狼と香辛料[ 対立の町<上>
支倉凍砂
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時折|緩《ゆる》やかに
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]続く
-------------------------------------------------------
底本データ
一頁17行 一行42文字 段組1段
[#改ページ]
[#改ページ]
狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》[ 対立《たいりつ》の町《まち》<上>
ロレンスたちがローム川で耳にした、『狼の足の骨』の噂。教会勢力は、どうやらその骨を自らの権威誇示のために利用しようとしているらしい。自分と同じ類の狼のものかも知れないその骨を、ホロが放っておけるはずもなかった。
詳しい情報を得るために、ロレンスたちは港町ケルーベで女商人エーブを待ち伏せることにする。
だがケルーベは、貿易の中心である三角洲を挟んで、北と南が対立している訳有りの町で――!?
放浪少年コルが旅の供に加わり、ますます盛り上がるホロとロレンスの旅路。絶好調の新感覚ファンタジー第8弾。
[#改ページ]
支倉《はせくら》凍砂《いすな》
1982年12月27日生まれ。第12回電撃小説大賞<銀賞>受賞。最近の好きな言い訳は、質量保存の法則によればケーキを200g食べたとしてすべて脂肪になっても200gの体重増に過ぎないので大丈夫。いえ、大丈夫のはずなんです。
イラスト:文倉《あやくら》十《じゅう》
1981年生まれ、京都府出身のAB型。現在関東にて、フリーで細々と活動中。この本が出るころには終わっているはずですが現在引越し準備に追われています。終わるかなこれ……。
[#改ページ]
Contents
序幕 11
第一幕 17
第二幕 83
第三幕 167
[#改ページ]
序幕
雲が月を隠《かく》し、暗闇《くらやみ》が辺りを覆《おお》った。
時折|緩《ゆる》やかに吹《ふ》く冷たい風が、ゆっくりと前髪《まえがみ》を揺《ゆ》らす。
針金を折り曲げて作られたランプの中では、獣脂《じゅうし》の炎《ほのお》が不安げに揺れていた。
寒く、恐《おそ》ろしく冷たい。
積荷《つみに》を満載《まんさい》した荷馬車が進むごとに、氷を踏《ふ》みしめるような音がする。
誰《だれ》も口を開かず、一行《いっこう》はただ黙々《もくもく》と前に行く。
積荷の横でランプの頼《たよ》りない明かりが揺れ、馬の太い首と、その綱《つな》を引いて歩く馬子《まご》の後頭部が浮かび上がる。
まるで死人の行列のようだ。
その類《たぐい》の話はいくらでもある。
ただ、違《ちが》うのは、その一行の中で一人だけ、立ち止まっている者がいたことだ。
手にランプを持たず、馬を叩《たた》くためか、あるいは馬子を叱咤《しった》するためか、杖《つえ》を手にしていた。
その一人だけが、足を止め、こちらを見ていた。
死人のような無表情の行列の中で、ただ一人、驚《おどろ》きをあらわにした顔をして。
「こんばんは」
短い単語は、空気が冷たいせいか、よく響《ひび》いた。
その場にしゃがみ込んで足元の砂利《じゃり》を手に取れば、砕《くだ》いた氷と言われてもわかりはしないだろう。
暗闇《くらやみ》と冬の空気と沈黙《ちんもく》の中、どれくらい対峙《たいじ》していたのかはわからない。
相手は予想外の出来事に出会っても平然としていられる歴戦の商人。
それでも、現実を理解するには時間がかかったらしい。
「早馬《はやうま》か?」
そうではない、ということを自分で結論づけている聞き方だ。
もちろん、手の内の全《すべ》てを見せる商人はいないので、その質問に答えは返さない。
暗闇の中で首を横に振《ふ》った。
風が吹《ふ》く。
荷馬車の一行《いっこう》は暗闇の中、市壁《しへき》の入り口に掲《かか》げられた松明《たいまつ》の明かりの下を、絞首台《こうしゅだい》に向かうように静かに進んでいった。
本当ならば、優位に立てたことを最大限利用したいところだった。
しかし、事実は戯曲《ぎきょく》よりも矮小《わいしょう》だ。いざという時に残された体力がない、ということはままあること。
なにかの魔法でこうなったわけではないのだから。
「とりあえず、暖かい宿で話をどうでしょうか」
口も聞けないほど疲《つか》れている他《ほか》の者たちを代弁して、言った。
「エーブさん」
相手は歴戦の商人。
現実的な提案には、現実的な返事を返してきたのだった。
[#改ページ]
第一幕
「むぐ……んむ……」
もくもくと口を動かし、ひとしきり咀嚼《そしゃく》するとさっさと嚥下《えんげ》して、また口を開く。
そこに匙《さじ》ですくった粥《かゆ》を運んでやると、ぱくりと口が閉じる。
時折、歯がかゆいのか匙を噛《か》むことがある。いい年をして歯が生えたての仔犬《こいぬ》のようだった。
そんな仔犬はパン屑《くず》がたっぷり入った重い粥を木の椀《わん》に二|杯《はい》食べて、ようやく満足したらしい。唇《くちびる》にくっついた残りを綺麗《きれい》に舌でぺろりとなめ、ため息を一つ。羊毛を詰《つ》めた立派な枕《まくら》を二つも並べ、その上に横になっている様は療養《りょうよう》中のお姫《ひめ》様に見えなくもない。
ただ、いかんせん姫と呼ぶには体格が貧相すぎる。
光栄なことにその体を抱《だ》きしめたことのある身としての感想は、そこまで貧相ではないにしても、少なくとも見た目は筋張っていることが否《いな》めない。
いや、今日に限って妙《みょう》にみすぼらしく見えるのは、きっと珍《めずら》しく髪《かみ》の毛に寝癖《ねぐせ》がついているからだろう、と思いなおした。
あとは、顔がむくんでいるせいで恐《おそ》ろしく不機嫌《ふきげん》に見えるからだろうか。
そんな貧相な姫の名はホロ。
もちろんホロは姫などではないが、もしかしたら女王ということはあったかもしれない。
それも、雪深き北の森の中で、だ。
ホロの頭には凛々《りり》しく尖《とが》った狼《オオカミ》の耳が、その腰《こし》からは威風堂々《いふうどうどう》とした尻尾《しっぽ》が生えている。
見た目が齢《よわい》十余の少女というのは仮の姿で、その真の姿は大の男を丸飲みにできる巨大《きょだい》な狼《オオカミ》だ。自らを賢狼《けんろう》と称《しょう》し、麦に宿りその豊作を司《つかさど》る、何百年と生きてきた狼だった。
しかし、歴代|諸侯《しょこう》の肩書《かたが》き並みにご立派なその出自を持っていても、こんな姿を見たら麦の豊作を祈《いの》る村の連中もホロを当てにしなくなるわけがわかる。
寝癖《ねぐせ》をつけたまま飯を食べさせてもらっているのを見れば威厳《いげん》も権威もどこへやら。
確かに、無様を晒《さら》してもいいくらいに心を許してくれている、と言えば聞こえはいい。
ただ、ロレンスはそれに対し、物は言いようだとしか言えない。
大体、ホロに甲斐甲斐《かいがい》しく飯を食べさせてやることはこれが二度目だというのに、礼を言われた記憶《きおく》は未《いま》だにない。
今回もさもそれが当たり前といった様子のホロは、食べ終わるなり大きくげっぷをして、耳をひとしきりひくひくとさせている。視線が遠いので、なにかを思い出しているのだろう。
それからほどなくして、不機嫌《ふきげん》そうに眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せた。
「賢狼が筋肉痛だなんて言って、誰《だれ》が信じると思う?」
食器を片づけながら言うと、視線が遠くから戻《もど》ってきた。
「ぬしはそんなか弱いわっち、が、ぐ……」
と、小首をかしげようとして、ホロは失敗した。
昨日半日、ロレンスともう一人、放浪《ほうろう》学生の少年コルを乗せて荒野《こうや》を走ったホロだ。
日の光の下を思いきり走れることがよほど嬉《うれ》しかったのか、宿に着いた時にはまともに階段も上《のぼ》れないほど疲弊《ひへい》していたのに、妙《みょう》に興奮《こうふん》して眠《ねむ》る寸前まで目をぎらぎらとさせていた。
走っている最中にもほとんど休憩《きゅうけい》を挟《はさ》まず、背中にくっついているだけのロレンスたちのほうが先に音を上げてしまったくらいに走り通しだった。
それでもまだどこか走り足りないといった感じがしたホロは、思慮《しりょ》深く、冷徹《れいてつ》にして勇猛《ゆうもう》な森の狼というよりも、野に放たれた犬というほうが近かった。ロレンスとしては嫌味《いやみ》のつもりだったのだが、その足の速さと体力を褒《ほ》めてやったら、今まで見たことないくらいに得意げな顔で胸を張っていた。
一本一本が銀でできた針金のように雄々《おお》しい毛皮に包まれた巨大な狼が、座って胸を張る様はなるほど神の名に相応《ふさわ》しい威風堂々としたものだった。
ただ、嫌味で褒めたところに嬉々《きき》として胸を張ってしまうあたりには、苦笑いを禁じ得ない。
何百年と村の麦の豊作を司る神として崇《あが》められていたホロだから、きっとこんなふうに子供のように感情をあらわにするのが楽しくて仕方がないのだろう、と好意的に解釈《かいしゃく》しないと、ホロが賢狼であるということなど忘れてしまいそうだった。
もちろん、単純に元々の性格がこうなのだ、というのはこれまでの旅からよくわかっている。
だから、ロレンスは存分に褒めちぎってやった。
もう少し褒《ほ》めたら、きっとわっさわっさと揺《ゆ》れていたホロの尻尾《しっぽ》のほうがちぎれてしまったことだろう。
そんなことがあったので、今朝起きた時のホロの顔が二目《ふため》と見られないひどい有様《ありさま》だったのには、自分の耳で音が聞こえそうなほど血の気が引いた。ロレンスは本気で重い病を想起した。
それが、ただの筋肉痛だとわかった時の安心感といったら、ホロを危《あや》うく怒鳴《どな》りつけたくなったくらいだ。
もっとも、腕《うで》は上がらない、首は回らない、腰《こし》は痛くて立ち上がれないでは、病人も同然なのだが。
病人と違《ちが》うのは、一丁前に腹は減らすことだろうか。
「まあ、人を二人も乗せてあれだけ走れば仕方ないか」
「調子に乗って走りすぎたのは確かじゃな」
まともに動くのは耳と尻尾くらいのもの。
ただ、ひどく辛《つら》そうな割には後悔《こうかい》しているふうにも見えない。
ホロはこの少女の姿をいたく気に入っているようではあっても、やはり真の姿である狼《オオカミ》のほうがしっくりくるということだろうか。
そう考えると、これまでの旅で妙《みょう》に不機嫌《ふきげん》なことがあったりしたのも、狼の姿で自由に動き回れなかったことからくる不満が原因の一つだったのかもしれない。
「じゃが」
と、ロレンスがそんなことを思っていると、ホロは小さな欠伸《あくび》を挟《はさ》んで言葉を続けた。
「体が痛くて起き上がれぬとはまったく格好がつかぬ。これが、わっちの上に乗っておったぬしが朝起き上がれない、というのならまだ格好がつくんじゃが」
体は動かなくとも口は回る。
ホロは意地悪な笑《え》みを浮かべてそう言うが、姿勢が不自然なのでまったく様になっていない。
側《そば》にコルがいたら少し慌《あわ》てたかもしれないが、幸いなことにコルは外に出ている。
「お前がもっと思慮《しりょ》深くて先見の明《めい》に満ちあふれ、全《すべ》てを任せておけば絶対安心、というのなら、俺はなにも考えずお前の尻馬《しりうま》に乗ろう。しかし、昨晩のこと、忘れたわけではないだろう?」
ロレンスが言ってやると、ホロは珍《めずら》しく反論をしてこない。
それどころか、悔《くや》しそうに唇《くちびる》を噛《か》んで、そっぽを向いた。
昨晩の失態を、きちんと自覚しているらしい。
「まったく。尻馬に乗るどころかお前の手綱《たづな》を握《にぎ》らなきゃならなかった。お前は一体|誰《だれ》が誰の御者《ぎょしゃ》だと言っていたんだっけ?」
ホロを反省させるにはいい機会かもしれない。
ロレンスはそう思って追撃《ついげき》を加える。
昨日、ホロの快走によりロレンスたちはローム川を下る船を降りて半日後には港町のケルーベにたどり着いた。船で下れば二日はかかる距離《きょり》だ。
その速さは、どんな早馬《はやうま》を乗り継《つ》ぐよりも速いものだったはず。
それだけ早く来たのにはもちろん目的がある。
それは、ロレンスたちがローム川を下っている最中に知った、ロエフと呼ばれる地方の山々の村に祭られていたという狼《オオカミ》の骨の話を追いかけるため。確証はないが、おそらくはホロのような狼のものだと思われるその骨は、教会勢力が自らの権威《けんい》を誇示《こじ》するために、骨を冒涜《ぼうとく》する目的で追いかけている可能性があった。
それはホロからすれば我慢《がまん》できることではないし、見|逃《のが》せることでもない。
ただ、純粋《じゅんすい》にそういった理由から当初の予定を変更《へんこう》して川を下り、その話を追いかけるには少々ロレンスたちはへそ曲がりに過ぎるし、本当の理由をはっきり口にするほど正直ではない。ロレンスなどはこの二人の旅を笑顔《えがお》で終えるために、などという口実を用意しているが、ホロに聞けばホロもまた別の口実を用意しているだろうことは間違《まちが》いなかった。
そして、そんな狼の骨の話について情報を聞き集めたところ、その骨を追いかけているのはローム川流域の教会勢力を始めとする人間たちらしかった。
そこで、ローム川流域のことに表から裏まで詳《くわ》しいだろうエーブに話を聞くため、ロレンスたちはケルーベと呼ばれる港町までやってきたのだった。
元貴族でありながら、没落《ぼつらく》の果てに商人になり、レノスの町で教会と手を組んで不正なことをしていたくらいのエーブだから、その情報|網《もう》は相当のもののはず。それに、レノスの町での毛皮の件や、その毛皮を周囲を出し抜《ぬ》いて輸出するために、川に船を沈《しず》めて妨害《ぼうがい》工作をしたことなども材料にすれば相当の話が聞けるに違いない、という目論見《もくろみ》があった。
そのため、ロレンスたちはラグーサの操《あやつ》る船から降り、ホロの背中に乗ってエーブのあとを追った。
しかし、誤算があった。しばらく下っていった先で追いついた船の上には、エーブの姿が見当たらなかったのだ。
レノスの町でロレンスたちが宿泊《しゅくはく》した宿の主人、アロルドの姿はあった。そのため、その船がエーブに関係するものであることはわかったのだが、さらにおかしいことに、その船に大量に積まれているはずの毛皮も見当たらなかった。
エーブが毛皮を積んでケルーベに行こうとしていたことは間違いがない。
となれば、途中《とちゅう》からは毛皮を陸路で運んだ可能性が高い。そもそも荷を高速で運ぶために船を使っていたとはいっても、距離が長くなければ他《ほか》に手段がないわけではない。
幸運からか、はたまた計画的にか、とにかく馬を調達できたのだろうと考えれば、途中から陸路という選択肢《せんたくし》はそれほど奇異《きい》なものではない。
むしろ、船を川に沈めて後続の船を足止めしたとなれば、利害関係から船に毛皮を積んで川を下っている者が犯人として疑いをかけられるのは当然のこと。船でせっせと毛皮を運んでいたら自分が犯人ですと公言するようなもので、途中《とちゅう》から陸路で運ぶのはその嫌疑《けんぎ》から逃《のが》れる有効な方法となる。
ロレンスはそのように考え、エーブはすでに馬で荷を運びケルーベに向かっていると判断した。ホロはアロルドを締《し》め上げて行き先を聞き出せばいいと言い張ったが、それを説き伏《ふ》せてさらに川下に向かった。
そして、ロレンスは自分の説が正しかったことを、夕暮れ時にホロが遠方に商隊を見つけたことで確信した。
エーブが率いる荷馬の列。
ロレンスたちは先回りし、ローム川の終わりに位置する港町、ケルーベの入り口で、エーブたちの到着《とうちゃく》を待った。
その時のエーブの顔は、墓から出てきて歩く死人を見た、というようなものだった。
氷の洞窟《どうくつ》から吹《ふ》き出てくるような冷たい風が時折|前髪《まえがみ》を揺《ゆ》らす中、ロレンスたちはエーブと共にケルーベへと入り、わずかの協議のあと、エーブから紹介《しょうかい》された宿に泊《と》まることになった。
エーブとの再会こそ彼女の意表をつくものとなり、優位はこちらにあったが協議の内容はロレンスのため息まじりに語るほかないようなものだった。
狼《オオカミ》の姿から少女の姿に戻《もど》ったホロは、なお目をぎらぎらとさせ、ろくに喋《しゃべ》れないほど疲《つか》れていたのに妙《みょう》に興奮《こうふん》していたのだ。
そんなホロが、レノスの町で一悶着《ひともんちゃく》あったエーブと一つ部屋に入ればどうなるか、ロレンスは予想していなかったわけではない。
それでも、危《あや》うく掴《つか》み合いの喧嘩《けんか》になるとまでは、思わなかった。
「ぬしが手ぬるいからいかぬ。その顔の傷は、誰《だれ》につけられたか忘れたのかや」
ホロが自分の正当性を主張する。
「相手を批判することが自分の正しさの証明になるとは、よもや本気で思っていないだろう?」
「む……」
ホロは口をつぐみ、ぐっと顎《あご》を引く。
自分が悪いということは理解しているのだ。
それでもなお素直《すなお》に謝れない理由は、ロレンスにもわかっているのだが。
「その点、エーブはさすがだったな。お前の剣幕《けんまく》を前に、応戦することなく引くことを選んだ。なぜかわかるか」
ホロの目が、ロレンスから外される。
放《ほう》っておけば本当にエーブに掴みかからんばかりだったホロを、ロレンスはほとんど羽交《はが》い締めにするように止めていた。
あの時、エーブの目は蛇《ヘビ》のように冷静にロレンスたちのことを見回して、それから、威嚇《いかく》するでも無視するでもなく、最後に少しだけ微笑《ほほえ》んだ。
「俺たちと事を構えると不利益になると判断したからだよ」
「わっちを損得|勘定《かんじょう》のできぬ子供|扱《あつか》いかや?」
短く言って、口を閉じる。喉《のど》の奥ではその千倍の言葉が渦《うず》巻いているように、その顔がどんどん歪《ゆが》んでいく。
ロレンスは、やれやれと思いながらその様子を見つめていた。
耳を見れば本気で怒《おこ》っていないのは明々白々。
ならばなぜそんなことをするかといえば。
「エーブは、お前の怒《いか》りが理屈《りくつ》じゃないとわかったからだろ。お前は、まさしく、子供のように怒った。それこそ、利益度外視で」
つまり、エーブは自分が踏《ふ》んではならない尻尾《しっぽ》を踏んでいたとすぐに気がついたのだ。
相手が理屈で怒っているのであれば理屈で対応もできるが、感情で怒っているのであれば理屈は逆効果しか生み出さない。だから、エーブは素直《すなお》に頭をたれた。
そうなれば、感情で怒っていつつ、なおその理屈もわかっているホロは許すほかない。
しかし、それがすんなりと納得《なっとく》できないのだろう。
形式の上では許さなければならないが、いかんとも許しがたい。ホロはこの呪縛《じゅばく》を前に、歯噛《はが》みしているのだ。これを断《た》ち切るには、ロレンスが魔法《まほう》を唱えなければならない。
まったく、面倒《めんどう》くさいお姫《ひめ》様だった。
「まあ、あれだけ感情的な対面を経たあとなら、かえって冷静に話をしやすいからな。こちらの利益を引き出しやすくなった」
「……それで?」
ホロがじろりと視線を向けてくる。
ロレンスは気恥《きは》ずかしくて、肩《かた》をすくめてから、小さくため息をつく。
それは、諦《あきら》めのため息だ。
「俺のために怒ってくれたのなら……そう。ありがとうな」
古《いにしえ》より、契約《けいやく》は声に出して宣誓《せんせい》するのが慣《なら》わしだが、それはどうやら商売だけではないらしい。
こんなあからさまな言葉を口に出すなどロレンスは今もって気恥ずかしさを拭《ぬぐ》えないが、ホロにそれがないと駄目《だめ》と言われたなら、仕方がない。
取引は、互《たが》いの妥協《だきょう》点を探らなければならないのだから。
「ま、ぬしがそう言うのなら」
と、ようやく毒の抜《ぬ》けた顔をして、ホロは耳をはたはたとさせたのだった。
窓の向こうからは、通りを一本|挟《はさ》んだ市場のざわめきがかすかに入ってくる。
冬の日差しは暖かく、日の光の下にいる分には春が来たようにすら錯覚《さっかく》する。
ロレンスがあまりの馬鹿《ばか》らしさに耐《た》えきれず苦笑いすると、ホロも釣《つ》られて笑い出した。
穏《おだ》やかで、のんびりとしていて、何物にも代えがたい一時《ひととき》だった。
「さて、それじゃあ食器を片づけて……と」
「うん」
ロレンスの独《ひと》り言《ごと》にもホロは一応|相槌《あいづち》を打って、耳と共にそこだけは元気な尻尾《しっぽ》の毛づくろいをしようと視線を落とす。
これまでの旅でも繰《く》り返してきた風景。
ただ、いつもとは違《ちが》う要素が一つあったはず。
その要素のコルが外に買い物に出たっきりだった、というのは、部屋の扉《とびら》がノックされて思い出した。数瞬《すうしゅん》待ったあとに扉が開けられれば、その先には木の椀《わん》のようなものを抱《かか》えたコルが立っていた。
さて、コルはなにを買いに行ったんだったか、とロレンスが記憶《きおく》を探ろうとした瞬間、その強烈《きょうれつ》な匂《にお》いが鼻を突《つ》いた。なんと表現すればいいのかわからない、香草《こうそう》をすりつぶして硫黄《いおう》で煮《に》込んだような独特な匂いだ。
あまりの匂いに体をのけぞらせるが、コルのほうはまったく意に介《かい》していないらしい。
「軟膏《なんこう》を作ってきました!」
と、いそいそと部屋に入ってきた。
息せききっているあたり、急いで来たのだろうことが窺《うかが》える。
ホロはコルを気に入って散々|撫《な》で回し、コルはコルでホロに懐《なつ》いているらしい。
今朝のホロの様子を見たコルは、脱兎《だっと》のごとく駆《か》け出して、朝の取引に賑《にぎ》わう町へと出ていった。
北の人間はことのほか薬草の知恵《ちえ》が豊富だ。
切り傷から熱病まであらゆることに対処できるだけの薬草を知っていると言っても過言ではない。きっと、筋肉痛に効く軟膏を作ってきたのだろう。
しかし、この匂いはどうにかならないのか。
ロレンスはそこまで思って、はっと気がついた。
ホロ。
ロレンスが振《ふ》り向くと、耳と鼻が抜群《ばつぐん》に良いヨイツの賢狼《けんろう》は、文字どおり尻尾を巻いてベッドの上で苦悶《くもん》していた。
ホロに同情するほかない。
コルが親切心から作ってくれた軟膏を、断ることができるだろうか。
ロレンスは枕《まくら》の陰《かげ》から向けられる助けを求めるような視線を無視し、コルとすれ違おうとした、その瞬間。
「あ、この軟膏、ロレンスさんのその怪我《けが》にも効くんですよ」
枕に顔を突っ伏《ぷ》しているホロの耳が、少し嬉《うれ》しそうに動いたのだった。
濃《こ》い緑色の、妙《みょう》な粘《ねば》り気《け》のある軟膏《なんこう》だった。
ロレンスはそれを布に塗《ぬ》り、右|頬《ほお》の腫《は》れ上がった場所に貼《は》りつけた。途端《とたん》、鋭《するど》い匂《にお》いが針のように突《つ》き刺《さ》さり、頬一帯に強烈《きょうれつ》な熱さが広がった。しかも目にはしみるし、鼻はひん曲がりそうだ。
それでも、コルはこの軟膏を作るために乏《とぼ》しい路銀《ろぎん》を惜《お》しげもなくはたいていた感じだったので、無下《むげ》になどできるわけがない。
とはいうものの、この強烈な匂い。
ホロの肩《かた》や腰《こし》に塗る時も、心底|怯《おび》えたような目を向けられた。鼻の良いホロのことだから、本当に辛《つら》いのだろう。
それでも、自分だけがこの匂いに苦しめられるわけにはいかない、とそんなことを思わないわけではなかったが、少なくとも効き目はありそうなのでホロに軟膏を塗ってやった。
軟膏を塗りつけるたびにホロがなんとも言えない声を上げていたが、少しも魅力《みりょく》的ではなかった。
服はあとで買い換《か》えてやらないとならないかもしれない。あるいは、うまい酒か。
一通り塗り終わってから、恨《うら》みのこもった一瞥《いちべつ》を貰《もら》い、そう思わざるを得なかった。
「あ、そうだ、さっきここに戻《もど》ってくる途中《とちゅう》、昨日の商人の方がロレンスさんとお会いしたいと言ってましたよ」
ホロが特に痛がっていた部分に重ねて軟膏《なんこう》を塗《ぬ》り終わり、手についたものを拭《ふ》き取る。
強力な薬ということに間違《まちが》いはないらしいので、もしかしたら本当に効くのかもしれない。
ロレンスは、おそらくは軟膏の匂《にお》いのせいだろうが、ベッドの上でうんうん唸《うな》っているホロを横目に、コルに聞き返した。
「昨日のというと、エーブか?」
「そうです」
「兵は拙速《せっそく》を尊ぶ、か。今日、明日にはいなくなりそうだからな」
没落《ぼつらく》貴族の身でありながら、商人として破竹《はちく》の勢いで出世しているエーブ。
材木と毛皮の町レノスでは、ロレンスを罠《わな》に嵌《は》める形で信じられないような毛皮の取引を企《たくら》んでいた。その大博打《おおばくち》を打って手に入れた毛皮をこの町に運ぶ際にも、他《ほか》の連中が毛皮を運べないように川に船を沈《しず》めたりとやりたい放題だ。
狡猾《こうかつ》な知恵《ちえ》と据《す》わった肝《きも》で万全を期してはいるのだろうが、この町でまごまごしていればひょんなところから危ない取引で構築された堤《つつみ》が決壊《けっかい》するかもしれない。さっさと遠いところに逃《に》げるのが定石《じょうせき》だ。
それに、レノスの町から運んできた毛皮をここからさらに次の町へ輸送しなければならない。
まだ町は動き出したばかりといっても、そんなエーブには遅《おそ》すぎる時間かもしれなかった。
「どこに行けばいいとか言われたか?」
「えっと、もう少ししたらこの宿に迎《むか》えに来ると」
「……そうか」
エーブは忙《いそが》しい身であろうから、わざわざここに来るというのはなにか含《ふく》みがあるはずだ。
すぐに思いつくこととしては、ローム川に船を沈めた犯人として告発されたくない、ということなのだが。
「で、お前朝飯は食べたのか?」
「え? あ……は、はい」
ホロほどではないにせよ、ロレンスも商売で人の嘘《うそ》を見|抜《ぬ》く目を鍛《きた》えてある。
コルの頭を軽く小突《こづ》いてやってから、なにも言わずパンの詰《つ》まった麻袋《あさぶくろ》を押しつけた。
大方、自分の朝飯を買う金も使って、軟膏を作るための薬草を買ったのだろう。
異教の村を守るために教会権力を利用しようと、そんな不穏《ふおん》な理由で教会法学を学びに南の町の学校に通っていたのに、本物の正教徒よりもよほど正教徒らしい。
コルは麻袋を受け取ってやや戸惑《とまど》っていたが、ロレンスは気がつかないふりをして、毛布の下で唸《うな》っているホロに歩み寄った。
少し外出する旨《むね》を告げると、顔は上げてくれなかったが、耳だけで返事をされた。
匂《にお》いのせいで気絶でもしやしないかと思ったが、意外にそういうわけでもないらしい。
ロレンス自身もいつの間にか匂いは気にならなくなっている。代わりに、軟膏《なんこう》を塗《ぬ》った右|頬《ほお》が熱を持ち、いかにも打ち身が治っていく、という感じがしていた。
狼《オオカミ》たるホロになら、もっと明確に体に効いているということがわかるのかもしれない。
ベッドから離《はな》れ際《ぎわ》、「負けたら承知せん」と言葉を向けてきたあたり、その予想は間違《まちが》っていないはずだ。
ロレンスがひとまず安心して振《ふ》り向くと、しばらく麻袋《あさぶくろ》を手にしたまままごついていたコルが、パンを二つ手に取って立っていた。
袋の中には普通《ふつう》のライ麦パンとクルミをまぜて焼いたライ麦パンがあったが、手に持たれていたのはどちらも普通のライ麦パン。その慎《つつし》み深さには苦笑いが出てしまう。
ホロも少しは見習って欲しいものだと思った。
「で、お前も来るか?」
とは、エーブと話すところに来るか、ということ。
コルはしばし目を泳がせてから、うなずいた。
エーブから聞こうとしている話は、ホロのような神や精霊《せいれい》と呼ばれる類《たぐい》の狼の足の骨の話で、それはコルの生まれ故郷のすぐ近くの村に祭られていた神様のものだ。
そして、コルはその神様である狼の足の骨を巡《めぐ》る話が真実かどうか確かめたくて、ロレンスたちと共に旅をすることを望んだ。
だとすれば、来たがらないわけがない。
それでも敢《あ》えてそう聞いたのは、聞いてやらなければついてこないような気がしたからだ。
若いうちから気苦労の多そうな性格だった。
ホロに懐《なつ》いているのも、もしかしたら傍若無人《ぼうじゃくぶじん》なその雰囲気《ふんいき》が新鮮《しんせん》なのかもしれない。
「なら、さっさとそれを食べておくことだ」
部屋から出る時にそう言うと、コルは慌《あわ》ててパンを口に詰《つ》め込んだ。
「は、ふぁい」
それから、ロレンスはこのように言葉を続けてやった。
「もちろん食べ終わったあとは、小麦パンを食べましたという顔を忘れるなよ?」
立《た》ち居振《いふ》る舞《ま》いは修道院でよく躾《しつ》けられたような上品なそれなのに、こと食事に関しては赤貧《せきひん》の旅が災《わざわ》いしてか、ちょっと野性味にあふれている。
今も栗鼠《リス》のようにパンを頬張ったまま、コルはきょとんとした。
それから、ロレンスの言葉の意味がわかったらしく、笑いながらパンを飲み下して、答えた。
「物を食べる時は口元を隠《かく》せ、というのは教会でも教えられます」
「それは逆にいいものを食べていることを隠すためだろう?」
ロレンスが扉《とびら》を閉めて歩き出すと、コルは忠実な弟子のように一歩後ろをついてくる。
「頂いたパンは、とてもおいしかったです」
これをちょっとした笑顔《えがお》で言ってくるのだから、賢《かしこ》い少年だった。
宿の一階は食堂になっている。
朝食という贅沢《ぜいたく》をするのは旅人と相場が決まっているので、テーブルについている者たちはほとんどがこれから旅立つ服装だった。
そんな中にエーブが相変わらずの格好でテーブルについていたので、一見すると彼女もまた今日ここから旅立とうとしている旅人に見えなくもない。
もしかしたらその見立ては間違《まちが》いではないのかもしれないが、ロレンスの目下の関心事は、エーブが素顔《すがお》を隠《かく》すために顔を布でぐるぐる巻きにしているのに、それでもなお鼻を押さえたことだ。
「……ひどい匂《にお》いだな」
カウンターの奥では店主が迷惑《めいわく》そうにこちらを睨《にら》んでいるし、他《ほか》の客などは怒《おこ》ることも忘れて何事かとびっくりしている。
ロレンスは開きなおって平然としていて、コルに至っては本気で気にしていないらしい。
土地によってその地域に住む人たちが好む匂いというのは異なるといっても、きっとこれは極端《きょくたん》な例だろう。
ロレンスがそんなことを思いながらエーブの対面の椅子《いす》に腰《こし》を下ろすと、エーブは思いがけないことを言った。
「だが、久しぶりに嗅《か》ぐ匂いだ。その傷、夜には綺麗《きれい》さっぱり消えるだろう」
コルの作ってくれた軟膏《なんこう》を塗《ぬ》った布を当てている右|頬《ほお》は、エーブと争った時に鉈《なた》の柄《え》で思いきり殴《なぐ》られた右頬だ。
その口ぶりは、少しばかり冗談《じょうだん》めかしていた。
「彼が調達してくれたのですが、さすが、博識ですね」
ロレンスは後ろに立つコルを示しながら、少し大袈裟《おおげさ》に言ってやる。
「ふん? ロエフの人間か」
エーブは静かにコルを見つめ、それから、一度|瞼《まぶた》を閉じた。
なにを考えているのかまでは、わからない。
「まあ、オレはローム川沿いのことなら表から裏まで知っているからな。その知識を目当てに、この町までオレを追いかけてきたのだろう? どんな方法を使ったのかはわからないが、信じられない速度でな」
顔に巻きつけた布の奥で目が細められる。
商人のよいところは、たとえ殺し合いに近いことをしたあとだって、利害が一致《いっち》すればすぐに手を握《にぎ》り合えること。契約《けいやく》の関係になければ感情的なわだかまりなど残さないこと。
レノスの町であれほどのことを経たあとなのに、まるで旧知の間柄《あいだがら》のようだった。
「昨晩の驚《おどろ》きは近年まれに見るものだ。てっきり、契約書に不備でもあったのかと」
ホロの遠回しな物言いにはいつも混乱させられるが、こういう類《たぐい》のものならロレンスにもわかりすぎるほどにわかる。
胸の内がざわついてしまうのは、もしかしたら恋に近い感情かもしれない。
商人の腹の探り合いは、それこそ、腹をくすぐられるかのように、楽しいからだ。
「ええ、私はあなたの知識のみを求めています。あなたと私の間には、商売の契約は一つも結ばれていませんからね」
この際だから、エーブの毛皮を狙《ねら》っているわけではない、としっかりと告げておく。
エーブは小さくうなずき、椅子《いす》から腰《こし》を上げた。
「場所を替《か》えよう。他《ほか》の客と店主から恨《うら》みを買うことになる」
その言葉はいたずらっぽく。
しかし、あながち冗談《じょうだん》でもなさそうだったので、ロレンスはコルと連れ立ってエーブのあとに従った。
「で、連れはどうしたんだ」
宿を出ると、そこは狭《せま》い通りになっている。どちらかというと広めの路地といったほうがよいかもしれない。
ケルーベの港町は川を挟《はさ》んで北と南に分かれていて、ロレンスたちが宿を取ったのは北|側《がわ》の町だった。
北側の町は綺麗《きれい》な建物が少なく、川沿いの市場こそ賑《にぎ》やかなものの、そこから少し離《はな》れると路地と傾《かたむ》いた建物が多く、どこか荒《すさ》んだ印象を受けた。
建物の高さが統一されていないのも、町の景観に対する参事会の心が寛大《かんだい》なのか、または、その統制力が低いかのどちらかだ。
町の様子を見る限り、後者かもしれない。
ロレンスがそんなことを思っていると、エーブは迷うこともなく市場とは反対側に歩き出した。
「連れは旅の疲れが出ましてね。体中にこの軟膏《なんこう》を塗《ぬ》って、ベッドの上です」
「そいつは……」
と、言葉を切って振《ふ》り向くと、コルのほうを窺《うかが》って、布の奥で小さく笑ったのがわかった。
「きっと、すぐによくなるだろう」
ホロでなくとも、ご愁傷《しゅうしょう》様、という言葉を飲み込んだのはわかる。
コルだけが、少し誇《ほこ》らしげに笑っていた。
「ただ、それはオレにとっては幸運なのかな。いや、あんた方にも幸運というべきか」
「両方でしょうね」
ロレンスは肩《かた》をすくめて苦笑いをする。
昨晩のうちにエーブが知っている知識を聞き出せなかったのは、ホロの剣幕《けんまく》がそれほどにすごかったからだ。
「なんにせよ、自分のために怒《おこ》ってくれる他人は尊い財産だ。大事にしたほうがいい」
「私を自分の財産だと思っているから、傷つけられたことに対して怒ったのかもしれません」
外套《がいとう》の下で、エーブの肩が揺《ゆ》れる。
そんな折、ひょいと道の脇《わき》にそれたのは、冬でも取れる葉野菜を籠一杯《かごいっぱい》に積んだ女が向かいから歩いてきたからだ。
これから市場に売りに行くのだろうそれは、夏場のものと比べると深い緑色をしていて冷たそうな感じがする。それでも、酢漬《すづ》けや生で食べるには向かないかもしれないが、スープに入れたらさぞうまいに違《ちが》いない。
「もしもあんたがあの連れの所有物なら、その時は賠償《ばいしょう》を求めるはずだ。ところが、あんたの連れは、復讐《ふくしゅう》を求めた」
エーブの薄《うす》い青の瞳《ひとみ》が、一瞬《いっしゅん》寂《さび》しげに見えたような気もした。
家が投落《ぼつらく》し、貴族の称号《しょうごう》を金で得ようとした成金商人に家名ごとその身を買われたエーブ。
金でエーブの主人に納まった商人は、エーブが傷つけられれば相手になにを求めただろうか。
金か。それとも、復讐か。
考えるのは、それだけでエーブを傷つけることのような気がした。
自分が軽口の選択《せんたく》を間違えたことに、少しだけ後悔《こうかい》した。
「くっく。こうやって相手に罪悪感を抱《いだ》かせ同情心を煽《あお》るとな、あとで商談が進めやすくなる」
エーブの言葉に、ロレンスはハッと我に返った。
色仕掛《いろじか》け、泣き落としはいつだってまともな取引を飛び越《こ》える。
警戒《けいかい》してはいても、つい引っかかってしまう。
がしがしと頭を掻《か》いて、それでも顔が笑ってしまったのには、もちろん理由がある。
「ただ、それを敢《あ》えて言うということは?」
ロレンスは謎《なぞ》かけを楽しむように言って、必死に会話についてこようとするコルを見ながら言葉を続けた。
「そうやって自らの罠《わな》をさらけ出すことにより、あなたは私が抱く警戒心を解こうとしている」
「そう。さらに深く、ずぶりと牙《きば》を沈《しず》めるためにな」
頭に巻いている布を取ったら、その下ではきっと牙が見える笑《え》みを浮かべているに違いない。
エーブを狐《キツネ》と呼んだホロの真意がわかるような気がする。
この商人はあまりにも狼《オオカミ》らしすぎるから、同じ狼だとホロは認めたくないのだ。
「さて、到着《とうちゃく》だ」
「ここは?」
立ち止まるやコルが背中にぶつかってきた。きっと、少しでもこのやり取りからなにかを学ぼうとするために、ロレンスとエーブが交《か》わした言葉を反芻《はんすう》していたのだろう。
ロレンスも師匠《ししょう》に対して同じことをしていたのを思い出すと、少し懐《なつ》かしくなる。
「この町でのオレの拠点《きょてん》さ。看板を掲《かか》げていない商会といえば、察しはつくだろう?」
辺りの建物に比べ、壁《かべ》は黒ずみ屋根は今にも通りに向かって滑《すべ》り落ちそうな雰囲気《ふんいき》だったが、土台の部分の石組みはしっかりしていた。
エーブの芝居《しばい》がかった物言いに、コルは不穏《ふおん》なものを感じ取ったらしく固唾《かたず》を飲む。
しかし、もちろん冗談《じょうだん》に違《ちが》いない。よくよく見れば黒い壁にはなにかを外したような痕《あと》があった。
要するに、つぶれたか廃業《はいぎょう》した商会なのだ。
「あまりからかわないでやって欲しいですね」
扉《とびら》に手をかけたエーブの背中にそう言うと、それを聞いたコルが「え」と声を漏《も》らした。
それから、ようやく自分だけがわかっていなかったのだと気がついたようだった。
エーブは、それを確認《かくにん》するためではないだろうが、振《ふ》り返って、少し楽しそうにこう答えた。
「可愛《かわい》い弟子《でし》だからか?」
「残念ながら弟子ではありませんし、こいつは商人でもありません。なので、ひねくれて育って欲しくないんですよ」
その言葉には、エーブらしくもなく、声を上げて大笑いする。
「はっはっは。そうだな。確かにそうだ。商人はひねくれすぎだからな」
自分の頭の上を飛び交う会話に悔《くや》しそうに口を引き結ぶコルをよそに、ひねくれた商人二人は建物の中に入っていく。
ロレンスが後ろを振り向くと、少し不機嫌《ふきげん》そうな顔でコルも入ってきた。
馬鹿《ばか》にされた、とでも思っているのかもしれない。
ロレンスは苦笑いと共に、やれやれとため息をつく。
商人の側《そば》にいたら、せっかく素直《すなお》なコルの性格も捻《ね》じ曲がってしまうかもしれないと、そんなことを思ったからだった。
山羊《ヤギ》の乳にバターと蜂蜜《はちみつ》酒をまぜたものが出された。
コルだけは蜂蜜酒の代わりに単なる蜂蜜を。
バターの質がいいのか、少し苦めのライ麦パンが欲しくなった。
「アロルドさんはまだ到着《とうちゃく》していないのですか」
ロレンスたちが建物の中に入ると、中はしんと静まり返っていた。
居間には暖炉《だんろ》で火をたたえている炭の音と、その側《そば》に置かれていた鍋《なべ》の中で緩《ゆる》やかに山羊《ヤギ》の乳が煮《に》えている音だけが小さく聞こえていた。
暖炉の前に座り、意外な手際《てぎわ》のよさで飲み物を用意してくれているエーブを眺《なが》めている最中も、他《ほか》には物音一つしなかった。
「おそらく今日の夕方|頃《ごろ》だろう。食べるか?」
と、エーブはナイフでざくざくと切っていた小麦パンを手にしながら聞いてきた。
木の皿には鍋の縁《ふち》についていたものだろう、煮|詰《つ》まってチーズのようになった山羊の乳が盛られていた。
これに塩と油で漬《つ》け込んだ鰊《ニシン》の切り身を載《の》せればさぞうまいに違《ちが》いない。
「そんなものを食べたら今後の旅が辛《つら》くなりそうですね」
「そのとおりだ。舌が肥えると一気に旅費が跳《は》ね上がる。だが、商人でなければそんなことを気にする必要もないだろう?」
エーブは言って、コルの前に切り分けたパンを置いた。
コルは驚《おどろ》いたようにエーブを見て、それから困ったようにロレンスのほうを見た。
「人に好かれるというのは、ある種の運命のようなものだ」
そんなコルの様子を見て笑っていたエーブは頭巾《ずきん》を取り、素顔《すがお》をあらわにした。
その時のコルの驚きようは、見ていてなかなか面白《おもしろ》いものだった。
「こんなオレにも母性とやらが残っているのかもしれないな」
そう言って自嘲《じちょう》気味に笑うと、どこか憂《うれ》いを秘めたエーブははっとするほどに美しい。
ロレンスは常々思うのだが、男より女のほうがよほど商人に向いているような気がしてならない。
こんなにもあれこれ意外な一面を見せられたら、いかに器用な男であってもそう簡単に太刀打《たちう》ちなどできはしないだろうからだ。
「で、なにを聞きたいと?」
ロレンスから貰《もら》ったライ麦パンのようにではなく、今度はゆっくりと味わうように小麦パンを食べているコルを見ながら、エーブはそう話を切り出した。
「罰当《ばちあ》たりな話を」
「この川沿いの商会が異教の神の聖遺物を……異教でも聖というのかわからないが、それを探している話だったか」
ロレンスはうなずき、エーブは少し視線を遠くして山羊の乳に口をつける。
「その噂《うわさ》は二年ほど前にローム川一帯の町にまことしやかに流れてな。一時は汚《きたな》い商売に手を染めている連中は色めき立ったものさ」
「真相は?」
遠くから子供の泣き声が聞こえてきた。
町の中では、鳥の鳴き声よりも子供のそれのほうをよく耳にする。
「例のごとく、というやつだ。骨が見つかったという話が出ないまま、噂《うわさ》は広がったのと同じ速度でしぼんでいった。酒の肴《さかな》だよ」
エーブが嘘《うそ》を言っているとも思えないし、なにより嘘をつく理由がない。
しかし、火のないところに煙《けむり》は立たないものだ。
「噂の出所は、ローム川に流れ込む支流、ロエフ川の上流の町レスコの商会で合っていますか?」
そのレスコの町の商会と、この町のジーン商会が銅貨の取引をしていた。
しかも、その銅貨の取引には妙《みょう》な点があった。輸入した銅貨の箱の量と、輸出した銅貨の箱の量が釣《つ》り合わないのだ。
ロレンスは結局わからないままなのだが、隣《となり》でエーブすらが目を細めて笑ってしまうくらいおいしそうにパンを食べるコルはその原因に気がついたらしい。
早急《さっきゅう》に知る必要もないので未《いま》だ解答は聞いていないが、自力で解決できないとなれば悔《くや》しくないわけがない。
「そう。確か、デバウ商会とかいったな。レスコの町の鉱山利権をがっちり握《にぎ》っている景気のいいところだ」
「この町だと、ジーン商会が主な取引先?」
「ほう。そんな話をいつの間に集めたんだ、と聞きたいくらいだな。よく調べているじゃないか」
エーブはパンを山羊《ヤギ》の乳に浸《ひた》して頬張《ほおば》った。
ロレンスはそれを見て、ホロを連れてきても大丈夫《だいじょうぶ》だったかもしれないな、と思った。
こんなうまそうなものであれば、ホロはあっさりと懐柔《かいじゅう》されてしまうだろう。
「レスコの町のデバウ商会と、オレたちが毛皮を巡《めぐ》って大騒《おおさわ》ぎしたレノスの町の教会。それに、この町のジーン商会が銅製品の流れを司《つかさど》る要《かなめ》になっている。もっとも、レノスの町の教会は単に睨《にら》みを利《き》かせて税をふんだくろうといった程度だがな。デバウ商会とジーン商会は互《たが》いに懇意《こんい》のはずだ」
「それは、どんな理由で?」
ロレンスが間髪《かんはつ》いれずに訊《たず》ねると、エーブが苦笑いするように唇《くちびる》を片方だけつり上げた。
コルもそれに気がついて、顔を上げた。
「すまない。悪気はない」
つい笑ってしまった、というように、エーブは目を伏《ふ》せて口元を手で撫《な》で、そう言った。
そして、片目だけを開き、ロレンスに向けてくる。
「オレの印象では、あんたはそこそこ慎重《しんちょう》な商人だったがな。なぜ、こんな戯言《ざれごと》にそんなに真剣《しんけん》になる?」
商人という連中が質問をする時は、基本的に答えがわかっている時だ。
エーブは穏《おだ》やかに、しかし、楽しむように笑っていた。
「お察しのとおり。連れが北の生まれだからですよ」
ロレンスが答えると、だろうな、という顔をして、エーブは手元のコップの中を覗《のぞ》き込んだ。
「あの可愛《かわい》らしいお嬢《じょう》さんのためでなければ、あんたは非合理なことはしないだろうからな」
「それは、わかりませんよ」
苦しいが、つい言い訳してしまった。
エーブはほんの少し目元で笑っただけで、追撃《ついげき》はしてこなかった。
「まあ、生まれ故郷で崇《あが》め奉《たてまつ》られているご神体が金で売買されているとあっては、それはいてもたってもいられないことだろう。だが、そうなると気になることがある」
「というと?」
手元のコップを覗いていた姿勢のまま、エーブは上目遣《うわめづか》いにロレンスを見た。
その楽しそうな様子は、まるで相手の弱みにつけ込んで商品を買い叩《たた》こうとしている商人のようだった。
「あんたは物を金で買う商人だろう? すると、あんたはあんたの連れの味方なのか、敵なのか。あるいは、善なのか。それとも……悪なのか」
コルが少しびっくりするように体をすくませた。
確かにロレンスは金を稼《かせ》ぎ、物事を金で解決する商人だ。
それは神と呼ばれる狼《オオカミ》の骨を金で買おうとし、なんらかの目的に使おうとする連中と同質ということになる。商人はいつだってあらゆる扉《とびら》を金の鍵《かぎ》でこじ開けるからだ。
もしも狼の骨の話が真実で、万が一その行方《ゆくえ》がわかった時、ロレンスはきっとその骨を取り戻すために商人としての技能で挑《いど》むことになるだろう。
だとするならば、それに対してホロやコルはどう思うだろうか。
狼の骨を金で買おうとすることに間違《まちが》いはない。
その時、ロレンスはホロやコルの味方なのか? あるいは、その行為《こうい》そのものは悪なのか善なのか?
ロレンスは、山羊《ヤギ》の乳で唇《くちびる》を湿《しめ》らせて、こう答えた。
「金で物を買うことは悪ではありません。物以外のなにかを買う時に、大抵《たいてい》悪だといわれるのです」
「と、いうと?」
「権威《けんい》や権力のため、あるいは私の連れの気を引くために狼の骨を買うのなら、連れは私を軽蔑《けいべつ》するでしょうね。金はあくまで物を買うための道具です。それ以外のなにかを買う時に悪となるのです。それこそ、木を切るための斧《おの》で人を切る時のように。そして、連れはもちろんそれを理解してくれるでしょう」
エーブの目が細まり、一層|唇《くちびる》がつり上がる。
金で一切《いっさい》のことを取り扱《あつか》う商人たちは、とかくその正義を問われることが多い。
また、商人に大切なことの一つに、信用がある。
だとすれば、正義を問われた時にどう答えられるかで、商人としての格が決まるようなものといえる。
正義の質は、人の質。そして、それは天秤《てんびん》にかければ信用と釣《つ》り合うものだからだ。
エーブがそこまで思っていたかどうかは定かではないが、少なくとも重要な判断材料に使おうとしていた、ということは間違《まちが》いない。
ロレンスの答えを聞いてすごみのある笑《え》みを浮かべたエーブは、ふっと表情を緩《ゆる》めて手にしたコップを差し出してきた。
「またあんたとは商売をしたいところだ。妙《みょう》なことを聞いて悪かった」
ロレンスも無事な左|頬《ほお》を軽く緩《ゆる》めて、差し出されたコップに自分のそれを合わせた。
ぎりぎりのところでぶつけないのは、万が一にも傷をつけられない高級な銀食器を使っている時の作法であり、そうするのは、この挨拶《あいさつ》が高価な銀食器を使ってなされるに相応《ふさわ》しいものであるということを示すためだ。
「オレはあんたとあんたの連れを見て羨《うらや》ましいと言ったな。今ほど、そう思ったことはないよ」
「では、私はそれを誇《ほこ》りとしておきます」
エーブは声なく、肩《かた》だけを揺《ゆ》らして笑った。
そして、視線をロレンスからコルに向けると、商人の顔に戻《もど》って言葉をかけた。
「お前はこのクラフト・ロレンスの弟子《でし》ではないそうだが、オレは心の底から、それをもったいないことだと伝えておこう」
コルはその言葉に目を白黒させ、それから、困ったようにうつむいてしまった。
ロレンスはそれを笑いつつも、残念に思う。
困るということは、その判断は採用できないという意味だからだ。
エーブもそのことがわかったらしく、笑顔のまま目を閉じて、再び目を開けた時にはロレンスのほうを向いていた。
「あんたのことだからわかってはいると思うが、デバウ商会が探していたという狼《オオカミ》の骨の話は、リュミオーネ金貨で百枚程度の話じゃない。下手に近づけば人の命がいかに安いかを思い知るような話だ。それでもな、オレは自分の商人としての目を信用して、あんたをそれと同じくらい信用しようと思う」
ゆるゆるとコップを回して、ロレンスは軽くその中身を口にした。
ここで大見得《おおみえ》を切らなければ、ホロにきっと怒《おこ》られる。
「私は金の前に命を取りました。ですが、連れは命より大事です。私も、『期待』していますので」
エーブと命のやり取りをした中で交《か》わした本音。
狼《オオカミ》姿のホロが笑った時のように、エーブがぞろりと歯を見せた。
「たまには宝の地図に書かれた宝を追いかけるのもいいかもしれないな。いいぜ。あんたらの目的はデバウ商会と懇意《こんい》のジーン商会からすんなりと情報を引き出すことだろう? ジーン商会に紹介《しょうかい》状を書いてやる。そのあとのことは……」
片目を閉じて小首をかしげたのは、エーブなりに自信のある仕草だったのかもしれない。
「あんたの才覚しだいだ」
思わず惚《ほ》れそうになった、とホロに言ったらきっと喉笛《のどぶえ》を噛《か》みちぎられるかもしれないが、それは嘘《うそ》ではない。
エーブは生粋《きっすい》の商人だ。
自分の表情がどんな意味を持つのかを、完全に把握《はあく》しきった天賦《てんぷ》の才にあふれている。
ロレンスは恭《うやうや》しく頭をたれた。
黄金の道を駆《か》け上がる商人は、なるほど、こういうものなのだなと、思ったのだった。
高価な羊皮紙をナイフで裁断し、内容をしたためると砂をかけてインクを乾《かわ》かし、それを待つ間に馬の尻尾《しっぽ》の毛で作った紐《ひも》と、赤く染色された蝋《ろう》を用意する。
インクが乾いたのを見計らい、羊皮紙を丸め、蝋を溶《と》かして封《ふう》をすると、馬の尻尾の毛を縒《よ》り合わせた紐でくくって親書の完成となる。
これだけのものとなれば、たった一通の手紙といえど商人ならば無視できない金額になる。
ロレンスともう一度商売をしたいと言ってくれたエーブの言葉は、それなりに信じてもよさそうな気がした。
「オレは問題がなければ明日の昼過ぎにはこの町を離《はな》れる。海路で南に下るからな。しばらくこの寒い地方ともお別れだ」
「では、このお礼もかねて今一度お見送りに来ます。大商人になられる前の姿の見納めですからね」
受け取った親書を軽く掲《かか》げると、エーブは苦笑いしながらうなずいた。
「旅立ち前の休養で一日のんびりしている。夜に来れば使用人が用意した料理も馳走《ちそう》できるだろう」
「では、日の出ているうちに来れば?」
もしかしたら、エーブの微笑《びしょう》は普通《ふつう》の人間の驚《おどろ》きの顔なのかもしれない。
しばらく笑《え》みが固まっていたが、やがて腕《うで》を組みなおしてため息をついた。
「邸《やしき》にオレしかいなければ……そうね。私が腕を振《ふ》るおうかしら」
レノスの町でエーブと最初にまともに言葉を交《か》わした時、冗談《じょうだん》まじりに愛想には自信があると言っていた。
そして、どうやらそれは嘘《うそ》ではなかったらしい。
元貴族に相応《ふさわ》しい柔《やわ》らかな声音《こわね》でエーブがそんなことを言うと、かすれた声が高貴な雰囲気《ふんいき》をまとって耳をくすぐってくる。
コルなどは、ぽかんと口を開けてそんなエーブのことを見つめていた。
それなりの格好をしていれば、なるほど、まさしく女貴族だった。
「料理されるのはなにも牛や豚《ブタ》だけではないでしょうから、注意が必要ですね」
「くっく。ま、あんたの連れの機嫌《きげん》がよければ、次は三人で来ればいい」
「そうします。紹介《しょうかい》状、ありがとうございました」
ロレンスがそう答えると、エーブはうなずいて、小さく手を振《ふ》ってから、ゆっくりと扉《とびら》を閉めた。
別《わか》れ際《ぎわ》に相手に手を振る商人はいない。
最後のそれは、ロレンスの斜《なな》め後ろにいたコルに向けてのものだろう。
ロレンスは紹介状を丁寧《ていねい》に上着の内|側《がわ》にしまいながら、ちらりと後ろに目を向ける。
予想どおりというか、どこか名残惜《なごりお》しそうに閉められた扉を見つめているコルの姿があった。
「面白《おもしろ》い人だろ?」
ロレンスが歩き出すとコルは我に返ったようで、慌《あわ》てて後ろについてくる。
「えっと……ええ、はい……」
「だが、この怪我《けが》はあの人にやられたものだ」
コル特製の軟膏《なんこう》を塗《ぬ》ってある右|頬《ほお》を指差して言うと、コルはしばし言葉の意味がわからなかったようで、じっとロレンスのことを見つめていた。
ようやく言葉の意味が頭に届くと、まさか、という顔で後ろの屋敷《やしき》を振り返った。
「言い争いになってな、鉈《なた》の柄《え》で、がつんと一撃《いちげき》だ」
「……そうなん……ですか?」
「意外な一面もあるみたいだが、だからこそ、油断するなよ。顔に巻きつけている頭巾《ずきん》の下にあの美貌《びぼう》が隠《かく》れているように、あの美貌の下には恐《おそ》ろしいものが隠れている」
コルの眉毛《まゆげ》が少し波打っているのは、そう言われてもいまいちぴんとこないからか。
「昨晩のホロの剣幕《けんまく》を見ただろう? 実際のところ、俺はエーブに殺されかけたんだ」
「え!」
コルは声を上げて驚《おどろ》いた。
確かに初対面であれだけ優《やさ》しげな面を見せられたら、よもやエーブがそこいらの盗賊《とうぞく》顔負けの度胸と冷徹《れいてつ》さを備えているというのは想像できないことかもしれない。
ただ、人というものはさまざまな一面を持っているものだから気をつけろよ、とロレンスは言おうとしたのだが、コルはえらく真剣《しんけん》な顔つきのまま黙《だま》り込んでしまった。
素直《すなお》なコルであるから、人を疑うことにはそもそも抵抗《ていこう》があるのかもしれない。
そんなことを思っていると、ふと顔を上げたコルが、ものすごく困ったような顔をしていたのでロレンスは思わず聞き返してしまった。
「どうした?」
どうもコルにはこういうところが多いらしい。
頭が良くても、顔に出る表情と、口から出る言葉を自在に操《あやつ》れないようでは良い商人にはなれない。
その代わりに、良き聖職者にはなれそうなので、問題はないのかもしれないが。
「や、やっぱり、世の中を渡《わた》っていくためには、それくらいじゃないと、駄目《だめ》なんですね……」
コルはそんなことを言って、どこか悔《くや》しそうにうつむいた。
それも、自分を責めるような、まるで自分の努力が足りなかったと嘆《なげ》く槍《やり》試合に出た若い騎士《きし》のようだ。
ただ、ロレンスにはなぜコルがそんな表情をするのかがわからない。
エーブに殺されかけるのと、世の中を渡っていくこととどうつながるのか。
殺されかけてもなお生き延びるための術《すべ》を手に入れないと駄目ということだろうか。
ロレンスはそんなことをあれこれ考えていたのだが、コルが言葉を続けたのでひとまず聞くことにした。
「僕は、もちろん、教会の教えを受け入れるわけではありませんし、その、村でもそういうことは時折ありました……。確かに、一つのことだけを見ていては駄目なんだなと思う時はありますし、世界というのは、僕が言うのもなんですけど、厳しいものだとわかりました。ですが……」
コルは歩きながら、ほとんど足元しか見ないで喋《しゃべ》っている。
対して、ロレンスはよく晴れた空を見ながら歩いていた。
それくらい、コルの言っていることがわからなかったのだ。
「えっとな」
だから、ロレンスがそう口を開くと、突然《とつぜん》コルは顔を上げた。
「あ、あの! 別に、ロレンスさんのことを悪いと思っているわけではありません!」
その大慌《おおあわ》てするような剣幕《けんまく》にロレンスは目を見開いてしまった。
「……い、いや? 俺は、単にお前がなにを言っているのかわからないから、そこのところを聞きたいだけなんだが」
そして、そう言うとコルは途端《とたん》に表情を消して、それから、突然顔を真っ赤にしてうつむいた。
ロレンスは自分の頭に手をやって、「?」と首を捻《ひね》ってみる。
よくわからない。
わからないが、コル自身もなんとなく触《ふ》れて欲しくなさそうなので、話題を変えることにした。
「とりあえず、ジーン商会に行く前にいったん宿に戻《もど》るか」
ロレンスの言葉に、コルは無言でうなずいたのだった。
「ということがあったんだが」
体を毛布から出していると軟膏《なんこう》の匂《にお》いが立ち上《のぼ》ってきて鼻がもげると言って、ホロは体を毛布の中に押し込んで顔だけを出していた。
「そうかや」
「お前ならわかるか?」
ロレンスたちが部屋に戻ると、うたた寝《ね》をしていたらしいホロはすぐに目を覚ました。それから、いつものように体を起こし「おや?」という顔をして首を捻《ひね》っていたりする。なにか体に違和《いわ》感があるようなふうで、ロレンスはその理由にすぐさま気がついた。
朝はろくに起き上がることすらできなかったのに、それを忘れるくらい痛みが消えているらしかった。
「すごい薬じゃな」
そういうわけで、ジーン商会にはホロも連れていくことにした。
ただ、このまますぐに行きましょうというわけにはいかない。あまりにも臭《くさ》いのでロレンスともども湯で軟膏を流さないとならなかった。
話題に上っているコルは、その湯を一階に行って用意してもらっている。
「まあ、ぬしがわからんでも仕方がないじゃろ。肉屋に魚の話をするようなものじゃからな」
ホロは枕《まくら》の上で大欠伸《おおあくび》をして、そう言った。
ホロがそういう言い方をする時は、決まってその手の話題しかない。
また馬鹿《ばか》にされるのか、と思うとため息の一つも出そうになったが、今更《いまさら》見栄《みえ》を張るつもりもなく、さっさと降参することにした。
「俺は、確かに自分が鈍《にぶ》いことを今でははっきりと認める。だが、そう自覚したところでいきなり目が開くわけでもないからな。相変わらずわからない」
ただ、ロレンスがあっさり白旗を掲《かか》げると、ホロは目尻《めじり》に涙《なみだ》をにじませたまま、きょとんとした。
「どうした?」
ロレンスが訊《たず》ねると、ホロの顔にじんわりと苦笑いが浮かび上がった。
「ふむ。わっちゃあもしかしたら意外と優《やさ》しいのかもしれぬ」
耳が片方だけひくひくと動く。
「どういう意味だ?」
「そこまで卑屈《ひくつ》になられると、さすがにぬしの無様を笑うことができぬ」
「……」
なんと答えていいのやら、頭痛に似たものを感じて額を押さえると、ホロはそれで満足したらしい。
にーっと歯を見せて笑ってから、ようやくいつもの意地悪そうな笑《え》みを浮かべた。
「ま、確かに事の真相を知っておるぬしからすれば、他《ほか》の解釈《かいしゃく》はしづらいかもしれぬがな。ぬしとあの狐《キツネ》になにがあったのかを傍《はた》から見た者がどう考えるか、本当にわからぬかや?」
意地悪な笑みを浮かべたということは、この言葉が解決の手がかりになっているということだ。そんなことをされたら、人の立ち位置を正確に理解し、そこから利益を上げていこうとする商人ならばその挑戦《ちょうせん》を受けて立たなければならない。
なにより、解決の方向は示されている。
ロレンスは、コルの立場に立って自分とエーブのことを考えてみる。
鉈《なた》の柄《え》で殴《なぐ》られ、命のやり取りまでしかけ、ホロはそんなエーブを前にものすごい剣幕《けんまく》で怒《おこ》り、それを聞いた途端《とたん》に、コルが困って、挙句《あげく》に顔を真っ赤にして恥《は》じ入るようにしている……。
「あ」
ロレンスは、一つの可能性に気がついて、それから、苦いものが口の中に広がった。
ただ、その苦さはなんというか、ビールのそれに似ている。
つい笑ってしまうような、そんな苦さだ。
「くっく。ぬしは果報者じゃな?」
ホロが楽しそうに笑う。
それは、コルがしたのだろう勘違《かんちが》いが、一片《いっぺん》の余地もなく成立しないとわかっているからこその笑《え》みだ。
ロレンスは、もう一度額に手をやってため息をつく。こういう勘違いも世の中にはあるのかと、いや、よもや自分がそういった勘違いをされるような身分になれる日が来るとはと、半ば自嘲《じちょう》気味に笑うほかなかった。
「俺がエーブに浮気して、もめた挙句の痴話喧嘩《ちわげんか》、か。まったく想像もできなかった。だからコルは、俺のことを悪いと思っているわけではない、などと言っていたのか……」
ホロに浮気して、と答えてみたくもなったが、それはきっと命がけの冗談《じょうだん》になってしまう。
「あの狐は雌《めす》で、わっちも雌で、ぬしは雄《おす》じゃ。それで殴った殴られたの騒《さわ》ぎとなれば、答えは一つしかあるまい? どちらかといえば、あんなぴかぴか光るもののために大騒ぎをしておったという真実のほうがおかしなことじゃ。あの金色の貨幣《かへい》六十枚がわっちの値段じゃろう? まったく、人の世は訳がわかりんせん」
そう言って呆《あき》れるようにするが、まさしくそのために奮闘《ふんとう》した自分のことを思い返すと、ロレンスはなんとも居心地《いごこち》が悪くなる。
しかし、もちろんヨイツの賢狼《けんろう》ホロだ。
そこまでとっくに見|越《こ》していたらしい。
「じゃが、ぬしの行動が一番わけがわからんかった。わっちを迎《むか》えに来てくれるなどと、まったく、本当に、たわけじゃ」
顔がくすぐったいかのように、ホロは枕《まくら》に顔を沈《しず》めながら言った。
それでも、決してロレンスから目はそらさない。
こんな言葉と共にそんな仕草をされたら、怒《おこ》るわけにも顔をそらすわけにもいかない。
ロレンスは、負けました、ということを殊更《ことさら》強調して肩《かた》をすくめながら、ホロの頬《ほお》を軽く撫《な》でた。
「それだけかや?」
片目を閉じて、嬉《うれ》しそうに耳を動かしながら、ホロが手の下で小さく言った。
冗談《じょうだん》か? と身構えかけて、身構えたらきっとホロは怒るだろうと思った。
それでも、ロレンスは誰《だれ》もいないはずの部屋の中をほんの少し見回した。
つい、深呼吸をしてしまう。
そして、レノスの町でそうしたように、ホロにゆっくりと顔を近づけた。
ただ、レノスの町との大きな違《ちが》いは、ホロのまつげの本数まで数えられそうなほどに顔が近づいた直後、扉《とびら》をノックする音に飛び上がらんばかりに驚《おどろ》いたところだ。
「お湯、持ってきました」
と、コルの声が部屋に響《ひび》き渡《わた》った。
扉を開けて、背中で押さえながら盥《たらい》を運び込んでくる。結構な重さだろうし、もうもうと湯気が立っているので顔にはびっしりと水滴《すいてき》がついている。それでも二人のためにと一人で一生懸命《いっしょうけんめい》運んできたに違いない。
一体どういう理由なら、そんなコルを怒ることができるのだろうか?
ロレンスはベッドの脇《わき》に立ったまま、「ご苦労様」とすまし顔で答えておいた。
しかし、背中にはじっとりと嫌《いや》な汗《あせ》をかいている。
扉がノックされたあの瞬間《しゅんかん》、ホロが浮かべていた意地悪そうな顔。
耳を動かしていたのは、コルの足音を聞いていたからなのだろう。
「どうしました?」
完璧《かんぺき》なすまし顔でも、空気までもはそう一瞬で変えられないものだ。
コルは少し怪訝《けげん》な顔をしていたが、ロレンスは思いきりとぼけてやった。
後ろでは、ホロが枕の上でにやにやとしていることだろう。
それでも、一番腹が立つのはホロがこんな罠《わな》を張ってロレンスが慌《あわ》てるのを楽しんでいたことではない。
ロレンスは、かゆいふりをして、自分の左|頬《ほお》を軽く撫《な》でた。
「かなり熱めにいれてもらったので、熱すぎるようでしたら水を貰《もら》ってきます」
盥《たらい》を置いて、手ぬぐいを二つ浸《ひた》すとコルはそう言った。
こんなに気の利《き》く少年が弟子《でし》であったなら、どれほど旅が気楽だろうか。
「わかった。ありがとう」
「いいえ、無理言って旅にご一緒《いっしょ》させてもらっているんです。これくらいはしませんと」
下心《したごころ》のない笑顔《えがお》は、晩飯に一品くらい好きなものを付け加えてやってもいいかなと思わせる。
もしもこんな振《ふ》る舞《ま》いをホロにされたら、それこそロレンスは一月《ひとつき》と経《た》たずに破産してしまうはずだ。
「なら、早速《さっそく》わっちゃあ湯を使わせてもらうかや。この軟膏《なんこう》は信じられぬほどよく効くが、わっちの鼻にはちょっと辛《つら》い」
ベッドから降りながらのホロの言葉に、コルは少しきょとんとしている。
やはり、コルにはこの軟膏の匂《にお》いが臭《くさ》いという感覚がまったくないのだろう。
「うむ。いい湯じゃ。ぬるくなる前にさっさと拭《ふ》いてしまうかや」
ホロは盥の中に手を突《つ》っ込んでぐるぐるとかき回す。湯気がもうもうと立ち上《のぼ》ってはいるが、部屋が寒いせいであって、見た目ほど熱くはないのかもしれない。
「ああ、そうだな。下手すると風邪《かぜ》を引いてしまう」
ロレンスが言うと、ホロは手ぬぐいを一本引き上げ、絞《しぼ》ってからロレンスのほうに軽く放《ほう》り投げてくれた。
受け取ると、じんわりと暖かい。ホロの言葉どおりにさっさと拭《ぬぐ》ったほうがよさそうだ。
ロレンスはそんなことを思いながら、右頬に貼《は》りつけた布を取ろうとして、ふと気がついた。
少し離《はな》れたところで、コルが居心地《いごこち》悪そうにうつむいていたからだ。
「どうした?」
と、聞くまでもなく、どこか意を決したような調子で、コルのほうが先に口を開いた。
「あっあの、僕、外に出ていますね」
言葉の最後には、妙《みょう》に強張《こわば》った笑顔をつけて。
明らかになにかを気遣《きづか》っている。
しかも、廊下《ろうか》に出ていく途中《とちゅう》、これまた妙《みょう》な目を向けてきた。とても真剣《しんけん》な、重要な秘密を託《たく》された密使のような顔だ。コルがなにを思っているのか、今のロレンスにはわかりすぎるほどにわかる。
ぱたん、と閉じられた扉《とびら》からホロに視線を向けると、ホロは真剣な顔で手ぬぐいを絞っているところだった。
「あの様子じゃと、ずいぶん狐《キツネ》との対談は和《なご》やかなものじゃったらしいな」
真剣《しんけん》な顔つきなのは、こういう理由から。
コルがロレンスとエーブが痴話喧嘩《ちわげんか》をしたと勘違《かんちが》いをするには、ロレンスとエーブが少なくとも仲がよさそうに見えなければならないからだ。
ただ、まともに相手をしたら負けだということくらいは、ロレンスにもわかる。
「コルの顔つきは、秘密は絶対に守ります、て感じだったからな」
ホロは顔を上げ、頬《ほお》を緩《ゆる》めた。
「んふっくっくっく。わっちに向けた視線は、ものすごく申し訳なさそうなものじゃった」
そして、ホロはしゃがんだまま膝頭《ひざがしら》をぴったり合わせ、その膝の上に頬杖《ほおづえ》をつく。
「ぬしもあれくらいじゃったらもっと可愛《かわい》いのに」
ロレンスはその言葉にすぐに返事をせず、右頬に貼《は》りつけていた布を取った。
軽く頬を触《さわ》ってみると腫《は》れはかなり引いているようで、痛みもほとんど感じられなかった。
こんなにも効能があるのなら、この薬で一儲《ひともう》けできるかもしれない。
そんなことを思わせるくらいの素晴《すば》らしい効き目だった。
「まあ、朱《しゅ》に交われば赤くなるというくらいだ。お前の側《そば》にいたから、俺は可愛げがなくなってしまったんだよ」
思いきって手ぬぐいで頬《ほお》を拭《ふ》く。湯に浸《ひた》した手ぬぐいで顔を拭《ぬぐ》うことには、なにか言い知れぬ心地《ここち》よさがある。
ホロもロレンスに倣《なら》い、絞《しぼ》り終えた手ぬぐいで首回りを拭いて耳をひくひくさせている。
ただ、一通り首回りを拭いてからの手ぬぐいを見て、その色に少しびっくりしていた。
「確かに、朱に交われば赤くなるという言葉は正しいらしいの。なにせ、ぬしの顔はいつも真っ赤じゃからな」
ロレンスは軟膏《なんこう》のついていない部分で改めて顔を拭き、さっぱりしてからホロのほうを見る。
「最近はそうでもないだろう?」
「どの口がそう言うのかや」
ホロが呆《あき》れたようにそう言ってくるので、それが挑発《ちょうはつ》だとわかっていても、ロレンスはちょっとむっとしてしまう。
しかし、直後にホロの唇《くちびる》がつり上がったのを見て、自分は罠《わな》に嵌《は》められたのだと気がついた。
「違うと言うのかや? なら、せっかくあの坊《ぼう》やに気を遣《つか》ってもらったんじゃからな」
と、ホロは盥《たらい》で手ぬぐいをゆすぎ、絞りなおすと立ち上がった。
そして、その手ぬぐいをロレンスのほうに放《ほう》り投げるや、一息で上着を脱《ぬ》ぎ捨てた。
不意をつかれるとどうしてもどきりとしてしまう。
ホロはそんなロレンスに向かって腰《こし》に手を当てながら、しなを作ってこう言った。
「背中、拭いてくりゃれ?」
ホロにすれば裸《はだか》を見せることなどなんともないのだろうが、ロレンスがそうは思わないことを熟知《じゅくち》しているのでたちが悪い。
人が紳士《しんし》たらんとするところにつけ込むなど言語道断《ごんごどうだん》。
ロレンスは動揺《どうよう》してしまったことにそんな言い訳をつけ、受け取った手ぬぐいを無言で丸めると、子供のようにホロに向かって投げつけたのだった。
コルの作った薬は、やはり奇跡《きせき》かと思うほどの効き目だった。
ホロはまだ多少体にぎこちなさが残っているらしいが、軟膏《なんこう》を塗《ぬ》ってほんのわずかな時間しか経《た》っていないことを考えれば信じられない効き目だろう。
ロレンスの顔の怪我《けが》もほとんど腫《は》れが引いていた。
ただ、「ぬしのほうはどんなものかや?」と手を伸《の》ばしてきたホロに突然《とつぜん》つねられたせいで、幾分《いくぶん》赤みが増しているような気がしないでもない。
目から火が出るかとも思ったが、そんな意地悪をしておきながら、なおホロの顔が不満げに怒《おこ》っていたので反撃《はんげき》はしなかった。
手ぬぐいを丸めて投げつけたのが、かなり腹に据《す》えかねていたらしい。
ただ、それがどうやら演技には見えないので、もしかしたら本心から拭《ふ》いてもらいたかったのかもしれない。
そう考えると悪いのは自分のような気もするので、ロレンスはなんともしがたい気分だった。
「で、今から行く商会がたわけたことを企《たくら》んでおるのじゃったかや」
とりあえずわかりやすい道に出ようと、川沿いの市場のほうへと歩いていく。市場ともなれば露天商《ろてんしょう》は必ずあるし、なにかねだられることはもちろん覚悟《かくご》していた。
しかし、ホロが鼻をひくひくとさせるや、一目散《いちもくさん》に一|軒《けん》目の露天商に足を向けるとは思わなかった。
軽い頭痛に似たなにかを感じながらそんなホロを目で追いかければ、その先にあるのは焼いた石の上でぶくぶくと泡《あわ》を立てて火あぶりになっている巻貝《まきがい》だった。
「企んでいたかどうかを今から確かめに行くんだが、エーブの話では、企んでいたという可能性は高そうだ」
ホロは話を聞いているのかいないのか、目を輝《かがや》かせて無言の催促《さいそく》。
駄目《だめ》だ、と言ったところで聞く耳など持たないだろうから、無駄な労力は省くことにした。
ナイフで楊枝《ようじ》を削《けず》っていた店主に黒ずんだ銅貨を一枚|渡《わた》すと、その削りたての楊枝で器用に貝から身をほじくり出し、あっという間に三つほど串刺《くしざ》しにしてしまう。
そして、それを三人分。
やけに安いなと思ったら、貝に魅力《みりょく》的な味をつける塩が有料だった。
ロレンスは抜《ぬ》け目《め》のない店主に笑顔《えがお》で恨《うら》み言《ごと》を言いながら、ジーン商会の場所を聞いておく。
情報料で元を取っておかなければならない。
「行って、話してもらえるでしょうか」
貝の身を受け取って礼を言ったのはコルだけだ。
もちろん、エーブとの関係の誤解はすでに解いてある。
「それは、エーブの言ったとおり。俺の才覚しだいだろう」
「当てにならなそうじゃな」
ホロに茶化されるが、コルが困ったように笑っているので、ロレンスは道化になっておいた。
「じゃが、それにしても同じ町でこうも違《ちが》うのかや」
と、対岸の様子を見ながらホロは言った。
ロレンスたちが宿を取ったのは、ローム川の河口に位置し、川を挟《はさ》んで北と南に分かれた港町ケルーベの北|側《がわ》の町だ。
市場や立派な建物はやはり川沿いに集中しているようで、さすがにこの辺りはそこそこに賑《にぎ》やかだったが、それも宿の周りと比べると、という意味に過ぎない。
川沿いの大通りから少し行くと石ころの目立つ川岸がある。河口ということで岸辺はかなり広く、水はかなり先にあった。視線を右手に向けると、その先は海になっていて、ロレンスの鼻でも潮の匂《にお》いを感じ取ることができる。川を挟んだ向こう側には南の町があり、その手前には、大きな三角洲《さんかくす》の上に築かれたケルーベの港町最大の市場があった。
三つに分かれた町の中でどれが一番|賑《にぎ》やかかというと、言うまでもなく三角洲《さんかくす》。では、立派な建物が立ち並んでいるところはどこかというと、南|側《がわ》の町。
ロレンスたちが立つ北側の町は、やはりどこかくすんだ印象を受ける。
南側の川岸に停泊《ていはく》している船の数や、市場に積み上げられている商品の数も、かなり距離《きょり》を開けているのでぼんやりとしか見えなかったが、それでも川を渡《わた》った向こう岸のほうがはるかに多いような気がする。
一つの町の中でも場所によってはまったく空気が違《ちが》うということはままある。川を挟《はさ》んでしまうと、それこそ別の町になるのかもしれない。
「あっち側に渡ればローエン商業組合の商館があるはずなんだ」
「ぬしの故郷の商人連中が集まる場所だったかや」
「ああ。ただ、その別館みたいなものが三角洲にもあるから、本館には行ったことがないんだけどな」
ロレンスが指を差した、川が海へと流れる際《きわ》にある三角洲の町。
町という表現が正確かどうかはわからないが、商人からするとそこは完全に一つの町だった。
今ここから見てみても、二階から三階建ての、潮風に晒《さら》され灰色がかった色合いの建物が猥雑《わいざつ》に乱立しているのがわかる。
風の具合によっては、それこそそこの喧騒《けんそう》が風に乗って聞こえてきそうな感じだ。
ホロならば、フードを取ればそこでどんな騒《さわ》ぎが起こっているかわかるかもしれない。
「あっちのほうが賑やかそうじゃな。行ってみんかや」
「食い物目当てだろう?」
ロレンスが言うと、ホロは子供のようにふくれっ面《つら》をした。
どうせあとで連れていってもらえると確信しているわざとらしさだ。
ロレンスは、わかってますよとばかりに肩《かた》をすくめて歩き出そうとして、ふと足を止めた。
さっきから静かだったコルが、貝を食べるのも忘れて洲のほうを見ていたからだ。
「どうした?」
そう声をかけると、コルは弾《はじ》かれたように振《ふ》り向いた。
「あっ……いえ、なんでも――」
「なんでも?」
ホロは言いながらコルの手から楊枝《ようじ》を奪《うば》い、二つ残っていた貝のうちの一つを食べてしまった。
「嘘《うそ》が下手な罰《ばつ》じゃ」
そして、残る一つに牙《きば》を突《つ》き立てようとして、視線をコルに向ける。
「なにか言うことはないかや?」
仔《こ》に過酷《かこく》な試練を与《あた》える獣《けもの》は多いと聞くが、狼《オオカミ》もそうなのかもしれない。
つい、そんなことを思ってしまった。
ただ、素直《すなお》に物をねだれなかったのはホロだって同じだ。
出会ってすぐに立ち寄った町での、ホロの無様な林檎《リンゴ》のねだりようは今でもはっきりと覚えている。今ではすっかりあんな様子を見せてくれなくなったが、コルに有無《うむ》を言わせない勢いなのは、幾分《いくぶん》かはそんな以前の自分を思い出しているからかもしれなかった。
「あ……あの」
そして、コルは年若いながらも、少年だった。
「三角洲《さんかくす》に行きたいです」
ホロとは違《ちが》い、きりっとロレンスのことを見て言うのだから立派なものだ。
ロレンスはホロの手から楊枝《ようじ》を奪《うば》って、コルに渡《わた》してやる。
ついでに、「お前より立派だったな」と言ってやると、足を蹴《け》られた。
「お前は俺の弟子《でし》じゃない。だから、お前が俺たちに軟膏《なんこう》を作ってきてくれた分のお礼はきっちりさせてもらう。覚悟《かくご》して、ずうずうしく振《ふ》る舞《ま》うことだ」
妙《みょう》な言葉だが、コルにはそんな表現がぴったりだろう。
生来の素直さと性格からか、放《ほう》っておいたら弟子よりも弟子らしくしかねない。
世の中お人好《ひとよ》しばかりではないとわかっている分、そんなコルを見ていると心配になってしまう。足元を見てつけ込もうと思えば、いくらでもつけ込めそうだからだ。
「……わかりました」
コルは困ったように笑いながら返事をする。
きっと、ロレンスとホロが心配していることも理解したうえで、そう答えているのだろう。
笑い話でよくあるものだ。
心|優《やさ》しい主人が、従順にして誠実な奴隷《どれい》に自由を与《あた》え、お前は今後は誰《だれ》に仕えることもなく自由に生きていくのだ、と言いつける。すると奴隷は主人の言いつけをいつまでもきっちりと守り、その後誰に仕えることもなく生きていった。
最後まで主人の言いつけを守ったこの奴隷は、果たして本当に自由だったのだろうか?
もしかしたらコルが困ったように笑っているのは、まさしく自分がこの笑い話の奴隷と同じだから、と思っているのかもしれない。
「だが、こう言っておいてなんだが、今すぐにというわけにはいかない。商人はせっかちだから、先に用事をすませないと気が気じゃないんだ」
「はい。でも……」
コルは答えて、それから恥《は》ずかしそうに頭を掻《か》いた。
「楽しみにしています」
もしもホロがこんなふうに素直《すなお》だったら、と思ったが、ホロのほうは見なかった。
視界の隅《すみ》で、笑っていない笑顔《えがお》のホロがよく見えたからだ。
「この町に来るのは三度目ですが、実は、一度も行ったことがなかったんです」
「渡《わた》し賃《ちん》がかかるからか」
こくり、とうなずいた。
三角洲《さんかくす》に上がる渡し賃も払《はら》えないのに、どうやってコルはローム川を渡ったのかと聞きたいくらいだ。
妙《みょう》なところで思いきりの良いコルのことだから、きっと服を頭にくくりつけ、この寒い中泳いで渡ったのだろう。
「で、俺は南のほうに行ったことはないんだが、そっちはどうなんだ?」
三人で歩き出し、コルが残った貝を食べ終わってから、ロレンスはそう訊《たず》ねた。
「南のほうが……町は綺麗《きれい》です」
やや間をあけたのは、少し辺りを窺《うかが》っていたからで、その声も小声だった。
やはり、川べりだけとってみても南と北では歴然とした差が存在する。
北|側《がわ》は異教の地の者が多く、南は南から来る商人や正教徒たちが多い、というのも関係しているのかもしれない。
商人の中では南の連中のほうが圧倒《あっとう》的に金持ちが多く、また金は金のある場所により多く集まる仕組みになっている。
「でも、施《ほどこ》しを多くくれるのは、こちら側です」
「ほう。北側のほうは北の生まれの人間が多いと聞くが、そういうことなのかな」
「だと思います。ロエフの生まれの人も多いですし。でも、そうでなくとも、こちらの人たちのほうが優《やさ》しいような気がします」
ロレンスは鼻の頭を掻《か》いて、少し返答を考える。
北と南の対立は、人と狼《オオカミ》と同じくらい微妙《びみょう》なことだ。
「気候の厳しいところは、人が優しくなるからな」
ロレンスが答えると、コルは笑顔《えがお》で大きくうなずいた。
必要とあらば南の地に一人旅をして教会法学を学びに行くような、そんな柔軟《じゅうなん》な発想をできるコルであっても、南の人間たちと比べられて北の人間を褒《ほ》められれば無邪気《むじゃき》に喜ぶのだ。
ロレンスは、それを改めて実感して、どうしてこの町最大にして貿易の中心である市場が三角洲の上にあるのかわかるような気がした。
あそこは北と南の緩衝《かんしょう》材。
あるいは、中立の場所なのかもしれない。
「でも」
と、ロレンスが歩きながら三角洲に目を向けていると、コルがそう言葉を向けてきた。
「南の人たちは、いつも楽しそうです」
コルに気を遣《つか》われてしまった。
ロレンスはやや驚《おどろ》きながら、ゆっくりとその顔を笑《え》みに変えた。
「暖かいと酒が作りやすいからな」
「あ、なるほど」
もう少し年を経れば、コルはさぞ清々《すがすが》しい好青年になるに違《ちが》いない。
ロレンスはそんな安易な予想を否定することができない。
それに、それはきっとホロも同じことだ。
にこにこしながらコルの手を取って歩いているのは、もしかしたら将来を見|越《こ》しての投資活動かもしれない。
そんな冗談《じょうだん》とも嫉妬《しっと》ともとれる痛がゆいことを思っていると、ホロがフードの下からちらりと流し目を向けてきた。
うかうかしていると本当に乗り換《か》えるぞ、と言いたげな意地悪な笑みをまぜた目だ。
ロレンスは顎鬚《あごひげ》を撫《な》で、小さくため息をつく。
ついたため息は、喉《のど》から一瞬《いっしゅん》出そうになって、危《あや》うく飲み込んだ言葉だ。
釣《つ》った魚には餌《えさ》をやらないつもりだったのに。
そんな憎《にく》まれ口《ぐち》をホロに向けたかったが、やめておいた。
そんな憎まれ口を叩《たた》くようでは、まさしくコルに負けかねないと思ったからだ。
一回りも年が離《はな》れている少年相手になにをやっているのだか、とロレンスは冷たい空気を肺|一杯《いっぱい》に吸って、一人無言で笑ったのだった。
[#改ページ]
第二幕
ロエフと呼ばれる山々から流れ出たロエフ川が注ぎ込むローム川と、そのローム川が流れ込むウィンフィール海峡《かいきょう》。
ロエフ川の最上流に鉱山の町レスコが、ロエフ川とローム川との合流地点にはレノスが、そして海との境目には港町ケルーベがある。
そんな川の流れの最下流に位置するケルーベにあり、上流から運ばれてくる銅製品についての取引を任されている商会となればそれ相応の規模の商会に違《ちが》いない。
そんな先入観と、ある種の気負いがあったからかもしれない。
ジーン商会の前に到着《とうちゃく》し、少し拍子抜《ひょうしぬ》けしてしまったのは。
「ここかや?」
ホロも、なんとなく肩透《かたす》かしを食らったような顔をしている。
吹《ふ》けば飛びそうな店構えじゃな、とでも言いたげな顔なのは、実際に気に食わなければ狼《オオカミ》の姿に戻《もど》って店ごとぶち壊《こわ》してやる、とでも思っていたからかもしれない。
鉄で作られた長方形の板に、ジーン商会と打刻された看板が軒先《のきさき》にぶら下がっているそこは、通りに面した場所が荷揚《にあ》げ場になっていて、一応商品がうずたかく積まれていたりはする。
しかし、そこで荷を積まれたり、つながれたりしているのは、どれほど雪深い山であっても少しも怯《ひる》まずに前に突《つ》き進めるといった毛の長い馬でもなく、小さな村であれば全《すべ》ての世帯の家財道具を一切合財《いっさいがっさい》運び出せそうな大きな荷馬車でもない。
軒先《のきさき》では、冬場の飼料《しりょう》用なのだろう、燕麦《エンバク》の藁束《わらたば》を積まれたやせ細ったラバが、出発を待って暇《ひま》そうに欠伸《あくび》をしていた。
商会と名がつくだけでそこに金と権力を見てしまうらしいコルだけが、そんなのんびりとした店構えのジーン商会を前に、今まさに戦いに臨《のぞ》まんとするような顔をしていた。
「どちらさんかね」
と、荷揚《にあ》げ場の奥にある帳場でなにか書き物をしていた小太りの初老の男が、軒先に立つロレンスたちに気がついて顔を上げた。商会の中にはその男以外には他《ほか》に誰《だれ》もおらず、放《はな》し飼《が》いになっている鶏《ニワトリ》が床《ゆか》の落穂《おちぼ》をついばんでいるくらいだった。
「買い付けならば大歓迎《だいかんげい》。ただ、なにかを売り付けに来たのなら……無駄足《むだあし》だったかもしれない」
椅子《いす》から立ち上がりもせず、少したるんだ頬《ほお》をつり上げて自嘲《じちょう》気味に笑う様が、なんとも疲《つか》れた印象を与《あた》えてくる。
ホロはその様子に、えらく不満げな視線をロレンスに向けてきた。
自分の仲間かもしれない狼《オオカミ》の骨を、信じられないような目的のために金銭で売買しようとする連中の一派であるジーン商会。
彼らは牙《きば》を剥《む》いて憎《にく》むべき相手であり、そして、それほどの憎むべき相手であるのだからその憎しみに見合った強大な商会でなければならない、といった感じだ。
コルだけが相変わらず、そんなどこか疲れきった男の様子を、威厳《いげん》と勘違《かんちが》いしているらしかった。
ただ、もちろん商会の大きさと中に収まる人間の質はいつも比例するわけではない。
蛇穴《へびあな》に手を突《つ》っ込んだら、竜《りゅう》が出てきた話はいくらでもある。
「そんなに景気がよろしくないですか」
ロレンスは答えて、一歩荷揚げ場に踏《ふ》み込んだ。
おそらくはここを行き交《か》った大量の麦藁の残りなのだろうが、藁が床にちらばっている様子はどことなく田舎《いなか》の村の軒先を思わせる。商会らしく一応あれこれ品が置かれてはいるが、どれもぱっとしないものばかりだ。
「んっふ。お前さんは南の商人さんかな。南は景気が良いかね」
隅《すみ》のほうに武具が折り重なって置かれていた。
もう長いこと在庫として放置されているらしいのを見て、武具で失敗した身としては、ちょっとした慰《なぐさ》めになる。
「良くもあり、悪くもあり」
「ここは悪いよ。最悪だ」
お手上げだ、といった感じで両手を上げ、男はそう言った。
ロレンスに続いてホロとコルも荷揚げ場に入り、きょろきょろとあちこちを見回している。
そして、ホロが不意に床《ゆか》に積もっていた藁《わら》をひょいと足で持ち上げると、下から鶏《ニワトリ》の卵が二つ出てきた。
「おや、そんなところにも卵があったか。あっちこっちに卵を産むから探しきれなくてね。あとで拾っておかないと……。そう。今年はこの地方の鶏の数が激減してね。まったく静かなもんだ。毎年この時期になれば雄鶏《おんどり》と雌鳥《めんどり》がそりゃあ賑《にぎ》やかだったんだが」
「北の大遠征《だいえんせい》の中止ですね?」
「そう。人が来なければ金も来ないし、人は動かなければ腹も減らさない。農作物の値は下がり、樽《たる》や桶《おけ》を始めとした加工品、それに毎年飛ぶように売れる武具も売れず、そんな塩梅《あんばい》だから酒の値段だけは上がりに上がる」
「ふむ?」
ホロが不思議そうな声を上げた。
帳場の机の向こうで、太り気味の男は不器用に肩《かた》をすくめる。
「やることがなければ飲んだくれるしかないだろう?」
ホロはその言葉に大いに納得《なっとく》したようだった。
「で、二つもこぶをつけた商人さんは、どんな儲《もう》け話《ばなし》をここに持ってきてくれたのかな」
「こぶ?」
ホロが少し不満そうにフードの下で呟《つぶや》いた。いつものように修道女然とはしていられないのかもしれない。事前によく言い含《ふく》めておくべきだったかもしれないなと思いつつ、ロレンスはそれをそっけない顔で制した。
「ジーン商会の主《あるじ》の方にお会いしたいんですが」
「ん、そりゃあ私のことだ」
もちろんそうだろうと思っていたので、特に驚《おどろ》くこともなくロレンスはうなずき、前に進み出るとエーブから預かった親書を帳場の机の上に置いた。
「おっと、こりゃあ失礼。ボラン商会のお知り合いか」
「ボラン商会?」
エーブが商会を構えているというのは知らなかったし、ちょっと意外な気もした。
一匹狼《いっぴきオオカミ》という言葉があれ以上あてはまる者もいないだろう、という思い込みもあった。
ただ、その言葉にジーン商会の主はおかしな顔をしなかった。
代わりに、つい軽口が出てしまった、といったばつの悪そうな顔をした。
「看板も掲《かか》げず一人で商売を営《いとな》んじゃいるが、あれだけあちこちに網《あみ》を張り巡《めぐ》らせていれば、もう立派な商会だろう?」
ジーン商会の主はエーブからの親書を開けながらそう同意を求めてくる。
ロレンスはエーブがどこまで影響《えいきょう》力を持つ人物なのか量りかねているが、つい最近エーブと知り合ったばかりということを相手に知られてもいいことは一つもない。
曖昧《あいまい》な笑《え》みを浮かべてうなずくと、相手は勝手にその先を想像して、笑っていた。
「ん……クラフト・ロレンスさん、か。ほっほう。あの狼《オオカミ》からこんな書状を渡《わた》された男が来るとは思わなかった。一体どんな弱みを握《にぎ》ったんだね?」
ついさっきまで冴《さ》えない商会の腑抜《ふぬ》けの主《あるじ》といった風情《ふぜい》だったのに、左|眉《まゆ》だけを異常につり上げて睨《にら》み上げてくるその様はなかなか堂《どう》に人《い》っている。
ただ、その顔は、ロレンスを脅《おど》そうとか、自分の威厳《いげん》を増して見せようとか、そういったことでは決してないのだろう。純粋《じゅんすい》に面白《おもしろ》そうな顔をしているだけで、その顔が、おそらくはもっともこの商人を手ごわい商人に見せる顔なのだ。
ロレンスは、相手の評価を付けなおして、こちらも純粋に面白い商人に出会えた喜びを顔に出して、肩《かた》をすくめた。
「秘密です」
「ふはっはっは。そうかいそうかい……それで、どんなご用かなと……」
喋《しゃべ》りながら視線を紙の上に滑《すべ》らせていく。
ロレンスは、直後に主の頬《ほお》がぴくりと引きつるのを見|逃《のが》さなかった。
そこに書かれているのは神と崇《あが》められた狼の骨を巡《めぐ》る話に関するもので、まともな商人であれば大笑いしながらぶどう酒を用意する類《たぐい》のものだ。
ただ、ジーン商会の主は思い出し笑いをするように肩を揺《ゆ》らしながら、丁寧《ていねい》に親書を丸めて馬の毛で封《ふう》をしなおした。
「なるほど。この話に興味を示す者は久方ぶりだ。それもエーブ・ボランを通してわざわざ聞きに来るのだから……まあ、遊びではないのだろう」
「恥《は》ずかしながら」
ロレンスが笑顔で答えると、男は再び笑い、その笑顔には二つの表情がまざっているように思えた。
一つは、こんな馬鹿《ばか》な話を大真面目《おおまじめ》に聞きに来る商人がいるのかというもの。もう一つは、以前は自分がしたくても誰《だれ》も聞いてくれなかった昔話を、今になってせがまれて困惑《こんわく》している老人の顔だ。
ロレンスは、後者のそれに気がついて胸の内に妙《みょう》なものを感じた。
ただ、男の顔からそんな笑顔はすぐに消えた。
「しかし、こんな戯言《ざれごと》を聞きに来るために、わざわざあの狼に親書を書かせるような男は偉大《いだい》な男に違《ちが》いない。脇《わき》に連れているこぶ二つも、なるほど、よく見ればなかなか油断がなさそうだ」
「我々は参事会の席に座りたいわけではありませんので、どのように見えるかよりも、なにができるかに重きを置いています」
「我が商会に訪《おとず》れた商人クラフト・ロレンス。それは正しい言葉だ。私はきちんと名乗らねばなるまい。私がジーン商会の主《あるじ》、テッド・レイノルズだ」
その名は、ロレンスたちがローム川を下る途中《とちゅう》、あれこれ頭を悩《なや》ませた紙に書かれていたジーン商会の帳簿《ちょうぼ》をつけていた人間の名前だ。
名前からしてもっと若い男を想像していたのだが、実物は想像していた年齢《ねんれい》を倍にしたくらいだった。
「ジーンとは私の父親の妻の名でね。愛妻家だったのだ」
「それはそれは」
「いや、その名を冠《かん》することで他《ほか》の取引相手が震《ふる》え上がったのだから、恐妻《きょうさい》家だったのかもしれないな」
指を一本立て、気障《きざ》な貴族のように片目を閉じて笑って見せる。
その様はなんとも不釣《ふつ》り合《あ》いでありながら、奇妙《きみょう》な愛嬌《あいきょう》を持っていた。
油断ならない商人だと思った。
「それで、私に聞きたいことというのが、またおかしなことだが」
「ええ。世の中にはおかしなことをする人がいますから」
「ああ、まったくだ。よっ……こらせと」
レイノルズは相変わらず億劫《おっくう》そうに体を持ち上げると、「待っていたまえ」とだけ告げて帳場から奥に引っ込んでしまった。
あとには放《はな》し飼《が》いの鶏《ニワトリ》だけが残り、ココッココッと鳴きながらコルの草履《ぞうり》の毛羽立った場所を突《つ》ついている。
コルは必死に追い払《はら》おうとするが鶏は容赦《ようしゃ》しない。
ホロはしばらくコルと鶏のやり取りを楽しそうに眺《なが》めたのち、鶏に向けて牙《きば》を見せた。
すると、飛べない鶏がそれこそ飛んで逃《に》げていった。
「お待たせした……おや」
逃げ出した鶏が飛び散らせた細かい羽が床《ゆか》に落ちる間もなく、奥から木箱を抱《かか》えたレイノルズが戻《もど》ってきた。
目端《めはし》の利《き》く商人でなくとも、なにがあったのかは楽に想像できる。
「悪いね。うちの鶏はどういうわけか毛羽立ったものに目がないんだ」
「この寒い時期ですから。指先を隠《かく》しておきませんと」
ロレンスが答えると、レイノルズは大声で笑い出した。
「うはっはっは。ちょっと想像すらしたくないな。指のささくれをついばまれたら、明日産む予定の卵もろとも鍋《なべ》にぶち込んでやらなければ」
コルがさりげなく自分の指先をさすっているのに笑いながら、ロレンスはレイノルズが帳場の机の上に置いた木箱に遠慮《えんりょ》のない視線を向けた。
「それは?」
「うむ。これはだな」
と、ためらいもせずに蓋《ふた》を開けると、ロレンスはさすがに一瞬《いっしゅん》身構えた。
その箱の中には、動物の骨がびっしりと詰《つ》まっていたのだ。
「うちが山奥の寒村の神の骨を、信じられない高値で探しているという噂《うわさ》にありがたくも協力を示してくれた親切な人たちの努力の結晶《けっしょう》だ」
もったいぶった言い回しは、ほとほとうんざりしているといった様子を表現するにはぴったりだったが、どこまで本気かはわからない。
もっとも、嘘《うそ》をついているのであれば、あとでホロに訊《たず》ねればいい。
「それらは、本物で?」
「だったらいいのにな。この商会の有様《ありさま》を見てわかるだろう? 別にこの私が欲を掻《か》いてこれらの骨を買い漁《あさ》ったわけでもないのに、今にも店は傾《かたむ》きそうだ」
店が傾きそうだというのは嘘に違《ちが》いない。この店は少なくともローム川の上流から流れてくる銅貨の中継《ちゅうけい》を請《う》け負っているから、見た目以上には儲《もう》かっているはずだ。
しかし、その投げやりな様子までもが嘘とは思えない。
その目には純粋《じゅんすい》な子供のように疑問の色を浮かべていた。
「なぜ、今更《いまさら》こんな戯言《ざれごと》を?」
確かに、戯言と言われても仕方のないことだ。
「エーブさんにも同じことを言われましたが、実は、この二人が北の生まれでして」
「ん……」
と、レイノルズは軽く目を見開いた。
自分はひどい思い違いをしていたというような、そんな顔だ。
「なるほど、そうか……。うん……それは、私が軽率《けいそつ》だった。悪く思わないでくれ。私は別にこの馬鹿《ばか》げた話に対する軽蔑《けいべつ》の気持ちを、君たちの神にまで向けるつもりはない」
鼻をこすり、掌《てのひら》を広げたレイノルズは、教会で神に宣告するかのように、そう言った。
二人が北の生まれである、というだけで全《すべ》て合点《がてん》がいくくらい、この地はロエフの山に近い、というわけだ。
そして、レイノルズが北の人間を尊重していることもよくわかった。
「そういうことなら、私は協力するのにやぶさかではない。この話は実際、馬鹿げた話なのだ」
レイノルズは目まぐるしく雰囲気《ふんいき》の変わる男だ。
そう言って話し出した途端《とたん》、ここが傾きかけている商会の荷揚《にあ》げ場であることを忘れ、町の参事会の議事堂ではないかと錯覚《さっかく》しそうだった。
「ロエフの山奥には、教会が見過ごせない伝説がいくつも残っている。そのうちのいくつかはあまりにも信憑《しんぴょう》性がなく、そのうちのいくつかは疑うのが難しい。君たちがどの辺りの生まれなのかはわからないが、少なくとも、とある村にいた狼《オオカミ》の神の骨と言われて、それに心当たりがあるような場所に住んでいたわけだ」
「ルピの村、ですよね?」
コルが口を挟《はさ》む。
その真剣《しんけん》な様子は、つい今しがたまで、鶏《ニワトリ》に草履《ぞうり》をついばまれて泣きそうになっていた少年と同じとはとても思えない。
「そう。その村の名を知っていて、この話を追いかけてきたということは、君は運良く命を失わずにすんだ少年か、あるいは、世の理不尽《りふじん》を見聞きした少年に違《ちが》いない」
ルピの村は剣を携《たずさ》えた宣教師によって制圧され、数多《あまた》の人間が殺されたとコルは言っていた。
レイノルズの言葉に、コルは、ぎゅっと拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めながら、うなずいた。
「その隣《となり》のお嬢《じょう》さんが、北の生まれだというのに教会の修道女に見える格好をしている理由も、私は聞きたくない。商人は金を墓の中に持っていくことはできないが、思い出は持っていくことができてしまうからね」
そう言って、レイノルズはなんとも皮肉な笑《え》みで顔半分を引きつらせた。
ホロも少しだけ笑う。
できることなら墓の中に行くまでずっと美しく清らかなことだけ見聞きしていたいと思うのは、それこそ軽く笑ってしまうような願望だとわかっているからだ。
「それで、ルピの村の神様の話だ。一昨年《おととし》の夏も終わる頃《ころ》だったろうか。あの頃は宣教師と傭兵《ようへい》の集団が北の山や平野を元気に駆《か》け回っていた。どこの村がどうなった、とかいう話は珍《めずら》しくなかった。そんな中で、うちと懇意《こんい》にしている商会が噛《か》んだ話が一つだけあった。いや、噛まざるを得なかったというべきか」
「デバウ商会、ですか」
こちらがなにも知らないで話を聞きに来た、と思わせておくと、話を面白《おもしろ》くするために、あるいは大きく誤魔化《ごまか》すために嘘《うそ》をつかれるかもしれない。
だから、牽制《けんせい》として、まったくの無知ではないことを知らしめておく。
レイノルズは、その牽制に気がついて、少しだけ笑った。
「んっふ。ボラン家の女狼《おんなオオカミ》から親書を持たされるような商人に嘘はつかない。私はあの女狼を尊敬している。だから、あれが信用した商人であるクラフト・ロレンスにも敬意を払《はら》う」
笑っていない笑顔は、怒《おこ》っているようにも見える。
しかし、ロレンスは自分が失言をしたとは思わない。
これは、二人の商人の間で遊びの規則を決めるような儀式《ぎしき》に近いからだ。
「お話に口を挟んで失礼しました」
「いや、私も一人だけ喋《しゃべ》らされると、ついつい長広舌《ちょうこうぜつ》になってしまうからね。あなた方がまったくの無知でないのなら、要点のみを話すべきだ」
レイノルズは咳払《せきばら》いをし、少し居住まいを正す。
その目は壁《かべ》に向けられ、目の焦点《しょうてん》は記憶《きおく》の中に向けられた。
「デバウ商会はあれこれの関係のせいで逆らいがたい教会のとある一派から、こんな相談を持ちかけられたという。我々が北の山に確認《かくにん》しに行った異教徒の伝説の中に、他《ほか》の荒唐無稽《こうとうむけい》なものとは違《ちが》うものがあった。そこには形があり、実があった。だとすれば、世に存在するあらゆるものを商《あきな》う諸君らであれば、その形ある実を探し出すことができるのではないだろうか、と」
実際は相談というよりも、命令に近いものだったに違いない。
それを敢《あ》えてこういう言い方にするのは、暗に教会に反感を持っていることを示そうとしているからだろう。
「我々が錬金術《れんきんじゅつ》師に不可解な印象を持ち、怪《あや》しげな彼らならなんでもできるだろうと思ってしまうように、我々が行っている商売を怪しげで不徳ななにかだと思っている教会の方々は、我々がなんでもできるものだと勘違《かんちが》いしているらしい。だが、商売をしていれば断りきれない依頼《いらい》というものは多々あるものだ。そして、そんな依頼は、常に川上から川下へと降りてくる」
「まったくそのとおりです」
ロレンスが相槌《あいづち》を打つと、レイノルズは満足そうにうなずいた。
皇帝《こうてい》が宮廷《きゅうてい》の商人に、宮廷の商人が彼の支配する商会に、商会がその支店に、その支店の責任者が市井《しせい》の商人に。
恭《うやうや》しく皇帝の謁見《えっけん》の間に献上《けんじょう》される品々だって、元をたどれば銅貨一枚のやり取りにしのぎを削《けず》る商人がもたらしたものであることなど珍《めずら》しくはない。
ただ、命令は上から下に、品物は下から上に行くが、その逆はないというだけのことだ。
「そして、我が商会は偉大《いだい》なる川の精霊《せいれい》ロームが治めるローム川の最下流に位置する。上からどんぶらこと流れてきた命令には是《ぜ》が非《ひ》でも応《こた》えなければならない。それこそ」
たるんだレイノルズの頬《ほお》が、今日この日のこの瞬間《しゅんかん》のためにその頬をたるませてきたとでも言わんばかりに、ぶるん、と揺《ゆ》れた。
「金に糸目をつけないくらいに」
ロレンスはうなずき、机の上に置かれた木箱の中にぎっしり詰《つ》まっている、たくさんの骨に目をやった。
普通《ふつう》、どこかの商会がどの商品を探しているといっても、こんなにたくさんの商品が送りつけられることなどない。
それが、おそらくは犬や猫《ネコ》や羊や牛や豚《ブタ》の骨だろうが、こんなにもたくさんこの商会に骨が集まってきたのは、ジーン商会がこの町でこの骨を探すという行為《こうい》がまともな商売上のことではないと皆《みな》わかっていたからだ。
まともな商売であれば、まともな商品でなければ対価は支|払《はら》われない。
しかし、まともな商売でなければ、まともでないものにだって対価が支払われるかもしれない。
それこそ、ジーン商会と、その上にいるデバウ商会が、元々の命《めい》を下してきた教会の連中を納得《なっとく》させられるような代物《しろもの》であれば、万が一に金を支|払《はら》ってくれる可能性がある。
骨などいくらだってどこにだってある。
ちょっとしたその可能性に賭《か》けるのは、悪い賭けではないだろう。
いい迷惑《めいわく》なのは、その賭けの臨時《りんじ》の胴元《どうもと》である、ジーン商会だ。
「ま、当時はこんなお祭り騒《さわ》ぎになったわけだ。もしも本物を見つけたら、支払われる対価はリュミオーネ金貨にして千枚とも二千枚とも言われていたからね」
「それで」
と、レイノルズが自嘲《じちょう》気味に笑ったところに言葉をつないだのは、コルだ。
「それで、骨は、見つかったのでしょうか」
レイノルズの目が、たるんだ瞼《まぶた》の下で純粋《じゅんすい》なガラス玉のように感情を込めないものに一瞬《いっしゅん》だけ変わった。
その質問の仕方は、商人のやり取りの規則から逸脱《いつだつ》する無粋《ぶすい》なものだ。
ただ、すぐにそのガラス玉は、帳場の机の前でのんびりと客が来るのを待ち、鶏《ニワトリ》が落穂《おちぼ》をついばむのを眺《なが》めるのに相応《ふさわ》しいものに変わった。
商人ならば、無粋な発言に怒《おこ》ることはしない。怒る代わりに、それに相応しい対応をするだけのこと。
要するに、商人としての話はここで終わりだ、ということだ。
「んっふ。もしも見つかっていたら、私は今|頃《ごろ》金《きん》の机に座っているよ。もちろん、当時は私がとっくに骨を見つけ出して大儲《おおもう》けしたという話が乱れ飛び、何度か脅迫《きょうはく》されもしたがね。しかし、少し考えればわかりそうなものだ。一体どこの誰《だれ》が、そんな大量の金貨を、どんなふうにして人目につかず払ってくれたのだろうね?」
からかうような物言いなのは、実際に馬鹿《ばか》げたことだからだ。
金貨で千枚もこの商会に支払われたら、商売をしている者であればたちどころに金の動きに気がつくはずだ。
山を動かせば、たとえ深夜にこっそり動かしたとしても翌朝に皆《みな》が気がつくのと同じこと。
隠《かく》しようのないことといえる。
コルはなんとなくだろうが、そのあたりのことを察したらしい。
残念そうに、うなだれるようにうなずき、質問に答えてくれた礼を言った。
その瞬間、レイノルズの目がぱちくりと開いたのには、ロレンスも笑ってしまった。
質問の仕方そのものは商人として最低な無粋なものであっても、質問したあとにきちんと礼が言える礼儀《れいぎ》正しさは、鞭《むち》で尻《しり》をひっぱたいてもなかなか弟子《でし》が覚えないことの一つだからだ。
商会の帳場に億劫《おっくう》そうに座ってはいるが、レイノルズの商人としての目利《めき》きはなかなかのものに違《ちが》いない。
だから、商人の視線をロレンスに向けてきた。
「ロレンスさんはよいお弟子《でし》さんをお持ちのようだ」
獲物《えもの》を狙《ねら》う鷹《タカ》の目。
大袈裟《おおげさ》な物言いではないはずだ。
「弟子ではありません」
「なんと」
レイノルズは信じられない、といったふうに大仰《おおぎょう》に驚《おどろ》くと、視線をコルに向けたのでロレンスはすかさずこう言った。
「未来の教会法学|博士《はくし》です。商人の弟子などと言ったら、私は天の国の門をくぐり抜《ぬ》けることができなくなってしまいます」
その時のレイノルズの顔を、なんと表現したらいいだろう。
こんな顔をするくらいホロの意表をつくことができれば、きっとロレンスはたちどころにホロの手綱《たづな》を握《にぎ》れるに違《ちが》いない。
それくらいレイノルズは驚いた顔をして、してやられたとばかりに自分の額をぴしゃりと叩《たた》いた。
「うむむむむむむ。北の地の生まれであり、教会法学博士の卵であり、そして故郷の神の話を追いかける……。なるほど、さすが女狼《おんなオオカミ》から信頼《しんらい》を勝ち得た商人だ。なかなか複雑そうにして、そして、なによりも羨《うらや》ましい旅をしていらっしゃる」
人脈や権力の構図に聡《さと》い商人には、教会法学博士の卵というのは金の卵に見えるに違いない。しかも、それが将来有望であるかどうかも立ち居|振《ふ》る舞《ま》いからある程度判断できるもの。
眼鏡に適《かな》った者であればいつでも投資したい。
そんな感じがひしひしと伝わってきたが、ふとレイノルズは視線をホロに向けて、それから、ロレンスに向けてきた。
「それでは、こちらも、どこか名のある修道院の?」
獲物を狙う鷹のような目でコルのことを見ていたことにもちろんホロも気がついていたはず。
しかし、レイノルズはそんな目をホロには向けなかった。
ロレンスにこんなことを聞いてきたのは、ホロを無視するのが悪いと思ったか、あるいは、ちょっとした世間話のつもりだろう。
そして、ホロがそんなないがしろな扱《あつか》いで満足するはずがない。
では、自分の価値をどのように高めればいいか。
そんな計算だけは、本当に商人顔負けに速い。
ホロはレイノルズの言葉を聞くや否《いな》や、すっとロレンスの後ろに隠れ、ぎゅっと服を掴《つか》んできたのだ。
まるで、人見知りをする少女のように。自分の庇護《ひご》者はロレンスであると主張するように。
神が所有しているものですら手に入れようとするのが商人だから、人が所有しているものであればなおさら欲しくなるのが商人の本能といえる。
効果は抜群《ばつぐん》だった。
「んはっはっはっは」
レイノルズは大笑いし、ロレンスは、それでホロがロレンスの陰《かげ》から少し顔を覗《のぞ》かせ、意地悪そうに笑っていたのだと気がついた。
言葉に出さない二重三重の心理戦。
レイノルズが大笑いしたのは、自分が一杯《いっぱい》食わされたと即座《そくざ》に気がついたからだ。
「素晴《すば》らしいお客さん方だ。いかがだろう。もうすぐ昼時だから、我々が出会えたことを祝って食事でも」
ロレンスとしても、その提案は嬉《うれ》しい限りだ。
レイノルズとの会話は、とても刺激《しげき》に満ちている。
「よろしければ是非《ぜひ》」
「素晴らしい幸運だ。ではさっそく使用人を呼んで料理でも作らせよう。ただ……」
と、レイノルズは視線をロレンスたちの背後、ジーン商会の荷揚《にあ》げ場に向けて、こう言った。
「そのためには元気な鶏《ニワトリ》が一羽必要なのだが、ところが今日に限って鶏が一羽もいないらしい」
「あ!」
コルが声を上げ、ホロが目をそらした。
コルの草履《ぞうり》をついばんでいたところを、ホロが狼《オオカミ》すら尻込《しりご》みする強烈《きょうれつ》な視線で追い払《はら》ったので、荷揚《にあ》げ場から鶏《ニワトリ》が一羽もいなくなっていたのだ。
「もしよろしければ、我が隣人《りんじん》を食事に呼んできて欲しい」
いたずらを楽しむ子供のように笑うレイノルズに、コルは慌《あわ》てて、ホロは渋々《しぶしぶ》と鶏を追いかけたのだった。
鶏とぶどう酒。
生きるのに必要なものがパンと塩であるのなら、こちらは人生を楽しむのに必要なもののうちの二つかもしれない。
それも思いがけずありつけたご馳走《ちそう》であればなおのこと。
ホロはレイノルズの「遠慮《えんりょ》なく」という言葉を聞くまでもなく食らいつき、コルは教会法学|博士《はくし》の卵らしく教会流の礼儀《れいぎ》正しさでご馳走に与《あずか》っていた。
狼の骨の話をすんなりと聞き出せた挙句《あげく》、こんなご馳走を振《ふ》る舞《ま》ってくれるなどずいぶん豪気《ごうぎ》な人なのだな、と思っているのはコルだけだろう。
食事の席では、他愛《たわい》のない世間話に織《お》りまぜて、二年前の狼の骨を巡《めぐ》る騒《さわ》ぎが最高潮だった時の笑い話や、その後の話がしぼんでいく過程まで詳《くわ》しく聞けた。
ただ、商人はいつだって対価を求めるものだ。
ロレンスはその対価が気になっていたが、それは別《わか》れ際《ぎわ》にわかることになった。
レイノルズから、握手《あくしゅ》を求められたのだ。
「エーブ・ボラン氏によろしく」
ロレンスは右手を、がっしりと両手で握《にぎ》られた。
しかも、その目は明らかに商人のそれ。
きっちりと狼の骨の話をして、なおかつご馳走まで振る舞ったのだからしっかりと客人はもてなしましたとエーブに伝えてくれ、ということなのだろう。
その目的は、エーブと懇意《こんい》になって、商売をさらに拡大《かくだい》させることだろう。
しかし、レイノルズが構えるジーン商会は見た目こそよくないが、鉱山の利権をがっちりと握っているデバウ商会と懇意のはずだ。
そんなレイノルズがエーブの覚えをめでたくしたところでそれほど益はないように思える。
それとも、エーブがそれほどの人物なのだろうか。
気になるところは多々ありつつも、受けたもてなしに対する返礼はしなければならない。
ロレンスはレイノルズにしっかりと返事をして、ジーン商会をあとにした。
ロレンスたちが商会に来た当初は少しだって椅子《いす》から立ち上がりたくなさそうだったレイノルズが、軒先《のきさき》にまで出て見送ってくれた。
「さて」
と、ロレンスは一人ごちる。
目的はあっさりと達成できた。
ただ、レイノルズとのやり取りの中、要所要所でなにかがちぐはぐな気がしたのは否《いな》めない。
ジーン商会の店構えも、ロレンスがエーブから受け取った親書をレイノルズに渡《わた》した時も、また、つい今しがたの別《わか》れ際《ぎわ》のレイノルズの行動も。
それが直接|狼《オオカミ》の骨の話に続いている、というわけでもないのだが、商人の行動はいつだって意外なところにつながっている。
ロレンスは、黙考《もっこう》しながら軽く顎鬚《あごひげ》をつまんでいた。
「で、どうするのかや」
しかし、ロレンスの物思いはホロのそんな言葉で中断された。
そして、ホロの顔を見た瞬間《しゅんかん》に、先ほど振《ふ》る舞《ま》われた鳥料理のことを思い出してしまった。
振る舞われたご馳走《ちそう》は、鶏《ニワトリ》の腿肉《ももにく》をゆでたあと、酢《す》に香草《こうそう》のみじん切りと芥子種《からしだね》をすりつぶしたものをまぜたソースをかけた逸品《いっぴん》だった。
それがどれくらい素晴《すば》らしかったかというと、ホロの口の端《はし》にみじん切りにされた香草のかけらがくっついていたくらいだ。
ロレンスが指で香草のかけらを取ってやると、ホロは少しうるさそうに片目を閉じる。
ただ、それが自分を子供|扱《あつか》いするな、と照れ隠《かく》しに怒《おこ》っているものではないことがすぐにわかった。
ホロは、そんなふうに顔を背《そむ》けるや、コルに軽く目配せしていたのだ。
コルが驚《おどろ》きながら、どこか感心するようにうなずき、それを見てロレンスはため息をついた。
ロレンスがホロの口についた香草を取るかどうか、ホロはコルと賭《か》けのようなことをしていたらしい。
「さて……どうするかな」
相手をしたら負け。
そんな二人の目配せには気がつかないふりをして、ロレンスは呟《つぶや》いた。
「思っていたよりもすんなりと話が聞けたので、拍子抜《ひょうしぬ》けですよね」
「うん?」
「もっと隠し事をされるかと思ってました」
コルの言葉に、今度はロレンスがホロに軽く視線を向ける。
ホロと一瞬目が合って、互《たが》いにすぐにそらした。
その様子は、ホロもさっきの話の中でなにか気になったことがあるということだろう。
ロレンスは、言葉を選んで口にした。
「……そうだな。教会の連中がルピの村の話を本物だと信じていた、ということは確認《かくにん》ができた。だとすれば、連中の信じたなにかがあったってことだ。これは大きな前進だ」
コルは何度もうなずきながら、真剣《しんけん》な顔をしている。
しかし、ホロもレイノルズの言動になにか違和《いわ》感のようなものを感じているとすれば、話はそれほど単純ではないかもしれない。
それをコルに言わなかったのは、問題がややこしくなりそうだからだ。
コルは素直《すなお》すぎる。
ホロくらい根性がひん曲がっていても、故郷に関する話は十分危険な要素となった。
折を見て、ゆっくりと説明すればいい。
「しかし、残念なことが一つある」
「?」
コルがロレンスのほうを向いて小首をかしげてくる。
裏表がないとわかっている分、そんな仕草はホロより可愛《かわい》いかもしれない。
「すんなり話が聞けてしまったからな、奥の手を出す必要がなさそうだ」
「あ……。銅貨の話ですね?」
川上から運ばれてくる時には五十七個の箱に詰《つ》められている銅貨が、ジーン商会から海を越《こ》えて運ばれる時には六十個の箱に増えている不思議。
ロレンスはこれをジーン商会の一つの泣き所ではないかと疑っている。
もしもジーン商会があくまでも狼《オオカミ》の骨の話を隠《かく》すようであれば、揺《ゆ》さぶりに使えるはずだし、その旨《むね》はコルにも伝えてある。
ただ、箱の数が合わないというその事実だけで揺さぶりには十分使えると思っていたので、未《いま》だに箱の数が合わない理由をロレンスはコルから聞いていなかった。
もちろん、ロレンスは自力での解決には至っていない。
「まあ、使う必要がなければ、旅の終わりに礼として教えてくれればそれでいい」
ただ一人その理由を解決しているコルはうなずいてから、くすぐったそうに笑った。
「というわけで、この件についてはとりあえず、礼を言いにエーブのところに行きがてら情報をさらに集める、という選択肢《せんたくし》くらいになる。それにしたって、急ぎすぎるのも問題だしな。なにか変なことを勘《かん》ぐられたら困る」
「……えっと……それは、誰《だれ》かが真剣に追いかけているとなれば、それなりのことがある、と相手に思わせてしまうということですね?」
いつ何時《なんどき》でも勉強を忘れない姿勢は見上げたものだ。
ロレンスはうなずいた。
「レイノルズやエーブが狼の骨の話をすんなりしてくれるのは、連中がこの話は散々|吟味《ぎんみ》して与太話《よたばなし》だと判断しているからだ。もしも少しでも現実味を帯びているのなら、全員貝のように口を閉じているだろう」
「そんな中、僕たちがその話をあまりに真剣《しんけん》に探っていたら、あの人たちは、僕たちがその話を本物とみなすに足るなにか重大な鍵《かぎ》を手に入れたのではないかと疑ってくる」
ロレンスたちが狼《オオカミ》の骨の話を本物だと信じるに足る重大な鍵は、もちろんのこと、ホロの存在に他《ほか》ならない。
それをきちんと理解しているコルは、右手の人差し指を一本立て、この料理の隠《かく》し味《あじ》はほんのわずかな香草《こうそう》なのです、と得意げに語る料理人のような顔をして話している。
あるいは、覚えたての芸が上手にできたことを誇《ほこ》る仔犬《こいぬ》だろうか。
その様子が生意気に見えないのは、コル自身が、わざと得意げに喋《しゃべ》っていると自覚しているからだろう。
生来が人懐《ひとなつ》っこい性格なのだ。
「ただ、誰《だれ》も信じていないからこそ容易に話を聞ける、というのは皮肉なことですよね。その真偽《しんぎ》を確かめたいから話を聞いているというのに」
「あとは信仰《しんこう》の問題だ。周りが皆《みな》間違《まちが》っているという中で、それは正しいと信じる勇気」
コルは神妙《しんみょう》にうなずいた。
「で、それを応用するとこうも言える。聖職者が神に人々は救われるのでしょうかと訊《たず》ねてもなんの返事もないのは、神の怠慢《たいまん》ではなく、むしろその問いが?」
教会法学|博士《はくし》の卵は、軽く叩《たた》けば鋳造《ちゅうぞう》したての鐘《かね》のようによく鳴った。
「当たり前だから、という解釈《かいしゃく》ですよね」
ホロとはまたちょっと違う、素直《すなお》で安心できる知的な会話。
学者と名のつく連中は日がな一日こうして対話を繰《く》り返しているというが、その理由がわかるような気がした。
二人は話しながらぶらぶらと歩いていたので、いつの間にかロレンスの隣《となり》にコルがいる形になっていたが、こういう形も悪くない。
十年後もこんなふうに歩けたとしたら、きっとコルは素晴らしい友人になっているに違いない。
それを思うと今から楽しみになってしまう。
ただ、そんな二人の間に割って入ってきた者がいた。
ずっとのけ者にされていた、ホロだ。
「わっちを前にして楽しそうな会話じゃな?」
少し不機嫌《ふきげん》そうな顔をしている。
それがどういう意味なのかは、敢《あ》えて分析《ぶんせき》しないほうが身のためだ。
「あの狐《キツネ》のところにすぐに行く必要がないのなら、わっちゃあ行きたいところがありんす」
「というと?」
ロレンスの問いに、ホロは河口のほうを指差した。
「あの賑《にぎ》やかなところじゃ」
言うまでもなく三角洲《さんかくす》の上の市場だろう。
ローブの下で尻尾《しっぽ》がわさわさいっているので、なにかうまい食べ物を期待しているのかもしれない。
コルとの知的な会話から、わかりやすい会話に逆戻《ぎゃくもど》りだ。
ロレンスはホロの頭を通り越《こ》してコルのほうに視線を向ける。
コルは、少し遠慮《えんりょ》がちに、うなずいた。
ホロは半分は自分のために三角洲のことを言ったのだろうが、もう半分はコルのために違《ちが》いない。
コルとの知的な会話と、ホロのわかりやすい会話の優劣《ゆうれつ》がつけがたいのは、ホロはいつもわかりやすい会話の裏にこういうなにかを隠《かく》しているからだ。
だから、ロレンスもホロの言葉になにかを隠して返事をした。
「お前は食い物のことばっかりだな」
ロレンスが呆《あき》れ気味《ぎみ》に言うと、ホロは琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》をくるりと動かして、上唇《うわくちびる》を尖《とが》らせるように小さく笑った。
「わっちゃあぬしのこともいつも考えていんす」
少し声音《こわね》が高めの、甘えるような声でそう言って、ホロはロレンスの腕《うで》に抱《だ》きついてくる。
ロレンスは自分の口の端《はし》に香草《こうそう》をつけ忘れていたので、これでおあいこだ。
ただ、隣《となり》ではコルがやや顔を赤くしながら目のやり場に困っていた。
ロレンスはどうしてもちょっとした優越《ゆうえつ》感を感じてしまうが、それを素直《すなお》には喜べない。
なぜなら、ホロはそうする代わりに、見返りを要求しているからだ。
「俺はお前の食い物だからな」
ロレンスが代価を支|払《はら》うと、ホロはにんまりと笑って、フードが外れそうなくらい耳を大きく動かした。
「なら、財布《さいふ》の紐《ひも》をよろしく緩《ゆる》めてくりゃれ?」
ロレンスはコルに視線を向ける。
どう思う? という疑問を視線に込めて。
そして、こういった言葉遊びの質問になら、コルはホロ並みに答えることができる。
「ご馳走《ちそう》様です、というらしいですね」
「まったく、食後酒が欲しいところだ」
コルが上手に落としてくれたところで、ロレンスはそう締《し》めくくったのだった。
ケルーベの町の三角洲《さんかくす》は、中心地に大きなため池がある。
そこには大小さまざまな魚が入れられており、時折、亀《カメ》や水鳥も群れをなしていることがある。
ただ、その水辺で言葉を紡《つむ》ぐのは金色の巻き毛をした詩人ではなく、そこで語られる言葉も世俗から超越《ちょうえつ》した美しい文法の詩句ではなかった。
ため池を泳ぐ魚は網《あみ》の中でぐるぐると回り、亀や水鳥は手足か口のいずれかを縛《しば》られていた。
水辺で交《か》わされる言葉は単刀直入な数字と値切りの言葉で、それを吐《は》き出す喉《のど》は太く、魚を掴《つか》む腕《うで》もまた太かった。
市場を行き交う人間たちはこのため池を金《きん》の泉と呼んでいた。
三角洲の上に建つケルーベの市場は、このため池から北に二百歩、南に二百歩の幅《はば》を持ち、東に三百歩、西に四百歩の長さを持っていた。
この広さははるか昔から決められているようで、三角洲にはまだ十分市場を広げるだけの余裕《よゆう》があるように見えたが、少なくともロレンスが見聞きした中では市場は拡大《かくだい》されたことがなかった。
とすれば、当然建物は土地を節約して建てられることになる。
隣の帳簿《ちょうぼ》が見えるくらい、とはその密集加減を皮肉って言われる言葉だ。
そんな三角洲にロレンスたちが上がるや否《いな》や、ホロは真っ先に耳を押さえていた。
それはちょっとした冗談《じょうだん》だったにしても、あながち演技でもないような気がした。
ケルーベの港町最大の市場は、いつ来ても信じられないような大騒《おおさわ》ぎだったからだ。
「今日はお祭りかなにかでしょうか?」
ロレンスが船頭に料金を払《はら》い終わって桟橋《さんばし》から三角洲に上がると、先に上がっていたコルが呆気《あっけ》に取られながら隣《となり》のホロに訊《たず》ねていた。
三角洲には三つ船着き場があり、ロレンスたちが降りたのはもっぱら北|側《がわ》の町と行き来する船が着く場所だ。なのでこの三角洲の市場の名物ともいえる、座礁《ざしょう》した船で作られた門の代わりに、陸|揚《あ》げしたまま放置されている切り出された石があった。
市場はそのすぐ奥から始まっていて、肩《かた》と肩が触《ふ》れ合うほどの人ごみだというのに誰《だれ》もがろくに前も見ず、店の軒先《のきさき》をなめるように見て歩いていた。
「ふむ? このくらいの人手はままあることじゃろう。わっちゃあ町全体がこんな具合のところにも行ったことがありんす」
ホロは訳知り顔に言って、コルと見た目が大して変わらない胸を張る。
「そ、そうなのですか……。僕は実は賑《にぎ》やかな町はアケントくらいしか知らなくて……」
「うむ。なに、若いうちは知らないことのほうが多いものじゃ。おいおい見て学んでいけばよい」
「まったくそのとおりだな。なにせ、お前も俺と初めて川沿いの港町に行ったら、まったく同じことを俺に言ったくらいだからな」
ロレンスは後ろからホロの頭の上に手を置いて、言ってやった。
ホロがパスロエの村に何百年といるうちに、世界は神様ですら年老いるくらいに変わっている。世間知らずの度合いでいえば、ホロのほうがきっとひどいだろう。
ただ、自慢《じまん》したがりの度合いでいっても、同様だ。
ロレンスが頭の上に置いた手をうるさそうに振《ふ》り払《はら》ってから、ホロは威嚇《いかく》するような目を向けてくる。
「ぬしは懐《ふところ》の入れ物が小さいからの。わっちより物知りじゃと自慢できてさぞ嬉《うれ》しいじゃろうな?」
「そっくりそのまま言葉をお返しするよ。お前が行ったことのある大きな都市といえばリュビンハイゲンくらいだろうが」
ホロは顎《あご》を引いて頬《ほお》を膨《ふく》らませる。
コルはちょっとはらはらしているようだが、これはあからさますぎる、ホロの「遊んでほしい」という仕草だ。
「ぬしは日々の食い物にすらねちねちと節約を謳《うた》う行商人様じゃからな。囚《とら》われの身のわっちはあちこち見て回ることができぬ。それとも、ぬしはわっちをあちこちに連れていってくれるのかや?」
これまで旅してきたこと全《すべ》てを試験するような、一つでも解釈《かいしゃく》を間違《まちが》えば尻《しり》を蹴飛《けと》ばされかねないほど含蓄《がんちく》に富んだ複雑な言葉だ。
コルなどはどこまで冗談《じょうだん》かわからないといった様子で、不安げな表情を隠《かく》しきれない。
もちろん、ロレンスとホロはそんなコルを観客にして、舞台《ぶたい》の上に立っているようなもの。
だから、ロレンスは慇懃《いんぎん》に、そしてきっちりと答えてやる。
「商人は全てを金で解決しますから、金がかからないのであれば、いくらでもご協力いたしますよ」
「例えばどんな場合かや?」
そう聞き返すホロは、珍《めずら》しくフードの下で顔が半分笑っている。
自分の演技の馬鹿《ばか》らしさに我慢《がまん》できないらしい。
「例えば? そうだなあ……」
と、ロレンスが少し頭を巡《めぐ》らせると、ホロはじれったそうにロレンスのことを叩《たた》いて、そして、服を掴《つか》んで引き寄せた。
「ならば寝物語《ねものがたり》に聞かせてくりゃれ? とみなまで言わせるつもりかや」
全部言っているじゃないか、とは言い返さない。
喧嘩《けんか》をしていると思ったら突然《とつぜん》成り行きが変わって、コルはやや顔を赤くしながら固唾《かたず》を飲んでこのやり取りを見つめている。
ロレンスは、役者というのも悪くはないかもしれない、と思ったりした。
「寝物語《ねものがたり》なら確かに金はかからないが、俺がお前をベッドに運ぶ時は、例外なく酔《よ》っ払《ぱら》っているんだがな」
ホロがロレンスからすっと離《はな》れて、その顔に意地悪そうな笑《え》みを浮かべた。
なんて言ってくるのかはよくわかっている。
だから、ロレンスはしてやられたという顔をできるように、心の準備をした。
「仕方ないじゃろ? ぬしの話は素面《しらふ》ではとても聞けぬほどつまらないのじゃから」
こんないつものやり取りにも白々《しらじら》しく演技ができるようになったのだから、成長していると褒《ほ》めてもらいたいくらいだ。
「さて、それでは早速《さっそく》見て回るかや」
ひとしきりじゃれて満足したのか、ホロは腕《うで》まくりの代わりに舌なめずりをしてそう言った。
見て回るのは、市場の様子ではなく、そこに並ぶ食べ物の味だろう。
つい先ほどつぶしたての鶏《ニワトリ》をたらふく食べたばかりだというのに、早速腹が減っているらしい。
「え、えーと、この町だとなにが名物なのでしょうか」
目まぐるしく変わる虚々実々《きょきょじつじつ》のやり取りについていききれない感じのコルが、それでも気を遣《つか》うようにホロにそんな言葉を向けた。
「む。それだとまるでわっちが食い気しかないように聞こえるの」
「え? い、いえ、そんなつもりじゃ……」
などと、意地悪げな笑顔でコルを弄《もてあそ》ぶホロのローブをめくったら、さぞ尻尾《しっぽ》がぱったぱったと揺《ゆ》れていることだろう。なにせホロにからかわれてもごもごと口ごもったコルの言葉など聞いていやしないのだ。
一人でさっさと歩き出して、門代わりに放置されている石を越《こ》えて、振《ふ》り返った。
「ほれ、早く!」
大騒《おおさわ》ぎの市場とはいえ、そこに澄《す》んだ少女の声がまざれば多少は気を引くというものだ。
石の上に座って書き物をしていた商人がちらりとホロに視線を向け、一瞬《いっしゅん》、石盤《せきばん》の上の手が乱れた。細身で禁欲的な顔つきは、逆説的だが、金儲《かねもう》けのために節制をしているのだと一目でわかる。だから、全《すべ》ての欲を絶った隠者《いんじゃ》となるにはあまりにも業が深い。
ホロの視線の先を追って、視線をロレンスに向けてきた時のそれは、少なくとも、好意的なものではなかった。
それでも、商人はすぐに興味なさそうに手元の石盤にまた目を落として書き物の続きを再開したが、視線が石盤の上を滑《すべ》っているのがよくわかり、ロレンスは苦笑いを隠《かく》すのに一苦労だった。
「なにをぼやっとしておる! さっさと――」
と、自分に向けられる視線の意味に気がついているのかいないのか、ローブの下から尻尾の先をちょろりと覗《のぞ》かせるほど気がせいているホロは、そう怒鳴《どな》りかけて急に口をつぐんだ。
「?」
いくらホロの演技がうまくても、ずっとかぶりつきで見ていれば大概《たいがい》は見|抜《ぬ》けるようになるものだ。
それが、今回はとても演技とは思えず、つい今しがたの若い商人のように、ホロの視線の先を追った。
そして、目に入ったもの。
同じように後ろを振《ふ》り向いたコルが、口元を手で押さえて、盗《ぬす》み見るようにこちらを見ているのがわかった。
ホロの視線の先には、今まさしく船から下りたばかりの、見なれた商人の姿があった。
「ん? おや……」
相変わらずの格好で、ともすると眠《ねむ》たそうに見える半開きの瞼《まぶた》の下から、この世のなにもかもを貨幣《かへい》の枚数で数えてみせるといった、不敵な自信の窺《うかが》える視線を向けられた。
ただ、その鈍《にぶ》い驚《おどろ》き具合は決してエーブ一流の演技ではなく、きっと本気だったに違《ちが》いない。
なにせ、エーブの周りには身なりもよければ恰幅《かっぷく》もよいといった男が二人と、身なりはよいが目つきがよくない男が二人つき従っていたので、出会いは偶然《ぐうぜん》だったに違いない。
石の上に座ってなにか商売のことを考えていたらしい若い商人は、エーブたちに気がつくと慌《あわ》てて立ち上がり、逃《に》げるように市場の奥へと小走りに駆《か》けていった。
仲買人《なかがいにん》を待っているのか、魚の入った籠《かご》の横で暇《ひま》そうにしていた年かさの漁師は、海で精霊《せいれい》に出会ったかのように恭《うやうや》しく頭をたれた。
エーブの周りにいる男たちは、若い商人と漁師の振《ふ》る舞《ま》いは至極《しごく》当然のことであり、むしろ異常なのはロレンスであるといった感じで、遠慮《えんりょ》なくロレンスたちを見つめ、品定めをしてきた。
そして、すぐに取るに足りない小物とばかりに鼻で小さくため息をつく。
この小僧《こぞう》がどうかしたか? と言いたげな顔で、エーブのほうに向きなおった。
「てっきり南のほうに行っているのだと思ったんだが……観光を優先かな」
渡《わた》し船《ぶね》の代金は、四人の男の中で一番若い男がまとめて払《はら》っていた。
エーブは一度もそちらを見ずに、ロレンスに向かって楽しげに言った。
視線を向けたとすれば、ずっと敵意に満ち満ちた目を向けている、ホロのほうを一瞬《いっしゅん》だけ。
周りの男たちは、ロレンスたちを見ながら、互《たが》いに耳元で囁《ささや》き合っている。
「ええ。しばらく開店休業です。まだ、少し傷がうずくもので」
ホロの視線を痛いくらい後頭部に感じているので、ロレンスは少し嫌味《いやみ》をまぜておく。
エーブもそこのところはきっとわかってくれるだろう。
目を少しだけ細めると、右手を軽く掲《かか》げ、二、三、男たちに指示を出した。
すると、恰幅のよい者二人は笑っていない笑顔《えがお》を向けて、目つきのよくない者二人は丸っきり無視するように、ロレンスたちの側《そば》を通り抜《ぬ》け、市場の中に入っていった。
聖典の中にある伝説のように、彼らが歩くと人の波が左右に割れたような気がした。
おそらく、この町の有力者なのだろう。
彼らと入《い》れ違《ちが》いに、ホロがこちらに歩み寄ってきた。
「オレのほうは休養中だと言っているのに狩《か》り出されてしまってね。あいつらはケルーベの北|側《がわ》の有力者さ」
「商人ですか?」
ロレンスが訊《たず》ねると、エーブは首を横に振《ふ》った。
「連中は物の売買には携《たずさ》わらない。だが、銭勘定《ぜにかんじょう》だけは得意中の得意だ」
エーブの目に嫌悪《けんお》の色が浮かび、彼らがどんな身分なのか一瞬《いっしゅん》で理解できた。この町で特別な権利を持っている者たちだろう。
土地持ちか、あるいは、漁業権や関税|徴収《ちょうしゅう》権などの権利持ちか。少なくとも、椅子《いす》の上にふんぞり返っているだけで金が入ってくる世界の住人であることだけは確かなようだ。
そんな彼らがエーブの前で多少なりとも腰《こし》を低くしていたのは、エーブの利用価値を知っているからか。
はたまた、力はあっても貴族の称号《しょうごう》を持たないからか。
そこまではわからないが、なんとも楽しそうな匂《にお》いはした。
「気になるなら金《きん》の泉に来ればいい。それでは、失礼するよ」
エーブは立ち去り際《ぎわ》、軽くホロを一瞥《いちべつ》していった。
その姿はあっという間に市場の人ごみの中に紛《まぎ》れ込み、見えなくなる。
人ごみの中で目立つのも目立たないのもお手の物、という感じだ。
ロレンスが少し感心してその後ろ姿を見送っていると、ホロに足を蹴《け》られて我に返った。
「わっちを前に他《ほか》の雌《めす》のほうを見ておるとはよい度胸じゃな」
いつかどこかで聞いた台詞《せりふ》だが、ロレンスはまともに返事をせず肩《かた》をすくめるだけだ。
「なら、これからはずっとお前だけを見つめていようか?」
ロレンスがそう切り返し、茶目っ気たっぷりにホロに顔を近づけると、遠慮会釈《えんりょえしゃく》なくホロに頬《ほお》を張られた。
そして、ふくれっ面《つら》のホロは一人市場のほうへと歩いていってしまった。
「あ、ホロさん!」
コルがそんなホロを反射的に追いかけようとして、踏《ふ》み出した一歩を止める。
そして、遠慮がちに振り向いた。
「あ、あの」
「ん?」
「行かなくて、いいんですか?」
とは、もちろんホロを追いかけに、だ。
コルが足を止めたのは、その役目はロレンスのもので自分が取ってはいけない、とでも思ったからだろう。
「俺は行かない。ホロはお前に来てもらいたがってるだろうからな」
「そんなことは」
「ないと思うか?」
ロレンスは言って、コルの頭を軽く掻《か》き回す。
手を離《はな》しても、コルはぐしゃぐしゃになった髪《かみ》の毛を少しも直そうとはしない。
考えることに忙《いそが》しくて、それどころではないらしい。
「お前の頭の良さは認めるが、さすがに少し考えるだけで今のやり取りの正解を導かれたら俺の立《た》つ瀬《せ》がない」
ロレンスは笑い、コルの髪の毛を軽く直してやった。
「あいつが怒《おこ》っているのは本当だ。だが、俺と喧嘩《けんか》のようになっているのは嘘《うそ》だ」
腰《こし》にくくりつけてある皮袋《かわぶくろ》を手に取って、ロレンスはトレニー銀貨を一枚取り出した。
それをコルの鼻の頭に押し当てた。
「これだけあれば十分すぎるくらい飲み食いできるだろ。ホロが酒を飲みすぎないようにだけ、注意しておいてくれ」
「……」
ロレンスがホロを追いかけない理由がわからないらしいコルは、銀貨を受け取りながら実に不思議そうな顔をしていた。
「あいつは俺の胸中を本当にお見通しだからな。エーブの言葉に心を惹《ひ》かれているのがわかったんだよ。でも、あいつはエーブが大嫌《だいきら》いで顔も見たくない」
コルは「それで?」という顔を向けてくるが、ロレンスはそれ以上説明せず、コルの背中を押した。
知りたければホロに聞け、と言葉をつけて。
コルはしばし躊躇《ちゅうちょ》していたが、賢《かしこ》い少年だから、言われたとおりに歩き出した。
人ごみの中に紛《まぎ》れ込んでしまっても、ホロのほうがコルを見つけることだろう。
「さて」
エーブは、金《きん》の泉に来ればわかる、と言った。
その言葉の意味はロレンスにも理解できた。
ケルーベの港町では、町に関《かか》わる重要な話し合いは、この三角洲《さんかくす》の金の泉のほとりでなされるのが慣《なら》わしだ。
町の北|側《がわ》で会議を開けば北の人間たちが、南でやればその逆で、どちらかに有利に事が運んでしまいかねないための措置《そち》だろう。
町の有力者と、没落《ぼつらく》貴族にして将来の大商人と目される女がそんな場所に行くとなれば、およそ商人と名のつく人間は皆《みな》がそこに行きたがるに違《ちが》いない。
その前には、どんな娯楽《ごらく》であっても、太刀打《たちう》ちはできない。
もちろんホロの手腕《しゅわん》ならロレンスの首根っこを掴《つか》んで自分のほうを向かせることくらい容易だろうが、賢《かしこ》い狼《オオカミ》はその代償《だいしょう》を心得ている。
そんなことをするくらいなら、自分が身を引いて、ロレンスからなにかを引き出したほうがよい。
ロレンスは、その取引に応じた。
くしゃりと前髪《まえがみ》を掴んだのは、こういう取引の話ならば自分もホロの胸中を簡単に読めるのに、という自嘲《じちょう》の意味だ。
ホロも呆《あき》れているに違《ちが》いない。
「見物料はトレニー銀貨一枚か」
腕《うで》を組んで首を捻《ひね》ってしまうあたり、ちょっと景気よく渡《わた》しすぎたかもしれない、と反省する。
しかし、その分文句は言われまい。
ロレンスは歩き出し、久しぶりの市場の中に分け入っていった。
自分でも、上手に溶《と》け込めたと思っている。
あとに残されたのは、蟻《アリ》の群れのようにざわめく市場の、猥雑《わいざつ》な雑踏《ざっとう》だけだった。
市場の中はちょっとした異世界だ。
嘘《うそ》か実《まこと》か、三角洲《さんかくす》の上にあるこの市場は、砂地に深く打ち込んだ無数の杭《くい》の上に築かれているらしい。
そして、杭の上に乗っている市場が川の流れに流されないようにと、建物の大半が石造りになっているという。木で作ると釘《くぎ》があっという間に錆《さ》びついて脆《もろ》くなるからその点では理解できるが、砂の上に石の建物を置いたら沈《しず》んでしまわないかと心配になってしまう。
もちろん、今までそんな話は聞いたことないので、きっと大丈夫《だいじょうぶ》なのだろう。
また、そんな具合であるから、石造りの建物の間に風で砂が運ばれてきて積もるせいで市場の様子ははるか南の砂漠《さばく》の国を思わせた。
風に乗って聞こえてくる言葉も多種多様な市場の中を進んでいき、迷うことなく金《きん》の泉へとたどり着いた。
泉の周りは円形の広場になっていて、東西南北に四本の道が泉から伸《の》びている。
また、泉の真ん中辺りにはその中心を示す一本の長い杭が立っていた。
黒ずみ、なにかのおまじないなのか、干からびた魚が三|尾《び》くくりつけられているそれには、今は天辺《てっぺん》に海鳥が一羽止まっていた。
そんな泉のほとりの一角には三組のテーブルと椅子《いす》が用意されていて、周りには革《かわ》の胸当てをして身長の倍近くはありそうな長い柄《え》の槍《やり》を持っている兵士が三名いる。
ぐるりと視線を巡《めぐ》らせてみれば、泉を取り囲むように建てられている宿や旅籠《はたご》の二階部分の窓は全《すべ》てが開け放たれていた。顔を覗《のぞ》かせているのは身なりのよさそうな商人ばかりで、中には女を侍《はべ》らせている者もいるのでやはりちょっとした娯楽《ごらく》なのだろう。
ロレンスはもちろん宿からのんびり観戦できるほど裕福《ゆうふく》ではないので、便乗《びんじょう》商売に勤《いそ》しんでいる露天商《ろてんしょう》からビールを買って、テーブルでのやり取りが十分聞こえそうな距離《きょり》の適当なところに陣取《じんど》った。
エーブの姿は見えないが、すでに椅子にはすぐにそれとわかる身なりの者たちが座り、それぞれの陣営の者同士と耳元で囁《ささや》き合っていた。
さて、今回の議題はなんなのだろうか、とわざわざ誰《だれ》かに教えを請《こ》う必要はない。
娯楽を前にした時の商人ほど口の軽い者もいないからだ。
儲《もう》け話《ばなし》には口の堅《かた》い商人も、噂話《うわさばなし》を前にすれば舌が滑《すべ》る。隣《となり》で強い蒸留酒を片手に大声で喋《しゃべ》っている商人たちの会話に聞き耳を立てているだけで、十分に把握《はあく》できた。
船旅の途中《とちゅう》で立ち寄った商人なのか、ひどく酔《よ》っ払《ぱら》っているせいでなかなか聞き取りづらかったが、要約するとこの三角洲《さんかくす》の上の市場を拡張《かくちょう》するかしないかの議論らしかった。
ロレンスが過去に訪《おとず》れた時もそんな話を耳にしたが、もしかしたらたびたび議論していることなのかもしれない。
ただ、単純に考えるのならば三角洲の上の市場を拡張すればそれだけ商人や商品が多く行き交《か》い、町に落ちる税も増えるのだから、特に話し合うこともなく意見の一致《いっち》を見そうなものだ。
もちろんそう簡単にはいかないからたびたび議論しているのだろうが、そういう時は大抵《たいてい》権力者同士の利害が対立している。
ロレンスはビールに口をつけながら、さてどんな欲にまみれた劇が繰《く》り広げられるのだろうかと、少し意地悪な気持ちでテーブルに着く者たちのことを眺《なが》めていた。
そんな折、ふっと視線がなにかに釣《つ》られたかと思うと、それはちょうど杭《くい》の上に止まっていた海鳥が飛び立った瞬間《しゅんかん》だった。
その直後だったのか、はたまた直前だったのか、甲高《かんだか》い鐘《かね》の音が市場に響《ひび》き渡《わた》ると、周辺のざわめきが波が引くように静まっていった。
泉のほとりに用意された椅子とテーブルのほうを見れば、話し合いの参加者たちがそれぞれ立ち上がり、互《たが》いに右手を差し出し合いながら会議の開始を宣言しているところだった。
「偉大《いだい》なる川の精霊《せいれい》、ロームの名の下《もと》に!」
そして、彼らは着席し、三人の兵士が空に向けて三度槍を振《ふ》った。
まるで大昔の帝国《ていこく》の賢人《けんじん》会議さながらに儀式《ぎしき》めいた開始の仕方だが、会議に権威《けんい》を持たせるにはこれくらいのことが必要なのかもしれない。
そこからは過去に何度も会議の権威《けんい》を貶《おとし》めるようなことがあったのだろうと予測ができる。
町の政策の決定機関である会議に権威がないと、町はあっという間に紛争《ふんそう》状態に陥《おちい》ってしまう。それは指揮《しき》官のいない傭兵《ようへい》集団と同じだからだ。
もちろん国を治める時も同じことで、だから国王などは王権は神から授《さず》かったもの、などと称《しょう》するのだ。
ロレンスはビールに口をつけ、皮肉な笑《え》みを口元に浮かべながら「どこも大変だな」という素直《すなお》な感想を呟《つぶや》かざるを得なかった。
「やはりそう思うだろう?」
だから、突然《とつぜん》そんな独《ひと》り言《ごと》に相槌《あいづち》を打たれて、危《あや》うくビールを吹《ふ》き出しそうになった。
慌《あわ》てて声のほうを振《ふ》り向けば、会議の場に姿の見えなかったエーブだ。
「そんなに慌てるとは、なにか隠《かく》し事《ごと》でも?」
顔に巻いた布の下から向けられる目は、薄《うす》く笑っていた。
「……商人は秘密と共に金貨を財布《さいふ》の中にしまい込みますからね」
「できれば墓の下まで持っていきたいものだ」
「ええ。まったくです」
ロレンスが大仰《おおぎょう》に肩《かた》をすくめると、エーブは町娘《まちむすめ》のように屈託《くったく》なく笑った。
「それで、私のような市井《しせい》の行商人にどんなご用件でしょうか」
「言うじゃないか。オレはあんたに首を絞《し》められたことを生涯《しょうがい》忘れないだろうな」
それを言われると辛《つら》い。
だが、どんな偉大《いだい》な将軍も、子供時代には誰《だれ》かと喧嘩《けんか》して泣いていたに違《ちが》いない。
「私はてっきり、あちらの席に座るものだとばかり思っていたものですから」
「あの儀式《ぎしき》に? あんなところからなにか得られるのなら、オレももう少し神とやらに祈《いの》っているさ」
エーブはそう言って細めた目を泉のほとりに向ける。
ロレンスはそんなエーブの横顔を無遠慮《ぶえんりょ》に見つめるが、その真意がよくわからない。
口数がずいぶん多いのは機嫌《きげん》がいいからか悪いからか。
もしもエーブがホロと同じ狼《オオカミ》なのだとしたら、多分後者だろうと胸中で呟いておく。
泉のほとりからは大きなしわぶきの音が聞こえ、次いで格式ばった議題の宣言が行われていた。
「会議、始まりましたよ」
すぐ側《そば》で蒸留酒を飲んでいた商人たちの喋《しゃべ》っていた話のとおり、宣言の内容は三角洲《さんかくす》の上の市場の拡張《かくちょう》問題についてだった。
その宣言を行っているのはエーブと共に同じ船に乗っていた身なりのよい男で、人前で演説するのに慣れたふうだった。
「茶番とまでは言わないが、いつだって会議の結論は会議の場所以外から得られるものだと思わないか?」
エーブの言葉にロレンスの返事が一瞬《いっしゅん》遅《おく》れてしまったのは、嫉妬《しっと》に近い感情に邪魔《じゃま》されたから。
「……では、エーブさんは机の下でのやり取りを任せられたと」
ロレンスの感情に気がついたかどうか。
エーブは肩《かた》をすくめて、ため息をついた。
「有体《ありてい》に言えば」
「そんなエーブさんが私の側《そば》で油を売っている理由が気になりますが」
言ってから、必要以上に嫉妬がまじってしまったかなとも思ったが、これくらいのひがみは許されるだろうと思いなおす。
どこかの町の有力者の信頼《しんらい》を得ることは、根無し草の行商人には眩《まぶ》しいくらいの栄光だからだ。
ただ、ロレンスの言葉を聞いて、エーブが途端《とたん》にぽかんとしたのにはちょっとびっくりした。
そんなに驚《おどろ》かれるほどのことだったか、と思った直後、エーブは視線を再び会議のほうに向けた。
そこでは北と南の代表者と思《おぼ》しき者同士の言葉の応酬《おうしゅう》になっているが、見た目ほどの覇気《はき》は感じられず、どことなく馬鹿《ばか》馬鹿しささえあった。
ロレンスがそこから視線を戻《もど》したのは、エーブがそうした一拍《いっぱく》あとのこと。
そして、エーブを見ればその顔はコルを見ていた時のような、笑顔《えがお》。
ロレンスはそう思って、いや、と思いなおした。
その顔は、毛皮と材木の町レノスで、互《たが》いに命のやり取りをした時に見せたものだ。
「素直《すなお》にひがんでくれて嬉《うれ》しい、と言ったら笑うか」
エーブが直前に会議のほうに目を向けた理由がわかった。
狼《オオカミ》と呼ばれる連中は、どいつもこいつも素直ではないのかもしれない。
「ええ、大笑いしますね」
商人と商人は、どこまで本音を隠《かく》して自分の利益を引き出せるかの化かし合いに明け暮れる。
その本能にも似たものに従うのならば、ロレンスはエーブの機嫌《きげん》を取り、その机の下のやり取りにまぜてもらおうとすることが正しい行為《こうい》である。ひがむのは二の次で、それを表に出すなどもってのほかだ。
それでも、商人の知人は商人しかいないのだとすれば、利益を出す商人の周りにいる全《すべ》ての人間は、本音を隠して自分の機嫌を取ろうとするということに他《ほか》ならない。
そして、どんな伝説の勇者であっても、時には休憩《きゅうけい》というものが必要だ。
だから、ロレンスが大した気配りもせずエーブへの嫉妬《しっと》心をあらわにしたことが、この狼《オオカミ》には逆に嬉《うれ》しかったのだろう。
エーブは自嘲《じちょう》するようにうつむいて視線を落とし、顔を上げるとその目元は雪解け水で洗ったように澄《す》んでいた。
「あんたを見つけて声をかけたのは正解だったな。正直あそこの連中に声をかけられて憂鬱《ゆううつ》で仕方がなかったんだ」
エーブはうんざりといった様子で会議の場を示す。
「金にならないから?」
ロレンスが言うと、エーブは顔に布を巻きつけていてもわかるくらいに口を歪《ゆが》めた。
それから、伸《の》ばした手でロレンスの手からビールを奪《うば》っていった。
「レノスの町とローム川で火遊びをしたオレが、この町に入っただけで一安心、とほっとしていられる理由の一つだからな」
政治的な庇護《ひご》者。あるいは、地方の領主程度では逮捕《たいほ》権の及《およ》ばない財力を持つ出資者かもしれない。
どちらにせよ、エーブと対等な立場ではないのだろう。
独立独歩と胸を張る行商人にだって、その類《たぐい》の人間はいる。
没落《ぼつらく》しているとはいえ、貴族の称号《しょうごう》を持ち、どん底から這《は》い上がってきたエーブには、傍《はた》からは窺《うかが》い知れぬしがらみが数多《あまた》あるに違《ちが》いなかった。
市場の入り口で出会った時はエーブは彼らに敬意を払《はら》われているふうだったが、エーブの様子からそんな単純なものではないのかもしれないと思いなおした。
「オレは連中の用心棒みたいなもんだがな、土台無理なことを命令されてるんだ。あんた、この市場のできた経緯、知ってるか?」
そんな話を振《ふ》られ、ロレンスは見栄《みえ》を張ることもなく首を横に振った。
「何十年か前にこの市場を作る時、その話を持ってきたのは北との貿易|拠点《きょてん》が欲しい南の商人連中だった。当然、商人たちは三角洲《さんかくす》を買い上げて、そこに市場を作りたいと地主たちに申し出た。だが、少しばかり知恵《ちえ》の足りなかった地主たちは、土地を売ったら大損すると考え、自分たちで市場を建設すると言い張った。莫大《ばくだい》な借金をしてまでもな」
「地主が北|側《がわ》の人間。金を貸したのが南側の人間」
エーブは顔に巻いている布を少しずらし、ビールを二口ほど飲んでから、ジョッキを返してきた。
「そう。あそこにいる連中は、金を借りた側と、貸した側のその息子《むすこ》たちだ。金を借りた地主側は土地を失わずにすみ、毎年莫大な金額の土地の使用料を得る代わりに、それと同じくらいの借金の利子を支払わなければならなくなった。もちろん、そのことに苛立《いらだ》ちを隠《かく》せない地主たちは必死に解決策を探そうとした」
「でも、見つからなかった」
エーブはうなずいて、その目を、人の命すら銀貨の枚数で数える冷たいものに変える。
「では、その二世たちは次になにを探す? 答えは簡単だ。八つ当たり先さ」
「無理難題を押しつけて、ですか」
もう、エーブの顔は静かな湖面のように微動《びどう》だにしなかった。
エーブは確かに大商人に手が届きそうな存在だが、今はまだ小金持ちの商人に過ぎない。
利用する側ではなく、される側。
エーブは誰《だれ》もが不可能だとわかりきっている、北側と南側の市場を巡《めぐ》る問題をひっくり返せと言われているのだ。
しかも、それは実際に解決を期待されているのではなく、解決できないことを責め、自分たちの苛立ちを紛《まぎ》らわすための、哀《あわ》れな羊を作ろうという目的のため。
エーブに負けた身としては、自分よりも強い者は、せめて世の覇者《はしゃ》であって欲しいと願ってしまう。
「ま、不幸はオレの専売特許じゃないけどな。レイノルズのところを見ただろう?」
エーブはあっけらかんとそう言った。エーブの強さがロレンスとは別種のものであるのは、きっと泳いできた海の種類が違うからだ。
「ええ……予想外に貧相でしたね」
「くっく。もう少し遠回しに言ってやれよ。だが、銅の輸出を一手に担《にな》っているようなところですら権力者に利益を吸い上げられる。ここはそういう場所なんだよ」
金がなく、権力だけがあるところほど悲惨な場所はない。
金持ち喧嘩《けんか》せずというのは世の真実だ。
「ま、あんたに迷惑《めいわく》がかかっちゃいけないからな。話し合いとやらに行ってくるよ」
ビールご馳走《ちそう》様、という言葉を付け足して、エーブは歩き出した。
ロレンスは、その背中に思わず声をかけていた。
「狼《オオカミ》の骨の話……無事聞けましたよ」
振《ふ》り向いたエーブは表情に変化を見せず、そのまま前に向きなおって歩いていってしまった。
しかし、その顔に巻いた布の下でうっすらと笑っていたのでは、と思うのは間違《まちが》いではない気がする。
今のエーブの振《ふ》る舞《ま》いは少しわざとらしかった。
いかにも声をかけてもらいたそうな、そんな感じだった。
ロレンスは他《ほか》の商人たちのように会議のほうを見ることはなく、ずっとエーブの背中を追いかけていた。
やがて、エーブは人垣《ひとがき》から離《はな》れた場所で固まっていた、一癖《ひとくせ》も二癖もありそうな商人たちに声をかけた。
服装からして南の商人たちだろう。
エーブが北|側《がわ》のそれであるように、彼らは南側の町の金袋《かねぶくろ》の用心棒に違いない。
きっと名前と所属を聞けばロレンスは彼らのほうにより大きい親近感を抱《いだ》くに違いないが、胸中で応援《おうえん》していたのはエーブのほうだった。
毛皮と材木の町レノスでは、エーブの周到《しゅうとう》さと命を賭《か》けることすらいとわない強固な意志を目《ま》の当《あ》たりにし、ローム川では目的の完遂《かんすい》のためには手段を選ばない徹底《てってい》さに帽子《ぼうし》を脱《ぬ》ぐ思いだった。
それがところ変われば使われる側なのだ。
もちろん、エーブは利用される代わりに自分も利用してきたのだろう。
ただ、教会権力に深く食い込んでいたレノスの町や、有力者と面識のあるこのケルーベの町をあっさりとあとにして、毛皮と共に南に下ろうというエーブの考えもわかる気がした。
剣《けん》一つ、身一つで世界を切り開ける英雄《えいゆう》ではなく、時には泥《どろ》をすすらなければならないごく普通《ふつう》の生身《なまみ》の商人なのだ。
商人は決して世の主役になれない、とは偉大《いだい》な商人の言葉である。
側《そば》にホロがいなくてよかったと思ったのは、少ししてからのこと。
そして、ぶどう酒ではなくビールにしておいてよかった、と思ったのはジョッキの中を覗《のぞ》き込んでからだった。
きっと自分の顔は情けないものになっているだろう。
ホロは狼《オオカミ》の神の骨が教会の布教のためにひどい扱《あつか》いをされているかもしれない、ということに怒《いか》りをあらわにしたが、そんな話は珍《めずら》しいことではないのかもしれない。
ジーン商会のレイノルズではないが、綺麗《きれい》な思い出だけを墓の下に持っていきたいものだ。
ロレンスはそう胸中で呟《つぶや》いて、相変わらずわざとらしいやり取りを繰《く》り返す会議の場に視線を向けて、苦いため息をビールで飲み込んだのだった。
三角洲《さんかくす》上の市場は、話に聞くとこの広い世の縮図《しゅくず》かと思われるほどにあちこちの国々の商品が集まり、そこに吹《ふ》く風には数十の国の言語がまざっている魅惑《みわく》の場所、というふうに聞こえたりする。
しかし、聞くと見るとは大違《おおちが》い、という言葉が侮《あなど》れないように、実際にこの市場に降り立った時の感覚は、多分、ジーン商会を目《ま》の当《あ》たりにした時に近い印象かもしれない。
年に数回だけ開かれる大市《おおいち》のように天にも届かんばかりに品物が並ぶわけでもなく、商売のために訪《おとず》れた者と、旅の途中《とちゅう》に立ち寄った者たちから小銭をせしめようと芸を披露《ひろう》している者たちもいない。
人出こそむせ返るような量だが、よくよく立ち並ぶ商店を見てみれば、実際に商品が並ぶことはとても少なく、そこに置かれているのは普通《ふつう》に生活している分には決して使わない大きな単位で示された商品の量と値段が書かれた木札だけで、見本の品は店主に一声かけないと見られなかったりする。
異国の食べ物を楽しもうにも、とにかく狭《せま》い市場であるから往来で気軽に飲んで騒《さわ》げる場所というのは存在しない。せいぜいがビールとぶどう酒を量り売りする露天《ろてん》商くらいだ。
それに、商売が行われる場所に必要なのは活気であって、混乱と暴力ではない。
そのために酒場の数は制限され、腰《こし》に長剣《ちょうけん》を提《さ》げた兵が待機していることも珍《めずら》しくない。
となると、ロレンスが足を向ける場所というのは限られていたし、それは賢《かしこ》い者ならさして広くもない市場をぐるりと一周しただけで気がついたことだろう。
だから、ロレンスが相手を見つけたというよりも、相手に見つけられたといったほうが正しかった。
どうせホロたちはホロたちで楽しんでいるだろうからと、白々《しらじら》しくはあったがそれそのものは興味深いやり取りの権力者たちの寸劇をひとしきり堪能《たんのう》したのち、ロレンスはホロたちの姿を探しに一|軒《けん》目の酒場にたどり着いた。
頭上から声をかけられたのは、扉《とびら》に手をかけるかかけないかの瞬間《しゅんかん》だった。
「ぬしよ」
ロレンスはその場では返事をせず、やれやれと酒場の中に入っていった。
頭上からかけられた陽気な声の持ち主が陣取《じんど》る酒場の二階の小部屋に入った直後、ロレンスが言った言葉はまったくの嫌味《いやみ》、というわけでもなかった。
「ずいぶんなご身分だな?」
「そうかや? わっちゃあぬしがくれた銀貨しか使っておらぬがな」
窓際《まどぎわ》に椅子《いす》とテーブルが置かれていて、ホロは窓|枠《わく》の上に腰掛《こしか》けて酒を飲んでいた。
通りからはその姿が丸見えなのに、酔《よ》っているのか、はたまたばれないという自信があるのか、尻尾《しっぽ》も耳もさらけ出していた。
「トレニー銀貨を一枚、なんのためらいもなく酒を飲むことに使えるというのがどれほどのことか……近いうちにお前に教えないといけないかもしれない」
床《ゆか》に転がっている小さな樽《たる》を拾い上げ、空っぽの中身の匂《にお》いを嗅《か》いで、ロレンスはため息をつく。
大酒飲みで大飯喰《おおめしぐ》らいのくせに舌が肥えているからたちが悪い。
「コルは?」
テーブルの上には肉料理が載《の》っかっていたとだけわかる皿が置かれているあたり、買い出しに行かされているのだろう。
「ぬしが思っておるとおり」
酒で体が温まっているらしく、ホロは外から入ってくる冷たい風に涼《すず》しげな顔をしている。
「まったく……あんまりこき使うなよ」
ロレンスはテーブルの上にある中身の入った酒樽を手に取って、狭《せま》い部屋に備えつけられているベッドに腰掛けた。
つくりの悪い粗末《そまつ》なそれだが、豚《ブタ》か鶏《ニワトリ》かといった扱《あつか》いに等しい船旅から解放された者たちには王宮の天蓋《てんがい》つきベッドに匹敵《ひってき》する。
もっとも、ぎゅうぎゅうに船蔵《ふなぐら》に押し込められてようやく陸に上がった者たちが、酒を片手にこんな部屋に閉じこもってのんびり昼寝《ひるね》、などという平和な世の中であれば教会の説教は要《い》りはしない。
もちろんホロはそんなこと知らずに借りたのだろうが、一度意識してしまうとなんとなくそわそわしてしまう。
「で、ぬしはなにか新しい話を掴《つか》んできたのかや?」
顔を外に向けてはいるが、ホロは木窓の窓|枠《わく》に頭をつけて目を閉じて、風に頬《ほお》を撫《な》でさせている。
その様子は外から聞こえてくるリュートの音色に耳を澄《す》ましているようにも、なにか考え事をしているようにも見える。
よくよく見ると音に合わせて耳が小さく動いているので、きっと前者だろう。
「そう見えるか」
のんびりする時にはぴったりの甘いぶどう酒を一口飲んで、ロレンスは言った。
「見える。楽しそうな顔じゃ」
目を閉じているというのに、だからこそなんでも見|透《す》かされているような雰囲気《ふんいき》がある。
ロレンスは自分の顔を撫《な》でて、苦笑した。
「楽しそうな?」
エーブと話をしたあとの顔はとっくに消せているという自信があっても、億劫《おっくう》そうに目を開けてこちらを見たホロの目は意地悪く笑っていた。
「わっちに嘘《うそ》をつくなど百年早い」
まさかここから泉のほとりでのやり取りが聞こえたのか、と思った直後、そうではないと気がついた。
かまかけ。
ロレンスは額に手を当てて、楽しそうに尻尾《しっぽ》を揺《ゆ》らすホロの前でため息をついた。
「ま、楽しそうな顔をしておるというのは本当に気がついておったがな。この程度のものに引っかかっておってはまだまだじゃ」
「……肝《きも》に銘《めい》じておく」
「その小さい肝に、果たして銘じきれるかどうか怪《あや》しいものじゃがな」
ホロはくすぐったそうに首をすくめながら言って、楽しそうに笑った。
「……ったく。だが、楽しそうだ、というのは間違《まちが》いだ。はっきり言えば、甘い酒ではなく辛《から》い酒が欲しくなるような話だからな」
「ふむ?」
ホロは胡坐《あぐら》を解いて立ち上がる。
ちょっとふらふらしているので、だいぶ酔《よ》いが回っているのかもしれない。
「よっ……と。少し寒くなりんす」
そんなことを言って隣《となり》に座り、ぴったりと寄り添《そ》ってくる。
過酷《かこく》な船旅から解放されるその一瞬《いっしゅん》に、多くの者がつかの間の逢瀬《おうせ》を楽しむ場所でこんな格好になれば、ロレンスとてそれなりに色々考えてしまう。
しかし、そこはホロのこと。
ベッドの上に足を上げると、ロレンスに背中を向ける形で寄りかかり、尻尾は自分で抱《だ》きかかえてしまった。
ちょっとだけ拍子抜《ひょうしぬ》け。
そう思わせる手口なのかもしれないが。
「それで、ぬしはどんな話を聞いてきたんじゃ?」
そんなことを胸中であれこれ考えるロレンスとは裏腹に、ホロはいつもどおりの調子だった。
これでは意識するだけ間抜《まぬ》けになる。
ロレンスは、小さくため息を挟《はさ》んでから答えた。
「この町の暗い部分かな」
「ふむ」
「要約すれば単なる金の貸し借りなんだが、金額が少しでかい」
ホロは起《お》き抜《ぬ》けの水のようにごくりごくりとぶどう酒を飲んでいる。
それほどきつくないやつを飲んでいるのだろうが、ちょっと止めたほうがいいかもしれない。
そう思ってホロが手に持つ樽《たる》に手を伸《の》ばそうとした時だった。
「今、酒と共にどれだけの言葉を飲み込んだかわかるかや?」
ロレンスがホロのほうに手を伸ばしたあとだったので、ホロはロレンスの腕《うで》の下にいる格好になる。
懐《ふところ》に、牙《きば》を持つ狼《オオカミ》。
「ぬし自身に関係のない金の話ならば、ぬしは尻尾《しっぽ》をぶんぶん振《ふ》っておるはずじゃ。それがそうでもないのはなぜじゃろうな?」
ホロはまたごくりと酒を飲んで、げっぷを一つ。
それから、ロレンスの伸ばしかけたまま止まっていた手を取ると、そこに樽を押しつけた。
「で、牝狐《めギツネ》とどんな話をしてきたんじゃ?」
ホロに隠《かく》し事《ごと》は、不可能なようだった。
ロレンスは押しつけられた樽を掴《つか》み、口に運ぶ。
直後に、やられた、と思った。
ホロは腕の下で笑っている。
樽の中身は、酒ではなくおそらくはコル用の蜂蜜《はちみつ》入りの山羊《ヤギ》の乳だった。
これだけ周到《しゅうとう》に罠《わな》を張っていたのだから、洗《あら》いざらい喋《しゃべ》っても怒《おこ》りはしないだろう。
ロレンスは、ゆっくりと口を開いた。
「……俺たちを散々巻き込んで利用していたエーブがな、この町では小娘扱《こむすめあつか》いだった」
「ふむ」
「この町の権力者連中に、利用されるどころか八つ当たりのために使われている感じだった。レノスの町でも、ローム川でも、脱帽《だつぼう》せざるを得なかったくらいの商人が、ところ変われば八つ当たりの対象だ。それで、なんというかな……」
これ以上のことを言ったら怒り出すかとも思ったが、ここまで言って本音を隠したほうがホロはきっともっと怒るだろうと思いなおした。
一言で、続ける。
「寂《さび》しくなった」
ホロはなにも言わず、振り向きもしない。
沈黙《ちんもく》が嫌《いや》で、もう少し紡《つむ》いだ。
「エーブほどの商人でもそうなんだ。翻《ひるがえ》れば、ではそれに負けた俺は? となるだろう。自分に勝った相手には……せめて世の覇者《はしゃ》であって欲しい、と思いたくならないか」
上には上がいるのは当然だし、広い世の中で自分だけが特別だと思うような年頃《としごろ》はとっくにすぎた。こんな弱音はもう何年も抱《いだ》いていなかった。
しかし、それは別に自分が年を取ったり強くなったから、というわけではない。
こんなことを思い悩《なや》んで一人落ち込んでも、行商の一人旅では励《はげ》ましてくれる人は側《そば》にいないという現実を学んだからだ。
ただ、今ならば。
ロレンスは自嘲《じちょう》気味に笑った。
今ならば、呆《あき》れられるか、軽蔑《けいべつ》されるか、少なくともなにかしらの反応は返ってくる。
今までは見てみぬふりをしてきたものに向き合って、なお前に進んでいくにはそれだけで十分すぎる糧《かて》だった。
「ぬしよ」
「ん」
ホロは、しばしの沈黙《ちんもく》を経て、顔を上げた。
「わっちゃあぬしの話を聞いて、二つ腹が立っておった」
「……そうか」
「じゃが、今ぬしの顔を見て、三つ目の腹が立った」
「お前は五人分は飯を食うからな。立つ腹もあと二つくらいはあるだろうな」
ロレンスの軽口に、ホロは脇腹《わきばら》に肘打《ひじう》ちをして体を起こした。
「一つはな、ぬしの話では、ぬしを連れにしておるこのわっちまでもが、へたれになってしまいんす」
確かにそうなるので、黙《だま》っておく。
「もう一つは、そんなたわけたことにしょげておるなど、ぬしは仔《こ》かということじゃ」
「返す言葉もない」
「そして最後の一つじゃ」
ホロはベッドの上に膝立《ひざだ》ちになり、両手を腰《こし》に当ててロレンスを見下ろしている。
不機嫌《ふきげん》そうな顔をしているが、どことなくその様子が間抜《まぬ》けに見えてしまったのはなぜだろうか。
ただ、それは気のせいではなかったのだと、すぐにわかることになった。
「……そんな、とても一人前の雄《おす》とは思えぬたわけたことに尻尾《しっぽ》を丸めておきながら、なんじゃその面《つら》は……」
「……顔?」
ロレンスが聞き返すと、ホロはためらったあとに、小さくうなずいた。
「そんな弱音を吐《は》いておるくせに……」
そして、ホロはそっぽを向いた。
「いつでも一人で歩き出せるというような顔をしていんす」
笑ってはいけない。
そう思った時にはすでに遅《おそ》く、酒以外のなにかで少し頬《ほお》を染めたホロが、耳をいきり立たせて牙《きば》を剥《む》いた。
しかし、ロレンスは落ち着いてこう訊《たず》ねた。
「これで、一人じゃ歩き出せない、なんて顔をしていたらお前は散々|罵倒《ばとう》するだろう?」
ホロは不満そうだ。
それでも、しばらく不満そうに唸《うな》ってから、うなずきがてらにすとんと腰《こし》を下ろす。
尻尾《しっぽ》が左右に大きく振《ふ》られ、不機嫌《ふきげん》そうなため息がつかれた。
「当然じゃ。それで罵倒してからかって弄《もてあそ》んで、それでもなおわっちのあとをついてくるぬしを見て悦《えつ》に浸《ひた》るんじゃ」
「それは……ちょっとごめんこうむるな」
「たわけ」
ホロは言う。
ロレンスがその頃合《ころあい》を見計らって手を引くと、その体は綿毛のように軽く、こちらに倒《たお》れてきた。
ホロが怒《おこ》った理由はもちろんわかっている。
腕《うで》の中のホロは、相変わらずむくれている。
「悪かった、と言うべきなのか?」
「悪いのはいつもぬしじゃ」
「……」
ホロはロレンスの旅の連れであり、ロレンスはホロの旅の連れ。
どちらがどうというわけではなく、互《たが》いに支え合うのが理想といえる。
相手を怒らせるのはいつもロレンスでも、ホロはいつも怒るのが役目ではない。
それならば、なんともおかしな言い方ではあるが、ロレンスは勇気を振り絞《しぼ》って腑抜《ふぬ》けになるべきだった。
お前の支えがなければ駄目《だめ》なんだと。
たとえホロに罵《ののし》られても。
「だが、おかしいと思わないか」
「んむ?」
腕の中のホロは、顔を上げずに聞き返してくる。
「それで、なんで俺がお前を慰《なぐさ》めるような格好になってるんだ?」
耳がひくひくと動き、ロレンスの頬《ほお》をくすぐってくる。
ホロは顔を上げ、心底楽しそうに意地悪げな笑《え》みを浮かべてこう言った。
「それがわっちの特権じゃからな」
「まったく……だが、どうせそんなのが好みの俺だからな」
「くふ」
ホロは笑って、それから一度こちらにしがみついてきた。
しかし、ロレンスにだってさすがに予測ができる。
「おい、またコルを使ってからかう、つもり…………?」
ロレンスの言葉は、そのまま消えてしまった。
「人は強く、強い者は後ろを顧《かえり》みぬ。わっちゃあ長いこと顧みられなかった。もうそれは嫌《いや》なんじゃ」
泣きながらでも、言葉に詰《つ》まるでもなく、はっきりとホロはそう言った。
ヨイツの賢狼《けんろう》たる、実に堂々とした弱音の吐《は》き方《かた》だと思った。
それがどんなに場違《ばちが》いな言い方であっても、ロレンスはそう思った。
だから、敬意を込めて、その小さな頭を撫《な》でてやった。
「俺が臆病《おくびょう》なのは知ってるだろう? いつも恐《おそ》る恐る後ろを振《ふ》り返らなきゃならない。だからそのへんは、大丈夫《だいじょうぶ》だ」
ロレンスが言うと、ホロは涙《なみだ》を拭《ぬぐ》うかのように顔を胸に押し当てながら、首を横に振った。
「それは、それで嫌《いや》じゃ」
この期《ご》に及《およ》んでもわがままを忘れないその姿勢には敬服する。
ロレンスは苦笑いしつつ、ホロの耳の付け根を軽く掻《か》いてやった。
「なにかを決める時にはお前に相談する。そういうことだろう?」
「わっちへの供え物なのに、わっちに意見も聞かずあれこれ変えられるのはもう嫌じゃ」
わざと卑近《ひきん》なたとえを出したのだろうが、それだとロレンスがホロに向ける気持ちは供え物だということになってしまう。
「俺の気持ちは供え物か」
「お祈《いの》りするには必要なものじゃと思いんす」
ホロの耳がひくひくと動き、ロレンスは笑う。
ロレンスは、こう言った。
「なにを祈るんだ?」
少し体を起こしたホロが、短く答える。
「コル坊《ぼう》が来んように」
「……ったく」
悔《くや》しいが、敵《かな》わない。
ホロは笑って、目を閉じた。
ただ、ホロがこんなにもわかりやすく本音を言ってくれたのだから、大事なことに違《ちが》いない。
確かに、自分の頭越《あたまご》しになにかを決められるというのは商売の上でも一番|嫌《いや》なこと。
ホロは村で豊作を司《つかさど》る神として過ごしていた時も、その長い年月に渡《わた》ってそんな感じだったのだ。
挙句《あげく》、月を狩《か》る熊《くま》とホロの故郷を巡《めぐ》る話でも、ホロは蚊帳《かや》の外にいた。
自分に関《かか》わることなのに、自分の外で決まってしまう寂寥《せきりょう》感。
もう、うんざりなのだろう。
本当ならロレンスがきちんと察しなければいけなかったことなのだろうが、それを待っているといつになるかわからない。
ホロに聞いたら、きっとそう答えられたことだろう。
「ま、頃合《ころあい》をはかってぬしを罠《わな》に嵌《は》めるのも結構骨じゃからな。たまにはいいじゃろ?」
すぐ側《そば》にあるホロの顔が底意地悪く微笑《ほほえ》み、同時に狼《オオカミ》の耳が獲物《えもの》を見つけたように廊下《ろうか》のほうを向く。
その意味するところは明白だが、賢狼《けんろう》は二度同じ罠を仕掛《しか》けるほどつまらない狩人《かりうど》ではないらしい。
「そういつもいつも嵌まると思うなよ?」
ホロは無言の笑みで牙《きば》だけ見せて、ロレンスからさっさと離《はな》れると窓枠《まどわく》に腰掛《こしか》ける。
ロレンスの口にはたっぷりと蜂蜜《はちみつ》の甘さが残っていても、そんなあっさり離れられたらどうしたって苦笑いだ。
ただ、その直後に計ったように扉《とびら》がノックされるのを見れば、確かに簡単に罠に嵌まってしまうかもしれない。
「お待たせしました」
扉《とびら》を開けてそこにいたのは、もちろんのこと、コル。
「まったくじゃ。待ちくたびれてしまいんす。酒はどれじゃ酒は」
「えーと、こちらに……あ、ロレンスさんの分もありますよ」
「なんじゃそんなものは買ってこんでもよかったのに。もったいないっ」
ホロとコルのやり取りに、ロレンスはついつい笑ってしまう。
もっとも、笑ってしまった最大の理由は、こんなにもあっさり態度と表情を変えられたら、自分ごときなどそれは簡単に罠に嵌まってしまうだろう、ということだ。
本当に、恐《おそ》ろしい。
恐ろしいから、ロレンスは塩《しお》っ辛《から》い干し肉を選んで、噛《か》みちぎったのだった。
「それで、ぬしが耳にしてきた話というのはなにかに使えそうなのかや」
使い走りをさせたコルにはねぎらいの言葉一つなかったので、代わりにロレンスが言っておいた。
もっとも、感心してしまったというのもある。
コルはぼろぼろの外套《がいとう》を上手に袋《ふくろ》状にして肩《かた》に提《さ》げられるようにして使っていた。ホロは意地悪してたくさんの酒と食べ物を買ってこいと言っていたのだろうが、難なくこなしていた。
ねぎらいの言葉がなかったのは悔《くや》しさもあったのかもしれない。
なんにせよ、コルはつくづく商人の弟子《でし》になったら競《せ》りにかけたいくらいの逸材《いつざい》だった。
「聞いておるのかや?」
食べ物や酒をテーブルの上に並べるコルの手際《てぎわ》のよさを眺《なが》めていたら、ホロに嫌味《いやみ》ったらしい口調でそう言われた。
「聞いている」
「どうかや」
「調べる価値はあるだろう。ここの市場を建てるのに北|側《がわ》の有力者たちは金を借りて、その支|払《はら》いに汲々《きゅうきゅう》としているらしい。で、俺たちがてっきり大きくて悪辣《あくらつ》な大商会だと思っていたジーン商会は軒先《のきさき》でラバが欠伸《あくび》をし、鶏《ニワトリ》が暢気《のんき》に卵を産み散らかしているようなところだった」
ホロは焼いた巻貝《まきがい》の身を口の中でもぐもぐさせている。
代わりに、コルが口を開いた。
「利益を、横取りされている?」
「そう。ジーン商会はローム川流域の銅の取引を一手に担《にな》っているが、その利益は北の権力者に横取りされている。だとすれば」
ホロは貝をぶどう酒で流し込んで、げっぷを一つ。
「腹立ち紛《まぎ》れにでかい儲《もう》け話《ばなし》に手を出してもおかしくはありんせん、ということかや」
「まあ、そうだ。それに……」
なんの魚かはわからないが、銀色の鱗《うろこ》をつけたまま油で揚《あ》げられている魚の切り身をつまんで、口に運ぶ。
油の質もいいのか、柔《やわ》らかくて甘い。
以前にトレニー銀貨を一枚|渡《わた》したら全《すべ》て使いきって林檎《リンゴ》を買い込んだホロだ。
遠慮《えんりょ》の二文字など相変わらず忘れているのだろう。
「レイノルズには、ちょっと怪《あや》しいところがあったしな」
「ふむ。まあ、隠《かく》し事《ごと》をしておるじゃろうな」
コルだけが、「え」といった顔でロレンスとホロの二人を見る。
「内容を推測《すいそく》するのは難しくない。狼《オオカミ》の骨の話をしに行って隠し事をされたとしたら?」
「耳隠して尻尾《しっぽ》隠さず、じゃな」
ホロは耳と尻尾《しっぽ》をはたはたとさせてそんなことを言う。
しかし、相手は商人だ。
「世の中には能ある鷹《タカ》は爪《つめ》を隠《かく》すなんて言葉もあるからな。隠したのは耳ではなく角かもしれない」
「それに、ぬしは別《わか》れ際《ぎわ》にずいぶん熱烈《ねつれつ》な握手《あくしゅ》を貰《もら》っておったな?」
さすがによく見ている。
ロレンスはうなずき、歯に挟《はさ》まった鱗《うろこ》を取った。
「エーブ・ボラン氏によろしく、と言いたいのは、エーブの金にか、商才にか、はたまた人脈にか」
「あの牝狐《めギツネ》は有り金はたいて毛皮を買った直後。まあ、牝狐の懐《ふところ》具合を知らなかったのだとしても、金を借りに行く場所は他《ほか》にもたくさんありそうなものじゃしな?」
ホロは言いながら、からかうような笑《え》みを向けてくる。
ロレンスが以前に破産しかけて金策に走り回ったことを突《つ》いているのだ。
「……となると、商才か人脈か。どちらにしろ、役者と台本が揃《そろ》いすぎじゃないか?」
ホロはうっすらと笑うだけで、のんびりと外のほうを向いている。
ロレンスはロレンスでテーブルの上の食べ物をちびちびとつまみ、コルだけが一人、小さな樽《たる》を抱《かか》えるようにして両手で持って、二人のことを見比べている。
別に意地悪をしているわけではない。
コルは賢《かしこ》い少年だ。
人を疑うということをほとんど知らなくとも、そういう見方もあるのかと教えられたらきちんとそれについて考えることのできる頭を持っている。
つまり、ホロとロレンスはそれぞれの印象から、それぞれすでに絵を描《か》いている。
その断片をコルに聞かせて、どんな絵になるのか照らし合わせたいのだ。
「あ、あの!」
コルは手を挙げて、起立した。
どんなに厳しく偏屈《へんくつ》な学者であっても、こんなに真剣《しんけん》になられたら可愛《かわい》がらざるを得ない。
コルが騙《だま》されたのは、もしかしたら先輩《せんぱい》による嫉妬《しっと》からだったのではないかと思うほどだ。
「レイノルズ、さんは、今でも骨を探しているのでしょうか?」
ホロは返事をしない。
しかし、コルはきっと意地悪な博士《はくし》から講義を受けていたに違《ちが》いなく、少しも怯《ひる》むことはなかった。
「もしもレイノルズさんの隠《かく》し事《ごと》が今でも骨を探していることだとするのなら、本当なら、僕たちのことなど適当にあしらって話を隠すはず。それでも僕たちを歓待《かんたい》したのはエーブさんの親書を持っていたから? だとすれば、ロレンスさんが別《わか》れ際《ぎわ》に握手《あくしゅ》を求められたというその理由は……」
コルは考える。
コルにはエーブがどの程度の商才を持つ人間なのかについての知識がない。
とすれば、その印象からあれこれ判断することになる。
コルの目からは、この絵はどう見えているのか。
「その理由は、狼《オオカミ》の骨を探す際に手を貸して欲しいから、ですね?」
同じ疑問|符《ふ》をつけた発言でも、こんなにも印象が変わるものだ。
ホロは樽《たる》の中の酒を飲んで、コルに目を向ける。
そして、軽く笑ってから、ロレンスのほうを向いた。
「どうじゃ?」
ロレンスは、聞かなくてもわかるだろう、と手を振《ふ》った。
それが真《しん》か偽《ぎ》かはともかくとして、そのように考えるとすんなりいくのだ。
「それに、そう考えるとエーブがあっさりと親書を書いてくれたのもわかる気がする。エーブのことだから、レイノルズがこの話で自分と協力したがっていることを前々から知っていたはずだ。それでも話が話だから慎重《しんちょう》になり、はぐらかしていた。あるいは、信じるに足らなかったのかもしれない。どちらにせよ、当然レイノルズはエーブの協力が欲しくてやきもきしている。そこに現れた三人組。エーブはどう考える? 狼のように狡猾《こうかつ》なエーブだからな、当初はレイノルズの話を荒唐無稽《こうとうむけい》と一蹴《いっしゅう》しておきながら、そこに俺たちまで現れたら、もしや、と思う。しかし、自分からレイノルズに声をかけて話を聞くのは得策ではない。では、どうするか。なんとちょうど利用し甲斐《がい》のある奴《やつ》らが目の前にいるじゃないか……」
「しめしめ」
ホロは老婆《ろうば》のような声音《こわね》でそう言って、くすくすと笑う。
もしもこんな構図なら、レイノルズはレイノルズでエーブがなんらかの興味を示してくれている、と思ったに違《ちが》いない。
だからこそ、コルが「骨は見つかったのですか?」と聞いた時に対応を一変させたのだろう。
いくら偵察《ていさつ》といってもこんな半人前を寄越《よこ》しやがって、と怒《おこ》ったのか、あるいはロレンスたちのことをエーブの指示を受けた斥候《せっこう》だと考えたのは思い過ごしか、という拍子抜《ひょうしぬ》けをした。
話のあとにロレンスたちにご馳走《ちそう》してくれたのは、少なくともロレンスたちがエーブの指示を受けてやってきた連中ではなく、体《てい》よくエーブに利用されている間抜けな羊だと考えたからかもしれない。
それならば、言葉の端々《はしばし》にそれとなく伝えたいことをまぜるようなまどろっこしいことではなく、わかりやすくご馳走したほうがよい。
と、ひとまずはこのようにあの商会での出来事を解体することができる。
筋張った山羊《ヤギ》でも、上手に刃《は》を入れると簡単にばらばらに捌《さば》けるものだ。
「ではどうするかや、ぬしよ」
ホロは至極《しごく》あっさりとした口調で訊《たず》ねてくる。
ただ、その琥珀《こはく》色の目の赤みはいつもよりも強くなっている気がする。
一時は貧相なたたずまいから肩透《かたす》かしを喰らったジーン商会だが、狼《オオカミ》の骨を未《いま》だに追いかけているという話に肉づけがなされた途端《とたん》、怒《いか》りがぶり返したのかもしれない。
それに、ホロには「今度こそ」という思いがあるに違《ちが》いない。
今度こそ、腹の立つ事件には自分自身が、自分の牙《きば》と爪《つめ》と頭脳をもって対処したい。決して素通《すどお》りだけはさせはしない。
そう思っているのかもしれない。
だとすれば、その連れであるロレンスの答えなど。
「決まっている」
ロレンスは続けようとして、もう一つの視線に気がついた。
じっと口をつぐんではいるが、コルだって気持ちのうえではホロと大差ないのだ。
「調べてみよう。なにもなければ、それはそれでよし、だ」
一人で行く行商の旅ではなかったこと。
二人で行く行商の旅でもなかったこと。
意見の一致《いっち》を見て行動を決めるというのは、なるほどなかなかに心地《ここち》よいものだった。
これを軍勢相手にやれるのだとしたら、確かに貴族連中が競《きそ》って騎士《きし》団を率《ひき》いたがるのもわかる気がする。
ただ、いつもいつもこんなことをしていたら気疲《きづか》れしてしまいそうだ。
ホロは同じことでも村丸ごとという重責を背負っていたのだから、それは苦しくなるだろう。
挙句《あげく》、感謝もなにもされはしない。
自分がこんな立場になってみて初めて、出会った直後は泣いたりしょげたりするホロをその場しのぎで慰《なぐさ》めていただけなのだ、ということに気がつく。
だというのにまるで自分がホロの保護者だというふうに思い込んでいたのだから、ホロに簡単に足元をすくわれてしまうわけだ。
ロレンスは、コルと大して変わらない年齢《ねんれい》に見えるホロに隠《かく》れて小さく笑う。
そして、すぐに笑《え》みを消して深呼吸をすると、指揮《しき》官らしくこう言った。
「では、各々《おのおの》の役目を伝えよう」
コルは真剣に、ホロはもちろん真剣に演技をして、ロレンスの話に耳を傾《かたむ》けたのだった。
[#改ページ]
第三幕
ロレンスが酒場の追加の精算を終えて外に出ると、コルとホロが互《たが》いの足を踏《ふ》み合って遊んでいた。
コルがロレンスに気がついて足を止めると、容赦《ようしゃ》のないホロはそこを狙《ねら》って思いきりコルの足を踏む。
「わっちの勝ちじゃな」
そう言って胸を張るホロに、下手《したて》に出て「負けました」という顔をするのがコルなのだから、どちらが子供かわかったものではない。
もっとも、人間も歳《とし》を取ると子供に戻《もど》るというので、あながち間違《まちが》いでもないのかもしれなかったが。
「さて」
無邪気《むじゃき》に遊んでいるのを見ると、背丈《せたけ》が似通っているのもあって双子《ふたご》の兄妹《きょうだい》のようなホロとコルが、揃《そろ》ってこちらを振《ふ》り向いた。
「それじゃあ、各自役割は心得ているな?」
「はい」
「んむ」
返事の速さではコルのほうが上だ。
学びの都アケントでの勉強風景が目に浮かぶ。
対するホロは、ふてぶてしく返事をして暢気《のんき》に欠伸《あくび》などしていた。
「ただ、ちょっとどきどきしますけど」
「大丈夫《だいじょうぶ》。まあ、一つ助言をしておけば、嘘《うそ》をつく最大のコツは、これは考えようによっては嘘ではないと自分に言い聞かせることだ。それに、実際に嘘をつくわけじゃないだろう?」
コルが不安そうに笑うので、ロレンスはそう言ってやる。
「ええ……いえ、大丈夫です。きちんと話を集めてきます」
初陣《ういじん》に赴《おもむ》く騎士《きし》のように気負って答えるコルの肩《かた》を軽く叩《たた》いて、「期待している」と付け加える。
ロレンスの見立てでは、コルは仕事を任されればそれだけ成長すると思えた。
アケントで石盤《せきばん》を抱《だ》きかかえながら石灰《せっかい》まみれになっていただけの少年ではない。
騙《だま》され追い出され、着の身着のままの旅でもなんとか生きながらえてきた実績がある。
期待している、というのは嘘ではなかった。
「じゃあ、晩に」
「はい」
ホロと足を踏《ふ》み合って遊んでいた時とはまったく違《ちが》う顔でうなずいて、思いきりよく歩き出した。
その背中は小さいながらも、ちょっとした貫禄《かんろく》があった。
さて自分があの歳《とし》の時、自分の背中はどんなふうだったろうか、と思う間もなく、袖《そで》を引っ張られた。
商売女の客引きというわけではないが、ある意味それよりももっとたちの悪い、ホロだった。
「ではわっちらも行くかや」
「あ、ああ」
ホロもまた、あっさりと歩き出し、足が出るのが遅《おく》れてしまったロレンスのことを振《ふ》り向いて「うん?」と言った。
慌《あわ》ててホロに追いついて、やれやれと思う。
あれだけコルを可愛《かわい》がっておきながら、試練に出す時はこんなにもあっさりとしているのだ。
それとも、それだけコルを買っているということなのだろうか。
ロレンスだってコルのことを買っていないわけではないが、こんなにもあっさりと信頼《しんらい》することはできない。
「お前、本当に一人で大丈夫か?」
だから、ロレンスは我慢《がまん》できずにそう訊《たず》ねた。
三角洲《さんかくす》から、南|側《がわ》の岸辺に行く渡《わた》し船《ぶね》の乗り場に向かう途中《とちゅう》のこと。
せっかく三人もいるのだから一緒《いっしょ》に行動するのは愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》、ということで、情報を集めるために手分けすることにした。
コルは旅をする物乞《ものご》いのふりをして、北|側《がわ》で物乞いたちからジーン商会の羽振《はぶ》りやその内実を。
ホロは北へ向かう修道女のふりをして、南側で教会からロエフやローム川上流での教会の権勢と動向について。
そしてロレンスは、三角洲《さんかくす》にあるローエン商業組合の別館からジーン商会の商売と狼《オオカミ》の骨の話にまつわる話を。
ホロもコルも自分よりよほど優秀なので、普通《ふつう》に考えれば心配はない。
ただ、特にホロについては狼《オオカミ》の耳と尻尾《しっぽ》が生える異教の体現者だ。
口と頭の回り方は三人の中で一番とはいえ、一人で行かせるにはどうしても不安があった。
「やはり、俺と一緒《いっしょ》に――」
人ごみが切れ、少し先を歩いていたホロがロレンスよりも数歩先に出る。
ロレンスの言葉は、先に人ごみを抜《ぬ》けていたホロが振り向いたことで途切《とぎ》れた。
「コル坊《ぼう》には大丈夫《だいじょうぶ》と請《う》け合って、わっちは一人でお使いもできぬ半人前|扱《あつか》いかや?」
琥珀《こはく》色の目が細められ、その赤みが強くなった気がする。
その向こう側には船着き場が見えていて、北側の岸に向かうそこよりも賑《にぎ》わっていた。
「そういうわけじゃないが……」
「なら、どういうわけかや?」
ホロを心配することにあれやこれや理屈《りくつ》をつけられても、その根っこのところは理屈ではない。
しかし、ホロが怒《おこ》るのももっともだった。
「悪かった」
そう答えると、その瞬間《しゅんかん》にホロに胸を突《つ》かれた。
「たわけ」
「っ?」
ホロはますます怒ったようにロレンスのことを睨《にら》み、ぷいと横を向いてしまう。
まったく訳がわからずに突かれた胸を押さえていると、ホロはしばらくしてからため息まじりにこちらを振り向いた。
「ぬしは本当に政治が下手くそじゃな」
「政、治?」
「ぬしは本当に下手くそじゃ」
もう一度言われて、ロレンスは頭を掻《か》いた。
「大体じゃな、この状況《じょうきょう》でわっちを一人で行かせぬ理由がわかりんせん」
ロレンスには相変わらずその言葉の意味がわからない。
「いや……もし万が一のことがあれば……」
「そんなことはコル坊《ぼう》にだってありんす。あのな、ぬしよ」
「あ、ああ……」
突然《とつぜん》居住まいを正し、言いにくいことを言うような顔になったホロに、ロレンスも釣《つ》られて背筋を伸《の》ばしてしまう。
そして、川《かわ》べりに向けていた視線をロレンスに向けるや、ホロのそれはどことなくロレンスを責めるようなそれ。
記憶《きおく》を漁《あさ》るならば、それは照《て》れ隠《かく》しだ。
「ぬしはわっちらの報告を待つ大将じゃろう? そしてわっちとコル坊はその手先。なら、それぞれ競い合わせたほうがより容易にわっちらの手綱《たづな》を握《にぎ》れるじゃろうが」
船着き場が近づいてきて、忙《いそが》しく川を横断する船の様子も見えてきた。
と同時に、ロレンスもおぼろげながらホロの言葉の行き着く先が見えてきた。
「手柄《てがら》を得て、俺に褒《ほ》めてもらいたいのはどっちも一緒《いっしょ》だから?」
ホロが思いきり苦い顔をしてそっぽを向いたのは、それが正解だから。
確かにそうかもしれない。
ホロがコルよりも手柄を立てられればそれを存分に褒めてやり、失敗したら存分に慰《なぐさ》めてやればいい。
これで、ホロを手伝ってしまったら、褒められるのも慰められるのもコルだけの特権になる。
確かにそのとおりなのだが、ロレンスにはさらにわからないところがある。
ホロが演技ではなく恥《は》ずかしがりながらもこんなことを教えてくれたその理由だ。
川岸の桟橋《さんばし》に到着《とうちゃく》したが、人が多いせいで順番待ちになった。
ホロは、周りに人がいるのでローブの下で耳と尻尾《しっぽ》が暴れないように必死にこらえるような面持《おもも》ちで、こう言った。
「ぬしはいつか店を持つんじゃろう? なら、他人を使うということをもう少し学びんす」
「あっ」
思わず口を押さえてしまった。
確かにそのとおりだった。
店を持てば人を使わなければならない。
陰《いん》に陽《よう》に人心を掌握《しょうあく》し、時には彼らの忠誠心を必要とすることもあるだろう。
ただ、ロレンスは一対一でならそういうことに慣れていても、多人数となるとまったく考えが及《およ》ばなかった。
「よくもまあそれでわっちの手綱を握ろうと頑張《がんば》るの」
ホロは腰《こし》に片手を当てて、呆《あき》れるように小首をかしげている。
動き出した列を横目に、ロレンスは負《ま》け惜《お》しみでこう言った。
「そんな俺が可愛《かわい》いんだろう?」
むっつりとした顔で言ってやると、ホロは大喜びするわけでもなく、小首をかしげたまま「まあまあじゃな」と言ったのだった。
「なら、任せた」
「心配が顔に出ておるが、まあ、ぬしの言葉のほうを受け取っておきんす」
帰りの船代を渡《わた》し、事情を話して船頭には先に乗り賃を支|払《はら》っておく。
「晩飯は小麦パンがよいの」
「うまく手柄《てがら》を立てられたらな」
ロレンスのそんな言葉に笑《え》みを残して、ホロはローブの裾《すそ》を翻《ひるがえ》すと船に軽《かろ》やかに乗り移った。
ケルーベは川を挟《はさ》んで北と南に分かれていて、北には教会がない。
それは北|側《がわ》には異教徒の者たちが住み、南側には正教徒の人間が多い、ということを示している。町の歴史的には、単純に正教徒である商人たちが南からのぼってきて、南側の土地を買って住み着き始めたから、というだけのことらしかったが。
ただ、北と南であからさまに町の様子が違《ちが》うとなると、なんとなく世の縮図《しゅくず》を見た、と大仰《おおぎょう》なことを言いたくなってしまう。
北側の町では建物の高さや道の幅《はば》もまちまちだったが、南のほうは建物の高さはきちんと制限され、綺麗《きれい》な町並みが続いている。きっと、表通りに面する商会の荷揚《にあ》げ場でラバが暇《ひま》そうに欠伸《あくび》をしている、ということもないだろう。
北側の川岸からではよくわからなかったが、ここからならば南側にある教会が惜《お》しみのない献金《けんきん》を積み上げれば天にも届く、と言わんばかりに聳《そび》え立っているのが見え、綺麗《きれい》な黄金色の鐘《かね》を町で最も神に近い場所に吊《つ》るしているのがわかった。
ホロは南から故郷の北へ帰ろうとする旅の修道女を装《よそお》い、故郷に帰りたいが故郷は未《いま》だに異教徒の町なのだろうかと心配だ、という切り口で話を集めることにしたらしい。教会の人間から聞かれそうなことは言い含《ふく》めておいたが、そんなものなくともホロの口のうまさなら十二分に話を集められるだろうとは思った。
それでも、これまで情報を集めたり物を考える時は二人|一緒《いっしょ》だったので、ホロ一人にそれを任せるというのはなんとも不思議な感覚だった。
きっと、店を持って人を雇《やと》った時は同じことを思うのだろう。
ただ、ふと思ってしまうのは、その時にホロの姿はあるのだろうか、ということだ。
「……」
ロレンスは頭を掻《か》いて、ため息をつく。
そんなことを心配しているようでは、逆にホロのほうにあいつを一人にしてはおけぬ、と言われてしまう。
ロレンスは一人笑いながら、他《ほか》の客に紛《まぎ》れて川を渡《わた》っていくホロを眺《なが》め、やがて背を向けて歩き始めた。
目指すのは三角洲《さんかくす》にある、ローエン商業組合の別館だ。
ホロと一緒《いっしょ》に南|側《がわ》に渡《わた》って本館に行かなかったのは、単純に面識のある人間が本館にいないためだった。
三角洲の市場は北の地と南の地をつなぐ重要な貿易|拠点《きょてん》のひとつに数えられるだけあって、どこの組合も別館を置いて旅の仲間や商品の情報を常に収集している。建物には規制がかけられているので町の中のように建物で権勢を競《きそ》ったりはできないが、それぞれの特徴《とくちょう》を前面に押し出した作りにはなっている。ロレンスならその一つ一つを、あれはどこの商業組合でこれはどこのそれ、と言い当てることができた。
その商館一つひとつには何十人、あるいは何百人という数の商人が所属していて互《たが》いにしのぎを削《けず》り合っているのだな、と思うと少し不思議にも思う。
世の中にはそれだけの商売があって、その種はまだまだ尽《つ》きることがないということなのだから。
ロレンスは、大洋に浮かぶ小船の船室の扉《とびら》のような、見なれた作りの商館の扉を控《ひか》えめにノックしたのだった。
「おや、これは珍《めずら》しい顔ですね」
商館の一階には商人連中が何人かいたが、全員が旅姿だった。
「お久しぶりですキーマンさん」
商館の一階、そこの入り口からまっすぐ正面の奥は、その商館を預かる主人が座ることになっている。そこに座る綺麗《きれい》な金髪《きんぱつ》のキーマンは、貿易の拠点に生まれた貿易の申し子だった。
父親はケルーベでも有数の貿易商で、そのお陰《かげ》で一度も遠くに出かけることもなく誰《だれ》よりも遠方の地の商品をたくさん見ていると、評判とも皮肉とも嫌味《いやみ》ともとれることを言われていたのを聞いたことがある。実際に、その体つきは吟遊《ぎんゆう》詩人といっても十分に通りそうなほど細く商館の一階で酒と情報を酌《く》み交《か》わしている他《ほか》の商人たちとは違《ちが》い、手にはあかぎれひとつなかった。
典型的な金持ちの息子《むすこ》で、ともすれば旅の埃《ほこり》にまみれて商売をする商人たちからは嫌《きら》われそうなものだったが、その信頼《しんらい》は意外なほど厚い。
歳《とし》はロレンスよりも二つほど下だったはずだが、ロレンスとは違い町の中での商売に長《た》けているのだ。
町の商館にいる者は、昼夜を分け隔《へだ》てず歩くことができるとか、言葉が通じない相手とでも即座《そくざ》に商談ができるとか、そういった能力は求められはしない。
キーマンは、旅の商人たちからこいつになら我々の旅の中のつかの間の住処《すみか》を任せられる、と目されているのだ。
「お久しぶりですクラフト・ロレンスさん。今回は陸路でいらっしゃったのでしょうか?」
昨日と今日、あるいはここ数日、商船が入港していないのだろう。
「いえ、今回も水路ですが、海からではなく川を下ってきました」
その言葉に、キーマンは手にしていた羽根ペンの羽で自分の顎《あご》をくすぐって視線をぐるりと巡《めぐ》らせる。
キーマンの頭の中には万枚に及《およ》ぶ地図があるといわれている。
この男は、これまでに二度しか会ったことのないロレンスがどんな順路で行商をしているのか、頭の中の地図で把握《はあく》しているのだ。
「いつもの行商路ではありません。レノスに寄る用事がありましたので」
「ああ、なるほど」
キーマンの笑顔《えがお》はホロの笑っていない笑顔よりもなにを考えているかわからない。
町商人は何十年も生まれた町で暮らし、そうすれば互《たが》いの性格や癖《くせ》までもが筒抜《つつぬ》けになるのに、そんな連中同士で腹の探り合いをする。そのせいで町商人の陰険《いんけん》さは行商人の比ではない。若くして別館ながらそこの主《あるじ》に納まっている若き貿易商人は、それなりの恐《おそ》ろしさを持っている。
ロレンスは努めて平静に、商館に来た時の常として寄付するための銀貨を取り出しながら、言葉を紡《つむ》いだ。
「そういえば、金《きん》の泉で面白《おもしろ》い劇を見ましたよ」
「ふふふ。面白い劇とはさすがロレンスさん。通いの行商人でもなかなか見|抜《ぬ》けないというのに」
ロレンスがトレニー銀貨を五枚積み上げることになど目もくれず、キーマンは秘密を共有して喜ぶ子供のように笑いながらカウンターの上に身を乗り出してきた。
「見え透《す》いたやり取りでも、いつどこに毒針が仕込んであるかわかりませんからね。今|頃《ごろ》本館のジーダ館長は我々の金袋《かねぶくろ》を守るために出張《でば》っているでしょうね」
ケルーベのローエン商業組合を束ねるジーダ館長は名前しか知らないので、もしかしたらエーブが声をかけにいった癖《くせ》のありそうな商人連中のうちに、その人がいたのかもしれない。
とすれば、エーブはケルーベに常駐《じょうちゅう》してどこかの商会を率いているわけでもないのに、さまざまな商業組合の幹部組合員たちが徒党を組む前に一人で立ち向かっていることになる。
巨人《きょじん》に立ち向かう若き騎士《きし》の話に胸を熱くしない男がいるだろうか?
羨《うらや》ましい、という気持ちが素直《すなお》に胸の内でくすぶったが、エーブの前で出したそれはキーマンの前では決して出しはしない。
キーマンは、優秀ゆえに信用の置けない人間だからだ。
「毒針などありますか。私が聞いたところでは、北の地主|側《がわ》はもはや陸に上がった魚かと思われますが」
「ええ、それも何十年も前に陸揚《りくあ》げして、とっくのとうに干上《ひあ》がった、ね。ただ、今年は北への大遠征《だいえんせい》がなくなって金の動きが細っていますから。背に腹は替《か》えられないかもしれない、ということです」
町の北側に住む地主たちに入る金が、三角洲《さんかくす》の市場の使用料だというのなら、それはおそらく市場で徴収《ちょうしゅう》された税だろう。
そうなると、人と物の行き来が細れば、それは税収入の低下に直結する。
しかし、古今《ここん》金貸しが儲《もう》け続け、借金した者が破産するのは、借金した相手が儲けようと損しようと、貸した側はいつも同じだけの金額を利子として受け取れるからだ。
「ここで恩情を示してさらに貸しを作ればあとあとさらにうまくなる、というのは通りすがりの者ならではの考えでしょうか」
キーマンはロレンスが積み上げたトレニー銀貨五枚を特に感慨《かんがい》もなく受け取り、寄付帳へと淡々《たんたん》と書き込んでいく。
巨大な貿易船が何|隻《せき》も行き交《か》うような帳簿《ちょうぼ》を毎日|眺《なが》めていたら、トレニー銀貨五枚などその程度の値打ちなのだ。
寄付としてトレニー銀貨を出したら大喜びしてくれたリュビンハイゲンの商館の主、ヤコブの大袈裟《おおげさ》な振《ふ》る舞《ま》いが懐《なつ》かしくなる。
「いいえ、普通《ふつう》に考えるならそのとおりなのですが、生憎《あいにく》と相手側は死ぬまで利子を払《はら》い続けた人たちの息子《むすこ》であり、生まれた時から利子を払《はら》い続けている人たちなのです。十年ほど前にウィンフィール海峡《かいきょう》で戦争が起こった際も、利子の支払いが数年に渡《わた》って滞《とどこお》り、我々南|側《がわ》は借金のいくらかの棒引きを申し出たそうです。もう、十分元が取れたから、と」
この金髪《きんぱつ》の若き貿易商は、自分の笑顔《えがお》の種類を自在に操《あやつ》れる類《たぐい》の人間だ。
爽《さわ》やかな笑みの下に蛇《ヘビ》のような陰気《いんき》さを少し織りまぜて、そんなことを言った。
「意固地になってるわけですか」
「お察しのとおり。意地でも利子を払い、いつかはきちんと完済するとね。こちら側としては洲《す》の市場の面積を広げられれば、借金の利子分くらいはすぐに取り戻《もど》せますから。ですが、それがわかっているから向こう側はなおのこと意地になる。これ以上連中に儲《もう》けさせてなるものか、と」
呆《あき》れて物も言えない、とばかりに肩《かた》をすくめるキーマンに、ロレンスも同意だ。
これではその八つ当たりに使われるエーブがあまりにも気の毒だ。
ウィンフィール王国の没落《ぼつらく》貴族で、ローム川流域にそれなりに大きな影響《えいきょう》力を持っているらしくとも、それをあっさりと捨てるように南へと下ろうとしているのは、このあたりが原因なのかもしれない。
のし上がるためにあちこちを利用して、その債務の支払いに首が回らなくなり始めたのだろう。
「もっと合理的に進めればいいのに、と思います。未《いま》だに北側と南側では婚姻《こんいん》はもとより、引越《ひっこ》しすら難しいんですよ」
キーマンはぺらぺらと喋《しゃべ》ってくれるが、親切心からでないことだけは確かだ。
行商人|風情《ふぜい》が金《きん》の泉の話を切り出すというのはどうせ野次馬《やじうま》根性からだろう、と思われているに違《ちが》いない。
そうなれば、ローエン商業組合の看板を背負ったまま勝手に情報収集をされて、組合の方針とはまったく違うことを吹聴《ふいちょう》されては困る、と考えるのが彼らの思考法だ。
あれこれ喋って情報を与《あた》えるのは、誘導《ゆうどう》と、そして、これが組合の見解だという一種の警告であり、それから外れるとそれなりの制裁がある。
わからないうちは落とし穴のように恐《おそ》ろしいそれも、わかり出すと逆にどこの商館に行ってもきちんとそれに従ってさえいれば商館が身を守ってくれる合言葉に思えてくる。
「なるほど。とすると、私が耳にした噂《うわさ》というのもあながち間違いではないのでしょうか」
「噂?」
情報の収集が何よりも重要な商館の人間であるキーマンは、カウンターの上にトレニー銀貨を五枚積み上げた時よりもよほど興味探そうな顔を向けてくるから苦笑ものだ。
行商人同士の会話なら、噂といってこんなに身を乗り出してくる相手は格下に見られることになる。
「ええ。実は、町の北|側《がわ》のジーン商会が、同じ北側の有力者の食い物にされている、と」
もちろんこれは憶測《おくそく》に過ぎなかったが、そう口にした瞬間《しゅんかん》に確信に変わった。
キーマンの表情は変わらなかった。
しかし、あまりにも変わらなさすぎたのだ。
「そんな話を……失礼ですが一体どこで?」
わざとらしくとぼけることもできただろうが、キーマンはロレンスに内心を見|抜《ぬ》かれた、と気がついたのだろう。
厳しい目つきでそう言った。
ここが言葉の選びどころ。
ロレンスは、池に大きな石を投げ込んでみることにした。
「実は、レノスで元貴族という一風変わった――」
商人と取引を、という言葉は続かなかった。
その顔は笑い話を聞いたかのようなのに、カウンターの上に片肘《かたひじ》をついていたロレンスの服の袖《そで》を軽く掴《つか》んだからだ。
顔の様子と、その身にまとう雰囲気《ふんいき》がまるで正反対だ。
「ロレンスさん、旅の疲れがおありでしょう? いかがですか、奥で軽く休憩《きゅうけい》されては」
商館は食堂もあるし宿泊《しゅくはく》するためのベッドや暖炉《だんろ》もある。
しかし、もちろんそんな言葉どおりの意味ではない。
餌《えさ》は予想以上の大物を釣《つ》り上げたらしい。
「ええ、喜んで」
ロレンスは、素直《すなお》な笑顔でそう言ったのだった。
商館の奥の、おそらくはキーマンの執務《しつむ》室に通されると、魚の香《かお》りがするスープを出された。
酒を片手にする話でもないし、子供のように甘い飲み物というわけにもいかない。
それに、旅人が訪《おとず》れては旅立つこの町では、塩の味と滋養に満ちたこういった魚のスープといったもののほうが喜ばれることが多い。
ロレンスは一口それを飲んで、食べなれた鰊《ニシン》の味に少し昔を思い出した。
「さて、それで彼《か》のボラン家の女当主とどういったご関係が?」
質問ではなくまるで尋問《じんもん》だ。
キーマンは自分の分のスープにまったく手をつけない。
ロレンスはそれを見て、一瞬《いっしゅん》なにか怪《あや》しげな効果を持った薬草でも盛られていやしないかと疑ってしまった。
「私は行商人ですから、もちろん舞踏《ぶとう》会での踊《おど》りの相手ではありません」
「騒《さわ》ぎになったという、毛皮の話でしょうか」
今日|到着《とうちゃく》したばかりの情報か、あるいはレノスに駐在《ちゅうざい》していた人間が早馬《はやうま》で昨日のうちに知らせていたのか。
ロレンスは隠《かく》すことでもないのでうなずいて、一つ咳払《せきばら》いをする。
「共に大きな商売をしようとしたのですが、土壇場《どたんば》で裏切られ出し抜《ぬ》かれましてね。悔《くや》しさを拭《ぬぐ》いきれず川を下り、文句を言いに来たわけです」
「ご冗談《じょうだん》を」
手玉に取ることには慣れていても、取られることには慣れていないのか。
やや怒《いか》りの表情が顔に出ているキーマンは、どことなくホロを幼《おさな》くした印象を受ける。
「取引までは本当ですし、私が川を下ってこちらにやってきたのもエーブさんを追いかけてのことです。ただ、その目的は、エーブさんの助言をいただければと思いまして」
「それは、商売の?」
ロレンスは首を横に振《ふ》り続けた。
「旅の途中《とちゅう》では不思議なことに巡《めぐ》り合うものです。そんな巡り合わせから、ある与太話《よたばなし》を追いかける羽目になりまして」
「与太……話」
「ええ」
キーマンは空の星を眺《なが》め回すように視線をくるりと回し、言葉を続ける。
「狼《オオカミ》の、骨の話ですね?」
「ええ。すぐに思いつかれるということは、やはりここでは有名な話なのですか」
「有名は有名ですが……ロレンスさんは本当にそんな話を?」
呆《あき》れるよりも、むしろ訝《いぶか》しんでいた。
なぜそんな話を追いかけるのか、と思うような話なのだろう。
「まあ、呆れてしまいますよね」
「いえ、そんなことはないですが……」
その言い訳が苦しいことは、本人が一番よく自覚しているはずだ。
「申し訳ない。隠しようもないですね。確かに呆れました」
「私の旅の連れが北の生まれでして。故郷に関することなので、どうしても真実を知りたいのだそうです」
北と南の貿易の拠点《きょてん》では、もちろん文化と信仰《しんこう》の衝突《しょうとつ》が日常|茶飯事《さはんじ》だ。
こんな理由のほうが、むしろこの町では説得力を持つ。
「なるほど……。ですが、私が呆れてしまったのは、その話を追いかけることそのものでは決してありません」
ジーン商会のレイノルズと同じ反応だ。
ただ、続いた言葉は違《ちが》っていた。
「私が呆《あき》れてしまったのは、ロレンスさんがあのエーブ・ボランと面識を持ちながら、その伝《つて》を使ってわざわざ雲を掴《つか》むような話を追いかけているからです」
ロレンスは少し考える。
論理を走らせ、キーマンの考えを特定する。
「つまり、エーブさんの伝を使えば、いくらでも実のある話を追いかけられると?」
ロレンスが問いかけると、キーマンはとてもよい顔になってうなずいた。
「私がロレンスさんをここにお連れしたのは、彼女の名前というのはこの町で大変重要なものであり、また微妙《びみょう》なものであるからです」
「というと?」
エーブの名がこの町にとって重要であり微妙なものであれば、その理由もまた同じはず。
訊《たず》ねて答えてもらえるかは半々だったが、ロレンスはその賭《か》けに勝てたらしい。
キーマンが咳払《せきばら》いを一つして、口を開いてくれた。
「彼女は元貴族という利点を使い、あちこちの権力者と秘密裏に手を組んでは金儲《かねもう》けに勤《いそ》しんでいます。その利害関係がどうなっているのか、全貌《ぜんぼう》を把握《はあく》しているのはおそらく本人だけです。彼女への対応を一つ間違えるとどんな影響《えいきょう》が出るのか誰《だれ》もわかりません。私がロレンスさんをここにお呼びし、またこんな話をするのは、先ほどのお話と同じことです」
カウンターでされた北|側《がわ》と南側の関係の話。
あれはやはり、親切心からではなく、組合の考え方を説明されていたのだ。
「ですから、ロレンスさんがこの町で彼女と手を組みなにか商売をするのではなく、雲を掴むような話の手がかりを聞きに来た、というのは、私を驚《おどろ》かせると共に、安心もさせるものです」
キーマンは親しげな顔でそんな言葉を口にするが、それは裏返せばエーブとこの町で商売をするなということだ。
「ただ、狼《オオカミ》の骨の話で彼女に助言を求めるのは正解だと思います。このローム川流域で、彼女ほど情報を持っている方はいないでしょうからね」
雲を掴むような与太話《よたばなし》を追いかけるのなら構わない、ということだろう。
そして、それはそのままキーマンが狼の骨の話を与太話だと信じていることを示す。
「それにしましても、ロレンスさんはどういういきさつで彼女と商売を? この町で彼女と商売をしたがっている人間は多いですが、取りつく島もないとはあのことですからね。反応を返してくれる相手であればまだどうにかなるのですが……」
当然気になるところだろう。
エーブがそれほどの重要人物であるのなら、組合としてもどうにかして手を組もうと画策しただろうからだ。
「私がどうこうではなく、向こうから声をかけてきたのですが、今ではなんとなくその理由がわかります」
「ほう?」
「権力者に取り入って、利用して、儲《もう》けを出して、その見返りを払《はら》えなくなってきたからでしょう。あるいは払うのが嫌《いや》になってきた。金《きん》の泉で南|側《がわ》の金袋《かねぶくろ》の用心棒と渡《わた》り合っているのは、他《ほか》ならぬエーブさんでしょう?」
キーマンはまたしても驚《おどろ》き、それを隠《かく》そうと無意識に思ったのか、顔を撫《な》でてから、うなずいた。
「私はレノスでの商売で本当に騙《だま》されていました。大切な連れを質に入れて工面した金どころか、私自身の命まで賭《か》けられていましてね。まあ、結局は……鉈《なた》とナイフが出てしまったのですが、私にあの話を持ちかけてきたのは、騙し、利用できるのがついに私のような旅の行商人しかいなくなった、というのが正解だと思います」
そう考えれば、毛皮を買う金を工面する時、奴隷《どれい》商の商会があっさりと金を貸してくれた理由もわかる。
エーブの名はそれくらいに価値のあるものだったのだ。
「なるほど……確かにそれはありそうですね。ただ、鉈とナイフが出ておきながらもなお助言を請《こ》えるような間柄《あいだがら》であるというのは、なんというか、羨《うらや》ましいことです」
うまく言葉を選んだものだと感心する。
ロレンスは、苦笑いしながらこう答えた。
「子供のように金の詰《つ》まった袋を巡《めぐ》って殴《なぐ》り合いになれば本音も出てしまうでしょう? 友人、とまではいかなくとも、気恥《きは》ずかしい思い出を共有する間柄、という感じでしょうか」
それは完全に真実を表してはいないが、それほど遠くもない。
キーマンはわかりそうでわからないのか、目を閉じてうなずきながらも人差し指をこめかみに当ててなにか考えているふうだった。
商館の責任ある地位についている者は、そんな野蛮《やばん》な取引に出会わないからかもしれない。
ひがみとも、妙《みょう》な優越《ゆうえつ》感とも取れることを思っていると、ふとキーマンが顔を上げた。
「わかりました。ところで」
「はい」
ロレンスが無防備に聞き返した瞬間《しゅんかん》だった
「エーブ・ボランと組合。ロレンスさんはどちらを優先させますか?」
面食らう、とはこのことだ。
一瞬、目の前にいるのが誰《だれ》なのかわからなくなった。
ただ、それは自分がそれくらい驚いていたということではなく、もっと別の理由からそう思ったのだと気がついた。
キーマンの雰囲気《ふんいき》が違《ちが》う。
ロレンスは一気に背中に冷たい汗《あせ》が噴《ふ》き出してきた。
つい今しがたまでエーブに関する話を雑談のようにしていたのに、それがとても大きな勘違《かんちが》いのように思えてきた。
事情を聞いてさあおしまい。
そういうことではなかったのだ。
「それは……もち、ろん、組合です」
ロレンスはなんとかそうとだけ答えたのだが、キーマンはうなずきもせず、ロレンスから視線を外した。
そのそっけなさは、ロレンスがカウンターに寄付としてトレニー銀貨を五枚置いた時のようなもの。
手玉に取られていた。
信じられないほど、あっさりと。
「では、当組合の組合員として、その名に相応《ふさわ》しい振《ふ》る舞《ま》いを期待しています。人脈は財産であり、財産とは資本です。大きな商売には大きな資本が必要ですからね」
にこりと、それは素晴《すば》らしい笑顔《えがお》でキーマンは言った。
その口調は穏《おだ》やかでありながら、有無《うむ》を言わせぬ迫力《はくりょく》を持っている。
油断するべきではなかった。
しかも、完全にエーブの重要性を見誤っていた。
挙句《あげく》にロレンスはキーマンに組合を優先させるという言質《げんち》を取られてしまっている。
それが契約《けいやく》内容を知らされないまま契約書に判を押したような、猛烈《もうれつ》な居心地《いごこち》の悪さをロレンスにもたらしていたし、それは実際に気のせいではないのだ。
「エーブさんは取りつく島がなくて困っていたところなんですよ」
キーマンは笑顔のまま、世間話のようにそう言った。
ちょっとした口利《くちき》きなどで協力してくれ、というような些細《ささい》な話だとはとても思えない。
たとえ無様でも、せめてそのかけらだけでも知っておかなければどんなことに利用されるかわからない。
ロレンスがそう思って口を開きかけた、その瞬間《しゅんかん》だった。
「キーマンさん! キーマン副館長!」
部屋の外からあわただしい足音と共にそんな声が飛び込んできた。
次いで、扉《とびら》が激しくノックされ、またしてもキーマンの名を呼ぶ声。
なにかあったのだ。
しかし、キーマンは少しも慌《あわ》てることなく、冷めたスープを飲んでいた。
「では、お時間をとらせました。どうやら別の仕事ができたようなので、失礼」
立ち上がり、平然と扉のほうに歩いていく。
そして、声をかける機を完全に逸《いっ》したロレンスが呆然《ぼうぜん》とその背中を目で追いかけていると、ふとその足が止まり、こちらを振《ふ》り向いた。
「あ、そうそう」
その振る舞《ま》い方は、まるで目の肥えた衆人環視《しゅうじんかんし》の中、常住坐臥《じょうじゅうざが》演技することを求められる役者のようだった。
「ここでのお話を他言《たごん》されると……」
キーマンはそのまま扉《とびら》を開け、その向こうにいる商館の人間から慌《あわ》てた様子の耳打ちを受け、ぴくりとも表情を変えずにうなずいている。
その頭に狼《オオカミ》の耳が、腰《こし》からは尻尾《しっぽ》が生えていなくとも、恐《おそ》ろしい神や精霊《せいれい》に匹敵《ひってき》する人間は存在する。
そのことを、実感した。
「きっと後悔《こうかい》しますよ」
そう言ってロレンスのほうを見た時は、爽《さわ》やかな貿易商の笑顔《えがお》に戻《もど》っていた。
商館は蜂《ハチ》の巣《す》を突《つ》ついたような騒《さわ》ぎになっていた。
何人もの人間が商館の扉を開けて一階のカウンター前へと駆《か》け寄っては、文《ふみ》を置いて再び外に飛び出していった。
その時、ケルーベでなにが起こっているのかを知りたければ、商館の中ほど最適な場所はなかっただろう。
しかし、ロレンスはキーマンの働きぶりを眺《なが》めながら、そんな騒ぎのことになど頭が回っていなかった。
反芻《はんすう》しているのは、キーマンとのあのやり取りだ。
ロレンスは他《ほか》の商人同様、町でなにが起きているのかを冷静に見|極《きわ》めようとしている、といった澄《す》まし顔《がお》をしてはいるが、その内心には有体《ありてい》にいって不安があった。
キーマンは、ロレンスがエーブと面識があるのを利用してなにかをしようとしている。エーブを餌《えさ》にしてキーマンから情報を釣《つ》り上げようと思ったら、自分が釣られてしまっていたのだから世話がない。
そんな折、喧騒《けんそう》に満ちていた商館の一階の雰囲気《ふんいき》が変わった気がした。
ロレンスも顔を上げると、開け放たれたままの入り口から、見なれた顔がこちらを覗《のぞ》き込んでいた。
用がすんだら宿で落ち合おうと言っていた、ホロだ。
「なにか御用《ごよう》ですか?」
扉の側《そば》にいた毛むくじゃらの商人が丁寧《ていねい》に対応しているのは、仲間からはぐれて道に迷った巡礼途中《じゅんれいとちゅう》の修道女とでも思ったからか。
ホロはどう答えたものかと一瞬《いっしゅん》思案しているふうだったが、ロレンスが椅子《いす》から立ち上がるとすぐにこちらに気がついた。
「失礼。私の知人です」
騎士《きし》団や傭兵《ようへい》部隊の食料、その他の面倒《めんどう》を見る輜重《しちょう》隊を務める商人はたくさんいるし、巡礼の旅をする一行がそれなりに裕福《ゆうふく》ならば同じ役目を負った商人がつかないこともない。
ロレンスが変に慌《あわ》てることもなくそう名乗り出たので、他《ほか》の商人たちはそんなふうに思ったらしい。
少し羨《うらや》ましそうな視線を向けられたのも、儲《もう》かりそうな顧客《こきゃく》を連れていることに対してのものだろう。
唯一《ゆいいつ》違《ちが》うのは、キーマンだけだった。
ロレンスはそんな視線を背中に受けつつ、ホロと連れ立って外に出る。
外は平素と変わらぬ様子ではありつつも、よくよく見ればあちこちの商館の別館に文《ふみ》を届ける者だろう商人や小僧《こぞう》が血相を変えて走っているのが見えた。
「どうした?」
連れ立って賑《にぎ》やかな市場をゆっくり歩きながら、ロレンスはそう訊《たず》ねた。
「町がにわかに騒《さわ》がしくなったのに、ぬしを一人にしておけぬ」
どういう意味だ、と言い返そうとしたものの、なにかが起こっては首を突《つ》っ込んできた身としては反論できはしない。
それに、なにかに巻き込まれかけているというのは間違いではない。
「で、お前こそ話は集められたのか?」
もちろんロレンスは平静を装《よそお》って訊ねた。
すると、ホロは誇《ほこ》らしげに胸を張る、と思いきや、息を吐《は》くように背中を丸めて首を横に振《ふ》った。
「通《とお》り一遍《いっぺん》のことしか聞けんかった。ぬしよりも可愛《かわい》いたわけがおったから洗《あら》いざらい引きずり出してやろうと思ったんじゃがな、この急の騒ぎで追い出されてしまいんす。一体なにが起こっておるのかや?」
相手をするべきか否《いな》か悩《なや》むような言葉はこの際無視することにして、実用的な点だけ聞き返した。
「追い出された? 教会を?」
「うむ。てっきり教会を脅《おびや》かす悪魔《あくま》でも町に現れたのかと思ったのじゃが……」
と、真面目《まじめ》くさった顔で言うのだからさすがに笑ってしまう。
「それだったら確かに一大事だろうが……教会が関《かか》わるようななにかだったのか」
「教会を追い出されて、わっちも騒ぎを追いかけてみようかと思ったんじゃがな、もうとにかくすごい人出でどうにもならんかった。それに、槍《やり》と剣《けん》を持った連中も大挙しておってな」
「兵が?」
「んむ。川のほうからなにか大事そうなものを担《かつ》いできて、教会に運び込んだらしい、ということくらいしかわかりんせん。すごいお祭り騒《さわ》ぎじゃった。ほれ、いつだったか、わっちを嫁《よめ》にしたいとぬしと争った可愛《かわい》い小僧《こぞう》がおった」
「クメルスンの町か」
嫌《いや》なことを思い出させるな、と顔をしかめると、ホロはくつくつと喉《のど》で笑う。
もっとも、今もしあんなことがもう一度あったとしても、あれほど大騒ぎになるだろうかと疑問に思う。
そうであれば、あれはあれでホロとの距離《きょり》を一歩ずつ詰《つ》めていった過程でこそ味わえた大騒ぎということだ。
ホロが楽しそうに蒸《む》し返すのも、きっとちょっとした懐《なつ》かしさなのだろうとわかる。
「ただ、どんな事態になればそうなるんだ?」
「わっちに聞かれても困りんす。周りの連中の言葉に聞き耳を立てておっても要領を得んからの。一度ぬしに合流したほうがよいと思ったわけじゃ」
ロレンスは「そうか」と呟《つぶや》いて、ついさっきまでいた商館で耳にしたことを組み立ててみる。
「商館に入ってきていた話では、どうも北|側《がわ》の町の船が南側の商会の船に曳航《えいこう》されていったとかいうことだったから、俺はてっきり内政上の話だと思ったんだがな」
ホロはぴんと来ないようで、からかわれた時のような顔でロレンスのことを見ている。
わかるように話せ、ということだろう。
「ここの町は北と南が対立しているだろう? だが、海に線を引くことまではできないからな。魚の群れが北に向かえば北で魚を獲《と》るし、南に下れば南に行って魚を獲る。海や湖や川で魚を獲ろうとする時は、いつだって縄張《なわば》りの問題で血を見るんだが、その類《たぐい》かと思ったんだ。まさか南の商会が海の上で勇ましく魚を獲る北側の船に惚《ほ》れて突然《とつぜん》船を買い取った、なんてことは考えられないだろう?」
縄張り云々《うんぬん》で話されて納得《なっとく》がいったのか、ホロはゆっくりとうなずいた。
「それが、北の船を曳航して、兵士で警護しなければならないようななにかを陸揚《りくあ》げして、しかもそれを商会ではなく南の教会に運び込んだ……なんて、本当に人魚でも捕《つか》まえたんじゃないのか」
「人魚?」
ホロが小首をかしげて訊《たず》ねてくる。
意外に、知らないらしい。
「なんというか、伝説上の生き物だよ。すぐそこの海はウィンフィール海峡《かいきょう》と呼ばれているんだが、その北の出口近辺には岩礁《がんしょう》地帯があって船の難破が絶えなかった。で、昔から言い伝えがあるんだ。この世のものとは思えないほどの美貌《びぼう》と美声を持った美女たちが岩礁《がんしょう》の上で妖艶《ようえん》に歌い、船乗りたちを惑《まど》わすせいで事故が絶えないのだと。しかし、白波が立つような岩礁の上になぜ美女たちが、と思う船乗りたちの疑問はすぐに氷解する。彼女らは体の上半分が美女で、下半分は魚だったんだ」
ホロは素直《すなお》に感心するように話を聞いている。
海を知らないわけではないようなのに、どうやら聞いたことがなかったらしい。
ホロが聞いたことがないとなると、やはりこの言い伝えは単なる迷信なのかもしれない。
ロレンスがそんなことを思っていると、ホロは「ふむ」とうなずいて、こう口を開いた。
「人の雄《おす》は惑わされてばっかりじゃな」
確かに、言い伝えや伝説では精霊《せいれい》や化身《けしん》の類《たぐい》にたぶらかされる話ばっかりだ。
しかし、ロレンスもそれなりにホロと渡《わた》り合ってきたのだから、切り返しの一つや二つ持っている。
「騙《だま》されまいと眉《まゆ》に唾《つば》つけて生活するよりも、気楽な調子でいいじゃないか」
切った張ったの鉄火場《てっかば》よりも、うららかな日差しの下のほうが好きなホロの性格はよくわかっている。
ロレンスの言葉にホロはフードの下でしばらく耳をひくひくさせたあと、「ま、わっちらも酒が好きじゃからな」とくすぐったそうに言ったのだった。
「じゃがな」
ホロは言って、笑顔《えがお》のまま続けた。
「ぬしはあっちの罠《わな》に嵌《は》まらなければ、こっちの罠に嵌まらなければならぬとでも教会の神様に誓《ちか》っておるのかや?」
「え?」
「なにを隠《かく》し事《ごと》しておるのかやと言っておる」
「う」
つい呻《うめ》いてしまったのは、ホロを前に隠し事ができないことを改めて突《つ》きつけられたから。
ロレンスはもう少し自分の中で整理してからホロに話したかったが、キーマンとのやり取りを包み隠さず打ち明けた。
そして、聞き終わったホロの第一声がこれだった。
「たわけ」
キーマンはおよそ同じ人間とは思えない、と言いたいくらいだったが、それは言い訳にはならないだろう。
しかし、続けて口を開いたホロの口調は、実にあっけらかんとしたものだった。
「じゃがまあ、無理難題を言われたら断ればよかろう?」
そんなふうに、むしろきょとんとした顔で言われたら、まるで本当にそうできるかのように錯覚《さっかく》してしまうから怖《こわ》い。
しかし、ロレンスは気を取り直して頭を掻《か》く。
商人は契約《けいやく》を紙に残したがるが、実際には紙にしたためる前にまず口約束で契約が結ばれる。
その意味は、とても重い。
「ローエン商業組合には何十何百という商人が所属し、中には一年でリュミオーネ金貨を千|枚《まい》単位で稼《かせ》ぐ大商人もいる。俺なんか吹《ふ》けば飛ぶような存在に他《ほか》ならない。仮になにかしらのことを頼《たの》まれでもしたら絶対に断れない。馬鹿《ばか》らしい、と思うだろう? だが、そうだからこそ結束が保たれている、という面もある」
教会都市リュビンハイゲンで破産の危機に陥《おちい》って、奴隷《どれい》船か鉱山労働かといった選択肢《せんたくし》を迫《せま》られた時でも、ロレンスは組合を裏切る選択肢は取らなかった。
商会はそういうところで、味方としては頼もしく、敵としては恐《おそ》ろしい、金とペンで武装した一個の騎士《きし》団に他ならない。
「むう。まあ、確かに群れの小僧《こぞう》が古株になにか言われたら逆らえぬかもしれんな……」
「だろう?」
「うむ。じゃがまあ、そういう場所におる者は大抵《たいてい》失うものが多すぎて大それたことはできぬ。あの牝狐《めギツネ》と面識のあるぬしと手を組んでなにかをしたいが、他の連中と手を組まれたら困るということでぬしを脅《おど》したのかもしれぬしの」
とかくしがらみや雰囲気《ふんいき》といったことに支配されがちな話では、その場にいなかった者のほうがよほど冷静な判断ができる。
「それに、群れを束ねる立場としては、下が下手なことをせんように睨《にら》みを利《き》かすのは基本中の基本じゃ。心配することはなかろう」
実際に一つの山や村を束ねていたホロが言うと、本当にそうなのかと思えるくらいに説得力がある。
酒と食い物に目がない、故郷を思い出してはめそめそしている町娘《まちむすめ》ではないのだ。
「ま、わっちゃあぬしがどうなろうとわっちの中の優先順位に従って行動するだけじゃがな」
ひらひらと手を振《ふ》りながらホロは言って、ロレンスを置いて歩を速める。
なんとわがままで薄情《はくじょう》なのかと怒《おこ》るのは不正解。
かといって、冗談《じょうだん》だろうと笑うのも不正解。
ロレンスはその後ろ姿に、こう声をかけた。
「その一番に俺がいたとしても、素直《すなお》に言いはしないだろう?」
ホロは立ち止まって、振り向いた。
「んむ。ぬしが惑《まど》わされてはいかんからの」
際《きわ》どく牙《きば》を見せる笑《え》みは、ホロの正体がばれやしないかという意味でぞくりとする。
しかし、背筋に寒気を感じる時は、大抵は周りの気温が下がっているのではなく、自分の熱が上がっている時だ。
ロレンスはやれやれとため息をついて、歩く速度を落としたホロの隣《となり》に立つ。
そして、その手を握《にぎ》ってこう言った。
「そろそろいいか? 一度コルと合流しよう」
振《ふ》り向いたホロの顔は、期待通りに怒《おこ》っていた。
「それはわっちの台詞《せりふ》じゃこのたわけ!」
三角洲《さんかくす》から北|側《がわ》に渡《わた》るのは、幸運なことに一人分の料金ですんだ。
町の中でなにかがあれば、騒《さわ》ぎは一瞬《いっしゅん》のうちに広まるもの。
しかもそれが川を挟《はさ》んでのものとなれば、野次馬《やじうま》根性に火がつかざるを得ない。
皆《みな》が皆、北側から三角洲、三角洲から南側へと行きたがるので、逆の方向に行く船は空荷ばかりだった。
ここで船賃を値切らなければ嘘《うそ》だ、というわけで、値切った分はホロに焼いた巻貝《まきがい》の身を買ってやった。
「コルには内緒《ないしょ》だからな」
と、言う間もなく、ホロはぺろりと平らげてご満悦《まんえつ》だった。
町で起きていることを追いかけるならば、あのまま三角洲に残るか、あるいは南側に渡るのが最善かとも思われたが、ホロの話を聞く限りそうとも思えない。
キーマンに宿泊《しゅくはく》先を教えなかったのは、わずかな防護策。
万が一ということもある。
ホロはまだしも、コルを人質にとられでもしたらどんな無理難題でも聞かなければならなくなる。
そんなわけでいったん宿に戻《もど》ると、コルは疲《つか》れきったようにテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》していた。
「あ、おかえりなさい……」
妙《みょう》に顔が引きつっている。
なにかあったのだろうか、と思ったのもつかの間、テーブルの上に置かれた質の悪そうな鰊《ニシン》の燻製《くんせい》や、半分欠けていたり折れ曲がったりしている黒ずんだ銅貨を見てなんとなく察することができた。
物乞《ものご》いに扮《ふん》して話を聞きに行ったら、そこでも大人気だったのだろう。
「……疲《つか》れました」
「見ればわかるが、その分だと相当話は聞けたんじゃないのか」
ホロは疲れきった笑《え》みを浮かべるコルに近寄ると、両手で目尻《めじり》のあたりをぐにぐにといじくっている。
ロレンスも駆《か》け出《だ》しの頃《ころ》、愛想笑《あいそわら》いのしすぎで顔が引きつり寝《ね》ていると顔の筋肉が勝手に動いていることがあった。
もちろんその頃は、自分で強張《こわば》った顔をほぐすしかなかったのだが。
「ええと……はい。やっぱりロレンスさんがおっしゃっていたのと同じです。ジーン商会は儲《もう》けているはずなのにろくな食べ物を食べていないし、滅多《めった》に施《ほどこ》しもしてくれないと」
「だとすると、あの鶏《ニワトリ》の卵も下手すると市場に持っていって売っているのかもな」
コルの顔をぐにぐにと揉《も》みながら、ホロは少し遠い視線になる。
「文字通りの大盤振《おおばんぶ》る舞《ま》いだったのかや」
「かもしれない。となると、狼《オオカミ》の骨の話、レイノルズは本気なのかもな」
あるいは、最後の望みなのか。
キーマンの話では、エーブはその時々で最大の利益を上げられるような誰《だれ》かと、秘密裏にしか交渉《こうしょう》を持たないということだった。
そんな商売の仕方であれば、なにか明確な目的を持たない限りエーブに近づきたいと思う輩《やから》はいないだろう。
なぜなら、とにかくなんでもいいから接触《せっしょく》を持って商売を拡大《かくだい》したい、というのはあまりにも危険な賭《か》けになる。どこで誰とどんな利益でエーブがつながっているかわからないからだ。
となれば、やはりレイノルズは狼の骨を手に入れるためにエーブと協力したがっている、と考えるべきだ。
レイノルズは狼《オオカミ》の骨がどこにあるかを知ってはいるが、その持ち主と交渉《こうしょう》する伝《つて》がなく、仲介《ちゅうかい》をエーブに頼《たの》みたがっている、というのがしっくりくる。
名の売れた貴族や大司教が骨を持っている、というのは十分に考えられること。
しかし、彼らはそこらへんの商人と交渉を持つことはない。
彼らが交渉を持つのは、貴族の称号《しょうごう》を金で買えるほどの大商人か、あるいは、貴族そのものだ。
「わっちの聞いてきた話でも、補強できそうな感じじゃったな」
「というと?」
「この間の大騒《おおさわ》ぎした町にある教会は、実に勇敢《ゆうかん》にこの辺りに神の教えを広めておるそうで、その勢いはこの川の流域一帯の神の羊たちを鼓舞《こぶ》しておるそうじゃ。その勢いは異教徒たちの根城《ねじろ》たる北の山々にも及《およ》んでおり、最前線で異教徒たちと戦う神の戦士たちは大いに勇気を得ていると」
コルはがばっと体を起こし、ホロのことをまっすぐに見る。
その話は、下手をすればコルの故郷も教会の手に落ちていることを示す。
「じゃが、北の異教徒たちの抵抗《ていこう》はすさまじく、目下彼らの改宗が遅々《ちち》として進んでおらぬため、わっちが向こうに帰る時は親類|縁者《えんじゃ》から誤った思想を吹《ふ》き込まれても道に惑《まど》いませぬようにお気をつけください、だそうじゃ」
コルは目に見えてほっとし、その脱力《だつりょく》のあまり肩幅《かたはば》が半分になったように見えたくらいだ。
教会お得意の、嘘《うそ》は言っていないが聞いた印象は紛《まぎ》らわしい、という話をたっぷりホロは聞かされたに違《ちが》いない。
ホロはそんな話し方を笑顔《えがお》で聞いていられるほど気が長いほうではない。
機嫌《きげん》が悪くなければ、故郷のことで誰《だれ》かをからかったりはしないだろう。
「異教徒に対しては絶対に弱気なところを見せてはならないのが教会だからな。それだけ真実に近い言い方をしていたということは、実情はかなり絶望的だということだ。とすれば、レノスの町の教会が司教座を置きたがっている、なんてことを鑑《かんが》みるに、狼の骨を手に入れて形勢逆転を狙《ねら》うというのはあながち突飛《とっぴ》な話でもなくなってくる」
「じゃろうな。骨の話を出したら、異教徒の教えがいかに間違っているかを示すために、早急《さっきゅう》に手に入れなければなりません、じゃと。たわけどもが」
吐《は》き捨てるようにホロは言って、ローブがめくれ上がるくらいに尻尾《しっぽ》を膨《ふく》らませて、ベッドに荒々《あらあら》しく腰掛《こしか》けた。
ロレンスはそんなホロにかける言葉もなく、小さくため息をついてから現状をまとめた。
「ジーン商会が狼の骨を探しているのは間違いないだろう。そして、その在《あ》り処《か》はわかりかけている。あるいは、教会の手に渡《わた》りかけていると言ってもいいかもしれない」
「そのなんとかいう商会に、行けばいいのかや」
ホロの上目遣《うわめづか》いは、いつだって怖《こわ》い。
二本の牙《きば》をちらつかせながら言うホロに、ロレンスは首を横に振《ふ》った。
「全《すべ》てを暴力に頼《たよ》って解決してみることを想像してみればいい。必ずお前の存在が表に出てくることになって、教会はいきり立つだろうな。異教の神が実在する。正しき信仰《しんこう》の下《もと》に生きる者たちよ、立ち上がり剣《けん》を持て、と」
歯向かう者全てを噛《か》み砕《くだ》いてくれる、と言うほどホロは子供ではない。
物量の差は理解しているだろうし、なにより、その行為《こうい》が停滞《ていたい》気味の教会に再び権威《けんい》を与《あた》えることになるというのがわからないわけがない。
「できれば、金。最悪、密《ひそ》かに盗《ぬす》み出すのがいいだろうな」
「そんな甘っちょろいことで――」
ホロがそう言いかけたのを止めたのは、ロレンスの静かな視線。
「大金は簡単に人を殺す。金さえあれば、お前の故郷を丸裸《まるはだか》にすることだってできるだろうさ。甘っちょろいわけじゃない」
ロレンスは商人で、商人とは金を稼《かせ》ぐことに命を賭《か》ける。
その辛《つら》さもわかっているし、また、その威力も知っている。
納得《なっとく》できそうでできないのか、ホロは低く唸《うな》ってから、そっぽを向いた。
「だが、事態をそう認識《にんしき》したところで、なにか前向きになるかというと、そうでもないんだよな」
「……なぜじゃ。なんとかいう商会があの牝狐《めギツネ》に協力を求めておるのであれば、選択肢《せんたくし》が二つもある」
「二つ?」
賢狼《けんろう》と謳《うた》われるその頭脳の本領|発揮《はっき》か、とロレンスが振り向くと、ホロはコルの頭を叩《たた》きながら得意げに言った。
「こやつの知恵《ちえ》はあの商会を脅《おど》せるかもしれないんじゃろう?」
ジーン商会が取り扱《あつか》っている銅貨の謎《なぞ》。
ロレンスは「なるほど」と呟《つぶや》き、それからもう一つ言葉を続けた。
「あと一つは?」
ホロはその言葉になんとも不思議な笑《え》みを浮かべて、するりとロレンスに近づいてくる。
なにか嫌《いや》な予感がするのは、明確な理由があるのではなく、まさしくホロとすごしてきた経験からだった。
「商会が望むようにあの牝狐に渡《わた》りをつけてやり、狼《オオカミ》の骨がどこにあるかは頼《たの》み事《ごと》をされた牝狐から聞き出せばよい」
ホロとロレンスは頭一つ分身長が違《ちが》う。
ロレンスの目の前に立たれると、ホロははっきりと上を向くことになるが、どちらかというと圧倒《あっとう》されているのはロレンスだ。
「ジーン商会のほうは、まだ可能性があるが、そっちは明確な欠点があるだろう?」
「そうかや?」
なにか秘策があるのか。
ロレンスはそう思ったのだが、常識的な判断は明確に否《いな》と告げている。
「そうだ。だって、そんなことをしてエーブにはなんの利益がある? 俺らが狼《オオカミ》の骨はどこにあると聞けば、エーブはまず間違《まちが》いなく、横取りされることを警戒《けいかい》するだろう。どうしてそんなことをあのエーブが……」
と、ロレンスは言いかけて、ホロの挑発《ちょうはつ》的な笑《え》みで気がついた。
尻尾《しっぽ》が不機嫌《ふきげん》そうにゆらゆら揺《ゆ》れているのは、そういうことなのだ。
「たぶらかせばよい。ぬしはこの賢狼《けんろう》をたぶらかそうとしておるんじゃ。そのくらいわけなかろう?」
色恋はまともな取引を飛び越《こ》える。
ロレンスが商人として何年もやってきた経験から得たことを、この狼はすでに知っている。
ただ、ホロがこのことをこんなにも不機嫌そうに言う理由がわからない。
それが実行可能かどうかは置いておくとして、方法論としては確かにありうる。
その可能性を述べるくらいならばこんなにも不機嫌にはならないはず。
ロレンスがホロの笑みにたじろいでいると、ふとホロが後ろを振《ふ》り向いた。
「コル坊《ぼう》、目を伏《ふ》せて耳をふさぎんす」
「え……」
と、ためらったのもつかの間。
とっくにホロに躾《しつ》けられているらしいコルは、素直《すなお》に従うから恐《おそ》ろしい。
ホロは満足げにため息をついて、こちらを振り向く。
残念ながら、こちらはコルほど躾《しつけ》が行き届いていない、不出来な行商人だ。
「わっちが気がついておらんかったとでも思うかや」
ホロはついに笑みを消して、ロレンスの耳を掴《つか》むとぐいと引き寄せる。
「な、なにを――」
「なにを食べたかは、ぬしらでも口についた食べかすを見ればわかる。じゃが、わっちゃあ匂《にお》いでもわかる。どんなに些細《ささい》なものでも、あれだけ近づけばな」
あれだけ近づけば、という言葉で、それがいつのことなのかすぐにわかった。
金《きん》の泉の側《そば》でエーブの話を聞き、ロレンスが情けなくも落ち込んだところを酒場の二階で慰《なぐさ》めてもらった時のことだ。
だが、その時のことをなぜ今更《いまさら》ホロが怒《おこ》るのか。
ロレンスはそう思って、なにかおかしいことに気がついた。
エーブと出会った直後のことと、エーブをたぶらかすという話。
そして、なにを食べたかは匂《にお》いでわかる、などというもってまわった言い回し。
「あ」
ロレンスが気がつくのと同時に、ホロはまつげの本数も数えられる距離《きょり》にまで顔を近づけてくる。
「ぬしが命知らずの雄《おす》でないことを祈《いの》るばかりじゃ。勇気と無謀《むぼう》の違《ちが》いを教える手間が省けるからの」
金の泉でエーブと話した時、ロレンスが飲んでいたビールをエーブも飲んだ。
旅人ならば回し飲みなどいちいち気にすることはない。
ただ、それは行商人の常識に他《ほか》ならず、ホロまでがそうとは限らない。
「あのな、誤解だ」
せめてそこだけは毅然《きぜん》と主張すると、ホロは乱暴にロレンスの耳から手を離《はな》し、当然のことのように静かに言った。
「そんなことはわかっておる。わっちに隠《かく》し事《ごと》はできぬと教えたまでじゃ」
大して痛かったわけではないが、ロレンスは自分の耳をさすりながらやれやれと視線をそらす。
不安なら不安だともっとはっきりと言ってくれれば可愛《かわい》げがあるのに、と言ったら耳を噛《か》みちぎられるだろう。
それに、エーブの話|云々《うんぬん》はあくまでも可能性で、そんな可能性に賭《か》けるのはいよいよ切羽詰《せっぱつ》まった時だ。
それとも、そんな手段すら本気で視野に入れているということだろうか。
ホロが、素直《すなお》に言うことを聞いてテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》しているコルを起こすのを眺《なが》めながらそんなことを考える。
ロレンスは、なんとなくわかった気がした。
ホロは本当に不安なのだ。
狼《オオカミ》の骨の話が現実味を帯びてきて、ますますそれが強くなっているのかもしれない。
「とりあえず、今なすべきことは」
ホロの妙《みょう》に威勢《いせい》のよい声で、ロレンスは物思いから我に返る。
コルはホロに指示されてテーブルの上を片づけている。
一体なにを始めるつもりか、と思っていたら、ホロはいつの間にかロレンスの腰《こし》から抜《ぬ》き取っていた財布《さいふ》を軽く振《ふ》りながら、こう言ったのだった。
「いい加減意地を張らず、コル坊《ぼう》に教えを請《こ》うことじゃ。もっとも、ぬしがどうしても牝狐《めギツネ》をたぶらかすほうを選ぶというなら話は別じゃがな?」
ロレンスは、もちろん肩《かた》をすくめて、ため息をついたのだった。
窓にガラスを張れるのは一流の商会だけ。
普通《ふつう》はなにも張らないか、せいぜいが油をしみ込ませた布を張るだけだ。
だから、外がどれほど寒かろうとも、大抵《たいてい》は木窓を一杯《いっぱい》に開けて外の明かりを取り込もうとする。
もちろんロレンスたちが泊《と》まる宿の部屋でも例外ではなく、外に向かって開け放たれた窓からは外の喧騒《けんそう》と共に外の冷たい空気が容赦《ようしゃ》なく入り込んでくる。
しかし、その時だけはそこから入ってくる冷たい風のことを忘れていた。
別にそれが気にならないほど熱いことをしていたわけではない。
茫然自失《ぼうぜんじしつ》とは、このことだ。
「……馬鹿《ばか》な……」
ロレンスはそう呟《つぶや》くのがやっとだった。
目を何度もこすって確認《かくにん》する。
もちろん、それでテーブルの上の現実が変わるわけではない。
「んむ……常識というのは確かに厄介《やっかい》な相手じゃが……それにしても……のお?」
商売上の詐欺《さぎ》的な手口はいくつも知っているが、それらは複雑であればあるほど強力だった。
両替商《りょうがえしょう》の両替詐欺は、時として数百種にも上《のぼ》る古今東西《ここんとうざい》の貨幣《かへい》の複雑な相場から生まれるものだし、商品の売買を巡《めぐ》る詐欺には大抵複雑なめくらましか、込み入った時間|軸《じく》の取引が絡《から》む。
もちろん単純明快な手口というものもありはするが、ほとんどの場合、それは手口とは対照的に詐欺師の口上が巧妙《こうみょう》になっている。
種も仕掛《しか》けも単純なものにこれほど驚《おどろ》いたのは、久しぶりだった。
「ええっと……枚数は覚えていないのですけど、多分この方法を使えば、多少の調整を経て、銅貨を詰《つ》めた箱が五十七箱から六十箱になるんだと……思います」
ロレンスとホロの二人があまりにも驚いているので、コルは自信なさげにそう言った。
「いや、きっとそうなんだろうと思う。しかし、なるほど。これはばれないだろうな」
「じゃろうな。それにしても……んむう」
ホロは悔《くや》しげに呻《うめ》き、コルの頬《ほお》をつねったりしている。
ロレンスはそんなことをする気すら起こらない。
コルが気がついた、輸入した時は五十七箱の銅貨を詰めた箱が、輸出する時には六十箱になっている不思議。
その答えは、貨幣を一列ずつ同じ数だけ並べて綺麗《きれい》に箱に詰めるか、あるいは互《たが》い違《ちが》いに詰めて並べていくかの違いだった。
どちらももちろん箱の中にぴったりと入り、仮に銅貨を何|枚《まい》か盗《ぬす》んだとしたらすぐに抜《ぬ》き取られたとわかる。
しかも、口頭や文章の上で「箱の中にぴったりと貨幣《かへい》を詰《つ》める」と言われたらまずわからないうえに、そもそも大きさの決まった箱に銅貨をきっちり詰めて運搬《うんぱん》するのは枚数を数える手間を省くのと、途中《とちゅう》で貨幣を抜《ぬ》き取られてもすぐに気がつくようにするためだ。だから、ある時ある場所で、そこに何|枚《まい》詰まっているかを気にするのは最終的にその箱を受け取る買い主だけになる。
途中の道程で箱の中身が何枚の貨幣になっていようと誰《だれ》も気にはしない。
なぜなら、関税は箱の数にかけられるのであって、運送料もまた箱の数によって決まるのだから。
「じゃが、これは他《ほか》に誰も気がつかなかったのかや」
「ん?」
「コル坊《ぼう》が賢《かしこ》いのは認めるがな、世の中賢い連中は多い。何年もやっておれば、この手口を知っておる者に出会うことだってあろう?」
ローム川でジーン商会に銅貨の箱を運んでいた船主のラグーサは、この運搬を年に数回、二年だか続けていると言っていた。
確かに二年間に渡《わた》ってやっていれば、この手口を知る者の一人や二人が銅貨の箱を開けて中身を覗《のぞ》いてみたかもしれない。
ただ、重要なことが一つある。
「ジーン商会はおそらく関税と運送料を節約して余分に利益を上げているのだろうが、この手口をやって不正に利益を得ていると気がつくには条件がいる」
「ふむ?」
「……あ! 明細ですね?」
ホロに頬《ほお》をつままれていても、考え事となれば気にならない。
コルはそんな様子でたちまち笑顔《えがお》になって答えると、はっと我に返ってホロのことを見た。
ホロがコルの頬をつねる手に力を込めたのは、それが正解だったからだ。
「そう。輸出と輸入の明細があって初めて、不正をしているのではないかと疑うことができる。常にこの詐欺《さぎ》を疑うには、世に流通する商品でこの手口を行えるものがあまりにも多すぎる。いちいち調べはしないだろう」
用心深く生きているつもりでも、目に入らないことのなんと多いことか。
ロレンスはテーブルの上に並べられた貨幣の一枚を手にとって、ため息をついた。
「じゃが」
と、ひとしきりコルをいじめたホロが声を上げた。
「これであの商会を脅《おど》す武器は手に入ったじゃろう?」
ホロがらんらんと目を輝《かがや》かせて言う。
ロレンスはそれに水を注《さ》そうかどうしようか迷った挙句《あげく》、隠《かく》すのは逆効果だと思った。
失望はあとから来たほうが影響《えいきょう》が大きい。
「残念だが」
ロレンスがそう切り出すと、ホロの笑顔《えがお》がそのまま固まる。
「武器としては、ちょっと貧弱すぎる」
「なぜじゃ?」
下手な不機嫌《ふきげん》顔よりもよほど怖《こわ》い。
しかし、言《げん》を翻《ひるがえ》したところで問題が解決するわけではない。
「銅貨の詰《つ》まった箱を三箱分少なくして、関税と運送料を誤魔化《ごまか》して利益を得る。確かにこれが表沙汰《おもてざた》になればジーン商会はなんらかの罰金《ばっきん》を科されるか、あるいは商会としての信用を失う。しかし……」
「しかし、その不利益と、骨の話の利益の差が大きすぎる。この服を買った時の話じゃろ?」
ホロは自分の服をつまんでそう言った。
不満そうな顔の割に落ち着いているのは、納得《なっとく》せざるを得ないことだと気がついたからか。
「そういうことだ。ジーン商会が面白《おもしろ》半分に狼《オオカミ》の骨の話を追いかけていたら、ちょうどよい武器になったかもしれないが」
ホロは不満そうではあったが、手がかりの一つがなくなったことについてしょげることはなかった。
ホロがしょげるよりも先に、銅貨の謎《なぞ》解きをしたコルのほうがしょげていたからだ。
自分の知恵《ちえ》が役に立てると期待していたのだろう。
ついさっきまでコルの頬《ほお》をつねっていたホロは、姉よろしくコルの頭を手荒《てあら》く撫《な》でている。
「ま、それだけ問題が大きいということじゃからな。それに、林檎《リンゴ》を一個売買するように気軽にやられるよりましといえばましじゃ」
「そのとおりだ。ある一手が駄目《だめ》だとわかったら、次の一手を出せばいい」
もちろん、言うは易《やす》し、行うは難《かた》し、だが。
レイノルズが狼の骨の話と天秤《てんびん》にかけてもよいくらいのなにかを掴《つか》めればよいのだが、そんなものを都合よく掴めたら誰《だれ》も苦労はしない。
あるいは、レイノルズだって情報を収集して結果骨の在《あ》り処《か》の手がかりなりを手に入れたのだろうから、自分たちもそれに沿って情報を集めるべきだろうか。
ケルーベの町で商売をしているレイノルズが手に入れられたのだから、情報の断片くらいはキーマンも知っているかもしれない。
キーマンがなにを企《たくら》んでいるのかわからないが、エーブのことに絡《から》んでロレンスになにか頼《たの》み事《ごと》をしたがっているのは間違《まちが》いがないので、その報酬《ほうしゅう》として情報を要求することは可能だろう。
町ではなにか問題があったらしいのでしばらくは無理そうだが、キーマンの手があくまで待ってもそれは別に構わない。
問題があるとすれば。
「次の一手を考えるとしても、問題なのは、エーブがいつこの町からいなくなるか、だ。口ぶりではこの町の面倒《めんどう》くさいしがらみを全《すべ》て捨て去る感じだったからな。相当長い期間に渡《わた》って帰ってこないつもりかもしれない。そして、それをレイノルズが知ったとなればどうか」
「すぐに話を持ちかけかねんな」
敵はいつだって時間だ。
ロレンスが唸《うな》っていると、ホロは続けて口を開いた。
「となれば牝狐《めギツネ》をたぶらかすほかあるまい」
つい先ほどあれほど怒《おこ》ったくせに、とロレンスは視線を向ける。
しかし、いよいよとなればそんな馬鹿《ばか》げた選択肢《せんたくし》も考慮《こうりょ》しなければならない。
機会を逃《のが》したら最後、永遠に手に入らなくなる品物というのは実際に多々存在する。
教会の権威《けんい》に関《かか》わるようなものとなれば、闇《やみ》から闇に消えてしまう可能性は大いにありうる。
ホロはコルの髪《かみ》の毛をいじりながら、ロレンスは自分の顎鬚《あごひげ》をいじりながらあれこれ可能性を考える。
コルもされるがままなのできっとなにかを考えているのだろうが、三人寄れば文殊《もんじゅ》の知恵《ちえ》というわけにはいかない。
空《むな》しく時間だけが流れていき、考えるのに飽《あ》きたらしいホロはコルから離《はな》れてベッドに行き、腰掛《こしか》けるやもそもそと尻尾《しっぽ》を取り出した。
それを見て、ロレンスがコルを見ると、コルも同じようにこちらを見ていた。
とりあえず休憩《きゅうけい》ですね、というその視線と苦笑いにうなずきかけた、その折だった。
「む」
と、当のホロが顔を上げて、耳を廊下《ろうか》のほうに向けたのだ。
ロレンスをからかうために、部屋の外を歩く人間の足音を正確に聞き分けていたホロ。
その耳の正確性は、すぐに示されることになった。
「ロレンスさん。クラフト・ロレンスさん」
扉《とびら》をノックすると共に名前が呼ばれた。
その声は宿の主人だが、わざわざ主人が客室に来るというのはどういうことか。
三人で目配せをするまでもなく、コルがさっと腰を上げて扉に駆《か》け寄った。
料金は前金で払《はら》っているし、借りたコップや皿を割ったという記憶《きおく》もない。
ロレンスがそんなことを考えていると、開けられた扉の向こうには、きょろきょろと辺りを窺《うかが》っている、妙《みょう》に猫背《ねこぜ》になった宿の主人がいた。
「おお、いらっしゃいましたか」
「ええ。どうされましたか?」
「はい。それがですね、先ほどこちらを渡《わた》すように頼《たの》まれまして」
「私に?」
宿の主人がわざわざなにを渡すのかと思っていると、懐《ふところ》から取り出されたのは一枚の封書《ふうしょ》。
ロレンスが受け取ってそれを開くと、綺麗《きれい》な字でこう書かれていた。
「リドンの宿屋に来てくれ……石像の話がしたい。委細《いさい》は宿の主人に……任せる?」
呟《つぶや》きながら内容を読み上げ、顔を上げると主人もロレンスの手の中の封書に目を向けていた。
そして、ロレンスと目が合った瞬間《しゅんかん》に、大きくうなずかれた。
「ははあ、そういうことですか。畏《かしこ》まりました。お仕立ては一人で?」
なんのことかわからなかったが、ロレンスはもう一度紙に目を落として続きを見る。
最後の一行に、「一人で」とあった。
「畏まりました。至急馬車を仕立てます。少々お待ちくださいませ」
「あ……はあ」
なんとも間抜《まぬ》けな返事だったが、ロレンスがそう答えると主人は恭《うやうや》しく頭を下げて小走りに駆《か》けていった。
「どうしたんじゃ?」
「いや、よくわからないが……ああ、そうか。ここはエーブから紹介《しょうかい》してもらった宿屋だからな」
ロレンスはテーブルまで戻《もど》り、文《ふみ》を置いて呟いた。
ホロはてっきり自分のところにまで持ってきてくれるものとばかり思っていたようで、不満げな顔でベッドから下りる。
「なにか緊急《きんきゅう》の用ができたんだろう。ずいぶん手の込んだことだ」
「一人で大丈夫《だいじょうぶ》かや」
文を二本の指でつまみ上げ、胡散臭《うさんくさ》いものを品定めするようにくんくんと匂《にお》いを嗅《か》いでいる。
思いきり顔をしかめたので、エーブのものに間違《まちが》いないのだろう。
「きちんとたぶらかしてくるよ」
「たわけ」
ホロは言って、もう一度同じ言葉を繰《く》り返した。
「一人で大丈夫かや」
今度は、ロレンスも茶化さない。
「危ない目に遭《あ》わせるつもりなら他《ほか》にいくらでも方法がある。それに、なにかしらの理由があるはずだからな」
「……」
ホロは不満げに口を閉じ、尻尾《しっぽ》をぱたぱたとさせている。
またなにか罠《わな》に嵌《は》められやしないかと心配してくれているのか、それとも、頼《たよ》りないと思っているのか。
どちらにせよ、一人で来てくれと書かれているのであれば、一人で行くつもりだ。
こちらが先に疑えば、エーブはもっと疑ってくるだろう。
ただ、そうであるとロレンスが言ったところでホロは不機嫌《ふきげん》になりそうな気がする。
ロレンスが言葉に迷っていると、助《すけ》っ人《と》が現れた。
ずっと事の推移《すいい》を見守っていた、コルだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、ホロさん。ロレンスさんが留守の間は、僕がいますから」
コルのそんな捨て身の冗談《じょうだん》を聞かされたら、誰《だれ》だって笑わざるを得ない。
ホロは目を見開いて、それから吹《ふ》き出した。
ロレンスよりもさらに一回り歳《とし》が下のコルにこんな気の遣《つか》われ方《かた》をしたら、賢狼《けんろう》ホロがわがままを言えるわけがない。
やがて笑いが収まると、軽くため息をついて腰《こし》に手を当てた。
「というわけだそうじゃ。わっちゃあコル坊《ぼう》に見守られながらぬしの帰りを待っていんす」
ロレンスはコルに目配せをする。
笑顔《えがお》で返事をされたら、ありがたく感謝するほかない。
「じゃあ、ちょっと行ってくる。怪《あや》しい奴《やつ》が来ても扉《とびら》を開けるなよ? そいつは狼《オオカミ》かもしれないからな」
冗談《じょうだん》めかして言うと、ホロは馬鹿《ばか》馬鹿しい、とばかりに鼻を鳴らす。
「ま、朗報《ろうほう》がなかった時に、わっちが人の姿であり続けられるかどうかは、わかりんせんがな」
まったく冗談になっていないが、その返事はお預けとなった。
一体エーブにどんな貸しがあるのか、大至急の言葉に恥《は》じない速さで馬車を仕立てたらしい主人がロレンスのことを呼びに来たからだ。
「では、詳《くわ》しいことは御者《ぎょしゃ》にお聞きください」
この分だとリドンの宿屋というのが本当に宿屋であるかどうかすら疑わしい。きっとどこかの家をそう呼んでいるだけなのだろう。
ロレンスはうなずいて、主人の先導についていく。
コルを連れてきたのは正解だ。
捨て身の冗談を言った時のコルの顔を思い出しながら、そう胸中で呟《つぶや》いたのだった。
宿の裏口から外に出ると、そこに待っていたのは黒|塗《ぬ》りの馬車、というわけではなく普通《ふつう》の馬車で、それでもロレンスは主人から外套《がいとう》を受け取り目深《まぶか》にかぶることになった。
秘密裏にロレンスに会いたがっているということはよくわかったが、わからないのはエーブがこんなにも宿に影響《えいきょう》力を行使できるというその点だ。
なにか貸しがあるのだとしても、妙《みょう》な気がした。
その懸念《けねん》は、ほどなくしてリドンの宿屋と呼ばれた建物に着いてますます強くなった。
うっかりすると馬車がつっかえてしまいそうな路地を行き、軒先《のきさき》で靴《くつ》職人や桶《おけ》職人がこの寒さにも負けず威勢《いせい》よく仕事をしているような区画にその建物はあった。エーブがロレンスを連れて案内した隠《かく》れ家《が》のように、建物は古く黒ずんでいて年季を感じさせる。
道を挟《はさ》んだすぐ向かい側《がわ》では、服屋の工房《こうぼう》なのか大きな皮を三人がかりで裁《た》ち切っている最中だ。
貴族はあらゆる労働を嫌《きら》う。
区画としてはあまり上品な人間の住む場所ではなかった。
それに、そんな職人街に入ってからというもの、ロレンスは彼らの視線に奇妙《きみょう》なものを感じていた。
こういった場所に来るのはまず間違《まちが》いなく顔見知りの者たちばかりだから、怪訝《けげん》な視線を向けられるのは当然だとしても、なにかそれとは違うようなものを向けられていた。
言うなれば、それこそこちらを監視《かんし》しているような、そんな視線だった。
「お客様をお連れしました」
ロレンスの乗る馬車を駆《か》っていた御者《ぎょしゃ》は、建物の前に乗りつけるや杖《つえ》で扉《とびら》をノックする。
ずいぶんとざっくばらんな感じに驚《おどろ》きながらも、ノックの仕方が少し変わっていたのでなにかの符丁《ふちょう》なのだろう。
程《ほど》なくして扉は開き、中から顔を見せたのはロレンスの知らない顔ではなかった。
三角洲《さんかくす》でエーブと共にいた連中のうちの、目つきの良くない若い男の一人だった。
「中へ」
そして、やはりロレンスを品定めするように見ると、短く言って顔を引っ込めた。
なにか大きな構造の中に巻き込まれたといった感が拭《ぬぐ》えないが、それに気がついたからといってどうこうはできない。
もっとも、恐《おそ》れているばかりでは損なので、ロレンスは商人としての好奇心で武装する。
無口な御者に軽く礼を言って馬車を降りると、臆《おく》することもなく扉に手をかけた。
廃屋《はいおく》一歩手前の家に相応《ふさわ》しくみすぼらしい扉だが、木材はそれなりのものを使っているし、なによりも軋《きし》まない。
扉を開けて中に入れば、先ほど顔を出した男が壁《かべ》に寄りかかってこちらを見ていた。
商人ならばどんなところに品を届けても笑顔《えがお》でいなければならない。
ロレンスがにこりと笑みを返すと、隠しもせず腰《こし》から長剣《ちょうけん》をぶら下げている男は、廊下《ろうか》の奥を指差して目を閉じた。
壁は石と木が半々で、床《ゆか》は土を固めた土間になっている。
元は職人の工房《こうぼう》だったのかもしれない。
ざり、ざり、と足音を立てて中に入っていくと、この季節はその匂《にお》いを嗅《か》ぐだけで心が安らかになる木の燃える匂いがしてきた。
廊下《ろうか》の突《つ》き当《あ》たりの扉《とびら》を開けると、作業場|兼《けん》居間といった作りになっている。ただ、今では単なる倉庫にされているようで、木箱や樽《たる》が生活感の感じられない様子で積み上げられていた。
そんな部屋の左|側《がわ》には暖炉《だんろ》があり、そちら側は多少なりとも人が時間を過ごせるような形になっていた。
「驚《おどろ》いたか?」
椅子《いす》に座り、暖炉の前で火に当たっていたエーブが羊皮紙の束から顔を上げた。
その様子は領民の陳情書《ちんじょうしょ》に目を通す女貴族に見えなくもなかったが、振《ふ》り向いたエーブの顔を見て少し驚いた。
その唇《くちびる》の左|端《はし》が、赤く腫《は》れていた。
「寒いから扉は閉めてくれ。鍵《かぎ》はかからないが」
それが冗談《じょうだん》だと気がつくのにも時間がかかったほど。
よもや転んでぶつけたというわけではなかろうから、誰《だれ》かに殴《なぐ》られたのだろう。
「突然《とつぜん》呼び出して悪かったな」
「……いいえ。お美しい方に秘密の隠《かく》れ家《が》に呼び出されるのであれば光栄です」
笑顔《えがお》で言えば下手な冗談に。
真顔で言えばその逆に。
「秘密の隠れ家、か。まあ、座ったらどうだ。生憎《あいにく》とオレは給仕をしないがね」
あいている椅子を示してエーブは言うが、その目はロレンスが椅子に座るのを見届ける前に手元の羊皮紙に落ちていた。
「住みなれた我が家というには、少しばかり温かみがないですね」
エーブはテーブルに左|肘《ひじ》をついて、やはりずっと暖炉のほうを向いたまま手元の羊皮紙を見ている。
ロレンスの言葉にも返事を返さない。
「まあ、夏には涼《すず》しくて結構なことかと思いますが」
「今は冬だぜ」
渋々《しぶしぶ》といった感じに返ってきた言葉に、ロレンスはにこりと笑ってこう言った。
「なおのこと結構ですね。外に出れば暖かい」
それでようやくエーブが顔を上げてくれた。
口元が痛々しいが、楽しそうに目元で笑ってくれた。
「くっく。そのとおり。さっさと外に出たいところだ」
「なぜ、こんなところに?」
閉じ込められているのですか、という言葉は、きっと部屋の外で聞き耳を立てているだろう男に配慮《はいりょ》して。
エーブはため息をつき、羊皮紙の束をテーブルの上に置いて口を開いた。
「あんただっていざという時の武器は隠《かく》しておくだろう?」
「……確かにそうですね」
元貴族で、キーマンのような商業組合の幹部すらが一目置いているエーブは、ケルーベの町の地主たちの切り札なのかもしれない。
テーブルの上に置かれた古びた羊皮紙にさっと目を通すと、文言《もんごん》の配列や定型句から土地取引のそれなのだとわかった。
つまり、エーブはここで一人で作戦会議をさせられているのだろう。
「もっとも、こんなところに剣《けん》をぶら下げた鍵《かぎ》つきで閉じ込められているのはな、この契約《けいやく》のとばっちりを受けているわけじゃない。ましてや、あんたを呼んだのは一緒《いっしょ》に危ない橋を渡《わた》ろうぜと持ちかけるためでもない」
材木と毛皮の町レノスでこの上ないほど危険な取引を持ちかけてきたエーブならではの冗談《じょうだん》だ。
ロレンスの笑顔《えがお》が引きつってしまったのは、演技ではない。
「まあ、捕《つか》まってくれてよかった。駄目《だめ》だったら今晩はパンを小さくちぎって食べなければならなくなった」
ロレンスは楽しい語らいの時間から、商談に入ったのだと自覚する。
エーブの言葉の意味するところは簡単だ。
その左|頬《ほお》を殴《なぐ》った者に、右頬も殴られるということだ。
「あんたを呼んだのはほかでもない、町で騒《さわ》ぎが起こっているだろう?」
「ええ……町のこちら側《がわ》の漁師の方の船が南に着岸したとか」
「そう。まったく神が見計らったかのような頃合《ころあい》だった。その話が伝わったのはオレたちが洲《す》を引き上げてこちら側に戻《もど》ってきた直後だ。この町は川を挟《はさ》んだら別の町。町になにかしらの騒ぎが起こると、混乱の回避《かいひ》のために川を渡《わた》ることができなくなる。オレたちは顔が割れているからな、騒ぎが起き始めた時点で川を渡れなかった。情報を集めに行った密偵《みってい》どもは、南側に行くことはできても帰るのが間に合わなかった」
町から町への行商の旅に暮らすロレンスには縁遠《えんどお》い話だが、そういった縄張《なわば》り争いから起因する話が理解できないわけではない。
エーブがそんな話をし、ロレンスを呼びつけたというその目的はわかった。
ただ、その重要性のほどがわからない。
商人の勘《かん》としては、背筋を伸《の》ばさなければならないようなものなのではないかと、思っていたのだが。
「で、察しがいいあんただからわかってるとは思うが、知っている情報が欲しい。多分、あんたはぎりぎりまであの洲《す》の商館にいたはずだ。なにかしら聞いてるだろう?」
エーブはロレンスが商館にいたことを知っている、といった口ぶりだ。
合理的に考えれば、ロレンスがローエン商業組合の所属であることをエーブは知っているのだから、商館にいたと予測するのは難しいことではない。
しかし、この局面でこの話を出されたら、エーブをここに閉じ込めている連中の手の者が監視《かんし》していた、ということを疑わないわけにはいかない。
もちろん、エーブがロレンスにそう思わせる罠《わな》、というのも否定できはしないのだが。
「多少、ですが」
「多少でもいい」
テーブルの上に置かれた羊皮紙に視線を落としたのは、どこまで話を隠《かく》すかと考えたため。
ただ、数瞬《すうしゅん》の間をあけて顔を上げた時には、包み隠さず話していた。
「こちら側《がわ》に所属する船が、南の商会の船に連れられていった。荷はわかりませんが、その中身は剣《けん》で守るのに相応《ふさわ》しく、また、教会に持ち込まれるに値《あたい》するものだったそうです」
相手が欲しがっている情報を、そっくりそのまま見返りも要求せず話してしまったのは、打算がなかったわけではない。
「……それは、伝聞か?」
「連れが教会近くまで行ったそうです」
ロレンスが言うと、エーブは大きく息を吐《は》き、目を閉じて天井《てんじょう》を仰《あお》ぐ。
そして、すぐに体を戻《もど》して目を開いた。
「やはり、そうか」
エーブに嘘《うそ》をつかなかったのは正解だった。
ロレンスからわずかの情報を引き出すために駆《か》け引《ひ》きをするほどエーブは暇《ひま》ではないのだ。
「あんたが話を出し惜《お》しみするような小物でなくてよかった」
「大物であれば呼びつけられてのこのこと来はしませんけどね」
「確かにそうだ。だが、大物では通れない小さな道が世の中にはたくさんある」
町に起きた騒《さわ》ぎの話を、ロレンスから聞き出そうなどというのは分《ぶ》の悪い賭《か》けだろう。
仮にロレンスが商館にいたとしても、情報を得られるかどうかは疑わしい。
それでもなお人目をしのぶような方法でロレンスをここに呼びつけたのは、他《ほか》に用があるからに他ならない。
そして、漠然《ばくぜん》と予測していたその用というのも、エーブの言葉でほぼ知れた。
「私に、小道を通ってこいと?」
「あんたはこの町で特異な立場にいる。この町とはろくなつながりもないのに、この町の連中がもっともつながりを持ちたがる相手と楽しく会話することができる」
エーブはにっこりと笑い、目まで細めてくる。
その言葉を聞いてロレンスの脳裏をよぎったのは、エーブと面識があると告げた時の、キーマンの顔だ。
「もちろん、ただでとは言わない。この話はオレをここに閉じ込めるような、小さな小道はその腹がつっかえて通れないような連中から言いつけられたことだ」
羊皮紙の一枚をひらひらとさせる。
署名と印のある契約《けいやく》書。
古い字体のそれは、この町の三角洲《さんかくす》を巡《めぐ》る契約書だった。
「生憎《あいにく》と金だの物だのは不足がちだが、人脈と権力だけは健在だ。商売の大きな足しにはなる」
「頸木《くびき》には?」
ロレンスが言うと、エーブは顔から演技の笑《え》みを消して、無表情になった。
「……なるな」
そして、自分の左|頬《ほお》を撫《な》でて、掌《てのひら》を見たのは血がついたかどうかを見るためだろう。
「あんたは、その傷はどうしたのですか、と聞かないんだな」
「どうしたのですか?」
ロレンスが即座《そくざ》に聞き返すと、エーブは肩《かた》を揺《ゆ》らして笑って町娘《まちむすめ》のように口元を押さえた。
本当に楽しそうだったのが、逆に痛々しい。
「敵《かな》わないな。なにもあんたに頼《たの》むのは、あんたが立ち位置として最適だったからというだけではない」
「でも、私に危ない橋を渡《わた》らせて座りが悪いわけでもない」
これは雑談ではない。
気を許した時が、危ない橋を無料で渡らされる時だ。
「オレが隙《すき》を突《つ》くのと、あんたが完璧《かんぺき》に守りきるのは同等の難易度ではない」
「ええ。連れとのやり取りで骨身にしみています」
防戦一方のロレンスはいつかエーブに負けるだろうということはわかっている。
エーブはうなずき、表情を改めた。
「もう多分|間違《まちが》いない。こっち側《がわ》の漁師が海で捕《つか》まえたのはイッカクだ」
「イッ……」
と、ロレンスは声を上げかけ、慌《あわ》てて後ろの扉《とびら》を振《ふ》り向いた。
「あいつは聞き耳を立てるような安い仕事を任されているわけじゃない。オレをここに閉じ込めている奴《やつ》は、オレにこんなことをしておきながら、オレが完璧にへそを曲げることを恐《おそ》れている」
その言葉をどこまで信用していいものかわからないが、疑ったところでどうしようもない。
ロレンスはうなずき、前に向きなおって、改めて聞きなおした。
「イッカクとは、あの、不老長寿《ふろうちょうじゅ》の?」
「そう。角を生やした海獣《かいじゅう》だ。生肉を食らえば長寿が得られ、その角を粉にして飲めば万病が癒《い》える」
ロレンスは迷信だと信じているし、もちろんエーブの口ぶりも本気ではない。
「氷と同じ冷たさがないと死んでしまうと聞きましたが、こんな南にまで来るものなのですか?」
「船乗りが言うには、北の海の天気の荒《あ》れ具合によっちゃあ向こうの魚や生き物がこっちに流されてくることもあるらしい。オレもイッカクは聞いたことがないがね。取り扱《あつか》うのも、大抵《たいてい》がその骨だという鹿《しか》の骨か角だ」
不老長寿や万病を癒やす秘薬の話は数多《あまた》ある。
それも、異教徒の土地にあるものほど正教徒たちは信じたがる傾向《けいこう》がある。
世界中の人間が死後に老いも病もない安らぎと幸福だけがある世界に行きたがるということは、世界中がそうではないということを証明するのと同じように、教会の教えがあるところでは少なくとも不老長寿は得られないというわけだ。
各地を渡《わた》り歩いたり、あちこちの商品や商談を見聞きする商人や旅人、それに死と老いと常に隣《とな》り合わせの傭兵《ようへい》達は、もちろんそんなものは全《すべ》てが紛《まが》い物で迷信だとわかっている。
しかし、わからない連中がいるのだ。
土地に縛《しば》られ、自分の領土から出たことのない貴族などが典型例になる。
生きたイッカクであれば、そこら中の貴族が大金を持って駆《か》けつけるだろう。
「ただ……ということは、まさか」
「そう。イッカクがいれば、こちら側《がわ》の連中はまさかの逆転劇が演じられるというわけだ」
椅子《いす》の脚《あし》が折れた、と思ったのは話の大きさの前に体が一瞬《いっしゅん》すくんだせいかもしれない。
どう見ても仲が良くないこの町の中で、形勢が一瞬で逆転するような代物《しろもの》が捕《つか》まった。
戦争が起こる。
ロレンスは即座《そくざ》にそう直感した。
「南|側《がわ》の連中は、あくまでもこちらを制御《せいぎょ》しておきたい。対等の立場になられちゃ困るんだな。イッカクがいればそれを売った代金で借金を返してなお余りあるし、あるいはどこかの領主を抱《だ》き込んで戦争も辞さない覚悟《かくご》も持ちうる。そりゃあ、是《ぜ》が非でもこちらに渡《わた》したくないだろうさ。奪《うば》って、売れば、一石二鳥。すごい金額になるぜ」
教会に運び込んだのは、北側が武力に訴《うった》えるのを少しでも牽制《けんせい》するためだろう。
もしも教会に攻《せ》め込んだとしたら、それは教会への戦争|行為《こうい》となる。
「どうだ。もしもこの小道をくぐり抜けたら、ずいぶんすごいものが待っていると思わないか?」
そのとおりだ。
エーブはきっとロレンスがローエン商業組合の組合員であることを最大限活用しようというのだろう。
この町で南と北の人間の仲は最悪といえる。
その中で、エーブとつながりを持つことができ、なおかつこの町でその存在が注目されていないロレンスは稀有《けう》な存在に他《ほか》ならない。
密偵《みってい》にするならばこれ以上の適任者はいないかもしれない。
ただ、ロレンスにはおくびにも出さなかったことがある。
エーブと知己《ちき》であるということは、すでにキーマンに話してしまっている。
「どうだ。やってくれないか。いや……」
エーブはわざとらしく頭を振《ふ》って、まっすぐにこちらを見なおした。
「どんな見返りならやってくれる?」
これは間違《まちが》いなく組合を裏切る行為《こうい》になる。
エーブももちろんそれはわかっているだろうし、南の人間にとって商業組合というものがどういうものなのかも理解しているに違いない。
その上でこう言っているのだ。
どんな見返りでも、ロレンスが両手で抱《かか》えられる程度のものならどんな願いでも叶《かな》えられるという自信があるから。
そして、実際にそれほどの利益の絡《から》む話であるから。
「考えさせてもらう、というのは?」
エーブは、無言で首を横に振る。
密偵になってくれないか、という頼《たの》みを断れば、それは即座《そくざ》に敵方に回ったと認識《にんしき》されてもおかしくはない。
少なくとも、そう思って対応するべきだ。
だとすれば、迷う、というのはあり得ない。
それは、どちら側《がわ》につくのかを迷うことに他ならないし、そんな密偵ほど信用のならないものはない。
しかし、ロレンスは迷っていた。
キーマンがどんなことを企《たくら》んでいるのかはわからないが、これは使えるからだ。
こんな話をされたとキーマンに伝えたらどうなる?
キーマンの走狗《そうく》になれたとしたら、自分はどれほどの利益を上げることができる?
天秤《てんびん》の両方の皿には途方《とほう》もない利益が積み上がっていき、容易に片方には傾《かたむ》かない。
商人ならば損得を考えるのが筋だ。
いや、むしろそれ以外のなにを考える?
「狼《オオカミ》の骨の話、だったか」
そんなロレンスの胸中を見|透《す》かしてか、それとも最初から交渉《こうしょう》の一部に組み込むつもりだったのか、エーブは短くそう言った。
「勘《かん》のいいあんたらのことだろうから、レイノルズが本気だということは薄々《うすうす》感づいているんだろう? それに、あいつはオレに協力を求めたがっている」
エーブはうっすらと笑う。
やはりレイノルズと狼《オオカミ》の骨の話はロレンスたちが予想したとおりのことになっており、それはエーブも知るところだった。
この分だと、エーブはレイノルズが誰《だれ》と渡《わた》りをつけたがっているのかもある程度予測しているのかもしれない。
「……知っていて、我々に紹介《しょうかい》状を書きましたね?」
「怒《おこ》るか?」
「いいえ。予想が当たって嬉《うれ》しい限りです」
エーブは皮肉な笑《え》みを浮かべて、一度|椅子《いす》から立ち上がると、薪《まき》を暖炉《だんろ》の中に二つ放《ほう》り込んだ。
「北|側《がわ》で薪の暖炉に当たれる奴《やつ》は数少ない。ほとんどが泥炭《でいたん》だ」
「ですが、貧しい者への施《ほどこ》しはこちらのほうが多いそうですよ」
「くっく。あの坊《ぼう》やならどこに行っても人気者だろう」
エーブがどれほど掌《てのひら》に汗《あせ》をかいているか確かめたいくらいだ。
その表情はころころと変わるが、一貫《いっかん》して本音を覆《おお》い隠《かく》していることくらいわかる。
「どうだい。悪い話じゃないと思うんだがな」
「悪い話ではないでしょうね」
しかし、悪魔《あくま》はいつだって素晴《すば》らしい能力と引き換《か》えに命を奪《うば》っていく。
ロレンスがこの話を受ければ、それは間違《まちが》いなく組合の利益を損なうことになる。
それどころか、ばれたとしたら組合を追放されるか、さもなければ制裁を受けるだろう。
ホロは心配ないと言っていたが、どうしたって、あの豹変《ひょうへん》したキーマンの冷たい表情を思い出す。
商人としてはもちろん、大袈裟《おおげさ》ではなく生命そのものが終わる可能性があった。
「あんた、キーマンに出会ったか」
表情に出なかったのは、別に強靭《きょうじん》な自制心が働いたからではない。
エーブの言葉が的確すぎて、表情に出ないほど驚いたのだ。
「情報を集めに商館に行けば、話を聞くうえでオレの名前が必ず出るだろうからな。その時のあいつの対応も目に浮かぶようだ」
純粋《じゅんすい》に楽しそうに、それこそ旧知の友人の話をするようにエーブは言う。
それとも、エーブにとってはキーマンすらがその程度の相手なのか。
いや、そんなわけはない、とロレンスは自分に言い聞かせた。
「ええ……素晴《すば》らしい商人でしたね」
「確かにな。どこの組合にも天賦《てんぷ》の才に恵《めぐ》まれた奴《やつ》がいる。それがあいつだ」
エーブは生き生きとした口調でそう言った。
「それで、そのキーマンさんがどうかしましたか?」
「無理はするものじゃない。あいつは執念《しゅうねん》深くオレのことを狙《ねら》っているからな。相当|脅《おど》かされただろう?」
細められたエーブの目は、銀色に染まった氷の森が似合う狼《オオカミ》のそれだ。
「……ええ」
「まあ、あいつが怖《こわ》いのは間違《まちが》いない。オレも何度か煮《に》え湯《ゆ》を飲まされた」
エーブはテーブルの上を見つめ、口元にうっすらと笑《え》みを浮かべる。
思い出は、笑えないことほど笑みを伴《ともな》う。
しかし、いつまでもその中に浸《ひた》っているほど、エーブは暇《ひま》ではない。
「なあ」
「なんでしょうか」
エーブは、さらりと言った。
「いっそのこと、組合など抜《ぬ》けてしまったらどうだ」
驚《おどろ》く前に、馬鹿《ばか》らしい、と思った。
「組合を抜けた商人が、一体どこに行けば?」
広大な商業|網《もう》と、数々の特権、知名度、それに伴《ともな》うさまざまな利益。
そして、世界各地に仲間がいるという安心感。
その庇護《ひご》の外に出ることは、ある日|突然《とつぜん》破産することとなんら変わらない。
「うちに来ればいい」
羊皮紙の隅《すみ》を指でいじりながら、エーブは呟《つぶや》くように言った。
「うちに?」
「ああ。うちに来ればいい」
レイノルズが言った、ボラン商会という単語。
あれは、実在するものだったのだろうか。
ロレンスがそんなことを思っていると、エーブが視線を遠くし、自分の口元を指差しながら口を開いた。
「オレがこんなところに閉じ込められているのはな、この傷をつけた奴の命《めい》だ」
自分の口元を差すエーブの指は、ホロとはまた違った女の指だ。
細く、長いのにしっかりとしたその白い指。
ロレンスは、人魚の歌声に負けまいとする船乗りのように、耳に鉛《なまり》を流し込む覚悟《かくご》を決めた。
「この三角洲《さんかくす》の契約《けいやく》を結んだ土地持ちの、孫に当たる。歳《とし》はオレより二つ下だがな、癇《かん》の強さと金への執着《しゅうちゃく》心は同じくらいだ。そして、それらと同じくらいに、オレのことが大事らしい」
皮肉っぽい笑《え》み。
その顔が寂《さび》しそうに見えたのは、錯覚《さっかく》なのか。
「あいつはこの町を出ることを夢見ている。イッカクを手に入れ、その資金を元手に南に下り、大商会を作ろうと大真面目《おおまじめ》な顔で言う。お前とならば親父《おやじ》どもの鼻を明かせると息巻いてな。オレを殴《なぐ》ったその右手で、オレの肩《かた》を掴《つか》むんだ」
言葉が切れたその合間に、エーブは小さく笑いそうになり、それを深呼吸で誤魔化《ごまか》したのがわかった。
ただ、飲み込んだその笑みは、血となり肉となり、エーブの意志の下《もと》に顔に現れた。
「これを裏切らない手はないだろう?」
エーブは恐《おそ》ろしいことを口にしている。
ロレンスを口説くのはそもそも組合を裏切ってイッカクに関する情報を集めさせるためだ。
それは地主たちがケルーベの町での主導権を再び手に入れるために、という理由からのもの。
しかし、それは表向きであってエーブに直接命令している地主の息子《むすこ》は、イッカクを手に入れたらケルーベの町を捨てて南に行こうと言っている。
そして、エーブはその息子を裏切ろうと言う。
ロレンスに向かって。
裏切った、その口で。
「キーマンはオレを利用しようとするはずだ」
エーブの言葉にロレンスの頭が追いつかない。
口にされる言葉の一つ一つが重すぎて、切《き》り替《か》えが間に合わない。
「あのどら息子《むすこ》がオレにべた惚《ぼ》れなのを知っているからな。オレを通じてあのどら息子を騙《だま》す算段をつけるはずだ」
目隠《めかく》しをして戦場に赴《おもむ》いているようなものだ。
ロレンスの知らない情報、知り得ない情報、あるいはその真偽《しんぎ》を判断することすらできない情報から、エーブは絵を描《か》いている。
そんな絵の説明をされてもわからない。
わかるわけがない。
「目的は、地主たちの息の根を止めること。大方、土地の権利と引き換《か》えにイッカクを引き渡《わた》す契約《けいやく》を結ぼうとするんだろうよ。権利書はキーマンの手に渡《わた》り、イッカクは息子に持ち逃《に》げされる。荒唐無稽《こうとうむけい》だと思うだろう? だが、そんな話をオレの口からどら息子にさせてみな。まともな取引はいつだって?」
エーブは観客を窒息《ちっそく》させないように、観客にも解くことのできる問題を出してきた。
「色恋に飛び越《こ》えられますからね」
満足げにうなずいたのは、ロレンスが椅子《いす》を立たなかったからか。
「キーマンがこんなことを考える理由ももちろんわかるさ。老人たちは変化を嫌《きら》う。打破したほうがよい環境《かんきょう》であっても、長年続いてきたそれを変える気概《きがい》は今更《いまさら》ない。それは北|側《がわ》も南側も同じ。それに若者が憤《いきどお》るのもまた同じ。キーマンは必死に頭を巡《めぐ》らせているだろうな。妙《みょう》な釣《つ》り合《あ》いで動いているこのケルーベの町を刷新し、しかもなお他《ほか》の組合や商会を出し抜《ぬ》いて自分の名を高めるにはどうすればいいかと。そのためには誰《だれ》をどのように利用すればいいかと。怜悧《れいり》に、合理的に、自分の目的のために」
「という絵を用いた罠《わな》を、貴女《あなた》は巡らせているのかも知れない」
ロレンスには、そう言うのが精一杯《せいいっぱい》だった。
エーブは片手の掌《てのひら》をこちらに見せて、降参の姿勢を取る。
馬鹿《ばか》にされているのは、もちろんわかっている。
「それらの話の真偽を私は確かめることができない。そんな時に私が自分の判断のよりどころにすることはなんだと思いますか」
ローム川流域を縄張《なわば》りにする狼《オオカミ》は、楽しそうに笑って答えた。
「過去の経験」
「私は一度騙されていますからね」
「そのとおりだ。だが、昔の商人はいいことを言った」
つり上げた唇《くちびる》の下から牙《きば》が見えないことが、不思議でならなかった。
「騙《だま》されたと思って、乗ってみればいい」
エーブはそう言って、くつくつと笑う。
酔《よ》っているのかと思うほどだ。
いや、酔っているのだろう。
この、騙し絵の中に騙し絵があるような、幻惑《げんわく》的なやり取りに。
ロレンスは覚悟《かくご》を決めて椅子《いす》から立ち上がった。
この場にこれ以上いることは、危険でしかない。
「答えは、否《いな》、でいいんだな?」
足元がふらつきかねないほど酔っ払《ぱら》ったような会話の直後だというのに、その声は真冬の川の水のように冷たい。
ロレンスは、背中に冷たいものが這《は》ったのは、そのせいだと思った。
「キーマンはおそらくあんたに協力を要請《ようせい》するだろう。あんたは非常に都合のいい立場にあるからな。ところで……」
と、エーブは楽しそうな笑《え》みを浮かべた。
「ジーン商会のテッド・レイノルズはオレの人脈を使いたがっている。オレがその気になりさえすれば、きっとオレの耳元で取引を望む相手の名前を囁《ささや》くことだろう。あんたらは、確か狼《オオカミ》の骨の話を追いかけていたのではないか?」
元貴族の女商人、エーブ・ボラン。
ロレンスは、無意識に腰《こし》にくくりつけているナイフに手をかけていた。
「オレが丸腰だと思っているのなら、おめでたい勘違《かんちが》いだ」
エーブの顔から笑みが消える。
聞き耳を立てていないとは言っていたが、扉《とびら》の外には剣《けん》をぶら下げた見張りがいる。よもやその辺のごろつきを雇《やと》っているとは思えない。
それに、剣戟《けんげき》は商人のするべきことではない。
ロレンスはゆっくりとナイフから手を離《はな》し、一礼すると背を向けて歩き出した。
エーブの言葉が届いたのは、ロレンスが扉に手をかけた瞬間《しゅんかん》だった。
「後悔《こうかい》するぞ」
キーマンと同じ言葉。
ロレンスは歯を食いしばり、扉を開けた。
廊下《ろうか》では相変わらず、見張りの男が目を閉じて壁《かべ》に寄りかかっていた。
ロレンスが無言ですれ違いざま目を向けると、腰に下げられているそれは留め金が外されいつでも抜《ぬ》けるようになっていた。
「口外するなよ」
そして、そんな一言を呟《つぶや》いた。
返事はおろかうなずきもしなかったのは、言われるまでもないことだから、というわけではない。
口外できるわけがなかった。
行商人として一人前だと自認《じにん》したのはもう何年も前だし、自分が世間にとってどれくらい小さいものであるかはとっくに理解しているつもりだった。
だというのに、恐《おそ》ろしい構造の一端《いったん》を垣間見《かいまみ》た。
彼らは信じられない金額で遊ぶ博打打《ばくちう》ちだ。
住む世界そのものが違《ちが》う。
そんな思いが、拭《ぬぐ》いきれなかった。
玄関《げんかん》の扉《とびら》を開けると馬車が待機《たいき》しており、それはロレンスのために用意されたものだ。
「どうぞ、お客様」
御者《ぎょしゃ》の向こう側《がわ》に見えるのは、相変わらず皮を裁《た》ち切っている三人の職人たち。
ロレンスは気がついた。
彼らは見張りなのだ。
差し出された外套《がいとう》を受け取り、目深《まぶか》にかぶりながら馬車に乗り込んだ。
キーマンに庇護《ひご》を求めるべきか、と自問する。エーブがあそこまで手の内を明かした以上、ロレンスを放置しておくとはとても思えないからだ。
あるいは、ここでケルーベから逃《に》げ出すことも選択肢《せんたくし》にのぼってくる。
相場のわからない市場からは一切《いっさい》の取引を行わずに逃げるべきだ。
ロレンスは黙考《もっこう》し、気がついたら宿の裏口に着いていた。
強張《こわば》る顔の筋肉を動かして御者に礼を言い、裏口から宿に入って大きくため息をつく。
扉の開け閉めで気がついたのか、主人が顔を覗《のぞ》かせてきたので、ロレンスは無言で外套を返した。ひどい顔をしているのか、主人は気遣《きづか》うように飲み物を勧《すす》めてきたが、断ってまっすぐ部屋に向かった。
最善策は、ここを嗅《か》ぎつけられる前に、あるいはキーマンが本気になる前に逃《に》げることだ。
そうすれば狼《オオカミ》の骨の話に関する手がかりを失うことになる。
しかし、ジーン商会が本気でその話を追いかけていることはわかったのだから、どこか別の町でジーン商会を軸《じく》に話を集めればどうにかなる可能性はあった。
ロレンスは扉に手をかけて、開ける。
今すべきなのは、この迫《せま》りくる嵐《あらし》を前に、自分の乗る小さな船を守ること。
その時の顔は、きっとどんな絵描《えか》きでも描くことはできなかっただろう。
「ぬしよ、こんなものが来たんじゃが」
ホロがロレンスに向けて掲《かか》げた羊皮紙には、一目でわかる印があった。
ローエン商業組合の組合印。
真っ赤な蝋《ろう》に押されたその印が悪魔《あくま》の署名に見えたとしても、大袈裟《おおげさ》ではないだろう。
口の中がからからに乾《かわ》いているのに、必死に唾《つば》を飲み込もうとする。
とっくに組合には宿泊《しゅくはく》先がばれていた。
キーマンは本気だ。
そして、エーブの言っていたことは本当だ。
ロレンスの頭上を越《こ》えて話が進んでいく。
大きな歯車が、ぎしぎしと軋《きし》み音を立てていた。
[#地付き]続く
[#改ページ]
あとがき
お久しぶりです。支倉《はせくら》凍砂《いすな》です。
今回は表題のとおり上下巻構成の上巻という運びになりました。
なぜ、どうして、という疑問にお答えしているとそれだけで本が一|冊《さつ》できてしまうので多くは語らないのですが、最大の原因はプロットからは書き上がる総|枚数《まいすう》が計算できないことです。
必要なことだけ埋《う》めているつもりだったのに枚数が増える増える。
四苦八苦してページを削《けず》って一回|原稿《げんこう》を完成させたものの、量も多いしちょっと歪《いびつ》なので上下巻にして下巻は手直ししましょうということでした。
というわけで美しい二ヶ月連続|刊行《かんこう》、ということにはならず多少間が開いてしまいますが、お待ちいただけると幸いです。
下巻はロレンスがかっこいいはずです。
少なくとも、プロット上ではそうなっています!
ところで、この前すごい変わった食べ物を食べましたのでここにご報告します。
なんと、ツキノワグマの背脂《せあぶら》の刺身《さしみ》です。
店主がすごい狩人《かりうど》で、沖縄《おきなわ》で琉球猪《りゅうきゅうイノシシ》を仕留め、奈良《なら》で鹿《シカ》を仕留め、仕留めた獲物《えもの》を調理して出すお店なのです。鹿については嘘《うそ》をつきましたが、猪は本当だそうです。
で、ツキノワグマの背脂。
事前に聞いていた話では馬の鬣《たてがみ》に近いといわれていたのですが、食べてみると塩味のしないバターみたいな感じでした。口に入れるとすぐに溶《と》けていき、まったく臭《くさ》みがなく、ほんのり脂の甘みがして、筋もないので本当にバターを食べてるみたいでした。
高層ビルに囲まれた横丁で、店の外の通りに折りたたみ式の椅子《いす》を出して、ビールとか入ってる冷蔵庫をテーブル代わりにして食事をするという実に野趣《やしゅ》溢《あふ》れるシチュエーションで食べたこともあって、大変においしかったです。
とかそんな話を書いていたら焼肉が食べたくなったので今晩は焼肉にしようかと思います。
ついでにページも埋《う》まったのでこのへんで。
では、下巻でまたお会いしましょう。
[#地付き]支倉凍砂
[#改ページ]
狼と香辛料[ 対立の町<上>
発 行 二〇〇八年五月十日 初版発行
著 者 支倉凍砂
発行者 高野潔
発行所 株式会社アスキー・メディアワークス