いの男に言って再びペンを走らせ始めた。
男は恭《うやうや》しく頭を下げ、ロレンスらを表の出入り口に連れていく。
やってきた客は、出ていかねばならない。
その数が合わない時、そこでは必ずなんらかの事件が起こっているからだ。
「覚えていろ」
大きな扉《とびら》の隙間《すきま》から吐《は》き出されるように外に出る直前、小間使いの男が口汚《くちぎたな》くそう言った。
ロレンスが返事をする間もなく、扉はごごんと音を立てて閉じられた。
二人の兵士が横目でこちらを盗《ぬす》み見ている。
ロレンスは、わざとらしく襟元《えりもと》を直しながら、「警備ご苦労様です」と言ったのだった。
ロレンスたちが教会をあとにして向かったのは宿ではなく、ナイフや馬具を製造する鍛冶《かじ》職人たちの多く集まる地区の路地の一角だった。工房《こうぼう》によっては週に四十本や五十本といった数のナイフを鍛造《たんぞう》し、その町からはるか遠方の地であっても、その工房の銘《めい》が入ったナイフに出会うことがある。
ロレンスとコルは、そんな工房の間を無言で歩いていた。
ロレンスは考えることがあったし、コルは口を利《き》きたくない様子だった。
金のない旅をしていれば、嫌《いや》でも人が死ぬ場面に出くわすことがある。
病、飢《う》え、老い、あるいは怪我《けが》や事故。
なんにせよ、彼らが永遠の旅路に出ることは珍《めずら》しいことではない。
それでもコルがずっと表情を硬《かた》くしているのは、あのエーブの門出が、異様で納得《なっとく》のできないものに映ったからだろう。
「怒《おこ》ってるのか?」
訊《たず》ねると、コルはしばらく迷ったのちに首を横に振《ふ》り、やがて諦《あきら》めるように縦に振った。
「この話は、俺とホロのわがままで首を突《つ》っ込んだようなものだ。降りても誰《だれ》も責めはしない」
それに、危険がつきまとうことも説明した。
しかし、コルは今度はすぐに首を横に振って、顔を上げた。
「僕が目をつぶることで理不尽《りふじん》なことがなくなるのなら、そうします」
自分とも、ホロとも違《ちが》う、第三の物の見方。
ロレンスがうなずいて前を向くと、コルもまたそれに倣《なら》う。
それでも、まっすぐに事実を直視するのは難しいらしかった。
「エーブさんは……助けられる……んですよね?」
皮算用が大好きな商人でも、安請《やすう》け合《あ》いのできないことはたくさんある。
ロレンスはその質問に、こう答えた。
「少なくとも、俺はそうしようと思って動いている」
逃《に》げ口上《こうじょう》だと取られてもおかしくはないし、実際にその意味合いが少なからずある。
エーブが言った、自身が助かる唯一《ゆいいつ》の道。
それは、レイノルズが自身の資金で、自分か、あるいは北|側《がわ》の利益のためにイッカクを買い取ろうとしている時だけだ。
その時だけ、物事は単純に、商品の売買に落ち着くことになる。
ちょっとした物音に全身を強張《こわば》らせて息を殺していた盗人《ぬすっと》たちが、徐々《じょじょ》に行動を再開するようにキーマンたちは事後処理を行っていくことだろう。
しかし、その唯一《ゆいいつ》の道には灯《あか》りが一つもともっておらず、見通しは限りなく暗かった。
レイノルズの軒先《のきさき》を見ればそれは明らかだし、ケルーベの町に住む者たちでなくてもその懐《ふところ》具合は予測できる。
可能性は、千に一つか、さもなくば、万に一つか。
「銅貨の箱の話では……やっぱり足りないのでしょうか」
コルが気がついた、ローム川を下ってやってくる銅貨の箱の数の差を用いた秘密の儲《もう》け話《ばなし》。
レイノルズは、銅貨の輸出入に絡《から》んで、同じ枚数の銅貨に対し、川を下る時は箱の数を少なくし、海を渡《わた》らせる時は箱の数を増やすということをやっていたのは間違《まちが》いがない。
「そこから期待できるのは、関税が箱の数にかかるという事実を利用した税|逃《のが》れがせいぜいだ。イッカクを買えるような金額にはならない」
「……」
コルはうつむきがちに、まるでふてくされるように深く思考の海に沈《しず》んでいく。
ひとつのことを考えると他《ほか》のことが目に入らなくなるのは自分の悪い癖《くせ》だとロレンスは自覚しているが、それでも目の前にもっと顕著《けんちょ》な例がいるとそんな過《あやま》ちも起こしにくくなる。
軽くコルの頭を小突《こづ》いて、小さく言った。
「まあ、知恵《ちえ》を巡《めぐ》らせるのも大事なんだが……」
「え?」
「まずは、身を守ることが先決だな。俺たちが入ってきた穴は、そういう場所だ」
ロレンスはコルの背中を押して足を速め、コルが言葉の意味を理解した直後から走り出した。
コルはあまりにも正直すぎる。全《すべ》てを説明していたら、この場所に来るまでに緊張《きんちょう》が表に出ていただろう。
職人たちが住む街区にしては、鍛冶《かじ》職人たちが工房《こうぼう》を構える地区は道が広い。それはそこで使われる重い材料を運ぶためで、道もしっかりとした造りになっている。曲がりくねり、あれこれの物が置かれた路地はどうしてもその土地の者のほうが走りなれている。
綺麗《きれい》な走りやすい道ならば、早く走れるのは旅に暮らす者のほうだ。
ローブの裾《すそ》をたくし上げ、コルも勇ましく走る。
「待て! 貴様ら!」
商人が盗人《ぬすっと》を追いかける様は街中《まちなか》ではよく見かける光景だが、商人が暴漢に追いかけられる光景を白昼街中で見るのは珍《めずら》しい。
ナイフ、剣《けん》、ヤスリに釘《くぎ》、スプーンや鍋《なべ》などを一心不乱に叩《たた》いたり磨《みが》いたりしている職人たちが何事かと顔を上げる。
人攫《ひとさら》いは人目についたらおしまいだ。
ロレンスとコルが白い息をなびかせながら職人街区を走り抜《ぬ》けていくと、あっという間に追っ手の姿は見えなくなった。
ただ、まいたというわけではない。
彼らは地の利を生かして先回りしようと考えたに違《ちが》いない。
忠実な牧羊犬よろしく、コルがロレンスに指示を請《こ》うように視線を向けてくるが、もちろん、その先のことも考えてある。
「そろそろかな」
と、ロレンスが言うのと、前方の路地の隙間《すきま》から、背の低い痩《や》せた物乞《ものご》いが姿を見せるのはほとんど同時だった。
「あ」
コルが言うか否《いな》かの時には、もうロレンスたちは路地に飛び込んでいた。
物乞いはなにも言わず、すでに路地の奥に向かって走っている。
今しがたまで走っていた道とは違い、こちらは慣れていないととてもではないが走ることなどできないような複雑な道だ。
物乞いはひょいひょいと進んでいくが、ロレンスたちは見失わないように追いかけるだけで精一杯《せいいっぱい》。
そんな時間をどれくらいすごしたのか。
額に汗《あせ》が浮き始める頃《ころ》、ようやく物乞いは足を止めてこちらを振《ふ》り向いた。
「ま、この辺りまで来れば大丈夫《だいじょうぶ》じゃろ」
さすがにホロも息が切れているが、頭からかぶっているコルから借りたぼろぼろの外套《がいとう》の下では、頬《ほお》を上気させてどこか楽しそうな顔をしていた。
追った追われたのやり取りは、狼《オオカミ》の血が騒《さわ》ぐのかもしれない。
「あの様子だと、ぬしらは牝狐《めギツネ》に会えたようじゃな」
「思いのほか元気そうだった」
「それはそれは。じゃが」
と、ホロは言って、いつもは自分の顔を隠《かく》しているローブの下に隠れている、コルの顔を覗《のぞ》き込んだ。
「その元気がどんな種類のものかといえば、こういうことじゃろう?」
こんがらがり、もはや修復不可能なうえになにとつながっているかわからない糸の塊《かたまり》は、置いておいても邪魔《じゃま》なうえに危険なだけ。
いざとなればそれを廃棄《はいき》するのは至極《しごく》当然のこと。
ホロはコルの右頬をつまんでにこりと笑い、自分の頬はそれ以上につり上げた。
「執念《しゅうねん》深くあり、それでいて潔《いさぎよ》くもあり、かや」
「……お前、口で言うほどエーブのこと嫌《きら》ってないだろ」
ホロはその言葉に意味ありげな含《ふく》み笑いで返事をすると、顎《あご》で北を示して言葉を紡《つむ》ぐ。
「港は大|騒《さわ》ぎじゃった。かがり火が焚《た》かれてさながら戦《いくさ》でありんす」
「なにか動きがあったのですか?」
質問をしたのは頬《ほお》をつままれたままのコル。
コルには悪いが、慌《あわ》てている者が側《そば》にいると自分は冷静になれる。
事態が流動的なら、どれだけじれても、腹の底がふわふわしても、じっと待たなければ最良の機会を逸《いっ》することになる。
しかし、その機を見つけたならばなにがなんでも掴《つか》まなければならない。
ロレンスは、うなずいてホロに先を促《うなが》した。
「昨晩あれほど背を曲げておったレノイルズとやら、あれは立派な役者じゃな。堂々胸を張ってこちらに乗り込んで来んす。これまで虐《しいた》げられてきた者たちは強い。己《おのれ》にされていたことを相手にするだけでいいんじゃからな」
「交渉《こうしょう》を? 南|側《がわ》で?」
「我輩《わがはい》は客である。ならば商品を見せよと騒いでおった。こちら側の連中にわっちゃあ恨《うら》みなどありんせんが、慌てふためく姿につい笑ってしまいんす」
ロレンスはコルと顔を見合わせてしまう。
商品を見せよとなれば、彼らが次にどこに向かうかなどわかりきっている。
「ぬしらの耳ではさすがに聞こえぬか。ここからじゃと通りを三つ挟《はさ》んでおる」
「しかし、だということは、レイノルズは本当に金を用意しているのか」
ホロは小首をかしげ、コルはホロになにをされようとも遠い目をして黙考《もっこう》している。
コルの顔が歪《ゆが》むのと、ロレンスの頭の中に妙《みょう》なものが引っかかったのはほとんど同時だった。
「お金が、あるんですか?」
口を開いたのはコルが先で、ホロは暗闇《くらやみ》の路地の中、耳をあちこちに向けながら答える。
「啖呵《たんか》の切り合いになっておったからな。商品を見せよ! ならばそちらは金を見せよ! の言い合いじゃ。こちら側の連中が本気で腰《こし》を浮かせたのは、それにレイノルズとやらが応じたからじゃ」
「ロレンスさん」
「ああ、だが……なぜだ。どういうことなんだ?」
ホロが肩《かた》を揺《ゆ》らしているのは、くつくつと笑っているからだ。
ホロは考えることを放棄《ほうき》している。
捕《と》らわれた女を助けるのはいつだって男の役目であるとでも言わんばかりに。
「現金があるのはおかしいんだ。レイノルズがどれだけ素早《すばや》く協力を取りつけても、現金には輸送時間がかかる。やはり、レイノルズは金を隠《かく》し持っていたのか?」
だとしたら、こんな騒ぎになるまで待っていた理由がわからない。
キーマンらをはじめとした独断専行《どくだんせんこう》の人間が、取り返しのつかない事態にしてしまう可能性だって十分にあった。
それに、狼《オオカミ》の骨の話を追いかけている過程で何度も考えた。
大量の現金は図体《ずうたい》のでかい巨人《きょじん》だ。
それが動けば誰《だれ》も気がつかないわけがない。
どうやって、誰にも気がつかれずに、イッカクを買えるほどの現金を蓄《たくわ》えられるというのだろうか。
町商人たちの陰険《いんけん》さは体験ずみだ。
彼らは港を見張り、誰がどれだけの商品を日々どれくらい扱《あつか》っているかなどほとんど把握《はあく》しているはずだ。商品は実体を持ち、実体を持つ物は必ず人の目につくことになる。
だとしたら、キーマンたちがレイノルズは金を持っていないと判断したのであれば、それは実際にそのはずに違《ちが》いない。
「なにがどうかはわかりんせん。じゃが、事実を把握するのは簡単じゃ」
ホロが軽く伸《の》びをして、深呼吸を一つ。
過去を懐《なつ》かしむように目を細めてあらぬ方向を見ているのは、その先にレイノルズたちがいるからだろう。
「動きがありんす。連中は教会に行くはずじゃ」
「なぜだ。どうして金がある。誰の金なんだ!」
教会にはキーマンがいてエーブがいる。
そこに金箱を引っ提《さ》げたレイノルズたちが大挙して押し寄せた時、一体そこでどんな喜劇が行われるというのだろうか?
どんな金も金は金、というのはそうそう当て嵌《は》まる言葉ではない。
それがどんな金で、どこから来て、誰のもので、どんな性質のものかというのは重要なことだ。
キーマンたちも恐慌《きょうこう》状態に陥《おちい》っているはず。
証拠隠滅《しょうこいんめつ》に追われ、裏口からは重要な手紙類を抱《かか》えた部下たちが沈《しず》みかける船から逃《に》げる鼠《ネズミ》のように逃げ出している真っ最中だろう。
もしも地下室にエーブが閉じ込められているとなれば、最も困るのは一体誰だ?
それは言うまでもなくキーマンで、キーマンの上役に当たるジーダ館長だ。
レイノルズがエーブとキーマンの密約に気がついていない、ということはあり得ない。
それに北|側《がわ》の地主たちに助言をする中心になっていたのもレイノルズであるから、エーブが忽然《こつぜん》と姿を消したことも把握しているだろう。
そこまでくると、少し頭を働かせるだけでエーブがどこにいるかはすぐにわかる。
あとは、どのような穴に彼らを落とし込むかを選ぶだけ。
防戦一方のキーマンたちは逃げるほかない。
今頃《いまごろ》はエーブも地下室から引きずり出されて路地を走らされているだろうか。
しかし、密偵《みってい》を使い、あちこちに見張りを立てているのは自分たちだけではない。その中でキーマンやエーブといった重要人物を見|逃《のが》すような節穴の目をした連中がどれだけいるだろうか。
逃《に》げるところを見つかればますます言い訳が利《き》かなくなる。
八方塞《はっぽうふさ》がりとはこのことだ。
「ロレンスさん、このままじゃ、エーブさんが!」
コルがロレンスの肩《かた》を掴《つか》んで悲鳴のように叫《さけ》ぶ。
もうキーマンたちに時間はない。
レイノルズが持っている金は誰《だれ》の金なのか、確かめる術《すべ》はない。
そうなれば、キーマンが自分の身を守るためにはどんな選択肢《せんたくし》を選ぶだろうか。
答えは簡単だ。
口裏を合わせてくれる連中だけで周りを固めればいい。
その中に、エーブが入ると信じられる根拠《こんきょ》は、爪《つめ》の先ほどもない。
「道は、三つありんす」
神と呼ばれることを忌避《きひ》した麦に宿る狼《オオカミ》の化身《けしん》は、路地の先で豆粒《まめつぶ》のように小さく見える、横切る松明《たいまつ》の灯《あか》りに目を細めながら言った。
「一つは、諦《あきら》める。一つは、わっちに頼《たの》む。もう一つは」
「一《いち》か八《ばち》かで行ってみる」
ホロの顔が、笑っていない笑顔《えがお》に変わる。
「行ってみて……どうするんですか?」
「なるようになることはあるものだ。切羽詰《せっぱつ》まった時には詭弁《きべん》ほど強いものはない。それが真実かどうか確かめる術がないのなら、その場で最も反論できない案を出した者が勝ちだ」
「キーマンとやらを説得できれば、牝狐《めギツネ》の命は救えるやもしれんな」
コルが瞬《まばた》きもせずホロとロレンスを見比べるのは、見たくもない演技を見せられていると直感したからだろう。
「その当ては? あるんですか?」
コルの目を見れない。
年を取るというのは、他人どころか自分も誤魔化《ごまか》す術を身につけていくことに他《ほか》ならない。
「なくても、作るんだ」
「そんなっ」
全《すべ》ての難問《なんもん》に満足いく答えがあるわけではありんせん」
ホロの一言に、コルの目が溶《と》け出してしまったかのように涙《なみだ》があふれてきた。
「なら、なら、ホロさんが――」
「あれだけ人がいる中に飛び込んで、全《すべ》ての者が無事、ということはあり得るのか?」
ロレンスは努めて抑《おさ》えた口調でホロに言った。
ロレンスの言葉に軽く頬《ほお》を掻《か》き、首を斜《なな》めにかしげた。
「あの色つき硝子《ガラス》を破ってもあの建物が崩《くず》れなければ、あるいは」
空高くに向かって聳《そび》えた塔《とう》のことを思い出す。
積み木だってレンガだって、高く積み上げれば安定さは損《そこ》なわれる。
万が一建物が崩れたら、さすがのホロも無事ではすまないだろうし、なによりも多くの人間が瓦礫《がれき》の下敷《したじ》きになる。
かといって表の入り口から飛び込めば、無数の槍衾《やりぶすま》を前にすることになる。
ホロは神ではない。
神ではないのだ。
「今ならわっちらだけ逃《に》げ出せばどうにかなるじゃろう。ぬしの群れも、よい奴《やつ》もいれば悪い奴もおる。全てが敵というわけではなかろう?」
その可能性に賭《か》ける選択肢《せんたくし》も当然ある。
キーマンの企《たくら》んでいたことがここで表沙汰《おもてざた》になれば、どう見たって主犯格はキーマンになる。
ロレンスは逆らえず利用されていた哀《あわ》れな行商人。
そんなふうにかばってくれる仲間だっているはずだ。
「……」
コルはがっくりとうなだれて、涙《なみだ》を拭《ぬぐ》うこともせずうつむいている。
村を救いたくて、単身南に向かって旅立ったコル。
そんな決意を揺《ゆ》らがず抱《いだ》ける心には、強さ以上に優《やさ》しさがなければならない。
エーブが眩《まぶ》しそうにコルを見つめ、優しくしていたのはきっとその光に当てられたからだ。
「取れる選択肢がいくつあっても、取れる結果はいつも一つだ」
「ならば選択肢を選ぶのではなく、結果を選ぶほかありんせん、か」
旅の途中《とちゅう》であれば、見捨てなければならない荷物、儲《もう》け話《ばなし》、あるいは仲間や通りすがりの怪我人《けがにん》などに出くわすことはいくらでもある。
後《うし》ろ髪《がみ》を引かれることもあれば、必死にこちらの服の裾《すそ》を掴《つか》んでくる者もいる。
その点、エーブはどうだったか。
潔《いさぎよ》く、眠《ねむ》いから寝《ね》ると言ってゴロンと横になったあの姿を思い出す。
こうなることを薄々《うすうす》予想していたのだろう。
いつでも選択肢は無限にあった。
しかし、結果はおおよそ一つに絞《しぼ》られる。
逆転劇などそうそうあるわけではない。
順当な結果は覆《くつがえ》りにくいからこそ、逆転劇は希少《きしょう》なのだ。
「レイノルズが金貨の輸出入を扱《あつか》っていればな」
「む?」
「コルの気がついた方法でも、相当な資産が溜《た》まったかもしれない」
雪の降りしきる山の中で狼《オオカミ》の群れに襲《おそ》われた時、足をくじいてしまった仲間を置き去りにして樵《きこり》小屋に飛び込んだ。
誰《だれ》もが黙《だま》っていられず、その夜は酒もないのに皆《みな》が頬《ほお》を上気させて喋《しゃべ》りっぱなしだった。
「関税は、せいぜいその商品の価格の二割から三割。それでも、金貨ならば一箱の二割となればすごい金額になる。もっとも、そうなれば銅貨よりもよほど厳しく枚数が管理されるからな。どの道あの手は使えないだろうが」
ロレンスはコルの肩《かた》を抱《だ》いて、ホロを目で促《うなが》して歩き出した。
逃《に》げ出すならば、この混乱に乗じなければならない。
「ふむ。コル坊《ぼう》の気がついた手が、逆だったらよかったのにの」
「逆?」
ロレンスが訊《たず》ねると、ホロは壁《かべ》に立てかけてあった木の棒をまたぎながら、「うむ」と答えた。
「六十箱を手に入れて、五十八箱を送り出す。箱一杯の銅貨が二箱も手に入るとなれば、大儲《おおもう》けじゃろう?」
「ああ、確かにな……。あるいは、六十箱を手に入れて、六十箱を送り出す」
「それでは同じじゃろうが」
「そうか? 川を下るときはたくさん銅貨が詰《つ》まるように箱に詰め、送り出す時は少なく詰めて送り出す。その差の分だけ懐《ふところ》に入るという寸法だ。そうなると、毎回二箱分を少し超《こ》えるくらいの利益だな。もっとも、それが成り立つには川上のデバウ商会が損をしなければならないが」
そんなことをしてなんになるのか。
ロレンスがそう思った直後だった。
「え?」
短く言って、顔を上げたのはコルだ。
ロレンスがその突然《とつぜん》のことに驚《おどろ》かなかったのは、ロレンスの思考もまた変な穴に入り込んでいたからだ。
「今、なにかおかしなことを言ったよな?」
ホロだけがきょとんとして、男二人を見比べている。
ロレンスは自分の発言を思い返す。
必死に思い返す。
銅貨の輸出入の策はレイノルズにわずかな利益しかもたらさないはずだ。
大きな利益を得ているとすれば、それはデバウ商会かウィンフィール王国の顧客《こきゃく》が大損をしている時に他《ほか》ならない。
「銅貨という品物の絶対数は変わらない。変わるのは銅貨を詰《つ》める箱の数と、関税と、それと……それと?」
喉《のど》から最後の一言が出てこない。
なにか当たり前のことがわかっていないようなもどかしさ。
コルが、けっけっと魚の骨が喉に引っかかったようにえずいている。
それが慌《あわ》てていて言葉が出てこないのだと気がついた時、解答が閃光《せんこう》のごとく頭で爆発《ばくはつ》した。
「代金です! 商品の銅貨で『逆』ができないなら、代金ですればいいんです! デバウ商会は困りません。だって――」
「最後の最後に全《すべ》ての勘定《かんじょう》さえ合えば問題ない。問題ないのか! レイノルズはローム川の上流からどんな命令を下されていた? だとすればレイノルズが巨額《きょがく》の資金を持っていてもおかしくはないし、その使用をためらっていた理由も存在する。存在するんだっ」
ケルーベの町で見てきたことと聞いてきたことが、一つの線上でつながった。
その線はレイノルズがこんな短期間でイッカクを買えるほどの金を用意したことも説明できるし、感じていた違和《いわ》感の全てを説明することができた。
金は、レイノルズのものだ。
後ろに誰《だれ》かいるとしても、それは遠い遠い離《はな》れた場所にいる、こんなことが起こっているなどと露《つゆ》ほどにも思っていない連中だ。
彼らに連絡がつくのは全ての出来事が決着してからで、レイノルズはだからこそ教会に向けて駒《こま》を進めているのだ。
大義名分が揃《そろ》っていれば大抵《たいてい》のことは許される。
しかも利益が上がればなおよろしい。
ロレンスは面白《おもしろ》くもないのに口元が笑《え》みの形に歪《ゆが》んでいくのを抑《おさ》えきれない。
レイノルズにみすみすその利益を渡《わた》してなるものか。
全てが自分の手の届く範囲《はんい》に降りてきた。
手を伸《の》ばすのは、この瞬間《しゅんかん》しかない!
「行くぞ」
言って、走り出した直後だった。
「ほら、なにを――」
振《ふ》り向いて怒鳴《どな》りかけた直後だ。
「わっちゃあ行かぬ」
ホロは、立ち止まって、笑っていた。
「……なにを今更《いまさら》! 大丈夫《だいじょうぶ》だ、これは思い込みじゃない、確かに筋の通った考えなんだ」
ロレンスの言葉にホロは首を横に振《ふ》り、「そういうことではありんせん」と言った。
「なら」
なんだ、という言葉は続かなかった。
「ぬしが他《ほか》の雌《めす》の前で格好つける姿を見たくありんせん」
ホロは少女のように恥《は》ずかしそうに笑いながら言って、べっと舌を出した。
そんな振《ふ》る舞《ま》いを一体どこで覚えてきたのか。
笑うしかない。
笑うしかないし、ホロはロレンスを笑わせたかったのだ。
「呆《あき》れてものも言えないぞ」
「んむ。ならばわっちを置いて走れるじゃろう?」
目を閉じて大きく息を吸う。
エーブの言葉は意味深で重い。
ホロを迎《むか》えに来る時、花束では足りはしない。
「コル」
「はい。任せてください」
顔に涙《なみだ》の跡《あと》をつけながら、にこりと笑う笑顔《えがお》は本物だ。
ホロの手を力強く握《にぎ》るその姿に、嫉妬《しっと》の代わりに安心感を抱《いだ》けるのはコル以外に存在しない。
「くふ。こういう形もいいものじゃ」
ホロは笑い、それから小さくため息を一つ。
「ほれ、早く行きんす。連中は祭りのごとく練り歩いておるが、もうそろそろじゃろう」
その言葉の指し示す意味に、ロレンスは踵《きびす》を返して走り出す。
暗い路地の中、後ろを振《ふ》り向くことがどれだけ危険かわからないわけではない。
しかし、ロレンスは後ろを振り向いた。
ホロとコルが揃《そろ》って手を振っている。
一瞬《いっしゅん》だけ見られれば十分だった。
ロレンスは走る。
教会に向けて、ひた走った。
路地から教会の前に飛び出すと、そこは妙《みょう》な賑《にぎ》わい方だった。
夜の帳《とばり》が下りればまともな市民は家の中で夕食に舌鼓《したつづみ》を打っている。
今からここでなにが行われるかを知っているのは商人たちで、彼らは一様に好奇心《こうきしん》に突《つ》き動かされながらも、後難《こうなん》を恐《おそ》れて遠巻きに事態を見守っていた。
すると、教会の前を広く開けた形になって、人垣《ひとがき》は港からのレイノルズ一行《いっこう》を待ち構える格好になる。
嵐《あらし》の前の静けさとはよく言ったもの。
まさしくその静けさを前に、ロレンスは広く開けられた道をまっすぐに横切って、一直線に教会の中に飛び込もうとした。
「……」
兵士たちも、観客の商人たちも一瞬《いっしゅん》なにが起こったのかわからないような、あるいは、なにか正式な使いの人間がやってきたのだろうとでも思ったらしい。
走るロレンスに視線を向けるだけで誰《だれ》一人動こうとせず、ロレンスが教会の中に入ってようやく、後ろから兵士の一人が怒鳴《どな》り声《ごえ》を上げていた。
ロレンスは当然止まるわけがない。
レイノルズたちを受け入れるために広く開け放たれた教会の中で、迷うこともなく右に折れ、回廊《かいろう》を走って奥を目指す。
壁《かべ》に掛《か》けられた蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りに照らされて、奥のほうに点々と見えるのは運んでいる最中に落とした手紙などだろう。
キーマンのいた部屋は扉《とびら》が半開きになっていて、ためらわずに開けたが誰《だれ》もいない。
足を踏《ふ》み外した時のような感覚に襲《おそ》われたのは、それが事態の進展を告げるものだからだ。
間に合ってくれ。
ロレンスは胸中で叫《さけ》び、再び走って地下室へと続く階段の前にたどり着いた。
奥からは灯《あか》りが漏《も》れている。
誰《だれ》かしらがいる証拠《しょうこ》だが、静かなのが不気味だった。
祈《いの》るように階段を下りていく。
そして、足音に気がついたのか、下から上がってきたその男。
その男の服に血がついているのを見て、ロレンスは首筋の毛が逆立つのを感じた。
「お、おまぇ――」
相手の背が低いのと、階段が急なのと、ロレンスが上にいたこと全《すべ》てが作用した。
男の顔にロレンスの爪先《つまさき》がめり込み、男は鈍《にぶ》い音を立てて壁《かべ》に頭をぶつけ、そのままずるずると座り込む。
手にはいつの間に握《にぎ》られていたのか銀のナイフ。
ロレンスはさらに走り、鉄の扉《とびら》を思い切りよく開いて飛び込んだ。
そこで見た光景。
ロレンスは、あらん限りの力を込めて大声で叫《さけ》んだ。
「待ってください!」
その場にいた者が、一人を除《のぞ》いてぴくりと体をすくませた。
まずキーマンが振《ふ》り返り、見張りをしていた男が顔をこちらに向けた。
男の太い腕《うで》の中では、エーブの顔がうつろな表情を晒《さら》していた。
後ろ手に縛《しば》られ、足を縛られているのは暴れるのを防ぐためか。
首を刎《は》ねる選択肢《せんたくし》を取らなかったのは、血痕《けっこん》の処理のことを考えてだろう。
「待ってください! その必要はありません!」
男が視線をキーマンに向け、腕から力を抜《ぬ》きかけたのがわかった。
まだ死んでいない。
その判断の直後だ。
表情をなくしたキーマンが、髪《かみ》を振り乱して飛びかかってきた。
「誰《だれ》の差し金だ! 誰から金を受け取った! 言え! 行商人――」
冷静さのかけらもなく、ロレンスの胸倉《むなぐら》を掴《つか》んでくるその手を見れば、親指の爪《つめ》がぼろぼろになっていた。
こうなっては敵ではない。
ロレンスは腰《こし》を沈《しず》め、勢い込んだキーマンがロレンスの上に覆《おお》いかぶさるようになったところを、腰を両腕で抱《かか》え込んで思い切り体を捻《ひね》った。
キーマンは天と地の区別が一瞬《いっしゅん》つかなくなったことだろう。
「ぐう」
と、カエルがつぶれるような声を出して、ロレンスの体の下で力なくもがいた。
「エーブさんを放してください! すぐに!」
馬乗りになったキーマンの喉元《のどもと》にナイフを突《つ》き立て、ロレンスは言った。
男はエーブに恨《うら》みがあるわけではないし、この手のことに不慣れな人間でもない。
あとは自分の損得を考えるのみだが、キーマンから片時も目を離《はな》さないままのロレンスに、逆転は不可能と判断したらしい。
視界の隅《すみ》で、男が腕《うで》を解き、両手を軽く掲《かか》げるのが見えた。
「息は」
聞くと、「気を失ったばかりだが」と返ってくる。
首を絞《し》めなれている人間であれば、相手の意識をまず奪《うば》ってから命を絶つことが簡単にできる。どれだけ命の火が堪《た》えられるかは、個人の資質による。
「行……商人、が……」
意識が現実に追いついたのか、それとも背中を強打して息ができなかったのがようやく元に戻《もど》ったのか、キーマンは苦しげに言って、ロレンスを片目だけで睨《にら》んでくる。
「エーブさんが生きていれば、よい話をお聞かせします」
「どういうことだい」
男はエーブの頬《ほお》を叩《たた》き、直後に短くうめき声が聞こえてきた。
死んではいない。自分を一度は殺そうとした相手が生きているのを心の底から喜べるのは、まったく不思議なことだと感心する。
キーマンが依然《いぜん》として苦しそうなのは、遠くから大勢の人間が教会の中に入ってくる音を聞いたからだろう。ここが見つかり、エーブがレイノルズの前に引き出されるのはもはや時間の問題だった。
「レイノルズさんは、自分で金を用意したんですよ」
「そんな馬鹿《ばか》な!」
自分の喉元《のどもと》にナイフを突き立てられながら、キーマンは危《あや》うく体を起こしかけていた。
それほどのことなのだ。
しかし、レイノルズは間違《まちが》いなく自分で金を用意した。
そうとしか考えられなかった。
「私は行商人ですから、自分の利益のために動くので精一杯《せいいっぱい》です。レイノルズさんとは利害の対立がありましてね、あの人にその利益を持っていかれるわけにはいかないんです」
キーマンが訝《いぶか》しげな顔をする。
理解できないのも仕方がない。
ロレンスは、そこで初めてはっきりと視線をキーマンから離して、エーブのほうを見た。
「……なにに……気がついたんだ……」
かすれた声で喋《しゃべ》るのは、男に支えてもらって体を起こしたエーブだ。
今まさしく死の淵《ふち》から生還《せいかん》したというのに、第一声がそれなのだ。
「私は狼《オオカミ》の骨の話を追いかけてこの町に来ましてね」
ロレンスは洗《あら》いざらい気がついたことを喋《しゃべ》った。
キーマンなら、エーブなら、その真偽《しんぎ》のほどをロレンス以上に確信できるはず。
そして。
「どいてくださいロレンスさん」
キーマンは静かに言って、目は天井《てんじょう》を見ていた。
エーブもうっすらと笑っている。
キーマンの言うとおりにしてしまったのは、彼らのほうが商人としては格上だからに他《ほか》ならない。
「やれますか?」
ロレンスはナイフを収め、キーマンは起き上がりながら咳《せ》き込んで、髪《かみ》を撫《な》でつけると襟元《えりもと》を正した。
「やらなければなりません。もっとも」
と、視線を今しがたまでその命を奪《うば》おうとしていた相手に向けて、ぬけぬけとこう言った。
「彼女が我々を裏切らなければ、の話ですが」
「また、金儲《かねもう》けをできるらしいからな」
掌《てのひら》を閉じたり開いたりしながら、エーブはわざとらしく自分の首を撫《な》でる。
「神の顔は爺《じい》やに似ていた気がしたんだが、確かめるのはまた今度だ」
「天の国までの旅費を稼《かせ》ぎませんとね」
動き出せば彼らは早い。
それが頼《たの》もしくあるのは、その力を向けられた時の恐怖《きょうふ》感を知っているからだ。
エーブは、教会で息を吹《ふ》き返した人間らしく、敬虔《けいけん》な口調でこう言った。
「嗚呼《ああ》。まったく、商人とは頭のおかしい罪深き連中だ」
教会に入ってきた一団は異様だった。
レイノルズを先頭に、金貨を詰《つ》めてあるのだろう小さな箱を恭《うやうや》しく抱《かか》えた者たちがぞろぞろつき従ってくる。
その光景はまるで嫁入《よめい》り道具を持参してやってきた花嫁《はなよめ》のようにも見えるが、彼が神聖なる教会に持ち込んだのは、神の威光《いこう》に対抗《たいこう》しようとしているようにも見えるピカピカの金貨だ。
金貨は箱の大きさからして一箱に百枚ずつ詰められているのだろう。
それらが目算で十五箱。
祭壇《さいだん》の前に置かれているイッカクの前に、これ見よがしに積まれたそれの前でレイノルズは誇《ほこ》らしげに胸を張る。
司教や司祭のみが立てるその場所にレイノルズがいるのなら、平信徒たちが座る席の周辺にいるのは南|側《がわ》の有力者たちだ。
取引のうえでなら、彼らほどの大商人であれば金貨千枚程度のやり取りは珍《めずら》しくはない。
しかし、現金となれば話が変わる。
商人たちが口約束や羊皮紙の上で取引を行うのは、現金は宝石と同じく貴重で数が少ないものだからだ。
そのため、現金を大量に集めようとすれば必ず誰《だれ》かにかぎつけられ、金貨となれば両替商《りょうがえしょう》たちの帳簿《ちょうぼ》に載《の》らないわけがない。椅子《いす》に座り、蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りでぼんやりと照らされた神に祈《いの》り出す者がいてもおかしくはない。
レイノルズの奇襲《きしゅう》は完璧《かんぺき》だった。
「さあ、私はあなた方の要請《ようせい》に応じてこうして金貨を持ってまいりました! ここは神聖なる神のおわすところ! 約束は守られねばなりません!」
突《つ》き出た腹にたるんた頬《ほお》の肉。
場末《ばすえ》感のにじみ出る商会に座っている時はみすぼらしさの象徴《しょうちょう》のそれも、いざ場所と立場が変わればこんなにも威厳《いげん》を見せる小道具となりうるのだ。
一世一代《いっせいちだい》の大芝居《おおしばい》とばかりに高らかに響《ひび》かせる声も、実に堂に入ったものだった。
「私は二代目ジーン商会の主《あるじ》として、商会の歴史に残る取引をここに宣言いたします!」
ばしゃ、と水がはねたのは、その声に驚《おどろ》いたのか、それとも張り詰《つ》める空気に当てられたのか、イッカクが棺《ひつぎ》の中で身じろぎをしたからだ。
そして、まさしく水を打ったように聖堂が静まり返る。
ロレンスは回廊《かいろう》沿いの扉《とびら》の隙間《すきま》から目を離《はな》し、蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りが漏《も》れる部屋に戻《もど》った。
レイノルズ率いる一行《いっこう》が教会に到着《とうちゃく》した直後、ジーダ館長の部下と名乗る男が真っ先にキーマンらの下《もと》にやってきたが、キーマンは少しも臆《おく》することなく追い返してしまった。
これからの計画が失敗すればどの道キーマンは責任を取らされるし、成功すればジーダ館長も黙《だま》らざるを得なくなる。
もっとも、ロレンスは少しも心配していない。
キーマンとエーブが揃《そろ》ってレイノルズを突《つ》き刺《さ》す武器を作っているのだ。
この二人を敵に回して無事でいられる商人がいるだろうか。
祭壇《さいだん》の前で意気|揚々《ようよう》としていたレイノルズのことを思うと、若干《じゃっかん》心が痛まないでもなかった。
「私が思いつく限りだとこんなところでしょうか」
「関税と輸送費に口止め料込みでも、まあ、おおよそそんなところだろう。デバウ商会の店構えを見たことがあるが、確かにこのくらいの規模なら隠《かく》しきれそうなものだった」
羊皮紙の上に踊《おど》る文字と数字に精通したキーマンと、流通を表から裏まで知り尽《つ》くしたエーブにかかれば一商会の取引内容など完全に丸裸《まるはだか》にされてしまう。
荷馬車に荷を積んでは売り買いしている行商人からすれば、それはまったく空恐《そらおそ》ろしい光景だ。
「ロレンスさん、聖堂のほうは?」
「予定どおりです。レイノルズさんが有無《うむ》を言わせぬ感じで迫《せま》っていますが、南|側《がわ》の即答《そくとう》はもちろん無理でしょう。しばらく時間があくはずです」
ロレンスは二人の作戦会議に参加せず、手先に徹《てっ》してそう報告する。
それでも嫌《いや》な感じがしないのは、なんとも不思議なことではあった。
「では、その機に乗じて、ですね」
キーマンが仕切ると、エーブはうなずき、もちろんロレンスもうなずく。
イッカクを独占《どくせん》するという計画はもはや維持《いじ》し得ない。
それでも、そこから利益を取れなくなったかというとそういうわけではない。
簡単にいえば、エーブとキーマンで山分けしようとしていたイッカクを巡《めぐ》る儲《もう》け話《ばなし》に、レイノルズが加わるようなもの。
それが任意か強制かは、論を待たないことではあるが。
「ほら、これがあんたの最後の仕事だ」
インクが乾《かわ》くのを待てないので、砂をまいた羊皮紙を丸め、エーブがロレンスに突《つ》き出してくる。
その冗談《じょうだん》めかした物言いにキーマンが申し訳なさそうに笑っている。
エーブが笑っていない理由は、ロレンスにもなんとなくわかった。
ただ、ロレンスがエーブの手から羊皮紙を受け取り際《ぎわ》、エーブがその理由を口にするとは思わなかった。
「本当は川の上であんたと会いたかったけどな」
「……私は陽光の下で貴女《あなた》が旅立つのを見送るほうがいいですよ。なにせ、私を出し抜《ぬ》いた商売|敵《がたき》ですからね」
エーブは目を細め、それ以上なにも言わなかった。
キーマンはキーマンで、そのやり取りであのままイッカクの取引を続けていたらどうなったのか、おおよそのことが把握《はあく》できたらしい。
苦笑いをしつつ、やれやれと首をかしげていた。
「それでは、今しばらくお待ちください」
ロレンスはその一言を残して歩き出し、キーマンたちの集《つど》う回廊《かいろう》沿いの部屋の入り口に立っていた小間使《こまづか》いの男から、相変わらず恨《うら》みのこもった一瞥《いちべつ》を貰《もら》った。
彼の服に血がついていたのは、エーブを縛《しば》る際に鼻を蹴《け》られたものだったという。
ただ、つい商売用の笑《え》みで返事をしてしまったのは、きっとこの男とそりが合わないからだろう。ロレンスはそう納得《なっとく》して、回廊に出た。
回廊では蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りのもとで幾人《いくにん》ずつかが固まってあれこれと囁《ささや》き合っている。
この期《ご》に及《およ》んでなおなにかを企《たくら》んでいる者たちなのか、それとも単に今後のことを協議し合っているだけなのか。
どちらにせよ、この荘厳《そうごん》な教会の聖堂の中で行われている儀式《ぎしき》めいたことを根底から覆《くつがえ》せる羊皮紙を持ったロレンスの胸は自然に大きく張っていた。
今は自分が主人公。
そう思えるからこそ、ロレンスは祭壇《さいだん》へと続く最も近い扉《とびら》の前で警備をする兵士に事情を話し、聖堂の中に入る時にはもう背を丸めて神妙《しんみょう》な顔つきになっていた。
聖堂の中は不思議なざわめきに包まれており、不敵な笑みを持ってその様子を睥睨《へいげい》しているのはレイノルズただ一人だ。
「レイノルズさん」
人垣《ひとがき》の間を縫《ぬ》って祭壇の前にたどり着き、レイノルズに向かってそう囁いた。
知らない仲ではない。
こちらを向いたレイノルズはそれでも大袈裟《おおげさ》に顔をほころばせて、古くからの友人に出会ったような喜び方をした。
「これはこれは。一体どうされました」
わざとらしさも超《ちょう》一流。
確かに、レイノルズは一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない商人だった。
「ええ、実は、とある女性からお手紙を預かっておりまして」
レイノルズが、それをエーブのものであると理解するのに時間はかからなかった。
「ほほう」
その顔が、蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りに相応《ふさわ》しい、欲に満ちた嫌味《いやみ》なものになったのはその一瞬《いっしゅん》後のこと。
レイノルズはその資金の都合上、エーブと手を組む必要があるはずで、手間が省けたとでも思ったのだろう。
「取引のお申し出だそうです」
ロレンスが懐《ふところ》から羊皮紙を手|渡《わた》すと、レイノルズの笑《え》みははちきれんばかりだった。
この状況《じょうきょう》ならばエーブをいいように利用できるのは明々白々《めいめいはくはく》。
恋文《こいぶみ》を開こうとする少年のようにいそいそと羊皮紙を開く。
そして、その直後の顔つきを見て、ほくそ笑まなかった自分を褒《ほ》めてあげたい。
「レイノルズさんはたくさんの商品をお取扱《とりあつか》いになっているそうですから、是非《ぜひ》一度|帳簿《ちょうぼ》の整理を申し出たいと。その際は、私の所属する組合からも目利《めき》きの人間をご用意いたします」
「……あ……あう……」
「銅貨については確信が持てていますし、証拠《しょうこ》もあります。五十八箱の銅貨をデバウ商会から取り寄せて、六十箱をウィンフィール王国に送り出す。最初は関税を誤魔化《ごまか》しているのだと思いましたけどね」
ロレンスがレイノルズの耳元で囁《ささや》くたびに、ぼたり、ぼたりとレイノルズの顔から汗《あせ》が滴《したた》り落ちる。
まるでロレンスの吐息《といき》が熱すぎて、蝋《ろう》人形が溶《と》けていくかのようだった。
「あなたは関税を誤魔化《ごまか》して小銭を稼《かせ》いでいたのではない。デバウ商会と協力して、大量の資金を川下に移動させていた」
銅貨の詰《つ》め方によって箱の中に入る銅貨の枚数が変化する。
その小細工を利用した、秘密裏の資金移動法。
「あなたはウィンフィールから六十箱分の代金を受け取り、デバウ商会には五十八箱分の代金を支|払《はら》っていた。それぞれの取引を見る限り、帳簿の上では完全に成立する取引です。ただ、その中に詰まる銅貨の枚数と、支払う代金が釣《つ》り合っているかどうかは、帳簿からではわからない」
紙のように真っ白になった顔の中で、ぎょろりと目だけが動いてロレンスを見た。
「しかし、輸出入を見比べてみると、毎回二箱分の差額がジーン商会にとどまることになりますね? そして、この方法は他《ほか》にいくらでも使うことができる」
ロレンスがコルからこの謎《なぞ》を教えてもらった時に言った言葉だ。
こんな方法が使われているのではないかと疑うには、この方法を使うことのできる商品があまりにも多すぎる。
自分だけが主人公と思うには、世間でうごめく人間の数があまりにも多いように。
「銅|地金《じがね》、鉛《なまり》地金、錫《すず》地金、真鍮《しんちゅう》、あるいはそれらの細工物。規格の揃《そろ》った円形のものならば応用可能。ロエフ地方は豊かな鉱山のようですから、さぞ色々な鉱物が出るでしょうね」
「い……いや、しかし」
「単に資金の移動を秘密裏にしていただけならば問題ないと? いいえ、そんなわけはないでしょうね。なんならデバウ商会に我が商会の者を向かわせましょうか? 私があなたの行っている不正に気がついた時、真っ先に疑ったのは関税の誤魔化《ごまか》しです。それほど、税というものは重要です。では、もしもデバウ商会が税を支|払《はら》いたくないと思ったらどうなるでしょう」
ぶる、ぶる、ぶる、とレイノルズの顔が引きつけを起こした子供のように震《ふる》え出す。
一石二鳥《いっせきにちょう》。
この案を思いついた人間は、そう言ったに違《ちが》いない。
「あなたとの取引は、デバウ商会の脱税《だつぜい》にも利用可能。デバウ商会はジーン商会と銅貨の取引を交《か》わすたびに、帳簿《ちょうぼ》の上で二箱分の利益を喪失《そうしつ》する。利益がなければ税はかけられませんからね。さて――」
ロレンスが咳払《せきばら》いをして言葉を区切った瞬間《しゅんかん》だった。
「どうしたい、いくら欲しい、目的はなんだ、言ってみろ」
取り乱してもなお大声を出さないだけの分別《ふんべつ》は残っていたらしい。
ロレンスはそんなレイノルズを落ち着かせるように肩《かた》に手を載《の》せ、にこりと笑ってこう言った。
「私は手先に過ぎません。そういった交渉《こうしょう》は……」
そして、ちらりと後ろを振《ふ》り返り、人垣《ひとがき》の向こう、回廊《かいろう》への出入り口を見ながら言葉を紡《つむ》ぐ。
「あちらの方たちとお願いします」
「……」
その場で崩《くず》れ落ちなかったのは、レイノルズのせめてもの見栄《みえ》なのかもしれない。
懐柔《かいじゅう》や買収が通じる相手ならばまだましだ。
回廊に続く出入り口でレイノルズを待ち構えているのは、笑顔《えがお》で人を殺しかねない守銭奴《しゅせんど》なのだから。
「では、失礼します。私は狼《オオカミ》の骨の話を集めに来ただけの行商人ですから」
ロレンスは言い残し、踵《きびす》を返して歩き出した。
キーマンとエーブとの間をすり抜《ぬ》け際《ぎわ》、二人と軽く握手《あくしゅ》をした。
この二人なら、きっとレイノルズを上手に料理してくれるに違《ちが》いない。
薄暗《うすぐら》い回廊《かいろう》を歩き、神妙《しんみょう》な面持《おもも》ちで会話をする商人たちの脇《わき》を通り抜けていく。
自分は英雄《えいゆう》ではない。
偉大《いだい》な商人でもない。
表舞台《おもてぶたい》には立てないし、意のままに操《あやつ》れる人脈だってない。
教会の正面入り口から外に出ると、とっぷりと日が暮れた中に後ろから松明《たいまつ》のかがり火が長い影《かげ》を作っている。
振《ふ》り向けば、威風堂々《いふうどうどう》とした姿が、下からの明かりによって恐《おそ》ろしげな雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出していた。
石段を下り、教会の騒《さわ》ぎを見物している人垣《ひとがき》の中に紛《まぎ》れ、さらに歩を進めていく。
確信があったわけではない。
それでも、まっすぐに向かう場所があった。
見なれた様式の見なれた建物。
ロレンスは開けっぱなしになっていた入り口から中に入り、若干《じゃっかん》軋《きし》む階段を上《のぼ》って三階に上がる。
目が慣れていないので廊下は少し暗すぎたが、扉《とびら》の位置くらいはなんとかわかる。
その前に立ち、ゆっくりとノックを二回。
扉の向こうで人の動く気配がし、すぐに扉が開かれた。
漏《も》れ出てくる蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りと、食べ物の匂《にお》い。
一人で回る行商の旅ではついぞできなかったこの経験。
目が回るような数日だった。
それでも、ロレンスは笑顔《えがお》で、こう言ったのだ。
「ただいま」
ホロとコルが、こう答えた。
「おかえり」
そして、扉はゆっくりと、閉じられたのだった。
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終幕
結局、あのあとキーマンとエーブがどんな無理難題をレイノルズに飲ませたのかはわからなかった。
しかし、難局に陥《おちい》るかと思われたレイノルズと南|側《がわ》との間のイッカクの取引があっさりとまとまったことからして、ローエン商業組合を巻き込んで取引に臨《のぞ》んだのだろう。
レイノルズは形の上でイッカクを買い取りつつも、不正な資金やデバウ商会の脱税《だつぜい》を黙《だま》っておく代わりに、ローエン商業組合を通じて利益が南側に還流《かんりゅう》するようにする。
そんなところだろうか。
北側の地主たちを黙《だま》らせるのには、エーブが仲介《ちゅうかい》役となって利益を直接地主たちに分配したのかもしれない。
ロレンスが街の様子から判断できたのはそのくらいで、真実を知る気も知る必要もなかった。
キーマンの手先となって働いたことも、エーブと手を組みかけていたことも、全《すべ》て水に流して無罪|放免《ほうめん》となったのだから問題ない。
それに、翌日の昼食はテーブルからあふれんばかりのご馳走《ちそう》だった。
誰《だれ》が代金を持ってくれたのかも、敢《あ》えて聞くことはないだろう。
「それで、わっちらの次の目的地はどこなんじゃ?」
ナイフで切る必要も、歯を剥《む》いて噛《か》みちぎる必要もない牛肉をもぐもぐしながらホロが言う。
コルなどは食べ物が上等すぎて喉《のど》につっかえさせていた。
「さあ……ん、これうまいな。なんの肉だ?」
ロレンスも上等な料理につい夢中になってしまう。
いい加減に答えたら、ホロが射|抜《ぬ》くような視線でこちらを睨《にら》んでいた。
「レイノルズから聞き出した狼《オオカミ》の骨の情報をエーブのところの人間が伝えに来るはずだ。そこのところは抜《ぬ》かりがない。大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「ふん、口約束じゃろうが」
言ってから、ホロはがぶりと魚の頭を丁寧《ていねい》に油で揚《あ》げたものにかぶりつく。
海沿いの港町らしく、塩も椀《わん》に一杯《いっぱい》用意されているのでたっぷり塩をまぶしたそれはたまらないうまさらしい。
ホロは一口二口と次々にかぶりつき、あっという間に平らげてしまう。
「口約束の大事さは知っているだろう?」
ロレンスの言葉にホロは返事をせず、猫《ネコ》よろしく自分の手をなめていた。
「まあ、多分だが、海峡《かいきょう》を渡《わた》ることになるんじゃないかなとは思っているんだが……」
「海を?」
顔と声を上げたのは、真剣《しんけん》な顔で海老《エビ》の頭は食べるべきか残すべきか悩《なや》んでいたコルだ。
「島国で貨幣《かへい》を輸入しているくらいだからな。あれこれ買い付けるのが得意中の得意な連中がずらりと顔を揃《そろ》えている」
その説明にわかったようなわからないような顔をして、コルが手元の海老に目を戻《もど》しかけた瞬間《しゅんかん》、ホロがその手から頭を奪《うば》ってひょいと食べてしまった。
ばりばりと殻《から》を噛《か》み砕《くだ》く音がする。
コルは、海老を取られたことよりも、それを食べるホロのほうに驚《おどろ》いてしまったらしい。
「海老の頭は食べられる。なかなかうまい」
「えっ」
コルがそれで恨《うら》めしそうな顔をすればホロも喜んだのだろうが、悲しそうな顔をされたらさすがの賢狼《けんろう》も弱い。
「む」
などと言いながら、さらに海老に伸ばしかけていた手を引っ込めざるを得なかった。
「仲良く食べなさい」
冗談《じょうだん》めかして言ってやると香草《こうそう》の切《き》れ端《はし》をホロに投げつけられ、「まったく……」と頬《ほお》にひっついたそれを取っていると、扉《とびら》が控《ひか》えめにノックされた。
コルが立ち上がろうとしたが、ちょっとした予感もあったのでロレンスが出ることにした。
「エーブの使いだろう」
ロレンスは言って、扉を少し開ける。
食事中に扉を全《すべ》て開けるのは、見栄《みえ》っ張《ぱ》りか、恥知《はじし》らずかのどちらかだ。
ただ、その隙間《すきま》から見えた客の顔に、全《すべ》てを開けなくてよかったとロレンスは思った。
「おや、オレは中でもよかったんだがな」
ロレンスが廊下《ろうか》に出て、後ろ手に戸を閉めるとエーブはいたずらっぽく言った。
ホロには丸聞こえだろうが、喧嘩《けんか》されるよりはましだ。
「ご冗談《じょうだん》を。しかし、ご本人が来られるとは」
「あんたは意外に情が薄《うす》いな。オレは恩は忘れない性質《たち》でね。しかもあんたは命の恩人だ」
頭巾《ずきん》の下で細める目は、なにがどこまで冗談なのか決して相手に悟《さと》らせない。
それでも、直接知らせに来てくれたのが嬉《うれ》しくないかと言われたら、そんなわけはない。
「で、あんたに頼《たの》まれていたことだがな」
「どうでした?」
「ああ、レイノルズはやはり骨の行方《ゆくえ》をある程度|掴《つか》んでいた」
言葉の選び方が気になって、ロレンスは聞き返す。
「ある程度?」
「あいつの到達《とうたつ》地点はオレよりも手前だったということさ」
小首をかしげる様が、実に嫌味《いやみ》ったらしい。
エーブは最初から、ロレンスたちの最も欲しがる話をその胸の中に納めていたのだ。
「怒《おこ》るな。オレもそうとは思わなかったんだ」
「それで?」
「くっく。そんな真剣《しんけん》な顔、昨日は見せなかった気がするが」
ロレンスは顎《あご》を指で突《つ》つかれ、顔をしかめてしまう。
エーブの機嫌《きげん》がいいのは、酒でも飲んでいるのかもしれない。
「先に言うとな、ウィンフィール王国。オレの故郷の、ブロンデル大修道院、わかるか」
「ブロ……まさか、金《きん》の羊の?」
「ほう、その話を知っているとは。大陸|側《がわ》だと年寄りしか知らないんだがな。そう。その金の羊伝説のある大修道院だ」
見|渡《わた》す限りの大平原に、神ですらその数を把握《はあく》しきれない羊を囲う修道院がある。
そして、数百年に一度、その無数の羊の中に金の毛を持つ羊が紛《まぎ》れているという伝説がある。
ウィンフィール王国きっての富裕《ふゆう》な修道院。
その規模は、有名な大商会と比べても遜色《そんしょく》のないほどだ、といわれている。
「そこの修道院長が買い求めたという話を聞いた。真偽《しんぎ》のほどはもちろんわからないが」
「いえ、ありがとうございます。このお礼はきっと――」
ロレンスが勢い込んで言いかけたのを止めたのは、エーブの笑顔《えがお》だった。
「野暮《やぼ》なこと言うな。恩に着ているのは本当だ。アロルドも毛皮も戻《もど》ってきた。南に下る船も用意してな。だから」
エーブは言って、ゆっくりと手を差し出してきた。
まっすぐにロレンスの目を見たまま、微笑《びしょう》をたたえたまま。
「……失礼しました」
ロレンスも笑い、エーブの手を握《にぎ》ろうと視線を落とした、その瞬間《しゅんかん》だった。
「………っ………!」
予感があったかなかったかなど、もはやまったく記憶《きおく》にない。
それくらい頭の中が真っ白になるほどに、驚《おどろ》いていた。
「……この香《かお》り、アビの草か? キーマンはずいぶんな料理を用意したらしいな」
エーブは笑いながら言って、何事もなかったかのように頭巾《ずきん》を元に戻《もど》した。
「商売は相手の意表を突《つ》いた時に最も儲《もう》かるものだとあんたから教えてもらったからな。その授業料だ」
まだ頭が追いつかないロレンスの肩に手を載《の》せて顔を近づけてくる。
「ウィンフィールでならオレの名はそこそこ使えるだろう。フルール・フォン・イーターゼンテル・ボラン。これが正式な名前だが、本当は近しい者だけが知る隠《かく》し名《な》が間に入る。フルール・フォン・イーターゼンテル・マリエル・ボラン。マリエルというのは、響《ひび》きも気に入っていてね」
言って、無邪気《むじゃき》に笑うのは頭巾なしで見たかった。
「なにかの役に立てばと思う。ロレンス」
突然《とつぜん》名前を呼ばれ、一瞬間があいてしまったが、ロレンスはきちんと返事をした。
「はい」
「クラフト・ロレンス。出会えてよかった」
それは旅装が似合う歴戦の商人としての言葉。
固く顔に巻いた頭巾と、一分《いちぶ》の隙《すき》もなく体を覆《おお》う旅支度《たびじたく》。
ロレンスの肩からを手を離《はな》し、きちんと背筋を伸《の》ばした一人の商人が静かに手を差し出してくる。
嫌味《いやみ》なほどに清々《すがすが》しい旅商人の立ち姿。
ロレンスはそれを取り、固く力を込めた。
「エーブ・ボランの名は忘れませんよ」
「くっくっ。なに、金のあるところに我あり、だ。どこかでまた会うだろうさ」
あっさりと手を離したエーブは踵《きびす》を返し、少しの未練も残さず歩き出した。
行商は出会いと別れの永遠の旅路。
ロレンスもまた後ろの扉《とびら》を振《ふ》り返り、開こうとしてその手を止めた。
「ん……どうした?」
扉が開いて、そこに立っていたのはコルだった。
手にはなぜか料理が山盛りになった皿を持って、顔は少し怯《おび》えている。
「外に出ていろって」
扉《とびら》の開き具合のせいで、角度的にここからだとホロが見えない。
しかし、ロレンスはその言葉とコルの様子から全《すべ》てを察し、コルの頭を撫《な》でてこう言った。
「ちょっと廊下《ろうか》で辛抱《しんぼう》しててくれ」
うまく笑えたかどうかは怪《あや》しいが、笑わないとやってられない。
ただ、コルがおとなしくうなずいて入《い》れ違《ちが》いに廊下に出ようとしたところに、ロレンスはコルが手に持つ皿の上からちょっとだけ失敬した。
香《かお》りのきつい、エーブが言ったアビの草。
ホロがロレンスに投げつけたものだ。
それを一房《ひとふさ》取り、口に放《ほう》り込む。
もぐもぐと咀嚼《そしゃく》しながら部屋に入り、後ろ手に扉を閉じる。
そのあとのことは思い出したくもない。
ロレンスは、伝記を書くとしたらこんなふうに締《し》めくくろうと、現実|逃避《とうひ》するように胸中で呟《つぶや》いたのだった。
[#地付き]終わり
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あとがき
お久しぶりです。支倉《はせくら》凍砂《いすな》です。今回は上下巻の下巻になります。
一度は書き上がっていた原稿《げんこう》なのでさっくり書き終わるだろう、なんて思っていた時期が大変|懐《なつ》かしいくらいに苦労しました。といいますのも、今まで一|冊《さつ》のうちで起承転結《きしょうてんけつ》をつけていたのに、今度は転で終わった上巻を引き継《つ》いで、下巻でも起承転結をつけないといけなかったからです。
あとは、単純にどのくらいのエピソードを足すとどのくらいの分量になるのか皆目《かいもく》わからず、長すぎないかなあ、短すぎないかなあ、とひやひやしていました。
良い経験になったのは確かですが、無事に書き上がってホッとしております。
もっとも、なによりも四ヶ月も待たせてしまって申し訳ありませんでした。これから先はバリバリ書かせていただきます! 書くんですってば!
ところで、あちこちでもう言いふらしているんですが、引《ひ》っ越《こ》ししました。前々からお湯が出なくなるとか窓に鍵《かぎ》がかからないとかの不具合はあったものの、概《おおむ》ね満足している家だったのでまだしばらくは暮らすだろうと思っていたのです。
それが、ある日|本棚《ほんだな》に本が入りきらなくなった途端《とたん》に耐《た》えきれなくなりました。もうそうなると部屋の汚《よご》れが手のつけようがなくなるのに大して間はありませんでした。恐《おそ》ろしいなあ。
というわけで、もうちょっと広めのところに引っ越して、現在快適ライフです。
部屋の広さは心の広さ! ゲーム中に勝手にPCが自動|更新《こうしん》して再起動しても怒《おこ》りません。
あまりに快適な部屋なので、ちょっとおしゃれに水槽《すいそう》でも置いてみようかしら、なんて思っているくらいです。草フグとかなら小さな水槽でゆったり飼《か》えそうですし、闘魚《とうぎょ》だったらジャムの瓶《びん》に水入れておくだけでいいですし。今このあとがきを書いているつい先日、何年かぶりに熱帯魚の雑誌なんか買ってきたりしてしまったので、時間の問題かもしれません。
ただ、リビングはともかく、書斎《しょさい》にしようと思っている部屋がまったく片づいていない……。
次の引っ越しまでに片づくといいなあ、と思っていたらページ数が埋《う》まったのでまた次の巻でお会いしましょう!
[#地付き]支倉凍砂
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狼と香辛料\ 対立の町<下>
発 行  二〇〇八年九月十日 初版発行
著 者  支倉凍砂
発行者  高野潔
発行所  株式会社アスキー・メディアワークス