狼と香辛料W
支倉凍砂
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《》:ルビ
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(例)名残|惜《お》しげ
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(例)[#地付き]終わり
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底本データ
一頁17行 一行42文字 段組1段
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狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》W
狼神ホロの故郷ヨイツを探すため、北を目指す行商人ロレンス。異教徒の町クメルスンで得た情報をもとに、二人は田舎の村テレオにやってくる。
テレオの教会にいる司祭は、異教の神々の話だけを専門に集める修道士の居場所を知っているという。しかし、教会を訪れたロレンスとホロを出迎えたのは、無愛想な少女エルサだった。
さらにそこで、ロレンスたちは村存続の危機に巻き込まれてしまう。二人はヨイツへの手がかりをつかみ、無事に村を出立できるのか……。
話題の異色ファンタジー、第12回電撃小説大賞<銀賞>受賞作第4弾。
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支倉《はせくら》凍砂《いすな》
1982年12月27日生まれ。第12回電撃小説大賞<銀賞>受賞。大学にて物理を学ぶも最近まで空が青いのは海の色が空に映り込んでいるからだと思っていたロマンチスト。その割にマイナスイオンと酸素水には否定的。
イラスト:文倉《あやくら》十《じゅう》
1981年生まれ。京都府出身のAB型。現在東京にて、フリーで細々と活動中。古道巡りを企画するもなかなか実行に移せない今日この頃です。
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Contents
第一幕 11
第二幕 65
第三幕 123
第四幕 195
第五幕 263
第六幕 307
終幕 337
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第一幕
六日間の冬の旅ともなると体に応《こた》える。
雪に降られないだけましだったが、それでも寒いものは寒い。
一山いくらで買った毛布など毛布というよりも柔《やわ》らかい板に近いのだ。暖が取れるならなんだって毛布の中に入れる。
もちろん一番暖かいのは血の通う生き物で、毛皮がついているとなおのこと良い。
ただ、それが喋《しゃべ》るとなると少し面倒《めんどう》くさい。
「常々思っておるのじゃが、わっちは損をしているような気がしてならぬ」
空はうっすらと明るくなり始め、夜の最後の厳しい寒さが名残|惜《お》しげに顔を撫《な》でていく。
この時間、寒さで目を覚ましてもとても毛布の中から出ることなどできず、しばし明るくなっていく空を眺《なが》めていたりするのだが、本日の同じ毛布の中にいる毛皮つきの相方のご機嫌《きげん》は、初めて見るくらいに斜《なな》めだった。
「だから悪かったって」
「悪いか悪くないかといえば、ぬしは悪い。もちろん、わっちゃあ少しでもぬしの寒さが和《やわ》らげば良いと思ってもいんす。じゃから多少のことは大目に見るし、料金をとろうなどとも言わぬ」
毛布の中で仰向《あおむ》けに寝《ね》る、文句を言われっぱなしの青年、クラフト・ロレンスは視線を左のほうにそらす。
十八の頃《ころ》からもうかれこれ七年も行商をしてきた身であり、大抵《たいてい》のことなら理不尽《りふじん》にでも相手を言いくるめられる自信がある。
しかし、そんなロレンスの右|隣《どなり》でうつぶせに寝《ね》て、遠慮《えんりょ》なくロレンスに視線と文句の言葉を向けてくる相方にはうまい反論ができない。
琥珀《こはく》色の目をして、長く綺麗《きれい》な亜麻《あま》色の髪《かみ》を有し、少しやせ気味だがそれなりに娘《むすめ》独特の柔《やわ》らかい体つきをした相方の名は、ホロ。
珍《めずら》しい名前だが、珍しいのは名前だけではない。
なにせその頭には獣《けもの》のような耳を有し、腰《こし》からは立派な狼《オオカミ》の尻尾《しっぽ》が生えているのだから。
「それでもな、ぬしよ。やっていいことと悪いことがあろう?」
これが寝ぼけて寝込みを襲《おそ》った、などというわかりやすいことならホロは怒《おこ》りはしなかったろう。
代わりにロレンスが立ち直れなくなるほどからかった挙句《あげく》、大笑いしておしまい、だ。
それがさっきからねちねちと文句を言い続けているのは、ホロの腹に据《す》えかねることをしてしまったからだ。
なにをしたかといえば、寒さのあまり、気がつかないうちにホロの尻尾を足の下に敷《し》いて眠《ねむ》っていたのだ。挙句、寝返りを打った時に長い毛を巻き込んでしまった。
御歳《おんとし》数百|歳《さい》にして日々|賢狼《けんろう》を自称《じしょう》し、不本意とはいえ人々からは神と呼ばれていたほどのホロが、女の子のような悲鳴を上げたのだから痛さだけでも相当なものだったのだろう。
ただ、寝ていたのだから仕方ない、ともロレンスは思うのだ。
それに、今でこそねちねちと文句を言い続けてきてはいるが、毛を巻き込んで尻尾をごりごりと足で踏《ふ》んづけてしまった直後に二回ほど顔を殴《なぐ》られた。
それで許してくれてもいいような気もする。
「人は目を覚まして歩いておっても誰《だれ》かの足を踏むことくらいありんす。寝ておったらなおさらじゃ。じゃがな、この尻尾はわっちの誇《ほこ》り。わっちがわっちである唯一《ゆいいつ》の証《あかし》じゃ」
尻尾そのものに大事がなかったとはいえ、毛がいささか抜《ぬ》けてしまっていた。
痛さよりもホロにはそちらのほうが頭にきたらしい。
しかも、その事態に至るまでロレンスはかなり長いこと下敷きにして寝ていたらしく、尻尾の毛がぺっちゃんこにつぶれていた。
しばし呆然《ぼうぜん》と自分の尻尾を見ていたホロは、気まずくて毛布から出ようとしたロレンスの体を押しとどめ、さっきからずっと同じ毛布の中で文句を延々と言い続けている。
腹が立ったのなら徹底《てってい》的に邪険《じゃけん》に扱《あつか》うか、それとも決闘《けっとう》かというほどに相対するのが相場だろうが、ホロの仕返しの方法のほうがよほど応《こた》える。
なにせ、同じ毛布の中にいればそれなりに暖かく、時刻は明け方で、冬の旅路のせいで体は疲《つか》れきっている。
そこに反論を許さない小言が延々と続けば、うとうととしてしまうのも無理はない。
当然、眠《ねむ》そうにしていればホロはそこを猛然《もうぜん》と批難してくる。
まるで拷問《ごうもん》だ。
ホロはよい警吏《けいり》にもなれるだろう。
「大体じゃな……」
そして、この拷問はホロが怒《おこ》り疲《つか》れて眠くなるまで延々と続いたのだった。
ホロを怒らせると怖《こわ》いのはもちろんわかっていたが、その怖さも色々あるのだなと、知りたくもなかったことをまざまざと知る一悶着《ひともんちゃく》があったあと、ロレンスは荷馬車を進めていた。
怒り疲れて眠くなったホロはというと、ロレンスから毛布を全《すべ》て奪《うば》ったあと、蓑虫《みのむし》のように体に巻いて眠りこけている。
だが、ホロは荷馬車の荷台で寝《ね》ているわけではなく、御者《ぎょしゃ》台で横になって、ロレンスの膝《ひざ》の上に頭を載《の》せて眠っている。
寝顔だけ見ていればおとなしそうで可愛《かわい》らしいが、こんなことをする時点で恐《おそ》ろしいほどに計算高い。
ホロが牙《きば》を剥《む》いてくればこちらも迎《むか》え撃《う》つ口実ができるし、無視をしてくればし返すこともできる。
それが膝|枕《まくら》の強要となれば、ロレンスの立場は一方的に悪くなる。
怒れず、無視もできず、邪険《じゃけん》にもできず、しかも、ホロがなにか食べたいとでもねだってくれば断ることもできない。
ホロは形の上では、和解を宣告しているのだから。
だいぶ日が高く昇《のぼ》り、早朝の空気も和《やわ》らいできてはいたが、ロレンスの口から出るため息は重い。
今後はこれまで以上にホロの尻尾《しっぽ》には気をつけようと思うものの、冬の野宿において、その暖かさは抗《あらが》いがたい誘惑《ゆうわく》がある。
どうしたらよいですかと、神様がいるのなら聞いてみたいところだった。
そんな朝の旅路だったが、思いのほか早く終わりを告げることになった。
道中|誰《だれ》ともすれ違《ちが》わなかったのでまだまだ遠いものだと思っていたところ、ちょっとした小高い丘を越えれば前方に町が見えていた。
この辺りの地域にはロレンスも一度も来たことがなく、土地勘《とちかん》がまったくない。
異教徒と正教徒が混在する広大な国、プロアニアの中央部やや東寄り、といったところで、軍事的にはどうだか知らないが、行商的にはなんの面白《おもしろ》みもない地域だ。
それではなんのためにこんなところに来たかというと、言うまでもなく、ロレンスの膝の上で小悪魔《こあくま》のごとく眠《ねむ》っているホロのためだ。
もともとホロと旅をすることになった理由が、ホロの帰郷の道案内ということだ。
ただ、ホロは何百年と故郷から遠く離《はな》れた場所にいたせいで、その詳《くわ》しい道のりも場所も記憶《きおく》の中でおぼろげになっていた。しかもそれだけの時間が経《た》っていれば世間が大きく変化するのには十分すぎるし、それゆえにホロは故郷に関する話を少しでも集めたがっていた。
たとえ、すでに故郷であるヨイツは滅《ほろ》びているという話を知っていてもなお。
だから、六日ほど前に発《た》った異教徒の町クメルスンでは大昔の昔話を集める修道女のディアナと出会い、話を聞いた。さらに、異教の神々の話だけを専門に集める修道士も紹介《しょうかい》してもらった。
その修道士がいる修道院はかなり辺鄙《へんぴ》なところにあるらしく、その場所を知るのはテレオという町にある教会の司祭だけということだった。
だが、まずそのテレオに行く道自体があまり知られておらず、先にエンベルクという町に寄ってその道のりを聞かなければならない。
今のロレンスたちは、そのエンベルクにようやくたどり着いたところだった。
「甘いパンが食べたい」
そして、町に入る検問を前にして、もそもそと起き出したホロの開口一番の台詞《せりふ》が、それだった。
「甘いといっても、あれじゃ。小麦のパンがよい」
ねだる品物も実に高価だ。
だが、ロレンスに断る権利はない。
それにロレンスはこの地方にどんな商品の需要《じゅよう》があるかわからなかったので、クメルスンで世話になった麦商人のマルクから小麦の粉を買って北上してきたのだが、旅の糧食《りょうしょく》に選んだのは黒くて苦いライ麦パンだった。
そのけちな判断もずっとホロに嫌味《いやみ》を言われ続けていた。
どれだけ質が良くて大きく膨《ふく》らんだ小麦のパンをねだられるか考えると、暗澹《あんたん》たる気持ちになる。
「だが先に商品を売ってからだ」
「まあ、その程度なら構わぬ」
どちらかといえばロレンスが乞《こ》われてホロの旅の道案内をしているのに、まるでロレンスがホロの従者のようだ。
そんなロレンスの内心に気がついたのか、ホロがローブの下の尻尾《しっぽ》をさすりながら意地悪そうに言う。
「わっちゃあ可愛《かわい》い尻尾をぬしの足の下に敷《し》かれたんじゃ。わっちゃあぬしを尻《しり》に敷かぬとな、割に合わぬ」
しばらくねちねちと言われそうだったが、こういう言い方をしてくるということはだいぶ気もすんだのだろう。
やれやれと胸中でため息をつきながら、ロレンスは荷馬車を粉屋に向けた。
エンベルクの町は辺鄙《へんぴ》な土地にあるとはいえ、この辺りではれっきとした交易の中心であるようでそれなりににぎわっている。
ロレンスたちが来た方向はたまたま人通りの少ない道だったらしい。
町の中心部には近くの村々から運ばれてきたらしい穀物や野菜、それに家畜《かちく》が並べられ、売る者と買う者でごった返している。
町の広場に面して建てられている大きな教会も、千客万来とばかりに扉《とびら》を開け、お祈《いの》りや礼拝に来ている者たちが頻繁《ひんぱん》に出入りしていた。
どこにでもある田舎《いなか》町、といった感じだ。
検問で聞いたところ、この町で一番大きな粉屋はリーンドット商会というらしい。
粉屋であるのに見栄を張って商会というあたりがなんとも田舎くさい。
ただ、広場を北に抜《ぬ》けて綺麗《きれい》な道沿いの右側に店を構えるリーンドット商会は、なるほど見栄を張りたくなる気持ちがわかるくらいには大きな店構えで、立派な荷揚《にあ》げ場を持っていた。
ロレンスがクメルスンで仕入れた小麦はトレニー銀貨でおよそ三百枚分。
よく挽《ひ》いてふるいにかけたさらさらの粉と、脱穀《だっこく》しただけの麦が半々。
小麦はあまり寒い地方になると育ちが悪くなるので、北に行けば行くほど価値は上がる。
ただ、道中で連日の雨にでも見舞《みま》われればすぐに駄目《だめ》になってしまうし、なにより日常の食べ物としては高価すぎて買い手を探すのも難しい。
元々、空荷《からに》で旅をするのが嫌《いや》だという行商人特有のけちな発想から小麦を積んでいたのだ。
クメルスンでは大儲《おおもう》けをしたということもあって、欲張っても仕方ないと判断する。
それに、エンベルク程度の規模の町ならば金持ちの貴族や教会の人間がいる感じだったので、粉屋もいとわず買ってくれるだろう。
そういう目論見《もくろみ》だった。
「や、小麦ですか」
荷台に小麦を載《の》せた客ということで、商会の主《あるじ》たるリーンドットが応対してくれたのだが、粉屋というよりも肉屋の主人のほうが似合っていそうなでっぷりと肥えた彼は、少し困った顔をしてそう言った。
「ええ、粉と粒《つぶ》の半々といったところですが、質の良さは折り紙つきですよ」
「なるほど、こりゃ確かによくこねて焼けばおいしいパンになるでしょう。ですが、今年はこれ、このとおり、ライ麦が大豊作でして。余分の小麦まで手を回す余裕《よゆう》がないのですよ」
確かに広い荷揚げ場にはそこかしこに麦の詰《つ》まっているらしい袋《ふくろ》が山積みになっていて、白墨《チョーク》で売りつけ先を記載《きさい》しているのだろう荷札がずらりと壁《かべ》に掛《か》けられていた。
「ただ、私らとしましても小麦は儲《もう》かりますからね。できれば購入《こうにゅう》させていただきたいところなのですが、なにぶん手持ちに余裕《よゆう》がなく……」
気まぐれで買ったり買わなかったりする金持ち相手の小麦よりも、仕入れれば確実に売れるライ麦を大事にしたい、というのが本音なのだろう。
特に辺鄙《へんぴ》な土地なのだから、付き合いというものはとても大事だ。よその商人に細かい商売を邪魔《じゃま》されないためにも、毎年麦を運んできてくれる村々は大事にしなければならない。
「ところで行商人の方とお見受けいたしますが、今回は新しい販路《はんろ》の御開拓《ごかいたく》で?」
「いえ、道中|商《あきな》いながら、といった感じなのです」
「なるほど。ちなみに行き先のほうは」
「レノスに向かう予定なのですが、その前にこちらのほうに立ち寄りたい場所がありまして」
リーンドットは少し目をしばたかせる。
レノスはここよりもさらに北の町だが、粉屋とはいえ商会と名乗るほどの店を構えるリーンドットが知らないわけもない。
「それはまた遠いところですが……はて……」
と、案の定、この辺りで商人が立ち寄るような場所はエンベルクしかないだろう、と言いたげだ。
「テレオにひとまず向かっている最中なのです」
そして、ロレンスが答えるとはっきりと驚《おどろ》いた。
「これはまた、テレオなどになんの御用で」
「テレオの教会に少し用がありまして。あ、それで、商談のついでといってはなんですが、テレオまでの道をご存じありませんか」
リーンドットは初めて商う商品の値段を聞かれたように視線を泳がせてから、「道は一本道ですから迷うこともありませんよ。荷馬車でおよそ半日ですね。少し道は悪いですが」と答える。
よっぽど意外だったのかもしれない。きっと、なにもない町なのだろう。
リーンドットはそれからうーんと唸《うな》り、視線をロレンスの荷馬車の荷台に向ける。
「お帰りの際は、またこちらに寄る予定などは?」
「申し訳ありません。帰りはまた別の道を」
帰りに寄るのであれば、掛《か》けで購入《こうにゅう》、というのを考えたのだろう。
ただ、ロレンスはこの辺りを行商路に組み込む予定はない。
「そうですか……では、残念ですが今回はご縁《えん》がなかったということで……」
リーンドットは心底|悔《くや》しそうに顔を歪《ゆが》めるが、半分は嘘《うそ》だろう。
旅路の途中《とちゅう》の一見《いちげん》の客から高価な小麦を買うのもなかなか危ない博打《ばくち》だ。
他《ほか》の麦の粉が混じっているかもしれないし、見た目は良くてもパンにして焼いてみたらとんでもない質の悪さかもしれない。
掛《か》けで購入《こうにゅう》し、しばらく支払《しはら》いまで猶予《ゆうよ》があるのなら、たとえ質が悪くても遠くの地方の田舎《いなか》貴族にでも騙《だま》して売り払《はら》ったりと色々処分はできるのだ。
もっとも、ロレンスも別に今すぐ売らなければならないというわけではない。
縁《えん》がなかったということで、リーンドットと別れの握手《あくしゅ》をした。
「やはり小麦は粉よりもパンにして売るのが一番手早く捌《さば》けますね」
かじってみれば質の良し悪しなど即座《そくざ》にわかる。粉の質の良さを熱弁するよりも、まさしく百聞は一見にしかずというやつだ。
「ははは。我々商人は皆《みな》そう考えますからね。パン屋との喧嘩《けんか》の火種になってしまいます」
「こちらのパン屋もお強いですか」
「強い強い。パン屋以外がパンを焼けば石の麺棒《めんぼう》を持って走ってきます」
商人は商いを、パン屋はパンを作ることを。そういった職の住み分けはどこの町でもあるし、この手の冗談《じょうだん》もよくある話だ。
ただ、商人が麦の仕入れからパンの製造までやって商売をすれば大|儲《もう》けできるというのは事実だ。
それくらい、麦を収穫《しゅうかく》してからパンになるまでに関《かか》わる人間たちの数というものは多い。
「それでは、また神のお導きがあれば」
「ええ、その時は是非当商会をよろしくお願いします」
リーンドットの言葉に笑顔でうなずいて、ロレンスたちは商会をあとにした。
麦が売れなかったのは残念だったが、ロレンスがそれ以上に気になったのはホロがずっと静かだったこと。
「今回は口を挟《はさ》まなかったな」
ロレンスが軽く聞いてやると、ホロは気のない返事をしたあとに、「ぬしよ」と言ってくる。
「あの主人、テレオまで半日と言っておったな」
「え? ああ、そうだな」
「今から出れば夕方前には着くじゃろ」
妙《みょう》に強い口調に、ロレンスは体を引きながらうなずく。
「だが、休憩《きゅうけい》したほうが良くないか。お前も疲《つか》れてるだろう?」
「休憩ならばテレオというところでもできるじゃろう。行けるならば、早く行きたい」
いつになく強い口調に、ロレンスはようやく気がついた。
あまりというか、ほとんど態度にも口にも出さなかったが、ホロは実のところ一刻も早く異教の神々の話を集めているという修道士に会いに行きたかったのかもしれない。
意地っ張りで、妙なところで誇《ほこ》り高いホロだ。
子供のように早く早くとせかすのはみっともないと思っていたのだろう。
ただ、胸の奥底に押し込めていたそれに、目的地が近くなって火がついてしまったようだ。
実際ホロだって疲《つか》れているはずなのに、それでもなおこう言うのだからよほどのことと思われた。
「わかった。なら、温かい飯だけ食べていこう。それくらいならいいだろう?」
そして、ロレンスがそう言うと、ホロは突然《とつぜん》きょとんとしてこう言った。
「それは当然じゃろう?」
ロレンスの顔が苦笑いになってしまうのも、当然のことだった。
どこまでも続くかと思われた緩《ゆる》やかな風景はやがて終わり、景色《けしき》はもう少し神様が手をかけて造ったものへと変わっていった。
柔《やわ》らかにしすぎたパン生地《きじ》をべたんと落としたような起伏《きふく》が幾層《いくそう》も重なり、その隙間《すきま》を川が流れ、木がうっそうと生《お》い茂《しげ》った森もところどころにあった。
二人が乗る荷馬車はごとごとと小さな音を立てて小川に沿って作られている道を進む。
ホロは相変わらず眠《ねむ》りこけていたが、やはり、エンベルクでは無理にでも休憩《きゅうけい》を取るべきだったかもしれない。
深夜から明け方にかけては、寒さのせいで寝《ね》たり起きたりを繰《く》り返す冬の旅路。元は野を駆《か》け回り人間など物の数ではない能力を誇《ほこ》る狼《オオカミ》でも、少女の姿の時は少女の体力しかないらしい。
そうであればホロにとっては苛酷《かこく》な旅以外のなにものでもないはず。
ロレンスに寄りかかって眠っているその感じも、どことなくぐったりとしている気がしないでもない。
修道院に着いたらしばらく逗留《とうりゅう》させてもらおうかと考える。
ただ、質素な生活を送らざるを得なくなるとそれはそれでホロは嫌《いや》がるかもしれないな、などと思っていた頃《ころ》、ロレンスは川幅が少し広くなり始めたことに気がついた。
小川は右手の斜面《しゃめん》を回り込もうとするかのように流れているのでその先は見えないが、徐々《じょじょ》に川幅が広がっていき、やがてはっきりそれとわかるほどになって流れがゆっくりになる。
そして、かすかに聞こえてくる独特の音。
ロレンスはすぐにその先になにがあるのか理解した。
耳の良さが狼並みのホロは、寝ていても道の先にあるものの音を聞きつけたらしく、もそもそと顔をこすったあとにフードの下から顔を出した。
テレオの町も近いらしい。
ついには流れが止まり小さな池のようになった頃、荷馬車の行く先にこじんまりとした水車小屋が現れた。
「水車があるようならそろそろだな」
水量の少ないところでは、水を貯《た》めて水面の高低差を利用して水車を動かすことになる。
元々水量が少ないのだからそうしたところで水車の回転には限界があったが、収穫《しゅうかく》も終えて久しいこの時期になると水車小屋の前に行列ができていることもない。収穫直後だと麦を粉にしようとたくさんの者たちが長い列を作ったりもする。
今は、黒ずんだ水苔《みずごけ》色の小さな小屋は、寂《さび》しげにぽつんと建っていた。
そんな水車小屋の壁《かべ》の木目までが見えるようになったかという頃《ころ》、ひょいと小屋から出てくる影《かげ》があった。
ロレンスが慌《あわ》てて手綱《たづな》を引くと、荷馬は不平を漏《も》らしながら首を横に振《ふ》って足を止める。
飛び出してきたのは、この寒いのに腕《うで》まくりをし、肘《ひじ》のあたりまで粉で真っ白になっている少年だった。
「おわっとっと。悪い悪い。なあ、あんた旅の人だろ?」
そして、ロレンスが馬に続いて不平を口にする前に荷馬車の前に回り込むなりそんなことを言った。
「……旅の人かと問われればそのとおりだが、そっちは?」
少年、といっても一週間ほど前に市場で戦った魚商人のアマーティとは違《ちが》い、やや細身ながら力仕事に慣れた均整の取れた体つきをしている。背の高さもロレンスと同じくらいだろう。北の地に多い黒|髪《かみ》黒目で、弓よりも斧《おの》が似合いそうな力強さがある。ただし、髪の毛は粉のせいでだいぶ変な色合いになっていたが。
水車小屋の中から出てきて粉で真っ白となれば、それを誰《だれ》かと問うのはパンの並ぶ露店《ろてん》を何屋かと問うようなものだ。
「はは、見たとおりの粉|挽《ひ》きだよ。で、どっから来たんだ。あんた、エンベルクの人じゃないだろう?」
屈託《くったく》なく笑う様は、ロレンスから見ても子供っぽいと思ってしまう。
自分より六、七|歳《さい》は下だろうかと思いつつ、またホロを巻き込んで面倒《めんどう》なことにならないだろうなと警戒《けいかい》心が頭をもたげてくる。
「ご明察と言うついでにこちらも聞きたい。テレオの町まであとどのくらいかかる」
「テレオの……町?」
と、その少年はロレンスの言葉にきょとんとしたあと、歯をむいて笑った。
「テレオが町ならエンベルクは王国都市だ。テレオになんの用か知らないけど、ちんけな村さ。この粉挽き小屋を見てもわかるだろう?」
その言葉には多少|驚《おどろ》いたものの、テレオのことを教えてくれたディアナはホロと同じく何百年と生きるらしい人ならざるものだということを思い出した。
今では村でも昔ならその地方で一番大きな町、ということも珍《めずら》しくない。
ロレンスはうなずいてから、「で、どのくらいかかる」と聞きなおした。
「もうすぐそこだよ。もっとも、立派な柵《さく》が張り巡《めぐ》らせてあるわけじゃないんだ。今、ここがテレオだと言ってもいいくらいだろうさ」
「なるほど。わかった。ありがとう」
放《ほう》っておけばいくらでも喋《しゃべ》り続けそうな様子だ。
ロレンスは短くそう言って、少年を迂回《うかい》するように馬を動かそうとしたところ、少年が慌《あわ》ててそれを制止した。
「ま、まま。そんな慌てることはない。な、そうだろ旅の人?」
両手を広げて通せんぼをされたら、さして広くもない道だから回り込むこともできない。
無理やり押し通って通れないことはないだろうが、怪我《けが》でもさせたら初めて行く場所であるテレオの人間たちに悪い印象を与えてしまうだろう。
ロレンスは嘆息《たんそく》まじりに、「なにか用かな」と言ってやる。
「あー、あー……用と言われても……あ、そ、そう、あんたえらい美人そうな人連れてるね」
フードをかぶっておとなしくうつむいているホロは、笑う代わりに毛布の中で尻尾《しっぽ》を少しだけ動かす。
ロレンスとしては、いい加減そんなホロと旅をしていることに対する優越《ゆうえつ》感よりも、また面倒事に巻き込まれるのではないかという考えにうんざりしてしまう。
「巡礼途中《じゅんれいとちゅう》の修道女さ。さ、もういいだろ? 商人の行く先をふさげるのは徴税吏《ちょうぜいり》だけだ」
「し、修道女?」
すると、少年は意外な単語に驚《おどろ》いた顔をする。
エンベルクには立派な教会が町の中心にあったので、どうやら小さな村らしいテレオが根っからの異教徒の村とは考えにくい。プロアニアの北の地方であっても、立派な教会があるような町の近くで異教徒の村であり続けるには、それなりの武力というものが必要だからだ。
それに、テレオには教会があるはずなのだから、なぜこの少年が驚くのか。
ロレンスが一瞬《いっしゅん》そんなふうに思案すると、少年は目ざとくそこに気がついたようだ。
どうやら、ホロのことよりもロレンスのほうが気になるらしい。
「わかった、旅の人。もうこれ以上足止めはしない。けれども俺の話を聞いて欲しい。テレオに修道女を連れていくのはやめたほうがいい」
「ほう……」
ロレンスの目には少年がでたらめを言っているようには見えない。
念のため膝掛《ひざか》けの下でホロの足を軽く蹴《け》ってみると、フードの下で小さくうなずくのがわかった。
「その理由は? 私たちはテレオにある教会に用があって来た。教会があるなら修道女が行っていけない理由はないだろう。それとも――」
「い、いや、教会はあるよ。理由? 理由は……なんというか、喧嘩《けんか》をしてるんだよ。エンベルクの教会のむかつく連中とな」
急に表情を引き締《し》め、ギラリと目を光らせる様は駆《か》け出しの傭兵《ようへい》に見えなくもない。
思いのほか鋭《するど》い敵意が表れたことに驚いたが、ロレンスはすぐに少年が粉|挽《ひ》きであることを思い出した。
「で、それでだ、なんというか、そんなところにのこのこと修道女が行ったらややこしくなるかもしれないだろう? それで俺は行って欲しくないわけさ」
敵意が引っ込めば急に愛嬌《あいきょう》のある少年に早変わりするものの、少年の主張は少しおかしい。
けれども悪意があってロレンスたちにそう言っているわけではなさそうなので、問い詰《つ》めることはしなかった。
「そうか。まあ、注意するよ。まさか行った途端《とたん》に叩《たた》き出されることもないだろう?」
「そりゃあ……ないと思うけど……」
「いや、ありがとう。参考にするよ。修道女とわからない格好で訪ねるぶんには構わないだろう?」
少年はほっとして、無邪気《むじゃき》にうなずく。
「そうしてくれると助かるよ」
ロレンスへの注意がいつの間にか嘆願《たんがん》になっている。少年の本音は、これだろう。
「ただ、教会になんの用なんだい?」
「道を訊《たず》ねに来た」
「道を?」
少年は怪訝《けげん》そうな顔をして、カリカリと頬《ほお》を掻《か》く。
「ふーん……なんだ、じゃあ、商売に来たわけじゃないのか。あんた行商人だろう?」
「君は粉|挽《ひ》きだったな」
鼻の先を爪弾《つまはじ》かれたように少年は笑い、それからすぐに残念そうに肩《かた》を落とす。
「なんだ、商売に来たのなら役に立てるかと思ったのに」
「その時は協力を頼《たの》むよ。もういいか?」
少年はまだなにか言いたそうだったが、話をつなげる糸口も見つからなかったようで、軽くうなずいて道をあけた。
そして、物欲しげな視線を向けてくる。
だが、別に情報料をせびろうというわけではないとわかっている。
ロレンスは手綱《たづな》を離《はな》して手を差し出し、まっすぐに少年の目を見て努《つと》めてゆっくりと言った。
「私の名はクラフト・ロレンス。君の名は?」
瞬間《しゅんかん》、花が開くように少年の顔が笑顔《えがお》になって御者《ぎょしゃ》台に駆《か》け寄ってくる。
「エヴァン! ギヨーム・エヴァン!」
「エヴァン。わかった。君の名前は覚えておく」
「ああ! 絶対覚えておいてくれよ!」
大きい音が苦手な馬なら今すぐにでも暴《あば》れ出しそうな声でエヴァンは言い、ロレンスの手を力いっぱい握《にぎ》ってくる。
「帰る時にも是非《ぜひ》寄ってくれよ!」
馬から離《はな》れ、水車小屋の入り口に立ってからも大声でそう言った。
真っ黒い水車小屋の前に立つ、粉で真っ白くなった少年。
名残惜《なごりお》しげにロレンスたちのことを見送っているその様はどこか寂《さび》しげだ。
そして、ロレンスは絶対やるだろうなとは思っていたが、ホロが振《ふ》り向いて小さく手を振ると、エヴァンはびっくりしたように肩《かた》をすくめ、それから大笑いしながら両手を大きく振った。
その様は麗《うるわ》しの娘《むすめ》から手を振られて喜ぶ若僧《わかぞう》というよりも、気の合う友達を見つけたことを喜ぶ少年のものだ。
道は右に向かってゆっくり曲がっているのですぐにエヴァンの水車小屋も見えなくなり、ホロは前を向いて座りなおす。
それから、悔《くや》しそうに口を開いた。
「むう。わっちよりもぬしばかり見ておったな」
悔しそうに言うホロにロレンスは笑い、一回大きく息を吸ってからため息をついた。
「粉挽きだからな。色々大変なんだろう」
ホロが不思議そうな視線を向けてきて、小首をかしげる。
こんな仕草のよく似合うホロに目もくれず、行商人であるロレンスと握手《あくしゅ》することを望んでいたのだから、そこには何がしかの理由がある。
ただ、それが楽しいものであるかといえば、首はしっかりと横に振《ふ》られる。
「羊|飼《か》いと同じようなものだ。必要な職業だが、町や村では嫌《きら》われる」
それもある程度は場所によるが、あの水車小屋がテレオの人間たちから敬われ慕《した》われている水車小屋だとはとても思えない。
「たとえばだな……、お前、首から提《さ》げている袋《ふくろ》に麦が入ってるだろ」
今は幾枚《いくまい》もの服の下になっているが、ホロは自身が宿るという麦を詰《つ》めた巾着《きんちゃく》を首から提げている。
「その袋に入っている麦を、脱穀《だっこく》して、石臼《いしうす》で挽《ひ》いたら、どれくらいの量になると思う?」
その言葉にホロはしばし自分の胸元を見る。
麦の豊作を司《つかさど》り、実りの良し悪しを操《あやつ》れるというホロも、麦を挽いた粉がどのくらいの量になるかと問われると、わからないようだった。
「仮に、これくらいの量の麦|粒《つぶ》だとする」
ロレンスは手綱《たづな》から手を離《はな》し、左手の掌《てのひら》の上に指で山を描《えが》く。
「それを脱穀して粉にするとな、せいぜいがこのくらいだ」
その量を表すのは指で描いた山ではなく、人差し指と親指で形作る小さな小さな円。
麦は石臼で挽くと、驚《おどろ》くほどに量が少なくなる。
では、毎日毎日畑に入り、汗水《あせみず》流して育てた麦が、豊作の神様に散々|祈《いの》ってようやく実をつけたとして、それを粉にした時にこんなにも少なくなったとなればどうか。
ロレンスがホロに問うと、「むう」と小さく唸《うな》った。
「水車小屋の粉挽きの手は、指が六本あると言われてる。一本は手のひらに生えていて、その一本で挽いた粉をくすねているってな。しかも、水車は大抵《たいてい》その地方の領主のものだ。粉を挽くたびに税金を取られるが、いちいち領主が水車小屋で見張っているわけにもいかない。そうすれば税金を集めるのは誰《だれ》か?」
「順当に言えば粉挽きじゃな」
ロレンスはうなずき、続けた。
「税を喜んで払《はら》う人なんていない。だが、集めないわけにもいかない。では一番の恨《うら》まれ役は誰か?」
人ならざるものでありながら、人の世の仕組みを人以上に知っているようなホロだ。
もちろんすぐに解答にたどり着く。
「なるほどの。なら、あの小僧《こぞう》がわっちではなくぬしにばかり尻尾《しっぽ》を振っておったのは」
「ああ、そうだ」
ため息まじりにうなずくと、ようやく前方にテレオの村の家々が見えてきた。
「この村から出たくて出たくてしょうがないんだろ」
粉|挽《ひ》きは誰《だれ》かがやらなければならない重要な仕事だ。
けれども、それをする者は大抵《たいてい》疑われ、嫌《きら》われ、感謝されることはない。
特に、麦はよく挽いたほうがパンにした時によく膨《ふく》らむ。
しかし、よく挽けば挽くほど見た目の量は減るものだ。
良かれと思ってなにかをすれば、それが逆に反感を買う。
まるでどこかで聞いた話だと言うこともなく、ホロは聞かなければよかったとばかりに前を向いた。
「だが、必要な職業だ。感謝する人もいるさ」
ロレンスが手綱《たづな》を握《にぎ》る前にホロの頭に手を載《の》せれば、その手の下でホロは小さくうなずいたのだった。
エヴァンはテレオをちんけな村だと評したが、そこまでひどいわけでもない。
町と村の区別といえば市壁《しへき》の有無くらいのものなのだ。町とは名乗っていても貧相な木の柵《さく》があるだけというところがままあるなか、テレオは村にしては立派だった。
確かに村らしく建物は密集して建っておらずあちこちに散らばってはいたが、中には石造りの建物もある。村の真ん中というのか、一応中心部と呼んでいいくらいに建物が集まっているところには、石畳《いしだたみ》ではないけれども、穴のない綺麗《きれい》な道が通っている。件《くだん》の教会も遠目からすぐに見つかるくらいに大きく、塔《とう》もあり、鐘《かね》もある。
本当に町と名乗るのに必要なのは、あとは市壁だけという感じだった。
ホロはエヴァンの忠告に従い、ローブではなくロレンスの外套《がいとう》を頭からひっかぶり、首のところだけを紐《ひも》で縛《しば》って雨合羽《あまがっぱ》のように着た。いつもどおりの町娘《まちむすめ》の格好だと少し垢抜《あかぬ》けすぎて目立つと踏《ふ》んだからだ。
なにせ、ホロはただでさえ目立つ。
そんな変装をさせたあとに、荷馬車を進めて建物が並び始める辺りまで来た。
市壁がないのは門がないということで、それは旅人への税の徴収《ちょうしゅう》がないことにつながる。
旅の荷馬車が村に入るのを誰が止めるわけでもなく、ロレンスは藁束《わらたば》をまとめている男の遠慮《えんりょ》のない視線に会釈《えしゃく》をしながら馬を進めていった。
村は全体的に埃《ほこり》っぽく、主要な通り以外は穴だらけになっている。建物は、石造りと木造を問わず大きく、そしてまた、屋根が低い。町中ではなかなか見られない大きな庭がついている家もたくさんある。
道のところどころには収穫《しゅうかく》の終わりを告げる藁束がうずたかく積み上げられ、それらに混じるように越冬《えっとう》のための薪《まき》の備えもあった。
出歩く人の数はとても少なく、放《はな》し飼《が》いになっている鶏《ニワトリ》や豚《ブタ》の数のほうが多いかもしれない。
ただ、唯一《ゆいいつ》共通するのは皆《みな》が皆、ロレンスたちに気がつくとじろじろと見ていることだ。
この辺りは、やはり町というよりも村の雰囲気《ふんいき》だった。
久しぶりに感じる、自分は異邦人《いほうじん》なのだという実感。
ロレンスも寒村の出だからわかるが、村というものは極端《きょくたん》に娯楽《ごらく》が少なく、旅人は格好の餌食《えじき》だ。
そんなことを思いつつ道を進んでいくと、大きな一枚岩が置かれた広場に突《つ》き当たった。
ここが村の中心部になるらしく、周辺には広場を取り囲むように建物が並んでいる。
軒《のき》からぶら下がっている鉄製の看板から察するに、宿と、パン屋、それに、酒場があり、毛織物かなにかの作業場もある。一際《ひときわ》大きく間口を設《もう》けてある建物もあったが、きっとここは収穫《しゅうかく》した麦などを脱穀したり、粉にしたものをふるいにかけたりする共同の作業場だろう。
他《ほか》は昔からこの村に住む有力者の家に見え、その中に教会もある。
さすがにここは立ち話をする人たちや遊んでいる子供たちが多く、好奇《こうき》の視線に晒《さら》されることになった。
「大きい岩じゃな。なにに使うのかや」
しかし、ホロはあまり気にならない様子で暢気《のんき》にそんなことを聞いてくる。
「多分、祭りの時に儀式《ぎしき》をしたり、踊《おど》ったり、会議をしたり、といったところだろうな」
綺麗《きれい》に平らにされた、高さがちょうどロレンスの腰《こし》くらいの岩と、上に上がるために木製の階段が備え付けられているあたり、単なる目印としてここに置かれているわけではないだろう。
もちろん正確なところは村の人間に聞いてみないとわからないが、ホロも曖昧《あいまい》にうなずいて御者《ぎょしゃ》台に深く座りなおす。
それから岩を回り込むようにして馬を教会へと向けた。
村人たちは相変わらず好奇《こうき》の視線を向けてはくるものの、山奥にある未開の村ではないのだ。
荷馬車が教会の前で止まると、旅の途中《とちゅう》に安全|祈願《きがん》でもしに来たのかと納得《なっとく》したらしく、あからさまにわかるくらい視線の数が激減した。
「やれやれってな声が聞こえてきそうだな」
馬を止めて御者台から降り際《ぎわ》にホロにそう言うと、秘密を共有して楽しむ子供のように笑った。
教会は立派な石造りで、門は鋼《はがね》の縁取《ふちど》りをした木製。
建てられてからかなり年月が経《た》っているのか、組まれた石の隅《すみ》はやや風化して崩《くず》れていて、扉《とびら》に取り付けられているわっか状の鉄のノッカーも人があまり触《ふ》れていないように感じられた。
また、修道院でもなければ礼拝のない時は扉が開けっ放しであるのが普通《ふつう》だが、今はぴったりと扉が閉じられている。
そこから察せられる雰囲気《ふんいき》を簡単に口にすれば、この村の中であまり親しまれていない、だ。
しかし考えていても仕方がないので、ロレンスはノッカーを手にとって扉《とびら》を何度か軽く打つ。
かん、かん、と乾《かわ》いた音がし、妙《みょう》に広場にこだましたような気がした。
しばらく待ったが返事もなく、留守なのかもしれないと思った直後、扉が大きく軋《きし》みながらわずかに開かれた。
「どなたですか」
そして、少しだけ開いた扉の隙間《すきま》から聞こえてきた声は、あまり友好的とは思えない娘《むすめ》のものだった。
「突然《とつぜん》の訪問お詫《わ》びします。私は旅の行商人でロレンスと申します」
飛び込みの商談に欠かせない笑顔もつけてそう言うと、扉の隙間の向こうで目が怪訝《けげん》そうに細められた。
「商人の、方?」
「はい。クメルスンから参りました」
これほど警戒《けいかい》心があらわな教会というのも珍《めずら》しい。
「……そちらは?」
と、視線が隣《となり》のホロに向けられる。
「ちょっとした縁《えん》から共に旅をしている者です」
ロレンスの簡単な説明に、娘はロレンスとホロを交互《こうご》に見比べてから小さくため息をつき、ゆっくりと扉を開ききった。
扉の向こうにいたのは、驚《おどろ》いたことに裾《すそ》の長い司祭服を身にまとった少女だった。
「どのようなご用向きですか」
ロレンスは驚きを隠《かく》せたと自信はあるものの、司祭服を身にまとった少女は口調に相応《ふさわ》しい不機嫌《ふきげん》そうな顔を少しも緩《ゆる》めない。こげ茶色の髪《かみ》をきつく縛《しば》り、蜂蜜《はちみつ》色の瞳《ひとみ》に挑《いど》むような光をたたえている。
それよりも、教会に来てどのようなご用向きかと問われることもめったにない経験だ。
「はい。実はこちらの教会の司祭様にお会いしたいのですが」
女の身では普通《ふつう》の状況《じょうきょう》下では司祭になり得ない。教会組織は徹底《てってい》的な男社会だからだ。
そう思ってロレンスは口を開いたのだが、それは司祭服を着た少女の眉《まゆ》にさらに深い皺《しわ》を刻むナイフになってしまったらしい。
しかも、あからさまに少女は自分の服を見て、それから視線をロレンスに再度向ける。
「正確には司祭ではありませんが、当教会を預かるエルサ・シュティングハイムです」
女の身で、しかもこれほど年若く。
大商会の敏腕《びんわん》当主が少女だった、ということよりも驚くに値《あたい》する。
しかし、エルサと名乗った少女はそういった反応に慣れているらしい。「それで、御用向きは」と再度冷静に言い放つ。
「え、ええ、道をお訊《たず》ねしたく」
「道?」
「はい。修道院への道なのですが、名前はディーエンドラン修道院。院長はルイズ・ラーナ・シュティングヒルト院長という方なのですが」
ロレンスは言いながら似たような苗字《みょうじ》だなと思っていたが、それを聞いたエルサは一目でわかるほどにはっとした。
どうしたのか、と思う間もなくすぐに驚《おどろ》きの表情を引っ込めたエルサが口を開く。
「存じません」
言葉だけは丁寧《ていねい》に、けれども険《けん》の強さは相変わらずでエルサは言い、あろうことかロレンスの返事を待たずに扉《とびら》を閉めようとする。
商人相手にそう簡単に扉を閉められると思われては困る。
ロレンスはすかさず足を扉の間に挟《はさ》んで、にこやかに言った。
「こちらにフランツ司祭という方がいらっしゃるとお聞きしたのですが」
扉の間に挟まっているロレンスの足を憎々《にくにく》しげに睨《にら》むと、エルサはそのままロレンスの顔も睨みつけてくる。
「司祭は夏に亡《な》くなりました」
「え」
そして、ロレンスが驚《おどろ》いた瞬間《しゅんかん》に重ねて言い放つ。
「もういいでしょう? そんな修道院の場所は知りませんし、私は忙《いそが》しいんです」
これ以上食い下がって人を呼ばれても困る。
ロレンスが足を引き抜《ぬ》くと、エルサは怒気《どき》をはらんだため息を残して扉を閉じた。
「……」
「えらい嫌《きら》われようじゃな」
「寄付をしなかったのがいけなかったのかもしれない」
ロレンスは肩をすくめて隣《となり》のホロを見る。
「フランツ司祭が亡くなってるというのは本当か?」
「嘘《うそ》には思えぬ。じゃが」
「修道院の場所を知らないのは嘘だな」
あんなあからさまに驚かれては目隠《めかく》ししていたってわかりそうなものだ。
ただ、教会を預かっている、というのは本当なのだろう。いたずらにしてはあまりにも危険だ。
もしかしたら、エルサはフランツ司祭の娘《むすめ》、実の娘ということはなくても、養女なのかもしれない。
「どうする?」
ホロはすぐさま返事をした。
「よもや押し入るわけにもいくまい。ひとまず宿じゃな」
村人たちの奇異《きい》の視線を受けながら、二人は荷馬車に乗り込んだのだった。
「ううー……久々じゃ……」
と言って、ホロは宿の部屋に入るなりベッドの上に体を投げ出して伸《の》びをした。
「まあ、荷馬車の荷台よりかはいくらかましだろうが、虫がいるかもしれないからな、気をつけろ」
木を組んでその上に布や綿を敷《し》いたものではなく、藁束《わらたば》をきつく縛《しば》り上げてベッドにしたものだから、冬場は冬眠《とうみん》のため、夏場は繁殖《はんしょく》のために虫がわんさとやってくる。
気をつけろと言っても気をつけようがないのだが、ホロのふさふさの尻尾《しっぽ》はいかにも虫が好みそうだ。
「なに、わっちにはすでに悪い虫がついておる」
頬杖《ほおづえ》をついて意地悪く笑うホロの様を見て、確かにその虫もたくさん寄ってくるだろうなとため息をついた。
「狭《せま》い村だからな。騒《さわ》ぎを起こすなよ」
「ぬしの態度|次第《しだい》じゃな」
苦い顔をしてホロを睨《にら》むと、ホロはそっぽを向きうつぶせになって、尻尾をゆらゆらさせながら大|欠伸《あくび》だ。
「少し眠《ねむ》い。寝《ね》てもいいかや」
「駄目《だめ》だと言ったらどうするんだ」
笑って聞いてやると、振《ふ》り向いたホロは妖艶《ようえん》に目を細めて言った。
「ぬしの側《そば》でうつらうつらする」
その様を想像するとそれも悪くはないかと思ってしまうところが情けない。
お前の胸中など見|透《す》かしているとばかりのホロの眼《め》から逃《に》げるように咳払《せきばら》いをし、ロレンスは戦うのを避《さ》けた。
「まあ、疲《つか》れているのは本当なんだろう? 体調を崩《くず》す前に休んでくれるのは旅の伴侶《はんりょ》として助かる」
「ふむ。悪いがそうさせてもらいんす」
追撃《ついげき》を放つこともせず、ホロはあっさりと目を閉じる。
ゆらゆらと揺《ゆ》れていた尻尾もぱたりと伏《ふ》せられ、今にもいびきが聞こえてきそうな感じだった。
「ケープを脱《ぬ》いで、腰《こし》に巻いてるローブも外して、そこに脱ぎ捨ててある俺の外套《がいとう》もたたんで、それから最後に毛布をかぶって眠《ねむ》っておけ」
喜劇に出てくるわがままな貴族のお嬢様《じょうさま》というのはこういう輩《やから》なのだろうと思わずにはいられない。
ホロは注意されても顔を上げることすらしない。
「俺が帰ってくるまでに服をたたんでいなかったら晩飯の質を落とすぞ」
まるで子供を叱《しか》っている親の気分だが、ホロもぐずる子供よろしくちらりと視線を向けてくる。
「ぬしは優《やさ》しいからそんなことせぬ」
「……お前な、いつか痛い目見るぞ」
「ぬしにできるものならな。それはそうと、ぬしはまたどこか行くのかや」
話しながらすでに目が眠そうになってきているホロに、ロレンスは仕方なく歩み寄って毛布をかけてやる。
「通り抜《ぬ》けるだけならまだしも、このぶんだとちょっとここに滞在《たいざい》することになりそうだからな。村長に挨拶《あいさつ》してくる。それに村長なら修道院の場所を知っているかもしれない」
「……そうかや」
「そういうわけだから、おとなしく寝《ね》ててくれ」
ホロは毛布を口元まで引き寄せつつ、うなずいた。
「土産《みやげ》はないけどな」
「……構わぬ」
今にも眠りに落ちそうなとろんとした声音《こわね》で、うっすら目を開けたホロは言った。
「ぬしが帰ってきてくれさえすれば……」
罠《わな》だとわかっていても、不意をつかれると対処できない。
ホロの耳が楽しそうに動いていた。
土産はもらえずとも、ロレンスの間抜けな顔は手に入れた。
「先にもらいんす。おやすみ」
そしてもそもそと毛布の下に潜《もぐ》るホロに、ロレンスは降参の意味を含めて「ごゆっくり」と返したのだった。
積荷の小麦を適当な袋《ふくろ》に小分けして、宿の主人に村長の家を聞いて宿を出た。
どうやら季節はずれの旅人がいたく気になるらしい子供たちが扉《とびら》の外にたまっていたようで、ロレンスが扉を開けるとくもの子を散らすように逃《に》げていった。
宿の主人の話では、秋と春に行われる収穫《しゅうかく》と種まきの祭りの際にはそこそこ人が来るらしいが、やはり街道《かいどう》から外れていることもあってたまたま立ち寄る旅人も少ないらしい。宿も客はロレンスたちだけということだった。
そんなテレオの村の村長宅は、広場沿いに建てられている建物の中でもっとも立派なもので、土台と一階部分が石造りで、二階三階と木造になっている堂々としたものだ。
扉《とびら》も教会がそうであったように立派な鉄の縁取《ふちど》りをしてあり、なおかつ細かい装飾《そうしょく》も入っている。
扉に取り付けられたノッカーは蛇《ヘビ》か蜥蜴《トカゲ》を思わせるもので、少し趣味《しゅみ》がよろしくない。
ただ、おそらくは土着の神を模したものだろう。蛇や蛙《カエル》の神様というのは意外に多いのだ。
「ごめんください」
そんなことを思いながら扉をノッカーでノックすると、しばしの間をあけて扉が開けられ、粉で汚《よご》れた前掛《まえか》けをした、両|腕《うで》も真っ白な中年の女性が現れた。
「はいはい、どちらさま」
「突然《とつぜん》失礼します。私、旅の行商人でクラフト・ロレンスと申しますが――」
「あらあら、村長さーん! 噂《うわさ》の方よ!」
口上を途中《とちゅう》で遮《さえぎ》られ面食らってしまったものの、女性のほうはお構いなしに「村長さーん」と奥のほうに行ってしまう。
ぽつんと取り残された格好になったロレンスは、誰《だれ》が見ているわけでもないが、調子を取り戻《もど》すために小さく咳払《せきばら》いをする。
そして、しばしそんな形で待たされたのちに、奥から先ほどの女性が杖《つえ》をつく小柄《こがら》な老人に付き添《そ》って戻《もど》ってきた。
「ほらほら、この方でしょう」
「ケンプさん、お客様に失礼ですよ」
そんなやり取りもロレンスの耳に届いていたが、これで腹を立てるほどロレンスも懐《ふところ》が狭《せま》いわけではない。
それに、陽気であけっぴろげな村の婦人ほど商売の役に立つ者はいない。
そういう意味で、ロレンスはとびっきりの笑顔《えがお》で二人の前に立てた。
「やや、これは失礼しましたね。テレオの村を預かっておりますセムと申します」
「初めまして。行商人のクラフト・ロレンスと申します」
「ほら、ケンプさんは奥で皆《みな》さんと続きをしてなさい……やあ、失礼。季節はずれの旅の方ということで、暇《ひま》なご婦人方の噂《うわさ》の的になっておりまして」
「良い噂をされていることを願います」
セムは笑い、「まあ、どうぞ中へ」とロレンスを部屋の中へ案内した。
入り口からはまっすぐに廊下《ろうか》が伸《の》びていて、奥の広間からは笑い声が聞こえてくる。
ついでに鼻をくすぐる粉っぽさから、おそらく収穫《しゅうかく》した麦なりをパンにするため談笑しながらこねているのだろう。
田舎《いなか》の村ではよく見られる光景だ。
「奥に行きますと真っ白になってしまいますからね、こちらにどうぞ」
と、広間手前の扉《とびら》を開け、ロレンスを先に通してセムもあとに続く。
そして、通された部屋に入ってロレンスはぎょっとした。
壁際《かべぎわ》の棚《たな》の上に、巨大な蛇《ヘビ》がとぐろを巻いていたのだ。
「ははは、ご安心ください。生きてはおりません」
そう言われてよくよく見ると、黒光りするウロコはかさかさとした感じで、ところどころ皺《しわ》が寄っている。蛇の皮を干して、中に詰《つ》め物をして再び縫《ぬ》い合わせたものだろう。
扉に取り付けられていたノッカーを思い出す。やはりこの村で崇拝《すうはい》されているのは、蛇なのだ。
勧《すす》められた椅子《いす》に座りながら、あとでこの話をホロにしてやろうと思った。
「さて、どのようなご用件でお見えになったのでしょう」
「はい。第一に、こちらの村に寄らせていただいたご挨拶《あいさつ》に。こちらは取り扱《あつか》っております小麦です」
と、小分けして持ってきた小麦の粉の入った袋《ふくろ》を差し出すと、セムは驚《おどろ》いたように目をしばたかせた。
「これはこれは。最近は旅の行商人の方というと一言目には商売ですから」
ロレンスもちょっと前まではそうだったので、耳が少し痛い。
「して、第二の目的は?」
「ええ。実は修道院を探しているのですが、その場所をご存じではないかと」
「修道院?」
「はい。先ほど教会のほうにも出向いてお伺《うかが》いしたのですが、生憎《あいにく》知らないと」
困ったような顔の下ではもちろん油断なく商人の目がセムを捉《とら》えている。
一瞬《いっしゅん》、セムの目が泳いだのがわかった。
「左様ですか……。私も生憎とこの近辺に修道院があるというのは聞いたことがないのですが、そんなお話をどちらで?」
セムも本当は知っている、とロレンスは直感した。
しかし、どこで話を聞いたのかということで嘘《うそ》をつくと、あとあと困るかもしれない。正直に答えておくことにした。
「クメルスンです。そちらの修道女の方から」
ピクリとセムの口|髭《ひげ》が動く。
なにか隠《かく》し事をしているのは間違《まちが》いない。
いや、とロレンスは気がついた。
セムもエルサも修道院の場所のみならず、そこになにがあるのかも知っているのではないだろうか。
ロレンスが探している修道院は、ディアナから紹介《しょうかい》してもらった異教の神々の話を集める修道士がいるというところだ。
もしもセムとエルサがそのことを知っているのなら、関わり合いになりたくないということでしらを切るかもしれない。
なにより、ディアナが修道院の場所を聞くようにと名前を教えてくれたフランツ司祭はすでに天の国へ旅立っている。
残された者たちが危ない橋を封印《ふういん》してしまったとしてもおかしくはない。
「クメルスンでお会いした方から、こちらのフランツ司祭にお聞きすれば修道院の場所はわかると教えられたのですが」
「左様ですか……しかし、フランツ司祭は夏に……」
「お聞きしました」
「惜《お》しい方を亡《な》くしました。この村のために長年|尽力《じんりょく》してくださった方ですから」
セムの哀《かな》しげな様子が演技とも思えないが、かといって教会が敬われているようにも見えない。
どうにもちぐはぐな感じがした。
「それで、今はエルサさんが?」
「はい。お若いですから、驚《おどろ》かれたでしょう」
「ええ、そうですね。それで――」
と、あとを続けようとしたところに、扉《とびら》を遠慮《えんりょ》なく叩《たた》く音がして「村長さん!」の声が上がる。
聞きたいことが喉元《のどもと》に山のように迫《せ》り上がってきていたが、ここで焦《あせ》ってもなんの得にもならないだろう。
それに、ひとまず挨拶《あいさつ》もすんだ。ロレンスは引き上げることにした。
「お客さんのようですね。私も連れが心配なのでひとまず失礼|致《いた》します」
「おや、それはそれは。ろくなおもてなしもできずに申し訳ありません」
村の人間なのか、ひとしきりどんどんと扉を叩いたところで先ほどロレンスを出|迎《むか》えてくれたケンプという婦人が応対している。
「良い報《しら》せだといいのですが……」
セムがそんなふうに呟《つぶや》くのを耳にしながら部屋を出ると、この寒いのに顔を真っ赤にして汗《あせ》をかいている旅装の男がロレンスを押しのけてセムに歩み寄る。
「村長さん、これ、預かってきたんだ!」
セムは目だけで謝《あやま》ってきたが、ロレンスは笑顔《えがお》で村長宅をあとにした。
ひとまず旅の行商人としては良い印象を持ってもらえただろう。
これで、少しは村にいやすくなるはずだ。
それにしても飛び込んできた男は一体なにを持ってきたのだろうか。
村長宅を出ると、すぐ目の前に体中から湯気を立てている馬が一頭だけ、つながれもせずに置かれ、子供連中が遠巻きに眺《なが》めている。
装備から少し遠方から来たように見受けられるし、飛び込んできた男の格好も旅装だ。
村人が遠方に出ていくことなど一体なにがあるのだろうかと少し考えてしまうが、この村には商用で来たわけではない。
どうにかしてセムかエルサから修道院の場所を聞き出すのが先決だ。
さてどうするか。
ロレンスはそんなことを考えながら、宿に戻《もど》ったのだった。
ホロがあまりにも気持ち良さそうに寝《ね》ていたので、ロレンスも軽く横になったらいつの間にか眠《ねむ》ってしまっていたらしい。
目を覚ますと部屋が薄暗《うすぐら》かった。
「服をたたんで毛布をかけなければ、飯の質を落とすそうじゃな?」
そして、体を起こすとかけた覚えのない毛布がかかっていた。
「お前は優《やさ》しいからそんなことはしないだろうさ」
欠伸《あくび》まじりにホロの台詞《せりふ》をそのまま返すと、尻尾《しっぽ》の毛づくろいをしていたホロはくつくつと笑った。
「だいぶ寝たな……。腹が減らないか」
「ひもじい思いをしながらも、ぬしを起こさぬわっちの優しさをぬしは知っておるかや?」
「しめしめと財布《さいふ》から金を盗ってたんじゃないのか」
怒《おこ》るわけではなく、にやりと牙《きば》を見せるところがホロらしい。
ロレンスはベッドから下りて、木窓を小さく開けると外を眺《なが》めながらこきりこきりと首を鳴らした。
「村は夜も早そうだな。この時間なのに広場は誰《だれ》もいないぞ」
「露店《ろてん》もないしの。飯は大丈夫《だいじょうぶ》なのかや」
途端《とたん》に不安そうな目になって、窓|枠《わく》に腰掛《こしか》けたロレンスにホロが言う。
「酒場に行けば大丈夫だろう。旅人が一年中まったく来ない場所というわけでもないだろうし」
「ふむ。ならば早く行こう」
「寝起きなんだがな……わかった。わかったよ」
睨《にら》むホロに肩《かた》をすくめ、ロレンスは窓枠から腰を上げておやと気がついた。
「あれは?」
人気のなくなった薄暗《うすぐら》い夕暮れの広場をたたっと駆《か》け抜《ぬ》ける人影《ひとかげ》が一つ。
目を凝《こ》らせば、粉|挽《ひ》きのエヴァンだった。
「ほう?」
「っ」
と、いきなりホロが足元から現れたのでロレンスは思わず叫《さけ》び声を上げそうになる。
「いきなり現れるな。驚《おどろ》くだろ」
「ぬしは臆病《おくびょう》じゃな。それより、あれがどうしたかや」
いきなり足音も衣擦《きぬず》れの音すらもさせずに現れれば誰《だれ》であっても驚きそうなものだが、いちいちホロのからかいに付き合っていては身が持たない。
「いや別に。どこに行くのかと思っただけだ」
「教会のようじゃな」
粉挽きの少年はどんな職業の人間よりも正直さが求められる。
教会都市リュビンハイゲンで、羊|飼《か》いの娘ノーラが教会から厳しい労働条件と疑いの目を向けられつつも、粛々《しゅくしゅく》と礼拝に参加していたようなものだ。
頻繁《ひんぱん》に礼拝に来ているのかもしれない。
「怪《あや》しいの」
「俺たちのほうがな」
そんなことをしている間に、エヴァンが教会の扉《とびら》を軽く叩《たた》く。妙《みょう》な叩き方だったので、エヴァンであることを知らせる符丁《ふちょう》かもしれない。
ただ、やや人目を忍《しの》ぶようにして、控《ひか》えめに扉をノックするのもエヴァンの職業を考えれば納得《なっとく》がいく。
それに、この村で教会の立場はあまり良くなさそうだ。
そんなわけなのでやれやれとばかりに木窓から離《はな》れようとしたロレンスの服の裾《すそ》を、ホロが力を込めて引っ張った。
「なんだよ」
ロレンスの質問にホロは窓の外を指差すだけ。
当然その先には教会があるはずで、ロレンスの視線も迷わずそちらに向けられる。
そして、目に入った光景に少しだけ驚いた。
「うふ、なるほどのお」
ホロが殊更《ことさら》楽しそうに呟《つぶや》き、尻尾《しっぽ》が床《ゆか》を掃除《そうじ》するかのようにわさわさと揺《ゆ》れる。
ロレンスはしばしそんな光景に見入ってしまったが、すぐに我に返って木窓を閉じた。
途端《とたん》に、ホロが振《ふ》り向いて不満げな視線を向けてくる。
「人の生活を覗《のぞ》き見していいのは神だけだ」
「……むう」
ホロは言葉に詰《つ》まって、つまらなそうに木窓のほうをちらちら見る。
教会の扉《とびら》をノックし、出てきたのは当然エルサ。
けれども、出てきたエルサを迎《むか》えたエヴァンは、大切な荷物を預かるように一回エルサの体を抱《だ》きしめたのだ。
エルサの体の預け方を見るに、親しみを込めた挨拶《あいさつ》、という言葉ではくくれない。
「ぬしは気にならぬのかや」
「商売の密談をしているなら気になるけどな」
「しておるかもしれぬ。わっちの耳なら盗《ぬす》み聞きできるがどうするかや」
ホロが牙《きば》を片方だけ見せて笑い、目を細める。
「お前がそんな俗《ぞく》なことに興味|津々《しんしん》だとはな」
ため息をつきながら殊更《ことさら》呆《あき》れるように言ってやると、ホロは細めた目に怒《いか》りを混ぜながらするりとロレンスと窓の間から抜《ぬ》け出て、体を起こす。
「興味津々で悪いかや」
「少なくとも褒《ほ》められたことじゃないだろう」
商売の密談を聞くためなら三日三晩|壁《かべ》に耳を押し当てるのは商人の鑑《かがみ》として褒められそうだが、他人の睦言《むつごと》を聞くほど野暮なことはない。
「ふん、わっちゃあなにも好奇《こうき》心から言っておるわけじゃありんせん」
ホロは軽く腕《うで》組みをして、小首をかしげて目を閉じる。ちょっとなにかを思い出しているような仕草にも見える。
好奇心以外になにがあるんだと、ロレンスはホロがどんな言い訳をしてくるのか逆に楽しみだった。
ホロはしばしその姿勢のまま固まり、やがて口を開いた。
「ふむ。強いて言えば勉強じゃな」
「勉強?」
思いのほかありきたりな答えにがっかりする。
それに、ホロがこれ以上ああいったことを勉強してどうするのか。
それこそどこかの国の王でもたぶらかすつもりなのかもしれない。
そうなったら各種の免税《めんぜい》特権を色々もらおうなどと、あり得ない空想を頭の中で転がしながら水を飲もうと水差しに手を伸《の》ばして、そこにホロが言葉をつないだ。
「うむ、勉強じゃ。わっちとぬしが傍《はた》から見るとどのように見えるか、の」
こつん、と鉄製の水差しに指が当たり、倒《たお》れるそれを慌《あわ》てて掴《つか》もうとして、失敗した。
「のお、ぬしよ。何事も傍から見てみぬとわからぬじゃろう? 聞いておるかや」
くつくつと喉《のど》で笑っているのがよくわかる。ついでに、背中を向けているというのにどんな表情なのかもわかりすぎるほどにわかった。
幸いあまり水が入っていなかったので大事にはならなかったが、こっちのほうは大|惨事《さんじ》だ。
「わっちゃあ傍《はた》から見るとあんなことをぬしにされておったんじゃなあ……」
しみじみと言うホロの言葉にこれ以上反応しないようにと耳にふたをし、ロレンスはこぼしてしまった水の後始末に取り掛《か》かる。
なにからどう怒《おこ》るべきかわからない。
いや、なんで腹が立つのかもわからない。
可能性としては、あんまりにもあんまりにわかりやすく動揺《どうよう》してしまったことだ。
「くふ。まあ、あれらに負けておるとは思わぬがの」
それに反応すればまたどんなふうに罠《わな》に嵌《は》められるかわからない。
水を拭《ふ》いて、水差しを元に戻《もど》し、少しだけ残った中身を一気に飲み干す。
できれば強い酒が欲しかったが。
「ぬしよ」
ホロの短い呼びかけ。
これを無視すれば、ホロも少しむっとするだろう。
喧嘩《けんか》になれば分《ぶ》はホロにある。
ロレンスは一回ため息をつき、諦《あきら》めたようにホロのほうを振《ふ》り向いた。
「腹が減った」
そう言ってホロは笑う。
ホロのほうが、一枚も二枚も上手だった。
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第二幕
「いーい飲みっぷりだ!」
やんやの喝采《かっさい》を受けながらテーブルの上に無骨で大きな木のジョッキを置いたのは、町娘《まちむすめ》の格好に着替《きが》えたホロ。
口の周りに隠者《いんじゃ》の聖人もかくやといった白い泡《あわ》の髭《ひげ》を生やし、もう一杯《いっぱい》とばかりにジョッキから手を離《はな》さない。
居酒屋の客は面白《おもしろ》がって次々に自分のジョッキからビールを注《つ》いでいき、あっという間にいっぱいになる。
ある日|突然《とつぜん》町にやってきた珍妙《ちんみょう》な二人連れの客。何者かはよくわからないけれども、居酒屋で気前よく全員に酒を振《ふ》る舞《ま》ったうえに相当な飲みっぷりとくれば、大抵《たいてい》の村では歓迎《かんげい》される。
しかも、そのうちの一人が美しい娘となればどうか。盛り上がらないわけがない。
「ほらほら、連れの娘に負けていちゃ男が廃《すた》るというものだ、どんどんいきな、どんどん!」
ホロがそんな様子だからロレンスも当然|勧《すす》められるわけだが、ロレンスはホロと違《ちが》いここで話を集めるつもりだ。
のせられるままにがぶ飲みして酔《よ》いつぶれるわけにもいかない。
場の勢いをそがない程度に飲み、あとは出された食べ物を食べながら少しずつ世間話を振る。
「いや、いいビールですね。これはあれですか、なにか特別な醸造《じょうぞう》の秘訣《ひけつ》が?」
「はっはっは、そりゃあもちろんだ。ここの居酒屋の女将《おかみ》、イーマ・ラネルといえばこの辺じゃ聞こえた名前だ。その腕《うで》っぷしは男三人前、食い扶持《ぶち》は五人前という……」
「旅の人に嘘《うそ》教えるんじゃないよ。はい、羊肉のにんにく炒《いた》めおまちど」
木の皿の角で男の後頭部を小突《こづ》き、件《くだん》のイーマは手早く料理をテーブルに並べていく。
赤い巻き毛を束《たば》ね、威勢《いせい》よく腕まくりしている姿はなるほど男三人前といわれるのもわかるような恰幅《かっぷく》のよさ。
だが、男の返事はロレンスの質問の答えになっていない。
「痛ってえなあ、これから女将のことを褒《ほ》めようとしたんじゃないか」
「なら今のは悪口だってことだろ。そのお返しさ」
同じテーブルにつく全員が笑い、別の男が続きを引き取った。
「この女将《おかみ》はな、昔一人でビールの醸造鍋《じょうぞうなべ》を背負って旅をしてたんだよ」
「はは、まさか」
「はははは、初めて聞く奴《やつ》は皆《みな》そう言うんだ。でも、本当のことだよなあ」
別のテーブルの酔《よ》っ払《ぱら》いの相手をしていたイーマはその呼びかけで振《ふ》り向いて、「ああそうだよ」とあっさり答える。
それから、一通り用を終えたらこちらのテーブルに戻《もど》ってきて口を開いた。
「あれはあたしが今よりももっとうら若く美しい時の話さ。あたしゃあもっと西のほうの生まれでね、海沿いの町に住んでた。けどまあ海沿いの町なんてのは波にさらわれる運命さ。ある日でかい船が港に来たと思ったら、あっという間に波に飲まれちまった」
それが海賊《かいぞく》の話だろうというのはすぐにわかった。
「でね、あたしゃあ他《ほか》の人らに混じって一目散に町から逃《に》げ出したんだけど、気がついたら背中には醸造鍋《じょうぞうなべ》を一つと、手には大麦の詰《つ》まった袋《ふくろ》を掴《つか》んでた。なにを考えてたのかねえと今でも思うよほんとに」
違い目をしてしみじみと言う女将《おかみ》の顔はどこか懐《なつ》かしそうで、うっすらと笑っているが、当時はきっととても大変だったに違《ちが》いない。
ロレンスと同じテーブルについていた男が、「ま、女将も一杯《いっぱい》」と言ってジョッキを差し出す。
「おっと悪いね。で、女が身一つで町に行ってもろくな仕事なんかありゃしない。あの時は山三つ向こうまで海賊に荒《あ》らされていたという話だったし。それであたしゃ背負ってた鍋と引っ掴んで持ってきた麦と、そこらへんを流れてた川の水とでビールをこしらえたのさ」
「そして、それを飲んだのがたまたま通りがかった海賊退治の視察に来ていた辺境の伯爵《はくしゃく》様|御一行《ごいっこう》だった!」
合いの手に拍手《はくしゅ》もつき、女将はジョッキの中身をグーッと一気にあけて一息つく。
「いやあ、あの時ほど恥《は》ずかしかったことはないよ。髪《かみ》はぼさぼさ、顔も真っ黒にしながらうら若き乙女《おとめ》が森の中でなにをしているかと思えば、ビールの仕込みなんだからさ。あとで聞いたらてっきりあたしのことを森の妖精《ようせい》だと思ったと言うんだから、ま、あの伯爵様もなかなか見る目があるさね」
今度は別のところで拍手と喝采《かっさい》が起きたが、見ればどうやらホロが飲み比べで勝ったらしい。
「それでね、伯爵様はあたしのビールをうまいと言ってくれてね。行く先々の町が荒らされていてろくに酒も飲めないから、共に旅をしてビールを造ってくれと言われたんだよ」
「これはしめたものと伯爵様についていくうら若き野心家の乙女、イーマ・ラネル!」
「ところが、伯爵様にはすでに美しいお后《きさき》様が!」
「そうなんだよねえって、あんな不細工な伯爵様にこの美しいあたしはもったいないよ。黒《くろ》貂《テン》の毛皮は欲しかったけどね」
「それで、お抱《かか》えの醸造師にでも?」
ロレンスは思ったことを口にしてから、それはないかとすぐに気がついた。
お抱えの醸造師なら、テレオの村の居酒屋で女将に納まっていないだろう。
「ははは、それは無理な話さね。もちろん世間知らずのあたしはそんな夢を見ていたけどもね。あたしが伯爵様から旅のお供にもらった礼といえば、馬鹿《ばか》でかい屋敷《やしき》での豪華《ごうか》な晩餐《ばんさん》一回と、伯爵様お墨付《すみつ》きのビールという名で売ってもいいという権利さ。ま、それだけでも過ぎた褒美《ほうび》だったよ」
「で、そこから始まる、世にも珍《めずら》しいビールの歩き売り女の物語だ」
「さすらいの乙女《おとめ》醸造《じょうぞう》師と言いな」
どん、とテーブルを拳《こぶし》で叩《たた》くと、全員が背筋を正してうなずいた。
「ま、そんなわけで道の途中《とちゅう》でビールを仕込んでは売って、の繰《く》り返しでね、もちろん色々あったけれどもまあ順調さ。ただ唯一《ゆいいつ》の間違《まちが》いは……」
「そう、テレオの村を訪《おとず》れたイーマを襲《おそ》う、とある悲劇!」
絶妙《ぜつみょう》の間合いで台詞《せりふ》が挟《はさ》まるのだ。
きっと、旅人がここに来るたびに話しているのだろう。
「あたしは自分が仕込んだビールを決して飲まなかった。少しでも多く売ろうと思っていてね。だからどんな味なのかろくすっぽ知らなかったんだけれども、この村に来て初めて飲んじまってね。そのうまさに病《や》み付きになった。で、べろんべろんに酔《よ》っ払《ぱら》った時に引っかかったのが今の亭主《ていしゅ》さ」
きっと今頃《いまごろ》裏の厨房《ちゅうぼう》で苦笑いをしているだろう亭主の顔を想像しながらロレンスは笑い、他《ほか》の連中はあからさまな泣き真似《まね》をした。
「こんな場末の酒場の女将《おかみ》になっちまってねえ。けどまあこの村もいいところだよ。ゆっくりしていっとくれ」
イーマはにっこりと笑ってテーブルをあとにし、ロレンスは偽《いつわ》りのない笑顔でその背中を見送った。
「いやあ、いい酒場です。これほどのところ、エンディマにもそうそうない」
プロアニア王国の王都エンディマは、教会都市リュビンハイゲンすら軽くかすむプロアニア以北の地最大の都市。
プロアニアでは町や村を褒《ほ》める時に使う定番の文句だ。
「そうだろうそうだろう。兄さん旅の行商人にしちゃあ見る目がある」
自分の故郷を褒められて嬉《うれ》しくない者などいない。
男連中はこぞって顔をほころばせて酒を飲む。
いい頃合だとロレンスは思った。
「それに、酒もうまい。この村はよほど神に愛されているのでしょうね」
ひょいと会話にそんな言葉を混ぜてみる。
すると、油の中に水滴を落としたようにぷっかりと言葉が宙に浮いた。
「あっと、これは失礼」
異教徒たちの酒の席でうっかり失言して肝《きも》を冷やした、などという仲間の行商人の話は腐《くさ》るほどある。
ロレンスも少なからずそんなことがあり、その時の反応にそっくりだった。
「いやいや、兄さんは悪くない。この村にはでかい教会があるからな」
一人が気遣《きづか》うように言って、次いで他《ほか》の連中もうなずいた。
「ま、こんな辺鄙《へんぴ》な村にもな、色々複雑な事情っちゅーものがあってな……。確かに、死んじまったフランツさんはこの村にとって大恩人だ。でもなあ……」
「だなあ。それでもなんだかんだ言っても、やっぱりトルエオ様には逆らえねえ」
「トルエオ様?」
「ああ、村の守り神さ。村に豊作をもたらし、子供は健康に育ち、悪魔《あくま》は近寄れない。テレオの村の名の元になった神様さ」
なるほど、とロレンスは胸中で呟《つぶや》く。きっと、セムの屋敷《やしき》の部屋に置いてあった蛇《ヘビ》のことだろう。
相槌《あいづち》を打ちがてら視線をホロに向けると、あれだけ大|騒《さわ》ぎして酒をがぶ飲みしているというのにホロと目が合った。
こちらの神様も、相当に侮《あなど》れない。
「豊作の神様ですか。いえ、私も行商人ですから色々見聞きしています。やっぱりトルエオ様も狼《オオカミ》ですか?」
「狼? 馬鹿《ばか》言っちゃいけねえ。あんな悪魔の手先、神なもんかね」
相当な言われようだ。これはちょっとホロをからかうネタになるだろう。
「と、いうと?」
「トルエオ様は蛇だよ蛇。蛇の神様さ」
うっかりしていると荷物に潜《もぐ》り込まれたり毒を持った牙《きば》を剥《む》かれたりと蛇も狼も迷惑《めいわく》さは大して変わらないが、北の地だと蛇の神様というのはとても多い。
すると、教会が目の敵《かたき》にするのも蛇になる。聖典では、人を堕落《だらく》させたのも蛇だ。
「私も蛇の神様の話は聞いたことがあります。山から下りて海に向かう際、はいずった痕《あと》が大きな川になった蛇とか」
「おお、おお、トルエオ様をそんなものと一緒《いっしょ》にしちゃ駄目《だめ》だ。なにせトルエオ様は頭と尻尾《しっぽ》で天気が違《ちが》うと言われ、朝飯に月、夕飯に太陽を飲み込むと言われているんだ。格が違《ちが》うよ、格が」
そうだそうだ、と口々に言う。
「それに、トルエオ様の話はそこらへんにある眉唾《まゆつば》のものとはまったく違う。なにせ村の外れにはトルエオ様が冬眠《とうみん》するために掘《ほ》った穴が残ってるんだからな!」
「穴が?」
「おうよ。もちろん洞穴《ほらあな》なんかどこにだってあるがな、その洞穴にだけは蝙蝠《コウモリ》も狼も近寄らねえ。昔旅人が度胸|試《だめ》しに入っていったら二度と帰ってこなかったという話だ。そこに入ると祟《たた》りがあるとは昔からの言い伝えだが、フランツ司祭だってこの穴には入っちゃならねえと真剣《しんけん》な面持《おもも》ちで言ったものさ。なんなら見に行くかい。歩いてすぐだぜ」
ロレンスは殊更《ことさら》恐《おそ》ろしげに首を横に振《ふ》ったが、この様子だと教会が利用されていないのもうなずける。
それどころか、未《いま》だに打ち壊《こわ》されていないのが奇跡《きせき》なような気がする。
ただ、そう思って少し考えてみれば、その理由がなんとなくわかった。
テレオの近くにある町、エンベルクの存在だろう。
「だがなあ、お前さん、ここに来る前にエンベルクに立ち寄っただろう?」
ロレンスがどうやってその話を聞こうかと思っているところに、先に村人のほうからエンベルクの単語が出た。
「あそこの町にでかい教会があったろ。今はバン司教というのが冶めてるんだがな、あそこには代々腹の立つ連中がいてな」
「もともとあそこは、ここよりぜんぜん小さい寒村だったという話だ。それがトルエオ様の恩恵に与《あずか》ってきたはずなのにある日|突然《とつぜん》、村に宣教にやってきた教会の連中の話にころりと騙《だま》されてあっさり教会側に鞍替《くらが》えしやがった。そうしたら見る見るうちに教会ができて、人が来て、道が敷《し》かれて……。ついには立派な町になって、力をつけてこの村に無理難題を吹《ふ》っかけてきた……」
「でよ、そうなれば当然こっちの村も改宗させようとするだろう。そこで俺たちの前の前の代の人たちが頑張《がんば》った結果、教会を建てることでひとまず穏便《おんびん》にすませようってことになった。けれども町と村の規模の差は歴然だ。俺たちのトルエオ様を見|逃《のが》す代わりに村に重税を課してきやがった……とじいさん連中はことあるごとに言ってたもんだ」
よくある表向きの改宗と取引の話で、今でも布教の最前線で耳にすることがある。
「そこに三十年だか四十年前にやってきたのがフランツさんだ」
村を巡《めぐ》る話がだんだんわかってきた。
「なるほど。しかし、今はエルサさんというお若い方が教会を治めてらっしゃいますよね」
「ああ、それなんだよなあ……」
酒が回っているので実に口が軽い。
思い切って気になっていたことを全部聞いてしまうことにした。
「教会で旅の安全を祈《いの》っていただこうと思ったら、エルサさんのようなお若い方が司祭服を着ていらしてびっくりしましたよ。あれには、やはりなにか特別な理由が?」
「やっぱりそう思うだろう? エルサの嬢《じょう》ちゃんはもう十年以上前だろうか、フランツ司祭に拾われてな。いい子なんだが、あれで司祭は無理があるよな」
一人が同意を求めると、他《ほか》の連中も一様にうなずく。
「エルサさんにはまだ荷が重いのであれば、エンベルクの教会から人を招いて、というのは駄目《だめ》なのですか?」
「それがだなあ……」
と、答えた男が言葉を濁《にご》して隣《となり》の男に視線を向けるが、その視線を受けた男も隣の男に視線を向ける。
結局、ぐるりとテーブルを一周して、最初の男があとを続けた。
「あんた、遠くの国の商人さんだろ?」
「え、ええ」
「なら、こう、なんだ、知り合いに名のある教会の偉《えら》い人とかいないのかい」
話のつながりが見えないが、どうも雰囲気《ふんいき》としては知り合いがいるなら詳《くわ》しいことを話してやろうという感じだ。
「がつーんと一言エンベルクの連中に言えるような――」
「こら!」
と、突然《とつぜん》男の後頭部をはたいたのは先ほどのイーマ。
「旅の人に一体なにを喋《しゃべ》ってるんだい。村長さんにどやされるよ」
母親に叱《しか》られた子供のようにしゅんとなる様はもう少しで笑ってしまいそうになるところだったが、イーマの視線が自分に向けられてロレンスは慌《あわ》てて笑顔を奥底に引っ込めた。
「隠《かく》し事をするみたいですまないね。けど、旅の人にも、いや、だからこそわかるだろ。村には村の中の問題というのがある」
ビールの醸造鍋《じょうぞうなべ》を背負って旅をしていたというイーマの言葉は説得力がある。
それに、ロレンスももちろんその意見には賛成だ。
「旅の人には村の料理を食べ、酒を飲んで、楽しんでもらう。そして、別の土地に行ってあの村は良かったと言ってもらう。これがあたしの持論さね」
「ええ、私も同感です」
イーマはにこりと笑い、「はい、じゃああんたらはさっさと酒を飲んで盛り上がるのが今日の最後の仕事だよ!」と言って男たちの背中を叩《たた》きながら、ふと視線を別の方向に向けた。
それから、ロレンスに向かって苦笑する。
「と言いたいところだけれども、連れの人が潰《つぶ》れたみたいだね」
「久しぶりの酒で羽目を外しすぎたのかもしれません」
ちょうど自分のジョッキの中の酒もなくなりかけていたので、ロレンスは残りを一息で飲み干すと椅子《いす》から立ち上がった。
「醜態《しゅうたい》を晒《さら》す前に宿に連れて帰ります。一応は嫁《よめ》入り前なので」
「はっはっは、あたしの経験から言うけど、女には酒を飲ませてなんぼだね」
豪快《ごうかい》なイーマの言葉のあとに、周りにいた男連中が困ったような忍《しの》び笑いをしているあたり、色々と逸話《いつわ》があるのかもしれない。
ロレンスは「参考にします」と答えてから、銀貨をテーブルの上に置いた。
すぐさまこの酒場で溶《と》け込めるようにと大盤振《おおばんぶ》る舞《ま》いのトレニー銀貨十枚|払《ばら》い。
金|遣《づか》いの荒《あら》い知人は嫌《きら》われるが、金払いの良い旅人に限ってはどこに行っても歓迎《かんげい》されるものだ。
酔《よ》い潰《つぶ》れてテーブルの上に突《つ》っ伏《ぷ》したまま眠《ねむ》ってしまったらしいホロを回収し、冷やかしの言葉や楽しい時間の感謝の言葉に見送られて酒場をあとにした。
不幸中の幸いといえるのは、居酒屋が宿屋と同じ広場に面していたこと。
いくらホロが小柄《こがら》だといっても、この大飯食らいの狼《オオカミ》娘《むすめ》は信じられないくらいに飲み食いするのでその分とても重くなっている。抱《だ》きかかえるのはちょっと一苦労だ。
もっとも、それは本当にホロが酔いつぶれていればの話だが。
「飲み食いしすぎだ」
ホロの腕《うで》を肩《かた》に回し、半ば脇《わき》に抱《かか》えるようにしてホロを運んでいたロレンスがそう言うと、いくらかホロの足に力が込められたようで、少し体が軽くなる。
「げふ……わっちが喋《しゃべ》る間もなく飲み食いしておったのは、それが役目だからじゃろうが」
「もちろんわかってはいるが……お前、高いものばかり頼《たの》んでいただろ」
ホロが目ざといように、ロレンスだって金の絡《から》むことには目ざとい。
ホロのいたテーブルに運ばれる酒や料理を見ていなかったわけがない。
「けちくさい雄《おす》じゃな……じゃが、そんなことより先に横になりたい……苦しい」
足取りがおぼつかないのは演技ではなかったのか、と小さく嘆息《たんそく》しつつも、ロレンスも少し酒が回ってきているので落ち着いて座りたかった。
テレオの村の広場には、いくつかの建物の明かりがうっすらと漏《も》れ出ているだけで人の姿はない。
日が暮れてしばらく経《た》っているとはいっても、やはり町とは違うということがよくわかる。
宿にたどり着いて扉《とびら》を開けても、小さな蝋燭《ろうそく》が申し訳程度に明かりを提供しているだけで、主人の姿はない。
ホロと同じテーブルで飲んだくれていたのだから当然なのだが。
客の帰還《きかん》に気がつき、宿の女将《おかみ》が奥から出てきたが、ホロの醜態《しゅうたい》を見て苦笑いだ。
水を運んでくれるように頼《たの》んでから、ぎっぎっと軋《きし》む階段を上《のぼ》り、二階の部屋へと行く。
部屋そのものは全部で四部屋あるらしかったが、客はロレンスとホロの二人だけ。
これでも収穫《しゅうかく》祭や春の種まき祭の時には周辺から結構人がやってきて盛り上がるらしい。
また、飾《かざ》り気のない宿には唯一《ゆいいつ》、廊下《ろうか》の壁《かべ》に昔ここを訪《おとず》れた騎士《きし》のものだという紋章《もんしょう》を刺繍《ししゅう》した織物が飾られていた。
ロレンスの記憶《きおく》が正しければ、開けっ放しの窓から入る月明かりに照らされたそれは、プロアニア以北では有名な聖人殺しの傭兵《ようへい》の旗印《はたじるし》だ。
知らないのか、それとも知っていてもなお飾っているのかはわからない。
けれども、テレオと教会がどんな関係にあるのかは、これを見るだけでもなんとなくわかるというものだった。
「おい、もうちょっとだから寝《ね》るな」
階段を上《のぼ》っていたあたりから怪《あや》しくなり始めたホロの足取りは、部屋の前に来てついに限界に達したらしい。
これはまた二日酔《ふつかよ》いだな、と呆《あき》れるよりも気の毒に思いながら部屋に入り、なんとかベッドにホロの体を横たえる。
閉じていてもなお月明かりが幾筋《いくすじ》も部屋に入り込んできているおんぼろの木窓を開け、肺の中にある喧騒《けんそう》と熱気に満ちた空気と、冬の夜の荘厳《そうごん》なまでに冷たい空気を入れ替《か》える。
そして、そんな折に扉をノックする音がしたので振《ふ》り返れば、女将《おかみ》が水と共に見慣れない果物を持ってきてくれていた。
聞けば、食べておくと二日酔いに効《き》く果物らしいが、生憎《あいにく》とそれが一番必要な者は完全に眠《ねむ》ってしまっている。ただ、断るのも悪いのでありがたく頂《いただ》いておくことにした。
堅《かた》くて真ん丸い、片手で二つ握《にぎ》れてしまう大きさのそれをかじると、途端《とたん》にこめかみが痛くなるようなすっぱさが口の中を暴れ回る。
確かに、なんだかとても効きそうな気がする。もしかしたら商売になるかもしれない。これは明日以降、暇《ひま》があったら調べようと記憶《きおく》にとどめておく。
それにしても、とロレンスは酒場での騒《さわ》ぎを思い出す。
ホロが酒場の空気になじむ早さには目を見張るものがあった。
もちろんホロには事前に目的を伝えていたし、役割を教えてもいた。
旅人二人が酒場に来れば、質問|攻《ぜ》めに遭《あ》うか遠巻きによそよそしくされるかのどちらかだ。
それらを回避《かいひ》するにはまず、現金をばら撒《ま》くこと。
交易をしていない村は現金を得る方法がほとんどないが、完全に隔離《かくり》された村でもなければ現金なしでやっていけるというわけでもない。
旅人を歓迎《かんげい》してくれるところのほとんどがこれ目当てだ。そうでもなければ、素性《すじょう》もよくわからない者を村の中で歓迎するわけがない。
次に、酒をよく飲み飯をよく食べること。
酒や飯は一見《いちげん》の客にはどれほど質の悪いものを出されるかわからない。へたをすれば毒を混ぜられ、命まではとられないものの身包《みぐる》みの一切をはがされたうえに近くの山にでも捨てられてしまうかもしれない。
つまり、よく食べてよく飲むのは、それだけ相手を信用しているということ。
そして、そんなことに注意しなければならないというのに、信用されてまでなお冷たい態度を取るほど冷たい人たちばかりではない、というのがまた世の中の面白《おもしろ》いところといえる。
これらは行商で新しい販路《はんろ》を開拓《かいたく》するうちに身に着けたことだったが、ホロはそんなロレンスよりもよほどうまく酒場の空気を我が物としていたし、お陰《かげ》で予想していたよりも楽に、村の連中から聞きづらいことを聞き出せた。
最後の肝心《かんじん》のところで女将《おかみ》たるイーマに止められてしまったが、上々といえるだろう。これが商用の旅であるのならば、ホロに金一封《きんいっぷう》を差し出してもよいくらいだ。
ただ、ここまであっさりとうまくやられてしまうと、これまで一人でそれなりにうまく商売をやってきた身としては少し面白《おもしろ》くないものがある。
年の功だといえばそれまでだ。
しかし。
ロレンスは木窓を閉じ、自分もベッドに寝転《ねころ》がって思う。
ホロが商売の知識を手に入れたとしたら、その時点で強力な商人が一人生まれるのと同じなのは間違《まちが》いない。あんなにもたやすく人の輪に入れる行商人が自分の商売|圏《けん》にいたら、別の販路《はんろ》を探そうかと考えるだろう。ホロはそれくらいの商人になれる。
すると、ロレンスの夢はどこかの町に店を構えることで、それをうまくいかせるには一人よりも二人、二人よりも三人のほうがいいのは目に見えている。そこにホロがいてくれればどれほど心強いだろうと思うのは自然なことだった。
ホロの故郷であるヨイツは、もうそれほど遠くはないし、場所も皆目《かいもく》わからないというわけではない。
ここで修道院の場所を聞けず、新しい手がかりを得られなかったとしても、遅《おそ》くても夏前にはたどり着けるだろう。
ホロはその後、どうするつもりなのだろうか。
口約束とはいうものの、ロレンスがホロと交《か》わした契約《けいやく》は、ホロが故郷に帰るまでの道案内だった。
ロレンスは天井《てんじょう》を見たまま、ため息をつく。
旅には別れがつき物だとはわかっていたし、理解もしているつもりだ。
それでも、ホロの才覚だけでなく、打てば響《ひび》くような楽しい会話のやり取りなど全《すべ》てをひっくるめて、ホロとの旅が終わることを考えると少し胸が苦しくなった。
ロレンスはそこまで考えて目を覆《おお》い、暗闇《くらやみ》の中で口だけを笑《え》みの形にした。
商人が商売以外のことを考え出すとろくなことがない。
それもまたロレンスが七年の行商生活で得た教訓の一つだ。
気にするべきは財布《さいふ》の中身。
考えるべきは飲み食いしたがるホロを諫《いさ》めるその方法。
ロレンスは胸中で繰《く》り返し呟《つぶや》き、ようやく眠《ねむ》れそうな気がした。
ろくなことじゃない。
まったくろくなことじゃなかった。
鍋《なべ》で煮詰《につ》めたボロ布を天日に干して乾《かわ》かしたような毛布では、早朝の寒さに打ち勝てなかった。
自分のくしゃみで目を覚まして、また一日が始まったのだと認識《にんしき》した。
この時間帯の毛布の中の暖かさはまさしく万金に値《あたい》するが、その暖かさはなんの対価も生み出さない。
それどころか時間を食いつぶす悪魔《あくま》の子供だ、とばかりにロレンスは体を起こし、隣《となり》のベッドを見ると、ホロはすでに起きていた。
背中をこちらに向けて、なにをしているのかうつむいている。
「ホ……」
とまで口にしてやめたのは、ホロの尻尾《しっぽ》が見たこともないくらいに膨《ふく》れ上がっていたからだ。
「ど、どうした」
なんとかそうとだけ言うと、ホロの耳がピクリと動き、ついで、ようやくゆっくりとこちらを振《ふ》り向く。
日が昇《のぼ》りきっていない、早朝の青い空気の中で、口元から白い息を吐《は》きながら肩越《かたご》しに振り向いたホロ。
その目には涙《なみだ》が浮かび……、その手には、かじられたばかりらしい真ん丸い小さな果物が握《にぎ》られていた。
「……食べたのか」
ロレンスが半分笑って訊《たず》ねると、ホロはべろを出しながらうなずいた。
「な、なんじゃ、これ……」
「昨日、ここに帰ってきてから女将《おかみ》さんが持ってきてくれたんだよ。二日酔《ふつかよ》いに効《き》くらしい」
口の中にまだかけらが残っていたのか、目をぎゅっとつぶって嚥下《えんか》したホロは、鼻をすすり上げて目尻《めじり》を拭《ぬぐ》う。
「これを食えば百年間酔っ払《ぱら》ってても目が覚めるじゃろう」
「しかし、その様子だと果物の効き目があったのか」
ホロは眉《まゆ》をしかめるとかじった果物をこちらに向かって放《ほう》り投げ、膨らんだまま戻《もど》らない尻尾の毛をすっと撫《な》でた。
「わっちもそう毎度毎度なるわけじゃありんせん」
「だと助かる。しかし、今日もまた寒いな」
ホロが放り投げたそれは半分ほどなくなっている。あんなすごいものを半分もいっぺんに、しかも予想もせずかじったらさぞびっくりしたに違《ちが》いない。悲鳴を上げなかったのは上出来というよりも、上げられなかったというのが本当のところだろう。
「寒いのはよいが、この村、まだ誰《だれ》も起きておらぬ」
「誰《だれ》もということはないだろうが……店が開くのは遅《おそ》そうだな」
ベッドから下り、ちょっと風が吹《ふ》くだけで役に立たなくなりそうな木窓を開けて外を見ると、朝もやの漂《ただよ》う広場には誰もいない。
町商人と外地の商人が肩肘《かたひじ》張り合いながら場所取りをしている広場を見なれている身としては、なんとなく寂《さび》しい感じがした。
「わっちは賑《にぎ》やかなほうがよい」
「それには同感だ」
木窓を閉じて振《ふ》り向くと、ホロは二度|寝《ね》のためなのかもそもそと毛布の下に潜《もぐ》っている最中だった。
「神は一応、我々を一日一回しか眠《ねむ》らない体に造ったらしいぞ」
「わっちは狼じゃからな」
あふ、と欠伸《あくび》をする。
「誰も起きておらぬのであれば仕方ないじゃろう。起きておっても寒いし腹が減るだけじゃ」
「まあ、時期が悪いしな。しかし、どうも妙《みょう》だな」
「ほう?」
「いや、お前が楽しめる類《たぐい》のことじゃないんだが……この村の人間の収入が気になってな」
興味深げに顔を上げたホロだったが、その一言で毛布の下に顔を潜らせた。
ロレンスはそんなホロに少し笑い、暇《ひま》なこともあって頭を巡《めぐ》らせる。
いくら農閑期《のうかんき》とはいっても、収穫《しゅうかく》を終えたらあとは働かずに食えるほど裕福《ゆうふく》な農村なんて数えるほどしかない。
それに、酒場で聞いた話ではエンベルクの町から重税を課されているらしい。
ところが、どうも村の連中は内職をしているふうでもない。
村はホロが指摘《してき》したように本当に静かだ。
農村の内職といえば毛織物の加工や藁《わら》で籠《かご》や袋《ふくろ》を編むのが定番だが、数をこなさなければ儲《もう》けにならないので大抵《たいてい》日が昇《のぼ》ればすぐに村人総出で作業にかかったりする。税を支払《しはら》うためとあらばなおさらだろう。
それに、昨日の酒場で飲んだ酒や料理も予想外に良いものだった。
テレオの村には不思議なほど金があるらしい。
ホロの鼻が食べ物の良し悪しを瞬時《しゅんじ》に判別できるように、ロレンスの嗅覚《きゅうかく》も金の匂《にお》いには敏感《びんかん》だ。
これはちょっと金の流れを調べれば、商売の足しになるかもしれないな、と胸中で呟《つぶや》く。
なにより、外から来ている商人の姿がまったく見られないのだから、それだけでも好条件だ。
商用の旅ではないと言いつつも、結局頭はその方面にしか働かない自分にやや苦笑する。
そんな折、扉《とびら》が開くような軋《きし》む音が窓の外から聞こえてきた。
静かだからよく響《ひび》く。木窓の隙間《すきま》から外を覗《のぞ》けば、またもやエヴァンだった。
しかし、今回は教会に入るところではなく、出ていくところだ。
手には弁当なのか小さな包みを提《さ》げている。
エヴァンは相変わらず辺りを少し気にし、軽く走って教会をあとにする。
ただ、少し行ったところで振《ふ》り向き、エルサに手を振っている。エルサのほうを見てみれば、こちらもロレンスたちに応対した時とは雲泥《うんでい》の差の笑顔《えがお》で、手を振り返している。
少々、羨《うらや》ましい光景だ。
ロレンスはエヴァンの後ろ姿を見送ってから、なるほどな、と思う。
エルサの預かる教会と、エンベルクの教会が喧嘩《けんか》をしているということについて、エヴァンが怒《おこ》るのはこういうことなのだ。
もっとも、ロレンスは商人だから良い目の保養をさせてもらったと思うには少々視野が狭《せま》い。
ロレンスの目に映るのは、自分の手が届く範囲《はんい》の者たちの利益だけだからだ。
「今日の行く先が決まったな」
「む?」
毛布の下から顔を出したホロが、不思議そうにこちらを見る。
「しかし、お前の故郷探しなのに、なんで俺のほうが頑張《がんば》っているんだ?」
ホロはすぐには答えず耳をひくひくとさせ、小さくくしゃみをして鼻をこする。
「わっちが大事だからじゃろ?」
いけしゃあしゃあと答えるホロに、もはやため息しか出ない。
「そういう台詞《せりふ》はもう少し出し惜《お》しみしたらどうだ」
「ぬしはとことん商人じゃな」
「大きく儲《もう》けるには大きい買い物をしなければならない。そのためには小さなものを買っていては駄目《だめ》だ」
「ふむ。じゃが、ぬしの肝《きも》が小さい場合はどうすれば?」
うまい切り返しが思いつかない。
ロレンスが目を覆《おお》うと、ホロはけたけたと笑ってから、ふと口調を改めた。
「わっちがぬしの側《そば》におったら動きづらいじゃろう? 狭《せま》い村じゃ。人の目はそこかしこにある」
「あっ」という言葉もない。
「わっちが自分で動いてもよいのなら動きんす。じゃが、その時はあの生意気な教会の小娘《こむすめ》の頭をかじる時じゃな。さっさとあれから修道院の場所を聞き出してくりゃれ。こう見えても、早く修道院に行って話を聞きたくてうずうずしておるんじゃからな」
「わかったよ」
火のついた藁束《わらたば》のように燃え上がるホロをなだめて、ロレンスは答える。
あっさり本心を見せることもあれば、やる気のなさそうな顔の下で実はぐらぐらと焦《あせ》りの火を燃やしていることもある。
まったく厄介《やっかい》な旅の連れだが、大事だからロレンスが動いているということも実のところ図星だ。
「遅《おそ》くとも昼|頃《ごろ》には戻《もど》ってくる」
「土産《みやげ》をよろしくの」
毛布の下から聞こえたくぐもった声に、ロレンスは苦笑いして返事をしたのだった。
一階に下りて、カウンターの中で真っ青な顔をして唸《うな》っている主人に軽く挨拶《あいさつ》をしてから併設《へいせつ》の厩《うまや》に回り、積荷の中からまだ粉にしていない小麦の詰《つ》まった袋《ふくろ》を一つ取り、外に出る。
畑仕事がなくとも、日が昇《のぼ》れば目を覚ましてしまうのだろう。村にはぽつぽつと庭に植えてある野菜の手入れをしている者や、鶏《ニワトリ》や豚《ブタ》の世話をしている者たちがいた。
昨晩の酒場での騒《さわ》ぎはやはり効果《こうか》があったようで、昨日は奇異《きい》の視線しか向けられていなかったのが、幾人《いくにん》かからは笑顔《えがお》と共に挨拶が向けられた。
それ以外の挨拶は、二日酔《ふつかよ》いのせいで笑えなくなった連中から向けられたもの。
とりあえず旅人としては受け入れられたことにほっとする。
ただ、これだけ顔見知りが増えると逆に動きづらくなったりもする。
ホロの読みは正しかった。感心ついでに、やや嫉妬《しっと》もしてしまう。
そんなことを思いながら向かう先は当然エヴァンのいる水車小屋で、エルサのことについて聴《き》きに行くつもりだ。
ホロではないので二人の仲をどうこうというわけではもちろんない。
問答無用で牙《きば》を剥《む》くエルサを手なずけるには、事情に詳《くわ》しそうなエヴァンを狙《ねら》うのが手っ取り早い。
昨日荷馬車に乗ってやってきた道を徒歩で戻《もど》りながら、村はずれの畑で草をむしっていた男に軽く挨拶する。
ロレンスのほうは記憶《きおく》になかったが、男は昨日酒場にいたらしくロレンスを見ると笑顔《えがお》で挨拶を返してきた。
ついでに、「歩いてどこへ行くんだね」ともっともな質問をされた。
「麦を粉にしてもらおうかと」
「ああ、粉|挽《ひ》きのところかい。粉を盗《ぬす》まれないように気をつけな」
麦を挽いてもらいに行く時のお決まりの冗談《じょうだん》なのだろう。ロレンスは愛想《あいそ》笑いの仮面をかぶってそれに返事をし、一路水車小屋を目指す。
商人も商人以外にはあまり信用されない職業だが、世の中にはもっと大変な職業がいくらでもある。
職業に貴賤《きせん》なしと教える教会の神は一体なにをやっているんだと思わなくもなかったが、テレオの村ではその神の僕《しもべ》があまりよく思われていないことを思い出した。
世の中は色々うまくいかないらしい。まったく、難儀《なんぎ》なことだった。
収穫《しゅうかく》を終えた寂《さび》しげな畑を通り抜《ぬ》け、小さな丘《おか》と小川に挟《はさ》まれた道を歩いていくと、すぐに水車小屋が見えてきた。
ロレンスが水車小屋の近くまで歩み寄ると、足音を聞きつけたらしいエヴァンがひょいと入り口から顔を出した。
「あ、ロレンスの旦那《だんな》!」
相変わらず元気なようだが、昨日出会ったばかりで旦那と呼ばれて少しこそばゆい。
ロレンスは手に持っていた麦の詰《つ》まった袋《ふくろ》を掲《かか》げて、返事とした。
「今、石臼《いしうす》は空いてるかな」
「え? 空いてるけど……もう発《た》つのかよ」
エヴァンに袋を手|渡《わた》しながら首を横に振《ふ》る。
確かに、旅人が麦を粉にするといえば新たなる旅路の準備と考えるのが自然だ。
「いや、しばらくはテレオにいさせてもらうつもりだ」
「そ、そうでないとな! なら、ちょっと待っててくれよ。焼けばふかふかになる粉にしてやるから」
ロレンスに取り入って村から出る機会を窺《うかが》っているのか、エヴァンはほっと安堵《あんど》のため息をついて小屋の中に戻《もど》る。
ロレンスもそのあとに続いて小屋に一歩足を踏《ふ》み入れ、少し驚《おどろ》いた。
外見からは似つかわしくないほど中は綺麗《きれい》に掃除《そうじ》され、石臼も立派なものが三基あったのだ。
「これは、すごいな」
「だろう? 見た目はぼろいけど、テレオの麦は全部ここで粉にするんだからな」
得意げに言いながら、石臼を回転させる木の棒と水車が回す木の棒を組み合わせ、回転の向きが異なる二つが連動するようにする。
それから、細長いさおを窓から川のほうに伸《の》ばし、水草を固定している索具《さくぐ》を取り外す。
途端《とたん》に響《ひび》く木の軋《きし》む音と、ごごん、という衝撃《しょうげき》と共に回り出す石臼。
エヴァンはそれらを確認《かくにん》してから、石臼の上の部分に開いている穴からロレンスが持ってきた袋《ふくろ》の中の麦を入れる。
あとは石臼の下の受け皿に粉が出てくるのを待つだけだ。
「さすが、小麦の粒《つぶ》なんて久しぶりに見たね。計量はあとでやるけど、料金はまあ三リュートくらいかな」
「ずいぶん安いな」
「え、そうなのか? てっきり高いと思ってた」
税金の高いところでは三倍くらいの料金を取られてもおかしくはない。
けれどもよその相場を知らない人間にとっては、高く感じるのかもしれない。
「村の連中ときたら支払《しはら》いを渋《しぶ》る渋る。金を集められないと村長に怒《おこ》られるのは俺なのに」
「ははは。そのあたりはどこも同じだな」
「ロレンスさんも粉|挽《ひ》きやったことあるのか」
意外そうな顔をしてエヴァンがこちらを見てくるが、ロレンスは首を横に振《ふ》る。
「いや、俺がやったことがあるのは、税の徴収《ちょうしゅう》の代理人だ。肉屋の食肉処理税だったな。豚《ブタ》一頭解体するのにいくら、とか」
「ふーん、そんなのがあるのか」
「肉や骨を洗えば川が汚《よご》れるし、ごみもたくさん出る。それらの処理に金がかかるから税金を徴収するわけだが、皆《みな》払ってくれなくてな」
税の徴収代理権は町の役人が競《せ》りにかけて、誰《だれ》かしらが競り落とす。競り落とした時の金額がそのまま町の税収入になり、あとは競り落とした者が勝手に税を回収して、多く回収できれば儲《もう》けになり、回収できないと大損ということになる。
ロレンスは駆《か》け出しの頃《ころ》に二度ほどやって、懲《こ》りた。
労力と儲けがまったく見合っていないのだ。
「しかも、最後には泣き落としまでして払ってもらってな、大変だったよ」
「はははは、わかるなあ」
相手に親近感を持たせるには、共感できる苦労話をするのが効果的だ。
エヴァンと共に笑いながらも、ロレンスは胸中で「さて」と呟《つぶや》く。
「ところで、テレオの麦は全部ここで粉にすると言ってたが」
「ああそうだよ。今年は麦が大豊作でさ、俺が悪いわけじゃないのに怒鳴《どな》られっぱなしだったよ」
大量の麦を前に寝《ね》ずに石臼《いしうす》を回しているエヴァンの姿が容易に想像できてしまう。
しかし、エヴァンはそれも良い思い出とばかりに軽く笑って、あとを続けた。
「なんだロレンスさん、昨日は違《ちが》うみたいなこと言ってたのにテレオに麦の商売に来たのか?」
「うん? まあ、場合によってはな」
「なら、諦《あきら》めたほうがいいね」
エヴァンはあっさりとそんな返事をする。
「商人というのは諦めが悪い」
「ははは、さすがだ。ま、村長のところに行けばすぐにわかるけどね、ここの村の麦は全部エンベルクが買い上げる決まりなんだよ」
喋《しゃべ》りながら石臼の様子を見て、豚の毛かなにかで作った小さな箒《ほうき》で臼についた粉を注意深く下の受け皿に落としていく。
「それはあれか、この村の領主がエンベルクということかな」
その割に村人たちの生活がのんびりしているのはおかしい。
案の定、顔を上げたエヴァンは少し得意げな顔だ。
「俺らはエンベルクと対等だ。連中は俺らの村の麦を買い、俺らは連中から麦以外の物を買う。しかも、俺らが連中から酒や服を買う時は税金がかからない。どうだ、すごいだろう?」
「それが事実なら……確かにすごいな」
ロレンスがエンベルクを通ってきた時、その規模はそこそこのものだった。
寒村といっては失礼だが、とてもテレオのような村が歯向かえる相手には見えない。
大体、無税で町から買い物ができるなどただ事ではない。
「しかし、昨日酒場で聞いた話だと、この村はエンベルクに重税を課せられているとか」
「へへへ、そんなのは昔の話だ。なんでか知りたいか?」
腕《うで》組みをして、まるっきり子供のように胸を張る。
ただ、エヴァンはそれを嫌味《いやみ》に感じさせないから面白《おもしろ》い。
「是非《ぜひ》ともね」
ロレンスが軽く両|掌《てのひら》を上に向けて話を乞《こ》う姿勢を作ると、エヴァンは突然《とつぜん》腕組みを解いて、頭を掻《か》いた。
「悪い。実は知らないんだ」
エヴァンの照れ笑いに苦笑いを返すと、「だ、だけどな」とエヴァンは慌《あわ》てて付け足した。
「誰《だれ》がそうしたかは知ってるぜ」
その瞬間《しゅんかん》、ロレンスは久しぶりに人の先手を取る快感を得た。
「フランツ司祭、だろう?」
エヴァンが、骨で頭を小突《こづ》かれた犬のような顔をする。
「あ、お、な、なんでわかったんだ?」
「なに、商人の勘《かん》というやつさ」
ホロがいたらきっとにやにやと意地悪そうな笑《え》みを浮かべるだろうが、たまにはこうやって気取ってみたい。ホロと出会ってからは丸め込まれっぱなしだが、その前までは丸め込む側だったことを久しぶりに思い出す。
「す、すげえな。ロレンスさんはやっぱ只者《ただもの》じゃなかったのか」
「褒《ほ》めてもなにも出ない。それよりも麦はまだか?」
「ん、あ、そうだった。ちょっと待っててくれ」
慌《あわ》てて粉を集めにかかるエヴァンを見て軽く笑い、ロレンスは胸中でため息をつく。
テレオの村に長くいるのは危ないかもしれない。
この村が隣《となり》町のエンベルクと描《か》いている構図は、時折見かけることがある。
「えーと、そうだな。やっぱり三リュートだな。けど、他《ほか》に人もいないし黙《だま》ってても平気だから……」
「いや、払《はら》う。水車小屋では常に正直であるべきだ。そうだろう?」
挽《ひ》き立ての小麦粉が入った計量用の升《ます》を手に持ったエヴァンは参ったとばかりに笑い、ロレンスが差し出したまっ黒い銀貨を三枚受け取った。
「パンにする時は念入りにふるいにかけないと駄目《だめ》だぜ」
「わかった。ところで」
と、石臼《いしうす》の後始末に取り掛《か》かったエヴァンに声をかける。
「この町の教会の朝の礼拝はいつもあんなに早いのか?」
驚《おどろ》くかとも思ったが、「ん?」とばかりにロレンスを一度|振《ふ》り向いて、ロレンスの言葉の示すことに気がついたらしく笑いながら首を横に振った。
「いやまさか。夏場はまだしも、冬場はここで寝《ね》るなんて無理だろう? 教会に泊《と》めてもらってるんだ」
もちろん予想通りだったので、ごく自然に「なるほど」と合点《がてん》がいったふりができた。
「それにしても、エルサさんと仲が良さそうだったな」
「え? ん、まあ、えへっへっへ……」
得意げと嬉《うれ》しさと恥《は》ずかしさを混ぜて、少し多目の水で柔《やわ》らかくこねればこんな顔になるだろうか。
嫉妬《しっと》の火にかければよく膨《ふく》らむに違《ちが》いない。
「昨日教会に道を訊《たず》ねに行った時は物凄《ものすご》く邪険《じゃけん》にあしらわれてな。ろくに話も聞いてくれない。それが今日の朝見かけたら聖母様もかくやといった具合に穏《おだ》やかで。驚《おどろ》いたよ」
「あはっはは。エルサは気が小さいくせに短気で、そのくせ人見知りするから初対面の人には山鼠《ヤマネズミ》みたいに牙《きば》を剥《む》くんだ。あれでフランツさんの跡《あと》を継《つ》ごうっていうんだからさ、無茶だよ」
水車を石臼から外し、器用に棒だけで索具《さくぐ》をはめなおす。
てきぱきとこなしながらそんな言葉を口にするエヴァンの背中は少しだけ大人びて見える。
「けど、まあご機嫌《きげん》なのは久しぶりのことだ。ロレンスさんは間が悪かったね。昨日の夜にはもうご機嫌だった。けど……そういや、ロレンスさんたちが来たなんて話はしなかったなあ。あいつ、一日にしたくしゃみの回数まで俺に話すのに」
なんでもない日常のことを言っているつもりなのだろうが、聞いているほうとしてはげっぷが出そうだ。
ただ、エルサに近づくにはエヴァンをうまく乗せたほうがいい。
「それはきっと、曲がりなりにも俺が男だからだろう」
その言葉に、エヴァンはしばしぽかんとしてから、急にへらへらと笑い出した。
挙句《あげく》、「勘違《かんちが》いされると思ったのか。あいつも馬鹿《ばか》だなあ」なんて言っている。
そんな様子からは、エヴァンが年下でありながら実に学ぶところが多いとよくわかる。
この問題は、商売の問題よりもとても難しいのかもしれない。
「しかし、あれほどかりかりしていたのが急に機嫌《きげん》が良くなるなんてのは、一体なんだったんだ?」
エヴァンの顔が少し曇《くも》る。
「なんでそんなことを聞くんだい」
「連れの機嫌が山の天気よりもよく変わるからだ」
ロレンスがそう言って肩《かた》をすくめると、エヴァンは記憶《きおく》の中のホロを引っ張り出してきて、なんとなくそういう雰囲気《ふんいき》を感じ取ったらしい。
同情するような笑《え》みを向けてきた。
「ロレンスさんも大変だね」
「まったくだ」
「けど、聞いてもしょうがないぜ。単に今までの問題が一段落ついたってだけのことだからね」
「というと?」
「それは……」
と、言いかけたところでエヴァンは慌《あわ》てて口をつぐんだ。
「村の外の人に言うなって言われてるんだ。どうしてもってことなら村長さんに聞いてくんないかな……」
「ああ、いや、話せないことなら構わない」
あっさりとロレンスは引いたが、引いたのにはもちろん訳《わけ》がある。
これだけ喋《しゃべ》ってもらえれば十分ということだ。
しかし、エヴァンのほうはそれでロレンスの機嫌《きげん》を損《そこ》ねたとでも思ったのか、急に弱気な顔つきになった。なにか言葉を探し、すぐに見つかったようだ。
「あ、けどな、その代わり、今行けばきっときちんと話を聞いてくれると思うぜ。あいつもそんなに悪い奴《やつ》じゃない」
村長も修道院のことを知らないふりをしたあたり、問題はそれほど簡単そうでもなかったが、エルサにもう一度話を聞きに行くきっかけにはなるだろう。
なにより、攻略《こうりゃく》の目星はついた。
もしもロレンスの予想が当たっているのであれば、どうにかなるだろう。
「わかった。なら、もう一度話をしに行ってみるよ」
「それがいいと思う」
ロレンスは頃合《ころあい》だと見切りをつけて「それじゃ」と身を翻《ひるがえ》す。
すると、エヴァンは慌《あわ》てて声をかけてくる。
「な、なあ、ロレンスさん」
「ん?」
「その、行商人て大変か?」
その奥に決意が見て取れる不安な目。
エヴァンはきっと、いつか粉|挽《ひ》きをやめて外の世界に出たいと思っているのだろう。
もちろん、ロレンスにはその決意をあざ笑うことなどできない。
「この世に楽な職業なんてない。けど、まあ、今は楽しいよ」
ホロと出会ってからと出会う前ではその楽しさもだいぶ違《ちが》うのだが、というのは自分に向けての胸中での独《ひと》り言《ごと》。
「そうか……そうだよな。わかった。ありがとう」
粉挽きは正直であることが求められるが、正直と素直《すなお》さは同じではない。
エヴァンが商人になったら、評判は上々だろうが儲《もう》けの面では少し苦労するかもしれない。
そんなことを思った。
ただ、当然そんなことは伝えずに、麦を挽いてもらった礼を告げるつもりで皮袋《かわぶくろ》を軽く掲《かか》げ、水車小屋をあとにした。
小川沿いの道をのんびり歩きながら、それにしても、と思う。
一日にしたくしゃみの数まで喋《しゃべ》ってくる、というエヴァンの言葉が妙《みょう》に印象に残った。
これがホロなら恨《うら》みつらみを聞かせるためにため息の数を喋《しゃべ》ってきそうだ。
この差は一体なんなのか。
もっとも、健気《けなげ》なホロも少し不気味か、と当人が側《そば》にいないのをいいことに、そんなことを思って笑ったのだった。
広場に戻《もど》ると朝市というには少々小さすぎるが、それでもいくつか露店《ろてん》が並び、少なくない数の村人たちが集まってきていた。
ただ、彼らの目的は買い物というよりも一日の始まりの談笑をしに来ているといった感じで、少しでも商品を高く売ろうとか安く買おうとか、そういったぎすぎすとした感じとはまったく無縁《むえん》だった。
エヴァンの話では、この村の麦は全《すべ》てエンベルクが定額で買い上げ、この村の人間はエンベルクから商品を無税で買うことができるという。
にわかには信じがたいような状況《じょうきょう》だが、もしもそれが事実なのだとしたら、あまりにものんびりとしているこの村の風景も納得《なっとく》がいく。
村が町に隷属《れいぞく》してしまい、その日暮らしのために仕事に追われるようになってしまうのは、酒や食べ物や服を始めとして、家畜《かちく》なども含《ふく》む生活に必要な品を完全に自給自足できないからだ。
村は麦などの産物を町に売り、その代価で生活に必要なものを買う。
しかし、色々な場所から町に運び込まれる様々な商品を買うには現金が必要で、麦を町商人に売って現金に換《か》え、その現金でさらに町商人からさまざまな商品を買わなければならない。
ここで重要なのは、村の人間は現金が必要なのに、町はその村の麦をどうしても必要としているわけではないということだ。
力関係は歴然とし、麦は安く買い叩《たた》かれ、商品は関税だのなんだのを口実に高く売りつけられる。
村が財政的に厳しくなればなるほど、町はその弱みに付け込むことができる。
そして、ついに村の人間は町に借金をし、返せる見込みのないそれのために延々と麦を町に運ぶだけの奴隷《どれい》と成り下がるのだ。
ロレンスたち行商人にとっても、そうなってしまった村はうまい商売の源になる。貨幣《かへい》は恐《おそ》ろしいまでの威力《いりょく》を持つ武器になり、あらゆるものが安く仕入れられるからだ。
ただ、当然村が現金収入をどこかから得るようになれば町との力関係が再び拮抗《きっこう》するようになり、町としては困ってしまう。そこでさまざまなやり取りが行われ、それぞれの利権を巡《めぐ》って争いが繰《く》り広げられるのだが、このテレオの村はそれらと無縁《むえん》らしい。
その構図をどうやって創《つく》り上げたかはわからないが、その結果この村が抱《かか》えている問題と、直面している危険はなんとなくわかっている。
単に店を広げているだけで商売する気などさらさらないような乾物《かんぶつ》屋で干したイチジクの実を買い、ロレンスは宿に戻《もど》った。
宿に戻れば、こちらも世間の荒波《あらなみ》とは無縁といった感じに眠《ねむ》りこけているホロがいて、ロレンスは声なく笑ってしまっていた。
しばらくロレンスがごそごそとしていたら目を覚ましたが、ようやく毛布から顔を出したホロの一言目が、「飯」だった。
ここに来るまでの旅程の予測がつかずけちけち食べていた糧食《りょうしょく》を、ひとまず処分してしまうことにした。
「チーズもこんなにあったのかや。ぬしが少ない少ないというから遠慮《えんりょ》しておったが」
「誰《だれ》が全部食べていいと言った。半分は俺の分だ」
ナイフで切り分けたチーズを半分取ると、ホロが仇《あだ》のように睨《にら》みつけてくる。
「この前の町でぬしはかなり利益を上げたはずじゃろうが」
「その金は全部使ってしまったと説明しただろう」
正確には、クメルスンに残っていた買い掛《か》けの債務《さいむ》と、クメルスンから程《ほど》近い町に残っている債務の一斉《いっせい》償却《しょうきゃく》だ。
北の地でヨイツを探すのに手間取った時のための措置《そち》と、単純にあまりにたくさんの現金を持つのは危ないため。
ただ、それでも残った現金は商館に預けてきた。現金はそのまま商館の力になる。当然、利子も取ってはいたがそこのところはホロには黙《だま》っている。
「そんなことは一度言われればわかりんす。そうではなく、ぬしは得をしたのにわっちが得をしておらぬということじゃ」
それを言われると苦しい。
クメルスンではロレンスが勝手に勘違《かんちが》いしたせいで大|騒《さわ》ぎになっただけで、ホロはなんの得もしていない。
ただ、弱みを見せるとこの狼《オオカミ》は執拗《しつよう》に食らいついてくる。
「あれだけ飲み食いして、まだそんな台詞《せりふ》を口にするのか」
「ならば、ぬしの儲《もう》けと、わっちが使った金額、詳《くわ》しく教えてくれるんじゃろうな?」
痛いところを突《つ》かれ、ロレンスは目をそらす。
「わっちがあの鳥の小娘《こむすめ》から勝手に買った石だけでも相当儲かったはずじゃ。それに……」
「わかった、わかったよ」
ホロは嘘《うそ》を見|抜《ぬ》く耳を持っているのでどんな徴税吏《ちょうぜいり》よりも性質が悪い。
下手に抵抗《ていこう》しても傷口が広がるだけだ。
降参して、チーズを全部ホロのほうに押しやった。
「んふふふふ。ありがと」
「どういたしまして」
礼を言われてこれほど嬉《うれ》しくないのも珍《めずら》しいだろう。
「それで調べは進んだのかや」
「多少な」
「多少? 途中《とちゅう》までの道のりしか教えてくれなかったのかや」
そういう取り方もあるかとロレンスは笑い、少し考えて言葉を練る。
「昨日の今日で教会を訪《おとず》れても門前|払《ばら》いだろうと思ったからな。紛|挽《ひ》きのエヴァンのところに行っていた」
「小娘と浅からぬ仲の相手を狙《ねら》ったのかや。まあ、ぬしにしては上出来じゃな」
「……。で、だな」
咳払《せきばら》いを挟《はさ》み、はっきりと言った。
「修道院に行くの、諦《あきら》めないか」
ホロの動きがピクリと止まる。
「……理由は?」
「どうもこの村は普通《ふつう》じゃない。危ない感じがする」
ホロは表情らしい表情を浮かべずに、チーズをぬったライ麦パンをかじる。
「わっちの故郷探しに危険は冒《おか》せぬかや」
そうくるか、とロレンスは額《あご》を引いてしまう。
「そういう言い方を……いや、それ、わざとだろう」
「ふん」
ばくばくばく、と立て続けにパンをかじり、あっという間に飲み込んでしまう。
パンと一緒《いっしょ》に一体どれほど多くの言葉を飲み込んだのかはわからないが、その分|不機嫌《ふきげん》そうな顔になる。
ホロが修道院で早く話を聞きたがっているというのは陰《いん》に陽《よう》にわかってはいたが、ロレンスが思っていたよりもそれは強かったのかもしれない。
しかし、村で少し情報を集めてみて、行商人としてさまざまな村や町を見てきた経験から考えれば、この村でこれ以上|件《くだん》の修道院を探すことは危険なことのように思われた。
なぜなら。
「俺の予想だとな、探している修道院はあの教会じゃないかと思うんだ」
ホロの顔に変化はない。その代わり、耳の先の毛がちりちりと逆立っている。
「一つずつその根拠《こんきょ》を示す。いいか?」
逆立った耳の先の毛を指でつまんでから、ホロは小さくうなずいた。
「まず、教会にいるエルサは、明らかに修道院のことを知っているのに知らないふりをした。隠《かく》すということは、程度の差こそあれ、誰《だれ》かに知られては困るということだ。また、昨日、村長に同じことを聞きに行った時も、村長はどうやら知っているふうだった。そして、もちろん知らないふりをされた」
ホロは目を閉じて、うなずく。
「次に、この村の中だとあの教会は村長の家に次いで立派な建物だ。だというのに昨日の酒場でのことを思い出すと、教会は敬われていないように思える。村の連中は教会の神よりも、昔から土地を守っているのだろう蛇《ヘビ》の神を敬っているようだった」
「じゃが、わっちらが道を聞くべきであったフランツとやらは、村の恩人だとか言っておったな」
「そう。村長も同じことを言っていた。だとするとフランツ司祭は村のためになにかをしたことは間違《まちが》いない。そして、それは明らかに神の教えを説いて村人たちを救ったということではない。すると、村人の利益になるようなことをしたんだろう。で、その内容を、ついさっきエヴァンから聞いてきた」
パンを指でつつき、ホロは少し首をかしげた。
「大まかに言えば、それはこの村が隣《となり》町のエンベルクと分不相応な契約《けいやく》を結んでいるということだ。この村の連中が麦の収穫《しゅうかく》が終わったとはいえのんびり暮らしていける理由がここにあった。この村は金銭的にまったく困っていない。そして、そんな生活を実現する、ちょっと信じられないような内容の契約をエンベルクと交《か》わしたのが、ほかならぬフランツ司祭らしい」
「ふむ」
「そこで絡《から》んでくるのが、エヴァンの言った、この村とエンベルクの教会とが喧嘩《けんか》をしているということ。普通《ふつう》、教会が喧嘩といえば、司祭や司教の就任《しゅうにん》権の奪《うば》い合いや、土地の寄進をめぐってのいざこざ、それに信仰《しんこう》内容のずれなんかもある。俺は最初、エルサが若すぎるうえに女の身でありながら教会を預かろうとしているから教会ともめているのだと思った。だが、たとえ表向きの理由がそうであったとしても、本当の理由は別にあると思った」
エルサが無理をしてまでフランツの跡《あと》を継《つ》ごうとしていることと、ロレンスが村長であるセムの家にいる時にやってきた旅装の男。
そして、昨日のうちにエルサの抱《かか》えている問題が一段落ついたというエヴァンの言葉。
ロレンスのよく知る構図に当てはめてみれば、ぴったりと理解することができる。
「エンベルクは、テレオとの関係を崩《くず》したがっていると考えるのが自然だ。いつ、どうやって締結《ていけつ》したのかはわからないが、フランツ司祭がエンベルクと交《か》わしたらしい契約《けいやく》を、フランツ司祭の死と共になきものにしたいんだろう。最も手っ取り早い方法は武力での制圧だが、生憎《あいにく》とこの村には教会があるし、これまでエンベルクがその手に出なかったのはテレオの村の教会に後《うし》ろ盾《だて》があるからだと考えるのが妥当《だとう》だ。ではどうするか。この村の教会をなくせばいい」
昨日、村長宅にやってきた男が預かってきたというのは、どこか遠くの町の教会からの、エルサをフランツの後継者《こうけいしゃ》として認める文書か、または後ろ盾のどこかの貴族の同様な文書か。
どちらにせよ、エルサの立場を補強するものであるに違《ちが》いない。
「この村はあまり隠《かく》そうともせず異教の神を祭っているらしいしな。異教徒の村と認定《にんてい》できれば、エンベルクの町はここに攻《せ》め入る口実ができる」
「仮に修道院への道のりを知っておるだけならば、別段隠す必要などない。じゃが、その修道院がこの町にある時だけ、隠す必要が出てくる」
ロレンスはうなずき、もう一度提案する。
「諦《あきら》めないか? 状況《じょうきょう》からいって、この町がエンベルクに付け込まれる絶好の口実となる修道院の存在はひた隠しにするはずだ。それに、予想どおりに修道院がこの町の教会のことなら、その修道院長はフランツ司祭のことだろう。異教の神々の話はフランツ司祭と共に土の下かもしれない。益が見込めないのにもめ事を起こす必要はない」
それに、ロレンスたちがエンベルクとは無関係の人間であると証明することはできない。
私は悪魔《あくま》ではない、という証明ができないことは、多くの神学者たちも認めていることだ。
「しかも、ことは異教の神々の話に関《かか》わっている。騒《さわ》ぎになって、万が一俺たちも異端《いたん》として見つかれば、ことが大きくなる」
ホロは大きくため息をついて、かゆいところに手が届かないといったふうに耳の付け根をカリカリと掻く。
目の前の状況は軽く無視できるようなものではないことはわかった。けれども簡単に諦められるわけでもない、といった感じだろうか。
ロレンスは一度|咳払《せきばら》いをし、そんなホロに再度言葉をかける。
「お前が故郷の話をなるべく集めたいのはわかる。だが、やはりここは危険を避《さ》けるべきだと思う。ヨイツの場所に関する話なら、クメルスンで得たもので十分だ。それに、お前は記憶《きおく》を失っているわけじゃないんだ。心配しなくても近くまで行けば場所なんて――」
「ぬしよ」
ホロは唐突《とうとつ》に遮《さえぎ》って、遮ってから、喋《しゃべ》ろうとしていたことを忘れてしまったように口をつぐんだ。
「なあ、ホロ」
ロレンスの呼びかけに、ホロは少し唇《くちびる》を尖《とが》らせる。
「また、俺がなにか思い違《ちが》いをする前に、言っておいてもらいたい。お前、異教の神々の話になにを期待している?」
目をそらすホロ。
ロレンスは詰問《きつもん》口調にならぬように、努《つと》めて穏《おだ》やかに口を開いた。
「お前の故郷を、その、滅《ほろ》ぼしたという話に出てきた、熊《クマ》について調べたいのか?」
目をそらしたまま、ホロは動かない。
「それとも……故郷の仲間のことか」
考えられる可能性などそれくらいしかない。
ホロが固執《こしつ》するとすればそのどちらか。
もしくは、その両方。
「だとしたら、どうするんじゃ?」
冷たく、芯《しん》から冷えるような鋭《するど》い眼《め》。
しかし、それは獲物《えもの》を狙《ねら》う誇《ほこ》り高き狼《オオカミ》のものではない。
それは側《そば》に寄るもの全《すべ》てが敵に見えている傷ついた獣《けもの》の眼。
ロレンスは言葉を選ぶ。思いのほか早く、的確な言葉が見つかった。
「場合によっては、危険な橋を渡《わた》らないでもない」
要は、利益と危険が見合うかの話だ。
ホロがどうしても故郷を滅ぼした憎《にく》き熊の情報を集めたいとか、どうしても仲間の消息を調べたいというのなら、それに協力するのはやぶさかではない。
ホロだって見た目どおりの子供ではないのだから、自分の気持ちを多少は冷静に見極められるはず。そのうえでなお頼《たの》んでくるならば、ロレンスはその思い入れに応じて危険を冒《おか》す覚悟《かくご》くらいある。
しかし、ホロは急に肩《かた》から力を抜《ぬ》くと、小さく笑いながら胡坐《あぐら》を解いた。
「ならば、よい」
そして、そんなことを言う。
「よい。そんな、大袈裟《おおげさ》に構えられるほどのことじゃありんせん」
当然、ロレンスとしては言葉どおりの意味に受け取れるわけもない。
「ぬしよ、もちろん、わっちゃあ本音としては小娘《こむすめ》の頬《ほお》をひっぱたいて、話が残っておらぬか問いただしたい。ぬしが言ったことのために。もう一つは、単純にヨイツの話があるのならば、知りたいからじゃ。ぬしだって、故郷の話があると聞けば知りたくなろう?」
その言葉には異論なくうなずくと、ホロも満足げにうなずき返す。
「じゃが、そのためにぬしにあえて危険な橋を渡《わた》ってもらうのは、少し困りんす。ヨイツの場所の見当はついておるのじゃろう?」
「あ、ああ」
「ならば、よい」
ホロはそう言うものの、やはりロレンスの胸のうちはすっきりしない。
確かにロレンスは諦《あきら》めるべきだと提案したが、ホロの気持ち如何《いかん》によってはやぶさかではないと思う。
それがいざあっさりと提案に同意されると、それが嘘《うそ》なのではないかと勘《かん》ぐってしまう。
そう思って口ごもっていると、ホロがベッドの端《はし》に腰掛《こしか》け、足を下ろして言った。
「ぬしよ、わっちがぬしに故郷の話をせんのはなぜじゃと思う?」
はっとしてしまうような質問。
ホロはうっすらと笑顔《えがお》でいるものの、とてもロレンスをからかっているようには見えない。
「わっちもたまには故郷|自慢《じまん》がしたい。思い出話をしたい。じゃがな、それをせぬのは、ぬしが気を遣《つか》ってくれるからじゃ。それこそ、今のようにな。気を遣いすぎ、と責めるのはさすがに賛択《ぜいたく》じゃとわかりんす。けれども、わっちにはそれが少し心苦しい」
ホロは言ってから尻尾《しっぽ》の毛をつまんで、呆《あき》れたように続ける。
「まったく、ぬしがもっと察しのよい雄《おす》であれば、こんなこっぱずかしいこと言わんでもすむのに」
「それは……すまない……」
「くふ。ま、お人|好《よ》しなのはぬしの数少ない美点じゃが……わっちにはそれが少し怖《こわ》い」
ベッドから立ち上がり、くるりと身を翻《ひるがえ》してロレンスに背中を向ける。
ふさふさの冬毛が映《は》える尻尾をわずかに揺《ゆ》らし、ホロは自分の肩《かた》を両|腕《うで》で抱《だ》きながら、肩|越《ご》しにロレンスのことを見た。
「わっちがこんなふうに寂《さび》しげにしておっても、ぬしはがぶりと食わぬのじゃからな。まったく、恐《おそ》ろしい雄じゃ」
ホロの挑戦《ちょうせん》するような上目遣いに、ロレンスは小さく肩をすくめた。
「見た目は果物でも、よく吟味《ぎんみ》しないととんでもない味のものがあるからな」
とたん、ホロは肩から手を離《はな》し、ロレンスのほうに向き直ってけたけたと笑った。
「確かに、とてつもなくすっぱいかもしれぬからの。じゃが」
ホロはゆっくりとロレンスに詰《つ》め寄って、笑顔のままでこう言った。
「わっちが甘くないとでも?」
こんなことを言う奴《やつ》のどこが甘いのか。
ロレンスは迷わずにうなずく。
「ほう、いい度胸じゃ」
にこりと笑うホロに、すぐさま付け加えた。
「苦くないとうまくない、ビールみたいなものもある」
「……」
ホロは驚《おどろ》いたように少しだけ目を見開いてから、しまった、とばかりに目を閉じて尻尾《しっぽ》を振《ふ》った。
「ふん。坊《ぼう》やに酒は毒じゃ」
「ああ、二日酔《ふつかよ》いになったら困るからな」
ホロはわざと唇《くちびる》を尖《とが》らせてロレンスの胸を右|拳《こぶし》でつく。
そして、そのまま視線を落とした。
なんだか間抜《まぬ》けな寸劇をしていることは理解している。
ロレンスはその手を軽く握《にぎ》って、ゆっくりと言った。
「お前は、本当に、諦《あきら》めてもいいんだな?」
ホロほど頭が巡《めぐ》れば、どれが合理的でどれが非合理的な判断であるかなどたちどころにわかってしまうだろう。
けれども、神を理性で理解できないように、感情は完全に制御《せいぎょ》できない。
ホロはしばらく返事をしなかった。
「そういう聞き方はな……ずるいと思うんじゃが」
静かにホロは答えて、ロレンスの胸に当てていた拳を開き、軽く服をつまんだ。
「わっちゃあ、ヨイツの話や、仲間の話や、腹の立つ熊《クマ》の話があるのなら、それを詳《くわ》しく知りたい。クメルスンでのあの鳥の小娘《こむすめ》の話ではとても足りぬ。喉《のど》が渇《かわ》いた時に少しだけ水を飲むようなものじゃ」
か細く、呟《つぶや》くようなホロの声。
ロレンスは、見え透《す》いたやり取りを大事にしながら、小さく言った。
「どうしたい」
こく、とホロはうなずいて、答える。
「甘えても……いいかや」
抱《だ》きしめたらきっとその体は柔《やわ》らかいだろうな、と思わせるような言葉。
ロレンスは、大きく息を吸って短く答えた。
「任せろ」
ホロはうつむいたまま顔を上げず、尻尾《しっぽ》をぱたりと一回だけ振《ふ》った。
この振る舞《ま》いがどこまで嘘《うそ》かはわからないが、これはこれで危険を冒《おか》すに見合う利益だと思えてしまうあたり、ロレンスは自分が酔《よ》っ払《ぱら》っているのだと思わずにはいられない。
ただ、不意に顔を上げたホロは不敵に笑っていた。
「実はな、わっちには案が一つある」
「ほう、どんな?」
「うむ。それはな……」
と、単純明快な方法を語ったホロに、ロレンスは小さくため息をついた。
「正気か?」
「遠まわしにやっておっても話は進まぬじゃろう。大体じゃな、わっちが甘えてもいいかやと言ったのはな、危ない橋を共に渡《わた》ってもらってもいいかや、ということじゃ」
「しかし――」
ホロが両方の牙《きば》を唇《くちびる》の下に少しだけ覗《のぞ》かせてにっこりと笑う。
「ぬしは雄々《おお》しく任せろと答えてくれた。わっちゃあ、とても嬉《うれ》しい」
契約《けいやく》書が長ったらしく厳密に記されているのは、余計な解釈《かいしゃく》を許さないためだ。
口約束が危険なのは、言った言わないの話になるということもそうだし、なによりどうとでも解釈《かいしゃく》ができるように話を運ばれていてもなかなか気がつかないからだ。
しかも、ロレンスが相手にしていたのは賢狼《けんろう》を自称《じしょう》する御歳《おんとし》数百|歳《さい》の狼《オオカミ》だった。
まったく、完全に油断していた。主導権は全《すべ》て握《にぎ》れているものだとばかり思っていた。
そこに、ホロが楽しげに言う。
「たまにはぬしの手綱《たづな》を握りなおさんとな」
ホロが頼《たよ》ってくれて、その期待に格好良く応《こた》える。
そんな状況《じょうきょう》を少しでも夢想してしまったのが情けない。
「ま、うまくいかなかった時のことはぬしに任せる。じゃからな」
そう言ってホロはするりとロレンスの手を握った。
「今はぬしの手を握るだけ」
がくりとうなだれる。
その手を振り払《はら》うことなど、ロレンスにできはしないのだ。
「では、ぬしよ、さっさと飯を食って行こう」
ロレンスは短く、けれどもはっきりと返事をしたのだった。
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第三幕
だが実際、フランツ司祭がロレンスたちの探し求める修道院の院長たるルイズ・ラーナ・シュティングヒルトだとしたら、この村の教会に異教の神々の話を収めた本なり紙なりが残っている可能性は高いだろう。
もちろん、エルサやテレオの村を巡《めぐ》る状況《じょうきょう》がロレンスの予想どおりだとすれば、ほんの少しの危険も冒《おか》せないから徹底《てってい》的に修道院の話などなかったことにしたい、と思っているだけということも考えられる。
ただ、人は大事な話であればあるほど紙に記して残しておきたいと考え、同時に人は誰《だれ》かの思い入れがあるものをそうそう簡単に灰にはできない。
おそらく、教会には異教の神々のことを記した書物なりが残っている。
問題は、それをどうやって引きずり出すか、だ。
「ごめんください」
昨日と同じように、正面|玄関《げんかん》から訪問する。
ただし、昨日のようになんの準備も策も練っていないわけではない。
「……なんの、ご用ですか」
昨日の今日で扉《とびら》を開けてもらえるかわからなかったが、ひとまずその心配はなくなった。
昨日はぴりぴりと痺《しび》れるような苛立《いらだ》ちがあり、今日は厚い雲のような不機嫌《ふきげん》さが顔にある。
ここまで嫌《きら》われると、かえって好感がわく。
自然な笑顔《えがお》で返事をする。
「先日は失礼しました。エヴァンさんからお聞きしたのですが、なにか大変な状況《じょうきょう》だったようですね」
エヴァンの名前にピクリと反応しつつ、エルサは開け切らない扉《とびら》の隙間《すきま》からロレンス、ホロ、それに後ろに待機している旅装を調《ととの》えた荷馬車を見て、またロレンスに視線を戻《もど》す。
それで少しだけ顔から不機嫌《ふきげん》さが消えたことがわかった。
「……それで、また修道院のことですか?」
「いえいえ。探していた修道院については、村長さんにもお伺《うかが》いしたのですが、ご存じないと。私がクメルスンで一杯《いっぱい》食わされたのかもしれません。その話を教えてくれたのは、ちょっと怪《あや》しげな方でしたから」
「そうですか」
よく隠《かく》せているほうだとは思ったが、残念ながら商人の目もそれなりに鋭《するど》い。
「なので、予定よりも少し早いのですが次の町に発《た》つことにしました。つきましては、こちらの教会で道中の安全のお祈《いの》りをさせていただければと思いまして」
「……そういうことでしたら」
訝《いぶか》しげではあるものの、ゆっくりと扉を開き、「どうぞ」とロレンスたちを迎《むか》えてくれた。
ロレンスに続きホロも入り、ぱたんと扉が閉じられる。二人とも完全な旅装で、ロレンスは背嚢《はいのう》も肩から提《さ》げていた。
教会は正面から入ると左右に伸《の》びる廊下《ろうか》を挟《はさ》んでまた扉がある。教会の構造というのはどこも同じなので、真正面の扉の向こうが礼拝堂で、左側が聖務室や筆耕《ひっこう》室で、右側が住居だろう。
エルサは司祭服の裾《すそ》を少し持ち上げながら回り込み、礼拝堂の扉を開けた。
「こちらに」
中に入ると、礼拝堂はちょっとしたものだった。
真正面には祭壇《さいだん》と聖母の像があり、二階部分に取り付けられた窓から明かりが入ってくる。
天井《てんじょう》は吹《ふ》き抜《ぬ》けになっているうえに、椅子《いす》もないのでかなりの広さに感じられる。
床《ゆか》はぴったりと組まれた石造り。これほどきっちり組まれたら、どんながめつい商人も石を抜いて売り飛ばせないだろう。
そんな床も扉から祭壇までの道のりが人の足で磨《みが》かれ少し色が異なっている。
そして、エルサに続きゆっくりと中に進むロレンスは、祭壇手前の床が妙《みょう》にへこんでいることに気がついた。
「フランツ司祭は」
「え?」
「ずいぶん信仰《しんこう》の篤《あつ》い方だったんですね」
エルサは少し驚《おどろ》き、それからロレンスの視線に気がつく。
エルサが立っている少し後ろは、きっとその場にひざまずいて神に祈《いの》る場所なのだ。
「あ……ええ、そうですね。ただ……、今、言われるまで気がつきませんでした」
初めて見せてくれた笑顔《えがお》は小さなものだったが、優《やさ》しそうなそれは教会の娘《むすめ》に相応《ふさわ》しい。
初対面が昨日のあの険《けん》の強さだったので、余計そう思うのかもしれない。
ただ、今からその笑顔を消すかと思うと、ようやくついた火を吹《ふ》き消すような寂《さび》しさを感じなくもない。
「それでは、お祈《いの》りに移りましょう。準備はよろしいですか?」
「あ、その前に」
と、ロレンスは背嚢《はいのう》を下ろし外套《がいとう》も脱《ぬ》ぎ、一歩、エルサに歩み寄った。
「懺悔《ざんげ》をさせていただければと」
意外な申し出だったのか、エルサは一瞬《いっしゅん》間をあけてから、「はあ」と答えた。
「それでは、別室にて……」
「いえ、こちらで。できれば、神の面前で」
詰《つ》め寄るロレンスの気迫《きはく》に、しかしエルサは圧倒《あっとう》されることなくうなずき、「わかりました」と聖職者らしく神妙《しんみょう》にうなずいた。
エルサがフランツの跡《あと》を継《つ》ごうというのは、なにも村のためだけという訳でもないのだろう。
ホロが静かに後ろに下がるのを見届けてから、エルサは手を組んで、うつむきがちに小さく祈りの文句を唱《とな》える。
顔を上げた頃《ころ》には、忠実なる神の僕《しもべ》がそこにいた。
「貴方《あなた》の罪を聞き届けましょう。神は常に正直なる者に寛大《かんだい》です」
ロレンスはゆっくりと深呼吸をする。神に祈ることもけなすことも日常茶飯事とはいえ、礼拝堂のど真ん中で罪を告白するとなればそれ相応に緊張《きんちょう》を強いられる。
吸った時間と同じくらいの時間をかけて吐《は》いてから、その場にひざまずく。
「私は、嘘《うそ》をつきました」
「どのような?」
「自分の利益のために、相手を騙《だま》しました」
「貴方は神の前でそれを告白されました。では、真実を告白する勇気はありますか?」
顔を上げて、答える。
「あります」
「神は全《すべ》てをご存じですが、貴方の口から再度語られることを望まれています。恐《おそ》れることはありません。神は正しき信仰《しんこう》に目覚めた方にはいつも寛大です」
ロレンスは目を閉じて言った。
「私は今日、嘘をつきました」
「どのような?」
「偽《いつわ》りの目的を告げて、相手を騙《だま》すためです」
一瞬《いっしゅん》の間があき、エルサは続けた。
「なんのために?」
「私はどうしても知りたいことがあり、それを教えてもらうために、嘘《うそ》をついて相手に近づきました」
「……それは……どなたに?」
顔を上げて、答える。
「貴女《あなた》です。エルサさん」
はっきりと動揺《どうよう》が見て取れた。
「私は嘘をついたことを神の面前で告白|致《いた》しました。そして、真実を告げます」
立ち上がり、頭一つ分背の低いエルサに向かって、たたみかけるように言い放つ。
「ディーエンドラン修道院の場所を探しています。その場所を貴女に聞きに来ました」
きり、とエルサが唇《くちびる》を噛《か》む。ロレンスを憎々《にくにく》しげに睨《にら》んではいるものの、昨日のようにどんな要求も撥《は》ね除《の》けられるような強さはそこにはない。
ロレンスがわざとここで告白したのには理由がある。
信仰《しんこう》の篤《あつ》いであろうエルサを、神の面前で罠《わな》に嵌《は》めるためだ。
「いえ、私はまた嘘をつきました。場所を聞きに来たのではありません」
水に油をたらしたように、困惑《こんわく》がエルサの顔に広がった。
「ここがディーエンドラン修道院なのか聞きに来たのです」
「……!」
エルサは後ずさり、フランツ司祭が長い年月神に祈り続けたせいでできた床《ゆか》のくぼみにつまずき、よろめく。
ここは神の面前なのだ。
嘘をつくことは許されない。
「エルサさん。ここはディーエンドラン修道院。そして、フランツ司祭がルイズ・ラーナ・シュティングヒルト修道院長で、間違《まちが》いありませんね?」
首を横に振《ふ》らなければ嘘ではない、という子供のような主張を支えにしているかのように、今にも泣き出しそうな顔でロレンスから目をそらす。
しかし、それは肯定《こうてい》以外のなにものでもない。
「エルサさん。私たちはフランツ司祭が集めたという異教の神々の話を知りたいのです。それは商売のためではなく、ましてや、エンベルクのためでもない」
はっと息を飲み、飲んだそれが表に出てしまわないようにと慌《あわ》てて口を押さえる。
「ここがディーエンドラン修道院であるということがばれると困るのは、フランツ司祭が集めた話を記した記録が残っているからですね?」
ゆっくりと、エルサのこめかみの辺りから汗《あせ》が流れ出る。
もう認めているのと変わらない。
ロレンスはさりげなく拳《こぶし》を握《にぎ》って、ホロに合図を出す。
「エルサさんの心配していることは、フランツ司祭の行いがエンベルクにばれないか、それではないのですか? 私たちはどうしてもその記録が見たいだけです。それこそ、このように、あまり穏便《おんびん》とはいえない方法をとるくらい」
エルサが咳《せ》き込むように口を開いた。
「あ、あなた方は……あなた方は何者なんですか」
ロレンスは、まっすぐエルサを見たまま答えない。
細い体でこの教会を背負おうとしていたエルサは、不安げな眼で見つめ返す。
そして。
「わっちらが何者であるか、という質問に満足に答えることはとても難しい」
ホロが口を挟《はさ》み、初めてそこにホロがいたことに気がついたかのように、エルサが視線を奪《うば》われた。
「わっちらが……いや、わっちが無理を押してまで願い出ておるのには理由がある」
「……どんな、理由が……あると」
泣き癖《ぐせ》のようにつっかえながらエルサは言って、ホロがゆっくりとうなずいた。
「こういう理由じゃ」
エンベルクの教会からの手先でないことを証明するのは、自身が悪魔《あくま》ではないことを証明するのと同じくらいに難しい。
けれども、仮に天使の羽を見せることができれば少なくとも悪魔ではないことを示せるように、少なくともエンベルクの教会の手先ではないということを示すことはできる。
ホロが、その耳と尻尾《しっぽ》を晒《さら》すことによって。
「あ……あ……」
「作り物じゃありんせん。触《さわ》ってみるかや?」
こくり、とエルサがうなずいたと思ったのは、うつむいて胸の辺りを握《にぎ》り締《し》めたからだ。
「くぅ」
そのまま変ないびきのようにうめいて、エルサはその場に崩《くず》れ落ちてしまったのだった。
エルサを簡素なベッドに寝《ね》かせてから、ロレンスは小さくため息をついた。
少し脅《おど》して追い詰《つ》めてからのほうが効果的だと思ったのだが、度が過ぎたらしい。
単に気を失っているだけなのでじきに目を覚ますだろう。
それにしても、とロレンスは部屋を見回して思った。
清貧が謳《うた》われる教会とはいえ、ここまで物がなくすっきりしていると、エルサがここを住居にしているのかどうかも怪《あや》しく思えてくる。
教会の入り口から入り、右に曲がると暖炉《だんろ》のある居間になっていて、部屋の奥には礼拝堂に沿って作られた廊下《ろうか》と、二階へ上がる階段がある。
ベッドは二階にあったので気を失っているエルサを二階に運んで寝《ね》かせたのだが、そこにあるものといえば一組の机と、開かれたままの聖典と注解の書。それに、数通の手紙。壁《かべ》には麦藁《むぎわら》で作ったわっかの飾《かざ》りが一個だけ飾られていた。
二階の部屋の数は二つで、もう一つの部屋は物置になっていた。
特に物色するつもりがあったわけでもないが、一目でそこにはフランツ司祭の残した記録はないだろうなとわかった。
そこには、教会の暦《こよみ》に従って行われる儀式《ぎしき》やお祭りで使うような、特別な刺繍《ししゅう》の入った布や燭台《しょくだい》、それに剣《けん》や盾《たて》が、しばらく使われていないことを示すように埃《ほこり》をかぶって置かれていた。
そんな物置の扉《とびら》を閉じると、軽い足取りで階段を上《のぼ》ってくる音がして、見ればホロだった。
ぐるりと礼拝堂を囲むように作られている廊下を回るついでに、一通り教会の中を見てきたのだろう。
あまり晴れない顔つきなのは、エルサが倒《たお》れてしまったことよりも、フランツ司祭の残したものが見つからなかったからかもしれない。
「やはり聞いたほうが早いの。隠《かく》されておったらわからぬ」
「匂《にお》いでわからないか?」
と、なんの気なしに言って、ホロが無言でにこりと笑ったので慌《あわ》てて「悪い」と付け足した。
「で、まだ起きぬかや。思ったよりも肝《きも》が小さかったの」
「どうかな……俺が考えていたよりも辛《つら》い状況《じょうきょう》に立たされていたからかもしれないな」
悪いとは思いつつも、机の上に置かれていた手紙の文面に目を通せば、エルサがエンベルクからの干渉《かんしょう》を防ぐために取った手立てがよくわかった。
エンベルクと共に同じ正教徒であるということをよその教会に主張して、攻《せ》め込まれないように後ろ盾《だて》としてどこかの地方の領主に庇護《ひご》を求めている。
ただ、その領主からの返事では、亡《な》きフランツ司祭の義に報《むく》いて、とあるのでエルサが独力で得た信頼《しんらい》ではないらしい。
他《ほか》にもロレンスが聞いたことのあるくらい大きな司教区にある教会からの手紙などもあった。
概《おおむ》ね、ロレンスの予想どおりのことをしていたようだ。
村長の家にいた時に届けられたものは、エルサの机の上に置かれた文書の日付けから見て、領主からの庇護を取り付けた文書だろう。
これが来るかどうかを待っていた日々を想像すると、部外者なりに気が気でなかったろうということくらいわかる。
ただ、エルサが一番|辛《つら》かったのは別のことなのではなかったのだろうかと思わなくもない。
隣《となり》の物置で埃《ほこり》をかぶっていた、聖具《せいぐ》の数々。
村長と協力してことに当たっていたらしいとはわかるが、それが村人たちに感謝されているかといわれると疑問|符《ふ》がつくだろう。
酒場でのやり取りから、村が直面している問題そのものは村人たちに認識《にんしき》されているものの、その問題の中心にエルサがいることは歓迎《かんげい》されていないような気がする。
特に、教会が軽んじられていることは間違《まちが》いないのだから。
「……ん」
そんなことを思っていたら、ベッドの上から小さく声が聞こえてきた。
エルサが目を覚ましたらしい。
兎《ウサギ》の足音を聞きつけた狼《オオカミ》のように反応したホロを手で制して、ロレンスは小さく咳払《せきばら》いをした。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
がばっと跳《は》ね起きるわけでもなく、ゆっくりと目を開いたエルサにそう問いかけると、エルサは驚《おどろ》くべきか怯《おび》えるべきか怒《おこ》るべきかわからないような複雑な顔をして、結局困った顔を選んだようだ。
小さくうなずいて、ため息をついた。
「私を、縛《しば》り上げないのですね」
それでも出てきた台詞《せりふ》はなかなか気丈《きじょう》なものだった。
「人を呼ぼうとしたらそれも考えていました。背嚢《はいのう》の中には麻縄《あさなわ》があったんですよ」
「今呼ぼうとしたら?」
つと視線がロレンスから外れたのは、エルサから異教の神々の話の在《あ》り処《か》を聞きたくてうずうずしているホロのほうを見たからだろう。
「お互《たが》いにとってよくない結果になるでしょう」
ロレンスに視線を戻《もど》してから、ふっと瞼《まぶた》を閉じればそのまつげは長い。
気丈なようでも、まだ若い娘《むすめ》なのだ。
「私が見たものは……」
と、エルサが体を起こそうとしたのでロレンスはその背中を支えようとしたが、「大丈夫です」と手で制された。
敵意でも怖《おそ》れでもない、曇《くも》り空からついに降ってきた雨を見るような目でホロを見|据《す》えて、エルサは続けた。
「私が見たものは、夢ではなかったのですね」
「夢と思ってくれたほうがわっちらは助かるの」
「悪魔《あくま》は人に夢を見せて騙《だま》すといいますが?」
ホロはいつもの軽口だとわかるが、エルサが本気かどうかわからない。
ホロのほうを見れば、むっとしているので半ば本気だったのだろう。
この二人は、正教徒と豊作の神だからというよりも、単にそりが合わないのかもしれない。
「私たちは目的が達せられれば、まさしく夢であったかのようになにもせずに立ち去ります。もう一度お願いします。フランツ司祭の残した記録を見せていただけませんか」
ロレンスは二人の間に割り込んで、そう言った。
「あなた方が……エンベルクの人間ではないという確信は未《いま》だに持てません。ですが、もしそうでないのだとしたら……目的は一体なんなのですか?」
自分が答えるべきかと決めかねてホロを見れば、ホロはゆっくりとうなずいた。
「わっちゃあ故郷に帰りたい」
そして、短く言った。
「故郷……?」
「じゃがな、故郷を発《た》ったのはもうはるか昔のこと。道も忘れ、故郷の連中が元気にしておるかもわからぬ。それどころか、未だ故郷があるかどうかすら定かではない」
ホロは淡々《たんたん》と語る。
「どう思うかや? もしもそこに故郷のことを知る者がおるやもしれぬと思ったら」
一生小さな村の中から出ない村人たちだって、他《ほか》の町や村から自分たちの村がどう見られているかを知りたがる。
ならば外に出た者ならば、なおさら故郷のことを知りたがるだろう。
エルサはしばし返事を返さなかったが、ホロも催促《さいそく》をしない。
視線を下げて、深く考え込んでいるのがよくわかった。
エルサもまだ年若いとはいえ、のんびりと花を集め歌を歌って暮らしてきたわけではないらしい。
ロレンスが懺悔《ざんげ》をしたいと申し出た時の振《ふ》る舞《ま》いは、昨日今日身に着けたものではないことくらいわかる。
人ならざるホロを前にして気を失ってしまったとはいえ、現状を最もうまく収拾《しゅうしゅう》するために頭を巡《めぐ》らせることくらいできるはずだ。
そして、ふと自らの胸に手を当てると、小さく祈《いの》りの文句を唱え、やがて顔を上げた。
「私は神の僕《しもべ》です」
短く言って、ホロとロレンスが口を挟《はさ》む前に言葉を続けた。
「ですが、同時にフランツ司祭の跡《あと》を継《つ》ぐ者です」
ベッドから下りて、司祭服の乱れを直してから、エルサは小さく咳払《せきばら》いをした。
「私はあなたを悪魔憑《あくまつ》きだとは疑いません。フランツ司祭は、悪魔憑きなどいないと常々言っていましたから」
ロレンスはその発言に少なからず驚《おどろ》いたが、ホロのほうは記録が見られればなんでもいいらしい。
ついにエルサが折れてくれたらしいことを悟《さと》って、顔は油断なくしかつめらしくしていたが、尻尾《しっぽ》の先がそわそわと揺《ゆ》れている。
「ついてきてください。ご案内します」
一瞬《いっしゅん》、逃げるための方便ではないかと疑ったが、ホロがおとなしくそのあとについていくのでその心配もないだろう。
一階の居間へと下り、エルサは暖炉《だんろ》脇《わき》のレンガの壁《かべ》を軽く手で撫《な》でる。
そして、そのうちの一つに指の先をかけ、ゆっくりと引き抜《ぬ》いていく。
引き出しのように一つだけ抜けたレンガを逆さまにすると、細長い金色の鍵《かぎ》がエルサの手の上に落ちた。
そんなエルサの後ろ姿は気丈《きじょう》に振《ふ》る舞《ま》う女の子だ。
蝋燭《ろうそく》に火をつけ、燭台《しょくだい》に載《の》せてから、ロレンスたちのことを見た。
「参りましょう」
エルサは小さく言って、奥に続く廊下《ろうか》へと歩き出した。
教会は思いのほか奥行きがあった。
普段《ふだん》から祈《いの》りは欠かしていないのか綺麗《きれい》だった礼拝堂とは違《ちが》い、廊下はお世辞にも綺麗とはいえなかった。
壁《かべ》に取り付けられた燭台にはクモの巣《す》が張っていたし、ぽろぽろと壁から剥《は》がれ落ちたのだろう石の破片が歩くたびにざりざりと音を立てた。
「こちらです」
エルサが足を止め、言いながら振《ふ》り向いたのはおそらく礼拝堂の真後ろに当たる部分。
そこには台座に載《の》せられた幼い子供くらいの大きさの聖母の像があり、教会の入り口に向かって手を組んで祈っている。
礼拝堂の裏手というのは教会にとってもっとも神聖な場所だ。
聖人の遺品や骨といった聖遣物と呼ばれる教会にとって重要な代物《しろもの》は大抵《たいてい》礼拝堂の裏手に保管されることになる。
そういう意味では大事なものが置かれる場所の定番とはいえたが、ここに異教徒の産物である異教の神々の話を収録したものを保管するのは、なかなか勇気のいることだろう。
「神のお赦《ゆる》しが得られますように」
エルサもそのように呟《つぶや》いて、手にしていた真鍮《しんちゅう》製の鍵《かぎ》を聖母の像の足元の小さな穴に差し込んだ。
薄暗《うすぐら》い場所では気づきにくい小さな穴で、エルサが力を込めて鍵《かぎ》を回すと像の下でなにかが外れる音がした。
「遺言《ゆいごん》では、これで像が台座から離《はな》れるということなのですが……私は一度も開けたところを見たことがないので」
「わかりました」
ロレンスがうなずき像に近づくと、エルサは心配そうな影《かげ》を顔に浮かべながらも後ずさった。
そして、聖母の像に抱《だ》きつくようにして力を込めると、思いのほかあっさりと持ち上がる。
どうやら中身は空洞《くうどう》らしい。
「よ……と」
倒《たお》さないように注意しながら壁際《かべぎわ》に像を置き、改めて台座を振《ふ》り返る。
エルサはしばらく像のなくなった台座を見てためらっていたが、ホロの刺《さ》すような催促《さいそく》の視線に屈《くっ》してゆっくりと歩み寄る。
それから、先ほど像の足元に差し込んだ鍵を逆さに持ち替《か》え、今度は台座から少し離れた床《ゆか》に開いていた穴に鍵を差し込み、右回りに二回回した。
「これで、台座ごとこの床が持ち上げられて開く……はずです」
鍵は引き抜《ぬ》くことなくそのままにし、しゃがんだままエルサが言うと、ホロの視線が今度はロレンスに向けられる。
逆らえば本気で怒《おこ》りかねないのでため息まじりに従おうとすると、一瞬《いっしゅん》、不安げな顔が垣間見《かいまみ》えた。
ぬしはこういうわっちが好きなんじゃろう? と言ってしょげた様子から一転してロレンスをからかったことのあるホロだ。それが見た目どおりに不安がっているかは定かではなかったが、情けないことにやる気が出るにはそれだけで十分だった。
「手をかける場所は……台座しかなさそうですね。なら、こうかな」
どのように床が開くのかわからなかったので少し様子を見て、足元を確認《かくにん》してから台座に手をかける。床に敷《し》き詰《つ》められた石のつなぎ目から、教会の入り口側が持ち上がりそうだ。
「ぃ……よっと」
見当をつけて力を込めると、石臼《いしうす》に砂利《じゃり》が混ざったような嫌《いや》な音と共に台座が床ごとわずかに持ち上がる。
ロレンスはそのままの位置を保ちながら手を持ち替《か》え、一気に力を込めた。
がりがりという石同士がこすれる嫌な音と、錆《さ》び付いた金属が軋《きし》む音と共に床が持ち上がり、ぽっかりと暗い穴が顔を見せた。
さほど深くはなく、階段状に石が組まれている先に本棚《ほんだな》のようなものが見えていた。
「中に入っても?」
「……私が先に」
少なくとも、ロレンスたちを先に入れさせて上から蓋《ふた》をしてしまうという考えはないらしい。
それに、ここまできたらもうあがく必要もないだろう。
「わかりました。空気が淀《よど》んでいるかもしれませんから、気をつけて」
エルサはうなずき、燭台《しょくだい》を片手に急な石段を一段一段下りていく。
頭が完全に床《ゆか》の下に隠《かく》れて、もう二、三段下りてから、エルサは壁《かべ》に設けられていたくぼみに燭台を置き、そろそろと奥に入っていく。
中のものに火を放つことを企《たくら》んでいるのではないかと思ったりもしたので、その点には少し安心する。
「ぬしのほうがよほど疑り深いの」
そんな胸中を見|透《す》かされたのか、隣《となり》のホロがうっすらと笑ってそう言った。
それから少しして、エルサが戻《もど》ってきた。
手には一枚の封書《ふうしょ》と、数枚の羊皮紙かなにかを束ねたものがある。
石段を半ば這《は》うように上《のぼ》り、最後のほうでロレンスは手を差し出した。
「……どうも。お待たせしました」
「いえ。それは?」
ロレンスが訊《たず》ねると、「手紙です」と短い答えが返ってきた。
「中にある本が、おそらくあなた方の探すものだと思います」
「それは、持ち出して読んでも?」
「教会の中だけでお願いできますか」
もっともな返事だ。
「では、入らせてもらいんす」
そして、ホロがするすると石段を下りて中に入っていき、すぐにその体が見えなくなる。
エルサを見張る、というわけでもないが、ホロのあとを追わなかったロレンスは、ぼんやりとホロが消えていった地下室の入り口を見ているエルサに声をかけた。
「今更《いまさら》なのですが、無理なことを頼《たの》んでしまいました。お礼と共に、お詫《わ》びします」
「ええ、確かに強引でしたからね」
睨《にら》まれ、言葉もない。
「しかし……。しかし、フランツ司祭はお喜びでしょう」
「え?」
「自分の集めた話は作り話ではない。それが口癖《くちぐせ》でしたから……」
封書を持つ手に少し力が込められたように見えた。
手紙というのは、今は亡《な》きフランツ司祭が遺《のこ》したものなのかもしれない。
「ただ、私も初めてこの地下室に入りましたが、あれほどの量があるとは思いませんでした。もしも全部読む気でしたら、宿を取りなおしたほうがよろしいのでは?」
ロレンスはそう言われて、エルサを騙《だま》すために完全に旅装を調《ととの》えていたことを思い出した。
当然、宿も精算してしまっていた。
「ですが、その間に人を呼ばれるかもしれません」
丸っきりの冗談《じょうだん》というわけでもなかったが、どちらにせよ面白《おもしろ》くないといった顔で、エルサは鼻を小さく鳴らした。
「私はこの教会を預かる者です。真実の信仰《しんこう》を抱《いだ》いて生きているつもりです。そのような罠《わな》に嵌《は》めるようなことは致《いた》しません」
と、きつく縛《しば》っている髪《かみ》を掻《か》くように撫《な》でつけ、初対面の時に向けた視線よりもさらにきついものを向けてきて、言った。
「先ほどの礼拝堂でも、私は嘘《うそ》をついたわけではありません」
確かにエルサは黙《だま》っていたのだから嘘はついていない。
ただ、気丈《きじょう》な振《ふ》る舞《ま》いと険《けん》の強さを有しながらも、そんな子供のような主張をするところがどこかの誰《だれ》かさんと重なってしまう。
だからロレンスはおとなしくうなずき、あっさりと認めた。
「私が罠に嵌めたわけですからね。ですが、ああでもしないと私の主張を認めてくれはしないと思いました」
「商人の方は油断ならないと覚えておきます」
ため息混じりにエルサがそう吐《は》き捨てたところに、ホロが分厚い本を抱《かか》えて石段をよろよろと上《のぼ》ってきた。
「ぬう……ぬしよ……」
重さに耐《た》え切れず、今にも再び闇《やみ》の中に落ちそうだったのでロレンスは慌《あわ》てて本に手を添《そ》え、ホロの腕《うで》を掴《つか》む。
動物の革《かわ》を使い、四|隅《すみ》を鉄で補強した立派な本だ。
「ふう。こんなもの持ってうろうろなどできぬ。ここで読んでもいいかや」
「構いませんが、蝋燭《ろうそく》は消しておいてください。この教会は裕福《ゆうふく》ではありませんので」
「ふむ」
と、ホロがロレンスに視線を向けてくる。
村人に敬われず、礼拝も行っていなければ寄付金収入もないだろう。
嫌味《いやみ》や意地悪というよりも、偽《いつわ》らざる本音だと簡単に想像できる。
ロレンスは財布《さいふ》の口紐《くちひも》を解く。迷惑《めいわく》料と、先ほどの懺悔《ざんげ》も一応聞いてもらったのだからその礼だ。
「商人が天の御国《みくに》へ昇《のぼ》りたければ、背負っている金袋《かねぶくろ》を減らすことだとお聞きしましたので」
「……」
真っ白い銀貨を三枚。
部屋がいっぱいになるくらいの蝋燭が買えるはずだ。
「神のご加護がありますように」
エルサは銀貨を受け取り、すぐに身を翻《ひるがえ》して歩き出す。
受け取ってくれたということは、それほど汚《よご》れた金だと思われなかったと解釈《かいしゃく》していいだろう。
「で、どうだ。自分で読めそうか?」
「うむ。その点は運がよい。日頃《ひごろ》の行いじゃな」
教会でその冗談《じょうだん》は秀逸《しゅういつ》すぎる。
「日頃の行いの良し悪しで幸運を授《さず》けてくれるのはどこの神様だと思う?」
「それを知りたければ、わっちに供え物でもしてみることじゃな」
壁《かべ》に立てかけてある聖母の像を振《ふ》り返れば、きっと苦笑いしていたろうと思ったのだった。
宿に戻《もど》り、出ていったと思ったらすぐに帰ってきた客を笑う主人にからかわれながら荷物を置いて、さて、と考える。
エルサの口を割らせてフランツ司祭の残した本を引きずり出した。ここまではいい。
ホロの耳と尻尾《しっぽ》を晒《さら》したとはいえ、エンベルクから目をつけられている以上、エルサはその事実をどうしようもない。
考えられる可能性としては、その事実を村人たちに公表し、村に災難をもたらそうとする悪の手先だと言って討《う》ち取ろうとすることがあるかもしれない。
しかし、そうすることでエルサになんの益があるかと問えば、自《おの》ずと結論は出る。
それに、エルサはホロを見て一度は気絶したものの、目を覚まして以降は怯《おび》えるふうでもなければ、忌《い》まわしいと思っているようにも見えない。
どちらかといえば嫌《きら》われているのはロレンスのほうだろう。
そうなれば、次に問題になりうるのはエルサの周りの人間たち。村長であるセム、それにエヴァン。彼らにホロの正体を知られた時、どうなるかがわからない。
地下室の中には相当な量の本がありそうな気がした。全《すべ》てに目を通すとなればかなりの時間が必要になるだろう。
できればホロの気がすむまで調べてもらいたいし、その間の安全を確保するのは自分の役目だと思っている。
ホロはロレンスのことを疑り深いと言ったが、これでも足りないくらいだと思っている。
ただ、自分から動いてどうこうすれば、藪《やぶ》をつついて蛇《ヘビ》が出ないとも限らない。
それでも言い訳くらいは考えておこうと思いながら再び教会に戻《もど》った。
こっそり村人に密告して手ぐすね引いて待っていた、という様子もなく、二階の寝室《しんしつ》同様に質素な居間で、エルサはその体には大きすぎる机について、手紙を読んでいた。
教会の扉《とびら》をノックしてもなんの反応もなかったので勝手に入ったのだが、それは居間に入っても大して変わらなかった。
ちらりとロレンスに視線を向けるだけで、言葉もかけてこない。
このまま無言で通り抜《ぬ》けて教会の奥に行くのもはばかられたので、少し冗談《じょうだん》まじりに声をかけた。
「見張っていなくていいんですか。本を盗《ぬす》まれてしまうかもしれませんよ」
「もしもそのつもりなら私を縛《しば》り上げない理由がありません」
ぴしゃりと正解を叩《たた》きつけられる。
手ごわい娘《むすめ》はホロ以外にもいるらしい。
「それに、もしもあなたがエンベルクの人間なら、今頃《いまごろ》早馬《はやうま》に乗ってエンベルクへの道の上でしょう」
「それはわかりません。エルサさんがあの地下室に火を放たないとも限りませんからね。エンベルクとの往復の間に灰にされたら、証拠《しょうこ》がありません」
軽口とも嫌味《いやみ》の応酬《おうしゅう》とも取れるやり取り。
エルサはため息をついて、ロレンスのほうを振《ふ》り向いた。
「この村に災いをもたらす気がなければ、私はあなた方について騒《さわ》ぎ立てる気は毛頭ありません。確かに、あなたがお連れの方はこの教会の中にいてはならない存在です。ですが……」
そこまで言って口をつぐみ、答えの出ない問題は見たくないとばかりに目を閉じた。
「私たちほ本当に北の地のことを調べたいだけです。疑うのも、確かに、もっともなことだとは思います」
「いえ」
エルサは思いのほかきっぱりと言い切った。
そして、言い切ってから、言葉を用意していないことに気がついたらしい。
しばし口をつぐみ、なにかを言いかけてはやめる。
ようやく言葉が出てきたのは、大きなため息で喉《のど》に詰《つ》まったものを吐《は》き出してからだ。
「いえ……疑っているのかと問われれば……肯定《こうてい》します。できることなら誰《だれ》かに相談したいところです。ですが……問題はもっと大きな……」
「私の連れが、本物であるか、とか?」
エルサは、うっかり針を飲んでしまったとばかりに顔を強張《こわば》らせた。
「それも、あります……」
エルサの視線が下がり、もはやエルサが気丈《きじょう》な娘であるということを示すのは、綺麗《きれい》に伸《の》びた背筋だけとなっていた。
続いて言葉は出てこない。
ロレンスから訊《たず》ねた。
「他《ほか》には?」
しかし、返事はない。
ロレンスも交渉《こうしょう》事を生業《なりわい》とする商人だ。
相手が手を引っ込めた時に、その手を追いかけるか、それとも再び出てくるのを待つべきかの判断くらいすぐにつく。
これは、間違《まちが》いなく前者だ。
「私は懺悔《ざんげ》を聞くことはできませんが、相談くらいならば多少はのることができます。ただし」
エルサの窺《うかが》うような目が、岩穴の奥から向けられた。
「真摯《しんし》に話を聞けるのは金儲《かねもう》け以外についてですが」
ロレンスがそう言って笑うと、エルサもほんの少しだが笑ったような気がした。
「いえ、確かに、私が抱《いだ》く疑問は、あなたのような方に問うのがいいのかもしれません。聞いて、いただけますか」
頼《たの》み事をする時に、卑屈《ひくつ》にならず、高貴さを保ったまま、なおかつ威圧《いあつ》的にならないでいられることはとても難しい。
エルサの頼み方はまさしくそれ。
聖職者のそれだった。
「満足のいく返答をできるかは、保証しかねます」
こくりとエルサはうなずき、ゆっくりと、確かめるように一語一語口から紡《つむ》ぎ始めた。
「もしも……、もしもあの地下室に集められた話が嘘《うそ》ではないのだとすれば……」
「すれば?」
「私たちが信じる神は嘘なのでしょうか」
「っ……」
とてつもなく深刻でいて、それでいて、どこか簡単に思える質問。
教会の神は全知全能で、唯一《ゆいいつ》の神である。
それらと異教の神々の話は相容《あいい》れない。
「父は、いえ、フランツ司祭は、北の地のたくさんの異教の神々の話を集めていました。異端《いたん》の嫌疑《けんぎ》をかけられたことも一度や二度ではなかったといいます。それでも、司祭は日々の祈《いの》りを決して欠かさない、立派な聖職者だったんです。ですが、あなたの連れの方がもしも本当に異教の神であるのなら、私たちの神は嘘だということになる。そして、なのに司祭は死の床《とこ》につくまで決して神を疑わなかった」
だとすればこの悲壮《ひそう》とも思える悩《なや》みはわからないでもない。
敬愛すべき養父は多くを語ってくれなかったのだろう。
それが、エルサには関係のないことと思ってそうしたのか、自分で考えさせようとしたのかはわからない。
ただ、その問いは相談する相手のいないエルサにはとても重い荷物だったに違《ちが》いない。
どれほど重い荷物であっても、きちんと背中の上に乗っかっていれば意外に背負えるものとはいえ、そんな荷物は少し崩《くず》れただけで一斉《いっせい》に背中から転げ落ちる。
一度口を開いてしまったエルサは、自分の言葉に急《せ》き立てられるように矢継《やつ》ぎ早《ばや》に口を開いた。
「私の信仰《しんこう》心が足りないからなのでしょうか。私にはわかりません。聖水と聖典を持ってあなた方を責め立てる勇気が私にはありません。それがいいことなのか悪いことなのか、いえ、それをなんと言えばいいのかすら――」
「私の連れは」
と、エルサが自分の言葉に追い詰《つ》められる前に遮《さえぎ》った。
「その真の姿は巨大な狼《オオカミ》ですが、神と呼ばれて、崇《あが》められることを嫌《きら》います」
救いを探す迷い人のように、エルサは静かになってロレンスの話を聞く。
「私はこのとおり、下賤《げせん》な行商人なので神の教えについて詳《くわ》しくありません。ですから、なにが正しくてなにが間違っているか、などの判断はとてもできません」
ホロが絶対に聞き耳を立てているだろうなと思いつつ、ロレンスは言った。
「ただし、フランツ司祭は間違っていないと思います」
「それはっ……それは、なぜですか」
軽くうなずき、わずかの間を設けて言葉を組み上げる。
まったく的外れの可能性だって当然あるし、むしろそちらのほうが高いかもしれない。
けれども、ロレンスは妙《みょう》な確信を持ってフランツ司祭の心境が理解できると思った。
そして、それを口にしようとしたその時、教会の扉《とびら》をノックする音によって遮《さえぎ》られた。
「……セム村長です。多分、あなた方のことだと思います」
エンベルクの人間に踏《ふ》み込まれてもいいためなのか、扉の叩《たた》き方で誰《だれ》が来たかわかるらしい。
目尻《めじり》に滲《にじ》みかけていた涙《なみだ》を拭《ぬぐ》いながらエルサは言って、椅子《いす》から立ち上がるといったん教会の奥のほうに目をやった。
「私を信用していただけなければ、廊下《ろうか》沿いの竃《かまど》のあるところから外に出られます。信用していただけるなら――」
「信用します。けれども、セムさんは信用できるかわからない」
エルサは首を横にも縦《たて》にも動かさず、「では、奥にいてください」と言った。
「あなた方から、よその国や町の教会のありようを聞いている、と言うことにします。これは、嘘《うそ》というよりも……」
「ええ、わかりました。私の経験談でよければお話ししますよ」
ロレンスは笑顔《えがお》で応《こた》え、言われたとおりにおとなしく奥に引っ込もうとする頃《ころ》には、気丈《きじょう》なエルサがそこにいた。
胸中で今一度、エルサは裏切らないだろうか、と問いかけたが、答えは裏切らないだった。
神は信用できないが、神を信じる者たちは信用できる。
そんな笑い話があってもいいかもしれない。
ロレンスがそんなことを思いながら簿暗《うすぐら》い廊下《ろうか》を歩いていくと、ぼんやりとした蝋燭《ろうそく》の明かりが曲がり角から漏《も》れ出ている。
エルサとのやり取りに聞き耳を立てていなかったわけがないので、さてどんな顔をしているかと少し覚悟《かくご》を決めて角を曲がった。
すると、胡坐《あぐら》をかいてその上に本を置いてページをめくっていたホロは、少し不機嫌《ふきげん》そうな顔を上げた。
「そんなにわっちの意地が悪いとでも言うのかや」
「……。言いがかりだ」
肩をすくめて答えると、ホロは小さく鼻を鳴らす。
「足音から警戒《けいかい》しているのが丸わかりじゃ。たわけが」
どきりとするよりも、なるほど、と感心してしまう。
「商人は足元を見ることはあっても、足音を聞くことはないからな」
「つまらぬ」
ばっさりと切り捨てられた。
「で、ぬしはずいぶん親身じゃったな?」
予想していたような、していなかったような切り口。
ロレンスはすぐに返事をせず、ホロの尻尾《しっぽ》を踏《ふ》んづけてしまわないように注意しながら右|隣《どなり》に腰掛《こしか》け、置かれていた分厚い本を手に取った。
「商人はいつだって取引相手に対して親身だからな。そんなことより、村長との会話、聞き取れるか」
相談は信頼《しんらい》と信用の取引だ。
しかし、ホロは強引にはぐらかされたと顔に大書《たいしょ》し、手元の本に視線を戻《もど》してしまう。
言いたいことがあるならはっきり言えと、教会都市リュビンハイゲンで言ったのは誰《だれ》だったか。
ロレンスとしてはそこのところを指摘《してき》したかったが、そんなことをすればどんな怒《おこ》り方をするかわからない。
それでも、ホロのほうも徹頭徹尾《てっとうてつび》わがままで気難しい女の子というわけではなかった。
引っ込みがつかなくなる前に、譲歩《じょうほ》してきた。
「概《おおむ》ね言っていたとおりの対応じゃ。セムとやらのほうも様子を見に来ただけじゃろうな……今、ちょうど帰りんす」
「村長が理解を示してくれれば問題は簡単なんだがな……」
「ぬしでも説得できぬかや」
一瞬《いっしゅん》からかっているのかと思ってしまい、目ざとくそれに気がついたホロに睨《にら》まれる。
「俺のことを買いかぶりすぎだ」
「わっちに頼《たよ》られたいのじゃろう?」
真顔で言われたら、苦笑いをするほかない。
「しかし、問題はいつだって時間だ。もたもたしていたら雪が降ってくるかもしれないからな」
「それがなにか困るのかや?」
これは本当に質問しているようだったので、真面目《まじめ》に答えてやった。
「雪で足止めされるとして、小さい村と大きな町、どっちがいい?」
「なるほどの。じゃが、文字どおり本が山とあるからの。読みきれるかわからぬ」
「お前に関係するような話だけ見つければいいんだろう? ざっと目を通すだけなら、二人でかかればなんとかなるだろう」
ホロは「ふむ」とうなずき、それから少しだけ機嫌《きげん》を直したように笑った。
「どうした?」
しかし、そう訊《たず》ねた瞬間に、笑《え》みが消えた。
「ここでそう聞くのかや」
そして、呆《あき》れるようにため息をついた。
「ぬしは本当に、ぬけておるというか……もうよい」
しっしっと手を振《ふ》るホロに鼻白《はなじろ》んでしまうが、少し自分の発言とホロの言動を振《ふ》り返ってみる。
もしかして、と思い至る。
二人でというところが嬉《うれ》しかったのだろうか。
「今更《いまさら》口に出されてもわっちゃあ怒《おこ》りんす」
釘《くぎ》を刺《さ》され、ロレンスはすんでのところで口を閉じる。
ホロはそれから数枚ページをめくり、小さくため息をついた。
ゆっくりと寄りかかってきたのは、そのすぐあとのことだ。
「独《ひと》りは飽《あ》いた、と言ったじゃろうが」
責めるような口調。
けれども、それは少しむずがゆい。
「悪かったよ」
「ふん」
ホロは鼻を鳴らして、それからとんとんと自分で自分の左|肩《かた》を叩《たた》いた。
それを見て思わず笑ってしまう。
ホロが「できないのか?」とばかりの視線を向けてくるので、ロレンスはおとなしくその肩に手を回した。
満足げなため息と、ぱたりと床《ゆか》を払《はら》う尻尾《しっぽ》。
自分がこんなことを誰《だれ》かにして、こんなにも静かな時間を過ごせるなんて半年前には想像もしていなかった。
独《ひと》りでいるのには飽《あ》きた。
それには心の底から同意する。
そう思った直後だった。
ざり、と石を踏《ふ》む足音が聞こえ、慌《あわ》ててホロの肩から手を離《はな》そうとした瞬間《しゅんかん》、どこにそんな力があるのかと驚《おどろ》くほどにホロが手を掴《つか》んできた。
「村長は一応帰られましたが、その、先ほどの……」
と、エルサが角から姿を現した時には、なんとかホロの肩から手を離し、いつもの商売用の顔を作れていたが、ホロは相変わらずロレンスに寄りかかったままだ。
しかも、笑いをこらえているのだろうが、本当に小さく震《ふる》えながら、一見すると眠《ねむ》っているかのようにロレンスの肩に顔をくっつけている。
エルサはそれを見て開きかけていた口を閉じ、なにか得心がいったように小さくうなずいた。
「では、のちほど」
相変わらず愛想のかけらもないような表情ではあったが、小さくひそめられた言葉には気遣《きづか》いの色が窺《うかが》えた。
ざり、ざり、と壁《かべ》から崩《くず》れ落ちた石を踏《ふ》む小さな足音が角の向こうに消えていき、ホロは体を起こして声なく大笑いだ。
「お前なあ」
批難の声を向けてもどこ吹《ふ》く風だ。
散々笑ってから目尻《めじり》を軽く拭《ぬぐ》って、大きく何度か深呼吸をしてから、底意地悪い笑《え》みを浮かべて口を開く。
「わっちの肩《かた》を抱《だ》いておるところを見られるのがそんなに恥《は》ずかしいかや」
どのように答えたって丸め込まれるのが目に見えている。
あそこでほいほいと策に乗ってしまった時点で負けていたのだから。
「じゃがな」
ホロはそれ以上の追撃《ついげき》を中止したのか、意地の悪い笑みからやれやれといった顔に変え、もう一度ロレンスの肩に寄りかかってきた。
「見せつけてやろうと思ったのは事実じゃ」
引きそうだった体をなんとか押しとどめて、ロレンスはホロを受け止める。
「ぬしを取られたら敵《かな》わぬからの」
男として、こんなことを言われれば嬉《うれ》しくないわけがない。
けれども、そんな発言をするのは賢狼《けんろう》を自称《じしょう》するホロだ。
ため息まじりに、言ってやった。
「遊び道具を取られたら敵わない、だろうが」
途端《とたん》に、にまーと笑ったホロはこう答えた。
「そう思うなら、わっちと遊んでくりゃれ?」
ロレンスは、ため息しか出なかった。
蝋燭《ろうそく》が燭台《しょくだい》の上で原形をなくし、目を通し終わった本の山が寄りかかるのにちょうど良い高さになった頃《ころ》、教会にまた来訪者があったらしい。
ホロがひょいと顔を上げて、耳を立てていた。
「誰《だれ》だ?」
「んふふふ」
まともに答えず楽しそうに笑うので、おそらくはエヴァンだろう。
なぜ笑うのかは、考えなくてもわかる。
「しかし、もうそんな時間か……。いつの間にか、完全に真っ暗だな」
背筋を伸《の》ばして両|腕《うで》を上げると、背骨が小気味良い音を立てる。
ホロのためというよりも、意外に面白《おもしろ》い話が多く、ついつい真剣《しんけん》になって読んでしまっていた。
「腹も減りんす」
「そうだな。一度|休憩《きゅうけい》にするか」
強張《こわば》った体をほぐしながら、燭台《しょくだい》を手に取った。
「一応エヴァンに正体は隠《かく》しておこう。秘密を知る者は少ないほうがいい」
「ふむ。あの小娘《こむすめ》が喋《しゃべ》らぬかはわからぬがの」
「まあ……大丈夫《だいじょうぶ》だろ」
無闇《むやみ》に秘密を漏《も》らすような娘ではないとは思う。エヴァンが言うには一日にしているくしゃみの回数までエヴァンに喋っているそうだが、事実、ロレンスたちが初めて教会を訪《おとず》れた話についてはしていないと言っていた。
しかし、ホロは「そうかや?」とくる。
「あの小娘は妙《みょう》なことで悩《なや》んでおったな。その結論|如何《いかん》によってはどう出るかわからぬ」
「……神について、か。確かに、そう言われればそうかもしれない」
結局あのあと、エルサに答えを伝えに行くきっかけが掴《つか》めないまま本に没頭《ぼっとう》してしまった。
ただ、今思えばそれで結果的には良かったのかもしれない、とは思う。
「ちなみに、ぬしはなんと言おうとしておったんじゃ?」
「まったくの的外れかもしれないぞ?」
「ぬしに完全なものなど期待しておらぬ」
ひどい言われようだが、はっきりそう言われてしまえば答えやすくもなるというものだ。
「俺が思うに、フランツ司祭は、神がいることを確信するために、異教の神々の話を集めていたんじゃないのか、と思う」
「ほう」
「毎日毎日、祈《いの》っても祈っても姿すら見せてくれなければ、本当にいるのかどうか疑いたくなるだろう?」
疑われる立場だったホロは、そのことを思い出したらしく少しだけ不機嫌《ふきげん》そうにうなずいた。
「ただ、そこでふと周りを見|渡《わた》してみれば、教会以外の神についての信仰《しんこう》は山ほどある。あっちの神はいるんだろうか。それじゃあこっちは? と思うのは自然なことじゃないのか。そして、もしも本当に実在する神を崇《あが》めているとわかれば、それならば自分の崇める神もいるはずだ、となる」
ただ、この考えは教会の教えに当然反する。
ロレンスと出会った当初に雨宿りをした教会で、信徒たちと親しげに話ができるくらいには教会への知識があるホロも当然そこに気がついたらしい。
「教会の神は実に優秀《ゆうしゅう》な存在じゃろう? 他《ほか》に神などおらぬ、この世は教会の神が造り、それを人が借りておるだけじゃと」
「ああ。だからな、俺は本当にここが修道院だったんじゃないかと思った」
ますます不機嫌《ふきげん》そうな顔になったのは、ロレンスの言葉がうまく頭の中でつながらなかったからだろう。
「お前、修道院と教会の違《ちが》いはなんだかわかるか?」
知ったかぶりをするほど、ホロの器は小さくない。
すぐに首を横に振《ふ》る。
「修道院は、神に祈《いの》る場所。教会は、神の教えを広める場所。目的がまったく違うんだよ。修道院が辺鄙《へんぴ》な土地にあるのも、誰《だれ》かを正しい教えに導こうとかまったく考えていないからだし、一生修道院の中で暮らすのも、外に出る必要がないからだ」
「ふむ」
「だとすれば、修道院の中で、修道士がふと神の存在について疑問を持ったら、真っ先にどうすると思う?」
ホロの視線が軽く宙を泳ぐ。
頭の中の魚は、知恵と知識の海の中をそれ以上に自在に泳げるのだろう。
「崇《あが》める相手が本当にいるかどうか確かめる、じゃな。なるほど。だとすれば、ますます小娘《こむすめ》がどちらに転ぶかでわっちらの扱《あつか》いも変わるじゃろうな」
「昼間、このことを伝えなかったのは良かった。エルサは修道女じゃない。聖職者だ」
ホロは軽くうなずき、ちらりと積み上げられた本の山を見る。
地下室の中にある本の半分も見れていない。
もちろん全《すべ》てに目を通す必要はないが、未《いま》だホロが知りたがるような話にはめぐりあえていない。
どこにどの地方のどんな神の話がある、という目録でもあれば助かるのだが、ページをめくって見なければわからなかった。
「まあ、可能な限り早く目を通すに越《こ》したことはない。エンベルクのこともあるしな」
「ふむ。じゃが」
と、ホロは視線をエルサたちのいる居間のほうへと続く廊下《ろうか》に向けた。
「ひとまず、飯じゃ」
遅《おく》れて聞こえてきた足音は、夕ご飯の誘《さそ》いに来たエヴァンのものだった。
「今日もパンを食べられることを神に感謝します」
というお決まりの文句で始まった食事は、エルサ曰《いわ》く多すぎるロレンスの寄付金で賄《まかな》われたものらしく、そこそこに豪華《ごうか》だった。
ただ、教会でいう豪華とは、皆《みな》が満足いくだけのパンがあり、なにか副菜が添《そ》えられ、少しのぶどう酒があることをさす。
テーブルの上にはライ麦の黒パンの他《ほか》にエヴァンが川で捕《つか》まえてきた魚と、茹《ゆ》でた卵があった。ロレンスの経験からいっても、さして裕福《ゆうふく》でもなければ規則が緩《ゆる》いわけでもない教会では豪華な部類だろう。
もちろん、ホロにとっては肉がない時点で不満たらたらだったろうが、幸いなことにホロの肴《さかな》は他にもあった。
「ほら、こぼさないで。パンもちぎってから食べる」
注意するエルサと、そのたびに首をすくめるエヴァン。つい先ほどは、卵の殻《から》がうまくむけずに苦戦していたエヴァンを見かねて手伝ったりもしていた。
ホロがそれを見て少し残念そうにしていたのは、その時すでに卵を食べてしまっていたからだろう。危ないところだった。
「ああ、もうわかったよ。そんなことより、ロレンスさん、話の続きは」
本当にうるさがっているというより、ロレンスたちの前で格好がつかないことを嫌《いや》がっている感じだ。
ホロは上手にものを食べながら隠《かく》しているが、確実に口が笑っている。
エルサだけが生真面目《きまじめ》にエヴァンのだらしなさにため息をついていた。
「どこまで話したかな」
「船が港を出て、波の下が岩だらけの危険な岬《みさき》を抜《ぬ》けてから」
「ああ、そこか。その港はとにかく沖《おき》に出るまでが危なかった。乗っている商人連中は全員が船蔵《ふなぐら》で祈《いの》ってた」
昔、船に荷を積んで行商をした時の話をしていたのだが、海を知らないエヴァンは興味|津々《しんしん》だ。
「それで、無事に岬を抜けたというから船蔵から甲板《かんぱん》に出てみると、そこらじゅう船だらけなんだよ」
「海なのに?」
「海に船があるのは自然だろう」
ロレンスが思わず笑うと、エルサはやれやれとため息をつく。
この中で一人海を見たことがないというエヴァンはちょっと立場が弱い。
ただ、エヴァンの言いたいことはわかるのでそう言ってやった。
「すごい眺《なか》めだったな。海にびっしりと小船が浮かんで、どこも魚を山ほど獲《と》っててな」
「魚……いなくならないのか?」
ホロも少し疑わしげな目を向けてくる。嘘《うそ》ではないにしても、大袈裟《おおげさ》に言いすぎだろうと言いたげだ。
「その季節の海を見た人は皆《みな》こう言うんだよ。海の中を黒い川が流れていると」
先を削《けず》った棒を海に突《つ》き立てれば必ず三匹は突き刺《さ》さるといわれるほどの鰊《ニシン》が泳ぐ様は壮観《そうかん》としか言いようがない。
そのすごさを理解してもらうのも、その話が本当であるのも実際に見てもらうほかないのが残念だ。
「ヘー……あんまり想像できないけど、やっぱり外の世界は色々あるんだな」
「しかし、その船の中で一番|驚《おどろ》いたのは、食べ物だ」
「ほう?」
これにはホロが一番よく興味を示す。
「色々な地方の商人が乗り合わせるからな。たとえば、塩の湖があるエブゴドという地方から来た商人が食べてたんだが、パンが物凄《ものすご》く塩辛《しおから》いんだよ」
全員の視線がテーブル中央のパンに向けられる。
「甘くするならわかるが、それに塩を振《ふ》りかけるようなものだ。俺の舌にはちょっと合わなかった」
「塩かあ……。パンに塩をかけるなんて、金持ちだな」
エヴァンがしみじみと言う。内陸部のテレオの村だと、近くで岩塩が採れなければ塩は高級品だろう。
「エブゴドには塩の湖がある。村の真ん中を塩水の川が流れ、見|渡《わた》す限りの畑の土が全《すべ》て塩になっていると思えばいい。塩があり余っているからそういうパンがうまいと感じるらしい」
「けど、塩っからいパンだなんて、なあ」
エヴァンがまずそうな顔をしてエルサに話を振《ふ》ると、エルサも小さくうなずく。
「他《ほか》にも、鍋《なべ》の底で焼くまっ平らなパンとかな」
パンは膨《ふく》らませてこそ価値がある。
パン窯《がま》でパンを焼くことに慣れていると、そう思いがちだ。
「はは……まさかあ」
予想どおりの反応をしてくれると、話しているほうとしても楽しい。
「しかし、燕麦《えんばく》なんかでパンを作るとべたーっと平べったいのができるだろう」
「まあ、確かに……」
「種無しパンとかも食べないか?」
パンの妖精《ようせい》の恵《めぐ》みを受けず、ただ粉を練っただけのものをすぐに焼いたパンのこと。
食べたことがないわけでもないが、うまいという記憶《きおく》もないのだろう。
「まあ、燕麦パンもお世辞にもうまいとは言えないが、鍋の底で作っていたやつはうまかったよ。煮込《にこ》んだ豆をのせたりしてな」
「へー……」
というエヴァンの感心の声は、遠くの世界に思いをはせる目と共に。
対するエルサは、ちぎったライ麦パンと想像の中のそれとを比べるようにしている。
そんな二人の様子がなんとも面白《おもしろ》かった。
「まあ、世の中はとてもとても広く、色々なことがあるということです」
最後にそう言って締《し》めたのは、隣《となり》でホロが食事を終え、そわそわしていたからだ。
「今日はわざわざご馳走《ちそう》を用意していただいてありがとうございました」
「いえ、たくさん寄付をしていただきましたから。これくらいは当然です」
愛想《あいそ》笑いの一つでも添《そ》えながら言えばいいのだが、と思うほどそっけない。
ただ、その分本当に無理をせずご馳走してくれたのだろうな、という安心感はある。
「それで、このあとのことなのですが」
「夜も本をお読みになりたければ構いません。北を目指されているということなので、雪に降られてはお困りでしょう?」
話が早くて助かる。
「なら、ロレンスさん、あとでまた外のこと聞かせてくれよ」
「お急ぎだと言っているでしょう? それに、今日は文字の練習です」
エヴァンは首をすくめ、苦い顔をしてロレンスに助けを求める。
一発で二人がどんな関係なのかわかりそうな様子だ。
「折を見て、な。それじゃあ、もうしばし教会にいさせてもらいます」
「ええ、どうぞ」
ロレンスとホロの二人は椅子《いす》から立ち、改めて晩餐《ばんさん》の礼を言って居間をあとにした。
エルサがさりげなくホロに視線を向けていたことに気がついたが、ホロはそ知らぬふりだ。
ただ、自分に向けられた視線は無視しなかった。
「あ、そうだ」
と、居間から出る際に何気なくエルサのほうを振《ふ》り向いた。
「昼間の質問のことですが」
「やっぱり自分で考えてみます。訊《たず》ねる前に考えよ、がフランツ司祭の口癖《くちぐせ》でしたから」
昼間、自分の言葉に追い詰《つ》められそうだった弱々しいものではなく、独《ひと》りで教会を切り盛りしていこうとする気丈《きじょう》なエルサの顔つきだった。
「わかりました。考えに迷ったら、一つの意見として、またお訊ねください」
「お願いします」
話が見えないエヴァンはロレンスとエルサを交互《こうご》に見比べていたが、エルサに声をかけられてすぐにそのことは忘れたようだ。
ぶつぶつと文句を言いつつも、エルサとのやり取りをどこか楽しそうにしながら後片づけを手伝い始めた。
エヴァンはエルサにあれこれ言われ、注意され、首をすくめたりうるさそうにしながらも、エルサに手を貸し、声をかけ、時折二人で小さく笑っている。
独りで行商をしていた時は、あえて気づかないようにしていた類《たぐい》のやり取り。
いや、心のどこかで馬鹿《ばか》にしていた感さえあった。
燭台《しょくだい》を持ち、ゆらゆらと揺《ゆ》れる明かりの中を歩いているホロの背中が廊下《ろうか》の奥に見える。
やがてホロは角を曲がって、その姿は視界から消えた。
簿暗《うすぐら》い道で、蝋燭《ろうそく》を持つことすら贅沢《ぜいたく》だと戒《いまし》めて、道に落ちている金貨を拾う毎日。
馬が話相手になってくれないかとまで思っていたのに、それでも道に落ちている金貨から顔を上げなかったのが不思議なくらいだ。
廊下の奥に見える明かりを頼《たよ》りに、薄暗いそこをゆっくりと歩く。
角を曲がれば、ホロが本のページをめくっていた。
ロレンスも腰《こし》を下ろし、先ほどの続きを開く。
すると、ホロが不意に声をかけてきた。
「どうしたかや」
「ん?」
「財布《さいふ》に穴でも開いておったかや。そんな顔じゃ」
笑うホロにそう言われて何気なく頬《ほお》を撫《な》でてみるが、商談中でもなければ自分の表情などよくわからない。
「そんな顔をしているか」
「うむ」
「そうか。いや……そうか」
ホロが肩を揺《ゆ》らして笑い、本を置いた。
「ぶどう酒が変なところに入ったかや」
なんとなく頭に霞《かすみ》がかかっているような気がして、そうかもしれない、と思った。
いや、自分が妙《みょう》なところにすとんと落ち込んでしまった原因はわかっている。
ただ、どこに落ちてしまったのかがわからない。
だから、何気なく口にしてみた。
「あの二人、ずいぶん仲よかったな」
本当に何気なく呟《つぶや》いたつもりだった。
しかし、ロレンスはそう言った瞬間《しゅんかん》のホロの顔を、しばらく忘れないだろうなと思った。
ホロの目が、文字どおり点になっていたからだ。
「ど、どうした」
今度はロレンスのほうが驚《おどろ》いてそう聞いてしまう。
ただ、ホロは目を点にして声にならぬ声をうめき声のように漏《も》らすだけで、ようやく我に返ったと思ったら、見たこともないほど困ったような顔をしてあらぬ方向を向いた。
「……そんなに変なこと言ったか」
ホロは返事をせず、落ち着かなげにざりざりざりざりと本の端《はし》を指で撫《な》でている。
その横顔は、呆《あき》れているとか怒《おこ》っているとか明確に言い表せないような、見ているほうも困ってしまうような顔だった。
「あ、あのな、ぬしよ」
しばらくして、なにかを諦《あきら》めたようにホロがロレンスのほうをちらりと見る。
一体どうしたのか、と改めて問えば、そのまま倒《たお》れてしまうのではないかといった困り果て具合だ。
しかも、続けた言葉は意味がよくわからない。
「わっちも大概《たいがい》その……むう……己《おのれ》の強いところと弱いところくらい把握《はあく》しておる」
「あ、ああ」
「じゃがな……うー……自ら言うのもおかしな話じゃが……歳《とし》を経れば大抵《たいてい》のことは受け流せる。もちろん流せぬ場所もある。それはぬしも知っておるじゃろう」
苦渋《くじゅう》の決断を迫《せま》られているように話すホロに、ロレンスは少し身を引きながらうなずく。
本を置いて、胡坐《あぐら》をかいて、細い足首を掴《つか》んで首をすくめ、まぶしすぎてこちらが見れないといった感じのホロの様子は心底困っているように見える。
むしろ今にも泣きそうな様子にロレンスのほうが困ってしまうが、ホロはついにこう言った。
「あのな、ぬしよ」
ロレンスはうなずく。
「そんな、羨《うらや》ましそうに、言わんで欲しい」
人ごみの中でくしゃみをしたら、道を歩いていた人が全《すべ》て消えてしまったくらいに、ぽかんとした。
「わっちも……いや、わかっておる。わかっておるがな、じゃからあえて言いたくないが……わっちらも、傍《はた》から見たら相当たわけておると思うぞ?」
たわけている、という言葉の意味がずっしりと耳の奥に残る。
大きな商談を終えたあとに、実は計算|貨幣《かへい》を取り違《ちが》えていたんじゃないかというような怖《こわ》い感覚に似ている。
考えないとまずい。けれども考えるのが怖い。
ホロは無理やり咳払《せきばら》いをして、がりがりがりがりと石の床《ゆか》を爪《つめ》で削《けず》る。
「なんでこんな、こ、こっぱずかしいのかわっちにもわからぬ。いや、むしろわっちゃあ怒《おこ》るべきはずなんじゃ……な、仲がよさそう、など、そんな、羨ましげに……ならわっちとは――」
「いや」
強引に遮《さえぎ》ると、ホロは子供が大人の理不尽《りふじん》さに怒るような顔をして、ロレンスのことを睨《にら》みつける。
「いや、わかった、ような……気がする」
ロレンスの語尾がかすれるごとに、ホロの不機嫌《ふきげん》さが濃《こ》くなっていく。
「いや、わかった。わかった。わかっていたんだ。ただ、きちんと言葉にしたくなかった」
ホロは疑うというよりも、裏切りは見|逃《のが》さないとばかりの視線でロレンスを睨んだまま、ゆっくりと片膝《かたひざ》を立てる。
へたな答えを出せば、飛び掛《か》かってくるかもしれない。
それは、普通《ふつう》なら口にしたくないようなことを口にするのにいい後押しだった、と言えなくもない。
「きっと、俺は羨ましいと思っていた。だが、それは二人の仲そのものじゃない」
ホロは、ぎゅっと自分の立てた膝を抱《だ》く。
「やっぱり、ここを探し当てるのは諦《あきら》めさせるべきだった」
そして、きょとんとする。
「あの二人はきっとこの先もこの教会で暮らすだろう。エルサは気丈《きじょう》さと賢《かしこ》さでどうやら危機を乗り越《こ》え、エヴァンは、これは気の毒だが、きっと、商人になれない。だが、俺たちはどうだ?」
小さく声が聞こえたような気がしたのは、ホロが息を飲んだ音かもしれない。
「俺はクメルスンで一儲《ひともう》けできた。お前は故郷への手がかりを得た。そして、さらなる手がかりをお前はここで得るかもしれず、俺はその手伝いをしている。もちろん」
少し語気を強くして言葉を区切ったのは、ホロが口を挟《はさ》もうとしたからだ。
「もちろん、俺は協力したくてしているんだ。だが……」
これまで考えずにいたことが、ついに目の前に形になってしまった。
ここまで来て言葉にしないのはあまりにも嘘《うそ》だ。
それはホロの手を叩《たた》くことよりも、ホロを信用しないことよりも、きっとホロとの距離《きょり》を開かせるだろう。
上手に回避《かいひ》していた借金も、いつかは返さなければならないのだ。
「だが、お前は、故郷に帰ったらその先、どうするんだ?」
壁《かべ》に映るホロの影《かげ》が大きくなったように見えたのは、ローブの下の尻尾《しっぽ》が膨《ふく》らんだからかもしれない。
ただ、目の前で膝《ひざ》を抱《かか》えるその姿は、一回り縮《ちぢ》んでしまったように思えた。
「わからぬ」
答えた声も、小さかった。
ロレンスはしたくなかった質問をしてしまった。
その質問をすれば、答えが聞きたくなってしまうからだ。
「故郷を見て、それで満足、なわけがないだろう?」
久しぶり、という言葉ではくくれないほどの時間を経ての帰郷なのだ。
その後にどうするのかなど、問わなくてもわかる。
ロレンスはとても後悔《こうかい》した。
この質問をしなければホロとの距離はとても広く開いてしまったかもしれない。
しかし、それでもなお、しなければよかったと思った。
ホロが当然の顔をして、「そこでおさらばじゃな」と言ってくれればまだよかった。
こんなに困られては、ロレンスにはどうしようもない。
「いや、よそう。悪かった。しても仕方のない仮定だってある」
それがまさしくこれだ。
大体、ロレンスの気持ちだって半々だ。
ホロと別れてしまえばしばらくは喪失《そうしつ》感に苦しんでも、すぐに諦《あきら》めがつきそうな気もする。
商売で損をした時も、この世の終わりのように思えたところで数日|経《た》てば懲《こ》りずに金儲《かねもう》けにいそしむのだから。
だが、そのように冷静に考えてしまえることそれ自体がすでに物哀《ものがな》しい時はどうすればいいのだろうか。
わからない。
そして、ホロがポツリと口を開いた。
「わっちゃあ賢狼《けんろう》ホロじゃ」
ぼんやりと、蝋燭《ろうそく》の揺《ゆ》れる火を見ながら呟《つぶや》いた。
「わっちゃあヨイツの賢狼ホロじゃ」
一度立てた膝《ひざ》の上に顎《あご》を置いて、それからおもむろに立ち上がった。
尻尾《しっぽ》は単なる飾《かざ》りのようにだらんとしている。
ホロの目は床《ゆか》に置かれた蝋燭に向けられ、それからロレンスに向けられた。
「わっちゃあヨイツの賢狼ホロ」
なにかのまじないのように呟いて、つっと足を伸《の》ばしてロレンスの横に立ち、すとんと腰《こし》を下ろす。
ロレンスがなにかを言う暇《ひま》もなく、ロレンスの膝の上で横になった。
「文句あるかや」
ホロの普段《ふだん》のふてぶてしさは、誰《だれ》がなんと言おうと神がかっている。
しかし、このふてぶてしさは神なんかではない。
「いや、ない」
これだけ一触即発《いっしょくそくはつ》ともいえる緊張《きんちょう》感に満ち満ちているのに、泣くのも怒《おこ》るのも笑うのも不釣合《ふつりあ》いだ。
蝋燭の炎《ほのお》は音も立てずに燃えている。
ロレンスはなんとなく、膝の上で横になっているホロの肩《かた》に手を置いた。
「しばし寝《ね》る。代わりに本に目を通しておいてくりゃれ?」
横顔は髪《かみ》の毛に隠《かく》れて見えない。
ただ、肩に置いた手の、人差し指を噛《か》まれたというのはわかった。
「わかりましたよ」
子|猫《ネコ》の目にどこまでナイフの切っ先を突《つ》きつけられるかのような度胸|試《だめ》しに似ている。
噛まれた指からは少し血が出ていた。
本を読まないと本気で怒られそうだったので、脇《わき》にのけておいた重い本を手に取った。
ページをめくる音だけが響《ひび》く。
あまりにも強引なはぐらかし方だったが、ホロのみならずロレンスもそれに救われた。
ホロは本当に賢狼だ。
疑いなく、そう思ったのだった。
修道院ならば新しい一日を神に感謝するお祈《いの》りが始まる時間だろうか。
当然、教会が朝の礼拝を行うには早すぎる時間帯。
物音がするとすれば、本のページをめくる音と、ホロの寝息《ねいき》くらいのもの。
あの状況《じょうきょう》からよく眠《ねむ》れるものだと感心するほかないが、寝てくれてほっとしないこともない。
強引に、あまりにも強引に、言うな聞くなとホロははぐらかした。
ただ、ロレンスの質問に答えを返してくれなくても、それだけで十分といえなくもない。
なぜなら、この問題を直視したくなかったのはロレンスだけではなかったのだから。
ホロが自分の中で答えを出しているのにはぐらかしたのならば、ロレンスは怒《おこ》ったかもしれない。それでも、二人とも答えを出していないのであれば、むしろ強引にはぐらかしたのはさすがというべきなのか。
少なくとも、無理にその場で答えを出す必要はなくなった。
旅はまだ続き、ヨイツにはまだたどり着いていない。
借金だって、返済期限が来る前に返すような奴《やつ》はめったにいないのだから。
そんなことを思いながら、ページをめくり終えた本を置き、新しいものを手に取る。
フランツ司祭は相当頭の良かった人物らしく、本の中身は色々な神について系統だってまとめられていて、各々の章の最初の見出しを見るだけでどんな内容かがほぼわかるようになっていた。そのお陰《かげ》でかなり読み飛ばすことができる。これがもしも無秩序《むちつじょ》にただ聞き集めた話を書かれていたらと思うとぞっとする。
ただ、次々と本のページをめくっていくうちに気がついたことがある。
本の中には蛇《ヘビ》や蛙《カエル》や魚といったよく聞く神の話の他《ほか》に、岩や湖や木などの神の話もたくさんあった。雷《かみなり》や雨、太陽や月や星の神もあった。
そんな中、鳥や獣《けもの》の神の話は少なかったのだ。
異教の町クメルスンで、ディアナはヨイツを滅《ほろ》ぼした熊《クマ》の話はいくつか残っているようなことを話していた。それに、ロレンスは実際に教会都市リュビンハイゲンの近くでホロと似たような狼《オオカミ》の化け物が存在することを知った。
そして、なによりディアナ自身が人よりも大きな巨鳥だという。
ならばもっと本の中にさまざまな獣の神が出てきてもよさそうなのに、それがなかった。
たまたま地下室から引っ張り出してきた本がそれらの話を収録していないものなのかとも思っていた。
その矢先、新しくめくった本の最初に挟《はさ》まっていた羊皮紙に書かれていた文言《もんごん》に、ロレンスは目を奪《うば》われた。
「この本にまとめた熊の神の話を、私は特別視したくない」
どの本もただ聞き集めた話をまとめた契約《けいやく》書よりもそっけないものだったというのに、突然《とつぜん》フランツ司祭の肉声が聞こえてきそうな文書に面食らってしまう。
「他《ほか》の本にまとめた神について、時と場所が異なりつつ、同じ神のものと思われる話が出てくることは何度かあった。だが、これほどまでにはっきりと系統だっているのはこの神についてだけかもしれない」
ホロを起こそうかと迷う。
それでも、ロレンスの目は古びた羊皮紙に書かれた、綺麗《きれい》でいて、しかしなにかそこから興奮《こうふん》が感じられるような筆跡《ひっせき》のフランツ司祭の文に目を奪《うば》われていた。
「教皇はこのことをご存じなのだろうか。もしも私の予想が正しければ、我々の神は戦わずして勝利したことになる。それこそが我々の神の万能性の証左《しょうさ》だとしても、私はそれに平静でいられない」
力強くペンの走る音が今にも聞こえてきそうだ。
フランツ司祭は最後にこう締《し》めくくっている。
「私は全《すべ》ての話を特別視したくない。それは私の目を曇《くも》らせることになる。しかし、ここにまとめた月を狩《か》る熊《クマ》の話は北の地の異教徒たちですら気がついていない重要なことなのではないかと思えてしまう。いや、私はこのような文をしたためているのだから、すでにこの本を特別視しているのかもしれない。私はこの本をまとめた時に、神の存在をあまりにも強く感じることができた。できれば、狭《せま》い心の中で我々の神を崇《あが》める者ではなく、広い草原で心地よい風のごとく神を愛する者たちに判断してもらいたい。だからあえて、全ての本の真ん中にこの本を置く」
そして、その羊皮紙をめくれば、これまでの本のように物語が始まっている。
ホロに先に読ませるべきか。それとも、見なかったことにするべきか。
そんな今更《いまさら》な迷いが一瞬《いっしゅん》頭に浮かんでしまうが、これを隠《かく》すことは裏切りに近い。
ホロを起こそう。
そう思っていったん本を閉じた直後、妙《みょう》な音が耳についた。
ぱぱ、ぱらぱら、というような、乾《かわ》いた小さな音。
「……雨か」
と、思い至ったのもつかの間、雨だとすればあまりにも巨大な雨粒《あまつぶ》だという音でようやくそれが馬蹄《ばてい》の音なのだと気がついた。
深夜の馬蹄の音は悪魔《あくま》の大群を引き連れてくると言われる。
夜に馬を連れて歩く時は決して走らせてはならない。
それは正教異教を問わずに言われていること。
だが、その真の意味は、深夜にとどろく馬蹄の音は決して良い報《しら》せをもたらすことがないという共通の認識なのだ。
「おい、起きろ」
本を置き、耳を澄《す》ませながらホロの肩《かた》を叩《たた》く。
馬蹄《ばてい》の音からして、馬は一頭。広場に入り、急にその音が途絶《とだ》える。
「む……どうした、かや」
「二つ知らせることがある」
「どちらも良くなさそうじゃな」
「一つは、月を狩《か》る熊《クマ》の話をまとめた本が見つかった」
ホロは一気に目を見開いて視線をロレンスの協《わき》に置かれた本に向ける。
ただ、常に一つのことに気を奪《うば》われるようなホロではない。
狼《オオカミ》の耳が機敏《きびん》に動くと、くるりと後ろの壁《かべ》を振《ふ》り向いた。
「なにかあったのかや」
「その可能性が高いな。深夜の馬蹄の音ほど聞きたくないものはない」
ロレンスは本を手に取り、ホロに渡《わた》す。
だが、ホロがそれを受け取っても、本から手を離《はな》さなかった。
「お前がこれを読んでどうしたいのか俺にはわからない。だが、なにか思うことがあったら、正直に言って欲しい」
ロレンスの顔は見ずに、本を掴《つか》む手だけを見ながら、ホロは返事をした。
「ふむ。ぬしはこの本を隠《かく》すこともできたわけじゃからな。わかった。約束する」
ロレンスはうなずいて立ち上がり、「様子を見てくる」と言い置いて歩き出した。
当然教会は真っ暗で静かだったが、このくらいの深さの闇《やみ》ならばある程度目が利《き》く。
それに、居間にたどり着けば木窓の隙間《すきま》から月明かりが入ってきているお陰《かげ》でだいぶよく見|渡《わた》せた。
小さな軋《きし》み音を立てながら階段を下りてきたのもエルサだとすぐにわかった。
「馬の走る音が聞こえましたが」
「心当たりは?」
あるからこそ、真っ先に起きてきたはずだ。
「ありすぎるほどに」
テレオのような小さな村で深夜の馬蹄の音となれば、よもや傭兵《ようへい》団の襲来《しゅうらい》を告げる見張りの者たちではあるまい。
エンベルクに関係することだろう。
だが、危機は去っていたのではなかったか。
エルサは小走りに木窓に駆《か》け寄り、これまで何度もそうしているように隙間《すきま》から広場を見る。
当然、馬は村長の家の前に止まっているはずだ。
「私は推測《すいそく》でしかエンベルクとの関係を把握《はあく》していませんが、その、エルサさんの机の上にあった書類を見る限り、エンベルクはもうこの村に手を出せないはずでは」
「商人の方の目ざとさには感服しますね。ですが、そうです、私もそう思っていました。それでも」
「私が裏切っていれば話は別、というのであれば、私は今すぐあなたをここで縛《しば》り上げるべきなのですが」
エルサの目は油断なくロレンスを睨《にら》む。
ただ、すぐにそらされた。
「私はどの道旅の人間です。なにかしらの大きな問題が起こると、非常に危険な立場です。どさくさに紛《まぎ》れて身包《みぐる》みをはがされた商人の話は枚挙に暇《いとま》がありません」
「私がいる限りそのような無法は許しません。ですが、とにかく地下室を閉めてください。もしもエンベルクとのことでしたら、必ず村長がここに来ます」
「私たちが深夜ここに滞在《たいざい》している理由は」
ホロとは少し違《ちが》う、親近感を覚える頭の回転の速さ。
「……毛布を持って礼拝堂に」
「同意見です。私の連れは修道女。相違《そうい》ありませんね?」
それは口裏を合わせる確認《かくにん》事項《じこう》だったが、エルサは返事をしなかった。
返事をすれば嘘《うそ》になってしまう。
まったく、頑《かたく》ななまでに聖職者だ。
「セム村長が出てきました」
「わかりました」
ロレンスはすぐさま踵《きびす》を返し、ホロの下《もと》に戻《もど》る。
こういう時にホロの耳の良さは重宝《ちょうほう》する。
引っ張り出していた本はすでにほとんど地下室の中に戻してあり、ローブも着なおしていた。
「その一冊だけは持っておけ。祭壇《さいだん》の裏にでも隠《かく》しておこう」
ホロはうなずいて、石段の途中《とちゅう》まで下りたロレンスに次々と残る本を手|渡《わた》していく。
「これで全部じゃ」
「なら、居間とは逆の、そっちのほうの廊下《ろうか》を歩いていけ。たぶん、角を曲がったすぐのところに祭壇の裏へと続く入り口があるはずだ。先に入って、本を」
最後まで聞かずにホロは走り出す。
ロレンスもすぐに地下室から出て、台座を元に戻し、聖母の像を載《の》せる。
しばし鍵穴《かぎあな》が見つからず焦《あせ》ったが、なんとか見つけるとエルサから預かっていた真鍮《しんちゅう》の鍵で施錠《せじょう》し、毛布を抱《かか》えてホロのあとを追う。
教会の構造というものはどこであっても似通っている。
予想どおりに入り口があったようで、扉《とびら》が開けられたままになっていた。
細い通路は直接祭壇の裏に続いているはずで、蝋燭《ろうそく》の火をかばいながら小走りに駆《か》けると、すぐに視界が開けた。
二階部分の木窓から幾筋《いくすじ》かの月明かりが入り込んでいて、蝋燭《ろうそく》の明かりがなくても十分なように思われた。
祭壇《さいだん》から真正面にある扉《とびら》の向こう側からはぼそぼそと話し声が聞こえてくる。
ホロが早くしろと目で言ってくる。
持ち物を調べられた時に鍵《かぎ》が出てきては厄介《やっかい》だったので、祭垣の裏に鍵も隠《かく》し、二人して石畳《いしだたみ》の床《ゆか》へと下りる。
腰《こし》を下ろしたのは唯一《ゆいいつ》そこだけがへこんでいる、おそらくはフランツ司祭が日々|祈《いの》りを捧《ささ》げていた場所。
ロレンスは蝋燭《ろうそく》を吹《ふ》き消し、毛布をホロ諸共《もろとも》に体に巻く。
扉《とびら》一枚を隔《へだ》てて盗人《ぬすっと》のようなことをするのは久しぶりだ。
昔、港町の商会に仲間の商人と忍《しの》び込んで注文書を盗み見たことがある。
どんな商品に需要《じゅよう》があるのか自分ではまだ判断できなかった時のことだ。今思えば恐《おそ》ろしいほどの無茶だが、今やっていることに比べればましかもしれない。
なにせ、こんなことをしても財布《さいふ》の中身は決して増えないのだから。
「しかし、私は村長として……」
扉が開けられ、セムの言葉が飛び込んでくる。
ロレンスは一度深呼吸をして、たった今目が覚めたかのように後ろを振《ふ》り向いた。
「教会での神聖な時間をお邪魔《じゃま》して申し訳ない」
セムの後ろにはエルサと、それに、長い棒を携《たずさ》えた村人が一人。
「なにか……あったのですか」
「長らく旅に暮らされていれば、ご理解いただけるものと期待します。しばしの間、不便な思いを我慢《がまん》してください」
棒を携えた村人が一歩前に進み出て、ロレンスはそれを受けて立ち上がる。
「私はローエン商業組合に所属します。また、在クメルスン商館には私がこの村に来ていることを知っている者が多数おります」
村人が驚《おどろ》いてセムを振《ふ》り返る。
商業組合ともめ事を起こせば、テレオ程度の村だとまず無事にはすまない。
商人の集団は、その金の量においてもはや一つの国家だ。
「もちろん、セム村長が、テレオの村の代表者として相応《ふさわ》しい対応をとっていただけるのでしたら、私は一人の旅の人間として、セム村長のお言葉に従います」
「……わかっています。ただ、私がロレンスさんと、お連れの方の前に現れたのはなにも悪意からではありません」
「なにが、あったのですか」
どたどたどた、という足音は、目を覚ましたエヴァンかもしれない。
セムは、足音のほうを一度見てから、ゆっくりと口を開いた。
「エンベルクで、この村の麦を食べた者が死にました」
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第四幕
麦を食べて死ぬ、と言われて真っ先に思い浮かぶのは、リデリウスの業火《ごうか》と呼ばれる毒麦だ。
その毒麦を食べると、四肢《しし》が骨の内側から焼け落ちるように腐《くさ》り、あるいは絶叫《ぜっきょう》しながら死に至る。少量でも食べれば人々は悪魔《あくま》にこの世のものとも思えぬ幻覚《げんかく》を見せられ、妊婦《にんぷ》ならば流産する。
悪魔が麦穂《むぎほ》の中に毒の詰《つ》まった黒い偽《にせ》の麦を継《つ》ぎ足していくために毒麦は生まれるといわれていて、収穫《しゅうかく》の際に気がつかずに、または知らずに粉にしてしまえばもはや誰《だれ》にも毒麦の行方《ゆくえ》はわからない。
それが毒麦だとわかるのは、誰かがそれを口にして異常をきたした時。
麦を育てる農村で、村人たちが日照りや水害と並んで恐《おそ》れる最悪の事態。
この毒麦の恐ろしさは、それを食べた者が死んだり苦しんだりするところにあるのではない。
その年に収穫された麦のどこかにリデリウスの業火が紛《まぎ》れ込んでいる以上、全《すべ》ての麦を食べることができなくなるところが最も恐ろしい。
「この村で毒に冒《おか》された者はいないのだな?」
「だと思うよ村長。寝込《ねこ》んでるジーン婆《ばあ》さんも風邪《かぜ》です」
「皆《みな》、収穫祭の時にしか新しい麦をパンにしていないはずだろう? なら、少なくともそれまでに粉にした麦は安全なんじゃないのかい」
村の広場の中央に置かれている大きく平べったい一枚岩は、村で重要な話し合いが行われる時に使われる会議場でもあるらしかった。
赤々とかがり火が焚《た》かれ、眠《ねむ》そうに眼《め》をこする村人たちに見守られながら、広場の周りに建物を構えるこの村の中で重要な立場にいる者たちがそれぞれ意見を口にしていた。
「ハキムの話では、昨日の夕方、リーンドットの粉屋から買った麦で作ったパンを食べた靴《くつ》職人の男が死んだらしい。四肢《しし》は紫《むらさき》色になり、苦しんだのちに死んだという。エンベルクの参事会はすぐさま我々の村からの麦だということを突《つ》き止めた。ハキムはこの時点で馬を走らせてきたのでその後どうなっているかはわからないと言っておるが、予想はつく。領主のバドン伯爵《はくしゃく》に急使を出すと共に、村への麦の返送作業に取り掛《か》かっているだろう。夜が明ける頃《ころ》にはエンベルクから正式に使いが来るはずだ」
「む、麦の返送ってこたあ……」
宿の主人が呟《つぶや》くと、岩の上に車座になっているその場にいた全員が沈黙《ちんもく》する。
ようやく口を開いたのは、その円陣《えんじん》の外に立つ、岩の上では数少ない女性のイーマだ。
「もらった金も返さなきゃならない。そうだろう、セム村長」
「……そうだ」
村人たちは総じて青ざめ、頭を抱《かか》えている。
金は使えばなくなる。
そして、村人たちが銀貨を愛《いと》おしく蓄《たくわ》えているとはとても思えない。
ただ、岩の上にいる者たちの中で、頭を抱えていない者たちがいる。
村長のセム、酒場の女将《おかみ》イーマ、教会の主《あるじ》エルサ、それにロレンスがセムのところにいた時に手紙を持ってきた男と、ロレンスにホロ。
単に蓄えがあるからとか、肝《きも》が太いからというわけではなく、この騒《さわ》ぎを冷静に捉《とら》えている者たちだろう。
傍《はた》から見れば、これほどわかりやすいこともない。
この毒麦騒ぎは、エンベルクの自作自演。
「村長、どうすりゃいいんだ。豚《ブタ》や鶏《ニワトリ》を買っちまったし、鎌《かま》や鋤《すき》の修理に金を使っちまった」
「それだけじゃないだろ。今年は大豊作だったからね。あたしんとこが仕入れた酒や食べ物もいつもより上等だった。その支払《しはら》いに金が消えたということは、あんたらの金もたくさん消えているということさ」
酒は飲みすぎれば誰《だれ》だって頭を抱える羽目になる。
イーマの言葉にますます男たちは頭を垂《た》れるが、イーマはセムのほうを向いて言った。
「だけど、村長。問題はそれだけじゃないだろう?」
醸造鍋《じょうぞうなべ》を背負って一人ビールの売り歩きをしていたというイーマはさすがに貫禄《かんろく》が違《ちが》う。
大きな町に行けば、それこそ商会の切り盛りをしていたっておかしくはない。
「そうだ。毒麦が村の麦に紛《まぎ》れ込んでいたという以上、麦は食べられない。今年は大豊作だった。しかし、去年もそうだったわけではない」
麦は、蒔《ま》いて実をつけ収穫《しゅうかく》して、蒔いた時の三倍になればまずまず。四倍になれば豊作だ。
その中から来年蒔く分を取れば、次の年が不作だった時のための蓄《たくわ》えなど高が知れている。
へたをすれば今年の豊作に任せて古い麦は食べ尽《つ》くしてしまっているかもしれない。
どの道、村の食糧《しょくりょう》事情は最悪の様相を呈《てい》する。
そして、新しい麦を買う金などない。
「どうするんだい。貧乏《びんぼう》は我慢《がまん》できても空腹は我慢できないよ」
「そのとおりだ。だが、わしは――」
そう続けようとしたセムを遮《さえぎ》って、宿の主人の隣《となり》にいた男が突然《とつぜん》立ち上がってロレンスのほうを指差した。
「毒麦を混ぜたのはこいつらじゃないのか! 聞けばこの商人は麦を持って村に来ているというじゃねえか! 毒麦を混ぜて麦を駄目《だめ》にしたのちに、持ってきた麦を高値で売ろうという魂胆《こんたん》だろう!」
予想できた考えだ。
セムが悪意でロレンスたちをこの場に連れてきたわけではない、というのももちろんわかる。
もしもロレンスたちの姿が見えなければ、疑心暗鬼《ぎしんあんき》に駆《か》られた村人たちが手に手に武器を持って探し回ってもおかしくはないからだ。
「そ、そ、そうに違《ちが》いない! 一人でエヴァンのところに粉を挽《ひ》きに行ったそうじゃねえか! いや、エヴァンと組んでこの村を破滅《はめつ》させに来たんだろう!」
「そうだ、エヴァンだ! あの嘘《うそ》つきの粉挽きはどこに行った! エヴァンと共に縛《しば》り上げてどこの麦に毒を混ぜたのか話させてやらあ!」
次々に立ち上がり、皆《みな》が一斉《いっせい》に襲《おそ》いかかろうとする。
そこに、ついと一歩前に出たエルサ。
「待ってください」
「女の出る幕じゃねえ、すっこんでろ!」
「なんだって?」
体のでかさでいえばエルサの三倍はあろうかというイーマがずいとエルサに並び、男たちは気勢をそがれてたじろいでしまう。
セム村長もひとつ咳払《せきばら》いをし、場はひとまず収まった。
「エヴァンは教会にいます」
「疑いをどうこうするのはあとだ。今最も重要なのは、村に返されるであろう麦と、受け取った金の返金だ」
「な、ないものは仕方ねえだろう。来年まで待ってもらうしか……」
「それだけですめばよいが」
村長の言葉に、男たちがぎょっとする。
「どういう、意味だい……村長」
「エンベルクはこれを機に村と町の関係を昔に引き戻《もど》すかもしれん……」
「まさか……」
年嵩《としかさ》の男たちから順に、顔が苦渋《くじゅう》に満ちていく。
「な、なにを言うんだ、村長。エンベルクの連中はこの村に手出しできないはずだろう? フランツ司祭がそうしてくれたんだろう?」
村とエンベルクの関係の詳《くわ》しいことを、セムが隠《かく》していたのか、それとも男たちが理解しようとしていなかったのかはわからない。
だが、それはすぐにわかった。
「大体、フランツ司祭の跡《あと》をエルサが継《つ》ぐなんていうのを認めたのがいけなかったんだ。なめられて当然じゃないか」
「そうだそうだ。一日中教会にこもって畑にも出ないでパンだけは一丁前にもらいやがって。今年の麦が豊作だったのもトルエオ様のお陰《かげ》だ。それをなんだって教会の娘《むすめ》なんかに――」
「やめないか!」
不安は容易に不満に火をつける。
それも攻《せ》め立てやすい、燃えやすいところから順繰《じゅんぐ》りに燃えていく。
エルサくらい生真面目《きまじめ》ならば、どれほど根詰《こんつ》めて村のためにフランツ司祭の残した遺産を守ろうと画策したか容易に想像がつく。
当然エルサと連携《れんけい》してことに当たったセムもそれはよくわかっているだろう。
それでも、村人たちの目にエルサがどう映ってるか、今の言葉がわかりすぎるほどにわからしめる。
ロレンスは、エルサが無表情に拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めていることに気がついていた。
「じゃあ、村長、俺たちはどうすればいいんだい」
「とりあえず、各自|収穫《しゅうかく》祭のあとに振《ふ》り分けた金がいくら残っているか、越冬《えっとう》のための備蓄《びちく》がどれくらい残っているかの確認。エンベルクとの交渉《こうしょう》は向こうからの使いが来ないことにはわからん。おそらく早くとも夜明け頃《ごろ》だろう。我々も夜明けまで一度解散する。各々《おのおの》それまでに今言ったことを確認してくれ」
男たちが不満げなため息を漏《も》らしたが、セムに再度言われると不承不承立ち上がった。
会議の場であった岩から下りる時も、ロレンスやエルサたちに憎《にく》しみのこもった視線を向けてくる。
それはあまりに理不尽《りふじん》なものではあったが、まだ村長であるセムが味方であるだけましだろう。
これがもしもセムまで敵ならば、ロレンスはホロに最悪の手段を頼《たの》むほかなくなってしまう。
「エルサ」
そんな中、セムが杖《つえ》をつきながら歩み寄り、エルサに声をかける。
「辛《つら》いだろうが、今は我慢《がまん》してくれ」
エルサは無言でうなずき、次いでセムはイーマに目を向けた。
「イーマさんはエルサについて教会へ。血気にはやった者たちが押しかけないとも限らない」
「任せときな」
この村の中での力関係がすぐにわかってしまう。
では、自分たちの立ち位置とはどういうものか。
「ロレンスさん」
最後にセムはロレンスたちのほうを向いた。
「私も村の者たち同様、あなたを疑っています。あまりにも頃合《ころあい》が良すぎる。ですが、すぐにそうだと決めつけるほど愚《おろ》かだとは思わないでいただきたい」
「私がセム村長の立場でも、同じことを言うでしょう」
セムは歳《とし》のせいで顔に刻まれた以上の皺《しわ》を眉間《みけん》に寄せたまま、少しだけ安堵《あんど》したようにうなずく。
「あなた方の身の安全と同時に、これ以上我々の疑念を深めないために、ロレンスさんたちは私の家に来ていただきたい」
有無を言わさず縛《しば》り上げられないだけましだ。それに、下手に騒《さわ》ぐと血を見ることになるかもしれない。
おとなしくうなずき、セムと村人の先導に従って、セムの家へと歩き出した。
あの村には座敷牢《ざしきろう》があってな、なんて噂話《うわさばなし》が時折酒の席で出ることがある。
軽く酒が入り、気軽に口にできる儲《もう》け話も出尽《でつ》くした頃だ。
良い話があるからとほいほい村長の家に入ると、座敷牢に閉じ込められてそれっきり。
村人たち全員が口をつぐんでしまえば、その商人の行方《ゆくえ》など誰《だれ》も知ることはできない。
そして、商人の持ち物が全《すべ》て売られたのちに、豊作を祈願《きがん》するためのいけにえに使われる。
妙《みょう》に金回りの良い村というのにはその手の噂《うわさ》話が必ずついて回るものだ。
ただ、少なくともテレオの村に限ってはそんなこともないらしい。
ロレンスとホロが入れられたのは窓もある普通《ふつう》の部屋で、ロレンスがセムの家を初めて訪《おとず》れた時に通された部屋のすぐ隣《となり》だ。
鍵《かぎ》もなく、無理にでも出ようと思えば出られなくもないし、今の状況《じょうきょう》だと教会にいるよりか安全だろう。
作戦を練るにはそこそこの環境《かんきょう》だ。
「どう思う?」
部屋の真ん中に置かれている、足の低いテーブルを挟《はさ》んで向かい合う二人がけの長椅子《ながいす》に隣《とな》り合って座り、扉《とびら》の前にいるだろう見張りに聞こえない程度の声で話しかけた。
「おとなしく本を諦《あきら》めて町を発《た》っておくべきじゃった」
意外にも弱気な発言だ。
ただ、その顔は罪の意識にさいなまれているわけでも、本当に後悔《こうかい》しているわけでもない。
視線はどこか一点を見つめ、頭の中がめまぐるしく回転しているように見えた。
「その考えが正しいかどうかは微妙《びみょう》なところだ。俺たちがこの町に来て、修道院への道を訊《たず》ね、おとなしくその日のうちにここを発ったとしよう。それは一昨日《おととい》のことだ。そして、今、この時間にエンベルクで毒麦が見つかったという報《しら》せがここにもたらされる。誰《だれ》か悪意を持つ者が麦に毒を混ぜたのではという疑いが出るのはもっともなこと。その時に筆頭に挙がるのは誰だ? 俺たちだ」
「冴《さ》えない商人と麗《うるわ》しい娘《むすめ》の二人旅など他《ほか》にはないからの。すぐに馬で追いつかれる羽目になる」
苦笑いしてしまうような憎《にく》まれ口だが、自分のせいでこんなことに、などめそめそしているよりかはよほどホロらしい。
「俺たちがこの村を訪《おとず》れた時点で、毒麦を混ぜたのではという疑いは向けられる。村に災《わざわ》いをもたらす悪魔《あくま》は常に村の外からやってくるからな」
「そして、口をもってしてわっちらは無実と示すのは無理じゃな」
ロレンスはうなずく。
毒麦が悪魔によってもたらされたのか、それとも悪意ある誰かによってもたらされたのかに関係なく、災いが起これば人々はその原因を求めたがる。
悪さをしたから悪魔なのではない。悪いことが起きたから悪魔なのだ。
「状況《じょうきょう》があまりにもできすぎている。どう考えてもエンベルクがテレオの村を支配したいがために取った方法としか思えない。そもそも、エンベルクとテレオが税金などのやり取りを巡《めぐ》ってもめているのはこの周辺の諸侯《しょこう》なら皆《みな》知っていることだろう。そこに降って湧《わ》いたようにテレオの村の麦に毒が混ざっていたとなれば、誰がどう考えたってエンベルクの自作自演だと疑うだろう。そうなればテレオの村には後ろ盾《だて》がいるのだから、彼らが黙《だま》ってはいない。そこでエンベルクは誰か身代わりが欲しかった。そこにのこのことやってきた商人が俺たち。これ幸いと計画を実行に移す」
こうなると、最後の落としどころも大体わかる。
「そして、村との交渉《こうしょう》の際にこんな取引を提案するんだろう。麦に毒を混ぜた犯人を突《つ》き出せば、借金の返済を少しだけ待ってやろう、とな」
かくしてエンベルクは自分たちの自作自演ではないと周りに主張できつつ、かつテレオを我が物とでき、ロレンスたちは、町の欲望のために断頭台の露《つゆ》と消えるのだ。
「エンベルクもうちの組合ともめたくはないだろうから、当然俺たちが真犯人かどうかの裁判なんてしやしない。さっさと罪人として首をはね、おそらくはテレオの連中に俺たちがどこから来た誰《だれ》であるか口をつぐんでいればいくらか借金を軽減してやると持ちかけるだろう。それで万事収まってしまう」
ホロはため息をついて、親指の爪《つめ》を牙《きば》で噛《か》む。
「ぬしはそれに甘んじる気かや?」
「まさか」
と、肩《かた》をすくめて鼻で笑ってしまうものの、ではどうやって事態を打開するのかと問われれば困ってしまう。
「逃《に》げればわっちらが毒を混ぜたと認めるようなもの。ぬしの人相書きが出回り、商売はできなくなる」
「俺の商人としての生命は一巻の終わりだな」
どうすべきなのか。
そこに、ホロがふとなにかに気づいたように口を挟《はさ》んだ。
「む。そうじゃ、ぬしが所属するというその組合とやらに助けを求めるのはどうなんじゃ?」
「助けを、か? それができれば……ああ、そうか……」
ロレンスは自分の頭をこつこつと叩《たた》き、ホロがそれを不審《ふしん》げに覗《のぞ》き込む。
「お前がいるんだよな」
「どういう意味じゃ」
「好意的な意味だ。お前の背に乗れば馬より速く別の町に逃げられるか」
「当然じゃ」
「超《ちょう》長|距離《きょり》の貿易じゃないんだ。それにしたって馬より速いものは船しかない。俺たちを捕《つか》まえようと網《あみ》を張るエンベルクの連中は、馬の速度でしか網の広さを広げられない。だとすれば?」
ホロは小さく、「ふん」とため息なのか相槌《あいづち》なのかわからない空気を鼻から漏《も》らす。
「お前との二人連れじゃどこかの商館に連絡《れんらく》をつける前に追っ手に捕まると思い込んでいた。組合に逃げ込めれば、組合は多分守ってくれるだろう。組合から毒麦を使って商売をどうにかしようとした奴《やつ》が出た、などとなればとんでもないことになる。全力で阻止《そし》するだろう」
「と、わっちらを嵌《は》めようと思っておる連中も考えるのであれば、わっちらが先に逃げ込んだ時点で諦《あきら》めてくれるやもしれぬ」
「しかし」
事態が好転したかのように思えて気分が軽くなったのもつかの間、すぐにその先の結末が頭に浮かんだ。
「その後、犯人としてつるし上げられるのは誰だ?」
問うまでもない。嘘《うそ》つきと見られ、常に疑いの目を向けられ、なおかつ毒麦を混入させる絶好の立ち位置にいる粉|挽《ひ》きのエヴァンだろう。
ホロもすぐにロレンスの言いたいことに気がついたようだ。
ただ、こちらは明らかに面倒《めんどう》くさそうに、最初から抗弁《こうべん》することは諦《あきら》めているように言った。
「ならばそれも背に乗せればよい。もともと外に出たいと思っておるのじゃろう? 断りはすまい。あの小娘《こむすめ》も危険とあればそれも乗せればよい。ぬしはたわけのお人|好《よ》しじゃからな。まったく面倒くさい……」
さすがにロレンスとエヴァンが村から消えれば、それ以上別の人間を犯人としてつるし上げることはエンベルクとてできないだろう。
それに、もしそうなれば少なくとも粉挽きのエヴァンが犯人であり、犯人だからこそ逃《に》げたと周りに主張することはできる。あえて組合所属のロレンスまでをも組合ともめることを承知で喧伝《けんでん》する必要もない。
「だが、問題はお前が真の姿を晒《さら》さなくちゃならないということだ」
すると、ホロは呆《あき》れるように笑った。
「わっちゃあそこまで心が狭《せま》いわけではありんせん。確かに……怯《おび》えられればわっちのか弱い心は傷つくがな」
少し責めるような目なのは、ロレンスが以前、パッツィオの地下水道で初めてホロの姿を見た時、情けなくも後ずさってしまったからだろう。
ただ、ホロはすぐにいたずらっぽい笑《え》みを牙《きば》に引っ掛《か》けてこう言った。
「それともなにかや、わっちの秘密を知るのは自分だけがいい、とでも思いんす?」
ロレンスは言葉に詰《つ》まり、咳払《せきばら》いをする。
ホロの楽しそうに喉《のど》で笑う声が小さく響《ひび》いた。
「もしこの絵図でぬしがよければ、わっちゃあ構わぬ」
是非《ぜひ》もない。これ以上の解決策はないように思える。
「もちろんこんなのは最悪の絵図だが、こうなる可能性は高いからな。荷馬車と荷物は惜《お》しいが、谷底にでも落としたと思うしかないか」
「わっちがぬしの新しい荷馬車になっても構わぬが?」
一流すぎる冗談《じょうだん》だ。
「どこの世界に御者《ぎょしゃ》の手綱《たづな》を握《にぎ》る荷馬がいるんだ」
ホロが不敵に笑うのと、扉《とびら》がノックされるのはほとんど同時のことだった。
扉を開けて、そこに立っていたのはセム。
老体にこの村の危機は荷が重すぎるのかもしれない。
廊下《ろうか》に掛《か》けられている蝋燭《ろうそく》の明かりの加減かもしれないが、ほんのわずかの時間でやつれてしまったように見えた。
「少し、お話を伺《うかが》ってもよろしいですかな」
ホロとの密談を聞かれていた、という可能性はあまり考えなかった。
ホロがそのあたりのことでぬかるとは思えなかったからだ。
「ええ、それはこちらも思っていたことです」
「では、失礼して」
セムがゆっくりと杖《つえ》をつきながら部屋に入り、開けられたままの扉《とびら》の前には村人が一人立ちはだかる。
荒事《あらごと》に慣れていないのか、緊張《きんちょう》しているのが目に見えていた。
「扉は閉めておいてください」
セムにそう言われると、村人は一瞬《いっしゅん》驚《おどろ》いて目を見開いたものの、重ねて言われて渋々《しぶしぶ》と扉を閉じた。
あれはきっと、ロレンスたちを犯人と信じて疑っていない。
「さて」
テーブルの上に燭台《しょくだい》を置き、セムは切り出した。
「それで、おふた方は一体何者なのでしょうか」
なかなか上手な切り出し方だ。
ロレンスは商談用の笑顔《えがお》で対応する。
「名乗るほどの者ではありません、と言いたいくらいですが、私が何者であるかはすでにお伝えしてあります」
「確かに、ロレンスさんが何者であるかはお聞きしました。もちろん確認《かくにん》はできておりませんが、きっとそうなのでしょう」
セムの視線は、ロレンスから隣《となり》のホロへと向けられる。
ホロはフードを深めにかぶりうつむき加減にじっとしている。
傍目《はため》には眠《ねむ》っているようにも見える。
「あなた方はディーエンドラン修道院への道のりをお聞きになられた。あの修道院へ一体なんの御用だったのですか?」
セムからの譲歩《じょうほ》が一歩。
ロレンスが修道院のことを聞きに来た時、セムは表面上その存在を知らないと取り繕《つくろ》った。
セムはロレンスたちがエンベルクからの人間であるかどうかを見極めたいはず。
では、見極めたのちにどうするか。
「クメルスンでお会いした方から、ディーエンドラン修道院の修道院長を紹介《しょうかい》されまして。正確には私ではなく、この連れが、ですが」
セムが最も恐《おそ》れることは、ロレンスたちがエンベルク側の人間であるということ。
しかし、今のセムに微妙《びみょう》な駆《か》け引きからロレンスたちの懐《ふところ》を探る余裕《よゆう》はないようだ。
喘息《ぜんそく》のような深呼吸を一度して、すがるような視線を向けてきた。
「あなた方はエンベルクから頼《たの》まれて来たのではないのですか。だとしたら、いくらで。いくらでこの村に来たのですか」
「エンベルクは確かに立ち寄りましたが、旅の通過点の一つです。私たちはあくまでも私たちの目的のために、ディーエンドラン修道院を探していました」
「そ、そんな嘘《うそ》を!」
かすれるような声で怒鳴《どな》り、蝋燭《ろうそく》の明かりに照らされ悪魔《あくま》のような形相で身を乗り出す。
「私たちはエンベルクとこの村の争いにはまったく関係していません。私が村と町の関係を把握《はあく》できたのは、酒場での話、エヴァンからの話、エルサさんからの話、それに、私自身の経験からです」
セムはロレンスたちがエンベルクからの内偵《ないてい》であることを恐《おそ》れている。
毒麦を巡《めぐ》る話は異端《いたん》云々《うんぬん》ではなく、金銭でかたがつく話だ。
交渉《こうしょう》次第によってはまだ村の再起は考えられる。
しかし、話が教会に及《およ》ぶとそうはいかなくなる。
「ほ、本当に、本当に、関係がないのですね?」
セム自身、その質問に完全に納得《なっとく》のいく答えなどないことを知っているはずだ。
けれども、聞かずにはいられないのだろうし、ロレンスもこう答えるしかない。
「本当です」
真っ赤に熱した鉄の玉を飲み込むようにうつむいたセムは、椅子《いす》に座りながらも杖《つえ》にすがりつき、なんとか上半身を支えている。
そんなセムがゆっくりと顔を上げた。
「もしもそうならば……」
セムの耳には村人たちの懐事情が集まっているはずだ。
ロレンスがざっと考えてみたって、一度納入した麦を全《すべ》て返品されたら絶望的な状況《じょうきょう》になることがすぐにわかる。
半年、もしくは一年に一度の大きな収入が、まったくのゼロになってしまうのだから。
「もしもそうならば、知恵と……、お金を貸してくださいませんか」
ホロが少しだけ反応した。
金を貸してくれ、というのでリュビンハイゲンを思い出したのかもしれない。
ロレンスも罠《わな》に嵌《は》められ破産寸前に陥《おちい》り、金を借りようと町を走り回った。
池でおぼれた時に水を飲んででも息をしようとするように。
だが、ロレンスは、商人だ。
「知恵は貸せます。ですが」
「ただでとは言いません」
鋭《するど》いセムの視線と交差する。
テレオの村に対価として差し出せるものがあるとは思えない。
だとすれば、残るものなど限られている。
「あなた方の、身の安全と引き換《か》えに」
小さな村とはいえ、一つの集団であり、セムはその長だ。
商人が持つ貨幣《かへい》は貧しい村では確かに強い。
しかし、彼らが鎌《かま》と鋤《すき》を手にした時、商人ほど弱い存在もない。
「脅《おど》し、ですか」
「有無を言わさず縛《しば》り上げないのは、ロレンスさんが私のところに小麦を持って挨拶《あいさつ》に来てくれたからです」
うまい使い方だ。
ただ、強情にしたところで状況《じょうきょう》は好転しない。
それに、すでにホロとの間で方針は決まっている。そのためには、セムの意向に従ったほうが動きやすい。
「わかりました、と言うほかないようですね」
「……」
「ただし」
ロレンスは背筋を伸《の》ばし、はっきりとセムの眼《め》を見て言った。
「もしも事態を挽回《ばんかい》できたあかつきには、それなりの報酬《ほうしゅう》をいただきます」
命|乞《ご》いでも、いくらかの現金を残してくれという懇願《こんがん》でもなく、毅然《きぜん》と報酬を要求されセムは一瞬《いっしゅん》ぽかんとしていたが、すぐに我に返ってうなずいた。
ロレンスをそれほどの自信に見合う人物だと思ったのかもしれない。
あるいは、そう信じたかっただけなのかもしれないが。
そして、実際にロレンスのその言葉は、セムに取り入るための嘘《うそ》だ。
できることなら穏便《おんびん》にこの村をあとにしたい。とすれば、エンベルクからの使いがやってきて、この村の行く末を見極めてからのほうがいい。
エンベルクが無茶をせず、支配へのきっかけをつくる程度ですまそうと思っているのなら、毒麦が自然に発生したのか、それとも悪意ある誰《だれ》かによって持ち込まれたのかの判断など行われないだろう。
うやむやのままにすませる可能性は高い。
「では、詳《くわ》しいお話をお聞かせください」
もしかしたら奇跡《きせき》の打開策を思いつくかもしれない。
ロレンスは心の隅《すみ》でそう思って、セムに言葉を向けたのだった。
聞けば聞くほどひどい有様だった。
そもそもフランツ司祭がエンベルクと交《か》わした契約《けいやく》そのものが聞いたこともないようなすごいもので、ほとんどテレオの言い値でエンベルクに麦を好きなだけ売りつけられる、というところからしておかしいのだ。
しかし、フランツ司祭が集めていた地下室の本を見るだけでも、フランツ司祭には強力な後《うし》ろ盾《だて》がいたことが楽に想像できる。
四|隅《すみ》を鉄で補強された革《かわ》の装丁の本など、一冊仕上げるだけで一財産だ。
エルサの机の上にあった、連絡《れんらく》を取り合っている辺境《へんきょう》伯《はく》や大司教区の司教も、フランツ司祭との個人的な知り合いのようだった。
幾度《いくど》も異端《いたん》の疑いをかけられながら死ぬまで無事に過ごしてこられたのは、その人脈のお陰《かげ》なのだろうということは想像に難《かた》くない。たくさんの縄《なわ》で編んだ綱《つな》がとても強いように、人とのつながりはそのまま力になる。
セムもフランツ司祭がどのようにエンベルクとそのような契約《けいやく》をしたのかは知らないと言っていたが、それは嘘《うそ》でないのだろう。
推測《すいそく》では、エンベルクを支配するバドン伯爵《はくしゃく》の弱みを握《にぎ》っていたのかもしれない、と言っていたが、そんなところだろう。
フランツ司祭というのは一人の傑物《けつぶつ》だったに違《ちが》いない。
ただ、今は故人のすさまじさに感嘆《かんたん》のため息をついている場合ではない。
ロレンスだってこの村の窮状《きゅうじょう》を救えれば自分の商売の足しになることは目に見えているのだから、少しは真剣《しんけん》に問題を考えたい。
それでも、フランツ司祭の残した契約に甘えきった村人たちの浪費ぶりは惨憺《さんたん》たる有様だ。
ロレンスが持っていた金貨と銀貨を足し合わせた程度の金額などは誤差の範囲《はんい》内と言ってもいいだろう。
全《すべ》ての麦を返品されたら、その時点で村が破産することは目に見えている。
だが、そんなことを言っても始まらない。ロレンスは考えられる可能性からまず口にした。
「順当に考えれば、エンベルクは、支払《しはら》いの足りない分を来年の麦を買うことで埋め合わせるでしょう」
「……と言いますと?」
「これだけの畑に来年実るはずの麦を、これこれの値段で買いますよということです」
麦の青田買いすら知らないというのだから、どれほど長い間ぬくぬくとこの村が過ごせてきたかわかるというものだ。
「そ、それができればひとまずはしのげると」
「ですが、これは当然相手側に有利です。まだ存在しないものにお金を払《はら》うわけですから、向こうとしてはいくらか割り引いてもらわないと割に合わない。そしてこちらは、一度その金額で売ってしまったら、たとえどれほどの大豊作であっても追加の料金はもらえません」
「そ、そんな馬鹿《ばか》なことが……」
「そうなると、来年が今年と同じ豊作であったとしても収入が減ります。そうすれば埋《う》め合わせをまた再来年《さらいねん》の麦でしなければならず、三年先の収入はそれよりさらに減ります。その上、弱みにつけこんで、大|凶作《きょうさく》の時はこの取引をなかったことにしたい、と言われるかもしれません。あとはお分かりですよね」
だから村では農作業のない冬に必死で内職にいそしむのだ。
村の土地を奪《うば》われないように。少しでも金を稼《かせ》げるように。
「村に税金さえかからなければ……そう思って、必死にフランツ司祭の残したものを守ろうとしたのですが……」
「それ自体は間違《まちが》っていません。ですが、村の方たちがその恩恵《おんけい》のすごさをまったく理解していない」
「ええ……まったく今更《いまさら》な話なのですが。そもそもフランツ司祭は、エンベルクとの関係を改善する代わりに教会に住まわせてくれ、ということで村にふらりとやってきたのです。私たちは教会を建ててはいますが、昔からの土地神のトルエオ様の信仰《しんこう》を捨てられません。フランツ司祭はそれでも構わない、と仰《おっしゃ》り、布教らしい布教もせず、これまで過ごしてこられました」
むしろフランツ司祭のことをトルエオ様の遣《つか》わした幸福の使者とでも思っていたのかもしれない。
「それが、まさかこのようなことに……」
「セム村長は、いつかこうなると予想していたのではないですか?」
ロレンスがはっきり言うと、弱りきっていたセムはすっと表情を消し、目を閉じて、ため息をついた。
「薄々《うすうす》は……。ですが、ケパスの酒が出るなどと……」
「ケパスの酒?」
「ああ、今回のような、毒の麦のことをそう呼びます。ケパスの酒は黒い麦で作られる。我々はそれを知っています。不注意で、人が死ぬほどの純度の酒が麦に混じるとは思えません」
それはロレンスも同感だ。
「誰《だれ》かが人為《じんい》的に混ぜた、と疑いが出るのはもっともです」
「村の者たちは旅人を疑っています。疑うべき人間は外の者だからです」
「その次に疑うべきは粉|挽《ひ》きのエヴァン」
セムはうなずき、もう一度うなずいた。
「エルサとは、先ほど少し話をしてきましたが、エンベルクをすぐに疑ったようです。私は情けない。麦を育ててそれを買ってくれるところがありさえすれば安泰《あんたい》だと、それ以上のことがまったく頭になかった」
「エンベルクの自演なのかどうかは、エンベルクからの使者が来ればはっきりするでしょう。私はできればその前にエルサさんと少しお話がしたいのですが」
セムの相談に乗ったのは、円滑《えんかつ》にこの台詞《せりふ》を出すためでもある。
「わかりました……」
セムは立ち上がり、扉《とびら》を開けて見張りの男に二言三言告げ、ロレンスを振《ふ》り返る。
「案内します。こちらの者についていってください」
セムは杖《つえ》にすがりつくようにしながら、ロレンスとホロのために道を開けた。
「老体には少し……応《こた》えたようです。お話はあとでお聞かせください。面目ありませんが……」
見張りの村人が慌《あわ》てて座っていた椅子《いす》を差し出し、セムは苦しげに腰掛《こしか》ける。
セムが教会についてこないのは好都合だが、頭に血が上《のぼ》った村人から守ってくれる防壁《ぼうへき》になるだろう人物もセムなのだ。
穏便《おんびん》にことがすめばそれに越《こ》したことはない。
セムに倒《たお》れられては困るので、ロレンスは演技でもなく、気遣《きづか》いの言葉をかけてセム宅をあとにした。
広場では変わらず赤々とかがり火が燃え、村人たちがあちこちに集まっては額をくっつけ合って何事かを話している。
そして、ロレンスたちがセムの家から出た途端《とたん》、彼らの視線が一斉《いっせい》に集まってくる。
「さすがにぞっとするの」
ホロが小さく呟《つぶや》いた。
先導をしてくれている村人が裏切れば、ロレンスとホロはたちまち袋叩《ふくろだた》きに遭《あ》い、つるし上げられるだろう。
一触即発《いっしょくそくはつ》の雰囲気《ふんいき》。
教会までの短い道のりがとても長く感じられた。
「イーマさん。村長からです」
ようやく教会にたどり着くと、扉を叩きながら殊更《ことさら》大きく先導の男は言った。
ロレンスたちを連れて歩いているのは村長からのお達しなのだと周りに伝えているのだろう。
村人たちが最も恐《おそ》れるのは、同じ村人から敵視されることだ。
程なく扉が開き、イーマに招き入れられてロレンスたちが教会に入ると、男はあからさまにほっとしたように肩《かた》から力を抜《ぬ》いていた。
自分たちに向けられる、かがり火のせいで赤黒く染まった憎《にく》しみのこもった視線は、すぐに教会の扉によって遮《さえぎ》られた。
立派な木の扉だが、彼らが視線以外のものを持ち出した時、どれだけ耐《た》えられるかは疑問だ。
「村長からということだけど、どうしたんだい」
教会の中には入れてくれたものの、それ以上案内することはせず、立ちはだかるようにイーマは言った。
「エルサさんとお話がしたく」
「エルサと?」
訝《いぶか》しげに目を細める。
「セム村長には私の知恵と財産を貸すことで身の安全を保障してもらっています。ですが、差し出す知恵と財産を最も効果的に使うには、正確な情報が必要です。そして、エルサさんはセム村長より現状に詳《くわ》しいかと」
一人旅に暮らしていたことがあるイーマなら、ロレンスの巻き込まれている理不尽《りふじん》な状況《じょうきょう》に同情を示してくれるはずだ。
その願いが通じたのかどうか、居間とは反対側のほうを顎《あご》でしゃくって、「そっちにいるから、ついてきな」と歩き出した。
ホロは視線を礼拝堂のほうに向けたままだ。
ロレンスがいなければ、とっくのうちに教会に押し入り、本を咥《くわ》えて地平線の彼方《かなた》だろう。
教会の礼拝堂の左側には筆耕《ひっこう》室や聖務室がある。
廊下《ろうか》の角からは蝋燭《ろうそく》の明かりが漏《も》れ出ていて、曲がればすぐにエヴァンの姿があった。
廊下の左側にある扉《とびら》の前に立ち、手に斧《おの》を持っていれば、どうしてそこにいるのかわかりすぎるほどにわかる。
そして、ロレンスたちの姿に気がついたエヴァンは、驚《おどろ》いたあとに複雑そうな表情を浮かべた。
この村で麦に毒を混ぜたと疑われるのは二人。エヴァンは当然自分はやっていないとわかるから、エヴァンが疑うのは一人。けれども、エヴァンは村の麦の流れを全《すべ》て見ることのできる数少ない人物だ。
ロレンスが麦に毒を入れた可能性はない、とも思っているのかもしれない。
「エルサはいるね?」
「あ、ああ、けど」
「村長から許しが出たんだろうさ。エルサ! エルサ!」
エヴァンはイーマに押しのけられるように扉《とびら》の前から体をどける。
エヴァンの手にしている斧は刃《は》の部分が錆《さ》びつき、柄《え》も蟻《アリ》かなにかに食われているように見える。
そんな武器でもとにかく手にして扉の前に立ちはだかりたいエヴァンの気持ちはわかる。
ロレンスも、パッツィオの地下水道でぼろぼろの姿でホロの前に立ちはだかったのだから。
「どうしました?」
「お客だよ」
「え? あ……」
「お話をしに参りました」
この教会を訪《おとず》れたいずれの時よりも、いくらかはましな顔だった。
「では、中へ――」
「エルサ」
声をかけたのはイーマ。
エルサは奥に引っ込もうとしたところを肩越《かたご》しに振《ふ》り向く。
「大丈夫《だいじょうぶ》なのかい」
とは、ロレンスたちのことだろう。
取っ組み合いになればロレンスも勝てるか怪《あや》しいイーマの遠慮《えんりょ》のない視線が向けられる。
その向こう側では、エヴァンが固唾《かたず》を飲んで見守っている。
「信頼《しんらい》はできませんが、信用はできます。この方たちは、少なくともお祈《いの》りの仕方は心得ていますから」
ホロが好きそうな皮肉だ、と思ったら、言った本人のエルサもうっすらと笑っていた。
フードの下のホロの顔は、小物など相手にせん、と言いつつも言い返したくて仕方のない不機嫌《ふきげん》模様だろう。
「わかったよ。エヴァン坊《ぼう》、しっかり守るんだよ」
ばすん、とエヴァンの肩を叩《たた》いてイーマは廊下《ろうか》を戻《もど》っていった。
話に同席させろと言わないところが懐《ふところ》の深さを物語っている。
彼女がいるなら、エルサもエヴァンも安心だろう。
「失礼します」
ロレンスが先に入り、ホロもあとに続く。
斧《おの》を手にしたエヴァンも続こうとして、エルサに止められた。
「あなたは外で」
「な、なんでだよ」
「お願い」
エヴァンが食い下がるのも無理はない。エルサに重ねて言われると渋々《しぶしぶ》ながらうなずいたが、なおも不満げだ。
ロレンスはおもむろに腰《こし》にくくりつけてある財布《さいふ》を外し、エヴァンに差し出した。
「これを落としたら、どんな商人だって大泣きする財布だ。これを預けておく。信用の証《あかし》だと思ってくれ」
手持ちの現金のみだからさして大金が入っているわけでもないが、エヴァンは熱いものでも受け取ったかのように財布とロレンスの顔を見比べ、泣きそうな顔になる。
「見張りは任せた」
ロレンスの言葉にエヴァンはうなずき、一歩後ろに下がる。
扉《とびら》はエルサが閉め、そのまま部屋の中を振《ふ》り返った。
「見事な振《ふ》る舞《ま》いですね。エンベルクの側《がわ》にあなた方がついていたら、諦《あきら》めるほかなさそうです」
そして、ため息まじりにそう言った。
「そう疑いますか?」
「だとしたら、この村にやってくるのは教会のお歴々。間違《まちが》っても麦を積んだ馬車の列ではありません」
扉から離《はな》れ、椅子《いす》に座りながらロレンスたちにも適当に椅子を勧《すす》めると、エルサはひどい頭痛をこらえるようにこめかみに指を当てる。
「また、あなた方が麦に毒を入れたと疑うのは、あなた方が異端《いたん》の証拠《しょうこ》をここに探しに来たということを信じる以上に難しいです」
「と、言いますと」
「ふう……。セムさんですらあなた方を疑っているようですが、こんなの……どう見たってエンベルクの仕業《しわざ》です。ただ、まさか、本当にこんな手を使ってくるなんて……」
「フランツ司祭がお亡《な》くなりになられたのは夏のこと、でしたよね。半年程度で毒麦を用意するなんていうのはとても難しい。どこもリデリウスの業火《ごうか》……いえ、ケパスの酒が麦に出れば隠《かく》して処分しますから」
毒の麦を用意しつつもここまで実行に移さなかったのは、うまいこと言い逃《のが》れをするためのロレンスのような季節はずれの旅人の存在がなかったからかもしれない。
ただ、普通に考えるのならば、フランツ司祭の存在を恐《おそ》れてのことだろう。
逆に言えば、エルサならばどうにでもなる、と判断されたのだ。
「村の財政|状況《じょうきょう》は絶望的です。後ろ盾《だて》の方たちに助けを求めようにも、皆《みな》、父のために協力してくれているようなものです。なんとかそれを維持《いじ》するように説得するだけで精|一杯《いっぱい》でした……これ以上の願い事をすれば、後ろ盾すら失ってしまいかねない」
「……でしょうね」
ロレンスは言ってから、咳払《せきばら》いをして、続けた。
「それで、エルサさんとしては、今後私たちがどうなると思いますか」
神のご加護を信じていればなにも心配はいりません、神は全《すべ》ての真実をご存じなのですから、と笑顔で言うのが聖職者だ。
だから、エルサは口の端《はし》に隠《かく》し切れない笑《え》みを浮かべ、「私に聞くのですか」と小さく言った。
「エンベルクの描《えが》いた劇の流れを読めるのは、エルサさんか、あるいはイーマさんくらいのものでは」
「それと、あなた方でしょう?」
自分の口からは言いたくない、ということだ。
このあと、エンベルクからの使者が来て、どんな要求がなされて、麦が運ばれてくるのと入れ替《か》わりに誰《だれ》がエンベルクに連れていかれるのか、ロレンスとエルサの見解は一致《いっち》していると見て間違《まちが》いない。
ロレンスはうなずいて、それから、隣《となり》のホロを見る。
ホロはローブの下で眠《ねむ》そうな顔をしている。
自分の登場するべきところは心得ているので、それまで休憩《きゅうけい》させろと言わんばかりだ。
すっとエルサに視線を向けて、気軽な挨拶《あいさつ》のように言った。
「私たちは、逃《に》げようと思います」
エルサは驚《おどろ》かない。代わりに、物覚えの悪い子供を見るような不機嫌《ふきげん》な目になった。
「逃げる時機はとっくに逸《いっ》していると思います」
「街道《かいどう》沿いにはエンベルクの人間がすでに網《あみ》を張っていると」
「それもある……でしょうね。エンベルクがこの騒《さわ》ぎを画策しているのでしたら、あなた方の存在は必要ですから」
やはりエルサとロレンスの考えは同じだ。だとすれば、つっかえるところも同じはず。
「村の人たちの疑いはあなたと、エヴァンに向けられています。弁解は苦しいでしょう。かといって逃げれば、それは認めたのと同じこと」
もう少し歳《とし》を経ていて、かつ、男子だったなら、フランツ司祭の跡《あと》は立派に継《つ》げていたかもしれない、とロレンスは思った。
「それに、あなた方二人が、たとえ馬に乗って逃げたとしても、村の人たちからすら逃げられるとは思いません」
「私の連れが見た目どおりの少女なら、ですね」
はっとしてエルサはホロに視線を向ける。
フードの下でホロの耳が少し動いたような気がしたが、視線がうっとうしかったのかもしれない。
「結論から言えば、逃げることは可能です。そして、それはいつでも、どの頃合《ころあい》でも可能です」
「ではなぜ……逃げないのですか」
ロレンスはうなずいた。
「一つ、この教会に残された本をまだ読み終わっていないため。もう一つは、私たちがいなくなれば、次につるし上げられるのは誰なのかということです」
固唾《かたず》すら飲まない。
エルサの頭は冷静にそこまでたどり着き、もしかしたらその覚悟《かくご》もすでにしてしまっているのかもしれない。
「どのように逃《に》げるのかは知りませんが、エヴァンも連れて逃げられる自信があるのですか」
「それだけではなく、貴女《あなた》も」
エルサは、初めて自然な笑《え》みを浮かべた。馬鹿《ばか》馬鹿しい、という笑みだ。
「あなた方が逃げるのを、私は勧《すす》めることも止めることもできません。村の人間として、最も疑いの濃《こ》いあなたを逃がすことはできないし、教会の人間としては、理不尽《りふじん》な疑いを向けられつるし上げられる可能性のある人には逃げていただきたい」
どこか投げやりな雰囲気《ふんいき》なのは、追い詰《つ》められたロレンスが妄想《もうそう》を語っているのだと思ったからだろう。
「ですが、一つ目の願いに関しては、今更《いまさら》拒《こば》む理由がありません。どうにかして読んでいただければと思いますが……」
「今のところ、最低限目を通したいのは、一|冊《さつ》だけ」
ホロがもそりと動いた。
「祭壇《さいだん》の裏に隠《かく》しんす。わっちゃああれだけ読めれば……この状況《じょうきょう》じゃ。多くは望まぬ」
しばし目を閉じ、エルサは結論を下したようだ。死に行く者にせめてもの施《ほどこ》しを、という考えかもしれない。
椅子《いす》から立ち上がって、扉《とびら》を開けた。
「お、おわっ」
「盗《ぬす》み聞きは罰《ばち》が当たりますよ」
「い、いや、そんなつもりじゃあ……」
「まったく……どちらでもいいので、祭壇の裏に本があるらしいから、取ってきて」
それほど大きい声で話していなかったので、エヴァンが詳細《しょうさい》まで聞き取れたかどうかはわからない。
ただ、エヴァンはエルサの言葉にしばし躊躇《ちゅうちょ》したあと、結局は廊下《ろうか》を走ってくれた。
エルサはその様子を見てなにか小さく呟《つぶや》いたようだったが、ロレンスの耳では聞き取れない。
逃げられれば、と言ったような気がしたが、ホロに確認《かくにん》する前に、エルサがこちらを振《ふ》り向く。
「あなた方が逃げるのを止めも勧めもしません。ですが」
高貴な、聖職者そのものの顔。
「それまで、知恵を貸していただけませんか。この村には、お金のことに詳《くわ》しい人がいないのです」
当然、ロレンスはうなずく。
「ただ、満足いく答えが出せるかは保証できません」
エルサは少し驚《おどろ》いたように目をしばたかせ、それから、エヴァンに向けるように少しだけ笑った。
「商人の方はその台詞《せりふ》がお好きなようですね」
「用心深いものですから」
そう言ってから、ホロに足を踏《ふ》まれた。
「本、持って来たぜ」
すぐに見つかったのか、思いのほか早く帰ってきたエヴァンを見てホロはすぐさま椅子《いす》から立ち上がる。
「けど、これって司祭の……あの異教の昔話だろう? なんでロレンスさんたちが読みたがるんだ?」
ホロは無言で歩み寄り、ほとんどひったくるように本を受け取る。
そこにはフランツ司祭自身が特別視したくない、と言ったほどのなにかが記されている。
エヴァンの質問に答える余裕《よゆう》などありはしないだろう。
だから、ロレンスが代わりに答えてやった。
「歳《とし》をとるとな、昔話が特別な意味を持つようになる」
「へえ?」
エヴァンの間抜《まぬ》けな声をすり抜けるように、ホロは本を抱《かか》えて廊下《ろうか》に出た。
人目のあるところで読みたくないのだろう、ということくらいすぐにわかった。新しい蝋燭《ろうそく》に火をつけてもらい、燭台《しょくだい》に載せてホロのあとを追う。
ロレンスが礼拝堂の裏手にたどり着けば、そこには怒《おこ》られた子供のように本を抱えてうずくまるホロがいた。
「いくら目が良くても暗闇《くらやみ》の中で本は読めないだろう」
本を抱《だ》きしめ、うずくまっているホロはかすかに震《ふる》えている。
泣いているのか、とも思ったが、ゆっくりと顔を上げたホロの顔はそんなか弱いものではなかった。
「ぬしよ」
蝋燭の明かりのせいでホロの目は金色に輝《かがや》いている。
「怒《いか》りのあまりに本を破いてしまったら、代わりに謝ってくれるかや」
冗談《じょうだん》とも思えない言葉。
ただ、めそめそとしているよりよっぽどホロらしい。
肩《かた》をすくめてうなずいた。
「謝るのは構わないが、ページを破って涙《なみだ》だけは拭《ふ》くな」
なかなかいい台詞《せりふ》だと思った。
ホロは片方の牙《きば》を見せて上目|遣《づか》いに笑う。
「わっちの涙ならぬしが喜んで高く買ってくれるからの。ぬしの前で流さんと損じゃ」
「宝石は偽物《にせもの》が多い。まがい物に注意しないとな」
いつもの軽口。
馬鹿《ばか》馬鹿しい、とばかりに二人して笑い、軽く一息つく。
「ぬしよ、しばらく一人で読ませてくりゃれ」
「わかった。ただし、感想は聞かせてくれ」
できればホロの側《そば》にいてやりたい。
しかし、そんなことを言えばホロは怒《おこ》るだろう。
心配するということは、相手を信用していないのと同じこと。
ホロは誇《ほこ》り高き賢狼《けんろう》だ。いつもいつもめそめそしている女の子として扱《あつか》えば、手ひどい仕返しを食らうことになるのは目に見えている。
心配するのは、頼《たよ》られてからでいい。
ロレンスはそれ以上言葉も視線も向けず、ホロの前から立ち去った。ホロもロレンスのことなど忘れてしまったかのように深呼吸をする。
直後、思い切ったように本の一ページ目を開く音がした。
暗い廊下《ろうか》を歩きながら、ロレンスも頭を切り替《か》えるようにこつんこつんと軽く叩《たた》く。
エルサは当然この村の再起を諦《あきら》めてはいない。ロレンスの持っている知識が役に立つのなら提供は惜《お》しまない。
それに、いざとなったらエヴァン諸共《もろとも》村から出ようという説得も、頭の片隅《かたすみ》に置いておく。
「あれ、ロレンスさん、側にいなくていいのか」
部屋に戻《もど》ると、エヴァンの意外そうな声が向けられる。
なんとはなしに雰囲気《ふんいき》を察していたのだろうが、さりげなくエヴァンから手を離《はな》し、目尻《めじり》を拭《ぬぐ》ったエルサほどホロは可愛《かわい》くない。
「ここにいないほうがいいなら向こうに行くけどな」
エルサの咳払《せきばら》いに、エヴァンがきょとんとする。
傍《はた》から見て自分もこう見られていないだろうかと少し心配してしまうが、今心配するべきはこんな平和なことじゃない。
エルサもできることならずっとエヴァンの側でなにも見ずに聞かずにいたいだろう。
それでも、すぐに無表情を取り戻した。
「それで、私の知識と経験はどんなお役に立てるでしょうか」
「先ほどセム村長からお聞きしましたが、麦を全《すべ》て返品されたら、おそらくその時点で七十リマーは足りないと」
リマーは金貨の単位。一リマーでトレニー銀貸二十枚程度だから、銀貨およそ千四百枚。
農具の修理や越冬《えっとう》のための備蓄《びちく》、それに日々の酒食や嗜好《しこう》品などに使った金の分だろうが、テレオの村が多く見積もって百世帯だとしても一世帯で銀貨十四枚。広大な耕作地があるわけでもないのに、分不相応すぎる金額だ。
「私の財産を徴収《ちょうしゅう》しても焼け石に水ですね。積荷の小麦を合わせても売る相手がエンベルクならば買い叩《たた》かれて二百枚がいいところかと」
「足りないのはそれだけじゃありません。売らずに穀倉に置いておいた今年の麦も食べるわけにはいきませんから、新しい食料の購入《こうにゅう》代金も……」
「犬に少しずつ食わせながら毒見とかはできないのかよ」
いよいよとなればその選択肢《せんたくし》もとることになる。
ただ、問題は毒かもしれない麦で作ったパンを食べながら、来年の収穫《しゅうかく》まで耐《た》えられるかということだ。
まず、無理だろう。
「ケパスの酒は目に見えない。それに、袋《ふくろ》の中の粉を一|掴《つか》みして、それが無毒であってもすぐその下に毒があるかもしれない」
仮にホロに毒麦とそうでないものとの峻別《しゅんべつ》が可能であっても、それを信じさせることができない。
無作為《むさくい》に麦粉を選んでパンを作っても、その次のパンが無毒かどうかは決してわからないのだから。
「今回のことはどう考えたってエンベルクの仕組んだことです。なのにそれを暴《あば》き立てられないというのはどうしてなんでしょうか。先に嘘《うそ》をついたほうが信用されるなんて、おかしいでしょう」
エルサが額を押さえ、吐《は》き捨てるように言う。
商売でも似たようなことはよく起こる。
先に言いがかりをつけたほうが勝ちという醜《みにく》い争いは何度も見たことがある。
神は正しさの規範《きはん》を示してくれても、正しさの証明はしてくれない、とはよく言われる言葉だ。
エルサの無力感とやるせなさは相当なものだろう。
「でも、嘆《なげ》いていても始まりません」
ロレンスが言葉をかけると、エルサは額に手を当てたままうなずく。
うなずいて、顔を上げる。
「そうですよね。私が嘆いていては、父に……フランツ司祭に……怒《おこ》られ……て……」
「エルサ!」
膝《ひざ》から下がなくなってしまったように崩《くず》れ落ちるすんでのところで、側《そば》にいたエヴァンに抱《だ》きかかえられる。
ぐったりとし、瞼《まぶた》はわずかに開かれているが目の焦点《しょうてん》が合っていない。額を押さえていたのは貧血のせいだったのかもしれない。
「イーマさんを呼んでこよう」
ロレンスの言葉にエヴァンはうなずき、椅子《いす》をどけてゆっくりとエルサを横たえる。
エルサはロレンスとホロが無茶をして迫《せま》った時も倒《たお》れていた。
礼拝に訪《おとず》れる者がいない教会の主《あるじ》。
それは、誰《だれ》からも敬われない神と変わらない。
寄付も供物《くもつ》もなく、共に暮らすのは粉|挽《ひ》きの少年。
少ないパンをどのように分け合ったのか、やりきれない思いと共に手に取るようにわかる。
ロレンスが礼拝堂の正面入り口に回ると、椅子を置いてどんと座っているイーマが何事かと立ち上がる。
「エルサさんが倒れました」
「またかい。貧血だろう? あの娘《こ》も意地っ張りだからね」
イーマはロレンスを押しのけ廊下《ろうか》を走り、程なくしてエルサを抱《だ》きかかえて戻《もど》ってきて、居間のほうへと歩いていった。
遅れてエヴァンも燭台《しょくだい》を片手にやってきたが、その顔は当然晴れない。
「なあ、ロレンスさん」
「ん?」
「俺たち……どうなっちまうんだ?」
居間のほうを見ながらぼんやりと言うエヴァンの姿は、数瞬《すうしゅん》前のエヴァンとはまるで違《ちが》う。
エルサが倒れたことで急に不安が襲《おそ》ってきたのだろうか。
そう思ったが、いや、と思いなおした。
エルサの前では決して不安なところを見せたくないのだろう。
気丈《きじょう》なエルサも、ロレンスが少し席を離れたとたんにエヴァンに助けを求めていた。
助けを求められる側《がわ》のエヴァンが弱みを見せられるわけがない。
しかし、それはエヴァンに不安がないわけでは決してない。
「エルサはそんなことないって言い張るけどさ、村の連中は、俺と、ロレンスさんのことを疑ってるんだろう?」
エヴァンは決してこちらを見ない。
ロレンスも、あらぬ方向を向いて言った。
「そうだ」
ひゅっと息を飲む音が一瞬だけ聞こえた。
「そうだよな……」
エヴァンの横顔はどこかしらほっとしているようにも見える。
それが諦《あきら》めの境地なのだと気がつくのと、「けど」とエヴァンが顔を上げるのは同時だった。
「さっき言ってたこと、ほんとなのか?」
「と言うと?」
「盗《ぬす》み聞き……してたわけだけど、その、逃《に》げられるって」
「ああ、その話か。そう、逃げられる」
エヴァンは一度居間のほうを見て、それからロレンスに顔を寄せて言った。
「エルサも?」
「ああ」
疑われることには慣れていても、人を疑うことに慣れていない目だ。
その話は信じられるのか、という疑念の火の下に、信じたいという本音がよく透《す》けて見えた。
「俺と連れだけ逃げればお前とエルサさんが確実につるし上げられる。俺の身勝手な意見としては、逃げるのであればお前ら二人も連れていきたい」
「全然身勝手なんかじゃないだろ。俺はこんなところで死にたくない。エルサだって死なせたくない。逃がしてくれるなら、逃げたい。エルサだって……」
うつむき、目尻《めじり》を拭《ぬぐ》って、エヴァンは続ける。
「こんな村、出たいはずなんだ。フランツ司祭を恩人だなんて村の連中は言うけど、感謝なんてしたことねえんだよ。フランツ司祭の教えなんかには聞く耳持たず、村の昔からの神には山ほどの貢物《みつぎもの》をするのに、教会にはパンのひとかけらもくれやしない。セム村長とイーマさんがいなければ俺たちはとっくに飢《う》え死にだ」
思いつきとは思えない、重いエヴァンの言葉。
エヴァンはそれでも全然言い足りないらしく、口を開こうとするが思いばかり先行して言葉が出ない。
そこに口を挟《はさ》んだのは、居間から出てきたイーマだ。
「外の世界も確かに楽じゃないけどね」
腰《こし》に手を当て、やれやれとばかりにイーマは言う。
「この村よりかはましだよ、と何遍《なんべん》も言ってるのに。あの娘《こ》は……」
「イーマさんは、旅に暮らされていたんですよね」
「ああ、そうだよ。酒場で聞いただろう? だからね、一生一つの町だの村だのにこだわる必要はないと思うんだよ。フランツ司祭が体調を崩《くず》して寝《ね》たきりになってからの村の連中の態度といったらなかったよ。でも、エルサも頑固《がんこ》でね。あんたは言わなくても村から出たくて仕方がない様子だったけど」
と、エヴァンは言われて、怒《おこ》るべきなのか照れるべきなのかわからないというふうにそっぽを向く。
「今回のことは……村にとっちゃあ大|惨事《さんじ》だし、あたしも明日からの生活を思うと怖《こわ》くて仕方がない。けど、この村で異質なこの教会が、この村に見切りをつけるのにいい機会なんじゃないかな」
見切りをつける、と言えば聞こえはいいが、要は追い出されるのと変わらない。ホロが聞き耳を立てていなければいい、と思うような話だ。
ただ、このままここに残って心中というのは賢《かしこ》い選択《せんたく》とは思えない。
「だから、あんた……えーと」
「ロレンス。クラフト・ロレンス」
「そう、ロレンスさんがどうにかして二人|諸共《もろとも》にここを逃《に》げ出せるのなら、逃げたほうがいいんじゃないかとあたしは思う。いや、逃げて欲しい。なにせここはあたしの故郷だ。そんな故郷で、人が理不尽《りふじん》につるし上げられて死んだとあっちゃあ、どんな評判が流れるかわからない。これ以上悲しいこともないさね」
毒麦が見つかり、麦を返品されることで村が危機的|状況《じょうきょう》に晒《さら》されるという最中《さなか》、村の評判を心配できる者がどれだけいるだろうか。
「なら、やっぱり、エルサを説得しないとな」
エヴァンの言葉に、イーマはうなずく。
ロレンスのように文字どおり故郷に見切りをつけてあとにする者もいれば、止《や》むに止まれず出る者もいるし、イーマのように滅《ほろ》ぼされて失う者もいる。
ホロはちょっとした旅に出るつもりで故郷をあとにして、その後何百年と帰ることなく、その間に滅びてしまった。
望んだり、望まないことだったり、どうして世の中はままならないのか。
教会にいるせいか、ロレンスは柄《がら》にもなくそんなことを思ってしまう。
「多分、エンベルクからの使いが来るまでは皆《みな》しばらく静かだろうから、それまでに準備して出るなら出たほうがいい」
セム村長は、エンベルクからの使いが来るとしたら夜明け頃《ごろ》だろうと言っていた。
夜明けまでにはもうしばし時間がある。
エヴァンはうなずいて、早速《さっそく》居間のほうへと走っていった。
ロレンスも少しホロの様子を見に行こうとして、イーマに声をかけられた。
「ああは言ったけど、あんたたち、一体どうやって逃げるつもりなんだい?」
至極《しごく》もっともな質問だ。
ただ、その答えはまったくまともではない。
だからロレンスは迷わずに言った。
「ある日山奥に入ってそこでうまいビールの仕込みをしている乙女《おとめ》に出会う人間がいるのなら、ある日同じくらい不思議な存在に出会う者がいてもおかしくはない」
イーマは一瞬《いっしゅん》きょとんとして、それから疑うように笑う。
「まさか、妖精《ようせい》に出会ったとでも言うのかい」
これは一つの賭《か》けだ。
ロレンスは肩《かた》をすくめ、曖昧《あいまい》にうなずいた。
「はは……はっはっは。そんなことが本当にあるのかね」
「それはイーマさんを見つけた伯爵《はくしゃく》から、そのお話を初めて聞く人も同じことを思うでしょう」
イーマは笑い、そして、ゆっくりと自分の頬《ほお》を撫《な》でた。
「旅に暮らしていれば、そんな話は確かに聞くものだけど、まさか、本当に、ねえ……あんたの連れがってことだろう?」
賭《か》けはロレンスの勝ちだった。
「ここは教会ですから、滅多《めった》なことは言えません」
「そりゃそうだ。でも、まあ、あたしは酒場の女将《おかみ》だからね。年中|酔《よ》っ払《ぱら》っているようなものさ。あたしが願うのは、この村が良い村であることだけさ。引き止めて悪かったね」
これには明確に首を横に振《ふ》る。
すると、イーマはにかりと笑ってこう言った。
「幸運の妖精《ようせい》は花の蜜《みつ》から造った酒に酔わせて瓶《かめ》に誘《さそ》い込むと聞いたことがある。それに、あたしがこの村に誘い込まれたのも酒が縁《えん》さね」
「困った時には酒に頼《たよ》ってみます」
「そうするといい」
ロレンスは笑いながら身を翻《ひるがえ》し、廊下《ろうか》を曲がって暗がりを進む。
そして、ホロがいるはずの礼拝堂の後ろに回ろうと二つ目の角を曲がって、直後に壁《かべ》に顔をぶつけた。
と、思ったのは、突然《とつぜん》目の前に現れた分厚い本だった。
「たわけが。酒に飲まれるようなわっちじゃありんせん」
ロレンスは鼻をさすりながら本を受け取り、それでもちらりとホロの顔を盗《ぬす》み見る。
泣きじゃくったようには見えない。
その点は、少しほっとした。
「で、話はまとまったかや」
「ほぼ、な」
「ふむ。まあ、わっちゃあもう目的を果たしんす。あとはぬしの身の安全を守るだけじゃ」
これだけの分厚い本にもう目を通し終わったのか。
ロレンスが本に視線を向けると、ホロは壁に寄りかかって小さく笑う。
「感想はな、半々じゃ」
「半々?」
「見なければ良かった。それと、見て良かった」
はっきりしない答えだが、ホロは適当にめくってみればよいとばかりに顎《あご》をしゃくると、蝋燭《ろうそく》の前に座り、もそもそと尻尾《しっぽ》を取り出した。
羊皮紙の挟《はさ》んであるところが、ヨイツに関するところかもしれない。
ただ、ロレンスは本の最初からページをめくっていった。
その本では、熊《クマ》の化け物がどこから来てどこに行き、なにをしていたのかがさまざまな地方の話をつなげることによってひとつの物語のように語られていた。
月を狩《か》る、などという大それた形容を戴《いただ》いている熊の化け物は、それに見合うほどに巨大だったらしく、どれほど高い山であっても腰掛《こしか》けほどにしかならなかった、と書かれているのだから相当なものだ。
性格は凶暴《きょうぼう》で、全身が雪のように真っ白であったことから死の使いとも呼ばれていたらしい。逆らうものには容赦《ようしゃ》せず、それどころかあちらこちらの神と呼ばれているものたちに戦いを挑《いど》んでは殺して回り、のちにその地の食べ物を食らうだけ食らって次の土地へ行く。そんな話ばかりだった。
羊皮紙の挟《はさ》まれているところ以外は、どこをめくっても似たような話しかない。
そんな中、最もページ数が多かったのは本の最後に収録されている、テゥペロヴァンの大|海蛇《ウミヘビ》と呼ばれている、その背には一つの大陸と無数の島々があるといわれる海蛇の化け物との戦いについて。そこには戦いの激しさをつづった歌までもが記され、現在残っているラドゥーン地方の島はこの時の戦いで海に残された破片だと書かれている。熊との戦いは壮絶《そうぜつ》を極《きわ》め、どれほどすさまじかったかが多くページ数を割《さ》かれて記述されている。
他《ほか》の話もこれほどとはいわずとも派手なものばかりで、いかに熊が無敵で凶暴であり、またいかに多くの神々が滅《ほろ》ぼされたかが書かれていた。
フランツ司祭があえて特別視したくない、と言った気持ちもよくわかる。
この話を信じるならば、北の地方の異教の神々たちは、南から教会が押し寄せる前にひどい有様になっていたのだ。
そして、ホロにとって最も重要なヨイツについての記述だが、最後にこれを読み終えた時のロレンスの気持ちはなんとも複雑なものだった。
ヨイツの記述もあるにはあったが、土地の神々は尻尾《しっぽ》を巻いて逃《に》げ出してしまったらしく、木の実が枝から落ちるほどの時間でヨイツは熊の爪《つめ》によって引き裂《さ》かれた、としか書かれていなかった。ぱらぱらとページをめくっていたら見落としてしまうかもしれない。
土地の神々というのはホロの仲間だろう。彼らは尻尾を巻いて逃げたというのだから無事なのだろうが、その情けなさは隠《かく》しおおせない。
ホロが、見なければ良かったし見て良かった、と言った気持ちがよくわかる。
それに、ヨイツの話だけが冴《さ》えないこじんまりとしたものだったことも、ホロには面白《おもしろ》くなかっただろう。
とはいってもそれは徹底抗戦《てっていこうせん》して大きな被害が出たというわけではないのだから、不幸中の幸いというべきことだ。この分なら、土地が駄目《だめ》になっただけで、ヨイツの名を知る者たちは丸ごとどこかに移住しているかもしれない。
ただ、ホロがそれに対して諸手《もろて》を上げて喜べなかったのと同様、ロレンスもホロになんと言葉をかけていいのかわからない。故郷の者たちが殺されていないのは、その弱腰《よわごし》のお陰《かげ》だったのだから。
本を閉じ、ロレンスはそっと視線をホロの背中に向ける。
神と呼ばれる存在が無条件に世界の中心であった時代は過ぎようとしている。それは教会が強大な影響《えいきょう》力を持つ南でもそうだ。
しかし、昔であっても世界の中心になれない神たちはたくさんいた。
人の世とあまり変わらない神たちの事情を目の前にして、ホロの背中がいつもより小さく見えた。
ホロなどは、村の人間にすらないがしろにされていたのだから。
ホロの寂《さび》しがりの原因がわかったような気がした。
それは、人と同じ、それこそ、見た目どおりの子供のようなものなのではないかと、そう思った――矢先だった。
「なにか腹が立つような視線を向けられておる気がするが、わっちの気のせいかや」
じろりとホロが振《ふ》り向き、ロレンスは気圧《けお》されてしまう。
小国の王とはいえども、王は王なのだ。
「そんなことは……いや、ある。あるよ。悪かった。そんなに怒《おこ》るなよ」
いつもならすぐにそっぽを向きそうなものなのに、しつこく睨《にら》むホロに慌《あわ》てて降参する。
もしかしたら図星なのかもしれない。
「ふん。昔の仲間が無事だったというだけでわっちゃあ満足じゃ。他《ほか》にはなにもありんせん」
だからそれ以上なにも詮索《せんさく》するな、とこのあとに続けて言いたかったのだろうが、もちろん誇《ほこ》り高い賢狼《けんろう》がそんな情けないことを言えるわけがない。
ただ、やはりそんな少し子供っぽいところにロレンスは微笑《ほほえ》ましいものを感じてしまう。
どうしても口元に浮かんでしまう笑みを咳払《せきばら》いでごまかしてから、口を開く。
「それは確かに良き報《しら》せだが、ヨイツの場所についての情報はなにもないな」
本を再びぱらりとめくる。
ヨイツそのものの情報もさることながら、熊《クマ》の話はどれも相当古い話らしく、聞いたことのない国の聞いたことのない村や町で語られていたとあるのが大半だった。
そのうちのいくつかについては、特に大|海蛇《ウミヘビ》の話ならロレンスも何度か聞いたことがあるし、舞台となっているラドゥーン地方も知っているが、ヨイツの場所を特定するには至らない。
しかし、これほどすさまじい爪痕《つめあと》を各地に残している熊についての話のうちで、特にぱっとしないヨイツについての話を耳にしたのはどういう偶然《ぐうぜん》なのか。
考えても仕方のないこととはいえ、少しだけ気になった。
「世の中、本当にままならないな」
本を閉じると、ホロは尻尾《しっぽ》の先を噛《か》み、「まったくじゃ」とため息まじりに答えたのだった。
「で、この村のままならぬ連中はどうするんじゃ。ぬしも逃《に》げるならさっさと決めてくりゃれ。夜の闇《やみ》に紛《まぎ》れられるならば、それが一番良い」
「俺たちの運命は、エルサの予測も俺の予測も同じだった。まあ、まず間違《まちが》いないと見ていいだろう。そうなれば三十六計逃げるにしかず、だな」
「下手の考え休むに似たりじゃろうが」
あふ、と欠伸《あくび》をしながらホロは言って、立ち上がった。
「じゃが、そうなると今回はぬしの大損じゃな」
「仕方ないとしか言いようがない。小麦は持ち出すなんて無理だしな」
「それにしては今回のぬしは取り乱しておらぬな」
「そうか?」
と、顎《あご》を撫《な》でるが、ロレンスもこの手のことに巻き込まれるのは初めてではない。どうしようもない損失というのに見|舞《ま》われることはたまにある。
もっとも、クメルスンでの予期せぬ儲《もう》けがあったお陰《かげ》ともいえるが、ロレンスは自分自身|驚《おどろ》くほど落ち着いていた。
それに旅人の命は村といった閉鎖《へいさ》的なところではとても安い。命の危険がないというだけで十分すぎるほど儲けものだ。
「だが、持ち運びのできる高価なものならこういう事態でもどうにかなるんだよな」
「いつだかの胡椒《こしょう》とか、そうじゃろう」
ただ、同じことを考える商人たちはたくさんいる。その上胡椒などの香辛料《こうしんりょう》は希少だから高価なのだ。そもそも仕入れられなければ輸送することはできない。
そんなことを思っている最中に、ふと思いついた。
「ただ、香辛料以上に軽くて持ち運びのできる高価なものがある」
「ほう」
「信用だ」
ホロは珍《めずら》しく感心するような顔をして、それから意地悪そうに笑った。
「ぬしからの信用が高くなったら、売りに出さんとな」
「俺がお前にからかわれすぎて疑心暗鬼《ぎしんあんき》になっているということを知っているか?」
くつくつとホロは喉《のど》を鳴らして笑い、するりとロレンスの右|腕《うで》に自身の腕を絡《から》ませてきた。
「では、取り戻《もど》さんとな」
「こういうことをされるからというのがわからないのか」
しかしホロはまったく動じず、目を細めると囁《ささや》くように言った。
「嘘《うそ》は信用を落としんす」
ずるい、としか言いようがなかった。
「ま、ぬしは一度もわっちを責めなかった。それは素直《すなお》に嬉《うれ》しい」
「え?」
「わっちがここに来たいと言わなければ、ぬしは損をしなかった」
ここでこんなカードを切るのだ。
それはきっと本音だ。
「なら今後はその損を埋《う》められるように飲食を控《ひか》えるんだな」
ロレンスがそう言うと、ホロは悔《くや》しそうに唸《うな》る。
「ぬしも最近は加減を知らなくなってきたの」
「ならせいぜい手綱《たづな》を……」
と、本の隙間《すきま》から落ちそうになっていた羊皮紙を挟《はさ》みなおしながら言いかけたところで、ホロと目が合った。
なにも二人の間抜《まぬ》けなやり取りを前に、呆《あき》れるようにうつむきがちだった聖母の像の祝福を受けるような理由ではない。
ロレンスの耳にも届くくらい、教会の扉《とびら》を叩《たた》く大きな音がしたのだ。
「嫌《いや》な予感がするが」
「そういう時は大抵《たいてい》が当たりんす」
ホロはぱっとロレンスの腕《うで》から離《はな》れ、二人は廊下《ろうか》を走っていく。
扉を叩く音と、イーマが何事かを怒鳴《どな》り返している声が聞こえてくる。
その内容がロレンスたちを出せという押し問答だとわかるのは、すぐのことだった。
「あ、こっちに来るんじゃないよ。奥に、奥に行ってな」
「しかし」
「あんたらを犯人としてエンベルクに差し出せば許してもらえる、とかほざいてるんだ。村の連中は自分たちでなんとかしようなんて最初から考えてないんだよ。麦だって結局は地面から勝手に生えてくるんだ。都合がいいと思えば後先考えず刈《か》り取るのが相場さ」
イーマが喋《しゃべ》る最中もどんどんどんと扉が叩かれる。
ここは腐《くさ》っても異教徒のあふれる地の教会だ。扉の内側には強固な横木を通す閂《かんぬき》がある。
扉が打ち破られるようなことはないだろうが、居間のほうには頼《たよ》りない木窓があるのだ。村人たちが本気になったら、そちらを打ち破って簡単に教会内に入ってくることができる。
状況《じょうきょう》は一刻を争う。
そんな折、エヴァンがエルサを伴《ともな》ってやってきた。
「私が出て説得を」
「馬鹿《ばか》言うんじゃないよ」
「でも」
イーマは内側から一度扉を盛大に殴《なぐ》ると、すぐにエルサを振《ふ》り向いて諭《さと》すように言った。
「あんたが出ていっても火に油を注ぐようなものさ。あんたら二人は隠《かく》しているつもりらしいけど傍《はた》から見りゃエヴァン坊《ぼう》となかよしこよしなのは丸わかりさ。へたすりゃ村の連中はエンベルクに媚《こ》びるためにあんたを異端《いたん》として差し出すかもしれない」
イーマはよく物事を捉《とら》えている。
ロレンスの頭にもその図は容易に描《えが》き出すことができる。頼《たの》みの綱《つな》のセム村長は、村人とエルサたちの間に挟《はさ》まれて、結局村を取るだろう。
誰《だれ》だって命と地位と名誉《めいよ》、それに故郷は惜《お》しいのだから。
「いいかい。もうこの村にいたって駄目《だめ》だ。この二人の変な旅人を見たってわかるだろう。外の世界は広い。そして、村の連中の料簡《りょうけん》は狭《せま》い。どこにいたって大変なら、せめて信用できる連《つ》れ添《そ》いと新しい生活をするべきだ」
捨てなければならないものは多いけれども、手に入れるものだって多い。
イーマが重ねて言うと、エルサはエヴァンを振《ふ》り返り、二人|一緒《いっしょ》に少しうつむく。
それが言葉を交《か》わさずに互《たが》いの気持ちがわかる二人の仕草なんだと気がつくのと、ホロがさりげなく服の袖《そで》を掴《つか》んでくるのははぼ同時だった。
ホロが口にしたことはないが、ホロだって何百年もいた村から立ち去るには捨てなければならないものも多かったはずだ。
「ほら、どんな旅路であっても、分かれ道をどちらに行くかを決めるのは一瞬《いっしゅん》だ」
「同意見ですね」
ロレンスが付け加えると、エルサはぎゅっと目をつぶり、隠《かく》さずにエヴァンの手を取った。
そして、目を開いた。
「逃《に》げたいです」
イーマがロレンスを振《ふ》り向き、ロレンスはホロを見た。
その頃《ころ》には、ホロはロレンスの掴《つか》んだ服の袖《そで》からさりげなく手を離《はな》し、腰《こし》に手を当ててこう言った。
「任せよ、と言う代わりに、ひとつ条件がありんす」
かぶっていたフードをためらわずに外し、驚《おどろ》くイーマとエヴァンをよそに静かに続けた。
「これから先見ることは、夜明け前の夢、と思うことじゃ」
覚悟《かくご》を決めるとなると女のほうが早いものなのかもしれない。
エルサが先にうなずき、それを見て釣《つ》られるようにエヴァンがうなずいた。
「あたしは森でビールを仕込んでいた妖精《ようせい》だからね。酔《よ》っ払《ぱら》ってなにも覚えちゃいない」
イーマの言葉にはホロも笑い、「では任せるがよい」と言った。
「じゃが、たとえ外の連中が長い槍《やり》を持っておっても飛び越《こ》える自信がわっちにはあるが、困るのはぬしらじゃ」
「この教会に、裏口などは?」
ロレンスがホロの言葉を引き継《つ》ぐと、エルサは一瞬《いっしゅん》首を横に振りかけて、「もしかしたら」と言った。
「フランツ司祭から、一度だけ地下室の存在の説明をされたとき、その奥に地下通路があると」
教会の構造はどこだって同じなら、やることだってどこも同じなのだ。
敵の多い教会がその地下に秘密通路を作っているのは、その手の人間たちの間では有名な事実だ。
「では、そちらに」
エルサはうなずき、イーマに視線を向ける。
「まあ、もう少しくらいなら大丈夫《だいじょうぶ》だろ。どうせ外ではさてどうするとばかりにまごついてるだろうから」
確かにイーマが扉《とびら》を殴《なぐ》り返してからは扉の向こうからざわめきが聞こえてくるだけだ。
「では、私たちは先に地下室の入り口を」
「お願いします」
エルサの物言いは気丈《きじょう》だったものの、その顔はとても不安げだ。
ある日|突然《とつぜん》生まれ故郷を発《た》たなければならないと言われれば、日々外に出ることばかり考えているならばまだしも、誰《だれ》だって動揺《どうよう》する。
「なに、出ていくのに多少でも準備できるだけましさ」
海賊《かいぞく》に町を焼かれて命からがら逃《に》げ出したというイーマ。
「ふむ。故郷が明日にでも消えてなくなるわけじゃあるまいしの。あるだけましじゃ」
「おや、妖精《ようせい》さんもかい」
「わっちをあんなひ弱な連中と一緒《いっしょ》にするでない」
誰《だれ》かがすごい苦労をしているからといって、自分の苦労が軽くなるわけではない。
けれども自分への叱咤《しった》くらいには利用できる。
エルサはすぐに気を取り直して、力強く言った。
「すぐに準備してきます」
「でも、路銀《ろぎん》はあるのかい?」
「エヴァン」
ロレンスが名前を呼ぶと、エヴァンは預かったままの皮袋《かわぶくろ》を思い出したように取り出し、ロレンスに返す。
「まあ、四人いても贅沢《ぜいたく》しなければ十分でしょう」
「そうかい。それじゃ、はい、行った行った」
イーマの言葉に、全員が思い切りよくその場から散った。
ああいうのを女傑《じょけつ》というのかもしれない。
ロレンスが走りながらそう思うと、聖母の像の前に到着《とうちゃく》してから、胸中を読んだかのようにホロが口を開いた。
「さすがのわっちも見た目の貫禄《かんろく》で負けたの」
ロレンスは思わず口を開こうとして、思いとどまった。
が、それに気がつかぬホロではない。
「心配するでない。わっちゃあこれ以外の人の形になれぬ」
楽しげに笑うホロに、ロレンスは気恥《きは》ずかしさもあってむっとして反論してやった。
「それは残念だ。俺はもう少し豊かな体つきのほうが好きだからな」
ホロは小首をかしげてにこりと笑い、ロレンスの頬《ほお》を握《にぎ》りこぶしで殴《なぐ》った。
「さっさと地下室を開けぬか」
どのへんに怒《おこ》ったのかは、余計に怒《いか》りを招きそうなので詳《くわ》しく考えないようにした。
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第五幕
旅をしたことのない人間に短時間で旅装を、というのは無茶かもしれないと少し不安だったのだが、側《そば》に日々外に出ることを考えていたエヴァンがいたからかもしれない。
エルサとエヴァンが用意してきたものの中には余分なものがなく、あるとすれば擦《す》り切れた聖典だけ。合格点だ。
「通路は?」
「ありましたよ。壁《かべ》のように細工されていましたが」
地下室の階段を下りてまっすぐ行った正面に、そこだけぽっかりと本|棚《だな》の置かれていない壁があった。
地下室には隠《かく》し通路がある、と言われていれば、ここを疑わないわけにはいかない。数度壁を叩《たた》くとすぐに向こう側が空洞《くうどう》だとわかり、何度か蹴《け》ると石の間に詰《つ》めてある泥《どろ》がひび割れ、ついには穴が開いた。
壁の向こうは、不気味なほどにまん丸の不思議な地下通路。
通路というよりも、なにかの穴のように思えた。
「では、いいですね?」
聖母の像が見守る中、ロレンスの言葉にエルサとエヴァンはうなずく。
イーマは入り口で村人たちが無茶な手段に出ないか見張っているはずだった。
ロレンスは一度深呼吸をすると、燭台《しょくだい》を持って先頭を行った。そのすぐ後ろにホロが続き、エルサ、エヴァンと続く。
地下室にはまだ読んでいない本がたくさんある。この中にはもしかしたらホロの仲間のことを直接記したものもあるかもしれない。
それに、商人の目で見てもこの立派な装丁の本は一財産だ。
路銀《ろぎん》の足しに一|冊《さつ》持っていきたいくらいではあったが、異教の神の話がぎっしり詰《つ》まった本を持ち歩くような度胸はロレンスにはない。
耳と尻尾《しっぽ》の生えた異形《いぎょう》の娘《むすめ》は商人顔負けの言い訳を披露《ひろう》できるが、本は沈黙《ちんもく》しかしないからだ。
そして、地下通路に足を踏《ふ》み入れた。
その瞬間《しゅんかん》に体に絡《から》みつく妙《みょう》な寒さ。穴の高さはロレンスがやや前かがみになる程度で、横|幅《はば》は両手を伸《の》ばして届く程度。空気が淀《よど》んでいたり、カビだらけであったりということは幸いにしてなかった。
ただ、中に入り蝋燭《ろうそく》で照らしてみてわかったことは、やはりこの穴が妙《みょう》に円形であることと、ところどころ大きな岩ごと通路の形に削《けず》られていることだった。
しかも、わざわざ鑿《のみ》でそうしたかのように綺麗《きれい》に削り取られている。
かといってその穴はまっすぐではなく、グニャグニャと折れ曲がっていた。
通路をまっすぐにするつもりでもなければわざわざ岩を削るような真似《まね》などしなくてもよさそうなものだが、よくわからない。
それに、通路の中はどことなく生臭《なまぐさ》い感じがして、港町パッツィオで潜《もぐ》った地下水路とは質の違《ちが》う不気味さだった。
右手に燭台《しょくだい》を持ち、左手でホロの手を掴《つか》んでいたが、その手からはわずかな緊張《きんちょう》が感じ取れた。
通路の中では誰《だれ》もなにも喋《しゃべ》らない。
地下室の入り口はイーマが折を見て閉じる予定になっていて、もしこの通路の先が出られないようなことになっていたら再度イーマにきちんと入り口を開けてもらえるかととても不安になる。
それでも緊張に負けず無駄口《むだぐち》を叩《たた》かないで先頭を歩けたのは、この道がぐにゃぐにゃと曲がりながらも完全な一本道だったからだ。
これがもしも枝分かれでもしていたら、重圧に負けて口を開いていただろう。
そんなふうにして全員が押し黙《だま》り通路を歩いてどれくらい経《た》ったのか、どことなく生臭い空気が漂《ただよ》っていた通路の中で、新鮮《しんせん》な外の空気の匂《にお》いがした。
「外が近い」
と、ホロが一言だけ呟《つぶや》き、エヴァンなどはあからさまに安堵《あんど》のため息をつく。
蝋燭の頼《たよ》りない火を消さないようにと注意しつつも、それでも足は勝手に速くなる。
耐《た》え難《がた》い不気味さに急《せ》かされ、実際は深呼吸三回分くらいの短い時間だったのだろうが、ついに月明かりが見えてきた。
穴の出口はうっそうとした木々に隠《かく》されているか、岩と岩の間の隙間《すきま》に潜《ひそ》んでいるものだとばかり思っていたが、出口に近づくにつれてどうやらそんなことはないらしいことがわかった。
出口はぽっかりと開き、貪欲《どんよく》に月明かりを飲み込んでいる。
しかも、人知れずひっそりと設けられているものだとばかり思っていたのに、穴を出たところには、なにか祭壇《さいだん》らしいものがあった。
近づいてみると、平べったい石が大きな四角い石の上に置かれていて、その上には干《ひ》からびた果物と、麦の束が置かれている。
ロレンスはそれを見た瞬間《しゅんかん》に、まさか、と胸中で呟《つぶや》いた。
ホロもすぐに気がついたらしく、視線をロレンスに向けてくる。
遅《おく》れて、エルサが声を上げた。
「こ、これは」
「はっは、こりゃいいや」
最後に、エヴァンが笑った。
教会から続いていた穴は、どうやら村の外側にある丘《おか》を突《つ》き抜《ぬ》け、反対側の斜面《しゃめん》に出ているようだった。
緩《ゆる》やかな斜面を下っていけば、その先にはまばらな林があり、わずかにその隙間《すきま》を流れる小川の存在が月明かりの反射でわかった。
四人共に穴から出て、辺りに村人の姿がないことを確認《かくにん》してから、穴を振《ふ》り返る。
「ロレンスさん、この穴なんだと思う」
エヴァンの問いに、わざと首を横に振る。
「さあ、わからないな」
「これ、トルエオ様が大昔に北からやってきた時に冬眠《とうみん》をしたという穴だよ」
供《そな》え物のされている祭壇のような石を見てそうではないかと思ったが、本当にそうだと言われるとやはり驚《おどろ》きを隠せない。
「毎年|収穫《しゅうかく》の時期と種まきの時期には、村の方たちがこの前でお祈《いの》りとお祝いをします。私たちはめったに参加しませんけど……なぜ、こんな、教会の通路がここに……」
「経緯《けいい》はわかりませんが、考えたものですね。これなら村人たちは間違《まちが》っても穴の奥に入らない」
ただ、ロレンスももちろんおかしな点があることに気づいている。
もしもこれがフランツ司祭の掘《ほ》った穴であるのならば、いくらなんでもこの穴を掘る時にばれなかったのはおかしいし、それに、トルエオは教会ができる前から崇拝《すうはい》されていたはずだ。
そう思ってホロのほうを見ると、ホロは何気なく穴の中を見ていた。
それだけで、ロレンスにはわかったのだ。
妙《みょう》にぐにゃぐにゃと曲がり、ところどころ石が綺麗《きれい》に削《けず》り取られていて、しかもこれほど立派な洞穴《ほらあな》なのに蝙蝠《コウモリ》の姿がない。
そして、穴の中に漂《ただよ》っていた妙な生臭《なまぐさ》さ。
ロレンスの視線に気がついたホロはにやりと笑い、空に浮かぶ月のほうにくるりと身を翻《ひるがえ》した。
「ほれ、こんなところにおっては見つけてくれというようなものじゃ。ひとまずあの川沿いまで下りぬかや」
異論はない。
エルサとエヴァンは乾《かわ》いた枯《か》れ草が生《お》い茂《しげ》る斜面《しゃめん》を小走りに下りていき、ロレンスは蝋燭《ろうそく》を消して再度辺りを見回してからホロに視線を戻《もど》した。
「この穴、本物なんだろう?」
二人の前ではとても言えない。
「巨大な蛇《ヘビ》。どれほど昔かまでは、さすがのわっちにもわからぬ」
それがトルエオかどうかはわからない。
教会の地下室がこの大穴と通じていたのは偶然《ぐうせん》かもしれないし、普通《ふつう》に考えるならばあの地下室はこの大穴の途中《とちゅう》に作られたもので、通路の反対側にはこの穴の続きがあるだろう。
その先の地下で巨大な蛇がとぐろを巻いているかどうかはわからなかったが。
ただ、ホロは楽しそうな、それでいて哀《かな》しそうな、懐《なつ》かしい思い出を見るような目で小さく言った。
「たまたま掘《ほ》った穴をいちいち崇《あが》められておっては、おちおち昼寝《ひるね》もできぬじゃろうな」
「……験《げん》を担《かつ》いで聖人の歩いた道を行商路にしている身としては耳が痛いな」
ホロは笑って、肩《かた》をすくめた。
「人はすぐになにかを崇めたがるおかしな生き物じゃからな」
そして、にやりと質の違《ちが》う笑《え》みを浮かべた。
「ぬしもわっちを崇めたくなろう?」
神として怖《おそ》れ敬われるのを嫌《きら》うホロだ。もちろん言葉どおりの意味ではないだろう。
ただ、そうであってもホロの言葉に返す言葉はない。
機嫌《きげん》が悪ければその怒《いか》りを静めるためについ貢物《みつぎもの》をしてしまうのだから。
ロレンスがため息をついて目をそらすと、ホロはくつくつと喉《のど》を鳴らす。
そして、不意にロレンスの手を取って、「行こう」と斜面を走り出した。
その横顔はロレンスをからかった満足感に満ちたものではなく、どことなくほっとしたような、安堵《あんど》したような横顔だった。
ホロは村人たちに祭られているトルエオの穴を見て、昔自分のいた村のことを思い出したのかもしれない。
最後にロレンスをからかったのは、きっと感傷的になってしまった照れ隠《かく》しだろう。
月明かりの下を走るホロ。
ロレンスにはホロの抱《かか》える弱い箇所《かしょ》をどうにかすることなどできない。
できることといえば、ホロがそこを痛がっていればただ側《そば》にいることと、隠したがっていれば気がつかないふりをすることだけ。
それが情けないと思えなくもないが、それでもホロはロレンスの手を取ってくれるのだ。
ホロとの距離《きょり》は、これが一番なのかもしれない。
ほんのわずかな寂《さび》しさを持って、そう納得《なっとく》した。
そんなことを思いながら斜面《しゃめん》を下りて、一足先に川べりにたどり着いていた二人に追いついた。
「それで、どうやって逃《に》げるんだ」
エヴァンの問いを、ロレンスはホロに丸投げする。
「一度エンベルクのほうに向かう」
「え?」
「わっちらは一度町を通ってきておる。隠れながら逃げるつもりじゃからな。多少でも土地|勘《かん》があったほうがよい」
なるほど、とばかりにエヴァンはうなずく。
しかし、ホロはどことなく不満げに、石を蹴《け》っ飛ばして川面《かわも》に向かってため息をついた。
「一つ言っておく」
そして、振《ふ》り向くと手をつなぐエルサとエヴァンにこう言った。
「怯《おび》えたら、その時点で食い殺すからの」
その言葉そのものが脅《おど》しになっているんじゃないのか、ともう少しで口から出るところだったが、ホロも当然わかっているのだろう。
子供が意地になって自分で無茶なことを言っているとわかっても、なお言わずにはいられない気迫《きはく》のようなものを感じた。
案の定、ホロの剣幕《けんまく》に飲まれてぎこちなくうなずいた二人に対し、どことなく気恥《きは》ずかしそうにそっぽを向く。
「二人は後ろを向いておれ。ぬしよ」
「ああ」
ケープを取って、ローブを脱《ぬ》いで、と次々とロレンスに服を手|渡《わた》していく。
見ているだけで寒そうな様子だが、突然《とつぜん》服を脱ぎ始めた音にエヴァンがつい振り向いてしまったらしい。
ただ、それはホロに咎《とが》められるというよりも、隣《となり》のエルサに叱《しか》られている。
少しだけ、エヴァンに同情した。
「まったく、なんでこんなに人の姿は寒いんじゃ」
「見ているこっちも寒くなる」
「ふん」
靴《くつ》も脱《ぬ》いでロレンスに投げるように渡《わた》し、最後に首から提《さ》げていた麦の詰《つ》まった巾着《きんちゃく》を外す。
月明かりの下で、葉を落とした木立がまばらな林の中。
目の前には鏡のように月明かりを反射する小さな川。
その前に佇《たたず》むすらりとした体つきに、それだけ妙《みょう》に温かそうな尻尾《しっぽ》を生やし、機敏《きびん》に動く耳を有した異形《いぎょう》の娘《むすめ》。
夜明け前に見る夢のような光景だ、というのもあながち言いすぎではない。
白い息がホロの口元から伸《の》び、ふと視線がロレンスに向けられた。
「褒《ほ》め言葉が欲しいか?」
肩《かた》をすくめて言ってやると、呆《あき》れたような笑顔《えがお》を返された。
ロレンスはくるりと身を翻《ひるがえ》し、ホロから目をそらす。
皓々《こうこう》と照らす月明かりの下《もと》、娘が狼《オオカミ》に変わる。
世界は教会だけのものではない。
そしてその事実は、小川の流れる此岸《しがん》と彼岸《ひがん》ほどの差もないのだ。
『やはりわっちの毛皮は実によい』
低く、地を這《は》うような声に振《ふ》り向けば、赤みがかった月のような一対《いっつい》の瞳《ひとみ》がロレンスに向けられていた。
「売りたくなったらいつでも言ってくれ」
唇《くちびる》が釣《つ》り上がり、ぞろりと牙《きば》が顔を出す。
それでもそれが笑顔《えがお》なんだとわかるくらいにはホロのことが理解できる。
あとは、エルサとエヴァンが怯《おび》えないかということだが、こちらは後ろ姿の時点でホロのため息を誘《さそ》っていた。
『ふん。期待などしておらぬ。早く乗るがいい。見つかれば面倒《めんどう》くさいことになる』
それでも犬に睨《にら》まれた小鳥は人が近づいても飛び立つことはできない。
ロレンスがエルサとエヴァンの前に回り込み、顎《あご》をしゃくってやることでようやく二人は後ろを振り向いた。
ロレンスだって、初めて見たときは腰《こし》を抜《ぬ》かしそうだったのだ。
二人が卒倒《そっとう》しなかっただけでも心の中で拍手《はくしゅ》を送りたい。
「これは夜明け前の夢。そうでしょう?」
ホロの服をたたみながら、固まる二人に言ってやる。
特にエルサのほうに向けて。
ただ、二人はそれ以上|騒《さわ》ぎ立てることも逃《に》げ出すこともなく、ゆっくりとロレンスのほうを振《ふ》り向いて、また前を向く。
「フランツ司祭は、嘘《うそ》つきじゃなかったんだな」
ポツリと呟《つぶや》いたエヴァンの言葉に、ホロは少しだけ牙《きば》を剥《む》いて笑った。
「さあ、乗ろう」
ホロはやれやれとばかりにため息を再度つき、その場に腹這《はらば》いになる。
ロレンス、エルサ、エヴァンの順にホロの背中に乗り、それぞれごわごわの毛を掴《つか》んだ。
『背中から落ちたら口で咥《くわ》えるからの。覚悟《かくご》しておけ』
どうやら背中に人を乗せた時の決まり文句らしい。
エルサとエヴァンがあからさまに毛を掴む手に力を込めると、ホロが喉《のど》で笑っているのがわかった。
『では、行こう』
走り出したホロは、すぐに完全な狼《オオカミ》になった。
ホロの背中の上は、氷の中にいるかのように寒かった。
ホロの足は恐《おそ》ろしいほどに速く、村を大回りし、丘《おか》を回り込んでエンベルクを目指したが、ロレンスたちが荷馬車で来た道をあっという間に戻《もど》っていく。
エルサもエヴァンもホロの背中の上で怯《おび》えているどころではないだろう。
がたがた震《ふる》えていたとしても、それが寒さなのか怖《こわ》さなのか本人にだってわからないはずだ。
道なき道を行くのでホロの背中に押し付けられたり、逆に体が宙を舞《ま》ってしまいそうになったりと忙《せわ》しない。
それでもロレンスは必死にホロの背中にしがみつき、あとは後ろのエルサとエヴァンが振《ふ》り落とされないことを祈《いの》るのみだった。
それからどれほど時間が経《た》ったのか、気が遠くなるほど長い時間だったような気もするし、ふっとまどろんだだけのようなわずかな時間しか経っていないような気もするそんな時間ののち、ホロは足を緩《ゆる》め、どすんと腹這いになった。
誰《だれ》かに見つかったのか、と聞く者もいない。
この場で最も疲《つか》れていないのは、間違《まちが》いなく三人を背中に乗せているホロだ。
体が強張《こわば》り、掴んだままのホロの毛すら離《はな》せないのに、耳にはホロの尻尾《しっぽ》が草地を払《はら》う音が聞こえている。
降りろ、とも言わない。
きっと、動けないのがわかっているのだろう。
急に歩みを止めたのも、これ以上走り続ければ三人のうちの誰かが限界に達すると踏《ふ》んだのかもしれない。
「……どれくらい、来た?」
ロレンスがこの台詞《せりふ》を言うのにも、相当な時間を要した。
『半分』
「これは、小休止か。それとも」
と、訊《たず》ねると、後ろでぐったりとホロの背中に突《つ》っ伏《ぷ》していたエルサとエヴァンがピクリと反応した。
もちろんホロもわかっているはずだ。
『ぬしらが死んでは元も子もない。朝まで休憩《きゅうけい》じゃな。馬なら相当かかる距離《きょり》を来たからの。しばらくは安泰《あんたい》じゃ』
ロレンスたちがテレオの村からいなくなったという報は、どんなに早くとも馬の速度でしか広まらない。
それに追いつかれるまでは休憩できる。
その言葉に、どっと疲《つか》れが押し寄せてきた。
『わっちの上で寝《ね》るな。降りて寝ろ』
不機嫌《ふきげん》そうなホロの声に、ロレンスとエヴァンはなんとか自力でホロの背中から降りられたが、エルサは限界だったようで二人がかりで背中から降ろした。
できれば火を熾《おこ》したかったが、ホロが陣取《じんど》っているのはテレオとエンベルクを結ぶ道との間に小さな丘《おか》を挟《はさ》んだ程度の木立の中だ。じっとしていればまずわからないだろうが、火を焚《た》けばさすがにばれそうだ。
ただ、暖の問題はすぐに解決した。
なにせ、毛皮の塊《かたまり》があるのだから。
『親になった気分じゃな』
ホロの声が、寄りかかった脇腹《わきばら》から直接聞こえてくる。
エルサとエヴァンが教会から持ち出してきた毛布をかぶり、ホロの体に寄りかかる。そこに尻尾《しっぽ》が三人を包むように置かれていた。
それがどれほど暖かかったかは、ホロの言葉に苦笑いしたかどうかすら覚えていないほど、すぐに眠《ねむ》りに落ちてしまったことが示していた。
商人はいつでもどこでも必ず眠れるとはいっても、さすがにこの状況《じょうきょう》で熟睡《じゅくすい》はできない。
ホロが少し身じろぎしたらしく、その拍子《ひょうし》に目が覚めた。
空は明るく、朝もやも薄《うす》い。町なら市場が開くかどうかといった時間だろう。
隣《となり》で寄り添《そ》いながら眠っているエルサとエヴァンを起こさないように注意しながら立ち上がり、だいぶ軽くなった体をゆっくりとほぐしていく。
最後に大きく伸《の》びをして、ため息と共に腕《うで》を下ろす。
頭の中は、今後のことで一杯《いっぱい》だった。
どこかの町に行くとしても、エルサとエヴァンをそのまま放《ほう》り出して別れるというわけにもいかない。やはり一度クメルスンに戻《もど》り、商館に事情を話して保護してもらったのちに、商館の伝《つて》を通じてエンベルクとテレオに話をつけるしかない。
それから預けていた金を返してもらい、レノスに向かう。
こんなところだろうか。
そんな算段を終えると、ロレンスはようやくホロがこちらを見ていたことに気がついた。
腹這《はらば》いになっていてもなお大きいホロの姿は、怖《こわ》いというよりもやはり不思議な印象がある。
神が戯《たわむ》れで作った精巧《せいこう》な人形のようにしばらくじっとロレンスのことを見つめていたホロは、やがてすっと顔を別のほうに向けた。
「どうした?」
がさがさと枯葉《かれは》を踏《ふ》みしめながら近づくと、ホロは物憂《ものう》げな視線を向けてきて、くいと顎《あご》をしゃくる。
よもや首を撫《な》でてくれと甘えているわけではないだろうから、その先になにかあるのだろう。
ちょっとした丘《おか》の向こうには、エンベルクとテレオをつなぐ道がある。
すぐに思いついた。
「見に行っても大丈夫《だいじょうぶ》そうか」
その質問にホロは答えず、大きな欠伸《あくび》をするときちんと揃《そろ》えた前足の上に顔を乗せ、耳を二、三度|振《ふ》る。
ロレンスはそんな仕草を肯定《こうてい》と受け取って、それでも一応は身を低くし、足音をしのばせながら丘のほうへと歩いていった。
この時間に、道を誰《だれ》かが行くとなればどんな連中かはすぐに予想がつく。
丘の頂上付近に近づいたらさらに頭を低くし、そっと道のほうに視線を向けてみる。
軽く見た感じでは誰もおらず、もう少し前に出て見|渡《わた》してみると、エンベルク方面から小さくて雑多な音が聞こえてきた。
遅れて、もやの向こうに霞《かす》んで隊列の姿が見えた。
テレオに麦を運ぶ連中だろう。
と、いうことはテレオにはすでにエンベルクからの伝令が届き、その内容|如何《いかん》によっては村人たちが教会に無理やり打《う》ち入り、ロレンスたちを探しているはずだ。
ロレンスたちの味方をし、あまつさえ逃《に》がしてしまったイーマは大丈夫だろうか。
相当強そうな立場ではあったので、身の安全そのものは大丈夫だとは思うものの、やはり少し心配になる。
しかし、もうロレンスたちがテレオに行くことは二度とないだろう。
そんなことを思っていると、ざくざくと足音が後ろで聞こえ、振《ふ》り向いた。
見れば、エヴァンだ。
「調子は」
ロレンスの言葉にうなずき、隣《となり》にしゃがんで遠くを見る。
「あれ、エンベルクの連中?」
「そうだろうな」
「そうか……」
武器があったらそのまま殴《なぐ》り込みたそうな、それでいて手元に武器がないことに安心するような、復雑な顔をしている。
ロレンスは、視線をそんなエヴァンから後ろのほうのホロへと向ける。
ホロは相変わらず寝《ね》そべり、エルサもホロに寄りかかったままだ。
ただ、エルサはどうも目を覚ましているらしいのに、ぼんやりとしていた。
「エルサさん、調子悪いのか」
貧血で倒《たお》れたあとの、徹夜《てつや》の強行軍だ。
このあとのことを考えると、エルサの体調が最も気にかかる。
「さあ……顔色は良かったんだけど、なにかずっと考え事をしてるみたいでさ」
「考え事?」
エヴァンはうなずく。
この様子だと考え事の中身を打ち明けられているようではなかったが、ほとんど突然《とつぜん》にして故郷を飛び出さざるを得ない状況《じょうきょう》に巻き込まれれば誰《だれ》だってぼんやり考え事にふけりたくもなるだろう。
エヴァンがエルサを振り返ると、その横顔は今すぐにでも側《そば》に駆《か》け寄ってやりたそうな忠犬のような表情をしていた。
それでも、ここはそっとしておくべきだと心得ているらしい。
ぐっとなにかをこらえるようにして、だいぶ近くなってきたエンベルクの隊列に目を戻《もど》す。
「連中、ずいぶん数がいるね」
「村から買った麦を全《すべ》て返すつもりだろうし、荷馬車の周りにいる奴《やつ》らの携《たずさ》えてる長い棒は……槍《やり》だろうな」
おそらくは村人たちが抵抗《ていこう》してきた時のための用心だろうが、そのものものしさが、余計にその隊列をまがまがしく見せる。
「なあ、ロレンスさん」
「ん?」
「ロレンスさんの、あの、俺たちを乗せてきてくれた神様に頼《たの》むのは駄目《だめ》なのか」
エヴァンがいくら声を潜《ひそ》めても、ホロにはまる聞こえだろう。
それでもホロは聞こえないふりをしている。
ロレンスは続きを聞いた。
「なにを頼《たの》む気だ」
「あの連中を、皆殺《みなごろ》しに」
困った時の神頼み。
そして、えてしてその頼み事は大《だい》それている。
「仮にあれがその頼み事を聞いて、実行してくれたとしよう。それはすぐに実現するだろう。しかし、そうなればエンベルクはテレオの村に今度は最初から軍勢を送り込む。俺たちはそれらすべてに付き合えない」
エヴァンは、初めから答えがわかっていたように、あっさりとうなずいた。
「だよな」
麦を運ぶ隊列はだいぶ近くなってきた。
二人はしゃがんで、様子を見る。
「それで、俺たちはこれからどうなるの?」
「クメルスンという町まで行こうと思っている。そこまで行けば、少なくとも身の安全は確保できる。それから先のことは、またそこで考えよう」
「そうか……」
「希望があるなら考えておくといい。こうなったのもなにかの縁《えん》だ。協力はする」
エヴァンは目を閉じて笑い、「ありがとう」と短く言った。
テレオに破滅《はめつ》をもたらす隊列は、朝の空気を乱すように不調法な音を立てて道を進んでいく。
荷馬車にして十五台くらいだろうか。槍《やり》を持つ者たちも二十人からはいる。
ただ、その中でロレンスの目を引いたのは最後尾《さいこうび》にいた少し毛色の違《ちが》う集団。
馬車を引く馬には高位聖職者が乗ることを示す覆面《めんこ》と障泥《あおり》がつき、その周りに盾《たて》を持った者たちが四人ほど、さらにそれらに遅《おく》れて歩く、旅装の聖職者が数人。
ロレンスは胸中で「なるほど」と呟《つぶや》く。
リデリウスの業火《ごうか》がテレオで収穫《しゅうかく》された麦には混ざっており、エンベルクで死者が出た。
しかしもともと麦にリデリウスの業火が混じっていなければ、テレオでは決して中毒者が出ることはない。
これを利用するつもりなのだろう。
テレオの村で中毒者が出ていないのは悪魔《あくま》に守られているからだと言って、村全体を異端《いたん》とみなすために。
「戻《もど》ろう」
ロレンスは言って、薄々《うすうす》なにかを感じとったらしいエヴァンは、無言でうなずいた。
斜面《しゃめん》を下りてホロの下《もと》に戻《もど》ると、エルサの物問いたげな視線が向けられるが、ロレンスはそれに気がつかないふりをする。
どんな聞き方をされても、答えはテレオの村の絶望的な状況《じょうきょう》でしかないからだ。
「少し移動して、それから朝食にしよう」
ロレンスの言葉に、エルサは察するように目を伏《ふ》せる。
そして、無言のまま寄りかかっていたホロの体から身を起こして立ち上がると、ホロもすっくと立ち上がる。
荷物はエヴァンとロレンスが分担《ぶんたん》して背負い、ホロが先導して歩き始める。
さく、さく、さく、と枯葉《かれは》を踏《ふ》みしめる音が響《ひび》き始める。
最初に足を止めたのはエヴァン。次にロレンス。
ホロはそれから少し歩き、こちらを振《ふ》り向かずに腰《こし》を下ろした。
「エルサ?」
そう訊《たず》ねたのはエヴァン。
エルサは毛布を体に巻いたまま、立ち尽《つ》くしていた。
ロレンスはもとより、エヴァンのことも見ずに、足元を見つめていた。
エヴァンとロレンスは少し顔を見合わせ、エヴァンが小さくうなずくと戻《もど》ろうとした。
エルサが口を開いたのはその瞬間《しゅんかん》だった。
「ホロ……」
そして、呼んだ名前はエヴァンではなかった。
「あなたは……本当に、神なのですか」
ホロは無言のまま一度|尻尾《しっぽ》を軽く振り、立ち上がると方向|転換《てんかん》してエルサのほうを向く。
『わっちはヨイツの賢狼《けんろう》ホロ。じゃが、神と呼ばれておった時期も、長い』
腰を下ろし、まっすぐにエルサを見つめて言う。
ロレンスにはホロのその答えが少なからず意外だった。
それどころか、ホロの目はとても真剣《しんけん》にエルサを見|据《す》え、それでいてどこか優《やさ》しさをたたえている。
『わっちは麦に宿り、狼《オオカミ》の姿をし、人の形も取れる。人々はわっちを麦の豊作の神と敬い、わっちはその期待に応《こた》えられる』
ホロは、なにかを見|抜《ぬ》いている。
毛布を肩《かた》に掛《か》けたまま、それをかき寄せるように掴《つか》んでいるエルサの、腕《うで》と毛布の奥にあるエルサのなにかを見抜いている。
ホロは自らを神と称《しょう》さない。
「豊作を? あなたは、なら、トルエオの?」
『それには自身で答えを出しているじゃろう?』
少しだけ牙《きば》が見えたのは、苦笑いかもしれない。
エルサはその言葉に小さく首をすくめ、それからうなずいた。
「トルエオはトルエオ。あなたはあなた」
ホロは笑うようにため息をつき、ふわりと足元の枯葉《かれは》が舞《ま》う。
その琥珀《こはく》色の目は、見たこともないほどに優《やさ》しげだ。
神というものがいるのなら、こういうものたちのことを言うのだろうと、恐《おそ》れではなく、敬意を持って言えるような目。
エルサは顔を上げる。
そして、その目はまっすぐにホロのことを見ていた。
「……だとしたら――」
『その先の質問は』
ざっとホロの尻尾《しっぽ》が枯葉をさらう。
エルサが言葉を飲み、それでもホロからは視線をそらさない。
ホロは、ゆっくりと答えた。
『わっちにすべきではない』
途端《とたん》にエルサの顔が歪《ゆが》み、右側の頬《ほお》を涙《なみだ》が伝う。
エヴァンはそれが合図だったかのようにエルサの下《もと》に駆《か》け寄って、肩《かた》に手をかける。
ただ、エルサは大丈夫《だいじょうぶ》だとばかりにうなずいて、鼻をすすり、大きく白い息を吐《は》いた。
「私はフランツ司祭の跡《あと》を継《つ》ぐ者です。今、それを、はっきりと言えます」
『そうかや』
ホロの相槌《あいづち》に、エルサは柔《やわ》らかく笑った。
重く、硬《かた》いなにかが吹っ切れたような、すがすがしい笑顔《えがお》。
エルサもフランツ司祭が異教の神々の話を集める目的に気がついたのではないだろうか。
いや、気がついてはいたはずだ。ずっと前から、それこそ、フランツ司祭から地下室のことを聞いてすぐに気がついていたかもしれない。
ただ、理解したくなかったのだろう。
イーマの言葉は常に正しい。
世界は広く、村人の料簡《りょうけん》は狭《せま》い。
エルサは世界の広さを知った。なら、その次に出てくる言葉も自《おの》ずと決まっている。
「村に、戻《もど》ります」
「なっ……」
エヴァンが声なき声を上げ、さらになにかを言う前に、エルサは体に巻いていた毛布を外し、エヴァンに押し付けた。
「ロレンスさん、ごめんなさい」
それがどういう意味かは測りかねるが、この場で言うには相応《ふさわ》しい言葉だろう。
ロレンスは無言でうなずく。
ただ、エヴァンは納得《なっとく》がいくはずもない。
「村に戻《もど》ってどうするんだ。戻っても、もうあの村は」
「それでも戻らないと」
「なぜ!」
詰《つ》め寄るエヴァンから身を退《ひ》くことも、またそれを押しのけることもせず、詰め寄られるままにエルサは答える。
「私は村の教会の主《あるじ》です。村の人たちを捨てられない」
エヴァンは頬《ほお》を叩《たた》かれるよりも大きな衝撃《しょうげき》を受けたように、ぐらりと体を崩《くず》し、一歩後ずさった。
「エヴァン、立派な商人になって」
エルサはそこで初めてエヴァンの胸を突《つ》き放し、くるりと身を翻《ひるがえ》すと走り出した。
テレオの村までは、休みながら行っても女の足でも夕方|頃《ごろ》には着くだろう。
ただ、その先になにが待っているのか、わかりすぎるほどにわかる。
「……ロ、ロレンスさん」
途方《とほう》にくれたように、今にも泣き出しそうな顔でエヴァンがロレンスを振《ふ》り向く。
ロレンスは、エルサの言葉に舌を巻く思いだ。
「エルサさんは、お前に立派な商人になって欲しいそうだ」
「……っ!」
エヴァンは憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》になりロレンスに飛び掛《か》かろうとする。
だが、そこに冷静に言葉をつなぐ。
「商人に必要なのは冷静な損得|勘定《かんじょう》だ。お前にそれができるか?」
騙《だま》し絵を初めて見た子供というのは大抵《たいてい》こんな顔をする。
そんな顔をして、エヴァンはぴたりと動きを止めた。
「どんなに気丈《きじょう》で、なおかつ誰《だれ》にも譲《ゆず》れない決心をしたからといって、不安がまったくないわけじゃないんだろうさ」
ロレンスは肩《かた》をすくめて、もう一度言う。
「商人に必要なのは損得勘定だ。お前は、商人になりたいんだろう?」
エヴァンは歯を食いしばり、目を閉じて握《にぎ》り拳《こぶし》を作る。
そして、背負っていた荷物を全《すべ》て投げ出し、振り返ると走り出した。
人が故郷を恋しく思うのは、そこに大切な人たちがいるからだ。
ロレンスはエヴァンの後ろ姿にまぶしいものを感じながら、投げ出した荷物を拾い、枯葉《かれは》を払《はら》う。
すぐ後ろに気配を感じ、振り向きながらロレンスは言った。
「で、どうす――」
る、という語は口から出たのか出ないのか。
ロレンスの体は大きなホロの掌《てのひら》に枯《か》れ木のごとくなぎ倒《たお》された。
『わっちは間違《まちが》っておったか?』
ホロの掌がロレンスの胸を押さえ、二本の太く鋭《するど》い爪《つめ》が耳元でずぶずぶと音を立てながら地面に沈《しず》んでいく。
『わっちは間違っておったのか?』
その目は赤く燃え、牙《きば》が容赦《ようしゃ》なく向けられる。
背中が柔《やわ》らかい地面に食い込むのがわかる。
ホロがもう少し体重をかければ、ロレンスの胸骨は容易に砕《くだ》けるだろう。
それでも、なんとか声を絞《しぼ》り出す。
「そ、それを……それを、判断するのは、誰《だれ》だ?」
その言葉に、ホロが大きな顔を横に振《ふ》る。
『判断などできぬ。じゃが、わっちは……わっちは』
「故郷のために……、絶望的でも戦おうとするのは……」
ロレンスはホロの掌に手を当て、あとを続ける。
「少なくとも、後悔《こうかい》は招かない」
ホロの体がむくりと膨《ふく》れ上がった気がした。
押しつぶされる。
その恐怖《きょうふ》が理性を覆《おお》い尽《つ》くそうとした瞬間《しゅんかん》、ホロの姿が消え去った。
白昼夢、と言われても疑わない。
ホロの小さな手がロレンスの首を軽く絞《し》め、その軽い体がロレンスの上にあった。
「わっちの爪《つめ》は岩でも砕ける。人がどれほど束になっても敵《かな》わぬ」
「実感、したよ」
「ヨイツでわっちに敵うものなどおらぬ。人も、狼《オオカミ》も、鹿《シカ》も猪《イノシシ》も」
ロレンスの首を片手で絞め、見下ろしながらホロは言う。
「ならば、熊《クマ》は?」
それが、単なる熊なわけはない。
「月を狩《か》る熊はどうじゃ?」
泣いていないのは、哀《かな》しいのではなく、怒《おこ》っているからだろう。
だからロレンスは、優《やさ》しいことなど言わない。
「まず勝てなかっただろうな」
その瞬間、ホロはロレンスの首を絞めていた右手を振り上げ、そして。
「それでも徹底抗戦《てっていこうせん》をして、ヨイツの話はフランツ司祭の集めた本の中で、三ページくらいは割《さ》いてもらえたかもしれない」
そして、力なく振《ふ》り下ろされたそれは、ロレンスの胸を叩《たた》いた。
「それがいいかどうかはわからない。しかし、それは仮定の話だ。違《ちが》うか?」
「……違わぬ」
ホロは言って、もう一度軽くロレンスの胸を叩く。
「もしもお前がヨイツを発《た》った直後に、月を狩《か》る熊《クマ》がやってくる話を聞いたのなら、急いで駆《か》け戻《もど》っただろうさ。だが、現実はそうはならなかった。お前がヨイツをあとにしてどれくらいかは知らないが、お前のあずかり知らぬところで災厄《さいやく》に見|舞《ま》われた」
ホロはエルサの胸中の思いに気がついていた。
故郷を捨てるべきか、それとも、疎《うと》まれても、救える可能性などなくてもなお、戦うべきなのかという迷いがあることに。
ホロは迷うことすらできなかった。そのことを知った時には全《すべ》てが終わっていたからだ。
ではそんなエルサを見たらホロはどんなことを思うだろうか。
当然、後悔《こうかい》しないほうの選択肢《せんたくし》を選ばせるだろう。
しかし、それは、自分がとりたかった過去のあり得ない選択肢を目の前に見ることにもなる。
私は村人を捨てられない、というエルサの言葉は、時と場所を超《こ》えて、ホロを責める言葉のように聞こえただろう。
ロレンスは、だから時と場所が一致《いっち》したところから、ホロを責めた。
「泣いていないということは、自分がどんな間抜《まぬ》けなことにおろおろしているかわかっているんだろう?」
「そんなこと!」
ホロが鋭《するど》い牙《きば》を剥《む》き、琥珀《こはく》色の目をたぎらせてロレンスを睨《にら》む。
それでも、ロレンスはそんなホロのことなど気にしないように、ホロを体の上に乗せたまま、ホロに押し倒《たお》された時に頬《ほお》についた土と枯葉《かれは》を払《はら》う。
「そんなこと……わかっておる」
ロレンスはため息をつきがてら、肘《ひじ》も地面について軽く顔を起こす。
馬乗りになっていたホロは、それを受けて怒《おこ》られた子供のようにロレンスの視線から逃《に》げる。
ただ、それでロレンスから離《はな》れるわけではない。ぎこちなく体をずらし、ロレンスの右|膝《ひざ》に足を揃《そろ》えて座りなおし、それからようやく手を差し伸《の》べてくる。
ロレンスはホロの手を取って半分地面に埋《う》まりかけた体を起こし、やれやれとばかりにもう一度ため息をついた。
「エルサたちが戻ってきたらどう言い訳するつもりなんだ?」
一糸まとわぬ姿のホロが、すぐ目の前でそっぽを向いている。
「なんの言い訳じゃ」
「人殺し」
ホロは珍《めずら》しく思い切りばつが悪そうな顔をして、それから鼻の頭に皺《しわ》を寄せて言った。
「わっちが人の雌《めす》じゃったら、ぬしは殺されても文句は言えぬ」
「殺されたらいつだって文句は言えない。で、だ」
抱《だ》きしめてやりたくなるくらい寒そうなホロが、ロレンスの言葉の続きを上目|遣《づか》いに待つ。
「どうしたい?」
「それはわっちの台詞《せりふ》じゃ」
即座《そくざ》の切り返しにロレンスは驚《おどろ》き、それから、軽く天を仰《あお》いだ。
ホロはこの期《ご》に及《およ》んでもホロ。
手綱《たづな》はいつだってホロが握《にぎ》っているのだ。
ロレンスは手綱を握られている仕返しに、ホロの体を抱きしめて「覚えとけよ」と耳元で言った。
ホロが腕《うで》の中で軽く身じろぎして、短く答える。
「どうにかならぬかや」
もちろん、エルサとエヴァン、それにテレオの村のことだろう。
「ヨイツはすでにもうどうにもならぬ。じゃが、こっちはまだどうにかなる」
「俺は単なる行商人だぞ」
ホロは尻尾《しっぽ》をふさふさと鳴らして言う。
「わっちは単なる狼《オオカミ》ではない」
全面的にホロが協力する、ということだろう。
だが、それでもなおどうにかなる可能性などあるのだろうか。
まさか気にくわない連中|全《すべ》てを食い殺すわけにもいくまい。
「毒麦と言ったかや。もしも混ぜものがしてあるのならわっちはそれを見分けられる」
「その可能性は考えたよ。それでも無理だと思う」
「信じさせることができぬか……」
「奇跡《きせき》が起きない限りな」
ロレンスは言って、それから、もう一度言った。
「奇跡が起きない限り?」
「どうしたかや」
なにか頭の中でつながりかけて、ロレンスは視線をめまぐるしく泳がせる。
ホロが麦を見分けられる可能性は考えた。その時に詰《つ》まったのは、麦の有毒無毒を相手に信じさせることだった。
だが、似たような話はどこかにあった。
一体どこに?
ざざざざっと記憶《きおく》の中をさまざまなことが駆《か》けめぐる。
そして出てきた、エルサと、教会の姿。
「そうか、奇跡《きせき》か」
「む」
「教会が最も効果的に信徒を増やすことのできる方法はなんだと思う」
ホロが、少し馬鹿《ばか》にされたような顔をしていやいや答える。
「奇跡、を見せるかや」
「そうだ。だがその実その大半が種ありだ」
こうなると次に視線を泳がせるのはホロの番だ。
「目に見えるようなこととなると、そうじゃな……ぬしよ、わっちの麦は?」
ロレンスは、ホロに押し倒《たお》されたせいで後ろに飛んでいった荷物を指差した。
「手を伸《の》ばして取ってくりゃれ」
膝《ひざ》の上からどくつもりはないらしい。
抗議《こうぎ》しても無駄《むだ》だと思ったので、ロレンスは言われたとおりに体をひねり、手を伸ばして荷物を手繰《たぐ》り寄せると、その中からホロの宿る麦が入る巾着《きんちゃく》を取り出した。
「ほら」
「ふむ。よく見ておるがよい」
巾着《きんちゃく》の中から麦を一|粒《つぶ》取り出し、ホロはそれを掌《てのひら》の上に載《の》せると小さく深呼吸をした。
そして、次の瞬間《しゅんかん》。
「なっ」
ロレンスの目の前で細かく震《ふる》えた麦が、ぱかりと割れたかと思うと緑色の芽《め》を出し、白い根を張り、葉も伸び、ぐんぐんと茎《くき》を伸《の》ばして天を目指していく。
やがてその先に新たな麦穂《むぎほ》が生まれ、それが重そうにしなった頃《ころ》、青々しかった麦が茶色に変わる。
それはほんのわずかな時間のこと。
あっという間に、ホロの手の上に一本の麦が生えていた。
「こんなことくらいかや。これもあまりたくさんはできぬ。それに」
ホロは自分の掌の上に生えた麦を取り、麦穂の先でロレンスの鼻をくすぐりながら言った。
「これにも見てのとおり種がありんす」
「笑いたくても苦笑いしか出てこないな」
ホロはむすっとして、麦を押しつけてくる。
「で、どうかや。目に見えることといえばこれくらいと、あとは元の狼《オオカミ》の姿くらいのものじゃ」
「いや、これで十分だろう」
ホロの手から麦を受け取り、続けた。
「あとはこの仕掛《しか》けをエルサが納得《なっとく》してくれるか。それと」
「まだあるのかや」
ロレンスはうなずいてから、「しかし」と頭を振《ふ》った。
「そここそは商人としての腕《うで》の見せ所だ。まあ、大丈夫《だいじょうぶ》だろう」
エンベルクから返品された麦を、毒麦とそうでないものに見分け、それを村人たちに信じさせたからといって、テレオの村が即座《そくざ》に危機から解放されるわけではない。
セム村長の試算では、必要な金はおよそ七十リマーも不足している。
ここをどうにかしなければ、テレオはエンベルクの食い物にされてしまう。
だが、仮にエンベルク側が奇跡《きせき》を答認《ようにん》し、毒麦の判別に納得したとしても、もともとテレオを支配するために毒を混ぜたのであれば、返品した麦を再び買い戻《もど》してくれるとはとても思えない。
だとすれば、返品された麦をどうにかして金に換《か》えなければならない。
それでも、問題をここまで引っ張ってこられれば商人の領域だ。
そして、ロレンスは商人なのだ。
「よし、なら、戻ろう」
「ふむ。いい加減寒いしの」
ホロは笑って立ち上がり、ばさりと尻尾《しっぽ》を振ってロレンスの目をくらますと、あっという間に元の姿に戻《もど》っていた。
『残念そうな顔じゃな?』
牙《きば》を覗《のぞ》かせて言うホロに、ロレンスは肩《かた》をすくめてこう言ったのだった。
「お前は楽しそうだな」
ホロとロレンスはすぐにエルサとエヴァンに追いついた。
テレオの村には、昼過ぎに到着《とうちゃく》した。
エルサは思いのほか簡単にロレンスたちの申し出を受け入れた。
決意だけがあっても手段がなければどうにもならない、というのは理解していたのかもしれない。
だが、その判断は昨日までのエルサには取れないことだっただろう。
「ただ、私はそれでも私の神を信じます。全《すべ》ての神の頂点に位置し、世の全てを作った神として」
ホロの姿を初めて見て、まだそれほど時間が経《た》っていないというのに、エルサははっきりと狼《オオカミ》の姿のホロに向かってそう言った。
噛《か》み砕《くだ》かなくとも、爪《つめ》の一振《ひとふ》りで細切れの肉にされてしまう相手に向かって、だ。
ホロはしばし無言でエルサを睨《にら》み、ぞろりと牙を剥《む》いた。
エヴァンは固唾《かたず》を飲んで見守っていたが、ホロだって自分が世の頂点にいないというくらいには世界の広さを知っている。
すぐに牙をしまって、ふんとそっぽを向いた。
「あとは見せ方と、その方法です」
「なにか案がありますか?」
テレオの村のはずれ、エヴァンの水車小屋から少し離《はな》れた丘の頂上で、ホロを見張りにしてロレンスたちは話し合う。
「どんな商品も、底値の時に買えば利益は最も大きくなる」
「村が一番追い詰《つ》められてから?」
ロレンスがうなずき、エヴァンが引き取る。
「朝見たら、バン司教が来てそうな雰囲気《ふんいき》だったぜ」
「バン司教が……」
金銭的にだけでなく、宗教的にもテレオの村を追い詰めようというのだろうが、朝までは状況《じょうきょう》を絶望的にしかしなかったそれも、いまや逆転して作用させることだって不可能ではない。
いやむしろ、エンベルクの教会の責任者がいれば都合がよい。
奇跡《きせき》の証人として、これほど相応《ふさわ》しい人物もいないだろうから。
「エンベルクからの人間は、テレオにほとんど反論を許さず話を進めていくでしょう。槍《やり》を持つ者たちまで連れているのです。紳士《しんし》的に話を進めるとはとても思えない」
「セム村長も、村の人たちに剣《けん》を持ってもらうことは望まないと思います」
「それに、村の連中にそんな勇気はないだろうさ」
エヴァンの批難も的外れではないだろう。
そうなると、ロレンスたちが村に現れる頃合《ころあい》というのは自《おの》ずと決まってくる。
「では、私たちが出るのは、セム村長が膝《ひざ》を屈してから、ということですね」
「奇跡《きせき》の出し方は先ほど説明したとおりで」
エルサはうなずき、視線をエヴァンに向ける。
「エヴァン、大丈夫《だいじょうぶ》?」
とは、エヴァンの役回りのこと。
この作戦で最も命を張るのはエヴァンだ。
しかも、それはホロの力を信用したうえでのこと。
エヴァンの目が、ホロに向けられる。
「なに、俺が毒にあたったら、毒で死んだのだとわかる前に殺してもらえばいい話さ」
指の先がわずかに震《ふる》えている。
それがエルサの前での強がりとわかっていても、そういうことが嫌《きら》いなホロではない。
『軽く一飲みじゃからな。痛くはない』
楽しげに答えた。
「では、奇跡のあとの金銭の交渉《こうしょう》は、ロレンスさんにお任せしてよろしいんですね?」
「その場で返品を取り下げてもらうのが一番ですが、まあ、お任せください」
エルサはうなずき、両手を組んだ。
「神のご加護がありますように」
そして、ホロの小さな一声。
『来た』
全員の視線が、交差した。
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第六幕
ぞろぞろとテレオの村に入っていった荷馬車の数は十六台。それぞれの荷台に大きな麻袋《あさぶくろ》が三つから四つ載《の》せられていた。
槍《やり》を持った者の数は二十三。盾《たて》を持った者たちは兜《かぶと》と籠手《こて》をつけ、騎士《きし》団の歩兵の様相を呈《てい》している。
徒歩の聖職者は四人。幌《ほろ》付きの馬車の中に何人いるかはわからなかったが、エルサの言では、おそらくバン司教とその補佐の司祭だろうということだった。
また、それらの列の中にはでっぷりと肥えた商人ふうの男もいた。ロレンスはそれを見た瞬間《しゅんかん》に、「ああ」と呟《つぶや》いていた。
エンベルクの町でもっとも裕福《ゆうふく》な粉屋だというリーンドットが、一括《いっかつ》してテレオの村から麦粉を購入《こうにゅう》しているといってもおかしくはない。もちろんそうであれば、この粉屋のところから買った麦粉でパンを作った者が死んだというのもうなずける。
だとすると、このたくらみの中心部にリーンドットがいたのであれば、ロレンスがエンベルクで商会を訪《おとず》れた時、麦を買わなかったのはわざとなのだろう。
もしかしたら、あの時点で作戦の決行を決心したのかもしれない。
一寸先は闇《やみ》とはいうが、どこに人の悪意が潜《ひそ》んでいるかわからない。
ロレンスは、ゆっくりとため息をついた。
丘の上に腹這《はらば》いになってそれらを見送ると、ホロは人の姿に戻《もど》って手早く服を身に着ける。
そして、四人は大回りに回ってトルエオの穴を目指した。
イーマが入り口をふさぎ鍵《かぎ》をかけている可能性もあったが、入り口を閉じただけで鍵をかけていない可能性だってある。
それに賭《か》けたのだ。
「神のご加護というやつかや」
そして、賭けは勝った。
「人の気配は?」
「ない。無人じゃ」
エルサたちが逃《に》げたとあれば、もはや教会にはなんの用もないのだから当然かもしれない。
ロレンスが台座を押し上げると、ごとんと像の倒《たお》れる音がした。一瞬《いっしゅん》肝《きも》を冷やしたが、それ以降物音一つしない。思い切って台座を押し上げ、開いた隙間《すきま》からエヴァンがするりと外に出て、改めて台座を開けきった。
「これなら……そうですね。鎌《かま》と、それに聖杯《せいはい》を」
もちろんこのあとのための小道具だ。
地下室から出てきたエルサはうなずき、エヴァンと共に小走りに駆《か》けていく。
ロレンスは最後まで地下室に残っているホロに、少し笑いながら言ってやった。
「全《すべ》てがうまくいけばゆっくり読める」
ホロはその言葉に、諦《あきら》めたように石段を上《のぼ》って出てきた。
「で、劇の様子はどうじゃ」
「木窓が破られてなかったのは幸いだな。これならよく見える」
ロレンスたちが逃げてから、イーマは頃合《ころあい》を見て扉《とびら》を開けたのだろう。
教会の入り口を固く閉じていた扉にかけられていた閂《かんぬき》も、折られることなく壁《かべ》に立てかけられていた。
木窓の隙間《すきま》から外を見ると、すでに麦を積んだ隊列は広場に入っていて、バン司教と思《おぼ》しき高位聖職者の礼服に身を包んだ壮年《そうねん》の男と、粉屋のリーンドット、それにセム村長と村の代表者たちが石の上で対峙《たいじ》していた。
「ロレンスさん」
そんな折に後ろからエルサとエヴァンがしのび足でやってきて、小さく声をかけてくる。
その手にはどう見ても銀むくではない聖杯と、錆《さ》びた鎌が握《にぎ》られている。
だが、奇跡《きせき》の小道具としては、みすぼらしいくらいのほうがよいものだ。
「それでは、あとは頃合を見計らうだけです」
エルサとエヴァンは、固唾《かたず》を飲んでうなずいた。
ロレンスの耳では聞き取れないが、バン司教に対しセム村長は身|振《ぶ》り手振りを交えて必死になにかを説明している。
時折教会を指差し、その都度広場に集まる村人や石の上にいる者たちがこちらを見るのでぎょっとしてしまう。
それでも誰《だれ》もこちらにやってこないというのは、完全にここが無人だと思い込んでいるからだ。
バン司教は冷静に対応し、時折|側《そば》に立つ年老いた補佐の司祭に意見を求めるくらいだ。
セム村長と村人たちの意見は飛び回る蝿《ハエ》の羽音くらいにしか思っていないのかもしれない。
実際、バン司教が数枚の羊皮紙を見せただけで、セムは言葉に詰《つ》まってしまっていた。
「内容がわかるか?」
ホロに問うと、「金を請求されておる」と答えが返ってきた。
そして、不意に怒号《どごう》が湧《わ》き起こったかと思うと、槍《やり》を構える男に飛び掛《か》かった村人が一瞬《いっしゅん》のうちに叩《たた》き伏《ふ》せられているのが見えた。
それを受けて村人数人がさらに飛び掛かるが、結果は変わらない。
槍を持つ者たちは服装もばらばらの雑兵《ぞうひょう》にしか見えなかったが、それでも多少の訓練は受けているらしい。わらわらと陣形《じんけい》を整えて、槍衾《やりぶすま》を形成した。
こうなると、村人全員が数で勝《まさ》っていても、逆転は厳しい。
「ふむ。セムとやらは押すことを諦《あきら》めたの。歩を譲《ゆず》り始めた」
譲歩《じょうほ》が始まればあとは押される一方だ。
バン司教は、おそらく窮鼠《きゅうそ》が猫《ネコ》を噛《か》まない程度に追い詰《つ》めるだろう。
「あれは?」
そこに新しく交渉《こうしょう》に混じった村人が現れた。リーンドットと言葉を交《か》わし、すぐに激昂《げきこう》してセムに押しとどめられている。
ロレンスの問いに、エヴァンが答えた。
「パン屋だな。俺に一番|嫌味《いやみ》を言う奴《やつ》さ」
リーンドットはバン司教と同じく羊皮紙を懐《ふところ》から取り出し、それを誇《ほこ》らしげに掲《かか》げ、村人たちを黙《だま》らせる。
その姿は、村人たちを黙らせることに慣れているというよりも、ようやく黙らせることができたという喜びの姿に見えた。
「フランツ司祭は、優秀《ゆうしゅう》すぎたんでしょう」
ロレンスが何気なく言うと、エルサはほんの少しだけうなずいた。
そして、ついにセムは石の上に膝《ひざ》をつき、共にバン司教を睨《にら》みつけていた村人たちが慌《あわ》ててその背中を支えにかかる。
ロレンスはそんな最中《さなか》、ぎゅっとなにかを握《にぎ》る音が聞こえた気がした。
見れば、エルサが握り拳《こぶし》を作っている。
表情こそ冷静だが、その胸中はわかりすぎるほどにわかる。
村人たちは、エルサの背中は支えてくれなかったのだから。
「終わりじゃな。最後の選択《せんたく》を突《つ》きつけられた」
ホロが不意に言って、ロレンスたちにもその言葉の意味がすぐにわかった。
セムたちが一斉《いっせい》に視線を教会の反対側の、セム村長の家のほうに向けた。
彼らが一体なにを思っているか、その背中を見るだけで手に取るようにわかる。
遅《おく》れて石の上に上がったのは二人の兵士。
手には、セムの家で見た、トルエオの神体があった。
「これに火をつけ、正しき教えを受け入れればよし。さもなくば、異端《いたん》として村を告発する」
バン司教の言葉なのだろう。
ホロがそう言うと、その言葉が聞こえたかのようにセムたちが教会を見る。
「困れば頼《たよ》る。それが人じゃ」
ホロは木窓の前から身を引いて、腕《うで》を組むとため息をついた。
「じゃが、わっちも人に頼ることがありんす。では、どうする?」
エヴァンの顔には、村人たちの身勝手さを許せないと書いてある。
だが、その怒《いか》りは飲み込まれ、視線はエルサに向けられる。
エルサはすっと立ち上がる。
そして、短く言った。
「私は村を見捨てられません。正しき教えの、僕《しもべ》として」
ロレンスはうなずく。
「では、行きましょう」
四人はその合図と共に、教会の扉《とびら》を開けた。
水を打ったように静まり返る、というのは本当にある話なのだ。
ロレンスはそう思った。
トルエオの依《よ》り代《しろ》となる蛇《ヘビ》の剥製《はくせい》を前に、あろうことか教会に助けを乞《こ》うような視線を向けていたセムたちの顔を、ロレンスはずっと忘れないだろう。
「エルサ!」
最初にその声を上げたのはイーマだ。
エルサたちをかばっていたからか、石の上にはおらず、周りの住人たちと共に事態を見守っていたイーマは、周りのことなどお構いなしに駆《か》け寄ってきた。
「エルサ、なぜ!」
「ごめんなさい、イーマさん」
まったく理解できないといった顔を、イーマはロレンスにも向けてくる。
「これはこれは。フランツ司祭の跡取《あとと》りのエルサさんではないですか」
そして、ロレンスがイーマに返事をするよりも早く、石の上からバン司教が言葉を向けてくる。
「お久しぶりです、バン司教」
「私はあなた方がこぞって逃《に》げ出したとお聞きしましたが、罪の意識に耐《た》えかねて懺悔《ざんげ》をされに来ましたかな」
「神は常に寛大《かんだい》ですから」
エルサの気丈《きじょう》な言葉に一瞬《いっしゅん》鼻白《はなじろ》んだものの、バンは負け犬の遠吠《とおぼ》えとでも思ったのか、余裕《よゆう》の笑みを取り戻《もど》して隣《となり》の司祭に小さく声をかける。
すると、司祭は咳払《せきばら》いを挟《はさ》んだのちに一枚の羊皮紙を掲《かか》げて宣言した。
「我々、エンベルク聖リオ教会は、テレオの村が異教の神に祈《いの》りを捧《ささ》げ、我々正しき教えの民を害する目的でケパスの酒を麦に混ぜ込んだものと考える。我々の正しき民は呪《のろ》いに苦しみつつも、テレオの村の者は誰《だれ》一人として苦しんでいないという。同じ麦を食べているというのに、これは明らかに異教の邪悪《じゃあく》なる神の保護を受けているものだ」
「我々はフランツ司祭との契約《けいやく》どおりに、まず麦をこの村に返す。その上でなお、ここに新しき、正しき聖なる教会を建て直す。羊の皮をかぶり、その内側で蛇《ヘビ》のとぐろを巻いていた悪《あ》しき偽者《にせもの》の神の僕《しもべ》には、正当なる神の裁判にかかってもらう必要がある」
司祭の言葉を引き継《つ》いだバン司教の言葉に、盾《たて》を構える兵士たちが剣《けん》を抜《ぬ》き、ロレンスたちのほうを向く。
だが、エルサは一歩も退《しりぞ》かない。
「その必要はありません」
凜《りん》と答え、高らかに言った。
「私は確かに誤《あやま》った信仰《しんこう》の下《もと》にいました。ですが、寛大なる神は私に正しき道を示された。私は神の使者に出会ったのですから!」
バンは一瞬|怯《ひる》み、鼻の頭に皺《しわ》を寄せて隣《となり》の司祭に視線をちらりと向ける。
司祭は一言二言返事をする。
バンの片手が高々と掲《かか》げられた。
「神の使者に出会ったなどと軽々しく申すのは異端《いたん》の証《あかし》! もしも違《ちが》うというのであればその証拠《しょうこ》をここに!」
魚はぱくりと餌《えさ》に食いついた。
エルサは、エヴァンに、次いでホロに目配せをする。
粉|挽《ひ》きの少年と狼《オオカミ》の化身《けしん》はうなずいて走る。
「お疑いならばお見せしましょう」
一直線に麦の積まれた荷馬車の列に近づくエヴァンとホロに向けて雑兵《ぞうひょう》たちが槍《やり》を構えるが、バンはエルサの言葉を鼻で笑いながら、「道を開けてやれ!」と言った。
エヴァンの手にはホロから受け取った麦の粒が握《にぎ》られている。
エルサは二人の背中を見送ってから、イーマが引き止めるのも聞かず石のほうに歩いていった。
「蛇《ヘビ》の神であるトルエオの崇拝《すうはい》は確かに間違《まちが》っています」
エルサの言葉に石の上にいた村人たちが石を飲まされたようにエルサを睨《にら》む。
「ですが、その過《あやま》ちは本質的なことではありません」
石に取り付けられた階段を上《のぼ》り、バン司教の前を素通《すどお》りして、エルサは石の上に投げ出されたトルエオの依《よ》り代《しろ》の前にひざまずいた。
教会の中で、ロレンスたちがフランツ司祭の残した本を見るために罠《わな》に嵌《は》めた時でさえ、嘘《うそ》をつくのを拒《こば》んだエルサ。
その心根《こころね》は今だって変わらず、骨の髄《ずい》から聖職者だろう。
では、エルサがトルエオの依り代を異教の偶像《ぐうぞう》と弾劾《だんがい》せず、その前にひざまずいたのはなぜか。
エルサの言葉が続けられる。
「私は、トルエオそのものが神の示した一つの奇跡《きせき》であると思います」
セムが目を見開き、村人たちが動揺《どうよう》する。
トルエオの否定でも肯定《こうてい》でもないエルサの言葉。
しかしバンは笑い、嘲《あざけ》るように言う。
「人の言葉は常に嘘《うそ》と隣《とな》り合わせだ。それが悪魔《あくま》の囁《ささや》きではないとなぜ言える」
「神の使者は、道に迷った羊の群れを正しき方向に導くための光を示されると約束してくれました」
ホロとエヴァンが準備の終了を示すようにエルサのほうを見る。
大丈夫《だいじょうぶ》だ、とわかっていても、ロレンスは自分が緊張《きんちょう》していることに気がつく。
石の上で、村人やバンたちの視線を一身に受けながら話すエルサにかかる重圧は相当なもののはずだ。
それでも、エルサは力強く言った。
フランツ司祭の教えを受け継《つ》ぐ者として、ホロという人ならざるものの力を信じて。ひいては、この世の全《すべ》てを造った神の正しさを信じて。
「ふん、貴様などに神がそのお力を示すなど……」
バンのそんな言葉は、恐《おそ》れとも驚愕《きょうがく》ともいえる荷馬車の周囲にいた人足たちの声によって掻《か》き消された。
「む、麦がっ!」
「おおおおおぉぉっ!」
荷馬車の荷台に積まれた麦の袋《ふくろ》の上に、次々と麦が穂《ほ》を伸《の》ばし天に向かって育っていく。
セムたちは不細工な人形のように表情にならない表情でその様を見つめ、バンは驚愕《きょうがく》の表情でその奇跡《きせき》を見つめていた。
次々と育っていく麦を前に、悲鳴に近い声を上げていた者たちが一斉《いっせい》にその場にひざまずく。
「神だ! 神の奇跡だ!」と野火のように声が広がっていき、ついに聖職者たちまでもがひざまずいた。
ただバンだけが呆然《ぼうぜん》と立ち尽《つ》くし、その光景を見つめている。
そして、すべての荷台に青々とした麦が実った直後、再び声が上がった。
十六台の荷馬車の荷台に生えた麦のうち、一本だけが黄金色の実をつけず、そのまま枯《か》れ果て粉になってしまった。
それがなにを示しているか、その場にいる者たちならば全員がわかる。
ロレンスはその場にいる者|全《すべ》ての視線が麦に集まっている中で、一人だけ視線を麦以外のところに向けた。
顔面|蒼白《そうはく》になっているリーンドット。それにバン司教。
麦に毒を仕込んだ本人たちには、もちろんその奇跡を一笑になど付せない。
「神は正しき道を示されました」
エルサの言葉に、全員の視線が音を立てて集まる。
「ば、馬鹿《ばか》な……こんな……」
「バン司教」
エルサは冷たく、冷静に言った。
「これが悪魔《あくま》の仕業《しわざ》でないことを、確認《かくにん》していただきたい」
「どう、どうやって」
「これを」
と、エルサはくすんだ銀の聖杯《せいはい》を取り出し、バンに差し出した。
「この聖杯を聖別してください。その上で、この村で麦の粉を挽《ひ》く、エヴァンが神の正しき教えを体現|致《いた》します」
バンは言われるがままに聖杯を受け取り、それから、慌《あわ》てて口を開く。
「こ、こんなもので一体なにをするというんだ」
「神の洗礼は貧しき者にも施《ほどこ》されるはずです。その杯《さかずき》をバン司教自らの手によって清めてください」
気圧《けお》され、それ以上反論できないバンは苦々しく視線を司祭に向け、司祭は石の周りにいる聖職者たちに「水を」と指示を出す。
すぐさま水が運ばれてきて、バンに手|渡《わた》される。
聖職者が水を注げば、それは常に聖的に特別な存在となる。
聖水で清められた聖杯は、バンの手元で鈍《にぶ》く光る。
「では、その聖杯《せいはい》を、水と共にあちらの粉|挽《ひ》きの下《もと》に」
エルサが目ら持っていかないのは、けちをつけさせないため。
聖職者たち自身が運び、エヴァンに手|渡《わた》すことで、それは聖職者たちの正しさを宿している。
「よく、ご覧《らん》ください」
エルサはエヴァンに向かってうなずき、エヴァンはそれを受けて大きくうなずく。
そして、ナイフを取り出したエヴァンは荷馬車の荷台に飛び乗ると、次々に袋《ふくろ》を切り裂《さ》いて中の粉を聖杯の中に少しずつ入れていく。
エヴァンがなにをするつもりなのか、その場にいた全員が理解しただろう。
固唾《かたず》を飲む音が聞こえそうなほど、視線が粉挽きの少年に集まっていた。
十六台の荷馬車のうち、十五台の積荷から粉を聖杯に入れ、エヴァンは水と粉の混ざった聖杯を高々と掲《かか》げた。
なにかに操《あやつ》られるように聖職者たちが聖杯に視線を向け、最後に神への祈《いの》りだろうか、何事かを呟《つぶや》いた。
エヴァンはゆっくりと聖杯を下ろし、その中身を覗《のぞ》き込む
ホロの真の姿を見て、ホロが只者《ただもの》でないことは理解した。その上、麦の一年をほんの数瞬《すうしゅん》に縮《ちぢ》めてしまうという奇跡《きせき》も目《ま》の当《あ》たりにした。
エヴァンの視線がつと手元の聖杯からそらされる。
それが向けられるのは、他《ほか》ならぬエルサ。
直後、エヴァンはその中身を一気に飲み干した。
「あれが、神の使者が私たちに啓示《けいじ》した奇跡《きせき》の、その実現したものです」
口の周りを白くしたエヴァンが聖杯を聖職者に突《つ》き出し、何事かを告げると皮袋から注がれた水でその聖杯が新たに清められる。
それからエヴァンは一台だけ粉《こな》を抜《ぬ》き取らなかった荷台に飛び乗って、その袋の中から粉を少し聖杯に入れた。
エルサは、ぶるぶると震《ふる》えるバンに向かい、短く言った。
「これが誤った奇跡であるのなら、あなたは正しき奇跡を示せるはずですね?」
麦に毒が混ざっていると嘘《うそ》をつかれると、もはやそれが無毒であるか否《いな》かは全《すべ》ての麦を食べなければわからない。
しかし、それはあくまでも論理的な問題であり、奇跡は論理を飛び越《こ》える。
そして、奇跡には奇跡でしか対抗《たいこう》することができない。
それが悪魔《あくま》の起こした奇跡でないと示すには、神による奇跡を示すほかない。
「バン司教」
エヴァンによって運ばれてきた聖杯を受け取り、エルサはそれをバンに差し出した。
リーンドットが尻餅《しりもち》をつくようにその場にひざまずく。
バンは固まって動けない。
その聖杯《せいはい》を、受け取ることができないのだ。
「わ、わかった、これは、奇跡《きせき》だ。正しき奇跡だ」
「では、この村の教会は」
エルサの容赦《ようしゃ》ない矢継《やつ》ぎ早《ばや》の言葉。
バンには、返すべき言葉も、奇跡もない。
「く……正統だ。正統な、教会だ」
「では、それを文書でお願いします」
エルサは初めてにこりと笑うと、セムや村人たちに声をかけ、恭《うやうや》しくトルエオの依《よ》り代《しろ》を拾い上げる。
バンはそれにも文句を言えないし、当然村人たちもトルエオの崇拝《すうはい》をやめろと言われるわけでもないのでそれは歓迎《かんげい》すべき事態だ。
エルサは、見事に難局を乗り切った。
ただ、バン司教たちを前に一歩も退かず見事に立ち回ったものの、その薄皮《うすかわ》一枚《いちまい》の下では不安と緊張《きんちょう》とが渦巻《うずま》いていたのだろう。
大きく、とても大きく深呼吸を一度すると、目尻《めじり》を軽く拭《ぬぐ》ってから、うつむいてなにかにすがるように手を組んで祈《いの》っている。
それが神にか、それともフランツ司祭に向けてかはわからなかったが、そのどちらであってもエルサのことを褒《ほ》めてくれるだろう。
そして、そんなエルサを傍観《ぼうかん》者の一人として見ていたロレンスの下《もと》に、ホロが駆《か》け寄ってきた。
「どうじゃ、すごかったじゃろう?」
バン司教をやり込めたというのに少しも驕《おご》らないエルサとは対照的に、ホロは得意げにそう言った。
ただ、この差はロレンスとエヴァンの違《ちが》いなのかもしれない。
エヴァンは聖杯を聖職者の一人に押しつけると、エルサの下に駆け寄って抱《だ》きしめた。
ロレンスが他《ほか》の村人たち同様に視線をそちらに奪《うば》われると、ホロは「ふふん」と鼻を鳴らす。
「羨《うらや》ましそうじゃな?」
挑戦《ちょうせん》的な笑《え》みで言われたら、怖《こわ》くて肩《かた》をすくめるしかない。
「ああ、羨ましいよ」
しかし、態度とは裏腹にそんな返事を返すと、ホロは少し意外だったように目をしばたかせた。
「今回、俺は完全な裏方だからな。表舞台はエルサたち。仕掛《しか》けはお前だ」
うまい具合にはぐらかせた。
ホロはつまらなそうな顔をして、ため息をつく。
「じゃが、金の話はついておらぬ。それはぬしの仕事じゃろう?」
「まあな。しかし……」
と、ロレンスは現状を冷静に見つめて頭を巡《めぐ》らせる。
状況《じょうきょう》は一変した。
せっかく窮鼠《きゅうそ》が猫《ネコ》を噛《か》んだのだ。ついでに肉の一片でももらっておくのがいいだろう。
目の前の光景ががらりと変われば、考えつくことだって変わる。
ロレンスの頭には、どこか嗜虐《しぎゃく》的な気持ちとともに、他《ほか》の町ではおいそれとできないような計画が組み上がっていた。
「そうだな。これは、一つ試《ため》す価値がありそうだ」
そして、ぞり、と髭《ひげ》を撫《な》でながら何気なく呟《つぶや》いて、ホロの視線に気がついた。
少し驚《おどろ》いているような、窺《うかが》うような上目|遣《づか》い。
なかなか見れないホロの様子にロレンスのほうが驚いて、口を開いていた。
「どうした?」
「ふむ……。ぬしも、実は狼《オオカミ》だったりしないかや?」
ただ、そんな突拍子《とっぴょうし》もない言葉に「え?」と間抜《まぬ》けな反応を返すと、ホロは安心したように笑って牙《きば》を見せた。
「くふっ。ぬしにはそういう顔のほうが似合っていんす」
「……」
また相手をすると罠《わな》に嵌《は》まるので、ロレンスはそこで引いた。ホロもちょっとしたからかいのつもりで言ったらしく、深追いはしてこない。
なによりそんな軽口を楽しむのはもう少しあとだ。
意趣返《いしゅがえ》しも含めて、最後の仕上げが残っている。
セム宅で文書を作るのか会議の場であった石の上から下りるバンたちに小走りに駆《か》け寄った。
「そちらの方たちはセム村長の家で神についてのお話です。リーンドットさんは、こちらでお金の話です」
その時の、警吏《けいり》についに見つかってしまった罪人のようなリーンドットの顔。
バンはロレンスのことなど知らず、何者だという顔をしていたが、エルサから耳打ちをされたセムがバンに小さく声をかけると「あっ」と驚いた。
次いで、同様に不審《ふしん》げな目でロレンスを見ていた村の連中にセムが声をかけると、村人たちはバンとはちょっと違《ちが》う質の驚きをあらわにしたが、やがて不承不承といったふうにうなずく。
ホロが、「ぬしに全《すべ》てを任せてくれるそうじゃ」と耳打ちしてくれた。
麦に毒を入れたのではないかという疑いをかけられた悪人から、村を代表しての交渉《こうしょう》人に格上げということだ。
ロレンスを罠《わな》に嵌《は》めたという自覚があるのだろうリーンドットは、ほとんど泣きそうな顔で一枚岩の上に残った。
周りには村人たちもいて、エンベルクから来た者たちは口々に奇跡《きせき》の興奮《こうふん》を語っている。
これほどの状況《じょうきょう》だ。交渉《こうしょう》は簡単にいくだろう。
「さて、リーンドットさん」
「は、はひっ!」
かすれた声で返事をし、哀《あわ》れを誘《さそ》う演技なのか、それとも本気なのか。
ホロが咳払《せきばら》いをしてじろりと睨《にら》みつけたので、演技だろう。
リーンドットは途端《とたん》に口を閉じ、演技ではまず流せないだろう、脂汗《あぶらあせ》を流し始めた。
「私はエルサさんから金にまつわる交渉をお願いしますと言われました。村の方たちも、それはご納得《なっとく》いただけますでしょうか」
「……村長が認めたんじゃ仕方ないだろ」
一人が渋々《しぶしぶ》と言い、短気そうなパン屋の主人も、頭をガリガリと掻《か》いた。
「金の話は村長さんに任せっきりだったからな」
ロレンスはうなずく。
「そういうことです。では、まず最大限の要求をさせていただきますと、麦の返品はやめていただきたい」
「しょっ……! ごふっごほっ……そ、それはできない!」
「なぜです」
「そ、それは、麦の評判が……な、なんていったって、死人が出ているんですよ! うちの麦の信用だって巻《ま》き添《ぞ》えでどん底なんです!」
死人の話もこの分だと大|嘘《うそ》だろう。
ホロを見ると、「どうする?」と目で言ってくる。やはり大嘘なのだろう。
ただ、そこを指摘《してき》するとあまりよろしくない。それは致命傷《ちめいしょう》になってしまうからだ。
「それに、それに、ケパスの酒が出たら麦は全《すべ》て返品すると、フランツ司祭との契約《けいやく》はそうなっているはずです」
当然主張すべきところを主張してくる。もちろん、村の連中もこの点には反論できない。
毒麦を入れたのはリーンドットたち自身ではないかと思っても、それを証拠《しょうこ》立てることはできないからだ。
「では、わかりました。返品を受け入れるとして、そのお値段のほどは」
ロレンスの譲歩《じょうほ》に、池に放《ほう》り込まれて初めて顔が水面から出たように大きく息を吸う。
「に、二百リ――」
「ふざけるな!」
と、リーンドットの胸倉を掴《つか》んだのはパン屋の主人。
「そりゃあうちから買った値段そのまんまじゃねえか!」
確かに、リーンドットはすでにいくらか麦を売っていたに達《ちが》いないから、その値段はあり得ない。
それに、その値段だと、村長の試算では村側に七十リマーも不足金が生じる。
もっとも、この期《ご》に及《およ》んで最大限の金額を口にするリーンドットの商魂《しょうこん》も見上げたものだ。
「じ、じじじじゃあ、ひ、百……九十」
パン屋の主人がさらに締《し》め上げるが、ロレンスはそれを手で制した。
ただし、助けようとはしない。
「リーンドットさん。もしも奇跡《きせき》がもう一度起こるとすると、あなた、まずいんじゃないですか?」
村人たちはその言葉の意味が理解できなかったようだが、ホロが嘘《うそ》を見|抜《ぬ》いてくれているお陰《かげ》でリーンドットが最も心配することをロレンスは掴《つか》んでいる。
もちろん、ばれて困るのは毒麦の自作自演。
リーンドットの顔が、水死した豚《ブタ》のようになる。
「ひ……百……ろ、くじゅう……」
トレニー銀貨にして八百枚の譲歩《じょうほ》。
パン屋の主人はようやく手を離《はな》した。
リーンドットは咳《せ》き込み、ロレンスもこのへんが現実的な妥協《だきょう》点だとは思っている。
これ以上押すと、また恨《うら》みを買うかもしれない。
第一、この村とエンベルクとの契約《けいやく》そのものが異常なのだから。
「では、返品に関する値段はそれで構いません。周りの方々も証人に」
各々《おのおの》うなずき、リーンドットはようやく顔を上げる。
ここからが本題だ。
ここまで譲歩は引き出したものの、それでもまだ返済可能な範囲《はんい》内にはない。
そして、今後またこのようなことが繰《く》り返されないために、ある程度まともな契約にしておく必要がある。
「ところでリーンドットさん」
「は、はひ」
「この返品された麦、再度買い取っていただくということはできませんよね?」
リーンドットの顔が即座《そくざ》に横に振《ふ》られる。そんなことをすれば、商会が傾《かたむ》くのかもしれない。
「わかりました。ですが、これはセム村長からの話なのですが、この村には返品された麦を買い戻《もど》せるだけの現金がない。百六十リマーに値引いてもらっても、なお足りない」
村人たちの驚《おどろ》きの声が上がる。
皆《みな》が恐慌《きょうこう》状態に陥《おちい》るのを防ぐために、村長は黙《だま》っていたのだろう。
「そこで提案があるのです」
と、ロレンスは村人たちがリーンドットを袋叩《ふくろだた》きにする前に口を挟《はさ》んだ。
「い、一体……なにを……」
「簡単なことです。バン司教に、この村の麦に司教のお墨付《すみつ》きを与えてくれるよう頼《たの》んでもらえませんか」
ロレンスのたくらみの裏を見|抜《ぬ》こうと必死に考えている様が窺《うかが》える。
だが、それはきっと見抜けないだろう。
「ほ、他《ほか》の店に麦を売るつもりでしたら……諦《あきら》めたほうが……」
「なんでだよ!」
パン屋の主人が怒鳴《どな》るとリーンドットは首をすくめるが、こればっかりはどうしようもないとばかりに答える。
「こ、今年はどこも豊作で、ライ麦はだぶついているからです。どこの村の麦も、村が売りたいだけ買うことなんてできません。なんとか我々は買えるだけ買って信用を保つ、という状況《じょうきょう》でして……」
それに、嘘《うそ》とはいえ一度はいわくのついた麦だ。商人としては、避《さ》けたいところだろう。
「いえ、それでも構いません。それで、その頼みは聞き入れられそうですか」
リーンドットはロレンスにすがるような目を向けて、それから、ゆっくりとうなずく。
まるで神に助けを求めるような目だが、それは神の奇跡《きせき》を起こされないようにと願う目なのだから、なんとも不思議な構図だ。
「そ、それくらいならば……だ、大丈夫《だいじょうぶ》、だとは思いますが……」
「では、もう一つ」
「へ?」
「私がやろうとしている商売に、エンベルクの人たちはけちをつけるかもしれません。ですが、そこでこちらの味方についていただきたいのです」
リーンドットが「あ」と口を開ける。
「まさか、パンを作って?」
「惜《お》しいですが、違《ちが》います。いくらなんでもそんなことをすればパン屋は絶対に許さない。そうではないですか」
だぶついた顎《あご》の肉に邪魔《じゃま》されながらもリーンドットはうなずく。
ただ、ロレンスはそれに近いことをやろうとしている。
「そして、返品に際しての支払《しはら》いは、その商売がうまくいってからということで」
「い、一体なにを」
「もちろん無理に、というわけではありません。そちらに魅力《みりょく》的な交換《こうかん》条件をお付けします」
ロレンスは村人たちの顔を見回し、最後にリーンドットに視線を向ける。
「村の麦を無条件で買わなければならない、というフランツ司祭の残した契約《けいやく》の破棄《はき》でどうですか」
それには一斉《いっせい》に批難が起こった。
「おい、いくら村長が契約《けいやく》を任せたからといってそんなことを!」
「ですが、この契約がある限り、またエンベルクから恨《うら》みを買うと思いますよ。ですよね?」
答えづらい質問だろうが、エンベルクで最も大きい粉屋の主人は、恐《おそ》る恐るうなずいた。
「そもそもそんな契約が異常なんです。普通《ふつう》、村にもお金に詳《くわ》しい人がいて、専門に交渉《こうしょう》に当たります。それが商売というものですから」
リーンドットはぶんぶんとうなずき、村人に睨《にら》まれて首をすくめる。
「どうです、リーンドットさん。それで私の頼《たの》みを聞いてくれませんか」
「おい! だけど!」
村人はロレンスに詰《つ》め寄るが、ロレンスも引かない。
ロレンスは、ここから大きな利益を引き出す自信があるのだから。
「もしもリーンドットさんやバン司教が味方してくれるのなら、この村にとって素晴《すば》らしい商売の話をお教えできるのですが」
ロレンスが笑顔《えがお》で言うと、気圧《けお》されたかのように黙《だま》り込む。
「一体、なにを……?」
少しもったいぶってから、言った。
「種明かしをしましょうか。それにはパン屋の方の協力が必要なのですが」
パン屋の主人は少し驚《おどろ》いたようにうなずく。
「それから、卵とバターを用意してもらえますか。できれば蜂蜜《はちみつ》も」
その場の全員が不思議そうな顔をする。
ただ一人ホロだけが、「なにかうまそうなものができそうな雰囲気《ふんいき》じゃな」と言ったのだった。
[#改ページ]
終幕
旅装を調《ととの》えて教会の居間に戻《もど》ると、ざくっざくっと小気味よい音が聞こえてきた。
細かい砂利《じゃり》道を歩くかのような音は、ホロがものを食べている音だろう。
本を読みながら食べるなとあれほど言ったのに、まったく聞いていないらしい。
エルサもかけらをぼろぼろこぼすエヴァンの行儀《ぎょうぎ》の悪さを叱《しか》ってはため息をついていた。
ロレンスとエルサは、そんな折に目が合うたびに苦笑いをしていた。
エンベルクとテレオの争いが終わって三日。
ロレンスが請《う》け負った最後の取引は、結果からいえば大成功だった。
結局テレオの村の不足金額は三十七リマーで、トレニー銀貨にすれば七百枚を超《こ》えていた。
しかし、リーンドットとの話し合いにより、それらは帳消しどころかさらに金を払《はら》い戻してもいいという有様だった。
ロレンスが村の麦を使い、パン屋の主人の協力を得て作ったのはクッキーだ。
種無しパンと同じく粉を水で練っただけで、そこにパン種の妖精《ようせい》が入る前に焼くものだが、油と卵《たまご》を混ぜるだけで驚《おどろ》くほどうまくなる。
南のほうではよく見る食べ物だが、北のほうではどういうわけか見かけない。
教会での食事の際、エヴァンたちがパンの種類をほとんど知らない様子だったのでほぼ確信を持ってこの地方では知られていないと思ったのだが、やはり大当たりだった。
しかも、クッキーはどう見てもパンではない。パン屋以外の者が粉からパンを作って勝手に売らないようにと組合の規則を厳しく定めているパン屋だが、パン以外のものにまでその規制をかけることはできない。
もちろん文句はつけるだろうが、そこはリーンドットとバン司教に利益|供与《きょうよ》を持ちかけて、魚心《うおごころ》に水心《みずごころ》というやつだ。
珍《めずら》しく、かつうまい食べ物とあってエンベルクではそこそこ売れているという。だぶついていたライ麦粉も、足りなくて追加で仕入れるかもしれないというくらいだった。
ただ、この手の商売はすぐに人に真似《まね》をされるし、濡《ぬ》れ手《て》で粟《あわ》なのは最初のうちだけだ。
だから、ロレンスも安易にそこから利益を受け取ることはせずに、代わりに積荷の小麦を詫《わ》び料込みで買い取ってもらった。
テレオの村がこのクッキーを特産品にして末長く儲《もう》けようと思っているのなら、それなりの苦労が待ち受けていることだろう。
それでもそのおいしさは折り紙つきだ。
大体、騒《さわ》ぎからの三日間、ホロもずっとクッキーだけを食べているような有様だった。
初めて食べる者たちには、病みつきになる食感とおいしさだ。
「さて、そろそろ行くぞ」
ぼろぼろとクッキーのかけらをこぼしながらフランツ司祭の本を読んでいるホロの頭を小突《こづ》くと、面倒《めんどう》くさそうに本を閉じる。
外ではエルサが荷馬車に熱心に旅路の無事を祈っているし、村長たちは村長たちで勝手にトルエオにロレンスたちの商売|繁盛《はんじょう》を祈っている。
ただし、村長たちも教会とエルサに対する態度を改めたようで、村人たちの中には感謝の意味も込めて礼拝に来る者も出始めたらしい。
きっとこの村はこの先も、こんな感じで二つの神様が祭られるのだろう。
ホロは椅子《いす》から立ち上がり、テーブルの上に山盛りに置かれたクッキーを一枚手にとって口に咥《くわ》えた。
「まったく、荷馬車の荷台にも山ほどあるんだぞ。いつだったかの林檎《リンゴ》のように食いきれなくてもお前の飯はずっとそれだからな」
ぼりっとクッキーをかじってから、ホロは不機嫌《ふきげん》そうに言った。
「まったく、毒を見分けて奇跡《きせき》を起こしたのは誰《だれ》じゃ? わっちがおらねばぬしなど今頃《いまごろ》丸裸《まるはだか》で火あぶりじゃろうが」
それを言われると苦しいものがあるが、村を救ってくれた大恩人ということで色々と世話をしてくれた村人たちですら顔が引きつるくらいにクッキーを食べまくっているホロだ。
少しくらい注意をしても罰《ばち》は当たらない。
「ふむ。それにしても、今回はとんだ災難じゃったな」
強引に話をそらされたが、それにはロレンスも同意だ。
「ま、結局は儲《もう》かったからな」
「ぬしは結局それじゃな」
ホロは笑い、ざくざくざくとクッキーを頬張《ほおば》った。
「わっちの目的も、期待していたほどではありんせんが、まあ達成されたしの。苦労には見合ったかや」
テーブルの上に置かれた、都合三回は読みなおしているだろう月を狩《か》る熊《クマ》の話が記載《きさい》された本を見て、ホロはやれやれとため息をつく。
「で、次はなんという町だったかや」
「レノスだな。お前の昔話が直接残っているという町だ」
「ふむ。ぐずぐずしておって雪に降られたら敵《かな》わぬか。仕方ないの」
本当は早く北に行きたくてしょうがないはずではあったが、これから待っている旅路のことを考えると居心地《いごこち》ちのいいこの村でぬくぬくしたいと思ってしまう気持ちもわからなくはない。
三日で腰《こし》を上げる気になったのもロレンスとしては少し驚《おどろ》きだった。
「ま、行くかや」
「ああ」
ロレンスとホロは教会から出て、見送りに来た村人たちに次々と声をかけられる。
疑って悪かった、などという辛気臭《しんきくさ》い挨拶《あいさつ》はとっくにすませてある。
全員ともに、旅の無事を祈《いの》るような明るいものだった。
「神のご加護がありますように」
エルサも実に優《やさ》しげな笑顔《えがお》でそう言ってくれた。
ホロに足を踏《ふ》まれたが、それでも男として嬉《うれ》しくなってしまうような笑顔だ。
「ロレンスさん」
と、その手を握《にぎ》るエヴァンも声をかけてくる。
「色々教えてくれてありがとう。村で頑張《がんば》るよ」
村から出て商人になりたいと言ったのも、村人たちからの冷遇《れいぐう》を受けてのこと。
今回のことで見なおされたエヴァンがとった選択肢《せんたくし》は、村に残ってエンベルクとの交渉《こうしょう》役になることだった。
エルサとエヴァンはしっかりと手をつないでいる。その選択肢が最も妥当《だとう》なものだろうということは、誰《だれ》にだってわかることだ。
「旅人が村に残すのは未練ではなく良い思い出です。それでは」
ロレンスは手綱《たづな》を握《にぎ》り、荷馬車はゆっくりと走り出す。
小春日和《こはるびより》の日差しに包まれながら荷馬車はごとごとと小さなテレオの村をあとにする。
エルサやエヴァンやセムたちは教会の前でずっと手を振《ふ》り、ホロのみならず、ロレンスも二度ほど振り返ってしまった。
ただ、それもすぐに見えなくなった。
再びホロとの二人旅が始まる。
向かう先はレノス。
そこにたどり着いたあとは北東へ。
やはり春の終わり頃《ごろ》、遅《おそ》くとも夏前にはヨイツのあった場所に到着するのではないか。
ロレンスがそう思っていると、ホロは早速《さっそく》袋《ふくろ》を開けてクッキーをかじり出した。
ぼりぼりぼりという音に、別れと共に始まる新しい旅を前にした、どことなく神聖な気分もいっぺんに台無しになってしまう。
「ふむ?」
しかし、ホロがクッキーを口いっぱいに頬張《ほおば》りながら、きょとんとする顔を見ればそれもまたいいかと思ってしまう。
それでも、そんなホロの無邪気《むじゃき》な様子を笑ったのもつかの間、夏前か、と胸中で呟《つぶや》いてしまった。
その直後、頬になにかが押しつけられ、見ればクッキーだった。
「そんなに物欲しそうな顔をするでない」
そして、ホロは仏頂面《ぶっちょうづら》でそう言った。
「もう散々食ったよ」
ロレンスはそう言うが、ホロは手を引っ込めない。
「物欲しそうな顔をしておる」
ホロはもう一度言い、ぐいと押しつける。
ロレンスは仕方なくそれを受け取り、一口かじる。
ホロのために特別多く蜂蜜《はちみつ》が入っているクッキーはとても甘い。
たまにはこういうのもいいか、と思って軽くかじる。
ただ、ホロはそれでも不満げにロレンスのことを睨《にら》んでいた。
「な、なんだよ」
「なんでもない」
ホロはぷいと前を向きなおし、クッキーをかじる。
その様は明らかになにか言いたげだったが、一体なんなのか。
ロレンスはしばし考えて、ふっと気がついた。
ただ、これはずるい。
これをロレンスに言わせるのは、なんというか罠《わな》の形としてずるい。
しかし、ロレンスのほうから罠に嵌《はま》りにいかなければ、ホロはきっと怒《おこ》るだろう。
仕方ない。
そう観念して、ロレンスは最後のひとかけらを口に放《ほう》り込んで、口を開いた。
「なあ」
「うん?」
ホロが白々《しらじら》しく振《ふ》り向く。
ローブの下では尻尾《しっぽ》が期待に満ちて揺《ゆ》れている。
ロレンスは、馬鹿《ばか》馬鹿しい演技を、馬鹿正直に行った。
「うまい商売の話があるんだが」
「ほう」
「ただ、少し寄り道になってしまう」
ホロはその言葉にものすごく嫌《いや》そうな顔をして、ため息をつく。
それでも詳《くわ》しい内容を聞かずに、うっすらと笑ってこう言った。
「仕方ないの、付き合ってやろう」
ホロだって絶対にこの旅が終わるのを嫌がっている。
その確信はあるし、だからこそこんな態度を取っているのだ。
しかし、ホロのほうからは絶対に言わない。
まったく、可愛《かわい》くない。
「で、どんなうまい話じゃ?」
ホロは楽しげに笑う。
ロレンスは口に放《ほう》り込んでいたクッキーをかみ締《し》め、その苦さと甘さを、どこかにいるはずの神に感謝したのだった。
[#地付き]終わり
[#改ページ]
あとがき
お久しぶりです。支倉《はせくら》凍砂《いすな》です。四巻目です。
しかも、この四巻目でデビュー丸一年ということになります。月日が経《た》つのは速いですね。
ついこの間、びしっとスーツを着込んでがちがちに緊張《きんちょう》して第十二回|電撃《でんげき》小説大賞受賞パーティーに行ったと思っていたら、あっという間に第十三回の受賞パーティーに参加してました。
あまりに月日の流れが速すぎて、スーツのクリーニングが間に合わずに私服で行ってしまいました。どこを見ても正装の方々であふれる中、小汚《こぎたな》いジーンズ姿でうろうろしていたのにはそういう理由もあったのです。ローストビーフがおいしかったです。
そういえば、実はこのあとがきを書いているおよそ二週間後には電撃文庫の忘年会が控《ひか》えているのですが、どんなおいしいものが食べられるのだろうとわくわくしています。できればタッパを持ち込んで持てるだけ持って帰りたいとか思うわけですが、私はまだデビューして一年足らずのひよっ子ですから、そういうことをするのは押しも押されもせぬベテラン作家になれた時の楽しみに取っておこうと思います。
立派な髭《ひげ》でも蓄《たくわ》えて、パイプタバコを咥《くわ》えながらステッキを振《ふ》り回し、ふんぞり返って悠々《ゆうゆう》と会場を闊歩《かっぽ》しつつ、ごっそり寿司《すし》を持って帰る様とかを想像したらとてもやる気が出てきました。ただ、理想としていたベテラン作家像とはちょっと違《ちが》うような気もしますが、気にしないことにします。あ、きっとガリを取り忘れているからですね。ガリを忘れるようでは紳士《しんし》として失格ですから。
と、そんなことを書いていたら紙面が無事|埋《う》まってくれました。
以下、謝辞《しゃじ》を。
今回もイメージどおりのイラストを描《か》いてくださった文倉《あやくら》十《じゅう》先生、ありがとうございました。ラフの中で特に一人だけあまりにもイメージぴったりすぎるキャラがいて、チェックの時に笑ってしまいました。
担当様、校閲《こうえつ》様。毎度毎度がたがたの原稿《げんこう》を丁寧《ていねい》にチェックしてくださりありがとうございます。自分があの作業をやれと言われたら途中《とちゅう》でめげてしまうかもしれません。本当にありがとうございます。
そして、本書を手に取ってくださった皆様《みなさま》方、ありがとうございます。次の巻でもよろしくお願いします。
それでは、また次回お会いしましょう。
[#地付き]支倉 凍砂
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狼と香辛料W
発 行 二〇〇七年二月二十五日 初版発行
著 者 支倉凍砂
発行者 久木敏行
発行所 株式会社メディアワークス