TITLE : 死ぬまでになすべきこと
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第1章 夫婦でも“終《つい》の道”はひとりぼっち
老いるとは尿《し》瓶《びん》の助けを借りること
夫の通夜にケロリと元気な妻
妻に「くさい」と嫌われる夫の愚痴
女房、元気で留守がいい
おじいちゃんがまさかの“金《きん》夫《つま》”に
ほれていなかったけれど先立たれると……
妻に先立たれると男はすぐ老けこむ
お父さんよりゼッタイ早く死んでやる!
介護……でも私のときはだれが看《み》る?
新手のシルバー産業にご用心あそばせ
お父さんはすぐ忘れられる
そして女房は出ていった……老夫婦の離婚
第2章 死んでゆくのに物はいらぬ
神棚の正しい始末、お願いしますよ
入院したら寝巻をおきばりやす!
いらない物はいっそのこと寄付したら?
老人病棟の年寄りたちのボヤキ
一椀の食器と愛読の本が少しあれば……
たくさん服を残しても迷惑なだけ
書画骨《こつ》董《とう》のたぐいは一文にもならないと思え
本は回収に出すか図書館に寄贈するか……
宝石類は形見分けするのがいちばん
自分には宝でも、人には屑《くず》と心得よ
遺影は自分で準備しておくこと
第3章 金は自分名義で、子供に残すなかれ
相続は必ずもめると覚悟すべき
早すぎた遺産相続で親は捨てられる
他人《ひと》事《ごと》にあらず。子供の家のたらい回し
子供は全くあてにならない、これ常識
自分名義の財産は死ぬまで手放すなかれ
じょうずに子供の世話になるコツ、教えます
死ぬまでの日々、いくら必要?
二世帯住宅、子供に乗っとられるのがオチ
“死に金”を現金で用意しておけ
元気なうちに遺言状を作っておく
遺言は子供でなく第三者にゆだねるべし
ガン保険に入っても家族が知らなきゃ……
妻の相続税減額のために贈与登記を
第4章 人生いろいろ、老い方も十色
タバコ屋にも定年があります
医院や都会の農家、相続タイミングがむずかしい
年寄りの世界にもいじめありマフィアあり
ご存じですか? 老人をだますマル秘テクニック
老いてこそ不良しましょ。不良シルバーのすすめ
猫に功徳を積んでポックリ祈願
第5章 ボケて転ばぬ先の杖
“悪知恵”ばあさんにゃかなわない
ボケは転ぶ、転ぶとボケる
「迷子」はボケの始まり
年寄り、なぜ転ぶ。転ばない歩き方ってあるの?
第6章 灰になるまで男は男、女は女
男は死ぬまで“現役”。セックスにリタイアなし
老いても色気は残っているのです
もてるおじさまになるコツ、教えましょうか?
老人ホームで知った初めての恋……
年をとるとケチになるのは男? それとも女?
色気恋気は死ぬまでお互いさま
第7章 死ぬまでどこに住みましょうか?
後悔先に立たず、老人マンションっていいところ?
老人マンションに介護は期待できません
老人ホームでの死、子供は引きとりにも来ません
老人ホームに何を持って入るつもりですか?
ハワイで送る老後、いいことずくめですか?
老後は田舎で? でも田舎はオソロシイですよ
とかく年寄りには住みにくい今様マンション
第8章 死ぬまでに税金をとり戻すべし
公共サービス、利用しない手はありません
ひとり暮らしの老人にはこんな権利があります
シルバー110番と医療相談、利用しないと損
老人のための親切電話器があるの、ご存じ?
第9章 死、そしてお墓……
尊厳死と延命、どちらを選びますか?
戒名のランクは三代先までのしかかる
お墓買いますか、やめますか?
お墓の選び方、お寺とのつきあい方、コツがあります
お墓が先にできると離婚できなくなる!?
「死んでもお墓なんかいらない」という人に
「献体」の意思表示の仕方、どうすれば?
第10章 さあ、死ぬまでに何をしますか?
これがほんとうの“終《つい》の道”
趣味もボランティアも生きがいにならない、という話
老人による老人のためのボランティア時代
ボランティアは有償にするとスッキリする!?
あなたひとりでできるボランティアはいかが?
“ボランティアしてほしい症候群”の老人たち
ガン患者である前に、妻として母として
このように死ねる自信、ありますか?
★これが階段で転ばない歩き方
★シルバー110番の全国早見表
★献体についてのQ&A
第1章 夫婦でも“終《つい》の道”は
ひとりぼっち
老いるとは尿《し》瓶《びん》の助けを借りること
人生のベルトコンベヤーが進んでいくと、私たちは老いたなあ――とつくづく思います。
いったい老いるということはどういうことなのでしょうか。
「老いるということは、親がいなくなるということだと思います。
幼いころから、また成人しても、親がいればいつも道しるべの灯がともっていたようではありませんか。この道しるべの灯が消えるということはほんとうに淋《さび》しいことです。それからは、自分が灯を一本一本つけながら、長い長いお宮の石段を登っていくように思います。手をとり合って歩いていたつれあいも姿を消しました。自分といっしょに歩いて登ってくれていた兄弟姉妹・友人・知人が、一人減り二人減り……。
私の恩師は私より十歳ほど年上ですが、『骨を噛《か》むような孤独』とおっしゃいましたし、先人では松尾芭蕉が、七部集の『猿《さる》蓑《みの》』の“市中の巻”で、
能《の》登《と》の七尾の冬は住うき
魚の骨しはぶる迄《まで》の老いを見て
と述べております。これが“老いる”ということのほんとうの姿だと思います」(東京都・加藤はる・六十八歳)
“しはぶる迄の老い”とは、たとえばどんなことでしょうか。
昔、美男でならし、いまも高齢にもかかわらず社会的に活躍しておられ、若い美女が寄って来るようなかたでも、トイレに尿瓶をおき、休むときは枕元に持ってくるようなことです。
踏み出したと思った足が出ていなくて、段差でけつまずくようなことです。
「判こや小銭入れや手袋の片一方や、眼鏡ケースが、まるで神隠しにあったようにひょいとなくなることです。このごろは私は、『お父さん(夫・死亡)、またおいたしたのね』と、あっさりあきらめることにしています。一日か二日すれば必ず出てくるからです」(東京都・森山典代・七十二歳)
巷《こう》間《かん》いわれるように、美しく老いるということはむずかしいことです。外見は美しくしていても、ほんとうは尿瓶の助けを借りるようなことが老いの現実だからです。
やさしい孫や子供に囲まれて、楽しく老いる――という幸せな図もありましょう。
でも、大事にしてくれる――ということは、飾り物の猫のように厚い座布団の上にすわらされて、いい子いい子のかわりに“いい婆、いい爺”にされているということです。何かしたいと思っても、周りにちょっと遠慮もするでしょう。一瞬、息子や娘にいやがられないようにしようという思いが頭の端をかすめるでしょう。これが家族に囲まれて楽しく老いるということかもしれないのです。ほんとうは、それなりに体も動かし、人の役に立つようなことをし、日々の暮らしの中に自分も組み込まれているのだというあかしを常に求めているのですが、床の間の飾り物になっていれば“いい老人”とほめられ、自分のしたいことをし、スタコラ動き回ると、“あきれた婆さん”と言われるでしょう。ときには、息子や娘にお説教されたりします。転びでもしようものなら、それみたことかと言われます。
子供が転べば“おお、かわいそう、ちちんぷいぷい”してくれますが、年寄りだってそうしてほしいのです。でも、期待はいつも裏切られます。期待するとかえって淋しい。裏切られると、もっと淋しい。老いの淋しさを味わうことになるでしょう。
体は長い間使っていますから、あちこちガタがきています。当然ですね。機械だって長い間使えば部品がすり切れてきます。腰が痛む――がいちばん多いのではありませんか。
あちこち医者のはしごをする。でも、はかばかしくありません。鍼《はり》・灸《きゆう》・整体・マッサージ、いろいろ行ってみます。コルセットもつけるでしょう。でお金も補助してくれます。そういう情報を持って、毎日センセイのところへ出勤なさるかたも多いでしょう。内心は、「もう年だからしかたがない」と思っているのにです。でも、でも……。
名医というのは“自分に合ったセンセイ”です。そのセンセイは“やさしい”し、“親切”です。つまり、長い時間自分にかまってもらいたくて行くのです。“治る”という期待はあまり持っていませんから、少しでも調子がよければ(お天気にも左右されるのが気分ですが)、名医で大好きなセンセイで、同好同病(?)の士のいるところへ行きたいのです。よたよたしながら石段に灯をいっしょにつけて登るお仲間がほしいのです。
「先生はちっとも話を聞いてくれない」
「先生に病状を話してもそっけない」
あたりまえです。先生は痛くはないのですから。
病気になって寝ついたとしたら、長わずらいは家族に重い負担をかけることになるのはよくわかっています。自分が 舅《しゆうと》 や 姑《しゆうとめ》 の看病をし、夫も見送るために、嫁に行ってからのほとんどを看病に暮らした人も何人か知っています。だから、世話にはなりたくない、と思っても、ひとりでは死ねません。人間というものは因果なものです。こんなことから、いまは「ぽっくり寺」が大繁盛で、善男善女は嫁におしりの始末をしてもらいたくないと、自分の下ばきを持ってお布施を包んでお参りします。神様も仏様もそんなにやさしくありませんから、効きめがあるとは思いませんが、これは裏返してみれば、世話するほうのたいへんさもそうですが、世話されるほうのたいへんさを知っているからです。捕虜と同じです。なかでも最大の“いや”さはおしっこです。ひとりでトイレに行きたい。でも、少々ゆるんでしまった下のほうでは、ちょいちょいおもらしをします。ここまでは恥ずかしいけれど、なんとかなります。
でも、トイレを汚すようになったら、もういけません。家人が大騒ぎ(ひそひその小騒ぎかも)して、おむつをしろの、病院へ入れるのということになってしまいます。病院へ入れば、トイレは自宅のトイレより遠くてたいへん。ベッドは高くて、えいやっと力まないとおりられません。ここで転んだらどうしようと思うと、右《う》顧《こ》左《さ》眄《べん》、長い間考えて、がまんして、やっとトイレへ行こうとするからおもらしをするのに、ボケてもらす――んではないのに、そう思われてしまいます。
それが“老い”です。それがいやさに、水けのものを極力控え、したがって、水分の不足による脱水症状(とまではいかなくても)や、便秘も起こりがちで、悪循環です。これが子供なら、コラッとおしりをぶたれるくらいですむこと。だから、老いとは、親がいなくなったことというのです。
子供のおしっこはきたなくない、老人のおしっこはきたない――のです。
老人は眠りが浅いものです。夜中に何度も目を覚まします。考えることはどんなことでしょうか。自分はもう死ぬんじゃないか。淋しい淋しい、こわいこわい。つい、家人を呼んでしまいます。
「何ですか」
「ちょっと(淋しいとかこわいとか言えないから)胸が苦しい」
布団の上からぽんぽんとたたくか、ちょっとさすってくれて、ハイ、サヨナラ。
自分のちっちゃかったとき、お母さんは、
「そうかい、そうかい」と、何も言わなくてもじっと抱き締めていてくれて、ぬくいぬくい胸の中でスヤスヤと眠れたことなど思い出します。
嫁が冷たい、息子は知らんぷりだ、自分への接し方はおざなりである、かまってくれない、いっそ死にたい――。これが一般に老いたといわれる人の考え方です。
こんなときは、
「小さいころ寝るとき、あした起きてもお母さんがいてエプロンかけていて、ご飯食べたら幼友だちのふうちゃんとゴム段して遊ぼうとか考えたりしたことや、うさぎ追いしかの山、道、がけなどを思い出しているうちにすうすうと寝られることを発見して、近ごろはそうしています」(神奈川県・熊井まり・七十二歳)
淋しいことなどを忘れるには、昔、親の胸にいたころのことを思い出すのがいちばん安心立命の地なのだということを本能的に知った老人は、昔の思いに感情を移入し、そこに戻ると生き生きし、その話ばかりしたがります。また、感情を移入したままぼんやりしています。人これを“ボケた”といいます。
“老いる”ということは、このようなことではないでしょうか。
灯を持って、ひとりで歩いていくためには、転ばないように、身も軽く、道に迷わないようにしなくてはなりません。再々述べましたように、もうお母さん(先達)はいないのです。なんでも相談をしたつれあいもいないのです。厳しくつらいことですが、自分で考えなくてはなりません。
“老い”と直面しながら、皆さんとごいっしょに一つ一つ考えていきましょう。
夫の通夜にケロリと元気な妻
夫婦は道づれだったでしょうか。いま、道づれでしょうか。
近ごろの若い世代は結婚という形をとらない人がふえています。仕事を持つ女性もふえたせいか、子供の出生率も低下しているようです。普通の“夫婦”と呼ばれるカップルも長い年月を経て、お互いの心の中はすっかりわかり合って暮らしているわけでもないことがあります。次のようなエッセイがありました。
「『妻以上、主婦未満』、改めて解説の要はあるまいが、ちゃんと結婚式を挙げ、子供も出来たが、では“主婦”としてどうかといえば、炊事洗濯はまるでダメという家事処理能力劣等生という“妻”はたしかにいる。もっとも、家事処理の技術は身につけているものの、キャリアウーマンとして男そこのけの働きを外でやっているために、結果として“主婦未満”を続けている妻も近頃多いと聞く。
そういう妻を持つ夫は、表立っては“よき理解者”の顔を保ち、妻より早く帰ったときはメシの支度に労を惜しまないという様子はしてみせるものの、本音は、(いったいオレはなんのために結婚なんかしたんだろうか)と砂を噛《か》む思いでひとり台所でゴソゴソやっているに違いなく、すなわち『亭主以上、関白未満』というわけである。
妻がどれほど良妻賢母であって、夫も稼ぎがよくすこぶる家庭的だったとしても、夫婦の間に冷えが来ないとはいいきれない。『倦《けん》怠《たい》期《き》以上、離婚未満』という、世間体を取り繕《つくろ》うことでやっとつながっている夫婦が果たして現実にどのくらいいるのか見当もつかないが、『そんな気配はこれっぽっちもない』と本心からいいきれる夫婦がそうそういるとは思えず、となると案外その『倦怠期以上……』というのが夫婦の大多数なのではないだろうか。いや、そう考えればいくらかは気が楽になる」(諸井薫『シグネチャー』一九九一年三月号)
倦怠期以上の夫婦はどんなものでしょうか。
「友人のSさんは長わずらいのご主人をみとられてお見送りすることになりました。お通夜に伺って帰るとき、玄関まで追いかけてきました。こういうときは身内は送らないものと、よくわきまえているはずの彼女が、
『ねッ、こんどから旅行へ行くときは私を誘うの忘れないでちょうだいね!』
いままでのしんぼう、察しても余りありますが、私たちは言われなくても旅行へも観劇へも、お疲れさまといって遠慮せずに誘いますよ。ただ、お通夜もすませ、七七日過ぎてから言ったほうがよかったのに……と思いました」(東京都・植村ゆき・七十四歳)
哀しいことです。女性にやれやれと思われる男性がたはどう考えているのでしょうか。
妻に「くさい」と嫌われる夫の愚痴
「上海で結婚したわれわれはベッドでスタートした。
戦後、小さい家を建てたときも、いささかも迷わず、ダブルベッドを入れた。これが現在もつづいている。この発足の理由は多くのベッド生活者(外人)がダブルベッドであったので、なんの違和感も持たなかったこと。もう一つの大きな理由は、寒がりの小生に体温の高い妻は必需品であった。考えてもご覧ぜよ。戦後の暖房の不自由な時代に、これにまさる暖房があっただろうか。しかし、夏は困る。したがって、夏はなるべく夜ふけて帰るようにし、これが妻の不興を買う遠因となった。何しろ当時は冷房がなかったのだから。
結婚四十年もたち、小生が家居するようになると、急に妻は小生をくさいと言いだした。くさくて隣に眠れないという。老人くさいそうだ。白髪がピロケース(枕カバー)についたりしていると、くさくてたまらない、毎日洗髪せよと言う。ベッドに落ちる髪は、どちらがどちらともわからぬほど白い。ましてや妻は近ごろはザンギリ頭(と言うと、鬼のように怒る)で、髪の長さも変わらぬ。落ちた髪はどっちのものか判定しがたいが、そういう理屈は全く通らぬ。パジャマ、ガウン、果てはスリッパまでくさいと言う。自分はくさくないのだろうか。若いうちは妻に酒くさいとよくしかられ、ベッドの端に寝たものだが、現在は酒、タバコのにおいは妻もさせているのである。
妻はあき缶を立てて、布団をぐるぐる巻いて細くしたものにシーツをぎっちり巻いた長枕風のもの(ダッチワイフなら別の目的だが)を作り、ベッドのくぎりとした。万里の長城ならぬシーツの長城である。これでにおいを隔離できるとも思われぬ。妻のほうへ足がいくと(自然ではないか)、この長城にしがみつき、『私のいちばん忙しいときは、ちっとも家にいなかった』とか、『何々さんはもう何回どこそこへ夫婦で旅行に行った』とか、『何々さんは何の会のとき、あんないい着物を買ってもらったのに、私はなかった』とか、過去の恨みつらみを述べ立てる。もちろん向こうへ侵入しようという気もないが、あったとしても、この毒ガスにやられて、多くの男はつぶされるのではあるまいか。女は過去を恨むことがそんなに楽しいものなのだろうかと疑わざるをえない。ダブルベッドは、夫婦が別々の考え方を持った場合にはよいものではないことを痛感した。いまさらツインに買いかえるには老い先短く、部屋も狭い。おっくうである。もはや妻は暖房の必需品でもなくなったのだ。
七十歳を超してから痛風が出た。この痛さは、なった者でなければわからない。相手の寝返りも響く。このときばかりはシーツの長城はおのがために作ってくれたとも思う。しかし、痛む小生に対して、ベッドにそうっと入るがごとき配慮は皆無である。『痛い、痛い』と言うと、同情するどころか、『魚や肉を食べすぎる』『若いときの暴飲暴食のつけが回った』など、言わずもがなのことを言う。食事が目立ってそまつになった。そまつということは、品数が少ないとか、安いものを食わすということではないが、鳥のえさのようなものだ。よっぽど猫のえさの缶詰めのほうがましで、妻の留守に猫の缶詰めをつまみ食いしたいほどである。
『体のためを思って』という大義名分のためには黙って引き下がるほかはないが、そのように体を案じてくれるならば、ベッドの入り方などもう少し考えてくれてもよいではないか。小生がうなっていたら、あてつけがましく毛布をかぶらなくてもいいではないか。ダブルベッドでは大往生はできぬと悟った昨今である」(神奈川県・星井慶・七十五歳)
女房、元気で留守がいい
「僕のところへ来る郵便物は、すべて女房の検閲を通る。ポストからとってくる段階で女房の手によって仕分けされ、ハイ、あなたの分、といって渡される。ハガキ類は一読されて渡される。ダイレクトメール、元の会社の関係の会とか会社から来る封書はそのまま。たまたま、肉筆の封書で、自分の知らない名前は、『あなた、これどなた?』とさりげなく聞く。昔、どこそこにいたときのとか、兵隊のとか話し、ちょっとわからない名前のときは『さあな』とさりげなく言う。したがって女房は僕のすべての交遊関係を掌握しておることになるが、さりとて関心を持っているわけでもないようだ。女房は自分あての郵便物はさっさと持っていき、小さい納《なん》戸《ど》のわきの自分の机にのせてしまう。男子の沽《こ》券《けん》にかかわるから、のぞき見などはしたことはない。
女房は僕の外出を歓迎している。勤めているときは、『いっていらっしゃいませ』だったが、いまは『ごゆっくり』と言う。予定より早く帰宅すると、『どうしたの?』と、とがめ立てをするように言う。僕のいないとき、どういう時間の過ごし方をしているのか、勤めていた時分は一度も考えたことはなかったが、長電話、外出が目につき、家事に使う時間がいかに少ないかがわかる。
女房にかかってくる電話をたまたま僕がとることもあった。そのようなとき、女房は『まあすみません』などとは絶対に言わぬ。いやな目つきをして、ひったくるようにとる。それがだれからかを話したこともない。男からでも。こんなやさしい声は聞いたことのないほどやさしい声で話す。家にい始めたとき、あまりの驚きにそこに立ちすくんでいたら、『あとでこちらからかけますわ』と言ったのにはさらに驚いた。亭主がいると話がままならぬらしい。そして、『人の電話を立ち聞きするなんて』と怒った。以来、電話はとらぬことにしておる。もっとも会社でも電話は秘書がとるものであった。
女房は、僕をしっかり管理し、その支配の届くところにおき、しかもこの点が重要なことなのだが、目の前にいないほうがよいという、はなはだ矛盾したことを望んでおるのは、不可解だが現実である。
男が家にいて、盆栽などをいじっておれば『爺《じじ》むさい』。本やテレビを見ていれば『何かしなさいヨ』。しかし、厨《ちゆう》房《ぼう》は汚すから入ってはいかん。何かしろと言っても何をせいと言うのか。体を動かせと言うからゴルフにたまに行く。これと、碁会所と、会合はまあまあだが。テレビのコマーシャルで、軽薄な男が女房の外出に『いってらっしゃーい』と言い、ニコニコして空想をたくましゅうし、ふすまをあけると酒が並んでいるのがあったが、あれは男の願望であろう。僕も女房が不在の日は、さて何をしようかと少し興奮する。テレビの体操をまねてみる。家の制服で、トレーナーというらしい楽な寝巻のようなものを着せられているから、足を上げたり、ねじったり、けっこうおもしろい。女房がいたら冷たい目で見られるだろう。孫が忘れていった小さいゲーム器をやってみる。ゴリラにつかまりそうになると、思わず『オッ』とか『ギャッ』とか大声で叫ぶ。点数は惨《さん》憺《たん》たるものだが……。女房がいたら『バッカみたい』と言われるだろう。テレビで知っている歌が流れたら大声で歌う。ダンスの曲などは一人で踊る。――うーん楽しい! 動いているとき大きな屁《へ》もする。非常に快適である。女房のおいていった食事の弁当に、あたためた汁をぶっかけて食う。女房は眉をひそめるかもしれん。玄関にブザーが鳴っても絶対に出ない。このような快適な時間を過ごしておることを女房は知るまいが、女房のおるとき堂々とやれたら、もっと快適な日々だろうと思う」(東京都・風間厚治・七十二歳)
おじいちゃんがまさかの“金《きん》夫《つま》”に
夫の関心が離れてしまった妻の寂《せき》寥《りよう》はたとえようもない。
「主婦の不倫ものがテレビで流行して、金《きん》妻《つま》などという言葉が流行しました。
働いているのかいないのか、けっこうお金のありそうな妻。女優さんが着るから美しく、汚れなんか一つもついていないおろしたてのような服。サラサラとOLのように手入れされた髪。布団を上げたら折れそうな長いつめ。ゴミなんか出しに行かないようなストッキングに包まれた足。こんな人が、仕立てのいいスーツ、つぶれていない靴。いつも床屋さんへ行ったような髪のよその旦那と恋をする……、見ているだけなら美しい世界でした。身近な同居人が金《きん》夫《つま》になるまでは……。
彼は暇になりました。リタイアしましたから。いつでも暇なのに、金曜日にはなんとかかんとか口実をつけて、薄い髪をなでつけて、ポケットチーフをあれこれとりかえて出ていくようになりました。まさに金夫です。金曜日はダンスを習いに行っています。青島《チンタオ》育ちですからダンスは好きだったようで、公民館に申し込んで始めたのです。私も行っていましたが、あまり好きではないのでやめました。やめなければよかったかなあ……とも思っています。
このことに気がついたのは、金曜日になると、やたらに昼間からソワソワするようになったからです。初めはひどくイライラしていました。遊びに行くのにどうしてと思いましたが、自分の気持ちの葛《かつ》藤《とう》を整理できなかったのでしょうか。ご飯ものどに通らない、なんていう同居人を見ているのはなんともつらい話ですし、おもしろくもありませんから、私もツンケンします。ますます彼は心が飛ぶようです。
いい年をして(彼はもうじき七十です)と、初めはほほえましくさえ思いました。まじめ一方の人でしたから、『初めてのガールフレンドに入れあげてるよ』なんて余裕を持って娘に話したりしました。娘も『ヘーェ、おじいちゃんの青春かァ』なんて笑っていました。笑えなくなったのは、ときどき何か持ち出すようになってからです。翡《ひ》翠《すい》のカフスボタンがなくなりました。私の思い違いかと思って(なくなったらしかられますから)、さがしても、さがしてもありません。だいぶたち、タイピンに加工し直してあるのを見つけました。カフスボタンは二個、タイピンは一個です。一つを何かに加工して、プレゼントしたのでしょうか――。娘は『言ったほうがいいよ』と言います。『おじいちゃんのものだから』と私が言うと、『変なの』としかられました。私はおぞましくて言えないのです。
ダンスですからパーティーもあります。別にパーティーでなくても踊るのは組んでいるのですから、薄く香水をうつして帰るときもあります。習い始めのころには香水をうつしてはきませんでした。きっと相手のかたも意識したから(ほれたとは言いたくない)香水をつけてくるようになったのでしょう。いい年をしてナンダ! と腹の中は煮えくり返ります。ある夜、顔をひきつらせて、少しふるえて帰ってきました。恋が成《じよう》就《じゆ》したのでしょうか。
こんなことがわかっちゃあいけないなあ、とも思います。同居人がもう少しまじめ人間でなかったら、そんなヘマはしないでしょうに、酔っぱらって帰るほうがまだまし。若いころ、酔っぱらって、口紅なんかつけて帰ってきたのはほんと、ご愛《あい》嬌《きよう》でしたよ。本人も悪いと思うのか、旅行など計画します。おもしろくもありませんが、『××さんと行きなさいよ』なんて、口が腐っても言っちゃあいけないことだと思いますから、行きます。義理で連れていってくれることはわかっていますから、私も仏頂面。相手も心はうわのそらで、写真を写しっこしたり、人様にシャッターを押してもらったりするなんて、なんとわれわれは名優なのかと思ったりもします。おみやげを買うときは問題ですよ。私は留守を頼んだお隣と子供に買えばいいのです。意地悪くじっと見ています。彼は、もう一個余分に買いたいでしょう。でも買えません。『教室の人に持っていこうかなあ』なんて、おまんじゅうを買ったこともありました。でも恋人におまんじゅうなんて、合いませんよね。それに、教室の人なら多いので二十個入りなんか買わないと勘定があわないでしょう。でもそれじゃあ、ひとり暮らしのお相手の人には多すぎますもんね。こんなこまかいことを意地悪な目をして見ている自分をいやらしい婆ァだなあ、と思います。でも、せっかく隠しているのに、『ブローチくらい買ったら』なんて言えばすごい皮肉に聞こえるでしょう。イヤミにもなりますわね。こういうとき、どうすればいいのでしょうか。
よく、日記を見たら……とか小説にはあります。でも、大人が本心恋をしたら、日記になんか書かないものではないかしら? もう、寿命は目の前にきている人(私も同じようなものですが)は、自分の死後、そういうものが人の目にふれることは十分覚悟しなくてはならないでしょうから、おそらく書かないでしょう。私も人の日記をのぞき見したり、机の引きだしをかき回したりする習慣はありませんから見ませんが、日記を書いたり手紙を出したり、電話をしたりするほうがやさしい恋なのでしょう。彼の恋は、やさしくない、むずかしい恋だろうと思います。
どうしてそんなにほれ込んだのか、そこが私の口惜しいところなのです! 日々、おだやかに新聞を読み、ご飯を食べ、テレビを見、買い物の運転手を務め、本を読み、などして過ごし、ひたすら金曜日を待っている人に、ご飯を食べさせ、洗濯し、布団を敷いて寝かせる……。
そういうわけですから、お相手は私も知っている人です。とりわけて美しいとも姿がいいとも思いません。若くもないし、私たちと同じようなお婆さんです。ひとり暮らしの未亡人です。ダンスもじょうずではありません(ほんと)。私はつくづく思うのです。恋って、女優さんのように美しくなくても、趣味が特別よくなくても、いい格好をしていなくても、どこがどういいのかわからなくても、恋をしてくれる人があるんだなあ……と。天使が空からコナをまいて、それがかかった人が恋をする同士になるんじゃないか、なんて思わなければ、どうして彼がほれたのかさっぱりわからない人なのです。
私にないものを持っているとしたらなんでしょうか? やさしいのかしら? 話が合うのかなあ……と。何十年もいっしょにいる私よりも? よくお料理のうまい人にコロッとくるとかいいますが、ごちそうになりに行ってもいないからそれも考えられないし、ダンスパートナーとして合うのかしら? とも思いますが、ウチのほうがずっとうまいし……。教わりじょうずなのでしょうか。
良識を持って恋をする、といってはおかしいですが、もし、そうなら世間の人生相談風に言えば、『そのうちあなたのところへ帰ってきますから、しばらくそっとしておきなさい』と言うでしょう。私が相談されればやっぱり同じことを言うでしょう。ワァワァ言って問い詰めても、どうにもならないことですし、泣きわめく元気もありません。泣きわめいても、浮気したわけじゃなし……と言われればそれまでです。みじめな思いをするのは私です。
高齢化社会になって、ゲートボールでほれたはれたがあるの、老人クラブでもしょっちゅうもめるのはやきもちからとかよく聞き、ほほえましい話だと思っていました。『そのくらいのほうがボケなくていいんじゃないの』なんて笑い話としてよく聞いていました。でも当事者になってみますと、恋をしている人はいいですが、疎《うと》んじられた者としては、いままでの人生はいったい何だったんだろうと、情けない気持ちでいっぱいです。このまま死ねば彼は幸せなひとときを持てた、となるのでしょうが、私にとっては、夫婦とはいったい何だったのでしょうか」(東京都・丸山由美・六十六歳)
それでも、道づれは道づれだと私は思います。どんな形でも、石段に灯をつけながら歩いていくには、そばに人がいるほうがいいと信じるからです。
ほれていなかったけれど先立たれると……
ご主人を亡くされてからの妻の生き方は二つあるようです。これはものすごくはっきりしています。
生前ご夫婦がとても仲よくされていたから、どんなにか落ち込んでしまってたいへんだろうというタイプ。
もう一つは、そういっては何ですが、昔の人は見合い結婚が多かったし、特に現在老いていかれる年代のかたは戦中戦後の極端な男性不足のとき適齢期を迎えられたので、“男性ならいいと思え”式に親に決められて結婚されたかたも多いわけで、そう仲がよかったというわけでもなし、たいしたけんかもしないかわりに、深い愛情を分かち合っていたとも思えないから、あっさり見送り、ひとりでのんびり暮らすだろうというタイプ。
前者は奥様が落ち込んでメゲて、涙にかきくれて、どうにもしようがないだろうと思いがちですが、そんなこともないのです。
また後者は、お見送りがすめば、やれやれと、さっさと写真も焼き、ガラクタはゴミに出し、お仏壇のご飯も忘れてしまうのかというと、そうでもありません。
これはどういうことかというと、その女性の自立心の問題で、人に頼らなければ生きられないAタイプと、ひとりで考えてやっていけるBタイプとの個人の問題なのです。
あんなに仲がよかったのに、三回忌のころには(二年たったころ)前よりきれいになって……などと陰口をきくのはまちがっています。仲がよかったから、想いはアメリカのケネディ大統領の墓地の灯のように胸の中に燃やしつづけてはいるけれど、自分の身は自分で楽しみも見つけ、人様のためにやってあげるべきこともきっちりとこなし、なるべくハタをわずらわさず生きることが、胸の灯を絶やさないこと、と思い定めて外観雄々しく見え、それが美しく見えるのではないでしょうか。このタイプはBでしょう。
一方、ほれていたとは言えなかった相手でも、つっかい棒になっていたわけですから、それがはずれたら、だれでもいいからつっかえておくれ。――淋しい淋しい、息子よ娘よ顔を出せ。ちっとも来ないじゃないか。これがやがて、いっしょに住んでおくれ、と言うのです。悪いけれど、こういうタイプのかたは、いっしょにいたつっかい棒に、短いだの、細いだの、ぐらぐらするだの、けっこう文句タラタラでしたでしょう。そして、次のつっかい棒にも必ず同じ文句を言うでしょう。これがAタイプですね。
こういうものを読むと、いやだなあ、でも私だけは違う、と必ずみんな思います。が、そんなことはないのです。つっかい棒を望まず暮らそう、とお思いになってください。
妻に先立たれると男はすぐ老けこむ
男は妻に先立たれると老《ふ》け込むとよく言われます。具体的にはどういうことでしょうか。
「お父さんが残ると困る」
とは、子供たちの間でひそひそとささやかれていることです。残念ながら事実ですね。そして、ひとりでおいておかれないというのも事実です。なぜでしょうか。社会性がないからです。会社性はあっても、日常性がなかったからです。まだ若く体も心もしっかりしているうちに、趣味はとにかく、日常生活をぜひ身につけることをおすすめします。
ある男性は、七十五歳。奥様をクモ膜下出血で急に亡くされました。当分は丈夫だからひとりでいいとがんばっておられますが、こんなつまらないこと、と女性側から思われることに、ひそかに悩んでおられるようです。
まず日にちの感覚がなくなります。
毎日が日曜日、というのはまだ月火水木のある人の話であって、きょうという日の位置づけができなくなってしまう。女性は、きょうは水曜でゴミを出す日とか、月始めだから銀行や郵便局へ行ってこなくちゃとか、日にちのくぎりがあって生活が回るのですが。一生懸命読んでいた新聞が(あまりの整理の悪さにごちゃごちゃである)何日か前のであっても気がつかない。中にのっていた区役所の催し物などのことで電話をして、それは先週のではありませんか、などと言われて怒り心頭に発し、自信をなくします。
生活の慣習にもついていけません。
「おじいさん、ゴミをやたらに出しちゃ、困るのよね」などと若い人に文句を言われると、今どきの若い者はけしからんと腹を立てる。ほんとうは出す曜日がわからないし、ゴミそのものを整理する能力がないから、やっとくくって表へ持っていって文句を言われるのです。親切な隣の人にでも聞けばいいのですが、そこまで頭が回らなくて、怒り、落ち込み、厭世観にまで襲われます。
外出して何か用を足そうと思うと、前夜は眠れない。
ゴミのような小さなことでもつまずくのですから、あすは区役所へ行って……と思っても、何課だろう、行って、エートなんて言っていると、若い者に笑われやしないだろうか。書類は、判こは、とあっちにおき、こっちに入れかえ、それを頭の中で復習し、あげくの果てはまた起き出して、ナイ、ナイ、と呆《ぼう》然《ぜん》となってしまうのです。
男性は、ほんとうは、“妻”という大船に乗っていたのかもしれませんね。食事をする、着がえる、という生きるためのいちばん基本的なことができればだいじょうぶ、と思いがちですが、こんな内心の葛藤に耐えきれなくなって、人と会うのはいやだ、どうでもいい、と一見頑固、内心弱虫。老いという坂を転がり落ちていくのです。自分でレーダーを立てましょう。
お父さんよりゼッタイ早く死んでやる!
「二年ほど寝たきりだった姑《しゆうとめ》をお見送りしました。八十二歳でした。
お年寄りのこととて、もうだめだ、ということが何回もありまして、親《しん》戚《せき》を呼んだりしましたが、そのとき持ち直すと(姑の郷里は山形)、東京まで高い汽車賃使って……の……大騒動はせんもんじゃ……の……嫁が気がきかぬと道中が長いわいの……等々、あからさまにののしられ、まるで早く片づけろと言わんばかりの口ぶり!
亡くなったときは親戚はだれ一人間に合いませんでしたが、いきなり、
『肝心のとき間に合わん嫁だ』
と、こうです。かってにさらせ。姑の亡くなる時間まで嫁がはからえますかいな。
なぜ嫁が嫁がと言われるのでしょう。夫という跡取りがいるじゃござんせんか。それが、そういうとき、黙りくさっておる!
お通夜もお葬式も会社のかたが来て手伝ってくださいました。台所は私の友人が来て手伝ってくれました。が、やれ、お供え飯は別かまどで炊けの(電気釜じゃないか)、だんごはうちで丸めろの(葬儀屋さんが持ってきている)、お通夜ぶるまいでお客さんをさっさと帰しすぎるの(住まいが東京から遠いので皆さんわりに早くお帰りになる)、お戒名がどうのこうの(郷里のお寺でつけていただいたのに)、寄り集まって文句タラタラ。席順についても分家のだれそれを上座に案内したのは何事か(分家は年をとっていても、出世していても下座だそうな)、みんな、嫁が悪い、と私が顔も知らない人がワンサカ出て来て文句を言う。もっとも、半分くらいは訛《なま》っていてわからないから、聞き返したり、妙な顔をしたりしたらしく、それでよけい態度が悪く見えたのかもしれない。
亭主黙してお辞儀するばかり、それを貫禄があるという!
私はこんな思いをしたから、絶対に亭主より先に死のうと思っています。もし、幸いにして、私のほうが病気になったら、子供たちによーく言っておいて、あまり注射や点滴をしてくれるなと頼むつもりでいます。
私がお先に失礼するときだって、『簡単がいいヨ、互助会かなんか頼んで安いのでいいヨとおふくろは言っていたよ』と息子が言ったら、私の身内は東京もんだから、『そうだね』とあっさり承知すると思う。それも火葬場の中の貸し会場でお通夜もお葬式もしていい、と言っておく。それでも少々はわずらわしいことがあるだろうが、亭主がやっぱりチンとすわってお辞儀するだけという楽な役割に回るのは許せない。葬儀屋さんの手配、お寺との交渉、親戚の爺さん婆さんのお相手、葬儀に関する役所の手続き、そのあとの家の中のゴタゴタの片づけ、税務署や保険の手続きなんかのめんどうなこと、みーんなお父さんにやってもらいなさい、見かねて手助けはするな――と言っておこう。
それで、あの世で、亭主に会ったら、
『ソラみなさい、お葬式ってたいへんでしょ』
と、いやみをウーンと言ってやる。
これが、いまの私の生活の支えになっているんです」(東京都・三上勢津・六十七歳)
介護……でも私のときはだれが看《み》る?
「もう五年になるわ」
友人のAさんは同級生なので六十ン歳。久しぶりに会ったら、顔に縦ジワが寄っています。げっそりやせたというならまだしも、苦労と涙の流れる道がシワになって縦に入ってしまったようでした。もう、何も言えなくて、手を握ったら、血管が筋々に浮き上がっていて、骨の上に血管があるだけみたいです。気がついた彼女はすうっと手を引っ込めて、
「この間ね、買い物していてスーパーでカゴをさげていたら、ちっちゃい坊やが、ちょうど私の手と目の高さが同じなのね。不思議そうに見て、『おばちゃん、お手々どうしたの?』って聞くのよ。
『おばあちゃんだから、お手々もお年をとったのよ』と言ったんですけど、後ろ向いて涙が出ました。私もお父さん(彼女の夫)とおんなじになっちゃった……」
彼女のご主人は同い年。五年前に心臓の手術をしてバイパスを通し、手術は成功したけれど、脳梗《こう》塞《そく》が起こり、病院を三つほど転々とし、現在は老人専門の病院に入院中。こういう病院は郊外なので、片道二時間かかり、週に二、三回通うのが限度だと言っています。口もきけず目が動くだけの人の枕元で、頭ではわかっているらしいので、きょうのニュースを話したり、孫たちの話をしたりするけれど、わかるのやらわからんのやら。病院からむなしい思いをして帰るので疲れて、おふろに入って寝るのが精いっぱいという。
「在職中に倒れたから、まだ籍もおいてもらえて、お金もいただけてありがたいと思っているの。でもね、お見舞いに来てくださるな、くださるなと言うのに来てくださる。私は変わり果てた姿を見せたくないのよね。そしてね、病院へ行ったら奥さんはいなかった――と言われるのはつらい! 私だって行っているのよ病院に!」
わかる。わかる。
「『だれだれ君は何年とか寝ていて、奥さんは看病に疲れて亡くなった』と見舞い客が言う。そうか、私が生きていては看病が足らんということか! 亭主のために死ねば、いい奥さんなのかと腹の中で思うのよ。悪気で言っているんじゃないと思うけれど。のどを切開して食物はチューブで入れ、栄養点滴は体の中の入るところから入れている夫は、まだ何年も生きると病院で言うの。私ももうこれ(夫の看病)っきゃないと覚悟を決めて、死んでも『疲れた』『いやだ』とは言わない決心をしたの。でも、私のときは、だれが看病してくれるか、その保証はないわね」
お迎えが早いほうがいいとは、また、口が裂けても言えないものなのです。
新手のシルバー産業にご用心あそばせ
昭和六十二年。長い間、妻がどうしても離婚に対してウンと言わないので籍が抜けず、もう別の女性と生活している夫が裁判にかけて勝ったということがありました。なんとも割り切れない話ですが、女の意地、というのをまざまざと感じさせられます。
別の方面から考えると、女性のほうが別れたいと言っても、どうしても籍も抜いてくれないという場合はどうでしょう。いまでも多いと思います。
男性が別れたいと言った場合、必ず女性がいるのですね。ですから、何がしかのお金を払っても別れたいのでしょう。女性の場合、必ずしも男性がいるとは限りません。特に高年の離婚希望者の場合はいないほうが多いでしょう。もしいたら、女性の場合だけは、年齢に関係なく、ものすごく不道徳だとそしられ、裁判もきっとうんと不利でしょう。こういう裁判は男性の裁判官でなく、女性の裁判官に裁いてもらいたいと思いますが、女性がそこまで進出していないのが残念です。
長い間、妻が離婚についてウンと言えないのは意地もあるでしょうが、現実の問題として弱い立場になることがわかっているからでしょう。一例を挙げれば、寡婦には年金がありますが、離婚した女性には年金はありません。高年女性が離婚したいと言ったとき、男性がウンと言わないのは、使い慣れた便利な道具がなくなると困るように、生活がまず不便、ということがあるからでしょう。
某有名俳優が年齢差のある女性と再婚し、子供もできました。俳優はだんだん老いていき、妻たる女性は外に仕事を持ち、別の初老の男性と結婚の約束をしたとかしないとか訴えてマスコミを騒がせ、相手の男性は地位も名誉も失い、俳優も、公表されなくてもよい老醜ぶりをさらけ出され、亡くなられました。俳優さんは、自分の老後を若い嫁さんが見てくれるものと信じて結婚したものの、思惑ははずれました。裁判ざたになったほうの男性も、老年のあわよくばというちょっとした遊びで何もかも失ってしまいました。
年をとって、奥さんと別れてしまった(生別、死別とも)男性はひとりで暮らしにくいものです。そこへ“めんどう見てあげる”と、やさしくすり寄る女性は、何が目当てでしょうか。本気でめんどうを見てくれるなどと期待するのは甘い考えではありませんか。こういうのはあきらかに新しいシルバー産業で、頭脳的お金もうけ業ではないでしょうか。
ひとりになった男性がた、くれぐれもご用心なさってください。それとも、いい夢を見た、とあきらめられますか。
女性も同じです。やさしいことを言う男性にはいくつになっても用心しましょうね。
お父さんはすぐ忘れられる
「姑の入院している病院に、ご夫婦で入られたかたがありました。
ご主人がぐあいが悪いのを奥様が看病されていたそうですが、奥様のほうが少し……というのでお子さんが頼みに来られたそうです。男性と女性は別の病室に入れられます。
奥様のほうは、入院の日から『何々(夫の名前)を知りませんか』と、だれかれなしに尋ねられ、病室の名札を見て、『ここだ、ここだ』と入っていき、『私が見なくちゃだめなの』と、しっかり横へすわり込まれます。病室の廊下などからチラと拝見したところによると、夫婦愛にあふれていらっしゃるようなのでウーンと感心させられたのですが、やがて、ナルホド、これではお子さんが心配して両方とも病院へ入れられたのだなあと納得のいくようになりました。家でしていらっしゃるようにしたいらしく、点滴の管は『かわいそう』ととってしまいますし、お天気のよい日は日が当たると暑そう、とご主人のお顔にタオルをかけてしまったりして、アララと思うことしきりでした。
病院でも困ったのでしょう。入り口のドアの取っ手を結わえて、かってに中に入れないようにしました。でも六人部屋ですから、ほかの患者さんが困ります。お見舞いに来てもいちいちあけてもらわなくてはなりませんし、出るときはブザーを鳴らして出してもらわなくてはなりません。そういうとき、スルリと入ってきて、『何々はどこ』と迫る迫力にはタジタジになったそうです。『あなた?』と一つ一つベッドの布団をめくって、旦那様をさがす執念には頭が下がります。でも、見つかったら百年目、という感じがしないでもありませんでした。
とうとう、ご主人のほうの病室がかわり、名札もはられません。さがしてもいないことがわかったのか、情熱を注ぐ先がなくなったのか、すぐさがさなくなったそうです。
ある日突然、ランランランと楽しそうに廊下を歩き回っている彼女に会いました。仲よしなのでしょうか、お互いに全然別のことを話しているのですが、よくお話の合うお相手と、お手々をつないで仲よく歩き回っているのです。
もう、『何々はどこでしょうか』などと、これっぽっちも言いません。毎日、ランランランの日々です。
目の前からお父さんが消えたら、もうそこにはなんの思いもないのでしょうか。
記憶がプッツンと切れたら、もうないものになってしまうのでしょうか。
長年連れ添って、私でなくちゃと気負っていても、目の前から対象が消えれば、お父さんだってすぐ忘れられるのです。こわいですねえ」(神奈川県・松永瑞代・六十二歳)
そして女房は出ていった……老夫婦の離婚
「返事の仕方がおそい!」
とぶんなぐられた。
「言ったこと、わかってるか、わかってないのか、わかってないならあやまれ」
と後頭部を思い切りこづかれた。
「いいかげんにしろ」
とビールびんを横から払いのけられて、びんが倒れて泡だらけになったら、ますます怒って、コップをひっつかんで投げた。
「金を出せ」
と大声で言い、聞こえないふりをしていたら、ひっかかれた。
このような相談事や愚痴を聞いたら、ああ、ちょっとアル中ぎみの旦那さんか、奥さんも苦労だなあ――と思われるでしょう。
ターミナル駅近くのスナックは、昔で言えば井戸端のようなもので、団地や分譲住宅へ帰る前の男性が夜、ちょっと一杯飲んで、顔見知りがいれば連れ立って帰ることもありますから、洋風のおつまみばかりでなく、いもの煮たのや、きんぴらなどもあります。昼は奥様がたがスーパーの帰りやおけいこ事、カルチャーの帰り、PTAの流れなどに寄るので、井戸端会議の役割をしているわけです。これはそのスナックの店主から聞いた話です。
「常連のBさんが、ある日、眼鏡のつるをセロハンテープで巻いて、少しゆがんだままかけてあらわれました。左のほおのあたりが赤くはれています。常連の連中が、転んだんですか、と心配そうに尋ねると『いやいや』と言い、横を向いていやな顔をしたので、それ以上、話は進みませんでした。ふだんなら、酔っぱらって転んだ武勇伝などおもしろおかしく話題にして、同病相憐れむ連帯感を持つのが、スナックの友ですのに。
夜だけだったBさんが昼も来るようになりました。昼は奥様がたばかりなので、隅っこで小さくなって、チャーハンなどぼそぼそ食べて帰るようになりました。
昼の部、Bさんが帰ったら、Bさんの近所の奥さんが、
『かわいそうに奥さんになぐられるんだって』
と言ったのには一同唖《あ》然《ぜん》。そういえばBさんの奥さんは近ごろ来ない。
『顔を見るだけでムカムカするんだって』
『だってねェー』
内心そう思っている人もいるけれど。もう七十を超して、耳も遠くなった、動作ものろい旦那さんがうっとうしいのはわかるけれど、そりゃあないんじゃないかと思う。
『Bさん、きょうは違うお惣《そう》菜《ざい》作っておきましたよ。毎日同じものじゃ飽きるでしょう』
とさし出すと、ホロホロとBさんは泣いた。
『女房は、お恥ずかしいことだが、貯金通帳を持って出ていった。わしは何も悪いことはしておらん』
第2章 死んでゆくのに物はいらぬ
神棚の正しい始末、お願いしますよ
人が亡くなった場合、多くの家では仏式でお葬式をされ、お位《い》牌《はい》を仏壇におき、朝、ご飯やお水をあげ、お花を供えます。
古い家では代々のお位牌があり、当主が亡くなられたら、その家の仏壇をどうするかが大きな問題となります。昔は長子相続で、仏壇も長子が引き継いでいましたので問題は少なかったのですが、現在はそうとは限りません。夫人が引き継ぎ(子供が同居していないことが多くなった)、さらにそのかたが亡くなった場合、遺産相続は子供たちが平等に相続することに法的にはなっています。このとき、仏壇を引き継ぐ人は別に長子とは限らなくてよいのですが、その人は多少多めに遺産をもらう場合が多くなりました。仏壇を守るということは、故人の年忌を務め、お寺ともつきあっていくわけで、先祖をお守りするのでお金がかかるからです。
日本の家には、仏壇と神棚の両方をまつっているケースがあります。神道を信仰している家の神棚の扱いは、仏《ぶつ》家《け》(仏教徒の家のこと)が仏壇を守るように守っていくので問題はないのですが、この両方ある場合が問題です。子供が親を見送り、仏壇を持っていく子供も決まって、その家をあけ渡すとき、神棚は簡単にとりはずされ、粗大ゴミ扱いにされることが間々あるのです。年々初詣などが盛んになり、子供が生まれたあとのお宮参り、七五三、入学祈願などお参りにはよく行き、結婚式も神式が圧倒的に多いのに、神社はお札《ふだ》をいただくところというほどの簡単さになり、縁日の熊手、だるま、破魔矢などの縁起物と同列になっているようです。仏家のご本尊やお位牌はまたもらってくればいい、などと考える人はいないのに、神棚のお札は“もらってくればいい”という考え方なのでしょうか。
神棚は神様のいらっしゃるところという宮形をおまつりする場所です。神社で神殿の新改築に際しては神様に一時的に仮殿にお遷《うつ》り願い、完成後、再びお遷りいただくお祭りを遷《せん》座《ざ》祭《さい》といって最も重要な祭りとなっているのですから、神様のお動座(お遷りになること)は、家庭にあっても、はかり知れない重いもの、と考えなくてはいけないのではないでしょうか。本来ならば神職をお招きしておはらいしていただくのでしょうが、神道の家以外はあまりその習慣はありませんので、できるだけていねいに扱うよう気をつけましょう。お札は毎年新しいものとかえるものです。前年のは神社へ持っていき、古札納所におさめましょう。神社では大みそかや正月十五日のドンド焼きで、焼納してくださいます。やむをえず家で処分するときは、ほかのゴミといっしょにせず、塩で清めてから焼くといいでしょう。灰は家の周りにまくとよいと昔から言われています。
入院したら寝巻をおきばりやす!
「近ごろはたいてい病院で最期を迎えます。そのころになると、自分の持ち物とは、ベッドの脇の小さいロッカーに入っているわずかばかりのもので、四季の着がえ、預貯金の通帳、人名録、健康保険証、洗面用具一式くらいでしょうか。人間の終末はもっとシンプルであっていいと思います」(神奈川県・岡崎道代・六十四歳)
次に、昨今の入院事情を伺いましょう。
「私たち主婦は、家族が入院するときは、あれやこれやと万全の手はずをととのえますが、主婦自身が入院するような羽目になったときは、おのが身を自分でまかなって入院しなくてはならないわけで、なんだかみじめな感じもしますが、まあそれも女の宿命であれば、きれいに、手ぎわがよいほうがいいと思います。
入院する人が家族のいる場合と、ひとり暮らしの場合とでは、病院の対処の仕方が違います。まず家族を呼んでくれと言います。長男は遠方で世帯を持っていますので、次男夫婦に来てもらいました。ひとり暮らしでは、万が一のときのことを病院で恐れるのでしょう。ちなみに、全くのひとり暮らしのお年寄りは、民生委員が付き添ってきます。入院には、保証人が二人必要です。人は、ひとりで暮らし、ひとりで病んだら入院――とはいかないものとつくづく思いました。
さて、病院には病院の風俗というものがございます。病院のファッションはガウンで決まります。いまは、たいていのかたがパジャマかネグリジェです。手術なさるかたはおなかをあける関係で、ネグリジェ、またはガーゼの寝巻ですが、そうでないかたはどんなお婆ちゃんでもパジャマです。その上に着るのがガウン。これが唯一の病院でのまあ見せ場で、車いすのかたでも、どんな人でも、これで歩くわけですから、関西風に言えば、『おきばりやす!』。いいものをお召しなさいませ。夏には夏用、冬には冬用。病院は冷暖房完備ですが、それはそれ、これっきゃないんですから美しいほうが病人も楽しいです。入院患者の、両手両指にピッカピッカのダイヤなんかはめていらっしゃる土地成金の奥様でも、昔風人間は寝巻にお金をかけない癖で(昔は古浴衣なんか着ていました)、お手々の指輪とつり合わない寝巻やガウン。これはいただけません。皆様、デパートのバーゲンのときでも、ガウンを一つふんばって、入院用に用意なさいませ。ぜひぜひ。ガウンは晴れ着です!
安いパジャマがなぜあかんのかと申しますと、おばんはブラジャーをいたしませんでしょ(入院中は特に)。すると、胸元あたりのギャザーがちょっぴりのパジャマやネグリジェは、とても貧相に見えます。いいパジャマは、ギャザーもたっぷり、胸元ふくふく。誰に見しょとてパジャマに気どる、などとおっしゃいますな。入院中は女の園でけっこうジロジロ見くらべて競います。
そんなわけで、自分で用意するもの、いいパジャマ、ガウン。
人様がくださるもの(アラ、言ってしまった)、お見舞いとしては、何がいっとういいかと申しますと、まず、食糧は困ります。そんなにいただけません。家族のいらっしゃるかたは、毎日持って帰ってもらえますが、ひとりでいるような女に、食糧はネ。
お花? お花でしたら、軽い病人さんは自分で花びんの水をとりかえたりできますが、重い病人はできません。周りの軽い病気のかたがお水をかえたりしてくださることになりますが、これは双方に負担になりますから、お花をさしあげるなら、小さいカゴにスポンジを入れて飾るようにしてあるお花がよろしいですね。病院の枕辺は狭いですから。
次にお金。なんと言っても便利です。百円玉、十円玉を何千円とかにしてプレゼントするのはとても便利。電話や自動販売機にどうしても入用ですから。若い女性の患者さんのところへ、いつもこの差し入れがあり、彼女のところに隣の部屋から両替をしてもらいに来る人がいるほどで、重《ちよう》宝《ほう》なお見舞いです。
長い入院にはティッシュカバーのようなかわいいものも目を楽しませます。スリッパもよいでしょう。病院の中はスリッパに決まっていますが、これでトイレにも行くわけで、きたなくなりますから、少しかかとのついた、サンダル風のスリッパがいいですね。退院のときは、皆さん捨てていらっしゃいます。ですから、見た目のきれいなものがいいでしょう。そのほか、小引き出しなんかは、プラスチック製のものなど案外安く(三千円くらいでしょう)、お見舞いの品としてはお手ごろといえましょう。病院の枕元は、小さいところにいろいろなものをおきますので、判こや眼鏡やこまごまとしたものを入れるのに便利です。長い入院のかたには、食物などを入れるケースもいいと思います。先のパジャマ、ガウンなどの上等なもの、すてきなものなど、値段の張るものは何人かで組めばよいお見舞いとなりましょう。なにしろ病院では寝巻は晴れ着ですから、くれぐれも年齢よりちょっぴり派手なものを選ぶことをお忘れなく。
私たちは、いつでも、だれでもわかるようなところへひとまとめにして、新しいパジャマかネグリジェ、ガウン、下着などをそろえておきましょう。昔の人がタンスの中に新しい白いさらしのじゅばんやお腰、浴衣などをふろしきに包んで用意しておいたように」(千葉市・矢野春江・六十三歳)
いらない物はいっそのこと寄付したら?
「私は自分が死んだあと、嫁が片づけるときにわかりやすいように、次のことを実行しています。娘さんのいらっしゃるかたは、お母様のことをよく覚えていて、あれはこれはとおわかりでしょうが、いっしょに暮らしていない嫁にとっては皆いらないものになってしまいましょう。男の子は頼りになりませんし、関心がありません。
(一)書画骨《こつ》董《とう》は、箱に『いつからこの家にあった』などと書いておきます。何代か前からのものというわけ。自分で買った絵画などは“いくらで、いつ、どこから買った”とメモして裏につけておく。
(二)いただき物の花びんなどは“だれから、いつ”と書いてはっておく。
(三)ブローチ、ネックレス、指輪などは購入年月日と代金を書いたものをケースに入れておく。これは形見分けなどに役に立つでしょう」(群馬県・根岸はるえ・六十四歳)
「なんといっても品物を減らすのはこれに限ります。
お友だちでもだれでも、『アラ、いいわね』とか『すてきね』とか言ったら、『そう、よかったらお持ちになって』とか『お使いになって』とか言って、断りを言う暇もなくさしあげてしまうことですよ。この方法は、ときにはあとで少し悔やむこともありますし、また、スーツの上だけあげてしまっておかしなことになることもありますが、これは私があわてん坊のせいでしょう。
よいとか、ほしいとか言ってくださるかたが使ってくだされば、ウチでほったらかしにされているよりずっといいと思っています」(埼玉県・戸叶照子・六十八歳)
しかし、大きな物はそう簡単に持っていってはくれません。最近は資産保護ということで、リサイクルが流行しておりますから、住んでいるところの自治体(市区町村の役所、出張所など)へ電話で問い合わせられてはいかがですか。広報などもまめに目を通しましょう。
中古の家具などを専門店に引きとってもらうときは、ほとんどタダです。持っていってもらうのがありがたいという感覚でないと処分できません。
枕、小だんす、ストーブ、こたつなど生活用品は、東京では救世軍のセンターで市が立ち、ここへは外国人の留学生が朝早くから買いに来ますので、使えるものは持ち込むのも一つの方法です。外国人留学生は安く買えるのでとても喜んで利用しています。ここですべての生活用品をそろえる人もいるほどです。
●〒166 東京都杉並区和田2―21―2
救世軍男子社会奉仕センター
03―3384―3769
たくさんあればとりに来てくれるかもしれませんから一応電話でお問い合わせください。しかし、少々のことなら、片づけ料として自前で送るくらいの覚悟はしたほうがすっきりします。ここは衣料も受け付けています。このセンターのように流通の仲介をしているところもありますし、施設そのものが使用するところもあります。
●〒294 千葉県館山市大賀594
かにた後援会
0470―22―2280
恵まれない生活を送った婦人たちのための施設“かにた村”では、家具、衣料、古切手などを引きとってくれます。こちらも一度、電話でお問い合わせください。「ボタン一つでも使い切ります」という精神には頭が下がります。さしあげるというつもりで出されたほうがいいと思います。こちらは、婦人のための施設ですが、幼い子供で、両親の都合で預けられる養護施設も全国にはいくつもあります。こういうところは、ひとりひとりの子供の衣類などを整理する小だんすも必要で、ぎゅうぎゅう詰めにするために壊れやすく、あれば助かるということです。食器類も情操教育のため瀬戸物を使っていて、割れる――だから物をたいせつにする――ということも教えていますから、補充が必要です。
●〒369―02 埼玉県大里郡岡部町大字本郷335
三愛学園
0485―85―0605
ただし、衣料はきちんと洗濯してあること、ボタンなどもつけてあること、などご注意ください。よく災害のあったとき、山のような救援衣料が届くそうですが、中には留めそでがあったり、また汚れたままのものがあったりして、かえって始末に困るそうです。ほんとうに役に立つものを選んでください。
●〒541 大阪市中央区安土町1―4―9 新船場ビル
日本救援衣料センター
06―271―4021
バングラデシュ、ベトナム、エチオピア、ガーナ、ザイールなど、世界の貧困にあえぐ国々に衣類を贈ることを目的としているセンターで、大阪・船場を中心とした繊維企業二百五社が中心となっている民間団体です。
衣料のうちでも、古い和服はこういうものには使えません。和服を専門に扱っているところとしては、
●〒183 東京都小金井市中町2―24―16
東京農工大学工学部 繊維博物館
0423―81―4221(代表)
和服・帯などの衣料です。古いものには何年ころのもの、材質は絹・明石とか、大島とか、いまの若いかたがたがわかるように書いたものをつけて送ると展示に便利でしょう。先々代、先代様のもので、捨てるには惜しいけれど、もう着られない、といったものはここにおさめていただければご先祖様も喜んでくださるでしょう。よい着物や帯地ははさみを入れて袋物にしたり額に入れるなどの方法もありますが、完全な形をしたものはそのまま残せればそれにこしたことはないのではないでしょうか。
ガレージセールも大流行しています。チラシなどを見て持っていくのもいいでしょう。思ったより安い値段をつけることがコツで、一度でも手を通したものは半額以上です。つい、また買ってきてしまわないよう気をつけてください。
老人病棟の年寄りたちのボヤキ
「“老人ホーム、老人病院へ入ったら家族の面会は間遠になる……”というのが定説になっている。談話室でお年寄り同士が、『うちなんざ半年も来やしないよ』などと、面会に来ている人を横目で見ながら話しているところへ、パッとCさんのご家族があらわれて、当のCさんは棒を飲んだようにギクッ。
談話室は面会所を兼ねているので、いやでも会話が耳に入る。Cさんはふだんとはうって変わっておとなしく、息子さん夫婦と女子高生らしいお孫さんの話にウンウンとうなずく。そのうちお孫さんが、『おばあちゃん、私の出した年賀状届いた?』
Cさん『あ、あれ。うん、届いたよ』
嫁『おばあちゃん。そういうときは、会ったら真っ先に“年賀状ありがとうね”くらい言うものよ。そう言わないと、もう出そうって気がしなくなっちゃいますよ』
Cさん『ごめんね、忘れてたよ』
嫁『やーね、何でも忘れちゃうんだからァ』
Cさんはけっして忘れていたのでも、どうでもいいと思ったわけでもないだろう。それこそ寝ても覚めても胸に抱くほどたいせつにしていたのだろうが、とっさのことにあがってしまって、うまく言えなかったのだろう。
また、Cさんはお正月用にと送ってもらった綿入ればんてんをたいせつに着ていた。
お嫁さんは『おばあちゃん、はんてんの下に毛糸の羽織着て、着すぎじゃないの。かえって、かぜひくわよ』
息子さんも『ここは全館暖房だから、ちゃんと着るものの調節しなきゃダメだよ』
Cさんは『うん、うん。いまだけちょっと着ていたんだよ』
Cさんの息子さんよ! 入るときのパンフレットには、全館冷暖房完備と書いてあったかもしれないけれど、実際には寒い日もあり、廊下が冷えたりすることは、そこに暮らしている者にしかわからないこと。プレゼントはうれしいし、ホームの人には自慢したいし、で着ているのだ。もしこのはんてんをCさんが着ていなかったら、
『おばあちゃん、あのはんてんどうしたの? せっかく送っても着ないんだからァ』
と言われることはわかりきっている。
このように、人はそれぞれ自分の物差しではかってものを言う。お年寄りはとっさに返事をするのが苦手で、その奥にあるいわくいいがたい事情をうまく説明することができない。周りのお年寄りも、その行き違いにひと言口をはさみたいが、“言ってはならん”ことをよく知っているからしない。こういう行き違いが“老い”の理解をむずかしくしているようだ」(東京都・武田かず子・六十七歳)
ホームでも老人病院でも、究極の晴れ着はいちばん上に着るもののようです。
究極の必需品は寝巻一式とガウンと下着と書類など、ということはよくわかりましたが、そこに至るまでの身辺整理ということが出てきます。長い間の生活のあかがたまっています。まず、家じゅうの片づけが必要でしょう。
「友人が入院と宣告されて『一週間待ってください』と猶予をもらい、家の中を片づけたという話を聞きました。
しかし、猶予ももらえないことがあります。この場合、家から何か持ってきてもらうためとか、長い間留守にすると、家に用ができますので、家の中に“人”が入ると思わなければなりません。家の中がごちゃごちゃしていて恥ずかしいので片づけるため猶予期間がほしいのですが、しかたがなければ目をつぶりましょう。でも、何がどこにあるか、他人にさがしてもらってもすぐわかるようにしておくこと。これがいちばんたいせつです。口で『引き出しの上から何番目』と言ってわかるように。
それから、そこまでは、と思っても、自分の好きな写真をチェックしておきましょう。いざという場合、写真がなくて困ることが多いのです」(東京都・松田由江・六十五歳)
一椀の食器と愛読の本が少しあれば……
「小生、親の代から家が東京の成城にある。当時はやぶ、雑木林に囲まれた田舎だった。父が買ったころには坪二円だったという。
小生、二度目の勤めが仙台であったので、成城の家は息子夫婦が住んでいる。いよいよ勤めをやめて東京に帰るということになったら、妻はあの家を壊し、二世代同居のハイカラな白い家を建てようと言い出した。
『あんなボロ家に帰るくらいなら、ここ(マンション)にいたほうがよっぽどいいわヨ』
と憎々しくほざく。
“あんなボロ家”とは何事か。親が建てた家は戦前のものゆえ、木組みもしっかりしており、間に何回か手を入れ、息子に嫁が来ると決まったときはアク洗いをし、壁も塗りかえた。よい材木が使ってあるので見違えるようにきれいになったのだ。台所などは改造もしたし、天井は高く、柱は太く、回り廊下もついており、ゆったりした造りで、床の間のさるすべりの柱や、どっしりした建具はいささかも損傷しておらんのに、どこがあんなボロ家なのか、と怒りがわき上がってくる。そんなことを言われて、どうして今どきの白っぽい家などに建てかえられようか。
小生が断固としてNOと言いつづけておるので、妻はふてくされ、プイと東京へ行って帰ってこない。夫をなんと思っておるのか。第一、妻は家事の能力を初めから持ち合わせていなかったように思う。
結婚した当初から転勤つづきで社宅に住んだ。社宅は狭くって、とよく妻はこぼしたが(といっても戦後すぐのこととて恵まれていたと思う)、むやみやたらに買い込む家具、台所用品、これが家を狭くしたのではないかと思う。その買う方法がまことに主体性がないというか、計画性がないというか、驚くことが多い。妻の姉妹が四人いて、だれかが、うちじゃこんどミキサー買うんだけど……などと電話で聞いたら最後、
『お姉さまに言っていっしょに買いましょうよ。まとめて負けてもらうとか、だれそれに頼むとか』
と、延々と話がつづき、
『またか、うちじゃァいらないんじゃないか』
と、口をはさむ間もなく、もう品物が届いてしまう。この連れションならぬ連れ買いで、際限なく物をふやすが片づけるわけでなし、三日使ってほったらかしで、山をなしたのではあるまいか。
転勤すると家具が減る。やれやれと思うが、なんと、社宅の奥さんたちにやってしまっていたらしい。ミシン、自転車など、『高価なものをいただきまして』など、見知らぬような見知ったような女性からお礼を言われてギョッとする。だれの金で買ったのかと言いたいが……。転居してすぐはまことにせいせいし、ゴルフのクラブをみがく空間もあるが、すぐ食堂はいすを引くと通れぬようになる。子供たちもやたらに買う。まことに不思議だ。小生の背広などは、
『エーッ! また太ったのォ』
などとイヤミを言う。これは仕事に不可欠なものだ。
一度、東京へ戻ったが、母が亡くなったころだった。とてもこの調子では親といっしょに住めなかっただろう(父はもっと前に亡くなっていた)。ただし、両親の家財があり、妻がこれを思うままに捨てる。なんということだ! 小生が育ったときの机、本箱、ちゃぶ台等々、黙っておれば仏壇もうっちゃりかねぬ勢い。
『かってにスルナ!』
とどなったら、以後、あてつけるように、両親時代の家具を小生の書斎とも呼べぬ昔の勉強部屋に押し込んだ。おかげで畳は六畳の部屋に二枚しか残らぬ。小生も意地になって捨てぬ。
妻は、買い物、もらい物の類を絶対になおさぬ(なおすとは元どおりにするとか片づけるとかいう意)。買い物は、ソコへおく。もらい物も紙をはがし、ソコへおく。したがって家の中は際限なく散らかる。子供はまたぐ。不愉快きわまりない。片づけてもすぐ次のものがのさばる。物を整理する能力がないらしい。したがって、外へ出ていく。家では客もすわるところがないからだろう。小生も客にあがれといって、何回も恥をかいた。昔の家で六間あるが、小生らが転勤し、息子夫婦を住まわせるために少し整理しろと言ったら、またまたメチャメチャに積み上げ、ようよう二間あけ、ここに息子夫婦が住んだ。ここは小ぎれいに片づけており、調度も嫁の持ってきたもので愛らしく華やかで、第一、シンプルでよい。妻はこれを、
『嫁入り道具が少ない』
と陰口をききおった。これ以上何を持てというのか、あきれ果てて、ものも言えぬ。われわれが東京へ帰るについて、息子夫婦はマンションを探して出るという。孫(男子)はまことにかわいく、いっしょに住めばと内心期待しておったが、このように決まった。妻は、
『うちみたいなボロなとこ、いやなのよ』
と言う。家がボロなのではない。この物量にとり囲まれて暮らすことに恐怖を感じているのではないだろうか。帰るについては、現在、仙台で暮らしている家財を持って帰ることになるのである。小生が一大決心をせざるをえないではないか。
家を建てかえねば帰らぬという妻。それもよからん。東京には息子夫婦、川崎には娘夫婦もおるから。以前から何やかやと上京し、二日と言ったのが二週間になることはしょっちゅうである。その間、人は『お留守ですか? ご不自由でしょう』と言うが、なんの、なんの。
玄関(マンションは狭い)は、妻のはき敷らかした靴があちこち向いており、小生は自分の靴をぶら下げてまたいで入っていた。これをけちらし、袋に入れてタイル空間を確保する第一歩から始める。妻の靴をみがいて片づけるほど親切ではない。朝の出勤のため、靴を外向きにそろえて並べておく。母がしてくれたように。壁にぶら下がっているえたいの知れぬバッグ類、これもビニールに突っ込み、小生の居住空間を広々とさせる。食事などは弁当を買うのでいささかも困らぬ。冷蔵庫はラッシュの電車さながらで、うっかり手をふれると、とけたきゅうりや、あけっぱなしで異臭を放つ缶詰めに不快を増すばかりであるからあけぬ。ビールは冷えたのを自動販売機で買えばよい。もちろん、ゴミは出勤途上で出す。完《かん》璧《ぺき》である。この生活はよい。手あかにまみれ、上にほこりのたまったテレビをふくと、ナイターのボールの行方もはっきり見えるのだ。妻はテレビも写りが悪くなったから買えと言っておったが……。
このようにたびたび快適な生活を送っていると、帰宅した妻は、例の片づけた袋はあけもせず、『アラ、ないワ』と、また物を買ってしまうのだ!
東京に帰るにあたって、小生は一大決心をした。まず引っ越したら、毎日ゆっくり腰を落ち着けて物を整理しようと。小生はもう何もいらぬ。勤めに行かぬのだから、背広、カバンなどは不要。碁盤は親のがいずれ山の中から出てこよう。一椀一膳の食器があれば食事はよかろう。愛読の本を少し。何年くらいかかればすがすがしく片づくだろうか、妻よ?」(仙台市・塚本昭・六十七歳)
たくさん服を残しても迷惑なだけ
衣類の処分はとてもむずかしいものです。主婦も外へ出て働くことが多くなり、またおけいこ事などで外出することも少なくないので、いろいろ工夫をしなくてはなりません。
●寝具
マットレス・敷布団・毛布・シーツ・布団カバー・枕と枕カバー・上掛け布団・タオルケット。布団は収納にも場所をとります。流行の羊毛敷布団はかさばりません。羽毛掛け布団もあたたかくて便利。十五、六年はもちます。以前のように客用布団を何組も持つ必要はないでしょう。
「先代様からの客用布団が何組もあって困っています」というかたが何人かいらっしゃいました。ガレージセールにも出しにくいものです。布団屋さんで新しいのを買うとき引きとってくれるところもありましたが。
「泊まりに来る子供用に必要なだけ布団をおいておくようにしていますが、四国にいる息子のところへ泊まりに行ったら貸し布団を借りていました。スペースのことを考えたら、このほうがいいと言っていました」(茨城県・村上まさ子・六十一歳)
●下着
「下着は家では二枚を洗いながら使います。旅行用には新しいか、それに近いものを用意し、古くなったら捨てようと思っていますが、上等の下着はていねいに着ていれば長くもつので結局いいかなと思います」(東京都・宝井利子・五十九歳)
「夫用はいつ何かあるといけないので気をつけ、外国旅行や国内でも少し長い旅行のときは洗濯できないかわりに古いものを着せて出し、捨ててくるように言っています。ふだんの枚数は三枚ずつプラス一枚を用意しています」(静岡県・小野田貞代・六十歳)
下着の枚数はこのくらいが標準でしょうか。
●洋服
「年をとってきまして、体型も変わってきました。なるべくゆったりしたもので、流行を全くとり入れないわけではありませんが(そでつきなどがゆったりしてきている。これは着やすくて楽でいい)、あまり流行に左右されない上等な軽いものを揃えるようにし、たいせつに着ています。
コート・半コート・レインコート・ダスターなどコート類は体型を隠すのに大事です。あとは年に一、二枚のセーターやブラウスを買い、いままでのものを家で着るのにおろしています。母の日のプレゼントなどで、ブラウス・セーター・ショールなど間に合ってしまうのであまり買いませんが、傷《いた》んだり汚れたりもしないものですから、たまったら教会のバザーなどに出しています。年々、世間の流行が派手になっていき、以前なら考えなかったキンキラキンのものなど平気で着るようになり、自分でも驚いています。色は派手ではないけれど、きれいな色を、と思っています」(岐阜県・永嶋初江・六十歳)
「私は夫と共有のものが多くなりました。セーターやマフラーやTシャツなど。体格は少し夫が大きいのですが、いまはブカブカのものが流行していますし、着やすく、着ていて楽ですから。クラス会やお芝居に行くとき以外はほとんど男物です。下着以外はたたんで洋服だんすに入れてあるのを、好きなものを好きなように着ています。数も少なくてすむからおすすめです。ペアルックという恥ずかしいことはありません(同じものが二枚ないから)。ジャンパーや上着もそでを少したくし上げて着ています。寝巻もトレーナーですから共同。色気ですか? 全くなくなりました」(東京都・上田カノエ・七十歳)
●和服
「私は和服で通しています。着なれているからこんな楽なものはないと思っています。手入れがたいへんだから……とおっしゃるかたもありますが、私は次のような方法で着ていますので、手入れその他は洋服と同じです。
和服は帯揚げをして、つい丈(おはしょりをしないで着る丈です)。ひもをつけて結び、半幅の帯をゆるく巻きつけているだけです。上からそでなしを着ていればおかしくありません。財布は帯の間に入りますし、たもとがありますから、ちょっとしたものも入ります。外出用の和服も正装以外は全部この方式にしています。ちゃんと帯を締めればわかりません。帯はつくりつけでなく、締めています。このほうが形がきちんといきます。着物は全部裏なしです。
工夫しているのは長じゅばんです。何枚も作って(和服をといて作ってもよい。単《ひと》衣《え》ものですから簡単)、それぞれに少し色のついた半えりをつけておき、それを組み合わせる着物の後ろえりのまん中に一針留めておきます。これがワンセットで、洋服を洋服だんすの中につるすようにずらりと並べてかけておきます。好きなものを着て、えりが少し汚れたなと思ったら、和服、じゅばんともクリーニングに出します。これでいつもきれいなセットを着ていられることになり便利です。人様にもおすすめしていますが、ぬうのがめんどうとか(そでをつめて、えりを少しいじるだけなのに)、着方がうまくいかなくてえりがはだけてしまうとか言われますが、洋服でもちょっとたるませて着るとか、着こなしの工夫をしていらっしゃるのですから、和服でも工夫してほしいですね。着つけ教室風でなく、それぞれの個性に合った着こなしをお考えください。足が暖かいし、これで着物を着きったという満足感など、利点はいっぱいあります」(東京都・田上とし・七十六歳)
書画骨《こつ》董《とう》のたぐいは一文にもならないと思え
書画骨董のたぐいは、先代様からあったからとか、おじいさまのたいせつにしていたものだからとかいって、価値あるもののように思いがちですが、価値はその家にとって思い出のあるもの、たいせつなものという価値であって、残念ながら金銭的にはあまり価値あるものではない場合が多いと思われたほうがよいと思います。
「私は地方へ旅行したときなどは必ず骨董屋をのぞくので、友人は私のことを骨董好きで目が肥えているなどと誤解しているようですが、ほんとうは違います。実は、骨董品を見て、その値段を見ているのです。そして、家にあるものと比較して、胸の中でフムフムとうなずきます。家は三代前からのものがありまして、そっくりデパートなどの民具展に出したいほどです。民具展などは、地方の旧家などを壊すという情報が入ると、そっくり蔵ごと買ってしまうと聞いたことがあります。ですから、一つひとつの物は値段はあってないものでしょう。売るときはけっこういい値をつけていますから、家にあるのもいい値かと思うとそれが大違いということがわかってきました。ですから、ほんとうの価値はどんなものかということを、まめに道具屋さんに足を運んで見ておくわけです。昔、盛り合わせに使った鍋島の大皿などは、当時も高かったでしょうが『魚屋が出前する皿だったのにウン万円!』などと驚く人もいますし、『あの小丼は、うちじゃ揃いが欠けたから、猫のえさ入れにしてるわ』などという人もいまして、これもよくわかりません。結局、自分の好きなものがよいもので価値あるものと思います」(東京都・石倉あや・六十六歳)
食器などは、客用などとしまい込んでおかないで使うようにしましょう。
「嫁入りするとき実家の父が持たせてくれた掛軸。家を洋風にしたのでかけるところもなく処分しようと思いまして、近所の道具屋さんに見てもらいましたら、『お家においておかれたほうがよろしいのでは』と言われました。友人に相談しましたら、デパートで古道具を扱っているところがまあまあちゃんとした鑑定をしてくれるからお持ちになってはと言われて持っていきましたが、同じようなことを言われました。結局たいしたものではない、ということで、そのまましまってあります」(東京都・岩田昌江・六十歳)
地方のお蔵から出た有名人の書や軸はほとんど本物でない、というのが定説です。
絵画が財テクによいということも言われています。
人生を整理しなくてはならなくなったとき、これらが力を発揮してくれるでしょうか。
答はおそらくノーでしょう。
一般の人が絵画を買うのにはいくつかの動機があるでしょうが、一つは家を新築したので洋間に一つほしい。二つ目は、友人・知人の個展のあいそ買い。三つ目は、ほんとうに絵が好きで、生活の中にいつもかけておきたい。四つ目は、贈答用。これは金券と同じです。これが、普通の家庭にある絵の流通経路だと思いますが、これ以外に先物を買うように新人の有望な人の絵を買っておくのと、高いけれども、さらに高くなると思って有名人のを買う投機的なコレクションがありましょう。
しかし、いざ売るというときは、画家の値段表のような本があって、号いくらというのは毎年改定されています。何年か前有名(?)だった人でも、亡くなって値の下がる人もあり、また少しくらい名の知られていた人でもそういい値がつけられなくなっていることもあります。つまり価値がつけにくいので売れないのです。
うんと有名な人のは画商によって値づけされ、一軒動くごとに高くなりますが、庶民の手に余るところで動きます。ですから、絵は財産にはなりにくいと考えてよく、好きとか、よいとかいう人に持っていってもらうのが、いいようにも思います。
ごく有名な人の有名な絵は、相続の対象になりますので、遺言書などに書いておかれることをおすすめします。
本は回収に出すか図書館に寄贈するか……
「高価なりっぱな本なら、なんとか打つ手はありますが、二度と読まないような本の処分はほんとうに困ります。私たちのころは、汚さない、折り目をつけない等々、しつけられて読んだものですが、それは昔、本の少なかったときのこと。いまでは、もらい手のない本があふれています。本ばかりは買って開いて読み出さないと、よい本か、そうでない本か、わからないというところがありまして、ついつい買いすぎて収納スペースをオーバーしてしまいます。
自分の本箱に入れる本というのはやはり限定されますので、その他の本は自分を通過していくだけとなります。ずいぶん捨てましたし、回収にも出しました。
いろいろ意見もあるでしょうが、私は店頭の本はもっと素朴なものでよいように思います(ペーパーバックのような)。そして、どうしても自分の本にしたいと思ったとき、好みの革でも布ででも製本し直すということがもっとポピュラーになればと思います。大きな本屋さんへ持っていけば、好みの製本をしてくれるなどということになったらいいなーと思います。
老人ホームまでお供してくれる本など、もう何冊もないのですから。という意味からすると、図書館はほんとうに少ないですね。老人になってもなんとか出かけられるところに図書館があれば……。公園とか図書館とか銭湯とか、そういうものはちゃんと社会の資本として整備すべきです。こういう方法が普及すれば、本の整理の悩みは少なくなると思うのですけれど」(神奈川県・新海成子・五十五歳)
そのとおりです。現実に皆さん困っているわけです。
「東京の四谷三丁目駅(営団地下鉄丸ノ内線)には改札を出たところに本棚があって、本が並んでいます。
これは、この駅の人が駅の空間を何かに使おうというアイディアで、本は寄贈。読んだら返せばよく、なんの決まりもありません。自由に持っていっていいのです。これを見た人がどんどん持ってきて、いまでは四千冊もあるそうですが、少しずつおいているそうで、千代田線根津駅でも始めているそうです。
『返さない人はいませんか?』と言ったら、『それでちょうどいい』とおおらかでした。本って、こうして読みたい人が読んだらいい――」(東京都・小林三重子・五十九歳)
ただ、最近は返さない人が増えているそうですが……。
ともあれ、それでも処分しきれません。
「古本屋のおじさんに聞きました。
『古本屋はもうパンクしそう。スペースがなければ並べられないから。お客さんが買ってくれと電話してくるけど、引きとれない本が多い。トラック代と人手のことを考えるとネ。文庫本なんてタダだよ。勤め先や学校などで引きとってくれるかというと、これも甘いと思うよ。もらっても、置く場所がないのと整理する人手がないから、物置にでも積んでおかれるのが関の山だよ。本がかわいそうだけどしかたがない。それから売ってお金になるなんて絶対に思っちゃダメ。引きとり賃を払わないでよかったと思ってくれなくっちゃね。いやな世の中だね』
だそうです。いま、本屋さんに行くと、うっかりするとビデオ売り場と半々のところがあってびっくりします。本は紙ですから、涙をのんで、ひもでくくって業者に持っていってもらっても、古紙で再生されるかもしれないと思えば救いがありますが、あの膨大なビデオはどうなるのでしょう? 年配者は本を積み、若い世代はビデオテープを積んでます。いまは全体的な量は本のほうが多いと思いますが、これがゴミになったらどうなるのか、考えただけでもゾッとします。ビデオテープの行く末のことは考えなくてはならない課題だなあ――と思っております」(東京都・伊東とも子・六十一歳)
宝石類は形見分けするのがいちばん
指輪、ブローチ、ネックレスなど金と宝石を使ったアクセサリーが大流行しています。以前なら指輪を何本もの指にはめて……などと笑ったものですが、いまはそれが普通のこととなりました。年配のかたでもけっして恥ずかしいことではなくなり、イヤリングも積極的につけた、きれいな老人というのはよいものです。
「私の友人で、料亭のおかみさんだった人の話。
『あたしゃ心臓が悪いから、ニトログリセリンをいつも持ってんの。ネックレスや指輪は本物をしっかり身につけて暮らしてんの。財布には十万円金貨を入れてるのよ。道で倒れたときの、当座のお金ってわけ。
子供はいないから芸者にする下地っ子は田舎からもらうのよ。器量のよい子はダメ。すぐ男に迷うし、嫁に行っちまう。体が丈夫な子がいちばんいい。そういう子を養女にして老後のめんどうを見てもらうことになっているけどさ、このくらいの覚悟してなくちゃダメだよ』」(千葉県・石津雪子・六十四歳)
これも一つのやり方。ただし、入院するときは貴重品を持って入るのは困るということもあります。このかたのような本物でも、買った値段で評価されるとは限りません。A店で百万円で買ったものでもB店ではなんだかんだといって半値をつけるかもしれません。ですから、高価なものは保証書をいっしょにしまっておくこと。なるべく買った店で見てもらうこと。あとで争いの種になりますので、遺言書に書いておくなど必要です。現在、流行しているデザインされた指輪などのアクセサリーは、石そのものの価値はほとんど評価されることはありませんが、行く先(あげる先)を決めておくとすっきりするでしょう。
自分には宝でも、人には屑《くず》と心得よ
「古い写真がたくさんあります。明治時代の丸《まる》髷《まげ》や稚《ち》児《ご》輪《わ》に結った娘や、男性のフロックコート姿などありますが、私の知らない人で、親戚の人に聞いてもだれかしらというくらいです。でも、ご先祖様の写真であることは確かです。処分しきれませんが、どうしたらいいでしょうか」という悩みは多くのかたが持っていらっしゃるようです。
古書専門店の話。
「人物は特に問いませんが、風俗としてそういう写真を求めているところもあります。いちばんほしがっているのは、いろんな場所の昔の風俗です。たとえば銀座、新宿、青山、どこでも昔の風景の絵はがきでもスナップでも。これは貴重ですから。写真類も扱うという店を電話帳ででもさがされて一括して引きとってもらいます」
自分の知っていた人々の写っているものを処分する――なかなかそこまでは踏ん切れません。なんだか、ご先祖様に悪いような気がするでしょう。
カメラセット、ゴルフ道具、碁盤、将棋盤、カップ、スキー用具等々、残念ながら粗大ゴミでしょうか。
このように書き連ねますと、たったいままで自分の身の周りにあって、生活の一分身のように寄り添っていたものはすべて、自分にとってはたいせつなものであっても、自分以外の人にとってはほとんど無用のものであるということを認識しなくてはならないことがおわかりいただけると思います。これを自分でそぎ落としていくことは、それこそ“身を切られるほどつらい”ことです。お年寄りが“居”を移したがらないのは、こういう自分の分身と別れるのがいやだからのようです。
私はよく人様に、私が守っている「ひとり暮らしの三カ条」をお話しします。
一、生活に手を抜かない(起きる時間も決め、掃除、洗濯も怠けないできちんとする)。
二、買い食いをしない(自分で作って食べるという基本をくずさない)。
三、物を買わない、ふやさない。
まだ若いかたがたは、「どうして物を買ってはいけないのですか」と聞かれます。
「きれいに死にたいから」と答えることにしていますが、目下、この物と自分との闘いに満身創《そう》痍《い》になりながら、奮闘中です。
かわいがって育てている数々の草花くらいは残しておいてもいいでしょうか。捨てられても、自然といっしょに生きてくれるでしょうから。
遺影は自分で準備しておくこと
では、必ず残しておかなければならないものは何でしょうか。
●健康保険証
●預貯金の通帳・カード・判こ
入院、死亡の場合など、すぐ現金が必要です。自分の身を自分でまかなうという考え方から、キャッシュを十万円くらい常備しておかれることをおすすめします。
財産としての預貯金、有価証券、不動産の証書、借入金、貸付金などの明細等は、貸し金庫などを利用されている場合、その番号と鍵が重要となります。あけることのできる人を本人以外にもう一人登録しておかないと、いざというときあけられません。また、家族にわかるようにしておかないと没収されてしまいます。
●生命保険証書
本人死亡の場合、郵便局の簡易保険は死亡診断書があればすぐおろせますので役に立ちます。民間企業のものと併行して、郵便局の簡易保険はおすすめ品です。
●年金証書
●遺言書(第3章で述べます)
●位牌(あれば墓地の使用許可証)
●写真
これだけカメラが普及していても、いざというとき使える写真は少ないものです。あわてて集合写真の中から首から上だけを、紋つきの着物の上に重ねて複写したものなどが使われる場合が多いのです。帽子をかぶっているといけないとか、カラー写真はダメとか、横顔はダメとか言われますが、このごろはいちばん本人らしい写真がいいと言う人もいます。でも、心がけて、平服でもかまいませんから、なるべく正面を向いた、少し若いときのものを用意しておきましょう。アルバムに紙をはさんでおいてもよく、フィルムがあればフィルムをつけておきます。
●仏教なら寺、神道なら神社、キリスト教なら教会の連絡先
●通知先
身内、親《しん》戚《せき》、勤め先、学校時代の友人、けいこ事などの友人、お互いのつれあいの友人を書き出し、代表者の氏名と電話番号を書いておき、そこからそれぞれに通知をしてもらうようにします。夫は妻の交遊関係を知らず、妻も知らないということがよくあります。
第3章 金は自分名義で、
子供に残すなかれ
相続は必ずもめると覚悟すべき
Dさんが亡くなりました。遺産といっても住んでいる家屋敷と動産の株・預貯金で、以前から相続税を払うほどでもなかったのですが、地価が上がってしまって、百坪ほどの屋敷がたいそうな評価となってしまいました。
子供は男二人に女一人。それぞれ家庭を持って別に住み、奥様が残りました。当初、子供たちは母親が困らないように相続権を放棄する判を押して、全部母親がおとりなさい、といった雰囲気だったのですが、四十九日の法要もすみ、相続の話し合いに入るときになって、それぞれの子供が、いろいろな情報を仕入れてきて話がおかしくなりました。
子供が全員相続権を放棄して母親が相続する。母親が生きている間はそれでいい。皆、母親のことを心配しているのだから。だけれども、息子たちの妻は、自分の家に引きとる、またはいっしょに義母の家で暮らすのはいやだから、引き継いだ遺産でなるべくひとりでやってくれ、というのが本心らしい。また娘は結婚していて、そちらの親もいるのでめんどうは見られない。これも本音でしょう。母親が病気になったりしたら、また考えればいいというわけです。
いまは母親という中心になる人がいるから、このように遺産の話もスムーズにいきますが、母親が亡くなって、重しがとりのけられたら、きょうだいそれぞれの思惑でこの屋敷の土地の分割はうまくいくかどうかわかりません。それよりも、お金、株は母親の自由だが、土地は分割して相続しておき、母親が生きている間はそこに住んでてもらってかまわない、ということにすれば、母親が死んだときは動産だけだから相続は簡単でいいという話が出ました。母親の目の前で、死んだら分けるのに楽だなどという話はあまり気持ちのいい話ではないのですが、このときは相続のことで頭がいっぱいのうえ、皆動転していて、それがいいと決まったようです。それぞれの名義上相続した土地に対する税金はそれぞれ払うなど話し合われました。それが払えるかどうかは疑問ですが……。
また、相続して、それぞれの名義で登記をする場合、道に面した土地、奥のほうと有利な場所があります。これに関して、三人ともよい場所がとりたいと、集まるたびに土地権利書についている図面を前に口から泡を飛ばして言い合いになり、それぞれのつれあいのリモートコントロールもあって全然まとまりません。死後八カ月の相続申告の期限はとっくに過ぎました。相続人としていちばんの権利を持ち(全財産の半分を相続)、また、早く申告をすませて封鎖されている現金などを使えるようにしてもらわないと困る母親は、「私の死んだあとのことでもめて、私にどうしろと言うんだろう」と嘆く日々です。
早すぎた遺産相続で親は捨てられる
この人の流し目には女の人ならだれでもぞくっとする……と言われるほどの天下の色男Hさんは、属している映画会社を移籍するとき刃《にん》傷《じよう》事件があって世間が大騒ぎしました。しかし、実力、人気ともあるかたなので移籍後も順風満帆、永遠の二枚目といわれたかたです。この移籍のとき、結婚していた梨《り》園《えん》の名門のお嬢さんと別れて、花柳界のかたと再婚。この人が、きれいなだけでなく、芸事にもすぐれた人で、Hさんの芸のこと、家のこと、何から何までとり仕切り、料亭も経営して成功させ、高級割《かつ》烹《ぽう》として有名にし、金銭的にもHさんに心配をかけないようにしていたので、賢夫人の名をほしいままにしていました。この夫人の子供さんたちもそれぞれ芸能界の人として、着実な歩みをつづけ、Hさんは百パーセントの信頼を夫人に寄せられ、頼りきっていたようです。
ところが、夫人が先に亡くなりました。蓋をあけてみたら、料亭・住居などの不動産、株・預貯金の動産のすべてが夫人の名義または夫人の子供さんの名義になっていて、当主Hさんの名義のものは何もなかった――のです。
夫人としてみれば、ふつう夫のほうが先に逝《ゆ》くから、そのとき相続は前妻との間の子供にも分けなくてはならないし、自分も自分の子の身も守りたい、というわけで、おそらく少しずつ自分の側の名義にしておき、分けるべき財産を極力少なくしようと思ってしたことに違いはありません。これはよく考えられることで、現によい節税法とされてもいると思います。
ところが逆に考えた場合、信じてまかせた妻に裏切られた、という感が夫には強いでしょう。現実の問題としては妻の財産を半分は相続する権利が夫側にありますが、自分の住んでいるところを残すのが精いっぱいだったとのことです。また、前妻の子供には、亡くなった夫人とは養子縁組がしてないので一文もいかないことになります。夫側の驚《きよう》愕《がく》はいかばかりだったでしょうか。Hさんはいままで働いて築いた財産がすっからかんに近いことになったわけで、まもなく気力をなくして亡くなられました。
この場合は、夫人があとあとよかれと思ってひとりで考えてされたことでしょう。いまは相続税が高いので、どうしたら節税してあとに残せるかと、あの手この手が考えられるようです。しかし、世の中は自分の思うようにはいきませんし、このような思ってもみなかったこともあるわけですから、どんな愛妻でも、どんなにかわいい子供へでも、名義を移しすぎないよう、自分の分はしっかり守りましょう。
あとで子供が苦労する? それも子供の甲斐《かい》性《しよう》ではありませんか。
他人《ひと》事《ごと》にあらず。子供の家のたらい回し
「まあ、しばらく」
と彼女Eさんはニコニコしながら、新しいセーターを着てやってきました。某大学病院の地下の喫茶店です。
「ずっと来なかったから、どこか悪いんじゃないかと思って、みんな心配していたのよ」
よく病院の常連のお年寄りが、きょうは〇〇さんが来ないけれど病気じゃないかしらと言うといって笑い話の種にされます。年寄りが毎日病院へ来るということは、一病持ちの息災ということであって、平常の生活ですから、来なければやはり病気なのです。
さて、私は家の者から“病院の母”と呼ばれています。大学病院には全科そろっていますから、リウマチ・血圧・糖尿病の内科、腰が痛いの整形外科、歯科、かゆいの皮膚科、目やに・白内障のけの眼科。行かないのは小児科くらいです。なにしろ月900円で一日遊んでいられるところ(これは言いすぎ、待つので時間がかかると言いかえましょう)ですから、毎日、無料パスを使って出勤しています。毎朝八時に家を出てきます。
こういう人はたくさんいるのですが、各科で待っている間に、新人(初めての人はおどおどし、わからないことも多い)に声をかけて、カードはこうするとか、いろいろ教えてあげますから、みんな私と顔見知りになって、自分の番がすむと病院内の喫茶店でほっと一息つきに来たり、薬が出るまでの時間をつぶしに来ておしゃべりをするのです。世間話もし、知恵も貸し、愚痴も聞くので人助けになるようで、一杯のコーヒー代を、そこへ集まる人が、きょうは私、きょうはだれさんとか言って払ってくれるようになりました。ときには、つくだ煮やおまんじゅうやらをいただきます。さて、Eさん。
「ご無沙汰。実は、大阪にいる孫がピアノの発表会だから来ないかということで、たいしたことでもないからいやだと言ったんだけれど、新幹線の切符まで送ってきてね。行けば、嫁があれこれ誘ってくれるし、孫の浴衣の肩揚げを直したり、嫁の出かけるときは留守番したりして、けっこう用もあったのよ。でも、やっぱりひと月もしないうちに帰りたくなったし、サービスも種切れみたいらしいし、着るものもとり替えたいと思っていたら、嫁がセーター買ってくれて、またちょっと延ばしてね。
そのうちに、娘のところから、孫の就職運動中で電話がかかってくるから一日じゅう家に人がいなくてはいけないから来てくれないか、と言ってきて、そんなことで役に立つならと思って娘のところへ行っていたのよ。なかなか内定がとれなかったらしいけれど、決まったら用なし。居づらいような気がしたけれど、娘もハイ、サヨナラ、もういい、とは言いにくかろうし、私もなんとなく言い出しそびれたけれど、思い切って帰ってきたのよ。息子が車で送ってくれたわ」
「おばあちゃん、けっこうあてにされてるじゃないの」
「親孝行な息子さんじゃないの」
と同席の人は口々に言います。なんのことはない、子供の家をたらい回しにされているのです。でも、子供さんたちはおりこうさんで、お母さんがじゃまだから、行けと言っては角が立つから、バトンタッチで必要だから来てくれというように持っていってくれるのです。お互いによく相談しているのでしょう。まずはけっこうなことではありませんか。
あとから眼科をすませて席についたFさんは、
「私もよくそんなふうに呼ばれるわよ。でも、行っても、自分の部屋があるわけじゃなし、テレビも自分の好きなものをつけられないし、ちょっと出かけるにも東京なら無料パスでタダだけれど足代はかかるし、新聞は違うといつも読んでいるようにはいかないのよね。地方版にはなじめないし、テレビのチャンネルは違うし、あれ、やっているかななんてパチパチやって孫に笑われるし、電話で話す友だちも遠いし他人の家で長電話はできないし、かかってもこないし、こうして毎日顔を合わせに出てくる病院があるわけでなし、来い来い、行け行けと言われるけれど、ウンとはなかなか言えないのよね。この前は、府中のお祭りを見に行けと孫に車で連れていかれてしまった。お祭り見たら、帰ろうといって帰れる雰囲気じゃなくて、近くに住んでいる次男の家にバトンタッチされてしまってさ」
Fさんはほんとうのことを言わずもがななのに言う人です。そりゃあそうかもしれません。でも、Eさんはよく知ってておみこしにのっているのですから、そう、よかったわねと言っておけばいいのです。これが“病院の母”たる私のカウンセリングなのに、ほんとうのことを言うなんて……。
「だけど、これがおじいさんだったら、子供たちはおいでとも言わないと思わない?」
すごい問題提起です。
「おじいさんは役に立つことがないから口実がないのよね」
「おじいさんだとお嫁さんが困るのよ」
「だいたいおじいさんが残っているケースが少ないから、問題ないんじゃないの」
「いやあ、悪いわ。でも、“病院の母”はいても、“病院の父”がいないということにもあらわれているかもしれない」
「きょうのコーヒーは私が持ちます、久しぶりだから。子供もお小づかいくれたから」
ごちそうさまでした、Eさん。
またあすから病院で会いましょう。愚痴を吐き出すことがどんな薬よりよく効きます。
子供は全くあてにならない、これ常識
「Gさんは具合が悪くて引きこもってしまった」
と老人学級の友人が心配そうに話します。
「ダンスのクラスにも皆勤で、とりたてて悪いところはないって言っていたのに」
「別に住んでいる息子さんもよく来てくれて、ひとりで住んでいても淋しくないって言っていたし」
「自慢の息子さんで、脱サラして何か会社経営しているとか、成功したとか言ってたわ」
「失恋したんじゃないの?」
まことにお婆様がたは言いたいことを言うものです。
実は、Gさんの息子さんの「お母ちゃん」という甘え声に負けたのです。
「お母ちゃん、きょうはどこ行くの?」
「きょうは××銀行の定期が満期になって、古いころのだから前にいた家の近所まで行かなくっちゃならないのよ。近所の支店に移したいと思ってね」
「なんだァ、帰り道だからやっておいてあげようか。それに、あっちの銀行こっちの銀行って、ちょぼちょぼおいておくと不便だからさ、△△銀行へ寄せたら? 軍人恩給の振り込み先もここへ変えておけば、お母ちゃんもちょっとお使いに行くとき用事がすむじゃないの。通帳と恩給の証書と判こをちょっと預かっていくよ。こんど〇日にこっちへ回るから、そのとき持ってくるよ」
「お母ちゃん、ハイ定期と判こ」
「お母ちゃん、こんどツアーに誘われたんだけど、あと少し欠員があるっていうから、お母ちゃんも行かない? 旅費はボクが払ってあげるよ」
なんとなく、このごろ、銀行から利子の振り込みとか満期の通知が来ないような気がします。通帳はウチにあるのにどうしてかなあ。銀行へ久しぶりに行って、
「あのォ、通帳長いこと記帳がしてないからしてください。あらァ、あんまり振り込みがありませんね」
銀行で、住所は息子さんのところへ移してあること、通知はすべてそっちへ行っていること、持っていた定期は、それを担保にして息子がお金を借りていること、百万円は定期ならその場で九〇パーセント以上借りられること、恩給の証書でもお金を借りていることがわかりました。だから……、どうして……。死んだほうがまし――とか、息子がお金を返せば何もかもなくなるわけではない――とか考えて、鬱《うつ》々《うつ》した日々なのですって。
自分名義の財産は死ぬまで手放すなかれ
「母を施設から引きとれないと言ったら、なんという子供だ、人間じゃない、とお怒りになるのはもっともですが、いまは引きとれません。ほかのきょうだいとも相談しますが。
父が亡くなってから、住んでいる家と少々の財産と年金で母は十分暮らしていけるはずでした。病気になったら子供が相談して、だれかが家に戻ってめんどうは見ると話し合っていました。母はどちらかというと箱入りお嬢さん奥さんで、一度もお勤めしたこともない人です。戦争から帰ってきた父と結婚して、ごく平凡なおっとりとしたよい母でした。
父がガンで病んでいるとき、母の友人が、その人もご主人をガンで亡くされたそうですが、自分の信仰しているなんとか教のところへ母を連れていったらしいです。らしいというのは母がはっきり言わなかったからです。父がだんだん衰えていくのを見ているのが心細かったのでしょうか。
亡くなってから、毎月何日とかがお参りに行く日とか言っていましたが、信者の位が上がって……と言っていましたのは、たくさんお金をおさめたということらしいですが、なんとか教の道場(?)へ行くのが一日おきとなり、やがて毎日、朝から家にいないようになりました。早く行って、お手伝いをするとか。ですから、母と連絡はなかなかとれませんでした。父の一周忌のときも、家のお寺のお坊様を呼ばないとか呼ぶとかで子供一同と大げんかをしました。母はなんとか教の信者でも、死んだ父はお寺のお世話になっているではないか――ということでです。
私ども子供が家に行くと言ってもちっともいませんでした。親戚とはいっさい交際を断ち、家の道具も売ったようでトラックが来たと近所の人が教えてくれました。やがて家も、子供にはひと言の相談もなく売ってしまい、それも献金してしまったらしいのです。そのすさまじい信者ぶりに、紹介してくれた友人とも母はけんかしたらしく、私どもへ聞くに耐えない中傷が入りました。なんとか教の教祖さんに“入れあげて……うんぬん”。母は道場に住み込んで下働きのようなことをさせられていたようですが、もともとお嬢様育ちで、体をこわし、精神的にも少しおかしくなりました。そうなると出ていけがしの扱いを受け、見るに見かねた信者さんのお世話でここ(施設)へ入れていただいたのです。その間は音信不通でした。
信仰に何もかも入れあげ、『自分のことだからほっといてくれ』の一点張り。しかし、自分の身を守る最低のものは持っていてほしかったと思います。少し考えさせてください」(千葉県・荒川安江・四十三歳)
じょうずに子供の世話になるコツ、教えます
孫は来てよし帰ってよし、これは名言です。
老人夫婦のところへ孫がときどき遊びに来ます。親が偵察によこすのでしょう。これがいちばんいいですね。孫というクッションをおいてつきあえばトラブルが少ないのです。
孫が来るといえば、孫のために好きな食べ物を少々こしらえ、次に用事を少々こしらえておきます。高いところの電燈をとりかえてもらうとか、ビデオやCD、カセットのぐあいを見てもらうとか、こういう機械に年寄りは弱いことは定番になっていますが、彼ら、彼女らはやすやすと直してくれて、プライドをくすぐることもできます。
「簡単じゃないの、わかんなかったらボクに聞きなさい」
お駄《だ》賃《ちん》はもちろん渡さなくてはいけませんが、この渡すタイミングがたいせつです。片づけ物を手伝ってもらおうと思っていて、「ああ、よく来たよく来た、ハイ」とお小づかいを出すと、すぐ、もじもじしながら、「おばあちゃん、ボク、用事思い出した」と帰ってしまいます。仕事を全部すませて、帰るタイミングを見はからって、しかも忘れず、「ハイ、ありがとう」と出す。これがうまくつきあうコツです。
子供とつきあうのも基本的には同じではないでしょうか。
あまり何も手を出すことのない親には子供が困ります。何をプレゼントしようかなどと敬老の日に言われて、何もいらないと木で鼻をくくったような返事はお嫁さんに好かれません。また、くれたチャンチャンコは押入れに直行しても一応はうれしそうな顔をして嫁を立てることです。それがわずらわしいなら、金銭に関すること以外の、ちょっとした用事を考えて、重いものを動かしておくれとか、ガラス屋さんを紹介しておくれとか、親に孝行をしてあげたという気持ちを満足させることを考えておくこと。お金のことは、これはそれとなく“おふくろは渋い”と思わせておくのがよく、ねだりもしないが、ねだられもしないという関係がいちばんよいのです。ですが、あるんだよ、ということもチラチラと知っておいてもらわないと困りますから、入園、七五三、入学、成人式などには思い切って気ばりましょう。お金を持ってあの世には行かれませんから。いつもどこが痛い、ぐあいが悪い、ちっとも来ないとか言って、自分に注意を向けさせようとするお年寄りがいますが、狼《おおかみ》と少年の話のように、これではかまってもらえなくなる種子を自分でまいているようなものです。よくお年寄りとつきあう法などといって、お年寄り側のすることすべて許す風潮がありますが、これは違います。お年寄り側も頭を使い、少しはすきを見せて子供とつきあう。これがじょうずに世話になるコツです。
死ぬまでの日々、いくら必要?
日本人の平均寿命は、厚生省統計情報部発表によれば、男76・11歳、女82・11歳(一九九一年)。年々延びておりますが、この高年齢を支えている明治生まれのかたがだんだん亡くなられますので、これからはそれほど延びることはないでしょう。
定年は延長される傾向にあるといっても、一応60歳をめどと考えて、定年後の収入源についてはそれぞれお考えになっているでしょう。
週刊ダイヤモンド別冊「ニッポンなんでも十傑、八八年版」によれば、30〜50歳代の人が考える定年後の収入源は、次のとおりです。
公的年金         71・4%
夫が働いて得る収入    42・8%
利子・配当金       38・4%
個人年金         35・8%
企業年金、共済年金    27・4%
不動産、家賃収入     16・0%
妻が働いて得る収入    7・2%
子供の世話・仕送り    4・8%
やっぱり公的年金に頼る部分が多いのがわかります。これが昭和20〜30年代のお年寄りとくらべると、最近は“子供の世話・仕送り”に頼っていないで、自分でなんとかしようと思っている姿が浮き彫りにされています。
それでは、30〜50歳代の人が考える「公的年金からの受給予想額」は、どのくらいなのでしょうか。平均はひと月17・6万円です。(郵政省“個人年金に関する市場調査”昭和六十二年九月調査)
10万円未満        6・7%
12万円未満        9・6%
14万円未満        3・1%
16万円未満        12・0%
18万円未満        1・9%
20万円未満        2・4%
25万円未満        16・1%
30万円未満        5・0%
40万円未満        5・8%
40万円以上        1・6%
不明           35・8%
不明は別として、25万円未満と16万円未満が多くなっています。正確に自分の分を計算されたかどうかは疑問ですが、多くのかたがたが厚生年金と国民年金の二本立てを合算して考えていらっしゃるのではないでしょうか。
どれだけ年金があれば、ゆうゆうとした老後が送れると考えているかについての調査があります(郵政省“個人年金に関する市場調査”昭和六十二年九月調査)。
30〜50歳代の人が考える“夫婦の老後に必要と考える生活費”によれば、最低必要と考える生活費は平均21・1万円、豊かな老後のため必要と考える生活費は31・2万円です。内訳は、
12万円未満 最低(の額と考える)……………6・4%
豊かな(生活ができると考える)1・9%
12万〜16万円未満 最低…………………………19・2%
豊かな………………………3・8%
16万〜20万円未満 最低…………………………2・6%
豊かな………………………1・2%
20万〜25万円未満 最低…………………………37・2%
豊かな………………………17・1%
25万〜30万円未満 最低…………………………9・8%
豊かな………………………13・1%
30万〜40万円未満 最低…………………………13・0%
豊かな………………………35・1%
40万円以上    最低…………………………3・8%
豊かな………………………20・2%
不明…………………………………………………15・9%
これによりますと、最低生活でも20万〜25万円はかかることを予想している人がいちばん多いのは、ご自分の現在の生活から割り出しているのでしょう。豊かな生活をするためには30万〜40万円が必要と出ています。調査時点で、満足した暮らしをしているかたがたの生活費といえましょう。そうすると公的年金だけでは足りないことは一目瞭《りよう》然《ぜん》ですので、個人で貯金をしたり、個人年金に入ったり、自衛の手段を講じることになります。
この調査とは別に、60歳以上で夫婦二人、またはどちらかひとり暮らしでも(一人口は食べられないが二人口は食べられる、など昔から言われているように、一人も二人もあまり生活費は変わらないものです)、持ち家があれば20万円あれば食べられる――つまり暮らせるというのが通説です。
前記の調査の公的年金からの受給予想額のモデル例を考えてみますと(第一生命試算。いずれの場合も65歳から適用となります)、
サラリーマンの場合
●モデル例(夫)厚生年金加入期間40年。平均標準報酬月額28万円。
(妻)国民年金加入期間40年。
(夫)
△老齢基礎年金 5万2266円(昭和六十三年度価格で加入期間40年の最高額)
△老齢厚生年金 8万4591円(平均標準報酬月額28万円× 7.5×40年
×1・007÷1000)
△加給年金   2万6133円。
合計16万2990円となります。
(妻)
△老齢基礎年金 5万2266円。
自営業者の場合
●モデル例(夫)国民年金加入期間40年、(妻)国民年金加入期間40年。
(夫)
△老齢基礎年金 5万2266円。
(妻)
△老齢基礎年金 5万2266円。
年金以外に個人で何がしかの財産を持つことが老後の生活設計に欠かせないことになりましょう。こういうのを「自助努力」というのです。この「自助努力」にわっと保険会社、銀行、信託銀行がはやし立て、「あれがお得」「これに限る」と、高齢者は彼らの格好のターゲットになっています。
私はこれこそ「自選努力」をしていただきたいと思いますので、特には申しませんが、なにより第一、肝に銘じていただきたいのは「子供に残すな」ということです。
二世帯住宅、子供に乗っとられるのがオチ
土地の高騰、相続税の厳しさなどから、まだ親世代が元気なうち、というのはローンが組める年代のうちに、息子と両方でローンを組み、二世帯住宅に改造する、という家が多くなりました。住宅会社も二世帯、三世帯住宅を売り物にしています。
Hさんは定年少し前に、いまなら自分たち親のほうが発言権が強いから思うように設計も決められる――という考え方で二世帯住宅に建てかえました。二階に長男夫婦。階下は親夫婦。ローンの関係で二世帯別々であることが必要なため玄関も別々、とはいえ、内玄関、外玄関という程度の感じです。台所も別というたてまえで(そうしないとお嫁さんが同居にウンと言わない)、二階にも小さいキッチンがついています。おふろは一つ、トイレは上下。たいていの二世帯住宅はこういう形になっています。階下のHさん夫婦居住部分は和室。ダイニングキッチンだけ椅子です。お座敷兼用の寝室のほか、仏壇のある四畳半はご主人の書斎兼、奥さんのこまごまとしたものがおいてあり、よくできています。
若夫婦に子供が生まれると、孫がかわいくて、かわいくてたまらないので、下へ連れておいでとなり、泣き声が二階ですれば、下ではいても立ってもいられません。買い物に行くときは見ていてあげるからおいていきなさい。ヨチヨチ歩くころになると、ご飯を赤ちゃんに食べさせるのに時間もかかり、食事の支度をするのもたいへんだろう、下でいっしょにしたら……と、親の側が言いだし、だんだん嫁も下にいる時間が多くなり、二人目が生まれたら、もう孫の天下です。嫁にとって同居の利点はただ一つ。子供を見てもらえる――これしかありません。そのころには親側の父親がリタイアし、暇があります。「おじいちゃんが見ている」、または、「おばあちゃん、見てやんなさい」の鶴の一声で、嫁は堂々と子供を預けて外出もできるようになります。
幼稚園の入園が決まれば送り迎えからPTA。子供のどちらかが下で過ごすようになります。物もどんどんふえて、上からおりてきたおもちゃ箱は下に定置され、玄関は三輪車やキャラクターのついた運動靴で足の踏み場もないので閉鎖。一つしか機能しなくなります。「お母様」から「おばあちゃま」と呼び名が変わるにつれて、キッチンの食器棚には子供用の食器の比率がふえ、前からある上品な大人用の食器は食器棚の後ろ側に。小さい納戸はおさまりきれない子供用のガラクタの物置きになって、もう満杯。二階はピアノを置く場所などありませんが、それでも孫にピアノを習わせたいと嫁に相談されればノーとは言えず、親父たるもの、「おじいちゃんが買ってあげよう」と言わざるをえなくなり、ダイニングキッチンにおけばそこにあったサイドボードは、「お父様のところへおいていただこうかしら」にいやとは言えない。
静かだった家は、バイエルの初めのほうが繰り返し響き渡り、ピアノのレッスンをいやがる孫をしかる母親の声が大きく、爺婆は自分たちの部屋でヒヤヒヤします。電話も若い世代にかかってくるものばかり。車も嫁が使うことが多く、ゴルフに行こうと思うと、「アララ、お父さま、お使いになるんですか」と言われる始末。名義は父親なのに……。
孫は二人。男と女。二階はベッドルームと子供用にもう一部屋という考えで二間つくってあったけれど、やがて大きくなれば男女別にもう一部屋ほしいから、荷物を入れているところを改造して、もう一部屋つくる――ということをときどきにおわせて、やがてその荷物が下におりてきて、親たちの使えるスペースは寝室だけとなるでしょう。もう目前に迫っています。敷地はすでにいっぱいですから、どうにもしようがありません。いま、ロフトといって天井裏の使える建築が流行していますが、もうおそい。
この洪水のような押され方で、二世帯住宅のバランスはすぐくずれ、親世代は一間の隅っこに引っ込まざるをえなくなるのは目に見えています。二世帯でなく一・五世帯です。残りの〇・五が親の住居です。「自分たちの考えて選んだことだから文句は言えない」とHさん夫婦はこぼしています。夫婦して、海外旅行のパンフレットばかり見ているそうです。
まちがいの始まりはどこだったのでしょうか。
“死に金”を現金で用意しておけ
人生の幕を閉じるときはお金がいります。病院もお金を払わないと遺体を引き渡してくれませんし、死亡診断書(1通5000円程度)もいくつも入用です。これがないと何もできません。お葬式も出せません。
このようなわけで、いざというとき現金はどうしても必要です。特に土・日曜にこういうことになった場合、なにかと不便です。お葬式の規模の大小もありますが、100万円くらいを“死に金”として用意しておけば、周りの人に迷惑はかからないでしょう。それにはどうしたらいいでしょうか。
よく、死んだらすぐ銀行は取引停止になるから、現金に困ると言われます。ほんとうです。
「私が舅《しゆうと》を見送ったときは、土曜日でした。いまのように現金をキャッシュカードで引き出せるなどということのできなかったころなので、ほんとうに困りました。それ以来、次のようなことを自分も心がけ、友人にもすすめています。現に夫が亡くなったときも当座の現金に困りませんでした。
(一)毎月の生活費を少し多く銀行から引き出し、それを自分名義の通帳に入れて、準備金としてとっておく。生活費の中からのへそくりと考えればやましいことはありません。死亡後、相続の申告のとき、6カ月前から調べられることがあります。一度に100万円の定期預金が満期になったのを妻名義に書きかえたりすると、生前贈与になり、税金がかかりますから“毎月少しずつ”(年間60万円以内は無税)がミソです。これは通帳は夫婦であれ二人で別々のものを持ったほうがよいという例で、妻が先に死亡した場合、すべてを妻にまかせていたため、夫名義の預金があまりにも少なく、葬式代にも、相続が確定するまでの生活費にも困ったが、みっともなくて人に言えなかったという話もあります。
(二)生命保険は民間の保険は高額にかけられます。疾病、ガン、ボケ用保険もあります。民間の場合は健康診断が必要です。郵便局の簡易保険は高額にはかけられませんが、疾病傷害特約はついています。健康診断はいりません。
万が一のことがあった場合、簡易保険は、死亡診断書を持っていけば、その場でお金を払ってくれます。ですから葬式の役に立ちます。“死に金”用に、郵便局の簡易保険に100万円ほど入っておいて、判こをつけておいておき、『これで葬式を出しておくれ』と言えば、間に合うわけです。民間のものと併用されるといいのではないでしょうか。余裕があれば。
病気で入院されたときも、簡易保険に疾病傷害特約をつけておくと、病院の診断書さえあれば、お金がおります。何口も入っていれば入っている分だけすぐくれるのでたいへん便利です。民間保険会社の悪口を言うわけではありませんが、即日入用の役に立たないのは事実です。
この二つは、老後の自衛用の貯蓄ではなく、あくまでも、“その日”のためのお金ですから、それ用にしておかれることをおすすめするのです」(東京都・加藤加代・六十七歳)
元気なうちに遺言状を作っておく
遺言は法定の配分方法と違う分配をしたいとき必要とされています。
たとえば、長男が父親である自分より先に亡くなったけれど、長男の妻がずっとめんどうを見てくれているから、自分が死んだら財産を長男の妻にもいくようにしたいとか、まとまった財産としては店しかないが、法定どおりに分けると店がつぶれてしまうので、なんとか店を継いだ子供に店が残るような相続をしてほしいとかいう場合です。
近ごろは、実子があって、別に異なった相続をするのではなくても、遺言をする人がふえているそうです。残された妻を案じてのこともあり、また家屋敷だけしか残らない場合は、なんとか妻が身の立つように考えての場合が多いようです。
遺言の制度は、正式の遺言としての効力を持たせるために厳しい条件をつけています。
〇自筆証書遺言 これは、自分で毎年お正月に書き直すという人もいますが、必ず遺言の全文と日付、氏名を自分で書き、これに印を押してあることが最低の条件となります。タイプやワープロで打ったものに署名と印を押したものは無効ですし、平成〇年〇月吉日のようにはっきり日にちの書いてないものも無効です。判は実印でなくてもかまいません。拇《ぼ》印《いん》でもいいという説もありますが、実印でなくてもいいのですから、手近にある印を押したほうがいいでしょう。自筆の遺言書が保管されていても、知らなかったということがないようにしなければなりませんし、死亡後かってに改《かい》竄《ざん》すると無効です。死亡後すぐに家庭裁判所に提出して「検認」という手続きを受けないと効力が発生しません。
自筆証書遺言書(例)
遺  言  書
遺言者〇〇〇〇はこの遺言書によって、左の通り遺言をする。
一、遺言者〇〇〇〇は、その所有する左に掲げる不動産を、〇県〇市〇町〇番地の何某に贈与する。
〇県〇市〇町〇番地
(一)宅地 〇平方メートル
同所所在
(一)木造瓦葺二階建居宅一棟〇建坪、一階〇平方メートル、二階〇平方メートル
右遺言のため、遺言者みずからこの証書の全文を書き日付および氏名を自書し印をおします。
平成〇年〇月〇日
〇県〇市〇町〇番地
遺言者 〇〇〇〇 印
なお訂正の場合はその場所に印を押して、欄外にどの部分を何字訂正(挿入または削除)があったことを書きます。
自筆の遺言は家庭裁判所に提出するなどの手続きが必要なため、遺族の間でそのことだけでもトラブルの種が起きないとはいえません。遺言をするなら「公正証書遺言」をしておいたほうがよく、近ごろはまだしっかりしているうちに手続きをされているようです。
公正証書遺言
証人二人以上の立ち会いのもとに本人が遺言の趣旨を口述し、公証人が書いて作ります。言いたいことはメモしていきましょう。やってくれるところは「公証役場」で、市区町村の役所や出張所などで尋ねれば場所を教えてくれます。しかし、財産の内容などを秘密にできない点や、費用が相続額にもよりますが、10万円以上もかかることがあります。
この場合は、遺言執行者を指定しますので、その人は遺言のあることを確認していますから相談しつつ執行できます。また一度作成した遺言でも、あとから書き改めることも撤回することも、一部変更することもできます。遺言は、書きかえることもありますから、その場合は日にちがあとの分のほうが効力があることになっています。
遺言は子供でなく第三者にゆだねるべし
「遺言を書こうか書くまいか、これはあなたの意思です。
遺言の書き方などはよく本に出ています。書いたものを金庫などに入れておいても、悪いけれどいちばん先にあけた人によって開封され、隠されてしまえばそれまでですし、遺言をそのとおり執行してもらうためには手続きが必要で、ただひらひらと見せればよいものでもありません。秘密に書いておいたものは、家庭裁判所で検認手続きも必要です。遺言執行者を指定しておいても、その人が先に死亡されることもありえますから、法律事務所にお願いしなくてはなりません。こういういろいろな心配を、全部ひとまとめにめんどうを見てくれる業務を信託銀行がしてくれるようになりました。これが“遺言信託”です。
『そうか、信託銀行に頼めばいいのか』と、駅前の信託銀行に『コンニチハ』と飛び込むことはおすすめできません。できるならば、あなたが利用していて、行員の一人や二人、顔見知りのいるところを選びましょう。信託銀行だって、知人のいるといないとでは扱いが、うんと違うんです。もし、知っている人がだれもいない、信託銀行を使っていないという人は、お友だちが使っているところを紹介してもらったらいかがでしょう。もちろん、そこへ若干の預金はしなくては義理が悪い、ということにもなりますし、信託料を毎月おさめますから、銀行口座引き落としにするために口座を開く必要があります。
さて、これというお目当ての信託銀行が決まれば、知り合いの行員に遺言信託をしたいと申し出ます。担当者を紹介してくれるでしょう。そこで事前相談に入ります。
@遺言者の意思・行為能力・希望・動機などをよく話します。
Aどのくらいの財産なのか、概要を述べます。
B本人と法定相続人、法定相続人以外で遺贈したい人の関係や住所、職業、親しさなどを話します。
ここで、お互いに信頼関係を持って、契約を成立させることになりますので、遺言信託を申し込むことになります。
@遺言書の原案を討議して“公証役場”で証書にしてもらう分を詰めます。
A本人や相続人の確認のため、戸籍謄本や住民票(戸籍謄本にのっていない法定相続人以外の人)をそろえます。
B不動産の登記簿謄本や固定資産評価証明書・預貯金・有価証券の現物を確認します。
Cそれらを一括して、時価に計算し、相続税の評価などを協議します。
D証人とか死亡通知人を決めます。信託銀行へ連絡する人を決めるわけです。
こういうふうに、こまかくいろいろなことを決めて、やっと申し込み手続きが完了します。遺言の公正証書作成は係の人が立ち会ってくれ、その執行引き受けは銀行となります。
代金は当初5万円くらい。あとは実行するまで月6000円くらいです。執行する場合は、遺産の金額の何パーセントかは銀行に支払われます。もったいないと思われるかもしれませんが、父親死亡の場合は母親が半分相続し、あとは子供が等分というのが原則で、母親の意思も通りますが、母親も死亡した場合、昔のように長男が絶対の権力を持っているというわけではなく、問題が起こることが多いのです。また、残ったものが住んでいる家だけというような場合、だれが主導権を持って売るのか、土地を等分するのか、それが借地だったらその権利をどうするか等々、問題は山積し、きょうだい仲が悪くなることもありえましょう。そういうことを考えて、第三者の手にゆだねるのが遺言信託です。
読んだだけで、めんどうだなァーとか、ウチの子に限ってそんなことはないから安心だとか思うこともあるでしょうが、わが子にはそれぞれのつれあいがあり、この人たちの計算もありまして、なかなかすっきりしないものです。自分の死んだあとのこと、どうなったっていいじゃないかといえばそれまでですが、自分のあと始末をつけるという意味で、きちんとしていたほうがよいとお思いになりませんか」(東京都・佐藤よしえ・七十歳)
ガン保険に入っても家族が知らなきゃ……
生命保険のタイプもいろいろふえました。人生長くなりまして、自分の死んだあと、家族が困らないようにというタイプより、生きている間が長いから、年金のようなのがよいと考える人が多くなり、さらに、死ぬまでに病院に入ってからが長く、この間のお金がたいへんだからということがだんだん知れ渡り、介護型の保険がよく売れているようです。
この介護型の中でも、ガン、心筋梗《こう》塞《そく》、脳卒中の三大成人病に対する保険は新しいタイプですが、これにもニーズがあるようです。このタイプの保険はアメリカから上陸したもので、日本で全く問題なく使えるかどうかということには少々考えざるをえません。
たとえば、一家の主がガン保険に入っているとします。
しかし、その主が奥さんだけにガン保険に入ったことを告げた場合、どんなことが起こるのでしょう。もし主がガンになった場合、日本では本人にガン告知をしないケースが多いので、奥さんに告げようとしますが、奥さんが気弱そうに見えると、担当の医師は奥さんにではなく、子供に「ご尊父はガンです」と告げるかもしれません。子供側も「いま母に言うと落ち込むから、いずれ折りを見て……」と考え、ガンのことを言わないままでおくと、ガン保険はまったく生かされないまま、掛け損になってしまいます。
万全を期そうと思えば、配偶者と子供両方に知らせておくべきです。
被保険者自身がガンと知らされていない場合でも、寝たきりになって意思表示ができない場合でも、配偶者や一定の条件を満たす親族が保険金を請求できる代理請求制度をとり入れていますが、この制度をだれが使うかについて、日本ではまだ問題が多いようです。
日本の現状から考えて、いちばん身近にいる子供が、主として病人の世話をとり仕切ることが多いのですが、この保険によって受けとったお金をその子供が全く自由に使うことを、他の子供や親族がよしとするかどうか疑問があります。まして、中心になって世話する人が子供でなく、子供の妻の場合(長男の妻の場合が多い)、お金を使うについては、またいやな思いをすることはまちがいないでしょう。
では、どうしたら、せっかくの保険をトラブルなしに使えるでしょうか。
気丈な病人なら、自分の保険は介護特約つきだから、それを病院の支払いにあてるように言うでしょう。配偶者がしっかりしている場合、保険証書はどうなっているかを調べて使うことでしょう。
初めに生命保険に入るとき、受け取り人を指定する以外に、行使人を指定しておき、そして、家族に黙って保険に入らず、必ず話しておくことが必要でしょう。
妻の相続税減額のために贈与登記を
相続については法律の決まりがあり、妻はだいたい相続税はいりませんが、さらに相続税を少なくするために贈与登記をおすすめします。
結婚して20年以上たっている妻が居住用の土地や家屋を贈与される場合2000万円分だけ贈与税なしで贈与を受けられます。夫婦が元気なうちに手続きをしておきましょう。贈与税はかかりませんが、手続きにかかる費用などもあり、全くタダではありませんが、絶対に手続きをしておいたほうがいいと思います。法律のことそのほかは苦手だとか、めんどうだとか、わからないとか、夫に切り出しにくいとか言わずにぜひなさいませ。
「私も贈与登記をしました。友人にすすめられたからです。
まず、家の登記権利証を見ます。土地、家の両方です。よく家は登記してないかたもありますが、なければ土地だけでもOK。なぜなら、土地は上がりますが、家は年月がたてば評価額は下がる一方だからです。
夫の印鑑証明一通。
妻の住民票一通。
それぞれ一通につき300円くらい手数料がかかります(ところによって値段が違います)。
次に、固定資産評価証明書。これは区役所などの窓口に行って、証明書をくださいと言います。このとき注意しなければならないのは、郵便などに使う番地と、地番は違う点です。わからなければ役所に尋ねるといいでしょう。これで路線評価がわかります。
路線評価とは、よく新聞などで日本一高いところとか、新宿ならいくら、銀座ならいくらと出ているあれです。これが税金計算の基本となります。一般に売買される土地の値段とは違って、ずっと安いです。これで2000万円以上の土地の広さを計算します。うっかりすると、2000万円を超過して、とんでもないことになります。役所で相談すると教えてくれます。
これで書類はそろいました。
登記所の近所には、司法書士が軒を並べているはずですから、ご自分の好きなところを選んで手続きをしてもらいます。ここまで自分でやったんだから自分でできるんじゃないか、と思うかもしれませんが、役所の書類というのはややこしいもので、必ずあれこれめんどうなことを言われますから、司法書士に依頼するとよいでしょう。依頼したときの手数料1万円なにがしを払っても、やってもらったほうがいいと思います。
この手続をしてからあといくらかかるのでしょうか。土地の値段にもよりますが、その価格の1000分の25のお金が登録免許税です。いままでの書類と、このお金を添えて司法書士にお願いします。10日くらいで手続きをしてくれます。これを頼みに行くときは、ご夫婦そろって行くのがベターですが、めんどうくさいとか、関心がないとか、お勤めの都合とかで夫のほうが行かれないときは、書類の中の委任状に書き込み、判を押します。ですから印鑑は持っていかなくてはなりません。
手続きがすんだら(司法書士に頼むときには少し多めにお金を預けておく)お金の精算をすると(消費税はかかりません)、新しい権利証を二通くれます(一通は夫名義・一通は妻名義)。たいせつなものですから、すぐしまっておきましょう。
翌年、確定申告のとき、これは申告しなくてはなりません。そして、取得税がかかります。金額は登録免許税と同額くらいです。地価によって違うからです。
これで手続きは終わりました。相続は、ウチなんかなーんにもないから平気、とのんきなかたが多いですが、私はやっておいてよかったと思っています」(東京都・八田しづ子・六十八歳)
ちなみに、妻が先に亡くなった場合は、妻の財産の半分が夫に、半分が子供たちに相続されます。
第4章 人生いろいろ、老い方も十色
タバコ屋にも定年があります
「おばさん、ダンヒル・ライトください」
「えッ、販売機にない? うーん、わかんないなァ、お客さんすみません、この棚の中のどっかにあるはずだから、これって言ってください。お代? エート、いま調べるからさ」
「亭主が死んだとき、心配したお友だちがタバコ屋の権利を買えばいいと言ってくれ、手に入れることができ、おかげでほそぼそながらタバコ売ってきました。住んでた家はアパートにしてね。これでつましく子供も育てられたのよ。子供たちも一人前になってそれぞれ家を持って、おばあちゃんタバコ屋やってればお小づかいに困んなくていいだろというけれど、もうやめようと思ってる、タバコがあとからあとから新しいのが出て、それも横文字ばっかりでさあ、私の手にゃあ負えないんだよ。昔、タバコ屋の看板娘、娘じゃないか、看板後家。それが看板婆じゃ、看板おろさなくちゃね」
一生の小《こ》商《あきな》い、タバコ屋稼業も、タバコの名前もカタカナの氾《はん》濫《らん》でやっていけなくなったとおばあさんはこぼします。世代交代したくても、小さな窓口にすわっているしんどいことをだれもやってはくれない。だから、自動販売機にするってことになるのだそうです。
「タバコ屋も定年だァ」
自営業だから定年はない、いいなあ、とサラリーマンは自分が定年になるとひそかにうらやみますが、自営業にもどうやら定年があるようです。
「わたしゃ男性美容師の走りです。よく流行《はや》りました。店の子もみんな若くて、奥さんがたの人気の的がマスターの私で、毎日指名で予約していただかないと困るくらい。
あれから二十年たちました。
店がなんとなくさびれていくのがわかります。男性美容師で売っている店のマスターが中年太りになって、髪も薄くなってはいけません。この稼業に貫禄はいらないのです。いるのは、スマートな若さ、軽妙なおしゃべり、お客様とじゃれるような気分。そして、お客そのものが高齢化してはいかんのです。私についていた若いマダムが高齢化すると、店全体が老けちゃって、若いお嬢さんは若々しい美容師の多いところへ行きますから、うちに来ないんですよ。そうすると仕事にも冒険がありませんから悪循環。若い美容師はおもしろくないから居つきません。若い子ばかりのところへ移ってしまいます。
女の美容師だったら、マダムがひとりでポツンとしていても、『アラ、あいてる』とお客さんが喜ぶんですが、中年のおじんの男性がぽつんと店にひとりでいたら、お客さんは気味が悪くて入りづらい――っていうそうです。理髪店なら別なんですけどね」
医院や都会の農家、相続タイミングがむずかしい
●医院
町のお医者様の高齢化が憂えられています。
医院は個人営業で肉体労働だからたいへんだ、と言って子供が跡を継いでくれない。第一、医大はむずかしくてお金もかかり、なかなか入れない。せっかく医大へ並み並みならぬ大金をつぎ込んで入れても、卒業後は体の楽な病院勤めに行ってしまう。「いいや、自分はまだ元気だから、体が言うことをきかなくなってから帰ってきてもらえば」とのんびり構えているうちに、跡継ぎは結婚し、お嫁さんが「忙しい医院なんてまっぴらよ」と言えば戻ってなんかくれません。
医院もきれいで最新式の機械の一つや二つ備えていなければ信用されませんから、昔のままの古びた医院は、それこそ開業以来の患者さんが少し残るくらいで、閑古鳥が鳴きます。このような高齢化は医師会の大問題になっているようです。
看板も、地盤も、信用もあるのにつぶすのは惜しいと、息子を百万べん口《く》説《ど》いて帰ってきてもらうとすると、医院を改築し、機械を入れなければと言い、莫《ばく》大《だい》な借金を背負います。銀行は医者はもうかると決めていますから、どんどん貸してくれますが、この商売はチンドン屋を雇うわけにいかず、ビラをはるわけにいかず、思うにまかせません。昔から来る患者さんは、なぜか高血圧くらいですから、保険の点数も思うようにいかず、つい、検査しましょうとか、“高貴薬”を出しましょうとかいうことになり、病院への払いが高くなると、若い先生になって病院をきれいにしたら高くなった――と評判が落ちます。病院・医院の倒産は案外多いのです。
まだ老先生の力があるうちならお金を借りてもなんとかなりますから、若い先生が研修をすませたら、病院二日、自宅医院三日くらいのシステムにし、地域の患者さんと顔をつなぎ、ちょっとむずかしい病気は出身大学の病院へ送るというシステムにすれば、やたら医学に強い素人ドクターを気どる患者さんの信頼もつなぎ、若先生が地域に根をおろすことができます。そうなると、その医院はお客の相続もうまくいったということになるでしょう。
●お寺
お客の相続ということは小売店も同じです。呉服屋、布団屋などはお得意さんの家の品を知っていて、洗い張り、仕立て直しなども請け負い、時期がくれば綿を打ち直して布団の皮をかえるなど、お客と小売店が持ちつ持たれつだったわけです。しかし、大型店の出現によってこのシステムはくずれ、これからどうなるか、売り手の努力もありましょうが、消費者と呼ばれる買い手側の意識の変化がどうなるか、しばらく待たないとわかりません。
目立たないところですが、お寺も着々と手を打たないと檀家の相続ができません。
「いま、寺は檀家制度がくずれつつあります。自分の家の宗教も知らず、お葬式のときだけ頼み、墓地は公共のところに求めてしまえば、もうお寺とのつながりはなくなってしまうのです。私は先代からこの寺を継ぎました。せがれも継ぐつもりで学校を出ましたが、寺だけではダメです。幼稚園や駐車場はだれでも考えることですが、それでは檀家とは、何のつながりも持てません。せがれは学校の先生をしながらやがて寺を継ぐわけですが、お盆のお務めなどに私と手分けして回り、檀家さんと顔見知りになるようにし、だんだん軒数をふやす。それ以外にもっと顔を知ってもらうために、最近は私のほうが隠居して境内に小さい庵を結び、寺に息子夫婦を住まわせるようにしました。寺へ訪ねてくる人と息子の嫁が顔見知りになるようにです。寺もお客商売と割り切って、一日も早くお客さんに慣れていただくことがたいせつと考えています」
さすがお住職様、読みが深い。
●都会の農家
土地をなんとかして供給すれば地価も下がるという政策からか、都市で農地を持っている人にはむずかしいことが多いようです。
農地を持っている――と書いたのは、農業をしている――ということではありません。農地としてまとまっている土地は広いので、相続のことが悩みの種になっているらしく、近所の人もどうするんだろうねえなどと、よけいな心配もするほどです。
いっとき、土地の税金を払うかわりに区などに無償で貸す、というのが流行《はや》りました。これで小公園があちこちにできたのですが、この地主さんが年をとってきますと、相続の問題が出てきます。相続税はいやおうなしにかかりますから、もう公共に貸すのはやめて、借金してマンションを建て、相続のとき借入金でチャラにする、というわけで、この方法が流行すると、小公園は次々とつぶされました。農地として届けておき、二十年は農業をつづけると届ければ、農地の相続となり、相続税はめっぽう安い、というわけで、この方法をとる人が出てきました。しかし、農業で生計を立てるというたてまえですから、相続する息子さんもサラリーマンをしていては通りません。せっかく有名大学を出て、会社も中堅のバリバリになっている人が、会社をやめて、名義上農家の人となります。先祖の土地を守ることのほうが重いというわけですが、実際にはどうでもいい苗を植えているだけで、農業はしていません。では何をしているか、地域の少年野球の監督やサッカーチームのお世話などしているわけで、なんとももったいない人材だと思いますが、これなどはじょうずな相続なのでしょうか。
●小売店と消費税
「おばあちゃんはもう引っ込んでいなさい」
嫁さんにきついこと言われた、と荒物屋さん(いまは何というのでしょうか。せっけん、トイレットペーパーから、ちょっとした化粧品、ノート、障子紙、鉛筆などの文房具、マッチ、お線香から、ざる、お鍋などの台所用品、ほうき、はたき、ちり取りまで何でもあるお店です)。何代もつづいている旧家です。おばあさんはそこで生き生きと働いていました。ウワサではおじいさんは酒飲みで、そのおかみさんがひとりで店を切り盛りしていて、子供もりっぱに育ち、有名大学を出てよい会社に入ったとか。以前は毎年のように田舎から中卒の子を入れて仕込み、人手はそれで足りていたようですが、おじいさんも亡くなり、家を出ていた息子さん夫婦が帰ってきて店を手伝っています。息子さんはしばらく会社勤めをしていたようですが、定年前にやめて店を継いだとかで、まずは相続がうまくいった見本のようなお店といわれていました。
実は、この先代(先々代かな)のおばあさんという人がしっかり者で、帳場にチョコンとすわっていた記憶があります。このおばあさんも、レジの横に木の台のようなものをおき、手製のかすりの座布団を敷いて、チーンとレジを打って手伝っていました。近所の人もちょっと話をしたりして、いい雰囲気だったのですが。
実は消費税がおばあちゃんをレジから追い払った元凶でした。
ここは外税ですから、チョチョチョと3%かけて、レジを打たないとなりません。これが、お気の毒におばあちゃんの手に負えません。
「どうしてもわからない、できない」で混乱し、レジが滞《とどこお》るだけでなく、売り上げの帳簿から申告まで、“やってくれないほうが混乱しなくていい”状態になったのですね。ついに、
「おばあちゃんは引っ込んでいなさい」
この店の相続はうまくいきました。ただ、おばあちゃんがボケてしまったことを除いては。
年寄りの世界にもいじめありマフィアあり
「姑は六十九歳です。とてもおとなしい人です。背骨の老化で牽《けん》引《いん》に通っていましたが、近ごろは行きたがらなくなりました。以前は早く治りたい、牽引してもらうと楽だ、暇つぶしによいなどの理由で、いそいそと行っていたのです。
『おばあちゃん、きょうは行かないの? お天気はいいし』
と言うと、ウウウとなま返事。大雨で、きょうはやめればいいと思う日は『行く』と言います。そんなある日、ふっと、
『きょうは雨だから、〇〇さんは来ないかもしらん』
と、ひとり言を言って出かけました。私はおやっと思い、だれか会いたくない人がいるのかな、と思ったわけです。ポツリポツリ話したことは、
『病院へ長く通うと、特に外科のマッサージや電気は同じ人ばっかりよ。若い骨折の人なんか治るのも早いからネ。だから、古い人がいばっているわけじゃないけど、長い間には大ボス小ボスができてね。大ボスだから早く名前を呼ぶとか、そんな不公平は看護婦さんはしないのよ。先生や看護婦さんはみんな親切。でもね、年寄りだから、耳も遠いし、骨や腰が痛い人ばっかりだから、みんなヨタヨタしているでしょ。いすもすわりたいよネ。そうすると、マフィアの大ボスが小ボスを使って、いすの割り当てなんかするのよ。私は初め知らなかったから、看護婦さんが呼ぶのがよく聞こえるように、ドアの前があいたらすわっていたのよ。そうしたら、“なんだ、平気で占領して”という声がチラチラ耳に入り始めたの。病院へ通い初めのうちは、向こうも長く来る人かどうかわからないから何も言わないのよ。それが自分のことを言われてるとわかるまで時間がかかったのはそういうわけ』
小ボスは大ボスがあごでしゃくるところへ、自分たちにへいこらあいさつする人をすわらせる。耳の遠い人でも、へいこらしない人には看護婦さんが呼んでも教えてあげないとか、チクチク意地悪をする。いっぺん“はずれ組”に入った人は、大人ですから事情がわかっても、いまさらへいこらしにくいものですから、隅のほうでしょんぼり立っていたりして、席があいてもすわりづらいのです。思い切ってすわると、聞こえよがしに何か言うそうで……。
これでは、小学校のいじめと同じじゃないのとあきれ果てました。
年寄りは年寄りなりのコミュニティができて、そこは大ボス、小ボス、はずれっ子じゃない、はずれ婆という世界、ホームにも必ずあるという話。
あーあ、先行きは暗いです」(東京都・代田玲子・四十歳)
ご存じですか? 老人をだますマル秘テクニック
豊田商事の事件が世間を騒がせ、お年寄りのなけなしのお金をだましとったのはけしからん、と言われていますが、こういう事件はあとを絶ちません。老人社会ではお金が命の綱なのに、盲点をつかれると、だまされなくてもいい人がコロッとだまされるのです。
知り合いのSさん七十二歳。ご主人を亡くされて、お子さんがたはそれぞれ家を持ち、お金に困らないひとり暮らし。退屈ですから、子供さんたちに号令をかけますが、それぞれの生活が忙しくて、そうそうご機嫌伺いにもこられませんし、お孫さんももう高校生。おばあちゃんよりBOYフレンドのほうがよいお年ごろ、なかなか来てくれません。プンプン腹を立てているところへ、飛び込みのセールスマン。これは商売ですから、コレハと思えば毎日でも来ます。セールス仲間には何か連絡があるらしく、きょうは化粧品、きょうは相場、金、いちばんやさしくて、ハンサムで、何でもしてくれる不動産屋さんが大のお気に入りとなりました。コロリとSさんがまいったセールスマンのノウハウは、
@けっして「おばあさん」と呼ばない。
Aポケットベルでもあるのか、会社に電話するといつでもすぐ来る。
Bどんな長話もつきあう。
そうなったら、もうこっちのもの。いや、あっちのものかな?
「奥さん、ここ売ってマンションにしなさいヨ。行く先も見つけてあげる。引っ越しも、手続きも、税金も、全部僕がしてあげる。マンションは用心いいしさあ……」
これでコロリといかないほうがどうかしてます。「子供は頼りにならない。何々君(不動産屋)のほうが頼りになる」と、ついに権利証も預け、まあ、それを持って逃げられなかっただけが幸い。時価の半値で売った段階で、ひと言も聞いていなかった長男が青くなって駆けつけてもあとの祭り。手続きその他がすんだらイタチの道切り。会社へ電話をかけても、何々君は連絡がつきませんの一点張りで、知らぬ土地にポツンとひとり住まいになったことを悔やむ日々となりました。
たったひとりやさしかったセールス坊やはどこへ行ってしまったのでしょう。
私が許せないと思うのは、不動産屋の某君ではありません。彼は商売をしただけです。Sさんのお宅に出入りしているお年寄りの友人たちが、「息子さんに相談すべきだ」というまっとうなことを一人も言ってあげなかったことです。こういう売り方をして引っ越せば、子供さんたちともぎくしゃくした関係になり、行った先でも淋しい思いをすることを知っているのに、人間は残酷なものです。
老いてこそ不良しましょ。不良シルバーのすすめ
私も老人無料の券などいただける年齢になりました。
主人もリタイアしてぶらぶら。二人でぶらぶらという優雅な生活を送っておりますので、シルバー産業の格好の標的となるらしく、いろいろパンフレットや雑誌など送っていただきます。二人でそれを見て、つくづく考えてしまいます。
それというのも、シルバー誌に出てくるかたがたは、みーんなすごくマジメ。やることといったら、俳句、短歌、園芸、ゲートボール、いいとこダンス。町会のお世話をするのが趣味とか、コーラスに入るとか、何か芸をして慰問に回るとか、何々細工を習って教えているとか。
読み物ときたら、長生きするには、足の裏をもめの、何々を食べよとか、脂肪がどうしたの、血圧がどうした、辛いものは食うな、酒は少々、タバコは絶対ダメ、自然食品がいいとか、うんざりです。好きな、食べつけたものを食べているのがいちばんいいのに。
健康もの以外は、高齢者向きというわけか、昔の偉人伝のようなものばかり。それでなければ、これからの老人はかくあるべしのお説教調がぷんぷんするものです。旅の話は景色のいいところで、のんびり温泉につかる、ニコニコ爺さん婆さんの写真です。
なんとまあ、われわれ夫婦と違うことか。夫はギャンブル大好き。競馬。目の色変えてます。競馬新聞と赤鉛筆が必需品。ギャンブルに年齢はありません。あるのは冷酷な勝ち負けだけ。毎日のように競馬場か場外馬券売り場へ行きます。足を使うから健康ですよ。日にやけて丈夫そうな顔してます。お小づかいのなくなった日はものも言わずフテ寝。
私はパチンコとカラオケが大好き。パチンコの友が私を呼んでいますので、日参しないと死んだのかとウワサされます。パチンコに負けた日は(このごろ出ません! 一日のお小づかいを打ち込んでしまった日は)、はしっこのいすに腰かけてパチンコの友と楽しく時事放談などしています。夜はカラオケの友が、「早めに行ってボックスとっておくからネ」と一目散に走っていくようなイキのよいおばちゃんたち。パチンコで指先と目と頭を使い、大きな声で歌う。いいでしょう。
ですから二人とも活気にあふれ、嫁や孫のおせっかいやく暇もなく(別居)、多忙、多忙。両方そろってこんなのは珍しいかもしれないけれど、世の中、漫画週刊誌やエロ本があれだけ売れているのは、品性上等でない人のほうが多いということ。年をとったら急に品性がよくなるわけはないと思うけど、本を作る人は誤解しているんじゃないですか。
マジメ優等生シルバーばっかり集めるシルバー雑誌は売れませんよォ。
猫に功徳を積んでポックリ祈願
「私んちの隣に猫好きのおばあさんがいました」
近所の人の話です。
「ひとり暮らしで、けっこう広い地所で軒のいささか傾いた平屋。塀は珍しい板塀で、黒いニス(?)が塗ってあるなんて懐かしいでしょう。それもペケペケしていて、台風なんかあると、グラッとして道をふさぎそうでこわいんですよ。
おばあさんは自分の家の飼い猫のえさを台所口へおくので、あっちこっちから猫が寄ってきて、それがすごいんです。登校拒否児ってのがあるけれど、猫がそうなればいいのにと思うくらい、登校する生徒の列のように猫が集まってきます。そのため、くさい、きたない、うるさい、の三点セットで、眉をひそめる人もいます。
おばあさんに直接、
『猫を寄せるのはやめて』
と言いにいった人もいましたが、おばあさんは、
『寄せてんじゃないよ。ウチの猫にやったえさをかってに食べに来てんじゃないか。文句を言う人があったら、罐詰めのえさでももっとたくさんやんなよ、そしたらウチの猫のを荒らしに来やしないよ』
と、けんつく。これにはひと言もありません。
ところが、ある日、彼女はぽっくり亡くなってしまいました。猫がギャアギァアと立ち去らないので、不審に思った近所の人が玄関のベルを押したものの反応がなく、警察官といっしょに入ったら、前の晩に床の中で亡くなっていたらしい。前日まではいつものとおり、遊びに来る猫をかまいながら、植木に水をやったり、竹ぼうきでそこいらをはいたりしていたとか。猫たちは、あるべきえさがないので、おばさんおくれおくれと呼んでいたのでしょう。
親戚のかたが見えてお弔いもすませ、家屋敷はいずれどうにかなるでしょうが、その間、あき家になれば猫にえさをやる人がいないから、猫はどっかへ行くだろう……と近所の人はウワサしていたのに、猫はいっこうに減りません。
さてはおばあさんの魂が猫を呼ぶのか……なんて、ミステリーもどきのウワサもチラホラ出ていましたが、なんと、閉められた木戸のあたりに早朝だれかがえさをおいていたのです。新・猫ばあさんは近所の人で、猫好きではない人です。むしろ、きたない、くさい、私の家の庭でふんをする、などと文句を言っていた人です。
彼女いわく、
『ここのおばあさんは猫にえさをやっていた功徳のおかげで、ポックリ逝《ゆ》けた。私も猫に功徳を積んでポックリ逝きたいよ』」
ちなみに亡くなった猫おばあさんは八十二歳でした。
第5章 ボケて転ばぬ先の杖
“悪知恵”ばあさんにゃかなわない
「『規則で、患者さんにお金を持たせてはいけないと申し上げているのに、困りますねえ』
老人病院の帰りがけに出口の事務所にあいさつをすると、中から事務の人が駆け出してきて言われました。
『エーッ、お金?』頭の中でまた、してやられたという思いが渦巻きましたが、すなおに頭を下げ、今後絶対にいたしませんと謝りましたが、腹の中は煮えくり返ります。
実は、先日病院へ来たとき姑《しゆうとめ》から、いつもやさしくしてくれる先生にちょっとお礼がしたいんだけど、と相談されました。ここの病院はそういうことはいけないと言われているし、どの先生か言ってくれれば私がお目にかかったときにするから、と言っても、ちょっと手渡したいとがんばり、ちゃんと小さい袋《ポチ》にお礼を入れてきておくれ、と言います。逆らえばまた同じことをだれかれなしに言うことがあるので、次に行ったとき、小さいのし袋に五千円入れて姑に渡しました。姑はそのお金でタバコを買い人にもおごったそうです。
どうしたらお金を手に入れられるか、日夜考えていて、私が断れない理由をつけます。なにしろお相手は暇で一日じゅう作戦をねっているから、かないません。
近くに“くれ好き”で有名なIさんというおばあさんがいます。
『北海道からとうもろこしを送ってきたから、もらってください』おいもを煮たから、ひじきを煮たから……、初めはあちらもひとり暮らしのお年寄りだから多すぎて困るのかな、などと思って、ありがたくちょうだいしていました。うちの庭は四つ目垣、道路みたいなものです。東京から越して来ましたので、この埼玉あたりのように縁側に腰をかけてお茶を飲むという習慣はありませんので、縁側はカーテンを引き、外から見えないようにしています。市場で近所の人に『お宅の本箱はどっしりしていておみごとなんですってね』などと言われると、不思議だなあ、この人はウチへ来たこともないのに、と思っていました。
台所口にIおばあさんがまた来ています。すいかを四半分に切ったのを持ってスタスタと入ってきて、“立ち話もなんですから”と言って上へあげてもらいたい様子はありありとわかりますが、それはあまり好きではないので立ち話。そのおばあさんも、最初は台所の開き戸の外にいたのが、寒い時期に土間《たたき》に入り、それ以来、土間までは入ります。暑くなって家の中をあけ放しているので、まる見え。これで、Iおばあさんは、とうもろこし、おいも、ひじきでわが家を偵察し、それでお年寄り仲間のお茶飲み話の“お茶受け”にしているのにやっと気がつきました。“悪知恵”ばあさんにはかないません」(埼玉県・紙屋ミドリ・五十七歳)
ボケは転ぶ、転ぶとボケる
Jさんはこのごろ少しおかしいというウワサです。友人と待ち合わせをしていて、時間も場所もちゃんと書いたはがきを持っているのに、やたらと早く家を出てしまいます。
これは少し不安定な状態になっている人の必ずすること。自分に自信がないことがわかっていますから、遅れたらどうしようと心配して、おそらく前の晩から眠れなかったのでしょう。心配で早く家を出たので、待ち合わせの場所へ行っても相手はいない。当然です。一時間も早く着いたのですから。
そこで、早いのですからそこで待っていればいいのに、待ち合わせ場所のアーケードの中をあっちこっちさがし回ります。いません。ハンドバッグの中のはがきをもう一度出して見ようと思いますが、頭に血がのぼっているせいか、はがきが見つかりません。あせればあせるほど見つかりません。息もハァハァしてきてしまいます。もうどうしようもないとあきらめて、待ち合わせのいちばん初めの場所へ戻るころにやっと時間が来て、向こうにお友だちの姿が見えたら、うれしくて、駆けなくてもいいのに走りだして、階段でもないところで転びます。たいていハンドバッグのほかに手さげ袋を持っていますから、これをしっかりかかえて片手で体を支えますので、手をみごとに骨折。そのまま救急車で入院ということになってしまいました。これはほんとうによくある話です。
自分に“だいじょうぶかな”という不安を持つとあせります。あせるから必ずバッグの中にある切符やメモなども見つからなくなり、カッとして頭の中が真っ白になります。こういう状態のときは、足元のほうまで気が回らなくなって、すべったり、自分の足にもう一方の足をあてて転んだりするのです。早く信頼できる友だちのところへ行きたいと思って、前のほうばかり見てしまうからでしょう。転んだら、たいてい手くびか大腿部を骨折します。不思議ですが、ほんとうです。
骨折して入院すると、体のどこかが悪くなります。たとえば腎臓とか、高血圧とか、胃とか。それで外科のほうはよくなってもそちらのほうでの入院となり、本人も気落ちし、気力がなくなります。おもしろくないのでイライラして、もう自分はダメだとか、かまってくれないとか、食べたくないとかで衰え、ボケの坂道を自分で転げていくことになるのが一般的なパターンです。
年をとって、いちばんこわいのは転ぶことです。外だけでなく家の中も危険がいっぱいです。電話にあわてて出ようとして転ぶ、玄関のベルであわてて転ぶ、家の中の段差、こたつ布団につまずく等々……転べばボケる、ボケれば転ぶと、いつも唱えていましょう。
「迷子」はボケの始まり
四つ角にKさんが立っています。
だれかを待っているのかな、と遠くから見ていましたが、そんなふうでもありません。近くまで行って呼びかけると、満面に笑みを浮かべて、
「アラァ、いまお帰り? お急ぎでなかったら、ちょっと私の家へ寄っていらっしゃらない?」
いっしょにKさんのお家へ行くことになりましたが、そういうときはふつう、自分の家に帰るのですから、Kさんが先に立って自分の家の方向へ歩くものだと思うのですが、彼女はにこにこと立っています。妙だなあと思いながらも、Kさんのお家のほうへ曲がります。しばらく私が半身ほど先へ立って歩いていると、Kさんが突然うれしそうに、ご自分の家のほうへサッサと歩きだしました。
ああ、そうか。ウワサはやっぱり……と思い当たりました。つまり、Kさんは少しボケて、ときどき迷子《まいご》になるそうな、と。
ご自分の家がわからなくなってしまうと、この辺は住宅地ですから道を聞く店もありません。目印になるものは何もなく、同じような家が並んでいます。それで、知っている人の来るのを道端で待っていて、うまくつかまえると自分の家を聞くのはみっともないから、「家へ寄って」と誘って連れて帰ってもらうのだと思います。それなりに知恵を働かせているのだなあと感心しました。
年をとると物忘れがひどくなる、台所へ立ったものの、自分は何をしようとしているのかわからなくなることがよくある、いまかかってきた電話の相手の名前がどうしても思い出せない、いまおいた財布が姿を消すことなどはしょっちゅうです。自分がボケたんじゃないかと不安が胸をよぎります。でも、これで落ち込むのがいちばん悪いのです。少しのボケはそのままでもいいではありませんか。
ただ、次のようになったときはちょっと危ないので、もし、ひとり暮らしをしているようなら、この時点でギブアップして、同居者をさがすなどの手を打つことをおすすめします。
(1)本来、自分の身についていたはずの日常のことがわからなくなったら。
〈例〉自分の家がわからなくなる。自分の毎日乗りおりしている駅がわからなくなる。ド忘れして自分のおりる駅の名前がわからなくて切符が買えない、など。
(2)毎日やっていた、生活に必要なことがわからなくなる。
〈例〉湯沸かし器やふろのつけ方がわからなくなってしまう。つけたら、消すのを忘れてしまう。
生命にかかわる根元的なことは、考えなくてもできていたことです。それがわからなくなったのはボケ入り信号と思いましょう。
年寄り、なぜ転ぶ。転ばない歩き方ってあるの?
年寄りはどうして転ぶのでしょう。歩くから? では歩かなければいい? そんなむちゃな。なるべくよく歩かなくてはなりません。
転ぶのは家の中でも外と同様。敷居、布団につまずいて。電気のコードにひっかかって。廊下ですべる。新聞紙を踏んですべる。おふろ場ですべる。
新聞の家庭欄によれば、家の中の事故発生の多い場所は、階段、居間、台所、玄関、寝室、廊下、浴室、トイレとなっています。
階段の事故よりも、廊下、浴室、寝室、居間などのいわゆる「同一平面上」の事故が多く、この原因は、廊下に脱ぎっぱなしにしてあるスリッパを踏む、電気のコードに足をとられた、家具につまずいた、などです。じゅうたん、マットの端などはひっかかります。この予防としては、
@じゅうたん、マットは端をしっかり止める。または、周囲と色を変えてはっきりさせる。
A十分に明るく。小さい常夜灯をつけておくのも一法。
Bコードは壁につけるなどの工夫を。
C日本風家屋では廊下のスリッパはいらないのでは。
D敷居などの段差をなくす工夫を。
E浴室マットやすのこはすべりやすいので一部分だけ敷くのはやめて、敷くなら全体に。
F階段には手すりを。
G新聞などは読んだらすぐ机などの上にのせるようにして、下におかない。
「でも、私、なんにもないところでも転ぶんです」(埼玉県・黒田長子・七十一歳)
それは歩き方が問題なのではありませんか。
転ばない歩き方とはどんな歩き方なのでしょうか。会員制健康クラブ「フェニックスクラブ」(〒167 東京都杉並区下井草3―37―9 03―3397―6687)の姿勢保健均整師、今村和行・村中史郎の両先生に伺ってみましょう。
「正しい歩き方は、スコッチウイスキー『ジョニーウオーカー』のラベルにあるように、ひざを、まっすぐに伸ばして、足を上げて、かかとから接地(着地)して歩くのです」
「操り人形のように、首を上からつったようにして歩くのもいいですよ」
そういえば、私たちは年をとるにしたがって姿勢が悪くなります。そして、転ぶのを恐れて前かがみになって、自分の足のつま先のあたりを見ながら、落っこっている物を拾うような姿で歩いていることに気がつきます。そうすると、つま先から歩くことになり、ちょっとした出っぱりにもひっかかってしまうことになるのでしょう。姿勢をよくして、足をかかとから接地して一歩一歩歩けば、先にかかとが地面につきますので、つまずくことはないという理屈になりましょうか
「あごを引いて、足元でなく少し先のほうを見て歩きましょう。足の筋肉は前のほうの“伸筋”と後ろのほうの“屈筋”とがありますが、かがんで歩いていると、この両方の筋肉が伸びない状態のままになってしまいます。姿勢をよくして歩くと筋肉がよく伸びて体全体によい結果を与えることになります」
昔から「老化は足から始まる」というではありませんか。
第6章 灰になるまで男は男、女は女
男は死ぬまで“現役”。セックスにリタイアなし
五十二歳から六十四歳までの女性十人が集まりました。彼女たちの夫は五十七歳から六十五歳。夫たちは皆定年《リタイア》前後で、セックスのほうはリタイアしているかどうか、あけすけに話し合われました。大きく三つのグループに分かれたようです。
(一)リタイアしていない夫
(イ)夫はセックスをリタイアしていないが、妻はリタイアしたい。「いやだ、いやだ」と言ったら、「小づかいやる」と言われた。
(ロ)セックスはそのうち自然に終わると思う。痛いときはゼリーを使うといいですよ。
(ハ)夫は妻に対してはリタイアしているが、外ではモテると自慢している。妻は「そうかい、そうかい」という程度。夫の言うことを信用していないし、妻は趣味のグループなどで十分楽しんでいるから、夫にかまっていられないというのが現状。年をとれば妻を頼りにすることはわかりきっているから、夫の好きにしていいと寛大である。
(二)夫がリタイアし始めたことへの不安
夫の在職中に妻が職業を持ち、それが軌道に乗って忙しくなる。しかし、そのうち夫が会社をリタイアして立場が逆転すると、性のほうもリタイアすることがある。でも、これは自然現象なのか。それとも、まだバリバリ働く妻への不満がこうじてセックスをやめたのか……。はて、どちらだろうかと妻は深く悩む。
夫が会社をやめるころの微妙な精神的な揺れを、妻はこのように性によって体験することになるかもしれません。
妻が仕事をやめても、元のセックスライフに戻ることはないのではないか、というのがおおかたの意見でした。
“何しろ年だから”はふた言めには出るセリフですが、でも、夫がそうしたかたちでセックスからリタイアしたように見えて、実は外に女性をつくっているかもしれない。また、それを隠すために(?)妻とのセックスを細々とつづけるかもしれない。
しかしこの問題提起をした奥さんは夫を愛しているのでしょう。だって浮気をするかしないかわからないうちから、夫のことを心配しているのですから……。
(三)セックス? そんなこと、もう忘れたわ
残りの人は異口同音にこう言いました。
「そういえば、夫は、いつリタイアしたっけ?」
という妻ははつらつとして若々しく、夫のお金で十分楽しんでいます。いままで夫とのおつきあいでイヤイヤやってきたセックスのつぐないが、これでしょうか。
仕事をリタイアして家や妻にはりつく夫は、ぬれ落ち葉などと言われて、いやがられます。
「仕事だけリタイアして、そうでないほうはリタイアしないのはもっといやだ」
妻たちにとって性は年をとるにつれて軽いものになっていくことが多いようですが、老齢年金支給日の日はソープランドに夫たちの行列ができるといいます。
「うちのお父さんはそんな甲斐性ないんじゃない?」
いやー、それはわかりませんよ。
老いても色気は残っているのです
このごろの人はすぐ「おしゃれェ」と言います。私たちが昔、おしゃれをするというのは、お化粧をして、よそ行きのよい着物を着ることでしたが、今は「おしゃれ」という言葉に違う意味があるようです。“ちょっと気のきいた”というような意味ですね。言葉の使い方はともかくも、年をとったらおしゃれをしなくてはいけないと思います。
頭からいきましょう。髪は若い人なら許されるパーマのかけっぱなしはダメです。キチンとまとめましょう。
年をとると女性でもひげが目立ちます。スーパーの簡易カミソリもよくそれますが、抜くのもいいですね。口の周りがすっきりします。そこへクリームか乳液を欠かさず、口紅も必ず引きましょう。
次に若く見せるのは姿勢です。『チョッちゃん』こと黒柳朝さんは、お年を召してもほんとうにおきれいです。背筋をピンと伸ばし、細いパンツにベレー。よくお似合いです。私どもも人目や“嫁目”を気にせず、似合うと思ったらミニでもどんどん流行をとり入れましょう。ハイヒールも、はければはきましょう。幸い、近ごろはペッタンコの靴でもステキなデザインのものが多く出ています。これなら楽にはけます。
デパートなどの年配者向きのコーナーにはババ色のものしかありませんし、形も決まってルーズなウエストのワンピースのようなものです。店員さんは「体型をカバーできないからこういうものを召されます」と言います。本音でしょう。ですから、ふだんから体型をよくして、ミセス用のものでも着こなせるよう工夫しましょう。洗濯板みたいな胸にエンピツ足の娘さんだって、それなりに着こなしているではありませんか。胸の衰えにはスカーフを使うとか、手はいろいろあります。
忘れ物、落とし物をしやすいアフター中年の私たちには、便利な物入れとしてポシェットでおしゃれをしましょう。若い人のように、ラメでも、蛇皮のポシェットでもいいではありませんか。
「おばあちゃま、それ、ステキ、ほしーい」
と言われたら最高ですよ。
眼鏡はこのごろ皆さん少し大きめで薄く色のついたのをお使いですね。これだと目じりのシワが隠せます。フレームにこって、海外旅行のたびにフレームだけお買いになるかたもいるほどです。
お化粧はお好みですが、化粧品のほのかなにおいは、老臭と呼ばれる年寄り特有のにおいをカバーしてくれるでしょう。
こうしておしゃれをして街を歩いていれば(ゆっくりと。急ぐと転びます)、
“おや、ステキだなあ”
とふり返られるでしょう。がんばりましょうね。
もてるおじさまになるコツ、教えましょうか?
リタイアされて、地域の活動に参加されるおじさまがたがふえました。私たち市民のお世話をしている者から言いまして、おじさまがたに心していただきたいことがあります。
(一)身分は××市××町に住む何のだれそれです。それだけでけっこうです。以前の職業、地位は不要。ちらちらとにおわせないでください。ご自分でおっしゃらなくても、いずれわかります。しかし、周りの人々から好かれ、尊敬されるのは、以前の職業、地位、学歴ではありません。おじさま個人のお人柄だけです。
(二)マメマメしさが身上です。こういってはなんですが、いちばん多いおじさまのタイプが、家で何でも奥様にしてもらっていた癖が抜け切らず、母親に頼りきる子供のように“ハイ、〇〇さん、どーぞ、次の列にお入りください”などと言われるまでどうしていいかわからないようなタイプです。こういうかたは、こちらが“かかりっきり”にされるので困るのです。若く、かわいい男の子なら、中年おばさまボランティアも“かかりっきり”になりたいでしょうが、残念ながらそういうラッキーなことはあまりありません。
会場の設営をする、道具を並べるなどのとき、男のくせに(?)ボーッとしていて、絶対に手を出さない人が九八パーセント。なんですか、目ざわりな。
家で奥様に“ハイ、ご飯”“ハイ、おふろ”“ハンカチ、お財布入っていますよ”と暮らしていて、食事の準備ができたら上座にすわるという習慣はちっとやそっとでは直らないでしょう。これこそ夫のしつけが問われるのですが、外は家ではないので、積極的に手伝う姿勢が必要でしょう。男の力というものは、どんなに年をとっても女より強いので、ネジをしめるとか、重いものを動かすということはたいへんな戦力になるわけです。そんなことをしたら、ぎっくり腰になるって? ご冗談を! 女だってなりますよ。
こういうふうに腰を軽く、すぐ立つ癖をつけたら、あなたは人気ナンバー1のおじさまになり、女性群から頼りにされること、請け合い。もてますよ。
(三)必要以上にへりくだる必要はありません。
「いやァ、未熟ですから」「いやいや、ムニャムニャ」
さあ、交代しましょう、などと言うと、もじもじする男性は困ります。係の人もけっこう気をつかっているんです。
結局、集団では男も女も参加者として同じだということを、しっかりわからなければいけないのです。外でのサークル活動は男が少数ですから目立ちますね。どんどんよき“市民”になってください!!
老人ホームで知った初めての恋……
L子さんが自分が“恋”をしていると気がついたのは、老人ホームの中の書道グループへ入り、半年くらいたってからでした。書道の先生はこのホームにご夫婦で入られたかたです。以前から書道教室を開いていらっしゃって、ホームに入居後も月に何日かは元のおけいこ場へ通っておられたようですが、足が弱くなられてからはホームだけとなり、月二回教えていらっしゃいます。奥様がお弱いので入居されたそうです。
L子さんは、夫の死後は息子さんが家業を継いでくれ、家を壊してビルにして……となり、その工事の間、いずれは必要になるかもしれないということで自分でホームを買い、入居しました。ビル完成の暁には戻り、ホームを別荘がわりに使うつもりでした。ビルも完成して一応戻りましたが、始めていた書道に魅力もあり、土のないビルの一室暮らしにもなじめず、ホームに腰をすえてしまったのです。
先生は大正一ケタ生まれ。姿勢のよい、りっぱなかたです。お手本をいただいて毎日一生懸命書いて持っていきますと朱を入れてくださいますが、ひと言ふた言、ここがおじょうずとか、ほめ方もおじょうず。ほめられて、年がいもなくポッと赤くなってうつむいて恥ずかしいと思ううちはL子さんもまだ気がつかなかったのですが、教室で書いているときそばを通られただけで胸がドキドキし、軽く手を添えて「こうでしょ」と言われたときは心臓が破裂しそうになり、筆がブルブルふるえてしまいました。
「先生、申しわけございません」と見上げると、「うん、うん」と、なんかわかったようにうなずかれて、もう、涙が出そうになります。部屋へ戻っても教室のあった二、三日は興奮して眠れず、次の教室の前はまた眠れません。そのうち、古くからいるM子さんが先生の助手のようなことをして親しげに話していると、くやしくて筆を投げつけたくなり、先生の好物を人から聞けば東京まで行って買い、「到来物ですが」と届けます。息子さんからは東京へ来て家へも寄らないなんて……とブツブツ言われますが、そんな気持ちの余裕はありません。あまり寄りつかぬ母親を案じて尋ねてきた息子さんは母親のやせ細った姿に驚き、連れて帰るといいますが、断固“イヤ”。ある日、貧血を起こして倒れ、ホームから入院をすすめられ、泣く泣く息子さんのところへ引きとられました。
親の決めた見合いで十八歳で大きな商家に嫁入りし、夫の出征、戦災、疎開。姑に仕え、戦後は夫の仕事を手伝い、やっと家も興し、息子も家業を継ぎ、夫を見送り、六十半ばを過ぎて初めて、これが“恋”だということを知ったのです。ひと言も口には出せずに内へ内へとこもらせて、ついに倒れましたが、ホームの教室は何事もなく回っています。
年をとるとケチになるのは男? それとも女?
定年で亭主が家にいるようになると困るという話はよく聞きます。以下はNさんのお話です。
「夫が家にいるようになって困ると友人が皆言います。私もそうです。
夫族は家事は何もしないし、できないので、目ざわりだし、じゃまになります。ちょっと外へ行こうと思うと、ついてくるから困るし、家にいると暇でいろいろのことが目につくらしく文句が多い。電話が長いと怒りますし、私だけカルチャーなどに出かけるときは必ず直前になって用事を言いつけたり、イヤミを言います。
でも、そんなことは覚悟していましたし、友人の姿も見ていましたから用心していました。がまんもできるし、それなりにうまくやっていこうと思っているのです。
ただお金のケチにはほとほと困って、もういやになりました。
いままではお金のことはお母さん(妻の私)にまかせた、と言っていました。私も一生懸命お金をためようと、子供の服なども自分でぬい、安いものをさがして買い、ローンを組んで家も持ちました。子供たちもそれぞれ大学を出て結婚し、独立しました。これからは、企業とお国の年金と利子や配当でやっていけるメドもついたと思っています。
それで年に一、二回夫婦で旅行をしましょうということで、ツアーに行くとします。いっしょのグループのかたとタクシーに乗り、その代金を割り勘にして、ハンパを三十円私が持とうものなら、ホテルへ帰ってからぐずぐず文句を言います。
『だれのおかげで旅ができるのか。そんなところでいい格好するな』
でも、あと七円ずつもらうなんて、そんな恥ずかしいこと私、死んだってできないです!
宿で新聞を買ったら、帰ってから読めばいいと言うし、フロントへ行ってロビーにかけてあるのを読んだっていいんだぞ、ボクは読んでくると言います。
自動販売機でドリンクを買ったら、いやな目つきをして、自分はスタスタと駅の水飲み場へ行って水を飲みます。お友だちとでしたら、『ちょっとコーヒー飲まない?』と言えるのですが、夫だと、いやな顔をするだろうと思って誘えません。お茶好きコーヒー好きの私はおもしろくありません。
一度、デパートだったかどこだったかでコーヒーを飲んだら、七百円近かったのです。お金を払う私の横にのっそりと立ってレジを見ていますからいやだなあと思いましたが、やっぱりそのあと二日くらい高い高いとぐずぐず言ったのでうんざりしました。
よその旦那様はこんなことで目くじら立てるのでしょうか?」
色気恋気は死ぬまでお互いさま
ある老人病院では入浴は週二回と決まっています。入浴はたいそう楽しみで、朝から患者さんたちはソワソワしています。
最高年齢百歳、平均年齢七十四歳の女性患者さんで、歩ける人は病衣のひももゆるめて早く入浴したい様子。移動ベッドの上に寝たまま入浴する人は裸の体の上にタオルをかけて運ばれます。もめるといけないので男女の入浴順は一回交代と決まっているとか。しかし、少し年をとっていてその日の順番もわからないかたもいつもいるので、トラブルがないとも言えません。ある日、女性代表のおばあさま二人連れ立ってナースセンターへ申し入れに来ました。
「入浴日には男がのぞくといやだから、入浴が終わるまで男の部屋には鍵をかけて出さないでください」
こういうことを言いたくなるのも、たとえばこんな話があったからです。
ある男性、四十歳くらいでしょうか。どうして結婚しないのかしつこく人に言われるそうです。彼は重い口を開いて、
「実は、私の母は、少し離れたところに住んでいた舅が、姑が死んでひとり暮らしになり、立ち居が不自由になったため、手伝うようになりました。やがて舅は寝たきりになり、母が向こうにいる時間がだんだん長くなって十年。舅は死に、葬式いっさいをすませ、あすお母さんは帰ってくるネと話していたら、のどに包丁を突き通して死にました。あまり哀れで、嫁さんもらおうかなと思うと、どうしてももらえません」
つらい話です。つらくない話をしましょう。
Aさん、男性、総入れ歯。ふだんはこのほうが楽だといってはずしていますが、若い女性が一人でもいる席でははめます。いなくなると、すぐはずします。
Bさん、八十歳、男性。和服の女性が好きです。そばへ行って、必ず着物をほめます。いいお召しですなあ……などと。布地のことなどわからないと思っている男性にほめられ悪い気はしませんので、そでやそでのあいているほう(振《フリ》)などをなでられても悪い気はしません。うまくいけば身八つ口からチラリと肌が見えるはずですが、
「このごろのご婦人はシャツなんか着ていてさあ」
色気がないそうです。
一方、女性もなかなかです。
Cさん、七十歳、女性。一度カギホックがはずれたら、人に助けてもらわないとかけられないくらい強いブラジャーをし、その上下から肉がはみ出していますが、胸の形が自慢で、なるべく胸元に深くカットした服しか着ません。
Dさん、八十一歳、女性。ピンクの服の大好きなかたです。乗り物に乗るときは必ず若い男性の横にすわります。そして、
「ちょっとこれ上にあげてくださらないこと」
とか、うまく話します。うんと年齢の離れている女性には、若い男の子はやさしいです。たまにはスイと逃げられることもありますが。
第7章 死ぬまでどこに住みましょうか?
後悔先に立たず、老人マンションっていいところ?
年をとっていちばん切実な問題は住居です。住むところさえあれば、それこそなんとかなるものです。近ごろは老朽アパートの建てかえで住むところのなくなった高齢者が目立ち、大きな問題となっていますが、とても公共アパートでは間に合いません。こういう厳しい状況を身をもって感じていますので、あり金をはたいて、と言っては失礼ですが、老人マンションを希望する層がふえています。購入できるのは幸せなかたがたですが、この人たちはどんな考えで老人マンションを選ばれるのでしょうか。
Aさん夫婦。都心に先代からの家がありましたが、ビルの谷間になってしまいました。郊外に買いかえることもできますが、二人とも年をとったり、妻も家事がおっくうになりました。老人マンションだと三度の食事の支度から解放され、病気になったら病院も世話してくれる――これはいいというので買いました。子供はいません。
こういう例は少なくないのです。はっきり言えば、家を持てば、死んだ場合、親戚が遺産うんぬんでうるさいことがわかっています。現に家を処分するときも何だかんだと親切ごかしの口を出されました。老人マンションは買い切りで、死ねばその権利が相続されることはないところが多いのです。ここに入る人は、持っているお金を使ってじょうずに死にたいという願望が心の底にあります。
Bさんも未亡人になってから老人マンションを買って入りました。Bさんも東京のはずれに昔からの家があり、庭が広かったのでその中に子供二人が家を建てて親の家を囲むようにして暮らしていました。他人は、そうやってお子さんに看《み》てもらって幸せに老後を送ればいいじゃないの、と言うそうですが、どちらの子供の比重が重くなってもいやだと、あえて決心されたそうです。いままで住んでいた家はもったいないから人に貸せば……とも言われたそうですが、それもきっぱりやめました。持ち主が死んでから相続のとき、貸した人が出ていかなくて困った例をたくさん見ているからだそうですが、りっぱなかたです。
Cさんもひとり者。ずっと定年まで公務員でしたから、年金で十分食べられます。老人マンションを退職金で買い、一生のんびり過ごすつもりです。誤算は、ひとり暮らしの長かった人は共同生活にとけ込むのが苦痛なこと。老後は展覧会やお芝居や音楽会に行ってのんびり過ごそうと思っていたのが、都会から離れているので遠くておっくうになってしまったこと。また、人が訪ねてきてくれないこと。やがて、外出先は近くの病院しかなくなってしまって、これなら都心のマンションのほうがよかった――と思っているそうです。
老人マンションに介護は期待できません
老人マンションの問題は、病気になったときです。売り出すときの宣伝文句では“介護つき”ケア・マンションをうたっていますが、実態は介護ではなくて、介護されるときを知ることのできるマンションといえましょう。老人マンションは老人病院ではないのですから医療行為はできないのです。
でも、ケアのついている、というマンションは高級です。どのような設備がついているかというと、部屋には火災報知器、そしてナースコールボタンがトイレや浴室などについていて、管理事務所と直結しているので、イザというとき駆けつけてくれるようになっています。個人用ペンダントを使えば、部屋の中でコールボタンのところまで行かれないほどぐあいが悪くなったときでも人を呼ぶことができます。
こういうふうにシステムが完備していて、いつも機械を通して人が見守ってくれるのを介護というならそれはそのとおりで、まるっきりの一軒家のひとり暮らしよりは十分によいといえましょう。
ただし、あまりしょっちゅうブザーを押すといい顔をされないことは、病院でも同じですね。
ほんとうにぐあいが悪いとなったら、病院へ送られます。ただ、直接契約しているところはたいてい近くの診療所などで、お医者さんはお年寄りのかたなどが多いようです。大病院と契約していると錯覚しがちですが、老人マンションがあるのは少し都会から離れたところですから、立地条件から言っても大病院は開業していません。ただ、診療所でも大病院と契約提携しているならよいといえましょう。都会にいても、現在は救急車でも使わない限りなかなか入院できませんし、特にお年寄りはいやがられて、たらい回しになることもけっこうあるからです。
退院して老人マンションに帰ってきても、ひとりで自分の用が足せるくらいでないと生活できないことはひとり住まいの一軒家と同じです。また、個人的に外から人を頼むことのできる老人マンションと、できないマンションとがあります。常駐しているヘルパーさんは専属ではありませんから、病気になったら、老人病院へ行くことになります。
老人マンションで医療行為はできないということに、病気になった時点で初めて気づくかたが多いようです。老人マンションに診療室があったとしても、それはあくまでも、病院へ紹介する窓口程度のものと考えたほうがいいと思います。
老人マンションは元気な老人のためのマンションです。
老人ホームでの死、子供は引きとりにも来ません
私立の老人ホームで余生を送っていたOさんには子供さんがいます。子供たちは毎月お金を払いに受け付け横の事務室の窓口までは来るのですが、母親のいる部屋には寄っていこうとしないのです。
いろいろ事情があったと思います。老人ホームに入る人は、事情のあるケースが多いですから事務所では驚きません。お金を払う日には子供さん三人がロビーに集合します。そして、その月の請求書を受けとると、三人ひたいを寄せ合って割り算をします。百円も割ります。割り切れずに七円とか出るときは、「兄ちゃんだ」と長男らしい人が言われています。「そいでも、いつもオレだぜ」とかブツブツ言いながらも払っているようです。
こうやって一カ月ごとの儀式のようなことがすむと、顔を見るのもいやだというふうにてんでんばらばらに、さっと帰ります。「おばあちゃんとこへ寄っていこう」とは、だれも言いません。言えば、ひとりでお母さんを背負わされる羽目になって困ると思うのか、何か金銭的なことでお母さんとないしょ話をしたと思われるのがいやなのか、みごとにそれぞれ別々に帰ります。こんな子供もいるのか、とウワサになりますが、それでも三人で親の費用をきちんと持とうという志だけはよしとしなくてはいけないのでしょう。
Oさんが亡くなりました。知らせで子供たちが老人ホームへ駆けつけましたが、長男が、
「すみませんが、葬儀場が決まるまで預かっていただけないでしょうか」
そこの係の人は激怒して、親が仏様になったのにちょっとでも家に連れて帰りたくないのかと怒ったそうです。しぶしぶ、長男の家が一晩だけ仏様を預かり、火葬場の中の式場へすぐ運んだそうです。生きている間も三界に家なく、亡くなってからも家においてもらえないとは、なんということでしょう。しかし、こういうのはよいほうで、引きとれないという子供もいるそうです。どういうことなのでしょうか。
また、身寄りはない、という話で老人ホームに入居したPさん。亡くなられたら、どこで聞いたのか親戚という人が何人もあらわれました。ホームに長い間いて、その間一人も面会に来なかったのに。入居前に住んでいた家はあいたままになっているので、あれは私のほうできっちりやりますから……と虫のいい話を持ち出し、あげくの果ては、
「ところでお預かりいただいている貯金通帳や保険の証書は?」
人が生を終えるときには、さまざまな人間模様が描かれるものですが、ホームのように集団になっていると、生を終えるのを待たれているようなあざとさが浮き出て見えるのは情けないことです。
老人ホームに何を持って入るつもりですか?
Tさん、六十七歳。独身で通した女性です。この年代のかたは、戦争中が適齢期だったので、男性が少なく、独身を通されたかたが多いようです。
Tさんは公立の学校の先生をしていましたので年金があり、それで老人ホームに入ろうと考えていました。一応、六十歳で学校は定年になるので、その時点で公立の個室のあるホームを調べて申し込み、約五年待ってやっと入居が決まりました。公立のところはどこも安いので希望者が多く、入居しているかたが亡くなられない限り入れないのでこんなに待ったのです。
部屋は六畳一間で、費用は月七万円くらいですが、民間のアパートや老人ホームにくらべたらどれだけ便利かおわかりでしょう。希望者が多いわけです。
さて入居となると、持って入れるものは? 食器は食堂があるので持って入ってはいけない規則だそうです。食器に限らず、愛着のあるものを何から何までといっていいほど処分しないと入れないことがわかりました。Tさんは、好きな本やレコードもほとんど持っていけないことに気づき、すっかり考え込んだそうです。本を読んだり、書き物をして暮らしたいと、退職後用にたくさん買ってあったからです。
一度はキャンセルする決意をしましたが、今後、これほどよい条件のところはないだろう、ホームに入ろうと決意することは、いままで自分の引きずってきた日常と訣別することなのだ、と何度も何度も自分に言い聞かせ、入居する決心をしました。荷物の処分は五十代過ぎたらぼつぼつしておかなければいけなかったとつくづく反省したそうです。
結局、持って入ったものは、衣類。これも夏冬三とおりくらいずつ。小さなたんす一つ分ですね。和服などは母親の形見一枚を残し、泣く泣く手放したそうです。はき物も最低二、三足。運動靴。雨靴。傘。文机。小さい本立て。本棚はおけません。小さい鏡台。洗面用具。寝具。薬品類。その他、筆記用具などの日用品。かばん、バッグ。いちばん大きなものは母親といっしょにいたときからあった仏壇ですが、大きすぎてとても無理とわかり、お寺の方丈様にわけを話して小さいのと買いかえました。お経をあげてもらってお位《い》牌《はい》などを移したら、先々代からのものもあって、仏壇はいっぱいになったそうです。ちょうど自分の将来のようだ、と淋しく笑ったのには友人が困ったそうです。
ホームへ入居のとき、Tさんが困ったのは保証人。ひとり者はほんとうに困るそうで、遠縁の甥《おい》に保証人になってもらったそうです。年齢制限があり、兄弟でも老齢だとダメだそうで、親戚とはつきあっておかないと死ぬにも死ねないということになるようです。
ハワイで送る老後、いいことずくめですか?
「近年、リタイア後、外国暮らしを奨励していたことがありました。私ども夫婦は、これに乗ったわけではありませんが、夫が長くハワイに勤めていたので、老後をハワイで暮らすことにしました。
新しいアパートは快適です。気候は日中は木綿のシャツとショーツで過ごせるくらいです。ハワイは全米で二番目に物価高といわれていますが、生活費は日本より安く、生活ものんびりしています。いいことずくめのようですが、働き蜂だった夫には、このよい環境がかえってなじめないのが困ったことです。日本のニュースは国際衛星版による新聞、TVなどで入り、東京にいるときとあまり変わらないのですが。
生活するのには人々は親切です。お隣から電話で、ご夫婦が休暇で、あしたから旅行に出かけるので郵便物と新聞をお願いしますとのこと。三週間以上留守にするときは、地域の郵便局へ届けますと配達せず局で保管してくれます。
近所の若夫婦が夏の休暇で留守をしたときは、鍵《かぎ》を預かった友人夫婦が来て、鉢植えなどのめんどうを見ていました。家の中の電気には時間で自動的に点滅する装置をつけ、カーテンを少しあけて中が見えるようにするのが普通です。日本とはこんなところがちょっと違います。でも、やはり一応、警察にも電話しておくのが常識のようです。
ここに来て、アメリカ人に日本語を教え始めました。私はいわゆる古きよき時代に教育を受けて育った世代ですから、私の日本語はていねいで、現代の日本語とは微妙に違います。テレビや映画など日本のものを見て向こうの人も勉強していますので、オヤと思うらしいです。そこで最近は初めに、『あなたは上級の日本語をお習いになりたいですか? 普通の日本語ですか? 少々、砕けた日本語ですか』と聞きます。弁護士さんなどは上級をお望みで、ミュージシャンなどは砕けた並みを選びます。おかしいと思われますか? 外国語にもこの上・中・下がありますし、英語もどんどん変わっていっているのです。なまりもありますので、英語も聞けばどこの出身とわかるほどなのです。いちばん困るのは日本語のカタカナ語で、字引きを片手に一生懸命、私も勉強しながら教えていますが、むずかしいです。日本語もどんどん変わるのですね。
治安は日本と比較すればよくはありません。日本以外の国の人は、生まれたときから鍵のある生活をし、個人個人が自分のものに鍵をかけてガードするというのが身についていますから、日本人が無防備すぎるということもあるかもしれません。そんなわけで、のんびりしたところで緊張しながら暮らしています」(ハワイ・鴨川てい子・六十三歳)
老後は田舎で? でも田舎はオソロシイですよ
有名な作家のかたが地方に家を買って、原稿は電話やファックスがあれば十分、きれいな空気、おいしい食べ物、親切な人情があるから、生涯の地とするというようなことをよく書いていらっしゃいます。
地方でのんびり……というのは、一応有名人だから有形無形のサービスを地方の人から受けられる、ということを全く忘れているのだなあ……とつくづく思います。
普通の勤め人も定年ごろに田舎に帰るという話をよく聞きます。この場合も帰るべき“地コネ”があるのではないでしょうか。地コネ(土地のコネ)もなく地方にとけ込んで生活するということは、都会人の夫婦にとってはたいへんなことです。地方では職がない、仕事がない(農家もほとんど現金収入のために働く)ため、どんどん都会へ出ていきます。もちろん職はなくてもよい、のんびり遊び半分のお百姓をしようという人は、どんなかかわり合いを持って暮らすのでしょうか。農家の人に遊んでもらうのかしら。
私は疎開児です。戦争中のそのいやさかげんは、いまでも思い出せば腹の中が煮えくり返るほど。いまの子供たちの学校のいじめの原型はここにあるのではと思っています。
私の場合、父が次男坊で都会へ出て勤めていたのですが、出征して留守。母と長女の私と弟二人が父の兄の家の物置きを借りて暮らしました。日本じゅうで食べ物がない時代でしたから、しかたがなかったかもしれませんが、食物の調達に関する母と私の苦労。都会人だからと、のぞき見される生活。一枚一枚ねだられて本家のものになる衣類。そのねだり方のいやらしさ。本家だけでない、遠い遠い血のつながりがあるようなないような親戚を数えたら村じゅうが親戚。これが、根本のところでなれ合ってつながっているいやらしさ。一人の人とただ話をしただけでも、その日のうちに村じゅうに知れるおぞましさ。母はクリーム一つつけなくなりました。身ぎれいということが罪だったのでしょうか。
郵便物は村の人が持ってくるのでハガキは全部読んでいるらしく、どこから男名前の手紙が来たっぺさ……です。ただただ息をひそめ、村じゅうの目から身を隠し、声を落として暮らしていた情けなさは口ではとても言い尽くせません。
奉仕、供出、その他もろもろの村の講とのつきあい。とても全部は覚えきれませんし、それに出ていくための決心。連絡をわざとしないのか、はぐれっ子にさせられる底意地の悪さ、いじめ。いまは変わったでしょうか、日本じゅうの田舎のこの深い強い“地コネ”のからまり合いは? 都会に住めば何がいいか。隣人と軽くつきあえばよいのです。都会の孤独がいやで田舎へ帰る? 甘いです。都会人は老いても都会がよく似合うのです。
とかく年寄りには住みにくい今様マンション
「夫が定年になる少し前、子供もいないことだし、一戸建ての古い家は広くて掃除もたいへんになってきたし、手を入れてもお金もかかるし、いっそのこと売って地方の老人デラックス(?)マンションを買いましょうか、と話し合いました。でも二人とも東京生まれの東京育ちで、とても東京を離れることはできないということもわかっていて、それなら都内のマンションに買いかえようということになりました。マンションには少しあこがれていたのです。鍵一つで外出できて、すき間風も入らない、夏は蚊取り線香もいらない、便利できれいなキッチンがついていて……。
ところがどっこい、数々の誤算がありました!
誤算その一
鍵一つで外出できて……うんぬんは、現役のときにいえることです。いまは留守番というか、居ついている人というか、家から出ていかない人(夫)が四六時中いるのですから、鍵なんていらなかったのです! したがって、私も出かけにくい。二人で仏頂づらをしていて、なんのことはない!
誤算その二
マンションのワンフロア、広々としていいなあ、とあこがれていました。
以前の家は使わないで古くて暗くて、少しカビくさいにおいのする応接間。ごちゃごちゃの茶の間。どんどんふえる物が棚の上にいっぱい。柱にも何か古くなったものがかけてあったり、手近なところにおいたほうが便利というので、ポットをおくワゴン、家庭薬、新聞立て、郵便の束、お菓子入れ、トランプ等々があって、いくらなんとかしようと思っても、どうにもならなくて困っていました。
しかし、こんどのマンションでは、それが、すっきりと、ソファがおいてあって、テレビも衛星放送が見られる大きいのがデーン。こんな広々とした気持ちのいいところへ友人が来て、どうぞどうぞ、とお通ししても、パァッと見直すと、うっとうしい旦那まで見えてしまって……。『やあ、どうぞ』と夫が席をはずしても、どうも友人のほうが居心地が悪いらしく、ソソクサと帰ってしまいます。
あの応接間があったらなあ……。
誤算その三
夫婦でも、お互いに顔を合わせたくないときがしばしばあります。そんなとき、ベッドルームにこもるといっても、ちょっとこもりにくいもの。二階があったら、ヒョイと上がって、ひとりになることもできます。こんな上下の“間”がなくなってしまった! これはつらいです。
落語では、大家をやるときはあっち向いて、店子をやるときはこっち向いて“上下の間”といいますが、家屋には“上下の間”があったほうがいいですね」(東京都・橋爪千鶴・六十二歳)
第8章 死ぬまでに税金をとり戻すべし
公共サービス、利用しない手はありません
私たちは若いころから、たくさんの税金をおさめてきています。だから、いま、しかるべきサービスを受けて当然ではないか、と思いますが、そのようなことは好まないというかたもいるのも事実です。しかし、世の中は持ちつ持たれつですから、いままで“持ちつ”の部分を受け持っていて、年をとったら“持たれつ”の側に回るのはちっともかまわないと思いますし、恥ずかしいことでもみじめなことでもありません。そのように思わせるのは役所側の人が悪いのです。たとえば七十歳以上の無料(もしくは少しお金を出す)バス乗車券。利用する人は遠慮がちに「ごめんなさい」とか、「よろしく」とか言って腰をかがめて乗ります。運転手さんは、そういう人がつづいて乗ると、動作がおそいせいか露骨にいやな顔をします。――こちらは内心、「なんだ、お前さん(運転手さん)が払ってくれてるわけじゃないのに」と思いますが、トラブルを恐れてみな黙っています。ステップを「よっこらしょ」と上がりあぐねている人にやさしい運転手さんが手を差し伸べるくらいがせいぜいでしょう。こういうことであっては心底いかんと思いますが、現実はそんなものです。
さて、高齢者に対して、どんな公共サービスがあるでしょうか。市区町村によって違います。福祉に手厚いと評判の区や市もあります。では、そこへ引っ越したらいいでしょうか? さあ、なんとも申し上げられません。究極は人と人とのつながりですから、ともかく、ご自分の居住地の役所で出しているパンフレットなどを、めんどうがらずにていねいに読んで、まず、アタックしてみてください。居住地にある“老人福祉課”“福祉事務所”“保健所”などがその窓口になっています。窓口まで行かれないときは近所の民生委員が相談に乗ってくれますが、知り合いの議員さんなどはこういうときのために一票投じたのではありませんか。
相談要項
どこの市区町村にも、多少、名称の違いはあったとしても、次のような相談窓口があるはずです。相談したいことがあったら、「これこれのことはどこに聞いたらいいですか?」と率直に尋ねましょう。ただし、住民登録はちゃんとしてあるでしょうね。息子さんのところへ置いたまま、ひとり暮らしのアパートへ移ってしまった――ではダメです。権利を行使するためには、基本のところをきちんとしておかなくてはなりません。
《東京都杉並区》の例
●くらし・法律・家庭など
一般区民相談
くらしの相談
外国人相談
法律相談(電話予約制)
税務相談(電話予約制)
交通事故相談
建築相談
人権相談
家事相談
家庭相談
みどりの相談
●行政など
行政相談
行政手続相談
住まいの増改築相談
不動産取引相談(電話予約制)
●六十歳以上の高齢者を対象としたもの
就労相談
生活相談
健康相談
専門健康相談
●障害者を対象としたもの
生活相談(電話予約制)
専門健康相談(電話予約制)
●労働、経済など
パートタイム相談
商工相談(電話予約制)
労働相談
消費者相談
●教育、保育など
一般教育相談(電話予約制)
就学相談(電話予約制)
教育電話相談
いじめ・登校拒否電話相談
保育電話相談
■女性を対象としたもの
一般相談
法律相談(電話予約制)
「私が病気をしまして、高額医療補助というのでお金が返ってきました。ちょっとびっくりしましたが、窓口へ手続きにいきました。支払いのコピーを忘れましたからダメかと思いましたら、『こちらでわかっていますから、あとで郵便で送ってください』と言われ、二度びっくりしました。私のどこまでが行政に把《は》握《あく》されているのだろうかと。それで調べてみると、次のことがコンピューターにインプットされているそうで、個人のプライバシーとしては、つかまれていない情報は“よろめき”だけかなあ、なんて友人と笑いました。この個人情報の完備がいいのか悪いのかわかりませんが、こちらから申し出ないと持てる権利も使えないのなら、どんどん言っていくべきだとつくづく思いました」(東京都・香取雅子・七十一歳)
《東京都杉並区の場合》
(1)一般の個人情報
○住民基本台帳=住民の異動処理、住民票・転出証明書・本籍・前住地通知などの作成、選挙、予防接種、成人祝賀等のお知らせの作成、各種統計資料
○印鑑登録=印鑑の登録、印鑑証明書の発行
○契約=契約業者の選定
○戸籍=戸籍見出帳検索、受付帳記録、新戸籍記載
○住民税、軽自動車税=税額計算と納税通知書の発行、収納状況の記録と未納者への督促、課税・納税証明書の発行
○国民健康保険=保険料の計算と納入通知書の発行、収納状況の記録と未納者への督促、被保険者証の発行
○国民年金=加入者の異動処理、加入勧奨、納入状況の記録と未納者への催告
○老人福祉=老人福祉手当の支給、敬老金の支給、医療証・老人保健法医療受給者証の発行
○児童手当=児童手当・児童育成手当の支給
○ひとり親医療=ひとり親家庭等医療費の支給
○障害者福祉=障害者の各種手当の支給、障害者医療証の発行
○保育=保育所入所決定通知書・保育料納入通知書の発行
○資金貸付=生業・奨学資金貸付、産業融資資金の斡旋
○施設措置=老人ホーム・身体障害者施設・精神薄弱者施設入所者の本人負担金の算出など
○結核患者登録=結核患者の登録・統計資料
○学齢簿=就学通知書・就学時健診通知書の発行、適正就学の指導
○就学援助=就学援助費の支給
○幼稚園就園奨励=私立幼稚園保護者補助金、入園料助成金の交付、就園奨励費補助金の計算
○図書館=図書の受入・登録・廃棄・蔵書点検、利用者登録、図書の貸し出し・返却・予約・検索・照会
○附属機関・団体=役職者の名簿
○生活保護=生活保護費の支給
○建築確認=建築確認申請受付事務、住居表示届出勧奨
○土地取引適性化=土地売買等届出・確認申請受付
○選挙=立候補者届出一覧、得票集計
(2)追加登録された個人情報
○住民税=損害保険料控除計算区分、長期損害保険料の金額、損害保険料控除額
○学齢簿=学区域(区立小中学校名)、学年、児童・生徒の個人番号、保護者の個人番号・児童・生徒の続き柄、転入・転退学年月日、就学状況区分、申請事由・申請年月日、就学期間、学年変更、未受診者
○老人福祉=通所給食サービス受給者個人番号、訪問給食サービス受給者個人番号
○就学援助=障害者加算区分
○幼稚園就園奨励=申請者氏名・住所・園児氏名・生年月日、幼稚園の名称、入・退園年月日、口座番号、支払金額、申請事由・申請年月日、就園奨励費補助金額
○選挙=候補者住所・性別・生年月日・職業・本籍地の都道府県名、新・現・元の別、届出の別、連絡先電話番号、出納責任者氏名・住所・職業・選任年月日
ひとり暮らしの老人にはこんな権利があります
ひとり暮らしの老人の受けられる老人福祉の内容は次のとおりです。問い合わせは居住地の老人福祉担当課です。情報が、何から何までインプットされるかと思うとちょっとひっかかる人もいらっしゃるかもしれませんが……。
友愛訪問
老人福祉担当課に申し込む。友愛訪問員が直接訪問、または電話訪問をします。
福祉電話の設置
電話のない家にはつけてくれ、基本料金等の助成や電話相談も行いますが、所得制限があります。
緊急通報システム事業
家庭内で突然、病気になったとき等、緊急連絡先に通報できるシステムです。
お年寄りが急にぐあいが悪くなったときや、家の中で転んだりした場合、この管理センターや緊急連絡先に知らせるためのシステムで、通報を受けた管理センターでは状況によって救急車を手配したりして、係の人が出動します。装置には、壁掛け式、電話器を使うもの、ペンダント式で胸に掛けておくものがあります。
公的なものとしてこのシステム事業を導入している地方公共団体は少なく、民間の企業と直接契約することになりましょう。公的にとり扱っている地域では、各福祉担当課、福祉事務所が窓口になっています。
民間との契約の場合には入会金(装置料)、とりつけ工事費、月々の費用がかかり、とりつけられない地域もありますので、左記を参考になさってください。
《東京都の民間の場合》
○安全センター
〒143 大田区山王1―3―5 NTTデータ大森山王ビル 03-3773-0021
〔NTT緊急通報システム〕入会金5万円、工事費約1万円、月々の支払い2800円(消費税別)、看護婦常駐の相談受付も
○セコム(株)
〒163 新宿区西新宿1―26―2 新宿野村ビル 03―3348―7511
〔セコム・ホームセキュリティ〕保証金5万円、工事費7万円から、月々の支払い8600円から(消費税別)
○富士通電装
〒101 千代田区九段北4―1―3 飛栄九段北ビル6階 03―3288―9301
〔ホームナースコール〕通信装置料7万7600円 工事費約1万2000円 保守費約1万5000円
(自治体でほとんど負担)
○ホームネット(株)
〒169 新宿区西早稲田2―18―2 大成火災西早稲田ビル3階 03―5285―4536
〔あんしんネットワーク〕通信装置料8万7000円(7年間リース料月々1390円)、
工事費約1万〜1万5000円、月々の支払い2480円(消費税別)
公安委員会より警備業の認定を得たタクシー会社と提携
シルバー110番と医療相談、利用しないと損
「私の母は七十五歳、ひとりで暮らしています。とても元気で病気ひとつしたことはありませんが、子供は皆、遠方に住んでいますので、子供たちが心配してセコムに申し込み、装置をつけてもらいました。
あるとき、母は家の中で転んで、大腿部を骨折しました。そのとき、母は、頭の中が真っ白になってしまい、このセコムの通報のことも、119番で救急車を呼ぶこともパッと飛んでしまい、痛む足をひきずって長い時間をかけて泣きながら窓際へはっていき、通りを歩いて来た小学生に隣の人を呼んでもらって救急車で入院しました。このことから、いろいろ考えさせられました。こういうシステムが完備すればそれでよいというものではない、結局は人と人とのつながりではないか、母もご近所の人と仲よくしておいてくれてよかった、それと同時に、人の頭の中に焼きついているはずの110番やら119番でさえも頭からパッと飛んでしまうような状態にはどうしたらよいか、何事も最終的には神様のおぼしめしで、運のよい人は通報が通じ、間が悪ければ……とか、もしだれかがいっしょに暮らしていたとしても、そのときいないこともあろうし、同居に踏み切ったとしても万全とはいえないだろうし……と心は千々に乱れるばかりです」(山形県・安井みちえ・四十歳)
このかたのおっしゃることが、システムとしての限度とも思われますが、しかし、個々人のネットワーク以外に、公的ネットワークも持っていたほうがよいと思いますので、紹介しておきましょう。
老人のための親切電話器があるの、ご存じ?
いまでは暮らしの中の情報伝達手段として“電話”が大きなウエイトを占めています。ところが、年配者の頭の中にある“電話”とは、黒い昔ながらのギーコギーコと指でダイヤルを回す電話であって、いま多い多機能つき電話でないことも問題です。
「新しい電話はよくわかりません。押すとあちこちの部屋でとれるのに私にはできません。息子たちに笑われます。留守番電話もほどけません。ほどくというとまたお笑いになるでしょうが、自分で聞こえるようにできません。お恥ずかしいことです」(東京都・矢口奈保・六十歳)
「年をとると、電話は音の大きいほうがいいと思います。ルルルといういまの音より、昔のリーンリーンという音のほうがよく聞こえます」(埼玉県・河野たへ・七十八歳)
「おふろに入っているとき、トイレに入っているときなど、電話の音が聞こえません。気がついて出ると、たいてい切れてしまいます。老人に電話をするときは、十回以上鳴らすこと。出るまでに時間がかかるからです。出なくて一度切っても、もう一度かけてみる。これが親切ではないでしょうか」(神奈川県・田内正子・七十二歳)
適切な発言です。電話には熟年向きにいろいろな種類があります。(NTT調べ)
@シルバーホンひびきS
受話器の振動部を耳の後ろに当てると耳の骨が振動して相手の声が伝わる式のもので、着信時は呼び出し音とともにランプがつく。
AシルバーホンふれあいS
受話器をとらずに話ができる。手が不自由なかたのために、受話器をおいたまま、ゆっくりとダイヤルできる。ダイヤルしづらいというかたのために息を吹きかけるだけでダイヤル操作ができる装置を接続できる。大きなディスプレイに大きな文字を表示する。お話し中だったときにはハンズフリーボタンを二回押すと、もう一度自動的にダイヤルできる。ダイヤルボタンを押したとき、光や音声で確認できる等。
BシルバーホンあんしんS
電話から離れていても、いつでも発信できるリモートスイッチつき。通報先がお話し中のときなどは、自動的に次のお宅(三宛先まで)に連絡できる。
緊急メッセージもできる。
連絡用――「こちら〇〇です。すぐ来てください」
緊急用――緊急通報・緊急通報「こちら○○(自分の電話番号)です。すぐ来てください」というメッセージで、自分で言わなくても合成音声でかけられるというシステム。
CNTT・花ちゃん
簡易緊急通報装置で、ひとり暮らしの人用。呼び出しスイッチという棒のようなもののついた小さい台があり、これを押すと自動ダイヤルで特定の相手を呼び出すことができる。
DSL−5号(緊急通報用電話器)
緊急のときは、電話器から離れていても通報できる。通報先はあらかじめ最大三宛先まで登録できる。相談ボタンがついていて、緊急でなくてもヘルパーさんなどに相談できる。オプションをつければ受話器をとらずに話ができる。もちろん普通の電話器としても使える。
などがあります。いずれも自前で3万〜6万円くらいかかりますが、安心料としては高いものではないでしょう。
しかし、前項の安井さんのお話にもあるように、通報とか連絡とかは、ある程度習慣づけるというか、とっさのとき使いこなさなければなんにもならないわけですから、はっきりいえばこういう装置は、新しいことにおっくうでないうちに(比較的若いうちに)つけたほうがいいように思います。また、年をとっても常に“やってみよう”という気を持つことにしたいものです。
こういう有料の装置以外に、プッシュホンの電話器なら、#8080を押しましょう。ハレバレなんて覚えやすいネーミングですね。これは日本全国の高齢者総合相談センター・シルバー110番へつながる短縮ダイヤルです。
字が書けて、読める間はファックスが老人には思いのほか、便利です。用件を伝えるのに、相手が電話のところへかけつける必要もなく、送るほうは夜中に目が覚めたときちょっと書いて送っても相手に迷惑はかけません。孫などからのひと言書きは命の泉のようです。老人にありがちな“言った”“言わない”のトラブルもファックスを残せば避けられるでしょう。古い電話器にもとりつけられますが、この際、買いかえたほうが便利でしょう。ファックスに送信紙をはさんでから、ボタンを押して、番号を押し、スタートさせるだけですから簡単です。費用は10万円くらいかかります。
第9章 死、そしてお墓……
尊厳死と延命、どちらを選びますか?
「『私は私の病気が不治であり、且つ死が迫っている場合に備えて、私の家族、縁者ならびに私の医療に携っている方々に次の要望を宣言いたします。
なお、この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。従って、私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、又は撤回する旨の文書を作成しない限り有効であります。
@ 私の病気が、現在の医学では不治の状態であり、既に死期が迫っていると診断された場合にはいたずらに死期を引き延ばすための延命措置は一切おことわりいたします。
A 但し、この場合、私の苦痛を和らげる処置は最大限に実施してください。そのため、たとえば、麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても、一向にかまいません。
B 私が数カ月以上にわたって、いわゆる植物状態に陥った時は、一切の生命維持措置をとりやめてください。
以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従ってくださった行為、一切の責任は私自身にあることを附記いたします。』
これは、何年か前に私ども夫婦が相談して、尊厳死協会に入会しようとして送っていただいたパンフレットに書いてあった、“リビング・ウィル”(生前発効の遺言書)です。
日本尊厳死協会とは、旧名『日本安楽死協会』です。この会は一九七六年に発足しましたが、一九八三年に、世界各国で使用されている『尊厳死』に名称変更をしました。趣意は次のとおりです。
『近年、いわゆる安楽死についての関心が非常に高まって来ました。医学の進歩にもかかわらず、不治の病がまだ甚だ多く、又公害、事故等による不測の人体の損傷が重大な後遺症を残す悲惨な例が相次いでいます。このため、回復の見込みが全くないのに、ひどい痛みや苦しみに悩まされ、何とか楽にして欲しいという悲痛な願望を訴えられ、一方では医学の粋を集めた人工延命術によって、長期にわたり意識を失ったまま“植物人間”化し、名のみの生命を保っている人々が増えつつあります。このように個人の希望に反した延命は、人間の威厳をかえって傷つけています。
人権の立場から考えると、自ら施し、また訴える手段を持たない患者の真の願いを充す方法については、現在はあまりにも慣習的、法律的制約がありすぎます。医師、法律家、行政官、宗教家などの識者は、この制約に心を傷めており、一般の人々の間でも色々の立場から再考されています。家族の、物心両面から受ける苦しみも増えています。この会は、あくまでも人格の尊厳、並びに人権の尊重の上に立った人道的な立場から、これらの問題について忌《き》憚《たん》なく話し合い、お互いの理解を深めて正しい認識をもつように努力するもので、積極的安楽死を推進する団体ではありません』
入会するには、先の『尊厳死の宣言書』を一通作って協会に送ります。協会は、登録番号をつけて、その一通を保管し、コピーの二通を返送してくれます。一通は本人が持ち、一通は近親者(配偶者、親、子、後見人)が持つようになります。尊厳死の宣言書は、必要が生じたとき、医師に提示します。万一、主治医が理解されない場合は、本人の登録番号と、主治医の住所氏名を知らせると、協会から主治医に理解していただくよう頼んでくれます。場合によっては、近くのこの協会の嘱託医が弁護士に協力をお願いするようにはからいます。これは個人の意志の尊重という見地から法律的にも有効なのです。
入会申込みには、終身会員…会費十万円(一回限り)、正会員…年会費三千円のお金が必要です。夫婦ですと四千円。入会すると会員カードの交付、『尊厳死の宣言書』登録、会報(年四回)配布、研究会出席自由などの特典があります。
日本尊厳死協会(植松正会長)
〒113 東京都文京区本郷2―29―1 渡辺ビル202 03−3818−6563
このことについて、私たち夫婦は何度も何度も考えましたが、いまだに登録はしておりません。
実は、この会を知り、パンフレットも送っていただいて書き込みまでしましたが、身内を何人か見送る間に、たとえ植物人間になっていても、その人の心の眼はまだ開いていて、だからまつげを動かしているのではないか――と思うときが再三、再四ありました。覚悟を決めて登録をしても、ドタン場になって未練(?)が出た場合、もうそれを意思表示することはできないのではないか、口もきけず、ただ息をしているだけでも、心の中でまだ生きたい生きたいと思うのではないか、という思いが波のように押し寄せてきます。このことは、たとえ植物人間になっていても病む本人の問題であって、周りがお金がかかりすぎて困るとか、つらそうで見ていられないとかいうのとは少し違うのではないかと思うのです。ともあれ、この問題は個々人で考え、選択していただきたいと思います」(東京都・赤沢すえ・七十三歳)
戒名のランクは三代先までのしかかる
お葬式は待ったなしでやってくるものです。支払いも現金ですからたいへんです。おまけに、故人となると故人名義の預貯金は封鎖されてしまいますから困ることが多いのです。香典というものはお供え物ですが、お金を包むのはこの突発的なことに少しでも足しにしていただこうという意味を持っているわけで、特別盛大なお弔いは別として、普通の家庭では手持ちの現金と香典で無事お葬式が出せれば“出ず入らず”のよいお弔いだったとささやかれるものです。
現在は葬儀社が取りしきってくれます。まず代金一覧表を持ってきますので、これを遺族代表(喪主と親族の主な人、勤め先の相談にのってくれる人など)が見て決めます。つまり、お葬式にも松・竹・梅があるということです。もっとも、公営に近い安い代金のものもあります。お葬式は宗教によって違います。仏式、神式、キリスト教式、その他の宗教の方式があり、近ごろは無宗教のお別れ会というのもふえました。
変な話ですが、一度仏式のお葬式を出して「ほとほとまいったから、私、キリスト教徒になろうかしら」などという人もいます。キリスト教ですと、教会でお葬式をすれば、教会の信者さんがたが全部やってくださるし、お礼も献金程度でいいといわれています。でも、まあ、それは別の問題。仏式でする場合、葬儀屋さんに払うお金とは別に、お寺への戒名の問題があるので、ほとほとまいる思いをするのです。お寺様は「お志でけっこうです」とおっしゃいますが、普通、(宗旨によって呼び方は違います)信士・信女ですと二十万円くらい、居士・大姉で三十万から五十万円以上、院居士・院大姉で五十万から八十万円。院殿ですと、百万円以上が相場だといいます。
「亡父には生前親孝行しなかったから、戒名は気ばって」
などと、院殿をはり込みますと、このかたのおつれあいが亡くなったときもウン百万円。あとあとの法事も最高額。お寺様への寄付も筆頭となって気ばらなくてはなりませんので、三代先くらいまでお金を払いつづける財力がなければおすすめはできません。
お寺様とふだんおつきあいをしていれば、その家の格というものを知っていらっしゃいますから、そんなにバカ高いことはおっしゃらないはずです。よくふっかけられたというのは、自分のお寺を知らず、葬儀屋さんを通してお願いするお寺の場合で、これはお寺のほうでも、一回きりと思うからではないでしょうか。生きている間も死んでからも、浮世のつきあいというものはついて回ります。ふだんから、自分の家の宗旨などはよく調べて、子供たちに言っておきましょう。
お墓買いますか、やめますか?
最近はお墓ブーム(?)で、墓地分譲広告が目につきます。新しいタイプで墓地マンションなどもあります。
お墓は昔は一族一基か、菩《ぼ》提《だい》寺《じ》にずらりと一族のお墓が並ぶとかいうものでしたが、核家族世代にお墓も一家に一基となると、どんどんふえてしまいます。地方から出てきた人は、田舎が遠いとお参りができないので近くに移すとか、宗教が違って入れないとか、お姑さんといっしょに入りたくないから夫婦だけのお墓を別に買うとか、お墓の需要はふえるばかりです。
「私は次男と結婚しておりますので、夫の実家のお墓には入れないものと思い、墓地を物色していました。法事のとき、夫の実家のお寺のご住職様がおっしゃるには、
『お墓というものは三代すると無人になることが多いのです。特にこのごろのように家族の人数が少ないと、子供が二軒の家のお墓のお守りをする場合も多くなりました。ですから、次男さんだからといって別にお墓をお持ちになるより、同姓のかたはご先祖様のお墓にお入りになったほうがいいのです。お嫁にいったりして姓の変わったかたは入れませんが。ご兄弟がお入りになっていれば、お守りをするほうもどこかの家の跡継ぎがすればよいので、お墓を絶やさないために、むしろおすすめしているのですよ』
私たちは安心してお墓を買うことをやめました」(千葉県・曾我孝子・四十歳)
「私はいまパートに出ています。五十を超してからなんでまた、と友人に言われますが。
実は私はある宗教に入りました。夫とはだいぶもめましたが、ボケた姑を見送るまでに七年かかり、あまりつらいので友人に連れていってもらい、入りました。人にいろいろ言われましたが、私はこれで救われ、悔いなく姑を見送ったので感謝しています。私が死んだらこの宗教で葬式をしてくれと言いましたら、私が苦労したので家族も認めてくれました。が、お墓については夫は自分の田舎が好きなので、絶対に自分の実家の墓所の一角に建てると言って聞きません。私は宗旨が違うので、その菩提寺の墓地には入れません。それで、宗教を選ばない分譲墓地を自分で買うためパートに出たのです。どんなに安く見積もっても三百万円以上かかるので、ロッカー式でもいいと思っていますが、生きているうちに買えるかどうか心配です」(東京都・小野沢圭子・五十一歳)
お墓の選び方、お寺とのつきあい方、コツがあります
「私の家では夫婦ともまだ元気なのですが、こんど、私たちのお墓を建てました。
というのは、わが家のためのお墓が必要なことはわかっていますので、そのことを心がけておりましたところ、田舎の家と同じ宗旨のお寺が近所にあり、そこで墓地を分譲していたことと、私の実家のほうでそういうことなら、腕のいい石屋さんがいるからいまのうちに頼んだらどうか、生きているうちに墓を建てるというのはめでたいことだと言われたからです。
そこで決心し、お寺に相談にまいりましたところ、
『ここに永住して墓守りする人がありますか』
と言われ、娘に聞きましたところ、
『ひとりっ子だからするワヨ』
と言うので決まったのです。
母が『腕がよく、よい仕事をする石屋さん』を紹介してくれましたが、私たちにはどんなお墓がよいのかわかりませんので、田舎へ行ってその石屋さんの建てたお墓をいくつか見せてもらいました。よい仕事とは、仕事がていねいでこまかいところまで行き届いていて、花立て、線香立てに至るまで、四角に切りっぱなしでなくきちんと面取りもしてあり、隣のお墓との境の石垣なども、とてもていねいに仕上げてあるものをいうようです。それからお墓のいちばん下の基礎石も、継いでない一枚石で、次の台石も一枚石です。たいていのお墓は何枚かの石が継がれているのが外からもよくわかりました。
そこで、ここへ頼もうと決めまして、手金を十万円打ちました。
申し遅れましたが、墓地の分譲価格は坪四十万円でした。ご存じと思いますが、お墓の一坪は小さいのです。手金を打ってしばらくして田舎へまいりましたとき、石屋さんへ寄りましたら、お墓の模型ができていました。それで仕上がりの型もよくわかりました。次は石材選びですが、この石は長い間に色が変わるとか、欠けやすいとか、この石は日本製とか輸入物とかていねいに説明してくれ、私たち夫婦も石屋さんのいうことを信頼して選び、墓は〇〇家の墓としました。個人名に入れるような朱は入れません。
建てるときも日を選び、その石屋さんが(静岡県)日帰りですが、田舎から六人乗せて車で来てくれ、まる二日かかって完成しました。周りとくらべてみますと、私の家の近くにも大きな石屋があって、そこに頼まれるかたが多いのですが、うちのほうがコンクリートもしっかり打ってあって、少しも手を抜いていないでき上がりで、すっかり満足しました。値段は百八十万円でした。お墓の管理料は年に千円です。
生きているうちにお墓を建てることは、家を建てることと同じというわけで、おめでたいというそうです。そこで、家を建てるときの建前と同じに、仕事をしてくれた人に、別にご祝儀を出します。頭領(石屋の主人)に一万円、ほかの六人に五千円ずつ。
別の話になりますが、お墓を建てたということと、不幸があったということは違います。お墓の場合も家を建てたのと同じ扱いで、近しいかたは“供花料”“供養料”などの上書きのお祝い(水引は金銀)をさしあげるものだそうです。
私のところがこのお墓を分けていただくようになりましたのは、近所のかたのご紹介ですが、その人はお寺の檀家の世話役のようなことをしていらっしゃるかたです。うちもお墓ができまして、檀家になったわけですが(檀家というのはそのお寺の支配下に入る、というか、身内のようになり、そのかわり、ずっとお世話になる家です。もともとはお寺の世話役の旦那衆という意味だったそうです)、檀家になってじきに施《せ》餓《が》鬼《き》がありました。施餓鬼とはそのお寺の無縁仏の御供養のことです。私は用事があってお参りできませんでした。あとでそのかたにお会いしたとき、
『あなたも、あなたのお知り合いのこのごろ檀家になられた〇さんも施餓鬼にお見えにならなかったけれど、どうされたんですか』
『エッ、ちょっとムニャムニャ』
と口をにごしましたら、
『では、お布施はお届けになったでしょうね』
と聞かれました。
『ご自分が行かれなかったら、お包みして届けておかないと、檀家をはずされますよ』
ドキッ。
お包みするのは三千円くらいでよいとのこと。人の話では、施餓鬼の案内に何々円と書き込んでくるお寺もあるとか。こういうお寺様とのおつきあいも初めてで、万事目を白黒させています。次はお十夜です。お十夜は十月六日から十五日までの間、念仏をする法要のことだそうですが、お寺ではそのうちの一日にご案内がありますので行くつもりです。こういうふうに私たちは何にも知らないのですが、だんだん仏様とお寺とのつきあい方も覚えていくことになると思います。
皆様もこれからそういうことがおありかと思います。宗旨によって違うかもしれませんけれど、ご参考になれば幸いです。これは七、八年前のことで、いまは万事もう少し高くなっていると思います」(神奈川県・鈴木のり子・五十七歳)
お墓が先にできると離婚できなくなる!?
「うちは昨年、墓地を買いました。友人が同じ宗旨のお寺関係の墓地ツアーに誘ってくれたのです。場所も自分の住まいから近くです。田舎には昔からのお墓がありますが、私たちもなかなかお参りに行けませんので、私たちがそこへ入っても、とても子供たちは参ってくれないと思っていましたので渡りに舟でした。田舎のお墓は家を継いでいる主人の弟が見てくれることになっています。
ツアーにいって見て、気に入りましたので、すぐ手付けを十万円打ちました。次の日、高級ハイヤーで墓地業者が迎えにきて、分譲墓地の権利を持っているお寺へ連れていってくれました。そこで同じように手付けを打った人といっしょにお話を聞きました。墓地を分けてもらうには、そのお寺の檀家になることが条件でした。直属の石屋さんが来ていて、パンフレットを見て墓石と型を決め、永代供養料二百万円を払うこと等々ひっくるめて八百万円かかりました。高いか安いかは人様の考え方ですが、公営の墓地はなかなか当たりませんので、こういう民間で開発し、それを区画によってお寺が入手し、その系統の人に売るというシステム分譲墓地に頼ることはやむをえないと思います。これで、永代供養をしていただければ夫婦とも安心ではないかと思い、『お父さん、よかったですね』と、思わず言って喜び合いました」
という話をしてくれたのは、Uさん。よかったですね、と言いつつも、ちょっと考えさせられました。基本的には、子供をあてにしているようなあてにしていないようなことで、自分のお墓を自分で建て、永代供養料もしっかりおさめるということはそういうことになるでしょう。ここまでやってしまえば、奥さんがご主人をはき出してしまうというようなことはしないというあかしですから、けっこうなことともいえましょう。
しかし、墓地の権利証は承継できますから(祭祀財産)この時点で子供さんのうちのだれか一人を指名しておく必要があるかもしれません。
友人のQさんは娘さんばかりでお嫁に出てしまったので、そのうちの一人と相談して、自分の家の姓と、娘さんが結婚した相手の姓とを二つ並べたお墓をつくりました。これも分譲を買ってつくられたそうです。
「娘はもう離婚できないのよ。お墓が先にできたからネ」
とのこと。いろいろむずかしいことです。お墓ひとつつくるのも……。
「死んでもお墓なんかいらない」という人に
「自分が死んだらお墓はいらない。海へまいてくれればいい……」
などと遺言されるかたがいらっしゃいます。いわゆる自然葬の話です。
外国ではライシャワー元駐日アメリカ大使が太平洋に、中国の周恩来首相が揚子江に遺灰をまかれたのは有名な話です。
自然葬と刑法の遺骨遺棄罪との関係について、すでに法務省は「葬送のための祭祀で、節度をもって行われる限り問題はない」との公式見解を明らかにしています(平成三年十月)。「墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)」との関連でいえば、所管の厚生省はこの法律は自然葬を禁じる規定ではないと以前から言っており、ただ、刑法の遺骨遺棄罪との関係で問題があるのではないかと、法務省に判断をまかせていました。その判断(違法ではないとの判断)が平成三年十月に出たというわけです。
平成二年の総理府の調査によると、散灰したいという人は全体の二割、若い世代では三割をこえています。墓地がどんどん広がること、高額になっていること、核家族によってのちのち墓守りができなくなることなどとはまた別の次元で、すっぱりこの世と別れてもいいのではないか――という考え方の台頭とも考えられます。
ここで注目したいのが、「葬送の自由をすすめる会」(安田睦彦会長)です。
〒112 東京都文京区後楽2―3―8
03―5684―2671 ファックス03―5684―5103
会では死者を葬る方法は各人各様でよく、故人の意志に従ってどのように故人を追悼し、どのように思慕の念を表現するかは個人の自由であるとの立場から、葬送の自由を求める運動をすすめています。
平成三年(一九九一年)十月、この会の第一回の自然葬が相模《さがみ》灘《なだ》で行われ、会長の安田氏は「後世の歴史は一九九一年を自然葬元年と記録するでしょう」と述べておられます。現にこの自然葬を契機として、先に述べた法務省見解が出されたのです。
その後、平成五年八月まで六回にわたり、八人の遺灰を山、海に還しています。
ある人は、どうしても焼かれるのはいやだというので、日本の中に土葬の風習のところが残っているのに目をつけ(ほとんど過疎の村ですが)、そこの土地を買って、住民票も移しました。そこで死ねば自分の土地の中に葬ってもいいということを調べたうえでのことです。昔、屋敷が広かった家には、屋敷墓というのが残っていますから、そこをねらったのでしょう。すっかり安心して、そのかたは長生きしていらっしゃいます。
「献体」の意思表示の仕方、どうすれば?
「私の友人の息子さんが亡くなられました。彼は献体の手続きをしていたので、お葬式はとりたててしませんでした。仕事関係の友人たちが集まって、追悼集会をされ、私も出席しましたが、心情溢れる呼びかけの言葉のようなものを読んでくださり、皆泣きました。それから故人をしのんでお酒を飲みましたが、このように心のこもった、故人を送る会はこれまでなかったとちょっとうらやましくさえ思ったほどです。私の場合は? と考えましたが、このような会はおそらくしてはもらえないだろう――演劇関係の人だったから、会も盛り上がったんだ――やっぱり普通のお葬式かなあ……などと考えてしまいました。
献体をすると、大学病院を通じて大学の医学部に行くことになります。年度の関係もあり、三月までの分が一年分で、それ以後の献体は翌年使われるため、冷凍されたまま保存される由。会いたければ会えるそうですが、彼女(私の友人で故人の母)は、思い切りがつかないから、会いにいってはいないとのことです。
献体に関しては費用はかかりません。遺体がなく、お葬式もしないで戒名がいただけるかどうかはお寺に相談してみないとわからないといっていましたが、お墓に入る時点で戒名をいただくのか、彼岸へ渡った時点で戒名がいただけるのか、ずっとあとで大学でお役に立ってから改めてお葬式をして、そのときいただくのか不明です。しかし、お寺が許さない行為とは思えません」(東京都・三好理恵・七十四歳)
「私は、主人が亡くなりましてから、自分は献体をしたいと思うようになりました。しかし、献体ということは漠然としか知りませんでしたので、このたび書類などもいただき、その趣旨や手続きの方法などをしっかり勉強しました。お役に立てるかどうかわかりませんが、心の片隅でそれを願っているかたもいらっしゃるのではないかと思い、ペンをとりました。また、身内の人が献体の意思表示をなさったとき、イエス・ノウの返事をするときの手がかりにもなるかと思います。
献体をするためには、献体登録をする必要があります。
申し込み先は、献体篤志家団体か、医科か歯科のある大学(病院ではない)へ申し込みます。団体や大学によって多少手続きの形式が違うようです。全国に献体篤志家団体が四十四あって、『篤志解剖全国連合会』という組織もできました。自分の住んでいるところから便利な場所にある団体に入って登録する場合が多いようですが、大学は自分の好きな大学を個人で選べます。東大が好きなら東大、慶応なら慶応みたいに。まあ、どんなハンサムな先生でも、そのときはお目にかかれませんけどネ。
この団体の名前は、白菊会とか白梅会とかいうのが多く、もうちっとネアカな名前にしたらどうかなあ、なんてことも、チラと考えました。
『篤志解剖全国連合会事務局』
〒160 東京都新宿区西新宿6―6―2 新宿国際ビル地下2階
03―3345―8498
献体についてのQ&A
@ Q お葬式はできますか?
A できます。亡くなられたあと、お通夜をされ、告別式も終わり、火葬場行きのかわりに献体を約束した大学のお迎えの車で大学に向かいます。お葬式はご自分のお宅などで、費用は大学持ちではありません。
A Q 献体でのいちばんのネックは家族の同意と思いますが……。
A おっしゃるとおりです。この場合の家族とは、本人の配偶者、子供および本人の兄弟姉妹です。
これらのいらっしゃらないかたは、いとこ、甥《おい》、姪《めい》。また、直接、血のつながりはなくても、親戚のうちで発言力の強い人の同意が必要でしょう。なぜかというと、自分の死後の処置はそういうかたがたにお世話になることが多いからです。
B Q 解剖実習が終わったら、献体はどうなるのですか?
A 一体ごとに大学の手で丁重に火葬し、遺骨を遺族にお返しします。または、どの大学にも納骨堂がありますので、返還不要の遺骨はそこに納骨され、各大学で毎年一回慰霊祭が行われ、供養してくれます。
C Q 遺骨はいつ返りますか?
A 大学によって多少違いますが、七カ月後から二年後までの間です。
D Q 献体と臓器提供の関係は?
A 献体と臓器提供とは両立しません。つまり、献体はするが、目はアイバンクへ登録し、腎臓は〇〇さんへ提供するなどということはできないのです。
遺体は解剖学の実習に使うためで、それゆえ、死後に腎臓を摘出した場合の遺体は実習教材として使えなくなるからです。ですから、献体にするか、臓器提供にするか、どちらか一方をお選びください。臓器提供の場合は、この会では扱いません。
E Q 手術を受けて胃のない場合は?
A 理想をいえば完全無欠な身体が必要なのですが、そういうことがわかっている場合は、それなりに役に立ちますから献体はできます。
以上のことで納得されたら、まず配偶者や肉親のかたがたに相談してください。ずいぶん時間もかかるでしょうが、皆さんの賛成が得られたら(その前に、先の電話番号のところか大学に電話をし、案内文を送ってもらいましょう)、最寄りのところに『入会申込書』を請求してください。相談する前に入会申込書を請求されたかたで入会した人は少ないようです。その理由は『何にもいわないで証文を書け』と、いきなり言われたときのように抵抗を感じて、肉親から反対されることが多いからのようです。
申し込み用紙請求のときは、必ず『案内文』を読んだこと、肉親全員の同意が得られたこと、などを書き添えてください。
入会したら、会員証を送ってきます。大学の先生がお持ちくださるところもあるようです。会員証には二種あって、携帯用と、いつも目立つところに掲げておく大型のとです。この大型のほうに死亡のときの連絡先が印刷してあり、また、その裏に遺族のかたにお願いすることが印刷してあります。私が申し込みましたら、この連絡先の先生は『ありがとうございます。どうぞ長生きしてください』とおっしゃいました」(東京都・神田慶・七十五歳)
第10章 さあ、死ぬまでに何をしますか?
これがほんとうの“終《つい》の道”
老人集合住宅で暮らすのも一つの方法ですが、多くの老いたかたがたはひとりになっても住み慣れた家で、最後の最後のぎりぎりまで生きたいと願っていらっしゃるのではないでしょうか。特に女性は。
でも、ひとりの淋しさは言いようもありません。外へ出れば友人もいるではないか、親孝行の子供も孫もいるではないか、と思われるかもしれませんが、同じ年代の空気を吸って生きてきた“生の戦友”がひとりふたりと欠けていくのは淋しいもので、それが年をとるということでもあるのでしょう。
私は五十代半ばから「連句」を習っております。連句とは「俳《はい》諧《かい》」の五・七・五の長句に七・七の短句をつけていくもので、三十六句つづけるのを「歌仙」と申します。このいちばん初めの句が独立して、いまの俳句になりました。有名な芭蕉の『七部集』をご存じでしょうか。
私は最近、こんな一巻を連衆の一人として巻かせていただきました。
歌仙 太刀振って
ナウ六句
寄れば又昔の話戦友会
幸夫
弥勒菩薩の笑ませ給へり
和子
哀猿の雲に叫ぶか鞍馬山
一寛
わさび田通す谷の湧水
康夫
此の岸も彼の岸も今花万《ばん》朶《だ》
睦治
ボートレースにあがる勝どき
幸夫
歌仙の初めの六句を「表」といっておとなしく、次の十二句を「裏」といって人生模様の始まりを、次の十二句を「名残りの表」といって、ここは波《は》瀾《らん》万《ばん》丈《じよう》の生きざまを出します。「名残りの裏」(前記六句。ナウとは名残りの裏の略)は、邦楽の山《やま》姥《うば》なら、
〓入りにけり
と静かに山に戻るところをあらわすように思います。この「太刀振って」の巻の六句はちょうどその感じがよく出ていると思ってのせてみました。
戦争を通り過ぎてきた私ども。先に逝《ゆ》かれたかたがたにも、傷つきながらも生きている私どもにも、み仏はおだやかな笑みを持ってごらんになっていてくださいますでしょう。
しかし、孤独な老いをしょっている私どもは、ときには哀猿のように叫び、それが闇《やみ》をつんざきます。谺《こだま》するように聞こえるのはほんとうに谺でしょうか。それとも、増加の一途をたどる老人たちの声でしょうか。
私は思います。どんなに老いても、生命の水の湧いている間は生きなくてはなりません。そして、やがて渡る川は、此の岸も彼の岸も花万朶であると信じております。
ここに至るまでのいろいろの思いを、多くのかたがたの筆をまとめて書いてまいりました。ここで「光悦の母」というエッセイを紹介します。(東京新聞・平成三年六月二十六日、中野孝次)
「光悦の生れた本阿弥家は、室町時代から京では知られた名家で、裕富であったが、この家には代々慳貪(けんどん)にして富めるを悪しとする風があった。慳貪とは欲深く、おのれ一人よければ他人に迷惑をかけてもかまわぬことをいう。
とくに光悦の母妙秀はそれを大いにきらった。彼女のみごとな生き方を示す話が『本阿弥行状記』にある。本阿弥の一族はほとんどがこの妙秀の孫・曾孫で、かれらはみな妙秀の人柄を尊び恐れたから、我も我もと孝をつくした。大勢の子孫がこぞって土産や時服を贈ったが、妙秀はそれらを貰うとすぐ裁《た》ち切って、帯、えり、頭巾、手覆い、ふくさなどにし、人びとに与えてしまった。着物を贈っても、この歳でばばが袖を通しもしないのにもったいないと言い、代りに銭を贈るとよろこんだ。
銭をよろこんだのは、それでさまざまなものを買い、人に与えることができたからである。彼女はその銭でいろんな物を買い、家を持った人には、ほうき、ちり取り、火打箱、火ばし、硫黄なぞを与え、六尺や草履とりには、わらじ、こんごうを、女には糸、綿、鼻紙、手拭いを、困窮した者には厚紙をよく揉《も》んで与え、寒い時にはこれを背にあてなされと与えた。
彼女が九十歳で死んだとき、遺った物を見ると、唐縞の反物の一ツ、かたびらの袷《あわせ》二ツ、浴衣、手拭い、紙子の夜着、木綿のふとん、布の枕があるだけで、他には何もなかったという」
光悦の母堂に及ばぬことを恥じ入るばかりです。まだ少し生のある限り努力したいと思っておりますが、豊かな時代のいま、物の重圧というもののなんと重いことか。もしかしたら、これとの戦いが“終《つい》の道”、ターミナル・ロードを通りやすくするための私の“生きがい”なのかもしれません。
趣味もボランティアも生きがいにならない、という話
「私たちは子育てを終わり、すぐ、孫育ての手伝い人として振り回され、つかの間の平穏が訪れれば、なんともいえないむなしさが襲ってきて、ぐあいが悪いとか、いろいろなことが出てきます。
そういうとき、よく“生きがい”という言葉を聞きます。偉い先生は生きがいを持てと言います。趣味を持ちなさいとも言います。私もそういうことを講演会などで聞いて、習い事をしたり、サークルに入ったりもしましたが、そんなものは生きがいにはなりません。それに趣味を生きがいにしたら、ちょっと偏屈になるか、それに夢中になってお金も時間もどんどんつぎ込まないと、生きがいといえるほどの“もの”にはなりません。それにかじりついて、おつれあいと疎遠になる人もいます。いっこうに上達しなくて悩んで反対に落ち込む人もいます。けいこ仲間と喧嘩をして、かえっておかしくなる人もいます。だから趣味のゲートボールやおけいこ事は生きがいにはならないと思います。ボランティアに行こうと誘われて行ってみても、生きがいといえるほどボランテすれば(変な言葉ですが)案外相手に押しつけがましいことをして、相手も自分も縛り、“いいこと幻想”をしているのではないかと思うこともあります。
『文藝春秋』の一九八六年八月号に、雑誌『室内』の編集長、山本夏彦さんの書かれた文章があります。これは七月号からのつづきです。奥様が肺ガンでなくなられたことを淡々と書いておられるのですが、例の生きがい云々で相当落ち込んでいた私は、本当に、メエメエというほどこれを読んで泣きました。少し要約しますと――
奥様はガンと知って七年。以来手帳に病歴をメモし、畳がえをいつしたか、植木屋がいつ入ったかを書く、入院してからは夫が何を食べているか等を案じるなど、ハタを気づかう体力があった(ハタを気づかうとかハタにやさしいとかいうことは、自分の生きること以外に余力のあることなのだなあ――と私はつくづく思いました)。次の段階(電話もできなくなって)では、見舞い客どうしの話を、生きて盛んな人たちの、死んでいく人そっちのけの話であるといやがった(心せねばいけない――)。医者に難題を吹っかける時期が過ぎると、おだやかになった。そしてやがて亡くなられた。(人が生きていくための人とのかかわり方をこんなにはっきり教えてくれた文章はないと思いました)
次は山本氏の追悼文です。
『妻すみ子はひとくせあって、私の書いたコラムを認めませんでした。いわゆる理解なき妻で、私はおかげできたえられたと言って、ふたりは笑うにいたりました。名高いうたの文句に、おらが女房をほめるじゃないが、ままもたいたり水しごと、というのがあります。彼女はそれを畢《ひつ》生《せい》のしごとにして、世間には自分が認めないものを認めるひとがあるのに満足していました。本日はありがとうございました』
これを読んで、生きがいとは、日常のことをただ行い、はたの人に次々別れ、子供とも別れ、お金もなくなり、体力が落ちても、その一つ一つから逃げずに生きて死ぬこととわかりました」(栃木県・橋本武子・六十一歳)
老人による老人のためのボランティア時代
あるかたが老人用の施設を作るために奔走しておられ、知り合いのかたの作られる施設というのが魅力で、私もお願いしたいと言ったら、「お断りですね」とにべもなく言われました。もちろん少しずつの冗談をまじえての話ですが……。
「私のところは働いてもらおうと思っているんです。だから何かできる人がいいんですよ」
これには心打たれました。近い将来の老人社会の図絵はこういうことでしょう。これからはもう、楽をしてのんびり遊んでの老後を支えるための若い世代が人手不足なのはわかりきっています。老人みずからが、まともに生活とぶつかって、自分たちのできることをしていく、していかなければならないのは目に見えています。ホームの草も自分でとり、畑のできる人は大根など作り、お料理のできる人は厨《ちゆう》房《ぼう》を手伝い、アイロンのかけられる人は洗濯物の処理をし、植え木を刈り、電気の故障も直し等々。
「それに対してわずかでもペイしたいとも考えています」
このかたのお考えは正しいとつくづく思いました。何もできない私は残念ながら入所できないかもしれませんね。
現状で、お年をとられたかたができるボランティアの報告は、
「私の母は明治四十年生まれの八十二歳。三年前につれあいを亡くし、いまは老人マンションでひとり暮らし。用事があって電話をかけるが、なかなか通じない。ときどき本宅へ戻ってくることもあるので、そちらへかけるが、『おばあちゃんは来てない』と孫の返事。最後の手段とフロントにかけてみると、『お元気で、ゲートボールかコーラスへお出かけの毎日ですよ。きょうはすぐそこのゲートボール場にいらっしゃるから、呼んできましょう』ということで、やっと話を片づけることができた。
この母、若いころは、テニスの選手。そして音楽の先生をしていたので、いまやそのキャリアを十分生かした生活をしている。三カ所でコーラスの指導をしたり、伴奏をしているという。どこも老人相手のコーラスで、そのメンバーによって選曲がいろいろ異なるようだ。
戦争中、治安維持法にひっかかって獄に入っていたおじいさまがおられるところでは、“カチューシャ”とか“ボルガの舟唄”などロシア民謡が多く、東大出のおじいさまのおられるところでは、ドイツ語での“菩提樹”“野ばら”などを選曲するそうだ。
この間ケア・マンション(医療つき)に伺ったときは、“一寸法師”をリクエストされた。この曲は十番まであり、最後は打ち出の小《こ》槌《づち》で一寸法師がみるみるりっぱな若者になって終わるのだが、車いすのおばあさまが、
『ああ、私も打ち出の小槌でもっと若返って、両手足を伸ばして生きたい』
と言われた言葉に、皆が涙を流しながらに同感したという。
戦後流行した“青い山脈”を歌いたいと言われ、楽譜をさがすが見当たらず、母は長時間かけてカセットから採譜したということだ。
百五十センチあった体が、背中が丸くなって、いまや百三十センチくらいに縮んでしまって、『タクトを振るのもたいへん、ピアノを弾くのもたいへん』と言いながら“元気で暮らしているのが子奉公”とか、どこかで聞いたことのあるセリフを口癖のように言っている」(岐阜県・本谷礼子・五十三歳)
ボランティアは有償にするとスッキリする!?
「私たちの年代の者は、舅・姑の世話は当然と思っていますが、これからはいまの若い人をあてにすることはできないと思います。家政婦さんを頼むだけの経済的余裕のない一般庶民にとっては、市民相互扶助制度が頼りになるでしょう。
神戸市内では、何年か前から牧師さんの働きかけで、有償ボランティア制度として、“神戸ライフケア協会”が生まれました。私も参加しています。
サービスを受ける人は一時間単位の代金と交通費を支払います。ボランティアは代金の中の六割プラス交通費の実費をもらいます。残りのうち、二割は労力貯蓄に、もう二割は事務局経費にあてます。事務局に専従者はおらず、全員ボランティアで交代制です。
ほかにもいろいろ組織があり、労力切符制度のように、自分が労力を受けたらスタンプを押し、それがたまっていき、いずれ自分が奉仕して返すというシステムもあります。
また、市区町村によっては、お年寄りにお弁当を届けるという制度を設けているところもあります。栄養面を考えて手作りし、受け持ちの人のところへ届けたとき、健康状態などのチェックもすることができるというわけです。この場合は公的機関から材料費と手当てが出ますが、ボランティア精神がないとやっていかれないほどの金額です。
Rさんは、毎月第四土曜日にご主人を含めて数名のボランティアとともに重度障害者の入園施設へ文芸ボランティアとして通っています。俳句、紙人形などをいっしょにします。さらに、がんセンターへ月に一度、雑用のボランティアにも行っているほか、年に数回、障害を持つ老人宅を訪問し、掃除や話し相手をしたり、年二回、野外で手作り弁当パーティーをしたりしています。Rさんは言います。
『いずれも回数は少なく、グループで行動しますので大きな負担にはなりません。でも、在宅サービスを継続的にする場合は、時間、労力とも相当の負担になります。ある程度、有償はやむをえません。いくらかでもお金をいただいていると、いやなこともがまんしますし、頼むほうも頼みやすいと思います』
Wさんは、いまこんなことを考えています。子供が幼いころ、友人と預け合って外出したりしたとき、お菓子などのお礼ではきりがないので、話し合って一回千円とかお金を払ってすっきりさせた。お年寄りも託老し合ってもいいのではないか。公的機関にはデイ・ケアセンターもあるけれど、近くの親しいお宅でお茶を半日でも飲んで話をしていてもらうというのはどうだろう。もちろん、お茶菓子代はきちんと払う……等々。このように助け合わなくてはならない時代がもうきているのです」(兵庫県・立見朝子・五十三歳)
あなたひとりでできるボランティアはいかが?
ボランティアはしたいけれど、サークルに加わって奉仕に出かけたりするゆとりのない人もたくさんいます。では、ひとりでもできることはないでしょうか。Aさんの話です。
「このごろはスーパーのレジに一円玉を入れるビンがおいてあります。友人と二人で買い物に行ったとき、おつりをビンに入れました。友人も入れるかと思いましたが入れません。いつもなら真っ先に入れる人なのに……と思いながら外に出ると、
『私がおつりを入れなかったんで変だなと思ったでしょ。二人連れのときは入れないほうが勇気がいるわ。でもネ、私、このごろ一円玉を集めてハガキを買って、それに知り合いのお年寄りに季節の便りなんか書いて出すことにしているの。だから入れなかったのよ』
えらいなー、と私はほとほと感心しました。
『私もこれから一円玉をためて、あなたのお宅に持っていくことにするわね』
と言ったら、
『持ってきてくれてもいいけれど、自分で書こうと思ってくれるほうがもっといいわね』
と言われて、ギャフンとなりました。それにつけてもハガキの値上がりはとても痛いと言っていました。一円玉二十枚分が四十一枚分になり、さらにいまでは五十枚分なければ買えないのですから。切手やハガキそのものは一枚ですからピンとこないものですが、一円玉を積み重ねてみると、ズーンとこたえるものです」
と言っていました。お役所のかたがたは善意の手を差し伸べにくくするばかりの政策をとっているようではありませんか。
ひとり暮らしのお年寄りは、一日じゅう、ひと言もしゃべらないことがよくあって、軽い失語症のようになりますから、『お元気ですか?』と電話をかけてさしあげるのもひとりでできるボランティアです。でも、耳が不自由なかたもありますので、せっせとハガキなど書くのはとてもよいことです。ぼろぼろになるまで楽しんでながめてくださいます。
古い使用ずみ切手を集めて送ると、その売却代金で点字図書館へ寄付している団体もあります。封筒の切手は五ミリほど周囲をつけたまま切りとって送りましょう。この整理に、またお年寄りがボランティアをすることができます。
書きそこないのハガキは郵便局の窓口へ持っていけば手数料五円でとりかえてくれますが、これを自分用にかえないでまとめて送ると、その代金をお年寄りのお役に立てている団体もあります。こういうことをさがしていると、けっこう忙しくてボケている暇はありません。結局、自分にもボランティアしていることになるのではないでしょうか?
“ボランティアしてほしい症候群”の老人たち
「妻が亡くなった。三回忌もすませた。
それまではひとりで暮らしていた。妻が病気(ガン)の間、手伝いの婆さんがいたので、そのまま使っていたから生活に不自由はなく、住みなれた家で生を終えられるかと思っていた。子供たちは別々に家を持っていて、いまさら同居をしてもかってに暮らせないことがわかっていたので、このままがよいと思っていたが、妻がいなくなったら、手伝いの婆さんがのさばり出して、掃除はなまける、すわり込んでテレビばかり見ている、買い物はこちらが物価を知らないから足元を見られるらしく、めっぽう家計に要求する金が高くなった。妻の使っていた湯飲みなど平気で使ったりするのが無性に腹が立つ。婆さんをクビにして、家を処分し、老人マンションに入ることにした。マンションは驚いたことに値段の高い部屋から売れる。
マンションの生活は快適だ。
妻がいなくなってから身なりもかまわなくなった婆さんが、目の前をウロウロするようなことがなくなったし、食事は出るし、洗濯は全部クリーニングに出すし、掃除の人も来てくれる。ただ、人間は遊びばかりでは全くおもしろくないということに気がついた。少しは心配事がないと精神的なバランスがとれないものである。だから、ホームに慣れてくるとけっこうけんかをする。闘争心というものを持たないと人間は生きていられないものらしい。写真クラブに入っても、カメラの高いのを自慢したり、へたな写真をいばったり、バカバカしいことに闘争心を燃やす。
人間には金よりもたいせつなものがあるということも考えてもらいたいものだ。これからの老人対策は、遊ばせるだけではダメだ。政府の政策はまちがっている。ホームはどんどんふえるだろう。そして、それを買って入居する老人たちは皆、金はある。地位もあった。インテリでもある。この能力を何かに利用することを考えるべきである。
しかし、ホームの中では“ボランティアを志す”という空気はなくて、“ボランティアをしてもらおう”という空気ばかりである。そういうことを自治会で提案できるような空気もない。
子供はへらへらと笑って、
『じゃあ少しおやじに心配かけさせてやるか』
と言った。バカめ!
しかし、彼らは集まって(子供は三人いる)、おやじをどうしたらいいかを論じたという。結局いっしょに酒でも飲んでやらにゃあいかん、ということになったらしい。これも“してもらう”ことである。残念だ。
老人政策は“してもらいたい”老人の声ばかり集めてはダメなのだということを知ってもらいたいし、そうしなければならない世の中がいずれ来るだろうと思っている」(東京都・桜井信之・七十九歳)
ガン患者である前に、妻として母として
Cさんが乳ガンの宣告を受けられたのは四十四歳のときでした。
ふだんからおとなしい家庭的な人で、娘さんが二人。手のきくというのはこういう人のことをいうと思われるほど手先の器用なかたです。同じ社宅の人の洋服を頼まれてぬったり、編み物をしたり、紳士服の“まつりぐけ”(ぬったあとの布端の始末)だけの内職をしている人が手が足りないといえば手伝ったり、手芸もちょっと見ればすぐできるというふう。そして、だれからも好かれていました。
彼女は早く手術をして元気になる、ときっぱり宣言して、会社の紹介の病院へ入りました。そのとき、ご主人は南米の系列会社への出向が決まり、滞在期間が三年と言われていたため、手術を受けて、安心して主人を立たせたいとけなげな決意をしていました。そして予定どおりご主人は赴任されました。留守にはおくにからお母さんが出てこられ、病気がすっかり目鼻がつくまでいるということになりました。お母さんは涙をポロポロ流しながら、彼女に、
「お前には哀れでむごくて言えんことだが、ほんとのところ、乳ガンになった人は、女の体はつながっているので子宮ガンは覚悟しておかんといかん」
と言われたそうです。彼女の心や、お母さんの心中はどんなにつらかったでしょう。左側の手術の跡はへこんでいます。彼女は手を上げる訓練をして、なるべく早く手を使いたいと、眉をしかめながらラジオ体操のようなことをよくしていました。
上のお嬢さんが短大を出て、好きな人ができ、結婚したいということになりました。お父さんが帰国したらすぐ挙式ということで、Cさんは元気な人にとっても忙しい、子供の結婚の準備にかかられました。
「私の形見になるものだから」
と言って、お嬢さんの振りそでを一針一針精魂こめてぬっている姿をマリア様のようだと友人はウワサしたものです。
ご主人の帰国予定より早く、彼女は、やはり子宮に転移したガンのため、再入院されました。病院ではベッドの上で、お嬢さんに持たせるお料理ノートなどこまごまとつけておられました。お見舞いの人々は病室から出るまで涙をこらえるのに苦労したものです。転移がわかってからは、家を留守にするからといって、毎日のおかずの献立と作り方を一カ月分書いて入院され、退院後も次の入院に備えて毎日三食の献立をメモされていたのを清書していたのです。
病態が悪いほうへ進んだのでご主人は早く帰国され、それを待っていたかのように彼女は亡くなられました。結婚式のお色直しに、彼女のぬった振りそでをお嬢さんが着て出ていらっしゃったときは、一同、声も出ませんでした。
このように死ねる自信、ありますか?
私の存じ上げていたDさんは九十三歳で亡くなられました。
戦前は、表札に「士族」と書いてあるお宅がよくありました。侍だった家のことです。江戸幕府が倒れて明治時代になりますと、生活に困ることが多く、「士族の商法」などという言葉が残っているくらいです。こういうお家で優秀なお子さんで男子ならその藩のお殿様の名前のついた奨学金で学校に行かせてもらったり、軍人になったりしました。女子は女学校に行き(昔は女性が学校へ行くと縁遠くなるなどといやがられたものですが)、そこを出ると宮家などへご奉公にあがりました。身分は保証されていましたが、一生奉公ですから、お嫁入り同様の支度をしてあがったそうです。成績優秀で口のかたいすぐれた人が選ばれたそうですが、口べらしということもあったそうです。
Dさんもさる宮家に仕えておられましたが、ご縁があって、再婚のかたのところへ入られました。そのお宅には前の奥様の子供さんがおられましたが、たいそう出世なさいました。Dさんはご母堂様と言われるような立場になられても、小さい部屋を別に借りて一人で住まっておられ、「母用の部屋に戻ってくださいと言っても絶対に戻ってくれません」とご子息を嘆かせるくらいでした。そこでは、身の回りのことは全部ひとりでしていらっしゃいました。
「だんだん年をとって、体が小さくなっていくので、着物は四つ身(子供の仕立て)にぬいかえているのよ」
と、亡くなるまでぬい物も全部自分でしていらっしゃいました。ご自分の部屋に、同じ宮家勤めをつづけているお友だちをときどき、
「手伝ってもらいたいことがあって来てもらうのよ」
と、いって、招いていました。戦後はお宿下がり(住み込みのお勤めをしていて、ときに実家に帰ること)をする先も絶えてなくなって苦労の多いお仲間を、こういう形で、それとなく骨休めをさせてあげていたのです。
どこかへ行くときも、ご子息の公的なことのとき以外は絶対に車は使わず、バス、電車を使っておられましたので、お金の相場も十分心得ておられ、乗り物の方向感覚もしっかりしていらっしゃいまして、ボケるなどということは考えられないほど、そのさえた頭に私はいつも舌を巻いておりました。そのニコニコと笑顔を絶やさなかったのも印象的でした。しかし、老衰でしょうか、寿命の迫ったことを知って、二カ月ほど入院されて亡くなられました。入院されるとき、
「ここがいちばん遠慮のいらないところ」
といって、入られました。そのときは、借りていらっしゃった小さなお部屋はきちんと片づいていたそうです。私はこんなにりっぱに身を処されたかたを知りません。
私事になりますが、私の母は七十五歳で糖尿病で亡くなりました。父を見送ってから五年。転んで骨折して入院し、それから歩けるようにはなりましたが、坂をおりていくように体が衰えました。
母は長い入院の間、一度も痛いとかつらいとか言いませんでした。末期には、皮膚が弱くなっていて、皮がどんどんむけ、病室の床はフワフワとした母の皮膚がただよい、しょっちゅう、ちり取りで集めなくてはならないほどでした。耳から採血して血糖値をはかり、高ければインスリンを注射します。インターンらしき若いドクターは採血がへたで、血が耳に入ったのか中耳炎になって、高熱を出したこともありました。
注射のへたな若い先生に、母は「しっかりするのよ」と逆に声をかけ、「きょうはうまくいったね」と、からかったりしました。
私ども子供が交代で行っても、それぞれの家を案じて「早くお帰り」と言います。看護人や病院などへの心づけも自分で決め、使いの人に言ってお金を持ってきてもらい、付き添いのお嫁さんなどに渡してもらっていました。そして、嫁の序列もしっかり守り、けっしてくずすことはありませんでした。話題もいまのこと、政治の話、ニュースなどが好きで、けっして昔の思い出話などはしませんでした。いつも前向きで、
「こんど恐山に行って、お父さんの声を聞きたいと思うから、いっしょに行っておくれ」
などと言っていました。でも体はといえば、学校の標本室にある骸骨が皮をかぶっているほどやせきっていましたし、自分の寿命も十分承知していたと思います。
私にはとても、このように死ねる自信はありません。
死《し》ぬまでになすべきこと
式《しき》田《た》和《かず》子《こ》
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平成13年6月8日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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Kazuko SHIKITA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『死ぬまでになすべきこと』平成8年11月25日初版発行
平成12年7月20日5版発行